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三世諸仏総勘文教相廃立講義0558~0575

0558:01~0558:02第一章 一代聖教に自行と化他の法
0558:02~0558:04第二章 化他の経の位置づけ
0558:04~0558:12第三章 権実の相違を夢と寤に譬える
0558:12~0559:11第四章 経釈を引き権実の意義を証す
0559:12~0560:04第五章 修行に約し爾前不成仏を明す
0560:04~0560:17第六章 有教無人の権を説く所以明す
0560:17~0561:11第七章 権実は浄土に無きことを示す
0561:12~0562:08第八章 自行の法について明かす
0562:09~0563:01第九章 譬喩で爾前と法華の関係明す
0563:01~0564:11第十章 仏の内証の悟りの相を明かす
0564:11~0565:11第11章 十如是により生仏不二明す
0565:11~0566:11第12章 夢・寤の譬で無明即法性明す
0566:11~0567:04第13章 一体三身の徳を示す
0567:04~0558:12第14章 衆生即万法の深義を明かす
0568:13~0569:05第15章 久遠本覚から一切経を施設
0569:06~0569:16第16章 妙法が末法に譲らるを説く
0569:16~0570:11第17章 衆生に約し自行化他を明す
0570:11~0572:04第18章 自行化他の力用の優劣示す
0572:04~0573:05第19章 仏説に背く諸宗を破折
0573:05~0574:09第20章 経の勝劣に迷う愚を戒める
0574:10~0575:05第21章 一大事因縁を説いて勘誡

0558:01~0558:02第一章 一代聖教に自行と化他の法top
0558
三世諸仏総勘文教相廃立   弘安二年十月    五十八歳御作    日蓮之を撰す
01   夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二に
02 は自行なり、
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 一代聖教とは、釈尊が五十年の間に説いた教え全体のことであり、これを一切経という。この一切経を二つに分ける。一には化他の経であり、二には自行の経である。

一代聖教
 釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
―――
化他
 他の人を教化すること。自ら実践する自行に対する語。仏道修行の両輪の一つ。
―――
自行
 ❶衆生の振る舞いとしては、自身が仏道修行に励むこと。他の人々を教え導く化他に対する語。❷仏の振る舞いとしては、仏が自らの覚りの真実を味わい実践すること。教えのうち仏の覚りの真実の側面をいい、法華経の教えをさす。これに対して化他は衆生を教え導くことで、覚りの真実へと導くための方便の側面をいい、法華経の教えに導くための諸経の教えをさす。
―――――――――
 本抄は、弘安2年(1279)10月、日蓮大聖人が聖寿58歳の時、身延において著されたものである。
 しかし、御真筆が現存していないために、本抄成立の由来や御述作の動機、与えられた人などについては不詳である。
 次に、本抄の題号である「三世諸仏総勘文教相廃立」の意味について、日因上人の惣勘文抄秘記上にしたがって述べてみる。
 「題号を講談するに総別の二門に分別せり。初め惣じて題号の旨を叙すとは、凡そ題号には単人・単法・人法具足の三義七種の義門有り。今の題号は人法具足の題号なり。三世諸仏は是れ人なり。惣勘文教相廃立とは是れ法なり。故に人法合題なり…別して申し談ずるに則ち五義有り。一には此の題号の教相、二には此の題号の正躰、三には此の題号の旨、四には此の題号の功用、五には此の題号の同異分別なり」と。
 すなわち日因上人は、本抄の題号を総別の二つの立場から釈されている。まず、総じての立場から題号の趣旨を釈すると、一般的に題号には単に人のみを表す場合と単に法のみを表す場合と人法具足する場合との三義があり、本抄の題号の場合は「三世諸仏」が“人”にあたり「惣勘文教相廃立」が“法”にあたるのであり“人法具足”の題号であると説かれている。
 この点について、更に同秘記上の他の個所では次のように説かれている。
 すなわち「謂く三世諸仏とは能勘文の人なり。惣勘文の御廃立とは…惣とは同等同悟同心なり。為実施権開権実の妙法なり。釈尊三世の諸仏に同じて勘定を説きたもう文書を勘文と曰う。即ち法華経なり。故に惣の字、法に約するなり。若し人に約せば惣三世諸仏と云う可きなり…この勘文とは法華経の事なり。教相廃立とは法華経の施開廃の意なり。観文に望みて教相と曰い、方便を捨てて真実を取る故に廃立と云うなり。此の諸仏如来の惣勘文にして并びに凡夫等の勘文に非ざる故に三世諸仏惣勘文教相廃立と云うなり」と。
 「三世諸仏」とは、能く勘文する“人”を表しており「惣勘文の御廃立」とは、「惣勘文」されて廃立された「法華経一切経」のことをさすのである。すなわち、法華経を“立”て法華経以外の一切経を“廃”するのである。
 更に「惣勘文」の“惣”とは「同等同悟同心」の意味を表しており、三世十方の諸仏がことごとく同じ悟り同じ心に立っている、ということを表現している。
 次に「勘文」とは、釈尊と三世の諸仏とが一緒になって勘え定めた文書のことをいい、それはそのまま法華経をさしているのである。
 また、「教相廃立」というのは「法華経の施開廃の意也」「観文に望みて教相と曰い、方便を捨てて真実を取る故に廃立と云うなり」とあるように、法華経による施・開・廃の順序にしたがって、方便権教を捨てて、実教の法華経を取ることをさしているのである。
 更に、同秘記上の別の個所では「惣勘文教相廃立とは即ち諸仏諸説の法華経の文義なり。惣とは同一の義なり。惣在一念、同居一念と云うが如し。三世諸仏同様に一語一心に権実本迹の旨を説き定めたもう経文を勘文と曰うなり。教相とは…天台云く教とは聖人下に被るの言、相とは分別同異也云々。此れ則ち一切経を説き与えて後に自行化他権実本迹の旨を衆生の為に分別したもうを教相とは曰うなり…一代教主の廃立とは三開会の義なり。迹門の意は法華の為に四十余年の経々を施し、今経に至って方便を捨てて真実を取る。又方便を摂して法華に入れ、一の妙法と為す。此れを三開会と云うなり。本門には今日一代は皆是れ方便なり。本門寿量品に至って正直に方便を捨て正直の妙法を説き顕す。此の妙法の中に一切経を収め、一の妙法と為るなり」とある。
 ここでは「惣勘文教相廃立」についてより詳しく解説されている。
 まず「惣勘文」の「惣」については、「惣在一念・同居一念」という言葉があるように、“同一の義”を表す。
 したがって「惣勘文」というのは、三世の諸仏が同じ立場に立って、同一の言葉、同一の心でもって権実本迹の趣旨を説き定められた経文をいうのである。
 次に「教相」については、天台大師がいうように、聖人が衆生に説いた言葉を“教”といい、その“教”の同と異とを分別することを“相”というのである。
 つまり、仏が衆生に一切経を説き与えておいてから、後にこれらの経教を自行・化他、権・実、本・迹というように、それら諸経間の同と異とを立て分けることを“教相”というのである、と。
 また「配立」というのは、以上のように“教”と“相”を分別・分類したうえで、方便の教えを捨てて真実の教えを取ることをさしている。
 この「配立」は、三種類あって“三開会”とも称する。すなわち、前述の施・開・廃の順序にしたがって、方便の教えを廃して真実の教えを立てることをいうのである。
 例えば、法華経迹門の立場でいえば、法華経を説くために40余年の方便の経教を施し、今経において方便権教を開いて真実の法華経を顕し、更に方便の権教を廃した後に実教・法華経に摂取し、ただ一つの妙法として立てることを三開会という。
 また、本門の立場では、釈尊の一代聖教は方便であり、本門の如来寿量品第十六で正直の妙法を説きあらわし、この妙法のなかに一切経を収めて一法とすることが“教相廃立”ということであると、説かれている。
 以上日因上人の惣勘文抄秘記にしたがって、総じての立場からの釈を通して、題号について述べてきたが、要約すると、釈尊をはじめ三世十方の諸仏が、同じ悟りと心とにおいて、一代聖教のなかで方便権教を廃し、真実の法華経を立てることを決定したのを「三世諸仏総勘文抄教相廃立」という、とのべられている。
 さて本抄は、冒頭に一代聖教が自行と化他の二つに大きく分けられることが明かされている。
 一代聖教とは釈尊が30歳で成道してから80歳で入涅槃するまでの50年間にわたって説法した経教の一切をいう。
 自行と化他の内容については、後に詳しく述べるように、法体に約し論ずる場合と、修行に約して論ずる場合とがあるが、ここでは法体に約しての自行・化他の意である。
一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり
 御文中の「一代聖教」「五十年の説教」「一切経」は、いずれも釈尊が30歳で成道してから80歳で入滅するまでの50年間にわたって説かれた教えをさしているのはいうまでもない。
 したがって、この御文を表面的にとらえると、本抄は釈尊の仏法に関することのみを説かれた御抄のようにみえる。
 しかし、本文の内容を拝していくと、明らかに日蓮大聖人の仏法について論じられており、釈尊の一代聖教のなかに大聖人の文底の大法を含ませられているのである。
 それは開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)の御文、また、日女御前御返事の「此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年には・いまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、天台妙楽伝教等は内には鑒み給へども故こそあるらめ言には出だし給はず、彼の顔淵が聞きし事・意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し、然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由経文赫赫たり明明たり・天台妙楽等の解釈分明なり。爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず 多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」(1243-01)の御文、更には、三大秘法抄の「夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021-03)等の御文を拝すれば明らかなように、大聖人の仏法は、元来、法華経の文底に秘沈された法門だからである。
自行と化他について
 自行と化他に関しては、修行に約する場合と、法体に約する場合との二とおりの立場がある。
 まず修行に約すると、自行は修行者自身が法の利益を受けるための修行であるのに対し、化他とは他者を教化化導することである。
 天台大師の法華文句巻八上に「自修報恩を自行と名づく、彼を益するはすなわち化他なり」とあるとおりである。
 次に、法体に約すと、自行とは仏の悟りそのものを説いた随自意の教法をさすのに対し、化他とは、衆生の機根や状態に合わせて説いた随他意の教法をさす。
 これを釈尊の一代聖教にあてはめた場合、法華経が自行の法門であり、化他とは法華経以前の爾前経にあたる。
 また、同じことを日因上人の惣勘文抄秘記には次のように説かれている。
 「凡そ霊山に於いて相承する所の釈尊一代五十年の説法を自行化他に分かって判釈す。自ら四重の勝劣有り。其の中に先ず四十二年の説法は是れ化他の法門なり。即ち如来随他意の語にして即身成仏に非ず。故に但九界の衆生の機類に随って種々に説法し給うなり。後八ヶ年の法華経は是れ自行の法門なり。即ち随自意の語にして即身成仏の法なり。故に如来の本意に随って一仏乗と説き給うなり。故に今之れを分かって二と為す。一には化他、二には自行なり」と。

0558:02~0558:04第二章 化他の経の位置づけtop
02        一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり 此れをば権教と云い亦は
03 方便と名く、此れは四教の中には三蔵教.通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等.般若なり法華より
04 前の四時の経教なり、 
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 一には化他の経とは法華経よりまえの四十二年の間に説かれた、もろもろの経教である。これを権教といい、また方便と名づける。
 これは化法の四教のなかでは、三蔵教・通教・別教の三教であり、五時のなかでは華厳・阿含・方等・般若という。法華経よりまえの四時の経教である。

法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸 仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
―――
四十二年
 釈尊が30歳の時、菩提樹下で成道してから法華経を説くまでの期間。
―――
権教
 仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いた権(かり)の教え、経典のこと。実教(実経)に対する語。権は一時的・便宜的なものの意。
―――
方便
 仏が衆生を教化するうえで、真実に導くために設ける巧みな手段、教えのこと。爾前経では、十界の境涯の差別を強調し、二乗や菩薩の覚りを得ることを修行の目的とする方便の教えを説いている。
―――
四教
 ❶天台大師智顗による教判。「化法の四教」と「化儀の四教」がある。一般に四教というと化法の四教(蔵通別円)をさす場合が多く、「開目抄」(197㌻)で言及される「四教の果」「四教の因」もこちらの意。❷華厳宗の法蔵の弟子・慧苑が立てた教判。①迷真異執教(外道凡夫の教え)②真一分半教(二乗の教え)③真一作満教(初心の菩薩の教え)④真具分満教(如来蔵を識る者の教え)。
―――
三蔵教
 ①経・律・論の三蔵に説かれた釈迦一代の教えの総称。 ②天台宗で小乗教の異名。
―――
通教
 声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた大乗初門の教えのこと。天台大師が四教義で立てた化法の四教のひとつ。通教の菩薩には前の三蔵教と同じ果を得る者と、さらに深く進んで後の別教・円教の理を悟るものとがある。
―――
別教
 二乗とは別に菩薩のために説いた教えのこと。天台大師が四教義を立てた化法の四教のひとつ。界外の惑を断ずる教であるゆえに、蔵・通とも異なり、隔歴の三諦を説くゆえに円教とも別なので別教ともいう。
―――
五時
 天台大師智顗による教判。諸経典の教えを釈尊一代で説かれたものとみなし、成道から入滅までの教えを内容によって五つの時期に分類し、矛盾なく理解しようとした。華厳時・阿含時(鹿苑時)・方等時・般若時・法華涅槃時をいう。①華厳時。釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。②阿含時。華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。③方等時。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。④般若時。鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。⑤法華涅槃時。マガダ国の霊鷲山と虚空会の二処三会で、8年間法華経を説き、大乗・小乗を超えて一切衆生が成仏できる真実の教えを開会した期間。また入滅直前に拘尸那城(クシナガラ)の西北の跋提河の沙羅双樹において涅槃経を説き、法華経の説法に漏れた人のために補足的に説法した期間。天台大師は、この五時を乳を精製する段階の五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)にあてはめ、醍醐味にあたる法華涅槃時の経が最高の教えであることを強調している。日蓮大聖人は「守護国家論」で、「大部の経大概是くの如し此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(40㌻)と述べられている。
―――
華厳
 釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。
―――
阿含
 華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。
―――
方等
 続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。
―――
般若
 鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。
―――――――――
 ここから、一代聖教を自行と化他に分けたなかの化他について、その内容が説かれていく。しかし、化他といっても、自行の法門に導く方便であるがゆえに、自行との対比によってしか示しえないから、自ら自行の法門にも触れていかざるをえないことになる。
 ここで、「化他の経」と表現されているのに対し、自行についてその内容が示されている段では、「二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり」と、「自行の法」と述べられている。
 この“法”と“経”との言葉の使い分けは、自行と化他の相違を踏まえられたものと拝せる。すなわち、自行とは仏の悟りそのものを表す随自意の教えであるから、“法”と述べられ、化他の場合はその真理である“法”に導くための方便として、九界の衆生の機根や性質にしたがって種々に“経”を説き分けるゆえに“経”といわれたと考えられるのである。
 さて“化他の経”とはいかなる内容のものであるかについては、今この本文に「一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり」と仰せられているように、釈尊の一代50年の説法のなかでは、最後8年の自行の法=法華経が明かされる以前の42年にわたって説かれた諸経のことである。この化他の経は法華経の実教に対して権教であり法華経の真実に対して方便という。
 この実教・権教、真実・方便の立て分けについては、本抄の以後の展開において繰り返し説かれていくのでそこで詳しく説明することにしたい。
此れは四教の中には三蔵教.通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等.般若なり法華より前の四時の経教なり
 四教の立て分けでいえば、蔵・通・別の三教が「化他の経」であり、円教が「自行の法」となる。五時の立て分けのなかでは、華厳時・阿含時・方等時・般若時の経教が「化他の経」となり、法華涅槃時の経が「自行の法」となる。
 ただし、権密でいえば、法華涅槃時の涅槃時に関していえば、涅槃経のなかの“円教”の部分に限って自行に組み込まれていると考えられる。
 また、法華経二十八品が自行となることは当然として、開経の無量義経、結経の普賢経も「自行の法」のなかに含まれていると拝察すべきであろう。

0558:04~0558:12第三章 権実の相違を夢と寤に譬えるtop
04            又十界の中には前の九法界なり 又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤を
05 ば実と云うなり、 是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、 寤は常住にして不変の心の体なる
06 が故に此れを名けて実と為す、 故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く 故に権教と言う夢中の
07 衆生を誘引し驚覚して 法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり 故に権教と言う、斯れに由つて文字
08 の読みを糾して心得可きなり、 故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す 又実をば実と読む実事
09 の手本は寤なり、 故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、 本覚の寤は実にし
10 て生滅を離れたる心なれば 真実の手本なり故に実相と云う、 是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と
11 自行の実との差別を知る可きなり、 故に四教の中には前の三教と五時の中には 前の四時と十法界の中には前の九
12 法界は同じく 皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、 
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 また十界のなかでは、仏界に対して、まえの九法界である。またな夢と寤のなかでは、夢のなかの善悪を説いた教えである。
 夢を権といい、寤を実という。夢は仮にあるもので、本体や性分ではないので、これを名づけて権というのである。寤は心の常住であり、不変の体であるから、これを名づけて実とするのである。
 四十二年のもろもろの経教は生死の夢のなかの善悪の事を説いているので権教というのである。夢を見ている衆生を誘い導き、目をさまさせて法華経の寤の世界に入れようと思われて、その支度方便として説かれた経教であるので権教というのである。
 このことから、権と実との文字の読み方を明らかにして、その違いを心得ていくべきである。
 権という字はカリと読む。権であることの手本は夢を根本とするのでる。また実という字はマコトと読む。実事の手本は寤である。生死の夢は権であって本体や性分がないので権であることの手本なのである。ゆえに妄想というのである。本覚の寤は実であって生滅を離れた心であるから真実の手本である。ゆえに実相というのである。
 このように、権実の二字の意味を明らかにして一代聖教のなかの化他の権教と自行の実教との差別を知るべきである。
 四教のなかでは前の三教と、五時のなかでは前の四時と、十法界のなかでは九法界とは皆、同じく夢のなかの善悪のことを説いているのであり、ゆえに権教というのである。

十界
 衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したもの。六道の中では、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」とし、この三悪道に比べれば相対的にはよいことから、修羅・人・天は「三善道」とされる。また三悪道に修羅を加えて、「四悪趣」ともいう。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。小乗の教えに基づき覚りを目指す声聞・縁覚は「二乗」と呼ばれる。これに菩薩を加えて「三乗」と呼ばれる。法華経以外の経典では、十界はそれぞれ固定化された世界・境涯としてとらえられていた。しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命にそなわる10種の境涯であることを示した。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべてそなわっており、縁によって次にどの界の境涯をも現せることが明らかになった。このように十界の各界が互いに十界をそなえていることを十界互具という。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
九法界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩界のこと。
―――
夢と寤
 「夢」とは、睡眠中にいろんなものを見る現象。「寤」世に現存していることや、存在していること。
―――
体性
 体と性のこと。「体」は本体・実質。「性」は性質。
―――
常住
 過去・現在・未来にわたって常に存在し、生滅や変化がないことをいう。
―――
不変の心の体
 永遠に変化しない生命の体のこと。
―――
生死
 ❶繰り返し迷いの境涯に生まれては死ぬこと。また、その苦しみ。❷生命の二つの側面としての、生きることと死ぬこと。
―――
誘引
 誘い引導すること。方便を用いて衆生を教化すること。
―――
驚覚
 眼を覚ますこと。「驚」はおどろくの意。
―――
支度方便
 「支度」は準備。「方便」は手段。
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性体
 体と性のこと。「性」は性質。「体」は本体・実質。
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妄想
 道理に合わない想いの念や考え方のこと。
―――
本覚の寤
 衆生は本来そのままで仏の覚体であるという真実の悟り。
―――
本覚
 ①本来、そなわっている覚り。②現象界や諸相や凡夫がそのまま仏であると悟ること。③本仏の正覚・本地の悟り。
―――
生滅
 生じることと、滅すること。
―――
実相
 ありのままの真実のすがたのこと。
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 ここでは、化他の内容が、十界のなかでは九法界に関するものであることを述べられ、これを夢と寤の関係にたとえられている。
 まず「又十界の中には前の九法界なり」とは、十界のなかでは九界に関する法門であるということである。
 このことは「故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪を説く」との仰せに明らかである。
 化他の経は、生死の夢のなかにいる衆生を目覚めさせるための方便として、仏が夢中の衆生に合わせて説かれたものであるから、化他の経自体、夢中の法門なのである。
 つまり、六道の衆生を声聞・縁覚・菩薩の境界に導くことを目指したのが爾前経であるから、所詮これらは「夢中の善悪」にすぎないのである。
 この夢と寤のたとえによって、“権”と“実”の内容について言及されていくのであるが、「夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり」と仰せのように、夢のなかで見る物や事柄は仮の存在にすぎず、その実体や本性はない。
 ゆえに、これを“権”とするのであり、これに対して「寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す」と仰せのように、寤の状態とは常住・不変の心の本体が働いていることをいう。ゆえに常住不変の仏の心を明かした法華経が“実”となると仰せられている。
 「故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う」と仰せられているように、一代50年の説法のうち、前42年に説かれた経教は、迷いの生死の夢のなかにいる衆生を法華経の“寤”へと誘引する準備的手段であると説いたものであるから、“権教”というのである、と述べられ、このように権=カリ、実=マコト、という文字の読み方を解明すると、権教、実教の意義が理解できると仰せられている。
 そして「故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり」と、“カリ”であることの手本が夢であり、“マコト”なることの手本はウツツであると仰せられている。
 「故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う」と述べられ、生死の迷いが夢であり妄想であるのに対し、本覚こそ寤であり実相である、と仰せられている。
 更に以上の叙述を結んで「是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う」と、一代聖教を自行と化他とに立て分けると、実教が自行の法、権教は化他の経であり、化他の権教とは、四教のうち蔵・通・別の三教にあたり、五時のなかでは前四時に説かれた経教であり、十法界のなかでは、九法界の事象である、と要約されている。
夢と寤との中には夢中の善悪なり
 夢が十法界のなかの九法界で、化他の権にあたるのに対し、寤は仏界で、自行の実にあたることは、御文に明白であるが、「夢中の善悪」と仰せのように、九界のなかに善悪が立て分けられるのである。
 例えば、天台大師の法華玄義巻二上においては、十法界を、「一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏」と分類している例がある。
 その場合、六道のなかの地獄・餓鬼・畜生を三悪道として“悪”として修羅・人・天を“善”とすることもあれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅までを四悪趣とし、人・天を“善”とすることもある。
 “悪”とは煩悩の境界をいい、“善”とは苦しみのない境界をいうので、このように立て分けられるのである。
 根本的には九界はすべて苦を免れないので“悪”であり、仏界のみが真実の“善”となるのであるが、ここでは、九界のなかに善悪があることを述べられているのである。

0558:12~0559:11第四章 経釈を引き権実の意義を証すtop
12                              此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給
13 う已上、 未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻
14 の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、 此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊
0559
01 等とは夢見る心性と寤の時の心性とは 只一の心性にして総て異ること無しと雖も 夢の中の虚事と寤の時の実事と
02 二事一の心法なるを以て見ると思うも 我が心なりと云う釈なり、 故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯
03 す」已上、 四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知ら
04 んと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、 能とは如来なり所とは衆生なり 此の四弘は能の仏も所
05 の衆生も 前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、 然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真
06 実の権教なり方便なり、 法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、 此れは仏自ら四十二年の間説き集め給
07 いて後に、 今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば 人の語も
08 入る可からず不審をも生す可からず、 故に玄義に云く「九界を権と為し 仏界を実と為す」已上、 九法界の権は
09 四十二年の説教なり 仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、 故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理な
10 れば権教と云い 仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、 故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四
11 十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。
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 この教相を無量義経で「四十余年未顕真実」と説かれているのである。(以上)。未顕真実の諸経は夢のなかのことを説いた権教である。ゆえに妙楽大師は法華玄義釈籤には「夢を見ているときの寤のときは、心性それ自体は異なりはしないけれども、夢のなかにあっては、必ず幻によっているのであり、幻の機、幻の感、幻の応、幻の赴とを起こしているのである。能応の仏も所化の衆生も、ともに幻の権であって実なる存在ではない」と説かれている。つまり未顕真実の諸経は、皆、夢や幻のなかのことを説いた方便の教なのである。
 「性・殊なること無しと雖も」等とは、夢を見ているときの心性と寤のときの心性とは、ただ一つの心性であっても、全く異なるものではないけれども、夢のなかの架空のことも、寤のときの実際のことも、ただ一つの心法からあらわれているのであるから、実は自身の心を見ているのであるという釈である。
 ゆえに摩訶止観を注釈した止観輔行伝弘決には「前の三教に説かれる四弘請願は架空のものであり、そこに説かれる能も所もともに滅びてしまう」と説かれている。「四弘」とは、無量無辺の衆生を救おうと誓願し、無数の煩悩を断じようと請願し、無尽の法門を知り尽そうと請願し、無上の菩提を証得しようと誓願する四弘請願をいうのである。「能」とは如来であり、「所」とは衆生である。前三教に説かれる四弘の誓いは、能化の仏も、所化の衆生も、皆、夢の中の是非であると釈されたのである。
 したがって法華経以前の四十二年の間に説かれた諸経は、未顕真実の権教であり、方便の教えである。法華経に誘引するための方便であるから真実ではないのである。
 このことから仏自らが四十二年の間説いた教えをすべて集められた後に、今まさに法華経を説こうとして、その序分にあたる開経の無量義経のときに、勘え定められた教相なのであるから、人の言葉をさしはさむべきではなく、疑問をさしはさむ余地はないのである。
 法華玄義釈籤には「九界を権と為し、仏界を実と為す」と説いている。九法界の権は四十二年の説教であり、仏法界の実は八箇年の説で法華経である。
 ゆえに法華経を仏乗というのである。九界の生死は夢の世界の法理なので権教といい、仏界の常住の生命の寤は法理なので実教という。
 釈尊の五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自らの悟りを明かした八年間の実教とを合わせて五十年となる。ゆえに権と実との二つの文字を鏡として諸経を見るとき、その相違が明らかとなって曇りはないのである。

教相
 経文に説かれている教えの内容。また、その理論的研究。真言密教では、理論的な側面を教相、実践的な側面を事相という。
―――
無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
―――
四十余年未顕真実
 無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。
―――
釈籤
 妙楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻。
―――

 性分のこと。
―――

 まぼろし・まどわし・幻影・夢幻。
―――

 仏教を理解し信じ実践する能力・資質。根機ともいう。
―――

 衆生が仏を感じること。
―――

 仏が衆生の機根に応ずること。
―――

 仏が衆生の機根に応じて出現すること。
―――
能応と所化
 仏と衆生のこと。「能王」は衆生の機根に応ずる主体としての仏を指し、「所化」は仏の化導を受ける衆生をさす。
―――
心性
 心の本来のあり方、特質。
―――
虚事
 真実でないこと。
―――
実事
 真実・実際にあったこと。
―――
止観
 摩訶止観のこと。『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。
―――
四弘
 菩薩の四弘誓願のこと。限りなく多くの衆生 を済度しようという衆生無辺誓願度、計り知れない煩悩を滅しようという煩悩無量誓願断、尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願知、無上の悟りに達したいという仏道無上誓願証をいう。
―――
泯す
 滅びる・尽きる・なくなる。
―――

 生死の迷いを越えて涅槃の彼岸に至ること。
―――
誓願
 誓いを立てて願うこと。特に菩薩が、衆生を救済しようとの誓いを立て、その成就を願うこと。菩薩が立てる誓願には、総別の2種がある。①総の誓願(総願)とは、すべての菩薩が立てるべき誓願で、四弘誓願などをいう。②別の誓願(別願)とは、菩薩が個々に立てた誓願で、法蔵比丘(阿弥陀仏の修行時の名)の四十八願、薬師如来の十二願、釈尊の五百大願などをいう。法華経如来神力品第21では、地涌の菩薩が滅後弘通を勧める釈尊に応えて、成仏の肝要の法を人々に教え広めていくことを誓願し、釈尊から滅後悪世の弘通を託されている(付嘱)。この誓願を死身弘法で貫かれた日蓮大聖人は、地涌の菩薩の上首である上行菩薩の御自覚に立たれた。創価学会の三代会長は、広宣流布という地涌の菩薩の誓願を自身の使命とし、大聖人の直弟子であるとの自覚に立った。そして、一人一人を励ます中でその自覚を人々に広く促し、現実社会に妙法の世界広宣流布を推進してきた。
―――
煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
―――
法門
 仏・菩薩の教え、その仏に従って学べば聖者の智に入ることのできる門。末法では御本仏日蓮大聖人の三大秘法をさす。
―――
無上菩提
 最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
―――
能とは如来なり
 「能」とは、ある動作の主体となるもの。止観の文では法を説く如来をさす。
―――
如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
―――
 仏の尊称である十号の一つ。サンスクリットのタターガタの漢訳で、「真如(真実)から来た」という意味。もとは修行を完成した者の意で諸宗教で用いられていたが、仏教では釈尊や諸仏の呼び名とされた。
―――
所とは衆生なり
 「所」とは、ある動作の客体働きかけるもの。止観の文では所は法を説かれる衆生をさす。
―――
是非
 ①しいことと間違っていること。②どうあっても、きっと、必ず。
―――
序分の開経
 「序分」は経典を三大別する三分科経のひとつ。「開経」は一つの経典の序説となる経のこと。法華経の開経は無量義経である。
―――
勘文
 ❶占いや先例や古典を調べた結果を考察して作成した意見書。平安時代以後、朝廷や幕府の諮問に対して、諸道の専門家が答申した。❷中世では勘状のこともいう。勘状とは自身の考えを述べた意見書。日蓮大聖人は御自身が国主諫暁のために出された「立正安国論」を勘文と呼ばれている(33~35,1069㌻など)。
―――
不審
 明らかにわからないこと。疑わしいこと。
―――
玄義
 法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――
仏界
 仏の世界。仏が体現した、慈悲と智慧にあふれる尊極の境涯。仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法に目覚めた人のこと。具体的にはインドで生まれた釈尊(釈迦仏)が挙げられる。諸経には阿弥陀仏などの種々の仏が説かれるが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から譬喩的に示した架空の仏である。諸経に説かれる仏の世界も仏に相応して違いがある。すなわち、諸経の仏とその世界は、それぞれの経にとって目指すべき理想であるといえる。法華経本門では釈尊の本地が久遠の仏であるという久遠実成が明かされ、その永遠の国土が娑婆世界と一体であるという娑婆即寂光が明かされた。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、この仏と仏の世界が凡夫の己心に本来そなわっていることを明かし、南無妙法蓮華経を受持することによってそれを開き現すことができると説かれている。仏界と信心との深い関係について同抄では、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241㌻)と述べられている。法華経は万人が成仏できることを説く教えであるが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界がそなわっているからである。また同抄では、人界に仏界がそなわっている現実の証拠として、釈尊が凡夫から仏となったこと、不軽菩薩がすべての人に仏界を見て礼拝したこと、堯や舜という古代の伝説的な帝王が万人に対して偏頗なく慈愛を注いだことを挙げられている(242㌻)。
―――
仏乗
 一仏乗・一乗と同義。一切衆生を成仏させるための教えのこと。釈尊一代の聖教のすべては、総じては皆成仏道の教法といえるが、別しては法華経に限るのであり、南無妙法蓮華経に限るのである。
―――
鏡に懸けて陰無し
 曇りない鏡にかけたように明瞭であるということ。
―――――――――
 一代聖教のなかで前四時の経を権教、法華経を実教とする教相判釈が釈尊自身の説によるものであることを示されている。すなわち、無量義経に「四十余年未顕真実」とあるのがそれである。
 そして“未顕真実”とは、40余年の経は夢のなかの権教であるということの裏づけとして、妙楽大師の釈籤の文と弘決との文とを示された後に「故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸け陰無し」と結論されている。
 なお「然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり」以下の文は、この段冒頭の「此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う」の御文を受けている。このあいだに、妙楽大師の釈籤と弘決の文、およびその説明が挿入されている。
此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う
 「未顕真実」の文は無量義経説法品第二に「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には末だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」とある。すなわち、釈尊自身が法華経を説くにあたって、これまでの40余年間の教えは、衆生の“性欲”に応じて方便として説いた教えであって、末だ真実を顕していない、と述べているのである。
 未顕真実というのは、寤が事実であるのに対し、夢は虚事であるから、未顕真実の40余年の経は夢中の権教であるということである。
 釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり。
 この釈籤の文と次の弘決の文とそれらの説明は、爾前権教が夢中の法門であることを裏づけるために引かれたものである。
 釈籤とは妙楽大師の法華玄義釈籤十巻のことで、ここに引用された文は釈籤のなかの巻七にあたる、十不二門といわれる段落のことである。
 十不二門というのは、妙楽大師が天台大師の法華玄義に説かれた迹文十妙、本門十妙について、新たに十の不二門を立てることによって釈した法門である。
 妙楽大師は、釈籤において、迹門十妙を注釈した後、本門十妙を釈するにあたって、十の不二門を説いている。
 さて、本抄で引用された部分は十不二門のなかの第十受潤不二門を説き明かしているところからのものである。
 今、その全文をここに紹介すると次のようになる。
 「十に受潤不二門とは、物理は本来性を権実を具す。無始より熏習して或いは実、或いは権なり。権実は熏に由る。理は恒に平等なり、時に愚い習を成じて行願に資けらる。若し本因無くんば熏も亦徒設ならん。熏に愚うて自ら異なり、性の殊なるに由るに非ず。性は殊なること無しと雖も、必ず幻に籍って発す。幻の機、幻に感じ、幻の応、幻に赴く。能応、所化、並びに権実に非ず。然るに生は非権非実を具して権実の機を成ずるに由って、仏も亦果に非権非実を具して権実の応を為す。仏機、応契、身土に遍無し、同じく常寂光にして法界に非ざること無し。故に知んぬ、三千同じく心地に在って、仏の心地の三千と殊ならざることを」
 「受潤」とは、十妙のうち眷属妙と利益妙との二妙によってたてられたもので、受潤の“受”というのは、能化の仏も所化の衆生もともに、本来、寂光土に生を“受”けることであり、“潤”というのは、同じ利益に潤う、ということである。
 すなわち、まず、衆生の本性は権実不二であるけれども、因縁によって、権となったり実となったりする。したがって、能化の仏と所化の衆生といっても、その本性は同一であるゆえに、能化の仏も所化の衆生もともに、同じく常寂光土に生を“受”け、同じ利益に“潤”っているのであり、これを“受潤不二門”というのである。
 上の文で「物理は本来性に権実を具す」とあるように、物は本来の性分として権と実とをともに具しているのである。
 しかし「無始より熏習して或は実、或いは権なり、権実は熏に由る。理は常に平等なり」とあるように、無始以来の「熏習」によって、九界の権や仏界の実との差異を生じるのである。
 「熏習」というのは、香りのない衣服も香をたくと次第に香りが滲み移っていくように、縁するものによって影響されることをいうのである。
 しかし「時に愚い習を成じて行願に資けらる。若し本因無くんば熏も亦徒設ならん。熏に愚うて自ら異なり、性の異なるに由るに非ず」とあるように、その「熏習」も、因としての権実不二の理がなければ徒事にすぎない。
 権と実の異なりは「熏習」によって起こるのであり、本性が異なっているからではない、と説いている。
 この妙楽大師の釈文から「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」という一節を引用され、日蓮大聖人は「夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なり」と述べられている。
 すなわち、我々が夢を見ているときも、目覚めて寤のときも、どちらも同じ心である。もとより、夢は“虚事”であり、寤は“事実”という違いはあるが、いずれも自分の心がそこに描いたものであるから、結局、そこに「我が心」を見ているということになる、ということである。
止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」
 本文には止観と述べられているが、引用文そのものは、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の三からのものである。「四弘」とは、四弘誓願のことである。
 この四弘誓願については後に詳しく述べるとして、引用文の内容について触れておきたい。弘決のこの文は、摩訶止観の巻上五上正修止観に明かされる十境・十乗観法の第一の“観不思議境”を明かすなかで“思義境”に言及している部分について、妙楽大師が注釈を加えたものである。
 “思議境”について、天台大師は大乗教の「心は一切の法を生ず」という考え方が思議境であるとしたうえで、悪として地獄・餓鬼・畜生の因果を、善として修羅・人・天の因果を、次の二乗の因果、菩薩の因果、仏の因果、という順序で、心から十法界を生ずることを明かしている。とくに、菩薩の因果の法を経て、仏の因果の法への展開については次のように説いている。
 「此の法の態度所度を観ずるに、皆是れ中道実相の法にして畢竟清浄なり。誰かは善・誰かは悪、誰かは有、誰かは度、誰かは不度ならん、一切の法、悉く是の如し、是れ仏の因果の法なり」と。
 ここで「此の法」とは、菩薩の因果の法のことである。すなわち、菩薩の因果の法における能度と所度を観察していくと、すべて中道実相の法でり、究極的に清浄である。
 したがって、だれが悪で、だれが善か、だれが有で、だれが無か、とか、度と不度というような差別・対立は、そこにおいては存在しないのである。
 これを受けて、妙楽大師は弘決巻五の三に次のように釈している。
 「仏法界の中に能度所度唐は皆是れ実相というは法界亡泯に非ずこと無きが故なり。誰かは善、誰かは悪とは、前の界内の三善三悪を泯す。誰かは有、誰かは無とは、前の三有及び二乗の無を泯す。誰かは度、誰かは不度とは、前の三教の四弘の能所を泯す。諸法を泯すと雖も次第に炳燃す。若し思議を棄てれば当に知るべし是の人は二法俱に失せん」と。
 この釈のなかで妙楽大師は、仏法界の因果の法において能度も所度もともに中道実相であるという止観の文はあくまで、法界そのものが“亡泯”しないものなので、このようにいえるのであると述べている。
 換言すれば、仏法界においては何が悪で、何が善か、また何が有で、何が無かというような差別・対立は“泯す”すなわち、なくなるということができるのである。
 しかも「諸法を泯すと雖も次第に炳燃す」と述べてうる。「炳燃」とは、光り輝いて明らかな様子を示している。
 さて、本文に引用された「前の三教の四弘・能も所も泯す」という文は、先に挙げた弘決のなかでは「誰かは度、誰かは不度とは、前の三教の四弘の能所を泯す」となっている。
 これは、摩訶止観の「誰かは度、誰かは不度ならん」の文を釈して述べられたものであることは明らかである。
 つまり、仏法界においては、度すなわち悟りに到達した人と、不度すなわち悟りに到達していない人、という差別・対立はない、ということを表現したものである。
 妙楽大師はこれを釈して、蔵教、通教、別教という円教以前の三教において立てられた菩薩の四弘誓願のなかの、能も所もともに、仏法界においてはなくなるとしたのである。
 本抄では、この妙楽大師の弘決の釈を取意して、40余年の爾前の権教、前三教が未顕真実の夢中の法門であることを説明する文証として援用されているのである。
 本文に「能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり」と仰せのとおりである。
四弘誓願について
 “四弘”とは、四弘誓願のことである。大乗の菩薩は仏教の真理を師匠や善知識から聞き、これに促されて自らも成仏を目指して永遠の仏道修行に励もうと発心し決意するのであるが、このとき、必ず、誓願を起こし自らに課すのである。
 このとき、すべての菩薩が起こす誓願が、ここにいう四弘誓願であり、すべての菩薩が起こすことから“総願”とされる。これに対し、仏・菩薩が個々に立てる特別の請願のことを“別願”という。
 さて、四弘誓願の“四”は誓願の数を示し、“弘”というのは、この4つの請願の内容が広大無辺であることをさしている。
 4つの請願の内容は、本文に「四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う」とあるとおりである。
 すなわち、
   「衆生の無辺なるを度せんと誓願し」が「衆生無辺誓願度」
   「煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し」が「煩悩無辺誓願断」
   「法門の無尽なるを知らんと誓願し」が「法門無尽誓願知」
   「無上菩提を証せんと誓願す」   が「無上菩提誓願証」
 の四つの請願である。
 なお、最後の無上菩提誓願証は代わりに“仏道の無上なることを成ぜんことを誓願す”という「仏道無上誓願成と表現される場合もあるが、意味するところは全く同じである。
 四弘誓願は要するに、まず第一に、無辺の一切の衆生を一人も余さず度するという“利他”の誓願を立て、次に、この衆生救済の利他とともに、菩薩自身の人間的完成を目指す“自利”の請願が三つ立てられたのである。
 すなわち、菩薩自身の生命に内在する無数の煩悩を断じ切っていくという誓願であり、無尽ともいうべき法門を知り尽しているという誓願であり、無上の菩提を証明していくという誓願である。
 まず、利他の衆生救済の請願が第一に置かれているところに、大乗たる所以が明らかであり、更には、無量、無辺、無数、無上ということを目標としている点において、どこまでも現状に満足せずに、限界を打ち破りつつ無限に向上を図っていこうとする菩薩の雄々しい精神が漲っているといえよう。
 しかし、権教における菩薩の四弘誓願は、実教の法華経からみたとき、夢のなかでの是非善悪の出来事になる。
 所詮、権教の前三教は、能も所もともと夢幻のなかにあるにすぎないから、そのなかで、無辺の衆生を救うと請願しても、無上の菩薩を成就して仏になると誓願しても、いずれも、夢、幻となってしまうからである。
玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う
 引用されたのは、天台大師の法華玄義の文として挙げられているが、実際には妙楽大師の法華玄義釈籤巻二上の文である。
 これは法華玄義巻二の「此の一法界に十法界を具し、十法界に百如是を具す。又一法界に九法界を具すれば、即ち百法界千如是有り、束ねて五差と為す。一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏なり。判じて二法と為ず。前の四は是れ権法、後の一は是れ実法なり。細しく論ずれば各権実を具す。且く両義に依る。然るに此の権実は思義す可からず、乃ち是れ三世の諸仏の二智の境なり」とある文を妙楽大師が釈籤で釈したものである。
 天台大師の文は、十界互具を論ずるなかで、十法界を悪、善、二乗、菩薩、仏の五つの差異に分類して、前の四つ、すなわち悪・善・二乗・菩薩を権法に、最後の一つ、すなわち仏を実法に配している。
 更に天台大師は、詳細に論ずれば十界互具であるから、権法にも実法を具し、実法にも権法を具しているのであるが、今は一往、前の四を権、後の一を実とする、と述べている。
 これを受けて妙楽大師が釈籤に「『細しく論ずれば各権実を具す。且く両義に依る』というのは、相即は向きに説くが如し。且く九界を権と為し仏界を実と為すに依る。若し然らずんば謂く仏尚亦説かず。況や復下地をや。故に且く顕説に依る」と釈しているのである。
 この釈からも明らかなように、妙楽大師は天台大師の前の四つ、すなわち悪・善・二乗・菩薩の九界を権に、後の一つ、すなわち仏界を実と立て分けたのである。
 この天台大師及び妙楽大師の、
   九界=権
   仏界=実
 の立て分けに基づいて、本文は、
   九法界の権=九界の生死=夢の理=42年の説教=権教
   仏法界の実=仏界の常住=寤の理=8ヵ年の説=法華経=実教
 と示されているのである。
 結局、爾前教では真実の仏の境地を明かさず、成仏の法を説いていないので九界の域にとどまるのであり、法華経のみが仏の境地と成仏の法を説き明かしているので仏界に属するのである。

0559:12~0560:04第五章 修行に約し爾前不成仏を明すtop
12   故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば 我が身より火を出して灰身入滅と
13 て灰と成つて失せるなり、 通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば 前の如く同様に灰
14 身入滅して跡形も無く失せぬるなり、 別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして 終りに仏に成り
15 ぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば 本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し 夢中の果なり故に別教
16 の教道には実の仏無しと云うなり、 別教の証道には初地に始めて 一分の無明を断じて 一分の中道の理を顕し始
17 めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて 円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり 上中下
18 三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と
0560
01 云うなり故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の
                                                 観心の仏」
02 又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を
                                                能く能く意得
03 可きなり、 権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば 夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、 極
04 果の仏無ければ有教無人なり 況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、
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 ゆえに三蔵教を修行する菩薩は三僧祇、百大劫の修行を経て、ついに仏になろうとすると、我が身から火を出し、灰身入滅といって、灰と成って消えうせるのである。
 通教を修行する菩薩は七阿僧祇・百大劫の修行を成就して仏になろうと思うと、前の三蔵教と同じように灰身入滅して跡形もなく消えてしまうのである。
 別教を修行する菩薩は二十二大阿僧祇、百千万劫の修行を尽くして、ついに仏になったと思うと、それは生死の夢のなかでの仏果にすぎない。ゆえに別教の教えには実の仏とはいわれないのである。
 別教の証得の道は初地に至って初めて無明惑の一分を断じて中道の法理の一分を悟るが、そこから別教の教えを振り返ってみると、それは隔歴・不融の教であると知って、円教に移って円教の人となってしまい、別教にはとどまらないのである。
 菩薩にも上根・中根・下根と三根の差があり、初地・二地・三地から等覚までは円教の人となるのである。このゆえに別教の経文のうえには仏はないのであり、ゆえに「有教無人」といわれるのである。
 このことを伝教大師は守護国界章に「有為無常の報身仏は夢の中の権果でありこれは前三教の修行で得た仏果である無作の三身は真実を覚っている実仏である。これは後の円教の観心の仏である。と説かれ、また「権教の三身は未だ無常を免れないこれは前三教の修行で得た仏果せある実教の三身は倶体倶用で常住であるこれは後の円教の観心の仏であると説かれている釈をよくよく心得るべきである。
 権教は難行苦行して、たまたま仏になったと思うと、夢のなかの権の仏であるので本覚の寤に立ち還ったときには、実の仏ではないのである。仏道修行の究極の果としての仏がないので、有教無人というのである。
 ましてそのような教法を実といえるであろうか。この権教をとって修行するのは一代聖教の元意に迷っているのである。

灰身入滅
 灰身滅智のこと。身を焼いて灰にし、心の智慧を滅失すること。小乗の教えでは、煩悩を断じ尽くして心身を無に帰することによって、二乗の最高の果位で理想の境地である無余涅槃に入るとされたが、大乗は、それでは心身ともに滅失してしまい、成仏が得られないと批判した。
―――
実仏
 衆生を教化・誘引するために方便として説かれた権仏に対して、究竟・真実の仏のこと。
―――

 ❶木の実、くだもののこと。❷転じて、原因によって起こったもの。物事の結果をいう。因に対する語。仏法では、特に種々の行い(業)という因によって、心に生じる果をいう。❸証果のこと。修行の結果として得られる覚りとその境地。
―――
教道
 仏が説いた経説。また経説によって修行すること。
―――
証道
 経文の教説に明かされた所詮の真理。内証の悟り。それを証得する修行のこと。
―――
初地
 菩薩の修行の五十二位のうちの第41位。十地の第1で歓喜地ともいう。別教では初地以上を不退位とする。
―――
無明
 サンスクリットのアヴィドヤーの訳で、真理に明らかでないことを意味する。仏教では生命の根源的な無知・迷い・癡さであり、一切の煩悩を生む根本とされる。また三惑の一つである無明惑をさす。
―――
中道の理
 中道の真理のこと。中道とは断・常の二見や苦・楽の二受、有・無の二辺など両極端に執着しない不偏にして中正の道をいう。ただし小乗教はたとい中道の名はあっても両極端を離れることをいうのであって、別に中道の理を立てるのではない。大乗経は空諦・仮諦に対して究極の真理として中道を立てて修行の対象とする。法相宗の唯識中道、三論宗の八不中道などがそれである。
―――
隔歴不融の教
 蔵・通・別・円の四教のなかの別教、華厳・阿含・方等・般若等の爾前方便の諸経のこと。
―――
円教
 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
―――
円人
 円教を信じて修行に励む人のこと。
―――
上中下根
 上根・中根・下根の三根のこと。機根は仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の生命の性分・資質をいう。機根の鋭利・遅根によって上・中・下の三つに分けたもの。
―――
初地
 菩薩の修行の五十二位のうちの第41位。十地の第1で歓喜地ともいう。別教では初地以上を不退位とする。
―――
二地
 菩薩の修行の五十二位のうちの第41位。十地の第2で離垢地ともいう。衆生界の煩悩のなかに入ってこれを離れる位。
―――
三地
 菩薩の修行の五十二位のうちの第41位。十地の第3で明地ともいう。智慧の光明を発する位。
―――
等覚
 ❶仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。❷菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。
―――
別教の面
 別教の教相のこと。別教で説かれている仏の教え。
―――
守護国界章
 伝教大師最澄の著作。3巻。法相宗の得一が三乗差別の立場から天台大師智顗の宗義を批判したことを破折し、法華一乗平等の立場から天台宗の正義を明らかにした。
―――
有為の報仏
 歴劫修行の果報として初めて成仏した爾前経の仏は、衆生教化の方便として夢の中の幻の仏。
―――
夢中の権果
 衆生教化の方便として示された夢の中の仏。
―――
前三教の修行の仏
 爾前権教の始覚の仏のこと。蔵・通・別・円の四教のうち円教を除いて前三教という。
―――
無作の三身
 生命本来の三身(法身・報身・応身)をそなえた仏の境涯。無作とは、有作に対する語で、何の人為も加えられていない、本来のまま、ありのままということ。「御義口伝」には「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(一念に億劫の辛労を尽くして、自行化他にわたる実践に励んでいくなら、本来わが身にそなわっている仏の生命が瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である、790㌻)と仰せである。
―――
覚前の実仏
 歴劫修行の果報として初めて成仏した爾前経の仏は、衆生教化の方便として夢の中の幻の仏、有為の報仏というのに対して、法華経の本有常住の仏こそ真実に覚っている仏であり覚前の仏という。
―――
後の円教の観心の仏
 法華経で説かれる無作三身の仏のこと。「後」は蔵・通・別・円の四教の最後の円教をいう。
―――
権教の三身
 三身は仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)。権教の三身は相即しないゆえにいまだ無明を免れない。
―――
無常
 常に生滅変化して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。
―――
実教の三身
 実教に説かれる三身は、実教が随自意の教えであるところから、それを説く仏は三身相即の仏である。
―――
倶体倶用
 体とは本体、用とは働き、この体用を具えていることを俱体俱用という。
―――
難行苦行
 難行はきあめてきびしい修行のこと。実践が困難な修行をいう。苦行は所願の成就を求めて身心を苦しめる行を整え、断食・呼吸の制御・特殊な自虐行為によって身体を苦しめ、堪え難い種々の難を克服することによって、悟りを得ようとする修行のこと。古来、インドの外道が出離生死の道として行った。
―――
本覚の寤
 衆生が本来そのまま仏の覚体であるという真実の悟り。
―――
極果の仏
 仏とは修行によって得ることのできる最高の果徳であることを「極果」という。
―――
聖教
 釈尊の説いた経教のこと。
―――――――――
 この段は、前文の「故に玄義に云く『九界を権と為し仏界を実と為す』已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う」の文を受けて、爾前経を修行しても成仏の果は得られず、法華経のみが成仏の教えであることを示されるところである。
 前三教のうち、まず蔵教においては、修行の期間は三僧祇・百大劫という長遠なものであるが期間が終了しても灰身入滅してしまうから、仏になることはできないのである。 
 次に、通教においては修行の期間は、七阿僧祇・百大劫であるが、これもやはり成仏することができずに、蔵教と同じ灰身入滅して終わるのである。
 別教の場合は蔵・通の二教と異なり、別教を修行して初地に到達したときに、一分の無明を断じ、一分の中道をあらわして、別教では成仏不可能と知って円教に入るのである。
 このため、やはり別教にも成仏の人はいないから“有数無人”というのである。
 次に、伝教大師の守護国界章の「有為の報仏は夢中の権果無作の三身は覚前の実仏なり」あるいは「権教の三身は未だ無常を免れず実教の三身は倶体倶用なり」の文を引用されている。
 すなわち、権教の前三教に説かれている仏は、あくまで夢中の権果にすぎない。円教の無作三身の仏のみが“覚前の実仏”なのである。したがって、前三教をどれほど修行しようとも、所詮は徒労に終わらざるをえないのである。
 本文に「権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり」と仰せられているとおりである。
別教の別教の教道・証道
 蔵・通・別・円それぞれに教道と証道がある。経道とは仏の説いた教説のことであるが、教説に基づいて修行することをもさしている。これに対して証道とは悟りの真理そのものをいい、また真理を証得することをいう。
 本抄では、別教が有数無人であることについて、この教道と証道が挙げられている。
 すなわち、別教の“教道”においては、別教を二十二大阿僧祇・百千万劫もの間、修行し尽くして、最後に“成仏した”と思っても、その“成仏”は「生死の夢の中の権教の成仏」にすぎず「夢中の果」でしかないのである。これが別教の「教道」である。
 これに対し、別教の「証道」では、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の階梯において、十地の初めの初地まできたときに、修行者は一分の無明を断じて一分の中道の理をあらわすのであるが、このとき、修行者は、別教は“隔歴不融”の教えにすぎないことを知って、別教を捨て、円教に移り変わってこれを修行するようになる。
 したがって、実質的には別教の修行者は、第四十一位以後は法華経の修行者となってしまう。ゆえに、別教で仏になる人は全く存在しないのである。
守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」
 守護国界章は伝教大師最澄の著で三巻からなり、略して守護章ともいう。
 本抄に引かれている二つの文はともにこの書物の巻下之中の冒頭に出てくるものである。今、その個所を引用すると、次のようになる。
 「麤食者謬りて報仏の智常を破するを弾ずる章第三
 有為の報仏は夢の裏の権果、無作の三身は覚の前の実仏なり。夫れ真如の妙理に両種の義有り。不変真如は凝然常住、随縁真如は縁起常住なり。報仏如来に両種の身有り。夢の裏の権身は有為無常にして、覚の前の実身は縁起常住なり。相続常の義に亦両種有り。随縁真如相続常の義、依地縁生相続常の義なり。今真実の報仏、随縁真如相続常の義に摂す。麤食執する所の凝然真如は定めて偏真と為す。三獣同じく渉るを以っての故に、随縁を具せざるが故に、縁起即せざるが故に、教に権実有るが故なり。権教の三身は末だ無常を免れず、実教の三身は俱に体俱に用なり」と。
 文中の茶色の部分が本抄で引用されている個所である。
 文中「麤食者」というのは、法華経の醍醐味を食せず爾前権教の粗食で満足する者、という意味であり、間接的に法相宗の僧・徳一をさしている。
 守護国界章という書物自体、徳一が唯識思想の立場から天台の宗義を論難した中辺義鏡という書を破折して天台の正義を顕したものである。
 第一の論難は、天台大師が法華文句巻九下において釈した法華経如来寿量品第十六の法・報・応三身論をめぐってなされている。
 まず、その法華文句の文を挙げると「此の品の詮量は、通じて三身を明かす。若し別意に従わば、正しく報身に在り」とある。
 これによると、寿量品の久遠開顕の仏は「通じては三身を明かす」とあるように、法・報・応三身円満の久遠常住の仏身である。しかし、「別意に従わば、正しく報身に在り」と、別しては報身仏であると述べている。
 では、何ゆえに報身が中心とされるのか、ということであるが、報身の“報”とは“因願酬報”の意味である。
 すなわち成仏仏道を求めて精進する菩薩が、自ら立てた誓願を成就すべく修行に励み、遂に、その修行が完成して誓願が成就したときに、その果報として受ける仏身のことを“報身”というのである。
 また、報身のことを“因行果徳身”ともいう。つまり、因位の菩薩がその修行を積み重ねて、修行を完成・満足した結果として得られた仏身を意味するからである。
 で、何ゆえ、この報身が三身の中心的位置を占めるかといえば、報身は上の法身につながり、下は応身につながるからである。
 法身が永続的な法そのものをさすのに対して応身は間近に配することができるが、無常を免れない存在と云う欠点をもつことになる。この抽象・永続性と具体的・無常なる仏身とを連結して、その中庸を得ているところに、報身が珍重される所以がある、ということができよう。
 ところで、徳一は天台大師の釈した「三身常住」や「報中論三」の“報身”に対して、唯識思想の立場から“理法身は自性常住であるが智報身は従因生であるから、報身は相続常であっても自性常ではない”と論難した。
 このことについて少し解説すると、唯識の立場は“真如凝然・不作諸法”という言葉に要約される。これは、真如と諸法との間を二元対立的に考え、真如は凝然不動の法理であるから、個別的で無常なる事物・現象の“依”であるが、諸法と同体ではないとし、無常なる諸法が生起する原因として別に阿頼耶識を設定して、この心論のなかに蔵される種子があらわれ起きたものが諸法であると考える。徳一はこの考え方に立って、天台大師の立てる三真常住や報中論三の“報身”に対して論難を加えたのである。
 すなわち、三身のうち、法理は前述したように真如凝然の理法を仏身に約したものであるから、それ自体常住であるが、報身は“従因生”、すなわち、因位の菩薩としての凡夫・衆生が発心し修行を積み重ねて、その結果、真如の理法を認識する智慧があらわれて、“因願酬報”としての報身仏になったので有るから“有始無終”ととらえるのである。
 たしかに、報身は凡夫から仏になったという始まりが有り、あるいは凡夫から作られたという側面をもっており、仏果を得た後はいうまでもなく終わりが無いから、“無終”である。
 徳一は報身仏について、有始無終の立ち場に立って、理法身のように自性常住ではないが、仏果を得てからは常住であるから、相続常住であると、天台大師の報身常住論を論難したのである。
 この徳一の論難に対して、伝教大師が、報身も常住である理由を真如随縁論と三身俱体俱有論を駆使して論駁したのが、先に挙げた守護国界章巻下之中の文なのである。
 この文中、真如随縁論というのは、真如の妙理に、不変真如と随縁真如の両面があるとする。そして真如の不動面が不変真如、真如の活動面が随縁真如とする。
 さて、唯識思想の採った、真如と諸法の二元対立的な考え方に対して、伝教大師の真如随縁論は、これらを一元的に把握する、すなわち、無明の風に吹かれて不動の真如海に起きた活動の万波が即諸法であるとする。したがって、真如と諸法とは一元的に捉えられるのであるから、常住論に関しても、不変真如が凝然常住であるのに対して、随縁真如が縁起常住ということになる。
 この考え方を報仏・法身に応用すると、報身如来に夢の裏の権身と覚の前の実仏の両種があることになり、前者は有為無常であるのに対して後者は縁起常住となるのである。また、相続常に二種あり、随縁真如相続常と依地縁生相続常であり、真実の報仏は随縁真如相続常に摂する、と述べるとともに、麤食者が執するところの凝然真如は諸法から超絶しているゆえに“偏真”にすぎず、随縁を具していないから縁起という仏法の根本の考え方に即していない、と破している。
 以上から、本文に引用された守護国界章の二つの文の意義は明確となろう。
 二つの文はそれぞれ表現が異なっているが、同じ内容を表したものであろうことは明らかであろう。まず“有為の報仏”が“権教の三身”“夢中の権果”が“末だ無常を免れず”にそれぞれ相当し、“無作の三身”が“実教の三身”、“覚前の実仏”が“俱体具有”に対応している。
 つまり、徳一がとらわれている“報仏”というのはあくまで前の三教、権教に説かれた三身のなかの“報仏・報身”であるから、夢の中の“権”の仏果にすぎず、末だ無常を免れないものである、と破っている。換言すれば、徳一は天台大師の報中論三の“報身・報仏”を論難したつもりが、実際は、権教の夢中の三身のうち報身を論難したものにすぎず、空振りに終わっている、と伝教大師は破折したのである。
 たしかに、権教の三身中の法身は、凡夫・衆生としての菩薩が因行としての歴劫修行を積んで、その果てに報われて智慧が生じ仏果を得るわけであるから、どこまでも凡夫が“報われた”という側面や凡夫から“作られた”という側面、言い換えれば“始成正覚”の立場がつきまとうのである。
 ところが、天台大師が法華文句巻九で論じた久遠実成の釈迦仏は、すでに始成正覚を打ち破って久遠の生命を閉鎖した仏について釈したものであるから、初めから“真如・法性に目覚めている”本覚の仏身について論じているのである。
 ここで「覚前の実仏」の“前”は“夢の裏”に対比して用いられたもので、時間的な前後とは異なることを知らなければならない。
 ゆえに、この“覚前”を“覚る前”と読むと、凡夫と同じになってしまい、ここで伝教大師の真意を取り違えることになろう。
 さて“覚前の実仏”である“無作三身”の内容であるが、先の引用文では“実教の三身”であり“俱体俱用”と述べられている。
 また、権教の三身が“前三教の修行の仏”であるのに対し、実教の三身が“後の円教の観心の仏”であるとされている。
 実教の三身というのはいうまでもなく法華円教の“観心の仏”であり。“観心の仏”とは“前三教の修行の仏”との対比で説かれているように、法華円教を“観心”によって把握した“本覚の仏”のことである。
 この実教に説かれた法身・報身・応身の三身は本覚のゆえに権教の三身のように作られた“有為”“有作”ではなく、修行なく造作なしの三身であるから“無作の三身”といい、しかも、法・報・応の三身の一身が互いに他の本体でもあり、働きであるという関係を有しているところを“俱体具有”というのである。

0560:04~0560:17第六章 有教無人の権を説く所以明すtop
04                                            此の前三教には仏に
05 成らざる証拠を説き置き給いて 末代の衆生に慧解を開かしむるなり 九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死
06 の夢に溺れて 本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、 是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つ
07 て顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て 夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、 夢
08 中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば 先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、 三三九品なり、
09 此くの如く説き已つて 後に又上上品の根本善を立て 上中下・三三九品の善と云う、 皆悉く九界生死の夢の中の
10 善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善
11 の本と云うと説き聞かせ給し時に 夢中の善悪の悟の力を以ての故に 寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事
12 なり、 是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば
13 夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理
14 是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば 成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は
15 皆悉く方便・夢中の善悪なり、 只暫く之を用いて衆生を誘引し給う 支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く
16 方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり、 四教一一に各四門有つて差別有ること無し 語も只同じ語なり文字も
17 異ること無し 斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を 仏法滅すと云う
-----―
 釈尊はこの前三教では仏になることができない証拠を説き置かれて、末代の衆生に慧解を開かせたものである。
 九界の衆生は一念の無明という眠りのなかにあって、生死の夢に溺れて、本覚の寤を忘れ、夢のなかでの是非に執着して、冥きから冥きへとさまよっているのである。それゆえに如来は、我らの生死の夢のなかに入って、顛倒の衆生と同じ境界に立ち、夢のなかの言葉を使って、夢のなかにある衆生を誘い導き、夢のなかでの善悪の差別を説いて次第に誘引されるのであるが。夢のなかの善悪のことは、重なり合ってさまざまであり、無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下の三つを立てた。いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。この三乗の法を修行する人にまた上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。
 このように説き終わって後に、上上品の根本の善を立てられたのを、上中下三三九品の善というのである。
 しかしこれらは、皆ことごとく九界生死の夢のなかの是非善悪である。今これを総じて邪見であり、外道とするのである。これは妙楽大師の摩訶止観捜要記の意である。
 このうえにまた、上上品の善心は本覚の寤の法理だから、これが善の根本であると説き聞かせたときに、夢の中ながら善悪を立て分ける悟りの力によって寤の本心の実相の法理を初めて聞知することができたのである。
 このとき仏は「夢と寤との二つは、架空のことで実際のことと違いがあるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁に値えば夢を見、眠りが去れば寤の心に戻るのであって、心法はただ一つである」と開会されたが、その開会の下地を作り置くための方便の教えである。これは別教の中道の法理にのっとっているのである。
 このゆえに、未だ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏の人はいないのである。このように三蔵教から別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、夢のなかの善悪を説いたものである。ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。
 この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。また言葉も同じであり、文字にも違いがない。これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを仏法が滅びるというのである。

末代
 正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
―――
慧解
 「慧」とは智慧、仏智のこと。「解」は悟ること、領解すること。仏智を涌現して、実相を正しく領解することを「慧解」という。したがって、邪智をもって物事を推量し、悟ったつもりで、けっして、慧解とはならない。念仏者追放宣旨事には「愚蒙の結党・姧の会衆を名けて専修と曰い闐閭に旁ねし心に一分の慧解無く口に衆罪の悪言を吐き」(0095-05)とある。
―――
一念
 心に深く思い込むこと、ふと思い出すこと。瞬間の生命をいう。
―――
冥きより冥きに入る
 法華経化城喩品第7には「衆生は常に苦悩し、盲冥にして導師無し。苦尽の道を識らず、解脱を求むることを知らずして、長夜に悪趣を増し、諸天衆を減損す。冥きより冥きに入って、永く仏の名を聞かず」とある。
―――
顛倒の衆生
 心が顚倒していく衆生のこと。正しい智慧がないために物事を正しく判断できない衆生のこと。「顚倒」はさかさまになることで、煩悩のために仏の示す道理に背き、物事の判断を誤ること。
―――
漸漸に誘引
 爾前権教で衆生の機根に合わせて法を説いて機根を調熟してきたこと。「漸漸」は次第に・段々にの意。
―――
重畳
 ①かさねがさね・たびかさなること。②このうえもない満足・まことに好都合。
―――
三乗の法
 衆生の機根に応じて説かれる三種の悟りの道。
―――
三三九品
 上中下の三品をさらに三品に分け、上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下品に分けることをいう。事物・事象を分析して判断する方法。
―――
上上品の根本善
 三三九品の善法中の最高善のこと。諸善の根本。
―――
邪見外道
 邪義・邪説を説く者のこと。
―――
捜要記
 摩訶止観輔行捜要記、10巻からなる。
―――
聞知
 聞き知ること。
―――
心法
 ❶心そのものやその働きのこと。❷密教で説く三密のうち意密にあたる。
―――
開会
 爾前権教が方便として仮に説かれた教えであると明かし、これを真実の教えである法華経から正しく位置付けて生かすこと。もともと、一乗(唯一の仏の教え)を三乗(声聞・縁覚・菩薩に対応した教え)に分けて示すのが「開」、三乗を一乗に統一するのが「会」であるが、後には「開会」で一つの熟語となり、さまざまなものを、より高い立場から位置づけ、真実の意味を明かすことをいう。
―――
別教の中道の理
 別教で説く中道の理。円教では空と仮と相即した中道を説くが、別教では空や仮を否定した中道を説くので但中の理という。
―――
十界互具
 法華経に示された万人成仏の原理。十界互具とは、地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
円融相即
 隔歴不融に対する語。円融は諸法が完全に融けあって隔てがなく、水と波のように互いに密接不離であること。華厳宗は、十玄六相・法界円融を説き、円融相即の世界観を展開している。
―――
八教
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。
―――
分分
 それぞれの身分に応じていること。
―――
権実の法闕けざるなり
 権教の中にも権教と実教があるということ。
―――――――――
 では、成仏できるという教えや言葉のみ有って、実際には成仏するひとがいない権教すなわち前三教は、何のために説かれたのであろうか。
 この点に関して、法華経に入らしめるための方便として説かれたものであると、次のように述べられている。
 「此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、此の故に如来は我等が生死の夢の中に入って顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば、先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり」と。
 つまり、生死の夢のなかにいる九界の衆生を夢から覚ませるために、仏自ら九界の夢のなかに入り、夢のなかの語でかたりつつ説いたのが前三教の教えであり、それはどこまでも法華経の真実の悟りの世界へと誘引する方便であったのである。
 仏は衆生を法華経へと導く方便として、夢のなかの善悪のうち、まず善事について、上中下の三段階、すなわち声聞・縁覚・菩薩の三乗を明かした。そしてこの三乗のそれぞれに、機根・修行に応じて上・中・下の三品を立てて、三三九品を設けたのである。
 したがって菩薩のなかで最も勝れているのが“上上品の根本善”ということになるが、しかし、これも「九界生死の夢の中の善悪の是非」にすぎない。
 ゆえに、捜要記とういう書物においては、上上品の根本善を含めた、これら三三品の段階を総じて“邪見外道”と破折している。と説かれている。
 この、爾前権教における上上品の根本善は、一面では「九界生死の夢の中の善悪の是非」にすぎないが、他面においては、この夢のなかの善悪の判断力によって、後に説かれる実教・法華経で明かされる“寤の本心の実相の理”を理解できる下地にはなる。
 すなわち、上上品の根本善は、一面では夢のなかではあるが、同時にもう一面では、寤への橋渡しという位置にあるといえるのである。
 この点について本文では「夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり」と述べられている。
 つまり、菩薩の上上品の根本善の境地まで導かれてくると、まだ方便の夢のなかに存在してはいるが“夢と寤とはいっても所詮は一つの心法のみがある”と教えるのである。
 しかしこの教えは、夢と寤に対して「一つの心法」を格別のものとして立てるので、別教の中道の理となると述べられている。
 したがってこの教えは、眠の縁に出会えば夢、縁が去れば寤、そして寤・夢のいずれもただ一つの心法からあらわれるという。法華経の真理へと開会する下地としての方便なのである。
 こうして、爾前経・権教は夢中の法門、法華経は寤の法門と区別されるのであるが、爾前経も衆生を夢から覚ませるために説かれたものであるから、その夢のなかにも現実に通ずるものが織り込まれている。
 このことを「此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり」と説かれているのである。
 すなわち、権のなかにも権実があり、また、蔵・通・別・円の四教の一つ一つに有・空・亦有亦空・非有非空の四門が含まれている。
 したがって、夢中の法門である爾前権教も、寤の法門である法華経と通ずる内容が含まれていることが少なくないし、またそこで用いられている言葉も文字も法華経と同じであることが多い。
 しかしながら、夢は夢であるから、それを寤の現実と混同し、権実の差別を分別できなくなったときに仏法は滅すると警告されている。
九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに
 仏・如来は何ゆえに方便権教を説くかといえば、衆生が九界の夢の世界にいるからである。
 仏・如来からみると、九界の衆生というのは“一念の無明”によって眠っているような状態で、いつも夢のなかの是非・善悪に執着しているために、冥から冥きへと流転していくのである。
 また、九界の衆生は“本覚の寤”を忘れているのである。忘れている、ということは本来、在ることを知っていながらそれに軌づかないということであるから、“本覚の寤”は九界の衆生と同じ一念のなかに内在していることを暗示されている。
 また、そのことは「?倒の衆生」という表現においても明白である。本来の本覚の寤からみれば、“?倒”とは、九界の衆生は本来の姿を忘却することである。つまり、一念の無明によって生死の夢を流転すると九界の衆生となり、同じ一念の法性があらわれると本覚の寤となって仏界となる。
 しかし、如来がこの九界即仏界の法理に基づいて、九界の衆生に対して直ちに「夢見ている心も寤の心も同じ一つの心であるから、一念の心のなかの法性を根本とすれば成仏できる」と説いても、現実の衆生は生死の夢のなかの是非・善悪に執着しているので、夢のなかでの善事を法性と認識してしまう危険性がある。一度、誤ってしまうと、真に法性に到達することが難しくなるので、如来はまず衆生が陥っている夢の状態から目覚めさせることから教えるのである。
 衆生を生死の夢から覚まさせるためには仏は法を説くのであるが、そのためには衆生の夢のなかに自ら入り、夢のなかの言葉で法を説いて次第に誘引するのである。それが権教にほかならない。
三三九品と上上品の善心
 仏・如来は“夢の中の是非・善悪”に執着している衆生を導くために、衆生と同じ夢中の言葉を用い、夢中の是非・善悪を使いながら、次第に、夢から目覚めていくように誘導していくのである。
 その誘導の仕方を述べられているのが「夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり」の御文である。
 すなわち如来は、無量・無辺の善悪のなかで、善に上・中・下があるとして、“三乗の法”を立てるのである。
 更に、この三乗をそれぞれに機根に応じて上・中・下があることを示し、結局3×3で9種類があるとする。
 このように、九品の段階を立てた後に、菩薩のうちの上根が到達すべき境地として、“上上品の根本善”を立てた。
 しかし、これらはすべて“九界生死の夢の中の善悪の是非”のうち善・是の側面にすぎず、「総じて邪見外道と為す」とあるとおり、法華経の実教からみれば、邪見外道にほかならない。
 すなわち、ここで衆生は「夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知」するのである。
 そこで仏は「夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり」と開会するための下地を造ったのである。
 それを衆生の側についていうと“上中下・三三九品の善”の階梯を修行によって次第に登り、“上上品の根本善”に到達したとき、別教の中道の理を覚知し、この別教の中道の理によって夢と寤とを一貫している、ただ一つの“心法”の一分を悟るのである。
 しかし、別教の中道の理は、隔歴の三諦といって、空・仮・中が別々に追求されるなかで、他の空、仮を捨てて、とくに中道のみが獲得されるべきものであるとするもので、迷いと悟りを厳然と峻別し、衆生と仏をも断絶したものとしている。
 したがって、たとえ“上上品の根本善”である別教の中道の理に到達したとしても、成仏の悟りは程遠いものである。
 しかしながら、権教のなかにも方便と真実、四門があって、実教に説かれるのと同じ言葉や説き方がなされているために、権教と実教を同じであると錯覚しがちである。
 それがまさに、諸宗の人師達の陥った誤りであり、大聖人は、仏法が滅する根源がここにあることを鋭く指摘されているのである。

0560:17~0561:11第七章 権実は浄土に無きことを示すtop
17                                        是の方便の教は唯穢土に有つ
18 て総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には 唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し 仏の方便
0561
01 の説をば除く」已上、 故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて 往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法
02 をば之を嫌いて取らずして成仏す可き 道理有る可しや否や 一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く
03 三世の諸仏 同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば 我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり
04 云云、 方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、 無分別の法
05 とは一乗の妙法なり 善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我
06 が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周ヘンして闕くること無し 十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の
07 中に有つて 片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて 是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて
08 余法有ること無し 故に無分別法と云う是なり、 此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取
09 つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、 我仏に成りて後に穢土に立ち還りて 穢土の衆生を仏法界に入らし
10 めんが為に次第に誘引して 方便の教を説くを化他の教とは云うなり、 故に権教と言い又方便とも云う化他の法門
11 の有様大体略を存して斯くの如し。
-----―
 この方便の教えは、ただ穢土のみあって、浄土にはないのである。法華経方便品第二には「十方の仏土のなかには、ただ一乗の法のみがあって、二乗の法も三乗の法もない。仏の方便の説を除くのである」と説かれている。
 ゆえに十方の仏土にはない方便の教をとって往生の行とし、十方の浄土にある一乗の法を嫌い、それを取らないで成仏できる道理があるかどうかを知るべきである。
 一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文し、こう言われている。三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式であるので、我もこのように三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのである、と。すなわち方便品にいわく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と。
 無分別の法とは一乗の妙法である。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵のなかにも、それぞれが十法界の法を具足している。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心のなかに収まって瞬時も離れることがない。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、このほかには仏の法はないのである。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのである。
 この一乗妙法の修行を選択しないで、全く浄土には無い方便の教をとって成仏の行とするのは迷いのなかの迷いである。
 自分が仏になって後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入れさせるために次第に誘引して方便の教えを説いたのを化他の教というのである。
 それゆえに権教ともいい、方便ともいうのである。化他の法門のありさまは、略していえば大体このようなものである。

穢土
 けがれた国土のこと。煩悩と苦しみが充満する、凡夫が住む娑婆世界。
―――
浄土
 仏の住む清浄な国土のこと。また、国を浄めるという意に使うこともある。煩悩でけがれている穢土(衆生の住む娑婆世界)に対し、仏の住む国土は五濁の垢に染まらず清らかなので浄土という。浄土については大別して2種の考え方がある。①浄土と現実の娑婆世界とはまったく異なった世界であるとする説。無量寿経などに説かれる。菩薩が修行を経て仏になる時に完成する国土で、阿弥陀経に説かれる阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界、釈迦仏の西方無勝世界、薬師如来の東方浄瑠璃世界などがある。こうした諸仏の浄土が、娑婆世界からみてあらゆる方角(十方)にあるので、十方浄土という。②維摩経に「其の心浄きに随って則ち仏土浄し」と説かれるように、心が清浄になれば住む世界も清浄となり、現実の娑婆世界が即浄土となる(娑婆即寂光)との説。法華経如来寿量品第16に説かれる霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、大乗密厳経の密厳浄土などがこれにあたる。なお爾前経に説かれた種々の浄土観は、衆生の機根を法華経へ導くための方便説であり、釈尊は法華経本門において初めて久遠実成を明かし、本因・本果・本国土を説いて、娑婆世界こそ仏の常住する浄土であると明かした。
―――
十方
 東西南北の四方と、東北・東南・西北・西南の四維と、上下の二方を合わせたもの。空間的に全宇宙を表している。
―――
一乗の法
 一仏乗のこと。「仏乗」は仏の境地に運ぶ乗り物の意。一切衆生をことごとくじょうぶつさせることのできる唯一の教法のことで、法華経をさす。
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往生
 死後に他の世界へ往き生まれること。浄土信仰では、苦悩に満ちた穢土であるこの娑婆世界を離れて、浄土に生まれることをさした。特に阿弥陀仏への信仰の隆盛に伴い、往生といえば阿弥陀仏の浄土である安楽世界に生まれる極楽往生をさすようになった。
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教主
 衆生を導く教えを責任をもって説く主体のこと。
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釈迦如来
 シャーキャ族の聖人(釈迦牟尼)。人々から尊敬される人物の意で、仏教の創始者ゴータマ・ブッダをさす。釈尊は古代インドに王子として生まれ、シッダールタと呼ばれた(生誕の地ルンビニーは現在のネパールに位置している)。若き日、生・老・病・死という免れられない人間の苦しみを目の当たりにし、今は青春の真っ只中で健康に生きていても、生・老・病・死は免れがたいことを知り、その根源の苦悩の解決法を探究しようとして出家した。シッダールタは、万人が羨む、満たされた王子としての境遇にあった。しかし、人々が求める贅沢さもしょせん、はかなく空しいと知り、楽しむことはなかったと回想している。そこで、釈尊は人間が生きる意味を明らかにする正しい思想・哲学を求めた。しかし、伝統的な教えにも、また同時代の革新的な教えにも満足できず、瞑想修行によって、種々の苦悩の根本原因とその解決について探究した。その結果、一人一人の生命、宇宙を貫く永遠普遍の「法」に目覚めた。それ故、サンスクリットで目覚めた人という意味の「ブッダ」と呼ばれる。後に中国では漢字で「仏」「仏陀」などと表記した。釈尊は、人々が自己の本来的な尊厳性への無知から、自己中心的な目先の欲望にとらわれ、他の人を不幸に陥れてでも幸せになろうとするエゴイズムに覆われていると喝破した。そして、内なる永遠普遍の法に目覚めて根源的な無知(無明)から解放された、自己本来の清浄な生命に立ち返る生き方こそ、人間が人間らしく生きるために必要な最も尊く優れたものであると教えた。また釈尊は、自己の尊厳性を自覚することによって他者の尊厳性を知り、尊敬することを教えた。これが「慈悲」の基本精神である。釈尊は、ある大王に対して、だれにとっても自分以上に愛しいものはない、自己を愛する者は他人を害してはならないと教えている。仏教の説く「慈悲」とは、他の人も自身と同じように大切な存在であると知って他の人を大切にすることであり、万人に双方向性をもつものである。▷慈悲【諸経典に説かれる釈尊】釈尊の言行は弟子たちによって後世に伝えられ、それぞれが重視する観点から種々の経典が編纂されていった。それらに示される釈尊像は、その経典制作者たちがとらえた理想を体現する仏であり、しばしば神格化され超越的な姿と力をもつものとして描かれている。その釈尊像は、それぞれの経典の教えを反映するものであり、「観心本尊抄」に基づいて経典の教説の分類に対応させて仏身を6種に立て分けられる。すなわち、蔵・通・別・円の四教においてそれぞれの仏身が説かれ、円教である法華経では迹門・本門の仏身が示されている。本門においては、文底の教えを立て分け、文底下種の法を説く仏身を立て分ける。それぞれの仏身はそれぞれの教えにおける成仏観を反映したものとなっている。
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三世の諸仏
 過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
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方便品
 妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
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無分別の法
 諸法実相の妙理のこと。心で推量・思惟することができない法。または善悪・三乗等の差別のない普遍的な法。一仏乗のこと。
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微塵
 微細な塵のこと。転じて数量の多いこと。
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具足
 具はそなえる・そなわる・うつわ。足はたる・たりる。①十分に具えること、円満具足の義。②器具の総称、甲冑をさすこともある。仏教では仏前に供する灯明・焼香・立華を三具足という。
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我が心の妙法蓮華経
 わが生命が妙法蓮華経の当体であるということ。
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周徧
 あまねくゆきわたること。
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依報
 報とは果報のことで、過去の行為の報いをいう。この報い(果報)を受ける主体である衆生の心身を正報といい、正報のよりどころとなる環境・国土を依報という。一念三千の法門においては五陰・衆生の二世間が正報、国土世間は依報であり、ともに一念のなかに含まれ、依正は不二となる。現象面では二であるが、相互に深い関係性があり不二である。
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正報
 「報」は過去の行為の因果が色法の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。
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功徳荘厳
 功徳をもって荘厳すること。
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三身即一の本覚の如来
 三身即一身・一身即三身の本覚の如来のこと。
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 ここでは、法華経方便品第二の「十法仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。仏の方便の説をば除く」の文によって、十方の仏土にある法は、実教である一仏乗の法華経のみあって、方便権教の教えはないことを示され、浄土宗が十方の仏土にない方便権教の教えを立てて一仏乗の法華経を嫌っていることの矛盾を破折されている。
 方便化他のために、まず種々の法を説き、しかる後に無分別の一乗の法を説くのは、三世の諸仏の説法の儀式であり、釈尊もそれと同じにしたのであると方便品の文を引かれ、この無分別の法すなわち、一切万法が我が己心に収まる、という妙法こそ仏の悟りであり、仏はこの無分別の法から立ち返って、穢土の衆生を仏法界に入らしめ、説いたのが、「化他の経」であることを述べられ、これまでの“化他の経”についての論を結ばれている。
 以上の論述からも明らかなように“化他の経”といっても、本来“自行の法”があってのものであるゆえに、これまでの展開においてもすでに化他の経の説明のなかに自行の法についての記述が、かなりの比重を占めて説かれていたことはいうまでもない。
 逆に、以後の“自行の法”が明かされていく文中においても“化他の経”にしばしば触れられていくのである。
無分別の法とは一乗の妙法なり
 “化他の経”をもって誘引し、その後に“自行の法”を明かすのは三世の諸仏が踏まれる順序であることを述べた方便品の文中にある「無分別の法」を説明されたところである。
 自行の法とは次章の文に「自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり」という御文が説かれているが、ここでも、化他の経との関係性のうえから自行の法に通ずる“無分別の法”について説き明かされている。
 、まず、法華経方便品第二の「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」という経文を挙げられ、この経文中の“無分別の法”についてその義を述べられたのがこの文である。
 方便品の文は、三世の諸仏は説法の儀式として必ず始めに方便の教えを説いて、次に悟りの法門である“無分別の法”を説いて衆生を開悟させるという順序次第を踏むように、釈尊も全く同じ儀式を踏まえるということを述べたところである。
 この“無分別の法”について大聖人は次のように釈されている。
 「無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周?して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり」。
 この御文を拝するにあたり、分別と無分別の相違について明確にしておく必要がある。通常、凡夫の世界は“分別”の世界である。自己と他人、自己と環境世界、善と悪、心と身体等などというように、すべてを区別していく。その区別は人間の使用する言葉を有する分割の働きに応じて、ますます細分化していく。
 仏の悟りは、そうした言葉による分別を超えた世界にある。すなわち善人であれ悪人であれ、有情であれ非情の草木・国土であれ、すべてが十法界の法を具足している。そして、妙法蓮華経の当体である我が生命は、十方の国土に周遍しているとともに、十方の浄土のすべてが、我が己心中に収まっているというのが、仏の悟りの境地である。これが「無分別の法」ということである。
 凡夫は常に自己とすべての環境世界、身体と心等というように分別・区別して生きている。これは“夢を見ている”状態である。
 「草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」との御文は、自己と環境世界とを分別する考え方を超えたものである。
 我々の心のなかに十法界があるととらえるだけでは、草木・樹林・大地等の環境世界が我々に従属していることに変わりはない。その意味ではまだ「分別」である。
 しかし、仏の悟りにおいては、寤の本心と全世界の事物、現象とが一つであるから“一微塵”のなかにも十界が具足することになる。そこでは、仏の寤の本心と一微塵が分別されていないからである。
 また「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周?して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無きとの仰せも、仏の寤の本心と十方の浄土とは一つで“分別”されないことを示している。
 寤の本心は十方の浄土に“周?”しているとともに、逆に十方の依報・正法の功徳荘厳が寤の本心のなかにあって片時も離れることがないのである。
 更に「三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と仰せのように、今度は、悟りの知見においては、寤の本心と身体とが“分別”されないから、法身・報身・応身の三身即一身が説かれているのである。
 仏はこの境地に立って衆生を導くために、自らこの悟りの境界から穢土に立ち還り、方便権教、つまり化他の経を説いたのである。
 ゆえに権教といい、また方便というものであると仰せられ、以上が「化他の法門」のありさまの大要であると結ばれている。

0561:12~0562:08第八章 自行の法について明かすtop
12   二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、 是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地
13 なるが故に夢中の言語を借りて 寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども 意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈
14 との意此くの如し、 之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、 但し此の化他の夢中の法門も寤
15 の本心に備われる徳用の法門なれば 夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に 四十二年の夢中の化他方便の法門も
16 妙法蓮華経の寤の心に摂まりて 心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり、 譬えば衆流を大海に納
17 むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて 己心に摂むるが故に心の外に法無きなり 己心と心
18 性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」
                                                  此れを三
0562
01 如是と云う、 此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故
02 に我が身は本覚三身如来の身体なり、 法界に周ヘンして一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時
03 其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に
04 還つて皆仏道を成ず、 仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し 故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成
05 仏とも 平等大慧とも無分別法とも 皆成仏道とも云う只一つの法門なり、 十方の仏土は区に分れたりと雖も通じ
06 て法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、 十界の衆生は品品に異りと雖も 実相の理は一なるが故に無分別な
07 り百界千如・三千世間の法門 殊なりと雖も 十界互具するが故に無分別なり、 夢と寤と虚と実と各別異なりと雖
08 も一心の中の法なるが故に無分別なり、 過去と未来と現在とは三なりと雖も 一念の心中の理なれば無分別なり、
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 第二の自行の法とは、八ヵ年の法華経の説のことである。この経は仏の寤の本心を説かれた経である。ただ衆生は夢のなかの心地に思い慣れているので、その夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えたのである。したがって夢のなかの言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えたのである。法華経の文とその釈の本意はこういうことであり、このことを明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのである。
 ただし、この化他のために説いた夢のなかの法門も寤の本心に備わった徳用の法門であり、その夢のなかの教えをとって寤の本心に収めているのであるから、四十二年の夢のなかの化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのである。これを法華経の開会というのである。たとえば衆流を大海に納めるようなものである。
 仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心のなかに摂めるゆえに、心の外には法はないのである。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来である。このことを法華経方便品第二には「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」と説かれている。これを三如是というのである。
 この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのである。このゆえに我が身は本覚三身如来の身体なのである。法界にあまねくいきわたり、しかもそれは一仏の徳用であるから一切の法は皆これ仏法なのである。と釈尊が説かれたとき、その座につらなっていた、もろもろの四衆・八部・畜生・外道等は一人も漏れずに、皆ことごとく妄想の僻目・僻思いが、たちごころに散り止んで本覚の寤に還って、皆仏道を成じたのである。
 仏は寤の人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。
 十方の仏土は、まちまちに分かれているけれども、法は通じて一乗の法であり、方便の教えがないゆえに無分別法である。十界の衆生はそれぞれ異なっているけれども、実相の理は一つであるゆえに無分別である。百界千如・三千世間の法門は異なっているけれども、 十界互具するゆえに無分別である。夢と寤と虚と実と各々別々で異なっていても、一心のなかの法であるゆえに無分別である。過去と未来と現在とは三つであるけれども、一念のなかの理なので無分別である。

自行の法
 仏の随自意の教えのこと。「自行」は仏の境地をそのまま説いた法華経のことであり、「法」とは教えのこと。
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法華経八箇年
 法華経は釈尊50年の説法中、最後の8年で説いた法門であるということ。
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徳用の法門
 化他の夢中の法門は自行の寤の法門にそなわった法門であるということ。「徳用」はすぐれた働き、仏果にそなわる功徳を意味する。「用」ははたらき。
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法華経の開会
 法華経の立場から見るとき、42年の爾前権教は法華経におさまることをいう。
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如是相応身如来
 「如是相」は「是くの如き相」と読む。姿・振舞いのこと。現象としてあらわれているものであるから、三身に配すると応身如来となる。
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如是性報身如来
 「如是性」は「是くの如き性」と読む。性質・性分のこと。性は体のそなえる性質・性分であるから三身に配すれば報身如来となる。
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如是体法身如来
 「如是体」は「是くの如き体」と読む。本体・生命それ自体のこと。生命の本体をさすから、三身に配すると法身如来となる。
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相好
 32相80種好を仏の相好という。相は麤・好は細。相は仏以外でも得ることができるが、好は仏のみに属す。また32相は総・80種好は別等と区別される。また相とは表示の意で、一見して殊別しうべきもの、仏は32相を現じて、見る者をして愛好尊敬の心を起こさしめ、それによって人中の尊なることを知らしめた。
―――
一切の法は皆是仏法なり
 爾前教では世間法と仏法には差別があったが、法華経にきて初めて一切法がみな仏法であると説かれたのである。
―――
座席
 座る場所。説法の会座の席。法華経の会座。
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四衆
 比丘(出家の男性)、比丘尼(出家の女性)、優婆塞(在家の男性)、優婆夷(在家の女性)のこと。
―――
八部
 仏法を守護する8種類の諸天や鬼神。法華経譬喩品第3(法華経160㌻)などにある。天竜八部ともいう。天(神々)・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の8種。
―――
畜生
 飼い養われている生き物の意で、動物を総称した語。人間の行動としては、理性を失って倫理・道徳をわきまえず、本能的欲望のままに動いていく状態をいう。強い者を恐れ弱い者を侮り、因果の道理をわきまえず、目先のことにとらわれて行動する境涯。三悪道の一つ。
―――
外道
 ❶仏教以外のインドの諸思想。これには、古代からの伝統宗教であるいわゆるバラモン教の思想や、釈尊と同時代に興隆していたジャイナ教などの新興の諸思想を含む。❷仏教以外の教えや信徒のこと、後に仏教内の異端に対する貶称として用いられた。
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妄想の僻目・僻思
 道理に合わない誤った考え、思い。「妄想」は道理に合わない想いの念・考え方。「僻目」は誤った考え・見方。「僻思」は誤った思いのこと。
―――
生死の虚夢
 人間の生と死についての苦しみは、はかない夢のようなものであること。
―――
即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
―――
平等大慧
 諸仏の実智のこと。諸法平等の理を悟り、一切衆生を平等に利益する仏の智慧をいう。宝塔品には「釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたもう」とあり、一切衆生を平等に、救済していく、広大な御本仏の智慧、大御本尊の智慧をいう。 
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皆成仏道
 すべての衆生が仏道を成就して成仏すること。法華経は、あらゆる衆生に本来的に仏性がそなわっていることを明かし、万人成仏の道を開いた。
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品品
 身分・才能・器量などによって、段階的な差別があること。
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百界千如
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。さらに、この百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如となる。
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三千世間の法門
 一念三千の法門のこと。天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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 ここは“自行の法”について説かれる。
 まず「自行の法は是れ法華経八箇年の説なり」と、法華経こそ、仏の悟った真理をそのまま説き明かした随自意の経、すなわち自行の法であることを示されている。ただし、この法華経の言葉は九界の衆生の語によっていることを「是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し、之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり」と述べられている。
 法華経は仏の悟りの真理、つまり寤の本心をそのまま説き明かした経であるが、いうまでもなく、九界の衆生に対して説かれたことは論をまたない。
 したがって、法華経の場合も九界の衆生も夢中の言葉を使って説いているが、その意は寤の本心を教えているのである。つまり、法華経の経文とこれを訳した教文とは、九界の衆生の言葉を使用していても、その意は仏の悟りの本心を説いたものであると明確に把握していかなければ「経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり」という結果となるのである。
 逆に、爾前権教も法華経の悟りのうえから設けられた方便の教えであるから、爾前の一切経も妙法蓮華経のなかにおさまり、その体内の一分となる。このことを「但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり」と述べられている。
 これまで、一切経を化他の経と自行の法との二つに立て分けて論じてきたのであるが、ここでは、“法華経の開会”によって、化他の法門も寤の本心に具わっている徳用=すなわち“働き”=からあらわれた法門であるゆえに、結局、42年の化他方便の法門は妙法蓮華経の寤の本心に摂せられる、と仰せられ、これを「衆流を大海に納むるが如きなり」とたとえられているのである。
 更に次の「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり」との御文は、化他夢中の法門が自行の寤の本心である妙法蓮華経に摂せられる、という法華経の開会を心法に約して論じられているのである。
 すなわち、前文においては、法門の立場から開会を論じられ、ここでは、心法の立場から展開されているのである。
 “仏の心法妙”は仏界、“衆生の心法妙”は九界にあたり、この二妙が“己心”に摂せられるので、「心の外には法無きなり」と結論されている。つまり、九界と仏界ともに具えた十界互具・一念三千の法体が己心即妙法蓮華経なのである。
 この「心」を、己心と心性と心体の三つの側面からとらえて、それが本覚の三身如来であると説かれたのが法華経であるとして「是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」と仰せられている。
 しかも、この三如是の本覚は「十方法界を身体と為し法身如来十方法界を心性と為し報身如来十方法界を相好と為す法身如来」のであるゆえに、法界のことごとくが一仏の体内におさまって「一切の法は皆是仏法」となるのである。
 この法理を説き明かしているのが法華経方便品第二の“諸法実相・十如是”の説法であり、この説法により、一切衆生の成仏が可能になったことを「其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず」と仰せられている。
 そして、このように衆生が“生死の夢”から覚めて“本覚の寤”に還ることを「即身成仏」といい、それを可能にした法華経を「平等大慧」とも「無分別法」とも「皆成仏道」ともいう、と述べられているのである。
 「平等大慧」とは、即身成仏であるゆえに一切衆生を平等に成仏に導くことができるからであり「無分別法」とは、一切衆生に対して分別を設けないからであり、「皆成仏道」というのは、いかなる衆生も成仏できる道が開かれたことをさしている。
 このうち「無分別法」については更に詳しく次の5つの観点から説かれている。
   ①十方の仏土はまさに別々に存在するが、一仏乗の妙法は十方仏土に通じて方便なく遍満しているということ。
   ②十界の衆生はそれぞれに相互に異なるが実相の理は十界の衆生に共通して妥当するということ。
   ③百界千如・三千世間の法門はこれを構成する十界・十如・三世間の法門に関してはそれぞれに異なっているが、十界互具しているから分別することはできない。
   ④夢・寤、虚・実の内容はそれぞれ異なるが、いずれも一心のなかの法であるから一つである。
   ⑤過去・未来・現在の三つといっても、いずれも一念の心中の理であるから分けることができない。
 以上の5点である。
己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり
 まえの御文で、「自行の法」としての法華経が仏の“寤の本心”を説いていることを明かされて、仏の心法妙も衆生の心法妙もともに己心におさまって「心の外には法無きなり」と展開された後、この仏の寤の本心の三つの側面を説かれ、それが「己心の本覚の三身如来」となることを教えられている。ここで注意すべきことは、己“心”の三側面が己“身”の三側面となっていることである。“心”とは法華経迹門での説法の次元であるのに対し“身”は法華経本門に説かれるところである。
 ゆえに法華経方便品の十如是中の三如是を挙げられ、それが本門の三身如来と対応することを「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」と示されたのである。如是相は己心で応身如来、如是性は心性で報身如来、如是体は心法で法身如来、となるのである。
 更に、この己心・仏身が十方法界と一体であることを「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」と説かれている。
十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり、夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり
 ここは、“無分別”について5つの観点から述べられたところである。
 すでに無分別法については、化他の経について述べられた最後の部分で、法華経方便品の経文中の「無分別法」についての釈として説かれたところであるが、ここでは自行の法を明らかにしていくなかでとかれている。
 5つの観点というのは、
 第一に「十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり」と述べられている。すなわち、法華経方便品の「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。仏の方便の説をば除く」という経文にあるように、十方仏土にはただ一仏乗のみあって、二乗のための乗り物や三乗のための乗り物はない。言い換えれば、十方の仏土にはただすべての衆生を成仏させる仏の乗り物のみがあって、方便として分別された二乗や三乗に導く乗り物が存在しない、という“無分別法”なのである。
 第二に「十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり」と説かれている。これは法華経迹門の中心主義である“諸法実相”を十界の立場からとらえられたものである。
 すなわち“諸法”は地獄から仏界に至る十界の差別があるが、“実相”は一理であり、分別が無いゆえに“無分別法”なのである。
 第三に「百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり」と説かれている。これは“百界”“千如”“三千世間”というように、一念三千の法門を構成するそれぞれの法門は細かく分別されているが、十界の各界が十界を互いに具すというように十界互具の関係になっているので、円融円満して“無分別”になるということである。
 第四に「夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり」と説かれている。夢と寤、虚と実は別々のものであるが、“一心”のうえでの現象形態にすぎないので、本来“無分別”なのである。
 第五に「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」と説かれている。過去・現在・未来の三つも、“一念の心”に収まるのであり、そこにおいては“無分別”なのである。
 “一念”は、一瞬、瞬間の生命である。仏の“一心”や“寤の本心”は、一瞬の生命=一念の心に過去・現在・未来の一切が収まっている、というのが、“一念の心中の理”なのである。
 “一心”や“心法”に万物・万象が具わるということは、単に空間的な側面のみではなく、この時間的な側面を含んでいることを示されているのがこの御文である。
 ただ“一瞬”“瞬間”“ひと思いの心”のなかに三世が収まるということにおける“一瞬”とは、通常、我々が経験的にとらえている過去→現在→未来という一方的な時間の流れのなかの現在における一瞬ではない。
 三世常住、久遠即末法という、大聖人の仏法の深遠な法理に立った意義を“一念”という言葉を用いて示されているのである。

0562:09~0563:01第九章 譬喩で爾前と法華の関係明すtop
09 一切経の語は夢中の語とは 譬えば扇と樹との如し 法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、 故に本
10 覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し 実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う 故に夢の語の扇と樹とを以て寤の
11 心の月と風とを知らしむ 是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、 故に止観に云く「月・重山に隠
12 るれば扇を挙げて之に類し 風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、 弘決に云く「真常性の月煩
13 悩の山に隠る煩悩一に非ず 故に名けて重と為す 円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し
14 四依の弘教は扇と樹との如し 乃至月と風とを知らしむるなり已上、 夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の
15 数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す 扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て 月と風との如くなる
16 本覚の理を覚知せしむる聖教なり 故に文と語とは扇と樹との如し」文、 上釈は一往の釈とて 実義に非ざるなり
17 月の如くなる妙法の心性の月輪と 風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、 故
18 に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と已上、 声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経
0563
01 論の言説なり無相の極理とは月と風との如くなる寤の 我が身の心性の寂光の極楽なり、
-----―
 一切経の語は夢のなかの言葉であるというのには、たとえば扇と樹とのようなものである。法華経の寤の心を表す言葉というのは、たとえば月と風とのようなものである。本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う。ゆえに夢のなかの言葉と扇の樹によって寤の心の月と風を知らしめるのである。これによってむ夢のなごりを散らして寤の本心に還らせるのである。ゆえに摩訶止観には「月が重山に隠れれば、扇を挙げて月にたとえ、風が大空にやんでしまえば、樹を動かして風の動きを教えるようなものである」と述べている。また止観輔行伝弘決には「真実の常性の月は煩悩の山に隠れる。煩悩は一つではないゆえに名づけて重山という。円音教の風は教化をやめて寂理に帰る。寂滅の法理は妨げるものがなく、ちょうど大空のようである。四依の菩薩の弘教は扇と樹とのようなもので、これをもって月と風とを知らしめるのである」と。またある人は「夢のなかの煩悩の雲は重なり合って山のようである。八万四千の塵労であって、心性の本覚の月を隠す。扇と樹とにたとえられる経論の文字・言語の教えによって、月と風とにたとえられる本覚の理を覚知させようとしたのが聖教である。ゆえに文と語とは扇と樹とにたとえられるのである」と。
 このある人の釈は一往の釈であって実義ではない。月のような妙法の心性の悟りと風のごとく我が心の般若の慧解とを教え知らしめるのを妙法蓮華経と名づけるのである。ゆえに法華玄義釈籤には「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と説かれているのである。声色の近名とは扇と樹とのような夢のなかの一切経論の言説である。無相の極理とは月と風とのような寤の我が身の心性の寂光の極楽である。

譬え
 物事の説明に対して、他に類似したものを表現すること。
―――
実相般若の智慧
 諸法の実相を究めている深い智慧のこと。
―――
止観
 『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。
―――
大虚
 大空のこと。
―――
弘決
 妙楽大師湛然による『摩訶止観』の注釈書。10巻(または40巻)。天台大師智顗による止観の法門の正統性を明らかにするとともに、天台宗内の異端や華厳宗・法相宗の主張を批判している。
―――
真常性の月
 真実に常住の性である仏性のことを月にたとえる。
―――
円音教
 釈尊50年の聖教の極説である法華経のこと。「円」は円教の円融円満の教えをさし、「音」は言語で、「教」は教え。
―――

 静か・やすらか・さびしい。煩悩を離れ心理があらわれること。
―――
無礙
 さわりがないこと。
―――
四依
 四つの依りどころとするもの。四不依に対する語。行の四依、説の四依、人の四依、法の四依がある。行、説の四依は釈尊存命中のための四依。このうち行の四依は比丘が修行において守るべき4種のきまりであり、説の四依はインドに生まれた釈尊の四依で仏の4種の意向をいう。人、法の四依は釈尊滅後の者のための四依。このうち人の四依は、正法を護持し広めて人々から信頼され、よりどころとなる4種の導師をいい、法の四依は衆生を利益する導師が必ず順守する四依をいう。したがって末法においては人、法の四依を用いる。❶法の四依・四不依。涅槃経巻6などに説かれる。①修行する人は仏の教えそのものを依りどころとして、教えを説く人に依ってはならない(依法不依人)。②教えの真義に従い、表面上の言葉・文章に依ってはならない(依義不依語)。③真の智慧に依って、凡人の感情・判断に依ってはならない(依智不依識)。③中道実相の義を説いた了義経に依って、そうでない不了義経に依ってはならない(依了義経不依不了義経)の四つをいう。❷人の四依。衆生が信頼してよい4種の人のこと。涅槃経巻6などに説かれる。①具煩悩性の人(三賢の位にある声聞)②須陀洹(預流)・斯陀含(一来)の人(声聞四果の第1・第2を得た人)③阿那含(不還)の人(声聞四果の第3を得た人)④阿羅漢の人(声聞の最高位で見思惑を断じ尽くした人)の4種をいう。『法華玄義』には、菩薩の修行段階である五十二位によって四依を分けている。それによると、五品(十信以前の段階)・六根清浄(十信)を初依、十住を二依、十行・十回向を三依、十地と等覚を四依とする。章安大師灌頂の『涅槃経疏』では、義によって声聞の四依を大乗菩薩の五十二位に配して、別教および円教の菩薩の四依を立てている。❸行の四依。修行者に対して執着のない生活を教えたもので、『四分律』などに説かれる。①糞掃衣を着て②常に乞食し③樹下に座り④腐爛薬(牛の尿を発酵させた薬)を用いるの四つ。❹説の四依。仏が説かんとする4種の意趣(意向)(平等意趣・別時意趣・別義意趣・衆生意楽意趣)の意で、ふつう四意趣という。
―――
八万四千の塵労
 一切の煩悩について説いた法門のことをさしていう。八万四千は実際の数ではなく、大数、多数の意。塵労は煩悩の異名。大智度論巻五十九には煩悩を病にたとえて、淫欲の病に二万一千、瞋恚の病に二万一千、愚癡の病に二万一千、等分の病に二万一千の八万四千の病があると説かれている。 
―――
心性本覚の月輪
 衆生の生命に本来具わっている覚りの本体があり、これを月にたとえている。月は無明の闇を照らすことから、迷いを晴らす覚りを月にたとえる。
―――
実義
 真実義のこと。仏の本意をいう。
―――
釈籤
 妙楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻。
―――
声色の近名
 眼や耳に訴えて信解させる事相の文句・玄教。
―――
無相の極理
 姿や形がなく不可説である実相の深理としての妙法蓮華経のこと。
ーーー
寂光の極楽
 寂光土・寂光の世界。寂光土が楽しみの極まった国土。
―――――――――
 一切経が何ゆえに夢中の語を説かれているかを示されている。
 すなわち「一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり」と、つまり、月を示すのに扇をもってし、風を教えるのに樹をもってするようなものであり、これによって衆生の無明の闇を晴らし、妄想の塵をはらわんとされたのであると述べられている。
 次に、この扇と月、樹と風のたとえの出典として、天台大師の摩訶止観の文と、これを釈した妙楽大師の弘決の文ならびにある古人の釈を引用されている。
 しかし引用された直後に「上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり」と退けられ、以下のように説かれている。
 「月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く」と。
 すなわち、法華経以外の一切経の文と語は扇や樹のようなものであり、それによって仏の悟りを教えようとした、というこれまでの論議は浅い一往の釈であり、実は法華経の文言自体が仏の内証の悟りをあらわさんがために用いられた扇や樹のたとえにあたり、仏の内証の悟りこそ月であり風である、と説かれているのである。
 これは先に「夢中の言語を借りて寤の本心を訓」えているのが法華経であると述べられたことを繰り返し御教示されたものといえるであろう。
 次に、釈籤の「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」という文を引用されて、仏の内証の悟りこそが月であり風であるという関係を裏づけられるとともに、仏の内証の悟りが“無相の極理”であり、“寤の我が身の心性の寂光の極楽なり”と仰せられている。
止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」
 摩訶止観の文は巻一上からの引用である。この文のまえに「もし説黙を競わば、教の意を解せず、理を去ることいよいよ遠し。説を離れて理無く、理を離れて説無し。説に即して無説、無説にして即ち説なり。二無く別無く、事に即してしかも真なり。大悲は一切の無聞を憐愍したもう」とあって、次にここに引用された文が続くのである。
 仏の悟りは、本来、言語道断・心行所滅のところにあるから、その悟りを説くのがいいのか、説かずに黙っているのがいいのか、議論の分かれるところである。しかし、天台大師は、説を離れて理なく、理を離れて説なく、説に即して無説、無説に即して説、と説いて、説か無説かの一方にとらわれるのではなく、“二なく別なし”であり“事に即してしかも真”である。すなわち、具体的な事象に即して真実を語ることが大切であり、仏の大悲は一切の無間、つまり仏法を全く聞いたことのない衆生を憐れむゆえに説法したのである。例えば、月が幾重にも重なった山に隠れてしまえば、月によく似た扇を差し上げて月にたとえ、風が太虚において熄むと、樹木を動かして風の存在を教えるように。つまり、仏の慈悲のあらわれとして、いかなる衆生にも分かるように仏法を説くというのである。
 この止観の文を釈したのが、止観輔行弘決巻一の二からの引用文である。すなわち、止観の“月”は“真常性の月”を表しているのである。
 “真常性”とは、真実常住の法理、換言すれば仏の悟りそのものを示している。その月が“重山”に隠れるという止観の表現は、真実常住の法理が衆生の煩悩によって覆われて隠れてしまうことをたとえたものである。しかも、衆生の煩悩はわずか一つだけでなく数多くあるので“重”山と表現されたのである、と。
 また、止観にいう“風”の円音の教風つまり、法華円教を演説する仏の声であり、その風が“太虚に息む”ということは、法華円教を演説する音声が止まって教化が止んで“寂”に帰すことである。
 更に、止観にいう“扇”と“樹”のたとえは、仏滅後四依の弘教を表している。つまり、仏滅後の四依の菩薩達の経説は、真常住の法理としての“月”を指し示す“扇”であり、法華円教を演説する仏の教えを知らしめるための“樹”だったのである、と。
 さて、以上の止観の文と弘決の釈の文とを受けて、次にこれを釈した「夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く」との文を引用されている。この文の意味は「衆生にあたっては仏性本覚の月輪が煩悩の厚い雲に隠されている。そこで、扇と樹にたとえられる経論の文言によって月・風にたとえられる仏の本覚の理を覚知させようとしたのが“聖教”すなわち仏の教えである」ということである。
 この釈に対して「上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり」として、上の解釈を一往の義であると破られて、「月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く」というのが実義であると示されている。すなわち月輪にあたるのは「妙法の心性」であり、風にあたるのは「我が心の般若の慧解」であるとされ、その教えを知らしめようとしたのが妙法蓮華経であると言われている。いわくいいがたい“実相の真理”それ自体が月、風にたとえられ、この実相の真理を言葉に表現した経典は法華経であれ法華経以外の経典であれ、扇と樹になるのである。
 このことを裏づけるために、妙楽大師の法華玄義釈籤巻一の「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」という文を引用されている。
 この文で“色声の近名”とは、声は衆生の耳に、色は衆生の眼にそれぞれ訴えることを表しているが“近名”とは“近い名”ということで、衆生の耳目に訴えて信解させることのできる文句や言葉のことをさしている。これら“近名”の言葉や文句を縁として修行することにより、“無相の極理”すなわち、形や姿のない実相の深義に到達できるのである。この“無相の極理”については、次の章で詳しく説かれる。

0563:01~0564:11第十章 仏の内証の悟りの相を明かすtop
01                                          此の極楽とは十方法界の
02 正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して 一体三身即一なり、 四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為
03 すは法身なり十界を心と為すは 報身なり十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正
04 不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て 寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、 生滅無常の相を離
05 れたるが故に無相と云うなり 法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、 此の無相の極理なる寂光の極楽は一
06 切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり 之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり 是の故に心外無別法と云う此れを
07 一切法は皆是仏法なりと 通達解了すとは云うなり、 生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚
08 の寤を以て 我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、
09 劫火にも焼けず水災にも朽ちず 剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず 心法も
10 縮まらず虚空の中に満つれども 虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、 故に心
11 の外に善無く悪無し 此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、 善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きな
12 り故に善悪も浄穢も凡夫 ・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も 言語道断し心行所滅す心に分別して思
13 い言い顕す言語なれば 心の外には分別も無分別も無し、 言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫
14 は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、 仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり 神通とは神の一切の法に通じて
15 礙無きなり、 此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり 故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の
16 悟なり 此の心の一法より国土世間も出来する事なり、 一代聖教とは此の事を説きたるなり 此れを八万四千の法
17 蔵とは云うなり 是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、 然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、
18 此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり 我が身中の心を以て仏と法と浄土とを 我が身より外に思い願い
0564
01 求むるを迷いとは云うなり 此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、 華厳経に云く「心は工なる
02 画師の種種の五陰を造るが如く 一切世間の中に法として造らざること無し 心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も
03 然なり三界唯一心なり 心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の
04 一法より無量義を出生す」已上、 無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常
05 の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に 不相と云うなり」云云、 心の不
06 思議を以て経論の詮要と為すなり、 此の心を悟り知るを名けて如来と云う 之を悟り知つて後は十界は我が身なり
07 我が心なり我が形なり本覚の如来は 我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて 無明と為す無明は明かなるこ
08 と無しと読むなり、 我が心の有様を明かに覚らざるなり、 之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性
09 とは一心の異名なり、 名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり 斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の
10 心の無明なるを断ぜば 寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず 故に一切の法は皆是れ仏法
11 なりと云うなり、
-----―
 この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったことをいうのであり、三身即一身の境界をさすのである。四土とは不二であって法身の一仏の身に納まるのである。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の外には仏はなく、仏の外には十界はないのである。依正不二であり身土不二なのである。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理というのである。生滅無常の相を離れているゆえに無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理というのである。この無相の極理である寂光の極楽は一切有情の心性のなかにあって清浄で煩悩を離れた境界である。これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
 生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顛倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないのである。とすれば既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓箭にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭ということもない。
 善に背くのを悪といい、悪に背くもを善という。ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。このゆえに善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである。心で分別した思いを言い表すのが言語であるから。心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声にあらわしたものをいうのである。
 凡夫は自身の心に迷ってそれを知らずに悟らないのである。仏はその心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのである。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのである。この自在の神通は一切の有情の心に具わっている。ゆえに狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは皆、心の神を分々に悟っているからである。
 この心という一法から国土世間も出てくるのである。一代聖教とはこのことを説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。この八万法蔵を我が心なかに孕み、懐き持っているのである。それなのに我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのである。
 この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのである。華厳経には「優れた画家が種々の五陰を描きあらわすように、一切世間のなかでの法はすべて心が作り出したものである。この心のように仏もまた同じであり、仏のように衆生もまた同じである。三界はただ一心からあらわれるものであり、心の外には別の法はないのである。心と仏と衆生と、この三つは差別はないのである」と述べている。無量義経には「無相・不相の一法から無量義を出生したのである」と述べている。無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心のことである。法華文句にこの経を釈して「生じ滅するという無常の相がないことを無相といい、二乗の有余涅槃・無余涅槃の二つの涅槃の相を離れていることを不相というのである」と述べている。この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要といい、この心を悟り知った人を名づけて如来というのである。
 こを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心が我が形である。それは本覚の如来は我が身心であるから、これを知らない時を名づけて無明とするのである。無明とは明らかなること無しと読む。我が心のありさまを明らかに覚らないことである。これを悟り知る時を名づけて法性という。ゆえに無明と法性とは一心の異名である。名と言とは二つであるけれども心はやだ一つも心なのである。このゆえに無明を断じてはならないのである。無明である夢の心の心を断じてしまえばぜ寤の心をも失ってしまうからである。総じて円教の意は一毫の惑をも断じないのである。ゆえに一切の法は皆これ仏法であるというのである。

 ここでは、前章に「無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり」といわれた。その「極楽」とはいかなる境界であるかを示されている。その内容を一言でいえば、我が身が一念三千の当体と覚知した境界といえよう。
 「十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合」とは、次の「十界を身と為すは法身なり」等の仰せに照らし、十方という空間的広がりとともに、十界という生命境界の多様性をも包含していわれたと拝される。宇宙の空間的広大さと生命の十界的多様性をことごとく己心に収めた境地が一念三千の仏であり、宇宙即我、我即宇宙となる。これが依正不二であり、この生命を依法に即して表現したのが、「我が身の心性の寂光の極楽」なのである。
 ゆえに、浄土宗などで説く西方十万億土の極楽浄土などとは全く異なることを知らなければならない。
 なお「三身即一」に関して「十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり」といわれている。“身”とは、肉体の意ではなく、生命の主質をさしている。“心”とは精神的側面であり、肉体的側面については“形”といわれているのがそれである。
 また、この仏の内証の悟りは生滅無常の相を離れているゆえに“無相”であり“法性の淵底・玄宗の極地”であるゆえに“極理”であると説かれている。
 更に、この寂光の極楽である仏の悟りは単に仏だけのものではなく、一切有情の心性のなかに存在するのであり、それを「妙法の心蓮台」とも「心外無別法」とも称すると述べられている。
 そして、この生命の真実の姿を悟ることを「一切法は皆是仏法なりと通達解了す」というのであり、そこに真実の成仏があることを教えられている。
 以上が生命の本当の姿であり、それを悟るのが成仏であるが、凡夫はそれが分からず、生死の有為転変にとらわれていることを「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入れども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」と、タテに三世常住であり、ヨコに宇宙大のひろがりをもっていることを知るのである。
 更に「善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」と述べられて、無相の極理の境地は、善悪を離れており、浄と穢、大と小、東と西、南と北、四維、上と下など、すべての相対概念を離れて超えているのであり、所詮、この境地は言葉では表せず、凡夫の四惟も及ばないところであることを御教示されている。
 以上のように、仏の内証の悟りである“無相の極理”についてさまざまな角度から説かれた後、次の文では、仏がこの“無明の極理”から一切の諸法があらわれていることを言葉をもって衆生に教えようとしたものが八万四千の法蔵であると御教示されている。それゆえにこそ一代聖教は「日蓮一人の日記文書」にほかならないのである。
 それにもかかわらず、仏と法と浄土とを凡夫である我が身より外にあると思って、それを願い求めるのを迷いというのであると、諸宗の誤りを打ち破られている。
 更に、華厳経の「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し 心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」また無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」の文を挙げて「心の不思議を以て経論の詮要と為す」と、“心の不思議”すなわち、我が生命が妙法の当体であることを示そうとしたのが一代仏教の目的であったのであると述べられ、この心を悟っているのが如来であって、我々凡夫も、これを知ったならば、「十界」を我が身、我が心、我が形とすることができるのであると仰せられている。この生命を悟っている法性と、これを知らないでいる無明に関しても、表裏一体であって「名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に」と述べられている。すなわち、無明と法性という言葉や名称は別々であるが、その二つを現じている生命は一つであるから、無明を断ずるということは法性をも断ずることになるのであって、無明を断じていこうとしても、所詮、法性の悟りは得られない、と諭されている。

有情
 サンスクリットのサットヴァの訳。人間や動物のように感情や意識を持ち、生命活動を能動的に行えるものをいう。鳩摩羅什らの旧訳では「衆生」と訳された。玄奘らの新訳では「有情」と訳される。
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国土
 衆生の住む場所。仏・菩薩などが衆生を教化する領域。仏教の経典で描かれる種々の国土は、そこに住む衆生の果報であり、依報とされる。仏・菩薩・声聞などの国土は、内面に覚知し証得している境地と対応している。仏の国土は、仏が菩薩の時に立てた衆生救済の大願と積み重ねた修行に相応して建立されるものとされている。これに対して法華経では、見宝塔品第11で三変土田が説かれ、娑婆世界を中心に多くの国土が浄化・統一され、聴衆の境地を高めて優れた法を説く環境が整えられていく。さらに如来寿量品第16で、久遠実成という釈尊の本地が示されるとともに、久遠の仏が娑婆世界に常住すること、すなわち娑婆世界が本国土であるという裟婆即寂光が説かれる。同品の自我偈では、衆生は業力(業の報いの力)によって裟婆世界が本有の寂光土であると見ることが妨げられ、種々の国土と見ていることを示し、ただし「一心欲見仏、不自惜身命」の信心・修行の者は、その真実の姿を感見できると説かれている。すなわち、諸経では衆生の国土に実体的な環境の違いがあると説くのに対して、法華経本門では本来、常寂光土の一土であるが、それが衆生の一念に応じて種々の違いとなって実感されることを明かしている。
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一体三身即一
 三身は法・報・応の三身。①法身(仏が覚った真実・真理)②報身(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に表した姿、慈悲の側面)の三つをいう。この三つの側面が一身にそなわっていることを一身即三身といい、その本体は一体である。
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四土不二
 四土とは凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土で、円融相即の法に基づけば一土にほかならない。すなわち四土は別々に存在するのではなく、衆生の一念によって感見する国土に相違のあること。
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十界を身と為すは法身なり
 十界を身とするときは法身であるということ。法身は本体・生命それ自体のこと。
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十界を心と為すは報身なり
 十界を心とするときは報身であるということ。報身は性質・性分のこと。
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十界を形と為すは応身なり
 十界を形とするときは応身であるということ。応身は姿・振舞いのこと。形にあらわれるもの。
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依正不二
 依報と正報が一見、二つの別のものであるけれども、実は分かちがたく関連していること。妙楽大師湛然は『法華玄義釈籤』で、天台大師智顗が『法華玄義』に説いた十妙を解釈するため、十不二門を立てたが、依正不二はその第6にあたる。正報とは生を営む主体である衆生をいい、依報とは衆生が生を営むための依り所となる環境・国土をいう。依報・正報の「報」とは、「報い」の意。善悪さまざまな行為(業)という因によって、苦楽を生み出す影響力が生命に果として刻まれ、それがやがてきっかけを得て現実に報いとなって現れる。過去の行為の果報を現在に受けている主体であるので、衆生を正報という。それぞれの主体が生を営む環境・国土は、それぞれの衆生がその報いを受けるためのよりどころであるので、環境・国土を依報という。環境・国土によって衆生の生命が形成され、また衆生のはたらきによって環境・国土の様相も変化し、この両者の関係は不可分である。それゆえ日蓮仏法では、仏法を信じ実践する人自身が主体者となって、智慧と慈悲の行動で依正の変化の連続を正しく方向づけ、皆が幸福で平和な社会を築くことを教えている。
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身土不二
 衆生の身心と住する国土は本来不二であるということ。「身」は活動を主体としての衆生の身心、「土」は衆生の住する国土。身と土とは別々に存在しているが、本来的には衆生の一念・生命にそなわったものであるということ。依正不二と同意。
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生滅無常の相
 一切の諸法・森羅万象が因縁によって生滅で無常であるということ。
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法性之淵底・玄宗の極地
 法華文句には「下方とは法性の淵底、玄宗の極地なり、故に下方と言う」とある。地涌の菩薩が下方に住していることに対する釈である。法性とは生命、淵底とは奥底ということである。玄宗とは根本という意味。獄地とは究極ということである。生命の応底、究極たる南無妙法蓮華経こと。
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清浄無漏
 清浄な無漏智のこと。一切の煩悩を断じて証得した清浄な智慧をいう。仏道修行によって得る最高の智慧・仏智のこと。「無漏」は漏が無いこと。有漏に対する語。煩悩を断ずること。煩悩を断じた境地をいう。また煩悩を離れた法をさす。漏は煩悩の異名。
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妙法の心蓮台
 心の蓮台のこと。衆生の心は本来清浄であることを蓮台にたとえたもの。一切衆生に具わっている仏性を心蓮台という。「蓮台」は仏・菩薩が居坐する蓮華の台座のこと。
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一切法は皆是仏法なりと通達解了す
 摩訶止観巻1下に「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従いて、上に説くところの一実の菩提を聞き、名字の中に於いて通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とある。
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通達解了
 事物・真理に通達し、すべてを理解すること。「通」は感通、「達」は塾達、「解了」は理解して了達すること。
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劫火にも焼けず水災にも朽ちず
 法華経薬王菩薩本事品第23の文。「善い哉善い哉、善男子、汝能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」とある。
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劫火
 壊劫(世界が崩壊する時期)に起こる、世界を焼き尽くす大火。
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水災
 四劫のなかの壊劫に起こる大の三災のひとつ。水害・洪水。
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弓箭
 弓矢のこと。
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芥子の中に入るれども芥子も広からず
 維摩経巻中に「須弥の高広を以って芥子の内るに増減する所なし」とある。
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芥子
 カラシナの種。極めて微細なものの例えに用いられる。【キサーゴータミーの逸話】女性の仏弟子であるキサーゴータミーは、最愛のわが子を失い悲嘆に暮れていた。釈尊は彼女に、その子を救う薬として芥子を探すように語った。ただし、「まだ死人を出したことのない家からもらうように」と言い渡した。母は一軒一軒、訪ねて回ったが、「死人を出したことのない家」などなく、どの家も家族を亡くした悲しみを抱えていることに気づく。
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虚空
 空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
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善悪無記
 「善」は現世・来世にわたって利益をなすもの。「悪」は違背・損害。「無記」善悪で規定できないもの。
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浄穢
 浄土と穢土のこと。
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凡夫
 普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者。
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聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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四維
 東西南北の中間のこと。東北・西北。東南・西南のこと。
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言語道断し心行所滅す
 「言語道断」は、究極の真理は言語では到底理解できないこと。「心行所滅」は仏法の妙理は頭で考えても理解することができない不可思議境であるということ。
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神通
 菩薩行方便境界神通変化経のこと。
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国土世間
 一念三千の法門を構成する三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)の一つ。国土は、衆生が住む世界、その世界を構成する山川草木など非情のすべてをさす。ここでいう世間は、差異の意。国土は十界それぞれに特徴があり違っているので、国土世間という。
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八万四千の諸の妙法蘊
 八万聖教、八万威儀、八万四千の細行とこいう。煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」。二百五十戒を行住坐臥の四威儀におのおのわたし、一千の威儀になり、過去・現在・未来の三世に約して三千の威儀、この三千を殺・盗・淫・妄・綺・悪・両の七支に分配すれば、二万千となり、貧・瞋・癡・等の四にわたせば七十八万四千となる。蘊とは集積・集まりの意味。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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五陰
 生命を構成する五つの要素。新訳では五蘊(ごうん)などとする。物質的側面の色陰と、精神的側面の受陰・想陰・行陰・識陰をいう。陰・蘊は集まり、構成要素の意。①色陰とは、肉体などの色形に現れている物質的・現象的側面をいう。②受陰とは、六つの知覚器官である六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)がそれぞれの対象となる色(色・形)・声(音声)・香・味・触(寒暖・柔軟などの物質の触覚)に触れて生じる感覚をいう。③想陰とは、受け入れた知覚をまとめあげ、事物の像(イメージ)を心に想い浮かべる作用をいう。④行陰とは、想陰でできた像を整え完成させる作用であり、またそれとともに生じるに種々の心の作用をいう。⑤識陰とは、受・想・行に基づきながら、ものごとを認識し他のものと識別し判断する心の作用をいう。また受・想・行の作用を起こす根本となる心の中心的な働きとされ、心王とされる。これに対して受・想・行は、それにしたがう心所・心数とされる。この識はさらに深く探究され、種々の識に区別される。五陰を色心の二法に分けると、色陰は物質的・肉体的・現象的なものである色法であり、これに対して受・想・行・識の四陰は心的・精神的・本性的なものである心法である。五陰全体で、肉体・物質と精神・本性との両面にわたる一切の有為法(生成変化する事物事象)を示している。草木などの非情にも心法を認めて、五陰が万物を構成する五つの要素を意味する場合もある。
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 ダルマ(dhamma)。法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨、達摩、曇摩、曇無などとなり、通常は「法」と訳されている。
―――
三界
 仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
―――
無相・不相の一法
 「無相不相を名づけて実相となす」と読む。無量義経説法品には「無量義とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相とす」とある。また、三世諸仏総勘文抄には「無量義経に云く『無相・不相の一法より無量義を出生す』已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く『消滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり』云云」(0564-03)とあるが、「無相不相名為実相の理」も「無相・不相の一法」もまったく同じ意で、大宇宙の根源の法たる南無妙法蓮華経をさしているのである。
―――
無量義
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
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文句
 天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。10巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈法によって明らかにしている。
―――
二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
―――
有余・無余の二つの涅槃
 有余涅槃と無余涅槃のこと。①有余涅槃、三界六道の煩悩を断じて未来の生死の因を滅したが、生死の果である自分の体を残している者のこと。②無余涅槃、色心の煩悩をすべて断じ尽くすことによって得られる二乗の最高の悟りの境地。
―――
詮要
 肝心かなめのこと。
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法性
 諸法の天性・悟り・生命・一念・心性・境涯等をいう。
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一毫の惑
 ほんの少しの煩悩のこと。
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 ここでは、前章に「無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり」といわれた。その「極楽」とはいかなる境界であるかを示されている。その内容を一言でいえば、我が身が一念三千の当体と覚知した境界といえよう。
 「十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合」とは、次の「十界を身と為すは法身なり」等の仰せに照らし、十方という空間的広がりとともに、十界という生命境界の多様性をも包含していわれたと拝される。宇宙の空間的広大さと生命の十界的多様性をことごとく己心に収めた境地が一念三千の仏であり、宇宙即我、我即宇宙となる。これが依正不二であり、この生命を依法に即して表現したのが、「我が身の心性の寂光の極楽」なのである。
 ゆえに、浄土宗などで説く西方十万億土の極楽浄土などとは全く異なることを知らなければならない。
 なお「三身即一」に関して「十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり」といわれている。“身”とは、肉体の意ではなく、生命の主質をさしている。“心”とは精神的側面であり、肉体的側面については“形”といわれているのがそれである。
 また、この仏の内証の悟りは生滅無常の相を離れているゆえに“無相”であり“法性の淵底・玄宗の極地”であるゆえに“極理”であると説かれている。
 更に、この寂光の極楽である仏の悟りは単に仏だけのものではなく、一切有情の心性のなかに存在するのであり、それを「妙法の心蓮台」とも「心外無別法」とも称すると述べられている。
 そして、この生命の真実の姿を悟ることを「一切法は皆是仏法なりと通達解了す」というのであり、そこに真実の成仏があることを教えられている。
 以上が生命の本当の姿であり、それを悟るのが成仏であるが、凡夫はそれが分からず、生死の有為転変にとらわれていることを「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入れども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」と、タテに三世常住であり、ヨコに宇宙大のひろがりをもっていることを知るのである。
 更に「善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」と述べられて、無相の極理の境地は、善悪を離れており、浄と穢、大と小、東と西、南と北、四維、上と下など、すべての相対概念を離れて超えているのであり、所詮、この境地は言葉では表せず、凡夫の四惟も及ばないところであることを御教示されている。
 以上のように、仏の内証の悟りである“無相の極理”についてさまざまな角度から説かれた後、次の文では、仏がこの“無明の極理”から一切の諸法があらわれていることを言葉をもって衆生に教えようとしたものが八万四千の法蔵であると御教示されている。それゆえにこそ一代聖教は「日蓮一人の日記文書」にほかならないのである。
 それにもかかわらず、仏と法と浄土とを凡夫である我が身より外にあると思って、それを願い求めるのを迷いというのであると、諸宗の誤りを打ち破られている。
 更に、華厳経の「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し 心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」また無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」の文を挙げて「心の不思議を以て経論の詮要と為す」と、“心の不思議”すなわち、我が生命が妙法の当体であることを示そうとしたのが一代仏教の目的であったのであると述べられ、この心を悟っているのが如来であって、我々凡夫も、これを知ったならば、「十界」を我が身、我が心、我が形とすることができるのであると仰せられている。この生命を悟っている法性と、これを知らないでいる無明に関しても、表裏一体であって「名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に」と述べられている。すなわち、無明と法性という言葉や名称は別々であるが、その二つを現じている生命は一つであるから、無明を断ずるということは法性をも断ずることになるのであって、無明を断じていこうとしても、所詮、法性の悟りは得られない、と諭されている。
「無相の極理」としての“寂光の極楽”について
 この段落の冒頭の文で「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり」と仰せられている。
 ここで“極楽”というのは、阿弥陀仏の西方浄土のことではなく、真の成仏の境界をさしていわれている。先に「無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり」と“無相の極理”という仏の悟りの内容を“寤の我が身の心性の寂光の極楽なり”と説かれているからである。「寤の我が身の心性」とは仏の生命を表し、「寂光の極楽」であるといわれているのは、仏の色心の生命がそのまま依正不二の仏国土と表されているのである。権教の阿弥陀仏の本土をさしておられないことは明瞭であろう。
 あえて“寂光の極楽”といわれたのは、当時の念仏宗が、現実の穢土を離れて西方十万億の彼方に阿弥陀仏の極楽浄土があるとして、死後、その極楽に往生することを説いていたのを破折されるためと考えられる。“極楽”とは、仏が現実の世において悟りを開いた境地を、依法的側面で述べられたものである、といえるであろう。
 さて、この仏の境地がいかなるものであるかについては、この文では、仏の色心の生命は、十方世界の正報の有情と十方世界の依法の国土とが和合して一体となった境地となり、無作本覚の一身即三身如来と顕れた境地であると仰せられている。
 その境地は、四土の立て分けがなくなって、寂光土と三身即一の如来とが一体となって“依正不二”“不二”が実現しているのである。
 またこの三身即一の仏身とは、十界を身となすところが法身であり、十界を心となすところが報身であり、十界を形となすところが応身となっているのである。
 つまり、地獄から仏界に至るまでの十界をことごとく我が身体とし、心性とし、形・相好とするということは、結局、一念三千の当体としての境地を述べられているのである。
 なお、この「十界の外に仏無し仏の外に十界無くして」とあるところは、次のように考えることもできよう。
 爾前・権教においては、六道輪廻の境涯を超え、声聞・縁覚の境地を超え、更に菩薩の境地をも超えて、九界を出離したところに仏の境界があるとした。
 しかるに法華経において初めて、因として九界も果としての仏界も、ともに倶時に具足しているのが真実の生命の姿であり、これを“不思議の一法”即、妙法蓮華経と名づけ、この法華経の妙理を覚知することが成仏であると明かした。ここから、十界の外に仏なく、仏の外に十界なし、と結論されていくのである。結論していえば、寂光土とは所詮、“一仏の身体”であり、仏の生命の境地を表しているのである。
 また、無相の極理ということについて「生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う」と説明されている。
 まず“無相”とは、生滅の相を離れていることをさすのである。つまり、仏の悟りの境地は生滅という無常変化の相を超越しているので“無相”といい“寤の本覚の心性”は「法性の淵底・玄宗の極地」でもあるので“極理”というのである。
 「法性の淵底・玄宗の極地」という言葉は、天台大師が法華文句巻九上において、法華経従地涌出品第十五の「仏、是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二相、無量の光明有り。先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり」という経文を釈して「下方とは法性の淵底・玄宗の極地なり。故に下方と言う」と述べている言葉である。つまり、地涌の菩薩が住んでいた“下方”とは、森羅万象の本質というべき普遍的な真理という“淵底”、すなわち奥深い底をいい、また“玄宗”という奥深い根本的な“極地”をさしているのである。これは、大宇宙の生命の根源というべきもので、それを妙法蓮華経というのである。
此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり
 この文は“無相の極理”で、かつ“寂光の極楽”という仏の寤の本覚の心性が、一切の有情の心性のなかにも潜在的に存在することが明らかにされているところである。ただ、凡夫においては、自らの内なる寂光の極楽に無知なために、この境地を顕現する道を知らないだけである。
 この有情の心性にある清浄無漏なる無相の極理を“妙法の心蓮台”という、と述べられている。“妙法の心蓮台”とは、一切有情のなかにある妙法蓮華経を蓮の台にたとえたもので、“蓮台”とは、仏・菩薩が居坐する台座のことである。
 以上のことから、結局、心の外には別の法はないのであり、このことを知っていくのが、一切法は皆これ仏法なり、と通達し解了することになる、と仰せられている。“通達”とは事物・事象の真理に到達することであり、“解了”は理解し了達することである。この生命の真理を理解し通達してるのが仏であり、真理は厳然として存在していても覚知できないでいるのが凡夫なのである。
生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す
 生死という無常の姿にとらわれて、その奥にある常住の真理を知らないでいる凡夫の迷いを指摘され、生命の真実の姿がタテには生死を超えて常住不変であり、ヨコには宇宙に遍満して融通無礙であることを御教示されている。
 まず、時間的に、生があり死があり、人間及び生きとし生けるものに「生」と「死」がはっきりと存在するという、我々凡夫の考え方を“生死の夢の理”と説かれ、これを“妄想”“顛倒”として破られている。
 そして、本覚の寤=我が心性=心性、の次元でとらえると、「生」も「死」もなく“既に生死を離れ”ているのが、真実の姿であると仰せられている。
 また、空間的には、芥子粒よりも小さいと同時に、大宇宙と等しい広がりをもっている。そして、劫火に焼けたり水に朽ちたり剣で切られたり弓で射られたりするものでないのが“心法”であると仰せられている。
 このことは「寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す」とか「本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり」等と仰せられた、これまでの御文と併せて拝していくとき、より明確になる。
 次に「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」との御文は、善と悪との関係を通して、言葉が相対的・絶対的なものであることを、説かれている。凡夫が何かをさして“善”というときは、それが“悪”でないことを前提にしており、逆もまた同じである。そこには何が善で何が悪かということを判断している“主体”がある。この根源の主体を御文では「善と悪とを離るるを無記と云うなり」といわれ、“善悪無記”の“主体”すなわち、心以外には根源的なものではないことを示されている。
 ゆえに、善とか悪とかということも結局、人間が作り出した概念であり、一切法は心の描き出したものであることを「善と悪とを離るるを無記と云うなり」と仰せられている。
 更に、この善と悪の関係を更に他の“法”に関して適用され「故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」と仰せられている。
 すなわち、善と悪・浄と穢・凡夫と聖人・天と地・大と小・東と西・南と北・四維・上と下などの概念ではとらえきれず、また言葉でも表現できないことを「言語道断し心行所滅す」と述べられている。
心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり 神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり
 この思議も言語も及ばない生命の法理を自ら悟り、衆生のために説き示そうとしたのが八万四千の法蔵すなわち一代聖教であると述べられている。
 「心に分別して思い言い顕す」とは、したがって、仏が我が心に分別し、その悟りを言葉にあらわしたことをいうのである。
 ゆえに「凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり」といわれ、「仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり」と仰せられているのである。
 「此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり」とは、仏と同じく覚知できる能力は本来一切衆生に具わっているということである。
 ただし、事実の上で覚っているのは仏のみであり、仏は衆生にも等しく悟らせるために、自身の悟っている真理を説き明かした。
 それは「此の心の一法より国土世間も出来する事」という一念三千の法門であり、仏自身の生命について記したものである。ゆえに「一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門」であり、「我身一人の日記文書」なのである。
言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり
 更に“心の不思議さ”を一重深く述べられているところである。
 「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」と仰せのように、凡夫の使用する言葉は、心のある思いをひびかせつつ、音声として外にあらわしてきたところをいうのであると説かれている。
 次に「凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり」と仰せられている。つまり、凡夫と仏との差異はどこにあるのかといえば、自らの“心”の本性についての不思議さを知らずに迷っているのが凡夫であるとすると、その不思議さを知って悟り尽しているのが仏である、ということになる。しかも、仏が悟り尽している“心の不思議さ”と“神通”と名づけて、その不思議な働きを縦横無尽に使っているのが仏という存在なのである。
 また、細かくなるが、「神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり」との御文の「神通」とは、神が一切の法に通じて障礙のない状態をさしている。通常・神通というと、神秘的な特殊能力などが連想されるが、本来の神通は、だれの人の心の本性にも内在していて、一切の諸事象と関連して一体となって躍動していく“生命”の力と働きをさしているのである。
 更に「此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり」と仰せのとおり“心性”“本覚の心”が本来、一切の有情の心、生命にも存在することは“無相の極理”である“寂光の極楽”の内容からも明らかであり、また「十界の外に仏無し仏の外に十界無く」という御文からも明らかである。
 また「狐狸も分分に通を現ずること」と仰せられている。狐狸は畜生界にあたり、畜生界の心にも通じている“神通”つまり“現の本覚の心”“心性”の働きの一分をあらわしている。
 この“狐狸の神通”は仏の悟りの心からとらえると「心の神の分分の悟」となるのである。つまり、狐や狸の通常の人間にはない神通は、要するに、本来、一切の有情の心に内在する“生命の働き”の一分があらわれたものにすぎない、と述べられているのである。
 したがって、この狐狸の神通を人間が崇めるということは、心の本性からいって、絶対にあってはならないことはいうまでもない。
 更に「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せられているように、“心”の本性においては、国土世間もそのなかに含まれている。心と国土世間とは別々のように考えられるが、心の本性、すなわち本覚の心・生命においては一体不二となっているのである。
此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり
 八万四千の法蔵は仏の一身に具わっているものを明らかにしたのであるが、同じ生命が凡夫のなかにもすべて具わっている。
 この生命すなわち“心”が善悪の縁にあって善悪の法すなわち幸・不幸のあらゆる姿を現じていくのである。
 つまり、本来あらゆる可能性を秘めているがゆえに、縁にしたがって、あらゆる事象を現じていくのであって、このことを端的に教えた経文として「心は工なる画師の」云々と無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」の文を挙げ、後者についての天台大師の文句の釈を引用されている。
 「我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり」とおおせのように、元来、自らの奥底に仏も法も浄土も具えているのに、わざわざ自らの外にこれを求めて迷っているのが衆生・凡夫である。心が善悪の縁にあって善悪の法を作り出しているのであり、これを悟り知っていることが仏道修行の肝要なのである。
 まず、華厳経の「心は工なる画師」云々の文であるが、これは巻十の文で、本章のまえの個所で説かれていた「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり」という文意と同じ内容を表現している。
 ここで華厳経と言いう権教・方便の経文が用いられているのは、自行の法である法華経の“開会”の立場からなされていることはいうまでもない。
 この華厳経の文意は次のようになるであろう。
 すなわち、仏の寤の本心はそのまま一切の事物・事象と一つであり“無分別”である。したがって、画家がさまざまな五陰を描いていくように、寤の心は、一切世間の事物、現象を描き造っているのである。この場合、“画師”が仏の知見、画布が仏の心の寤の心、“種種の五陰を造る”ことが寤の心に映っている一切世間の事物・現象ととらえられる。
 次の「心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり」との文は、仏も衆生も、所詮は寤の心が造りあらわしたものにすぎない、ということである。
 寤の心は一切世間の事物・現象を映し造りあらわしているのであるから、当然、仏や衆生も、この一切世間の事物・現象のなかに入っていることになるからである。
 これを逆にとらえれば、仏も寤の心を有し、衆生も寤の心を有していることになる。ここから「三界唯一心なり心の外に法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」という有名な文の意味も明瞭になろう。
 三界と心、また心と仏と衆生の三つは、区別され、“分別”されて、それぞれ別々のことと把握されやすい。しかし、仏の知見においては“三界唯一心”であり“是の三差別無し”なのである。
 次に、無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」との引用文は無量義経説法品第二の「無量義とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相也。是の如き無相は、相なく、相ならず。相ならずして相なきを名づけて実相と為す」という文の取意である。原文の意味は、“無量の義”を生じる“一法”とは“無相”のことであり、その“無相”というのは、“相なく相ならず、相ならずして相なき”ことであり、これを“実相”と名づけるとしている。
 この原文の意をとられて、本抄では「無相・不相の一法より無量義を出生す」と引用されたのである。
 さて、この無量義経の文を法華文句巻二下では次のように釈している。
 「無相とは生死の相無きなり。不相とは、涅槃の相にあらざるなり、涅槃も亦無し、故に不相無相と言う。中道を指して実相と為すなり」と。
 この文句の文についても取意して「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に 不相と云うなり」と記されている。
 つまり“無相”というのは、“生死”の相がないことであり、換言すれば“生滅無常の相”がないことである。また“不相”というのは、二乗が自らの意思で獲得しようとした涅槃の相でもないことをいう、と文句は釈している。したがって“無相不相”とは、生滅無常、生死の相を超えるとともに、二乗の涅槃の相をも超えていることであり、あくまで“中道”の実相を表現しているというのである。
 本抄に引用された文句の取意の文では、とくに“不相”について文句が釈した“涅槃の相”に関して、無余、有余の二つの涅槃を表し、これを離れることが“不相”である、とより詳しく説かれている。
 大聖人は、以上の経文と釈文を受けられて「無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり」と説かれて、生滅無常や生死の相を超え、二乗の無余、有余の二つの涅槃を離れた中道の実相の“一法”とは、一切衆生の心性であり心法である“一念の心”である、と結論されている。
 したがって、無量の義が一法より生ずるということは、衆生の一念の心から無量義が生ずる、ということになって前述の華厳経の文を裏づけておられるのである。
 「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり」とは、衆生・凡夫の心の奥底、究極の“一念”の不思議さを説くことが経論の究極の目的だったのである、ということである。
此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり
 凡夫にとって思議を超えたこころであるが、これを覚知させるために仏は説法教化されたのである。ゆえに、仏の経法を正しく信じ行ずることによって悟り知ったときに「如来」となるのであり、悟っていることを法性、悟らないでいることを無明という。
 したがって「無明と法性とは一心の異名なり」であり「名と言とは二なりと雖も心は只一つ」なのである。
 言い換えると、無明と法性は一つの貨幣の裏と表のようなものだから、無明を断じようとすることは法性をも断じてしまうことになる。ゆえに「円教の意は一毫の惑をも断ぜず」と仰せのように、凡夫のありのままで、我が身が一念三千、妙法の当体と悟っていくのが真実の成仏の道なのである。

0564:11~0565:11第11章 十如是により生仏不二明すtop
11 法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本
                                          覚の法身如来」此の三如是
12 より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、 此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で
13 八万四千の法門と成るなり、 一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、 三世の諸仏の総勘文にして御
14 判慥かに印たる正本の文書なり 仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、 余の一切の経には実相の印無
15 ければ正本の文書に非ず 全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、 十法界は十なれ
16 ども十如是は一なり 譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、 九法界の十如是は夢中の十如是
17 なるが故に水中の月の如し 仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、 是の故に仏界の一つの十
18 如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも 一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして 一体の仏と
0565
01 成る、 十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば 虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くるこ
02 と無し 故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、 本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生
03 の一念の心より顕れ給えば 衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、 然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり
04 其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、 仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて 生死の夢中にして本
05 覚の寤を説き給うなり、 智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて 是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なり
06 と雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて 生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世
07 の虚夢を見るなり、 仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える 智慧は夢の中にて父母の如く
08 夢の中なる我等は子息の如くなり、 此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、 此の理を思い解けば諸仏と我等と
09 は本の故にも父子なり末の故にも父子なり 父子の天性は本末是れ同じ、 斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと
10 観ずるが故に 生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、 即身成仏は今我が身の上の天性・地
11 体なり 煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり、
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 法華経方便品第二には「如是相一切衆生の相好、本覚の応身如来。如是性一切衆生の心性、本覚の報身如来。如是体一切衆生の身体、本覚の法身如」とある。この三如是から後の七如是が出生して十如是となったのである。
 この十如是は十法界にわたるのであり、この十法界は一人の心から生み出された八万四千の法門となるのである。
 この法門は、一人を手本として一切衆生に平等にあてはまるのである。これは三世の諸仏の総勘文であって御判をたしかに押した正本の文書である。仏の御判とは実相の一印のことである。印とは判の異名である。
 他の一切の経は実相の印がないので正本の文書ではないのである。そこにはに全く実の仏ではない。実の仏がないゆえに夢中の文書である。浄土にないからである。
 十法界は十であるけれども、十如是は一つである。たとえば水中の月は無量であっても大空の月は一つであるようなものである。
 九法界の十如是は夢の中の十如是であるから水中の月のようなものである。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是であるから 大空の月のようなものである。
 ゆえに仏界の一つの十如是があらわれると、水中の月のような九法界の十如是も一つも欠けることなく同時に皆あらわれて、一体の仏となるのである。
 十法界を互いに具足して平等であるのが十界の衆生であるから、大空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して欠けることがないのである。ゆえに十如是は本末究竟して等しく差別がないのである。
 本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是である。諸仏は衆生の一念の心からあらわれたものであるから、衆生は本であり諸仏は末なのである。
 ところが法華経譬喩品第三には「今この三界は皆これ我が所有するところである。その中の衆生はことごとく我がが子である」と説かれている。
 これは仏が成道した後に化他のために垂迹のうえの成道を唱えて生死の夢のなかにあって本覚の寤を説かれたのである。そして智慧を父にたとえ、愚癡を子にたとえてこのように説かれたのである。
 衆生は本覚の十如是であるけれども、一念のなかの無明が眠りのように心を覆って、生死の夢のなかに入ってしまって本覚の法理を忘れ一本の髪を切るほどのわずかな無明の心で過去・現在・未来の三世にわたる虚夢を見るのである。
 仏は夢から覚めた寤のような人であるから、衆生の生死の夢のなかに入って衆生を目覚めさせるのであり、その智慧は生死の夢のなかのあっては父母のようであり夢のなかにいる我ら衆生は子息のようなものである。この道理によって「悉く是れ吾が子なり」といわれたのである。
 この法理を理解すれば諸仏と我らとは本のうえからも父子であり、末のうえからも父子である。父子の天性は本も末も同じである。これによって己心と仏心とは異ならないと観ずるゆえに生死の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏というのである。即身成仏は、今、我が身に本来具わった天性であり、地体であって、煩いもなく、障りもない。衆生の運命であり、果報であり、冥加なのである。

如是相一切衆生の相好本覚の応身如来
 「如是相」は「是くの如き相」と読む。姿・振舞いのこと。現象としてあらわれているものであるから、三身に配すると応身如来となる。
―――
如是性一切衆生の相好本覚の報身如来
 「如是性」は「是くの如き性」と読む。性質・性分のこと。性は体のそなえる性質・性分であるから三身に配すれば報身如来となる。
―――
如是体一切衆生の相好本覚の法身如来
 「如是体」は「是くの如き体」と読む。本体・生命それ自体のこと。生命の本体をさすから、三身に配すると法身如来となる。
―――
三如是より後の七如是・出生して
 十如是のうちの如是相・如是性・如是体の三如是から、あとの七如是、如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等が出てくるということ。三如是を体・七如是を用とする。
―――
御判
 判形のこと。
―――
正本
 写本・訳本などの現本となっている文章。
―――
実相の一印
 法華経方便品第二の諸法実相の文のこと。印は印章・印鑑のことで印可・決定の義をもち、仏の証明を意味する。
―――
還滅
 流転に対する語。「滅に還る」と読む。迷いの根源である煩悩を断じ、苦しみの因である生死を脱して悟達の道に趣くこと。減は寂滅・涅槃のことで、生死・煩悩を滅した悟りの境地をさす。
―――
体と用
 「体」は本体。「用」は働き。
―――
本末究竟して等し
 本と末は一貫して等しいこと。
―――
成道
 仏道を成ずること。八相作仏のひとつ。成仏・得道と同義。最高の幸福境涯を得ることをさす。
―――
迹の成道
 垂迹の成道のこと。法華経以前の諸経で、釈尊は衆生教化のためにインドで初めて成道したと説いた。これは垂迹の仏として成道したことをいう。
―――
智慧を父に譬え愚癡を子に譬え
 法華経譬喩品第3に「如来は已に、三界の火宅を離れて、寂然として閑居し、 林野に安処せり」とあるように、真実の悟りの法を知っているがゆえに智慧を父に「一切衆生は、皆是れ吾が子なり。深く世楽に著して、慧心あることなし」愚かな生き方をしをしている子であるがゆえに愚癡を子とする。
―――
天性
 生まれつきの性質。
―――
地体
 ①本・本来持っている性質。②もともと・元来。
―――
運命
 幸福や不幸などをもたらす超越的な力や、善悪吉凶などの現象。宿命・過去世から定まっている生命。
―――
果報
 善悪の行いの結果としてもたらされる報い。善悪ともにある。
―――
冥加
 仏・菩薩から冥々のうちに功徳を受けること。
―――――――――
 十如是のなかの相・性・体の三如是が、本門の立場では応身・報身・法身の「本覚の三身如来」にほかならないことは、すでに自行の法を明かす段に入ってすぐに示されていた。
 ここでは、再び十如是の文を取り上げて、一段と説きすすめられている。すなわち「法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本覚の法身如」とあるように、十如是のなかの三如是が一切衆生の相好・心性・身体そのものであり、この三如是から残りの七如是が生じて十如是となる。そしてこれら十如是を具えているのが十法界であり、更には八万四千の法門となることを述べられている。
 これは一人の生命について明かしたものであるが、一切衆生にも平等にあてはまるのであり、すなわち万人の成仏の道がここに示されたのである。
 法華経方便品第二の十如是は、別していえば仏の生命について明かしたもので、例えば如是相は本覚の応身如来をあらわすが、総じては一切衆生の生命の真実を示しているのである。
 次に「三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり」といわれているのは、法華経方便品第二の「諸法実相・十如是」は三世諸仏が“真実なり”と証明した法理であるということであり、「実相」がその印であると仰せられているのは、実相とは真実の相・姿ということであり、偽りがないことを意味しているからである。
 十如是は九界たると仏界たるとを問わず、あらゆる衆生の生命に共通に具わる普遍的真理を取り出したものであるから「十法界は十なれども十如是は一」である。
 ただし、仏界と九界とを対比すると、仏界の十如是は、本来の生命の正しい姿を悟り顕現しているのであるから「虚空の月」にたとえられ、九界の十如是は水中の月にたとえられている。
 ゆえに虚空の本体は次があらわれれば、水中の月も同時にあらわれ「体と用と一具にして一体の仏と成る」とは、正法を信じ仏界が涌現すれば、その人の生命に具わる九界も、本来の正しい働きをするようになるということである。
 また、本末究竟の本来に配すれば、本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是であると仰せられ、その理由は、諸仏といっても所詮は一念の心から顕現してきたからであると説かれている。
 ところが、法華経譬喩品第三の有名な「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」の文では仏が、衆生が末とされている。
 これは、衆生を化導するために智慧の仏を“父”に、愚癡の衆生を“子”にたとえたものであると述べられ、仏を父、衆生を子とするのはそれ自体、方便であることを明かされている。
 そして、衆生が本、諸仏が末になる関係を以後に説明されていくことが、これを今簡潔に述べると、次のようになる。
 すなわち、本来、生命の体は我々衆生のありのままであるが、自らの生命の正しい姿を知らないでいるのが九界の凡夫であり、自らの生命を正しく悟っているのが仏である。この観点からいえば先に説かれたように、仏界は天月、九界は衆生の水月にあたるのである。
 しかし、経文では、この成仏の境界を目指すために、九界の凡夫とは隔絶した存在として“諸仏”を描いているが、これは仮に示された映像にほかならないのである。
 実は、仏とは我々衆生が、自身の生命の正しい姿に目覚めたときのことをさしているとの観点に立てば、衆生の十如是が本、諸仏の十如是が末ということになるのである。
衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり
 この段では、法華経・方便品の十如是の法門によって、仏と衆生が一体不二であることを、本門の立場から論じてこられたのであるが、この御文では、そのように、本覚の十如是の当体である衆生が、なぜ迷苦を現じているかを述べられている。
 すなわち、衆生というのは、本来、本覚の十如是の当体である寤の本心を有しているのであるが、“髪筋を切る程”のわずかな一念の無明によって生と死とを錯覚し、過去→現在→未来の時間的流れにとらわれ虚夢を見ることになると仰せられている。
 “髪筋を切る程”というのは、ほんのわずあであっても、一念の無明の迷妄にとらわれると、本抄の後に出てくるように、荘周がわずかの眠りの間に百年に及ぶ長い夢を見たように、本来はすべて寤の本心であるのに、過去・現在・未来の生死の苦の流れを感ずる、といわれているのである。
 過去世・現在世・未来世という流れを感じるのは迷いのゆえであり、寤の本心からすれば、三世は別のものではないのである。ここからも、衆生とあらわれるか、仏とあらわれるかは、ほんのわずかの差異にすぎない、という本抄の主題の一つが明瞭に理解されるように思われる。もっとも、その差異がわずかであることを知っているのはあくまで仏であって凡夫・衆生ではないことはいうまでもない。
 「本の故にも父子なり末の故にも父子なり」の御文は解釈の分かれるところであるが、いずれを本、末とするにせよ、その天性においては等しいのであり、生死の夢を覚まして本覚の寤に還れば、即身成仏することができるのである。ただし、そこには“覚める”という変化を経なければならないのであって、安直に「凡夫=仏」と考えてはならないことはいうまでもない。

0565:11~0566:11第12章 夢・寤の譬で無明即法性明すtop
11                               夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え 寤の時の心
12 を悟りに譬う之を以て 一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て 心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家
13 も臥所も一所にて異らず 夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども 所は只一所なり身も只一身にて二
14 の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、 九界の生死の夢見る 我が心も仏界常住の寤の心も異ならず 九界生死
15 の夢見る所が 仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず 在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観
16 に云く「昔荘周と云うもの有り 夢に胡蝶と成つて一百年を経たり 苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶
17 にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、 弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三
18 千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く 三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、 此の釈は即身
0566
01 成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず 寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、 我が身を生死の凡夫
02 なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、 我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し 即
03 身成仏なり、 蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは 虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、
04 無明は夢の蝶の如しと判ずれば 我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり 誰の人か虚夢の生死を信受して
05 疑を常住涅槃の 仏性に生ぜんや、 止観に云く「無明の癡惑本より是れ 法性なり癡迷を以ての故に 法性変じて
06 無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば 変じて堅冰と作るが如く ・又眠来りて心を変ずれば
07 種種の夢有るが如し 今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、 顛倒起滅すること旋火輪の
08 如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして 唯此の心・但是れ法性なりと信ず、 起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり
09 其れを体するに実には起滅せざるを 妄りに起滅すと謂えり 只妄想を指すに悉く是れ法性なり、 法性を以て法性
10 に繋け法性を以て 法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上、 是くの如く法性ならざる時の隙も無
11 き理の法性に夢の蝶の如く 無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり、
-----―
 よく考えてみると、夢のときの心を迷いにたとえ、寤のときの心を悟りにたとえる。これによって一代聖教を悟ってみると、跡形もない虚妄の夢を見て心を苦しめ、汗水を流して目が覚めてみると、我が身も、家も寝床も同じ場所で異ならない。夢と虚と寤の実との二つの事を目にも見て、心に思ったけれども、その所はただ一つの所であり、身もただ一つの身であって、しかもなお二つの虚と実とは異なりがないのである。
 これをもって理解すべきである。九界の生死の夢を見ている我が心も、仏界の常住の寤の心も異なるものではない。九界の生死の夢を見ている所が仏界常住の寤の所で、変わるものではない。心法も変わらず、居る所も異なるものではないけれども、夢は皆虚事であり、寤は皆実事なのである。
 摩訶止観には「昔荘周という者がいた。夢のなかで胡蝶となって百年を経た。苦しいことは多く、楽しいことは少なく、汗水を流して目がさめてみると、胡蝶にも成らず百年の経ってはおらず、苦しいこともなく、楽しいことも無く、皆、虚事であり、皆、妄想であった」已上取意、
 摩訶止観弘決には「無明は夢の蝶のようなものであり、三千は百年のようなものである。一念が実でないのは、ちょうど蝶でなかったようなものであり、三千がないことはも年を経ていなかったようなものである」と述べている。
 この釈は即身成仏の証拠である。夢のなかで蝶となったときも荘周は変わっておらず、目がさめて蝶にはならなかったと思うときも別の荘ではない。我が身を生死に束縛された凡夫であると思うときは夢で蝶になったようなものであり、僻目であり、僻思いである。我が身は本覚の如来であると思うときは元の荘周に戻ったようなものであり、即身成仏である。
 しかし蝶の身をもって成仏するというのではない。蝶と思うことは虚事なので、そこに成仏の言葉はない。これは論外のことである。
 無明の夢は蝶のようなものであると分かってしまえば、我らの僻思いはちょうど昨日の夢のように性も体もない妄想である。一体だれが虚夢の生死を信受して常住の涅槃の仏性に対して生ずることがあるであろうか。
 摩訶止観には「無明の癡かな惑いは、その本は法性である。癡かな迷いによって法性が変化して無明となり、さまざまな顛倒の善・不善等を起こすのである。寒さがきて水を凍らせると、水が変化して堅い冰となるように、また眠りがきて心を変化させれば種々の夢を見るようなものである。今まさにもろもろの顛倒はすなわ法性であり、同一でもなく異なりもないと体得すべきである。顛倒の起滅するところは火輪といって、火をぐるぐると回すと火の輪があるように見えるように、実際には、ないものが有るように見えるのであるが、その顛倒の起滅を信じないで、ただこの心が元来、法性であると信ずるのである。起は法性の起であり、滅は法性の滅である。このことを悟ってみると、実際には起滅しないものを、みだりに起滅すると思っているのである。ただ妄想を指してみると、本はことごとく法性である。法性をもって法性に繋け、法性をもって法性を念じているのである。常に法性の働きであり、法性でないときはないのである」と述べている。
 このように、法性でないときは一瞬でないのが法性であるのに、夢の蝶を実際のことと思うように、無明?倒の生死を実際にあることと思って迷うのである。

臥所
 寝所・寝室。
―――
荘周
 前0370~0300頃)中国,戦国時代の思想家。道家に属する。宋国の蒙 (河南省商邱県) の人。漆畑の番人で,梁の恵王から宰相として招かれたが,仕えなかったと伝えられるが,確実な伝記は不明。一説に,字は子休。荘子と尊称される。
―――
胡蝶
 チョウのこと。
―――
沙汰の外
 是非を判断するに及ばないこと。
―――
信受
 信じて受けたもつこと。
―――
常住涅槃の仏性
 生死の無常を越え、常住不壊の仏性のこと。「常住」は無常に対する語で生命が永遠であること。「涅槃」は成仏・悟りの境地。「仏性」は仏の本性・性分。「仏」は覚悟の義で、心理を悟り、真智を開くこと。「性」は不改の義で、外からの影響によって変化しないこと。
―――
無明の癡惑
 「無明」は一切の煩悩の根本となる無明惑のこと。成仏を妨げる根本の迷い。九界の迷いの境地。「癡惑」は心が愚かで道理に迷うこと。
―――
癡迷
 愚癡蒙昧で物事に迷うこと。「癡」は愚か。「迷」まよう」こと。
―――
顛倒の善・不善
 顚倒した心で行う善と不善。
―――
堅冰
 固い氷。
―――
旋火輪
 松明や火縄のように持ち運びできる火。
―――
実有の思
 実在すると思うこと。
―――――――――
 まえの段では、自らの生命が十如実相の体であることが示されたが、ここでは、衆生がそれを知らないで迷っているのは夢にうなされているようなものであり、夢から覚めることが悟りであることを述べられている。
 そして、そのことを分かりやすく教えるために、“荘周の夢”の故事を取り上げた摩訶止観の文と、それについての止観輔行伝弘決の文を引用され、更に無明と法性との不二相即の関係を明確にした止観の文を挙げられている。
止観云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の性に生ぜんや
 摩訶止観巻五のなかからの、“荘周の夢のたとえ”が出てくる文から、その意をとってここに引用されている。まず、止観の原文の全文を紹介すると次のとおりである。
 「又眠夢に百千万の事を見るも、豁寤すれば一もなし、いわんや復、百千をや、いまだ眠らざれば、夢みず、覚せず、多たならず、一ならず。眠力の故に多といい、覚力の故に少というが如し。荘周は夢に瑚蝶となって?翔すること百年なるも、寤むれば蝶に非ず。また歳を積みしに非ざることを知る。無明が法性に法って一心一切心なり。彼の昏眠の如し。無相即ち法性と達して一切心一心なり、かの醒寤の如し云云。又、安楽行を行ずる人、一たび眠るに、初めて発心し、乃至、仏となり、道場に坐して法輪を転じ、衆生を度して涅槃に入ること夢みるも、豁寤すればただこれ一の豁寤すれば夢事なり」とある。
 次に、この文についての止観輔行伝弘決の釈をも引用しておこう。
 「次に夢の喩えを三と為す。初めに総じて夢事を挙ぐ。夢事は三千の如し。豁寤すれば一念の如し。末だ眠らざるは法性の如し。法性無きに非ざること覚めるが如し。法性有に非ざること夢みざるがごとし。夢みざるが故に多ならず。覚めざるが故に一ならず。無明の眠りの故に之を謂って多と為し、一念を観ずる故に之を謂って少と為す。無明と一念は法性を出ず。故に多に非ず少に非ず。荘周の夢の喩え亦復是くの如し。無明は夢の蝶の如し。三千は百年の如し、一念無きこと猶蝶に非ざるが如し。三千亦無きこと歳を積むに非ざるが如し。?は小さく飛ぶこと也、翔は廻り飛ぶこと也。郭璞云く。翅を布き?翔す。無明より下は譬を以って帖合す。合の文猶略す。無明法法性は夢の蝶に合す。一心一切心は百年に合す」と。
 さて本文の、「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」の文は、末尾に断られているように取意である。
 この夢のたとえを釈して、伝教大師は「無明が法性に法って一心一切心なり。彼の昏睡の如し」と述べ、「法性において無明が発動すると“一心”が“一切心”となる。ちょうど、鏡のような“一心”に、無数のさざ波が立って、無数の心があるように錯覚するようなものである。これが荘周の“昏睡”の状態である。これに対して“無明即ち法性なりと達すれば一切心一心なり”であって、無明がそのまま法性であると通達すると、それまで無数にあると錯覚していた心が実はただ一つの“一心”であることが分かる。これが荘周の“醒寤”の状態である」と説いている。
 次に妙楽大師は止観輔行伝弘決にこれを釈している。
 まず、夢のなかのさまざまな事柄をみるのは、三千の諸現象を表し、夢から覚めることは、一念を表している。
 眠りについていない状態は“法性”にたとえ、“法性”が単なる夢でなることを“覚めること”にたとえる。
 “法性”が有でないことを“夢を見ていないこと”にたとえる。夢をみていないことは“多”ではないことで、覚めていないことは“一”ではないことである。
 無明の眠りによって夢のなかで多くの事柄を見るのは“多”であり、一念を観ずるとき“一心”しかないゆえに“少”となすのである。
 本来無明も一念も、法性を根本としてそこから出てくるものであるから、本来は“多”も“少”もないのである。
 夢のなかの蝶は“無明”を表し、夢のなかで100年経過したことは“三千”を表し、一念が実なきことを、なお蝶にあらざることにたとえ、三千もまたなきことを、歳を積んでいないことにたとえるのである。
 大聖人は、これらの天台大師、妙楽大師の釈は、即身成仏をよくあらわしているとされ「夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周」はないと仰せられている。
 そして、これと同じで「我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり」と仰せられている。
 すなわち、我が身を生死の凡夫と思っているときは、荘周が夢に蝶となって飛んでいる状態であり、“僻目・僻思い”としかいいようがないと仰せである。
 凡夫が本覚の如来であると思うときこそ、“本の荘周”そのものであり、これが“即身成仏”であると仰せられている。
 「蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは 虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや」のと仰せられているのは、夢のなかの蝶の身のままで成仏するということはない、ということである。
 我が身を蝶とおもうことは夢の虚事であり“性体無き”妄相であり、生死の虚夢である。即身成仏は、それまでの生死の夢から覚めた後にえることである。
 夢のなかの寤のままで、成仏すると考えりことは「虚夢の生死を信受していることであり、「常住涅槃の仏性が」我が身にあるということを疑うことになるのである。
 このように仰せられているのは、凡夫をそのまま仏であるとする天台大師思想を破折されていると考えられる。
止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして 唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繋け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上、是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり
 この引用文は、摩訶止観巻五上の十乗観法の「第三 巧安止観」を明かすくだりで、説かれている文である。
 “巧安止観”というのは「善く止観を以って法性を安んずるなり」と説明されているように、止観を行じて“法性”を安んずることといえる。それだけに“法性”について、実に詳しく説かれている。無明といっても、元をただせば“法性”からあらわれてきたものである。愚かな迷いによって、法性が無明と変じ、さまざまな“顚倒”の善、不善などの思いや行為を起こすのである。
 それはたとえていえば、寒気によって水が変じて氷となり、眠りによって心が変じてさまざまな夢を見るようなものである。
 水と氷、寤の心と夢を見ている心とが全く同じでなるように、もろもろの“顚倒”の思いは、本来は法性である。
 無明・顚倒の心と法性の心とは“一”でもなければ“異”でもない。という関係のもとにあることを体得すべきである。
 もし“一”であって“異”でないとすれば、無明・顚倒の心が存在しないことになり、逆に“異”であって“一”でないとすれば、無明・転倒の心が本来は法性である、といえない。この“不一不変”が中道の考えなのである。
 凡夫にあっては、無明癡惑により?倒し、次から次へとさまざまな心が起滅することは、あたかも火の輪が回っているようであるが、顛倒の起滅の心のほうを信ずるのではなく、心はただ法性であると信ずることである。
 「起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり」との有名な文は、我々凡夫において、さまざまな心が瞬間、瞬間、縁によって起こり滅しているが、これらは結局、法性が起こり滅しているのであって、本来の法性の心においては実には起滅しないのであるが、凡夫はこれを起滅と妄想しているのである。
 結局、法性が法性に?け、法性が法性を念ずるということになって、常に法性で、法性でないときは存在しない。
 にもかかわらず、無明の状態である凡夫の心を実相と思って迷い、法性で気づかないでいる凡夫の姿を、「是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり」と結んでおられるのである。

0566:11~0567:04第13章 一体三身の徳を示すtop
11                                   止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆
12 うて一念の中に 無量世の事を夢みるが如し 乃至寂滅真如に何の次位か有らん、 乃至一切衆生即大涅槃なり復滅
13 す可からず何の次位・高下・大小有らんや、 不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十
14 因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、 十法界の依報・正報
15 は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて 一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する 是を名字即と為す名字即の
16 位より即身成仏す 故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して
17 諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、 天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依
18 り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権
0567
01 教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば 位の次第を説けり 今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心
02 と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて 心の外に無しと観ずれば 下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に
03 入る・一と多と相即すれば 一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、 下根すら是くの如し況や中根の
04 者をや 何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し 実相には次第無きが故に位無し、
-----―
 摩訶止観の巻九には「たとえば眠の法が心を覆って一念のなかに無量世のことを夢みるようなものである(乃至)寂滅真如には何の次第階位があるのであろうか(乃至)一切衆生が即大涅槃である。また滅することもないのである。そこに何の次第階位や、高下や大小があるであろう。この法理は不生不生であって不可説ではあるけれども、因縁が具わっているゆえに、また説くことができるのである。十因縁の法は衆生のために因となる。その十因縁を説くことは虚空に絵を描いて樹を種えるようなものであって、方便として一切の位を説いただけなのである」と述べている。
 十法界の依報・正報は法身の仏、一体三身の徳であると知って、一切の法は皆これ仏法であると通達し解了するのを名字即とするのである。名字即の位から即身成仏するゆえに円頓の教には次第階位の段階がないのである。ゆえに、法華玄義には「末代の学者の多くは経論に方便として説かれた煩悩を断じ伏すという修行に執着して競い争っている。水が冷たいことも、飲んでみなければどうして知ることができようか」と述べている。
 天台大師の教判には「次第階位の大綱と網目については仁王経と瓔珞経により、煩悩を断じ伏した位の高下は大品般若経と大智度論による」と説かれている。仁王経・瓔珞経・大品般若経・大智度論は皆、法華経以前の八教のなかの経論である。権教の修行は無量劫を経て昇進する次第階位であるから、位の順序を説くのである。
 今法華は八教に超えた円教なので速疾頓成であって、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に収まって、心の外にはないとみることができれば、下根の行者ですら一生のうちに妙覚の位に入るのである。一と多とが相即するので、一つの位に一切の位が皆具足するのである。ゆえに一生の間に妙覚の位に入るのである。
 下根ですらそうであるのだから、いわんや中根の者は当然である。まして上根の者はいうまでもない。実相の外には更に別の法はない。そして実相には順序がないので位はないのである。

乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
―――
寂滅真如
 諸々の苦悩を離れた常住不滅の涅槃の境地。「寂滅」は煩悩が滅して生ずることなない状態。「真如」は諸法の本体が真実であり常住で不変なこと。真は真実、如は如常の義。
―――
次位
 仏道修行における位の順序のこと。
―――
一切衆生即大涅槃
 一切衆生はそのまま大涅槃の当体であるということ。
―――
不生不生
 究極の真理は絶待であって何の差別も生じないこと。このことは言葉で説くことができないのを不生不生不可説という。四不可説(生生不可説・生不生不可説・不生生不可説・不生不生不可説)の第四。
―――
因縁
 ❶原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。❷四縁(因縁・次第縁・縁縁・増上縁)の一つ。果を生む直接的原因のこと。狭義の因の意。❸説法教化の縁由。なお、法華経迹門の化城喩品第7における過去世からの釈尊と声聞の弟子たちのつながりを明かし因縁を示した教説において、正法を信解し未来における成仏の保証を与えられた人々を因縁周という。❹経典をその形式・内容に基づき12種類に分類した十二部経の一つ。ニダーナの訳。縁起ともいう。説法教化の縁由を示すもの。❺因縁釈のこと。天台大師智顗が『法華文句』で法華経の文々句々を解釈するために用いた4種の解釈法(四種の釈)の一つ。世界・為人・対治・第一義の四悉檀で仏と衆生との関係、説法の因縁を釈したもの
―――
十因縁の法
 十二因縁のなかの初めから無明までの10の因縁をいう。①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果。
―――
名字即
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたなかの第2。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
―――
円頓の教
 円満にしてかたよらず一切衆生を直ちに成仏させる教法のこと。法華経のことをいう。
―――
次位の次第
 仏道修行における位の順序のこと。52位でいえば、10信・10住から妙覚までの各位の順序次第をいう。
―――
玄義
 天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
―――
断伏
 断惑と伏惑。諸惑・煩悩が生起することを抑え伏し、ついには一切の惑を断ち切って減除することをいう。
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諍闘
 たたかい争うこと。
―――
天台の判
 天台大師の法華玄義のこと。
―――
仁王
 中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
―――
瓔珞
 『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
―――
大品
 般若経の漢訳の一つで、中国・後秦の鳩摩羅什訳。27巻。天台教学における五時のうち般若時の代表的な経典。
―――
智論
 大智度論の略称。大論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。「摩訶般若波羅蜜経」.梵語マハー・プラジュニャーパーラミター・スートラ (Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書にとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
昇進
 昇り進むこと。爾前権教では修行して位を昇進して、仏に近づいていく。
―――
法華は八教に超えたる円
 法華経は化儀の四教・化法の四教を超越した円教であるということ。
―――
速疾頓成
 爾前の諸経にも即身成仏に通ずる説法があることをさす。いわゆる爾前の円教といわれるものである。一代聖教大意には「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』 文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、 梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても 仏に成る少少開会の法門を説く処もあり」(0399-02)とあるが、いまだ二乗作仏、悪人成仏、女人成仏が明かされず、十界のさべつも生ずるがゆえに、しんじつの二乗作仏とあいえないのである
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下根
 上根に対する語で、仏道を実践する力が乏しく、機根が劣っている者のこと。
―――
妙覚の位
 仏の悟り、またその悟りの位。大乗の菩薩の52位の最高位。円教の修行の六即位では究竟即にあたる。
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一と多と相即
 ひとつのものと多数のものが一一体不二であるということ。
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中根
 中根の法華経迹門で声聞の弟子が、つぎつぎと成仏を許されて授記を受けるが、それらの声聞は上根・中根・下根の三種に区別されている。まず舎利弗等が方便品の説法を聞いて得道する。これを法説周という。次に譬喩品等の譬えを聞いて須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・大目犍連等が得道する。これを譬説周という。さらに、大通智勝仏以来の因縁を聞いて富楼那等が得道する。これを因縁周という。
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上根
 煩悩に左右されにくく、法を聞いてすぐに理解できる機根の者のこと。
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 ここからは、無明を法性に転ずるのが成仏であるから、これを明かした円頓の教においては、凡夫が成仏するために歴劫修行は必要ないことを示されている。
 すなわち、地獄界から仏法界に至るまでの十法界の依報・正報がそのまま“法身の仏・一体三身の徳”つまり、衆生の生命の本来の姿であると知ることができれば、それは一切の法が皆仏法であると通達し解了する名字即の位に入るのであり、法華円教の教えにおいては名字即の位から即身成仏するのである、と述べられている。
 そして、更に法華玄義や天台大師の判を引用されて、これを裏づけられている。
止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し
 初めに、止観の引用文は摩訶止観巻九下からのものである。この文のまえに「若し一人の一念にことごとくみな十界・十如十二因縁を具足するを、すなわち称して摩訶衍不可思議の十二因縁となすべきのみ」という文があり、続いて引用の文では、心の実相においては十界十如十二因縁ことごとく一つであるにもかかわらず、迷いの心は、ちょうど、睡眠の状態が心を覆うと、一念のなかに無量の世の中の事象を夢見るように、さまざまな事象が個々別々に存在するかのように錯覚する、という意味で、その全文を挙げると次のとおりである。
 「若し寂滅真如には何の次位か有らん。初地すなわち二地、地は如より生ず。如は生あることなし。あるいは如より滅す。如に滅あることなし。一切衆生即大涅槃なり。復滅す可からず。何の次位・高下・大小か有らんや。不生不生にして不可説なり。因縁有るが故に亦説くことを得可し、十因縁の法、生の為に因を作ること、虚空に画き、方便して樹を種うるが如く、一切の位を説くのみ」とある。
 この文について説明を加えると、「寂滅・真如という究極の境地においては、位の次第というものはない。初地がそのまま二地である。“地”という次第・階梯は如から生ずるのであるが、如自体は“生ずる”ということはない。また、“地”の次第・階梯は滅するが、如自体に“滅する”ということはない。一切衆生は本来、大涅槃の境地を有しているのであるから、滅することはありえず、修行や境地には、どのような位の次第や高下、大小もないのである。この大涅槃の境地は“不生不生”つまり、差別としてあらわれる以前の姿であり“不可説”つまり、言葉で説くことはできないけれども、衆生を教化するという因縁があるゆえに、また言葉でもって方便が説くことが可能なのである。そこで十因縁の教えが衆生のために説かれるのである。しかしそれはちょうど、虚空に絵を描き、虚空に樹を植えたりするようなもので、一切の位は、ただ方便として説いたにすぎない」ということである。
 この引用文を受けて「十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」と仰せられている。
 すなわち、地獄界から仏法界に至るまでの十法界の依報・正報は“法身の仏”すなわち一体三身の仏に具わる徳であると知って、一切の法が皆仏法であると通達し解了するのが名字即の位であり、この名字即の位から即身成仏するのであって、そこには次位の次第、階梯はない、と仰せられている。
 なお「一切の法は皆是れ仏法なり」ということについては、改めて後に詳しく総括的に述べるので、ここでは述べない。
故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なればの次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば 一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し
 「円頓の教には次位の次第無し」という前文を受けて、これを天台大師の法華玄義から二つの文を引用され裏づけられている。
 一つは法華玄義巻五上の文で「末代の学者は、多く教論の方便断伏を執して諍闘す云云。水の性の冷ややかなるが如きは、飲まずんば安んぞ知らん。此れ乃ち諸仏の縁に赴く不思議の語なれば、機に随いて増減し、位数同じからず。爾末だ証得せずして、空しく諍いて何か為ん。普く願わくは法界の衆生、僧に帰して諍論を息め、大和合海に入らんことを」とある。
 この内容は、「末代の学者の多くは、教論に方便として説かれたところの、煩悩を断じ伏すという修行に執着して競い争っている。しかしこれらはいずれも、衆生教化の方便であるゆえに、“機に従いて増減し、位数同じ”でないのである。したがって、水の性が冷たいか否かについては、実際に飲めば直ちに分かるように、仏道修行も実際に実践してみるにしくはない」と説いている。
 次の“天台の判”とうい引用文は同じ法華玄義巻四下から、取意されたもので、原文には「広く経論を尋ねずんば、目無くして日を諍うが如し、今若し位数を明かすは、須く瓔珞、仁王に依るべし。若し断伏の高下を明かすは、須く大品の三観に依るべし。若し法門に対するは、須く涅槃に依るべし」とある。
 すなわち、次第階位の大綱と網目について明かしたのが仁王経と瓔珞経であり、煩悩を断じ伏した位の高下について説いたのが大品般若経と大智度論である、ということである。
 以上の法華玄義の引用文を受けて本抄では、仁王・瓔珞・大品・大智度論などは、法華以前の八教にすぎず、権教であるので、修行の次第階位を説いたのであると仰せられている。
 これに対して、法華経は八教を超越した円教であるから、速やかに成仏して、我が心と仏と衆生の三つはことごとく差別がなく我が一念の心中に摂して、一切が即心であると観ずることができれば、下根の行者ですら一生の間に妙覚の位に入ることができる、と仰せられている。
 法華円頓の教においては“一”と“多”とが相即するのであり、一つの位に一切の位を具足していることになる。
 例えば、五十二位に即していえば“第十二”という位に他の位を一切を具足していることになるから、どの位からでも、第五十二位の妙覚の位に到達できるのである。
 下根の人でも一生のうちに仏になれるのであるから、ましてや中根・上根の人はいうまでもないことを明かされた後、実相には位の次第というものはないことを確認されている。

0567:04~0558:12第14章 衆生即万法の深義を明かすtop
05                                         総じて一代の聖教は一人の
05 法なれば我が身の本体を能く能く知る可し 之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり 此れは華厳経の文の意なり、
06 弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る 頭の円かなるは天に象り 足の方なるは地に象ると知
07 り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり 腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法
08 とり大節の十二は十二月に法とり 小節の三百六十は三百六十日に法とり、 鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法
09 とり口の 息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり 開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法
10 とり脈は江河に法とり 骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、 五臓は天に在つては五星に法と
11 り地に在つては五岳に法とり陰・陽に在つては五行に法とり世に在つては五常に法とり内に在つては五神に法とり行
12 を修するには五徳に法とり罪を治むるには五刑に法とる謂く墨.ギ.ヒ.宮.大辟此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其
                                              の数三千の罰有り
13 此を五刑と云う 主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠等なり,天に昇つては五雲と
14 曰い化して五竜と為る、心を朱雀と為し腎を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾を勾陳と為す」又云く「五
15 音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし 覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則
16 ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し 肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、 左をば司命と
17 為し右をば司録と為し人命を主司す、 乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」已上、 人身の
18 本体委く検すれば是くの如し、 然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う 僻思は譬えば荘周が夢の
0568
01 蝶の如しと釈し給えるなり、 五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五
02 時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、 今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・
03 五智の如来の種子と説けり 是則ち妙法蓮華経の五字なり、 此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚
04 の如来なり是を十如是と云う 此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、 不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門な
05 り然るを円頓の凡夫は初心より之を知る 故に即身成仏するなり 金剛不壊の体なり、 是を以て明かに知んぬ可し
06 天崩れば我が身も崩る可し地裂けば我が身も裂く可し 地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし、 然るに此の五大
07 種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し、 正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種
08 は是れ一にして盛衰転変無し、 薬草喩品の疏には円教の理は大地なり円頓の教は空の雨なり亦三蔵教・通教・別教
09 の三教は三草と二木となり、 其の故は此の草木は円理の大地より生じて 円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄
10 うれども天地に依つて 我栄えたりと思知らざるに由るが故に 三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と
11 説かれたり、 故に草木の名を得・今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、 一地の所生な
12 れば母の恩を知るが如く一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意・是くの如くなり。
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 総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。
 妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六には「この身の一つ一つが天地に摸倣していることが分かる。頭の円いのは天にかたどり、足の四角形なのは地にかたどり、身中が空虚であるのは虚空をあらわしている。腹が温かいことは春と夏に法とり、背の剛いのは秋と冬に法とり、四体は四時に法とり、十二の大節は十二ヵ月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入りは山や沢や渓谷の中の風に法とり、口の息の出入りは虚空の中の風に法とり、両眼は日月に法とり、その開閉は昼夜に法とり、髪の毛は星辰に法とり、眉は北斗星に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉や石に法とり、皮と肉は地土に法とり、毛は叢や林に法とり、五臓は、天においては五星に法とり、地にあっては五岳に法とり、陰陽においては五行に法とり、人の世においては五常に法とり、心においては五神に法とり、行においては五徳に法とり、刑罪においては五刑に法とる。いわゆる墨・?・?・宮・大辟である(此の五刑は人を様々に傷つける刑罰で、その数は三千の罰があり、こを五刑と云う) 天地の主領においては五官にあたる。五官は下の巻八の博物誌を引いており、いわゆる苟萠等である。天に昇っては五雲ととなり、これが変じて五竜となる。また心蔵を朱雀とし、腎蔵を玄武とし、肝蔵を青竜とし、肺蔵を白虎とし、脾蔵を勾陳とする」とのべている。
 また同じく止観輔行伝弘決には「五音も五明も六芸も、皆この五蔵から起こっている。更にまた内を治める法にあてはめてみれば、覚る心が大王となっては、百重の内に在り、外に出るときは五官に衛られる。肺をば司馬とし、脾を司徒とし、脾を司空とし、四支を民子とし、左を司命とし、右を司録として人命を支配している。また臍を太一君等というのであり、天台大師の釈禅波羅蜜次第法門のなかに詳しくそ相を明かしてある」と述べられている。
 人身の本体を詳しく調べてみると、以上のとおりである。ところが金剛不壊の身を生滅無常の身であると思う誤った思いは、たとえば荘周が夢の蝶のようなものであると、妙楽大師は止観輔行伝弘決に釈されているのである。
 五行とは地水火風空である。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいうのである。これらは本来ただ一つの物であるが、経々によってさまざまに説かれているのである。内典と外典とその名目が異なるだけである。
 法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。
 この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
 これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれているのである。
 この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初心の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。
 このように我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れるならば我が身も崩れ、地が裂けるならば我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう。しかるにこの五大種は過去・現在・未来の三世は移り変わっても、五大種は変わることがない。正法・像法・末法と三時は異なっても。五大種は同じであり盛衰転変することはないのである。
 法華経薬草喩品第五の疏には「法華円教の理は大地のようなものである。円頓の教は空の雨のようなものである。また三蔵教・通教・別教の三教は、三草と二木の教えである。そのわけはこれらの草木は円理の大地から生じて円教の空の雨に養われて、五乗の草木は栄えるけれども、天地の恩恵によって自身が栄えたことを思い知らないのである。したがって仏は三教の人天・二乗・菩薩を草木にたとえて、不知恩のものと説かれたのである。ゆえに草木との名を得たのである。ところが今法華にきてはじめて、五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るのである。一つの大地から生じたものと知るから母の恩を知り、同じ一つの雨によって潤されたものと知るから、父の恩を知ったといえるのである」と述べられている。以上が薬草喩品の意である。


 四角形のこと。
―――
空種
 中身が空っぽのこと。
―――
四体
 頭・手・身・足。
―――
四時
 四季のこと。春夏秋冬。
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大節
 両手と両足にそれぞれ三大節があって12節となる。
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小節
 人体の小さな関節。
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星辰
 星のことをいう。
―――
北斗
 北斗七星のこと。北天の大熊座のしっぽにあたる。古来、北斗星の光が明らかであれば国が栄え、反対には衰えるといわれていた。周りに傍星が多い時は国は安泰で、少ない時は訴訟が多く、傍星が大きくなって北斗と合するようなことがあれば、兵乱がおこるともいわれていた。
―――
雙林
 ①草木が叢り生えている林のこと。②拘尸那掲羅国跋提河のほとりの沙羅双樹の林のこと。釈尊は沙羅双樹に四方を囲まれたこの林において80歳の2月15日に入滅した。その時、沙羅双樹がことごとく白くなり、沙羅林は白一色につつまれ、あたかも白鶴のように美しかったという。このため、沙羅林を鶴林ともいう。
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五蔵
 五臓とは肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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五星
 五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。
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五岳
 中国の道教の聖地である5つの山の総称。東岳泰山(山東省泰安市泰山区)、南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)、中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)、西岳華山(陝西省渭南市華陰市)、北岳恒山(山西省大同市渾源県)。
―――
陰・陽
 中国易学のとる二元論の見方で、動的なもの積極性を陽とし、静的なもの、消極性を陰とする。日向は陽で日蔭は陰、太陽は陽で月は陰、夏と春は陽で冬と秋は陰、天は陽で地は陰、などと立てる。
―――
五行
 中国古代の説で万物を生ずる五元素をいう。木・火・土・金・水。
―――
五常
 儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
―――
五神
 五つの心の働き。魂、魄、意、志、神。
―――
五徳
 儒教では色々な五徳を説く。体表的なものを示す。①温・良・恭・倹・譲。②仁・義・礼・智・信
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五刑
 中国の刑罰体系。①書経や周礼などの先秦時代。墨・劓・剕・宮・大辟。②唐以降の歴代のもの。笞・杖・徒・流・死。③日本でも天武天皇の時代以後、唐の影響を受けて、笞・杖・徒・流・死の五刑が導入された。
―――
三千の罰
 五刑には墨に1000・劓に1000・剕に500・宮に100・大辟に200の種類があった。
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主領
 長となるもの。首領。
―――
五官
 五行の官のこと。木正・火正・金正・水正・土正。
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博物誌
 10巻。中国・晋代の書で、自然や風俗についての珍しい話を集めたもの。
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苟萠
 五行の神のうち東方を支配する神。
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五雲
 青・白・赤・黒・青・黄の五色。
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五竜
 青竜・白竜・赤竜・黒竜・青竜・黄竜の五竜。
―――
朱雀
 中国の伝説上の神獣(神鳥)で、四神(四獣・四象)・五獣の一つ。福建省では赤虎に置き換わっている。南方を守護する神獣とされる。翼を広げた鳳凰様の鳥形で表される。朱は赤であり、五行説では南方の色とされる。鳳凰、不死鳥、フェニックス、インド神話に登場するガルーダ等と同一起源とする説や同一視されることもあり、類似が指摘されることもあり、間違われることもある。あくまで神格のある鳥であり、信仰の対象ではあるが所謂悪魔や唯一神、列神の類ではないことが最大の特徴である。
―――
玄武
 中国の神、四象の「太陰(老陰)」、四神の一つ、霊獣。北の星宿の神格化。玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。上帝翁、上帝公などとも呼ばれる。福建省では黒虎に置き換わっている。玄武は、北方を守護する、水神。「玄」は「黒」を意味し、黒は五行説では「北方」の色とされ、「水」を表す。
―――
青竜
 中国の伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜ともいう。福建省では青虎に置き換わっている。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山・青林のように緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。
―――
白虎
 中国の伝説上の神獣である四神の1つで、西方を守護する。白は、五行説では西方の色とされる。文献上は『礼記』曲礼上や『淮南子』天文訓に載せる。なお、漢代の文献には西方を白虎としないものもあり、『礼記』礼運では虎のかわりに麒麟を四霊にあげている。また『史記』では西方を白虎でなく咸池とする。
―――
勾陳
 紫微宮に属する六つの星。五臓に配せば脾臓。
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五音
 中国古代音楽の五つの音色(楽器)宮・商・角・微・羽。
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五明
 古代インドの五種の学問。声明(文学・言語学)、工巧明(工学・天文学)、医法学(医学)、因明学(論理学)、内明(哲学・教義学)。
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六藝
 中国周代に士以上の必須教養科目とされた六種の技芸。礼・楽・射・御(馬車の御し方)・書・数の総称。
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内治の法
 内政のこと。
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覚心
 本源を悟る心。自覚の心。
―――
百重
 幾重にも囲まれた立派な王城。
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五官
 中国古代の五種の官。
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侍衛
 貴人の側に仕える人。
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四支
 両手・両足のこと。
―――
民子
 人民のこと。
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主司
 科学の試験官。
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太一君
 北極星を中心として宇宙を司る神。
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禅門
 法鑒房のこと。法鑒房については、時の侍所司・平左衛門尉頼綱の父、平三郎左衛門尉盛時とする説もあるが、不明である。
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金剛不壊の身
 金剛の宝器のように、堅固で壊れることなない身のこと。
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五大種
 一切の万物・万象を構成している五つの要素。地・水・火・風・空をいう。宇宙に広く遍満するところから大といい、万物を生み出すところから種という。
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五蘊
 生命活動を構成する五つの要素。色・受・想・行・識をいう。色蘊(rūpa)人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。受蘊(vedanā) 感受作用。想蘊(saṃjñā)表象作用。行蘊(saṃskāra)意志作用。識蘊(vijñāna) 認識作用。
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五戒
 古代インドで仏教者として万人が守るべきものとされた行動規範。在家の持つべき5種の戒。①不殺生戒(生き物を殺すことを禁ず)②不偸盗戒(他人の物を盗むことを禁ず)③不邪婬戒(自分の妻・夫以外との淫を禁ず)④不妄語戒(うそをつくことを禁ず)⑤不飲酒戒(酒を飲むことを禁ず)の五つをいう。これは、ジャイナ教の出家者が守るべき五つの戒(マハーヴラタ)と通じあう。マハーヴラタは、アヒンサー(不殺生・非暴力)、サティヤ(不妄語)、アステヤ(不偸盗)、ブラフマーチャーリヤ(不婬)、アパリグラハ(無所有)である。
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五方
 五つの方位。東・西・南・北・中央をいう。
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五智
 五種の智のこと。諸教に説かれている。①密教、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智。②仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智。③成美論、法住智・泥洹智・無諍智・願智・辺際智。等。
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五時
 天台大師智顗による教判。諸経典の教えを釈尊一代で説かれたものとみなし、成道から入滅までの教えを内容によって五つの時期に分類し、矛盾なく理解しようとした。華厳時・阿含時(鹿苑時)・方等時・般若時・法華涅槃時をいう。①華厳時。釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。②阿含時。華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。③方等時。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。④般若時。鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。⑤法華涅槃時。マガダ国の霊鷲山と虚空会の二処三会で、8年間法華経を説き、大乗・小乗を超えて一切衆生が成仏できる真実の教えを開会した期間。また入滅直前に拘尸那城(クシナガラ)の西北の跋提河の沙羅双樹において涅槃経を説き、法華経の説法に漏れた人のために補足的に説法した期間。天台大師は、この五時を乳を精製する段階の五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)にあてはめ、醍醐味にあたる法華涅槃時の経が最高の教えであることを強調している。日蓮大聖人は「守護国家論」で、「大部の経大概是くの如し此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(40㌻)と述べられている。
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内典
 仏教の経典のこと。
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外典
 儒教などの中国の諸思想を書いた書物。またその思想。「開目抄」(186㌻以下)では、儒教を中国の諸思想の代表として、道教なども含む中国思想全般をさす言葉として用いられている。
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五仏性
 五つの仏性のこと。①正因仏性、本性としてもとから具わっている仏性。②了因仏性、仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露ほつろした仏性。③縁因仏性、智慧として発露するための縁となる善なる行い。④果性、菩提の果。⑤果果性、涅槃の果。
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五智の如来
 密教の五智をそれぞれそなえた如来。法界体性智・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五如来。五智五仏をいう。
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種子
 衆生の心田に植えられる仏になるための因を草木の種子にたとえていったもの。
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本有常住
 寿量品で説く生命観。生命は大宇宙とともに無始無終であり、永遠に続いているということ。
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唯仏与仏・乃能究尽
 ただ仏と仏とのみが、真実を究め尽くされているとの意。法華経方便品第2に「唯仏与仏、乃能究尽諸法実相」(唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり、法華経108㌻)とある。
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不退の菩薩
 不退の位に登った菩薩のこと。不退には、位不退・行不退・念不退がある。
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極果の二乗
 阿羅漢果を得た二乗のこと。
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円頓の凡夫
 本来的に仏性を具えた凡夫のこと。「円頓」は円満にしてかたよらず、一切衆生を成仏させる教えの意であるが、凡夫がその当体であるということ。
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正法と像法と末法との三時
 正像末の三時のこと。仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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盛衰転変無
 盛んになったり衰えたりすることが移り変わっていくこと。
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薬草喩品
 妙法蓮華経薬草喩品第五のこと。法華経迹門正宗分で、三周の説法をするなか、譬説周の述成段であり、釈尊が三草二木の譬えをもって仏の平等の慈悲を説いている。種々雑多な草木の上に雨は差別なく降り注ぐが、ただ受け取る衆生の差別のゆえに、生長の違いがある。ただ、仏の教えは一仏乗のみである。
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 障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
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三草と二木
 法華経薬草喩品第5に出てくる「譬えば、三千大千世界の山川・渓谷・土地に生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り、密雲弥布して、徧く三千大千世界に覆い、一時に等しく澍ぐ。其の沢普く卉木・叢林、及び諸の薬草の小根、小茎、小枝、小葉、中根、中茎、中枝、中葉、大根、大茎、大枝、大葉に洽う。諸樹の大小、上中下に随って、各受くる所有り。一雲の雨らす所、其の種性に称うて、而も生長することを得て、華果敷け実なる。一地の所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木、各差別あるが如し」とある。上,中,小の三草と大,小の二木が等しく雨によって潤うように,人間の素質には声聞,縁覚,菩薩、大樹、小樹の違いはあっても、等しく成仏できるということ。
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円理の大地
 法華経のこと。「円理」は円教の理のことで、一切衆生を成仏させる教えである。薬草喩品の三草二木を成長させる大地に譬える。
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五乗の草木
 五乗を草木の大小、高下をもってたとえたもの。「五乗」は衆生の機根に合わせて説かれた五種の教法及びその衆生をいう。
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不知恩
 受けた恩を忘れてしまうこと。恩を知っていても恩に報いないこと。
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一地の所生
 法華経薬草喩品第5に「一地のさ所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木、各差別あるが如し」とある。
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一雨の所潤
 法華経薬草喩品第5の譬えば、三千大千世界の山川・渓谷・土地に生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り、密雲弥布して、徧く三千大千世界に覆い、一時に等しく灌ぐ。其の沢普く卉木・叢林、及び諸の薬草の小根、小茎、小枝、小葉、中根、中茎、中枝、中葉、大根、大茎、大枝、大葉に洽う。諸樹の大小、上中下に随って、各受くる所有り。一雲の雨らす所、其の種性に称うて、而も生長することを得て、華果敷け実なる。一地の所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木、各差別あるが如し」の、「一時に等しく澍ぐ」文をさす。

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 一代聖教は「我身一人の日記文書」で生命のありようを説き明かしたのであり、この自己の本体を徹底的に悟り究めたのが仏である。
 このことは華厳経が説いているとおりであるとされ、この自己の生命と宇宙万象との一致を明かした止観輔行伝弘決の文を挙げて、自身を知ることは宇宙万象をも知ることであると教えられるのである。
 妙楽大師の止観輔行伝弘決の陰陽五行説を援用しつつ、成仏の悟りの境地がいかなるものかを明かそうとしたものである。大聖人はこれらを通して、究極的には地水火風空の五大が即妙法蓮華経であり、この妙法と五乗との関係を説いたのが法華経の薬草喩品であることが明かされている。
弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭の円かなるは天に象り足の方なるは地に象ると知り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり地に在つては五岳に法とり陰・陽に在つては五行に法とり世に在つては五常に法とり内に在つては五神に法とり行を修するには五徳に法とり罪を治むるには五刑に法とる謂く墨・ギ・ヒ・宮・大辟此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀と為し腎を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾を勾陳と為す」又云く「五音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」已上
 これは、止観輔行伝弘決巻六の二に説かれているものである。弘決はいうまでもなく、摩訶止観の注釈であるから、該当する止観巻六上の文をまず見ておこう。
 すなわち、「大経に云く、『一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説なり。外道の説に非ず』と。光明に云く、『一切世間の所有の善論は、皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち仏法なり』と。何を以っての故に。十善を束ぬれば即ち是れ五戒なり。深く五常・五行を知るは、義亦五戒に似たり。仁慈矜養して他を害せず、即ち不殺戒なり。義譲推廉にして己を抽いて彼に慧むは、是れ不盗戒なり、礼制規矩、髪を結び親を成すは即ち不邪淫戒なり。智鑑明利、所為乗直にして道理に中当するは即ち不飲酒戒なり。信契実録、誠節欺かざるは是れ不妄語戒なり。周孔は此の五常を立て、世間の法薬と為して人の病を救治す。又五行は五戒に似たり。不殺は木を防ぐ、不盗は金を防ぐ、不淫は水を防ぐ、不妄語は土を防ぐ、不飲酒は火を防ぐ、また五経は五戒に似たり。礼は節に?くことを明かす。此れは飲酒を防ぐ。楽、心を和するは防淫なり。詩の風刺するは殺を防ぐ、尚書、義譲を明かすは盗を防ぐ。易、陰陽を測るは妄語を防ぐ。是くの如き等の世智の法、精しくは其の極に通ず。能く逾ゆること無く、能く勝ること無し。威く信伏せしめて而して之を師導す。出仮の菩薩は、此の法を知らんと欲せば、当に別に通明観の中に於いて勤心修習すべし」とある。
 この止観巻六上の文は、全体としては十乗観法のうちの第四“破法遍”を明かすなかに説かれる一節である。
 破法遍というのは、第一観不思議境、第二起慈悲心、第三巧安止観と観法を行じてきても、いまだ完全なる定慧を開発することができない場合、それはまだ偏執が残存しているのであるから、この偏執を対治するための観法である。
 この観法に不可欠の基準として、四教のうち、円教のみが縦横に破法を徹底することができることを説き、その円教のなかでも、有門・無門・亦有亦無門・非有非無門があって、いずれも破法の基準として採用されるべきであるが、まず、無門を基準とすべきであると説いている。
 無門、すなわち無生門により、止観の第一の対境である識陰、一念の心について、見惑、思惑を対治するのである。
 つまり、見惑や思惑は諸法の常住に執着するところから生まれるものであるから、この惑を無生門の空観によって破るのである。いわゆる“従仮入空観”である。
 この無生門による破法遍が成就すると、次に、新しく円教仮観の立場から破法を行う。これは、先の無生門の空間により、諸法を有すると執着を破るのであるが、今度は諸法は空無である、とする考え方に偏執をいだきがちであるから、これを破るために“従空入仮観”の立場に立って、大乗菩薩の化他行に転ずるのである。この化他行としては、知病、識薬、授薬の三つがある。
 “智病”とは見惑、思惑の病の相を詳細に認識することである。すなわち、これらの見・思惑の二惑の根本が何であり、どのような因縁で、いつ生じたか、そして、いかなる病相症状の種類があるかを知るのである。
 こうして、菩薩は見・思惑がもたらす無量無辺の病相を知り尽して、苦悩に沈潜する衆生の救済を願うのである。
 次に“識薬”とは、無量無辺の病のそれぞれに適した薬を識別することである。その薬には、世間法薬、出世間法薬、出世間法上上薬の三種がある。
 三帰・五戒・十善の四禅・四無量心等の外道の行法も、一度、菩薩の手によって用いられると、見・思の二惑の病を治療する法薬となる。これが“世間法薬”である。
 “出世間法薬”というのは、見思の二惑より高い惑である塵沙惑を対治する法薬であり、“出世間上上薬”は最後の惑である無明を断じる法薬である。
 以上のように、無量無辺の病状に即して適当な薬を識別することができると、菩薩は、衆生の楽欲によって、適当な法薬を与えなければならない。
 これが“授薬”である。菩薩は止観を修行することにより、応病与薬の智慧を得、その智慧によって衆生の楽欲を満足させつつ、これを誘導して救済していくのである。
 妙楽大師の弘決の文は、以上の止観の論述のなかの“世間法薬”のくだりに対する注釈である。
 さて、止観の文では、初めに、世間における一切の仏法以外の教えや経書も、それを深く追求していくと仏法の思想を根底としていることが明白であると述べ、その裏づけとして、天台大師は、仏法に説く十善の戒をまとめると“五戒”に収まるとし、この五戒は儒教の五常や陰陽五行と、その意義において共通している、とのべている。
 次に、儒教の五常と仏法の五戒との関係を具体的に説いている。まず、「仁慈矜養して他を害せず、即ち不殺生戒なり」とあるように、“仁”が深まれば“不殺戒”にあたり、このように、“義”が“不盗戒”に、“礼”は“不邪淫戒”に、“智”が“不飲酒戒”に、“信”が“不妄語戒”に、と次第に対応させている。
 また、五行との関係でいえば、“不殺”は“木を防ぎ”、“不盗”が“金を防ぎ”、“不淫”が“水を防ぎ”、“不妄語”が“土を防ぎ”、“不飲酒”が“火を防ぐ”という関係になる、と述べている。
 更に、五経と五戒との関係も明かしている。五経とは、儒家の基本的な文献である易経、経書、詩経、礼記、春秋のことである。
 そして、これと五戒との関係を、例えば「詩の風刺するは殺を防ぐ」とか「易、陰陽を測るは妄語を防ぐ」というように述べている。
 しかし、この“世間法薬”の説明の最後で、天台大師は「然るに世の法薬は、畢竟の治に非ず」と、世間法薬では究極の治療はできない、と打ち破っている。
 この止観の文を受けて、本抄に引用された止観輔行伝弘決の巻六の二の釈文が説かれているのである。
 妙楽大師の止観輔行伝弘決の文は、止観に明かされた、五常・五行・五経と仏法の五戒との関連を、さらに広く敷衍し拡大して展開していることが分かる。
 これは「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し」との御文を受けて“我が身が本体”というものがいかなるものであるかについて、より詳しく裏づけるために引用されているのである。
五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり
 この文は、止観輔行伝弘決の引用文を受けて、大聖人が、より深く仏法の立場から明らかにされたところである。
 まず、五行が地水火風空の五大種であり、色・受・相・行・色の五蘊であり、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒の五戒であり、仁・義・礼・智・信の五常、東・西・南・北・中央の五方であり、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の五智であり、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時でもある、ということが説かれている。
 そして、これら五行・五大種・五蘊・五戒・五常・五方・五智・五時の名称は「只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり」と仰せられて、同じ“一つの物”が、各経により、あるいは内典と外典との相違により、名目が異なっているに過ぎないとのべられている。
 そして、法華経では、これらの正体が、一切衆生の心のなかにある五仏性・五智の如来の種子であることを開会し、それを妙法蓮華経の五字をもってあらわれたのであると結論されている。
 五仏性というのは、天台大師が法華文句巻十上で説いたもので、衆生が仏になっていく因としての性分をいい、正因仏性・縁因仏性・了因仏性・果性・異果性の五つをいう。
 この五つのうち正因・了因・縁因の三つが、因果でいえば“因”を表し、果性・果果性の二つが“果”を表している。
 また正因・了因・縁因の三因仏性は、衆生の本性に固有の徳として具わっているものであるから、“性徳”にあたるのに対し、果性は了因の智慧が発現して菩提の果に至ったものであり、果果性は縁因で断惑が発動して涅槃に至ったものであるから、これらを“修徳”に約すのである。
 この五仏性に加えて、“五智の如来の種子”が一切衆生の心のなかにある、と説かれている。五智の如来というのは、前述した五智それぞれの智を顕現した如来のことで、次のようになる。
 すなわち、大日如来は法界体性智を阿?如来は大円鏡智を、宝生如来は平等性智を、阿弥陀如来は妙観察智を、不空常就如来は成所作智をそれぞれ表しており、これらを総称して“五種の如来”というのである。
 しかしながら、“五智の如来”というのはあくまでも衆生が仏性を開発した結果であるから、これを因としてとらえた場合は“五智の如来の種子”ということになる。
 そして、これらの五仏性も、五智の如来の種子も、その正体は法華経文底の“妙法蓮華経の五字”なのである。
今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、一地の所生なれば母の恩を知るが如く一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意・是くの如くなり
 法華経薬草喩品第五の意によって、地水火風空の五大種すなわち妙法蓮華経の仏種が生育するための大地が円理、雨を降らせる天空が円教であるとされ、人天・二乗・菩薩の五乗は、その恩恵を受けた草木であると説かれているところである。
 すなわち、三蔵経・通教・別教の前三教における人・天・二乗・菩薩の五乗という“草木”は、本来、“円教の理”という大地から生じて、“円頓の教”という空の雨に養われて栄えているにもかかわらず、爾前経においては、これらの天地によって自分達が栄えていることを知らなかったので“不知恩”といわれているのである。
 しかし、円教・法華経にきて初めて、三草二木の譬を聞いて、五乗の草木は円理の母と円教の父とにより、自分達が栄えていたことを知るのである。
 ここでの、円理の大地の母と円教の雨の父とはいうまでもなく、妙法蓮華経の五字をたとえており、言い換えれば、人・天・声聞・縁覚・菩薩という五乗はことごとく妙法蓮華経の五字から生じ、妙法を根底として栄えるということであり、五乗は一切法、とくに人天は世間の法に摂せられるのであるから、「光明に云く、『一切の世間の所有の善論は、皆此の経に因る』」との文を裏づけることになっているのである。

0568:13~0569:05第15章 久遠本覚から一切経を施設top
13   釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給い
14 き、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し 王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成
15 る様を衆生に見知らしめ 四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、 其の後方便の諸の経教を捨てて 正直の妙法蓮
16 華経の五智の如来の種子の理を説き顕して 其の中に 四十二年の方便の諸経を丸かし 納れて一仏乗と丸し人一の
17 法と名く一人が上の法なり、 多人の綺えざる正しき文書を造つて 慥かな御判の印あり三世諸仏の手継ぎの文書を
18 釈迦仏より相伝せられし時に 三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に 満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で
0569
01 尽して時を指して 末法近来の我等衆生の為に慥かに此の由を説き聞かせて 仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授
02 与す可しと慇懃に三度まで 同じ御語に説き給いしかば 若干の菩薩達・各数を尽してミを曲げ頭を低れ三度まで同
03 じ言に各我も劣らじと事請を申し給いしかば 仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う、 三世の諸仏の説法の儀
04 式・作法には 只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば 只一向に後五百歳を指して 此の妙法蓮華経を以て成
05 仏す可き時なりと譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。
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 釈迦如来は五百塵点劫の当初、凡夫であったとき、我が身はすなわち地水火風空の五大であって本有常住の当体であるとお知りになって、即座に悟を開かれた。
 後に、衆生を教化するために幾世も幾世も繰り返し繰り返し現れて成道し、いたるところにおいて仏としての八種の相を示した。今日においては、王宮に誕生し、菩提樹下に成道して、はじめて仏になるさまを衆生に見知らしめ、それから四十余年の間、方便の教を設けて衆生を誘引した。
 その後、方便の諸の経教を捨てて、正直の法であり、五智の如来の種子である妙法蓮華経の理を説きあらわして、そのなかに四十二年の間の方便の諸経を丸め入れて、一仏乗とし、人一の法と名づけた。釈尊自身の悟りを明かした法である。
 この妙法蓮華経は、釈尊が多くの人の異論をさしはさむことのできない正しい文書としてつくられたものであり、仏の実印がたしかに捺されているのである。
 三世の諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏から相伝されたとき、釈迦仏は三千三百万億那由佗の国土の上の虚空に充満している多数の菩薩達の頭を摩でて、時を指定して、末法今時の我ら衆生のためにこの妙法をたしかに説き聞かせ、仏の譲り状をもって、末代の衆生にたしかに授与しなさいと、丁寧に三度まで同じ言葉で仰せられた。そのときそのとき多くの菩薩達は一人も残らず、身を曲げ頭を下げて、三度まで同じ言葉で我劣らじと仏に誓ったので、仏は安心されて本覚の都に遷られたのである。
  三世の諸仏の説法の儀式・作法と同じ言葉をもって行われた、末代のための譲り状であるから、ただ一向に後の五百歳を指さして、この妙法蓮華経をもって成仏すべき時であると、譲り状の文の面に書き記された。三世の諸仏の手継ぎ証文である。

五百塵点劫の当初
 五百塵点劫を久遠とし、「当初」はそれ以前。久遠元初のこと。
―――
世世・番番に出世・成道し
 本仏が垂迹身を示現して、幾度も繰り返し出世して衆生を救済していくこと。
―――
八相作仏
 時に応じた仏が結縁の深い衆生を救うために、世に出現し、成道を中心として、一生の間に示す八つの相。①下天、兜率天からこの世に降下すること。②託胎、母摩耶夫人の胎内に宿ること。③出胎、誕生すること。④出家、修行のため王宮を出ること。⑤降魔、悟りの障害となる魔を打破すること。⑥成道、菩提樹の下において悟りを開き仏となること。⑦転法輪、衆生のために種々の説法をし、教化すること。⑧入涅槃、拘尸那掲羅において涅槃に入ること。
―――
人一の法
 諸乗即一乗と開会して一切の人を唯一の本仏に包摂する妙法の絶待妙をいう。
―――
手継ぎの文書
 師匠から弟子に直接授けられた相伝書。
―――
若干の菩薩達の頂を摩で尽して
 妙法蓮華経嘱累品第22の摩頂付嘱のこと。「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以って、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したもう、我無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等応当に、一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし。」とある。
―――
仏の譲状
 釈尊が上行菩薩等の地涌の菩薩に妙法蓮華経を末法に弘通することを託し、更に、その他の菩薩にも弘通を託したこと。如来神力品・嘱累品に説かれていることをさす。
―――
慇懃
 ねんごろ・親切丁寧の意。
―――
躳を曲げ頭を低れ
 法華経嘱累品第22に「時に諸の菩薩摩訶薩、仏の是の説を作したもうを聞き已って、皆大いに歓喜し、其の身に遍満して、益恭敬を加え、躬を曲げ頭を低れ、合掌して仏に向いたてまつりて、倶に声を発して言さく、世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯然なり世尊、願わくは慮したまうこと有さざれ。諸の菩薩摩訶薩衆、是の如く三反、倶に声を発して言さく」とある。
―――
本覚の都に還えり
 釈尊の入滅のこと。
―――
後五百歳
 薬王品の文。「我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布す」とある。末法のはじめ。
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 妙法蓮華経が久遠元初において仏が覚知された根本の法であり、しかも、それ以来、世々番々の仏の化導の究極であることを述べられている。
 更に、それがまさに釈尊滅後の後五百歳、末法の一切衆生の成仏の為に譲られた大法であることを述べられている。
 「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」とは、久遠元初における仏の究極真実の悟りも、凡夫の我が身が五大にほかならないことが示されている。
 そして、続く「後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し」の御文は、中間の化導を示されている。
 「王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す」では、今日インドにおける化導のうち、爾前権教を説いた教義を示されている。
 更に「其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり、多人の綺えざる正しき文書を造つて慥かな御判の印あり」と説いて、法華真実の意義を明らかにされている。
 しかも、この「正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子」こそ、末法弘通のために付嘱された法体であることを、法華経嘱累品の摩頂付嘱の儀式を取り上げて「三世の諸仏の説法の儀式・作法には只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり」と仰せられている。
釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して 其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり
 この御文は、久遠元初における証得を明かされた、本抄でも最も重要な一節といえよう。
 「五百塵点劫の当初」ということについて、日寛上人は当流行事抄のなかで「五百塵点劫は即ち是れ久遠なり。当初の二字豈元初に非ずや」と述べられ、「五百塵点劫の当初」とは久遠元初をさしていることを教示されている。
 さて「五百塵点劫」すなわち久遠とは、法華経如来寿量品第十六で「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」と明かされているが釈尊の久遠の成道、そして、この成道以前に行った本因の修行については「我れ本、菩薩の道を行じて」とのみ説いているが、すなわち、釈尊がいかなる法を行じたかは示されていない。
 これを大聖人は本抄で、「凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と仰せられている。
 日寛上人は同じく当流行事抄のなあで「今我が身地水火風空と知ると云う。即ち一切の法は皆是れ仏法なりと知ると同じく、謂く、一切の法の外に我が身無く、我が身の外に仏法無し、故に我が身全く一切の法なり。地水火風空は即ち妙法五字なり。妙法五字の外に仏法無し。故に五大全く皆是れ仏法なり…然れば即ち釈尊名字凡夫の御時、一切の法は皆是れ仏法なり、我が身の五大は妙法の五字なりと知ろしめし、速やかに自受用報身を成ず。故に即座開悟と云うなり」と述べられている。
 「地水火風空」が妙法蓮華経にほかならないことは、本抄前段で「五行とは地水火風空なり五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり」との御文からも明らかである。
 すなわち我が身が妙法蓮華経であり、それは宇宙森羅万象と一体であると悟られたのが久遠元初の自受用法身であられたのである。
 続いて「世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し、王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す」の御文については、日寛上人は、同抄で、久遠元初の自受用身が垂迹化他して衆生を救う姿を説かれたものである、と釈されている。
 すなわち「起縁已に熟して仏の出世を感ず。故に久遠元初の本より本果第一番の迹を垂れ、五時に経歴して開化引導す…第二番の後、今日已前世々番々にして之を調熟す…而るに後、体内寿量に至りて、皆悉く久遠元初の下種の法華に帰会し、名字妙覚の極意に至らしむ」と。
 本果第一番とは、五百塵点劫における釈尊の成道のことであり、これ自体、実は久遠元初の自受用身である本仏の垂迹の姿であることをあらわしている。
 したがって、それ以後に出現した諸仏も、更には、インドに出現して「王宮に誕生して樹下に成道して始めて仏に成」った釈尊も、すべて久遠元初の自受用身が衆生を化導するために垂迹した姿であったのである。
 このようにして衆生の機根を調熟し、方便教を開会して一仏乗の法を説き、最後は久遠元初の名字の妙法を悟らしめて成仏させたのである。
三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で尽して時を指して末法近来の我等衆生の為に慥かに此の由を説き聞かせて 仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと慇懃に三度まで同じ御語に説き給いしかば若干の菩薩達・各数を尽してミを曲げ頭を低れ三度まで同じ言に各我も劣らじと事請を申し給いしかば仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う、三世の諸仏の説法の儀式・作法には只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり
 法華経における神力嘱累品の付嘱が三世諸仏の共通の儀式をもって行われてきたことと、それが末法の衆生を成仏せしめる妙法蓮華経の大法を託すためであったことを述べられている。
 先の文にとかれてた「正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理」こそ、あらゆる衆生の成仏を可能とする“一仏乗”の法体であり、末法弘通のために法華経において付嘱された法がまさに、この妙法だったのである。
 すでに、釈尊の仏法が“白法隠没”して功力を失った末法には、観心本尊抄に「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と仰せのように、三大秘法の妙法のみが一切衆生を救う大法である。
 「只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり」との仰せは、日蓮大聖人こそ末法の衆生を成仏させる大白法を弘める御本仏であられることを示唆されていると拝される。

0569:06~0569:16第16章 妙法が末法に譲らるを説くtop
06   安楽行品には末法に入つて近来・初心の凡夫・法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり、身も安楽行
07 なり口も安楽行なり意も安楽行なり 自行の三業も誓願安楽の化他の行も同じく 後の末世に於て法の滅せんと欲す
08 る時と云云、 此は近来の時なり已上四所に有り薬王品には 二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり、皆近来を
09 指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして 凡夫の言に付き愚癡の心に任せて 三世諸仏の譲り状に背き奉り永
10 く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん、 涅槃経に云く「法に依つて人に
11 依らざれ」と云云、 痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して 還つて仏法を滅す、弘決に之を悲しんで
12 曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは 良に近代大乗を習う者の 雑濫に由るが故なり 況や像末情澆く信心寡
13 薄・円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども 暫くも思惟せず便ち目を瞑ぐに至る 徒らに生し徒らに死す一に何ぞ痛ま
14 しき哉」已上、 同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被むらしむ 若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法
15 性の土に住して 法性の身を以て諸の菩薩の為に 此の円頓を説かずして 何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し此
16 の三界に現じ給うことを須いんや、 乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上、
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 法華経安楽行品第十四には、末法に入って近来の初心の凡夫が法華経を修行して成仏すべきありさまを説き置かれている。
 すなわち、身安楽、口安楽、意安楽の自行の三業も誓願安楽の化他行も同じく「後の末世に於いて法の滅せんと欲する時」と説かれている現在のためなのである。
 安楽行品には以上四ヵ所に末法の時を示す文がある。法華経薬王菩薩本事品第二十三には二ヵ所に説かれ、同普賢菩薩勧発品第二十八には三ヵ所に説かれている。
 いずれも近来をさして仏は譲り置かれたのであるが、この正しい文書を用いずに、凡夫の言葉に付き、愚癡の心に任せて、三世の諸仏の譲り状に背きたてまつり、永く仏法に背くならば、三世の諸仏はどれほどか本意なく悔しく心憂く嘆き悲しまれることであろう。 
 涅槃経には「法に依つて人に依ってはならない」と戒められている。末代の学者が仏法を習学して、かえって仏法を滅するのは、痛ましいことである。悲しいことである。
 妙楽大師は止観輔行伝弘決にこのことを悲しんで「この法華円頓の教えを聞いてこれを崇重しないことは、まことに近代の大乗を習う者が仏法の正邪を乱したことによるのである。まして像法・末法に成ると、人情は薄く信心は弱くなり、円頓の教法は経蔵に満ちているけれども、これをしばらくの間も読んで思索しようとはせず、仏法に対して目を塞ぐようになり。いたずらに生まれ、いたずらに死ぬことは、ひとえに痛ましいかぎりではないか」と述べている。
 さらに止観輔行弘決の巻四には「法華円頓の教はもともと、凡夫のために説かれた法門である。もし凡夫を利益するためでなければ、仏はどうして自ら法性の土に住し、法性の身をもってもろもろの菩薩のために、この円頓の教を説くのではなくして、もろもろの法身の菩薩のために凡身を示してこの三界に出現される必要があったであろうか。(乃至)凡夫に仏の生命が具わっているのだから、凡夫が修習することができるのである」と述べている。

安楽行品
 妙法蓮華経の第14章(法華経422㌻以下)。釈尊が滅後の悪世における弘通を勧め、その際に留意すべき実践方法を身・口・意・誓願の四つの面から説いている。これを四安楽行という。
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初心
 初めて発心し、仏道修行をはじめたばかりの人。
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誓願安楽の化他の行
 誓願安樂行は大慈大悲の心で一切衆生を憐れんで救おうとすることから化他行となる。
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薬王品
 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。
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勧発品
 法華経普賢菩薩勧発品第28のこと。神力品以下付嘱流通中の自行流通を勧めている。普賢菩薩が東方宝威徳上王仏の国にいて、この娑婆世界で、釈尊が法華経を説くのを聞いて来至し、仏の滅後にいかにしてこの法華経を持つかとの問いに対して、釈尊は四法成就を説いて、法華経を再演したことをあらわしている。
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凡夫の言に付き
 法然等は仏説を無視して己義を構えたが、凡夫はその言に惑わされて、仏の教えに背いたのである。
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涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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大乗
 一般に大乗仏教という。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。
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雑濫
 雑乱。入り乱れるさま。
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円頓
 すべて欠けることなくそなえていて、速やかに成仏させること。天台教学では、万人成仏・即身成仏を実現する法華経の教えをさす。法華経の肝心である題目の南無妙法蓮華経は、法華経のすべてを欠けることなく納め、万人の即身成仏を実現する円頓の法である。
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法身の菩薩
 煩悩を断じて一分の法性を顕現した菩薩のこと。
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 妙法蓮華経が末法のための仏法であることを裏づける文が安楽行品第十四に4ヵ所、薬王菩薩本事品第二十三に2か所、普賢菩薩勧発品第二十八に3か所もあることを示され、にもかかわらず仏説をないがしろにした人師の邪義にたぶらかされている人々の愚かさを嘆かれている。
 安楽行品第十四には、身・口・意の四安楽行が説かれているが、それが末法のたけである証拠として「後の末世に於て法の滅せんと欲する時」とあることを挙げられている。
 次に、法華経薬王菩薩本事品第二十三、同普賢菩薩勧発品第二十八の各所にも明かされていることを指摘された後「皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん」と仰せられ、諸宗の人々が凡夫である開祖達の言葉を信じて仏の心に背いていることを悲しまれている。そして、涅槃経の「法に依つて人に依らざれ」の文を引かれ、末法の諸宗の僧らが、この涅槃経の戒めに背いて、仏法を学しながら、かえって仏法を滅ぼしていることを悲しまれている。
弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは良に近代大乗を習う者の雑濫に由るが故なり況や像末情澆く信心寡薄・円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず便ち目を瞑ぐに至る徒らに生し徒らに死す一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被むらしむ 若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し此の三界に現じ給うことを須いんや、乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上
 この弘決からの引用は、初めの文は円頓の仏教がありながら、僧らが像末に至ってこれを正しく学び実践しようとしないことを嘆いた文である。直前の「痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す」という御文を裏づけるために引かれていることはいうまでもない。
 すなわち、初めの弘決の文は巻一の五の文で、妙楽大師の時代の大乗仏教の僧らが、法華円頓の教を聞いて尊重していないことを指摘し、更に時代が下って像法時代の末になると、ますます信心も薄くなってくる結果、経典や本はたくさんあっても、その内容については少しも思惟せず、実践もしないで、生死の迷いの世界を流転することは、痛ましいかぎりであると述べている。
 次の弘決の文は巻四の四で、法華円頓の教えが凡夫のために説かれたことを述べた文である。妙楽大師が、天台大師の止観巻四下の次の文について釈したものである。
 「円の釈は爾らず。何を以ってか知ることを得ん。若し上地の人の為に説くといわば、まさに法性の仏と作って法性の国に現じ、法性の菩薩の為に之を説くべし。何の意ぞ相輔けて此の三界に現ずるや、此の凡俗を度せんと欲するが為の故に、此の妙法を論じ、其れをして修することを得せしむ。若し爾らずと言わば、誰の為にか権を施すや、権、何の引く所ぞや、若し此の意を得ば、初心の凡夫も能く一念に於いて円かに諸の蓋を棄つ」と。この止観の意味は、仏が法を説くのはあくまでも三界に生じて苦悩している凡夫を救うためであってそれ以外はない、ということである。
 もし、凡夫の救済が目標でなかったならば、仏は最初から“地上の人”に説くために、初めから“法性の仏”として“法性の国”に自ら姿を現して、法を説く相手も“法性の菩薩”に限って説けばすむことである。にもかかわらず、あえて仏が三界に出現したのは、三界六道の凡夫を救うためにあったからであるというのである。
 この止観の文を受けて、弘決巻四の四の文では、円頓の教えが本来、凡夫を利益するために説かれたのであり、もしそうでなかったなら、仏自ら“法性の土”に住し“法性の身”をもって、もろもろの菩薩のためにこの円頓の教えを説いていればよかったのである。仏がもろもろの法身の菩薩のために、あえて凡身を示している三乗に出現することを勧めたのは、まさに凡夫を救うためだったのであり、凡夫に仏の生命が具わっているのであるから、凡夫の修習が可能になったのである、というのである。

0569:16~0570:11第17章 衆生に約し自行化他を明すtop
16                                       所詮己心と仏身と一なりと観ず
17 れば速かに仏に成るなり、 故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に 仏に成
18 ることを得る」と已上、 此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば 臨終を礙わる可き悪業も有らず生
0570
01 死に留まる可き妄念も有らず、 一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば 教訓す可き善知識も入る可らず思うと思
02 い言うと言い為すと為し 儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は 皆仏の御心と和合して 一体なれば過も無く障り
03 も無き自在の身と成る此れを自行と云う、 此くの如く自在なる自行の行を捨て 跡形も有らざる無明妄想なる僻思
04 の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば 冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、 只
05 今打ち返えし思い直し悟り返さば 即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ、 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡
06 なりと雖も我等は 裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、 如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に
07 明と無明とは其の体只一なり 鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り 鏡に裏有りと雖も面の障りと
08 成らず只向い様に依つて得失の二つ有り 相即融通して一法の二義なり、 化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の
09 観心は鏡の面に向うが如し 化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は 只一にして替ること無し鏡を即身に譬
10 え面に向うをば成仏に譬え 裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え 裏に向う時・面の徳無
11 きをば化他の功徳に譬うるなり 衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり、 
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 結局、己心と仏身と一体であると観ずれば速かに仏に成るのである。このことを止観輔行伝弘決にはまた「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観ずるゆえに仏になることができたのである」と述べている。
 このことを観心というのである。実に己心と仏心とは同じ心でえあると悟れば、臨終を妨げる悪業もなく、生死界にとどまるに妄念もないのである。
 一切の法は皆これ仏法であると知ったならば、教訓をしてくれる善知識も必要ないのである。そして、思うままに思い、言うままに言い、為すままに為し、振る舞うままに振る舞うというその行住坐臥の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して一体となるから、過失もなく、障害もない自由自在の身となる。これを自行というのである。
 このように自由自在な自行の行を捨てて、跡形もないような無明妄想である誤った思いの心に住して、三世の諸仏の教訓に背くならば、無明から無明に入り、永く仏法に背く姿になることは、まことに悲しいかぎりである。
 今、心を入れ替えて、思い直し、悟り返してみれば、即身成仏は我が身のほかにないことが分かるのである。
 我が心の鏡と仏の心の鏡はただ一つの鏡であるけれども、我らは鏡の裏に向かって我が仏性の理を見ないのである。ゆえに無明というのである。
 如来は鏡の表面に向かって我が性の理を見ておられるのである。ゆえに明と無明とはその体はただ一つである。
 鏡は一つの鏡であっても、向かいようによって、明と矇昧の差別が起こるのである。
 鏡に裏があるといっても、表面の障りとはならない。ただ向かいようによって映し出すか出さないかの二つがあるのである。この二者は相即融通して一法の二義である。
 化他の法門は鏡の裏に向かうようなものであり、自行の観心の鏡は表面に向かうようなものである。化他のときの鏡も、自行のときの鏡も我が心性の鏡はただ一つであってかわらない。
 鏡を即身にたとえ、鏡の表面に向かうのを成仏にたとえ、裏にむかうのを衆生にたとえるのである。 
 そして鏡に裏があるのを性悪を断じないことにたとえ、裏に向かうときに表面のような影を映す徳がないことを化他の功徳にたとえるのである。すなわち衆生の仏性があらわれないことにたとえるのである。

観心
 ❶自身の心を観ずる仏道修行。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、天台大師智顗の『摩訶止観』に説かれた一念三千を成仏のための観心の修行とみなされ、その根幹を凡夫が自身の心を観じて十界がそなわることを見ることであると明かされた。その上で、一念三千を直ちに表現した曼荼羅を本尊として信じ受持することが末法の衆生にとって観心に相当し、これによって成仏できることを明かされた。この法門を受持即観心という。▷受持即観心❷教理の面である教相に対して、仏道修行の面をいう。また経典の表に現れている文上の教理の面に対して、そこに指し示されている文底の覚りの真実の面をいう。▷教相❸天台大師が『法華文句』で経典の文々句々を解釈するに当たり用いた四種釈の一つである観心釈のこと。観心釈とは、仏道修行者の身に即して実践的な面から行う解釈のこと。
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臨終
 人がまさに死のうとするとき。
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悪業
 心身の悪い行為・行動のこと。また、三悪道・四悪趣に堕ちる因となる業をいう。悪業には五逆罪・十悪(業)など種々あるが、最大の悪業は謗法であり、無間地獄に堕ちるとされる。
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善知識
 よい友人・知人の意。「知識」とはサンスクリットのミトラの訳で、漢語として友人・知人を意味する。善知識とは、仏法を教え仏道に導いてくれる人のことであり、師匠や、仏道修行を励ましてくれる先輩・同志などをいう。善友ともいう。悪知識に対する語。
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行住坐臥の四威儀
 「行住坐臥」は①行く・住む・坐る・臥す。日常の生活のすべて。「威儀」は規律にかなった起居動作、常にその態度や動作が法にかなっているということ。
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和合
 二つ以上のものが結合し溶け合うこと。うちとけてやわらぎあうこと。
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明昧の差別
 明と昧の違いのこと。「明」は明るい、「昧」は日の出前の薄暗いありさまをいう。
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得失
 得るものと失うもの。
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相即融通
 諸法が互いに融合して一法に一切法を具し、一切法は一法におさまって一体不二をなすこと。「相即」は諸法の体において二つのものが互いに溶け合い邪魔しないこと。「融通」は滞りなく通ずること。
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性悪
 本有の真如・仏性に悪が本然的にそなわっているとする天台が立てた義。
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 前段のところまで“化他の経”“自行の法”についてそれぞれの論述を終えられて、ここからは、自行と化他の差異と関係性を明かされていくのである。
 また、これまでは、仏の立場に約して“自行の法”と“化他の経”について論じてこられたのであり、そこでは自行の法とは仏の寤の本心を説いたものであり、化他の経とは衆生を法華経へと次第に誘引する方便として説いた教えを意味されていた。
 しかしここからは、これを衆生の立場に約して示されていくのである。まず、自行であるが次のように説かれている。
 「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」と。
 すなわち、衆生の立場から“自行”をとらえると、己心と仏心とが同一であると悟るならば、その行住坐臥の四つの行動や振る舞いが仏の御心とかなって一体となり“自在”になっていく。これを自行というと述べられている。
 次に、同じく衆生の立場から“化他”をとらえると「此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住」することであり、その結果、三世の諸仏の教訓に背いて冥きより冥きに入って永く仏道に背くことであると説かれている。
 更に、自行と化他の差異と関係性について、鏡のたとえに寄せて次のように説かれている。すなわち、「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず只向い様に依つて得失の二つ有り相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり」と。
 ここでは、無明と明、化他の法門と自行の観心、衆生と成仏の相違と関係性が、分かりやすく一枚の鏡の裏と面との違いに譬えられている。
 今、これを整理すると、
    鏡の裏=無明=化他の法門=衆生=性悪断ぜざること 
    鏡の面= 明 =自行の観心=如来=成仏
 ということになる。
弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と已上、此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず
 初めに引かれている弘決の文は、弘決巻二の一にあり、次に挙げる止観巻二上の文を釈したものである。
 「自から念ぜよ、仏、何の所よりか来たる。我も亦、至る所無しと。我が念ずる所、即ち見る、心仏と作り、心自ら心を見る。是の仏の心は、是れ我が心なれば仏を見る。心自ら心を知らず。心自ら心を見ず。心に想あるを癡と為す。心に想無きは是れ泥?なり。是の法、示すべき者無し、皆、念の為す所なり。設い念あるも、亦、無所有空と了ずるのみ。偈に云く、『心は心を知らず、心有って心を見ず。心、想いを起こすは即ち癡、相無きは即ち泥?なり。諸仏は心に従って解脱を得、心は無垢なれども清浄と名づく』。と。五道鮮潔にして色を受けず、此れを解すること有る者は大道を成ず。是れを仏印と名づく。貪る所無く、著する所無く、求むる所無く、想う所無し。所有尽き、所欲尽く。従って生ずる所無く、滅すべき所も無く、壊敗する所も無し。道の要、道の本なり。是の印は二乗も壊すこと能わず。何に況や魔をや」と。
 これは止観巻二上において“四味三昧”の第二“常行三昧”について身・口・意の三業に即してその行を規定しているが、そのうちの意業における業について説かれたなかの文である。
 この文の内容を一言でいえば、心と仏とが本来平等一体なることを観ずるべきであるというのである。すなわち、心というのは心を知らないし、心は心を見ない。しかし、心が心となったときに「心自ら心を見」るのであり、それは同時に「仏の心を見る」ことであり、「我が心が仏を見る」ことでもある。しかし、心が仏を見、心が心を見るといっても、心になんらかの想いのない状態が「泥?」である。
 更に、心と心とが一体平等であることを観ずることができれば、その境地は「貪る所無く著する所無く、求むる所無く想うところ」のない状態であり、したがって、また、所有が尽き、所欲がなくなってしまい、生ずるところも滅すべきところもなくなる。これこそ、二乗や魔ですら破壊することもできない「仏印」であるとともに「道の要・道の本」である、と述べている。
 さて、本文に引用された弘決の「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」という文は、今の止観の文のなかの「諸仏は心にしたがって解説を得」という句を釈したものである。
 以上の弘決の文を受けて「此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず」と仰せられているのである。
 ただし、日蓮大聖人の仏法における観心とは、三大秘法の大御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱えることであり、妙法の功力によって、己心即仏心と悟って成仏するのである。
 日寛上人はこの文を観心本尊抄文段で次のように御教示されている。
 「仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異ならず、故に『一』というなり。而して『観』というは、初心の行者その義を知らざれども但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に『己心と仏心と一なり』と観ずるに当るなり。故に『観心』というなり」と。
 ここに明確に示されているように、己心も仏心も、ともに妙法蓮華経の当体である点で“一”であり、“観心”とは、初信の行者が意義については何も分からなくても、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることにより、おのずから“己心と仏心と一なり”と観ずることになる。結局、御本尊を受持することが、日蓮大聖人の仏法における“観心”の本義なのである。
一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う
 一代聖教を自行と化他に分けると、随他意の爾前経が化他の経であり、仏の悟りをそのまま明かした随自意の法華経が、自行の法であることは、既に明確にされた。
 ここでは、その仏の自行の法である法華経を、そのとおりに信じて「己心と仏身と一なり」と観じて即身成仏することが衆生にとっての自行であることを教えられている。
 すなわち、一切の法は皆ことごとく仏法であると悟ったならば、もはやその人を教訓する善知識を必要とせず、ただ自らの思うまま、言うがまま、為すがまま、振る舞うがままであり、また、動いたり止まったり坐ったり臥したり、というようなさまざまな日常的な行為が、そのまま仏の心と一体となって、自在の身となって振る舞っていくことができるのであり、これを自行というと仰せられている。
 しかるに、このような“自行”の境地を教えた法華経の信心を捨てて、全く存在しない無明妄想に発する「僻思の心」にこだわって、三世諸仏の教訓に背くならば、悪道に流転し、不自由の境涯に苦しむことになる。
 したがって、仏の自行の法を根本として、衆生が仏の悟りの境界に入ること、すなわち“観心”が衆生にとっての自行であり、逆に、仏の心と背反して、無明妄想に迷っていくことが“化他”である。言い換えると、悟りの法性が自行、迷いが無明の化他ということである。
鏡の面と裏の譬
 無明と法性の関係を鏡にたとえて、更に分かりやすく説かれている。
 衆生と仏がともに妙法蓮華経の当体であるということは、ともに同じ鏡であることにたとえられる。ただその違いは、鏡への「向い様」であるといわれているのである。
 「衆生」の場合は、鏡の“裏”に向かうのに対し、「如来」は“面”に向かうのである。このため、我が身が一念三千の当体であるという「我が性の理」は、鏡の裏面を見ている凡夫には見えない。表面に向かっている“如来”は、それを明確に悟っているのである。
 本来、その体は一つであるが、向かい方の違いで“明”と“無明”、“明”と“昧”の差別が生まれるのであり、明と無明とはその法体においては変わりがなく、それにどう対するかで、その差異が生じてくるのである。
 また、「鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず」との仰せは、無明を断ずる行き方は誤りであると既に述べられたことを、再びおおせられていると考えられる。
 「化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し」と仰せの化他の法門は、夢中の衆生の機根に合わせて説かれた教えであり、仏の証得、法門の全体像を明かさずに、九界の言葉、心地を語ったものでしかないところから、鏡の裏に向かっているのと同じになる。
 これに対し、自行の観心の法門である法華経は、生命の全体像、一念三千という仏の正意を説いているので、鏡に向かっているようなものである。
 「化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し」とは、化他の法門によって迷いのなかにいるときも、自行の観心によって悟っているときも、「我が心性の鏡」それ自体は不変であるということである。
 「即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う」とは、鏡を生命自体とすると、その鏡の表面に向かって自分の名を明らかに正しく映しているときが成仏の境地であり、裏面に向かって自身の姿が映せないであるのが九界の境地であるということである。
 末法の御本仏・日蓮大聖人は、この内なる生命、一念三千の実像を末法の衆生がくっきりと映し出す明鏡として、大御本尊の我々末代の凡夫に授与してくださったのである。
 この御本尊を純真に信じて題目を唱えるとき、我が心の鏡に向かったと同じことになり、我が身を一念三千の当体であると知ることができるのである。
 逆に、御本尊は眼前にあっても、信心がなければ、鏡の裏に向かっているように、我が生命は映し出されないのである。
 また「鏡に裏」有るをば性悪を断ぜざるに譬え」とは、十界互具の法理を述べられており、仏にも九界が本来の性分として具わっていることをたとえている。
 九界を断尽して、出離することが成仏であるとするのが、爾前教の考え方であった。これに対して法華経は、仏にも九界を具えていて、九界の衆生のなかにあって、衆生救済の行を果たしていくことを説くのである。したがって、仏界といい九界といっても「一法の二義」にすぎないのである。

0570:11~0572:04第18章 自行化他の力用の優劣示すtop
11                                  自行と化他とは得失の力用なり玄義の一に
12 云く「薩婆悉達・祖王の弓を彎て満るを名けて力と為す 七つの鉄鼓を中り一つの鉄囲山を貫ぬき 地を洞し水輪に
13 徹る如きを名けて用と為す自行の力用なり諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し何となれば昔の縁は化
14 他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず已上化他、今の縁は自行の二智
15 を禀けて仏の境界を極め法界の信を起し 円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損す、 但だ生身及び生身得忍
16 の両種の菩薩倶に益するのみに非ず 法身と法身の後心との両種の菩薩も亦 以て倶に益す化の功広大に利潤弘深な
17 る蓋し茲の経の力用なり已上自行」自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり能く能く之を見よ一代聖教を鏡に
18 懸たる教相なり、 極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が
0571
01 身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し 仏語を悟り極むるなり 起法界信とは十法界を体と為し十法
02 界を心と為し 十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず 増円妙道とは自行と化他と
03 の二は相即円融の法なれば 珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し 片時も相離れず仏法に不足無し一生の
04 中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、 断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば 生死も涅槃も
05 倶に昨日の夢の如く 跡形も無きなり、 損変易生とは 同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往
06 生せる人・ 彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経
07 て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、 下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う 是くの如く変易
08 する生死は浄土の苦悩にて有るなり、 爰に凡夫の我等が此の穢土に於て 法華を修行すれば十界互具・法界一如な
09 れば浄土の菩薩の変易の生は損し 仏道の行は増して変易の生死を 一生の中に促めて仏道を成ず 故に生身及び生
10 身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり、 法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり、 後心の菩薩とは等
11 覚の菩薩なり 但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり 本門には法身と後身との菩薩を利益す但し今
12 は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に 凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て 浄土の十地等覚の菩薩を
13 利益する行なるが故に化の功広大なり 化他の徳用利潤弘深とは自行の徳用円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さ
14 ず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此
15 の経の自行の力用此くの如し 化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し 故に成仏の人も
16 無し今法華経は自行・化他の二行を開会して 不足無きが故に 鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く 成仏滞り無
17 し、 薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり 第一の譬に云く諸経は諸水の如く法華は大海の如
18 し云云 取意、 実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず
0572
01 不可思議の徳用を顕す、 諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し 自行と化他との勝劣是くの如し
02 一を以て諸を例せよ、 上来の譬喩は皆仏の所説なり人の語を入れず 此の旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰り無
03 し此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや、 三世の諸仏の総勘文なり敢て人の会釈を引き入る可からず 三世諸仏の出
04 世の本懐なり一切衆生.成仏の直道なり、
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 自行と化他とは、得るか失うかの力用の相違である。法華玄義の巻一には「薩婆悉達が祖王の弓を満月のように引き絞ったところを力と名づけるのである。そして放たれた矢が七つの鉄鼓を突き破り、一つの鉄囲山を貫き、地を通し、水輪まで突き抜けるようなところを用と名づけるのである。(これが自行の力用である。これに対してもろもろの方便教は、その力用の微弱であることは、あたかも凡夫が弓矢を射るようなものである。なぜならば、四十二年間に縁を結んだ衆生は化他の法門の権実二智を禀けたが、末だ理を照らすことも広くいきわたらず、信心を生ずることも深くなく、疑念をを除くことも尽くしたわけではないからである。)以上が化他の力用である。(今、法華経に縁を結んだ衆生は自行の法門の権実二智を禀けて仏の境界を極め、法界の信を起こし、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易の生を損ずるのである。そして生身の菩薩および生身得忍の両種の菩薩をともに利益するのみでなく、法身の菩薩および法身の後心の菩薩の両種の菩薩をともに利益するのである。教化の功力が広大でその利益し潤すことがひろく深いのが、この法華経の力用である)以上は自行の力用である」と述べられている。
自行と化他との力用の勝劣が明らかであることはもちろんである。よくよくこの玄義の文をみるがよい。一代聖教を鏡に映し出す教相である。
 「仏の境界を極め」というのは、十如是の法門のことである。この十如是は十界に互いに具足して、十界・十如の因果、権実の二智、九界の境と仏界の境等は我が身のなかに具わって、一人としてそれらを具えないものではないものであると通達し解了したときに仏の説いた語を悟り極めることができるのである。
 「法界の信を起こし」というのは、十法界を身体とし、十法界を心性とし、十法界を形相とする本覚の如来は、我が身のなかにあったのだと信ずることである。
 「円妙の道を増し」というのは、自行と化他との二つは相即円融の法であるから、珠と光と宝の三徳がただ一つの珠に具わる徳であるように、片時も離れず、仏法に不足して欠けるところはない。この法を信受すれ一生のうちに仏に成ることができると慶喜の念を増すことである。
 「根本の惑を断じ」というのは、一念の無明の眠りから覚めて、本覚の寤に還るならば、生死の苦も涅槃の楽もともに昨日の夢のように跡形もなくなるのである。
 「変易の生を損ず」というのは、同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生した人が、その土で菩薩道を修行して仏になろうとするとき、因行は移り果徳は易って次第に位階を進み昇りながら、劫数を経て成仏の遠きを待つのを変易の生死というのである。
 因行が昇進して下位を捨てるのを死といい、上位に進むのを生というのである。このように変易する生死は浄土における苦悩である。 
 ところが、今、凡夫の我らがこの穢土で法華経を修行すれば、十界互具・法界一如であるから、浄土の菩薩の変易の生死を損い、仏道の修行は増進して、変易の生死を一生のうちに縮めて仏道を成ずることができるのである。ゆえに生身および生身得忍の両種の菩薩ともに仏道を増し生死を損ずるのである。
 「法身の菩薩」というのは、生身を捨てて実報土にいる菩薩のことである。「後心の菩薩」というのは等覚位の菩薩のことである。
 ただし法華経迹門では生身の菩薩および生身得忍の菩薩を利益して、本門では法身の菩薩および法身の後心の菩薩とを利益するのるのである。ただし今は迹門を開会して本門に摂めて一つの妙法とするのである。
 ゆえに凡夫の我らがこの穢土で修行する行力をもって、浄土に往生している十地の菩薩および等覚の菩薩までも利益するから、その教化の功徳は広大なのである。これが化他の徳用である。
 「利潤弘深」というのは、自行の徳用である。法華円頓の行者は自行と化他とを一法も漏らさず、一念に具足して、横には十方法界に遍くいきわたるから弘しといい、竪には三世にわたって法性の淵底までも極めるから深しというのである。
 法華経の自行の力用はこのようなものである。化他の諸経は自行を具えていないから、あたかも片翼しかない鳥が空を飛ぶことができないようなものである。ゆえに成仏する人もいないのである。
 今、法華経は自行と化他の二行を開会して、不足がないから、鳥が両翼をもって飛ぶのになんの障りもないように、成仏することになんら滞りがないのである。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三には、十の喩えをもって自行の法華と化他の諸経との力用の勝劣を判じている。その第一の喩えに、諸経は諸水のようで法華経は大海のようである云々と説かれている。
 実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入れること、昼夜絶えることがなくとも、大海の水は増減なく、不可思議の徳用をあらわすのである。
 逆に諸経の衆水は片時ほどのあいだも法華経の大海を納めることはできない。自行と化他との勝劣はこのとおりである。一つの例をもって他の例を推察しなさい。
 以上の譬喩は皆仏の所説である。人の言葉を指し挟まずに、この旨を心得たならば、一代聖教の勝劣は明鏡にかけて曇りもないように明瞭である。この経文や釈を見て、だれ人が勝劣に迷うであろうか。法華経は三世の諸仏が総じて勘えたところの文である。ゆえにあえて人師の解釈を引き入れるべきではない。法華経は三世の諸仏の出世の本懐である。一切衆生の成仏の直道である。

薩婆悉達
 釈尊のこと。釈尊は古代インドに王子として生まれ、シッダールタと呼ばれた(生誕の地ルンビニーは現在のネパールに位置している)。若き日、生・老・病・死という免れられない人間の苦しみを目の当たりにし、今は青春の真っ只中で健康に生きていても、生・老・病・死は免れがたいことを知り、その根源の苦悩の解決法を探究しようとして出家した。シッダールタは、万人が羨む、満たされた王子としての境遇にあった。しかし、人々が求める贅沢さもしょせん、はかなく空しいと知り、楽しむことはなかったと回想している。
―――
祖王の弓を彎て
 祖王は釈尊の祖父、師子頬王のこと。弓の名手で、だれも引くことができないといわれていた弓を引いたのである。
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鉄囲山
 須弥山を中心とする九山八海の一番外側にある鉄山のこと。また三千大千世界を囲む鉄山をさすこともあり、この時は前者を小鉄囲山、後者を大鉄囲山という。
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水輪
 ①インドの世界観で、大地の下にあって世界を支えていると考えられた四輪のひとつ。②五輪のひとつ。③水車。
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化他の二智
 化他の権智と実智のこと。諸法の真実平等に達する智慧を実智といい、相対差別の相に通じている知恵を権智という。
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自行の二智
 自行の権智と実智のこと。十界諸法の実相を究めつくす仏の真実の智慧を実智といい、衆生の機根に応じて種種に差別して法を説く仏の智慧を権智という。
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仏の境界を極め
 法華経の力用によって凡夫が仏の境界を得ていくこと。
―――
法界の信を起し
 法華経の力用によって衆生の生命が十法界に遍満する十界互具・一念三千の当体であり、本覚の如来であると信じることをいう。」「法界」は意識の対象となる一切の事物・事象のこと。有情・非常にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象、界は差別・境界。
―――
円妙の道を増し
 法華経の力用によって円理の教えである法華経を修行する功徳が広大で無辺であるかを知り、その道を増進させていくこと。
―――
根本の惑を断じ
 法華経の力用によってよく根本の惑である無明惑を断じ尽くすこと。無明惑は三惑のひとつで、中道実相の理を障蔽する。一切の煩悩の根本となる惑。
―――
変易の生を損す
 法華経の力用によってよく菩薩の変易の生死を打破し、常住不変の仏果を成就すること。「変易」は変易の生死のことで、修行の過程で分段の生死を超越した菩薩の生死のこと。菩薩は自由にその身を変化・改易できるゆえに変易の身といい、その生死が変易の生死で、変易の生死を超えること。「損す」は捨てること。
―――
生身及び生身得忍の両種
 生身は父母から生まれた肉体のこと。その生身のまま修行する菩薩をいう。「生身得忍」とは父母から生まれた身のままで無生法忍という悟りの極果を得ること。「忍」は」無生法忍の略。涅槃の法理に安住して心が動かない位。
―――
法身と法身の後心
 「法身」は真理を身体とする仏。真理もしくは法体そのもの。その法身を体とする菩薩で、円教の初住から十地まで到達した菩薩。「法身の後身」は法身の菩薩の最上位で、等覚位の菩薩にあたる。後心は初心に対する語。修行の進んだことをいう。
―――
化の功
 化他の功徳をいう。「化」は化他のことで衆生を教化・化導すること。「功」は功徳。
―――
利潤弘深
 利益が弘く深く潤うこと。「利」は衆生を成仏に導く利益。「潤」は人々を潤すこと、「弘」はひろい、「深」ふかいこと。法華経の利益の広大無辺をいう。
―――
分明
 明らかに分かるさま。はっきり見極めがつくこと。
―――
十如是の法門
 法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是(このような)」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
―――
十界に互に具足して
 法華経に示された万人成仏の原理。十界互具とは、地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
十界・十如の因果
 十界と十如がそれぞれのなかで因と果があり、また一体であることをいう。
―――
権実の二智・二境
 「権実」は釈尊一代の仏教を大別して爾前教と法華経に分けること。「権」はかりの意で方便、「実」はまこと・真実。「二智」は仏界と九界の立て分け、実智と権智となる。「二境」は権境と実境。十界互具の立場から論ずると仏界に具わる九界と仏界。九界に具わる九界と仏界ということ。
―――
慶喜
 よろこぶこと。
―――
同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽
 ①四種の浄土のうち、同居土・方便土・実報土を挙げている。①凡聖同居土(人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土)②方便有余土(見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土)③実報無障礙土(別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土)。極楽は浄土のこと。
―――
劫数を経て
 爾前教では数えるほどのできないほどの劫を経なければ仏になれないとされる。
―――
下位
 菩薩の修行の位の中の下の位。
―――
上位
 菩薩の修行の位の中の上の位。
―――
法界一如
 森羅万象は無差別・平等であること。「法界」は十界三千の森羅万象の境界、「一如」は無差別・平等・不二。
―――
増道損生
 「道を増し生を損ず」と読む。中道の智慧を増して変易の生死を損ずること。
―――
等覚の菩薩
 仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。
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迹門
 垂迹の仏の説いた法門の意。法華経1部8巻28品のうち、序品第1より安楽行品第14までの前半14品をいう。この14品は、釈尊が久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門の肝心は方便品第2にあり、諸法実相・十如是を明かし、二乗作仏を説いて開三顕一し、また悪人成仏・女人成仏を説いて万人成仏の道を明かした。
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本門
 久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
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利益
 仏の教え、正法に従い行動することによって得られる恩恵や救済。功徳のこと。
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十地
 仏道修行者の修行段階・境地を10種に分けたもの。地とは能生・所依の義で、その位に住してその位の法を持つことによって果を生成するものをいう。教の浅深によって、説かれる十地の内容も異なる。主なものは❶三乗共の十地❷大乗菩薩の十地などである。他に仏の十地、声聞の十地、縁覚の十地がある。❶三乗共の十地。通教十地ともいう。声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通なもので、四諦・十二因縁・六波羅蜜を行じ、見思惑を断じて覚りを得る境地。①乾慧地(乾慧とは法性の理水も潤し得ない乾燥した有漏の智慧で、智慧はあるが法性の空理を証得していない位。声聞の三賢位〈外凡〉、菩薩の順忍以前にあたる)②性地(わずかに法性の空理を得て見思惑を伏する位。声聞の四善根位〈内凡〉、菩薩の順忍にあたる)③八人地(人とは忍の義で、八忍地と同じ。初めて無漏智を得て見惑を断ずるという見道十五心の位。声聞の須陀洹向、菩薩の無生法忍にあたる)④見地(見とは見惑を断尽して四諦の理を見る意で、見道第十六心の位。声聞の須陀洹〈初果〉、菩薩の阿鞞跋致〈不退転〉の位にあたる)⑤薄地(欲界九品の思惑のうち前の六品を断じて後の三品を残すので薄という。声聞の斯陀含果〈二果〉、菩薩の阿鞞跋致以後の位にあたる)⑥離欲地(欲界九品の思惑を断じ尽くして欲界から離れる位。声聞の阿那含果〈三果〉、菩薩の五神通を得た位にあたる)⑦已弁地(已作地)(三界の見思惑を断じ尽くした位。声聞界の最高位である阿羅漢果〈四果〉、菩薩にとっては仏地を成就した位にあたる)⑧辟支仏地(縁覚の位。三界の見思惑を断じたうえに習気を除いて空観に入る位。習気とは業の影響力のこと。見思惑そのものは断じ尽くしても、潜在的な影響力として残っていく惑をいう。『摩訶止観』巻6上には、見惑を薪に、思惑を炭に、習気を灰に譬えている)⑨菩薩地(菩薩として六波羅蜜を行ずる位。空観から仮観に出て再び三界に生じて衆生を利益するので、乾慧地から離欲地までをさす。また菩薩の初発心から成道の直前までをいう)⑩仏地(菩薩の最後心で、一切の惑及び習気を断じ尽くして入寂する位。一切種智など諸仏がそなえる法〈特徴〉を具備した通教の仏の境地)。❷大乗菩薩の十地。菩薩の修行段階で、五十二位の第41から第50の位。無明惑を断じて中諦の理を証得する過程である。①歓喜地(極喜地、喜地、初地ともいう。一分の中道の理を証得して心に歓喜を生ずる位)②離垢地(無垢地ともいう。衆生の煩悩の垢の中に入ってしかもそこから離れる位。破戒と慳嫉の2種の垢を離れるので離垢地という)③明地(発光地ともいう。心遅苦の無明、すなわち聞思修忘失の無明惑を断じ、智慧の光明を発する位)④焔地(焔慧地、焼然地ともいう。煩悩の薪を焼く智慧の焔が増上する位)⑤難勝地(極難勝地ともいう。断じ難い無明惑に勝つ位)⑥現前地(清浄な真如と最勝智があらわれる位)⑦遠行地(遠く世間と二乗の道を出過する位)⑧不動(中道の理に安定して住して動ずることがない位)⑨善慧地(善巧の慧観によって十方一切にわたって説法教化する位)⑩法雲地(説法が雲のように無量無辺の法雨を降らし真理をもって一切を覆う位)をいう。
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化他の徳用
 化他の経の功徳のこと。「化他」は権教を意味する。
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自行の徳用
 自行の経の功徳のこと。「自行」は法華経を意味する。
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三世
 過去世・現在世・未来世の三つ。
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法性の淵底
 一切諸法が拠りどころとする根本の真理。その深いことを淵の底にたとえる。
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薬王品には十喩
 法華経薬王菩薩本事品第23の10の喩のこと。いずれも諸経の中で法華経が第一の教である事を喩えている。その十喩を示すと、①水喩。 諸水の中で海が第一であるように、法華経が諸経の中で第一の教である。②山喩。衆山の中で須弥山が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。③衆星喩。 衆星の中で月天子が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。④日光喩。日天子がもろもろの闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を破る教えである。⑤輪王喩。諸王の中で転輪聖王が第一であるように、法華経は諸経中の王である。⑥帝釈喩。帝釈が三十三天中の王であるように、法華経は諸経の中の王である。⑦大梵王喩。大梵天王が一切の衆生の父であるように、法華経は菩提の心を発す者の父である。⑧四果辟支仏喩。 四果・辟支仏が一切の凡夫の中で第一であるように、法華経とこれを持つ者は人法ともに第一である。⑨菩薩喩。声聞・辟支仏の中に菩薩が第一であるように、法華経は諸経の中で第一である。⑩仏喩。仏が諸法の王であるように、法華経は諸経の王である。
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出世の本懐
 ある人がこの世に出現した真実究極の目的。【法華経に説かれる仏の出世の本懐】法華経迹門の方便品第2で、釈尊は「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」(法華経120㌻)と述べ、諸仏がこの世に出現するのはただ一つの理由があるとする。続いて「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」(法華経121㌻)と述べ、「開示悟入の四仏知見」を明かしている。すなわち、釈尊をはじめ諸仏の出世の本懐とは、法華経を説いて万人に仏知見(仏の智慧)が本来そなわっていると明かすこと、また、それを開いて仏の境涯を実現する道を確立することであるとする。また同品に「我は本誓願を立てて|一切の衆をして|我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき|我が昔の願いし所の如きは|今者已に満足しぬ」(法華経130~131㌻)とあり、釈尊にとって自身と等しい仏の大境涯に人々を到達させることが菩薩であった過去世からの願いであり、その根本の誓願が万人成仏の法華経を説くことによって果たせたと述べられている。本門寿量品では、この根本の誓願の成就によって、この世でなすべき仕事を終えた釈尊は涅槃に入る。しかし、それもまた方便であり、誓願を立てた菩薩としての寿命も、成道して得た仏としての寿命も実は尽きておらず、永遠にこの娑婆世界に常住していると明かしている。すなわち、菩薩としての誓願、仏としての大願、いずれも一切衆生の成仏であるが、それを実現しようとする、永遠の仏の力・はたらきがこの世界に常に存在することを示しているのである。【天台大師・伝教大師の出世の本懐】日蓮大聖人は、法華経の教えをふまえて、難を勝ち越えて法華経に基づく信仰を宣揚した天台大師智顗と伝教大師最澄について、像法時代の中国で活躍した天台大師にとっては『摩訶止観』を講述して成仏のための実践である一念三千という観心の法門を説いたこと、像法時代の末に日本で活躍した伝教大師にとっては法華円頓戒壇を建立し法華経に基づく戒法の確立を図ったことを、それぞれの出世の本懐と位置づけられている。【日蓮大聖人の出世の本懐】大聖人の出世の本懐は、釈尊の教えが功力を失う末法において、万人成仏を実現する道を確立することである。すなわち末法の人々が学び実践して成仏するための法を説き示すことである。大聖人は、その法とは法華経本門の文底に秘されていた仏種である南無妙法蓮華経であると説き示された。大聖人は若き日に、仏法の肝要を知る智者となって、すべての人を苦悩から根本的に救うという誓願を立てられる。この誓願の成就が、御生涯をかけて目指された根本目的であると拝される。大聖人は、万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経を説き、本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目という三大秘法を明かし、未来永遠にわたる広宣流布の基盤を確立された。大聖人は、弘安2年(1279年)10月1日に「聖人御難事」(1189㌻)を著され、「出世の本懐」に言及されている。同書は、駿河国(静岡県中部)の富士地方の農民信徒が、政治的権力による不当な弾圧で命を奪われる危機にあっても、妙法の信仰を貫いた「熱原の法難」を機にしたためられたものである。社会的には地位も権力もない農民信徒の不惜身命の姿に、民衆が大難に耐える強盛な信心を確立したことを感じられ、大聖人は同抄を著された。この熱原の法難において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して、不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことにより、世界の人々を救うための日蓮大聖人の仏法が現実のものとなった。このことにより、生涯をかけた根本目的、「出世の本懐」を達成されたのである。
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 ここは、自行と化他の力用の優劣について示されている。
 “薩婆悉達”の故事を用いて、法華自行の二智の力用と爾前化他の二智の力用の優劣を述べた天台大師の法華玄義巻一の文を引用され、この文について釈しながら、衆生をして即身成仏せしめる偉大な力は自行の法にこそ存在するのであり、化他の経は自行の法に比べるとはるかに微弱な力しかないことを説かれている。
 法華玄義に出てくる薩婆悉達とは、梵名Ssrvasiddhśrthaの音訳で、意味は“一切義成就”であり、釈尊の名前である。
 つまり、悉達王子は自行の法華経の力用をたとえ、他の王子や凡夫は、化他の諸経の力用をたとえているのである。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩も、同じく自行と化他の力用の勝劣を判じたものであるとされ、十喩中の第一の“諸経は諸水の如く法華は大海の如し”という喩えを取り上げて示されたあと、「一を以て諸を例せよ」と、他の九喩も同じであると述べたれている。
玄義の一に云く「薩婆悉達・祖王の弓を彎て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓を中り一つの鉄囲山を貫ぬき地を洞し水輪に徹る如きを名けて用と為す自行の力用なり諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず已上化他、今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損す、但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩倶に益するのみに非ず法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す化の功広大に利潤弘深なる蓋し茲の経の力用なり已上自行」
 この引用文は法華玄義巻一上において、名・体・宗・用・教の五重玄義を一々説明していくなかの“用”玄義を明かしている文である。
 今、本抄に引用された個所のまえのところを紹介しておくと「用とは三と為す。一に示、二に簡、三に益なり、用とは力用なり。三種の権実二智は皆是れ力用なり。力用の中に於いて更に分別せば、自行の二智、理を照らすに、理周きを名づけて力となし、二種の化他の二智、機を鑑みるに、機遍きを名づけて用と為す。?自行の二智即ち化他の二智、化他の二智即ち是れ自行の二智なり。理を照らすは即ち機を鑑みるなり。機を鑑みるは即ち理を照らすなり」とあって、引用文へと続いていくのである。
 この文は全体として、自行の二智と化他の二智の力用について論じているところである。薩婆悉達が祖王の弓を引き絞って満を持しているところを“力”と名づけ、これを解き放った矢が、七つの鼓を貫き、一つの鉄囲山をも貫き、大地を通り、水輪に徹することを“用”と名づけたのであり、自行の教えの力用にたとえるのである。これに対して凡夫の弓矢は、方便権教の力用をたとえるのである。
 その相違が生ずる理由として「昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず」とあるように、法華以前の爾前40余年の教えに縁した衆生は、あくまで仏の“化他の二智”、つまり方便随他意の教えを説く実智の二智を依りどころとしているために、実相の理を照らす智は不徹底であり、信を生ずることも深くなり、疑いを除き切る力も弱い。これに対して、法華円教の自行の教えに縁するならば、「自行の二智」を依りどころとするのであるから、「仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損す」ことが可能となり、化他の教とは力用において決定的に異なるのである。
 ここで“自行の二智”というのは、自行の法である法華経における権智と実智ということである。実智とは、十界諸法を極め尽くす仏の真実の智慧をいい、権智とは、衆生の機根に応じて種々に差別して法を説く智慧をいう。
 法華経に縁すると、この自行の二智を受けることになるから、衆生は“仏の境界を極め”すなわち、仏の境界を獲得していき、“法界の信を起し”、法界に対する信を起こすことができ、“円妙の道を増す”つまり、円教の妙理を把握していく道を増すことができ、“根本の惑を断じ”すなわち、根本無明惑を断ずることができ、“変易の生を損す”つまり、菩薩の変易の生死を打破して常住不変の仏果を成就させることができるのである。これが自行の二智の力用であると述べている。ゆえにこの自行の経法の力用は、生身および生身得忍の菩薩でけでなく、法身と後心の菩薩をも利益することができると述べている。
 「生身及び生身得忍の両種の菩薩」とある生身とは、父母から生じた肉身のことで、生身の菩薩とは、父母所生の肉身をもって修行する菩薩のことである。生身得忍の菩薩とは、そのような父母所生の肉身を持したままで“無生法忍”、つまり一切の諸法が不生不滅であるとの真理を得て心が安住している菩薩のことである。
 次に「法身と法身の後心との両種の菩薩」というのは、法身とは法を身体とすることで、法身の菩薩とは修行の結果、法を身体とすることのできる境地に入りつつある菩薩のことであり、換言すれば、煩悩を断じて一分の法性を顕現した菩薩のことである。また、法身の後心の菩薩というのは、法身の菩薩のうち初心から一段と修行の進んだ最上位の等覚位の菩薩をさす。自行の経法は、単に菩薩の修行を増進させるための教えではなく、すべての菩薩、衆生を成仏の境地に入らしめる教えなのである。
極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば 生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず故に生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり、法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり、後心の菩薩とは等覚の菩薩なり但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり本門には法身と後身との菩薩を利益す但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に化の功広大なり化他の徳用利潤弘深とは自行の徳用円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用此くの如し化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し故に成仏の人も無し今法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し
 この段落は、先の法華玄義巻一にある言葉について、大聖人の立場から説明されたところである。
 まず、「極仏境界」すなわち仏の境界を極めるとは、諸法実相・十如是の法門を悟り、十如の因果すなわち九法界の十如是と仏界の十如是とが、ともに我が生命のなかに具わっていると通達し解了して「仏語を悟り極むる」ことであると仰せられている。
 次に「起法界信」とは、「法界の信を起こす」と読む。十法界を体とし、十法界を心とし、十法界を形とするところの本覚の如来が「我が身の中に有りけり」と信ずることが「起法界信」である、と仰せられている。
 更に「増円妙道」とは「円妙の道を増す」と読み、法華円教の妙理を獲得していく道を増していくことをいい、自行と化他の二つが相即円融して、一生のうちに仏になれると歓喜していくことである、と仰せられている。
 更に「断根本惑」というのは“根本の惑を断ず”ることであるから、無明を断ずることである。したがって、一念に忍び込んだ無明惑という眠りから覚めて、本覚の寤の世界に還り、生死も涅槃もともに消え去った状態をいう、と仰せられている。
 “生死”も“涅槃”もともに夢のように消え去るといわれているのは、生死の迷いの世界に対して涅槃の悟りの世界が存在するという説き方は方便権教であり、法華経においては、これらの対立的な説き方を方便として捨て去るからにほかならない。
 また、「損変易生」とは“変易の生を損す”ということである。“変易の生”とは変易の生死のことであり、分段の生死に対する言葉である。
 分段の生死とは、三界六道に輪廻する迷いの凡夫の生死をいう。六道に輪廻する凡夫の寿命や形相に、各々の業因により、六つの分々段々の差異があるので、“分段”というのである。
 これに対して、変易の生死とは、二乗・菩薩などの生死で、三界六道の輪廻を脱した二乗・菩薩が、自らの煩悩の迷いを滅し、悟りの智慧を開きあらわしていく、という意味での生死を表している。すなわち、変易の生死は凡夫の分段の生死を超えた、より高い生死であるといえる。
 この変易の生死について、本文には「同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり」と仰せられている。
 すなわち、“同居土”“方便土”“実包土”の三つの“極楽”、すなわち三界六道の分段の生死を超越して、より高次の凡聖同居土、方便土、実法土の極楽=浄土に往生した人は、これらの土において、ひたすら菩薩の道を修行して仏になろうと努力することによって、因は移り果は易って次第に進んで菩薩道の階梯を上昇しつつ、遠い成仏を待たなければならない。
 このように、浄土において、成仏に向けて菩薩道の階梯を一段一段と進んでいく際、下位を捨てることを“死”といい、上位に進むことを“生”といい、これが「変易の生死」であるが、その道ははてしがなく、成仏は遠い。そのような変易の生死は「浄土の苦悩」である、と説かれている。
 それに対して「爰に凡夫の我等が此の穢土に於て 法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば」と、末法の凡夫は、この穢土において法華経を修行することにより、十界互具・法界一如の法理によって、浄土の菩薩が遠き成仏を仰ぎ見つつ、蜿蜒とそれぞれの浄土において積み重ねていた“変易の生死”を、凡夫の一生の間に縮め、この一生の間に仏道を行ずることができると仰せられている。
 ゆえに、玄義巻一の「生身及び生身得忍の両種の菩薩を?に益するのみに非ず、法身・法身の後心の両種の菩薩も亦?に益す」の文を受けて「生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり」と述べられている。
 生身の菩薩とは、父母所生の肉身を有して仏道修行を実践する菩薩のことである。また法身の菩薩とは、生身を捨てて実報土に居する菩薩であり、法身の後心の菩薩とは等覚の菩薩であると説明されて、元来、迹門は生身および生身得忍の菩薩を利益し、本門は法身と法身の後心の菩薩を利益するのであるが、今、大聖人の妙法はこれらすべての利益を含むので、我々凡夫が穢土にあって、浄土における十地等覚の菩薩の修行と同じ利益を受けることができると仰せられている。
 次に玄義の「化の功広大に利潤弘深なる」の文について、「化の功広大」とは、化他の徳用をあらわし、「利潤弘深」とは、自行の徳用をあらわしているとされ、後者の利潤弘深については、円頓の法華経を修行する行者は、自行の法と化他の経とがともに一法も漏らさずに一念に具足することとなり、その境地は横に十方法界に遍満しているゆえに“弘い”のであり、竪に三世にわたって“法性の淵底”を極め尽しているゆえに“深い”のであると仰せられているのである。
 最後に、法華経は自行・化他の二行を含んでいるので、鳥が両翼をそなえているようなもので、滞りなく成仏できるが、爾前経は自行を具さないので、翼が一つしかない鳥と同じで、成仏は不可能であると述べられ、法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩のなかの、法華経は大海、諸経は衆水のたとえを引いて、法華経は一切を具すが、爾前の衆水に大海は入らない。このように、自行と化他との勝劣は歴然たるものであると結ばれている。そして、薩婆悉達の故事や薬王品の十喩が皆“仏の所説”であり、この譬喩に基づく自行と化他の教相判釈は「三世の諸仏の総勘文」であり、「三世諸仏の出世の本懐」であると説かれている。

0572:04~0573:05第19章 仏説に背く諸宗を破折top
04                   四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・
05 三論.律宗・倶舎・成実等の諸宗なり此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり皆是方便なり兼.但・対・帯の方
06 便誘引なり、 三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず 若し次第に違わば仏法に非ざるなり、 一
07 代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず 我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説
08 法の儀式の如く我も今 亦是くの如く無分別の法を説く」已上、 若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く他宗
09 の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと悞りの中の悞り迷いの中の迷いなり。
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 四十二年の化他の経によって立てた宗々は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗である。
 これらは皆ことごとく法華経を説く以前の八教のなかの教で、皆、方便の教えである。兼・但・対・帯の義をおびた、方便誘引のための経教である。
 これは三世諸仏の説教の順序次第である。この順序を糾して、法門を談ずるのであり、もしこの順序に違うならば、仏法とはいえないのである。
 一代教主の釈迦如来も、三世諸仏の説教の順序を糾して一字も誤りなく、我もまた同様であるとして、法華経方便品第二に「三世諸仏の説法の儀式のように、我も今またこのように無分別の法を説く」といっている。
 もしこの順序を違えるならば、永く三世の諸仏の本意に背くことになるのである。他宗の祖師達が、おのおの自宗を立てて法華宗と争うことは、誤りのなかの誤り、迷いのなかの迷いである。
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10   微佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに四教を出でず頭辺に示すが如し蔵通別
11 円は即ち声聞.縁覚・菩薩.仏乗なり真言.禅門・華厳・三論・唯識.律業・成倶の二論等の能所の教理争でか此の四を
12 過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後
13 に答に随つて極理を推ね徴めよ我が四教の行相を以て並べ検えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて
14 即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべ
15 し若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、 三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者
16 を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば 未だ成仏の観行を見ず 若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異
17 なるなり、 汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば 果として成ず可き無し如し即是を要せば仏に例して之を難
18 ぜよ謬つて真言を誦すとも 三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて 妙理を証せじ所以に他の所期の極を
0573
01 逐うて理に準じて我が宗の理なり徴べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華.華厳.涅槃
02 等の経に望むれば接引門なり 権りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らし
03 むるなり所以に論ずる時は 四依撃目の志を存して之を執着すること莫れ 又須らく他の義を将つて自義に対検して
04 随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の
                                                如し、諸宗の
05 所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや
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 三王院の智証が著した授決集の巻一にある「微陀学決」には、このことを破折している。
 「およそ一代聖教は八万法蔵といわれるが、その行相をまとめてみると、四教を出ていない。それは巻頭に示したとおりである。
 蔵・通・別・円はすなわち声聞・縁覚・菩薩・仏乗である。ゆえに真言宗・禅宗・華厳宗・三論宗、唯識を説く法相宗・律宗・成実宗・倶舎の二論等で説く能詮の教も所詮の理もどうしてこの四教を超えることがあろうか。
 もし超えるというならば、もはや外道邪義ではないか。また、もし出ていないというならば、その宗の所期すなわち、四乗のうちではどの乗を目的としているかを問うべきである。そして、その答えにしたがって、その宗の極理を尋ね、誤りを徴めよ。
 そして我が四教の行相にあてはめて検討して決定せよ。他宗の目的としている果がもし我が宗のそれと違うならば、その果の違いを問い詰めよ。
 今しばらく華厳宗についてみれば、同宗では一代聖教を五教に分け、それぞれに修因・向果を立てるから初・中・後の因行が一様でない。そのゆえは一教に一果を目的としているからである。
 しかし、それらがもし蔵・通・別・円の因と果とでなければ、これは仏教ではない。このように微めるべきである。 
 また三論宗では三種の法輪をもって一代聖教を判別し、法相宗では三時教判をたてているが、その教理について是非を定めるべきである。そして汝の宗では何をもって目的とすべき乗とするかと、難詰すべきである。
 もし仏乗であるといえば、汝の宗では、いまだ成仏の観行を説いていないではないか、と難詰すべきである
 もし菩薩乗であるといえば、菩薩の修行する中道にも即・離の異なりがあって、汝の宗では正しくいずれを取るかと問うて、もし離の中道を取ると答えたならば、別教では有教無人といって仏道を成就する菩薩はいないから、果を成ずることはないと破すべきである。
 もし即の中道を要とすると答えたならば、仏乗を目的とすると答えたときと同じように難詰せよ。
 また誤って真言を読誦しても三観一心の妙旨を会得しなければ、別教の人と同じように妙理を証することはできないであろう。それゆえに他宗の目的とする極理を追い求めて我が宗の妙理に照らして徴めるべきである。
 また因明の道理は外道に対して説かれたもので、多くは小乗及以び別教に説かれる法門である。
 もし法華・華厳・涅槃等の経に比べるならば、摂引するための法門である。仮に衆生の機根に対して設けられた方便教である。
 終には正法に引き進めるための教であって、外道・小乗の徒を開会して真理に至らしめるためのものである。
 ゆえに仏教を論ずるときは、四依の人が時機に応じて化導した精神を踏まえるべきで、その教えそのものにの執着してはならない。 
 また、正法を求めるためにはすべからく他宗の教義をもって自宗の義と対照検討し、その是非を決定すべきである。
 いたずらに自宗の義に固執して、相手を怨んではならない。要するに、他宗の教義は大概三教に属するもので、円教の妙旨はきわめて少ないのである」と。
 先徳智証大師の所判は以上のとおりである。諸宗が立てるところのこの鏡にかけてみると、陰りがなく明白である。末代の学者は、どうしてこれを見ないで勝手に一代聖教の勝劣を判じてよいものであろうか。

華厳
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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真言
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
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達磨
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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浄土
 浄土宗ともいう。阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。
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法相
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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三論
 竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
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律宗
 ❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。▷戒/鑑真/道宣/戒壇/東大寺❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。
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倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
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成実
 インドの訶梨跋摩(ハリーヴァルマン)の『成実論』に基づく学派。『成実論』は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を27(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。5世紀の初めに鳩摩羅什によって『成実論』が漢訳されると、弟子の僧叡・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って『成実論』が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗である。
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兼・但・対・帯
 爾前の経の持つ四つの義。兼は一つの教えに他の教を兼ねて説くこと。但はただ一分の真理のみを説くこと。対は相対して説くこと。帯は他の教を帯びて説くこと。
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三世の諸仏の本意に背く他宗の祖師
 法華経以外の教法を説く祖師たちは、みな、仏の本意に背いた教法・教義を立てているということ。
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微佗学の決
 比叡山延暦寺の5代座主・智証が弟子の良勇に与えた受決集の54決の弟52条。微はほめること・こらしめること。佗は他の意。佗学は他宗のこと。天台宗寺門派では、この書を根本聖典としている。
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山王院
 比叡山延暦寺東塔の叡山9塔のひとつ。伝教大師の安置した千手観音像があり、千手堂ともいう。擣から帰国した智証がここに住んだので、智証のことを山王院と呼ぶ場合もある。
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行相
 ①心が対境に向かって働くとき、心に起こる認識のこと。②教行の相のこと。教えとそこに説かれる内容をいう。
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禅門
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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唯識
 ❶サンスクリットのヴィジュニャプティマートラターの訳。自身の心の外にあると思われる事物・事象は、ただ心の認識によって映じ出された表象のみである、との意。あらゆる事物・事象(万法)は、心の本体である識が変化して仮に現れたものであり、ただ識のみがあるとする大乗仏教の一学説。唯識では、従前の部派仏教で主張されていた6種の識(眼・耳・鼻・舌・身・意の六識)のほかに、認識の元となる種子を蓄え熟させ認識の根本を担う心(心王)として、阿頼耶識(蔵識)を立てた。また阿頼耶識から、根源的な自我執着意識である末那識を分立させ、八識を立てる説もある。さらに清浄と染汚が並存する阿頼耶識よりも根本にあって清浄な阿摩羅識(根本清浄識)があるとして、九識を立てる説もある。唯識では、煩悩によってけがれた識を転じて、清浄な智慧を得るという転識得智を図る。また、すべての存在の本性や在り方を有無、仮実という視点から3種に分類し、①遍計所執性(他と区別して実体視してとらえられた、ものごとのあり方)②依他起性(縁起によって生じているあり方)③円成実性(実体視をはなれた真実のあり方)の三性を説く。❷❶の唯識の思想を唱えた瑜伽行派およびその流れを受ける諸宗のこと、特に法相宗の別称。また、それらの宗派の思想をいう。4世紀ごろ、十地経、大乗阿毘達磨経などの教説に基づいて、瑜伽行派で唱えられた。祖とされる弥勒(マイトレーヤ)は『瑜伽師地論』などを著した。その教説を組織立てたのが無著(アサンガ)で、『摂大乗論』などを著した。無著の弟の世親(天親、ヴァスバンドゥ)は『唯識二十論』『唯識三十論頌』などを著し、唯識の思想を大成させた。その後も瑜伽行派は隆盛し、諸学者が輩出されるとともに種々の異説が生まれた。そのうち、陳那(ディグナーガ)に始まる有相唯識派は、無性(アスヴァバーヴァ)を経て、護法(ダルマパーラ)によって大成された。護法は『成唯識論』を著し、法の相と性を判然と区別し、現象である相の分析から真実なる性へと至ろうとする性相別体論を唱え、新たな学説を大成した。さらに戒賢(シーラバドラ)から中国の玄奘へと伝えられ法相宗となり、日本へも伝えられた。陳那と同時代の徳慧(グナマティ)の弟子である安慧(スティラマティ)には、世親の思想に近い説が伝えられた。これは、陳那らの有相唯識派と対立し無相唯識派と呼ばれる。この派とされるシャータラクシタ(寂護)とその弟子のカマラシーラ(蓮華戒)は瑜伽行派の思想を中観派の思想を統合し、瑜伽行中観派と呼ばれる。その思想は、後のチベット仏教に大きな影響を与えた。またこの派は真諦(パラマールタ)によって中国に伝えられた。中国への伝承は、曇無讖(ダルマラクシャ)による菩薩地持経、求那跋摩(グナヴァルマン)による菩薩善戒経の翻訳で始まった。その後、大きく三つに分かれる。まず、南北朝時代、北魏の宣武帝の時(508年)に、菩提流支(ボーディルティ)、勒那摩提(ラトナマティ)らによって伝承され、世親の『十地経論』に基づく地論宗が起こった。勒那摩提は、世親の著で如来蔵思想を示す『宝性論』を訳している。次いで梁の武帝によって真諦が548年に中国に招かれ、無著の『摂大乗論』をはじめ多くの論書を訳し、その『摂大乗論』に基づいて摂論宗が起こった。そして唐になって、玄奘によって諸経典とともに唯識の諸論書が645年に伝えられ、翻訳が改めてなされ、集大成された。玄奘の弟子の基(慈恩)は新訳にかかわり、真諦訳などに基づく従前の教説に対して、新訳に基づくとともに、護法の『成唯識論』を重んじ護法の主張を正義として法相宗を確立した。同宗は、太宗・高宗の帰依で一時期栄えたが、やがて華厳宗や禅宗が隆盛する影響で衰微していった。日本には摂論宗の教義も伝えられたが、ほどなく法相宗の教義が伝えられて法相宗が盛んになり、摂論宗の教義は大安寺・元興寺・興福寺などの諸寺で付属的に学ばれた。法相宗は興福寺を中心に学ばれ、南都六宗の雄となった。五性各別の教義に基づき三乗真実を主張したが、一乗真実を主張する三論宗と論争した。また伝教大師最澄が天台宗を伝えた後、両宗の間に長く論争があった。鎌倉時代に一時、復興するものの、法相宗は衰微した。その精緻な哲学思想は仏教の基礎教理として伝承され、江戸時代には他宗から唯識の学者が出た。❸唯識の思想を論じた書である唯識論の略称。唯識論といわれるものに『唯識二十論』(世親著)、『唯識三十論頌』(世親著)、『成唯識論』(『唯識三十論頌』の注釈書、護法編著)などがある。
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律業
 小乗の戒律を修行する律宗のこと。
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成倶の二論
 成実論を依処とする成美宗と俱舎論を依処とする俱舎宗のこと。
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能所の教理
 能詮の教と所詮の理をいう。
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外邪
 外道・邪道のこと。
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所期
 前もって定めておくこと、心中でそのようになると思ってしまうこと。
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四乗の果
 声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗のそれぞれの果徳のこと。
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四教の行相
 天台大師が説く化法の四教に説かれる内容のこと。
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五教
 諸経典の教説をその形式・内容によって5種に分類した教判。①諸経典の教説をその形式・内容によって5種に分類した教判❷南三北七のうち南地の一派である定林寺の僧柔・慧次と道場寺の慧観による教判。宗愛(白馬寺曇愛と大昌寺僧宗の二人とする説もある)による四時教のうち、無相教と同帰教の間に維摩経・思益経を立てて褒貶抑揚教(小乗を貶し抑え、大乗を褒め宣揚する教え)としている。すなわち、有相教・無相教・褒貶抑揚教・同帰教・常住教の五つ。❸北地の一派による教判。諸経典を頓教と漸教に分け、華厳経を頓教とした。漸教を①人天教(提謂波利経)②有相教(阿含経など)③無相教(維摩経・般若経など)④同帰教(法華経)⑤常住教(涅槃経)の五つに分けた。❹中国・唐の華厳宗第3祖・法蔵が立てた教判。五教は仏教経典を教えの説相によって5種に分けたもの、十宗はその内容によって10種に分類したものをいう。五教は①小乗教②大乗始教③大乗終教④頓教⑤円教。十宗は①我法倶有宗②法有我無宗③法無去来宗④現通仮実宗⑤俗妄真実宗⑥諸法但名宗⑦一切皆空宗⑧真徳不空宗⑨相想俱絶宗⑩円明具徳宗をいう。『華厳一乗教義分斉章(華厳五教章)』巻1にある。十宗のうち初めの六宗は五教のうちの小乗の教えによって立て、後の四宗は大乗始教以下の四教によって立てる。すなわち一切皆空宗とは大乗始教のことで般若経などをよりどころとし、真徳不空宗とは大乗終教のことで勝鬘経や大乗起信論などをよりどころとし、相想俱絶宗とは頓教のことで維摩経などをよりどころとし、円明具徳宗とは円教のことで法華経・華厳経をさすが、別して華厳経の所説をさすとしている。この教判によって、華厳宗では華厳経が最高の経典であると主張する。
―――
修因・向果
 因を修めて果に向かうこと。因行を修めて果徳の証得に向かうこと。
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初・中・後の行
 初めと中ごろと終わりごろの修行。
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三種の法輪
 三種類の教法のこと。法輪は仏の説法が展転して伝わるさまを車輪にたとえたもの。❶三論宗が釈尊一代の教えを分類した教判。①根本法輪(成道の時に菩薩たちのために説く=華厳経)②枝末法輪(根本法輪を理解しない者のために説く=小乗教典・諸大乗経典)③摂末帰本法輪(さまざまな教えを一乗に帰着させる教え=法華経)と立て分ける。❷真諦・玄奘等の説いた三種の法輪①転法輪、法輪を転じること。転梵輪ともいう。釈尊が説法して人々の迷いを砕くことを,戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたもの。現在のインドの国旗にある輪は,この法輪をデザインしたもの。釈尊が悟ったのち初めて5人の比丘に鹿野苑で説法したことを特に初転法輪と呼び,好んで仏教美術のテーマとされる。②照法輪、説法の中期に諸法皆空の理を明かした大乗教。③持法輪、説法の後期に中道を明かした大乗教。
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三時の教
 釈尊の聖教を三時期に分けた教判。有空中の三時教ともいう。年月の三時教と義類の三時教がある。①年月の三時教、釈迦1代に説かれた教説を三時期に分類したもの。法相宗では、初時教を有教(阿含経など)、第二時教を空教(般若経など)、第三時教を中道教(華厳経など)という。②義類の三時教、第一時教(諸法が有であると説いた教え)、第二教(一切諸法すべてが空であると説いた教え)、第三教(中道を明かした教え)。
―――
観行
 観心(自分の心を観察する)の修行のこと。観心(自分の心を観察する)の修行のことであり
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即離の中道
 即の中道(円教で説く三諦円融に基づく中道)、離の中道(中道とは別教で説く隔歴の三諦としての、離れ孤立した中道)のこと。
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離の辺
 離の中道のこと。
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即是
 即の中道のこと。
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真言
 ❶仏の真実のことば。実語とも。❷仏・菩薩などの智慧や力を象徴する一種の呪文。密教では、印と真言によって、仏・菩薩などの力が行者に備わり、祈禱が成就すると説く。❸真言宗のこと
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三観一心の妙趣
 三観一心が法華経のみに説かれる妙な修行であること。一切万法の三諦を正しく観ずることによって己心を悟ることをいう。
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因明
 理由の学問という意。五明のひとつ。仏教の理論学。その形式は、論証する命題としての宗と、その成立理由である因と、例証として宗と因との関係を明らかにする喩えからなる。このなかで因が最も大事であるから因明という。古代インド一般に行われていた論理学のことを仏教側で因明と呼び、中国・日本では仏教の論理学を因明と呼ぶようになった。
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接引門
 人々を真理へと導いていくための方便の教え。
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引進
 引き進めること。真実の教えに引き導き進めることをいう。摂引のこと。
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邪小の徒
 外道と小乗教の徒のこと。
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四依撃目の志
 四依の菩薩が目撃してその意思を通じさせたような志。四依の菩薩が正法弘通のために、さまざまな状況に遭遇して多くの人々や事柄を見ながら、正法を弘通してきた意思・志。
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円旨
 円教の教旨のこと。
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先徳大師
 智証大師のこと。814年~891年。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。智証大師ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」(306㌻以下)などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
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 法華経こそ自行の最勝の法であり、一切衆生の成仏の直道であることは三世諸仏の総勘文であるにもかかわらず、華厳・真言・達磨・浄土等の諸宗が42年の化他の経を依りどころとしている誤りを、智証の微佗学の決を引いて、厳しく破折されている。
微佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに四教を出でず頭辺に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推ね徴めよ我が四教の行相を以て並べ検えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば 未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば 果として成ず可き無し如し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を逐うて理に準じて我が宗の理なり徴べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門なり権りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以に論ずる時は四依撃目の志を存して之を執着すること莫れ 又須らく他の義を将つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ
 微佗学の決は、比叡山延暦寺第五代座主・智証大師円珍の著、授決集にあるものである。
 この授決集は、智証が唐に留学中、天台山禅林寺・良?から授けられた口決や、その他の覚書を54項にまとめ“五十四決”として、弟子の良勇に授けたものである。
 ここでの“微佗学の決”というのは、この授決集のうち、第52番目の「佗学に微するの決」の全文である。
 “佗”とは“他”のことで、佗学とは、他宗派のことをさす。“微”とは“責めること”“懲らしめること”を意味し、結局、他宗派を破折するための覚書や口決を記したものである。
 智証は第三代慈覚大師円仁とともに、理同事勝を唱え、天台宗を真言の教えに堕さしめ、三大秘法抄で「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる」(1023-01)と日蓮大聖人に厳しく破折されている邪師であるが、この決は中国・天台宗より他宗を破る法を受けて伝えたものであり、その内容は用いることができるので、引用されているのである。
 それは、後に「先徳大師の所判是の如し,諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや」と仰せられているように、自行の法華円教と化他の権教方便とを明確に立て分けるべきことを主張し、かつ、諸宗派の立てる教義をことごとく“方便権教”として破折している点において、本抄の主題にふさわしい文証として、これを採用されたものと考えるべきであろう。
 今、簡単に、その内容について触れておくことにしたい。
 初めに、八万法蔵といわれる一切経の“行相”すなわち、教えと修行の内容は、蔵・通・別・円の“化法の四教”を出ず、声聞・縁覚・菩薩・仏の四乗の法に収まる。
 真言宗・禅門・華厳宗・三論宗・唯識・律業・成?の二論などの諸宗派の“能所の教理”、能詮の教と所詮の理も、この四教を出ないのである。
 もし、これらの諸宗派のなかに、化法の四教を過ぎた内容を説いていると主張するものがあるならば、その宗派は外道や邪宗であるというべきである。
 もし化法の四教を出ないというならば、では、修行の結果、四乗のうち、どの結果に到達することを目的にするかについて問い詰めていくべきである。
 それに対する相手の答えに応じて、相手の宗派が極理としているものを尋ねて、それを責めていくべきである。
 そして、これらが基準としている化法の四教の“行相”にて照らして、相手の極理がどの段階のものであるかを検討して決定すべきである。
 その宗派のいう修行の目的としているものが、もしこちらの基準に異なっているならば、これを詰めていくべきである。
 例えば、華厳宗の場合は、小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教と一切経を“五教”に立て分けているが、それぞれの“教”において“修因・向果”、つまり、因としての修行を修めて果徳の悟りに向かうことが説かれている。
 したがって、初めと中ごろと終わりの修行が一定していないことになる。一教に対して一つの果、ということを目的としているのである。
 もし、蔵・通・別・円の四教に説く因の修行とその結果でなければ、ここは仏教ではないのである、と華厳宗に対する破折の在り方が述べられている。
 次に、根本法輪・枝末法輪・摂末帰本法輪というように一代聖教を“三種の法輪”に立て分ける三論宗や、一代聖教を有時・空時・中時の“三時の教”に立て分ける法相宗などでは、法華経も仏の本意の教えのなかに含めて論を立てているが、これらに対しては、教えの中に踏み込んで、その価値を決定すべきであり、相手の宗が四乗のうち、どれをもって目的としているかを問い、もし仏乗を目的としているといえば、その目的成就にかなうところの“成仏の観行”が示されていないかとせめること、また、菩薩になることを目的としているというならば、“即の中道”を行じているのか、“離の中道”を行じているかによって、菩薩になる修行が異なることを述べ、相手の宗がどちらの中道を採るのかを問い詰めるべきである。
 そして、“離の中道”を採るというならば、果として成就するものはないことを明言し、もし“即の中道”を要として修行しているというならば、仏乗を目的としていることを述べたときの破折と同じように、三諦円融が示されていないと難詰して責めるべきである。
 もし誤って真言を誦唱しても“三観一心”という妙行により開会しなかったなら、結局、別教を修行する人と同じで、“妙理”を証得することができない、と破折していくよう促している。
 仏教の論理学である“因明”の道理は、外道を打ち破るために立てられたもので、多くは小乗・別教にある。
 これを法華・華厳・涅槃等の諸経と比べると、あくまで真実の教法へと導く方便の摂引門であるにすぎず、結局、邪教や小乗の徒を導いて最後に真理へと至らしめるため、仮に衆生の機根に応じて設けられたものである。
 したがって、四依の菩薩達が衆生のさまざまな機根を考慮しながら粘り強く、種々の方便や手段を用居て導いてきた志に着目して、ただ“因明”の道理だけに執着することのないように柔軟な姿勢で弘通に励むべきである。
 また、他宗の教義はあくまでもこちらの義と対比し検討することにより是非を決すべきであって、これに執着して怨み合ってはならない、と説いている。

0573:05~0574:09第20章 経の勝劣に迷う愚を戒めるtop
05                                   大綱の三教を能く能く学す可し、 頓と
06 漸と円とは三教なり 是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり 円教の一は八箇年の説なり合し
07 て五十年なり 此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、 衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には
08 此れを三身と云う一物の異名なり 之を説き顕すを一代聖教と云い 之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に 成
09 仏す此を開会と云い此を自行と云う、 又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して 八と為す各各に宗を立つるに
10 依つて円満の理を闕いて成仏の理無し 是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う 意は不足なりと嫌うなり、
11 円教を取つて一切諸法を観ずること 円融・円満して十五夜の月の如く不足無く 満足し究竟すれば善悪をも嫌わず
12 折節をも撰ばず静処をも求めず 人品をも択ばず一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば 諸法を通達す即ち非道を
13 行うとも仏道を成ずるが故なり、 天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して 片時も離るる
14 こと無きが故に世間と出世と和合して 心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に 之を聞く時立所に速かに仏
15 果を成ずること滞り無き道理至極なり、 総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し 此の三徳有るに由つて如意宝珠
16 と云う故に総の三諦に譬う 若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず 隔別の方便教の宗宗も亦
17 是くの如し 珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う 此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌
18 うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、 此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり 又寂光をば鏡に譬え同
0574
01 居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う 四土も一土なり三身も一仏なり 今は此の三身と四土と和合して仏の
02 一体の徳なるを寂光の仏と云う 寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て 寤の実仏と為す余の三土の仏は夢
03 中の権仏なり、 此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば 人の語も入らず会釈も有らず若し之
04 に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり 天魔外道なり永く仏法に背くが故に之を秘蔵して 他人には見せざれ
05 若し秘蔵せずして 妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん 謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが
06 故に二人乍ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、 能く能く秘蔵して深く此の理を証し 三世の諸仏の御
07 本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く 上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の
08 中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ 心を一切有情の身中に入れて 内よりは勧発し外よりは引導し内外相応
09 し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず。
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 一代聖教をわきまえるには、その大綱となる三教をよくよく学ばなければならない。頓教と漸教と円教とが三教である。この三教は一代聖教の総の三諦である。
 頓・漸の二教は四十二年の説であり、円教の一教は後八年間の説である。合わせて五十年であり、このほかに仏法はない。どうしてこれに迷うことがあろうか。
 衆生に約するときはこれを三諦といい、仏果を成ずるときはこれを三身という。これは一つの物の異名である。
 これを説きあらわしたのを一代聖教といいこれを開会してただ一つの総の三諦と悟るときに成仏するのである。これを開会といい、自行というのである。
 また他宗の立てる各教義はこの総の三諦を分別して八つとしたのである。各々に宗旨を立てるから円満の理を欠いて成仏の理がないのである。
 したがって他宗には実の仏がないのである。ゆえに他宗を嫌うのであるが、その意は教理が不完全であると嫌うのである。
 今、円教によって一切諸法を観察すると、円融円満で十五夜の月のように不足なく満足し、究極に達するならば、善悪をも嫌うことなく折節をも選ぶことなく、静処をも求めることなく、人柄をも選ぶことなく、一切の諸法は皆これ仏法であると知って、諸法に通達するのである。すなわち、たとえ非道を行じても、仏道を成ずることができるのである。
 天地水火風は五智の如来である。一切衆生の身心のなかに住在して片時も離れることがないから。世間法と出世間法が和合して我らの心のなかにあって、心の外には全く別の法はない。
 ゆえにこの妙理を聞くときは、その場で速やかに仏果を成ずることに、いささかの滞りもないのであって、これは至極の道理である。 
 総の三諦とは、たとえば珠と光と宝の関係のようなものである。この三徳があるから如意宝珠といい、総の三諦にたとえるのである。
 また珠の三徳を別々に取り放してしまえば、なんの用にもならない。隔別の方便教の宗々は、どれも同じである。
 珠は法身にたとえ、珠の放つ光は報身にたとえ、珠の宝としての価値は応身にたとえるのである。諸宗は、この総の三徳を分別して宗旨を立てるので、不足であると嫌うのである。
 これに対して、この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのである。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来である。
 また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土をば鏡に映る像にたとえる。四土も一土である。三身もその体は一仏である。
 法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂光の仏というのである。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのである。他の三土の仏は夢中の権仏である。
 以上述べたことは、三世の諸仏が同じ語をもって勘文した総の教相であるから、人の言葉を入れる余地もなく、会通会釈も必要ない。
 もしこの仏説に違うならば、三世の諸仏に背きたてまつる大罪の人であり、天魔外道である。なんとなれば、このような人々は永く仏法に背くからである。この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。
 もし秘蔵することなく、みだりにこれを披露するならば、仏法の奥義を証することなく、現当の二世に冥加を蒙ることがないであろう。
 万一、誹謗する人が出てくるならば、三世の諸仏に背くことになるから、謗ずる者も披露した者もに二人ともどもに悪道に堕ちるということを知っているゆえに、みだりに見せることを戒めるのである。
 ゆえに心ある者はよくよくこれを秘蔵して、深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意にかない、二聖・二天・十羅刹の擁護を受け、滞りなく上上品の寂光世界へ往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。

大綱の三教
 受決集第一決・天台大網に、「天台は三教を以って大網となす」とあり、釈尊の一代聖教を頓教・漸教・円教とたてている。別説には斎朝から江南の諸師の立てた漸・頓・不定、後魏の光統の漸・頓・円などがある。
―――

 天台の八教大意に説かれる化儀の四教のひとつ。頓はすみやか・直ちにの意。すなわち頓教は誘因の手段を用いなで、ただちに大乗を説いた教え。
―――

 摩訶止観に説かれる三種止観のひとつ。物事が少しずつ進むこと。「漸を追って改善する」。
―――

 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
―――
総の三諦
 円融の三諦のこと。空諦・仮諦・中諦の三つを挙げている。①空諦は、あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。②仮諦は、あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。③中諦は、中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。天台大師は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。蔵・通・別・円の四教に即していえば、蔵・通の二教は中道を明かさないので三諦が成立せず、別教と円教には三諦が説かれる。別教の三諦は、「但空・但仮・但中」として互いに隔たりがあり、融和することがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を観じて塵沙惑を破し、さらに中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。これに対し、円教の三諦は、三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。この円融三諦の法門は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張をはらみながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無礙の世界観を開くものである。この三諦を一心に観ずることを一心三観という。
―――
総の三諦を分別して八と為す
 諸宗では、本来円融円満である釈尊の一代聖教を分別してそれぞれ宗を立て八としている。八は日本八宗をさすものか、五時八教の八教をさすもなか、両方を指すものかは定かではない。
―――
十五夜の月
 満月のこと。
―――
人品
 人格・人柄。
―――
非道を行うとも仏道を成ず
 非道は人の道にはずれていること。道理に反していることをいう。円教においてはこの非道にあっても、そのまま仏道を成じていくことができると説く。
―――
世間と出世
 世間は世の中・世俗。出世は世間を出離・越出すること。
―――
如意宝珠
 意のままに宝物や衣服、食物などを取り出すことができるという宝の珠。
―――
隔別の方便教
 隔別の三諦を説く方便の教え。法華経が円融の三諦を説くのに対して、爾前教は隔別の三諦を説いているにすぎない。
―――
珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う
 法・報・応の三身を珠・光・宝に配して述べる文。珠は本体であるから法身、光は本体から発する働きであるから報身、宝は現実世界における価値であるから応身である。
―――
寂光
 四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
―――
総の教相
 妙法蓮華経のこと。「教相」は諸法の教相のこと。三世諸仏のすべてが定めた教相であるから、総の教相という。
―――
天魔外道
 「天魔」とは天子魔のことで、第六天の魔王。「外道」仏教以外の法門・道門。
―――
二世
 現在世と未来世。
―――
冥加
 仏・菩薩から冥々のうちに功徳を受けること。
―――
二聖
 二人の聖人のこと。❶薬王菩薩と勇施菩薩のこと(1246㌻)。法華経陀羅尼品第26で持国天王と毘沙門天王(二天)、鬼子母神、十羅刹女とともに、陀羅尼呪を説いて法華経の行者を守護することを誓った(法華経642~644㌻)。この二聖、二天、鬼子母神を合わせて五番善神という。❷天台大師智顗と伝教大師最澄のこと(245㌻)。
―――
二天
 ❶古代インドで崇拝された摩醯首羅天と毘紐天のこと。御書では三仙などと併記される。大自在天/毘紐天❷多聞天王と持国天王のこと(1246㌻)。須弥山四面の中腹の四峰に住み、正法を護持する四天王のうちの二天王をいう。多聞天王とは毘沙門天王のことで須弥山の北方の三城に住み、法を多聞して法座を守る働きをする。持国天王は東方の守護神で、法華経序品第1の列衆でもあり、一般には民を安んずる働きをする。二天は陀羅尼品第26で、陀羅尼呪を説いて法華経の行者を守護することを誓っている(法華経644,645㌻)。❸日天と月天のこと。❹梵天と帝釈天のこと。
―――
十羅刹
 諸天善神として、正法を持つ人を守る10人の女性の羅刹のこと。
―――
上上品の寂光の往生
 最高の成仏のこと。寂光土は仏が住む住処であるから、上上品の寂光という。
―――
須臾
 時間の単位。①一昼夜の30分の1をさす場合と、②最も短い時間の単位(瞬時)をさす場合がある。
―――
有情
 サンスクリットのサットヴァの訳。人間や動物のように感情や意識を持ち、生命活動を能動的に行えるものをいう。鳩摩羅什らの旧訳では「衆生」と訳された。玄奘らの新訳では「有情」と訳される。
―――
勧発
 衆生に仏法を勧めて法身させること。
―――
引導
 導くこと。案内すること。
―――
内外相応
 内と外がそうおうすること。「内」は衆生の内にある一念の作用。「外」は仏・菩薩の外からの化導。
―――
因縁和合
 内因と外因が和合して一つの果を生ずること。「和合」二つ以上のものが結合し、溶け合うこと。
―――
自在神通の慈悲
 一切に通達して自在無礙の慈悲のこと。「自在」はあらゆるものの束縛を離れ、思うがままに物事をなしえること。「神通」は神通力のことで、仏・菩薩などの持つ不可思議な自在無礙の力のこと。
―――――――――
 この段は次のような内容である。
 一代聖教を総括すると、42年の諸経が頓・漸二教となり、8年間の法華経は円教であって、この三教に収まる。
 これが一代聖教の総の三諦であり、衆生にあっては空・仮・中の三諦、仏にあっては法・報・応の三身になる。
 ゆえに、その総の三諦を成ずることが成仏の道であるのに、他宗はこれをバラバラにして、その断片に執着しているから、成仏できないのであると、重ねて破折されている。
 本来「万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」(147406)というのが生命の真実の姿である。
 爾前の諸経は、この己心の法を「片端片端説」いた部分観であるから完全ではなく、したがって、本文で「意は不足なりと嫌うなり」と仰せのように、不十分な教であるとするのである。
 これに対して、円教の場合は「一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択ばず一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり」と説かれているように、円教は一切諸法を包含しているから、あたかも十五夜の月のように完璧である。
 「善悪をも嫌わず」で、いかなる境界に住するかは問題ではない。また「折節」、すなわち時を選ばないのであり、「静処をも求めず」で、場所を選ぶこともないのである。さらに「人品をも択ばず」、すなわち、いかなる人でも成仏できると仰せである。
 「非道を行うとも仏道を成ず」との仰せのように「非道」とは、一般には道理に悖る。人情にはずれる道をいうが、ここでは仏道に非ざる道の意で、煩悩・業・苦の三道をいい、たとえこの三道に沈んでいても、円教の妙法はこれを悟りに変え、仏道を成じさせることができることをいうのである。
 更に、世間・出世間ともに中心にあって、この円教の妙法を聞く時は「立所に速かに仏果を成ずる」ことができるのである。
 次に、“総の三諦”とはいかなるものかについて、宝珠をたとえており、如意宝珠の珠と光と宝のようなものであり、これを仏身に配するならば、珠は法身・光は報身・宝は応身にたとえられていると教示されている。また、国土に配すれば、寂光土は鏡であり、同居・方便・実報の三度は鏡に映る像にたとえられる。
 このように、四土も一土であり、この三身と四土とが和合して、依正不二なる仏を「寂光の仏」といい、この円教の仏を寤の実仏、他の三土の仏を夢中の権仏とする、と仰せられている。
 以上の総の三諦を説いた円教を深く信じて修行に励んでいくとき「三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ」ることができる。
 そして、自ら成道した後、ひるがえって、九界の世界に立ち戻り衆生を自在に利益することを「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」と示されている。
大網の三教・総の三諦・三身・三徳
 この段は、これまで自行と化他を対立するものとして説かれてきたのに対し、化他は部分観であり、自行は全体観であって、化他の教えもすべて包含される。
 ゆえに化他の教えの欠点は、“不足なり”ということにあると述べられ、法華経の円融円満の総の三諦こそ成仏の要諦であることを教えられている。
 「大網の三教」というのは、釈尊一代聖教の大網を、頓教・漸教・円教の三教であるとするのである。
 頓教の“頓”とは“すみやかに”“ただちに”の意で、天台大師が説法の形式から一代聖教を分けた化儀の四教のうち、衆生を誘引するという手段を用いないで直ちに大乗を説いた教えをいうのである。一代聖教のなかでは華厳経が頓教となる。
 次に漸教とは、同じく化儀の四教のうち、衆生をその機根に応じて“漸々に”すなわち“次第に”誘引していく教えをいう。
 一代聖教のなかでは、阿含部・方等部・般若部の経教がこれにあたる。
 最後に円教とは天台大師が説法の内容から分けた四教のうちの一つに挙げられており、円融円満で完全無欠な教ということで、法華経がこれにあたる。釈尊50年の説法期間でいえば、頓教・漸教が42年の説であり、円教は8年間の説である。
 また、この大網は三教はすなわち“一代聖教の総の三諦”となる。
 大網の三教と総の三諦との関係については空・仮・中の三諦というのに対し、仏果を乗じたときには、法身・報身・応身の三身となると述べられ、これらは「一物の異名」であるとされている。
 すなわち法華経は、生命の空仮中の三諦、法報応の三身という全体観でとらえたものであることを明かされている。
 これに対して諸宗は、部分部分を根拠としているのであるから「円満の理」を闕くことになり、したがって成仏の理もない。
 更に、総の三諦を珠と光と宝の三徳にたとえている。珠とは宝石の本体であり、光とは、宝石が放つ輝きであり、宝とはその価値といえる。
 これらは一往、三つに分けて論ずることはできても、現実には不可分の全体をなしている。ゆえに、円教の法華経が正しいのであり、各部分を依りどころとしている諸宗は“不足なり”といわざるをえないのである。
能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず
 三世の諸仏の勘文を信じ、これに背くことなく、ただひたすら法華円頓の法理に従って修行に励んでいくとき、我々の生命に顕現してくる成仏の境地について示されているのがこの御文である。
 この御文は大きく二つに分けられると思われる。前半は「能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ」の御文であり、後半は「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて 内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」という御文である。
 前半の御文は、法華円教の法理を信じて修行していくとき、成仏をとげることを明かされている。円教の法理を正しく修行していったときは、「三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり」成仏をとげることができると仰せである。
 薬王・勇施の二菩薩、持国・毘沙門の二天、十羅刹女の守護を得てといわれているのは、法華経の陀羅尼品第二十六で、行者を加護することから誓っていることから、とくに挙げられたと拝される。
 ここで「上上品の寂光の往生」といわれているのは、浄土宗の下品の往生に対してであり、要は九界から仏界に入ることを往生と表現されたのである。
 しかも、円教であるゆえに、ただ寂光土に往生して終わるのではない。そこから、九界の世界に立ち返って一切衆生を利益するのである。
 後半の御文では、成道の後、ひるがえって、直ちに九界の世界に立ち戻って衆生を自在に利益する活発な慈悲の生命活動が行う姿が、説かれている。
 「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて」とは、成道した後、言い換えれば、仏界の生命を顕現した後、“ただちに”九界生死の夢のなかに戻ってきて、「身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて」と仰せのように、自在の振る舞いで慈悲の力を施して、人々を利益することができると述べられている。
 もとより、このような境地は、別して御本仏日蓮大聖人のみが証得されたところであり、「内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し」と仰せの「内より」というのは、その前に「心を一切有情の身中に入れ」と述べられていることと結びついている。そして「外よりは引導し」とは、同じく「身を十方法界の国土に遍じ」の御文とつながっている。
 仏界の生命を顕現された境地においては、その心が一切の有情の身中に入っているゆえに、衆生の生命の内から“勧発”することが可能なのである。
 言い換えれば、仏界の生命を顕現した境地と衆生の生命とが感応することにより衆生の内なる一念が仏法を求めるようになることである。
 更に「外よりは引導し」というのは、身を十方法界の国土に遍じておられる立場から、衆生の生命の外側から仏法へと誘引されるということである。
 こうして、内と外とが相応することにより、因縁とが和合して、衆生を成仏させていくことができるのであり、これが“自在神通の慈悲の力”であると仰せである。

0574:10~0575:05第21章 一大事因縁を説いて勘誡top
10   三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳な
                                               り事とは仮諦な
11 り・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり
12 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識
13 のに値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と
14 因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて 五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや春の時来りて風雨の
15 縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して 華敷き栄えて世に値う気色なり 秋の時に至りて月光の縁に値い
16 ぬれば草木皆悉く実成熟して 一切の有情を養育し寿命を続き 長養し終に成仏の徳用を顕す 之を疑い之を信ぜざ
17 る人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し 何に況や人倫に於てをや、 我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心
18 も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る 然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり 善知識の縁に値
0575
01 いなば因果を分別して成仏す可き身を以て 善知識に値うと雖も 猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙
02 止せる謂れ有る可きや、 此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて 生死の紲を切る可し今より已後は夢
03 中の法門を心に懸く可からざるなり、 三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く 開悟す可し自行
04 と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し。
05       弘安二年己卯十月 日                     日蓮 花押
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 三世の諸仏はこれを一大事の因縁と考えられて世間に出現されたのである。一大事因縁の一とは中道であり、法華経である。大とは空諦であり、華厳経である。事とは仮諦であり、阿含経・方等経・般若経である。以上は一代聖教のうえに立てた総の三諦である。
 この総の三諦を悟り知るときは、仏果を得るゆえに、諸仏にとっての出世の本懐であり、衆生にあっては成仏の直道なのである。
 因とは、一切衆生の身中に総の三諦があって常住不変であるということで、これを総じて因というのである。
 縁とは三因仏性はあるといっても、善知識の縁に値わなければ、これを悟らず、知らず、また顕れることもない。善知識の縁に値えば必ずあらわれるゆえに縁というのである。
 しかるに今、この一と大と事と因と縁との五事が和合して、値いがたい善知識の縁に値って、五仏性をあらわすことに、なんの滞りもないのである。 
 春のときがきて風雨の縁に値えば、無心の草木も皆ことごとく萠え出でて、華も咲き栄えて世間に出る気色である。
 秋になって月の光の縁に値えば、草木は皆ことごとく実が熟れて、一切の有情を養育し、その寿命を延べて長く養い、ついに成仏の徳用をあらわすのである。
 これを疑い、信じない人があろうか。無心の草木でさえ、なおこのとおりである。ましては人間においてはなおされのことである。 
 我らは迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることができる。
 しかし宿縁に促され、生を仏法流布の国土に受けたのである。善知識の縁に値えば因果を分別して成仏できる身であるのに、善知識に値っても、草木に劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるであろうか。
 このたび必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきである。今から以後は夢のなかの法門に心をかけてはならない。
 三世の諸仏と我が一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきである。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて曇りはないのである。三世の諸仏の勘文はこのとおりである。秘すべきである、秘すべきである。
       弘安二年己卯十月 日                     日蓮 花押

一大事の因縁
 方便品第二の文。同品に「云何なるをか諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」とある。これを開示悟入の四仏知見とも広開三顕一ともいう。
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一とは中道なり法華なり
 一大事の「一」の文字を空仮中の三諦・一代聖教の高下に配すると中道・法華経にあたるということ。
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大とは空諦なり華厳なり
 一大事の「大」の文字を空仮中の三諦・一代聖教の高下に配すると空諦・華厳経にあたるということ。
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事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり
 一大事の「事」の文字を空仮中の三諦・一代聖教の高下に配すると仮諦・爾前諸経である阿含・方等・般若に」あたるということ。
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三因仏性
 天台大師智顗が仏性(成仏の因として人々の生命に元来そなわっている性質)を三つの側面に分析したもの。①正因仏性(人々の生命に元来、そなわっている仏の境地、すなわち仏界。仏の境涯を開くための直接的な因)②了因仏性(自らの生命にそなわる仏界・法性・真如を覚知し開き顕す智慧)③縁因仏性(了因を助け、正因を開発していく縁となるすべての善行)。
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五事和合
 一・大・事・因・縁の五字が結び合い溶け合うこと。
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五仏性
 五つの仏性のこと。①正因仏性、本性としてもとから具わっている仏性。②了因仏性、仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露ほつろした仏性。③縁因仏性、智慧として発露するための縁となる善なる行い。④果性、菩提の果。⑤果果性、涅槃の果。
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気色
 ①ありさま・様子。②機嫌。③おぼえ。
長養
 心身を育て養うこと。
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人倫
 人の尊卑の順序。転じて、広く人の踏み行うべき道をいう。
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宿縁
 過去世からの因縁・関係のこと。御書中では、日蓮大聖人あるいは法華経との過去世からの深い関係を指している場合が多い。
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仏法流布の国土
 インド・中国・日本等のこと。
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生死の紲
 「生死」は衆生には決して断ち切ることのできない生死の苦しみ。「紲」はつないでおく縄。決して断ち切ることのできない結びつき。
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開悟
 癡を開き理を悟ること。
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己卯
 干支の組み合わせの16番目で、前は戊寅、次は庚辰である。陰陽五行では、十干の己は陰の土、十二支の卯は陰の木で、相剋(木剋土)である。
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 本抄全体の結論として、ここでは三世の諸仏の「一大事因縁」という重要な法門を取り上げられて、法華経を信ず門下に対する勧誡を説いて締めくくられている。
 まず“一大事因縁”の意義について、“一”とは中道の法華経、“大”とは空諦の華厳経、“事”とは仮諦で阿含・方等・般若をさしており、“因”とは一切衆生の身中に総の三諦があって、常住不変であること、“縁”とは三因仏性が善知識の縁に値ってあらわれることであると示されている。そして、これら一と大と事と因と縁との五事が和合したとき、正・了・縁・果・果果の五仏性が滞りなくあらわれ、成仏することが可能となると仰せられている。
 次に、非情の草木でさえ、風雨や月光を縁として生命活動を営んでいることを例に挙げられ「何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れ有る可きや」と述べられて、人間としてこの世に生まれ、善知識に値った我々は「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可」きであると述べられ、これ以後は夢中の法門を心にかけてはならないと戒め、妙法蓮華経を修行し、開悟していくよう勧められている。
三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり 已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや
 三世諸仏の“一大事因縁”ということから、成仏の原理を説き明かされている。
 一大事因縁というのは、仏がこの世に出現した本意のことである。法華経方便品第二においては、衆生をして仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめることこそ諸仏の一大事因縁であると説いている。
 この“一大事因縁”について、法華文句巻四上では次のように釈している。すなわち「字を分かちて釈せば、『一』は即ち実相なり。五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず。故に『一』と言うなり。其の性広博にして五三七九より博し。故に名づけて『大』と為す。諸仏出世の儀式に名づけて『事』と為す、衆生此の機ありて仏を感ず、故に名づけて『因』と為す。仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて『縁』と為す。是れを出世の本意と為す」と。
 更に、この文を受けて御義口伝には「一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時即身成仏するなり、 開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、 悟る当体直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思うに仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云、又云く四仏知見とは八相なり開とは生の相なり入とは死の相なり中間の示悟は六相なり下天託胎等は示仏知見なり出家降魔成道転法輪等は悟仏知見なり、権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり、今経の時生死の二法は一心の妙用有無の二道は本覚の真徳と開覚するを四仏知見と云うなり、四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し世に出現したもうなり、此の開仏知見の法華経を法然は捨閉閣抛と云い弘法大師は第三の劣戯論の法とののしれり、五仏道同の舌をきる者に非ずや、慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者に非ずや云云、又云く一とは中諦.大とは空諦.事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」(0716-05)と説かれている。
 以上の法華文句と御義口伝の二つの御文からも「一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは諦なり.阿含.方等.般若なり 已上一代の総の三諦なり」との御文の意味されるところは明白であろう。
 “一”とは「一実相」をさし、三諦のなかでは中諦にあたり、一代聖教のなかでは法華経にあたる。
 次に“大”とは、一実相の性が広博であることを示し、ここから三諦のなかでは空諦にあたり、一代聖教のなかでは華厳経にあたる。
 更に“事”とは、諸仏がこの世に出現する具体的な儀式をさしているゆえに、三諦のなかでは仮諦にあたり、一代聖教のなかでは、阿含部・方等部・般若部の諸経にあたるのである。
 この“一大事”が表す内容はそのまま“一代の総の三諦”である。この一代の総の三諦が「出世の本懐」「成仏の直道」なりといわれているのは、一代聖教全体が衆生を成仏させるために説かれたものであり、そのすべてを説くことが出世の本懐であるというのである。
 ただし、そのなかに法華経が円教、他は不完全な権教であることをわきまえることも含んでの仰せであることは、いうまでもない。
 次に、「一大事因縁」の“因”とは一切衆生の生命のなかに総の三諦、すなわち一代聖教に説かれた生命の法理が本来、ことごとく具わっていることである。
 しかし、衆生内在の三因仏性、総の三諦も、善知識の縁に値わなければ悟り知りあらわすことはできない。これを“縁”というのである。
 以上のことから、結局、衆生が成仏する原理は、“総の三諦”としての“一大事”と、この“因”としての“総の三諦”を悟りあらわしていくための善知識の“縁”が和合する。すなわち、“一”と“大”と“事”と“因”と“縁”の五事が和合することこそ、五仏性を顕現して成仏していく、根本の法則となるのである。
 御義口伝に「円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」(0717-09)と仰せのように、末法今時においては、三大秘法の大御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱えることが、この五事の和合となるのである。
此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可し今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し
 本抄全体の最後にあたり、末法の大白法に巡りあった門下に対し、必ずこの一生で成仏を遂げるよう勧められているところである。末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈大悲の心がひしひしと伝わってくる結びの御文といえよう。
 「此の度必ず」との御言葉のなかに、人間として生を受け、末法流布の国土に生まれ、善知識に値うことができた“今生においてこそ”という意味が込められている。
 そのためには「今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり」と戒められ、また「三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し」と仰せられているように、三世の諸仏の心と一つになって妙法蓮華経の五字を修行して開悟・成仏すべきであると促されている。
 最後に「自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し」と仰せられて、自行と化他の二教の差異は三世の諸仏の勘文として鏡に照らして曇りないことを、再度確認されるとともに、これが本来、深秘の法門であることを「秘す可し秘す可し」の結語に込められ、本抄全体を結ばれている。