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日蓮大聖人御書講義13後0848~0853あ
0848~0849 四十九院申状
0848:01~0848:03 第一章 厳誉の法華誹謗の非道を明かす
0848:04~0848:12 第二章 日興上人等の主張を述べる
0848:13~0849:03 第三章 厳誉との公場対決を願う
0849:04~0849:12 第四章 安国論の意に基づくことを述べる
0849~0853 滝泉寺申状
0849:01~0850:12 第一章 行智の訴えに反論し正義を示す
0850:13~0851:05 第二章 諌暁を用いぬ為政者を責める
0851:06~0851:11 第三章 調状の誤りを諌める
0851:12~0852:09 第四章 阿弥陀読誦の誤りを破折する
0852:10~0853:04 第五章 行智の訴えの不実を示す
0853:05~0853:13 第六章 行智の所業を糾弾する
0853:13~0853:18 第七章 公正な沙汰あるを望む
0848~0849 四十九院申状top
0848:01~0848:03 第一章 厳誉の法華誹謗の非道を明かすtop
| 0848 四十九院申状 01 駿河の国蒲原の庄・四十九院の供僧等謹んで申す。 02 寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持.承賢.賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田 03 畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事。 -----― 駿河の国蒲原の庄にある四十九院の供奉僧らが謹んで申し上げる。 寺務である二位律師厳誉が、日興ならびに日持・承賢・賢秀らが学んでいる法華宗を外道大邪教と名付け、長年住んでいる住坊ならびに田畑を奪い取り、寺内を追い出したのは正当な理由のないことであり、この詳細を申し上げる。 |
駿河の国
東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
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蒲原の庄
現在の静岡市清水区蒲原。日興上人にゆかりのある四十九院(現存しない)があった地。
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四十九院
駿河国蒲原(静岡県清水区蒲原)にあったとされる天台宗の寺院。富士川を隔てて岩本実相寺と対する位置にあったが現存しない。日興上人はこの寺で少年時代から壮年に至るまで勉学に励まれた。文永11年(1274)6月、日蓮大聖人が身延入山後、日興上人はこの寺を中心に富士方面の弘教にあたられた。
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供僧
寺院などで本尊に供奉する僧侶。
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寺務
①寺院の事務を司ること。②寺院事務の執行代表者。
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二位律師厳誉
二位律師は四十九院内で設けられた僧正・僧都に次ぐ役職。厳誉については詳細は不明であるが、四十九院法難の首謀者であり、この法難が熱原法難の機縁となるのである。
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日興
(1246~1333)字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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日持
(1250~)蓮阿闍梨と号す。建長2年(1250)駿河国庵原郡松野(静岡県富士宮市富士川町松野)で松野六郎左衛門入道の次男として生まれる。幼少にして出家し、駿河国蒲原郡(静岡県富士市)四十九院に登り、日興上人に従って四十九院に住しながら大聖人の弟子として甲斐公と称した。文永7年(1270)21歳で得度。四十九院の法難で頻出の厄に遇ったが、師友と共に苦難を凌いでいる。日蓮大聖人の晩年には本弟子六人の一人となったが、大聖人の滅後は墓輪番に応ぜず、天台沙門と名乗るなど、大聖人の本意に背く行動をとった。正応元年(1288)6月8日、大聖人7回忌報恩のために御影を池上に奉安している。永仁3年(1295)、46歳の時、松野の蓮永寺を日教に託してただ一人、海外弘通の途に上った。奥州を歴て蝦夷(北海道)に渡り、樺太・大都(北京)、外蒙古まで歩を記したともいわれているが、明らかではない。蓮華阿闍梨は日持の号。
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承賢
日蓮大聖人・日興上人の弟子で、四十九院の供僧。
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賢秀
日蓮大聖人・日興上人の弟子で、四十九院の供僧。
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法華宗
法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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邪教
よこしまな教え、その宗教。
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謂れ無き子細の事
正当な理由がないこと。
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本抄は弘安元年(1278)3月、駿河国蒲原荘・四十九院の供僧であった承賢・賢秀・日持等が、同寺の寺務・二位律師の厳誉によって“お前たちのやっているのは外道大邪教である”として、住坊や田畑を奪われたうえ、寺内を追い出されたことに対して、日興上人等4人がその不当性を鎌倉幕府に訴え出ると共に、厳誉との公場対決を願い出た訴状である。
背景には日興上人による駿河・熱原地方での折伏弘通の展開がある。日蓮大聖人が佐渡流罪から帰られて身延山に入られた文永11年(1274)以後、大聖人に常随給仕してきた日興上人は幼少期を過ごした縁故を辿って、駿河方面に大聖人の仏法を弘通する活動を大々的に展開することになる。
その際、活動の拠点とされたのが、日興上人が修学時代を過ごした四十九院であった。日興上人の教化によって、まず四十九院では供僧の承賢・賢秀・日持が門下となり、近くの岩本実相寺では筑前房・豊前房等が、さらに熱原滝泉寺では日秀・日弁・日禅らがそれぞれ門下になっている。
日興上人の門下となった彼らはいずれも、天台宗の寺院に属しながらも、同時に日蓮大聖人の仏法を弘通するという、いわば革新的立場にあったため、寺院の上役の僧らが快く思わず、これに弾圧を加えてきたことは、いわば必然であったといえよう。しかも、日興上人に化導されたのは、いわば青年僧で、住持・院主・寺務・供僧などという寺内の役職系列のなかではそれほど高くなかったといってよい。なかでも、四十九院から追放された承賢の立場であった供僧というのは供奉僧とも社僧ともいい、本来は本尊に仕えて奉仕する僧のことであるが、僧のお供をしたり、こまごました寺務をこなすのが役目であったことから、常に檀下農民と接触する立場にあったといえる。このため、彼らの折伏弘通はおのずから檀下農民にも及ぶところとなり、この点も寺院の上役の僧が弾圧するに至る大きな理由の一つであった。このことは本抄の四十九院に限らず、岩本実相寺、滝泉寺など同じ駿河地方の諸寺院でも、弾圧の嵐が吹き荒れたことは明らかである。
さて、四十九院は天台宗の横川系の寺である。横川というのは比叡山延暦寺の一つで、北塔ともいい、西塔の東北にあり、延暦寺第三代座主・慈覚が首楞厳院を開創したのに始まる。そこから首楞厳院とも総称する。日興上人は7歳の時、この寺に入り、天台の法門を研鑽すると共に、漢文学・歌道・国書・書道等をも学んでいる。正嘉2年(1258)、大聖人が四十九院に近い岩本実相寺を訪れ、一切経を閲覧された際、13歳でその門下となり、伯耆房の名を賜っている。
このように、日興上人にとって、居住ないし修学の寺であり、かつ、折伏弘通の拠点となっていた四十九院で、事務の厳誉による不当な弾圧がなされたことに対して、日興上人が中心となって承賢・賢秀・日持ら3人と共に本訴状をしたためられたのである。系年は弘安元年(1276)3月である。
本抄の初めは、訴状であることから、厳誉による不当な理由による措置の内容を述べ、訴えている。まず「駿河の国蒲原の庄・四十九院の供僧等謹んで申す」として、訴えを起こした側の名を挙げている。次いで「寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持・承賢・賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事」とあるのは、訴えの内容を項目として掲げた文で、訴状の形式を踏まえての表現である。すなわち、四十九院・寺務の厳誉が、日興上人ならびに日持・承賢・賢秀らが学んでいる法華宗に対して外道大邪教と呼び、前々から住んでいた四十九院の住坊や田畠を奪い取ったうえに、寺院を追放するという暴挙に出た、ということである。
こうした措置は、寺院といえば宗派そのものという江戸時代以後の壇徒制度からみた今日までの常識からすると、その寺の宗旨と異なる信仰を始めたのであれば、追い出されてもやむをえないし、むしろ、そのような謗法の寺からは自分から出ていくのが当然と考えられがちである。当時の寺院、特に天台・真言宗の古くからの寺は、現代でいう公立学校に近い存在であったことを想起する必要がある。現実に、天台宗の寺でありながら、僧によって、真言に傾注する者もいれば、念仏や禅に心を寄せている者もいたのであって、まして、本来、天台宗であれば法華経を根本とする信行学に励む者を排斥する理由には全くなりえなかったのである。
0848:04~0848:12 第二章 日興上人等の主張を述べるtop
| 04 右釈迦一代教の中には天台を以て宗匠と為す、如来五十年の間は法華を以て真実と為す、 是れ則ち諸仏の本懐 05 なり抑亦多宝の証誠なり、上一人より下万民に至るまで帰敬年旧り渇仰日に新なり。 -----― 右は釈尊一代聖教の中では天台大師を師と仰いでいる。釈迦如来五十年の説法では法華経をもって真実とする。これは、すなわち諸仏の本意であり、また多宝の証明しているところである。上一人より下万民に至るまで昔から帰依され、今も日に日に渇仰されている。 -----― 06 而るに厳誉の状に云く「四十九院の内・日蓮が弟子等居住せしむるの由・其の聞え有り、彼の党類仏法を学し乍 07 ら外道の教に同じ正見を改めて 邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、 大衆等評定せしめ寺内に住せしむべか 08 らざるの由の所に候なり」云云。 -----― しかるに、厳誉の書状には「四十九院の中に、日蓮が弟子らが居住しているとの風聞がある。彼らの仲間は仏法を学ぶと言いながら、外道の教えに与し、正見を改めて邪義の教えを容認している。これはとんでもないことである。寺内の僧侶たちが評議した結果。寺内に居住されるわけにはいかないことになった」とある。 -----― 09 茲に因つて日興等忽に年来の住坊を追い出され已に御祈祷便宜の学道を失う、 法華の正義を以て外道の邪教と 10 称するは何の経・何れの論文ぞや、 諸経多しと雖も未だ両眼に触れず 法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も諸 11 経の裏に法華を破るの文全く之無し、 所詮已今当の三説を以て教法の方便を破摧するは 更に日蓮聖人の莠言に非 12 ず皆是れ釈尊出世の金口なり。 -----― これによって、日興等たちまちに長年居住してきた住坊を追放され、すでに祈祷の機会、仏法修学の道を失ってしまった。法華教の正義をもって外道の邪教と称するのはいずれの経、いずれの論文によるのだろうか。諸教は多く存在するといえども、法華経を外道邪教としている文は見たことがない。法華経のなかで諸経を破折した文はあるが、諸経のなかで法華経を破折した文は全くない。結局のところ、已今当の三説をもって法華経以外の諸経を方便として破折するのは日蓮大聖人が勝手に言っていることではなく、これらはすべて釈尊がこの世に出現されて述べられた金言である。 |
釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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一代教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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宗匠
修行者の師範となって指導することのできる人。
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如来五十年の間
釈尊は19歳で出家し、30歳にして菩提樹下で成道してから、80歳まで入滅するまで50年間にわたって、大小乗の経教を説いた期間のことをいう。
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法華
大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
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諸仏の本懐
三世十方の仏が世に出現される根本の目的。
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証誠
ある事柄が真実であることを証明すること。またその証をいう。
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帰敬
信じて帰依し、敬うこと。
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渇仰
深く仏法を求め、あこがれ、敬うこと。
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党類
同じ仲間。
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正見
妄見・邪見を離れて正しい真理を見極めること。またその正しい義。
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邪義
よこしまな教義のこと。正義に対する語。邪見・邪義に基づいて立てられた教義をいい、仏の本位・経文に違背した教判や釈義。
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大衆
①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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評定
①物事を判断し決定すること。②鎌倉・室町時代の執権や評定衆が幕府の立法・行政上の重要事項を決定したこと。
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学道
学問の道。仏道修行。
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諸経
もろもろの経・一切経。
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所詮
究極のところ、結局。言葉や文字によってあらわされるもの。
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已今当の三説
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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教法の方便
法華経以外の諸経のこと。
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破摧
破り壊すこと。
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莠言
有害な言葉・醜悪な言葉。
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釈尊出世の金口
釈尊がこの世に出現した黄金の言葉。
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出世
仏がこの世に出現すること。
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金口
金色の口。黄金は朽ちないことから、偽りのない仏の所説を金口という。
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先の厳誉の言い分と措置に対する日興上人等の主張を展開されているところである。
まず「右釈迦一代教の中には天台を以て宗匠と為す、如来五十年の間は法華を以て真実と為す、是れ則ち諸仏の本懐なり抑亦多宝の証誠なり」とは、日興上人等のことである。すなわち、日興上人をはじめとする「四十九院の供僧」たちは釈尊一代の教えについては中国の天台大師を宗匠、つまり宗の師範と仰ぎ、釈迦如来・五十年間の間に説かれた経教では法華経をもって真実の教えとしている。この「法華を真実」とするのは釈迦如来のみならず、三世十方の諸仏の本意であり、多宝如来も証明しているところであり、日本においても「上一人より下万民に至るまで帰敬年旧り渇仰日に新なり」と記して、伝教大師の昔から、あるいは、さらに言えば聖徳太子の時代から、法華経が最も優れた経として重んじられてきたし、今も熱烈に信仰されていることを指摘している。
法華経を最勝とし、信行の根本とするのは、釈迦・多宝・十方諸仏の本意に叶っていることであるだけでなく、現実に、日本では古来、それが当然のこととされてきたというこの指摘は、本来、天台宗である四十九院にしてみると、反論の余地などあろうはずがない点を衝いている。すなわちこの文は、日興上人たちの活動は四十九院の原点に帰り、真の興隆をもたらす働きとして歓迎されて当然であるということを含意している。この点を踏まえたとき、次の「而るに厳誉の状に云く」の「而るに」がくっきりと浮かび上がってくるはずである。
厳誉の状の言い分は「四十九院の内に住み着いた日蓮の弟子たちは、形は仏法を学びながら、その内容は外道と同じであり、弘教と称して、正見を改めて邪義の旨に住せしめている。これはもってのほかであり、寺内の大衆と討議した結果、彼らを寺から追放すべきであるということになった」というものである。
これが「大衆等評定」といいながら、実際には厳誉または側近の少数者の独断であったことは明らかである。もし大衆等で評定したというなら、日興上人をはじめとする人々も「大衆」であるから、会議に参加し、そこで発言できたはずだからである。
それはともあれ、ここで反論すべき焦点とされるのは、日興上人たちが法華経を実践し広めているのを厳誉が「外道に同じ」と決めつけて法華経を外道の邪教と言っている点である。
そこでまず、「法華の正義を以て外道の邪教と称するは何の経・何れの論文ぞや」と、いったい何を根拠として、このように言うのかと責めておられる。「経」とは仏が説いたもの、「論文」とは正法時代の竜樹、天親等のように「菩薩」と称された人々が著したものである。仏法に関して何らかの主張をするに当たっては、仏・菩薩の所説の裏付けがなくてはならない。そのような裏付けの根拠もなしに自分の頭や感情で言っていることは用いるに値しない。
もとより、そのような経文などあるはずがないことを「諸経多しと雖も未だ両眼に触れず」と述べ、法華経には他の諸経を低い、方便権経であるとして打ち破った文があるが、諸経のほうで法華経を破った文は全くないと断じられている。
「所詮已今当の三説を以て教法の方便を破摧す」とは法華経法師品第十には「已に説き、今説き、当に説かん、而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」との文を指す、ここで「已に説き」は法華経より前に説かれた爾前諸経「今説き」は法華経の開経に位置づけられる無量義経、「当に説かん」は、法華経後に説かれるであろう経とうことで、涅槃経などがこれに含まれている。
この「三説」にすべて対比して、法華経こそ最も難信難解だというのは、法華経が究極の真理を説いた教えであることを意味する。逆に言うと、「已今当の三説」は、法華経真実に対して、他経はすべて方便の教法であることであるということである。
これは、この段の初めにあるように、釈尊の説法であり、その座に列なった多宝・十方諸仏が承認し証明したことであって、いまになって日興上人の師である日蓮大聖人が勝手に言っていることではまい。天台流の流れを引く四十九院の僧も当然、これは認めざるを得ないことなのである。
0848:13~0849:03 第三章 厳誉との公場対決を願うtop
| 13 爰に真言及び諸宗の人師等・大小乗の浅深を弁えず権実教の雑乱を知らず、 或は勝を以て劣と称し或は権を以 14 て実と号し意樹に任せて砂草を造る、 仍て愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わず 徒に師資相伝の口決を 15 信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証無し、 天地之が為に妖蘗を示し 国土之が為に災難多し、 是れ併ら仏法 0849 01 仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり、 夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依 02 つて長久す、 正法を学ぶの僧を以て外道と称せらるるの条理豈然る可けんや外道か外道に非ざるか早く厳誉律師と 03 召し合わせられ真偽を糺されんと欲す。 -----― ここに真言及び諸宗の人師らが、大乗・小乗の浅深を分別すつことができず、権教と実教とを雑乱していることを知らず、あるいは勝れた教えをを劣っていると称し、あるいは権教を実教といったり、意樹に任せて砂草を造るという愚を犯している。 その結果、権教権宗の愚癡の人師たち、才能乏しい連中が、経々に明確に説かれている正説を尋ねようともしないで、師資相伝の口決を妄信して、秘密の法力を行ずるといっても真実の証はない。このために天や地は災いを示し、国土はこのために災難が多い。しかし、それは仏法の邪と正を正さず、僧侶のなかで賢い人、愚かな人を撰んでいないからである。 それ仏法は王法すなわち国王が敬うことによって威力を増し、王法は仏法の擁護によって長く続くのである。正法を学んでいる僧を外道と称する道理は当を得ていない。 外道であるか外道でないかを早く厳誉律師と召し合わせられ、公場で真偽を明らかにしていただきたい。 |
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
諸宗の人師
真言・華厳・禅・律・念仏などの諸宗の祖師のこと。人師は仏教によって他を導く者。
―――
大小乗の浅深
釈尊が説いた大乗・小乗の浅深。大乗は広く衆生を救済するために利他行を立て菩薩道を説くが、小乗教は自己の解脱のみを目的にしている。浅深は教義の浅深を比較すること。
―――
権実教の雑乱
権教と実教の教義や修行を混同・混乱する誤り。権教の人師・論師が実教である法華経を下し、あるいは義を盗み、権実を混同した義を立てることをいう。
―――
勝を以て劣と称し或は権を以て実と号し
勝れた教えを劣っていると称したり、権教を実教といっていること。権教と実教の修行が入り乱れて混同・混乱していること。
―――
意樹に任せて砂草を造る
権教・権宗の人々が根拠のない我見をもって実教である法華経を批判する論を唱えること。
―――
愚癡の輩
権教・権宗の人師たちが、仏法に暗く、事理に通達解了する智がないこと。
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短才の族
才能の乏しい人々。
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経経顕然の正説を伺わず
経・経に明確に説かれている正説を尋ねようともしないこと。
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師資相伝
師は師匠・資は弟子。師匠から弟子へ法門を相伝すること。
―――
口決
①口移しに伝えること。言葉で伝えること。②奥義などの秘密を口移しに伝授すること。③奥義を伝えた書物。
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秘密の法力
秘密は、ひそかにして人に知らせないこと。仏教の真意は人に容易に知られない。あるいは分からない内容の深い法門・秘法であるということ。
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真実の験証
本当のあかしのこと。
―――
妖蘗
あやしい災い。災いのきざし。
―――
災難
思いがけず起こる不幸な出来事。仏教では三災七難に代表される。正法に背き、受持する者を迫害することによって起こるとされる。
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仏法の邪正
仏の教法における邪なことと正しいこと。
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僧侶の賢愚
仏法に正しく通達している僧を賢といい、そうでない僧を愚という。
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王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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崇尊
心からうやまい、尊ぶこと。
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擁護
擁え護ること。
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長久
長く続くこと。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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条理
物事の道筋・道理。
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ここで「真言及び諸宗の人師等」とあるのは、真言・華厳・法相・律さらには律・念仏などの諸宗の祖師たちのことである。彼らは大乗と小乗の浅深を立て分けることができず、また権教と実教を混乱させていることを知らないでいるために、勝れた教えを劣っているとし、権の教えを実の教えと言い触らしたりして、「意樹に任せて砂草を造る」すなわち、我見と我見によってさまざまな論を展開し、宗派を作った。そのため、「愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わず」愚かな弟子や信徒たちは、仏説に遡って検討することをしないで、自分たちの宗派の師匠たちが言ったことを妄信しているということである。「秘密の法力」とは、特に真言宗で、さまざまな祈禱の文字や儀式を「秘密の法」と喧伝したことから言われている。しかし、そのようなものは、いくら行じても「真実の験証」はない。「真実の験証」とは、その目指し、祈ったとおりの結果をいう。大聖人がしばしば指摘されているように、平氏が真言の秘法によって、源氏の滅亡を祈った結果、かえって我が身の滅亡を招くといった逆の「験証」である。故に、ここでは「真実の験証」と表現しておられるのである。
従って、このような正法に背いている者の祈りであるため、「天地之が為に妖蘗を示し国土之が為に災難多し」というように、却って、天地、国土に多くの災難を招いている。と現証論から破折されている。
その理由として述べられている「仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故」とは、一国の平和と繁栄を担う為政者は、国法についてと同様、仏法の邪正の究明についても真摯でなくてはならないという考え方がここに反映している。次の「僧侶の賢愚を撰ぶ」というのは「仏法の邪正を糺す」ことの結果として、正しい仏法を深く極めている僧が「賢」であり、仏法に迷っている僧が「愚」で、この選択も、おのずからできるようになるということである。
次いで「夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依つて長久す」と、仏法と王法との有るべき関係を示唆した後、再び厳誉の非道に立ち戻り、日興上人等「正法を学ぶの僧」を「外道」と称する条理、すなわち道理は、当を得ているわけがない。はたして日興上人等が外道であるのか否かについて、早く厳誉律師と日興上人等を公場に召し合わせ、対決させて、真偽を明らかにしていただきたい。と鎌倉幕府に願い出ているのである。
0849:04~0849:12 第四章 安国論の意に基づくことを述べるtop
| 04 且去る文応年中.師匠日蓮聖人・仏法の廃れたるを見.未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を立正安国論と号 05 す異国の来難果して以て符合し畢んぬ未萠を知るを聖と謂つ可きか、大覚世尊.霊山.虚空.二処・三会・二門.八年の 06 間.三重の秘法を説き窮むと雖も仏滅後二千二百二十余年の間・月氏の迦葉.阿難・竜樹・天親等の大論師・漢土の天 07 台・妙楽・日本の伝教大師等・内には之を知ると雖も外に之を伝えず第三の秘法今に残す所なり、 是偏に末法闘諍 08 の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時・国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり、 経文赫 09 赫たり所説明明たり、 彼れと云い此れと云い国の為・世の為・尤も尋ね聞し食さるべき者なり、仍て款状を勒して 10 各言上件の如し。 11 承賢 12 賢秀 13 日持 14 日興 15 弘安元年三月 日 -----― それと共に、去る文応元年に、師匠である日蓮聖人は仏法の廃れているのを眼前にして、未来の災難を見通し、諸経の文を調べて、一巻の書を造った立正安国論であるはたせるかな、他国から攻め来る難が起き、予言されたことがぴったりと合ったのである。未来の出来事を知る人を聖人というべきであろう。大覚世尊は霊鷲山・虚空の二処で三度の法会で、法華経迹門と本門にわたり、八年間の法華経の説法をとおして、三重の秘法を説ききわめられた。しかしながら、釈尊の滅後二千二百二十余年の間、インドの迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、中国の天台大師・妙楽大師、日本の伝教大師等は、内心ではこの秘法を知っていたが、外に向かっては伝えず、第三の秘法を末法のために残されたのである。これは、ひとえに末法の闘諍堅固の時代のはじめに、他国が襲来する難がある時、全世界の中で大合戦が起こった時に、国主がこの第三の秘法を用いれば、兵乱に勝つことのできる秘術である。このことは経文の上にも明らかであり、その説くところの法は明白である。師の日蓮聖人といい、われわれ門下といい、国のため・世のために尋ねられ、その言うところをお聞きになるべきである。ここに、その願いを款状を勒として上呈するものである。 承賢 賢秀 日持 日興 弘安元年三月 日 |
立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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異国の来難
他国侵逼難のこと。他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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符合
一致すること。
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未萠をしるを聖
三沢抄には「聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」(1488-09)聖人知三世事「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」(0974-01)一昨日御書「夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり」(0183-08)等とある。外典とは仏教典以外の書であり、説苑や文選をさす。「未萠」とは、草木の萌芽がまだ生じない姿を、事の起こらないことをたとえていうことばである。いまだ兆しがはっきりしないのに、未来のことを知る人は聖人なのである。
―――
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
虚空
空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
―――
二処・三会
法華経の説処と説会をいう。「二処」とは霊鷲山と虚空会、「三会」とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会のこと。
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二門
①聖道門と浄土門。②因門と果文。③権門と本門。④本門と迹門。⑤ほか。
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八年の間
法華経が説法された期間。
―――
三重の秘法
三重秘伝のこと。成仏の要法である真の一念三千が、法華経寿量品の文の底に、三重に秘伝されていること。三重とは、法華経の迹門、本門寿量品、寿量品の文底の3段階をいう。日寛上人が「三重秘伝抄」で、「開目抄」の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(189㌻)との御文に基づいて明かしている。すなわち、この文において、「但法華経」の「但」の字は「但法華経」「但本門・寿量品」「但文の底」と三重に冠して読むべきであるとしている。これは五重の相対でいえば、「但法華経」=権実相対、「但本門・寿量品」=本迹相対、「但文の底」=種脱相対となる。このように、法華経は一経であるがその説かれた法門の深さから迹門・本門・文底という三つの違いがあることを示している。寿量品の文底に秘沈された文底独一本門の事の一念三千すなわち南無妙法蓮華経こそ、成仏の究極の要法であり、これは末法弘通のために寿量品の文底に沈めて残されたのである。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
大論師
偉大な論師のこと。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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内には之を知ると雖も外に之を伝えず
迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・伝教等は、法華経本門寿量品文底の一念三千の法門を知ってはいたが外に向かっては説かなかったこと。内鑒冷然という。
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第三の秘法
三重に秘伝された寿量文底の一念三千。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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闘諍の始
刀杖堅固の世がはじまること。末法のはじめ。
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他国来難の刻
他国侵逼難のとき。
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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国主
一国の主君。国王。天子。権力者。
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兵乱
戦乱のこと。
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秘術
人に知られないやり方。意図的な場合とそうでない場合がある。
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経文赫赫たり
経文には明白に説かれているということ。
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所説明明たり
説法には明らかに示されているということ。
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款状
官位等を望んだり、訴訟を起こすときの嘆願書。
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これまでは、四十九院の寺務・厳誉が、日蓮大聖人門下として法華経の正義を実践し広めている日興上人たちを「外道大邪教」と言ったことについて、そもそも日興上人たちを外道といえるかどうかを、厳誉と対決させて幕府が裁定していただきたいとの訴えが述べられてきた。
ここでは、幕府当局自体に対して、いま蒙古軍来襲という未曽有の国難に直面し、この文応元年(1260)から18年間、師の日蓮大聖人が立正安国論を上呈し、そのような国難を予見して救国の秘術を教えようとされたのであるから、改めて教えを請うべきであると諌めている。
つまり、これまでの前段では、幕府に厳誉対日興上人等という対決の公正な裁定者としての務めを求める内容であったのに対し、ここでは、日本の国の運命を担う為政者としての務めを果たすよう、しかも、そのためには、はるか以前から日蓮大聖人が示された道を採択する以外にないと決断を促しているのである。
この申状は、日興上人が原案を日蓮大聖人に見ていただいたものであるが、原本が残っていないので、大聖人の加筆がどの程度あったかなどは判明していない。このあとの滝泉寺申状の場合、原本が伝えられていて、前半が大聖人の手で全面的に書き直されていることが分かっているが、おそらく、四十九院申状の場合、少なくとも、この「且去る文応年中」以下が大聖人御自身の御筆であろうと考えられる。
単に厳誉という一人物の非道を問題にすることではとどめず、これを一つのチャンスとして、鎌倉幕府そのものを、再度諌暁しようとされているからである。そこに拝されるのは、御自身は身延山中に入られていても、何としても日本国の一切衆生を救わなければならないとの大慈悲であり、正法興隆への烈々たる大情熱である。
さて、本文を拝していくと「且去る文応年中.師匠日蓮聖人.仏法の廃れたるを見.未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る立正安国論と号す」と、師匠である日蓮大聖人が立正安国論を著し、当時の幕府最高権力者・北条時頼を諌暁されたことを指摘している。
「且」とは、これまで述べてきた律師厳誉の問題に加えて、そのうえに、との意味である。この立正安国論の機縁と共に、目的となったことが二つあった。一つは「仏法の廃れたる」現状を見、仏法の興隆を目指されたことである。これは立正安国論本文のなかでも、日本には「上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす」(0020-15)うんぬんと、仏法が栄えているのに「廃れている」おはおかしいではないかとの反論を掲げたうえで「法師は諂曲にして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」(0021-01)というのが実態であると「廃れた」といわざるをえない理由を述べられている。
もうひととは「以来の災いを鑒み」で、当時、すでにさまざまな災厄が起き、人々を苦しめていたが、さらに大きい災いが起きる危険性がある。人々の苦難を思えは、これを何としても未然に防がなければならないとの御一念である。
この二つは結局、一つに結びついている。人々が正法に背き、仏法が廃れているために、三災七難が起きるのであり、この災難のなかで、まだ起きていない「未来の災」が兵革の災であり、自界叛逆と他国侵逼の二難である。このころを明確にされたのが立正安国論であった。
そして「異国の来難果して以て符合し畢んぬ」とあるように、他国侵逼難が起きるであろうとの予言が、文永11年(1274)の蒙古軍襲来として的中したのである。この予言されたことがそのとおりになったということは、「未来を正しく見通されていた」ということであり、「未萠を知る聖と謂」に当てはまっている。聖とは、仏法に関していえば、仏法の覚者すなわち仏ということにほかならない。言い換えると、
いずれの道においても、それを究めた人は、その道が示している限りにおいては、未来を見通すことができるのであるが、仏法に通達した人は、仏法が示している世界に関して、未来を正しく見通すのである。
次に「大覚世尊」以下は日蓮大聖人が仏法の覚者すなわち仏であるゆえんは、他国侵逼難を予見されたことだけではなく、釈尊が三重に秘伝して末法のために残した秘法を覚り広めておられるからであると示されている。いわゆる「妙法なるが故に人貴し」「人法体一」の原理の故である。仏とは「覚者」の意であり、仏の仏たるゆえんの根本はここにある。
「三重の秘法」とは、釈尊が三重に秘した法の意で、具体的には、まず第一は爾前諸経に説かず、法華経のみに説いたこと、第二重は、その法華経のなかでも迹門には明かさず、本門のみに明かしたこと。そして第三重は、本門でも文上には明かさず、寿量品の文の底に沈めて残したことである。
言い換えると、法華経迹門でうすうす明かされ、本門でほぼ明かされたが、その実体は寿量品の文底に秘沈されたということである。そこに「三つの秘法」があるわけだが、迹門で明かされた第一の秘法を「迹門の一念三千と呼ぶか、これは権密にいえば「百界千如」である。本門にきて三世間が明かされ、第二の秘法である「一念三千」となるが、まだこれは「理の一念三千」である。それに対して、寿量品の文底に秘沈された第三の秘法を「事の一念三千」という。
本文で「三重の秘法を説き窮む」と仰せられているように、釈尊は当然、この秘法を余すところなく知っていたが、すべてを明らかにすることはしないで、第三の秘法は寿量品の文の底に沈めておいたのである。何のために明らかにしないで沈めておいたかといえば、それは、末法において初めて明らかにされるべき大法だったからである。
しかも、このことは迦葉・阿難から伝教大師に至る正法・像法時代の正師たちも知っていたし、特に「第三の秘法」については「内には之を知ると雖も外に之を伝えず」とあるように、公にすることはなかった。もっと厳密にいうと、天台・伝教等は三つの秘法のうち、第一「迹門の一念三千」と第二「本門の一念三千」は明らかにしたが、当時は像法時代で末法ではなかったため、その出現を暗示するにとどめたのであった。
それが今、末法になってこの「第三の秘法」を広められたのが日蓮大聖人である。いわゆる「三大秘法の南無妙法蓮華経」こそ第三の秘法である寿量文底の一念三千の正体にほかならない。日蓮大聖人こそ、仏法上の立場からいえば仏法の究極の法を身に体現された人法一箇の仏であり、末法の一切衆生を救われる末法の御本仏である。
本抄は、そうした日蓮大聖人の甚深のお立場と、その大法を国が尊び用いることが人々を苦しみから救う「秘術」であることを示して、幕府に覚醒をうながしつつ締めくくられている。
0849~0853 滝泉寺申状top
0849:01~0850:12 第一章 行智の訴えに反論し正義を示すtop
| 滝泉寺申状 弘安二年十月 五十八歳御代作 01 駿河の国・富士下方滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。 0850 01 当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事。 02 訴状に云く日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざ 03 るの由・之を申す云云取意。 -----― 駿河の国・富士郡下方荘滝泉寺の大衆僧、越後房日弁・下野房日秀等、謹んで申し上げる。 当滝泉寺の院主代である平左近入道行智が数々の自ら犯した罪を覆い隠し、明らかになることを防ごうとして、罪をでっちあげて訴えを起こしたことは、全く不当なことである。 訴えの状には、日秀や日弁が日蓮房の弟子と名乗って、法華経以外の経、また真言を修行する人は皆、現世において何の功徳もなく、後世においても成仏することはできないといっている、と大要このようにある。 -----― 04 此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し 一切経を勘えて云く当時日本国の体 05 たらく権小に執著し 実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、 仍 06 て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、 去る文応年中・一巻の書を上表す 立正安国論と号す勘 07 え申す所皆以て符合す既に金口の未来記に同じ宛も声と響との如し、 外書に云く「未萠を知るは聖人なり」内典に 08 云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云、 之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな 巧匠内に在り国宝外 09 に求む可からず、 外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂なり」云云、 内経に云く「国に聖人有れば天必ず守護 10 す」云云、 外書に云く「世必ず聖智の君有り而して復賢明の臣有り」云云、此の本文を見るに聖人・国に在るは日 11 本国の大喜にして蒙古国の大憂なり諸竜を駆り催して 敵舟を海に沈め梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし、 君 12 既に賢人に在さば豈聖人を用いずして徒に他国の逼を憂えん。 -----― このことは、日弁等が根本の師匠と仰いでいる日蓮聖人が、去る正嘉の年以来起こっている大彗星、大地震等を見て一切経を調べて、今の日本国の様子を考えれに、権経や小乗教に執著し、実経である法華経をないがしろにしているため、まさに前代未有の二難が起きることは間違いない。その二難とは、いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。そこで国を安穏に治めるため、必ず起こってくるであろう大災難を対治すべきであるとして、去る文応年中に、「立正安国論」と名付けて一巻の書を幕府にたてまつった。そのなかで思索し指摘したことは皆、符合したのである。まさしく仏が未来について記した教えと同じで、あたかも声と響きとが合致しているようなものである。外書には「未来の出来事をを知るのは聖人である」とあり、仏教の経論には「智人は物事の因を知り、蛇は、自ら蛇の本質を知っている」とある。これらの文をもって、立正安国論の予言が的中したことを考え合わせると、我らの本師は、聖人ではなかろうか。立派な人がこの国のなかにいるのであり、国の宝は外に求める必要はない。外書に「隣の国に立派な人がいるのは、敵である国にとって憂慮すべきことである」とあり、仏教の経論には「国に聖人がいれば、諸天善神が必ず守る」とある。外典に「世に立派な智慧ある主君がいれば、また賢明な臣下がいるものである」とある。この文を見ると、聖人が国にいることは日本国にとって大きな喜びであり、蒙古国にとっては大きな憂いである。諸の竜を動かして敵の舟を海に沈め、大梵天王・帝釈天皇に命令して蒙古の王を捕らえられるであろう。主君が賢人であられるなら、どうして聖人を用いずして、むだに蒙古国の侵略を憂えることがあろうか。 |
駿河の国
東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
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富士下方
静岡県富士市の一部。熱原郷のあった地域。
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滝泉寺
静岡県富士市厚原(熱原)にあった天台宗の寺院。熱原法難の震源地である。
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大衆
①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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越後房日弁
(1239~1311)日蓮大聖人の門下で、日興上人の直弟子・越後坊日弁のこと。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷(山梨県山梨市牧岡町か?)の人で、富士郡下方荘熱原郷市庭寺(静岡県富士市伝法)の天台宗の寺院・滝泉寺の僧であったが、日興上人の富士弘教により、日秀・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導していたので、院主代・行智の迫害を受け、ここが熱原法難の因となった。この時、日秀と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。後に下総の日頂のもとに移った。富木殿女房尼御前御書には「さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ」(0990-04)と述べられている。その後日弁は上総・奥州地方まで布教したと伝えられているが、日興上人の弟子分帳には「背き了んぬ」とあることから、滅後の弘安年中には退転しているようである。晩年には富士に帰したともあるが明瞭ではない。
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下野房日秀
(~1329)日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
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弁言
①申し立てること。②弁明すること。③書状などのはじめにある言葉。
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院主代
院主にかわって寺務を行う者。
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平左近入道行智
日蓮大聖人御在世当時、駿河国富士郡下方荘熱原市庭寺なった滝泉寺の院主代。熱原法難当時、院主は空席であったため、事実上の院主ともいえる。北条氏の一族で、寺の財産を私有化したりなどして悪行の限りを尽くしている。
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不実
事実・真実でないこと。誠実でないこと。
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濫訴
むやみにわけもなく訴えること。
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訴状
訴えの趣旨を記載した文章。
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弟子
師匠に従って教えを受け、師匠の意思を受け継いで実践し、それを伝える者。
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法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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余経
法華経以外の経。
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真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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行人
行者・修行する人。
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後世
未来世のこと。後生ともいう。
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取意
文を省略して大意を示すこと。
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本師
①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
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聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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大彗星
ほうき星のこと。中国、日本では古来から妖星とされ、彗星の出現は凶兆とみなされた。とくに兵乱の凶瑞とされる。ここでは、文永元年(1264)に出現した大長星をさすか。これは同年の6月26日に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて8月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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大地動
大地震のこと。正嘉元年(1257)8月27日、午後9時ごろ鎌倉地方に大地震があったとの記録がある。
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観見
観察・観照すること。
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一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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権小
釈尊50年説法中、前42年の方便権教の大乗教と小乗教。
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執著
あるものに深く思い込んで離れないこと。執心して思い切れないこと。
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実経
真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
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失没
失うこと。
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前代未有
今までに存在しないこと。
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自界叛逆難
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
―――
他国侵逼難
他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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治国
国を治めること。
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兼日
「かねて」と読む。
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彼の大災難
日蓮大聖人が立正安国論で予言された自界叛逆難と他国侵逼難。
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対治
①智慧によって煩悩を滅すること。②害をなすものを打ち破ること。
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上表
主君に書を書き奉ること。
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立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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未来記
仏が未来のことを前々に記したもの。予言書、事前の出来事を書き付けた文章。
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外書
仏教以外の外道の転籍。
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未萠を知るは聖人なり
三沢抄には「聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」(1488-09)聖人知三世事「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」(0974-01)一昨日御書「夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり」(0183-08)等とある。外典とは仏教典以外の書であり、説苑や文選をさす。「未萠」とは、草木の萌芽がまだ生じない姿を、事の起こらないことをたとえていうことばである。いまだ兆しがはっきりしないのに、未来のことを知る人は聖人なのである。
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内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
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智人
智慧のある人。智慧を得た仏のこと。
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起
物事・事象の起こり、はじまり。
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蛇
①ヘビのこと。②中国古代の想像上の動物。
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巧匠
巧みな大工・優れた細工人。
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国宝
国の宝。
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隣国
隣の国。
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敵国
敵対する国。
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内経
仏教経典のこと。
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天
諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
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守護
①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
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聖智
物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
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君
①国の元首。②主君。③相手への尊敬の語。
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賢明
賢く、道理に明るいこと。
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臣
主君に仕える者。
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蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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竜
梵語ナーガ(Nāga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。
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梵釈
大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
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蒙王
フビライのこと。日本の服属を要求して文永11年(1274)・弘安4年(1281)と出兵しったが、失敗に終わっている。
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賢人
賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
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他国の逼
他国侵逼難のこと。他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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本抄は弘安2年(1279)10月、鎌倉幕府の問注所に提出された文書である。前の四十九院申状と同様の申状となっているが、当時の裁判制度の慣わしからいって、二つの申状の間では、立場に違いがある。
すなわち、前の四十九院申状の場合は原告として被告の厳誉を訴えた訴状であったのに対し、滝泉寺申状の場合は、院主代・行智が訴人として日秀・日弁らを告発したことから、被告として日秀・日弁はそれに対する申し開きをする必要があり、そのために書かれたのが本抄である。これを訴状に対して陳状という。
題号の下に「五十八歳御作」とあるように、この陳状を日蓮大聖人が日秀・日弁らに代わって筆を執られたのである。なお、陳状といえば、このほかにも四条金吾に代わって筆を執られた頼基陳状がよく知られている。
本抄の時代背景については本書の四十九院申状・第一章で触れておいたとおりである。建治年間から弘安年間にかけて、駿河国富士郡方面に日興上人の目覚ましい弘通活動が進展し、日興上人自身の本拠地四十九院をはじめ、岩本実相寺、熱原滝泉寺などの天台宗寺院の僧たちの中から大聖人の仏法を信奉する人々が現れ、また農民等にも弘教の波が広がっていった。
この動きに恐れを抱いた各寺の執行の任に当たる人々が、駿河国が得宗領で鎌倉幕府要人との縁が深かったことから、結託して弾圧の手を伸ばし始め、ついには熱原の法難へと発展するのである。
まず、弘安元年(1278)の1月には四十九院で大聖人門下に対する迫害が起き、次いで実相寺でも尾張阿闍梨らが動き始める。しかし、この二つは、いずれも、寺院に住む僧侶たちへの迫害、弾圧にとどまったのに対し、弾圧の対象が、僧はもとより農民信徒にまで及んだのが熱原滝泉寺を中心に起こった熱原の法難であった。
この熱原における法難の経緯について、ここで簡単に触れておきたい。
弘安2年(1279)4月、滝泉寺の院主代・行智が富士郡下方の政所代と結託し、熱原浅間神社神事の流鏑馬の雑踏のなか、法華信徒四郎男が刀傷にあうという事件が起こり、さらに、8月には法華信徒の弥四郎の頸を切るという事件が起きた。これらは、滝泉寺の院主代・行智が富士下方の政所代を唆して起きた事件であった。
さらに、9月21日には、行智が日秀らと農民の法華経信徒たちの刈田狼藉の咎、すなわち、狼藉を働いて稲を奪い取ったという罪で、熱原の農民信徒20人を捕え、鎌倉に送るという事件が起こっている。この時、鎌倉でこれらの農民信徒を処断したのが、行智と通じていた侍所の所司・平左衛門尉頼綱であった。彼はこの農民信徒たちに対し、さまざまな拷問を加えて、法華を捨てて念仏を称えることを強要し、その挙げ句、中心者である神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を刑に処し、残る人々が信仰を捨てることを期したが、一人として退転する者が出ないので、処刑は3人までで諦め、残る17人は禁獄のうえ、追放処分としている。
以上が熱原の法難の概略である。この法難によって、日蓮大聖人は熱原の農民信徒が激しい弾圧と拷問にも屈せず信仰を貫いている姿に、時の到来を感じられ、弘安2年(1279)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を御図顕され、出世の本懐を遂げられたのである。
さて、本抄執筆の年月は弘安2年(1279)10月となっている。その前月の9月21日には、行智が日秀、日弁らと農民の法華信徒たちを刈田狼藉の咎で幕府・問注所に訴えており、この訴えに対する申し開きを幕府が日秀・日弁らに求めてきた。これに対して、日秀・日弁らが書いてきた原案をもとに日蓮大聖人が加筆されたのが本抄である。
従って本抄は、大聖人が最初から加筆されたわけではなく、おそらく日興上人を中心に、日秀・日弁が下書きをして、日興上人が身延にこれを持参し、大聖人が加筆修正されたと考えられる。
そのことは本抄の御真筆の別紙として残っている一文からも明らかである。この一文は御書全集には収録されていないが、次のようにある。
「大体此の状の様に有る可きか。但し熱原の沙汰の趣、その仔細出来せるか」
なお、弘安2年(1279)10月12日の伯耆殿御返事にも同様の御文がある「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか、但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456-01)
伯耆殿御返事は、御執筆の時期、内容から滝泉寺申状に関連して与えられた御抄と考えられるので、本抄別紙の文と前後して書かれたと推察される。おそらく、本抄の案文に沿って申状が書き直され、それに付されたのが伯耆殿御返事であろう。
本抄は原本が中山法華経寺に現存しており、全11紙からなる。前半の8紙は大聖人、残りは別の筆跡になっている。また、後半の別の筆跡の部分にも、大聖人の加筆訂正が何個所かあり、また何行かについては、大聖人の書き直された文章が最後の11紙の末尾に添えられている。
本抄は、内容的に大きく二つに分かれている。これは行智の訴えた条目に対応したもので、前半は「日秀・日弁が日蓮の弟子と名乗って、法華経以外の余経と真言を行じている者は今世・後世共に救われないと云い触らしているのはけしからん」という訴えに対する申し開きとなっている。大聖人の御真筆はこの項の大部分にわたっており、これは大聖人の法門の根幹にかかわる問題で、おそらく、日秀・日弁の書いてきた文章では不満足とされて、日蓮大聖人が直接、筆を執って書き直されたと拝される。
それに対して、後半は、熱原の農民信徒を捕えたのは、信徒たちが日秀の指図のもとで院主分の田の稲を刈り取ったからであるという訴えに対する申し開きで、これは大聖人の法門の内容に関わりのない、事実の経緯と、日秀らの立場の問題でもあるので、大筋は「大体此の状の様に有る可きか」と仰せられて、ほぼ原案どおりに任せられたのであろう。
本文に入って、まず冒頭に「駿河の国・富士下方滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す」とある。これが訴状に対する弁明の書としての形式に則られたものであることは容易に推察されるところであるが、ここで大事な点は、日秀・日弁の身分を「滝泉寺の大衆」と明確にされているところであろう。これは、訴えの一つの焦点である、行智の日秀らに対する処置の不当性に直接関わる問題だからである。
次に「当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事」とある。これは、行智の訴状そのものが、本来、行智には院主代としてあるまじき非法の振る舞いがあることが露見するのを恐れて、日秀・日弁を追い出そうとしてこのような訴えを起こしたのであると、厳しく断じている一文である。行智の非法の振る舞いの幾つかについては、第二の訴えに対する弁論のなかで列記されているが、前述したような、大聖人門下の農民たちに対する迫害と共に、一般的には仏門に仕える僧としてあるまじき種々の悪行が含まれている。
これまでは、滝泉寺という閉鎖的な集団社会のなかで隠されてきた院主代の悪行が、日秀らが法華経を信仰し、近隣農民たちをも教化するようになって、開かれた社会になっていくと、人々の耳目に触れるところとなり、院主代としての立場が危うくなることを危惧し始めた、それが日秀・日弁らを追い出す策謀たなったことが十分に考えられる。
しかも、この時には、すでに農民20人を捕らえ、鎌倉に送っていたから、何としても農民を教化した日秀・日弁を悪者に仕立てなければならなかったのである。その背後には、鎌倉にあって、移送されてきた農民信徒を、取り調べという名目のもと、迫害していた平左衛門尉の入れ智慧もあったと考えるのが自然である。行智らが大聖人門下である日秀らの訴えが出されれば、自分が大聖人信徒の農民たちを厳しく詮議していることも正当化されるからである。
さて第一の訴えは「日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す」というものである。
これが訴える理由となりえた背景には、いわゆる「悪口の科」というのがあり、他宗、他人を悪口するのを禁ずる法があった。御成敗式目の第十二条がそれである。しかも、そのうえ、この弘安2年(1279)当時は、先の文永11年(1274)の来襲に続いて、再度、蒙古軍が攻めてくることが必至の状況で、鎌倉幕府も朝廷も、各宗とりわけ真言の大寺に命じて蒙古調伏の祈禱を行わせていた。ところが「真言の祈りは今世後世叶う可からず」と、日蓮大聖人一門の連中は言い触らしているとなると「後世」の成仏のみならず「今世の祈り」である蒙古調伏も効き目がないということであるから、大聖人一門のことを国家に対する反逆者集団と印象づけることができるわけである。
左衛門尉にしてもれば、日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免になって鎌倉に帰ってこられた時の4月8日、直接面談し、懐柔しようとしたにもかかわらず、一蹴されたうえ、種種御振舞御書にあるように、強烈に折伏されてしまった不快な思い出があるから、あわよくば日秀・日弁とのつながりで大聖人を身延の山奥から呼び出して弾圧を加えることができると期待したであろう。そうしたもくろみも、この訴えの文言の奥に垣間見ることができる。
ただし、そうした幕府内の動きは、これより前からあったようで、弘安元年(1278)4月に御述作とされる檀越某御返事には、またも大聖人を流罪しようという動きがあるとの報を受けられて「もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり、今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし」(1295-01)と仰せられている。
従って、今度の滝泉寺・行智の訴状に対しても、むしろ大聖人は、自ら矢面に立つ形で、日秀・日弁の「本師」は大聖人自身であること、日秀・日弁らが言っていることは立正安国論以来、大聖人が一貫して叫ばれ、そのために大難にあってきたことであり、しかもそれは仏法に照らして日本の国を救うためであるから、これこそ日本国に対する最大の忠誠の道であることを堂々と答えられている。
この第一の訴えに対する答えの段は、前述したように、ほぼ全面的に大聖人の御真筆で、この段末尾の「此等之子細相胎御」までの7枚に書かれ8枚目から、おそらく原案の起草者の文字のまま、何個所か修正を加えられているのみで、生かされている。大聖人御自身の一貫した心情と行動を明確に述べられたものであることが分かる。
その内容は、まず、大聖人の安国論執筆・上呈から、そこでの予言が的中したこと、従って大聖人の教えこそ、日本の国を滅亡から救う大法であることを簡潔に述べられている。そのなかで「外書」すなわち中国の古典と「内経」すなわち仏教経典を引用されて、未来を正しく見通す聖人が日本におられることこそ、日本国の人々にとって国が救われるための頼りであることを強調されている。
それは、根本的には未来を正しく見通されている智慧の故であるが、それと共に、仏法上の聖人は諸天・竜からもかしずかれる立場であるから、これらの諸天や竜たちが蒙古軍を打ち破る働きをしてくれるのであろうと、日秀らの口をとおして述べさせておられる。ここで述べられている「諸竜を駆り催して敵船を海に沈め」は文永の役の時にそのとおりになっていたし、本抄の2年後の弘安の役では、さらに明確に現実になったことは、よく知られているとおりである。
ただし「梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」は現実にはならなかった。これは、あくまで、日本国の人々、なかんずく鎌倉幕府が日蓮大聖人の教えを信じ、仏として救済者として仰いだ場合のことだからである。蒙古王を捕らえるなり倒すなりしてこそ、真の日本の勝利といえると大聖人が考えておられたことは、弘安4年(1281)10月の富城入道殿御返事で、真言僧らが、自分たちの祈禱で日本は勝ったと言い触らしているのに対し「蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし」(0994-17)と述べられている御文にも拝される。
0850:13~0851:05 第二章 諌暁を用いぬ為政者を責めるtop
| 13 抑大覚世尊・遥に末法闘諍堅固の時を鑒み 此くの如きの大難を対治す可きの秘術を 説き置かせらるるの経文 14 明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず、随つ 15 て四依の大士内に鑒みて説かず 天台伝教而も演べず時未だ至らざるの故なり、 法華経に云く「後の五百歳の中に 16 閻浮提に広宣流布す」云云、 天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く 「代を語れば則ち像 17 の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則五濁の生・闘諍の時」云云、 東勝西負の明文なり。 -----― そもそも釈尊は、遠く未来末法は争いに明け暮れる時代を見通され、このような大難を対治する秘術を説き置かれた。経文は明らかである。しかし、仏が入滅されてから二千二百二十余年の間、インド・中国・日本・世界中において、その教えはまだひろまっていない。従って、正法時代の竜樹・天親等の四依の菩薩も、内心には深く悟ってはいたものの、説き出すことはせず、像法時代の天台大師や伝教大師も述べなかった。それは、まだ時がきていなかったからである。法華経薬王菩薩本事品第二十三には「仏滅後五つの五百年に世界中に広宣流布して」とある。天台大師は「後の五百年に妙法が広まり、遠く未来までうるおすであろう」といい、妙楽大師も「五五百歳」と言い、伝教大師は「法華経流布の時代は像法の終わり・末法の初めであり、その地は中国の東・カムチャッカの西である日本であり、その時の衆生は五濁の盛んな衆生であり、人々が互いに争い合う時である」とある。これらは東の日本が勝ち西の蒙古が負けることを示した明らかな文である。 -----― 18 法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り 君の為臣の為神の為仏の為 災難を対治せらる可きの由・勘え 0851 01 申すと雖も御信用無きの上・剰さえ謗法人等の讒言に依つて 聖人・頭に疵を負い左手を打ち折らるる上・両度まで 02 遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され毒害.刃傷.禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難勝げて計う可 03 からず、茲に因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り 万民悉く一闡提の人と為るの故に 天神・国を捨て地神・ 04 所を辞し天下静ならざるの由・粗伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり、 外経に云 05 く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。 -----― 法主・日蓮聖人は、広まるべき時を知り、広まるべき国を知り、広まるべき法を知り、衆生の機根を知って、君主の為・民の為・神の為・仏の為に、災難を対治すべき方法を考え、申し述べたけれども、信じ用いないばかりか、法華経を誹謗する人たちの中傷や悪口によって、頭に傷を受け、左手を打ち折られたうえ、伊豆・佐渡と二度まで遠流の刑に処せられ、門下の各地の弟子等は、射殺されたり、切り殺されたり、殺害や刃傷・牢に囚われること・流罪・打たれ叩かれたこと・所を追い出されること・悪口等の大難は数え上げることができないほど多い。 こうしたことによって大日本国全体が法華経の大怨敵となり、すべての人々は皆、成仏の機縁のない謗法の人となったので、この国と衆生を守護すべき天の神は国を捨て、地の神もこの地を去って、天下が安穏でなくなったのである。この旨を日蓮聖人から伝え承わってするので、その器ではないけれども、愚かな考えであることを恐れつつも、申し上げる次第である。外経に「悪人が権力の中枢にいれば、賢人は前に進み出てこないようなものである」とあり、仏経典には「正法を壊る者を見ながら、責めない者は、仏法のなかにおいて怨となる」とある。 |
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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闘諍堅固
大集経巻55で、釈尊滅後の時代を500年ごと五期に区切って、仏法流布の時代的推移を明かしたものの第五。仏の教えの中の論争が絶えず、正法が見失われてしまう時代。
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秘術
人に知られないやり方。意図的な場合とそうでない場合がある。
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如来
①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
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滅後
仏が入滅したあと。
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身毒
漢代以降の中国でインドのことを、身毒・天竺等という。
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尸那
外国人が中国を指して呼んだ名。尸那は中国の王朝名である秦がなまって伝えられ、それが漢訳されたといわれる。インドではチーナとよばれていた。
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扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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流布
広く世に広まること。
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四依の大士
仏滅後正法時代に正法を護持し弘通した人々のよりどころとなる四種の人格のこと。人の四依・四依の賢聖・四依の聖人・四依の菩薩・四依の論師ともいう。
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内に鑒みて
内鑒冷然のこと。心の中では充分知っているが、外に向かっては言いださないこと。
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天台伝教而も演べず
天台や伝教は一念三千の文底秘沈の大法を知ってはいたが、外に向かっては説いていなかったこと。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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時未だ至らざるの故
天台・伝教の時代は三大秘法が広宣流布する末法の時代に至っていなかったということ。
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後の五百歳
法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。
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大師
①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
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妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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五五百歳
釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
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像の終り末の初め
像法の終わりで末法の初めであるということ。釈迦仏法でいうと滅後2000年前後をいい、平安中期。
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唐
(0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
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羯
6世紀半ばから7世紀にかけて、中国東北部に住んでいたツンダース一族の地。当時は日本の東に位置していると考えられていた。カムチャッカを指す場合もある。
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五濁の生
五濁悪世の末法に生を受けること。またその人。五濁とは生命の濁りの諸相を五種に分類したもの。劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁のこと。
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闘諍の時
戦い争うこと。大集経には「闘諍言訟して白法隠没せん」とあり、末法の初めの500年を指している。釈尊の仏法のなかにおいて争いが絶えず起こり、正しい教えが隠没する時代である。
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東勝西負の明文
東が勝ち、西が負けるということ。
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時を知り国を知り法を知り機を知り
仏法を弘めるには、宗教の五綱によらねばならないということ。五綱は五義ともいう。日蓮大聖人が定められた、仏法を広めるにあたって心得るべき五つの規範。「教」「機」「時」「国」「教法流布の先後」の五つをいう。「教機時国抄」(438㌻以下)、「顕謗法抄」(453㌻)で具体的に明かされている。大聖人は五義について「此の五義を知って仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか」(440㌻)、「行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし」(453㌻)と仰せである。①教を知る。一切の宗教・思想、なかんずく仏教の教えについて、その内容の正邪・浅深・優劣を判別し、どの教えが最高の教えであるかを知ること。②機を知る。機は人々の仏教を信じ理解する能力。人々がどのような教えを求め、どの法によって教化される衆生であるかを知ること。③時を知る。現在がいかなる時であるかを知り、その時にどの法を広めるべきかを知っていること。④国を知る。それぞれの国や社会、地域によって異なる自然的、文化的状況の相違に応じて弘教の方法を考え、教えを展開していくこと。⑤教法流布の先後を知る。先に広まった教えを知って、後に広めるべき教えを知ること。後に広める教えは、先に広まった教えよりも優れた教えでなければならない。
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君の為臣の為神の為仏の為
日蓮大聖人が立正安国論を上呈されたのは、①君の為、天皇のため。②臣の為、一切衆生のため。③神の為、日本の守護神のため、④仏の為で、決して私欲のためではないとの意。
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謗法人
謗正法の人。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせる人。
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讒言
告げ口・悪口をいうこと。
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頭に疵を負い左手を打ち折らる
小松原法難のこと。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていたが、壇越の工藤吉隆の招待を受け、大聖人は華房(はなぶさ)に向かわれた。その途中の東条郷(千葉県鴨川市)の小松原で東条景信に要撃され、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折された。
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両度まで遠流の責を蒙むり
伊豆流罪と佐渡流罪のこと。①伊豆流罪、弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。②佐渡流罪、文永8年(1271)9月12日、大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同深夜、鎌倉の外れ竜口で斬首の刑にあおうとした。しかし夜空に輝く〝光り物〟が現われて、恐れた平左衛門尉らは斬首を果たせず、そのまま依知を経由して大聖人を佐渡に流罪したのである。 流罪期間は文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月25日まで。種種御振舞御書にくわしい。
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門弟等所所に射殺され切り殺され
小松原法難と熱原法難のこと。①小松原法難、文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。②熱原法難、建治元年(1275年)ごろから弘安6年(1283年)ごろにわたって、駿河国富士下方の熱原地域(静岡県富士市厚原)で日蓮大聖人門下が受けた法難。大聖人が身延に入られた後の建治年間、この駿河方面では、日興上人が中心となって弘教を進めており、教勢が拡大していた。当時、駿河国は、執権の北条氏一族が国守・守護を務め、特に富士地方には北条重時の娘で時頼の夫人にして時宗の母である「後家尼御前」の御内が多く、その影響力が大きかった。熱原・滝泉寺の院主代である行智は、そうした北条氏一族の権威をかさにきて数々の悪行を重ねていた。その中で行智は、同寺に在住している僧で大聖人に帰依した日秀・日弁らと同地域の信徒を激しく迫害した。弘安2年(1279年)には、富士下方の政所(荘園を治める家政機関)の代官にはたらきかけて、4月8日の大宮浅間神社の祭礼の時に信徒の四郎男(四郎の息子)を傷害し、8月には弥四郎男(弥四郎の息子)を斬首し、その罪を大聖人門下に着せようとした。さらに9月21日には、稲刈りをしていた熱原の農民信徒20人が、刈田狼藉との無実の罪を着せられて不当逮捕され、鎌倉に護送された。行智は虚偽の訴状をつくり、「日秀らが9月21日に多数の人を集めて弓矢をもって院主分の坊内に乱入し、農作物を刈り取って日秀の住坊に取り入れた」などと、自ら訴人となって訴訟を起こした。裁判に向けて作成された日秀・日弁らによる弁明書案(「滝泉寺申状」、849㌻)について、大聖人は自ら前半を執筆、後半を加筆・訂正して、応援された。農民信徒たちに対する取り調べは、平左衛門尉頼綱が自ら私邸で行った。拷問に等しい尋問の中で、信徒たちは信仰を捨てて念仏をとなえるよう強要されたが、一人も退転する者はいなかった。ついには神四郎ら3人が斬首され殉教し、残りの17人も追放という処分を受けた。大聖人は、権力による不当な迫害に屈せず不惜身命の信心を貫く熱原の信徒の姿について「偏に只事に非ず」(1455㌻)と仰せになり、「法華経の行者」(同㌻)とたたえられている。そして、この法難で三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことを機に、大聖人は「聖人御難事」(1189㌻)を著され、「出世の本懐」を遂げられたと仰せになっている。
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門弟
弟子・門人・門下生。
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刃傷
刀を持って切りつけること。
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禁獄
牢獄に閉じ込めること。
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流罪
罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
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打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
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擯出
人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。
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罵詈
誹謗し謗ること。
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大怨敵
邪法をもって仏や正法を持つものを迫害する敵人
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万民
すべての人々。
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一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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天神
①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
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地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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所を辞し
現在いるところから去ること。
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伝承
①伝え聞くこと。②伝え受け取ること。
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其の仁に非ず
その器ではないが、との意。
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愚案
自分の意見をさげすんでいう言葉。
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奸人
心のねじけた人。
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朝
①権力の中枢。②日本国。
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賢者進まず
賢人が自ら前に出て働こうとしないこと。
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仏法
①仏の説いた教法。八万四千の法門・法蔵があるといわれる。②仏が証得した法③仏が知っている法。
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初めに「大難を対治す可きの秘術」は、釈尊が経文に「明明」と説かれておかれたが、これは正像末弘の大法であり、末法に初めて広められていることを述べられている。この「秘術」こそ日蓮大聖人が広めておられる三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。
従って「法主聖人」は、時と国と法と機などの条件を見抜いて、「君の為・民の為」すなわち社会の平和と人々の幸せのため「神の為・仏の為」すなわち仏法の興隆のために説き始められたのであるが、日本国の指導者たちはこれを用いないのみか、かえって正法誹謗の輩を告げ口に踊らされて、大聖人および門下に数々の迫害を加え、一国挙げて謗法の国となってしまった。そのため、日本の国を守るべき天神・地神共に去ったことによって、天下はすっかり乱れてしまったと記されている。
以上は、まさに、日蓮大聖人のこれまでの御振る舞いと、それに対する幕府権力・諸宗の対応の不当性を明確にされたもので、大聖人御自身以外には、これだけ簡潔でありながら本質をとらえて示すことは、だれにもできなかったであろうと思われる。
従って、次に「の由・粗伝承する」と、入信してまだ日の浅い日秀・日弁らの立場で「このように伺っている」とされたうえで「伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり」と、これをそのまま、大聖人の弟子としての日秀・日弁らの意見陳述にされている。日秀らにしてみれば、大聖人のこれまでの御振る舞いや幕府の対応を自分の眼で見たわけではないが、大聖人の弟子となって、そのように聞いているのであるから、その伝え聞いている内容とおりに自分たちも、それを改めて訴えると言っているわけである。
そして、自分たちが、このように幕府当局に対して、恐れることなく、意見を開陳する理由として、外経と内経の文を一つずつ挙げられている。この「外経」の出典は不明であるが、日蓮大聖人を亡き者にしようとして亡国の邪義を言い触らす奸人が権力の中枢を毒している当時の現実を言い当てた文になっている。「内典」は、この場合、涅槃経で、正法がないがしろにされている現実を知りながら黙っているわけにはいかないという決意の根拠の文となっている。
0851:06~0851:11 第三章 調状の誤りを諌めるtop
| 06 又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云、其の状を見聞するに去る元暦・承久の両帝・叡山の座 07 主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校長吏等の諸の真言師を請い向け 内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍 08 並に故平右虎牙の日記なり、 此の法を修するの仁は敬つて之を行えば 必ず身を滅し 強いて之を持てば定めて主 09 を失うなり、 然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し 叡山の明雲は流矢に当り 後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ東 10 寺・御室は自ら高山に死し北嶺の座主は改易の恥辱に値う、 現罰・眼に遮り後賢之を畏る聖人・山中の御悲みは是 11 なり。 -----― また、伝え聞くところによれは、諸宗の高僧等を請い招いて蒙古国をくだす祈禱をさせたとのことであるが、こうしたことについて種々見聞してみるのに、元暦の時の安徳天皇、承久の後鳥羽上皇が、比叡山の座主・東寺の長者・仁和寺の御室・南都の七大寺・園城寺の検校や長吏等の、いろいろな真言師を請い向けて、内裏の紫宸殿において源頼朝や北条泰時を咒咀されたことが、日記にある。この法を修する人は、自分だけで行なった場合でも、必ず身を滅し、強いて、必ず主君を失うことになるのである。 したがって安徳天皇は西海の壇ノ浦に沈んで亡くなり、比叡山の明雲座主は流れ矢に当たって死に、後鳥羽法皇は隠岐島に流されて捨てられ、御室の道助法親王は高野山で死に、北嶺の尊快座主は罷免されている。 これらの現罰は目をおおうほどであるので、後世の心ある人はこのことを恐れている。日蓮聖人が身延の山中の悲しまれているのはこのことである。 |
風聞
ほのかに聞くこと。うわさ。
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高僧
身分の高い僧侶。
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崛請
僧侶を請い招くこと。
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調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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見聞
見たり、聞いたりすること。
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元暦
日本の年号。1184~1185。
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承久
日本の年号。1219~1222。この3年(1221)承久の乱が起こっている。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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座主
大寺の管長のこと。
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東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
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御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。御書にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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検校
高野山・熊野・日光などの一山を統領する職名。
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長吏
僧の職名であるが、園城寺や観修寺の寺主に用いられる。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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内裏
天皇の住む宮殿。御所。皇居。
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紫宸殿
京都市上京区にある御所内裏の正殿のこと。
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咒咀
神仏に祈り、うらみに思う相手をのろうこと。
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源右将軍
(1147~1199)源 頼朝のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。
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平右虎牙
(1183~1242)北条 泰時のこと。鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権。在職:貞応3年(1224~仁治3年(1242)。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。
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安徳天皇
(1178~1185)。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁。母は平清盛の息女徳子である。治承4年(1180)3歳で第81代の天皇に即位。源氏に追われる平氏に擁されて西海に落ち寿永4年(1185)壇ノ浦で入水。文治3年(1187年)安徳天皇とおくり名された。大聖人は平家は真言によって源氏調伏の祈りを行なったためわが身を滅ぼしたと真言亡国の例に引用されている。
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西海
西方の海のこと。大聖人の御書のなかでは、壇ノ浦をさす場合が多い。
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明雲
(~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
―――
後鳥羽法皇
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
―――
夷島
都から遠く離れた島。
―――
東寺・御室は自ら高山に死し
後鳥羽天皇の第二子である道助法親王が承久の乱ののち、高野山で死去したことを指す
―――
北嶺の座主
比叡山延暦寺の座主。
―――
改易
改めてかえること。職を解任すること。土地などを召し上げること。
―――
現罰
表面に明らかにあらわれる罰。
―――
後賢
後世の賢者。
―――
聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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ここでは「又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云」と、先の訴状の「真言の行人は」に関連して、より具体的に幕府と朝廷が真言宗の高僧らに蒙古調伏の祈禱を行わせている愚かさを指摘されている。この高僧らには、当時、天台宗と一体化していた天台宗の高僧も含まれてることはいうまでもない。
この問題に関しては「元暦」すなわち平氏滅亡時の安徳天皇の悲運と、「承久」すなわち後鳥羽上皇の事変という歴史上の事実を挙げられ、真言の秘法による祈りが、祈った者自身の破滅が招くことを指摘して「現罰・眼に遮り後賢之を畏る」と戒めている。現罰が明確なのであるから、後世の賢人はこれを「畏る」べきであるとの意である。そして「聖人・山中の御悲みは是なり」と日蓮大聖人御自身、身延の山中にあられても、このことを深く憂慮されているところであると結んでいる。
0851:12~0852:09 第四章 阿弥陀読誦の誤りを破折するtop
| 12 次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事、 夫れ以みれば花と月と水と火と時に依つて之を用ゆ必ず 13 しも先例を追う可からず、 仏法又是くの如し時に随つて用捨す、其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十 14 余年未顕真実の小経なり、 一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は 多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げ 15 ず然る後・彼の経を抛ち末に法華経に至つて華光如来と為る、 況や末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱 16 えて順次往生を遂ぐ可しや、 故に仏・之を誡めて言く法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云教 17 主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云 又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も 若し衆生の虚妄の説に因る 18 を知れば」と云云、 正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く「但楽て大乗経典を受持し乃至余経 0852 01 の一偈をも受けざれ」云云、 妙楽大師云く「況や彼の華厳但以て称比せん此の経の法を以て之を化するに 同じか 02 らず故に乃至不受余経一偈と云う」云云、 彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、 上本は十三世界微 03 塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の 04 外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或 05 は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、 何に況や阿弥陀経をや、 唯大山と蟻岳との高下・師子王と狐 06 兎との捔力なり。 -----― 次に、阿弥陀経をもって朝夕の勤めとすべきであると言っていることについて、そもそも考えてみるのに、花や月を愛でるのも、水や火を使うのも、時に応じて用いるものである。必ずしも過去の例を追う必要はない。仏法も同じである。時に応じて用いたり捨てたりするのである。そのうえ、行智らが執着している阿弥陀経四巻の経は、釈尊が「四十余年の間、未だ真実を顕さず」と断じられている小経である。世界第一の智慧の者である舎利弗尊者も、多年の間、この阿弥陀経を読誦し修行したけれども、ついに成仏を遂げることはできなかった。ところが、その後、彼の阿弥陀経をなげうち、法華経に至って悟り、未来に華光如来となる授記を得たのである。舎利弗さえそうであるから、まして末法の悪世の、仏法を知らない愚かな衆生が南無阿弥陀仏とだけとなえて、次の世で極楽浄土で往生することができようか。故に、仏はこのことを戒めて法華経方便品第二に「正直に、方便の教えである爾前経を捨て、この上ない最高の道である法華経を説く」と言われた。仏法の教主である釈尊がまさしく阿弥陀経を捨てられたということである。また大般涅槃経第十七には「如来には偽りの言葉はないが、もし衆生が偽りの言葉によって利益を受けることがあると知れば、よろしきにしたがって方便の教えを説く」とある。これはまさしく阿弥陀の念仏を偽りの説経とされた文である。法華経譬喩品第三には「ただ、願って大乗真実の経典を受持し、他の一偈でも受けてはいけない」と言われ、妙楽大師は「彼の華厳経では福をもって比較しているのであり、この法華経で法をもって比較しているのとは同じではない。故に『余経の一偈をも受けざれ』と言っているのである」と述べている。彼の華厳経は仏が寂滅道場で説いた、一切の世界はただ心によって造られるとする法門である。竜宮には三本あったとされ、上本は十の三千世界を砕いてできる微塵の数ほどの品があり、中本は四十九万八千の偈があり、下本は十万の偈、四十八品である。今、現実に一切経蔵をみると、ただ八十巻のもの、六十巻のもの、四十巻等の経がある。そのほか方等時の経典・般若経・大日経・金剛頂経等のさまざまな顕経・密経の大乗経典を、法華経と比べて、仏自らが、あるいは「他の経は未だ真実を顕していない」といい、あるいは「法華経を聞かない者は成仏ができない。それは難が多い、険しい道を行くようなものである故である」と言っており、あるいは「法華経以外の門を閉じよ、抛て」等と言っているのである。ましてそれより劣る阿弥陀経は比較にならない。ただ大きな山と蟻の作った小さな砂山とをどちらが高いか低いかを争うようなものであり、師子王と狐や兎とが力比べをするようなものである。 -----― 07 今日秀等専ら彼等小経を抛ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して 南無妙法蓮華経と唱え奉る豈殊忠に非ずや、 08 此等の子細御不審を相貽さば高僧等を召され是非を決せらる可きか、 仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本 09 の先例なり、今明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや。 -----― 今、日秀等が彼の小経をなげうち、法華経のみを読誦し、世のあらゆる人々に勧めて南無妙法蓮華経と唱えていくことこそ、ことのほか日本国に対する忠義ではなかろうか、今まで述べてきたことの詳細について不審が残っているならば、諸宗の高僧等を召し出され、どちらの言っていることが是か非かを決せられるべきではなかろうか。仏法の優劣を究明することは、インド・中国・日本において先例がある。今、明君の時であり、どうしてインド・中国・日本の三国の先例に背いてよいのであろうか。 |
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
例時の勤
決まった時間に行う勤行のこと。
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四十余年未顕真実
「四十余年には末だ真実を顕さず」と読む。無量行説法品の文である。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。
―――
小経
小さな経・小乗教、仏の本意ではない方便の経。
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一閻浮提第一の智者
全世界で最も優れた智慧の持主。
―――
舎利弗尊者
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
華光如来
釈迦の十大弟子の中で最も智慧に優れた舎利弗が、将来仏となった時の名で、その時に住む国の名。舎利弗は未来世において千万億の仏に導かれ、法を正しく保ったため成仏するとされる。華光如来の寿命は十二小劫で、大宝荘厳の国民の寿命は八小劫であり、そして華光如来が世を去る際に弟子の堅満菩薩に次のような記を与えるとした。曰く、この者は私の次に仏となり、名は華足安行如来である。そしてまた、華光如来入滅後に正法と像法は三十二小劫の間続くだろう、とされた。
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末代悪世
末代は正像末の三時のうちの末法。悪世とは人心が乱れ、悪事の横行する世との意味で、末法は三毒強盛の衆生が充満し、釈尊の教えでは救いきれない悪い世であることをいう。
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南無阿弥陀仏
阿弥陀仏に南無すること。観無量寿経にある。善導は観経疏巻一で「南無と言うは即ち是れ帰命なり、亦是れ発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ行なり。斯の義を以っての故に必ず往生を得」と釈し、南無阿弥陀仏の六字を称え心に念ずれば極楽世界に往生できるとしている。
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順次往生
死んですぐに往生するという浄土宗の僧。
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教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
虚妄
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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弥陀念仏
阿弥陀仏の名を称え、深く心に念ずること。
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大乗経典
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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一偈
「偈」ゲダ(gāthā)の音写。仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤーなどがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。
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華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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寂滅道場
釈尊は19歳で出家し、最初は多くの婆羅門について学んだが、解脱の道でないことを知り、もっぱら苦行に励んだ。しかし、これも解脱の道とはならず、尼連禅河にはいり沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳を飲んで身心がさわやかになることができた。こうして最後に伽耶城の菩提樹下の金剛宝座の吉祥の奉る浄輭草をしいて安住した。ここで沈思黙想7週間(49日)魔を降して12月8日の朝暁、朗然と悟りを開き、その座で3週間十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であり覚道の地であるがゆえに「寂滅道場」という。
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法界唯心
あらゆる存在はただ心が造り出したものであり、決して心を離れて存在するものではなく、心の外には別の法はないと説く華厳宗の教義。唯心法界のこと。
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一切経蔵
①三蔵の一つで経典のこと。②経典を納める書庫。
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方等
方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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顕密大乗経
顕教と密教を説いている種々の大乗経典。
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対当
比較相対すること。
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留難多きが故に
無量義経十功徳品第3に4「其れ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は 為れ大利を失えるなり。 無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ず ることを得ず。 所以は何ん、 菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故 に」とある。法華経を聞かない者は、難が多く険路を行くようなもので、いつまでも成仏できないとの意味。
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蟻岳
蟻塚のこと。蟻が巣を作る際、地表に出した土でできた山。
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師子王
ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。
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狐兎
キツネとウサギのこと。
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捔力
「すもう」と読む。
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読誦
読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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法界
意識の対象となる一切の事物・事象。有情・非情にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象・界は差別・境界。
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勧進
勧め、さそうこと。①人々に勧めて仏道に入らせ、善に向かわせること。②仏寺・仏像の建立・修善などのために、人々に功徳善根を勧めて寄付を募ること。また、それにたずさわる人。
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殊忠
強い忠誠心。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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明時
①平和におさまっている世の中。②賢明な主君の世の中。
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三国の旧規
三国は、インド・中国・日本。旧規は古い規則。先例。
―――――――――
「次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事」とある。これは、滝泉寺において、院主代行智が念仏を恒例の勤めと定めたにもかかわらず、日秀らが従わないのは不当であるとの訴えのようである。
この点に関しては、権実相対の法門をもって答えとされ、その結びとして「今日秀等専ら彼等小経を抛ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る」すなわち念仏をはじめ爾前権教の小乗を捨てて南無妙法蓮華経と自らも唱え、広く人々に勧めていることこそ仏の真意にかない、日本国の人々の幸せを増大する道であるから、最も忠誠を尽くしていくことになると述べ、それでもまだ疑問があるなら高僧等を召して是非を決せられるべきであると結んでいる。
第一の訴状に対して、日蓮大聖人御自身が筆を執られた、以上の言葉を拝して分かるように、訴えられたことに対して単に受け身で答える「弁明」などではなく、積極的に諸宗および、それに与する幕府権力の仏法上の誤りと権力を担う者としてあってはならない過ちを指摘し、蒙古軍の襲来という未曽有の国難に直面している日本の国を救うため、正法正義を訴えられた烈々たる諌暁の書となっている。
このように、権力を盾に脅してくる相手を前に、普通ならば受け身になって弁明したり、逃れようとしたりするところを、むしろ正法に目覚めさせる好機として堂々と折伏し諌暁されたのが大聖人の振る舞いであられた。
これは遡れば佐渡流罪御赦免後の平左衛門尉との対面の御姿にも、さらには竜の口の法難の日、逮捕にきた平左衛門尉に対応された御姿にも共通して拝される。まさに、師子王の御振る舞いといえよう。
彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや、唯大山と蟻岳との高下・師子王と狐兎との捔力なり
阿弥陀経の読誦を日常の勤めとするように、幕府が諸寺に命令していることに対して、その非を諭している段落の一節でる。「仏法又是くの如し時に随つて用捨す」とあり、仏法というのは時代時代によって、いかなる経教を用い、いかなる経教を捨てるか、ということが大切であることを述べ、阿弥陀仏の読誦は末代悪世の愚人には用いるべきではないとした後に、この文が説かれている。その内容は法華経以外の阿弥陀経を含む諸大乗経が釈尊50年の説法のうち、40余年の「未顕真実」の経々であることを明らかにしている。
諸大乗経のうち、まず、華厳を取り上げて、釈尊が菩提樹の下で寂滅の菩提を開いた直後に説いた経であることを明かし、この経の中心の思想が「法界唯心の法門」すなわち、全世界のあらゆる存在がただの心を造り出したものである。心を離れて存在するのではない、とする質の高い法門を説いていることを示した後、この経が膨大な量からなることを述べている。「上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり」とあるのは、華厳経がいかに膨大な量から成っているかを説いているところである。
まず、華厳経に「上本」「中本」「下本」があったというのは伝説として伝えられている。「上本」の華厳経は「十三世界微塵品」とある。ただし、華厳経伝記巻一には「上本、十三千世界微塵数偈微塵数品有り」とある。従って、三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の微塵の数ほどある偈文から成っているのが「上本」であるということである。「中本」の華厳経は「上本」よりは限定されて「四十九万八千偈」から成り、「下本」ははるかに少なく「十万偈四十八品」から成る、とされている。伝説によると、この三種の華厳経のうち、上本と中本の華厳経は竜宮にあって、そのほかには伝わらず、第三の下本の華厳経のみが伝え広まったという。下本の華厳経はされに簡略化されて、三本が中国に伝えられたという。「今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり」とあるのがその三本である。
まず「八十」華厳経は実叉難陀が四万五千偈を漢訳して八十巻としたものであり、「六十」華厳経は東晋の仏陀跋陀羅が三万八千偈を漢訳して六十巻としたものであり、さらに、般若三蔵が「入法界品」を漢訳して四十巻としたものが「四十」華厳経である。
次いで「其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等」とあるように、法華経を除けば質量共に勝れた華厳経以外の方等経・般若経・金剛頂経などの顕教・密経の諸経の名を挙げて、華厳経を含むこれらの諸大乗経は、「法華経に対当」すなわち、真実教でるとする法華経に対比すると、「未顕真実」となり、衆生が成仏するには困難の多い経々であり「門を閉じよ」「抛て」というべき経々であるとしたうえで、これらの諸大乗経ですら、そうなのだから「何に況や阿弥陀経をや」として、法華経に対するその位置の低さを強調している。
ここで、諸大乗経が法華経に対して「閉じよ」「抛て」の経であると述べているのは法然が浄土三部経以外の諸大乗経を「捨てよ・閉じよ・閣け・抛け」と否定した言葉を、逆に、法華経以外の諸大乗経、なかんずく、阿弥陀経を否定するのに用いたのである。なお、法華経と阿弥陀経との対比は、大山と蟻岳の高低、師子王と狐・兎とのすもう、に譬えている。
0852:10~0853:04 第五章 行智の訴えの不実を示すtop
| 10 訴状に云く 今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百 11 姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。 -----― 行智らの訴状に、今月二十一日、日秀は数くの者たちを誘い出し、弓や矢を身につけて、院主の分である建物の中に打ち入り、下野坊日秀は武具を付けて馬に乗り熱原の農民の紀次郎は立て札を立て、農作物を刈り取り、日秀の住む房に取り入れた、と大要そのようにいっている。 -----― 12 此の条・跡形も無き虚誕なり日秀等は損亡せられし行者なり 不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ 13 可き将た又オウ弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや、 然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣 14 の人人争つて弓箭を奪い取り 其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、 矯飾の至り宜しく賢察に足るべ 15 し。 -----― このことは全くのでたらめである。日秀は行智から不当に住坊を追われ、身を寄せる住居もない身であるから、いったいだれが日秀らの立て札を用いるだろうか。また立場の弱い土地の農民たちが、わざわざ日秀らに雇われることがあろうか。従って日秀らが弓や矢を身に付けて悪の所行を企てたのであれば、行智といい、近隣の人々といい、どうして弓矢を奪い取り日秀らの身を召し取って、事の次第を言わないということがあろうか。これらの申し立ては偽りの至りであり、よろしく御賢察いただきたい。 -----― 16 日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法の薫修を積み 天長地久の御祈祷を致すの処に行智は乍に当寺霊地の 17 院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、 法華経に於ては不信用の法なり 18 速に法華経の読誦を停止し 一向に阿弥陀経を読み 念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せし 0853 01 むるの間、 頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も 日禅等は起請を書かざるに依つて 所職の住坊を 02 奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、 日秀・日弁は無頼の身たるに依つて 所縁を相憑み 猶寺中に寄宿 03 せしむるの間此の四箇年の程・日秀等の所職の住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足ら 04 ず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや。 -----― 日秀や日弁等は、当滝泉寺代々の僧として、仏道修行を積み重ね、国主の長寿と民の平和を祈ってきたのであるが、行智は神聖な当滝泉寺の院主代の任務につきながら、寺僧である三河房頼円ならびに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せつけて「法華経は信用できない法である。お前たちもすぐさま法華経の読誦するのをやめ、ひたすら阿弥陀経を読んで念仏をとなえるという起請文を書けば、居る所を保証してやろう」という内容の命令を下したので、頼円は命令に従って起請文を書いて保障をうけたのであるが、日禅らは起請文を書かなかったので、住んでいる坊を奪い取ったところ、日禅は滝泉寺の地を離れ、河合の実家へ帰った。日秀・日弁は頼るところのない身であるので、縁を頼って、まだ寺の中に身を寄せていたのであるが、建治二年から今年までのこの四年間というものは、日秀らの住職としての坊を奪い取り、厳重に法華経の祈りを禁止しようとするあまり、これまでの悪行み飽き足らず、さらに法華経の行者の形跡をなくそうとして謀略を巡らして、さまざまなうそを周りに言いつけたのである。このことは仏在世の提婆達多そのものの姿ではなかろうか。 |
下野坊
日秀のこと。(~1329)日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
―――
乗馬相具し
武具を付けた馬に乗ること。
―――
熱原
駿河国富士郡下方庄熱原、現在の静岡県富士市厚原のこと。
―――
紀次郎男
日蓮大聖人が御在世当時に熱原に住んでいた農民と思われる。
―――
点札
境界を示す札。
―――
作毛
農作物。主として米を指す場合が多い。
―――
虚誕
うそ、いつわり。
―――
損亡
損失を受けること。
―――
安堵
安心すること。住居に安住すること。
―――
叙用
①位を授けること。人の言葉を用いること。②オウジャク
―ーー
尫弱
か弱い立場。
―――
土民の族
その土地の人。
―――
矯飾
いつわり飾らずこと。
―――
行法
仏法を修行する者。
―――
薫修を積み
修行を積むこと。
―――
天長地久
天地の存在は永遠であること。天地が永久であるように、物事がいつまでも続くことのたとえ。
―――
祈祷
神・仏・菩薩に願い祈ること。
―――
霊地
霊験あるところ。神聖な土地。霊場。
―――
寺家
①寺院。②僧侶。③比叡山延暦寺の職名で、僧事・法会・威儀などの事務を行う者。④延暦寺から園城寺をさして言った言葉。
―――
三河房頼円
滝泉寺の住僧で、日興上人の折伏によって大聖人の門下になったが、行智の脅迫に屈して退転した模様。
―――
少輔房日禅
(~1331)日蓮大聖人御在世当時からの弟子。日興上人の本弟子のひとり。駿河国川合郡由比、現在の静岡市清水区由比の出身。滝泉寺の住僧であったが建治2年(1276)院主代行智により追放されている。日興上人のもとで富士大石寺の創建に尽力。南の坊を立て、また、上野に東光寺、府中に妙音寺を建てている。弘安3年(1280)には、大聖人より御本尊を授与されている。
―――
停止
やめさせること。
―――
起請文
神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
所職
任じられた職。
―――
無頼の身
帰るところのない身。4
―――
所縁
縁するところ。
―――
寄宿
他人の家などに身を寄せること。
―――
調達
提婆達多のこと。
―――――――――
ここからは、行智の訴状にある第二点に対する反論である。
まず「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云」とあるように、行智の訴状のなかのもう一つの論点が要約的に示されている。
それによると、9月21日、下野坊・日秀が馬に乗って先頭に立ち、弓や刀で武装した多数の暴徒を指揮して滝泉寺の院主の住坊に乱入し、熱原の農民・紀次郎が立て札を立て、滝泉寺の田から稲を刈り取って日秀の住坊へ運び入れたというものである。この行智の訴えに対し、まず「此の条・跡形も無き虚誕なり」と事実無根の作り事であると反論している。その理由として、日秀はすでに行智によって損失をこうむり、住む房もなく、所轄する土地も奪い取られた立場であるから、訴状のいうように、立て札の立てようもなければ、日秀らは農民たちを雇えるわけもないからである、と述べている。
「然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては」の部分は、日秀が悪行を企めるはずがないことを述べられている。すなわち、住坊を追われ、辛うじて知り合いの所に身を寄せて、細々と生活している日秀・日弁らに、武装して馬を駆り、人々を集めて乱暴狼藉を働ける資金などあろうはずもないうえ、もし、そのような行いがあったというのであれば、近くに下方政所もあり、悪党を取り押えられるだけの役人たちもいるのだから、召し捕らえ、その武器や馬も証拠物件として提出できるはずである。
しかるに、現実に捕えられて鎌倉へ送られているのは、何の抵抗の術ももたない農民たち20人だけであるから、この訴えの内容がでたらめであることは明々白々ではないかと一蹴し、これは客観的に判断していただければお分かりいただけるはずであると述べている。
なおこの反論からいえることは、熱原の農民信徒20人が9月21日に捕えられたのであるが、日秀らの持ち田の稲刈りを手伝っているところを襲いかかれ、稲盗人として捕えられて鎌倉へ送られたものであるというのは当を得ていないことである。すなわち、この反論は、行智が訴えている乱暴狼藉を働いたということの虚偽にとどまらず、日秀には持ち田そのものがなかったことをしめしているからである。
ただし、20人の農民が捕えられたことは事実であり、もし彼らが一挙に捕えられたとすると、日秀の持ち田ではなく、この農民たちのだれかの田の稲刈りを皆で協力して手伝っていたところを襲われたとも考えられる。また、もし日秀・日弁いずれかの持ち田であったとすれば、日秀・日弁も一緒にいたはずで、彼ら農民たちと一緒に捕えられていたにちがいないからである。
次いで「日秀・日弁等は当寺代代の住侶」以下、滝泉寺でまじめに修行に励んできた日秀・日弁らを、院主代の行智が迫害した不当性が明らかにされる。特に行智が彼らを迫害する理由は、行智自身、念仏に心を寄せ、寺内の僧たちにも法華経など信じないで念仏を称えさせようとしたことにある。ところが日秀らがそれに従わないので追放処分にしたのである。
もともと滝泉寺は天台宗の寺で、法華経を根本とするのが筋であって、法華経信仰を理由に追放すること自体、不当である。百歩譲って、当時の天台宗寺院は修学の場として学校という色彩が強かったとしても、その寺内にとどめて経を心を寄せる依拠とするのは各人の自由に委ねられていた。従って行智が自らは念仏を信仰したとしても、それは本人の自由であるが、寺内の僧たちに念仏を強制する権限はなかった。
にもかかわらず、日秀・日弁を、自分の命令どおりに法華経を捨てて念仏を称えないからといって、すでに4年来、住房から追い出して苦しめ、しかもそのうえに、完全に根絶にしようという意図から、今度は根も葉もない罪名をでっちあげて幕府権力を訴えたのでる。法華経をまじめに信仰し、仏法のため、国家社会の平和と人々の幸せのために実践修行に励んでいる僧を亡き者にしようと謀略を巡らすのは「豈在世の調逹に非ずや」と厳しくその本質を指摘している。調逹とは釈尊在世に釈尊に害を加え、ひとたび命を狙った末に、最後は生きながら地獄に堕ちたとされる提婆達多のことである。
0853:05~0853:13 第六章 行智の所業を糾弾するtop
| 05 凡そ行智の所行は法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す、 日弁 06 に御書下を給い構え置く所の上 葺榑一万二千寸の内八千寸を之を私用せしむ、 下方の政所代に勧め去る四月御神 07 事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ 去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、 日秀等に頚を刎ぬる事 08 を擬して此の中に書き入れ 無智無才の盗人・兵部房静印より過料を取り 器量の仁と称して 当寺の供僧に補せし 09 め、或は寺内の百姓等を催し鶉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい 或は毒物を仏前の池に入れ 10 若干の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基悲んで余り有り。 -----― だいたい、行智の行いというものは、法華三昧堂で給仕する僧の和泉房蓮海に命じて、法華経をほぐして渋紙とし、それを切り取り、型紙として建物の修理に使っている。日弁に書き下した状をたまわって準備しておいた上葺き用の板材・一万二千寸のうち八千寸をかってに私ごとに使ってしまった。下方荘の政所の代官をそそのかしている。去る四月、大宮浅間神社で行われた流鏑馬の神事の最中に、法華経を信心している四郎を刄物で切りつけ、去る八月には弥四郎の頸を切らせた。(日秀等が頚を刎たように言い立てたことを書き入れる) 智慧なく才能のない盗人である兵部房静印より罰金を取り、優れた才能の持ち主であると言いふらして、当滝泉寺の供僧に任じ、あるときは寺域内の農民を使って鶉を取り、狸を狩り、猪用の罠にかかった鹿を殺して、別当である院主の坊で、これらを食べ、あるいは本堂前の池に毒仏を投げ入れて多くの魚類を殺し、村里に出してこれを売っている。これを見たり聞いたりした人は、耳や目を疑わないものはなかった。仏法を破滅させる根源であり、これほど悲しむべきことはない。 -----― 11 此くの如き不善の悪行・日日相積るの間日秀等愁歎の余り依つて 上聞を驚かさんと欲す、行智条条の自科を塞 12 がんが為に種種の秘計を廻らし 近隣の輩を相語らい遮つて 跡形も無き不実を申し付け 日秀等を損亡せしめんと 13 擬するの条言語道断の次第なり、 冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや、 -----― このような不善そのものの悪行が日々積み重なるので、日秀等は嘆きのあまり上に訴えようとした。そこで行智は数々の自分の罪を隠そうとして、種々の計略をめぐらし、近隣の人々を誘い入れて、何の根拠もないうそを言いつけて、日秀らを陥れようとはかったのであり、これは言語道断である。仏法上の罪においても国法上の罪においても、これを懲らしめる処置がなくてよいはずがない。 |
法華三昧
①法華経に基づく禅定修行。②天台宗の「摩訶止観」に説く四種三昧の一つ半行半座三昧のうち,「法華経」に基づいて行うもの。21日間にわたって仏像の周囲を歩く行と座禅を中心に修行し,精神を集中させて仏の智慧を得ようとすること。③法華三昧懺儀のこと。懺儀は仏教における懺悔の行法、または法会の儀式およびその儀則。諸仏菩薩に礼拝して自らの罪過を仏前に告白して容認を乞い、罪業を免れることが基調で、懺悔・悔過の行法を内容とする経論から抄出したものが、中国仏教で4、5世紀ころから治病除災などの現世得益のため行われた。それらは梁の武帝により、仏名経典と合して『慈悲道場懺法』10巻に編集されたが、天台智は止観の行法として、在来のものを『法華三昧懺儀・方等昧行法・請観世音懺法・金光明懺法・方等懺法・敬礼法』とつくり直して類形化し、『円覚経道場修証儀』18巻、『華厳経礼懺儀』42巻など膨大なものまでつくられた。日本では、法華三昧懺儀の抄出である法華懺法をさし、宮中で先帝の御忌に用いられ、天台宗勤行儀ともなっている。東大寺の御水取に用いる「吉祥悔過法」や勅会の御仏名会も懺法であり、舎利懺法、薬師懺法、弥陀懺法などがある。
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和泉房蓮海
熱原・滝泉寺に何らかの縁のある僧と思われる。詳細は不明。
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書下
配下の者に命令を下す書状。
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政所代
政所を束ねる代官。
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神事
神を祭る儀式。
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四郎男
大聖人御在世当時、富士・熱原に住んでいた農民信徒。浅間浅間神社の流鏑馬神事の折に、何者かに切り付けられ負傷している。
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弥四郎坊男
(?~1279)日蓮大聖人御在世当時、富士・熱原に住んでいた農民信徒。弘安2年(1279)8月、行智の陰謀により、何者かに殺害されている。
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無智無才
才能も知恵もないこと。
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兵部房静印
日蓮大聖人御在世当時の熱原・滝泉寺の供僧。僧侶としての資質がないのに行智が僧として利用したものと思われる。
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過料
罰金のこと。
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器量の仁
優れた才能の持ち主。
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別当
僧官名のひとつ。諸大寺の長官として一山の寺院を統べるもの。
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言語道断
言葉で表現することが断たれること。
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冥に付け顕に付け
目に見える部分であろうと、目に見えない部分であろうとの意。
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沙汰
① 物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。また、裁決・裁判。②決定たことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。③便り。知らせ。音信。④話題として取り上げること。うわさにすること。⑤問題となるような事件。その是非が問われるような行為。
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「凡そ知行所行は」以下、行智の非法・悪行の数々を列挙したうえで、これを愁えた日秀らがこの実情を訴えようとしたことを察知した行智が、阻止しようとして今回、ありもしない罪で日秀・日弁を訴えたのであり、「言語道断の次第なり」と断じている。
ここで挙げられている行智の一つ一つのいくつかをかいつまんで述べると、先に「法華経の読誦を停止し」とあったのと併せて、「法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治」に使ったというのであるから、行智の法華経嫌いは徹底しており、天台寺院の院主代としては不適格であることが明らかである。
「上葺榑」の横領に関しては「日弁に御書下を給い構え置く所の」とあって、日弁が上層部のだれかからの指示で保管していたということであるが、この「御書下」を出したのがだれであったかは不明である。院主代行智が不正に流用したということからいえば、院主であった人と考えるのが妥当であろう。おそらく行智は、保管責任者であった日弁を放逐したあと、この木材を自分勝手に流用したと考えられる。
次の「神事の最中」の刀傷事件、8月の弥四郎殺害事件が記されている。このなかで、本文に「日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ」とある一文は、その前にある「弥四郎坊男の頚を切らしむ」の脇に、大聖人の御筆で書き込まれたもので「このことを書き入れなさい」と指示する意味で加筆されたものである。この意味は、殺害の張本人は行智の一味であるのに、その罪を日秀等になすりつけようとしたことも、彼らの悪辣さを明らかにするために、書いておきなさいということである。
そのほか、盗みを働いた男を僧として寺内に入れたり、仏教、特に天台宗では禁じられている殺生・肉食の罪を平気で犯したり等々の悪行を指摘し、憂慮した日秀ら良識ある僧を葬りさろうとして、このたびの行智の日秀らに対する告訴となった次第が明かされている。
そしてその結論として「冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや」とある。この部分は原本では第9紙の末尾で、文字の左半分が剥げ落ち、判読が難しいが、上記のように読むのが正しいとすると、先に列記された行智の悪行は、仏法上、僧としてあるまじき行いと、国法・世法のうえで明らかな非法を含んでいる。そのいずれの立場からも、断固たる処分があってもしかるべきであるという日秀等の訴えである。
なお、この段の文について大聖人は原本の末尾に、この個所はこのように書き換えてはどうか、という意味で御文をつけたれている。「法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す」の部分に対して、次のように書かれている。(原文の漢文を書き下している)
「法華三昧の供僧・和泉房蓮海、法華経を柿紙に作り紺形を彫ることは重科たる上、謗法なり。仙予国王は一閻浮提第一の持戒の仁、慈悲貴捨を具足せる菩薩の位なり。然りと雖も法華経を誹謗する婆羅門五百人の頭を刎ねその功徳に依って妙覚の位に登る。歓喜仏の末に諸の小乗・権大乗の者、法華経の行者・覚徳比丘を殺害せんとす。有徳国王、諸の小権の法師等を、或は射殺し、或は切り殺し、或は打ち殺して迦葉仏等と為る。戒日大王・宣宗皇帝・聖徳太子は此の先証を追って仏法の怨敵と討伐す。此れ等の大王は皆持戒の仁なり。善政未来に流る。今行智の重科□□□(三字判読不明)からず。然りと雖も日本一同、誹謗を為すの上は其の子細は御尋ねに随って之を申す可し」
ただし、この大聖人の加筆は、必ずしもこのとおりに改めなさいということではあかったようである。この部分の筆遣いは文字どおりの走り書きになっており、また、どこをどのように改めよという御指示もない。もし、この加筆のように改めた場合、そのあと、どのように続けばよいのか、このままでは明確ではない。ゆえに、ここではあくまで参考として書くにとどめておく。
0853:13~0853:18 第七章 公正な沙汰あるを望む top
| 13 所詮仏法の権実沙汰の真偽・淵底 14 を究めて御尋ね有り且は誠諦の金言に任せ 且は式条の明文に准し禁遏を加えられば 守護の善神は変を消し擁護の 15 諸天は咲を含まん、 然れば則ち不善悪行の院主代・行智を改易せられ 将た又本主此の重科を脱れ難からん何ぞ実 16 相寺に例如せん、 誤まらざるの道理に任せて日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙むり 堂舎を修理せしめ天長地久御 17 祈祷の忠勤を抽んでんと欲す、仍て状を勒し披陳言上件の如し。 18 弘安二年十月 日 沙門 日秀日弁等上 -----― 所詮、仏法の権実の問題といい、行智が命令したということの真偽といい、徹底して調べさせ、仏の金言を根本として、御成敗式目の条文をよりどころに、正邪を明確にされるならば、日本国を守護する善神は災難を消しとどめ、正法を擁護する諸天は笑みを含んでよろこばれることであろう。従って、不善の悪業を行う院主代の行智を罷免されないならば、本主もこの重い罪を免れることはないであろう。岩本実相寺とは同一に扱うことはできない。正しい道理に基づいて日秀・日弁等は、住房を保障する御処置を受け、寺院の建物を修理させ、世の平和を祈る忠誠を尽くしたいと願っている。よってこの状を刻みにつけて御覧に入れるのである。右、申し上げる。 弘安二年十月 日 沙門 日秀日弁等上 |
権実
権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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淵底
物事の奥義、奥底、真意。
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誠諦の金言
永遠に変わらない事実・心理・誠。仏の金言。
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式条
御成敗式目のこと。鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)に制定されたため、貞永式目ともいう。ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
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禁遏
とどめてやめさせること。7
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変を消し
変事を消し去ること。すなわち三災七難を消し去ることで、諸天善神が守護の役目を果たすことを意味する。
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擁護
擁え護ること。
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重科
①重い罪②重い刑罰。
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実相寺
静岡県富士市岩本にある、日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は岩本山。日蓮大聖人が立正安国論の草稿のために一切経を閲覧している。
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成敗
①処罰すること。②裁定すること。③処置すること。
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忠勤
まごころをこめて、つとめること。
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披陳言上
思うことを隠さず述べること。
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沙門
梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
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この段は、この申状全体の結びとなっていると拝される。要するに、これまで述べてこられた仏法の権実の問題にせよ、行智の振る舞いや日秀らへの処分の問題にせよ、徹底して真相を突き詰め、仏法の問題に関しては仏の金言により、国法の問題に関しては、式条の明文に照らして、厳正・公平に対処されたことが肝要であると、幕府当局に対し、求めている。
そして、悪行を重ねている行智を改易せられるべきであって、さもなければ彼の悪行の罪は、この人物を院主代に任命した「本主」にも及ぶことになると指摘し、最後に誤りのない判定を下されて、自分たちの身分、立場が正しく保証されるならば、今後とも滝泉寺の荒廃した堂舎の修理、仏法の興隆のために努力していきたいと、日秀・日弁の立場で抱負を述べて結ばれている。