研究ノート 16 (敬称はすべて省略しています)


中国江南・江淮の古代人-渡来系弥生人の原郷をたずねる-



書 籍名 中国江南・江淮の古人骨
-渡来系弥生人の原郷をたずねる-
発行所 てらぺいあ
著者 山口 敏・中嶋孝博 編 初版年月 2007.04.25



 渡来系弥生人が何処から来たのか? この命題は日本人の起源を語る上で避けて通 ることの出来ない問題である。
 このwebサイトでも、冒頭で埴原和郎が二重構造モデルの中で、彼等を「北東アジア人」であると断じていることを紹介した。
 しかしその後の検討で、渡来系弥生人の故郷は、北東アジアに限定されるものではなく、水田稲作の伝播などを考慮すると、
 1)山口県の土井ヶ浜人に酷似する、山東省の臨淄(りんし)人や
 2)江蘇省揚州市の胡場人なども
十分、その候補になりうることを指摘した。
 そしてそれは、上海自然博物館との共同研究や江南人骨の日中共同調査の結果として得ら
れた知見であることを紹介して来た。(第3 部 06節 渡来人の故郷はどこか

 最近、福岡市総合図書館の古代史書架で、上記「中国江南・江淮の古人骨」という本を見かけた。
 この本は正に、その上海自然博物館と南京博物院との
日 中共同調査の結果レポートであった。
以下は本文で触れてきた事柄を含めてその詳細を報告書を元に紹介する。

  調査対象の古人骨
 調査された古人骨は次表の通り、総計217体であった。この中には当然使えない人骨も
含まれていた。
 したがって、調査項目によって検査対象数には大きなバラツキがある。
     古人骨数    
(資料の個別データは、上海自然博物館分はココに、南京博物院分はコチラに掲載した。)

 資料が採集された地域は、次のようないわゆる江南・江淮地区(長江および淮河下流域)、
省区分で言えば-江蘇省と1ヶ所のみが浙江省-である。
     マップ1

 計測値に基づく頭蓋形態の研究 
by 中橋孝博・李民昌・山口敏

(渡来系弥生人と江南・江淮人の類似)

 調査対象は、春秋時代人、梁王城(男4)、青龍山(男1)、神墩(男1)、戦国時代人は九女
墩(男1,女1)、老虎山(男1)、さらに前漢人は、揚州胡場(男6,女6)、揚州下荘(女1)、
六合陸營(男1)、連雲港網疃荘(男3,女2)、同じく陶湾(男1)のトータル29例である。

 これらの検体それぞれから9項目の計測データを採り、主成分分析でプロットすると
次のグラフが得られた。
  江南人・弥生人・縄文人
 ここで縄文人というのは、西日本(津雲・吉胡遺跡)で出土した縄文人骨であり、 金隈弥生人とは福岡市の板付遺跡に程近い福岡空港東側の小高い丘にある金隈遺跡か ら出土した、甕棺墓群の弥生人骨である。

 このグラフを見ると、弥生人と縄文人とは従来からの知見通り、グラフの左上方(赤線内側)と右下方(緑線内側)に対照的に分布して、明らかに異集団であ ることを示している。
 一方、江南・江淮人はピンク線の内側に、すなわち赤線内の丁度中央部分を占めるように、星印でプロットされでいる。
 言い換えれば、、金隈遺跡ただ一つの墓地に埋葬されていた人々の頭蓋計測値のバラツキより、江蘇省と浙江省にまたがる広大な地域で採集された人骨の頭蓋 の計測値のバラツキの方が小さいという思いがけない結果が出たのである。
 この結果は、データ量が少ないことに原因がある可能性がある。
 しかし、少なくとも
江南・江淮地域が、弥生人の故郷の対象の一つとして捉える必要が有ることを示唆している。

 渡来系弥生人が、江蘇の東周(春秋戦国時代の江南・江淮の国)・前漢の人々との類似度がどの程度であったか、東アジア各地の新石器時代人や青銅器時代 人・初期鉄器時代人などと比較した結果が次図である。
    ペンローズ
 このグラフは、頭蓋骨の計測値13項目について、弥生人を基準として他地域の人々、異なる時代の人々との類似度をペ ンローズ形態距離という統計手法で数値化したものである。
 このグラフから
1)日本の縄文時代に当たる新石器時代の各地の人々は、弥生人との距離が大きく離れており類似度は低い。特に縄文人と華南人が弥生人との乖離度が大きい。
2)青銅器時代(縄文後期から弥生前期相当)のまとまった資料は少ないが、華北人(河南省安陽殷墟の出土人骨)と弥生人が極めて近い距離にあるのが注目さ れる。
3)時代的に最も弥生時代に近い初期鉄器時代人は、総じて形態距離が短いが、特に今回調査された江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人が最も近い距離を示し、 類似性が高いことを示している。

(江南・江淮における異集団の混血・交代)
 同様の地域、時代の計測値を主成分分析によってプロットすると、次のグラフが得られる。
     異集団
 主成分分析からも弥生人と江南・江淮人の類似性は明らかである。同様に強い類似性を窺わせる集団として、北朝鮮の新石器時代人、山東省臨淄の周・漢代 人、河南省の殷墟青銅器時代人や陝西省の宝鶏新石器人などが見受けられる。(ピンクの丸で囲ったところ)
 一方この日中共同調査で最も多数の資料が得られた圩墩(うとん)新石器時代人と、江南・江淮地域の東周・前漢人との間には、同地域の集団でありなが ら時代の違いでか なりデータ的に隔たりが認められる。(
赤線の矢印で示した
 同一地域におけるこのような頭蓋計測値の時代的変化は、新石器時代から東周・前漢時代の間に、この地域において異集団間の大幅な混血があったこと、ない しは先 住集団の離散と別集団の侵入・交代が起こったことを推測させるものである。
 3,000年前頃からの気候の寒冷化が、北 方(華北)集団の南下侵略を惹起した歴史的事象が頭蓋計測値に反映されたものと考えられる。

  頭蓋形態小変異の研究 by 
分部哲秋(わけべてつあき)

 
頭蓋形態小変異とは、頭蓋に存在する神経や血管の通路、骨棘、縫合などに見られる 機能的に支障をきたさない程度の骨の小さな変異のことをいう。
 これまでの研究成果から、これらの変異は比較的に環境の影響を受けにくく、遺伝的特性をよく表す形質と考えられている。
 したがって、この研究は人類集団の系統関係を探る一つの手法として盛んに使われている。

 次のグラフは、今回日中共同調査に供された春秋戦国時代から前漢時代の古人骨から得られた、頭蓋形態小変異の主要16項目の頻度と東日本縄文人と北部九 州弥生人のそれを比較したものである。
 東日本縄文人は関東及び東北地方から発掘された人骨について、百々幸雄・石田肇により報告されていたデータであり、北部九州弥生人は主に佐賀県内の大型 甕棺群から出土した人骨資料の成績(佐伯和信・分部哲秋・長島聖司による)である。
  頭蓋形態小変異
 グラフAのほうの東日本縄文人(緑線)は
中国春秋~前漢人(ピンク線)から大きく振幅し、明らかに異系列の集団であること がわかる。一方グラフBの方はピンク線と北部九州弥生人(赤線)は比較的近いところで推移している。

 頭蓋形態小変異の観察によっても、中国、江南・江淮の春秋~前漢人と北部九州の弥生人はかなり類縁関係が強い集団であると結論付けることができる。
 渡来系弥生人の故郷が、日本列島に近接する中国東部沿岸に留まらず、江南・江淮地方まで広がっていたことが推測される。

  ミトコンドリアDNAの研究 by 
篠田謙一

 南京博物院よりDNA分析用に供された試料は、次の36体であった。
   DNAサンプル
 それぞれの試料の出土した遺跡は次の地点である。
   出土地点
 そして分析用の試料は、最も理想的にDNAが保存されていると考えられる歯を中心に採集されている。
 試料は幾重もの工程を経て塩基配列が決定されるが、今回決定できたのは36体中13体であった。ほぼ同時代の弥生遺跡の甕棺人骨の場合の成功率が60% 程度あるのに較べてかなり低いのは、試料の保存状態がかなり悪かったことに起因していると考えられる。

 塩基(文字)配列を決定できたのは、D-loop領域1,100塩基のうちの192塩基(標準の塩基位置16209~16402番)である。最終的に変 異が見いだせたのは、次表のように11ヶ所であった。
(T-C変異が9ヶ所、A-G変異が2ヶ所。)
    江南人のmtDNA

(同じ塩基配列を持つ現代人の検索)
 まず最初に、今回の調査で得られた塩基配列と同じ配列を持つ現代人の検索を 行った。対象としたのは国立遺伝学研究所が運営する日本DNAデータベースに登録されている日本人および東アジア人のDNAである。
 但し、同データベースのmtDNA配列データには、16363番以降が欠落しているものが多数含まれていることから、相同検索は16209~16362 番の範囲で行われた。し たがって上表の16378番と16399番は使用されなかったことになる。
 この結果、上表のNo.3とNo.12だけでなくNo.2とNo.9も同じハロタイプとなるので、現代人と比較されたハロタイプの種類は11である。相 同検索 の結果そのうち8で現代人の中に相同な配列が見つかった。
  相同検索
 ここで注目されるのは、本土日本人に相同の塩基配列が見つかった寶應県と劉林のハプロタイプである。
 
寶 應県のサンプルは、時代も宋代と新しく、出土した江蘇省の隣の山東省の現代人と相同なのは不思議ではない。ただこのハプロタイプは、中国の他の地域の現代 人には見られない、かなり地域限定的なタイプである。その同じタイプが本土日本人に見られるということは、この地域と日本との直接の関係をうかがわせる。
 
一方、劉林のサンプルは新石器時代のものであるので、これも渡来系弥生人と直接結 びつくわけではない。しかし寶應県のハプロタイプも、この劉林のハプロタイプも朝鮮半島の現代人には見いだせない。したがって、このハプロ タイプは現在利用できるデータから考える限り、朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとは考えにくいものである。

 (ハプログループM8aの頻度分布)
 さらに
劉 林の塩基配列ををハプログループの分類でみると「M8a」というグループに属している。
(ハプログループとは、祖先型のハプロタイプからその後の突然変異によって派生したハプロタイプをまとめてハプログループと呼ぶ)
 このM8aというグループは中国各地の所謂漢民族集団に一定の割合で出現し、その周辺の集団には比較的少ないことが知られている。
   M8a
 上図のように、本土日本人の頻度は1.22%、琉球では0.5%、アイヌは0%である。また朝鮮半島における頻度は1.68%で本土日本と大差ない。
 もし日本本土のM8aが全て朝鮮半島を経由して流入したと考えると、本土日本人に占めるM8aの割合は今以上に小さくなると考えるのが自然であり、現在 の頻度は 朝鮮半島を経由しない大陸からの直接のルートがあったことを想定させる。

 (日本の古代集団との比較)
 さらにこれらのハプロタイプは、日本の古代集団との関係を調べるために縄文人と弥生人の配列と比較した。比較の対象とされた集団は次のとおりである。
   日本の古代集団
 その結果、日本の古人骨集団のなかに江南古人骨と同じハプロタイプを持つものが、2種類あった。

  一つは、No.3とNo.12すなわちPLM4梁王城とYSM揚州儀征と同じハロタイプを持つものが、船泊縄文人11体の中に3体、隈・西小田弥生人33 体中5体あり、時代の如何にかかわらず日本の古代人の中にも比較的多く見られるタイプであった。(現代人でも東アジアに多数見受けられた。)
 もう一つは、これも共通配列(
PLM2梁王城・PJ6九女敦)で、隈・西小田弥生人の中に1体だけ見つかった。この配列は現代人では中国東北部での み2体存在するが、他の地域では朝鮮半島を含めて見出されていない極めて珍しいタイプである。
 したがって、この配列は中国の古代集団と渡来系弥生人の直接の結びつきを示す貴重な例と考えられる。(但し、同じ配列が現代日本人に見いだせないのは、 この タイプが日本に入ってきた量が少なく、その後の歴史の中で系統を残せなかったと推察される。)

 以上、江南江淮の古人骨のmtDNAを中心に調べてきたが、
1)現代人との比較では、朝鮮半島を経由しない中国と日本の直接の結びつきを示唆する結果を得ることが出来た。
2)日本の古人骨との比較では、渡来系弥生人と中国江南地方の古人骨の間に共通の祖先がいる可能性を見出すことが出来た。
 篠田謙一は、日中共同調査のmtDNAに関する結論を以上のようにまとめている。
(筆者は、この篠田の結論特に1)にはかなりの無理があるように感じられるが・・・。)

 古代中国江南・江淮地域の抜歯風習 by 中橋孝博
 
 健康な前歯を意図的に抜くいわゆる抜歯の風習は、先史時代において広く世界的に行われ、東アジアにおいても例外ではなかった。
 古代中国では、新石器時代の東部沿岸地域(山東省や江蘇省北部)、とりわけ黄河下流域、特に山東半島周辺の
大汶口文化(6,300~4,400年前)の人骨に高頻度で確認されている。
 また日本でも縄文時代後晩期にその頻度や形式の多様性などおそらく世界でも稀な盛行状況を呈し、その後も次第に頻度を下げながら、弥生時代はもとより地 域によっては更に後世まで実施されていた。

 渡来系弥生人の代表格の土井ヶ浜人にも抜歯の風習が認められる。
 その抜歯の形式には
上顎犬歯の抜歯など確かに縄文的伝統要素が認められるが、一方、下顎歯をほとんど抜かない点、上顎側切歯をかなりの頻度で抜歯の対象とし ている点など、縄文抜歯とは異なる要素が含まれる
 この縄文抜歯とは異なる要素を持つ土井ヶ浜人の抜歯形式が、上記古代中国の山東半島周辺の抜歯形式と共通することが確認されている。
歯の呼び名
 ところが中国の抜 歯の風習は、大汶口文化期という新石器時代に集中しており、その後龍山文化期(4,000年前) になると急速に廃れていってしまう。
 すなわち、土井ヶ浜弥生人の抜歯と中国
大汶口(だいもんこう)人の抜歯とは、形式こそ共通する部分があるものの 時代差が 2,000年もあり、直接に比較するには無理があったのである。
 そうした意味で今回の日中共同調査によってこの問題が解決されないか、注目された。
   抜歯観察
 上表が抜歯の観察結果であるが、やはり古代中国の抜歯は新石器時代に圧倒的な量と頻度で観察され、且つ抜歯対象は上顎に限定されていた。
 一方、戦国時代から漢代にかけての遺跡では、抜歯の痕跡は1件も認められなかった。
 
 ただ驚くべきことに、これまで抜歯風習が廃絶されていたと考えられる春秋時代末期(日本では弥生時代に当たる)の梁王城遺跡(2,500~2,600年 前)4体中の2体に、上顎左右の側切歯を抜歯した痕跡が認められたのである。土井ヶ浜人の抜歯頭骨と瓜二つといって良い。
   土井ヶ浜人と梁王城人
 僅か2例とはいえ、これまで弥生人の抜歯風習との関係を論じる上で大きな障害となってきた、時代的、地理的な空白の一部が埋められる結果が得られたわけ である。
 もちろん
梁王城以外の遺跡では、今のところ抜歯の痕跡は検出されておらず、この2 体の例だけで直ちに渡来系弥生人の起源論に結びつけて論ずるのは早計である。

  以上、上海自然博物館と南京博物院との日中共同調査について、頭蓋形態の計測値や小変異の頻度という自然人類学的見地、およびmtDNA分析という遺伝人 類学的見地、さらには抜歯という伝統性の強い文化要素の観察という文化人類学的見地という多方面からのアプローチをレポートしてきた。
 そして各々の見地から、江南・江淮人と弥生人集団との結びつきが濃淡の差こそあれ新たに浮上したことは、この調査が極めて注目に値する調査であり、今後 の広範な調査研究の礎になったと評価できるのである。


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