第四章 第壱拾八話
『呪詛返し』
(左京 藤原義信邸 晦日月 丑の刻)
階(きざはし)より現れた男と、安倍靖明(あべのやすあきら)が対峙している。
賀茂時実(かものときざね)は、その階の男を凝視していた。
黒い獣を使役していたのは、紛れもなくあの男だろう。
そして、無数の鴉を操っていたのもあの男だ。
藤原義信(ふじわらのよしのぶ)の息子である孝道(たかみち)の声色も、あの男の仕業なのだろう。
いったい何者なのか・・・
正体はわからぬが、その腕は一流だ。
自分ごときでは敵わぬ・・・・・・とは断言したくない。が、あえて挑むなら、苦戦するだろう。
そんなことを考えていた時実の腕を、ぐいと掴む者がいる。
それはあまりに力強く、痛みすら覚える。
「何をするか。」
「退避。」
「あ?」
「ここはなんだか危ない気がする。」
そう言って、時実の手を引いて歩き出したのは、九条敦正(くじょうあつただ)である。
顔を上げると、敦正の背中が見える。その背には、黒い獣につけられた浅からぬ爪痕がある。
衣が裂け、血が滲んでいる。いまだその血が乾かぬところを見ても、軽症ではない。
時実が引っ張られて行き着いたのは、塗籠の前である。
そこには陰陽師の春苑安成(はるぞのやすなり)と頭中将 御名方惟頼(みなかたこれより)。そして藤原義信がいた。
皆一様に、階の男と靖明の成り行きに目を奪われている。
「おい、離せ。」
時実はきりきりと痛む腕を見ながら言った。
聞こえているのかいないのか、敦正は腕を掴んで離さない。
「敦正。いつまで俺の手を掴んでいるつもりだ。」
「え?あ・・・すまぬ。」
時実の腕を掴んでいたことをいまさらのように気づいた敦正が、ぱっと、その手を離した。
「お前は力が強すぎる・・・」
腕をさすりながら、時実が敦正を睨む。
「・・・すまぬ。」
いつものことと慣れているのか、逆に照れたようにはにかんだ。
「褒めてないのだがな。」
「そうなのか?」
時実は小さく嘆息すると、敦正の背を見ながら言った。
「それより、お前のその傷は本当に大丈夫なのか?」
「・・・あ、これ?うむ。大丈夫だ。」
にっこりと笑う。
嘘だ。
嘘でないのなら、鈍感にもほどがある。
だが、おそらくは・・・心配させぬようにそう言っているだけだろうが。
まぁ、そういう男だ。この敦正という男は。
「それにしても・・・あれは何者なのだろうな。」
自分の傷よりも、謎の男の方が気になるらしい。
それはここにいるもの皆、同様であった。
「さて・・・」
「陰陽法師というやつなのかな。」
陰陽師とは、そもそも官人としての身分を持っている者、あるいは持っていた者を指す。
そうではない陰陽の術を使う者は、法師陰陽師や陰陽法師などと呼ばれていた。
つまり、朝廷非公認の民間陰陽師である。
「さてな・・・」
時実は、ゆっくりと義信の方へと歩き寄った。
「義信様。ご無事で。」
「あ・・・?・・・あぁ・・・」
「お怪我はございませんか。」
「・・・・・・ない。」
「それはようございました。」
「そんなことより、時実よ。」
「はい。」
「そなたはあの男を知っているのか。」
義信は、鋭い視線で階の男を見据えている。
そのはずである。先ほどあの男が、自ら告白したのだ。
義信の娘を死に至らしめ、息子の孝道を病にし、義信の命を狙うものであると。
そして言ったのだ。
頼まれたからやったまで。ただ、それだけのこと・・・と。
「わたしには、面識はございません。」
「安倍靖明は・・・知っているようだな。」
確かに、そんな口ぶりであった。
「わたしには解りかねます。」
いったいあの男は何者なのか。
「問い質さねばならぬ・・・」
その低い声色に、義信の念が込められていた。重く、沈みこむような思念。
「義信様。どうか今は冷静に・・・」
「冷静だ。いつになく冷静だ。」
違う、その冷静さは・・・
「時実!来るぞ!」
敦正の声に、時実は振り向く。
黒い獣がこちらへ向かって、駆けてくる。
時実は咄嗟に義信をかばうようにして前に出た。
さらにそれを守るように敦正が立ちはだかる。
時実は、ちらりと靖明の方を窺った。その靖明と目が合う。一瞬、ふわりと笑ったような気がした。
あの緊迫感のない、いつものゆるい笑みだ。
靖明は懐から、なにやら細長いものを取り出す。
それは青々とした葉で、細く白い紙で束ねられている。
これを、床を滑らせるようにして敦正の足元へ放った。
靖明は何かを言っていたようだが、時実には聞こえなかった。
だが、敦正の足元に放られた青い葉が、その瞬間に人の形を取り、腰に帯びた刀を抜いたのだった。
そこへ間髪入れず、黒い獣が突っ込んできた。
現れた男の外見は、身なりの整った若い公達のようであり、黒い獣相手ならば、吹き飛ばされて床に無残にも打ち据えられる。
そこにいた誰もがそう思った。
だが、そうはならない。
黒い獣の体当たりを凌いでいる。どうみても優男であり、背後に立つ敦正と比べると一目瞭然のやわな体つきである。
にもかかわらず、黒い獣の体当たりを凌いだ。
そこいらの貧弱な公達とは別物である。
あれは、靖明の式神なのだろう。ならば人ではないのだから、頷けるというものである。
「何処の御仁か知りませぬが、この九条敦正、加勢いたします!」
敦正が、太刀を構えると斬り込んだ。
すかさず、黒い獣は二人から距離を取る。
「何処の御仁もなにも・・・人ですらないだろう。それくらい気づけ・・・」
そんな時実の呟きなど、聞こえるはずもなく。
敦正はその体躯に似合わぬ機敏な動きで太刀を振るう。
あちらでは靖明と階の男との方術合戦。こちらでは敦正と靖明の式神による黒い獣との剣撃戦。正確に言うなら、剣と爪牙ではあるが。
これらに挟まれる形となり、義信と時実は身動きが取れない。
そこに、弱々しげな声が聞こえてきた。
「と・・・時実様ぁ・・・」
視線をやると、這い寄って来るのは、春苑安成である。
「これは・・・もう・・・我々の出る幕など・・・ありませんよぉ・・・」
お前と同じ括りにするな。
と言いたかったが、声に出すのはやめた。
靖明に加勢しようにも、下手に手を出せば、逆に足手纏いになる。
敦正の援護なら出来そうだが、義信に何かあったときに、咄嗟の反応に遅れを取ることも考えうる。
今は、義信の傍に誰かがついているべきだ。
安成は役に立たない。
頭中将 御名方惟頼は・・・先程からただ静かに、義信の背後に立っているが、何かを為そうとする気配はない。
それどころか、倒れるのではないかと思わせるほどに顔色が悪い。
つまり、惟頼も役に立たない。
これだから貴族というやつは・・・
この状況では静観するしかないのだ。目を配りながら、静観するしかない。
敦正は、少しばかり後ろめたいような気がしていた。
こんな時に、なんというか不謹慎かとも思うのだが・・・
そう、なんというか・・・楽しかった。
太刀を存分に振るうことが出来る相手。
共に戦う男もまた達人のごとき腕前。
いやいや。楽しいというか・・・抑制することのない・・・開放感とでも言おうか。
敦正は決して、戦うのが好きなそういう男ではない。逆に嫌いなほうである。
出来れば、楽や舞をしてのほほんと日々を生きていけたらこの上ない。
争いも、痛いのも、血を見るのも好きではない。
彼にとっての太刀は、武としての太刀であると同時に舞いとしての太刀でもあった。
こんなことで太刀を振るうのは不本意ではある。
不本意であるのに、心地良い。
自分は、今、剣舞の最中なのではないかと思えるほどだ。
・・・いやいや・・・いかん。
何を考えている。
これは優雅な舞などではないのだ。命のかかった戦いなのだ。
それが証拠に・・・
ぐはぁぁっ!
黒い獣に蹴り飛ばされた・・・ごろごろと転がり、壁に背を打ちつける。
びりりとした痛みが全身に広がる。
「くぅ・・・」
わずかでも油断をするとこの様だ。
先に食らった傷が、開いた。
もともと閉じてもいなかったが、悪化させるには十分だ。
傷がじくりじくりと心の音にあわせてその存在を訴えかけてくる。
しかしこの訴えは無視しなければならない。
まずは黒い獣を何とかしなければ。
怪我の治療も、休憩も、その後だ。
にしても、黒い獣め。
御名方惟頼に足を一本斬られて失ったと言うのに・・・凶暴性は一向に衰えない。
あの俊敏さを何とかしなければ。
もう一本足を取れれば・・・
うむ。よし。
敦正は背の痛みを追いやって立ち上がると、黒い獣に向かっていった。
見れば、公達が襲い掛かる黒い獣の前足を払い、斬りつけたところだった。
しかし、黒い獣もその強靭な歯で刀をがしりと受ける。
ならば今しかない。
敦正は叫んだ。
「跳べ!」
公達はちらりとこちらを見たような気がする。
だがそれだけだ。
それだけでよかった。
すぐさま察した公達は、軽やかに真上へと跳んだ。
黒い獣は、公達を見上げるように顔を上げ、これを叩き落そうと前足を上げた。
地に着いている二本の後ろ足。
これをめがけて、敦正の太刀が払われる。
「でぇぇぇぇい!」
黒い獣が敦正に気付くのが、わずかに遅れた。
目の前の公達にばかり目がいっていた。
今まさに、その公達を自慢の爪で切り裂いてやろうと手を出したところだった。
だから、もう一人の体格のよい男のことをすっかり失念していたのだ。
体格のよさから目立ちそうなものだが、それ以上に敦正の動きが俊敏だった。
地を這うように近づく男。
足元を通り過ぎていく太刀の軌跡。
黒い獣の視界が、ぐらりと揺れた。
立っていられない。
いや、立つべき足がない。
2本とも斬り払われたのだ。
そのまま、黒い獣は床に腹を打ち付けた。
どぅぅぅんん・・・
黒い獣は噛んでいた刀を吐き出すようにして放した。
自由になるのは残った一本の前足と、頭だけである。
そして、その唯一の前足も、公達の刀で串刺しにされ、床に縫い付けられた。
ぐぅおおおおおおお!
「首を刎ねよ!」
敦正の耳に、時実の声が聞こえた。
確認をするように、敦正は時実を見る。
「首を刎ねよ。」
「うむ。」
敦正は、口から泡を吐き出しながら唸る黒い獣の首筋に据えるようにして床に太刀の切っ先を置く。
「刎ねよ。」
時実の言葉を契機に、敦正は一気に太刀を振り上げた。
ざくり
黒い獣の首が、体から離れる。
血は、さほど出ていない。血ではない何か黒いどろりとしたものがどくどくとこぼれている。
もしかしたら、それが獣の血なのかもしれない。だとしたら、ひどい出血と言える。
刎ねられた首は、床にごろりと転がった。
だが、つかの間。
黒い獣の首は、まるで生きて駆けるように、飛んだのだ。
ぐわりと口を開け、一直線に向かった先は・・・
安倍靖明の元。
いやそうではない。
その靖明の目の前を通り過ぎると、主であるはずの階の男の肩口に、噛み付いたのだ。
「な・・・なんだ。何が起こったのだ。」
「・・・呪詛返しだ。」
「へ?」
振り向くと、時実がいる。
「呪詛返し?」
「呪詛が成就せず、その呪いは呪ったものへと返ったのだ。」
「・・・ふむ・・・そうなのか・・・」
階の男の体がふらつき、脱力するようにしてその場に崩れ落ちるのが見える。
「さぁ、そこから離れろ。」
「あ?」
「その獣だよ。そこから離れていろ。」
床には、無残にもばらばらになった黒い獣の成れの果てがある。
「お、おう。」
言われるままに、敦正は退がる。
公達姿の靖明の式神も、同じように退いた。
そして黒い獣、だったものは、ぐずぐずとその形状を崩し始める。
辺りに腐臭が漂った。
「うぅ。これは酷いな。」
敦正は、袖で鼻を押さえた。
「あ、それよりも。靖明様は・・・」
安倍靖明と階の男へと視線をやる。
「・・・大丈夫だろう。事は片付いた。・・・残るのは後始末だけだ・・・」
「そうか・・・」
敦正は、ほっとした。
見回すと、大納言の屋敷は、酷い有様だった。
ここに来た時は、なんとすばらしい屋敷だと感心したのだが、それが・・・もう、酷い有様なのだ。
南庭に面した側はほぼ半壊である。
部屋の中も野分が吹き荒れたような散乱振り。
だが、命があっただけ好しとするべきだろう。
長い夜だった。
このまま家に帰っても、あるいは興奮が冷めずに寝付けないかもしれない。
あぁ、それよりも。
突如現れた御仁のお名前を聞いておかなくては。
あの見事な太刀筋。
またいつかお手合わせを願いたいものだ。
いったい何処の御仁であろうか。
敦正は、そんなことを考えていた。
そしてまだ、誰も気付いていなかった。
その異変に。
「な、なにをするか!やめよっ!」
慄く男の声が響き渡る。
誰もが反射的に、振り返った。