第四章 第壱拾六話
『晦日月』
(左京 藤原義信邸 晦日月 子の刻)
藤原義信邸は、静まり返っていた。
一家は、頭中将御名方惟頼邸へと方違えしている。家人総出である。
今宵、この広い邸内に残っているのは、主の大納言藤原義信(ふじわらのよしのぶ)。
そして、頭中将御名方惟頼(みなかたこれより)。
陰陽師賀茂時実(かものときざね)。同じく陰陽師春苑安成(はるぞのやすなり)。
近衛府生九条敦正(くじょうあつただ)。
この5名のみである。
彼らは寝殿の母屋に居り、母屋の御簾はしっかりと床まで降ろされている。
そして庇の全ての戸と蔀は閉め切られ、寝殿と外は完全に隔てられていた。
母屋の四隅には高燈台が置かれ、室内を照らしている。
部屋の中央に、南面するようにして陰陽師の2人が座している。
賀茂時実はただ静かに、わずか前方の床を見詰めるようにして動かない。
春苑安成は、どこか緊張した面持ちで、時折視線をさまよわせている。
隣接する塗籠の入り口のあたりには、頭中将御名方惟頼が座している。
その顔は青ざめて、まるで作り物めいていた。
陰陽師と頭中将の間に位置するのは、九条敦正である。
太刀を手に、片膝を立てて、周囲に気を配っている。
藤原義信はといえば、昨夜塗籠で身を小さくしていた者と同一人物とは思えぬ落ち着きを見せていた。
一時的とはいえ、黒い獣を追い払うことに成功し、気持ちに多少の余裕が出来たのだろう。
同時に、この場にいるものたちを信頼し始めてもいたからだ。
腕組みをして、陰陽師の傍らに立ち、憮然として前を見詰めている。
見詰める先は、毎夜、あの黒い獣が現れる南庭の方である。
もちろん、蔀は下ろされているので庭は見えない。
「来ぬ、な。」
そう言ったのは、義信であった。
ここ数日、同じ刻限にやってくる黒い獣。
それは、晦日月まで生かしておいてやろうと言った。つまり、晦日月の今宵、黒い獣は藤原義信の命を取るつもりなのだ。
だが、その黒い獣がいまだやってくる気配はない。
これまで同じ刻限にやってきていた黒い獣が、今宵はまだ現れぬ。
義信にしてみれば肩透かしを食らったようなものだ。
いや、来ぬ方が彼にとっては良いに決まっているのだが。
来てくれるな・・・このまま・・・
「諦めたのであろうか・・・」
諦めてくれ。
そんな願いもこもっていた。だがその願いはいともたやすく否定される。
「いいえ。外に居ります。」
「・・・なに?」
たいした感情を添えることもなく、そう言ったのは賀茂時実であった。
「既に外に居ります。」
「そ、それならばなぜやって来ぬのだ。」
「様子を窺っているのかもしれません。」
「こちらの様子をか?」
「あるいは誰かを待っているのやも、しれません。」
「誰かとは・・・誰だ・・・」
その問いに答える間もなく、小さな音が鳴った。
コツ コツ
そこにいる全ての者が、一斉に音のする方を見る。
寝殿正面。
コツ コツ
しかし、それは黒い獣の立てる爪の音ではなかった。
「父上・・・」
声。
「父上、こちらにおいでなのですか?」
その聞き覚えのある声は。
「孝道・・・?」
義信の子、孝道(たかみち)の声である。
「なぜ、こんなところに?おまえは、皆と方違えしているはずだ。」
ふらりと、義信が御簾に手をかけ、母屋を出ようとする。
「義信様、お待ちください。」
これを止めたのは、時実である。
「なんだ。時実。」
「義信様、あれは孝道様ではございません。」
「何を言うか、紛れもなくあれは孝道の声ぞ。」
何の躊躇もなく御簾をくぐり、義信は庇に出る。
「お待ちください。」
時実の声は、孝道の声と重なる。
「父上、そこにおいでなのですね?」
「孝道、なぜお前がここに居る。」
「ああ。父上。心配いたしました。
方違えにも関わらず、当の父上だけが一向にいらっしゃらないので、皆心配いたしております。ですからわたくしがお迎えに・・・」
「おお・・・そうであったか・・・」
「このように屋敷を閉め切って・・・一体どうなさったのです?」
「ああ、そうなのだ。そこは危ない。さぁ、そなたも中へ入るが良いぞ。」
南庭に連なる蔀を開けようとする義信を、時実は止めた。
「お待ちください、義信様。」
「なんだ、時実。外には黒い獣が居るのだろう?ならば早く孝道をこちらに入れてやらねば、危険ではないか。」
「・・・父上?」
「義信様、あれは孝道様ではございません。」
「孝道ではないだと?笑止。息子の声を間違えようものか。」
「義信様。」
「父上?・・・父上、向こうに何か居ります。父上・・・こちらに・・・何かやってきます・・・」
「孝道?」
「父上!・・・ああっ!」
蔀が激しく打ち鳴らされる。
「父上っ!助けて父上!」
「孝道!」
「お待ちください、義信様っ。」
義信は時実の制止を振り切って、蔀を開け放った。
音が、消える。
・・・
訪れる静寂・・・
・・・
見えるのは暗闇。
そこに、彼の子の姿はない。
想像していたのだ。蔀を開け放った瞬間。目の前に広がっているであろう光景。
黒い獣が、孝道を引き裂いている。喰らいついている。そんな無残な光景を。
だが、なにもない。
黒い獣も。息子の姿も。なにもない。
「・・・孝道?」
いつの間にか、傍らに時実が寄り添っている。
耳元で、囁く。
「義信様・・・ゆっくりとお退がりください・・・そのまま、ゆっくりと・・・」
義信は孝道を探すのだが、あれほど明瞭だった声の主の気配すらない。
「孝道が・・・」
「お退がりください・・・」
促され一歩。また一歩後退る。
そして、
庭の向こう。
池の上の闇が動いた。
何かが猛烈な勢いで突進してくる。
同時に、時実が名を呼ぶ。
「敦正!」
九条敦正の行動は、わずかの無駄もない。走り出しながら、太刀を抜く。
突進する闇は、鋭利な牙をさらけ出して咆哮する。
ヴォォォオオオオオオオオオオオ
がしいぃっ
義信の目の前で、黒い獣が獰猛な顎を惜しみなく見せ付ける。
喰われた。
そう思った。
頭は容易く喰いちぎられただろう。
そう思った。
しかし、そうではなかった。
首は無事である。
代わりに、黒い獣の顎を堰き止めていたのは、敦正の太刀であった。
通常よりも長い刀身を持つ太刀。
これを、敦正の屈強な両腕が支える。
黒い獣は、刀身をがっしりと咥えている。
互いに、退かない。
義信は、その場に腰をすとんと落とした。足に力が入らない。
すぐそこに、死がある。
今自分は、まさにその死に晒されている。
目の前の黒い獣は、死の使いだ。
死は黒い獣毛を逆立て、ゆらゆらとした妖気を纏っている。毛先が夜陰に融けてしまいそうだ。
「義信様、このまま塗籠までお退きいただきます。」
時実の声で、我に返る。
「と・・・時実・・・あれはまこと・・・孝道の声だったのだ・・・」
義信は時実の袖に縋った。
「ええ・・・そのように聞こえたかもしれません・・・とりあえず、今はお退がりください。」
時実は義信の視界をその身で遮った。
可能な限り引き離さなければならない。物理的にも、精神的にも。
黒い獣と義信の間には、敦正と時実がいることになる。
ぐうぅっ
敦正が片膝をついた。
ぎりぎりと圧されているのが、時実にはわかった。
時実はその手に印を結び、加勢しようとする。
しかし、義信の縋る手が袖から離れず、印を組むことに支障をきたしている。
義信を守ろうと身を呈しているものの邪魔をしているのは誰をあろう、義信である。
「義信様、お離しください。」
「ま・・・麿を・・・守るのだろう!」
震える手は、時実の袖をしっかりと掴んでいる。
「ですから・・・」
だから、離せと言っているんだ。
こいつ、蹴り飛ばしてやろうか。
この状況で、時実ならやりかねなかった。
しかし、大納言に対してそういった無礼な行動を取らずに済んだのは、もうひとりの陰陽師のおかげであった。
春苑安成が義信の肩にそっと触れ、硬直しかけている手を引いたのだ。
「義信様、こちらへ。」
義信が安成を見る。
「さぁ、こちらへ。」
「う・・・うむ・・・」
義信の手が、時実からするりと離れた。
好し。
時実はすぐに視線を黒い獣と敦正に向ける。
ふうぅぅ
敦正の、太刀を支える腕が、腕の筋肉が隆起しているのがわかる。
じわり。こめかみに、首筋に、汗が沸く。
敦正は武に長けた屈強な男だが、長くは持たない。
時実は敦正の背後から手を伸ばす。
太刀を支える敦正の右手に、己の右手を重ねる。
さらに、左手は太刀の刀身、切っ先に触れさせる。
そして低く静かに言葉を発した。
「この太刀は天の御剣。天の下の禍物絶つ、神の御剣。」
その言葉は、敦正の耳から脳へと浸透する。
その音は、太刀を振るわす。
言霊。
「圧せ。」
敦正はきりりと手に力を込める。
「圧せ、敦正!」
「ううおおおおおおお!」
太刀が黒い獣をじわりと押し返した。
敦正が、そのまま太刀を振り切る。
「おおおおりゃぁああ!」
ざくり
ぎゃんっ
黒い獣は、口を引き裂かれ、庭へと転がった。
よろりとよろめきながら、立ち上がる。口端から垂れているのは涎ではない。血である。
「おぉのぉれぇ・・・・・・」
口は耳まで裂けてしまっている。
敦正は太刀を構えなおした。
ふうううぅぅぅ
ともすれば、闇の中に融けて所在を見失いそうになるが、聞こえる息遣いが、いまだ変わらずに黒い獣がそこにいることを知らせる。
ふうううぅぅぅ・・・
「義信ぅ・・・そこに居るかぁ・・・?」
もちろん義信は応えない。
安成の背後で、口を閉じている。と言うよりは、声も出ない、と言った方がいいだろう。
「靖明ぁ・・・そこに居るのかぁ・・・?」
誰も、応えない。
「靖明ぁ・・・よもや今宵もここに居らぬと言うことは・・・あるまいなぁ?」
皆、聞き耳を立てる。
安成はわずかに首を傾げ、時実は顔色ひとつ変えない。
ただ、二人の胸中は同じであった。
なぜ、ここにおいて靖明なのか?
黒い獣、あるいはそれを操る者の、安倍靖明に対するこの執着は一体。
「あやつ・・・逃げおったか?逃げたのか?・・・口惜しや・・・口惜しや・・・なれば・・・いたしかたなし・・・
恨むなら・・・安倍靖明を恨めよ・・・」
駆ける足音。
姿は闇に隠れて見えないが、敦正には気配でわかった。
来る・・・
開け放たれた蔀の向こう。
ばりばりばりっ
突進の勢いと、鋭い爪が、南庭に面した蔀のほぼ半分を破壊した。
急に風通しがよくなり、見晴らしもよくなった。
階(きざはし)に、黒い獣が立っている。
そしてそれは、跳んだ。
敦正が、刀を振るう。
黒い獣はするりとかわす。
無駄にでかいとまで言われる体躯に似合わず、長刀を繰り出す敦正の剣速は鋭い。
しかし、これを受ける獣の動きはそれを上回る。
斬り込んではかわされ、また爪から逃れては刀で薙ぎ、突進を避けたかと思えば、切っ先を突き出す。
互いに傷つけることが出来ずにいたが、敦正が勝っているわけではない。常にギリギリのところにいた。
わずかでも気を抜けば、獣の爪に切り裂かれる。
時間の問題だ。
時実はちらり、と視線を流す。
塗籠の前には、座り込んでいる義信と勇敢にもこれを守ろうと身を挺す安成がいる。その背後には、御名方惟頼。
惟頼は、こちらを静観している、ように見える。その顔に表情はない。そして、加勢する気配もない。
怖気づいたか。所詮は貴族。こういう時には使えない、ということか?
そして、時実は印を結ぶ。
「オン・・・」
わずかその一言。
瞬間。
ひゅん と風が鳴った。
そして時実の体が、飛んだ。
「ぐぁっ!」
床に叩きつけられる。
「時実!」
「と、時実様っ!」
敦正と安成の声が聞こえたが、強か打ったらしく体が思うように動かない。
視界にゆがみはない。視力も思考も正常に機能する。
一体何が起きた?黒い獣か?
いやしかし、敦正の邪魔にならぬように出来るだけの距離はとっていたはずだ・・・
では、黒い獣以外の・・・何か・・・か?
だとしても・・・その気配も、姿もない・・・
辺りに視線をめぐらす。
敦正の顔が見えた。
馬鹿が、何を情けない顔をしている。
手を止めるな。足を止めるな。お前は戦っている最中だろう。こちらに気をとられている場合ではないぞ。
「う・・・・・・ぅ・・・うしろ・・・だ、敦正っ!」
声を絞り出したが、遅かった。
敦正の巨躯が、弾かれる。
どおおん!
時実の程近くに転がった。
「痛ぅ・・・」
腰の辺りをさすっているが、背には爪痕がくっきりと残っている。
「・・・時実。大丈夫か?」
「人の・・・心配をしている場合か。」
「いや、うん。俺は大丈夫だ。」
「大丈夫なわけがなかろう。」
「え、これは・・・ほら、かすり傷だよ。」
ありえない・・・それがかすり傷のはずがない。相当の痛みのはずだ。あるいはよほど頑丈か、痛みに鈍感なのか。
やせ我慢をしていなければ、の話だが。
「あ・・・」
「今度は何だ。」
「獣が・・・」
「しまった・・・」
黒い獣が駆ける。その先には、大納言藤原義信。
「け、獣めっ!」
義信は勇敢にも弓を手にした。しかし、矢を番えたものの引き絞る余裕はない。
例えその余裕があったとしても、黒い獣の速さに、的を絞ることは敵わなかったであろう。
そもそも、手足に思うように力が入らないのだ。
安成はといえば、ただ迫り来る獣を凝視するのみである。
そこへ、今までまるで人形のように佇んでいた惟頼が、ゆらりと動いた。腰の刀に手を添え、獣の前に立ちはだかる。
顔色は蒼白く、生気が感じられないほどであったが、その目は鋭く獣に据えられている。
ヴォォォオオオオオオオオオオオ
獣の爪が、横薙ぎに襲い掛かる。
そして、そこにいる者たちの目には、見えたような気がした。
惟頼が抜刀する様。
鞘から抜けた刀身が、鋭い爪を擁する獣の手を捉える瞬間、焔が立ち昇るのを。
ぎぃいいやぁあああああっ
獣が七転八倒する。
床には、獣の前足が落ちている。
「・・・あれが・・・御名方様の・・・迦楼羅(かるら)の剣か・・・・・・一瞬焔が見えたかと思ったぞ・・・すごいな・・・」
敦正が、小さく言葉を洩らし、関心しきりに見惚れている。
惟頼が、がくりと膝を着く。
「おお、おおお!やったぞ。惟頼。さすがじゃな。」
義信がにじり寄る。
だが
ヴォォォオオオオオオオオオオオ
獣が吼える。
三つの足で立ち、裂けた口から泡を吹き、鼻に眉間に皺を寄せ、吼えている。
しゅるるるるぅ
そして、体中から妖気を放っている。
部屋の四隅に置かれた高燈台の焔がゆらめき、空気が澱み始める。
この状況は、芳しくない。
時実は、すぐに印を結ぶ。
そして、真言を唱える。
唱えようとした。
その時、耳に、かすかに聞こえてきた。
これは・・・・・・
「ノウマクサマンダ・バザラダンセンダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン・・・」
これは・・・
「オンキリキリ」
これは、不動明王呪。
「オンキリキリ」
視線を転じる。
階に、人影。
ゆっくりと、呪を唱えながら、一足ずつ階を上り、現れたのは安倍靖明(あべのやすあきら)であった。
「ノウマクサマンダ・バザラダンセンダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン・・・」
黒い獣が身を捩る。
ぐぅるるるるるるぅぅ
靖明は、じりじりと黒い獣を母屋の隅へ追い込む。
「ノウマクサラバタタ・ギャティヤクサラバ・ボケイビャクサラバ・タタラセンダ・マカロシャケンギャキサラバ・ビキナウンタラタカンマン」
「おおお!靖明!来たか!待ちかねたぞ。」
義信の言葉など気に留める様子もなく、靖明は呪を唱え続ける。
「オンキリ」
ぐるぐると唸ってはいたが、黒い獣の動きは完全に止まっている。
このまま、呪で縛り付けてしまえば・・・
あと少し・・・
「ウンキヤクウン」
だが、時実の耳には、靖明の呪の他に別の音が聞こえていた。
微かな、羽音。
いや・・・これは微かなどではない。
「ノウマクサマンダ・・・」
時実は振り向く。
南庭の奥から、音が近づき、それは一気に母屋へと雪崩れ込んで来た。
まるで、巨大な塊が無理矢理にこの場へ押し込まれたかのようだった。
飽和。
数十、いや百羽もの鴉の大群。
羽ばたき。鳴き声。旋回。
あるものは柱にぶつかり。あるものは床でのた打ち回り。
あるものは御簾に突き刺さり。
天井も床も鴉で埋め尽くされた。
皆、腕や袖で頭を守り、その場で身を低くしているしかなかった。
「バザ・・・ラ・・・・ダン・・・ 」
靖明の立っている場所は特にひどい。
靖明を中心として、まるで鴉で出来た蚊柱のようである。
靖明の声が、途切れる。
こんな状態で、呪など唱えられようもない。
それよりも、靖明の身が案じられる。
「 ・・・・・・」
しかし、その騒々しい鴉たちの動きが、突如として静止した。
ひらり
ひらり
部屋中に、白い紙が舞い始める。
鴉はその姿を、紙に変えたのだ。
ひらり
ひらり
瞬く間に、床には白い紙が積み重なる。
白い紙は、器用に鳥を形作っている。
いくつかは、ひくりと動いたりもしたが、すぐにただの紙となった。
「これは・・・」
時実が、紙を凝視する。
「うむ。よく出来た式紙だな。」
答えたのは靖明である。
「まったく・・・あれでは呪も唱えられないではないか・・・おかげで・・・」
そこまで言ったとき、黒い影が靖明目掛けて飛んだ。
これを靖明は、ひょいと交わした。かに見えて、そのあと尻餅をついた。
黒い影は唸り声を上げて、靖明を威嚇する。
「痛たた・・・おかげで、あれを縛しそこねた・・・」
三つ足となった黒い獣。
「しかし・・・」
尻をぺしりぺしりと叩きながら立ち上がると、靖明は南庭に続く階を見据えた。
先程、自らが通ってきた階である。
黒い獣も、そこにいる。
そこに、ゆらりと影が現れた。
階を上る影。
それは庇に立つと、傍らの黒い獣を撫でた。
先程の騒動で、部屋の灯明は半分が消えている。
その心もとない明かりの中、影はうっすらと輪郭をさらす。
人の姿を、さらす。
「ようやっと、現れたか。安倍靖明よ。よもや、その男を見捨てるのではないかと、思い始めていたところだ。」
男の低い声。
「それはこちらも同じこと。ようやっと現れましたか。そもそも貴方は、義信様の命を取る気など、ないのでしょう?」
くくく
「そんなことはない。お前が来なければ、取っていたさ。それはそれ、これはこれだ。」
「すべては、この靖明を貴方の前に引き出すため。義信様の命を狙うことは二の次、のはず。こんなものは、茶番に過ぎない。」
「それに関してはそのとおりだ。その男個人の命など、俺にとってはどうでもいいのだ。何の価値もない。
あぁ、これは前にも言ったか?
だが茶番などと言ってしまっては・・・その男が報われぬ。」
「・・・こんなことのために・・・貴方は・・・人の命がかかっているのですよ。」
「そうだな・・・だからこそ、お前は手を抜くことが出来ぬわけだ。」
「靖明!!」
二人の男の会話を、割ったのは義信である。
「靖明!その男が、麿の命を狙うものか!!」
「義信様・・・こ、」
「その男がっ 姫を殺し、孝道を病にし、麿の命を狙うものか!」
男は、不遜にも微笑する。
「いかにも、俺がそれだ。」
「おのれ!」
義信は、持っていた弓に矢を番え、ぎゅいと引いた。
先程まで腕に力が入らなかったとは思えぬ力強さで。
「お前が全ての元凶かぁっ!」
びょう、と矢が飛んだ。
男は、避けようともしない。鏃が男の頬をわずかに掠める。
頬に赤い線が細く引かれた。じわりと滲む血。
「元凶とは、心外だ。」
「元凶であろうが!」
「俺は、義信殿。貴方の命などどうでもいいのだ。貴方でもよかったし、貴方でなくてもよかった。
誰でもいい。それなりの地位と、権力のあるものならば。そんなことはたいした問題ではない。
だから、元凶だと言われれば心外この上ない。元凶は他にいるのだから。」
「どうでもいい、だと?そのどうでもいいことのために、麿の姫は・・・麿の姫はあのような・・・苦しみを・・・命を・・・落として・・・」
義信の目から、ほろりと涙が伝い落ちた。
「あぁ。あれは・・・残念なことをした。早々に対処していれば、助かったかも知れぬものをな。
対処を間違えたのだ。役に立たぬものを無駄に集めずに、そこの靖明ただひとり、呼び寄せればよかったのだ。」
義信が、その言葉を聞いてギンと睨み付ける。
「残念なことと・・・簡単に・・・」
「もう一度言うが、俺は元凶などではないよ。これを依頼したものがいる。
つまりだ。俺は頼まれたから貴方を標的とした。もし俺が断っていたとしても、また別の誰かが同じことをしていた、と言うことだ。
俺を恨むよりは、そちらを恨むのがよいだろう。」
「・・・・・・それは、誰ぞ・・・」
「それは、言わぬがな。」
「おのれ・・・」
怒りに体が震える。
拳に力が入りすぎて、弓を握る手が白む。
「詭弁です。」
そう言ったのは、靖明であった。
「今回のことは、貴方であったから為しえたこともある。貴方の知識、貴方の技術。貴方が依頼を引き受けたからこそ、成ってしまったことなのですよ。
貴方は・・・道を外した。そうまでして得るものは何です?貴方のそれは・・・」
「靖明。そなたはその男を知っているのか・・・?」
問いに即答しない靖明を義信は睨み付ける。
「その男を知っているのかと聞いている!」
「この男は・・・この人は・・・・・・」
「靖明!答えよ!」
「だまれっ!」
男の一喝に場が静まる。
「どうでもいい・・・
ここに至るまでの経緯、全てがどうでもいいことだ。
そして、楽しい会話も終わりだ。
今までの段取りも、苦労も苦悩も・・・この時のためにある。」
男は、手を袖のうちに隠しながら、印を結ぶ。
「時は来た。
さぁ、始めよう。靖明よ。
人質は藤原義信。
俺から全力で守ってみせろ。本気の術比べだ!」
男が、ダンと足を踏み鳴らしたとたんに、床に敷き詰められていた白い紙がぶわりと跳ねた。
そしてぶるぶると震えたかと思うと、再び飛翔し、黒い鴉へと変貌した。
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