平安魍魎絵巻 異界文書

第四章 第弐拾話

『因縁』

  

(左京 藤原義信邸 晦日月 丑の刻) 

「どうした義信。まったく理解できぬ、という顔をしているなぁ。」

くくく

「すっかり忘れてしまったかよ・・・我とお前の関わりを。

 だが、いちいちお前が我に殺される理由を思い出せるように説明してやる義務は我にはないのだ。

 思い出せずにお前が死んでしまったとしても、それはそれで致し方なかろう・・・

 知らずに死ね。

 ただし大納言の血を引く者はすべからく殺してやる。つまりお前の子らのことだが。今頃もう片はついているかも知れぬなぁ。」

御名方惟頼(みなかたこれより)の言葉に、藤原義信(ふじわらのよしのぶ)は出血の止まらぬ左肩を押さえながら凝視する。

「な・・・何を・・・。」

「皆、方違えをして安全だ。守ってくれる陰陽師もいる・・・我には手出しできぬ・・・とでも?そもそも何処に方違えをしたのだったかなぁ。」

「惟頼の・・・」

「そう、我の屋敷ぞ。とりあえずは鬼やら妖やらを差し向けておいた。」

「そんな・・・・・・」

惟頼と義信が会話をしている間、そこにいる誰もその場を動くことが出来ずにいた。

安倍靖明(あべのやすあきら)が立ち上がったそれだけで、惟頼は容赦なく義信の左肩を刀で貫いて見せたのだ。

惟頼の刀の一振りで、簡単に義信の首が飛ぶ。

安易に動くことは出来ない。

しかし、何もしていなかったわけではない。

ここには3人の陰陽師がいた。

安倍靖明。賀茂時実(かものときざね)。春苑安成(はるぞのやすなり)

見据える先は御名方惟頼。

各々の手は、袖に隠れている。そしてその袖の下で印を組む。

惟頼は気付かなかった。

自らの声にかき消されてもいたし、そもそも彼らの言葉はあまりに小さく静かだったから。

異変に気付いたのは、安成が不自然な動きをしたからだ。

不自然な袖の蠢き。

はっとして、見回した時、呪は明らかに聞こえるように放たれた。

「オン キリキリ」

「オン キリキリ」

ぎしり、と

体が見えない何かで縛られる。

「ふん。我が・・・お前らごときに、縛られると思うな。これしきの呪縛・・・振り払ってくれる。」

九条敦正(くじょうあつただ)と碧穂(へきすい)が同時に動いた。

敦正は義信の元へ。

碧穂は刀を抜いて、惟頼に斬りかかる。

だが、碧穂の刀が惟頼に届く前に、壮絶に弾き飛ばされた。

床をキリキリと転げ、壁に激突する。

「動くなと、言ったはずだ。」

敦正は背後に義信を庇いながら見上げた。

味方ならば、これほど頼もしく思える者はいない。

それが逆の立場になった時の恐ろしさは言うに及ばない。

なぜ。なぜ。なぜなのだ。なぜこんなことになっている?

頭の中で渦巻く疑問が、口をついて出る。

「なぜなのです・・・惟頼様・・・」

「なぜだと?・・・・・・お前には関わりのないことだよ。だから退いていろ。邪魔をするな。」

「いいえ・・・ここにいる時点で、私はもう関わってしまっておりますゆえ。」

「邪魔をするなら、殺すぞ。」

「だとしても、退くことはできませぬ。」

見据える敦正の目には、まっすぐな意思があった。

くぅ・・・

惟頼の表情が、僅かに歪む。

敦正の迷いのない瞳に、気圧されたわけではない。

不快な音。言葉が苛むのだ。

低く静かに、大気を縫って流れる陰陽師たちの呪が聞こえる。

「ええい・・・ええい五月蝿い!その耳障りな言葉を放つのをやめろ!」

俄かに、惟頼の周囲に風が起こる。

そよとした風ではない。

身に着けている衣服が、ばたばたとはためくほどの風である。

敦正はその風を受けながら、必死に耐えていた。

気を抜けば、体が持っていかれそうになる。

背後の義信を守らねばならぬ。だから必死に耐えていた。

義信は身動きは出来なかったものの、敦正の体躯によって暴風に曝されるほどではなかった。

しかし、靖明、時実、安成は違った。

今にも吹き飛ばされそうになる。

安成は呪を唱えるどころか立っていることもままならず、うずくまっている。

時実は印を崩すことはなかったが、その場に膝を突いてしまっていた。

靖明だけが足を踏ん張り、惟頼をじっと見つめている。

「吹き飛んでしまえ 吹き飛んでしまえ 吹き飛んでしまえ!」

堪らず、安成は床を転がった。

時実は這い蹲るしかない。

靖明は傍らの柱に手を着いた。柱がみしりと鳴る。

敦正は、眼を開けていられなかった。義信を庇っているつもりではあったが、功を奏しているようにも思えなかった。

そこにいるだけで精一杯だった。

そして、耳元に声が聞こえる。

「吹き飛べよ。」

くわりと眼を開けると、眼前に惟頼の顔があった。しかし、それを認識した直後に敦正はその体躯を宙に舞わせていた。

景色が回る。

時実の頭上を見事に宙返り、叩きつけられるようにして床に背中から落ちた。

びしりと痛みが走る。

背中に、じわりと生温かい何かが広がるのを感じる。

すぐに起き上がろうとしたが、体が言うことを利かない。

暗い。酷く暗い。

部屋の灯りが悉く消えてしまったのかもしれない。

それでもうっすらとだが、手の届きそうな場所に人影があるのがわかる。

これはおそらく、時実だ。

そう思って手を伸ばしてみたが、届きそうでいて届かない。

実際に手を伸ばせていたかも、定かではない。

時実・・・

口に出して言ったような気はするが、はたしてどうだったろう。

事実そうだったとして、これほどまでに吹きすさぶ風の中では、その声は時実に聞こえなかったかもしれない。

あぁ、歯痒いな・・・

視界がぼやけてくる。

こんなところで寝転がっている場合ではないのに・・・

敦正・・・

あぁ・・・

敦正・・・

この声は・・・

「敦正、俺がわかるか。」

暗くてよく解らない。

だが、この声は時実の声だ。

「敦正。眼を開けろ。」

あれ?俺は目を開けていなかったのか。

・・・そうだったのか。

そうしてようやっと、瞼を上げる。

辺りが暗くてやはりよく見えない。

だが、怖い顔をした時実がこちらを覗き込んでいるのだけは解る。

違うな・・・怖い顔、ではない。

困っている顔、だ。酷く困っている顔だ。

そんな時実など、そうそう見られるものではない。

「お?」

「・・・お、ではないっ。」

「お?」

時実の声が明瞭に聞こえる。ついでに、あれほど吹きすさんでいた風が止んでいるではないか。

「まったく、お前と言うヤツは・・・」

時実がため息をついた。

敦正は、自分が時実に抱えられていることに気付く。

「むむ?なにやら、背中が痛い・・・」

時実が再びため息をつく。

「当然だ。お前の受けた傷は深いぞ。」

「そうだったか・・・」

「そうだ。だから動くな。動けば命の保証はしない。」

「そんな、大げさな・・・というか、怖いな。」

「・・・だまれ。頼むから、俺の言うとおりにしていろ。」

「う・・・わ、わかった・・・わかったから・・・そんなに怖い顔で睨まないでくれ。」

言わなければいいのに、口に出すのが敦正と言う男である。

逆に思い切り、睨まれてしまった。

だが、少しだけ安心する。

いつもの時実だ。

「そ、それにしても・・・いったいどうなったのだ?」

風は止んだ。

あの強風で吹き飛んでしまって、灯りはない。

それでも、眼が暗闇に慣れ始め薄ぼんやりとだが、辺りを視認できるようになってきた。

「靖明様が、止めた。」

眼を凝らせば、誰ぞ立っているのが見える。すらりとした姿態は惟頼のものだろう。

その足元には義信らしき影がうずくまっている。この影を懸命に引きずり、惟頼から離れさせようとしているのは安成か?

惟頼に相対するように、立っているのは靖明だろう。手には印を結んでいるようだ。

彼の足元には、黒い獣を使役していた男が座しており、同じく印を結んでいるらしい。

二人の呪を唱える声が、高くなり低くなり、響いている。

「それと、あの男が止めた。」

「どういうことだ?」

「どう、とは?」

「あの男は、義信様を呪詛した男だろう。それが・・・今度は・・・義信様を、助けたというのか?」

「・・・そのようだな。」

「何が、どうなっているんだ。それに・・・あの豹変振り・・・惟頼様は・・・どうなされたのだ・・・?」

「・・・わからぬ・・・」

「・・・時実でも解らぬことがあるのか?」

「・・・・・・俺が何でも知っていると思ったら、それは間違いだ。」

「そうなのか・・・」

「まぁ、わかっているのは・・・あれは紛れもなく惟頼様のお体ではある、と言うことだよ。」

「だがしかし・・・」

「だがしかし・・・確実に別人でもある、と言うことだ。」

「ううむ・・・」

「なんにしても、このままあの御方の体を縛してしまわねばならぬ。」

その時だった。

異変に気付いたのは、時実。安成。靖明。そして黒い獣を使役していた男、秦茂春(はたのしげはる)

強い妖気の塊が、恐ろしい速度で屋敷に突入してきた。

時実も安成も何の反応も出来なかった。

靖明は咄嗟に避けた。

自分では何を避けようとしたのかすら解らない。ただ避けなければならぬと直感した。

印を組むのを放棄するしかない。

禍々しいものが胸元を掠めていく。

身に着けていた袍が横一線に切れる。

じくりと、腹に痛みが走った。

そして

茂春は凝視した。

妖気の塊の正体を。

童?

その童が突入してきた勢いそのままに床を蹴ると、靖明に襲い掛かった。

童が左手を振るうと、靖明の衣が翻る。

斬られた。

そう思ったのもつかの間、童はすでに自らの足元にいる。

速い。

何をする余裕もなかった。

次の瞬間、茂春は童に腹を蹴られていた。

童のものとは思えないほどの重くて鋭い蹴りに、茂春の体は容易く飛び、意識すらも飛びかけた。

「くっ・・・」「ううぅ・・・」

呪が、消えた。

そして火が灯った。

徐々に辺りの様子が明らかになる。

安倍靖明は、左の脇腹を手で押さえ片膝を着いている。単にはうっすらと血が滲んでいるように見える。

秦茂春は、視線だけは童へ向けていたが、動けずにその場に蹲っている。

賀茂時実は、背中から血を流して横たわる九条敦正を抱えながら、窺っている。

九条敦正は、もう何が起こっているのか理解しかねていた。

春苑安成は、藤原義信を脇に抱えていたが、突如起こった事態に呆気に取られている。

藤原義信は、目を見開きただ一点、童だけを見つめていた。

煌煌と炎の立ち上る音が聞こえる。

部屋の四隅に置かれた高灯台が、火を灯している。

いや、灯すなどと言う表現では生ぬるい。

火を、発しているのだ。

赤々とした火を、天井に届くほどに立ち上らせている。

「文殊!遅くなってごめんねっ。」

突如現れ、靖明に斬りかかり、茂春を蹴り飛ばした妖気の塊の正体は束髪水干姿の童であった。

そうして何事もなかったかのように天真爛漫な笑顔で振り返ると惟頼に向かって話しかける。

童として違和感があるとすれば、手があるべきところに刀が埋まっており、瞳の色が紫苑色であると言うことだけだ。

「いや。よく駆けつけた。お前は良い子だ、普賢。」

童は惟頼を文殊(もんじゅ)と呼び、惟頼は童を普賢(ふげん)と呼んだ。

「うん。僕は文殊のためならなんでもするよ。」

普賢はうれしそうに笑う。

呪より開放された惟頼は、体の動きを試すように手や頭を何度も曲げたり傾げたりしている。

「にしても普賢・・・なんだそのなりは。」

「え?」

普賢の纏う水干は、ところどころ焦げている。

「ええと・・・その・・・これは・・・」

「まぁいい・・・そんなことより。我はすでに御名方惟頼となった。その文殊の名は捨てる。というより、名乗る必要がなくなった。」

「わかったよ。じゃぁ、今から惟頼ね。」

惟頼が視線を転じる。

その先には一人の女が佇んでいる。

たおやかに流れる見事な紅色の長い髪。紅の虹彩。薔薇の花弁のような唇。

緋袴に朽葉の衣。そして真っ赤な単。

「紅孔雀。」

「あぁ。」

「その陰陽師どもを縛っておけ。」

「はいよ。」

紅孔雀(べにくじゃく)は、楚々として靖明に近づく。

そしてほんのりと笑みをたたえながら靖明の襟元を掴むと、まるで重さなど感じていないかのように引き上げ立たせ、背中を柱に打ち付けた。

「うぅっ!」

「おや痛かったかい?悪いねぇ。」

ふつりと自らの紅色の長い髪を一本抜くと、悪びれる様子もなく靖明の手を後ろに回し、柱に巻きつけるようにして縛った。

不思議なことに、細く儚く見えるその髪は太く硬い縄よりも頑強である。

「あぁ、腹が切れているよ。痛そうだねぇ。・・・にしても、普賢のあの一太刀を良くかわしたものだ。さすが、安倍靖明だねぇ。」

紅孔雀は靖明の傷口をまさぐると、爪を立てた。靖明のこめかみに厭な汗が浮かぶ。

「く・・・ぅあ・・・」

靖明の歪む表情を眺めながら、紅孔雀は指先にこびりついた肉片と血を、ぺろりと舐めた。

「紅孔雀!もう、遊んでないで早くこっちも縛っちゃってよ。」

見れば普賢が、蹲る茂春の背を踏みつけている。

「遊んでいるわけじゃぁないよ。ただちょっとね・・・」

「ちょっと?」

「かの安倍靖明を縛り上げるなんて、そうそう出来ることじゃないからさ。堪能しているんだよ。」

「・・・遊んでるんじゃないか・・・」

紅孔雀が肩をすくめる。

その時。

だすん!

床を壮絶に踏みつける音が響いた。

その場にいる全ての者の視線は、その音を作り出した者、惟頼に向けられる。

惟頼の口元は仄かに笑んでいた。

だが、眼は微塵も笑っていなかった。

恐ろしく冷ややかで、その瞳の色は血色に近い。

見間違いではない。赤々と燃える燭の炎が映ったからでもない。瞳の色は、禍々しく紅い。

「疾くやれ。」

ぞくりとした。

紅孔雀も、普賢でさえも。

だから普賢はその足に力を込めた。

ごきり

不吉な音がした。

同時に、茂春の叫号が発せられる。

「があああああぁぁぁ!!」

茂春の肩の関節はいとも容易く外れた。

「これで印は結べないよね?ついでに縛る必要もなくなったよ。」

同意、いや、許可を求める問い。

まるで、尾を後ろ足に挟んで縋って来る子犬。

「まぁ、いいだろう。」

それを知った上で、喉を撫でるのが文殊。もとい、惟頼である。

「さて・・・邪魔な陰陽師どもも、これで少しはおとなしくなる、か。」

惟頼の視線は、ゆっくりと義信へと向けられた。

「そろそろ始末をつけようではないか。なぁ、義信よ。」

義信は、惟頼に刺し貫かれた左肩を右手で押さえている。

顔からは血色が失せている。

そして、ほつりほつりと呟いている。

「そんな・・・まさか・・・・・・ありえない・・・」

義信の視線は、近づく惟頼を意に介すことなく普賢に釘付けになっている。

「あぁ、そうか。お前は普賢を見るのは初めてか?」

にやりと笑った。

「・・・死んだはずだ・・・確かに・・・」

「死んだはずだ。確かにな。」

「あれは・・・」

「あれは。」

「あれは・・・」

「あれは、我がお前の父の前で殺して見せた、お前の弟。・・・だとしたら?」

惟頼は、義信にだけ聞こえる声で、耳元に囁いた。

義信は目を見開いた。

そうだ。あれは、我が弟。

17年も前に、亡くなった弟。

あの日父と共に無残にも殺された・・・

その弟が・・・あの当時のままの姿で、そこにいる。

「どういうことだ・・・いったい・・・何をしたのだ!」

義信は惟頼に掴みかかるが、容易く足蹴にされる。

「なになに?どうしたの?」

普賢が跳ねるようにして二人の傍にやってくる。

「なんでもないさ。うわ言だろう。」

「・・・うわ言でなどあるものかっ。その子はっ・・・」

「黙れ、大納言。」

惟頼は、再び刀を義信の左肩に突き刺した。

「ぐあああああ!!」

まるで義信を床に縫い付ける、いや、射留めるかのように。

「そんなことより、普賢。向こうは万事滞りなく済ませてきたのであろうな。」

「え・・・あ・・・えと・・・その・・・」

歯切れが悪い。

「どうなのだ、普賢。」

「それが・・・」

酷く冷たい目で、惟頼は普賢を見下ろした。

ごくり。

喉がひりつく感じ。

堪らず嚥下する。

普賢はとても恐ろしかった。

こんな文殊を見たことがなかったから。

違う、今はもう惟頼だ。

そうじゃない、それは今はどうでもいいことだ。

どうでもよくはないのか?

まて、何を混乱してる。

でも・・・

そんな目で、自分を見るなんて・・・

いつも・・・いつもいつもいつも・・・自分だけには優しかったのに・・・

そんな目で自分を見るなんて・・・

・・・怖い・・・

「それが・・・瀏彌(りゅうび)のヤツに・・・邪魔されて・・・

 あいつ・・・あいつあいつ!陰陽師に寝返ったんだ!だからっ・・・」

「つまり・・・?」

「つ・・・つまりつまり・・・僕は・・・でも僕は一生懸命やったんだ!でも・・・つまり・・・つまり・・・」

惟頼は無表情に首を傾げる。

「しくじった、と・・・いうのではあるまいな?・・・ふん、それでそのなりか・・・」

はっ

普賢は息を呑んだ。

惟頼の言葉には蔑みが含まれている。

どこかで挽回しなくてはならない。自分は役に立つのだと証明しなくてはならない。

「ち、違うんだ!違うんだ・・・違うんだ!だからね、ええとね・・・」

自分の存在意義を、証明しなくてはならない。

「・・・全員を・・・屠ることはできなかった・・・高子は仕留め損ねたんだ・・・でも、でもでも!ええとっ

 孝道はもう息をしていなかったし・・・ついでにその男の妻のなんとかって女も殺してきたんだよ。」

これを聞いていた義信は、放心したように呟く。

「そんな・・・そんな・・・・・・まさか・・・・・・」

じわりと、目に涙が溢れる。

いったいなぜこんなことになっているのだ・・・

そんな義信の心中などお構いなしに、普賢は続ける。

「そうだっ・・・それからね、そいつの息子を二人、捕まえてきたんだよ!」

拳をぎゅっと握った。そうしていないと、普賢は震えが止まりそうもなかった。

「ちょっと待っててね。すぐ、すぐにここに引きずり出すからっ。」

普賢の紫苑色の瞳が揺れる。彼の背後に、ヴゥーンという音と共に黒穴が生じた。

握りこぶし程度だったそれが一気に膨れ上がり普賢の身の丈を越す。

穴の中には闇がある。闇の奥には、何かが蠢いている。

その穴に、普賢は上半身を突っ込んだ。

穴から出て見えるのは彼の下半身だけである。

足をばたばたとさせたり、びんと伸ばしたり。そして踏ん張ったかと思うと、上半身を起こしざま、ぬらりと何かを引きずり出した。

ずるり・・・

穴の中から現れたのは、普賢と同じほどの大きさの塊。

丸められた布。そこに老爺が蓄えるような白い髭を束ねたものがくっついている。

この白い束を、普賢はぐいと掴んで持ち上げた。

すると少年の顔が現れる。

白い髭と思われたものは、その少年の髪であった。

少年の目はうっすらと開いている。だが、焦点が合っていない。口もわずかに開いていて、微かだが呼吸はしているようだから、生きてはいる。

「ええと・・・これが・・・なんだったかな・・・」

「常盤丸。」

後ろのほうで紅孔雀が代わりに少年の名を言った。

「うんそうそう。ときわまるね。それで・・・こっちが・・・っと・・・」

常盤丸(ときわまる)の腕の中に埋もれるようにあったのは、常盤丸よりも小さな体。

大事に、大事にまるで宝物のように自らの腕に抱いて守っていた弟の体。

目を瞑ってはいるが、正常な呼吸を繰り返す者。

「小竹丸。」

またも紅孔雀の声。

「そう、ささまる君。」

普賢の脇で、黒穴が小さくなって消えた。

「この二人を生け捕りにしてきたんだ!」

褒めて、褒めて、褒めて!

本当は、あの穴の中に放った時点で生きてはいまいと思ったけれど、幸いなことにまだ息はある。

生け捕りにしてきたんだ。

そうだ、僕は文殊のために、大納言の男の子を2人、生け捕りにしてきたんだ。

だから、褒めて!

常盤丸を掲げるようにして持ち上げる。

力なくだらりと落ちる常盤丸の腕。小竹丸(ささまる)の体は常盤丸の腕からずり落ちて、床に横たわった。

「生け捕りだと?」

真っ白な髪。虚ろな目。

生気は感じられないが、死んでもいない。

生け捕りと、言えなくもない。

「それは生きているといえるのか?それ以前に、我は皆殺しにしろと命じたはずだが?」

笑顔だった普賢の頬が引き攣れる。

「でも、文殊!・・・あ、・・・惟頼・・・」

「黙れ。」

普賢はその一言でしゅんとしてしまう。

「は・・・ぁ・・・はぁ・・・ぁぁ・・・きわ・・・まる・・・さ・・・まる・・・・・・」

途切れ途切れの声。

「と、きわ!・・・・・・小竹・・・・・・あぁ・・・なんという・・・んという・・・ことか・・・」

起き上がることも出来ず、ただ右の手を、手を子供たちへと懸命に伸ばす義信の声。

「頼む・・・・・・子等は・・・助け・・・て・・・・・・助けて・・・」

これを聞いて、惟頼は笑った。

くくく

くくく・・・くははっ

「なんと言った!子は助けてくれと?あははっ・・・これは・・・これは異なことを!」

あはは、あは・・・あははは!

ひぃっ!ひははは!はははははっ

床を手で叩き、腹を抱えて笑い出した惟頼に、普賢でさえも紅孔雀でさえも驚いた。

こんな姿は見たこともなかったから。

「なにが・・・なにが・・・・・・可笑しいというのだ・・・」

義信の声には怒りがこもっていた。

「可笑しいだろう。可笑しいに決まっているではないかっ!」

「・・・な・・・」

「なぜならっ!なぜならなぜなら!!お前の父はっ!我が母の前で、生まれたばかりの赤子を!我を殺したのだからな!」

「・・・・・・」

「ほうら、可笑しいだろう?そんなヤツの血を引くお前がっ!お前がっ!我が子を助けてくれ?どの口でそんなことを?」

途端に、義信の中で全てのことに合点がいった。

「・・・・・・あぁ・・・そんな・・・そんなことが・・・いやそうか・・・あの時の赤子・・・あの時の・・・あぁ、そうだった・・・」

「あ〜やっと思い出したか、馬鹿な男め。愚かな血を引く、馬鹿な男め。

 そんな愚かな血はこの我が根絶やしにしてくれる!」

義信は、ほろほろと涙を流した。

「そうか・・・惟頼と・・・椎名と共に生まれ落ちた・・・あの時の赤子・・・わが父がその命を奪った赤子・・・」

惟頼は冷ややかな目で義信を見下ろした。

「お前の父は、理不尽に命を奪った。だから、我も理不尽に奪おう。恨むなら、お前の父を恨め。愚かな血のものよ。」

惟頼は、義信の肩に突き刺していた刀を引き抜いた。

「ぅぐぐ・・・」

そしてゆっくりと普賢のもとへ、普賢の掲げる白髪の常盤丸のもとへと歩み寄る。

「我の母は・・・子を産み落とした直後のまだ自由に動けぬ体で・・・産み落としたばかりの赤子が殺されるのを見た・・・

 それがどういうことか・・・わかるか・・・?・・・わかるまい・・・

 ならば我は、お前の目の前でお前の愛しい子を殺して見せよう・・・」

惟頼は刀を水平に構え、常盤丸の虚ろな目に切っ先を定める。

「やめてくれ・・・お願いだ・・・私の命ならくれてやる・・・だから・・・頼む・・・」

「もちろん、お前の命も後でいただくさ。だが、こちらが先だ。」

言って、壮絶にほほ笑む。

刀の柄に力を籠めようとしたその時。

「・・・お待ちください、惟頼様。」

目を細め、睨むようにして声の主を見る。

「そんなことをしてはなりませぬ。」

「・・・だまれ、安倍靖明。お前の言葉など効かぬ。」

靖明は手を後ろ手に縛られながらも、腹に傷を負っていながらも、常のように笑いながら言葉を放つ。

「黙るのはそちらです。偽者殿。」

「・・・・・・なんだと?」

「わたしは、惟頼様と話をしているのです。偽者殿とではありません。」

「我を・・・偽者と・・・呼ぶか。」

「そうでしょう。その体も、その名も。偽者殿のものではありませんから。」

「気にくわぬ陰陽師め・・・お前から先に片づけてやろうか。」

指名するように刀の切っ先を靖明に向ける。

「惟頼様がそんなことをなさるはずがない。さぁ、目を覚ましなさい。その体も、その名も、貴方だけのものなのです。貴方が放棄してはいけない。」

「黙れ陰陽師。」

「貴方がこれまで培ってきたものを放棄してはいけない。貴方が守ってきたものは何か、貴方が守りたいものは何か。今一度・・・っ!!」

靖明の言葉が途切れた。

「くうぅ・・・」

傍らに佇む紅い美姫の細い指が、腹の傷をなぞる。血が、衣を濡らす。温かいようでもあり、冷たいようでもある。

だがそんなことで、言葉を止めるわけにはいかない。

「惟頼・・・様・・・」

「残念だな。陰陽師。アレの意識は我の奥底で蹲っている。浮上する力など、持っていないさ。」

「・・・ふふ・・・そんなことはありますまい・・・あの御方の強さを・・・知らぬのですかな?」

惟頼は、刀を振り上げた。

その眼は、常盤丸に向いている。

黒々とした若々しい髪が今や老人のように真っ白になってしまったそれを、普賢が目を輝かせて掲げる。

「惟頼様・・・守れるのは貴方だけだ!止められるのは貴方だけなのだ!いつまでそこで傍観しているつもりですか!しっかりしなさい!」

一瞬、惟頼と視線が交叉したような気がした。

そして、刀は振り下ろされる。

斬。

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

ぅ ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああぁっっっ

絶叫が響き渡る。

常盤丸!?

いや、違う。

絶叫を放ち、床を転げまわっているのは、普賢である。

常盤丸は、ぐったりとして横たわっている。

彼の白い髪には、鷲掴む普賢の手が付いたままである。

つまり、切り落とされた普賢の手首より先が、である。

惟頼が斬ったのは、常盤丸ではなく、普賢の腕。

そこにいる全ての者がそれを認識するのに、僅かばかり時間を要した。

「惟頼様・・・」

まず言葉を発したのは靖明だった。

「普賢!」

そして行動を起こしたのは、紅孔雀であった。

普賢のもとへ駆け寄る。

「痛いっ痛いっ痛いっ痛いっ痛いっ痛いっ痛いっ痛いっ!痛いよ、紅孔雀!痛いよっ!」

普賢の顔は涙で崩れている。

斬り落とされてしまった右の手は、肉も骨も見事なまでの切り口である。血は、出ていない。

「斬られた斬られた斬られた斬られた!僕の手!・・・僕の手は!!」

「落ち着きな。普賢。大丈夫だよ。」

紅孔雀は常盤丸の髪に絡まる普賢の手を、攫うようにして持ってくると普賢に見せた。

「ほら。大丈夫だ。すぐにくっつくよ。」

泣きじゃくる普賢の腕を取り、拾ってきた手をくっつける。

傷口と傷口をぴったりと合わせて・・・

しかし

ぼとり・・・

「あ・・・」

くっつくどころか、まるで木の作り物のように床に転がった。

「なんで・・・」

「なんてことだぃ・・・こんな・・・」

紅孔雀はふと見上げる。

そこには惟頼がいる。

「まさか・・・」

踏み出す。

まずい。

普賢を抱えて一気に後方へ飛ぶ。

迷いはなかった。それどころか、迷ってなどいたら危なかった。

普賢もろとも、斬られていただろう。

あれは、文殊ではない。

「惟頼様!」

靖明の呼びかけに、惟頼は微かに笑った。

「惟頼様・・・」

「・・・靖明・・・」

「やればできるじゃぁないですか。」

靖明はにんまりと笑った。

「・・・他人事だと思って・・・簡単に言ってくれるなよ・・・」

「いいえ。貴方ならできると思っていましたよ。」

「あんな・・・叱責を受けて・・・黙っていられなかったので・・・ね・・・」

ふっと笑んだかとおもうと、惟頼はがくりと膝を着いた。

「惟頼様っ。」

「靖明よ・・・アレは・・・我が双子の兄・・・名は久木(ひさき)と言う・・・

 すべては・・・久木と・・・それに纏わる縁によるもの・・・

 私が終わらせるのが・・・筋というものだろう・・・・・・

 だがすまぬ・・・こうして押さえ込んでいるのが精一杯なのだ・・・

 ・・・それも・・・長くは・・・続かぬ・・・

 だから靖明よ・・・頼む・・・お前に・・・・・・頼みたいのだ・・・

         わたしを・・・殺してくれないか・・・」

「・・・惟頼様・・・」

どうっ!

鈍い音と共に、惟頼が床へ突っ伏した。

「惟頼様!」

背後には紅孔雀が立っている。

「殺されては困る。

 ・・・ちょっと・・・ちょいと文殊。いつまでそうしているつもりだい?さっさと起きなよ。」

しかし、惟頼はびくりともしない。

「そんな・・・どうしたっていうんだい?」

紅孔雀が揺さぶってみるが、反応はない。

「紅孔雀ぅ・・・文殊は・・・文殊はどうなったの?」

普賢がぼろぼろと涙を流しながら心配そうに覗き込む。

確かにそこにいる。気配はある。

消えたわけではない。

どうする?いったい、どうしろっていうのさ。

「ええぃ!」

紅孔雀は、指笛を鳴らした。

ぴゅぅーぃ

すると、音もなく黒い影が空から舞い降りてきた。

人ほどもある大きな猫であった。

灰褐色の体に、黒い斑点があり、余計な肉のない引き締まった体。豹と言われる生き物である。

「残念だけれど、主がこの様だ。一旦退かせてもらうよ。」

そう言うと、紅孔雀は左に常盤丸を抱え、右手で普賢の襟首をつかんだ。

豹はその背に惟頼を乗せると、小竹丸を口に咥える。

そしてあっという間にその場から飛び去ってしまった。

「惟頼様っ・・・くっ・・・」

だがそのまま逃がすわけにはいかない。

靖明は小さく式の名を呼ぶ。

「鷹羽(たかのは)。追え。」

庭で何かが羽ばたく音がした。

 

春苑安成が、安倍靖明を縛り付けている紅孔雀の髪を解こうとしていた。

九条敦正は、自分が思っている以上に傷が深かったようで、動けずに横たわっている。

秦茂春は、外れてしまった肩の関節を自ら入れなおして、その肩を擦っていた。

賀茂時実は、典薬寮に走っている。医師の和気匡邦(わけのまさくに)をこの際有無を言わさずに攫ってくるつもりだ。

 

藤原義信は・・・蹲っていた。

嗚咽を漏らしながら・・・

我が子の名を、呼びながら・・・

 

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