研究ノート09 書籍名 古代を考える 出版社 吉川弘文館 著者 佐原 真編 下條信行
初版年月 2002.01
突帯文期の稲作遺跡について
参考文献 :
稲・金属・戦争−弥生−
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突帯文土器段階の水田稲作の東進 南部朝鮮に到達した稲作が、さらに海を渡って、菜畑や曲り田の西北九州の地をはじめとし
北部九州に上陸した水稲農耕は東へ東へと広がったが、 愛媛大学の下條信行は、「古代を考える 稲・金属・戦争−弥生−」(佐原 真編 吉川弘文館)のなかで、稲作への関わり方が地域によってそれぞれ違うので、北部九州を突帯文第1地帯、中部瀬戸内までを突帯文第2地帯、それより以東を突帯文第3地帯と分けて考えることを提唱している。 以下、下條の論文を参考に纏めていく。 ●北部九州(突帯文第1地帯)
それは、西北九州や北部九州の人々が、現地すなわち朝鮮南部で、最新の“水田稲作技術”の優秀性を実際に目で見、体験していたからではなかろうか。だからこそ、先祖からの生活パターンである縄文カレンダーに大変革をもたらす、水田稲作というシステムを、何の躊躇もなく受け入れたのであろう。 その点で第2・第3地帯の人々とは、水田稲作に対する取り組み姿勢も感覚も、大きく異なっていたのであろう。 (なお、津島江道遺跡は、筆者がかねて指摘していた縄文稲作の二大ブロックのひとつ、岡山ブロックに見出されたものである。この地方の人々の長きに亘る稲作との関わりが、素早い水田稲作導入の決断に繋がったのかも知れない。) 水田稲作の技術レベルについて では、導入された水田稲作農耕技術はどういうものであったろうか。
下條は、菜畑や板付の初期水田は、・・・かって想定されたような自然低湿地の利用といった低段階のものではなく、土地条件に応じて多様に対応できる技術と能力をもって開かれた。こうした熟した営農は、わが国でにわかに達成できるはずはなく、朝鮮半島で到達していた高技術が持ち込まれたことによってはじめて可能になったものといえよう。・・・と記述している。 すなわち下條は、菜畑と板付の水田や灌漑の違いは、技術差によるものではなく、立地条件に適合させる高度な技術の為せる業といっているのである。 (筆者は、この考えに組しない。理由などは本論第3部03節で論じる。) 生活用具に見る新文化の受容対応
以上のように、第1地帯は、縄文晩期後半(弥生早期)という時代にあって、縄文生業の大変革に取り組み、水田稲作を営んでコメを生業の中心に据えるようになっていたことが明らかである。 列島内における水田稲作の伝播 ●東北部九州、中・西部瀬戸内地方(突帯文第2地帯) この地域の主要な遺跡は上図にもある、愛媛県松山市大淵遺跡と香川県高松市林・坊城遺跡であり、遺跡数は少ない。 大淵遺跡からは、大陸系磨製石器として次のような石包丁が2点、石鎌が1点出土している。 ![]() そのうち石包丁1点(上図左)と石鎌(上図右)は、朝鮮半島南部や北部九州と同形であるが、石包丁のほかの1点(上図中央)は“方形”という特異なものである。また、石包丁の紐がかりは、2点とも擦り切り溝や円孔ではなく、両側に抉りを入れた簡易な物になっている。 すなわち、北部九州の形式が必ずしも正確に伝わっていないか、現地人が作りやすいように大きく作り変えてしまっているのである。 (注:石器の材質は頁岩質砂岩で、出土した上の写真のものは荒削りに見えるが、当時はもっと磨かれて、滑らかなものであっただろう。)
土器には、当然“壺”が加わったが、大淵遺跡で5%以下、林・坊城遺跡で7%強と北部九州の30〜40%に比べ、きわめて低調である。 しかも壺の形態は、北部九州のものより、東九州の下黒野遺跡(大分県)の壺と共通する。 また縄文系深鉢でも東九州や東北部九州と共通するものがみられる。 以上のように、この突帯文第2地帯への初期農耕の伝播は、北部九州からダイレクトに伝わったものではなく、北部九州→東北部九州→西部瀬戸内と伝わり、順次広がったとみられる。 その間に朝鮮南部から“セット”で伝わった高度な水田農耕技術は、変容したり脱落したり、また縄文的な物が代替したりしてしまったと言っていいだろう。 これは、この地に水田農耕技術を伝えた人、または持ち帰った人が、十分農耕技術を習得していなかったことが原因だったのかもしれない。 とても“渡来人ないし北部九州人”が本格的に中・四国地方に水田稲作を移植したというようなことは想定出来ないし、現地の縄文人にしても、縄文カレンダーの大改革に取り組もうというような意欲は感じられない。
●東部瀬戸内、関西地方(突帯文第3地帯) この地帯は、多くの遺跡が認められている一方、確実に水田稲作を実施したという証拠も出ていない。いまのところ、稲作情報やコメだけが伝わったと捉えられている地域である。 筆者の推測では、縄文稲作の体験の上にさらに新しい水田稲作の情報が加わり、雑穀栽培の一部としての小規模水田稲作や水陸未分化の稲作などが、共存していたのではないかと考えている。 なお、平成17年度の歴博の年度報告が、茨木市牟礼遺跡について報告している。 この牟礼遺跡は1985年の調査で、縄文晩期の突帯文土器の時期に属するとされる堰跡が出土し、当時、大きな話題になった。(筆者注:広い範囲を発掘できれば、水田跡が出土するのは確実だとの声もあった。) その堰の杭などのC14年代を歴博が測定した結果、下表のようになった。 ![]() この結果から歴博は、 堰をつくっていた杭の年代は3点のうち2点が前6〜前5世紀、1点が前8〜前6世紀で、弥生前期土器の年代と重なる一方、1条突帯文土器は前9〜前8世紀を示し、杭すなわち堰の年代は弥生前期まで下る可能性が高いと判断した、と報告している。 残念ながら、牟礼遺跡の堰跡は、たとえ水田遺構を伴っていたとしても、弥生前期のもので突帯文期には分類できないようである。 以上のように突帯文土器文化期(3,000〜2,800年前ごろ)の初期水田稲作は、北部九州に伝わり、この地域では縄文生業から弥生の生業への大変革が起こった。 しかしこの時期、西日本全体で見ると、縄文的な文化伝統の枠内で原初的な水田稲作が部分的に取り入れられたに過ぎず、弥生早期人(縄文末期人)の水稲農耕導入の意欲はそれほど強くなかったといっていいだろう。 また本稿の最初の年表で分かるように、大陸では周王朝(西周)が最盛期すなわち安定期にあり、春秋戦国時代のような、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力というものも、あまり強いものではなかったに違いない。 一方、亀ヶ岡土器文化圏の東日本地区には、水田稲作農耕という新しい生業モデルが、列島の西端で始められた、という程度の簡単な情報が伝わった程度であったろうと思われる。 |