| 筆者より読者の皆様へ (筆者は本年2月下旬より体調に微かな変調を感じ、3月下旬に検査入院したところ、かなり稀な症状の重病であることが判明しました。わりあい元気に生活している中で突然大手術を受けることに抵抗がありましたが、意を決して4月下旬手術を受けました。 現在はその手術のリハビリ中なのですが、手術のダメージは予想以上に大きく、まだ暫らくは平常の生活に戻れそうにありません。そういう事情で、このWEBサイトの更新も思うに任せない状況です。 そうした中、2010-06-13、06-29(再)NHKハイビジョン特集で「私たちはどこから来たのか」が放映されました。同題の放映としては最新のものだと筆者は理解しています。日常生活が思うに任せない中、徒然なるままにこの特集を論評してみました。 2010-07-02記す。) このNHK特集「私たちはどこから来たのか」を監修したのは、国立科学博物館人類研究学部部長で、東京大学出身の馬場悠男(ひさお)である。 東京大学と言えば、名誉教授で、人類学の権威、二重構造モデルを主唱した埴原和郎氏が亡くなって既に5年。強烈な個性が没して人類学の分野がどのように変わったかも興味をそそる。 NHKの著作権の問題もあるので画像の引用などは避けるが、ここでは、このNHK特集を論評する形で簡単にご紹介したい。 |
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「私たちはどこから来たのか」〜日本列島人の起源に迫る〜 |
| このNHK特集は、最初のイントロで大要を次のように纏めている。 1) この日本列島で確認されている最古の人類の痕跡はおよそ4万年前。彼らはアジアのどこからか日本列島に移り住んだと考えられている。それは一体何処なのか。 2) これまでの通説では、日本列島にやってきた我々の祖先は、やがて縄文人と呼ばれるようになる。その後新たに、およそ2900年前以降、大陸から渡来系弥生人がやって来た。 そして先に住んでいた縄文人と混血して、現代の日本人につながる人々になった。 と言われてきた。 3) この通説の大前提は、縄文人が特定のルートからやってきた“均一な集団”だということであった。 しかし、近年研究が進み、これまで言われてきた“均一な縄文人説”が、大きく揺らいでいる。 4) 一つは、DNAの分析によると、縄文人には起源の異なる、様々なタイプの人達がいたことが解ってきたことである。 5) また今ひとつは、これまで縄文人の祖先ではないかと言われてきた沖縄の港川人が、人類学の最新の研究では、九州以北の縄文人と意外にも繋がりがないと、推測される研究結果が出てきたからである。 6) これまで南方起源とだけ考えられていた日本人の祖先には今や、北方のシベリアからマンモスを追ってやって来た集団、いわゆるマンモスハンターが加えられ、北海道や東北の縄文人となったと考えられるようになった。 7) さらに弥生時代よりはるか以前の旧石器時代に、朝鮮半島の人々が、独特の石器を携えて九州に移り住んだこともわかってきた。 すなわち、新しい見解では、縄文人の祖先は少なくとも三つのルートから、この日本列島にやって来ていたと考えられるのである。 とNHKは纏めている。 ![]() |
| 以上のような新しい見解が出てくる背景には、新しい発見や研究があったことは言うまでもない。 NHK特集が提示しているのは次のようなものである。 港川人は縄文人の祖先ではなかった これまで縄文人は港川人の子孫ではないかと考えられてきた。それは両者の顔(頭骨)に次のような著しい共通点が認められたからである。
すなわち、下顎骨の関節突起と頭蓋の関節受部とが初めからズレていたのである。 実は港川人が発掘された当時、下顎骨は割れてバラバラであった。現在復元されている港川人骨の下顎は、発掘当時、接着剤を使って貼りつけたものであった。 海部がCTスキャンを駆使し、コンピュータグラフィックを使って下顎の関節が頭蓋と合うように、且つバラバラの骨も精密に角度を調整して繋ぎあわせてみると、下顎の幅はなんと11mmも狭くなることが解った。すなわち港川人はもっと細い顔立ちであったことが立証された。 ![]() 頑丈でエラの張った下顎が縄文人と港川人で共通していた。これが有力な証拠となって、「縄文人の祖先=港川人」という学説が出来上がっていたのに、これが大きく揺らいだ、否、ほとんど破綻したのである。 (以上の内容は琉球新報2009.10.9記事で既に報じられている。国立科学博物館・県立博物館・美術館・東大総合研究博物館の共同研究による。) 港川人が縄文人に繋がらないとすると、新たに次の2つの疑問が生じる。 ・では、縄文人は一体どこからきたのか? ・港川人自身、そもそも何者なのか。どこから来たのか。そしてどうなったのか。 スンダランドの同郷人、港川人とハンチョウ人 ベトナムの首都・ハノイから南西に50km離れた、ホアビン省カオザム村にあるハンチョウ洞穴から、2004年、およそ1万年前の女性の骨が発掘され、ハンチョウ人と名付けられていた。 東南アジアでは、1万年前の人の顔が復元できる骨の発掘は初めてのことであった。 このハンチョウ洞穴の発掘は日本が協力して行われ、日本側のリーダー松村博文(当時、札幌医科大学)であった。 松村によると、従来の港川人は非常に独特で顔の幅が広かったという。そのため、この発掘されたハンチョウ人が港川人と結びつくとは、いままで考えられもしなかった。 ところが、今回の海部によって再調査され復元された”顔の幅の狭くなった新しい港川人”は、ハンチョウ人かなり似ているのではないかと気づいた、という。 具体的に比較すると確かにかなり共通点が多い。
沖縄の港川人とヴェトナムのハンチョウ人はなぜ似ているのだろうか。それはおよそ5万年前、西からアジアに初めてたどり着いた人たちと関係がある。 当時は氷河時代のため、海水面がおよそ70m程低く、東南アジア一帯はスンダランドという広大な陸地になっていた。アジア最初の人類はこの地に広がり、その後一部はメラネシアやオーストラリアに渡った。また北に移動し東アジアに広がった人達もいたと考えられている。 しかし、そのスンダランドにいた初期アジア人はどういう顔をしていたのか、これまでその手懸りがほとんどなかった。今回のハンチョウ人の発掘は、その空白を埋めるものだった。 ここで初めて、スンダランドにいた人達がどういう人であったか、このハンチョウ人がその子孫だとすれば、はっきりと見えててきた。 そして、港川人とハンチョウ人が似ているということは、港川人もスンダランドというハンチョウ人と共通の故郷を持っていたからではないかと、NHK特集は解説する。 そこで海部陽介は、港川人の下顎を世界各地の現代人の下顎のデータと比べてみた。そうすると、港川人の下顎は現代の東南アジア人とはあまり似ておらず、一番良く似ているのはオーストラリアの先住民だということが分かった。 言うまでもなく彼らは、5万年ほど前、出アフリカを果たし、インド洋沿岸伝いに移動し当時存在したスンダランドに到達した、初期アジア人の子孫と考えられている。 したがって、オーストラリア先住民・アボリジニなどに似ている港川人もその故郷は、スンダランドの可能性が高くなっている。 (下図は、筆者がNHK特集とは関係なく、国立科学博物館の原図に港川人の修正画像とハンチョウ人を追加し、若干のコメントを加えたものである。おそらく国立科学博物館の展示も近いうちに修正されてしかるべきだろう。) ![]() その結果、港川人の復元像はよりワイルドに描き改められた。 ![]() 港川人のその後 18,000年前、おそらくスンダランドから台湾付近に至り、さらに陸地化していた琉球弧列島を北上して現在の沖縄の南端に移り住んでいた港川人は、その後どういう運命を辿ったのか。 2007年から調査されている沖縄県南城市の武芸洞(港川人発見場所の北2Km)から、2008年、2500年前・縄文時代末期の人骨が発掘されている。 その武芸洞人は、同じ時代九州以北で暮らしていた縄文人とは異なる特徴を持っていた事が分かってきた。
このように、“小柄でキャシャで低顔”という特徴は港川人にもみられる。 すなわち、港川人がその後沖縄にとどまり独自の進化をし、この武芸洞人のような沖縄独特の縄文人になった可能性があると発掘チームは考えている。 このように、沖縄の縄文人が日本本土と違って、文化的にも身体の特徴的にも独特であることが、最近分かってきている。 港川人は日本本土の縄文人の祖先ではなかったかもしれないが、沖縄の縄文人の祖先であることは十分に考えられると、沖縄県立博物館の藤田祐樹(形態人類学)は解説する。 |
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では、九州以北の縄文人はどこから来たのか。 |
| では、関東以西の縄文人はどこからきたのか。 実は日本列島では、九州以北の旧石器時代の人骨はほとんど見つかっていない。したがって、詳しいことは殆ど判っていないのが実情である。 朝鮮半島から流入した剥片尖頭器 そこで頼りになるのは別の種類の知見である「石器」であると、馬場悠男は言う。
剥片尖頭器は、日本列島では九州にだけでしか見られないが、実は朝鮮半島では多数出土している。ただこれまで、石器の年代が同じため、どちらで先に生まれたのかこれまで判っていなかった。 西暦2,000年、韓国中央部、大田広域市(テジョン)、龍湖洞(ヨンホドン)で、剥片尖頭器の起源を決定づける重要な発見があった。 九州の剥片尖頭器より遥かに古い、40,000年前の剥片尖頭器が出土し、この結果、剥片尖頭器が朝鮮半島から九州に伝わったことが明らかとなった。 日本に剥片尖頭器が現れた27,000年前、海水面はいまより110m低く、朝鮮半島と九州を隔てる対馬海峡はずっと狭かったと考えられている。この時期に剥片尖頭器を携えた人々が九州に渡って来た可能性が高いと考えらる。 その後6,000年前まで時代が下がると、気候が温暖化し海水面の高さは現代と変わらなくなる。しかしこの時代にも日本とのつながりを示す証拠が韓国で見つかっている。 新石器時代の朝鮮半島の人骨 西暦1988年、慶尚南道・煙台島(ヨンテド)の貝塚から、6,000年前の人骨15体が発見された。そのうち復元された2体と九州北部の縄文人とを比べると、頭が大きく、歯がやや小さいなど共通する特徴をもっていた。 特に耳には、外耳道骨腫と呼ばれる突起が認められた。これは冷たい海で潜水を続けていると出来るもので、九州北部の縄文人にも認められる。 さらに最近、西暦2007年全羅南道・安島(アンド)からも、6,000年前の人骨5体が発見された。この安島貝塚人にも外耳道骨腫が認められた。また、安島貝塚では黒曜石が出土し、それが佐賀県腰岳のものであることが分かった。 すなわち6,000年前、朝鮮南部と九州北部の間では、同じような生活基盤を持った“海の民”の交流があったと考えられるのである。 従来の考えでは、朝鮮半島から人が来たのは弥生時代以降と思われていたのに、実は6,000年前にも、またより古い時代・旧石器時代にも、朝鮮半島から人が来ていたということが明らかとなった。 再度地図上に纏めると、次のようになる。 ![]() 馬場は、縄文人について次のようにまとめる。 「これまで言われていたように、1つのルートからやってきた人が均一の縄文人を形成した、という話からはずいぶん変わってきた。たとえば、mtDNAの解析によって縄文人が多様なことが非常にはっきりしてきた。」・・・と。 NHK特集はこのあと、渡来系弥生人の流入・混血、人口の伸びの集団間格差などに及ぶが、従来説の繰り返しであるのでこれを割愛する。 |
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以上が、NHKが特集を組んだ「私たちはどこから来たのか」の概要である。 |
| 久しぶりにサイトの更新に取り組んできた。しかし、とうとう1ヶ月以上もこの1ページの作成に費やしてしまった。 予想以上に病後の回復ははかばかしくない。体力、知力、持久力などの衰えが厳しい。 次の更新もしばらく時間を措くことをご了承願います。 2010.08.10 筆者 |