マンゴー3の下から

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この研究は、オーストラリアの南部、ニューサウスウェールズ州のマンゴー湖からはじまる。
シドニーの西方約千キロの地点にある、ここマンゴー国立公園は、4万5千年前から2万年前までは、ウィランドラ湖群として知られる緑豊かなオアシスの一
部であった。
しかしいま、マンゴーはもはや湖ではない。
水は1万年前に干上がってしまい、 今や荒涼たる自然美と幻想的な月の景色(上の写真)が世界遺産として残されている。 |
この辺りがオアシスであったころは、今は絶滅種になった草食の大型有袋類の宝庫であり、それは現生人類にとっては豊かな食料資源を提供してくれる土地で
あったに違いない。
ここで一人の男性の骨が発掘された。彼は発見者ジム・ボウラーによって「マンゴー3」と命名された。このマンゴー3の骨は、最近の年代測定法によって4
万5千年前のものとされた。(4万年前という説も有力)
更に驚くべきことは、マンゴー3の下の堆積層から見つかった人工の遺物類が、いまから6万年前という非常に古い年代を示唆したことであった。
もしこの推定年代が確かなら、マンゴー湖はアフリカ以外の世界では、解剖学上現生人類と確認された人々が居住していた、最古の場所となることであった。
また、東南アジア大陸部の最古の遺跡は、せいぜい4万年前以降のものと推定されており、それより2万年も前に人類はオーストラリアにどうやって来ていた
のだろうか。
我々は、すでに現世人類の出アフリカの時期は、mtDNAからの推定ではM系統が64,800年(±7,10
0)前、Y染色体からの推定ではCR系統が68,500年(±6,030)前ということを調べている。
すなわち、まだ全人類がアフリカにいたはずの時期に、あるいは一部が出アフリカを果したかな、という微妙な時期に、マンゴー湖付近に居住したという現生
人類は、最短の陸路でもアフリカから東へ1万5千キロも隔たった地点に住んでいたのである。
砂のスーパーハイウェイ
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ア
フリカの角の近くのエリトリアで、約12万5千年前のものと推定される、二枚貝や牡蠣の殻で出来た大きな貝塚が発見された。
これは古代人が、沿岸部のサバンナという環境の中で、サイや象などの野生動物だけではなく、既に海の食料資源も活用するようになっていたことを物語るも
のである。
しかも貝塚のあちこちからは、人工の石器も見つかり、この地域に現生人類の祖先が集団で居住していたことが確実となった。 |
いにしえに こ
のエリトリアで活用された海の資源、貝類や甲殻類は、6万年以上前のアラビア半島沿岸、インド亜大陸沿岸、東南アジア、そして“オーストラリア”において
も容易に採集できる美味な栄養源であったろう。
海岸、つまり複数の大陸をめぐる“砂のハイウェイ”の近辺では、食料の入手をあらかじめ心配する必要がなかった。また内陸のルートのように、越えねばな
らない山脈や砂漠もなく、防寒用の衣類を特別にあつらえる必要もなかった。おそらくそうしたことが、想像以上の速いペースで古代人が大陸を移動できた原因
であるに違いない。
しかもこの沿岸ルートには、当時すでに最後の氷河期に入りつつあったため海水面の低下が始まっており、海を渡らなければならないところも数箇所しかな
かった。
それもおそらく、数本の丸太を束ねた素朴な小船か筏でも、渡海が可能な程度の海峡であったろう。
アダムの旅の第一歩を、スペンサー・ウェルズは沿岸ルートの民と言い、下図を示したスティーヴン・オッペンハイマーは海岸採集民と云っている。いずれも
海の食料資源の利用に長けた集団こそ、現生人類のなかで最初の長旅に旅立った人々であったと指摘しているのである。

ユーラシアのアダムとイブ
mtDNAやY染色体などの遺伝子データの利点は、
人類がアフリカから出てユーラシアやアメリカ大陸へ至るまでの道のりを、はっきりと段階的に示してくれることである。
世界中で見出される遺伝子の多様性、すなわち世界各地のいろんな民族集団は、マーカー(遺伝子標識)とよばれる、古代に起こった突然変異の痕跡によって
区別される。
たとえば次の図のように、このマーカーを各地に調べ、世界地図の上にプロットしてゆけば、過去に起こった人類の移動がどのようなものであったかを推論す
ることが出来るし、突然変異が起こった順番を丹念にたどり、その年代や人口の変化を推測することで、この人類の長旅の詳細を洞察することさえ出来る。
これからスペンサー・ウェルズの説明に従って、現生人類の拡散の旅を辿ってゆきたい。
スペンサー・ウェルズの記述によると、31,000〜79,000年前、Y染色体上に、重要な突然変異を保有していた一人の男性がいた。
彼は、「M168」という無味乾燥な名前をもらったが、少々センセーショナルな表現をすれば、彼は“ユーラシアのアダム”すなわち今日生きているすべて
の非アフリカ系男性の曽祖父と考えられる、という。
彼、「M168」の息子や孫たちが辿った道のりこそが、その後の人類史の進路を決めていったと言っていいだろう。
*筆者注・・・推測だが、スペンサー・ウェルズがこの原稿を書いたときには、まだY染色体についての分類法が
標準化されていなかった為、この本はすべてM168などの遺伝子標識名で書かれている。
このM168というのは、Y染色体コンソーシアムの分類法YCC2002によれば、“CR”系統に分類さ
れるものである。今後は判明する限り、たとえばM168(CR)というように記述してゆく。
ミトコンドリアにも、Y染色体の“ユーラシアのアダム”に相当する“ユーラシアのイブ”は認
められるのだろうか。
答えはイエスである。 mtDNA
の系統樹にも、紛れもない“ユーラシアのイブ”が認められる。彼女にも、色気も素っ気もない「L3」という名前が付けられている。
この“ユーラシアのイブ”L3は、計算によれば50,000〜60,000年前に活動しており、“ユーラシアのアダム”M168(CR)と出会っていた
可能性がある。
そして、イブから生まれた娘たちは、世界制覇の旅に出たアダムの息子たちと行動を共にして いたと考えても間違いないであろう。
オーストラリアへの移動と経路上の痕跡
ここでミトコンドリアの系統を聖書風に表現すれば、「イブがL3をもうけ、L3がMをもうけ
た。」といえる。
ミトコンドリアのM(mt-M)集団の世界的分布に関する最近の調査によれば、mt-M集団の人々は、アフリカから南アジアの沿岸に沿って進み、最終的
には東南アジア、そしてオーストラリアに到達したと考えられるという。
mt-Mの系統は事実上中東には存在せず、欧州には全く見られないが、インドではミトコンドリア系統の20%以上、オーストラリアではほぼ100%を構
成するという。
このような分布から推測される一番可能性の高いシナリオは、「mt-M集団の人々」は、非常に早い時期にアフリカを出発し、沿岸ハイウェイを通って大陸
南部を横切り、その特徴的な遺伝子のサインを運んで行った、ということになる。
ミトコンドリアM系統に対応する男性系統はあるのだろうか。答えはイエスである。同じく聖書風に表現すれば、「アダムはM168(CR)の父親になり、
M168(CR)がM130(C)の父親となった。」
*筆者注・・・M130は資料で確認できないが、
YCC2002の分類ではおそらく“C”であろう。
このM130(C)は、おそらくmt-Mに付き添って沿岸ルートを旅したらしい。
M130(C)の子孫は、アフリカ並びにカスピ海より西では全くといっていいほど見出すことが出来ない。そしてインド亜大陸でも5%以下の低い頻度でし
か見られない。しかし、更に東に移動していくと、マレーシア男性の10%、ニューギニア男性の15%、オーストラリアのアボリジニ男性の60%が、
M130(C)の直系の子孫である。
すなわち、M130(C)という遺伝子マーカーは、このオーストラリアへ向かう途上でM168(CR)染色体上に発生し、次第に繁栄していったと考えら
れる。したがって、M130(C)の痕跡こそアフリカからオーストラリアへの海岸沿いの移動を示す明確な証拠といえる。
そして、これはY染色体のM130(C)集団と、ミトコンドリアのmt-M集団の遺伝子データが、全く同じ結論を導いていることに他ならない。
ルート上に残る痕跡-身体的特徴
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アフリカとオーストラレーシアを結ぶ直接のつながりを示すもう一つの証拠は、身体的特徴である。
オーストラリア先住民の黒い皮膚は、アフリカ人の皮膚を思い起こさせる。
今日の東南アジアに住んでいる人の大部分は、モンゴロイドと呼ばれ、北の中国やシベリアの人々と歴史を共有し、皮膚の色も薄らいでいる。
しかしその中で、ネグリトと呼ばれる他から隔絶された集団の人々は、アボリジニと同様、アフリカ人に酷似しているのである。
最もわかりやすい実例は、タイの西海岸から400キロ沖に浮かぶアンダマン諸島に見られる。ここに住むオンゲ族やジャラワ族は、背の |
低さ、黒い皮膚、巻毛や蒙古襞など、アフリカのサン族やピグミー族に共通する多く
の特徴を持っている。
他のネグリト集団、マレーシアのセマン族やフィリピンのアエタ族などはモンゴロイド集団との混血が進んでいるが、アンダマン諸島人は、おそらく島という
隔絶された環境にあったことから、東南アジアの遺物的先モンゴロイド、いうなれば「生きた化石」としての特徴を保持しているのであろう。
すなわち、アフリカ人→ネグリト(特にアンダマン島人)→アボリジニに共通する身体的特徴は、出アフリカを果し
た当時の現生人類の姿であるに違いない。(右の写真参照)
そしてこれは、遺伝子データが示す証拠ととも
に、現生人類の出アフリカの極めて初期の段階で、すなわちユーラシアでの多様性が生じる前に、沿岸ルート(砂のスーパーハイウェイ)を辿ってアフリカから
インド亜大陸、マレー半島、オーストラリア大陸へ、比較的速いペースの長旅をした一団がいたことを強く示唆するものであろう。
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中東への進出、それから東へ
ユーラシアへの移住は、アフリカからユーラシア南部沿岸へのルートだけであったのだろうか。
その疑問に答えてくれるM89(FR)という遺伝子マーカーがある。
このM89(FR)は、アフリカ東北部と中東の双方に存在する一方、オーストラリアや東南アジアでは認められない。
このデータから論理的に推論できることは、M168(CR)の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留
まっていた集団の中に、M89(FR)という遺伝子の変異を持つ男が出現していたことになる。ほぼ、45,000年前のことである。
彼の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植することになった。これはレヴァント地方に、その当時の現生人類の考古学的証拠があることからも確認できる、
という。
現生人類、M168(CR)の集団が、長年住みなれた-おそらく10万年以上-東部アフリカを出て、南アジアや中東方面に行くことを決めた理由は定かで
はない。
しかし彼等は、もちろんM89(FR)を含めて、何かに誘われるように、あるいは衝き動かされるように世界各地に拡散して行ったのである。
M89(FR)の集団には、レヴァント地方から西のバルカン半島へ、また東のステップ地帯への道が揃えられていた。
しかし、バルカン半島の山脈や温帯林は、サバンナでしか育ったことのない彼等にとって、経験したこともない異質の土地であった。
彼等の大半は、これまでの住み慣れたアフリカのサバンナに似た、ステップ地帯が広がる方へ、すなわちアカバ湾からイラン北部、更に中央アジアやモンゴリ
アへ、自然に広がって行った。
この時代(40,000〜45,000年前)、狩猟の対象となる野生動物の量は充分に豊富だったと見られてい
る。
サバンナにもいた、アンテロープ(ウシ科の動物)などの草食哺乳動物が、ステップ地帯にも群生していたからである。
ウシ科などの哺乳動物の群れは、古代人にとっては狩り慣れた手頃な獲物であった。
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ユーラシア族の誕生と拡散
東へと分散を始めたM89(FR)の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南
部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9(KR)と名づけられた。
このM9(KR)の子孫こそ、以後3万年間にわたって地球の果てまでその領域を拡大することになる、現生人類の主要な系統である。
このM9(KR)というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼ぶ。
このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な地理的ボラード(杭)、即ち障壁
に遭遇した。それは中央アジア南部の山岳地帯だった。

パミール高原を中心として車輪のスポークのように、放射状に広がるヒンズーク
シ、ヒマラヤ、テンシャンの三山脈を見たとき、人々は畏怖の念を抱いたに違いない。
その標高5千メートル、7千メートル級の高い尾根の連なりは、ひどく厄介な、恐るべき障壁であったろう。
非常な困難に直面したとき、人々の意見が一つに集約出来ず、様々に分裂することは、歴史が証明している。
このときもユーラシア族の人々の意見は、分かれた。ヒンズークシ山脈の北へと移動しようというグループと、パキスタン、インド亜大陸へ南下しようとする
グループに分かれた。
Y染色体がそのことを示してくれるのである。
北へ、ヒンズークシ山脈の北へ移動し、中央アジアの奥地に向かおうとした集団は、さらに手強い障壁・テンシャン山脈に遭遇し、中国西部に入るのは容易で
はなかった。そのため彼等の大多数は、移動する獲物を追いかけて、いわば嵐に向かって北進した、とスペンサー・ウェルズは表現している。
彼等の先頭は氷河期初期の40,000年前ごろには、早くもシベリア南部に到達したと見られている。
35,000年前ごろになると中央アジアで、ユーラシア族のなかにもう一つの突然変異が起こった。M45(PR)の出現である。
今日では、このM45(PR)は、中央アジア人と中央アジア由来の人々にだけ見られるので、中央アジア族と定義される。
M45(PR)の集団の目前にも、ますます進む氷河期の酷寒の世界が待ち受けていたはずである。したがって、彼等にはこれまで歩んできた道を引き返すと
いう選択枝が、頭の片隅に浮かんでいたとしても不思議ではない。しかし当時の現実の世界は、それをも彼等に許さなかった。
氷河期の進行が地球全体の降水量の大幅な減少を招き、彼等の来し方には新しい障壁、“砂漠”が迫ってきていたのである。止むを得ずM45(PR)の集団
もM9(CR)の後を追ってシベリアに向かった。

M45(PR)が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動し、ジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいた。大半の
ユーラシア族が侵入をあきらめたと先ほど述べたルートである。
このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、おそらくこの盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道
になっているのであろう。
このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカー、M175(O)の子孫を残した。
M175(O)の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義される。
しかもこのM175(O)の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に「最初の日本人」が出現した時期と一致しているのである。
一方、南に向かった集団は、比較的ゆっくりした行動をとったようである。そして、Y染色体上にM20(L)という他地域に類縁性のない変異を持つことに
なる。
M20(L)は、インド以外では余り見つからず、隣の中東でも1〜2%の頻度でしか見出せない。ところがインド亜大陸では、南インドの人口の約50%が
M20(L)を保持しているのである。
この人々をインド族と呼び、30,000年前頃には南インドまで移動してきた。
現在もインド亜大陸南部を中心に分布するドラヴィラ語族の祖先と考えられる。
再会の地・極東アジア
ここで、日本列島を含む北東アジアの状況に触れておきたい。
今、中央アジアからM175(O)すなわち東アジア族が、移住し繁栄したことを述べた。
このとき実は彼等は、先住の人々に遭遇したはずである。その先住の人とは、あの最初に移住を開始し東南アジア、オーストラリアまで達したM130(C)
のグループ、あの沿岸氏族である。
M130(C)のグループの一部は、その後東南アジアから北上を開始し何千年もかけて北東アジアまで拡散していたと考えられる。モンゴルではこの系統の
頻度は、50%以上に達しており、北東アジアの少数民族の間ではそれ以上の数値を示す。おそらく、この南からの動きは50,000年前には既に始まってい
たのだろう。
そこへ、中央アジア方面から(スペンサー・ウェルズは南シベリアからとも云っているが?)ユーラシア族が、35,000年前ごろ進入してきたのである。
東アジアないし北東アジアでは、南回りのグループと北周りのグループが、出エジプト以来初めて再会したと言ってよいだろう。
彼等の間で、大規模な混合が起こったであろうことは想像に難くない。
事実、漢族は北部の人々も、南部の人々も、民族上は同じ集団に属するが、遺伝的なつながりでは、地理的な隣人の方が近しい関係にあるのである。たとえ
ば、北部に住む漢族と非漢族が一つのグループ、南部に住む漢族と非漢族とが一つのグループというように、遺伝子上は別個の集団を形成しているのである。
すなわち、かって古代に現生人類が二方面に分かれて移住し、その後再会した証拠が、いまだに南北の現代中国人の血液に残っているのである。

知的能力の大躍進
こうして最終的に、ヒンズークシ山脈の北、つまり南シベリアにまで到達した人々は、厳しさを増すユーラシア大草原地帯の生活に適応しながら生き延びるし
か道はなかった。
その困難を克服するため、現生人類は知的能力の大躍進によって、当時としては画期的な、高度に発達した道具一式を開発した。

一つは骨製の針である。
彼等はそれを使って動物の皮を“衣服”のレベルまで仕立て、月面のような酷寒の中でも体温を保てるようになった。
今一つは、右の写真のような持ち運び出来る宿泊設備を開発した。
隠れ家のある丘の窪みや洞窟から、氷で覆われたステップやツンドラに長躯出向いて、トナカイやマンモスなどの獲物を探し求めることを可能にした。
すなわち、彼等は広い猟場を確保し、安定し |
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した食料の確保に道筋を立てたのである。
さらにもう一つは、幾日もかけた狩では、槍などの得物の損傷に対する補充が必要となる。それは石材の無駄のない道具作りの必要性を高めた。彼等は、そう
した高度な問題設定と、それに対する解決能力をも飛躍的に向上させていた。
スペンサー・ウェルズはその例として、木の柄につけて武器として用いた小さな尖頭器(矢じりなど)、つまり細石器が発達した、としている。
(しかし、筆者はこの時代の南シベリアの石器を、細石器に分類できるのか疑問であ
る。)
後れた現生人
類のヨーロッパへの登場
ヨーロッパの各地に点在する後期旧石器時代の洞窟壁画は、アルタミラ(18,000年前・スペイン北部)やラスコー(16,000年前・フランス西南
部)が有名であるが、

最近ではショーヴェ(32,000年前・フランス南部)やフマーネ(35,000年前・イタリア北部)などが、最古の洞窟壁画として注目されている。
これらの洞窟壁画は、後期旧石器時代のヨーロッパの人々が、絵画的写実能力とともに概念的、抽象的思考能力をもっていたことを明確に
示している。
彼等、洞窟居住者たちが、才能に満ちた芸術家であったことは明らかで、彼等の文化とそれに先立つネアンデルタール人の文化との間には、大きな隔たりが認
められる。
これは、まさしく現生人類がヨーロッパの地に登場したことを示し、ほどなく(とはいえ5千年後)ネアンデルタール人(旧人類)が滅亡することを意味して
いる。
だが彼等は、今から35,000年前に、なぜ突然ヨーロッパに現れたのだろうか。
ヨーロッパへの玄関口として真っ先に思い浮かべるのは中東であるが、既に触れたように、ここで派生したM89(FR)の変異を持つ人々は、トルコからバ
ルカン半島を通る最短コースを拒んだ。
アフリカのサバンナで生活していた人々にとって、険しい山地と温帯林の森を通過する準備が全く整っていなかったからであり、東方のステップ地帯こそ約束
された土地であったからである。
このため、現生人類のヨーロッパへの登場は、1万年後れることとなった。
一方、東に進んだ人々も、1万年の間、安楽な日々を送ったわけではなかった。
彼等は幾多の変異と淘汰をくぐり抜けてきた、いわば選りすぐられた人々に成長していた。熱帯から出発した身体は寒冷な気候に適応出来るまでになり、知的
能力の大幅向上は、出発のときに持っていた道具一式を様変わりさせていた。
それに加えて、問題解決能力をも備えた現生人類にとって、冷涼なステップや厳寒のツンドラであっても、そこに群れるマンモスなどの大型哺乳動物は、まさ
に肉の冷凍庫のように思えたであろう。
3万年前のフランスの洞窟で発見された骨から、その頃のフランスでは、北ユーラシアの寒冷ステップやツンドラ気候に適応したトナカイが普通に生息していた
ことがわかっている。
中央アジアから南シベリアに分布していた北の狩人、M45(PR)のグループが、おそらくトナカイなどを追っ駆けているうちにヨーロッ |
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パの地に足を踏み入れたのであろう。
彼等にはM173(R)という変異をもつ一人の男がいた。そして現代のほとんど全ての西ヨーロッパ人は、祖先を辿ればたった一人のこの男性に行き着く。
このマーカーは、西ヨーロッパ全域で高頻度に見つかっており、男性の90%以上がこれを保有している。しかも、ケルトやバスクなど現在ではかなり孤立し
た古形の民族に極めて高い頻度で見つかるという。
したがって、M173(R)は、西ヨーロッパ人の主要マーカーだと規定される。
その他の系統、たとえばM173(R)の母体となった中央アジア族M45(PR)などは、何らかの事情ですべて淘汰されてしまった、と考えられる。他の
系統もあるにはあるが、みなM173(R)より新しいか、もしくはM173(R)自体から派生したものである。
東の涯から南北アメリカ大陸へ
南北両アメリカ先住民に共通する、Y染色体内の変異、M3(Q)と名づけられた遺伝子マーカーが発見された。
このマーカーの頻度は、中南米の先住民で90%以上、北アメリカの先住民のおよそ50%に及ぶ。
したがって、このM3(Q)こそ、アメリカ系統を規定するマーカーであることが明らかである。
ところが問題が起こった。アメリカ先住民の故郷と思われたアジアでは、M3(Q)が全く見つからないことだった。
やがてY染色体の詳しい研究の結果、ヨーロッパ人に特有のM173(R)を生み出した、中央アジア氏族M45(PR)が、東シベリア経由新大陸まで足を
伸ばし、その過程でM3(Q)というアメリカ先住民規定マーカーを誕生させていたらしいことが分かった。
すなわち何と、ヨーロッパ人とアメリカ先住民は、中央アジア氏族という祖先を共有していたのである。
さらにM45(PR)系統の詳細研究によって、M45(PR)からM242という別のマーカーが派生していたことが判明した。(筆者注・・・これはYCC2002の分類には筆者は見出せていない。)
このM242というマーカーは、おそらく2万年ほど前に中央アジアか南シベリアで発生し、それからアジア全域や
両アメリカ大陸まで広範に広がっているという。
中でもシベリアで最も高い頻度で見られることから、シベリア氏族マーカーと呼んでいいと、ウェルズは言う。
そしてこのマーカーは、M3(Q)の直接の祖先に当たり、M45(PR)→M242→M3(Q)という進化の順序を明確にする。
(その後、最新の成果に基づき、
2008年にY染色体亜型分類の再定義が行われた(YHT2008)。それによると、
M45はP亜型のうちの一つのマーカーであり、M242はPの下位亜型Qそのものを指すことがわかった。M3がQ亜
型を指すのではなかったのである。M3は実は、Q1a3aという何層も下位の亜型のマーカーであった。これまでの
表現方法に従えば、M45(P)→M242(Q)→M3(Q1a3a)となる。YHT2008の詳細については別途取り上げることとしたい。)
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す
なわちシナリオとしては、中央アジアのステップ地帯での狩猟生活に慣れ親しんでいたM242シベリア氏族が、2万年前以降にまずシベリア南部から東部へ移
動し、そこでツンドラの環境に適応したノウハウ−先にも説明した精巧な細石器、移動式の住居、酷寒に耐えうる衣服などの進歩型−を確立した。
このシベリア氏族は、氷河期の最寒期、姿を現したベーリング陸橋を行き来し、アジアとアメリカで二重生活をしていたらしい。カナダ北部とアラスカ東部を
覆っていた巨大氷床が、彼等の南下を阻んでいたからだ。 |
しかし、15,000年前以降になると氷河期の勢いも衰え始める。
すると、ロッキー山脈の東端に沿っていわゆる“無氷回廊”が姿を現し、その細い通り道を抜けて僅かの人々(おそらく20〜200人)がアメリ |
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カの大平原地帯に足を踏み入れた。
その中に、M3(Q)という遺伝子マーカーを持った一人の男性がいたことになる。
彼等の目の前に広がっていた大地は、この初期のアメリカ人にとってまさに約束の地と映ったことだろう。大型草食獣が溢れる草原は、はるか昔彼等の祖先が
後にした、あの中央アジアのステップそのものだった。
シベリア出身の有能な狩猟民たちM3(Q)のグループは、数千年ぶりにたっぷりのご馳走に舌鼓を打ったことであろう。
その結果は、人口の爆発的増加とやさしき巨大獣の絶滅であった。
彼等M3(Q)の子孫はわずか1,000年前後で、南米の最先端(最南端)まで達した。
一方、南北アメリカ大陸に生息した大型哺乳類の四分の三が、マンモスやウマを含めこの頃絶滅した。もちろん、最終氷期末期の気候変動が最大の原因であっ
たろうが・・・。
南北アメリカの先住民の言語は、600種類以上あるともいわれるが、今まで語ってきたM3(Q)の集団はすべて、「アメリンド語族」に分類される言語を
使っている、という。すなわち、南米先住民が使っている全言語と北米先住民の言語の大半が、アメリンド語族に含まれる。
(筆者注・・・アメリカの言語学者ジョセフ・グリーンバーグによる説で、必ずしも
主流の説ではない。)
しかし、アメリカには他に二つの独立した語族が存在する。エスキモー=アリュート語族とナデネ語族である。
エスキモー=アリュート語族は、新石器時代に入ってイヌイット族などが北アメリカ大陸北部に持ち込んだものである。このグループには遺伝子上の特徴はな
く、おそらくM242から分岐して海岸生活を選んだ人達だろうと言う。
一方のナデネ語族は、カナダ西部からアメリカ合衆国南西部にかけて広範に分布する。
この言語を話す人々の遺伝子を調べると、極めて興味深いことが分かった。彼等の25%が、なんとあの出アフリカから東南アジア、オーストラリアに渡っ
た、沿岸氏族のマーカーM130(C)を持っていたのである。このM130(C)マーカーは、北アメリカのアメリンド語族の人々にはあまり見られないし、
ましてや南米では全く認められない。
彼等がアメリカ移民の第二の波であることは確かである。
遺伝子を分析すると、彼等がアメリカに渡って来たのは過去1万年以内で、起源は中国北部かシベリア南東部であるという。
この頃ベーリング海峡を結んでいた陸橋は、再び水没しており、この集団が船を使って海岸沿いに移動してきたのは間違いない。
おそらく彼等の系統は、環太平洋地域の沿岸を延々と旅し、一時は中国北部などで一服し、遂にはカリフォルニヤにまで辿りついたと言うことが出来るであろ
う。

1万年前ごろには、現生人類は世界の全大陸(除く南極)に広がっていた。
僅か4万年の間に、乾いた砂漠を歩き、そびえ立つ山を登り、極北の凍った大地を踏み越えて、アフリカ東部から南米最南端のフエゴ島まで辿りついたのであ
る。
この苦難の旅の間、何より役立ったのが彼等の創意工夫の才であり、アフリカの故郷とは遠くかけ離れた環境にも見事に順応していった問題解決能力であっ
た。
ようやく「アダムの旅」を辿った調べも終盤である。ただスペンサー・ウェルズは、さらに3本の矢印を用意している。
農業革命が起こした第二のビッグバン
旧石器時代の狩猟採集民が、サハラ砂漠以南のアフリ
カに住む数千人から、地球全体に拡散して数百万人に増やすのに五万年以上かかったのに対し、農耕民族は、農耕が始まった頃の全世界の人口一千万人から産業
革命の黎明期の1750年頃までには、全世界の人口を五億人まで増やした。
人類史上最初のビッグバンで“大躍進政策”が準備され、全世界が現生人類によって植民地化されたといえるなら、農耕は第二のビッグバンを推進させたと言
えるだろう。
3本の矢印のうち1本(緑色)は、農業革命−小麦の栽培化−の結果生じた波である。史上初めて中東(肥沃な三日月地帯)からヨーロッパへ、直接、遺伝子
M172(J)が運ばれた。
次の図は、その様子をY染色体とは別の多数の遺伝子によって図式化されたものである。頻度データの勾配が、農業革命による遺伝子の拡散の様子を明らかに
してくれるている。
ただその影響の度合いは、Y染色体ベースで、ヨーロッパにおいて20%に過ぎない。

2本目(緑色)は、アジア東部の農業革命−コメの栽培化−の結果生じたものである。ユーラシア族M9(KR)から派生したM175(O)を祖とする
M122(O3祖形)が、長江中・下流域で発生した水田稲作技術を各地に伝播し、東アジア全体に大きな影響を残した。
中国で稲作を始めた人々の末裔の遺伝子マーカーM122(O3祖形)は、現在の日本にも高い頻度で認められる。

3本目の矢印(赤色)は、やや概念が異なっている。このM17というM173(R)から派生した遺伝子マーカーは、西ユーラシアにインド・ヨーロッパ語
族という言語を拡散させるという役割を担った。
M17という遺伝子マーカーは、ロシア南方とウクライナ、すなわち西ユーラシアのステップでM173(R)から起源し、その影響はイランからインドにま
で及んだ。
インド、例えばデリーでは、インド=ヨーロッパ語族の一つ、ヒンディー語を話す人々の35%がこの遺伝子マーカーM17をもっている。しかし、インド南
部でドラヴィダ語を話す人々では、その出現率は低く10%以下である。
これは過去1万年の間に、ステップ地帯からの人的侵略(アーリア人の侵入仮説のような)−言語的侵略だけでなく−があったことを強く示唆する。
それはmtDNAの頻度データの分布にも明らかに現れている。

次の図は、農業革命による人々の動きも書き入れた、スペンサー・ウェルズが描く、Y染色体の全世界への拡散経路図である。

これをもって筆者なりに読み進めた、スペンサー・ウェルズの「アダムの旅」の研究は終わる。
この本は、筆者にとって非常に盛り沢山で魅力的な本であったが、また極めて難解な本であった。
「主語+述語+目的語」圏の人の全体構成(例えば目次)や論理構成、比喩などは、私、「主語+目的語+述語」の脳では、到底理解できない。
この「Y染色体の出アフリカと世界各地への拡散の軌跡」は、それを再構築し、贅肉はそぎ落とし、頭に浮かぶ絵を加えて、解りやすく改変つもりである。
従って、文責はすべて筆者にあることを付け加えておきたい。。
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