平安魍魎絵巻 異界文書

第四章 第壱拾九話

『開放』

  

(左京 藤原義信邸 晦日月 丑の刻)

ここ数日、ひどく体調が優れない。

いや、数日ではない。

もう、どれくらいだろう。

眠っても、眠った気がせず・・・

食欲も失せ・・・

時折、頭痛と眩暈が襲ってくる。

いったいどうしてしまったのか。

自分でも解らない。

それでも何とか今までやってこられたのは、職務に没頭することで、気を張っていられたからだ。

屋敷に帰り、辺りに人がいないことがわかった途端に、その張っていた気が緩むと、一気に頭痛と眩暈が押し寄せてくる。

夢見が悪いことも、一因であろうか。

嫌な夢だ。とても、嫌な夢だという気がする。

寝覚めの悪い夢。

だが、どんな内容の夢だったのか、まったく覚えていない。

違う、そうじゃない。

最近は、その夢の内容をわずかだが覚えていることもある。

断片的に。

 

少年がいる。

あれは・・・

昔の夢。

子供の夢・・・

子供だったころの・・・夢。

そして現実。

あぁ。

どこかへ置き忘れてきたあの頃の現実。

なぜ、置き去ったのか。なぜ、忘れようとしたのか・・・

あれは・・・誰だったのか・・・あれは・・・・・・

・・・・・・誰だ・・・?

 

大納言 藤原義信(ふじわらのよしのぶ)には、幼少の頃より、何かにつけて気にかけ、面倒を見てもらっていた。

物心ついた頃にはすでに傍にいた気がする。

母親に縁があったものと思われる。

身寄りのない母・・・に、いや違ったか。いや、そうだった。

身寄りのない母に、いつも優しくしてくれた。

父親の定かではない自分・・・に、いや違ったか。いやそうだった。

父親の定かではない自分に、いつも優しくしてくれた。

自分に、自分たちに?

誰が?誰に?

記憶に霞がかかる。

仕方ない、昔の話だ。

そして私が都に移り住んでからも、変わらず支援し続けてくれた。

なぜ、どういう経緯で都に移り住んだのだったか・・・

記憶に霞がかかる。

・・・またか?

仕方ない、昔の話だ。

そうずっと、変わらず支援してくれていたのだ。

ただし、表立ってではなく、陰ながら。

当時、私の住まうようになった家の主は、宮仕えをしていたがさほど位が高くなかった。

だが知性と人柄を兼ね備えた主は、義信の父と懇意となり、義信もまた諸事助言を受けるほどであった。

その家には子供がおらず、私は義信の計らいもあり、その家の養子となった。

私がこの歳で、出自不明かつ、家柄も位も良いとはいえない身分で、今の地位にいられるのは、義信の陰からの尽力に他ならない。

誰も知らない、誰も知ることのない、私の後見人。

今の自分があるのは、義信がいたからこそだ。

感謝の念に絶えない。

彼のためならば、何も惜しまない。

すべてをかけて彼のために働く。

いつも、そう思っていた。

自分にとって、彼は・・・

いまだ見たこともない父親の、代わりのようなものだったのかもしれない。

 

「け、獣めっ!」

その声に、はっとして我に返る。

今はいったいどんな状況だ。

私は居眠りでもしていたのか。

そんなはずはない。

記憶が飛んでいる。

・・・そんなはず、あるものか。

私は目を開け、その両足で立っていた。はずなのだ。

そんなことはどうでもいい。

そんなことよりも、

今まさに、開いた目に見えるのは、黒い獣が義信に迫ろうとする光景。

体が動く。迷いはない。

腰の刀に手を添え、獣の前に立ちはだかった。

ヴォォォオオオオオオオオオオオ

獣の爪が、横薙ぎに襲い掛かる。

速い。

だが、捉えられないほどではない。

チッ

刀が、鞘から外れる一瞬の音。

そして閃く。

刀身の軌跡に僅かのぶれもない。

ぎぃいいやぁあああああっ

獣が七転八倒し、床に、獣の前足が落ちた。

その切り口は、一切無駄な凹凸が残されておらず、骨ごと両断されている。

いつもながら、迦楼羅(かるら)の見事な切れ味よ。

途端、下半身から力が抜ける。

たまらず、膝を着いてしまった。

下半身だけではない。全身の力が抜けて、立っていられなくなったのだ。

さらに眩暈。

視界が回る。

義信の声がする。

何かを言っているような気もするが、頭の中で膨張し、ぐわんぐわんと反響して言葉として理解できない。

嘔気。

腹の中には、吐き出すべきものが何も入っていないから、苦々しい水が喉の奥で滲み、ただただ不快なだけだ。

いったいどうしてしまったのだ。

今は、義信を守るべき大切な時だというのに。

しっかりしろ・・・

 

「代われよ・・・」

誰だ・・・

聞き覚えのあるような・・・

何処だ・・・

私はさっきまで、義信の屋敷にいて、義信に迫る黒い獣と対峙していなかったか?

・・・違ったか?・・・いや、そうだった・・・

では、これは・・・

「替われよ・・・」

既視感。

闇の中。

聞こえるのは声だけ。

見えるのはその声の主の薄ぼんやりとした輪郭だけ。

奇妙なのははっきりとしない輪郭の、だが紅い唇が笑んでいることがわかること。

誰?

あれは、誰?

知っているはずだ。

よく見知っているはずだ。

彼は、

そう彼だ。彼女ではない。彼だということを知っている。

なぜ知っている。

彼は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

闇の中で、彼の存在だけが認識できる。

そして彼は、私の目の前で立ち止まった。

彼は口角を上げ、にやりと笑った。

「時が来た。機は満ちた。」

その顔は、その姿は・・・まるで鏡に映した・・・自身の姿。

ただひとつ違っているのは、彼の瞳の色が暗い血のような紅色をしていること。

「・・・あ・・・」

ようやっと漏れ出た自分の声は、掠れて弱々しい。

「換われよ。椎那。」

彼は私の頬にふわりと手を添えた。

「これからは、我が惟頼だ。」

「あ・・・ぁ・・・」

 

「闇。・・・そしてその奥の紅い光。」

「闇?」

いつだったか、安倍靖明の息子である清明(きよあきら)の言葉を思い出す。

「混沌が崩れる・・・一が二。二が一。そして・・・今・・・一が再び二になろうとしている。」

あぁ・・・あぁ・・・そうだった。

そうだったのだ。

清明の言っていたことは、的を得ていた。

一が二。二が一。そして今・・・一が再び二に。

なぜ、そのことを私は忘れていたのだろう。

とても大切なことだったのに。

「・・・貴方は・・・壊れる。」

清明の瞳はひたすらにまっすぐに、私の心の中を見通していた。

私は、壊れる・・・

私という、これまで形成してきたものが壊れる。

清明の口から言葉が零れる。

「シイナ・・・」

清明の口から名が零れる。

「ヒサキ・・・」

その、名を・・・知っている・・・

知っている?

知っているか?

・・・知っている。

椎那・・・

久木・・・

知っている。

紛れもなく、私はそれを知っている。

そうだ。忘れていいはずのものではなかった。

なのに、なぜ今まですっかりと抜け落ちていたのだろう。

私は、知っていたのだ。

それは・・・

我が名。

そして、私と血肉を分けた・・・兄の名・・・双子の兄の、名。

 

私たちは、母の胎内で、ひとつのものだった。

卵子も、子宮も、羊水も、

感覚も、感情も、あらゆるものを共有していた。

もちろん、母の愛も。

生まれ出でて、二となった。

だが、生まれてすぐに、久木は肉体を失った。

ある男に奪われた。死を与えられたのだ。

それでも久木は、肉体を失ってなお、この世に留まった。

彼にはそうしたいという意思があったし、そういう力があった。生まれたばかりにもかかわらず、恐ろしく強大な力を持っていた。

その力を、彼は当然のように復讐のために使った。

もちろん、力の矛先は、彼の肉体を奪ったものに対して向けられた。

容赦なく。残忍なまでに。

彼の肉体を奪ったということは、その先の彼の生きるべき未来を奪ったということ。

彼が、彼として生きるはずだった未来。

恨みに思うのも、解らないわけではない。

解らないわけではないが、彼の復讐は常軌を逸していた。

彼は彼を殺めた男を、数年に渡りじわりじわりと甚振り続けた。

甚振り続けられたその男は、当時の大納言である。

彼こそが、今の大納言 藤原義信の父であり、久木の肉体を屠った張本人であった。

久木は、ある時は彼の娘を病にしてその姿を醜く変貌させ、ある時は彼の妻を惨殺して庭にばらまき、ついには目の前で末の子の命を奪って見せた。

彼の大切なものを、次々に殺していった。

そうしてから、彼自身の心の臓をゆっくりとゆっくりと握りつぶした。

大納言は発狂寸前だっただろう。あるいはもう狂っていたかもしれない。

後悔しただろうか。生まれ出でたばかりのあの赤子を殺してしまったことを。

正しいはずだった。

間違ってなどいるはずがなかった。

忌まわしく、不吉な幼子にあの時手をかけたことは、間違っていない。はずだった。

だがその行為が、これほどまでに呪わしい事態を引き起こしてしまった。

後悔しただろうか。自らの命が握りつぶされていくその時。その瞬間に。

久木は自らの肉体を屠った者を殺しただけでは飽き足らず、彼の息子である当時中将の位にあった義信と、その家族をも狙おうとしていた。

「我はあの血を根絶やしにする。」

久木はそう言った。

私は懇願した。何度も何度も懇願した。

やめて・・・と。

無力な私には・・・為す術がなかった。

 

「あぁ・・・なんということを・・・」

母は言った。

「何も心配することはないのだよ。」

中将が言った。

「いいえ、いいえ。中将様は何もわかってはおられませぬ。このような、このようなことを。」

「憑き物を落とすのだ。何も心配は要らぬ。」

「違います。これは・・・この子は・・・憑き物などではございませぬ。」

読経の声が響く。

「・・・母、さま?」

私は言った。

「椎那。大丈夫だよ。母様をこれからお助けするのだから。さぁ、こちらへ・・・」

中将がその場より私を遠ざけようとするが、私は動かない。

まっすぐに母を見つめる。

母が、苦しんでいる。

「・・・だめ・・・」

「椎那?」

「だめだよ。そんなことしちゃ・・・久木が起きちゃう。」

「・・・ひさき?なんのことを言っているのだ?」

中将は知らない。

何もわかっていない。

「いけないっ。」

駄目なんだ、これでは。こんなことでは。

「ああああああっ!」

母の悲鳴とともに、部屋の中に風が巻き起こる。

「久木!やめてぇっ・・・」

「いあぁぁぁぁぁぁぁぁ 」

風が荒れ狂っていた。そしてその風にまぎれて久木の笑い声が聞こえる。

私たちが生まれたあの日。

久木が死んだあの時。

同じ風が吹き荒れていた。

「なんということだ・・・」

中将の呼び寄せた僧が、読経も忘れて呟く。その額には脂汗が滲んでいる。

「なんということだ・・・・・・これ、は っ 」

僧の首が、刎ねて転がった。

少しずつ、風が落ち着きを取り戻していく。

部屋の中央には母が横たわっている。

そして、母の傍らに立っている私と瓜二つの少年に手を伸ばしている。

「母御。また我を殺すつもりだったのか?」

久木は言った。

「・・・違う・・・」

母は言った。

「でも、あの男を使って僧を連れてこさせたのだろう?調伏するつもりだったのか?

 まぁ、あんなのは我の脅威でもなんでもないけれど。」

「・・・違う・・・」

「我を愛していると言ったのは、嘘か?」

「・・・嘘ではない。お前は私の愛しい子。」

「では・・・なぜあの男を受け入れようとする。あの男を拒まぬ!」

「あの方は・・・」

「好きなのか?愛しているのか?だから、我を捨てるのか?」

「・・・違う・・・」

「何が違うのだ。どれが違うのだ!どこが違うのだ!」

「わたしの・・・愛しい子。」

「母御・・・大好きだよ。だから母御も我を愛しておくれ。我だけを愛しておくれよ。」

「わたしの・・・愛しい子・・・」

母の顔は蒼白だった。今にも絶えてしまいそうなほどに。

中将が叫ぶ。

「姫!」

その声に、弾けるように久木は睨みつけた。と同時に風圧が中将を襲う。

中将はキリキリと宙を舞い、床に叩きつけられた。

「己は黙っておれ。忌まわしい血の者よ。」

「やめて・・・久木・・・中将様に・・・危害を加えてはなりませぬ・・・」

「・・・母御・・・やはりあの男のことが好きなのか!」

「久・・・木・・・」

「許せぬ。許さぬ。」

突如、母が息を詰まらせる。

誰も触れていないのに、母の白い喉が布のように絞られていく。

「くっ・・・ふ・・・」

「母御。愛しているよ。だから、我だけを愛しておくれ。」

「・・・やめろ。」

誰の言葉であったろうか。

「やめろ!」

中将?

「やめろ!」

私か?

あぁ、そうだ。私だ。

私はあらんばかりの声で叫んだのだ。

「やめろぉおおおおおお!」

眩い光が部屋中に溢れる。

こんなのは間違っている。

こんなのは間違っている。

久木が殺されたのも

久木が殺したのも

中将が苦しむのも

母が・・・母が・・・

母が悲しむのも・・・・・・

何もかも間違っている!

頭の奥の奥の奥が、明滅した。

 

久木・・・

「久木・・・」

椎那・・・

「椎那・・・」

私たちは、明るく開けた場所に向かい合って立っていた。

私たちの他には誰もいなかったし、何もない。

「ねぇ、久木。」

「・・・」

「久木、もうやめよう。」

「何をやめるというのだ。」

「・・・だって、母様が悲しんでいるよ。」

「・・・」

「母様が苦しんでいるよ・・・」

「あれはっ!・・・・・・母御が悪い・・・」

「そうかな・・・」

「そうだ!だって、」

「母様は、いつも久木のことを気にかけていたよ。」

「・・・」

「母様は・・・」

「母御は我を殺すつもりだったのだ!」

「違う・・・」

「何が違う!我はいつもいつもいつもいつも!愛して欲しいと願っていたというのに!それなのに!」

「母様は、久木のことを愛していたよ。」

「ならばなぜ、我を殺そうとする!」

「違う・・・母様は・・・」

「黙れ!お前も同じかっ!」

久木の紅い目が爛と光る。

今にも掴みかかろうとする久木を、椎那は抱きしめた。

「な、なにをする!離せっ!」

「・・・離さないよ・・・だって、椎那は久木が好きだもの。」

「・・・なっ・・・・・・」

「唯一無二の半身。血と肉を分けた兄弟。」

「・・・・・・離せ・・・」

「大好きだよ。久木。」

「・・・うるさい・・・馬鹿椎那・・・」

くすくす

「笑うな、馬鹿椎那。」

「母様も、久木のことが大好きだった。久木を守れなかった自分を責めていたんだ・・・」

「守れなかった?・・・それは・・・・・・」

「・・・愛しい我が子を守れなかったと泣いていたのを・・・久木は知らないんだね・・・」

「我の前では・・・」

「久木の前では、勤めて笑顔でいるようにしていたみたいだ。それに・・・久木はすぐにどこかへ飛んで行ってしまうから・・・」

「・・・我にはやるべきことがあった。」

「椎那は久木が大好きだった。母様も椎那をとても愛していた。けれど・・・いつもそれは久木に届かなかった・・・

 久木はいつもいつもいつも、愛して欲しいと願っていたのに・・・受け入れなかったのは、久木だよ・・・」

「・・・我は・・・」

「久木・・・これ以上誰も苦しめてはいけない。悲しませてはいけない。」

「椎那・・・?」

「だから、決めたんだ・・・」

「・・・・・・何を・・・・・・嫌だ・・・嫌だ!やめろ、椎那!」

「・・・もう、決めたんだ・・・                 ごめんね、久木

 

眩い光が部屋中に溢れる。

中将には何も見えなかった。

耳鳴りがする。

どれくらいそれが続いたであろうか。

気付くと、部屋は元の明るさに戻っている。

部屋の中央には、姫の息絶えた姿があった。その死に顔も、美しい。

そして、少年が母の亡骸の傍にたたずんでいた。

中将はかすれる声でその少年の名を呼ぶ。

「・・・椎・・・那?」

ゆるりと振り向いた少年の瞳が、一瞬紅く揺らめいているように見えた。

だがそれを確認する間もなく、少年は崩れ落ちるように気を失った。

「椎那!」

 

すべて思い出した。

私は、私の双子の兄をこの身の内に封じ込めたのだ。

なぜそんなことが出来たのかはわからない。けれど確かに、この身に封じ込めた。

そうするべきだと思ったし、そうしなければならないと思った。それが出来るのは自分だけなのだと。

どうして忘れていたのだろう。

「換われよ。椎那。」

自分と同じ顔。同じ声。

違うのは瞳の色。

「時が来た。機は満ちた。さぁ、椎那・・・その体をよこせ。」

いけない・・・また繰り返すのか?

いけない、繰り返させてはいけない。

でも、もう押さえ込んでおけない。

久木をこの身の内に引き止めていた力が・・・弱まっている・・・

「これからは、我が惟頼だ。」

「あ・・・ぁ・・・駄目だ・・・」

「駄目?何が駄目だ。ふざけたことを言うな。」

「久木・・・君はずっと私の中にて・・・長い間私の中にいて・・・それでもまだ怨みの念を忘れずにいたのだね・・・」

「忘れる?忘れようはずもない。それどころか、お前という存在に縛り付けられながら、我は自由になる日を待ちわびていたのだよ。

 自由になって、大納言の血を引く者を根絶やしにするその日を。」

「・・・そうか・・・」

「ああ、そうだ。そして、その時が来た。

 お前が我を縛り付けていたわけのわからない力が徐々に弱まり始めるのを感じた。

 そして、我は押さえ込まれていた力を、蓄えていた力を開放するその時を見定めていたのだ。

 お前は、もう我を閉じ込めておくことは出来ない。」

「私はあの時・・・誰も悲しませたくないと思った・・・誰も苦しまないで欲しいと思った・・・

 だから、私は・・・久木を・・・呑み込んだ・・・自分の体の中に、取り込むことが出来た。

 どうしてあんなことが出来たのかわからない。でも、強く願ったんだ・・・久木を、助けて、と・・・」

「・・・我を、助ける?」

高らかな笑い声。

「誰が、誰を?お前が、我を?思い上がるなよ、椎那。我は、誰の助けも要らぬ。我は、我の力で全てを手に入れる。」

「・・・・・・全てなど、手に入らない・・・」

「何を言うか。お前は我の力を知っているだろう。」

「知っている。でも、叶わないよ。なぜなら私が、久木を止めるから。」

「くくく。あははははは!我を、お前が止める?無駄だ。そんな力はない。

 数年前に我を閉じ込めることが出来たのは、あれは単なるまぐれだよ。もうあんなことは起こりはしない。

 なぜなら、我が、お前の体を乗っ取るからな。

 今度は、お前が俺の中に閉じ込められる番だ!」

 

「な、なにをするか!やめよっ!」

慄く男の声が響き渡る。

誰もが反射的に、振り返った。

全ての者の目に映ったのは、刀を突きつけられた義信の姿。

そして、その刀を突きつけている惟頼の姿。

「御名方殿!」「御名方様!」「御名方様っ!」

「動くな。誰も動くなよ。わずかでも動けば、この男の命はないと思え。」

御名方惟頼は微笑んでいる。愉悦のこもった笑みだ。

「あぁ、気分がいいな・・・」

「こ・・・惟頼・・・そなた・・・何をしているのかわかっているのか・・・さぁ、その刀を除けるのだ。」

そう言った義信に、惟頼は軽い蔑みの視線を向ける。

「何をしているかだと?もちろん、お前の喉元に刀の切っ先を突きつけているのだ。見て解るようなことをわざわざ問うとは愚か者め。」

「なっ、なんだと!・・・惟頼、いったいどうしたというのだ!」

「五月蝿いな。晴れやかな気分に浸っていると言うのに。あまり急かすなよ、つい手が滑って、今すぐ殺してしまいそうになるではないか。」

「な・・・」

「お前を殺すなど造作もないことだが、あまりに簡単に殺してしまっては興醒めというものだ。そうだろう?

 お前には、大納言の血を引くお前には、そうそう簡単に死んでもらっては困るのだ。

 出来るだけ苦しみ、悶えて貰わねば、気が済まぬ。」

その顔に浮かぶ笑顔。こんな表情を、今まで義信は見たことがなかった。惟頼はこんな笑い方をする男ではなかった。

自分の知る惟頼が、こんな笑い方をしたのを見たことがない。

目の前にいるよく見知っているはずの男が、別人に思えた。

「御名方殿!」

その時、立ち上がり叫ぶ者がいた。安倍靖明である。

「あぁ・・・あぁ・・・安倍靖明よ。お前は聞いていなかったのか?我の言葉を。

 わずかでも動けば、この男の命はないものと思えと・・・そう言ったはずだぞ。」

「しかし・・・お聞きくださいっ 」

惟頼は、すっと刀の切っ先を逸らし、義信の左の肩に何の躊躇もなく射し込んだ。

「ぅあああああああああああ!」

義信の絶叫が響く。

「お待ちください。御名方殿!」

「なぜ待つ必要がある。我には待つ理由がないぞ、安倍靖明。それに、もう待つのは飽いたのだ。」

ぐあああああああああああ

刀は根元近くまで刺さっている。

惟頼は、義信の胸元に足をかけると、蹴り飛ばしながら刀を引き抜いた。

がはぁっ!

流れ出す血を押さえるようにして、義信は床にうずくまる。

だが容赦なく、血は指の隙間から溢れ出る。

「なぁ、義信。あやつ、動けば命はないものと思えと言ったのに動きおったぞ。まったく酷いヤツだ。」

義信には答える余裕はない。ただ、豹変してしまった惟頼を見上げるだけだ。

「あなたは・・・御名方殿では、ありませんね。」

靖明が細い目の奥から、見据えている。

「何を言う。我は御名方惟頼ぞ。」

「いいえ、あなたは違う。」

「・・・・・・何が違うと言うのだ。」

「あなたの纏う気。あなたの放つ気。言葉。所作。なにより、御名方殿の義信様に対する心。

 何もかもが違う。あなたは、御名方殿ではありえない。」

ふっ

「ふははっ くははは なんだそれは。そんなものっ  」

「いいえ、それはとても重要なことですよ。」

「そんなものは何の意味もない。」

「いいえ。それこそが、御名方惟頼と言う人を形作るものです。これまで培ってきたもの。思い。年月。

 だから、誰も成り代わることは出来ない。」

「我は御名方惟頼ぞ。」

「いいえ。あなたは違う。あなたはいったい誰なのです?」

「・・・今までの御名方惟頼?それも我だ・・・これからも・・・我なのだ・・・

 もう誰にも縛られない・・・縛られるものか。縛られてなるものか・・・

 我は御名方惟頼だ!」

 

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