礼拝メッセージ




2015年1月18日 礼拝メッセージ

ローマ6章1〜11節『主との絆』

 今月は「主とともに歩む」ことについて聖書から見ています。きょうはローマ6章の前半部分から、主と私たちの関係について学びましょう。
 この箇所はキリスト教の神学において重要で、洗礼の本質的な意味が語られています。洗礼は形式的には滴礼、灌礼、浸礼の3つがありますが、主が定められた礼典の一つとして非常に大切なものです。洗礼の持つ意味は、罪を洗い流して聖くされること、罪に対する死、すなわち罪との関わりが断ち切られたということで「死、滅び、葬り」という語がそのことを表しています。また「生きる、甦る」という語が示すように新しい命に生かされることを表しています。洗礼の意味するところは、罪が洗い流されて聖くされ、新しい永遠のいのちによって主とともに生きる者とされるということです。
 さて、きょうは今年のテーマである「主とともに歩む」ことに注目しましょう。

T 主は出発点からともにあり続けていること
 主が、クリスチャンとして出発点から共にあり続けるとはどういう意味なのでしょうか。
まず、洗礼に表わされている罪に対する死と、新しい命について、4節には「キリストとともに葬られた」、5節には「キリストの復活とも同じようになる」とあり、洗礼を受け新しいいのちが与えられるのは「キリストとともに」であると言われています。私たちは、洗礼を受けてから主とともに歩み始める信仰生活が始まるように感じるかもしれませんが、聖書は私たちが洗礼を受ける時にはすでに主が伴われると語っています。主は、クリスチャンとして誕生するスタートラインに立っているときに、すでにともにおられるお方です。
 次に、主は出発点に立つための道をも備えてくださっているということです。すでに主は実際に私たちの罪を身に背負い死んでくださって、私たちが罪に対して死ぬことを明らかにしてくださったのです。ただ一緒にいてくださるだけでなく、そのための備えをしてくださったお方です。
 さらにそれは愛の犠牲によるものでした。私たちのためにどれだけのことをしてくださったかを考えればそれは明らかです。私たちの罪に対する死は自分の罪に関する象徴的なものですが、主の罪に対する死はご自分の罪ではなく、私たちの罪であり、十字架上で血を流し命を捨てるという現実的なものでした。その愛の犠牲の大きさを、私たちは心に刻んでおかなければなりません。
 主は私たちが意識する以前に、出発点からともにいてくださるお方であることを覚えましょう。

U 主と強く結ばれていること
 主と私たちはどれほど強く結ばれているのでしょうか。5節には「キリストにつぎ合わされて」とあり、接ぎ木に例えられています。これは同じ性質の木になることを意味しています。
 聖書では、主と私たちの関係は最も力強い関係でたとえられています。婚姻関係や親子関係は人間では最も近い関係ですが、神様と私たちは父と子、キリストと私たちは花婿と花嫁、聖霊は傍らにではなく「内に」住むと言われています。ほかにも、教会に関しては頭であるキリストとその体である教会、接ぎ木や木と枝の例えなど、主と私たちの関係は最も近く切り離せない関係だと語っています。
 また、この力強い関係とは愛による関係です。これには双方の思いが必要です。一方的なものであれば愛の関係とは言えません。主を愛するだけではなく、それ以上に主が私たちを愛していてくださるのであり、この愛による結びつき以上に強い関係はありません。なぜなら神の愛にまさるものはないからです。神の愛は何物も引き離すことができないものです。サタンでさえ触れることができません(ローマ8章35節〜)。私たちは主と愛によって結び合わされ、主の愛は私たちに存分に注がれています。主と私たちは出発点からこのような関係にあるのです。

V 私たちは新しい命で主とともに歩んでいること
 私たちは洗礼を受ける出発点からすでに主がともにいてくださいます。ではその後も主とともに歩み続けるためにはどのようにすべきでしょうか。
 第一は、主と同じいのちを持って歩んでいるという自覚を持つことです。同じいのちが与えられている者同士として歩むことができるのです。私たちは主と同じ性質を持つ者、つまり主の愛や聖さを持つ者とされたのです。罪に死んでいた者が主の持っておられる新しいいのち、永遠のいのちを与えられて、主とともに歩むことができるようになったのです。
 第二は、主と同じ思い、同じ性質をもって歩むことです。同じいのちを持っていれば、同じ反応をします。主と同じように愛すべきものを愛すること、主が御父を礼拝されるように私たちも礼拝すること、主が罪を憎まれるならば私たちも罪と関わりを絶った聖い道を歩むことです。
 第三は、主と同じ方向に向かって、ということです。主が導かれるところに喜んで従うことです。それがどこであるかはわかりませんが、主が導いてくださる確信があるなら、進んで行くことができます。
 第四は、主に心を向けて、ということです。ともにいてくださるお方を意識せずに一緒に歩むことはできません。主は私たちに目を向け、愛を注いでくださるお方です。私たちも主に心を向け、主とともに歩むべきではないでしょうか。
こうして私たちは主とともに歩むことができます。一歩一歩着実に主とともに歩み続ける者でありたいと思います。




2015年1月11日 礼拝メッセージ

詩篇25篇『主の小道を歩む』

 『主と歩調を合わせて』という標語で今年の歩みをスタートしました。私たちは一生を通して、この姿勢を全うしたいと思います。きょうは、私たちが歩むべき道について、詩篇25篇のダビデの信仰に学びたいと願っています。

T 主は私たちのために道を備えてくださるお方であること
 私たちが信仰生活を歩もうとする時、主が私たちのために道を備えてくださるということを覚えましょう。主が私たちを導く時には、ただあちらこちらと引っ張り回すのではなく、私たちが歩むべき道を備えてくださいます。これまでの歩みを振り返れば、その時には回り道と思える場合があるかもしれませんが、振り返れば確かに主が備えられた道を真直ぐに歩んできたと頷くことができるのではないでしょうか。その道は何もない道ではなく、すでに恵みが備えられ、導きが備えられていたのです。では主が備える道とはどのような道でしょうか。
 第一は、それは小さな道です。これは、すべての道が小さいというわけではありません。私たちは小道を通らされることがあるということです。敵の前や死の陰の谷を経験したダビデが「小道」と言っているのですが、信仰生活には楽しい時ばかりではなく、険しい道を歩くこともあります。そんな道を歩んでいるのは自分の信仰が弱く足りないからだと思う必要はありません。主が導き、そこにも主がともにいてくださる道を歩んでいることを覚えましょう。
 第二は、それは主が備えられた道です。主が私たちにベストの道を備えていてくださるのです。小道であっても、それは主が私のために備えてくださっている道なのです。
 第三は、それは主が導き、ともにいてくださる道です。小道にも主は私たちとともにいて導いてくださいます。苦しい時、人は去っていくかもしれませんが、主は決して私を見離すことはなく、いつもともにいてくださいます。
 第四は、それは取り組む者によって異なって見える道です。歩む者の信仰の姿勢によって、見え方が変わるのです。普通は「小道」であることばかりが目につきますが、ダビデの目にはそれは「主の小道」であると映っていました。なぜなら、その小道には主の恵みと真実が満ちていることを確信していたからです(10節)。私たちが今年歩む道はどのような道かわかりませんが、主が備えられた道は恵みと真に満ちている道であると確信し、感謝と喜びをもって歩ませていただくことができたら幸いです。

U 主の小道とは何であるか
 主が備えてくださる道はどのような道でしょうか。
 第一は、それは真理の道です(5節)。小道であっても、神様の教え、真理を知らされ続ける道です。狭い道を歩む中で、神様がどのようなお方なのかなど、教えられることはたくさんあります。私たちも主の道を歩みながら、真理をしっかりと捉えさせていただきたいと思います。
 第二は、それは救いの道です。
 第三は、それは神のみ守りの道です。
 第四は、それはいのちの道です。いのちがなければ歩くことができません。主によっていのちを与えられ、主とともに歩むことができる幸いを覚えましょう。主は「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。主の小道は主とともにあゆむ幸いな道です。たとえ小道であっても、それは恵みと真であると告白することができるのです。

V 私たちが主の小道を歩むために
 第一は、スタート地点を明確にすることです。スタートがぼんやりしていて、いつの間にか歩いていたというのではなく、はっきりと決意し、意志をもって歩み始めることがとても大切です。一日の歩みでも、朝まず主の前に座し、みことばを読み、祈って始めることがとても大切です。
 第二は、主を信頼することです。1〜2節にはダビデの信仰が告白されています。主を信頼することなしに、主の道を歩むことはできません。信頼していなければ、小道自体に目が行き、さまざまな困難に妨げられて歩み抜くことができなくなってしまいます。主を信頼するなら、たとえ困難な道でも主を見上げて歩んで行くことができるでしょう。私たちには進んで行く道がわからなくても、主はベストをもって私たちを導いてくださると信じて進むことができます。
 第三は、主の道を求めることです。25篇には「〜してください」という表現が繰り返されていますが、ダビデは主に対して求める姿勢を持ち続けていました。主を求めるということは、まず主に祈ることです。また、証しされる道を歩むこと、つまり主を求めていることがわかる歩みをすることです。口では求めていると言っても、それにふさわしく歩んでいなければ意味がありません。周りの人が確かにそうだと頷くことができる歩みをすることが大切です。
 私たちは、このように歩むことによって主の小道を主と歩調を合わせて歩むことができるのです。そこには恵みと真が満ちており、主が絶えず私たちとともに歩んでくださることを覚え、私たちもその道を歩ませていただきましょう。





2015年1月4日 礼拝メッセージ

ヨシュア1章1〜9節『行く所どこにでも』

 今年は『主と歩調を合わせて』という標語でスタートしました。主がともにおられることは信仰生活で非常に大切なことと言えるでしょう。きょうはヨシュア1章の前半部分から、主とともに歩むことについて、主が私たちとどのように歩もうとしておられるかを学びながら、主に目を留めたいと思います。

T 主の私たちに対する姿勢は決して変わらないこと
 ともに歩むためには主と私たちの思いが一致しなければなりません。聖書を見れば主が私たちとともに歩みたいと願われていることは明白です。そして、私たちと歩調を合わせようとなさる主の姿勢は、変わることがありません。
では永遠に変わらない主の姿勢とは。どのようなことを表しているのでしょうか。4つの点を見ましょう。
 第一は、主は分け隔てをなさらないということです。きょうの箇所を見ると主は「モーセとともにいたように」ヨシュアとともにいることを約束されました。モーセは非常に優れた偉大な信仰者でした。そのような人とはともにおられても自分とはともにいてくださらない・・・と思いがちですが、そうではないのです。神様は分け隔てをなさいません。主はモーセとともにいたようにヨシュアとともにいてくださり、その他の聖書の登場人物とともに歩んでくださいました。それは、私たちにとっても変わらない真理です。主は私とともにいてくださるのです。聖書の中には他にも偉大な信仰の先輩が登場しますが、それらの人たちと同じように、私たちとともにいてくださると、神様は約束してくださっています。だれとでも歩調を合わせて歩んでくださる神様ですから、私たちが自分の歩みは遅いから、などと心配する必要はありません。
 第二は、主は真実であるということです。変わらないとは真実さの表れです。状況の変化で無くなってしまうものではありません。時の経過で消え去ってしまうものでもありません。主の真実さは状況や時間の経過に左右されるようなものではないのです。いつでも主はともにいてくださいます。
 第三は、主は全能の力を持っておられるということです。変えないことは大変な労力を要します。物であれば時が経てば劣化してしまいますが、それを保持するためには労苦や技術が必要です。永遠に変わらないということは、時間の経過や環境の変化にも打ち勝つ全能の力があるということです。
 第四は、主は完全な愛を持っておられるということです。主はすべての人に分

け隔てせず、どんなに遅い歩みであってもともに歩んでくださいますが、それは私たちに一人ひとりに目を留め、私たちを慮り、導き養おうとなさっているのです。永遠に変わることなく私たちに歩調を合わせて進もうとされる主は、私たちに対する愛をお持ちなのです。私たちはこのことをしっかりと心に留めておきましょう。

U 主は歩調を合わせる方法を示されること
 主と歩調を合わせるためにヨシュアに示されたことは、律法を与えて、そこから逸れないように、ということでした。新約に生きる私たちにとっては、それは言うまでもなく神のみことばである聖書に従って歩むことです。私たちが主と歩調を合わせるために、聖書のみことばをしっかりと読むことです。「昼も夜もそれを口ずさむ」ように言われていますが、日々聖書を読む習慣をつけ、みことばに親しみましょう。
ここで特に注目したいことは「口ずさむ」という言葉です。口ずさむためには私たちは自分から言葉を発しなければなりません。これは、ただ頭で理解するだけでなく、神のことばに対して私たちが応答することを意味しているのではないでしょうか。みことばを読み、主に対して祈ること、みことばを読み、心に示されることがあるなら実践すること、みことばを読み、主が指摘する罪があるなら悔い改めること。主の発せられた言葉に対して、信仰の応答をする者こそ、主と歩調を合わせて歩む者なのです。

V 私たちが主と歩調を合わせるためになすべきこと
 まず第一に、私たちは主と歩調を合わせて歩んでいる者たちであるという自覚を持ちましょう。私たちは救われて、すでに神の子とされた者たちです。主との交わりの中に生かされているのです。また、聖日に礼拝を守ることは、私たちとともに歩んでくださる主の招きに応じているのです。私たちはすでに主とともに歩ませていただいているのです。ですから、私たちはこの歩みを最後までしっかりとした足取りで全うしたいと思います。
次に、私たちが主と歩調を合わせるために必要なことは、主が命じておられるみことばに真実に従うことです。9節には、主が命じられたので、私たちは強く雄々しくあるようにと言われています。一見とても厳しいように感じますが、主の命令には約束を伴い、主の命令は愛から出ているものです。神のみことばには確かな保証と恵みが備わっているのです。私たちは主を見上げ、私たちに与えられたみことばを読み、しっかりと捉えさせていただきましょう。





2015年1月1日 元旦礼拝メッセージ

 
 今年は『主と歩調を合わせる』というテーマで信仰生活を歩ませていただきたいと願っています。これは今年だけに限らず信仰生活を通じて大切なことですが、特に、今年はみことばからこの点を学んでいきたいと思います。
 主は私たちとともにおられるということは、信仰生活の中で最も大きな恵みであり何物にも代えがたいことです。私たちは主とともに歩む信仰生活を送ることを何よりも大切にしたいものです。

T 私たちの信仰の歩みは、主から離れる危険性を有していることについて
 以前に聞いたことですが、長年牧師をしておられる先生が、新しい一年の目標は何かと聞かれたとき、「信仰をもって一年間を全うすること」と答えられたそうです。クリスチャンとして信仰をもって歩むことは当然のことですが、しっかりと信仰を保って歩み抜くことは結構難しいものなのです。これは信仰の道を踏み外し、躓いてしまう危険があることの裏返しです。さまざまな事でそうなってしまう危険があることを忘れてはなりません。危険性を感じる意識を持つことは、落とし穴から守られ安全に進むために重要です。
では信仰から離れる危険性とは何でしょうか。第一は、信仰が揺さぶられるような大きな困難が起こり得るということです。これは試練の時だけでなく、大きな恵みの直後にも潜んでいる危険です。主が大きな奇跡をなさった後に、主が語られることを理解できなかったたくさんの人々が、主から離れて行ってしまいました。そのような危険はいつでも私たちの前にあるのです。
第二は、私たちの弱さや足りなさです。私たちは自分自身は弱く傷つきやすい者であることを忘れてはなりません。弱さを自覚することはとても大切です。ペテロは信仰告白の後に、自分は決して裏切らないと豪語しましたが、主の十字架に際して大失敗をしてしまいました。私たちも自分は大丈夫と油断しているところに大きな危険があることを覚えましょう。また、弱さを自覚すること自体が重要なのではなく、それによって主に信頼することが大切なことです。弱さを頷いているなら、全能のお方に信頼し、守られて歩むことができるのです。罪深さを頷いているなら、主の十字架をさらに仰ぎ見る者となるのです。

U 私たちが主と歩調を合わせるために必要なことは何か
第一は、自分の立場をしっかりと自覚することです。自分の立場とは、自分は救われ、神の子とされた者である、ということです。このような自覚を持つなら、自然に主を見上げることでしょう。子どもである自覚があるなら、親のことを意識するでしょう。この会社の社員であると自覚するなら、社員としての自覚を持って行動するでしょう。主の恵みによって今生かされていることを自覚しているなら、主を信頼して歩んで行くことでしょう。ダビデは主は自分の羊飼いであり、自分はその羊であると自覚していました。その自覚が詩篇23篇のような信仰を告白させているのです。パウロも、自分が神の子であること、神の作品であること、罪人のかしらであることなど、彼の自覚が聖書の中に記されており、その自覚にふさわしい信仰の歩みをしています。私たちも自分自身がどういう者であるかを頷き、主の前に誇れることはないこと、主は何をしてくださったかということをしっかりと捉えさせていただきましょう。
 第二は、主の恵みを知ることです。主の話を聞いて離れて行った弟子たちがたくさんいました。離れなかった弟子たちの中にも裏切り者が出ると言われています。その中でペテロは「あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます」と言って、主について行くと告白しています。主が恵みの源であることをペテロは理解していました。主とともに歩もうとする時、主こそ恵みの源であることを頷いていることが必要です。主の十字架によって罪赦され救われた者であることをしっかりと捉えましょう。そうすれば、主から離れることなど有り得ないことです。主の恵みを知り、主の恵みに養われている者であるので、主から離れるわけにはいかないという強い意識を持つことが大切です。
 第三は、主の前にへりくだることです。私たちは弱い者、欠けのある者、罪深い者です。その実態をさらに深く考えると、それは神の前の高ぶりです。神よりも自分自身を中心に置くことです。神のみことばを退け、自分の進みたい道を進もうとする生き方です。このような高慢さが私たちのうちにあることを忘れてはなりません。ですから、神の前に砕かれ、へりくだり続けることを抜きにして、主と歩調を合わせることはできないのです。
 最後に、歩調を合わせるとは、スタート地点が同じであるだけではありません。時々一緒に歩むということでもありません。歩調を合わせるとは、日々の歩みの中で絶えず主とともに歩むことです。日々いのちの糧を主からいただき続けることです。このように主と歩調を合わせ、この一年、主の導きにしたがって、最後まで信仰を全うさせていただきたいと思います。