研究ノート14                                                     (敬称はすべて省略します)
筆者より読者の皆様へ
  (筆者は本年2月下旬より体調に微かな変調を感じ、3月下旬に検査入院したところ、かなり稀な症状の重病であることが判明しました。わりあい元気に生活している中で突然大手術を受けることに抵抗がありましたが、意を決して4月下旬手術を受けました。
 現在はその手術のリハビリ中なのですが、手術のダメージは予想以上に大きく、まだ暫らくは平常の生活に戻れそうにありません。そういう事情で、このWEBサイトの更新も思うに任せない状況です。 
 そうした中、2010-06-13、06-29(再)NHKハイビジョン特集で「私たちはどこから来たのか」が放映されました。同題の放映としては最新のものだと筆者は理解しています。日常生活が思うに任せない中、徒然なるままにこの特集を論評してみました。 2010-07-02記す。)

 このNHK特集「私たちはどこから来たのか」を監修したのは、国立科学博物館人類研究学部部長で、東京大学出身の馬場悠男(ひさお)である。
 東京大学と言えば、名誉教授で、人類学の権威、二重構造モデルを主唱した埴原和郎氏が亡くなって既に5年。強烈な個性が没して人類学の分野がどのように変わったかも興味をそそる。
 NHKの著作権の問題もあるので画像の引用などは避けるが、ここでは、このNHK特集を論評する形で簡単にご紹介したい。

 私たちはどこから来たのか」〜日本列島人の起源に迫る〜
NHKハイビジョン特集を論評する





  このNHK特集は、最初のイントロで大要を次のように纏めている。

1) この日本列島で確認されている最古の人類の痕跡はおよそ4万年前。彼らはアジアのどこからか日本列島に移り住んだと考えられている。それは一体何処なのか。

2) これまでの通説では、日本列島にやってきた我々の祖先は、やがて縄文人と呼ばれるようになる。その後新たに、およそ2900年前以降、大陸から渡来系弥生人がやって来た。
 そして先に住んでいた縄文人と混血して、現代の日本人につながる人々になった。
と言われてきた。

3) この通説の大前提は、縄文人が特定のルートからやってきた“均一な集団”だということであった。
 しかし、近年研究が進み、これまで言われてきた“均一な縄文人説”が、大きく揺らいでいる。

4) 一つは、DNAの分析によると、縄文人には起源の異なる、様々なタイプの人達がいたことが解ってきたことである。

5) また今ひとつは、これまで縄文人の祖先ではないかと言われてきた沖縄の港川人が、人類学の最新の研究では、九州以北の縄文人と意外にも繋がりがないと、推測される研究結果が出てきたからである。

6) これまで南方起源とだけ考えられていた日本人の祖先には今や、北方のシベリアからマンモスを追ってやって来た集団、いわゆるマンモスハンターが加えられ、北海道や東北の縄文人となったと考えられるようになった。

7) さらに弥生時代よりはるか以前の旧石器時代に、朝鮮半島の人々が、独特の石器を携えて九州に移り住んだこともわかってきた。
 すなわち、新しい見解では、縄文人の祖先は少なくとも三つのルートから、この日本列島にやって来ていたと考えられるのである。
 とNHKは纏めている。
 



 以上のような新しい見解が出てくる背景には、新しい発見や研究があったことは言うまでもない。 NHK特集が提示しているのは次のようなものである。

  港川人は縄文人の祖先ではなかった

  これまで縄文人は港川人の子孫ではないかと考えられてきた。それは両者の顔(頭骨)に次のような著しい共通点が認められたからである。
  ・顔が上下に短い(面長でない)。
  ・眉間が突出している。
  ・眼窩は四角く、横長である。
  ・鼻は高く立体的である。
  ・下顎が頑丈な形態をしている。
 
 2009年、国立科学博物館の海部陽介は、港川人について下顎の詳細な再検討を行った。
 その過程で従来復元されていた港川人の下顎
 
に問題があることに気づいた。
 すなわち、下顎骨の関節突起と頭蓋の関節受部とが初めからズレていたのである。
 実は港川人が発掘された当時、下顎骨は割れてバラバラであった。現在復元されている港川人骨の下顎は、発掘当時、接着剤を使って貼りつけたものであった。
 海部がCTスキャンを駆使し、コンピュータグラフィックを使って下顎の関節が頭蓋と合うように、且つバラバラの骨も精密に角度を調整して繋ぎあわせてみると、下顎の幅はなんと11mmも狭くなることが解った。すなわち港川人はもっと細い顔立ちであったことが立証された。
  

 頑丈でエラの張った下顎が縄文人と港川人で共通していた。これが有力な証拠となって、「縄文人の祖先=港川人」という学説が出来上がっていたのに、これが大きく揺らいだ、否、ほとんど破綻したのである。
(以上の内容は琉球新報2009.10.9記事で既に報じられている。国立科学博物館・県立博物館・美術館・東大総合研究博物館の共同研究による。)

 港川人が縄文人に繋がらないとすると、新たに次の2つの疑問が生じる。
  ・では、縄文人は一体どこからきたのか?
  ・港川人自身、そもそも何者なのか。どこから来たのか。そしてどうなったのか。

  スンダランドの同郷人、港川人とハンチョウ人

 ベトナムの首都・ハノイから南西に50km離れた、ホアビン省カオザム村にあるハンチョウ洞穴から、2004年、およそ1万年前の女性の骨が発掘され、ハンチョウ人と名付けられていた。
 東南アジアでは、1万年前の人の顔が復元できる骨の発掘は初めてのことであった。
 このハンチョウ洞穴の発掘は日本が協力して行われ、日本側のリーダー松村博文(当時、札幌医科大学)であった。
 松村によると、従来の港川人は非常に独特で顔の幅が広かったという。そのため、この発掘されたハンチョウ人が港川人と結びつくとは、いままで考えられもしなかった。
ところが、今回の海部によって再調査され復元された”顔の幅の狭くなった新しい港川人”は、ハンチョウ人かなり似ているのではないかと気づいた、という。
 具体的に比較すると確かにかなり共通点が多い。
  ・眼窩が四角である
  ・梨状孔(鼻の空間)が広い
  ・頭が前後に長い(長頭)
  ・眉間が盛り上がって彫りの深い顔を  
   している
  ・下顎枝が上下に短い
 
 
 沖縄の港川人とヴェトナムのハンチョウ人はなぜ似ているのだろうか。それはおよそ5万年前、西からアジアに初めてたどり着いた人たちと関係がある。
 当時は氷河時代のため、海水面がおよそ70m程低く、東南アジア一帯はスンダランドという広大な陸地になっていた。アジア最初の人類はこの地に広がり、その後一部はメラネシアやオーストラリアに渡った。また北に移動し東アジアに広がった人達もいたと考えられている。
 しかし、そのスンダランドにいた初期アジア人はどういう顔をしていたのか、これまでその手懸りがほとんどなかった。今回のハンチョウ人の発掘は、その空白を埋めるものだった。
 ここで初めて、スンダランドにいた人達がどういう人であったか、このハンチョウ人がその子孫だとすれば、はっきりと見えててきた。
  そして、港川人とハンチョウ人が似ているということは、港川人もスンダランドというハンチョウ人と共通の故郷を持っていたからではないかと、NHK特集は解説する。

 そこで海部陽介は、港川人の下顎を世界各地の現代人の下顎のデータと比べてみた。そうすると、港川人の下顎は現代の東南アジア人とはあまり似ておらず、一番良く似ているのはオーストラリアの先住民だということが分かった。
  言うまでもなく彼らは、5万年ほど前、出アフリカを果たし、インド洋沿岸伝いに移動し当時存在したスンダランドに到達した、初期アジア人の子孫と考えられている。
 したがって、オーストラリア先住民・アボリジニなどに似ている港川人もその故郷は、スンダランドの可能性が高くなっている。

 (下図は、筆者がNHK特集とは関係なく、国立科学博物館の原図に港川人の修正画像とハンチョウ人を追加し、若干のコメントを加えたものである。おそらく国立科学博物館の展示も近いうちに修正されてしかるべきだろう。)
   
 その結果、港川人の復元像はよりワイルドに描き改められた。
   
 
  港川人のその後

 18,000年前、おそらくスンダランドから台湾付近に至り、さらに陸地化していた琉球弧列島を北上して現在の沖縄の南端に移り住んでいた港川人は、その後どういう運命を辿ったのか。
 2007年から調査されている沖縄県南城市の武芸洞(港川人発見場所の北2Km)から、2008年、2500年前・縄文時代末期の人骨が発掘されている。
 その武芸洞人は、同じ時代九州以北で暮らしていた縄文人とは異なる特徴を持っていた事が分かってきた。

      武芸洞人
 ・身長   150mm
 ・上半身の骨が細くキャシャ
 ・鼻の付け根から顎までが短い(非常に低顔)
      九州以北の縄文人
   ・身長   160mm
   ・骨が太い
   ・縄文人も比較的短い(低顔)
 
 このように、“小柄でキャシャで低顔”という特徴は港川人にもみられる。
 すなわち、港川人がその後沖縄にとどまり独自の進化をし、この武芸洞人のような沖縄独特の縄文人になった可能性があると発掘チームは考えている。
 
 このように、沖縄の縄文人が日本本土と違って、文化的にも身体の特徴的にも独特であることが、最近分かってきている。
 港川人は日本本土の縄文人の祖先ではなかったかもしれないが、沖縄の縄文人の祖先であることは十分に考えられると、沖縄県立博物館の藤田祐樹(形態人類学)は解説する。




 では、九州以北の縄文人はどこから来たのか。
 馬場悠男は「縄文人が南からやって来たという可能性がなくなった。そうすると縄文人の故郷は北からということになる。その証拠が細石刃である。」とこのNHK特集で言い切っている。

  細石刃はシベリアからやって来た

 札幌大学の考古学の木村英明は、細石刃について次のように説明している。
 細石刃は、シベリアで24,000年前に生まれた独特の石器である。その細石刃が2万年前に北海道にもたらされた。北海道千歳市柏台1遺跡で日本最初の細石刃が発見された。
 22,000年前、地球は最も寒冷な時期を迎え、海水面は120mばかり低下し、シベリアと北海道は陸続きであった。したがって、マンモスは北海道まで南下し、それを追って細石刃を携えた人々が北海道に渡って来たと考えられる。

 筆者注) このNHK特集では、年代が従来のものより1割〜2割古く表示されている。おそらく較正年代と呼ばれる実年代を使用しているものと考えられる。  第3部 01.弥生始期の実年代はいつか を参照願います。

  木村英明によると、千歳市に持ち込まれた細石刃核(20,000年前)とシベリアの細石刃核(22,00
0年前)は、いずれも「蘭越型」に分類される細石刃核であるという。間違いなくシベリアからやってきたというわけである。

 筆者注) 「蘭越型」・・・北海道における細石刃石核とその製作技法のタイプの一つ。他に峠下型・ホロカ 
               型・札滑型・白滝型・オショロッコ型・射的山型など種々ある。             

 さらに最近、北海道とシベリアを結びつける新たな発見があった。電子プローブ分析装置を使った新たな産地の特定である。
 その精密な分析装置を使ってサハリンのソコル遺跡やオコンギ遺跡の8つの細石刃が調べられ、それらはすべて北海道の白滝産の黒曜石であることが分かった。
 すなわち、当時北海道とサハリンとで黒曜石を介した、人の行き来があったということが裏付けされた。

 細石刃はその後、5,000年の時をかけて、日本の広い地
 
域で使われるようになった。
 したがって、北からやってきた人たちが縄文人の祖先だという考え(縄文人北方起源説)の研究者もいる。

  mtDNA分析が語るもの

 この日本人北方起源説を、国立科学博物館の篠田謙一(分子遺伝学)はDNAの分析の立場から調べた。
 篠田は山梨大学と共同で、北海道で見つかった縄文人の骨からミトコンドリアDNAを取り出し
分析した結果、4つのタイプがあることを突き止めた。
 4つのタイプは、mtDNAの分類では【N9B、D10、G1b、M7a】と呼ばれるもので、最も数の多いN9Bは沿海州、D10はアムール河口、G1bはカムチャッカ半島というように、4つのうち3つが現在大陸北東部に暮らす先住民と共通のものであった。
      
 このように北海道の縄文人というのは、遺伝的には北海道よりさらに北方の集団と近縁性があると考えられる。

 では、シベリアからやって来た人々が、北海道から日本全土に広がっていったのか。
 これについてミトコンドリアのDNA分析は、否定的な見方を示す。。

 篠田は、先に関東の縄文人の骨からmtDNAを取り出すことに成功していた。そして今回の、先に述べた山梨大学安達教授らと共同で調べた北海道・東北の縄文人のmtDNAである。
 これらを次のグラフのように繋ぎあわせてみると、北海道(+東北)の縄文人と関東の縄文人とは全く違うことが分かった、という。 
 
 すなわち、北海道縄文人で65%を占めるN9Bが東北では60%、関東では10%と極端に少なくなっている。すなわち、同じ縄文人でも北海道と関東では大きく違っていたのである。

 篠田謙一は言う。自分たちも縄文人というのは均一な集団で、縄文人であればどの地域でとってもDNAは同じであろうと考えていた。しかし事実は違うようだ。
 シベリアからやって来た北海道の縄文人が、そのまま関東にまで移動してきたのではないことが以上の分析で明らかとなった。
 (この内容は、北海道新聞2010.02.13 どうしんウェブでも、既に報じられている。)





 では、関東以西の縄文人はどこからきたのか。
 実は日本列島では、九州以北の旧石器時代の人骨はほとんど見つかっていない。したがって、詳しいことは殆ど判っていないのが実情である。

  朝鮮半島から流入した剥片尖頭器

 そこで頼りになるのは別の種類の知見である「石器」であると、馬場悠男は言う。
 馬場は、九州だけに分布した剥片尖頭器に注目する。
 およそ29,000年前、現在の
鹿児島湾の辺り(姶良カルデラ・・現在の桜島も含む)で火山が巨大な噴火を起こし、この時、巨大な火砕流が九州地方を襲い、その結果、当時そこに暮らしていた多くの人々は死亡したと考えられている。
 熊本県教育庁の木崎康弘(考古学)は、剥片尖頭器をこの地にもたらしたのは、噴火のあとにやってきた新たな人達だという。
 
 火山災害のあとにこの剥片尖頭器が急に現れるのは、非常に人が少なくなった地域に朝鮮半島の方から直接に人が入ってきて、そこで生活をするようになったことを意味する。
 剥片尖頭器は、日本列島では九州にだけでしか見られないが、実は朝鮮半島では多数出土している。ただこれまで、石器の年代が同じため、どちらで先に生まれたのかこれまで判っていなかった。
 西暦2,000年、韓国中央部、大田広域市(テジョン)、龍湖洞(ヨンホドン)で、剥片尖頭器の起源を決定づける重要な発見があった。
 九州の剥片尖頭器より遥かに古い、40,000年前の剥片尖頭器が出土し、この結果、剥片尖頭器が朝鮮半島から九州に伝わったことが明らかとなった。
 日本に剥片尖頭器が現れた27,000年前、海水面はいまより110m低く、朝鮮半島と九州を隔てる対馬海峡はずっと狭かったと考えられている。この時期に剥片尖頭器を携えた人々が九州に渡って来た可能性が高いと考えらる。

 その後6,000年前まで時代が下がると、気候が温暖化し海水面の高さは現代と変わらなくなる。しかしこの時代にも日本とのつながりを示す証拠が韓国で見つかっている。
 
  新石器時代の朝鮮半島の人骨


 西暦1988年、慶尚南道・煙台島(ヨンテド)の貝塚から、6,000年前の人骨15体が発見された。そのうち復元された2体と九州北部の縄文人とを比べると、頭が大きく、歯がやや小さいなど共通する特徴をもっていた。
 特に耳には、外耳道骨腫と呼ばれる突起が認められた。これは冷たい海で潜水を続けていると出来るもので、九州北部の縄文人にも認められる。

 さらに最近、西暦2007年全羅南道・安島(アンド)からも、6,000年前の人骨5体が発見された。この安島貝塚人にも外耳道骨腫が認められた。また、安島貝塚では黒曜石が出土し、それが佐賀県腰岳のものであることが分かった。
 すなわち6,000年前、朝鮮南部と九州北部の間では、同じような生活基盤を持った“海の民”の交流があったと考えられるのである。

 従来の考えでは、朝鮮半島から人が来たのは弥生時代以降と思われていたのに、実は6,000年前にも、またより古い時代・旧石器時代にも、朝鮮半島から人が来ていたということが明らかとなった。
 再度地図上に纏めると、次のようになる。
  
 馬場は、縄文人について次のようにまとめる。
「これまで言われていたように、1つのルートからやってきた人が均一の縄文人を形成した、という話からはずいぶん変わってきた。たとえば、mtDNAの解析によって縄文人が多様なことが非常にはっきりしてきた。」・・・と。

 NHK特集はこのあと、渡来系弥生人の流入・混血、人口の伸びの集団間格差などに及ぶが、従来説の繰り返しであるのでこれを割愛する。



 以上が、NHKが特集を組んだ「私たちはどこから来たのか」の概要である。

(論評) 

1) NHK特集を全体的に概観すると、「日本人の起源」に関する今回の馬場悠男の見解は画期的である。
  これまでこのテーマに大きな影響を与えてきたのは、「二重構造モデル」の埴原和郎であった。この点については異論がないと思う。
 埴原は、表面上、多方面のあらゆる意見を取り入れるとの立場を採っていたが、本質的には埴原が専門とする自然人類学至上主義であった。日本人の起源というテーマは、人類学の学問上の主題であり、またモースやベルツなど明治の外国人御用学者以来の古い伝統があったからであろう。
 埴原はまた彼の自負心もあり、文化的痕跡を主題とする考古学や新興の遺伝人類学などを重視しなかった。特に文化的な痕跡は、日本人の祖先と言える集団が持ち込んだものか、古代の人々の往来により伝播したのか、必ずしも明確ではなく参考にすべきではないとして排除した。

 今回、埴原の逝去により、馬場は彼の影響を受けない立場で、これらを許容しむしろ積極的に取り入れたストーリーを見せてくれた。
 誠に画期的であるが、既に埴原の逝去より5年以上が経過しており、日本人の起源に関する研究は、人類学至上主義などの悪影響で10年以上、否20年の遅れを来たしていると言っていいだろう。
 このNHK特集は、その遅れを若干でも取り戻してくれた。少なくともその端緒を作ってくれた、と言っていいと筆者は評価している。

2) 従来の定説、埴原和郎の日本人起源説「二重構造モデル」は、縄文人は均一で日本列島全域に分布し、その起源は南方からの原アジア人であり、その祖先の例が港川人である、というものであった。
 しかし、このNHK特集で、同じ東大人類学教室の、埴原和郎の二世代も後輩の馬場悠男は、ある意味自由な立場で自論を展開し、従来説を否定した。

 馬場はさらに二世代後輩の海部陽介の研究を紹介し、形態人類学の立場から港川人は縄文人の祖先ではないと断じている。
 港川人の頭骨を再復元,再計測してのこの結論は、大変有意義なものである。

 しかし筆者は、
 第1部 09.黒曜石を運んだミラクルな古代の海上輸送
のなかで、港川人はトカラ海峡を渡ることが出来なかった。
 第5部 06.海上の道はあったか−琉球人−で、九州以北のナイフ形石器・細石刃文化と沖縄の不定形剥片石器文化とは別の文化であることを指摘してきた。
 他にも数箇所で指摘してきたが、要は筆者も馬場とは全く別の方面から「港川人」は縄文人の祖先ではありえないことを指摘してきた。
 頭骨や人骨の計測だけに重点を絞る人類学的手法に対し、総合的アプローチ手法をとれば、この馬場の結論は当然の結果である。

3) 次にNHK特集は、港川人の故郷はスンダランドだとする。それはハンチョウ人の発見と港川人の再計測によって結び付けられ、推測されたことを紹介している。
 しかも、海部陽介の研究により港川人の風貌は、東南アジア人よりアボリジニなどの先住民、おそらく極く初期の南アジア人すなわちスンダランド人に似ていたものと推測されると指摘している。
 上掲の港川人のイラストから分かるように、縄文人を想わせる従来のイラストとアボリジニに近い今回の復元イラストと比べると、両者は明らかに違う。
 おそらく今回の想定イラストの方が真実に近いのであろう。

4) つぎに、港川人は何処へ行ったのかという設問に対し、馬場は武芸洞人というべき最新情報を提供する。
 武芸洞人は、身長が150cmと低く、華奢で、極めて低顔だ、という。
 筆者はこの新発見から、これまで出自が判らなかった鹿児島県種子島の広田人を思い出す。(第3部 06.渡来人の故郷は何処か 参照)

 想像であるが、港川人の子孫は、沖縄地域で繁栄して武芸洞人となり、さらに舟や航海技術を手に入れ、九州南端の島々にまで達して更に特殊化し、種子島・広田人になったと考えることは出来ないだろうか。
 それほどにNHK特集が提示する武芸洞人の頭骨が、広田人の頭骨に似ているのである。
 
5) 馬場悠男は「縄文人が南からやって来たという可能性がなくなった。そうすると縄文人の故郷は北からということになる。その証拠が細石刃である。」とこのNHK特集で言い切った。

 埴原和郎は自然人類学至上主義者で、日本人の起源に関して、文化の痕跡を研究する考古学を排除し、考古学者の見解を聞こうともしなかった。
 (第1部 04.日本列島における最初の文化の「最初の日本人は“北”からやって来た」
を参照。)
 しかし馬場悠男は、自然人類学至上主義と決別し、縄文人の故郷は北方にあるとし、しかもその根拠は細石刃という考古学的証拠によるとしたのである。

 縄文文化の“北方性”は、考古学の佐原真が既に20年以上も前(少なくとも1987年以前から)から口酸っぱく主張していることであり、周知の事実と言って良い。
(第1部 12.縄文最盛期の日本人像−三内丸山の人々−の中の「考古学からの縄文文化の総括」を参照。) 
 筆者は、馬場の思い切った見解表明は、今後の日本人の起源の研究を一歩も二歩も前進させたと高く評価する。しかし、これは、20年も遅れをとった同研究の再出発でしかないことを肝に銘じるべきだろう。

6) 次に篠田謙一は、かって収集した関東縄文人のmtDNAのデータに加え、北海道(+東北)縄文人のデータを山梨大学と共同で収集し、それを纏めて分析した結果、北海道に渡来したシベリアのマンモスハンターは関東までは来なかったと論じる。

 かって収集した関東縄文人のmtDNAのデータとはどういうものか。
 それは、このホームページでは、第4部 08-1.ミトコンドリアDNAから見た日本人の祖先の「縄文人と弥生渡来人のmtDNAの構成は」の項で取り上げている、次のグラフである。

 篠田はこのグラフの関東縄文人のデータに北海道・東北の縄文人骨から抽出したデータを加え、次のグラフを作図したと言っている。

 この二つのグラフを一見すると、関東縄文人で【M→N9b】と置き換わっていることに気づく。
 mtDNAにおいて、M系とN系は全く別の系統である。ミトコンドリア・イブと呼ばれるmtDNAのL3系統から枝分かれし発展したのが、M系列とN系列である。
 したがって、Mを詳細に分析し直した結果がN9bであったということは、常識的にはあり得ない。
 そうすると、これは以前の筆者のデータ引用が間違っていたのか、篠田の以前(あるいは今回)のmtDNA分析に誤りがあったかのいずれかであろう。筆者は、今回の篠田と山梨大学との共同研究の原文に当たっていないので、これ以上論評することが出来ない。
 これらのデータについて、原文に当たられた読者の方があったら、ご説明いただくと大変有り難い。メールを頂ければ幸いです。

7) 馬場は篠田の研究を踏まえ、関東縄文人より以西の縄文人について、北海道に細石刃を持ち込んだ集団とは別の集団を想定しなければならぬ、とした。
 そして、姶良(あいら)火山の大爆発後に出現した剥片尖頭器を、九州地方にもたらした集団があったことに注目する。
 剥片尖頭器は、これまでナイフ形石器文化のなかに、一時期、朝鮮半島と九州地域に現れた尖頭器の一種と考えられてきた。(正確に言えば広島・冠遺跡まで見出される。)
 (第1部 04.日本列島における最初の文化の「最初の日本人は“北”からやって来た」を参照。)


 それがこのNHK特集によれば、西暦2,000年に韓国中央部、大田広域市(テジョン)、龍湖洞(ヨンホドン)で、 九州の剥片尖頭器より遥かに古い、40,000年前の剥片尖頭器が出土したというのである。
 40,000年前というのは較正年代に依っており、上の表の年代とは直接比較できないが、朝鮮半島ではナイフ形石器文化のかなり初期段階から剥片尖頭器が存在していたことになろう。この新規の知見によって、上表は書き改めねばならないだろう。

 それにしても、馬場が何故この剥片尖頭器という、地域的にも年代的にも限られたいわば特殊な石器を持ち込んだ集団を、あたかも関東以西の縄文人全体のの祖先に擬するのだろうか。筆者としてはなんとも理解出来ないことである。
 むしろ、このホームページで筆者が主張するように、
@旧石器時代後期に、ナイフ形石器文化が華北から朝鮮半島を経由して日本列島に持ち込まれ、九州から東北まで分布した。
Aシベリアからの細石器文化は、北海道から関東・中部地方まで浸透した。おそらく縄文時代初頭の段階では、関東縄文人のmtDNA-N9b系統の割合がもっと高かったに違いない。
Bその後、縄文前期ころから照葉樹林文化を携えた人々が九州から関東まで広がった。その結果、関東縄文人のmtDNAの系統構成は、南方由来のB系統やF系統のウェイトがますこととなり、N9bのウェイトはかなり低下した。
 こう見てくれば、mtDNAの分布は自然に理解できるはずである。
 それに対し馬場は、地域限定的で且つ年代限定的な「剥片尖頭器」を持ち出したことにより、仮に中国地方ぐらいまでは説明できたとしても、関東の縄文人を説明するにはむしろ不十分な説明に陥っていると言わざるをえない。

8) 剥片尖頭器に関する馬場の狙いが、もし朝鮮半島と日本列島との旧石器時代から新石器時代以降の繋がりまでをを強調したものであったとすれば、それは失礼ながら考古学に対する馬場の知識不足を露呈したものであろう。
 それは、このホームページの第1部 11.大陸文化の縦断路−日本海文化圏−の後半部分を読んでいただくだけで十分であろう。
 そしてそこに、慶尚南道・煙台島(ヨンテド)人と全羅南道・安島(アンド)人という、6,000年前頃の朝鮮半島の新石器時代人が、北部九州の縄文人に似ていたという新たな知見を加えなければならないことは言うまでもない。
 更にこの新たな知見は、6,000年前の朝鮮半島人と3,000年前朝鮮半島から北部九州に渡来した渡来系弥生人とは、実はかなり異なっていることをも明らかにした。
 おそらく東アジアの寒冷化の流れの中で、朝鮮半島では集団の淘汰とか集団(いわゆる人種)の入れ替えが起こったものと想定してよいだろう。

 (第3部 05.青銅器文化をもたらしたのは誰かの「第二波の渡来人」の項参照) 

9) それにしても、全く意外にも、学者という一つの専門分野を研究することに特化してきた人達は、往々にして他の分野に関しては素人以下の知識しか持ってないことを筆者はしばしば感じてきた。
 筆者の感じに間違いがなければ、馬場悠男も失礼ながらその一人であろう。
 馬場はこのNHKハイビジョン特集を通じて、勇断を持って「日本人の起源」というテーマの研究を大きく前進させたと筆者は高く評価する。
 しかし、人類学に他分野の知見を取り入れて研究レベルを高めていくには、現段階ではおそらく考古学の知識が大幅に不足しているのではないかと筆者は見る。
 次回の特集ではおそらく今回の特集の内容にかなり手を入れる必要が出てくるだろう。        
                                    (終)
 


     
 久しぶりにサイトの更新に取り組んできた。しかし、とうとう1ヶ月以上もこの1ページの作成に費やしてしまった。
 予想以上に病後の回復ははかばかしくない。体力、知力、持久力などの衰えが厳しい。
 次の更新もしばらく時間を措くことをご了承願います。
                                                 2010.08.10  筆者