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日蓮大聖人御書講義13前0691~0700

0691~0691    三論宗御書
  0691:01~0691:02 第一章 三論宗の日本渡来を示す
  0691:02~0691:05 第二章 天台宗・律宗・大日経の日本渡来を示す
  0691:05~0591:10 第三章 法華経の日本渡来を示す
0692~0692    十宗判名の事
  0692:01~0692:05 第一章 小乗三宗を判名する
  0692:01~0692:08 第二章 大乗七宗を判名する
0693~0694    五行御書
0695~0700    浄土九品の事
  0695:01~0695:08 第一章 法然が善導に依ることを明かす
  0695:09~0697:18 第二章 九種類の往生行の区別を記す
  0698:01~0698:14 第三章 法然とその門下を一覧する
  0698:15~0699:01 第四章 天台宗の高僧らの対応
  0699:15~0700:06 第五章 五宗の教判示し権実雑乱を糺す

0691~0691    三論宗御書top
0691:01~0691:02 第一章 三論宗の日本渡来を示すtop
0691
三論宗御書
01   三論宗の始めて日本に渡りしは三十四代推古の御宇治す十年壬戌の十月・百済の僧・観勒之を渡す、日本記の太
02 子の伝を見るに異義無し、 但し三十七代との事は流布の始めなり、 
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 三論宗が初めて日本に渡ってきたのは、三十四代推古天皇の治世、十年壬戌の十月である、百済の僧・観勒がこれを渡したのである。「日本記」「聖徳太子の伝」を見るとそのように書かれている。ただし、三十七代の孝徳天皇の時というのは、本格的に流布の始めた時をいったものである。

三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
―――
三十四代推古の御宇治す十年
 日本における仏教初伝(公伝)。0602年とされている。但しこの説には異論もある。
―――
壬戌
 干支の組み合わせの59番目で、前は辛酉、次は癸亥である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の戌は陽の土で、相剋(土剋水)である。
―――
百済
 百済国のこと。古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
―――
観勒
 百済の僧。生没年不詳。推古10年(0602)来朝し,暦本、天文地理書などをもたらした。同32年(0624)、日本で初めて僧正の位に任ぜられ、元興寺について仏法を弘めた。三論・成実の学問に通じていた。
―――
日本記
 日本について記した文。
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太子の伝
 聖徳太子の伝記。
―――
流布の始
 広く世に弘まり始めること。
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 本抄は末尾に「已下欠」とあるように、ここから先が欠けているし、「三論宗の始めて日本に渡りしは」という唐突な出だしにも明らかなように、前の方もなくなっている断簡の御書である。御真筆は富士大石寺にある。三論宗は奈良時代には「南都六宗」の一つとして栄えたが、本来、竜樹の「中論」「十二門論」と迦那提婆の「百論」を基に大乗教の法理を学ぶことを目指した学派で、特定の経論をよりどころとせず、宗派的色彩の薄い存在であった。
 それだけに、南都仏教の時代が終わると、その役割を終えたかのように、目立たない存在になり、日蓮大聖人も、念仏・禅の当時の新興宗教や、真言宗のような法華誹謗を旨とした諸宗に対するのと違って、ただ渡来の歴史に言及されるのみで、その教義や宗旨をうんぬんされることはほとんどない。
 前後が欠けているので、本抄が全体としてどのような御書であったかは分からないが、残っているこの段だけを拝しても「三論宗御書」との提名は冒頭の文字から後世に付されたもので、他の天台宗・律宗・大日経・法華経などと共に、日本に仏教が渡来した経過の一環として触れられているだけで、むしろ、主観は法華経の渡来を示されるにあったことが明白である。
 同様の角度からの記述が拝される御書として、撰時抄、神国王御書、報恩抄などがあり、前二書は大聖人54歳の建治元年(1275)後の一書は翌建治2年(1276)の御述作であることから、おそらくは本抄も、それに近い時期にしたためられたと推察される。
 さて、本文に入って、まず、三論宗が日本に初めて渡ってきた年代とその背景を示されている。ただし、神国王御書では「第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて.第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき、此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき」(1517-01)とあり、推古天皇の時代に初めて日本に渡ってきた宗として、三論宗と成美宗の二宗を挙げられている。撰時抄・報恩抄でも、三論宗のみではなく、成美宗を含む宗派と共に渡ってきたことを述べられている。成美宗は、自我も法も空であるという人法二空を基にした教えで、小乗教であることから、大乗仏教典の日本への渡来に焦点を当てられている本抄では、成美宗には触れられなかったと考えられる。
 ただし、次の御文で「天台宗・律宗の渡れる事」と、小乗教の律宗に触れられている。これは、鑑真が戒律を伝えるのと同時に天台三大部を将来したことを言われた御文で、鑑真の最大の功績は律の将来にあった故である。「天台宗」に関しては、鑑真がもたらしたのはあくまで天台三大部の書のみで、本当の意味での「天台宗」は、日本では伝教大師最澄をもって始めとされる。
 いずれにせよ、神国王御書では、三論・成美の二宗の日本への渡来を叙述された後「此の三論宗は月氏にても漢土にても、日本にても大乗宗の始なり、故に宗の母とも宗の父とも申す」(1517-02)と続けられて、三論宗のみをもって「大乗の始」「宗の母」「宗の父」とされている。従って、本抄では初めから大乗の宗に限定されて、三論宗のみの日本渡来を述べられたと拝される。
 ここで、三論宗の日本への渡来について「三十四代推古の御宇治す十年壬戌の十月・百済の僧・観勒之を渡す」と記されているのは、帝王編年記等によられたものであると拝される。同記の第34代推古天皇の冶世を叙述するところで次のようにある。
 「十年壬戌の十月『―日』百済僧・観勒来る、暦の本、天文地理の書を貢る。太子曰く、衡山に在る時の出子なり」
 とある。本抄で推古天皇を「第34代」とされていることも、帝王編年記と合致している。通常、推古天皇は第33代天皇とされているが、第14代仲哀天皇の后で、天皇亡きあと三韓征伐を行ったとされる神功皇后を第15代と数えた場合、第34代となる。大聖人が参照された重要な史書としては、他に扶桑略記があり、扶桑略記では推古天皇を「第35代」としている。この相違は、さらに第22代清寧天皇の後に、一時、政を採った飯豊青皇女を第23代天皇とした場合である。2人を数えると、推古天皇は第35代となり、数えないと第33代となる。
 ちなみに、扶桑略記では「第三十五代推古天皇」の項に「十一月。百済国僧観勒来る。暦の本、天文地理、遁甲方術の書を貢る」とあって、帝王編年記では「十月」とあったのが「十一月」となっていたり、貢った書物の名に少し違いがある。しかし、いずれにしても、本文にあるように、観勒が「三論宗」をもたらしたとの記述はない。
 むしろ、同じ扶桑略記の推古天皇の項には「三十三年乙酉。天下旱魃す。高麗僧恵灌に、青衣を着、三論を購読せしめ、以て、甘露已に降る。仍て僧正に賞任す。元興寺に住す。三論法門を流布して井上寺を建つる」とあり、三論宗流布の伝来ならびに流布の主役は、高麗の僧・恵灌であったことが記されている。
 恵灌は中国の三論宗の祖・吉蔵の弟子であり、八宗綱要の「三論宗」の項でも、三論宗の日本における最初の伝来は恵灌によるものとしていることから、史実としては恵灌が正しいのであろうと考えられる。にもかかわらず、大聖人が観勒を三論宗将来の主役とされているのは観勒も三論宗の学匠であったことから、大聖人は観勒が三論宗をもたらさなかったはずはないとして記述されたのであろう。
 次いで、本文には「日本記の太子の伝を見るに異義無し」とある。この文は内容から考え、「日本記、太子の伝を見るに」の意と思われる。すなわち「日本記」においても「太子の伝」においても、意義はない、ということである。「日本記」は日本について記した史書を指す。日本書紀や扶桑略記等がそれである。本抄には「日本記」が二ヵ所見られる。ここと、最後の「所謂日本記に云く『欽明天皇十三年壬申冬十月十三日辛酉百済国聖明王始めて金銅釈迦像一躯を献ず』等云云」とあるものである。これは明らかに扶桑略記である。日本書紀にはこれと同じ記述はない。しかし、観勒に関する記述は、帝王編年記、日本書紀、扶桑略記などにみられる。帝王編年記には「十年壬戌十月『一日』。百済僧観勒来る。暦の本、天文地理の書を貢る。太子曰く、衡山に在る時の弟子なり」とあり、日本書紀には「十年…冬十月に百済の僧観勒来けり。仍いて暦の本及び天文地理の書并て遁甲方術の書を貢る」扶桑略記には「第三十五代推古天皇」の項に「十一月。百済国僧観勒来る。暦の本、天文地理、遁甲方術の書をを貢る」とある。表現のわずかな異なりはあるが、内容はほぼ同じである。聖徳太子伝暦には「冬十月に百済の僧観勒来けり。仍りて暦の本及び天文、地理、遁甲方術の書を貢る」とある。これらに共通した記述から「異議無し」と仰せられ、推古天皇の治世に観勒が三論宗を伝えたという内容がそのとおりに記されているといわれたのである。
 「但し三十七代との事」との文は、三論宗の伝来が推古天皇10年の観勒とする史実と異なるので、注釈する必要があると考えられたのであろう。撰時抄に「人王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正・百済国よりわたす」(0263-05)、報恩抄に「人王第三十七代・孝徳天王の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる」(0302-13)、妙密上人御返事に「人王三十七代・孝徳天皇の御宇に観勒僧正と申す人・新羅国より三論宗・成実宗を渡す」(1237-13)等の諸御書で記述が共通しているので、三論宗の日本への伝来を第37代孝徳天皇の治世であるとした史書があったのであろう。
 帝王編年記、扶桑略記、日本書紀によれば、明らかに観勒が日本へ来たのは、その三代前の推古天皇の治世の時であるにもかかわらず、各御書で依拠されたのであろう史書で、第37代孝徳天皇としているのは、「流布の始めなり」すなわち、あくまで三論宗が本格的に日本に流布し始めた時期を指したものである、と断られているのである。
撰時抄・報恩抄・神国王御書との関連
 参考までに、本抄の内容と類似する3つの御書の文を紹介する
 まず、撰時抄には次のとおりである。
04              日本には神武天王よりは第三十代・欽明天王の御宇なり、欽明の御子・用明の太子に上
05 宮王子・仏法を弘通し給うのみならず並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ、其の後・人
06 王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正・百済国よりわたす、同御代に道昭法師・漢土より法相
07 宗・倶舎宗をわたす、 人王第四十四代・元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども而も弘通せずし
08 て漢土へかへる 此の僧をば善無畏三蔵という、 人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳・新羅国より華厳宗
09 をわたして良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて 東大寺の大仏を立てさせ給えり同御代に大唐の鑒真和尚・天
10 台宗と律宗をわたす、 其の中に律宗をば弘通し小乗の戒場を東大寺に建立せしかども 法華宗の事をば名字をも申
11 し出させ給はずして入滅し了んぬ、 其後・人王第五十代・像法八百年に相当つて桓武天王の御宇に最澄と申す小僧
12 出来せり後には伝教大師と号したてまつる(0263)
 また、報恩抄からは次のとおりである。
11   又日本国には 人王第三十代・欽明天皇の御宇 十三年壬申十月十三日に百済国より一切経・釈迦仏の像をわた
12 す、又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして先生所持の一巻の
13 法華経をとりよせ給いて持経と定め、其の後人王第三十七代・孝徳天王の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・
14 成実宗わたる、 人王第四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる 已上六宗なり、 孝徳より人王五十代の桓武天皇
15 にいたるまでは十四代・一百二十余年が間は天台真言の二宗なし、 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり 山階寺の行
16 表僧正の御弟子なり(0302)
 さらに、神国王御書からは次のとおりである。
11   第三十代は欽明天皇.此の皇は第二十七代の継体の御敵子なり治三十二年,此の皇の治十三年壬申十月十三日辛酉
12 百済国の聖明皇・金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人・一同に阿弥陀仏と申す此れなり、 其の表の文に
13 云く臣聞く万法の中には仏法最善し世間の道にも仏法最上なり 天皇陛下亦修行あるべし、 故に敬つて仏像経教法
14 師を捧げて使に附して貢献す宜く信行あるべき者なり已上、然りといへども欽明・敏達・用明の三代・三十余年は崇
15 め給う事なし、 其の間の事さまざまなりといへども其の時の天変・地夭は今の代にこそにて候へども・今は亦其の
01   代には.にるべくもなき変夭なり、第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて.第三十四代推古天皇
02 の御宇に盛にひろまりき、 此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき、 此の三論宗は月氏にても漢土に
03 ても、日本にても大乗宗の始なり、 故に宗の母とも宗の父とも申す、 人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わた
04 る、人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる、 人王四十四代・元正天皇の御宇に大日経わたる、人王四十五代に聖
05 武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、 人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、 しかりといへ
06 ども唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし(1516)と。

0691:02~0691:05 第二章 天台宗・律宗・大日経の日本渡来を示すtop
02                                 天台宗・律宗の渡れる事は天平勝宝六年甲午
03 二月十六日丁未・乃至四月に京に入り 東大寺に入る天台止観等云云、 諸伝之に同じ、 人王第四十六代孝謙天皇
04 の御宇なり聖武は義謬りなり書き直す可きか、 戒壇は以て前に同じ、 大日経の日本に渡れる事は弘法の遺告に云
05 く「件の経王は大日本国高市郡久米道場の東塔の下に在り」云云、 此れ又元政天皇の御宇なり、 
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 天台宗・律宗が日本に渡ってきたのは、鑑真により天平勝宝六年甲午二月十六日丁未のことで、四月に平城京に入り、さらに東大寺に入った。このとき将来された典籍として「天台止観等」とある。諸の史書にも同じように記述されている。これは人王第四十六代孝謙天皇の治世のことで、聖武天皇の時代としたのは書き直す可きであろうか。東大寺の戒壇建立については前に述べたとおりである。
 大日経が日本に渡ってきたのは、弘法の遺告に「経典のなかの最高の経典である彼の『大日経』は日本国の奈良県高市郡明日香村の久米道場の東塔のもとにあった」とあるとおりである。これは、また元政天皇の治世の時である。

天台宗
 0538年~0597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
天平勝宝六年甲午二月十六日丁未・乃至四月に京に入り東大寺に入る  
 中国・唐の僧・鑑真が天平勝宝6年(0752)に来日したとされている。
―――
東大寺
 聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
―――
天台止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。本書を日本に初伝したのは、鑑真だといわれている。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
―――
遺告
 弘法が遺言の形をとった書。承和2年(0835)3月15日、弘法が入定直前に弟子に与えたといわれている。
―――
元政天皇
 (0680~0748)。 奈良時代の第44代天皇。女帝。在位、霊亀元年(0715)9月2日~ 養老8年(0724)。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
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 三論宗の日本伝来に続いて、ここでは天台宗・律宗・大日経の順で、日本渡来の時期と事情について述べられている。
 まず「天台宗・律宗」と併記されているのは、これら二つの宗が同時期にもたらされたとされているのである。すなわち「天平勝宝六年甲午二月十六日丁未・乃至四月に京に入り東大寺に入る天台止観等云云」とある。これは扶桑略記における孝謙天皇治世の天平勝宝6年の記録から、その一部を省略されつつ引用されたものである。その内容は、天平勝宝6年(0754)甲午正月16日に、鑑真和上が竹志の大宰府に到着し、2月1日には難波に着き、同4日に平城京に入り、さらに東大寺に入って唐から持ってきた天台止観等の文書10余部、290余巻や四分律1分60巻などを安置供養した、とあり、さらには同略記では4月に東大寺の戒壇を設けた、とある。ただし、一般的には鑑真の九州到着は、天平勝宝5年(0753)とされている。
 いずれにせよ、鑑真和上が日本に持ち来ったのは止観等の文書10余部、290余巻、四分律1部60巻で、来日後、東大寺に戒場を設けて聖武天皇に授戒しており、いわゆる律宗を広めたが、天台宗に関しては典籍を持ってきたのみで、天台宗を広めるには至らなかった。あくまで天台宗の創始は、後の伝教大師によるのであるが、ここは天台三大部の将来をもって、天台宗の伝来とされているのである。
 次いで「諸伝之に同じ」とあるのは、鑑真が戒律だけでなく、天台止観も将来したことについては、扶桑略記以外の唐大和上東征伝などの諸伝でも、記録は一致していると仰せられている。
 ただし、その時の天皇については「人王第四十六代孝謙天皇の御宇なり」とされ、撰時抄で「聖武天皇の御宇」とされたことについては「義謬りなり書き直す可きか」と訂正されている。
 「書き直す可きか」と仰せられていることから、御自身の御述作すなわち撰時抄、報恩抄について言われていることが明らかである。撰時抄には「人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳・新羅国より華厳宗をわたして良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて 東大寺の大仏を立てさせ給えり同御代に大唐の鑒真和尚・天台宗と律宗をわたす」(0263-08)とあり、鑑真の来日を「聖武天皇」の「御世」とされている。また、報恩抄でも「人王第四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる 」(0302-14)とあり、律宗だけではあるが、聖武天皇の時代としている。
 これに対し、神国王御書では「人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる」(1517-04)と明確に立て分けられている。
 次いで「戒壇は以て前に同じ」とあるのは、大和・東大寺に戒壇を設けたのは、鑑真和上であるから、これもすでに聖武が孝謙に譲位した後であるという意味である。
 続いて、「大日経」の日本渡来については弘法の遺告に「一心に所感するに、夢に人ありて告げて曰く、此に経あり、名字は『大毘廬遮那経』といふ、是れ乃が要むるところなりと、即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本国久米の道場の東塔の下に在り」と。
 この文を通解すると次のとおりである。すなわち「心を込めて祈り感得すると、夢枕に人が立って、『ここに“大毘廬遮那経”という名の経典がある。この経典こそ、そなたの求めているところのものである』と告げられた。この夢のお告げに喜び“大日経”を求め得ることができた。それは大日本国高市郡の久米寺の東搭のもとにあったのである」と。
 では、大日経はいつ日本に伝えられたかについては、「此れ又元政天皇の御宇なり」とある。報恩抄には「日本人王・第四十四代と申せし元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる」(0304-05)とあり、善無畏三蔵が日本に渡来して大日経をもたらしたという伝承が、おそらく真言宗にあったのであろうと思われるが、詳細は不明である。これについては、扶桑略記でも、第六元正天皇霊亀3年(0717)の項に「或記に云く、大唐善無畏三蔵、養老元年入朝す」と記しているが、この「或記」などの史料であるかは不明である。

0691:05~0591:10 第三章 法華経の日本渡来を示すtop
05                                              法華経の渡り始
06 めし事は人王第三十四代推古の四年なり、太子・恵慈法師に謂つて曰く「法華経の中に此の句・落字」と云云、太子
07 使を漢土に遣わし已前の法華経・此の国に有るか、 惟れ知んぬ欽明の御宇に渡る所の経の中に 法華経有るなり、
08 但し自ら御不審有る大事は所謂日本記に云く 「欽明天皇十三年壬申冬十月十三日辛酉 百済国聖明王始めて金銅釈
09 迦像一躯を献ず」等云云、 善光寺流記に云く 「阿弥陀並びに観音・勢至・欽明天皇の御宇治天下十三年壬申十月
10 十三日辛酉・百済国の明王・件の仏・菩薩・頂戴」と云云、相違欲(已下欠)
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 法華経の日本への渡来が始まったのは、人王第三十四代の推古天皇の四年である。聖徳太子が恵慈法師に対して、「法華経の中で一字が脱落している」と言ったのである。太子は使いを漢土に遣わしたが、それ以前に法華経はこの国にあったということではないか。これによって、欽明天皇の治世の時に、日本に初めて仏教が伝えられた諸経の中に法華経があったと知ることができるのである。ただし、自身で疑わしくお思いになる重要なことがあり、すなわち「日本記」には「欽明天皇十三年壬申冬十月十三日辛酉百済国の聖明王が初めて金銅の釈迦像一躯を献呈した」等とあり、善光寺流記に「阿弥陀像ならびに観音菩薩像・勢至菩薩像が、欽明天皇の治世十三年壬申十月十三日辛酉に、百済国の聖明王から献呈された。日本に初めて仏教を伝えられた中に、仏像とその脇士である観音菩薩・勢至菩薩像が入っていた」等とある。この二つの記述の相違…(已下欠)

法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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太子
 王位を継承すべき皇子・王子のこと。
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恵慈法師
 (?~0623)。飛鳥時代に高句麗から渡来した僧。推古天皇3年(0595)に渡来し、厩戸皇子の仏教の師となった。仏教を日本に広め、推古天皇4年(0596)法興寺(蘇我善德が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された。推古天皇23年(0615)、厩戸皇子が著した仏教経典(法華経・勝鬘経・維摩経)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国した。推古天皇30年(0622)2月22日に厩戸皇子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、自らも推古天皇31年(0623)の同じ日に浄土で厩戸皇子と会うことを誓約して、言葉通りに没したという。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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欽明
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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不審
 明らかにわからないこと。疑わしいこと。
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大事
 重要なこと。
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聖明王
 (~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
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金銅釈迦像一躯
 晴明王が献上したのは、日本書紀では「釈迦仏の金銅像」としている。しかし扶桑略記では「阿弥陀仏像」となっているが、おそらく後世、阿弥陀にすりかえられたものであろう。
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善光寺流記
 善光寺縁起のこと。浄土宗の日本伝来と善光寺建立の由来を述べた書。(現存しない)。
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阿弥陀
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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勢至
 勢至菩薩のこと。勢至は梵名マハースターマプラープタ ( mahaasthaamapraapta])といい、大勢至・得大勢・大精進とも訳し種々の経に説かれている。①爾前諸教では阿弥陀三尊のひとつとして、観世音菩薩とともに、阿弥陀仏の脇士となって智慧をあらわす。②法華経では八万の菩薩の一人として霊鷲山会にっその名を連ね、阿耨多羅三藐三菩提を得て退転なく、自在の法を説くことができたとある。③不軽品の対告衆
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百済国の明王
 百済国の聖名王のこと。
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相違欲
 相違は違い・差異。欲は何を意味するか不明。三論宗御書はこの文で途切れている。
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 ここからは法華経の日本への渡来の時期と背景について叙述されていくのであるが、前述したように、途中で欠損していて、その展開の行方については不明である。
 まず、法華経が日本に初めて渡来したのは「人王第三十四代の推古四年なり」とある。続いて「太子・恵慈法師に謂つて曰く「『法華経の中に此の句・落字』と云云」との文が記されているが、これは扶桑略記・推古天皇の項からの引用である。
 そこで、改めて前後を含めて紹介すると、次のようになる。
 「四年丙辰五月。太子恵慈法師に謂つて曰く『法華経の中に此の句に落つ』。法師答えて曰く『他国の経亦字有ること無し』。太子曰く『此の句の際に於いて一字落つのみ。吾昔持つ所の経に此の字有ると思う』。法師答えて『殿下の持つ経何処に在りや』。太子微咲して云く『大隋衡州衡山般若台上に在り』。法師『太奇なり』と合掌礼拝す」と。
 ここで「太子」とあるのはいうまでもなく、聖徳太子のことである。聖徳太子は高句麗からの渡来僧である恵慈法師を師匠として仏法を学んでいたが、推古天皇の四年(0596)5月、太子が恵慈法師に対して、法華経の一つの句のなかで一字が脱落していることを指摘した。これに対して、恵慈は他国、自分の国である高句麗の法華経にはもともとその一字は存在しないと答えると、太子は自分が昔所持していた法華経にはその一字があった、といったので、恵慈が太子が昔所持していた法華経はいったいどこにありますかと問い返すと、太子はほほえんで、隋国の衡州の衡山寺に在る、と答えた。この答えに、恵慈は大いに奇特なことであるといって、太子を合掌礼拝したというのが、その内容である。
 つまり、聖徳太子は過去世において、漢土の衡山寺で法華経を読誦していたということが語られているのであり、扶桑略記の推古十六年の項ではこの前世談を受けて次のように記している。
 「十六年戊辰四月、遣唐使の妹子帰朝して衡山の般若台中に納める所の複一巻の法華経を持ち来る」と。
 すなわち、推古16年(0608)聖徳太子は小野妹子を隋に遣わした目的の一つに、太子が昔、読誦した法華経を衡山寺から取り寄せることがあった旨、記されている。
 ところで、続く本文には「太子使いを漢土に遣わし已前の法華経・此の国に有るか」とあり、聖徳太子の時代以前に法華経はすでに日本に到来していた、との見解が述べられている。
 ここでまた、報恩抄の一節との関連が浮かび上がってくる。すなわち「用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして先生所持の一巻の法華経をとりよせ給いて持経と定め」(0302-12)
 では、法華経が初めて日本にもたらされたのはいつのことかについては、本文には「惟れ知んぬ欽明の御宇に渡る所の経の中に法華経有るなり」と結論されている。すなわち、欽明天皇の治世、日本に初めて仏教が伝えられた時に献呈された諸経の中に法華経は存在していた、ということである。
 次いで、本文には「但し自ら御不審有る大事は」とあって、当然出てくる不審として、文証を二つ挙げられている。
 一つは日本記、すなわち、扶桑略記の欽明天皇の項の一節である。それによると「『欽明天皇十三年壬申冬十月十三日辛酉 百済国聖明王始めて金銅釈迦像一躯を献ず』等云云」というものである。
 次に、善光寺流記の一節を引用されている。それは「『阿弥陀並びに観音・勢至・欽明天皇の御宇治天下十三年壬申十月十三日辛酉・百済国の明王・件の仏・菩薩・頂戴』と云云」というものである。
 同じ扶桑略記にも、この欽明天皇十年に百済聖明王から贈られたのが「阿弥陀仏像と観音勢至像」とする説が「一に云く」として紹介され、さらに「善光寺縁起に云く」として、このときの弥陀三尊像が善光寺の本尊であるという伝承が紹介されている。
 最後の「相違欲」とあることについては、誤が欠落しているので不明であるが、以上の引用文に重大な相違があるということと拝される。それは「日本記」すなわち、先に引かれた扶桑略記の文では「金銅釈迦像一躰」となっているのに対し「善光寺流記」では「阿弥陀並びに観音・勢至」として「件の仏・菩薩・頂戴」と書かれていることである。
 これは、本来、百済の聖明王が贈ってきたのは「釈迦仏の像」であったのに、それを、後世の伝承、特に善光寺の縁起では「阿弥陀」にしてしまったことを意味する。浄土教の興隆にともなって、釈迦像を阿弥陀像に替えたり、作り替えされたりしたことは、立正安国論でも「然る間或は釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び」(0030-03)と慨嘆されているとおりである。
 「相違欲」のこの文は、そうした念仏のごまかしが、この二つの文の相違に表れていると指摘されたものではないかと考えられる。

0692~0692    十宗判名の事top
0692:01~0692:05 第一章 小乗三宗を判名するtop
0692
十宗判名の事
01        拙度宗                                         ・
02   倶舎宗  半字宗              
03        下劣宗                
04   成実宗  驢牛和合乳宗                      
05   律 宗  驢乳宗
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 倶舎宗は、衆生を救済するのが拙ない宗である。
 倶舎宗は、半分の教えの宗である。              
 倶舎宗は、劣った教えの宗である。                
 成身宗は、驢馬の乳と牛の乳がまじったような教えの宗である。
 律 宗は、驢馬の乳のような教えの宗である。

俱舎宗
 仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
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拙度宗
 俱舎宗が衆生を度すのに拙い衆であるということ。
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半字宗
 俱舎宗が半字の教えの宗であるということ。半字は①サンスクリットの字母である母音12字と子音37字をいい、これらの字母を合わせて字義を成じたものを満字という。②半字教のこと。
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下劣宗
 俱舎宗が低く劣った教えの宗であるということ。下劣は①品性が卑しく劣ること。②内容などが低く劣っていること。③地位が低いこと。
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成実宗
 4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
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驢牛和合乳宗
 成美宗が驢馬の父と牛の乳を混ぜ合わせたような教えの宗であるということ。驢乳は人間にとって飲みにくいことから、牛乳に劣るとされ、驢乳と牛乳の混在は、大乗と小乗が混在していることを意味する。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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驢乳宗
 律宗は驢馬の乳のような宗であるということ。驢乳は人間にとって飲みにくいうえに、精製すると最後は糞になり、牛乳の精製品のような醍醐にはならないといわれ、劣った宗をあらわしているとされる。
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 本抄は表題から明白なように、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華宗・禅宗・浄土宗の十宗、それぞれについて、その特徴と価値を端的に判じた御書である。
 本抄の内容と形式から察するに、おそらくは、門下弟子たちが諸宗を破折するに際し、十宗の特徴と価値とを簡潔に記億しておけば何とか好都合であると考えられて覚書・メモといった形式で書き留められたものであろう。日精の富士門家中見聞には「大聖人並に日興・日目次第相伝の十宗判名を日道に付属し給ふ」と前置きし本抄が筆写されており、大聖人以降、日興門下に引き継がれたものであろう。御真筆は大石寺にある。なお、系年は不明である。
 さて表題の「判名」についていえば、普通「判名」とは「名を判ずる」ということであるが、本抄では一つ一つの宗派を判ずるのではなく、それぞれの教えの内容を判じて、それにふさわしい名を付けられている。つまり、「内容を判じて名付ける」という意味で「十宗判名」されたと考えられる。
 また十宗の名称であるが、古来、日本に伝わった十の宗の名を挙げられている。すなわち、奈良時代の六宗に、平安時代の二宗、鎌倉時代の二宗を加えて、十宗とされている。ただし、本抄では天台宗を法華宗とされている。
 そのことは、十宗の名の並べ方が奈良時代・平安時代・鎌倉時代というように成立年代に従って配立されていることからも明らかであろう。従って、十宗の順序は価値の高低、優劣による配列とは無関係である。
 小乗とされる「倶舎宗」「成身宗」「律宗」は、初めに置かれていて低い位置でけであるが、大乗である「法相宗」より「浄土宗」に至る七宗について価値づけの仕方に順序がないのは、上の理由によるのである。
 しかし、判断された内容を比較相対してみると、「法華宗」以外のほかの九宗の内容が不完全で欠陥のあることを示しているのとは異なり「法華宗」のみが「仏立宗」とあって、勝れた宗であることを示す記述がなされている。
 ただし、ここで、一般的に使われていた「天台宗」としないで「法華宗」とされたことに意味がある。それは、当時、現実の天台宗は真言密教に汚染され、さらに念仏宗にも浸透され、本来の「法華第一」の義を失っていた。大聖人は、あくまで本来の伝教大師の教えに基づいて「法華第一」の義に立つ法華宗であれば「仏立宗」すなわち「仏の立てた宗」といえるとして、このような呼び方を使われたのであろう。
 内容に入って、まず小乗の三宗のうち「倶舎宗」について「拙度宗」「半字宗」「下劣宗」と判じられている。
 「倶舎宗」の「倶舎」とは世親の著である阿毘達磨倶舎論に由来している。阿毘とは梵語abhiの音訳で「対する」という意味であり、達磨とは梵語dharmaの音訳で「法」の意味である。また俱舎とは梵語kośaの音訳で「蔵」「容れ物」の意味である。従って阿毘達磨倶舎論とは対法蔵論という意味になる。
 さて、その対法蔵論の「対法」とは「法に対する」「法の研究」ということで、法に対するということである。この法に涅槃と苦・集・滅・道の四諦の二つがあり、これらを究めたのが無漏の慧である。
 次いで「蔵」とは、小乗二十部派の有力な学派の一つ、説一切有部が有する阿毘達磨発智論などの六つの論書には仏陀の言葉が含まれているとの意である。
 つまり、四諦の道理を対観し、涅槃に向かわしめる悟りの智慧と知識が仏陀の言葉として含まれている論、というのが阿毘達磨倶舎論、すなわち対法蔵論という書名の意である。
 末だ悟っていない有漏の慧の凡夫はこの俱舎論を学び、修行することによって、無漏の悟りの智慧へと転ずることができるという建前になっている。
 以上が、俱舎論の題名の意味するところであるが、「俱舎宗」とはこの俱舎論の教理をよりどころとする宗派ということである。
 論をよりどころとする宗派なので論宗といい、華厳経や法華経など経をよりどころとする経宗と区別する場合もある。この観点からいえば、成身宗・法相宗・三論宗などは論宗となり、浄土宗、真言宗などは経宗ということになる。ただし、論宗が学究的であるのに対し、経宗は信を根本として断定的になる特徴をもつことも事実である。
 さて、この「俱舎宗」を「拙度宗」「半字宗」「下劣宗」と判じられている。まず「拙度宗」とある「拙度」とは「巧度」に対する言葉で、天台智顗の言葉である。「度」は「渡す」の意味で、迷い、苦しみの此岸から悟りの彼岸へと渡すということから、衆生救済を指す。「度脱」などという言葉から出てくる。従って、「拙度」は衆生救済において拙い、という意味である。
 天台大師智顗の法華玄義巻一下には俱舎宗に代表される小乗の教えについて、「若し十因縁もて成ずる所の衆生に下品の楽欲有らば、能く界内の事善を生じ、拙度もて惑を破し、祈法もて空に入る。此の因縁を具すれば、如来は即ち生滅の四諦の法輪を転じて、三蔵教を起こすなり」とある。
 ここにあるように、如来が下品の楽欲を持つ衆生に対して説いた初歩的な教えは三蔵教であって、衆生はこの教えによって「拙度」すなわち拙い済度ながら、三界内の惑を破って、折空という境地に入る、というのである。
 少し専門的になるが、折空というのは諸法を五位七十五法といわれるような多数の要素に分析して、その果てに、諸法は空であると到達する在り方が三蔵教の教えであり、この教えでは少数の人たちしか救済できないので、小乗というのであり、拙い済度の方法、すなわち、拙度ということになるのである。
 ちなみに、智顗は「拙度」に対して「巧度」という言葉を用いているので紹介しておこう。顗法華玄義巻一下では次のようにある。「若し十因縁の法もて成ずる所の衆生に中品の楽欲有らば、能く界内の理善を生じ、巧度もて惑を破し、体法もて空に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち無生の四諦の法輪を転じて、通教を起こすなり」
 ここでは先の小乗・三蔵教の折空の教えに対して、大乗の初門である通教で説く対空の教えが「巧度」であり、小乗に比べては、より多くの人たちを大きく済度する巧みな教えであるとしているのである。
 その「対空」というのは、諸法を多数の要素を分析して、その果てに、諸法は空であると到達する在り方の「折空」とは異なって、諸法がそのまま空であると体達するものである。
 次いで「半字宗」とある。「半字」とは「満字」と対照して用おられる言葉で、インドの梵語においていわれるものである。たとえば、英語でいえばmoonはmとo二つとnという四つの字母が合してmoonの一字となる。その際m、o、o、nの一字ずつを「半字」といい、moonを「満字」という。仏教では小乗は九部経であるから「半字教」といい、大乗は十二部経であるから「満字教」と立て分ける。さらに、天台宗では蔵・通・別・円の四教のうち、蔵教を半字とし、通・別・円は満字としている。以上のことから、本抄では小乗の俱舎宗を「半字宗」と呼び変えているのである。
 次いで、俱舎宗を「下劣宗」としている。小乗の俱舎宗は大乗の諸宗に比べて、教えが劣っているので「下劣宗」とされたのである。一般に下劣といえば、品性が賤しいことをいうが、ここでは、劣った教えを指している。
 次に「成実宗」に移ると、「驢牛和合乳宗」と規定している。驢牛よは驢馬と牛のことであり、その和合乳は驢馬の乳と牛の乳とが混じった乳ということである。
 驢乳も牛乳もともに白色という点では同じであるが、仏典では、牛乳は精製すると酪・生蘇・熟蘇・醍醐となっていくのに対し、驢馬の乳を同じように精製しようとすると、最後には臭糞を生じるとされた。同じように見えながら、質の、勝劣差、高低差があり、修行を重ねるに従って、生じる結果が異なる場合の譬えとしてよく用いられている。
 本抄の場合は、成美宗が小乗の教えでると共に、大乗の教えに通じる側面ももっていることから驢牛和合宗と呼ばれたのである。驢乳が小乗の教えを、牛乳が大乗の教えを指していることはいうまでもない。
 成美論の内容は俱舎論のように、諸法を五位七十五法の多数の要素に分析して、その果てに諸法は空であると到達する在り方を批判して、諸法はそのまま空であるとする大乗の教えに通ずる側面をもっている。
 しかし、前述したような、大乗・通教のような体空間にまでは至っていない点で、成美宗はちょうど小乗と大乗の中間の教えといった感がある。この点をとらえて大聖人は「驢牛和合乳宗」と命名されたのである。
 次いで「律宗」については「驢乳宗」と規定されている。律宗というのは二百五十戒などの戒律を主とする宗である。前述したように、経論律の三蔵のうち、俱舎宗や成美宗などのように、俱舎論や成美論といった経論をよりどころとする宗を論宗とうのに対して、後に触れる法相宗・華厳宗などのように、解深密経や華厳経などの経論をよりどころとする宗を経宗という。これに対して、戒律などを定めた律蔵をよりどころとする宗が律宗となる。
 律蔵は典型的な小乗の教えであるから、大聖人はここで、先の成美宗で使われた譬えによられて「驢乳宗」と命名されたのである。下山御消息には「在世の阿羅漢を供養せし人尚三悪道まぬかれがたし、何に況や滅後の誑惑の小律の法師原をや、小戒の大科をば これを以て知んぬ可し、或は又驢乳にも譬えたり還つて糞となる、或は狗犬にも譬えたり大乗の人の糞を食す、或は援猴或は瓦礫と云云、然れば時を弁へず機をしらずして小乗戒を持たば大乗の障となる、破れば又必ず悪果を招く其の上今の人人小律の者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ 驢乳は牛乳を入れて大乗の人をあざむく」(0349-01)とある。

0692:01~0692:08 第二章 大乗七宗を判名するtop
01                     華厳宗  迷経宗                       ・
02                     真言宗  グ范宗     
03                     法華宗  仏立宗       
05                     禅 宗  趙高宗 殺二世王 
06                          梟鳥宗 禽    
07   法相宗  逆路宗          浄土宗  破鏡宗 獣    
08                          不孝宗  
09        背上向下宗                       
10   三論宗  捨本附末宗
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 法相宗は、正法に背く逆路伽耶陀宗である。
 三論宗は、上に背き下に向かう宗である。
 三論宗は、本を捨て末に附く宗である。
 華厳宗は、経に迷う宗である。
 真言宗は、仏の教えに背く罪を犯した宗である。
 法華宗は、仏の立てられた宗である。
 禅 宗は、趙高のような宗である。 趙高は二世王の胡亥を殺した者である。 
 浄土宗は、フクロウのような宗である。フクロウは親を食う鳥類である。
 浄土宗は、破鏡のような宗である。破鏡は親を食う獣である。
 浄土宗は、親に孝行しない宗である。

法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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逆路宗
 法相宗が逆路の宗であるということ。逆路は古代インドの外道の一派で逆順世派。逆路伽耶陀は順世外道のことで、世俗に随順する快楽主義的思想をいい、それに逆らうものを逆路伽耶陀という。
―――
三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
―――
背上向下宗
 三論宗が上に背き、下に向かう宗であるということ。上とは釈尊出世の本懐である法華経、下は般若経のこと。
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捨本附末宗
 三論宗が本を捨て、末に付く宗であるということ。本は法華経、末は般若経。釈尊の教えである経典を本、論師・人師による論・釈を末とする。
―――
華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
迷経宗
 華厳宗が経の勝劣浅深に迷う宗であるということ。
―――
真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
グ(「外」の下に「口」)范宗
 真言宗が咎范の宗であるということ。規範を犯すことを意味し、真言が仏法の教えを狂わせる宗であることをいう。
―――
法華宗
 法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
―――
仏立宗
 仏の立てた宗。法華宗のこと。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
趙高宗
 禅宗が趙高(~前0207)のごとき宗であるということ。超高は中国・秦代の宦官。始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ、権力を握った。旧臣を退けて酷政を行なったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利とみるや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。
―――
殺二世王
 趙高が二世王を意のままに操り、さらに二世王を殺害したということ。
―――
浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
梟鳥宗
 浄土宗はフクロウのような宗であるということ。フクロウは「母食い鳥」という異名をもっていることから、法華経を捨閉閣抛を立てる浄土宗は親を食うことになるのである。
―――

 鳥類のこと。
―――
破鏡宗
 浄土宗は破鏡のように虎に似ていて父を食うとりとされる。法華経を捨閉閣抛を立てる浄土宗は親を食うことになるのである。
―――

 ケモノのこと。
―――
不孝宗
 浄土宗は捨閉閣抛と唱え、釈尊の出世の本懐に反逆する親不孝の宗であるということ。
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 ここでは、大乗経に属する七宗の特質を“別名”という形で示されている。まず「法相宗」については「逆路宗」と規定されている。逆路とは、逆路伽耶陀の略である。路伽耶陀というのは、lokāyataの音訳で、その意味は順世外道である。これは読んで字のとおり、世情に順い、世情におもむくままに教えを立てる古代インドの外道の一派である。その教えはおおむね唯物論的で、当時のバラモンの権威を否定するが、現世の快楽のみを追求するものである。
 これに対して、世情に逆らう生き方を説く外道を「逆路伽耶陀」といった。師であるチャールヴァーカの立てた教義に逆らって反対の説を立てたので、後代・弟子として師の説に順わない反逆の徒の譬えに応用されるようになった。
 ここで、大聖人は法相宗を逆路伽耶陀宗と規定されている。法相宗の「法相」というのは、諸法の「相」と「性」を立て分けることで、その上で「相」から「性」へと帰入することを目的として体系化された大乗の宗である。この法相宗を大聖人は逆路宗とされた理由は、法相宗の重要な教理の一つである五性各別説にある。
 五性各別とは無始以来、衆生の宗教的能力に五種類の差別があるとし、その差別は決して変えることのできないものとする説である。すなわち、五性とは声聞種性・縁覚種性・菩薩種性・不定種性・無性有情の五種類をいう。
 最初の三つはそれぞれ阿羅漢果・辟支仏果・仏果を得ることが決定しているので、決定性ともいい、それぞれ定性声聞・定性縁覚・定性菩薩とも呼ぶ。
 次いで、不定種性とは、声聞・縁覚・菩薩になる種子をさまざまな組み合わせで所有しており、いずれの果を得るかが決定しないので不定性という。
 最後の無性有情は、倫理的にすぐれていても、もともと三乗の種子をもたないので、仏教の教えやさらには仏の悟りとは全く無縁の衆生を指す。
 従って、衆生には成仏できるものとできないものとがあり、それは先天的に決定していると説き、法華経の「開三顕一」すなわち、すべての衆生が平等に成仏できるという一仏乗の教えを否定しているところから、逆路宗と規定されたのである。
 さらに端的にいうと、法相宗は五性各別に基づいて、「三乗真実・一乗方便」の説を立てる。これは法華経の説く「三乗方便・一乗真実」の義に対抗するもので、声聞・縁覚・菩薩の三乗のための教えこそが真実で、すべて衆生ことごとくが成仏できるとする一仏乗の教えは、果の定まらない不定性の衆生を励ますための方便の教えであるとするものである。この説は、法華経の三乗方便・一乗真実の教えとは全く逆であるところから、逆路宗となるのである。
 次いで「三論宗」は、「背上向下宗」「捨本附末宗」と規定されている。
 三論宗とは読んで字のとおり、三つの論をよりどころとする宗である。三つの論とは竜樹の中論と十二門論、提婆菩薩の百論である。三つの論共に鳩摩羅什が中国に本釈して以来、諸弟子によって継承された後、隋の吉蔵によって整備され三論宗となった。従って、三論宗は中国で成立した宗派ということができる。その主たる教義は空の立場から仏教を解釈すると共に、外道と小乗の教えを破折して中道の義を顕すことに主眼がある。
 この三論宗について大聖人が「背上向下宗」すなわち「上に背き下に向かう宗」とされた所以は、インドの論師である竜樹や提婆菩薩の「論」、中国の人師である吉蔵の「釈」を根本的な依処とし、仏説、なかんずく法華経をよりどころとしていない点をこのように破折されたのである。すなわち、「上に背く」とは仏説に背くことでり、「下に向かう」とは、論師・人師の説を依処とする、ということである。
 次いで、「捨本附末」とは本を捨てて末に附くということである。背上向下と同じ意味といってよく、ここでは本が法華経、末は三論宗がよりどころとする般若経や論・釈といってよい。つまり三論宗は法華経の本を捨てて、般若経や論、釈に付く宗であると破っておられるのである。
 なお「背上向下」ということばについて大聖人は小乗大乗分別抄で「或は弥陀の名号をもつて人を狂はし 法華経をすてしむれば背上向下のとがあり」(0525-14)とあるように、阿弥陀仏の称名念仏を破折するのにも用いられている。
 次に「華厳宗」を挙げて「迷経宗」と定められている。華厳宗は文字どおり、華厳経によって中国で成立した宗である。この宗は杜順・智儼を受け継がれ、法蔵によって体系化され、澄観・宗密へと伝えられた。
 その華厳宗を「迷経宗」とされているのは、仏説によれば法華経をよるどころとすべきであるのに、華厳経を依経としている故である。このことは、顕謗法抄でも「華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす」(0454-01)と指摘されているように華厳宗の根本的誤りである。
 次いで「真言宗」をあげて「グ范宗」と定めされている。「グ范」の「グ(外字)」は「咎」と同字で、とがめ、わざわい、罪などの意であり「范」には法則、規などの意がある。つまり、真言宗は法則や規範を逸脱した罪科の宗派、ということである。 
 もともと真言宗は詳しくは真言陀羅尼宗といい、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言三部経をよりどころとして、大日如来を根本の仏と崇める。
 真言宗では「付法の八祖」と「伝持の八祖」の二つの流れを説く、付法の八祖とは教えを伝承した八祖で、教主たる大日如来から、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・空海と付法されたとする。
 一方、伝持の八祖とは、金剛薩埵による大日如来の教えが南インドの鉄搭の中に八百余年、蔵されていたのを竜猛菩薩が取り出して以後、竜智・金剛智・善無畏・不空・一行・恵果・空海と伝持されたとするものである。なお、真言宗という宗名を立てたのは、中国の密教思想を日本に伝えた空海である。
 この真言宗に対して大聖人が「咎范宗」と定められたということは、真言宗が仏教という宗教に属しながら、仏教の規範や法則から逸脱した罪科の宗派であるとの破折である。 
 その大きな理由は二つある。一つは真言宗は前述のように、一切経の教主である釈尊を捨てて大日如来を主としている故に主を殺すという意味で、咎范宗とされたのである。
 いま一つは、釈尊の出世の本懐である法華経を諸経の中の第三とし、大日経を第一としている故に、仏教の範囲から逸脱した咎范宗とされたのである。
 次いで「法華宗」を挙げられ、これについては「仏立宗」と示されている。法華経というのは文字どおり、法華経を根本とする宗派の意である。「仏立宗」とは、仏の立てた宗という意味である。釈尊は、法華経こそ三世諸仏の出世の本懐であるとしており、法華経を根本とすることは仏の本意に合致しているとして、大聖人は「仏立宗」と呼ばれたのである。
 これは伝教大師の法華宗句の巻下に出てくる「天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗なり」との文と関係がある。
 また、大聖人も法華初心成仏抄で「問うて云く八宗・九宗・十宗の中に何か釈迦仏の立て給へる宗なるや、答えて云く法華宗は釈迦所立の宗なり其の故は已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給う是れ釈迦仏の立て給う処の御語なり、故に法華経をば仏立宗と云い又は法華宗と云う又天台宗とも云うなり」(0544-01)妙密房御書で「天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候」(0899-11)とも仰せである。
 ここで「法華宗」とは天台大師を指しておられるが、「天台宗」という名を用いておられないところに深い意味がる。それは、当時すでに現実の天台宗は真言密教に染まって「天台密経」となっており、しかも念仏・禅という新興宗教に押されて、念仏や禅の修法を取り入れる者もすくなくなかった。そうした実態に対して、天台大師や伝教大師の本来の「法華宗」であってこそ「仏立宗」と言えるとの意味を込めて「法華宗」との名を挙げられたのであり、さらにいえば、大聖人自身の立てられた宗派こそ真の「仏立宗」であるとの意義を示されていると拝せる。
 次に「禅宗」を挙げて「趙高宗」と呼ばれている。禅宗の「禅」とは梵語dayānaの音写語「禅那」の略で、その意味は「静慮」ということである。静慮とは坐禅して心を散乱しないように静めつつ、一境として真理に向けて思慮することである。故に「心一境性」ともいう。
 禅宗は菩提達磨を始祖とするが、彼に至るまで二十八相承を立てている。まず、仏教の真髄は釈尊から迦葉へ伝授され、迦葉から阿難へ、阿難から商那和修へというように代々、受け継がれて第二十八祖の菩提達磨に至ったとする。その際、禅宗では仏の悟りは、経として言葉に示されるのではなく、教えとは別に伝えられたとして「教外別伝・不立文字」の義を立てる。
 従って、文字や言葉に頼る教説は、法華経も含めて、悟りである月をさす指のようなものであるから不要であるというのである。
 以上の禅宗の教義に対して、大聖人は「趙高宗」と断じられている。趙高については「殺二世王」と注記されている。
 彼は中国・秦代の始皇帝に仕えた宦官であったが、始皇帝が巡幸の途上で病死した際、丞相・李斯と共謀して詔勅を偽造して、末子の胡亥を二世皇帝とし、長男の扶蘇を自害させて権力を握り、酷政をしいた。
 そのため、国中の反乱を招き、形勢不利と見るや、二世皇帝の胡亥に罪を着せて殺したが、最後は新たに即位した子嬰に殺されている。この中国の史実にのっとって、大聖人は禅宗を趙高宗と定められた。
 すなわち、禅宗が教外別伝・不立文字などといって、仏の悟りは法華経とは別に伝えられたとしている点を趙高にたとえられたのである。
 最後に「浄土宗を挙げられて、「梟鳥宗」「破鏡宗」「不孝宗」とさだめられている。梟鳥と破鏡は共に、自分の親を食い殺すという伝承があり、不幸の代表として挙げられている。
 浄土宗は浄土三部経をよりどころとして、西方十万億土の極楽浄土に住する阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって浄土に往生できると説く宗派である。
 なかでも、日本浄土宗の開祖・法然はその著、選択本願念仏集において「捨閉閣抛」と説いている。すなわち、浄土宗のよりどころである浄土三部経以外の一切の諸教を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と唱え、浄土三部経に依る自らの浄土宗のみを信ぜよと宣伝したのである。
 このように、現実にこの世界の衆生を救うために出現した仏である釈尊をないがしろにし、その教えを捨てよと唆す邪悪な宗派であることから、法然の浄土宗を、「梟鳥宗」「破鏡宗」「不孝宗」と命名されたのである。
 まず「梟鳥宗」の「梟鳥」はフクロウのこと、この鳥は成長すると母を食うとされ「母食鳥」とも「不孝鳥」ともいわれた。「梟鳥宗」の下に「禽」と注記されているのは、次の「破鏡」が「獣」であるのに対し、鳥類に属することを示されるためである。
 また「梟鳥」が母を食らうとされたのに対し、「破鏡」は父を食らうとされ獣の一種とされたので「獣」と注記されている。
 「梟鳥」は母を食らい、「破鏡獣」は父を食らうことから挙げられているのであるが、仏典ではしばしば仏を父、経を母に譬えている。例えば無量義経には「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して是の菩薩の子を生ず」と述べられている。
 法然の浄土宗は釈尊の出世の本懐である法華経を「捨・閉・閣・抛」し、また釈尊よりも西方十万億土の阿弥陀仏を重視するところから、娑婆世界の衆生の父である釈尊と、母である法華経を食い殺す不幸の宗であると破折し命名されたのである。
 なお、「梟鳥禽」「破鏡獣」の言葉は報恩抄に次のように出てくる。すなわち、「第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり蝙蝠鳥のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり」(0310-15)と。
 ここでは、浄土宗で対してではなく、日本天台宗第三代座主の慈覚は伝教大師の弟子でありながら、実際には空海の真言密教を継承したことに対し「鳥にもあらず・ねずみにもあらず」といわれて、蝙蝠鳥と名指されると共に、蝙蝠鳥・破鏡獣という言葉をここで使用されている。

0693~0694    五行御書top
0693
五行御書
01      不殺生戒  肝臓      不飲酒戒          不妄語戒  脾臓          ・
02      眼  根          舌  根          身  根
03      酢  味          苦  味          甘  味
04      東  方          南  方          中  央
05   木  青  色      火   赤  色       土  黄  色
06      青             夏             土  用
07      青  雲          赤  雲          黄  雲
08      魂             神             意   
09      歳  星          熒 惑 星          鎮  星
0694
01      不偸盗戒  肺臓      不邪淫戒
02      鼻  根 耳  根
03      辛  身          カ ン 味
04      西  方          北  方
05   金  白  色       水  黒  色
06      秋             冬
07      白  雲          黒  雲
08      魄             志
09      大 白 色          辰  星 
-----―
                           ・
 木は五戒に配すれば、不殺生戒に当たり五蔵に配すれば、肝臓にあたる。
   五根に配すれば、眼根に当たる。
   五味に配すれば、酸味に当たる。
   五方に配すれば、東方に当たる。
   五色に配すれば、青色に当たる。
   五時に配すれば、春に当たる。
   五雲に配すれば、青雲に当たる。
   五神に配すれば、魂に当たる。
   五星に配すれば、木星に当たる。
 木は五戒に配すれば、不飲酒に当たり五蔵に配すれば、心臓にあたる。
   五根に配すれば、舌根に当たる。
   五味に配すれば、苦味に当たる。
   五方に配すれば、南方に当たる。
   五色に配すれば、赤色に当たる。
   五時に配すれば、夏に当たる。
   五雲に配すれば、赤雲に当たる。
   五神に配すれば、神に当たる。
   五星に配すれば、火星に当たる。
 土は五戒に配すれば、不妄語戒に当たり五蔵に配すれば、脾臓にあたる。
   五根に配すれば、身根に当たる。
   五味に配すれば、甘味に当たる。
   五方に配すれば、中央方に当たる。
   五色に配すれば、黄色に当たる。
   五時に配すれば、土用に当たる。
   五雲に配すれば、黄雲に当たる。
   五神に配すれば、意に当たる。
   五星に配すれば、土星に当たる。
 金は五戒に配すれば、不偸盗戒に当たり五蔵に配すれば、肺臓にあたる。
   五根に配すれば、鼻根に当たる。
   五味に配すれば、辛味に当たる。
   五方に配すれば、西方に当たる。
   五色に配すれば、白色に当たる。
   五時に配すれば、秋に当たる。
   五雲に配すれば、白雲に当たる。
   五神に配すれば、魄に当たる。
   五星に配すれば、金星に当たる。
 木は五戒に配すれば、不邪淫戒に当たり五蔵に配すれば、腎臓にあたる。
   五根に配すれば、耳根に当たる。
   五味に配すれば、カン味に当たる。
   五方に配すれば、北方に当たる。
   五色に配すれば、黒色に当たる。
   五時に配すれば、冬に当たる。
   五雲に配すれば、黒雲に当たる。
   五神に配すれば、志に当たる。
   五星に配すれば、水星に当たる。

木・火・土・金・水
 五行のこと。中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のこと。陰陽五行説、陰陽五行論ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。
―――
不殺生戒・不飲酒戒・不妄語戒・不偸盗戒・不邪淫戒
 五戒をさす。女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと。
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肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓
 五臓をいう。中国医学において人体の最も基本的な臓器で、陰陽五行に配当される。
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眼根・舌根・身根・鼻根・ 耳根
 五根のこと五つの感覚器官の働き。
―――
酢味・苦味・甘味・辛身・カン味
 五味のこと。味覚は、動物の五感の一つであり、食する物質に応じて認識される感覚である。基本味の受容器は人の場合おもに舌にある。基本味が他の要素で拡張された知覚心理学的な感覚としての味は、風味と呼ばれることが多い。また、認識の過程を味わうという。
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東方・南方・中央・西方・北方
 方位を示す五つの方向。
―――
青色・赤色・黄色・白色・黒色
 五色。色の五元素である。
―――
春・夏・土用・秋・冬
 五時の季節のこと。土用とは、五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。一般には夏の土用(立秋直前)を指すことが多い。
―――
青雲・赤雲・黄雲・白雲・黒雲
 五雲のこと。
―――
魂・神・意・魄・志
 五神のことで、魂は心、神は精神、意は心の思い、魄は心のよりどころとなるもの、志はこころざし。
―――
歳星・熒惑星・鎮星・大白色・辰星
 五星のこと。歳星は木星・熒惑星は火星・鎮星土星・太白星は金星・辰星は水星の称。
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 本抄は、中国古代の思想・哲学の基本をなしていた陰陽五行説の五行を、五戒・五蔵・五根・五味・五色・五時・五方・五雲・五星に配当したものである。
 日蓮大聖人の筆によるものが四紙一巻の書として、富士大石寺に現存しているが、御執筆年次・場所は定かではない。何かの覚書として書かれたものであろう。
 初めに、陰陽五行思想の大要を述べると次の通りである。原初、宇宙は天と地が未分化の混沌たる状態であったが、この混沌のなかから、まず、軽くて澄んだ光明に満ちた気=「陽」の気が上昇して「天」となり、次いで重くて濁った暗黒の気=「陰」の気が下降して「地」となったという。
 こうして、陰陽の二気が混沌という一気から生成することで、天地が開闢するのであるが、これら最初の陰と陽、天と地を根本の二元として、この二元の交換・往来・交合によって、万物の生々流転が引き起こされるとする。
 この二元の交換・交合が天上で起こった結果、太陽と月、木星・火星・土星・金星・水星の五惑星や、さまざまな星が誕生したのであり、地上で起こった結果、木・火・土・金・水の五気、すなわち五元素が生じたとする。これが陰陽五行の「五行」である。「行」とはめぐり、動き、作用することを意味する。したがって五元素が動き、作用し、めぐることによって、宇宙の森羅万象の平穏性と永遠性が保持されるという。身近なところでは、一日の朝・昼・夜の推移や、一年の春・夏・秋・冬の変化などもすべて五行の働きで起こっているとする。
 ところで、この五行の働きかたには相生・相剋という二つの原理があるとされる。
 初めの「相生」は木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる、といったように木→火→土→金→水→木→と、五気が順送りに相手を生み出して行くということが無限に繰り返されていくのである。
 これに対して、次の「相剋」反対に、木は土を剋し、土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋しといったように、木・土・水・火・金・木の順で剋していくのである。
 これをもう少し具体的な例で述べれば次のようになる。まず「相生」のうち、木は火を生ずるというのは、昔、火を得るためには木と木とを擦り合わせたこと、あるいは木が燃えて火を生じたことに由来し、火が土を生ずるというのは火によって物が燃えると灰となり、その灰は土であるからこのようになる。
 次いで、土が金を生ずるというのは、金属や鉱物は土の中から掘り出されるもので、土が金属、鉱物を生じると考えられたのであろう。
 金が水を生じるというのは、あまり明白ではないが、湿気が高いと金属の表面に水滴が生じやすいことからこのようにいわれたと思われる。
 水が木を生ずるというのは一切の木や植物は水によって養われているので、これは当然の原理といえよう。
 つぎに「相剋」であるが、木が土を剋するというのは木は土を覆うように繁茂するのでこのようでいい、土が水を剋するというのは、流れ、溢れようとする力が土にることを指ひており、水が火を剋するというのは、いうまでもなく火に勝って消す力があるのは水だからである。
 火が金を剋するというのは強く固い金属でも、高温の火によって溶かされることからこのようにいい、金が木を剋するというのは樹齢何百年という巨木でも、金属でできた刃物や斧で切られ倒されるので、この原理が成立する。
 以上のように、五行は宇宙の森羅万象を象徴しており、「相生」と「相剋」という二つの面が働き合うことで、森羅万象の均衡が保たれ、永遠性が確保されるとするのが、陰陽五行の思想である。
 ところで、木火土金水の五行は宇宙の森羅万象の五元素であると同時に象徴でもるから、宇宙のさまざまな現象についても五行に還元されたり配当することが可能となる。
 五行が「五蔵」、「五根」、等に配当されるのはこのためである。この配当で、「五戒」と、「五神」が加えられていることを除いては、陰陽五行説で説いているとおり記されている。
 ではなぜ、このように配当されるのか、たとえば五根でいえば、眼根が「木」に配されるのはなぜかというと、五色と五方を関連づけて、なぜ東方が青、南方が赤、中央が黄、西方が白、北方が黒なのか等々の疑問が生じる。
 何事につけ合理的な理由を求めるのが近代人であり、このような配分をしたのが、はるかな古代の中国の人々であることは分かっていても、何かそれなりの根拠があって、このように振り分けたはずだと考えるのが常である。
 しかし、五行を種々の要素に関連づけることは、一部当てはまることがあったとしても、すべてに当てはめる理由・根拠を見つけ出すことは不可能であると考えられる。もともと日蓮大聖人御自身、この覚書を作られたのは、御自身の独自の考察の成果としてだけではなく、あくまで伝統的に陰陽五行説で伝えられていたのを、参考のために記されていたのであり、用いられたとしても、仏法の法理を理解する一助にされたにすぎない。従って、日蓮大聖人がここに書かれているから、それがすべて仏法のうえからも納得できる理由があったにちがいないと考える必要はないと思われる。
 おそらく、大聖人がこれを覚書として記されたのは、三世諸仏総勘文教相配立に引用されている妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六の文のように、天台・妙楽の著を学ぶなかで、しばしば陰陽五行説と仏教の五大・五戒・五智・五仏性と関連づけている個所があり、全く無視してとおるわけにはいかなかったからであろう。総勘文抄の文を引用しておく。
06 弘決の六に云く『此の身の中に具さに天地に倣うことを知る 頭の円かなるは天に象り 足の方なるは地に象ると知
07 り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり 腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法
08 とり大節の十二は十二月に法とり 小節の三百六十は三百六十日に法とり、 鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法
09 とり口の 息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり 開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法
10 とり脈は江河に法とり 骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、 五臓は天に在つては五星に法と
11 り地に在つては 五岳に法とり陰・陽に在つては五行に法とり世に在つては 五常に法とり内に在つては五神に法と
12 り行を修するには五徳に法とり罪を治むるには五刑に法とる謂く墨.ギ.ヒ.宮.大辟此の五刑は人を様様に之を傷まし
                                        刑む其の数三千の罰有り此を五
13 と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠等なり、天に昇つては五雲と曰い化し
14 て五竜と為る、 心を朱雀と為し 腎を玄武と為し肝を青竜と為し 肺を白虎と為し 脾を勾陳と為す」又云く「五
15 音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし 覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則
16 ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し 肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、 左をば司命と
17 為し右をば司録と為し人命を主司す、 乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」已上、 人身の
18 本体委く検すれば是くの如し、 然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う 僻思は譬えば荘周が夢の
01 蝶の如しと釈し給えるなり、 五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五
02 時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、 今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・
03 五智の如来の種子と説けり 是則ち妙法蓮華経の五字なり、 此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚
04 の如来なり(0567)
 ここで明らかなように、五方の中の一つ一つ、五蔵の中の一つ一つの対応関係は、あくまで陰陽五行説で唱えられていたのであって、それを仏法的に意義づけようなどとは妙楽大師もしていないし、大聖人もされていない。依正不二なることを示すために、五方・五時等をまとめて五大・五蔵と対応し、つながっていることを妙楽大師は述べたのであり、大聖人もそれを用いられたのである。
 一つ一つの厳密な対応が重要なのではないことは、例えば本「五行御書」では、五戒と五蔵の関連を抽出すると、
     不殺生戒  肝臓
     不飲酒戒  心臓
     不妄語戒  脾蔵
     不偸盗戒  肺臓 
     不邪淫戒  腎臓
 となるが、天台大師の釈禅波羅密次第法門には次のようにある。
 「三昧の智慧は福徳あり善根の力がある故に、すなわち覚知せん。かくのごとく、身命は皆先世の五戒の業力に由ること…業力の因縁は変じて、この一見の内に先に為るものは五蔵・五識を安置す。その時にはすなわち知らん。不殺戒の力は変じて、この身の内に次に肝臓を為り、すなわち魂はこれに依る。不盗戒の力は変じて、この身の内にもって腎臓と為る。すなわち志はこれに依る。不淫戒の力は変じて、この身の内に肺蔵を為る。すなわち魄はこれに依る。不妄語戒の力を変じて、この身の内にもって脾臓を為る。すなわち意はこれに依る。不飲酒戒の力は変じて、この身の内をもって心臓を為る。すなわち神はこれに依る」と。
 これによると、
     不殺生戒  肝臓
     不飲酒戒  心臓
     不妄語戒  脾蔵
 は変わらないにしても、
     不偸盗戒  腎臓 
     不邪淫戒  肺臓
 で入れ替わってしまう。大聖人が天台大師の著述を知らなかったとは考えられないから、これは、一つ一つの対応関係には、こだわっておられないことの証左ということができよう。
 従って、この仏教の五戒を五行の立て分けに配されたのは、細かい配当の一致不一致はともかく、相対的に五戒を守った力によって人間の身心が構成されていることを示すためであったと拝されるのである。
 なお、このなかで少々説明を要すると思われるのが「五神」つまり人間の精神機能にかかわる五つであろう。この五つのうち四つは「魂魄」「意思」というように、対になっている。
 「魂」が「人間の精気」で、精神面を司る気をいうのに対し、「魄」は「人の陰の精気」で、肉体面を司る気をいう。
 また「意」が音声・言葉に発して知られる心の思いを指すのに対し「志」は「心のゆき向かう処」と説明されているように、必ずしも音声に発して人から知られることを求めない、その人自身の心が向かうところをいう。
 以上の四つに対し「神」は、人智の及ばない霊妙な存在を指し、人間の「たましい」を指す場合も、「霊妙不思議なるもの」というニュアンスがある。

0695~0700    浄土九品の事top
0695:01~0695:08 第一章 法然が善導に依ることを明かすtop
0695
浄土九品の事
01     難行易行・聖道浄土・雑行正行・諸行念仏、
02   法然房の料簡は諸行と念仏と相対なり、
03   二義、一には勝劣・一には難易┐
    ┌─────────────┘
04   │    ┌廃立
05   │┌ 一に諸行を廃して念仏に帰せんが為に而も諸行を説くなり
06   ││    ┌助正
07   └┼ 二に念仏を助成せんが為に而も諸行を説くなり
08    │    ┌傍正
09    └ 三に念仏諸行の二門に約して各三品を立てんが為に而も諸行を説くなり              ・
10      若善導に依らば初を以て正と為すのみ
-----―
 浄土宗では、難行道と易行道・聖道門と浄土門・雑行と正行・諸行と念仏を立てる。
 法然の選択集では、前の三つの相対からさらに拡大して諸行と念仏とを相対している。
 この相対の仕方に二つの義があり、があり一つには勝劣・一つには難易でる┐
    ┌──────────────────────────────┘
    │    ┌廃立
    │┌ 一に諸行を廃して念仏に帰依させるために諸行を説くのである。
    ││    ┌助正
    └┼ 二に念仏を助成するために諸行を説くのである。
     │    ┌傍正
     └ 三に念仏と諸行の二門に要約して、それぞれ上・中・下の三品を立てるために諸行を説くのである。
       もし善導の説によれは、最初の「廃立」をもって正意とするのみである。

難行
 難行道のこと。易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
―――
易行
 易行道のこと。難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。
―――
聖道
 聖道・浄土の二門のうちの聖道門。自力によってこの現実世界で成仏することができるとする法門。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
雑行
 浄土宗の教義で、善導の観無量寿経疏正宗分散善義巻四に典拠をもつ。同書のなかに「行き就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」とある。修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行と名づくとしている。五種の正行とは、浄土宗の教義。極楽浄土に往生するための五種類の正行のこと。五種の雑行に対する語。①読誦正行。専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」ること。②観察正行。専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」ること。③礼拝正行。専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」ること。④称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」ること。⑤讃歎供養正行。専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」ること。この中で称名正行を第一の正行、他の四つをその助行とする。この五種の正行の説をふまえて法然は浄土三部経の修行を正行、それ以外の経教の修行を雑行として排した。なお、五種の雑行とは浄土宗の教義で、極楽浄土に往生することができない五種類の修行のことで、選択本願念仏宗にある。⑥読誦雑行。『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦すること。⑦観察雑行。極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行という。⑧礼拝雑行。弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬すること。⑨称名雑行。弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称すること。⑩讃歎供養雑行。弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行という。
―――
正行
 ①正しい教えによって立てた正しい行為・修行。②南無妙法蓮華経の題目を唱えること。
―――
諸行
 諸々の修行のこと。一切の仏道修行。
―――
念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
法然房
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
料簡
 思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
相対
 ①他者との関係によって、存在すること。②比較検討して勝劣を立てること。
―――
助正
 正行を助成すること。
―――
三品
 上品・中品・下品をいう。さらに上上品等の九品に分ける浄土宗の説。
―――
傍正
 従と主。諸説の法門の傍と正。
―――
善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
―――――――――
 本抄は日蓮大聖人が門下の人々に浄土宗の教義の骨格を把握させるために記されたメモの一種である。浄土往生に「九品」すなわち、九種類あることを説いている観無量寿経の教説を図解しながら、それとの関連で中国の浄土教や、特に日本の法然の解釈を引用され、彼の謗法の根本である「捨閉閣抛」「千中無一」などの主張が意味するところを明瞭にされている。
 本抄は、あくまでも法然の義を図解で示し、引用文を示されているのみで、それ以上のことは記されていないが、本抄を記された大聖人の意図は、法然の念仏宗がその漢訳経典である観無量寿経の浄土九品説をどのように歪曲し、矮小化して成立したものであるかを明らかにすることにより、当時、多くの人々の信仰を獲得していた法然・念仏宗を、大聖人の門下が破折するための教材を提供しようとされたものであることが分かる。
 さらに、本抄の後半では法然の門下弟子たちの名前とその経説などを図解されると共に、法然・念仏宗を破折した人たちの系譜も示されている。
 御著述は文永8年(1271)ごろと思われ、御真筆は西山本門寺にある。
 御書全集では「難行易行・聖道浄土・雑行正行」の文が冒頭にあり、ここから書き始められたかのようになっているが、御真筆を拝すると、この「難行易行」から「若善導に依らば初を以て正と為すのみ」までは、あとで余白部分に書き加えられたことが明白で、この覚書の中心は「九品」を示されることにある。しかし、この書は「御書全集講義」であるため、本文に沿って解説していく。
 最初に「難行易行」というのは中国の曇鸞がその著・往生論註で立て分けたものである。すなわち、難行は難行道・易行は易行道という二道に立て分けるもので、大乗仏教の菩薩が不退の境地を求めるために二つの道があるとするものである。
 一つが難行道で五濁の乱れた世で、しかも仏の存在しない時代に、不退の境地をもとめるのは至難であるとするものである。
 その道とは娑婆世界で長期間、修行を積み、自力によって仏果を得る行き方で、例えれば、陸路の歩行の苦難のようなものである、という。
 これに対して、易行道というのは仏の請願の力に助けられて仏の国土に往生できるとするものである。その道とは他力によって浄土に往生して悟りを得る行き方で、例えば、水上の船に乗って楽しく行くようなものである。
 次いで「聖道浄土」というのは中国の道綽がその著・安楽集で、大乗仏教を二つに大別したものである。すなわち聖道とは聖道門、浄土とは浄土門で、この二門に立て分けるものである。聖道門とは先の難行道に当たり、浄土門は易行道にあたり、五濁の末法の時代には聖道門は仏道に至る門ではなく、阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経の浄土三部経をよりどころとする浄土の一門だけが仏道に至る道である、とする。
 次いで「雑行正行」というのは、中国の善導がその著・観経疏で、仏道修行を二つに大別したものである。すなわち正行とはもっぱら往生浄土を説く経によって、往生の行を勤める行であり、言い換えれば浄土三部経によって阿弥陀仏を念ずる行であるのに対し、雑行とは阿弥陀経以外の経典読誦、阿弥陀以外の仏菩薩の礼拝、讃嘆供養などの行である。
 以上、中国の浄土教の人師たちの二つの立て分けを列挙した後法然自身が選択集で、これらを踏まえて「所行念仏」という二つに大別していることを本抄では「法然房の料簡は諸行と念仏と相対なり」と記されている。
 法然は難行道・聖道門・雑行を「諸行」に、易行道・浄土門・正行を「念仏」に立て分け、相対されている。
 次いで、本抄では「二義、一には勝劣・一には難易」と記されている。法華経は選択集の中で、諸行と念仏とを相対させたうえで、無量寿経に説いてある阿弥陀仏の四十八請願を五つの請願にしぼって、その意味を検討し、要するに、粗悪なものを選び捨てて、最も善くすぐれているものを選び取ったところに阿弥陀仏の請願の大本がある、と結論したあと、その第十八願こそ明瞭に一切の行為を選び捨てて、ただひとえに念仏の一行だけを往生の行とすることの依処であるとし、そのなかで勝劣、難易の二義を立てているのである。
 まず、勝劣とうのは、念仏、すなわち、阿弥陀仏の名号は勝れており、それ以外は劣っているとするものである。次に難易というのは、念仏は修し易く、他の行は修し難い、というものである。
 以上、二義を説明したあと、選択集では、なぜ諸行を捨てて、ただ念仏のみを称えよとするのかとの疑問を投げかけ、これに三つの意があるとしているが、その三つが本抄では、図示されているのである。
 「一に諸行を廃して念仏に帰せんが為に而も諸行を説くなり」として「廃立」と注記されている。これはいずれは諸行を廃止して念仏の一行に立ち帰らせるために、あえて諸行を説いたとするもので、諸行を「廃」して念仏の一行を「立」てることから「廃立」となるのである。
 「二に念仏を助成せんが為に而も諸行を説くなり」とあって「助正」と注記されている。つまり、念仏の一行という「正」を「助」成するために、ほかの諸行を説いたとするもので「助正」となるのである。
 「三に念仏諸行の二門に約して各三品を立てんが為に而も諸行を説くなり」として「傍正」と注記されている。
 これは念仏のほかの諸行とそれぞれに三品の区別が立てられることを明瞭にするために、ほかの諸行を説いたとするものである。ただし念仏の一行を「正」としてほかの諸行を「傍」とするところから「傍正」となる。
 以上のように三つの意があるが、法然は「若善導に依らば初を以て正と為すのみ」と述べ、ここから法然も、善導の解釈をよりどころとして最初の「廃立」の義を採るとしている。すなわち、二・三の場合は、諸行も助行・傍として用いるという行き方になるが、法然は諸行を廃する行き方をとるのである。法然の念仏が「専修念仏」と言われるのはこの故である。  本抄は日蓮大聖人が門下の人々に浄土宗の教義の骨格を把握させるために記されたメモの一種である。浄土往生に「九品」すなわち、九種類あることを説いている観無量寿経の教説を図解しながら、それとの関連で中国の浄土教や、特に日本の法然の解釈を引用され、彼の謗法の根本である「捨閉閣抛」「千中無一」などの主張が意味するところを明瞭にされている。
 本抄は、あくまでも法然の義を図解で示し、引用文を示されているのみで、それ以上のことは記されていないが、本抄を記された大聖人の意図は、法然の念仏宗がその漢訳経典である観無量寿経の浄土九品説をどのように歪曲し、矮小化して成立したものであるかを明らかにすることにより、当時、多くの人々の信仰を獲得していた法然・念仏宗を、大聖人の門下が破折するための教材を提供しようとされたものであることが分かる。
 さらに、本抄の後半では法然の門下弟子たちの名前とその経説などを図解されると共に、法然・念仏宗を破折した人たちの系譜も示されている。
 御著述は文永8年(1271)ごろと思われ、御真筆は西山本門寺にある。
 御書全集では「難行易行・聖道浄土・雑行正行」の文が冒頭にあり、ここから書き始められたかのようになっているが、御真筆を拝すると、この「難行易行」から「若善導に依らば初を以て正と為すのみ」までは、あとで余白部分に書き加えられたことが明白で、この覚書の中心は「九品」を示されることにある。しかし、この書は「御書全集講義」であるため、本文に沿って解説していく。
 最初に「難行易行」というのは中国の曇鸞がその著・往生論註で立て分けたものである。すなわち、難行は難行道・易行は易行道という二道に立て分けるもので、大乗仏教の菩薩が不退の境地を求めるために二つの道があるとするものである。
 一つが難行道で五濁の乱れた世で、しかも仏の存在しない時代に、不退の境地をもとめるのは至難であるとするものである。
 その道とは娑婆世界で長期間、修行を積み、自力によって仏果を得る行き方で、例えれば、陸路の歩行の苦難のようなものである、という。
 これに対して、易行道というのは仏の請願の力に助けられて仏の国土に往生できるとするものである。その道とは他力によって浄土に往生して悟りを得る行き方で、例えば、水上の船に乗って楽しく行くようなものである。
 次いで「聖道浄土」というのは中国の道綽がその著・安楽集で、大乗仏教を二つに大別したものである。すなわち聖道とは聖道門、浄土とは浄土門で、この二門に立て分けるものである。聖道門とは先の難行道に当たり、浄土門は易行道にあたり、五濁の末法の時代には聖道門は仏道に至る門ではなく、阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経の浄土三部経をよりどころとする浄土の一門だけが仏道に至る道である、とする。
 次いで「雑行正行」というのは、中国の善導がその著・観経疏で、仏道修行を二つに大別したものである。すなわち正行とはもっぱら往生浄土を説く経によって、往生の行を勤める行であり、言い換えれば浄土三部経によって阿弥陀仏を念ずる行であるのに対し、雑行とは阿弥陀経以外の経典読誦、阿弥陀以外の仏菩薩の礼拝、讃嘆供養などの行である。
 以上、中国の浄土教の人師たちの二つの立て分けを列挙した後法然自身が選択集で、これらを踏まえて「所行念仏」という二つに大別していることを本抄では「法然房の料簡は諸行と念仏と相対なり」と記されている。
 法然は難行道・聖道門・雑行を「諸行」に、易行道・浄土門・正行を「念仏」に立て分け、相対されている。
 次いで、本抄では「二義、一には勝劣・一には難易」と記されている。法華経は選択集の中で、諸行と念仏とを相対させたうえで、無量寿経に説いてある阿弥陀仏の四十八請願を五つの請願にしぼって、その意味を検討し、要するに、粗悪なものを選び捨てて、最も善くすぐれているものを選び取ったところに阿弥陀仏の請願の大本がある、と結論したあと、その第十八願こそ明瞭に一切の行為を選び捨てて、ただひとえに念仏の一行だけを往生の行とすることの依処であるとし、そのなかで勝劣、難易の二義を立てているのである。
 まず、勝劣とうのは、念仏、すなわち、阿弥陀仏の名号は勝れており、それ以外は劣っているとするものである。次に難易というのは、念仏は修し易く、他の行は修し難い、というものである。
 以上、二義を説明したあと、選択集では、なぜ諸行を捨てて、ただ念仏のみを称えよとするのかとの疑問を投げかけ、これに三つの意があるとしているが、その三つが本抄では、図示されているのである。
 「一に諸行を廃して念仏に帰せんが為に而も諸行を説くなり」として「廃立」と注記されている。これはいずれは諸行を廃止して念仏の一行に立ち帰らせるために、あえて諸行を説いたとするもので、諸行を「廃」して念仏の一行を「立」てることから「廃立」となるのである。
 「二に念仏を助成せんが為に而も諸行を説くなり」とあって「助正」と注記されている。つまり、念仏の一行という「正」を「助」成するために、ほかの諸行を説いたとするもので「助正」となるのである。
 「三に念仏諸行の二門に約して各三品を立てんが為に而も諸行を説くなり」として「傍正」と注記されている。
 これは念仏のほかの諸行とそれぞれに三品の区別が立てられることを明瞭にするために、ほかの諸行を説いたとするものである。ただし念仏の一行を「正」としてほかの諸行を「傍」とするところから「傍正」となる。
 以上のように三つの意があるが、法然は「若善導に依らば初を以て正と為すのみ」と述べ、ここから法然も、善導の解釈をよりどころとして最初の「廃立」の義を採るとしている。すなわち、二・三の場合は、諸行も助行・傍として用いるという行き方になるが、法然は諸行を廃する行き方をとるのである。法然の念仏が「専修念仏」と言われるのはこの故である。

0695:09~0697:18 第二章 九種類の往生行の区別を記すtop
11       ┌読誦大乗  ┌至誠心・深心・廻向発願心なり
12     ┌上品上生┐   三種の心を発して即ち往生す
13     │  仏 復三種の衆生有り往生を得べし┐
14     │六 法 ┌─────────────┘
15     │  僧 └─ 一には慈心にして殺さず諸の戒行を具す
16   上品┤念 戒    二には大乗方等経典を読誦す──┐
17     │  施    三には六念を修行す      │
18     │ ┌────────────────────┘
01     │ │     ┌法然の料簡に云く  0696
02     │ └───華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経・大日経・深密経・楞厳経等の一切の大乗経は読誦
03     │     大乗の一句に摂尽す
04     │ ┌解脱一義
05     ├上品中生
06     │ └善く義趣を解し第一義に於て──法然の料簡に云く──華厳の唯心法界 ・法相の唯識 ・三論の八
07     │  不 ・真言の五相成身 ・天台の一念三千 ・皆解第一義の一句に摂尽す
08     └上品下生
09       └法然の料簡──深信の因果に十界の因果を摂尽す
-----―
       ┌大乗経典を読誦すること。  ┌至誠心・深心・廻向発願心である。
     ┌上品上生┐          三種の心を発して、すなわち往生できる。
     │  仏 また三種の衆生がいるがこれらも必ず往生できる┐
     │六 法 ┌─────────────────────┘
     │  僧 └─ 一には慈悲の心をもって生物を殺さず、諸の戒を持ち修行すること。
   上品┤念 戒    二には大乗の経典を読誦すること  ┐
     │  施    三には六念を修行すること     │
     │ ┌──────────────────────┘
     │ │     ┌法然の選択集には次のようにある。
     │ └───華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経・大日経・深密経・楞厳経等の一切の大乗経は、大乗経を読誦する
     │     一句に収まっている。
     │ ┌第一義を解すること。
     ├上品中生
     │ └よく大乗の意義を理解して、第一義において──法然の選択集には次のようにある──華厳宗の唯心法界・法相の唯
     │  識・三論の八不中道・真言の五相成身・天台の一念三千法門は・皆解第一義の一句に収まっている。
     └上品下生
       └法然の選択集には──深い信心に立った場合の因果には十界の因果が収まっている。
-----―
10     ┌中品上生──五戒八戒乃至諸戒を摂尽す
11     │    >四阿含経・倶舎・成実・律宗は此の二品に摂尽す
12   中品┼中品中生──八斎戒
13     │          ┌儒教道教は此の一品に摂尽す
14     └中品下生──孝養父母の行なり仁慈
15                ├外典三千余巻
16                └┬老子経
17                 └孝 経                               ・
-----―
     ┌中品上生──五戒・八戒すなわち諸戒が収まっている。
     │    >四阿含経・倶舎・成実・律宗はこの二品に収まっている。
   中品┼中品中生──八斎戒
     │          ┌儒教道教は此の一品に収まっている。
     └中品下生──父母を孝養し、世に仁慈を行う。
                ├外典三千余巻
                └┬老子経
                 └孝 経
-----―
16     ┌下品上生
17     │ ├観経
01     │ └此くの如きの愚人多く衆悪を造るも十念せば往生す  0697
02   下品┼下品中生──或は衆生有て五戒 ・八戒及び具足戒を毀犯す、 此くの如きの愚人は僧祇物を偸み現前僧
03     │      物を盗む不浄に法を説いて懺愧有ること無し
04     │ ┌下品下生は 五逆重罪の者なり而かも能く 逆罪を除滅するは余行に堪えざる所なり、 唯念仏の力
05     │ │のみ能く重罪を滅するに堪る有り、故に極悪最下の人の為に而かも極善最上の説を説く等云云
06     └下品下生──五逆罪の人・十念往生
07              撰択に云く「念仏三昧は重罪すら消滅す 何に況や軽罪をや余行は然らず或は軽を滅し
08              て重を滅せざる有り、或は一を消して二を消せざる有り」等云云
-----―
     ┌下品上生
     │ ├観経
     │ └このような愚かな人が多くの悪をつくっても、十念すれば往生できる。
   下品┼下品中生──あるいは衆生がいて、五戒・八戒および具足戒を破壊する。このような愚人は、僧の集団の物質を盗み僧の生
     │      活物資を盗む。不浄に法を説いて懺愧有ることがない。
     │ ┌下品下生は、これ五逆の重罪の人である。しかもよく逆罪を除き滅するには、念仏以外の修行では堪えられるところで
     │ │ない。ただ念仏の力だけがよく、重罪を滅することに堪える。故に極悪最下の人のために、しかも極善最上の説いてい
        │ │る。
     └下品下生──五逆罪の人・十念往生
              撰択集には「一心に念仏を称えると、重罪すらなお滅する。いわんや軽罪においては当然である。念仏以
              外の修行はそうではない。あるいは軽罪を滅しても、重罪を滅することができない。あるいは一つの罪を
                      罪を消しても、二つの罪を消すことができない」等とある。
-----―
09   捨閉閣抛
10    ├法華経等の一切経
11    ├釈迦仏等の一切諸仏
12    └天台宗等の八宗・九宗の世天等
13   浄土三部経阿弥陀仏よりの外なり
14   安楽集に
15    末だ一人も得る者有らず唯浄土の一門のみ有て通入の路なるべし
16   往生礼讃に云く
17    千中無一十即十生百即百生                                    ・
-----―
   捨閉閣抛
    ├法華経等の一切経
    ├釈迦仏等の一切諸仏
    └天台宗等の八宗・九宗の世天等
   浄土三部経および阿弥陀仏より以外のもの。
   安楽集に
    末だ一人も悟りを得る者がいない。ただ浄土の一門のみが仏道に入る路である。
   往生礼讃に云く
    千中無一十即十生百即百生

上品・中品・下品
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけたもの。
―――
上品上生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の最上位。至誠心・深心・廻向発願心の三種のこころをもって往生する。これに三種がある。イ、慈心をもって殺を行わずに戒行を具するもの。ロ、大乗方等経典を読誦するもの。ハ、六念を修行するもの。このように弥陀におうじょうすることを願えば、一日ないし七日で往生できるという。この人は精進勇猛であるから、臨終に阿弥陀仏および諸菩薩の来迎を感じ、金剛台に乗って浄土に往生し、即時に無生法忍を悟るという。
―――
読誦大乗
 大乗経典を読誦すること。
―――
六念
 普賢経に「時に諸の菩薩、異口同音に行者をして六根を清浄ならしめん。或は説言あらん。汝当に仏を念ずべし、或は説現あらん、汝当に法を念ずべし、或は説言あらん、汝当に僧を念ずべし、或は説言あらん、汝当に戒を念ずべし、或は説言あらん、汝当に施を念ずべし、或は説言あらん、汝当に天を念ずべし、此の如き六法は是れ菩提心なり、菩薩を生ずる法なり」とある。
―――
往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
法然の料簡
 法然が選択集で述べていること。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
方等
 方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
―――
般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
法華
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
方等経
 ①大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。大乗②方等部の経典。③十二部経のこと。
―――
般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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楞厳経
 大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,唐の則天武后の時代(0690~0704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあるように,新しく興りつつあった禅や菩薩戒,密教の教義を,仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものらしい。楞厳とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,堅固な三昧の意である。
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一切の大乗経
 釈尊が説いたすべての大乗経典。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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摂尽
 究めつくっすこと。一切が収まっていること。
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上品中生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の上品中位。必ずしも方等経典を受持・読誦しなくても善く義趣を解して、第一義において心驚動せず、深く因果を信じて大乗を謗ぜず、此の功徳を以って聖衆の来迎を受け、往生の後に一宿を経て蓮華が開き、七日のうちに不退転を得る。諸の仏国を経ぐりて、一小劫を経て無生法忍を得るという。
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解第一義
 善く義趣を解して、第一義において心驚動せず、深く因果を信じて大乗を謗ぜず、此の功徳を以って廻向して極楽浄土に往生できるとする。身口意の所作をいい、よく空の法門を聞き、理解し疑わないこと。
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義趣
 物事の根本的な意味。意義。文の義の帰着するところ。結論として帰り趣くところ。
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華厳の唯心法界
 新華厳経覚林菩薩の偈に、「心は工なる画師のごとく、もろもろの世間をえがく、五陰ことごとく従りて生じ、を造る 法として造らざるはなし、 心もごとく仏もまたしかりなり、仏のごとく衆生もしかりなり、まさに知るべし仏と心と体性皆無尽、もし人心行あまねくもろもろの世間をつくると知らば、かの人はすなわち仏を見仏の真実性を悟るなり。心は身に住せず、しかもよく仏事をなすこと自在にして未曾有なり、もし三世一仏の仏を了知せんと欲さば、まさに法界の性を観ずべし、いっさいの唯心造なり」とこのあり、華厳ではこの結末の三句によって、唯心法界観を立てて、成仏の真道としている。
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法相の唯識
 法相宗ではいっさいの諸法がことごとく阿頼耶識の影像であり、唯識の所変であるとする。
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三論の八不
 「八不」は不性・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去の八不中道をいう。般若経の空観を説いたものであるが、三論宗が成仏の道であると主張している。
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真言の五相成身
 真言密教の教義。金剛法界によって、仏身を成就するための五種の段階。1・通達菩提心・自身の心は本来夜空に輝く、清浄で清涼な満月輪の様に光り輝く、現実には煩悩の雲に覆われそれが隠されている、しかし厳然として自身の心にはその仏心が有る、と観法する。2・修菩提心・観法の修練を積み重ねる事により段々に煩悩の雲が晴れ、自身の心は満月輪である、と言う意識が輝きだすこと。3・成金剛心・自身の心は単なる満月輪ではなく、本来的に備わっている秘められた能力が有る、それは自身の生命は永遠であり、その個性を以って生きとし生けるものを適切な愛で永遠に育んでいく、その象徴として満月輪の中に五鈷金剛杵を立て、この能力を引き出し導く観法を修行。4・証金剛身・満月輪の金剛を宇宙いっぱいの極限まで拡大し、今度はそれを徐々に小さくし再び胸中に収める、密教独特の広観斂観の観法をくりかえし、やがて月輪の金剛が自身の上に確証された金剛身と成る。5・仏心円満身・密教で説く仏さまの備える智慧、これは大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、この四智を一つにした法界体性智の五智、これを完全に身につけ、即身成仏に達し終わるという修行法で、観法も禅定も三昧も同じようなもので、座しておってもこれは苦行。
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天台の一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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上品下生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の上品下位。因果を信じ大乗を謗じないでただ無上道を起こすものは、この功徳をもって廻向し往生を求め、往生の後に一日一夜で華開き、3週間の後に仏を明らかに見ることができる。諸の仏国を経て、三小劫の後に歓喜地に往生するという。
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深信の因果に十界の因果を摂尽す
 選択集では阿弥陀仏の名を称えるという因によって、浄土往生の結果が生ずるという因果を深く信ずることの中に、阿含経・華厳経・般若経・法華経・涅槃経などの大小の経典に説き明かされた六道・二乗・菩薩・仏の十界の因果を収め尽しているとある。
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深信の因果
 深い信に立った場合に生命の中に形成されるための因果。
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十界の因果
 ①十界の因果とは、地獄界から仏界に至る十界のそれぞれに十界を具していること。②九界を因、仏界を果として、十界の因果という。
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中品上生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の中品上位。五戒・八歳戒などの諸戒を持って諸悪を造らない者が、臨終に阿弥陀仏の浄土からの来迎を受けて往生し、四諦の法門を聞いた後、直ちに阿羅漢果を得たこと。
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五戒八戒乃至諸戒を摂尽す
 観無量寿経には「中品上生の者とは、若し衆生有り、五戒を受け持ち、八斎戒を持ち、諸戒を修行し、五逆を造らず、衆の過患なく、この善根をもって廻向して西方極楽世界に生ぜんと願求す」とある。
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五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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八戒
 八斎戒のこと。八関戒とも、八支斎とも、八戒ともいう。関とは禁の義である。殺・盗・淫等の八罪を禁じて犯させないという意味である。斎とは過中不食といって日中をすぎてものを食べないことをいう。八戒をもって斎法を助成し、斎法をもって八戒を成弁するのである。共に相支持するので、八支斎法と名づける。在家の男女が一日一夜修行する戒法で、受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず。八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために出家の法を制す」とある。毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日において八斎戒を行ずれば諸天相慶祥して、福禄を増し寿命を述べるという。これを六斎日といっている。1日、18日、24日、28日を加えて十斎日ともいう。この八斎戒には二意があるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離という。①離殺生 ②離不与取 ③離非梵行 ④離虚誑語 ⑤離飲諸酒 ⑥離塗飾香鬘歌舞視聴 ⑦離眠坐高広厳麗牀座 ⑧離食非時食である。受十善戒経等はこれと同じである。大智度論、雑阿含経等は「塗飾香鬘「歌舞視聴」を別にしている。すなわち、①不殺生 ②不盗 ③不淫 ④不妄語 ⑤不飲酒 ⑥不座高大牀上 ⑦不著華瓔珞不香塗身 ⑧不自歌舞作楽不往視聴 ⑨一日一夜不過中食 となっている。これは八戒と斎法を別にしたのである。ここで「八斎戒にせいせるうた」とは⑨の「不自歌舞作楽不往視聴」を指していると思われる。
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諸戒
 さまざまな戒のこと。戒は戒定慧の三学の一つ。仏教を修行する者が守るべき規範。
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中品中生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の中品中位。一日一夜、八斎戒・沙弥戒・具足戒を持った者が、臨終に阿弥陀仏の浄土からの来迎を受け、蓮華に乗って往生し、半劫の後、阿羅漢になること。
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四阿含経
 4種の阿含経。長 阿含経・中阿含経・増一阿含経・雑 阿含経のこと。
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俱舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
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成実
 四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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八斎戒
 八関戒とも、八支斎とも、八戒ともいう。関とは禁の義である。殺・盗・淫等の八罪を禁じて犯させないという意味である。斎とは過中不食といって日中をすぎてものを食べないことをいう。八戒をもって斎法を助成し、斎法をもって八戒を成弁するのである。共に相支持するので、八支斎法と名づける。在家の男女が一日一夜修行する戒法で、受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず。八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために出家の法を制す」とある。毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日において八斎戒を行ずれば諸天相慶祥して、福禄を増し寿命を述べるという。これを六斎日といっている。1日、18日、24日、28日を加えて十斎日ともいう。この八斎戒には二意があるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離という。①離殺生 ②離不与取 ③離非梵行 ④離虚誑語 ⑤離飲諸酒 ⑥離塗飾香鬘歌舞視聴 ⑦離眠坐高広厳麗牀座 ⑧離食非時食である。受十善戒経等はこれと同じである。大智度論、雑阿含経等は「塗飾香鬘「歌舞視聴」を別にしている。すなわち、①不殺生 ②不盗 ③不淫 ④不妄語 ⑤不飲酒 ⑥不座高大牀上 ⑦不著華瓔珞不香塗身 ⑧不自歌舞作楽不往視聴 ⑨一日一夜不過中食 となっている。これは八戒と斎法を別にしたのである。ここで「八斎戒にせいせるうた」とは⑨の「不自歌舞作楽不往視聴」を指していると思われる。
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中品下生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の中品下位。父母に孝養をつくし、世の人々に仁慈の行いをする者が、臨終に浄土の楽事や四十八願を説くのを聞いて浄土に往生し、一小劫の後、阿羅漢となること。
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孝養父母の行なり仁慈を行う
 観無量寿経に「中品下生の者とは、若し善男子善女人有って、父母を孝養し、世に仁慈を行ず。此の人、命終らんと欲する時、善知識に値う」とあり、法然はこの文について中品下生の条件として、世俗の善行を挙げている。
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孝養
 心を尽くしてよく父母を養うこと。
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仁慈
 思いやりや慈しみ深いこと。
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儒教
 総じては中国古来の思想をいい、別しては孔子・孟子の流れをいう。修身・斉家・治国・平天下などのことばにもあるように、道徳を重んじ、平和の社会を築こうとしたもの。孔子は紀元前5世紀の人で、仁・義・礼や忠孝の道を説き、門弟3000人といわれ、その言行は論語として残っている。のちに数々の派に分かれ、孟子が性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えた。開目抄には「かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり 国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり」(0186-10)とある。
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道教
 中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。
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外典三千余巻
 「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
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老子経
 中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記される。また、老子五千言・五千言とも。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。
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孝経
 中国の儒教倫理の根本である「孝」について説いた書物。「論語」と共に、初学者必修の書として尊重されている。孔子と門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べられている。今、引用の文は、孝経の諫争章第十五の文である。云く「曽子曰く、夫の慈愛恭敬、親を安んじ、名を揚ぐるが若きは即ち命を聞けり。敢て問う、子、父の命に従うは、孝と謂うべきか。子曰く、是れ何の言ぞや、昔は天子に争臣七人あれば、無道と雖も天下を失わず。諸侯・争臣五人あれば、無道と雖もその国を失わず。大夫・争臣三人あれば、無道と雖もその家を失わず。(中略)故に不義に当れば即ち子以て父に争わざるべからず、臣以て君に争わざるべからず。故に不義に当れば即ち之を争う、父の命に従うは、又焉んぞ孝たるを得ん」とある。
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下品上生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の下品上位。正法を誹謗しないが、多くの悪事を悪業を造った者が臨終の際、大乗経の首題の名を讃嘆する善知識の声を聞いて悪業が消え、また念仏を称えることによって生死の罪を免れて、蓮華に乗って浄土に往生する。そして7週間後に蓮華が開いた時、観音・勢至の両菩薩の説法を聞いて菩提心を起こし、さらに十小劫の後、初地に入ることをいう。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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愚人
 仏法に無知な人。正法を知らない人。
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衆悪
 多くの悪。
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十念往生
 浄土宗では葬式のとき,導師が引導のあとで南無阿弥陀仏という六字の名号を10ぺん唱える。臨終に十声念仏して極楽に往生することを十念往生という。ほかに10種の心念,仏の相好を10ぺん観想することなどを指す場合もある。
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下品中生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の下品中位。衆生があって五戒・八戒・具足戒を犯し、僧祇者を偸み、僧の者を偸み、不浄の説法をして恥じることがないものが、臨終の時に、まさに地獄に堕ちようとしたとき、阿弥陀仏の威光・光明神通を聞き、五部法身を聞いて、八十億劫生死の罪を除き、地獄の衆火は変じて天華となり、華上の化仏に迎えられて往生し、六劫を経て華開き、観音・勢至の説法を聞いて無上道心を起こすことをいう。
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具足戒
 小乗戒のなかの比丘が守るべき二百五十戒・比丘尼が守るべき五百戒等をいう。
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毀犯
 破壊すること。
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僧祇物
 僧の集団に属する物資。
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現前僧物
 僧物は出家教団に属する財物・物資。 常住僧物はすべての比丘・比丘尼が受用できる教団の共有物 。 現前僧物は同一の結界内の比丘・比丘尼に所属する衣食などの生活資具。
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不浄
 不浄観のこと。肉体の不浄を観じて貪欲を離れる観法。五停心観の一つ。具体的には、異性に対する欲望を制するため、死後の肉体が次第に腐蝕して白骨となる姿を心に観想すること。
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懺愧
 過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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下品下生
 観無量寿経に説かれる。衆生の機根を上・中・下にわけた九品往生の最下位。五逆・十逆をつくり、不善を行って地獄に堕ちるべき罪人が、臨終の時に苦しみあえぎ、ただ心から十念を具足して弥陀の名号を称えれば、念々に八十億劫の生死の罪を除き、金蓮華を見て往生ができる。十二大劫を経て蓮華開き、観音・勢至の説法を聞いて無上菩提心を起こすという。
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五逆罪
 理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
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五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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逆罪
 理に逆らう重罪。重禁を犯す罪。
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余行
 その他の修行。
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念仏三昧
 一心に仏身を観念すること。往生要集には専心に阿弥陀仏の姿を観念することとある。浄土宗では一心に仏名を称えること・専心に阿弥陀仏の名号を称えることと立てる。
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捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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釈迦仏
 釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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一切諸仏
 三世十方の仏等、あらゆる仏のこと。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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八宗
 奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わせて八宗という。
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九宗
 俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言・浄土宗のこと。
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世天
 仏教道の諸天善神と陰陽道や神道で祀られている一般の神。「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」には、諸天善神を敬わないという理由で、念仏禁止を訴えた南都の奏状として「一、霊神を蔑如する事 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔を承けて四海其の加護を仰ぐ、而るに専修の輩永く神明を別えず権化実類を論ぜず宗廟・祖社を恐れず若し神明を憑まば魔界に堕すと云云。実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹に至つては既に是れ大聖なり」(0087-15)とあり、専修念仏の党類は神明に向背しているのである。
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浄土三部経
 念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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安楽集
 中国、唐代の道綽撰2巻。観無量寿経を解説し、仏教を聖)門と浄土門に分けて説いた最初のもの。末法の世には阿弥陀仏の本願を信じて極楽往生を願うべきと説く。
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浄土の一門
 現実世界を穢土として嫌い、念仏によって死後の極楽浄土に往生を説く法門のこと。
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往生礼讃
 善導の五部九巻の著作のうち、『観経疏』(「本疏」「解義分」)以外の4部(『法事讃』『観念法門』『往生礼讃』『般舟讃』)はいずれも浄土教の儀礼・実践を明らかにしたものであるので、「具疏」とも「行儀分」とも呼びならわされている。
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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十即十生百即百生
 善導の往生礼讃の文。阿弥陀仏を念じ、その名号を称えれば、10人が10人、100人が100人とも往生できるとしている。これは邪義である。
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 九種類というのは、浄土に往生するために衆生の機根によって、九種の区別があるということで、観無量寿経で説かれているのを受けて、法然が選択集で訳しているものである。すなわち、大きくは上品・中品・下品の三種類に立て分け、それぞれにまた、上生・中生・下生の三種類があって、九種類となる。
 初めに、上品の中に、上品上生・上品中生・上品下生の三種類の内容が記されている。まず「上品上生」とは、上善の凡夫が大乗経を読誦し、至誠心、深心、廻向発願心を発して浄土に往生して阿弥陀仏に出会い、教えを聞いて、七日を経て不退転の境地を得て、一小劫の後、無生法忍を獲得することをいう。
 至誠心は真実に浄土を願う心、深心は深く浄土を願う心、廻向発願心は功徳を回向して浄土に往生しようと願う心、の三つである。これら浄土を願う心を持つということが上品上生の条件である。
 このことについては「復三種の衆生有り往生を得べし」とあり、三種の衆生の在り方が存在することを記している。「一には慈心にして殺さず諸の戒行を具す」「二には大乗方等経典を読誦す」「三には六念を修行す」の三種類の実践者が往生できるとしている。
 三種の実践者とは、慈悲の心をもって不殺生戒をはじめ、もろもろの戒行を具足している者、また、大乗経典を読誦する者、六念行ずる者である。
 六念とは、仏・法・僧・戒・施・天心に念じて動揺しない修行のことである。
 六念のうち仏・法・僧は三宝を対象として念ずることであり、戒は戒律を心にたもつこと、念施は布施を常に念ずること、念天は天に見られていることを忘れないことである。
 以上のように、上品上生は、もともと機根がすぐれているうえに、読誦大乗を中心として「戒を具足」「六念」などが実践できる人々のことである。
 以上上品上生を図示されて「大乗方等経典を読誦」ということの内容として、「法然の料簡に云く華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経・大日経・深密経・楞厳経等の一切の大乗経は読誦大乗の一句に摂尽す」と記されている。
 つまり上品上生の主要な条件である「読誦大乗」の大乗というのは、法然の理解では華厳経・方等経・般若経・法華経・涅槃経・大日経・深密経・楞厳経などすべての大乗経典が含まれるとしている。これは、末法の衆生は上品にはあてはまらないから、法華経を含む大乗経典の読誦は無益であるとする結論につながっていくのである。
 次いで、上品中生が図示される。上品中生とは、大乗の次善の凡夫の往生の仕方で、臨終の後は上生の凡夫と同じ経過をたどる。上品中生は上生の条件が大乗経典を読誦することであったのに対し、「解義第一」とあるように大乗経典の思想内容を理解し、それぞれの経典の第一義を解了することであるとしている。
 次に「善く義趣を解し第一義に於て」との注記がある。義趣をよく解して、第一義において心を驚動させないこと、と観無量寿経にある。
 その第一義の内容について「法然の料簡に云く」として「華厳の唯心法界・法相の唯識・三論の八不・真言の五相成身・天台の一念三千・皆解第一義の一句に摂尽す」と記している。
 まず、華厳の唯心法界とは、華厳経巻十の「心は工なる画師の如く、種々の五陰を画く、一切世間の中に法として造ざれること無し」の文に基づいて、全世界のあらゆる存在はただ心が造り出したものであり、心を離れて存在するものではない、とする華厳宗の教義を指す。
 次いで、法相の唯識とは、諸法はすべて心識の転変であり、ただただ、心識のみが実在するとする法相宗の教義を指す。
 また、三論の八不とは、空の立場に基づいて仏教を解釈し、不生・不滅・不断・不常・不一・不来・不去の八つの否定をもって一切の偏見を打破することが中道の理を顕すという八不中道の三論宗の教義である。
 次に、真言の五相成仏とは、五法成仏とも五転成仏ともいい、通達菩提心・修菩提心・成金剛心・証金剛身・仏身円満の五つである。
 最後に、天台の一念三千とは、衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足するという天台宗の極理をいう。
 以上述べた各宗派の究極の道理を解すことが上品中生の条件である「解第一義」の第一義に含まれているというのである。
 次に、上品下生の条件が図示されている。上品下生は大乗の下善の凡夫が臨終に阿弥陀仏の来迎を受け、金蓮華に乗って浄土に往生し仏に出会って修行し、小三劫を経て歓喜地に止まるというのが、ここでは「法然の料簡」とし「深信の因果に十界の因果を摂尽す」との選択集の趣旨が要約して注記されている。
 つまり、阿弥陀仏の名を称えるという原因によって浄土往生の結果が生ずるという因果を深く信ずることの中に、阿含経・華厳経・般若経・法華経・涅槃経など大・小の経典を説き明かされた六道・二乗・菩薩・仏の十界の因果を収め尽くしているというのが法然の解釈である。
 以上のように、同じ上品でも、上生が円満な人格と円満な行を必要とするのに対し、中生は、究極の第一義に解せばよいから狭められる。下生となると「深く信ずればよい」ので、もっと簡単になるという違いが認められる。
 次いで、中品に入って。中品上生・中品中生・中品下生の三種類の内容が図示されている。まず、中品というのは上品が大乗善の凡夫であったのに対し、小乗・世欲の禅を行う凡夫の位である。その中の上生とは小乗上善の凡夫で、臨終に仏の来迎を受けて浄土に往生し、四諦の法を聞いて直ちに阿羅漢となる者を指す。本抄では中品上生の注記に「五戒八戒乃至諸戒を摂尽す」とある。
 上生は小乗上善の凡夫に当たるので、小乗経に説かれる五戒・八戒・具足戒などの諸戒を持って諸悪を造らない者のことを指している。
 次いで、中品中生とは小乗下善の凡夫がこれに当たり、一日一夜・八斎戒などの諸戒を持った者が臨終に阿弥陀仏の浄土からの来迎を受け、蓮華に乗って往生し、半劫の後、阿羅漢になるというのである。本抄では「八斎戒」とのみ注記されている。
 中品上生と中品中生とは小乗という点で共通しているので、本抄では、上生・中生の双方に「四阿含経・倶舎・成実・律宗は此の二品に摂尽す」との注記がほどこされている。
 つまり・五戒・八戒・具足戒など上生・中生の条件の中に、経では四阿含経、宗派としては俱舎宗・成美宗・律宗が含まれているのである。
 次に、中品下生とは世欲の善行を為す者で、父母に孝養を尽くし、世の人々に仁慈の行いをする者が、臨終に浄土の楽事や四十八願を説くのを聞いて浄土に往生し、一小劫の後、阿羅漢となることをいう。
 本抄の注記には「孝養父母の行なり仁慈」とあり、中品下生の条件である世欲の善行を記している。この一文にさらに「儒教道教は此の一品に摂尽す」との注記儒教道教は此の一品に摂尽すとあり、世欲の善行が中国の儒教道教は此の一品に摂尽す儒教道教で教える人間の倫理道徳を包含したものであることをしめしている。
 また、「外典三千余巻」「老子経」「孝経」との注記がある。普通、「外典」とは仏教以外の外道の典籍の意で、インドのバラモンの教えも含むが、外典三千余巻とは中国の儒教と道教を指し、その根本とされる書物に三千余巻あるところから、このようにいう。
 孝子経とは道教の主要経典の「老子」上下篇のことで、「道徳経」ともいい、孝経とは儒教の典籍の一つで、孝の原理と徳を明らかにしている。
 次いで下品に入って、下品上生・下品中生・下品下生の三種類の内容が図示されている。まず、下品上生であるが、大乗経典は誹謗しないが多くの悪事をはたらいて、反省のない愚人で、臨終の際、善知識が大乗教の首題の名を讃嘆するのを聞いて悪業が消え、阿弥陀仏の名を称えることによって生死の罪を免れて、蓮華に乗って浄土に往生し7週間後に、蓮華が開いた時に、観音・勢至の両菩薩が十二部経を説法するのを聞いて、無上道の心を起こして、十小劫を経過した後、初地に入る者のことである。これは観無量寿経に出ているので、本抄では「観経」との注記がある。
 さらに「此くの如きの愚人多く衆悪を造るも十念せば往生す」と注記されており、先の観経の記述を、法然は選択集でも、もっと簡略化して、多くの悪をはたらいた愚人でも、十念、すなわち、十の瞬間に阿弥陀仏の名を称えれば、往生できると釈したことを注記されている。
 次に、下品中生であるが「或は衆生有て五戒・八戒及び具足戒を毀犯す、此くの如きの愚人は僧祇物を偸み現前僧物を盗む不浄に法を説いて懺愧有ること無し」の注記があり、この文は観無量寿経の「下品中生」の項から、一部を引用されたものである。
 その内容は、五戒・八戒・具足戒を破る愚人が、僧祇物を盗んだり、現前僧物を盗んだり、「不浄の法を説いて」すなわち、自分の名誉や利益のために法を説いたりしながらも、反省の心のない衆生が下品下生に当たるというのである。
 観経では、そうした衆生は地獄に堕ちるべきところであるが、臨終の際に、善知識が阿弥陀仏の威徳や神力を説いて讃嘆するのに出会って聞き、その結果、生死の罪を除いて、一念の間に浄土の七宝の池中に咲く蓮華の内に往生し、次いで、六劫の後に、蓮華が開いて、観音・勢至の両菩薩が大乗教を説くのを聞いて無上道の心を起こす、と説いている。
 さらに、下品下生については、五逆罪・十悪をはじめ、さまざまな不善をはたらいて、悪道に堕ちるべき重罪の愚人が臨終の際、善知識の勧めで十念、阿弥陀仏の名を称えると、蓮華に乗って浄土に往生し、その蓮華の中で十二大劫の間、住した後、蓮華が開いて、観音・勢至の両菩薩が諸法の実相を説くのを聞いて、菩提の心を起こす、と観経に説かれている。
 この下品下生について本抄では法然の選択集から、二つの文を引用して注記されている。一つは「下品下生は 五逆重罪の者なり而かも能く 逆罪を除滅するは余行に堪えざる所なり、 唯念仏の力のみ能く重罪を滅するに堪る有り、故に極悪最下の人の為に而かも極善最上の説を説く等云云」とある。
 すなわち、下品下生の者とは、母や父や阿羅漢を殺したり、仏身を傷つけたり、和合僧を乱したり、破壊したりするなどの五逆罪を犯した者のことで、この五逆罪のような重罪を取り除くことは、余行、つまり、ほかのいかなる行いによっても不可能であるが、ただ、念仏の力だけが、この重罪を消滅することが可能であり、従って、極悪で最下の者のために、最も善い最上の法が説かれたのである、ということである。
 これには「選択集に云くとして「「念仏三昧は重罪すら消滅す 何に況や軽罪をや余行は然らず或は軽を滅して重を滅せざる有り、或は一を消して二を消せざる有り」との文が付記されている。
 すなわち、念仏三昧は、いかなる重罪をも消滅させることはできる、いわんや軽い罪は、いうに及ばない。だが、余行、つまり念仏三昧の行為は、そうではない。ある場合には一つの罪を消すことができても、二つの罪を滅することができないこともある、というものである。
 以上の二文をとおして、下品下生の者は五逆罪という極悪を犯した最下のもののことで、一心に阿弥陀仏の名を称える念仏三昧のみがこれらの重罪を滅することができるが、それ以外の行為では滅することができない、と述べて、念仏の力のみを強調しているところである。
 なお、下品下生のすぐ下の「五逆罪の人・十念往生」との注記は撰択集の内容を要約されて、要するに下品下生である五逆罪を犯した人間でも、念仏を十念すれば、浄土に往生でるということを法然はいいたかったのであるということである。
 以上九種類の往生行の区別を図示された後、最後に、法然の教えを否定する結論につながっていることを引用文によって示されている。
 まず「捨閉閣抛」とあり「法華経等の一切経」「釈迦仏等の一切諸仏」「天台宗等の八宗・九宗」「世天等」「浄土三部経阿弥陀仏より外なり」との注記がある。これは、浄土三部経以外の一切経を捨てよ、閉じよ、阿弥陀仏以外の一切諸仏、一切世天を閣け、抛て、というのが法然の主張の結論であることを示されている。
 このように、経では法華経を含む一切経、仏では釈迦仏を含む一切の諸仏、そして、天台宗を含む八宗・九宗、そして世天、つまり世間の諸天=諸天善神を、ことごとく排斥し、また抛てと説く法然の浄土宗は仏法僧三宝を破壊する邪教といわなければならないことを明示されているのである。
 次いで、安楽集上巻から一文を引用されている。前述したよに、安楽集は中国の道綽の著であり、大乗経典を聖道門と浄土門の二門に立て分けているのであるが、その冒頭部分で、聖道門で修行しても「末だ一人も得る可からず」と述べると共に、「唯浄土の一門のみ有て通入の路なるべし」といっている文である。これは、浄土教典を含む爾前経で永不成仏とされた二乗をはじめ十界皆成戒を明かしている法華経を蔑にした、全くの独善的我見であることを示すために引用されたのである。
 次に、善導の著・往生礼讃から「千中無一」と「十即十生百即百生」の文が挙げられている。善導は仏道の修行に正行と雑行とを立て分け“念仏以外の雑行を修行しても、千人のうちで一人も往生することはできない。
 それに対し、念仏を称えれば、十即十生・百即百生すなわち、十人が十人、百人が百人、すべて極楽浄土に往生できる”と言ったのである。
 これも、法華経の存在を無視し、念仏の行のみが浄土往生の路であるとした謬義であることはいうまでもない。

0698:01~0698:14 第三章 法然とその門下を一覧するtop
0698
01                 ┌長楽寺南無
02          ┌ 一弟子──隆寛──多念
03          │      ┌故嵯峨法王の御師
04          │ 一弟子──善恵──小阪──道観
05     ┌建仁年中│ 一弟子──聖光 故打宮入道修観
06   ┌後鳥羽院御宇│ 法 連  │        極楽寺殿の御師
07   源空─────┤ 法 本  │ 筑紫
08   └法然房   │      └念阿弥陀仏
09    顕真座主  │    ┌諸行往生
10    八人の碩徳 │ 覚 明┼一  条
11          │    └道 阿 弥
12          │┌─嵯 峨
13          │聖 心
14          │成 覚┐ 
15          └法 本┴一念                                   ・
-----―
                 ┌長楽寺南無
          ┌ 一弟子──隆寛──多念
          │      ┌故嵯峨法王の御師
          │ 一弟子──善恵──小阪──道観
     ┌建仁年中│ 一弟子──聖光 故打宮入道修観
   ┌後鳥羽院御宇│ 法 連  │        極楽寺殿の御師
   源空─────┤ 法 本  │ 筑紫
   └法然房   │      └念阿弥陀仏
          │    ┌諸行往生
          │ 覚 明┼一  条
          │    └道 阿 弥
          │┌─嵯 峨
          │聖 心
          │成 覚┐ 
          └法 本┴一念


 (1133~1212)。わが国浄土宗の元祖法然のこと。伝記によると、童名を勢至丸といい、母が剃刀をのむ夢をみて源空をはらんだという。15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。承元元年(1207)2月、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、法然は還俗させられて土佐国に流罪され、弟子の住蓮と安楽は処刑された。翌年、許されて京都に戻り、建暦2年(1212)80歳で没した。
―――
後鳥羽院
 (1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
―――
隆寛
 (1148~1227)浄土宗長楽寺流の祖、竜寛とも書く。藤原資隆の子で、はじめ天台宗慧心流を学んだが、法然の弟子となって洛東の長楽寺に住した。安貞元年(1227)比叡山の定照が「弾選択」を著したのに対し「顯選択」を著して応戦した。しかし、そのため法然の墓をあばかれる因となり、彼自身も対馬に流罪が決定した。80歳没。
―――
多念
 多念義のこと。法然の弟子長楽寺隆寛を祖とする一派の教義。極楽浄土に往生するため,臨終に至るまで念仏を唱え続けることを説く。
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長楽寺南無
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。この寺に南無房が居住していたようだが、詳細は不明。
―――
善恵
 (1177~1247)は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖。法然の高弟であり、はじめ解脱房、諱は証空。諡号は弥天、鑑知国師。
―――
小阪
 鎌倉時代中期の浄土宗の僧。京都・東山の小坂に住んでいたから、この名前がある。浄土宗小坂派の祖。
―――
道観
 (1295~1264)。藤原孝範の猶子。浄土宗。はじめ証入に,のち西山派の祖証空に師事。後嵯峨天皇の帰依をうけ,嵯峨小倉山の浄金剛院の開山となる。この門流を嵯峨流とよぶ。文永元年(1264)5月3日死去。70歳。京都出身。字は道観。著作に「浄土宗名目」「当麻曼荼羅縁起」など。
―――
嵯峨法王の御師
 嵯峨法王は後嵯峨法皇のことであろう。師とは善慧(1177~1247)と推察しておく。
―――
打宮入道修観
 不明
―――
極楽寺殿
 (1198~1216)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。
―――
法連
 (1146~1228)鎌倉前記の浄土宗の僧。比叡山黒谷の叡空のもとで出家、叡空の死後源空に浄土教を学び円頓戒を相承した。元久元年(1204)天台宗の非難に対し、源空の命で7箇条の祈請を作る。黒谷・白川本坊等の付嘱を受け念仏教団の維持に尽力した。
覚明
 (1184~1266) 。鎌倉時代中期の浄土宗の僧。父は伊予守藤原国明。讃岐国で生まれた。諱は長西。9歳のときに上洛、19歳で出家して法然に師事した。京都九品寺に住して独自の諸行本願義を講説したことから、長西の門下は九品寺流と称される。著書に「浄土依憑経論意疏目録」がある。
―――
諸行往生
 念仏以外の諸行でも往生できると恵心は往生要集で主張したが、法然は「捨閉閣抛」を説き、諸行による往生は不可能であるとしている。
―――
一条
 京都の地名の一条。
―――
道阿弥
 念仏宗の僧と思われるが詳細は不明。四信五品抄では、盲目になったと記されている。
―――
聖心
 (1176-1253) 鎌倉時代の僧。徳大寺実能の孫。浄土宗。はじめ比叡山の実全に師事。のち法然に帰依、その流罪にもしたがう。師の死後、嵯峨の二尊院で教えをひろめ、その門下は嵯峨門徒とよばれた。湛空のこと。
―――
嵯峨
 嵯峨門徒のこと。
―――
成覚
 (1163~1247)。鎌倉時代前期の浄土宗の僧。幸西。一念義を説く中心人物。始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と称して、天台を修学した。建久9(1198)に遁世して法然門下となった。元久元年(1204)の「七箇条制誡」では15番目に署名をしている。建永元年(1206年)の興福寺が院に訴えた中にも、幸西の名が挙げられているなど、法然門下として活発な活動をした。結局、承元元年(1207)法然が土佐に流罪となった建永の法難では阿波に流罪となった。しかし、慈円の預かりで流罪は免れたともいわれる。さらに、法然没後の嘉禄3年(1227)におこったいわゆる嘉禄の法難では、枝重と改名して壱岐に配流となった。これについても、壱岐には弟子を遣わし、幸西自身は讃岐にあったとも伝えられている。その後赦され下総国栗原で念仏を布教したという。幸西は、一声の称名または一念の信で往生が成就するという一念義を主張した。
―――
法本
 浄土宗の僧。美作の人で法然に師事して浄土宗を学んだが、後に対立している。
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一念
 一念義のこと。一遍の念仏を称えるだけで極楽浄土に往生できると説く。
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 御書全集では一覧表の一番上に「源空」とあり、その左に「法然房」とあるが、御真筆を拝すると、まず「法然房」と書かれ、その右に「源空」さらにその右に「後鳥羽院御宇」と書かれ、その右に「建治年中」と書き加えられたものと見られる。本抄でも一貫して「法然房」「法然の料簡」と記されており、大聖人は源空の呼称を中心にされることはあまりない。(このPHでは御書の縦書を横書にしてあるので、この文はあてはまらない)
 法然について「後鳥羽院御宇」「建治年中」とあるのは、法然の専修念仏の社会が下層の人たちから貴族たちの権勢門家の人たちに至るまで、僧俗・貴賤・男女を問わず、浸透した時期を指されている、と考えられる。
 彼の主著・選択本願念仏集は後鳥羽天皇の時代の建久9年(1198)法然66歳の折に書かれているが、この著作を書くように依頼したのが実力貴族・九条兼実であったことは歴史的な事実である。その兼実が出家するに際し、法然を戒師とした年が建仁2年(1202)で、法然70歳のことである。
 貴族・九条実長に戒を授けることができたということは、法然自身、叡山伝来の大乗円頓戒を継承し持している高僧と貴族社会が認めたということを示している。大聖人はこの時をもって、法然念仏が日本社会に浸透した時期とされたが故に「建仁年中」と注記されたのであろう。
 次に、法然の弟子たちの一覧が図示されている。まず上段に「一弟子──隆寛」「多念長楽寺南無」と注記されている。
 一代五時図では「第一弟子」と注記されていることから、法然の第一の弟子とされる隆寛のことである。なお一代五時図では隆観となっているが、同一人物である。
 彼は延暦寺の座主・慈円に師事し、京都・長楽寺に住んでいたが、浄土の教義に心を移し、元久元年(1204)法然72歳の時にその門下となり、法然から選択本願念仏集を授けられている。法然の没後、専修念仏を弘め、多念義を説いた。注記の「多念」は多念義のことである。
 多念義というのは、普段からつねづね念仏を称え行ずることによって、臨終の際に正念をたもち極楽浄土に往生できるとするものである。これが法然の門下たちの間で起きた「多念一念」論争である。
 さらに「隆寛」の上脇に「長楽寺南無」との注記がある。これは隆寛の弟子のことを指し諱は智慶といい、京都で隆寛に師事したが、鎌倉に帰って京都の長楽寺を模倣して鎌倉長楽寺を建立し開山となっている。「南無」とあるのは智慶のことを南無房と呼称したことに由来する。
 次いで「一弟子」とあり、「善恵──小阪──道観」と注記されている。「善恵」は善恵房のことで諱は証空という。一代五時図では「善慧房」とあるが、同一人物である。
 証空は初め京都・小坂にいたが、法然の死後、西山善峰寺の往生院に移り、ここを拠点に念仏の教えを広めている。「小坂」という注は彼の住んでいた地に由来する。
 また、彼は浄土西山派の祖で、諸行不生を唱えた。念仏以外の諸々の修行で浄土に往生にできるとする立場と、念仏の伴わない諸行では浄土に生ずることができないとする立場との論争も、法然門下間で起こったのであるが、善恵房証空の立場は後者であった。この義が、彼の住した西山にちなんで西山派といわれる。
 さらに「善恵」の上脇に「故嵯峨法王の御師」とあるのは、時代性からいって後嵯峨法王を指すものと考えられる。仮に「故嵯峨法王」を故人となった嵯峨法王と詠むと、嵯峨天皇の生きた時代(0786~0842)と善恵房のそれ(1177~1247)とはほぼ400年の差があるからである。
 これに対し後嵯峨法王は(1220~1272)と生年が重なっており、善恵房との深い関係の記録もある。善恵は後嵯峨天皇の勅により、寛元元年(1243)に歓喜心院を創建しており、たびたび宮中に出かけて西山派の教義を講じたり、円頓戒を授与したりしている。
 また「小坂」の脇下の「道観」は京に生まれ、善恵に師事し、西山流嵯峨の祖となった人物である。御書全集には、他に、大聖人御在世当時、佐渡在住で極楽寺良観の弟子であった人物として「道観」の名がでてくるが、これは別人である。
 次に「故打宮入道修観」が「聖光」の下に位置しているが、御真筆では「善恵」のすぐ左に書かれている。そしてこの「修観」について、左横に「極楽寺殿の恩師」との注がある。
 極楽寺殿というのは、北条重時の出家後の名で、重時は念仏の強信者で、もと深沢の里または藤沢にあったとされる念仏の寺を、鎌倉に移して再建し、極楽寺と称した。そして重時の没後の3回忌に浄土宗西山派の祖・善恵の門下である宗観が導師をつとめたとの記録があり「修観」と「宗観」は同一人物ではなかろうか。
 次に「一弟子──聖光─筑紫・念阿弥陀仏」の注記がある。まず、聖光とは聖光房・弁長である。弁長は安心・起行・作業に22の規範を設けてそれらがことごとく口称念仏に帰するとして、さまざまな修行を説いた。念仏諸流のなかでは、かなり自力の趣のある主張となっている。
 彼は主として九州で自らの念仏義を広めたので、鎮西派、筑紫義などと呼ばれた。「筑紫」とあるのはこのことを示している。弁長のこの鎮西流が後の浄土宗の主流となっている。
 「念阿弥陀仏」とは聖光房・弁長の弟子で、良忠のことである。生まれは石見で、青年時代には京で天台・真言を修学したが、聖光の教えを求めて九州へ行き、後に鎌倉に移り、蓮華寺を開いたり、また京では後嵯峨天皇に円頓を授戒したりしている。
 次いで「法蓮」の名が挙げられている。「法蓮」は浄土宗の僧・信空の字で、法然門下の上首となっている。
 次いで「覚明」とあり、その下に「諸行往生」「一条」「道阿弥」との注記がある。覚明は諱を長西といい、浄土宗九品寺派の祖である。
 「諸行往生」とあるのは、先の善恵房証空の諸行不生に対して、一乗覚明が唱えた説である。すなわち、念仏以外の諸行でも浄土往生は可能であるとする説である。
 また「道阿弥」とあるのは覚明の弟子で、大聖人御在世当時の念仏僧を指しており、鎌倉で勢力を張っていたことは「四信五品抄」などの諸御書に名が出てくることからも知られている。
 次いで「聖心」とあり「嵯峨」と注されている。ここの聖心は聖信房・湛空のことである。彼は比叡山で修学したが、後、浄土教に帰依して法然の門下となった。以後、嵯峨二尊院に住して念仏弘通に励んだところから、彼のことを嵯峨房ともいい、その門下を嵯峨門徒ともいうことから、ここに「嵯峨」と注記されたのであろう。
 最後に「成覚」「法本」とあり、その下に「一念」と注されている。成覚は諱を幸西、法本は行空という。これまで記されてきた長楽寺隆寛、善恵房証空、聖公房弁長、覚明房長西が浄土宗の四流と言われるもので、この四人に幸西を加えて五流ともいうが、幸西の場合、前四者と異なるのは注記にも「一念」とあるように、一念義を主張して隆寛らの多念義と衝突し、浄土宗の他門からも擯斥されたことである。
 幸西は天台宗の出身で、天台本覚思想が奥底にある、本覚の仏と衆生の一念に異なりがなく、従って、ただ一遍の念仏でも往生できるとする一念義を説いた。また、法然の高弟の法本も同じく一念義を主張しているところから、両者共に「一念」との注を付されたのである。
 これに対して、前述べしたように、生涯、できるだけ多くの念仏を称えて功徳を積み、臨終に際して正念をたもって往生できるというのが多念義で、法然門下の主流は多念義が占めている。

0698:15~0699:01 第四章 天台宗の高僧らの対応top
09    顕真座主 
10    八人の碩徳
16         ┌頼顕僧上の御師
17         │薗城寺の長吏
18       公胤大弐僧上 浄土決疑集三巻を造て法然房の撰択集を破す、随機の諸行皆往生を為すべし等云云  ・
19         ┌故宝地房法印証真の弟子
20         │上野清井者
01          └定真堅者──断撰択二巻を作る随機諸行往生 0699
02   品三下 輩下     ┌証真の嫡弟 竹中法師
03    人悪値┘     ┌宗源法印  隆真法院
04          証義者┤┌証義者 大和の荘
05      人善┐    └俊鑁法印 椙生
06   夫凡乗小 │     └三塔の総学頭
07       輩中           三千人の大衆
08   品 三 中 │           五人探題   聖覚
09      小値┘                  貞雲
10                           竜証
11           ┌華 厳 宗
12           ├とがのをの
13          明恵房 摧邪輪三巻を造る随機諸行往生
14   根善        
15   夫凡乗大 大値┐ 
16          輩上
              三 上」
-----―
    顕真は延暦寺の座主 
    八人の碩徳
         ┌公胤僧上は頼顕僧上の御師である
         │公胤僧上は薗城寺の長吏である
       公胤大弐僧上 浄土決疑集三巻を造って法然房の撰択集を破折した、仏が衆生の機根にしたがって説いた。さまざまな修
                      行はどのような修行であっても、機根にかないさえすれば、皆往生できるとしている。
         ┌定真は故宝地房法印・証真の弟子である
         │定真は上野国清井の者である
          └定真堅者──断撰択二巻を造る。仏が衆生の機根にしたがって説いた、さまざまな修行はどの修行であっても往
                          生できるとしている。
              ┌証真の正当の弟子である。竹中法院ともいわれた
             ┌宗源法印  隆真法院
   法会で議論を判ずる者┤┌晩年は大和の荘に住む
             └俊鑁法印 椙生流を伝承した
              └延暦寺三塔を総括する学頭だった
                    比叡山延暦寺の僧三千人
                    五人の探題     聖覚
                              貞雲
                              竜証
           ┌華厳宗の僧
                  ├斗賀尾を華厳宗の中心道場とした。
          明恵房 摧邪輪三巻を造る。仏が衆生の機根にしたがって説いたさまざまな修行はどの修行であっても往生できる
                                    としている。
   ┌三種の上品
   上輩      ┌凡夫大乗
   └大乗にあう者┴善根
   ┌小乗にあう者
   │  三種の中品
  中輩
   │  小乗凡夫
   └善人
   ┌悪にあう者
   │  一向
  下輩 三種の下品

顕真座主
 (1131~1192) 平安後期-鎌倉時代の僧。父は美作守藤原顕能。母は藤原為隆の娘。天台宗。比叡山の最雲法親王に師事し,明雲,相実に顕密をまなぶ。承安3年大原に退隠。文治2年勝林院で法然に浄土の教えをとい(大原問答),その門に帰した。6年天台座主。建久3年11月14日死去。62歳。号は宣陽房。著作に「山家要略記」。
―――
八人の碩徳(大原問答)
 文治2年(1186)京都・大原で源空と浄土宗の教義について争論した(大原問答)8人の僧。顕真・永弁・智海・静厳・明遍・貞慶・湛教・証真。
―――
公胤大弐僧上
 (1145~1216)平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての天台宗の僧・歌人。村上源氏出身で、父は中院右少将源憲俊。号は明王院。従兄弟に俊寛がいる。に入って叔父行顕に天台・密教を学び、阿闍梨となる。律師に任じられている。源氏将軍家の帰依を受け、度々鎌倉に下向した。後に北条政子の願いにより源頼家の遺児である公暁を弟子として預かった。一方で後鳥羽上皇の信望も厚く、園城寺長吏・法勝寺別当・僧正に任じられている。当初は法然が「選択本願念仏集」を著したとき、これを批判した「浄土決疑抄」を著したが、後に法然に会って法門を聞くに及び念仏に帰依したとされる。曹洞宗の祖道元に臨済宗の栄西への入門を勧めたことでも知られる。
―――
撰択集
 『選択本願念仏集』の略。法然(源空)の著作。1巻。九条兼実の依頼によって建久9年(1198年)に著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の『観無量寿経疏』の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は16章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏(南無阿弥陀仏ととなえること)こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」(17㌻)、「守護国家論」(36㌻)などでその誤りを破折されている。▷
―――
随機
 衆生の機根に対応して法を説くこと。
―――
諸行皆往生
 念仏以外の諸行でも往生できると恵心は往生要集で主張したこと。
―――
頼顕僧上
 (1186~1261)鎌倉時代の天台宗の僧。園城寺の別当などを務める。
―――
薗城寺の長吏
 ①薗城寺(園城寺)滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山」と称する。②長吏、園城寺に設けられた役職名で貫主をいう。
―――
定真堅者
 鎌倉時代の僧。上野(群馬県)の人。天台宗。比叡山でまなぶ。嘉禄元年(1225)「弾選択」をあらわして法然の浄土教を非難。法然の弟子隆寛が「顕選択」をあらわしてこれに反論すると,比叡山の衆徒らと専修念仏の停止を朝廷にうったえ,隆寛らは流罪となった。通称は並榎竪者。
―――
断撰択
 ①並榎堅者・定照の著・1巻。②仏頂房隆真の著・2巻。いずれも法然の選択集を弾呵した書。
―――
証義者
 経典翻訳のとき、訳語の可否を判定する役。
―――
宗源法印
 鎌倉時代初期の天台宗延暦寺の学僧。
―――
竹中法印
 鎌倉時代初期の天台宗延暦寺の学僧。
―――
隆真法橋
 鎌倉時代初期の天台宗延暦寺東搭に住していた。法然の選択集を批判した「断選択」に加筆を添えたといわれている。
―――
俊鑁法印
 鎌倉時代初期の天台宗延暦寺の学僧。南都で長く法相宗を修し、後に恵心流の流れをくむ範源につき天台宗を学んでいる。
―――
大和の荘
 地名。現在の滋賀県大津市坂本あたり。
―――
三塔の総学頭
 比叡山延暦寺の東搭・西塔・横川の三塔を統括する総学頭。
―――
椙生
 日本天台宗の一派・椙生流をいう。
―――
三千人の大衆
 比叡山延暦寺の3000人の僧侶のこと。
―――
五人探題
 五人の探題のこと。探題は法会の論議の際に、論題を選び問題の可否を判断する役職。五人は宗源・俊範・聖覚・貞雲・竜証。
―――
聖覚
 (1167~1235)親鸞聖人の法兄。藤原通憲の孫。比叡山東搭北谷八部尾の竹林房静厳師事した。また父澄憲の開いた安居院流の唱導(説教)師として安居院法印聖覚と呼ばれた。後に法然上人に帰し、法然教義の正統的理解者として、当時の浄土教界に多大な思想的影響を与えた。著書に『唯信鈔』などがある。
―――
貞雲
 鎌倉時代の天台宗の僧。
―――
竜証
 鎌倉時代初期の天台宗の僧。
―――
明恵房
 (1173~1232)鎌倉時代の華厳宗僧侶。諱は高弁。平重国の子。華厳宗興隆の志を起し,東大寺,高雄山,栂尾山などにおいて修行,読書思索の生活を続け,その間禅宗,密教,悉曇をも研究した。インド渡航の計画を立てたが果さず,浄土宗全盛期にあって,法然に対抗して数多くの著作を著わし,華厳の中興といわれる。
―――
摧邪輪
 華厳宗の僧・栂尾の高弁の著・3巻。建暦2年(1221)に成立。法然の選択集を破折した書。法然の説を邪論としこれを摧破するとの意。「菩提心を撥去する過失」「聖道門を群賊に譬うるの過失」などの過ちを挙げ、破折している。
―――
華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
上輩
 観無量寿経で説く九品往生のうちの上品のこと。
―――
上三
 観無量寿経で説く九品念仏のうちの上品の上品上生・上品中生・上品下生のこと。
―――
値大
 大乗に値う者のこと。
―――
大乗凡夫
 大乗の衆生のこと。
―――
中輩
 観無量寿経で説く九品念仏のうちの中品のこと。
―――
値小
 小乗に値う者のこと。
―――
小乗凡夫
 小乗の衆生のこと。
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善人
 心がけの良い人。修行を積んでいる人。
―――
下輩
 観無量寿経で説く九品念仏のうちの下品のこと。
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下三品
 観無量寿経で説く九品念仏のうちの下品の下品上生・下品中生・下品下生のこと。
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一向
 もっぱら・ひたすら。
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値悪
 悪に値う者のこと。
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 ここでは、法然の念仏に対して、旧仏教、特に天台宗の高僧たちがどのように対応したかを示されている。
 まず「顕真座主」「八人の碩徳」と記されている。顕真は延暦寺第61代座主になった人であるが、座主になる前、洛北大原に退隠していた時、法然を招いて、当時、碩徳といわれた諸宗の高僧を集め、その教えを聞いてから法然に共鳴するようになったといわれる。従って、この「顕真座主」は法然に同調したが「八人の碩徳」破然の教えに反対した人々として挙げられたと考えられる。しかし、このあとの、「公胤大弐僧上」以下は、法然の立義を批判した人々である。
 公胤は「頼顕僧上の御師」「薗城寺の長吏」とあるように、天台宗寺門派の総本山・薗城寺の長吏、すなわち、座主となると共に、朝廷・貴族、さらには鎌倉幕府成立後は源将軍家の信頼を得て、僧官の最上級である「僧正」の地位にまで登っている、「大弐」とあるのは従四位に相当する位で、彼がそうした高位の貴族の出であることから、このように呼ばれていたのであろう。
 また、公胤は天台宗寺門の僧である頼顕が出家する際の師であったところから「頼顕僧上の御師」といわれている。その公胤は法然の選択本願念仏集を読んで、これを破折しようとして一書を著した。そのことを「浄土決疑集三巻を造て法然房の撰択集を破す」と注されている。浄土決疑宗は浄土決疑抄ともいう。
 その立場は「随機の諸行皆往生を為すべし等云云」と注されているように、仏が衆生の機根に随って説いた様々な修行は、どの修行でも機根にかないさえすれば往生できるとするもので、称名念仏以外では往生できないとする法然の義とは決定的に対立するのである。
 次の「定真堅者」とは、天台宗の僧で定照ともいう。堅者というのは経典講説の大法会において、講師の講説に従って、探題が論題を選定し、これに対し、経典の義を立てて提唱する僧のことである。この定真については「故宝地房法印証真の弟子」「上野清井者」と注記されているが、証真は比叡山天台宗の学僧で、宝池房と号した。天台の伝統的教学の復興に努めたことで著名である。また「法印」というのは僧綱の上位者で、法印大和尚位の略である。定真はこの証真の弟子であった。
 「上野清井者」というのは、定真が上野国清井の人であるところから記されたものであろう。彼は、その名の下に注記されているように「断撰択二巻」を造って法然の選択集を批判した。彼も「随機諸行往生」すなわち、衆生の機根に随って念仏以外の諸行では往生できるとの立場を採っていた。
 次に「証義者」と記され、その下に「宗源法印」「俊鑁法印」の名が並べられている。「証義者」とは前述の探題の変化したものである。経典講説の大法界において、講師の講説に対して、論題を選定する者が探題であったが、選定された論題に対して堅者が義を立てて、これをめぐって、問者と堅者との問答が展開される。その当否優劣の判定も探題の役割であったが、この判定の役割をする者が後に証義者といわれるようになったのである。「宗源法印」と「俊鑁法印」とも、探題あるいは証義者として名声のあったことを示している。
 まず「宗源法印」であるが、彼は「証真の嫡弟」とあるように、前述の宝池房証真の弟子であり、また「竹中宝印」とも称された。「隆真法橋」というのは仏頂房・隆真のことで、彼も、天台宗の立場から法然の念仏に破折を加えた定照の書・弾選択二巻に奥書を加えている。
 次いで「俊鑁法印」の下に「椙生」とあるのは、俊鑁が日本天台宗・恵心流の分派である椙生流・範源に師事してその学派を引き継いだことによる「椙」は「杉」の旧字である。さらに「大和の荘」とあるのは、俊範が晩年に叡山の麓・大和荘に住んだことによる。
 また「三搭の学頭」とあるのは比叡山中の東搭・西搭・横川の三つに分け、各搭に一人ずつ学頭が置かれ、その上に置かれた全体を統括する総学頭のことを指す。俊範法印はその総学頭を努めたということである。
 俊範も、法然念仏を批判した書を著したことは「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」に「又大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者後に僧都と云う並に題者なり等源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り」(0089-03)とあるところからも明らかである。
 、次いで「三千人の大衆」というのは比叡山で修行する三千衆徒のことで、法然念仏を破折したのは著作を著した少数の人物だけでなく、三千衆徒全体の意志であることを表されている。さらに「五人探題」とあり「聖覚」「貞雲」「竜証」の三人の名を挙げられている。おそらく、前述の宗源・俊範と共に、五人の探題が法然の念仏に対して、厳しく批判していたということであろう。
 次いで、もう一人の法然破折の僧の名を挙げられている。おそらく、前述の宗源・俊範と共に、五人の探題が法然の念仏に対して、厳しく批判していたということであろう。
 次いで、もう一人の法然破折の僧の名を挙げられている。これまでの天台宗の僧とは異なり、華厳宗の中興の祖とされる明恵房である。
 「明恵房」の名の脇に「華厳宗」「とがのをの」と注されている。「とがのをの」の「とがのを」というのは地名で、明恵は、この斗賀尾に高山寺を興し、華厳宗の興隆に努力した。
 明恵は法然の選択集を破折した書・摧邪輪三巻を著した。法然の説くところを邪論とし、これを摧破するとの意である。その拠って立つ考え方は、先の天台宗の学僧が根拠としたものと同じ「随機諸行往生」である。
 なお、本文には、逆さまに書かれた注記がある。「上輩」「中輩」「下輩」と、いわゆる三輩が記されている。さらに、それぞれに三種の「上三」「中三品」「下三品」の九品が注されており、合わせて、三輩九品という。無量寿経で説かれる三輩と観無量寿経で説かれる九品往生とを合わせたものである。共に、阿弥陀仏の極楽浄土に往生する者を修行の浅深・機根の違いによって立て分け、分類したものである。
 この「上輩」「中輩」「下輩」等の文字は、先の「公胤大弐僧上」から「明恵房」、さらに次章で解説する「大乗五宗と書かれたあと、折り返す形で、上のほうの余白部分に上下を逆に書かれている。おそらく最後の、前の「浄土九品」の記述を補足するために書き加えられたと考えられる。まず「上輩」とあり「上三」「値大」「大乗凡夫」「善根」との注記がある。「上三」とは九品の分類では、「上品上生」「上品中生」「上品下生」の三種類の人たちがここに入る。値大とは大乗に値うということで、常に大乗を修行することで、菩提心を起こして、自分のためだけれはなく、他者を救済する善根を積み上げていくことで浄土に往生しようとする人たちがここに入る。大乗凡夫との注記はそれを示している。
 次に「中輩」であるが「値小」「善人」「小乗凡夫」と注記されているように、出家・在家の人たちである。値小とは小乗に値うということで常に小乗の修行を行う人たちのことを指してり、無量寿経によれば、大いに功徳を修することはできないが、出家して一心に無量寿経を念じたり、あるいは在家の立場で斉戒を持ち、造搭供養したり、他の出家者に食物を供養して浄土への往生を願う人たちが中輩に入るのである。「小乗凡夫」「善人」との注記はこの中輩に当たる人たちのことを指しているのはいうまでもない。この中輩が「中三品」とあり、観無量寿経の九品の分類では「中品上生」「中品中生」「中品下生」の三種類に当たる。
 最後に「下輩」であるが、「値悪」とあり、悪に値う人、うなわち、常に悪法に値して悪行を重ねる凡夫がこれに当たり、三輩の中では、最も下の機根に属する人たちである。無量寿経における下輩とは、もろもろの功徳を修することはできないが、菩提心を起こして一心に無量寿経を念じたりする者のことである。「一向」とは、ひたすら念仏のみを修行すべきであるとする浄土宗の教えで、一向専修、一向専念のことである。「下三品」とあるように、ここに属する人たちは、九品の立て分けでは、「下品上生」「下品中生」「下品下生」の三種類のどれかに入ることになる。 ここでは、法然の念仏に対して、旧仏教、特に天台宗の高僧たちがどのように対応したかを示されている。
 まず「顕真座主」「八人の碩徳」と記されている。顕真は延暦寺第61代座主になった人であるが、座主になる前、洛北大原に退隠していた時、法然を招いて、当時、碩徳といわれた諸宗の高僧を集め、その教えを聞いてから法然に共鳴するようになったといわれる。従って、この「顕真座主」は法然に同調したが「八人の碩徳」破然の教えに反対した人々として挙げられたと考えられる。しかし、このあとの、「公胤大弐僧上」以下は、法然の立義を批判した人々である。
 公胤は「頼顕僧上の御師」「薗城寺の長吏」とあるように、天台宗寺門派の総本山・薗城寺の長吏、すなわち、座主となると共に、朝廷・貴族、さらには鎌倉幕府成立後は源将軍家の信頼を得て、僧官の最上級である「僧正」の地位にまで登っている、「大弐」とあるのは従四位に相当する位で、彼がそうした高位の貴族の出であることから、このように呼ばれていたのであろう。
 また、公胤は天台宗寺門の僧である頼顕が出家する際の師であったところから「頼顕僧上の御師」といわれている。その公胤は法然の選択本願念仏集を読んで、これを破折しようとして一書を著した。そのことを「浄土決疑集三巻を造て法然房の撰択集を破す」と注されている。浄土決疑宗は浄土決疑抄ともいう。
 その立場は「随機の諸行皆往生を為すべし等云云」と注されているように、仏が衆生の機根に随って説いた様々な修行は、どの修行でも機根にかないさえすれば往生できるとするもので、称名念仏以外では往生できないとする法然の義とは決定的に対立するのである。
 次の「定真堅者」とは、天台宗の僧で定照ともいう。堅者というのは経典講説の大法会において、講師の講説に従って、探題が論題を選定し、これに対し、経典の義を立てて提唱する僧のことである。この定真については「故宝地房法印証真の弟子」「上野清井者」と注記されているが、証真は比叡山天台宗の学僧で、宝池房と号した。天台の伝統的教学の復興に努めたことで著名である。また「法印」というのは僧綱の上位者で、法印大和尚位の略である。定真はこの証真の弟子であった。
 「上野清井者」というのは、定真が上野国清井の人であるところから記されたものであろう。彼は、その名の下に注記されているように「断撰択二巻」を造って法然の選択集を批判した。彼も「随機諸行往生」すなわち、衆生の機根に随って念仏以外の諸行では往生できるとの立場を採っていた。
 次に「証義者」と記され、その下に「宗源法印」「俊鑁法印」の名が並べられている。「証義者」とは前述の探題の変化したものである。経典講説の大法界において、講師の講説に対して、論題を選定する者が探題であったが、選定された論題に対して堅者が義を立てて、これをめぐって、問者と堅者との問答が展開される。その当否優劣の判定も探題の役割であったが、この判定の役割をする者が後に証義者といわれるようになったのである。「宗源法印」と「俊鑁法印」とも、探題あるいは証義者として名声のあったことを示している。
 まず「宗源法印」であるが、彼は「証真の嫡弟」とあるように、前述の宝池房証真の弟子であり、また「竹中宝印」とも称された。「隆真法橋」というのは仏頂房・隆真のことで、彼も、天台宗の立場から法然の念仏に破折を加えた定照の書・弾選択二巻に奥書を加えている。
 次いで「俊鑁法印」の下に「椙生」とあるのは、俊鑁が日本天台宗・恵心流の分派である椙生流・範源に師事してその学派を引き継いだことによる「椙」は「杉」の旧字である。さらに「大和の荘」とあるのは、俊範が晩年に叡山の麓・大和荘に住んだことによる。
 また「三搭の学頭」とあるのは比叡山中の東搭・西搭・横川の三つに分け、各搭に一人ずつ学頭が置かれ、その上に置かれた全体を統括する総学頭のことを指す。俊範法印はその総学頭を努めたということである。
 俊範も、法然念仏を批判した書を著したことは「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」に「又大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者後に僧都と云う並に題者なり等源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り」(0089-03)とあるところからも明らかである。
 、次いで「三千人の大衆」というのは比叡山で修行する三千衆徒のことで、法然念仏を破折したのは著作を著した少数の人物だけでなく、三千衆徒全体の意志であることを表されている。さらに「五人探題」とあり「聖覚」「貞雲」「竜証」の三人の名を挙げられている。おそらく、前述の宗源・俊範と共に、五人の探題が法然の念仏に対して、厳しく批判していたということであろう。
 次いで、もう一人の法然破折の僧の名を挙げられている。おそらく、前述の宗源・俊範と共に、五人の探題が法然の念仏に対して、厳しく批判していたということであろう。
 次いで、もう一人の法然破折の僧の名を挙げられている。これまでの天台宗の僧とは異なり、華厳宗の中興の祖とされる明恵房である。
 「明恵房」の名の脇に「華厳宗」「とがのをの」と注されている。「とがのをの」の「とがのを」というのは地名で、明恵は、この斗賀尾に高山寺を興し、華厳宗の興隆に努力した。
 明恵は法然の選択集を破折した書・摧邪輪三巻を著した。法然の説くところを邪論とし、これを摧破するとの意である。その拠って立つ考え方は、先の天台宗の学僧が根拠としたものと同じ「随機諸行往生」である。
 なお、本文には、逆さまに書かれた注記がある。「上輩」「中輩」「下輩」と、いわゆる三輩が記されている。さらに、それぞれに三種の「上三」「中三品」「下三品」の九品が注されており、合わせて、三輩九品という。無量寿経で説かれる三輩と観無量寿経で説かれる九品往生とを合わせたものである。共に、阿弥陀仏の極楽浄土に往生する者を修行の浅深・機根の違いによって立て分け、分類したものである。
 この「上輩」「中輩」「下輩」等の文字は、先の「公胤大弐僧上」から「明恵房」、さらに次章で解説する「大乗五宗と書かれたあと、折り返す形で、上のほうの余白部分に上下を逆に書かれている。おそらく最後の、前の「浄土九品」の記述を補足するために書き加えられたと考えられる。まず「上輩」とあり「上三」「値大」「大乗凡夫」「善根」との注記がある。「上三」とは九品の分類では、「上品上生」「上品中生」「上品下生」の三種類の人たちがここに入る。値大とは大乗に値うということで、常に大乗を修行することで、菩提心を起こして、自分のためだけれはなく、他者を救済する善根を積み上げていくことで浄土に往生しようとする人たちがここに入る。大乗凡夫との注記はそれを示している。
 次に「中輩」であるが「値小」「善人」「小乗凡夫」と注記されているように、出家・在家の人たちである。値小とは小乗に値うということで常に小乗の修行を行う人たちのことを指してり、無量寿経によれば、大いに功徳を修することはできないが、出家して一心に無量寿経を念じたり、あるいは在家の立場で斉戒を持ち、造搭供養したり、他の出家者に食物を供養して浄土への往生を願う人たちが中輩に入るのである。「小乗凡夫」「善人」との注記はこの中輩に当たる人たちのことを指しているのはいうまでもない。この中輩が「中三品」とあり、観無量寿経の九品の分類では「中品上生」「中品中生」「中品下生」の三種類に当たる。
 最後に「下輩」であるが、「値悪」とあり、悪に値う人、うなわち、常に悪法に値して悪行を重ねる凡夫がこれに当たり、三輩の中では、最も下の機根に属する人たちである。無量寿経における下輩とは、もろもろの功徳を修することはできないが、菩提心を起こして一心に無量寿経を念じたりする者のことである。「一向」とは、ひたすら念仏のみを修行すべきであるとする浄土宗の教えで、一向専修、一向専念のことである。「下三品」とあるように、ここに属する人たちは、九品の立て分けでは、「下品上生」「下品中生」「下品下生」の三種類のどれかに入ることになる。

0699:15~0700:06 第五章 五宗の教判示し権実雑乱を糺すtop
14             ┌深密経に依る
15            ┌法相宗──三時教をもて一代を摂尽し返て深密経を以て法華経を下す
16            ├三論宗──二蔵三時をもて一代を摂尽し返て妙智経を以て法華を下す
17            ├華厳宗──五教をもて一代を摂尽し返て華厳経を以て法華を下す
01        大乗五宗┼真言宗──五蔵をもて一代を摂尽し返て大日経等を以て法華経を下す  0700
02            └天台宗──四教五時をもて一代を摂尽す
03   県の額を州に打ち牛跡を大海に入る
04               ┌伝教大師此の義を許すや不や
05            夫れ三時の教は勝義の領解・一部の聞は義生の機宜・猶三部を闕く何ぞ一代を摂せん、華厳
06            云く・三論云く・真言等云云
-----―
             ┌深密経を所依とする
            ┌法相宗──三時教をもって釈尊一代の納めるとし、かえって深密経をもって法華経を下している。
            ├三論宗──二蔵三時をもって釈尊一代の納めるとし、かえって妙智経を以て法華経を下している。
            ├華厳宗──五教をもって釈尊一代の納めるとし、かえって華厳経を以て法華経を下している。
        大乗五宗┼真言宗──五蔵をもって釈尊一代の納めるとし、かえって大日経等を以て法華経を下している。
            └天台宗──四教五時をもって釈尊一代の教説を収めている。
   妙楽は、県名の額板を州の額に標示してはならないと批判している。牛の蹄の跡に大海を入れようとしてはならないとある。
               ┌伝教大師はこのような義を許すか不か。
            三時の教判は、勝義生菩薩の領解したにすぎず、一度だけ聞いて了承した義生菩薩の機根に随ったまでの
            ことである。三度にわたる了解を欠いており。釈尊一代の教説を収めるはずがない。華厳宗の五教も、三
                   論宗の二蔵三時も、真言宗の五蔵教判等も同様である。

大乗五宗
 日本に仏教が伝来してから平安時代までに栄えた五つの宗。華厳経による華厳宗、竜樹の中論・十二門論・提婆の百論による三論宗、解深密経・瑜伽師地論・成唯識論などによる法相宗、法華経による天台宗、大日経・金剛経・蘇悉地経による真言宗をいう。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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三時教
 釈尊の経典を三時期に分類する教判。
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一代
 釈尊一代50年の聖教のこと。
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摂尽
 究めつくすこと。一切が収まっていること。
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深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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二蔵三時
 三論宗の経判。❶二乗、二種類の法蔵のこと。声聞蔵と菩薩蔵をいう。蔵は教法・経典という財宝を保有する蔵を意味する。①声聞蔵は声聞・縁覚の二乗のために説かれた四渧・十二因縁等。②菩薩蔵は菩薩のために説かれた六波羅蜜経。❷三時、三転法輪をいう。①第一法輪 四聖諦・十二支縁起の思想。②第二法輪 般若思想と空の哲学。滅諦に相当する。③第三転法輪では有無を正しく区別した法輪。
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妙智経
 三論宗ではインドの智光が妙智経によって立てた。①心と境がともに有である小乗教。②境が空で心は有である法相大乗。③心も境もともに空である無相大乗のうち、無相大乗のみが真実であるとした。この経は漢訳されていない。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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五教
 華厳宗の教判で、釈尊一代の教説を形式・内容等によって五種に分類し、華厳経が最高の経典としている邪義。これには二種がある。①華厳宗第三祖・法蔵の説。小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教とし円教のうち華厳経を円融不思議の法門を開示するものとし、三乗を同じて説いた法華経より勝れたとするもの。②華厳宗第五祖・宗密の説。人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教・一乗顕性教とし、華厳経を一乗顕性教と立てる。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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五蔵
 仏教の典籍を五種に分類したもの。①経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵。②爼多覧蔵・毘那耶蔵・阿毘達磨蔵・般若波羅蜜多蔵・陀羅尼蔵。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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六波羅蜜経
 中国・唐の罽賓国・般若三蔵の訳10巻、大乗理趣六波羅蜜経のこと。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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四教
 化法の四教のこと。天台大師が釈尊の一代聖教を教判の内容によって四種に分類したもの。(1)蔵教・小乗の教。(2)通教・大乗、小乗に通ずる教。(3)別教・大乗のみを説いた教。(4)円教すべてを包摂する円満な教・法華経をさす。
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五時
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、説法の順序から五種に分類したもの。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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 本抄の最後に当たり、法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・天台宗の五宗の教判を図示し、これらも法華経を自らの依経より下すという重大な過ちを犯すことを示されている。
 それは、浄土宗には「捨閉閣抛」「身有一人得者」「千中無一」等、誹謗正法の重大な過ちがあるが、こうした過ちは、もっと巧妙な形で法相・三論・華厳・真言も犯していることを指摘されているのである。
 「大乗五宗」とあり、その下に、それぞれの教判の要点を記されている。まず「法相宗」では「三時教をもて一代を摂尽し返て深密経を以て法華経を下す」とある。
 法相宗の三時教というのは、仏一代の教えを三つの時に分けて、浅い教えから深い教えへと次第に説かれたものとするのである。これは解深密教巻二・無自性相品第五に基づいて立てられたものである。
 三時とは初時・第二時・第三時と立て分けるものである。初時の有教とは法の有を認める立場で、衆生が執着する我は法の仮和合したものにすぎないとして我空を悟るもので、阿含経に代表される小乗の教えである。我空は悟っても、法の有は否定しないので、我空法有の教えともいう。次に、第二時の空教とは初時の法有の立場を否定するために説かれた法空の教えで、般若経に代表される教えである。
 最後に第三時の中道教が説かれる。すなわち、初時の有教と第二時の空教とを否定し、より高時の立場である非有非空の中道を明かした教えがこれである。
 法相宗は以上の三時の立て分けをもって、仏一代の教えを収め尽くしたうえで、第三時の教えのなかに、華厳経・法華経・解深密経などの諸教を配当しているものの、あくまで解深密教を究極の教えとし、深密経をもって法華経を下しているのである。
 次いで「三論宗」については、「二蔵三時をもて一代を摂尽し返て妙智経を以て法華を下す」とある。三論宗の教判は吉蔵が三論玄義・法華義疏などの著作で説いたもので、「二蔵三時」、すなわち、二蔵と三時のことである。二蔵は二種類の法蔵のこと。法蔵とは法の容れ物の意であるから、仏の教法を集めたものを指す。これに、声聞蔵と菩薩蔵があり、声聞蔵は声聞を対象に説かれた四諦・十二因縁等の法門を集めたもので小乗教であり、菩薩蔵は菩薩を対象に説かれた六波羅蜜等の法門を集めたもので大乗経である。
 次いで「三時」とは三転法輪で、根本法輪・枝末法輪・摂末帰本法輪の三種の法論のことである。まず根本法輪は釈尊の悟りの内容を、衆生の機根を考えないで説き示した教えということで、ここに仏教の根本思想が説かれているとする。具体的には華厳経である。
 次に、枝末法輪は釈尊が衆生の機根に応じて、声聞や菩薩に説いた教えのことで、阿含経から始めて、諸大乗経を次々と説いて三乗のために方便の教えを施した時期がこれに当たる。
 第三は摂末帰本法論で、第二の枝末法論は三乗のための方便の教えであるが、それは一乗教である法華経を説くための準備として説かれたものとし、いよいよ法華経が説かれる段になって、それまでの方便の枝末法論を根本とする一乗教に帰入させたのが、この段階であるとする。ただし、本文の注記に「妙智経を以て法華を下す」とあるのは、第三の法論ではいかにも法華経が根本であるかのように示しているが、第一の根本法論ですでに妙智経が第一であるように判別しているので、このように注記されたのである。
 さらに「華厳宗」では「五教をもて一代を摂尽し返て華厳経を以て法華を下す」とある。華厳経の教判は法蔵が立てたもので、釈尊一代の仏教を小乗経・大乗始教・大乗終教・頓教・円教の五教に立て分けるものである。ここで大乗始教とは、大乗の始めの教えということで、三論宗・法相宗、特に法相宗を指す。大乗終教とは維摩経・勝鬘経・大乗起信論に説かれている“不二・即”の考え方を示している教えである。
 次いで頓教は、言葉に依らないで真理を顕した教えを指し、最後に円教とは、円融円満の教えのことで、華厳経がそれであるというのが華厳宗の言い分なので、「華厳経を以て法華を下す」と注記されているのである。
 次いで「真言宗」では「五蔵をもて一代を摂尽し返て大日経等を以て法華経を下す」と注記されている。五蔵とは経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵の五つをいう。
 このなかで、経・律・論の三蔵は小乗で、慧蔵は般若波羅蜜多蔵ともいい、仏の智慧を説いたもので大乗に当たる。最後の秘蔵は陀羅尼蔵ともいい、上の四つの蔵を受持することのできない五逆・誹謗・一闡提の者を涅槃させる経をいい、真言陀羅尼蔵のことである。
 「大日経等を以て法華経を下す」とあるように、真言宗では五蔵の最後に陀羅尼蔵に大日経等の真言三部経を入れ、これを最高とすることで法華経を下しているからである。
 最後に「天台宗」では「四教五時をもて一代を摂尽す」とある。四教五時は釈尊の一代の教えを内容面から蔵・通・別・円の四教に立て分け、説かれた時期から華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時に立て分けた天台の教判である。
 天台宗では本来、法華経をもって釈尊出世の本懐とし一代の最高の経と立てているので、大聖人も、この点に関しては特に問題にはされていない。
 ただし「県の額を州に打ち牛跡を大海に入る」と書かれ、その下に「伝教大師此の義を許すや不や」と記されている。御真筆ではこの部分は線を引かれた形になっているが、これは天台宗が自らを真言密教の一宗にしてしまっていることを指して、このように書かれたと拝される。
 この「県の額を州に膀じ、行く者を惑乱す」とあるように、小さい下級の区域を標示いた額板を大きくて上級の区域に掲示するということで、小さい県がすなわち真言が大きい州である天台宗を乗っ取っていることを指す。妙楽はこの譬えをとおして、仏教者たちが権教と実教とを雑乱していることを破折したのであるが、今の真言宗と天台宗の関係もこれと同じであるとの意で、これを用いられたのであろう。
 次いで「牛跡を大海に入る」というのは、維摩経弟子品に「大道を行かんと欲するに、小径を示すこと莫れ。大海を以って牛跡に入ること無かれ」とあるように、大道を行こうとしている者に小道を示してはならないし、馬の蹄の跡のような小さな所に大海を入れようとしてはならない、ということである。維摩経ではこの譬えは小乗の法を大乗の機根の者に説いてはならないという戒めとして説かれているが、本抄では実経を権教に貶めるような雑乱を起こしてはならない、との意味で用いられている。二つの譬えとも「伝教大師此の義を許すや不や」とあるように、伝教大師が、今の天台宗の、真言宗に対し、さらには、先の顕真座主のように浄土宗に対してすら膝を屈している卑屈な姿をごらんになったら、ゆるされないであろうとの意で引かれたのであろう。「伝教大師が許されない」というのは、法相その他の宗の問題ではなく、天台宗のことだから言われたと考えるべきである。
 最後に「夫れ三時の教は勝義の領解・一部の聞は義生の機宜・猶三部を闕く何ぞ一代を摂せん」との文がある。これは伝教大師の守護国界章巻上之上の「謗法の者は浅狭の三時教を弾ずる章第一」からの引用である。
 ここで、謗法の者とあるのは守護国界章で伝教大師が破折の対象としている法相宗の相・徳一のことである。徳一は法相宗であるから、前述したように、初時=有教・第二時=空教・第三時=中道教の三時の教判を立てるが、これを破折された文がここに引用されているのである。
 今、その原文を改めて引用すると「夫れ三時の経は勝義の領解にして一了の聞は義生の機宣なり。猶、三了を闕く。何ぞ一代を摂せんや」とある。
 つまり、法相宗の徳一が立てている、前述べした三時の教判は「勝義の領解」、すなわち、解深密経の対告衆である勝義生菩薩が釈尊の前で自己の領解を述べたものにすぎず、これに対して釈尊も「一了の聞は義生の義宣」すなわち「“たった一度だけ聞いて了承の意を表明した”ということは、釈尊があくまで勝義生菩薩の機根の宣しきにしたがったまでのことにすぎない」のであり、これは「三了を闕く」、すなわち、本尊の本意を示す場合の三度にわたる了解を欠いてることにも表れており、この三時の教判で、どうして釈尊一代の説法をすべて収めつくせようか、と破折しているのである。
 「華厳云く・三論云く・真言等云云」と記されているのは、先に「大乗五宗」として、それぞれの教判を挙げられて天台宗を除いて残りの四宗はいずれも法華経を下していると破折されたが、ここで、伝教大師の守護国界章の文により法相宗の教判を破折されていたので、残りの華厳宗と五教・三論宗の二蔵三時・真言宗の五蔵の教判をはじめ、その他の教判も、ことごとく法相宗と同じく破折されるべきことを示されて、本抄を閉じられている。