日本人の源流を探して
第5部 神々の故郷と子孫
02.日本神話の成立
-ギリシャ神話との繋がり
ギリシャ神話との奇妙な類似
前項で見てきたように、日本神話は主に南方起源の要素から成り立っていると、大多数の研究者が信じてきた。しかし一方で、明治以来、日本神話と古代ギリシャ神話の間に、いくつかの注目すべき類似点が見られると注意を喚起されていたことも事実である。
たとえばどちらも冥界訪問神話といえる“イザナキの黄泉の国訪問神話"と“ギリシャのオルペウス伝説”の類似である。
このように冥府の掟を破るというような細
部の話までそっくりである。当然、大多数の
専門家はこのことに気づいていたが、それが
日本神話の系統の問題にまで結びつくとは、
思い及ばなかったのである。それは、
1)常識的にみて、日本神話と遠く離れたギ
リシャ神話とが起源的に関係があるとは考
えなかったからであり、
2)この冥界訪問神話というのは、ニュージ
ランドのマオリ族をはじめ、世界のあらゆ
る地域に普遍的に存在すると考えられてい
たからである。
ところがその後の研究で、日本神話とギリ
シャ神話は従来考えられていたより、ずっと
特異な類似と見なされることが分かってきた。
更に死者が冥界で食物を摂取したため、上界への帰還が不可能になったという話根につい
ても世界各地にあるが、冥界訪問神話と結びついて文脈のなかに組み込まれているのは、日本神話とギリシャ神話に特有のものだったのである。
両神話の奇妙な一致は、少しずつ登場人物を変えながらまだまだ続く。
日本神話とギリシャ神話の類似について吉田敦彦の記述を纏めると、以上のように細部まで類似した話が多数埋め込まれていることが分かる。
ギリシャ神話伝播の経緯
大林太良は1961年という非常に早い時期の著作『日本神話の起源』で
…日本神話とギリシャ神話のあいだに、このような「奇妙な一致」が多々みられるのは、「内陸アジアの馬匹飼育遊牧民によって、神話が西から東へ運ばれたためであろう」…
という当時としては極めて大胆な仮説を提唱している。
では内陸アジアの馬匹飼育遊牧民とはどういう民族を指すのか。
この図で説明すると、緑色で囲んだ農耕文化地域と、ユーラシア北部のタイガ帯の森林の狩猟漁労文化、その中間にあるステップ地帯こそが遊牧文化、その発生地である。
ユーラシアのステップ地帯西半部を活躍の舞台とした、イラン系遊牧民、その代表がスキュタイ人・スキュタイ騎馬民族である。彼らは所謂インド・ヨーロッパ語族に属していたと言われ、同語族の他の民族が農耕地域で定住化した後も、遊牧民文化の伝統を維持した種族である。
紀元前4・5世紀ごろには、黒海沿岸のギリシャ植民都市を媒介として、ギリシャをはじめインドやイランなどと盛んに通商をし、文物の交流を行っていた。彼らのそういう活発な動きが東方の遊牧民にも伝播し、ギリシャをはじめとするインド・ヨーロッパ語族系諸民族の神話を、はるばる朝鮮半島へ、そして日本に伝えたと推察されるのである。
スキュタイ人の神話との類似
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが『歴史』の第4巻に書き留めておいた、短いが極めて重要なスキュタイ神話が残されている。それによってスキュタイ人の神話が日本神話とも古代朝鮮の神話とも、顕著な類似を持っていたことが確認される。
この表は各民族の初代の王の生誕神話であるが、いずれも「天上の最高神」又はその子孫と、「水の支配者」の神の娘が結婚することで、王家の始祖とか初代の王が誕生したとする点で、明らかに共通性が認められる。
またヘロドトスが伝えるこのスキュタイ神話
にはさらに、初代王のために黄金製の三点の聖
宝が天から降ろされたことが物語られている。
それは盃と戦斧と犂(すき)であった。そして
それは日本の三種の神器に対応し、高句麗の初
代から3代までの貴重な宝とも対応している。
すなわち、スキュタイ人は印欧神話の媒介者であるとともに、提供者でもあったわけである。
以上調べて来たように、日本神話はギリシャ神話と多くの点で顕著な一致を示し、スキュタイ人の神話とも基本的なところで一致が見られる。また伝播の経路となった高句麗の神話とも同根であることが認められる。
これは先にも触れたように、おそらくスキュタイに代表されるインド・ヨーロッパ語族の遊牧騎馬民族が、東方の遊牧民に伝え、さらにどの程度経由したか分からないが、江上波夫のいう騎馬民族・夫余族へ伝わり、この列島に流入したからであろう。
そして、縄文時代、弥生時代に入ってきた説話の上に重なって、印欧語族の神話が入ってきて、それらの融合や再構成を経て、日本神話が成立したと考えられる。
日本神話のイデオロギー
『記紀』が成立した時代、統治者であった天皇は、急進的な改革を進めねばならぬ時代にあったことは既に述べた。この困難な作業を遂行するためには、理論的背景、すなわち過半の人びとを納得させられる普遍的思想が必要であったに違いない。
この列島に最初に統治思想が導入されたのは弥生時代であった。それが環壕集落やクニを生んだ。そしてその発展形が邪馬台国・卑弥呼の祭祀政治を基本にした連合王国体制であった。
その次に登場したのは、各地の勢力・豪族に支えられた古墳時代の大王体制であった。これは現代的に言えば、いわゆる“地方分権体制”であり、おそらく大王と地方豪族とのある種の契約に基づく統治・政治システムであった。したがって大王の権力は一部に限られていたと言っていいだろう。国としての総合力もまだ弱く、いわゆる中国の冊封体制に頼る必要もあったに違いない。
そして今、小独立国として力を結集しなければならなくなったこの国は、大王から天皇となった絶対権力の統治者が、強力な中央集権国家創造の理論的思想を求めていたのである。
それが『記紀』の神話の中で明確に示された三機能体系のイデオロギーであったと筆者は
考えている。それが高句麗神話と同根であり、あきらかに夫余騎馬民族の思想から出てきたものであることは疑いの余地がない。そしてその根源がギリシャ神話やスキュタイ神話に求められることも間違いない。
その体系すなわち大枠の中に列島各地に伝わった、それぞれの集団あるいは地方の様々な伝承や説話を拾い集め、統治者としての気配りを織り込んで撰したものが、『記紀』であった。
ただ、江上波夫が言うように、天皇家が夫余族出自の征服王朝であったかどうか、筆者はどちらかというと否定的である。
むしろ、天皇のブレーン集団が、夫余族の出身者や夫余族の王即ち辰王らに仕えた官僚エリート層であり、側近として彼らの立案した政策が天皇に採用され、記紀の編纂にもそのイデオロギーがしたたかに貫かれた、と考えるのである。
以上、比較神話学の分野から日本人の源流を探ってきた。その結果、大略においてこれまで検討してきたことが、証明されたと考えてよいであろう。
むしろ夫余族の影響などをより鮮明に証明したといっていいと思う。
ただ、「古栽培民」の文化が、中国南部あるいは江南地方を経由してこの列島に伝播したのか、東南アジアの島嶼部から「海上の道」を経て、直接伝播したものか、この点は更に研究を深めなければならないと感じている。