第四章 第壱拾七話
『時至れり』
(左京 藤原義信邸 晦日月 子の刻)
羽音が聞こえる。
数え切れぬほどの鴉の双眸が、安倍靖明に据えられる。
秦茂春(はたのしげはる)は、袖の内で組んでいた印にウンと念を込めた。
飛翔。
百を超える式紙が一斉に羽ばたき、目標、つまり安倍靖明に向かって、その嘴やその爪で襲い掛かった。
だが靖明とて、無防備にこれを受けるわけではない。
懐から扇を取り出しバサリと広げ、右の手に印を結ぶ。
指を折り曲げ、無名指と小指のみ立て、これをおとがいに触れるほどに寄せると、言葉を紡ぎ出す。
「オン バヤベイ ソワカ・・・」
同時に扇をゆっくりと左右に揺らす。
「オン バヤベイ ソワカ・・・」
ゆっくりと ゆっくりと扇が揺れる。
鴉どもは羽ばたいている。
羽ばたいているのに、靖明に近づくことが出来ない。主の命に従い、必死に羽を動かすのに前へ進むことが出来ない。
宙に留められ、無様にじたばたともがいているだけだ。
そして靖明はただ、扇からそよとした風を送っている。傍から見る限りでは。
しかし、そのそよとした風が、鴉どもを堰き止めているのだ。
茂春がにやりと笑う。
「なるほど、埒が明かぬわ。」
すぐに印を組みなおし、ふっと息を吐く。
鴉どもは一斉に、一気に燃え上がった。
めらり
激しく、儚く。
室内は昼のごとき明るさになったかと思うと、すぐにもとの仄昏さを取り戻す。
靖明は、はたはたと扇を閉じた。
「同時にこれだけの式神を操るなど、尋常ではありません。これをとっても、貴方は並ならぬお方だということは明らか。
だというのに・・・なぜその秀でたる力をこのようなことにお使いになるのです。」
「なぜ?その答えは簡単だ。俺のこの力が、果たして正当に評価されないからだよ。」
「そんなことはありません。少なくとも、当時の陰陽寮のものたちは皆、貴方のことを正当に評価していました。
貴方のことを尊敬し、慕ってもいた。その知識と技術の高さに感嘆さえしていたのです。かく言う私も・・・」
「世辞などいらぬわ。」
「・・・世辞ではない・・・これは事実です。にもかかわらず・・・
結局、貴方は地位や名誉が欲しかったのですか?」
「違う。」
「名声ですか?」
「違う。」
「そうは、思えません。今の貴方の言動は、」
「確固たる評価だ。」
「評価。また評価ですか。」
「お前にはわからぬだろう。」
「人事への不服ですか?」
「・・・・・・」
「あの時、陰陽博士になれなかったことへの・・・」
「・・・違う。」
「それを不当な評価だと、そう言いたいのですか?・・・いえ、確かにあれは不当な評価と言えるかもしれません。しかし・・・」
「・・・・・・違うと言っているだろう。」
「違う?何が違うのです。私に、何を解かって欲しいのです?
貴方のしていることは、貴方の名を穢すことになるのですよ。
評価が欲しいと言うのなら、貴方のしていることは逆効果です。」
「穢すか・・・」
「そうです。禁術に手を染め、陰陽寮も、秦の家すらも離れ・・・市井に身をやつし・・・あげく、大納言を呪詛するなど・・・
貴方は私には解からぬと言うけれど、貴方こそ、わかっていない。貴方が今、為していることに意味はない。」
「意味は、あるのだよ。安倍靖明・・・
・・・地位も名誉も名声もどうでもいい。俺はそんなもののために事を起こしたのではない。俺は、俺自身のためにやらねばならなかったのだ。」
「自己満足、ですか。それによって引き起こされたこの結果に対して、何を解かって欲しいのです?どんな評価を期待していたと言うのです。」
「自己満足・・・。ふふ・・・」
靖明にはそれが、自嘲に見えた。・・・違うのか・・・
「違いますか?」
「自己満足というよりは自己主張だな。」
「・・・その自己主張が、人を殺めたのですよ。」
「・・・・・・」
「こんなことをして、貴方の評価が上がると本当に思っているのですか?思慮深かった貴方の思考の結果が、そんなものだったなんて。」
「間違えるなよ、安倍靖明。俺が欲しいのは、不特定多数の周囲の評価などではない。
ああ。確かに、以前はそれを得ることが出来ずに悩んでもいた。いや、それこそがすべての発端だった。
だが、今欲しいのはそんなものではないのだ。」
「・・・茂春殿・・・。」
「そうか・・・やはり・・・お前には解からぬな・・・」
「ならば解かるように説明してください。」
「くくく・・・」
「なにがおかしいのです。」
「いやぁ。お前にも解からぬことがあるのだと・・・再確認したのだ。稀代の陰陽師安倍靖明、天才安倍靖明。お前にも解からぬ。・・・くくく、これはよい。」
靖明の細い目がうっすらと開く。
「怒ったか、靖明よ・・・あぁ、怒っているなぁ。昔からそうだった。その目。その目つきをするときは怒っている時だった。
あるいは・・・・・・これから本気を出そうかと思い始めている時だ。
柔和で人懐こく、人当たりがよく、世渡り上手。器用に物事をこなし、それでいて謙虚。
お前には負の感情が欠落しているのではないかと、陰陽寮の皆とよく話したものだったが・・・
お前は・・・その細い目に表情や感情を隠しているだけだ。そうやって時折見せるお前という者の本性が、お前を人であるのだと認識させる。
そして俺は安堵する。同時に焦燥する。同じ、人であるのに、と。」
「・・・」
「俺は知りたいのだ。俺が、お前に敵わぬ男なのかどうか。
本当に・・・凡人は、天才に敵わぬのか。」
「茂春、殿?」
「だから、手を抜いてもらっては困る。」
その言葉と同時に、傍らにいた黒い獣が走り出す。藤原義信目掛けて。
靖明はこれを目で追った。
義信、惟頼、安成。
彼らの前には立ちはだかる時実と敦正が見える。その時実と目が合った。常と同じ、冷静な目をしている。
若いが、好く出来た男だ。
靖明はするりと扇を懐にしまうと、今度はなにやら細長いものを取り出す。
それは青々とした菖蒲の葉。清らげな細く白い紙で束ねられている。
これを、床を滑らせるようにして黒い獣の行く手へと放った。
「碧穂(へきすい)、相手をせよ。」
靖明がそう言うと、またたく間に菖蒲の葉は人の形を取り、腰に帯びた刀を抜く。
そこへ間髪入れず、黒い獣が突っ込んできた。
現れた男の外見は、身なりの整った若い公達のようであり、黒い獣相手ならば、吹き飛ばされて床に無残にも打ち据えられる。
かに思えた。
だが、そうはならない。
黒い獣の体当たりを凌いでいる。
そこいらの貧弱な公達とは別物である。
確かにそれは人ではないのだから、頷けるというものではあるが。
靖明の式神、碧穂が塗籠の手前で黒い獣を堰き止めている。これに敦正が加勢に入るのを靖明は見届けることができなかった。
靖明には靖明の対峙すべき相手がいる。
「靖明。余所見をしている場合ではないぞ。」
茂春の声に、はっとして振り向く。
そして気づく。
茂春の向こう。さらに階の向こう。庭に、何かがいる。
「今度は、風などで防ぐことは出来ぬが・・・さぁ、どうする。」
ぐおおおぉぉぉん
それは徐々に姿を現した。
土から、頭が覗いている。
目が現れ、鼻が口が見えた。
まるで埋められていた土の中から這い出るように、頭の次は肩が、両手が引き抜かれ、腹が、そして両足が露わになる。
憤怒の形相。纏うのは甲冑。右手には剣。
その姿は、隆々として雄雄しい大陸の武将のようである。
ただ明らかに違うのは、大きさだった。人のものではない。比べるならば、大人の男二人分の身長と大人の男3人分の恰幅。
有り体に言うならば、巨人、なのだ。
土人形と言うには精巧すぎたし、巨大すぎるそれは、自らの意を持って動いているらしい。
ぐおおおぉぉぉん
どぅん どぅん どぅん どぅん
歩を進めるたびに、地鳴りがする。
これをどこかで見た気がする。そう、なんというか・・・たとえば・・・
ふと思い出し、靖明はぽんと手を打つ。
「おお。四天王の増長天に似ておるな。」
などと、お気楽に思考している場合ではない。
あんなものが、このまま屋敷に突進してきたら、この見事な大納言屋敷は崩壊する。
すでに、黒い獣によってかなり破壊されてはいたのだが、これ以上は忍びない。
背後で激しく立ち会う音がする。
ちらりと視線をやれば、あぁ・・・碧穂が・・・それに時実と敦正も奮闘している。
御名方惟頼は・・・加勢する気配はない。・・・・・・・・・なんだ?・・・ひどく・・・憔悴、しきって、いる・・・?今にも倒れそうだ。
いや・・・しかし・・・
ぐわしゃっ!
「!」
目の前が、割れた。
正確に言うならば、自らの立つわずかばかり前にある建築物が天から落とされた剣によって押しつぶされた、であろう。
「余所見をしている場合ではないと言っておいただろう。それともこれしき余裕か?安倍靖明。」
茂春を見据える。
しっかりと、自分は安全な場所へと退きつつ、にやりと微笑んですらいる。
失態。
これ以上屋敷が破壊されるのは忍びない、と思ったのもつかの間。すでに遅し。
いたしかたない。
黒い獣は、碧穂と時実と敦正に任せるとして。
茂春はこれ以上手勢を増やすつもりはないらしい。
とりあえずは、この巨武人に取り掛かるとしよう。
靖明はひょいと階を飛んだ。
庭に降りると、自然な動きで巨武人の脇に回りこみ、その脛を思い切り蹴りつけた。
がしっ
びくともしない。
それどころか、あまりの強固さに、蹴りつけた反動が自らの足の骨にじんと響いた。
「か・・・硬い・・・」
ぐぐぐぐぐ
ふと見上げると、巨武人がぎろりと睨んでいる。
そして、剣をぐいと持ち上げて靖明めがけて振り下ろした。
「おおおお!待て待て待て!」
ずぅぅん
これを仰け反りながら、何とかかわす。
剣は土に半分ほどめり込んでしまっている。
この剣は、人を斬るというよりは、人をなぎ倒す類のものらしい。
まともに食らえば、肉塊となるのは目に見えている。
そんなものは御免こうむる。
靖明は地面に手をつき、何か小さく言葉をこぼすと、指で土をなぞるような仕草をした。
ぐぼっ
巨武人が突き刺さった剣を引き抜く音がする。
すかさず、靖明は駆け出す。
といっても、なにやら躓いたような転がるような、さまになっているとはいえない駆け出しだ。
さまになっていないとはいえ、そうしなければ次の一撃で靖明は剣の餌食になっていただろう。
ずぅぅん
「うはっ!」
地を叩く剣の衝撃で、靖明は飛び上がった。
そのまま着地する。と、またも何か小さく言葉をこぼし、指で土をなぞるような仕草をする。
「靖明よ。逃げ回るだけか?それとも、遊んでいるのか?」
高見の見物を決め込んだ茂春の声が聞こえる。
再び走り始めながら、こんなものと戯れるような心躍る趣味など持った覚えはない。と、叫びたい衝動を抑えた。
「あ。」
足がもつれて、前のめりに見事に転ぶ。
頭上を、豪風とともに剣が横薙ぎで行き過ぎていった。
「まったく・・・」
そして、何か小さく言葉をこぼし、指で土をなぞる。
休んでいる暇はない。
走り出しながら、靖明は位置を確認する。
自分と、巨武人と、茂春の位置。
「おおっとっとっと・・・」
行く先を、巨武人の足が塞ぐ。
立ち止まった靖明は、身を低くすると何か小さく言葉をこぼし、指で土をなぞった。
すぐさま方向転換し、滑り込むようにして巨武人の股の下をくぐり抜け駆け抜けて、背後を取る。
そこは、庭を見渡せる階の前。
靖明は、ちらりと茂春を見る。そしてにっこりと笑った。
茂春は、眉根を寄せる。
つまり靖明は、巨武人に取り掛かるべく、階からひょいと飛んで降り立った場所へと、戻ってきたのだ。
ただ、走って転んで躓いていたわけではない。
そして戻ったその場所から、ゆっくりと1歩、2歩、3歩と進み、何か小さく言葉をこぼしてから指で土をなぞった。
「まさか・・・」
茂春は吐露する。
靖明は印を結ぶ。
「オン ハリチベイ ソワカ」
場に、気が満ちる。
結界が鳴動する。
「オン ハリチベイ ソワカ」
ぐおおおぉぉぉん
巨武人が振り返る。
そして完成する。
巨武人を取り囲む結界。
「なるほど・・・靖明め、ただ逃げていたわけではなかったか。」
ぐおおおぉぉぉん
「オン ハリチベイ ソワカ」
巨武人は両腕を天へと伸ばし、地に響く咆哮を放つ。
「オン ハリチベイ ソワカ 土より生じるものよ、土へと還れ・・・ オン ハリチベイ ソワカ」
ごごごごおおおおぉぉ
地が震える。
巨武人の足元が崩れる。
膝が、腿が、胴が。そして口、鼻、目。頭が埋もれ、両腕が沈んでいく。
最後に、握り締めていた剣が、剣だけがごろりと地上に残った。
しかしそれすらも、わずかの間をおいて、元の土へと、土くれへと戻ってしまった。
庭に、静寂が戻る。
「ははは!」
笑う声は、茂春のものだ。
「見事だな。靖明よ。まったく見事だ。」
靖明は、茂春を見据える。
「くくく・・・」
「楽しいですか、茂春殿。」
茂春がふわりと笑う。
靖明は、その笑みを見たことがある。遠い昔。懐かしい、あの時の。
「くくく。お前のその格好ときたら・・・」
「え?」
「土まみれではないか。」
「あ・・・」
たしかに、あれだけ転んで躓いて駆け回ったのだ。装束は土にまみれて、見る影もない。これではまるで市井の下級貴族のなりだ。
「お前はもっと要領のいいやつだと思っていたのにな。」
「わたしはっ 」
「あるいは、目くらましか。」
「・・・・・・」
「あるいは、自分は要領がよくないのだと思わせるためか。」
茂春の顔から、笑みが消えている。
「わたしは、要領などよくありませんよ。今も昔も。」
「ふん。・・・言い張るかよ・・・
まぁ、どうでもいい。なんにしても結局、俺はお前には敵わぬということだ・・・あぁ、そうなのだ・・・」
「・・・茂春殿・・・」
「禁術に手を染め、大納言の呪詛に加担し・・・この日のために用意周到に備えてきたというのに・・・
それでも、俺は・・・お前に敵わぬのか・・・まったく・・・俺こそが要領の悪い阿呆だ。」
「もうやめましょう。これ以上は、何も得られるものはない。」
「あぁ、そうかも知れぬなぁ。こうしてお前に術比べを挑んでも・・・結局俺は何も得られなかった。
・・・俺は、失ってばかりだ・・・」
「・・・失った?いいえそうではない。・・・あなたは自ら、手放したのですよ。」
「・・・ほぅ・・・」
「あなたは・・・」
靖明は、茂春の目を覗き込むようにして語りかける。
しかし、茂春の目はこちらを見ていない。
茂春の感嘆は、靖明の言葉に対するものではなかった。
わずかにはずした視線の先。
靖明の背後。義信や、時実。式神の碧穂がいる方向。
靖明は振り返る。
だが、その途中で目の前を何かが飛び過ぎて行った。
ぞふり・・・
嫌な音だった。
靖明は今一度、茂春の方に首を振った。
「あ・・・」
茂春が、先程と寸分違わず立っている。
違うのは、彼の左肩に犬が食いついていることだ。それは黒い獣の断片。頚から下は見事に切り取られている。
黒い獣の頭のみが、左肩に噛り付いている。がっしりと、深く、深く獣の牙が骨に届くほどに食い込んでいる。
式神であるところの黒い獣が使役する側である茂春に危害を加えるなど・・・
いやつまりこれは、黒い獣が討たれたと、いうことなのだ。
敦正も碧穂も、奮闘し、ついに黒い獣の首を刎ねた。そういうことなのだ。
その結果として、茂春は呪詛返しを受けた。
黒い獣自体が呪詛である。藤原義信を呪い殺そうとする思いが注がれた呪物。
その呪詛を排した。
では、その呪いは霧散したのか。
否。
一度放った呪詛は消えない。呪いという思いを成就させるしかない。
成就させることが出来なければ、その呪いは呪詛した者に戻ってくる。
だから、黒い獣は刎ねられた首だけになって、呪いとして主の元に戻ってきたのだ。
「茂春殿・・・。」
茂春は苦笑する。
「うまく、いかぬものだな。」
「・・・あなたのことだから、呪詛返しにも万全の備えをしているものと思っていましたよ。」
「ああ・・・確かに。その時は六条高倉小路のあの男のところにでも送り込んでやろうと思っていたが・・・」
「茂春殿に呪詛を依頼したお方ですね。」
ごりり
骨を食む音。
茂春の表情が歪む。
微かに腐敗臭が漂う。それは、黒い獣の口から漏れる臭い。そして、茂春の肉を浸蝕する臭い。
「そうしてもよかったが・・・こうしてもよかろう・・・」
茂春の体がふらついたかと思うと、脱力するようにしてその場に崩れ落ちた。
「茂春殿!」
「く・・・・・・」
噛み付かれた側の左腕は、だらりと床にうち捨てられている。
力が入らぬのだろう。見れば、皮膚の色も紫がかっている。
このまま放って置けば、腕は使い物にならなくなる。いや、それ以前に、呪詛に命を喰われる。
「取り除きましょう。」
「なぜだ。」
「・・・なぜ?」
「その必要はないだろう。」
「そんなことはありません。」
「これは酬いなのだ。俺が成したことの酬い。誰かを呪詛するということは、こういうことだからな。」
「・・・・・ええ、そうです。これは酬いです。しかし、死んで何になりましょう。償うならば、生きて償うべきです。
まぁ、呪詛によって死ぬよりも、辛いかもしれませんが。」
「・・・ほぅ・・・俺に生きろと?」
「そうです。」
「そんな価値はないぞ。過ちを繰り返すかも知れぬしなぁ。」
「いいえ。」
嘲笑する茂春の言葉を、靖明はきっぱりと否定した。
「馬鹿か。何の根拠があって。・・・俺を信じるとでも。」
「ええ、まぁ。」
「・・・馬鹿め・・・」
「そんな・・・酷いですよ。」
「俺は・・・酷い男なのだ。醜い男なのだ。
そもそも、お前は悪くない・・・今回のこと、お前に非はない。
つまりは・・・俺のただの妬みだから、な・・・勝手で醜い妬みなのだよ・・・
俺は凡人ではいたくなかった。凡人として生きて、埋もれて死にたくなかった・・・
そして俺は、凡人ではなかった。才能があった。己が努力で、その才能をさらに昇華させることが出来た。
だが俺の前に、天才が現れた。その天才は努力を惜しまない天才だった。
俺は努力した。努力して努力して努力して・・・そのうち俺の努力は行き詰った。
俺が1歩進むと、天才は2歩進んでいた。俺が2歩進もうとすると、天才はすでに3歩進んでいた。
追いつくことが出来ない。追い抜くことが出来ない・・・
俺には・・・一手が必要だった。それが禁術だった・・・
にもかかわらず・・・それすらもお前に敵わなかった・・・ならば・・・どうする?」
そこまでを一気に言い切ると、茂春は靖明をまっすぐに見据えた。
「だから、こんなことを?」
「禁術を駆使し、人を呪詛し・・・それでもお前に敵わなかった。ならば、どうする?」
「だから、命を投げ打つと?」
「妥当だろう。」
「そんなことは許しません。」
「許さぬ?」
「ええ、許しませんからね。そんなものは逃避と同じです。」
「卑怯とのたまうか。」
靖明はにっこりと笑った。
「あなたは失ってばかりだと嘆いたけれど、そうではない。あなた自身で手放し続けたのです。そしてあなたはまた、手放そうとしている。」
「これ以上生きながらえてなんになる!」
「贖罪。」
「・・・贖えと・・・?」
「そうです。だからわたしはあなたに呪をかける。わたしの呪であなたを縛る。『贖罪』という名の呪だ。ですから逃れることなど出来ませぬ。」
「・・・なにが、ですからだ。それは・・・つまり俺に・・・」
「その前に。まずはあなたの肩に食いついているその呪詛の成れの果てを、排除するとしましょう。」
「俺が・・・そんなものに・・・そんな呪に縛られると思うてか。」
「簡単です。わたしならば出来る。出来るに決まっているではないですか。
というよりすでにわたしの術中です。さぁ、手伝ってください。いや・・・手伝いなさい。茂春殿。」
「・・・・・・こ、こんな男だったか・・・?」
靖明は、屈むと茂春の肩に食いついている黒い獣を覗き込む。
「多少は六条高倉小路のお方にも責任をとってもらいましょう。うん、それがいい。」
にっこりと笑うと、印を結ぶ。
それから靖明は、小さな声で言った。
「言っておきますが、わたしは天才などではありませんよ。わたしも必死だったのです。あなたに追いつきたくて。なによりあなたが目標だったから。」
嘘だ・・・
嘘だ・・・・・・そんなことがあるものか・・・
・・・
過去が思い出される。
俺が失ったもの・・・
あの陰陽寮での日々が思い出される。
俺が手放したもの・・・?
秦の一族・・・親・・・弟・・・妻・・・
陰陽寮の者たち・・・滋岳殿・・・弓削殿・・・・・・三善・・・
・・・
己の・・・信念・・・は?
俺が妬みという妄執にとり憑かれる前の・・・信念は・・・
俺は、何を手放した?
と、その時だった。
「な、なにをするか!やめよっ!」
巨武人が消滅し、黒い獣の首が刎ねられ、脅威が去ったかと思われたこの場に、慄く男の声が響き渡った。