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日蓮大聖人御書講義110595~0611

0595~0598    小乗小仏要文
  0595:01~0595:16 第一章 小乗の経と仏を図示する
  0595:17~0596:11 第二章 爾前・迹門を迹仏の小乗とする文証
  0596:11~0598:05 第三章 法華経本門こそ真の大乗との文証を挙げる
  0598:06~0598:17 第四章 迹仏と迹仏果を図示する
0599~0601    日月の事
0602~0611    和漢王代記
  0602:01~0602:05 第一章 中国の伝説上の帝王と王朝を示す
  0602:06~0602:17 第二章 中国史上初の王朝・殷と周を図示す
  0603:01~0603:09 第三章 秦・漢の時代と仏教伝来を示す
  0603:10~0603:15 第四章 魏・晋の時代と諸経典の到来を示す
  0603:16~0604:11 第五章 南朝時代の仏教展開を記す
  0604:12~0605:03 第六章 隋の時代と天台大師の業績を示す
  0605:04~0605:12 第七章 唐・栄の時代と諸宗派の成立示す
  0605:12~0606:03 第八章 天台・妙楽の釈を引いて評す
  0606:04~0608:03 第九章 智証の授決集、弘法の二教論を引く
  0608:04~0608:11 第十章 仏教渡来以前の日本の王代を示す
  0608:12~0610:05 第11章 日本への仏教渡来の経緯を示す
  0610:06~0610:17 第12章 伝教大師の法華経弘通を示す
  0610:18~0611:10 第13章 伝教の著作を引用して諸宗を破す

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0595:01~0595:16 第一章 小乗の経と仏を図示するtop
0595
小乗小仏要文
01     ┌華  厳 ┌大 日 経── 真言宗
02     ├阿  含 ├観 経 等── 浄土宗
03   小乗┼方   等―┼深密経等── 法相宗
04     │      └楞 伽 経── 禅 宗
05     ├般 若――-―三論宗
06     ├無量義経
07     └法 華 経──迹門十四品・本門薬王品已下の六品並びに普賢・涅槃経等              ・
08     ┌応 身─┬劣応身
09     │    └勝 応 身
10   小仏┼報  身──華厳経るさな仏
11     ├大日経等びるさな仏
12     └並びに迹門涅槃経等の仏
-----―
     ┌華  厳 ┌大 日 経── 真言宗
     ├阿  含 ├観 経 等── 浄土宗
   小乗┼方  等─┼深密経等── 法相宗
     │      └楞 伽 経── 禅 宗
     ├般 若─―─三論宗
     ├無量義経
     └法 華 経──迹門の十四品と本門薬王菩薩本事品第二十三以下の六品、並びに普賢・涅槃経等
     ┌応 身─┬劣応身
     │    └勝 応 身
   小仏┼報  身──華厳経るさな仏
     ├大日経等びるさな仏
     └並びに迹門涅槃経等の仏

小乗
 乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
―――
華厳
 釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。
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阿含
 天台宗の教判である五時(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)の第2。釈尊が華厳経を説いた後の12年間、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで説いた時期をさす。阿含経が説かれたので阿含時といい、この時期の最初の説法が鹿野苑で行われたので鹿苑時ともいう。
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方等
 阿含時に続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
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真言宗
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
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観経
 中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
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浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。
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深密経
 中国・唐の玄奘訳。5巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。
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法相宗
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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楞伽経
 漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
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禅宗
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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般若
 鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。
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三論宗
 竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
―――
無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
―――
法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かし「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
―――
迹門十四品・本門薬王品已下の六品
 法華経28品のうち、序品第1~安楽行品第14までを迹門といい、薬王品已下の六品とは、薬王菩薩本事品第23・妙音菩薩品第24・観世音菩薩普門品第25・陀羅尼品第26・妙荘厳菩薩本事品第27・普賢菩薩勧発品第28をさす。すなわち本門8品、従地涌出品第15・如来寿量品第16・分別功徳品第17・随喜功徳品第18・法師功徳品第19・常不軽菩薩品第20・如来神力品第21・嘱累品第22を除かれているが、この8品は虚空会の儀式の期間・地涌の菩薩が法華経の会座にいた期間であり、付属の始終・法華経の正宗分である。観心本尊抄にも「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては 仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う」(0247-15)と、述べられている。
―――
迹門
 垂迹の仏の説いた法門の意。法華経1部8巻28品のうち、序品第1より安楽行品第14までの前半14品をいう。この14品は、釈尊が久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門の肝心は方便品第2にあり、諸法実相・十如是を明かし、二乗作仏を説いて開三顕一し、また悪人成仏・女人成仏を説いて万人成仏の道を明かした。
―――
本門
 ①久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
―――
普賢
 中国・南北朝時代の宋の曇無蜜多訳。普賢経、観普賢経と略す。1巻。普賢経は法華経の教えをふまえた観法の実践を説くので、法華経の直後にその内容を承けて締めくくる経典(結経)と位置づけられた。無量義経(開経)と法華経(本経)と普賢経(結経)を合わせて法華三部経と呼ばれる。
―――
涅槃経
 般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
―――
小仏
 小乗の仏のこと。
―――
応身
 人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に表した姿、慈悲の側面の三つをいう。
―――
劣応身
 衆生を教化するために現される仏の身である応身は、勝応身・劣応身に分けられる。劣応身は、生身の人間としての身体をいう。
―――
勝応身
 衆生を救うためにその機根に応じて具体的な姿形をもって出現する仏身を応身という。そのうち、初地以上の菩薩に応じて出現する、福徳にあふれ勝れた仏身を勝応身と呼ぶ。
―――
報身
 最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性。
―――
華厳経るさな仏
 「輝くものの子」を意味するサンスクリット語の音写。毘盧舎那仏とも音写し,略して盧舎那仏,遮那,または「びるさな仏」「るさな仏」ともいう。訳して光明遍照,遍一切処。仏陀の智慧の広大無辺なことを象徴し,『華厳経』の本尊。
―――
大日経等びるさな仏
 『大毘盧遮那成仏神変加持経』。漢訳は,唐の善無畏による。7巻。密教の根本経典の一つ。漢訳本は 36品から成り,胎蔵法が説かれ,胎蔵界曼荼羅は本経によって描かれた。現存するチベット訳は,9世紀の初めに,インドの僧シーレンドラボーディ Sīlendrabodhiとチベットのパルツェ Dpal-brtsegsとが翻訳したもので,『チベット大蔵経』に収められている。
―――
迹門涅槃経等の仏
 法華経迹門と涅槃経等の仏。
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 本抄は、日蓮大聖人の仏法の立場から見ての小乗の教えと小乗の仏に関する要文を集めた覚書で、門下の修学の資料とされたものと考えられる。したがって、だれかに与えられたものではないことはいうまでもないが、いつ書かれたかとうくことも不明である。
 初めに、小乗の経として図示されている。
 小乗の経として、華厳・阿含・方等・般若という爾前の諸経と、法華経の開経である無量義経、更に法華経迹門の14品と本門の薬王品以下の6品、更に結経である普賢経と、法華経以後に説かれた涅槃経が挙げられている。
 すなわち、法華経本門の正宗分である涌出品から嘱累品までの8品を除く諸経を、すべて小乗とされているのである。
 なお、方等部に大日経・観経等・深密経・楞伽経が含まれることが示されている。
 また、般若部の経は三論宗の依経であることが示されている。それら、小乗の諸経を依経とする諸宗は、小乗の宗となるのである。
 普通「小乗」といえば、阿含部の経をさし、それ以外は大乗とされているのに対して、なぜこのように法華経本門の正宗分の8品以外をすべて小乗とされたのであろうか。
 日蓮大聖人は、文永10年(1273)に著された小乗大乗分別抄で、大乗・小乗という立て分けは、比較する教によって異なるのであるとされ、法華経寿量品の「楽於小法。徳薄垢重者」の文を引かれ「天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ、此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経・八宗の中には倶舎宗・成実宗・律宗を小乗と云うのみならず華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として唯天台の一宗計り実大乗宗なるべし、彼彼の大乗宗の所依の経経には絶えて二乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給はず」(0520-04)と述べられている。本抄における小乗の立て分けも、この趣旨と同じと思われる。
 二乗作仏・久遠実成をともに説いた法華経本門のみが、一切衆生を悉く成仏させることができる釈尊の究極の法門であり、真の大乗の法であるとされ、それ以外の諸経は、二乗作仏のみで久遠実成を明かさない法華経迹門も含めて小乗の法なり、と断じられているのである。
小仏(小乗の仏)を図示する
 次に小仏として、応身・報身・大日経のびるさな仏、並びに法華経迹門・涅槃経等の仏が含まれていることが示されている。
 応身とは、法報応の三身如来の一つである応身如来のことで、衆生を化導し救済するため機縁にしたがって種々の形に変化して出現した仏をいった。天台大師は応身に劣応身勝応身を立て、劣応身は三蔵教の教主で一丈六尺の仏身で老比丘の相をとり、勝応身は通教の教主で丈六の仏身だが神通力によって変化自在している。
 報身とは、三身如来の一つである報身如来のことで、仏の智慧をあらわす仏身をいう。また自ら内証の法楽を受ける自受用報身、菩薩のために法を説いて大乗の法楽を受用させる身を他受用報身という。
 「華厳経るさな仏」とあるのは、華厳経の教主である盧遮那報身のことで盧遮那他受用身ともいい、華厳経・梵網経・観普賢菩薩行法経等で、初地以上の菩薩に対して現れるという。
 「大日経等びるさな仏」とあるのは、毘盧遮那仏のことで、華厳経の教主である他受用報身と同じともされるが、真言密経では大日経の教主は大日報身如来で別仏であるとしている。真言宗では大日経・金剛頂経・理趣経等の密経経典に説かれる毘盧遮那仏は、宇宙の森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏であり、全ての仏・菩薩を生み出す根本の仏としている。
 「迹門涅槃経等の仏」とは、法華経迹門で諸法実相に約して一念三千の法門を説く仏と、涅槃経の教主である仏をさしている。
 大聖人が、これらの仏をすべて小仏とされているのは、法華経本門以外の諸経はすべて、劣れる「小乗の法」にすぎないとの立場から、その教主である仏を「小乗の仏」とされているのである。
 小乗大乗分別抄には「華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(0520-11)と述べられている。
 天台大師は、迹面本裏の一念三千を立てるゆえに、権実相対の立場で爾前の諸経の仏を小仏と釈したのであるが、大聖人は独一本門を立てるゆえに本迹相対の立場で、迹門の仏を含めて小仏とされているのである。
 末法においては、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人が御本仏であり、寿量文底の妙法こそ真の大乗の法となるのである。

0595:17~0596:11 第二章 爾前・迹門を迹仏の小乗とする文証top
13   阿逸・汝当に知るべし是の諸の大菩薩
0596
01 序出二云云。
02   無数劫よりこのかた 仏の智慧を修習す、 悉く是れ我が所化なり大道心を発さしむ 此等は是れ我が子なり是
03   の世界に依止せり、 玄の七に云く「六に本説法妙とは経に言く此等我所化・令発大道心・今皆住不退と我所化
04   とは正く是れ説法して大道心を発さしむるは小説に簡非するなり、 此れ本時の説を指して迹説を簡非するなり
05   迹説・多種なれども若し涅槃に依れば」等云云、華厳経の寂滅是なり始成正覚。
-----―
 法華経従地涌出品第十五には「阿逸多よ、あなたはまさに知るべきである。この数多くの大菩薩は、数えることができないほどの長遠の昔から、仏の智慧を求めて修行してきた者たちである。すべて彼らは私が教化してきた弟子であり、大いに仏道を求める心を起こさせてきたのである。彼らは私の子であり、この世界にとどまっている」とある。法華玄義の巻七には「六に本説法妙とは、法華経に『此等は我が所化として大道心を発さしむ…今皆住不退に住せり』とあるなかの『我が所化』とは、まさしく説法を表しており、『大道心を発さしむ』とは小乗の説法に非ざるものを選ぶのであり、これは釈尊の久遠の成道の時の説法をさしており、これは釈尊の久遠の成道の時の説法をさしており、迹仏の説法は多種であっても涅槃によれば」等とある。
 華厳経の「寂滅道場において始めて正覚を成ず」とある。
-----―
06 迹仏。 増一阿含経の十に云く 「仏・摩竭国に在し道樹の下にして 爾時に世尊得道未だ久からず」浄名経に云く
07   「始め仏樹に坐して 力て魔を降す」 大集経に云く「如来成道始めて十六年なり」 大日経に云く「我昔道場
08   に坐し四魔を降伏す」 仁王般若経に云く「大覚世尊先ず我が為に二十九年」無量義経に云く「我先に道場菩提
09   樹下に端坐する事 六年乃至四十余年」 法華経の方便品に云く「我始め道場に坐し樹を観じ 亦経行し三七日
10   の中に於て是くの如き事を思惟す」 籤の七に云く「大乗の融通過ぎたること無し」華厳経の初に云く「菩提道
11   場にして始めて正覚を成ず、 故に知んぬ大小識成皆近なり」 
-----―
 迹仏について。
 増一阿含経の巻十には「仏は摩竭提国の道場樹の下におられた。その時は世尊が得道してからまだそれほど時間がたっていなかった」とある。浄名経には「始め菩提樹の下に坐して、懸命になって魔を降した」とある。大集経には「如来が成道してから始めて十六年である」とある。大日経には「私は昔、道場に坐して四魔を降伏した」とある。仁王般若経には「大覚世尊はまず、私のために二十九年の間」とある。無量義経には「私は前に道場である菩提樹の下に端坐すること六年(乃至)法を説くこと四十余年」とある。法華経方便品第二には「私は始め道場である菩提樹の下に坐して菩提樹を観た。また、静かに散策して、三週間の間にこのようなことを思いめぐらした」とある。
 法華玄義釈籤の巻七には「大乗経の中で融通の義を説くことでは華厳に勝るものはない。その華厳経の初めには『菩提樹の下の道場で始めて正覚を成じた』とある。ゆえに大乗経や小乗経で、正覚を成じたとあるのは、それはみな始成正覚であると識る」とある。

阿逸
 ❶サンスクリットのアジタの音写で、「打ち負かされない者」を意味する。弥勒菩薩の呼び名。法華経においても「阿逸多よ」との呼びかけが散見される。❷涅槃経巻19のなかで、阿闍世王を慰める医師・耆婆の話の中に登場する人物。殺母・殺父・殺阿羅漢の三逆罪を犯したが、釈尊に会って出家を許された。
―――
是の諸の大菩薩
 この数多くの偉大な菩薩のこと。
―――
序出二云云
 序出は涌出、二の前に品があったものか。いずれかの転写ミスによるものか。ここでは「涌出品に」としておく。
―――
無数劫
 数えきれないほどの長い時間。阿僧祇劫ともいう。
―――
仏の智慧を修習す
 諸法の実相を極め尽くした心の本性であり、仏を仏たらしめた根源をさし、釈尊が法華経を説き現わそうとした主題。
―――
所化
 能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
―――
大道心
 最大の道心。大いに仏道を求める心。菩提心のこと。
―――

 ①親から出生した生命。②仏の主・師・親の三徳の親徳。法華経譬喩品第3には「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とある。
―――
依止
 仏を頼って、そこにとどまること。
―――
本説法妙
 本仏の久遠における説法が妙であること。本門十妙のひとつ。本門十妙とは、①本因妙②本果妙③本国土妙④本感応妙⑤本神通妙⑥本説法妙⑦本眷属妙⑧本涅槃妙⑨本寿命妙⑩本利益妙のことをいう。
―――
此等我所化・令発大道心・今皆住不退
 法華経従地涌出品第15に「無数劫よりこのかた仏の智慧を修習す、悉く是れ我が所化なり大道心を発さしむ此等は 是れ我が子なり是の世界に依止せり」「今皆不退に住せり」等とある。
―――
不退
 不退転の略で、ここまでくるともう退転することなく、必ず成仏するという位。別教においては十信・十住・十行・十回向と修しあがり、初地に達した菩薩をいう。
―――
小説に簡非するなり
 小乗の説法にあらざるものを選ぶということ。
―――
阿逸
 ❶サンスクリットのアジタの音写で、「打ち負かされない者」を意味する。弥勒菩薩の呼び名。法華経においても「阿逸多よ」との呼びかけが散見される。❷涅槃経巻19のなかで、阿闍世王を慰める医師・耆婆の話の中に登場する人物。殺母・殺父・殺阿羅漢の三逆罪を犯したが、釈尊に会って出家を許された。
―――
是の諸の大菩薩
 この数多くの偉大な菩薩のこと。
―――
序出二云云
 序出は涌出、二の前に品があったものか。いずれかの転写ミスによるものか。ここでは「涌出品に」としておく。
―――
無数劫
 数えきれないほどの長い時間。阿僧祇劫ともいう。
―――
仏の智慧を修習す
 諸法の実相を極め尽くした心の本性であり、仏を仏たらしめた根源をさし、釈尊が法華経を説き現わそうとした主題。
―――
所化
 能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
―――
大道心
 最大の道心。大いに仏道を求める心。菩提心のこと。
―――

 ①親から出生した生命。②仏の主・師・親の三徳の親徳。法華経譬喩品第3には「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とある。
―――
依止
 仏を頼って、そこにとどまること。
―――
本説法妙
 本仏の久遠における説法が妙であること。本門十妙のひとつ。本門十妙とは、①本因妙②本果妙③本国土妙④本感応妙⑤本神通妙⑥本説法妙⑦本眷属妙⑧本涅槃妙⑨本寿命妙⑩本利益妙のことをいう。
―――
此等我所化・令発大道心・今皆住不退
 法華経従地涌出品第15に「無数劫よりこのかた仏の智慧を修習す、悉く是れ我が所化なり大道心を発さしむ此等は 是れ我が子なり是の世界に依止せり」「今皆不退に住せり」等とある。
―――
不退
 不退転の略で、ここまでくるともう退転することなく、必ず成仏するという位。別教においては十信・十住・十行・十回向と修しあがり、初地に達した菩薩をいう。
―――
小説に簡非するなり
 小乗の説法にあらざるものを選ぶということ。
―――
得道
 仏道修行を完成させて仏の覚り(道)を獲得できること。
―――
未だ久からず
 それほど時間がたっていないということ。
―――
浄名経
 維摩経の別名。維摩詰と音写されたサンスクリットのヴィマラキールティの漢訳が浄名であることによる。
―――
仏樹
 菩提樹のこと。「仏樹」の「仏」はボーディの音写、「覚り」の意。
―――
魔を降す
 障魔を降伏すること。降魔という。釈尊が菩提樹下で悟りを開こうとした時、第六天の魔王が種々の妨害を試し見たが、釈尊はこれを打ち破って成道を遂げた。
―――

 サンスクリットのマーラの音写。摩羅とも。仏道修行を妨げる種々の働き。魔は「奪命者(命を奪う者)」「奪功徳者(功徳を奪う者)」とされ、仏道修行者の心、三世にわたる生命をも損ねる働きをいう。魔には種々の分類があるが、御書中では特に『摩訶止観』で説かれる三障四魔を重要視されている。
―――
大集経
 大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。60巻。大乗の諸経を集めて一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を500年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後2000年以降を末法とする根拠とされた。
―――
如来
 仏の尊称である十号の一つ。サンスクリットのタターガタの漢訳で、「真如(真実)から来た」という意味。もとは修行を完成した者の意で諸宗教で用いられていたが、仏教では釈尊や諸仏の呼び名とされた。
―――
成道
 仏道を成ずること。八相作仏のひとつ。成仏・得道と同義。最高の幸福境涯を得ることをさす。
―――
始めて十六年なり
 釈尊が菩提樹下で成道・説法を始めてから、大集経を説くまでの期間。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
―――
道場
 サンスクリットの原語では「覚りを開いた場所」の意。また広く、法が説かれる場、修行する場を意味するようになった。
―――
四魔
 正法を信じ行ずる時、信心の深化と実践を阻もうとする働き。「魔」は、修行者の生命から妙法の当体としての生命の輝きを奪う働き。①陰魔。修行者の五陰(心や肉体の働き)の不調和が妨げとなること。②煩悩魔。煩悩が起こって信心を破壊すること。③死魔。修行者の生命を断つことで修行を妨げようとする、また修行者の死をもって他の修行者を動揺させて信心を破ろうとすること。④天子魔。他化自在天子魔の略。他化自在天王(第六天の魔王)による妨げで、最も本源的な魔のこと。
―――
降伏
 仏法の威力によって種々の魔・悪を屈服させること。特に密教で、他を調伏する修法の名をさす。
―――
大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
―――
我先に道場菩提樹下に端坐する事六年乃至四十余年
 無量義経説法品第2に「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨 多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。 仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。 所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。 性欲不同なれば種種に法を説きき。 種種に法を説くこと方便力を以っ云てす。 四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
―――
端座
 ①威儀を整えて正座すること。②禅定のこと。
―――
乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
―――
方便品
 妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
樹を観じ亦経行し
 大悟を得て成道した釈尊が、金剛座から立って、菩提樹を感じたこと。
―――
大乗の融通
 大乗教における融通の法理はとの意。
―――
大乗
 一般に大乗仏教という。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。
―――
菩提道場
 菩提樹の下の道場。
―――
大小識成皆近
 大乗教も小乗教も皆、始成正覚を成ずることを識るとの意味。
―――
大小
 大乗教と小乗教のこと。「乗」とはのせる、の義で小乗教は俱舎宗・成美宗・律宗など。阿含の四経をよりどころとして、小乗の戒律を立てる教えで、少ない範囲の人を、わずかな期間救おうというものである。大乗教とは華厳・方等・般若・法華をいい、小乗教より教えが高慢であり、多くの民衆を長い期間にわたって救おうというものである。大乗と小乗は相対的なものであり、文底下種の南無妙法蓮華経に対すれば諸教はみな小乗となる。
―――――――――
 次に、迹門・爾前を小乗・小仏とする文証として、諸経と天台等の釈論の文を挙げられている。
 初めに、法華経の涌出品第十五の「阿逸汝等に知るべし、是の諸の大菩薩は、無数劫より来、仏の智慧を修習せり。悉く是れ我が所化として、大道心を発さしめたり、此等は是れ我が子なり、是の世界に依止せり」との文が引かれている。
 この文は、地涌の菩薩と釈尊との師弟の関係を述べたものである。釈尊は、阿逸多、すなわち弥勒菩薩に対して、大地から涌出したこの諸の大菩薩は、無数劫の昔から仏の智慧を修習しており、ことごとく我が弟子として大道心を起こさせた者である。これらの菩薩は我が子であって、この娑婆世界に在住し拠りどころとしているのである、と告げたのである。
 そして、この文について天台大師が、法華玄義巻七上で、「六に本説法妙とは経に言く此等我所化・令発大道心・今皆住不退と。我所化とは正しく是れ説法なり。大道心を発さしむるとは小説に非ざるを簡ぶなり。此れ本時の簡説を指す。迹説には非ざるなり。迹説は他種あり、若し涅槃に依れば」と釈している文を引かれている。
 この文は、本門の十妙のうの第六で、本仏が久遠に説法をしたことが妙であるとした本説妙法を明かした文である。釈尊が久遠に法を説いて地涌の菩薩を我が弟子として、大道心を発させたとある文は、小乗の説をえらび捨てており、また久遠の本時の説をさしていて迹仏の説を選び捨てているのである、との趣旨である。すなわち、涌出品の文こそ、法華経の本門に対して、法華経迹門以下の爾前の諸経の説を小乗としていることを示している、との意であろう。
爾前・迹門を迹仏とする経証
 次に「迹仏」として、爾前経と法華経迹門が迹仏による迹説であり、法華経の本門の教説に比べれば小乗にすぎないとする文証が挙げられている。
 初めに、華厳経の「一時、仏、摩竭提国寂滅道場に在り、始めて正覚を成ず」の文を略してひかれている。
 これは、釈尊がマカダ国の伽耶城の近くの菩提樹の下で始めて正覚を成じて仏になり、最初に華厳経を説いたとされているが、まだ久遠実成が明かされていないので、法華経に対すれば垂迹の姿の迹仏の説であり、小乗にすぎないことを示されているのであろう。
 次に、増一阿含経巻十の「仏、摩竭国道場樹下に在しき。爾の時、世尊、徳道して末だ久しからず」の文を引かれている。
 増一阿含経を説いたのは、釈尊がマカダ国の菩提樹下にいた時で、末だ得道して久しくない時であり、華厳経を説いた後であることを示しており、始成正覚の立場なので迹仏の説であり小乗であることをしめしている。
 また、浄名経の「始め仏樹に在して力めて魔を降し」の文は、大乗の妙理によって小乗教を破している維摩詰経も、釈尊については始成正覚の仏として説いていることに変わりはなく、この経自体、迹仏による小乗の説であることを物語っているのである。
 大集経の「如来、仏道を成得し、始め十六年」の文は、釈尊が成道後16年に、十方の仏・菩薩を集めて説き、大乗の法が収められている大集経も、始成正覚の立場で、説かれたことを示す文である。
 大日経の「我昔道場に坐して、四魔を降伏す」の文も、仏が菩提樹下の金剛座で煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔の四魔を降伏して成道したことをしめしており、大日経が始成正覚の立場で説かれたことを明かしている。
 次に仁王般若経の文は「大覚世尊、前に巳に我等大衆の為に二九年、摩訶般若波羅蜜・金剛般若波羅蜜・天王問般若波羅蜜・光讃般若波羅蜜を説きたもう」とある文を、略して引かれたものである。般若部の結経である仁王般若経を説くまでの29年間に、大般若経・金剛般若経・天王問般若経・般若経等の般若部の諸経を説いていると明かしたものであり、仁王般若経が他の諸経と同じ、釈尊が始成正覚の立場で説いたことを示しているのである。
 無量義経の文も「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以って一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず、所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり、性欲不同なれば種種に法を説きき、種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には末だ真実を顕さず」の文を略して引いたものである。
 法華経の開経とされる無量義経に、釈尊が成道してから40余年の間に説いた諸経が、衆生の機根に合わせて説かれた未顕真実の教説であることが明かされるのである。
 なお、無量義経には「無量義とは一法より生ず」と明かされているが一法が何であるかは明確に示されていないので、未顕真実の範疇であり、始成正覚の迹仏の立場でとかれていることに変わりはないのである。
 法華経方便品の文も、釈尊が菩提樹下で思維し成道したことをしめしており、法華経迹門が始成正覚の迹仏の立場で説かれていることを示しているのである。
 妙楽大師の法華玄義釈籤巻七の文は「大乗の融通、華厳に過ぐるは無し、経の初に亦云く『菩提場に於いて始めて正覚を成ず』と。故に知んぬ。大小に成を説くこと皆近なり」とあるものを略して引いたものであある。
 大乗の中で融通無礙なのは華厳経に勝るものはないが、同経の初めに「菩提道場の中に在して始めて正覚を成ず」とあるゆえに、大乗・小乗の諸経いずれも、成道については、近成を説いている、との意である。
 なお、同じ釈籤に、法華経に説かれた最極の趣旨を理解せずに、誹謗して華厳・般若経等一切法空の法門が勝れているという者は必ず舌が爛れると述べられており、法華経こそ真に融通無礙の教であるとしている。
 「華厳経の初に云く『菩提道場にして始めて正覚を成ず』故に知んぬ大小識成皆近なり」の「大小識成皆近なり」とは、大小皆近を成ずることを識る、と読み、これは、華厳経巻一の「菩提道場の中に在して、始めて正覚を成ず」の文を挙げて、大乗・小乗の諸経いずれも、釈尊がインドに応誕して30歳で始めて成道したと説いていると結論されているのである。

0596:11~0598:05 第三章 法華経本門こそ真の大乗との文証を挙げるtop
11                                寿量品に云く「爾時に世尊・諸の菩薩の三たび
12   請じて止まざるを知ろしめして 之に告げて言たまわく 汝等諦かに聴け如来の秘密神通の力を・一切世間の天
13   人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず 道場に坐して阿耨多羅三藐三
14   菩提を得たりと謂えり、 然るに善男子・我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、文
15   句の九に云く「仏・三世に於いて等く三身有り諸教の中に於いて之を秘して伝えず・故に一切世間の天人修羅は
16   今の仏は是に始まると謂えるなり、此の三身を得る故に近に執して遠を疑う」寿量品に云く「諸の善男子・如来
17   は諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと
18   説く、然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯くの若し」文句の九に云く「一約往日○二約現在○三約修
0597
01   行○四・果門に約せば近成の小を聞かんと楽う者は釈氏の宮を出で始めて菩提を得たりとし長大久遠の道を聞か
02   ん事を楽欲せず故に楽小と云う」此等の小心は今日に始まるに非ず 若し先に大を楽わば仏即ち始成を説かず始
03   成を説くことは 皆小法を楽う者の為のみ、 又云く「諸の衆生・小法を楽う者とは所見の機なり」華厳に云く
04   「大衆清浄なりと雖も 其の余の楽小法の者は或は疑悔を生じ 長夜に衰悩せん 此れを愍むが故に黙す」偈に
05   云く「其の余の久く行ぜざるは智慧未だ明了ならず 識に依つて智に依らず聞き已つて憂悔を生じ彼将に悪道に
06   堕ちんとす此れを念うが故に説かず」と、 彼の経を案ずるに声聞・二乗無し但不久行の者を指して 楽小法の
07   人と為すのみ、 師の云く「楽小は小乗の人に非ざるなり乃ち是れ 近説を楽う者を小と為すのみ」文句の九に
08   云く「徳薄とは縁了の二善功用微劣なれば 下の文に諸子幼稚と云うなり垢重とは見思未だ除かざるなり」記の
09   九に云く「徳薄垢重とは 其の人未だ実教の二因有らざる故なり 下の文に諸子幼稚と云うは下の医子の譬の文
10   を指す尚未だ円を聞くに堪えず況んや遠を聞かんをや、 見思未除とは且く譬の中の幼稚の言を消す 定めて未
11   だ遠を知らず」玄の一に云く「厚く善根を殖えて此の頓説を感ず」文、 籤の一に云く「一往は総じて別円を以
12   て厚と為す」五百問論に云く「一経の中に本門を以て主と為す」云云、 又云く「一代教の中に未だ曾て遠を顕
13   さず父母の寿は知らずんばあるべからず始めて此の中に於いて方に遠本を顕す、 乃至但恐る才一国に当るも父
14   母の年を知らざれば失う所・小と謂うも辱むる所至つて大なり、 若し父の寿の遠きを知らざれば復父統の邦に
15   迷う徒に才能と謂うも全く人の子に非ず」 文句の九に云く「菩薩に三種有り下方と他方と旧住となり」玄義の
16   七に云く「若し迹因を執して本因と為さば 斯れ迹を知らず亦本を識らざるなり天月を識らずして但池月を観る
17   が如し○、払迹顕本せば即ち本地の因妙を知る 影を撥つて天を指すが如し云何ぞ盆に臨んで漢を仰がざる嗚呼
18   聾駭なんすれぞ道を論ぜんや」 又云く「若し迹果を執して本果と為す者は 斯れ迹を知らず亦本を識らざるな
0598
01   り、 本より迹を垂るるは月の水に現ずるが如く迹を払うて本を顕すは影を撥うて天を指すが如し、当に始成の
02   果を撥けば皆是れ迹果なるべく 久成の果を指すは是れ本果なり」 又云く「諸土は悉く迹土なり一には今仏の
03   所栖の故に二には前後修立の故に 三には中間所払の故に若し是れ本土は今仏の所栖に非ず、 今仏の所栖は即
04   ち迹土なり、若し是れ本土は一土・一切土にして前後修立なるべからず浅深不同なり○、 迹を執して本と為す
05   者は此れ迹を知らず亦本を識らざるなり、今迹を払つて本を指すときは本時所栖の四土は是れ本国土妙なり」
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 法華経如来寿量品第十六には「その時に世尊は、数多くの菩薩の三度、仏に説法を要請してなおその要請を止めようとしないのを知られて。この人たちに対して、述べて仰せられた。『あなたたちよ、明らかに聴きなさい、如来の秘密神通の力を。すべての世界の天界や人界に住する衆生および阿修羅は皆、今ここにいる釈迦牟尼仏は釈迦族の王宮を出て伽耶城を離れて遠くないところの道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている。しかしながら、善男子よ、私が真実に成仏してより以来、無量無辺百千万億那由佗劫がたっているのである』と」等とある。法華文句の巻九下には「仏は過去・現在・未来の三世にわたって等しく法・報・応の三身を有している。諸教のなかにおいてはこのことを秘して伝えていない。ゆえに、すべての世界の天界や人界に住する衆生および阿修羅は、今の仏は、菩提樹下において始めて正覚を成じたと思っている。ここで法・報・応の三身を得たと思っているるゆえに、始成正覚に執着して久遠実成を疑うのである」とある。
 法華経如来寿量品第十六には「善男子たちよ、如来は数多くの衆生で小法を楽う徳が薄く心の濁りが深い者たちに対しては、この人たちのために『私は今世において若くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得た』と説くのである。しかしながら、わたしが真実に成仏してからの時間が久遠であることは、先に説いたとおりである」とある。法華文句巻九下には「一に過去の視点から解釈すれば○二に現在の視点から解釈すれば○三に修行の視点から解釈すれば○四に仏果についての法門という視点から解釈すれば、始成正覚をという小法を聞きたいと楽う者は、釈尊は釈迦族の王宮を出て始めて悟りを得たのであるとし、釈尊は長遠の昔に成道したというという久遠実成の教説を聞こうとすることを楽わず欲しない。ゆえに『正法を楽える』というのである。これらの小法を楽う心は、今日の法華経説法の時に始まったのではない。もし以前に大法を聞くことを楽っていたならば、仏はそのときは始成正覚を説かない。始成正覚を説くことは皆、小法を楽う者のためだけなのである」とある。
 また、法華文句巻九には「数多くの衆生で小法を楽う者とは、仏からみた衆生の機根である。華厳経には『この座の大衆は清浄であるといえども、そのほかの小法を楽う者は、あるいは疑いと悔いを生じて生死に流転する長い間、おとろえ、悩むであろう。これを憐れむがゆえに沈黙するのである』とあり、その華厳経の偈には『そのほかの久遠実成以来の修行をしていない者は、智慧はまだ明らかでなく、知識に依って智慧に依らず、仏の教説を聞き終わって憂いと悔いを生じ、彼はすぐにでも悪道に堕ちようとする。これを思うがゆえに説かないのである』とある。かの華厳経を考えてみると、もともと声聞をはじめとする二乗は会座に連なっていない。ただ久遠実成以来の修行をしていない者をさして小法を楽う人としているだけなのである。師の南岳大師は『小法を楽う、というのは小乗の人をさしているのではない。つまり、これは始成正覚の説法を楽う者をさして正法を楽うとしているだけなのである』と説いている」とある。
 法華文句巻九下にはに「徳薄とは縁因仏性と了因仏性という二つの善根も功徳の働きが弱りおとろえているから、後の文に諸子幼稚といっているのである。垢重とは見惑と思惑をいまだ除いていないということである」とある。法華文句記巻九には『徳が薄く心の濁りが深い』とあるのは、その人に未だ実教の縁因仏性と了因仏性の二因がないゆえである。『後の文に諸子幼稚といっている』というのは、後に説かれる良医病子の譬の文をさしているのである。なお、いまだ円教を聞くことに耐えられないのであるから、ましてや久遠実成の教説をきくことに耐えられようか。『見惑と思惑を未だ除いていない』とは、良医病子の譬のなかの幼稚という言葉を一時、解釈したのであり、確かに末だ久遠実成を知らないということである」とある。法華玄義巻一上には「厚く善根を植えたことによって、この頓教の説法を感受するのである」とある。法華玄義釈籤巻一には「一往は、総じて別教・円教を感受するのをもって、善根が厚いとするのである」とある。
 五百問論には「法華経の中では本門をもって主とする」とあり、また五百問論には「釈尊が説いた一切の経教の中で未だかって久遠実成を説き顕していない。父母の年齢を知らないでいることがあってはならない。始めてこの法華経の中においてまさに久遠の本地を説き顕すのである。(乃至)ただし、才能は一国の人々に匹敵しても父母の年齢を知らなければ、失うことは小さいと思っていても、恥をかかせることは非常に大きいものであることを恐れるのである。もし父の年齢が高いことを知らなければ、また父が統治している国に迷うことになる。いたずらに才能があると思っていても全く人の子の資格はない」とある。
 法華文句の巻九下には「菩薩に三種類がある。下方の菩薩と他方の菩薩と旧住の菩薩である」とある。法華玄義巻七上には「もし垂迹の仏の因行に執着してそれを本因とするならば、これは、垂迹を知らないのであり、また本地をも識らないのである。天の月を識らずに、ただ月に映った月の影を観て本当の月と思うようなものである。○、垂迹を払って本智を顕せば、すなわち仏の本地の因妙を知るのである。それは。池に映った月の影に対する執着を撥って天の月を指し示すようなものである。どうして盆を見て、天空を仰ごうとしないのか。ああ、耳が不自由で声が聞こえず愚かな者に、どのようにすれば筋道を立てて道理を説明することができるだろうか」とある。また、法華玄義巻七上には「もし垂迹の仏果を執着して本地の仏果とする者は、これ垂迹を知らず、また本地を識らないのである。本地より迹を垂れるのは月が水に映るようなものであり、垂迹を払って本地を顕すのは、水に映った月の影に対する執着を撥って天の月を指し示すようなものである。まさに始成正覚の仏果を取り出せばみなこれ垂迹の仏果であり、久遠実成の仏果を指すのはこれ本地の仏果である」とある。また、法華玄義巻七上には「さまざまな国土はことごとく迹仏の国土である。一つには今仏が栖んでいる所であるゆえであり、二には始成正覚の釈尊の今土以前、久遠実成の釈尊の本土以後の中間に修し立国土であるゆえであり、三には本国土が顕れると中間として払われるところの国土であるゆえである。本仏の国土は、今仏の栖むところではない。なぜなら、今仏の栖むところはすなわち迹仏の国土であるからである。本仏の国土は、一国土がそのまま一切土であって、始成正覚の釈尊の今土以前、久遠実成の釈尊の本土以後の中間に修し立てた国土に異なりはなく、浅深の違いがある国土なのである。○、垂迹に執着してそれを本地であるとする者は、これは垂迹を知らないばかりでなく、また本地をも識らないのである。今、垂迹を払って本地を指し示す時は釈尊の久遠の成道の時の住所の四土はすべて本国土妙である」とある。

寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
三たび請じて止まざるを
 仏に説法を説いてほしいと三度請いさらにもう一度請うこと。三請不死という。
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如来の秘密神通の力
 寿量品に「爾の時に世尊、諸の菩薩の、三たび請じて止まざることを知しめして、之に告げて言わく、汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を」とある。弥勒等が三請して已まないのを知り、釈尊がいよいよ大法を明かす段である。
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一切世間
 すべての世界、あらゆる世の中のこと。世間には三意がある。①世の中・世俗のこと、世は隔別・還流、間は内面にあるもの・間隔の義、世の中のすべての事物・事象をいう。②六道の迷界。③差別の意、五蘊世間・衆生世間・国土世間や有情世間・器世間など。
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天人
 天界および人界の衆生。
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阿修羅
 サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。
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釈迦牟尼仏
 たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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釈氏の宮
 釈の宮ともいう。迦毘羅衛国の王城、釈迦族の居城、釈尊の生地。ヒマラヤ山麓・ネパール国・タライ地方にあったとされる。
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伽耶城
 中インド・摩竭提国のこと。インド北東部ビハール州ガヤにあたる。この近くで釈尊が悟りを開いたという仏陀伽耶がある。
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道場
 サンスクリットの原語では「覚りを開いた場所」の意。また広く、法が説かれる場、修行する場を意味するようになった。
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阿耨多羅三藐三菩提
 サンスクリットのアヌッタラサンミャクサンボーディの音写。無上正遍知、無上正等正覚、無上正等覚などと訳す。最高の正しい覚りの意。仏の完全な覚りのこと。
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善男子
 仏法を信ずる男性。
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我実に成仏してより
 寿量品に「一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、『我実に成仏してより已来』、無量無辺百千万億那由他劫なり」とある。始成正覚を打ち破って、釈尊の五百塵点劫の本地を明かす文。
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無量無辺百千万億那由佗劫
 果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
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文句
 法華文句のこと。天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。10巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈法によって明らかにしている。
―――
三世
 過去世・現在世・未来世の三つ。
―――
三身
 仏としての本質的な3種の特性。①法身(仏が覚った真実・真理)②報身(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に表した姿、慈悲の側面)の三つをいう。
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修羅
 阿修羅のこと。サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。
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 久遠実成のこと。インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第16で説かれる。同品には「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478㌻)、「我は仏を得て自り来|経たる所の諸の劫数は|無量百千万|億載阿僧祇なり」(法華経489㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。
―――

 始成正覚のこと。「始めて正覚を成ず」と読み下す。今世で初めて成仏したということ。法華経本門に至るまでの諸経では、釈尊は無数の過去世における仏道修行を経て、インドに生まれて30歳(現代の研究では35歳とされるが、鎌倉時代の日本では30歳とされた)で、伽耶城(ガヤー)の郊外(のちのブッダガヤ)の菩提樹の下で初めて最高の覚り(正覚)を得たと説かれた。これに対して法華経本門の如来寿量品第16では、釈尊が実は五百塵点劫という久遠の昔に成仏していたという真実の境地を明かした。これを久遠実成という。
―――
衆生
 サンスクリットのサットヴァの訳。衆とも有情とも訳す。薩埵と音写する。広義には一切の有情(感情・意識をもつもの)をいう。狭義には、無明や煩悩をもって迷いの世界に住む人をさす。
―――
小法
 小乗の法。経力の少ない法。
―――
徳薄垢重
 法華経如来寿量品第16の文(法華経480㌻)。福徳が薄く煩悩の垢が積み重なっていること。寿量品で久遠実成という仏の本地を明かす際に釈尊は、劣った法に執着するこのような者に対し、方便の教えとして始成正覚を説いてきたと述べている。日蓮大聖人は「観心本尊抄」(249㌻)で、文底下種の正宗分を説いて救う対象となる衆生の機根は、このように劣悪であるとされている。
―――
出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
―――
久遠
 長遠な期間。長遠な過去。法華経では、迹門で三千塵点劫、本門で五百塵点劫という長遠な過去での出来事が明かされている。このうち、五百塵点劫という長遠な過去に釈尊が実は成仏したという本地が明かされた久遠実成が特に重要な法門であるので、久遠は五百塵点劫をもっぱら指すことが多い。また日蓮仏法では、釈尊の因位の時を久遠元初とし、そこからさらに凡夫が成仏する本源の時も久遠元初とすることから、久遠元初の意味でしばしば久遠を用いる。久遠元初とは、寿量品に即して表現すれば久遠五百塵点劫の当初の意で、時間的な表現で釈尊の久遠の成仏の根底を指し示しているが、本質的には、無始無終の妙法を凡夫の信の一念に開覚し、凡夫のままで無作の三身を成就する根源的な成仏の時はすべて久遠元初である。
―――
往日
 過去・以前・昔。
―――
現在
 今・現在世。
―――
修行
 仏の教えを守り、行ずること。
―――
果門
 仏の果位に関する法門、本門と同義。
―――
近成の小
 インド生誕の釈尊は、30歳で始めて成道したとする、衆生を救済する力が小さい爾前・小乗教のこと。
―――
菩提
 サンスクリットのボーディの音写で、覚りの意。特に、仏が体得した最高の智慧による覚りをいう。
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長大久遠の道
 久遠五百塵点劫の長遠な道をいう。
―――
楽小
 小法を願うこと。
―――
大を楽わば
 釈尊の真実の成道の法である久遠五百塵点劫の成道を願うこと。
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始成
 始成正覚の略。釈尊がインドに応誕し19歳で出家し、30歳ではじめて成道したことをいう。
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所見
 見られているところのもののこと。
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 仏教を理解し信じ実践する能力・資質。根機ともいう。
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華厳
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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大衆
 ①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
―――
清浄
 浄らかで、穢れが無いこと。一切の悪行をせず、煩悩の穢れから離れること。
―――
疑悔
 疑いと悔いのこと。
―――
長夜
 ①長い時間。②生死に流転する期間。
―――
衰悩
 おとろえ、悩むこと。
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 サンスクリットのガーターの音写の省略形。偈他、伽陀とも書き、頌、諷誦と訳す。経典の中で詩句の形式を用いて、仏の徳を賛嘆したり、法理を説いたもの。サンスクリットの文献では、音節の数や長短の組み合わせなど、構成によって多くの種類があるが、16音節(8音節を1句として、2句)2行からなるシュローカ(首盧迦)などの形が多い。漢訳では1句の字数を4字または5字とし、4句を一偈としているものが多いが、中には2句や6句などを一偈としているものもある。これは、長行(散文)で説いたものを重ねて韻文で衆生の心に焼き付けるように説いたり、法華経提婆達多品第12で竜女が海中から出現して仏前で仏を賛嘆するなど、感情を強く表現する場合に用いられる。これを別偈という。後に転じて韻文と散文とを問わず、8字1句を4句続けた32字をもって一偈といい、これを通偈という。また偈の説かれ方によって、重頌偈と孤起偈の二つに区別される。重頌偈とは、長行(散文)で説いたものを重ねて偈頌をもって説くものをいい、サンスクリットではゲーヤといい、祇夜と音写する。これに対し孤起偈は、前に長行の教説がなく、単独に説き起こされた偈をさし、サンスクリットではガーターといい、伽陀と音写する。「一品一偈」という場合の偈は、一品中の重頌偈または孤起偈を、長短にかかわらず一偈という。「一句一偈」という場合の偈とは、一四句偈のことをさし、涅槃経の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」の文などはその例である。▷サンスクリットのガーターの音写の省略形。偈他、伽陀とも書き、頌、諷誦と訳す。経典の中で詩句の形式を用いて、仏の徳を賛嘆したり、法理を説いたもの。サンスクリットの文献では、音節の数や長短の組み合わせなど、構成によって多くの種類があるが、16音節(8音節を1句として、2句)2行からなるシュローカ(首盧迦)などの形が多い。漢訳では1句の字数を4字または5字とし、4句を一偈としているものが多いが、中には2句や6句などを一偈としているものもある。これは、長行(散文)で説いたものを重ねて韻文で衆生の心に焼き付けるように説いたり、法華経提婆達多品第12で竜女が海中から出現して仏前で仏を賛嘆するなど、感情を強く表現する場合に用いられる。これを別偈という。後に転じて韻文と散文とを問わず、8字1句を4句続けた32字をもって一偈といい、これを通偈という。また偈の説かれ方によって、重頌偈と孤起偈の二つに区別される。重頌偈とは、長行(散文)で説いたものを重ねて偈頌をもって説くものをいい、サンスクリットではゲーヤといい、祇夜と音写する。これに対し孤起偈は、前に長行の教説がなく、単独に説き起こされた偈をさし、サンスクリットではガーターといい、伽陀と音写する。「一品一偈」という場合の偈は、一品中の重頌偈または孤起偈を、長短にかかわらず一偈という。「一句一偈」という場合の偈とは、一四句偈のことをさし、涅槃経の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」の文などはその例である。
―――
智慧
 ①事・事象の是非。②智と慧、悟りを導く基となるものが慧で、外に向かって働くもの、発現するものが智。③聡い、賢いこと。
―――
識に依つて智に依らず
 識は知識。智は智慧。凡夫の知識によって、真の智慧に依らないとの意。法の四依のひとつ「依智不依識」のこと。
―――
憂悔
 憂いと悔い。
―――
悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
―――
声聞
 サンスクリットのシュラーヴァカの訳。「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子のこと。出家教団に属して修行をする。後代には大乗との対比で、小乗の教えを実践し阿羅漢を目指す出家修行者を意味するようになった。縁覚と合わせて二乗という。
―――
二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。
「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
―――
徳薄
 徳が薄いこと。
―――
縁了の二善
 三因仏法の縁因仏性と了因仏性のこと。
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功用微劣
 功徳の力用が弱りおとろえること。功用は身・口・意の三業の働き、功徳を生じる働きをいう。微劣は弱りおとろえること。
―――
諸子幼稚
 良医の諸子が毒薬を飲んで悶乱し、本心を失った者は、苦悩を除くために父が与えた色香美味を具足した大良薬を飲まなかった譬と思われる。
―――
 天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。
―――

 妙楽大師湛然による『法華文句』の注釈書。10巻(または30巻)。
―――
実教
 仏が自らの覚りをそのまま説いた真実の教え、経典のこと。権教(権経)に対する語。天台宗の教判では、法華経のみを実経と位置づける。
―――
医子の譬
 法華経如来寿量品第16に説かれる良医病子の譬のこと。ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している。
―――

 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
―――

 天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
―――
善根
 「ぜんごん」とも読む。善の果報を招き生ずる善因のこと。草木の根が、幹や枝を成長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので善根という。
―――
頓説
 頓教の説法のこと。衆生を教化するに際して、誘引の手段を用いず、直ちに内証の悟りを説く方式。
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 法華玄義釈纎のこと。楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻(または20巻)。
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一往
 ひととおり、そのままの見方。
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 化法の四教のうちの別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。
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 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
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五百間論
 妙楽大師の著作3巻。法相宗の慈恩は法華玄賛で法華経を賛嘆しているが、法相宗の立場から説いているため、かえって法華の心を殺していると破折し、真の法華経の妙旨を顕示している。
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本門
 ①久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
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一代教
 一代聖教のこと。釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
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寿
 寿命・年齢。
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遠本
 久遠の本地のこと。本地は仏・菩薩の本体・本来の境地。釈尊は始成正覚を払って、久遠五百塵点劫の成道の本地を顕している。
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 生まれながらに持っている才能。
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下方
 生命の内奥にある究竟の真理。妙法蓮華経。地涌の菩薩はこの真理を常の住処としている。
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他方
 他方の菩薩のこと。①他方の国土に住む菩薩。②釈尊以前の他仏に教化された菩薩。
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旧住
 古くから住んでいること。旧住の菩薩とは、弥勒や文殊など、迹仏に教化され、娑婆世界に以前から住んでいる菩薩。
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迹因
 迹仏の因となる始成正覚の仏となった修行のこと。
―――
本因
 久遠における釈尊の成仏の因となる修行。仏道を成就する根本の因行。
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 ①本地に対する垂迹。②本仏に対する迹仏。③本門に対する迹門。
―――

 本来の境地。垂迹に対する語。仏・菩薩が、この本来の境地から、人々を救済するために仮に現した姿を垂迹という。
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払迹顕本
 発迹顕本のこと。「迹を発いて本を顕す」と読み下す。迹(衆生を教え導くために現した仮の姿)を開いて、本地(本来の境地)を顕すこと。①法華経如来寿量品第16において、釈尊が始成正覚という迹を開いて久遠実成という本地を顕したことを、天台大師智顗が説明した言葉。②さらに、日蓮大聖人の発迹顕本とは、竜の口の法難を機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹を開き、生命にそなわる本源的な慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初の自受用報身如来)という本地を凡夫の身のままで、顕されたことをいう。
―――
本地
 本来の境地。垂迹に対する語。仏・菩薩が、この本来の境地から、人々を救済するために仮に現した姿を垂迹という。
―――
因妙
 仏の因となる修行が妙であること。
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 菓子や茶器などを乗せる器。
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 夜の空・天の川・銀河・天空の月。
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聾駭
 目や耳に障害のある人。
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迹果
 法華経迹門で説かれる仏果。
―――
本果
 本地の仏果のこと。法華経如来寿量品第16で示された釈尊の久遠実成の境地。
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諸土
 もろもろの国土。
―――
迹土
 迹仏の居住する国土。
―――
今仏
 前仏・当仏に対する語。インド応誕の釈尊のこと。法華文句巻八には「先仏已に居し、今仏並坐す。当仏も亦た然らん」とある。
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前後修立
 始成正覚の釈尊の今土以前・久遠実成の釈尊の本土以後の中間の世世番番に修して立てた国土。
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中間所払
 中間として払われるところ。迹仏として中間の世世番番に成道したとされる国土は払われるゆえに迹土である。
―――
本土
 仏の居住する本来の国土。多宝仏の本土は東方宝浄世界である。
―――
本時
 寿量品に本因・本果・本国土が説かれ、久遠常住が説かれた時をいうが、文底より拝せば三大意法の大御本尊建立の時。
―――
四土
 4種類の国土のこと。仏教の経典で描かれる種々の国土は、そこに住む衆生の果報であり、依報とされる。仏・菩薩・声聞などの国土は、内面に覚知し証得している境地と対応している。仏の国土は、仏が菩薩の時に立てた衆生救済の大願と積み重ねた修行に相応して建立されるものとされている。諸経では衆生の国土に実体的な環境の違いがあると説くのに対して、法華経見宝塔品第11では、三変土田によって、娑婆世界を中心に多くの国土が浄化されて統一されることが説かれる。本門の如来寿量品第16では、本来、常寂光土の一土であるが、それが衆生の一念に応じて種々の違いとなって実感されるということを明かしている。❶天台宗で立てる四土。①凡聖同居土(人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土)②方便有余土(見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土)③実報無障礙土(別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土)④常寂光土(法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土)をいう。【詳説】①凡聖同居土。略して同居土ともいう。迷いの凡夫と仏法の覚りを得た聖人とが、ともに住む国土をいう。この国土の仏身は劣応身とされる。▷同居穢土②方便有余土。略して、方便土、有余土ともいう。見思惑を断じた声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土のこと。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土をいう。阿羅漢・辟支仏のように方便道を修行して一切の煩悩を仮に断じたゆえに「方便」といい、いまだ元品の無明を断ずることができないゆえに「有余」という。また七方便九種の行人の生まれ住むところなので、方便土であるという説もある(七方便とは、蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の菩薩のこと。九種の行人とは七方便の中の別教の菩薩を三に開いたもので、蔵教の声聞・縁覚、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の六住の思惑・見惑を断じた菩薩、十行の菩薩、十回向の菩薩、円教の十信の菩薩のこと)。方便土は菩薩が成仏するまで見思の惑(三界六道に出た声聞・縁覚・菩薩等の生死)を断じて、さらに智慧を開いて次の実報土に生まれることから、変易土ともいう。③実報無障礙土。実報土のこと。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が顕れること。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。④常寂光土。本仏・円仏が住む国土。迹土に対して本土ともいう。『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点縦横、並別ならざるを、秘密蔵と名づく。諸仏如来の遊居する所の処は、真常究竟にして、極めて浄土と為す」とある。常寂光を三徳に対応させ、常とは法身、寂とは解脱、光とは般若にあたるとし、それが時系列的・並列的ではなく円融しているので、不縦不横とされる。❷唯識学派(法相宗)で立てる四土。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』巻7などに説かれる、仏が住む国土を4種類に類別したもの。①法性土(自性身の住む国土)②自受用土(自受用身の住む国土)③他受用土(他受用身の住む国土)④変化土(変化身の住む国土)のこと。❸摂論宗の法常らが立てる四土。仏が住む国土を4種に分けて化浄土・事浄土・実報浄土・法性浄土としたもの。
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本国土妙
 本国土妙とは本仏が住する真実の国土を明かすこと。法華経如来寿量品第16には「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」とある。
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 次に、法華経の本門こそ、釈尊の真の大乗の教えであることを明かした経釈の文証が挙げられている。
寿量品の文を引く
 初めに引かれた法華経如来寿量品の文は、寿量品を説き始めた釈尊が、「汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし」と三度告げた後に、一切衆生が皆、今の釈尊は釈迦族の居城を出て出家し、伽耶城に近い菩提樹の下に坐して、仏の悟りを得たと思っているが、私は実は成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫を経ているのである。と初めて始成正覚を打ち破って、久遠の成道を明かしたもので「然善男子」以下は「破近顕遠」の文と釈されている。引き続き、この後に五百塵点劫が説かれている。
 ここに、釈尊が成道以来説いてきた始成正覚の垂迹が初めて開かれて、久遠以来の仏であるとの本地が顕されたのである。なお、寿量品全体が「広開近顕遠断義生信」を説いたものと釈されている。
 天台大師の法華文句の文は、上の寿量品の文を釈したもので、「仏、三世に於いて等しく三身有り。諸教の中に於いて之を秘して伝えず。故に一切世間の天人修羅は、今の仏は始めて道樹に於いて此の三身を得たまえりと謂えり。故に近に執して以って遠を疑う」と述べているのであある。仏の三種の身である法・報・応の三身を釈尊が菩提樹下で始めて得たと思い込んでいる衆生は、この始成正覚に執着して久遠実成を疑い、容易に信じようとしない、と釈したものである。
 法華経寿量品における久遠実成の説法は、40余年の間の爾前の諸経と法華経の迹門は始成正覚と説かれ、そう信じてきた衆生にとって、信じ難かったのは当然であったといえる。
 開目抄には、久遠実成が説かれた意義について「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、 四教の果をやぶれば 四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(0197-15)と述べられている。
 本門寿量品において、久遠実成という本果が明かされることによって、一念三千の法理が明らかになり、真実の一切衆生が成仏する道が開かれたのであるが、それまで説かれた爾前迹門の因果が悉く打ち破られたのであるから、まるで驚天動地の説法だったのである。
 更に、寿量品の「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し」の文が引かれている。その後に、「但方便を以って、衆生を教化して仏道に入らしめんとして、是の如き説を作す」と続いている。
 釈尊は、ほんとうは久遠の昔に道場した仏であるにもかかわらず、爾前迹門の諸経でずっと、インドに応誕して出家し、始めて悟りを得たと説いてきたのはなぜか、という理由を示している。すなわち、それは、諸の衆生が小法を願い求めていたので、衆生を仏道へ入らしめるための方便として、そのように説いたのである。と明かしている。「楽於小法」とは、小乗や権大乗の教えを求めて、仏の境涯を求めようとはしないことである。
天台の釈を示す
 それを天台大師が釈したのが、次に引かれている法華文句巻九の文である。「一に往日に約す。大心を発すといえども専精なること能わず。多く幣欲に著し、世を出づるを得ず。幣欲を名づけて小法と為すなり。二に現在に約す。仏末だ世に出でざるが如し。諸の天人等、大機有りといえども、而も心、世楽に染し、邪見に著す。故に楽小法と名づく、此の二義、下の譬えの苑転于地の意と同じなり。三には修行に約す。三界の幣欲の小法を楽わずといえども、而も三乗の灰断を楽う、亦、小法と名づく、三乗の近果を楽わずといえども、而も歴別に一乗を修することを楽い、一心円頓に普く修すること能わず。故に楽小と名づく、此の三意は因門に約して楽小法を明かすなり」の文が略されている。
 一と二とは、過去世においても今世においても世間の邪見に執着することで、これが小法を楽うことであり、そのために苑転于地三悪道・四悪趣におちて苦しむのであるから、同じ意味であるとしている。三では三乗の悟りを求めたり、歴劫修行の法でよしとして、一念三千の悟りを求めないことを小法を楽うとしているのである。四には、始成正覚の小法を願って久遠実成の大法を願わないことを楽小法としている。結局、衆生が久遠を求めれば、仏は始成正覚の小法を説くことがなかったのであり、始成正覚を説くには小法を求める者のためのみなのである。と釈している。この文から、天台大師が始成正覚の諸法をすべて小法としていることは明らかである。
 更に、同じ法華文句巻九の文が引かれている。「諸の衆生の小法を楽える」とは所見の機すなわち仏が見た衆生の機根をいっているのであるとして、華厳経の「是の諸の大衆、皆清浄にして癡疑悔を離れ、是の法の中に於いて他経に随わずといえども、其の余の小法を楽う者は、是の甚深にして思議し難き事を聞きて、或いは疑悔を生ず。是の人、長夜に諸の衰悩を受く。我、此等を愍む。是の故に黙然す」との文が略して引かれている。
 諸の衆生が小法を楽うというのは、衆生の機根が仏の眼から見て、自分が真実に説こうとしている甚深の法は直ちには信じられず疑って、却って苦悩に沈む因を作るであろうことが明らかであったので、真実の大法を説かなかったのである、という意味である。
 偈に云くとある華厳経の文で、「其の余の久しく行ぜざるは、智慧末だ明了ならず、識に随って智に随わず、聞き已って疑悔を生ず。彼まさに悪道に堕ちんとする。愍念するが故に説かず」とあり、前の文と同じ趣旨である。法華文句はこの偈を、華厳経を考えると、利根の菩薩のために説かれているので対告衆に、声聞・縁覚の二乗はいないが、ただ久しく行じない者をさして小法を楽う人としているのである、と釈している。久しく行じない者とは、始成正覚の仏に従って修行した者、との意であろう。
 また、師の云くとして、天台大師の師・南岳大師慧思の「小法の楽う者とは、小乗の人というのではなく、近説、すなわち始成正覚の説法を願う者を小とするのである」との文を引いている。南岳大師は、明確に小法とは始成正覚の立場で説かれた法としているのであり、天台大師の見解も同じであることを示している。
 更に、法華文句巻九では、寿量品の「小法を楽える徳薄垢重の者」の句を釈して徳薄とは縁因仏性・了因仏性の功徳の弱り衰えているので、下の文に諸子幼稚というのであり、垢重とは見惑・思惑を末だ除いていないことである、と釈している。妙楽大師は文句記巻九で、今の文句の文を釈して、徳薄垢重とはその人が末だ実教の二因がないゆえであり、「下の文にも諸子幼稚と云う」とあるのは医子の譬の文をさしており、なお末だ円教を聞いて信ずることができず、まして久遠実成を聞くことができようか。「見思、末だ除かざるなり」とは譬の中の「幼稚」の文を釈したもので、末だ久遠実成を知らないことは言うまでもない、としているのである。
 また法華玄義巻一の「厚く善根を殖えてこの頓説を感ず」の文が引かれている。頓説とは華厳経のことで、過去に厚く善根を植えていたからこそ、釈尊が初めて頓教である華厳経を説いたのを聞いて心を動かし、信受することができたのである、と釈している。
 この「厚く」について、法華玄義釈籤では「一往は総じて別円を以て厚と為す」としている。別円とは、二乗とは別に菩薩のために説かれた別教と、円融円満で完全無欠な円教のことをいう。すなわち、過去に別円の修行をして善根を積んでいたからこそ、今生で、頓教である華厳経を聞いて信受できたのである、と明かしているのである。
妙楽の五百問論の文を引く
 また、妙楽大師の五百問論にある「一経の中に本門を以て主と為す」の文が引かれ、法華経一経の中でも、本門の14品が主であることが明確にされている。
 更に、五百問論の「一代教の中に末だ曾て遠を顕さず、父母の寿、知らざるべからず。始めて此の中に於いて方に遠本を顕す。もし権を以って実に望むれば、実正にして権傍なり、もし迹を以って本に望むれば、迹権にして本実成り、如何にして一経の正軌を以って返りて流通と為すや。前八品の内に已に正宗あり。安楽行に至るを流通分と為す。豈、必ず遠寿を説くを方に迹門の正説を流通と為さしむるや。但恐る、才、一国に当るも父母の季を識らざれば、失うところ小といえども、辱しむるところ至って大なり。もし父母の遠きを知らざれば、復父統の邦に迷う。徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」とある文が略して引かれている。
 五百問論は、法相宗の慈恩が法華玄賛十巻を著して、法華経を賛嘆したのに対し、法相宗の立場を中心にして法華経を解釈しているために。開三顕一・二乗作仏の義を方便の説とするなど、かえって法華経の心を殺していると破折して、法華経の妙旨を示そうとした妙楽大師の著作であり、法華経の正義を知らずに貶めている慈恩の誤りを破しているのである。
 一代の聖教の中で、曾て説かれなかった父母の寿、すなわち釈尊の久遠の寿命と本地が本門寿量品で初めて明かされ、それ以前の諸経や法華経迹門は傍となり権となって、本門こそが真実であり正説となったと述べられている。また、迹門は方便品第二から授学無学人記品第九までが正宗分であり、法師品第十から安楽行品第十四までが流通分であり、久遠実成を説いた寿量品は流通分ではなく、本門の正宗分であり、釈尊一代の教えの肝心であることが示されている。
 そして、どれほど才能があろうとも、自分の父母の年を知らないことが恥であるように、本師釈尊の遠寿を知らないことは仏弟子として恥であること、また父母の寿の遠いことを知らなければ父が統治する国に迷うように、仏の遠寿を知らなければ久遠常住の本仏が常に説法教化している娑婆世界に迷うことになると指摘し、それでは才能はあったとしても不知恩であり、人の子ではなく畜生であると厳しく呵責しているのである。
再び天台の釈を引く
 五百問論の次に、再び天台大師の釈が引かれている。法華文句の「菩薩に三種有り下方と他方と旧住となりとは、法華経の会座に列なった菩薩に、下方より出現した地涌の菩薩と、他方の国土に住む薬王・観音・妙音等の菩薩と、娑婆世界に古くから住む弥勒・文殊の迹化の菩薩の三種があるとの意である。
 なお、その下に、下方の菩薩で近成に執着するものは無いが、他方と旧住の菩薩には今成に執着しない者と執着する者の二種がある、との釈が続いている。すなわち、地涌の菩薩のみが、釈尊の久遠以来の弟子であるということなのである。
 法華玄義の文は、迹因である始成正覚に執着し、それを本因とすることは、迹も本も知らないゆえであり、これは天の月を知らずにただ池に映っている月を見て真の月だと思っているようなものである、と釈している。更に、迹を払って本地を顕すことは、本地の本因妙を知ることで、影を払って天の月を指すのと同じで、それなのになぜ水盆に映る月を見て天月を仰ごうとしないのか、愚かであり道を論ずるにたらない、と釈しているのである。
 同じ玄義の次の文は、迹果、すなわち始成正覚の仏果に執着して、それを本果とする者は、迹も本も知らないのであり、本より迹を垂れるのは月の光が地上の水に現れるようなもので、迹を払って本を顕すことは、影を払って天の月をさすようなものである。始成の果は皆これ迹果であると払って、久成の果はこれ本果であるとすべきなのである、と釈しているのである。
 いずれも、始成正覚の仏果を払って、久遠実成をもって本果とすべきことを明らかにしているのである。
 玄義の最後の文は、諸の国土は悉く迹土であることができるとして、その理由は一に今仏が住むゆえであり、二には前後修立といって久遠実成から今日までの中間に世世番番においてさまざまに修し立てた、浅深の差別のある国土だからである。三には中間所払といって、そうした中間に世世番番に成道した国土は、迹仏として払われ否定されているからである、と釈されている。
 それに対して本土は、始成の釈尊が住む所ではなく、今仏の住む国土は迹土となるのである、と釈している。法華経の本門寿量品で初めて本国土妙が明かされ、あらゆる国土は唯一の本仏が住む一土即一切土であり、一切土即一土であると示され、娑婆世界は穢土を変じて本仏の常住する浄土となったのである。
 ゆえに、本土は一土一切土であり、前後修立も浅深不同もなく、今土以前と、今土以後を皆中間と名づけ、中間を悉く方便と呼ぶので、今仏の住む土が迹土でないことがあろうか。本より迹を垂れるのに、迹に執着して本とすることは、迹を知らず、本を知らないからである。今、迹を払って本をさしているのであり、久遠の本仏が住む四土は本国土妙である、と釈しているのである。
 始成正覚の迹仏の住む国土は迹土であり、久遠の本仏が住むのが本国土であり、本門寿量品で本国土妙が明かされたことによって、凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四種の国土が、相即円融して一土即一切土となり妙とされたのである。
 ここに引かれた法華経寿量品の文と天台・妙楽の釈によって、寿量品で久遠実成が説かれる以前の諸経と法華経迹門は、始成正覚の立場の迹仏の説いた迹教であり、迹仏の住む国土も迹土にすぎないことが明かされているのである。すなわち、久遠実成の本仏に比較すれば、それ以外はすべて迹仏であり小仏となり、その説く教えはすべて小乗にすぎないことになるのである。

0598:06~0598:17 第四章 迹仏と迹仏果を図示するtop
06     ┌蔵因──三祇百劫菩薩──未断見思
07   迹仏┼通因──動喩塵劫菩薩──見思断
08     ├別因──無量劫 菩薩──十一品断無明
09     └円因──四十一品断無明
10      劣応       草座
11      勝応 ┌蔵──三十四心断結成道
12   迹仏果──果┤     天衣
13         ├通──三十四心見思塵沙断の仏
14      報身 │     蓮華座
15         ├別──十一品断無明の仏
16      法身 │     虚空座
17         └円──四十二品断無明の仏                              ・
-----―
     ┌蔵教で説く因行──三祇百劫の間修行する菩薩──未だ見思惑を断じていない。
   迹仏┼通教で説く因行──動喩塵劫の間修行する菩薩──見思惑を断ずる。
     ├別教で説く因行──無量劫の間 修行する菩薩──十一品の無明惑を断ずる。
     └円教で説く因行─――――――――─――――――四十一品断無惑を断ずる。
      劣応        草座に坐す
      勝応 ┌蔵教──三十四心で見思惑を断じて成道する。
   迹仏果──果┤      天衣をもって座となす
         ├通教──三十四心で見思・塵沙惑を断じた仏。
      報身 │      蓮華座に坐す
         ├別教──十一品の無明惑を断じた仏。
      法身 │      虚空座に坐す
         └円教──四十二品の無明惑を断じた仏。

蔵因
 三蔵教の菩薩が仏果をえるための原因となる修行。
―――
三祇百劫菩薩
 菩薩が成仏するまでに経過する長い時間。三阿僧祇劫にわたって、六度の行を修め、さらに百劫の間、相好を感得するための福業を修めて成仏するという。阿僧祇は無数と漢訳する。
―――
未断見思
 いまだ見思惑を断じていないこと。
―――
通因
 通教の菩薩が仏果を得るための原因となる修行。
―――
動喩塵劫菩薩
 通教の菩薩のこと。
―――
見思断
 通教の菩薩は見思惑を断ずるとされるが、菩薩の52位でいえば10信の位にすぎない。
―――
別因
 別教の菩薩が仏果を得るための原因となる修行。
―――
無量劫菩薩
 無量劫もの間、修行しなければならない菩薩。
―――
十一品断無明
 別教で立てる52位のなか、初地以上の12階位にそなわっている12品の無明のうち、最後の元品の無明を除く11品の無明を断じようとすること。
―――
円因
 通教の菩薩が仏果を得るための原因となる修行。
―――
四十一品断無明
 41品の無明を断じ尽くすこと。
―――
迹仏果
 迹仏の得た仏果。
―――

 ❶木の実、くだもののこと。❷転じて、原因によって起こったもの。物事の結果をいう。因に対する語。仏法では、特に種々の行い(業)という因によって、心に生じる果をいう。❸証果のこと。修行の結果として得られる覚りとその境地。❹中国・唐の密教僧である恵果の略。
―――
劣王
 劣応身のこと。蔵教の教主である丈六の小釈迦。
―――
勝王
 華厳経の教主である盧遮那報身または他受用報身のこと。
―――
報身
 最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性。
―――
法身
 仏が覚った真実・真理。
―――

 三蔵教のこと。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。
―――
草座
 インド応誕の釈尊が成道の時、吉祥草を金剛座に敷いたとされ、これを指して草座という。
―――
三十四心段結成道
 蔵教の菩薩が34心をもって見思二惑を断じ成道すること。
―――

 通教のこと。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。
―――
天衣
 天人の衣。極めて軽い衣で上位の天にのぼるほど軽くなるという。ただしこれは勝応身としての迹仏が居する座であり、通教の菩薩が成道して勝応身を現じて仏となる座を意味している。
―――

 別教のこと。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。
―――
蓮華座
 蓮台ともいう。仏・菩薩の坐る蓮華の台座のこと。蓮華座・蓮華台ともいう。
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十一品断無明の仏
 52位のうち初地以上の12階位のひとつひとつにそなわっている12品の無明のうち、最後の元品の無明を除く11品の無明を断じ尽くした仏。
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 円教のこと。円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。
―――
虚空座
 虚空の座。法身としての迹仏が居す座。円教の菩薩が成道して法身仏と成る座をも意味している。
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四十二品断無明の仏
 42品の無明惑を断じた仏。
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 迹仏と迹仏果が図示されている。
 迹仏として、蔵因・通因・別因・円因と、迹仏になる業因が挙げられている。
 蔵因とは、三蔵教の教主である釈尊が仏果を得るに至った因として説かれているもので、三僧祇・百大劫という長期にわたる六度万行の菩薩行を行じて今世に悉多太子として生まれ、出家修行して仏に成ったとされている。しかし、三祇百劫にわたる菩薩行といっても、円教から見れば末だ、見惑・思惑さえも断じていない低下の凡夫の位にすぎない、とされているのである。
 通因とは、声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた大乗初門の教えである通教において、釈尊が仏果を得るため過去世に行じた菩薩行のことで、動踰塵劫にわたる種々の修行を経てきたと説かれている。これは、一往、見惑・思惑を断じた位であるが、円教では最下の十信位にすぎない、とされているのである。
 別因とは、二乗とは別に菩薩のためにのみ説いた教えである別教において釈尊が仏果を得るために行じた菩薩のことで、その期間が無量劫にわたったと説かれている。別教の菩薩は52位を次第に修行して悟りに至るとされているが「十一品断無明」として、52位のうちで初地以上の12位にそなわっている十二品の無明のうち、十一品の無明を断じ尽くしているが、最後の元品の無明は断じていないのである。
 円因とは、円教における因位の菩薩行をいう。それを「四十一品断無明」としているのは、成仏のためには、見思・塵沙はいうまでもなく、菩薩の位である52位のうち十信を除いて51位の等覚に至るまでのそれぞれの位にあらわれる無明を断じ尽くしていくのであるが、因位の段階では最後の元品の無明は断じていない、とされているのである。
 観心本尊抄には「迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり、過去の因行を尋ね求れば或は能施太子或は儒童菩薩或は尸毘王或は薩タ王子或は三祇・百劫或は動喩塵劫或は無量阿僧祇劫或は初発心時或は三千塵点等の間七万・五千・六千・七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う」(0242-16)と述べられている。爾前経と法華経迹門における教主釈尊は、始成正覚の仏であり、その過去の因行が、ここに挙げられている蔵因・通因・別因・円因等の歴劫修行とされているのである。
 なお、御書の本文にはないが、「円因」と「四十一品無明」の間に、「三千塵点劫菩薩」と記されている。
 「三千塵点劫」とは円教のうち法華経迹門に説かれる長遠の昔のことである。法華経化城喩品第七では、大通智勝仏の滅度以来、甚だ久遠なることを説き、釈尊と衆生の結縁を明かしている。同品に「我過去の、無量無辺劫を念うに、仏両足尊有しき、大通智勝と名づく、如人力を以って、三千大千の度を磨って(中略)彼の仏の滅度より来、是の如く無量劫なり」とある。「三千大千の土を磨って」の三千を取って三千塵点劫という。
 そこの三千塵点劫はその微塵の数以上の無量無辺の長遠な時をいい、その滅後に16人の王子が法華経を説法した。その第16王子が娑婆世界の釈迦牟尼仏であり、その時に化導した衆生がここでいう三千塵点劫菩薩である。ただし、寿量品の五百塵点劫久遠が下種であると明かされて後には、三千塵点劫は、中間の調熟と位置づけられる。
 次に迹仏が得た仏果、悟りが挙げられている。
 まず、蔵教における仏果は「三十四心断結道場」とあるように、蔵教の教主としての釈尊は、三十四心をもって見惑・思惑を断じて成道した仏とだれている。「草座」とは、インドで釈尊が成道した時に吉祥草を金剛座に敷いて瞑想し、魔を降して成道したことをさしておられるのである。「劣応」とは劣応身のことで、凡夫や二乗や初地以下の菩薩のために一丈六尺の身で示現すると説かれた、品聖同居土に住する蔵教の教主をいう。
 次に、通教における仏果については「三十四心見思塵沙断の仏」とあるように、三十四心をもって見思惑・塵沙惑を断じていなかった仏ということである。「勝応」とは勝応身のことで、初地以上の菩薩に対して応現する仏身とされている。
 更に、別教における仏果については「十一品断無明の仏」とされているように、十一品の無明を断じて仏になったとされていることをいう。「蓮華座」とは、仏・菩薩が坐る蓮華の台座をいう。「報身」とは、ここでは盧遮那報身または他受用報身を意味し、華厳経や梵網経の教主で、初地以上の菩薩に対してあらわれる仏をいう。
 最後に、円教における仏果については、42品の無明を断じ尽くした立場であることをしめされている。「虚空座」とは、円教の仏が一切の執着・煩悩にとらわれない仏の座をいったものと考えられる。法華経法師品第十には「如来の座とは一切法空是れなり」とある。「法身」とは、応身・報身に対して円教の仏の真理を体現した仏としての法身とされたと拝される。したがって、この「法身」は応・報に対比しての「単法身」ではなく、あくまでも円教の応・報も含めた三身即一の法身の意と拝される。
 なお、開目抄には「倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり」(0215-01)と述べられている。
 本抄は、以上のように、釈尊一代経の中で法華経本門こそ大乗であるとの立場から、それ以前の迹門および爾前の教えと仏を「小乗・小仏」とする立て分けを示されたものであるが、末法の御本仏としての大聖人の深意においては、久遠元初の自受用身、末法の御本仏である日蓮大聖人こそ本仏であり、それに対すれば久遠実成の釈尊も迹仏となるのである。
 本因妙抄には、天台大師と大聖人の立場を比較して、「彼の本門は我が迹門・彼の勝は此の劣・彼の深義は予が浅義・彼の深理は此の浅理・彼が極位は此の浅位・彼の極果は此の初心・彼の観心は此の教相・彼は台星の国に出生す・此れは日天の国に出世す・彼は薬王・此れは上行・彼は解了の機を利す此れは愚悪の機を益す・彼の弘通は台星所居の高嶺なり・此の弘経は日王・能住の高峰なり・彼は上機に教え・此れは下機を訓ず・彼は一部を以て本尊と為し・此れは七字を本尊と為す・彼は相対開会を表と為し・此れは絶対開会を表と為す・彼は熟脱・此れは下種・彼は衆機の為に円頓者初縁実相と示し・此れは万機の為に南無妙法蓮華経と勧む・彼は悪口怨嫉・此れは遠島流罪・彼は一部を読誦すと雖も二字を読まざること之在り・此れは文文句句・悉く之を読む・彼は正直の妙法の名を替えて一心三観と名く・有の侭の大法に非ざれば帯権の法に似たり・此れは信謗彼此・決定成菩提・南無妙法蓮華経と唱えかく、彼は諸宗の謬義を粗書き顕すと雖も・未だ言説せず・此れは身命を惜まず他師の邪義を糺し三類の強敵を招く・彼は安楽普賢の説相に依り・此れは勧持不軽の行相を用ゆ・彼は一部に勝劣を立て・此れは一部を迹と伝う・彼は応仏のいきをひかう・此れは寿量品の文底を用ゆ・彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観・此れは久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う」(0875-08)と述べられている。

0599~0601    日月の事top
0599
日月の事
01                        ┌麻利支天女                       ・
02      ┌誓 耶 后         乗輅車┼九曜
03   大日天┴毘誓耶 后            └七曜
04      ┌二十八宿
05   大月天┼乗鵞
06       └十二宮
-----―
       ┌誓耶后が侍衛する。
    大日天┴毘誓耶后が侍衛する。
       ┌麻利支天女がしたがう。
    乗輅車┼九曜がつらなる。
       └七曜がつらなる。
       ┌二十八宿を置く。
    大月天┼鵞に乗る。
        └十二宮を置く。
-----―
07   金光明経に云く 「日の天子及以び月天是の経典を聞き精気充実す」最勝王経に云く「日出でて光を放ち無垢炎
08 清浄なり此の経王の力に由て流暉四天を遶る」 仁王経に云く「日月度を失い」等、 大集経に云く「日月明を現ぜ
09 ず四方皆亢旱す 是の如き不善業悪王悪比丘我が正法を毀壊す」 仁王経に云く「非法非律にして比丘を繋縛するこ
10 と獄囚の法の如くす」法華経に云く「色力及び智恵此等皆減少す」華厳経に云く大集経に云く。
11     段食・法食・喜食・禅悦食。
12   三力、一切衆生力・法力・自身功徳力
-----―
 金光明経に次のように説かれている、「日の天子および月天子は、是の経典を聞いて、その生命の源泉となる働きが充実する」、と。金光明最勝王経につぎのように説かれている、「日が姿をあらわして光を放ち、その炎は清浄でけがれがない。この経王の力によって流暉は四天の周囲をまわる」、と。仁王経にはつぎのように説かれている、「太陽や月の動きが乱れる」、と。大集経には次のように説かれている。「太陽と月は光を失い、あるいは、全世界が皆、厳しい日照りに見舞われる。このようなことは、悪い行為をなす悪王や邪悪な出家者が、私の説いた正しい法を破壊してしまう故におこるのである」、と。仁王経には次のように説かれている、「国王らが仏法に反し、律に反し、比丘をつなぎ縛ること、あたかも、獄につながれた囚人に対する扱いと同じようである」、と。法華経には次のように説かれている、「色力も、智恵も、すべてが滅少する」、と。
華厳経には「段食・法食・喜食・禅悦食」が挙げられ、大集経には、三つの力として「一切衆生力・法力・自身功徳力」が挙げられている。
-----―
13     ┌戒光── 清浄也                                       ・
14   月光┼定光── 定 也
15     └恵光── ナン也
-----―
     ┌戒光── 清浄である。
   月光┼定光── 定である。
     └恵光── 軟である。
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0600
01   人 天──三学                                          ・
02   小 乗──三学
03   大 乗──三学
04   権大乗──三学
05   実大乗──三学
06   純 円──三学
07   法身光  般若光  解脱光
-----―
   人界と天界の衆生──三学
   小乗教─―――――─三学
   大乗教─―――――─三学
   権大乗教─――――─三学
   実大乗教──――――三学
   純円の教え──―――三学
   真理・悟りから発する輝き・深い智慧から発する輝き・自在の力用から発するかがやき。
-----―
08       此天は初地或は十廻向なり
09   十信  十住  十行  十廻向  十地  等  妙
10   初地三惑断
11   初住三惑断
12       北辰
13   梵・帝釈・日・月・四天等                                     ・
14       衆星
-----―
      この天は初地あるいは十廻向の位である。
   十信  十住  十行  十廻向  十地  等  妙
   初地以上において三惑を断ずる。
   初住において三惑を断ずる。
       北極星
   梵・帝釈・日・月・四天等
       数多くの星
-----―
12                   ┌ 衣食
13                  ┌┴ 寿命
14                  │┌ 肉眼
15                  │├ 天眼
16    一切の四天下の衆生の眼目―― ┼┴ 恵眼
01                  ├─ 法眼
02                  └─ 仏眼                             ・
-----―
                   ┌ 衣服と食物
                  ┌┴ 生命
                  │┌ 人界の衆生の眼
                  │├ 天界の衆生の眼
   全世界のあらゆる衆生の眼目 ─ ┼┴ 二乗の智慧の眼
                  ├─ 菩薩の智慧の眼
                  └─ 仏の智慧の眼
-----―
0601
01   有に非ず地を離るが故に、空に非ず有を照すが故に有、辺に非ずして中に処するが故に、 而も空・空に処する
02 が故に、 而も有・有を養うが故に、 来らずして北に至るが故に、而も来りて南に来るが故に、一ならず四州を照
03 すが故に、異ならず一日なるが故に、断ならず常なるが故に、常ならず一処に住せざるが故に。
04   記の三に云く部方等と雖も義は円極なる故に・故に今之を引く、
-----―
 日天子と月天子は、大地を離れているがゆえに有とはいえず、大地のうえの一切を照らしだすゆえに空ではなく、大地の中央にあるゆえに辺していない。しかも天空にあるゆえに「空」であり、現実の大地の上の万物を養うゆえに「有」である。北まで光が至るので日天子が北に来ることはないが、しかも南に来るので「来」である。四州いずれをも照らすゆえに一とはいえないが、一つの日であるゆえに異なることはない。常にあらわれるので「不断」であり、一箇所にとどまっていないので「不常」である。
 法華文句記巻三に「方等時に説かれた経典の文ではあるが、その実義は円頓至極であるが故に、いま、この経文を引用するのである」と説かれている。

日月
 日天と月天のこと。①日天。日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。②月天。月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
―――
大日天
 日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。
―――
誓耶后
 誓耶のこと。四姉妹女天の一人で、文殊師利菩薩の眷属ともいわれる。この女天は胎蔵界漫荼羅外金剛部中、大日天の后として大日天の右側に座している。
―――
毘誓耶后
 日天の后のひとり。密教では胎蔵界漫荼羅の文殊院にある。
―――
乗輅車
 乗輅に乗ること。乗輅とは王族など高貴な人の乗る車。
―――
摩利支天女
 摩利支とは梵語で陽炎と訳す。インド民間に信仰された天神の一つで、一般に男神とされているが、陀羅尼集経第十にある摩利支天経には「其の像法を作るは天女の形に似たり」とある。また、常に日天子の前にあり、身を隠す神通力があってその姿が見えないので、縛られず捉えられず、能く敵を破るという。またこれを念ずれば、一切の災厄を離るという。このため、よく武士は、守護神として勝利を祈った。
―――
九曜
 木火土金水の五惑星に太陽と月にを合わせたものが七曜。七曜に羅喉星と計都星を合わせたものが九曜星。羅喉星と計都星は、インド天文学の白道と黄道の交点の星。昇交点が羅喉星。降交点が計都星。この九曜星を中心として二十八宿などをまつり、除災招福を祈る法会が星祭です。
―――
七曜
 木火土金水の五惑星に太陽と月をいう。
―――
大月天
 月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
―――
二十八宿
 古代の天文学では、黄道付近の天球を28に区分し、それぞれを一つの宿(星座)とした。日蓮大聖人の時代、それぞれの星宿は神と考えられていた。
―――
乗鵞
 鵞に乗ること。大月天の姿。
―――
十二宮
 太陽の黄道帯の春分天を起点として12分割したもの。白羊宮・金牛宮・双児宮・巨蟹宮・獅子宮・処女宮・天秤宮・天蝎宮・人馬宮・磨羯宮・宝瓶宮・双魚宮。
―――
金光明経
 漢訳には中国・北涼の曇無讖訳の金光明経4巻、唐の義浄訳の金光明最勝王経10巻(略して金光明経)などがある。懺悔による滅罪の功徳を強調するとともに、この経を護持する者を、四天王をはじめ一切の諸天善神が加護するが、もし正法をないがしろにすれば、諸天が国を捨て去って種々の災難が競い起こると説いている。
―――
月天
 月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
―――
精気
 精は生命の根本、根源の力。気は体内の心の働き。あわせて生命の根源となる働き。
―――
最勝王経
 中国・唐の義浄が訳した金光明最勝王経のこと。10巻。
―――
流暉
 流は水がながれるごとく動くこと。暉は光り、輝くこと。動きながら光り輝いている日月をいう。
―――
四天
 須弥山を中心とした東西南北の四大洲すべてのこと。
―――
遶る
 巡ること。規則的にあるものの周囲を廻ること。
―――
仁王経
 中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
―――
日月度を失い
 日寛上人の分段には「仁王吉蔵疏にいわく『常道に依らざるを度を失うと名づく』と。建にいわく『日月行土の道は百八十あり』と云云。その日の行度を失うときあるいは高くあるいは低くあるいは遅くあるいは早し等なり。所詮常に異なるなり、二十八宿またしかなり、ゆえにあるいは非処に出ず等となり」と。
―――
大集経
 大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。60巻。大乗の諸経を集めて一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を500年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後2000年以降を末法とする根拠とされた。
―――
日月明を現ぜず
 太陽と月が光をなくすこと。
―――
四方皆亢旱す
 世界仲が激しい日照り、大旱魃に見舞われること。
―――
四方
 西南北、世界中。
―――
亢旱
 日照りで水分が少なくなり、干からびてしまうこと。亢は高ぶる、窮しまるの意、旱は日照りで雨がふらないこと。
―――
不善業
 善ではない行為。悪業。身・口・意にわたる悪業。苦果を受ける業因となる行為。
―――
悪王
 悪い君主・為政者。悪とは正法を誹謗・中傷すること。
―――
悪比丘
 比丘とは梵語で、仏法に帰依して具足戒を受けた男子。悪比丘とは、名利のために形ばかり比丘となり、邪法を説く輩。出典は仁王般若波羅蜜経嘱累品。
―――
正法
 真理を正しくあらわした法のこと。邪法に対する語。白法、浄法、妙法ともいう。
―――
毀謗
 誹謗と同意。破りそしること。
―――
非法
 仏の正法にそむく行為や制法。社会の道理に反した行為、制度。
―――
非律
 僧が守るべき戒律を破ること。
―――
比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
繋縛
 つなぎしばり、拘束すること。六道輪廻の迷い、四苦八苦の苦しみ、煩悩に心身が縛られていること。
―――
獄囚の法の如くす
 獄囚は牢獄にとらわれている囚人。囚人と同じような扱いをいう。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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色力及び智恵此等皆減少す
 法華経化城喩品第7に「世尊未だ出でたまわざりし時は、十方常に闇瞑にして、三悪道増長し、阿修羅亦盛んなり。諸天衆転た減じ、死して多く悪道に堕つ。仏に従いたてまつりて法を聞かずして、常に不善の事を行じ、色力及び智慧、斯れ等皆減少す」とある。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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段食
 実際に口にする食物。香味触を基とし、分々段々に摂取して身体を養う故に段食という。
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法食
 法を聞いて生命を養うこと。
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喜食
 法を聞いて歓喜によって生命を養うこと。
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禅悦食
 禅定に入って心をしずめ養うこと。
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三力
 ①法力・仏力・信力。②慧眼力・法眼力・法眼力.③我功徳力・如来加持力・法界力④一切衆生力・法力・自身功徳力。等。
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一切衆生力・法力・自身功徳力
 大集経に出てくる三力と思われるが、詳細は不明。
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人天
 人界と天界のこと、またその衆生。
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三学
 仏教一般で、仏道修行にあたり学び実践し体得すべき戒定慧の三つ。
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小乗
 乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
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権大乗
 大乗のうち権教である教え、経典。
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実大乗
 大乗のうち実教である教え、経典。
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純円
 純粋に円教のみが説かれた経典のことで、法華経をさす。
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三学
 仏教一般で、仏道修行にあたり学び実践し体得すべき戒定慧の三つ。
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法身光・般若光・解脱光
 大日天と大月天の有する徳を三徳に配した語。
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十信
 菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの最初の10の位。菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡と位置づけられる。円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。①信心(清浄な信を起こす位)②念心(念持して忘れることのない位)③精進心(ただひたすらに善業を修する位)④定心(心を一つの処に定めて動じない位)⑤慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)⑥戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)⑦回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)⑧護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)⑨捨心(空理に住して執着のない位)⑩願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。
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十住
 菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの第11から第20の位。真実の空の理に安定して住する位。初住である発心住は、菩薩の不退位の初めであり、見思惑・塵沙惑を断ずる菩薩の初位にあたる。別教の菩薩の十住は内凡と位置づけられる。菩薩の修行の中で成仏の因である正因・了因・縁因の三仏性は初住から開き始めるので、五十二位中でも初住は大事な位となる。①発心住(十信を成就し広く智慧を求める位)②治地住(常に空観を修して心を清浄に持つ位)③修行住(もろもろの善法や万行を修する位)④生貴住(諸法は因縁の和合によって存するので、諸法の常住不変な体はないとの法理を理解し、本性が清浄である位)⑤方便具足住(無量の善根を修して空観を助ける方便とする位)⑥正心住(空観の智慧を成就する位)⑦不退住(究竟の空理を顕して退かない位)⑧童真住(邪見を起こさずに菩提心を破らない位)⑨法王子住(仏の教えを深く理解して未来に仏の位を受ける位)⑩灌頂住(空・無相を観じて無生智を得る位)をいう。
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十行
 菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの第21から第30の位。利他の修行を行い、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅蜜を成就する。三惑のうち、見思惑・塵沙惑を断じた不退の位。①歓喜行(外道邪見に動かされずに一切所有の物を衆生に施し、歓喜の心を生じさせる位)②饒益行(常に一切の衆生を教化して利益する位)③無恚恨行(無違逆行ともいう。忍辱を修して怒りを離れ、へりくだって謹み敬う位)④無尽行(無屈撓行ともいう。一切の衆生をして成仏に至らしめる位)⑤離癡乱行(無癡乱行ともいう。一切の法において乱されず、正念を失うことがない位)⑥善現行(生々世々に常に仏国に生まれて、一切の衆生の教化を捨てない位)⑦無著行(一切の法において著する所のない位)⑧尊重行(難得行ともいう。三世にわたって仏法の中に常に善根を尊重して成就する位)⑨善法行(法を説いて人に授け、もって正法を守護し、人々の模範となる位)⑪真実行(無為真実の性によって、仏法を学び語と行と相応じて、色心みな順ずる位をいう)をいう。
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十回向
 十菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第31番目から第40番目の位をいう。十行の上位にあたり十地の下位にあたる。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。上位から、入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10の位階がある。㉛入法界無量廻向、法界に等しい無量の仏を見えて、無量の衆生を調伏し、この善根を以って一切の衆生に廻向する菩薩。㉜無縛無著解脱廻向、一切の善根を軽んぜず、相に縛せられず、見に執着しない解脱の心を以って善根を回向する菩薩。㉝真如相廻向、修するところの善根を真如に合わせて廻向を完成する。真如相に如うて真如の如く廻向の行を修する菩薩。㉞等随順一切衆生廻向、無量の善根を修習し、衆生のために無上の福田となり、衆生を清浄ならしめ廻向する菩薩。㉟随順一切堅固善根廻向、入一切平等善根廻向ともいう。一切の施行を説き、清浄の布施を詳説し回向する菩薩。㊱無尽功徳蔵廻向、一切の善根を廻向して、この廻向によって十種の無尽功徳の蔵を得て、一切の仏刹を荘厳する菩薩。㊲至一切処廻向、 善根を修し、その善根の功徳の力を一切処に至らしめ廻向する菩薩。㊳等一切諸仏廻向、三世の諸仏の所作を学し、その通りに衆生を廻向する菩薩。㊴不壊一切廻向、 三宝において不壊の信心を得て、この善根を以って廻向を成する菩薩。㊵救護衆生離衆生相廻向、十廻向の初地・始位。一切衆生を救護しながら、しかも衆生を救護する執着を離れる菩薩。
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十地
 仏道修行者の修行段階・境地を10種に分けたもの。地とは能生・所依の義で、その位に住してその位の法を持つことによって果を生成するものをいう。教の浅深によって、説かれる十地の内容も異なる。主なものは❶三乗共の十地❷大乗菩薩の十地などである。他に仏の十地、声聞の十地、縁覚の十地がある。❶三乗共の十地。通教十地ともいう。声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通なもので、四諦・十二因縁・六波羅蜜を行じ、見思惑を断じて覚りを得る境地。①乾慧地(乾慧とは法性の理水も潤し得ない乾燥した有漏の智慧で、智慧はあるが法性の空理を証得していない位。声聞の三賢位〈外凡〉、菩薩の順忍以前にあたる)②性地(わずかに法性の空理を得て見思惑を伏する位。声聞の四善根位〈内凡〉、菩薩の順忍にあたる)③八人地(人とは忍の義で、八忍地と同じ。初めて無漏智を得て見惑を断ずるという見道十五心の位。声聞の須陀洹向、菩薩の無生法忍にあたる)④見地(見とは見惑を断尽して四諦の理を見る意で、見道第十六心の位。声聞の須陀洹〈初果〉、菩薩の阿鞞跋致〈不退転〉の位にあたる)⑤薄地(欲界九品の思惑のうち前の六品を断じて後の三品を残すので薄という。声聞の斯陀含果〈二果〉、菩薩の阿鞞跋致以後の位にあたる)⑥離欲地(欲界九品の思惑を断じ尽くして欲界から離れる位。声聞の阿那含果〈三果〉、菩薩の五神通を得た位にあたる)⑦已弁地(已作地)(三界の見思惑を断じ尽くした位。声聞界の最高位である阿羅漢果〈四果〉、菩薩にとっては仏地を成就した位にあたる)⑧辟支仏地(縁覚の位。三界の見思惑を断じたうえに習気を除いて空観に入る位。習気とは業の影響力のこと。見思惑そのものは断じ尽くしても、潜在的な影響力として残っていく惑をいう。『摩訶止観』巻6上には、見惑を薪に、思惑を炭に、習気を灰に譬えている)⑨菩薩地(菩薩として六波羅蜜を行ずる位。空観から仮観に出て再び三界に生じて衆生を利益するので、乾慧地から離欲地までをさす。また菩薩の初発心から成道の直前までをいう)⑩仏地(菩薩の最後心で、一切の惑及び習気を断じ尽くして入寂する位。一切種智など諸仏がそなえる法〈特徴〉を具備した通教の仏の境地)。❷大乗菩薩の十地。菩薩の修行段階で、五十二位の第41から第50の位。無明惑を断じて中諦の理を証得する過程である。①歓喜地(極喜地、喜地、初地ともいう。一分の中道の理を証得して心に歓喜を生ずる位)②離垢地(無垢地ともいう。衆生の煩悩の垢の中に入ってしかもそこから離れる位。破戒と慳嫉の2種の垢を離れるので離垢地という)③明地(発光地ともいう。心遅苦の無明、すなわち聞思修忘失の無明惑を断じ、智慧の光明を発する位)④焔地(焔慧地、焼然地ともいう。煩悩の薪を焼く智慧の焔が増上する位)⑤難勝地(極難勝地ともいう。断じ難い無明惑に勝つ位)⑥現前地(清浄な真如と最勝智があらわれる位)⑦遠行地(遠く世間と二乗の道を出過する位)⑧不動(中道の理に安定して住して動ずることがない位)⑨善慧地(善巧の慧観によって十方一切にわたって説法教化する位)⑩法雲地(説法が雲のように無量無辺の法雨を降らし真理をもって一切を覆う位)をいう。
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等妙
 等は等覚・菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。妙は妙覚・菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。等覚位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(334㌻)と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで登って得脱したとされる。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に帰り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。
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初地三惑断
 初地において三惑を断ずること。
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初住三惑断
 初住において三惑を断ずること。
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三惑
 天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②塵沙惑とは、菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
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北辰
 北極星のこと。
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 サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。
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帝釈
 帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
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 日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。
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 月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1(法華経73㌻)には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
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四天
 古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている(法華経73,644,645㌻)。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。                                     ・
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衆星
 多くの星。
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衣食
 着るものと食べるもの。生活し暮らしていくこと。
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四州
須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。
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方等
❶大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。❷方等時の経典」。16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。
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常住不変の仏の哲理。
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円極
円満にしてかたよらず一切衆生を速やかに成仏させる教法。
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 本抄は、メモ、覚書として書かれたもので御執筆の年代は不明である。その内容から、門下の修学の資料として書かれたものとも考えられる。御真筆は中山法華経寺に存している。
 題名の「日月の事」とは、日天子・月天子をさしている。仏教、またインド神話では日天子とは日宮殿に住む天人をいい、月天子とは月宮殿に住む天人のことであるが、太陽と月を神格化したものである。仏法ではその働きを諸天善神と位置づけている。
 法華経の序品第一には、法華経の会座に集まった大衆の中に、「復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、その眷属万の天子と俱なり」とあり、名月天子は月天子、普香天子は明星天子、宝光天子は日天子をさしている。これら日天子・月天子・明星天子を三光天子とも称する。
 日蓮大聖人は、竜の口法難の直後の文永8年(1271)9月21日に著された四条金吾への御消息の中で、「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし」(1114--01)と述べられている。
 また、建治2年(1276)7月に四条金吾に与えられた御消息では「大日天子と申すは宮殿七宝なり其の大さは八百十六里・五十一由旬なり、其の中に大日天子居し給ふ、勝無勝と申して二人の后あり左右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天女まします・七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う」(1145-11)と述べられている。
 これは、大日経に「左に日天衆を置き、輿輅の中に在り。勝、無勝妃、翼に従い待衛す」とあり、大日経疏に「日天の衆は八馬車輅中に在り、并に二妃其の左右に在り、所謂誓耶・微誓耶なり、訳して勝・無勝と云うなり」等とあるのによられたものであろう。太陽を神格化して妃や眷属を従えた大日天子とし、八頭立ての馬車に乗って四天下を一日一夜でかけめるというのである。
日月に関する経典を引く
 本抄では、初めに大日天は誓耶后と毘誓耶后を左右に、八頭の駿馬が引く、七宝で飾られた輅車に乗り、摩利支天女と九曜・七曜が従うことが図示されている。
 摩利支天とは、梵語マリーチの音写で、威光、陽炎と訳し、太陽の光や炎を神格化したものといえよう。常に日天の前にあって、自在の神力をもって活躍する女神とされている。九曜の曜とは照り輝くという意味で、日・月・火星・水星・木星・金星・土星の七曜星に、計都・羅睺の二星を加えた九曜星のことをいう。日天に太陽系の主な星が従っていることを表している。
 また、大月天は、白鵞の車に乗り、二十八宿、十二宮が従うことが図示されている。二十八宿とは、インドや中国の古代からの天文学をさだめられた28の星座をいう。十二宮とは、地球から見て太陽が地球を中心に運行するように見える天球のうえの大円を黄道といい、黄道の帯のうえの星座を春分点を起点として十二等分した十二の星座をいう。月天に多くの星座の星々が従っていることを表しているといえよう。
 次に、日月について述べられた諸経の文が挙げられている。
 初めに引かれた金光明経は、法華経・仁王経ともに護国の三部経と呼ばれ、鎮護国家の経として尊ばれた経典で、この経すなわち正法を護持する者は諸天善神の加護を受け、国王が正法を行ずれば国が諸天の加護を受ける等と説かれている。ここでは日天子や月天子も金光明経を聞いてその力を増し、働きが活発になる、と説いた文が引かれている。
 次の最勝王経は金光明最勝王経のことで、金光明経の漢訳本の一つで、先の金光明経とは別の訳者になるだけであるからその内容はほぼ同じである。ここでは、日天が光を放ち、その光明は清浄で汚れがなく、四天下を遶るのは、この最勝王経すなわち正法の力による、と説かれた文が引かれている。前の文とともに、日月天の働きも、正法の力によることを示されたものであろう。
 仁王経は、正法が人々から重んじられず滅尽しようとする時に七難が起きることが示され、その災難を逃れる法は般若すなわち正しい智慧を明かした経を受持することにある、と説かれている。ここで引かれている「日月度を失い」の文は、七難の第一に挙げられており、太陽や月に異常現象が起こることを意味している。具体的には、赤い日や黒い日、日食、多くの日輪が現れることをいった。
 大集経は、大乗の法が収められた経で、正法が滅失したときの三災や正法滅失の過程を示す五箇の五百年、末法の義等が説かれている。ここでは、日月が光を失い、全世界が旱魃に見舞われるのは、悪業をなす悪王や悪比丘が仏の正法を毀謗し破壊するからである、と説いた文が引かれている。
 次に、仁王経の、仏法に反し戒律に反して、世法の罪を犯して獄に繋がれた囚人に対するように、仏法を行ずる人を抑圧する、との文が引かれている。これは、前に引いた仁王経の「日月度を失う」という難を引き起こす原因が、正法を行ずるものを迫害して正法を破壊する行為によることを示している。
 法華経化城喩品の文は、梵天王が述べた偈の中に「世尊末だ出でたまわざりし時は、十方常に闇瞑にして、三悪道増長し、阿修羅亦盛んなり、諸天衆転減じ、死して多く悪道に堕つ、仏に従いて法を聞かずして、常に不善の事を行じ、色力及び智慧、斯等皆減少す」とある。仏が出現する以前は、正しい法が滅び、諸天は仏法を聞くことができないので、力と智慧を失っていたことが明かされているのである。
日・月の働きを意義づける
 次に「華厳経に云く」「大集経に云く」として「四食」と「三力」が挙げられている。これは、諸天善神にとって、正法の法味がその寿命・智慧・力を増す根源であることを示されるためである。
 段食・法食・喜食・禅悦食を四食といい、生命・身体を養い保つのに必要な食に四種あるとしたのである。実際に口にする食物を段食、法を聞いて生命を養うことを法食、法を聞いた歓喜によって生命を養うことを喜食、禅定に入って身心を養うことを禅悦食という。
 三力として、一切衆生力・法力・自身功徳力が挙げられているのは、これ自体の出処は詳かではないが、恐らく大日経で説かれている我功徳力・如来加持力・法界力の三力によりながら、如来加持力を法力、我功徳力を自身功徳力に、法界力を一切衆生力に置き換えられたものと拝される。
 更に、日光を戒光、定光、恵光に分け、戒光は清浄であり、定光は常であり、恵光はナンであると図示している。これは、太陽の光の力用を、仏法の戒・定の三学に配してとらえたものである。三学は、仏道を修行する者が必ず修学しなければならないとされている。
 日光を戒光であり清浄なりとされているのは、三学のうちの戒は禁戒の意味で、身口意の三業の悪を止め、非を防いで善を修することであり、太陽の光が一切の闇を晴らして、森羅万象を照らすことから、戒であり清浄である、とされたものであろう。
 日光を定光であり定なり、とされているのは、三学のうち定は禅定の意味で、こころを一所に定めて雑念を払い、安定した境地に立つことであり、太陽は常住し、その光が常に地上を照らし続けることから、定であり、定まっている、とされたのであろう。
 日光を恵光でありナンなり、とされているのは、三学の恵とは智慧の意味で、真理をあまねく照らし顕すことであり、太陽があらゆるものを照らしだして明らかにすることから、ナンでとされたものであろう。なおナンには「湯」とこ「洗う」という意味があるところから、洗い出して明らかにし、また万物を温めて育むという意義で用いられたものと思われる。
 次に、人天・小乗・大乗・権大乗・実大乗・純円それぞれに三学があると図示されている。人天に三学があるとされているのは、人界や天界の衆生は、儒家・外道を修した果報で生じるとされ、儒・外にも仏法の戒・定・慧にあたるものが具わっているとの意と思われる。
 小乗の三学とは、経律論の三蔵にあたる。小乗は二乗の果報を得る道で、その戒は俗男・俗女の五戒・八斎戒、比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒等が定められている。定は味禅・浄禅・無漏禅とされ、慧は苦・空・無常・無我の智慧とされている。
 菩薩道を教えたのが大乗教で、大乗の三学とは通教・別教・円教にそれぞれ三学があって異なるが、大乗の戒は三聚浄戒の摂禅法戒であり、定・慧の禅法もことごとく戒に摂せられてまた定・慧に戒が摂せられているように、三学が融通して説かれている。
 実大乗である法華経の三学とは、天台大師は一念三千の観念観法に戒定慧の三学が摂せられていると説き、伝教大師は三学倶に伝うるを妙法と名づけるとしている。
 純円である末法の妙法における三学については、日蓮大聖人は「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」(0760―第廿五建立御本尊等の事)と説かれ、三大秘法にあたると明かされている。日蓮大聖人の仏法では、定は本尊、戒は戒壇、慧は題目となるゆえに、末法の衆生の三学とは、三大秘法の御本尊を受持して信心に励むことであり、受持即観心につきるのである。
 更に、法身光・般若光・解脱光と記されている。これは、日天・月天が発する光を、仏が具えている徳である法身・般若・解脱の三徳に配されるものと思われる。
 法身とは、真理を対する仏身をいい、また法性そのものをいう。般若とは、煩悩や迷いを断じて、一切の道理を明らかに覚知する深い智慧をいう。解脱とは、如来の法身・般若の二徳が一体となって、煩悩・生死の束縛から離れて自在の力用を起こす輝きをいい、解脱光とは法身・般若の二徳が一体となっての自在の力用から発する輝きを意味すると思われる。
 法身・般若・解脱の三徳は、仏が具える徳であり、それが人々を救う輝きとなることを光に譬えられたものが、日月が日々を照らし守る働きを仏の三徳に通じるとされたものであろう。
 次に、大乗の菩薩の修行の階位である十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の52位を挙げられ、此の天は初地から十廻向である、と述べられている。日天・月天を、菩薩の修行の位にあてはめると、十地の初めの初地から、十廻向であろう、とされているのである。
 初地とは、52位のうちの41位で、十地の初めの位であり、初めて善法の味を得て心が歓喜に満たされるので歓喜地ともいわれる。十廻向とは52位のうちの31位から40位までの階位のことで十向・十回向心ともいわれる。己の功徳を廻してあまねく衆生に施すので廻向というとされている。別教では初地以上を聖、十廻向以下を凡としているが、天台大師は初住以上を無明を破した聖位としている。
 「初地三惑断」とされているのは、別教では初地以上を見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を断じた聖位としていることを明かし、「初住三惑断」と併記されているのは、円教では初住の位で三惑を断じているとしていることを、対比して明かされたものであろう。
 梵・帝釈・日・月・四天等と記されているのは、仏法を守護する代表的な諸天善神として梵天・帝釈・日天・月天・四天王等の名を挙げられたものであろう。なお、日・月の左右に北辰と衆星が記されているのは、日月の眷属との意味を示されたものと拝される。
 また、一切の四天下の衆生の眼目のところに線を引いて衣食と寿命を併記され、他方、眼目の内容として肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を挙げられている。衣食と寿命を眼目と並べて記されている物質的条件を提供すること、また、衆生のこの世での生命を維持することにあることを示されたと拝される。
 五眼とは、物事を見極める智慧に、その境界の深さによって五種あることをいう。人界の境界にそなわった肉眼、それに対し天界の衆生の昼夜の遠近を問わずに見ることができる眼、事象の法則性を見極めたことによる二乗の智慧の眼、仏法の法則を弁え、衆生を救うために発揮される菩薩の智慧の眼、一切の事物、事象を三世十方にわたって見通す仏の智慧の眼の五つである。その人の境涯によって物事を見極める見方や深さがさまざまに異なることは、たとえば同じ雲を見ても、知識・経験に裏づけられた天候の変化を予見できる等の卑近な事例からもうなずけるところであろう。
再び経典を引く
 最後に引かれている文の出典は明確ではないが、金光明経の要旨をとられたものと推察される。
 いうまでもなくこれも日月について論じたもので、日月は地を離れているゆえに有ではないが、地の有を照らすゆえに空ではない、とある。有とは、無や空に対して、覚知・認識できるものをいう。日月は、大地および大地の物質によって形成された事物を離れて存在するという意味では有とはいえないが、大地の上の一切を照らしているので単に空ではない、という意味であろう。
 また、中に処するがゆえに辺ではなく、しかも空に処するがゆえに空であり、しかも有を養うがゆえに有である、とある。日月の存在は、中道であって有無に辺していないし、しかも有無を離れているので空であり、しかも現実の大地に上の万物を養う働きをするので有である、という意味であろう。
 さらに北に至るゆえに「来らず」であり、南に来るゆえに「来る」であり、四衆を照らすので一ではなく、一日であるゆえに異ならず、常にあって断ではなく、一処に住していないので常ではない、とある。日月は須弥山のまわりをめぐり、四方にある四大州を照らすので一とはいえず、しかも太陽は一つであるから異なりはない。常にかわることなく現れるので断絶とはいえず、しかも一箇所に留まっていないので、常住とはいえない、という意味であろう。これは、日月の存在と働きは断・常の二見や有無の二辺などの両極端を排し中道の見方でこそ正しく捉えることを示されているといえよう。
 最後に、妙楽大師が法華文句記の三で、方等部の経典の文にあっても、その義は円極なので今、この文を引く、との文が引かれている。金光明経は方等部の経であるが、今、引いた文の義は、法華経で説かれる円融円満の至極の義に通じているので引用する、との意味である。-

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0602:01~0602:05 第一章 中国の伝説上の帝王と王朝を示すtop
0602
和漢王代記
01     ┌伏羲            ┌少昊
02   三皇┼神農            ├顓頊 三墳五典
03     └黄帝          五帝┼帝嚳
04                    ├尭王 男九人女一人                       ・
05    夏               └舜王
-----―
     ┌伏羲            ┌少昊
   三皇┼神農            ├顓頊 三皇五帝の書に三墳五典がある。
     └黄帝          五帝┼帝嚳
                    ├尭王 子に九男一女がいた。
    夏               └舜王

三皇
 古代中国の伝説上の理想的な王たち。諸説あるが、伏羲・神農・黄帝の3人とされる。
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伏羲
 紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人民の始祖として崇拝されている。
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神農
 古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。諸人に医療と農耕の術を教えたという。中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。
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黄帝
 三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(大聖人は三皇の最後の一人とされている)。
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五帝
 中国古代の五人の聖君。諸説があるが、大聖人は少昊・顓頊・帝嚳・尭王・舜王とされている。
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少昊
 中国古代の五帝の一人。姓は己。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。名は摰(し。鷙・質とも作る)または玄囂。号は「昊」(「皞」・「皓」・「顥」とも作る)、「朱宣」、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。
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顓頊
 史記に記される帝王で、名は高陽。あるいは、高陽に都して高陽氏と称したと言われている。五帝の1人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。
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帝嚳
 名は夋。あるいは、高辛に都して、高辛氏と称したと言われている。五帝のひとりで、顓頊の後を継いで、帝位に就いた。
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尭王
 中国神話に登場する君主。姓は伊祁、名は放勲。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
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舜王
 中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚。子孫は媯水のほとりに住み媯を姓とした、名は重華、虞氏または有虞氏と称した。儒家により神聖視され、堯と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
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三墳五典
 中国古代の書籍と伝えられるもの。どのような書であったかは諸説紛々としてわからない。三墳五典、またはそれを略した「墳典」「典墳」は、珍しい貴重な書籍を意味する語として、後世の詩文によく使われる。『千字文』にも「既集墳典」として見える。
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 紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 [紀元前2000年頃からとする説もある])は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。
―――――――――
 初めに、本抄全体の概要について触れておきたい。本抄は題名にもあるとおり、和漢、すなわち、日本と中国の王代、すなわち、王朝の変遷を記録した書である。前半では中国の王朝史を、後半では日本の王朝史をそれぞれ扱われている。より詳しくみると、中国については三皇五帝から始まって栄に至る王代を、日本については神代12代から始まり人王第53代の淳和天皇に至るまでの王代を記されている。
 もとより日蓮大聖人は、単なる王朝変遷史として記されたのではなく、中国・日本においてどのように仏教の諸経典並びに各宗派が流布してきたか、特に法華経流布の歴史を明らかにされるために記されたのである。
 本抄の形式は、以上のような趣旨から、王朝の変遷を時代順に図表として示されていながら、仏教流布の次第が一目でわかるようになっている。これに法華経を根本とする立場から、中国の場合は天台大師の注釈を引用された後、大聖人自身の見解を記されており、日本の場合は伝教大師の注釈を引用されて終わっている。
 本抄の御真筆は西山本門寺にあるが、この日本に関する記述の終わり方からも、本抄は未完であるから、あるいは後の部分が消失したことも考えられる。
 御書全集にはないが、現存している御真筆の最後に「本門寺重宝なり カミ十八マイ」との注記がある。後世の他筆であることが明らかであるので、収録されていないが、これによればこの注記が書かれた時点では18枚であったと認識されていたことは疑いない。現在残っているものは17枚なので、少なくとも1紙は欠失していることになる。
 欠失部分は御書全集0610㌻の「第五十三淳和」と「衆」の間と思われる。後半に欠失があるとすれば、この他筆部分が記されるまえに既に欠失していたものと思われる。
 なお、本抄の御執筆年次は文永7年(1270)、建治2年(1276)等の説があるが明らかではない。またどの門下に宛てられたものであるかなどについても不明である。
 ほとんどが図表の形であることから、御述作あるいは門下への講義のための資料として書かれたものとも考えられる。
 さて、まず、中国の伝説上の帝王である三皇五帝を記している。「三皇五帝」というのは中国太古における8人の伝説上の帝王であり、歴史上に実在した人々でないことは明らかである。
 中国には古来、多くの史書があるが、いずれも、必ずといってよいはど、三皇五帝の記述から始まっている。具体的な名前となるとさまざまである。
 例えば、三皇についていえば、人皇・地皇・人皇というように、天・地・人に配するものもあれば、伏義・神農までは共通していても、3人目を燧人・女媧・祝融・黄帝などとする所説がある。大聖人は諸御書で一貫して、三皇を伏義・神農・黄帝とする説を採用されている。
 次に、五帝についても、さまざまな立て方がある。伏羲・神農・黄帝・少昊・顓頊とする説や伏羲・神農・黄帝・尭王・舜王などとする説などであるが大聖人は少昊・顓頊・帝嚳・尭王・舜王と立てる説を採用されている。
 三皇・五帝とも大聖人は儒教の学者・孔安国の尚書序等において立てられた説に従われている。
 大聖人は開目抄の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」(0186-01)と仰せられて、一切衆生の学ぶべき物として、中国の儒教、インドの外道、内道である仏教を挙げられ、そのうち儒教について「儒家には三皇.五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目.万民の橋梁なり」(0186-02)と述べられている。
 ここで「儒教」「儒家」と言われているのは、中国の二代思想である儒教・道教のなかの儒教のみをさしているのではなく、道教も含めて「中国思想」そのものをさしておられることは、そのあとの御文からも明らかである。
 三皇五帝の立て方に種々あるなかで、大聖人が特に儒教が特に重んじられた孔安国の尚書序等の説に基づかれているのは、儒教・道教の中では儒教を重んじられた証拠といえるが、同じ開目抄で「老子は孔子の師」(0186-06)という道教の説も用いられていることから、一概に儒教を重視されたとはいえない。
 なお、本文で三皇五帝の図表の下に「三墳五典」とあるのは、三墳は三皇を書いた書物をさし、五典は五帝のことを書いた書物をさしている。
 三墳の墳には大道を書き示したという意味があり五典の典には人の手本とすべき立派な書物という意味がある。三墳五典を略して墳典という場合もある。
 この三墳五典は、いずれも秦・始皇帝の焚書功儒にあって失われたとされ、それぞれの内容については不明である。
 三皇五帝にこれらの書物があるということはやはり功安国の尚書の序に記されていたのを大聖人がここで用いられているのである。
 また、同じく、五帝の図のなかで尭王の下に「男九人女一人」と記されているのは、尭王に九人の男子と一人の女子の、十人の子供がいたという伝説を記されたものと思われる。
 ちなみに、孔安国の尚書序、司馬遷の史記の五帝本記第一では、尭王には九人の男子と二人の女子がいたことになっている。
伏羲・神農・黄帝について
 御書には「三皇五帝」という熟語として引用される場合と、具体的にそれぞれの名を挙げて引用されている場合があるが、三皇の場合も五帝の場合も、それぞれの王名を挙げられている御書は少ない。伏羲・神農は「義農の世」として人心が治まり天地も平穏な理想の世の中を築いた王として紹介され、黄帝は神農と並べて引用されているが、耆婆と並べて医術の名手として紹介されている。
 まず、義農の世として引用されているのは立正安国論で「仏海の白浪を収め法山の緑林を截らば世は羲農の世と成り」(0031-05)とあり、如説修行抄では「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-06)とあるとおりである。
 いずれも、南無経法蓮華経の仏法が広宣流布した時の世の中の姿を大聖人が門下に分かりやすく示される際の、一つの例として義農の世が挙げられている。
 伏義は史記の三皇本記等によると、身体は蛇で首は人間であったとされる。易の八卦を作り、また、文字を作り、更には網を編んで人々に魚猟することを教えたとされている。
 次いで、神農は、身体は人間で首は牛であったとされる。鋤を発明して人々に農耕を教え、また市場を設けて交易を始め、更にはあらゆる植物の中から薬草を見分け、人々に教えたとされる。
 いずれにせよ、義農の世は人類の文明の夜明けの平和で安穏な時代を理想化したものということができよう。
 ところで、黄帝の場合は、医薬の名手として紹介されている御書が多い。例を2・3挙げてみると、治病大小権実違目では「二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや」(0995-08)とあり、太田入道殿御返事では「就中・法華誹謗の業病最第一なり、神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず、但し釈尊一仏の妙経の良薬に限つて之を治す」(1010-08)とあり、中務三郎左衛門尉御返事には「二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり、仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし何に況や神農黄帝の力及ぶべしや」(1178-02)とある。
 これらの例からも、大聖人は黄帝や神農も同じく医薬の始祖として扱われていたことが分かる。身の病はともかく、法華誹謗による業病のような心の病に関しては、神農・黄帝・華陀・扁鵲などといった医薬の始祖たちでもどうすることができず、仏の良薬である妙経によるしか治せない、と説き進められていくなかで引用されているのである。また扁鵲と並べて紹介される場合もあり、妙心尼御返事に「唐土に黄帝・扁鵲と申せし・くすしあり」(1479-01)とある例がそれである。
 なお、次のような引用例もある。諌暁八幡抄に「王と申すは黄帝・中央の名なり」(0587-16)と。この場合の黄帝は陰陽五行説における中央の土の色が黄色であることから、国の中央である王を始祖として名づけられたものと考えるとができる。
尭王・舜王について
 諸御書で大聖人がよく用いられている五帝のなかの二人の聖王である。その他の三人についてはほとんど触れられていない。尭王と舜王について、日妙聖人御書で「尭王には丹朱と云う太子あり舜王には商均と申す王子あり、二人共に不孝の者なれば父の王にすてられて現身に民となる、重華と禹とは共に民の子なり・孝養の心ふかかりしかば尭舜の二王・召して位をゆづり給いき、民の身・忽ち玉体にならせ給いき、民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同じ事なるべし、一念三千の肝心と申すはこれなり」(1216-4)と述べられている。
 ここでは尭王・舜王ともに後継者としての嫡男がいるにもかかわらず尭王・舜王について、それぞれ不幸であったので位を譲らず、民出身ながら“孝養の心”深い有徳の人に位を譲ったという事績を紹介されている。いわゆる、禅譲という言葉の起こりとなった伝説である。
 大聖人は民が王となるというこの説話を借りられて、一念三千の法理によって凡夫が仏になることの譬喩とされている。
 また、立正安国論では「世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん」(0031-05)と記され尭王・舜王が治めた理想的で平穏な国を唐虞の国と示されている。
 唐虞の「唐」は尭が唐尭、あるいは陶唐氏と呼ばれるところから尭王をさし、「虞」は虞舜あるいは有虞氏と呼ばれた舜王をさすのである。
 尭が王位を譲った舜王については開目抄、善無畏三蔵抄等で扱っておられる。開目抄では舜王「三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ」(0186-02)とあり、善無畏三蔵抄では「舜王は父の眼の盲たるをなげきて涙をながし手をもつて・のごひしかば本のごとく眼あきにけり」(0884-16)とある。すなわち重華の父は眼の不自由なうえに頑固であったが、よく孝養を尽くして仕えただけでなく、父の眼が不自由であることを悲嘆して手ずから治療にあたったのでその眼がもとのように開いたという。
 大聖人が引用されている舜に関する伝説をもう少し詳しく見てみると、目の不自由な父が頑固であった、というのは早く亡くなった先妻の子である重華に対して執拗につらくあたり、後妻の子である象をいたくかわいがり、長らくその重華いじめの姿勢をかえなかったということにある。この父の姿を見て、継母、異母弟も一緒になって重華につらくあたったが、重華は彼らによく仕え抜いた。
 その結果、重華は20歳で孝養の徳ある人物として世間で有名になり、それを時の王・尭が聞きつけるところとなる。尭はすでに長男・丹朱がいたが、徳が薄かったために、人心は重華に傾いていたので、尭は重華を登用した。重華、30歳の時である。更に、後に50歳で摂政となり、尭王の死後、61歳で帝位についたという。これが舜王である。その舜王にも実子・商均がいたが、暗愚であったうえに、治水に大きな功のあった禹の人々の心が傾いていったことを察知した舜は位を禹に譲ったとう。世襲ではなく、民の中から禅譲された王である点で共通しており、これを大聖人は日妙上人御書で仏法における、凡夫の即身成仏の譬喩として用いられたのである。
 また観心本尊抄では「尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」(0242-11)と仰せられて、尭・舜を代表する中国古代の理想上の聖人を仏界の一分の発現した例として挙げられている。
男九人女一人について
 本文の図表で、尭王の下に書き込まれているので、おそらく尭王の子供の数を挙げられたものと思われる。史記の五帝本記には尭王が舜に位を譲る前、舜の人物を試すところがある。
 そこで尭王に二人の女がおり、二人とも舜に嫁がせて、家庭生活における舜の振る舞いを観察させ、更には、九人の息子を舜と一緒に行動させて、彼の家庭外における仕事ぶりや行動を見させた。ところが二人の娘と九人の息子は尭と行動を共にするにしたがい、ますます行儀がよくなり、皆、謹厳になっていったという。舜の高徳を示すエピソードである。御真筆では「女一人」になっているが、これは史書の相違によるものであろう。
夏について
 夏王朝については現在のところ確たる物証は発見されておらず、あくまで伝説上の王朝名である。創始者は前に述べたように、舜から王位を禅譲るさた禹とされている。禹は治水工事で立派な成績を治めたことを舜王から認められて舜王に商均という嫡がいたにも関わらず、王位を譲られたのである。
 大聖人が夏について諸御書に引用されるとは禹王とともに傑王ともいう。後に触れる殷の紂王と並んで悪王の代表として有名な王を紹介される時に限るといってよい。開目抄では「夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり、しかれども政あしくして世をほろぼせしかば今に・わるきものの手本には桀紂・桀紂とこそ申せ」(0204-06)とあるように、傑王・紂王ともに悪政を行って民を苦しめたので、悪王の手本としていつも挙げられていると仰せられている。
 また、聖愚問答抄では「夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬ・されども桀王は悪王・竜蓬は忠臣とぞ云う」(0493-05)とあり、傑王の暴虐を諌めて首を切られた竜蓬を忠臣と呼ばれている。
 なお、傑王は、次の殷王朝の創始者である湯王によって討たれ滅ぼされたのであるが、それについて下山御消息には「夏の桀王が湯王に責められ」(0362-12)と述べられている。

0602:06~0602:17 第二章 中国史上初の王朝・殷と周を図示すtop
06     ┌第一文王┐
07    殷├第二武王┼周公旦
08     ├第三成王┘
09     ├第四昭王の御宇二十四年甲寅に当る五色の光気南北に亘る大史蘇由之を占う四月八日は仏の御誕生なり
10     ├中間七十九年なり
11    周┼第五穆王の五十二年壬申に当る二月十五日御入滅 十二の虹南北に亘る大史扈多之を占う
12     ├三十七有り或は八
13     │    ┌一儒教───五常 文武等なり
14     │    │        孔丘   顔回
15     │  三教┼二道教───仙教
16     │    │        老子
17     │    └三釈教───一代五十余年
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    殷
     ┌第一文王┐
     ├第二武王┼周公旦が仕える。
     ├第三成王┘
     ├第四代・昭王の治世の二十四年甲寅に当たる四月八日に仏は御誕生になる。その時五色の光が南北に亘る。大史
     │である蘇由がこれを占う。
     ├この間、七十九年である。
    周┼第五代、穆王の五十二年壬申に当たる二月十五日御入滅になる。十二の虹が南北に亘る。大史である扈多がこれ
     │を占う。
     ├三十七王、あるいは三十八王がいた。
     │    ┌一儒教───五常であり文武等を崇めている。
     │    │        孔丘   顔回
     │  三教┼二道教───仙教
     │    │        老子
     │    └三釈教───一代五十余年に説いた釈尊の教え。


 紀元前17世紀頃~紀元前1046年。中国の王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。
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 紀元前1046年頃~紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代(西周)」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となる紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫。周代において中国文明が成立したとみられる。
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文王
 紀元前1152年~紀元前1056年。中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任(中国語版)であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。
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武王
 周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、唐叔虞(晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔ら。
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成王
 周朝の第2代の王。武王の子。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号である。同母弟は晋の開祖の唐叔虞、他に邘叔、応叔、韓叔ら兄弟がいた。
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周公旦
 中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。
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昭王
 中国戦国時代・秦の第28代君主、第3代の王。姓は嬴(えい)、諱は稷。孝文王 (柱)(安国君)の父。始皇帝(政)の曾祖父。昭王とも呼ばれる。
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御宇
 帝王が天下を治めている期間。御代。
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五色の光気
 釈尊降誕の瑞相のひとつ。
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大史
 律令制で、神祇官・太政官の主典のうち、少史の上に位するもの。
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蘇由
 中国後漢時代末期の武将。
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穆王
 周朝の第5代王。昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。
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扈多
 中国・周王朝の第5代穆王に仕えた大史。西方の聖人が入滅したと占った。
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三教
 儒教・道教・仏教のこと。
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儒教
 孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
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五常
 儒教で説く5つの徳目。仁・義・礼・智・信を指す。三綱(君臣・父子・夫婦間の道徳)とあわせ、「三綱五常」と表現することも多い。
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孔丘
 孔子のこと。紀元前552年9月28日~紀元前479年3月9日)。春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏は孔、諱は丘、字は仲尼。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。
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顔回
 (紀元前521年~紀元前481年[1])は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字は子淵。ゆえに顔淵ともいう
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道教
 中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。
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仙教
 中国の民族宗教である道教のこと。仙人の教え。
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老子
 春秋戦国時代の中国における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
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釈教
 仏教のこと。
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一代五十余年
 釈尊の一代の説法は30成道、80入滅のあいだの50年間のこと。この期間の最初の華厳経から終わりの涅槃経までの大小権実の諸経を一代五十年の諸教という。
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 ここから、歴史上でも実在が確認されている王朝になる。最初の王朝は殷であり、次いで、周王朝の主な諸王が図示されている。
 殷については国の名前のみに止め、周については第一文王・第二武王・第三成王と並記され、第四の昭王と第五穆王で、インドで仏教を開いた仏の生誕時と入滅時を周書異記説によって重ね合わせて記されている。
 次いで「三教」として儒教・道教・釈教を並記され、いずれも、その成立が周王朝の時代に当たっていることを示されている。
 さて、殷王朝は史記などの中国の史書に記述され伝えられてきたが、長年にわたって三皇五帝、夏とともに、根拠のない伝承として、西欧の学会からその実在が否定されてきた。しかし、20世紀前半に、殷墟が発掘され、そこに王墓が発見されたり、甲骨文が解読されたりして、歴史的に実在したことが明らかとなった。
 史記によると、殷の創始者・湯王から17世30人の王が交代するというかなり長期にわたった王朝ということになる。今日では、その期間は紀元前17世紀から紀元前11世紀にかけての約600年も続いたとされている。
 最後の王が「酒池肉林」の言葉で有名な悪王の紂王で、臣下の言に耳を貸さずに、農民に重税を課して苦しめたために、後の王朝である周の武王に滅ぼされた。これが世に名高い牧野の戦いであるが、これについては周の武王のところで触れる。
 紂王の悪王ぶりについては開目抄でも「比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる」(0186-04)と紹介され、紂王が忠臣の比干の諫言を聞かないばかりか頸をはねてしまったと記されている。
 次に、周についてであるが、本文の図表では、上から第一文王・第二武王・第三成王という三人の王の名が並記されている。そして、その下に周公旦という名が記されている。
 まず「第一文王」は、自身は王を名乗るにいたらなかったが、殷を倒して権力を握った息子の武王に依り周王朝の実質上の創始者として王とされたのである。文王自身は殷の紂王の下で臣下として仕えるとともに、自領の周囲の部族たちを征服して中国・西方の陜西地方をおさめて西伯昌と呼ばれた。太公望呂尚を師としてよく意見を聞き、諸国から賢人たちを集めたために、諸候から信頼を獲得して殷王朝の権威を圧倒するまでになった。
 開目抄に「大公望は文王の師」(0186-06)とあるように、文王は特に儒学者から理想的な君主として「三王」の一人に数えられている。三王とは、夏の創始者・禹王、殷の創始者・湯王、そしてこの周の文王である。
 ちなみに、大聖人は開目抄で「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す」(0186-02)、下山御消息で「三皇・五帝・三王・三聖等・出現して墳典を作りて代を治す」(0352-07)と、それぞれ引用されている。ちなみに、三聖とは老子・孔子・顔回のことである。
 次に「第二武王」は文王の子で、周王朝の最初の王である。父の遺志を継いで殷の紂王を滅ぼして天下を統一した。
 武王が紂王を滅ぼす時の戦いについては、開目抄に「武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり」(0186-03)とあるように、武王は父の像を掲げて出陣したとされる。殷の紂王の軍とは牧野というところで戦端を交えるが、双方の勢力について異体同心事では「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ」(1463-03)と記されている。
 周軍の800人というのは史記によると、武王が紂王打倒の兵を起こした時に、志を同じくした中国全土の諸候が800人集まってきたということである。したがって、兵隊の数になると、もっと多くなろうが、それにしても、殷の70万騎にははるかに及ばなかったであろう。だが、殷の軍隊は奴隷兵ばかりであったので、最初から戦意がなく、むしろ新しい周の武王によって解放されることを願っていたので、王宮を武王の軍隊を通すため皆武器を逆さまにして道を開いたということである。
 この結果、武王は紂王を破ることができたのである。この戦いをとおして大聖人は異体同心と同体異心の決定的な相違を教えられている。
 次いで「第三成王」であるが、武王の子で周の第二代の王である。武王は紂王を破った2年後に亡くなったため、成王は幼くして王位を継承しなければならなかった。しかも、殷の一族、臣下たちはいわば温存されたままであったうえ、天下も安定しているわけでなく、幼い王では統括する力があない。そこで「周公旦」が摂政となり、成王を補佐したのである。7年後、成王が成長すると、周公旦は摂政の地位を下り、成王に仕えたという。
 本文の図表で「周公旦」が「第一文王」「第二武王」「第三成王」と並記された下に記されているのは、彼が三人の王と深い関係にあったからである。まず、彼は第一文王の子であり、したがって第二武王の弟として、兄を助けて殷の紂王を滅ぼし、武王の死後は前述したように、武王の子・成王が幼かったために、摂政として支えている。そして、殷の残党が東方で反乱を起こした際は、自ら遠征軍の指揮をとってこれを治めている。
 周公旦は成王の摂政を勤めた後は臣下として仕えたように、彼は自ら周王朝の秩序を乱さずに「礼」を守り、この「礼」を基礎として王朝の制度を確立したとされている。
 大聖人は観心本尊抄で「周公旦は沐には三にぎり食には三はかれけり」(0278-09)、崇峻天皇御書でも「周公旦と申せし人は沐する時は三度握り食する時は三度はき給いき」(1174-12)と周公旦の人となりを紹介されている。周公旦は賢人を求めるために、人が面会にきた時、たまたま髪を洗っている最中でも、洗いかけの髪を握ったまま出迎え、食事中でも口に入れたものを吐き出して対応したという。このエピソードをとおして、人に接する振る舞いの大切さを門下に教えられたのである。
 なお、文王・武王・成王・周公旦は後世、特に儒者たちから聖人として尊敬されていたことを付け加えておきたい。
 さて、大聖人はここまで中国の太古の王朝の変遷と聖人と仰がれた帝王の名を図示されてきたのであるが、いずれも仏教がインドで仏の釈尊によって開かれる以前の時代の話であった。
 だが「第四昭王」の時代にインドで釈尊が出現したとされ、特に後漢以後は、釈尊によって説かれた一代聖教の経教や論が順次、漢訳されて移入される経過と関連づけながら展開されるとともに、中国における仏教各派の盛衰を一望されている。
 まず「第四昭王の御宇二十四年甲寅に当る」とあるのは、その下に「五色の光気南北に亘る大史蘇由之を占う四月八日は仏の御誕生なり」と注釈されている。これは仏がインドで生誕したのは中国では周の第四代昭王の治世第24年、干支でいえば甲寅にあたる4月8日であるということである。大史という周の暦法を司る官職にあった蘇由が五色の光り輝くのを見て仏の誕生を占ったことを述べられている。
 同じことを開目抄にも「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし」(0225-18)と述べられている。
 仏が誕生した時に、インドの出来事でありながら、中国の夜空に五色の光が南北に輝きわたって昼のようであった様子が記されている。
 「中間七十九年なり」とあるのは、仏が誕生してから80歳で入滅するまでの間の79年間のことである。この間に釈尊は出家し修行して、菩提樹下で成道した後、衆生教化のためインド各地で説法をして歩き、最後に法華経・涅槃経を説いて入滅するのである。
 「第五穆王の五十二年壬申に当る」とあり、付け文で「二月十五日御入滅十二の虹南北に亘る大史扈多之を占う」とあるが、これは、仏が入滅したのは中国では周の第五代穆王の治世第52年、干支でいえば壬申に当たる2月15日であるということである。仏の生誕の時は五色の光が輝きわたったのであるが、入滅の時は12の虹におおわれたとされている。このときは大史の扈多が虹を見て仏の入滅を占ったことを述べられている。
 次に「三十七有り或は八」とあるのは紀元前11世紀から12世紀にかかるころの周の最初の王・武王が即位してより、紀元前249年に秦によって三十七有り或は八最後の王・赧王が滅ぼされるまでの約850年間に37人か38人の王が交代したことを記されているのである。
 王の人数を37人か38人と二説を示されているのは武王の父・文王を数えるか否かによるのであろう。
 いずれにせよ太古の時代のことであるから不明な部分が多いが、今日、はっきりしているのは周王朝の時代は大きく前半の西周の時期と後半の東周の時期に分けられるということである。西周は約350年間、中国西方の陝西省渭水の下流にある鎬京に都を置いていた時期をいい、東周は紀元前770年、平王の時、異民族の侵略によって都を東方の河南省洛水の沿岸洛邑邑に遷してから滅亡するまでの500年間の時期をさす。
 この東春時代はまた後に触れる春明時代、戦国時代と呼ばれる時代と重なっている。
 次に「三教」として「一儒教」「二道教」「三釈教」の三教が併記されている。この部分は大聖人の筆によるものではなく、他筆である。儒教・道教・釈教については、後の「漢」時代に大聖人が注記されているものを用いたもので、それを周王朝の最後にも置き、教えの内容や開祖・弟子等を挙げて補充している。
 儒教の下にはその祖師である「孔丘」の名と教える内容である「五常」と主な弟子である「顔回」、それに儒教で崇拝されている聖王の名を「文武等なり」として、周の文王・武王を代表として挙げている。道教の下にはその始祖として「老子」の名を挙げ、その教えの内容として儒教の「五常」に対して「仙教」と記している。最後の釈教については、仏教の教えが釈尊「一代五十年」の間に説かれたものであることを記している。
 「三教」について周王朝の最後の部分に入れているものは、三教とも周王朝の後半の東周の時期、言い換えれば春秋時代・戦国時代に形成された教えであることを示している。春秋・戦国時代といえば諸子百家の時代でもある。
 諸子百家というのは中国古代の諸学派とその著書群をまとめていうのであるが、これには儒家・道家・陰陽家・法家・墨家・縦横家・農家などを代表とする189家とその著書である4323篇が含まれている。
 その中から、後世、中国の人々の精神史の主流となる儒教と道教、これに中国にとって外来の釈教を加えて「三教」となるのである。この三教については、大聖人が図示されている第四章の部分で詳しく解説する。
第四昭王の御宇二十四年甲寅に当る五色の光気南北に亘る大史蘇由之を占う四月八日は仏の御誕生なり
 中国天台宗の相承の歴史を記した、中国栄代の志磐著になる仏祖統記巻34の法運通塞志第17の1に、仏の八相作仏の次第を中国の王朝の変遷と重ね合わせながら論ずるなか、仏の誕生を表す示降生=出胎、の項のところで周書異記の文を引用して次のように記している。
 「昭王の甲寅四月八日に江河池井氾溢し、宮殿大地振動す。五色の光気入って太微に貫き、西方に遍ず。王は大史蘇由に問うて曰く『若何なる祥ぞ』対えて曰く『大聖人あって西方に生ず、一千年の外、声教此に及ばん』と、王命じて石に鐫み、之の南郊の天祠前に置く」と。
 周・昭王の甲寅の年、川や池、井戸などの水が氾濫して溢れ、大地が振動して王の宮殿を揺さぶり、更に、五色の光が宮殿の隅々にまで行き渡ったが、特に西方に強かった。これを見た昭王が大史の蘇由に、これはいったい、いかなるめでたい兆しか、と問うたところ、蘇由は西方に大聖人が生誕した兆しであり、その聖人の声教は1000年の後に此の中国に及ぶでしょう、と答えたので、王はこの予言を石に刻ませた、と記している。
 更に、仏祖統記より古く、唐代の初めに法琳という人が著した破邪論にも、周祖異記の文として次のように引用されている。
 すなわち、「周の昭王の即位二十四年の甲寅の歳、四月八日、江河泉池、忽然として泛漲し、井水並びに皆、溢れ出づ。宮殿・人舎、山川・大地、威な悉く振動す。その夜、五色の光気入って太微を貫き、西方に遍く、尽く青紅の色を作す。周の昭王、大史蘇由に問うて曰く『是れ何の祥なりや』と、蘇由、対えてえ曰く『大聖人有って西方に生まる。故に此の瑞を現ず』と。昭王曰く『天下に於いて如何』と。蘇由の曰く『即時には他無きも一千年の外に、声教この土に被り及ばん』と。昭王、即ち人を遣わして石に鐫んで之を記す。埋めて南郊の天祠の前に在り、此の時に当たり、仏、初めて王宮に生まる」とある。
 この周書異記の内容は、日蓮大聖人も例えば開目抄に「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種動し雨ふらずして江河・井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり、昭王・大に驚き大史・蘇由・占つて云く『西方に聖人生れたり』昭王問て云く『此の国いか』答えて云く『事なし一千年の後に彼の聖言・此の国にわたつて衆生を利すべし』」(0225-18)とあるように、引用されている。
第五穆王の五十二年壬申に当る二月十五日御入滅 十二の虹南北に亘る大史扈多之を占う
 仏祖統紀巻三十四の法蓮通塞志第十七之一に、入涅槃の前後について述べたところで、周書異記の文を引用して、次のように記している。
 「穆王壬申歳二月十五日に暴風忽ちに起こり、屋を発き木を折り、山川振動し、西方に白虹十二道あって南北通貫す。王は大史扈多に問う。対えて曰く『西方の大聖人終亡の相なり』とある。
 ここでは周・穆王の壬申の2月15日、暴風が一瞬に起こって、王の住む宮殿の屋根を吹き払い、山や川が振動するとともに、西方に12の白い虹が南北にかかるという現象が起きたと記している。これを見た穆王が大史・扈多に現象の意味を問いただしたところ、扈多は西方に偉大な聖人が入滅した微であると答えたとしている。
 この大聖人が釈尊であることはいうまでもない。
 また、法琳の破邪論には周書異記の文を引用して「穆王の五十二年壬申の歳、二月十五日平旦に、暴風雨忽ち起こって、人舎を発損し、樹木を傷折し、山川・大地、皆悉く振動す。午後に天陰り、雲黒し。西方に白虹十二道有って南北に通過し、連夜に滅せず。穆王、大史扈多に問うて曰く『是れ何の微なりや』と。扈多、対えて曰く『西方に聖人滅度有り。衰相を現ずるのみ』と。穆王、大いに悦んで曰く『朕、常に彼を懼る。今、将に滅度せんとす。朕、何をか憂えんや』と。この時に当たり、仏は涅槃に入る」とある。同じ周書異記を引用しても、仏祖統記と破邪論とでは若干のニュアンスの違いがある。破邪論の方では穆王が仏の入滅を悦んであることが語られている。その理由として、穆王が仏をいつも畏怖していたので、その仏が入滅したことで何も恐れるものがいなくなり、憂える必要がなくなったと穆王自身に語らせている。
周書異記と仏の生滅年代について
 破邪論を著した法琳は弁証論巻六でも周書異記の文を注として記し、仏の誕生と入滅に当たる周の昭王と穆王の年月日を掲げている。
 すなわち「周書異記に云く『定王二十四年四月八日、江河泉池、悉く皆泛漲す。穆王五十二年二月十五日、暴風卒に起こり、樹林催折し、天陰り雲黒く、白虹の怪あり』と」と。
 ここには同じ周書異記からの引用であるとしても、先に引用したものよりもかなり省略されていることがわかる。
 さて、周書異記という書であが、日蓮大聖人も本書の名を月満御前御返事で「今日の仏生れさせまします時に三十二の不思議あり此の事周書の異記と云う文にしるし置けり」(1110-06)と紹介されている。
 また、創価学会版御書全集には収録されていないが、中山法華経寺に現存していた災難縁起由来には「周祖異記に云く『周の昭王二十四年甲寅の歳四月八日…穆王五十二年二月十五日』」とあって周書異記そのものの名を挙げて、仏の生誕と入滅の年代を記されている。
 次に、周書異記の書名を挙げていないが、智妙房御返事には「教主釈尊は住劫第九の減・人寿百歳の時・四月八日甲寅の日・中天竺に生れ給い・八十年を経て二月十五日壬申の日御入滅なり給う」(1286-07)とあり、仏の入滅年次について明らかに周書異記の記述をよりどころとする説を用いられたことが分かる。
 実際にこうした周書異記の、昭王の甲寅の年に仏の生誕、穆王の壬申の年に仏の入滅という説によった場合、仏の生滅の年代が西暦でいつごろになるかというと、干支で推定して西暦では1027B・Cとなり、入滅は0949B・Cになる。
 古来、日本の仏教界では、周書異記の記述によって仏滅を0949B・Cとし、これに正法1000年・像法1000年を加えると(-0949+1000+1000=1051)年となり、次の年、1052年、後冷泉天皇の永承7年から末法に入るとされてきたのである。
 日蓮大聖人も当然、この一般仏教界の通念にしたがって御自身の生きた時代を規定されてきた。
 しかし、近代の学問研究によって、周書異記という書そのものが後世に作られた偽書であるとの疑いが強い。例えば国訳一切経護教部4の周書異記についての注釈によると、この書は陏から唐の時代(6世紀~9世紀)ごろにかけて、当時の仏教徒によって作られたという。なぜ、このような書を作る必要があったかといえば、当時の仏教徒は中国固有の思想である儒教と道教思想、特に道教との間で、思想の優劣や成立の前後をめぐって激しい論争があり、その経過のなかで、仏教の成立を道教の始祖より、はるかに昔の時代に設定する必要性に迫られていた。
 そのためには、少なくとも、道教思想が成立した春秋時代(BC7世紀~BC2世紀)よりも前でなければならない。
 そこで、仏の生誕と入滅を両端とする生涯の80年を周王朝前半の昭王と穆王の間に設定して、仏教の成立をBC9世紀に置き、老子より2・300も先にもっていって、仏教の起源の古さを誇示しようとしたものと考えられる。
 ところで、更に、国訳一切経の注釈によると、隋から唐にかけて偽作された周書異記が現れるまでの中国の仏教界では、仏の西端年を春秋時代の魯国の荘公7年(0687B・C)とするのが通説であったという。
 なお、参考までに、今日では仏の生存年時を、0566~0488B・Cとする衆聖点記、0466~0386B・Cとする宇井伯寿氏説、0463~0363B・Cとする中村元氏説などがあり、約100年の差があるものの、だいたいBC4~5世紀にかけてのころとされている。
 したがって、周書異記によった伝統的年代とは約500年の隔たりがあることになる。この仏滅年代のズレによって、末法に入った年代が大きく5世紀もずれることになる。ただし、正法・像法の長さについても諸説あって、正法・像法のいずれかを500年とする説もあるから、それによれば、末法に入った時期のズレは解消されることになる。そのほかにもこの問題については幾多の議論があるが、煩雑になるので、ここでは略す。
 いずれにせよ、近代の歴史的手法からすると、周書異記の記述によって判断されていた日本の伝統的仏滅年代には疑問があるにしても、大聖人の仏教界の実態と当時の社会のありさまから、まさに末法に入ったと実感され、民衆の救済に立ち上られた宗教者としての価値はいささかも滅するものでないことを改めて確認しておきたい。

0603:01~0603:09 第三章 秦・漢の時代と仏教伝来を示すtop
0603
01    秦│  始 皇
02     │  次生皇  ┌儒教
03     │       ├道教
04     │ ┌三教───┴釈教
05    漢┴─│
06       ├前漢────十四代
07       │   仏の滅後一千一十五年に当るなり
08       │又周の第四の昭王二十四年より後漢の第二光武に至る一千一十五年に当るなり
09       ├後漢光武皇帝永平十年丁卯
10       └一千一十五年に当て摩騰迦竺法蘭の二人の聖人四十二生経 小乗教 十住断結経 大乗経を以て白馬
11        に負せて漢土に渡す
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    秦│  始 皇
     │  次生皇  ┌儒教
     │       ├道教
     │ ┌三教───┴釈教
    漢┴─│
       ├前漢は十四代、続いた。
       │仏の滅後、一千一十五年に当たる。
       │周の第四代・昭王の二十四年より後漢の第二代・光武帝に至る。仏滅後千一十五年に当たる。
       ├後漢の光武皇帝の永平十年丁卯
       └後千一十五年に当たる年に、摩騰迦と竺法蘭という二人の聖人が四十二生経という小乗教と、十住断結経という
        大乗経を白馬に背負わせて中国に渡す。


 (紀元前778年~紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、 戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡 した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。
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始皇
 (紀元前259年~紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年~紀元前221年。姓は嬴、氏は趙、諱は政。現代中国語では、秦始皇帝(拼音: Qín Shǐ Huángdì)、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した
―――
次生皇
 胡亥のこと。秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴。始皇帝の末子
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 中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。
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前漢
 (紀元前206年~8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。
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後漢
 (25年~ 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
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摩騰迦
 サンスクリットのカーシャパマータンガの音写。摩騰迦ともいう。インドの人で、大小乗の経典に通じており、後漢の明帝の時代に竺法蘭とともに中国に初めて仏教を伝えたとされる(『梁高僧伝』巻1)。
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竺法蘭
 サンスクリット名は不明。インドの人で、後漢の明帝の時代に迦葉摩騰とともに中国に初めて仏教を伝えたとされる。経典・論書数万章を暗誦し、インドの学者の師匠格だったという(『梁高僧伝』巻1)。
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小乗教
 小乗の教えを説いた経典のこと。
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十住断結経
 本来は後秦の竺仏念訳「最勝問菩薩十住除垢断結経」をいうが、後漢の竺法蘭訳の「十地断結経」をいうばあいもある。ともに華厳部の経典。
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大乗経
 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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 ここでは、広大な国土と人民を中国史上初めて組織的に帝国として統一した秦王朝と、これを発展させた漢の王朝が取り上げられる。仏法上は後漢の時代に中国で初めて仏教が伝来するという意義のある時代となる。
 本文の図表では秦の下に「始皇」と「次生皇」と記されている。「始皇」はいうまでもなく秦の始皇帝のことである。荘襄王の子で秦の第31代の王であり、名は政である。秦は戦国時代に頭角をあらわした7強国のひとつであったが、政の時に国力を増大して領土を拡大し、他の斉・燕・楚・韓・魏・趙の六国を次々と滅ぼし、ついに0221B・C、政は中国史上初めて帝国という組織体として統一した。そして、自らの権力を永久ならしめようとして、それまでの謚号を廃して、自ら始皇帝と称した。皇帝の号は以後長らく、中国の王呼び名となった。
 始皇帝は郡県制による中央集権制度を施き、度量衡の統一、文字や貨幣の統一を行い、更に北方の匈奴に対抗するために万里の長城を築くなど次々と統一の実をあげていったが、一方で、国家の思想のみを重視した思想統一を図るために、世に名高い焚書坑儒という弾圧を行ったり、人々に過酷な労働を課したため、民衆の反発を買って、統一後、わずか3代16年で滅亡している。
 次に「次生帝」とあるのは、秦の二世皇帝である胡亥のことである。
 さて「始皇帝」について開目抄では「秦の始皇の先祖・襄王と申せし王・神となりて始皇等を守護し給いし程に秦の始皇・大慢をなして三皇五帝の墳典をやき三聖の孝経等を失いしかば沛公と申す人・剣をもつて大蛇を切り死ぬ秦皇の氏神是なり、其の後秦の代ほどなくほろび候いぬ此れも又かくのごとし」(0581-16)とある。ここでは始皇帝の焚書坑儒に触れられている。秦は襄王の施策によって国が富んだのであったが始皇帝が増上慢になって三墳五典や儒教の聖典の一つである孝経などをやいてしまったので、あっけなく滅んでしまったとされている。
 ついで、「次生帝」の胡亥については奸臣の趙高との関連としてよく触れられている。曾谷殿御返事では「趙高が様に心おごれる臣下ありて太子をあなづれば身をほろぼす」(1058-04)とも「をおこすはこがいと申せし太子が趙高におどされ・ころされしが如し」(1058-07)とも仰せられ、中興入道消息では「二世王は趙高が讒言によりて李斯を失ひかへりて趙高が為に身をほろぼれ」(1334-10)とも述べられている。
 始皇帝の臣下であった宦宮・趙高は始皇帝の死の直前、宰相の李斯と謀らって始皇帝の偽りの遺書を捏造し、始皇帝の長子である扶蘇を自害させ、末子の胡亥を二世皇帝に据えたが、今度は趙高自らが王位に即こうとの野望を遂げようとして、季斯を殺し、次いで胡亥を自害に追い込んで殺している。これらの御書はこの史実に触れられたものである。
 更に、趙高は始皇帝の孫である子嬰を秦王に立てたが、一か月後にはその子嬰によって殺されている。このような奸臣の暗躍もあって秦はわずか15年で滅びてしまったのである。
三教について
 次に漢王朝に入る。本文の図表では、まず「三教」とあって、「儒教」「道教」「釈教」の三教の名が記されている。儒教・道教については漢より前に創始されているが、後漢の初めに仏教が伝来し、以降、この三教が中国の宗教・思想界における主要な流れを形成していたことを示されているのであろう。
 まず、「儒教」であるが、その始祖は孔子である。孔丘ともいい、字は仲尼。魯の曲阜に生まれた。時代としては春秋時代にあたる。春秋時代という呼び名自体が孔子の整理編纂した春秋という記録書に由来している。春秋はもともと魯国の史官が記録した編年体の記録であり、記録された期間は魯国の隠公元年から哀公14年獲麟の記事に至る間である。いわば魯国の年代記に孔子が自らの儒教の立場から批判、整理して編纂したのが春秋である。それゆえに、儒家では儒教の経典の一つとして尊重している。
 魯は始祖が周・武王の弟の周公旦であるところから、孔子は幼いころから魯に伝わる周の伝統文化を学び、特に周公旦を敬慕した。儒教の教えの一つである礼は周公旦によって立てられたとされている。
 儒教の教えは「五常」にまとめられる。五常とは常に変わらない五つの正しい道のことで、仁・義・礼・智・信の五つであり、これらは常に人間が守るべき行動の規範で、五倫ともいう。仁はすべてのものに親しみ、いつくしみ、思いやりをもつことであり、義は利害を捨てて道理にしたがい、人のために尽くすことであり、礼は人と交わるのに践み行うべき道であり、智はものごとを理解し、是・非、善・悪を立て分けることであり、信は言をたがえず、欺かないことである。
 大聖人は開目抄で儒教が外道の教えにすぎないことを明かされるなかで次のように説かれている。
 「現在にをひて仁義を制して身をまほり 国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、 此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」(0186-11)と。
 ここでは、儒教が仁義などの五常の徳目によって自らの身を守ることを基本に、家を治め、社会の秩序を安定させて国を安んずる教えであることを紹介されながらも、仏法からみれば、結局、現在のことだけが分かって、過去や未来のことが分からないから、父母・主君・師匠の後世を助けることができないので、恩知らずになると破られているのである。
 しかし、一方では儒教の教えを仏法に入るための導入門とされている。同じ開目抄で「孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く『仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく』等云云」(0187-01)とあるように、孔子自身が中国本土には賢人や聖人はいないが、西方のインドには仏図という聖人がいると述べているとして、このことは儒教が仏教に入るための初門である証拠とされてきたと述べられている。更に、具体的に、儒教によって礼儀や音楽、仁、義などの生活規範を人々に教えることが仏教の修行上の規範である戒・定・慧の三学を知りやすくするため役立ったとされ、礼楽等の儒教の教えが先に広まったことにより、その後、真実の道である仏教が弘通したのであるという妙楽大師の言葉を引用されている。
 また、崇峻天皇御書でも「但し五常と申すつはものあり此れを身に離し給わずば害を脱れ給はん、此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云」(1174-04)と仰せられて、儒教の規範である五常について大乗仏教の菩薩の修行である六波羅蜜の一つである忍辱波羅蜜に相当するものとされている。
 これらは、いずれも、儒教の教えを仏教に入るための導入門としてきた中国仏教者の考え方を踏まえられたのである。
 孔子の弟子に顔回がいる。孔子と同じ魯の生まれで字を子淵といい、名を回という。彼は孔子より30歳若かったが、求道の志の篤さと、理解の深さは弟子のなかで最高であったという。師より早く亡くなっているが、前述したように、老子、孔子とともに三聖の一人に数えられて後世の人々から尊崇された。
 次に「道教」であるが、道教はもともと中国の民族宗教であった。その起源は超能力を得た神や仙人になることをめざす神仙思想にあったが、これに陰陽五行説や卜筮などの所説が取り入れられ、更に老子・荘子などを代表とする道家の哲学や仏教の影響を受けて成立したのが道教である。以上の経過からみて、元来、民族宗教の特徴である特定の教祖や教説をもたない宗教であったが、後世、教団としての体裁を整えるなかで、老子を始祖として仰ぐようになったのである。
 なお、開目抄ではこれら孔子、老子、顔回の三人を、その本地は仏教の菩薩であるとする天台大師の止観と妙楽大師の止観輔行伝弘決の文を引用されている。「止観に云く『我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す』等云云、弘決に云く『清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す』等云云」(0187-05)と。
 このような三聖は仏から中国を化導するために遣わされた人々であるとする止観の文、それを更に具体的に、仏教における月光菩薩が中国では顔回となり、光浄菩薩が仲尼となり、迦葉菩薩が老子となったとする弘決の文は天台大師、妙楽大師が独自で言ったものではなく、当時の仏教界で言いならわされていたものであろうと考えられる。
 最後に「釈教」であるが、釈とは釈迦の略で、釈尊の説いた教えのことを「釈教」といい、したがって仏教のことである。東晋の道安が仏門に入ったものは皆平等であるとして「釈」を自分の姓につけて釈道安としたことから、仏教の出家修行者を釈氏、釈子、釈家などと中国では呼ぶようになったのである。いずれも仏子と同じ意味である。
 次いで「前漢」とあるのは、漢王朝が大きく前漢時代と後漢時代に分かれることからきている。なお、前漢と後漢との間には僅か十数年間しか続かなかった王莽による新時代がはさまっている。
 「前漢」の下に「十四代」とあるのは、劉邦によって秦を滅ぼして建国された前漢の王朝が王莽によって滅ぼされるまでの200余年の間に14代の皇帝が交代したことを記されている。ちなみに名を挙げてみると、高祖・恵帝・少帝恭・少帝弘・文帝・景帝・武帝・昭帝・宣帝・元帝・成帝・哀帝・平帝・孺子嬰の14人である。
 次に「仏の滅後一千一十五年に当るなり」「又周の第四の昭王二十四年より後漢の第二光武に至る一千一十五年に当るなり」「後漢光武皇帝永平十年丁卯」「十五年に当て摩騰迦竺法蘭の二人の聖人四十二生経小乗教十住断結経大乗経を以て白馬に負せて漢土に渡す」と記されているのは、いずれも中国に仏教が西方から伝来と時期とその様子について触れられているのである。
 すなわち、後漢の第二代・光武帝の治世の永平10年(0067)丁卯に、摩謄迦・竺法蘭の二人の聖人が四十二生経小乗教と十住断結経大乗教という仏典を白馬に乗せてやってきたのが中国に最初に仏教が伝来であるとしてここ記されているのである。その永平10年(0067)というのが仏の滅後から数えて1015年目になるのである。なお、小乗教の「四十二生経」といわれているのは「四十二章経」のことであり、また大乗教の「十住断結経」というのは「十地断結経」のことと考えられる。
仏教の中国への伝来年時について
 本文の図表で摩謄迦・竺法蘭の二人によって仏教の経典が後漢の永平10年(0067)という年に中国にもたらされたとあるのはあくまで国が正式に認定した公伝によって紹介されたものであって、それ以前からも非公式には漸次、到来していたであることは広く認められているところである。例えば、本文の図表で「秦・始皇」の名が記されていいることに関連していえば、仏祖統記巻三十四法運通塞志十七之一の秦の始皇の項に「四年、西域沙門室利房等の18人、仏教を齎して来化す。帝、其の異俗を以て之れを囚う。夜、丈六の金神有って戸を破り之れを出ず。帝、驚き、稽首して称謝し、厚礼を以て境出でしむ」とある。
 つまり、始皇帝の4年(0243B・C)の時に室利房を代表とする西域の沙門たち18人が仏教を伝えるために中国にやってきたが、始皇帝は彼らの風俗が異様なので捕らえて極に投じた。ところが、夜になって3.6mの金神が現れて獄を破り、彼らを救う姿を見て始皇帝も大いに驚き敬い、彼らを釈放したというのである。いかにも作り話のようであるが、秦の時代に何らかの伝来の事実があったことを伝えているのかもしれない。
 また、図表にある「前漢 十四代」の第七代武帝についても、仏像を礼拝したという説がある。同じ仏祖統記巻三十五法運通塞士十七之上には「四年、驃騎将軍霍去病、匈奴を討ち、焉耆山を過ぐること千余里。休屠王、天を祭り、金人を得。○霍去病、金人の長、丈余なるを獲たり、帝、以て大神となして甘泉宮において列し、香を焚き礼敬す」とある。なお、この文は魏書仏老志の記述から取られたものである。すなわち、元狩4年(0119B・C)という時に武帝は匈奴を討伐するために霍去病を派遣したのであるが、彼らは期待どおり匈奴を討った。その時、匈奴の王である休屠が礼拝していた金人を戦利品として獲得しこれを武帝に奉ったという。武帝はこの金人を甘泉宮に安置して朝夕焼香して礼拝したという。この金人が仏像であるから前漢の武帝もすでに仏教を知っていたとする説である。
 これらの話は、後の中国仏教徒たちが、中国における仏教の歴史の古さを強調しようとして作ったものと考えられるが、東西の交流の古さを考えれば、非公式の仏教伝来は、かなり溯るとするほうがむしろ妥当であろう。
 それはともかく、大聖人が当時、公伝として認められていた説にしたがって本書をはじめ諸御書で用いられているのは後漢の永平10年(0067)に正式に到来したとするものである。
 四条金吾殿御返事に次のように仰せられている。すなわち「漢土には後漢の第二の明帝.永平七年に金神の夢を見て博士蔡イン.王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重ありしかば」(1167-15)と。また、立正安国論では客人の言葉として「後漢の明帝は金人の夢を悟つて白馬の教を得」(0020-14とある。
 これらの記述は大聖人が仏祖統記巻三十五や歴代三宝記、開元釈教録などの記述に依られたものと考えられる。いま、仏祖統記の記述をみると、後漢の第二代皇帝・明帝は、永平7年(0064)という年に、金人が庭を飛んでいる夢を見たという。目覚めてその夢について臣下たちに質問したが、だれも答えられなかったなかで、太史の傅毅のみが次のように答えた、「周の昭王の時代に、西方に聖人が出現したが、その名を仏というと聞いている」と。
 これを聞いた明帝はさっそく、蔡愔や王遵ら18人を西域に遣わしたところ、彼らは大月氏国で摩謄迦・竺法蘭の二人と出会い、仏の立像および梵本経60万部を得た。そしてそれらを白馬に乗せて摩謄迦・竺法蘭とともに、都の洛陽に帰った。永平10年(0067)のことである。明帝は摩謄迦・竺法蘭の二人を鴻臚寺に迎え、翌年、洛陽の西に白馬寺を立てて崇めさせたという。摩謄迦はこの寺で四十二章経を漢訳したと記されている。
 しかして、今日では、この後漢・明帝の夢に見た話や仏教を西方に求めるために使節を派遣したこと、さらに白馬寺を建てて仏教を崇拝させたなどとのエピソードは、伝説の域を超えず、仏教が皇帝によって尊崇され迎えられたとすることによって、中国社会における仏教の立場を確かなものとする後世の創作ではないかとされている。
 また、その何よりの証拠は明帝が夢に見た金人のことを聞かれた時、太子・傳毅が周の昭王の時代に生まれた仏のことに触れていることである。前述したように、この仏の誕生の話は周書異記という偽書の疑いの強い書物に記されていたものであるから、それだけで今日からみて、明帝のエピソードは事実の根拠の乏しいものがある。
 なお、現在、確実視されている仏教伝来の年次は魏略という書に記されたもので、前漢末の12代哀帝の元寿元年(0002B・C)に、景蘆が大月氏国の使者・伊存から浮屠教、すなわち仏教を口授されたとある。いま一つは後漢書の巻七十二のなかに楚王英伝に記されたもので、明帝の異母弟で楚王であった英が日ごろ、老荘とともに仏教を信奉したという。この二つの記述が今のところ、歴史的な事実として認められているのであるが、仏教伝来の時代はしたがって紀元前後ということになり、前述の明帝の永平10年(0067)というエピソード自体は後世の創作によるとしても、仏教伝来の時期としては大きくはずれないことになる。
仏の滅後一千一十五年に当るなり
 この文は御真筆によると、後の「後漢光武皇帝永平十年丁卯」に対する注記となっている。つまり永平10年(0067B・C)丁卯の年が、周書異記を根拠に仏の入滅する年とされる「穆王五十二年壬申」から1015年に当たるという意味である。
 前述べのとおり(969+67=1016)年となる。一年の差は入滅年を入れるか入れないかの違いである。
 ともかく大聖人は1015年とされているのである。教機時国抄にも「教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る」(0438-01)とあり、中国への仏教伝来が1015年にあたるとされている。
 また撰時抄では「正法一千年の後・像法に入つて一十五年と申せしに仏法東に流れて漢土に入りにき」(0261-10)とあり、仏滅後の1015ということは正法1000年が過ぎ像法に入って15年経った年に当たると仰せられているのである 
 なお、本文の「後漢光武皇帝永平十年丁卯」の光武帝であるが、これは明帝の誤りであると思われる。前述の四条金吾殿御返事の記述や立正安国論の文でも「後漢の第二の明帝」(1167-15)「後漢の明帝」(0020-14)と述べられている。後漢の第一代皇帝は光武帝でその年号は建武中元であり、永平という年号は第二代明帝の時代である。
又周の第四の昭王二十四年より後漢の第二光武に至る一千一十五年に当るなり
 おそらく、本文注の中国公伝が「仏の滅後一千一十五年に当るなり」ということが、先の段で示された中国における歴史記録に当てはめるとどうなるかを付記しようとされたのであろう。
 ただし「周の第四の昭王二十四年」は釈尊の生誕の年であるから、もしそれからの年数であれば、1095年でなければならない。仮に1015年とすると、後漢光武帝の時代ではなく、王莽の時代になってしまう。「第五穆王の五十二年」の誤りと思われる。

0603:10~0603:15 第四章 魏・晋の時代と諸経典の到来を示すtop
12    魏────雙観経渡る
13        ┌正法華経十巻渡る─法護三蔵亘す
14     ┌西晋┴妙法華経渡る───七巻或は八巻 羅什三蔵亘す                       ・
15    晋┤  ┌三論宗渡る
16     └後秦┼阿弥陀経亘る
17        └華厳経亘る
-----―
   魏─── ─雙観経が渡る
        ┌正法華経十巻が渡る─竺・法護三蔵がわたす
     ┌西晋┴妙法蓮華経が渡る───七巻あるいは八巻 羅什三蔵が渡す
    晋┤  ┌三論宗が渡る
     └後秦┼阿弥陀経が渡る
        └華厳経が渡る


 (220年~265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。
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雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
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 (265年~420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋とも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。
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西晋
 司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年~316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。
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正法華経
 中国・西晋の大康7年(286年)、竺法護の訳。現存する3種の法華経の漢訳のうち最古のもの。10巻。
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法護三蔵
 竺法護のこと。239年~316年。中国・西晋の訳経僧。法華経の最初の漢訳である正法華経10巻(286年)の訳者。
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妙法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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羅什三蔵
 (344年~413年)。(一説に350年~409年)。サンスクリットのクマーラジーヴァの音写。中国・後秦の訳経僧。鳩摩羅什とも呼ばれる。インド出身の貴族である父・鳩摩羅琰(クマーラヤーナ)と亀茲国(クチャ)の王族である母との間に生まれ、諸国を遍歴して仏法を学ぶ。後秦の王・姚興に迎えられて長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、多くの訳経に従事した。訳経数は『開元釈教録』によると74部384巻にのぼり、代表的なものに妙法蓮華経・維摩経・大品般若経・『大智度論』などがある。その訳文は内容が秀抜で文体が簡潔なことから、後世まで重用された。前代の訳を古訳、後代の玄奘らの訳を新訳というのに対して、羅什らの訳は旧訳と呼ばれる。
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後秦
 (936年~946年)は、中国の王朝で、五代の一つである。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす。都は開封。前身の後唐と同様、突厥系沙陀族に近い部族の王朝である。
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三論宗
 竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
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阿弥陀経
 中国・後秦の鳩摩羅什訳。1巻。阿弥陀仏がいる極楽世界の様子を述べ、阿弥陀仏を一心に念ずることで極楽世界に生まれることができると説く。浄土三部経の一つ。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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 ここでは紀元前後に仏教が中国に伝来して以来、仏教の経典が次々と将来され、翻訳されていった時代を示されている。
 この時期の経典の漢訳は、インド・西域からの渡来僧によって進められた。特に著名なのは2世紀中頃の後漢の垣帝治世になされた安世高による四諦経・八正道経などの小乗教典と支婁迦讖による道行般若経や般若三昧経などの大乗経典である。
 その後漢が滅んだ後、魏・呉・蜀の三国鼎立時代に入るが、魏の勢力の優勢な時代が続いた後に、その三国が0265年に建国された西晋によって統一される。西晋による統一王朝の時代が30年間続いた後、北方から侵入してきた五胡と呼ばれる五種の遊牧民族すなわち匈奴・鮮卑・羯・氐・羌によって西晋時代は終わり、晋の一族は南下して東晋と名乗った。中国の北半は五胡によって建てられた趙・後趙・前秦・後秦・西秦・前燕・後燕・南燕・北燕・前涼・後涼・西涼・南涼・北涼・夏・成という16ヶ国が攻防を繰り広げた。
 このような激しい混乱期にあったが、本文の図表では、三国時代からは「魏」のみを記され、続いて「晋」が二つの時期に分かれて、前半は「西晋」後半は「東晋」となるところであるが、ここではあえて五胡16ヶ国から「後晋」のみを記されている。
 まず、「魏」であるが、その下に「雙観経渡る」と注記されている。双観経とは浄土三部経のなかの無量寿経二巻のことである。なぜ双観経かといえば、同じ三部経のなかの観無量寿経が一巻であるのに対して二巻からなるからである。
 仏祖統記巻三十五には「四年、中天竺沙門康僧鎧は、洛陽に至って無量儒教を訳す」とある。魏の嘉平4年とは西暦0252であり、この年に中インド出身の康僧鎧という訳経僧が洛陽に来て無量寿経を漢訳したと述べている。なお、大聖人は一代五時継図にも浄土宗の項で「雙観経二巻」(0664-06)と記されている。
 次いで「西晋」の時代には「正法華経十巻渡る─法護三蔵亘す」「妙法華経渡る───七巻或は八巻 羅什三蔵亘す」と注記されている。
 仏祖統記巻三十六には「七年、月氏の沙門竺法護は長安の青門に来って、正法華経及び涅槃宝蔵経等の二百十部を訳す」とある。
 西晋の太康7年とは西暦0286であり、この年、月氏人の末裔で敦煌生まれの竺法護が敦煌から長安に入って、正法華経十巻などを漢訳したとある。敦煌菩薩ともいわれる竺法護は多数の経典を訳出したが、大聖人はここで「正法華経十巻」の名のみを代表として注記されている。
 ところで「妙法華経渡る───七巻或は八巻 羅什三蔵亘す」という注記は御真筆では「後晋」の時代の下に置かれている。妙法蓮華経の翻訳者の羅什の王、姚興の庇護を受けて訳経に専念していたからである。
 西晋が滅んだのは0316であるから、羅什三蔵が生まれた0344年は西晋が滅んで約30年も経過していることをこの注記は当然のことながら「西晋」の下ではなく、「後秦」の下に置かれるべきである。
 このうち、妙法蓮華経と三論宗の依りどころとなった竜樹著の中論・十二門論、提婆菩薩著の百論の三つの論と阿弥陀経はいずれも羅什三蔵によって訳出され中国にもたらされた。
 華厳経は羅什と同時代にインドから中国にやってきた覚賢が東晋代に訳出した華厳経60巻のことで、三種の漢訳華厳経のなかでは六十華厳とも旧訳華厳とも呼ばれる。御書全集の「華厳経亘る」の注記は後秦の下に置かれているが、御真筆では晋から線を引かれて注記されている。また他の華厳は80巻の八十華厳、40巻の四十華厳とである。
妙法華経渡る───七巻或は八巻 羅什三蔵亘す
 羅什三蔵、すなわち鳩摩羅什は後秦の時代を代表する訳経僧である。羅什は後の唐代の玄奘とともに、仏教漢訳史上、二大訳聖とも呼ばれている。翻訳で優れるだけでなく幼時から仏法の研鑽に励んだ人であるだけに、名声が慕って多くの人材が集い、薫陶を受けたから、羅什が中国に来たことによって中国仏教はそれをはるかに超えた新しい時代を迎えている。
 羅什の父はインドの人で鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹、耆婆である。7歳の時、母とともに出家し、9歳から母とともにインド各地、西域諸国を遊歴し仏法を究め、外道と対論し、11歳にして、羅什を超える者はいないといわれるほどになった。
 20歳にして亀茲国に帰って大乗仏教の研究と弘通に尽くしたが、彼の名声は遠く漢土にまで及んでいた。前秦の符堅は羅什を獲得しようとして将軍・呂光に兵を与えて亀茲を討たせた。呂光は亀茲の王族を滅ぼして羅什を連れて帰ろうとしたが、その途中で、長安の都が陥落し前秦は滅び後秦が興ったことを聞いて、姑蔵に留まって独立し後涼という国を建てた。この後涼は前述した五胡十六国の一つである。
 こうして、羅什は後涼国に15年間も留められていたが、後秦の第二代姚興により後涼は討伐され、羅什は長安に招かれた。時は弘始3年(0401)、羅什、58歳であった。
 羅什はこの姚興によって国師の礼をもって迎えられ、西明閣、逍遥園を賜ってそこで訳行に従ったが、後には長安大寺を賜って、彼のもとに集まった多くの学僧を指導しつつ訳経を進めた。
 こうして弘始15年(0413)に70歳で亡くなるまで、12年間にわたる活躍で訳出された経典の数は出三蔵記集によれば35部294巻、開元釈教録によると、74部384巻にのぼっている。
 なかでも、代表的なものは本文の注記にもあったように、妙法蓮華経、中論・十二門論・百論の三論、阿弥陀経などの他に、維摩経、般若経、首楞厳経、大智度論、十住毘婆沙論、成実論などの論がある。
 特に妙法蓮華経の訳出については仏祖統記巻36に「五年、秦の羅什法師は逍遥園に於いて妙法蓮華経を訳す」とある。
 隆安5年とは0401年で、羅什が後秦の姚興によって長安に迎えられた年である。その年に賜ったと考えられる逍遥園で妙法蓮華経の漢訳を行ったと記されている。
 羅什の翻訳はそれまでと異なり、個人的な訳業ではなく国家的な事業として行われたために、さながら翻訳道場の観を呈していたという。羅什自身、抜群の語学力と仏教の哲理についての造詣のふかさによって、それまでの漢訳経典の誤りを正すとともに、彼の訳語は適切でかつ流麗なために、中国人にもよく理解できるものとなった。
 さて、注記には妙法蓮華経について「七巻或は八巻」と記されている。これに関しては唐の静秦の撰になる衆経目録巻二には「妙法蓮華経七巻或は八巻一百四十八紙後秦弘始年羅什訳」とあり、僧祐の撰になる出三蔵記集の録上巻二には鳩摩羅什が漢訳した35部294巻の経論名を挙げるなかで「新法華経七巻、弘始八年夏、長安大寺において訳出す」とある。
 また、唐の智昇の撰になる開元釈教録巻四では鳩摩羅什の訳出した74部384巻の経論名を挙げるなかで「妙法蓮華経八巻」と記している。
 以上に挙げた衆経目録、出三蔵記集、開元釈教録の記述に「七巻」「八巻」両方があるのは、妙法蓮華経を巻本するに際し七巻にした場合と八巻にした場合があったからである。なお、現在流布している妙法蓮華経は八巻であるが高麗本は七巻であるが両本に内容の相違はない。大聖人は、八巻本を用いられている。

0603:16~0604:11 第五章 南朝時代の仏教展開を記すtop
18    宋────観経亘る
19     ┌───大涅槃経亘る
20     │          一  二  三  四   五  六  七
21     │┌──三時四時五時 五時 一音 半満 三教 四宗 五宗 六宗
01    斉┼┤    江南なり 江北なり    0604
02     │└──南三北七の十師
03     └───曇鸞法師浄土宗を立つ
04     ┌───禅宗渡る 達摩大師なり
05     │┌──摂論亘る 南北
06    梁┼┴──地論亘る 南北
07     ├───別時意趣の法門出来す
08     └─末
09                   観音の化身なり道宣の感通伝に出ず                 ・
10         南岳大師亦恵思禅師と云う
11     ┌─始  ├六根浄の人日本の浄宮太子是なり
12   陳 ┤    └天台大師の御師なり
-----―
   宋────観経が亘る。
     ┌───大涅槃経が亘る。
     │┌──南三である。三時教・四時教・五時教を主張する。  
   斉┼└──北七である。五時 教(一)・一音教(二)・ 半満教(三)・ 三教(四)・ 四宗(五)・ 五宗(六)・ 六宗(七)。
    └───曇鸞法師が浄土宗を立てる。
     ┌───禅宗が渡る。開祖は達摩大師である。
     │┌──摂大乗論が亘る。江南と江北に。
    梁┼┴──十地論が亘る。江南と江北に。
     ├───別時意趣の法門が起こる。
    └─末
                   観音菩薩の化身である。そのことは道宣の感通伝に出ている。
         南岳大師、恵思禅師という。
    ┌─始  ├六根浄の人であり。日本の浄宮太子がその後身である。
   陳 ┤    └天台大師の師匠である。


 (960年~1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。
―――
観経
 中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
―――

 (紀元前1046年~紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(嬀斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は臨淄。
―――
大涅槃経
 大般涅槃経のこと。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
―――
三時
 南三北七のうち南地の一派である虎丘山の笈師による教判。諸経典を釈尊一代における三つの時期に分類して解釈した。①有相教。釈尊が成道してから12年間、阿含経などの三蔵教(小乗の教え)を説いて、有を見て得道することを明かしたこと。②無相教。空を見て得道することを明かしたこと。先の12年の有相教を説いた後から法華経まで。③常住教。釈尊が沙羅双樹の下で一切衆生に仏性があることや一闡提の成仏を明かしたことで、涅槃経にあたる。天台大師智顗が『法華玄義』巻10上に挙げている。
―――
四時
 南三北七のうち南地の一派である宗愛(白馬寺曇愛と大昌寺僧宗の二人とする説もある)による教判。諸経典を釈尊一代における四つの時期に分類して解釈した。虎丘山の笈師による三時教のうち、無相教と常住教の間に法華経を立てて同帰教(万善が同じく成仏という一果に帰着する教え)とする。すなわち、有相教・無相教・同帰教・常住教の四つ。天台大師智顗が『法華玄義』巻10上に挙げている。
―――
五時(南)
 南地の一派である定林寺の僧柔・慧次と道場寺の慧観による教判。宗愛(白馬寺曇愛と大昌寺僧宗の二人とする説もある)による四時教のうち、無相教と同帰教の間に維摩経・思益経を立てて褒貶抑揚教(小乗を貶し抑え、大乗を褒め宣揚する教え)としている。すなわち、有相教・無相教・褒貶抑揚教・同帰教・常住教の五つ。
―――
五時(北)
 北地の一派による教判。諸経典を頓教と漸教に分け、華厳経を頓教とした。漸教を①人天教(提謂波利経)②有相教(阿含経など)③無相教(維摩経・般若経など)④同帰教(法華経)⑤常住教(涅槃経)の五つに分けた。
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一音
 釈尊一代の教えはさまざまな説かれ方をするが、実は同一の音声つまり同一の教えから出たものであるとする立場。一音説法とも。維摩経巻上の仏国品第1には、仏は終始、同一の音声によって説法をするが、衆生の機根によって理解にさまざまな差異が生ずる(一音異解)とある。中国では教判の一種として用いられ、多種多様に分かれた仏教各派の諸説も帰するところ仏の一音であるとした。天台大師智顗の時代には、『法華玄義』巻10上で、南三北七のうち北地の禅師(未詳)の一人が一音教の教判を用いたとされる。
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半満
 天台大師智顗以前の時代、南三北七のうち北地の一派である菩提流支(?~527年、北インド出身の訳経僧)による教判。諸経典を釈尊一代に説かれたものとして、二つの時期に分類して解釈した。釈尊の成道から12年間説かれた小乗の教えを半字教とし、12年以後を満字教とする。天台大師が『法華玄義』巻10上に挙げている。
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三教
 天台大師智顗以前の時代、南三北七のうち一派である北地の禅師による教判。二種大乗とも。大乗の教えを有相・無相の2種に分け、①有相大乗は修行の段階とその功徳行相を説く華厳経・菩薩瓔珞本業経・大品般若経などの諸経とし、②無相大乗は衆生に仏性があると説く楞伽経・思益経などの諸経とした。天台大師が『法華玄義』巻10上に挙げている。(南三北七の十宗には、三教の名前は見当たらないが、他の宗派を当てはめるとこれが残るので、三教としておく)。
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四宗
 南三北七の北地の一派である地論宗南道派の慧光による教判。諸経論を4種に分類して解釈した。①因縁宗(毘曇)②仮名宗(成実)③誑相宗(般若・三論)④常宗(涅槃・華厳など)をいう。天台大師が『法華玄義』巻10上に挙げている。
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五宗
 天台大師智顗以前の時代、南三北七のうち北地の一派による教判。諸経論を5種の教えに分類して解釈した。慧光による四宗すなわち①因縁宗(毘曇)②仮名宗(成実)③誑相宗(般若・三論)④常宗(涅槃・華厳など)のほかに、さらに⑤法界宗(華厳経)を立てる。天台大師が『法華玄義』巻10上に挙げている。
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六宗
 天台大師智顗以前の時代、南三北七のうち北地の一派による教判。諸経論を6種の教えに分類して解釈した。慧光による四宗すなわち①因縁宗(毘曇)②仮名宗(成実)③誑相宗(般若・三論)④常宗(涅槃・華厳など)のほかに、⑤真宗(法華経)⑥円宗(大集経)を立てる。天台大師が『法華玄義』巻10上に挙げている。
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江南
 中国の揚子江以南の地域をいう。
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江北
 中国の揚子江以北の地域をいう。
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南三北七の十師
 天台大師が中国・南北時代に盛んに行われた仏教の教相判釈に関する整理した時の十師のこと。❶江南三師①虎岡山の岌師。②宗愛法師。③定林寺の僧柔・慧次。道成寺の慧観。❷河北七師④地論師。⑤菩提流支。⑥光統。⑦光統。⑧有人。⑨北地禅師。(二種大乗)⑩北地禅師(一音教)。
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曇鸞法師
 (476年~542年?)中国・南北朝時代の浄土教の祖師。著書に『往生論註』がある。
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浄土宗
 浄土宗ともいう。阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。
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 (502年~557年)。中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。
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禅宗
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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達摩大師
 5~6世紀、生没年不詳。菩提達磨はサンスクリットのボーディダルマの音写。達磨と略す。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ28代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国王の第3王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山少林寺で壁に向かって9年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという。
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摂論
 摂論宗のこと。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てられた宗派で、中国陳隋の世に広まったがのちに法相宗に包含された。日本には伝承されていない。
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南北
 江南と河北のこと。
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地論
 地論宗の事。天親菩薩の「十地経論」によって立てられた宗派。開祖は慧光。のちに華厳宗に吸収された。日本には伝承されていない。
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別時意趣
 今すぐには利益が得られないが、後になって別の時に利益が得られるかのように説法をすること。四意趣のひとつ。
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観音
 観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
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化身
 特定の衆生を救うために彼らに応じた姿を現した仏・菩薩。
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道宣
 596年~667年。中国・唐の僧。南山律師ともいう。南山律宗の祖師。律に詳しく、終南山(長安の南方)の豊徳寺に長く住んでいたので、彼の学派を南山律宗と呼ぶ。著書は広範にわたり、『四分律行事抄』などの律の研究書のほか、『大唐内典録』『続高僧伝』などがある。日本に授戒制度をもたらした鑑真は、その孫弟子にあたる。
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感通伝
 中国唐代南山宗の祖・道宣の撰述。戒律の事相等について天人との問答を記した書。寺の縁起やそれにまつわる奇縁や不可思議な事象に関するものが多い。
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南岳大師
 515年~577年。中国・南北朝時代の北斉の僧。慧思のこと。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、『立誓願文』(558年、大蘇山にて)を著した。この『立誓願文』には正法500年、像法1000年、末法1万年の三時説にたち、自身は末法の82年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著『法華経安楽行義』では、法華経安楽行品第14に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。【観音・南岳・聖徳太子】日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(604㌻)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(608㌻)とされている。
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恵思禅師
 南岳大師のこと。515年~577年。中国・南北朝時代の北斉の僧。慧思のこと。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、『立誓願文』(558年、大蘇山にて)を著した。この『立誓願文』には正法500年、像法1000年、末法1万年の三時説にたち、自身は末法の82年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著『法華経安楽行義』では、法華経安楽行品第14に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。【観音・南岳・聖徳太子】日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(604㌻)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(608㌻)とされている。
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六根浄
 六根清浄のこと。法華経の信仰と実践により、六根が清らかになることでもたらされる種々の功徳のこと。法華経法師功徳品第19に説かれる。六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚・認識器官のこと。これらが煩悩の影響を受けず、正しく働き、清らかになることを六根清浄という。
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浄宮太子
 聖徳太子のこと。574年~622年。飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている(「開目抄」、230㌻)。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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 ここからはいわゆる南北朝時代に入る。中国の北半分は遊牧民族に侵略され、五胡十六国が互いに覇を競う乱世となる。南方では北から逃れていた東晋の王朝がしばらく存続したが、劉裕がこれを倒して宋を建国した。0420年のことである。
 一方、北方では五胡十六国の争いのなかで次第に勢力を伸ばしていた北魏が0439年、ついに、混乱の北方の地を統一した。こうして、北方と南方とが再び対立しつつ、それぞれの王朝が交代するという南北朝時代を迎えるのである。
 まず、南朝の変遷をみると、劉栄、斉、梁、陳というように、ほとんど存続期間が50年に満たない王朝が興亡を繰り返す。他方の北朝は北魏が西魏と東魏に分裂し西魏は北周へ、東魏は北斉へと移り変わった後、北周を継いだ隋が強大化して統一を実現、この隋が0589年には南朝の隋をも滅ぼして中国全土の統一を達成するのである。南朝に栄が創建され、北朝を北魏が統一して以来、ほぼ150年間を南北朝時代というのである。
 本文の図表ではあえて北朝の変遷には触れられず、南朝の王朝交代を軸にされて、仏教の展開を俯瞰されている。南朝の歴代皇帝の多くが仏教に深い関心を寄せ、興隆に務めたためであろう。
 ちなみに、北朝でも仏教を重んじた皇帝もいたが「三武一宗の法難」といわれる中国史上の仏教迫害事件の四つのうち二つまでが北朝で起っている。三武とは北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武帝、一宗は後周の世周のことである。唐の武帝と後周の世宗を除く太武帝と武帝はいずれも北朝の王である。このため、この時代の仏教発展の舞台は、北朝の地よりも圧倒的に南朝の地域にあったので、北朝についてはあえて外れたのであろう。
 まず、「栄」の時代であるが、その下に「観経亘る」と注記されている。仏祖統記巻三十六には栄の文帝の治世、元嘉元年(0424)に、「西天の沙門畺良耶舎は観無量寿経仏教を訳す」と記されている。すなわち、西域からやってきた畺良耶舎、観無量寿仏経を訳したとある。
 次に、「斉」の時代に入ると、最初に「大涅槃経亘る」と注記されている。漢訳の大般涅槃経には主たるものに三種類あり、大乗のそれが三種、小乗のそれが一つである。
 大乗涅槃経は40巻のものと36巻のものと6巻のものとがある。40巻のものは北涼時代、曇無識が訳したもので北本といい、36巻のものは南朝の栄時代の慧観・慧厳・謝霊運の三人の共訳で南本といい、6巻ものは大般泥洹経の名で東晋時代の法顕によって漢訳された。次いで小乗涅槃経は3巻もので同じく東晋時代の法顕によって訳出されている。
 以上の訳出の経過からは涅槃経が「斉」の時代に漢訳されたということはいえない。むしろ、一つ前の王朝である「栄」に36巻のものが漢訳されているので、「栄」の時代の下に注記されてしかるべきであると考えられるが、御真筆を拝してもたしかに「斉」の下に記されている。では、大聖人がここで「大涅槃経亘る」とあえて注記されたのは、南朝時代の仏教の特徴の一つに涅槃経の研究と涅槃宗学派の興隆があるが、そのことをさされたものと考えられる。
 「栄」の時代に慧観・慧厳・謝霊運の3人の共訳で36巻ものの大乗・涅槃経が訳出された時、彼ら3人は東晋時代の法顕が訳出した6巻ものの大般泥洹経と曇無識訳の北本40巻と付け合わせて、より新しい涅槃経を作り出したのである。
 こうして、より完全な南本が訳出されたことで、南朝の統治する江南の地では涅槃経の研究が盛んになり、その学派が栄えたのである。特に盛んであったのが「斉」と次の「梁」の時代である。本文で「斉」の下に「大涅槃経亘る」の注記がほどこされたのは、以上のような涅槃経研究の興隆がこの時代から始まったことを示されているのであろう。
 次の注記には「三時四時五時 五時 一音 半満 三教 四宗 五宗 六宗」と「南三北七の十師」と併記されている。
 この部分は御真筆では併記ではなく「南三北七」に付けられた注記となっている。
 すなわち「南三」には江南なり、と「三時四時五時」の二つの注が記されており、「北七」の側には「江北なり」と、「五時」「一音」「半満」「三教」「四宗」「五宗」「六宗」の注記がある。なお「五時~六宗」には「一~七」の数字が付されており、これは北七の七師の数を確認されたものと見られる。
 「南三」は「三時・四時・五時」で三師を表しており、御真筆では更に「南三」と「北七」で合わせて「十師」という注が記されている。
 「斉」の時代の最後に「曇鸞法師浄土宗を立つ」とある。ここでの浄土宗は後の宗派の意味ではなく、学派の意味であることは前述した三論宗や涅槃宗と同じである。
 曇鸞は北魏から東魏にかけての人物であるから、むしろ北朝の僧というべきであるが、その活動の期間が南朝の「斉」の時代にあることから、あえてそれにはこだわらないで、名のみを記されたものと考えられる。
 更に「梁」の時代をみると、まず「禅宗渡る 達摩大師なり」とあり、ついで「摂論亘る 南北」「地論亘る 南北」と並記され、「別時意趣の法門出来す」と注されている。
 最後に「末」とあって、次の「隋」の時代の下の「始」と合わせて、梁の末から陳の初めにかけて活躍した南岳大師について、またその注が記されている。すなわち「南岳大師亦恵思禅師と云う」「観音の化身なり道宣の感通伝に出」「六根浄の人日本の浄宮太子是なり」「天台大師の御師なり」等の注記がある。
 さて「梁」の時代は、南朝時代の仏教の展開のなかで、最も興隆を極めた時代とされている。「梁」の時代は55年間続くが、そのうち48年もの間治めた武帝はその仏教信仰において中国の歴代の皇帝のなかで随一と讃えられている皇帝である。
 まず、中国禅宗の祖とされる達磨大師がインドから渡来して、梁の武帝と対面して禅を説いている。これが注記に「禅宗渡る 達摩大師なり」とある歴史的事実である。しかし、禅宗は梁の武帝の用いるところとならず、達磨は北魏崇山少林寺で修行しその生涯を終えている。
 次いで「梁」の時代に「摂論」と「地論」の二論が「南北」すなわち江南と河北の双方の地に流伝されたと注されている。
 「摂論」とは摂大乗論のことで、インドの論師・無著の著作である。その漢訳には北魏時代の仏陀扇多訳2巻、梁時代の真諦訳3巻、唐時代の玄奘訳3巻の三種類があるが、ここでは真諦訳のそれであることはいうまでもない。そして、この摂大乗論を依りどころとした摂論宗が興っている。また、「地論」には十地経論の略称で、インドの世親の著作である。これは北魏の菩提支流と勒那摩提によって漢訳された。この十地経論を依りどころとして地論宗が興っている。摂論宗も地論宗も、いずれも南北の地で盛んに研究・論議されている。ゆえに本文で「南北」と注記されたのである。
南三北七について
 中国仏教の特徴は西暦前後にはじめて到来してより、さまざまな経や論が釈尊自身の説法の次第やインドの中国史の展開とは関係なしにいわば雑然と訳経僧たちによって翻訳されもたらされたことにあり、それとともに、人々もまた、たまたま自分が巡りあった経こそ、仏陀の真意を書き記したものとして受け入れたところにある。
 このような種々雑多な経・論の将来が数世紀も続くと、同じ仏陀の説法としては互いに矛盾しあったり異なりがあったりすることに気がつき、どの経や論に説かれたものが仏陀の真意であるかを探求するようになるのもまた当然のことである。その結果、中国の仏教徒たちはそれぞれが信奉するどれか一つの経や論に仏陀の真意があるとして、それに基づいてその他の経や論を位置づけて、一つの体系のもとに整理・整頓する必要に迫られた、それがいわゆる教相判釈といわれるものである。教相というのは数えのすがたのことであり、仏陀が生涯に説いたさまざまな数えのすがたのことである。判釈とは仏陀の数えのすがたを説法の形式や順序、内容によって価値判断を加えていくことである。
 教相判釈が最も盛んになったのがこの南北朝の時代であり、後の天台大師は法華玄義巻十上で批判するために南三北七として整理し列挙している。
 「南三」は南地、すなわち江南の三師の教判のことで、「北七」は北地すなわち、河北の七師の教判のことである。
 法華玄義巻十上によると「南北の地は、通じて三種の教相を用う。一に頓・二に漸・三に不定なり」とある。
 江南の三師、河北の七師の教相判釈に共通しているのは頓教・漸教、不定教の三種類の教えのすがたを用いて、さまざまな経と論の価値判断を加えていく方法であるという。
 頓とは直ちに、即座に、の意味であることから、仏の衆生の機根に合わずに、直ちに自身の内なる悟りを説く方法で、法華玄義によれば華厳経がこれにあたるとしている。
 漸とは、次第に、の意味であることから、仏が衆生の機根に合わせて次第に導いていく説き方で、法華玄義によると仏は初めの12年間は小乗の人を化導するために、三蔵の阿含経を説き、次に大乗の人のために方等経・般若経・法華経・涅槃経などを説いたことをいう。
 最後に不定とは頓や漸の方法としては定まっていないが、しかも仏法とその常住を明かしている勝鬘経や金光明経などを説くことをいう。
 以上のように仏説に頓教・漸教・不定教の三種が説き方があるとするのは、南三北七の十師に共通しているが、江南の三師の違いは頓教と不定教は変わらないが、漸教のなかに、どの経典を入れるかによって生じてくるのである。その違いが「三時・四時・五時」という注記である。
 まず、三時とは虎丘山岌法師が立てたもので、漸教を有相教12年、無相教・常住教の三時に分類している。四時とは、宗愛法師がたてたもので、先の三時のなかの無相教から法華経を取り出して同帰教とし、無相教の次に置いたもので、有相・無相・同帰・常住の四時に立て分けている。
 更に、五時とは定林寺の僧柔・慧次の二人と道場寺の慧観らが立てたもので、先の四時のなかの無相教から方等の浄名経や思益経などを抑揚教として取り出して、無相教と同帰教の間に置いたので、有相・無相・抑揚・同帰・常住の五時に分けている。
 なお、一代五時継図では南三として「一虎丘の岌法師・二愛法師・三法雲法師 光宅寺の僧なり」(0670-14)と注記されており、特に五時を立てた師を光宅寺法雲とする説を取り上げておられる。
 次に江北の七師であるが「五時教(一)・一音教(二)・ 半満教(三)・ 三教(四)・ 四宗(五)・ 五宗(六)・ 六宗(七)」と示されている。
 まず、第一師は「五時」説の北地の地論師で、人天教・有相教・無相教・同帰教・常住教の五時を立てている。
 第二師は北地の禅師で、「一音」教を立てる。一音とは一つの音声のことで、仏の音声をさす。仏は常に同一の音声で説法するにもかかわらず、衆生の機根の違いによってさまざまな理解の相違が生ずるのであって、そこから釈尊一代の説法にはいろいろな種類があるにしても、たった一つの教えから出たものにすぎないとする教判である。
 第三師の北魏は菩提流支のことで「半満」すなわち、一代説法を半字数と満字数とに立て分けるものである。半字・満字とは教師が子供に字を教える時にまず字の半分を教えて、その後に完全な字を教えることから、仏の説法を字の教育にたとえたものである。
 仏は12年間は不完全な半文字である小乗の阿含経を教え、12年の後は完全な満字数である諸大乗経を教えたというものである。
 次いで第四師「三教」であるが、江北の七師の教判のなかには三教を立てたものはない。二教を立てた師には北地の禅師とされた人物がいる。北地の禅師には一音教を立てた人物と合わせて二人いることになるが、北地の禅師とされているだけで、名などは不明である
 玄義においては河北の七師の教として、
 「五時」「半満」「四宗」「五宗」「六宗」「二教」「一音」を挙げており本抄と比較すると、
 「五時」「半満」「四宗」「五宗」「六宗」「三教」「一音」となり本抄の「三教」は玄義の「二教」ということになる。
 さて、こちらの禅師は一代説法を有相大乗教と無相大乗教の二教に立て分けている。有相大乗教には華厳経・瓔珞経・大品般若経などを配し、無相大乗教には楞伽経・思益経を配している。
 第五師は光統律師慧光で「四宗」を立てる。四宗とは一代説法を因縁宗・仮名宗・誑相宗・常宗である。
 第六師は法華玄義巻十上では「有る師」とあるのみであるが、護身寺の自軌である。自軌は「五宗」を立てる。五宗は前の四宗の常宗から華厳経を取り出して法界宗と名づけて四宗に加えたものである。一代五時継図は北七の師の名を明かすなかで「護身の法師」(0670-15)としている。この護身の法師が護身寺の自軌である。
 最後の第七師も法華玄義巻十上では「有る人」とあるのみであるが、耆闍寺安廩のことである。安廩は「六宗」を立てている。
 六宗とは先の四宗を更に開いて真言と円宗を加えたものである。一代五時継図では六宗を立てた「耆闍の法師」(0760-16)としている。これは耆者寺安廩のことである。
 江北の七師については、江南の三師ほど共通してはいないが、北地の地論師などとあるように、本文の後の「梁」の時代の下に注記されている「地論亘る」の地論、すなわち、華厳経の十地品を解説した十地経論を盛んに研究する風土が江北には強い。そこから、おおむね、北地は華厳経を主たる経として教判が多かったと見てよいであろう。
 南三にしても北七にしても、法華経の価値を低くみる教判であったことは一致している。このため、後に天台大師はこれら南三北七の教判を厳しく批判しながら、一代説法のなかで法華経こそ最第一であるとする五時八教の教判を立てるのである。
別時意趣の法門出来す
 別時意趣の法門とは世親の摂大乗論釈巻五に出てくる四つの意趣の一つである。摂大乗論釈とは無著の摂大乗論に世親が解説を施したものである。本文ではこの文を「梁」の時代の下に注記されているが、御真筆を拝するとむしろ「摂論亘る 南北」「地論亘る 南北」の文として記されたものと考えられる、ここでは別時意趣の法門から出典していって「摂論亘る 南北」の注記としてとらえておきたい。
 さて、四つの意趣とは、仏は四種類の意向をもって説いたとするもので、それには平等意趣・別時意趣・別義意趣・衆生意楽意趣がある。その中から特に、ここで「別時意趣」を取り出されて注記されているのである。
 別時意趣は仏の別の意向は別の時にあるというもので、例えば、多宝如来の名を唱えると成仏できると仏が衆生に説く場合、それは仏が怠惰な衆生を励ますための方便として説いたのであって、成仏は一切の万行を終えてからの未来の別時にあるとする仏の本当の意向を隠して説いているのである。
 大聖人が特にこの別時の法門を取り出されて注記されたのは、爾前経の成仏論を破るための論拠として諸御書で用いられたことと関連があると考えられる。
 例えば、守護国家論では「華厳・方等・般若・観経等の速疾歴劫の往生成仏は無量義経の実義を以て之を検うるに無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども終に無上菩提を成ずることを得ず、乃至・険き逕を行くに留難多きが故にと云う経なり、往生成仏倶に別時意趣なり、大集・雙観経等の住滅の先後は皆随宜の一説なり、法華経に来らざる已前は彼の外道の説に同じ」(0047-09)とある。
 ここでは華厳・方等・般若・観経等の爾前経で説く往生や成仏は、たとえそれらが速疾であれ歴劫であれ、いずれも“別時意趣”であり、仏の方便にすぎないし、法華経以前の教えであるから、外道の説と同じであると説かれている。また「華厳経の如きは二乗界を隔つるが故に十界互具無し方等・般若の諸経は亦十界互具を許さず観経等の往生極楽も亦方便の往生なり成仏往生倶に法華経の如き往生に非ず皆別時意趣の生成仏なり」(0055-05)とあり、華厳・方等・般若・観経等で説く往生や成仏は十界互具を許していないゆえに別時意趣の、方便の成仏であると断定されている。こうして、爾前経の成仏往生が不可能であることを述べられている時に「別時意趣」という法門を用いられているのである。
 一方、同御書で「摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣・此等は皆訳者人師の誤りなり」(0045-16)とも仰せられている。つまり、摂論宗で法華経方便品第二の「一たび南無仏と称うれば、皆已に仏道を成じき」とある文までも別時意趣の仏の方便説であるとしていることについては、きっぱりと訳者の人師の誤りであると破折されている。
南岳大師亦恵思禅師と云う
 南岳大師は中国南朝の梁の末から陳の初めにかけて活躍した僧である。別名を慧思ともいう。彼は初め北斎の慧文について法華三昧を会得したが、その後も多くの師を尋ねて諸州を歩いた。梁の元帝承聖3年(0554)、慧思41歳の時、光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行っている。また、智顗等の弟子の育成にもあたっている。この文の脇書に「天台大師の御師なり」とあるのは、天台大師が大蘇山で南岳と出会い、弟子となって、やはり開悟に至ったことを記されているのである。
 慧思はその後、隋の光大2年(0568)、戦乱を避けて、大蘇山より南岳に移り、ここに止まって10余年余りの間もっぱら修行に打ち込んでいる。ここから南岳大師、南岳禅師ともいわれている。隋の太建9年(0577)に没している。
 また、この文の脇書に「六根浄の人日本の浄宮太子是なり」とある。ここで、大聖人は南岳大師を六根浄の人とされている。
 六根浄とは六根清浄のことで、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に具わる煩悩の汚れが清らかになることである。法華経の法師功徳品第十九では、法華経を受持し、音声を出して読み、暗誦し、人々に解脱し、書写するという受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行を行ずると六根清浄の功徳が得られるとしている。天台大師の立てた六即位の第四・相似即は仏の悟りに相似する位ということであるが、天台大師はこれを六根清浄の功徳を得る位としている。
 天台大師自身は入滅の時に、自分の位を観行五品の位としている。観行五品とは六即の第三位・観行即を五品に立て分けたもので、五品弟子位ともいう。ここで、大聖人が天台大師の師・南岳大師を「六根清浄の人」とされたのは、天台大師が六即の第三位、観行即に自ら規定を受けて、その師である南岳大師はそれより上の第四位、六根清浄位になると考えられたためであろう。次いで「日本の浄宮太子是なり」とある浄宮太子とは聖徳太子のことであり、本抄の後の「第三十二用明」の下に「聖徳太子は用明の御子也」という文があり、その注記に「南岳大師の後身なり」とある文と照らし合わせると、南岳大師が後に日本の聖徳太子として生まれたということを記されているのである。 
 皇円の著になる扶桑略記第三の敏達天皇の項に「六年丁酉六月廿二日。陳大建九年。南岳大師入寂之日に相当する也」とあり、敏達天皇の6年(0577)の6月22日が、中国陳代の大建9年に当たり、この日が南岳慧思大師の入寂の日であると記されている。その注記として「私に云く、今案ずるに聖徳太子は是南岳大師の後身也。鑑真和尚云く、南岳禅師の遷化の後、倭国の王子と託生し仏法を興隆し衆生を再度すると聞く。倭国の王子は聖徳太子也」とある。
 つぎに「観音の化身なり道宣の感通伝に出ず」の文について解説を加える。
 ここに道宣の感通伝とあるのは中国唐代の南山律宗の祖である道宣によって著述された律相感通伝のことである。南岳大師を観音の化身とすることについては、同じ中国唐代の僧祥に撰述になる法華伝記の巻二に於いて、天台大師智顗の伝記を述べる途中で、道宣律師の文が注記として挿入されている。
 いま、その文を必要なところのみ抽出して引用すると「宣律師、天に問うて曰く、陳国の思、隋国の顗、…昔、霊山に在って同じく法華を聴くと。昔、誰なるか審かならず、…答えて云く、…思は是れ観音、…顗は是れ薬王」とある。
 この文では、陳国の南岳大師慧思も、天台大師智顗もともに昔、霊鷲山に在って釈尊から法華経を聴いているが、南岳大師慧思は観音菩薩として、天台大師智顗は薬王菩薩として聴いたとしている。そこから、南岳慧思は観音の化身とするのである。
 南岳大師を観音の化身、天台大師を薬王の化身とするのは、天台宗では常識化していた説で、大聖人もこれらを用いられて、本抄のほかでも、観心本尊抄で「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり」(0253-11)と説かれ、また、当体義抄に「南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり」(0519-01)と説かれている。

0604:12~0605:03 第六章 隋の時代と天台大師の業績を示すtop
13   陳 ┤  ┌日本に伝教大師と生る
14     \ │  ┌ 亦智者と云い
15      天台大師┼ 亦智顗と云い
16     / │  └ 亦徳安と云う
17     │   └此の御時南三北七並びに前五百余年の人師三蔵所立の十師の義を破し始めて五時・八教・三観・六
18     │    即・十境・十乗を立て小釈迦と号す、進では天竺の論師にも超え退ては震旦の人師に勝るなり、玄
19    隋│    義の三に云く 故に章安大師の云く 「天竺の大論尚其の類に非ず震旦の人師何ぞ労しく語るに及
01     │    ばん此れ誇耀に非ず法相の然るのみ」 又智証大師授決集也云く「天台世に出で 仏意快く暢ぶ豈万
02     │    教再び世間に演るに非ずや」    0605
03     └─── 笈多と崛多の両三蔵添品法華経を渡す
-----―
   陳 ┤  ┌日本に伝教大師となって生まれる。
     \ │  ┌ また智者ともいう。
      天台大師┼ また智顗ともいう。
     / │  └ また徳安ともいう。
    │  └この時に南三北七、並びにそれ以前の五百余年の人師や三蔵が立てたとことの十師の義を破し、初めて五時・八教・
    │   三観・六即・十境・十乗の義を立て、小釈迦と称される。積極的にいえば、インドの論師にも超え、控えめにいって
    隋│   も中国人の人師よりも勝れている。法華玄義の巻三には、それゆえに章安大師は「インドの大論であっても、なお比
     │   べものにならない。中国の人師など、どうしてあれこれ語る必要があろうか。これは誇って言うのではない。法の内
     │   容か当然そうなるのである」と述べている。また智証大師は授決集で、「天台大師が世に出現して仏の意を明快に説
       │   き明かされた。どうして多くの仏の教えが再び世間に広まらないことがあろうか」と述べている。
     └── 達磨笈多と闍那崛多の二人の三蔵が添品法華経を渡す。


 (557年~589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。
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伝教大師
 767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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智者
 天台大師のこと。538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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智顗
 天台大師のこと。538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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徳安
 天台大師のこと。538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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前五百余年(像法の)
 中国に仏教が伝来した後漢の永平10年(0067)~陳の時代(0589)に至るまでの年数をいう。
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五時
 天台大師智顗による教判。諸経典の教えを釈尊一代で説かれたものとみなし、成道から入滅までの教えを内容によって五つの時期に分類し、矛盾なく理解しようとした。華厳時・阿含時(鹿苑時)・方等時・般若時・法華涅槃時をいう。①華厳時。釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。②阿含時。華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。③方等時。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。④般若時。鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。⑤法華涅槃時。マガダ国の霊鷲山と虚空会の二処三会で、8年間法華経を説き、大乗・小乗を超えて一切衆生が成仏できる真実の教えを開会した期間。また入滅直前に拘尸那城(クシナガラ)の西北の跋提河の沙羅双樹において涅槃経を説き、法華経の説法に漏れた人のために補足的に説法した期間。天台大師は、この五時を乳を精製する段階の五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)にあてはめ、醍醐味にあたる法華涅槃時の経が最高の教えであることを強調している。日蓮大聖人は「守護国家論」で、「大部の経大概是くの如し此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(40㌻)と述べられている。
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八教
 天台大師智顗が明かした教判を後代の天台宗が体系化したもの。法華経を中心に、諸経に説かれる教えを釈尊一代で説かれたものとして総合的に矛盾なく理解しようとした。化儀の四教と化法の四教を合わせて八教という。❶化儀の四教。①頓教(覚りの真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)③秘密教(仏は同一の説法を行うが、それを聞く衆生は互いにその存在を知らず、説法の理解に相違がある)④不定教(衆生は同一の場所で同一の内容の教えを聞き、互いにその存在を認識するが、教えの理解に相違がある)の四つ。❷化法の四教。①三蔵教。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。②通教。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。③別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。④円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。妙楽大師湛然は『止観輔行伝弘決』で、以上の四教のうち、蔵・通・別の三教には仏果の名はあるが、実際には仏果に至る人はいない(有教無人)と説く。また四教を五時に配すると、『法華玄義』では、第1の華厳時は円教に別教を兼ねて説くので兼、第2の阿含時はただ三蔵教のみを説くので但、第3の方等時は蔵通別円の四教を対比させて説くので対、第4の般若時は円教に通別をさしはさんで帯びて説くので帯、第5の法華涅槃時は純円とする。爾前の円が兼・対・帯であるのに対して法華の円は円独妙であるから、法華経を八教(化法の四教と化儀の四教)を超えて優れた超八醍醐の教えという。
―――
三観
 一心三観のこと。一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
―――
六即
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたもの。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。①理即。生命の本性(理)としては仏の境地をそなえているが、それが迷いと苦悩に覆われている段階。②名字即。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。③観行即。「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。④相似即は、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる段階。⑤分真即は、真理の一部分を体現している段階。⑥究竟即は、完全なる覚りに到達している段階。
―――
十境
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた10種の対境のこと。陰入界境・煩悩境・疾患境・業相境・魔事境・禅定境・諸見境・増上慢境・二乗境・菩提境をいう。
―――
十乗
 「観法」は「かんぼう」とも読む。天台大師智顗が『摩訶止観』で説いた瞑想法のこと。①観不可思議境②起慈悲心③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥修道品⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛という10種の観法(十乗観法)を立てている。
―――
小釈迦
 天台大師のこと。538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
天竺
 中国および日本で用いられたインドの古称。
―――
論師
 「論」を著して仏法を宣揚する人。例えば、正法時代の竜樹(ナーガールジュナ)、世親(天親、ヴァスバンドゥ)など。
―――
震旦
 真旦とも。中国の古い呼び名。古代インド人が中国を指したチーナスターナの音写語。
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人師
 論師に対する言葉。「経」「論」を解釈して人々を導く人のこと。例えば、像法時代の天台大師智顗、妙楽大師湛然などをさす。
―――
玄義
 天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
―――
章安大師
 561年~632年。中国・隋の僧。灌頂のこと。天台大師智顗の弟子。天台大師の講義をもとに『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』などを筆記・編纂した。主著に『涅槃経玄義』『涅槃経疏』がある。
―――
法相
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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智証大師
 814年~891年。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。円珍ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」(306㌻以下)などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
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授決集
 円珍(智証)の著作。2巻。円珍が留学中に良諝から受けた口伝の法門などを集成したもの。円珍の他の著作である『大日経指帰』から一転、法華経が一大円教であると説く(306,307㌻参照)。
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笈多
 中国隋代の訳教僧。南インドの出身。23歳で出家し各地を転教し、開皇10年(0590)長安に入った。大善禅寺にはいり、崛多とともに、添品法華経を著した。
―――
崛多
 中国隋代の訳教僧。北インド出身。開皇5年(0585)長安に入った。大善禅寺にはいり、崛多とともに、添品法華経を著した。
―――
添品法華経
 添品妙法蓮華経の略。法華経の漢訳の一つ。中国・隋の時代、仁寿元年(601年)に闍那崛多と達摩笈多が訳出した。ほぼ鳩摩羅什訳の妙法蓮華経に基づき、鳩摩羅什訳に欠けていた薬草喩品の後半などを増補したので添品法華経と呼ばれた。添品妙法蓮華経の略。法華経の漢訳の一つ。中国・隋の時代、仁寿元年(601年)に闍那崛多と達摩笈多が訳出した。ほぼ鳩摩羅什訳の妙法蓮華経に基づき、鳩摩羅什訳に欠けていた薬草喩品の後半などを増補したので添品法華経と呼ばれた。
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 ここから隋の時代に入る。隋は前述したように北朝から興った国である。高祖文帝は0589年に南朝の陳を滅ぼして天下を統一している。この事業によって東晋以来、約260年以上に及ぶ南北の分裂と抗争に終止符がうたれた。しかし、隋王朝の期間は次の唐の高祖によって0619年に滅ぼされるまでの僅か40年足らずでしかなかった。
 とはいえ、統一国家としての基盤を確固たるものとするため、また特に二代煬帝の派手好きな性格から大規模な土木事業を行って国費を使う一方、その統一国家を支える精神的な基盤として仏教を尊崇している。しかも、南岳大師・天台大師の出現によって、それまでのインド・西域の仏教を一方的に受容する段階からようやく脱皮して、中国独自の仏教として発展の深化を見ることになるのである。これが隋時代の仏教の特徴といってよい。
 したがって、本文の図表でも「隋」の下には「天台大師」に関する注記と「笈多と崛多の両三蔵添品法華経を渡す」との注しか施されておらず、ほとんどは「天台大師」に関する記述で満たされている。
 まず、「天台大師」に関する注記であるが、図表で「陳」と「隋」との間に「天台大師」が置かれているのは、天台大師が梁の時代に生まれ、陳から隋にかけて活躍しているからである。その「天台大師」の注には「日本に伝教大師と生る」とあり、さらに、「亦智者と云い」「亦智顗と云い 」「亦徳安と云う」の三つの注が併記され「此の御時南三北七並びに前五百余年の人師三蔵所立の十師の義を破し始めて五時・八教・三観・六即・十境・十乗を立て小釈迦と号す、進では天竺の論師にも超え退ては震旦の人師に勝るなり、玄義の三に云く故に章安大師の云く「天竺の大論尚其の類に非ず震旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然るのみ」又智証大師授決集也云く「天台世に出で 仏意快く暢ぶ豈万教再び世間に演るに非ずや」という天台大師を賛嘆する文を挙げられている。
日本に伝教大師と生る
 本章の後の伝教大師のところで「天台の後身なり」と注記されていることと照らし合わせると、日本の天台宗の開祖である伝教大師が天台大師智顗の後身であると信じられていたことは明らかである。
 立正観抄には「夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け・今漢土に在ては天台と名け・日本国の中にては伝教と名く」(0530-04)と明確に仰せられ、義浄房御書には「就中く伝教大師は天台の後身にて渡らせ給へども」(0892-03)と仰せられている。
此の御時南三北七並びに前五百余年の人師三蔵所立の十師の義を破し始めて五時・八教・三観・六即・十境・十乗を立て小釈迦と号す
 天台大師の業績を簡潔に述べられた注記である。
 南三北七については既に解説したが「前五百余年の人師三蔵所立の十師の義」とあるのは南三北七をより詳しく述べられたものである。「前五百余年」というのは、仏教が中国に公式に伝来したとされる後漢の永平10年(0067)から隋時代までの500余年間のことをいう。この間に活躍した人師や三蔵たちの代表的な10師が南三北七と分類された10人の派祖である。
 天台大師はこの10師の立てた教判に対して、法華経を釈尊一代の究極の経とする「五時・八教」の教相判釈を立てたのである。前述したとおり、南三北七の教判の特徴は、一言でいえば華厳経や涅槃経を特別な経典として尊重し、法華経をそれらの下に置くものである。天台大師智顗はこれらの教判を破折して、法華経を究極の経とする立場の教判を確立したのである。それが「五時」である。
 それまで特別の地位に置かれていた華厳経を五時のなかの第一時・華厳経と位置づけている。そして第二時・阿含経、第三時・方等時、第四時・般若時、第五時・法華涅槃時と順次、五時を立てるのである。涅槃経については第五時・法華涅槃時に置いている。涅槃経が最後に置かれているのは、いかにも涅槃経を究極とするようであるが、そうではなく、第五時の法華経までの間の説法をもう一度繰り返して、それまでの説法で救えなかった衆生を救う“落ち穂拾い”の役割であったとするのである。
 次に「八教」であるが、それまでの南三北七の教判では頓・漸・不定の三教しかなかったのに対して、天台大師は「八教」を立てている。
 八教とは化儀の四教と化法の四教とからなる。化儀の四教とは“化儀”という言葉や形式や儀式、方法をさすように、仏が衆生を教化し導いていく形式、つまり説法の方法に、頓教・漸教・秘密教・不定教の四教あるということである。南三北七の10師が用いた頓・漸・不定の三教は、この四教の中に織り込まれている。
 化法の四教とは、化儀の四教があくまで形式面を立て分けたものであったのに対し、教理の内容によって分類されたもので、蔵教・通教・別教・円教の四教のことである。化法の四教を薬の成分とすると、化儀の四教は薬の調合法あるいは服用のさせ方にたとえられる。
 この八教の立て分けで一切経のそれぞれを位置づけることによって、天台大師は法華経こそ釈尊の極説に位置づけられるとする教判を樹立したのである。
 次に「三観・六即・十境・十乗」とあるのは、「五時・八教」があくまで仏の経典を判別する基準であったのに対し、修行し悟っていくべき中身について立てたものである。
 「三観」とは三種の観法のことである。当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(0512-10)とある。
 ここで「三観・三諦・即一身に顕われ」と説かれているように、三観は三諦と一対で用いられていることが多い。観が観法の実践主体となれば、諦は観法される真理ということができる。天台の仏法では諦に三つの面があり、それが空諦・仮諦・中諦の三諦である。この三諦の真理を観法するのであるが、空諦を観法するのが空観、仮諦を観法するのが仮観、中諦を観法するのが中観である。この三諦をそれぞれ別々に観法するのではなく、修行の主体に一挙に観法するのが法華経円教の修行であるが、これを一心三観という。ここでの三観はこの一心三観を略したものである。
 次の「六即」は法華経円教の修行における六種の位をさす。
 すなわち理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即である。この六即の立て分けには両面が含意されている。一つは、このように六つに区別される面で理・名字・観行・相似・分真・究竟というように、最低の位・理から最高の位・究竟に至る順序次第として示されている。と同時に、これらいずれにも「即」の呼称がつけられている面である。
 これは、六つの段階を立てることによってまだ位が低いのに悟ったと錯覚する増上慢を砕き、「即」によって一向に修行の位が上がらない者が卑屈に陥るのを防ぐ意義がある。
 次いで「十境・十乗」であるが、これは天台大師の著である摩訶止観巻五上から同巻十下の正修止観に説かれている。
 十章抄には「止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一 念三千此れよりはじまる」(1274-02)とある。
 ここにも説かれているように、摩訶止観十巻のうち、その半分が正修止観、すなわち、正しく止観を修行するという実践に関する記述に費やされている。
 その実践修行とうのが「十境・十乗」の観法である。まず「十境」であるが、観法の対象である十の境界をいう。すなわち、一陰界入境・二煩悩境・三病患境・四業相境・五魔事境・六禅定境・七諸見境・八増上慢境・九二乗境・十菩薩境の十境である。次に「十乗」とは止観を修行する側の十種類の観じ方である。これには、一観不思議境・二起慈悲心・三巧安止観・四破法遍・五識通塞・六修道品・七対治助開・八知次位・九能安忍・十無法愛の十の観法である。
 先の「十境」が観法される対境であるところから所観というのに対し、「十乗」は観法する衆生の側であるから能観という。所観の十境のそれぞれの対象に対して、十種類の観法を行うので、100種類になってこれを百法成乗という。
 摩訶止観ではまず、最初に行うべきは十境の第一・陰界入境を対象として十乗観法の第一・観不思議境を観ずる行から説いている。陰界入とは五陰・十八界・十二入の略であり、修行する主体と四囲の環境と接触し交流しているだれもが経験している日常の現実である。このなかから、特に、主体の心を対象として、その一念に三千の諸法が具わっているという不思議な世界を観じていく観法が観不思議境である。
 上根の機根の者はここで一念三千の不思議境を観じて観法の目的を達成してしまい、以下九境、九界を適用する必要はないのであるが、中根・下根の者は観法の目的を達成するために障害となっている事柄を克服するために、煩悩境以下の九つの対境を起慈悲心以下の九つの観法を行じていくのである。例えば、主体の心を対境として観不思議境の観法を行じて、煩悩が生じてきた場合、その煩悩を観法の対境とするとか、主体のなかに衆生への慈悲心が不足している場合は起慈悲心の観法を行ずるといった具合である。
 ともあれ、この天台大師の止観によって中国仏教は、当時すでに衰退期に入っていたインドの仏教を遥かに凌駕するにいたったといえる。

0605:04~0605:12 第七章 唐・栄の時代と諸宗派の成立示すtop
04     ┌─── 道綽善導此の世に在り
05     ├─── 華厳宗
06     │    後漢の世自り唐の神武皇帝の開元十八年庚申に至る 六百六十四載に渡す所の経律論五千四十八巻
07    唐┤    訳者百七十六人なり妙楽は是の世の人なり
08     ├─── 法相宗は玄奘三蔵西天自り之を渡す
09     ├─── 真言宗は善無畏三蔵・金剛智三蔵之を渡す
10     └─── 法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず・妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず・又日本国
11             の伝教慈覚智証之を諍う
12    宋
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     ┌─── 道綽と善導ははこの時代にいた。
     ├─── 華厳宗が起こった。
    │    後漢の世から唐の神武皇帝の開元十八年庚申に至る六百六十四年間に渡った律・律・論は五千四十八巻で、訳者
    唐┤    百七十六人である。
       │    妙楽大師はこの時代の人である。
    ├─── 法相宗は玄奘三蔵がインドから渡す。
     ├─── 真言宗は善無畏三蔵・金剛智三蔵が渡す。
     └─── 法相宗と真言宗の二宗は、天台大師はこれを見ていない。妙楽大師はこの二宗を見て天台宗と対比して勝劣を論
         ずる。また日本国の伝教大師・慈覚・智証もその勝劣を争う。
    宋


 (618年~907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。
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道綽
 562年~645年。中国・隋から唐にかけての浄土教の祖師。はじめ涅槃経に傾倒していたが、曇鸞の碑文を見て改心して浄土教に帰依した。釈尊の教えを浄土門とそれ以外の聖道門とに分け、聖道門を誹謗した。弟子に善導がいる。主著に『安楽集』がある。▷
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善導
 613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
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華厳宗
 華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240年~1321年)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。
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神武皇帝
 日本神話に登場する人物。『古事記』『日本書紀』では、日本の神の系譜を継いで人間として初代天皇となり、神代と人代をつなぐ皇統の祖とされる。御書中でも神武以降の皇統は「人王」と呼ばれ、神代と区別される。日向(宮崎県)から東征し長髄彦を破って大和地方を平定し、橿原宮(奈良県橿原市)で即位した。この大和平定の物語は建国神話として有名で、これに基づけば即位年は紀元前660年とされる。▷日本神話に登場する人物。『古事記』『日本書紀』では、日本の神の系譜を継いで人間として初代天皇となり、神代と人代をつなぐ皇統の祖とされる。御書中でも神武以降の皇統は「人王」と呼ばれ、神代と区別される。日向(宮崎県)から東征し長髄彦を破って大和地方を平定し、橿原宮(奈良県橿原市)で即位した。この大和平定の物語は建国神話として有名で、これに基づけば即位年は紀元前660年とされる。▷日本神話に登場する人物。『古事記』『日本書紀』では、日本の神の系譜を継いで人間として初代天皇となり、神代と人代をつなぐ皇統の祖とされる。御書中でも神武以降の皇統は「人王」と呼ばれ、神代と区別される。日向(宮崎県)から東征し長髄彦を破って大和地方を平定し、橿原宮(奈良県橿原市)で即位した。この大和平定の物語は建国神話として有名で、これに基づけば即位年は紀元前660年とされる。
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妙楽
 711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる。
―――
法相宗
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
―――
玄奘
  602年~664年(生年には600年説など諸説がある)。中国・唐の初期の僧。唯識思想を究めようとインドへ経典を求めて旅し、多くの経典を伝えるとともに翻訳を一新した。彼以後の漢訳仏典を新訳といい、それ以前の旧訳と区別される。主著に旅行記『大唐西域記』がある。弟子の基(慈恩)が立てた法相宗で祖とされる。後世、経・律・論の三つ(三蔵)に通暁している訳経僧としてたたえられ、「玄奘三蔵」「三蔵法師」と通称されるようになった。602年~664年(生年には600年説など諸説がある)。中国・唐の初期の僧。唯識思想を究めようとインドへ経典を求めて旅し、多くの経典を伝えるとともに翻訳を一新した。彼以後の漢訳仏典を新訳といい、それ以前の旧訳と区別される。主著に旅行記『大唐西域記』がある。弟子の基(慈恩)が立てた法相宗で祖とされる。後世、経・律・論の三つ(三蔵)に通暁している訳経僧としてたたえられ、「玄奘三蔵」「三蔵法師」と通称されるようになった。
―――
西天
 インドのこと。
―――
真言宗
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
―――
善無畏三蔵
 637年~735年。東インドの王族出身の密教僧。唐に渡り、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)を翻訳し、本格的な密教を初めて中国に伝えた。主著に『大日経疏』がある。
―――
金剛智三蔵
 671年~741年。サンスクリットのヴァジラボーディの訳。中インドあるいは南インド(デカン高原以南)出身の密教僧。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂瑜伽中略出念誦経)などを訳し、中国に初めて金剛頂経系統の密教をもたらした。弟子に不空、一行がいる。
―――
天台宗
 法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。
―――
慈覚
 794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。円仁ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(281㌻、305㌻以下など)。
―――

 (960年 ~1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる[1]。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。
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 ここでは唐の時代と栄の時代における中国仏教の展開を示されている。
 唐は隋の中央集権的な統一国家を引き継ぎ、更に推し進めたので、全体としては平和の時代であったといえる。そのため、文化や芸術が栄えた時代であり、その傾向は次の栄の時代にも引き継がれたといえるであろう。
 こうした時代の中で、隋時代から始まった中国固有の仏教の成立と展開が更にすすむこととなる。浄土教・華厳宗・法相宗・真言宗・禅宗などの諸宗が成立したのもこの時代である。
 本文の図表では「唐」の時代の下に、「道綽善導此の世に在り」と注記されていて浄土宗の興起を示され、「華厳宗」と記されて華厳宗の成立を示されている。更に「後漢の世自り唐の神武皇帝の開元十八年庚申に至る 六百六十四載に渡す所の経律論五千四十八巻訳者百七十六人なり妙楽は是の世の人なり」と注されている。この時代の智昇によって撰述された開元釈教録には、訳者・176人によって伝訳された経律論が時代順に分類されており、また同じく智昇による開元釈教録略出には、8048巻の訳出された経律論が録出されている。なお「妙楽は是の世の人なり」と、天台宗の中興の祖とされる妙楽大師もこの時代の人であることを注記されているが、御真筆を拝すると、開元録に触れられた注記とは別々のところに記されている。妙楽大師は開元釈教録が作成された0730より後に活躍した人であり、別の注とするのが妥当である。
 次いで「法相宗は玄奘三蔵西天自り之を渡す」と注され、玄奘三蔵がインドから持ち帰って漢訳した成唯識論に基づいて法相宗が成立したことを示されている。
 「真言宗は善無畏三蔵・金剛智三蔵之を渡す」との注記は真言宗が唐の時代にインドから渡来した善無畏三蔵によって漢訳された大毘盧遮那成仏神変加持経や同じく金剛智三蔵によって漢訳された金剛頂瑜伽中略出誦経などに基づいて成立したことを述べられている。
 最後の注に「法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず・妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず・又日本国伝教慈覚智証之を諍う」とある。
 法相宗と真言宗の二宗は天台大師の入滅後に成立したものであるので「天台之を見ず」と注されている。しかし、後の妙楽大師はこの二宗が伝来した後の人なので、自ら天台宗と比較相対して、その勝劣を論じたと記され、日本では、伝教大師・慈覚・智証が法相・真言と法華涅槃の勝劣をめぐって論議を展開していると仰せられている。
 栄については、名称のみで、具体的な問題には全く触れられていない。既に日本でいえば平安朝中ごろに中国では唐王朝は滅び、栄王朝の世になっていたが、栄が中国全土を治めたのは短期間で、西方から遊牧民族が相次いで侵入してきたために、栄は南に押し込められた。
 特に蒙古族は中国のほとんど全土を支配したばかりか、はるかヨーロッパの西の境界にまで勢力を拡げており、栄王朝は大聖人の御在世当時、わずかな土地で命脈を保つのみであった。それも1276年、日本でいえば弘安2年についに都の臨安が陥落し、1279年に栄朝は滅亡するのである。
 栄代は文学・芸術面で、繊細で洗練されたものを生み出したが、仏教の教義面では既に新しい展開はなくなる。ただ北方と西方から侵略されつづけたため、仏教僧で海を渡り日本にやってきて、さまざまな影響を与えた人々がいる。その一人が鎌倉仏教界を代表する人物として名を残し、大聖人も十一通御書の一つを送って破折されている道隆である。その意味では「栄」も日本仏教からすれば無視できない存在であったが、教義的に新しく取り上げ注目し、あるいは破折しなければならないものは生み出されなかったので「栄」王朝名を記するにとどめたのであろうと考えられる。

0605:12~0606:03 第八章 天台・妙楽の釈を引いて評すtop
13   天台の玄義の十に 南北の十師を破して云く「但聖意幽隠にして教法弥難し、 前代の諸師或は粗名匠に承け或
14   は思い袖衿より出ず 阡陌縦横なりと雖も孰か是なるを知ること莫し、 然るに義雙立せず理両存すること無し
15   若し深く所以有り 復修多羅と合する者は録して而て之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず」 籤の十に云く
16   「一として全く是なること無きを以ての故に一一に難破す」玄の三に云く「軽慢止まざれば舌口中に爛る」又云
17   く「法華は衆経を総括す」籤の三に云く「已法華已前華阿方般等の一切経今無量義経なり当涅槃経等の法華已後
18   の一切経なりの妙ココに於て固く迷えば舌爛れて止まざるも猶華報と為す謗法の罪苦長劫に流る」南三北七並び
0606
01   に華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の弘法等は法華経よりも華厳経を勝るとするなり、 又三論の嘉祥は法華経より
02   も般若経を勝るとす、又法相の慈恩等は 法華経よりも深密経を勝るとす、 又真言宗の善無畏三蔵・金剛智三
03   蔵・不空三蔵等は法華経よりも大日経を勝るとするなり、此等の宗宗の相違如何相違如何。
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 天台大師の法華玄義巻十に南三北七の十師を破して「ただし聖人の意は奥深く隠されているので、それを伝えようとする教えはますます難しくなる。そこから前代の諸師は、聖意についてあらあらの解釈を名匠から受け継いだり、あるいは自分の考えを胸のうちから出したりしてきた。その結果、多くの道が縦横に通ったけれども、どれが正しい道かを知ることができない。しかしながら、義は並び立たず、理は二つ存在することはない。もし深い理由があって、また経典と合致するものは記録して用い、経文になく義もないものは信受すべきでない」とある。法華玄義釈籤の巻十には「一つとして全く正しいということがないゆえに、それぞれに論難し破折するのである」とある。法華玄義巻三には「おごり軽んずることを止めなかったので、舌の中でただれたのである」とあり、また「法華経はもろもろの経を総括している」とある。法華玄義釈籤の巻三には「已・今・当の深妙の義に対して、ここで固く迷ったために舌が爛れてやまないのであるが、まだこれは来世の果報の前兆として現世に受けている報いである。謗法の罪の苦しみは永劫に続くのである」とある。
 南三北七並びに華厳宗の法蔵・澄観や真言宗の弘法等は、法華経よりも華厳経が勝れるとしている。また論の嘉祥は、法華経より般若経が勝れるとする。また法相の慈恩等は、法華経よりも深密経が勝れるとする。また真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は法華経よりも大日経が勝れるとしている。これらの宗々の相違はどうなのか。相違はどうなのか。

袖衿
 衣類の袖と襟のこと。転じて衣服の中から取り出すこと。胸の内から取り出すこと。
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阡陌
 あぜ道が張り巡らされていること。「阡」は南北に通じて いる道路。「陌」は東西に通じている道路。「阡陌」は道路、あぜ道のこと。または、道が 張り巡らされていること。「交通」はどこへでも通じている道のこと。
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修多羅
 サンスクリットのスートラの音写で、仏の説いた経。
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 法華玄義釈籤のこと。妙楽大師湛然による『法華玄義』の注釈書。10巻(または20巻)。
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 法華玄義のこと。天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
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法華
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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華阿方般
釈尊50年の説法のうち、法華部を除く、華厳・阿含・方等・般若部のこと。
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無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
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涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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華報
 未来に受ける果に対して、その前兆として受ける報い、現証のこと。
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長劫
 極めて長い時間のこと。
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法蔵
 643年~712年。中国・唐の僧。華厳宗第3祖とされる華厳教学の大成者。智儼の弟子。実叉難陀による新訳の華厳経80巻の訳出を助けた。賢首大師と通称される。主著に『華厳経探玄記』『華厳五教章』など。
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澄観
 738年~839年。中国・唐の僧で、華厳宗の第4祖に位置づけられる。五台山清涼寺に住んだことから、清涼国師と呼ばれた。実叉難陀が訳した80巻の華厳経を研究し、『華厳経疏』『華厳経随疏演義抄』などを著した。
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弘法
 774年~835年。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。空海ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。
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三論
 竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
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嘉祥
 549年~623年。中国の隋・唐の僧。三論教学を大成した。嘉祥寺に居住したので嘉祥大師と称された。主著に『三論玄義』『法華義疏』など。
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般若経
 「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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慈恩
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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深密経
 深密経と略す。中国・唐の玄奘訳。5巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。
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不空三蔵
 705年~774年。北インド(一説にスリランカ)出身の密教僧。金剛智の弟子。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)など100部143巻におよぶ多くの経典を訳した。玄宗・粛宗・代宗の3代の皇帝の帰依を受け、密教を中国に定着させた。彼の弟子には空海(弘法)に法を伝えた恵果がいる。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
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 ここは「唐」の時代の最後に注された「法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず・妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず・又日本国の伝教慈覚智証之を諍う」という文の注記と考えられる。
 たしかに「唐」の時代に展開したり成立した宗派は法相宗・真言宗だけではなく、浄土教も華厳宗も天台大師が入滅した後に興起したのである。法相・真言は文字どおり天台滅後に中国に伝来し、浄土・華厳は天台大師以前から存在したものの、教義的に整備された勢いを増大したのは天台大師滅後である。
 これらは、天台大師が法華経以前の爾前経と位置づけた経々に基づいて成り立っている宗であることにおいて共通しているが、天台大師滅後に興隆したので、天台大師による破折を免れていた。これらの各宗に対して破折を加えたのが天台大師の6世の法孫であり、中国天台宗中興の祖と呼ばれた妙楽大師であった。そこで、ここでは、天台と妙楽の両大師の釈を引用されて、その後に大聖人の注記を加えられている。
 まず、天台大師の法華玄義巻十上の文を引用されている。この文は第五章・教判の冒頭に見える文である。教判とは教相を判断することで、天台大師は第五章で、それまでの諸師によってなされた教相を破折したうえで、自身の教相を明らかにしている。この冒頭文は南三北七の教相を一つ一つ破折するに先立って、総論として破っているところである。
 この文の意味は次のようである。「聖意」すなわち、仏の本意、悟っている真理は「幽隠」、奥深く隠れており、この悟りを示すために説かれた教相はますます難しい。だから、前代の諸師は仏意や教法についての解釈を「名匠」、すなわち優れた学者から受け継いだり、「袖衿」、すなわち自身でさまざまに考えたりした、こうして「阡陌」、すなわち前代の諸師の教相判釈の道は縦横に入り組んだ道のようになっており、いったい、どれが「是」、つまり、正しいものであるかについては分からなくなっている。とはいえ、正しい義や理が二つ並び立ったり、二つ存在することがあるわけがない。そこで正しいものを判別するには、仏説である経文に照らし合わせて検討すべきである、というものである。
 この文を受けて、妙楽大師は法華玄義釈籤巻十上で、諸師の教判のなかでどれ一つとして全く正しいといえるものがないので、天台大師はその一つ一つを論難し破折したのであると記している。
 次いで「玄の三に云く」とあるのは天台の法華玄義巻三の文のことであるが、この文は大正新脩大蔵経の法華玄義では、巻二下にあるが、異本では巻三にあり、大聖人は異本によられたものである。
 引用された二つの文は一連の文で、「法華は衆経を総括す」の文の前にある。その前後を含めて引用すると次のようになる。「法華は宗教を総括して、而も事此に極む。仏の出世の本意、諸の教法を指帰なり。人は此の理を見ず。是れ因縁の事相なりと謂いて、軽慢止まらざれば、舌は口中に爛る」とある。
 その意味するところは、法華経は一切の経々を総括する究極の経であり、仏の本意や諸の教法が帰着する経であるのに、人はこの道理を見ないし分からない。そこから法華経は声聞に事相の上で記別したという理由によってのみ優れているが、法華経や般若経のように融通無碍ではない、などというのであり、このため、口中の舌が爛れるというものである。
 これを受けて、本文では「籤の三に云く」とあって、妙楽大師の法華玄義釈籤の文が引用されている。この文は大正新脩大蔵経に収録された二十巻本では巻六にあるが、十巻本の異本では巻三にあり、大聖人は異本によられている。
 法華玄義釈籤巻六の文は、先の玄義の注釈で、引用すると、次のとおりである。
 「已今当の妙茲に於いて固く迷う。舌爛れて止まざるは、尚華報と為す。謗法の罪苦、長劫に流る」と。
 つまり「法華経は衆経を総括し、而も事此に極む。仏の出世の本意、諸の教法の指帰なり」の文について妙楽大師は「已今当の妙」すなわち已説・今説・当説の三説を超えることであると注釈している。にもかかわらず諸宗の師は「固く迷う」すなわち迷いにとらわれて、法華経を他経に劣るなどと主張したため口中の舌が爛れるという現罰を受けたのであるが、それでもまだ迷いから覚めないでいると指摘し、舌が爛れたのはまだ現世の報いにすぎず、法華経誹謗の罪苦は未来世に極めて長い時間及ぶであろうと注している。なお、御真筆を拝すると、「已」「今」「当」から線を引かれて、それぞれ「法華已前華阿方般等の一切経」「無量義経なり」「涅槃経等法華已後の一切経なり」と注記されている。いうまでもなく、已今当の三説は法華経法師品第十で「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」と説かれたもので「已に」当たるのは華厳経・阿含経・方等教・般若経などの爾前経であり、「今」に当たるのは法華経の開経・無量義経であり「当に」とは、法華経よりあとに説かれる涅槃経に当たると注記されたのである。
 これらの引用文のあと、大聖人は「南三北七並びに華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の弘法等は法華経よりも華厳経を勝るとするなり、又三論の嘉祥は法華経よりも般若経を勝るとす、又法相の慈恩等は法華経よりも深密経を勝るとす、又真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は法華経よりも大日経を勝るとするなり、此等の宗宗の相違如何相違如何」(0605-18)と書かれている。
 天台大師以前では南三北七が華厳経や涅槃経が法華経に勝っているとしていたし、天台大師以後でも、華厳宗の法蔵・澄観や日本の真言宗の弘法などは、法華経よりも華厳経が勝っているとしている。また、三論宗の嘉祥も法華経より般若経が勝っているとし、法相宗の慈恩等も法華経より深密経が勝っているとしていることを挙げられ、「此等の宗宗の相違如何相違如何」(0606-03)と結ばれている。
 「此等の宗宗の相違」とは、各宗相互の相違というよりも、仏説に「已今当」の句によって法華最勝が明言されているにもかかわらず、その仏説に相違しているという意味として考えられる。というのは各宗の間の違いは簡潔ながら指摘されたばかりだったからである。
 そして「如何」と仰せられているのは、こうした仏説に反する邪義を、既に天台大師・妙楽大師によって破折されているにもかかわらず正そうともしないで「軽慢止まず」と主張し続けている。これらの諸宗の輩は、いかなる果報を受けるであろうか、との意と拝せられる。
 まさに、その罪苦の深さは並大抵でないことを強調されるために「相違如何」の言葉を繰り返し記されたのではなかろうか。

0606:04~0608:03 第九章 智証の授決集、弘法の二教論を引くtop
04   授決集に云く円珍 智証大師
05   文は大経に出でたり人の之を会する無し、光盲の前に在れども他に於ては無用なり、 仏分明に五味の喩を説き
06 五時の教に喩えたもう云云、 訳ありてより来講者路に溢るれども 未だ曾て五味を談ずるの義を解せず己が胸臆に
07 任せて趣爾囈語す 何ぞ象に触る衆盲の者に異らんや、 天台世に出で仏意快く暢ぶ豈に万教再び世間に演るに非ず
08 や、南北の講匠経論を釈する者・各教時を立つれども 百にして一も是なること無し 只教部の前後頓漸権実大小の
09 ソ妙・寛狭・進否に迷うに縁りてなり・大教の網を張りて 法界の海を亘し人天の魚を済て涅槃の岸に置く斯くの如
10 くするすら其の遺漏を恐る況や諸師の輩羅の一目なり 何れの時か其の鳥を得ん、 若し万蔵を暗ずと雖も此の理趣
11 を会せざれば年を終るまで他の宝を計りて自ら半銭の分無く虚しく諍論を益し長水に水を添うのみ。
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 智証大師円陳の著した授決集には、次のようにある。
 文は涅槃経に出ているが、人はこれを理解しようとしない。光は目の見えない人の前にあったとしても、彼にとっては無用である。仏は明らかに五味の譬えを説いて五時の教えにたとえられている。経が翻訳されて以来、経を講ずる者は路に溢れるほどあるけれども、いまだ、かつて五味を論ずる義を理解せず、自分の胸のうちの思いに任せて取り留められない言葉を吐いている。象の一部分に触ってその姿を思い描く、多くの目に見えない人と、どうして異なることがあろうか。天台大師が世に出現して仏の意図を明快に説き明かされた。どうして仏の無数の教えが再び世間に広まらないことがあろうか。南三北七の経論を講じ釈する学匠はおのおの教相と説時の判釈を立てたけれども、一つも正しいものがない。これはただ、教えの説かれた頓教か漸教か、大乗教か小乗教か、麤法か妙法か、寛広な教えか狭小な教えか、進んだ教えかそうでない教えかに迷っていることによる。仏の教えの網を張り巡らして仏法の海に入れて、人界・天界の魚を救って涅槃という悟りの岸に置かれたのであるが、それでもなお、その漏れる恐れがあるのである。まして諸師の教義は網の一目のようなものである。いつになったら、鳥を得ることができようか。もし何万という法蔵を暗誦したとしても、この理の趣旨を理解しなければ、一生、他人の宝を数えているだけで、自らは半銭の得分もないようなものであり、虚しく言い争いを盛んにするだけであり、長水に氷に水を添えるようなものにすぎない。
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12   授決集に法相宗の慈恩大師を破して云く,五性宗に云く未熟法華論の前に未熟の文也と云うは,に不熟と云うべし
13 、○今謂く汎く法華を講ずるには須く此の義を以て正と為すべし若し爾らずんば経を破し論を破し罪五逆に過ぎたり
14 基公を除きて外は 人の彼の不熟の義を伝うる無し、 ○若し強て之を執せば公私十方の信施消し難し消し難し若し
15 消せずんば 何ぞ三途を免れん爾を供養せん者は 三悪道に堕せん謗法の罪報は法華般若の諸大乗経に一切明かに説
16 けり智者披く可し、○爾これを信受す可し無間を招く莫れ。
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 授決集に法相宗の慈恩大師を破して「五性宗は『法華論の前二の未熟な文であるというのは不熟というべきである』といっている。
○、円珍はいう、ひろく法華経を講ずるときは、当然この義を正とすべきである。もし、そうでなかれば、経を破り論を破ることになり、その罪は五逆罪よりも重いものとなろう。窺基を除いて以外の人は、そのような不熟の義を伝えていない。○、もし無理やりにこれに執着するならば、公私にわたる他方面からの信者の布施に応えることは難しいであろう。もし応えることができなければ、どうして三悪道を免れようか。あなたを供養する者は三悪道に堕ちるであろう。謗法の罪の報いは法華経や般若経という諸大乗経にすべて明らかに説かれている。智者は開き見るべきである。○、あなたはこれを信受すべきである。無間地獄を招かないようにしなさい」とある。
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17   授決集円珍真言の諸宗を徴して云う
18   真言.禅門.華厳.三論.唯識.律業.成.倶の二論等、○若し法華.涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり文、又云く
0607
01 大底他は多く三教在り円の旨至て少きのみ 弘法大師の二教論に喩して曰く 今斯の経文に依るに仏五味を以て五蔵
02 に配当す、総持を醍醐と称し四味を四蔵に譬う震旦の人師等諍つて醍醐を盗み各自宗に名く。
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 授決集に円珍が真言等の諸宗を破折していうには、
 「真言宗・禅門・華厳宗・三論宗・法相宗・律宗・成実宗・倶舎宗の二論等は。○、もし法華経や涅槃経等に対すれば、真実の教理に導くための方便の法門である」といい、また「だいたい、法華経や涅槃経に対すれば、真実の教理に導くための方便の法門である」といい、また「だいたい、法華経や涅槃経以外は多くが蔵・通・別の三教であって、円教は極めて少ない」といっている。
 弘法大師の二教論には「諭していう。今この経文に依ってみると、仏は五味をもって五蔵に配当している。総持を醍醐味と名づけ、四味を四蔵に譬えている。中国の人師等は争って醍醐を盗み取って、それぞれ自宗に名づけている」とある。
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             乳
03         ┌一爼 多 覧ア ナ ン 経 ┐
           │  酪          │
04         ├二毘 那 耶ウ ハ リ 律 ┼小乗                          ・
          │  生           │
05   六波羅経五蔵┼三阿 毘達磨カセンエン 論 ┘
          │  熟     文 殊
06         ├四般若はら蜜蔵──―──--┐
          │  醍醐     金剛蔵   ├大乗
07         └五惣持だらに蔵───―-─-┘
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            乳
         ┌一爼 多 覧ア ナ ン 経 ┐
          │  酪          │
         ├二毘 那 耶ウ ハ リ 律 ┼小乗
         │  生           │
   六波羅経五蔵┼三阿 毘達磨カセンエン 論 ┘
         │  熟     文 殊
         ├四般若はら蜜蔵────――┐
         │  醍醐     金剛蔵  ├大乗
         └五惣持だらに蔵────――┘
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08           ┌一爼多覧乳
09           ├二毘那耶酪
10           ├三阿毘達磨生
11   弘法大師此の経に│      ┌華
12   依つて五蔵を立つ│   熟  ├方
13           ├四般若はら蜜┼般
14           │      ├法華
15           │   醍醐 └涅槃
16           └ 五だら尼蔵─大日の三部経                            ・
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           ┌一爼多覧乳
           ├二毘那耶酪
           ├三阿毘達磨生
   弘法大師此の経に│      ┌華
   依つて五蔵を立つ│   熟  ├方
           ├四般若はら蜜┼般
           │      ├法華
           │   醍醐 └涅槃
           └ 五だら尼蔵─大日の三部経
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17   二教論に云く加以ず釈教東夏に漸し微自り著に至り漢明を始めと為し周文を後と為す、 其の中間翻伝する所皆
0608
01 是れ顕教なり 玄宗代宗の時金智広智の日密教欝として起り盛に秘趣を談ず、 新薬日に浅くして旧痾未だ除かず楞
02 伽の如きに至つては 法仏説法の文智度性身妙色なり 句憶に馳せ而も文を会して 自宗を駆り而も義を取る惜いか
03 な古賢醍醐を嘗めず
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 二教論には「そうであるばかりでなく、仏教は東方の中国に伝わり、その内容は当初は微かであったがやがて明らくになるに至った。漢の明帝の時代を始まりとし、周の則天武后の時代を後として、その間に翻訳されて伝わった経はみな顕教である。玄宗皇帝・代宗皇帝の時代の金剛智・不空の時に密教が群がり起こり、盛んに秘密の理趣が説かれた。新しい薬は日が浅くて、古くからの病気は未だ除かれていない。楞伽経には法仏説法の文があり、大智度論には法性身が妙色をもつという句があるが、それぞれの思いを巡らせてその文を解釈し、自宗の立場に立ってその義を取っている。しかし、惜しいことに昔の賢い人は醍醐味を嘗めずに知らないでいるのである」とある。

円珍
 814年~891年。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。智証大師ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」(306㌻以下)などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
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大経
 涅槃経のこと。大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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五味の喩
 もとは涅槃経にある教説で、釈尊の種々の教えを牛乳が精製される時に生じる5段階の味に譬え、位置づけたもの。①乳味(牛乳そのもの)②酪味(発酵乳、ヨーグルトの類)③生蘇味(サワークリームの類)④熟蘇味(発酵バターの類)⑤醍醐味(バターオイルの類)の五つをいう。乳味が一番低い教えにあたり、醍醐味が最高の教えにあたる。天台教学では、経典を釈尊が説いた順に整理して五つに分類し、5番目の時期、すなわち釈尊の真意を説いた法華経・涅槃経を説いた時期を最高の味である醍醐味に譬え、それ以前の華厳・阿含・方等・般若という四つの時期の教えをそれぞれ乳・酪・生蘇・熟蘇の四味に譬えた。
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五時の教
 天台大師智顗による教判。諸経典の教えを釈尊一代で説かれたものとみなし、成道から入滅までの教えを内容によって五つの時期に分類し、矛盾なく理解しようとした。華厳時・阿含時(鹿苑時)・方等時・般若時・法華涅槃時をいう。①華厳時。釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。②阿含時。華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。③方等時。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。④般若時。鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間。⑤法華涅槃時。マガダ国の霊鷲山と虚空会の二処三会で、8年間法華経を説き、大乗・小乗を超えて一切衆生が成仏できる真実の教えを開会した期間。また入滅直前に拘尸那城(クシナガラ)の西北の跋提河の沙羅双樹において涅槃経を説き、法華経の説法に漏れた人のために補足的に説法した期間。天台大師は、この五時を乳を精製する段階の五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)にあてはめ、醍醐味にあたる法華涅槃時の経が最高の教えであることを強調している。日蓮大聖人は「守護国家論」で、「大部の経大概是くの如し此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(40㌻)と述べられている。
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講者
 仏教を講ずる者。
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囈語
 根拠のないことを話すこと。
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講匠
 経を講ずる学匠。
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教時
 説かれた時によって釈尊の一代聖教を立て分けること。華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時をさす。
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教部
 説かれた内容によって釈尊の一代聖教を立て分けること。華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華涅槃部をさす。
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頓漸
 化儀の四教の頓教と漸教。①頓教(覚りの真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)。
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権実
 権教と実教のこと。①権教。仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いた権(かり)の教え、経典のこと。実教(実経)に対する語。権は一時的・便宜的なものの意。②実教。仏が自らの覚りをそのまま説いた真実の教え、経典のこと。権教(権経)に対する語。天台宗の教判では、法華経のみを実経と位置づける。
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大小
 大乗教と小乗教のこと。①大乗教。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。②小乗教。乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
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麤妙
 麤法と妙法のこと。麤は粗末で劣る教え、妙は妙法のこと。
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寛狭
 寛大な教えと狭小の教え。
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進否
 進んでいる教えと、そうでない教え。
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大教
 偉大な教えである仏教のこと。
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法界
 「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。
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人天
 人界と天界のこと、またその衆生。
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涅槃
 サンスクリットのニルヴァーナの俗語形の音写。泥洹ともいう。覚りを得て輪廻の苦悩から解放された、完全な平安で自在な境地のこと。この境地に至ることを解脱という。小乗の教えに基づく二乗たちは、覚りを得て、死後二度とこの世界に生まれて来ないことを涅槃(無余涅槃)と考え、その境地を目指した。
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万蔵
 膨大な量があるということ。御書本文は「六万蔵あり」(187㌻)。御書にも引用される源信(恵心僧都)の『往生要集』には、「調達誦六万蔵経」とある。もともと出曜経に「所誦仏経六万象載不勝」とあり、道宣の『続高僧伝』の中の智顗伝には、これを踏まえて「覬表諫曰。調達誦六万象経」とある。おそらく源信は「象」を不審に思って音の通じる「蔵」に改めたのだと思われる。「六万象経」は「書物の形にすれば六万頭の象に乗せるほどの」という意味。いずれにしても、非常に多くの経典ということ。
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諍論
 正邪・是非を論じ合うこと。
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長水
 長大な水。
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五性宗
 法相宗のこと。玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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法華論
 『妙法蓮華経憂波提舎』の略。世親(ヴァスバンドゥ)の著作。インドにおける法華経の注釈書として唯一現存する。法華経が諸経より優れている点を10種挙げた十無上などを説く。如来蔵思想による法華経解釈を特色とし、天台大師智顗や吉蔵(嘉祥)、基(慈恩)らに影響を与えた。
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五逆
 5種の最も重い罪で、必ず無間地獄の苦の果報を受ける原因となる行為。①父を殺す(殺父)②母を殺す(殺母)③阿羅漢を殺す(殺阿羅漢)④仏の身を傷つけ血を出す(出仏身血)⑤教団を分裂させる(破和合僧)の五つ。
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基公
 窺基のこと。(0632~0682)中国・唐代の法相宗の事実上の開祖。慈恩のこと。姓は尉遅、慈恩寺に住んでいたので慈恩大師といわれ、大乗基とも呼ばれる。玄奘の弟子となり訳経に従事した。「成唯識論」を訳出し、また瑜伽論を学んだ。著書に「法華経玄賛」10巻、「大乗法苑義林章」7巻などがある。
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十方
 東西南北の四方と、東北・東南・西北・西南の四維と、上下の二方を合わせたもの。空間的に全宇宙を表している。
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信施
 信者が仏・法・僧の三宝に供養したもの。
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三途
 死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。
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三悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
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謗法
 誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
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罪報
 犯した罪による報いのこと。罪業を因として現在および未来に受ける苦果。
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無間
 阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
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真言
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
―――
禅門
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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華厳
 華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240年~1321年)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。
―――
唯識
 ❶サンスクリットのヴィジュニャプティマートラターの訳。自身の心の外にあると思われる事物・事象は、ただ心の認識によって映じ出された表象のみである、との意。あらゆる事物・事象(万法)は、心の本体である識が変化して仮に現れたものであり、ただ識のみがあるとする大乗仏教の一学説。唯識では、従前の部派仏教で主張されていた6種の識(眼・耳・鼻・舌・身・意の六識)のほかに、認識の元となる種子を蓄え熟させ認識の根本を担う心(心王)として、阿頼耶識(蔵識)を立てた。また阿頼耶識から、根源的な自我執着意識である末那識を分立させ、八識を立てる説もある。さらに清浄と染汚が並存する阿頼耶識よりも根本にあって清浄な阿摩羅識(根本清浄識)があるとして、九識を立てる説もある。唯識では、煩悩によってけがれた識を転じて、清浄な智慧を得るという転識得智を図る。また、すべての存在の本性や在り方を有無、仮実という視点から3種に分類し、①遍計所執性(他と区別して実体視してとらえられた、ものごとのあり方)②依他起性(縁起によって生じているあり方)③円成実性(実体視をはなれた真実のあり方)の三性を説く。❷❶の唯識の思想を唱えた瑜伽行派およびその流れを受ける諸宗のこと、特に法相宗の別称。また、それらの宗派の思想をいう。4世紀ごろ、十地経、大乗阿毘達磨経などの教説に基づいて、瑜伽行派で唱えられた。祖とされる弥勒(マイトレーヤ)は『瑜伽師地論』などを著した。その教説を組織立てたのが無著(アサンガ)で、『摂大乗論』などを著した。無著の弟の世親(天親、ヴァスバンドゥ)は『唯識二十論』『唯識三十論頌』などを著し、唯識の思想を大成させた。その後も瑜伽行派は隆盛し、諸学者が輩出されるとともに種々の異説が生まれた。そのうち、陳那(ディグナーガ)に始まる有相唯識派は、無性(アスヴァバーヴァ)を経て、護法(ダルマパーラ)によって大成された。護法は『成唯識論』を著し、法の相と性を判然と区別し、現象である相の分析から真実なる性へと至ろうとする性相別体論を唱え、新たな学説を大成した。さらに戒賢(シーラバドラ)から中国の玄奘へと伝えられ法相宗となり、日本へも伝えられた。陳那と同時代の徳慧(グナマティ)の弟子である安慧(スティラマティ)には、世親の思想に近い説が伝えられた。これは、陳那らの有相唯識派と対立し無相唯識派と呼ばれる。この派とされるシャータラクシタ(寂護)とその弟子のカマラシーラ(蓮華戒)は瑜伽行派の思想を中観派の思想を統合し、瑜伽行中観派と呼ばれる。その思想は、後のチベット仏教に大きな影響を与えた。またこの派は真諦(パラマールタ)によって中国に伝えられた。中国への伝承は、曇無讖(ダルマラクシャ)による菩薩地持経、求那跋摩(グナヴァルマン)による菩薩善戒経の翻訳で始まった。その後、大きく三つに分かれる。まず、南北朝時代、北魏の宣武帝の時(508年)に、菩提流支(ボーディルティ)、勒那摩提(ラトナマティ)らによって伝承され、世親の『十地経論』に基づく地論宗が起こった。勒那摩提は、世親の著で如来蔵思想を示す『宝性論』を訳している。次いで梁の武帝によって真諦が548年に中国に招かれ、無著の『摂大乗論』をはじめ多くの論書を訳し、その『摂大乗論』に基づいて摂論宗が起こった。そして唐になって、玄奘によって諸経典とともに唯識の諸論書が645年に伝えられ、翻訳が改めてなされ、集大成された。玄奘の弟子の基(慈恩)は新訳にかかわり、真諦訳などに基づく従前の教説に対して、新訳に基づくとともに、護法の『成唯識論』を重んじ護法の主張を正義として法相宗を確立した。同宗は、太宗・高宗の帰依で一時期栄えたが、やがて華厳宗や禅宗が隆盛する影響で衰微していった。日本には摂論宗の教義も伝えられたが、ほどなく法相宗の教義が伝えられて法相宗が盛んになり、摂論宗の教義は大安寺・元興寺・興福寺などの諸寺で付属的に学ばれた。法相宗は興福寺を中心に学ばれ、南都六宗の雄となった。五性各別の教義に基づき三乗真実を主張したが、一乗真実を主張する三論宗と論争した。また伝教大師最澄が天台宗を伝えた後、両宗の間に長く論争があった。鎌倉時代に一時、復興するものの、法相宗は衰微した。その精緻な哲学思想は仏教の基礎教理として伝承され、江戸時代には他宗から唯識の学者が出た。❸唯識の思想を論じた書である唯識論の略称。唯識論といわれるものに『唯識二十論』(世親著)、『唯識三十論頌』(世親著)、『成唯識論』(『唯識三十論頌』の注釈書、護法編著)などがある。
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律業
 ❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。
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 インドの訶梨跋摩(ハリーヴァルマン)の『成実論』に基づく学派。『成実論』は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を27(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。5世紀の初めに鳩摩羅什によって『成実論』が漢訳されると、弟子の僧叡・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って『成実論』が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗である。
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 インドの論師・世親(ヴァスバンドゥ)の『俱舎論』に基づく学派。南都六宗の一つに数えられるが、法相宗に付随して学ばれる寓宗(他に寄寓する学派)である。
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摂引門
 人々を真理へと導いていくための方便の教え。
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 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
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二教論
 空海(弘法)の著作。2巻。顕教・密教の浅深勝劣を比較し、真言密教の優位性を説く。『十住心論』を竪の教判、『弁顕密二教論』を横の教判、両書を合わせて十住心二教論といい、真言宗の教判の骨格をなす。
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五蔵
 五臓とは肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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総持
 陀羅尼ともいう。ダーラニー (dhāraṇī)の音写で能持・総持と訳す。総は総摂の義、持は任持の義で、一字の中に無量の義を総摂し、一義の中に一切の義を任持するという意味である。陀羅尼は、能く悪法を遮し、能く善法を持するものである。後に呪・真言と混同され、口に唱えた者を守護し功徳を与える梵語の語句をもさすようになった。
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醍醐
 釈尊の教えの高低浅深を牛乳を精製する五つの過程の味に譬えて分類した五味のうち、最高に位置する。
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六波羅経
 大乗理趣六波羅蜜多経の略。中国・唐の般若訳。10巻。般若経典の一つ。般若経典を仏の智慧を説いた真実の経典と位置づけるとともに、経典・論書などを学ぶ力がない者のために呪文(陀羅尼)が説かれたとする。菩薩が実践すべき6種の修行(六波羅蜜)が説かれている。空海(弘法)は自著『弁顕密二教論』で、この経典の「大乗般若は猶熟蘇の如く、総持門(=密教の呪文)は譬えば醍醐の如し……総持門は契経等の中に最も第一たり」などの文を引き、「中国の学者らは争って密教に説かれる醍醐味を盗み、それぞれが自宗を醍醐味と名づけた」(通解、244㌻などで引用)と述べている。日蓮大聖人はこの点を法華誹謗として諸御抄で厳しく糾弾されている(222㌻、277㌻以下など)。
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 乳味のこと。五味の一つ。牛乳そのもの。
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爼多覧
 経のこと。
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アナン
 阿難のこと。
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 酪味のこと。五味の一つ。牛乳を生成した段階の味。
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毘那耶
 毘尼ともいい調伏・律と訳す。仏所説の戒律。仏が制定したとされ、出家者が守るべき生活規範。
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ウハリ
 優婆利のこと。釈迦の十大弟子の一人。持律第一と称せられた。シュードラ(古代インドの身分制度、四姓の最下層。隷属民)の出身。第1回仏典結集の時、律を誦したとされる。
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 生酥味のこと。五味の第三。
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阿毘達磨
 サンスクリットのアビダルマの音写。阿毘曇ともいい、対法などと訳す。仏教の法理に対する解釈・理論。経律論の三蔵の中の論蔵。紀元前3世紀から紀元1世紀の間に、仏教教団が多くの部派に分裂したが、その多くが経典の研究に取り組み、その成果が膨大なアビダルマ論書として集大成されていった。上座部では経典注釈が主で教理体系の発展は少ないが、説一切有部では経から独立して独自な理論の体系化がなされ、この派が最も多くの論書を現在に残している。これらの成果の中心は『阿毘達磨発智論』であり、この研究が集大成され『阿毘達磨大毘婆沙論』が編集された。さらにアビダルマ論書の終着点ともいうべき『阿毘達磨俱舎論』が世親(ヴァスバンドゥ)によって作成された。特に『俱舎論』に紹介されている有部の阿毘達磨は、部派仏教の理論を集大成し大乗仏教の理論的萌芽が見られるといわれており、仏教思想の中で一つの時代を画している。この教理体系は後に大乗経典にも利用され、その基礎学として欠かせないものとなった。
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カセンエン
 迦旃延のこと。梵語カーティヤーヤナ(katyāyāna)の音写で、迦多衍那・迦底耶夜那とも書く。尊称して摩訶迦延。好眉・文飾・扇縄などと訳す。釈尊声聞十大弟子の一人で、よく外道を論破し論議第一といわれる。
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 熟蘇味のこと。五味の第四。
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般若はら蜜蔵
 般若波羅蜜のこと。サンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸、度等とも訳す。
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文殊
 文殊師利はサンスクリットのマンジュシュリーの音写。直訳すると、「うるわしい輝きをもつ者」。仏の智慧を象徴する菩薩で、仏像などでは獅子に乗った姿で釈尊の向かって左に配される。法華経では、弥勒菩薩・薬王菩薩とともに、菩薩の代表として登場する。
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惣持だらに蔵
 陀羅尼dhāraṇīの音写。総持・能持と訳す。梵文を翻訳しないままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文。
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金剛蔵
 金剛蔵菩薩のこと。華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。
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 華厳のこと。①天台大師の立てた五時のひとつ。②大方広仏華厳経のこと。③華厳宗のこと。④華厳経に説かれる法門。
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 方等のこと。①天台大師の立てた五時のひとつ。②方正・平等の教え。③方等時に説かれた経典。
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 般若のこと。①天台大師の立てた五時のひとつ。②一切の事象の道理を明らかにする経典。③般若時に説かれた経典。④8~9世紀ごろのインドの訳経僧。
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大日の三部経
 真言宗の立てる三部経のこと。大日経7巻・金剛頂経3巻・蘇悉地経3巻のことをいう。
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東夏
 中国のこと。インドから見て東にある大国。
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漢明
 後漢の第2代皇帝。
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周文
 則天武后のこと。624年または628年~705年。中国・唐の高宗の皇后で、中国史上唯一の女帝。病に倒れた高宗から実権を奪い、690年に自ら帝位につき、国号を周(~705年)と改めた。各州に大雲寺を設置するなど、仏教を利用して統治を進めた。
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顕教
 真言宗が密教以外の仏教の教えを指すのに用いた語。広く開かれて説かれた教えを意味する。もとは空海(弘法)が自身の教判として用い、衆生を導くために応身・化身(ここではそれぞれ報身・応身のこと)としての姿を現した如来が衆生の機根に従って広く説いた仮の教えを顕教と呼び、法身の如来が真理をひそかにそのまま示した教えを密教としたことに由来する。後に日本仏教で一般的に用いられ、顕密と併称して日本仏教全般を意味する。円仁(慈覚)以降の天台密教は、顕教と密教が教理の上で究極的には一致すると説くが、別しては印と真言といった事相を説く密教の方が顕教より優れているとする。
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玄宗
 685年~762年。中国・唐の第6代皇帝。治世の前半は「開元の治」と呼ばれる善政を行ったが、晩年は楊貴妃を寵愛し政治を怠ったことから安史の乱(755年~763年)を招き、これが王朝衰退のきっかけとなった。善無畏が716年に唐に渡って伝えた密教を保護した。善無畏に加え、金剛智・不空を重用し、不空からは灌頂を受けている。
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代宗
 726年~779年。中国・唐の第8代皇帝。粛宗の長子。父と同様、不空に帰依した。
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金智
 金剛智三蔵のこと。671年~741年。サンスクリットのヴァジラボーディの訳。中インドあるいは南インド(デカン高原以南)出身の密教僧。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂瑜伽中略出念誦経)などを訳し、中国に初めて金剛頂経系統の密教をもたらした。弟子に不空、一行がいる。
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広智
 不空三蔵のこと。705年~774年。北インド(一説にスリランカ)出身の密教僧。金剛智の弟子。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)など100部143巻におよぶ多くの経典を訳した。玄宗・粛宗・代宗の3代の皇帝の帰依を受け、密教を中国に定着させた。彼の弟子には空海(弘法)に法を伝えた恵果がいる。
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密教
 インドにおける大乗仏教の歴史的展開の最後期、7世紀から本格的に展開した仏教。古代インドの民間信仰を取り入れ、神秘的な儀礼や象徴、呪術を活用し、修行の促進や現世利益の成就を図る。日本では空海(弘法)以来、密教以外の通常の仏教を顕教と呼んで区別する。【成立と展開】密教の成立は呪術や儀礼の発達から説明できるが、5世紀ごろにはその原初形態があったと考えられている。呪術は初期仏教では否定されていたが、比丘の護身用の呪文は例外的に認められた。大乗仏教では、現世利益のための呪文が菩薩行として正当化されるようになる。例えば大乗経典では陀羅尼(ダーラニー)や真言(マントラ、神聖な呪文)が説かれ、初期大乗経典である法華経の陀羅尼品には陀羅尼・真言で修行者を守護することが説かれている(法華経640㌻以下)。陀羅尼とは総持とも訳され、もとは教えを記憶し保持することを意味したが、そのために唱える句も陀羅尼と呼ばれ、やがてそれが神秘的な力をもつものとして、災難を取り除くための呪文を意味するようになった。真言はヴェーダ文献から見られる語であり、呪文としての陀羅尼と真言は意味的に明確に区別しがたい。陀羅尼や真言は、やがて仏や菩薩といった種々の尊格が与えられ、その尊格に帰依し一体化して、無病息災や異国調伏といった世俗的な利益を得るための儀礼として用いられるようになる。また手・指の形態によって尊格の徳を象徴する印(ムドラー)が取り入られ、さらに覚りの世界を図顕して象徴した曼荼羅が作られる。曼荼羅は当初は一時的に土や砂で壇として作られるものだったが、後に布や紙に描いた絵図の形式が生まれた。さらに、こうした儀礼の効果や象徴の意義を説明し正当化する経典がつくられるようになった。大まかには以上の諸要素が組み合わさり、経典に基づいて、曼荼羅を作り、そのもとで印や真言・陀羅尼を用いて祈禱を行い、それら象徴を媒介として、仏や菩薩といった尊格と修行者とが一体化して何らかの利益を得るという密教の基本形態が形成されていった。こうした密教発達の背景の一つとして、グプタ朝(4~6世紀)以降、ヒンドゥー教のシヴァ信仰が盛んになる中、仏教側が王権や在家信徒の現世利益を成就させるための祈禱儀礼を積極的に取り入れて教勢を維持しようとしたことがあったと考えられている。7世紀に成立した大日経、金剛頂経では、これまでのような世俗的な利益を超えて、覚りを得て成仏することを説くようになる。口に真言・陀羅尼を唱え、手に印を結び、心に仏を思い浮かべることで、大日如来の身口意の三密が修行者の三業と一体化すること(三密加持)を説くなど、教理的な意義づけや体系化が進んだ。さらに灌頂という師から信徒へ法門を伝授する儀式も発達した。9世紀以降の後期の密教では、従来の密教に加え、性的要素を取り入れた修法を行うようになった。【中国・日本への伝来】陀羅尼を説く経典は3世紀ごろには中国で漢訳されていたと考えられている。7世紀の唐には、大日経、金剛頂経といった体系化された密教経典が善無畏・金剛智・不空の三三蔵などによって伝えられ、玄宗はじめ皇帝から護国の祈禱として重用され、厚い保護を受けた。日本には奈良時代に密教経典が伝来していたが、平安初期に空海(弘法)によって初めて大日経、金剛頂経がもたらされた。特に空海は唐に渡って恵果から伝授されたという胎蔵・金剛界の両部の法を伝え、真言宗の根本教義に据えた。その後、日本の密教は天台宗・真言宗において、それぞれ台密・東密として独自に教理や実践が発達した。なお、チベット、ネパールには最終期の密教が伝来し、今日においても民衆に根ざした宗教として存続している。
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楞伽
 漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
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法仏説法
 法仏とは法身仏ともいい、真理を体とする仏身。所証の理。真理または法性の理をいう。その法身仏が説法するというのが法仏説法の意である。
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智度
 生没年不詳。中国・唐の僧。『法華文句』の注釈書である『法華経疏義纘』を著した。東春という地に住んでいたとされることから、彼ならびにその著作も「東春」と呼ばれる。「智度」の読みは天台宗では伝統的に「ちたく」とする。
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性身妙色
 性身は仏の法性身のことで、性身妙色は法性身が妙なる色を具しているということ。
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古賢醍醐を嘗めず
 昔の人は醍醐味を知らなかったということ。
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 先に「唐」時代の最後の注で「法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず・妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず・又日本国の伝教慈覚智証之を諍う」との文があったが、前章が「法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず・妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず」という前の文に対する注記であったのに対して、この章では「又日本国の伝教慈覚智証之を諍う」という後の文に対する注記となっている。
 ここでは智証の授決集の三つの文と弘法の二教論から二つの文を引用されている。中国の天台大師以前に出現した宗派はもちろんのこと、以後に出現した法相宗や真言宗に対して、日本の伝教大師や慈覚・智証が天台宗との勝劣をめぐって論議しているということの具体的な例として智証の授決集の文を挙げられ、それとの関連で、恐らく参考として弘法の二教論を示されている。
 ここでは、日本の天台宗の代表として智証を、真言宗の代表として弘法を取り上げられた形になっている。
 ここでなぜ智証を代表されたかというに、智証は日本天台宗の比叡山延暦寺の第五代の座主でありながら、真言宗との融合を深めて天台密経を形成していった天台宗寺門派の祖である。大聖人はこのため、智証を天台宗を密教化した張本人と破折されることが多いのであるが、他方で智証は、はっきりと法相宗や真言宗を破折している文を残しているので、智証でさえ、真言より法華経が勝れるとしていることを示されるために挙げられたと考えられる。
 慈覚とともに天台密教のもとを作った智証に対する破折の文は、諸御書に見られる。例えば、三大秘法抄では「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし」(1023-01)とあり、報恩抄では「真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等」(0294-01)とも述べられ、慈覚・智証を真言宗の諸僧と同列に置いて破折されている。ときには、弘法らよりも慈覚・智証のほうが罪は大きいとさえ述べられている。
 しかし、それだけに、かえって智証が特に真言宗を破折している文を残していることは大きな意義を有するところとなるのである。
 智証の授決集の最初の文であるが「文は大経に出でたり人の之を会する無し、光盲の前に在れども他に於ては無用なり、仏分明に五味の喩を説き五時の教に喩えたもう云云、訳ありてより来講者路に溢るれども 未だ曾て五味を談ずるの義を解せず己が胸臆に任せて趣爾囈語す何ぞ象に触る衆盲の者に異らんや、天台世に出で仏意快く暢ぶ豈に万教再び世間に演るに非ずや、南北の講匠経論を釈する者・各教時を立つれども 百にして一も是なること無し只教部の前後頓漸権実大小の麤妙・寛狭・進否に迷うに縁りてなり・大教の網を張りて法界の海を亘し人天の魚を済て涅槃の岸に置く斯くの如くするすら其の遺漏を恐る況や諸師の輩羅の一目なり何れの時か其の鳥を得ん、若し万蔵を暗ずと雖も此の理趣を会せざれば年を終るまで他の宝を計りて自ら半銭の分無く虚しく諍論を益し長氷に水を添うのみ」とある。この文の最後で、御書全集では「長水に水を添うのみ」とあるが、御真筆および智証の授決集の原文は「長氷に水を添うのみ」となっており、「長水に水を添うのみ」御書全集編纂時の誤写であろう。
 さて、引用された文は授決集巻上の「五身の決三」に出てくるものである。その意味するところは次のとおりである。
 仏一代の教えを乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味に分類することは大経、すなわち、曇無識訳の大般涅槃経では、巻十四聖行品七之四に慧厳等訳の大般涅槃経では巻十三聖行品之下に出ている。
 だが、これもこの涅槃経の文の意味を理解する者はいなかった。天台大師のみが法華玄義巻十下で、仏が五味にたとえて五時の教えの次第を説いたことを明らかにしたのである。すなわち、乳味=華厳時、酪味=阿含時、生蘇味=方等時、熟蘇味=般若時、醍醐味=法華・涅槃時という順である。涅槃経が漢訳されて仏法を講ずる者は多数いたが、このような五味の譬えが説かれた意味を理解する者はだれもいなかったので、天台大師が出現して五味=五時の次第を明らかにして仏の衆生教化の意図を明快にしたことで、多くの仏が再び世間に大いに伝えられていくきっかけを作った。
 これに対して、南三北七の学匠たちはそれぞれの教時を立てたが、どれ一つとして正しいものはない。その理由は「教部の前後」すなわち、どのような順序で仏の教えが説かれたかということや、教えが頓教なのか漸教なのか、大乗教なのか小乗教なのか、麤法なのか妙法なのか、寛広な教えなのか狭小な教えなのか、進んでいる教えなのか、そうでない教えなのかに迷っているからである。
 大教の網を張り巡らして仏法の真理の海に投げて、人界・天界の衆生をすくって涅槃という悟りの岸に導いたのである。
 それでも、その網から漏れる衆生がいる恐れがあるのに、南三北七の諸師たちの教判は網の一目にすぎない。そのような小さな物でいったいいつになったら衆生を救い取ることができようか、できるわけがない。何万という法蔵を暗誦したとしても、そのような諸師たちの教判にしたがっていて五味=五時の次第、という趣旨を理解しなければ、いつまで経っても他人の宝を数えて自分は半銭の取り分もないようなものであり、いたずらに是非を論議しあって諍うことに時間を費やし、そのむなしさといったら「長永に水を添うのみ」である。つまり、長大な氷に水を与え添えるような無意味な作業を長く行うようなものである。
 以上が最初に引用された授決集の文の意味であるが、ここでは智証は中国・天台宗の五時の教相判釈の正しさを南三北七の諸師と比較して賛嘆していることが明らかである。
 次に引用された授決集の文は法相宗の慈恩大師窺基の説を破折したものである。この文は授決集巻下の「論の末は不なりといえる決三十八からの抜粋である。
 この文を解説すると次のとおりである。
 五性宗というのは人間の本性を定性声聞・定性縁覚・定性菩薩・三乗不定性・無性の五種類に差別する宗のことで、法相宗のことである。
 つまり、人間は生まれつき、声聞になると定まった者、縁覚になると定まった者、仏果を得ると定まった者、以上の三つのいずれにも定まらないが声聞・縁覚・菩薩の三つの種子をさまざまな組み合わせでもっていて果が決定しない者、三乗の種子を全くもたず永遠の苦しみから免れることがなく、わずかに人天の果を開く種子のみを持つ者、の五つである。
 さて、この五性宗が「未熟というのは、応に不熟と云うべし」と主張している。ここで「未熟」の下に御書全集では「法華論の前に未熟の文也」との注記がある。しかし、御真筆では「法華論の前二未熟の文也」と注記している。
 授決集の原文の意味からいっても「前二」のほうが正しいので、御書全集の文は編集ミスと判断しておく。
 法華論の前二とは、世親の法華論の「声聞に四種有り。一は決定声聞、二は増上慢声聞、三は退菩提心声聞、四は応化声聞なり。二種の声聞に如来授記す。応化と退し已って還って菩提心を発する者なり、決定増上慢の二種の声聞は根未熟の故に授記を与えず」とあるなかの、授記を与えられなかった「前二」すなわち決定声聞と増上慢声聞である。彼らは機根が未熟であるゆえに授記を与えられなかったと法華論では解説している。
 ちなみに決定声聞とは小乗を修行して阿羅漢果などの小乗の果を得ることで終始一貫している声聞・増上慢声聞とは、末だ仏果を得ていないのにこれを得たとして慢心を起こす声聞、退菩提心声聞とは一度、大乗を修行した者が声聞道に堕ち、再び大乗を志す声聞、応化声聞とは仏・菩薩が衆生教化のために仮に声聞となって現れた声聞である。
 このうち、語の二種の声聞は法華経で成仏の授記を与えられたのに対し、前の二種の声聞は機根が未熟であったので授記を与えられなかったというのが法華論の説である。
 これに対して五性宗は機根が未熟であったという“未熟”について“不熟”というべきであると釈している。
 未熟といえばこれから熟する可能性を秘めていることになるが、不熟とすると、いつまで経っても熟することはないことになる。
 「不熟」とするのはいかにも五性格別を唱える法相宗らしいが、授決集では、法華経の一切衆生皆成仏道の立場からいえば、“未熟”を正しいとすべきであるとし、しかも、法相宗のなかでも慈恩大師窺基以外はだれも“不熟”の義を伝えたものがないことを述べて、特に窺基を破折するとともに、強いてこの窺基の説に執着するならば人々の信心の布施に応えることはできないとし、謗法に陥り、三悪道を免れないと断じている。
 そして、謗法の罪の報いについては法華経や般若経などの諸大乗教に明確にとかれているので、智者ならばこれをひもといてよくよく信受して、無間地獄に堕ちないように諭している。
 以上から、智証が法相宗の窺基を破折し、一切衆生皆成仏の法華経を重んじていることは明らかである。
 更に、次に引用された授決集の文はすぐ下に「円珍真言の諸宗を徴して云う」と注記されている。つまり、円珍が真言など諸宗を破折していると注されている。ここでは二つの文が引用されているが、いずれも巻下の「他学に徴する決五十二からの抜粋である。
 初めの文は「凡そ八万の法蔵、其の形相を統べるに四教を出でず。頭の辺に示すが如し。蔵通別円は即ち、声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成俱二論等の能所の教理、争でか此の四に過ぎん。…若し法華・涅槃等の経に望むれば、是れ接引門なり」とあり、後の文は五十二の段の最後の注記で「大底他は多く三教に在り円の旨至って少なきのみ」とある。
 ここで智証は八万法蔵は蔵・通・別・円の四教のどれかに属すると述べ、したがって、真言・禅・華厳・三論・唯識・律・成美論・倶舎論などの諸宗における「能書の教理」つまり能詮の教と所詮の理はいずれも四教のどれかに収まってしまうのである。そして、法華経や涅槃経などの経に比べるとこれら諸宗は真実の教えへと導く方便の法門であると断定している。
 後の文はいわば前の文の補足であり、大底の他学、すなわち、天台法華宗以外の大方の諸宗は蔵通別の三教に属していて円教の宗旨としているものは至って少ない、と注している。
 つまり、智証は、法華経・涅槃経が円教で完全な教えであるのに対して、それ以外の真言・華厳・法相などの諸宗は、法華涅槃等の円教に誘導するための方便の教えである蔵通別の三教という不完全な教えをもとにしたものに過ぎないことを明確にして、特に真言宗・法相宗を破折しているのである。
 次いで、弘法大師空海の二教論から二つの文を引用されている。これは、日本真言宗がいかに我見をもって邪義を唱えているかを明らかにされるために引かれたと拝される。
 二教論は正式には弁密二教論という。顕教と密教とを弁別する論ということである。法相・三論・華厳・天台の諸宗の教義を顕教に、大日経を依経とする真言宗の立場を密教に立て分け、真言密教が最も勝っているとしている。
 さて、最初の引用文は二教論の巻下の文で、弘法は六波羅蜜経を持ち出して、仏は乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味をもって素多覧蔵・毘那耶蔵・阿毘達磨蔵・般若波羅蜜多蔵・陀羅尼蔵の五蔵に配当していると述べ、最後の陀羅尼蔵こそ醍醐味であり、前の四蔵は四味に譬えたとし、中国の人師たちは最高の味である醍醐味を自宗の根本の経典にくっつけようとして競って盗んだのであると述べている。
 陀羅尼の呪こそ仏の真実の言葉であり醍醐味であるとし、これは真言密経のみが伝えており、天台などはこの醍醐味を盗んだというのである。
 次に本文の図表では、この二教論の文の注記として、本来の六波羅蜜経の五蔵を五味に配当する図が示されている。六波羅蜜経にこの図表があるわけではないが、大聖人は同経の文を図として示されている。
 「一 爼多覧」には「乳」「アナン」「経」が注記されている。爼多覧とは梵語スートラの音訳であり、その意味は「経」蔵である。これが五味のうちの乳味にあたり、「アナン」すなわち釈尊十大弟子の一人の阿難にこれを受持せしめることが示されている。事実釈尊滅後の第一回仏典結集において阿難は、経蔵を結集したとされる。
 「二 毘那耶」には「酪」「ウハリ」「律」と注記されている。毘那耶は梵語ビナヤの音訳で、意味は「律」蔵である。 
 これを受持したのが「ウハリ」すなわち十大弟子の一人の優婆離であること、五味のうちでは酪味に当たることが示されている。同じく第一回仏典決集において、優婆離は、律蔵を結集したとされる。
 「三 阿毘達磨」には「生」「カセンエン」「論」と注記されている。阿毘達磨は梵語アビダルマの音訳であり、意味は「論」蔵である。五味のうちでは生蘇味に当たることを示されている。「カセンエン」に論蔵を受持せしめることが説かれている。迦栴延は十大弟子の一人ので論議第一と讃えられている。
 以上の「一 爼多覧」「二 毘那耶」「三 阿毘達磨」の下には、まとめて「小乗」と注記され、いずれも小乗教であることを示されている。
 「四 般若はら密蔵」には「熟」「文殊」と注記されている。般若波羅蜜蔵が五味のうち熟蘇味に当たることを示され、文殊に受持せしめることが記されている。般若という大乗の悟りの智慧を体現している菩薩の代表として文殊菩薩を挙げているのである。
 「五 惣持だらに蔵」には「醍醐」「金剛蔵」と注記されている。「惣持」は「総持」と同じ梵語「ダラニ」の意訳語である。すなわち、仏の教法を持って失わず忘れないことをさす。六波羅蜜経では総持陀羅尼蔵を五味のうちの醍醐味に配当している。
 また、この総持門を金剛手菩薩に受持せしめると説いている。金剛手は金剛薩埵の意であり、そこから金剛蔵とされたと考えられる。
 以上の「四 般若はら密蔵」「五 惣持だらに蔵」の下に合わせ「大乗」と注記され、ともに大乗教であることを示されている。経・律・論を小乗とし、般若・総持を大乗と配する文は六波羅蜜経の当該個所にはなく、大聖人の注記である。
 ただし、六波羅蜜多経巻一には「我が滅度の後…曼殊室利菩薩をして所説の大乗般若波羅蜜多を受持せしめ」と、般若を大乗とする文はある。
 次に、引用した二教論の注記として「弘法大師此の経に依って五蔵を立つ」として弘法大師空海の五蔵の立て分けを図表として示されている。
 小乗の三蔵は六波羅蜜経の通りであるが、大乗の二蔵の下に、空海独自の経々の配列が記されている。つまり、「四 般若はら密」の下に「華 方 般 法華 涅槃」のいわゆる“顕教”を配し「五 だら尼蔵」の下に「大日の三部経」の“密教”を配している。
 要するに、空海は華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経という諸大乗経典を熟蘇味の「四 般若はら密」の中に位置づけ、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部経という真言密教の経典を醍醐味の「五 だら尼蔵」として最高位の位置づけているのである。
 しかし、六波羅蜜経には、般若に法華・涅槃等を配して総持に大日の三部経を配することは当然のことながら示されていない。全くの弘法の邪義というべきものである。六波羅蜜経そのものが権大乗経典で、法華・涅槃に劣るものであり、その六波羅蜜経を立てた五味の配立に法華・涅槃が含まれること自体、ありえないのである。
 このことを大聖人は開目抄に「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん」(0222-10)と破折されている。
 この図表のあと、再び二教論の文が引用されている。この文は二教論巻上にあり、その大意は次のとおりである。
 「釈教」が「東国」に漸次伝えられ、仏教の内容も「微自り著に至り」つまり、微かなものから著明なものへとなってきた。すなわち「漢明」の時代を“始め”として、「周天」を“後”とする600数十年間に、翻訳されて伝来してきた経論はすべて顕教である。しかし唐代の玄宗の治世の「金智」や代宗の治世の「広智によって密教が起こり、盛大に広まるに至った。だが、これら密教という新しい薬の教義も、その新しさのゆえに古くからの密教の病を除くことができない。例えば、楞伽経の“法身仏が説法する”という文や大智度論の“法性身に妙色を具す”という句に接した時、顕教の立場から思いを巡らして解釈したり、自宗の教義に合わせて意味を捉えている。惜しいことに昔の賢人たちは密教の醍醐味を嘗めずに知ろうとしないのである。
 以上が大意であるが、弘法大師空海は、ここで密教を醍醐味とし、法華経・涅槃経を顕教として下すだけでなく。天台等は真言密教の深義を盗んでその義を立てた、としているのである。
 なお、御書全集では「周文を後と為す」となっているが、御真筆では「周天」となっている。写本によっては「周文」となっているものもあるが、大正新脩大藏經には「周天」であり、また他の写本では「周文」とあり、どちらが正しいかにわかに断定できないが、「周文」は周の文王の意であり、「周天」は則天武后の世をさし、この二つは時代が異なることを付記しておく。

0608:04~0608:11 第十章 仏教渡来以前の日本の王代を示すtop
04   日本
05   神代十二代┬天神 七代
06        └地神 五代
07   人代百王
08   第一神武天皇    之を略す
09   第十四仲哀     八幡大神の父なり
10   第十五神功皇后   八幡大菩薩の母なり
11   第十六応神天皇   今の八幡大菩薩なり    略                          ・
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   日本
   神代十二代┬天神 七代
        └地神 五代
   人代の百王
   第一神武天皇    この間を略す
   第十四仲哀     八幡大神の父である
   第十五神功皇后   八幡大菩薩の母である
   第十六応神天皇   今の八幡大菩薩である    以下を略す。

神代
 日本神話では、神武天皇の在位する以前までの時代(紀元前660年以前)のことをさす。
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天神七代
 天神七代ともいう。陽神(男神)と陰神(女神)がある初めは抽象的だった神々が、次第に男女に別れ異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。1.国之常立神。2.豊雲野神。3.宇比邇神・須比智邇神。4.角杙神・活杙神。5.意富斗能地神・ 大斗乃弁神。6.淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神。7.伊邪那岐神・伊邪那美神。
―――
地神五代
 日本神話において、天神七代に続き、神武天皇以前に日本を治めたとされる5柱の神の時代のこと。天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の5代を指す。
―――
人代百王
 神武天皇以降の100代の天皇。八幡台菩薩は100代の王を守護するとの誓いを立てている。
―――
神武天皇
 日本神話に登場する人物。『古事記』『日本書紀』では、日本の神の系譜を継いで人間として初代天皇となり、神代と人代をつなぐ皇統の祖とされる。御書中でも神武以降の皇統は「人王」と呼ばれ、神代と区別される。日向(宮崎県)から東征し長髄彦を破って大和地方を平定し、橿原宮(奈良県橿原市)で即位した。この大和平定の物語は建国神話として有名で、これに基づけば即位年は紀元前660年とされる。
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仲哀
 成務天皇18年? ~仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日~同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。足仲彦天皇、帯中日子天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されており(仲哀天皇架空説)、諸事績の史実性にも疑いが持たれる
―――
八幡大神
 日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩と称され、神社内に神宮寺が作られた。
―――
神功皇后
 仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊・『古事記』では息長帯比売命・大帯比売命・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。
―――
八幡大菩薩
 八幡宮の祭神。神仏習合の伝統から、正八幡大菩薩、八幡大菩薩ともいう。略して正八幡、八幡とも。古くは農耕の神とされていたが、豊前国(福岡県東部と大分県北部)宇佐に祭られてから付近で産出する銅産の神とされ、奈良時代に東大寺の大仏が建立された時にそれを助けたとして奈良の手向山に祭られた。その後、国家的神格として信仰を集め託宣神としても知られるようになった。平安時代の初めには朝廷から大菩薩の称号が贈られ、貞観元年(859年)に行教によって山城国(京都府南部)石清水に勧請された頃から、応神天皇の本地が八幡大菩薩であるとする説が広まり、朝廷の祖先神、京都の守護神として崇められた(579㌻参照)。鎌倉時代になると、八幡神は源氏の氏神として厚く尊崇され、また武士全体の守護神とされた。こうした古代・中世において、仏教が日本に普及する課程で、八幡神は梵天・帝釈天らインドの神々に次ぐ仏法の守護神と位置づけられた。御書には「八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給いけるなり」(583㌻)、「八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂に・やどらんと誓い給ふ」(1196㌻)と仰せである。また本地垂迹説によって、八幡神の本地は釈尊とされるようになった。しかし一方で八幡神の本地を阿弥陀仏とする説も広まった(『神皇正統記』など)。これに対し「智妙房御返事」では「世間の人人は八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申ぞ、それも中古の人人の御言なればさもや、但し大隅の正八幡の石の銘には一方には八幡と申す二字・一方には昔霊鷲山に在って妙法蓮華経を説き今正宮の中に在って大菩薩と示現す等云云、月氏にては釈尊と顕れて法華経を説き給い・日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願いに立て給う、教主釈尊は住劫第九の減・人寿百歳の時・四月八日甲寅の日・中天竺に生れ給い・八十年を経て二月十五日壬申の日御入滅なり給う、八幡大菩薩は日本国・第十六代・応神天皇・四月八日甲寅の日生れさせ給いて・御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う、釈迦仏の化身と申す事は・たれの人か・あらそいをなすべき」(1286㌻)と仰せになり、日蓮大聖人は、人々が阿弥陀仏を尊んで釈尊をないがしろにする誤りを糺されている。なお、大聖人は文永8年(1271年)9月、竜の口に連行される途中、若宮小路(鶴岡八幡宮の前の大通り)で馬から下り、八幡大菩薩に対して日本第一の法華経の行者を守護する誓いを今こそ果たすべきだと叱咤されている(912,913㌻)。現在、八幡神は豊前国宇佐、奈良の手向山、山城国(京都府南部)石清水、鎌倉の鶴岡、大隅国(鹿児島県東部)をはじめ全国各地に祭られている。
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応神天皇
 第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日~ 同41年2月15日)。諱は誉田別尊、誉田別命、大鞆和気命。誉田天皇、胎中天皇とも称される。麛坂皇子と忍熊皇子は異母兄にあたる。
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 この段の冒頭に「日本」とあるのは、ここから日本の王代記が始まることを示されている。
 初めに「神代十二代」とあり、その下に「天神―七代」「地神―五代」と注記されている。神代とは神世とも記すが、日本書紀・古事記によると、日本開闢以来人王第1代神武天皇に至るまでに、天神7代、地神5代の計12代の神王がいたとしている。
 そのうち、天神7代というのは、1・国常立尊、2・国狭槌尊、3・豊斟渟尊、4・泥土煮尊・沙土煮尊、5・大戸之道尊・大苫辺尊、6・面足尊・惶根尊、7・伊弉諾尊・伊弉冉尊である。地神5代というのは、天神7代のあとに地上に降りて日本を治めたとされる5代の神で天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の5神である。次に、「人王百代」と記されて、それまでの神々の王に対して人間の王として治める時代に入ったことを示される。「百王」とあるのは多くの王という意味であるとともに、実際に人王第1代の神武天皇から大聖人御在世当時の第91代後宇多天皇まで数えて、概数100代という意味ともとれる。また、第51代平城天皇の世に八幡大菩薩の託宣があって、100王を守護するとの誓いがあったとの伝承から、100代までは盤石であるとの意味も含まれていると考えられる。まず「第一神武天皇」とあり、人王第1代が神武天皇であることを示されている。御書全集では、その下に「之を略す」と注記されているが、御真筆を拝すると「第一代神武天皇」と「第十四代仲哀」の間に注記されており、第1代の神武天皇の後、第2代から第13代までの12人の王の名を省略するとの意であることを付記しておく。
 次に「第十四代仲哀」の下に「八幡大神の父なり」と注記されている。次に「第十五代神功皇后」の下に「八幡大菩薩の母なり」とある。そして、「第十六代応神天皇」の下に「今の八幡大菩薩なり」とある。第16代・応神天皇は第14代・仲哀天皇を父とし、第15代・神功皇后を母としていること、しかもそのに「八幡大菩薩の母なり」とある。そして、「第十六代応神天皇」の下に「今の八幡大菩薩なり」とある。第16代・応神天皇は第14代・仲哀天皇を父とし、第15代・神功皇后を母としていること、しかもその応神天皇が八幡大菩薩であることが明らかである。
 この人王歴代図において第1代の神武のあとは略されて、第14代仲哀、第15代神功、第16代応神の3人を特に挙げられたのは、この当時は仏教はまだ到来していなかったが、後に仏教が伝来して広く信仰されるようになるにしたがって、仏法の守護神とされ「八幡大菩薩」と称される「八幡大神」が応神天皇であり、仲哀・神功はその父母とされたからである。
 なお、神国王御書で大聖人は本抄では図表で示されたことを御文で示されている。
 「国主をたづぬれば神世十二代は天神七代地神五代なり、天神七代の第一は国常立尊乃至・第七は伊奘諾尊男なり、奘册尊妻なり、地神五代の第一は天照太神・伊勢太神宮日の神是なりいざなぎいざなみの御女なり、乃至第五は彦波瀲武ウガヤ草葺不合尊・此の神は第四のひこほの御子なり・母は竜の女なり、已上地神五代・已上十二代は神世なり、人王は大体百代なるべきか・其の第一の王は神武天皇此れはひこなぎさの御子なり、乃至第十四は仲哀天皇八幡御父なり・第十五は神功皇后八幡御母なり・第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子今の八幡大菩薩なり、乃至第二十九代は宣化天皇なり、此の時までは月支漢土に仏法ありしかども日本国にはいまだわたらず」(1516-04)と。
 「第十六代応神天皇」の下に「今の八幡大菩薩なり」とあり、更にその下に「略」と注記されているのは、第17代から第29代までの13代の天皇の名を省略するという意味である。

0608:12~0610:05 第11章 日本への仏教渡来の経緯を示すtop
12   第三十欽明天皇   歴記に云く欽明天皇の治天下十三年己申歳冬十月一日 百済国聖明王自り仏像経等始めて
13             日本国に送る
14   第三十一敏達天皇  ┌厩戸王子──四天王寺を造る
15   第三十二用明───聖徳太子は用明の御子也
16             └上宮太子守屋を切り四十九院を立つ南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり
17   第三十三崇峻
18   第三十四推胡 女帝
0609
01   第三十五舒明
02   第三十六皇極 女帝
03   第三十七孝徳
04   第三十八斉明 女帝
05   第三十九天智
06   第四十 天武    
07   第四十一持統 ┌倶舎宗
08   第四十二文武 ├律 宗
09   第四十三元明 ├成実宗
10   第四十三元明 ├法相宗
11     ┌─六宗─┼三論宗
12     │    └華厳宗
13   第四十五聖武
14     │ │     亦禅宗有り並びに一切経有り
15     │ └─聖武天皇東大寺の大仏を造る
16     └─欽明自り聖武に至るまで 二百四十余年なり、 震旦国自り鑒真和尚渡り律宗を亘す、 次に天台宗の
0610
01       玄文止等を渡す、又東大寺の小乗戒壇を立つ
02   第四十六孝謙 聖武の女
03   第四十七淡路 廃帝
04   第四十八称徳 孝謙又即位也
05   第四十九光仁 桓武の父なり
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   第三十欽明天皇  日本書紀などの史書には「欽明天皇の治世の十三年己申歳の冬十月一日、百済国聖明王から仏像や経典
                    等が初めて日本国に送られるとある。
   第三十一敏達天皇  ┌厩戸王子──四天王寺を造る
   第三十二用明───聖徳太子は用明の御子である。
             └上宮太子守屋を切り、四十九院を建立する。南岳大師の後身である。救世観音菩薩の垂迹である。
   第三十三崇峻
   第三十四推胡    女帝
   第三十五舒明
   第三十六皇極    女帝
   第三十七孝徳
   第三十八斉明    女帝
   第三十九天智
   第四十 天武    
   第四十一持統 ┌倶舎宗
   第四十二文武 ├律 宗
   第四十三元明 ├成実宗
   第四十四元正 ├法相宗
     ┌─六宗─┼三論宗
     │    └華厳宗
   第四十五聖武
     │ │     また禅宗があり、ならびに一切経があった。
     │ └─聖武天皇は東大寺の大仏を造る。
     └─欽明天皇から聖武天皇に至るまでの年数は二百四十余年である。中国から鑒真和尚が渡り、律宗を亘す、次に天台
       宗の法華玄義・法華文句摩訶止観を渡す。また東大寺の小乗戒壇を建立する。
   第四十六孝謙聖武天皇の娘
   第四十七淡路 廃帝
   第四十八称徳 孝謙天皇がまた即位したのである。
   第四十九光仁桓武天皇の父である。

欽明天皇
 510年~571年。継体天皇の嫡子。在位中に百済から仏法が公式に伝えられた。現在では一般に第29代とされるが、明治時代に歴代を正式に定めるまでは神功皇后を歴代に数えるなどし、第30代とするのが一般的だった。
―――
歴記
 日本の歴史書。古事記・日本書紀等。
―――
百済国
 古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
―――
聖明王
 (~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
―――
敏達天皇
 第30代天皇。在位期間は、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)から同14年8月15日(585年9月14日?)まで。和風諡号は渟中倉太珠敷尊。別名、他田天皇。
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用明
 欽明天皇の第4皇子。在位、585年~587年。仏教を信仰することを群臣に協議させたところ、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が激化したと伝えられる。聖徳太子は同天皇の第2皇子である。用明天皇は現代では31代と数える。近代までは、一般的に神功皇后を天皇歴代に数え入れていた。
―――
厩戸王子
 飛鳥時代の皇族で、推古天皇の摂政を務めた。厩戸王とも。後年の書物などで、「聖徳太子」「聖徳王」と呼称されている。
―――
四天王寺
 天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
―――
聖徳太子
 574年~622年。飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている(「開目抄」、230㌻)。
―――
上宮太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
守屋
 (~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
―――
四十九院
 ① 弥勒菩薩の居所兜率天の内院にある摩尼宝殿と,その四方にある四八の宮殿。 ② 一つの寺院の境内に兜率天を模して建てられた四九の堂。平安時代以後の様式。 ③ 前面に六基,後面に一五基,左右に各一四基の塔婆を建てた墓。鎌倉時代以後の様式。
―――
後身
 あとの身・生まれ変わった身。
―――
救世観音
 観世音菩薩のこと。観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
―――
垂迹
 「迹を垂れる」と読む。仏・菩薩が衆生を利益するために、種々の所にさまざまな身に姿を変えて現れること。またその身をいう。本地に対する語。もとの仏・菩薩が本地から真実身を隠して化現した姿が垂迹であり、それは本体と影・天月と地月の関係にたとえられる。
―――
崇峻
 (~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
―――
推胡
 (0554~0628) 記紀で第33代天皇(在位0592~0628)の漢風諡号。名は額田部。豊御食炊屋姫とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると,推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い,飛鳥文化を現出。
―――
舒明
 (0593~0641)日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村。 和風諡号は息長足日広額天皇
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皇極
 (0594~0661)重祚して斉明天皇は、日本の第35代・第37代天皇。在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) ~ 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) ~ 7年7月24日(661年8月24日)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝になる。
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孝徳
 (0597~0654)第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)~白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽。和風諡号は天万豊日天皇。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(大化改新)などを含めて難波朝という別称で称されることがあった。
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斉明
 (0594~0661)重祚して、日本の第35代・第37代天皇。在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) ~ 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) ~ 7年7月24日(661年8月24日)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝になる。
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天智
 (0626~0671)第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日)~10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊。一般には中大兄皇子として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。
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天武
 (?~0686)生年不明 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
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持統
 (0645~0702)第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」がある。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
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文武
 (0683~0707)第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠、軽。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」がある。
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元明
 (0661~0721)第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) ~和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」である。天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。藤原京から平城京へ遷都、風土記編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた古事記を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
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元正
 (0680~0721)第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日)~養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
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聖武
 (0701~0756)日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
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六宗
 奈良時代までに日本に伝わった仏教の六つの学派。三論・成実・法相・俱舎・華厳・律の六宗。
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倶舎宗
 インドの論師・世親(ヴァスバンドゥ)の『俱舎論』に基づく学派。南都六宗の一つに数えられるが、法相宗に付随して学ばれる寓宗(他に寄寓する学派)である。
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律宗
 ❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。▷戒/鑑真/道宣/戒壇/東大寺❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。▷
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成実宗
 インドの訶梨跋摩(ハリーヴァルマン)の『成実論』に基づく学派。『成実論』は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を27(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。5世紀の初めに鳩摩羅什によって『成実論』が漢訳されると、弟子の僧叡・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って『成実論』が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗である。
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東大寺
 奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。金光明四天王護国之寺ともいう。南都七大寺の一つ。743年、聖武天皇の詔により大仏造立が開始されたが、この事業と国分寺建立が一体となり、総国分寺としての東大寺に発展した。大仏造立は、初代別当であった良弁の総指揮のもと行基を勧進僧とし、752年に菩提僊那の導師で開眼供養が行われた。これが本尊の毘盧遮那仏で、像高約15メートル(現在)、鋳造の金銅仏である。754年には大仏殿の西に鑑真が戒壇院を造営した。
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大仏
 1丈6尺(約4.85メートル)以上の仏像のこと。「おおぼとけ」ともいう。種類としては釈迦如来、毘盧遮那仏が多い。日本では奈良東大寺の大仏、鎌倉の大仏が名高い。
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鑒真和尚
 (0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
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 法華玄義のこと。天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
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 法華文句のこと。天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。10巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈法によって明らかにしている。
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 『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。
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小乗戒壇
 日本では、聖武天皇の時代に鑑真が招来され、東大寺に戒壇が建立されて授戒が始まり、律の規定に基づく正式な僧を作れるようになった。伝教大師最澄は、この戒壇が『四分律』に基づく小乗の戒壇であるとし、大乗の菩薩の僧を養成するため、具足戒を用いない梵網経に基づく菩薩戒の授戒を主張し、比叡山に大乗戒壇を建立することを訴えた。これは伝教大師が没した直後に勅許され、法華円頓戒壇が建立された。日蓮大聖人はこれを法華経迹門の戒壇と位置づけられるとともに、三大秘法の一つである本門の戒壇を独自に主張された。
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孝謙
 (0718~0770)第46・48代天皇。在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)~天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日)~神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇」とも称された。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 ~1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。
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淡路
 (0733~0765)淳仁天皇のこと。第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日)~天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝または淡路廃帝と呼ばれる。諱は大炊であり、践祚前は大炊王と称された。
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廃帝
 他によって強制的に位を退かされた天皇。
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称徳
 (0718~0770)第46・48代天皇。在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)~天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日)~神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇」とも称された。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 ~1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。
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光仁
 (0709~0781)第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日)~天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。
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桓武
(0737~0807)第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)~延暦25年3月17日(806年4月9日))。
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 ここでは日本国で初めて仏教が伝来してから伝教大師最澄が出現するまでの歴代天皇を示されている。
 まず「第三十代欽明天皇」の下に「歴記に云く欽明天皇の治天下十三年己申歳冬十月一日 百済国聖明王自り仏像経等始めて日本国に送る」と記されている。
 ここに「歴記」とあるのは歴史を記した書の意味で、日本書紀などの史書をさす。それによると、欽明天皇の治世第13年(0552)壬申の歳の冬、10月1日に、朝鮮半島の一国であった百済の聖明皇から仏像・幡蓋・経教などが日本に送られてきた、と記されている。これが我が国における仏教の初伝とされている歴史的な事実である。
 なお御書全集では己申歳とあるが、御真筆は「壬申歳」となっており、史書もこうなっている。また十干十二支においても「壬申」はあるが「己申」は干支の組み合わせ上、存在しない。「壬申歳」が正しいことはいうまでもない。
 次に「第三十一敏達天皇」「第三十二用明」と記されているが、「第三十欽明天皇」を含むこの3代の時代は仏教が日本に渡来してから、その受容をめぐって賛否両論が対立し、なかなか定着しなかった時代である。この点については、四条金吾殿御返事に詳しく述べられている。その内容を要約すると、百済国から伝えられた仏像を礼拝するか否かについて、欽明天皇が臣下に意見を聞いたところ、大臣蘇我稲目は尊崇すべきであると言い、大連物部尾興は排仏を主張し、意見は激しく対立した。欽明天皇は結局、試みに蘇我氏にのみ仏像を崇めさせることにした。ほどなくして疫病が流行したので、物部氏はそれを理由に排仏を進言し、排仏派が勢いを増大した。しかし、その後も決着のつかないまま、大和朝廷は仏教を用いることがなかったのである。神国王御書に「欽明・敏達・用明の三代・三十余年は崇め給う事なし」(1516-14)と仰せの状態であったのがこの時代である。
 仏教が大和朝廷で崇められるようになったのは次の「第三十三崇峻」天皇になってからである。この天皇は崇仏派の蘇我馬子によって擁立されたことにより、崇仏派の優勢がほぼ確定したのであった。続く「第三十四推古」天皇の時代に、聖徳太子が摂政となって、ますます仏教は日本に定着していく。
 「聖徳太子」については、先の「第三十二用明」天皇の下に「聖徳太子は用明の御子也」と、聖徳太子が用明天皇の皇子であったことが記されているが、第一皇子であったか否かについては定かではない。
 その「聖徳太子」の注記として「厩戸王子──四天王寺を造る」「上宮太子守屋を切り四十九院を立つ南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」と記されている。まず「厩戸王子」「上宮太子」というのは日本書紀にも上宮聖徳法王帝説にもその由来が記されている。上宮聖徳法王帝説では「用明天皇の后穴穂部間人王は、厩戸へお出になったとき、急に聖徳太子をお生みになった。太子は幼少のころから聡明で智慧があった。大人になってからは、一度に8人のいうことを聞いて、その言い分を聴き分けた。また一を聞いて8をさとった。そこで、お名前を厩戸聡八耳命というのである。用明天皇は、皇太子であった聖徳太子を大変愛されて、宮殿の南の上の大きな御殿に住まわされたので、上宮王とも呼ぶのである」とあり、厩戸王子の呼び名は聖徳太子の誕生の場所から名付けられたことがわかる。
 「四天王寺を造る」「守屋を切り四十九院を立つ」とあるのは聖徳太子の事績を記されたものである。同じく上宮聖徳法王帝説では「用明天皇二年(0578)6・7月のころ、蘇我馬子宿称大臣が物部守屋大連を伐ったとき、大臣の軍士は勝てずに退却した。そこで聖徳太子は、四天王の像を軍士たちの前に建て、『もし、この大連をでは「用明天皇二年(0578)6・7月のころ、蘇我馬子宿称大臣が物部守屋大連を伐ったとき、大臣の軍士は勝てずに退却した。そこで聖徳太子は、四天王の像を軍士たちの前に建て、『もし、この大連を滅ぼす亡ぼすことができたならば、四天王のために寺を造り、尊んで供養いたしましょう』と誓った。すると軍士は勝つことができ、大連をしとめることができた。これによって、すなわち難波の四天王寺を造ったのである。聖徳太子14歳の時であった」と記している。
 すなわち聖徳太子の14歳の時、崇仏派蘇我馬子と拝仏派の物部守屋との間に決戦が行われたのであるが、物部方の強い抵抗に遭い、軍勢を退却させねばならないほどであった。これを見た聖徳太子は四天王の像を建てて、勝利できたなら四天王を祀る寺を造ると誓って祈ったところ、ついに物部守屋を討つことができたというエピソードである。
 「四十九院を立つ」という注記については、聖徳太子はその生涯に7つの寺を建立したといわれる。四十九院というのはもともと弥勒菩薩の居所である兜率天の内院にある魔尼宝殿とその四方に12天宮があるとされ、これらを合わせて呼ばれたものである。このことから弥勒を祀る寺院として、この兜率の内院を摸して49の堂宇から成る寺を建ててこれを四十九院と称した。また、鎌倉時代になると、墳墓の周囲に49基の塔婆を建ててこれも四十九院と称したという。いずれにしても、四十九院の呼び名は日本で始まったといわれている。
 ところで、ここで聖徳太子の建てた7ヵ寺の中に「四十九院」と呼ばれた寺があったものか、それとも、7ヵ寺を総称しておられるかは不明である。
 古代の寺院は七堂伽藍といって、塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・門・僧房の不可欠の建築からなっていた。したがって、聖徳太子の建てた7つの寺のそれぞれに7つの伽藍があったとすると49の伽藍ということになり、これを総称して「四十九院を立つ」と記されたものとも考えられるからである。
 次に「南岳大師の後身なり」との注記は、先に第五章で南岳大師についての注記の「日本の浄宮太子是なり」とあるのに対応している。
 その際にも引用したが、これは扶桑略記第三にも「大唐南岳思禅之後身聖徳太子」とあるように、当時、このように信じられていたものを大聖人も用いられたものである。
 「救世観音の垂迹なり」とある救世観音とは、智力によって一切衆生を救う観音菩薩のことで、聖徳太子をこの菩薩の化身であるとする伝説が大聖人の御在世当時にはかなり浸透していたものと考えられる。
 なお、扶桑略記第三の敏達天皇12年の記述に次のような一節がある。
 「七月、百済国の客日羅来朝す。身に光明有り、状火焔の如し、厩戸王子相会して清談す。日羅合掌して言く『救世観音に敬来す。東方粟散国に伝燈す」と。
 百済国からやってきた日羅が聖徳太子に会って清談した際、太子に向かって合掌し「東方の粟散国に仏法の燈火を伝えるために出現された救世観音に敬意をもって礼します」と述べている。このエピソードも聖徳太子を救世観音の垂迹とする伝説を反映していると考えられる。
 続いて本文は「第三十三崇峻」「第三十四推古」「第三十五舒明」「第三十六皇極」「第三十七孝徳」「第三十八斉明」「第三十九天智」「第四十天武」「第四十一持統」「第四十二文武」「第四十三元明」「第四十四元正」と続けて名のみを示されている。
 第34推古と第36皇極と第38代斉明の3人の天皇については下に「女帝」との注記があるが、大聖人の筆になるものではなく他筆である。なお皇極と斉明天皇は同一人物である。
 なお、既に述べたが、大聖人は天皇の歴代については神功皇后を数えられている。したがって、神功皇后を数えない最近の史書とは第16代天皇以降は一代ずつずれることになる。また、同じく最近の史書では天智天皇の次に弘文天皇を加えている。弘文天皇は、大友皇子といわれ、天智天皇の皇子であり、0671年、天智天皇の死後大津宮で即位したといわれる。翌年、皇位をめぐる争いである壬申の乱が起こり、大友皇子は天武天皇に敗れて自害した。この大友皇子に1870年、弘文天皇と謚号したため、最近の史書では弘文天皇を第39代としている。天武天皇以降の歴代は、最近の史書と一致する。
 「第四十五聖武」天皇については多くの注記が施されている。まず聖武天皇自身の事績として「東大寺の大仏を造る」とある。
 聖武天皇は天平15年(0743)10月、盧遮那仏造計画を発表して当時の国力を傾けて大仏を造立し、天平勝宝元年(0749)4月に、東大寺で大仏開眼供養を行っている。他方、注記に「六宗」としてその下に「倶舎宗・律宗・成実宗・法相宗・三論宗・華厳宗」と記されているように、いわゆる南都六宗が成立したのがこの治世であった。ここでの「宗」は後世の寺ごとに色分けされて、僧俗ともそのもとで固定的な宗団を作る宗派と異なり、一種の学派、あるいは大学のようなものであったと考えてよい。つまり、僧たちは、小乗については、ある寺のある僧について学び、それを修了すると紹介状をもらって、今度は大乗の華厳を学ぶために別の寺へ行くというふうに巡歴したのだった。寺々の中でも中心になったのは東大寺であり、六宗兼学の草分けであった。そこから次第に他の諸寺にも及んでいった。六宗のなかの「律宗」については「震旦国自り鑒真和尚渡り律宗を亘す、次に天台宗の玄文止等を渡す、又東大寺の小乗戒壇を立つ」と注記されている。
 つまり、鑑真は0753年、震旦国から日本にやってきて、当時の日本の仏教界には僧として基本となる戒律が不十分だったので、戒律を教えることから始めた。それは中国の道宣律師が開いた南山宗であった。そのため鑑真は東大寺に小乗の戒壇院を設けるとともに、唐招提寺を開いて戒律研究の道場としている。これが日本における律宗の始まりである。
 鑑真自身は単に小乗の律宗であったのではなく、法華玄義・法華文句・摩訶止観の三大部などの中国天台宗関係の教学書をもって伝えている。これが後に日本の天台宗興隆の基礎となっている。
 なお、「六宗」の注記の関連で「亦禅宗有り並びに一切経有り」と記されている。ここでの「禅宗」というのは後に鎌倉時代に中国から到来してくるものではない。東大寺等の寺で六宗研学が行われるとともに、その一方で、単に経論の知識面の研鑽だけではなく山林に籠って観念修行することも行われた。そうした修行法が「禅宗」と呼ばれ、またこの修行に励んでいる人々は「禅師」とも呼ばれたのである。「一切経有り」との注記については、日本書紀巻29で、天武天皇が即位した年の天武元年(0673)3月に「書生を集めて、川原寺で一切経の書写をお始めになった」との記述があり、同じ巻で天武天皇が「使を各方面に遣わして一切経を求めさせた」とか「一切経をお読ませになった」という記述がある。
 なお、開元釈経録による一切経は聖武天皇の即位から11年後の天平7年(0735)に玄昉によって我が国にもたらされたとされているので、このことを言われたものと考えられる。
 また「欽明自り聖武に至るまで二百四十余年なり」との注記であるが、欽明天皇の治世に仏教が中国より到来した年から聖武天皇が大仏開眼供養を行った年までは200年ちょうどある。また、欽明天皇の即位の年については所説あるが、今、一般的に認められている0539説をとると、それから聖武天皇の即位の年までは185年となり、欽明天皇の即位から聖武天皇の崩御の年までをとっても210年となり、いずれも本文の「二百四十余年」とはならない。おそらく欽明天皇の即位については、もっと溯る説があったのかもしれない。あとで述べるように、仏教初伝を欽明天皇13年でそれを0552年とする説の場合、即位は0539年になるが、0531年に即位したとする説もあり、仏教初伝も欽明7年(0538)説があり、現在は後者のほうが有力である。
 次に「第四十六孝謙」天皇の下には「聖武の娘」つまり、聖武天皇の皇女であることを注記されている。「第四十七淡路」天皇の下には「廃帝」とあり、淳仁天皇のことである。淳仁天皇は第47代の天皇であるが、孝謙天皇が弓削道鏡を寵愛したことに逆らったために在位6年で廃されて淡路島に配流されたことから“淡路天皇”ともいわれている。
 「第四十八徳」天皇は淳仁天皇を廃した後、孝謙天皇が再び即位してなった天皇である。注記に「孝謙又即位也」とあるのはそのことである。
 最後に「第四十九光仁」天皇は注記に「桓武の父なり」とあり、次章で取り上げられる第五十代桓武天皇の父である。
 以上、本文に表示されているところにしたがって、「第三十欽明天皇」から「第四十九光仁」天皇に至る240年の間に、朝鮮半島の百済から仏教が到来し、日本に次第に定着していった過程を概観してきた。ついでながら、先の「二百四十年」という注記は「欽明自り光仁に至るまで」とすると符合する。
 歴史学上の主たる区分からいうと、遅くとも4世紀前半には北海道と東北地方の一部を除く日本のほぼ全土を統一した大和朝廷が朝鮮半島と交流して、大陸の文化を積極的に摂取しはじめたころに当たる。仏教の伝来はその交流の成果の一つといってよい。これは、飛鳥時代、白鳳時代、奈良時代へと引き継がれていく。
 その間には、聖徳太子により、直接、中国への交流が始められ、12階の冠位の制定、17条の憲法制定など、国内の体制が整えられる。その後も、大化改新・壬申の乱・律令の制定・平城京遷都などと大きな政治的変動が相次いでいる。
 そうした時代の大きな変遷のなかで第33代崇峻天皇から第44代元正天皇に至る時期、次第に日本に仏教が定着していったのである。
 この時期について神国王御書では次のように記されている。すなわち「第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて・第三十四代推古天皇御宇に盛にひろまりき、此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき、此の三論宗は月氏にても漢土にても、日本にても大乗宗の始なり、故に宗の母とも宗の父とも申す、人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わたる、人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる、人王四十四代・元正天皇の御宇に大日経わたる、人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、しかりといへども唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし」(1517-01)とある。
 ここにも崇峻天皇以来、三論宗・成実宗・禅宗・法相宗・大日経・華厳宗・律宗・法華宗と伝来してきたが、天台の法華宗は弘通するに至らなかったと仰せられている。しかし、既に聖徳太子が法華義疏を著したとされているように、法華経が当初から尊崇されてきたことはたしかである。孝謙天皇の時代に法華経がわたるとあるのは、唐僧・鑑真が天台の法華三大部をもってきたことをいわれたのである。
 しかし、三大部の意義を理解し「法華宗」が成立するには、後の伝教大師最澄の時まで待たねばならなかった。
仏教の公伝について
 仏教が公式に朝廷に伝えられたことを公伝という。これに対して、たとえば司馬達等のように帰化人で私的に仏教信仰を持ち込み、身近な人々にその信仰がひろまったという私伝があり、これは公伝より前から始まっていたと想像されるが、その年代は0522説があるが、確定することは困難である。
 また、百済・聖明王による公伝の事についても年次に関しては、史料によって若干の相違がある。欽明天皇の時とすることについては一致しているが、日本書紀では、同天皇の第13年壬申(0522)のことになる。だが、聖徳太子の伝記資料としては、最古の上宮聖徳法王帝説、元興寺伽藍縁起並流記資財帳によると、同天皇の7年戊午(0538)になる。
 この二説のうち、日本書紀その他の研究が進むにつれ、後者の年次の妥当性が明らかになり、現在の学会では戊午の0538とする説が有力である。ただし、この説も朝鮮古代史の研究がすすむにつれ、確定的とはいえなくなっている。
 大聖人は諸御書で、当時の仏教界で一般に用いられてきた日本書紀の欽明13年壬申(0522)説を用いられている。

0610:06~0610:17 第12章 伝教大師の法華経弘通を示すtop
06       ┌─ 欽明自り二百六十余年に及ぶ
07   第五十桓武──── 延暦三年に奈良の都自り長岡の京に遷り、延暦十三年長岡の京自り平の京に遷る、延暦二
08    十五年御崩去.延暦四年叡山を立つ伝教大師最澄なり延暦二十年叡山八講を始め南京の十人を請ず,延暦二十一
09    年の正月十九日 高雄に於て 南京の十四人と 最澄と宗論あり、同二十九日 六宗の十四人謝表を桓武聖王
10    に奉る、 延暦二十三年入宋 同二十四年御帰朝、 此の御時始めて伝教大師天台宗を立て 四十余年の文を
11    以て 六宗を破り 始めて法華の実義之を顕し、欽明自り二百余年の邪義 之を改む、 又六宗の碩徳たる勤
12    操・徳円・長耀等の十四人・桓武皇帝に謝表を奉りて邪見を翻す。
13    弘法大師空海は延暦二十三年御入宋 ・大同元年御帰朝、伝教大師は山階寺の行表僧正の御弟子 ・弘法大師
14    は石淵の勤操僧正の御弟子なり。
15   第五十一平城
16   第五十二嵯峨    弘仁十三年六月四日伝教大師御入滅・同十一日慈覚大師戒壇を立つ。
17   第五十三淳和
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       ┌─ 欽明から二百六十余年が経過する。
   第五十桓武──── 延暦三年に奈良の都から長岡の京に遷り、延暦十三年長岡の京から平安京に遷る。、延暦二
    延暦二十五年、御崩去。
    延暦四年、比叡山延暦寺が建てられる。伝教大師最澄の建立である。
    延暦二十年、比叡山延暦寺で法華八講を開始、南京の高僧十人を招請する。
    延暦二十一年の正月十九日、高雄山神護寺で奈良の高僧十四人と最澄との間で法論があった。同二十九日、六宗の高僧十四
      人は陳謝状を桓武聖王に提出する。
    延暦二十三年、伝教大師は中国に渡り、同二十四年、日本に帰る。この時に初めて伝教大師は天台宗を立て、無量義経の「
      四十余年には末だ真実を顕さず」の文をもって六宗を破り、初めて法華の実義之を顕し、欽明から二百余年の間の邪義を改
      めた。また六宗の碩徳である勤操・徳円・長耀等の十四人は桓武皇帝に陳謝状を提出し邪見を翻した。
    弘法大師空海は延暦二十三年中国に渡り、大同元年、日本に帰る。
    伝教大師は山階寺の行表僧正の御弟子であり、弘法大師は石淵の勤操僧正の御弟子である。
   第五十一平城
   第五十二嵯峨    弘仁十三年六月四日、伝教大師、御入滅。同十一日、慈覚大師・戒壇を立てる。
   第五十三淳和

奈良の都
 平城京のこと。奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。
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長岡の京
 桓武天皇は天応元年(0781)4月に即位してより3年目の延暦3年(0784)6月から長岡京の造営に取りかかった。しかし、結局失敗に終わり、延暦12年(0793)山城の国に遷都を定め、延暦14年(0795)10月22日4の遷都を終わって平安京と名づけた。
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平の京
 平安京のこと。延暦13年(0794)10月22日から明治2年(1869)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城にならって計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869)に政府が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」と言う。
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崩去
 天子・天皇がなくなること。
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叡山
 比叡山(滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(785年)7月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(788年)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(806年)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(822年)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(823年)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。天長元年(824年)6月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(834年)、第2代座主の円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(848年)、第3代座主の円仁(慈覚)が横川に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海(弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主の円珍(智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然は顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(966年)に第18代座主となった良源は中興の祖といわれる。しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(993年)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺(三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山の守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。日蓮大聖人は立宗前に比叡山で修学されている。また法然(源空)・親鸞・一遍・栄西・大日能忍・道元など、鎌倉時代に活躍した多くの僧が比叡山で学んでいる。
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最澄
 767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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八講
 法華八講のこと。法華八巻を八座に分けて一巻ずつ講ずる法会。起源は中国とされ、日本では延暦15年(0796)に勤操が石淵寺で、友人の母の供養のために開いたのが初めとされる。
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南京の十人
 延暦20年(0801)11月、伝教大師が比叡山一乗止観院に法華会を開いたとき、招かれた南都六宗の10人の僧。勝猷・奉基・寵忍・賢玉・光証・観敏・慈誥・安福・玄耀名は見えるが一人は不明。歳光とする説もある。
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高雄
 現在の神護寺のこと。京都市右京区梅ケ畑高雄町にある。和気氏の氏寺で、後に真言宗の寺院となる。
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南都の十四人
 延暦21年(0802)正月19日、高尾寺にて聖武天皇の御前で伝教大師と対論して敗れた南都六宗の主だった僧。善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏。
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宗論
 ①経を総括して法義を立てて、宗旨とすること。②宗派間の論議のこと。勝劣・真偽を決定する法論。
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聖王
 聖徳のある君主・帝王・天皇。
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入宋
 中国・栄の国に入ること。平安時代中期ごろから鎌倉時代にかけて、日本から多くの留学僧・使節などが中国に渡っている。
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四十余年の文
 無量義経説法品第2の文をさす。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。
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勤操
 754年または758年~827年。平安初期の三論宗の僧。南都七大寺の高僧の一人。善議から三論を学ぶ。僧都となって東大寺と西大寺を管領し、後に岩淵寺を開いた。826年に大僧都となり、死後に勅をえて僧正となった。
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徳円
 平安時代の南都六宗の僧のひとり。修円のことと思われる。法相宗の僧で興福寺に住み当時、第一の学僧と知られていた。延暦21年(0802)高雄法会に列席し、伝教大師の正しさを認めたが、伝教が大乗戒壇建立を願い出たときは、反対の上奏を行っている。
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長耀
 平安時代の南都六宗の僧のひとり。玄燿のことと思われる。三論宗の僧で、延暦21年(0802)高雄法会に列席したひとり。
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空海
 774年~835年。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。弘法大師ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。
―――
山階寺
 奈良市登大路町にある法相宗大本山。興福寺のこと。南都七大寺の一つ。南都六宗の中心拠点として栄えた。669年、藤原鎌足の遺志を継いで嫡室、鏡女王が山城国山科村に山階寺を建立したのに始まり、後に672年、大和国(奈良県)飛鳥の厩坂に移して厩坂寺と称し、さらに平城遷都に際して710年、平城京に移して興福寺と改称した。奈良移転後は春日神社をその管掌下に置き、藤原氏の氏寺として尊崇を集めた。平安時代には延暦寺に次ぐ広大な荘園と多数の僧兵を有し、強大な勢力をもって公家・武家に対抗した。元久2年(1205年)、興福寺の僧綱らは「興福寺奏状」を提出し、法然(源空)の念仏を禁じることを朝廷に訴えていて、日蓮大聖人はその要旨を「念仏者追放宣旨事」に書き留められている(87㌻)。鎌倉時代には貴族の子弟が入り、また幕府から大和国(奈良県)の守護職を与えられ、権勢を振るっていた。
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行表僧正
 724年~797年。奈良末期の三論宗の学僧。興福寺で受戒し華厳・法相・律などを学び、後に近江国(滋賀県)の僧尼を監督する国師を務めた。伝教大師最澄が近江国分寺で出家した際の師。
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石淵
 奈良県奈良市の若草山の南、高円山の中腹にあった三論宗の寺。勤操が母の死を悼み、この寺で法華経8巻を講じたのが石淵八講の起こりとされる。
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平城
 (0774~0824)0第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(806年4月9日)~大同4年4月1日(809年5月18日))。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
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嵯峨
 (0786~0842)第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日)~ 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能)。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
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慈覚大師
 794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。慈覚大師ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(281㌻、305㌻以下など)。
―――
戒壇
 受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。
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淳和
 (0786~0840)第53代天皇。(在位:弘仁14年4月27日(823年6月9日) ~天長10年2月28日(833年3月22日))西院帝ともいう。諱は大伴。桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。
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 ここから平安時代の王代記に入る。本文の図表では「第五十桓武」「第五十一平城」「第五十二嵯峨」「第五十三淳和」と4代の名を挙げ、特に桓武天皇の治世の出来事として伝教大師最澄の事跡を記されるとともに、真言宗を始めた弘法大師空海のことも注記されている。
 初めに「欽明自り二百六十余年に及ぶ」との注記がある。欽明天皇の即位年を0539とし、桓武天皇の即位が0781年であるから、その間とすると242年間となり、「二百六十余年」には少し足りない。
 伝教大師が天台宗を開くことを許された年が桓武天皇の在位最後の年で、0806年であるから、欽明天皇の即位年との間は267年となって「二百六十余年」に合致する。
 次いで「延暦三年に奈良の都自り長岡の京に遷り、延暦十三年長岡の京自り平の京に遷る、延暦二十五年御崩去」という文は、桓武天皇の遷都を中心とする事績を簡潔に記されている。
 まず延暦3年(0784)、桓武天皇は奈良の都を長岡の京に遷したが、遷都の主唱者で新京の造営長官であった藤原種継が暗殺されたり、反対意見が強かったために完成を見ずして廃京になった。わずか10年間の都であった。
 延暦13年(0794)には和気清麻呂の進言によって平安京に遷都される。
 延暦25年(0806)桓武天皇は崩御している。
 光仁・桓武の2代にわたる時代は、奈良時代の末期に道鏡に典型的に表れた仏教の世俗化と弊害を是正するために、仏教界の統制が図られた時代であった。
 特に、桓武天皇は2度にわたる遷都に象徴されるように、強力な中央集権政治を実現するとともに、仏教界に新風を吹き込もうとした。これに呼応するかのように現れたのが伝教大師最澄であったといえる。
 その最澄については注記に詳しく年次を追って業績が示されている。まず「延暦四年叡山を立つ伝教大師最澄なり」とあるが、最澄は延暦4年(0785)に19歳で東大寺の戒壇において具足戒を受け、同年7月に比叡山に籠っている。本文の「叡山を立つ」というのはこの叡山に入山し、ここを仏法の修行と弘教を本拠としたことから言われたものと考えられる。
 入山後は、修行に邁進するとともに、鑑真等によってもたらされた摩訶止観・法華玄義・法華文句の天台三大部をはじめとする天台教学の研鑽に専念している。
 延暦7年(0788)には一寺を建立し比叡山寺と名づけている。これが後の延暦寺一乗止観院すなわち根本中堂である。
 次に「延暦二十年叡山八講を始め南京の十人を請ず」とあるのは、延暦20年(0801)、最澄が比叡山で法華八講を開始、その座に「南京の十人を請ず」とあるように南都六宗の高僧10人が招待されたことをいう。
 このことについては、三国仏法伝通縁起巻下に次のようにある。すなわち「延暦二十年辛巳最澄三十五、七大寺の英鉄たる勝猷・奉基・寵忍・賢玉・光證・観敏・慈誥・安福・玄耀等の十大徳を請す。比叡峰の一乗止観院に於いて法華十講を修す。此自り後代毎年闕けること無し」と。
 ここで本文では「八講」となっているが法華十講となっている。法華八講が鳩摩羅什の法華経八巻を八座に分け、朝座と夕座に一巻ずつ、4日間に講説する八座の法会であるのに対し、法華十講は八講に法華経開経の無量義経と結経の観普賢経を加えて行う十座の法界である。
 ここには「十大徳」といいながら9人までの名を挙げて、あとは「等」と省略しているが、ひとりは他の文献から「歳光」であると考えられる。
 次いで「延暦二十一年の正月十九日高雄に於て南京の十四人と最澄と宗論あり」とある。延暦21年(0802)正月19日に高雄山神護寺において最澄と南都七大寺の14人の高僧たちとの間で論争が行われた、というのである。
 この出来事について三国仏法伝通縁起巻下には次のように記述されている。十一年壬午正月十九日、朝議大夫和気朝臣弘世、高雄山に於て七大寺の高僧、善議、勝猷、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏等の十余人の大徳を延請す。天台法門を講演して天皇を下し叡感是深し。日本に天台会を開く乃ち此れ初めと為す。此の年に講ずる所即ち止観、玄義、文句也」と。
 すなわち、朝議大夫の和気弘世の要請によって、南都七大寺の高僧十四人が高雄山寺の法華会に招かれ、彼らを前に最澄は天台法門を講じた。当然、爾前教を権教として破する内容が含まれており、爾前の経々を依経としている六宗の高僧たちからは反対の質問が出たが、ことごとく最澄によって論破された。その報告を聞いた桓武天皇は「叡感深し」、感動を深くしたとの勅を下している。これが日本で天台法門が講ぜられた初めであると述べ、更に同じ年に最澄は止観・玄義・文句の天台三大部を講義したと記している。
 この文からも、最澄は南都七大寺に代表される旧仏教の六宗に対して、法華経を最高の経とする天台の義を講じてこれを承伏させ、時の桓武天皇の高い評価を得たことが明らかである。
 「同二十九日六宗の十四人謝表を桓武聖王に奉る」との注記は、先の法華経で最澄によって承伏させられた南都六宗の14人の高僧たちが「謝表」、つまり、法論に敗れたことを認める承伏状を桓武天皇に奉ったと記されている。ここで桓武天皇を「聖主」と呼ばれたのは、仏法の正義を明らかにする上で、審判者として果たした天皇の役割を高く評価されたのであろう。なお、御書全集では「聖王」とあるが、御真筆では「聖主」となっており、これも御書全集の編集ミスであろう。
 この注記の文に付されたと考えられる注が少し後に記されている。
 「此の御時始めて伝教大師天台宗を立て四十余年の文を以て六宗を破り始めて法華の実義之を顕し、欽明自り二百余年の邪義 之を改む、又六宗の碩徳たる勤操・徳円・長耀等の十四人・桓武皇帝に謝表を奉りて邪見を翻す」という文がそれである。
 この文の「此の御時」というのが延暦21年(0802)の正月19日をさしていることはいうまでもない。この時の法華会で、伝教大師最澄は無量義経の「四十余年には末だ真実を顕さず」という文によって爾前40余年に説かれた方便権経の諸経論を依り所とする南都六宗を破折し、日本において初めて法華経こそ仏法の実義を顕した経であることを明らかにした、と注されている。
 併せて、日本に仏教が公式に伝来した欽明13年(0552)から延暦21年(0802)に至る200余年間の邪義を改めたのであると述べられている。既に述べたように、聖徳太子のように法華経を重んじた人もいたが、仏教界の全体の流れとしては南都六宗に見られるように、法華経を最勝とする考え方はなされてこなかった。伝教大師最澄によって初めて法華最勝が明確化されたのであった。その結果、南都六宗の碩徳である「勤操・徳円・長耀等の十四人」が桓武天皇に、自分たちの邪見を認める謝表を提出したと記されている。
 ここに具体的に名前の挙げられている3人のうち、徳円だけが前に挙げた14人の中には入っていない。
 徳円の名で知られている人物としては平安初期の天台僧がいるが、当然、南都六宗の碩徳であるわけがない。そこで14人のなかで最も名前の近い「修円」のことを「徳円」、玄耀のことを「長耀」と記されたものと考えられる。
 本文の少し前の注記に「延暦二十三年入宋同二十四年御帰朝」とあるのは、最澄が南都六宗の碩徳を論破した翌々年の延暦23年(0804)、桓武天皇の命を受けて入唐し、翌年の延暦24年(0805)に帰朝したことを言われている
 本文の注記には「入宋」とあり、御真筆もそのように記されているが、中国で宋の時代が始まるのが0960年であるから、これは入唐のことをさすのか、あるいは何かの文献で「入宋」とあるものを参考にされたものか定かではない。
 また、この最澄の入唐との関連で「弘法大師空海は延暦二十三年御入宋・大同元年御帰朝」との注記があるが、空海は最澄と同じ年の延暦23年(0804)に、しかも同じ第16次遣唐使の船で「入唐」している。空海の帰国は大同元年(0806)である。
 「第五十 桓武」の下に付けられた注記の最後は伝教大師最澄と弘法大師空海のそれぞれの師の名前を挙げている。「伝教大師は山階寺の行表僧正の御弟子・弘法大師は石淵の勤操僧正の御弟子なり」とあるとおり、伝教大師は12歳の時、近江の国の国師であった行表の下に入り、14歳の時、行表によって得度している。したがって、伝教大師にとって行表が仏門に導いた師である。さて、本文の「山階寺」であるが、この寺は奈良の興福寺のことで、本朝高僧伝巻四の行表伝によると、行表は興福寺において唐の道邃について受戒したことが記されている。この事実から、山階寺の行表と通称されていたと考えられる。
 また、弘法大師空海は延暦12年(0793)和泉国槙尾山で勤操を師として得度したという伝承があるので、本文はこの伝承によられたものであろう。なお「石淵」というのは石淵寺のことで、この寺で勤操が初めて法華八講を開いたことで知られている。
 なお、この注記に記された伝教大師の業績については、立正安国論、報恩抄、諌暁八幡抄の諸御書に詳しく述べられている。
 次いで「第五十二嵯峨」の下に付けられた注記に「弘仁十三年六月四日伝教大師御入滅・同十一日慈覚大師戒壇を立つ」とある。
 伝教大師は嵯峨天皇の時代の弘仁13年(0822)6月4日に亡くなった。そして「同十一日慈覚大師戒壇を立つ」とあるように、大乗戒壇を比叡山に建立することが伝教大師の念願であったが、それがかなって勅許が下りたのが大師の死後の7日目の6月11日のことであった。なお、ここに「慈覚大師」との注記があるが、これは他筆によるものであり、最澄の入滅したあとの比叡山の座主は修禅大師義真で、また、翌弘仁14年(0823)勅許を受けて建立された戒壇で、4月10日、初めて円澄などの14人に円頓大菩薩戒を授けたのも義真であるから、他筆を加えたものの誤りである。
 慈覚大師円仁は義真・円澄のあと比叡山第三の座主となり、真言密教をとり入れ、比叡山の天台仏法を濁らせた人物である。真言の邪義を用いた結果、最澄・義真の精神を汚してしまったのであった。この点については三大秘法稟承事にも「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023-01)と仰せられている。
 なお、天皇の列記は第53代の順和までであるが、その後の一部は、欠失していると考えられる。

0610:18~0611:10 第13章 伝教の著作を引用して諸宗を破すtop
18   衆
0611
01   秀句に云く「法華経を賛すと雖も還つて法華の心を死す」文。
02   選択集に云く法然造捨閉閣抛、善導礼讃に云く「十即十生百即百生」又云く「百の時に希に一二を得千の時に希
03   に三五を得」又云く「千中無一」道綽の安楽集に云く大集月蔵経を引く「我が末法の時の中の億億の衆生行を起
04   し道に臨むも未だ一人の得る者有らず、当今末法は是五濁の悪世なり唯浄土の一門のみ有りて通入す可きの路な
05   り」恵心の往生要集に云く「利智精進の人は未だ難しと為さず予が如き頑魯の者豈敢てせんや」
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   衆
 法華秀句には「法華経を賛嘆しているようであるけれども、かえって法華経のこころをころしている」とある。
 法然の著作である選択集には「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」とあり、善導の往生礼讃偈には「十は即ち十生じ百は即ち百生ず」とあり、また「百人が修行した時に希に一人か二人が悟りを得、千人の時に希に三人か五人を得る」とあり、また「千人のうち一人もいない」とある。
 道綽の安楽集には大集月蔵経を引用して「我が末法の時の中の億々の衆生が修行を起こして仏道に入っても、いまだ一人も悟りを得る者はいない。今、末法は是五濁の悪世である。ただ浄土の一門だけが悟りに通じる路である」とある。
 恵心の往生要集には「利智精進の人にとっては、いまだ難しいことではないが、私のような頑迷で愚かな者は、どうして、あえて行うことができようか」とある。
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06       ┌根本大師
07   伝教大師┼山家
08       └天台の後身なり
09   守護章に「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正に是れ其の時なり」又云く「一乗の家には都
10   て用いざれ小乗権大乗四十年なり但し開し已つて助道に用いたるを除く」
       ┌根本大師ともうい。
   伝教大師┼山家大師ともいう。
       └天台大師の後身である。
 守護国界章には「正法・像法が徐々に過ぎ去って、末法が非常に近づいてきている。今正に法華一乗の機根の時である」また「一乗を持つ者は、他のすべての教えを用いてはならない。これは四十余年の小乗・権大乗である。ただし、開会し終わって助道に用いた場合を除く」とある。

秀句
 伝教大師最澄の著作。3巻(または5巻)。弘仁12年(821年)成立。法華経が諸経より優れていることを10点(法華十勝)をあげて説き示し、当時流行していた法相・三論・華厳・真言など諸宗の邪義を破折している。特に、法相宗の得一が法華経を誹謗したことを糾弾している。
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選択集
 『選択本願念仏集』の略。法然(源空)の著作。1巻。九条兼実の依頼によって建久9年(1198年)に著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の『観無量寿経疏』の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は16章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏(南無阿弥陀仏ととなえること)こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」(17㌻)、「守護国家論」(36㌻)などでその誤りを破折されている。
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法然
 1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
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捨閉閣抛
 「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」を意味する。日本浄土宗の開祖・法然(源空)が著した『選択集(選択本願念仏集)』の趣意。同書の中に「弥いよ須く雑を捨て専を修すべし」「随自の後には還て定散の門を閉づ」「且く聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ」「且く諸の雑行を抛て選んで応に正行に帰すべし」などとあり、これらから捨・閉・閣・抛の4字を選び、法然の主張が浄土宗以外のすべての仏教を否定するものであることを示した語。具体的な内容は「立正安国論」(22~23㌻)で引用されている。▷
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善導
 613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
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礼讃
 『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈』の略。善導の著作。1巻。浄土宗の教義に基づき、無量寿経や竜樹(ナーガールジュナ)、世親(ヴァスバンドゥ)などの礼讃偈を毎日6度唱えて、阿弥陀仏を礼拝し、極楽往生を願う行儀作法が説かれている。
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十即十生百即百生
 善導の往生礼讃の文。阿弥陀仏を念じ、その名号を称えれば、10人が10人、100人が100人とも往生できるとしている。これは邪義である。
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百の時に希に一二を得千の時に希に三五を得
 善導の往生礼讃偈の文。浄土三部経以外の諸経の雑行を修するものは100人のうち、まれに1人か2人、1000人のうちでも3人か5人しか往生できないと立てた。
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千中無一
 「千人のうち一人も成仏する者はいない」との意。善導の『往生礼讃偈』の文。五種の正行(極楽に往生するための5種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないということ。
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道綽
 562年~645年。中国・隋から唐にかけての浄土教の祖師。はじめ涅槃経に傾倒していたが、曇鸞の碑文を見て改心して浄土教に帰依した。釈尊の教えを浄土門とそれ以外の聖道門とに分け、聖道門を誹謗した。弟子に善導がいる。主著に『安楽集』がある。▷
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安楽集
 中国・唐の道綽の著作。2巻。観無量寿経を解釈して釈尊一代の教えを聖道門と浄土門に分け、末法の衆生の機根にかなった教えは浄土教であると主張した。
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大集月蔵経
 大方等大集月蔵経のこと。大集経は60巻からなり、巻46~56のことを月蔵分といい、首尾かんぜんであるため、一経として扱われる。仏が比丘・菩薩・魔王・阿修羅などを教化し帰仏させられたことが説かれる。
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末法
 仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』では、仏の教え(教)だけが存在して、それを学び修行すること(行)や覚りを得ること(証)がない時期とされる。日蓮大聖人の時代には、釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説が用いられていた。したがって、『周書異記』にあるように釈尊の入滅を、周の穆王52年(紀元前949年)として正像2000年説を用いると、永承7年(1052年)が末法の到来となる(ただし釈尊の入滅の年代については諸説がある)。それによると大聖人の出世は釈尊滅後およそ2200年にあたるから、末法の始めの500年中に御出現なさったこととなる。末法の年代について『中観論疏』などには釈尊滅後2000年以後1万年としている。大聖人は、末法万年の外・尽未来際とされている。弘長2年(1262年)御述作の「教機時国抄」に「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し……又当世は末法に入って二百一十余年なり」(439㌻)と述べられている。大集経では、「闘諍堅固」(僧は戒律を守らず、争いばかり起こして邪見がはびこり、釈尊の仏法がその功力をなくす時代)で、「白法隠没」(釈尊の仏法が見失われる時代)であるとされる。
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五濁
 生命の濁りの様相を5種に分類したもの。法華経方便品第2に説かれる(法華経124㌻)。劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁の五つ。①劫濁とは、時代の濁り。環境・社会に不幸・苦悩の現象が重なり起こる。②煩悩濁とは、五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)の煩悩に支配されること。③衆生濁とは、個々の衆生の濁り。④見濁とは、思想の濁り。五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)をいう。⑤命濁とは、寿命が短くなること。
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浄土の三師
 中国・浄土宗の祖といわれる曇鸞・道綽・善導のこと。
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恵心
 源信のこと。942年~1017年。平安中期の天台宗の僧。比叡山の恵心院に住み、権少僧都という位を与えられたため、恵心僧都と通称される。『往生要集』を著し、浄土教を広めた。台密の二大流派の一つ、恵心流の祖とされる。
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往生要集
 源信(恵心僧都)の著作。3巻。浄土教の要文をさまざまな経典などから集め体系化している。序文で「夫れ、往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん」と述べ、浄土教を称賛している。地獄や六道、極楽世界の様相を克明に説き、わが国の物語や絵画に多大な影響を与えた。
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利智精進
 利智を働かせて一心に仏道を求めること。利智はとどこおりのない鋭い智慧をいい、精進は純粋に仏道修行に励むことをいう。
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頑魯
 頑固で愚かなこと。
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根本大師
 伝教大師のこと。767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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山家
 延暦寺(山門)一派のこと。比叡山(滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(785年)7月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(788年)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(806年)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(822年)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(823年)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。天長元年(824年)6月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(834年)、第2代座主の円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(848年)、第3代座主の円仁(慈覚)が横川に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海(弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主の円珍(智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然は顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(966年)に第18代座主となった良源は中興の祖といわれる。しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(993年)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺(三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山の守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。
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守護章
 伝教大師が弘仁9年(0818)52歳の時述作した「守護国界抄」のこと。法相宗の徳一が「中辺義鏡」で、天台の法華経を批判したのに対し、これを破折した書。
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正像
 正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。
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一乗
 一仏乗のこと。成仏のための唯一の教えの意で、「すべての者が成仏できる」という法華経の教えのこと。
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 仏教を理解し信じ実践する能力・資質。根機ともいう。
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権大乗
 大乗のうち権教である教え、経典。
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助道
 仏道修行において中核となる行(正行)を補助する修行。
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 本抄の最後に付された注記である。前章の「第五十三淳和」と本章の部分との間は御真筆が欠失していると思われるので、ここを第13章として解説する。
 まず、初めに「衆」という注記がある。意味は不明である。前章の「第五十三淳和」のあとの文であり、以後の御文が欠失したたとも、考えられる。
 次に伝教大師の法華秀句から「法華経を讃えながら、かえって法華の心をころしている」との文を掲げられている。まさに、この伝教大師の指摘に当たるものとして「法華経は深すぎて、末代の衆生は理解できない。衆生の心にかなっているのは念仏のみである」と主張した浄土宗があった。ゆえに、念仏宗の法然の選択集、然導の往生礼讃偈、道綽の安楽集、恵心の往生要集からの文をそれぞれ引用された後、伝教大師の守護国界章からの一文を引用されて、法華経こそ末法に弘められるべき大法であることを示されている。
 初めに「衆」であるが、欠失部分が不明であり、何の語の一部分か手がかりがない。ただ、他筆による注記で「ノ」という送り仮名が付けられている。注を入れた時点では御真筆は18紙そろっていたことが考えられるので、そのように仮定すると「衆の秀句に云く」となって、秀句を説明した語が前にあったのかもしれない。「衆」については、中国では六朝末期ごろから、仏教各派の専門家集団をさす言葉としてあり、それが日本に入ってきて仏教の学派集団を「衆」と呼んだ事実があるので「南都の衆」「法華衆」などの言葉があったのかもしれない。
 伝教大師の法華秀句の一文は、法華秀句巻下の仏説諸経校量勝五に出てくるもので「法華経を賛すと雖も還って法華の心を死す」というものである。
 この文の前で、法相宗の窺基が法華玄賛を慧沼が法華玄賛議決を著し、三論宗の吉蔵も法華義疏・法華玄論・法華遊意を著して、法華経を讃嘆して釈しており、それらは数百巻にも及んでいるが、これら二宗の法華経解釈と天台法華宗とはどのように違うのか、との問いを挙げ、その答えの中で伝教大師は次のように述べている。すなわち「法相宗の人は成唯識を以て尊主と為し、法華の義を屈して唯識に帰せしむ、法華経を賛すと雖も還って法華の心を死す」と。つまり、法相宗の人は法華経を賛嘆しながら、玄奘訳の成唯識論を尊んで、法華経の義を唯識の教理に従わせている、これは、法華経を賛嘆しているけれども、かえって法華経の心を死なせていることになる、と破折しているのである。この文の直後に、三論宗への破折が続くのである。
 次に、本文は念仏宗の諸師たちの著作からの引用文を挙げている。これらの引用は、念仏宗の主張が先の法華秀句の「法華経を賛すと雖も還って法華の心を死す」という破折に当てはまっていることを示すためと考えることができる。
 まず、法然の選択集から捨閉閣抛の四字が挙げられる。捨閉閣抛は選択集における法然の主張を四字の熟語にまとめたものである。選択集では浄土宗の立てる浄土三部経以外の経やその修行を聖道門・雑行・定散を捨てるべきであるとして「雑行を捨て」「定散の門を閉ず」「聖道門を閣き」「諸雑行を抛ち」などと説いている。
 しかも「理深解微」といって、法華経は理が深いので、末代の衆生には理解できないから役に立たないと主張しているのであるから、この捨閉閣抛せよとされている聖道門・雑行に法華経が含まれていることはいうまでもない。そこから、法華経を賛嘆しながら法華の心を死なせる教義として破折の意味をこめてここで引用されたのである。
 次に善導の往生礼讃偈から三つの文が引用されている。一つは「十即十生百即百生」という文である。意味は雑行を捨てて念仏をたやすことなく命の終わる時まで続ける者は十人が十人往生し百人が百人往生するというものである。
 次の「百の時に希に一二を得千の時に希に三五を得」との文は、前の文とは逆に、念仏のみを修する専修念仏を捨てて、念仏以外のさまざまな修行をする者は百人のうち、希に一人か二人しか往生できないし、千人のうち、三人か五人しか往生できないというものである。
 さらに「千中無一」とある。これは念仏以外のさまざまな修行をする者は千人のうち、一人も往生しないといゆうものである。
 以上の善導の往生礼讃偈からの引用文は、いずれも専修念仏の者はすべて往生するのに対し、念仏以外の修行をする者は希であるから一人もいないと断じたのである。
 次いで、道綽の安楽集巻上に掲げられている大集月蔵経の文を引用されている。それは「我が末法の時の中に億億の衆生行を起こし道を修すも末だ一人の得る者有らず、当今末法は現に是五濁の悪世なり唯浄土の一門のみ有って通入す可きの路なり」という文である。
 末法という五濁悪世の時代に入ると、仏道修行を行っても一人として往生を得る者はないが、ただ浄土の一門だけが往生への路に通じている。という意味である。この文も、浄土の門以外の法華経の修行を排除しているので、仏の心を死なせていることになる。
 なお、御書全集では「我が末法の時の中の億億の衆生行を起し道に臨むも」とあるが、御真筆には「我が末法の時の中の億億の衆生行を起し道を修するも」とあり、安楽集の原文もそうなっているので、これも御書全集編纂者の編集ミスであろう。
 更に恵心の往生要集巻上の冒頭の文を引用されている。「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり。道俗貴賎、誰か帰せざる者あらん。但し顕密の教法は、その文一に非ず事理の業因は其の行惟れ多し。利智精進の人は末だ難しと為さず予が如き頑魯の者豈敢てせんや。是の故に念仏の一門に依って、聊か経論の要文を集む」と。
 これは、往生極楽の教えと修行こそ末代濁世の人々の目であり足である。出家・在家・身分の貴賎のいかんを問わず、この往生極楽の教えに帰依しない人がいるだろうか。顕教や密教の教えは一でなくさまざまであり、事観・理観の修行もさまざまである。智慧がすぐれ精進できる人は修行もさして苦難にならないであろうが、私のような頑迷で凡愚の者には耐えがたいことである。そこで念仏という浄土への一つの門を依りどころとして経や論のなかからその要となる文を集めてみたというのである。
 この文も、法華経の智慧がすぐ精進できる人には理解も修行もできるであろう、と法華経を讃えながら、しかし、凡愚の我々には合わないから無用であると言っているのである。したがって、これも法華経の心を死なせることになる。
 次いで、伝教大師に「根本大師」「山家」「天台の後身なり」という三つの注記を付けた図表が掲げられている。「根本大師」とは伝教大師が比叡山の開基であるところをさしていう別名である。
 報恩抄には「日本国には伝教大師・六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師となり給う」(0310-07)とある。「山家」とは中国の伝大大師智顗が天台山に住んでいたことから天台宗の一門をさす呼称として用いられたが、日本でも伝教大師が比叡山に住んだところから延暦寺一門の天台宗をさす。ここから、伝教大師最澄を山家大師ともいうのである。
 「天台の後身なり」というのは一代聖教大意に「其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき」(0402-17)とある。
 伝教大師が中国天台宗・妙楽大師の弟子である道邃和尚に教えを請うた時、逆に、同和尚が伝教大師を礼拝したというエピソードがあり、そこから、伝教大師を天台大師の後身とする言い伝えがあったことが記されている。
 伝教大師最澄については、先に桓武天皇の個所で記されたのに、ここでまた、このように記されたのは、前出の法華秀句の戒めと、このあと守護国界章の法華経を末法に勧めるべきであるとする「勧戒二文」を挙げられたこの段で、あらゆる仏教徒は、この伝教大師の「勧戒」に従うべきではないかとの意を示されたと考えられる。
 まして、恵心は日本天台宗の学僧であり、日本浄土宗の祖・法然も仏法を学んだのであるから、伝教大師の「勧戒」に背くことは師敵対となるのである。
 最後に、伝教大師の守護国界章から二つの文を引用されている。一つは同抄巻上の下の文で「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正に是れ其の時なり」とある。
 この文は像法時代の末期に活躍した伝教大師が末法の時代が近くにきていることを渇仰の思いで述べたものであり、その理由は末法こそ一仏乗を説き示した法華経と衆生の機根が合致する時であるからというのである。
 次の文は先の文に続けてでており「是の如きの…迂回歴劫の一切の行は一仏乗に於て分別して説く。一乗の家には都て用いざれ小乗権大乗四十年なり但し開し已つて助道に用いたるを除く」とある中の一節である。
 遠回りで長期間にわたる修行を説いている爾前権経は法華経の一仏乗を教えるために衆生の機根に合わせて説かれたものにすぎないから、一乗を宗旨とする叡山天台宗の一門では用いてはならないと戒め、ただし、法華経の一仏乗を根本として明らかにしたうえで、あくまでその助道として用いている場合は除くというのがこの文の意味である。
 なお「小乗権大乗四十年なり」との注記は「一乗の家には都て用いざれ」に該当するのは小乗も権大乗も含めて爾前40余年の諸経すべてであることを示されている。なお御書全集には「四十年」とあるが、御真筆では「四十余年」となっており、これも全集の編集ミスでああろう。
 以上で本抄は終了するのであるが、中国と日本における歴代の王の系譜を辿りながら、どのように仏教が推移してきたかを示されている。
 恐らく弘教に励む門下のために最小限、知っておくべき歴史認識の資料として記されたものであり、そこに末法は法華経を流布すべき時であることを示す文証をもって締めくくられている大事な意義があるといえよう。