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日蓮大聖人御書講義10下0576~0594
0576~0589 諌暁八幡抄
0576:01~0576:07 第一章 天神の威力の増減を説く
0576:08~0576:15 第二章 小乗・権大乗は末法に無益
0576:15~0578:05 第三章 漢土・日本諸宗の迷妄を破す
0578:06~0578:16 第四章 謗法責めぬ氏神を梵釈が治罰
0578:17~0579:15 第五章 八幡が伝教大師に法衣を捧げた故事
0579:15~0580:09 第六章 伝経以前は法華の実義顕れず
0580:09~0581:04 第七章 謗法治罰せぬ八幡を叱責
0581:04~0582:02 第八章 法華行者の受難傍観を難ず
0582:03~0582:16 第九章 世間の目を抉る大科を責む
0582:16~0583:10 第十章 真言による開眼供養を破す
0583:10~0584:01 第11章 謗者を守護し梵釈の責めを受く
0584:01~0584:18 第12章 尼?律陀長者の故事を引く
0585:01~0585:14 第13章 八幡を諌暁する資格あるを示す
0585:14~0586:06 第14章 諸宗破折に寄せる疑難を破す
0586:06~0586:16 第15章 釈尊も小乗・権教を厳しく破折
0586:16~0587:09 第16章 中国・日本の真言師の罪科
0586:16~0587:09 第16章 中国・日本の真言師の罪科
0587:17~0588:11 第18章 八幡大菩薩の本地を明かす
0588:11~0588:17 第19章 八幡は法華行者の住処に栖む
0588:19~0589:05 第20章 仏法西遷の定理を明かす
0588~0589 諌暁八幡抄 2015:05月号大白蓮華より、先生の講義
0589~0594 二乗作仏事
0589:01~0589:03 第一章 爾前得道の有無を論ず
0589:04~0589:08 第二章 二乗不作仏ならば菩薩も不作仏
0589:09~0590:03 第三章 爾前の円にも二乗作仏無し
0589:04~0590:13 第四章 爾前の円における二つの法門
0590:13~0591:02 第五章 爾前の円に迷う天台宗の学者
0591:03~0591:15 第六章 一代聖教中の法華経の重要性
0591:16~0592:01 第七章 天台のみが仏の正意を明かす
0592:01~0592:16 第八章 「華厳・法華同等」の義を破す
0592:16~0593:06 第九章 華厳の文を借る義を挙ぐ
0593:06~0594:01 第十章 相対・絶対の二妙を明かす
0594:01~0594:08 第11章 日本天台学者の堕落を破す
0576~0589 諌暁八幡抄top
0576:01~0576:07 第一章 天神の威力の増減を説くtop
| 0576 諌暁八幡抄 01 夫れ馬は一歳二歳の時は設いつがいのびまろすねにすねほそくうでのびて候へども病あるべしとも見えず、 而 02 れども七八歳なんどになりて 身もこへ血ふとく上かち下をくれ候へば 小船に大石をつめるがごとく 小き木に大 03 なる菓のなれるがごとく多くのやまい出来して 人の用にもあわず力もよわく寿もみじかし、 天神等も又かくのご 04 とし成劫の始には 先生の果報いみじき衆生生れ来る上・人の悪も候はねば 身の光もあざやかに心もいさぎよく日 05 月のごとくあざやかに師子象のいさみをなして候いし程に 成劫やうやくすぎて住劫になるままに 前の天神等は年 06 かさなりて下旬の月のごとし今生れ来れる天神は果報衰減し 下劣の衆生多分は出来す、 然る間一天に三災やうや 07 くをこり四海に七難粗出現せしかば一切衆生始めて苦と楽とををもい知る。 -----― さて、馬は一歳、二歳の時は、たとえ頸が伸び、関節のところは丸く、細く腕が伸びていても、病気があるであろうとも思われない。 しかしながら、七、八歳等になって、身も肥え、血管も太く、上体の発達が勝り、四肢の発達が遅れていたときには、小船に大石を積んだように、小さい木に大きな果実がなったように、多くの病気が出てきて、人の役にも立たず、力も弱く、命も短い。 諸天善神等も、また同様である。成劫(じょうこう)の初めには過去世の果報が優れた衆生が生まれてくるうえ、人界に悪もないので、身の光沢も鮮やかに、心も潔く、日や月のように鮮やかに輝き、師子や象のように力強いが、成劫が次第に過ぎて住劫になるにつれて、先の諸天善神等は年をとって下旬の月のようになってしまう。今、生まれてくる諸天善神は果報が衰え減じ、下劣の衆生が多く出現してくる。 そのため、天下に三災が次第に起こり、世の中に七難の多くが出現したので、一切衆生は初めて苦と楽とを痛感したのである。 |
天神
①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。
―――
成劫
仏教の世界観で、この世界が生成し消滅する過程を四つの時期に区分したもの。長阿含経巻21などに説かれる。①成劫(成立する期間)②住劫(安定して存続する期間)③壊劫(崩壊する期間)④空劫(再び成立するまでの期間)。空劫が過ぎればまた成劫が始まり、この成・住・壊・空の四劫が循環して尽きることがないといい、その第一。
―――
果報
善悪の行いの結果としてもたらされる報い。善悪ともにある。
―――
住劫
仏教の世界観で、この世界が生成し消滅する過程を四つの時期に区分したもの。長阿含経巻21などに説かれる。①成劫(成立する期間)②住劫(安定して存続する期間)③壊劫(崩壊する期間)④空劫(再び成立するまでの期間)。空劫が過ぎればまた成劫が始まり、この成・住・壊・空の四劫が循環して尽きることがないといい、その第二。
―――
三災
❶古代インドの世界観で、時代の大きな区切りの末期に起こる三つの災害のこと。大小2種ある。①小の三災。世界のなかで起こる穀貴(飢饉などによる穀物の高騰)、兵革(戦乱)、疫病(伝染病の流行)の三つの災害。②大の三災。世界そのものを破壊する火災・水災・風災の三つの災害。❷大集経で説かれる三災。
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七難
正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる災害。七難は経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難(人々が疫病に襲われる)②他国侵逼難(他国から侵略される)③自界叛逆難(国内で反乱が起こる)④星宿変怪難(星々の異変)⑤日月薄蝕難(太陽や月が翳ったり蝕したりする)⑥非時風雨難(季節外れの風雨)⑦過時不雨難(季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる(19㌻で引用)。仁王経には①日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)が説かれる(19㌻で引用)。日蓮大聖人は「立正安国論」で、三災七難が説かれる経文を引かれ、正法に帰依せず謗法を放置すれば、薬師経の七難のうちの他国侵逼難と自界叛逆難、大集経の三災のうちの兵革、仁王経の七難のうちの悪賊難が起こると予言されている(31㌻)。そして鎌倉幕府が大聖人の警告を無視したため、自界叛逆難が文永9年(1272年)2月の二月騒動として、他国侵逼難が蒙古襲来(文永11年=1274年10月の文永の役、弘安4年=1281年5月の弘安の役)として現実のものとなった。
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本抄は弘安三年(1280)12月、日蓮大聖人が59歳の御時、身延で著された御抄である。御真筆は富士大石寺に現存している(全体は47紙からなっているが、第16紙から末尾までが現存。ただし、第46紙後半11行は欠失)。
本抄は特定の人に与えられたものではなく、「各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」(0589-04)と末尾で仰せられているように、門下一同のために著された書と拝される。
当時、蒙古国は既に二度目の日本侵攻の準備を進めており、鎌倉幕府は防備態勢を固めることに懸命だった。そのような折に、この年11月14日、鎌倉の鶴岡八幡宮が炎上し、人々に大きな動揺を与えた。本抄はこうした八幡宮炎上、蒙古の日本侵攻の意味について、正法の行者を迫害する日本を梵天・帝釈等が責めているのであると述べられている。
鎌倉における大火災は、前の月にも発生していた。すなわち、10月28日、中の下馬橋付近から起こった火事が燃え広がり、鶴岡八幡宮の東側の大蔵幕府後方の丘陵中腹にあった源頼朝の廟所や、そこから東に少し離れた所にあった北条義時の墓所まで類焼し、鎌倉の町の中心部が灰塵に帰した。
このとき鶴岡八幡宮は、その境内にあった神宮寺と千体堂が焼けている。しかし、本抄御述作の機縁となった弘安3年11月14日の火事では、上・下宮をはじめ、境内の建物がことごとく焼け落ちてしまったのである。
再度の蒙古襲来を控えていたときだけに、この守護神の神社炎上に、武士も庶民も、いいしれぬ不安を募らせたことは想像に難くない。
鶴岡八幡宮の焼失については、同じ弘安3年12月御述作の四条金吾許御文と、智妙房御返事にも触れられており、両抄では一国謗法のゆえに八幡大菩薩が国を捨て去った証拠であると指摘されている。
本抄の内容は二つに大別される。
第一は、八幡大菩薩の怠慢を戒められている。八幡大菩薩は、正法を持つ者を守護すると仏に誓ったにもかかわらず、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害する鎌倉幕府を懲らしめようとしないできた。それゆえ、梵天・帝釈・日天・月天等が八幡大菩薩を治罰するのであり、八幡大菩薩は速やかに幕府の謗法を罰して、正法の法華経の行者を守護すべきであると、厳しく諫暁されている。
第二は、このように八幡大菩薩を責めるのは、諸経論に説いてあるように、まことの願いがかなわないときは、守護神を叱るべきであるからだと述べられ、大聖人が、大難に値いながら法華経を説いて邪宗邪義を破折しているのは、一切衆生を救うためであるから、八幡大菩薩は必ず法華経の行者を守護しなければならないことを説かれている。
最後に「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0588-18)と、末法においては大白法が東土の日本から出現して、中国・インド、そして全世界へ流布されていくことを明かされ、門下に弘通を勧められている。
なお、諫暁とは、諌め暁す意で、「諫」は礼をもって他の過ちをただす、「暁」はさとし明かすことである。普通は国家などの安否について、為政者に進言したり、あるいは重大事について、相手の蒙を啓いて目を覚まさせることをいうが、この場合は、八幡を諫暁するという意である。
天神の威光盛衰と民族の興亡
まず馬の成長・老衰の姿にたとえて、民族を守護する諸天善神の生命力の盛衰について述べられている。
馬は、一歳や二歳の時は、たとえ関節が伸び、丸い脛で、細長く脚が伸びていても、別に病気があるようにもみえない。つまり、若さが漲っているゆえに、形は整っていなくても丈夫なのである。
しかし、七歳、八歳になって、身も血管も太く、上体が重くなって、下半身とのバランスが崩れてくると、ちょうど小船に大石を積み、小さな木に大きな果実が生ったようなもので、そのときには病気も起こり、力も弱く、人の役にも立たず、寿命も短くなってくる。諸天善神等も同様であるとされて、天神の威力の増減と、民族の興亡との関連を示されている。
「成劫の始」には、前世の果報の優れた衆生が天神として生まれてくるうえに、人界の衆生の機根もよく、悪事を働く人が少ないから、天神の身の光も鮮やかであり、心も潔く、日月のごとく輝いて、生命力も満々としている。
しかし成劫も過ぎて、安定した住劫の時代に入ると、以前はたくましかった天神も、年をとって、その威力はあたかも下旬の月のように衰えてくる。そして新しく生ずる天神は果報も少なく、人間界も下劣な機根の衆生が多く生まれてくることから、世の中に次第に三災七難が並び起こり、ここに、一切衆生は苦楽を味わうようになるといわれている。
ちなみに、仏法で説く成劫・住劫とは、成住壊空の四劫の一つで、成劫は器世間および有情世間が成立していく期間をいう。
住劫は、器・有情の二世間が安定した状態を持続する期間をいう。倶舎論では、現在を「住劫第九の減」としている。これは住劫のなかで衆生の寿命が増減を繰り返すなかの第九番目の減劫の意である。
この増減のリズムは、人寿八万歳から、百年ごとに一歳減じて十歳にまでなると、次は、百年ごとに一歳増えていって、八万歳にまでなり、その後再び減のリズムになるというのである。
0576:08~0576:15 第二章 小乗・権大乗は末法に無益top
| 08 此の時仏出現し給いて 仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば 燈に油をそへ老人に杖をあたへたる 09 がごとく天神等還つて威光をまし勢力を増長せし事 成劫のごとし仏教に又五味のあぢわひ分れたり 在世の衆生は 10 成劫ほどこそなかりしかども果報いたうをとろへぬ 衆生なれば五味の中に何の味をもなめて 威光勢力をもまし候 11 き、仏滅度の後正像二千年過て末法になりぬれば 本の天も神も阿修羅・大竜等も年もかさなりて 身もつかれ心も 12 よはくなり又今生れ来る天人・修羅等は或は小果報或は悪天人等なり、小乗・権大乗等の乳・酪・生蘇・熟蘇味を服 13 すれども老人に麤食をあたへ高人に麦飯等を奉るがごとし、 而るを当世此を弁えざる学人等古にならいて 日本国 14 の一切の諸神等の御前にして阿含経.方等・般若.華厳・大日経等を法楽し倶舎.成実・律.法相・三論.華厳・浄土.禅 15 等の僧を護持の僧とし給える 唯老人に麤食を与へ 小児に強飯をくくめるがごとし、 -----― このときに仏が出現されて、仏教という薬を天と人と神に与えられると、燈に油を差し、老人に杖を与えたように、諸天善神等は再び威光を増し、成劫の時のように勢力を増長したのであった。 仏教は、また五種の味に分かれており、釈尊在世の衆生は成劫ほどではなかったけれども、果報がそれほど衰えていない衆生なので、五種の味のなかのどの味を嘗めても威光勢力を増した。 仏滅度の後、正法・像法の二千年が過ぎて末法になると、元の天も神も阿修羅や大竜等も年もとって、身も疲れ、心も弱くなり、また、今、生まれてくる天人や修羅等は小果報であるか、あるいは悪天人等であり、小乗教や権大乗教等の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味を服しても、老人に粗末な食べ物を与え、高貴な人に麦飯等を差し上げるようなものである。 ところが、当今の世に、これをわきまえない学者等が昔に倣って、日本国の一切の諸神等の前で阿含経・方等経・般若経・華厳経・大日経等を奉納し、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗等の僧を護持僧としているのは、ちょうど老人に粗末な食べ物を与え、小児にかたい飯を食べさせるようなものである。 |
五味
もとは涅槃経にある教説で、釈尊の種々の教えを牛乳が精製される時に生じる5段階の味に譬え、位置づけたもの。①乳味(牛乳そのもの)②酪味(発酵乳、ヨーグルトの類)③生蘇味(サワークリームの類)④熟蘇味(発酵バターの類)⑤醍醐味(バターオイルの類)の五つをいう。乳味が一番低い教えにあたり、醍醐味が最高の教えにあたる。天台教学では、経典を釈尊が説いた順に整理して五つに分類し、5番目の時期、すなわち釈尊の真意を説いた法華経・涅槃経を説いた時期を最高の味である醍醐味に譬え、それ以前の華厳・阿含・方等・般若という四つの時期の教えをそれぞれ乳・酪・生蘇・熟蘇の四味に譬えた。
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正像二千年
仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
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末法
仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』では、仏の教え(教)だけが存在して、それを学び修行すること(行)や覚りを得ること(証)がない時期とされる。日蓮大聖人の時代には、釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説が用いられていた。したがって、『周書異記』にあるように釈尊の入滅を、周の穆王52年(紀元前949年)として正像2000年説を用いると、永承7年(1052年)が末法の到来となる(ただし釈尊の入滅の年代については諸説がある)。それによると大聖人の出世は釈尊滅後およそ2200年にあたるから、末法の始めの500年中に御出現なさったこととなる。末法の年代について『中観論疏』などには釈尊滅後2000年以後1万年としている。大聖人は、末法万年の外・尽未来際とされている。弘長2年(1262年)御述作の「教機時国抄」に「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し……又当世は末法に入って二百一十余年なり」(439㌻)と述べられている。大集経では、「闘諍堅固」(僧は戒律を守らず、争いばかり起こして邪見がはびこり、釈尊の仏法がその功力をなくす時代)で、「白法隠没」(釈尊の仏法が見失われる時代)であるとされる。
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阿修羅
①サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。②修羅界
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大竜
仏法を守護する八部衆のひとつで、畜生類に属する。海や池などの水中に住し、天に昇って雲を起こし、雨などを自在にしはいするとされた。
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修羅
阿修羅のこと。サンスクリットのアスラの音写。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。
―――
小乗
乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
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権大乗
大乗のうち権教である教え、経典。
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乳・酪・生蘇・熟蘇味
五味のうちの醍醐味をのぞいたもの。① 乳味 (搾ったままの牛乳の味)② 酪味 (牛乳を精製した最初の段階の味)③ 生蘇味(酪を精製したものの味④ 熟蘇味(生蘇を精製したものの味)⑤ 醍醐味(熟蘇を精製してできた最高の段階の味)。涅槃経第十四に「善男子、譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生穌を出し、生穌より熟穌を出し、熟穌より醍醐を出す。醍醐は最上なり。若し服する者有れば、衆病皆除く。有る諸薬は悉く其の中に入るが如し。善男子、仏も亦是くの如し。仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より大涅槃経を出す。猶し醍醐の如し。醍醐と言うは仏性に喩う。仏性とは即ち是れ如来なり」とある。天台大師はこの五味を五時に配して、華厳時は乳味、阿含時は酪味、方等時は生蘇味、般若時は熟蘇味、法華涅槃時は醍醐味とし、教が順序次第に生ずること、また衆生の機が順序次第に熟することにたとえている。日蓮大聖人は、法門を五味にたとえれば、内外相対すると儒教の三千巻の書やバラモン教の主要な十八の経典は乳味に劣る衆味であり、それに対すれば小乗の阿含経は醍醐味にあたるとされている。更に仏教のなかでは、阿含経は乳味、観経等の方等部の経は酪味、般若経は生蘇味、華厳経は熟蘇味、無量義経と法華経と涅槃経は醍醐味にあたる、と述べられている。大聖人は、経典の内容、深さから法華経に次ぐ教理を説く華厳経を熟蘇味とされたものであろう。その他、五味は酸・苦・甘・辛・鹹の五種の味をさすこともある。
―――
阿含経
阿含はサンスクリットのアーガマの音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部(ニカーヤ)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。
―――
方等
方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
―――
般若
「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
―――
華厳
大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
―――
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
―――
法楽
仏の覚りを享受する最高絶対の幸福のこと。妙法の功徳を自身で享受すること。「四条金吾殿御返事」には「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云、此の文・あに自受法楽にあらずや」(1143㌻)と述べられている。
―――
倶舎
倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
成実
インドの訶梨跋摩(ハリーヴァルマン)の『成実論』に基づく学派。『成実論』は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を27(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。5世紀の初めに鳩摩羅什によって『成実論』が漢訳されると、弟子の僧叡・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って『成実論』が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗である。
―――
律
❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。
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法相
玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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三論
竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
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華厳
華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240年~1321年)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。
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浄土
念仏宗ともいう。阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。
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禅
座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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護持の僧
①弘教を護り持つ僧。②祈禱する僧。
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強飯
固い飯。
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くくめる
含める。含ませること。
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衆生の果報が衰滅したため天神等の威光勢力が弱くなったとき、これを増長させたのが仏教であった。しかし、仏の滅後、正像二千年過ぎて末法になると、小乗や権大乗の仏教では天神の威光勢力を増大させることができなくなったことを述べられている。
仏教に又五味のあぢわひ分れたり
仏教といっても、内容は「五味」に分かれ、勝劣・浅深・高低があるということである。
「五味」とは、牛乳が精製されるときに生じる五段階の味のことで、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味をいう。
乳味は、牛から搾り取ったままの原乳の味である。「本草綱目」を参考にした研究によると、牛乳を加熱し放冷した後、上面にできる凝固物を生蘇、下層を酪とする。
この上層にできた生蘇を加熱し放冷してできる固形物が熟蘇にあたり、その熟蘇に穴をあけて滲みだしてくる液状のものを醍醐という。実験で得られた記録によれば、醍醐は、室温ではバタークッキーのような香りをもった、やや黄色みを帯びたクリーム状のかたまりで、温めると黄金色の液体となり、ほぼ純粋のバターオイルであったという。
また、味が最高というよりは、滋養が最高の栄養食品だったようである。この「醍醐」は牛乳100㌘から、わずか1㌘しか取れなかったという。
「五味の譬」は、釈尊が涅槃経巻十四で説いたものであるが、中国の天台大師は、釈尊の一代聖教を、華厳、阿含、方等、般若、法華・涅槃の「五時」に分け、その「五時」の教に「五味」を配し、教えが順序次第に生ずることにたとえ、また機が順序次第に熟することにたとえている。そして、その内容を比較して、法華・涅槃時を最も勝れた醍醐味の教えであるとしている。
日蓮大聖人も本段で、この「五味」を経の浅深・高下による判釈に用いられ、一代の諸経のなかで「阿含小乗経は乳味のごとし方等・大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く華厳経等は熟蘇味の如く法華・涅槃経等は醍醐味の如し」と示されている。
それでは、法華経と涅槃経の関係はどうなるのかという疑問が生ずるが、この点について、天台大師は、両者は同じ醍醐味にあたるとはいえ、法華経は純円独妙の教えで、法華の会座での救済に漏れた人々を救うために涅槃経が説かれたとしている。
つまり、涅槃経では蔵・通・別・円の四教が繰り返し説かれたのであり、法華経と同じく円教であるとはいえ、権教を帯びた円、すなわち帯円であり、法華経を秋の収穫にたとえると、涅槃経はその後の落ち穂ひろいにたとえられるのである。
法華経法師品第十に説かれる「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」という言葉において、〝当説〟のなかに、最後の説法である涅槃経が含まれることは明瞭であり、この文は、法華経が涅槃経より勝れるとの文証としてしばしば引かれる。
さて、釈尊在世の衆生は成劫ほどの果報はなかったが、それほど天神の衰えも甚だしくなかったので、「五味」のなかのどのような教えによっても、威光勢力を増長させることができた。しかし、釈尊の入滅後、正像二千年を過ぎて末法の時代に入ると、天神等の威光勢力は甚だしく衰えてくる。
また新たに生まれてくる天人・修羅等の衆生も、小果報の者か、悪い天人等であるから、小乗、権大乗の諸経によっては、一向に威光勢力を増すことができない。それはちょうど「老人に麤食をあたへ高人に麦飯等を奉る」ようなものだとたとえられている。
つまり、末法の衆生や天神等に威光勢力を与える仏の教えは、醍醐味である法華経以外にないということである。
それにもかかわらず、このことをわきまえない当世の学者らは、釈尊在世や正像時代と同じに考えて、日本国の諸神の前で、小乗・権大乗の諸経を法楽のために読誦し、また、これらを依経とした諸宗の僧らを諸神の「護持の僧」としているが、それはあたかも「老人に麤食を与へ小児に強飯をくくめる」ようなものだとたとえられている。
0576:15~0578:05 第三章 漢土・日本諸宗の迷妄を破すtop
| 15 何に況や今の小乗経と小乗 0577 01 宗と大乗経と大乗宗とは古の小大乗の経宗にはあらず、 天竺より仏法・漢土へわたりし時・小大の経経は金言に私 02 言まじはれり、 宗宗は又天竺・漢土の論師・人師或は小を大とあらそい 或は大を小という或は小に大をかきまじ 03 へ或は大に小を入れ 或は先きの経を後とあらそい或は後を先とし 或は先を後につけ或は顕経を密経といひ密経を 04 顕経という譬へば乳に水を入れ薬に毒を加うるがごとし、 涅槃経に仏・未来を記して云く「爾の時に諸の賊醍醐を 05 以ての故に之に加うるに水を以てす水を以てする事多きが故に 乳酪醍醐一切倶に失す」等云云、 阿含小乗経は乳 06 味のごとし方等・大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く華厳経等 07 は熟蘇味の如く法華・涅槃経等は醍醐味の如し、 設い小乗経の乳味なりとも仏説の如くならば 争でか一分の薬と 08 ならざるべき、況や諸の大乗経をや何に況や法華経をや。 -----― ましてや、今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗は、昔の小乗・大乗の経や宗ではない。 インドから仏法が中国に渡った時、小乗・大乗の諸経は仏の金言に私言が混じってしまった。諸宗もまた、インド・中国の論師や人師が小乗を大乗といって争ったり、大乗を小乗といったり、あるいは小乗に大乗を書きまじえたり、大乗に小乗を入れたり、あるいは先に説かれた経を後といって争ったり、後のを先としたり、あるいは先のを後につけたり、あるいは顕経を密経といい、密経を顕経といったりしている。たとえば、乳に水を入れ、薬に毒を加えるようなものである。 涅槃経に仏が未来を予言して「その時にもろもろの賊は、醍醐味に水を加える。水を多く加えたために乳味・酪味・醍醐味の一切がともに失われる」等と説いている。 阿含経である小乗経は乳味のようであり、方等経の大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のようであり、般若経等は生蘇味のようであり、華厳経等は熟蘇味のようであり、法華経・涅槃経等は醍醐味のようである。 たとえ、小乗経が乳味であるといっても、仏説のとおりに行ずるならば、どうして一分の薬とならないことがあろうか。ましてやもろもろの大乗経、まして法華経においてはなおさらである。 -----― 09 然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に 羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人 10 は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、 此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し 十二分経を 11 胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし 又現在に一分のしるしある様なりとも 天地の知る程の祈とは成る可 12 からず魔王・魔民等・守護を加えて法に験の有様なりとも 終には其の身も檀那も安穏なる可からず譬ば旧医の薬に 13 毒を雑へて・さしをけるを旧医の弟子等・或は盗み取り或は自然に取りて 人の病を治せんが如しいかでか安穏なる 14 べき、当世日本国の真言等の七宗並に浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第 15 二・第三等の私の水を入れたるを知らず 仏説の如くならば・いかでか一切倶失の大科を脱れん、大日経は法華経よ 16 り劣る事七重なり而るを弘法等・顛倒して大日経最第一と定めて 日本国に弘通せるは 法華経一分の乳に大日経七 17 分の水を入れたるなり 水にも非ず乳にも非ず大日経にも非ず 法華経にも非ず而も法華経に似て大日経に似たり大 18 覚世尊此の事を涅槃経に記して云く「我が滅後に於て 正法将に滅尽せんと欲す 爾の時に多く悪を行ずる比丘有ら 0578 01 ん、 乃至牧牛女の如く乳を売るに多利を貪らんと欲するを為ての故に 二分の水を加う、乃至此の乳水多し、爾の 02 時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、 是の時に当に諸の悪比丘有て是の経を鈔略し分て 多分と作し能く 03 正法の色香美味を滅すべし、 是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除せん、 乃至 04 前を鈔て後に著け後を鈔て前に著け前後を中に著け 中を前後に著けん当に知るべし 是くの如きの諸の悪比丘は是 05 れ魔の伴侶なり」等云云。 -----― ところが、インドから中国に経典を渡した翻訳者は百八十七人である。そのなかで羅什三蔵一人を除いて前後の百八十六人は、純乳な乳に水を加え、薬に毒を加えた人々である。 この道理をわきまえない一切の人師や末学等が、たとえ一切経を読誦し、十二分経を学び尽くしているようであったとしても、生死の苦しみを離れることは難しい。 また、現在に一分の効験があるようであっても、天神地祇が知るほどの効験のある祈りとはなるわけがない。魔王や魔民等が守護を加えて、法に効験があるようであったとしても、最後にはその身も檀那も安穏ではないであろう。 例えば、先輩の医師が薬に毒を混ぜておいたのを、その医師の弟子らが盗み取ったり、あるいは自然に手に入れて人の病を治そうとするようなものである。どうして安穏でありえようか。 当世の日本国の真言等の七宗、ならびに浄土宗や禅宗等の諸学者等は、弘法や慈覚や智証等が法華経最第一の醍醐味に法華最第二・第三等の私見の水を入れたのを知らないでいる。仏説のとおりであるならば、どうして「一切倶に失われる」という大罪を免れることができようか。 大日経は法華経より劣ること七重である。それなのに、弘法等が顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通したのは、法華経という一分の乳に大日経という七分の水を入れたようなものである。 それは、水でもなく乳でもないように、大日経でもなく法華経でもない。しかも、法華経に似て大日経に似ている。 釈尊はこのことを涅槃経に記して「我が滅後に正法が滅尽しようとするときに多くの悪を行ずる僧があるであろう。(中略)牛飼い女が、乳を売るにあたり、多くの利益を得ようと思って二分の水を加えるようなもので(中略)この乳は水気が多い。そのときに、この経が全世界に広く流布するであろう。このときにもろもろの悪僧がいて、この経をかすめ取り、多くに分けて、よく正法の色・香・美味を滅失するであろう。このもろもろの悪人は、また、このような経典を読誦するといっても、仏の深密の根本の教えを滅除することになる。(中略)前の部分を取って後に付け、後の部分を取って前に付け、前後の部分を中に付け、中の部分を前後に付けるであろう。このようなもろもろの悪僧は魔の仲間であると知るべきである」等といっている。 |
小乗経
小乗の教えを説いた経典のこと。
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小乗宗
小乗教を依経とする宗派。
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大乗経
大乗のうち権教である教え、経典。
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大乗宗
大乗教を依経とする宗派。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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天竺
中国および日本で用いられたインドの古称。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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顕経
「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
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密経
呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
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涅槃経
大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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醍醐
釈尊の教えの高低浅深を牛乳を精製する五つの過程の味に譬えて分類した五味のうち法華経は最高に位置する。
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大集経
大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。60巻。大乗の諸経を集めて一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を500年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後2000年以降を末法とする根拠とされた。
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阿弥陀経
中国・後秦の鳩摩羅什訳。1巻。阿弥陀仏がいる極楽世界の様子を述べ、阿弥陀仏を一心に念ずることで極楽世界に生まれることができると説く。浄土三部経の一つ。
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深密経
深密経と略す。中国・唐の玄奘訳。5巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。
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楞伽経
漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
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月氏
中国・日本などで用いられたインドの古称。月支とも書く。仏教では伝統的に「がっし」と読み習わすが、現代では「げっし」と読む。月氏は、もともとは紀元前後数百年、東アジア・中央アジアで活躍していた遊牧民族の名とされる。この月氏が、後に匈奴に追われ、中央アジアに進出し、ガンダーラ地方を中心にして大月氏国を築いた。特に2世紀のクシャーナ朝のカニシカ王以後、大乗仏教が盛んとなり、この地を経てインドの仏教が中国へ伝えられたことから、中国ではインド全体に対しても月氏と呼んでいた。
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羅什三蔵
344年~413年(一説に350年~409年)。サンスクリットのクマーラジーヴァの音写。中国・後秦の訳経僧。羅什三蔵とも呼ばれる。インド出身の貴族である父・鳩摩羅琰(クマーラヤーナ)と亀茲国(クチャ)の王族である母との間に生まれ、諸国を遍歴して仏法を学ぶ。後秦の王・姚興に迎えられて長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、多くの訳経に従事した。訳経数は『開元釈教録』によると74部384巻にのぼり、代表的なものに妙法蓮華経・維摩経・大品般若経・『大智度論』などがある。その訳文は内容が秀抜で文体が簡潔なことから、後世まで重用された。前代の訳を古訳、後代の玄奘らの訳を新訳というのに対して、羅什らの訳は旧訳と呼ばれる。
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十二分教
十二部とも十二部教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
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生死
❶繰り返し迷いの境涯に生まれては死ぬこと。また、その苦しみ。❷生命の二つの側面としての、生きることと死ぬこと。
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魔王
古代インドの世界観で、欲界の最上である第六天に住むとされた他化自在天。父母・妻子・権力者などの身に入り、あらゆる手段で仏道修行を妨げる。
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魔民
魔界の衆生。魔王の眷属の民衆。仏道修行を妨げる働きをするもの。
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七宗
❶小乗の経論に基づく俱舎宗・成実宗・律宗を除いた、大乗に基づく華厳・三論・法相・天台・真言・浄土(念仏)・禅の七宗。❷南都六宗に真言宗を加えた七宗。
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弘法
774年~835年。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。空海ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。
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慈覚
794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。円仁ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(281㌻、305㌻以下など)。
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智証
814年~891年。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。円珍ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」(306㌻以下)などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
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法華経最第一
法華経法師品第10に、「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」とある。
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法華第二・第三
①天台の座主、慈覚・智証は理同義勝の理を立て、大日経と法華経は理において同じであるが、法華経は印・真言を説いていないので第二・大日経第一と立てた。弘法は十住心論で、大日経第一・華厳経第二・法華経第三の邪義を立てた。
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大日経最第一
弘法が十進心論で立てた邪義。すなわち、異生羝羊住心 愚童持斎住心 嬰童無畏住心 唯蘊無我住心 抜業因種住心 他縁大乗住心 覚心不生住心(法華経) 一道無為住心(華厳経) 極無自性心(大日経)である。
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大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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牧牛女
①飼牛の乳を売る女人。②釈尊に乳の粥を供養した女性。
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閻浮提
閻浮、南閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
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小乗・権大乗経と、それによって立てられた宗が、正法・像法時代には、衆生を利益し、諸天善神の威力を増す働きをもっていたのに、末法においてはその力がなくなるだけでなく、末法に入って、これらの諸経・諸宗は、翻訳の誤りや我見の解釈のため、その本来のものではなくなっていることを述べられている。
「天竺より仏法・漢土へわたりし時・小大の経経は金言に私言まじはれり」と、まず経典がインドから中国へ伝えられる過程、すなわち翻訳の段階で、種々の歪みや我見が入り込んだことを指摘されている。
その具体的な事実として、元来、経典は五味に配されるように、それぞれに効験があったのであるが、「月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり」と、誤訳によりその効力が失われ、あるいは毒にさえなってしまっていることを述べられている。
インドから中国へ仏教が伝えられる過程で、羅什三蔵を除いた他の訳者は、仏の真意を曲げて伝えており、諸宗の学者はこの事実をわきまえていない。しかも当世の真言等の諸宗の学者は、弘法等の先師が邪義を混入したことを知らずに継承してきていると、再び涅槃経の文を示して末法の悪比丘の実態を鮮明にされている。
羅什については、死に際して自らの訳経の正しさを証明するため、我が身を焼いて舌が焼けたら、我が経を捨てよと遺言し、その予言どおり舌だけは焼けなかったと伝えられる。
訳経数は出三蔵記集によると、35部294巻にのぼり、代表的なものに妙法蓮華経八巻、大品般若経二十七巻、中論四巻、大智度論百巻、百論二巻などがある。
羅什以外は謬訳が多かったことについては、撰時抄でも「涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば我が仏法は月支より他国へわたらん時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候(中略)今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやま(過誤)れる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候」(0269-08)と述べられている。
次に、各宗の誤りについて「宗宗は又天竺・漢土の論師・人師或は小を大とあらそい……譬へば乳に水を入れ薬に毒を加うるがごとし」と述べられている。
つまり、依りどころとしている経典自体が、翻訳の段階で歪められているのに加え、各宗の元祖は、邪見をもとにして宗義を立てたのであるから、二重・三重に歪みを生じていることになる。
このことに関しては「当世日本国の真言等の七宗並に浄土・禅宗等」と、すべての宗にあてはまるのであるが、とくにその代表として「弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二・第三等の私の水を入れたる」と、真言宗および天台真言を挙げて破折を加えられている。
弘法大師空海が、法華経を大日経、華厳経に劣る第三の経と位置づけ、天台真言の慈覚大師円仁と智証大師円珍が「理同事勝」の義を受け入れて、法華経を大日経に次ぐ第二の経としたことは、語訳にも示したとおりである。
此の理を弁へざる一切の人師末学等設い……終には其の身も檀那も安穏なる可からず
仏説に背いた邪法を信じているかぎり、どんなに仏教に通達しているようであっても、成仏できないことは当然、今世の祈りもかなわないし、いったんは魔王・魔民等の守護で法に験があるようであっても、最終的には堕地獄を免れないと断言されている。
邪法を行じている者にも、いったんは法の験がある場合があることについては、種種御振舞御書に、次のような原理を示されている。
「人・善根をすれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実の僧と思はせんが為なり」(0917-02)と。
したがって、いったんは法の験があるようにみえるが「終には其の身も檀那も安穏なる可からず」と本抄に仰せのように、最後は無間地獄の苦を免れることはできないのである。
本段の涅槃経の引用文の最後に「当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」とあるように、諸宗の開祖自身が魔の伴侶であるから、それに随順する「人師末学」達は、魔王・魔民の守護を受けることになる。しかし、魔の本質は奪命・奪功徳であり、しかも、仏法の因果の法理はだれびとも逃れることができないから、邪義を信ずる人師末学は、最終的には生命力も功徳も奪われ、因果の法によって無間地獄に沈むことになるのである 。
0578:06~0578:16 第四章 謗法責めぬ氏神を梵釈が治罰top
| 06 今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ 旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬ 07 らん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに 仏法の味は皆たがひぬ 齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子 08 をも守護すべき、 其の上謗法の国にて候を氏神なればとて大科をいましめずして 守護し候へば仏前の起請を毀る 09 神なり、 しかれども氏子なれば愛子の失のやうに・すてずして守護し給いぬる程に 法華経の行者をあだむ国主・ 10 国人等を対治を加えずして守護する失に依りて 梵釈等のためには八幡等は罰せられ給いぬるか 此事は一大事なり 11 秘すべし秘すべし、有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持 12 戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せ 13 ずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして 四天王に仰せつけて治罰を加うべし、 若し氏神・治罰を加えず 14 ば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、 梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治 15 罰すべし、 若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて 無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方 16 の諸仏の御前にして起請を書き置れたり。 -----― 今、日本国を考えてみるに、代が始まってから既に久しい時が経った。昔からの守護の善神は、きっと福運も尽き、寿命も減り、威光勢力も衰えているのであろう。 仏法の法味をなめてこそ威光勢力も増長するのに、仏法の法味は皆、違ったものとなってしまっている。歳はとってしまった。どうして、国の災いをはらい、氏子を守護することができよう。 そのうえ、謗法の国であるのを、氏神だからといって大罪を戒めずに守護したので、仏前の誓いを破る神となったのである。 それでも、氏子なので愛しい子の過ちのように見捨てずに守護してきたので、法華経の行者を怨む国主や国民等を対治を加えずに守護する罪によって、梵天や帝釈天等から八幡大菩薩等は罰せられたのであろうか。このことは一大事であり、秘すべきである、秘すべきである。 ある経のなかに「仏はこの世界と他方の世界の梵天・帝釈天や日天・月天や四天王や竜神等を集めて『我が正法・像法・末法の持戒や破戒や無戒等の弟子等を、第六天の魔王や悪鬼神等が人王や人民等の身に入って悩まし乱すのを、見ながら聞きながら治罰しないで、しばらくのあいだも過ごすならば、必ず梵天・帝釈天等が使いをやって四天王に命じて治罰を加えよ。もし氏神が治罰を加えないならば、梵天・帝釈天や四天王等も守護神に治罰を加えよ』と仰せられたところ、梵天・帝釈天等も同じく『必ず、この世界の梵天・帝釈天や日天・月天や四天等を治罰するであろう。もし、そうでなければ、三世の諸仏の出世に生まれ合うことなく、永く梵天・帝釈天等の位を失って無間地獄に沈むであろう』と釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の御前で誓いを書き置かれた」とある。 |
氏子
氏神の子孫のこと。同じ氏神を祭る人々。
―――
氏神
氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した神社。
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起請
神仏に誓いを立てて所願の成就を請い、背けば罰を受ける覚悟をすること。またその旨を記した文書をさす。「御成敗式目」の末尾には、誤った考えから法に背いた場合、「梵天帝釈、四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神、部類眷属」からの罰を受ける旨を記した起請文が付され、北条泰時ら式目の制定者たちが署名をしている。また同式目の起請文には「凡そ評定の間、理非に於ては親疎あるべからず。好悪あるべからず」などと、個人的な感情にとらわれず、道理を重んじなければならないことが記されている。
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梵釈
梵天と帝釈天のこと。①梵天、サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。②帝釈天、帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
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八幡
八幡宮の祭神。神仏習合の伝統から、正八幡大菩薩、八幡大菩薩ともいう。略して正八幡、八幡とも。古くは農耕の神とされていたが、豊前国(福岡県東部と大分県北部)宇佐に祭られてから付近で産出する銅産の神とされ、奈良時代に東大寺の大仏が建立された時にそれを助けたとして奈良の手向山に祭られた。その後、国家的神格として信仰を集め託宣神としても知られるようになった。平安時代の初めには朝廷から大菩薩の称号が贈られ、貞観元年(859年)に行教によって山城国(京都府南部)石清水に勧請された頃から、応神天皇の本地が八幡大菩薩であるとする説が広まり、朝廷の祖先神、京都の守護神として崇められた(579㌻参照)。鎌倉時代になると、八幡神は源氏の氏神として厚く尊崇され、また武士全体の守護神とされた。こうした古代・中世において、仏教が日本に普及する課程で、八幡神は梵天・帝釈天らインドの神々に次ぐ仏法の守護神と位置づけられた。御書には「八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給いけるなり」(583㌻)、「八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂に・やどらんと誓い給ふ」(1196㌻)と仰せである。また本地垂迹説によって、八幡神の本地は釈尊とされるようになった。しかし一方で八幡神の本地を阿弥陀仏とする説も広まった(『神皇正統記』など)。これに対し「智妙房御返事」では「世間の人人は八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申ぞ、それも中古の人人の御言なればさもや、但し大隅の正八幡の石の銘には一方には八幡と申す二字・一方には昔霊鷲山に在って妙法蓮華経を説き今正宮の中に在って大菩薩と示現す等云云、月氏にては釈尊と顕れて法華経を説き給い・日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願いに立て給う、教主釈尊は住劫第九の減・人寿百歳の時・四月八日甲寅の日・中天竺に生れ給い・八十年を経て二月十五日壬申の日御入滅なり給う、八幡大菩薩は日本国・第十六代・応神天皇・四月八日甲寅の日生れさせ給いて・御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う、釈迦仏の化身と申す事は・たれの人か・あらそいをなすべき」(1286㌻)と仰せになり、日蓮大聖人は、人々が阿弥陀仏を尊んで釈尊をないがしろにする誤りを糺されている。なお、大聖人は文永8年(1271年)9月、竜の口に連行される途中、若宮小路(鶴岡八幡宮の前の大通り)で馬から下り、八幡大菩薩に対して日本第一の法華経の行者を守護する誓いを今こそ果たすべきだと叱咤されている(912,913㌻)。現在、八幡神は豊前国宇佐、奈良の手向山、山城国(京都府南部)石清水、鎌倉の鶴岡、大隅国(鹿児島県東部)をはじめ全国各地に祭られている。
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日月
日天と月天のこと。①日天、日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。②月天、月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
―――
四天
❶東西南北の四方。❷四天王の略。❸四天下の略。
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竜神
八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)の2番目。金翅鳥、修羅、竜神とともに、地動を起こすといわれる。
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持戒
戒を受け持つこと。
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破戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
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無戒
一度も戒を受けていないこと。
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第六天の魔王
欲界の第六天にいる他化自在天のこと。欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。
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悪鬼神
鬼神は中国では死者の霊魂をいう。混沌とした世にあって不思議な力を持つものをいうが、仏法では、仏道修行を妨げ、衆生を悩ます夜叉・羅刹等の総称。
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須臾
時間の単位。①一昼夜の30分の1をさす場合と、②最も短い時間の単位(瞬時)をさす場合がある。
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四天王
古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている(法華経73,644,645㌻)。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。
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三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
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無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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釈迦多宝
法華経を説いた釈尊と、その正しさを証明した多宝如来のこと。
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十方の諸仏
四方(東・西・南・北)、四維(南東・南西・北西・北東)、上下の十方にいる仏。すなわち、すべての仏たち。法華経では、霊山浄土に集っていて法華経の行者を導き守ると説かれている。
―――――――――
謗法の国と化した日本を諸天善神が戒めないのは、仏前の誓いを破ることであり、それゆえに八幡等の氏神は梵天・帝釈・四天王等によって治罰を被っているのであると述べられている。すなわち、古代から国を守護する八幡等の善神は、既に福も尽き、寿命も減り、威光勢力も衰えてきている。
しかも、善神の活力源たる法味を与える仏法は、ことごとく邪宗邪義と化しているため、守護する力を失っているのであるが、氏子であるということから、謗法を犯している日本国の人々を八幡は守ろうとしている。このため、梵天・帝釈等の治罰を受けたのであると言われている。
「此事は一大事なり秘すべし秘すべし」と仰せられているのは、神といえども仏法には従わなければならないことを示されているのであるが、八幡といえば、当時の武士にとって最も尊崇された神であるから、このように公言すると、必ず門下に大きな弾圧が加えられることを配慮されたのであろう。
諸天善神について
本抄で八幡大菩薩を氏神と呼ばれている。「氏神」とは地縁あるいは血縁集団が信仰する神のことであるが、もとは氏族による一族一門の先祖や英雄などを祀ったものである。「氏子」は氏神の子孫、また転じて同じ氏神を祀る人々をいう。
八幡大菩薩はもともと農耕神とされ、豊前国(大分県)宇佐に祀られていた。
奈良時代の東大寺大仏造立の時、宇佐付近で銅を産したことから、大仏造立を助けたとされ、奈良の手向山に祀られ、以来、仏教との関係を深め、また国家的神格として広い信仰を集めるようになり、託宣神としても知られるようになった。
平安時代初期には、朝廷から大菩薩号を贈られ、神仏習合の先駆となった。その結果、僧形八幡像なども造られた。
貞観元年(0859)に、行教という人により山城国(京都府)石清水に勧請されたころから、京都守護神として崇拝され、応神天皇の本地が八幡大菩薩であるとの説が広まった。
その後、清和源氏などから氏神として崇められ、とくに源氏の信仰を集めたことから、武神的性格を帯び、武士の守護神として弓矢八幡などが造られた。
源頼義(0988~1075)は京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷に迎えて神社を建て、それをまた源頼朝(1147~1199)が鎌倉鶴岡の現在地に移し鎌倉幕府の守護神として崇められた。
以上のように八幡が日本国の氏神であるのに対し、この世界全体を統括し、善を守り悪を挫く神が梵天・帝釈・四天王等である。
梵天とは大梵天王のことで、色界の初禅天に住し、娑婆世界を統括する主神とされる。梵とは清浄、寂静、淨行の義である。
帝釈は釈提桓因、天帝釈ともいい、世界の中心とされる須弥山の山頂・喜見城に住み、四天王を従えて、三十三天を統領しているといわれる。
インド神話では最高神とされ、もともとは雷電の威力のすさまじさを擬人化したのが帝釈天の原形である。
梵天・帝釈は諸天善神の代表であり、仏の説法のときは仏の左右に列なり、法を守護する。
四天王とは、須弥山の四面の中腹にある四王天の主で、持国天、広目天、毘沙門天、増長天のことである。それぞれ一天下を獲ることから護世四王ともいい、帝釈天の外将である。
持国天は治国天ともいい、東方を守護する。他の西南北の三州をも兼ねて守護するので持国という。また「安民」の名もあり、文字どおり国土を平和に治め、民を安穏に守護する働きである。
広目天は西方を守護し、浄天眼をもって常に衆生を観察している。悪を見破り、悪人を懲らして仏心を起こさせる。
毘沙門天は多聞天ともいい、北方を守護する。財宝富貴を司って、その力で仏法を守護する。また、常に仏の説法を多く聞き、仏の道場、法座を守ることから多聞天の名がある。
増長天は南方を守護し、衆生の所業の善悪を検討し、帝釈天に報告する。また増長とは免離の意味で、煩悩や不孝を近づけない働きとされている。
すなわち、梵天・帝釈・四天王等のほうが天照大神や八幡よりはるかに上位にある諸天善神であり、八幡等が氏子への愛着から「愛子の失のやうに」謗法の大罪を罰しようとしない場合は、八幡等は梵天・帝釈・四天王等によって治罰を受けなければならない、とされるのである。
同様に「有る経の中に」として、この娑婆世界の梵天・帝釈等が謗法の衆生を罰しなければ、他の世界の梵天等から治罰を被ることになる。
そして、梵天・帝釈等は、正法を守り、謗法を罰するという責務を果たさなければ「三世の諸仏の出世に漏れ」で〝法味〟を味わうことができなくなり、諸天の位を失って「無間大城に沈む」ことになるのである。
言い換えると、諸天は天界の衆生としての寿命をもっているのであるが、正法守護の責任をないがしろにした場合は、その寿命を失い、ちょうど我々人間が人界の寿命が終わると、謗法の罪があれば無間地獄に堕ちなければならないように、彼ら天界の衆生も無間地獄に沈まなければならないのである。
0578:17~0579:15 第五章 八幡が伝教大師に法衣を捧げた故事top
| 17 今之を案ずるに日本小国の王となり神となり給うは小乗には三賢の菩薩・大乗には十信・法華には名字五品の菩 18 薩なり、 何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも法華経の名字を聞かず 一念三千の観法を守護せずんば退位の菩 0579 01 薩と成りて永く無間大城に沈み候べし、 故に扶桑記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、 自ら 02 法華経を講ず、 乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る 幸い和尚に値遇して正教を聞 03 くことを得たり兼て我がために種種の功徳を修す 至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、 兼て我が所持の法衣有り 04 と 即ち託宣の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ 和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給 05 えと、是の時に禰宜・祝等各歎異して云く 元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、 此の大神施し給う所の法衣 06 今山王院に在るなり」云云、 今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば 此に袈裟衣有 07 るべからず、 人王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い 其れより已来弘仁五年までは禰宜・祝等次第に 08 宝殿を守護す、 何の王の時・此の袈裟を納めけると意へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、 此の大菩薩 09 いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。 -----― 今、このことを考えてみると、八幡が日本という小国の王となり神となられたのは、小乗教では三賢の位の菩薩、大乗教では十信の位の菩薩、法華経では名字即・五品の位の菩薩である。どのような氏神がいて、尽きることのないほどの功徳を修したとしても、法華経の名を聞かず、一念三千の観法を守護しないならば、退位の菩薩となって、永く無間地獄に沈むであろう。 ゆえに、扶桑略記には「また、伝教大師は八幡大菩薩のために神宮寺で自ら法華経を講じた。そこで、大神は聞き終わって、お告げして『私が正法を聞かなくなって久しく歳月が経っている。幸いに和尚に遇って正教を聞くことができた。まえまえから私のために種々の功徳を修してくれた。心から喜んでいる。どのようにしたら、その徳を謝することができよう。まえから私が所持している法衣がある』と言って、すなわちお告げの主は自ら宝殿を開いて、自分の手で紫の袈裟一つと紫の衣一つを捧げ、『大悲力をもって納めていただければ幸いです』と和尚に差し上げた。このときに、禰宜や祝人等は各々感嘆し不思議がって『今まで、このような珍しいことを見たことも聞いたこともない』と述べた。この大神の施された法衣は、今、山王院にある」と記されている。 今、思うに、八幡大菩薩は人王第十六代の応神天皇である。その時代は仏経がなかったので、ここに袈裟や衣があるはずがない。 人王第三十代の欽明天皇の治世三十二年に神と顕れられ、それ以来、弘仁五年までは、禰宜や祝人等が順次に宝殿を守護してきている。どの王の時に、この袈裟を納めたと理解したらよいのか。 禰宜等は「もとから見たこともないし、聞いたことがない」等と言っている。この大菩薩はどのようにして、この袈裟と衣を持っておられたのか。不思議である、不思議である。 -----― 10 又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代.仏法は二百六十余年なり、其の間に三論.成実・法相・倶舎 11 ・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗・日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人・其の数を知らず、又法 12 華経を読誦する人も争でか無からん、 又八幡大菩薩の御宝殿の傍には 神宮寺と号して 法華経等の一切経を講ず 13 る堂・大師より已前に是あり、 其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん 何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年 14 歳を歴る等と託宣し給ふべきや、 幾くの人人か法華経・一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ 15 給はざりけるやらん、 -----― また、欽明天皇以来、弘仁五年に至るまでは、王は二十二代を経、仏法は二百六十余年経っている。その間に三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗等の六宗七宗が日本国に渡ってきており、八幡大菩薩の御前で経を講ずる人々は数知れない。また、法華経を読誦する人も、どうしていないことがあろうか。 また、八幡大菩薩の御宝殿の傍らには神宮寺といって法華経等の一切経を講ずる堂が、伝教大師以前にあったのである。そのとき、きっと仏法を聞かれたことであろう。 どうして、今始めて「私が正法を聞かないでいて久しく歳月が経っている」とお告げなされたのであろうか。 どんなにか多くの人々が法華経や一切経を講じられたのに、どうしてこの御袈裟と衣を差し上げられなかったのであろうか。 |
三賢
小乗教で説く声聞の位のこと。五停心観・別相・総相をいう。これに四善根を合わせたものを七賢といい、四善根を内凡とし、三賢を外凡とする。
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十信
菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの最初の10の位。菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡と位置づけられる。円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。①信心(清浄な信を起こす位)②念心(念持して忘れることのない位)③精進心(ただひたすらに善業を修する位)④定心(心を一つの処に定めて動じない位)⑤慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)⑥戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)⑦回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)⑧護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)⑨捨心(空理に住して執着のない位)⑩願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。
―――
名字
天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたものの第二段階。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。名字即。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
―――
五品
法華経分別功徳品第17の文に基づいて『法華文句』巻10で説かれる「滅後の五品」のこと(法華経507~515㌻)。釈尊が亡くなった後に法華経を聞く人が得る功徳を5段階に分けて示したもの。①随喜品(法華経を聞いて歓喜すること)②読誦品(自分から学び記憶し読誦すること)③説法品(他の人に説き、読誦・書写を勧めること)④兼行六度品(以上の実践を主とし、付随的に六波羅蜜を実践すること)⑤正行六度品(以上の実践に加えて、本格的に六波羅蜜を実践すること)の五つ。
―――
一念三千の観法
己心に一念三千の諸法が具足するのを観ずること。天台大師は法華経の法理をもとに衆生の一念の心に三千の諸法が具足するということと、それを観ずる修法を摩訶止観に説いた。
―――
退位
位を退くこと。仏法においては退転を意味する。
―――
扶桑記
神武天皇から堀河天皇の寛治8 年(1094) までの編年史。 30巻。延暦寺の学僧皇円 (?~1169) の編。 12世紀末の成立。現存するのは,巻2~6 (神功皇后~聖武天皇) ,巻 20~30 (陽成天皇~堀河天皇) の 16巻分であるが,抜書きとして神武天皇から平城天皇までの部分があるため,散逸巻の一部分をうかがうことができる。
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伝教大師
7 67年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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神宮寺
神祇を祭祀するために、神社に付属しておかれた寺院の称。神宮院、神願寺、神供寺、宮寺などともいう。大部分は神社の境内かその付近に建てられたが、遠隔のところや、別に建立されたものもある。ここでいう神宮寺は承元2年(1208)、源実朝によって建てられた鶴岡八幡宮寺をさす。この神宮寺も焼けてしまったので、八幡宮とともに合わせて造営されたものと思われる。
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託宣
神仏が人にのりうつったり、夢にあらわれたりなどして、その意思を告げ知らせること。神に祈った事によって受けるお告げ。
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袈裟
サンスクリットのカシャーヤの音写で、くすんだ赤褐色が原義。ボロ布やくすんだ色に染めた布を継ぎ合わせて作った衣のこと。
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禰宜
昔、神主の下で祝の上に位した神職のこと。また一般に、神社に奉仕した神職の総称としても用いられた。
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祝
神主のもとで直接に神事の執行にあたった神職のこと。また、神主・禰宜と混同して、三者の総称としても用いられた。
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山王院
比叡山延暦寺東塔の叡山9塔のひとつ。伝教大師の安置した千手観音像があり、千手堂ともいう。擣から帰国した智証がここに住んだので、智証のことを山王院と呼ぶ場合もある。
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八幡は人王第十六代・応神天皇なり
鎌倉初期、八幡大菩薩は応身天皇であると言われていた。
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応神天皇
名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。
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欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い
扶桑略記巻3には、欽明天皇32年の項に「同じ此、八幡大明神筑紫に顕りたもう」とある。
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欽明天皇
510年~571年。継体天皇の嫡子。在位中に百済から仏法が公式に伝えられた。現在では一般に第29代とされるが、明治時代に歴代を正式に定めるまでは神功皇后を歴代に数えるなどし、第30代とするのが一般的だった。
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八幡大菩薩が正法の法味を喜ぶことを、扶桑略記にある伝教大師の故事を挙げて論証されている。
八幡大菩薩は、小乗では三賢の菩薩、大乗では十信位の菩薩、法華経では名字五品の菩薩であると位置づけられるが、いかなる高位の氏神で、過去の因行で無量の功徳を修めていたとしても、法華経の名を聞かず、「一念三千の観法」を守護しなければ、退位の菩薩となって、やがて無間地獄に永久に堕ちることになる。ゆえに、法華経の法味を聞くことを何よりの喜びとすると述べられている。
八幡大菩薩が法華経を聞くことを喜ぶ例証として引用されている扶桑記とは、比叡山延暦寺の学僧・皇円の著した「扶桑略記」のことで、神武天皇から堀河天皇までの時代を漢文体で書いた史書である。内容は高僧の伝記や諸寺の縁起など仏教関係の記事が多い。
時代の雰囲気や思想、風俗をよく伝えているといわれるが、私撰の歴史書であり、史実としては検討を要するものも少なくないとされる。全30巻のうち、現存するのは16巻と、幾つかの抄本だけである。
大聖人が引かれている伝教大師と八幡にかかわる故事は欠落している巻にあったものと思われる。しかし、現存する伝教大師伝等の資料にも、ほとんど同じ文がみられる。
すなわち、伝教大師が神宮寺で法華経を講じた際、八幡は「自分は久しく法音を聞かなかったが、幸い伝教大師に会って正教である法華経を聞くことができた。この功徳への感謝のしるしとして、かねてから所持していた紫の袈裟と衣を差し上げたい」といって、自ら宝殿を開き、伝教大師に捧げ、禰宜や祝などの神職の者達は「こうした奇事は前代未聞である」と驚いた。そのとき、八幡が布施した法衣は今、比叡山延暦寺東塔の叡山九院の一つ・山王院にある(取意)というものである。
この故事について、八幡が法衣を所持していたことについて、大聖人は「不思議なり」と仰せられている。すなわち、人王15代応神天皇は八幡大菩薩のあらわれとされるが、その時代にはまだ仏経が渡来していないから、八幡がこれ以前から袈裟・衣を所持していた道理がないわけである。
仏経は、人王30代欽明天皇(在位、0539~0571)の治世13年に、朝鮮半島の一国である百済の聖明王の使者が、仏像と経教と法師とを大和朝廷に献じてきた。これが我が国における仏経の公伝とされる。そして、八幡が欽明天皇の治世32年に神として尊崇されるようになって以来、禰宜・祝等は宝殿を引き続いて守護してきている。その彼らが八幡の法衣のことを「元来見ず聞かず」と言っているのである。どの王の時にこの袈裟等が納められたか理解できなくなる。大聖人は、一体、八幡大菩薩はこの袈裟・衣をどのようにして所持するに至ったのか、まことに不思議であるといわれているのである。
更に仏教伝来以後、伝教大師の時まで、八幡大菩薩の前で法華経が講ぜられたことは、たくさんあったのに、なぜ八幡は「我法音を聞かずして久しく歳年を歴る」といったのであろうか。また、そうした法華経等を講じた高僧に袈裟・衣を奉らなかったのはなぜか、と設問されている。
0579:15~0580:09 第六章 伝経以前は法華の実義顕れずtop
| 15 当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども 其の義はいまだ顕れざりける 16 か、 去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比・伝教大師比叡山にして南都・七大寺の六宗の碩徳・十余人を奉請して法 17 華経を講じ給いしに、 弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨き三諦の未顕 18 を悲しむ」 又云く「長幼三有の結を摧破し 猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云、 其の後延暦二十一年正月十九日 0580 01 に高雄寺に主上・行幸ならせ給いて 六宗の碩徳と伝教大師とを召し合はせられて 宗の勝劣を聞し食ししに南都の 02 十四人皆口を閉ぢて鼻のごとくす、 後に重ねて怠状を捧げたり、 其の状に云く「聖徳の弘化より以降た今に二百 03 余年の間・講ずる所の経論其の数多し、 彼れ此れ理を争い其の疑未だ解けず而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」 04 等云云、 此れをもつて思うに伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか、 八幡大菩薩の見ず聞かずと 05 御託宣有りけるは指なり指なり白なり白なり。 -----― まさに、伝教大師以前の人は法華経の文字だけは読んだけれども、その義はいまだあらわれていなかったものと理解すべきであろう。 去る延暦20年11月の中旬ごろ、伝教大師が比叡山で南都七大寺の六宗の碩徳十余人を招請して、法華経を講じられたところ、和気広世と真綱の二人の臣下はこの法門を聞いて、嘆いて「法華一乗が権教にさえぎられとどこおっていたのを嘆き、三諦円融の理がいまだあらわれていなかったのを悲しむ」と言い、また「年のいった者も、いかない者も、三界の煩悩を砕き破りながら、いまだ権教で説く歴劫修行の轍を改めていない」等と言っている。 その後、延暦21年正月19日に高雄寺に桓武天皇が出かけられて、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合わされて、宗旨の勝劣をお聞きになられたところ、南都の14人は皆、口を閉じて鼻のようにしてしまい、後に重ねて詫び状を献上したのである。その状には「聖徳太子が仏教を弘め教化されて以来、今に至る二百余年の間、講じられた経論の数は多い。お互いに法理の優劣を争い、その疑問は解けず、しかも、この最妙の円宗は、いまだ明らかになっていなかったのである」等とある。このことから思うに、伝教大師以前には法華経の御心はいまだあらわれていなかったということである。八幡大菩薩が「これまで見たことも聞いたこともない」と言ったのは、まさしくこのことをさしていることが明らかである。 -----― 06 法華経第四に云く「我が滅度の後に能く竊に一人の為にも法華経を説かん、 当に知るべし是の人は則ち如来の 07 使なり 乃至如来則ち 衣を以て之れを覆い給うべし」等云云、 当来の弥勒仏は法華経を説き給うべきゆへに釈迦 08 仏は大迦葉尊者を御使として衣を送り給ふ、 又伝教大師は仏の御使として 法華経を説き給うゆへに 八幡大菩薩 09 を使として衣を送り給うか、 -----― 法華経巻四の法師品第十には「私の入滅の後に、よくひそかに一人のためにも法華経を説くならば、まさに、この人は如来の使である、と知るべきである。(中略)如来はすなわち衣をもって、この人を覆われるであろう」等とある。 未来の弥勒仏は法華経を説かれるがゆえに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使いとして衣を贈られたのである。また、伝教大師は仏の御使いとして法華経を説かれたがゆえに、八幡大菩薩を使いとして衣を贈られたものであろうか。 |
比叡山
滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳(848メートル)といい、そのやや西に四明岳(838メートル)がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。
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南都
奈良のこと。平安京(京都)を北都というのに対していう。
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七大寺
奈良(南都)の中心的な七つの寺。諸説あるが、一般には東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の7カ寺をさす。これらの寺は、奈良時代までに伝わり国家に公認されていた仏教学派(南都六宗)を研究する中心だった。
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六宗
奈良時代までに日本に伝わった仏教の六つの学派。三論・成実・法相・俱舎・華厳・律の六宗。
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弘世
生没年不詳。平安初期の貴族で、和気清麻呂の長子。弟の真綱と共に深く仏法を信じ、日本天台宗の成立に貢献した。
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真綱
783年~846年。平安初期の貴族で、和気弘世の弟。弘世とともに伝教大師最澄に帰依し、和気氏の氏寺である高雄山寺に南都六宗の高僧14人を集め、伝教大師を講師とする法華会を主催した。
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三有
三界のこと。仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
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結
結縛の意味。煩悩のこと。
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歴劫
成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語(法華経33㌻)。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
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高雄山
京都市左京区梅ケ畑にある。現在は真言宗東寺派の別格本山高尾山神護寺となっている。これは延暦年間に和気清麻呂が河内に建てた神興寺を天長元年(0824)に移して、それまでの高尾寺と合したものである。したがって、伝教大師が法論を行った延暦21年(0802)には、まだ真言宗とは関係がなかった、真言宗の祖、空海が帰朝したのは、大同元年(0806)の8月である。
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主上
天皇のこと。
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行幸
天子の外出。ただし「御幸」は主体がより広く、上皇・法皇・女院にも使う。
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退状
あやまり状。
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聖徳
574年~622年。飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている(「開目抄」、230㌻)。
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円宗
円教である法華経をよりどころとする宗派のこと。天台宗の別名。
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闡揚
はっきりあらわすこと。明らかに示すこと。
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弥勒仏
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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大迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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八幡大菩薩が伝教大師に法衣を捧げた際の託宣について生じる、種々の疑問への答えを示される段である。
すなわち、八幡の前で法華経を読誦した人は、伝教大師以前にも多くあったが、伝教大師のみが法華経の実義を正しく踏まえていたからである、と結論されている。
法華経そのものは、聖徳太子自身が法華義疏を著したとされているように、法華経は当初から尊崇されてきたが、法華経の実義を明らかにした人はいなかった。
伝教大師が初めて法華経の正義を説き明かしたことを物語る事実として、伝教大師の比叡山での講経、高雄寺での破折に対し、南都六宗の碩徳が屈伏して述べた言葉等を示されている。
延暦20年(0802)月中旬、伝教大師は南都の六宗の高僧十余人を比叡山に招き、法華経を講じた折、六宗の邪義を厳しく責めたので、彼らは一同に周章狼狽するという醜態をさらした。
この講席に参加していた和気清麻呂の子・和気広世・真綱の兄弟は「一仏乗を説く法華経の妙理が権教の考え方にはばまれ、三諦円融の義がいまだあらわれていないことを悲しむ」、また「諸宗は三界六道の迷いを打ち破ってはいるが、いまだ歴劫修行の跡を踏襲している」(取意)等といって、慨嘆した。
一仏乗の妙理である法華経がこれまで正しく理解されていなかった状態を嘆いたものであり、法華経の実義が伝教大師以前にはまだあらわれていなかったことを裏づけている。広世は大学別当、真綱は検非違使別当、美作守の要職にあり、後にともに伝教大師に帰依している。
更に延暦21年(0803年)1月19日には、50代桓武天皇の勅によって、高雄寺において南都六宗七大寺の善議・勝猷・奉基・勤操等14人の学僧と、伝教大師を対決させられた。
伝教大師は六宗の立義を一つ一つ取り上げ、経釈に照らして理路整然と破折したため、彼らは一言も答えることができず、口はその用をなさずに「鼻のごとく」であったという。
同じく29日、和気広世・大伴国道の両吏が勅使として、六宗の学僧を詰問したので、皆、大師に帰伏する旨の「怠状」、すなわち謝り状を奉ったのである。
それには「聖徳太子の弘法以来、二百余年の間に、講じられた経論は数多い。しかし、互いに勝劣を争って、いまだその疑いが解けなかった。この最妙の法華の円宗はいまだ世間に弘められていなかった」(取意)等と記されており、伝教大師が法華経の実義を初めて明かしたことを、この高僧達も認めているのである。
この公場対決の経緯については、天台宗の例講問答の草案を集めた天台直雑に説かれているので、少し長くなるが、引用しておこう。
「延暦二十一年正月十九日、高雄寺に於いて、桓武皇帝、勅在って、六宗の碩徳善義、勝献、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏等を上首と為したる二百余人の貴僧、高僧、根本大師と召し合わせられ、宗論有り。爾の時に大師、三論の三蔵三転法輪、法相の三時五性各別、華厳の四教五教根本枝末、六相十玄等、総じて諸宗の大綱宗義を破し、天台一宗最極最頂の由を立てたもう。爾の時、諸宗の大綱、大諍論し、大師を邪見と謗ず。既に破言に及ぶ。然りと雖も大師、重ねて種種の誠証を出し、胸臆の口伝を破したもう。爾の時、諸徳一言に舌を巻いて諍論に及ばず。一同にして頭を傾け、手を叉えて大師の御弟子と天台宗義に帰し、始めて頓極の旨を得。爾の時に天子、大いに驚きたもう。而して同二十九日、弘世、国道両人の勅使を以って、重ねて六宗七寺に仰せ付けらるる時、各帰依の状に云く……」と。このあと、謝表が続くが、本抄で引用されている部分はそのなかほどにある。
大聖人は、これらの事実を挙げられて、伝教大師以前には法華経の実義を明らかにした人がいなかったから、八幡大菩薩も、それ以前に法衣を捧げたことがなかったのであると示されている。
法華経法師品第十には「我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり」とあり、その「如来の使」を「如来即ち、衣を以って之を覆いたもう為し」と説かれていることを示され、八幡大菩薩が伝教大師に法衣を捧げたのは、この法華経の文のとおりの振る舞いをしたのであると述べられている。
これは、先の幾つかの疑問のうち、この法衣を八幡は、いつ、どこから手に入れたのかとの問題に対する答えとなっているといえる。
すなわち、歴史的に、いつの時かに手に入れていたものではなく「如来則ち、衣を以て之を覆いたもう」とあるように、八幡大菩薩は如来の代理として、同じく如来の使いとして法華経を説いた伝教大師に奉ったものであるということである。
0580:09~0581:04 第七章 謗法治罰せぬ八幡を叱責top
| 09 又此の大菩薩は伝教大師已前には 加水の法華経を服してをはしましけれども先生の 10 善根に依つて大王と生れ給いぬ、 其の善根の余慶・神と顕れて此の国を守護し給いけるほどに 今は先生の福の余 11 慶も尽きぬ、 正法の味も失せぬ謗法の者等・国中に充満して年久しけれども 日本国の衆生に久く仰がれてなじみ 12 せし大科あれども捨てがたく・をぼしめし 老人の不幸の子を捨てざるが如くして天のせめに合い給いぬるか、 又 13 此の袈裟は 法華経最第一と説かん人こそ・かけまいらせ給うべきに伝教大師の後は第一の座主義真和尚・法華最第 14 一の人なれば・かけさせ給う事其の謂あり、 第二の座主・円澄大師は伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子 15 なり・すこし謗法ににたり、 此の袈裟の人には有らず、 第三の座主・円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれ 16 ども心は弘法大師の弟子・大日経第一・法華経第二の人なり、 此の袈裟は一向にかけがたし、設いかけたりとも法 17 華経の行者にはあらず、 其の上又当世の天台座主は一向真言の座主なり、 又当世の八幡の別当は或は園城寺の長 18 吏或は東寺の末流なり、 此れ等は遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵・近くは伝教大師の讐敵なり、 譬へば 0581 01 提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし、又猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし、 当世叡山の座 02 主は伝教大師の八幡大菩薩より給て候し御袈裟をかけて 法華経の所領を奪ひ取りて真言の領となせり、 譬へば阿 03 闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。、 04 而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給わざるは第一の大科なり -----― また、この大菩薩は伝教大師以前には、水を加えて薄めたような法華経を服しておられたけれども、前世の善根により大王として生まれられた。 その善根の余光で神と顕れてこの国を守護されているうちに、今では前世の福徳の余光も尽きてしまい、正法の法味もなくなった。 謗法の者等が国中に充満して年久しくなるけれども、日本国の衆生に長いあいだ尊まれ、なじんできたために、衆生に大罪があっても見捨てがたく思われ、年とった者が不幸な子を見捨てないようにしていて、天の責めにあわれたものであろうか。 また、この袈裟は法華経最第一と説く人こそが懸けられるべきで、伝教大師の後は、第一代座主・義真和尚は法華最第一とした人なので懸けられて当然である。 第二代座主・円澄大師は、伝教大師の御弟子であるけれども、また、弘法大師の弟子でもあり、少し謗法のようにみえる。子の袈裟を懸けるべき人ではない。 第三代座主の円仁・慈覚大師は、名は伝教大師の御弟子であるけれども、心は弘法大師の弟子であり、大日経を第一、法華経を第二とする人である。この袈裟は全く懸ける資格がない。たとえ懸けたとしても、法華経の行者ではない。 そのうえ、また、今の世の天台座主は全く真言の座主である。また、今の世の八幡神社の別当は園城寺の長吏か、あるいは東寺の末流の者である。これらは遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵であり、近くは伝教大師の讐敵(しゅうてき)である。例えば、提婆達多(だいばだった)が大覚世尊の御袈裟を懸けたようなものであり、また、猟師が仏の衣を着て師子の皮を剝いだようなものである。 今の世の比叡山の座主は、伝教大師が八幡大菩薩からいただいた御袈裟を懸けて、法華経の領地を奪い取って真言の領地としている。例えば、阿闍世王が提婆達多を師としたようなものである。そうであるのに、八幡大菩薩がこの袈裟を剝ぎ、奪い返されないのは、第一の大きな過ちである。 |
加水の法華経
水を加えられ、薄められた法華経のこと。すなわち、仏の意を知らないため、成仏の直道である法華経に自己の我見を加えること。涅槃経巻五には「その時に諸賊醍醐をもっての故に、これに加うるに水をもってす」とあり、章安大師の涅槃経疏には「醍醐」を真道、「加水」を我見にたとえている。
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先生
前世・過去世のこと。
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善根
「ぜんごん」とも読む。善の果報を招き生ずる善因のこと。草木の根が、幹や枝を成長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので善根という。
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余慶
功徳善根の報いによって起こった慶事のこと。祖先の行った善根の報いが子孫によって現れたり、前世に積んだ全魂の報いが残って今世にあらわれたりした吉事をいう。また、ものの余ることの意もある。
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謗法
誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
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義真和尚
781年~833年。平安初期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の初代座主。伝教大師最澄の弟子で、伝教大師の通訳として共に唐に渡った。伝教没後、延暦寺の運営を担い、824年に初代天台座主となった。▷
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円澄大師
772年~837年。平安初期の天台宗の僧。伝教大師最澄の弟子。比叡山延暦寺の初代座主である義真の後を受けて第2代座主となった。日蓮大聖人は「報恩抄」(310㌻)で、伝教大師の教えは義真には純粋に伝わったが、円澄からは半ば密教が入って濁乱したとされている。
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円仁慈覚大師
794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。慈覚大師ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(281㌻、305㌻以下など)。
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当世の天台座主は一向真言の座主なり
日本天台宗は第3代座主慈覚以降、真言の影響を受けて理同事勝を唱え、法華経第一をたてないのみならず、真言に重きをおいてきたことをいう。
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天台座主
日本天台宗では、天長元年(824年)に就任した義真を初代とする。
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当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流なり
鎌倉時代における鶴岡八幡宮の歴代別当職は、園城寺系と東寺系の二派に独占されていたということ。
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別当
僧官名。寺社の事務を統制する最高責任者として置かれた。法隆寺・東大寺・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などの別当が有名。
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園城寺
滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門(比叡山延暦寺)に対する寺門をいう。大友皇子の子、大友与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の3帝の誕生水があるので御井(三井)と呼ばれた。比叡山の円珍(智証)が貞観元年(859年)に再興し、同6年(864年)12月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁(慈覚)門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦4年(993年)には比叡山から円珍門徒1000人余りが園城寺に移り、以降、山門(円仁派)と寺門(円珍派)の抗争が続いた。
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長吏
寺の事務を統轄する僧の役職。園城寺(三井寺)などの貫主の名称。
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東寺
教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(796年)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。
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提婆達多
サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
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猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし
涅槃経巻四には「我涅槃の後、無量百歳にして、四道の聖人、悉く復涅槃し、正法滅して後、像法の中に於いて、当に比丘有るべし。像は律を持つに似て、少しく経を読誦す。飲食を貪嗜して其の身を長養し、身に被服する所、麤陋醜悪、形容憔悴、威徳有ること無し。牛羊を放畜し、薪草を擔負す。頭鬚髪爪、悉く皆長利なり。袈裟を服すと雖も猶猟師の如し。細視徐行すること、猫の鼠を伺うが如く、常に是の言を唱う、『我羅漢を得』と。諸の病苦多くして、糞穢に眠臥す。外に賢善を現じて、内に貪嫉を懐く。瘂法を受くる婆羅門等の如し。実は沙門に非ずして、沙門の像(かたち)を現ずるのみ。邪見熾盛にして、正法を誹謗す」とある。
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阿闍世王
釈尊在世から滅後にかけてのインドの大国・マガダ国の王。阿闍世はサンスクリットのアジャータシャトルの音写。未生怨と訳す。本来の意味は「敵対する者が生じない(無敵)」との意だが、中国・日本では「生まれる前からの敵」という解釈が広がった。釈尊に敵対していた提婆達多にそそのかされ、釈尊に帰依し外護していた父を幽閉して死亡させ、自ら王位についた。その後も、提婆達多にそそのかされて、象に酒を飲ませてけしかけさせ、釈尊や弟子たちを殺そうとしたが失敗した。後に父を殺した罪に悩み、全身に大悪瘡(悪いできもの)ができた。その際、大臣・耆婆の勧めによって釈尊のもとに赴き、その説法を聴聞し、釈尊が月愛三昧に入って放った光が阿闍世に届くと、彼をむしばんでいた大悪瘡はたちどころに癒えたという。釈尊入滅後、第1回の仏典結集を外護したと伝えられる。
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八幡大菩薩は先生の善根により大王と生まれ、神と崇められてきたのであるが、国中に充満している謗法の者を治罰しないゆえに、梵天・帝釈等の天の責めを被ったのであると述べられ、謗法と化した比叡山座主の衣をはぎとらないのは第一の大科であると、八幡を叱責されている。
八幡大菩薩について「大王と生れ給いぬ」といわれているのは、人王第15代応神天皇として生まれたとの伝承に基づいての仰せである。
応神天皇は、在位41年、111歳で崩じたが、その善根の余光で八幡神として崇められ、我が国を守護してきた。扶桑略記には「今の八幡宮なり」、帝王編年記にも「今の八幡宮は此の天皇なり」とある。
しかし、今は余慶も尽きて、日本の国からは「正法の味」は失せ、謗法が国中に充満している。本来なら八幡神は、謗法を治罰しなければならない責任があるにもかかわらず、情にとらわれて罰しないでいるために、梵釈等の「天のせめ」を受け、宝殿を焼かれるはめになったのであろうといわれている。
また、八幡が伝教大師に与えた法衣は、「法華経最第一」と説いた正師にして初めて懸ける資格があるのに、比叡山延暦寺の第二代以降は伝教大師以来の清流を濁し、真言密教に堕してしまったのであるから資格を失っている。八幡神はこの法衣を天台座主から剝いで取り返すべきであるのに、これをしないことは、大なる罪にあたると弾劾されている。
更に鎌倉八幡宮の別当も、密教化した天台宗寺門派総本山・園城寺の長吏か、真言宗の本山・東寺の末流がその任に就いていたのである。
彼らはすべて、遠くは「法華経最第一」と説いた釈迦・多宝・十方の諸仏に背く「大怨敵」であり、近くは天台宗の開祖・伝教大師の正義に違背する「讐敵」であり、したがって彼らが伝教大師の衣を受け継いでいる姿は、あたかも「提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし」とたとえられている。
第三代慈覚以後の座主や、そのもとに列なる僧等は、伝教大師の正しい教えから外れ、邪師となっているにもかかわらず、伝教大師の権威だけは巧みに利用していたのである。
八幡大菩薩の衣も、そのために利用されていたのであるから、結果的に彼らの謗法を助けることになっていた。
ゆえに、八幡大菩薩が彼らから「袈裟をはぎかへ」さないでいるのは「第一の大科」であると叱責されているのである。
0581:04~0582:02 第八章 法華行者の受難傍観を難ずtop
| 04 此の大菩薩は法華経の御座にして行者を守 05 護すべき由の起請をかきながら 数年が間・法華経の大怨敵を治罰せざる事 不思議なる上、たまたま法華経の行者 06 の出現せるを来りて守護こそなさざらめ、 我が前にして、 国主等の怨する事・犬の猿をかみ蛇の蝦をのみ鷹の雉 07 を師子王の兎を殺すがごとくするを 一度もいましめず、 設いいましむるやうなれども・いつわりをろかなるゆへ 08 に梵釈・日月・四天等のせめを八幡大菩薩かほり給いぬるにや、例せば欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・已上三代の 09 大王・物部大連・守屋等がすすめに依りて宣旨を下して 金銅の釈尊を焼き奉り堂に火を放ち僧尼をせめしかば天よ 10 り火下て内裏をやく、 其の上日本国の万民とがなくして悪瘡をやみ死ぬること大半に過ぎぬ、結句三代の大王・二 11 人の大臣・其の外多くの王子・公卿等・或は悪瘡或は合戦にほろび給いしがごとし、 其の時日本国の百八十の神の 12 栖給いし宝殿皆焼け失せぬ 釈迦仏に敵する者を守護し給いし大科なり、 又園城寺は叡山已前の寺なれども智証大 13 師の真言を伝えて今に長吏とがうす 叡山の末寺たる事疑いなし、 而るに山門の得分たる大乗の戒壇を奪い取りて 14 園城寺に立てて叡山に随わじと云云、 譬へば小臣が大王に敵し子が親に不幸なるがごとし、 かかる悪逆の寺を新 15 羅大明神みだれがわしく守護するゆへに 度度・山門に宝殿を焼る、 此のごとし、今八幡大菩薩は法華経の大怨敵 16 を守護して天火に焼かれ給いぬるか、例せば秦の始皇の先祖・襄王と申せし王・神となりて始皇等を守護し給いし 17 程に秦の始皇・大慢をなして 三皇五帝の墳典をやき三聖の孝経等を失いしかば沛公と申す人・剣をもつて大蛇を切 18 り死ぬ秦皇の氏神是なり、 其の後秦の代ほどなくほろび候いぬ 此れも又かくのごとし、安芸の国いつく島の大明 0582 01 は平家の氏神なり平家ををごらせし 失に伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失われて 其の後平家ほどなく・ほろ 02 び候いぬ此れも又かくのごとし。 -----― この大菩薩は法華経の会座で、法華経の行者を守護するとの誓いを書きながら、数年のあいだ法華経の大怨敵を治罰しなかったことは不思議であるのに、そのうえ、たまたま法華経の行者が出現したのに、来て守護をもしないのみでなく、自分の目の前で、犬が猿を噛み、蛇が蛙を飲み、鷹が雉を、師子王が兎を殺すかのように国主等が法華経の行者を迫害しているのを、一度も戒めず、たとえ戒めるようであっても本心からではないゆえに、梵天・帝釈天や日天・月天や四天王等の責めを八幡大菩薩が受けられたのであろう。 例えば、欽明天皇・敏達天皇・用明天皇という三代の大王が、物部大連・守屋等の勧めによって、命令を下して金銅の釈尊像を焼き、堂に火を放ち、僧尼を責めたので、天から火が降ってきて内裏を焼いてしまった。そのうえ、日本国の万民は罪なくして悪性のできものを病んで、死ぬ者は大半を越えた。結局、三代の大王・二人の大臣・その他、多くの王子や公卿等が、悪性のできものか、あるいは合戦によって滅んでしまわれたようなものである。そのとき、日本国の多くの神が住まわれていた宝殿は皆、焼失してしまった。釈迦仏に敵対する者を守護された大罰である。 また、園城寺は比叡山延暦寺以前の寺であるけれども、智証大師の真言を伝えている寺で、今は長吏と称している。 比叡山の末寺であることは疑いないのに、比叡山の得分である大乗の戒壇を奪い取って園城寺に建立して、比叡山に従うまいとしたことは、例えば、小臣が大王に敵対し、子が親に逆らうようなものである。このような悪逆の寺を、新羅大明神が誤って守護するゆえに、たびたび比叡山の僧徒によって宝殿を焼かれたのである。 同様に、今、八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して、天の火に焼かれたのであろう。例えば、秦の始皇帝の先祖の襄王という王は神となって始皇帝等を守護されたが、秦の始皇帝は大慢心を起こして三皇五帝の典籍を焼き、三聖の孝経等を失ったので、沛公という人が剣をもって秦王朝の氏神である大蛇を切り殺した。その後、秦の代は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。 安芸の国の厳島の大明神は平家の氏神であるが、平家をおごらせた罪によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩等に神罰を受けて征伐され、その後、平家は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。 |
敏達天皇
(0538~0585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。
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用明天皇
欽明天皇の第4皇子。在位、585年~587年。仏教を信仰することを群臣に協議させたところ、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が激化したと伝えられる。聖徳太子は同天皇の第2皇子である。用明天皇は現代では31代と数える。近代までは、一般的に神功皇后を天皇歴代に数え入れていた。
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物部の大連
生没年不明。物部尾輿のこと。守屋の父。日本書紀巻十九等によると欽明天皇の時代に大連となり、朝鮮政策をめぐって対立者の大連大伴金村を失脚させ、大連を独占した。ついで、蘇我稲目と対立し、排仏・崇仏で激しく争った。
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守屋
(~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
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内裏
古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所、禁裏、大内などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。
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公卿
朝廷や王族に仕える貴族の総称。
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百八十の神
日本国を守護するとされる数多くの神々。
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叡山
滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳(848メートル)といい、そのやや西に四明岳(838メートル)がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。
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山門
滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳(848メートル)といい、そのやや西に四明岳(838メートル)がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。園城寺を寺門というのに対し山門という。
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大乗の戒壇
大乗戒を授ける儀式が行われる戒壇。日本では弘仁13年(0822)6月11日、嵯峨天皇の勅によって比叡山延暦寺に法華一乗の円頓戒壇が建立された。
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新羅大明神
園城寺北院にある新羅善神堂の祭神で、園城寺の鎮守神とされた。天安2年(0858)智証が唐から帰朝する時、船中に老翁が現れ「自分は新羅国の明神であるが、仏法を護持して日本に垂迹っする」と述べたことから、定観2年(0860)園城寺に堂宇を修復する際、社殿を設け、明神の像を作って守護神として祀ったと伝えられる。
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秦の始皇
(紀元前259~210)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246~221)。姓は嬴、氏は趙、諱は政。現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した
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襄王
中国・周代のひとつである秦の初代の王。西周の幽王が殺されたとき、幽王の子・平王を東都楽邑まで護衛し、東周の建国に寄与し、その功によって封土を受け諸候に列せられた。末裔の始皇帝に至って中国初の統一王朝・秦が誕生した。
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三皇五帝の墳典
三皇五帝は中国古代の伝説上の聖天子8人の総称。三皇は燧人・伏羲 ・神農。別に天皇・地皇・人皇ということもある。五帝は黄帝 ・颛顼・高辛・唐堯・虞舜 のことで、彼らの残したとされる典籍。
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三聖
中国古代の三人の聖人のこと。孔子・老子・顔回をいう。その他、文王・武王・周公旦をいう場合などもある。
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孝経
孝(親に対して子が尊敬し仕えること)について記した儒教の経典の一つ。孔子の弟子である曾子の門人が編纂したとされる。
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沛公と申す人・剣をもつて大蛇を切り死ぬ
沛公が亭長であったころ、行く道を遮ろうとした蛇を、剣を抜いて切ったことをさす。史記高祖本紀第八等には「高祖……豊西の沢中に到り、止まりて飲す……行前する者、還りて報じて曰く、前に大蛇あり、径に当たる。願わくは還れと。高祖、酔いて曰く、壮士行く、何ぞ畏れんと。乃ち前みて剣を抜き、撃ちて蛇を斬る。蛇遂に分かれて両と為る」とある。これを、劉邦を漢に、蛇を秦になぞらえ、漢が秦を滅ぼすとして劉邦が喜んだという。
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沛公
劉邦のこと。紀元前247年~前195年。前漢の初代皇帝。廟号は高祖。沛県の出身のため沛公と呼ばれる。項羽とともに秦を滅ぼしたが、その後の覇権を項羽と激しく争い、紀元前202年、垓下の戦いに勝利し天下を統一。漢を建国した。
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安芸の国
山陽8ヵ国の一つ。現在の広島県。
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いつく島の大明神
厳島神社のこと。、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。宗像三女神を祀る。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
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平家
「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は 揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)。その伊勢平氏の 傍流であったが、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ 。
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伊勢太神宮
三重県伊勢市にある神社。内宮といわれる皇大神宮と外宮といわれる豊受大神宮とから成り、両宮のそれぞれに別宮・摂宮・末社などの所属の宮社を持つ。内宮は天照坐皇大御神、外宮は豊受大御神を祭神としている。
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ここでは、八幡大菩薩が法華経の行者・日蓮大聖人を守護せず、大聖人に迫害を加える謗法の者をただの一度も戒めないゆえに、梵天・帝釈・日月・四天王等の責めを被ったのであると、古例を挙げて八幡を呵責されている。
「法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請」とは、法華経安楽行品第十四の「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」、同嘱累品第二十二の「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」等の文をさす。
八幡大菩薩は日本の守護神であり、民族神であるが、新池御書にも「今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん」(1442)と仰せられており、法華経の会座に列なっていたことを述べられている。
にもかかわらず、八幡は末法の法華経の行者・日蓮大聖人を守護せず、国主等が大聖人を迫害する様が「犬の猿をかみ蛇の蝦をのみ鷹の雉を師子王の兎を殺す」ようであるのに、八幡は彼らに一度も治罰を加えず、傍観しているため、八幡宮の炎上は梵天・帝釈の責めを受けた結果であろうといわれている。
仏敵を守護する大科の先例
そのことに関連し、古代における仏敵を守護した諸神が罰を被った先例を示されている。まず日本に仏教が渡来した当時の史実を挙げられている。
既述したように、仏教は29代欽明天皇の時代に日本に伝来したが、この仏教を信ずるかどうかについて、天皇が臣下に意見を聞いたところ、崇仏と排仏の二派に分かれた。崇仏派の中心は大臣蘇我稲目であり、排仏派の中心は大連物部尾輿である。
欽明天皇は結局、試みに蘇我氏のみに仏像を崇めさせることにしたが、ほどなくして疫病が流行したため、物部氏はそれを理由に排仏を天皇に進言し、排仏派の勢力が増大した。
しかし、その後も決着がつかないまま「欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・已上三代の大王」の時代は仏教を用いることはなかった。
「守屋」とは物部尾輿の子で、弓削の守屋のことである。父の死後、大連に任じられている。
この間、疫病は依然としてやまず、死者が続出していた。弓削の守屋は、これを蘇我氏が仏教を崇めているせいであるとして、天皇に讒奏した。そのため「仏法をよろしく退けるべきである」旨の勅宣が下ったのである。守屋等は蘇我氏が崇めていた寺に火を放って、僧尼の袈裟をはぎ、鞭をもって責めた。
その後、天皇の住む内裏が焼失し、そのうえ、国中に悪瘡が流行して、死者が大半を超えたという。
結局、排仏派の弓削の守屋と、崇仏派の蘇我の馬子・聖徳太子とのあいだで四度にわたって戦いが行われ、崇仏派が勝利を収めて、正式に仏教は日本に受け入れられたのであった。
その折「日本国の百八十の神の栖給いし宝殿皆焼け失せ」たのである。この「百八十の神」の災禍は、釈尊に敵対する者を守護した罪によると、大聖人は喝破されているのである。
次に、園城寺の守護神とされる新羅大明神の例を挙げられている。園城寺は白鳳時代、39代弘文天皇の皇子・大友与多王が建立したのが始まりとされ、その歴史は八世紀末創建の比叡山延暦寺より古い。天台座主記等によると、園城寺は貞観8年(0866)5月14日、延暦寺別院とされた。
同10年(0868)6月、円珍が延暦寺座主になると、園城寺を仏法灌頂道場とし、地名の御井を改めて三井とし、寺主を真言宗東寺にならって「長吏」と号していた。しかし「叡山の末寺」だったことには変わりはなかった。
しかるに園城寺は、独自の戒壇の勅許を朝廷に請願し、大聖人御在世の文応元年(1260)1月、園城寺の三摩耶戒壇の勅許が下されたのである。叡山の大乗戒壇は伝教大師が建立したものであり、園城寺はこれに対抗しようとしたのである。
この悪逆のゆえに、園城寺の守護神である「新羅大明神」は、その宝殿を何度も焼かれたのであると指摘されている。
天安2年(0858)に智証が唐から帰朝の時、船中に老翁が現れ、自分は新羅国の明神であるが、仏法を護持し、日本に垂迹すると教示したので、後に園城寺の堂塔を修復する際、貞観2年(0860)、明神の像を造り、神殿を設けて安置し、守護神として祀ったと伝えられている。
同様に、今の八幡大菩薩も「法華経の大怨敵」たる謗法の者を守護したために、「天火」に宝殿を焼かれたのだと述べられている。
更に、秦の氏神とされた大蛇を漢の沛公が剣で切り殺したところ、間もなく秦は滅亡した。
平氏も、その氏神である厳島大明神が打ち破られたあと、滅亡した。鎌倉北条氏も、八幡宮が焼けたことから、ほどなく滅びるであろうと、大聖人はいわれているのである。
0582:03~0582:16 第九章 世間の目を抉る大科を責むtop
| 03 法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、 日蓮が法華経の 04 肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂.肉眼・天眼・慧眼・法眼.仏眼な 05 り、 此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に 普賢経に云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五 06 眼を具する事を得給う」等云云、 此の方等経と申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田・応供の中 07 の最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼・二乗・菩薩の眼・諸仏の御眼なり、而るに法華経 08 の行者を怨む人は人天の眼をくじる者なり、 其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を 結構し給う 09 神なり、 而るに弘法・慈覚・智証等は正しく書を作りて法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず後に望れば戯論 10 と作る力者に及ばず履者とりにたらずと・かきつけて四百余年、 日本国の上・一人より下・万民にいたるまで法華 11 経をあなづらせ一切衆生の眼をくじる者を守護し給うは あに八幡大菩薩の結構にあらずや、 去ぬる弘長と又去ぬ 12 る文永八年九月の十二日に 日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に 国主のはからいとして八幡大菩薩 13 の御前にひきはらせて一国の謗法の者どもに・わらわせ給いしは・あに八幡大菩薩の大科にあらずや、 其のいまし 14 めとをぼしきは・ただどしうちばかりなり、 日本国の賢王たりし上・第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよ 15 もをはせじ、又偏頗はよも有らじとは・をもへども 一切経並に法華経のをきてのごときんば・この神は大科の神な 16 り、 -----― 法華経の第四に「仏の滅度の後に、能く其の義を解する人は諸の天人世間の眼である」等と説かれている。日蓮が法華経の肝心である題目を日本国に弘通しているのは、これすなわち「諸の天人世間の眼」ではないか。 眼には五ある。すなわち肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼である。この五眼はみな法華経から生ずるのである。ゆえに観普賢菩薩行法経に「この方等経は、これ諸仏の眼である。諸仏はこれによって五眼を具えることができたのである」等と説かれている。このなかで「方等経」とあるのは法華経をいうのである。また同じく観普賢菩薩行法経に「人天の福田であり、応供のなかの最たるもの」等と説かれている。 これらの経文のごとくであれば、妙法蓮華経は人天の眼であり、二乗や菩薩の眼であり、諸仏の御眼である。ゆえに、法華経の行者を怨む人は人天の眼をえぐる者であり、その人を罰しない守護神は一切の人天の眼をえぐる者の味方をしている神である。 しかるに弘法、慈覚、智証等は、間違いなくその著書に「法華経は無明の分際で、明の分位ではない」「後の勝れた経に比べれば戯れの論である」「力者に及ばず、履物取りにも足りない」と書きつけている。それ以来四百余年、日本国中の上一人から下万民に至るまで法華経を侮らせ、一切衆生の眼をえぐる者を守護しているのは、八幡大菩薩ではないか。 去る弘長元年と文永八年九月十二日に、日蓮にはいささかの失もないのに、ただ南無妙法蓮華経と唱えたことを大科に、国主の計らいであるとして八幡大菩薩の御前を引き回し、国中の謗法の者どもに日蓮を嘲笑させたのは、八幡大菩薩の大科でなくてなんであろうか。 八幡大菩薩が謗法者を戒められたと思われるのは、ただ北条一門の同士討ちぐらいなものである。 日本国の賢王であったうえ、第一、第二を争う神であるから、八幡大菩薩に勝れた神はよもやいない。また、偏頗であることはよもやあるまいと思うけれども、一切経ならびに法華経の文にある定めに照らせば、謗法の者を厳然と処罰しないこの神は、大科の神である。 |
普賢経
中国・南北朝時代の宋の曇無蜜多訳。普賢経、観普賢経と略す。1巻。普賢経は法華経の教えをふまえた観法の実践を説くので、法華経の直後にその内容を承けて締めくくる経典(結経)と位置づけられた。無量義経(開経)と法華経(本経)と普賢経(結経)を合わせて法華三部経と呼ばれる。
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方等経
❶大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。❷方等部の経。❸十二部経。
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人天
人界と天界のこと、またその衆生。
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福田
仏は崇拝し供養した人に福徳をもたらすので、田畑に譬えられる。
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応供
サンスクリットのアルハトの訳、尊敬され供養を受けるのにふさわしい者の意。アルハトの主格アルハンを音写して阿羅漢と書く。如来の10の尊称である十号の一つ。部派仏教では、声聞の四つの位の最高位とされる。
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二乗
六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
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菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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弘法
774年~835年。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。空海ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。▷
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慈覚
794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。円仁ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(281㌻、305㌻以下など)。
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智証
814年~891年。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。円珍ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」(306㌻以下)などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
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戯論
「言葉の上だけの空論」を意味する。特に空海(弘法)は『十住心論』『弁顕密二教論』で、真言の教えに対し他宗の教えを「戯論」と下しており、そのことを日蓮大聖人は「撰時抄」(277,278㌻)、「報恩抄」(305,321㌻)などで、法華経を誹謗するものとして追及されている。
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力者
こしかき。法師であって力仕事する人。
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どしうち
味方同士が相あらそうこと。
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日蓮大聖人自ら「諸天・世間の眼」であると宣示され、その大聖人を守護しない神は「大科の神なり」と、八幡大菩薩を責められている。
最初に法華経見宝塔品第十一の「仏の滅度の後に、能く其の義を解せんは、是れ諸の天人、世間の眼なり」の文を引用され、「其の義」とは法華経の義であり、南無妙法蓮華経にほかならないことを述べられ、日蓮大聖人が法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を弘通されているのは、一切衆生の眼というべき立場であると断言されている。
仏法では、物を見分け、認識する〝眼〟を五種類に立て分けている。「肉眼」とは、さえぎる物があれば見えなくなる我々凡夫の眼である。
大智度論巻三十三には「近きを見て遠きを見ず、前を見て後を見ず、外をみて内を見ず、昼を見て夜を見ず、上を見て下を見ず」とある。
「天眼」とは、天上界の衆生に具わっている眼とされ、肉眼の限界を破り、遠く、夜も見通す力をもつという。「遠近皆見て、前後、内外、昼夜、上下」ことごとく見ることができる眼である。俗にいう〝千里眼〟などはこの天眼の一分といえよう。
「慧眼」とは、二乗界に具わる眼で、物事に固定した実体といったものはないという、生命の一実相を見抜く智慧の眼である。
「法眼」とは、菩薩界の眼で、人々を救うため、世のすべてのことに通達した眼である。慈悲がその基盤にあるといえる。
「仏眼」とは、仏が具えている眼で、時間的にいえば、過去世・現世・未来世の三世にわたり、空間的にいえば、十方すなわち全宇宙に至るまで、ことごとく見通す眼といえよう。大智度論に「事として聞かざるなく、事として見ざるなく、事として知らざるなく、事として難しと為すことなし」とある。
この「五眼」が法華経から出生したことを、法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり」と説かれている。
更に同経の「人天の福田・応供の中の最なり」の文を示されている。「福田」は福徳を生ずる因のことで、全民衆に幸福を与えることであり、「応供」は仏の十号の一つで、人天の供養を受ける資格を有する者のことである。
ゆえに、この法華経の肝心である妙法蓮華経を弘める「法華経の行者」を怨み迫害している人は「人天の眼をくじる者」であり、迫害者達を治罰しない神は「一切の人天の眼をくじる者」の味方をし、助けているのと同じである、と述べられている。
そして、弘法・慈覚・智証等が法華経を「無明の辺域」「後に望れば戯論と作る」「力者に及ばず」「履者とりにたらず」等と誹謗していることを指摘され、彼らの邪義こそ、日本国の上一人から下万民に至るまで、こぞって法華経を侮らせた根源であり、「一切衆生の眼をくじ」いてきた元凶であって、彼らを八幡大菩薩が罰しないで逆に守護してきたことの罪を糾弾されている。
その逆に、日蓮大聖人がなんの罪もなく、ただ南無妙法蓮華経を弘めているだけなのに、謗法の者達が二度にわたって流罪に処し、権力を動かして鎌倉八幡宮の前を引き回させ嘲笑したのを許したのも、八幡の大科でなくてなんであろうかと、厳しくただされている。
わずかに謗法の者を戒めたと思われることは「ただどしうち」、つまり文永9年(1271)2月、執権・北条時宗とその異母兄・時輔との間の確執から起こった騒乱ぐらいのものだといわれている。
八幡は日本では天照太神と並んで「第一第二の御神」であるから、八幡が遠慮しなければならない相手はいないはずであり、彼らのカタをもつべき義理もないはずであると、法華経守護の努力の足りなさを責められ、仏法に照らすならば、八幡大菩薩の罪は大きいと断じられている。
0582:16~0583:10 第十章 真言による開眼供養を破すtop
| 16 日本六十六箇国二つの島一万一千三十七の寺寺の仏は皆 或は画像或は木像或は真言已前の寺もあり或は已後 17 の寺もあり、 此等の仏は皆法華経より出生せり、法華経をもつて眼とすべし、 所謂「此の方等経は是れ諸仏の眼 18 なり」等云云、 妙楽云く「然も此の経は常住仏性を以て咽喉と為し 一乗の妙行を以て眼目と為し再生敗種を以て 0583 01 心腑と為し顕本遠寿を以て其の命と為す」等云云、 而るを日本国の習い 真言師にもかぎらず 諸宗一同に仏眼の 02 印をもつて 開眼し大日の真言をもつて五智を具すと云云 此等は法華経にして仏になれる 衆生を真言の権経にて 03 供養すれば還つて仏を死し眼をくじり 寿命を断ち喉をさきなんどする人人なり、 提婆が教主釈尊の身より血を出 04 し阿闍世王の彼の人を師として現罰に値いしにいかでか・をとり候べき、 八幡大菩薩は応神天皇・小国の王なり阿 05 闍世王は摩竭大国の大王な り天と人と王と民との勝劣なり、 而れども阿闍世王・猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に 06 付き給いぬ、 八幡大菩薩いかでか其の科を脱るべき、 去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて 日本国の兵を多く 07 ほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ、 其の時何ぞ彼の国の兵を罰し給はざるや、 まさに知るべし彼の 08 国の大王は此の国の神に勝れたる事あきらけし、 襄王と申せし神は漢土の第一の神なれども 沛公が利劒に切られ 09 給いぬ。 10 此れをもつてをもうべし -----― 日本六十六か国、二つの島にある一万一千三十七の寺々の仏は皆、画像であれ木像であれ、また真言宗以前からの寺であれ、それ以後の寺であれ、すべて、法華経から出生した仏であって、法華経をもって眼とするはずである。このことは「この方等経はこれ諸仏の眼である」等と観普賢菩薩行法経に説かれ、妙楽大師も「しかもこの経は、常住仏性をもって咽喉とし、一乗の妙行をもって眼目とし、再生敗種をもって心腑とし、顕本遠寿をもってその命となす」等といっているとおりである。 しかるに、日本国で、真言師だけでなく諸宗そろって、仏眼の印をもって開眼し、大日の真言をもって五智を具すとしているのは、法華経によって仏になった衆生を、真言の方便権経をもって供養するのであるから、かえって仏を殺し、眼をくじり、命を断ち、喉を裂いたりしている人々である。このことは提婆達多が教主釈尊の身から血を出し、阿闍世王が提婆達多を師として現罰を受けたのに比べても劣らないであろう。 八幡大菩薩は応神天皇で小国の王である。阿闍世王は摩竭陀国という大国の大王であり、天と人、王と民ほどの勝劣がある。しかるに、阿闍世王さえ釈迦仏に敵対して身に悪瘡を病んだのである。八幡大菩薩がどうしてその科をまぬかれることができようか。 去る文永十一年に、大蒙古国が寄せてきて日本国の兵を多数、攻め亡ぼしただけでなく、八幡大菩薩の宮殿も焼かれてしまった。そのときになぜ、蒙古国の兵を罰せられなかったのか。これらのことから推量して、彼の国の大王が日本国の神の力に勝っていたことは明らかである。襄王という神は漢土第一の神であったが、沛公の利剣によって切られてしまった。このことをもって考えるべきである。 |
六十六箇国
日本全国のこと。日蓮大聖人の時代には、全国が66カ国に分割されていた。
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二つの島
壱岐島と対馬のこと。
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一万一千三十七の寺寺
大聖人御在世当時、日本にあったとされる寺院の数。数字の出典は不明。
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妙楽
711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる。
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常住仏性
常に存在して生滅変化のない、無始無終の仏の性分。
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再生敗種
腐敗した種が再び生ずるということ。爾前経においては成仏することができないとされていた二乗が、法華経に至って成仏すると説かれたことをたとえていった語。二乗は無余涅槃を求めて修行し、灰身滅智するゆえに、権大乗経では決して成仏することはないとして二乗不作仏が説かれ、再び生ずることのない敗種にたとえられていた。その二乗が法華経に至って作仏が許されたので再生敗種という。
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顕本遠寿
「本の遠寿を顕す」と読む。妙楽大師湛然の『法華文句記』巻10下の文。久遠の本地を開顕して、仏の寿命が長遠であると示すことをいう。発迹顕本、開近顕遠と同義。「本の遠寿」とは法華経如来寿量品第16に説かれる五百塵点劫成道以来の長遠な仏寿をいう。
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真言師
密教によって、加持祈禱をする僧。密教によって、加持祈禱をする僧。
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仏眼の印
仏眼尊の印のこと。仏眼尊は仏の五眼の徳をもって仏智を象徴した、密教の諸尊の一。その印相には五眼具足印、三眼具足印、一眼具足印など複雑な印の結び方がある。
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大日の真言
大日如来の真言のこと。阿、毘、羅、吽、欠の五字で宇宙の構成要素である五大をあらわし、大日如来の内証をあらわすといわれ、五字真言、五字文殊ともいう。
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五智
五種の智のこと。諸教に説かれている。①密教、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智。②仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智。③成美論、法住智・泥洹智・無諍智・願智・辺際智。等。
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提婆
サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
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阿闍世王
釈尊在世から滅後にかけてのインドの大国・マガダ国の王。阿闍世はサンスクリットのアジャータシャトルの音写。未生怨と訳す。本来の意味は「敵対する者が生じない(無敵)」との意だが、中国・日本では「生まれる前からの敵」という解釈が広がった。釈尊に敵対していた提婆達多にそそのかされ、釈尊に帰依し外護していた父を幽閉して死亡させ、自ら王位についた。その後も、提婆達多にそそのかされて、象に酒を飲ませてけしかけさせ、釈尊や弟子たちを殺そうとしたが失敗した。後に父を殺した罪に悩み、全身に大悪瘡(悪いできもの)ができた。その際、大臣・耆婆の勧めによって釈尊のもとに赴き、その説法を聴聞し、釈尊が月愛三昧に入って放った光が阿闍世に届くと、彼をむしばんでいた大悪瘡はたちどころに癒えたという。釈尊入滅後、第1回の仏典結集を外護したと伝えられる。
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摩謁大国
インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
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沛公
劉邦のこと。紀元前247年~前195年。前漢の初代皇帝。廟号は高祖。沛県の出身のため沛公と呼ばれる。項羽とともに秦を滅ぼしたが、その後の覇権を項羽と激しく争い、紀元前202年、垓下の戦いに勝利し天下を統一。漢を建国した。
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日本全国の諸寺にある仏の開眼を、悪法である真言密教の修法で行なっていることについて破折を加えられるとともに、蒙古襲来の際、蒙古軍に日本軍が蹂躪され、あげくに八幡宮の宝殿が焼かれたにもかかわらず、八幡が蒙古軍を罰しなかった事実を挙げて、八幡の非力ぶりを指弾されている。
日本全国、一万一千三十七の寺々の仏には画像や木像など種々あり、寺も、真言宗興隆以前からの寺もあれば、それ以後にできた寺もあるが、いずれも真言の邪法をもって開眼しているゆえに、「仏を死し眼をくじり寿命を断ち喉をさく」振る舞いになっていると指摘されている。
これは、妙楽大師の「此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗の妙行を以って眼目と為し、再生敗種を以って心腑と為し、顕本遠寿を以って其の命と為す」との言葉に対応して言われたものである。すなわち、法華経こそ、あらゆる仏の命であり、眼であり、咽喉であるにもかかわらず、この法華経を誹謗して立てられた真言の邪法をもって開眼供養することは、仏を殺し、眼をくじり、寿命を断ち、咽喉を切り裂く行為となるのである。
かつて提婆達多は、釈尊を殺そうとして大石を投げ落とし、傷つけ血を流させた。阿闍世王は、この提婆達多を師として、同じく酔象をけしかけ、釈尊を殺そうとした。提婆達多は生きながら無間地獄に堕ち、阿闍世は全身に悪瘡を生じて苦しむという大罰を受けたのである。
したがって、あらゆる仏を殺し、眼をくじり等している真言師を治罰せずに、かえって助けている八幡大菩薩が、提婆を助けた阿闍世王と同じく大罰を受けない道理がない。そのあらわれが蒙古の軍兵によって八幡の宝殿が焼かれたことであり、八幡が、乱暴をはたらいた蒙古兵を罰しえなかったことは、八幡の宝殿焼失が、受けるべくして受けた罰にほかならないからであると指摘されている。
0583:10~0584:01 第11章 謗者を守護し梵釈の責めを受くtop
| 10 道鏡法師・称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時清丸・八幡大菩薩に祈請せ 11 し時八幡の御託宣に云く 「夫れ神に大小好悪有り 乃至彼は衆く我は寡し邪は強く正は弱し乃ち当に仏力の加護を 12 仰て為めに皇緒を紹隆すべし」等云云、 当に知るべし八幡大菩薩は正法を力として 王法を守護し給いけるなり、 13 叡山・東寺等の真言の邪法をもつて 権の大夫殿を調伏せし程に 権の大夫殿はかたせ給い隠岐の法皇はまけさせ給 14 いぬ還著於本人此れなり。 -----― 道鏡法師が称徳天皇の寵愛を得て天皇になろうとしたとき、和気の清丸が祈請したが、そのときの八幡大菩薩の御託宣に「神にも大小好悪がある。(中略)彼は多く我は寡ない。邪は強く正は弱い。ゆえに仏力の加護を仰いで皇位継承を紹隆すべきである」等とある。このことから八幡大菩薩は正法を力として王法を守護されたことが明らかである。 承久の乱において朝廷方は比叡山や東寺等の真言の邪法をもって権の大夫殿の調伏を祈願されたので、かえって権の大夫殿が勝ち、隠岐の法皇は負けてしまわれたのである。経文に説かれている「還著於本人」とはこのことである。 -----― 15 今又日本国・一万一千三十七の寺・並に三千一百三十二社の神は国家安穏のために・あがめられて候、而るに其 16 の寺寺の別当等・其の社社の神主等はみなみな・あがむるところの本尊と神との御心に相違せり、 彼れ彼れの仏と 17 神とは其の身異体なれども 其の心同心に法華経の守護神なり、 別当と社主等は或は真言師或は念仏者或は禅僧或 18 は律僧なり皆一同に八幡等の御かたきなり、 謗法不孝の者を守護し給いて正法の者を 或は流罪或は死罪等に行な 0584 01 わるるゆへに天のせめを被り給いぬるなり、 -----― 今また、日本国の一万一千三十七の寺、ならびに三千百三十二社の神は国家安穏のために崇められているが、それらの寺々の別当等、それらの神社の神主等は皆々、彼らが崇めるところの本尊や神の御心に相違している。 その仏と神とはさまざまで、その身は異体であるが心は同一で、皆、法華経の守護神なのである。ところが、別当や社主等はあるいは真言師であったり、念仏者であったり、禅僧であったり、律僧であったりして、皆、一同に八幡大菩薩等の敵となっている。 それなのに、八幡は謗法や不孝の者を守護されて、正法の法華経を持つ行者を流罪、あるいは死罪等に行わせたために、天の責めを被られたのである。 |
道鏡法師
(?~0772)。奈良時代の法相宗の僧。俗姓は弓削氏。河内国の人で、出家して葛木山に登り修学の後、東大寺に入った。天平宝字5年(0761)、孝謙上皇の病を平癒させて信任を得、上皇が称徳天皇になると、天平神護元年(0765)、太政大臣禅師に任ぜられ、翌2年(0766)法王の位を得て政治の実権を握り、専横を極めた。更に皇位を窺ったが、和気清麻呂に退けられた。神護景雲四年(0770)、天皇の死後、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷され、その地で没した。
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称徳天皇
(0718~0770)。第 48代の天皇,女帝 (在位0764~0770) 。第 46代孝謙天皇 (在位0749~0758) の重祚。名は阿倍,また高野姫。聖武天皇の第2皇女。母は贈太政大臣藤原不比等の娘安宿媛。
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清丸
733年~799年。奈良末期から平安初期の貴族・政治家、和気清麻呂のこと。称徳天皇に寵愛を受けた道鏡を天皇に立てよとの宇佐の八幡神の託宣を、勅使として確認に行ったが、「無道の人を除くべし」との神託を報告して道鏡の野心を退けた。そのため別部穢麻呂と名を変えられて大隅国(鹿児島県東部)に流され、一族もともに流罪となったが、後に許されて都に帰った。
―――
御託宣
神の言葉。お告げ。祈禱した人に対する神の答え。
―――
紹隆
先の人が行ったことを継いで、それを更に発展させること。
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叡山
比叡山(滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(785年)7月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(788年)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(806年)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(822年)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(823年)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。天長元年(824年)6月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(834年)、第2代座主の円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(848年)、第3代座主の円仁(慈覚)が横川に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海(弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主の円珍(智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然は顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(966年)に第18代座主となった良源は中興の祖といわれる。しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(993年)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺(三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山の守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。日蓮大聖人は立宗前に比叡山で修学されている。また法然(源空)・親鸞・一遍・栄西・大日能忍・道元など、鎌倉時代に活躍した多くの僧が比叡山で学んでいる。
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東寺
教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(796年)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。
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権の大夫
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
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隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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調伏
敵や魔を退散させるための密教の祈禱儀礼のこと。
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還著於本人
法華経観世音菩薩普門品第25の文。「還って本人に著きなん」と読む(法華経635㌻)。法華経の行者に呪いや毒薬で危害を加えようとする者は、かえって自らの身に、その害を受けることになるとの意。日蓮大聖人は承久の乱の時に上皇方が真言の祈禱を用いて敗れたことを還著於本人の道理によるものだとされている。またこの例に倣い、蒙古の襲来に際し、朝廷と幕府が真言師を用いて調伏の祈禱を行っていることに対しても、還著於本人として亡国の結果を招くことになると警告されている(283,321㌻など)。
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三千一百三十二社の神
日蓮大聖人御在世当時の神社の数。出典は不明。
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別当
僧官名。寺社の事務を統制する最高責任者として置かれた。法隆寺・東大寺・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などの別当が有名。
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神主
神に仕える人で神官熱原新福地神社の神主で下級の神職であった。法華経の信仰に帰依したため行智や代官から嫌われ追われていたのを、南条時光が匿ったと思われる。
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社主
神社の神官のこと。
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流罪或は死罪
❶流罪。①伊豆流罪。日蓮大聖人が弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。日蓮大聖人が文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。❷死罪。竜の口の法難。文永8年(1271年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、謗法を禁じ正法を用いなければ「立正安国論」で予言したように自界叛逆難・他国侵逼難が起こると再度、警告された。これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守兼佐渡国の守護であった北条宣時の邸宅に勾留された。ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。しかし突如、光り物が出現し、その試みは失敗した。この斬首の謀略は、大聖人を迫害する一派が、正式な処分が決定する前に護送中の事故に見せかけて、暗殺を図ったものと推定される。大聖人は、竜の口でのこの暗殺未遂によって、末法の凡夫(普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹)を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初の自受用身という本地)を顕されたのである。この御振る舞いを「発迹顕本」と拝する。この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた本間重連の依智(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は10月10日に依智をたって佐渡へと向かわれた。
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本段では、弓削の道鏡(?~0772)が皇位をねらった時、和気清麻呂への八幡神の託宣を捧げて、八幡も仏法を力として王法の正義を守り得ることを示されている。
道鏡は法相宗の僧であるが、修学の後、東大寺に入り、天平宝字5年(0761)に孝謙上皇の病を癒して上皇の信任を得、上皇が第48代称徳天皇になると、天平神護元年(0765)に太政大臣禅師に任じられ、翌2年(0766)には法王の位を授けられて、政治の実権をも握るようになった。
更に皇位を窺ったが、和気清麻呂などに退けられた。その折、清麻呂が宇佐八幡宮に勅使として神意を請けた際に、八幡の託宣には「仏力の加護を仰いで皇位の継承を紹隆させなければならない」(取意)とあったという。
この託宣によって、日本の王法は守られたのであるが、逆に王法が敗れた例として、承久の乱を挙げられ、その原因は真言の邪法によって祈ったことにあると指摘されている。
承久の乱は朝廷が鎌倉幕府から権力奪回を図ったことから起きた戦いである。承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府第二代執権・北条義時追討の院宣を下した。しかし、幕府は直ちに総軍19万の兵を上洛させて、攻め入った。
この間、朝廷側は比叡山・東寺・仁和寺・園城寺などの諸大寺に幕府調伏の祈祷をさせたが、一向に験なく、あっけなく敗れ去ったのである。そして後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐と、それぞれ配流され、仲恭天皇は廃された。
つまり、朝廷方は真言の邪法をもって調伏したために、法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているとおり、自らに害を招いたのだといわれている。この経文は「還って本人に著きなん」と読み、邪法の者が正法の人を呪詛して害そうとすると、かえって自らの身にそれを受けるようになるという意味である。
以上のことを承けて、全国にある各寺社の神々は、国家安穏のために崇められているが、その寺社の別当や神主等は、いずれも、その本尊と神との心に相違している。すなわち、仏と神とは、体は異なっても、その心は同一で「法華経の守護神」なのである。
しかるに、法華経に敵対する真言師・念仏者・禅僧・律僧等が別当や神主となっている。このように、仏・神に対して「不孝の者」というべき謗法の徒輩を守護して、最も守護しなければならない「正法の者」を、流罪・死罪など身命に及ぶ難にあわせてきたゆえに、八幡大菩薩は梵天・帝釈等の諸天の治罰を被ったのであると述べられている。
0584:01~0584:18 第12章 尼?律陀長者の故事を引くtop
| 01 我が弟子等の内・謗法の余慶有る者の思いて いわく此の御房は八幡 02 をかたきとすと云云、 これいまだ道理有りて法の成就せぬには 本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり 03 付法蔵経と申す経に大迦葉尊者の因縁を説いて云く 「時に摩竭国に婆羅門有り 尼倶律陀と名づく過去の世に於て 04 久しく勝業を修し、 多く財宝に饒かにして巨富無量なり摩竭王に比するに千倍勝れりと為す、 財宝饒かなりと雖 05 も子息有る事無し自ら念わく老朽して死の時将に至らんとす 庫蔵の諸物委付する所無し、 其の舎の側に於て樹林 06 神有り彼の婆羅門子を求むるが為の故に即ち往て祈請す 年歳を経歴すれども微応無し、 時に尼倶律陀大に瞋忿を 07 生じて樹神に語て曰く、 我汝に事てより来已に年歳を経れども都て 一の福応を垂るるを見ず 今当に七日至心に 08 汝に事うべし、若し復験無ければ必ず相焼剪せん、 樹神聞き已て 甚だ愁怖を懐き四天王に向つて具さに斯の事を 09 陳ぶ、 是に於て四王往て帝釈に白す・帝釈閻浮提の内を観察するに・福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し即ち梵 10 王に詣で広く上の事を宣ぶ、 爾の時に梵王天眼を以て観見するに 梵天の当に命終に臨む有り而て之に告げて曰く 11 汝若し神を降さば宜しく 当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし、 梵天対て曰く婆羅門の法悪邪見多し我今其 12 子と為る事能ざるなり、 梵王復言く彼の婆羅門大威徳有り閻浮提の人往て生ずるに堪ゆる莫し 汝必ず彼に生ぜば 13 吾れ相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん、 梵天曰く諾・敬て聖教を承けん、 是に於て帝釈即樹神に向つ 14 て斯の如き事を説く樹神歓喜して 尋て其の家に詣で婆羅門に語らく 汝今復恨を我れに起す事なかれ郤て後七日当 15 に卿が願を満すべし、 七日に至て已に婦身む事有るを覚え 十月を満足して一男児を生めり乃至今の迦葉是なり」 16 云云、 「時に応じて尼倶律陀大に瞋忿を生ず」等云云、 常のごときんば氏神に向いて大瞋恚を生ぜん者は今生に 17 は身をほろぼし後世には悪道に堕つべし 然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて 大願を成就 18 し賢子をまうけ給いぬ、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり。 -----― 我が弟子等のなかで、謗法の残りがある者が考えていうのに「この御房は八幡大菩薩を敵にしている」云云と。 これらの非難は、道理があるのにもかかわらず祈りの法が成就しない場合は本尊を責める、ということを、いまだ知らない者が考えることである。 付法蔵経という経に大迦葉尊者の因縁を説いていうのに「時に摩竭陀国に婆羅門がいて、尼倶律陀という名であった。過去の世において久しく勝れた業を修した功徳によって、現世に豊かな財宝を有し、巨万の富を蔵していた。摩竭陀国王に比べても、千倍も勝る財宝であった。ところが、財宝は豊かではあったが子供がなかった。彼は〝老衰して死が近づいてきたが、庫に蔵した財宝を譲る者がいない〟と思った。尼倶律陀婆羅門の館の近くに樹林神が祭ってあった。尼倶律陀は子供がほしい一心で、その樹林神に詣で祈請した。ところが年月を経ても、なんの験もなかった。尼倶律陀は大いに怒り、樹林神に向かって『我は汝に仕えてすでに数年を経るが、およそ一つの福報も垂れていない。今また七日間、誠実に汝に仕えてみるが、もしそれでも効験がなければ、汝の祠を焼き払うであろう』と言った。樹林神はこれを聞いて大いに憂え、四天王に詳しく申し述べた。四天王は更に、帝釈天のところに行って言上した。帝釈天が閻浮提のうちを観察したところ、福徳の尼倶律陀の子となるに堪える人が見あたらなかった。そこで帝釈天は梵天王に詣で、詳しくこのことを申し上げた。そのときに梵天王は天眼をもって観るに、梵天でまさに命終に臨む者があった。そこで梵天王はその梵天に告げていうのに『汝がもし梵天界から降りたならば、彼の閻浮提界の尼倶律陀婆羅門の家に生まれよ』と。梵天が答えていうのに『婆羅門の法には悪見、邪見が多いから、私はそのような者の子となることはできません』と。梵天王がまたいうのに『彼の婆羅門は大威徳があって、閻浮提のうちの人で、彼の子となって生まれるに堪える者がいない。汝がもしその子となって生まれたならば、我は汝を護り、汝をして邪見に入らぬようにしてあげよう』。梵天がいう。『承知しました。仰せのとおりにいたします』。そこでこのことを帝釈天に、帝釈天が樹林神に伝えた。樹林神は歓喜して尼倶律陀婆羅門の家に行っていうには『汝は、もはや我を怨んではならない。これから七日後に卿の願を満たすであろう』と。七日して、はたして婆羅門の妻が身ごもり、十月を経て一男児を産んだ。それが今の大迦葉である」云云と。 ここに「尼倶律陀は大いに瞋りを生じた」等とある。普通ならば、氏神に向かって大瞋恚を生ずる者は今生には身を滅ぼし、後生には悪道に堕ちるであろう。しかし、尼倶律陀長者は氏神に向かって大悪口、大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子を設けられたのである。このことからも瞋恚は善悪に通ずるものであることを知るべきである。 |
余慶
ものが余ること。
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大迦葉尊者
サンスクリットのカーシャパの音写。摩訶迦葉のこと。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、頭陀(欲望を制する修行)第一といわれた。釈尊の教団を支え、釈尊滅後の教団の中心となった。釈尊の言行を経典として集成したとされる。法華経授記品第6で、未来に光明如来に成ると保証された。【鶏足山の入定】摩訶迦葉は釈尊が亡くなった後、正統な後継者となって教えを広めて、阿難にその任を譲った。それ以来、鶏足山で禅定に入って、弥勒菩薩が56億7000万年後にこの娑婆世界に仏として出現するのを待っているとされた。【禅宗における伝承】大梵天王問仏決疑経(疑経)では、釈尊が霊鷲山で一房の花を手にとって人々に示した際、その意味を誰も理解できないなかで迦葉一人が理解してほほ笑んだとされる(これを拈華微笑という)。この話が、釈尊が迦葉に法を伝えたという伝説として、宋以後の禅宗で重用され、教外別伝・不立文字の基盤とされた。
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因縁
原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。
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婆羅門
バラモンのこと。古代インドの身分制度における最上位の階層。サンスクリットのブラーフマナの音写。もとは祭事を司る司祭者の家柄であるが、後の時代には他の職業に就く者も少なくなかった。日蓮大聖人の時代の日本には「婆羅門」は存在しないので、御書中の使用例によっては、社会的に尊貴とされた人々、貴族などをさすと思われるものもある。
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尼倶律陀
梵語ニャグローダ(Nyagrodha)の音写。無節・縦広などと訳す。インドのマガダ国にいたバラモンの富豪。摩訶迦葉の父。付法蔵因縁伝巻一によると、過去の修徳によってマガダ国王の千倍もの財宝を持ち、高才博達で智慧が勝れていた。しかし子がなかったため樹神に祈ったが子が授からなかったので怒り、願いが叶わなければ樹を切ると申しつけた。恐れた樹神は梵天・帝釈に願って一男子を授けさせた。それが摩訶迦葉であるという。
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勝業
すぐれた正しい活動。
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樹林神
樹林を司る神。樹木の神。
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瞋忿
激怒すること。
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福応
めでたいきざし。福運。功徳が生活の上に報応ずること。
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四天王
古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている(法華経73,644,645㌻)。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。
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帝釈
帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
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閻浮提
閻浮、南閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
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梵王
サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。
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瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
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大聖人が八幡大菩薩を叱咤し諫暁されることについて、当時、日蓮大聖人の門下のなかに「大聖人は八幡大菩薩を敵とされているのではないか」などという者がいたようである。
それに対し、大聖人は、守護されるべき道理があるのに守護もせず、祈りが成就しない場合は、祈りの対象であるその本尊を責めてよいとの道理があることを、付法蔵経に説かれる尼倶律陀長者の故事を通して明らかにされるのである。
尼倶律陀とは、インドの摩竭国にいたバラモンの富豪で、摩訶迦葉の父のことである。付法蔵因縁伝巻一に、尼倶律陀長者は後継の子を求めて、自邸の側に祀ってあった樹神に祈ったが、何年経っても、一向に子が授からなかったのでおおいに怒り「願いがかなわなければ樹を切って焼く」と申しつけた。恐れた樹神は四天王に訴え、四天王は帝釈に伝え、帝釈は大梵天王に依頼し、大梵天王の計らいによって、ついに一人の男子が生まれた。それが釈尊在世の弟子である摩訶迦葉であるという。
この故事に「尼倶律陀大に瞋忿を生ず」とあることを指摘され、普通なら神に向かって大瞋恚を生じたならば、今生には身を滅ぼし、後生は悪道に堕さなければならないところである。
しかし、尼倶律陀長者は樹神を叱り、もし後継の子が授からなければ樹を切り、焼き払うと迫ることによって、四天王から帝釈、更には大梵天王さえも動かして、大迦葉のような「賢子」をもうけたのである。
この話で興味深いのは、長者の福徳が余りに大きいので、それを継ぐに値する衆生が、この世界に見当たらず、ゆえにこの世界を統括する四天王や帝釈では手に負えなくなり、大梵天王が梵天の衆生のなかから選んで長者の子に生まれるよう手配したという点である。
この故事をふまえ、大聖人は「瞋恚は善悪に通ずる」と述べられ、今、大聖人が八幡大菩薩に対して呵責しているのは、それをなしうる道理があるからであると言われている。
0585:01~0585:14 第13章 八幡を諌暁する資格あるを示すtop
| 01 今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事な 02 し、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れん 03 とはげむ慈悲なり此れ又時の当らざるにあらず 已に仏記の五五百歳に当れり、天台・伝教の御時は時いまだ来らざ 04 りしかども一分の機ある故に少分流布せり、 何に況や今は已に時いたりぬ 設とひ機なくして水火をなすともいか 05 でか弘通せざらむ、 只不軽のごとく大難には値うとも流布せん事疑なかるべきに真言・禅・念仏者等の讒奏に依り 06 て無智の国主等・留難をなす此を対治すべき氏神・八幡大菩薩・彼等の大科を治せざるゆへに 日蓮の氏神を諌暁す 07 るは道理に背くべしや、 尼倶律陀長者が樹神をいさむるに・異ならず、 蘇悉地経に云く「本尊を治罰する事鬼魅 08 を治するが如し」等云云、文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために 数年が間・法を修行するに成就せざれば本 09 尊を或はしばり 或は打ちなんどせよととかれて候、 相応和尚の不動明王をしばりけるは 此の経文を見たりける 10 か、此は他事にはにるべからず 日本国の一切の善人は 或は戒を持ち或は布施を行じ 或は父母等の孝養のために 11 寺塔を建立し或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて 諸僧に供養をなし候に、 諸僧謗法の者たるゆへ 12 に謀反の者を知ずしてやどしたるがごとく 不孝の者に契をなせるがごとく 今生には災難を招き後生も悪道に堕ち 13 候べきを扶けんとする身なり 而るを日本国の守護の善神等・彼等にくみして正法の敵となるゆへに 此をせむるは 14 経文のごとし道理に任せたり、 -----― 今、日蓮は、去る建長5年4月28日から今年弘安3年12月に至るまで、28年の間、他事は一切なく、ただ、妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである。 このような法華経の弘通はこれは時節が到来したからであって、今はすでに仏記の第五の五百年にあたっている。天台大師や伝教大師の御時は、いまだその時期に至っていなかったが、一分の機類があったから法華経を少々、流布したのである。ましてや今は、すでに時期が到来している。たとい機がなくて水火のように反発してきたとしても、どうして法華経を弘通せずにはいられようか。 ただ不軽菩薩のように、大難に値ったとしても、この大法が流布する事は疑いないのに、真言、禅、念仏者等の讒奏によって無智の国主等が迫害して難を加えている。これを対治すべき氏神の八幡大菩薩は彼ら謗法者を治罰しないので、日蓮が氏神を諌暁するのは道理に背くことであろうか。これは尼倶律陀長者が樹神を諌めたのと道理は同じである。 蘇悉地経に「本尊を治罰することは鬼魅を対治するごとくせよ」等とある。文の心は、経文のとおり所願を成就するために、数年の間修行をしても成就しない場合は、本尊をあるいは縛り、あるいは打ったりなどして責めよ、というのである。相応和尚が不動明王を縛り上げたのはこの経文をみたからであろう。 日蓮の場合は、他に比較するものがないぐらいである。日本国のあらゆる善人は、あるいは戒を持ち、あるいは布施を行じ、あるいは父母等の孝養のため寺塔を建立し、あるいは成仏得道のために妻子を養うべき財宝を節約して諸僧に供養したりしているが、その僧が謗法の者であるために、あたかも謀叛人であることを知らずに宿を貸し、不孝の者と知らずに夫婦になったようなもので、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ちるべきところを日蓮は助けようと努めているのである。 それを日本国を守護すべき善神等が彼ら謗法の者に味方をして、正法の敵となってしまっているから、これを責めるのは経文のとおりであり、道理にかなっていることである。 |
癸丑
干支の組み合わせの50番目で、前は壬子、次は甲寅である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の丑は陰の土で、相剋(土剋水)である。
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太歳
太歳とは木星の異称で、木星の公転周期はほぼ十二年で、古代中国では木星の位置によって年を数える歳星紀年法があった。その際用いた十二支の配列は木星の動きと逆だったので、逆に動く木星を仮想し、これを基準に年を数えるのを太歳紀年法という。
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仏記
仏の未来記。予言する経文。
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五五百歳
大集経巻55で釈尊滅後の2500年間に正法が衰退していく様相を5期の500年間に区切って、仏法流布の状態を説明しようとしたもの。順に①解脱堅固(仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)②禅定堅固(人々が瞑想修行に励む時代)③読誦多聞堅固(多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)④多造塔寺堅固(多くの塔や寺院が造営される時代)⑤闘諍言訟・白法隠没(=闘諍堅固、仏の教えの中の論争が絶えず、正法が見失われてしまう時代)の5時代をいう。堅固は変化、変動しない様をいい、定まっていることを意味する。五箇の五百歳ともいう。解脱・禅定堅固は正法時代、読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、闘諍堅固は末法とされる。
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天台
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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伝教
767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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機
仏教を理解し信じ実践する能力・資質。根機ともいう。
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不軽
法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。釈尊の過去世における修行の姿の一つ。威音王仏の像法の時代に仏道修行をし、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉、「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻、鳩摩羅什の漢訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という)を唱えながら、出会ったすべての人を礼拝したが、増上慢の人々から迫害された。この修行が成仏の因となったと説かれる。【日蓮大聖人の弘通との対比】不軽菩薩の弘通と大聖人の弘通との対比は、次の御文に示されている。「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(「顕仏未来記」、507㌻)「過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向って唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり」(「教行証御書」、1276~1277㌻)以上から、不軽菩薩と大聖人の正法弘通における共通点は、次の点に整理できる。①教。法華経の要法を広める(ただし不軽菩薩の「二十四字の法華経」は法華経一部の要旨であり、広・略・要でいえば略にあたるのに対して、大聖人の「妙法蓮華経の五字」は法華経の所詮の法体であり、真の意味での要にあたる)。②機。逆縁の衆生への化導。衆生の機根が劣悪であり、ただちに法華経を説いて衆生に反発されても縁を結ばせる逆縁の化導を中心に行った。③時。仏の亡くなった後の乱れた世の中に出現し難を耐え忍んで弘通した。④行者の位。不軽菩薩は初随喜の位、大聖人は名字即の位という、いずれも菩薩として初信の位であった。不軽菩薩の実践は、仏の滅後の悪世における法華経弘通の方軌を示しており、大聖人もこの方軌に則って法華経を弘通されている。それ故、不軽品を御自身の弘通の例とされている。
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禅
禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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蘇悉地羯羅経の略。中国・唐の善無畏訳。3巻。成立史の上からは、大日経に先行する経典と考えられており、さまざまな密教儀礼や行者の規範を説いている。
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相応和尚
(831~918))。平安時代前期の天台宗の僧。一般的には相応和尚と記述されている事が多い。建立大師ともいう近江国浅井郡の人で、俗姓は櫟井氏。比叡山に無動寺を開創。千日回峰行の祖とされ、数々の霊験譚が伝えられている。なお、最澄の伝教大師、円仁の慈覚大師の諡号は、相応の奏請による。
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不動明王
真言宗の本尊。大日如来の命を受け、または大日如来が化身して、仏道修行を妨げる障魔を破る明王。後代明王、八大明王の総主。不動尊・無動尊・不動金剛明王ともいう。
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戒
サンスクリットのシーラの訳。仏道修行者が自ら誓い課した戒め。教団の規則であるヴィナヤ(律)とは異なるが、東アジアでは同一視され、まとめて戒律といわれる。律を構成する各条項は戒と呼ばれる。戒は伝統的に「防非止悪」の意義があるとされる。仏道修行者が習得すべき戒定慧の三学の一つ。『四分律行事抄』では、戒を四つ(四科)に分け、仏によって定められた戒についての教えを戒法、授戒の儀式によって心に納めて防非止悪の功徳を生ずる本体を戒体、戒を持って実践修行することを戒行、五戒・十戒・具足戒などの具体的な戒の規定を戒相とする。歴史上、仏教教団に属する僧尼らが権力と癒着して腐敗堕落すると、しばしば戒律復興運動が起こった。日本では、伝教大師最澄が、具足戒を小乗戒とみなして用いず、もっぱら法華円頓の大乗戒を授ける戒壇の建立を目指し、死の直後に勅許された。ただし法華経には円頓戒の教理は説かれているが具体的な戒相は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒・四十八軽戒を用いて円頓戒の戒相としている。日蓮大聖人は、末法無戒という立場に立たれる。伝教大師の法華円頓戒も、釈尊の教えが無益となる法滅尽の時である末法の衆生にとっては無益であり不要となる。「教行証御書」には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持って後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持って法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282㌻)と述べられ、末法においては三大秘法の御本尊を受持することが持戒であるという受持即持戒を説かれる。この戒は金剛宝器戒であるとされる。
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布施
物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
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ここでは、日蓮大聖人が建長5年(1253)の立宗以来28年間、一切衆生を救済すべく、忍難弘教に身を挺してきたことを述べられ、その大聖人を讒奏し、留難する諸宗の僧らを治罰せずにいる八幡大菩薩等を諫暁するのは経文のとおりであり、至極道理にかなったものであると述べられている。
建長5年(1253)4月28日の立宗から、本抄御述作の弘安3年(1280)12月に至る28年間、大聖人はひたすら、人々に妙法を信受せしめるために心労を尽くされてきた。「此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり」とは、この大聖人の御振る舞いは、あくまで仏意を根本としたものであるとの仰せである。すなわち、大聖人の妙法の弘通の戦いは、一方では八幡大菩薩の氏子である日本国の人々を救うためであり、もう一方では、仏の心にかなったものであるから、法華経の会座で守護を誓った八幡大菩薩としては、二重の意味で、日蓮大聖人を守るべき責任がある。
それにもかかわらず、日蓮大聖人を迫害している謗法の僧や権力者になんらの治罰も加えないでいるから、今、八幡を諫暁しているのであって、これは正しい道理にのっとっているのであるといわれている。
そして、蘇悉地経の巻下成就具支品第十七にある「本尊を治罰する事鬼魅を治するが如し」の文を挙げ、その文意について、経文のごとく所願成就のために、数年の間、法を修行しても、成就しない場合には、その本尊を縛り、打つなどして責めよ、ということであると釈され、平安初期の天台宗の僧・相応和尚(0831~0918)が、不動明王を縛り上げたとされるが、相応和尚は、この蘇悉地経の文を見てそのようにしたのであろうと述べられている。相応和尚は比叡山に不動明王像を安置した無動寺の創建者で、貞観八年(0866)に上奏して、伝教・慈覚に日本初の大師号を贈ったとされる。
「不動明王をしばりける」という逸話は、元亨釈書巻十によると、皇后明子が狂い病にかかった時、二日間、祈禱しても験がなく、比叡山に帰って不動明王像の前で祈った。すると像が反対側を向くため、不思議に思って必死の祈りをしたところ、不動が「皇后には昔、金峰山で不動明王の明呪をたもっていた真済という僧の霊がとりついているので、同じ明呪をたもつ彼の霊は降伏できない。しかし、その霊に真済の名を告げて恥じ入るのを見て、大威徳明王の法を修すれば、霊は降伏する」(取意)と語った。そのとおり修すると、皇后の病は直ちに治ったという。
元亨釈書のなかに相応和尚が不動を縛ったことは出ていないが、同書には貞観3年(0861年)に相応和尚が鬼魅を下すため、二人の童子を呪縛した記事があり、このことから、大聖人は「しばりける」と述べられたと拝察される。
しかし、大聖人は「此は他事にはにるべからず」と、大聖人の八幡諫暁は尼倶律陀(にくりだ)長者や相応和尚とは根本的に目的も意義も異なると述べられている。
すなわち、日本国の一切の善人は父母等の孝養のため、あるいは自らの「成仏得道」のために寺塔を建立するなど、諸宗の僧らに供養しているが、諸宗の僧らはいずれも謗法の者であるから、「善人」の尊い志とは逆に、例えば謀叛人と知らずに宿を貸し、親不孝の者と気づかずに夫婦の契りを結んだように、今生には災難を招き、後生には悪道に堕すことになる。
大聖人は、こうした仏法に無知な衆生を哀れんで、救済しようとされているのであるが、八幡をはじめ国を守護すべき善神等が、謗法の諸宗の僧らに味方しているので叱責しているのであり、したがって、経文の道理にかなったものであると仰せられている。
0585:14~0586:06 第14章 諸宗破折に寄せる疑難を破すtop
| 14 我が弟子等が愚案にをもわく 我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上大 15 難の来れるは真言は国をほろぼす念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給うゆへなり、 例せば道理有 16 る問注に悪口のまじわれるがごとしと云云、 日蓮我が弟子に反詰して云く 汝若し爾らば我が問を答えよ一切の真 17 言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向て南無妙法蓮華経と唱え給えと 勧進せば彼等の云く我が弘法大師は法華経 18 と釈迦仏とを・戯論・無明の辺域・力者・はき物とりに及ばずと・かかせ給いて候、物の用にあわぬ法華経を読誦せ 0586 01 んよりも其の口に我が小呪を一反も見つべし 一切の在家の者の云く 善導和尚は法華経をば千中無一・法然上人は 02 捨閉閣抛・道綽禅師は未有一人得者と定めさせ給へり 汝がすすむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障りなり 我等設 03 い悪をつくるともよも唱えじ 一切の禅宗の云く我が宗は教外別伝と申して 一切経の外に伝へたる最上の法門なり 04 一切経は指のごとし禅は月のごとし 天台等の愚人は指をまほつて月を亡いたり 法華経は指なり禅は月なり月を見 05 て後は指は何のせんか有るべきなんど申す、 かくのごとく申さん時は いかにとしてか 南無妙法蓮華経の良薬を 06 ば彼れ等が口には入るべき -----― 我が弟子のなかに愚かな思案をして「我が師が法華経を弘通しようとして広まらないうえ、かえって大難がきているのは『真言は国を亡ぼし、念仏は無間地獄に堕ち、禅は天魔の所為であり、律僧は国賊である』といわれるからである。たとえば当方に道理がある訴訟のなかに、わざわざ悪口雑言をまじえるようなものである」などという者がいる。 そうした弟子に反詰して日蓮がいう。「汝、もしそれならば我が問いに答えよ。一切の真言師、一切の念仏者、一切の禅宗等に向かって、南無妙法蓮華経と唱えよと勧めると、彼らのなかの真言師は『我が弘法大師は法華経を戯論といい、釈迦仏を無明の辺域で明の分際ではない、力者に及ばず、履物取りにも及ばないといわれている。そのような物の用に立たない法華経を読誦するよりも、それを唱える口で我が真言の小呪を一遍でも唱えた方がよい』と。一切の在家の者は『善導和尚は法華経を千中無一と下し、法然上人は捨閉閣抛、道綽禅師は未有一人得者と定め置かれた。汝が勧める南無妙法蓮華経は我が念仏の障りとなるから、我らはたとえ悪業をつくることがあっても題目だけは唱えない』といい、一切の禅宗は『我が宗は教外別伝といって、一切経の外に伝えられた最上の法門である。一切経は月をさす指のようなものであり、禅の法門は月そのものである。天台等の愚人は指にとらわれて月を見失っているようなものである。法華経は指であり、禅は月である。月を見て後、指はなんの用があるというのか』などという。このように申すときは、どのようにして南無妙法蓮華経の良薬を彼らの口に入れられるというのか」と。 |
問注
①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
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勧進
勧め、さそうこと。①人々に勧めて仏道に入らせ、善に向かわせること。②仏寺・仏像の建立・修善などのために、人々に功徳善根を勧めて寄付を募ること。また、それにたずさわる人。
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小呪
短いわずかな呪。仏の教法を心にもって亡失させない能力。仏の本誓を示す秘密の語。
―――
善導和尚
613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
―――
千中無一
「千人のうち一人も成仏する者はいない」との意。善導の『往生礼讃偈』の文。五種の正行(極楽に往生するための5種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないということ。
―――
法然上人
1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
―――
捨閉閣抛
「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」を意味する。日本浄土宗の開祖・法然(源空)が著した『選択集(選択本願念仏集)』の趣意。同書の中に「弥いよ須く雑を捨て専を修すべし」「随自の後には還て定散の門を閉づ」「且く聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ」「且く諸の雑行を抛て選んで応に正行に帰すべし」などとあり、これらから捨・閉・閣・抛の4字を選び、法然の主張が浄土宗以外のすべての仏教を否定するものであることを示した語。具体的な内容は「立正安国論」(22~23㌻)で引用されている。
―――
道綽禅師
562年~645年。中国・隋から唐にかけての浄土教の祖師。はじめ涅槃経に傾倒していたが、曇鸞の碑文を見て改心して浄土教に帰依した。釈尊の教えを浄土門とそれ以外の聖道門とに分け、聖道門を誹謗した。弟子に善導がいる。主著に『安楽集』がある。
―――
未有一人得者
道綽の『安楽集』巻上の文。「未だ一人も得る者有らず」と読み、「まだ一人も成仏した者がいない」との意。本書では悪世末法において、真実に利益のある教えは、聖道門・浄土門のうち、ただ浄土門のみであり、他の一切の教えでは、いまだ一人として得道した者はないと説く。
―――
教外別伝
禅宗の主張。大梵天王問仏決疑経に基づいて、釈尊の真意は言葉や文字による教えではなく心から心へ摩訶迦葉に伝承されたとする。
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日蓮大聖人の弟子門下のなかに、大聖人が「四箇の格言」をもって諸宗を厳しく破折するから大難にあうのだと疑難を抱く者があったのに対して答えられている。
すなわち、これらの諸宗は法華経を悪口し誹謗して、その教義を立てており、したがって、ただ「南無妙法蓮華経を唱えなさい」と勧めても、素直に聞き入れる道理がない。
むしろ、その法華経誹謗の悪業が生じる害悪を厳しく指摘し、破折しなければ、妙法を信受させることはできないからである、というのがこのお答えの骨子と拝される。
分かりやすいたとえでいうと、人々は口の中に毒を含んでいるのである。それをそのままにして薬を飲ませようとしても不可能である。
まず、今、口の中にある物が毒であることを教え、吐き出させることが先決であるということであろう。そこに四箇の格言に要約される破折を表に立てられた所以があると拝されるのである。
そこで、なぜ真言を亡国、念仏を無間地獄、禅を天魔、律を国賊とされたのか。それぞれの内容に即してみておきたい。
一、真言亡国
日本の開祖・弘法大師空海は、法華経は大日経に比べれば三重の劣、戯論の法であると誇り、釈迦仏を大日如来に比較すると無明の辺域であると悪口し、下している。
「力者」とは、昔、法師のように剃髪した者のことで、興をかき、馬の口を取り、長刀をもって貴人の供をすなど力仕事をした人のことをいうから、大日如来と相対して、釈尊を「力者」「はき物とり」にも及ばないと、蔑んだのである。
このように本来の教主である釈尊を倒して、理上にすぎない大日如来を立て、真言を説いた法華経を卑しめることは、本来の主人を差し置いて無縁の主を立てることであるから、「真言は国をほろぼす」悪法であると断じられたのである。
二、念仏無間
中国浄土宗の祖道綽は法華経を含む諸経を聖道門として、「末だ一人も得る者あらず」の教えであると排斥し、また道綽の弟子、善導は、念仏以外は雑行であるから、救われる者は千人のなかに一人もいないと主張した。
更に、これらの教えを受け継いで、日本浄土宗の開祖・法然は、法華経などの諸経は末法の衆生の機根に合わないとして「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と否定し、捨てるよう人々に勧めたのである。
ゆえに、法華経譬喩品第三に「若し人信ぜずして、此の経のを毀謗せば…其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれているように阿鼻地獄に堕ちるとされたのである。
三、禅天魔
禅宗は釈尊が入滅の直前、黙ったまま花を拈って一座の大衆に示したとき、迦葉だけがその意味を悟って破顔顔微笑したといい、こうして言葉によらないで釈尊から迦葉へ法が伝えられたとする。
ゆえに「教外別伝・不立文字」と主張し「一切経の外に伝へたる法門」として、経は月をさす指であり、禅は月のごとくで、月を知れば法華経等の指は不要であるとする。
これは大梵天王問仏決疑経等を拠りどころとしたものであるが、この経自体、偽経説が有力であり、更には「不立文字」などといって、仏説である経文を捨てる行為は、涅槃経巻七に「若し所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあるように、仏法を破壊する天魔の振る舞い以外のなにものでもない、ゆえに「禅は天魔の所為」といわれたのである。
四、律国賊
律宗は、極楽寺良観が戒律を持つ律宗に真言の祈禱と唱名念仏を加えた真言律宗を弘め、二百五十戒の戒律を持っていると自己宣伝していた。また、戒律を持つ人は国の宝といわれたのである。
末法今時では二百五十戒などの戒律を持って何の役にも立たないばかりか、かえって有害であり、世間を惑わすゆえに国宝であるどころか、国を破壊に導く賊、すなわち「律宗は国賊」であると破折されたのである。
0586:06~0586:16 第15章 釈尊も小乗・権教を厳しく破折top
| 06 仏は且らく阿含経を説き給いて後 彼の行者を法華経へ入れんと・たばかり給いしに一 07 切の声聞等・只阿含経に著して 法華経へ入らざりしをば・いかやうにか・たばからせ給いし、此をば仏説いて云く 08 「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも 彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説 09 かせ給しか、 小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり 大が小を破して小を大となすと大を破して法華経に入ると 10 大小は異なれども 法華経へ入れんと思う志は是一つなり、 されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と法華 11 経に云く「此の事は為て不可なり」等云云、 仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等を説きて 法華経をとかずし 12 て入涅槃せば愛子に財ををしみ 病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし 仏自ら地獄に堕つべし 」と云云、 13 不可と申すは地獄の名なり 況や法華経の後・爾前の経に著して 法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるが 14 ごとし親に子の見へざるがごとし、 設い法華経を破せざれども 爾前の経経をほむるは 法華経をそしるに当たれ 15 り、妙楽云く「若し昔を称歎せば 豈に今を毀るに非ずや」文、 又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡ばず誓の 16 境を解らざれば未来法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」等云云、 -----― 仏は、しばらく阿含経を説かれて後、阿含経を修行する行者を法華経へ導き入れようと計らわれたとき、一切の声聞等がただ阿含経に執着して、法華経に入らなかったのに対し、どのように計らわれたであろうか。このことについて仏は「たとい五逆の罪をつくっても、また五逆を犯した者を供養するとも、その罪悪が仏になる種子とはなっても、彼らの善根は仏種とはならない」と説かれたのである。小乗、大乗の違いはあっても同じ仏説である。大乗が小乗を破折して、小乗の者を大乗に引き入れようとされたのと、更に大乗を破折して実大乗の法華経に入れようとするのと、破折の対象である法が大乗、小乗の違いはあっても、法華経に導き入れようとする志は一つである。 したがって無量義経に権大乗経を破折して「未顕真実」と説かれ、法華経には「このことはまことに不可である」と説かれている。仏は自ら「我世に出て華厳、般若等の諸経を説き、法華経を説かないで涅槃に入るならば、愛子に財を惜しみ、病者に良薬を与えずして死ぬようなものである。我は自ら地獄に堕ちるであろう」と仰せられている。ここで「不可」というのは地獄の名である。 いわんや法華経が説かれた後も、爾前の諸経に執着して法華経に心を移さない者は、大王の命に臣民が従わないようなものであり、親に子が会おうとしないようなものである。たとい法華経を破折していなくても、爾前の諸経を讃嘆するのは法華経を謗ることにあたる。 妙楽大師は法華文句記で「もし、昔を称嘆するならば、これは今を毀謗することではないか」と、また「発心しようと思っても、偏円の区別をせず、仏の誓いの境を解らなければ、未来に法を聞くとしても、どうして謗法を免れることができようか」といっている。 |
阿含経
阿含はサンスクリットのアーガマの音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部(ニカーヤ)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。
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五逆罪
5種の最も重い罪で、必ず無間地獄の苦の果報を受ける原因となる行為。①父を殺す(殺父)②母を殺す(殺母)③阿羅漢を殺す(殺阿羅漢)④仏の身を傷つけ血を出す(出仏身血)⑤教団を分裂させる(破和合僧)の五つ。
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小乗
乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
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大乗
一般に大乗仏教という。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。
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無量義経
中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
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未顕真実
無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。
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華厳
大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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般若
「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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偏円
偏ったものと完全なもの。部分的なものと全体的なもの。①一部の真理を説いた偏頗な教と、円融円満で余すところなく説いた教えのこと。天台大師所立の化法の四教のなか、蔵・通・別の三教を偏、円教を円という。②摩訶止観に説かれる五略十広のなか、十大章の第五・偏円章にあたる。教理に偏円等の別があるように止観にも異なりがあるが、いま説く止観はそれらの別を超えすべてを包含した円満な止観であることを述べている。
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折伏こそ衆生を救うための大慈悲の行為であることを、釈尊自身の化導の次第を通して示され、もし正法を惜しんで説かなかったならば、慳貪の科で、仏自らも地獄へ堕すことを述べられている。
釈尊は初めに小乗の阿含経を説いて、後に法華経へ引導しようとされたが、二乗が小乗に執着しているため、維摩経で「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」(取意)と説いたことを挙げられている。
つまり、凡夫の五逆罪などの悪行は仏種になっても、二乗の善根は仏種にはならないということである。
二乗の証果は凡夫の悪たる見思惑を断尽し、三界から出離して得たものであるから、一往は善と言えるが、成仏を目指す菩薩道という大乗の善からみるならば、いまだ真実の善でないばかりでなく、それに固執することによって求道心が妨げられることになるので、凡夫の悪よりも警戒すべきものとなる。
凡夫の悪は、むしろ悪に苦しむことで菩提心を起こすことも可能であり、その意味で仏種となりうるからである。
釈尊はまた、権大乗から実大乗の法華経へ導くためにも、権大乗教を強く破折している。すなわち、法華経の開経である無量義経で、権大乗の諸経を破して「四十余年には未だ真実を顕さず」と決別したのである。
また法華経方便品第二では「若し小乗を以って、乃至一人をも化せば、我則ち慳貪に堕せん。此の事は為めて不可なり」とも説かれている。
つまり、仏自身が「華厳・般若等の諸経を説いて法華経を説かずに入滅したならば、それはあたかも愛する子に財を譲ることを惜しみ、病者に良薬を与えないで死に至らしめるようなものであり、無慈悲このうえなく、仏自らが地獄へ落ちる」と説いて、戒めているのである。
ちなみに「慳貪」とは、惜しみ貪ることで、物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らない心をいう。欲深く、無情、意地の悪いことを意味する。
ここで「不可と申すは地獄の名なり」と説かれているのは、「不可」とは文字どおりでいえば「よくない」「いけない」ということであるが、正法を人々に説かないならば、自ら堕地獄の因となるゆえに「不可」を「地獄の名」とされたと考えられる。
法華文句巻四下には、慳貪の科は餓鬼道に堕ちる因とあるので、餓鬼道も地獄と同じ悪道の一つであるところから、悪道のなかに地獄を含めて仰せられたと拝される。
ましてや、法華経が説かれたあと、なお爾前の諸経に執着し、法華経を信じない者は、臣下が大王の命に従わず、子が親の意に従わないようなものだとたとえられている。
また、たとえ直接、法華経を謗らなくても、「爾前の経経をほむる」ことは、それ自体、法華経を誹謗していることになると、妙楽大師の法華文句記を引証されている。
同巻三下にある「若し昔を称歎せば、豈、今を毀るに非ずや」の「昔」とは爾前の諸経、「今」は法華経の意である。爾前の諸経にとらわれ、ほめること自体、法華経を毀謗していることでもある、という意味である。
次の同巻四下の「発心せんと欲すと雖も、偏円を簡ばず、誓の境を解らざれば、未来の法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」も同趣旨の文である。
「偏円」の「偏」とは、仏の悟りの一分を説いた偏頗な教、すなわち爾前諸教のことである。「円」とは円融円満の意で、仏の悟りを余すところなく説いた教、すなわち、ここでは法華経をさす。
つまり、発心して仏道を志しても、偏と円とを区別せず、あいまいにしておくことは、爾前権教を容認しているのと同じになり、謗法にあたるとの意である。「誓の境」とは、菩薩の誓願を成就せしめる対境のことで、妙法蓮華経を意味するのである。
0586:16~0587:09 第16章 中国・日本の真言師の罪科top
| 16 真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は 17 設とい法華経を大日経に相対して 勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも 滅後に生まれたる三蔵・人師なれば謗法 18 はよも免れ候はじ、 何に況や善無畏等の三三蔵は法華経は 略説・大日経は広説と同じて而かも法華経の行者を大 0587 01 日経えすかし入れ、 弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて 戯論なんどかかれて候大科を明らめずして此の四 02 百余年一切衆生を皆謗法の者となせり、 例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗の人を 皆無間地獄に堕せ 03 ると、 師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻大城に導きしと、 04 今の三大師の教化に随いて 日本国四十九億九万四千八百二十八人或は云く 日本紀に行基の人数に云く男女四十五 05 億八万九千六百五十九人 云云の一切衆生又四十九億等の人人四百余年に死して 無間地獄に堕ちぬれば其の後他方 06 世界よりは生れて又死して無間地獄に堕ちぬ、 かくのごとく堕つる者は 大地微塵よりも多し此れ皆三大師の科ぞ 07 かし、 此れを日蓮此に大に見ながらいつわりをろかにして申さずば 倶に堕地獄の者となつて一分の科なき身が十 08 方の大阿鼻獄を経めぐるべし いかでか身命をすててよばわらざるべき 涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは 09 悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。 -----― 真言宗の善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、たとえ法華経を大日経と比較相対し、その勝劣を論じないで、ただ大日経を弘通しただけだったとしても、仏滅後に生まれた三蔵であり人師であるから、とうてい謗法を免れることはできまい。 ましてや善無畏等の三三蔵は、「法華経は略説で、大日経は広説である」として両経を同等にし、しかも法華経の行者を大日経へ欺き入れた者であるし、弘法等の三人は法華経の名を挙げて戯論などと書いており、その大なる誤りを隠して、この四百余年の間に、一切衆生を皆、謗法の者としてしまった。 例えていえば、大荘厳仏の末の時代の四比丘が、六百万億那由佗の人々を皆、無間地獄に堕としたのと、師子音王仏の末の勝意比丘が、無量無辺の持戒の比丘、比丘尼、うばそく、うばいを皆、阿鼻大城に導いたと、今の三大師の教化に従って日本国の四十九億九万四千八百二十八人、あるいは日本紀に行基がいう人数、男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生、また四十九億等の人々が、四百余年の間に、死んで無間地獄に堕ち、その後他方世界から生まれてきた人々も、また死んでは無間地獄に堕ちてしまったのである。 このようにして、無間地獄に堕ちた者は大地微塵よりも多い。これらは皆、三大師の科なのである。 このようなありさまを日蓮が大いに見ながら、知らぬふりをしてこれを言わなければ、ともに堕地獄の者となって、一分の科もない身が十方の大阿鼻地獄を経めぐることになるであろう。どうして身命を捨て、謗法を責めずにいられようか。 涅槃経に「一切衆生が種々の苦しみを受けるのは、ことごとくこれ如来一人の苦である」等と説かれている。 日蓮も同じく「一切衆生の同一に受ける苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦である」と言うのである。 |
善無畏
637年~735年。東インドの王族出身の密教僧。唐に渡り、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)を翻訳し、本格的な密教を初めて中国に伝えた。主著に『大日経疏』がある。
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金剛智
671年~741年。サンスクリットのヴァジラボーディの訳。中インドあるいは南インド(デカン高原以南)出身の密教僧。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂瑜伽中略出念誦経)などを訳し、中国に初めて金剛頂経系統の密教をもたらした。弟子に不空、一行がいる。
―――
不空
705年~774年。北インド(一説にスリランカ)出身の密教僧。金剛智の弟子。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)など100部143巻におよぶ多くの経典を訳した。玄宗・粛宗・代宗の3代の皇帝の帰依を受け、密教を中国に定着させた。彼の弟子には空海(弘法)に法を伝えた恵果がいる。
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三蔵
仏教聖典を三つに分類した経蔵(スートラ、修多羅)、律蔵(ヴィナヤ、毘尼)、論蔵(アビダルマ、阿毘曇)のこと。①経蔵とは釈尊が説いた教法を集成したもの。②律蔵とは修行上の禁戒儀則。③論蔵とは釈尊が説いた法を体系づけて論議、注釈したものを集めたもの。釈尊滅後、阿闍世王の外護のもとに、マガダ国王舎城(ラージャグリハ)の南、畢波羅(ピッパラ)窟で摩訶迦葉を中心に第1回仏典結集が行われ、阿難は人々に推されて経を誦出し、優婆離は律を誦出したという。論蔵は弟子たちが仏の教法を理論的に体系化したもので、各部派において盛んに研究された。
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大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗の人を皆無間地獄に堕せる
仏蔵経巻中に説かれる。過去久遠無量無辺不可思議阿僧祇劫に出現した大荘厳仏の滅後百年に弟子は五派に分裂した。このなかで普事比丘だけは大荘厳仏の教えを正しく守ったが、他の苦岸、薩和多、将去、跋難陀の四比丘は邪道に迷い、邪見を起こして普事比丘を迫害した。四比丘とこれに従った在家出家の大衆六百万億那由多の人が地獄に堕ちたという
―――
師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻大城に導きし
諸法無行経巻下、大智度論巻六等に説かれる。過去に師子音王仏の滅後、六万歳の世に喜根菩薩、勝意菩薩の二人の比丘がいた。喜根菩薩は容儀質直にして諸法の実相が清浄であることを説き、勝意比丘は十二頭陀を行じ、四禅と四無色定を得ていた。あるとき、勝意は喜根の弟子と婬欲の相について問答して敗れたことから「喜根は多く衆生を誑わし、邪道の中に著く」と悪口誹謗した。此のことを聞いた喜根は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
―――
比丘
ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
比丘尼
ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
―――
うばそく
在家の男子をいう。
―――
うばい
在家の女子をいう。
―――
四十九億九万四千八百二十八人
日蓮大聖人御在世当時の日本の人口。数字の出所は不明。
―――
日本紀
『続日本紀』のこと。平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。
―――
行基
(0668~0749)。奈良薬師寺の僧。和泉国大鳥郡の百済系渡来人の豪族・高志氏の出身。15歳で出家して法相宗を学んだのち、諸国を遊歴して衆生を教化し、多くの帰依者を得たという。朝廷は、その動きに不安を感じ、民心を惑わす者として弾圧したが、のちに公認した。天平15年(0743)の大仏建立誓願には全国的に勧進を行い、同17年(0745)に大僧正に任じられた。諸国遊歴の時、要害の地に橋をかけ、堤を築き、路を修し、開墾や水利に尽くして民利をはかったので、行基菩薩と呼ばれた。本朝法華験記には行基菩薩が日本第一の法華の持者であり、過去二万億日月燈明仏の時に妙光法師として法華経を受持していたとの記述がある。
―――
四十五億八万九千六百五十九人
日蓮大聖人御在世当時の日本の人口。数字の出所は不明。本文には「日本記」となっているが、日本記にその文はない。(あるいは別冊があったものか?)
―――
涅槃経
大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
―――
一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり
涅槃経巻38の文。
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諸宗のなかでもとくに真言宗を取り上げ、中国の元祖・善無畏等の三三蔵、日本の開祖・弘法、台密の慈覚・智証らの邪義によって誑惑された日本の一切衆生が無間地獄に堕していることを指摘し、これを破折するのは、一切衆生を救うためであることを述べられている。
中国真言宗の善無畏等の三三蔵、日本の弘法、そして天台宗の座主でありながら真言の邪義に堕した慈覚・智証らが、仮に真言の大日経が法華経に勝るなどといわず、ただ大日経を弘めただけであったとしても、彼らは、釈尊が「法華最も第一なり」と説いて入滅した後に生まれた人師であるから、大日経の弘通は明らかに仏説に違背するものであり「謗法はよも免れ候はじ」と仰せられている。
まして善無畏・金剛智・不空の三三蔵は「法華経は略説・大日経は広説」であり、二経は同等であると主張して、人々を大日経へ引き入れたのであるから、その罪は大きい。
更に、弘法は法華経の名を明示して、大日経に比べれば「第三の劣」「戯論」などと誹謗しており、慈覚や智証はそうした弘法の邪義を明らかにしないで「法華経と大日経は理は同じだが、印と真言の事において大日経が勝れる」といって真言宗を容認した。このため、その後の四百余年の日本の人々を皆、謗法の大罪に堕としたのであるから、その罪は計り知れないと仰せである。
そして、その罪の大きさを、インドにおける苦岸等の四比丘、また勝意比丘の名を挙げて示され、彼らが多くの人々を誑惑して無間地獄へ導いたように、弘法等の三大師の邪法によって、日本の総人口「四十九億九万四千八百二十八人」は、四百余年の間、無間地獄へ堕ちてきたことを嘆かれている。ここで使われている〝億〟は、現在の十万にあたり、したがって四百九十万余となる。この数値の出所については不明である。
また、他方世界からこの国に生まれてきた者も同様に、死後、無間地獄へ堕ちてしまったと述べられ、その元凶は三大師の真言の邪法にあると述べられている。
それゆえに、こうした「三大師の科」を眼前にしながら、黙認して呵責しなければ、大聖人御自身も与同罪で無間地獄に堕ちることになるのであるから、どうして身命を捨てても謗法を呵責せずにはいられようかと仰せられ、一切衆生の苦は我が身一人の苦であると、大慈悲の境地を示されている。
一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし
涅槃経巻三十八の「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦なり」の文を受けて、日蓮大聖人御自身の心情も同じであるとされ、一切衆生を慈愛される御本仏としての御内証の境地を示されている。涅槃経の「一切衆生の異の苦」とは、衆生がそれぞれの因縁、果報によって受ける種々の異なった苦しみをいう。これに対し、大聖人の御心境として「同一苦」と述べられているのは、今の日本国の一切衆生の苦が〝謗法〟という同一の原因によって起こっている無間地獄の苦をさしておられる。
しかしながら、無間地獄の苦のなかには、三悪道、八大地獄のすべての苦が含まれていることを知らなければならない。この筆舌に尽くせない無間地獄の苦から救わんがため、自らの身命をなげうって折伏される、どこまでも広大無辺なる大慈大悲の御本仏の御境界を示された御文ということができよう。
0587:10~0587:17 第17章 八幡大菩薩は正直の人を守護top
| 10 平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり 百王を守護せん誓願あり」等云云、 11 今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願 12 破るるがごとし、 日蓮料簡して云く百王を守護せんというは 正直の王・百人を守護せんと誓い給う、八幡の御誓 13 願に云く「正直の人の頂を以て栖と為し 、諂曲の人の心を以て亭ず」等云云、 夫れ月は清水に影をやどす濁水に 14 すむ事なし、 王と申すは不妄語の人・右大将家・権の大夫殿は不妄語の人・正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内な 15 り、正直に二あり一には世間の正直・王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつ 16 てんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す、隠岐の法皇は名は国王・身は 17 妄語の人なり横人なり、 権の大夫殿は名は臣下・身は大王・不妄語の人・八幡大菩薩の願い給う頂きなり、 -----― 平城天皇の治世に、八幡大菩薩の託宣に「我は日本の鎮守の八幡大菩薩である。百王を守護する誓願をもっている」等とある。 今、人がいうのに「人王八十一代、八十二代の隠岐の法皇、八十三代、八十四代、八十五代の諸王が、臣下のために破られ、その後の二十余代の諸王も今では、捨ててしまわれた。八幡大菩薩の誓願は破られてしまったようである」と。 日蓮が考えていう。「百王を守護するというのは、正直な王を百人守護すると誓われたのである。八幡大菩薩の御誓願に「『正直の人の頂をもってすみかとし、諂曲の人の心をもって宿らず』等といわれているからである」と。 月は清水に影を映すが、濁水に映すことはない。王というのは元来、不妄語の人である。右大将家や権の大夫殿は不妄語の人であったから、八幡大菩薩が正直の人の頂にすむといわれた百皇の中に入っているのである。 正直に二ある。一には世間の正直である。王の字には天、人、地の三を貫くという義があり、それを王と名づけるのである。天、人、地の三は横で、貫いている点は縦である。王というのは黄帝のことで中央の名である。天の主、人の主、地の主を王という。 隠岐の法皇は名は国王であったが、身は妄語の人で道に外れた人であった。権の大夫殿は名は臣下であったが、身は大王であり、不妄語の人であったから、八幡大菩薩がすみかとしたいと願われた頂であった。 |
平城天皇
774年~824年。第51代天皇。桓武天皇の第1皇子。病気のため弟の嵯峨天皇に譲位した後、藤原薬子・仲成とともに再び権力を握ろうと故京・平城京への再遷都を企てたが、失敗し出家した(薬子の変)。
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隠岐の法皇
(1180~71239)。82代天皇。鎌倉前期の天皇。高倉天皇と修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)の子。寿永2(1183)年,平氏が安徳天皇(後鳥羽の兄)を伴って都落ちしたため,祖父後白河法皇の詔によって践祚,尊成と名づけられた。建久3(1192)年院政を行っていた後白河が没し,後鳥羽天皇の親政となったが,実権は関白九条兼実が握り,同7年,兼実の失脚後は源通親に移った。同9年後鳥羽は皇子の土御門天皇に譲位して院政を始め,土御門・順徳(土御門の弟)・仲恭(順徳の子)の3天皇の時代,23年にわたって院政を行い,特に建仁2(1202)年通親の没後は,独裁的な権力を振るった。当時近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが,後鳥羽上皇はそれを解消し,すべての貴族に支持される体制を樹立しようとした。また近臣坊門信清の娘(後鳥羽の母の姪)を将軍源実朝の妻として鎌倉に下すなど,鎌倉幕府との友好を図った。しかし幕府内での実朝の権限は弱く,執権北条氏らは,上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。承久1(1219)年,実朝が暗殺されるにおよび,上皇は幕府との友好を断念,討幕を決意し,上皇の皇子を将軍に迎えたいとする幕府の要望を拒否した。そのかわりに摂関家から九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになったが,上皇は内心これにも不満で,討幕計画を進めた。同3年,上皇は執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵し,承久の乱が起こったが,幕府が上洛させた大軍の前に上皇方は敗れ,上皇は出家した(法名は金剛理,あるいは良然)。出家の際,藤原信実に肖像を画かせたが,大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝える。幕府は上皇の兄の後高倉法皇に院政をとらせ,仲恭天皇を退位させ,後高倉の子の後堀河天皇を践祚させ,後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。鎌倉前期の天皇。高倉天皇と修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)の子。寿永2(1183)年,平氏が安徳天皇(後鳥羽の兄)を伴って都落ちしたため,祖父後白河法皇の詔によって践祚,尊成と名づけられた。建久3(1192)年院政を行っていた後白河が没し,後鳥羽天皇の親政となったが,実権は関白九条兼実が握り,同7年,兼実の失脚後は源通親に移った。同9年後鳥羽は皇子の土御門天皇に譲位して院政を始め,土御門・順徳(土御門の弟)・仲恭(順徳の子)の3天皇の時代,23年にわたって院政を行い,特に建仁2(1202)年通親の没後は,独裁的な権力を振るった。当時近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが,後鳥羽上皇はそれを解消し,すべての貴族に支持される体制を樹立しようとした。また近臣坊門信清の娘(後鳥羽の母の姪)を将軍源実朝の妻として鎌倉に下すなど,鎌倉幕府との友好を図った。しかし幕府内での実朝の権限は弱く,執権北条氏らは,上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。承久1(1219)年,実朝が暗殺されるにおよび,上皇は幕府との友好を断念,討幕を決意し,上皇の皇子を将軍に迎えたいとする幕府の要望を拒否した。そのかわりに摂関家から九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになったが,上皇は内心これにも不満で,討幕計画を進めた。同3年,上皇は執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵し,承久の乱が起こったが,幕府が上洛させた大軍の前に上皇方は敗れ,上皇は出家した(法名は金剛理,あるいは良然)。出家の際,藤原信実に肖像を画かせたが,大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝える。幕府は上皇の兄の後高倉法皇に院政をとらせ,仲恭天皇を退位させ,後高倉の子の後堀河天皇を践祚させ,後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。
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王と申すは不妄語の人
正法念処経巻20善業道品には、十善道をたもつ者は、天界に生じては梵天・帝釈となり、人界に生まれては転輪聖王となる、と説かれている。
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右大将家
(1174~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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権の大夫
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
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黄帝
中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝のひとり。姓は公孫。軒轅とも、有熊氏ともいう。中国では地上最古の帝王とされ、すべての帝王、漢民族は黄帝の子孫と考えられた。五穀の栽培を教え、衣服、家屋、医術、文字などの発明者とされた。帝王のなかの帝王という意と、中国の古義で五色を五方に配するとき黄色を中央におくことから、黄帝中央と仰せられたと拝せる。
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本章からは、これまで論述されてきた八幡大菩薩への〝破邪的諫暁〟に対し、〝顕正的諫暁〟ともいうべき内容となっている。
この段では、八幡の百王守護の託宣を挙げ、八幡は正直の人を守護する旨を述べ、正直に二義あるとして、まず世間の正直について説かれている。
八幡大菩薩の百王守護の誓い
東大寺八幡験記には、八幡大菩薩が51代平城天皇の代に「我は日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王守護の誓願あり」と託宣を下したことが記されている。
他にも、大和大安寺の行教という寺僧が、唐から帰朝し、筑紫豊前国(大分県)宇佐宮に参詣したとき、同じ内容の託宣としては、「我、誓って日本国の百王を守護するであろう」という意味のことを述べたという。
「百王」は古来、代々の王という意味で使われていたが、平安時代末期から、百代の王と限定した見方になってきたと推される。
しかし、81代安徳天皇が源氏に攻められた平氏とともに西海に沈み、更に82代後鳥羽上皇、83代土御門上皇、84代順徳上皇が、承久の乱の際、北条氏によって、それぞれ隠岐、阿波、佐渡へ流罪され、85代仲恭天皇はわずか70余日で譲位させられている。このことから、八幡の百王守護の誓いはもはや破られたのではないかという疑念を当時の人々は抱いていた。
「残の二十余代・今捨て畢んぬ」とは、15代応神天皇が八幡大菩薩であるという立場から、以後の百王守護となれば、115代までの守護となる。
しかし、承久の乱後、実権は鎌倉幕府に奪われてしまっており、「今」といわれた時は91代後宇多天皇の御代であるが、この先も朝廷復権の見込みはなく、もはや八幡神から捨てられてしまったとみられていたのである。
そこから「已に此の願破るるがごとし」と述べられるように、八幡の百王守護の誓いといっても、あてにはならないとの不信があった。
そこで大聖人は、仏法の法理に照らして、八幡の百王守護というのは、天皇であれば無条件に守護するという意味ではなく、その大前提として「正直の頂を以て栖と為す」という原則があることを示されている。
元来、王とは過去世に十善戒を持った福徳をもつ人で、そのなかには不妄語戒が含まれている。八幡大菩薩が百王を守護すると誓ったのは、この前提によっているのである。
しかるに安徳天皇や後鳥羽上皇と源頼朝、北条義時を比べると、後者のほうが「正直」であったので、八幡は頼朝や義時を王として守ったのである。
「正直」について
一般に「正直」は、自己の心を偽らないという意味に用いられているが、自己の心が誤りを犯す場合も少なくない。その場合、誤りを犯している自己に対しては正直であっても、真実に対しては不正直となる。
「正直」は、こうした誤りの多い自己の心に対してではなく、真実そのものや真実の教えに対して誠実であることをいうのである。
この正直な生き方をする人、真っ直ぐ正しい心をもった人の上に、諸天善神が守護の働きをあらわすというのが、一般にもいわれる「正直の頭に神やどる」という考え方である。「正直の人の頂を以て栖とする」という八幡の誓願の本意も、ここにあることはいうまでもない。
源頼朝や北条義時は「不妄語の人・正直の頂」であったから八幡大菩薩は彼らを守ったのであり、「八幡大菩薩の栖む百皇の内」に入る。したがって、八幡の「百王守護」の誓いに偽りはないことを述べられている。そして「正直」にも世間法上の正直と出世間法上の正直の二種があるとされ、まず「世間の正直」について、「王」の文字の意義を明かされている。「王」の字は天・人・地の三を串くという字義であり、天・人・地の三は横、それを貫いている線は縦である。つまり、天・人・地の三を一貫する正直の人を「王」というわけである。
また「王」は「黄帝・中央の名」であるといわれているのは、中国の古義では五色を五方に配するとき、黄色は中央に位置し、各方位を主宰するところから「帝」とされる。したがって「王」とは「天の主・人の主・地の主」と定義されているのである。
「隠岐の法皇」は「名は国王」でも「身は妄語の人」であり「横人」であったと仰せられているのは、後鳥羽上皇が策を弄し、人を欺くことが多かったことをいわれたのであろう。
それに対し、北条義時は「名は臣下」でも、「身は大王」「不妄語の人」であった。ゆえに、八幡が栖としたいと望んだ頂であったと仰せられている。
0587:17~0588:11 第18章 八幡大菩薩の本地を明かすtop
| 17 二に 18 は出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論 釈は妄語・法華経・天台宗は正直の経釈なり、本地は不妄語の経の釈迦 0588 01 仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、 八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、 四月八日・寅の日に生まれ八十年を経 02 て二月十五日申の日に隠れさせ給う、 豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、 大隅の正八幡宮の石の文に云 03 く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、 法華経に云く「今此三界」等 04 云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、 遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十 05 九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、 今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし 釈迦 06 仏をすて奉るは影をうやまつて 体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、 本地は釈迦如来にして月氏国に出で 07 て正直捨方便の法華経を説き給い、 垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、 諸の権化の人人の本地は法 08 華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、 所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し 鴦崛摩羅は生生に殺生を示 09 す、 舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は 本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に 10 出で給う時我が得道の門を示すなり、 妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て 能く出離 11 するが故なり是の故に 迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、 -----― 二に出世の正直というのは、爾前の諸経や七宗等の経論釈は妄語であり、法華経ならびに天台宗は正直の経釈である。 本地はこの不妄語の経を説かれた釈迦仏で、垂迹は不妄語の八幡大菩薩である。八葉の蓮華は八幡大菩薩であり、中台は教主釈尊である。 四月八日、寅の日に生誕され、八十年を経て二月十五日、申の日に入滅されたことは、教主釈尊が日本国に八幡大菩薩と生まれ給うたものではないか。 大隅の正八幡宮の石の文に「昔は霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現す」等と記されている。 法華経の譬喩品第三に「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等と説かれ、また如来寿量品第十六には「常に霊鷲山に在って説法教化す」等と説かれている。 それゆえ、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子であり、近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子である。 今、日本国の一切衆生は八幡大菩薩を頼りにして大事にしながら、釈迦仏を捨てているのは、影を敬って体を侮り、子に向かって親を罵っているのと同じである。 本地は釈迦如来として、月氏国に出現されて正直捨方便の法華経を説かれ、垂迹は八幡大菩薩として日本に生れて、正直な人の頂にすまわれるのである。 もろもろの権化の人々の本地は法華経の一実相であるが、垂迹の法門は無量である。いわゆる跋倶羅尊者は、三世にわたって不殺生戒を示し、鴦崛摩羅は、生々世々に殺生を示している。舎利弗は外道となった。このように各門が不同であることは、もと凡夫であったときの初発得道の始めを、成仏して化他門に向かうときに、我が得道の門はこれであったと示すためである。 妙楽大師は「若し本地に従って説くならば、かくのごとく過去世に殺生等の悪業の因縁によって、よく生死を出離したのであるから、垂迹の場合においてもまた、これをもって利他の法門とするのである」等といっている。 |
七宗
南都六宗に真言宗を加えた七宗。
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八葉は八幡・中台は教主釈尊なり
真言密教で用いる胎蔵界漫荼羅では、中央に八葉院を置き、中台を大日如来とし、八葉を四仏・四菩薩を配し八葉九尊としている。大聖人はこれを中台を教主釈尊とし、八幡を釈尊の垂迹であるとされている。
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今此三界
法華経譬喩品第3の文。同品に「今此の三界は|皆是れ我が有なり|其の中の衆生は|悉く是れ吾が子なり|而るに今此の処は|諸の患難多し|唯我一人のみ|能く救護を為す」(法華経191~192㌻)とある。釈尊がこの世界の主であることを述べた文。
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常に霊鷲山に在り
法華経如来寿量品第16には「我諸の衆生を見るに、苦海に没在せり。故に為に身を現ぜずして、其れをして渇仰を生ぜしむ。其の心恋慕するに因って、乃ち出でて為に法を説く。神通力是の如し、阿僧祇劫に於いて、常に霊鷲山、及び余の諸の住処にあり」とある。
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跋倶羅尊者
跋倶羅は「ばっくら」とも読む。釈尊の弟子。容姿端麗な羅漢。髪倶羅、薄拘羅、縛矩羅等とも音写し、善容、重姓等と訳す。増一阿含経、賢愚経、大智度論などにある。賢愚経によると、跋倶羅は舎衛国の長者の子として生まれ、父母に深く愛された。あるとき、父母が誤って跋倶羅を川の中に落としてしまい、跋倶羅は魚の餌食となったが、川下に住む長者が魚を割いて助け出した。跋倶羅は川上、川下両家に育てられ、嫁も両家でおのおの娶った。このことから字を重姓という。出家して仏所に詣で沙門となり、阿羅漢果を得たという。また跋倶羅は、過去久遠の昔に毘婆尸という仏に一銭を布施し、三自帰、不殺戒の教えを受けた長者の子供であったといわれる。
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不殺生戒
戒律に規定されたことで,生物の生命を絶つことを禁止する戒。これを犯して殺すものは,僧伽では最も重い波羅夷 (教団追放の罪) になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。
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鴦崛摩羅
釈尊在世当時の弟子。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。鴦掘摩羅・央掘摩羅・鴦掘摩等とも書く。指鬘と訳す。央掘摩羅経巻一等によると、人を殺して指を切り、鬘としたのでこの名がある。外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に千人を殺してその指を取るよう命じた。そのため九百九十九人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたという。鴦掘摩経では百人を殺そうとして九十九人を殺したとある。
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舎利弗は外道となり
舎利弗が乞眼の婆羅門の責めによって、退転して外道の家に生まれたことをいう。大智度論巻十二の「舎利弗の如きは六十劫の中に於いて、菩薩の道を行じ、布施の河を渡らんと欲す。時に乞人あり、来って其の眼を乞う。舎利弗言く『眼には任すべき所ならず。何を以ってか之を索むるや。若し我が身及び財物を須いなば、当に以って相与うべし』と。答えて曰く『汝が身及び財物を以って須いず。唯眼を得んと欲す。若し汝実に檀を行ずるならば、以って眼を与えよ』と。爾の時、舎利弗は、一眼を出して之を与う。乞者は眼を得て、舎利弗の前に於いて之を嗅ぎ、臭を嫌って唾して地に棄て、又脚を以って蹹む。舎利弗思惟して言く『此くの如きの弊人等は、度す可きこと難し。眼は実に用無きも、而も強いて之を索め、既に得れば而も棄て、又脚を以って蹹む。何ぞ弊なるの甚だしきや。此くの如きの人輩は度す可からず。自ら調えて、早く生死を脱せんには如かず』と。是く思惟し已って、菩薩の道より退き、小乗に回向せり」の文によられたと思われる。
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世間の正直に続き、出世の正直について述べられている。すなわち、仏法上の正直とは法華経であり、その法華経によって立てられた宗である、と。そして、八幡の本地は不妄語の経を説いた釈迦仏であり、その釈迦仏の垂迹が八幡大菩薩として日本国に生まれ、正直の頂に栖むことを明かされているのであると述べられている。
ここで「法華経・天台宗は正直の経釈なり」と仰せられているのは、当時の天台宗は真言密教に堕して、もはや「正直の宗」とはいえなくなっていたが、開祖伝教大師が法華経を依経としていたことから、その本来の原点に立ち戻って「正直の経釈」とされたと拝される。
そして、仏法の奥義の立場から、八幡の本地は不妄語の法華経を説いた釈迦仏であり、釈迦仏の垂迹として現れたのが「不妄語の八幡大菩薩」であると御教示されている。
本地とは、本来の境地の意で、仏・菩薩の本身をいい、垂迹とは、本地から迹を垂れることで、仏が衆生を利益するために、機根に応じ、種々に身を変化して出現することをいう。
八葉は八幡・中台は教主釈尊なり
「八葉」とは、八枚の花弁の蓮華のことで、真言密教で用いる胎蔵界曼荼羅では、八葉九尊と称し、定印を結んで座す大日如来を中台に、八葉上に宝幢・無量寿などの四仏、観音・弥勒などの四菩薩を配し、これらをさして九尊としている。
ここでは「中台」を教主釈尊に、八幡大菩薩を釈尊の垂迹とし、「八葉」に位置するとされたものと拝察される。
そして八幡大菩薩が釈尊の垂迹とされる根拠として、生没の月日の一致を挙げられている。ともに「四月八日・寅の日」に生まれ、「二月十五日申の日」に滅したとされているのである。
また、鹿児島県大隅半島の正八幡宮にあったとされる石の銘文を挙げられている。この石は、一つの石が割れて二つになったもので、片方の石には「八幡」という二字が記されており、もう一方の石には「昔、霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現した」(取意)とあったという。
続いて法華経譬喩品第三の「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」の文と、同寿量品第十六の「常に霊鷲山、及び余の諸の住処に在り」の文を引かれて、根本的にいえば「三千大千世界」の一切衆生は釈尊の子であり、狭めて日本国すべての人々についていえば、その釈尊の垂迹である八幡大菩薩の子であるということができるのである。
したがって、当世の日本国の一切衆生が、八幡を頼りにして大切にしているけれども、真言等の諸宗の本尊を信じて、八幡の本地である教主釈尊を捨ててしまっているのは、あたかも影を敬って体を侮り、子をほめて親をののしっているようなものである。
先に挙げられた朝廷方と鎌倉方の戦いに関していえば、朝廷方は、源平の戦でも承久の乱でも、盛んに真言の邪法によって調伏の祈祷を行った。
これに対し、頼朝は法華経を大事にしていたし、北条義時は少なくとも真言などの邪法に頼ることをしなかった。このため、仏法上でも、頼朝や義時が「正直の人」であったから、八幡は鎌倉方の人々の味方をしたのである。
次に、八幡の本地は釈迦如来で、月氏国に生まれては「正直に方便を捨てて」爾前権教を廃し、正直の法華経を説いたのであり、また釈迦如来が日本国に垂迹して八幡大菩薩と生まれ、「正直の頂き」に栖(す)むのであると述べられている。
「諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり」と、一切の菩薩や諸神等の権化の衆生の本地は法華経の一実相であることを御教示されている。
そうしたあらゆる垂迹示現の「権化の人人」の例として「跋倶羅尊者」「鴦崛摩羅」「舎利弗」を挙げられている。「跋倶羅尊者」は過去世に不殺生戒をたもった功徳で不老長寿の果報を得たとされることから、三世にわたって不殺生戒を示し、反対に「鴦崛摩羅」は仏道に入る以前、千人を殺そうとして九百九十九人を殺し、その指を切ったとされる悪人だったことから、彼は生々世々に殺生の悪業を示しているのである。また舎利弗は、過去世において、外道の家に生まれたとされる。
このように垂迹の化他門が種々に異なるのは「本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示す」ためだといわれている。
これは、成仏得道の後において、衆生を教化する化他門に向かうとき、初発得道以前の凡夫の状態を現じて得道への門がさまざまであることを示すためであったというのである。
次の妙楽大師の釈はそれを裏づけるための引用である。すなわち、もし本地に従って説くならば、初め殺生等の悪業の因縁によって、よく出離生死したのであるから、垂迹の場合においても、同じ殺生等の悪業を示すことをもって、化他の法門とする、という意である。
0588:11~0588:17 第19章 八幡は法華行者の住処に栖むtop
| 11 今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華 12 経を迹に日本国にして 正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、 若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて 13 天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。 -----― 八幡大菩薩は本地身としては月支国において不妄語の法華経を説かれ、その垂迹身として、日本国において彼の法華経を正直の二字として「賢人の頂き宿らん」と誓われたのである。 したがって、この大菩薩は宝殿を焼いて天に昇られても、法華経の行者が日本国にあるならば、その行者の住処をすみかとされるはずである。 -----― 14 法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、 経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人を 15 ば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き 16 或は己身を示し 或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ 妙音又三十四身を現じ 17 給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。 -----― 法華経の第五の巻・安楽行品第十四に「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに、これを衛護する」と説かれている。 この経文のとおりであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天王、帝釈天、日月、四天等が昼夜にこれを守護されるわけである。 また第六の巻・如来寿量品第十六には「あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示す」とある。 観音菩薩は三十三身を現じ、妙音菩薩はまた三十四身を現じられる。教主釈尊がどうして八幡大菩薩と現じられないことがあるだろうか。天台大師は「すなわち、形を十界に垂れて種々の像を作す」等といわれている。 |
日月
日天と月天のこと。①日天。日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。②月天。月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
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四天
古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている(法華経73,644,645㌻)。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。
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観音
観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
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三十三身
観世音が衆生を救うため、場合に応じて変化する33の姿。法華経普門品に基づく。仏・辟支仏・声聞・梵王・帝釈(・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦・執金剛。
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妙音
妙音菩薩のこと。法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。妙音菩薩が法華経の会座に列なるため、この娑婆世界に来至する時、「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」と、種々の神力を有するところから妙音の名がある。ここで華徳菩薩が釈迦牟尼仏に「是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか、是の神力有る」との問いを発すると、仏の告げたまうに、過去の雲雷音王仏 の在世の時、現一切世間という国があり、劫を喜見といった。その時一人の菩薩があり、名を妙音菩薩といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の伎楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の有す一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たのであると。そしてこの妙音菩薩品が説かれたことで、華徳菩薩は法華三昧を得たのである。
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三十四身
妙音品第24に説かれる。妙音菩薩の34の変化身。梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天王・転輪聖王・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩鍮羅伽・地獄・餓鬼・畜生・後宮女。
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八幡大菩薩は本地身としては月支で不妄語の法華経を説き、日本国には垂迹身として不妄語の法華経を「正直」の二字として、「賢人の頂きにやどらん」と誓った神である。したがって、宝殿を焼いて天に昇っても、法華経の行者が日本国に在るかぎり、その行者の住処に必ず栖むことを述べられ、観音・妙音菩薩でさえ、三十三身、三十四身を現ずるのであるから、教主釈尊が八幡大菩薩と示現し、利益を垂れないわけがないことを強調されている。
「此の神は正直の人の頂に・やどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり」(1196-16)と仰せのように、仏法上の正直の人がいないために天にのぼってしまったのである。
しかし、法華経の行者は「正直の人」であるから、その頂に宿り、守護の働きを示すのである。日寛上人は撰時抄愚記で次のように述べられている。すなわち「凡そ神天上とはこれ謗者の前に約するなり。若し信者の前に約さば、諸神恒に頂に居するなり」と。
このことは、他の諸御書にも「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき、我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり」(1197-14)、また「霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」(1442-14)と述べられているところである。
そして法華経安楽行品第十四の「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之れを衛護し」の文を示されている。「常に法の為の故に」とは、御義口伝巻上に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(0750-第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事)と説かれているように、末法今時では三大秘法の南無妙法蓮華経をさす。
又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」
法華経如来寿量品第十六の文で、仏があらゆる姿で一切衆生を救う大慈悲の振る舞い、また活動することを説いた文である。
「説き」とあるのは、仏の音声を聞いて利益を得る「声益」を明かし、「示し」とあるのは、仏が出現してさまざまな形や事相を示し、衆生はこれを聞いて利益を得る「形益」を明かしている。
天台大師はこの文を法華文句巻九下で「若し法身を説かば是れ己身を説き、若し応身を説かば是れ他身を説く。益燃燈仏に値いたてまつると言わば即ち是れ己身を説く。燃燈は是れ我が師、是れ他身を説くなり(中略)随他意語は是れ他身を説く。随自意語は是れ己身を説く。己他の事を示すこと亦類して此くの如し」と釈している。己身を仏自身・法身・仏界に、他身を他の仏・応身もしくは垂迹身・九界に約すのである。
観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ
法華経観世音菩薩普門品第二十五に、観音菩薩が衆生のあらゆる苦を救うために、機根に応じて三十三種の変化身を現ずることが説かれている。
仏・縁覚・声聞・梵王・帝釈・毘沙門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷であるが、日蓮大聖人は御義口伝巻下で「三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり云云、又云く卅三身とは十界に三身づつ具すれば十界には三十・本の三身を加うれば卅三身なり、所詮三とは三業なり十とは十界なり三とは三毒なり身とは一切衆生の身なり」(0777-第五三十三身利益の事)と説かれている。
「妙音又三十四身を現じ」とは、同じく妙音菩薩品第二十四に、妙音菩薩が、機により、時により、三十四種の変化身を現じて衆生を利益することが説かれている。
おもなものを挙げれば、梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・転輪聖王・長者・居士・宰官・婆羅門等であるが、大聖人は御義口伝巻下「妙音菩薩の事」で「妙音菩薩とは十界の衆生なり、妙とは不思議なり音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり三世常住の妙音なり、所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり」(0774-第一妙音菩薩の事-01)と教示されている。
このように、観音や妙音でも、三十三身・三十四身を現じるのであるから、教主釈尊が八幡大菩薩と現じないわけがあろうか、と述べられているのである。
「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」とは、天台大師の法華玄義の文である。仏は、十界のさまざまな形をとって現れるのであるから、十界のなかの天界に八幡神の姿をとるということである。
以上をもって、八幡大菩薩に対する両重の諫暁を終わり、結びとして仏法西遷の定理を明かされるのである。
0588:19~0589:05 第20章 仏法西遷の定理を明かすtop
| 18 天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、 扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、 0589 01 月は西より東に向へり 月氏の仏法の東へ流るべき相なり、 日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相な 02 り、月は光あきらかならず在世は但八年なり、 日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、 仏 03 は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、 末法には一乗の強敵充満すべし 不軽菩薩の利益此れなり、 04 各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。 05 弘安三年太歳庚辰十二月 日 日蓮花押 -----― 天竺国を月氏国というのは仏の出現し給うべき国名である。扶桑国を日本国という。どうして聖人が出現されないはずがあろうか。月は西より東へ向かうものであるが、それは月氏の仏法が東のほうへ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国へ還るという瑞相である。月はその光が明らかでない。それと同じように仏の在世はただ八年である。日の光明は月に勝っている。これは五の五百歳・末法の長き闇を照らす瑞相である。 仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかった。それは在世に謗法の者がいなかったからである。末法には必ず一乗法華経の敵が充満するであろう。ゆえに不軽菩薩の折伏逆化によって利益するのである。おのおの我が弟子等、ますます信心に励まれるべきである。 弘安三年太歳庚辰十二月 日 日 蓮 花 押 |
天竺国
中国および日本で用いられたインドの古称。
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扶桑国
扶桑は、古代中国において東方の日の出る所に生ずるとされた木。ここから日本の名称として用いられた。日蓮大聖人は「法華取要抄」の冒頭に「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」(331㌻)と記された。これには日本から末法の大法が出現し、一閻浮提に広宣流布されていくとの意義を込められていると拝される。
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聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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瑞相
きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。
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本抄の結文として、大聖人の仏法を太陽に、釈尊の仏法を月にたとえて、勝劣を明らかにするとともに、大聖人の仏法が日本から東洋、全世界へ広宣流布していくことを予言されている。
まず天竺国を月氏国と称することは、インド出現の釈尊の仏法が「月」のようであることを象徴しており、これに対して日本の名は、出現する日蓮大聖人の仏法が「日」すなわち太陽のようであることをあらわしているとされている。そして、日と月との対比になぞらえて、釈尊の仏法と大聖人の仏法とを比較されている。
すなわち、月は、その輝き始める位置が、一夜ごとに西の空から東の空に移る。これと同じように、西方のインドに出現した釈尊の仏法は、東へ東へと流布して、日本に伝えられてきた。これを仏法東漸という。
これに対し、日が東天から出て西に向かっていくように、日蓮大聖人の仏法は東の日本に出現してインドに還っていくと述べられている。これを仏法西還、仏法西遷という。
また、日と月との光の強弱にたとえられ、釈尊の法華経が釈尊在世のうちのわずか八年間であったのに対して、日蓮大聖人の仏法は第五の五百歳に始まる末法万年の長き闇を照らし続けていく大白法であると断言されている。
日寛上人は当流行事抄で「此の文正しく種脱勝劣を明かすなり」として、御文を二段に分け、始めに「天竺国をば月氏国と申すは……五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」が勝劣を明かし、次は「仏は法華経謗法の者を……不軽菩薩の利益此れなり」が種脱を明かすと御教示されている。
初めに勝劣を明かす段において「亦三意有り。同じく日月を以て即ち種脱に喩う」として「一には国名に寄す。謂く、月氏は是れ迹門の名なり。故に脱迹の仏応に出現すべきなり。日本は即ち本門の名なり。下種の本仏、豈出現せざらんや。国名寧ろ勝劣に非ずや。二には順逆に寄す。謂く、月は西従り東に向かう、是れ左道にして逆なり。日は東従り西に入る、是れ右繞にして順なり。順逆豈勝劣に非ずや。三に長短に寄す。月は光、明らかならず、在世は但八年なり。日は光、明らかにして、末法万年の闇を照らす。長短寧ろ勝劣に非ずや」と説かれている。
天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり
「天竺国」とは、日本および中国で用いられたインドの古称であり、また「月氏国」ともいわれた。月氏は本来、中央アジアで活躍した遊牧民族で、西方に移住し、現在のアフガニスタン北部の地に定着して国を作った。そこから、中国・日本では、インドの雅称として「月氏」または「大月氏」と呼んだ。
六世紀にインドを訪れた玄奘(0602~0664)は、大唐西域記巻二において、インドを別名「月氏」と呼ぶ理由について説明している。
「天竺の名称は異議糺紛しているが、古くは身毒といい、賢豆ともいったが、今は正音にしたがって、インドと呼ぶべきだ。ただし、その一称として、唐で月という意味は、もろもろの生ある者は輪廻してやまず、あたかも無明の長夜に明月を必要とするように、この土の聖賢が遺法を受け継いでいる。それは、ちょうど明月が闇を照らしているようなものであるから、インドのことを月と呼ぶのである」(取意)。
唐以後、中国や日本において、インドの雅称として「月氏国」が一般化したのは、この玄奘の説によるとみられる。
扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ
「扶桑国」とは、中国の古い伝説で東方の海中にあるとされた国の名で、扶桑樹を多く産する所という意味で名づけられた。日本の呼称も、中国との交流が行われた大化改新ごろから東方の国という意で日本の字が用いられたといわれている。
日寛上人はこの「日本」の名に三意があることを依義判文抄で御教示されている。
「一には所弘の法を表して日本と名づくるなり。謂く、日は是れ能譬、本は是れ所譬、法譬(倶に挙げて日本と名づくるなり。経に云く「日天子の能く諸闇を除くが如し』云云。宗祖云く『日蓮云く、日は本門に譬うるなり』云云。日は文底独一本門に譬うるなり。四条抄に『名の目出度きは日本第一』と云うなり、是れなり云云。
二に能弘の人を表して日本と名づくるなり。謂く、日蓮の本国なるが故なり。故に顕仏未来記に云く『天竺漢土に亦法華経の行者之れ有るか如何。答えて云く、四天下の中に全く二の日無し、四海の内に豈(あに)両主有らんや』云云。故に知りぬ、此の国は日蓮の本国なり云云。
三には本門の広布の根本を表して日本と名づくるなり。謂く、日は即ち文底独一の本門三大秘法なり。本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり、故に日本と云うなり。応に知るべし、月は西より東に向かう日は東より西に入る、之を思い合わすべし。然れば則ち日本国は、本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」
月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり
ここでは月と太陽の運行に即して、仏法流布の定理を示されている。
「月は西より東に向へり」とは、月は、太陽が沈んで輝き始める位置が一日ごとに西の空から東寄りの空へ移っていくことをさしている。これは釈尊の仏法が東へ向かって広まっていく相をあらわしているとされている。
これに対して「日は東より出づ」が、太陽が一日のうちに東の空から出て、西へ移って沈んでいく相であることはいうまでもない。これは大聖人の仏法が月氏へ向かって還っていく瑞相であるとされている。
釈尊の仏法は月のように、西のインドから西域・中国に移り、朝鮮半島から日本へ伝えられてきた。
インドから中国へ初めて伝えられたのは西暦一世紀であるが、天台の法門が中国で興隆したころには、既にインドの仏教は衰退しており、同じく中国から朝鮮半島を経て、六世紀中ごろ、日本へ伝えられ、八世紀末、伝教大師が出て日本で興隆したころには、中国の仏教は衰えの兆しをみせていたのである。まさに、この推移は月の西から東への移り変わりと共通している。
日蓮大聖人の教えは太陽のごとき仏法であり、東の日本から興って、正法・像法時代の釈尊の仏法の流伝とは逆の方向をたどりつつ、東洋へ、全世界へ流布していくと仰せである。
「月は光あきらかならず在世は但八年」とは、釈尊の法華経が衆生を利益した期間は、わずか八年にすぎなかったということであり、それに対し「日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」とは、大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経は、第五の五百歳すなわち末法の始めから、尽未来際の長き闇を照らし続けていく大白法であると断言されている。
これは、釈尊の仏法と大聖人の仏法を、月と太陽の光の強さに約されて、勝劣を明確にされているのである。
仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり
末法においては折伏を行ずべきことを仰せである。
釈尊は法華経を誹謗する者を治癒することはなかった。それは、基本的には謗法の者がいなかったからである。
すなわち、釈尊の化導は、爾前権教によって調機調養し最後に法華経を説いたのであって、基本的に摂受の法によったのである。
それに対し末法の時代は、一仏乗の法華経に敵対する強敵が充満する五濁悪世である。
したがって、末法における弘通は、不軽菩薩のように折伏を行じ、逆縁を結んで衆生を利益していくのである、と仰せられている。
ゆえに、日寛上人は「種脱を明かす」段であるとされ、「法華誹謗の者を治せざるは、即ち在世脱益の迹仏なり。末法は即ち不軽の利益に同じ、豈下種本仏に非ずや。十章抄に、所謂、迹門を月に譬え、本門を日に譬う云云。学者応に知るべし、蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば、焉んぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや」と説かれている。
最後に「各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」と仰せのように、弟子門下一人一人がますます折伏弘教に精進し、東洋へ、世界へと大法を流布していくよう励まされ、本章を結ばれている。
0588~0589 諌暁八幡抄 2015:05月号大白蓮華より、先生の講義top
仏法西遷――全人類の幸福へ不惜の誓願を
きょうも、東天に太陽は昇ります。
毎朝、暁光は闇を破り、刻一刻と大地を明るく照らしていきます。その光と熱は万物の生命を目覚めさせ、豊かに育みます。
太陽は大いなる希望です。太陽は限りない情熱です。太陽は停滞を知らぬ活動体です。そして、一切を温かく包む慈愛の日輪です。
日蓮仏法は「太陽の仏法」です。
法華経の智慧と慈悲の大光を、世界に届けゆくのです。いまだ苦悩と悲惨の闇深き地上に、仏法の人間主義に光を贈り、民衆勝利の人華を晴れやかに広げていくのです。
「5・3」と「諌暁八幡抄」
5月3日――それは、恩師、戸田城聖先生が創価学会第2代会長に就任された日です。先生の不二の弟子である私が、第3代会長として立った日でもあります。
大難を乗り越え、戸田先生が、いよいよ会長に就任されることを決意された1951年(昭和26年)の春。その3月に、先生が私に、厳粛な面持で講義してくださった御書の一つが、「諌暁八幡抄」でありました。
当時世界は、韓・朝鮮半島を分断する残酷な戦争の渦中でした。第2次世界大戦に蹂躙されたアジアの民衆が、再び戦火に苦しめられている。恩師はその苦悩に同苦しながら、「今こそ広宣流布の時なりと叫び、決然と立ち上がられたのです。この時期「大白蓮華」に発表された論文「朝鮮動乱と広宣流布」に、「諌暁八幡抄」の一節がひかれているのも、決して偶然ではありません。
戦争の世紀から平和の世紀へ!そして、民衆が安穏で幸福に暮らせる世界を!
この恩師の闘争を継いだ、わが使命の法戦、55年、私は、いかなる時も、この誓いを忘れたことはありません。
「世界を照らす『太陽の仏法』の)連載第1回は、「仏法西還」の未来記を明かされた「諌暁八幡抄」の掉尾を拝します。
この御文を拝するたび、日蓮大聖人の仏法の人間主義こそ、全地球を照らす太陽であり、いよいよその時代が到来していることを深く実感して、私は世界広宣流布への決意を新たにします。戦う勇気が涌き上がります。
| 18 天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、 扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、 0589 01 月は西より東に向へり 月氏の仏法の東へ流るべき相なり、 日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相な 02 り、月は光あきらかならず在世は但八年なり、 日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり -----― 天竺国を月氏国というのは、仏の出現し給うべき国名である。扶桑国を日本国という。どうして聖人が出現されないはずがあろうか。月は西より東に向かうものであるが、それは月氏の仏法の東方へ流布する相である。日は東より出る。日本の仏法の月氏国へ還るという瑞相である。 |
一閻浮提広宣流布の時が到来」
「諌暁八幡抄」弘安3年(1280)12月、身延において認められ、門下全体に送られた意義深き御抄です。
再度蒙古襲来が切迫するなかで、前月の11月には、鎌倉幕府の守護神とされていた八幡大菩薩の社殿が焼亡するなど、物情騒然としていた時代です。一方、「熱原の法難」に見られるように、大聖人門下への迫害はやむことがありませんでした。その渦中にあって、大聖人は厳然と広宣流布の大闘争の指揮を執られていたのです。
本抄は、月と太陽の動きに寄せて、過去の「仏法東漸」と、 未来の「仏法西還」を譬えられています。
日没後、夜空に月が輝き始める位置は、毎日、同じ時刻でみると、一夜ごとに西から東へと移動していきます。すなわち、三日月は西の空で輝き始めるとすぐに沈み、上弦の月は南の空に現れ、満月になると東の空に皓々と輝きながら昇ってきます。
この「月は西より東に向へり」と言われた月の動きは、「仏法東漸」の歩みと象徴的にかさねられます。
日本のはるか西方にあり、「月氏国」とも呼ばれたインドに出現した釈尊の仏法は、中央アジアを経て、中国、朝鮮、日本へと伝来しました。ユーラシア大陸を舞台に、西から東へ伝わっていく大交流でした。
いわゆる正法・像法・末法の三時でいえば、正像時代の流伝といえます。
一方、末法においては、東天に昇った太陽が西へ移っていくように、大聖人の「太陽の仏法」が西に還っていくのです。
過去の「仏法東漸」から末法の「仏法西還」へ――この一閻浮提への広宣流布の展望について、大聖人は既に文永10年(1273)、佐渡の地で「顕仏未来記」に認められていました。「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0503-02)「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)と仰せです。
娑婆世界の仏法流布を託す
まず、指摘しておきたいのは、大聖人が「諌暁八幡抄」の御文で、釈尊在世と滅後末法に寄せて日月に譬えられているのは、いずれも「法華経」であるということです。
法華経ほど、数ある大乗経典の中でも徹底して「娑婆世界」「一閻浮提」の衆生の救済をテーマにした経典はありません。
では、この娑婆世界とはいかなる世界か。「娑婆」とは「堪忍世界」、苦しみを耐え忍ぶ世界を意味しました。娑婆国の人々は、煩悩ゆえに、“悪い習わしが多く、慢心を抱き、功徳は浅く、瞋りや諂いで生命がひねくれ、心は不実である”とまで忌み嫌われる衆生です。
仏の異名を「能忍」というのは、まさしくこの苦悩多き世界で、忍耐強く、一切衆生の救済に邁進する勇者であるからです。そして、師匠・釈尊の後継者として、この娑婆世界で法華経を広宣流布する喜びに、勇んで躍り出た直弟子こそ「地涌の菩薩」です。
本抄には、娑婆世界の衆生のために、大聖人が立宗宣言されてから、妙法弘通一筋に戦われてきた御心境が明かされています。
「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(0585-01)
この御本仏の大慈大悲に連なる誓願に立ち、広宣流布を現実に進めてきた仏勅の教団が創価学会です。創立の父・牧口常三郎先生も、線を引かれていた一節です。
1961年(昭和36)の2月、私は、初めてインドを訪問し、釈尊成道の地ブッダガヤに「仏法西還」の足跡を留め、東洋広布、世界広布の誓いを新たにしました。以来、半世紀余――妙法は192ヵ国・地域に広がり、世界の民衆に慈光をそそいでおります。
インド文化国際アカデミーのロケッシュ・チャンドラ博士も、SGIによって、「『法華経』が日本から世界にひろまったのです!」「太陽が東から西へと移動するのと同じく、『法華経』も東から西へと“旅”をしている。世界の各国を旅している」と讃嘆されています。インドの最高峰の知性が、多宝の証明の如く、証言してくださっているのです。
| 02 月は光あきらかならず在世は但八年なり、 日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、 仏 03 は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、 末法には一乗の強敵充満すべし 不軽菩薩の利益此れなり、 04 各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。 -----― 月はその光が明らかではない。それとおなじように仏の在世はただ八年である。日の光明は月に勝っている。これは五の五百歳・末法の長き闇らを照す瑞相である。 仏は法華経を謗法する者を治されることはなかった。それは在世に謗法の者がいなかったからである。末法には必ず一乗法華経の敵が充満するであろう。ゆえに不軽菩薩の折伏逆化によって利益するのである。おのおの我が弟子等、ますます信心に励まれるべきである。 |
末法の長き闇を照らす
ここでは「仏が在世に法華経を説かれたのはただ8年である」として、月の光にたとえられています。一方、末法の「長き闇」を照らす太陽もまた法華経です。日月はともに法華経の譬喩であり、込められた願いも娑婆世界の一切衆生の救済で、その心は同じです。
そのうえで本抄に、日月の明るさの違いが提起されているのは、まず前提として、釈尊出世の国であり、法華経の故郷である月氏国において、残念ながら仏教が既に滅んでしまったという認識があります。
「顕仏未来記」では、中国の唐の時代に、インドに正しい仏法が失われていたので、中国に探し求めてきた話が紹介されています。また、その中国でも宋の時代に北方の異民族の侵入によって北栄の滅亡とともに仏法が衰退したことにも言及されています。
当時の世界観では、インド・中国・日本の三国が全世界でした。そのうち、インド・中国では既に仏教が失われていたと認識されていたのです。
だからこそ、太陽の如く一切衆生の苦悩の闇を破る法華経の智慧の大光を、再び中国、インドの大地に還していく。仏法の人間主義の生命を甦らせ、永遠に全民衆の心を潤していく。これを「仏法西還」というのです。
「人間不信」の無明を打ち破る
本抄では、悪世末法にあっては、「一乗の強敵」――法華経誹謗の敵人が充満していると断言されています。
いかなる人も本来、仏性、すなわち偉大な仏の生命を具えた存在であることを明かしたのが法華経です。誰もが尊極であり、誰もが尊貴なのです。この生命本有の輝きと無限の可能性を信じない無知こそが「法華経謗法」の本質です。
大聖人は、もしも、この真実を見ながら、知らぬふりをして黙って放置するなら、通常の罪業ではなく、謗法与同の大罪によって大阿鼻地獄を巡ることになるだろう、どうして身命を捨てて謗法を呵責せずにいられようか――と言われています。
そして一見、それぞれが異なる苦悩を受けているような人々が、根本的には、すべて「法華経誹謗」による「同一苦」であるとして、こう仰せです。
「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0587-08)
「法華経誹謗」という根源的な生命軽視、人間不信との戦いが、折伏です。根本の苦悩の因を取り除こうと誓った最高の慈悲の実践です。それは同時に、生命に巣くう無明を破るがゆえに、反動として三障四魔や三類の強敵を呼び起こします。
法華経において、この不惜の誓願を体現したのが不軽菩薩です。反発され、悪口罵詈や杖木瓦石の難を受けますが、仏法への縁を結ぶことで、迫害した人々を最後はすべて救うのです。
本抄には「不軽菩薩の利益」と仰せです。不軽の跡を継承した折伏によってこそ、末法の広宣流布も必ず実現するのです。
「対話の力」によって平和を実現
さらに、不軽菩薩の実践から学びたい。
不軽菩薩は、縁するすべての人々の生命に尊極の仏性を見て礼拝します。自他共の尊厳を信じた、最高の人間尊敬の修行です。
そして不軽菩薩は、どこまでも「非暴力」であり、徹して「対話」の実践を貫き通します。「杖木瓦石」という身体的暴力の迫害を受けても、決して暴力で返さない。
杖木瓦石の攻撃を受けそうになると、さっと身をかわし、それらが届かない距離をとって、また声高く「私はあなた方を軽んじません。あなた方は皆、必ず成仏するでしょう」と叫びます。暴力を聡明に回避しながら、粘り強く相手を目覚め触発し抜くのです。
「ノンキリングの社会を探究されてきた著名な平和学者ペイジ博士と、「非暴力」について語り合った際、私は不軽菩薩の実践を紹介しました。
“物理的暴力、言論の暴力の嵐に耐えながら、不軽菩薩は万人に仏性があることを信じ、誰人をも「軽んぜず」礼拝した”と。
ペイジ博士も、私どもの平和運動を高く評価し、期待されていました。
初期の仏典には、釈尊が「生きものを殺してはならぬ。また殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ」と説いたとあります。
自分だけでなく、他人にも殺生という悪業を積ませてはならないというのです。不軽菩薩の実践や、この釈尊の金言が示す仏法の思想は、現代社会における非暴力と平和の運動の大いなる光源となると思っております。
大聖人は仰せです。
「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174-14)
戸田先生は、私たちが推進する広宣流布の遠大な意義について、「人類の境涯を高める」戦いだと言われていました。まさにその基盤をつくっていくものです。
世界広布新時代へ勇んで前進を
いよいよ、本格的な世界広布新時代!――その意義は本当に大きい。
第一に「地涌の自覚」が全世界に広がったということです。各国のSGIメンバーが、わが国土の広宣流布、わが地域の広宣流布は、自分たちが責任をもって担うという自覚で、生き生きと立ち上がっています。
昨秋、私は総本部の「広宣流布大講堂」で各国の地涌のリーダーたちとお会いしました。
皆、希望に燃えていました。まぶしく輝くその顔には、「私たちの国の広宣流布は、私たちにお任せください!」との決意がみなぎっていました。国籍や民族、言語や文化の違いも超えて、地涌の菩薩の誇りが光っていました。こんなに嬉しいことはありません。
まさに、世界中に、師弟共戦で戦う勇者の陣列がそろいました。なかんずく青年たちが立ち上がっています。この目覚ましい地涌の自覚の拡大こそ、わがSGIの発迹顕本にほかなりません。
第二に、地球上のいずこの地域にあっても、同志がいて、宗教・宗派を超えた「人間主義のネットワーク」を創り広げています。人間の善性を開発しゆく連帯が築かれているのです。世界中の「ザダンカイ」の人華の集いは、そのまま法華経の通り、「生命の尊厳」「万人尊敬」の平和と調和の世界を21世紀に現出している会座そのものです。
一人の学会員の周囲に、どれだけ多くの人間尊厳の連帯が結ばれていることか。ここにこそ、確かな民衆の平和の砦がひとつ、また一つと、着実に築かれているのです。
そして第三に、SGIの運動は今、世界中に新たな希望を創造しているということです。私たちの住む地球は、悲惨と不幸が拡大し、世界中が濁劫悪世の様相を見せております。人間に対する根本的な不信が増長している現代は、いわば世界的規模で「末法」の実態が広がっているともいえる。
だからこそ、心ある人々は、いかなる困難に遭遇しても、蘇生と前進を促す希望の宗教を、そして、人間の内なる可能性を開く哲学を待望しているのです。
学会員が地涌の本領を発揮する時代を迎えました。末法の「長き闇を照らす」人間群が誕生することを、世界中が祝福して求めています。世界中でSGIメンバーが、はつらつと活躍し、新しい地球文明を創出する舞台が整いました。「仏法西還」の一大実証たる絢爛たる地涌の乱舞によって「太陽の仏法」が世界を照らす新時代が到来したのです。
壮大な未来記を受け継ぐ弟子へ
時代を創る要諦は、どこまでも行動です。
「太陽の仏法」といっても、その実像は、いかなる時、いかなる場所にあっても、そこに悩み苦しんでいる人間がいる限り、その人を励まし、蘇生させていく行動の中にあります。
法華経神力品第21には、上行菩薩をはじめ地涌の菩薩の行動の姿を、「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」と謳っています。牧口先生も戸田先生も深く拝された経文です。
「世間に行じて」は“地上を歩き回って”とも訳されます。地涌の菩薩は、この現実社会を駆け巡りながら、一人また一人と関わり続け、苦悩の闇を追い払い、生きる力を、また生きる喜びの光明を贈るのです。
壮大な「仏法西還」のビジョンを継承された日興上人は「西天の仏法東漸の時・既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖語も広宣の日は 亦仮字を訳して梵震に通ず可し」(1613-17)と遺されました。御書を翻訳して、師匠の言葉を世界に伝えたい――不二の弟子の重大な悲願であると拝せます。
この師弟の魂を受け継いだのが創価学会です。戸田先生は、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』の発刊の辞に「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ流布していく事をひたすら祈念してやまぬものである」と記されました。
そして今、英語や中国語、スペイン語をはじめ各言語に翻訳されるとともに、各国に地涌の菩薩が躍り出て、それぞれの言語で仏法対話を広げる時代になりました。
あらためて今回の御文に戻れば「仏法西還」の未来記を締めくくるに際し、大聖人は「各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」――わが弟子たちよ、いよいよ信心に励んでいきなさい、と語られています。
われらの使命は大きい。これからが大事です。
各人が「太陽の時代」の主人公に
「太陽の時代」の到来を提唱された、アメリカ未来学者ヘンダーソン博士は、「みなが勝者となる世界」の建設を展望し、「ただ連帯を広げていくだけでなく、その基盤に、目覚めた一人一人の『精神性の変革』がかかせません」と指摘されていました。
「その意味で、私は、人間精神の変革を基調にして平和・文化・教育の運動を進めるSGIに、大きな期待を寄せるものです」とも語られました。
未来を照らす光は、わが胸中にあります。一人一人が世界広布の主人公です。
「太陽の仏法」を持った私たちは、いやまして「人間革命の光」を社会へ、世界へ、未来へ放ちゆくことを決意し合って、師弟共戦の新たな広布の旅を力強く出発しようではありませんか。
0589~0594 二乗作仏事top
0589:01~0589:03 第一章 爾前得道の有無を論ずtop
| 二乗作仏事 01 爾前得道の旨たる文、 経に云く見諸菩薩等云云、又云く始見我身等、此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事 02 有ると見えたるなり、 故に見諸菩薩の文の下には而我等不預斯事と・又始見の文の下には除先修習等云云、 此れ 03 は爾前に二乗作仏無しと見たる文なり。 ――― 爾前で得道する旨を記している文としては、法華経譬喩品第三には「過去に諸の菩薩が授記し作仏することを見たことがある」等、また法華経従地涌出品第十五に「もろもろの衆生は始め我が身を見、我が所説を聞いて如来の智慧に入ることができる」等と説かれている。此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事菩薩が初地・初住に至ることがあるということである。 ゆえに、譬喩品の「諸の菩薩を見る」の文の下には「しかしながら、我ら舎利弗等の声聞は、授記にあずかることができなかった」と説かれ、また従地涌出品の「始め我が身を見る」の文の下には「過去に修習し小乗を学んでしまった者は除く」等と説かれているのである。 すなわちこれは爾前教には二乗作仏無がないという文である。 |
爾前
法華経より前に説かれた経典のこと。「爾」とは「それ、その」という指示語。「爾前」で「それ(法華経)に至る前」を意味する。
―――
得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
―――
見諸菩薩
法華経譬喩品第3に「今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて、心に踊躍を懐き、未曾有なることを得たり。所以は何ん、我昔、仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども」とある。
―――
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
始見我身
法華経従地涌出品第15に「始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りき」とある。
―――
菩薩初地初住に叶う事有る
菩薩が52位のうち、別教では41位の初地、円教では11位の初住位に至って得道するとの意。
―――
初地
菩薩の修行の五十二位のうちの第41位。十地の第1で歓喜地ともいう。別教では初地以上を不退位とする。
―――
初住
菩薩の修行の段階である五十二位の中の第11位、十住の初め、発心住のこと。見惑(思想・見識の迷い)を断ずる菩薩の位をいう。円教の菩薩は初住で一分の中道の理を証得して正念に安住するので、初住位以上を菩薩道から退転しない不退位とする。
―――
而我等不預斯事
法華経譬喩品第3に「今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて、心に踊躍を懐き、未曾有なることを得たり。所以は何ん、我昔、仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等は斯の事に預らず」とある。
―――
除先修習
従地涌出品第15に「始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りき、先より修習して。小乗を学せる者をば除く」とある。
―――
二乗作仏
法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。法華経以外の大乗経では、二乗は自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはないとされていた。このことを日蓮大聖人は「開目抄」(191㌻以下)で、華厳経・維摩経などの爾前経を引かれ、詳しく論じられている。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧の境涯)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することを具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された。さらに法華経迹門では、この二乗作仏、また提婆達多品第12で説かれる女人成仏・悪人成仏によって、あらゆる衆生の成仏が保証され、十界互具・一念三千の法門が理の上で完成した。
―――――――――
本抄がどのような由来と背景に基づいて著されたものであるかについては、現在のところ全く不明である。
ただ、本抄が正元元年(1259)、御年38歳で御述作された十法界事、同じく正元元年(1259)御述作の爾前二乗菩薩不作仏事などとほぼ同じ系列に属する御書であることは明らかである。
すなわち、爾前教では誰人も得道・成仏できないことをさまざまな観点から証明され、法華経のみが万人を成仏得道せしめる経であることを示されている。
日蓮大聖人は正嘉2年(1258)御年37歳御述作の一代聖教大意において、爾前の諸経によって、成仏・得道が可能であるか否かという点に関し、次のような問答を設けられている。
「問うて云く諸経にも悪人が仏に成る華厳経の調達の授記・普超経の闍王の授記・大集経の婆籔天子の授記・又女人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る 阿含経の鴿雀の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳経等なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、又設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何、答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず」(0401-14)と。
すなわち、爾前の諸経にも提婆達多、阿闍世王、婆籔天子に対する授記が説かれていて“悪人の成仏”を明かしており、また“女人成仏”や“二乗の成仏”を説く経典があり、これらが法華経の説くところの二乗や竜女や提婆や菩薩の授記とどれほどの相違があるのか、また相違があったとしても爾前の諸経にも成仏・得道が明かされていることは疑いない事実ではないか、という問いである。
これに対して、この問いに答えるには、「予」が習い伝えるところの大事な法門を明かさなければならないから、顕露に書さないと述べられている。
更に、正嘉3年(1259)、38歳の御述作守護国家論においては「此の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり、常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども自義に於ては猶当分の得道を許さず然りと雖も此の書に於ては其の義を尽くさず略して之を記すれば追つて之を記すべし」(0068-01)と仰せられている。
ここでは、在世滅後の一切衆生の真実の善知識は法華経のみであり、通途の日本天台宗の学者達は、爾前の諸経でも当分の得道が可能であるとしているが、自義、すなわち日蓮大聖人の仏法においては、爾前教では当分の得道も認めないとする。
しかし、何ゆえに許さないのかという理由ならびに意義については、守護国家論においては略すと書かれている。
このように、一代聖教大意、守護国家論では、爾前経によっては成仏・得道はできないと断定されるのみで、その説明は秘蔵の法門であり、記さないといわれている。
この追って記すといわれているのにあたるのが、十法界事や爾前二乗菩薩不作仏などであろうと推察される。
この二乗作仏も、その内容からいって、これらの追って記すの系統に入る御書として位置づけられると思われる。
本抄の御述作の系年に関しては、以上のことから、一代聖教大意や守護国家論を著されたあと、十法界事や爾前二乗菩薩不作仏事が著された正元元年(1259)か2年頃と考えられる。
本抄は、法門に関する覚書として認められた趣があるところから、特定の人に宛てられたものではなかろう。
あるいは、始まりも終わりも唐突であるところから、もっと長い御書の一部分をなすものであったかもしれない。なお、本抄の御真筆は現存していない。
本抄の内容に入って、まず「爾前得道の旨たる文」、つまり爾前教における得道を認めている法華経の文が挙げられている。
すなわち、法華経譬喩品第三の「見諸菩薩」云々の文と、同涌出品第十五の「始見我見」云々の文とである。
この二つの経文は、菩薩が初地・初住にかなって得道・成仏できるという文証とされる。しかし、その次下に明らかのように、二乗の作仏は爾前経にないことが明らかである。
経に云く見諸菩薩等云云、又云く始見我身等
初めに「見諸菩薩等云云」の法華経譬喩品第三の一節を紹介すると次のようにある。
「爾の時に舎利弗、踊躍歓喜して即ち起って合掌し、尊顔を瞻仰して仏に白して言さく、今世尊に従いたてまつりて此の法音を聞いて、心に踊躍を懐き未曾有なることを得たり。所以は何ん、我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等は斯の事に預らず。甚だ自ら如来の無量の知見を失えることを感傷しき。世尊、我常に独山林樹下に処して、若しは坐若しは行じて毎に是の念を作しき、我等も同じく法性に入れり、云何ぞ如来小乗の法を以て済度せられと。是れ我等が咎なり、世尊には非ず。所以は何ん、若し我等、所因の阿耨多羅三藐三菩提を成就することを説きたもうを得たば、必ず大乗を以て度脱せらるることを得ん。然るに我等方便随宜の所説を解らずして、初め仏法を聞いて遇便ち信受し、思惟して証を取れり。世尊、我昔より来、終日竟夜毎に自ら剋責しき。而るに今仏に従いたてまつりて、未だ聞かざる所の未曾有の法を聞いて諸の疑悔を断じ、身意泰然として快く安穏なることを得たり、今日乃ち知んぬ。真に是れ仏子なり。仏口より生じ法化より生じて、仏法の分を得たり」と。
「我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等は斯の事に預らず」の個所が、本抄において大聖人が引かれている経文である。
ここは、爾前教においても同様の教えを聞いたが、そのときに授記作仏したのは諸菩薩のみで、自分達声聞衆は授記することができなかった、と述壊しているところである。
このなかで「見諸菩薩。授記作仏」が、菩薩の得道・成仏を示す依文とされるのに対し、爾前の諸経が二乗の作仏を許していないことを示されているのが「而我等不預斯事」の言である。
次に、もう一つの「始見我身」等の経文は、法華経従地涌出品第十五の一節中に出てくるものである。この経文の一節を引用すると次のとおりである。
「爾の時に世尊、諸の菩薩大衆の中に於て是の言を作したまわく、是の如し、是の如し。諸の善男子、如来は安楽にして少病少悩なり。諸の衆生等は化度すべきこと易し。疲労あることなし。以は何ん、是の諸の衆生は世世より已来常に我が化を受けたり。亦過去の諸仏に於て供養・尊重して諸の善根を種えたり。此の諸の衆生は始め我が身を見我が所説を聞き、即ち皆信受して如来の慧に入りき。修習して小乗を学せる者をば除く。是の如き人も、我今亦是の経を聞いて仏慧に入ることを得せしむ」と。
従地涌出品では、初めに、過八恒沙の他方の菩薩が、娑婆世界で法華経弘通を申し出たのに対し、釈尊はこれを断り、地の下から無数の地涌の菩薩を召しだす。
地涌の菩薩達は、他方・釈尊の二世尊を瞻仰しつつ、賛嘆する。この間“五十小劫”という途方もない時間が過ぎたけれども、仏の神力によって、会座の大衆には“半日”のように思わしめた、とある。
続いて、地涌の菩薩の上首唱導の師である四大菩薩が釈尊に対して“如来は少病少悩で安楽であるか否か、衆生達は教化しやすく疲労はないかどうか”という労いの言葉を申し上げたとき釈尊がこれに応答したのが、今、紹介した一節である。
釈尊は“如来は安楽にして少病少悩であり、衆生達は教化しやすく疲労もない”と答え、その理由として、これらの衆生は何世にもわたって釈尊の教化を受けてきたし、また、過去の諸仏のところで、供養賛嘆してさまざまな善根を植えてきたので、初めて私を見、私の説法を聞くだけでことごとく信受して如来の智慧に入ることができるのである。と説いた後、ただし、過去に小乗を学習してしまった者達は除外する、と説いている。
「始見我身・聞我所説」という文は、すでに生々世々に釈尊ならびに諸仏のところで供養讃嘆してさまざまに積んできた菩薩達が爾前の教えによって得道可能であることを示している。
このことから、十法界事には「爾前の菩薩に於て『始めて我が身を見・我が所説を聞いて即ち皆信受し・如来慧に入りにき』と説く、故に知んぬ爾前の諸の菩薩三惑を断除して仏慧に入ることを」(0419-15)と仰せである。
「除先修習。学小乗者」という文は小乗の教えを修習してきた者を除く、と述べて二乗を除外しているのである。したがって、涌出品の「始見我身」の文の「諸の衆生」とは、二乗ではないのであり、菩薩の成仏を明かした文となるのである。
此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事有りと見えたるなり
「此等の文」とはいうまでもなく、法華経譬喩品第三の「諸の菩薩の授記作仏を見しかども」の文と従地涌出品第十五の「始め我が身を見、我が所を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りにき」の文である。
この二文は、菩薩のなかには爾前経によっても得道することができた者があるとの根拠とされる。「初地初住に叶う事有る」の初地、初住とは、菩薩道五十二位のうち、第十一位と第四十一位をさしている。
五十二位について、天台大師は法華玄義巻四下において、大乗菩薩の階位に四十一位、五十一位などさまざまな説があることを述べ、「今謂く、瓔珞の五十二位は名義整足す。恐らくは是れ諸の大乗方等別円の位を結するならん」として、菩薩瓔珞本業経巻上の五十二位説を採用している。
この五十二位に、別教が立てる階位と円教が立てる階位とがある。別教では第四十一位の初地以上を聖、十回向の菩薩の階位を明かし、十住以上を聖、十信を内凡とし、更に法華経分別功徳品第十七によって、十信のまえに五品弟子の位を置いてこれを外凡としている。
以上からも明らかなように、別教と円教とでは聖位に入る位の高さが異なっており、別教には初地以上、円教は初住以上としている。
この違いは、教えの高低によって生じたもので、円教は別教よりはるかに高い教法なので、別教よりはるかに低い聖位に入ることができるのである。
このことを摩訶止観巻六下で「前教にその位を高うする所以は、方便の説なればなり、円教の位の低きは、真実の説なればなり」と述べている。
この文を釈して妙楽大師の述べた言葉が「教弥実位弥下・教弥権位弥高」という文である。
したがって、菩薩が初地・初住に叶うとは、この不退の聖位に入って成仏得道するということである。
なお、ここに爾前に二乗作仏の義がないことは表にされているゆえに、菩薩の初地初住を許した文とされているが「叶う事有ると見えたり」とあるがごとく、それも一往であり、再往は爾前には菩薩の成仏もないことを以下に述べられるのである。
0589:04~0589:08 第二章 二乗不作仏ならば菩薩も不作仏top
| 04 問う顕露定教には二乗作仏を許すや 顕露不定教には之を許すか秘密には之を許すか爾前の円には二乗作仏を許 05 すや別教には之を許すか、 答う所詮は重重の問答有りと雖も皆之を許さざるなり、 所詮は二乗界の作仏を許さず 06 んば菩薩界の作仏も許さざるか 衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり、 釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許 07 りなり、 所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず 又凡夫二乗は勿論なり化一切衆生皆令入仏道の文の下にて 08 此の事は意得可きなり。 -----― 問うて言う。顕露定教には二乗作仏を許しているであろうか。顕露不定教では二乗作仏を許しているであろうか。秘密不定教には二乗作仏を許しているであろうか。爾前の円では二乗作仏を許しているであろうか。別教では二乗作仏を許しているであろうか。 答えて言う。所詮、重々の問答があるといっても、皆二乗作仏を許していないのである。そして、所詮、二乗界の作仏を許していないとすれば、菩薩界の成仏も許していないことになるのである。それは衆生無辺誓願度の願が闕けているからである。したがって、天台宗の学者の解釈は、菩薩の得道したとみている経文を消釈しているだけである。 所詮、華厳部・方等部・般若部の諸経で説かれる円教の菩薩も初住位に登ることはできないのであり、また凡夫・二乗は成仏できないことはもちろんのことである。法華経第二方便品の「法華経によって一切衆生を皆、仏道に入らしむる」の文の下において初めて、このこと、すなわち菩薩等が成仏できるのであると心得るべきである。 |
顕露定教
顕露は仏の意趣をあらわにした教え。定教はすべての衆生に対して利益が等しく与えられる教え。利根の菩薩のために説かれた華厳経・爾前のために説かれた阿含経をさす。
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顕露不定教
顕露は仏の意趣をあらわにした教え。天台の化儀の四教のうちの不定教。
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秘密
❶化儀の四教の一つ。秘密教(仏は同一の説法を行うが、それを聞く衆生は互いにその存在を知らず、説法の理解に相違がある)。❷真言宗では、経典を釈尊の秘密真実の教えを説いた秘密教と、人々の機根に応じて方便として説かれた顕露教とに分けた。
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爾前の円
法華経より前に説かれた諸経にも、部分的に円教(真実の完全な教え)にあたる教えが説かれており、これを「爾前の円」と呼ぶ。これに対して、法華経は純粋な円教(純円)とされる。日寛上人は『開目抄愚記』で、爾前の円といえども、法華経の相待妙と比較した時は悪であり、たとえ法華経の相待妙と同じだと容認したとしても、法華経の絶待妙には到底、及ばないと解釈している(文段集199㌻)。
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別教
二乗とは別に菩薩のために説いた教えのこと。天台大師が四教義を立てた化法の四教のひとつ。界外の惑を断ずる教であるゆえに、蔵・通とも異なり、隔歴の三諦を説くゆえに円教とも別なので別教ともいう。
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所詮
究極のところ、結局。言葉や文字によってあらわされるもの。
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衆生無辺誓願度
衆生をかぎりなく苦悩から救っていこうとの誓願。あらゆる菩薩が、仏道修行を始めるに当たって立てる4種の広大な誓願「四弘誓願」の第1。釈尊の衆生無辺誓願度は、万人成仏を明かした法華経を説くことによって成就した。
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華
華厳経のこと。大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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方
方等大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。
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般若
「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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凡夫
普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者。
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化一切衆生皆令仏道
法華経方便品第2に「舎利弗当に知るべし。我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異ることなからしめんと欲しき。我が昔の所願の如き、今は已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とある。
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ここから、問答を重ねつつ、論を展開されていく。
まず、第一の問答において、爾前教に二乗作仏を許さないということは、結局、菩薩の成仏をも許さないことになると論じられている。
初めに、問いの内容であるが、ここでは爾前教の教えに関して天台大師の化法の四教と化儀の四教の立て分けに応じて、更に細かく、“顕露定教”“顕露不定教”“爾前の円”“別教”と分け、これらの教えのなかで、二乗作仏を許しているものはあるか、と問うている。
言い換えれば、爾前の教えのどれかには二乗作仏を許しているものはないか、と逆に問うことにより、前文の二乗不作仏の義をより徹底して問い詰められているのである。
これに答えて、重々の問答や論議はあるだろうが、所詮は、爾前のどの教えにおいても二乗の作仏は許していず、そして二乗界の成仏を許していないということは、菩薩界の作仏をも許していないことになると述べられ、その理由として、二乗が作仏しないとなると、菩薩の立てる誓願の一つである“衆生無辺誓願度”の願いを成就することができなくなるからであると仰せられている。
これは、爾前には二乗の作仏はないが、菩薩は得道・作仏できるとしていることの矛盾を指摘され破折されているのである。
ゆえに「釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許りなり」と仰せられたのである。ここに“釈”とは、爾前教では得道できたとする解釈文であり、冒頭の本文にあたる。
すなわち、法華経の二つの文から、菩薩は爾前経で得道したとするのは、一面のみをみた解釈にすぎず、二乗不作仏との関連を深く思慮していないからである。と破折され、爾前による菩薩の作仏も、厳密にみればありえないことを「所詮華・方・般若も初住に登らず又凡夫二乗は勿論なり」と仰せられている。前述のように、菩薩は、別教では初地、円教では初住に入って得道できるとされてきたが、厳しくいえば、華厳部・方等部・般若部のそれぞれに説かれた爾前の円教を修行しても菩薩達は初住に登ることはできず、得道・成仏は全く及びもつかないのであり、ましてや、凡夫・二乗が爾前で成仏・得道できないことはいうまでもない、と仰せられている。
この日蓮大聖人の立場はあくまでも法華経方便品第二の「我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等して異なること無からしめんと欲しき。我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」の経文から心得るべきであると仰せられている。
つまりこの方便品の文は、二乗であれ菩薩であれ、一切衆生の得道は、法華経により初めて可能になったことを示す経文だからである。
顕露定教、顕露不定教、秘密、爾前の円、別教について
天台大師は釈尊の一代聖教を五時八教に立て分けて分類したが、これは、釈尊の50年にわたる衆生教化に関して、説法の時期・次第、説法の内容、説法の方法・形式という観点から整理し体系化したものである。
“五時は”説法の時期・次第を華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時に分類したものである。
これに対して八教とは、説法された教説の内容によって四つに分類した“化法の四教”と説法の形式・教化方法により四つに分類した“化儀の四教”とを合わせていうのである。
化法の四教とは蔵教・通教・別教・円教であり、化儀の四教とは頓教・漸教・秘密教・不定教である。
ここで、化儀の四教についてとくに述べると、まず、頓教とは釈尊が自らの悟りを衆生に対して“頓に”“直ちに”説き、誘引のためのなんらの手段を使わない教えである。五時でいえば華厳部の教えがそれである。
次の漸教とは、低きから高きへ衆生を次第に漸次に誘引していく方法で、五時でいえば阿含・方等・般若部の説法がこれにあたる。
次に不定教と秘密教とは、これまでの頓教と漸教の二つの化導・説法形式では済度することのできない機根の衆生に対して、仏は別の特殊な方法を用いて説法したとする。
それは、衆生達は同じ説法内容を聞いても、機根がそれぞれ異なっているので、異なって理解し、受け取る利益も不同である場合が生ずる。したがって、仏は得益の不同をあらかじめ予想しつつ説法するのである。
天台四教儀によると、初めに秘密教とは「前四時の中、如来の三輪不思議なるが故に、此の人の為に頓を説き、或は彼の人の為に漸を説くが如き、彼此互いに相知らずして能く益を得せしむ」とある。
「如来の三輪不思議」とは、如来の身口意の三密を用いて衆生を自在に化導していく不思議の説法をいう。
すなわち、如来は衆生を前にして同様に、この人は頓教を説き、かの人には漸教を説くというようにするけれども、聞く衆生のほうは“同聴異耳”であるから、相互に頓・漸別々の教えが語られたことや、その利益が異なることを知ることなく、しかもそれぞれ利益を得ることができる。これが秘密教である。まさに如来の不思議説法というべきものであろう。
次に不定教とういうのは、同じく天台四教儀には「前四味の中、仏一音を以って法を演説し給うに、衆生、類に随って各解を得るに由る。此れ則ち如来の不思議の力、能く衆生をして、漸説の中に於いて頓の益を、頓説の中に於いて漸の益を得せしむ」とある。
すなわち、法華以前の前四教の説法においては、仏はただ“一音”により法を説いたのであるが、聞く衆生のほうはそれぞれの類にしたがって、おのおのに理解するというもので、ある者は頓教において漸益を得せしめる説法形式を不定教という。
さて秘密教と不定教の相違をもう少し簡略化して述べよう。
秘密教は正式には秘密不定教といい、不定教を正式には顕露不定教という。このことから明らかなように、まず“不定”という点においては両者とも共通している。
すなわち、仏の説法を聞く衆生が、機根に応じてその受ける利益が一定でないような説き方を不定教というのである。では、どこが異なるかといえば、その不定教が顕露なのか秘密なのか、という点である。顕露というのは“あらわ”ということで、文字通り秘密に対する言葉であることはいうまでもない。まず、顕露は仏の意図や意趣をあらわすに隠すところのない教えということであるから、顕露不定教というのは、仏の意図や意趣があらわで衆生が相互に利益の異なることを知っている場合であるのに対し、秘密不定教は仏の意図や意趣が隠れていて、かつ衆生が相互に利益の異なることを知らない場合である。
顕露定教は、仏の意図や意趣をあらわにして隠すところがなく、更にすべての衆生に対して利益が等しく与えられる教えで、化儀の四教では頓教と漸教とにあたる。また、爾前の円については本抄の後の展開において詳細に述べられるところであるが、爾前の諸経に説かれる円教のことである。
円教は化法の四教の一つで、円融円満の完全無欠な教法のことで、凡夫が位の次第を経なくとも、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説く教えのことである。
一代聖教大意には「円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり」(0396-01)と仰せであり、爾前の円とは華厳時・方等時・般若時に説かれた円教をいう。
更に、別教は化法の四教の一つで、独り界外の変易生死からの出離を求める菩薩のためにのみ説かれた教えで、主として二乗のために説かれた蔵教や通教とも異なり、また後の円教とも異なるので別教という。代表的なものに華厳経がある。
顕露定教・顕露不定教・秘密・爾前の円・別教は以上のとおりである。ところで本文の問いは、これらの教えのどれが二乗作仏を許しているかというものである。それに答えて、さまざまな論議があるにしても、結論的にいえば、皆ことごとく二乗作仏は許していないと述べられている。
所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり
この一文は、もし二乗界の成仏が許されなかったなら、菩薩界の成仏も許されないはずである。というものである。
その理由としてここでは、菩薩が自らの修行を始めるにあたり、必ず立ててその成就を願う四弘誓願の一つである。「衆生無辺誓願度」に反するゆえであると指摘されている。
なぜなら、もし二乗の作仏が許されないならば、菩薩が立てた無辺の衆生を済度するという誓願を成就することができなくなるのであり、それによって菩薩自身、自らの成仏が不可能となるからである。
この一文と同様の指摘は、例えば爾前二乗菩薩不作仏事、小乗大乗分別抄などにある。爾前二乗菩薩不作仏には「前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか、 華厳経に云く『衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず』等と云云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか」(0424-13)と述べられている。
また小乗大乗分別抄には「仏と経とは父母の如し九界の衆生は実子なり声聞・縁覚の二人・永不成仏の者となるならば菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや、此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾子なり乃至唯我一人のみ能く救護を為すの文をもつて知るべし、菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす第一衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず」(0522-05)と指摘されている。
釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許なり、所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず凡夫二乗は勿論なり
ここで“釈”といわれているのは、おそらくは本抄冒頭に掲げられた内容をさしていわれたものと考えられる。
すなわち法華経譬喩品第三の「見諸菩薩」等の経文や、同従地涌出品第十五の「始見我見」等の経文を、爾前の教えにおいて菩薩が得道できることを裏づけた経文としてとらえることで、これは菩薩得道の面のみをみて消釈したにすぎないと指摘されているのである。
そして、華厳・方等・般若の爾前の円教を修行した菩薩は、不退の位である初住に登ることができず、したがって得道はなく、菩薩ですらこのとおりであるから、いわんや凡夫二乗においては爾前における得道がないのはいうまでもない、と仰せられている。
このように、爾前における菩薩の得道には一往、再往の義がある。十法界事に「但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云うは、天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時過去の世に於て法華結縁の輩有り爾前の中に於て且らく法華の為に三乗当分の得道を許す所謂種熟脱の中の熟益の位なり是は尚迹門の説なり、本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば 永く六道の流転を出ず可からず」(0418-13)と仰せの御文は、一往、法華経の迹門の説を依拠として爾前の前三教の菩薩の得道を許されている。それはあくまでも法華による得道を明かすために、しばらく爾前当分の得道を許したまでなのである。
化一切衆生皆令入仏道の文の下にて此の事は意得可きなり
法華経方便品第二に「舎利弗当に知るべし。我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき、我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」と説かれている。ここは、釈尊が出世の本懐である法華経を説くことにより、一切衆生を、自分と等しくして異なることなき境地に導くという当初の請願を成就して、現在には満足したと舎利弗に告げているところである。
言い換えれば、一切の衆生を化導して、ことごとく仏道に入らしめることができた。すなわち得道・成仏させることができたというのである。
この「化一切衆生令入仏道」の経文の下において、法華経にきたって初めて菩薩や衆生は得道・成仏できるのであって、爾前の教えでは不可能である、ということを心得るべきであると仰せられている。
0589:09~0590:03 第三章 爾前の円にも二乗作仏無しtop
| 09 問う円の菩薩に向つては二乗作仏を説くか、答う説かざるなり未曾向人説如此事の釈に明かなり。 10 問う華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや、 答う次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除き 0590 01 て生長することを得ず所謂声聞と縁覚となり等云云 二乗作仏を許さずと云う事分明なり、 若し爾らば本文は十界 02 互具と見えたれども 実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、 其の上爾前の経は法華経を以て定む可し既 03 に除先修習等云云と云う華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり方等般若も又以て此くの如し。 -----― 問うて言う、爾前の円教では菩薩に向かって二乗作仏を説いているか。 答えて言う。説いていない。そのことは法華経信解品第四の「未だ曾て人に向かって、此の如き事を説かず」の文についての天台大師の解釈に明らかである。 問うて言う。華厳経の「心と仏及び衆生」是の三差別の文は十界互具の正しい文証ではないのか。 答えて言う。華厳経のその下の次に「如来の智慧である大薬王樹は、ただ二か所を除くのである。その二か所では生長することができない。いわゆる声聞・縁覚である」等と説かれている。 これから、爾前の円教で二乗作仏を許していないことは明らかである。したがって、経の本文は十界互具のように見えるが、実は二乗作仏がないのであるから、十界互具を許していないのである。 そのうえ、爾前の経は法華経をもって判断すべきである。既に法華経従地涌出品第十五には「先より修習して、小乗を学せる者をば除く」等とあることから、華厳経に二乗作仏がないことは明らかである。方等部・般若部もまた同じである。 |
未曾向人説如此事
法華経信解品第4には「末だ曾て人に向って此の如き事を説かず」とある。
―――
華厳経の三無差別
「心と仏と衆生の三つには区別がない」との意。華厳経(六十華厳)巻10の文。心も仏も衆生も、五蘊(色・受・想・行・識。心身を構成する五つの要素)によって世界を作り出している点で相違はないという趣旨。
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十界互具
法華経に示された万人成仏の原理。十界互具とは、地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
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大薬王樹
雪山の頂にある大樹で、すべての草木の王。この樹の葉が茂り実がなると、すべての草木も葉が茂り実がなるといわれている。
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二所
二乗と一闡堤のこと。①二乗。六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。②一闡堤。梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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声聞
サンスクリットのシュラーヴァカの訳。「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子のこと。出家教団に属して修行をする。後代には大乗との対比で、小乗の教えを実践し阿羅漢を目指す出家修行者を意味するようになった。縁覚と合わせて二乗という。
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縁覚
サンスクリットのプラティエーカブッダの訳。辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を目指す者のこと。声聞と合わせて二乗というサンスクリットのプラティエーカブッダの訳。辟支仏と音写する。独覚とも訳す。①声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を目指す者のこと。声聞と合わせて二乗という。
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分明
明らかに分かるさま。はっきり見極めがつくこと。
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法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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前段で、爾前の円教で菩薩も成仏できないとの指摘を受けて、では、爾前経の円教の菩薩に向かっても二乗作仏は説かれなかったのか、という疑問が提出されている。
つまり、爾前経でも、円教という以上、円融円満の教えであるから、二乗作仏が説かれなかったに違いないというのが、この問いの背景に横たわっている。
したがって、二乗に向かっては作仏を許さないと説いたけれども、菩薩の前では円教を明かしたのだから、二乗作仏を説いたのではないか、という問いである。
それに対する答えとして、爾前の円では菩薩に対しても二乗作仏は説いていないと断定され、そのことを明らかにする文証として、法華経信解品第四の「而末曾向人・説如此事」という経文について法華経文句巻六上の釈を挙げられている。
法華文句の釈では「未曾説」について「応世より已来、昔の華厳・方等・大品の諸座よりは、末だ曾て大士に向かって、此の声聞は本是れ大乗の子と説かず」と述べており、華厳・方等・大品における“諸の大士”に向かって、声聞が本来大乗の子であるとは説かなかったことであると解釈している。
声聞が大乗の子であると説かなかったというのが二乗作仏を許さなかったことにあたるのはいうまでもない。
次の問答では初めに、爾前の円のなかでも、法華経に次ぐ高い教えである頓教・華厳経に説かれる「心仏及衆生・是三無差別」という経文は十界互具の正しい文証となるかどうか、を問うている。
これに対して、同経の経文を引用して華厳経が二乗の作仏を許していないことを証明され、二乗作仏もなくして十界互具も成立しない、と答えられている。
更に、爾前経のことは、法華経によって判断すべきであると説かれ、華厳経に二乗作仏がないことも、法華経従地涌出品第十五の「除先修習・学小乗者」という経文から明らかであると述べられている。
そして、方等部・般若部も、華厳経と同様にとらえるべきであると結論されている。
未曾向人説如此事の釈
而末曾向人・説如此事という経文は、法華経信解品第四に説かれる“長者窮子の譬”のなかに出てくるものである。
ある長者の子が幼くして家出し、他国を流浪して50余年が経過した。あるとき、父の長者の住む町に辿り着いた。
長者は窮子一見して我が子であることを知るが、窮子のほうは長者の威容を見ただけで畏怖の心を抱き、逃げ去ってしまった。
そこで、長者は最も卑しいとされた職業に就かせることから始めて徐々に重要な仕事を与えるという方便を用いて窮子に自ら近づき、遂に臨終間際のとき、親族・国王・大臣等を集めて、窮子は実は我が子であり、自分の所有する財産のことごとくは我が子のものであると宣言し、すべてを託したというのが、たとえの大要である。
さて「未曾向人・説如此事」等の文は、自分の子が家出して50年の間、父として長者が常に心に思っていた事柄を述べることに出てくるものである。
すなわち「父毎に子を念う。子と離別して五十余年、而も未だ曾て、人に向って此の如きの事を説かず。但自ら思惟して、心に悔恨を懐く、自ら念わく、老朽して多く財物有り。金銀、珍宝、倉庫に盈溢すれども、子息あること無し。一旦に終没しなば、財物散失して委付する所なけん。是を以て、懃に毎に其の子を憶う。復是の念を作さく、我若し子を得て、財物を委付せば、坦然快楽にして復憂慮無けん」とある。
つまり、「父である長者は常に子のことを思っていた。子と別離して50年も経過しているが、そのことについて、いまだかって人に向かって説いたことはなかった。ただ、いつもそのことを考え、後悔していた。長者が思うことには『私は財物は多いが年老いている。金銀・珍宝が倉庫にあふれているのに、託すべき子がいない。死んでしまえばこの財物は、委託すべき人がなく、散失してしまうであろう』と。こうして子供のことばかりを思っていた。そして『もし子がいれば一切を委託することができ、心は安穏にして快くなり憂慮はなくなるであろうに』と。いつも長者が思惟してきた」というものである。
この「未曾向人・説如此事」の経文を天台大師は、法華文句巻六上で次のように釈している。「未曾説とは、末だ曾て方便有余土の臣・佐・吏人に向かって、此の子の機縁有ることを説かざるなり。又応世より已来、昔の華厳・方等・大品の諸座よりは、末だ曾て諸の大士に向かって、此の声聞は本是れ大乗の子と説かず。既に仏子に非ざれば仏法を解せず。或は聾唖の如く、或は華著き座を拝し、或は鉢を棄てて茫然たり」と。
ここで、自分に家出した子がいることを、他の人に向かっていまだかつて説かなかった、ということを解釈して、仏が華厳・方等・大品を説く爾前の諸経において、いまだかつて“諸の大士”すなわち、もろもろの菩薩達に向かって、声聞が大乗の子であることを説かなかったことにあたるとしている。
ゆえに、爾前の諸経においては二乗は、仏子ではないから仏法を理解することができないとされて、あるときは聾唖のようなものであるとか、あるときは華著を拝しあるときは仏から弾呵されて、持っていた托鉢の鉢を落とすほど茫然たる状態に陥るというような扱いを受けたことが説かれているのである。
その姿はちょうど、長者の子が50余年間、諸国を巡って、貧窮、困窮の状態に陥っていることにあたるのである。
ここから、法華文句の文は華厳・方等・大品のうち、爾前の円教においても、仏が菩薩達に向かって二乗の作仏を説かなかったことの裏づけとなるとされるのである。
華厳経の三無差別と十界互具
華厳経巻十の夜摩天宮菩薩説偈品には次のように説かれている。
「心は工なる画師の如く、種種の五陰を画き、一切世界の中に、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾り、仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生とは、是三差別無し…応当に是の如く観ずべし、心は諸の如来を造る」と。
この文は「心如工画師」、「心造諸如来」などのような経中の熟語とともに有名になり、また、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の三では「心造一切三無差別」と、簡潔な言葉のなかに要約されている。また、この経文は“唯心法界の法門”“法界唯心の法門”とも称して、華厳経の代表的な法門として位置づけられている。
要するに、この“三無差別”の文は、心は巧みな画家にたとえ、画家が種々の五陰を描いて世界の事物を表現していくように、世界のあらゆる存在はただ心が造り出したものであり、心を離れて存在するものではなく、心のほかには別の法はない。したがって、迷いの衆生も悟りの仏も、ただ心があらわしたものにほかならないから、心・仏・衆生の三つはそれぞれ別々なものではなく、一体であるというものである。
この三無差別の経文は十界互具の正しい証文であるか否かというのが問いである。その背景には、天台大師が一念三千の説明において、この三無差別の文を引用しているという事実がある。すなわち、天台大師は、摩訶止観巻五上において一念三千を説くにあたり、思議境と不思議境とを区別した。思議境とは、爾前諸経に説かれる、心が一切世間を生ずるという法理をいう。
小乗の場合は心から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界を生ずるものとするのに対し、大乗の場合は六界に声聞・縁覚・菩薩・仏の四界を加えて十界の心から生ずるというのである。これを“心生説”という。
これに対して、法華円教では心生ではなく、心具を説き、これを不思議境としたのである。そして、この不思議境を展開するにあたり、華厳経の「心仏及衆生・是三無差別」の文をその根拠として掲げたのである。
「不可思議の境とは、華厳に云うがごとし『心は工なる画師が種々の五陰を造るがごとし。一切世間のなかに、心より造らざるはなし』と。種々の五陰とは、まえの十法界の五陰のごときなり、法界とは三義あり、十の数はこれ能依なり、法界はこれ所依なり。能所を合わせ称するが故に十法界という。またこの十法界は各各の因、各各の果、あるいは混濫せず。故に十法界という。またこの十法は、一一の当体みなこれ法界なり、故に十法界という云云」と。
このように、天台大師が華厳の三無差別の経文を十界互具の法理を説く上で用いたことから、この華厳経の文は十界互具の正しい証文といえるのではないかとの質問が立てられたのである。
次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除きて生長することを得ず所謂声聞と縁覚となり等云云二乗作仏を許さずと云う事分明なり
以上の問いに対して大聖人は、華厳経では二乗作仏を否定していることを経証を挙げて示され、二乗差別がないのであるから十界互具も許されるわけがない、と答えられている。
三無差別の文が説かれているのは華厳経巻十の夜摩天宮菩薩説偈品であるが、巻三十五の宝王如来性起品に大薬王樹云々の文がある。
大薬王樹というのは、雪山の頂にある大樹で、無尽根ともいう。無尽根とは大薬王樹の根が茎を生じた後、またその茎から根を生じてそれが茎となるというように、どこまでも尽きることのないところに名づけられたものである。大薬王樹はすべての草木の王で、この樹が茂り実がなると、すべての草木の葉が茂り実がなるとされている。
華厳経では、如来の智慧が広大無辺であり、一切の智慧の根本であることを大薬王樹にたとえ、この大樹が成長しないところが二個所あることを次のように説いている。
巻三十五にいわく「仏子、如来の智慧の大薬王樹は、唯二処の成長することを得ざるをば除く。謂ゆる声聞・縁覚の涅槃の地獄の深坑、及び諸の犯戒、邪見、貪欲の法器に非ざる等となり。而も如来の樹は成長せずに非ず。其余の一切の応に化を受くべき者には皆悉く成長し、而も如来の智慧の大薬王樹は増せず減せざるなり」と。
すなわち、如来の智慧である大薬王樹は、あらゆるところで成長して、しかも増減はないのであるが、ただ二個所だけは成長することができない。その二個所とは、声聞・縁覚の無余涅槃の境地と法器にあらざる者達の境地とであると説いている。この文に、華厳経が二乗作仏を否定していることは明らかである。
本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか
華厳経の三無差別を経文だけでみると、十界互具を明かしているかのように見えるし、また天台大師も摩訶止観でこの経文を依経として“心具”の不可思議境としての一念三千を明かしたのであった。
しかし、それらはあくまで法華経迹門の立場から会入して用いたにすぎず、華厳経自体は二乗作仏を否定しているのであるから、十界互具も許していないのであると指摘されている。
まえの段においては二乗界の作仏が許さなければ菩薩界の作仏も許されない、と指摘された。その理由として、もし二乗の作仏が許されなければ菩薩の四弘請願の一つである、無辺の衆生を済度するという誓願、衆生無辺誓願度を成就することができなくなるために、結果的に菩薩自身の成仏がかなわないだけである、ということが挙げられていた。ここでは、二乗作仏がなければ、十界互具が成立しないという点を強調されているのである。
爾前の経は法華経を以て定む可し
爾前経について判断するには、一代聖教の最高法であり、結論である法華経にどのように述べられているかによるべきであるとの仰せである。
なぜなら、それぞれの経の言い分で判断しようとすると、それぞれに勝れている言葉が必ずあるから、全体観のなかから正しく位置づけることができないからである。
そして、冒頭にも挙げられた従地涌出品第十五の「先より修習して、小乗を学せる者をば除く」の文を示して、ここに「小乗を学せる者」すなわち二乗が爾前経では成仏できる者から除外されていたことが明らかであると述べられているのである。
0589:04~0590:13 第四章 爾前の円における二つの法門top
| 04 惣じて爾前の円に意得可き様・二有り、一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ一一の 05 音に必ず四教三教を含ませ給えるなり、 故に純円の円は爾前経には無きなり 故に円と云えども今の法華に対すれ 06 ば別に摂すと云うなり、 籤の十に又一一の位に皆普賢行布の二門有り 故に知んぬ兼ねて円門を用いて別に摂すと 07 釈するなり此の意にて爾前に得道無しと云うなり、 二には阿難結集の時・多羅葉に注す一段は純別・一段は純円に 08 書けるなり方等・般若も此くの如し、 此の時は爾前の純円に書ける処は 粗法華に似たり、 住中多明円融之相等 09 と釈するは此の意なり。 -----― 総じて爾前の円について心意るべきことが二つある。 一つには、阿難が仏典を結集する以前、釈尊は必ず一つの教えに別教・円教の二教を含ませて、一つ一つの教えに必ず四教三教を含ませられたのである。ゆえに純円の円は爾前経にはないのであり、ゆえに円教といって今の法華経に対すれば別教に摂するといえるのである。法華玄義釈籤の十には「一つ一の位に皆普賢と行布の二つの法門がある。ゆえに、円教の門をもって別教に摂するのである」と釈している。この意において爾前経に得道はないというのである。 二には阿難が仏典を結集した時、多羅葉に教えを記したが、そこで一段は純別、一段は純円に書いた。方等・般若も同様である。このとき爾前の純円に書いた部分は、ほぼ法華経に似ている。法華玄義釈籤で「住の中には多くの円融の相を明かす」と釈しているのはこの意である。 -----― 10 天台智者大師は此の道理を得給いし故に他師の華厳など惣じて爾前の経を心得しには・たがい給えるなり、 此 11 の二の法門をば如何として天台大師は 心得給いしぞとさぐれば 法華経の信解品等を以て一一の文字別円の菩薩及 12 び四教三教なりけりとは心得給いしなり、 又此の智恵を得るの後にて彼等の経に向つて見る時は 一向に別・一向 13 に円等と見えたる処あり、 阿難結集の後のしはざなりけりと見給えるなり、 -----― 天台智者大師はこの道理を得られたゆえに、他師の華厳など、総じて爾前の経の心を得られた。ゆえに他師の華厳など、総じて爾前の経の心を得たとしているものとは違うのである。 この二の法門をどのようにして天台大師は心得られたかと尋ねてみれば、法華経の信解品第四等をもって、一つ一つの文字が別円の菩薩の教えであり、また四教三教を含んでいると心得られたのであった。またこの智恵を得た後に、それらの経に向かってみる時は、一向に別、一向に円等と見えたるところがあるが、これは阿難の仏典結集の後の立て分けであると思われたのである。 |
阿難結集
摩竭提国の王舎城付近の畢婆羅窟で行われた第一回仏典結集のこと。
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阿難
サンスクリットのアーナンダの音写。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、釈尊の従弟にあたる。釈尊の侍者として、多くの説法を聞き、多聞第一とされる。付法蔵の第2。法華経授学無学人記品第9で、未来世に山海慧自在通王如来に成ると釈尊から保証された。
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一音
釈尊一代の教えはさまざまな説かれ方をするが、実は同一の音声つまり同一の教えから出たものであるとする立場。一音説法とも。維摩経巻上の仏国品第1には、仏は終始、同一の音声によって説法をするが、衆生の機根によって理解にさまざまな差異が生ずる(一音異解)とある。中国では教判の一種として用いられ、多種多様に分かれた仏教各派の諸説も帰するところ仏の一音であるとした。天台大師智顗の時代には、『法華玄義』巻10上で、南三北七のうち北地の禅師(未詳)の一人が一音教の教判を用いたとされる。
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別円二教
別教と円教のこと。①別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。②円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。
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四教
❶天台大師智顗による教判。「化法の四教」と「化儀の四教」がある。一般に四教というと化法の四教(蔵通別円)をさす場合が多く、「開目抄」(197㌻)で言及される「四教の果」「四教の因」もこちらの意。❷華厳宗の法蔵の弟子・慧苑が立てた教判。①迷真異執教(外道凡夫の教え)②真一分半教(二乗の教え)③真一作満教(初心の菩薩の教え)④真具分満教(如来蔵を識る者の教え)。
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三教
化法の四教のうち円教をのぞく蔵教・通教・別教の三教のこと。
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純円の円
別教を含まない純粋な円満な円教。法華経のこと。
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籤
妙楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻(または20巻)。
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普賢
中国・南北朝時代の宋の曇無蜜多訳。普賢経、観普賢経と略す。1巻。普賢経は法華経の教えをふまえた観法の実践を説くので、法華経の直後にその内容を承けて締めくくる経典(結経)と位置づけられた。無量義経(開経)と法華経(本経)と普賢経(結経)を合わせて法華三部経と呼ばれる。
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行布
下から上へと段階的に修行して成仏を目指すこと。もとは、菩薩の位を五十二位に分けて行列布置し、階位の浅深・次第を立て、順々に進んでついに仏果に至ることをいう。転じて爾前経において二乗不作仏や女人不成仏など、得道に際して衆生を差別していることを示すのに用いられる。
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多羅葉
主に中国に自生する。雌雄異株で、花期は4~5月頃、4mmほどの小さな淡黄緑色の花が群れて咲く。秋には8mmほどの小さな球形の赤い実がなる。葉は肉厚で20センチほどもある長楕円形をしており、その縁は鋸のように細かいきざぎざとなっている。日本では葉の裏面に経文を書いたり[要出典]、葉をあぶって占いに使用したりした[要出典]ため、その多くは寺社に植樹されている。また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。文字を書くことのできる性質がインドで経文を書くのに使われた貝葉の原料であるヤシ科のタラジュ(多羅樹、Corypha utan)という木のようだということで、タラヨウ(多羅葉)名前の由来となっている。
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天台智者大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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信解品
法華経信解品第4のこと。三周の声聞のうち譬説周の領解を説く。法華七譬の第二・長者窮子の譬が説かれる。先の譬喩品第3の三車火宅の譬を聞いた四大声聞が開三顕一の仏意を領解した旨を長者窮子の譬をもって説明している。
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ここでは、爾前の円に関して留意すべきこととして、そこに二つの法門があると説かれている。
爾前の円とは法華経以前の華厳時・方等時・般若時のそれぞれにおいて説かれた経教のなかの円教をいう。
すなわち、華厳時には円教に別教を兼ねて説き、方等時には蔵・通・別・円の四教の機に対してそれぞれの四教の法を説くゆえに円教を内に含み、般若時は通・別の二教を帯びて円教を説いている。 このように、兼・但・対・帯の違いはあるが、但蔵教のみを説いて円教を説かない阿含時を除いては、他は一部、円教を説いている。
円教とは、前述のごとく、簡単にいえば凡夫の位の次第・順序を経ず、煩悩を断じないで成仏できると説く教えのことである。この教えが、単に経文の言葉のうえだけのことであるが、現証上の事実として説かれていることによって、爾前の円と法華経の円との相違がでてくるのである。ここに、本抄で二乗作仏・不作仏の問題を論議されている理由がある。
さて、爾前の円に関して二つの法門があるとは、一つは阿難が仏典を結集する以前、すなわち、仏が生存中に説法したままの爾前経の円と、今一つは仏滅後に阿難が仏の説法を多羅葉に書き記して遺した経典としての円とである。
一つには、仏の生存中の説法においては、仏は“一音”に必ず別と円との二教の義を織り込んで説法し、また一一の音に必ず四教と三教とを含ませて説法した、とある。
ここで“一音”とか“一一の音”とあるのは、古来仏の説法のことを“一音”と呼称するが、その根底には、仏と同一の音声によって説法しているのであるが、衆生の機根の異なりに応じて、その領解、受け取り方にさまざまな差異が生ずるとされたのである。
ところで「一音に必ず別円二教の義を含ませ」というのは、仏が華厳を説くときに円教に別教を兼ねて説いたことを表し、「一一の音に必ず四教三教を含ませ給える」というのは“一音”に四教を含ませ、“一音”に三教を含ませるということで、言い換えれば、方等を説くときは蔵・通・別・円の四教を含ませて説き、般若を説くときは、通教、別教を帯びさせて円教を説いたということである。したがって、仏の在世中の説法に関するかぎり、純円の円は爾前経には説かれなかった。
“純円”というのは、蔵・通・別の三教と混ぜ合わせて説かれたものではなく、全く純粋の円教のことで、これは法華経でなければならないと説かれないのである。
次に、仏滅直後の仏典決集のとき、阿難を代表とする結集者達は仏在世時の説法を多羅葉に記していったのであるが、華厳の教えを注記する際、「一段は純別、一段は純円」と書いたとされている。仏は音声によって華厳の教えを説法したときは別円の二教を微妙に含ませて説いたのであるが、これを結集して多羅葉に文字として記したとき、一段は純粋の別教、一段は純粋の円教というように、明確に立て分けて編集した。しかも、純円の仏の説法では法華経にのみ説かれたのであるが、仏典結集の段階で華厳・方等・般若の爾前の円に対しても“純円”として書き記したのである、と述べられている。
このように、経典としての爾前の円の場合は“純円”の書き方が、なされているところがあるから、そのところに関しては、ほぼ法華経に類似した内容がある、と仰せられている。
要するに、ここは、仏の音声による実際の説法と仏滅後に結集され文字化された経典とのあいだには、少し隔たりのあることに留意するよう促されているのである。
次に、爾前の円に関して以上の二つの法門があるという道理を悟ることができたのは天台大師であるが、大師が他師と異なって、何ゆえにこの道理を悟ることが可能であったのか、ということに及んで、次のように仰せられている。
すなわち、天台大師はまず法華経の信解品等をもって、一々の文字に、別円の菩薩の教えや四教を含み、更に三教を含んでいることを悟った。そして、この悟りの智慧を得て後に、具体的に諸経典に向かってみると、経のなかに、徹底して“別”の部分と徹底して“円”の部分というように、明確に立て分けられているところがあることを知って、それは阿難が経典を結集した後に立て分けられたものであると天台大師は見抜いたのである、と仰せられている。
籤の十に又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼ねて円門を用いて別に摂すと釈するなり
妙楽大師の法華玄義釈籤の巻十上の文である。この文を含む前後は天台大師の法華玄義巻十上の次の一文に対する釈義として説かれている。
すなわち「一に大網に三種あり、一には頓、二には漸、三には不定なり、此の三の名は旧に同じくして義は異なり云云。今此の三教を釈するに各二解を作す。一には経門に解し、二には観門に約して解するなり…先に約せば、華厳の七処八会の説の若きは、譬えば日出でて先に高山を照らすが如し。浄名の中には唯簷蔔を嗅ぐ。大品の中には不共般若を説く。法華に云く『但無上道を説く』と。又『始め我が身を見、我が所説を聞き、即ち皆信受して如来の慧に入る』と。『若し衆生に愚えば、尽く仏教を教う』と。涅槃の二十七に云く『雪山に草有り、名づけて忍辱と為す。牛若し食えば即ち醍醐を得』と、又云く『我、初め成仏するに、恒沙の菩薩来りて是の義を問う。汝が異なること無し』と。諸大乗教の此くの如きの意義類例して、皆頓教の相と名づく。頓教の部には非ざるなり」と。
この個所は、法華玄義において天台大師自身の教相判釈を明かすにあたり、まず頓・漸・不定の三種の大網を挙げた後、この大網を解釈するのに、経門と観門の二門に約して論ずることを明かし、初めに教門に約して解釈していくところである。そして、まず、頓教の相を諸大乗経典のなかから類例の文証を挙げて述べていくくだりである。
まず、華厳の七処八会の説は、ちょうど太陽が出て最初にまず高山を照らすように、直ちに究極の境地を教えており、また浄名経巻中の観衆生品第七においては、舎利弗の質問に答えて天女が「舎利弗、人の瞻蔔林に入りて唯瞻蔔を嗅ぎて、余香を嗅ぐが如し。是くの如く、若し此の室に入れば、但仏の功徳の香りのみを聞き、声聞・辟支仏の功徳の香を聞くを楽わざるなり」と述べている。
このように「此の室」に入ると瞻蔔林に入って、ただ瞻蔔の香りのみをかいで他の香りをかがないように、ただ仏の功徳の香りをかいで、声聞・辟支仏の香りをかぐことを願わなくなるということは、究極はただ仏の功徳のみであることを説いているので“頓教の相”ということができる。また、大品経においては“不共般若”すなわち、他と共通しない独特の般若を説くのである。それは別円二教の教えで、子のなかに“頓教の相”を含むであろう。更に法華経方便品第二には「但無上道を説く」とあり、従地涌出品第十五には「始め我が身を見、我が所説を聞き、即ち皆信受し如来の慧に入る。若し衆生に愚えば、尽く仏道を救う」とある経文も、同じ頓教の相であり、この他涅槃経二十三の文も挙げられているが、いずれも経中に説かれた究極の境地として頓教の相を表しているのである。
さてこの法華玄義の文に対して釈籤は、始めに「始め華厳自り終わり法華に至って皆頓の義有り。故に顕露の中に唯鹿苑を除く、余部の中には皆頓有るを以ての故に名づけて頓教と為す。而て頓の部に非ず」と。鹿苑での阿含部を除いて、顕露の華厳・方等・般若・法華の四部において頓があるから頓教というのであって、“頓部”という部があるのではないということである。
次に華厳経の七処八戒について、60華厳と80華厳とでは会座の数において相違のあることを説明し、とくに十住・十行・十回向・十地の菩薩行の次第・階位を明かす品々の紹介をした後、「是くの如き処会に明かす所の位行別円を出ず。但経意兼含にして義分判じ難し。始め住前従り登住に至って来、全く是れ円の義なり。第二住従り第七住に至って文相次第にして又別の義に似たり。七住の中に於いて又一多相即自在を弁ず。次に行・向・地又是れ次第差別の義なり。又一一の位に皆、普賢行布の二門有り。故に知んぬ。兼ねて円文を用いて別を接す」と説いている。
ここでは、華厳が明かすところの菩薩道の次第・階位は、別教と円教とを出ない。
まず、十住以前からの十住の初住に登ったところは円の義であるのに対し、第二住から第七住に至るところは経文の書き方自体が順序次第を帯びていて、別の義のようである。
七住のなかで、一つの位と多くの位とが相即して自在であることを弁じているのは、円の義のようであり、次に十行・十回向・十地の順序次第は差別の義で、別といえる。また四十位のどの一つ一つの位にも、普賢と行布の二門があり、ゆえに華厳に代表される爾前の円の教えには別教を摂していることが明らかである、というのである。
住中多明円融之相等と釈するは此の意なり
「住中」の釈は法華玄義釈籤巻十上の文である。
これは法華玄義巻十上の「華厳の、初めに、円、別の機に逗じ、高山を先に照らすが如きに至っては、直ちに次第不次第の修行、住上地上の功徳を明かして、如来説頓の意を弁ぜず」という文を釈したものである。
玄義の文自体は、天台大師の教相を明かすにあたって、まず、仏が無名相のなかにおいて名相を借りて説くのが仏説である。との根本を明かした後、教法の勝劣を論じていくなかで華厳の特徴を明かしたところである。
すなわち、華厳というのは、説法の最初にあたって、円教と別教の意が分かる機根に向けて投じられた教えであり、それゆえ、華厳においては、直ちに菩薩の修行における次第行と不次第行を説き、円教では十住・別教では十地にのぼる功徳は明かしたけれども、如来自身が成仏に至った根本は弁じていないというのである。
これに対して釈籤では、玄義の文の最初の「華厳の、初めに円、別の機に逗じ、高山を先に照らすが如きに至っては、直ちに次第不次第の修行、住上地上の功徳を明かして」という文は、華厳では、別円二位の修行と、その十地・十住にのぼる功徳を明かしたということである、と釈している。
続いて、華厳経における菩薩の修行の階位・次第が説き明かされている会座と品名が紹介され、その後「一経三十七品は倶に菩薩の行位の功徳を明かす。而して皆行位の意を明かさず、初成頓説の大旨を語らず」と釈している。これが本抄に引用の「住中」の釈文である。
涅槃経一経のうち三十七品はただ菩薩の修行のそれぞれの位における功徳を明かしていることになる。華厳が円教に別教を兼ねて説くとされるのは、十住を明かすなかで多くの円融の相を明かし、十行を説いてからは十回向、十地と次第して“歴別の相”すなわち、別々に段階的に説いていくのであるが、真実の成仏の義については明確にされていない、と釈している。
大聖人がこの釈籤の文を引用されたのは、阿難結集のときに多羅葉に仏の説法を記した際に、華厳経においては“一段は純別・一段は純円”というように書いたことを裏づけられるためであったといえよう。
法華経の信解品等を以て一一の文字別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給いしなり、又此の智恵を得るの後にて彼等の経に向つて見る時は一向に別・一向に円等と見えたる処あり、阿難結集の後のしはざなりけりと見給えるなり
それでは、天台大師はどのようにして爾前の円に関する二つの法門を会得したかについて説明されている。
天台大師は、法華経の信解品を判読していったとき、経の一つ一つの文字が別円の菩薩のために説かれていたり、あるいは蔵・通・別・円の四教や蔵・通・別の三教を含んでいたりすることを会得した。
この智慧を得てから、改めて爾前の経教のことごとくを検討してみたとき、それぞれに別円や蔵通別を本来は含んでいたのであるが、ある経は一向に、ある経は一向に円等というように、阿難による経典結集の後に人為的に施されたものである、と天台大師は見抜いたというのである。
ところで、前の「一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ一一の音に必ず四教三教を含ませ給えるなり」という御文がここでの「一一の文字別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給いしなり」という御文に対応し「二には阿難結集の時・多羅葉に注す一段は純別・一段は純円に書けるなり方等・般若も此くの如し」の御文は「又此の智恵を得るの後にて彼等の経に向つて見る時は一向に別・一向に円等と見えたる処あり、阿難結集の後のしはざなりけりと見給えるなり」という御文に対応することは明らかであろう。
なお“法華経の信解品等”というのは、天台大師が釈尊の一代聖教を五時八教に立て分ける依処として用いている信解品の長者窮子の譬喩や涅槃経の五味の教えなどをさしていることはいうまでもない。
0590:13~0591:02 第五章 爾前の円に迷う天台宗の学者top
| 13 天台一宗の学者の中に 此の道理を 14 得ざるは 爾前の円と法華の円と始終同の義を思う故に 一処のみの円教の経を見て一巻二巻等に純円の義を存ずる 15 故に彼の経等に於て往生成仏の義理を許す人人是れ多きなり、華厳・方等・般若・観経等の本文に於て阿難・円教の 16 巻を書くの日に即身成仏云云即得往生等とあるを見て 一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思いたり、 阿難結集 17 已前の仏口より出す所の説教にて意を案ずれば 即身成仏・即得往生の裏に歴劫修行・永不往生の心含めり、 句の 18 三に云く摂論を引いて云く 了義経・依文判義等と云う意なり、 爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖く可しと云う 0591 01 事は是なり、 記の三に云く法華已前は不了義なる故と云えり此の心を釈せるなり、 籤の十に云く「唯此の法華の 02 み前教の意を説き今経の意を顕す」と釈の意は是なり。 -----― 天台宗の学者のなかで、この道理を得ていない者は、爾前の円と法華の円とについて始めの華厳も終わりの法華も同じ義であると考えているために、一か所のみに説かれている円教の経を見て、またその経の一巻や二巻等に純円の義がとかれているので、その経等に往生成仏の義や理があるとする人々が多いのである。 華厳・方等・般若・観無量寿経等の本文のなかに、阿難が仏典結集の時、「円教の巻」を書く時に、「即身成仏」云々、「即得往生」云々としているのを見て、一生ないし順次生に往生成仏を遂げることができるといると思っているのである。 しかし、阿難が仏典を結集する以前の、仏の口から説き出されたところの説教でその意を考えてみれば、「即身成仏」「即得往生」の裏に「歴劫修行」「永不往生」の心を含んでいるのである。 法華文句の巻三に摂大乗論を引用して「了義経は文に依って義を判じ。不了義経は経に依って文を判ず」というのはこの意である。爾前の経を文のままに判ずるならば仏意に背くことになるというのはこのことである。 法華文句記の巻三には「法華已前は不了義経なるゆえに」といっているのは、法華文句のこの意を釈したものである。 法華玄義釈籤の巻十にいう「ただこの法華経のみが爾前経の意を説き明かして、今教の意をあらわしている」との釈の意はこれである。 |
天台一宗
法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。
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始終同の義
天台の一部の学者が釈尊が初めに説いた華厳経も最後に説いた法華経も円頓の義において斎しいとしたこと。
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往生成仏
①衆生の住むこの娑婆世界を去って仏国土に往き、すぐれた果報の生を得ること。往生には阿弥陀の西方極楽往生や弥勒の兜率天往生などがある。②往生と成仏の二義に分け、往生は死後に他の世界に往き生まれること。成仏は仏の境界を得ること。
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義理
俗語でいう「義理人情」の義理ではなく、教義・法理の意味。宇宙の森羅万象に厳存し、これを動かしているものを法理といい、それを抽象し経文に説いたものを教義という。
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華厳
大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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方等
大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。
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般若
「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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観経
中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
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即身成仏
衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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即得往生
阿弥陀仏を至心に念じ、かの西方浄土に往生することを願うならば、ただちに往生することができるとの意。
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順次生
今世の直後の生のこと。『俱舎論』などでは、業の報いを受ける時を三つに分ける。すなわち、今世の内に報いを受ける順現業、今世の直後の生に報いを受ける順次生業、それ以後の生に報いを受ける順後業があるとする。
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歴劫修行
成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語(法華経33㌻)。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
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永不往生
永久に往生できないこと。
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句
天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。10巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈法によって明らかにしている。
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摂論
摂論宗のこと。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てられた宗派で、中国陳隋の世に広まったがのちに法相宗に包含された。日本には伝承されていない。
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了義経
意味が明瞭な経典の意。釈尊が真意を説いた経をいう。そうでない経典を「不了義経」という。涅槃経巻6には「了義経に依りて不了義経に依らざれ」とある。
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依文判義
一般に経文を解釈する場合は、より高い経典に説き示された義によって解釈しなければならないが、仏法の理が完全に説き尽くされた了義憍の場合は、文によってその義を判じていくことを依文判義という。
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仏意
仏の心・本意のこと。
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記
妙楽大師湛然による『法華文句』の注釈書。10巻(または30巻)。
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不了義
仏法の道理が完全明瞭に説きつくされていないこと。
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日本の天台宗の学者達が、爾前の円と法華経の円の相違に迷っていることを指摘され、破折されているところである。
日本の学者のなかで、爾前の円に仏典結集以前と以後との二つの法門があるという道理が分からない者は、爾前の円と法華の円とは同じであると思うので、ある経の一個所のみに“円教”が説かれているのを見て、その経の一巻や二巻などに“純円の義”があると思い、その経で往生成仏ができると考えている人々が多い、と仰せられている。
例えば、華厳・方等・般若・観経などの本文のなかに、阿難が仏典結集のときに「即身成仏」であるとか「即得往生」等と書き記しているのを見て、学者達は一生あるいは順次生で往生成仏を遂げることができる、と思っているのである。
しかし、阿難が結集する以前の実際の仏の口から説き出された説法をもって考えてみると、「即身成仏」や「即得往生」という言葉の裏に必ず「歴劫修行」を必要とするという前提や、二乗などは「永久に往生しない」という別教の心が含まれているのであって、爾前の経を爾前の文のままに釈すると、仏の意に背くことになるといわているのはこのことである、と述べられている。
爾前の円と法華の円と始終同の義
ここでの“始終同の義”というのは、本抄の冒頭に挙げられた法華経の文についてもいえるが、天台大師も法華玄義巻十下において「初後の仏慧、円頓の義斉の後に次いで華厳海空を説くは、法華と斉し、亦第五時教なり」と説いており、この「初後の仏慧、円頓の義斉し」の句を日本天台宗の学者は表面的にとらえたのである。
ここで“初”が華厳経に“後”が法華経にあたり、華厳と法華の仏慧は、その円頓の義において等しい、ということである。始終同も、始めの華厳、終わりの法華とは、円頓の義において同じであるということである。“円頓の義”とは凡夫が修行の位を経ず煩悩を断ぜずに“頓に”成仏できると説く義である。また、妙楽大師の法華玄義釈籤巻一上には「法華玄義」「譚玄本序」に「文に云く『是れ第一寂滅なり。道場に於いて知り已んぬ。大事因縁をもって世に出現す。始め我が身を見て仏慧に入らしめ、末だ入らざる者の為に、四十余年、異の方便を以って第一義を助顕せり』『今、正直に方便を捨てて、但、無上道を説く』と」と述べている文を釈して、次のように述べている。すなわち「大事の下は説の本意を明かす。意仏乗に在り。故に始終を挙げ、意仏慧に在り。中間の調斥は仏の本懐に非ず。故に助顕と云う」と。
すなわち、仏の説法の本意は仏乗を明かすところにあり、そのために、仏は始め華厳を説き、終わりに法華を説いて仏慧の内容を知らしめたのであるが、中間の阿含・方等・般若は衆生の機根を調えたり叱責したりして熟すために説かれたもので、仏の本懐ではない、というものである。
以上の玄義・釈籤をみるかぎり、華厳と法華のあいだにはその円頓の義において相違がないとしているかのようであるが、再往は天台大師も妙楽大師も法華経のみが真実の円頓の義を有しているとしていることは、すでに二乗の作仏・不作仏の論議は明らかになっているので、ここでは略する。
華厳・方等・般若・観経等の本文に於て阿難・円教の巻を書くの日に即身成仏云云即得往生等とあるを見て一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思いたり
華厳・方等・般若・観経などの経文の本文のなかで「即身成仏」「即得往生」等の文があることについては、日蓮大聖人が一代聖教大意において次のように説かれている。
「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く『円満修多羅』文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』文、観経に云く『韋提希時に応じて即ち無生法忍を得』文、梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり」(0396-02)と。
ここに引用された諸経の経文を見るかぎり、直接、即身成仏や即得往生という言葉は見受けられないが、思想的には円教の考えを表していることは明らかである。
すなわち、華厳経・浄名経・般若経・観経などのそれぞれの文は、結局、凡夫が位を経ずして仏に成ることを説いたり、あるいは一つの戒を受けるだけで仏の位に入るとしたり、また、煩悩を一毫も断ぜずして仏に成ることや往生することを明かしていることにおいて、円満の経ということができるのである。しかし、それぞれ二乗を開会しなかったり、悪人の成仏を説かなかったりして、爾前の円教には限界があるのである。
このように爾前の円として限界があるにもかかわらず、これらの文をみて、日本天台宗の多くの学者達は、一生において、成仏往生できることを表した文証として読んでしまっているのである。
句の三に云く摂論を引いて云く了義経・依文判義等と云う意なり、爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖く可しと云う事は是なり、記の三に云く法華已前は不了義なる故と云えり此の心を釈せるなり、籤の十に云く『此の法華のみ前教の意を説き今経の意を顕す』と釈の意は是なり
この段は三つの文を引用されながら、爾前の経は経文のとおりに解釈すると仏意に背くゆえに、法華経の義に基づいて経文を判じなければならない、と仰せられているところである。
初めに「句」というのは法華文句のことであり、その巻三下に次のようにある。すなわち「『摂大乗』に云く『了義経は文に依って義を判じ、不了義経は義に依って文を判ず』と、すなわち斯義なり」と。この釈文で、了義教とは仏法の義が完全に説き尽された経典のことで法華経を表すのに対し、不了義経とは“義を了せず”で、仏法の義がいまだ不完全である経典のことであり、方便権教の爾前経をさす。「摂大乗」とは、本来、無著著の摂大乗論のことであるが、ここは摂大乗論釈のことである。
いうまでもなく、摂大乗論は唯識思想の法相宗の聖典であるから、了義経は唯識中道教を説く解深密教をさし、不了義経とは、唯識以前の有教と空教を説く諸経典を表すことになる。
しかし、法華文句では、この文をあらわしている原理を借りて、了義経の法華経は義が完全に顕了に説かれているので、ただ法華経の文に依って義を判ずればよいのに対し、不了義経の爾前経は不完全な教えであるから、その経文自体に仏法の義を求めることはできず、法華経の義によって判じなければならない、というのが法華文句の意である。前者を依文判義というのに対し、後者は依義判文、というのである。
この法華文句の釈文を受けて「爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖く可しと云う事は是なり」、つまり爾前の経は不了義経であるから、その文のとおりに判ずると、真実の意図に背くことになるというのである。
次に、「記の三」というのは、妙楽大師の法華文句記の巻三のことであり、先の法華文句巻三の釈文を受けて「隋情等とは法華已前は不了義の故に。故に難解と云う」と、法華文句の引用文中の“不了義経”が法華以前の爾前権経であることを明言している。
さらに「籤の十」というのは、妙楽大師の法華玄義釈籤巻十上のことで、そこでは法華玄義巻第十上の「此の難を過ぎ已って之を定むるに子父を以って、之に付するに家業を以って、之を払うに権迹を以ってし、之を顕すに実本を以ってす」の文を釈して次のように説いている。
「此の難過ぎ已って従り、去りては唯法華に至る。前教の意を説いて今教の意を顕す。…一代教法を収め、法華の文心を出る。諸経の所以を弁ず」
「ただこの法華経のみが爾前経の意を説き明かして、今教の意をあらわしている」という本抄の引用は、この釈籤の意をとって述べたものである。
0591:03~0591:15 第六章 一代聖教中の法華経の重要性top
| 03 抑他師と天台との意の殊なる様は如何と云うに 他師は一一の経経に向つて 彼の経経の意を得たりと謂へり、 04 天台大師は 法華経に仏四十余年の経経を説き給へる意をもつて 諸経を釈する故に阿難尊者の書きし所の諸経の本 05 文にたがひたる様なれども仏意に相叶いたるなり、 且らく観経の疏の如き経説には見えざれども 一字に於て四教 06 を釈す、 本文は一処は別教・一処は円教・一処は通教に似たり、釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたも 07 う故なり、 阿難尊者の結集する経にては一処は純別・一処は純円に書き 別円を一字に含する義をば法華にて書き 08 けり、 法華にして爾前の経の意を知らしむるなり、 若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸 09 経の意を知るべからざるなり、 又法華経を読誦する行者も 此の意を知らずんば 法華経を読むにては有る可から 10 ず、 爾前の経は深経なればと云つて浅経の意をば顕さず浅経なればと云つて又深義を含まざるにも非ず、 法華経 11 の意は一一の文字は皆爾前の意を顕し 法華経の意をも顕す故に一字を読めば 一切経を読むなり一字を読まざるは 12 一切経を読まざるなり、 若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も 得道は難かる可し、滅後に一切経を読む可 13 き様は華厳経にも必ず法華経を列ねて 彼の経の意を顕し観経にも必ず 法華経を列ねて其の意を顕すべし諸経も又 14 以て此くの如し、 而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁えず 一経を講して各我得たりと謂い又超過諸 15 経の謂いを成せるは曾て一経の意を得ざるのみに非ず謗法の罪に堕するか。 -----― そもそも他師と天台大師との解釈の異なりはどこにあるかといえば、他師は一つ一つの経々に向かって解釈し、それぞれの経々の意を得たと思っている。 天台大師は釈尊が法華経で四十余年の諸経について述べている意をもって解釈しているゆえに阿難尊者の書いた諸経の本文とは違っているようであるが、仏意には叶っているのである。 たとえば、天台大師の観無量寿経疏をみると、観無量寿経の経説にはないけれども、一字について四教をもって釈している。 本文は一か所は別教・一か所は円教・一か所は通教に似ているのである。しかし、それを四教にわたるものとして解釈したのは法華経の意をもって仏意をお知りになっているからである。 阿難尊者の結集した経では、一か所は純別・一か所は純円に書き、別・円の二教を一字に含む義は法華経で書いたのである。法華経で爾前の経の意を知らしめようとしたからである。 したがって一代聖教を反覆して読んでも法華経がなければ一字も諸経の意を知ることができない。また法華経を読誦する行者もこの 意を知らなければ法華経を読んだことにはならない。 爾前の経は深経であるからといって浅経の意をあらわさなかったり、浅経であるからといって、また深義を含まないというのではない。 法華経の意は一々の文字は皆、爾前の意をあらわし、法華経の意をもあらわしている。ゆえに、一字を読めば一切経を読むことになり、一字を読まないのは、一切経を読まないことになるのである。 したがって法華経のない国では諸経があるといっても得道は難かしい。釈尊滅後における一切経の読み方は、華厳経にも必ず法華経をつらねて華厳の意をあらわし、観無量寿経にも必ず法華経をつらねて観無量寿経の意をあらわすべきである。諸経もまたおなじようにすべきである。 そうであるのに、インドの末期の論師や中国の人師はこの意をわきまえないで、一経を講義しており、おのおの自分はこの経の意を得たと思い、またその一経が諸経に超過しているとの増上慢をなしているのは、まったくその一経の意さえ得ていないばかりか、謗法の罪に堕するのである。 |
観経の疏
天台大師が観無量義経を疏を加えた書。
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通教
声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた大乗初門の教えのこと。天台大師が四教義で立てた化法の四教のひとつ。通教の菩薩には前の三蔵教と同じ果を得る者と、さらに深く進んで後の別教・円教の理を悟るものとがある。
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一代聖教
釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
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読誦
読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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深経
深い意を含んだ経典のこと。
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浅経
浅い意しか含んでいない経典のこと。
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一切経
仏教にかかわる経典を総称する語。大蔵経ともいう。また一切の経・律・論のほか、中国、韓・朝鮮半島、日本などで成立した経文の解釈・伝記・史録などを編纂・結集したものをいう。
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滅後
仏が入滅したあと。
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月支
インドの別名。
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論師
「論」を著して仏法を宣揚する人。例えば、正法時代の竜樹(ナーガールジュナ)、世親(天親、ヴァスバンドゥ)など。
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震旦
真旦とも。中国の古い呼び名。古代インド人が中国を指したチーナスターナの音写語。
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人師
論師に対する言葉。「経」「論」を解釈して人々を導く人のこと。例えば、像法時代の天台大師智顗、妙楽大師湛然などをさす。
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天台大師の経典解釈法と他の人師達の解釈の仕方の相違はどこにあったかを明らかにされ、天台大師のように、法華経を根本にしてこそ釈尊の真意を知ることができることを述べられている。
したがって、法華経を離れては、いずれの経も正しくとらえることができず、かえって謗法の罪に堕すと厳しく戒められている。
まず、天台大師と他師との相違であるが、他師は一つ一つの経をそれぞれ別々のものと考えて、それぞれの経の意味内容を理解して、それぞれの経の意を得ることができた、と思っているのである。
これに対して、天台大師は法華経に基づいて諸経を解釈したから、天台大師の解釈は、一見すると阿難尊者が仏典結集のとき書き記した諸経の本文とは相違するように見えても、仏の意図にかなうとらえ方をしたのである、と仰せられている。
その一例として、天台大師の観経の疏を挙げられている。天台大師はこの疏のなかで、実際に観経の経文の表には見えないけれども、蔵・通・別・円の四教をもって釈している。実際の観経の本文は、一字に四教を含むというものではなく、ある一か所は別教、別の一か所は円教、またある一か所は通教というように書かれている。
天台大師が観経疏の釈で一字について四教にわたって解釈したのは、あくまで法華経によって仏の本意を知ったためである、と仰せられている。
阿難尊者が結集した経典において、一か所は純粋な別教、一か所は純粋な円教として書き記し、一字に別・円の二教を含むような在り方を法華経において書いたのは、法華経によって爾前40余年の諸経の意を知ったためである、と仰せられている。
したがって、一代聖教を何度反復して学んだとしても、法華経なくしては、諸経のそれぞれの意味するところも知ることができないのであり、逆に法華経を読誦する行者も、このことを知らなかったならば、法華経を読んだことにはならないのである。
爾前経の場合は深経だからといっても、それより浅い経の意をあらわしていないことがある。浅い経だからといっても、深意を含んでいることもある。
これに対して法華経は、一々の文字が皆ことごとく爾前教の意を表していると同時に法華経の意をも表しているゆえに、法華経の一字でも読めば一切経を読んだことと同じになる。逆に、法華経の一字を読まないということは一切経を読まないことと同じになってしまうのである。
したがって、法華経のない国においては、諸経が存在している得道・成仏はないのである。
また仏の滅後において、一切経を読むにあたっては次のようにしなければならない。例えば、華厳経を読むときには、必ず法華経とともに読誦して、華厳の説かれた意図を明確にし、観経を読むときも必ず法華経を並べて観経の説かれた意図をあらわさなければならない。
このよに、いかなる諸経も、法華経とともに読誦して、諸経のそれぞれの説かれた意図を明確にする必要があるのである。
ところが、インドの末期の論師や中国の人師は、このことをわきまえないで、一経だけを読んでその経の意を得たと思い、更にはその一経が他の諸経に“超過”しているという思いにとらわれたりしたのである。
しかし、それでは、その一経の意も得られないばかりか、かえって謗法の罪に堕する結果となっている、と厳しく戒められている。
天台大師は 法華経に仏四十余年の経経を説き給へる意をもつて諸経を釈する故に阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶いたるなり
天台大師は、法華経を根本に諸経を釈したが、それは、仏が何ゆえに40余年の間、爾前諸経を説いてきたかという“意図”が明かされているからである。
天台大師が一切経について、その位置づけを定める五時教判を立てるにあたって、その依拠としたものは法華経が開経・無量義経、法華経の方便品第二、同信解品第四の三つの文証であったことは、法華玄義巻十上に明らかである。
まず方便品の文は「我始め道場に坐し、樹を観じ亦経行して、三七日の中に於いて、是の如き事を思惟しき、我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり。衆生の諸根鈍にして、楽に著し痴に盲いられたり。斯の如きの等類、云何して度すべきと、爾の時に諸の梵王、及び諸の天帝釈、護世四天王、及び大自在天、竝に余の諸の天衆 眷属百千万、恭敬合掌し礼して、我に転法輪を請す。我即ち自ら思惟すらく、若し但仏乗を讃めば、衆生苦に没在し、是の法を信ずること能わじ、法を破して信ぜざるが故に、三悪道に墜ちなん。我寧ろ法を説かずとも、疾く涅槃にや入りなん。尋いで過去の仏の、所行の方便力を念うに、我が今得る所の道も、亦三乗と説くべし」という一節である。
この文は、釈尊が菩提樹の下で、悟りを開いた後、3週間の間、思惟した内容が明かされている。
すなわち、自らが得た智慧は微妙で最第一である。しかも、もろもろの衆生は機根が純であって、目先の快楽に執着している。これらの衆生を済度するにはどうすればよいのかと思惟し、その結果、むしろ法を説かずに早く涅槃に入ってしまおうかと考えたが、過去の仏の行った方便の力を思い出しているうちに、自らも過去の仏と同様に、声聞・縁覚・菩薩の三乗に分けて法を説くことに決めたと述壊されている。
この経文について天台大師は法華玄義巻十上において、先に“頓”としての華厳経を説き、その後に衆生の機根を考慮して“漸”としての経教を説く、という順序次第を表しているとしている。
次に、無量義経の文は「善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。…文辞是れ一なれども而も義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり。善男子、初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ごろ処処に於いて、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせし、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘、万億の人天、無量の衆生、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢果、辟支仏因縁の法の中に住することを得」という一節である。
この経文に対して“仏眼を以て一切の諸法を観ず”とは、頓法が前にあることを表し“四諦”“十二因縁”は漸を後にすることを表し、“方等十二部経”は、小乗・蔵経の後に方等を説くこと、“摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし”とは方等の後に般若を説くことを表しており、結局、この文は阿含時・方等時・般若時という三つの“漸”の時をしめしているのである、と法華玄義は釈している。
最後に、法華経信解品の文というのは、同品に説かれた長者窮子の譬喩のことである。天台大師はこの譬喩によって、釈尊一代の説法を五時に立て分ける教相の判釈を樹立したのである。
さて長者窮子の譬喩は、摩訶迦葉・摩訶目犍連・摩訶迦旃延・須菩提の四大声聞は自らの領解したところを述べたのである。
天台大師は一切経を五時の次第に立て分けるうえでの基準としたのは、仏法上では最鈍根にあたる声聞二乗がいかに仏によって教化され、究極の目的の成仏へと導かれていったのか、ということであった。この疑問に答える最適の依文を、天台大師はこの長者窮子の譬喩に見いだしたのである。
長者窮子のたとえは大要、次のような内容である。
長者の子が幼いころ父を捨てて他国を放浪していた。やがて、
①長者がみすぼらしい我が子を見つけ、
②二人の召し使いを使わして長者の家にくるよう誘引し、
③自らみすぼらしい衣服をまとって我が子に接近し、
④財宝管理の職につかせ、
⑤やがて、家事財産の一切をその子に譲った、
というものである。
法華玄義巻十下においては、まず、長者が邸宅の前をたまたま通りかかった我が子を見つけて人をやって連れてこようとしたが、子のほうは父が分からず、捕えられると思って恐怖のあまり悶絶した、という。
①「初め成仏して、寂滅道場にして法身の大士、四十一地の眷属囲繞して、円頓の経文を説く。時に於いて大を以って子に擬するに、機生じて悶絶することを領ずるなり。当に知るべし、仏日初めて出でて頓教先に開く。譬えば牛より先に乳を出すが如きを」と。
つまり、長者が我が子を見て直ちに邸宅に連れてこさせようとしたのは、仏が寂滅道場で悟りを開いた直後に、法身の大士や四十一地の高位の眷属に囲まれて、円頓の経門、すなわち華厳経を説いたことにあたる。
“大を以って子に擬す”とあるように、華厳の頓教を、直ちに子にあたる二乗に“擬宣”したのである。
華厳は二乗に直ちに高位の教えを仮に与えてみて、二乗がこの頓教を受け入れるに都合のよい機根か否かを試してみたのである。また、五味でいえば、乳味にあたり、日が初めて姿を現したことにも譬えられている。しかし、当の二乗は長者の子と同じく低い境地に低迷していたために、この頓教の教えがさっぱり分からなかった。
②我が子がとても低い境地に低迷していることを知った長者が、今度は方便を用いて、あえて貧しい姿をした二人の召し使いを遣わして、窮子に対しては、糞はらいの仕事に雇いたい、といわしめた。これについては「此は頓の後に次で、舎那威徳の相好を隠し老比丘の像と作りて、三蔵の教を説き、二十年中常の糞を除わしめ、一日の価を得しむることを領するなり。即ち是れ十二部より後修多羅を出す。時において見思已に断じて無漏の心浄し。譬えば乳より酪を出すが如し」と釈している。
これが“誘引”のための小乗阿含経であり、阿含時にあたり、五味でいえば酪味にあたるのである。
③では、長者自身が貧しい衣服を着て窮子に接近して、窮子を自分の子のように扱うことを述べて、長者と窮子との間には次第に心が通い合うようになっていくのであるが、これについて法華玄義では“弾訶”にあたり、方等時の説法とし、五味でいえば生蘇味にあたると釈している。
④では、更に進んで、病を得て死が間近であることを知った長者が、窮子を財宝管理の高職に就かせるのであるが、ここでは玄義で、“沙汰”になり、方等の後に般若を説くことにあたると釈している。また、五味でいえば熟蘇味にあたるとしている。
⑤において、長者が臨終の間際に、窮子が真実の我が子であることを明かし、一切の家事財宝を譲るのであるが、玄義では、これこそ二乗も元来、仏の子であり、一切衆生はことごとく仏性を有して成仏できることを明かす法華経が説かれたことをたとえ、また法華経により初めて説法教化の意図が明確になることをたとえている、と述べている。まさに“開会”であり、五味では醍醐味にあたるのである。
天台大師は以上のように、法華経信解品の長者窮子のたとえを依拠として、仏の40余年の説法教化の意図を明確に把握していたので、一切経のそれぞれがどのような仏の元意に基づいて説かれたかを正しくとらえ、そこから経文を読んだので、正しくその真意を把握することができたのである。
0591:16~0592:01 第七章 天台のみが仏の正意を明かすtop
| 16 問う天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此くの如く意得たる論師・人師之有 17 るか、答う無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、 竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり、 此れ 18 等は粗此の意を釈すとは見えたれども 天台の如く分明には見えず、 天親菩薩の法華論も又以て 此くの如し震旦 0592 01 国に於ては天台以前の五百年の間には一向に此の義無し、 玄の三に云く「天竺の大論尚其の類に非ず」云云、 -----― 問うて言う。インドの論師、中国の人師のなかに天台大師のように、阿難が仏典を結集する以前の、釈尊が直接に説いた諸経をこのように理解した論師や人師がいたであろうか。 答えて言う。無著菩薩の摂大乗論には四意趣をもって諸経を釈し、竜樹菩薩の大智度論には四悉檀をもって一代聖経の心を得ている。これらはほぼ釈尊の意を釈しているようではあるが、天台大師のように分明には釈していない。天親菩薩の法華論もまた同じである。 中国においては天台以前の五百年の間には、一代聖教の心を得た義は全くなかったのである。法華玄義の巻三には「インドの大論ですら、まだ比較に耐えない」と述べている。 |
天竺
中国および日本で用いられたインドの古称。
―――
無著菩薩
サンスクリットのアサンガの訳。4~5世紀ごろのインドの大乗仏教の論師。『摂大乗論』などを著し、唯識思想の体系化を推進した。世親(ヴァスバンドゥ)の兄。
―――
四意趣
『摂大乗論』に出てくる。釈尊が相手の性格や好みに応じて四種の方便説をもって導くこと。①平等意。差別にとらわれた者を導く説き方。②別時意。懈怠の障りを除くために用いる説き方。③別義意。法を軽んずる心を破るために用いる説き方。④衆生楽欲意。向上心を起こさせるための説き方。
―――
竜樹菩薩
150年~250年ごろ。サンスクリットのナーガールジュナの訳。インドの仏教思想家。新訳経典では竜猛と訳される。『中論』などで大乗仏教の「空」の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。付法蔵の第13とされる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。
―――
大論
大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
四悉檀
仏の教法を4種に分けたもので、『大智度論』巻1などに説かれる。①世界悉檀。人々が願い欲する所に応じて法を説くこと。②為人悉檀。詳しくは各各為人悉檀といい、機根などが異なる人それぞれに応じて法を説いて教え導くこと。③対治悉檀。貧り・瞋り・愚かさなどの煩悩を対治するために、それに応じた法を説くこと。④第一義悉檀。仏が覚った真理を直ちに説いて衆生を覚らせること。
―――
天親菩薩
4~5世紀ごろのインドの仏教思想家。北インドのプルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)出身の論師。サンスクリット名はヴァスバンドゥ。新訳で「世親」、旧訳で「天親」という。初めは小乗を学び『俱舎論』などを著したが、兄の無著(アサンガ)によって大乗に帰依し、唯識思想(実在するのは認識主体の識だけであって、外界は心に立ち現れているだけで実在しないという思想)を発展させたほか、『法華論』などを著し、大乗を宣揚した。多くの論書をつくり「千部の論師」とたたえられる。主著に『唯識三十論頌』など。
―――
法華論
『妙法蓮華経憂波提舎』の略。世親(ヴァスバンドゥ)の著作。インドにおける法華経の注釈書として唯一現存する。法華経が諸経より優れている点を10種挙げた十無上などを説く。如来蔵思想による法華経解釈を特色とし、天台大師智顗や吉蔵(嘉祥)、基(慈恩)らに影響を与えた。
―――
玄
天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
―――――――――
ここでは、インドの論師や中国の人師のなかに、天台大師のように、阿難が仏典の結集をする以前の仏の直接の説法に関してその真意を心得た人はいたかどうかという問いを起こされ、それに対して、存在しないと答えられている。
インドの論師として、無著菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩の3人が挙げられ、これら3人も、諸経を解釈するのに独自の法を立てたが、天台大師ほど明快に諸経の真意を解明していない、と指摘されている。
そして、中国に仏教が伝来してから天台大師が出現するまでの500年間の人師のなかには、仏の説法の正意を心得た人は一人も存在しなかったと仰せられ、最後に、その文証として法華玄義巻三の「天竺の大論尚其の類に非ず」を挙げられている。この文中の「天竺の大論」には諸説があるが、竜樹菩薩の大智度論、無著菩薩の摂大乗論などをさすと考えられる。
無著の四意趣・四悉檀について
四意趣というのは、無著菩薩がその著・摂論のなかで用いた諸経解釈の方法である。また、同じ無著の荘厳経論・摂論を釈した天親菩薩の摂大乗論釈にもこの方法が説かれている。
大乗荘厳経論巻六には「諸仏の説法は四意を離れず」とあり、無著は、経典に結集される以前の仏の説法そのものに溯って、これを四つの意趣をもって釈したのである。
四意趣の具体的な名称については、ここでは摂大乗論釈巻五に基づいて説明しておきたい。まず“意趣”とは、文字どおりの意味では、考え、思惑、趣旨などがあるが、ここでは、仏が衆生に対して説法するときの意向や考え方をさしている。
摂大乗論釈においては、その仏の意趣に四種類があるとし、
①平等意趣
②別時意趣
③別義意趣
④衆生意楽意趣
の四つを挙げている。
①の平等意趣については巻五に「平等の法身は置いて心中に在れば、説いて言く、我昔、曾て彼に等しと。彼の昔時の毘鉢尸仏は即ち是れ今日の釈迦牟尼なるに非ざるも、平等の義の起こす所の意趣に依りて是くの如きの説を為す」とある。すなわち、仏自身の心のうちにある“仏の法身”は平等であるので、彼の昔の毘婆尸仏と今日の釈迦牟尼仏とは同じでないにもかかわらず、今の我は昔の彼である、と説いたりすることである。
②別時意趣については、巻五に「謂く此の意趣は嬾惰なる者をして、彼々の因に由りて彼々の法に於いて精勤修習せしめ、彼々の善根をして皆増長することを得せしむ。此の中の意趣は多宝如来の名を誦するの因を顕す。是れ昇進の因にして、唯名を誦するのみにて、便ち無上正等菩薩に於いて已に決定することを得るには非ず。説いて言える有るが如し、一の金銭に由りて千の金銭を得るは、豈一日に於いてならんや。意は別時に在り。一の金銭は是れ千を得る因なるに由るが故に此の説を作す。此も亦是くの如し。唯発願するのみに由りて便ち極楽世界に往生するを得とは、当にしるべし亦爾なり」とある。
例えば、多宝如来の名を誦するだけで無上正等菩提を得ることができると説いたり、あるいは発願するだけで往生できると説いたりする。実際は、如来の名を唱えたり、発願したりするだけでは、成仏や往生は不可能なのであるが、それらの行が成仏や往生のための因であることには変わりがないので、衆生の成仏や往生の万行の完成の後に達せられるという未来の別の時点にあることを仏は心に存しながら、あえてこのように説くのが別時意趣である。
これに関して譬喩が説かれている。わずか一日で、一つの金銭で千の金銭を得ることができる、と説いたとする。実際にはそんなことは不可能であり、それを説く本人も、一つの金銭が千の金銭になるためには、多くの日数を経た未来の別の時点に達成できるものであることを知っているのである。しかし、怠け者を励まして仕事をさせるためにこの方便を使用するのである。
③別義意趣とは「説いて言うが如し、若し已に爾所のカツ伽河沙等の仏に逢事すれば、大乗の法に於いて方に能く義を解せん」とある。
大乗の法義について、凡夫はその言葉の意味は理解できても、究極の実相にまで到達するのはなかなか困難なことであり、そのことをよく知っている仏が、恒河沙のような無数の仏に会って師事すれば、大乗の実相の義を了解できると説くことをいう。
この場合、大乗の法義は言葉の意味を理解してなされるのではなく、無数の仏に師事することによって証得できるとしているので、これを“別義異趣”というのである。
④衆生意楽意趣とは、補特伽羅意楽意趣ともいい「謂く一の為には布施を讃し、後には還って毀呰するが如し。此の中の意は、先には慳悋多ければ、為に布施を讃し、後には施しを行ずることをのみ楽わば、還って皆毀呰し勝行を修せしむ。若し此の意無ければ一の施の中に於いて、先には讃し、後には毀するは則ち相違を成ず。此の意有るに由りて讃するも毀るも理に応ず。尸羅等に於いても当に知るべし。亦爾なり」とある。
これは、衆生の意楽に従って、仏の説法に相違の生ずることをさしている。
例えば、ある一人の修行者に対して、仏があるときは布施行を讃嘆し、後になって、その布施行をそしるような場合がある。一見すると、これは矛盾するようであるが、次のような仏の意向によっているのである。衆生が吝嗇で物を惜しむ傾向性の強いときには、布施を行ずるように促すが、今度は布施行だけに囚われて他の行を疎かにすると、あえてその衆生のために、布施をそしって、他の勝れた行を修行させようとするのである。これは衆生の意楽を思い計って説くのであるから、衆生意楽意趣というのである。
以上が四意趣で、これも確かに仏の衆生に対する説法の意図をとらえようとする方法ではあるが、天台大師の五時八教の釈にはとても及ばない。と日蓮大聖人は仰せられている。
次に竜樹菩薩が大智度論巻一に明らかにした四悉檀をみてみよう。
まず四悉檀の“悉檀”とは、成就、宗要などの意味をもっており、仏が衆生の仏道を成就させて成仏させていくことをさし、そのための仏の法の説き方に四つあることを四悉檀というのである。今その名目を明らかにすると、
①世界悉檀
②各各為人悉檀
③対治悉檀
④第一義悉檀
である。
大智度論巻一では「四悉檀の中に、総べて一切の十二部経、八万四千の法蔵を摂す」と説き、仏の一切の教法、八幡法蔵がこの四つの悉檀のなかに収まるとしている。
①世界悉檀は、楽欲悉檀ともいい、仏が衆生の願い欲するところにしたがって、世界・世間の法を説いて、聞く者をして歓喜させ利益を与えることをいう。
②の各各為人悉檀とは生善悉檀ともいい、衆生おのおのの性質や能力などに応じて法を説いて正信を生ぜしめ、過去の善根を増長させることをいう。
③対治悉檀とは断悪悉檀ともいい、貧・瞋・癡の三毒を治すためにとらわれる仏の説法である。例えば貪欲の者には不浄観を観じさせ、瞋恚の者には慈悲の心を修せしめ、愚癡の者には因縁を観じさせる、というように、仏が衆生の心の悪病を除くために種々の法の薬を施すことをいうのである。
④第一義悉檀とは、入理悉檀ともいい、まえの三つによって衆生の機の熟するのをみて、最後に諸法実相の真理を説いて真実の悟りへと入らしめることをいう。この竜樹菩薩の四悉檀も、天台大師の五時八教の立て分けと比較すると、その精密さと深さとにおいてははるかに及ばない、と大聖人は仰せられている。
0592:01~0592:16 第八章 「華厳・法華同等」の義を破すtop
| 01 籤 02 の三に云く「一家の章疏は理に附し 教に憑り凡そ立つる所の義・他人の其の所弘に随い 偏に己が典を讃するに同 03 じからず、 若し法華を弘むるに 偏に讃せば尚失なり況や復余をや」文、 何となれば既に開権顕実と云う何ぞ一 04 向に権を毀る可きや、 華厳経の心仏及衆生・是三無差別の文は華厳の人師・此の文に於て一心覚不覚の三義を立つ 05 るは、 源と起信論の名目を借りて此の文を釈するなり、 南岳大師は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙 06 の義を存せり、 天台智者大師は之を依用す此に於て天台宗の人は華厳・法華同等の義を存するか、又澄観・心仏及 07 衆生の文に於て一心覚不覚の義を存するのみに非ず 性悪の義を存して云く、 澄観の釈に「彼の宗には此れを謂つ 08 て実と為す此の宗の立義・理通ぜざる無し」等云云、 此等の法門許す可きや否や、 答えて云く弘の一に云く「若 09 し今家の諸の円文の意無くんば 彼の経の偈の旨理実に消し難し」 同じく五に云く「今文を解せずんば如何ぞ心造 10 一切三無差別を消解せん」文、 記の七に云く忽ち都て未だ性悪の名を聞かずと云えり、 此等の文の如くんば天台 11 の意を得ずんば彼の経の偈の意・知り難きか、 又震旦の人師の中には 天台の外には性悪の名目あらざりけるか、 12 又法華経に非ずんば一念三千の法門・談ずべからざるか、 天台已後の華厳の末師並びに真言宗の人・性悪を以て自 13 宗の依経の詮と為すは 天竺より伝わりたりけるか祖師より伝わるか、 又天台の名目を偸んで自宗の内証と為すと 14 云へるか、能く能く之を験す可し。 -----― 妙楽大師の法華玄義釈籤巻三に「天台宗の章疏は法理に従い仏の教えに基づいており、およそ立てるところの義は、他宗の人々が、自宗を弘通するために、おのが経典を賛嘆しているのと同じではない。もし法華経を弘通するために偏って賛嘆するならば、それはおおいなる誤りである。また、他のことも同じである」とある。なぜかといえば、すでに「開権顕実」が説かれたというのに、どうして一向に権を毀ることがあろうか。 華厳経の「心と仏と及び衆生、是の三は差別がない」との文について、華厳宗の澄観等がこの文で「一心・覚・不覚」の三義を立てたのは、その源は大乗起信論の名目を借りてこの文を解釈したからである。 南岳大師は「妙法」の二字を釈するのに、この「心と仏及び衆生、是の三は差別がない」を借りて三法妙の義を立てた。天台智者大師は南岳大師のこの義を依用している。ゆえに天台宗の人は華厳・法華同等の義を立てているであろうか。また、澄観は「心仏及衆生」の文によって「一心・覚・不覚」の義を立てたのみではなく、性悪の義を立てていて、澄観の釈には「天台宗ではこのことを実としている。華厳宗の立義、それを理において通じるものはない」等と述べている。これらの法門を許すべきかどうか。 答えて言う。妙楽大師の止観輔行伝弘決の巻一に「もし天台宗のもろもろの円教の文の意がなければ華厳経の偈の法理を解釈することはできない」と述べている。同じ止観輔行伝弘決巻五には「法華経の文を理解することができなければ、どうしても『心造一切三無差別』の文を釈すことができようか」とある。又法華文句記巻七に「天台宗以外では全く性悪の名を聞いたことがない」といっている。 これらの文のとおりであるならば、天台大師の法門を心得ずしては、華厳経の偈の意を知ることが難かしいのである。また、中国の人師のなかには、天台大師のほかには性悪の名目を出している人はないのである。また法華経でなければ一念三千の法門を談ずることができないのである。 天台大師以後の華厳宗の末師ならびに真言宗の人々が性悪の法門をもって自宗の依経の所詮としているのは、インドから伝わったのか、祖師から伝わったのか、また天台大師の名目を盗んで自宗の内証の法門としたといえようか。よくよくこのことを調べてみるべきである。 -----― 15 問う性悪の名目は天台一家に限る可し諸宗には之無し、 若し性悪を立てずんば九界の因果を如何が仏界の上に 16 現ぜん、 答う義例に云く性悪若断等云云、 -----― 問うて言う。性悪の名目は天台宗に限るのである。諸宗にこの性悪の名目はない。もし性悪の法門を立てなければ九界の因果をどうして仏界の上に現れるであろうか。 答えて言う。妙楽大師の止観義例には「もし仏が性悪を断じてしまえば、どのように種々の色身をあらわすことができるであろうか」と述べている。 |
開権顕実
方便品を開いて真実の教えを説き顕したこと。「権」は権教である40余年の爾前経、「実」は法華経をさす。
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権
仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いた権の教え、経典のこと。実教(実経)に対する語。権は一時的・便宜的なものの意。
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心仏及衆生・是三無差別
「心と仏と衆生の三つには区別がない」との意。華厳経(六十華厳)巻10の文。心も仏も衆生も、五蘊(色・受・想・行・識。心身を構成する五つの要素)によって世界を作り出している点で相違はないという趣旨。
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華厳経
大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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起信論
『大乗起信論』のこと。馬鳴(アシュヴァゴーシャ)著と伝えられるが諸説ある。5~6世紀ごろの成立とされる。漢訳には中国・梁の真諦訳1巻と唐の実叉難陀訳2巻の二つがあるが、真諦訳が広く流布した。大乗への信心を起こさせることを目的として、すべての衆生に如来となる可能性がそなわっているとする如来蔵思想の立場から大乗仏教の教理と実践を要約した論書。
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名目
名前・名称。
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南岳大師
515年~577年。中国・南北朝時代の北斉の僧。慧思のこと。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、『立誓願文』(558年、大蘇山にて)を著した。この『立誓願文』には正法500年、像法1000年、末法1万年の三時説にたち、自身は末法の82年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著『法華経安楽行義』では、法華経安楽行品第14に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。【観音・南岳・聖徳太子】日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(604㌻)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(608㌻)とされている。
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三法妙
衆生法・仏法・心法の三種の妙をいう。衆生法とは九界。仏法は仏界。心法は心それ自体、もしは心中の法。
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依用
よりどころとして用いること。
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澄観
738年~839年。中国・唐の僧で、華厳宗の第4祖に位置づけられる。五台山清涼寺に住んだことから、清涼国師と呼ばれた。実叉難陀が訳した80巻の華厳経を研究し、『華厳経疏』『華厳経随疏演義抄』などを著した。
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法門
仏・菩薩の教え、その仏に従って学べば聖者の智に入ることのできる門。末法では御本仏日蓮大聖人の三大秘法をさす。
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弘
妙楽大師湛然による『摩訶止観』の注釈書。10巻(または40巻)。天台大師智顗による止観の法門の正統性を明らかにするとともに、天台宗内の異端や華厳宗・法相宗の主張を批判している。
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心造一切三無差別
華厳経巻10には「心は工みなる画師の、種々の五陰を造るが如く、一切世間の中に、法として造らざは無し。心の如く仏も亦爾なり、仏の如く衆生も然なり、三界唯一心なり、心の外に別の法無し、心と仏と及び衆生、是の三に差別無し」とある。
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一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
―――
真言宗
密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
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内証
自分の心の中で真理を覚ること。また、享受している内面の覚り。外用に対する語。
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義例
妙楽が摩訶止観の内容を要約し、七条に分けて天台教学の観心法門を明らかにした注釈書。
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初めに、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三の文を引いて、日本天台宗の人は華厳をはじめ権教の諸経と法華経とを同じ義であると考えているはずであり、華厳宗の澄観も“性悪”の義について天台宗と我が宗と同じであるとしているが、これについてどう考えるのかと問いかけている。
それに答えて、妙楽大師は止観輔行伝弘決の巻一、巻五の文、法華文句記巻七の文とを引用され、まず権教や華厳経の意は法華経を釈した天台大師の意を根底にしなければ知ることができないと破られ、次に、震旦の人師のなかに“性悪”の義を明らかにした者は天台大師以外にはないことを説いて、澄観の“性悪”の義は、これを盗んだものであると示されている。
最後に、性悪の法門は天台一家のみが説いており、他宗には存在しないことを確認する問答を挙げられて、この段を閉じられている。
籤の三に云く「一家の章疏は理に附しに憑り凡そ立つる所の義・他人の其の所弘に随い偏に己が典を讃するに同じからず、若し法華を弘むるに偏に讃せば尚失なり況や復余をや」文、何となれば既に開権顕実と云う何ぞ一向に権を毀る可きや
問いに引用された妙楽大師の法華玄義釈籤巻三下の文である。
この文は法華玄義巻三下の次の文を釈したものである。すなわち「夫れ二諦の差別は已に説くが如し。此の七の権実、二十一の権実を説くに、頗る世人の所執の義を用うるや不や、頗る世人の所説の語に同ずるや不や、頗る諸論の所立の義を用うるや不や。既に世人に従わず、亦文疏に従わず。特に是れ大小乗の経を推して此の釈を作すのみ。若しは破、若しは立、皆是れ法華の意なり」と。
この玄義の文は、天台大師が法華玄義で展開した7つの権実や21の権実などの法門は、世人が執着している義や世人の説いている語、あるいは論じている義を用いたものであるかどうかという問いに対して、世人の文や疏に従わず説いた天台大師独自の法門であり、またそれは、あるときは破り、あるときは立てる、という法華経の意を根本にして述べられた法門であると説いている。
これを妙楽大師が釈したのが、この釈籤の文である。“一家の章疏”とは法華宗の宗旨・宗義をさす。すなわち、天台宗の教えは法理に従い仏の教えに基づいたもので、他の宗派が自らの弘通する経典のみを賛嘆するために立てる偏頗な教義とは異なっていることを述べ、その普遍性・客観性を強調したものである。
したがって、法華経を弘通するためにこの経典だけを偏って賛嘆することは間違いである、と戒めている。
なぜなら、法華経が説かれて既に“開権顕実”したのであるから、権教も、法華経の意をあらわすための法華経の体内の教えとして位置づけられたものであるから、法華経のみを偏って賛嘆し、権教を毀ることは誤りだというのである。
このように、一切経が説かれた意図を明晰にした法華経ですら自画自賛の釈義をなしてはならないのであるから、いわんや余経を自画自賛してはならないことはいうまでもない、と釈籤は戒めている。
もとより妙楽大師自身、法華経を“超八の醍醐”として讃嘆しているのであり、これは法華経を賛嘆すること自体を戒めたものでないことは明らかである。ここでいわんとしているのは、法華経を最高とたたえるとともに、他の権教も分々の真理をあらわしたものとして用いるべきであるということである。
華厳経の心仏及衆生・是三無差別の文
華厳と法華は同じ義であると主張する問者が、その根拠として「心仏及衆生・是三無差別」の文と南岳大師の三妙法、および天台大師の法門との共通性を挙げているのである。
まず「心仏及衆生・是三無差別」の文の出典は華厳経巻十の夜摩天宮菩薩偈品第十六である。
この品において、功徳林・慧林など10人の「林」という名のもつ菩薩達が次々に如来の功徳を賛嘆していくのであるが、最後の第9番目の如来林菩薩が述べた言葉が「心と仏と及び衆生…差別無し」を含む偈頌である。
今、その個所を引用すると、「心は工みなる画師の如く、種種の五陰を画き、一切世界の中に、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り、心と仏と及び衆生とは、是の三差別無し」とある。
この文中で“心”が画家にたとえられている。ちょうど、上手な画家がさまざまな五陰を描いていくように、心も一切世間の諸事物、諸事象を描き造っていく、ということである。すべてが心の所産であるというのは、ここに由来する。
したがって、仏といい衆生といっても、所詮、心が描き造るものであり、心の産物ということができる。ここから、心と仏と衆生、の三つのものは差別がなく同一不二、ということになるのである。
華厳の人師・此の文に於て一心覚不覚の三義を立つるは、源と起信論の名目を借りて此の文を釈するなり
「華厳の人師」すなわち中国華厳宗第四祖の澄観は上の「心と仏と及び衆生」の文について、その著・華厳経疏巻二十一に次のように釈している。
すなわち「若し一人に約せば、心は即ち総相なり。仏は即ち本覚なり。衆生は即ち不覚なり」と。これが本文に仰せの「一心覚不覚の三義」である。
さて「一心覚不覚の三義」は澄観が大乗起信論から名目を借りてきて用いたものである。大乗起信論第二正宗分の第三段解釈分に次のようにある。
「一心の法に依りて二種の門あり。云何んが二となす。一には心真如門、二には心生滅門なり。是の二種の門は皆各一切の法を総摂す…心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅の心あり。所謂、不生不滅と生滅と和合して、一に非ず、異に非ざるを名づけて阿梨耶識となす。此の識に二種の義あり。能く一切の法を摂し、一切の法を生ず。云何が二となす。一には覚の義、二には不覚の義なり」と。
すなわち、大乗起信論では、衆生の一心に、心真如と心生滅の二つの門があるとする。心生滅門は不生不滅と生滅とからなり、この二つが和合しているのを“阿梨耶識”に覚の義と不覚の義の二義がある、と説いている。
澄観はこの記信論の心真如門と心生滅門の覚・不覚二義の立て分けを用いて「一心」「覚」「不覚」を立てたのである。
南岳大師は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙の義を存せり、天台智者大師は之を依用す
南岳大師も、華厳経の「心と仏と及び衆生、是の三に差別無し」の文を借用して、心法妙・衆生法妙・仏法妙の三法妙を展開しており、それを天台大師も依用しているのだから、天台宗の人々は華厳経と法華経とを同等としているはずであるときめつけている。
南岳大師の場合は、三法妙の展開に関しては天台大師ほど明確ではないが、その著作全体を通じて、華厳経の「心と仏と及び衆生」の文を用いており、また衆生法・衆生妙などの法門を説いている。
例えば、法華経安楽行義において「云何なるを名づけて妙法華経と為すや…云何なるを復衆生の義と名づくや。答えて曰く妙とは衆生妙なるが故に。法とは即ち是れ衆生法なるが故に」と説いている。ここでは、衆生妙・衆生法という言葉がみえており、三法妙の考え方の原型が表れている。
また、大乗止観法門巻一では「問うて曰く若し本不覚無きに就いて名づけて覚者と為せば、凡夫即是仏なり、何ぞ修道を用いると為すや。答えて曰く。若し心体平等に就かば即ち修と不修、成と不成無し、亦覚と不覚無し。但明為ること如如仏の如き故に対説に擬して覚と為すなり。又復若し心体平等に拠らば、亦衆生諸仏と此の心体異なり有ること無し。故に経の偈に云く『心仏及衆生・是三無差別』と。然し復心性縁起法界の法門法爾にして不壊なり。故に常平等常差別なり。常平等の故に心仏及衆生是三無差別なり」と説いている。
この文からも、南岳大師が華厳経の「心と仏と及び衆生」の経文を引用して自らの法門を展開していることは明らかであろう。
次に天台大師は、法華玄義や摩訶止観に南岳大師の説いた法門を用い、また華厳経の「心と仏と及び衆生」の文を借りて、大いに三法妙を論じている。
まず、法華玄義巻二上では「南岳師は三種を挙ぐ。謂く衆生法とは仏法と心法となり。経に『衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめんが為に』というが如き。若し衆生に仏の知見無くんば、何の開を論ずる所あらん。当に知るべし、仏の知見は衆生に蘊在すること…又経に『但父母所生の眼を以てす』とは…此れは是れ今経に衆生妙を明かすの文なり…仏法妙とは、経に『止みなん止みなん説く須からず。我が法は妙にして思い難し』というが如し…心法妙とは安楽行の中の如し。其の心を修摂して一切法を観ずるに動ぜず退せずと…華厳に云く『心・仏及び衆生、是の三、差別無し。心の微塵を破して大千の経巻を出す』と。是れを心法妙と名づく」と説いている。
ここでは、明確に、衆生法妙、仏法妙、心法妙の三法妙が明かされているとともに、華厳経の「三無差別」の経文も引用されている。
更に、摩訶止観巻一下にも『心仏及び衆生是三差別無し』と。当に知るべし、己心に一切の仏法を具すと云うことを」とある。
性悪の法門について
天台大師が性悪の法門を明かしたのは、主として観音玄義である。この書は法華経観世音菩薩普門品第二十五について、五重玄義を説いたものである。すなわち、本書は釈名・出体・明宗・弁用・教相の五章に分けられて、その第一釈名章が通釈と別釈とに分かれている。そして通釈が第一列名・第二次第・第三解釈・第四料簡の四段からなっており、第四段の料簡が人法・慈悲・福慧・真王・薬珠・冥顕・権実・本迹・縁了・智断の十項目に分かれているうち、第九の縁了を料簡とするところで、性悪説が説かれている。
さて、十項目に分かれている第一段の料簡は、全体として、仏道修行する人が発心して修行して仏果に至るまでの始終次第について明らかにしている。
そのうち、人法から真応までが自行の次第を、薬珠から本迹までが化他の次第を明らかにしたものとされている。
こうして、修行者の自行と化他の次第を説いて八項目となるが、しかし、この八項目のみでは修行者が何故に仏道を行ずるのか、あるいは行じなければならないのか、という根本の理由が示されていないから、そこで第九に縁了を料簡するという項目が説かれているのである。
縁了とは縁因仏性と了因仏性をさし、暗に正因仏性を含む三因仏性を示していることはいうまでもない。つまり、修行者が仏道を行ずることのできる根本は行者各自が具備している三因仏性にあることを料簡する、というのが第九の項目の意図である。そして、このなかで性悪の法門が説かれるのである。
すなわち、「縁了を料簡すとは、問う縁了既に性徳善有るや亦性徳悪有るや否や。答う。具す。問う闡堤と仏は何等の善悪を断ずるか。答う、闡堤は修善を断じ尽くして、但性善在り。仏は性悪を断じ尽くして但性悪在り。問う、性徳善悪何ぞ断ず可からんや。答う、性の善悪但是善悪の法門なり、性改むべからず三世を歴て誰か能く毀ること無けん。復断壊すべからず」とある。
ここで“性善”“修善”、“性悪”“修悪”の言葉が説かれているが、簡単に説明しておくと、“性善”“性悪”というのは、善や悪への可能性を性分として具備している、ということである。これに対して“修善”“修悪”というのは、具体的な行為として善や悪を為すことを言う。
また、ここにいう“善”の極善が仏界であり“悪”の極悪が地獄界である。
引用文の意味では、まず、正・了・縁の三因仏性に善や悪への可能性が性分として具備しているか否か、と説いている。その答えは具備している、というものである。
次に、闡堤とはどのような善を断じてしまった者のことをいい、仏とはどのような悪を断じてしまった者のことをいうのか、との問いに対する答えとして、性悪の法門が説かれるのである。
つまり、一闡堤というのは具体的な行為として善を修することを断じ尽くしてしまっていて善行の片鱗もなさないが、ただ善への可能性は性分として備えている者のことをさしている。
これに対して、仏というのは逆に具体的な行為として悪を修することを断じ尽くしてしまっているが、ただ悪への可能性は性分として具備している者のことをいうと説いている。
闡堤のほうはともかく、仏が性分として、悪への可能性を備えているという法門がとくに“性悪説”として天台大師の独創的な学説として注目を浴びたものである。
なぜならば、一般の仏教界にあっては、仏、如来といえば無明を断じ尽くして正覚を成就した覚者のことであり、そこには微塵も悪は存在しないはずである、と考えられていたからである。
しかし、天台大師はこの“常識”に対し、もし仏、如来が世間や凡夫の悪を微塵をも備えないとするならば、現実の衆生・凡夫を救済していく活動の根拠がなくなる、とするのである。
この性悪説が説かれた観音玄義は、法華経観世音菩薩普門品を釈したもので、この品は観世音菩薩が自身から天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・摩睺羅伽・人・非人等にいたるまでの三十三身をあらわして、一切の衆生を救済するためにあまねく現れることを説いた経である。
このためには、如来や仏も、可能性としての九界の悪すなわち性悪を、自己のなかに性分として具備しており、いつでもこの性悪を発動して九界の現実世界に応現し、衆生と苦悩を共感し得る存在でなければならない、と天台は説くのである。
しかし、如来は性悪を具備していても、自らの悪に敗れることはないゆえに、具体的な悪の行為としての修悪は全くないとされる。これが性悪の法門といわれるものであり、逆に一闡堤に関しては性善の法門ということになるのである。
この性悪・性善の法門の考え方は単に天台大師だけではなく、すでに南岳大師の大乗止観法門でも説かれているところである。
参考までに触れておくと、南岳大師の大乗止観法門では次のようにある。
「言う所の如来蔵染浄を具すとは、其れ二種有り。一には性染性浄、二には事染事浄なり。上に已に明かすが如し。若し性染性浄に拠るならば即ち無始以倶時具有なり。若し事染事浄に拠るならば即ち二種差別有り。一は一一時中に倶に染浄の二事を具す。二には始終方に染浄二事を具す…本従り已来倶時に染浄の二性を具有す。染性を具するを以っての故に能く一切衆生の染事を現ず…亦仏性と名づく、復浄性を具するが故に能く一切諸仏等浄徳を現す」と。
その他、天台大師の法華玄義巻六上でも感応妙・神通妙を明かすくだりで、性悪・性善の法門が説かれている。
弘の一、同五、記の七の文
以上のような、華厳宗の立義と天台法華宗の教義との共通性を挙げて、華厳経と法華経は同等ではないのかとの質問に対し、妙楽大師の止観輔行伝弘決の巻一、巻五、文句記巻七の文を挙げて、答えが示されているのである。
いずれの文も、法華経ならびに天台大師の意を根本にしてこそ、華厳経の「心仏及び衆生」の偈の本当の意味を釈することができるのであり、性悪の法門も、天台大師によって立てた一念三千によって成立するのであるから、華厳宗の性悪の義は何を根拠にしているかをよく追求してみるべきであると答えられている。
最初に「弘の一」の文は、妙楽の止観輔行伝弘決巻一の文である。すなわち、「故に華厳に初住心を歎じて云く、心の如く仏も亦爾り、仏の如く衆生も然り。心仏及び衆生是の三差別無し。諸仏は悉く一切心従り転ずと了知す。若し能く是の如く解せば彼の人真に仏を見る。身亦是の身に非ず。一切の仏事を作すること自在にして未曾有なり。若し人三世の一切仏を知ることを求めんと欲するに応に是の如き観を作すべし、心諸の如来を造る、若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」とあるなかの一節である。
ここは、摩訶止観において、華厳経の「是三無差別」の文を引用しているのを受けて、妙楽大師が“今家”すなわち、天台宗が説き明かす円教・法華経の意に基づいて立てられた一念三千論や円融の三諦論等の法門を根底にしなければ、“是三無差別”の偈文の真実の法理を解釈することは難しい、と述べているところである。
次に「弘の五」の文も、やはり華厳経の「是三無差別」の偈を引用した後に「今文を解せずんば如何ぞ偈の心造一切三無差別を消せん」と述べている。
つまり、法華経の意を了解せずしては華厳経の偈を釈することができないことを示しているのである。
更に「記の七」というのは妙楽大師の法華文句記巻七下の「忽ち都て末だ性悪の名を聞かず安んぞ能く性徳を行を有することを信ぜんや」という文である。
ここでは、天台大師以外はいまだ“性悪”という名さえ聞くことができないゆえに、どうして、“性徳の行”があると信ずることができようか、と述べている。
問う性悪の名目は天台一家に限る可し諸宗には之無し、若し性悪を立てずんば九界の因果を如何が仏界の上に現ぜん、答う義例に云く性悪若断等云云
性悪の法門が天台宗のみに説かれた独自のものであることを確認されるために、まず、問いとして、性悪の名目や法門が天台宗のみに説かれていることを認めた後に「若し性悪を立てずんば九界の因果を如何が仏界の上に現ぜん」と述べている。
つまり、仏界のなかに九界の悪への可能性を有するという法理を依りどころにしなければ、九界の衆生を救うことはできない、と問うている。
この問いは、問いというよりもむしろ確認のためのものといてよいであろう。したがって、これに対して「義例に云く性悪若断等云云」と答えられている。
義例とは、妙楽大師の「止観義例」のことで、天台大師の摩訶止観の内容を要約し、七条に分けて天台教学の観心門を明らかにした書である。
ここに引用された性悪若断等というのは、第四大章総別例の段のなか、四つの妙境を明かすところである。
その第四に「四に仏、本、性悪の法を断ぜざるが故に。性悪若し断ずれば、普く色身を現ずること何に従りて立つ」とある。
意味するところは、仏がもし九界の悪への可能性を断じ尽くしていたならば、一体、何によってあまねく種々の色身をあらわすことができるであろうか、ということであり、結論として、性悪の法門こそ仏がさまざまな色身、姿をとってあらゆる衆生を救済することができる根拠であることを示している。
0592:16~0593:06 第九章 華厳の文を借る義を挙ぐtop
| 16 問う円頓止観の証拠 と一念三千の証拠に華厳経の心仏及衆生是三無 17 差別の文を引くは 彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか、 答えて云く天台宗の人の中には爾前の円と法 18 華の円と同の義を存す、 問う六十巻の中に前三教の文を引いて 円の義を釈せるは 文を借ると心得、爾前の円の 0593 01 文を引いて 法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや、 若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に 02 円頓止観の証拠に華厳の菩薩於生死等の文を引けるをば、 妙楽釈して云く「還つて教味を借て以て妙円を顕す」と 03 は此の文は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや、 若し爾らば心仏及衆生の文を一念三千の証拠に引く事は 之を 04 借れるにて有るべし、 答う当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云うか、 華厳宗の意は法華と華厳とに於て 05 同勝の二義を存ず、 同は法華・華厳の所詮の法門之同じとす、 勝には二義あり、古の華厳宗は教主と対菩薩衆等 06 の勝の義を談ず、 近代の華厳宗は華厳と法華とに於て同勝の二義有りと云云、 其の勝に於て又二義あり、迹門は 07 華厳と同勝の二義あり 華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり彼の円も判麤・此の円も判麤の故なり、 -----― 問うて言う。円頓止観の証拠と一念三千の法門の証拠として、華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三は差別がない」の文を引用しているのは、華厳経に円頓止観および一念三千が説かれているということではないか。 答えて言う。たしかに天台宗の人々のなかには、爾前の円と法華経の円とは同じ義であると考えている者がいる。 問うて言う。天台大師の三大部三十巻と妙楽大師の三大部注三十巻の計六十巻のなかに、像通別の前三教の文を引用して円の義を釈しているもの文を借りていると考え、爾前の円の文を引用して法華経の円の義を解釈しているのを借りないとするのか。 もしそうであるならば、天台大師が漸次・不定・円頓の三種の止観の文証に爾前の諸経を引用するなかで、円頓止観の証拠として華厳経の「菩薩・生死に於いて」等の文を引用しているのを、妙楽大師が釈して「還って爾前の教を借りて、法華経の妙円を顕す」と述べているのは、この文は諸経の円の文を借りたものであると解釈できるではないか。 もしそうであるならば、華厳経の「心と仏及び衆生」の文を一念三千の証拠に引用することは、これを借りているというべきである。 答えていう。現代の天台宗が華厳宗の見を出ていないことをいうのか。 華厳宗の意では法華経と華厳経との比較について同と勝の二義がある。「同」は法華経と華厳経の所詮の法門は同じであるとすることである。 「勝」には二義がある。古の華厳宗では教主である菩薩衆等について勝の義を立てる。近来の華厳宗では華厳経と法華経とにおいて同と勝の二義があると論じている。その華厳宗の「勝」にまた二つの義がある。 |
円頓止観
天台大師の説いた三種止観のひとつ。法華経を根本にした観法で、修行の段階や能力の差にかかわらず、直地に順一実相を対象として、実相の他に別の法なしと体得する止観のこと。妄念を止め、心を特定の対象に注ぐことを「止」といい、止によって智慧を起こし対象を観ることを「観」という。摩訶止観に体系化して説かれている。
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三種の止観
円頓、漸次、不定を三種止観という。円頓とは最初 から最高の境地に取り組む坐禅と観法の仕方で、漸次とは禅定を修して漸次に 深い禅観に及ぶもの、不定は適宜に両者を用いて効果をあげようとするものである。
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妙楽
711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる。711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる。
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華厳宗
華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240年~1321年)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。
―――――――――
天台大師が円頓止観と一念三千の証明のために、華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文を用いたことから、華厳と法華は同じではないかとする考え方が天台宗の人々のなかにさえあることを挙げられている。
これに対する答えとして、日本天台宗の人々のなかには、華厳経に代表される爾前の円と法華経の円とは同じ義であると考えている者のあることを認められている。
次に、天台大師の三大部三十巻と妙楽大師の三大部注釈三十巻の計六十巻のなかにおいて、前三教の経文を引用して円の義を解釈している場合は、それらの経文を単に“借りている”と考えるのに対し、爾前の円教の経文を引用して法華経の円の義を解釈する場合は、その経文を“借りていない”と考えるのか、との疑義を設け、もしそうであるならば、摩訶止観においても三種の止観を裏づける文証として爾前の諸経の経文を引用しているが、なかでも円頓止観を裏づける文証として華厳経の経文を引用していることについて、妙楽大師が「教味を借りて以って妙円を顕す」と解釈しているのは、爾前諸経の円教の文を“借りている”ことを自ら認めているのであるから、天台大師が一念三千の文証として華厳経の「心仏及び衆生」の経文を引用しているのも、この経文を“借りて”いるのではないか、と問うている。
これに対して、まず「当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云うか」と述べられ、日本天台宗の人々自身もそうした誤解に陥っていることを認められている。
次いで、華厳宗が華厳と法華とにおいて“同”と“勝”の二義を有していることを指摘されている。
“同”というのは、法華経と華厳経とは所詮の法門においては同じである、とするものである。
“勝”というものは、華厳経が法華経に“勝”っているということであるが、これに二つの場合がある、という。
一つは昔の華厳宗の場合であるが、教主と対告衆としての菩薩衆等において、華厳経のほうが法華経より勝っている、と説いていた。二つに新しい華厳宗の場合は、華厳と法華のあいだに“同”と“勝”の二つの義を有しており、“同”の義は昔の華厳宗と同様であるが、問題は“勝”の義にある。
すなわち、新しい華厳宗にあっては、華厳経がどの点において法華経に“勝”っているとするのかについて、二つの義があると説かれている。
円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の心仏及衆生是三無差別の文を引くは彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか、答えて云く天台宗の人の中には爾前の円と法華の円と同の義を存す、問う六十巻の中に前三教の文を引いて円の義を釈せるは文を借ると心得、爾前の円の文を引いて法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや、若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の証拠に華厳の菩薩於生死等の文を引けるをば、妙楽釈して云く「還つて教味を借て以て妙円を顕す」とは此の文は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや、若し爾らば心仏及衆生の文を一念三千の証拠に引く事は之を借れるにて有るべし
この段における、二つの問いの意味するところを明らかにしておく必要がある。
まず初めの問いは、天台大師が円頓止観と一念三千の根拠としての華厳経の「心仏及び衆生」という経文を引用しているのは、華厳経自体が円頓止観と一念三千を説いているからではないのか、というものである。
この問いは、前の段において「法華経に非ずんば一念三千の法門・談ずべからざるか」と述べたのに対し、当時の仏教界からの反論を想定させて立てられたもの、と考えることができる。
次の問いは、天台三大部と妙楽三大部の合計六十巻、という天台宗の教義の根幹を占める書物のなかで、蔵・通・別の前三教の経文を引用して円の義を釈している場合は、“文を借りた”というのに対し、爾前の円教を引用して法華経の円の義を解釈している場合には“文を借りた”とはしないのか、と問うている。
しかし、それはおかしいのであって、その証拠に、天台大師が三種止観のなかで円頓止観の証拠として華厳経の「菩薩於生死」の文を引いていることについて、妙楽大師は「還って教味を借て以て妙円を顕す」と諸経の円の文を借りるといっているのだから、一念三千の証拠に「心仏及衆生」の文を引いているのも「文を借りた」ことになるのではないか、というのである。
つまり、法華経や爾前の円の経文を借りるという場合は、これらの経文が法華経と同じ次元であることを表し、法門が同一であることを暗示していることになる。
これに対し、本来の天台宗は、前三教の文を用いて義を釈するときは、前三教の文を借りたとはいう。
しかし、爾前の円の文を用いて法華の円の義を述べても、爾前の円の文を借りたとは言わずに、あくまで法華経の円を根本にしてこそ爾前の円はその意が完全に表される、というのである。
本来の天台宗はこの相違を厳然と守っているのに対し、大聖人当時の天台宗は、華厳の円と法華の円とを同義とする華厳宗へと堕落していたのである。そのことを、答えのなかで「当世の天台宗は華厳宗の見を出でざるを云うか」と述べられている。
円頓止観と一念三千の証文について
円頓止観とは三種止観の一つである。三種の止観とは、摩訶止観巻一上の章安大師の序の次に説かれている。
「天台は南岳大師より三種の止観を伝えたまえり。一には漸次、二には不定、三には円頓なり、みなこれ大乗にして、ともに実相に縁じ、同じく止観と名づく、漸は、すなわち初め浅く後深く、かの梯隥のごとし、不定は、前後更互し、金剛宝これを日中に置くがごとし。円頓は、初後不二にして、通者の空に謄るがごとし。三根性のために三の法門を説き、三の譬喩を引く。略して説くこと畢んぬ。さらに広く説かん」と。
つまり、漸次、不定、円頓の三種の止観ことごとく皆大乗であり、実相を観ずる修行方法で、ともに“止観”と名づけられているが、同じ止観に三種あるとは上・中・下の三種の機根に応じて分かれる。
初めに、漸次止観とは「初め浅く後深し」とあり、下根の修行者のために浅い段階から深い段階へと止観を行じていくものであり、次に不定止観とは「前後更互」とあるように、中根のために時と所に応じて浅深、前後を交互に行ずるものである。
天台大師の著作のなかで、とくに漸次の止観を中心として説き明かしているのは、次第禅門十二巻であり、不定の止観を中心として説き明かしているのは六妙法門一巻である。
これらの著作のなかで、天台大師は爾前の諸経を縦横に引用して論を展開していることはいうまでもない。
最後の円頓止観は摩訶止観巻一上の序に次のように詳しく説かれている。
「円頓とは初めより実相を縁ず、境に造るにすなわち中にして、真実ならざることなし、縁を法界に繫け、念を法界に一うし、一色一香も中道にあらざることなし、己界および仏界、衆生界もまたしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労これ菩提なれば集の断ずべきなく、辺那みな中正なれば、道の修すべきなく、生死即ち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦もなく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし。これを円頓止観と名づく」とある。
円頓止観の“円頓”とは円満で頓足ということで、直ちに悟りに至れるような完全な止観をさしてる。この序の文にもあるように、円頓止観とは直ちに最初から、実相について心をめぐらして中道にして真実の境地に至るものである。
すなわち、縁を初めから法界という真理の世界に結びつけ、心の思をも法界にむすびつけていくと、一つの色や一つの香りも中道でないものはない、との境地があらわれている。
己界、仏界、衆生界も皆、中道のあらわれであり、五陰・十二入も真如のあらわれであるから、苦・集と滅・道という二つの対立・相違はなく、生死と涅槃、無明塵労と菩提、世間と出世間という二つの対立もなく、ことごとくが一実相として絶対的一元の世界が開けていくとされ、これを円頓止観というのである。
さて、この円頓止観は摩訶止観十巻において縦横に展開されていくのであるが、円頓止観を裏づけるために次のように、華厳経の経文を文証として用いている。
「いまは経によってさらに円頓を明かさん。甚深の妙徳に了達せる賢首のいうがごとし『菩薩は、生死において最初に発心するとき、一向に菩提を求めて堅固にして動ずべからず。かの一念の功徳は深広にして崖際なく、如来、分別して説きたまうに劫を窮むるも尽くすこと能わず』と。この菩薩は円の法を聞き、円の信を起し、円の行を立て、円の位に住し、円の功徳をもってみずから荘厳し、円の力用をもって衆生を建立す」と。
この経文は、華厳経の巻第六、賢首菩薩品第八のなかで、文殊菩薩が賢首菩薩に、菩薩の行の深さはその功徳の広さがどのようなものであるかと問うたのに対して、偈頌をもって答える段の冒頭の部分である。
賢首菩薩は、まず、菩薩の諸の功徳は無量で際限がないけれども、自分の力の範囲で、少々説いてみる、と断っている。
引用された経文の意味は、菩薩が生死の迷いの世界において初めて発心するときには、ただひたすら菩提の悟りを求めることに堅固で不動であらねばならない。その初心の際の一念の功徳は深く広く際限がなく、この功徳について、如来が衆生に対して分別して“劫”という長い時間をかけて説いても、説き尽くすことができないほどである。ということである。
この経文において、菩薩が仏道修行に向けて発心する一念のなかに菩薩の悟りがはらまれ、また無限にして広大な功徳が収められているということ自体、“円満で頓足”の義を含んでいるのであり、それゆえに天台大師は、円頓止観の文証として用いたのである。
次に、一念三千を明かす文証として天台大師が用いた経文は問いのなかで示されたとおり、華厳経の「心仏及衆生是三差別」の文である。
まず、法華玄義巻二上において、華厳経の「心仏及衆生」の経文を引いて、心法・仏法・衆生法の三法妙を明かすなかで、更に華厳経の遊心法界の文「心を法界に遊ばして虚空の如くなるは、即ち諸仏の境界を知る」と釈して次のように述べている。すなわち「『又心を法界に遊ばず』とは、根塵相対して一念の心起こるを観ずるに、十界の中に於いて必ず一界に属す。若し一界に属すれば、すなわち百界千如を具して、一念の中に於いて悉く皆備足す。此の心の幻師は一日夜に於いて種々の衆生、種々の五陰、種々の国土を造る。所謂地獄の仮実国土、乃至仏界の仮実国土なり。行人自ら選択すべし、何れの道に従う可きやと…又復仏の境界とは、上仏法に等しく、下衆生法に等し。又心法とは、心、仏及び衆生、是の三差別有ること無き。是れを心法と名づくりなり」と。
次に、摩訶止観巻五で、不可思議を明かすにあたり、華厳経の「心は工みなる画師の、種種の五陰を造るが如く、一切世界の中に、法として造らざる無し…心と仏と及び衆生、是の三に差別無し」の文を根拠として掲げ、この経文中の一切世間の“世間“を証明するために、百界千如を詳しく説いた後に、大智度論の三世間論を加えて、最後に一念三千を説いている。
以上のように、天台大師は円頓止観と一念三千の証拠として、華厳経の経文をよく用いているが、このことが華厳宗の人々や日本天台宗の一部の人々にとって、天台大師は法華と華厳とを同義としてとらえていたように映っていたのである。
法華と華厳の“同”と“勝”について
ここでは、華厳宗の立場からの、法華経と華厳経との“同”と“勝”について、その内容を紹介されている。
まず、“同”というのは、文字どおり、法華経と華厳経とが所詮の究極の法門において同じであるとするものである。
これに対して“勝”の義、つまり、華厳のほうが法華に勝る、とする華厳宗の釈義については二義ある、とされている。
一つは古の華厳宗の説く“勝”の義であり、今一つは近来の華厳宗の説く“勝”の義である。
初めに、古の華厳宗において、華厳経が華厳経に勝るとした観点は「教主と対菩薩衆等」とあるように、華厳経を説く教主が毘盧遮那仏で宇宙大の仏であることを強調して、法華経の教主、釈尊よりはるかに偉大であるということ、また、華厳経の対告衆が高位の菩薩達で法華経の対告衆が二乗・凡夫を含んでいるのと比較して勝れているということである。
この華厳経の対告衆の菩薩達についても大聖人は開目抄のなかでも次のように説かえている。
「世尊初成道の時はいまだ説教もなかりしに法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩・十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給いて賢首菩薩・解脱月等の菩薩の請にをもむいて十住・十行・十回向・十地等の法門を説き給いき、此等の大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず、十方世界の諸の梵天等も来つて法をとく又釈尊に・ならいたてまつらず、総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん・十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず、阿含・方等・般若の時・四教を仏の説き給いし時こそ・やうやく御弟子は出来して候へ、此も又.仏の自説なれども正説にはあらず、ゆへ・いかんとなれば方等・般若の別・円.二教は華厳経の別・円・二教の義趣をいでず、彼の別・円・二教は教主釈尊の別・円・二教にはあらず、法慧等の別円二教なり、此等の大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども仏の御師とも・いゐぬべし、世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円をとけり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此等の菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり」(0207-11)と。
二つに、近来の華厳宗の説く“勝”の義であるが、これにまた二義ある、と述べられている。しかし、本文では、近来の華厳宗の説く“同”の義を明かされることで終わっていて、結局、華厳経の“勝”の義は省略されていて、逆に法華経が華厳経や爾前の円に“勝”れていることを説かれていくのである。
ちなみに「古の華厳宗」は、天台大師以前に成立していた華厳宗をいうのに対し、「近代の華厳宗」とは、天台大師以後、その一念三千の法門を盗み取って教義を強化した華厳宗をいう。
0593:06~0594:01 第十章 相対・絶対の二妙を明かすtop
| 06 迹門は 07 華厳と同勝の二義あり 華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり彼の円も判麤・此の円も判麤の故なり、 籤の 08 二に云く「故に須らく二妙を以て三法を妙ならしむべし 故に諸味の中に円融有りと雖も 全く二妙無し」私志記に 09 云く「昔の八の中の円は今の相待の円と同じ」と云へり 是は同なり記の四に云く「法界を以て之を論ずれば 華厳 10 に非ざる無し 仏慧を以て之を論ずれば法華に非ざる無し」云云、 又云く「応に知るべし華厳の尽未来際は即ち此 11 の経の常在霊山なり」云云、 此等の釈は爾前の円と法華の相待妙とを 同ずる釈なり、 迹門の絶待開会は永く爾 12 前の円と異なり、 籤の十に云く「此の法華経は開権顕実開迹顕本の此の両意は永く余経に異なり」と云えり、記の 13 四に云く「若し仏慧を以て法華と為さば即」等と云云、 此の釈は仏慧を明すは爾前・法華に亘り開会は唯法華に限 14 ると見えたり是は勝なり、 爾前の無得道なる事は分明なり其の故は二妙を以て一法に妙ならしむるなり、 既に爾 15 前の円には絶待の一妙を闕く衆生も妙の仏と成る可からざる故に 籤の三に云く妙変為麤の釈是なり、 華厳の円変 16 じて別と成ると云う意なり。 -----― 法華経迹門を華厳経と対比すると、そこに「同」と「勝」との二つの義がある。すなわち華厳の円と法華経迹門の相待妙の円とは「同」である。それは華厳経の円もを判じ、法華経の円も麤を判ずるからである。 法華玄義釈籤の巻二には「法華は相待妙と絶待妙の二妙のゆえに心法・仏法・衆生法の三法を真に妙ならしめているのである。爾前諸経には円融はあっても、法華経のように相待妙・絶待妙の二妙はない」と述べている。 法華文句私志記には「釈尊が法華経以前に説いた八教のなかに説かれた円は、今経である法華経の釈門に説かれる相待妙の円と同じである」と釈している。これは「同」である。 法華文句記の巻四には「法界についていえば華厳経で尽きているが、仏慧をもって論ずるならば法華経に尽きるのである」と釈している。 また、同じ法華文句記巻四には「まさに知るべきである。華厳経で説く尽未来際とは、法華経で説くところの常に霊鷲山にいるということである」と釈している。 これらの釈は爾前の円と法華の相待妙とが同じであるという釈である。 迹門の絶待開会は全く爾前の円とは異なるのである。法華玄義釈籤巻十には「この法華経は開権顕実、開迹顕本の二つがとかれており、この二点で法華経以外の余経とは全く異なる」ととかれている。 法華文句記の巻四には「もし仏慧をもって法華経とするならばすなわち始終ともに」と述べている。この釈は仏慧を明かすのは爾前教と法華経にわたるが、開会はただ法華経に限るということで、これは法華経迹門絶待妙の「勝」の義である。 爾前が無得道であることは分明である。そのゆえは相待妙・絶待妙の二妙をもって三法の各一法に妙ならしめねばならないが、既に爾前の円は絶待の一妙を闕いており、衆生も妙の仏となることができない。ゆえに法華玄義釈籤巻三に「妙が変じて麤となる」との釈はこのことである。これは華厳の円は変じて別教となるということである。 -----― 17 本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し又迹門にも之無し、 爾前迹門は異なれども二乗は見思を断じ菩薩は無 18 明を断ずと申すことは一往之を許して再往は之を許さず、 本門寿量品の意は爾前迹門に於て 一向に三乗倶に三惑 0594 01 を断ぜずと意得可きなり、 -----― 法華経本門においては、相待妙・絶待妙の二妙ともに爾前にないものであり、迹門にも説かれていない。爾前と法華経迹門とは異なっているけれども、二乗は見思惑を断じ菩薩は無明惑を断じていることを、一往は許して再往は許していない。 法華経本門寿量品からみれば、爾前・迹門では三乗ともに一向に三惑を断じていないと心得るべきである。 |
迹門
垂迹の仏の説いた法門の意。法華経1部8巻28品のうち、序品第1より安楽行品第14までの前半14品をいう。この14品は、釈尊が久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門の肝心は方便品第2にあり、諸法実相・十如是を明かし、二乗作仏を説いて開三顕一し、また悪人成仏・女人成仏を説いて万人成仏の道を明かした。
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相待妙
法華経以外の諸経と法華経とを比較相対して、他の諸経は粗悪、法華経は妙であるとすること。対立し、相対するものに優劣をつけて一方を否定して一方を肯定する。絶待妙に対する語。
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判麤
二経を相対して法門の麤を定めること。
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籤
法華玄義釈籤のこと。妙楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻(または20巻)。
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二妙
相待妙と絶待妙のこと。
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三法
心法・仏法・衆生法のこと。
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円融
諸法が互いに融合して、一法に一切法を具し、一切法は一法に収まって本然一体をなすこと。完全に円満なこと。
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私志記
中国隋代の僧で中国天台宗の開祖智顗の講述を弟子の章安 灌頂が筆録整 理した『妙法蓮華経文句』に唐代の僧智雲が註をつけたもので、全14巻 からなる。
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法界
「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。
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仏慧
仏智と同意。一切の事理に通じた仏の智慧のこと。最高・無上の智慧をいう。一切種智のこと。
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華厳の尽未来際
華厳経巻23に「広大なること法界の如く、究竟すること虚空の如くにして、未来際を尽くす」とある。
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此の経の常在霊山
法華経如来寿量品第16の「常在霊鷲」の文をさす。
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霊山
古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
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絶待
比較・相対を絶してすべてを妙としてとらえること。一切の事象を一段高い視点から統一的に把握する。
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開会
爾前権教が方便として仮に説かれた教えであると明かし、これを真実の教えである法華経から正しく位置付けて生かすこと。もともと、一乗(唯一の仏の教え)を三乗(声聞・縁覚・菩薩に対応した教え)に分けて示すのが「開」、三乗を一乗に統一するのが「会」であるが、後には「開会」で一つの熟語となり、さまざまなものを、より高い立場から位置づけ、真実の意味を明かすことをいう。
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開権顕実
「権を開いて実を顕す」と読む。権は方便、実は真実の意。法華経以前の諸経の教え(三乗)はすべて方便にすぎず、法華経こそ真実の教えであることを表したもの。教理に関していい、実践上は開三顕一 という。「権」は権教である40余年の爾前経、「実」は法華経をさす。
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開迹顕本
「迹を開いて本を顕す」と読む。十重顕本を説く中の第三で、発迹顕本ともいう。釈尊が始成正覚の迹の姿を開いて、久遠五百塵点劫の本地を顕したことをいう。
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本門
①久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
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見思
見思惑のこと。天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。
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無明
三惑のひとつ。無明惑のこと。仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
―――
一往
ひととおり、そのままの見方。
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再往
一重、立ち入った観察・見極め方。
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本門寿量品
法華経如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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三乗
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のこと。それぞれ声聞・縁覚・菩薩の覚りを得るための教え、あるいはそれを実践する修行者のこと。さらに得られた声聞・縁覚・菩薩の境地も意味する。
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三惑
天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②塵沙惑とは、菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
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この段は、華厳の円と法華の円との関係を、法華経迹門の相対・絶対の二妙の法門のうえから位置づけられるとともに、法華経本門の超越性を説かれているところである。
初めに、法華経迹門と華厳経とが“同”義であるといえるのは、法華経迹門の相待妙の円と華厳の円とについてであると述べられている。
その理由として、どちらの円も「麤判」の上に立てられたものだからである。と述べられている。それを裏づけるために、妙楽大師の法華玄義釈籤巻二の文と法華文句記の巻四の文、更に私志記の文とを挙げられている。次いで、法華経迹門も、絶対開会の法門になると、爾前の円とは決定的に異なることを、玄義釈籤巻十と文句記巻四の文を引いて示されている。
すなわち、仏慧を明かすにおいては、爾前経と法華経とは共通しているが“開会”という法門についてはただ法華経のみに限るのであり、その意味で法華経の円は華厳経等の爾前経の円に勝るのである。
そして、爾前経が無得道であることは、爾前の円には絶待妙の一妙を欠いているために、爾前経を信ずる衆生は「妙の仏」になることができないことから明らかである、と示されている。
更に、法華経の本門は相対・絶対の二妙とともに、爾前経はもともと法華経迹門にもないのである。
爾前と法華経迹門との間には相違が存在するけれども、共通して、二乗は見思惑を断じて菩薩は無明惑を断ずるということを、再往の辺は別として一往これを許している。
しかし、本門寿量品の意からとらえれば、爾前・迹門では二乗・菩薩ともに見思・塵沙・無明の三惑を断ずることができない、と結論されている。
つまり、本門寿量品の明かす久遠の法については、爾前迹門の菩薩といえども末聞の法であるため、戸惑い、疑惑にとらわれなどして、見思惑を起こしたということである。
法華迹門の相待妙・絶待妙
天台大師は法華玄義において、法華経の経題、妙法蓮華経の五時について釈するにあたり、通釈と別釈に二分している。通釈では妙法蓮華経の五重玄義である名・体・宗・用・経を概括的に説き、別釈では五重玄義の一つ一つについて詳しく説いているのである。
法華玄義巻十のうち、第一巻で通訳を説き、第二巻から第十巻までが別教にあてられている。その別釈のなかで、妙法蓮華経の「名」玄義を釈すのに、第二巻から第八巻上までの七巻が費やされている。
したがって、釈名段が玄義の大部分を占めているのであるが、その釈名断のなかで、妙法蓮華経の“妙法”の名を釈する段が大部分を占め、妙法釈のなかでも迹門十妙の説明が巻二から巻六の五巻、つまり玄義の半分が費やされている。
ここからも、天台大師がいかに法華経迹門の法門を重視しているかが明らかであろう。すなわち、天台大師は迹門方便品に説かれた実相の法門を根本の原理とするとともに、法華経の意義を実に爾前諸経の“開会”にあるとしたのである。
さて、法華玄義巻二上で「妙法」の妙を釈するなかで「妙を明かさば、一には通訳、二には別釈なり。通に又二と為す。一には相対、二には絶対なり」と説いて、法華経の妙の一字に相待妙と絶待妙の二妙を明かしている。
この二妙を簡潔に述べると、まず、相待妙とは法華経以前に説かれた爾前諸経と法華経迹門の教説とを比較相対して、法華経に説かれた教説が妙法であり真実であるのに対し、爾前諸経に説かれた教説は麤法であり方便であることを論証することである。
言い換えれば、彼と此とを相対することにより、彼が「麤」であることに対待してこれが「妙」である、と判断していくのが相待妙であり、破麤顕妙、廃麤顕妙の立場がこれにあたる。
これに対し、絶待妙とは、彼と此、麤と妙、というように比較相対することを絶したところで妙であることをいう。
法華玄義巻二下に「権を開して実を顕さば、諸麤皆妙なり。絶待妙なり。若し上に説くが如くんば、法華は衆経を総括して而も事は此に極まる。仏の出世の本意なり、諸の教法皆帰なり」とあるように、絶待妙は開権顕実、開麤顕妙ということであり、これこそ法華経の本意であると説いている。すなわち絶待妙は、一代聖教すなわち法華経なりと開き会入することをいうのである。
更にいえば、絶待妙は爾前諸経をただ麤法とか方便として排除するのではなく、絶対の妙法を聞き顕すため不可欠の媒介、契機として位置づけ、法華経の体内に会入することである。
以上の二妙を説いた後、天台大師は法華経迹門の説法内容について迹門十妙を論じ、法華経が絶対・相対の二妙を具足していることを明かしたのである。
言い換えれば、法華経以前の諸経が説くところの境・智・行・位・三法・感応・説法・神通・眷属・利益の十の項目が、“麤”であり“権”であることが明らかになるとともに、他方では法華経にとっては爾前諸経の“”や“権”が絶対の妙法を開顕するための不可欠な媒介・契機として、あるいは妙法の体内の麤や権として位置づけられ、会入されるのである。
同じようにして、法華経本門の十妙の相対絶対についても説かれ、本門の妙法たることが論じられている。
以上のように、天台大師は迹門十妙、本門十妙の本迹二十妙を挙げて、迹門だけでなく、本門の妙法たることを明らかにしているが、しかし、どこまでも迹門の妙法の開顕に重点を置いていた。
籤の二、私志記、記の四の文
これらはいずれも、華厳の円と法華経の相待妙とが同義であることを示す文抄として引用されている。
はじめに籤の二というのは妙楽の法華玄義釈籤巻二上の文である。これは法華玄義巻二上の「是両妙を用いて、上の三法を妙にす。衆生の法も亦二妙を具すれば、之を称して妙と為す。仏法・心法も亦二妙を具すれば、之を称して妙と為すなり」という文を釈したものである。玄義のこの文の意味は、相待妙と絶待妙の二つの妙を駆使することによって、心法・仏法・衆生法の三法を妙にすることができる。それぞれ、衆生法妙・仏法妙・心法妙となることを示している。
この玄義の文に対して妙楽大師は釈籤巻二上で次のように釈している。
「次に二妙が上の三法を妙にするには三妙法華に在りて方に妙と称することを得るを明かさんと欲す。故に二妙を須いて以て三法を妙にす。故に諸味の中に円融有りと雖も全く二妙無し」と。
すなわち、法華経には相対・絶対の二妙があるゆえに、心・仏・衆生の三法を妙ならしめることができ、“妙”と称することができると述べ、爾前権教のなかには円融の教えがあっても、法華の円のように相対・絶対の二妙は具えていない、と説いている。
次に、私志記というのは、中国・唐代の智雲の述とされる法華文句私志記のことである。妙経文句私志記ともいう。
この書のなかで「昔の八の中の円は今の相待の円と同じ」と述べている。
“昔の八”とは、爾前において説いた、化法の四教と化儀の四教の八教のことである。
その爾前の八教のなかに説かれた“円”は“今”すなわち法華経に説かれる迹門相待妙の円と同じである、と述べている。
更に、文句記巻四下から二つの文が引用されている。一つは「法界を以って之を論ずれば華厳に非ざる無し、仏慧を以って之を論ずれば法華に非ざる無し」とある。
この文は、仏法の真理の世界である法華巻は華厳経で尽きているのに対し、仏陀が衆生を教化していく智慧という点について明かしたのが法華経にあたる、というのである。
いま一つの文は「応に知るべし、華厳の尽未来際は即ち此の経の常在霊鷲山なり」とある。これは、華厳経で説くところの“未来際を尽くす”ということは、法華経で説くところの仏が“常に霊鷲山にいる”ということにあたる、と説いている。つまり、以上の二文が表すものは、華厳と法華とが同義であるということである。
迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり、籤の十に云く「此の法華経は開権顕実開迹顕本の此の両意は永く余経に異なり」と云えり、記の四に云く「若し仏慧を以て法華と為さば即」等と云云、此の釈は仏慧を明すは爾前・法華に亘り開会は唯法華に限ると見えたり是は勝なり
この部分は、法華経が華厳経を含む爾前の円より勝れていることを明かされているところである。この直前の御文では、華厳の円と法華経迹門の相待妙の円とが“同”じであることを明かされていたのであるが、ここでは、法華経迹門の絶待妙開会は爾前の円とは決定的に異なり、華厳の円よりはるかに勝れていると仰せられている。
さて、唱法華題目抄に次のように説かれている。
「天台の三大部六十巻総じて五大部の章疏の中にも約教の時は爾前の円を嫌う文無し、只約部の時ばかり爾前の円を押ふさねて嫌へり、日本に二義あり園城寺には智証大師の釈より起つて爾前の円を嫌ふと云い山門には嫌はずと云う互に文釈あり倶に料簡あり然れども今に事ゆかず、但し予が流の義には不審晴れておぼえ候、其の故は天台大師四教を立て給うに四の筋目あり、一には爾前の経に四教を立つ二には法華経と爾前と相対して爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌う事あり、三には爾前の円をば別教に摂して前三教と嫌ひ法華の円をば純円と立つ四には爾前の円をば法華に同ずれども但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶待妙には同ぜず、此の四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の冰解けたり」(0012-01)と。
天台大師の三大部六十巻においては、教に約した場合は爾前経のなかの円教を捨てるという文はないが、ただ、部に約した時には、爾前経を他の蔵・通・別の前三教をまとめて、麤として破折している。
日本天台宗にも二義があって、園城寺派は智証大師円珍の釈に基づき、たとえ教に約する場合でも“爾前の円を嫌う”としている。山門派、すなわち比叡山延暦寺は約教与釈の立場に立って教に約するときだけは“爾前の円を嫌わず”としている。
この両者それぞれに譲らず、論争が決着しないのであるが、日蓮大聖人は独自の立場から、天台大師の化法の四教に四つの筋目を立てられていうのである。
①爾前の教にのみ蔵・通・別・円の化法の四教を立てて、法華経はこの四教を超越しているというもの。
②法華経と爾前経とを比較相対したうえで、爾前の円を法華の円と同じとみて、蔵・通・別の前三教を嫌い捨てる。
③爾前の円はどこまでも他の蔵・通・別の三教を兼ねたり帯びたりしているので、これを大きく別教に属させて前四教して嫌い、法華経の円教のみ純円であると立てる。
④爾前経の円教と法華円教と同じとみるけれども、法華経の相対・絶対の二妙のなか、相待妙と同じとみて絶待妙とは同じとはしない。
以上、四つの筋目をもって六十巻を考えていけば疑いや混乱は生じない、と述べられている。
更に「法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とをう事不審なき者なり、爾前の円をば別教に摂して約教の時は 前三為麤後一為妙と云うなり」(0012-08)と述べられ、法華経の本門になると、爾前の円と法華経迹門の円もともにこれを嫌い捨てるのであり、この点については疑問の余地はない、と仰せられている。
本文に戻って、迹門の絶対開会とは、爾前の円教には決定的に存在しない法門であると述べられその文証として、法華玄義釈籤の巻十上の文が挙げられている。
この釈籤の文は、法華経の開近顕遠、開迹顕本の二義は、法華経以外の諸教には全くないものであることを説いている。
次に、文句記巻四の“仏慧は爾前・法華にわたって明かされているが、開会は法華経のみに限る”との文が挙げられている。
初めの仏慧を明かすことについては爾前も法華も同じであるというのは「初後仏慧・円頓義斉」との法華玄義巻十下の文にもあるように、初めの仏慧も後の仏慧も、ともに円頓の義は等しくして異ならないというのである。
しかし、華厳の円は蔵・通・別の前三教の方便を兼ね帯びて説かれたものであるから、相待妙ではあっても絶待妙の義、つまり開会の義を全く成ずることはできないのである。
ゆえに、この開会のぎを成ずるのは法華絶待妙の純円の教であることを本文に「開会は唯法華に限る」と説かれ、この開会の法門こそ法華経が爾前の諸経の円教に“勝”っている点である、と仰せられている。
爾前の無得道なる事は分明なり其の故は二妙を以て一法に妙ならしむるなり、既に爾前の円には絶待の一妙を闕く衆生も妙の仏と成る可からざる故に籤の三に云く妙変為麤の釈是なり、華厳の円変じて別と成ると云う意なり
爾前経が無得道の教えであることは明らかであり、その理由としては、相待・絶待の二妙が明かされてこそ、心法、衆生法、仏法の三法を“妙”ならしめうるからである。先に法華玄義釈籤巻二の「二妙を以て三法を妙ならしむべし」と説かれているとおりである。
したがって、三法のうちの衆生法についても「既に爾前の円には絶待の一妙を闕く衆生も妙の仏と成る可からざる故に」と仰せられている。
すなわち、相待・絶待の二妙によって衆生法も妙になるのだから、相対妙はあっても絶待妙の“一妙”を欠いている爾前経では、衆生が“妙の仏”として開き会入されず、成仏・得道できないことになるのである。
このことを法華玄義釈籤巻三の「妙変じて麤と為す」の文を引用されて、法華の絶待妙開会の法門からみれば、華厳の円は変じて別教に成る、との意を表したものであると仰せられている。
本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し又迹門にも之無し、 爾前迹門は異なれども二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは一往之を許して再往は之を許さず、本門寿量品の意は爾前迹門に於て一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得可きなり
法華経本門についていえば、相待・絶待の二妙ともに爾前の円をはるかに超えていることをのべられている。天台大師は法華玄義で、本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙の本門十妙を示すことにより、久遠の仏陀による本門の説法内容が相待・絶待の二妙を具していることを明らかにしている。
ところで、先に引用した唱法華題目抄に「法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌う事不審なき者なり」(0012-08)と説かれているとおり、法華経の本門においては、爾前経はもとより法華迹門の円をも嫌い捨てるのである。
爾前経と法華迹門との間には多くの相違が存在するが、二乗は見思惑を断じ菩薩は無明惑を断ずるということを、一往の辺で許しているころにおいては共通していると仰せである。
しかしながら、法華経の本門寿量品の法門からみれば、爾前と法華経迹門の二乗や菩薩は、いずれも三惑を断じていない、と心得るべきであると仰せられている。
例えば、従事涌出品第十五において、地涌の菩薩が五十小劫のあいだ賛嘆していたが、一座の大衆は半日のごとく思った。爾前・迹門では、無明を断じたとされていた菩薩すら五十小劫であることを知らなかったのである。これは、無明はおろか見思惑さえ断じていない証左とされている。
言い換えると、本門で明かす法と仏の境地は、それだけ広く広大であるので、浅い爾前・迹門では悟り究めたと思っていた菩薩も、本門の仏法においては、三惑をまだまだ断じていないことになるのである。
0594:01~0594:08 第11章 日本天台学者の堕落を破すtop
| 01 此の道理を弁えざるの間・天台の学者は 爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ 02 結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり、 華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ちぬ、 結句は善導等 03 の釈の見を出でず,結句.後には謗法の法然に同じて師子身中の虫の自ら師子を食うが如し文,仁王経の下に[大王我が 04 滅度の後・未来世の中に四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ三宝を住持し護れる者・転た更に三宝を滅 05 破すること師子身中の虫の自ら師子を食うが如し、 外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん」云云、 籤 06 の十に云く「始め住前より登住に至る このかた全く是れ円の義・第二住より次の第七住に至る文相次第して 又別 07 の義に似たり、七住の中に於て又一多相即自在を弁ず、 次の行向地又是れ次第差別の義なり、又一一の位に皆普賢 08 行布の二門有り故に知んぬ兼て円門を用いて別に摂することを」 -----― この道理をわきまえないために、天台宗の学者は爾前と法華が一往は「同」であるとの釈だけをもて、全く異なるとの面を忘れ、その結果、名は天台宗であっても、その実質は華厳宗に堕落しているのである。 華厳宗に堕したために、方等・般若の円に堕し、結局は念仏の善導等の釈の見解を出ることができず、更にその結果は、謗法の法然と同じになって、師子身中の虫が自ら師子を食うようなありさまになってしまったのである。 仁王経巻下に「大王、我が滅度の後、未来世のなかにおいて、四部の弟子、もろもろの小国の王・太子・王子の、仏宝・法宝・僧宝の三宝を持ち守護すべき者が、ますます三宝を滅亡させ破すること、あたかも師子身中の虫が自ら師子を食うようなものである。外道ではなく、多くの仏弟子が仏法を破壊する大罪を犯すであろう」と説かれている。 法華玄義釈籤巻十には「はじめ菩薩が十住以前の位から十住の初住位に至るまでの経の意は、全く円の義である。第二住位から次の第七住位に至るまでの経文の相は、次第順序を説いているので、別教の義に似ている。第七住のなかにおいてまた、一つの位に多くの位を具足しているように弁じているところがある。次の十行位・十回向位・十地位はまた次第差別の義である。ゆえに十住位・十行位・十回向位・十地位の一つ一つの位にそれぞれ普賢・行布の二門を有していることになる。ゆえに、華厳の円文を用いても、兼ねて別教を説いているので、結局は別教に摂せられることを知るべきである」と述べられている。 |
善導
613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
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謗法
誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
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法然
1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
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師子身中の虫
師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
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仁王経
中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
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三宝
「さんぼう」ともいう。仏教を構成する仏法僧の三つの要素のこと。この三宝を大切に敬うことが、仏教を信仰する者の基本となる。①仏宝は、教えを説く仏。②法宝は、仏が説く教え。③僧宝は、教えを信じ実践する人々の集い(教団)。「僧」は僧伽の略で、集いを意味するサンスクリットのサンガの音写。「和合」と意訳され、二つ合わせて「和合僧」ともいう。
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外道
❶仏教以外のインドの諸思想。これには、古代からの伝統宗教であるいわゆるバラモン教の思想や、釈尊と同時代に興隆していたジャイナ教などの新興の諸思想を含む。❷仏教以外の教えや信徒のこと、後に仏教内の異端に対する貶称として用いられた。
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住前
大乗の菩薩が最初に菩提心を起こしてから仏果にいたるまでの階位である52位のうち、十住位の前の十信をさす。
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登住
十住のうちの初めの位である発心位に登ること。
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第二住
十住のうちの第二住位である治地心住のこと。常に空観を修行して心を清浄にする位。
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第七住
十住のうちの第七住位である不退心住のこと。究竟の空理を顕して退かない位。
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七住
十住のうちの第七住位である不退心住のこと。究竟の空理を顕して退かない位。
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一多相即自在
52位のうち、十住のなかで第七住位で一と多が相即して自在である境涯をうること。
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行向地
大乗の菩薩が最初に菩提心を起こしてから仏界にいたるまでの階位である52位のうちの十行・十回向・十地のこと。㉑観喜行、布施波羅蜜を修行し、仏子となった菩薩が、仏如来の功徳を以って十方に随順せんとする行。㉒饒益行、戒波羅蜜を修行し、衆生と共に無上の学道を成就して、一切衆生を利益し潤す行。㉓無瞋根行、忍辱波羅蜜を修行し、たとえ刀杖で身に危害を加えられようとも耐え忍び、自覚覚他すれば違逆せんとする行。㉔無尽行、精進波羅蜜を修行し、衆生の機根に合わせてその身を現じ、三世が平等にして十方に通達し利他行が無尽なるを観じる行。㉕離癡乱行、禅定波羅蜜を修行し、種々の法門が不同なりといっても、一切合同して差別誤解なきことを観じる行。㉖善現行、般若波羅蜜を修行し、前の離癡乱をして、よく同類の中に異相を現じ、また一々の異相にそれぞれ同相を現じ、同異円融なるを観じ、一切が無相であることを智慧で観じる行。㉗無著行、方便波羅蜜を修行し、十方虚空に微塵を満足し、そのすべてに十方界を現じ、一切の執着を離れ、しかも一切の世間に随順する行。㉘尊重行、願波羅蜜を修行し、前の種々現前はすべて般若観照の力であることから、六波羅蜜の中でも特に般若を尊重して一切衆生を度し、無上の菩提を成就させる行。難得行ともいう。㉙善法行、力波羅蜜を修行し、円融の徳相が十方諸仏の軌則を成じ、十種の身となって一切の衆生を利益する行。㉚真実行、智慧波羅蜜を修行し、諸仏の真実の教えを学び、前の円融の徳相がすべて清浄無漏にして、一真無為の性が本来は恒常なるを観じ、衆生を済度する行。㉛救護衆生離衆生相廻向、十廻向の初地・始位。一切衆生を救護しながら、しかも衆生を救護する執着を離れる菩薩。㉜不壊一切廻向、 三宝において不壊の信心を得て、この善根を以って廻向を成する菩薩。㉝等一切諸仏廻向、三世の諸仏の所作を学し、その通りに衆生を廻向する菩薩。㉞至一切処廻向、 善根を修し、その善根の功徳の力を一切処に至らしめ廻向する菩薩。㉟無尽功徳蔵廻向、一切の善根を廻向して、この廻向によって十種の無尽功徳の蔵を得て、一切の仏刹を荘厳する菩薩。㊱随順一切堅固善根廻向、入一切平等善根廻向ともいう。一切の施行を説き、清浄の布施を詳説し回向する菩薩。㊲等随順一切衆生廻向、無量の善根を修習し、衆生のために無上の福田となり、衆生を清浄ならしめ廻向する菩薩。㊳真如相廻向、修するところの善根を真如に合わせて廻向を完成する。真如相に如うて真如の如く廻向の行を修する菩薩。㊴無縛無著解脱廻向、一切の善根を軽んぜず、相に縛せられず、見に執着しない解脱の心を以って善根を回向する菩薩。㊵入法界無量廻向、法界に等しい無量の仏を見えて、無量の衆生を調伏し、この善根を以って一切の衆生に廻向する菩薩。㊶歓喜地、菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、聖性を得て見惑を破し、二空の理を証し大いに歓喜する位。仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する。㊷離垢地、戒波羅蜜を成就して修惑を断じ、毀犯の垢を除き清浄ならしめる位。十の善を行い、心の垢を離れる。㊸発光地、忍辱波羅蜜を成就して修惑を断じ、諦察法忍を得て智慧を顕発する位。精進の結果、その功徳として光を放ち十種の法明門を行う。㊹焔光地、焔慧地ともいい、精進波羅蜜を成就して修惑を断じ、智慧を熾盛に光らしめる位。個々の物に対する執着心を離れ、その功徳として四方を照らす。㊺難勝地、極難勝地ともいい、禅定波羅蜜を成就して修惑を断じ、真俗二智の行相互いに違異なるを和合せしめる位。四諦の法門の外に大乗の法門を学び、利他行に取り組む。㊻現前地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、最勝智慧を発し染浄の差別なきを現前せしめる位。不退転の位で決して後戻りせず、必ず仏になる確信を得る。㊼遠行地、方便波羅蜜を成就して修惑を断じ、大慈悲心を発し二乗の自度を遠離する位。十十無尽の境地に入る。この位は第二阿僧祇劫の行を終えたとする。㊽不動地、願波羅蜜を成就して修惑を断じ、無相観を作し、任運無功用に相続する位。大慈大悲の心を起す。㊾善想地、力波羅蜜を成就して修惑を断じ、十力を具足し一切処において可度不可度を知り、よく説法する位。一切の修行を完成した大慈大悲の菩薩が、真理の世界から具体的な事実の世界に働きかけ個々差別の衆生を救済する。㊿法雲地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、無辺の功徳を具足して無辺の功徳水を出生して虚空を大雲で覆い清浄の衆水を出だすためにいう。平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如の世界。
―――
次第差別の義
52位を段々とのぼっていくのは、差別の意であるということ。
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普賢行布の二門
52位のうち、十住から十地までの四十位の一つ一つの位にも普賢行布の二門があるということ。
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円門
円教の説かれた法門のこと。
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前段で示されたように、法華経迹門絶待妙開会の法門や本門の教えが爾前経の円教に勝れることを知らない日本天台宗の学者達は、爾前と法華とが同等とのみ見て、その勝劣に迷ってしまい、その結果、名は天台宗でありながら、その実質の教義においては華厳宗に堕落していくと厳しく指摘されている。華厳宗に堕ちた結果、必然的に方等・般若の円教に堕ち、あげくは浄土宗の善導等の釈にまで感化されて、大謗法である日本浄土宗の法然の門下にまでなっていることを「師子身中の虫の自ら師子を食うが如し」と、厳しく破折されている。
天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり、華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ちぬ、結句は善導等の釈の見を出でず、結句・後には謗法の法然に同じて師子身中の虫の自ら師子を食うが如し
爾前経の円教と法華経の相対妙の辺とは同じであるといえるのであるが、迹門も絶待妙の辺では、爾前経とは全く異なる。このことが分からないところに、天台宗の堕落の根源があると仰せである。
これに関連して、天台宗の一部の学者を破折されている諸御書を拝しておこう。
まず、諸宗問答抄では「彼の御釈共には爾前権教を簡び捨てらる事候はず、随つて或は初後仏慧・円頓義斉とも或は此妙彼妙・妙義殊なること無しとも釈せられて華厳と法華との仏慧同じ仏慧にて異なること無しと釈せられ候、通教・別教の仏慧も法華と同じと見えて候何を以て偏に法華勝れたりとは仰せられ候や意得ず候如何」(0375-02)と“同”とする立場からの問いを挙げられている。
つまり、華厳経と法華経とは仏慧においては異なることなく、更に通教、別教の仏慧も法華の仏慧と同じであるから、独り法華経のみが諸経に異なり、独り勝っているとするのはいかがなものであろうか、と述べている。
また「世間の人・天台宗は開会の後は相待妙の時斥い捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱うるも又諸仏・諸菩薩の名言を唱うるも皆是法華の妙体にて有るなり大海に入らざる程こそ各別の思なりけれ大海に入つて後に見れば日来よしわるしと嫌ひ用ひけるは大僻見にて有りけり、嫌はるる諸流も用ひらるる冷水も源はただ大海より出でたる一水にて有りけり、然れば何の水と呼びたりとてもただ大海の一水に於て 別別の名言をよびたるにてこそあれ、各別各別の物と思うてよぶにこそ科はあれ只大海の一水と思うて何れをも心に任せて有縁に従つて唱え持つに苦しかる可からずとて念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱うるなり」(0377-05)と、これも天台学者の“同”とする見解を挙げておられる。
これは、法華経の絶待妙が開会の法門であることを前提にして、開会の後は、相待妙により“麤法”として捨てられた前四味、すなわち爾前権経でも皆法華経の妙体のうちに入ることになり、諸経の名言や諸仏・諸菩薩の名号も開会の後は皆法華の妙体になるから、これらの名言や名号を心に任せ縁に応じて唱えていてもいいのではないかというものである。
更に如説修行抄では「諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(0502-11)と、これも開会した後は諸乗がことごとく一仏乗となるので、どの法も皆法華経となって勝劣浅深なく、念仏・真言・一切の諸経・仏菩薩の名を唱え持っても、ことごとく法華経となる、という当時の人々の考え方を挙げられたものである。
これに対して“永異”の立場から破折された御文は次のとおりである。
まず諸宗問答抄に「開会の後も麤教とて嫌い捨てし悪法をば名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて交ゆべからずと見えて候・弘決に云く『相待絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや』云云、文の心は相待妙の時も絶待妙の時も 倶に須く悪法をば離るべし円に著する尚悪し況や復余の法をやと云う文なり、円と云うは満足の義なり余と云うは闕減の義なり、円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと嫌ふ、況や復十界平等に成仏せざるの悪法の闕たるを以て執著をなして朝夕・受持・読誦・解説・書写せんをや、設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも爾前の円は法華の一味となる事無し、法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり、体内の権を体外に取出して且く於一仏乗分別説三する時権に於て円の名を付て三乗の中の円教と云われたるなり、之に依りて古へも金杖の譬を以て三乗にあてて沙汰する事あり、譬へば金の杖を三に打をりて一づつ三乗の機根に与へて何れも皆金なり然れば何ぞ同じ金に於て差別の思をなして勝劣を判ぜんやと談合したり、此はうち聞く所はさもやと覚えたれども悪く学者の得心たるなり、今云う此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を 仏三根にあてて体外に三度うちふり給へる其の影を機根が見付ずして皆真実の思を成して己が見に任せたるなり、其の真実には金杖を打折て三になしたる事が有らばこそ今の譬は合譬とはならめ、仏は権の金杖を折らずして三度ふり給へるを機根ありて三に成りたりと執著し得心たる返す返す不得心の大邪見なり大邪見なり、三度振りたるも法華の体内の権の功徳を体外の三根に配して三度振りたるにてこそ有れ、全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり、然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば本の体内の権と云われて全く体内の円とは成らざるなり」(0377-17)と破られている。
ここでは、法華経の絶待妙の開会の後であっても、相待妙において“麤”法として廃棄された爾前権教はその名言や理法を唱えたり持ったりしてはならない、とされている。
その文証として、止観輔行伝弘決巻二の「相待妙であれ絶待妙であれ、ともに悪を離れなければならない。絶待妙の開会という円融の考え方の一辺に執着することも悪である。まして円教以外の他の法においてこれに執着することはなおさら悪である」とする文を引かれている。
そして、たとえ爾前の円が開会によって法華に流入したとしても、爾前の円は法華経妙法の体内に入っても、どこまでも“体内の権”であって、“体内の実”ではない、と破られている。
更に如説修行抄では「正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして無二亦無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈と禁め給へり、是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて或は真言・或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎・成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり、是くの如き人をば若人不信・毀謗此経・即断一切世間仏種・乃至其人命終・入阿鼻獄と定め給へり」(050218)と説かれ、仏の金言に背いて、開会の後はどの経も得道できるなどと説く者は地獄に堕すると厳しく戒められている。
ところが天台宗の学者は、この厳格な立て分けを知らなかったために、名は天台宗であっても、その義において華厳宗に堕落し、更にそこから方等部や般若部に説かれる円教に堕落し、結局は善導等の浄土系の解釈にたぶらかされて、大謗法である日本浄土宗の法然の邪義にくだり、“師子身中の虫の師子を食うが如し”の状態に陥ったのであると指摘されている。
仁王経の下に「大王我が滅度の後・未来世の中に四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ三宝を住持し護れる者・転た更に三宝を滅破すること師子身中の虫の自ら師子を食うが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん」
仁王経巻下嘱累品第八に説かれている文である。
この品は仏が諸国の王に向かって、仏滅後に悪比丘が出現して、“破仏の因縁”“破国の因縁”の生ずることを予言し、そのようにならないためには、般若波羅蜜を受持して仏法を護持すべきであると説き、最後に、諸国の王が般若波羅蜜を受持し仏法守護を誓う内容になっている。
本抄の引用は、仏滅後の未来に、三宝を護持した四部の弟子や諸の小国の王・太子・王子達の中から退転して三宝を破壊する者が出てくる、それはまさに師子身中の虫が内側から師子を食う姿に似ている。つまり、仏法を破壊する者は外道ではなく、仏弟子達のなかから出てくる。と戒めているところである。
籤の十に云く「始め住前より登住に至るこのかた全く是れ円の義・第二住より次の第七住に至る文相次第して又別の義に似たり、七住の中に於て又一多相即自在を弁ず、次の行向地又是れ次第差別の義なり、又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼て円門を用いて別に摂することを」
法華玄義釈籤巻十上の文である。この文の一部分である「又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼て円門を用いて別に摂す」という文は本抄で既に引用されており、説明したとおりである。
したがってここでは、この釈がなされた原文の法華玄義巻十の内容に触れておこう。
法華玄義巻十上において「教相」を判ずるうち、教相の大網を示すのに頓・漸・不定の三種があることを説いているが、そのなかで頓教の相を明かす文に対して妙楽大師が釈した文がここに引用された文である。
すなわち、華厳の七処八会、維摩経、大品般若経、法華経などの諸大乗教における“頓教の相”が挙げられているが、これに対し釈籤では特に七処八会の次第を取り上げている。
ここに引用されている経文のまえの部分を簡潔に説明してみると、妙楽は華厳経の新訳の九会三十九品の名称を紹介しつつ、菩薩の修行の位階の次第と対照させている。
まず第三会の忉利天会では、六品を説いて十住を後位に進ませる働きをしていると釈している。
次に、第四夜摩天会では十行を説き、第五都率天会では十回向を説き、第六の他化自在天では十地の一品のみを説き、第七重会普光法堂では十勝勝進の行を説き、第八会普光法堂会では六位を説くとしている。
このように釈してきて、華厳の会座で明かされるところの菩薩の行位は、華厳の経意がこの別円を兼ねて含んでいるゆえに、それぞれを別々に分離することが難しいとしている。
ここまで説いた後に、引用された部分が説かれているのである。
引用の部分は「初め菩薩が十住以前の境地から十住の初住に登るに至るまでの経文の意はまさに円の義を含んで説いている。しかし、十住のうち第二住から第七住に至るまでの経文は文の相が次第順序を説くような姿をしているので、別の義にも似ているところがある。だが、その第七住のなかにおいてもまた、一つの位に多くの位を具足しているような、“一多相即自在”な様な弁じているところがある。次の、十行、十回向、十地の一つ一つの位に、それぞれ皆ことごとく“普賢行布の二門”を有していることになる」と結論している。
ここで“普賢”の門とは、普賢が平等の意を表すところから、一々の位に多くの位を具足しているという円融円満の法門をさし、“行布”の門とは、行列配布ということであり、十住、十行、十回向、十地の行位を順々に次第して仏果に至るとするもので、差別を説く別教の法門である。
このように、華厳の明かす菩薩道の四十位には、一つ一つの位に“普賢”の円教と“行布”の別教の二門が含まれている。
したがって、華厳経というのは円文は用いてはいても、兼ねて別教を説いているので、結局は「別」に摂するのである、と述べている。
この釈文は、日本天台宗の学者達が華厳宗に堕落しているのを破折されているとめに、華厳の円と法華の円とは決定的に異なっており、華厳経は本質的には別教と考えるべきであることを改めて確認するために挙げられたものと推察される。