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釈迦一代五時継図講義0633~0657

0633:01~0634:08 第一章 第一・華厳時を明かす
0634:09~0635:03 第二章 第二・阿含時を明かす
0635:04~0636:06 第三章 第三・方等時を明かす
0636:07~0637:07 第四章 第四時・般若時を明かす
0637:08~0638:08 第五章 四十余年未顕真実なるを明かす
0638:08~0639:14 第六章 第五時のうち法華経を明かす
0639:14~0640:14 第七章 法華経真実の依文を示す
0640:14~0641:12 第八章 父徳に約して三徳を示す
0641:12~0642:06 第九章 法華のみ真実なるを示す
0642:06~0643:06 第十章 滅後の本意を示す
0643:07~0644:06 第11章 第五時のうち涅槃経を明かす
0644:07~0645;15 第12章 小乗の戒を破すべき事を明かす
0645:16~0646:14 第13章 自害・断食等の禁止を明かす
0646:15~0648:06 第14章 二種の阿弥陀の存在を示す
0648:07~0649:10 第15章 念仏者の謗法罪の理由を示す
0649:11~0650:13 第16章 真言師の謗法罪の理由を示す
0650:14~0651:10 第17章 別仏を立てる誤りを明かす
0651:11~0652:12 第18章 禅宗の謗法罪を示す
0652:13~0654:07 第19章 開権顕実の法門を明かす
0654:08~0657:13 第20章 三種の教相を明かす

0633:01~0634:08 第一章 第一・華厳時を明かすtop
0633
釈迦一代五時継図
01   大論に云く十九出家・三十成道・八十入滅文、此の論は竜樹菩薩の造・寿命三百年・三十万偈の論師なり、付法蔵
02 の第十三仏滅後七百年の人なり。
-----―
 大智度論に「釈尊は十九歳の時に出家、三十歳の時に成道、八十歳の時に入滅された」とある。この論は竜樹菩薩の造である。寿命は三百年といわれ、三十万偈の論師である。付法蔵の第十三にあたり、仏滅後七百年の人である。
-----―
03      ┌説処は中天竺摩竭提国の寂滅道場菩提樹下・七処八会                      ・
04      ├仮立実報土・別・円の二教を説く
05      ├三七日の説なり三七日は法華の説 二七日は華厳の説
06   華厳経┼兼と名く
07      ├権大乗なり乳味と名く頓大の機の為に説く
08      ├頓教と名く亦秘密教有り 亦不定教有り擬宜と名く
09      └結経は梵網経なり
-----―
      ┌説処は中天竺摩竭提国の寂滅道場菩提樹下・七処八会
      ├仮立実報土・別・円の二教を説く
      ├三七日の説なり三七日は法華の説 二七日は華厳の説
   華厳経┼兼と名く
      ├権大乗なり乳味と名く頓大の機の為に説く
      ├頓教と名く亦秘密教有り 亦不定教有り擬宜と名く
      └結経は梵網経なり
-----―
10           ┌馬鳴菩薩──起信論を造る
11        ┌天竺┼天親菩薩──十地論を造る
12        │  └竜樹菩薩──十住毘婆沙論を造る                          ・
13   華厳宗祖師┤  ┌杜順和尚
14        │  ├法蔵大師
15        └漢土┼智厳法師
16           └ 澄観法師
-----―
           ┌馬鳴菩薩──起信論を造る
        ┌天竺┼天親菩薩──十地論を造る
        │  └竜樹菩薩──十住毘婆沙論を造る
   華厳宗祖師┤  ┌杜順和尚
        │  ├法蔵大師
        └漢土┼智厳法師
           └澄観法師
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0634
01   此の華厳教というは所謂仏摩訶陀国寂滅道場菩提樹下にして始めて正覚を成じたまいし時七処八会に於て法恵・
02 功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に加して頓大の根性の為に因陀羅網・無障礙土の相を現じ別円の両教・住行向地の
03 功徳・法界唯心の理を説き給う所謂華厳経なり、此の経には四十一位を明す謂く十住・十行・十廻向・十地・仏果な
04 り、此の経には新古の二訳有り 六十華厳は旧訳なり八十華厳は新訳なり、 梵網経を以て華厳の結経と為す、 此
05 の華厳は化儀は頓部化法は別円なり、 成道の最初に此の教を説き給う 譬えば日出でて先づ高山を照すが如し厚殖
06 善根は斯の頓説を感ず、 頓説本と小の為にせず彼の初分に於ては 永く声聞無し後分には 即ち有り復た坐に在り
07 と雖も聾の如く聾の如し、 経文に云く「即ち傍人を遣わして急に追うて将に還さんとす乃至悶絶して地にタオる」
08 云云。
-----―
 この華厳教というはいわゆる、仏が摩訶陀国の寂滅道場の菩提樹下で、始めて正覚を成じられた時、七処八会において法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四人の菩薩に力を加えて、直ちに大乗に至る機根の衆生のために、帝釈天の宮殿を飾る網や実報無障礙土の相を現じて、別教・円教の両教、十住・十行・十廻向・十地の功徳、法界唯心の理を説かれた。いわゆる華厳経である。この経には四十一位を明かしている。十住・十行・十廻向・十地・仏果である。この経には新訳と旧訳の二訳がある。六十華厳は旧訳であり、八十華厳は新訳である。梵網経をもって華厳経の結経とする。
 この華厳の化儀では頓部、化法で別教と円教である。釈尊は成道した後、最初にこの教を説かれた。たとえば日が出て、まず高山を照らすようなものである。厚く善根を殖やした衆生はこの頓説を感ずる。頓説は本来、小乗のためには説かれない。華厳の最初に説かれた部分においては、永く声聞は入っていない。後に説かれた部分には声聞は入っているし、また会座にいるが、耳の聞こえない人のように黙っている。 法華経信解品第四に「傍らにいる人を遣わして急に追ってまさに還らせようとする(乃至)悶え苦しみ地に倒れる」とある。

大論
大智度論のこと。摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)に対する詳しい注釈書。竜樹作とされ、鳩摩羅什の漢訳がある。100巻。法華経などの諸大乗経に基づいて、大乗の菩薩思想や六波羅蜜行などの意義を解明しており、後のあらゆる大乗思想の展開の母胎となった。
―――
十九出家
釈尊が19歳のとき、世俗の王宮の生活を捨てて、妻子眷属の縁を断って出家し、仏道修行に励んだこと。
―――
三十成道
インド応誕の釈尊が30歳で成道したこと。
―――
八十入滅
釈尊が80歳で入滅したこと。入滅は寂滅の意で、涅槃ともいい、仏の死を意味する。
―――
竜樹菩薩
150年~250年ごろ。サンスクリットのナーガールジュナの訳。インドの仏教思想家。新訳経典では竜猛と訳される。『中論』などで大乗仏教の「空」の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。付法蔵の第13とされる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。
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寿命三百年
竜樹菩薩の生きたとされるときは仏滅後300年ごろであったといわれている。
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三十万偈の論師
竜樹は30万偈の論師といわれる。偈は韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または法理を讃嘆するために使われ、梵語の仏典では八音節四句からなる場合が多い。(寿量品の自我偈は5音節3句より成立している)。
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付法蔵
釈尊から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱し、布教していった正法時代の正統な継承者とされる人たち。『付法蔵因縁伝』では23人とするが、『摩訶止観』では阿難から傍出した末田地を加えて24人ともする。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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説処
 経が説かれた場所。
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中天竺摩竭提国
 現在のビハール州南部。法華経が説かれた霊鷲山や、滅後の第一回仏典結集などがこの地で行われた。
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寂滅道場菩提樹下
 釈尊が悟りを開いたところ。道場は菩提を得る場所。
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七処八会
 華厳経の説法の場所と会座の数。すなわち、寂滅道場(第一会)・普光法堂(第二会)・忉利天(第三会)・夜摩天(第四会)・兜率天(第五会)・他化自在天(第六会)・普光法堂(第七会)・逝多林(第八会)をいう。
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仮立実報土
 衆生教化のための方便として、仮に立てる実報土。
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別・円の二教
 天台大師が釈尊の一代聖教を教法の内容四つに立て分けたなかの別教と円教。
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三七日の説なり
 華厳経では、華厳経の説法の期間を3週間・21日間としている。
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三七日は法華の説
 法華経では、華厳経の説法の期間を3週間・21日間としている。
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二七日華厳の説
 華厳宗系では、華厳経の説法の期間を2週間・14日間としている。
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兼と名く
 兼は二つ以上なものを合わせたことをいい、兼ねるの意味。華厳経は別・円二教を兼ねて説いている。
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権大乗
 大乗のうち権教である教え、経典。
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乳味
 五味のひとつ。華厳時の教法をいう。
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頓大の機
 直ちに大乗を受け入れる機根のこと。
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頓教
 天台の八教大意に説かれる化儀の四教のひとつ。頓はすみやか・直ちにの意。すなわち頓教は誘因の手段を用いなで、ただちに大乗を説いた教え。
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秘密教
 ❶化儀の四教の一つ。❷真言宗では、経典を釈尊の秘密真実の教えを説いた秘密教と、人々の機根に応じて方便として説かれた顕露教とに分けた。
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不定教
 説法の座に列なった衆生が、同一の説法を聞いても各自の根性に随って領解の仕方が違い、その得道が同一で一定しない教法。天台所立の化儀の四教のひとつ。
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擬宜
 仏が仮に適当な法を衆生に与えて、衆生がその法を受け入れるか否かを試しみること。
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梵網経
 梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十の略。中国・後秦の鳩摩羅什訳と伝えられるが、現在の研究では中国撰述とされる。大乗菩薩戒の聖典。天台大師智顗が華厳経の結経としたことから、結経梵網経とも呼ばれる。上下2巻からなり、上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。上下巻とも大乗の菩薩のために説かれたもので、日本・中国を通じて重要視され多くの注釈書がつくられた。伝教大師最澄は本経に基づいた大乗戒による戒壇の建立を企て、『四分律』に基づく具足戒を小乗戒として廃し、それに代わる授戒制度を創出した。
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華厳宗祖師
 華厳宗を打ち立てた人。祖師とは一宗一派を打ち立てた人。中国では東晋時代に華厳経が漢訳され、杜順・智儼によって大成され、澄観らに伝承された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。
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天竺
 中国および日本で用いられたインドの古称。
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馬鳴菩薩
 サンスクリットのアシュヴァゴーシャの訳。2~3世紀ごろに活躍したインドの仏教思想家・詩人。付法蔵の第11。釈尊の一生を美文で綴った『仏所行讃(ブッダチャリタ)』などの作品がある。
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起信論
 『大乗起信論』のこと。馬鳴(アシュヴァゴーシャ)著と伝えられるが諸説ある。5~6世紀ごろの成立とされる。漢訳には中国・梁の真諦訳1巻と唐の実叉難陀訳2巻の二つがあるが、真諦訳が広く流布した。大乗への信心を起こさせることを目的として、すべての衆生に如来となる可能性がそなわっているとする如来蔵思想の立場から大乗仏教の教理と実践を要約した論書。
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天親菩薩
 4~5世紀ごろのインドの仏教思想家。北インドのプルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)出身の論師。サンスクリット名はヴァスバンドゥ。新訳で「世親」、旧訳で「天親」という。初めは小乗を学び『俱舎論』などを著したが、兄の無著(アサンガ)によって大乗に帰依し、唯識思想(実在するのは認識主体の識だけであって、外界は心に立ち現れているだけで実在しないという思想)を発展させたほか、『法華論』などを著し、大乗を宣揚した。多くの論書をつくり「千部の論師」とたたえられる。主著に『唯識三十論頌』など。
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十地論
 12巻。天親著、菩提流支訳。初期大乗仏教経典の一つ。後に『華厳経』に編入されたため、『華厳経』の「十地品」としても知られる。
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竜樹菩薩
 150年~250年ごろ。サンスクリットのナーガールジュナの訳。インドの仏教思想家。新訳経典では竜猛と訳される。『中論』などで大乗仏教の「空」の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。付法蔵の第13とされる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。
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十住毘婆沙論
 竜樹作とされる。十地経(華厳経の十地品に相当)の初地・第二地について注釈している。鳩摩羅什が仏陀耶舎の口誦に基づいて訳したと伝承される。曇鸞が『往生論註』で引用し、浄土教に大きな影響を与えた。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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杜順和尚
 557年~640年。中国・隋から唐にかけての僧。法順ともいう。中国華厳宗の第1祖とされてきたが、疑問視もされている。唐の太宗から崇敬された。智儼に法を伝えた。
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法蔵大師
 643年~712年。中国・唐の僧。華厳宗第3祖とされる華厳教学の大成者。智儼の弟子。実叉難陀による新訳の華厳経80巻の訳出を助けた。賢首大師と通称される。主著に『華厳経探玄記』『華厳五教章』など。
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智厳法師
 602年~668年。中国・唐の僧。華厳教学の基礎を築いたが、一般には杜順に継ぐ華厳宗第2祖とされる。弟子に法蔵がいる。
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澄観法師
 738年~839年。中国・唐の僧で、華厳宗の第4祖に位置づけられる。五台山清涼寺に住んだことから、清涼国師と呼ばれた。実叉難陀が訳した80巻の華厳経を研究し、『華厳経疏』『華厳経随疏演義抄』などを著した。
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華厳教
 華厳経を教えとする宗派。華厳経は正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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摩訶陀国寂滅道場菩提樹下
 釈尊が悟りを開いたところ。
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法恵
 法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
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功徳林
 華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
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金剛幢
 華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十回向の法門を説いた。
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金剛蔵
 金剛蔵菩薩のこと。華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。
―――
四菩薩(華厳の)
 華厳経の説法の場に来集した菩薩。華厳経では、成道間もない釈尊の前に、十方の諸仏の国土より来集し、賢首菩薩・解脱月などの菩薩の要請に応じて、菩薩の修行段階である五十二位の法門を説いた。すなわち、法慧菩薩は十住を、功徳林菩薩は十行を、金剛幢菩薩は十回向を、金剛蔵菩薩は十地を説いた。
―――
頓大の根性
 直ちに大乗を聞く機根・素質をもった衆生。
―――
因陀羅網
 帝釈天のこと。帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
―――
無障礙土
 実報無障礙土のこと。住む人の境地を反映して4種類の国土(四土)が立て分けられるが、そのうち、三界六道を離れた国土で、高位の菩薩(別教の初地以上、円教の初住以上)が住むとされる。寂光は承寂光土、仏の住む国土。
―――

 事物・事象の形像・姿・状態。
―――
住行向地の功徳
 別教の菩薩の修行に具わる功徳。
―――
法界唯心の理
 あらゆる存在はただ心が造りだしたもので、心の外には別の法はないと説く華厳宗の法理。ただし華厳経の段階では、二乗作仏を踏まえての十界互具も、仏の久遠実成の上での三世間も明かされていないから、一念三千は説かれていない。
―――
四十一位
 菩薩の修行の階位を41種に分けたもの。華厳経に説く十住・十行・十廻向・十地・仏地をいう。
―――
十住
 別教で説く菩薩の修行の位で52段階の第11位から20位までをいう。⑪発心住。真方便を以って十住心を発起し、十信の位の従仮入空観の観法を完成し、真無濡智を発し、心が真諦の理に安住する位。⑫治地住。瑠璃の中に精金が現れるように、心の明浄が前の妙心を以って履修治して地となることをいう。常に空観を修し、心地を清め治める位。⑬修行住。前に地を渉知し、倶に明了なるがゆえに、十方に遊履して留礙なく、万善万行を修する位。⑭生貴住。正しく仏の気分を受けて、彼此冥通して如来種に入る。法無我の理に安住して種性清浄なる位。⑮具足方便住。無量の善根を具えて空観を助ける方便とする。仏と同じく自利・利他の方便力を具備し、相貌において欠くることがない位。⑯正心住。相貌のみならず、心相も仏と同じくする。般若の空智を成就する位。⑰不退住。心身ともに合成して、日々益々増長し退堕することがない。空無性の理を証して空・無相・無願の3つの三昧より心が退かない位。⑱童真住。迷い、謬見を起こさず、菩提心を破らざることが、童子が無欲真正なるに等しくして、仏の十身の霊相を一時的に備える。⑲法王子住。仏の教えに遵い、智解を生じて未来に仏位を受ける位。⑳灌頂住。空・無相の理を観じ、無生智を得る。菩薩が既に仏子となり、仏の事業を為すに堪えうれば、仏は智水をもってその頂に潅ぎ給うこと。インドの国で皇子が成長し国王たらしめる時に海水を頭頂部に潅ぐ如くであることに由来する。(但し華厳経では41位を立て十信を①~⑩位としている。)
―――
十行
 菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第21番目から第30番目の位をいう。十住の上位にあたり十廻向の下位にあたる。菩薩が十信、十住で自利を満足したといっても、利他の行が未満なので、この十行の位でさらに修行する。十住位の終位に仏子たる印可を得た後に、さらに進んで利他の修行を完全にするために衆生を済度することに努める位。㉑観喜行、布施波羅蜜を修行し、仏子となった菩薩が、仏如来の功徳を以って十方に随順せんとする行。㉒饒益行、戒波羅蜜を修行し、衆生と共に無上の学道を成就して、一切衆生を利益し潤す行。㉓無瞋根行、忍辱波羅蜜を修行し、たとえ刀杖で身に危害を加えられようとも耐え忍び、自覚覚他すれば違逆せんとする行。㉔無尽行、精進波羅蜜を修行し、衆生の機根に合わせてその身を現じ、三世が平等にして十方に通達し利他行が無尽なるを観じる行。㉖善現行、般若波羅蜜を修行し、前の離癡乱をして、よく同類の中に異相を現じ、また一々の異相にそれぞれ同相を現じ、同異円融なるを観じ、一切が無相であることを智慧で観じる行。㉖離癡乱行、禅定波羅蜜を修行し、種々の法門が不同なりといっても、一切合同して差別誤解なきことを観じる行。㉗無著行、方便波羅蜜を修行し、十方虚空に微塵を満足し、そのすべてに十方界を現じ、一切の執着を離れ、しかも一切の世間に随順する行。㉘尊重行、願波羅蜜を修行し、前の種々現前はすべて般若観照の力であることから、六波羅蜜の中でも特に般若を尊重して一切衆生を度し、無上の菩提を成就させる行。難得行ともいう。㉙善法行、力波羅蜜を修行し、円融の徳相が十方諸仏の軌則を成じ、十種の身となって一切の衆生を利益する行。㉚真実行、智慧波羅蜜を修行し、諸仏の真実の教えを学び、前の円融の徳相がすべて清浄無漏にして、一真無為の性が本来は恒常なるを観じ、衆生を済度する行。(但し華厳経では41位を立て十行を⑪~⑳位としている。)
―――
十廻向
 十菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第31番目から第40番目の位をいう。十行の上位にあたり十地の下位にあたる。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。㉛救護衆生離衆生相廻向、十廻向の初地・始位。一切衆生を救護しながら、しかも衆生を救護する執着を離れる菩薩。㉜不壊一切廻向、 三宝において不壊の信心を得て、この善根を以って廻向を成する菩薩。㉝等一切諸仏廻向、三世の諸仏の所作を学し、その通りに衆生を廻向する菩薩。㉞至一切処廻向、 善根を修し、その善根の功徳の力を一切処に至らしめ廻向する菩薩。㉟無尽功徳蔵廻向、一切の善根を廻向して、この廻向によって十種の無尽功徳の蔵を得て、一切の仏刹を荘厳する菩薩。㊱随順一切堅固善根廻向、入一切平等善根廻向ともいう。一切の施行を説き、清浄の布施を詳説し回向する菩薩。㊲等随順一切衆生廻向、無量の善根を修習し、衆生のために無上の福田となり、衆生を清浄ならしめ廻向する菩薩。㊳真如相廻向、修するところの善根を真如に合わせて廻向を完成する。真如相に如うて真如の如く廻向の行を修する菩薩。㊴無縛無著解脱廻向、一切の善根を軽んぜず、相に縛せられず、見に執着しない解脱の心を以って善根を回向する菩薩。㊵入法界無量廻向、法界に等しい無量の仏を見えて、無量の衆生を調伏し、この善根を以って一切の衆生に廻向する菩薩。(但し華厳経では41位を立て十廻向を㉑~㉚位としている。)
―――
十地
 仏道修行の段階を十種にわけたもの。「地」は能生・所依の義で、その位に住し、その位の法をもつことによって、果を生成するものをいう。さまざまな十ちがあるが、別教の十地と通教の十地がある。別教の十地は、㊶歓喜地 菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、聖性を得て見惑を破し、二空の理を証し大いに歓喜する位。仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する。㊷離垢地 戒波羅蜜を成就して修惑を断じ、毀犯の垢を除き清浄ならしめる位。十の善を行い、心の垢を離れる。㊸発光地 忍辱波羅蜜を成就して修惑を断じ、諦察法忍を得て智慧を顕発する位。精進の結果、その功徳として光を放ち十種の法明門を行う。㊹焔光地 焔慧地ともいい、精進波羅蜜を成就して修惑を断じ、智慧を熾盛に光らしめる位。個々の物に対する執着心を離れ、その功徳として四方を照らす。㊺難勝地 極難勝地ともいい、禅定波羅蜜を成就して修惑を断じ、真俗二智の行相互いに違異なるを和合せしめる位。四諦の法門の外に大乗の法門を学び、利他行に取り組む。㊻現前地 智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、最勝智慧を発し染浄の差別なきを現前せしめる位。不退転の位で決して後戻りせず、必ず仏になる確信を得る。㊼遠行地 方便波羅蜜を成就して修惑を断じ、大慈悲心を発し二乗の自度を遠離する位。十十無尽の境地に入る。この位は第二阿僧祇劫の行を終えたとする。㊽不動地 願波羅蜜を成就して修惑を断じ、無相観を作し、任運無功用に相続する位。大慈大悲の心を起す。㊾善想地 力波羅蜜を成就して修惑を断じ、十力を具足し一切処において可度不可度を知り、よく説法する位。一切の修行を完成した大慈大悲の菩薩が、真理の世界から具体的な事実の世界に働きかけ個々差別の衆生を救済する。㊿法雲地 智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、無辺の功徳を具足して無辺の功徳水を出生して虚空を大雲で覆い清浄の衆水を出だすためにいう。平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如の世界。(但し華厳経では41位を立て十地を㉛~㊵位としている。)
―――
仏果
 成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。
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六十華厳は旧訳
 華厳経には新訳と旧訳があり、旧訳は東晋代の仏駄跋陀羅訳で60巻からなる。
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八十華厳は新訳
 華厳経には新訳と旧訳があり、新訳は唐代の実叉難陀訳で80巻からなる。
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化儀は頓部
 化儀は仏が衆生を教化する方式で頓・漸・秘密・不定のことで、華厳経は頓部に属するということ。
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化法は別円
 化法は仏が衆生を教化するための教法で、蔵・通・別・円からなり、華厳経は円教に別教を兼ねた内容で純円ではない。
―――
成道
 仏道を成ずること。八相作仏のひとつ。成仏・得道と同義。最高の幸福境涯を得ることをさす。
―――
厚殖善根
 仏道修行を重ねて厚く善根を積んだ衆生を指す。殖は育て茂らせること。善根は善の果報を招き生ずる善因。草木の根や幹が枝を生長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので全魂という。
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頓説
 頓教の説法のこと。衆生を教化するに際して、誘引の手段を用いず、直ちに内証の悟りを説く方式。
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声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
後分
 華厳経の後分。
―――
経文
 仏が説いた諸経説のこと。釈尊の一切聖教。
―――
傍人
 傍らにいる人の意味で、使用人。
―――
乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
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悶絶
 苦しみ悶えて気を失うこと。
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 この御書を「釈迦一代五時継図」と題されているのは、仏教を開いたインドの釈尊が衆生救済のために一代50年にわたり説いた多くの経教を、説法の次第順序によって大きく5つの時期に分けるとともに、それらの経典と中国・日本で成立した諸宗派と祖師たちとの関連が一目で分かるように図示されたものだからである。
 同趣旨のものに、一代五時図の広本・略本、一代五時鶏図や一代五時継図などがあるが、本御書は中でも、五時の各時期に説かれた経教の説処や教理の内容などについて詳細に注記され、さらに、主に天台大師智顗の法華玄義巻一上からの文を引用され、それらの意義を示されていることが大きな特色となっている。
 さらに、一代五時継図を図示して解説された後、
   一、小乗の戒を破する事
   一、善導和尚自害の事
   一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事
   一、念仏者・謗法罪を作る事
   一、真言師・謗法罪を作る事
   一、真言は別仏の説に非る事
   一、禅宗謗罪を作す事
   一、権実証拠の事
   一、権実分別の事
   一、破三顕一の事
   一、入如来慧の事
   一、余深法中の事
   一、三種教相の事
 の13項目にわたって、特に諸宗の謬義を破折する上での依文を示されていることも本御書を特徴づけている。なお本御書がいつ、どこで書かれ、だれにあてられたものかについては全く不明である。
 釈尊一代の説法を5つの時期に分ける分け方は中国の天台大師智顗がたてた「五時八教」をそのまま用いられている。従って、まず五時のうち第一・華厳時から示されるのであるが、本論に先立って冒頭に「大論に云く十九出家・三十成道・八十入滅」とある。
 大論は大智度論の略称で、その巻三に「我年一十九にして出家し仏道を学ぶ。我出家してより已来、已に五十歳を過ぎ、浄戒・禅・智慧あり。外道は一分も無く、少分すら尚有ること無し、何に況や一切智をや」とある。
 この引分のように、現在の大智度論には「三十成道」の言葉はないが、あるいは大智度論に異本があり、それには「三十成道」の記述があったのを記されたのかもしれないし、80歳入滅は一般に認められていたところで、しかも説教は50年間にわたるとされているところから、逆算して30歳の成道は含まれていると解されて、こう記されたとも考えられる。
 さらに、大智度論について「此の論は竜樹菩薩の造」とされ、次に、その竜樹がどのような人であったかについて「寿命三百年・三十万偈の論師なり、付法蔵の第十三仏滅後七百年の人なり」と記されている。一般的には「大智度論」の著者が竜樹であるかどうか疑問視する説があるが、日蓮大聖人は当時の通説に従って竜樹造の説を採られている。
 竜樹菩薩が大乗仏教の基盤を築いた大論師であることは明らかであるが、多くの不明な点がある人物であることが「寿命三百年」「三十万偈の論師」「仏滅後七百年の人」といった伝承にうかがわれる。
 「寿命三百年」というのは竜樹菩薩伝に100歳・150歳・あるいは200歳・300歳の長寿を全うしたとする諸説によるもので、そのうち300歳を採用されたのであるが、実際には「寿命三百歳」ということはありえないが、大乗仏教にかかわる多くの事跡が竜樹に帰された結果、このように長寿を保ったとされるようになったもので、その存在の大きさを物語っているのである。
 「三十万偈の論師」というのは、竜樹の著したとされる大悲方便論・大心論・大無畏論のそれぞれが10万偈から成り、合計して30万偈となるところから仏教界において呼称されたのである。
 次いて「付法蔵の第十三」というのは、竜樹が付法蔵でいえば13番目にあたる故であり「仏滅後七百年の人」とあるのは、仏教界での伝承によるもので、西暦では2~3世紀の人とされている。
 次いで、本論に入り、華厳時に説かれた華厳経に関して、説処と教えの内容、説かれた期間、一代諸経の中での位置と何のために説かれたか等が図示された上で、文章によっても教示されている。図示されている内容と大聖人が解説されている御文とはほぼ重複しているので、大聖人が解説して記された御文を拝する中で、図示の注記を照合するという形式で進めることにしたい。
 初めに「此の華厳教というは所謂仏摩訶陀国寂滅道場菩提樹下にして始めて正覚を成じたまいし時七処八会に於て法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に加して頓大の根性の為に因陀羅網・無障礙土の相を現じ別円の両教・住行向地の功徳・法界唯心の理を説き給う所謂華厳経なり」とある。ここで文頭に「此の華厳教」と書かれ、末尾に「所謂華厳経なり」と仰せられているのは、釈尊が成道して21日間に説かれた教えを「華厳教」とされ、後世にまとめられたものを「華厳経」と区別されたと考えられる。あとで「初分」「後分」というのが出てくるように、この「21日間」よりあと、50年間の説法の中で述べられた教えも、「華厳経」の中には組み込まれているからである。ここでは、華厳経は仏が正覚を成就し、その直後に説いたことから、華厳経が説かれた場所も成道した場所、すなわち菩提樹の下であることを示されている。寂滅道場とは釈尊が寂滅や道を得た場所を指している。
 次に、七処八会というのは、釈尊が華厳経を寂滅道場に始まり、普光法堂・忉利天・夜摩天・兜率天・他化自在天・普光法堂・逝多天というように、説法の場所が七ヵ所移されたことをいい、普光法堂が二つの会座で説法したことをいうのである。
 ついでにいえば、第一・寂滅道場と、第七・普光法堂、第八逝多林は地上の会座、第三・忉利天、第四・夜摩天、第五・兜率天、第六・他化自在天はいずれも天上界会座である。以上のことを図示では「説処は中天竺摩竭提国の寂滅道場菩提樹下・七処八会」と注記されている。
 次に、本文では「法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に加して頓大の根性の為に因陀羅網・無障礙土の相を現じ別円の両教・住行向地の功徳・法界唯心の理を説き給う」と述べ、華厳経に連なった衆生の根性と華厳経の内容を簡潔に明かしている。
 法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に「加」とは、仏の神秘的な力にこれらの菩薩たちの口から語らせたことを指している。
 華厳経の場合、釈尊が菩提樹下で成道した直後、釈尊の悟りの清浄な毘廬遮那仏が立ち現れ、その毘廬遮那仏の神力を法恵等の四菩薩が受けて、仏の代わりに説法したのである。その教えは「頓大の根性の為に」とある。頓は、直ちに、の意味、大は大乗教のことであり、大乗の教えを直ちに受け入れる機根の衆生を対象とした。かなり程度の高い教えである。
 図示の注記でも「権大乗なり乳味と名く頓大の機の為に説く」とある。「乳味と名く」とあるように、華厳経はちょうど牛から搾ったばかりで、まだ発酵精製されていない乳の味にたとえられる。
 ついで、その華厳経では「因陀羅網・無障礙土の相を現じ」たことが述べられている。「無障礙土」、とは天台大師智顗が仏に住する土について、凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土を立てたなかの三番目の「実報無障礙土」のことである。実報土というのは、真実の功徳に報われた土ということで、報身仏の住む仏土のことである。報身仏は仏が過去の因位の修行に報われて成道した時に、その因位の功徳によって百福荘厳で飾られ堂々たる大身相を示す仏のことで、毘廬遮那仏はこれに当たる。そこには煩悩の障礙がないので「無障礙土」というのである。
 ところで、因陀羅網は、因陀羅の網の意味で宮殿にかかっている宝網には、網の一つ一つの目に宝珠があって、その宝珠に美しい世界が映っているが、それが他の宝珠に反映し、さらにそれが別の宝珠に反映して光り輝き、相互に幾重にも反映しあって尽きることがない、という華厳経の世界をたとえている。この因陀羅網の譬えは中国・華厳宗の法蔵などの祖師たちが毘廬遮那仏の重重無尽の世界を説明する時によく用いている。すなわち、一切の現象は互いの縁となって生ずるという無尽縁起の世界を表するとしている。
 この「因陀羅網・無障礙土」にあたるのが、図示の注記では「仮立実報土」である。「仮立」とは仏が衆生を教化するために方便として仮に立てたということで、華厳経に実報土があくまで方便として仮に立てられたものであることを示されている。真実の実報土は法華経の段で「実報土の説」とあるように、法華経の説処がそれに当たるのである。
 本文では次いで「別円の両教・住行向地の功徳・法界唯心の理を説き給う」として華厳経の教理内容が明かされている。別教は菩薩が修行を重ねて多くの段階を登っていくために示された教えをいい、円教は仏の悟りの法をいう。「往行向地の功徳」が「別教」に当たり、「法界唯心の理」が「円教」に当たる。次の文に「此の経には四十一位を明す謂く十住・十行・十廻向・十地・仏果」と仰せられているのも同じ意である。この41位に10住に入る前の、凡夫の境界である10信、仏果の前の菩薩の極意である等覚が加わって52位となる。
 これが別教であるが、華厳経には円教も説かれている。円教の「円」は円融・円満で偏らないということで、仏の悟りの境地をいう。華厳経の場合、「法界唯心の理」がそれである。法界すなわち一切諸法を欠けることなく具えている仏の一心を表す。
 しかし、華厳経の場合はあくまで「別円二経」で、別教の歴劫修行を前提としており、「円教」の「法界唯心の理」といっても、仏の悟りの境地を示しているのみで、一切衆生が即身成仏できる法華経の「純円一実」とは天地雲泥の違いがある。
 次いで、本文では「此の経には新古の二訳有り 六十華厳は旧訳なり八十華厳は新訳なり」とある。華厳経には中国・南北朝時代の仏陀跋陀羅訳の60巻と、唐代の実叉難陀訳の80巻本の二つがあり、前者を旧訳、後者を新訳と呼んでいる。
 ちなみに、説処は60華厳の場合は七処八会であるが、80華厳の場合は七処九会である。旧訳が南北朝末期の天台大師によって打ち破られていたのを、新訳によって天台の法門を取り入れ、則天武后の後押しで勢力挽回を企んだのであった。
 ともあれ本文で破されに「成道の最初に此の教を説き給う譬えば日出でて先づ高山を照すが如し厚殖善根は斯の頓説を感ず、頓説本と小の為にせず彼の初分に於ては永く声聞無し後分には即ち有り復た坐に在りと雖も聾の如く聾の如し、経文に云く『即ち傍人を遣わして急に追うて将に還さんとす、乃至、悶絶して地に躃る』」と述べられ、権大乗の中ではかなり高度な華厳経を釈尊が成道した直後、最初に説いた意義を明かされている。
 「日出でて先ず高山を照す」とは、華厳経自体に説かれている日光三照の譬を援用されたもので、東の空に昇った太陽がまず高山を、次いで幽谷を、そして平地という順に照らすように、華厳経がまず、かなり高い位の人々を対象に説かれた理由を示されている。
 この華厳経の説法を受け入れ利益を被ることのできる衆生は「厚殖善根」の者、すなわち、仏道修行によって厚く善根を殖え積み重ねた衆生、つまり、文殊・普賢・法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵など大菩薩のみで、小乗の声聞にとっては全く理解できない説法であったことを「頓説本と小の為にせず彼の初分に於ては永く声聞無し後分には即ち有り復た坐に在りと雖も聾の如く聾の如し」と述べている。
 華厳経は、成道直後の21日間に説かれた初分の説法と、その後、50年にわたる化導の中で説かれたのを、華厳経として組み入れた後分の説法とに大きく分けられる。このうち初分の華厳経の会座には、全く声聞弟子がいなかったことは明白である。というのは、そのあと釈尊の弟子になり阿含時の教えを聞いたのが声聞だからである。後分の華厳経では声聞弟子は会座にいるが、華厳経に組み入れられる高い教えの説法を聞いても全く理解できなかったのである。このような高度な華厳経を声聞たちに対して説いた意義に関しては、法華経信解品の長者窮子の譬の一節を引用して説明されている。
 引用文中「乃至」で省略されている部分を示すと以下のとおりである。「爾の時に使者、疾く走り往いて捉う。窮子驚愕して、怨なりと称して大いに喚ばう。我相犯さず。何ぞ捉えらるるや。使者之を執らうること、愈急にして、強いて牽将いて還る。時に窮子自ら念わく、罪無くして囚執えらる。此れ必定して死せん。転た更に惶恐し」と。
 すなわち、50余年も前に出家した子供を探している長者の前に、放浪し困窮し果てた窮子が我が家と知らずに姿を現す。窮子を一目見た長者は我が子であることを知るが、窮子は長者の威厳を畏れて逃げ去る。これを見た長者は「即ち傍人を遣わして急に追うて将に還さんとす」とあるように、急いで従者に命じて彼をとらえさせ、我が家に引き入れようとした。あまりにも突然であったので窮子は驚きのあまり「悶絶して」地に倒れてしまった。とある。この譬では、長者が釈尊で、窮子が後分の華厳経にいる声聞の弟子に当たる。後分の華厳の説法に対して声聞が列座していたが「聾の如く瘂の如し」であったのは、長者の前に連れてこられた窮子が悶絶したようなものであるといわれているのである。
 実際に前分の華厳経の会座にいたのは厚く善根を積んだ大菩薩のみであったが、その後、声聞を代表として釈尊の教えを受ける娑婆世界の衆生に対する化導の第一歩であったことは間違いない。この譬は、その立場から華厳経説法のもった意義を表している。この華厳経説法の釈尊の意図を図示の注記では「擬宜と名く」としている。擬宜とは宣しきや否やを擬する、ということで、仏が仮に意味である。これは天台大師智顗の言葉で、擬がおしはかる、宣がよろしい、ということで、仏が仮に適当な法を衆生にあてがってもて、衆生にとってよろしいかどうかを試してみる、ということである。
 ところで、図示の注記の中で「頓教と名く」とある下に「亦秘密教有り亦不定教有り」と注されている。これは華厳経が頓教に当たるが、衆生にとっては秘密教でもあり不定教でもあるということである。
 前述のように、華厳経は別円二教を兼ねて説いているから、別教を受け入れる機根はこれを別教と理解し、円教を受け入れる機根はこれを円教と理解し、機根によってその了解が定まっていない教えであるから不定教でもあり、また、この説法において、仏は身口意の三業にわたる教化の力を用いて、一類の機根のために座中の聴衆をして、互いに相知らずして説かれているところでもあるから、秘密教でもある。要するに華厳の説法は「化法の四教」でいえば別円であり「化儀の四教」でいえば、基本的には頓教であるが、聴聞する側でいえば不乗教でも、秘密教であるということである。漸教のみでは全くない。いきなり真理を明かす「頓」と次第に明かしていく「漸」とは全く相反するから、基本的には「頓」である以上、「漸」であるなどということはありえないのである。
 さらに「華厳経」の結経である梵網経については、一代五時鶏図では梵網経について「大乗戒之を出す」(0623-15)と注されているように、この経は別名を菩薩戒経ともいい、大乗の菩薩戒として十重禁戒や四十八戒をといていることで重要視された歴史をもっている。戒は仏道を修行する上で守るべき規範であるから、この戒を明かした梵網経は、修行の心得を示した結経に位置付けられるのである。
 最後に、この華厳経に基づく華厳宗とその祖師たちが示されている。「天竺」と「漢土」に分け、天竺すなわちインドの祖師として「馬鳴菩薩──起信論を造る」「天親菩薩──十地論を造る」「竜樹菩薩──十住毘婆沙論を造る」と三人の名とそれぞれの著作が挙げられている。もとより、馬鳴自ら「華厳宗」と名乗ったわけではなく、中国で「華厳宗」を立てた人々が、自分たちの立場をよりどころとして喧伝したのを記されているにすぎない。
 初めに馬鳴菩薩であるが、彼は大乗起信論を著している。題名からも明らかなとおり、衆生に大乗への正しい信を起こさせるために大乗仏教の教義を説いたものである。特に真如に不変真如と随縁真如の二面ることを説くところに特色がある。
 次いで、天親菩薩は世親菩薩といい、華厳経は十地品を解釈して十地経論を著している。
 また、竜樹菩薩は華厳経の十地のうち、初地と二地を注釈し十住毘婆沙論を著している。
 実際に華厳宗を立てた中国の祖師としては、「杜順和尚」「法蔵大師」「智厳法師」「澄観法師」の四人が挙げられている。杜順は中国華厳宗の開祖、智厳は杜順の弟子で第二祖、法蔵は第三祖で六十巻華厳経の注釈である華厳経探玄記など多数を著し、華厳宗の教理を大成したとされている。澄観は第四祖に当たり、八十巻華厳経を注釈した華厳経随疏演義鈔を著している。

0634:09~0635:03 第二章 第二・阿含時を明かすtop
09      ┌説処は波羅奈国鹿野苑・同居土の説
10      ├但三蔵教を説く・但と名く
11      ├十二年小乗を説く・酪味と名く
12   阿含経┼三乗の根性の為に説く・漸教と名く亦秘密教有り 亦不定教有り                ・
13      ├誘引と名く
14      ├結経は遣教経なり
15      └倶舎宗・成実宗・律宗
-----―
      ┌説いた場所は波羅奈国の鹿野苑。凡聖同居土の説である。
      ├ただ三蔵教を説く。但と名付ける。
      ├十二年間小乗教を説く。酪味と名付ける。
   阿含経┼三乗の機根の為にために説く。漸教と名付ける。また秘密教がり、また不定教がある。
      ├誘引と名つける。
      ├結経は遣教経である。
      └この経を依経とするのは倶舎宗・成実宗・律宗である。
-----―
16   此の阿含は是小乗教なり、仏・成道五十七日を経て梵王の請に赴き波羅奈国の鹿野苑に於て陳如等の五人の為に
17 三蔵教の四諦の法論を説き給う、 謂く四阿含等の小乗経を説くなり、 増一阿含には人天の因果を明し、長阿含に
18 は邪見を破し、中阿含には真寂の深義を明し、 雑阿含には禅定を明す、遣教経を以て結経と為す、 化儀は漸の部
0635
01 の初め化法は三蔵教なり、 三乗の根性の為に此の阿含教を説く経の次第に依れば日の次に幽谷を照すが如し、 浅
02 行を偏えに明せば当分に漸を解る三蔵本大の為ならず座に在りと雖も多タ婆和す、 経に云く 「将に其の子を誘引
03 せんと欲して方便を説く密かに二人の形色憔悴せる威徳無き者を遣わす」云云。
-----―
 この阿含経は小乗教である。仏は成道の後五週間を経て、梵王の要請によって波羅奈国の鹿野苑に行き、そこで阿若憍陳如など五人のために三蔵教の四諦の法論を説かれた。いわゆる四阿含経の小乗経を説いたのである。
 増一阿含経には人・天の因果を明かし、長阿含経には邪な見解を破折し、中阿含教には真の寂滅の深い意義を明かし、雑阿含には禅定を明かす。遣教経をもって結経とする。化導の方式は漸の部の初めであり、化法の教法は三蔵教である。声聞・縁覚・菩薩の三乗の機根のために、この阿含教を説く。経の順序によれば、日が出て高山の次に奥深い谷を照らすようなものである。浅い修行のみを明かしているので、その限りで漸教を理解する。
 三蔵教は本来、大乗のためではない。菩薩は小乗教の会座にいるけれども、迹を垂れて小乗の衆生に同じているのである。法華経信解品第四に「まさにその子を誘い導こうとして、ひそかに、姿がやつれて威徳のない二人を遣わした」とある。

阿含経
阿含はサンスクリットのアーガマの音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部(ニカーヤ)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。
―――
波羅奈国
 ヴァーラーナシー(vārānasī)の音訳。古代インドの国名。釈尊が成道後、はじめて四諦を説いた鹿野苑はこの国にある。
―――
 サンスクリットのムリガダーヴァの訳。古代インドの波羅奈国(ヴァーラーナシー)にあった園林。現在のヴァーラーナシーの北方にあるサールナートに位置する。釈尊が苦行を捨てて菩提樹下ではじめて覚りを開いたのち、この鹿野苑において阿若憍陳如ら5人の比丘に初めて法を説いたので、初転法輪の地といわれる。この地は早くから仏教徒の巡拝が行われ、それに伴って仏塔や僧院などが建造され、付近からインド彫刻史上の傑作といわれるアショーカ石柱の獅子柱頭も出土している。
―――
同居土
 天台宗の教義で、三界の中にあり、凡夫と聖者がともに住む世界。同居穢土と同居浄土とがある。凡聖同居土。
―――
三蔵教
 ①経・律・論の三蔵に説かれた釈迦一代の教えの総称。 ②天台宗で小乗教の異名。
―――
但と名く
 天台大師は」法華玄義で五時の説教のうち前四教を兼・但・対・帯に区別し、阿含時の教えを、ただ蔵教のみを説くゆえに但とした。
―――
酪味
 乳を精製するときに経る味を五味に分けた第二。阿含時の経典を酪味とする。
―――
三乗の根性
 声聞・縁覚・菩薩乗の三種類の機根のこと。
―――
漸教
 天台の八教大意に説かれる化儀の四教のひとつ。衆生の機根に応じて、低きから高きへと次第に誘因していく教法。
―――
誘引
 誘い引導すること。方便を用いて衆生を教化すること。
―――
遺教経
 鳩摩羅什訳。1巻。釈尊が入滅に際して,弟子たちに最後の説法をなした情景を描く経典。中国,日本で広く普及した。特に禅宗では仏祖三経の一つとして重視する。
―――
倶舎宗
 インドの論師・世親(ヴァスバンドゥ)の『俱舎論』に基づく学派。南都六宗の一つに数えられるが、法相宗に付随して学ばれる寓宗(他に寄寓する学派)である。
―――
成実宗
 インドの訶梨跋摩(ハリーヴァルマン)の『成実論』に基づく学派。『成実論』は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を27(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。5世紀の初めに鳩摩羅什によって『成実論』が漢訳されると、弟子の僧叡・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って『成実論』が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗である。
―――
律宗
 ❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。
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小乗教
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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梵王の請
 大梵天王が釈尊に説法をしてくれるよう求めたこと。すなわち大梵天王が勧請して釈尊自らの証悟をとくことを決意したのである。
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陳如等の五人
 釈尊成道の後、最初に教化を受けた五人の比丘のこと。阿若憍陳如・阿シュバ時・跋提梨迦・婆沙波・摩訶那摩。
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四諦の法論
 阿含経で説かれる四諦の法門。苦諦・集諦・滅諦・道諦をいう。
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四阿含
 4種の阿含経。長 阿含経・中阿含経・増一阿含経・雑 阿含経のこと。
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増一阿含
 仏教の漢訳『阿含経』の1つ。大衆部所伝。パーリ語経典の「増支部」(アングッタラ・ニカーヤ)に相当するが、内容は異なっている。
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人天の因果
 人界と天界の衆生にかかわる因と果。
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長阿含
 仏教の漢訳『阿含経』の1つ。法蔵部所伝。パーリ語経典の「長部」(ディーガ・ニカーヤ)に相当する。
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邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
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中阿含
 仏教の漢訳『阿含経』の1つ。説一切有部所伝。パーリ語経典の「中部」(マッジマ・ニカーヤ)に相当する。
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真寂の深義
 真に煩悩を滅断した深い境地のこと。
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雑阿含
 仏教の漢訳『阿含経』の1つ。説一切有部所伝。パーリ語経典の「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)に相当するが、パーリ語経典相応部と異なり、こちらは「雑」の名からも分かるように、元々の主題別のまとまりが崩れてしまっている。
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禅定
 心を一処に定めて散乱させず、煩悩を断って深く思惟する境地に入ること。戒・定・慧の三学のひとつ。また六波羅蜜の一つ。禅定を得るために結跏趺坐することが最も安定した坐法として用いられている。
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浅行
 初心の者の浅い修行。
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当分
 当位の分際のことで、そのままの立場のこと。跨節に対する語。天台宗ではこれを教判として、爾前経を当分、法華経を跨節としている。
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多タ婆和
 仏・菩薩が垂迹して小乗の衆生に同ずること。
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方便
 悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
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 釈尊は、成道直後、華厳経を説いて衆生の理解力の程度を測ったあと、実質的に衆生化導を開始する。その第一段階として、声聞二乗を対象として阿含経を説くのである。「此の阿含は是小乗教なり」とあるように、阿含経は自己の解説のみを目的として説いており、自分一人しか乗れない小さな乗り物にたとえて小乗教という。それに対して、自行化他の実践と、あらゆる人を慈愛し利益する菩薩の道を説く教えを大乗経というのである。
 この阿含経典は「仏・成道五十七日を経て梵王の請に赴き波羅奈国の鹿野苑に於て陳如等の五人の為に三蔵教の四諦の法論を説き給う、謂く四阿含等の小乗経を説くなり」とあるように、釈尊は、成道後の3週間で華厳経を説き終わった後、成道後5週間を経過して、波羅奈国の鹿野宛という所に行って、陳如をはじめとする5人の比丘を相手に説法したとされる。これが第二・阿含時の経である。釈尊は成道の後、自身の悟りを人々に説くか否かを思い迷っていたが、梵天王らの請いを受けて説くことを決意したとされている。
 ともあれ、阿含経に四種類あるが、四阿含経全体としては化法の四教でいうと三蔵教であり、中心の教えは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦の法門である。三蔵教というのは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵によって立てられた教法のことである。蔵は蓄える所で、仏の説いた経文を貯蔵したのが経蔵、教団を統括する規則である律を蓄えたのが律蔵、仏の説いた教理を体系化し論議注釈したものを集めたのが論蔵となる。従って、大乗にも三蔵があるし、例えば善無畏三蔵のように、三蔵に通達しているということから、三蔵法師という呼称が用いられた例もある。しかし、インドでは先に三蔵を完備していたということから小乗教の呼称として「三蔵教」が定着し、小乗を、略して蔵教とよぶようになったのであった。
 四阿含経については本文に「増一阿含には人天の因果を明し、長阿含には邪見を破し、中阿含には真寂の深義を明し、雑阿含には禅定を明す」とそれぞれの特徴をなすものが示されている。
 四阿含経は前述のように、小乗教を説いたものであるから、灰身滅智といって色身を焼いて灰にし心智を滅して空寂の悟りに入らせることを目的とするものであるが、より細かくみると、増一阿含は人天の因果、すなわち、人間界、天上界の中に生まれるなどの因と、この因を修すれば人間界・天上界に生まれるなどという果を説いたものである。長阿含は邪見、すなわち、外道・バラモン教を破折したものである。中阿含は増一阿含より一歩進んで、人天の因果のような世間善を説かず、出世間の悟りを開くべき道を明かしたもので、真寂の深義、すなわち、涅槃寂滅の境界に至るべき道を説いたものである。最後に、雑阿含は色界・無色界の禅定のことを説いている。
 次いで、阿含の教えが三乗、特に二乗のために説かれたことを「三乗の根性の為に此の阿含教を説く経の次第に依れば日の次に幽谷を照すが如し、浅行を偏えに明せば当分に漸を解る三蔵本大の為ならず座に在りと雖も多タ婆和す」と記されている。
 三乗といっても、ここでの菩薩は小乗の菩薩であることに留意しなければならない。声聞は四諦の法門を修して小乗を説く仏になるとされているが、いずれも灰身滅智が目的となっている。従って、中心は声聞・縁覚の二乗にあることは「浅行を偏えに明せば当分に漸を解る三蔵本大の為ならず座に在りと雖も多タ婆和す」という文からも明らかである。
 阿含経では、鈍根の声聞・縁覚の二乗に対して、浅い教えや修行のみを説いたので、その教えの範囲の中で、浅きより深きへと説いていく教えの中に浅い小乗の教えを理解したのであった。この三蔵教は「本大の為ならず」とあるように、あくまで小乗の二乗を導くために説かれ、菩薩のためには説かれていなかったので、阿含経の会座に座していた菩薩たちも「多タ婆和す」すなわち、幼児が言葉を学ぶ声を出すような幼稚な姿をあえてとった、というのである。
 ここでも長者窮子の譬喩の一節が引用されている。その内容は、先の華厳経の場合、探し求めていた我が子・窮子をいきなり家に引き入れようとしたので「悶絶」してしまったのであったが、長者が、今度は窮子が望むままに貧しい里に住まわせ、二人の従者にあえてみすぼらしい姿をとらせたうえ、ひそかに近づかせるのである。そして彼らに、窮子を誘わせて、長者の家に雇人として雇い入れ、掃除や草取りなどの仕事を与えながらなじませていくわけである。このように、浅より深に漸次導く仕方を「漸」「誘引」といい、阿含時は、その「漸の部の初め」なのである。
 この阿含経が説かれた国土については「波羅奈国鹿野苑・同居土」と記されている。同居土は凡夫や二乗も共に住し、彼らの見ることのできる一丈六尺の応身仏として釈尊が住する国土である。
 阿含教の結経は遺教経である。この経は、一代五時大意に「阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり」(0390-12)とあるように、主として戒について明かした経とされる。さらに一代五時鶏図では「結経遺教経」「小乗戒之を出す」と注している。遺教経は正式には仏垂般涅槃略説教誡経というように、仏が涅槃に臨んで、もろもろの弟子のために最後の誡めを説いたもので、小乗の涅槃経とされる。内容的には、声聞の弟子たちの守るべき戒律が説かれていることから、阿含時の結経とされたのである。
 最後に、阿含経に基づく宗派として、俱舎宗・成美宗・律宗の三宗が挙げられている。俱舎宗は世親が大乗に帰依する前に小乗を宣揚して著した俱舎論をよりどころとし、成実宗は訶梨跋摩の成実宗をよりどころとし、律宗は律蔵をよりどころとしている。

0635:04~0636:06 第三章 第三・方等時を明かすtop
04      ┌説処は欲色二界の中間・大宝坊・同居土の説なり
05      ├蔵通別円の四教を説く
06      ├十六年の説なり三井寺の義説時不定なり山門の義権大乗・生蘇味                ・
07      ├対と名く
08      ├四教の機の為に説く・漸教と名く亦秘密教有り亦不定教有り
09      ├弾訶と名く
10      ├結経は瓔珞経なり
11   方等部┼深密経 法相宗玄奘三蔵 慈恩大師
12      ├楞伽経 禅宗 達磨     ┌曇鸞法師
13      ├観  経┐        ├道綽禅師
14      ├雙 観 経┼浄土宗──祖師─┼善導和尚
15      ├阿弥陀経┘        └法然上人
16      ├大 日 経┐         ┌善無畏三蔵
17      ├金剛頂経┼真言宗──祖師─┼金剛智三蔵
18      └蘇悉地経┘         └不空三蔵
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      ┌説いた場所は欲界と色界の二界の中間にある大宝坊。凡聖同居土の説である。
      ├蔵・通・別・円の四教を説く。
      ├十六年の説である。(三井寺の説)説いた時は定まっていない。(延暦寺の説)権大乗であり生蘇味に当たる。
      ├対と名付ける。
      ├四教の機根のために説く。漸教と名付ける(また秘密教があり、また不定教がある)
      ├弾訶と名付ける。
      ├結経は瓔珞経である。
   方等部┼深密経 法相宗玄奘三蔵 慈恩大師
      ├楞伽経 禅宗 達磨     ┌曇鸞法師
      ├観  経┐        ├道綽禅師
      ├雙 観 経┼浄土宗──祖師─┼善導和尚
      ├阿弥陀経┘        └法然上人
      ├大 日 経┐         ┌善無畏三蔵
      ├金剛頂経┼真言宗──祖師─┼金剛智三蔵
      └蘇悉地経┘         └不空三蔵
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0636
01   此の方等教は謂く 鹿苑の後般若の前四教の機に対し処処に四教の法を説いて 唯だ二乗を弾呵し 菩薩を称揚
02 す、所謂密厳経.厚厳経・思益経・方等経・楞伽経・浄名経等なり、瓔珞経を以て結経と為す、化儀は漸部の中.化法
03 は四教なり、 説教の次第に依れば日の次ぎに平地を照すが如し 影万水に臨み器の方円を逐い波の動静に随つて一
04 仏土を示すに浄穢不同ならしめ一身を示現するに巨細各異なり、 一音の説法・類に随つて各解なり、 恐畏し歓喜
05 し厭離し断疑す 神力不共の故に見に浄穢有り聞に褒貶有り 嗅に胆蔔と不胆蔔と有り華に著身と不著身と有り浄名
06 方等の如し、経文に云く「是を過ぎて已後、心相体信じて入出難り無し」文。
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 この方等教は鹿野苑での悦法の後、般若経の前に蔵・通。別・円の四教の機根に対し所々に四教の説法を説いて、ただ声聞・縁覚の二乗を叱責し菩薩をほめたたえている。いわゆる密厳経・厚厳経・思益経・方等経・楞伽経・浄名経などである。瓔珞経をもって結経とする。化儀は漸部の中に入り、化法は蔵・通・別・円の四教である。
 教法を説いた順序は、日が出て、高山の次に奥深い谷を照らし、次に平地を照らすようなものである。ちょうど影があらゆる水に映って、器の四角形や円い形にも従い、波の動静に従うようなもので、例えば一仏土を示すときに、見る浄土・穢土に見えるようにして、一仏身を現しても、衆生の機根によって大きく見えたり小さくみえたりして異ならせ、仏の一音声の説法が衆生の機根に従っておのおの異なって解領するようにする。例えば恐れおののき、歓喜し、生死の苦を厭い離れ、疑いを断ずるといったようなことは、仏の神通力が凡夫などと共通できないからできることなのである。故に衆生が見るものに浄土と穢土がある。褒められたと聞く機根と貶されたと聞く機根がある。胆蔔のようなよい香りを嗅ぐ者とそうでない嫌な匂いを嗅ぐ者とがいる。花でも身体につくものとそうでないものがある。それが浄名経・方等経の教説の内容である。法華経信解品第四に「二十年間、常に糞尿の掃除をさせたこの期間を過ぎて以後、父子の心はお互いに、信用するようになって、出入りするにも差し支えがなくなった」とある。

方等部
 大乗経典のうち、華厳経・般若経・法華経・涅槃経などを除いた経典の総称。天台教学の教判である五時八教では、阿含経の後に説かれたとされ、二乗と菩薩に共通の教え(通教)を説いているとされる。
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欲色二界の中間・大宝坊
 方等部の大日経などに説かれた欲界と色界の中間にある大庭。大法廷を珍宝で荘厳したところから大宝坊といわれる。
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蔵通別円
 釈尊の一代の教えをその内容によって4種(蔵教・通教・別教・円教)に分類した天台宗の教判。①三蔵教。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。②通教。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。③別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。④円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。妙楽大師湛然は『止観輔行伝弘決』で、以上の四教のうち、蔵・通・別の三教には仏果の名はあるが、実際には仏果に至る人はいない(有教無人)と説く。また四教を五時に配すると、『法華玄義』では、第1の華厳時は円教に別教を兼ねて説くので兼、第2の阿含時はただ三蔵教のみを説くので但、第3の方等時は蔵通別円の四教を対比させて説くので対、第4の般若時は円教に通別をさしはさんで帯びて説くので帯、第5の法華涅槃時は純円とする。爾前の円が兼・対・帯であるのに対して法華の円は円独妙であるから、法華経を八教(化法の四教と化儀の四教)を超えて優れた超八醍醐の教えという。
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三井寺の義
 三井寺では方等部の経典の説法期間を16年としていること。
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山門の義
 山門は比叡山延暦寺のことで、方等部の経典の説法期間は説時不定としている。
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生蘇味
 牛乳を精製するときにできる五味の第三。方等部の経典を生蘇味とする。
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対と名く
 対は対立・相対のこと。天台大師の五時教判中、爾前四時の教説を判ずる兼・但・対・帯のなかの対。四時のなかの第三、方等部の経々は蔵・通・別・円の四教を対比して説くゆえに対という。
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四教の機
 化法の四教を受け入れる機根。
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弾呵
 小乗の教えにとどまっているのを叱ること。弾は弾劾、呵は呵責を意味する。
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瓔珞経
 『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
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深密経
 深密経と略す。中国・唐の玄奘訳。5巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。
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法相宗
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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玄奘三蔵
 602年~664年(生年には600年説など諸説がある)。中国・唐の初期の僧。唯識思想を究めようとインドへ経典を求めて旅し、多くの経典を伝えるとともに翻訳を一新した。彼以後の漢訳仏典を新訳といい、それ以前の旧訳と区別される。主著に旅行記『大唐西域記』がある。弟子の基(慈恩)が立てた法相宗で祖とされる。後世、経・律・論の三つ(三蔵)に通暁している訳経僧としてたたえられ、「玄奘三蔵」「三蔵法師」と通称されるようになった。
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慈恩大師
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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楞伽経
 漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
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禅宗
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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達磨
 5~6世紀、生没年不詳。菩提達磨はサンスクリットのボーディダルマの音写。達磨と略す。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ28代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国王の第3王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山少林寺で壁に向かって9年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという。
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観経
 中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
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雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
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阿弥陀経
 中国・後秦の鳩摩羅什訳。1巻。阿弥陀仏がいる極楽世界の様子を述べ、阿弥陀仏を一心に念ずることで極楽世界に生まれることができると説く。浄土三部経の一つ。
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浄土宗
 浄土宗ともいう。阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。
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祖師
 一宗一派の祖師。
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曇鸞法師
 (476年~542年?)中国・南北朝時代の浄土教の祖師。著書に『往生論註』がある。
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道綽禅師
 562年~645年。中国・隋から唐にかけての浄土教の祖師。はじめ涅槃経に傾倒していたが、曇鸞の碑文を見て改心して浄土教に帰依した。釈尊の教えを浄土門とそれ以外の聖道門とに分け、聖道門を誹謗した。弟子に善導がいる。主著に『安楽集』がある。
―――
善導和尚
 613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
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法然上人
 1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
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金剛頂経
 もとは単一の経典ではなく、大日如来が18の会座で説いたとされるものを集めた経典の総称。一般に「金剛頂経」という場合、このうち初会の一部を訳して一経としたものをさす。漢訳には、金剛智が訳した金剛頂瑜伽中略出念誦経4巻と、弟子の不空が訳した金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経3巻がある。金剛界を説いた経とされ、大日経とともに密教の根本聖典とされる。金剛界三十七尊が明かされ、金剛界曼荼羅とその供養法などが説かれている。
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蘇悉地経
 蘇悉地羯羅経の略。中国・唐の善無畏訳。3巻。成立史の上からは、大日経に先行する経典と考えられており、さまざまな密教儀礼や行者の規範を説いている。
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真言宗
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
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善無畏三蔵
 637年~735年。東インドの王族出身の密教僧。唐に渡り、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)を翻訳し、本格的な密教を初めて中国に伝えた。主著に『大日経疏』がある。
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金剛智三蔵
 671年~741年。サンスクリットのヴァジラボーディの訳。中インドあるいは南インド(デカン高原以南)出身の密教僧。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂瑜伽中略出念誦経)などを訳し、中国に初めて金剛頂経系統の密教をもたらした。弟子に不空、一行がいる。
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不空三蔵
 705年~774年。北インド(一説にスリランカ)出身の密教僧。金剛智の弟子。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)など100部143巻におよぶ多くの経典を訳した。玄宗・粛宗・代宗の3代の皇帝の帰依を受け、密教を中国に定着させた。彼の弟子には空海(弘法)に法を伝えた恵果がいる。
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二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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密厳経
 大乗密厳経の略。中国・唐の地婆訶羅訳と不空訳がある。3巻。法相宗が依拠する経の一つ。不生不滅・清浄無垢の如来蔵について述べている。さらに、万物の根源は阿頼耶識であり、如来蔵・阿頼耶識・密厳の三者は究極的には一体であることが示されている。
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厚厳経
 この名の経典は現存しない。不明。
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思益経
 思益梵天所問経のこと。中国・後秦の鳩摩羅什訳。4巻。思益梵天に対して菩薩行や四諦、如来の五力が説かれ、網明菩薩に対して凡夫と賢聖の行に差別がないことが明かされる。天台教学の教判である五時のうち方等時に属する。
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方等経
 ❶大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。❷方等部❸十二部経
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楞伽経
 漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
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浄名経
 維摩経の別名。維摩詰と音写されたサンスクリットのヴィマラキールティの漢訳が浄名であることによる。
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化儀は漸部の中
 方等部は化儀の四教のうち漸教の中ほどに位置するという大聖人の見解。
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化法は四教なり
 方等部の経々には化法の四教の各教のいずれもが説かれているということ。
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浄穢不同
 仏が示した同じ一仏土を衆生によって浄土と見る者もいれば、穢土と見る者もいるということ。
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一身
 一仏身のこと。
―――
示現
 仏・菩薩が衆生を教化し救済するために種々に身を変じて現れることをいう。
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巨細各異
 大きいことと小さいこと。同じ一仏身を大きく見たり小さく見たりすること。
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一音の説法
 一つの音声の説法ということで、仏の説いた同じ一つの教えを、衆生はその機根に従ってさまざまに異なった理解をすること。
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類に随つて各解なり
 衆生の類の違いに従って、その理解は異なること。
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恐畏
 恐れ、かしこまること。
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歓喜
 仏の教えを聞いたり、解脱を得たり、慈悲の心をもって衆生を救ったりしたとき、身心に喜びを感じ、さらに一層信心を起こすこと。
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厭離
 厭い離れること。生死を厭離するのは爾前経の教えであって、法華経では「明らめる」のである。そのとき、煩悩即菩提・生死即涅槃と開覚するのである。
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断疑
 疑いを断滅すること。
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神力不共
 人力通が共通しないこと。「神」は推測不可能、「力」は作用・働き。合わせて推測不能の妙なる力用が自在で、妨げのないこと。仏・菩薩の有する不思議な力用をいう。「不共」は他に共通しない独特の法のこと。菩薩のみに説いて二乗に共通しない教えを不共教という。
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見に浄穢有り
 衆生の機根によって、一仏土であっても浄土に見えたり見えなかったりする。「見」は眼でみること。物事に対する見方や考え方を定めることで、見解や思慮をいう。
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聞に褒貶有り
 褒められたと聞く機根もあれば貶されたと聞く機根もあること。
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嗅に胆蔔と不胆蔔と有り
 胆蔔のようなよい香りを嗅ぐものと、そうでない嫌いな匂いを嗅ぐものがいること。胆蔔はインドに産する香花樹およびその花の名。
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華に著身と不著身と有り
 花によっては身に付くものとそうでないものがあることをいう。
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 図示のあとの御文に「此の方等教は謂く鹿苑の後般若の前四教の機に対し処処に四教の法を説いて唯だ二乗を弾呵し菩薩を称揚す」とあるように、鹿野宛における小乗の二乗のために阿含経説法の後、般若部の教えを説く前に「四教の機」つまり蔵・通・別・円の四教に対応した四種の機根のために、説処もさまざま変えながら四教の教えを説いた時期が方等時である。その主たる内容は二乗を弾訶するとともに、菩薩の生き方を称揚したものになっている。
 つまり、方等時の説法はさまざまな機根に対応した多様な教えを含むが、基本的には小乗への執着を打ち破って大乗の菩薩の生き方に目覚めさせることに主眼がある。そして、その菩薩の在り方自体を明かす、次の般若時の説法への橋渡しの役目を担っているのである。従って、化儀の四教でいえば漸教に位置付けられ、化法の四教では蔵・通・別・円の四教すべてを含んでいる。
 ただし、化儀の四教としては、漸教だけでなく「亦秘密教有り亦不定教有り」と記されているように、秘密、不定の説き方もなされている。
 また、図示の項目で「対と名く」とあるように、方等時の説法は大乗と小乗とを対比して説いているので「対」となるし、「弾訶」とあるように小乗への固執を厳しく打ち破っているので、先の華厳の「擬宣」阿含の「誘引」に対して、方等は「弾訶」となる。
 さて、方等時の説法に属する経典としては、御文のところでは「密厳経・厚厳経・思益経・方等経・楞伽経・浄名経等」を挙げられるが、図示のところでは「深密経・楞伽経・観経・雙観経・阿弥陀経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経」を挙げられている。後者が、法相・禅・浄土・真言などの諸宗の依教になったものとして記されていることはいうまでもない。
 方等時の結経に位置付けられている瓔珞経は菩薩瓔珞本業経ともいうように、菩薩の本業、すなわち、修行を52位の階位によって示すとともに、その結果得られる功徳をも明かしているので、天台大師はこの経に菩薩の行位が最も整っていると説かれているとして重視し、方等部の結経としたのである。
 次いで、この方等時の説法の意義を「説教の次第に依れば日の次ぎに平地を照すが如し」と、東の空から昇った太陽が、高山・幽谷に次いで平地を照らすことに相当するとされている。
 平地には町があり村があり、川が流れ、湖沼がある。「影万水に臨み器の方円を逐い波の動静に随つて一仏土を示すに浄穢不同ならしめ一身を示現するに巨細各異なり、一音の説法・類に随つて各解なり、恐畏し歓喜し厭離し断疑す神力不共」とあり、方等時の説法を、そうしたさまざまな水面に太陽の光が当たる様子に譬えられている。
 具体的には、釈尊は一つの仏国土を示しているのであるが、二乗・阿羅漢の舎利弗には穢土に見え、梵王には浄土に見えるようにして、機根によっては同じではないようにしたことや、釈尊が衆生教化のために、一つの仏身を現した時、二乗・凡夫には応身の小相と認識させ、菩薩には報身の大相と認識させるといったように、機根によって同じ仏身をそれぞれ異なって理解させるといったこと、さらに、仏の同一の説法が衆生の一群それぞれに異なって理解される。すなわち、ある者は恐れおののき、ある者は歓喜し、ある者は生死の苦を厭い離れ、ある者は疑いを断ち切るといったように、同じ説法でありながら、衆生の機根によって理解の仕方が異なるのは、それだけ、説法する仏の衆生救済の不可思議な力が凡夫や二乗などには共通していないからである。
 さらに、本文に「故に見に浄穢有り聞に褒貶有り嗅に胆蔔と不胆蔔と有り華に著身と不著身と有り浄名方等の如し」とある。
 これまで仏国土、仏身、仏の説法の順に、仏は同一のものを提示しているのに、衆生のほうは機根によって異なった受け止め方をするところに方等経の特徴がある。ここで、改めて「見に浄穢」、つまり、同じ仏国土を見るのに、衆生によっては浄土と見たり、穢土を見たりすること、「聞に褒貶」、つまり、同じ説法を聞いても、二乗は穢されたと聞き、菩薩は褒められたと聞くこと、次いで「嗅に胆蔔と不胆蔔」、「華に著身と不著身」というのは、いずれも維摩経巻中観衆生品に基づく例で、初めは維摩詰の部屋に入ると、ただ仏の功徳の香りを嗅ぐだけで、声聞・縁覚の功徳の香りを嗅がないということで、衆生の機根によって胆蔔を嗅ぐものと不胆蔔を嗅ぐものとの違いがあること、次は維摩詰の部屋に住む天女が華を散らせると、菩薩に降りかかった華は身に付かずに地に落ちたが、舎利弗をはじめとする声聞たちに降りかかった華は身に付いて落ちなかったということで、同じ華が灰身滅智の悟りに執着する声聞・二乗の身には付き、空観を得ている菩薩の身には付かなかったとしている。
 以上を受けて「浄名方等の如し」と仰せられているのは、ここに述べられたことは浄名経・方等経にあるとおりであるとの意である。
 最後に法華経の信解品長者窮子の譬を引き、方等部の説法がちょうど、長者が20年間にわたり、窮子を雇い人として掃除や草取りなどの仕事をさせ、長者の邸の様子にもすっかりなじませたので、窮子は長者に親しみをもち、互いに信用するようになり、邸の出入りにも差し支えがなくなった段階に相当するとしている。「心相対信じて」とは長者と窮子が互いに信用しあうに至ったことを指しており、父子体信ともいう。
 ところで、この方等時の説処を「欲色二界の中間・大宝坊・同居土の説なり」と記されているのは、代表として大集経の説かれた場所を挙げられたのである。例えば密厳経は密厳浄土、首楞厳経は霊鷲山において説かれたとされる。
 次いで、方等部の説法の期間について、同じ天台宗でも三井寺は「16年」としているが、延暦寺は「不定」としていることを示されている。
 釈尊の一代の説教が50年であること、華厳・阿含両時と法華涅槃時の長さについては見方が一致しているから、方等時の長さをどう見るかは、般若時の長さについての見方と連動する。それについては後に触れることにしたい。
 この下に「権大乗」と注記され、方等部の経が衆生教化の方便として“権”に説かれた大乗であることを示され、さらに「五味」の中では「生蘇味」に当たるとされている。「生蘇」とはおそらくバターのようなものであったと考えられる。
 図示の部分では、このあと、方等部に属するいずれの経典をよりどころとして、どのような宗派が生じたか、それぞれの祖師は誰かが示されている。
 まず、「深密経」に基づいて「法相宗」が成立し、その祖師は「玄奘三蔵」「慈恩大師」であることが記されている。深密経は解深密経ともいい、全五巻からなる。その内容の主眼は己心の外にあると思われる諸現象といっても、ただ阿頼耶識によって認識の対象に似た姿が心に映し出されたものにすぎないとする唯識の義を説くところにある。
 法相宗とは諸法の「相」と「性」とを明確に立て分けることから、このように称したものである。すなわち、この宗では諸法を五位百法と立て、その中で九十四法を「相」、六法を「性」と立て分ける。
 その祖師である「玄奘三蔵」は唐の初め、西域・インドへ経典を求めて大旅行したことが有名であるが、この旅で持ち返った中に唯識の仏教があり、これを訳して中国へ紹介したことから法相宗の祖師とされる。これを教義的に組み立て、実質的に宗派を開いたのが「慈恩大師」である。
 次に「楞伽経」をもとにして立てられたのが「禅宗」であり、その祖師は「達磨」である。楞伽経は北涼の時代には漢訳されており、500年ごろにインドからきた菩提達磨は一方では経外別伝と唱え、一切の経典によらないとしながら、他方で楞伽経を利用して「禅宗」を広めた。
 続いて「観経・双観経・阿弥陀経の三つが示され、この三経を依経とするのが「浄土宗」であること、その祖師たちとして「曇鸞法師・道綽禅師・善導和尚・法然上人」の名が挙げられている。観経は観無量寿経一巻・双観経は無量寿経上・下二巻をいい、阿弥陀経一巻と合わせて浄土三部経という。
 浄土宗の祖師たちのうち「曇鸞法師・道綽禅師・善導和尚」の三人は中国で「浄土教」を成立展開させた代表的な人たちである。「法然上人」は選択集を著して日本に「浄土宗」を広めた人物である。
 最後に、「大日経・金剛頂経・蘇悉地経」のいわゆる真言三部経の名が記され、その下に「真言宗」とその祖師たちである「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵」のいわゆる三三蔵の名が挙げられている。
 ところで、これらの三三蔵はいずれもインドから唐代の中国に真言三部経と密経を広めた、彼ら自身、真言経典の教主は釈尊ではなく、大日如来としているうえ、伝来したのは天台大師がすでに亡くなった後であるから、天台大師の五時教判の中には位置付けられていないが、日蓮大聖人は、これらの経典のレベルを測られ、第三時・方等部に配されたのである。

0636:07~0637:07 第四章 第四時・般若時を明かすtop
07      ┌説処は鷲峯山・白鷺池等の四処十六会・同居土の説なり
08      ├権大乗なり
09      ├帯と名く
10      ├熟蘇味と名く
11      ├十四年の説なり 三井寺の義 三十年の説 山門の義
12   般若部┼漸と名く亦秘密教有り 亦不定教有り
13      ├淘汰と名く
14      ├結経は仁王経なり── 已上四十二年なり
15      ├百  論┐
16      ├中  論┼─三論宗──祖師┬嘉祥大師
17      └十二門論┘        └吉蔵大師                           ・
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      ┌説いた場所は霊鷲山・白鷺池など四つの場所で合計十六回の説法が行われた、凡聖同居土の説である。
      ├権大乗である。
      ├帯と名付ける。
      ├熟蘇味と名付ける。
      ├十四年間の説である。(三井寺の義 )三十年の説 である。(延暦寺の義)
   般若部┼漸と名付ける。(また秘密教が有り、また不定教が有る)
      ├淘汰と名付ける。
      ├結経は仁王経なり── 以上で四十二年である。
      ├百  論┐
      ├中  論┼─三論宗──祖師┬嘉祥大師
      └十二門論┘        └吉蔵大師
-----―
18  此の大般若経は唐の玄奘三蔵の所訳是れ新訳なり、此の経は一部六百巻二百六十五品・六十億四十万字・一万六百
0637
01 三十八紙なり、 此の般若経は方等の後・法華の前・四処十六会の中に於て 後三教の機の為に広く諸部の般若を説
02 く、所謂光讃般若経.文殊問般若経・金剛般若経・能断金剛般若経・大品般若経.小品般若経・放光般若経・天王問般
03 若経・大般若経等なり、 仁王般若経を以て結経と為す、唯だ化儀は漸教の後・化法は通別円なり、此の般若経の時
04 も二乗の念処道品は皆是れ摩訶衍と説いて亦身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教せしむ。
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 この大般若経は中国の玄奘三蔵が訳したものである。これは新訳である。この経は一部六百巻二百六十五品・六十億四十万字・一万六百三十八紙である。この般若経は方等経を説いた後、法華経の前に、四つの場所で合計十六回にわたる会座において、後の通教・別教・円教の大乗の機根のために、広く種々の部類の般若経を説いた。いわゆる光讃般若経・文殊問般若経・金剛般若経・能断金剛般若経・大品般若経・小品般若経・放光般若経・天王問般若経・大般若経などである。仁王般若経をもって結経とする。ただ化儀は漸教の後分であり、化法は通教・別教・円教である。
 この般若経を説いた時も、声聞・縁覚の二乗の修行である四念処・三十七道品はすべて摩訶衍であると説いて、また身子・須菩提に菩薩のために般若経の教えを広めさせている。
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05   玄義に云く「大人は其の光用を蒙り嬰児は其の精明を喪う 夜遊の者は伏匿し作務の者は興盛す」故に文に云く
06 「但菩薩の為に其の実事を説いて我が為に此の真要を説かず、 三人倶に学すと雖も 二乗は証を取る具に大品等の
07 如し」経文に云く「爾の時に窮子即ち教勅を受けて衆物を領知し乃至而も一飡を悕取するの意無し」云云。
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 法華玄義巻一に「『徳のある人はその光の働きを受け、幼児はその見る力を失う。夜遊びの者は隠れ潜み、労働するものは起き上がって活動する』とある。故に法華経信解品第四に『ただ菩薩のためにその真実の事を説いて自分のためにこの真実の肝要を説かない』とある。声聞・縁覚・菩薩の三人ともに修学するけれども、声聞・縁覚の二乗は証悟を得る。つぶさに大品般若経に説くごとくである」とある。法華経信解品第四に「その時に窮子は父に命じられて、多くの財物を受け持ってつかさどった。しかし、その財物からは一回の食事代も自分から求めて取ることがなかった」とある。

般若部
 天台大師が釈尊の一代聖教を五時に分けたうち、第四時の諸経典をいう。代表として摩訶般若波羅蜜経・大般若波羅蜜多経などがある。
―――
鷲峯山
 霊鷲山のこと。古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
―――
白鷺池
 釈尊が般若経を説いたとされる場所の一つ。王舎城(ラージャグリハ)の竹林精舎の中にある。
―――
四処十六会
 大般若経が説かれた場所とその会座。 ①王舎城の鷲峯山 初会~6会 ②舎衛国の給孤独園 7会~9会 ③たい他化自在天宮 10会  ②舎衛国の給孤独園 11会~14会  ①王舎城の鷲峯山 15会 ④竹林精舎の白鷺池 16会。
―――
帯と名く
 天台大師の五時教判では、爾前四時の教説を判ずる兼・但・対・帯のうちの帯。般若部の経々は円教に別教を帯びていることをいう。
―――
熟蘇味
 涅槃経で説かれる五味のうちの熟蘇味。牛乳を精製する過程を五段階に分けたなかの第四。
―――
十四年の説なり三井寺の義
 三井寺では般若部の説かれた期間を14年としている。
―――
三十年の説 山門の義
 比叡山派は般若部の説かれた期間を30年としている。
―――
沙汰
 ① 物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。また、裁決・裁判。②決定たことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。③便り。知らせ。音信。④話題として取り上げること。うわさにすること。⑤問題となるような事件。その是非が問われるような行為。
―――
仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
四十二年
 釈尊が30歳の時、菩提樹下で成道してから法華経を説くまでの期間。
―――
百論
 提婆によって書かれたとされる仏教論書である。『中論』『十二門論』と並び、三論宗の所依の一つ。龍樹の『中論』を受ける形で、他派の論を百種の偈を以て斥ける構成。
―――
中論
 竜樹菩薩の著「中間論」のこと。姚秦の羅什三蔵が訳した4巻27品とし「十二門論」「百論」とともに三論宗の所依である。八不にせよ中道実相の理を説いている。嘉祥は疏10巻をはじめ、元康・琳法師・曇影等の疏がある。
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十二門論
 竜樹が著したとされる仏教論書の一つである。『中論』『百論』と共に、三論宗の所依の一つ。空観思想が十二章にわけて論じられる。
―――
三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
―――
嘉祥大師
 新羅人とも新羅への留学僧ともいわれる。入唐して法蔵に華厳を学び、天平のころ帰国して良弁らとともに華厳宗を弘めた。日本華厳宗の初祖とされる。
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吉蔵大師
 (0549~0623)。中国・隋・唐代の人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。吉蔵が身を肉橋とした話は、法華文句輔正記巻三に吉蔵が天台大師に対して身を肉?として高座に登らせた、とあることによると思われる。?とは、はしごの意。
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大般若経
 大般若波羅蜜多経の略。中国・唐の玄奘訳。600巻。般若部の諸経典を集大成したもので、あらゆる仏典の中で最大である。巻398には、常啼菩薩が身命を惜しまず、財宝や名誉を顧みず、般若波羅蜜多(智慧の完成)を求めた話が説かれている。
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 618年~907年。隋に続く中国の王朝。律令制度を軸とした中央集権的な国家体制を築いて全国を統一し、強大な勢力をもって東アジア・中央アジアに支配を広げた。これによりシルクロード交易が盛んになった。儒教が低調で道教と仏教が盛んだったが、第15代皇帝・武宗の廃仏(845年)によって仏教は衰えた。遣唐使の往来などにより、仏教各派の教えや大陸の多様な文化が日本に伝えられた。
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玄奘三蔵
 602年~664年(生年には600年説など諸説がある)。中国・唐の初期の僧。唯識思想を究めようとインドへ経典を求めて旅し、多くの経典を伝えるとともに翻訳を一新した。彼以後の漢訳仏典を新訳といい、それ以前の旧訳と区別される。主著に旅行記『大唐西域記』がある。弟子の基(慈恩)が立てた法相宗で祖とされる。後世、経・律・論の三つ(三蔵)に通暁している訳経僧としてたたえられ、「玄奘三蔵」「三蔵法師」と通称されるようになった。
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新訳
 像法の前500年は、中国に仏法が流布し、さかんに翻訳が行われている。竺法蘭・鳩摩羅什などである。これらの経典を旧訳といい、像法の後の500年を新訳という。玄奘三蔵・善無畏三蔵に代表される。一般に新訳は訳者の自我が多い経典とされ、真言宗の善無畏が立てた理同事勝などは代表的な例である。
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後三教の機
 蔵・通・別・円の四教のうちで前の蔵教を除く、通・別・円の三教。
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光讃般若経
 金剛経という。竺法護訳10巻。般若諸経のひとつ。
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文殊問般若経
 文殊説経という。曼陀羅仙訳。般若諸経のひとつ。
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金剛般若経
 金剛般若波羅蜜経のこと。漢訳には6種あるが、鳩摩羅什訳が広く用いられる。
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能断金剛般若経
 金剛経のこと。唐代の玄奘訳。般若諸経のひとつ。
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大品般若経
 般若経の漢訳の一つで、中国・後秦の鳩摩羅什訳。27巻。天台教学における五時のうち般若時の代表的な経典。
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小品般若経
 鳩摩羅什訳、10巻。般若諸経のひとつ。
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放光般若経
 放光経のこと。西晋の無羅叉訳20巻。般若諸経のひとつ。
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天王問般若経
 陳代の月婆首那訳、7巻。五部般若のひとつ。般若の法とその修学の方法を説いている。
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仁王般若経
 中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
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化儀は漸教の後
 化儀の四教のうち、般若部の経々は漸教の最後にあたる。
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化法は通別円
 化法の四教のうち般若部の経々は通・別・円教にあたり、円教に通・別の二教をおびて説いている。
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念処道品
 声聞・縁覚が悟りを得るために修行する四念処と37道のこと。
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摩訶衍
 摩訶衍那の略、大乗と訳し大乗教を意味する。
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身子
 舎利弗のことで梵語(Śāriputra)。訳して身子という。バラモンの出身で、小さい時から頭がよく、8歳のとき、王舎城中の諸学者と論議して負けなかったという。目連とともに外道を学び、多くの弟子を持っていたが、釈尊が成道して間もなく弟子となり、声聞階級の代表であった。250人をひきいて鹿野苑の会座に参加し、また阿弥陀経等でも対告衆となったが成仏せず、法華経方便品の対告衆となり開三顕一の説法を聞いて開悟し、譬喩品で華光如来の記別を与えられた。
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須菩提
 梵語スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta)長者の弟の子といわれる。釈尊の十大弟子の一人。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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転教
 転法輪のこと。法輪を転ずるの意で、仏が教法を説くこと。説法。法華文句巻五上には「仏の心中の化他の法を転じて他心に度入するを転法輪と名づく」とある。
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玄義
 天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
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大人
 ①成人。②徳のある人。③仏・菩薩。
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実事
 実際の事柄。
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真要
 真実にして肝要なこと。
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二乗は証を取る
 声聞・縁覚の二乗は証果を得る。
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大品
 般若経の漢訳の一つで、中国・後秦の鳩摩羅什訳。27巻。天台教学における五時のうち般若時の代表的な経典。
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教勅
 教え、導くこと。
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衆物を領知し
 多くの財産を所有者に代わって管理すること。
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一飡
 一回の食事。その代金。
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悕取
 自分から求めること。
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 第三時の方等部では大乗と小乗を対比して説き、小乗に執する二乗を弾訶したが、この第四時では般若部の経々を説いて、大乗菩薩を目指す般若を明かす。
 この般若においては、諸法は皆、空であり、一切法はすべて大乗であるとの“法開会”がなされる。時には二乗も仏に代わって、大乗経を演説し、発心したばかりの菩薩を導くこともある。
 このように、大小二教が融通して、この二教を隔たったものと見る偏見は除かれるので、図示の段に「淘汰と名く」とあるように、第四時・般若部を「淘汰」という。淘汰とは洗い清めることで、ここでは、大小の法の差別や妄執を空の智慧の水によって洗い清められるという意味である。このように法自体における差別が除かれることを“法開会”という。
 さて、本文ではまず「此の大般若経は唐の玄奘三蔵の所訳是れ新訳なり」とあって、般若部の経典群を代表する大般若経についての説明から始まる。大般若経は大般若波羅蜜多経の略で、中国唐代の玄奘の漢訳によるもので、それ以前に漢訳された旧訳に対して新訳という。
 この玄奘訳の大般若経は「此の経は一部六百巻二百六十五品・六十億四十万字・一万六百三十八紙なり」とあるように膨大なものである。これだけの経典になったのは、大般若経が般若と名のつく諸経典を集めて編集しなおしたからである。
 次に「此の般若経は方等の後・法華の前・四処十六会の中に於て後三教の機の為に広く諸部の般若を説く」とあるのは、玄奘訳の大般若経だけを指すのではなく、釈尊によって般若時に説かれた経を総括して「此の般若経」と呼ばれている。
 つまり、般若部は第三時・方等部の後・第五時の法華経の前、すなわち、第四時に、通教・別教・円教の「後三教」を受け入れることのできる機根のために、広くさまざまな部類の般若の教えを説いたということである。
 図示のところに「権大乗」とあるように、あくまで、衆生教化の方便として権に説かれた大乗であることはいうもでもない。
 その般若時に説かれた種々の題名を次に「所謂光讃般若経・文殊問般若経・金剛般若経・能断金剛般若経・大品般若経・小品般若経・放光般若経・天王問般若経・大般若経等」と挙げられている。この最後の「大般若経」は玄奘が編集したそれを指しておられる。そして般若時経典の結経が仁王般若経であることを「仁王般若経を以て結経と為す」と記されている。仁王般若経は正法が滅して思想が乱れる時、七難が起きることを示して、仏滅後の誡めを説いている点で、結経とされるのである。
 なお、この般若部の諸経が説かれた場所が四か所、会座の数が十六にのぼったという点について、具体的に述べると、
    (1)王舎城の鷲峯山(第一会~第六会・第十五会)
    (2)舎衛国の給孤独園(第七会~第九会・第十一会~第十四会)
    (3)他化自在天宮(第十会)
    (4)王舎城竹林精舎の白鷺池(第十六会)
 となる。
 般若部の説法期間については「十四年の説なり 三井寺の義 三十年の説 山門の義」と記されている。
 先に、方等部の説法期間について「16年」とした三井寺の説と「不定」とした延暦寺の説があることが示されたが、それがここで関連している。
 釈尊の一代の説法期間・50年のうち、後に触れる第五時、法華涅槃部が釈尊の入滅前の8年間なので、それは図示の注記にも「已上四十二年なり」とあるように、已上四十二年なら爾前42年間となる。
 そのうち、華厳部が21日という短時日であり、阿含部は12年間と決まっているので、年数でいえば残りの30年間で方等部と般若時を説いたことになる。
 従って、方等部が16年ならば般若部は14年とならざるを得ないし(三井寺説)般若時を30年とするなら、方等部はその30年の中で折に触れて説かれた説時不定(延暦寺説)となるのである。
 さらに、般若部が説かれた説処については「鷲峯山・白鷺池等の四処」で「同居土」であったことを示され、あと二つは前述したように舎衛国の給孤独園と他化自在天宮である。
 では、この般若時の説法がどのような教化上の意図をもって行われたかについては「唯だ化儀は漸教の後」と述べられている。
 「漸教」とは、すでに述べたように次第次第に導くことで、小乗の阿含経説法から始まり大乗の初歩である方等時を唯だ化儀は漸教の後経て、この般若時では仕上げの段階に入っているのである。「漸教の後」とは、「漸教を説いた後」ではなく「漸教のなかの最後」の意である。
 さらに、般若時に説かれた法理の特徴については「化法は通別円なり」と記されている。蔵教を含んでいた方等経よりも一歩高く、故に五味の配分では「熟蘇味」とあって、性蘇をさらに精製して得られた熟蘇の味に当たるとされている。
 次に「此の般若経の時も二乗の念処道品は皆是れ摩訶衍と説いて亦身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教せしむ」とある。
 般若部には蔵教を除いて通・別・円三教が説かれている。そこでは、二乗の修行する四念処や三十七道品といった行法もすべて大乗であるとして、より高い次元から包摂される。そのことを前述のとおり“法の開会”というのである。「一切皆空」と悟る般若においては、二乗の執着した小乗の法や修行法を大乗の高い次元の中に包まれることが法の開会なのである。
 このように、般若においての法の開会がなされたことから、次の「身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教」が可能となる。転教とは詳しくは受勅転教といい、如来の勅を受けて教えを転ずるということで、般若部では舎利弗や須菩提のような声聞が如来の命を受けて他方の菩薩たちに説法している。
 次いで、本文では法華玄義巻一上の文が引用されている。ここでは般若部の教えを太陽にたとえている。すなわち、太陽が平地を照らした時、大人、すなわちある人は、光の恵みを受けることができるが、赤子はかえって視力を失い、夜遊びの者は隠れひそみ、労働する者は起き上がって活動するように、般若部の教えは同じであっても聞く側の機根によって、反応はさまざまであることをたとえている。
 法華玄義巻一上では法華経信解品第四の文を引用している。その内容は、仏はただ菩薩のためには「事実」や「真要」すなわち、成道の道を説いたにもかかわらず、二乗には説かなかったことを声聞たちが述べているところである。
 この経文を受けて、玄義では仏は声聞・縁覚・菩薩の三種の衆生に対して平等に同じ般若の教えを説き、三種の衆生が一緒に修学したけれども、二乗が自ら証果を得てしまった。しかし、これは仏が意図したところではないと解釈し、詳しくは大品般若経にあるとおるであるとしている。つまり、大般若経で「身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教せしむ」とあるように、仏の意図は二乗も菩薩も同次元に立たせるということであった。
 この点については法華経信解品第四でも須菩提の言葉として「我等又、如来の智慧に因って、諸の菩薩の為に、開示演説せしかども、而も自ら此に於いて、志願有ること無し」と述べられている。なお、次の譬にも示されているが、二乗自身はまだ大乗菩薩としての志願を有していなかったのが般若部の段階である。
 次いで、般若部の教えが長者窮子の譬では窮子が長者の方便によって長らく雇い人として雑用をしながら賃金をもらっていたが、こうして久しく奉公しているうちに、次第に取り立てられ、ついには執事の立場になり、長者の財産全部や家業のすべてを熟知し、長者に代わって差配するようになった。しかし、まだ窮子は自分が雇い人であるとの考えはなくなっていなかったため「一飡」すなわち、一回の食事すら願い取ることはなかったという段階に当たる。
 最後に、図示の注記では般若部に基づく宗派と祖師たちの名が列挙されている。まず、「百論」「中論」「十二門論」の三つの論に基づいて、中国で成立した宗派が「三論宗」であり、その祖師たちの名として「嘉祥大師」「吉蔵大師」とある。いかにも二人の人物が列挙されたように見えるが、これは同一人物である。

0637:08~0638:08 第五章 四十余年未顕真実なるを明かすtop
08   仏自ら四十余年の諸経を破し給う事、 無量義経説法品に云く「我先に道場菩提樹下に端座すること六年にして
09 阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり 仏眼を以て一切の諸法を観るに宣説すべからず 所以は如何諸の衆生の
10 性欲不同なることを知れり 性欲不同なれば種種に法を説き種種に法を説くことは方便力を以てす 四十余年には未
11 だ真実を顕わさず」云云、 又云く「文辞は一なりと雖も義は各異なり」云云、 伝教大師の無量義経の注釈に云く
12 「性欲不同なれば種種に法を説くとは 是れ能被の教を挙ぐるなり 釈迦一代四十余年の所説の教略して四教及び八
13 教あり所謂樹王の華厳・鹿苑の阿含.坊中の方等・鷲峯等の般若・演説一乗.大小の菩薩の歴劫修行・小乗の三蔵教・
14 大乗の通教・大乗の別教・大乗の円教.頓教・漸教・不定教.秘密教是くの如き等の前四味各各不同なり是の故に名け
15 て種種の説法と為す」云云、 又云く「但随他の五種性等門外の方便・差別の権教・帯権の一乗を説いて未だ随自一
16 仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗を顕わさず・是の故に説いて方便力を以て四十余年・未だ真実を顕さ
17 ずと言う」と云云、 無量義経に云く「若し衆生有つて是の経を聞くことを得ば 則ち為れ大利なり所以は如何若し
18 能く修行すれば 必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり、 其れ衆生有つて聞くことを得ざる者は当に知るべ
0638
01 し是等は為れ大利を失えるなり、 無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども 終に無上菩提を成ずることを得ず所以
02 は如何菩提の大直道を知らざる故に 険逕を行くに留難多きが故に」云云、 注釈に云く「疾く無上菩提を成ずるこ
03 とを得ずとは未だ直道一乗の海路を解せず 未だ純円六度の固船に乗らず 未だ実相方便の順風を得ず是の故に横道
04 の三乗嶮路の歩行留難多き処・懃苦妄想夢裏の大河なり 是の故に説いて 疾く無上菩提を成ずることを得ずと言う
05 なり」云云、 秀句の下に云く「法華経を讃むと雖も還つて法華の心を死す」云云、 無量義経に云く「次に方等十
06 二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」云云、伝教大師秀句の下巻に云く「謹しみ
07 て無量義経を案ずるに云く 方等十二部経とは法相宗所依の経なり 摩訶般若とは三論宗の所依の経なり華厳海空と
08 は即ち華厳宗の所依の経なり但歴劫修行を説いて未だ大直道を知らず」云云、
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 仏が自ら四十余年の方便権経を破折されていることは、次の経文に明らかである。無量義経説法品第二に「私は前に道場の菩提樹下に威儀を整え座して六年を経て、無上の正しく平等な悟りを成就することを得た。仏の眼をもって一切の諸法を観るに宣べ説くべからず。理由は何か、諸の衆生の性質や欲情が同じでないことを知ったからである。性質や欲情が同じでないので種々に法を説いた。種々に法を説くことは巧みな手段の力をもってなしたのであって、四十余年の間はまだ真実を説き顕していない」とある。また「文の言葉は一つであるけれども、意味はおのおの各異なっている」とある。
 伝教大師の無量義経の注釈に「衆生の性質や欲情が同じでないので種々に法を説くとは、衆生の機根にかなった教えを挙げるのである。 釈尊一代の四十余年間に説いた教えを略して、蔵・通・別・円の化法の四教およびそれらに頓・漸・秘密・不定の化儀の四教を加えて八教がある。いわゆる菩提樹下で華厳教、鹿野苑で阿含、大宝坊の中で方等経、霊鷲山などで般若経、そして一乗法を説き演べ、また大乗・小乗の菩薩の長い劫を経る修行、小乗の三蔵教、大乗の通教、大乗の別教、大乗の円教、また頓教・漸教・不定教・秘密教というように、爾前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の方便権教はおのおの同じではない。この故に種々の説法とすると名付ける」とある。また「衆生の機根に随って説かれる五種の性分などなど三界六道の門の外に出るための方便、三乗の教えに差別のある権教、権を帯びた一乗法を説いて、いまだ自らの悟りに随って説かれる一仏乗など、火宅から逃れた露地の真実の安穏、平等に説かれる即身成仏の道、権教を捨てる一乗法を説き顕していない。この故に『説くこと方便力をもってす。四十余年間にはいまだ真実を顕さない』というのである」とある。
 無量義経十功徳品第三に「もし衆生がこの経を聞くことができれば、これは偉い大な利益である。理由は何か。もしよく修行すれば、必ず速く無上の悟りを得ることができるからである。衆生の中で聞くことができない者は、まさにこれらは偉大な利益を失うのであるとしりなさい。無量無辺不可思議阿僧祇という長遠な劫を過ぎたとしても、ついにぐ無上の悟りを得ることができない。理由は何か。悟りの大道を知らない故に険しい道を行くときに障害が多い故である」とある。
 注無量義経に「遠く無上の悟りを得ることができないとは、いまだ即身成仏の道である一乗の海路を解していないということである。いまだ純粋円満な六種の修行の頑丈な船に乗っていないからである。いまだ真実の相と巧みな手段という順風を得ていないからである。この故に声聞・縁覚・菩薩の三乗が横道に逸れて進んでおり、険しくて歩行するには障害が多い所であり、労苦や誤った想念と実在しない夢の中の大河である。この故に無量義経十功徳品に、速く無上の悟りを得ることができないと説いているのであえる」とある。
 法華秀句巻下に「法華経を讃めているけれども、かえって法華経の心を殺している」とある。無量義経説法品第二に「次に方等部の十二部経・摩訶般若波羅蜜経・華厳経を説いて、菩薩の長遠な劫を経る修行を宣べ説いたけれども」とある。
 伝教大師は法華秀句巻下に「謹しんで無量義経の文を思索するに、方等部の十二部経とは法相宗の依りどころとする経である。摩訶般若波羅蜜経とは三論宗の依りどころとする経である。華厳経とは華厳宗の依りどころとする経である。これらは長遠な劫を経る修行を説いているけれども、いまだ偉大な即身成仏の道を知らないのである」とある。

四十余年の諸経
 釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。
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無量義経説法品
 中国・曇摩伽陀耶舎訳、無量義経の説法品第2のこと。無量義経の正宗分。
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道場菩提樹下
 釈尊が悟りを開いたところ。道場は菩提を得る場所。
―――
端座
 ①威儀を整えて正座すること。②禅定のこと。
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阿耨多羅三藐三菩提
 梵語anuttara samyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。
―――
仏眼
 仏があらゆる人々を救済するために備える五眼のひとつ。仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」とある。
―――
一切の諸法
 あらゆる存在・現象のこと。諸法は生住異滅のはてしない転変を繰り返す事物・現象のこと。万法。
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宣説
 法を説くこと。法を弘めること。
―――
性欲不同
 衆生の性質・欲望が同一でないこと。
―――
種種に法を説き
 衆生の機根に合わせてさまざまな法を説くこと。
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方便力
 仏・菩薩が衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働き。
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伝教大師
 767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
―――
無量義経の注釈
 伝教大師の註無量義経のこと。
―――
能被の教
 衆生がよく受け入れる経。衆生の機根にかなった教。
―――
四教及び八教
 ①四教は化法の四教のこと。天台大師が釈尊の一代聖教を教判の内容によって四種に分類したもの。(1)蔵教・小乗の教。(2)通教・大乗、小乗に通ずる教。(3)別教・大乗のみを説いた教。(4)円教すべてを包摂する円満な教・法華経をさす。②八教は釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。
―――
樹王の華厳
 釈尊一代50年の説法のうち、菩提樹下で説いた華厳経のこと。樹王は王の木の意味で菩提樹。釈尊がインドに生誕して30歳のとき、寂滅道場・菩提樹下で、始めて成道し、華厳経を説いた。
―――
鹿苑の阿含
 鹿野苑で説かれた阿含経のこと。
―――
坊中の方等
 欲界と色界の中間にある大宝坊などで説かれた方等部の経々のこと。
―――
鷲峯等の般若
 霊鷲山や白鷲池などで説かれた方等部の経々。
―――
演説一乗
 一乗法を演説すること。演説は仏・菩薩が衆生を済度教化するための教えを説き演べること。説法・唱導と同意。一乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意。衆生を成仏させることのできる教法。
―――
大小の菩薩の歴劫修行
 大乗教と小乗教における菩薩が長遠な期間を経て修行すること。歴劫修行は爾前の諸経において、菩薩が幾多の功を歴て修行することをいう。初発心から得道まで、小乗の菩薩は三阿僧祇劫、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多俱低劫など長時の修行を要すると説かれる。これらは、末だ菩薩の直道を説いていないことを意味する。
―――
小乗の三蔵教
 小乗教である阿含経のこと。
―――
大乗の通教
 権大乗としての通教。方等部の経ならびに般若部の経にも通教がある。
―――
大乗の別教
 権大乗としての別教。華厳経および方等部の経。般若部の経にも爾前の別教がある。
―――
大乗の円教
 権大乗としての円教。華厳経および方等部の経、般若部の経にも、いわゆる爾前の円教はある。
―――
前四味
 五味のうち最後の醍醐味を除く四味のこと。乳味・酪味・生酥味・熟酥味をいう。
―――
門外の方便
 三界六道の文の外に出るための方便として説いた三乗教。
―――
差別の権教
 権教は声聞・縁覚・菩薩などの教えに差別があること。
―――
帯権の一乗
 釈尊の教説中、爾前の諸経、とくに般若部で説かれた円教のこと。一切衆生皆成仏道を説く一乗の法は法華経のみであって、40余年の方便権教には衆生の成仏を名目としては説かれても、二乗は差別せず、五性格別など権を帯びて説くゆえに、いまだ成仏の文のみあって実義はないということ。
―――
随自一仏乗
 仏の随自意の教えであり、唯一仏乗を説く教え、法華経をさす。
―――
平等の直道
 仏が一切衆生を平等に救済しようとして説いた即身成仏の道のこと。法華経をさす。
―――
捨権の一乗
 権教を帯びない純一無雑な円教・法華経のこと。
―――
衆生
 梵語サットヴァ(sattva)の音写。薩埵と訳す。この世に存在するもの、生けるもの。主として人間をさす場合が多いが、感覚をもつ生き物すべてをいう。
―――
大利
 大きな利益、大功徳。
―――
所以
 理由・根拠。
―――
無上菩提
 最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
―――
無量無辺不可思議阿僧祇劫
 果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
―――
菩提の大直道
 悟りの大きい真っすぐな道。即身成仏の方途。
―――
険逕
 険しい道、険悪な道。
―――
留難
 留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。
―――
直道一乗の海路
 即身成仏できる一仏乗の大船がいく道。
―――
純円六度の固船
 一切衆生を成仏の境地に至らせる堅固な船、法華経のこと。六度は六種の修行で六波羅蜜をさす。檀波羅蜜・尸羅波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禅波羅蜜・般若波羅蜜。
―――
実相方便の順風
 真実のすがたと巧みな手段が共に説かれている法華経の教えを順風にたとえている。実相は真実、ありのままの相のこと。
―――
横道の三乗
 声聞・縁覚・菩薩の法が本道を外れて成仏に向かわない横道であること。
―――
嶮路の歩行留難多き処
 険しい道で、歩行に障害が多い道。無量義経十功徳品な「嶮径を行くに留難多きが故に」とある。
―――
懃苦妄想夢裏の大河
 労苦や誤った想念に覆われた夢の中のことを大河にたとえている。
―――
秀句
 法華秀句三巻のこと。伝教大師最澄の著。天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、十の観点から論証している。
―――
法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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法華の心
 法華経の真意。肝心。
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方等十二部経
 一切の大乗教のこと。方等とは方広平等な大乗経典の意。仏教の経文の形式上の類別を12部にわかつゆえに、十二部経という。
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摩訶般若
 摩訶般若波羅蜜経のこと。「大品般若経」ともいう。27巻からなり、羅什の訳。
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華厳海空
 華厳経の法門。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るごとく、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの三昧をえると、一切衆生の心行を己心に映すことができるようになるとされる。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす言である。ここでは華厳経そのものを指した語。
―――
歴劫修行
 爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。
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法相宗所依の経
 方等十二部経。
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三論宗の所依の経
 摩訶般若経。
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華厳宗の所依の経
 華厳海空(華厳経)。
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大直道
 無上の菩提・最高の悟り・成仏の境地のこと。
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 この段では初めに「仏自ら四十余年の諸経を破し給う事」とあるように、釈尊が第四時までの40余年の諸経には末だ真実を顕さず、それらは方便として説いた権教であると、釈迦自身が破折していることを、文証をもって明らかにされるところである。
 その文証として無量義経の経文と、これを注釈した伝教大師の註無量義経や法華宗句、天台大師の法華玄義の文が示されている。
 まず、無量義経説法品第二の経文は、爾前40余年の経々には真実を顕していないとし、なぜ顕さなかったのかの理由を明確にしている。
 すなわち釈尊は、菩提樹の下で悟りを成就した後、仏眼をもって一切諸法を観察した結果、もろもろの衆生の性質や欲望が同じでないことから悟りの内容を直ちに説くことをせず、巧みな方便の力をもって衆生の性質や欲望に応じた種種の教法を説いてきたのが爾前40余年の経々であると説いている。「文辞は一なりと雖も」は無量義経にあり、垢穢を洗う水の働きは一つであっても井戸・池・河川・大海と異なっているように、衆生救済の仏の方便の言説は一つであっても、それを受け止める衆生の機根によってさまざまな異なった義を生ずるというのである。
 上の経文の「種種に法を説く」について、どのように種々に説かれたかを、伝教大師は、釈尊が五時の段階を踏んで次第に法を説き進めたこと。蔵・通・別・円の化法の四教、頓・漸・秘密・不定の化儀の四教をもって化導したのが、それであると示している。
 もう一つの伝教大師の文は、なぜ40余年には方便の教えで真実を顕していないと釈尊が言ったのかということについて、40余年の説法は衆生の機根に合わせた「随他意」の法であり、「一仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗」という「随自意」の法門は顕していないからであると説明している。
 この文では、
   随他の五種性等――随自一仏乗等
   門外の方便――――露地の真実
   差別の権教――――平等の直道
   帯権の一乗――――捨権の一乗
 という対比が示されている。
 ここまでは爾前経は「種種説法・未顕真実」なることを示す無量義経の文とそれに対する伝教大師の釈が挙げられたが、次の無量義経の文は法華経にこそ成仏が明かされるのであって、法華経を聞き信じない者は、いかに長遠の間修行しても成仏はできず、嶮路に迷うことを述べたものである。
 この経文を釈した伝教大師の「註釈」は法華経の場合「直道一乗の海路」「純円六度の固船」「実相方便の順風」が成仏を可能にしてくれるのに対し、爾前経の場合は「横道の三乗」「嶮路の歩行」「留難多き処」「懃苦妄想夢裏の大河」に譬えられるとしている。
 法華宗句の「法華経を讃むと雖も還つて法華の心を死す」は法華経を言葉では讃嘆しても、法華経こそ唯一の成仏の経であると信じ行じなければ無益であり、法華経の心を死なせてしまう所業になると戒めたものである。
 もう一つ、無量義経から「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」の文を引かれ、それについて法華秀句の釈が挙げられている。
 これは、法相宗も三論宗も華厳宗も歴劫修行の法であって、成仏の大直道ではないことを明らかにされるためである。

0638:08~0639:14 第六章 第五時のうち法華経を明かすtop
08                                     天台大師玄義の五に云く「成道より
09 以来四十余年未だ真実を顕わさず 法華に始めて真実を顕わす」相伝に云く仏の年七十二歳にして 法華経を説くと
10 云云、慧心僧都の一乗要決の下に云く「仏既に説いて言く 法華真実なり前は未だ真実を顕わさず 何ぞ強ちに仏教
11 に背いて法華の怨嫉と為るや」云云、 記の八に云く「略して経題を挙げて玄に一部を収む故に仏欲以此妙法等と云
12 うなり」釈籤一に云く「次に経題を釈す初めには妙法の両字は通じて本迹を詮す蓮華の両字は通じて本迹を譬う」
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 天台大師の法華玄義巻五に「釈尊は成道して以来、四十余年間、いまだ真実を説き顕さず、法華経に始めて真実を説き顕した」とある。ある相伝に「仏の年齢が七十二歳の時に法華経を説いた」とある。慧心僧都の一乗要決巻下には「仏は既に『法華経が真実であり、それ以前はいまだ真実を説き顕していない』と説いているのに、どうして強いて仏の教えに背いて法華経に対して怨敵となるのか」とある。法華文句記巻八に「略して経の題目を挙げて、この玄題に一部を収める。故に仏は『この妙法を以て欲する』と言ったのである」とある。法華玄義釈籤巻一に「次に経の題目を解釈する。初めには妙法の両字を通じて本と迹を説き明かす。蓮華の両字は通じて本と迹を譬える」とある。
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13      ┌説処は霊山虚空の二処三会・実報土の説
14      ├実大乗
15      ├八箇年の説
16      ├又開会の妙典とも純円一実の説とも一円機の説とも云う                    ・
17   法華経┼醍醐味
18      ├円教
01      ├頓・不定と秘密無し   0639
02      ├結経は普賢経
03      └仏立宗──法華宗──天台宗
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      ┌説いた場所は霊鷲山と虚空の二つの場所で合計三回の説法が行われた。実報無障礙土の説である。
      ├実大乗教である。
      ├八年間の説である。
      ├又開会の妙典とも、純円一実の説とも、一円機の説ともいう。
   法華経┼醍醐味にあたる。
      ├円教である。
      ├頓教である。不定教と秘密教はない。
      ├結経は普賢経である。
      └この経を依経とするのは、仏立宗──法華宗──天台宗である。
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04          ┌一に霊山会序品より法師品に至る十品
05   二処三会の儀式┼二に虚空会 宝塔品より神力品に至る十一品
06          └三に霊山会 嘱累品より勧発品に至る七品
07        ┌序品より十四品は迹門なり 開権顕実と名く
08   本迹の両門┴涌出品より十四品は本門なり 開近顕遠と名く                       ・
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          ┌一に霊山会は序品第一から法師品第十に至る十品。
   二処三会の儀式┼二に虚空会は宝塔品第十一から神力品第二十一に至る十一品。
          └三に霊山会は嘱累品第二十二から勧発品第二十八に至る七品。
        ┌序品第一から十四品は迹門である。開権顕実と名付ける。
   本迹の両門┴涌出品第十五から十四品は本門である。開近顕遠と名付ける。
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09  此の法華経は第五時の教なり、無量義経を開経と為し観普賢経を結経と為す、化儀は会漸帰頓・会三帰一・化法は
10 純円なり、 般若の後雙林の前純ら一の円機に対して真実を説くなり、 日光普ねく照すに土圭の測影縮ならず盈な
11 らざるが如し低頭挙手・皆仏道を成ず汝は実に我が子・我は実に汝が父唯だ如来の滅後を以て之を滅度す、 此の第
12 五時の教は是れ日中にして四時に非ず 是醍醐にして四味に非ず是れ定にして不定に非ず 是れ顕露にして秘密に非
13 ず三乗・五乗・七方便・九法界を会して一仏乗に入らしむ所以に迹門には二乗初住の位に叶て無生忍を得・成仏の記
14 を受く 八歳の竜女は男子に変成して即身に無垢の成道を唱う、 本門には二世の弟子増道損生の益を得
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 この法華経は第五時の教である。無量義経を開経とし、観普賢菩薩行法経を結経とする。化儀は漸教を開して頓教に帰すこと。また三乗を会して一乗に帰すことであり、化法は純一の円教である。般若経を説いた後、沙羅双樹で涅槃経を説き入滅する前、ひたすら純一の円教の機根に対して真実の教えを説くのである。日光が普く照らすときは、時刻を測る日時計の影は縮まないし、伸びないようなものである。頭を低くし手を挙げるという軽い敬礼もすべて仏道を成就する。あなたは実に我が子であり、私は実にあなたの父である。ただ仏が滅度するのは滅後の衆生に渇仰の心を起こさせるためである。
 この第五時の教は白昼であって華厳・阿含・方等・般若の是四時ではない。これは醍醐味であって乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味ではない。これは定教であって不定教ではない。これは顕露教であって秘密教ではない。声聞・縁覚・菩薩の三乗、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九法界を開会して一仏乗に入らせる。故に、法華経迹門では声聞・縁覚の二乗は初住の位に入って無生無滅の悟りを得て、成仏の記別を受けた。八歳の竜女は男子と変じて即身に無垢世界の成道を唱えた。法華経本門では現在および未来の二世の弟子は仏道の智慧を増し生死の苦しみを少なくする利益を得た。

慧心僧都
 (0942~1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
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一乗要決
 比叡山横川の恵心院の僧都源信が寛弘3年(1006)に著した書。3巻。法相宗において人の資質や能力に応じて声聞・縁覚・菩薩に固有の3種の悟りの道があるとする法相三乗家の五性格別を破折し、一乗は真実の理、五性は方便の説であると説いたもの。
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経題
 一経のタイトルのこと。題目・題号・主題。
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釈籤
 妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。「妙法蓮華経玄義釈籤」の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に、学徒の籤問に付箋をつけて意味を質すこと)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。注釈は極めて詳細で、法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
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妙法の両字は通じて本迹を詮す
 妙法蓮華経の「妙法」の二字は法華経全体をさすのであり、本迹に亘るということ。
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蓮華の両字は通じて本迹を譬う
 妙法蓮華経の「蓮華」の二字が本迹に亘るということ。
―――
霊山虚空の二処三会
 法華経が説かれた二つの場所と三つの会座。①第一会座・霊鷲山・序品1~見宝塔品第11の前半。②第二会座・虚空会・見宝塔品第11の後半~嘱累品第22。第三会座・霊鷲山・薬王菩薩本事品第23~普賢菩薩勧発品第28。
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実報土
 詳しくは実報無障礙土という。住む人の境地を反映して4種類の国土(四土)が立て分けられるが、そのうち、三界六道を離れた国土で、高位の菩薩(別教の初地以上、円教の初住以上)が住むとされる。
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実大乗
 権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
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八箇年
 釈尊50年の説法中、最後の8ヵ年。法華経が説かれた期間。
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開会の妙典
 真実を開き顕して一切の人を入らしめる経典、絶待妙の法義を聞き説いた経典のこと。開会は開顕会融の意。教法のすべてが一法に帰着するとする法開会と、万人の平等の成道を説いた人開会がある。
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純円一実
 法華経は爾前の円を帯びていない純円なる円教であるということ。
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一円機の説
 円教の機根の衆生にのみ説いた教え。一円機は法華経の円融円満の教えを受持できる衆生の機根のこと。なお、すべての衆生が円機に包摂されていることを円機純一という。
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醍醐味
 釈尊の教えの高低浅深を牛乳を精製する五つの過程の味に譬えて分類した五味のうち、最高に位置する。
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円教
 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
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 天台の八教大意に説かれる化儀の四教のひとつ。頓はすみやか・直ちにの意。すなわち頓教は誘因の手段を用いなで、ただちに大乗を説いた教え。
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不定と秘密無し
 法華経は天台教判の化儀の四教では頓きょうであり、不定教でも秘密教でもないということ。
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普賢経
 観音普賢菩薩行法経のこと。中国・南北朝時代の宋の曇無蜜多訳。1巻。普賢経は法華経の教えをふまえた観法の実践を説くので、法華経の直後にその内容を承けて締めくくる経典(結経)と位置づけられた。無量義経(開経)と法華経(本経)と普賢経(結経)を合わせて法華三部経と呼ばれる。
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仏立宗
 仏の立てた宗。法華宗のこと。
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法華宗
 法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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霊山会
 霊山で行われた法華経説法の集い。また、霊山浄土のこと。
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序品より法師品に至る十品
 釈尊が法華経を説いたとされる、第一会、前霊山会。詳しくは見宝塔品第11の前半までを含む。
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虚空会
 法華経の説法の場面の一つ。二処三会のうち第2の説法にあたる。この説法は、空中(虚空)に浮かんだ宝塔の中に、釈尊が多宝如来と並んで座って行われたことから、虚空会と呼ばれる。
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宝塔品より神力品に至る十一品
 釈尊が法華経を説いたとされる第二会。詳しくは宝塔品第11の前半を除く。
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嘱累品より勧発品に至る七品
 釈尊が法華経をといたとされる第三会、後霊山会。
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本迹の両門
 法華経の迹門と本門のこと。本門は仏の本地を顕わした法門。迹門は垂迹仏の説いた法門。
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序品第一から十四品は迹門
 法華経迹門が説かれた範囲
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開権顕実
 「権を開いて実を顕す」と読む。権は方便、実は真実の意。法華経以前の諸経の教え(三乗)はすべて方便にすぎず、法華経こそ真実の教えであることを表したもの。教理に関していい、実践上は開三顕一 という。「権」は権教である40余年の爾前経、「実」は法華経をさす。
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涌出品第十五から十四品は本門
 法華経本門が説かれた範囲。
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開近顕遠
 「近を開いて遠を顕す」と読む。涌出品後半・寿量品・分別功徳品前半で説かれる法門。「近」は近成(始成正覚)、「遠」は遠寿(久遠実成)のここと。釈尊が始成正覚を開いて五百塵点劫の過去からの仏であったことを説き明かしたことをいう。
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第五時の教
 天台大師が立てた五時の教判のうち、法華経は第五時の経であるということ。
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開経
 一つの経典の序説となる経のこと。法華経の開経は無量義経である。
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観普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
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会漸帰頓
 漸教を開会して頓教に帰着させること。中国・南北朝時代の華厳僧である慧観の五時教判の中にある。一切諸経の内容を判釈し、漸教は小乗から大乗へ順序立てて説く教法を指し、頓教は直ちに大乗を説く教法をいう。
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会三帰一
 開三顕一のこと。法華経迹門で釈尊が、法華経以前の諸経で説かれた声聞・縁覚・菩薩を目指す三乗の修行は方便の教えであり、仏の真意は万人を成仏に導く一仏乗の法華経であると明かしたこと。
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純円
 純粋に円教のみが説かれた経典のことで、法華経をさす。
―――
般若の後
 法華経は般若部の経々が説かれた後に説き明かされている。
―――
雙林の前
 法華経は涅槃経を説く前に説き明かされている。雙林は沙羅双樹のことで、釈尊はここで涅槃経を説いて入滅している。
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純ら一の円機
 純一の円教の機根だけの衆生をいう。純一は混じりけがなく、ただ一つであること。円機は円教の機根で、円融円満な教えである法華経を受持できる衆生の機根のこと。
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真実
 絶対究極の不変の真理。
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日光普ねく照す
 この地上全体を照らすこと。法華経の功徳は平等であるとの意。
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土圭の測影縮ならず盈ならざるが如し
 緯度から生じる影の長さの違いはあるものの、正午は一日の中で最も短い時であり、それ以上縮まることもない、との意味と解される「盈縮」とは伸びたり縮んだりすることはないように、法華経以上の法はないことを示している。
―――
低頭挙手・皆仏道を成ず
 頭を低くし、手を挙げるという軽い敬礼であっても、仏の功徳は絶大であるということ。
―――
汝は実に我が子・我は実に汝が父
 法華経信解品第4には「此れ実に我が子なり、我実に其の父なり。今吾が所有の一切の財物は皆是れ子の有なり」とある。
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唯だ如来の滅後を以て之を滅度す
 法華玄義巻1上には「人をして独り滅度を得ること有らざらしむ、皆如来の滅度を以て之を滅度す」とある。仏は涅槃の相を現じて、衆生を救うとの意。
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日中にして四時に非ず
 四時の教えに非ずは法華経は第五時の経であるということ。すなわち日中の正午のたいようなもので、あらゆるものを照らし出すことを意味する。
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醍醐にして四味に非ず
 法華経は五味のなかの最高峰・醍醐味であって、前四味である乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味とは異なるということ。
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定にして不定に非ず
法華経は一切衆生を成仏させるという得益は定まっており、不定教の説法を聞く者がおのおのの能力に応じ理解し、得益が一定ではない諸経とは異なるということ。
―――
顕露にして秘密に非ず
法華経は顕露教、一切衆生が成仏できることを明らかにした教で、衆生の理解力が異なっている場合に説かれる秘密教とは異なるということ。
―――
三乗
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のこと。それぞれ声聞・縁覚・菩薩の覚りを得るための教え、あるいはそれを実践する修行者のこと。さらに得られた声聞・縁覚・菩薩の境地も意味する。
―――
五乗
仏教を理解し受容する衆生の能力の違いに応じて説かれる人・天・声聞・縁覚・菩薩の教え。
―――
七方便
 蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の菩薩をいう。
―――
九法界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩界のこと。
―――
一仏乗
 衆生を成仏の境涯へと到達させることのできる唯一の教えである法華経のこと。法華経方便品第2には「十方の仏土の中には|唯一乗の法のみ有り|二無く亦三無し|仏の方便の説を除く」(法華経129㌻)とある。
―――
迹門
 垂迹の仏の説いた法門の意。法華経1部8巻28品のうち、序品第1より安楽行品第14までの前半14品をいう。この14品は、釈尊が久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門の肝心は方便品第2にあり、諸法実相・十如是を明かし、二乗作仏を説いて開三顕一し、また悪人成仏・女人成仏を説いて万人成仏の道を明かした。
―――
二乗初住の位
 法華経迹門で二乗が開三顕一の法門によって初住位にのぼったことをいう。
―――」
無生忍
 無生法忍のこと。一切諸法は無生無滅であるという心理を悟って、心が安住する位。中道の妙理の一部分を証得する位とされる。不退の境界に入った菩薩、二乗をいう。
―――
成仏の記を受く
 二乗が未来成仏の記別を受けたこと。記別とは仏が弟子の未来成仏を明らかにすること。記は仏が未来世の弟子の仏果を予言して成仏を記すこと。別は具体的に弟子の未来世の成仏の時、国土・仏名などを分別することをいう。
―――
竜女
 海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で8歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第12には、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我は大乗の教を闡いて|苦の衆生を度脱せん」(法華経407㌻)と述べ、釈尊に宝珠を奉ってその身がたちまちに成仏する姿を示したと説かれている。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。
―――
男子に変成して
 竜女が歴劫修行をしないで即身成仏したことを表している。「男子に変成して」とはいわゆる辺成男子で、女身の竜女が男子の姿に変じて成仏したことを示す。当時一般には仏は男子のみがなるものとおもわれていたから、これに準じた表現。
―――
即身に無垢の成道を唱う
 即身成仏を遂げた竜女が無垢世界に往って妙法を演説したことから、このようにゆう。
―――
本門
 ①久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
―――
二世の弟子
 現在と未来の弟子。弟子は師に従って教えを受け、かつ師の意志を受けてそれを実践する者。
―――」
増道損生の益を得
 法華経本門で中道の智慧を増して変易の生死を滅する利益を得ること。増道損生は「道を増し生を損ず」と読む。増道は初住位から妙覚位まで四十二位の間に分々に中道の智慧を増すこと。損生の「生」は変易の生死を指し、三界を出離した菩薩が中道の智慧によって生死の苦しみを滅することをいう。
―――
三乗
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のこと。それぞれ声聞・縁覚・菩薩の覚りを得るための教え、あるいはそれを実践する修行者のこと。さらに得られた声聞・縁覚・菩薩の境地も意味する。
―――
五乗
仏教を理解し受容する衆生の能力の違いに応じて説かれる人・天・声聞・縁覚・菩薩の教え。
―――
七方便
 蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の菩薩をいう。
―――
九法界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩界のこと。
―――
一仏乗
 衆生を成仏の境涯へと到達させることのできる唯一の教えである法華経のこと。法華経方便品第2には「十方の仏土の中には|唯一乗の法のみ有り|二無く亦三無し|仏の方便の説を除く」(法華経129㌻)とある。
―――
迹門
 垂迹の仏の説いた法門の意。法華経1部8巻28品のうち、序品第1より安楽行品第14までの前半14品をいう。この14品は、釈尊が久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門の肝心は方便品第2にあり、諸法実相・十如是を明かし、二乗作仏を説いて開三顕一し、また悪人成仏・女人成仏を説いて万人成仏の道を明かした。
―――
二乗初住の位
 法華経迹門で二乗が開三顕一の法門によって初住位にのぼったことをいう。
―――」
無生忍
 無生法忍のこと。一切諸法は無生無滅であるという心理を悟って、心が安住する位。中道の妙理の一部分を証得する位とされる。不退の境界に入った菩薩、二乗をいう。
―――
成仏の記を受く
 二乗が未来成仏の記別を受けたこと。記別とは仏が弟子の未来成仏を明らかにすること。記は仏が未来世の弟子の仏果を予言して成仏を記すこと。別は具体的に弟子の未来世の成仏の時、国土・仏名などを分別することをいう。
―――
竜女
 海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で8歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第12には、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我は大乗の教を闡いて|苦の衆生を度脱せん」(法華経407㌻)と述べ、釈尊に宝珠を奉ってその身がたちまちに成仏する姿を示したと説かれている。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。
―――
男子に変成して
 竜女が歴劫修行をしないで即身成仏したことを表している。「男子に変成して」とはいわゆる辺成男子で、女身の竜女が男子の姿に変じて成仏したことを示す。当時一般には仏は男子のみがなるものとおもわれていたから、これに準じた表現。
―――
即身に無垢の成道を唱う
 即身成仏を遂げた竜女が無垢世界に往って妙法を演説したことから、このようにゆう。
―――
本門
 ①久遠実成という釈尊の本地を明かす教え。迹門に対する語。天台大師智顗は『法華文句』巻で、法華経28品のうち後半の14品、従地涌出品第15から普賢菩薩勧発品第28までを本門としている。②日蓮仏法では、日蓮大聖人御自身が覚知し説き示された、法華経本門寿量品の文底に秘められた肝心の教え、成仏の根源の法を本門とする。これは文上の本門に対して、文底独一本門と呼ばれる。
―――
二世の弟子
 現在と未来の弟子。弟子は師に従って教えを受け、かつ師の意志を受けてそれを実践する者。
―――」
増道損生の益を得
 法華経本門で中道の智慧を増して変易の生死を滅する利益を得ること。増道損生は「道を増し生を損ず」と読む。増道は初住位から妙覚位まで四十二位の間に分々に中道の智慧を増すこと。損生の「生」は変易の生死を指し、三界を出離した菩薩が中道の智慧によって生死の苦しみを滅することをいう。
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 いよいよ第五時の法華経を明かすに当たり、まず、法華経こそ、釈尊自身が「真実を顕す」と宣言して説かれた経であることを無量義経の文、慧心僧都源信の言葉を引用して示されている。「七十二歳にして法華経を説く」という「相伝」が何を指しておられるか、菩提支流の法界性論の趣旨とも言われるが、詳しくは不明である。一乗要決の「法華真実なり」の文は「仏教」すなわち仏自身の教えであることを強調するために引かれたと考えられる。
 さらに「記の八」すなわち妙楽大師の法華文句記と「釈籤」すなわち法華玄義釈籤の文が掲げられている。この二文は「妙法蓮華経」という法華経の題号に法華経のすべてが包含されていることをのべたもので、法華経の題目をもって立てられた日蓮大聖人の正しさを裏付けるためと拝される。特に釈籤の文は「妙法の両字は通じて本迹を詮す蓮華の両字は通じて本迹を譬う」とあり、本門・迹門の「妙法蓮華経」に含まれることを述べている。
 天台教学においては法華経28品のうち前14品を迹門、後14品を本門とするものの、教理的には前14品を重視する風潮があった。それに対し、本門をはるかに重視されたのが大聖人であり「妙法蓮華経の題目は全体を包摂していることを明らかにされたのである。
 以上のことを前置きとされて、前四時の場合と同じく「法華経」について図示的に注記され、その後、これを解説する御文が続いている。これまでにならって、御文を中心に見ていくことにする。
 初めに、法華経が第五時の教えであること、次に無量義経を開経として観普賢経を結経とすることを示されている。つまり、妙法蓮華経八巻と、その開経である無量義経一巻と結経である観普賢菩薩行法経一巻、合わせて三部十巻とする。
 ただし、ここでは特に述べられないが「第五時」は「法華涅槃時」というように涅槃経をも含む。この点については涅槃経の段で触れることにしたい。
 次いで「化儀は会漸帰頓・会三帰一・化法は純円なり」とあり、法華経が化儀の四教の観点から「漸を会して頓に帰す」すなわち、鹿宛における阿含教から、方等経・般若経までの漸教を頓教に帰着させる教えであると述べられ、法華経の意義を示されている。
 もっとも、この「会漸帰頓」という言葉自体は中国・南北朝時代の華厳僧である慧観が使用したものであり、慧観としては頓教を華厳経ととらえているのであるが、ここではこの言葉を援用し、頓教を法華経とした上で引用されていることはいうまでもない。
 なお、法華玄義巻一上では「法華も亦爾り、同体の権実なるが故に、漸を会して頓に入るが故なり」とあり「会漸入頓」の言葉を用いている。さらに、同巻一上では「今の法華は是れ顕露にして秘密に非ず。是れ漸頓にして漸漸に非ず」とあり、妙楽大師は法華玄義釈籤巻二で、これを釈して「今、法華経は是れ漸後の頓にして、漸を開して頓を顕すを謂う。故に漸頓と云う」と説明している。次の「会三帰一」は法華経方便品の思想で、声聞・縁覚・菩薩の三乗を一仏乗に帰えしむということで、開三顕一と同じ意である。
 次に「化法は純円なり、般若の後雙林の前純ら一の円機に対して真実を説くなり」と述べられている。法華経は「純円」すなわち、純粋の円教に当たる。爾前諸経である華厳・方等・般若にも円教が説かれているが、これらの円教は・蔵教・通教・別教と並べて、蔵・通・別の教法を歴劫修行とした末に到達した境地として円融円満の成仏の境界を示しているので、純粋とはいえない。それに対して法華経では蔵・通・別の教えを方便権教としてこれらを正直に捨てて、成仏の種子である妙法を受持し成仏を目指すべきことを説く。法華経のみに、純一無雑な円教が説かれているのである。
 「般若の後雙林の前純ら一の円機に対して真実を説くなり」とは、法華経は第四時の般若経を説いた後、涅槃の直前に沙羅双林で説く涅槃経の前に説かれたもので、般若経までの化導で機根を調えられ、仏の広大な智慧を求める機の熟した衆生のために、仏自身の悟っている真実を明かした経であるということである。「雙林の前」と言われているのは、入滅の時が近づいているのを悟った釈尊が、その一代の化導の仕上げとして悔いを残さないために、成道し説法を決意した時に定めた目的を成就するために説かれたのが法華経であることとを示されていると拝される。いわゆる「出世の本懐」の経が法華経であるということである。
 以上で、法華経が第四時までの方便教と違って成仏のための真実を明かした経であることを明らかにされたあと、従って、法華経によって衆生の成仏が可能になったことを「日光普く照す」以下で示される。この日光の譬えは、これまでの章でも東の空に昇った太陽がまず高山を照らすのに当たるのが華厳経であり、次いで幽谷を照らすのが阿含経、そして平地まで照らすのが方等部であるとして用いられてきたが、法華経は、単に平地を照らすというだけでなく、その中でも中天にある時に相当するというのが「日光普ねく照らすに土圭の測影縮ならず盈ならざるが如し」である。
 たとえ平地を照らす高さに昇っていても、午前中や午後は斜めの位置にあるから、高い建物や木の陰にあるものは光に当たらない。しかし、法華経はちょうど正午に太陽が真上にきた時に当たる。中天にあるが故に「普ねく照らす」のである。これは「平等大慧」を譬えている。「土圭の測影」すなわち日時計の柱の影が「縮ならず盈ならざる」縮ならず盈なとは、諸説はありうるが、おそらく緯度から生じる影の長さの違いはあるものの、正午は一日の中で最も短い時であり、それ以上縮まることもない、との意味と解される「盈縮」とは伸びたり縮んだりすることである。
 ともあれ、あらゆる衆生を平等に成仏させる力が法華経にあることを、次に「低頭挙手・皆仏道を成ず汝は実に我が子・我は実に汝が父」と述べられている。低頭挙手とは頭を下げて礼をし、手を挙げて合掌することで、法華経を信じ敬う心をもつことをいう。すなわち、法華経を信じ礼拝する人は、だれでも成仏できるということである。
 では「成仏」とはどういうことかといえば、これまで四時の説明のために引かれてきた長者窮子の譬でいうと、窮子が長者の実の子であることが明かされたことにあたる。それは、衆生に対し父子の関係にあることを覚知することであり、父の富がすべて子に譲られるように、仏の広大無辺な功徳を衆生が得ることである。父が長者であれば子も長者になり、父が王であれば子も王となるように、衆生一人一人が仏と同じく仏になるのである。このことを法華経方便品第二には「如我等無異」と説かれている。
 このように、法華経では一切衆生が本来、仏と父子の関係にあり、仏であることが明かされたのであるが、仏が常に在ると思うと、ともすれば本心を失い、このことを忘れるのが衆生である。そこで、衆生に仏を渇迎する心を起こさせるために仏は涅槃を現じる。
 このことは信解品第四の長者窮子の譬でも、父の長者が臨終の時に初めて窮子が自らの実子であることを明かす中にあらわれているが、本門寿量品でも、仏の久遠常住を明かすとともに、久遠の仏がなぜ涅槃するかの理由として教示されている。このことを、ここでは「唯だ如来の滅後を以て之を滅度す」と述べられたと考えられる。
 従って、この第五時の法華経は、これまでの四時の経々を超絶し、五味でいえば「不定」「秘密」を含まない頓教になる。特に「是れ定にして不定に非ず 是れ顕露にして秘密に非ず」と強調されている。
 不定教というのは説法を聞く者がおのおの能力に応じて理解して、それぞれが得る利益が定まっていない教えを指すが、法華経は一切衆生成仏という利益が定まっているので「定」であるとし、同様に、法華経は一切衆生の成仏可能なることを顕に説いているので、顕露教であって秘密教ではないとしている。以上のことは図示のところでも「頓・不定と秘密無し」と記されているとおりである。
 このように、法華経は、これまでの諸経で説かれた法を行じてきた人々も、それらの法を方便権教であったとして正直に捨て、法華経に帰依することにより、ことごとく仏道に入ることができるので「三乗・五乗・七方便・九法界を会して一仏乗に入らしむ」と仰せられている。
 三乗とは、声聞・縁覚・菩薩に対して、仏教で説かれた教えであるが、これに外道が理想とした人乗・天乗を加えて五乗、さらにこの五乗のうち、同じく菩薩といっても蔵教・通教・別教によって異なるので蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩に立て分けて七方便、また地獄・餓鬼・畜生・修羅も含め、あらゆる衆生を包括した九法界というように、どの乗法や境界であっても、それらをすべて集めて統合し「一仏乗」へと帰入させたのが法華経であるということである。
 では、具体的にはどのように法華経において一切衆生を「一仏乗に入らしむ」るかが、次に示される。「所以に迹門には二乗初住の位に叶て無生忍を得・成仏の記を受く八歳の竜女は男子に変成して即身に無垢の成道を唱う、本門には二世の弟子増道損生の益を得」とある。
 まず迹門では、法華経以前の諸経で「永不成仏」とされた二乗の成仏が明確化されたことを「二乗初住の位に叶て無生忍を得・成仏の記を受く」と述べている。二乗は法華経迹門の開三顕一の法門を聞いて、菩薩修行の位である52位のうち、10住の初めである発心住の位で“無生忍”を得た。無生忍とは無生法忍ともいい、忍が認可を意味することから、諸法の無生無滅であるという真理を認可、認識することをいい、この真理を認識すると不退転の位に入るので52位の中では特に重視される。
 ところで、二乗が菩薩の不退の位に入るということであるが、法華経迹門の二乗は自分の仏の声を聞いて悟るという自利だけの二乗ではなく、一切衆生に仏道の声を聞かせる利他の菩薩としての二乗に転じているので52位の修行階梯に当てはまりうるのである。それが「成仏の記を受く」である。
 同じ迹門では「八歳の竜女は男子に変成して即身に無垢の成道を唱う」とあるように、竜女の即身成仏が示されている。「無垢の成道」とは法華経提婆達多品第十二に「当時の衆会、皆竜女の、忽然の間に変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る」とあるように、無垢世界で成道するということである。
 次いで、法華経本門では「二世の弟子増道損生の益を得」とある。二世の弟子とは釈尊在世だけでなく滅後の未来の弟子たちのことで、本門の在世だけでなく滅後の未来の弟子に対し“増道損生”の利益を及ぼしていくということである。
 すなわち、増道は道=悟りの智慧を増して、生=生死輪廻を損減することで、法華経迹門で10住の初住位に入ってから、妙覚の仏果に至るまでの42位の間、本門の説法を聞きながら分々に中道の悟りの智慧を増して、変易の生死の苦しみを減じていくという利益を得る、ということである。
 もっとも、法華円教の修行には階位はないが、修行者の理解の程度には差異があるから一応、説明の便宜上、階位を設定した上で以上の利益が説かれているのである。
 本門が在世だけでなく滅後の未来の人々のためであることについては、本門の説法を促した弥勒の疑請に「仏滅後の新発意の菩薩たちの疑いを除くために説いてほしい」とあることについて明白である。
 なお、図示の段では、法華経に基づく宗派として「仏立宗──法華宗──天台宗」と記されている。仏立宗とは伝教大師が法華宗句で「釈迦世尊所立の宗なり」と述べているように、法華経を根本とすることは釈尊自身が定められたところであるとして、日本天台宗が自負して使用したものである。一般的に用いられた呼称ではないが、日蓮大聖人は本来の天台宗はかくあったのだという心を込めて、ここに記されたものと拝される。
 次いで法華経は、その名のごとく法華経を根本とする宗の意で、後の天台宗を指す呼称としてこれもかなり広く用いられていた。しかし、日本の天台宗は第三代座主・慈覚以降は、真言密経を取り入れ、むしろ法華経よりも大日経のほうが勝れるとする邪義を立てるようになったことから「法華宗」あるいは「天台法華宗」の呼称は実態と合わせなくなり、用いられることも少なくなっていったようである。
 また、天台宗はいうまでもなく、中国で天台大師によって立てられた法華経を根本とする宗の名称で、日本では伝教大師最澄が渡唐し相承を受けて叡山を開いた。天台大師といい、天台とは中国の地名で、そこを本拠としたことから呼ばれるようになったのであるが、日本でも伝教大師が開創して宗名として「天台宗」が定着していた。
 以上は、天台宗が法華経を根本としていることを前提としての意義づけであるが、現実の天台宗は前述のように、天台真言宗と化していた。しかも、末法に至って、法華経の文上の法門にとどまっている天台仏法では、もはや人々を救う力はない。そこに日蓮大聖人が出現され、法華経の寿量文底の大法を弘通される真実の意義があることは諸御抄に明確である。
 この御書はあくまで仏教の基本的知識を教える立場から、法華経根本に明確にされる主旨であるので、本来の天台宗を宣揚するにとどめられているが、大聖人が門下に対して、大聖人一門こそ「法華宗」とされていたことは、四条金吾への御手紙に「法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(1118-01)と仰せられている御文からも明らかである。
 また、図示では法華経の「本迹両門」として、その下に「序品より十四品は迹門なり開権顕実と名く」「涌出品より十四品は本門なり開近顕遠と名く」と記され、迹門の主たる教理が開権顕実であり、本門の主たる教理が開権顕遠であることを示されている。
 ここで法華経について、第五時の教であり開経は無量義経、結経は観普賢菩薩行法経であることを示されたあと述べられている内容を立て分けると次の四点になる。
   一、化儀は会漸帰頓、会三帰一で化法は純円で、円機のために真如が明かされ、あらゆる衆生成仏の道が開かれたこと。
   二、仏と衆生と父子の義が実現されたこと。
   三、第五時の経は他の四時の経を超絶しており、他の四時の化導を受けてきた人々をも九界の一切衆生をも一仏乗に入らしめる教えであること。
   四、迹門では二乗が初住位にいかない、未来成仏の授記を受け、畜身の竜女も即身成仏の姿を現じる。本門では現当二世すなわち在世および滅後未来の仏弟子の成仏が明確化された。
 次章以下では、これらそれぞれについて裏付けとなる経釈の文を並べ挙げられていく。

0639:14~0640:14 第七章 法華経真実の依文を示すtop
14                                                 凡そ三周
15 四説不可思議なり方便品に云く 「世尊の法久くして後要ず当に真実を説くべし」又云く 「未だ曾て説ざる所以は
16 説時未だ至らざるが故なり今正しく是れ其の時なり決定して大乗を説かん」云云、 又云く「乃至一偈に於ても皆成
17 仏すること疑無し十方仏土の中・唯一乗の法のみ有つて 二も無く亦三も無し仏の方便の説を除く」又云く「諸仏世
0640
01 に出る唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず」、 普賢経の記に云く「故に正説に云く唯此の一事のみ実に
02 して余の二は 則ち真に非ずと斯れに多義有り、 一には非頓非漸の妙法を指して一事実と為し而頓而漸を余二の権
03 と為す、 二には三教の仮名を呼びて非真と為し一円の実理を指して一実と為す、 三には四味を以て非真と為し醍
04 醐を以て一実と為す」と、方便品に云く「終に小乗を以て衆生を済度せず」云云、又云く「若小乗を以て化すること
05 乃至一人に於てもせば我則ち慳貪に堕せん 此の事不可と為す」又云く「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」
06 と、 玄の九に云く「廃三顕一とは此れ正しく教を廃す其の情を破すと雖も 若し教を廃せざれば樹想還つて生ず教
07 を執して惑を生ず是の故に教を廃す正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く十方仏土の中唯だ一乗の法のみ有り 二
08 も無く亦三も無し」云云、玄義の一に云く「華落は権を廃するを譬え蓮成は実を立するを譬う」文に云く「正直に方
09 便を捨てて但だ無上道を説く」云云、 伝教大師の顕戒論に云く「白牛を賜う朝には三車を用いず 家業を得る夕べ
10 には何ぞ除糞を用いん」故に経に云く「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」と、 方便品に云く「我が昔の所
11 願の如く今已に満足す」云云。
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 およそ迹門の説法・譬説・因縁説の三周と正説・領解・述成・受記の四説自体、衆生には思議できないとことである。法華経第二方便品に「世尊は教法を長らく説いた後、必ずまさに真実を説くえあろう」とある。また「いまだ以前に説かなかった理由は説くべき時がいまだ至らなかった故である。今まさしくその時である。必ず大乗を説くであろう」とある。
 また「所説の一偈だけでもすべての衆生が成仏することは疑いない。十方の仏土の中にはただ一乗の法のみがあって、二乗もなく、また三乗もない。仏の仮の説法をば取り去る」とある。また「諸仏がこの世に出現するのは、ただこの一乗の一事のみ真実であり、ほかの二つの乗法は真実ではない」とある。
 観普賢経記に「故に正説にただこの一乗の一事のみ真実であり、ほかの二つの乗法は真実ではないとあるが、これにはに多くの義がある。一には頓教でも漸教でもない妙法を指して一事実とし、頓教であり漸教であるほかの二つの乗法を権教とする。二には蔵・通・別の三教の仮の名称を真でないものと呼んで、純一の円経の真実の理を指して唯一の真実とする。三には乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味をもって真でないものとし、醍醐味を唯一の真実とする」とある。
 法華経方便品第二に「ついに小乗をもって衆生を救うことはしない」とある。また「もし小乗教をもって教化すること一人でもなすならば、私は慳貪の罪に堕ちるであろう。そのようなことはあってはならないことである」とある。また「正直に方便を捨てて、ただこの無上の道を説く」とある。
 法華玄義巻九に「三乗を廃して一乗を顕すとは、まさしく教を廃棄することである。その心情を破しても教を廃棄しなかったならば、西方浄土にある宝樹の想いをかえって生まれさせ、教に執着して惑いを生じるであろう。この故に教を廃棄するのであって、正直に方便を捨てて、ただだ無上の道を説くのである。十方の仏土の中でただ一乗の法のみ有って二乗もなく、また三乗もない」とある。法華玄義巻一に「華落は権を廃するを譬え蓮成は実が成るを譬える」方便品第二に『正直に方便を捨てて、但だ無上の道を説く』と」とある。
 伝教大師の顕戒論に「大きい白い牛を与えられた朝には羊・鹿・牛の三車を用いない。父の家業を継いだ夕べにはどうして糞を除くことができるであろうか。故に法華経方便品第二には『正直に方便を捨てて、但だ無上の道を説く』と」述べられているのである。同じく方便品第二に「私の願いは、今はすでに満足した」とある。
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12   玄義の十に云く「即ち方便の一乗を廃して唯だ円実の一乗なり故に云く我本と誓願するが如き今已に満足す」方
13 便品に云く「当来世の悪人仏一乗を説き給うを聞いて 迷惑して信受せず法を破して悪道に堕せん」と云云、 又云
14 く「法を聞き歓喜し讃めて乃至一言を発す 則ち為れ已に一切三世の仏を供養するなり」
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 法華玄義巻十には「すなわち方便としての一乗を廃棄して、ただ円経の真実の一乗がある。故に私はもとから誓願したことが、今はすでに満足したといっているのである」とある。
 法華経方便品第二に「未来の世の悪人は仏が一乗の法を説かれたのを聞いて、迷い惑って信受せず、法を破して悪道に堕ちるだろう」とあり、また「法を聞き歓喜し讃めて一言を口に出すならば、すでに一切の過去・現在・未来の三世の仏を供養したことになるのである」とある。

三周四説不可思議
 三周は三周の説法、法華経迹門の法説・譬説・因縁説。四説は三周のそれぞれにおいて正説・領解・述成・授記の順に展開された法華経迹門の化導をいい、それらがこれまでの爾前経とは大きく隔たって思議できないということ。
―――
方便品
 法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
―――
大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
―――
一偈
 「偈」ゲダ(gāthā)の音写。仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤーなどがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。
―――
十方仏土
 十方にあるすべての仏土。十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
唯一乗の法
 一切の教法は悉く法華経に包摂され、ただ絶待平等の一仏乗の教えだけがあること。
―――
二も無く亦三も無し
 法華経には声聞・縁覚の二乗の法もなく、声聞・縁覚・菩薩の三乗の法もないということ。
―――
仏の方便の説を除く
 ①釈尊が説いた方便権教を取り去る②仏が巧みな手段として説いた教えは除外して認める。
―――
普賢経の記
 智証述「観普賢菩薩行法経記」2巻のこと。
―――
正説
 ①正しく説くこと。②経典の本論となる部分。
―――
多義
 多くの釈義や意味があること。
―――
非頓非漸の妙法
 頓ぜも漸でもない最勝・不可思議な法のこと。
―――
而頓而漸
 頓教と漸教のこと。衆生を説法教化する二種の方式を示す化儀の四教のうちの二つ。
―――
三教の仮名
 天台所立の「化儀の四教」の中の頓教・漸教・不定教の三教。
―――
非真
 真実でないこと。
―――
一円の実利
 純一の円教としての真実の法理。この円教の実理は機根の差別を問わず平等に一切衆生を皆成仏道へ入らしめる教えをいい、法華経の真理を指す。円は円融円満・平等・完全の意。実理は真理・真実の理・道理。方便説ではなく仏の真実の教理・法理えおいう。
―――
一実
 一は純一無雑・唯一無二の意で、実はまこと・真実の意。①一仏乗・真実義を説く経のこと。法華円教をさす。法華経のみが真実の法である故に「一実」という。②真如と同意。平等無差別の実相をあらわす。
―――
済度
 生死・煩悩に支配される世界から、悟り・成仏得道の境界へ衆生を救い渡すこと。
―――
慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
―――
正直
 心が定まってまっすぐなこと。仏の本位にかなうこと。
―――
無上道
 種脱相対して、無上道とは文底下種の妙法であり、無上のなかの無上である。御義口伝には「無上道とは南無妙法蓮華経是なり」(0749-第十三但惜無上道の事-02)「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり」(0727-第五無上宝聚不求自得の事-05)等とある。
―――
廃三顕一
 三乗の法を説く方便権教を廃止して一仏乗を説く法華経を顕すこと。
―――
教を廃す
 権教の教えそのものを廃止すること。
―――
其の情を破す
 権教の教えに執着する心を破折すること。
―――
樹想還つて生ず
 三乗の教えを廃止しなければ、極楽にある宝樹の想いがかえって生まれる。樹想は権教に属する観無量寿経に説かれる16観のひとつ。権教そのものに執着することを譬喩的に表す。
―――
教を執して惑を生ず
 権教そのものを廃止しなければ、衆生は権教に執着して、迷いを生ずること。
―――
顕戒論
 伝教大師の著。伝教が弘仁10年(0820)大乗戒壇建立と仏教統一を請うたのに対し、南都六宗が激しく反対した。それに対して、伝教大師がその迷妄を破折するために本論をつくり天奏した書である。
―――
白牛を賜う朝には三車を用いず
 三車家宅の譬を踏まえたもので、大白牛車をもらってからは、子供たちはもはや三車を使うことがないということ。
―――
家業を得る夕べには何ぞ除糞を用いん
 長者窮子の譬を踏まえたもので、長者の子としてすべてを引き継いだあとは、窮子は糞を取り除くなどに仕事はすることはないということ。
―――
方便の一乗
 仏が爾前教で方便として成仏できると仮に説いた教え。爾前の円などをさす。爾前の諸経にも、衆生が修行の段階を経なくても成仏するとか、煩悩を断ち切らなくても成仏するとかの文は見られるが、方便として述べられたもので、爾前権教には成仏を可能にする妙理ではない。
―――
当来世の悪人
 未来の世に生まれて妙法を信受しないもの。
―――
一乗
 一仏乗のこと。成仏のための唯一の教えの意で、「すべての者が成仏できる」という法華経の教えのこと。
―――
迷惑
 方便権教の邪法に迷い、真実を明らかにできないこと。誠諦の反対で、愚癡の凡夫の迷いをいう。このような僧侶の言葉を聞いた大衆を迷わせるものであることは当然である。
―――
悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
―――
供養
 サンスクリットのプージャーの訳語。もともとの意味は、尊敬の気持ちで種々の行いをすること。神々や先祖の霊、また尊敬すべき人や対象に対して、食物や灯明や香や花などを供え捧げて、崇め敬う心を表すこと。初期の仏教教団では、在家が飲食・衣服・臥具(房舎)・湯薬の四つを供養すること(四事供養)で教団を支えることが促された。仏の遺骨を納め祀る仏塔でも種々の供物が捧げられ、舞踊や音楽演奏などが行われた。また仏像が作られるようになってからは、仏像への供養も行われるようになった。法華経法師品第10では、法華経を受持・読・誦・解説・書写する修行とともに、法華経に対して華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢旛・衣服・伎楽の10種を供養すること(十種供養)が説かれている。また故人の冥福を祈るために、種々の仏事を行う追善供養や、そのために卒塔婆を立てて供養する塔婆供養、仏像の開眼のための仏事を行う開眼供養など、さまざまな仏事が供養と呼ばれる。日本では古来からのアニミズムの影響で長年使用した針や箸などへ感謝し鎮魂を願う供養も行われている。また、供養には種々の分類が立てられる。
―――――――――
 ここから先に法華経について述べられた諸点について、裏付けの文証を挙げられていく。前章で示した四項の中の第一点の、法華経の化儀でいえば会漸帰頓・会三帰一であり、化法では純円の教であることを「凡そ三周四説不可思議なり」と述べられて、方便品第二の文をはじめ、智証の普賢経の記、天台大師の玄義、伝教大師の顕戒論等の文を挙げられる。
 「三周四説」とは法華経迹門の正宗分において、上中下の機根に合わせて法説・譬喩説・因縁説に分け、二乗の成仏が明かされる。これを三周説法というが、その際、いずれも仏が説き、それを聞いた声聞が領解の旨を述べ、それに対し、仏が重ねて説き、その後、未来成仏の授記がなされる。この正説・領解・述成・授記を四説という。いずれにせよ、「開三顕一」「二乗作仏」が法華経迹門の要であるが、これは、これまでの爾前経の教えを根底から覆すものなので「不可思議なり」と言われたのである。
 初めに、方便品第二から四つの経文が引用されている。最初の文は釈尊自身が、これまで教法を久しく説いたが、これから真実の教えを説くと述べたもので、次文はこれまで時がきていなかったので説かなかった真実の教えを、今、時がきたので必ず説くといって、法華経を説くことを明らかにしている。第三の文では、十方の仏土の中にあるのは一仏乗の教えのみであって、声聞・縁覚の二乗、これに菩薩を加えての三乗の教えは存在しないと断じている。十方仏土の中に一乗の法のみが存在するということは、法華経の一乗の法のみが成仏の教えであるということを意味する。
 第四の文は、釈迦仏だけでなく諸仏がこの世に出現するのは、唯一仏乗という一事の真実のみであって、それ以外の声聞や縁覚の二乗の教えは真実ではないと説いている。そして第四の「諸仏世に出る唯此の一事のみ実なり余の二は則ち真に非ず」を説明した智証の観普賢菩薩行法経の文が引用されている。「唯此の一事のみ実にして余の二は則ち真に非ず」とはどういうことかについて、智証は三つの意義があるとしている。一つは「余の二」とは頓教と漸教を指し、これらを真にあらずとして、非頓非漸の一仏乗のみが真実であって、これを明かすことが諸仏出世の目的であるということである。第三は法華経の醍醐味こそ真実であって、乳・酪・生蘇・熟蘇の四味に当たる爾前の諸経は真実に非ずということである。第一の観点が化儀の四教に約したものであり、第二のそれは化法の四教、第三は五味に約したものであることはいうまでもない。
 次に法華経の一仏乗のみが仏の本意であることを立証するために、まず小乗は衆生救済の教えではないと断じた方便品第二の文を二つ挙げ、さらに、小乗経典だけでなく、権大乗も含めた方便の教えはすべて捨てよと述べた「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」が示されている。
 その上で、この「正直捨方便」の文を説明した天台大師の「玄の九」と「玄義の一」の二文、そして伝教大師の顕戒論の一文が引用されている。「玄の九」の文は、法華経で釈尊が「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」「十方仏土の中・唯一乗の法のみ有つて二も無く亦三も無し」と説いたのは、単に三乗に執せず一仏乗を目指せという心情の変革だけでは、再び権教への思いが芽を出す恐れがあるので、方便の教えそのものを廃したいとの意である。
 次の「玄義の一」の文は「正直に方便を捨てて」とは華が落ちるのに譬えられ、「但無上道を説く」は、華が落ちたあとに蓮の実がなることにたとえられている。
 さらに伝教大師の顕戒論の文は、法華経七譬の一つ、三車火宅の譬に当てはめて、法華経が説かれたことは大白牛車を子供たちにあたえたようなもので、子供たちは最も素晴らしい大白牛車をもらった以上は、それよりはるかに劣る羊車・鹿車・牛車には見向きもしなくなるのが当然であり、また長者窮子の譬に当はめると、法華経説法は、窮子が父の長者からすべてを受け継いだようなもので、まだ長者の子であることを知らず長者のもとで雇われ、糞などの掃除をしていた時に逆戻りすることはできない。すなわち法華経が説かれた後は爾前権教に執着してはならないと戒めたものである。
 次に、法華経を説くことによって釈尊は出世の本懐を示すために、再び方便品からであるが「我が昔の所願の如く今已に満足す」の文が引用され、それについての天台大師の玄義十の釈が示されている。この玄義巻十の文は「方便の一乗を廃して唯だ円実の一乗なり」というもので、若干、分かりにくいが、爾前諸経の御中にも方便として「実相」だの「成仏」だのと説かれているのが、真実の成仏の法をが明かされていたのは法華経のみであるということで、だからこそ釈尊は法華経に至って「今者は已に満足しぬ」と言われたのであるとの釈である。しかも、この言葉は、真実の衆生成仏の法を明かすこと、すなわち衆生のために成仏の道を開くことが釈尊の最初からの願望であったことを表している。
 従って、法華経を信受することが仏法と仏の心にかない、成仏できる道であって、それを知りながら法華経を信受しないのは、仏法と仏の心に背き、仏法を破る行為となる。この功徳と罰を厳然と教えた文を掲げて締めくくられている。

0640:14~0641:12 第八章 父徳に約して三徳を示すtop
14                                         譬喩品に云く「今此の三界
15 は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ我が子なり 而も今此の処は諸の患難多し 唯我一人のみ能く救護を為
16 す」云云、文句の六に云く「旧は西方の無量寿仏を以て、以て長者に合す今之を用いず西方の仏・別に縁異なり仏・
17 別なり故に隠顕の義成ぜず 縁異なるが故に子父の義成ぜず又此の経の首末全く此の旨無し閉眼穿鑿せよ」、 疏記
18 の六に云く「弥陀・釈迦二仏既に殊なり況や宿昔の縁別に化導同じからざるをや 結縁は生の如く成熟は養の如し生
0641
01 養の縁異なれば父子成ぜず 珍幣途を分ち著脱殊に隔たる消経事闕け調熟義乖く 当部の文永く斯の旨無し」云云、
02 又云く「往昔は大小の両縁 倶に釈迦に在りとし 今は尊特垢衣倶に弥陀に在りとせば 更に笑う可きことを成ず」
03 云云、 涅槃経の疏の一に云く「無救無護無所宗仰とは 此れは無主の苦を釈す貧窮孤露・一旦遠離・無上世尊とは
04 此れは無親の苦を釈す設有疑惑・当復問誰とは 此は無師の苦を釈す」云云、 涅槃経の四に云く「我又閻浮提の中
05 に示現し疫病劫起多く 衆生有つて病に悩む所と為んに去つて医薬を施し 然して後に為に微妙の法を説いて 其を
06 して無上菩提に安住せしむ」云云、 涅槃経の一に云く「我等今より救護有ること無く 宗仰する所無く貧窮孤露な
07 り、 一旦無上世尊に遠離したてまつらば設い疑惑有りといえども当に復た誰にか問うべし」同二に云く「主無く親
08 無ければ家を亡し国を亡す」又云く「一体の仏を主師親と作す」 譬喩品に云く「一切衆生皆是吾が子なり」云云、
09 寿量品に云く 「我常に此の娑婆世界に在つて 説法教化す亦余処の百千万億那由佗阿僧祇の国に於ても 衆生を導
10 利す」云云、 大論に云く「十方恒河沙等の三千の国土を名けて一仏国土と為す 是の中に更に余仏無し実に一りの
11 釈迦仏のみなり」云云、 寿量品に云く「我も亦為れ世の父諸の苦患を救う者なり」云云、 宝塔品に云く「能く来
12 世に於て此の経を読み持たんは是れ真の仏子なり」云云、 
-----―
 法華経譬喩品第三に「今この欲界・色界・無色界の三界はすべて私の所有である。その中の衆生はことごとく私の子である。しかも今この場所はもろもろのわずらわしい困難が多い、ただ私一人のみが救い護ることができる」とある。
 法華文句巻六に「古くは西方の無量寿仏をもって長者に当たるとしている。今はこれを用いない。西方の阿弥陀仏は別であって縁も異なっている。別の仏であるから、隠と顕の義は成り立たない。縁が異なる故に、子と父の義は成り立たない。またこの法華経の初めから終りまで、どこにも阿弥陀仏が娑婆世界にとって有縁の仏であるという趣旨のことは述べられていない。眼を閉じて詳細に思索しなさい」とある。
 法華文句記巻六に「阿弥陀仏と釈迦仏の二仏は全く異なっている。まして過去からの縁も別で化導も同じではないからなおさらである。結縁は仏子として生むようなものであり、成熟は養育のようなものである。誕生と養育の縁が異なれば、実の父と子の関係が成り立たない。珍玩の服と幣垢の衣を着たり脱いだりすること自体が、阿弥陀仏と釈迦仏では途を異にして全く隔たっている。法華玄義の解釈は法華経に説く内容が欠落し、衆生の機根の調熟の義に背いている。彼が説明しているような趣旨は、全く法華経の経文にはない」とあえう。また「昔は大乗・小乗の両縁ともに釈迦仏であるとし、今は尊特で表す仏の垢衣で表す小乗の仏も共に阿弥陀仏ありとするならば、一層、笑うべきことになる」とある。
 涅槃経疏巻一に「救いもなく、護りもなく、尊び仰ぐところも無しとは、無主の苦を釈している。貧困・孤独であり、突如、無上の世尊を遠離するとは、これは無親の苦を釈している。設い疑惑があるといえども、当にまただれかに問えるだろうとは、これは無師の苦を釈している」とある。
 涅槃経巻四に「私はまた閻浮提の中に出現して、世の中に疫病が起こり脅かし多くの衆生が病に悩んでいるので、ひとまず医薬を施し、それから後に深遠で勝妙な法を説いて、衆生の最高の悟りの境地に安らかに居させる」とある。涅槃経巻一に「私たちは今より救護がなく、尊び仰ぐところがなく、貧困・孤独である。ひとたび無上の世尊に遠離するならば、たとい疑惑があるといえども、まさにまただれに問えるだろうか」とある。同経巻二に「主がなく、親がなければ、家を亡ぼし、国を亡ぼす」とある。また「一身の仏を主・師・親とする」とある。
 法華経譬喩品第三に「一切衆生はすべて私の子である」とある。同経寿量品第十六に「私は常にこの娑婆世界にいて、説法し教化してきた。またほかの百千万億那由佗阿僧祇の国においても衆生を化導し利益してきた」とある。
 大智度論に「十方世界の微塵や恒河の砂ほどの数の三千大千世界を一国土と名付ける。この中にさらにほかの仏はいない。実に一人の釈迦仏だけである」とある。
 法華経寿量品第十六には「私もまた世の父であり、もろもろの苦しい患いを救う者である」とある。同経宝塔品第十一に「よく来来世において、この経を読み持とうとする者は真の仏子である」とある。

譬喩品
 妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
―――
此の三界
 娑婆世界のこと。
―――
我が有
 仏の所有であるということ。
―――
患難
 悩みや苦しみ。難儀。患苦。
―――
救護
 救い護ること。
―――
西方の無量寿仏
 西方の極楽浄土に住するという阿弥陀仏のこと。無量光仏ともいう。
―――
以て長者に合す
 長者は長者窮子に出てくる大資産家。光宅寺法雲はこの長者は阿弥陀仏との邪義を合している。
―――
今之を用いず
 天台大師は、光宅寺法雲の長者は阿弥陀仏との説を用いないとし、長者は廬舎那仏と立てた。
―――
西方の仏・別に縁異なり
 西方の無量寿仏は西方浄土に有縁の仏であって、この娑婆世界とは無縁の仏であるということ。
―――
仏・別なり故に隠顕の義成ぜず
 阿弥陀仏はこの娑婆世界の衆生と別である故に、穏・顕の義が成立しない。穏顕の義は一仏がその徳や本来の姿を隠したり顕したりすることによって、衆生を化導する意義。仏が本来の姿を隠したっり顕したりして衆生を化導したりしても、その本体は一つであるから成就できるのである。
―――
縁異なるが故に子父の義成ぜず
 この娑婆世界の衆生の機縁は西方の阿弥陀仏とは異なっているから、子と父の関係が成立しない。
―――
閉眼穿鑿
 静かに眼を閉じて詳細に思索すること。
―――
弥陀
 阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
―――
化導
 仏道に入らしめるため衆生を教化し導くこと。
―――
結縁は生の如く成熟は養の如し
 成仏の縁、すなわち仏種を植えることは仏子としての生を与えることに相当し、成熟は養育していくことに相当する。
―――
生養の縁異なれば父子成ぜず
 生を与える縁と養育の縁が違うならば実の父子の関係が成立しないように、衆生は初めに結縁し下種してくれた仏を縁として化導を受けなければ成仏しないのである。親が子に働きかける作用を四義とし、そのなかの生・養をさしている。
―――
珍幣途を分ち
 珍弊の珍は珍しくて得難い立派な服、弊は破れて垢の付いた粗末な服。阿弥陀仏と釈迦仏の化導の在り方の違いを示している。
―――
著脱殊に隔たる
 珍元の服・弊垢の衣を着たり脱いだりすることは、なおさら阿弥陀仏と釈迦仏の隔たりを大きくしている。弊垢の服を着たことのない釈迦仏が弊垢の衣をまとったのは、この娑婆世界の衆生を救おうとする慈愛の故であり、そこに阿弥陀仏とは大きく隔たっている点がある。
―――
消経事闕け
 法雲の法華義記において法華経の解釈は正しい内容の把握が欠落している。消経は経を消釈することで、経文の解し難きを消し、その義理を明らかにすること。
―――
調熟義乖く
 一仏が衆生の機根を調え、成熟させる意義に違背している。調熟は調え熟させること。衆生を化導するため、衆生の機根を調え、成熟させていくことをいう。調機調養と同義。種熟脱の三益のなかの熟益をさし、この三益において仏と衆生の関係が始まりから終わりまで、一貫して同じでなければならない。
―――
当部の文
 それにあたる部類の経文。
―――
大小の両縁
 大乗教・小乗教との機縁。
―――
釈迦
 釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
尊特垢衣
 尊特は珍しくて得難い立派な服、垢衣は破れて垢の付いた粗末な服。出処は信解品の長者窮子の譬による。
―――
無救無護無所宗仰
 章安大師の大般涅槃経疏巻1の文。「救無く護無く宗仰する所無し」と読む。阿弥陀仏では救済がなく守護がなく尊崇することがないということ。
―――
無主の苦
 主・師・親の三徳のうち主徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
貧窮孤露・一旦遠離・無上世尊
 「貧窮孤露にして一旦に無上世尊を厭離す」と読む。孤児のように貧しくなり、最も尊ぶべき仏から突然、遠く離れること。「貧窮」は貧乏や困窮の意味。「孤露」は親がないこと。
―――
無親の苦
 主・師・親の三徳のうち親徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
設有疑惑・当復問誰
 「設い疑惑有りといえども当に復誰かに問うべき」と読む。もし師がいなければ、たとえ疑問や迷いがあっても誰にも問うことはできないとの苦しみを残している。
―――
無師の苦
 主・師・親の三徳のうち師徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
閻浮提
 一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
疫病劫起
 伝染病が盛んに起きること。
―――
微妙の法
 深遠、細やかで凡智ではとうてい知り得ない不可思議なほど優れている教え。
―――
安住
 安心してとどまること。
―――
救護
 救い護ること。
―――
主無く親無ければ家を亡し国を亡す
 大般涅槃経巻2には「我等今より主無く、救無く、護無く、帰無く、貧窮飢困ならん」とある。
―――
一体の仏を主師親と作す
 大般涅槃経巻2には「我等今より主無く、救無く、護無く、帰無く、貧窮飢困ならん」の文の次下に「一体の仏を主師親と作す」とある。
―――
一切衆生皆是吾が子なり
 法華経譬喩品第3に、「我も亦是の如し。衆聖の中の尊、世間の父なり。一切衆生は、皆是れ吾が子なり」とあり、さらに続いて「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」とある。
―――
寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
娑婆世界
 娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
―――
説法教化
 仏が法を説き、教え導くこと。
―――
余処の百千万億那由佗阿僧祇の国
 娑婆世界以外の無数の国。
―――
導利
 化導し利益すること。
―――
十方恒河沙等の三千の国土
 数えきれないほどの多数の国土。
―――
尊特垢衣
 尊特は珍しくて得難い立派な服、垢衣は破れて垢の付いた粗末な服。出処は信解品の長者窮子の譬による。
―――
無救無護無所宗仰
 章安大師の大般涅槃経疏巻1の文。「救無く護無く宗仰する所無し」と読む。阿弥陀仏では救済がなく守護がなく尊崇することがないということ。
―――
無主の苦
 主・師・親の三徳のうち主徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
貧窮孤露・一旦遠離・無上世尊
 「貧窮孤露にして一旦に無上世尊を厭離す」と読む。孤児のように貧しくなり、最も尊ぶべき仏から突然、遠く離れること。「貧窮」は貧乏や困窮の意味。「孤露」は親がないこと。
―――
無親の苦
 主・師・親の三徳のうち親徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
設有疑惑・当復問誰
 「設い疑惑有りといえども当に復誰かに問うべき」と読む。もし師がいなければ、たとえ疑問や迷いがあっても誰にも問うことはできないとの苦しみを残している。
―――
無師の苦
 主・師・親の三徳のうち師徳がないことによって衆生が受ける苦しみ。
―――
閻浮提
 一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
疫病劫起
 伝染病が盛んに起きること。
―――
微妙の法
 深遠、細やかで凡智ではとうてい知り得ない不可思議なほど優れている教え。
―――
安住
 安心してとどまること。
―――
救護
 救い護ること。
―――
主無く親無ければ家を亡し国を亡す
 大般涅槃経巻2には「我等今より主無く、救無く、護無く、帰無く、貧窮飢困ならん」とある。
―――
一体の仏を主師親と作す
 大般涅槃経巻2には「我等今より主無く、救無く、護無く、帰無く、貧窮飢困ならん」の文の次下に「一体の仏を主師親と作す」とある。
―――
一切衆生皆是吾が子なり
 法華経譬喩品第3に、「我も亦是の如し。衆聖の中の尊、世間の父なり。一切衆生は、皆是れ吾が子なり」とあり、さらに続いて「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」とある。
―――
寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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娑婆世界
 娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
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説法教化
 仏が法を説き、教え導くこと。
―――
余処の百千万億那由佗阿僧祇の国
 娑婆世界以外の無数の国。
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導利
 化導し利益すること。
―――
十方恒河沙等の三千の国土
 数えきれないほどの多数の国土。
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 ここでは第六章で見た四項のうち第二の「父子の義」についての依文が示される。すでに前章で仏の本意は法華経を説くことであり、法華経を信受しないことは仏の心に背くことになり、逆に法華経を一言でもほめることは一切三世の仏を供養することになる、という文が示されたが、ここでは仏すなわち釈尊が娑婆世界の衆生にとって父徳を具えた尊極の存在であることが示される。
 まず、釈尊こそ欲界・色界・無色界の三界を有する主であり、その中の一切衆生を仏の子とする父であり、護り救う師であると宣言した法華経譬喩品第三の文が示されている。
 次いで、この経文との関連で、天台大師の法華文句巻六上と妙楽大師の疏記の文が引用されている。この天台・妙楽の文は西方極楽浄土の無量寿経は娑婆世界の衆生とは縁が異なっているので、父子一体の義は成立しないとしている。いずれも、法華経信解品第四の長者窮子の譬が表している娑婆世界における釈尊の化導と対比して、西方の阿弥陀如来は娑婆世界の衆生にとって無縁の仏であり、阿弥陀如来と娑婆の衆生との間には父子の義は成立しないことを指摘して、長者を阿弥陀如来であるとした光宅寺法雲の解釈を破折している。
 すなわち、長者窮子の譬の中で長者が父であることを知らない窮子の前にその立派な姿で現れると、窮子は恐れおののいて気絶してしまった。そこで長者は、わざと汚くみすぼらしい服に着替えて窮子と接する。これは釈尊が娑婆世界の衆生、特に二乗に対して丈六の劣応身として姿を現したことを譬えている。そのようにして窮子が長者の家での生活になじむにつれて、長者は責任ある仕事を与え、立派な姿の長者にも驚かないように仕向け、最後に長者の実子であることを明かしてすべてを譲り与えたのである。
 この譬について光宅寺法雲は、立派な衣服を着ている長者は法身の阿弥陀仏を表していると解釈している。それに対して天台大師・妙楽大師は、阿弥陀如来は西方極楽世界の仏であって、娑婆世界の衆生との縁がないのであるから、このような解釈は誤りであると破し、あくまで釈迦仏が娑婆世界の衆生にとって主師親三徳を具備し救済する仏であることを述べたのである。
 天台大師の文句の中の「顕遠の義成せず」とは、同じ長者がみすぼらしい服を着て立派な姿を隠したり、本来の長者としての姿を現したりしたのであるが、もし、立派な姿をしているのが阿弥陀如来で、みすぼらしい姿をしているのが釈迦仏だとすると「隠顕の義」が成り立たない。つまり隠したり顕したりではなく、入れ代わりになってしまうということである。
 妙楽大師の疏記に中に「弥陀・釈迦二仏既に殊なり況や宿昔の縁別に化導同じからざるをや」とは阿弥陀如来と釈迦仏は別々の仏であるから、衆生との縁も全く別々であり、化導の仕方も異なるという意味である。いつの間にか釈迦仏が阿弥陀如来と入れ代っているなどということはありえないことである。
 これをさらに掘り下げて、仏が衆生を化導する過程を「生・養・成・栄」の四義のうち「生」「養」に当てはめ、初めて化導するのは「生」すなわち生を与えることに相当し、その後化導を重ねて調熟していくのは幼子を育てることに相当するとし、父徳はこの「生」「養」の働きを果たすことにある。それがなされていない場合は「父子」の義が成立しないとのべている。
 「珍幣途を分ち」とは、長者としての立派な服を幣垢すなわち粗末で汚れた衣服とでは、その働きが異なるように、衆生を化導する仕方が異なる「著脱殊に隔たる」とは、立派な衣服を脱ぐことのない、常に荘厳な姿をして現れる著脱殊に隔たる阿弥陀如来と、娑婆世界の衆生に合わせてみすぼらしい著脱殊に隔たる姿をして現れ化導する釈迦仏とは全く異なるということである。
 このように全く異なる釈迦仏と阿弥陀を混同している法雲の解釈は根本的に誤りであり、仏が有縁の衆生を化導し調熟して成仏させていく方軌に背いている「当部の文永く斯の旨無し」とは、法雲の言い分は法華経の経文に全く合致していない、との意である。
 「又云く『往昔は大小の両縁倶に釈迦に在りとし今は尊特垢衣倶に弥陀に在りとせば更に笑う可きことを成ず』」の文は、妙楽大師の文句記七の文で、爾前経の段階では大乗・小乗ともに衆生と結縁した仏を釈迦仏とし、法華経の段階では立派な姿を示す仏も垢衣を着て化導する仏も阿弥陀仏というなら、根底から仏の化導の一貫性を無視した解釈になり、これは笑いものであるという痛烈な破折である。
 次に章安大師の大般涅槃経疏の一文が引かれている。これは、そのあとに示されているように仏の涅槃に当たり仏弟子たちが悲しんで述べた涅槃経にある言葉を取り上げて説明したものである。要約して言えば、仏弟子たちが主とし師とし親として尊敬し、頼りにしたのは釈迦仏であったことを示されている。
 次に法華経譬喩品第三の「一切衆生皆是吾が子なり」を再び引用されているのは、釈迦仏がこの娑婆世界の衆生にとっての主師親であることを述べられた部分の結びとして示されたと拝される。
 しかし、同じく釈迦仏といっても始成正覚の仏である法華経迹門の釈迦仏と、久遠に成道し、それ以来、常に説法教化している法華経本門の釈迦仏とでは、その主師親三徳の及ぶ範囲が全く異なる。このことを明示した文として法華経如来寿量品第十六の「余処の百千万億那由佗阿僧祇の国に於ても衆生を導利す」が示され、これを受けた大論の文が引用されている。大論の文にある「十方恒河沙等の三千の国土」の略で、十方は「十方世界の微塵」の略で、十方の世界をことごとく砕いてできる微塵の数ほどたくさんあるという意味である。「恒河沙」はガンジス川の砂の数ほど多いという意味である。久遠の釈尊の主師親の徳は、それほどたくさんの三千大千世界の国土の一切衆生に及ぶということである。
 このあと、寿量品と 見宝搭品第十一に二文が示されているのは、先の寿量品の文が「説法教化す」とあるように師の徳を表し、大論の文が「一仏国土」とあるように主の徳を表しているのに対し、親の徳を表す文としてであろう。
 この本門の釈迦仏の広大無辺は、先の涅槃経の引文に述べられていた。仏の涅槃によって依拠すべき主師親が失われるとの嘆きに対する答えにもなっている。むしろ、涅槃の姿を現ずることによって仏への渇仰を心から生じさせるのであり、その時は、仏は久遠常住であることが覚知されるのである。

0641:12~0642:06 第九章 法華のみ真実なるを示すtop
12                            譬喩品に云く「若し人あつて信ぜずして 此の経を毀謗
13 せば則ち一切世間の仏種を断ず 其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して 劫尽きて更に生じ是くの如く展転し
14 て無数劫に至らん」 又云く「但大乗経典を受持することを楽つて 乃至余経の一偈をも受けざれ」妙楽大師の五百
15 問論に云く「況や彼の華厳は但福を以て比す 此の経の法を以て之を比するに 同じからず、故に云く乃至不受余経
16 一偈と人之を思わず徒らに引く何んの益あらん」玄義の五に云く「究竟の大乗は華厳・大集・大品・法華・涅槃に過
17 ぐる無し」 妙楽の釈籤の十に云く「請う有眼の者委悉に之を尋ねて 法華は漸円・華厳の頓極に及ばずと云うこと
18 勿れ当に知るべし 法華は部に約するときは則ち尚華厳・般若を破し教に約するときは 則ち尚別教の後心を破す」
0642
01 譬喩品に云く「初め仏の所説を聞いて心中大いに驚疑す 将に魔・仏と作つて我が心を悩乱するに非ずや」宝塔品に
02 云く「爾の時に宝塔の中より 大音声を出して歎めて言く 善哉善哉釈迦牟尼世尊能く平等大慧教菩薩法仏所護念の
03 妙法華経を以て大衆の為に説き給うこと是くの如し 是くの如し釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是れ真実なり」 又云
04 く「釈迦牟尼仏・快く是の法華経を説き給え我是の経を聴かんが為の故に而かも此に来至せり」と云云、又云く「大
05 音声を以て普く四衆に告ぐ 誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん 今正しく是れ時なり如来久しから
06 ずして当に涅槃に入り給うべし仏・此の妙法華経を以て 付属して在ること有らしめんと欲す」
-----―
 法華経譬喩品第三に「もし人が信じないで、この法華経を毀り謗るならば、その時は一切世間の仏種を断絶することになる。その人は寿命が終わって無間地獄に入り、一劫を過ごして、その劫が尽きてさらに生じ、このように次々と移り続いて無数の劫に至るであろう」とある。
 また譬喩品第三に「ただ大乗経典を受持することを願って、ほかの経の一偈をも受けてはいけない」とある。
 妙楽大師の五百問論に「まして彼の華厳経はただ福をもって比べる。この法華経が法をもって比するのと同じではない。故に、ほかの経の受けてはいけない、との真実の意味を人は分かってはいない。むやみに引用することに何の利益があろうかという」とある。
 法華玄義巻五に「究極の大乗経は華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経に過ぎるものはない」とある。
 妙楽大師の法華玄義釈籤巻十に「眼識ある者は詳細にこれを調べて、法華経は漸円であり、華厳経の頓極に及ばないなどと言わないようにしなさい。当に知りなさい。法華経は部に約するときはなお華厳経・般若経を破折し、教に約するときはなお別教の最も進んだ位を破折する」とある。
 法華経譬喩品第三に「初めは仏の説いた教えを聞いて心の中で大いに驚き疑う。まさに魔が仏となって、私の心を悩まし乱すのではないか」とある。同経宝塔品第十一に「その時に宝塔の中より大きな声を出して、ほめて言う。善いかな、善いかな。釈迦牟尼世尊はよく平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法蓮華経をもって、大衆のために説かれるのはこのようである、このようである。釈迦牟尼世尊の説いていることはすべて真実である」とあり、また「釈迦牟尼仏よ、快くこの法華経を説いてください。私はこの経を聴くための故にこのように、ここに来至したのである」とあり、また「大きな声をもってあまねく比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆に告げられた。誰がよくこの娑婆国土において広く妙法蓮華経を説くか。今まさしくその時である。如来は遠からずまさに涅槃に入るであろう。仏はこの妙法蓮華経を付属し、後世に伝えたいと欲する」とある。

切世間の仏種
 すべての世の中にある仏になるための種子。世間には、①世の中・世俗。②六道の迷界。③差別(五陰・衆生・国土)。などの意味がある。
―――
命終
 寿命を終えること。死ぬこと。
―――
阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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展転
 次々に移って続いていくこと。
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無数劫
 数えきれないほどの長い時間。阿僧祇劫ともいう。
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大乗経典
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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受持
 受は受領の義でうけおさめること、持は憶持の義で、心身ともに銘記して、よく持ち続けること。正法をよく信じ持って、いかなることがあっても、違背・退転しないことをいう。四条金吾殿御返事には「此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-04)とある。
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余経の一偈
 法華経以外の短い文句。
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妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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五百間論
 妙楽大師の著作3巻。法相宗の慈恩は法華玄賛で法華経を賛嘆しているが、法相宗の立場から説いているため、かえって法華の心を殺していると破折し、真の法華経の妙旨を顕示している。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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乃至不受余経一偈
 法華経譬喩品第3の文。「ないし、余経の一偈をも受けざれ」と読む。
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 利益のこと。仏の教え・正法に従い行動することによって恩恵・救済。功徳のこと。
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究竟の大乗
 極め尽くされた大乗。法華経のこと。
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大集
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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有眼の者
 物事の正邪を正しく判断できる見識を持っている者。
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委悉
 くわしく・つぶさに。
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漸円
漸教を含んだ円教の。華厳経のことをさす。
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部に約する
 一切経を五部・五時に約すこと。教説の説かれた順序に分類すること。華厳・阿含・方等・般若・法華。
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教に約する
 一切経を化儀の四教・化法の四教に約すこと。
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別教の後心
 別教の修行中、最も修行の進んだものの位。
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仏の所説
 世尊の説法。
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驚疑
 驚き疑うこと。
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魔・仏と作つて
 魔が人を悪道に堕とすため、仏の姿に変じたこと。
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悩乱
 人の心を悩まし苦しめ乱すこと。
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宝塔
 法華経見宝塔品に涌出する多宝搭のこと。同品には「仏前に七宝の塔あり。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して、空中に住在す。種種の宝物をもって、之を荘校せり。五千の欄楯あって、龕室千万なり。無数の幢幡、以って厳飾と為し、宝の瓔珞を垂れ、宝鈴万億にして、其の上に懸けたり。四面に皆、多摩羅跋栴檀の香を出して、世界に充遍せり。其の諸の幡蓋は金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・真珠・玫瑰の七宝を以て合成し、高く四天王宮に至る」とある。この宝塔出現の意義は、一つは宝浄世界から来た多宝如来が、迹門の真実を証明するためである。これを証前の宝塔という。一つは後の本門を説く起こりになるためである。これを起後の宝塔という。証前が傍・起後が正である。末法において方等とは大御本尊である。生命論から言えば一切衆生の仏界を内包する尊厳なる生命の当体である。信心に約せば御本尊を信ずる者の当体である。阿仏房御書には「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」(1304-06)とある。
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釈迦牟尼世尊
 たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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平等大慧
 諸仏の実智のこと。諸法平等の理を悟り、一切衆生を平等に利益する仏の智慧をいう。宝塔品には「釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたもう」とあり、一切衆生を平等に、救済していく、広大な御本仏の智慧、大御本尊の智慧をいう。 
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教菩薩法
 菩薩を教化するための法。妙法蓮華経の異名。宝塔品には「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたまう」とある。
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仏所護念
 仏の護念する所」と読む。妙法蓮華経は三世十方の諸仏が護り念じてきた所の教法であるとの意。
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妙法華経
 ①鳩摩羅什訳の法華経28品。②法華経に説かれた法理。③所詮の法体。
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大衆
 ①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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釈迦牟尼仏
 たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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来至
 十方の諸仏が虚空会に集まってきたこと。
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大音声
 大きな音声。仏の煩悩声。
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四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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娑婆国土
 娑婆世界のこと。娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
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涅槃
 梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。③権大乗では他方の浄土へ往生すること。④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
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付属
 相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
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 第六章で示した四項のうち第三、すなわち「此の第五時の教は是れ日中にして四時に非ず是醍醐にして四味に非ず是れ定にして不定に非ず是れ顕露にして秘密に非ず三乗・五乗・七方便・九法界を会して一仏乗に入らしむ」の本文を裏付ける引文が示される。前章では、父子一体の義によって法華経が衆生成仏の法であることが明らかにされたが、ここでは、その法華経の利益を受ける条件が示される。
 仏は衆生に対し、「主」として悪から守る力をもち、「師」として法を教え智慧を啓発し、「親」として仏性を生ぜしめ養い育てる慈愛を有しているが、衆生が仏の教えどおりに法華経を信じ実践した時に主師親三徳の働きを受け取ることができる。この「仏の教え」の大事な項目をなすのが「正直に方便を捨て」「余経の一偈をも受けない」ことである。
 初めの譬喩品第三の文では、仏の教えに背く最も端的な行為が「此の経」すなわち法華経の誹謗であることが示される。
 法華経を誹謗することは仏種を断ずる行為であり、これがあらゆる悪業の中で最も重い悪業であることが、その受ける報いに表れている。
 すなわち最も苦しみの重大な地獄界の中でも最低部にあるとされる阿鼻地獄に堕ち、しかも展転して無数劫を経なければならないというのである。
 「阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きて更に生じ是くの如く展転して無数劫に至らん」と述べられているのは、阿鼻地獄はこの世界の大地の最も低い部分にあるとさせるが、この世界自体、成・住・壊・空を繰り返しており、衆生が住する住劫期限は一中劫とされている。ちょうど一万年の禁固刑を受けた人がいて、しかし刑務所の建物の耐久年数が百年とすると、刑をすべて受けきるには、百回新しく造られた刑務所に次々移されなければならないという考え方から、無数劫にわたる無間地獄の刑期を果たすには「展転」しなければならないと表現されるのである。それほどに法華経誹謗は極重罪に当たるということである。
 次の「又云く」の引分中の「大乗経典」は実大乗たる法華経を指しており、この法華経以外の「余経」は一偈たりとも受けてはならないと戒めている。
 もとより、余経を読んだり学んだりしてはならないという意味ではなく、信仰のよりどころとして受けてはならないとの意である。
 余経への信仰心が入ると、このあとの引文に法華経の説法を聞いて人々が驚いたとあるように、根本的に相反する内容があり、法華経を信ずべきか、余経を信ずべきかで迷いが生じ、法華経への信が壊され、端的な場合は法華経誹謗に陥らせる危険性があるからである。
 妙楽大師の五百問論の文は「不受余経一偈」の戒めに対して、華厳経はただ福をもって他教に勝つれることを主張しており、法華経をもって最勝としているのと異なっているのであるから、他師のように「不受余経一偈」の文を、真意と理解せず引用することはどれだけの利益があろうかと破折している。
 次の玄義の巻五は究極の大乗の法が華厳・大集・大品と次第に説き進め、最後の「法華・涅槃」に至って明らかにされたことを表している。
 そのあとの妙楽大師の釈籤の巻十の文は、しかしながら法華経は、すでに「正直に方便を捨てて但無上道を説く」との文で示されているように、華厳・大集・大品を約部において打ち破っていくことは当然として、約教も、爾前経に説かれる最も高い境界を打ち破る内容をもっている、としている。
 このように、これまで説いてきたことを根本的に打ち破る教えであるため、次の譬喩品第三、 見宝搭品第十一にあるように、初めて法華経の説法を聞いた声聞たちは「もしかしたら魔が仏の姿を借りて、我々の心を悩乱しようとしているのではないか」と疑い、他方、多宝如来は「この法華経こそ平等大慧教菩薩法仏所護念の妙法であり、この娑婆世界に広めるべき大法である」と宣言し、大衆に弘経を促したのである。

0642:06~0643:06 第十章 滅後の本意を示すtop
06                                            法師品に云く「薬王
07 若し人有つて何等の衆生か 未来世に於て当に作仏することを得べしと問わば 応に示すべし、是の諸人等未来世に
08 於て必ず作仏することを得んと何を以ての故に 善男子善女人法華経の乃至一句に於て受持し読誦せん」云云、 宝
09 搭品に云く「諸余の経典数恒沙の如くならん、 此等を説くと雖も未だ難しと為るに足らず 若し仏の滅後悪世の中
10 に於て能く此の経を説く 是則ち難しと為すと」提婆品に云く「仏諸の比丘に告げ給わく未来世の中に若し善男子・
11 善女人有つて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して 疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして
12 十方の仏前に生ぜん、 所生の処には常に此の経を聞き若し人天の中に生れば 勝妙の楽を受け 若し仏前に在らば
13 蓮華より化生せん」又云く「当時の衆会皆竜女の忽然の間に変じて男子と成つて 菩薩の行を具して即ち南方無垢世
14 界に往き宝蓮華に坐して等正覚を成じ 三十二相・八十種好あつて普く十方一切衆生の為に妙法を演説するを見る」
15 又云く「爾の時に娑婆世界の菩薩.声聞・天・竜・八部.人と非人と皆遥かに彼の竜女の成仏して普く時の会の人天の
16 為に法を説くを見て心大いに歓喜し 悉く遥かに敬礼す」分別功徳品に云く「阿逸多是の善男子・善女人は 我が為
17 に復た搭寺を起て 及び僧坊を作り四事を以て衆僧に供養することを須いず、 所以は如何是の善男子・善女人是の
18 経典を受持し 読誦する者は已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養すと為す、 則ち為れ仏舎利を以て七宝の塔を起
0643
01 て高広漸小にして梵天に至る」と云云、 神力品に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に諸仏皆歓喜
02 す」云云、 又云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云
03 云、薬王品に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も 亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦第一と為す」云
04 云、普賢経に云く「煩悩を断ぜず五欲を離れず三昧に入らざれども 但誦持するが故に」云云、又云く「其れ大乗方
05 等経典を読誦する有らば 当に知るべし此の人は仏の功徳を具して 諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり」云云、一
06 経の始めの如是我聞を釈する文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と則ち妙法蓮華経是なり。
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 法華経法師品第十二に「薬王よ、もし人がいて、どのような衆生が未来世においてまさに成仏することができるのかと問うならば、まさに示しなさい。このもろもろの人たちが未来世において必ず成仏することができると。どうしてかという理由として、善男子・善女人は法華経の一句だけでも受持し読誦することができる」とある。
 同経 見宝搭品第十一に「もろもろのほかの経典の数は恒河の沙ほどのようである。これらを説くといっても、いまだ難しいとするに足らない。もし仏の入滅の後、悪世の中において、よくこの法華経を説く。これを難しいとする」とある。
 同経提婆達多品第十二に「仏はもろもろの比丘に告げられた。未来世の中に、もし善男子・善女人がいて、妙法蓮華経の提婆達多品を聞いて、清らかな心で信じ敬い疑惑を生じない者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちないで十方の諸仏の前に生まれるであろう。生まれた所では常にこの経を聞き、もし人界・天界の中に生まれれば、勝れて素晴らしい楽しみを受け、もし仏の前にいるならば、蓮の華から化身をもって現れるであろう」とあり、また「その時の衆会にいた人は、竜女がたちまちのうちに変わり男子と成っての修行を具えて、すぐに南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐って等正覚を得て、三十二相・八十種好を具えて、広く十方の一切衆生のために妙法を演説する姿を見る」とあり、また「その時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・竜・八部・人と非人との全員が、遠くに、彼の竜女が成仏して、会座に集まった人・天のために法を説くのを見て、心が大いに歓喜し、ことごとく遠くから敬礼した」とある。
 同経分別功徳品第十七に「阿逸多よ、この善男子・善女人が私のためにまた搭寺を建立し、及び僧坊を造立し、飲食・衣服・臥具・湯薬の四事をもって多くの僧に供養することを用いない。それはなぜか、この善男子・善女人、つまりこの経典を受持し 読誦する者は、すでに塔を建立し僧坊を造立し、多くの僧を供養したことになる。これはすなわち仏舎利をもって七宝の塔を建立したことになり、その搭は高く広く、上方は次第に小さくなって梵天に至るのである」とある。
 同経神力品第二十一に「仏が滅度した後に、よくこの経を持つことをあらゆる諸仏は歓喜する」とあり、また「私の滅度の後において、まさにこの経を受持すべきである。この人は仏果を得ることは決定しており、疑いは全くない」とある。
 法華経薬王品第二十三に「よくこの経典を受持することがある者も、またこれと同じである。一切衆生の中においてまた第一とする」とある。
 観普賢菩薩行法経に「煩悩を断尽ぜず、色欲・声欲・香欲・味欲・触欲の五欲を離れず(中略)静慮に入らないけれども、読誦・受持する故に、普賢を見ることができる。とあり、また「大乗方等経典を読誦する者がいれば、まさに知りなさい。この人は仏の功徳を具えて、もろもろの悪を永く滅して、仏の智慧から生ずるのである」とある。
 一経の初めにある「是くの如きを我聞きき」の文を解釈する法華文句巻一に「是くの如きとは、聞くところの法の本体を挙げるのである」とある。妙法蓮華経がこれである。

法師品
 法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
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薬王
 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
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未来世
 ①三世の中の未来。死後の世界。②歴史的な未来。○年先。
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作仏
 仏に作ること。成仏・得仏・成道・得道のこと。
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善男子
 仏法を信奉する在家・出家の男子をいうが、大聖人の仏法においては男女・僧俗の区別はなく、三大秘法を信じ実践するっひとをいう。
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善女人
 仏法を信奉する在家・出家の女子のこと。
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読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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諸余の経典
 釈尊が成道してから入涅槃するまでの間に説いた一切経のこと。
―――
恒沙
 ガンジス河の砂のことである。ガンジス河はヒマラヤ山脈を源とし、東へ流れてベンガル湾に注いでいる大河。インド三大河の一つで、昔から霊験に富んだ河として、人々から尊崇されていた。恒沙とは、ガンジス河の沙のように無数であることを譬える。無量無数のという意となる。
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仏の滅後
 釈尊が入滅した後。
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悪世
 闘諍堅固・白法隠没の五濁悪世のこと。末法の相をいう。
―――
比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
浄心
 浄らかな心。
―――
信敬
 仏を信じ敬うこと。
―――
疑惑
 疑い惑うこと。十四誹謗のひとつ。
―――
地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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畜生
 飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
―――
十方の仏前
 十方の仏土に住する諸仏の前。
―――
人天
 十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
―――
勝妙の楽
 すぐれた快い感情のこと。楽は苦に対する語で、身心における快い感情。
―――
蓮華
 ①蓮の花のこと。②妙法蓮華経のこと。
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化生
 四生の一つで、業力によって、忽然として生ずることをいう。「倶舎論」等によれば、諸天、地獄の衆生、及び劫初の衆生が化生の形をとるとされている。
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衆会
 仏の説法の座に集まった衆生。大衆。
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忽然の間
 一瞬・にわかに・突然・たちまちの間。
―――
変じて男子と成つて
 竜女が成仏したことを表す。
―――
菩薩の行
 菩薩とは菩薩薩埵の略で、無上菩提を求める人のこと。利他を根本とした大乗の衆生をさす。菩薩が仏果を得るために行う修行を菩薩の行といい、六波羅蜜などがあっる。
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南方無垢世界
 竜女が成仏した時の南方にある国土の名号。無垢は汚れがないこと。
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宝蓮華
 仏・菩薩の坐す台座のこと。
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等正覚
 正しい覚り。仏の境地。仏の福徳。一切の真理を正しく徧く覚知することで、この内容が諸仏に平等である。
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三十二相
 仏や転輪聖王などがそなえている32の優れた身体的特質のこと。「相」は八十種好に対し大きな特徴をさす。名称および順序は経論によって異説もあるが、『大智度論』巻4の説を以下に挙げる。①足下安平立相。足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地に着いてすき間なく密着している。②足下二輪相。足裏に自然にできた2輪の肉紋があり、それは千輻(1000本の矢)が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること。③長指相。指が繊細で長いこと。④足踉広平相。足の踉が広く平らかであること。⑤手足指縵網相。手足の指の間に縵網があり、指を張ればあらわれ張らなければあらわれないこと。⑥手足柔軟相。手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である。⑦足跌高満相。足の甲が高いこと。地を踏んだ足跡は広くもなく狭くもなく、足裏の色は赤蓮華、指の間の縵網と足の周辺の色は真の珊瑚のようで、指の爪は浄い赤銅、甲は真金、甲の上の毛は毘瑠璃のように青い。その足のおごそかですばらしい様は種々の宝で荘厳しているようである。⑧伊泥延膊相(伊泥延はサンスクリットのアイネーヤの音写で鹿の一種)。膝、股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること。⑨正立手摩膝相。立てば手で膝をさわることができること。⑩陰蔵相。陰部がよく調えられた象や馬のそれのように隠れて見えないこと。⑪身広長等相。インド産の無花果の木のように身体のタテとヨコの長さが等しいこと。⑫毛上向相。身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと。⑬一一孔一毛生相。一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青琉璃色で乱れず、右になびいて上に向かう。⑭金色相。皮膚が金色をしていること。⑮丈光相。四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと。⑯細薄皮相。皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである。⑰七処隆満相。両手・両足・両肩・頭の頂上の七処がすべて端正に隆起して色が浄いこと。⑱両腋下隆満相。両腋の下(わきの下)が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、またわきの下が深すぎることもない。⑲上身如師子相。上半身が獅子のように堂々と威厳があること。⑳大直身相。一切の人の中で身体が最も大きく、また整っていること。㉑肩円好相。肩がふくよかに隆満していること。㉒四十歯相。歯が40本あること。㉓歯斉相。諸の歯は等しく粗末なものはなく小さいものもなく出すぎることもなく入りすぎることもなく歯の間にすき間がないこと。㉔牙白相。牙があって白く光ること。㉕師子頬相。百獣の王の獅子のように、頬が平らかで広いこと。㉖味中得上味相。食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること。㉗大舌相。広長舌相とも。舌が大きく口より出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること。しかも口の中では口中を満たすことはない。㉘梵声相。梵天王の5種の声のように声が深く遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく誰からもきらわれないこと。㉙真青眼相。好い青蓮華のように眼が真の青色であること。㉚牛眼睫相。牛王のように睫が長好で乱れないこと。㉛頂髻相。頭の頂上が隆起し、挙が頂上にのっているようであること。㉜白毛相。眉間白毫相ともいう。眉間のちょうどよい位置に白毛が生じ、白く浄く、右に旋って長さが5尺あること。ここから放つ光を毫光という。
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 仏や菩薩がそなえている80の優れた身体的特質のこと。「好」は三十二相に対し細かな特徴をさす。80種の内容については種々の説があり、なかには三十二相と重複するものもあるが、例えば、頂を見ることがない、耳たぶが垂れ下がっているなど。
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妙法
 妙なる法。妙法は梵語・薩達磨(Saddharma)の音訳。「法」(dharma) に「正しい・真の・善」(sat) を被せたもので麤法に対する語。甚深微妙の法、または正しい法のことで、一往は法華経を指すが、再往は法華経の肝心・南無妙法蓮華経のこと。
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演説
 仏・菩薩が衆生を済度教化するために教えを説き演べること。
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天・竜・八部
 諸天・竜神等の八部衆のこと。天・竜の二衆は八部衆の上首なので天竜八部という。八部衆は以下のとおり。①天 梵天、帝釈天を初めとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者。②竜 「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。 蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す。③夜叉 古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの。空中を飛行する。④乾闥婆 香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。 仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルヴァであり、ギリシア神話におけるケンタウロスと同源であると推定されることからインド・イラン共通時代よりもさらに印欧祖語時代に起源をさかのぼる。⑤阿修羅 古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表す。⑥迦楼羅 ガルダを前身とする、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鷲の如き獰猛な鳥類の一類を神格化したもの。⑦緊那羅 音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも充当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという。⑧摩睺羅伽 緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。竜種に属す。大蛇を神格化したもの。
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人と非人
 人界の衆生と人にあらざる衆生。非人は天・竜・夜叉等。
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竜女の成仏
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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分別功徳品
 妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。
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阿逸多
 涅槃経第十九梵行品にある。五逆罪を犯したことを後悔し苦しんでいる阿闍世王を慰める大医耆婆大臣の話のなかに出てくる。阿逸多は悪逆の限りを尽くすが釈尊にあって出家を許される。同じ名をもつ弥勒菩薩とは別人である。
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搭寺
 仏塔と寺院。塔は卒塔婆・記念碑のこと。仏・阿羅漢などの徳を仰ぎ、遺骨・遺品・遺髪・所持品などを納めたところ。
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僧坊
 僧侶の宿所、居住する寺院所属の家屋。
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四事
 飲食・衣服・臥具・湯薬の四種を供養する四事供養のこと。
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衆僧
 多くの僧侶。
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仏舎利
 仏の遺骨のこと。
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七宝の塔
 宝塔品で大地から涌出た塔のこと。高さ500由旬・縦広250由旬の大きさで七宝によって飾られている。「七宝」については必ずしも一定しないが、代表的なものとしては,金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰。
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高広漸小
 七宝の塔が高く広く、上方は次第に小さくなっているさま。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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神力品
 妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。
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仏道
 無上菩提に至る道のこと。またその仏果そのものをさす。
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決定
 一定ともいう。きっと・必ず。
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五欲
 五根が五塵の境に対して起こす欲望である。すなわち色欲・声欲・香欲・味欲・触欲のこと。
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三昧
 サマーディ(Samādhi)の音写、訳して定・調査定・等持・等念という。心を一処に定めて動かぬこと。無量義経の無量義処三昧、法華経の法華三昧など、釈尊の教えの中には多数の三昧が説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、一心に御本尊に向かって題目を唱えることが三枚である。
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誦持
 暗誦し受持すること。
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大乗方等経典
 大乗経典のこと。方等は方広平等の意。大乗の経典の内容は広大甚深・平等であることをあらわしている。
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仏の功徳
 仏の持つ功能福徳。功は福利を招く功能。この功能が善行に徳として具わっていることを功徳という。
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諸悪
 さまざまな悪いこと。悪は法や道理に背いて、現在と未来に苦を招く原因となるもの。
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仏慧
 仏智と同意。一切の事理に通じた仏の智慧のこと。最高・無上の智慧をいう。一切種智のこと。
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一経の始めの如是我聞を釈する
 一つの経文のはじめにある「如是我聞」を解釈するということ。御義口伝には「所聞の聞は名字即なり法体とは南無妙法蓮華経なり能持とは能の字之を思う可し」(0709-03)とある。
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如是
 「是くの如し」と読む。万物のありのままの姿。
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所聞の法体
 仏から聞いたところの法門の本体。
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 第六章で立て分けた四項の中の第四、迹門・本門とも、法華経こそ衆生が成仏するためのよりどころであることを裏付ける文証と共に、滅後の弘通がどのように重視されたかを示す経文が挙げられている。
 初めに法師品第十の文が示されている。これは「どのような人が未来世に成仏できるか」との問いに対し「善男子善女人法華経の乃至一句に於て受持し読誦せん」人である、と述べた文である。
 続いて引かれている 見宝搭品第十一の文は、いわゆる六難九易の中の一つであるが「若し仏の滅後悪世の中に於て能く此の経を説く是則ち難しと為すと」説くことによって、法華経こそ衆生成仏の大法であることを示している。先の法師品の文では法華経受持・読誦という自行が挙げられていたのに対し、ここでは五種の修行の中の化他行である解説が挙げられている。
 次に提婆達多品第十二の二文引用されている。初めのほうが総じて未来世の衆生成仏を約束する文であるのに対し、あとのほうは、竜女という具体的な存在の即身成仏の相を説いた文である。提婆品には、この竜女と提婆達多の成仏が説かれているが、そうした下根の衆生の成仏を明かすことによって滅後の衆生の法華経による成仏を約束しているのである。この提婆達多品第十二が、すでに法師品第十、見宝搭品第十一から始まっている仏滅後の修行と弘教の勘奨を承けており、さらに勘持品第十三の菩薩たちの弘経発誓につながっていることは明白である。
 これらの引文が、第六章の段で述べられた「迹門には二乗初住の位に叶て無生忍を得・成仏の記を受く八歳の竜女は男子に変成して即身に無垢の成道を唱う」の御文を裏付けるものであることは疑いない。
 このあと、第六章の「本門には二世の弟子増道損生の益を得」の裏付けとして、分別功徳品第十七、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三、普賢菩薩勧発品第二十八の文が列記されている。
分別功徳品の文は、滅後においては経典を受持し読誦することが肝要であり、搭寺を建て僧坊を作り衆僧に供養する等のことは不要であると述べている。
 神力品の文は、この法華経受持をこそ仏は歓喜されるのであると説き、仏滅後においては法華経を受持する人が必ず成仏すると断言している。
 薬王品でも、法華経を受持する人が一切衆生の中で第一であると述べている。一切衆生の中で第一とは仏になることを意味している。仏の別称を「世尊」というのは、この意である。
 普賢品の文も「大乗方等経典を読誦する有らば当に知るべし此の人は仏の功徳を具して諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり」と述べ、法華経を読誦する人の成仏を約束している。
 最後に「一経の始めの如是我聞を釈する文句の一に云く『如是とは所聞の法体を挙ぐ』と則ち妙法蓮華経是なり」と仰せられているのは、法華経の法体とは題目の妙法蓮華経であり、これまでの引用に受持・読・誦・解説せよと説かれてきたのは、法華経の題目を受持し読誦し、解説して広めよという意にほかならないことを教示されている。
 結論して言えば「二世」すなわち在世および未来の一切衆生にとって法華経の題目こそ成仏の根本である故に、法華経を説くことが仏の本意であるとともに、この法華経を滅後未来に流通することこそ仏の正意であることがここに明らかであるといえよう。

0643:07~0644:06 第11章 第五時のうち涅槃経を明かすtop
07      ┌一日一夜の説
08      ├権大乗
09   涅槃経┼説処は跋提河の辺
10      ├常住四教を説く
11      ├同醍醐味
12      └結経は像法決疑経                                     ・
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      ┌一日一夜の説である。
      ├権大乗教である。
   涅槃経┼説いた場所は跋提河の辺である。
      ├常住四教を説く。
      ├同じく醍醐味である。
      └結経は像法決疑経である。
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13  此の涅槃経は一日一夜の説三蔵教.通教・別教・円教を明す、亦は醍醐味とも名く、釈尊拘尸那城・力士生地.阿利
14 羅跋提河・沙羅雙樹の間に於て 二月十五日の晨朝・面門より種種の光を放ち給う十二由旬の内十方の大衆を集めて
15 涅槃経を説き給う即ち三十六の涅槃経・旧訳の四十の涅槃経なり、像法決疑経を以て結経と為す、 亦クン拾教と名
16 け亦扶律顕常と云う、 化儀は漸部・化法は四教なり法華の時 猶未解の輩有り更に後番五味を以て余残の機を調熟
17 し給う、 涅槃の時四教の機同く・仏性を見る秋収冬蔵の如し、 唯四機有り倶に常住を知る故に法華と合して同醍
18 醐味と為すなり、 凡そ一往此くの如く配立すと雖も 万差の機縁に随つて時節の長短不同なり或は華厳の時長は涅
0644
01 槃の時に至る阿含・方等・般若も亦爾なり云云、 涅槃経の六に「法に依て人に依らざれ義に依つて語に依らざれ智
02 に依つて識に依らざれ 了義経に依つて不了義経に依らざれ」と云云、 又「亦如来随宜の方便所説の法の中に執着
03 を生ぜざる是を了義と名く 不了義とは経の中に一切焼然なり一切無常なり 一切皆苦なり一切皆空なり一切無我な
04 りと説くが如し是を不了義と名く 何を以ての故に是くの如きの義を了すること能わざるを以ての故に 諸の衆生を
05 して阿鼻獄に堕せしむ」云云、 十七の巻に云く「如来は虚妄の言無しと雖も 若し衆生の虚妄の説に因つて ○」
06 文、又云く「虚妄の法則ち是れ罪と為す是の罪を以ての故に地獄に堕す」云云。
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 この涅槃経は一日一夜に説いた経であり三蔵教・通教・別教・円教を明かしている。また醍醐味とも名つける。釈尊が拘尸那城力士生地・阿利羅跋提河の辺にある沙羅雙樹の間において二月十五日の明け方、眉間から種々の光を放たれた。十二由旬という非常に広い範囲内の十方の大衆を集めて涅槃経を説かれた。すなわち三十六巻の涅槃経、旧訳の四十の涅槃経である。像法決疑経を結経とする。また捃拾教と名付ける。また扶律顕常という。
 化儀は漸部であり、化法は蔵・通・別・円の四教である。法華経の時、なお、いまだ、解了できない輩があった。そこで更に後番として乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味を説いて、衆生の機根を調え熟された。
 涅槃経の時、蔵・通・別・円の四教の機根の者は同じく仏性を見る。秋に収穫して冬に貯蔵するようなものである。ただ蔵・通・別・円の四種の機根があるが、共に常住を知る故に、法華経と合して、同じく醍醐味とするのである。
 およそ一往、以上のように五時を配立するのであるが、さまざまな差異のある機縁に従って、時節の長短は不同である。あるいは華厳経の時の長さは涅槃の時に至る。阿含経・方等経・般若経もまたそうである。
 涅槃経巻六に「法に依って人に依ってはいけない。義に依って語に依ってはいけない。智に依って識に依ってはいけない。了義経に依って不了義経に依ってはいけない」とあり、また「また如来は衆生の機根の宜しきに随って説いた方便の説の中に執着を生じない。これを了義と名付ける。不了義とは『経の中に一切は焼然である。一切は無常である。一切は皆苦である。一切は皆空である。一切は無我である』と説くようなものである。これを不了義と名付ける。なぜかというと、このような意義をわきまえることができないため、もろもろの衆生を阿鼻地獄に堕させるからである」とある。同巻十七に「如来には偽りの言葉はないといっても、もし衆生の偽りの仮の説によって○」とあり、また「偽りの法に執するのを罪とする。この罪のために地獄に堕ちる」とある。

一日一夜の説
 天台大師の五時教判によると、涅槃経は一日一夜の説で、跋提河の辺とされている。
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権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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跋提河の辺
 華厳経が説かれた場所のこと。
―――
常住四教
 仏の常住を知った上での蔵教・通教・別教・円教のこと。
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醍醐味
 ①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
―――
像法決疑経
 仏入滅後に起る僧俗の非法をあげてこれを誡め、大慈布施を勧めたもの。諸経録では疑経とされる。
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通教
 声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた大乗初門の教えのこと。天台大師が四教義で立てた化法の四教のひとつ。通教の菩薩には前の三蔵教と同じ果を得る者と、さらに深く進んで後の別教・円教の理を悟るものとがある。
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別教
 二乗とは別に菩薩のために説いた教えのこと。天台大師が四教義を立てた化法の四教のひとつ。界外の惑を断ずる教であるゆえに、蔵・通とも異なり、隔歴の三諦を説くゆえに円教とも別なので別教ともいう。
―――
拘尸那城
 梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。
―――
力士生地
 釈尊入滅の地。拘尸那城の末羅国。末羅は力士と訳す。多数の大力の者が生まれ、住んでいたとされている。
―――
阿利羅跋提河
 華厳経が説かれた場所。
―――
沙羅雙樹
 沙羅樹の二株が対になっていたので、この名がある。中インドの跋提河の畔にあり、釈尊は最後にここで涅槃経を説いて入滅した。
―――
晨朝
 一昼夜を六分して晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜とし、早朝をいう。
―――
面門
 口のこと。
―――
捃拾教
 涅槃経のこと。
―――
扶律顕常
 戒律を扶けて仏性の常住不滅を顕あうこと。天台宗の教判で、涅槃経の教説の特色を明かした語。
―――
法華の時
 五時教判で法華経が説かれた時。
―――
未解の輩
 法華経においてもいまだ解了できなかった者たち。
―――
後番五味
 五味が説かれた後、涅槃経で繰り返し説かれた五味のこと。
―――
余残の機
 取り残された機根の者。法華経においても、いまだ解了できなかった衆生。
―――
調熟
 衆生を化導するため、衆生の機根を調え、成熟させていくこと。
―――
四教の機同く
 涅槃経が説かれたときは、蔵・通・別・円の四教の機根が調熟されて同一になるということ。
―――
仏性
 無始無終に存続している仏になる性分。
―――
秋収冬蔵
 法華経によってすべてが得道したことは、秋に穀物を取り入れ、冬になって蔵入れを終わったようなものであるということ。
―――
四機
 ①化法の四教に適合するおのおのの機根のこと。②法華文句に説かれる四機、人天の機・二乗の機・菩薩の機・仏の機のこと。
―――
常住
 過去・現在・未来にわたって常に存在し、生滅や変化がないことをいう。
―――
一往
 ひととおり、そのままの見方。
―――
万差の機縁
 さまざまな差異。違いのある機根と因縁。
―――
時節の長短不同なり
 その経が説かれる時の長さは同じではないということ。
―――
華厳の時長
 華厳経の説法は長時にわたること。釈尊成道後3週間で説かれたのを華厳経というが、これは前分の華厳経といい、その後諸経において頓教の機根のために説かれた華厳経があり、後部の華厳経は42年にわたっている。
―――
法に依て人に依らざれ
 法の四依の一つで、涅槃経に説いている。仏の経典の説に依って、人師の我見の説などに依るなどということである。法の四依とは、そのほかに「義に依らざれ」「智に依らざれ」「不了義経に依らざれ」がある。いずれも仏滅後に四依の人が必ず遵法すべきものである。涅槃経には、法の四依のほかに、人の四依が説かれている。
―――
義に依つて語に依らざれ
 法四依の第二。依義不依語(義に依りて語に依らざれ)意味に依拠して、文辞に依拠しないこと。
―――
智に依つて識に依らざれ
 法四依の第三。依智不依識(智に依りて識に依らざれ)智慧に依拠して、知識に依拠しないこと。
―――
了義経に依つて不了義経に依らざれ
 法四依の第四。依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しないこと。
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随宜の方便所説の法
 釈尊が衆生の機根に随って方便として説いたところの爾前の諸経のこと。
―――
執着
 あるものに深く思い込んで離れないこと。執心して思い切れないこと。
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了義
 真理を究めつくすこと。
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不了義
 真理を究めていないこと。
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一切焼然なり
 あらゆるものが焼かれている常態。焼も然もともに「もえる」を意味する。燃焼は火の勢いの盛んなことをいい、一切を焼いて無に帰せしめる。一切は無常・苦・空・無我であると執する心をさす。
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一切無常なり
 あらゆるものが、生滅変化し移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらない。一切の事物・事象が成住壊空・生住異滅・生老病死を繰り返し、永久に変遷していくことをいう。阿含経では四諦の法門の中で、苦諦の四行帀として説かれており、これは現在の果報は一切が苦であり、一切万法が空であり、無常であり、無我であると観ずることである。この立場は小乗教にあたり、これは不了義教徒されている。
―――
一切皆苦なり
 あらゆるものすべてが苦しみ、悩みである。身と心を区別し身に感ずる苦と、心に感ずる憂に分ける場合もある。苦には種々のものがある。生老病死の四苦に加えて愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を合わせた八苦がある。涅槃経の常楽我浄から見れば、一切は皆苦であると説くのは不了義となる。
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一切皆空なり
 あらゆるものはすべて空である。空とはふくれたもので中がなく、うつろの状態をいう。転じて、一切の存在はそれ自体の本性がなく、固定的・実体的なものとして存在するのではないということ。一切のものは有であるという執着・妄身を否定すことから出た概念で虚無とは異なる。天台は空を観察して四種に分けている。析空観・体空観・偏空観・円空観であるが、空に執着することは不了義として排斥される。
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一切無我なり
 あらゆるものは固定的な実体がない。永遠不変で自主独立した主体で、すべてを司る実体はないということ。つまりすべてのものは因縁によって生起することを表している。例えば、衆生とは五陰が仮に和合している身心をいう。この無我説は意識し行動する本体を否定したのではなく、固定的・実体的な我がないという主張であり、本来・真実の自己・仏性を追求させようとしたものである。したがって一切が無我と説くのは不了義となる。
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義を了する
 仏の真実の教えを明らかに知ること。
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虚妄の言
 偽りの言葉、真実でない言葉。
―――
虚妄の説
 仮の教え、方便の説法。
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虚妄の法
 誤った法、虚偽の教え。
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 宗教や社会における法に反する行いのこと。
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 第五の法華・涅槃時のうち、涅槃時を明かすところであるが、本文ではまず「此の涅槃経は一日一夜の説三蔵教・通教・別教・円教を明す」とある。
 涅槃経は釈尊が法華経を説いた後、入滅する直前の一日一夜に説いた経であるとされる。
 次に、涅槃経に説かれた説処については、図示の段では「説処は跋提河の辺」とあるのみであるが、本文の段では「釈尊拘尸那城・力士生地・阿利羅跋提河・沙羅雙樹の間に於て二月十五日の晨朝・面門より種種の光を放ち給う十二由旬の内十方の大衆を集めて涅槃経を説き給う」と詳しく述べられている。
 すなわち、釈尊が涅槃した場所は、梵語で末羅といわれた人々が住んでいたとされる都城、拘尸那城・阿利羅跋提河の西岸にある二対になった沙羅樹で、涅槃経も、ここで説かれた。
 ここにおいて、釈尊が2月15日の晨朝、すなわち、明け方ごろ、顔面の門である眉間から種々の光を放って、12由旬という広大な範囲内の十方の大衆を集めて涅槃経を説いたという。
 「三十六の涅槃経・旧訳の四十の涅槃経」とあるのは、36の涅槃経とは、36巻ある大般涅槃経のことで、新訳で「南本」に当たるのに対し、40巻の涅槃経とは40巻ある大般涅槃経のことで、旧釈で「北本」に当たる。涅槃時の結経は、像法決疑経とされている。
 次いで、涅槃経の特質について「亦捃拾教と名け亦扶律顕常と云う」とある。捃拾とは拾い集めるということで、この点については次に「化儀は漸部・化法は四教なり法華の時猶未解の輩有り更に後番五味を以て余残の機を調熟し給う、涅槃の時四教の機同く・仏性を見る秋収冬蔵の如し」と説明を加えられている。
 すなわち涅槃経は、化儀の四教でいえば漸部に当たり、衆生の機根に応じて次第に誘引していく教えに当たり、化法の四経でいえば華厳時から法華時までの五時の説法内容に含まれていた蔵・通・別・円の四教を繰り返して重視したものである。
 なぜ、涅槃経で四教が重説されたかといえば、法華経の会座においても、なお理解できずに仏性を見ることができなかった衆生たちがいたので、これを導くために「更に後番五味を以て余残の機を調熟し」救うためであった。
 従って「涅槃の時四教の機同く・仏性を見る」とあるように、涅槃経で重ねて蔵・通・別・円の四教が説かれたので、余残の機の者も四教それぞれの教えにかなって皆等しく仏性を見た。すなわち、成道することができたのである。そのことから「秋収冬蔵の如し」とあるように、ちょうど穀物を秋に収穫したあと、冬に貯蔵するように、最後の仕上げがなされたのである。
 以上が捃拾教としての涅槃経の役割であるが、もう一つ「扶律顕常」として「唯四機有り倶に常住を知る故に法華と合して同醍醐味と為すなり」と釈されているように、法華経の醍醐味を重ねて明確にする役割も果たしている。
 ここに四教とあるのはいうまでもなく、蔵・通・別・円の四教のそれぞれにかなう機根のことであるが、すでに法華経が説かれたあとで、いずれも等しく仏性を知ることができるので、法華経と同じく五味の立て分けでは最高の味である醍醐味に当たるのである。
 次に「凡そ一往此くの如く配立すと雖も」と仰せられ、以上のように、五時の順序次第による位置付けができるのであるが、「万差の機縁に随つて時節の長短不同なり」と言われている。これは天台大師智顗が「別の五時」あるいは「縦の五時」といわれているものである。
 釈尊が「別の五時」に従って説法する目的は、天台教学で鈍根の衆生とされる声聞二乗を次第に調熟して徐々に仏性の常住を悟らせ成道させることにあるが、「通の五時」は本文に「万差の機縁に随つて時節の長短不同なり」とあるように、釈尊の体機説法に焦点を当てて、さまざまな衆生の能力や要求に応じて自由自在に適切な説法をしたという点からいえば、いわば横から見ると五時の一つ一つに五時説法の全体が受ける弟子は、途中から門下に加わってきたのであって、そうした人々を導くのには、また華厳・阿含という順序を踏まえて説かざるをえないからである。
 本文では、その具体的な例として「或は華厳の時長は涅槃の時に至る」ということを挙げている。華厳時の説法を最初の3週間とするのは「別の五時」の立て方であって、「通の五時」の立場からいえば五時のどの時にも通じて華厳の説法が行われ、従って第五の涅槃の説法の時にも同時に華厳が説かれたことになる。これが「時長の華厳」と称されるものである。同じような「通の五時」は、華厳以外の阿含・方等・般若の説法にも当てはまるものであり、そのことを「亦爾なり」と述べられて、詳細は省略されている。
 こうして、五時に別と通の二通りがあることを示された後、釈尊一代の別の五時の配列を閉じるに当たって、最後に、涅槃経の最も大事な説示として「法の四依」の文が示され、その中で「不了義経」とは何を指すかについての文を挙げて結ばれている。
 まず、涅槃経巻六から、法の四依を示す文を引用されている。涅槃における説法の要は仏滅後の仏弟子のために最も重要な心構えとして「法の四依」が示されたことにあるからといえよう。
 四依の第一は「法に依て人に依らざれ」とある。ここで「人」とは具体的には菩薩たちや各宗派の祖師たち、インドの論師たちや中国の人師たちのことであり、仏法を修行し広めるに当たっては、これらの「人師」の言葉に依るのではなく、「法」すなわち「仏説」を依りどころとすべきであるということである。
 次に「義に依つて語に依らざれ」とは、こうして「法」すなわち「仏説」を依りどころとする場合、言葉の表面にとらわれるのではなく、そこに説こうとされた内容の法理をあくまでも依りどころとせよ、ということである。
 さらに「智に依つて識に依らざれ」とは、涅槃経自体に「言う所の智とは、すなわち、これ如来なり。もし声聞の善く如来の功徳を知る能わざるあらば、かくのごときの識は応に依止すべからず」とあるように、如来の智、仏智を根本とすべきで、声聞など、まだ仏智に達していない人の考えや思いを依りどころとしてはならないということである。
 次に「了義経に依つて不了義経に依らざれ」とは、如来の智、仏智であっても、法理を完全に説き明かした了義経である実教・法華経をよりどころとすべきで、不完全にしか明かしていない不了義経たる方便・権教を依りどころとすべきではない、ということである。
 このように、要するに「法の四依」は、仏法の修学・修行においては論師・人師たちの言葉でなく、法すなわち仏説を依りどころとすべきであり、仏説であっても語でなく義を依りどころとすべきであり、同じ義といっても、声聞などの識ではなく仏の智を根本とすべきであり、その仏の智でも不完全にしか明かしていない不了義経である権教ではなく、完全に明らかに説いた了義経の法華経を依りどころとすべきであるという重要な規範を示したものである。
 本文では次いで、同じ涅槃経巻六からの文を引用しているが、それは前分の中に法の四依のうち“了義経に依って不了義経に依らざれ”を受けて、これを釈した文である。ここでは了義と不了義として釈しているが、了義については「亦如来随宜の方便所説の法の中に執着を生ぜざる」こととしている。
 つまり、如来・仏が衆生の能力や性質の宣しきに従って、方便として説いた教えに対して、これのみが正しいとするような執着を生じないことを了義としている。すなわち、方便の教えに執着しないということ自体が完全な義を知っているということになる。
 これに対して、不了義とは、衆生の能力や要求に応じて説いた教え、例えば、ある衆生には“一切は燃焼している”と説き、ある衆生には“一切は無常である”と説き、またある衆生には“一切は皆苦である”と説き、ある衆生には“一切は無我である”と説いた教えで、これらは部分的な真理を明かしていないので不了義であり、そうした部分的な真理をもって完全な教えであると錯覚し、誤解させるならば、衆生を阿鼻地獄に堕としめることになると述べている。
 これを受けて、涅槃経巻十七から引用された文は、如来の言葉には嘘や偽りの言葉はないが、もし衆生がそれによって、法理すなわち、仏法上の利益を得ることができることが明白である場合は、如来は方便として、衆生の性質や要求のよろしきに随って説く場合もあるとしている。
 これは先の文で、仏が不良義経の教えを説いたのを衆生が了義の教えと誤解すると地獄に堕ちる、とあったのを受けて、仏・如来が衆生を地獄に堕とすような言葉を説いてもよいであろうか、との反論を予想されて引用されたものと推測できよう。
 最後の引用文は菩薩等の語る「虚妄の法」はこれは罪にあたるとして、従って仏の滅後にあっては、「正直捨方便」「不受余経一偈」等の仏の戒めどおりに方便権教を排して、もっぱら法華経、なかんずくその法体である法華経の題目をもって人々を導くべきことを明確にされている。

0644:07~0645;15 第12章 小乗の戒を破すべき事を明かすtop
07   一、小乗の戒を破する事
08   涅槃経の三の巻に云く「仏迦葉に告げ給わく 能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就すること
09 を得・迦葉我往昔に於て護法の因縁を以て 今是の金剛身を成就することを得て常住にして壊せず、 善男子正法を
10 護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して持戒清浄の比丘を守護すべし」云云、 同十
11 七に云く「仏性を見るが故に大涅槃を得・是を菩薩の清浄の持戒にして世間の戒には非ずと名く」と云云、 又云く
12 「是の経を受持して戒を毀る者は則ち是れ衆生の大悪知識なり我が弟子に非ず是れ魔の眷属なり」云云、 法師品に
13 云く「若し是の深経・声聞の法を決了する是れ諸経の王なることを聞いて」云云、安楽行品に云く「又声聞を求むる
14 比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ亦問訊せざれ 若しは坊中に於ても若しは経行の処若しは講堂の中に在
15 ても共に住止せざれ」云云、 伝教大師の顕戒論の中に云く「貧人の食は是れ輪王の毒なるが如し、 故に二乗の者
16 の持戒精進は即ち菩薩の破戒懶惰なり 故に応に親近すべからず、来らば為に法を説け親使・利養・恭敬をネガわざ
17 れ」と云云、秀句の下に云く「小乗の持戒は則ち菩薩の煩悩なり」云云、 宝塔品に云く「此の経は持ち難し若し暫
18 くも持つ者は我則ち歓喜す諸仏も亦然なり、 是の如きの人は諸仏の歎め給う所なり 是則ち勇猛なり是則ち精進な
0645
01 り是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く、 則ち疾く無上の仏道を得と為す能く来世に於て 此の経を読み持たんは是
02 真の仏子なり」云云、 竜樹菩薩の大論に云く「自法愛染の故に 他人の法を毀呰す持戒の行人と雖も地獄の苦を脱
03 れず」云云、涅槃経の十二に云く「仏迦葉に告げ給わく若し菩薩有つて破戒の因縁を以て則ち能く人をして大乗経典
04 を受持し愛楽せしむることを知つて 又能く其れをして経巻を読誦し 通利し書写し広く人の為に説いて阿耨多羅三
05 藐三菩提を退転せざらしめんと、 是くの如き為の故に故さらに戒を破ることを得」云云、安然の広釈に云く「能く
06 法華経を説く是を持戒と名く律儀を持すと雖も善法を摂せざれば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」云云、 弘決の四
07 に大論の十九を引いて云く「諸の比丘・仏に問いたてまつる 阿蘭若の比丘死しぬ今何の処にか生ずる・仏の言く阿
08 鼻獄に生ず諸の比丘大いに驚く、 坐禅持戒するに便ち爾るを至すや仏答えて言く多聞・持戒・禅未だ漏尽の法を得
09 ず」云云、伝教大師云く「今より已後声聞の利益を受けず菩薩は二百五十戒を捨て畢んぬ」云云、涅槃経の四に云く
10 「我涅槃の後・無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん 正法滅して後像法の中に於て当に比丘有べし 貌持律に像
11 て少しく経を読誦し飲食を貪嗜し 其の身を長養し袈裟を服すと雖 も猶猟師の如く細めに視て徐かに行くこと猫の
12 鼠を伺うが如し、 常に是の言を唱う我羅漢を得たりと、 諸の病苦多く糞穢に眠臥す・外には賢善を現し内には貪
13 嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、 実に沙門に非ずして沙門の像を現し 邪見熾盛にして正法を誹謗し及び
14 甚深秘密の教を壊り各自意に随つて反つて経律を説く」云云、 同九に云く「善男子・一闡提有り羅漢の像を作し空
15 処に住して方等大乗経典を誹謗す諸の凡夫人・見已つて皆真の阿羅漢なり是れ大菩薩摩訶薩なりと謂えり」
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   一、小乗経の戒を破折すること
 涅槃経巻三に「仏が迦葉に告げられた。よく正法を護持する因縁のめに、この金剛不壊の仏身を成就することができた。迦葉よ、私は昔、法を護った因縁をもって今この金剛不壊の仏身を成就することができたのであり、永遠にして壊れることはない。善男子よ正法を護持する者は、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の五戒を受けず、威徳のある振る舞いを修めず、まさに刀と剣・弓と箭・鉾と槊を持って、戒を持つ清浄な比丘を守護しなさい」とある。
 同経巻十七に「仏性を見る故に、大涅槃を得る。これを菩薩の清浄な持戒にして、世間の戒ではないと名付ける」とあり、また「この涅槃経を受持して、戒を毀る者は、衆生の大悪知識である。私の弟子ではない。これは魔の従者である」とある。
 法華経法師品第十に「あるいは、この深経が声聞の教えを切り開いて位置付ける。この法華経こそ諸経の王であることを聞いて、聞き終ってから諦らかに思惟するだろう」とある。
 同経安楽行品第十四にに「また声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親しく近ずいてはいけない。また問いただしてはいけない。あるいは坊の中においても、あるいは歩いて往復する場所、あるいは講堂の中に居ても、共に住み止まってはいけない」とある。
 伝教大師の顕戒論巻中に「貧しい人の食事は天輪聖王にとって毒となるようなものである。故に声聞・縁覚の二乗の者の持戒・精進はすなわち菩薩にとっては破戒・怠惰である。故にまさしく親しく近づいてはいけない。もし二乗の者が来るならば、人を使おうとか、我が身を利養しようとか、人から崇敬されようなどと願ってはいけない。と法を説きなさい」とあり、法華宗句巻下に「小乗教の持戒はすなわち、菩薩の煩悩である」とある。
 法華経 見宝搭品第十一に「この法華経は持ち難い。もし、しばらくも持つ者は私が歓喜する。諸仏もまたそうである。このような人は諸仏のほめられるところである。これはすなわち勇猛である。これはすなわち精進である。これを戒を持ち、貪欲を払い除く修行をする者と名つける。この人は速やかに無上の悟りを得る。未来世において、此の経を読み持つ者は真の仏の子である。とある。
 竜樹菩薩の大智度論に「自からの法を愛着する故に他人の法を毀る者は、持戒を行ずる人であっても地獄の苦を免れない」とある。
 涅槃経巻十二に「仏が迦葉に告げられた。もし菩薩がいて小乗の戒を破る因縁をもって、よく人をして、大乗経典を受持し愛し願わせ、またよく読誦し、法門に通達し、経巻を書写し広く人のために説き、阿耨多羅三藐三菩提させないことを知ったならば、このようなために、ことさらに戒を破ることがある」とある。
 安然の普通授菩薩戒広釈に「よく法華経を説く。これを持戒と名付ける。律法の儀式を持うといっても、善法を受け入れなければ、なお木と石の像が袈裟を着け鉢を持つようなものである」とある。
 止観輔行伝弘決巻四に大智度論巻十九を引用してい「もろもろの比丘が仏に問うた。阿蘭若にいた比丘が死んだ。今度はどこに生まれるのか。仏が言われた。阿鼻地獄に生まれる。もろもろの比丘は大いに驚いて言った。坐禅して戒を持った人なのに、そのようになるのか。仏が答えて言われた。多聞・持戒・禅では、いまだ煩悩を断じ尽くす悟りの法を得られていない」とある。伝教大師は「今から以後、声聞の利益を受けあい。菩薩は二百五十戒を捨ててしまった」という。
 涅槃経巻四に「私が入滅した後、無量百歳の時に、涅槃に至る四種の道を修する聖人もことごとくまた涅槃するであろう。正法が滅して後、像法の中に於て、まさに比丘がいるであろう。姿は律を持つものに似て、少し経を読誦し、飲物や食物を貪り好み、その身を長く養い、袈裟を着けるといってもなお猟師のように目を細めに見て、こっそり行くことは猫が鼠を狙うようでる。常にこの言葉を唱える。私は阿羅漢を得たと。さまざまな病苦に悩まされ、汚い所に眠り伏す。外には賢く善い面を現し、内には貪り嫉みを懐いている。無言の行法を受けた婆羅門などのようである。実に出家僧ではなく出家僧に似た姿を現じ、邪見が盛んであって正法を誹謗し、及び甚深秘密の教を破っていながら、おのおのが自分勝手な心に従って、仏法に背いて経律を説く」とあり、同経巻九に「善男子よ、一闡提がいて、阿羅漢に似た姿をし、空閑の地に住んで、方等である大乗経典を誹謗す。ところが多くの凡夫たちはこの人を見て、真の阿羅漢であり、大菩薩摩訶薩であると思っている」とある。

迦葉
 梵語カーシャパ(kāśyapa)の音写。釈尊の十大弟子のひとり、摩訶迦葉とは別人。涅槃経迦葉菩薩品第12の対告衆。涅槃経では36の質問を発しているが、爾前経の会座にも連ならず、法華経の会座にも漏れた捃拾の機根の者。
―――
正法
 正しい法。邪法に対する語。
―――
護持
 ①教法を護り保つこと。②祈禱すること。
―――
因縁
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
―――
金剛身
 金剛とはダイヤモンドのこと。壊れないこと。壊すことのできないものを譬える。仏の境涯は、いかなるものでも壊すことができないので、仏身を金剛身という。また、仏の持つ三大秘法を受持することを、金剛宝器戒というのも同じ意である。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)とある。
―――
成就
 成し遂げること。仕上げること。
―――
五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
―――
威儀
 一般的には、重々しく畏敬すべき挙動。いかめしい立居振舞い。作法に適った動作、礼の細則。仏法的には、行住坐臥の四つに分け、四威儀と立てる。さらに分けて三千の威儀、八万の細行ともいう。しかし、これは戒を重んずる小乗教の説くところであって末法においては無用である。三世諸仏総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0750-01)とある。すなわち三大秘法を深く信じて、正法を護持する者は、いっさいの振る舞いが自然のうちに宇宙のリズムと合致し、威儀が整うのである。
―――
刀剣
 片刃のものを「かたな」といい、諸刃のものを「つるぎ」という。
―――
弓箭
 弓矢のこと。
―――
鉾槊
 鉾は剣のきっさいの意。槊は「ほこ」のこと。
―――
持戒清浄の比丘
 堅く戒律を持ち、煩悩の汚れを離れて清らかな僧。持戒は戒律を保つこと。
―――
守護
 ①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
―――
仏性
 無始無終に存続している仏になる性分。
―――
大涅槃
 涅槃は梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。③権大乗では他方の浄土へ往生すること。④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
―――
菩薩の清浄の持戒
 菩薩における清らかな持戒のこと。
―――
世間の戒
 通常、小乗戒のことをいう。
―――
受持
 受は受領の義でうけおさめること、持は憶持の義で、心身ともに銘記して、よく持ち続けること。正法をよく信じ持って、いかなることがあっても、違背・退転しないことをいう。四条金吾殿御返事には「此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-04)とある。
―――
戒を毀る者
 戒を謗り守らない者。
―――
大悪知識
 「悪知識」は、善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
―――
弟子
 師匠に従って教えを受け、師匠の意思を受け継いで実践し、それを伝える者。
―――
魔の眷属
 魔に同伴するもの。魔の仲間・眷属。
―――
決了
 決着をつけること。
―――
安楽行品
 法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
―――
声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
―――
優婆塞
 在家の男子をいう。
―――
優婆夷
 在家の女子をいう。
―――
親近
 親しみ近づくこと。
―――
問訊
 問いただす。訪問する。
―――
坊中
 寺院の中。
―――
経行の処
 体調を調え、心を落ち着けるためや、食後、休息するために、戸外や樹間を静かに散策するとこ。
―――
講堂
 仏教寺院にあって教義・法門などを講じたり、法要を営んだりする堂舎のこと。転じて学校や公共施設で講義する場所をいう。
―――
住止
 住みついて寝起きすること。
―――
親使
 身辺の仕事に人を使うこと。
―――
利養
 名聞名利にとらわれ、自己の利益のみを考えること。
―――
恭敬
 「きょうけい」とも読む。慎み敬うこと。五種の功徳の一つで、仏・菩薩が衆生を救うための振る舞い、説法などを慎み敬うこと。
―――
小乗の持戒
 小乗教における戒を持つこと。
―――
菩薩の煩悩
 菩薩の身心を悩ませる塵沙惑などの精神作用。
―――
頭陀
 梵語(dhūta)。淘汰・修治と訳す。身心を修治し、貪欲等を払いのける修行をいう。
―――
疾く無上の仏道を得と為す
 速やかに最高の悟りを得るとする速疾頓成をいう。無上の仏道は最高の悟りを得る成仏の境界。
―――
真の仏子
 真実の仏弟子、法華経の行者のこと。
―――
自法愛染
 自分の持つ教法に愛着すること。愛染は自分のものに執着することをいう。
―――
他人の法
 他人が信受している行法。
―――
毀呰
 そしりとがめること。
―――
持戒の行人
 戒をもって修行する人。
―――
地獄の苦
 地獄界で受ける苦しみ。
―――
破戒の因縁
 受けた戒法に違背する原因。
―――
大乗経典
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
愛楽
 愛し欲して願い求めること。
―――
キ経巻
 経文を書いた巻物。
―――
通利
 よく法門の深意に通達していること。
―――
書写
 経典を書き写すこと。五種の妙行の一つ。自行化他に分けて化他行の一種。
―――
阿耨多羅三藐三菩提
 梵語anuttara samyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。
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退転
 仏道修行を退き、もとの凡夫の生活に戻ること。
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安然
 (0841~0915)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
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広釈
 普通授菩薩戒広釈3巻のこと。天台宗の僧・安然の著。妙楽の授菩薩戒儀に基づいて12門に分け、菩薩戒を授ける儀式を解説している。
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律儀を持す
 本来、戒が修行する僧尼の主体的に守るべき戒めをいうのに対して、律は僧尼が順守すべき集団生活の規則を指したが、後には戒と律はほぼ同意に用いられるようになった。律義とは三婆邏の訳。三婆邏は等護・擁護・護・禁戒などと訳す。身口意の三業を守り悪道に堕とさない功徳のあるものをいう。不殺・不盗。不婬の三つを身律儀・不両舌・不悪口・不妄語・不綺語の四つを語律儀、正智・正念は意を制して防非止悪となるので意律儀に分けられる。さらに、律儀は無表の戒体をいうものとされる。
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善法を摂せざれば
 善い法を体得しなければの意。善法は一切衆生を幸福に導く道理にかなった正法。
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猶木石の衣鉢を帯持せるが如し
 ちょうど木や石の像が袈裟を着て鉢を持っているようなもので、律儀を持っている僧尼には衆生を救済する力が何もないことをたとえる。
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阿蘭若の比丘
 人里離れた閑静な場所にいる出家僧。
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阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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坐禅
 端坐して禅の修行をすること。
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多聞
 ①多聞天のこと。毘沙門ともいう。四天王の一。常時、如来の道場を守り、法を聞くことが最も多いことからの名。北方を守る仏法守護の神将。甲冑をつけ、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠または鉾を持った姿で表される。日本では福徳の神。②数多くの教えを聞いて、決して忘れず持ち続けること。
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 ①禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。②座禅による仏道修行法。
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漏尽の法
 煩悩を断じ尽くした悟りの法のこと。
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声聞の利益
 声聞が小乗を修行して得る利益。利益は仏の教えに従って行動することによって得られる恩恵・救済・功徳。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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無量百歳
 無量も百歳も、ともに長い年月をあらわす。仏滅後、正法から像法・末法へと時が移る年月。
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四道の聖人
 四道とは①須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四果のこと。②初依・二依・三依・四依のことで、四依を聖人ともいう。聖人の聖とは耳がよく通って、声がよく聞こえることを意味する。普通の人の聞きえない天の声をよく聞きうる人。儒教では、智慧がすぐれて万時に通達し、万人の仰いで師表とすべき理想の人物をいった。堯・舜・孔子等がそれで、唐以降は天子の尊称として用いられた。仏法においては、智慧が広大無辺で、慈悲深く、その時に適った正法を持ち、民衆を救済する指導者、正師・仏の事。
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像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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 顔・姿・外観・振舞い。
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持律
 戒を持つこと。戒を持つ者。
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経を読誦
 経文に随って読経すること。
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飲食を貪嗜
 法華経勧持品第13の文。飲食とはむさぼり好むこと、貪嗜とは飲食におぼれること。これらは聖僧にあらざる姿である。
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袈裟を服す
 僧衣を身につけること。
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羅漢
 阿羅漢のこと。声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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糞穢
 糞尿で汚れているような所。
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眠臥
 眠り伏すこと。
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賢善
 賢明で善良であること。
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貪嫉
 貪欲ゆえの激しい嫉妬。
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唖法
 バラモンの修行の一つで、無言の行、人に向かってものをいわず、唖のように黙り込んでしまうのを至道とする。邪宗の僧が、偉そうな恰好ばかりで、説法もできなければ、信者の指導もできず、法門のことを聞かれても、答えられないことをいう。 
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婆羅門
 インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
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沙門
 梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
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邪見熾盛
 仏法の因果の理法を否定する邪悪な考え方が激しく盛んなこと。
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誹謗
 悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。
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甚深秘密の教
 はなはだ深奥で、人智をもってしては計り知ることができないほど優れた教。
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経律論
 仏法の経典を経蔵・律蔵・論蔵の三種類に分類した三蔵の経蔵と律蔵。経蔵は一切の教義を蔵める義、経とは仏の教説を集成した経典、律とは仏の定めた修行上の戒律。
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一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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空処
 しずかなところ。
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方等大乗経典
 方広平等な大乗経典。釈迦一代のもろもろの大乗経典。
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凡夫人
 凡夫の位に住する人のことで、おろかな凡庸の人間のこと。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す人をいう。
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真の阿羅漢
 まことの聖者。
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大菩薩摩訶薩
 大菩薩と摩呵薩を重ねていったもの。①大菩薩、無上菩提を求める人のこと。利他を根本とする大乗の衆生。②摩呵薩、菩薩と同意。
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 ここからは、小乗・念仏・真言・善の諸宗が仏説の本意に背いていること、また仏法上の重要な事柄について、判断の基準たる経・論を示されていく。その第一として小乗の戒を破折し排除した経文や論釈を引用されている。
 全般的に、小乗の戒を重んじる宗派は日蓮大聖人の時代にはほとんど姿を消していたが、唯一、律宗が極楽寺良観によって勢力を挽回していた。おそらく、そうした良観の一門を破折する要点となる経典として示されたのであろう。
 まず、涅槃経巻三の文が引かれ、ここでは、釈尊が迦葉菩薩に対して、自ら金剛不壊の仏身を得ることができたのは小乗戒の受持によるのではなく正法護持の功徳によるという体験を通して、正法を護持する行為こそが大事であって、いわゆる不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の小乗の五戒やその他の小乗の五戒やその他の小乗の戒律を修めることよりも、正法を持つ「浄戒清浄の比丘」を、必要とあらば武器をもって護るべきであると説いている。
 第二の引文は、この経文中「持戒清浄」について示すために涅槃経に巻十七から引用されたものである。すなわち仏性を見ることが大涅槃を獲得することであるから、仏性を見ることこそが大乗の菩薩の持戒清浄であるとし、小乗の五戒などを含む次元の低い世間の戒ではないと破っている。そこで「世間の戒」とあるのは、世欲における一般的な戒めや規範であるとともに、世間一般に考えられている戒、すなわち小乗の五戒や十戒などを指している。
 だからといて、安易に戒律そのものを否定するものでないことを涅槃経の同じ第十七巻の文を引用することで明らかにされている。
 「是の経を受持して戒を毀る者」の「是の経」とは直接的には涅槃経であるが、究極的には法華経の妙法である。戒を持つか正法を護持するかという二者択一を迫られる場面では「正法護持」を優先すべきであるが、だからといって戒そのものを不要としたり、ましてや「毀る」のは仏の本意に背くことになるのである。
 正法を受持しながら戒を毀謗する者は衆生にとっての大悪知識であるとともに、釈尊の弟子ではなく魔の眷属であると厳しく戒めている。
 次に、法華経法師品第十と安楽行品第十四から引用されている。法師品のそれは「深経」すなわち、法華経の甚深の教えによって声聞たちの未来の成仏が明確化され、声聞の法が会入されて法華経こそ諸経の王であることが明らかになったことを示している。
 この法師品の「声聞法を決了す」とは、法師品の前の授学無学人記品第九までで三周の説法により二乗作仏・開三顕一が確定したことによって、声聞の法も一仏乗の中に会入されたことをいう。日蓮大聖人は十法界明因果抄に、「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」の文を引かれ「阿含経即ち法華経と云う文なり」(0437-09)と述べられている。
 このように声聞の法すなわち小乗阿含経は法華経の体内に会入されたのであるから、声聞の法を法華経とは別に求めようとする四衆は仏の教えに背いていることになる。故に、次の安楽行品のそうした声聞を求める輩には近ういてもならないし、仏法について問尋してもならないし、共に住止してもならないと戒めた文が示されるのである。
 そのあと引かれている伝教大師の顕戒論の文は、この趣旨をさらに強い調子で述べている。大乗菩薩道を求める人には小乗の二乗が行う持戒精進は破戒懶惰という逆効果しかもたらさないとし、従って、もし二乗がやってきたならば「法を説いて」破折し教導すべきである、と。すなわち、人を使ったり、我が身の利養や人から恭敬されることを願ったりしてはならない、と説きなさいというのである。法華宗句の「小乗の持戒は則ち菩薩の煩悩なり」も全く同じ趣意を表している。
  見宝搭品第十一の「此の経は持ち難し」云々の文は、法華経を受持することが諸仏の讃嘆するところ、すなわち成仏の道であるという「受持即観心」と、従って法華経受持が最も難事である故に真の勇猛精進であり、小乗経典で説かれた頭陀行も、本意はここにあるとして「受持即持戒」を明かしている。前述した、声聞の法も法華経の体内に会入されるとは、このことである。
 次の「竜樹菩薩の大論に云く」の文は、自分が持った法に執着するあまり他人の行じている法を毀呰する者は、たとえ戒律を持って行じている人といえども地獄に堕ちることを免れないと戒めている。
 なお、この文がここで引用されたのは、これまで小乗・声聞の持つ教法を菩薩の持つ大乗なかんずく法華経の教法から打ち破る文や論を引用してきたことが、この大智度論の「他人の法」を毀呰してはならない。との警告があたるのではないか、という反論を予想されたからであろうと推側される。
 これに対して、小乗・声聞の戒を破ってもよいとの釈迦仏の言葉を涅槃経巻十二から引用して、反論への答えとされている。
 その内容は、釈迦仏が迦葉菩薩に告げて言うのに、ある菩薩が小乗の戒を破ることによって、人に大乗経典を受け持たせ、この経典に愛着を持ち、願い求めさせることができると知り、また、その人をして大乗経典を読誦させ、法門に通じさせ、書写させ、さらには他の人にも広く大乗を説いて無上の悟りから退くことがないようにすることができると分かれば、その場合は菩薩はあえて小乗の戒を破ることが許される、というものである。
 つまり、菩薩が人々をより大乗経典に親しませ、かつ大乗の無上の悟りを維持させることができるならば、小乗・声聞の戒を破っても問題はないということである。
 要するに、大切なのはどのような法を根本とするかにあるということである。そのことを次の日本天台宗の安然の広釈からの引用文は説いている。
 すなわち、法華経を人に説くことが「持戒」ということであり、たとえ小乗で言うような250戒500戒などの戒律を護持していても、「善法」すなわち法華経の伝持ということがそこになければ、まるで木や石の像が袈裟を着て鉢を持っているようなものである、と厳しく指摘している。「木石の衣鉢を帯持せるが如し」とは、俗に「仏を造って魂を入れず」というのと同じで、形だけ木や石で仏の像を造り、衣を着せ、鉢を持たせて、仏の魂を入れなければ、何の働きも顕さないという意味である。この「仏の魂」が法華経であり、この像を仏道修行者である菩薩や声聞とすると、法華経を受持し伝弘する実践がこの「魂」に当たる。その場合、衣鉢に当たるのが「律義」で、必要なものはあっても第一義的な条件ではないのである。
 また、次に、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻四に引かれている大智度論巻十九の文を引用されている。その内容は比丘たちが仏に、阿蘭若、すなわち閑静な場所で修行していたある比丘が亡くなったが、いま、どこに生じているかと問うたのに対し、仏が阿鼻地獄に生じている、と答えたので、驚いた比丘たちがその比丘は生前、座禅し戒を持っていたのに、そのようになるのか、と問い直したのに対して、仏が多聞や持戒や禅の修行ではまだ「漏尽の法」すなわち、煩悩を断じ尽くした悟りの境地を獲得できていないからであると答えたというものである。
 ここにも、小乗の持戒では悟りを得ることができない、として破っているわけであり、さらに、伝教大師伝の中から大師が弟子たちに対して告げた誓いの言葉をもって裏付けとされている。すなわち、これより以後は声聞の修行をして得られる利益を受けようとは思わないし、250戒を捨ててしまうことを誓う、というものである。
 次いで、涅槃経から二つの文が示されている。初めの「我涅槃の後・無量百歳に」の文は、日蓮大聖人が立正安国論をはじめ多くの御書に引用されており、ことさら説明を要しない。仏の涅槃のあと「無量百歳」とは千年・二千年と経つ間に、ということで、「正法滅して後像法の中に於いて」とは、権密に正法・像法・末法と分けた中の像法時代という意味ではなく、正法が滅び、像法が形骸化した時代を指している。この仏教形骸化の時代には「持律」「袈裟」など外面的には聖僧の姿を装っているが、中身は経も読誦せず、飲食を貪り、猫が鼠を狙うように信徒から布施を取ることしか考えない。まさに形骸化した修行者が充満すると予見し、そのような輩にだまされることのないよう警告した文である。
 あとのほうの「涅槃経巻九」の文は、このような仏法に違背し、正法・大乗経典を誹謗する悪比丘の邪悪さだけでなく、この邪法の僧を真の阿羅漢・大菩薩摩訶薩なりと思い込む一般大衆の愚かさを厳しく指摘されている。

0645:16~0646:14 第13章 自害・断食等の禁止を明かすtop
16   一、善導和尚自害の事
17   類聚伝に云く「導・此の身諸苦に逼迫せられて情偽反易し 暫くも休息すること無し、乃ち所居の寺の前の柳樹
18 に登つて西に向て願つて云く 仏の威神驟以て我を摂し観音・勢至も 亦来て我を助け給え、此の心をして正念を失
0646
01 わざらしめ驚怖を起さず弥陀の法の中に於て 以て退堕を生ぜざらんと願し 畢つて其の樹の上に極り身を投じて自
02 ら絶えぬ」
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   一、善導和尚が自害したこと
 類聚五祖伝に「善導はこの身がもろもろの苦に追い詰められ、情緒が変動し安定しないで、しばらくも休息することがなかった。すなわち、住んでいた寺の前にある柳の木に登って、西に向かって『仏の威勢のある神通は速やかに私を包み込み、観音菩薩・勢至菩薩もまた来て私を助けてください。この私の心に正念を失なわせないようしてください。驚き怖れる念を起こさないで、阿弥陀仏の法の中において、退歩・堕落しないようにしてください』と願い終って、その木の上まで登り、身を投げ自ら命を絶った」とある。
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03   一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事
04   涅槃の七に云く「若し説いて言えること有らん 常に一の脚を翹げて寂嘿として言わず淵に投じて火に赴き自ら
05 高巌より墜ち嶮難を避けず毒を服し食を断じ灰土の上に臥し自ら手足を縛つて衆生を殺害せん、 方道・咒術・旃陀
06 羅の子・無根・二根及び不定根・身根不具ならん、是くの如き等の事・如来悉く出家して道を為すことを聴し給うと
07 いわば是を魔説と名く」云云、 涅槃経の六に云く「大乗を学する者は 肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す耳鼻五根
08 も例して亦是くの如し」云云、 像法決疑経に云く「諸の悪比丘・我が意を解せず己が所見を執して 十二部経を宣
09 説し文に随つて義を取り決定の説と作さん、 当に知るべし此の人は三世の諸仏の怨なり 速かに我が法を滅せん」
10 云云、涅槃経の十四に云く「如来・世尊は大方便有り無常を常と説き・常を無常と説き・楽を説いて苦と為し・苦を
11 説いて楽と為し・不浄を浄と説き・浄を不浄と説き・我を無我と説き・無我を我と説き・非衆生に於て説いて衆生と
12 為し.実の衆生に於て非衆生と説き・非物を物と説き・物を非物と説き・非実を実と説き・実を非実と説き.非境を境
13 と説き・境を非境と説き.非生を生と説き・生を非生と説き・乃至・無明を明と説き・明を無明と説き.非色を色と説
14 き・色を非色と説き・非道を道と説き・道を非道と説く」云云。
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   一、仏は自害・断食・身根不具を禁じていること
 涅槃経巻七に「もしも『常に一本の足の爪立てて静かに黙って、ものをいわない、また川の深い所に身を投じたり、火の中に入ったり自ら高い岩から落ちたり、険しい山道を好んで歩いたり、毒を服したり、食物を断じたり、灰の土の上に伏したり、自ら手足を縛る行をしたり、あるいは殺害しようとする。また方角占い、呪いの術を行う者、旃陀羅の子、男根と女根ともに具えない者、男根または女根を二つ具える者および男根か女根か定まらない者、または身根を具えない者、このような者でも、ことごとく出家して仏道をなすことを如来は許す』というならば、これを魔説と名付ける」とある。
 法華玄義巻二に「涅槃経巻六に『大乗を学ぶ者は肉眼があるといっても、仏眼とする』とある。耳根・鼻根などの五根についても同じである」とある。
 像法決疑経に「もろもろの悪比丘は私の真意を理解しないで、自分の見解に執着して十二部経を宣べ説き、文に従って意味を取り、それを決定した説となすであろう。まさに知りなさい。この人は過去・現在・未来の三世のもろもろの仏の怨である。速やかに私の法を滅ぼすであろう」とある。
 涅槃経巻十四に「如来・世尊は大きい方便を用いる。無常を常と説き、常を無常と説き、楽を説いて苦となし、苦を説いて楽となし、不浄を浄と説き、浄を不浄と説き、我を無我と説き、無我を我と説き、非衆生において説いて衆生となし、実の衆生において非衆生と説き、非物を物と説き、物を非物と説き、非実を実と説き、実を非実と説き、非境を境と説き、境を非境と説き、非生を生と説き、生を非生と説き、また無明を明と説き、明を無明と説き、非色を色と説き、色を非色と説き、非道を道と説き、道を非道と説く」とある。

善導和尚自害の事
 善導は、613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。彼の自害については、念仏無間地獄抄に「之に依つて忽ちに物狂いにや成けん所居の寺の前の柳の木に登りて自ら頚をくくりて身を投げ死し畢んぬ邪法のたたり踵を回さず冥罰爰に見たり、最後臨終の言に云く此の身厭う可し諸苦に責められ暫くも休息無しと即ち所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ」(0099-14)とある。
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類聚伝
 法然の著、類聚浄土五祖伝のこと。中国浄土宗の祖師といわれる曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の五人の伝歴を記したもの。このなかで善導の自害の様子が記されている。
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 善導のこと。613年~681年。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名(南無阿弥陀仏ととなえること)を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
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諸苦
 諸々の苦しみ。
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逼迫
 さしせまる、危険・苦痛。
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情偽反易
 感情の変化が激しいこと。
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所居の寺
 居住している寺。
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柳樹
 柳の木。
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仏の威神
 仏の威厳があって尊い威光。すぐれた威力。
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観音
 観世音菩薩のこと。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
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勢至
 勢至菩薩のこと。サンスクリットではマハースターマプラプータといい、大きな力を得た菩薩の意で、法華経では「得大勢菩薩」(法華経72㌻)と訳される。観音菩薩とともに阿弥陀仏の脇士として、阿弥陀仏の向かって左に安置され、智慧を象徴する。
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正念
 正しい念慮(思い・考え)をもつこと。仏道を歩み続け成仏を確信し、大満足の心で臨終を迎えること。日蓮大聖人は南条時光に「故親父は武士なりしかども・あながちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」(1508㌻)と仰せである。
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驚怖
 驚き恐れること。
―――
弥陀の法の中
 阿弥陀仏の法の世界のうち。
―――
退堕
 退き、驚くこと。
―――
自ら絶えぬ
 自害・自殺すること。
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仏自害・断食・身根不具を禁ずる
 仏は自殺・断食等、身体に苦痛を与え、満足することを禁じている。
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寂嘿
 静かに黙すること。
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高巌より墜ち
 高い岩から落ちること。
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嶮難を避けず
 険しい山道を避けないこと。
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殺害
 殺し害すること。仏法では殺生を最も重罪とする。
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方道
 方位をもって一切を推計しようとする外道の教え。
―――
咒術
 呪いの述。恨みを抱いている人に対して、災いや悪いことが起こるよう祈禱すること。
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旃陀羅の子
 殺者や屠者の子。
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無根
 ①信根や善根のないこと。初めは信心がなく後に仏力・法力によって信ずる心の生ずること。見根・聞根・疑根のないこと。②男根と女根をともに具えない者。
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二根
 ①男根と女根。②利根と鈍根。③扶塵根と勝義
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不定根
 ①六根が定まらないこと。②男根と女根がはっきり定まらないこと。
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身根不具
 根が具わない者。身体の一部に欠陥があること。身体障害者。
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出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
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魔説
 煩悩をはじめ衆生の心を悩乱させる経説。
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肉眼
 人間の肉体に具わる眼。普通の人間の眼。
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仏眼
 仏があらゆる人々を救済するために備える五眼のひとつ。仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」とある。
―――
耳鼻五根
 六根のうちの意根を除く五根。目・耳・鼻・舌・身根のこと。
―――
悪比丘
 比丘とは梵語で、仏法に帰依して具足戒を受けた男子。悪比丘とは、名利のために形ばかり比丘となり、邪法を説く輩。出典は仁王般若波羅蜜経嘱累品。
―――
十二部経
 十二部とも十二分教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
―――
決定の説
 意義が定まって動じない経説。
―――
三世の諸仏の怨
 過去・現在・未来の多くの諸仏の恨み。
―――
如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
―――
世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
―――
大方便
 大いなる巧みな手段。一見矛盾しているように見えるが、実は真実に導くための仮の経説。
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無常を常と説き・常を無常と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。常は過去・現在・未来にわたって常に存在し、生滅変化がないこと、無常は生滅変化すること。
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楽を説いて苦と為し・苦を説いて楽と為し
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。楽は楽しみ、生命の快い状態、不楽は苦しみ、身心を悩ます状態。
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不浄を浄と説き・浄を不浄と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。浄は清らかなこと、不浄は汚れていること。
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我を無我と説き・無我を我と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。我はすべてのものの根源に内在しているそれぞれの個体を統一し支配する不変の実体。無我はその実体がないこと。
―――
非衆生に於て説いて衆生と為・実の衆生に於て非衆生と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。衆生は有情ともいい、無明・煩悩をもち、迷いの世界に住む人、非衆生は衆生ではないこと。
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非物を物と説き・物を非物と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。物は形をもった物体・衆生・生き物・自性、非仏はその反対。
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非実を実と説き・実を非実と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。実は真実・実教・実経、非実はその反対。
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非境を境と説き・境を非境と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。境は六境(色・声・香・味・蝕・法)、非境は境にあらざるもの。
―――
生を生と説き・生を非生と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。生は生まれること・生きること・命、非生はその反対。
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無明を明と説き・明を無明と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。無明は成仏を妨げる一切の煩悩の根本、明は悟り・法性。
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非色を色と説き・色を非色と説き
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。色は物質的存在の総称。無色は精神的存在の総称。
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非道を道と説き・道を非道と説く
 華厳経巻14・大方便を示す中の文。道は無上菩提の仏果のこと、非道は悟りを得られない誤った修行。
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 ここでは、
   「一、善導和尚自害の事」
 として、中国の浄土宗の祖師の一人であり、日本の浄土宗の法然が最もよりどころとしていた善導の自害の事実を取り上げ、次に、それが仏の戒めに反する行為であることを
   「一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事」
 として、涅槃経からの引用によって明らかにしている。
 まず、善導が浄土往生を願って自害したことを法然の類聚浄土五祖伝の文を引用して紹介されている。類聚伝の記述は中国・栄代の戒珠の浄土往生伝によるものである。すなわち、善導が自分の身体にもろもろの苦しみが迫り来たり感情の変化も激しく移り変わり少しも休む間がないので、自分が住んでいる寺の前の柳の樹に登り、西の方角に向かって次のように願ったという。「願わくは仏の威力が自分にとどき、観音・勢至の二菩薩もやってきて自分を助けて自分の心が正念を失わず、恐怖もおこさず、阿弥陀仏の法の中に救われて落ちないようにしていただきたい」と、このように願い終わった後、樹上から身を投じて自害したというものである。浄土宗では、極楽往生を理想とする念仏信仰の手本としてこのエピソードを伝えたのであるが、日蓮大聖人は、自害を禁じた仏の教えに背く行為であることを、次の   「一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事」
 の項で涅槃経の文を挙げて示される。
 初めに涅槃経巻七の文は邪正品第九の文で、仏が迦葉菩薩に、仏の所説に随う者を菩薩とし、魔の所説に随う者を魔の眷属とする、として立て分けている個所からの引用で、ここに引用されているのは魔説の一つとして挙げたところである。その内容の中心は、身体を痛めつけるさまざまな外道の苦行をなす者も、出家して成道を成就できることを如来は許しているとする説についてである。逆にいえば「身体を痛めつける苦行では成仏できない」というのが仏の教えであるということである。そうした苦行の具体例として、沈黙して一本の足で立ち続けていたり、河川の深い所や火の中や高い上の岩から身を投じたり、毒を飲んだり断ち切ったり、灰土の上に寝たり、自分の手足を縛ったり、衆生を殺したり、方角占いや呪いの術を行ったり、その他、身体を満足でないようにするなどが挙げられている。
 次いで、涅槃経巻六の四依品第八を引用し、なぜ自害や断食や身根不具が禁止されるのかという理由を挙げている。すなわち、大乗を学ぶ者は人間の肉体に具わる通常の肉眼であっても、それが仏の具える眼となるという涅槃経巻六を引いて、この原理は耳・鼻・舌・身にも当てはまるとしている天台大師の法華玄義巻二の言葉を挙げている。大乗を学べば父母から受け継いだ身根のままで、仏の身根を持つ者となるのであるから、苦行によって、身体を自ら殺害したり、断食したり、身体の一部を不具にしたりすることは、明らかにこの仏説をないがしろにした行為となるのである。
 さらに続けて引用されている像法決疑経、涅槃経の二文は、仏滅後、仏教が形骸化し滅びていく根本原因として、仏の真意によらないで我見で解釈する悪比丘が充満することを指摘したものとして挙げられている。
 この二文は、むしろ順序を逆にして読んだほうが、その引かれた真意を理解しやすい。すなわち、涅槃経巻十四に述べられているように、仏は「大方便」を用いて、一見すると矛盾するような説き方もされている。そのため、像法決疑経にあるように、仏の滅後には、仏が説いた十二部経を、仏の真意から外れた我見によって解釈し、邪見を広める悪比丘が多く現れる、というのである。
 仏があくまで方便として説いた極楽往生や阿弥陀仏の慈悲を仏教の根本であるかのように主張する浄土教・浄土宗がまさに、この「悪比丘」の例であるとし、自害・自殺を禁じた仏説を無視して、善導の最後を美談化していることも、この「悪比丘の邪説」の類となることが明らかである。

0646:15~0648:06 第14章 二種の阿弥陀の存在を示すtop
15          ┌父は月浄転輪王・鼓音声陀羅尼経の説なり
16   浄土宗の阿弥陀┼浄土宗の阿弥陀 誓願は執持名号往生極楽
17          └正覚は十劫已来なり 
01          ┌父は大通智勝仏なり     0647
02   法華宗の阿弥陀┼誓願は常楽の説・是妙法蓮華経なり                         ・
03          └正覚は三千塵点劫なり
-----―          ┌父は月浄転輪王である。鼓音声陀羅尼経の説である。
   浄土宗の阿弥陀┼誓願は阿弥陀仏の名号を堅く持ち往生極楽すつこと。
          └正覚は十劫以来である。 
          ┌父は大通智勝仏である。
   法華宗の阿弥陀┼誓願は、常に願って。この妙法蓮華経と名ずく。
          └正覚は三千塵点劫である。
-----―
04  薬王品に云く「若し女人有つて是の経典を聞いて説の如く修行せば此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏・大
05 菩薩衆の囲繞せる住処に往き蓮華の中宝坐の上に生ず」云云、 疏記の十に云く「若し女人有つて等とは此の中只是
06 の経を聞くことを得、  説の如く修行すと云う即ち浄土の因更に観経等を指すことを須いざるなり、 問う如何が
07 修行する答う既に如説修行と云う即ち経に依て行を立つ 具さに分別功徳品の中直ちに此の土を観ずるに 四土具足
08 するが如し故に此の仏身・即三身なり」云云、 「自在所欲生」云云、方便品に云く「舎利弗・如来但一仏乗を以て
09 の故に衆生の為に法を説く余乗の若しは二若しは三有ること無し」云云、 安楽行品に云く「無量の国中に於て乃至
10 名字を聞くことを得可からず」 陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を 受持せし者を擁護せんすら福量る可から
11 ず」釈籤の一に云く「名は即ち是体・文字解脱なり」又云く「次に経題を釈す初めには妙法の両字は通じて本迹を詮
12 す蓮華の両字は通じて本迹を譬う」 疏記の一に云く「妙法の唱は唯だ正宗のみに非ず 二十八品倶に妙法と名くが
13 故に、 故に品品の内に咸く体等を具し句句の下に通じて妙名を結す」云云、 薬王品に云く「若し復人有つて七宝
14 を以て三千大千世界に満て て仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん是の人の得る所の功徳此の法華経の乃至一
15 四句偈を受持する其の福最も多きに如かず」 又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も 亦復是くの如し一
16 切衆生の中に於て亦為れ第一なり」 又云く「此の経は能く一切衆生を救う者なり 此の経は能く一切衆生をして諸
17 の苦悩を離れしむ 此の経は能く大いに一切衆生を饒益して 其の願を充満す」と勧発品に云く「若し復是の経典を
18 受持する者を見て 其の過悪を出さば若しは実・若しは不実にもあれ此の人は 現世に白癩の病を得ん、 若し之を
0648
01 軽笑すること有らん者は 当に世世に牙歯疎き欠け醜脣平鼻・手脚繚戻し眼目角ライ・身体臭穢にして悪瘡・膿血・
02 水腹・短気・諸の悪重病あるべし、 是の故に普賢若し是の経典を受持する者を見ては 当に起つて遠く迎えて当に
03 仏を敬うが如くすべし」 涅槃経の十三に云く「我爾の時に於て思惟し坐禅し 無量歳を経れども亦如来出世の大乗
04 経の名有ることを聞かず」 文句の五に云く「所以は経に出でたり人の語を信ずること勿れ」 同三に云く「たとい
05 百千種の師あつて一一の師・百千種の説を作すとも 是れ権ならざるは無し、 如来の所説有る尚復是れ権なり況や
06 復人師をや、寧ろ権に非ざることを得んや前に出す所の如きは悉く皆権なり」
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 法華経薬王菩薩本事品第二十三に「もし女人がいて、この経典を聞いて説の如く修行するならば、命が終わって、直ちに安楽世界の阿弥陀仏と大薩衆に囲む住所に往き、蓮華の中の宝座の上に生まれる」とある。法華文句記巻十に「もし女人がいて等とある文は、この中で、ただこの経を聞くことができるということである。説の如く修行するというのは、浄土の因更に観無量寿経などを指すとする説を用いないのである。問う、どのように修行すればよいのか。答える、すでに説の如く修行するというのは、経に依った行を立てることで、法華経分別功徳品の中に、直ちにこの土を観照すると、同居土・方便土・実報土・寂光土の四土が具わっているとあるのがそれである。故に、この仏身は即、三身である」とある。
 法華経法師品第十に「生ぜんと欲する所に自在である」とあり、同経方便品第二に「舎利弗よ、如来はただ一仏乗による故に、衆生のために法を説く。それ以外の二乗もしくは三乗はない」とあり、同経安楽行品第十四に「極めて多い国中において、法華経の名称さえも聞くことができない」とあり、同経陀羅尼品第二十六に「あなたたちは、ただよく法華経の名を受持した者を護るであろう。その福は量ることができない」とある。法華玄義釈籤巻一に「名はそのまま体であり、文字によって解脱がある」とある、また「次に経題を解釈する。初めには妙法二字は通じて本迹二門の所詮である。蓮華の二字は通じて本迹二門を譬える」とある。法華文句記巻十に「妙法と名付けることはただ正宗分のみではない。二十八品をすべて妙法と名付けるのである。故に品々の内ことごとくに体などを具え、句々の下に通じて妙法の名称を結んでいる」とある。
 法華経薬王品第二十三に「もし人がいて金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝をもって三千大千世界に満たし、仏および大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養する人の得るところの功徳は、この法華経のわずかな一四句偈を受持する、その福の最も多いのには及ばない」とあり、また「よくこの経典を受持す者も、またまたこのようである。一切衆生の中においてもまた第一である」とあり、また「この経はよく一切衆生を救うものである。この経はよく一切衆生をして多くの苦悩を離れさせる。この経はよく一切衆生をして多くの苦悩を離れさせる。この経はよく大いに一切衆生を豊かに利益し、その願を満足させる」とある。
 同経勧発品第二十八に「もしまた、この経典を受持する者を見て、その罪悪を出すならば、それが真実にせよ、真実でないにせよ、この人は現在の世に白癩の病を得るであろう。あるいはこの者を軽んじ笑う者は、まさに歯がまばらに欠け、醜い唇、平らな鼻となり、手足がねじ曲がり、瞳の方角が偏り、身体が臭く汚く、悪性の腫れ物、膿の混ざった血、濁水の溜まった腹、呼吸困難などのもろもろの悪い重病があろう。この故に普賢菩薩よ、もしこの経典を受持する者を見るならば、立ち上がって遠くから迎えて、まさに仏を敬うようにしなさい」とある。
 涅槃経巻十三に「私はその時に思惟し坐禅し無量歳を経たけれども、また如来出世の大乗経の名があることを聞かない」とある。 
 法華文句巻五に「理由は経に出している。人師の言葉を信じてはいけない」とあり、同巻三に「たとい百千種の師がいて。一々の師が百千種の説をなしても、権でないものはない。如来の所説であっても、なおまた、これは権である。ましてや人師においては寧なおさらである。どうして権でないことがあろうか。前に出すところの人師の教説はことごとくすべて権である」とある。

浄土宗の阿弥陀
 浄土宗が立てている阿弥陀仏。浄土三部経のうち無量寿経で説かれる。浄土宗では、この阿弥陀仏を本尊として、その本願を信じて、念仏することによって、西方極楽浄土に往生できると説いている。阿弥陀仏はアミターユスの部分の主音。無量光仏・無量寿仏と訳す。西方極楽世界の教主。無量寿経によれば、無量劫の過去にある国主が菩提心を発して、王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、世自在応仏を師として48願を立てて修行し、願成就して阿弥陀仏となり、西方極楽世界に住して衆生を済度していると説いている。インドでは無量寿仏の結集によって広く阿弥陀信仰が起こったが、漢訳と共に中国に渡り、日本では特に平安時代に源信の往生要集が出てから盛んとなった。阿弥陀仏の称名念仏と共に日本全国に伝播した。
―――
月浄転輪王
 阿弥陀の父の名。阿弥陀鼓音声王陀羅尼経に「阿弥陀仏如来応正遍知、父を月上転輪聖王と名づけ、其の母を名づけて殊勝妙顔と曰い、子を月明と名づく」とある。釈迦一代五時継図に「月浄転輪王」とあるのは「月上転輪聖王」の何らかの転写ミスか。
―――
鼓音声陀羅尼経
 阿弥陀鼓音声王陀羅尼経の略。さらに略して鼓音声経。中国・梁代の訳出とされる。説処は中インドの膽波大城の伽伽霊池、1巻。阿弥陀仏の名号を受持・読誦すると10日のうちに阿弥陀仏に会い、宝蓮華の中に往生できると説き、また阿弥陀仏の国名は清泰・父の名は月上浄転輪王・母の名は殊勝妙顔、子の名は月明という等と明かしている。
―――
誓願
 誓いを立てて願うこと。仏・菩薩が衆生を救うとの誓いを立てて、その成就を願うことをいう。諸仏・菩薩の請願には①総の請願(仏・菩薩が立てるべき請願・四弘誓願等)②別の請願(阿弥陀仏の48願・薬師如来の12願・釈尊の500大願等)がある。
―――
執持名号往生極楽
 阿弥陀仏の名号を執持し極楽に往生すること。名号は諸仏のそれぞれの名称。名と号は同義。往生極楽は、この世を去って阿弥陀仏の西方極楽浄土に往き生まれること。この現実世界を穢土とし、仏の住む清浄世界を浄土とするが、仏によってさまざまな十方の浄土が説かれる。
―――
正覚は十劫已来なり
 浄土宗の阿弥陀仏が悟りを得たのは10劫以来のことである。正覚は正しい悟り、宇宙の究極の真理を正しく覚ること。正等覚・等正覚ともいう。劫は分別時節・大時・長時・時のこと。日時で測ることのできない極めて長い時間を表すのに用いられる。
―――
法華宗の阿弥陀
 法華宗で説く阿弥陀。法華経化城喩品第7に説かれる仏。三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏の16王子の9番目の王子。西方極楽世界に住している。法華経薬王品第23でも、末法に女人が法華経を聞いて如説修行すれば阿弥陀仏の浄土に往生するとしてえいる。釈迦分身の阿弥陀仏である。
―――
大通智勝仏
 三千塵点劫の昔にいたという仏。化城喩品には「乃往、無量無辺不可思議阿僧祇劫、爾の時に仏有ましき、大通智勝如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づく。其の国を好成と名づく、劫を大相と名づく」とある。大通智勝仏は二万劫の間法華経を説かなかった。大通智勝仏に十六の子供があった。その十六人の子供の請によって、二万劫過ぎてから妙法蓮華経を説いた。その時十六王子および小分の声聞は信受して法華経を得たが、多分の衆生は疑いを起こして信じなかった。そこで後に16王子は父の説を繰り返して法華経を説いた。これを「大通覆講」という。またこれによって、その時の衆生は、ようやく信解することができた。この十六番目の王子が釈尊で、その時の下種を大通下種という。
―――
常楽の説・是妙法蓮華経
 法華経化城喩品第7には「是の十六の菩薩は、常に楽って、是の妙法蓮華経を説く」とある。大通智勝仏の子である16王子は妙法蓮華経を説くことを常に楽っていたとする文。阿弥陀仏は16王子の第9子である。
―――
妙法蓮華経
 ①経典の名前。②法華経に説かれる法理。③所詮の法体。南無妙法蓮華経のこと。三大秘法のこと。
―――
三千塵点劫
 法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
―――
薬王品
 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。
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命終
 寿命を終えること。死ぬこと。
―――
安楽世界
 阿弥陀の住する世界。安楽は極楽・安養のこと。諸々の苦悩がなく安穏で、ただ快楽のみがあるゆえに安楽という。
―――
囲繞
 囲みめぐらすこと。取り囲むこと。守りを固めること。
―――
宝坐
 仏・菩薩の座する場所。
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浄土の因
 浄土に往生する因のこと。浄土宗では浄土の三部経による修行を正行とし、それ以外の修行を雑行とした。法然は正行を浄土往生の要行として取り、雑行を捨てるべきであると説いた。
―――
如説修行
 「説の如く修行す」と読み下す。仏が説いた教え通りに修行すること。法華経如来神力品第21に「汝等は、如来滅して後に於いて、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし」(法華経572㌻)と説かれている。
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経に依て行を立つ
 法華経の経文をよりどころとして、その修行法を立て実践すること。
―――
此の土を観ず
 娑婆世界を観照すること。この土は衆生の住む現実世界。
―――
四土具足する
 四種類の国土がすべてそなわること。四土は凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土。
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此の仏身・即三身なり
 法華経本門の一仏身はそのまま法報応の三身をそなえているということ。
―――
自在所欲生
 法華経法師品第10に、「生ぜんと欲するところに自在なり」とある。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
一仏乗
 「仏乗」は仏の境地に運ぶ乗り物の意。一切衆生をことごとくじょうぶつさせることのできる唯一の教法のことで、法華経をさす。
―――
無量の国中
 数えきれないほどの多くの国の中。
―――
名字
 ①呼び名・名称・題名。②天台大師が摩訶止観巻1で立てた六即位の第二。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
―――
陀羅尼品
 法華経陀羅尼品第26のこと。五番の神呪がとかれている。
―――
法華の名
 法華経の題目。南無妙法蓮華経のこと。
―――
擁護
 擁え護ること。
―――
名は即ち是体
 妙法蓮華経は法華経の題名であると同時に、法華経の体であるということ。
―――
文字解脱なり
 文字によって救済・菩提があるということ。法蓮抄には「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何、答えて云く涅槃経の十五に云く『願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ』」(0153-06)
―――
経題を釈す
 一経の題号を解釈する。経題は題目・首題・玄題ともいう。
―――
妙法の両字
 妙法蓮華経の「妙」と「法」の二文字。
―――
本迹を詮す
 法華経の本門と迹門の義をすべて包含していること。本門は仏の本地を顕した法門、迹門は垂迹仏の説いた法門。
―――
蓮華の両字
 妙法蓮華経の「蓮」と「華」の二文字。
―――
本迹を譬う
 蓮華の二文字が法華経の本門と迹門の全体を譬えて示しているということ。
―――
妙法の唱は唯だ正宗のみに非ず
 妙法と唱することはただ法華経の正宗分に限るものではないということ。
―――
二十八品倶に妙法と名く
 法華経一部八巻28品みな妙法であるということ。
―――
品品の内に咸く体等を具し
 法華経の品々28品のなかにことごとく名・体・宗・用・教の五重玄を具えているということ。
―――
句句の下に通じて妙名を結す
 法華経の句々のもとすべてにわたって妙法の名称を付けること。
―――
七宝
 必ずしも一定しないが、代表的なものとしては,金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰。
―――
三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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大菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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辟支仏
 梵語プラティエーカ・ブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。辟支迦羅、畢勒支底迦とも書き、独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。十二因縁の理を観じ、また、飛花落葉等の外縁によって自ら覚った者をいう。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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功徳
 功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
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一四句偈
 経文等において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。雪山童子の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」などはその類である。
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 めでたいこと。幸せ。
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一切衆生
 すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
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饒益
 衆生を豊かに利益すること。
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勧発品
 法華経普賢菩薩勧発品第28のこと。神力品以下付嘱流通中の自行流通を勧めている。普賢菩薩が東方宝威徳上王仏の国にいて、この娑婆世界で、釈尊が法華経を説くのを聞いて来至し、仏の滅後にいかにしてこの法華経を持つかとの問いに対して、釈尊は四法成就を説いて、法華経を再演したことをあらわしている。
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過悪
 過罪悪業のこと。
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若しは実・若しは不実にもあれ
 法華経を受持する者の言動に対して、その過悪を言いふらした内容が真実であるにしても、内にしても……。
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現世
 過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
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白癩の病
 ①皮膚が白色になるハンセン病。②転じて、誓いや蹶祈ときに「白癩」という。
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軽笑
 軽賤しあざ笑うこと。
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牙歯疎き欠け
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。歯が欠けたり隙間があること。
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醜脣平鼻
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。醜い唇と低い鼻。
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手脚繚戻
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。手足が曲がり、自由に伸びないこと。
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眼目角睞
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。ひとみの方角がかたより、正常に物が見えないこと。
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身体臭穢
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。身や体が臭くて汚いこと。
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悪瘡
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。悪瘡のできもの。はれもの。
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膿血
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。膿汁と血がたまること。蓄膿。
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水腹
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。腹部に濁水か充満する病気。
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短気
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。息が詰まり、呼吸困難になること。
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悪重病
 法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。悪性の重い病気。
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普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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思惟
 対象を分別し、よく考えること。
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坐禅
 端坐して禅の修行をすること。
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無量歳
 計り知れないほどの長い時間。
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如来出世の大乗経
 仏がこの世に出現した根本の目的とする経典。法華経。
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所以は経に出でたり人の語を信ずること勿れ
 法華文句巻5の文。
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百千種の師
 非常に多くの人師や論師。
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一一の師・百千種の説を作す
 非常に多くの人師が各人の種類の教説を設けること。
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 法華経以外の諸教。「権」とは仮の意。
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如来の所説
 仏が説いたところの経説。
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人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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 浄土宗の破折の一つとして、阿弥陀仏に法華宗と浄土宗の二種があることを示されている。
 まず、浄土宗の阿弥陀と法華宗の阿弥陀の違いを「父」「誓願」「正覚」の三点から図示されている。「父」すなわち、その氏素性については、浄土宗の阿弥陀は月浄転輪王の子が出家・修行して成道した仏で、鼓音声陀羅尼経に説かれている。それに対し、法華宗の阿弥陀は化城喩品第七に出てくる大通智勝仏の十六王子の第九王子であることが明かされている。
 次に「誓願」については、浄土宗の阿弥陀の請願は「執持名号往生極楽」と記されている。阿弥陀の菩薩としての修行時の誓願は名号をしっかりと持って極楽浄土に往生するというものである。これに対して、法華宗の阿弥陀のそれは「常楽説是妙法蓮華経」とあるように、三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏の十六王子はいずれも妙法蓮華経を一切衆生に説くことを常に楽った。それが彼らの誓願であったとされている。
 さらに、ではいつから「正覚」を得た仏になったかについては、浄土宗の阿弥陀が「十劫已来なり」とあるのに対し、法華宗の阿弥陀は「三千塵点劫」というはるかな過去にさかのぼるとされている。
 この十六王子のうち第十六王子については「第十六は、我釈迦牟尼仏なり、娑婆国土に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜり」と、インドに応誕して仏になったことが説かれているが、十六王子全体についてが「彼が仏の弟子の十六の沙弥は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう」とあるのみで、具体的について正覚を成じたかは示されていない。おそらく三千塵点劫の昔に妙法蓮華経を大通智勝仏から聞き、人々に説き始めた時をもって、因果俱時の義の上から正覚を成じたとされたものと拝される。
 図示のすぐ後に引用されている法華経薬王品、疏記の二文は法華経で明かされる阿弥陀に、大通智勝仏の九番目の王子のなかに、釈尊分身の阿弥陀仏がいることを示している。
 まず、薬王菩薩本事品第二十三の文であるが、後の五百歳の中で、ある女人が法華経を聞いて、説のごとく修業するならば、この娑婆世界で命を終えると、直ちに安楽世界の阿弥陀仏や大菩薩たちの住む所へ往生して、蓮華の中の宝座の中に生まれる。すなわち成仏できることを説いている。
 これを受けて、次の疏記、すなわち、妙楽大師の法華文句記巻十では、薬王品で、ある女人が法華経を聞いて説の如く修行して極楽往生したとあることを解説して、極楽浄土に生まれる原因を浄土宗のいうように、観経等の浄土三部経を説の如修行することに置く必要はないことを述べ、さらに、法華経の分別功徳品第十七の経文の中から立てられた行によって浄土往生は可能であるとしている。
 その分別功徳品は寿量品で仏の寿命の長遠であることを聞いて、如来の一切種智を生じた者の功徳を分別するのであるが、これを天台大師は在世の弟子に約して四信・滅後の弟子に約して四信、滅後の弟子に約して五品あることを法華文句巻十上で明らかにしている。
 この四信五品が「経に依って行を立つ」ということの具体的な内容である。ここでは、在世の四信のうち第四信である深信観成、すなわち、深い信で妙法を理解すると「観」を成就することができるというものである。その「観」の内容が、この娑婆世界を四土、すなわち凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土を具えた土と“観る”ということである。
 この仏智、一切種智は寿量品で久遠実成を開顕した後の仏の智慧であるから、当然のことながら、その仏は応身・報身・法身の三身を具えた法華経本門の仏身であり、一身即三身・三身即一身を成就していることを法華文句記は述べている。先の薬王品の文では、法華経を如説修行した人は、西方浄土に生まれるとあったが、西方浄土に限定されないことを示しているのであるが法華経法師品第十の「自在所欲生」との文である。
 次の方便品第二の文は「一仏乗」すなわち妙法蓮華経のみが仏の衆生成仏のために説く法であると述べたもので、妙法蓮華経以外に成仏の法はないことを表している。従って、この妙法蓮華経は容易に巡りあえる法ではないことを述べているのが安楽行品第十四の「無量の国の中に於いて、乃至名字を聞くことを得べからず」の文である。「無量の国の中に於いて」とは、数え切れないほどの生死を繰り返しても、仏が出現し妙法蓮華経を説き広めた世界に生まれることはめったにできないということである。従って、この妙法蓮華経を説き広めた世界に生まれることはめったにできないということである。従って、この妙法蓮華経を知ったならば、他の方便権教に惑わされないで、妙法を信受し受持して成仏を目指すべきであると教えているのである。
 続いて引用されている法華経陀羅尼品第二十六の文は妙法蓮華経の題目を受持する功徳の大きさを述べており、法華玄義釈籤と疏記の文は「妙法蓮華経」の五字が法華経の単なる題名ではなく、本門・迹門・二十八品すべての体であることを強調した文である。
 さらに、法華経受持の功徳の広大であることを説いた薬王品の文と、従って法華経を受持している人を謗った場合の罪の大きさを述べた普賢菩薩勧発品第二十八の文が挙げられている。
 涅槃経十三の「我爾の時に於て思惟し坐禅し無量歳を経れども亦如来出世の大乗経の名有ることを聞かず」の文は、仏の出世の本懐である大乗経に巡り合うのは極めて稀有であることを示している。ここで「如来出世の大乗経」という本意は法華経であることは、改めて述べるまでもない。最後に、仏自身が述べたこの言葉こそ判断のよりどころとすべきで、人師の説を判断の基準にしてはならないことを戒めた法華文句の五を引かれている。同じく文句の三の文も同趣旨であるが、人師の所説はもちろん「如来所説」にも権教があり、判断に当たっては、この点をわきまえなければならないと注意を促すために引用されたとも考えられる。

0648:07~0649:10 第15章 念仏者の謗法罪の理由を示すtop
07   一、念仏者・謗法罪を作る事
08   法然の選択に云く「道綽禅師・聖道・浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初めに聖道門と
09 云うは之に就いて二有り、乃至之に准じて之を思うに応に密大及実大を存すべし、然れば則ち今真言・仏心・天台・
10 華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意正しく此に在り、浄土宗の学者先ず須らく此の旨を知るべし、設い
11 先ず聖道門を学するの人なりと雖も 若し浄土門に於て其の志有らん者は須らく聖道を弃てて浄土に皈すべし、 善
12 導和尚・正雑二行を立て雑行を捨てて 正行に皈するの文、 第一に読誦雑行と云うは上の観経等の往生浄土の経を
13 除いて已外大小乗・顕密の諸経に於て受持し読誦するを悉く読誦雑行と名く、 乃至・第三に礼拝雑行と云うは上の
14 弥陀を礼拝するを除いて 已外一切諸余の仏菩薩等及び諸の世天等に於て 礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名け、
15 第四に称名雑行とは 上の弥陀の名号を称するを除いて 已外・自余一切の仏・菩薩等及び諸の世天等の名号を 称
16 するを悉く称名雑行と名け、 第五に讃歎供養雑行と云うは 上の弥陀仏を除いて已外一切諸余の仏菩薩及び諸の世
17 天等に於て 讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名く、 乃至、 此の文を見るに弥須らく雑を捨てて 専を修す
18 べし、 豈百即百生の専修の正行を捨てて 堅く千中無一の雑修雑行を執せんや、又云く貞元入蔵録の中に始め大般
0649
01 若経六百巻より終り法常住経に至るまで 顕密の大乗経惣べて六百三十七部・二千八百八十三巻なり 皆須らく読誦
02 大乗の句に摂すべし 夫れ速かに生死を離れんと欲せば 二種の勝法の中且らく聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ
03 浄土門に入らんと欲せば 正雑二行の中に且らく諸の雑行を抛つて選んで 正行に皈すべし」云云、大論に云く「自
04 法愛染の故に他人の法を毀呰す 持戒の行人と雖も地獄の苦を脱れず」云云、 法華経に云く「当来世の悪人は仏の
05 一乗を説き給うを聞いて迷惑して 信受せず法を破して悪道に堕せん」又云く「法を破して信ぜざるが故に 三悪道
06 に墜ちなん」 雙観経に云く「設い我仏を得るも 十方衆生の至心に信楽して 我が国に生ぜんと欲して乃至十念せ
07 んに若し生ぜずんば正覚を取らじ 唯五逆と誹謗正法を除く」 譬喩品に云く「若し人あつて信ぜずして 此の経を
08 毀謗するときは則ち一切世間の仏種を断ず 其人命終して阿鼻獄に入り 一劫を具足して劫尽きて更に生ぜん是くの
09 如く展転して無数劫に至らん」 文句に云く「今経に小善成仏を明かす此の縁因を取つて仏種と為す、 若し小善成
10 仏を信ぜずんば則ち一切世間の仏種を断ずるなり」云云。
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   一、念仏者が謗法の罪を犯すこと
 法然が選択に「道綽禅師が聖道・浄土の二門を立てて、聖道門を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門というのは、これについて二つがある。(乃至)これに准じてこれを思うに、まさに密教の密大乗経および顕教の実大乗教ともに聖道門に入れられるべきである。そうであるから、今の真言宗・禅宗・天台宗・華厳宗・三論宗・法相宗・地論宗・摂論宗の八宗は正しくここにある。浄土宗の学者は、まず、この趣旨を知りなさい。たとえまず聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門においてその志がある者は、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきである。善導和尚が正行・雑行の二行を立てて雑行を捨てて正行に帰するとの文、第一に読誦雑行というは、上述の観無量寿経などの往生浄土を説く経を除いて、それ以外の大乗・小乗および顕教・密教の諸経を受持し読誦するのをすべて読誦雑行と名つける。(乃至)第三に礼拝雑行というのは、上述の阿弥陀仏を礼拝することを除いて、それ以外の一切の仏・菩薩など、および世間の諸天などを礼拝し恭み敬うことをすべて礼拝雑行と名付け、第四に称名雑行とは、上述の阿弥陀仏の名号を称えることを除いて、それ以外の一切の仏・菩薩などおよび多くの世間の諸天などの名号を称えることをすべた称名雑行と名付ける。第五に讃歎供養雑行というのは、上述の阿弥陀仏を除いて、それ以外の一切の仏・菩薩および世間の諸天などを讃歎し供養するのをすべてを讃歎供養雑行と名付ける(乃至)この文を見と、いよいよ雑を捨てて 専修の正行を修しなさい。どうして百人が百人とも極楽往生できる専修の正行を捨てて、千人の中に一人も極楽往生できない雑修雑行を執着するのか。また貞元入蔵録の中に初めの大般若経六百巻から終わりり法常住経に至るまで顕教・密教の大乗経は全部で六百三十七部・二千八百八十三巻である。これらすべて『読誦大乗経』の句に包摂される。速やかに生死の苦しみを脱離しようとするならば、 二種の勝れた法門の中で、しばらく聖道門を捨ておいて、選んで浄土門に入りなさい。浄土門に入ろうとするならば、正行・雑行の二行の中で、しばらくあらゆる雑行を投げ捨てて、選んで正行に帰すべきである」とある。大智度論に「自らの法を愛着する故に他人の法を謗る者は、持戒の人であっても地獄の苦を脱れない」とある。
 法華経方便品第二に「未来の世の悪人は仏の一乗の法を説かれるのを聞いても迷い惑って信受しない。仏の法を破って悪道に堕ちるだろう」とあり、また「仏の法を破って信じない故に三悪道に墜ちるであろ」とある。
 無量寿経に「たとえ私自身は、仏の境界を得ても、十方の衆生が真心から信じ願って、私の浄土の国に生まれたいと欲して、十の念をも行ずるときに、もし浄土に生まれないならば仏の正しい悟りを取るまい。ただ五逆罪と誹謗正法を除く」とある。
 法華経第三譬喩品に「もし人がいて、信じようとしないで、この経を謗るときは一切の世間の仏種を断滅することになる。その人は命が終わって阿鼻地獄に入り、一劫を経て劫が尽きると、さらに次の劫も阿鼻地獄に生まれるであろう。このように次々に移り続いて無数劫に至るであろう」とある。
 法華文句に「今の法華経に小善の成仏を明かしている。この縁因を取って仏種とする。もし小善の成仏を信じなければ、一切世間の仏種を断滅するのである」とある。

法然
 1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
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選択
 『選択本願念仏集』の略。法然(源空)の著作。1巻。九条兼実の依頼によって建久9年(1198年)に著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の『観無量寿経疏』の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は16章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏(南無阿弥陀仏ととなえること)こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」(17㌻)、「守護国家論」(36㌻)などでその誤りを破折されている。
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道綽禅師
 562年~645年。中国・隋から唐にかけての浄土教の祖師。はじめ涅槃経に傾倒していたが、曇鸞の碑文を見て改心して浄土教に帰依した。釈尊の教えを浄土門とそれ以外の聖道門とに分け、聖道門を誹謗した。弟子に善導がいる。主著に『安楽集』がある。
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聖道・浄土
 聖道門と浄土門のこと。①聖道門。自力で修行してこの娑婆世界で成仏を目指す教え。浄土門に対する語。中国・唐の道綽が『安楽集』で説いた。②浄土門。阿弥陀仏の本願に頼って、西方極楽浄土に往生することを目指す教え。聖道門に対する語。中国・唐の道綽が『安楽集』で説いた。
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密大
 密大乗教のこと。顕大に対する語。真言宗では大乗教を顕教と道教に分け、法華経等を顕教として、密教より劣るとしている。
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実大
 実大乗教のこと。大乗教に権教と実教があり、法華経以外の諸大乗教を権教とし、法華経のみを実大乗教と立てる。
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真言
 密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
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仏心
 禅宗の事。涅槃経にある「正法眼蔵、涅槃の妙心・実相無相、微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付嘱す」との経文どおりに伝承して、第二祖阿難、第三祖商那和集と、代々相付して第二十八祖の達磨にいたったという邪義を立てる。戒定慧の三学のうち、とくに定の部分のみ強調し、仏教の神髄は複雑な教理の追及でなく、座禅入定によってのみ自証体得できると説く。仏心を月にたとえ、経文を月をさす指にたとえて経文の不要を主張する。教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏等の邪義がそれである。しかし、その半面、楞伽経や像法決疑経を用いているのは、これらが方便権教であることはもちろんである。明らかに前の主張に相違するのである。わが国では栄西(1141~1215)、道元(1200~1253)が曹洞宗を、隠元(1592~1673)が黄檗宗を始めた。
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天台
 ❶法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。❷御書中の用例としては「天台(宗)の教え」といった意味の場合がある。例えば「撰時抄」(263㌻)の「天台宗」は、来日した鑑真によって伝えられた中国天台宗の教えをさす。
―――
華厳
 華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240年~1321年)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。
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三論
 竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。
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法相
 玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。
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地論
 地論宗の事。天親菩薩の「十地経論」によって立てられた宗派。開祖は慧光。のちに華厳宗に吸収された。日本には伝承されていない。
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摂論
 摂論宗のこと。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てられた宗派で、中国陳隋の世に広まったがのちに法相宗に包含された。日本には伝承されていない。
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八家の意
 南都六宗に(倶舎、成実、律、法相、三論、華厳)天台、真言を加えた宗派の考え。
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浄土宗の学者
 浄土宗を学ぶ僧。
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正雑二行
 正とは一止不邪、雑とは穢悪交雑の義。善導の立てた邪義。善導は観無量寿経疏のなかで、「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり、一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分けている。
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読誦雑行
 法然が立てた五種の雑行のひとつ。法然は選択集の中で法華経などの諸経を「 ① 読誦雑行、②観察雑行、③礼拝雑行、④称名雑行、⑤讃歎供養雑行」と立て禁じている。日寛上人は「今第一・第三を出す、『読誦は経を謗ずるにあり、礼拝は仏に逆うにあるゆえなり』と云云」とある。
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観経等の往生浄土の経
 観無量寿経のように念仏宗が依経と極楽往生を説く浄土三部経の経典。
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大小乗
 仏教を二つに分類し、その大乗教と小乗教。
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顕密の諸経
 顕教・密教を説いている種々の経典のこと。真言宗の教判で、大日の三部経を法身仏を説く密教の経典とし、それ以外の一切の経典を報身・応身仏である釈尊が衆生の機根に応じて説いた顕教の経典とするもの。
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礼拝雑行
 法然が立てた五種の雑行のひとつ。法然は選択集の中で法華経などの諸経を「 ① 読誦雑行、②観察雑行、③礼拝雑行、④称名雑行、⑤讃歎供養雑行」と立て禁じている。日寛上人は「今第一・第三を出す、『読誦は経を謗ずるにあり、礼拝は仏に逆うにあるゆえなり』と云云」とある。
―――
世天
 仏教道の諸天善神と陰陽道や神道で祀られている一般の神。「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」には、諸天善神を敬わないという理由で、念仏禁止を訴えた南都の奏状として「一、霊神を蔑如する事 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔を承けて四海其の加護を仰ぐ、而るに専修の輩永く神明を別えず権化実類を論ぜず宗廟・祖社を恐れず若し神明を憑まば魔界に堕すと云云。実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹に至つては既に是れ大聖なり」(0087-15)とあり、専修念仏の党類は神明に向背しているのである。
―――
称名雑行
 称名は諸仏・菩薩・諸天等の名号を称え、その加護を願うこと。法然は専ら阿弥陀仏の名号を称えることが極楽往生のための称名正行であるとし、阿弥陀以外の仏・菩薩などの名を称えることを称名雑行とし、極楽浄土に往生できないとしている。
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自余一切の仏・菩薩等及び諸の世天等の名号
 阿弥陀仏のほかすべての仏・菩薩およびもろもろの諸天等の名前。
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讃歎供養雑行
 仏・菩薩・諸天を讃嘆して供養することを正行と雑行に分け、阿弥陀仏を讃嘆供養する以外はすべて雑行であると立て分けた法然の邪義。
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雑を捨てて専を修すべし
 法然が立てた邪義。法然は五種の雑行を捨てて専一の専修念仏を修行せよと主張している。
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百即百生
 阿弥陀仏を念じ、その名号を唱えれば、百人が百人ともに、極楽往生へ往生できるという善導の邪義。
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千中無一の雑修雑行
 千中無一は千人の中で一人も極楽浄土へ往生する者がないという意で、善導が往生礼讃偈の中で「雑を修して不至心の者は千が中に一も無し」と述べたことによる。雑修雑行は専修正行に対する語で、善導は浄土三部経をよりどころとした修行以外の修行はすべて雑行であるとした。
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貞元入蔵録
 貞元新定釈教目録 30巻、入蔵経という。唐の徳宗の貞元16年(800)、沙門円照が勅命によって編集した経典目録。新定というのは開元年間に智昇による『開元録』と呼ばれるものがあるため。なお貞元は通常という。29巻に大乗入蔵録があり、大般若経600巻の目録が見られる。
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大般若経六百巻
 大般若波羅蜜多経のこと。唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典。通称は大般若経で、般若経と略称することもある。全16部600巻に及ぶ膨大な経典群である。
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法常住経
 訳者不詳。 常住の法は声聞・縁覚・菩薩の三乗の教としてあらわれること、三世の仏は常住の法身と合一することなどを説く。
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顕密の大乗経惣べて六百三十七部・二千八百八十三巻なり
 この数字は貞元入蔵録の目録に記載された数。
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読誦大乗の句に摂すべし
 顕教と密教でじぃうど三部経以外がすべて読誦雑行と立てる浄土宗の邪義。
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二種の勝法
 二種の勝れた法門との意で、聖道門・浄土門のこと。中国浄土教の祖師・道綽の説で、法然も選択集に取り入れている。今世で自力で聖者となり悟りを開く道を聖道門・阿弥陀仏の他力で浄土に往生し悟りを開く道を浄土門と立てる。
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一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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至心に信楽して
 誠実な心をもって信じ願って、という意味。
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十念
 ①増一阿含経に説かれる十種の念、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死。②光讃般若経に説かれる十念。③無量寿経・観無量寿経等浄土宗所立の十念。(諸説あり)④その他の経にも種々の十念あり。
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正覚
 正しい覚り。妄惑を断滅した如来の真正の覚智。成仏。
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五逆と誹謗正法を除く
 念仏宗で衆生が阿弥陀仏を念じたとしても極楽浄土に往生できないとする二つの条件。①五逆、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。②誹謗正法、謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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誹謗正法
 謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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小善成仏
 小善をもって縁因仏性とし、小善の行為がそのまま仏果を成ずる縁因となることをいう。これは一切経を法華経の立場からいうものであって、法華経を離れて別時意趣とするのは誤りである。
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縁因
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
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仏種
 仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性ともとることができる。
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 ここでは、法然を開祖とする日本の浄土宗を信仰する念仏者が謗法、すなわち正法誹謗の罪を犯している所以を明らかにされている。
 これを明らかにされる理由としては、念仏者の中には「自分はただ法然上人の教えどおりに阿弥陀如来の本願を信じ念仏を称えているだけで、決して法華経を誹謗などしていない、それなのに、どうして謗法罪を犯しており、無間地獄に堕ちるなどといわれるのか」と反発する人々がいたからであろうと考えられる。
 これに対して、浄土宗の開祖である法然の著した選択集から、その要所に当たる部分を引用されている。
 そこには、自らは直接に法華経を誹謗していなくても、法華経を誹謗していることになるという原理があることを知らなければならない。
 撰択集の内容は十六章からなるが、その要点は釈尊の一代仏教を聖道門・雑行・難行道と浄土門・正行・易行道とに立て分け、後者を選択すべきことに述べたとことにある。聖道と浄土、雑行と正行、難行と易行というこれらの対比はそれぞれ、中国の浄土教の祖である曇鸞・道綽・善導によって立てられていたのを継承したものである。ここで引用されている文は、道綽が立てた聖道・浄土論と、善導の立てた正雑二行論によるものである。
 まず、道綽が一代仏教を聖道門と浄土門とに立て分け、聖道を捨てて浄土に帰すことを述べているところを紹介しながら、聖道門のなかにどのような教えを入れるかについて、法然自身の一歩進めた考え方が表れており、そこに「正法誹謗」がより露骨になっていることが分かる。
 道綽は、捨てるべき聖道門の顕大乗教と権大乗経の二つを挙げたのだが、法然は「之に准じて之を思うに」として、自分の考えを付加して述べている。初めの「之」は道綽の考えを指すのに対し、後の「之」は当時の日本の仏教界を踏まえての法然の考え方を指しており、密教の大乗教と法華経の実大乗経も聖道門として捨てられるべしとしている。このように、聖道門に法華経の実大乗教を加えたことが正法誹謗そのものになることは明白である。
 道綽の場合、年代的に天台大師より20数年後輩で、法華経の存在については当然のこと、天台大師がどのような法門を立てていたかも、ある程度知っていたはずである。ただし、善無畏による真言密教の伝来は彼の活躍よりあとであるから、幾つかの密経経典についての知識はもっていても、明確な知識は持っていなかったと想像される。
 いずれにせよ、道綽が聖道門と浄土門を立て分けるに当たり、聖道門を含めたのは、法華経も密教経典も別にしての顕大乗・権大乗の諸経であった。おそらく法華経に関しては、多少の遠慮から、聖道門に入れ「捨てるべし」と言うのをためらったのであろう。どちらにしても、結果的には法華経誹謗の直接的な罪は免れていたのである。
 しかるに法然の場合、日本仏教界に君臨していたのは叡山の天台宗であり、東寺の真言宗であった。法然自身、叡山延暦寺で仏教を学び、それを革命するつもりで浄土宗を立てたのであるから、天台・真言の両宗、なかんずく密経を取り入れて「台密」とまで呼ばれるまでになった叡山天台宗の存在を考えると、法華経と密教経典を捨てるべき聖道門に入れた真理は想像に難くない。本段で引かれている大論の「自法愛染の故に他人の法を毀呰す」の言葉が喝破しているように、まさに自らが立てた浄土信仰への愛着心から、真言密経はともかくとして、釈尊が一切衆生を成仏させる大法として説いた法華経を捨てよ、とする邪義を立てるに至ったのである。
 次いで、善導の正行と雑行の立て分けをもとに、法然が阿弥陀仏と浄土三部経を除くすべての仏・菩薩と大小・顕密の諸経を礼拝・讃嘆したり、読誦したりすることを雑行として排除していることを示す文が引用されている。
 読誦についての正行・雑行の立て分けは、法華経という「法」に対する誹謗につながっているが、礼拝・称名・讃嘆供養についてのそれは、釈迦仏・諸菩薩・諸天という「人」に対する誹謗・軽賤・憎嫉につながっている。
 このあと、そのような法然の邪義が悪道、なかでも無間地獄に堕する業因になることを法華経の方便品第二・譬喩品第三、また天台大師の法華文句の文によって示されている。その中で浄土宗が依経としている双観経の文が引かれている。
 この双観経の文は、日蓮大聖人が浄土宗破折にしばしば引かれて論じられているので、決して目新しい点ではないが、簡単に説明を加える必要があろう。
 引用されたところは阿弥陀仏が以前、法蔵比丘として菩薩の位にあった時に四十八願の誓願を立てて修行を始めたのであるが、その請願がことごとく満足して成道を果たして阿弥陀仏となり西方の極楽浄土を建設した経過を語る第十八願の文である。
 この願は、内容から「念仏往生の願」ともいわれる。すなわち、たとえ、私が仏の境界を獲得しても十方の衆生が底から私の建立した浄土の国を信じて、この浄土に生まれたいと望んで十の念を行じた結果、もし浄土に生まれることがなかったなら、私は仏の悟りを取らないと誓う。ただし、五逆罪と誹謗正法の者は除く、というのである。この請願が成就して法蔵比丘は阿弥陀仏となったわけであるから、十方の衆生はだれでも心底から往生を願いさえすれば極楽への往生はできるはずであるが、五逆と誹謗正法の者は往生できないというのである。
 五逆罪の内容は明白である。しかし、誹謗正法については、浄土宗の人々にすれば法然の教えが正法だというであろうが、法然の教えはこの請願の前半にある阿弥陀の名を称えよということであるから、「阿弥陀を信じて十念しても」といっているのであるから、「誹謗正法を除く」の「正法」が阿弥陀仏であるはずがない。「阿弥陀仏を信じても阿弥陀仏を誹謗すれば往生できない」と戒めるはずがないからである。従って、仏教全体の立場からいって「誹謗正法」の「正法」とは仏の本意である法華経を指し、「誹謗正法」とはその法華経を誹謗することになる。
 どれほど法蔵比丘の誓いが堅く、また、衆生が往生を願っても、法華経を捨て、閉じ、閣き、抛てと言った法然本人も、その、門下・信徒も、極楽へ往生するから除かれるという矛盾が生じることになるわけである。
 こうして法然を開祖として崇める浄土宗の人々は、この十八願によれば極楽浄土へ往生することはできないことが明らかである。そして、その行く先は、極楽などではなく、極苦の世界たる無間地獄であることが法華経には明示されているのである。

0649:11~0650:13 第16章 真言師の謗法罪の理由を示すtop
11   一、真言師・謗法罪を作る事
12   秘蔵宝鑰の上に云く十住心とは、
13   一 異生羝羊心 凡夫悪人    二 愚童持斎心 凡夫善人
14   三 嬰童無畏心 外  道    四 唯薀無我心 声  聞
15   五 抜業因種心 縁  覚    六 他縁大乗心 法 相 宗
16   七 覚心不生心 三 論 宗    八 如実一道心 法 華 宗
17   九 極無自性心 華 厳 宗    十 秘密荘厳心 真 言 宗                       ・
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   一、真言師が謗法の罪を犯すこと
 秘蔵宝鑰巻上によると十住心とは次のとおりである。
   一 異生羝羊心 凡夫の悪人の心に当たる。
   二 愚童持斎心 凡夫の善人の心に当たる。
   三 嬰童無畏心 外道の心に当たる。
   四 唯薀無我心 声聞の心に当たる。
   五 抜業因種心 縁覚の心に当たる。
   六 他縁大乗心 法相宗の趣旨である。
   七 覚心不生心 三論宗の趣旨である。
   八 如実一道心 法華宗の趣旨である。
   九 極無自性心 華厳宗の趣旨である。
   十 秘密荘厳心 真言宗の趣旨である。
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18   又云く「他縁以後は大乗の心なり大乗において前の二は菩薩乗・後の二は仏乗なり此くの如きの乗乗は自乗には
0650
01 仏の名を得れども後に望むれば戯論と作る」云云、 又云く 「人を謗じ法を謗ずれば定めて阿鼻獄に堕ちて更に出
02 ずる期無し、 世人斯の義を知らずして舌に任せて輙すく談じて 深害を顧みず寧ろ日夜に十悪五逆を作るべしとも
03 一言一語も人法を謗ず可からず」云云、 大日経に云く「仏・不思議の真言相道の法を説くに一切の声聞・縁覚を共
04 にせず 亦普く一切衆生の為にするに非ず」 法華経の二に云く「汝等若し能く此の語を信受せば 一切皆当に仏道
05 を成ずることを得べし 是の乗微妙にして清浄第一なり」云云、 又云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説・諸
06 説の中に於て最も甚深為り」 又云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵 ・諸経の中に於て最も其の上に在り」六
07 波羅蜜経に五蔵・五味を説く、 私に云く此の経は天台御入滅已後百余年に 天竺より漢土に来れり爾れば見ざる経
08 の醍醐を盗むと書くは謬失なり 弘法の二教論の下に云く「喩して曰く今斯の経文に依らば 仏五味を以て五蔵に配
09 当し惣持を醍醐と称し四味を四蔵に譬え給えり、 振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名く 若し斯の経を鑒み
10 ば則ち掩耳の智割剖を待たじ」云云、 又云く「毘盧遮那経の疏に順ぜば 阿字を釈す」云云、 私に云く毘盧遮那
11 経疏供養法の巻は竜樹入滅已後八百年の造疏なり、 而るに菩提心論に此の事を引き載せたり 故に知んぬ菩提心論
12 は竜樹の釈に非るなり又云く 「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に 是三摩地の法を説く諸教の中に於て闕い
13 て書せず」云云。
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 また秘蔵宝鑰下に「他縁大乗心の以下は大乗教の心である。大乗経ににおいて前の他縁大乗心と覚心不生心の二つは菩薩乗であり、後の如実一道心と極無自性心の二つは仏乗である。このような二つの乗々は自らの乗には仏乗と名乗っているけれども、後の秘密荘厳心からみると、戯れの論述の作となる」とある。また同巻中に「人を謗り法を謗ずれば、必ず阿鼻地獄に堕ちてさらに脱出する時期がない。世間の人はその意義を知らないで、口舌に任せてたやすく話して、深い害悪を顧みない。むしろ日夜に十悪業・五逆罪を犯すとしても、一言一語も人と法を謗ってはいけない」とある。
 大日経に「仏が普通の思議を超えた真言の相と道の教法を説くに際しては、一切の声聞・縁覚を一緒にしてはならない。また、あまねく一切衆生のために説くのではない」とある。
 法華経巻二譬喩品第三に「あなたたちよ、もしよくこの語葉を信受するならば、すべての人はまさに仏道を達成することができる。この乗法は奥深く優れており、清浄第一である」とあり、また安楽行品第十四に「この法華経は如来の第一の説であり、もろもろの説の中において最も甚だ深いのである」とあり、また同品に「この法華経はもろもろの仏如来の秘密の蔵であり、もろもろの経の中において最も其の上にある」とある。
 六波羅蜜経に五蔵ならびに五味を説いている。私の立場からいうと、この六波羅蜜経は天台大師の御入滅以後、百余年にインドから中国に渡ってきた。従って、見てもいないこの経の醍醐味を盗んだと書くのは誤っている。
 弘法の弁顕密二教論巻下に「諭していう。今この六波羅蜜経の文に依るならば、仏は乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味を経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵の五蔵に当てはめて、総持を醍醐味とし、四味を四蔵に譬えられた。この最高の醍醐味を盗んで中国の人師たちは、おのおのの宗派に醍醐味と名付けたのである。もしこの経に照らすならば耳を覆って聞こうとしない程度の智の持ち主は鐘が割れるまで待つことなく、その鐘を捨ててしまうであろう」とあり、また菩提心論に「毘盧遮那経疏供養法に従えば阿字を解釈する」とある。私の立場からいうと、毘盧遮那経疏の供養法の巻には竜樹が入滅してから八百年後につくった解説書であるのもかかわらず、菩提心論にこの解説書を引用して記載している。故に、菩提心論は竜樹の解釈書でないことが明白である。菩提心論に「ただ真言の法の中にのみ即身成仏する故に、この三摩地の修行法を説いている、もろもろの教の中にはかけておりかかれていない」とある。

真言師・謗法罪を作る事
 真言師が謗法の罪を犯していること。真言師は真言宗の僧侶、真言密教を奉ずる僧。正法を誹謗している。
―――
秘蔵宝鑰
 弘法の書で三巻から成る。十住心論を要約したもの。天長年中に、淳和天皇が諸宗の要義を聞かれたときに、さし出したものをいう。
―――
十住心
 弘法が十住心論を著して立てた教判。大日経十住心品に十種の衆生の心相があるとして、それに世間の道徳・諸宗を当てはめ、菩提心論によって顕密の勝劣を判じ、真言宗が最高の教えであることを示そうとしたもの。異生羝羊心・愚童持斎心・嬰童無畏心・唯蘊無我心・抜業因種心・他縁大乗心・覚心不生心・一道無為心・極無自性心・秘密荘厳心をいう。
―――
異生羝羊心
 異生は異なった生を受ける者の意で、凡夫、すなわちなみの者の別称。羝羊は雄羊。雄羊がただ性と食に対する欲望をもって生きているだけにすぎないのに喩える。六道とよばれる迷いの世界に輪廻転生する地獄・餓鬼・畜生・阿修羅、およびひたすら悪しき行為をつづける人間の世界が、異生に属する。
―――
悪人
 弘法が秘蔵宝鑰で十住心を立て異生羝羊心は凡夫で悪行をなす人であることを示したもの。
―――
愚童持斎心
 愚童は愚かな少年。持斎は斎を持つということで、節食して他の者におのれの食物を施すことを意味する。
―――
凡夫善人
 弘法が秘蔵宝鑰で十住心を立て愚童持斎心は凡夫で善行をなす人であることを示したもの。
―――
嬰童無畏心
 道徳、倫理を超え、宗教的な理想の世界に生まれることを願う住心である。いわば、宗教心の目ざめの段階である。そこで、宗教的実践の具体的なものとして、インドのサーンキヤ哲学、ヴァイシェーシカ哲学、ヒンドゥー教の獣主派、ジャイナ教など、いわゆる十六種外道とよばれるところのバラモン教その他の宗教・哲学などが紹介される。それらは宗教的実践として何らかの瞑想を説き、天界に生まれることを願う点では共通的であるとみなしている。
―――
唯薀無我心
 自我の実体を否定するために、色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、とする。これは声聞の教えである。実体的な自我の存在を否定する点で、バラモン教を越えて仏教に入る初門である。そこで、声聞のさまざまな実践修行の階梯が説かれ、一種の小乗仏教概論の観を呈する。しかし、声聞の住心とてもまた、密教の深秘の解釈によれば、声聞の真言が説かれているように、大日如来の有する万徳のなかに一つの徳性にほかならない。
―――
抜業因種心
 縁覚の住心である。この住心の抜業因種は、『大日経』住心品に、「業と煩悩の根本、すなわち根源的無知(無明)の種子から次第に十二因縁が生起するのを抜除する」と説かれるのにもとづく。また「新しい業の生起するのを完全に除く」といわれるように、同じく小乗仏教の立場にありながら、声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅い深いとに差があるとされる。
―――
他縁大乗心
 奈良の法相宗に当てはめられる。したがってまた、インドにおける大乗仏教で は唯識派が、これに該当する。次に、法相宗(唯識)の五位、すなわち資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位を紹介し、さらに、唯識哲学の大綱が諸経論を引用することによって体系的に説かれる。
―――
覚心不生心
 第六住心は修行段階には五位、宗教的素質には五性(声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無種性)が隔たり分かれていることを説き、認識対象の実在を否定しながら、まだ唯識にとどこおるものである。これに対して、第七住心は心性が不生であるとさとるものである、とする。
―――
如実一道心
 一道は一仏乗、すなわち法華一乗、無為はさとりの真実の世界を意味し、この住心は宗派では天台宗に当てはめられる。天台宗は、中国の唐代における十三宗のうちの天台宗、ならびに最澄の開いたわが国の天台宗をさす。
―――
極無自性心
 この住心の極無自性の説明はとくにないので、その読み方には、「極めて自性無し」もしくは「自性無きを極む」が一つ、もう一つは「極は自性無し」という二通りが伝えられている。第一の読み方は、この住心が顕教の究極であり、しかも一般に仏教では、条件によって生起するものはそれ自体の固定した本性がないこと、すなわち縁起無自性を説くが、その至極を説くのがこの住心である、と解するものである。この場合、華厳哲学の重々無尽の法界縁起が予想されることはいうまでもないであろう。第二の「極は自性無し」という場合の「極」は第八住心であるが、それを至極とせず、さらに第十住心まで進展するためには第九住心が媒介となるから、そうした連続した心が生ずること(心続生)を無自性としたものである
―――
秘密荘厳心
 この住心は密教の曼荼羅の世界であることを次のように端的にのべていう。秘密荘厳心とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の源底を覚知し、ありのままに自らの身体の数量を証悟するのである。いわゆる胎蔵海会の曼荼羅と金剛海会の曼荼羅とがこれである。このように、秘密荘厳心は曼荼羅の世界として表現されるものであって、それは『大日経』住心品に「いかなるか菩提、いはく、実の如く自心を知る」とあるように、一言でいえば、さとりの世界であり、実の如く自心を知ることにほかならない。心の発達の順序が十住心体系で、それはまさに背暗向明のはたらきなのである。竪の構造を見ると、顕教から密教への階梯が示唆されている。十住心体系の構成からすれば、第一住心より第九住心のすべての顕教より第十住心の密教に到達するのはまさしく背暗向明である。これに対して、横の構造によると、衆生の心身の究極は無量の心識・無量の身があるとする。それは密教においてすべての顕教が包摂され、統合されていることにほかならない。横の構造は九顕十密といわれるように、第一住心より第九住心までは確かに顕教ではあるけれども、深い密教的な解釈からすればことごとくが密教であるという。竪の構造は九顕一密とよぶように、第一住心から第九住心までは顕教で、第十住心が密教である。したがって顕教と密教とは、いわば次元を異にしたものであるといえよう。(これは真言宗の立てた邪義)。
―――
阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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舌に任せて輙すく談じて
 口先だけのでまかせ。
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深害を顧みず
 深い害悪・災いをかえりみないこと。
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十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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不思議の真言相道の法
 凡智の思議を超えた真言の相とその道を説いた教法。密教でいう真言とは、仏の悟りや請願を示す絶対真実の言葉。呪・神呪・密呪・密語。
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仏道を成ずる
 仏の悟りを成就する。仏果を得ること。
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微妙にして清浄第一なり
 深遠にして細やかで凡智ではとうてい知り得ないもので、清らかさは一番勝れていること。
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秘密の蔵
 秘密の法蔵という意味で、諸経・諸仏の根本極理をあらわしている。「秘密」とは、疏の九に「「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とある。大聖人仏法における「秘密の蔵」とは南無妙法蓮華経である。
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六波羅蜜経
 中国・唐の罽賓国・般若三蔵の訳10巻、大乗理趣六波羅蜜経のこと。
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五蔵
 五臓とは肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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五味
 ①乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味のこと。涅槃経では、牛乳を精製する段階に従って得られる五味を説く。天台大師はこれを、乳味=華厳時、酪味=阿含時、生酥味=方等時、熟酥味=般若時、醍醐味=法華涅槃時としている。②甘・酸・苦・辛・鹹のこと。
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二教論
 弁顕密二教論の略。弘法の著作で、顕教よりも密教が優れているとの邪義を説いたもの。弘法は横豎において教相を判釈しているが、横の判教が弁顕密二教論であり、豎の判教が十住心論、秘蔵宝鑰であるとしている。
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五味を以て五蔵に配当し
 ①五味、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味。②五蔵、経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵。真言密教では醍醐味を秘蔵・総持門として、最高位に配当している。
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振旦の人師
 中国の仏教指導者。
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掩耳の智割剖を待たじ
 浅はかな考えで、自分で自分を欺くことのたとえ。または、自分の良心を騙して、そのことを考えないようにしながら悪事を働くこと。または、隠していた悪事がいつのまにか知れ渡ること。「掩耳」は耳をふさぐこと。男が大きな鐘を盗んだが、重くて持って帰ることができず、割って小さくして持って帰ろうと槌で打つと大きな音がして、他人に気付かれることを恐れた男は慌てて自分の耳を塞いだという故事。
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阿字
 梵文字で字母の第一。密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。
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毘盧遮那経疏供養法
 大日経疏のこと。20巻。善無畏が講説したものを零妙寺の僧・不可思議法師が筆録したもの。
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菩提心論
 「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。
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三摩地の法
 密教の法の総称。三摩地は心を一所に定めて散乱せず、深く思惟すること。
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 ここでは真言宗の僧侶たちも同じく法華経誹謗の罪を犯していることを明かされる。浄土宗の場合と同じく、中国における真言密教の開祖たちは、法華経と大日経を比べて、理において同等とする理同事勝を唱えた程度であったが、法華経ははるかに劣るとしたのが、日本真言宗の開祖・弘法である。従って、ここでは弘法の著作からの引用を通して、真言師の謗法を示されている。
 まず、秘蔵宝鑰巻上の中で「十住心」を列挙していることを図示されている。十住心は弘法が大日経の住心品と菩提心論を主たる根拠として、衆生の住する心に十種類の様相があるとして立てたもので、世間の浅い善悪の心から、外道の心を経て、出世間の内道の小乗・大乗の諸宗の心へと次第し、最後に真言宗の密経荘厳心を十番目の最高の心としている。この順序次第がそのまま弘法の一代仏教が価値配列となっていることはいうまでもない。
 十住心の図示の後、同じ秘蔵宝鑰から二つの文が引用されている。最初の文は弘法が十住心の第六・他縁大乗心、第七・覚心不生心、第八・如来一道心、第九・極無自性心の四つはいずれも大乗教でに基づく心であることを述べ、前の二つは菩薩乗、後の二つは仏乗と位置付けた後、第八・第九とも仏乗と名乗ってはいるが、第十・秘密荘厳心の立場から見ると、実体も実効性もない戯れの論にすぎないとけなしている。ここで戯論とされた第八如実一道心を弘法は法華経の基づくものとするものであるから、この主張が法華経誹謗に当たることが明らかである。
 次いで、人を謗じ法を謗ずることが阿鼻地獄に堕ちる悪業であると戒めた秘蔵宝鑰の文を引かれているのは弘法の自己矛盾を指摘されているのである。そのあと、大日経と法華経からそれぞれ経文を引用され、いかに法華経が大日経に勝れているかを明かされている。まず、大日経の文は巻二からの引用で、仏が不思議の教えを説く時には一切の声聞・縁覚の二乗に当てはまらないし、また一切衆生のためにも説くものではないということである。これは、要するに真言の教えは二乗や一切衆生と関わりのない高度な秘密の教えであると言いたくて述べたのであるが、真言密経は声聞・縁覚をはじめ一切衆生を救える教法でないことを期せずして認めているのである。
 これに対して、法華経方便品第二から、仏の言葉を信じ受け入れなければ、一切衆生は皆成仏することができると説いた文が掲げられている。この文では、それは法華経の一仏乗の教えが真に微妙で清浄第一の教えであるからである、と説いており、さらに法華経の安楽行品第十四から、法華経こそ、あらゆる仏の教えの中で第一の説法であり、諸仏如来の胸奥に秘め隠された教えの蔵で、諸教の中で最上に位置することを述べた文が引かれる。
 この最上の教えという点をめぐって、弘法は顕密二教論の中で、仏の一切の教説を経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・陀羅尼蔵の五蔵に分け、それぞれに涅槃経で説く乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味を当てはめた六波羅蜜経をよりどころに、最後の陀羅尼蔵、すなわち、真言宗が最高の味である醍醐味に当たるとし「振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名く若し斯の経を鑒みば則ち掩耳の智割剖を待たじ」などとうそぶいているのである。この「振旦の人師」が天台大師を指して言ったものであることは、天台大師が五時教判において五味を譬えに用いていることから容易に察せられる。つまり、天台大師はこの六波羅蜜経の五味という教えを盗んで、法華を醍醐味とする説を立てたと言っているのである。
 先の「六波羅蜜経に五蔵・五味を説く」の下にある「私に云く此の経は天台御入滅已後百余年に天竺より漢土に来れり爾れば見ざる経の醍醐を盗むと書くは謬失なり」の一文はこの「振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名く」という振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名く弘法の言葉への反論として日蓮大聖人が書き加え振旦の人師等醍醐を諍い盗んで各自宗に名くられたものである。その意味は、六波羅蜜経が中国に伝えられ訳されたのは唐代のことで、天台大師が入滅して百年以後のことである。天台大師の時代には存在していなかった経であるから、その中から天台大師が盗んだという弘法の非難は見当外れも甚だしいといわなければならない。
 なお、この弘法の言葉の「掩耳の智割剖を待たじ」について説明を加える必要がある。「掩耳」とは「耳をおおう」の意で、中国の故事に基づいている。ある男が鐘を盗んだが、これを運ぼうとすると大きな音がする。そこで、自分の耳をふさいで音が聞こえないようにしたという愚かさをいっている。「割剖を待たじ」とは、鐘を割ってしまうのを待たないので、との意で、鐘を割って音の出ないようにする以前に捨ててしまって、彼が盗み出そうとしたことが人々に知れ渡ってしまうというのである。
 ここで、鳴る鐘にたとえられているのは弘法のいう秘蔵・醍醐味のことで、どれだけ中国の人師たちが自宗の教えを醍醐と名づけていても、いずれも六波羅蜜経の説く秘蔵=醍醐の真意が明らかになる、といいたいのである。しかし、これも、実際には、弘法自身の問題にあてはまることはいうまでもない。
 次に不空訳の菩提心論にある「毘廬遮那経の疏に順ぜば阿字を釈す」という一文を引用されて、弘法がよりどころとした菩提心論が八宗の祖とされた竜樹の述作ではないことを明らかにされている。すなわち「私に云く」として、引用文の中の「毘廬遮那経の疏」すなわち、善無畏の講説が不思議法師が筆録した毘廬遮那経疏供養法の上下二巻の成立が竜樹入滅の800年後になることを明かされ、この疏を引用している菩提心論はさらにその後の成立となることは当然のことであるから、菩提心論が竜樹の著作でないことは明白である。
 従って、菩提心論に説く「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是三摩地の法を説く諸教の中に於て闕いて書せず」という一文に基づいて、弘法が真言密教の法のみ即身成仏の法であるとする真言宗の立義は根底から崩れる。
 本来、竜樹が法華経を差し置いて真言法にのみ即身成仏があるなどと書く道理がないことは、竜樹の作であることがはっきりしている他の著作と考え合わせて明らかである。菩提心論のこうした文は、本当の著者がだれであれ、訳者の不空三蔵が我田引水的加筆によるというものが通説である。

0650:14~0651:10 第17章 別仏を立てる誤りを明かすtop
14   一、真言は別仏の説に非る事
15   大日経の一の巻の五仏は中央は大日如来と説く 同五巻の五仏は中央は毘盧遮那と説く第一の巻の五仏は中央は
16 釈迦牟尼仏と説く、 文句の九に云く普賢観は法華を結成す文に云く 釈迦牟尼仏を毘盧遮那と名くと、 乃ち是れ
17 異名なり別体なるに非ざるなり、  安然の教時義に云く「真言宗の本地毘盧遮那は即ち天台宗の妙法蓮華経最深密
18 処同仏なり」、智証大師の授決集に云く「真言.禅門.華厳.三論.唯識・律宗・成・倶の二論等は若し法華・涅槃経等
0651
01 の経に望むれば是れ摂引の門なり」云云、 金剛頂経に云く 「婆伽梵釈迦牟尼如来・一切平等に善く通達するが故
02 に一切方を平等に観察して四方に坐し給う不動如来・宝生如来・観自在王如来・不空成就如来」云云、 大日経普通
03 真言蔵品の四に云く「時に釈迦牟尼世尊宝処三昧に入つて自心及び眷属の真言を説き給う」文、 大日経の第二に云
04 く「我昔道場に坐して四魔を降伏し 大勤勇の声を以て衆生の怖畏を除く、 是の時梵天等心喜共に称説す此れに由
05 つて諸の世間号して大勤勇と名く 我本不生を覚る」云云、 前唐院金剛頂経の疏に云く「成仏已来甚大久遠なり未
06 だ所経の劫数を説かざる所以は 経に於て各傍正の義有り故に彼の法華の久遠の成仏も亦 是れ此の経の毘盧遮那仏
07 と異解す可からず」云云、 仏法伝来の次第に云く「大師智拳印を結びて南方に向う面門俄かに開けて金色の毘盧遮
08 那と成り即便ち本体に還帰す」云云、 涅槃経の七の巻に仏迦葉に告げ給わく 「我般涅槃して七百歳の後是の魔波
09 旬・漸く当に我が正法を壊乱すべし、 乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作らん 魔王此の有漏の形を以て無漏
10 の身と作りて我が正法を壊らん」云云。
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   一、真言は別の仏の説でないこと
 大日経巻一の曼荼羅中の五仏は中央は大日如来と説くとする。同経巻五の五仏は中央は毘盧遮那仏と説いている。だが同経巻一の五仏は中央は釈迦牟尼仏と説くのである。
 法華文句巻九に観普賢菩薩行法経は法華経の結経であり、その文に釈迦牟尼仏を毘盧遮那仏と名付ける、とある。すなわちこれは名称の異なのであり別の仏ではないのである。
 安然の真言宗教時義に「真言宗で本地とする毘盧遮那仏は天台宗の妙法蓮華経の最も深密なところの仏と同じである」とある。
 智証大師の授決集に「真言・禅門・華厳・三論・唯識・律宗・成実・倶舎の二論などは、もし法華経・涅槃経などに対比すると、真実の教えへ摂引する方便の教えである」とある。
 金剛頂経に「婆伽梵の釈迦牟尼如来は一切の平等によく通達する故に、一切の方向を平等に、東西南北の四方を観察して座っておられる。不動如来・宝生如来・観自在王如来・不空成就如来などがそれである」とある。
 大日経普通真言蔵品第四に「その時、釈迦牟尼世尊は宝処三昧に入って、自己の心および従者の真言を説かれた」とある。
 大日経巻二に「私は昔、道場に座って四つの魔を降伏させ、大勇猛心の声によって衆生の恐れを除いた。この時、梵天などが心喜び、共にたたえて述べた。これによってもろもろの世間の人々が大勤勇と名付けた。私は本来、不生を覚っている」とある。
 慈覚の金剛頂経の解説書に「私が成仏して以来、甚だ大いに久遠である。いまだ経過したところの劫を数えない理由は、経典においておのおの傍と正の意味がある。故にあの法華経の久遠五百塵点劫の成仏もまたこの毘盧遮那仏と異なっていると理解してはならない」とある。
 仏法伝来の次第に「弘法大師が仏智に入るため拳を握る智拳の印を結んで、南方に向かった。面門がにわかに開いて、金色の毘盧遮那仏と成って、直ちに本体に帰った」とある。
 涅槃経巻七に、仏が迦葉菩薩に告げて言うのに「私が入滅して七百歳の後、この天魔がだんだんに私の正法を壊し乱すであろう。また、その場合、変化して阿羅漢の身および仏の姿となるであろう。魔王はこの煩悩を有する身でありながら、煩悩のない身と現じて、私の正法を破るであろう」とある。

真言は別仏の説に非る事
 真言は釈尊の別の仏の教説ではないということ。本来真言は仏の悟りや請願を示す絶対真実の言葉をいい、呪・陀羅尼ともいう。そうした真言を宣揚して大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依として立てられたのが真言宗で、これらの経典の教主を大日如来であるとしているが、大日如来を釈尊とは別の仏とするのは誤りである。
―――
五仏は中央は大日如来と説く
 大日経巻1の漫荼羅の5仏の中央は大日如来であると説かれていること。真言宗教時義巻1による。
―――
五仏は中央は毘盧遮那と説く
 大日経巻5の漫荼羅の5仏の中央は毘盧遮那仏であると説かれていること。真言宗では毘盧遮那は法身であり、大日如来としている。天台宗では毘盧遮那を法身・盧遮那を報身・釈迦仏を応身としている。
―――
五仏は中央は釈迦牟尼仏と説く
 大日経巻1の漫荼羅の5仏の中央は釈迦牟尼仏であると説かれていること。中央が大日如来とするのは真言宗の言い分である。
―――
普賢観
 中国・劉栄時代の曇無密多訳「観普賢菩薩行法経」1巻。法華経の結経。
―――
法華を結成す
 「観普賢菩薩行法経」は法華経の結経に位置づけされているということ。
―――
釈迦牟尼仏を毘盧遮那と名く
 「観普賢菩薩行法経」には「釈迦牟尼仏を毘廬遮那遍一切処と名づけたてまつる」とある。
―――
異名
 本名以外の呼び方、別名。
―――
別体
 本体と異にするもの。
―――
教時義
 4巻。平安時代中期に日本の天台宗の僧である安然の著。正しくは真言宗教時義というが、問答形式をとっているところから真言宗教時問答・教時問答ともいわれる。本書で論ずる真言宗は弘法の東密ではなく、円仁・円珍以来の台密のことで、その教相を理論的に体系づけた書。弘法の十住心論・秘蔵宝鑰などとは対立する台密の教判が述べられている。
―――
本地毘盧遮那
 真言宗で説く本地の毘盧遮那仏。本地は本来の境地、仏・菩薩の本体。
―――
最深密処同仏
 真言宗では本地の仏を毘盧遮那仏と立て、天台宗では毘盧遮那仏と釈迦仏を同位の仏であるとしている。
―――
智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
―――
授決集
 2巻。智証撰。智証が留学中に天台山禅林寺・良諝から授けられた口伝やその他の覚書を54項目に集成したもの。最初に条目を並べ、あとでこれを訳す形をとり、華厳宗や三論宗との議論が収められている。天台宗寺門派はこの書を根本聖典とし、秘密に伝授した証としている。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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禅門
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
―――
唯識
 唯識は「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。
―――

 成実宗のこと。4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
―――

 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
摂引の門
 真実の法門へ誘引する方便の法門、接院の門ともいう。
―――
婆伽梵釈迦牟尼如来
 婆伽梵は婆伽婆・薄伽梵とも書く。有徳・能破世尊と訳す。諸仏の通号のひとつ。よく衆生の貧・瞋・癡の三徳を破る徳を有し、世の人々の尊敬するところであることを表す。
―――
通達
 覚知すること。成仏の境涯に達すること。仏法の奥底を極めること。末法今日においては信心が通達であり、大御本尊以外に幸福になる道はないと確信すること。
―――
一切方
 東西南北などあらゆる方角。
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観察
 物事・事象を誤りなく診ること。
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四方
 東西南北
―――
不動如来
 阿閦仏のこと。(Aksobhya)東方妙喜世界の世界で阿閦仏経、大宝積経、悲華経、観仏三昧経、維摩経等に出てくるが、法華経化城喩品第七では、大通智勝仏の十六王子の第一、智積王子の後身と説かれている。すなわち「是の十六の菩薩は、常に楽って、是の妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化、六百万億那由佗恒河沙等の衆生は、世々に生まるる所、菩薩と俱にして、其れに従い法を聞いて、悉く皆信解せり。此の因縁を以って、四百万億の諸仏・世尊に値いたてまつることを得、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう。無量百千万億の菩薩、声聞有って、以って眷属と為り、其の二りの沙弥は、東方にして作仏す、一を阿閦と名づく、歓喜国に在す」と。
―――
宝生如来
 大日如来をとりまく四仏の一人で、南方月輪中に座す。宝生仏ともいう。
―――
観自在王如来
 西方の仏とされ、阿弥陀如来と同一視する考え方もあるが、真言宗では別としている。
―――
不空成就如来
 大日如来を囲む四仏の一人で、北方月輪中に住す。五智のうち成所作智をあらわす。
―――
釈迦牟尼世尊
 たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
宝処三昧
 三昧のひとつ。
―――
自心
 自分の生命、自分の心。
―――
眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
―――
真言
 真言宗の三密のなかの語密をいう。真言陀羅尼ともいい、仏の真実のことばをいい、呪文のようなものである。
―――
道場
 ①仏の常道の場所。②仏道を成するための修行や行教法。③仏道を修行する場所。④仏を供養するところ。⑤寺院のこと。
―――
四魔
 衆生の心を悩乱させて仏道修行を妨げる四つの働き。煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔。
―――
降伏
 ①戦いに負けて敵に従うこと、受動的意味。②威力をもって種々の魔や悪などを降し伏することで、能動的意味。
―――
大勤勇の声
 魔を降伏させる勇ましくつとめる声。
―――
怖畏
 おののき、恐れること。
―――
諸の世間
 さまざまな世の中の人々。
―――
本不生
 一切諸法が本来不生不滅であるという真言密教の教義。「阿」の字がすべての文字の根本であるように、根本として本然として存在することに由来する。
―――
前唐院
 滋賀県大津市・比叡山延暦寺内の院・延暦寺第三代座主・慈覚が建て住んでいた居房。慈覚を指して「前唐院」と」呼ぶ場合もある。
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金剛頂経の疏
 金剛頂大教主経疏のこと。7巻。不空の金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経を、慈覚が撰述したもの。歴劫成仏と不歴劫成仏で顕密二教を分別し、阿字本不生の一理をもって秘密教の教体としている。また法華経の久遠実成と金剛頂経の不久現証説を通釈して、釈尊の大日如来は一仏であると述べている。
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未だ所経の劫数を説かざる所以
 いまだ毘盧遮那仏が成仏して以来、過ぎたところの劫の数を説かない理由。
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傍正の義
 従と主の意義。諸説の法門の傍と正。
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法華の久遠の成仏
 法華経寿量品に説かれるように久遠五百塵点劫に仏になったこと。
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此の経の毘盧遮那仏
 金剛頂経で説く毘盧遮那仏。
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異解
 正義・本義と異なった見解や解釈。
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仏法伝来の次第
 孔雀経音義に仏法伝来の順序が説かれていることをいう。
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大師
 ①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
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智拳印を結び
 左手を握り人差し指を出し、その人差し指を右手で握るという真言宗の祈禱法。
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面門
 口のこと。
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本体
 諸事象のこんぽんをなしている体。
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還帰
 元に戻ること。かえること。
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般涅槃
 般泥洹ともいう。寂滅・円寂・入滅のこと。
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魔波旬
 天魔波旬のこと。仏道修行を妨げる天魔。殺者・悪者ともいう。
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化して
 仏・菩薩などが本来の姿を変えてあらわれること。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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仏の色身
 肉体などのかたちをとって現われた仏の身体。法報応の三身のうちの応身。
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魔王
 第六天の魔王・他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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有漏の形
 煩悩を有する肉体のこと。
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無漏の身
 煩悩のなくなった肉体。
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 先の真言宗の謗法破折が真言宗の立てる「法」に向けられていたのに対し、ここでは真言宗の立てる「仏」すなわち大日如来等に目を向け、真言宗では、釈迦仏とは別の仏として毘廬遮那仏である大日如来を立てているが、実は、毘廬遮那仏・大日如来は釈迦牟尼仏の異名にすぎないことを明らかにされている。
 まず、大日経の巻一では胎蔵界曼荼羅の中心である中台八葉院にある五仏の中央は大日如来であるとし、同経の五巻では中央は毘廬遮那としていることを挙げられた上で、本当は、同経の第一の巻でも、中央は釈迦牟尼仏としていることを述べられ、天台大師の法華文句巻九の文を引用されている。
 その文は観普賢菩薩行法経が法華経の結経であることを記した後、釈迦牟尼仏を毘廬遮那と名付けるとした普賢観経の一文を引用している。
 この法華文句巻九の文に基づいて、大日如来も毘廬遮那も釈迦牟尼仏の異名であり、従って、一体であって別々の仏ではないと結論されている。
 次いで、この結論を裏付ける釈や経文を六つ引用されている。まず、日本天台宗の安然の真言宗教時義からは、真言宗が本地として立てる毘廬遮那は天台宗の立てる仏、すなわち、妙法蓮華経がそこから説法されてくる最も深い秘密の処、すなわち、釈迦牟尼仏、と同じである、という一文が引用されている。次いで、同じ日本天台宗の智証大師の授決集からは、真言・禅門・華厳・三論・唯識・律宗・成美宗・俱舎論等の諸宗・諸論は法華経・涅槃経の第五時の円教へと導く方便の教えに過ぎないとする文を引用され、ここでは、真言経典が法華経のための方便として説かれた権経であると位置付けることにより、真言経典も釈迦仏の説法であることを示されているのである。
 次に真言宗のよりどころとする金剛頂経巻上からの一文、大日経巻二から二文を引用して、いずれも、釈迦牟尼世尊と毘廬遮那とを一体視している文を引かれ、先の結論を裏付けられている。さらに、日本天台宗の前唐院の金剛頂大教王経疏巻三から、法華経の久遠実成の釈迦牟尼仏と毘廬遮那仏を別の仏と考えてはならないと戒められている文を引用だれている。
 最後の二文は真言宗の開祖・弘法の本性が魔王であることを示すために引用されたものである。最初の「仏法伝来の次第」すなわち孔雀経音義という書物からは、弘法が智拳印を結んで金色の毘廬遮那仏になったという記録を引用され、次いで、涅槃経巻七から、釈迦仏の予言として自らの滅後700年を経過すると魔や魔王が出現してその本来の姿を変えて阿羅漢や仏の色身と成って、釈迦仏の正法を破壊し混乱に陥れるであろうとの文を引用されて、弘法の行為がまさにそれに当たると破折されているのである。

0651:11~0652:12 第18章 禅宗の謗法罪を示すtop
11   一、禅宗謗罪を作す事
12   円覚経に云く「修多羅の教は月を標す指の如し」文方便品に云く「或は修多羅を説く衆生に随順して説く大乗に
13 入るに為れ本なり」 梵天王問仏決疑経に云く「梵王・霊山会上に至つて 金色の沙羅華を以て 仏に献り仏群生の
14 為に法を説き給えと請す 世尊坐に登り華を拈して 衆に示して青蓮の目を瞬す 天人百万悉く皆措くこと罔し独り
15 金色の頭陀・破顔微笑す、世尊の言く吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相微妙の法門有り文字を立てず教外別伝・摩訶迦
16 葉に付属す」云云、 是は中天竺なり仏の御入滅は北天竺拘尸那城なり、 涅槃経の一に云く「爾の時に閻浮提の中
17 の比丘・比丘尼・一切皆集る唯尊者摩訶迦葉・阿難の二衆を除く」 同経の三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の
18 比丘に付属し給う久住することを得ず 何を以ての故に 一切声聞及大迦葉は悉く当に無常なるべし彼の老人の他の
0652
01 寄物を受くるが如し、 是の故に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし」云云、 像法決疑経に云く「諸の悪比丘
02 或は禅を修すること有るも経論に依らず、 自ら己見を逐うて非を以て是と為し 是れ邪是れ正を分別すること能わ
03 ず、 遍く道俗に向つて是くの如き言を作さん我能く是を知り我能く是を見ると、 当に知るべし此の人は速かに我
04 が法を滅せん 乃至地獄に入ること猶箭を射るが如し」云云、 弘決一の下に云く「世人多く坐禅安心を以て名けて
05 発心と為す、 此の人都て未だ所縁の境を識らず所期の果無ければ 全く上求無し大悲を識らざれば全く下化無し、
06 是の故に発心は大悲より起るなり」云云、 天台の止観の五に云く「又一種の禅人他の根性に達せずして 純ら乳薬
07 を教ゆ体心踏心・和融覚覓若しは泯若しは 了斯れ一轍の意なり障難万途紛然として識らず 纔かに異相を見て即ち
08 是れ道と判ず 自ら法器に非ず復他に匠たるを闕く盲跛の師徒二り 倶に堕落す瞽蹶の夜遊甚だ憐愍す可し」云云、
09 弘決の一に云く「世人.教を蔑にし理観を尚ぶ者アヤマれるかなアヤマれるかな」方便品に云く「諸法実相.所謂諸法
10 .如是相.如是性.如是体.如是力.乃至.如是本末究竟等」云云、妙楽大師の金ペイ論に云く「実相は必ず諸法・諸法は
11 必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」云云、 疏記の十に云く「直ちに此の土を観ずるに四土具足す故
12 に此の仏身即ち三身なり」云云。
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   一、禅宗が謗法の罪を犯すこと
 円覚で修多羅了義経に「修多羅の教えは月をさす指のようである如し」とある。方便品第二に「あるいは修多羅を説く。衆生に随順して説いたもので、大乗教に入る初めとする」とある。梵天王問仏決疑経に「梵天王が霊鷲山の会座上に至って、金色の沙羅樹の華を仏に献上し、仏よ、あらゆる修生のために法を説いてくださいと願った。世尊は法座に登り、華を拈って人々に示して、青い蓮のような目を瞬いた。百万人の天界・人界の衆生のことごとくが理解できなかった。貧欲を払いのける頭陀の行を修している金色の迦葉のみ独り顔をほころばせて微笑んだ。世尊が言われた。『私に正法の眼蔵・涅槃の妙心・実相の微妙の法門がある。文字を立てず教外に別伝して、摩訶迦葉に付属する」とある。霊鷲山は中天竺である。仏の御入滅は北天竺の拘尸那城である。
 涅槃経巻一に「その時に全世界の中の比丘・比丘尼・一切衆生が集まった。ただ尊者の摩訶迦葉と阿難の二人を除く」とあり、同経巻三に「もし法宝をもって阿難およびもろもろの比丘に付嘱すれば、久住させることができない。どうしてかというと、一切の声聞および大迦葉はことごとくまさに無常であるからである。かの老人の他の多くの寄進された物を受け取るようである。この故に無上の仏法をもろもろの菩薩に付属すべきである」とある。
 像法決疑経に「もろもろの悪い比丘は、あるいは禅を修することがあっても、経文や論書に依らないで、自らの我見に従って非をもって是として、これは邪、これは正とみわけることができない。あまねく僧侶や俗人にに向かって、このような言葉をなすだろう。私はよく正しいことを知り、わたしがよくこれを見ると。まさに知りなさい。この人はたちまち私の教法を断滅するであろう。(乃至)地獄に入ることはちょうど矢を射るように速い」とある。
 止観輔行伝弘決巻一下に「世間の人々の多くは座禅の安心を発心と名付ける。この人はすべていまだ縁するところの対境を知らない。期待するところの果がないので、上に菩提を求める心もなく、大慈悲を知らないので、下に衆生を化することもできない。その故に、発心は大慈悲から起こるのである」とある。
 天台大師の摩訶止観巻五に「また一種の禅の人は他の根性に通達しないで、もっぱら乳味の正法を教える。禅法でいう心を体して心を踏まえること、また心を調え悟り求めること、あるいは理に暗いこと、または明らかなこと、これらは一つの先例の意である。障難のあるさまざまな万途が入り混じって分からない。ひそかに異なった相を見て、これを道と判断する。これはおのずから法の器ではない。また他人の師匠であることに欠ける。盲人と跛者の師弟が一緒に谷間などに落ち、盲人と跛者が夜道を歩くようで甚だ憐れむべきである愍す可し」云云、
 止観輔行伝弘決巻一に「仏の教を蔑ろにし、理を観ずることを尊んでいる世の人々はなんといることよ」とある。
 法華経方便品第二に「諸法の実相、いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・(乃至)如是本末究竟等である」とある。
 妙楽大師の金錍論に「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身と土である」とあり、法華文句記巻十に「直ちに此の土を観ずると、同居土・方便土・実報土・寂光土の四土を具える。故に、この仏身はそのまま法・報・応の三身である」とある。

円覚経
 大方広円覚修多羅了義経のこと。大方広円覚経ともいう。北インド罽賓国の仏陀多羅訳。文殊・普賢・弥勒・円覚・賢善首等十二菩薩のために、仏が大円覚の妙理と、その実修観法を説いたものである。唐の円覚経大疏3巻をはじめ注釈書が多く、華厳宗・禅宗に影響を与え、特に禅宗では首楞厳経・維摩経とともに重要視されている。
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修多羅の教
 仏の経説のこと。
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月を標す指
 禅宗では、月を見ることができるならば、それを指す指は無用のように、坐禅によって悟りを得れば経文は不要であると主張している。
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随順
 仏の教えに従うこと。仏法を信受すること。
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梵天王問仏決疑経
 大梵天王問仏決疑経・問仏決疑経ともいう。仏が正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相という法門を摩訶迦葉に付属したことが説かれている。これが禅の起源として禅宗の依経になっている。
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梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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霊山会上
 法華経を霊鷲山で説かれたところから、法華経の会座をいう。法華経の会座には二処三会といって、霊鷲山(序品~法師品)・虚空会(宝塔品~嘱累品)・霊鷲山(薬王菩薩本事品~普賢菩薩勧発品)がある。霊鷲山とは梵語で耆闍崛山(Gṛdhrakūṭa)のことで、インドのベンガル州の山であり、その南が尸陀林で死人の捨て場所となっていて、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏の法華経がとどまるので「霊山」という。日蓮大聖人の仏法から見れば、本門の題目を唱える者の住所は、いかなるところも霊鷲山である。
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金色の沙羅華
 沙羅樹の金色の花。沙羅樹はフタバガキ科の高木で、ヒマラヤ山麓からインド北部に分布する広葉樹。普通は白毛に覆われた淡黄色の花をつける。高さは30㍍に達し、単一種の森林を形成する。材質は固く建築材などに用いられる。果実は食用・樹脂は薬用とされる。金色とあるのは黄色を意味する。
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群生
 「生」とは生類。「群生」とはすべての生物、生類、また一切衆生ということ。独尊に対する語。
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世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
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青蓮の目
 青紫色の蓮華のような目。蓮華はスイレン科の多年草。その葉は卵状楕円形で人の眼の形に似ることから、仏眼の譬として経文に引用されている。
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天人百万悉く皆措くこと罔し
 百万人の人界・天界の衆生がことごとく理解できなかったこと。百万は数字の経調。
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金色の頭陀
 頭陀は貪欲を払いのける修行で、摩訶迦葉は頭陀第一といわれた。金色は尊貴であることの強調。
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破顔微笑
 顔をほころばせ、喜ぶこと。
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正法眼蔵
 一切を照らし包む正しい法。眼は照らす、蔵は包含の意。清浄法眼ともいう。禅家の説で大梵天王問仏決疑経に説かれている正法眼蔵の句は仏の所説の無上の正法を意味するとして、教外別伝の心印としている。中国・栄の道原は景徳伝燈録の第一祖・摩訶迦葉のなかで、仏は正法眼蔵を迦葉に付嘱した。第二十八祖・菩提達磨では迦葉から以心伝心として菩提達磨に至るとしている。
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涅槃妙心
 悟りの心。仏心のこと。大品天王問仏決疑経の文。煩悩の束縛を脱した仏の悟りは不可思議な心であるとの意。
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実相微妙の法門
 実相とは真実の相でありのままの相。諸法の所銓の本体であり、固定的・実体的な特別な相をもたない。法性・真如・実性と同じ意味。微妙の法門とは深遠かつ細やかで、凡智ではとうてい知り得ない不可思議で優れている法門。細かいところに奥深い意味が含まれている。簡単には表現できない教えをいう。
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文字を立てず教外別伝
 仏の悟りは、文字や言語で表された経典や教理によらず、経文の外に以心伝心によって別に伝えられたとする禅宗の教義。ただし禅宗では仏教の経典を読み、文筆を行い、教義を説くという矛盾を示している。
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摩訶迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある 。
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付属
 相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
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中天竺
 インドを東・西・南・北・中と五つにわけたなかの「中」。中央インドのこと。
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北天竺
 インドの北部をいう。
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拘尸那城
 梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。
―――
尊者
 尊い賢者。有徳の人。
―――
阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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二衆を除く
 摩訶迦葉と阿難の二人が釈尊の入滅の場にいなかったことをいう。
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法宝
 仏教徒が尊敬し供養すべき三宝のひとつ。南無妙法蓮華経のこと。
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久住
 久しく住すること。法や人が久しい間存在すること。
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無常
 常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
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寄物
 寄進されたもの。
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無上の仏法
 最高の仏の教法。仏の出世の本懐である法華経のこと。
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禅を修する
 心を静かに一処に定めて散乱せず、煩悩を断って真理を思惟する境地に入る戒・定・慧の三学の一つ。六波羅蜜の一つ。禅は禅那のこと。五種禅などがある。
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経論に依らず
 仏の説いた経や論などを用いようとしないこと。
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己見
 自分勝手の考えや意見のこと。我見。見惑の中の最も根本的な五種の妄見のひとつ。
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非を以て是と為し
 非道を道理とする。間違っていることを正しいと言い張る。
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是れ邪是れ正を分別する
 これは正しいこと、不正なことと見分けること。分別はいろいろな事象を思惟し識別する心の作用。
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道俗
 出家と在家のこと。
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猶箭を射るが如し
 悪比丘が地獄に堕ちる様子を述べたもので、ちょうど矢を的に射るように早いことのたとえ。
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坐禅安心
 座禅によって不動の境地に立つこと。座禅は端座して禅の修行をすること。
―――
発心
 発菩提心のこと。菩提心を発すこと。衆生が無上菩提を願う心を発し、成仏を願うことをいう。
―――
所縁の境
 修行のよりどころとなる対境。
―――
所期の果
 期待する所の証果。
―――
上求無し
 上求菩提下化衆生のことで、大乗菩薩の特質を表す。上求菩提は理想の悟りを求める心。無しは、その心が欠けていること。
―――
大悲
 仏・菩薩が衆生の苦しみを除こうとする心。
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下化無し
 上求菩提下化衆生のことで、大乗菩薩の特質を表す。下化衆生は現実に迷い苦しむ衆生を化導する心。無しは、その心が欠けていること。
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一種の禅人
 仏法を学ぶ人々のなかに、経文の語句にとらわれる人と、経文を無視し禅法を重んずる人の両極端を挙げる中で、後者をさしていったもの。
―――
他の根性
 人々の多様な機根・性分
―――
乳薬
 五味のうち乳味に相当する程度の低い教え。
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体心踏心
 禅法でいう心を体し心を踏まえること。禅宗では心性に拘泥していることを示す。
―――
和融覚覓
 心を調え悟りを求めること。
―――
若しは泯若しは了
 泯は理に暗いこと。了は明らかにすること。
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一轍の意
 一つの先例。前の人がなしたこと。
―――
障難万途紛然として
 障害や難関のあるもんもがさまざまな方途が入り混じって。
―――
纔かに
 こっそりと。
―――
異相
 異なった姿・形をいう。
―――
道と判ず
 正しい道理・悟りを判断する。
―――
法器
 仏法を受け持つことができる素質を持った衆生のこと。
―――
匠たるを闕く
 仏法の師匠である資格に欠けること。
―――
盲跛の師徒二り
 一人は盲人。一人は足の不自由な人。であるような師匠。
―――
堕落
 ①正しい道から外れること。②崖から墜落すること。
―――
瞽蹶の夜遊
 盲人と足の不自由なものが夜道を歩くこと。
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憐愍
 あわれむこと。
―――
教を蔑にし理観を尚ぶ者
 仏の教えを無視し、理の観想を尊ぶもの。
―――
諸法実相
 諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358-01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。
―――
如是相
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。あらゆる存在には必ず「相」がありそのことを「如是相」という。
―――
如是性
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相のあるものは必ずそれにふさわしい性質をもっておりこれを「如是性」という。
―――
如是体
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相があり、性質があるものには必ず主体がありこれを「如是体」という。
―――
如是力
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。体は必ず、ある潜在能力をもっていてこれを「如是力」という。
―――
乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
―――
如是本末究竟等
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、複雑にからみあっていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だかわからないことが多い。それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんなものも、どんなことがらも、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできない。「相」から「報」まで、すなわち始め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」のとおりになることは同じだ(等しい)、ということ。これを「本末究竟等」という。
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金錍論
 金剛錍論のこと。妙楽の著。華厳の澄観が非情に仏性なしとする説を破折し、仏性は情非情にわたることをあらわした。天台の法門を金錍にたとえている。
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諸法は必ず十如
 森羅万象は必ず十如をともなっている。十如は諸法を十種の側面からみた存在の仕方。十如是・十如境ともいう。
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十如は必ず十界
 十如は必ず十界に現れる。十界は十法界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏。
―――
十界は必ず身土
 十界は必ず身土を具えている。身土は衆生の一身と、その身が存在する場所・国土。正報と依報に分ければ、身は正報・土は依報となる。
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四土
 4種類の国土のこと。仏教の経典で描かれる種々の国土は、そこに住む衆生の果報であり、依報とされる。仏・菩薩・声聞などの国土は、内面に覚知し証得している境地と対応している。仏の国土は、仏が菩薩の時に立てた衆生救済の大願と積み重ねた修行に相応して建立されるものとされている。諸経では衆生の国土に実体的な環境の違いがあると説くのに対して、法華経見宝塔品第11では、三変土田によって、娑婆世界を中心に多くの国土が浄化されて統一されることが説かれる。本門の如来寿量品第16では、本来、常寂光土の一土であるが、それが衆生の一念に応じて種々の違いとなって実感されるということを明かしている。❶天台宗で立てる四土。①凡聖同居土(人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土)②方便有余土(見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土)③実報無障礙土(別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土)④常寂光土(法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土)をいう。【詳説】①凡聖同居土。略して同居土ともいう。迷いの凡夫と仏法の覚りを得た聖人とが、ともに住む国土をいう。この国土の仏身は劣応身とされる。▷同居穢土②方便有余土。略して、方便土、有余土ともいう。見思惑を断じた声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土のこと。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土をいう。阿羅漢・辟支仏のように方便道を修行して一切の煩悩を仮に断じたゆえに「方便」といい、いまだ元品の無明を断ずることができないゆえに「有余」という。また七方便九種の行人の生まれ住むところなので、方便土であるという説もある(七方便とは、蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の菩薩のこと。九種の行人とは七方便の中の別教の菩薩を三に開いたもので、蔵教の声聞・縁覚、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教の六住の思惑・見惑を断じた菩薩、十行の菩薩、十回向の菩薩、円教の十信の菩薩のこと)。方便土は菩薩が成仏するまで見思の惑(三界六道に出た声聞・縁覚・菩薩等の生死)を断じて、さらに智慧を開いて次の実報土に生まれることから、変易土ともいう。③実報無障礙土。実報土のこと。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が顕れること。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。④常寂光土。本仏・円仏が住む国土。迹土に対して本土ともいう。『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点縦横、並別ならざるを、秘密蔵と名づく。諸仏如来の遊居する所の処は、真常究竟にして、極めて浄土と為す」とある。常寂光を三徳に対応させ、常とは法身、寂とは解脱、光とは般若にあたるとし、それが時系列的・並列的ではなく円融しているので、不縦不横とされる。❷唯識学派(法相宗)で立てる四土。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』巻7などに説かれる、仏が住む国土を4種類に類別したもの。①法性土(自性身の住む国土)②自受用土(自受用身の住む国土)③他受用土(他受用身の住む国土)④変化土(変化身の住む国土)のこと。❸摂論宗の法常らが立てる四土。仏が住む国土を4種に分けて化浄土・事浄土・実報浄土・法性浄土としたもの。
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仏身即ち三身
 仏の一身に三身が相即している、一身即三身(法華文句に「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり、通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり、力は幹用自在、即ち応身なり、仏、三世に於て等しく三身あり、諸教の中に於て之を秘して伝えず」とある。一身即三身・三身即一身とあるのも、究極は、一身とは久遠元初自受用法身如来即日蓮大聖人であり、三身とは無作の三身である。日蓮大聖人こそ無作三身当体蓮華の仏であられる)のこと。
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 ここでは禅宗が謗法罪にあたることを示すために経文、釈分を引用されている。まず、禅宗が一つの根拠とする「仏の説いた経教は月を指す指のようなもので、指そのものではないからとらわれるべきではない」とする円覚経の一文が引かれている。
 禅宗では、月そのものを見ることが大事で、それをさす指は無用であるように、座禅によって悟りを得れば経教は不用である、としている。ここに、法華経を不用であるとした禅宗の正法誹謗の罪は歴然としている。
 次の方便品第二の文は禅宗側が円覚経にいう“経教無用論”を裏付けるために使用しているもので、仏が経教を説くのはあくまで衆生の機根に随って説いた方便にすぎず、あくまで大乗に入るための手段である、との一文がある。方便品本来の意図からいえば、ここでの大乗は実大乗の法華経を指すのはいうまでもないが、それを我田引水に「大乗」を禅法ととらえているのである。
 ついで、禅宗が特に依経として尊重する梵天王問仏決疑経からの一文が引用されている。その内容は、釈尊が霊鷲山の会座で大梵天王が説法を要請したのに対し、華を拈って瞬きした。だれもその意味を理解できなかったが、ひとり摩訶迦葉だけが顔をほころばせて微笑したという。これを見て釈尊は「正法目蔵・涅槃妙心・実相微妙の法門」を、文字を立てず、従って、経教によらない別の形で、迦葉に付託すると述べた、というものである。
 これらを根拠に、経文を読誦したり学んだりすることは不用であって、座禅観法を修することが仏の本意にかなうというのが禅宗の主張である。
 次に、そうした座禅の破折のための文が引用されている。まず「是は中天竺なり仏の御入滅は北天竺拘尸那城なり」と言われているのは、釈尊が法を迦葉に付嘱したという記述から、釈尊の入滅直前の説法ということになるが、その場所を中天竺の霊鷲山としていることについて、釈尊の入滅の地は北天竺の拘尸那城の沙羅林であることを指摘されて大梵天王問仏決疑経そのものを信用して値しないとされている。
 次いで、迦葉が釈尊入滅の場にいたかという点からも、この経の不正確さに破折の矛先を向けられている。はじめに、涅槃経巻一から、釈迦仏がまさに入滅するであろうことを聞いて、比丘・比丘尼が駆け付けたのであるが迦葉と阿難の二人は、その中には含まれていなかったという一文を引用され、釈尊の入滅時には迦葉はいなかったことを明らかにされている。
 次に、涅槃経巻三からは、釈迦仏が無上の法宝を付託するに当たって、灰身滅智を目的として修行している阿難や迦葉などの阿羅漢たちは無上の存在であるため、法を久住させることができないので、諸の菩薩に付託すると述べたという一文を引用されている。この点からも、迦葉が法を付属を受けるということはありえない、と破折されている。
 ここで、しかし迦葉は付法蔵第一、阿難は同第二に定められていたではないかという疑問が生じるが、付法蔵とは釈迦教団の統率者という意味であったと考えられる。言い換えると、教団の統率は迦葉をはじめとする出家者たる声聞に託されたが、「無上の法門」は諸菩薩たちに託されたということになる。しかし、この諸菩薩自体、現実上の人間として存在していたわけではない。
 もとより、このような菩薩を宣揚し尊重する言説は、歴史的には後代の在家の人々を中心に盛んになった大乗仏教崇拝の機運が反映したものと考えられる。だが、仏教もともとの精神の中に、このあとの弘決の引文にもある「上求菩提・下化衆生」を実践する菩薩行こそ仏道修行の真髄であり、真実の仏法はその中に生きていくという考え方があり、それがそうした言葉として現れたと考えるべきであろう。
 すなわち、教団の統率は出家僧たる声聞に託するが、教団における立場にかかわらず「上求菩提・下化衆生」の菩薩の精神を実践している人にその真の仏法が脈動しているのだとして、そうした人を尊重し付託していきことを忘れてはならないと戒められたのではないだろうか。
 日蓮大聖人の教団においても、第二祖日興上人が遺された26箇条の誡めの中で「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(1618-07)ある条目は、これと同じ精神を述べたものと考えられる。
 次いで、像法決疑経、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一、天台大師智顗の摩訶止観第五、止観輔行伝弘決巻一の四つの経釈から引用されているが、これらはいずれも、禅宗の行者の修行の在り方を破折するためである。
 像法決疑経の一文は悪比丘の代表例として、禅のみを修行して経論を根拠としない者を挙げ、彼らは己見にとらわれて衆生を惑わし仏の正法を破滅させて地獄に堕ちるというものであり、止観輔行伝弘決巻一の一文は、座禅によって安心を得ようとして発心する者は大乗仏教の菩薩道として上求菩提下化衆生の精神に合致せず、利己的になるので、発心は慈悲から起こせというものであり、摩訶止観巻五と弘決巻一とは共に、禅のみを行ずる者が仏の教えを蔑にするために、修行の途上で「異相」が現れると道を得た妄想とする。この姿を見て弟子たちも従うが、もともと、このような禅者は法器でもなければ他人の師たるに値しないわけであるから、ちょうど、目の見えない者と足の不自由な者との師弟の危険な山道や夜道を行くようなものであると破折している。
 最後に、方便品第二の諸法実相・十如是の文を引用され、次いで、妙楽大師の金錍論から、方便品の十如実相の文から展開され、構築された天台大師の一念三千の構成要素を記した一文を引用され、さらに「十界は必ず身土なり」についての法華文句記巻十の釈文を引用され、十界のうち仏界の身土を明かしている。
 すなわち、仏界において娑婆世界を観想すると、そこに凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土を具えており、ここに住する仏身はそのまま法身・報身・応身の三身を具えている、ということである。
 この最後の三つの引用文は、禅宗の修行者が仏の経をおろそかにして、ただ己心を観じようとするため、目の見えない者が危険な道を案内するようであるのに対し、天台大師も禅法を修したが、法華経の諸法実相・千如是を所縁の境としたこと。すなわち教相と観心の両方を重視することを明らかにされるためのものである。諸法実相・一念三千こそ、仏が究尽した悟りであり、これを所縁の境としてはじめて正しく己心を観じることができるのである。

0652:13~0654:07 第19章 開権顕実の法門を明かすtop
13   一、権実証拠の事
14  玄義の二に云く「則ち百法界.千如是有り束ねて五差と為す一に悪・二に善・三に二乗・四に菩薩.五に仏なり、判
15 じて二法と為す前の四は是れ権法・後の一は是れ実法」云云、 釈籤の二に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」
16 云云、 秀句の下に云く「定性と不定性は位の高下に依り 成仏と不成仏は経の権実に依る」文句の九に云く「漸頓
17 の益は虚なり」云云、 記の九に云く「権を稟けて界を出るを名けて虚出と為す」云云、玄義の九に云く「化他の因
18 果は仏菩提を致すこと能わず 是の故に取て並べ用いず化他の権実も亦 他をして極に至らしむること能わず亦取る
0653
01 応らず」云云、 止観の三に云く「権の権は実の権に非ず 実の権と成ることを得可し権の実は実の実に非ず実の実
02 と成ることを得べからず」云云。
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   一、権と実の証拠についてのこと
 法華玄義巻二に「すなわち百法界と千如是がある。まとめると五重の差別相になる。一に悪・二に善・三に二乗・四に菩薩・五に仏である。判別して二種の法とする。前の四種は権法、後の一種は実法である」とあり、法華玄義釈籤巻二に「九界を権として仏界を実とする」とある。法華秀句巻下に「五性でいう定性と不定性は階位の高い低いにより、成仏と不成仏は経の権と実の差異による」とある。法華文句巻九に「漸教・頓教の利益は虚仮である」とある。法華文句巻九に「権教を開いて迷苦の境界を出ることを虚仮の出離と名付ける」とある。
 法華玄義巻九に「随化意の法門の因と果は仏菩提をもたらすことはできない。この故に、権と実を取って並べて用いない。随他意の権と実もまた他をして仏果に至らせることができないし、また自らも得るわけにはいかない」とある。
 摩訶止観巻三に「権教の権は実教の権にではないが、実教の権と成ることができる。また権教の実は実教の実ではないとし、どうしても実教の実と成ることはできない」とある。
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03   一、権実分別の事
04   一に玄義の一に云く「蓮の為の故に華・実の為に権を施すを譬う、権は即ち是れ苗・文に云く種種の道を示すと
05 雖も其れ実には仏乗の為なり」云云、 二に又云く「華敷は権を開するを譬う 蓮現は実を顕すを譬う権実共に稲な
06 り文に云く方便の門を開いて 真実の相を示す」云云、 三に又云く「華落は権を廃するを譬う蓮成は実を立つるを
07 譬う実独り真米なり文に云く 正直に方便を捨てて但無上の道を説く」云云、 釈籤の一に云く「開廃倶時なり開の
08 時已に廃するが故なり」云云、 又云く「開の時即ち廃す」 又云く「既に実を識り已れば永く権を用いず」云云。
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   一、権と実とを分別すること
 一に、法華玄義巻一に「蓮のために華がある。それは実教のために権教を施すことを譬える。権教はすなわち苗である。法華経方便品の文に、種々の方便の道を示すといっても、それは真実には仏乗のためである」とある。
 二に、また「華が咲くことは権教を開くことを譬える。蓮が現れることは実教を顕すことを譬える。権実ともに米を取るための稲といえる。法師品の文に、方便の門を開いて真実の相を示すと説かれているのがそれである」とある。
 三に、また「華が落ちることは権教を廃することを譬える。蓮の成ることは実教を立てることに譬える。実教だけが真実の米といえる。このことを方便品の文には、『正直に方便を捨てて、但無上の道を説く』という」とある。法華玄義釈籤巻一に「華の開くことと華の廃することは同時である。開くときすでに廃する故である」とあり、また「開の時に同時に廃する」とあり、また「すでに実教をしってしまえば永く権教を用いない」とある。
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09   一、破三顕一の事
10   方便品に云く「一仏乗に於て分別して三と説く」云云、 玄義の九に云く「廃三顕実」又云く「施権」方便品に
11 云く「二も無く亦三も無し仏の方便説を除く」云云 涅槃経の二十三に云く「実には三乗無し顛倒心の故に 三乗有
12 りと言う、 一実の道は真実にして虚ならず顛倒心の故に一実無しと言う」云云、 方便品に云く「尚二乗無し何に
13 況や三有らんや」云云。
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   一、三乗を破して一乗を顕すこと
 法華経方便品第二に「一仏乗を分けて三乗と説く」とある。法華玄義巻九に「三乗を廃して実を顕す」とあり、また「権を施す」とある。方便品第二に「二乗もなく、また三乗もない。仏の方便の説をば除く」とある。涅槃経巻二十三に「実には三乗はない。心が顛倒している故に三乗があると言っているのである。一乗の実教の道は真実にして虚仮ではない。顛倒心の故に一乗の実教はないと言っているのである」とある。方便品第二に「十方世界には二乗はない。まして三乗があろうか」とある。
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14   一、入如来慧の事
15   法華経に云く「是の諸の衆生世世より已来常に我が化を受く 此の諸の衆生始めて我が身を見て我が所説を聞い
16 て即ち皆信受して如来の慧に入る先より修習して小乗を学する者を除く」云云、 文句の九に云く「根利にして徳厚
17 く世世已来常に大化を受け始めて 我が身を見て即ち華厳を稟けて如来慧に入る 菓熟して零ち易し」云云、釈籤の
18 十に云く「当に知るべし法華は部に約するときは則ち華厳般若を破す」云云。
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   一、如来の智慧に入ること
 法華経従地涌出品第十五に「このもろもろの衆生は前々の世々から以来、常に私の教化を受けている。このもろもろの衆生が今世において初めて私の姿を見て、私の説く教えを聞くと、すぐに皆が信受して如来の智慧に入ったのである。しかし前から習い修めてきたものの、小乗教を学する者は例外である」とある。法華文句巻九に「機根が鋭利であって徳が厚く前々の世々以来、常に大乗経の教化を受け、今世において初めて私の姿を見て、直ちに華厳の教えを受けて如来の智慧に入った。果実は熟しているほど落下しやすい」とある。法華玄義釈籤巻十に「まさに知りなさい。法華経は、一切経を華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃の五部の立場から解釈するときは、華厳経・般若経を破るのである」とある。
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0654
01   一、余深法中の事
02   嘱累品に云く「若し衆生有て信受せざらん者には 当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」文句の七に
03 云く「示教利喜・示は即ち示転・教は即ち勧転・利喜は即ち証転なり」、玄義の六に云く「余とは方便を帯するなり
04 深とは中道を明すなり 方便を帯して中道を明すは即ち別教なり」云云、 又云く「但為に実を弘むるに而も衆生信
05 ぜず須らく実の為に権を施すべし」 釈籤の六に云く「有深復余とは即ち別教の法なり 入地を深と名け地前を余と
06 名く」云云、 文句の十に云く「汝能く余深の法を以て仏慧を助申せば即ち善巧に仏の恩を報ず」云云、疏記の十に
07 云く「以偏助円は 則ち此の意なり此の経の上下・一切皆然なり人 之を見ずして三乗有りと謂うは謬れり」云云。
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   一、余の深い法の中のこと
 法華経嘱累品第二十二に「もし衆生がいて、信受しない者には、まさに如来のこれ以外の深い法の中において示し教え利喜すべきである」とある。法華文句巻七に「示・教・利喜とは示はすなわち示転、教はすなわち勧転、利喜はすなち証転である」とある。法華玄義巻六に「余とは方便を帯びた教えのことである。深とは中道を明かした教えをいう。方便を帯びて中道を明かした教えとはす別教である」とあり、「実教を広めても信じない衆生は、実教のための権教を施すべきである」とある。法華玄義釈籤巻六に「深また余有りとは、すなわち別教の法である。五十二位のうち十地に入るを深と名付け、十地お前を余と名付ける」とある。法華文句巻十に「あなたはよく余の深い法をもって仏の智慧を助け申すならば、すなわち善く巧みに仏の恩を報ずることになる」とあり、法華文句記巻十に「偏を以て円を助けるとはすなわち、この意味である。この経の上と下の全部の一切がそうである。これをわきまえないで、声聞・縁覚・菩薩の三乗があるというのは誤りである」とある。

千如是
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如是となる。なお、千如是は有情界に限定される。
―――
五差
 五種の差別相のこと。悪・善・二乗・菩薩・仏をいう。差は差別の意で百界・千如是、一切の有情の境界をまとめれば五差となり、前の四は権法、最後の仏は実法となる。
―――
九界を権と為し仏界を実と為す
 法華玄義釈籤巻2のなかにある文。
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定性
 化導の有無にかかわらず声聞・縁覚・菩薩のいずれかになることが本然的に決定している衆生のこと。
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不定性
 声聞・縁覚・菩薩の三乗の種子を具えてはいるが、どれになるかは決定していない機根の者。法相宗で立てる五性のひとつ。
―――
成仏と不成仏は経の権実に依る
 衆生が成仏するかしないかは、その信受する経が方便か真実かによって決まる。真の成仏は実大乗経による法華経によってかなうのである。
―――
漸頓の益は虚なり
 漸教と頓教の利益のこと。頓は華厳、漸は阿含・方等・般若に配すると、ここでは共に仏の方便説をさす。方便行の利益は虚であり、真実の得益ではない。
―――
権を稟けて界を出るを名けて虚出と為す
 法華文句記巻9の文。この文に続いて「三乗は皆三界を出でざる無し、人天の為に三途を出ぜざる無し。並びに名づけて虚と為す」とある。
―――
虚出
 出離といっても真実でないこと。爾前権教・法華経迹門で声聞が三界六道の迷いを離れたというのは、本当の出離ではないということ。
―――
化他の因果
 随他意の方便権教における修行の因と得脱の果。化他に二意がある。①修行に約して他を教化・化導すること。②法体に約し九界の衆生の機根に応じて説く随自意の法門をいう。
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菩提
 菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
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化他の権実
 随他意の法門における権実。有
―――

 極上・最良・至極・道理・究極。
―――
権の権は実の権に非ず
 権教の中の権は実教のなかの権ではない。
―――
実の権と成ることを得可し
 権教の中の権は実教のなかの権ではないけれども、法華経の開会によって実教の中の権となることができる。
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権の実は実の実に非ず
 権教の中の実は実教のなかの実ではない
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実の実と成ることを得べからず
 権教の実といえども、決して実教の中の実とはなりえないのである。
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権実分別
 権と実を分けること。
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蓮の為の故に華
 蓮の実のために華がある。これは蓮華を借りての譬である。
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実の為に権を施す
 実教を説くための方便・準備として権教を衆生に説く。
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権は即ち是れ苗
 権教は稲の苗のようなものであり、実を結ぶ前段階である。
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種種の道
 さまざまな教え。方便・権教・三乗の法。
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仏乗
 一仏乗・一乗と同義。一切衆生を成仏させるための教えのこと。釈尊一代の聖教のすべては、総じては皆成仏道の教法といえるが、別しては法華経に限るのであり、南無妙法蓮華経に限るのである。
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華敷
 花が咲くこと。
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権を開するを譬う
 権を開くこと。40余年未顕真実の権教を開いて実教である法華経を説き顕わすこと。
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蓮現
 蓮の実が現れること。
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実を顕すを譬う
 実教をあらわすこと。実教は法華経。
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権実共に稲なり
 権教と実教は共に米をとるための稲。成仏のための教法である。
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方便の門
 爾前権教の教え。
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真実の相
 真実の姿・形・実教。相とは事物・事象の形像・姿・状態。
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華落は権を廃するを譬う
 蓮華の華が散るのは権教を捨てることを譬える。
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蓮成は実を立つるを譬う
 蓮の実がなるのは実教を顕することに譬える。
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実独り真米なり
 稲の実りが真実の米。すなわち仏果を譬える。
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正直
 心が定まってまっすぐなこと。仏の本位にかなうこと。
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無上の道
 仏界と至る最高の教法。
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破三顕一
 三乗を破折して一仏乗を顕すこと。
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廃三顕実
 三乗を廃して実を顕すこと。
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施権
 為実施権のこと。釈尊が権教を説いたのは、法華経を説くための方便であり、衆生を誘引するためであったこと。
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二も無く亦三も無し仏の方便説を除く
 法華経方便品第2の文。「十方世界の中には、尚二乗無し、何に況や三有らんや」とある。
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実には三乗無し
 実際には声聞・縁覚・菩薩の三乗はいない。ただ一仏乗のみがあるということ。
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顛倒心
 顚倒した心。正しいことを聞いても、逆に誤って解釈していく心をいう。
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一実の道
 一仏乗の教法。その悟り。
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真実にして虚ならず
 真実は本体があること。虚とは本体がないこと。
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入如来慧
 如来の智慧に入ること。如来慧は仏慧。仏の10号のひとつ。真如に従って到来し、真如から現れ出た者。一切諸法の根本を悟り、三世の因果に通達したもの。
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世世
 多くの世。①人間の生活の場・世間・世俗。②路迦・差別・毀壊。
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根利
 利根のこと。
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徳厚
 福徳が厚いこと。善根を積んでいること。
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大化を受け
 仏の偉大な化導を受けてきたこと。
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華厳を稟け
 利根の菩薩が華厳経を信受して、如来の慧に入ること。
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菓熟して零ち易し
 果実は熟しているほど落ちやすいこと。この文は華厳経を信受した利根の菩薩の立場をたとえている。
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部に約す
 説かれた教理によって判ずる約教に対して、経典によって判ずるのを訳部という。教理の上では爾前教の中にも法華経と共通する円教の内容があっても、約部の観点では方便権教として排除される。これを約部奪釈という。
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華厳般若を破す
 法華経は、約部の立場からいうと、華厳経・涅槃経を方便権教と破折する。
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嘱累品
 法華経嘱累品第二十二のこと。はじめに「我れは無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習し、今以て汝等に付嘱す。……汝等は当に受持・読誦し、広く此の法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と一切の菩薩への付嘱を明かした。これを神力品の上行菩薩への別付嘱に対して総付嘱という。諸菩薩は付嘱を受け、「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と誓った。嘱累品で宝塔品より始まった虚空会は終わり、分身の諸仏、地涌の菩薩も本土へ還り多宝の塔も閉じてもとの霊鷲山会に移行した。
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余の深法
 法華経のほかの深い教え。
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示教利喜
 嘱累品では迹化の菩薩に対して総付嘱が説かれるが、弘教の面では摂受を説き、衆生の面では法華経を信受しない者に対しては余の深法を示し教え、利益し歓喜させると説かれる。この示転・勤転・証転を三転法輪といい、転法輪は教を演説することをいう。
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示は即ち示転
 嘱累品の示教利喜のうち「示」は、示転、示転法輪のことで、天台所立の三転法輪のひとつ。釈尊は鹿野苑で声聞衆に対して四諦の法門を説いた時、上中下の機根に合わて三段階の説法をしたので「三転法輪」という。そのなかで「示転」とは、この世の中は苦悩の集積であり、苦悩を滅して涅槃の境地に至る道を四諦の教えとして示すことをいう。上根の衆生は示転をもって真理を悟るとしている。
―――
教は即ち勧転
 嘱累品の示教利喜のうち「教」は、勧転、勧転法輪のことで、天台所立の三転法輪のひとつ。釈尊は鹿野苑で声聞衆に対して四諦の法門を説いた時、上中下の機根に合わて三段階の説法をしたので「三転法輪」という。そのなかで「勧転」とは、中根の声聞に対して、苦は知るべきもの、集は断ずべきもの、滅は証すべきもの、道は修すべきものとして、四諦の修行にあたって「知断証修」の教えを勧めることをいう。
―――
利喜は即ち証転
 嘱累品の示教利喜のうち「利喜」は、証転、証転法輪のことで、天台所立の三転法輪のひとつ。釈尊は鹿野苑で声聞衆に対して四諦の法門を説いた時、上中下の機根に合わて三段階の説法をしたので「三転法輪」という。そのなかで「利喜転」とは、法を説き修行を勧めても信受しない下根の者に対して、仏自らの実証の姿を明かし、利益し歓喜させること。
―――
余とは方便を帯するなり
 法華経嘱累品第22の「余の深法の中」の「余」は、方便をおびていることを表している。
―――
深とは中道を明すなり
 法華経嘱累品第22の「余の深法の中」の「深」は、中道を意味する。中道は苦・楽の二受の二辺、断・常の二見などの両極端に執着しない不偏にして中正の道をいう。
―――
方便を帯して中道を明すは即ち別教なり
 一往は中道を明かしているものの、方便を帯びているのは別教であるということ。別教は天台大師が釈尊の一代聖教を教法の内容から立て分けた化法の四教のひとつで、菩薩のために説かれた教えである。二乗のために説いた前の蔵・通とは異なり、さらに後の円教とも異なるので別教という。常住の四教を説く涅槃経に「一切成に非ず、亦不成に非ず、是れを中道と名づく」とある。
―――
実の為に権を施すべし
 成仏の法である実教を説くために、初めのうちはその実教を信受しない衆生に対して権教を施すのである。
―――
有深復余
 別教の法門をさす。法華経嘱累品第22の「余の深法の中」の文を受けて、「有深復余」(深、復余と有る)とし、即ち別教の法なり、としている。
―――
別教の法
 化法の四教のうち別教の法門・教法のこと。
―――
入地を深と名け
 釈籤14の「有深復余」の文に続いて、その「深」は入地であると明かしている。入地とは十地の位に入ること。別教の52位のうち無明惑を断じて中道の理を証得する十地の位に入ることである。
―――
地前を余と名く
 釈籤14の「有深復余」の「余」は地前でありと釈している。地前とは別教の十地の位の前との意で、いまだ無明惑を断じていない位。
―――
余深の法
 法華経嘱累品第22の「余の深法」をさす。別教のこと。
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助申
 助けて述べる。言うことを助ける。
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善巧
 ①善巧方便の略。②善く巧みになすこと。
―――
以偏助円
 偏った教えであっても円教の意を助けること。この偏った教えとは、方便の三乗の経々、特に別教。
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 これまでは法華経に背く諸宗の謗法罪を破折されてきたが、ここからは、そうした諸宗がよりどころとしている爾前諸経も釈尊が説いたものであるのに、爾前諸経をよりどころとすることが誤りであるというのはなぜか、爾前諸経は何のために説かれたのか、という点について明らかにする経文・釈文が引用されるのである。
 初めに「一、権実証拠の事」として爾前諸経を権教、法華経を実教と立て分ける裏付けとして、天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観と、妙楽大師の法華玄義釈籤、法華文句記、また伝教大師の法華宗句の文が示されている。
 法華玄義巻二からは十界を悪、善、二乗、菩薩界、仏界の「五差」に分けた中の、前の四つが権法、後の一つを実法と立て分けた文が引かれている。これを受けて、法華玄義釈籤では、結局、九界が権、仏界が実となると記している。すなわち、釈尊の教化の目的は人々を成仏させることにあり、従って成仏を説いた教法が実教であり、三乗を説いた爾前経は権教になる。伝教大師の法華秀句巻下では、衆生が成仏するかしないかは信ずる経が実か権かに依存すると述べている。
 さらに、法華文句巻九では頓教である華厳経、漸教である阿含・方等・般若の三教、すなわち、爾前権教の利益は「虚」、すなわち、真実ではない、と記し、これを受けた法華文句巻九では、権教を信受して三界六道を出離したというのは「虚出」すなわち、仮に出離したにすぎず真実ではない、と述べている。
 次の法華玄義の文では、随他意の方便権教の因果によっては成仏できないので、これを用いてははならないとし、化他の権実の教法によっては他の人々を成仏に至らせずに、これを取るわけにもいかない、とある。これと関連して、摩訶止観巻三の文では、権と実の関係を明らかにしている。すなわち、権教の権は実教の権と同じではないが、法華経により開会されると実教の中の権となることができるが、権教の実は実教の実でないのは当然として、実教により開会されても、実教の中の実なることは、できないというものである。つまり、権教は永不成仏とされた二乗は、法華経で開会されて未来成仏の可能性をもつ二乗となる。しかし、権教の仏については法華経で開会されれば信仰・帰命の対象になりうるかというとそうではないとういことである。
 第二に「一、権実分別の事」の項では、権教と実教との関係について、三段階に分けて示されているが、これは、一、為実施権・二、開権顕実・三、廃権立実の三段階を指している。
 「一に云く」として「為実施権」の義を示した法華玄義冒頭の序王の文を引用されている。華を咲かせるのは実を結ぶ為の故であり、釈尊が本当に説きたかったのは一仏乗の法華経であったが、その準備段階として権教・方便の教えが説かれたことが明らかにされる。これを裏付ける経文として法華経方便品第二の文「棚種の道を示すと雖も、其れ実には仏乗の為なり」の文が挙げられる。
 次いで「二に又云く」として「開権顕実」の義を示した、同じく序王の文を引用されている。華敷つまり華が開く時、その中から蓮の実が現れる。すなわち、方便権教を開いて真実の相を説く実経を顕すことであり、これを裏付ける経文として法華経法師品第十の「方便の門を開きて真実の相を示す」の文が挙げられている。これを譬えて、権実ともに稲なりと言っている。稲は米を実らせる植物そのもので、根・茎・葉・実の全体をいう。
 「三に又云く」として「廃権立実」の義を示す。同じく序王の文を引用されている。華落蓮成の譬えで、華落、すなわち、華が落ちるのは権教方便の教えを廃することであり、蓮成、すなわち、蓮の実がなるのは実教・法華経のみを立てることであり、それはちょうど稲から取れた米に当たるとしている。これを裏付ける経文としては法華経方便品の「正直に方便を捨てて、但無上の道を説く」が挙げられている。
 次いで「開」と「廃」が俱時であることを述べた法華玄義釈籤の文が三つ引かれている。一般的には、華が開いて受粉が行われ、その後、華は散って実ができるから、開と廃に間隔がなければならない。しかし蓮の場合は、華が開いた時には、その中に実があり、華は開くと同時に役目を終えている。そこから、開廃同時ということがいわれているのである。これを仏の教説に約していえば、方便の門を開いて真実が明かされた時、すでに同時に方便権教は廃されるのである。
 第三に「一、破三顕一の事」では、これまで明らかにされてきた権教と実教との関係を、三乗を説いたのが権教、一仏乗を説いたのが実教の法華経であることから、権を三乗、実を一乗に当てはめて、仏は一仏乗を説くために、衆生の機根に応じて権教・方便として三乗に立て分けて説いたのであり、仏の真意は三乗を破ってただ一仏乗を顕すことにあって、二乗も三乗も無いことを一、破三顕一の事明らかにしているのである。
 第四の「一、入如来慧の事」、第五の「一、余深法中の事」の二つの項目は開権顕実の法門が結局は如来の智慧に衆生を導き入れるための仏の巧みな教化方法であることを示した経釈を引用されている。
 このうち「入如来慧」の段で引かれている「法華経に云く」は従地涌出品第十五の文で、地涌の菩薩が仏に向かって「世尊は安楽にして 少病少悩にいますや 衆生を教化したもうに疲倦無きことを得たまえりや」と問うたのに対して「諸の衆生の等は、化度すべきこと易く、疲労有ること無」と答えて述べたものである。ここに引かれている文のあと「是の如き人も、我今亦是の経を聞いて仏慧に入ることを得せしむ」とあり、このあと法華文句に「華厳を稟けて如来慧に入る」と説明されているように、華厳経などの爾前権教で仏慧に入った。過去の善根の蓄積ある人々を指している。この爾前権教では仏慧に入れなかった「先より修習して小乗を学する者」は「今亦是の経を聞いて」とあるように、法華経によって仏慧に入るというのである。
 ただし「華厳を稟けて」といっても、華厳経自体に成仏させる力があるのではない。過去に法華経によって善根を積んでいるので、華厳経を聞いただけで過去の善根が薫発して仏慧に入ることができたのである。従って、華厳経自体に衆生を成仏させる力があるとは考えてはならないと戒めて、釈籤の十の「法華は部に約するときは即ち華厳般若を破す」の文が引かれている。
 次の「余深法中」の段では、仏滅後の弘教においても、上の仏在世と同じ原理で法華経以外の「余の深法」をもって衆生を「示教利喜」せしめることが可能であるとする文が挙げられている。
 まず法華経嘱累品第二十二からは法華経の流布を仏から嘱累された菩薩たちが如来の智慧を信じ受け入れることのできない衆生に対して「如来は余の深法の中」すなわち、如来の法華経に次ぐ深い法をもって衆生に示し、教え、衆生を利益し、喜ばせるという文を引用している。
 この文を受けて、法華文句巻七では「示教利喜」の「示」は衆生に転輪を示すこと、「教」は衆生に転輪を勧めること「利喜」は証転、すなわち、仏・菩薩自らを実証した姿を衆生に見せて、利益し歓喜させることと釈している。
 次いで、法華玄義の文では、「余深法中」の「余」が方便を帯びた教法を指し、「深」というのは中道を明かす法をいうことを述べて、方便を帯びた中道を説く教えは別教であると釈している。
 次いで、同玄義では如来の智慧をそのまま説いている実教を広めようとしても、衆生がこれを信じない時は、仏在世の化導の方軌に倣って実教の為に権教を施すべきである、と“異実施権”の意義について釈しており、釈籤では、法華経嘱累品にある「余深法中」の法は別教の法を指すと釈し、「余」は別教の菩薩の52位中の10地以上に入っていることを指していると釈している。
 法華文句巻十では、菩薩が如来の智慧を信じることのできない衆生に別教である「余深の法」を用いて仏の智慧を助けて述べることが巧みに仏の恩に報いることである、と釈し、これを受けて、法華文句記では別教を用いて衆生を導くことは「以偏助円」すなわち、偏をもって円教・法華経の意を助けるためであるとしている。あくまでも三乗の教えは円教を助けるためにあるのであって、そのことをわきまえないで、三乗の教えが存在するのだから三乗それ自体としてあってもよいというのは誤りである、と釈している。

0654:08~0657:13 第20章 三種の教相を明かすtop
08   一、三種教相の事
09   玄義に「教相を三と為す一に根性の融不融の相.二に化導の始終不始終の相.三に師弟の遠近不遠近の相」云云、
10 釈籤の一に云く 「前の両意は迹門に約し後の一意は本門に約す」云云、 寂滅道場を以て元始と為す方便以下の五
11 品の意なり。
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   一、三種の教相のこと
 法華玄義巻一に「教相を三つに大別する。一に根性の融不融の相・二に化導の始終不始終の相・三に師弟の遠近不遠近の相」とあり、法華玄義釈籤の一に「前の二つの意は迹門に約して、後の一つの意は本門に約する」とある。
 菩提樹下で始めて悟りを開いたことをもって元の始まりとする。方便品以下の五品の意である。
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12   第一、根性融・法華不融爾前の相
13   華厳・阿含.方等・般若・法華各得道有り種熟脱を論ぜず、釈籤の一に云く「又今文の諸義は凡そ一一の科.皆先
14 ず 四教に約して以て麁妙を判ずるときは則ち前三を麁と為し後一を妙と為す 次に五味に約して以て麁妙を判ずる
15 ときは則ち前四味を麁と為し醍醐を妙と為す、 全く上下の文意を推求せずして直ちに一語を指して 法華は華厳よ
16 り劣れりと謂えるは幾許のアヤマりぞやアヤマりぞや」云云。
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   第一、根性融・法華不融爾前の相
 華厳・阿含・方等・般若・法華のそれぞれの経に得道があるが、種・熟・脱の三益を論じていない。法華玄義釈籤巻一に「また今文の法華経の文に葉多くの意味があるが、およそ一つ一つに筋道がある。まず蔵・通・別・円の四教に約して麁と妙と判別する時は、すなわち前の蔵・通・別の三つを麁として、後の円の一つを妙とする。次に乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味に約して麁と妙を判別する時は、すなわち前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味を麁として、後の醍醐味を妙とする。全く上・下の文の意味を推し量り求めないで、直ちに一語を指して、法華経は華厳経より劣っているというのは大いなる誤りである」とある。
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17   華厳は一麁一妙 相待妙───麁妙を判ず
18   阿含は 単 麁 無妙
0655
01   方等は三麁一妙 相待妙───麁妙を判ず
02   般若は二麁一妙 相待妙───麁妙を判ず
03   法華は二妙有り 相待妙は──麁妙を判ず
04           絶待妙は──麁を開して妙を顕わす                          ・
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   華厳経は一麁一妙 相待妙───麁と妙を判別する。
   阿含経は 単 麁 妙はない。
   方等経は三麁一妙 相待妙───麁と妙を判別する・
   般若は経二麁一妙 相待妙───麁と妙を判別する。
   法華経は二妙有り 相待妙は──麁と妙を判別する。
            絶待妙は──麁を開いて妙を顕す。
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05  釈籤の十に云く「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕わす」、玄義の二に云く「此の妙・彼の妙・妙の
06 義殊なること無し約教.相待.前三を麁と為し後一を妙と為す但方便を帯すると方便を帯せざるを以て異と為すのみ云
                                                 云」、約部
07 .相.前四味を麁と為醍醐を妙と為す同十に云く「初後の仏慧・円頓の義斎し」一往の釈、文句の五に云く「今の如く
                                                  始の如く
08 今の如し二無く異無し」云云、弘決の五に云く「惑者未だ見ず尚華厳を指す唯華厳円頓の名を知つて彼の部の兼帯の
09 説に昧し全く法華絶待の意を失う」云云、釈籤の二に云く「故に諸味の中・円融有りと雖も全く二妙無し」と同三に
10 云く「若し但四教の中の円を判じて之を名けて妙と為す諸経に皆是くの如きの円の義有り何ぞ妙と称せざる故に復更
11 に部に約し味に約して方に今経の教も円・部も円なることを顕わすべし、若し教に約せざれば則ち教の妙を知らず若
12 し味に約せざれば則ち部の妙を知らず、 爾前の相待妙とは前三を蔵通別麁と為し後一円を妙と為す」云云、法華の
13 相待妙とは前四味華厳・阿含・方等・般若を麁と為し醍醐を妙と為す三千塵点大通を以て元始と為す。
-----―
 法華玄義釈籤巻十に「ただ法華経に至って、以前の権教の意味を説いて今の法華教の教えの意味を顕す」とあり、法華玄義巻二に「この妙とあとの妙とで妙の意義に異なりはない(約教・相待妙では前の蔵・通・別の三教を麁として、後の円の一教を妙とする)ただ方便を帯びる教と方便を帯びない教という異なりがあるだけである」(約部・相待妙では前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味を麁として醍醐味を妙とする)とある。
 同玄義巻十に「初の華厳経と後の法華経の仏慧は円・頓の義において等しい」とある。これは一往の釈である。
 法華文句巻五に「今のごとく始のごとく、今のごとしである。今の所説と始めの所説は別々ではなく異なることはない」とある。
 止観輔行伝弘決巻五に「惑っている者はいまだ真実を見ないで、なお華厳経を指している。華厳経が円頓であることだけを知って、その経典の部が兼を帯びるとの説に暗い。全く法華経の絶待妙の意を失っている」とある。
 法華玄義釈籤巻二に「故にもろもろの味の中に円融の教えはあっても全く相待妙・絶待妙の二妙はない」とあり、同釈籤巻三に「もし蔵・通・別・円の四教の中だけで円を判じて、これを妙と名付けるならば、もろもろの経にすべてこのような円の意義がある。どうして妙と称さないのか。故に、またさらに五部に約し五味に約して、まさに今の法華経は教も円・部も円であることを顕すべきである。もし教に約さなければ教の妙を知らない。もし味に約さなければ部の妙を知らないことになる。法華経以前の相待妙とは前の三教の蔵経。通・別を麁とし、後の一円を妙とする」とある。法華教の相待妙とは前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味、すなわち華厳・阿含・方等・般若を麁と為し醍醐味を妙とする。三千塵点劫における大通智勝仏をもって始まりとする。
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14   第二、化導始・中間終・霊山の初住不始終の相 化城喩品の意なり
15   種熟脱を論ず種は大通なり熟は中間乃至今日の四味なり 脱は今の法華なり玄の一に云く「異とは余教は当機益
16 物にして如来施化の意を説かず此の経は仏の教を設け給う元始巧みに衆生の為に頓・漸・不定・顕・密の種子を作す
17 を明す」云云、 釈籤の一に云く「漸及び不定に寄すと雖も余教を以て種と為さず 故に巧為と云う」止観の三に云
18 く「若し初業に常を知るを作さずんば三蔵の帰戒羯磨悉く成就せず」と、 弘決の三に云く「今日の声聞・禁戒を具
0656
01 することは良に久遠の初業に常を聞くに由る 若し昔聞かずんば小尚具せず況や復大をや」云云、 弘決の三に云く
02 「若し全く未だ曾て大乗の常を聞かずんば既に小果無し誰か禁戒の具・不具を論ぜんや」云云、 又云く「羯磨不成
03 と言うは所謂・久遠必ず大無んば 則ち小乗の秉る法を成ぜざらしめん 本無きを以ての故に諸行成ぜざること樹の
04 根無ければ華果を成ぜざるが如し、 時機未だ熟せずんば権に小の名を立つ汝等の行ずる所是れ菩薩の道、 始めて
05 記を得て方に大人と名くるに非ず」 釈籤の一に云く「法譬二周得益の徒は 往日結縁の輩に非ること莫し」云云
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   第二、化導の始(中間の)終不始終の相(霊山の初住)不始終の相。法華経化城喩品第七の意である。
 種・熟・脱の三益を論ずる。下種は大通智勝仏の十六王子の覆講である。調熟は化導の始めと終わりの間すなわち三千塵点劫昔から釈尊在世の今日に四味が説かれた時までである。得脱は今日の法華経迹門である。
 法華玄義巻一に「異とは、法華以外の教はその時々の機根に当たるように衆生を利益するのであって、如来が何のために教えを施すかという意義を説かないことである。この法華経には、仏の教を設けられた元の始めから巧みに衆生のために頓教・漸教・不定教・顕教・密教の種子を作ってきたことが明かされている」とあり、法華玄義釈籤巻一に「漸教および不定教にゆだねるといっても、法華経以外の教をもって種としない。故に巧みに衆生の為にという」とある。
 摩訶止観巻三に「もし初めの行業に常住を知らなければ、三蔵教における仏法僧の三宝に帰依する戒法およびその儀式もことごとく成就しない」とあり、止観輔行伝弘決巻三に「釈尊在世の今日の声聞が戒律をみえることはまさしく久遠の初めの行業において常住を聞いたからである。もし久遠の昔に常住を聞かなければ、小乗経の証果はなお具えない。まして大乗教の証果においてはなおさらである」とある。
 同弘決巻三に「もし以前に全く大乗教の常住を聞いていなければ、すでに小乗経の証果はない。戒律を具えているかいないかを、だれが論じるであろうか」とあり、また「儀式が成らないと言うのは、いわゆる久遠が必ず大乗でなければ、小乗が堅く守る法も成就しないであろう大乗の大もとがないことによって種々の修行が成就しないことは、樹の根がなければ、華と果実が成らないようなものである。時と機根がいまだ熟さなければ、権教も小乗と呼ばれる。あなたたちの修行するところはすでに菩薩の道であり、始めて授記を得て大乗の人と名付けるのではない」とある。法華玄義釈籤巻一に「法説と譬説に二周の利益を得る弟子は、久遠の昔の日に仏縁を結んだ弟子でないものはない」とある。
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06     ┌五百塵点久遠を以て元始と為す寿量品の意なり
07     ├五百塵点霊山の中間
08   第三に師弟の遠近・不遠近の相
09     ├種熟脱を論ず
10     └種は久遠・熟は過去・脱は近く世世番番の成道今日の法華なり                  ・
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     ┌五百塵点劫の久遠をもって元の始まりとする。法華経寿量品第十六の意である。
     ├五百塵点劫から釈尊在世の霊鷲山会までを中間とする。
   第三に師弟の遠近・不遠近の相
     ├種・熟・脱を論ずる。
     └下種は五百塵点劫の久遠・調熟は過去の五百塵点劫から釈尊在世の霊鷲山会・得脱は、近くでは世ごと番ごとの成
          道、釈尊在世の今日では法華経本門の時である。 
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11   玄義の一に云く「又衆経に咸く云く道樹に師の実智始めて満じ道樹を起て始めて権智を施す今の経は師の権実・
12 道樹の前に在て久久に已に満すと明かす、 諸経に明かす二乗の弟子は実智に入ることを得ず 亦権智を施すこと能
13 わず、今の経に明かす弟子の入実は甚だ久し、 亦先より解して権を行ず、 又衆経は尚道樹の前の師と弟子との近
14 近の権実を論ぜず況や復た遠遠をや、 今の経は道樹の前の権実長遠なることを明かす 補処世界を数うるに知らず
15 況や其の塵数をや」 経に云く「昔未だ曾て説ざる所今皆当に聞くことを得べし 慇懃に称讃すること良に所以有る
16 なり、 当に知るべし此の経は諸教に異ることを」釈籤の一に云く 「二乗猶小果に住す故に不入と云う豈に能く他
17 を化せんや、故に権を施さず、 次に今経を明かす満願等の如き・先に已に実に入る説法・第一なり、故に先より解
18 して 権を行ずることを」弘の七に云く 「過去に種を下すは現在に 重ねて聞いて成熟の益を得、 未だ曾て種を
0657
01 下さざるは現在に種を成じ 未来に方に益す故に三世の益皆法輪に因る」 と薬草喩品に云く「汝等が所行は是れ菩
02 薩の道なり漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」云云、記の一に云く「一時・一説・一念の中・三世・九世・種熟脱
03 の三あり」弟子品に云く「諸の比丘諦かに聴け仏子所行の道善く方便を学ぶが故に 思議することを得可からず衆の
04 小法を楽つて而して大智を畏るることを知る、 是の故に諸の菩薩・声聞・縁覚と作る無数の方便を以て諸の衆生の
05 類を化す」云云、 又云く「内に菩薩の行を秘し外に是れ声聞なることを現す少欲にして生死を厭えども実には自ら
06 仏土を浄む、 衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子 是くの如く方便して衆生を度す」云云、方便品
07 に云く「大乗に入る為れ本なり」云云、分別功徳品に云く「願わくば我未来に於て長寿を以て衆生を度せん」云云、
08 玄義の七に云く「但本極の法身・微妙深遠なり仏若し説かずんば 弥勒尚暗し何に況や下地をや何に況や凡夫をや」
09  云云、 伝教大師の秀句の下に云く「浅は易し深は難し釈迦の所判なり浅を去つて深に就くは丈夫の心なり天台大
10 師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し 叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて 日本に弘通す」云
11 云、 又云く「謹みて法華経法師品の偈を案ずるに云く 薬王今汝に告ぐ我か所説の諸経而も此の経の中に於て法華
12 最も第一なり已上経文当に知るべし斯の法華経は諸経の中の最為第一なり」と、釈迦世尊宗を立つるの言は法華を極
13 と為す金口の校量なり深く信受す可きか。
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 法華玄義巻一に「また多くの権教のいずれにもいう。菩提樹下において師の真実の智慧が始めて満たされ、菩提樹下を立ち去って、始めて方便の智慧を施す、と。今の法華経は、師の権智・実智ともに菩提樹下の開悟以前に在って、久遠の昔にすでに満たされていたと明かす。もろもろの権教には声聞・縁覚の二乗の弟子は真実の智慧に入ることができない。また方便の智慧を施すことができないと明かす。今の法華経には、弟子は真実の智慧に入って甚だ久しい。また前々から解了して方便の智慧を行じていると明かす。また多くの権教はなお菩提樹下で開示以前の師弟の近々の権智・実智を論じない。ましてや遠々においてはなおさらである。今の法華経は菩提樹下の開悟以前の権智・実智の長遠であることを明かす。その世界の数は補にも処の弥勒菩薩にも数えられないほどである。ましてその世界をすりつぶして生じる塵の数においてはなおさらである。法華経従地涌出品第十五に『昔、いまだ以前に説かないところを今、皆まさに聞くことができる』と懇ろにほめたたえたことは、まことに理由のあることである。まさに知りなさい。この法華経はもろもろの教えに異なることを、と」とある。
 法華玄義釈籤巻一に「声聞・縁覚の二乗は自身が小乗経の悟りに住している。故に真実の智慧に入らずという。どうして他を教化できようか、故に方便の智慧を施しなさい。次に今の法華経を明かすことで願を満たしたと言われているのは、先にすでに真実の智慧に入っているのである。富楼那が過去九十億の諸仏のもとで、説法第一であったと説かれているのがそれである。故に以前から方便の智慧を行じたことが明らかである」とある。
 止巻輔行弘決巻七に「過去の種を下された者は現在に重ねて聞いて成熟の利益を得た。いまだかって種を下されない者は現在に下種され、未来にまた脱益を得る。故に過去・現在・未来の三世の利益はすべて仏の教法による」とある。 
 法華経薬草喩品第五に「あなたたちの行為は菩薩の道である。しだいに修学して、みな成仏するであろう」とある。
 法華文句記巻一に「一時・一説・一念の中・また三世・九世に種・熟・脱の三益がある」とある。法華経五百弟子受記品第八弟子品に「もろもろの比丘よ、明たかに聴きなさい。仏の子である菩薩が行ずる道は、方便の教法をよく学んでいるが故に、思議することができないのである。菩薩は衆生が小法を願って大乗の智慧に対し畏れを抱くことを知っているので、もろもろの菩薩は声聞・縁覚の姿を現じ、無数の方便をもって、もろもろの衆生のたぐいを教化する」とあり、また「内心に菩薩の行を秘し、外見に声聞であることを現す。少欲にして生死を厭うけれども、実には自ら仏土を浄化する。衆生に貧・瞋・癡の三毒があることを示し、また邪見の相を現出する。私の弟子はこのように方便をもって衆生を救う」とあり、同経方便品第二に「九部の法は大乗に入るには、これが初めである」とあり、同経分別功徳品第十七に「願うことには私は未来において長寿をもって衆生を救いたい」とある。
 法華玄義巻七に「ただ根本・究極の法身は微妙にして深遠である。仏がもし説かなければ、弥勒菩薩でさえも悟ることはできない。弥勒菩薩より低い階位の菩薩はなおさらである。まして凡夫においてはなおさらである」とあり、伝教大師の法華秀句巻下に「浅いものはは易しく、深いものは難しい。これは釈迦の判定するところである。浅いところを去って深いところに就くのが仏・菩薩の心である。天台大師は釈尊に信順して法華宗を助けて中国に広く宣揚し、比叡山の一家は天台家から法門を受け継いで、法華宗を助けて日本に弘め通わす」とあり、また「謹んで法華経法師品の偈を考えるのに、『薬王よ、今あなたに告げる。私の説くもろもろの経々、しかもこれらの経々の中において法華経が最も第一である』以上経文であり。まさに知りなさい。この法華経はもろもろの経々の中で最も第一である」とある。釈迦牟尼世尊が宗を立てる時の言葉は法華経を最極としている。これは仏が他と比べ考えた説法である。深く信受すべきである。

三種の教相
 天台大師が釈尊一代の聖教の中で、法華経が諸教中最第一であることを、①根性の融不融の相②化導の始終不始終の相③師弟の遠近不遠近の相をもって、明らかにしたこと。
―――
根性の融・不融の相
 爾前経で対告衆の根性に一々に対応して説法する、機根が各自整っていない状態を根性の不融・又は機根の不同という。法華経では衆生の根性は熟され一乗(真実)の教えに耐えうる、法華経の一仏乗に統合された状態であり、根性の融という。具体的には「方便品第二」での舎利弗の記別、「譬喩品第三」に於ける四大声聞の記別をさす。
―――
化導の始終・不始終の相
 仏が弟子に対し化導(教導)する際の順序として、下種→調熟→得脱を経て化導を終える。この過程が本格的に明示されたのは法華経「化城喩品第七」に於いて、釈迦が三千塵点劫の昔に大通智勝仏の王子として、父の大通智勝仏の説いた法華経を説法し、その説法を聞いた者が、現在の(化城喩品の説法時)法華経を聞いて成仏する声聞の弟子であると、化導の始めを説き明かした。即ち、三千塵点劫の過去の下種→弟子の根性の調熟→能化として再び出現→四十余年間の教化して現世における弟子達の機根の調熟→最後に法華経を説いて得脱させることを明かして今日の化導の始めを明かした。
―――
師弟の遠近不遠近の相
 仏=師と弟子の関係は、今世で見出されたものであるのか、そうでないのかという事。仏の本地の開顕か不開顕との差。爾前経では仏はこの世に生まれて、菩提樹の下で初めて成仏した始成正覚の仏と説く。法華経では本門寿量品の長行に於いて五百塵点劫の昔に成仏し、以来娑婆世界に出現し衆生を教化してきた仏の本地を明らかにした。これにより、仏と弟子との関係は、単にこの世のものだけでなく実は遠大なる過去以来、師弟の関係にあることが明らかとなった。「親近」とも言い得るが、「遠近」とする。
―――
前の両意は迹門に約し
 三種の教相のうち第一・根性の融不融の相、第二、化導の始終不始終の相の二つは爾前教と法華経の対比、迹門の観点から見るものである。五重の相対によれは、第一・第二の教相は共に諸経と法華経迹門との勝劣を述べたもので権実相対にあたる。
―――
後の一意は本門に約す
 三種の教相のうち第三の師弟の遠近不遠近の相は法華経迹門と本門の対比。この第三の教相を五重の相対によれは本門と迹門の勝劣をのべたもので本迹相対にあたる。
―――
得道
 仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
―――
種熟脱
 種熟脱の三益ともいう。仏が衆生の心田に成仏の種を蒔いてから解脱するまでの順序を3つに分類したもの。①種 - 下種益のこと。成仏得道の種を衆生の心田に蒔いて下すこと。最初に仏法と結縁させること。②熟 - 調熟益・成熟益のこと。蒔かれた種を熟し調えること。種々の手段を講じて修行の功があらわれてくること。③脱 - 解脱益のこと。熟した仏の種から茎が伸び成熟して開花するように、修行を完全にして円満なる証果を得て成仏すること。秋元御書には「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)、観心本尊抄には「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)、曾谷殿御返事には「仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056-15)とあり、さらに御義口伝には「当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法今日においては妙法五字の文底下種をうけて直達正観し、成仏することができるのである。
―――
四教に約して
 化法の四教から論じてみると。
―――
麁妙を判ずる
 化法の四教から麁妙を判定すると、麁は粗末で劣ることを意味し、妙は精妙で勝れている。麁は麁法・妙は妙法。
―――
前三を麁と為し後一を妙と為す
 化法の四教の前三、蔵・通・別を麁、後の円教を妙とする。釈尊の教説を分類した教相判釈によれば、万法の円融相即を説く法華経は円教であり妙であるということ。
―――
五味に約して前四味を麁と為し醍醐を妙と為す
 五味は経説の順序次第によって分類することで、牛乳の精製過程をたとえる。前四味(乳味・酪味・生酥味・熟酥味)である爾前諸経は麁であり、醍醐味である法華経を妙とする。前三麁意・後一易妙、約部奪釈である。
―――
一麁一妙
 華厳経には一つの麁と一つの妙があること。化法の四教にに約せば蔵・通・別は麁、円教は妙となるが、華厳経は別円の二教をふくむゆえに一麁一妙となる。
―――
相待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。法華経と爾前権経を対比して、法華経以外を麤と為す教判。麤とは不完全や粗悪という意味で、法華経からみるとそれ以前の教えは完全ではない事を言う。法華経は随自意の教えで、爾前権経は衆生の機根に合わせた随他意の教えであり、勝れた法華経を選び、爾前権経は捨てねばならないと立てる。
―――
単麁
 阿含経のことをいう。
―――
無妙
 円妙の義がないこと。阿含部の経典は、ただ三蔵経を説くのみで円教は含まれていないこと。
―――
三麁一妙
 五味の第三・生蘇は方等部の経のこと。方等部の経を判釈すれば蔵・通・別の三麁と円の一妙が含まれている。
―――
二麁一妙
 般若部の経のこと。熟蘇味に当たる般若部は円教に通・別を含んでいるので二麁一妙となる。
―――
二妙
 相待妙と絶待妙のこと。法華経にはこの両方がある。
―――
絶待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。麤法を妙法を対比させるのではなく、そのまま麤法は妙法と開会し、爾前権経の教えをすべては妙法から生じた教えであり、全体である法華経が説かれたならば、爾前権経は全て法華経に帰入るすという教判。
―――
此の妙・彼の妙
 法華経の立場より法華経の妙を此の妙・諸経の妙を彼の妙という。
―――
方便を帯する
 仮の教えを帯びる。方便とは仏が衆生を教化するうえで、真実に導くために仮に設ける手段のこと。
―――
円頓の義
 円は円融・円満、頓は頓極・頓足の意。
―――
一往の釈
 ひととおり、そのまま解釈すること。
―――
惑者
 真実の断惑を得ていないもの。
―――
華厳円頓
 華厳経における円教かつ頓教のこと。名目上の円満にして速やかに菩薩を成仏させる教え。
―――
兼帯の説
 華厳部は別教の教えを兼ね備えた円教の説法であること。兼帯は兼ね帯びる。兼任・兼用の意。
――
円融
 諸法が互いに融合して、一法に一切法を具し、一切法は一法に収まって本然一体をなすこと。完全に円満なこと。
―――
爾前の相待妙
 法華経以前の相待妙のこと。麁妙。
―――
法華の相待妙
 法華経の相待妙をいう。
―――
霊山の初住
 声聞の弟子たちが、霊鷲山で説かれた法華経迹門の説法を聞いて初住位に登ったこと。舎利弗が法華経方便品第2の開三顕一の法門によって初住位に登り中道の一分の悟りを得たこと等をいう。
―――
化城喩品の意
 法華経化城喩品第7の意義。富楼那等下根の衆生を救うために、仏が過去世の因縁を説く。三周の声聞の代3因縁周の正説段である。前段では三千塵点劫の久遠における大通智勝仏の出世成道・法華経説法・入定を説き、次に16王子による法華経の覆講があり、後に16王子は10方の国土に分かれて成仏したと明かす。その16番目の王子が娑婆世界で成道した釈迦牟尼仏である。後段ではこの因縁を化城の譬として説き、仏は常に一乗法をもって衆生を教化し三乗はそれに至る方便教であるとする。久遠三千塵点劫に法華経を聞いて成仏の種子を下され、その後、種々の経教により調熟され、最後に解脱を得るという種熟脱の三益が示され、化導の始終不始終が明かされている。
―――
種は大通なり
 下種は三千塵点劫の昔に大通智勝仏の16王子が法華経を説いて成仏の種子を下したことをいう。大通下種という。
―――
熟は中間乃至今日の四味なり
 三千塵点劫の昔からインド応誕の釈尊による爾前権教説法までが調機調養に当たること。
―――
脱は今の法華なり
 得脱は釈尊在世の法華経迹門で成仏の記別を受けたことをいう。
―――
此の経は仏の教を設け給う
 仏の経とは、仏が衆生を、その意図する目標へ導くために、どのように説いていくかの方途。法華経の意図は三千塵点劫の始まりから巧みに衆生のために頓教・漸教・不定教・顕教・密教の種子を作ったことを明かす。
―――
元始
 元の始まり。
―――
巧為
 巧妙に為すこと。
―――
初業に常を知る
 初めての仏道修行の時に仏性常住の法理を知る。初は初めの段階・業は身・口・意による種々の所作をいい、善悪に通ずる。初業は仏道修行の初め、あるいは初めて仏道修行することをいう。
―――
帰戒羯磨
 三帰戒と羯磨のこと。三帰戒仏宝僧の三法に帰依すること。またその戒法を師匠から授けられること。初めて仏法に帰依する時、あるいは修行が進んで五戒・八戒を授けられる前にまず受ける戒律。羯磨は事・所作・業・作法のこと。三帰戒の儀式や僧の懺悔などの作法をさす。
―――
今日の声聞
 釈尊在世の仏弟子。
―――
禁戒
 悪事・悪行を禁止する戒律。
―――
久遠の初業
 久遠の昔の初めての仏道修行のこと。迹門でいう久遠は三千塵点劫である。
―――
大乗の常
 大乗教における常住・常徳。常住は無常に対する語で、過去・現在・未来の三世にわたって常に住し消滅しないこと。仏地経には本性常・不断常・相続常の三常住が説かれている。また常は四徳の一つで常徳をいう。
―――
小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
禁戒の具・不具
 悪行を禁止する戒律を具えているかいないかということ。
―――
羯磨不成
 三帰戒などの儀式・作法が成就しないこと。
―――
菩薩の道
 菩薩が仏果を得るために行ずる因位の修行のこと。六波羅蜜などがある。大乗の修行をあらわす。
―――
法譬二周得益の徒
 三周の説法のうち法説周と譬説周の説法において記別を受けた者。
―――
往日
 昔の日。
―――
結縁の輩
 大通結縁のもののこと。大通智勝仏の16王子から法華経の説法を聞き、下種された者。
―――
五百塵点久遠を以て元始と為す
 五百塵点劫の久遠をもって元の始まりとする。五百塵点劫は釈尊が真実に成仏して以来の時の長遠であることを示したもの。
―――
寿量品の意なり
 師弟の遠近の相が明かされているのが法華経如来寿量品第16であるということ。
―――
五百塵点霊山の中間
 五百塵点劫から法華経の前霊鷲山までを中間とすること。
―――
種は久遠
 下種は久遠五百塵点劫のむかしである。
―――
熟は過去
 調熟は五百塵点劫から前霊鷲山までの間である。
―――
脱は近く世世番番の成道
 脱益は久遠実成の近くからゆうと世々番々の成道、本仏が幾度も繰り返しこの世に垂迹身を示現し説法し、その教化によって、ごく少数の衆生が悟りを得たこと。世世番番は世ごと番ごと。
―――
今日の法華なり
 得脱は釈尊在世の法華経寿量品の説法による。
―――
道樹に師の実智始めて満じ
 道場樹である菩提樹の下で、釈尊が始めて仏の内証の真実の智慧を満足した。これは始成正覚の立場を表す。実智は真実の智慧。衆生教化のため方便智を権智というのに対し、仏の内証の智慧を実智という。諸法の実相に達した仏の悟りの智慧。
―――
道樹を起て始めて権智を施す
 釈尊が菩提樹下で始めて正覚を成した後、立ち上がって始めて衆生を化導する智慧を示し与えた。権智は方便智ともいい、仏が衆生の機根に応じて分別して法を説く衆生教化の智慧を指す。実智が体・権智が用となる。天台大師の五時教判によって釈尊の一代聖教を判釈すると、法華経の肝心以外は権智の所作となり、権智に従って説かれた権教である。
―――
今の経は師の権実
 法華経は仏の開会された上での権智・実智ともに含む。
―――
道樹の前に在て久久に已に満す
 釈尊は、菩提樹下で始成正覚を得るよりずっと以前に、すでに権智・実智を満足していた。
―――
道樹の前の師と弟子との近近の権実を論ぜず
 釈尊が菩提樹下で始めて正覚を成ずる以前の釈尊と弟子における近々の権智と実智の所説については、爾前の諸経では論じられないのである。近々の権実とは釈尊在世から見て近々における権智と実智の所説をいう。
―――
況や復た遠遠をや
 爾前の諸経は久遠実成からの遠々の権智と実智の所説についてはなおさら論じないのであるということ。
―――
道樹の前の権実長遠なること
 法華経は始成正覚以前の仏の権智・実智が長遠であることを明かしている。
―――
補処世界を数うるに知らず
 補処の菩薩である弥勒菩薩が世界の数を数えても分からない。補処は一生補処といい、一生の間だけ迷いの世界にあり、この一生を過ぎると仏意に登り仏処を補うとされる。この位を菩薩の最高位である等覚という。弥勒菩薩を一生補処の菩薩と呼ぶ。釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊入滅後五十六億七千万歳を経て仏となって下生し、釈尊の説法に漏れた衆生を済度するという。「世界を救うるに知らず」は、如来寿量品において、釈尊の成道の久遠を明かすのに、五百千万億阿僧祇の国を抹し、その粉をもって東方に向かい、五百千万億阿僧祇の国を過ぎるごとに一粒づつ落としながら、すべてがなくなるとするとき、過ぎ去った国はいかほどかと釈尊に問いかけたのに対し、弥勒は「数えられない」と答えたといっている。
―――
況や其の塵数をや
 五百塵点劫を明かす中で通り過ぎたすべての世界を集めて抹して塵にし、その塵の一粒一粒を一劫とした時、それを総計した時間的長さを五百塵点劫というのであるが、この塵の数を弥勒菩薩は知らないということ。
―――
慇懃に称讃する
 法華経の教えを懇ろにほめたたえること。
―――
小果に住す故に不入と云う
 小さな証果。小乗の悟りに安住することを「入らず」という。
―――
他を化せんや
 小乗に執着している者は、他人を化導することができなあいということ。
―――
権を施さず
 爾前しか修していない者では、法華経迹門(権)さえも施すことができないということ。
―――
満願願
 願いを成就すること。
―――
已に実に入る
 声聞たちは法華経で初めて仏知見に入ったとされるが、実際には遠い過去から仏智に入っていたということ。
―――
説法・第一なり
 説法第一と称された富楼那のこと。
―――
成熟の益
 仏種を熟させる利益。熟益のこと。熟は仏の教法が衆生を成仏に導く過程を下種・調熟・解脱の三つに分けた一つ、仏から受ける利益の故に熟益という。過去に下種された仏の益が成長し、機根が整っていくこと。
―――
三世の益皆法輪に因る
 過去・現在・未来の三世の利益はすべて仏の教法によるということ。
―――
薬草喩品
 妙法蓮華経薬草喩品第五のこと。法華経迹門正宗分で、三周の説法をするなか、譬説周の述成段であり、釈尊が三草二木の譬えをもって仏の平等の慈悲を説いている。種々雑多な草木の上に雨は差別なく降り注ぐが、ただ受け取る衆生の差別のゆえに、生長の違いがある。ただ、仏の教えは一乗のみである。
―――
一時・一説・一念の中
 一つの時間・一つの説法・一つの念慮のなか。
―――
三世・九世・種熟脱の三あり
 過去過去世・過去現在世・過去未来世・現在過去世・現在現在世・現在未来世・未来過去世・未来現在世・未来未来世を三世、九世といい、そのぞれぞれのなかに種熟脱の三益があるということ。
―――
弟子品
 五百弟子授記品第8のこと。この品では初めに下根の声聞を代表して富楼那が法明如来の記莂を受け、ついで1200人が次第に授記することが説かれている。この1200人のなかにも阿若憍陣如をはじめとする普明如来の同一号名で同時に授記している。
―――
仏子所行の道
 菩薩が修行するところの道法。仏子には仏弟子・菩薩・一切衆生の三意がある。
―――
方便を学ぶ
 菩薩が三乗の巧みな教法を修学すること。
―――
小法
 小乗の法。経力の少ない法。
―――
菩薩・声聞・縁覚と作る
 菩薩が声聞・縁覚の二乗となるということ。
―――
大智を畏るること
 衆生がすべての理事に通じた広大で優れた大乗の智慧をおそれること。大智は仏の智慧をいうが、菩薩の智慧をさす場合もある。
―――
衆に三毒有ること
 衆生に貧・瞋・癡の三毒があること。
―――
邪見の相
 邪悪な考えを現した姿。
―――
本極の法身
 法華経如来寿量品第16に明かされる根本・究極の法身のこと。
―――
微妙深遠
 細やかで優れて深くはるかなこと。
―――
弥勒
 弥勒菩薩の「こと。慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆(ほっきしゅ)となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――
下地
 ①欲界・色界・無色界の三界を九地に分け、相対的に境界の低い段階。②菩薩の階位である別教の52位のうち10地のなかで境界が相対的に低いもの。
―――
浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判
 浅きとは、随他意の方便権教で、信じやすく解しやすいけれども、深き教え、随自意の正法は、信じがたく解しがたいということ。宝塔品には六難九易、法師品には難信難解を説いている。
―――
浅を去て深に就くは丈夫の心なり
 法華秀句には「六難はこれすなわち法華経をさす。九易はこれすなわち余の経典をさす。余の経典を去って法華経に就くゆえに浅を去って深に就くのである。まさに知るべし、丈夫とは、すなわち釈迦の異称である。これ仏の十号の一名である。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
敷揚
 仏法を普く敷き及ぼすこと。
―――
叡山の一家
 日本天台宗のこと。
―――
相承
 相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。
―――

 ゲダ(gāthā)の音写。仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤーなどがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。
―――
法華を極と為す
 釈尊が法華経を衆生の信ずべ究極であるとしたこと。
―――
金口の校量
 仏が比べ究めつくした経説。所説。較量は物の多少を比べ量ること。
―――
信受
 信じて受けたもつこと。
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 ここでは、法華経が勝れる所以について天台大師智顗が立てた三種の教相に関する法華玄義・同釈籤などの経文を引かれている。まず法華玄義巻一上から三種の教相の名称、すなわち「根性の融不 融の相・化導の始終不始終の相・師弟の遠近不遠近の相」を明かしている一説を引用されている。そして前の二つの相が法華経迹門の法門であり、後の一つの相が法華経本門であるという妙楽大師の釈籤の文が示されている。
 次いで、以下に三種の教相の一つ一つについて明らかにするため、引文が示されていく。まず「第一・根性の融不 融の相」が掲げられている。「融」の下に小さく「法華」、「不融」の下に「爾前」と注記されているのは、いうまでもなく、根性の融を明かしたのが法華経であり、爾前経においては根性は不融であることを示されている。御書の本文では前の行になっている「寂滅道場を以て元始と為す方便以下の五品の意なり」の一文は、この「第一・根性の融不 融の相」の下に付記すべきであろう。すなわち機根が異なる衆生をどのようにして一仏乗の法に導くかが釈尊の化導の目的であり、寂滅道場・菩提樹下の開悟が元の始まり、つまり始成正覚の仏が爾前権教、さらに法華経迹門を説法することになる。その第一歩が成道後最初の説法たる華厳経であった。従って、この段の釈籤の巻一の引文に「法華は華厳より劣れりと謂える」を謬見の例として挙げているように、華厳経には円融つまり一つの境界の中に融合させる原理が教示されるように見えるのである。また、そこから、すでに本書でも解説してきたとおり、華厳経は別円の教といわれる。
 しかしながら、華厳経はこれから教化するこの世界の衆生の深さを測るために説かれた説法で、これによって見通しをつけた釈尊は、実際の化導としては阿含から始め、方等・般若と説き進めることによって準備を整え、法華経に至って方便品第二以下の五品において一仏乗に帰一させ、円融せしめたのであった。従って、途中の阿含・方等・般若は、さまざまな機根に合わせるために二乗・三乗の法を説いたのであり、根性は不融の状態にとどまっていた。ただし「華厳・阿含.方等・般若・法華各得道有り」とあるように、それぞれの段階で、人により得道があったことを述べられている。これはすでに明かされているように、過去の善根が十分にあって、わずかのきっかけで成就できた人々の例で、これらの爾前の教法自体に得道させる力や原理があるわけではない。そのことを端的に「種熟脱を論ぜず」という一言で指摘しているのである。
 この点に関し、法華玄義釈籤の一の文は、四教の立場からの麁妙の立て分けと五味における麁妙の立て分けを区別しなければならないと述べている。麁妙の立て分けは、主題の根性の融不融の問題と結びついている。麁とは粗と同義で、粗い教えをいう。衆生の機根を差別したままで、それに合わせた法しか説かない爾前経、四教でいえば蔵・通・別は麁である。これに対し、衆生の機根の差異を越えて説かれた一仏乗の法華経・円教は妙である。
 このように四教でいえば蔵・通・別の三経が麁にして不融・円教は妙にして融であるが、この四教は五時の経に当てはめると、華厳経は別円二教を含むので「一麁」「一妙」となる。以下これに倣って阿含・方等・般若について図示されている。
 法華経は「純円一実」で麁を交えず、ただ円融を明かされているが、これに二つの明かし方が区別される。一つは爾前の麁と対比して明かす方法で、これを「相待妙」という。もう一つは一切の麁を開会して実の妙を明かす方法で、これを「絶待妙」という。
 その後、引かれている釈籤の十と玄義の二、同十の諸文は、四教の観点からいえば、爾前経にも妙が存在することを表している。それぞれの文中の「前経の意」「彼の妙」「初の仏慧」「始」は爾前経にも説かれたものを指し、それが「今経の意」「此の妙」「後の仏慧」「今」と表現されている法華経に説かれたものとを並べて論じているからである。従って、以上を「一往の釈」と断じられた上で、法華経の相待妙・絶待妙は他経ではないことを述べた弘決の五、釈籤の二、三の文が示されている。文句の五の「今の如し始の如しの今の如し二無く異無し」は、前の諸文と同列にあると考えられる。
 弘決五の文は、華厳経が四教の上で頓教と呼ばれている名目だけにとらわれて、華厳部は別教も帯びていることを見抜けない惑者を破したもので、絶待妙は法華経のみにあることを強調している。釈籤の二つの文意は明白である。同三の文は四教の立て分けだけにとらわれて円教を妙とするならば、その意味の円教は華厳・方等・般若にもあるのだから、これを妙といわざるをえなくなる。従って、教法を判ずる場合は、四教だけでなく、部によって判ずる必要がある。つまり、約部の観点からいうと、妙は法華経のみとなるのであって、約経によって前三を麁、後一を妙とする「爾前の相待妙」に対し、部によって前四を麁、法華経の醍醐味を妙とするのが「法華の相待妙」であるとしている。
 「第二、化導の始終不始終の相」では、化導の「始」と「終」の間に「中間」、「終」の後に「霊山の初住」との注記がある。御書の本文では前の行になっている「三千塵点大通を以て元始と為す」の文が入り、「化城喩品の意なり」との注記が続くべきであろう。この第二の相は法華経化城喩品第七の意義が説かれており、三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏の第十六王子の時が釈迦仏の化導の始まるである、としている。従って「中間」は、三千塵点劫の昔から釈尊のインド応誕の期間を指している。
 また「霊山の初住」というのは三千塵点劫の時に第十六王子によって初めて化導を受けた声聞の弟子たちが今、インド応誕の釈迦仏の法華経によって二乗作仏の授記を受けて不退転の位とされる初住位に登ったことが化導の終わりである、との注である。
 次に「種熟脱を論ず」と記されているように、この化導の始終が明かされたことは、仏が衆生を成仏へ導く上で不可欠の手順である種熟脱が明確にされたことになる。具体的には「種は大通なり熟は中間乃至今日の四味なり脱は今の法華なり」と記されているように、大通智勝仏によって下種され、その後の中間とインド応誕の釈迦仏による前四味によって調熟され、今、法華経によって得脱する、という次第が明らかになったのである。
 次いで、法華玄義の一、釈籤の一の文を引用されて、法華経は如来の衆生教化の意図を明かし、衆生の機根を導くために巧みに頓・漸・秘密・不定の教えを説いてきたことを示すことで、他の経とは決定的に異なることを記されている。これは、爾前経だけでは、その時々の衆生を利益する法が説かれたかのようにしかみえないが、法華経から振り返って見る時、衆生の機根を次第に調え、高めていく過程であったことが明らかになるということである。
 また、摩訶止観の三、弘決の三の文を引用され、釈三在世の声聞の弟子たちは久遠の昔、最初の仏道修行のときに常住の法理を聞いて知っていたから、蔵経の阿含経の戒や律を具えることが見えることができ、小乗の証果を取ることができたのであると述べたものである。
 さらに、釈籤の一では、法華経の三周の声聞のうち、法説周・譬説周の利益を受けた声聞の徒は三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六王子から法華経の説法を聞き、縁を結んだ輩であると記している。これは法説中・譬説周の人々だけがそうだというのではなく、因縁説周の人々がそうであることは、法華経で説かれていることは明白である。むしろ、この過去の因縁が法華経に示されているのは因縁説においてなので、その前に得益した法譬二説周の人々も同じであることを言ったものである。
 「第三・師弟の遠近不遠近の相」は「五百塵点久遠を以て元始と為す寿量品の意なり」と先ず、注記されている。つまり、第三の相である仏と弟子との関係が時間的に久遠であるとともに空間的に親近であるか否かについて、明らかにしたものである。
 法華経本門以前においては、釈尊は菩提樹下においてはじめて成仏したとされ、弟子も今世においてはじめて弟子となったと説かれる。これを「師弟の不遠近」という。法華経迹門では、三千塵点劫以来の化導の始終が明かされるが、釈尊の成道自体はインド応誕後で、あくまで始成正覚である。これに対して法華経寿量品においては仏は五百塵点劫の昔に成道した遠い昔から、仏と弟子の関係が始まったとされる。これを「師弟の遠近」という。この相は久遠五百塵点劫を元々の始まりとするのであるが、そてが明かされたのが法華経如来寿量品第十六であることを「寿量品の意なり」と記されている。次いで「五百塵点霊山の中間」とあるのは五百塵点劫の久遠から法華経の前霊鷲山までの期間を中間とするとしている。
 さらに「種熟脱を論ず」とあって「種は久遠・熟は過去・脱は近く世世番番の成道今日の法華なり」と注記されている。すなわち、下種は久遠五百塵点劫の昔であり、その種を調えて熟した期間は過去の久遠五百塵点劫から今日の釈尊在世の前霊鷲山会までである。ただし、衆生にとっては久遠実成の仏が世ごと番ごとにこの世に垂迹の身を現しては説いた法華経を説くことによって得道を遂げた人もいるし、今日の釈迦仏の法華経説法によって初めて得脱した人々もいるわけである。
 次いで、法華玄義の一、同釈籤の一では、寿量品を含む法華経と諸経の相違を明らかにしている。諸経では、釈尊は菩提樹下で成道した時、始めて内証の智慧である実智を満足し、その後、菩提樹を立ち上がって始めて衆生を教化する方便智である権智を施した、と説いている。これに対して、「今の経」、法華経では釈尊の権智・実智ともに菩提樹下で成道するよりずっと以前からすでに満足していたことを明かしているとして法華経の卓越性を述べている。従って、諸経では二乗の弟子は実智に入ることができず、権智を施して他を化導することもできなかったが、法華経に明かす二乗の弟子は実智に入ってから久しく、また、前々から実智を理解していて、あえて声聞の姿を現じて権智の化導を行じていたことを明かしている、としている。また、法華経では釈尊の菩提樹下の成道の以前における権智と実智が久遠以来長遠であることを明かしている。諸経ではこれを明かしているとしている。
 ここで師弟の遠近が明かされたのは法華経本門寿量品なのに、迹門と声聞のことが論じられていることについて疑問が生じる。確かに、師弟の遠近は、従地涌出品第十五で出現した地涌の菩薩は、いったいいかなる人々なのかという質問に答える形で、釈尊が成道したのは久遠五百塵点劫の昔であり、それ以来、化導してきた本眷属であることが明かされたことを師弟の遠近の相とする。
 しかしながら、これは地涌の菩薩だけの問題ではなく、すでに化導の始終で明らかになった声聞たちの過去の活動にも関わるものを含んでいる。すなわち、久遠の成道以来、常に娑婆世界にあって説法教化してきたのが釈尊であるからには、その化導を受けてきた声聞たちも、その釈尊の化導上の智慧を受けてきたはずである。
 従って、この段で釈籤の一の引文中に「先に已に実に入る説法・第一なり、故に先より解して権を行ずることを」とあるように、そしてこのことは説法第一の富楼那に関して五百弟子受記品第八に「是の富楼那弥多羅尼子を見るや不や、我常に其の説法人の中に於いて、最も第一なりと称し、亦常に其の種種の功徳を歎ず。精勤して我が法を護持し助宣し、能く四衆に於いて示教利喜し、具足して仏の正法を解釈して、大い同梵行者を饒益す」と説かれているように、実智・権智をもって人々を教化してきた。端的にいえば、こうした声聞たちは、本化地涌の菩薩とは別々の存在ではなく、地涌の菩薩が示した姿の一つと位置付けられる。このことをさらに明確にしているのが、このあとの薬草喩品第五の文であり、特に五百弟子受記品第八の「仏子所行の道は、善く方便を学せるが故に思議すること得べからず、衆の小法を楽いて大智を畏るることを知れり、是の故に諸の菩薩声聞縁覚と作り無の方便を以って、諸の衆生類を化す」の文であろう。
 ここでは、久遠来の仏弟子は内に菩薩の修行を秘しながら外には声聞である姿をとっているが、実際には仏国土を浄化する活動をしてきたこと、また、衆生に貧・瞋・癡の三毒有ることを示したり、あえて邪見にとらわれた姿を現したり、さまざまな方便を用いて衆生を救ってきた仏弟子たちの姿が説かれている。これは久遠五百塵点劫以来の師弟のつながりがあったからこそ、この師弟の関係が時間的には遠であるとともに、空間的には近であることを示している。
 最後に法華経分別功徳品第十七、法華玄義の七、伝教大師の法華宗句の下などから引用を通して、法華経寿量品で明かされた久遠長寿や本極法身を肝心の教えとする深き実宗に付き随い、浅い権宗を去るのが「丈夫の心」であると述べている。「丈夫の心」とは、釈迦仏の心であるとともに、仏の教えどおりに勇猛精進する菩薩の心と解すことができる。
 さらに、法華宗句の下に法華宗の系譜、すなわち、釈尊の法華経を天台大師が受け継いで中国に宣揚し、日本では比叡山の延暦寺一門が天台大師を受け継ぎ、日本に弘通している、とあるのを受けて、最後に「釈迦世尊宗を立つるの言は法華を極と為す金口の校量なり」と記されている。
 この文自体は法華宗句の下に出てくるが、釈迦仏が根本とすべき教えとして法華経を究極と定めたというものであり、まさに仏がさまざまに比べ思い測って述べた金言であるとしたうえ「深く信受す可きか」との感無量の言をもって述べておられる。
 この法華経の精神を、現代において世界へ広げた団体こそ創価学会であり、創価学会インターナショナルの展開である。法華経を仏法の究極と定めた釈迦仏の金言を現実の姿とした学会の広布の進展こそ、まさしく仏意仏勅の運動といってようであろう。