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日蓮大聖人御書講義150909~0949

0909~0925    種種御振舞御書
           はじめに
  0909:01~0910:02 第一章 予言の的中と迫害
  0910:03~0911:03 第二章 死身の弘法を説いて弟子を励ます
  0911:03~0911:14 第三章 念仏者等の讒言と平左衛門尉の敵対
  0911:15~0912:15 第四章 二度目の諌暁と御勘気
  0912:16~0913:10 第五章 若宮八幡での諸天善神の諌暁
  0913:11~0914:15 第六章 竜の口法難と発迹顕本
  0914:16~0916:03 第七章 月天の不思議と弟子檀那への迫害
  0916:04~0917:09 第八章 塚原三昧堂での御法悦
  0917:10~0919:01 第九章 塚原問答と自界叛逆難
  0919:02~0920:04 第十章 御本仏としての開目抄の御述作
  0920:05~0921:01 第11章 宣時の迫害と御赦免
  0921:02~0921:15 第12章 三度目の国諌
  0921:16~0922:18 第13章 阿弥陀堂法印の祈雨・大悪風をまねく
  0923:01~0923:12 第14章 身延入山後蒙古襲来す
  0923:13~0924:09 第15章 臨終の相をもって法華誹謗を証す
  0924:10~0925:01 第16章 最大の総罰・頭破作七分
  0925:02~0925:11 第17章 身延山での御生活
0909~0925      種種御振舞御書 2012:4~6月号大白より、先生の講義
0925~0931    光日房御書
           はじめに(含 光日上人御返事、光日尼御返事)
  0926:01~0926:09 第一章 懐郷の情を述べる
  0926:09~0927:07 第二章 仏法の故の流罪
  0927:07~0927:17 第三章 諸天を叱責し赦免の前兆顕われる
  0927:18~0928:06 第四章 赦免・国諌と延山に入る経過を述べる
  0928:07~0929:09 第五章 弥四郎の生前を回顧
  0929:09~0930:02 第六章 光日房の心情を汲む
  0930:03~0931:05 第七章 懺悔滅罪の証の先例を引く
  0731:06~0931:17 第八章 母子一体の成仏を示す
  0925~0931    光日房御書 2011:7月号大白より、先生の講義
0932~0934    光日上人御返事
  0932:01~0933:01 第一章 無間地獄の相貌を明かす
  0933:02~0933:09 第二章 弘安の役と予言的中
  0933:10~0933:16 第三章 国家滅亡の根本原因を明かす
  0933:16~0934:10 第四章 母子一体を説き光日房を激励
0934~0934    光日尼御返事
0935~0939    四恩抄
           はじめに
  0935:01~0936:02 第一章 流罪について二つの大事を標示
  0936:02~0936:15 第二章 流罪と仏記との合致を挙げる
  0936:15~0937:07 第三章 法華経の行者の立証を悦ぶ
  0937:08~0937:12 第四章 悪逆の国主に約して知恩を述べる
  0937:13~0939:01 第五章 四恩を示し真実の報恩を述べる
  0939:02~0939:14 第六章 大慈悲に立脚し謗者の堕獄を欺く
  0935~0939    四恩抄 2011:9月号大白より、先生の講義
0940~0949    法華経題目抄
         はじめに
  0940:01~0940:04 第一章 信心口唱の功徳を挙げる
  0940:04~0942:02 第二章 仏道に入る根本を示す
  0942:02~0942:04 第三章 重ねて唱題の妙用を顕す
  0942:05~0942:10 第四章 唱題の功力を論証
  0942:11~0942:14 第五章 妙法五字の具徳を示す
  0942:14~0943:10 第六章 通じて五字の具徳を明かす
  0943:10~0944:09 第七章 別して妙の一字の具徳を明かす
  0944:09~0944:14 第八章 変毒為薬の原理
  0944:15~0945:13 第九章 悪人提婆の成仏を挙げる
  0945:14~0947:02 第十章 女人成仏を明かす
  0947:02~0947:09 第11章 妙とは蘇生の義と説く
  0947:09~0947:10 第12章 妙法の具徳を結する
  0947:11~0949:01 第13章 重ねて女人成仏を説き誡勧する
  0940~0949    法華経題目抄 2014:7月号大白より、先生の講義

0909~0925    種種御振舞御書top
         はじめにtop

 種種御振舞御書の講義にあたり、その序講として
   第一に、本抄御述作の由来を明かし。
   第二に、本抄の大意を論じ、
   第三に、本抄の元意を論ずることとする。
第一 御述作の由来
 本抄は、別名「佐渡抄」ともいい、建治2年(1276)3月、聖寿55歳の時の御述作である。この時は、日蓮大聖人が文永11年(1274)5月身延に入られてから三年目にあたり、当然、本抄を御執筆なされたのは身延においてである。本文(0952)に、
 「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候」と身延での住居の地理的状況について、述べられていることで明らかである。
 本抄は安房の国(千葉県)の光日房に与えられた御書である。この対告衆の光日房については、清澄山の下の天津の住人で、夫は武家の出であるといわれるが、経歴等の詳細は不明である。詳しくは次の「光日房御書」等の三抄の序講を参照してほしい。
 光日房が本抄のような大事な御書をいただいたのは、夫に先立たれ、また子の弥四郎をも若くして失い、そのなかにおいても、なお純真な信心をまっとうしたがゆえであると思われる。
 本抄では、文永5年(1268)に蒙古襲来の牒状が日本にもたらされたことに筆を起こされ、「立正安国論」の予言の少しも違わぬことを示されてから、身延入山までの9年間の大聖人のお振舞いについて述べられている。
 いうまでもなく、日蓮大聖人のご一生そのものが、聖人御難事に、
 「況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず……而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189-09)と述べられているとおり、釈迦の予言した末法の御本仏のお振舞いであるが、とくに、本抄に記された九年間は、大聖人ご一生のなかでも最も大事な時期である。そのゆえは、開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0233-16)と述べられているごとく、大聖人の発迹顕本のお姿を示されたときだからである。
 また松葉ヵ谷の法難、竜の口、佐渡流罪と続く大難など、三類の強敵の猛り狂うなかに、折伏を行じ、国家諌暁を重ねて、敢然と戦われた大聖人のお姿は、まさしく法華経を身業読誦されるお姿にほかならないのである。
 今、本抄を拝読するに際し、この文永5年(1268)から建治2年(1276)にいたる大聖人のお振舞いの記述は、末法の御本仏のお振舞いの記述であることを、心に深く銘記して臨むべきである。 
第二 本抄の大意
 本抄は題号の示すとおり、日蓮大聖人の文永5年(1268)より建治2年(1276)に至る9年間の御本仏としての御振舞いを、年次をおいながら回想して記された御抄である。
 ここでは本抄の大意を分段を追って順次講ずることにする。
  ① 大聖人が文応元年(1260)にしたためられた国家諌暁の書、「立正安国論」のご予言が、見事に的中したことを述べられ「仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん」と断言されている。
 文永5年(1268)、蒙古より日本襲来の使いが来たとき、幕府は当然、大聖人のお言葉の正しかったことに気づき、大聖人に教えを請うべきであったのである。しかるに、その沙汰もなく、かさねて諌暁された大聖人に対し、かえって悪口をいい、迫害して用いようとしなかった。この狂った世相の本源は、長い間、日本中の人々が法華経の強敵となってきたので悪鬼がその身に入り、正しい判断ができなくなってしまったことにある。十一通の御状による重ねての諌暁にも、幕府は、ただ迫害を強化することによって報いるすべしか知らなかった。
  ② 難のますます大きくなることは「本より存知の旨」で、末法において折伏を行ずればそれは当然の道理なのである。したがって大聖人の弟子となった以上は、断じて憶したり、家族の身を案じて弱気になったり、目先の利欲に迷ってはならない。妙法広布のために命を捨てることは、石を金に変え、糞を米に変えるように、即身成仏の法なのである。未曽有の大法である妙法五字を、この末法の世に全世界に弘めるために日蓮大聖人は出現したのである。故に大聖人門下は、この大聖人の法戦をついで二陣・三陣とつづき、勇敢に進まなければならない。この段は、弟子檀那に対する師子王の激励である。
  ③ 大聖人の十一通の御状に対し、念仏・律・真言等の僧達は、真っ向から大聖人に当たれば破折されてしまうので、幕府高官の未亡人や、夫人達にとりいり、大聖人を讒言して、権力によって大聖人を亡き者にしようと図ったのである。
 取り調べに対し、大聖人は国を想う情熱を披露され、邪宗の僧等との対決を迫られる。そして、もし、幕府が彼ら僧達の意のままになって、大聖人を流罪・死罪に処するならば、仏の御使いを用いないのであるから、必ず北条一門には自界叛逆難が起こり、国には他国侵逼難といって、四方とくに西の方から外国によって攻められるであろうと、取り調べに当たった幕府の権力者・平左衛門尉を強折されたのである。だが、平左衛門尉は、かえって狂ったように猛りたつばかりであった。
  ④ それから3日後の文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉は、数百人の武士を率いて、大聖人を召し捕りに来た。このとき平左衛門尉の一の家来である少輔房は、大聖人めがけて走り寄り、大聖人が懐中に持っておられた法華経の第五の巻をいきなり奪うと、それで大聖人のお顔を三度打ち、経巻をまき散らした。ほかの家来達も、残りの九巻の法華経を散らし、足で踏みつけ、家中をひっくり返すような騒ぎとなった。この平左衛門尉達の狂乱の姿に、大聖人は「あらおもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大声でいわれたのでかえって兵士達が色を失ってしまったことが記されている。
 さらに、この出来事の直接の動機となった良観の祈雨の失敗に言及され、これを破折すると共に、彼の讒言の非を明らかにされたので平左衛門尉らは、一言もかえせなかったのである。
  ⑤ 12日の夜半、大聖人は頸を斬られるため、大勢の武士に囲まれて竜の口へ向かわれる。途中、若宮小路の八幡神社で、馬から下り、天照・八幡が諸天善神でありながら、法華経の行者である大聖人を護っていないことを厳しく叱咤される。
  ⑥ 由比の浜まで来たとき、熊王を使いとして四条金吾を呼び出し、別れを告げられる。四条金吾は兄弟4人して、大聖人の馬の口にとりすがり、ともに死ぬ覚悟で竜の口までお供をした。大聖人が悠々と頸の座に着かれたとき、江の島の方角から、夜空の月のような光り物があらわれる。武士達は目がくらみ恐れおおのいて逃げ去ってしまう。かえって大聖人の方から「頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなん」と役人を促されたのであるが、遂に斬ることはできなかった。
 明けて13日、武士達は相談の上、大聖人の身柄を相模の依智の本間六郎左衛門の家に預けることにした。同日、昼ごろ到着、武士達のなかには、大聖人のお姿を拝し、念仏を捨てる者も出た。四条金吾はここで別れて鎌倉へ帰っていった。
  ⑦ 同じく13日の夕刻、鎌倉から使いが来て、大聖人には罪がないから、過ちがあってはならないという趣旨の幕府の指示があった。その夜、皓々と輝く月に向かって、月天の怠慢を責められたところ、明星のような光る玉が下りて来て、庭の梅の木にとまった。武士達は、重なる不思議な現象に、庭にひれ伏してしまう。
 さらに翌14日、十郎入道という人が来て昨日の夕刻、執権時宗邸で騒ぎがあり、陰陽師に占わせたところ、国に乱れがあるのは、大聖人を迫害しているためだから、急いで召し返すようにいったという。しかし、依智滞在が長びくにつれ、鎌倉では念仏者等の陰謀によって放火・殺人があいつぎ、それを大聖人門下の罪にして迫害を強化するなどといった不穏な情勢がつづいていた。このため、遂に佐渡流罪の決定がなされた。
  ⑧ 10月10日に依智を出発して、11月1日佐渡の塚原に配流の身となられた大聖人は、ここで言語を絶する苦難の生活を過ごされる。しかし、大聖人は妙法のゆえにこの苦難を受けることを心から喜ばれ、法華経の予言がことごとくわが身の上にあらわれたのであると申されている。相模守北条時宗は大聖人にとって善知識であり、平左衛門は釈尊の化導を逆の立ち場から助けた提婆達多のようなものであるといわれている。
 また、三障四魔の原理を引かれ、法華経を正しく修行すれば必ず三障四魔が起こる。そのなかで最も大きいのは天子魔で、今、大聖人を苦しめている難が、この天子魔に当たる。しかし、結局、世間の例でも、人を大きく成長させるものは、味方よりも敵である。大聖人を法華経の行者すなわち末法の御本仏たらしめたのは、大聖人を迫害した元凶である良観や道隆や平左衛門尉等であると申されているのである。
  ⑨ 塚原のあばら屋のなかで、迫りくる酷寒に耐え、一心に止観・法華を読み、題目を唱えながら日を過ごされるうちに、文永8年(1271)は暮れていった。
 おりから、佐渡の念仏等の僧達の間で、大聖人の噂がひろまり、数百人が集まって、本間六郎左衛門に訴えた。これに対し、六郎左衛門は、幕府から「殺してはならない」との副状があることを楯に、法論で責めるよう説得した。こうして、正月16日、佐渡はもとより、越後・越中・出羽・奥州・信濃と東北・北陸全土の僧等数百人が塚原に集まって、大聖人一人を相手に法論が行われたのである。
 しかし、大聖人の前には物の数ではなく、各宗とも、見守る本間一族や百姓達の眼前で「利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如く」ことごとく論破されてしまった。このありさまに、皆、色を失い、なかには即座に念仏の袈裟と念珠を捨てて、もう念仏は称えないと誓いを立てる者も出る始末であった。有名な塚原問答の一幕である。
 問答が終わって、皆が退散していくとき、大聖人は本間六郎左衛門を呼び戻し、鎌倉に合戦が起ころうとしているのに、どうしてすぐ鎌倉へ上り、武士の面目を果たさないのかといわれる。彼には寝耳に水の話だが、何か思い当たるものがあったのか、返事もせずに急ぎ帰った。この予言は百日もたたずに的中することとなる。
  ⑩ このあと、大聖人は「開目抄」を認められる。これは、大聖人こそ日本国の人の生命であり、柱である。すなわち末法の本仏であることを人に約して開顕されたもので、四条金吾に託された。
 2月18日、本土から船が着き、鎌倉と京都で合戦が起こったとのニュースを伝えてきた。1月16日にいわれたことが見事に的中したわけで、本間六郎左衛門は、その夜のうちに早舟を仕立てて鎌倉へ向かった。出発に先立って、六郎左衛門は、大聖人に掌を合わせて、永久に念仏は称えないと宣言した。それに対して大聖人は「なんといっても北条時宗等の幕府の要人が正法を用いなければ、日本国中の人も用いまい、従って、国は必ず滅びるであろう」と申され、大聖人は梵釈・日月等さえも家来として従える法華経の行者である。もし、大聖人を用いたとしても「あしくうやまはば国亡ぶ」であろう。また、これまでは大聖人が厳然とひかえてこられたから、国は護られてきたけれども、その大聖人を皆で迫害し、度が過ぎたから、罰が当たったのである。このたびも、大聖人の教えを用いないならば、蒙古から軍勢が寄せて来て、日本は滅ぼされるであろうと申される。
 大聖人のご予言の的中に、佐渡の在家の人々は、この御房は神通の人に違いないと噂し、念仏や律等のこれまでの信仰を捨てる者が続出した。念仏や律等の僧達は、この御房は謀反人の仲間だったのに違いないと悪口した。
  ⑪ この騒ぎは、しばらくして鎮まったが、念仏・律等の僧達は、このままでは信者がいなくなって自分達が飢え死にすると寄り集まって相談し、鎌倉の武蔵守宣時に訴えた、守殿の独断で、勝手に私製の命令書が出され、大聖人の味方をする者は、追放または投獄されるという事態にさえなった。
 しかし、こうした画策に反して、幕府からは文永11年(1274)2月14日付で赦免の状が出され、3月8日、佐渡に達した。佐渡の念仏者達は、大聖人を生きて帰らせてはならないと、さまざまに妨害を謀るが、順風でも3日かかるところを、忽ちに渡り、本土でも越後や信濃の念仏者達が妨害しようとしたが、大勢の武士に守られて、無事、3月26日に鎌倉に帰られたのである。
  ⑫ 4月8日、平左衛門尉に会い、三度目の諌暁をされる。平左衛門尉の質問に、この年中に蒙古が攻めてくると断言され、真言で祈ればかえって亡国を招くと厳しく破折される。しかし、平左衛門尉は大聖人のお言葉を用いなかった。
  ⑬ 4月10日、幕府は真言の阿弥陀堂法印に依頼して、祈雨を行なった。これが忠諌への幕府の答えであった。法印は東寺第一と評判されていた僧である。11日目に雨が降ったので、かねて真言を破折されていた大聖人に対し、世間は誹謗し、弟子は動揺した。それについて、もう少し待てばわかることだと話されているうちに、大風が吹いてきて家々を倒し、人を吹き殺した、被害の最も大きかったのは、鎌倉であり、そのなかでも、幕府、若宮、建長寺、極楽寺等であった。これをみて初めて、皆、大聖人の正しかったことを悟った。
  ⑭ 幕府の態度を見極められ「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」と、5月12日、鎌倉を出て身延の山に入られた。10月、かねて平左衛門尉に断言されていたとおり、蒙古が襲来した。この国難の根本原因は、大聖人の教えを守らず、法華誹謗をつづけていることにあると鋭く指摘されている。
  ⑮ さらに個人における謗法の罰の現象として、臨終の相をあげられ、謗法の僧を、知らずに高僧と仰いできた世の迷妄を破折されている。そして、人間として生まれてきた以上、善神に守られるのが当然なのに、現在のように苦悩におおわれているのは、謗法に迷い、邪師の弟子が充満しているからである。
  ⑯ 法華経の行者を怨むものは頭破七分とあるのに、大聖人を謗っても頭が破れないのは、大聖人が法華経の行者でないことを意味するのではないかと設問されている。それについて、法然、弘法との対比から、当然大聖人が法華経の行者であること、また、頭破七分とは、刀で斬ったように割れるということではなく、機能の障害であり、皆、気がつかないのだと申されている。
  ⑰ この娑婆世界の主である第六天の魔王が法華経の行者を怨む道理を示され、大聖人がこれまで、あらゆる難を受けてこられたのも、このゆえであるといわれている。そうしたなかで、はるばる不便な身延の山奥にまで、大聖人に便りをさしあげた光日房を「釈迦仏の御使か過去の父母の御使か」と、その信心をほめられている。
 これまで、章を追って、ほぼ本抄の大意を述べてきたが、本抄全体を通じて感ぜられることは、大難を敢然とうけ、かつ、悠々とお振舞いになられた大聖人は、まさしく御本仏なりということである。そして、本書をとくに光日尼に賜わったのは、年老い、かつ孤独な光日尼に、それを感得せしめて「われ御本仏とともに在り」の充実感に満ちみちた、歓喜の人生を完成させようとの深きご配慮があられたのではあるまいか。
第三 本抄の元意
 本抄は、題号の示すとおり、日蓮大聖人のご生涯で、最も重要な時期にあった9年間のお振舞いを記されたもので、それはまさしく、末法の主師親三徳具備の御本仏としてのお振舞いにほかならない。日蓮大聖人こそ、末法万年尽未来際の一切衆生を救済すべく、この日本国に出現なされた御本仏であることは、本抄並びに他の御抄を拝して余りにも明らかである。しかしながら、いまだに釈迦仏を本尊とし、『日蓮』の名を冠にいただきながら謗法を犯している極悪宗派がある。「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」とは、末法の衆生が本尊とすべき当体に迷い、日蓮大聖人を崇敬するようでいながら、実は大聖人の真実のお姿を見誤っているときは、一個人のみならず、一家族、社会、国家にまで災いを招きよせ、無間大城の苦をうける、との意である。謗法の徒は、恐懼してこの御金言を拝し、我執を捨てその罪を悔い改めるべきである。
 本抄を拝読して、そのご境涯に驚嘆する人は少なくない。明治の文豪、高山樗牛も「世界最高の文章なり』と絶賛している。また大聖人の偉大さを述べるとき、みな異口同音に、これほどの大難をよく忍ばれたものだといって讃嘆をしている。しかし、これらは、いまだ大聖人の真意を理解していない人の言葉である。
 しからば日蓮大聖人の本抄御述作の真意はなにか。大聖人が難を忍ばれた理由は奈辺にあったのであろうか。
 「経王殿御返事」にわく「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124-11)と。さらに、聖人御難事にいわく「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-03)と。報恩抄に「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と。
 すなわち、日蓮大聖人の御一生は、末法万年の外まで一切衆生を救済せんがための法体の広宣流布にある。弘安2年(1279)10月12日御図顕の一閻浮提総与の大御本尊を遺すためであったのである。このゆえに、数々の大難を受けられ、不思議を現ぜられたのである。
 これこそ「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と仰せの日蓮大聖人の大慈大悲であり、出世の本懐なのである。
 池田先生は、「観心本尊抄講義」の序講に次のように述べている。
 「日蓮大聖人一代の仏法の大網は、三大秘法であるが、なかでもその要は大御本尊にある。この要を知らずして、いかに大聖人の弘通せる法門を千万言を尽くして論じようとも、それは実に群盲評象のたぐいであり、木石の衣鉢を帯持しているようなものである。故に、弘安2年(1279)10月12日の大御本尊建立より立ち還り、大聖人ご一代の弘教を拝するならば、いっさいのご説法、お振舞いの真意は明白となる」と。

0909:01~0910:02 第一章 予言の的中と迫害top
0909
種種御振舞御書   建治二年    五十五歳御作    与光日房    於身延
01   去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応
02 元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にも
03 をとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、 賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ 現身に大
04 師号もあるべし定めて御たづねありて いくさの僉義をもいゐあわせ 調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひ
05 しに其の義なかりしかば 其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す、国に賢人なんども・
06 あるならば不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、 天照太神・正八幡宮の此の僧について日本国の
07 たすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて 或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れ
08 ず或は返事もなし 或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず、 設い日蓮が身の事なりとも
09 国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、 いわうや・この事は上の御大事いで
10 きらむのみならず各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、 而るを用うる事こそなくとも悪口
11 まではあまりなり、 此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となりて としひさしくなりぬれば
12 大禍のつもり 大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり、 例せば殷の紂王・比干と
13 いゐし者いさめをなせしかば用いずして 胸をほり周の文・武王にほろぼされぬ、 呉王は伍子胥がいさめを用いず
14 自害をせさせしかば越王勾践の手にかかる、 これもかれがごとくなるべきかと・いよいよ・ふびんにをぼへて名を
15 もをしまず命をもすてて強盛に申しはりしかば 風大なれば波大なり竜大なれば雨たけきやうに・いよいよ・あだを
0910
01 なし・ますますにくみて御評定に僉議あり、 頚をはぬべきか鎌倉ををわるべきか弟子檀那等をば 所領あらん者は
02 所領を召して頚を切れ或はろうにてせめ・あるいは遠流すべし等云云。
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 去る文永五年のちの正月十八日に、西の侵略者・大蒙古の国から、日本の国は蒙古に臣従しないなら攻め取るという通知の国書を送ってきた。これによって、日蓮が去る文応元年太歳庚申に勘えて幕府に奏上し諌めた立正安国論の予言が少しも違うことなく合致した。この安国論はかの唐土の白楽天が時の政治を諷刺して国を諌めた楽府よりも勝れ、釈迦仏の未来記にも劣るものではない。このような重大な予言が事実となって顕われたのであるから、末法の世としてこれを超える不思議がまたとあるであろうか。これは国に対する大きな功績であるから賢王や聖主の御世であるならば日本一のおほめの賞状にもあずかり、自分の生存中に大師号をも贈られるに違いない。また必ずや蒙古の来襲について詳しく質問を受け、防戦の仕方についての軍議の相談も受け、蒙古調伏の祈りなども依頼されるであろうと思ったのに、幕府からはなんの音沙汰もなかったので、その年の末十月に十一か所へ「誤った宗教をやめて日蓮に帰依するように」という手紙を書き送ってそれらに警告をした。
 国に賢人がいるならば「予言と蒙古の通知と一致した、まことに不思議なことである。これはただごとではない。天照太神と八幡大菩薩がこの僧に託宣して日本の国が助かる方法を計られたのではないか」と思われるべきであるのに、そうではなくて、ある者はこの十一通の状を持っていった大聖人の使いの者に悪口をし、ある者は嘲り、ある者は手紙を受け取りもせず、ある者は返事も与えなかった。ある者は返事はよこしたが執権へそれを取りつがなかった。こういうありさまであったから異常なことであった。たとえこの手紙の訴えの内容が、日蓮の一身上の私事であったとしても、国主となって一国の政治を司る立ち場の人々は、それを執権職へ取り次いでこそ政道の法に叶う行為ではないのか。
 ましてこのことは、政府にとって大事件が勃発しようとしているばかりでなく、幕府や寺々の各人の身に当たって大きな嘆きが起こるべき大事件である。それなのに、この忠告を用いることはなかったとしても、悪口を加えるとはあまりにも常軌を逸脱したことであった。これはひとえに日本の国の上下全部の人々が残らず法華経の強敵となって長い年を経たので誹謗の大罪がつもり重なって、大悪鬼神が各人の身に入ったうえに、蒙古の通告状に正念を抜かれて、精神が狂ったのである。
 正しい諌めを用いなかった前例として、殷の紂王は、忠臣比干が死をもって諌めたのに対して、それを用いずに彼の死体の胸を割って恥ずかしめ、結局、周の文王の子・武王に亡ぼされてしまった。呉王は伍子胥の諌めを用いずに、かえって伍子胥に死を賜わり、伍子胥は亡国を見るに忍びないと嘆きながら自殺してしまった。そのため呉王は越王勾践の手にかかって亡ぼされてしまった。
 自分は、幕府も紂王や呉王のようになるだろうとますます不憫に感じて、悪名をたてられるのも惜しまず命も捨てて強盛に邪法を禁止せよと主張し続けたので、あたかも風が強いほど波も大きいように、竜が大きければ雨が烈しいように、ますます日蓮に仇をし、ますます憎んで、評定衆の討議で大聖人の処置について相談があり、斬罪にするのがよかろうとか、鎌倉を所払いにするのが妥当だろうとか、大聖人の弟子檀那等については、武士で所領のある者は所領を取り上げて首を斬れとか、あるいは牢に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどと、さまざまな意見が出るありさまであった。

後の正月
 閏正月のこと。閏月は暦と季節が大きく食い違うことを避けるために、随時挿入する余分な月のこと。
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西戎・大蒙古国
 戎の語義は兵器・兵力の意で、モンゴル族は黄河流域の中国から見れば西の民でしばしば侵略してくるので西戎と呼んだ。大聖人はそのまま用いられたもの。ここでは西の侵略者大蒙古の国というほどの意味。中国では太古・黄河流域に定着するようになってから四方の異民族をその住地によって東夷・西戎・北狄・南蛮と、そのおのおのの特徴をとって呼び、これで伝統的対外基本方針を示していた。(1) 夷は礼儀正しいの意。東方はたいてい入貢国であったので東夷とし、手厚く待遇するのを国策とした。日本はその一つに当たる。(2) 戎は兵・転じて入寇の意を含む。強力な騎馬軍団を構成してしばしば侵入して来るゆえに西方の遊牧諸民族を西戎とし、警戒を国策とした。文献成立以後では西周の康王以降の分が記載され、だいたい山西陝西の山間に住む玁狁や、西周を滅亡させた犬戎が強力であったとされている。(3) 狄は化外の意、北方の移動狩猟諸民族をさし、毛皮や加工肉魚など有益な産物を持っているため、将来化導服従させる方針を国策とした。文献にあらわれるのは春秋以降の分で、山西・河北の山間や満州方面の部族をさす。(4) 蛮は極度な未開の意。主に揚子江南部山間の半狩猟移動火田民の各部族をさして南蛮とし、把握困難で、得るべき産物を持たない民だったから放置を国策とした。なお、日本では「えびす」は奈良時代までは外国人を意味し、中国が日本を東夷と呼ぶ故「えびす」に「夷」の字を転用し、その後意味が再転して、中央から離れた民度の低い部族を「夷」と蔑意を含めて呼ぶようになった。同時に「戎」は外国人・とくに外国商人をさす場合に用いた。
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牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
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太歳
 中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに約12年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に12等分し、年ごとに木星のあるところの干支を順序に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに12支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。そこで、歳星と逆方向に進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。この12支だけでは12年で一周してしまうので、10干を組み合わせ、60年周期にして年紀を示したものである。この10干12支の方法は、中国殷代につくられた10進法で、10干は一太陰月を上中下の3旬に分け、その一旬10日の毎日につけた記号から始まったといわれる。12支は一年12か月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、12支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに一日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また方向を示すために用いられるようになったのは、戦国時代からである。10干12支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて10母12子と呼ばれたこともある。現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10干を甲・乙・丙・丁……と呼ぶのは陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の5行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように10干に呼び名をつけたものである。 (木)甲・ 木の兄・乙・木の弟  (火)丙・火の兄・丁・火の弟  (土)戊・土の兄・己・土の弟  (金)・庚・金の兄・辛・金の弟 (水)壬・ 水の兄。・癸・水の弟。
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庚申
 干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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白楽天
 (0772~0846)白 居易のこと。中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
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楽府
 中国,韻文のジャンルの一つ。もともとは,前漢の武帝のとき設けられた,各地の民謡を集めて記録する役所の名であったが,のちにその記録された楽曲や歌謡を楽府の名で呼ぶようになったもの。本来は作者不明の民謡が多かったが,やがてその旋律に合せた歌詞を替え歌として創作するようになり,さらにその旋律がわからなくなって歌詞だけがつくられたが,それらもすべてもとの旋律の題名で呼ばれた。
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賢王
 政教に通じ正法をもって国を治める王。
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聖主
 知徳にすぐれ万事に通達し、万人がこぞって主と仰ぐ君主。
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御世
 一人の天皇が治める世。
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権状
 功労者を賞し、官位や勲章をさずける証書。
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大師号
 大師とは大師範・大導師のことで、帝王が諡号として与えた号。
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僉義
 多人数で評議すること。また、その評議。衆議。
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調伏
 仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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十一通の状
 文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が国諫のため、幕府・要人11人に送られた書。宛先は北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。
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天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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正八幡宮
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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国主
 一国の主君。国王。天子。権力者。
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政道の法
 政治により定められた法規。
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上の御大事
 国家存亡にかかわる大問題。
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大禍
 大きな禍。
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大鬼神
 鬼神の中でも大変暴悪なものや、神通力などの能力が大きいものをいう。鬼神とは、目に見えない超人的な力を有する働きをもつものに付けられた総称。仏法では夜叉・羅刹などをさす。人の功徳・生命を奪い、蝕む働きをする悪鬼神のこと。
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殷の紂王・比干
 紂王は紀元前12世紀ごろの中国殷代最後の王。帝辛ともいう。智力・能力・腕力ともに勝れたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、盛んに宮苑楼台を建築し、珍しい禽獣を集め、妲己のいうがままに酒を池とし、肉を木にかけて林とし、長夜の宴を張った。側近が諌めるのを全くとりあわず挙句は刑罰を重くし、炮烙の刑を新設した。また、自分のいうことを聞かない臣下を殺して塩漬けの肉としたり、それを諌めた家来を乾し肉にしたり、少しでも、敵意をもつ者は捕え、逆に讒言の上手な家来を用いるなどの悪行に、民心は完全に離れていった。このような紂王の乱行に、王子の比干は再三の諌言をしたが、全く聞き入れられず、ついに比干は「人臣たる者は、死を賭してお諫めしなければならない」と面をおかして紂王を諫めた。すると紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」といって比干を殺し、その心臓を解剖したという。こうした悪行の連続で、すでに民心は紂王のもとにはなく、ために周の武王が僅か800騎で攻めてきたのに、紂王70万の軍は寝返りを打つ者、戦意皆無の者ばかりで武王に敗れたのである。
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周の文・武王
 中国上代の王朝で、文王とその子武王のこと。①文王紀元前1152~1056)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。②周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。
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越王勾践
 中国春秋時代の越の王(紀元前0465)。父の允常が、呉王闔閭との戦いの最中に死んだので、その子勾践が立って越王と称した。呉王は、允常の死を聞くとただちに兵を起こして越王を攻めたが勾践は奇略を用いて呉軍を破り、闔閭は戦死した。闔閭の子夫差は、越に復讐するため、2年のあいだ兵を備えていた。勾践は、夫差の力が強くなる前にこれを討とうとした。臣の范蠡が勾践を諌めたが、聞かずに呉を攻め、逆に大敗して、残兵5000と共に会稽山(浙江省紹興市)に籠り、呉に降伏を申し出たが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。呉王夫差は、臣の伍子胥の「いま越を亡ぼさなければ、あとで後悔するでしょう。勾践は賢君で、范蠡は良臣です。許されて国へ帰ったなら、必ず反乱を起こすでしょう」との諌めも聞かず、越王勾践を許し戦いを止めて帰国した。国において勾践は、苦い肝をいつも側において嘗めては「汝は会稽の恥を忘れたか」と叫び、身を苦しめ心を痛めた。また、自ら畑を耕し、粗衣粗食に甘んじ、国民と労苦を共にして、国力の充実を図ったので、国民は皆その恩を感じて呉に報復しようとした。一方、呉の国では「越は国力が増して危険な存在になったから滅ぼしてしまおう」との伍子胥の諌めを聞き入れず、かえって讒言を用いて、伍子胥を自害させるはめにおいこんでしまった。そのとき、伍子胥は「自分の死んだのちに、わが眼を呉の東門にかけておけ、敵国越が呉を亡ぼすさまを見届けよう」といって自害した。そして10数年後、越は呉の油断をついて攻め、呉の太子を殺したが、まもなく講和した。越はその後4年目に、再び呉を攻め、呉の都を包囲した。夫差は、伍子胥の諌めを用いなかったことを後悔し、「あの世で伍子胥に会わせる顔がない。私の首は布で包んでくれ」と言い残し自らの命を絶ち、呉は越に亡ぼされた。その後勾践は、揚子江の東一帯に勢威をふるい、覇王と称した。
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御評定
 ①物事を評議して決定すること。②鎌倉・室町時代に執権や評議衆が幕府の立法・行政上の重要事項を決定したこと。
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遠流
 都から遠いところに流罪すること。
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西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ
 日蓮大聖人が立正安国論を著わされ、時の前執権北条時頼に奏上した文応元年(1260)は、蒙古ではフビライが皇帝に即位した年であった。この出来事は、実に深い意味をもっている。つまり、世祖フビライの即位と共に、この年、蒙古は占領国高麗に日本侵略の命令を発したのである。しかも、不思議なことに、この同じ年、日蓮大聖人は立正安国論において、他国侵逼難の警告を発せられているのである。
 その御文を拝するならば、立正安国論(0031-10)にいわく「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし悤で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来って国を侵すの難なり云云」と。だが、日本民族にとって、はるか大海原のかなたで起こったこの出来事については、全く想像だにもできなかったであろう。しかし、蒙古の日本侵略への計画は、この年より、本格的に開始されていたのである。
 ここで、蒙古が日本に牒状をもたらすまでの経過をみることにする。
 フビライはジンギス汗と並び称される英傑で、種族に流れる世界征服の野望の巨歩は、彼の時代になって、また大きく進められていったのである。すなわちアジアの大部分、中央アジア、東ヨーロッパにまたがる広大な領域を支配し、西ヨーロッパ・インド・日本を除いて、世界の大部分の地域がその支配下におさまった。これは人類の歴史始まって以来の空前の大帝国であった。
 そして、蒙古の日本侵略も世祖フビライの世界征服の構想の一画として、文永3年(1266)には黒的と殷弘を、かねてより日本と通交のあった朝鮮半島の高麗に派遣し、日本の降伏を迫る詔書を届けるよう命じたのである。
 そのときの日本国王への詔書は「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕思うに、古来国というものは、小国同士でも近所づきあいしたものである。いわんや、わが大蒙古国は朕が祖宗天命を受けて中国を奄有し、遠方の外国も畏を恐れ徳を慕ってつき従うもの数え切れないほどである。万国は全て朕の国に好みを通ずべきである。朕が即位以前、高麗は、朕が国の兵を受け、無辜の民は戦禍になやんでいたが、朕が即位するや、戦さをやめて兵を本国に召喚し、旗を引き上げさせた。高麗の君臣らは、感激感謝して朕のもとに来朝し、今や高麗とは、義は君臣であるが、仲の良いこと父子のごときである。このことは、思うに日本の君臣もすでに承知のことであろう。
 日本は、朕の東方の藩である高麗のまじかにあって、開国以来、しじゅう中国に使いを通じているのに、朕の朝廷に対しては、まだ一人の使者をも遣わして好みを通じようとしない。
 願くは、自今以往、たがいに使者を交わしあい、好みを結んで相親睦しよう。聖人は四海をもって家となす。仲良く交際しなければ四海一家とはいえない。兵を用いるようなことは朕はしたくない。王はよく思案せよ。不宣」というものであった。
 蒙古の使者である黒的と殷弘、そして日本への案内をつとめた高麗の重臣宋君斐・金賛等は、これを日本国王へ渡すため、まず巨済島に渡った。ところが巨済島から望む日本への海路は、風濤きびしく、海になれない蒙古の使者等は、そのすさまじさに肝を冷やしたのである。そして巨済島より先へ行くと、さらに山のような波濤が続くことを、案内にあたった高麗の重臣達が黒的等にいって聞かせたため、蒙古の使いは驚いて巨済島より先へ進むことを断念したのである。ところがフビライはこれを聞いて激怒し、つづいて翌文永4年(1267)には、再度高麗へ黒的・殷弘を遣わした。今度は高麗が単独で交渉するよう命じたのである。
 これは高麗が日本侵略の先兵を命ぜられたのと同じであるが、このフビライの構想は、彼が即位した年(1260)以来のものであったのであろう。高麗と蒙古とは、1219年ごろから外交関係を生じ、蒙古の使者は頻繁に高麗にやって来て、そのつど莫大な貢物を要求していたのである。一二二五年、蒙古の使者が鴨緑江のほとりで殺害される事件が起こり、蒙古はこれを高麗の責任として国交を断絶したため両国は臨戦態勢に入った。蒙古軍は勢力にまかせて高麗に侵略し、高麗も必死の抵抗をみせたが、ついに1259年、高麗王朝は陥落し、蒙古陣営の東の要塞として編入されてしまった。すなわちフビライが高麗を攻め落とさなければならなかったその背景には、日本侵略という戦略図が彼の脳裏に終始去来していたことが推側されるのである。
 さて、フビライから日本への使いを命ぜられた高麗王は、藩阜を使者にたてて、蒙古の詔書に自国の国書を添えて日本に派遣したのである。藩阜が、九州の筑前博多に着いたのは、文永5年(1268)正月1日であった。そしてそれが太宰府を経て、鎌倉に着いたのが閏正月18日である。恐らく、未曽有の出来事に、どの部署も決断を決しかねたことであろう。
 ここに日蓮大聖人が文応元年(1260)、立正安国論に予言された他国侵逼難が的中したのである。
 しかるに幕府は、この的中をいかに受け取ったか。
 日蓮大聖人は「立正安国論」の予言が的中してまもなく、「安国論御勘由来」をしたためられ、再び幕府を諌められている。「而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し……而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、定めて勅宣御教書を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。日蓮復之を対治するの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり」(0035-04)と。
 蒙古の牒状到来に、日本国は天下一同に物情騒然となった。幕府は国難を払う祈りを各寺社に命じ、神仏の加護をまつとともに、挙国一致の防備に狂奔したのである。だが悲しいかな、他国侵逼難の真因を知らぬ無智迷妄の為政者、権力者達は、邪法の祈りを命じて、かえって謗法を重ね、国難を招くのみであった。
 幕府は、この「安国論御勘由来」をも顧みなかったのである。すなわち、念仏や真言や律宗の信者が幕府の要人に多かったため、日蓮大聖人の至誠の国難も用いられなかったのだ。邪法に染まった為政者というのは哀れにも愚かしい。厳に戒めるべきは邪宗教の害毒である。立正安国論(0024)に「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」と述べられているとおりである。
此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん
 この御文は、「立正安国論」が一大の予言書で、しかもその予言が見事に的中している事実こそ、白楽天の楽府にも仏の未来記にも超過する論であることを明示されている。
 さて日蓮大聖人の御抄のなかには、「開目抄」、「観心本尊抄」、あるいは「御義口伝」、「本因妙抄」、「百六箇抄」等、重要な御書がある。しかし、これらの諸御抄は法門の上ではきわめて重要であるが、対外的な意味では、「立正安国論」に比肩する書はないといえよう。
 さらにまた、大聖人のご化導は「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるともいわれている。
 日寛上人は、安国論文段において、安国論こそ、三大秘法流通の始めである旨をこの御文を用いて次のように仰せである。
 「この論首に居る事。凡そ此の論は是れ国主諫暁の書・兼讖不差の判なり、況や句法・玉を潤し義勢・地を震う、故に師自賛して云く『白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にも劣らず』と。此れに三意あり、一には彼は前代に託して諷諭し、此れは直ちに災難の起こりを示す。二には彼はその言用捨あり、此れは強言を以って暁諌す。三には彼は但・世間政道の謬りを糾し、此れは現当の為に謗法の罪を糺す、豈、楽府に勝るに非ずや。他国侵逼・自界叛逆の兼讖・秋毫も差わず。寧ろ仏の未来記にも劣らざるに非ずや。この論首に居ること誰か之を疑う可けんや」と。
 故に、安国論は、単に念仏禁止を訴えられた諌暁の書に止まらず、いっさいの不幸の原因は誤れる宗教にあり、これを捨てて日蓮大聖人の仏法に帰依すれば、永遠に崩れることのない平和な世界を建設することのできる旨を明かされた、一大宣言書である。
 しかも安国論は、単なる災難治術の指南書というものではない。経文を引いての予言は、ことごとく的中したのである。故にこれほどの不思議はない。よって「末代の不思議なに事かこれに過ぎん」と仰せである。
其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す
 さきに日蓮大聖人は、文応元年(1260)前執権北条時頼に対し、宿屋入道を通じて、国諌の書・「立正安国論」を上奏され、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言されたが、文永5年(1268)正月に蒙古の牒状が到来したことによって、それが的中し、同年4月、「安国論御勘由来」において予言の的中を示されて再び幕府を諌められたが、幕府はこれをも無視してしまったのである。
 そこで、大聖人は、ご自身の危険をも顧みず、同年10月、幕府と諸大寺に対し、法の正邪を決すべく十一通の書状をもって公場対決を迫られたのである。いまその一編を次に掲げよう。
 「北条時宗への御状」にいわく、「謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。(中略)三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言」(0169)と。
 すなわち諸宗との堂々たる公場対決こそ真に宗教の正邪を決する道であり、これを行なうことが、国の最高指導者たる鎌倉幕府のとるべき態度であると諌暁されたのである。
 日本国の天下万民が謗法であり、しかも幕府の権力者には、念仏や真言等の強信者が多いなかにあって、このような書状を出すことは、あえて大難を自ら求めて呼び起こすようなものであった。案の定、幕府や主な寺院は、大聖人迫害への魔手をさらに伸ばしはじめたのであった。また、大蒙古国の襲来という国史に例を見ない大事件に、天下万民が全く動転し、正気を失ってしまったのである。そして、ついにはなんの罪もない大聖人を僉議にかけ、流罪・死罪等の重罪に処さんとしたのであった。
 しかしながら、これら謗徒のいっさいの動きは十一通の状を認められたときに、すでに大聖人は見通しておられたのである。それは次の弟子檀那中への御状をみることによって拝察できる。
 「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺已上十一箇所仍って十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ、定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え、恐恐謹言」
 日付も、十一通の書状と同じく10月11日である。
 すなわち、これら十一箇所への強諌の書状を認めたについては、必ずわが門下に対しても想像を絶する迫害が競うことであろう。そのときの心構えとして「妻子眷属を憶うこと莫れ」「生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え」等といい含められたのである。では一体、なぜこのような生命におよぶ大難を予見されながら、あえて日蓮大聖人は、堂々と公場対決を迫られ、幕府や諸宗に強諌されたのであろうか。これこそ、ひとえに国を思い一切衆生を思われたがゆえにほかならない。とくに「敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に」云云のご文には、御本仏の大慈大悲がほうふつと感ぜられるではないか。国を思い、一切衆生を思われる大聖人の徹底した慈悲の真心は、十一通の書状による不惜身命の国諌となってあらわれたのである。
 ここで思い起こされるのは、あの忌まわしい太平洋戦争に直面した当時の軍部の独裁による神本仏迹の思想である。ときの軍部は、700年前、蒙古襲来のとき、神風が吹いたように、今度も天照太神を祭って祈ればこの戦争に勝てるという誤った思想に陥ってしまっていたのである。したがって、日本の国全体が謗法の国土と化してしまい、悪鬼の乱入した寺社に祈りをかけ、ますます国土が混乱していくのであった。もはや為政者、権力者には正常な者はいなかった。すなわち、もし神道帰依を拒んだならば、その人は軍部の手によって獄に繋がれ、その宗派全体が無謀な国家権力の弾圧にあってしまう、国をあげて神がかり的狂信になっていた。
 これに対し、創価学会初代牧口会長は、日蓮大聖人の教えを純粋に守り通して、国家神道に敢然と反対し「いまこそ大御本尊の流布以外に国を救う道はない」と、身をもって主張したのである。ところが軍部は、宗派の統合という暴政を考え出して、日蓮正宗にもその魔手を伸ばしてきたのである。すなわち昭和16年(1941)7月に創刊した機関紙「価値創造」は、当局によって、昭和17年(1942)5月10日付第9号をもって廃刊を命ぜられた。
 昭和18年(1943)になると空襲警報発令で集会はできなくなり、座談会には刑事がやってきた。だが、このような厳しい弾圧下にあっても折伏活動は止まることなく続けられ、全国には5000人を数える学会員が正しい宗教への確信に立って活動をしぬいていたのである。そして、6月には特高警察がやって来て2名の学会員が逮捕されるに至った。さらに迫害弾圧の手は、7月牧口初代会長の投獄へと伸びていったのである。このときの牧口会長の心境を拝察するならば、さぞや日蓮大聖人の御金言を恐れ、仏罰を恐れ、日本民族が滅びることを恐れておられたことであろう。「一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである。宗祖大聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諌暁のときではないか。なにをおそれているのか」と。
 厳然といいきられた牧口会長のご精神こそわが学会精神の源流である。700年前、日蓮大聖人が立正安国論をもって鎌倉幕府を諌められたが、ときの幕府は、念仏宗・禅宗・律宗に執着していっこうに法華経を信じようとせず、したがって立正安国論に予言された他国侵逼難が的中し、蒙古の襲来を呼び起こした。いま、時代こそ違え、法華経弘通の旗頭として立たれた初代牧口会長、また第二代戸田会長を投獄した罪は必ずや日本国に帰す、この仏法の峻厳なる方程式は、太平洋戦争における歴史始まって以来の大敗戦となって現われたのである。
政道の法
 鎌倉幕府の根本法典は御成敗式目である。これは、貞永元年(1232)に、北条泰時が作成したものであり、貞永式目ともいう。
 日本には、この御成敗式目制定以前に、聖徳太子の作といわれている十七条憲法があるが、御成敗式目は、この十七か条を天地人に配して五十一か条としたものであるといわれている。十七条憲法の内容は、儒教の教えを中心とした徳治主義と韓非子や管子などの中国古典に説かれた法治主義をも、比較的濃く加味したものである。すなわち儒家・法家の両説を採用して十七条憲法は作成されたのである。ちなみにこれはわが国では聖徳太子が最初である。したがって五十一か条から成る御成敗式目も、泰時が重時にあてた消息状に「この式目を作られ候ことに、なにを本説として、被注載之由、人さだめて謗難を加事候歟、まことにさせる本文にすがりたる事候はねども、ただだうりのをすところを被記候者也」と述べているように、法律の形式をとりながら、その底は道理であったのである。また、律令が、中国の法律を色濃く受け入れた法典であるのに対して、式目はわが国の慣習が法制化されたもので、その意味では高く評価できよう。式目に流れる道理とは、平安朝時代以来の武人の間に自然と発生発達した、現実的な封建道徳をさしている。
 日蓮大聖人が、「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし」と申されているのは、こうした道理を重んずるという式目の根本精神からいっても、大聖人の至誠の国諌を執権北条時宗へ取り次ぐのが当然のことではないか、と仰せられているのである。
 この御文より、拝するならば当時の政治がいかに乱れていたか明らかである。本来、社会の乱れを是正するために制定された法が、一部の権力者の手によって、ふみにじられ、無視されていたのである。いつの時代においても、政治が腐敗し、権力が横暴化しているときには、法律はその根底の精神を失い、民衆のためではなく、為政者の具とされ、勝手に改変され、歪曲され、踏みにじられてきた。今日においてその姿が顕著にあらわれていることも、残念ながら事実である。

0910:03~0911:03 第二章 死身の弘法を説いて弟子を励ますtop
03   日蓮悦んで云く本より存知の旨なり、 雪山童子は半偈のために身をなげ常啼菩薩は身をうり善財童子は火に入
04 り楽法梵士は皮をはぐ薬王菩薩は臂をやく 不軽菩薩は杖木をかうむり師子尊者は頭をはねられ 提婆菩薩は外道に
05 ころさる、 此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ 章安大師は「取捨宜きを
06 得て一向にすべからず」としるされ、 法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし、 仏記
07 して云く「我が滅後・正像二千年すぎて 末法の始に 此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし、
08 其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗或は小乗等をもつて・きそはんほどに、 此の題目の行者に
09 せめられて在家の檀那等をかたらひて 或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し 或は流罪或は頚をはぬべ
10 し、 などいふとも退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ餓鬼のごとく身を
11 くらひ後には他国よりせめらるべし、 これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責め
12 させ給うなるべし」ととかれて候ぞ、 各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、 をやをを
13 もひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる
14 事は大地微塵よりも・をほし、 法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かか
15 る事出来せしかば退転してやみにき、 譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、 各各思い切り
16 給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
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 これを聞いて日蓮は悦んで次のようにいった。「このような留難が降りかかることははじめからよく承知していたことである。雪山童子は半偈のために鬼神へ身を投げ与え、常啼菩薩は法を求めるために身を売り、善財童子は求法のために高山から火のなかに飛び込み、楽法梵士は仏法の悟りの句を書き残すために自分の身の皮を剥いで紙とし、薬王菩薩は臂を焼いて燈明とした。不軽菩薩は正法を説いて増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者は壇弥羅王に首を斬られ、提婆菩薩は法論に負けた外道の弟子に殺された。以上の実例はどういう時期に起こったのであろうかと考えてみると、天台大師は文句に『摂受か折伏かは時に適って行なうのである』と書き、それを受けて章安大師は涅槃経の疏に『摂折二門は時に拠って取捨宜しきを得て片寄るべきではない。すなわち、正像末で変わるものである』と記している。であるから法華経自体は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時によってその修行の方法はさまざまに差別があるべきである。
 釈尊が記していうには『我が滅後・正法・像法二千年をすぎて末法に入るとその始めに此の法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。其のときには悪王や悪僧等が大地の土よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもってこの法華経の行者と競い合うであろうが、此の題目の行者に折伏をもって責められるために、在家の檀那等をさそい合わせて、あるいは悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどといって脅迫するが、にもかかわらず退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をする者は、国主は同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、のちには他国から攻められるであろう。この他国侵逼難はひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四大天王等が、法華経の敵である国を他国からその謗法の罪を責めさせるのである』と説かれている。
 各々日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは大地の土の数よりも多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えば、せっかく湯を沸かしておきながら水に入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨てても此の身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換するようなものである。
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17   仏滅後.二千二百二十余年が間.迦葉.阿難等.馬鳴・竜樹等・南岳.天台等・妙楽・伝教等だにも.いまだひろめ給
18 わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきが
0911
01 けしたり、 わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしら
02 がをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なり
03 と申しふくめぬ、
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 仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗教の付法者、または南岳・天台等、妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まってゆくべき瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者、二陣三陣と自分に続いて大法を弘通して、迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかばかりの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄に堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣な人々である」とよく弟子檀那達に申しふくめた。

雪山童子
 釈迦が、過去世に雪山で菩薩道を修行したときの名。あるとき、鬼神から「諸行無常・是生滅法」の半偈を聞き、あとの半偈「生滅滅已・寂滅為楽」を聞くために、その鬼神にわが身を与えた。だがそのときの鬼神は帝釈であり、雪山童子の求道心を試みたのである。
―――
常啼菩薩
 大般若波羅蜜多経巻三百九十八に「常啼菩薩摩訶薩は本般若波羅蜜多を求むる時身命を惜まず珍財を顧みず名誉に徇わず恭敬を希わずして般若波羅蜜多を求む」とある。また常啼の名の因縁については、大智度論巻第九十六に「其の小時に喜んで啼きしを以ての故に常啼と名づく」とあるように、啼いて法を求めたためにこの名がある。
―――
善財童子
 南方を遊行して五十五人の善知識を歴訪したとき勝熱婆羅門の教えを受けるため、身を火中に投じ菩薩安住三昧を得たと華厳経入法界品に説かれている。福運があって、生まれるとき、種々の珍宝が自然に涌出したので、善財の名がある。
―――
楽法梵士
 釈迦が過去世に菩薩道を修行していたときの名。仏の一偈を聞くために皮を剝いで紙とし、骨を砕いて筆とし、血を墨として書写した。大智度論巻第四、弘決等にでている。
―――
薬王菩薩
 法華経薬王菩薩本事品第二十三にある。過去、日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華を聞いて、現一切色身三昧を得た。そして身を以って供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののちふたたび生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、日月浄明徳仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して、これに供養した。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
師子尊者
 師子、師子比丘ともいう。釈迦滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者である。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害したりした。そしてついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。なお師子尊者を付法蔵の二十五とあるのは釈迦仏を含めている。
―――
提婆菩薩
 迦那提婆のこと。迦那とは片目の意。釈迦滅後750年ごろ、南インドの婆羅門の出身で、付法蔵の第十四番目の伝灯者。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化して広く法を求めた。南インド王が外道に帰依していたので、王を救うために外道を徹底的に破折した。だがひとり凶悪な外道の弟子がいて、自分の師匠が提婆に屈服させられているのを怨んで、提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
―――

 説法を受ける所化の衆生の機根。
―――
正像二千年
 仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
―――
法華経の肝心
 法華経本門寿量品の肝心。久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。
―――
在家の檀那
 自らの生計を営みつつ仏道に帰依する者。
―――
どし打ち
 味方同士が相あらそうこと。
―――
餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――
仏滅後・二千二百二十余年
 日蓮大聖人御在世当時で、文永年間後期から、建治・弘安年間がこれにあたる。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
馬鳴
梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。
―――
竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
南岳
 中国、南北朝時代末期の僧。名は慧思。慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華経・般若心経を講じた。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。
―――
妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
諸仏の眼目
 諸仏は三世十方のすべての仏をいい、眼目は肝要、三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
瑞相
 きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。
―――
わづかの小島のぬし
 日本国の執権・政権・天皇。
―――
閻魔王
 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
―――
無下の人人
 仏の使いであると名乗りながら、ちょっとした弾圧や迫害に屈して、退転していく臆病な人々。
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法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし
 この御文は仏道修行の根本精神を説かれたものである。今このことを述べるにあたって、日妙上人御書を引用したい。
「章安大師云く『取捨宜しきを得て一向にすべからず』等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん」(1216-09)と。
 この「日妙聖人御書」の文は、雪山童子や薬王菩薩等の修行と末法の修行の相違を明かされたものであるが、末法今日には、文底の妙法があらわれ、一切の民衆は、妙法を信じて直達正観するときである。したがって、われわれは、雪山童子・薬王菩薩のような修行をする必要は全くないのである。
 しかして大聖人が、ここで雪山・薬王等の例をあげられているのは、仏道修行の根本精神は、ひたすらな求道心にあることを教示されんがためである。
 今末法においては、久遠元初の自受用報身如来・日蓮大聖人がご出現になり、文底の南無妙法蓮華経が厳然と流布している。したがって民衆は、久遠の本仏・久遠の本法を信受して成仏することができるのである。
 また正像二千年は、すでに過去世において釈迦の仏法にあって修行を積んで本已有善の衆生であり、したがって釈迦仏法を行じて成仏することができたのである。
 この場合、しいて三大秘法の南無妙法蓮華経を説けばかえって反発し、衆生は過去にせっかく修行を積んでいてもその功を失うので折伏は良策ではない。すなわち正像二千年間は摂受によって救われる機なのである。
 しかるに末法に入れば、本未有善の衆生であり、釈迦仏法は全くその功徳力を失ってしまう。すなわち、末法の民衆が救われる道は、唯一つ日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ成仏の道が開かれていくのである。
 「開目抄」にいわく、
 「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし……無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235-09)と。
 日寛上人は、この文を「今且らく五義に約す」と述べられて、大要次のように釈されている。
   一には教法に約せば、     法華はまさしく折伏の教法である。玄文第九に「法華折伏・破権門理」とあるごとくである。
   二には機縁に約せば、     本未有善の衆生のためには折伏門をもって之を強毒するのである。
   三には時節に約せば、     末法の逆縁の衆生のためには不軽品のように折伏でなければならない。
   四には国土に約せば、     今の文の意である。悪国においては摂受を前とするが、日本は謗法の国土であるから折伏を前とするのである。
   五には教法流布の前後に約せば、前々に流布した教法を破して当機益物の教法を弘めるのである。したがって、今末法においては、前代流布の爾前迹門を破して末法適時の大白法本門寿量の肝心を弘めるのである。
 故に末法の仏道修行の要諦は、唯折伏の二字に尽きることが明らかである。
 よって天台は法華文句に「時に適うのみ」と説き、章安は涅槃経疏に「取捨宣きを得て一向にすべからず」と釈しているが、いずれも仏法を弘める上において、摂受と折伏の二法を論じたものであり、その内奥においては末法は折伏以外にないことを述べているのである。
 次に「法華経は一法」ということについて述べてみよう。この法華経とは釈迦の二十八品の法華経でも、天台の理の一念三千の法華経でもない。寿量文底事の一念三千の南無妙法蓮華経である。それは、正法時代における仏道修行の目的も、像法時代におけるそれも、しょせんはこの文底の妙法を覚知することにあったのである。
 釈迦在世においては結縁しただけで得脱できなかった衆生は、正法・像法の二時代に得脱するが、まず正法時代に生まれた衆生は、小乗教、または権大乗経を縁として得脱した。
 この場合、小乗教あるいは権大乗教に力があって得脱したのではなく、在世に、すでに法華経に結縁していたため、この両教を助縁として根源の種子である南無妙法蓮華経を覚知したためである。すなわち「教行証御書」に「夫れ正像二千年に小乗権大乗を持依して其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り、然りと雖も彼れ彼れの経経を修行せし人人は自依の経経にして益を得ると思へども法華経を以て其の意を探れば一分の益なし、所以は何ん仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否に依り円機純熟の者は在世にして仏に成れり、根機微劣の者は正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し」(1276-01)と。
 また像法時代は、同じく在世に得脱できず、天台の迹面本裏の法華経、理の一念三千によって成仏する機根の衆生である。
 そして末法には、釈迦仏法に縁のある衆生は悉く失せて、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ、久遠元初の下種を覚知し成仏できる機根の衆生である。
 「曾谷入道殿許御書」には「正像二千余年には猶下種の者有り……今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(1027-12)と。
 日寛上人は依義判文抄にこの文を次のように釈されている。
 「今謹んで案じて曰く文に互顕あり、謂く『正像二千余年』等とは但過去下種を挙げて而して在世の結縁を略す、『今既に末法に入り』等とは但在世の結縁を挙げて過去の下種を略し互いに之を顕わすなり、『権実の二機』とは権は即ち熟益の機・実は即ち脱益の機なり・『毒鼓』は即ち是れ下種の機なり」と。
 故に末法今日においては、釈迦仏法はいっさいを用をなさないのである。すなわち末法の衆生は南無妙法蓮華経によってのみ救われること明らかである。しかし、本未有善であるためにこの下種に対して恨みをいだき、本抄に示されたごとくに留難をなし、治罰をうけてから救われることになる。
死身弘法について
 いま、創価学会の勢いは、旭日のごとくであり、その折伏の波動は、全世界におよんでいる。人種、国境、階級を越えて、大聖人の仏法が流布し、その力強い潮流は、誰人も、おし止めることはできない。まさに、順縁広布の時代というべきであろう。
 しかし、この偉大なる今日の大発展は、ひとえに、三代にわたる創価学会会長の死身弘法の実践によって築かれたのである。
 本章は、この死身弘法の信心とは、いかなるものか。大聖人のお振舞いを通して、お示しになられているのである。
 「をやををもひ・めこををもひ、所領をかへりみること・なかれ」と。なんと厳しいお言葉であろうか。そして大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人が、弟子檀那に対して、ここまでいいきられたそのご心境は、いかばかりであったろうか。
 困難に直面したとき、妻子、眷属、所領をもかえりみず、ただただ、死身弘法に徹しきれる信心こそ、本当の信心というべきであろう。
 大聖人は、かかる逆縁広布の最も困難な時代にあって、弟子檀那に、信心というものの至高至善のご境地をお示しになられたのである。「各各思い切り給へ」のお言葉のなかに、妙法広布以外のなにもないという、まさに、純粋な信心の結晶のようなものを感じるではないか。
 また、「無量劫より・このかた・をやこのため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず」との御文は、永遠の生命のうえから、死身弘法の信心を述べられているのである。
 どんなに家庭の幸福を思い、自分の財産のために努力しても、そこには、絶対的解決はない。ただ、迷いから迷いに流転する人生にすぎない。しかし、仏法は永遠である。仏法による人間革命、家庭革命こそ永遠に崩れない根本からの解決なのである。はかない今世の欲得にとらわれて、永遠不滅の絶対的幸福を見失うことほど、不幸なことはない。人間・一度は死ぬ生命である。しかし、現代世相をみるならば、戦争で失う生命、交通事故など現代文明の犠牲となって失われる生命など、全くあわのようにはかなく生命は失われていく。人々は、かかる生命軽視の風潮のなかで、真に、人生の充実感を味わえる哲理を求めている。しかし、一体、いずこにそのような哲理があるであろうか。
 大聖人は、「法華経のゆへには・いまだ一度もすてず」とお述べになっている。まさに、生涯、永遠不滅の哲理である大聖人の仏法を奉持し、広宣流布の大目的達成のために生き抜くことのできる人生こそ、最も価値のある人生というべきであろう。
 「わたうども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし」との仰せも、現代に約すならば、大きな広布への使命感に立って、勇往邁進する人材が陸続と輩出することを示す御文と拝するのである。
 いかなる事業も、その草創期における建設は非常な難事を極めるものである。まして、全民衆の幸福をめざす広宣流布の大業における、草創期の困難は、想像を絶するものであった。いま、この御文を拝するとき、その一端をうかがえる思いがするではないか。
 時代は、自然に変わるものではない。それには、常に、弊害の発生源である旧体制との死力を尽くした戦いによって築かれるのである。
 今こそ、わが生命の宝搭を、妙法によって、輝かせ、あらゆる分野で、大法弘通の新しい前進のために団結し、随力弘通をしていくことこそ、現代の死身弘法というべきであろう。
 仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心云云
 釈迦は、大集経のなかで、月蔵菩薩に対して未来の時を次のように説いた。
 「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云々」(0258-03)と。このように釈迦は、未来を三時に分け、さらに正法一千年を五百年ずつ、像法一千年をやはり五百年ずつに区切り、右のとおり予言しているのである。
 迦葉が釈迦の滅後、付嘱をうけ、次に阿難が付嘱をうけ、商那和修・優波崛多・提多迦の付法蔵の第五まで各二十年、以上百年間はただ小乗教のみが弘通された。次の弥遮迦より仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢までは正法のさきの五百年・解脱堅固の時代に小乗教を表とし、ごくわずかの大乗教を弘通した。次の馬鳴より禅定堅固の時代に入り、毘羅・竜樹・迦那提婆・羅睺羅多・僧伽難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・婆修槃陀・摩奴羅・鶴勒那夜・師子、これに阿難から旁出した摩田提を入れて付法蔵の二十四人といい、釈迦の付嘱をうけ、その予言に応じて出現し、正法を説いた行者である。
 また像法時代に入って、中国には南岳・天台・妙楽が出現し、わが日本には伝教が出現して、法華経迹門を弘通した。
 だが、これら人師・論師は、いずれも法華経の肝心である南無妙法蓮華経は説かなかったし、弘めなかったのである。
 「開目抄」にいわく、
 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)と。
 「観心本尊抄」にいわく、
 「問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知って之を言わざる仁なり」(0245-04)と。
 ここに明らかなごとく、正法時代後の五百年、禅定堅固の時代には、竜樹・天親は妙法を内鑑冷然し、外に向かってはいわなかったのである。
 さらに像法時代に入り、天台・伝教等によって法華経の迹門は弘通されたが、法華経本門の肝心たる南無妙法蓮華経は説かれなかったのである。それは、南無妙法蓮華経は末法適時の要法なるがゆえに、正像の人師・論師には、その弘通は堪えられなかったのである。
 すなわち、これらの人師・論師は自身では仏道を修行し、成仏の本種である妙法を覚知していたが、「自身堪えざる故、所被の機無き故、仏より譲り与えられざる故、時来たらざる故」の四つの理由をもって、妙法を外に向かっては説かなかったのである。しかしてまた、迹化の菩薩なるが故に末法には出現しなかったのである。
 しかるに、天台自身は妙法を唱題していたことは、伝教の著作である修禅寺決には「天台大師行法日記に云く読誦し奉る一切経の惣要毎日一万遍」とあり、玄師伝に「一切経の惣要とは所謂妙法蓮華経の五字なり」とあるとおり明らかである。
 大集経の予言のなかで、第五の五百歳は「闘諍言訟して白法穏没せん」とある。これは、末法は、邪智の者が多く、争いが絶えず、怒りっぽい者が充満する世の中であるという意味である。五濁悪世の時代で、民衆の心はすさびきってしまっているのである。したがって本已有善の衆生を対象とした釈迦仏法はその功力を隠没してしまうとの予言である。
 そして釈迦仏法滅尽ののちに、末法の要法である文底秘沈の大法が興り、民衆は、この大法によって根本的に救済されていくのである。
 釈迦は法華経の文において、処々に南無妙法蓮華経の弘まるべき時を明かしている。
 薬王品にいわく、
 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、その便を得せしむること無かれ」
 分別功徳品にいわく、
 「悪世末法の時、能く此の経を持たん者」
 安楽行品にいわく、
 「後の末世の、法滅せんと欲せん時に於いて、法華経を受持すること有らん者」
 また法華経の文を釈して、
 天台は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」
 妙楽は「末法の初め冥利無きにあらず」
 伝教は「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり。何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と。
 このように天台・妙楽・伝教はともに像法時代の導師であるが、いずれも末法をさして法華経流布の時であることを明かしているのである。
 そして、この釈迦の予言どおり、また天台・伝教等の釈のとおり末法に御本仏日蓮大聖人がご出現になり、一切衆生のために南無妙法蓮華経を説かれたのである。

0911:03~0911:14 第三章 念仏者等の讒言と平左衛門尉の敵対top
03         さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・
04 とりつきて種種にかまへ申す、 故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽
05 寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、 御評定になにとなくとも日
06 蓮が罪禍まぬかれがたし、 但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、 奉行人の
07 云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄とい
08 う事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。
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 こうしているうちに、念仏者や持斎・真言師等は、大聖人と法論で戦っても自分の智慧では勝つ見込みがなく、幕府へ訴え出ても目的を果たせなかったので、卑劣にも幕府高官の夫人や尼になった未亡人達に取りついていろいろ讒言をした。そこで彼女達が高官や奉行人に対して「諸宗の訴えによれば、日蓮は故最明寺入道時頼殿と極楽寺入道重時殿を無間地獄へ堕ちたといい、この方々が建立した建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えといい、道隆上人・良観上人等の首を斬れといっているという。それでは、評定衆の会議で処置が決まらなかったとしても日蓮の罪は免れないではないか。だから本人を召し出して以上の件を間違いなくいったかどうか直接たしかめるように」といいつけたため、九月十日に問注所へ召喚された。 
 その席上、奉行人が「お上の仰せは以上のとおりである。それに間違いないか」といったので、それに答えて「そのとおり、以上の件については一言も違わずいった。但し最明寺入道殿と極楽寺殿とを地獄へ堕ちたといったというのは訴人の作りごとである。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿が御存生のときからいっていたことである。
-----―
09   詮ずるところ、 上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばら
10 を召し合せて・きこしめせ、 さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、 日
11 蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・
12 一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、 其の後は他国侵逼難とて四方より・こ
13 とには西方よりせめられさせ給うべし、 其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども 太政入道のくるひ
14 しやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう。
-----―
 詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるならば、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件が起こるであろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使いを用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日天月天・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち、百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府の御一門に同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申しつけたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。

念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
持斎
 斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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訴状
 訴えの趣旨を記載した文章。
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上郎
 ①修行を多年積んだ僧。②身分の高貴な人。上位に座すべき官位の高い人。
―――
尼ごぜん
 執権や高官の未亡人。
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最明寺入道
 北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、「聖人御難事」(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
―――
極楽寺入道
 鎌倉幕府第二代の執権北条義時の三男・北条重時(1198~1261)のこと。執権泰時の弟。駿河・相模・陸奥守を兼任。寛喜2年(1230)から宝治元年(1247)まで、北方の六波羅探題をつとめた。宝治元年、三浦泰村の死後、鎌倉に帰り、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)となった。その後陸奥守になり、康元元年(1256)に職を辞し、入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、故に世に極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ちの事件を黙認した。その翌年5月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、弘長元年(1261)6月、にわかに病気になり、苦しみのすえ地獄の相を現じて死んだ。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
―――
大仏寺
 大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
―――
道隆
 鎌倉時代の禅僧(1213~1278)。中国西蜀涪江の人。姓は冉氏。諱は蘭渓。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)、紹仁と共に九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に留まり、のちに北条時頼(1227~1263)の帰依を受け、時頼が建長5年(1253)建長寺を建立すると、迎えられて開山一世となった。門下に告げ口されて前後2回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(1278)7月24日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に師敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永5年(1268)10月、「立正安国論」に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状到来で的中した旨を、十一通の書状に認めて北条時宗をはじめ、時の権力者に諫暁をなされたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永8年(1271)9月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下より出たことから考えても明らかである。
―――
良観
 鎌倉時代の律宗の僧(1217~1303)。良観は法号で、諱を忍性といった。日蓮大聖人ご誕生より5年前に大和国に生まれた。17歳の時東大寺で受戒して出家し、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊の弟子となった。叡尊は、律宗を再興し戒律を重んじ、二百五十戒、五百戒等を守ることをすすめ、それに真言の祈禱と弥陀の名号を称えることを加えるというでたらめな教義を作って一派をたてた。良観は後に、関東へ下り鎌倉へ入る。文応元年(1260)には北条時頼の連署であった重時が鎌倉の西南の景勝の地に極楽寺を創設し、自ら極楽寺入道重時と称した。重時が尊敬していた法然の教えは、日蓮大聖人によって徹底的に破折され選択集の邪義も明らかにされたので、彼はなにかに取り付かれたように大聖人の迫害に狂奔した。松葉が谷の草庵焼き打ち、伊豆流罪の黒幕であった。良観が最もとりいったのはこの重時である。文永4年(1267)には重時の子業時が良観を招いて極楽寺の開山とした。良観51歳の時であり、以後37年間にわたってここに住んだ。彼は幕府に巧妙にとり入って、自らの身の安泰をはかるとともに、日蓮大聖人に敵対する迫害の元凶となった。また良観は、粗衣粗食にして慈善事業を行ない、二百五十戒を堅く持った聖者であるがごとく振舞ったが、それはあくまでも見せかけであり、売名行為であった。「極楽寺良観への御状」(0174)に「良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世はに堕在せんこと必定なり」とあるとおり、実に良観こそ法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵中の第三僭聖増上慢であり、仏と共に出現し、仏のような姿で世人を幻惑して、内心には怨嫉をもち仏法を破壊しようとする、第六天の魔王の働きそのものである。
―――
奉行人
 奉行の役人。鎌倉幕府以降に置かれた職名。安堵・評定・恩沢・問注などの総称。
―――
御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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他国侵逼難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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平左衛門尉
 日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
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さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず、訴状も叶わざれば、上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて、種種にかまへ申す
 日蓮大聖人との祈雨の勝負に惨敗した良観は、自説の誤謬を認めるどころか、卑劣にも鎌倉在住の僧を結集して、大聖人に対抗する謗法の衆徒の一大連盟まで結集するに至ったのである。その中心人物は良観をはじめ光明寺の念阿良忠、浄光明寺の行敏、さらに長楽寺、大仏殿別当、寿福寺、多宝寺、建長寺等であった。
 このうち、文永8年(1271)7月8八日に浄光明寺の行敏が大聖人に対論を挑んできた。「行敏初度の難状」がそれである。
 「未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依って行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を痛ませられざらんや、是非に付き委く示し賜わる可きなり」(0179-01)と。
 これに対して大聖人は同月13日、行敏に返書されている。
 「聖人御返事」にいわく、
 「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随って是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候」(0179-01)と。
 大聖人に敵対する鎌倉仏教界の先兵のような形で大聖人に対して公場対決を申し入れた行敏であったが、その背後関係を見抜かれた大聖人は、いまや行敏ごときと私的な問答をする段階ではないことを書き送られているのである。
 この返書を受け取った行敏は主謀の良観にさっそく謀り、ここにおいて問注所宛に訴状を提出したのである。ところが、もとより根拠なきものであるから、取り上げられようはずがない。
 そこで、良観等は上郎・尼御前に讒言を構えたのである。讒言の内容は次のとおりであった。「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべし」と。
 いつの世にあっても高位の大奥御殿女中や権力者の未亡人という者は、隠然たる実権を持っていた。ちょうどこの当時は、尼将軍政子の例もあって、とくにそのような傾向が強かったのである。夫のとむらいに念仏を称えていた尼御前達、あるいは念仏信者の上郎達は、これによって執権や連署に泣きついたのであろう。こうして、いよいよ大聖人は評定所に召喚され、事の次第を聞かれたのであった。まことに良観の存在というものが大聖人の仏法流布を阻止するためにのみ出現した魔の本質であることを、われわれはこの文から痛切に感ずるではないか。
日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし
 この文は、法華経の行者・日蓮大聖人を迫害したならば、諸天善神が怒りをなして、遠流・死罪ののちに必ず自界叛逆難が起こり、さらには他国より攻められるということを明かされ、警告されている御文である。
 このことについて、日蓮大聖人は、文永5年(1268)4月、「安国論御勘由来」を記されて、二難到来の原因を明かされている。
 すなわち「法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の身に入って国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く……諸大善神法味を飧わずして威光を失い国土を捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり」(0034-15)と述べられて、一国謗法の失が、他国侵逼・自界叛逆の根本原因なることを明かされているのである。
 この二難のうち、他国侵逼難については、第一章において触れておいたように、文永5年(1268)の蒙古の牒状到来によって的中し、さらには文永11年(1274)の文永の役、および弘安4年(1281)の弘安の役によって現実となったのである。また自界叛逆難は、文永9年(1272)2月の北条時輔の反乱によって、これも大聖人のご予言のごとく見事に的中したのである。
自界叛逆難と予言
 日蓮大聖人は、文応元年(1260)7月16日に「立正安国論」を時の得宗北条時頼に内奏し、はじめての国家諌暁をされた。文中には近年うち続く災難の根本原因を明かされ、念仏等の諸教を禁ずることこそ、国家安穏の唯一の道であると示されたのである。すなわち、立正安国の立正とは破邪に対する言葉であり、日蓮大聖人御建立の三大秘法こそ、要中の要、正中の正なのである。また安国とは、一往は日本および現在にあるが、再往は全世界および未来永劫に通ずるのである。また、薬師経、仁王経等の諸経の文を引かれて、三災七難の起こる原因を説き明かされたのである。すなわち一国謗法の国土となった日本の国こそ、安国論の文に照らして三災七難の起こる条件を備えた国であることは明白である。そして、すでに七難のうち、五難は次々と現われ、二難もまた安国論の予言どおり的中するであろうことは、理の当然であったといえよう。しかして、本抄においては、他国侵逼難・自界叛逆難の二難が見事に的中したことが述べられている。
 さて、自界叛逆難の起こることを予言なされたのは、文応元年(1260)7月、「立正安国論」が最初であった。本章においては、「平左衛門尉に申し付けしかども云云」とお示しのごとく、竜の口法難の時、前後二度にわたって、大聖人迫害の張本人である平左衛門尉に対して堂々と申し付けられたのである。
 さらに本抄の第九章に「日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか」と述べられているが、これは文永9年(1272)正月16日のことである。しかるに、北条時輔の乱は2月11日であり、わずか20数日後にこの予言は的中したのであった。
 また、竜の口の法難は文永8年(1271)9月であるから、自界叛逆難が目前なることが御本仏の胸に感ぜられたからであろう。まことに凡夫の思慮すべからざるご境涯がひしひしと胸に迫ってくるではないか。
 およそ、予言とは、一般的には未来に起こりうる物事を前もって推測していう言葉である。故に神秘的な言葉でも、啓示でもない。それは現実を透視した上での未来への洞察・予見である。これをなす人を予言者という。歴史上、予言者といわれる人は数多くいる。だが、それらの予言の大半ははずれている。それはなにゆえかといえば、彼らの予言は正しい史観、科学、哲学に裏付けられたものでなく、ただ情的な判断でなされたものであったり、現実の社会体制を分析してくだされた結論でしかなかったためである。
 それに比して大聖人のご予言は、三世にわたる仏法史観、因果の理法、生命哲学の上から打ち出されたものである。
 ここに「立正安国論講義」の文を引用する。
 「不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは二千年の隔りがある。だが、その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔りがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の世相に、厳然と現われている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか。仏にあらずんば、誰人が、二千年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。
 およそ、予言の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。
 その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義の予言などは、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである」と。
 また、予言を仏法の五眼の立ち場よりみるならば、その最高度の予言は、仏眼であり、この仏眼をもって未来を予見することである。
 次に五眼とその働きとを列記してみよう。
   ① 肉眼  普通の人間の眼である。肉眼は近くは見えても遠くは見えない。前は見えても後ろは見えない。明るい所は見えても暗い所は見えない。
   ② 天眼  天界の衆生が持つ眼である。遠近、明暗を問わず物事を見る。
   ③ 慧眼  二乗所具の眼である。空理を遠見する眼である。われわれに約せば、深い知識体系、智慧の眼で、物事を判断することになろう。
   ④ 法眼  菩薩が所有する眼である。一切衆生に法を伝えるために法門を知る智慧の眼で、われわれに約せば仏法の法則からいっさいの事象を見ていく眼である。
   ⑤ 仏眼  三世十方を具さに見とおす仏の眼である。仏眼には、肉眼・天眼・慧眼・法眼を備えている。
 この五眼に予言者をあてはめてみるならば、仏は最高の予言者であり、それ以外は、どこかに欠陥をもつ予言者か、または限定された基盤の上に立った推測者にすぎないといえまいか。
 「聖人知三世事」にいわく、
 「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と。
 日蓮大聖人がご出現になられて、釈尊の数々の予言は全て真実となった。しからば未来における、広布の予言もまた必ずや的中することは、自明の真理といえよう。
 釈尊は薬王品において、
 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」と述べ、伝教は「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と釈し、天台は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、妙楽は「末法の初め冥利無きにあらず」と述べている。
 この予言に対して日蓮大聖人は次のごとく仰せである。
 「諸法実相抄」にいわく、
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)
 「聖人知三世事」にいわく、
 「教主釈尊既に近くは去って後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か」(0974-05)
 以上のように広宣流布のご確信を述べられている。この大聖人の御遺命を奉ずる者の信心は、峻厳かつ勇猛でなければならない。
 すなわち「日興遺誡置文」にいわく、
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618-06)と。
 また、日蓮大聖人の仏法が、世界的な宗教であることにについて、「顕仏未来記」に次のように述べられている。
 「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか……遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云……仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0507-06)。
 また、「諫暁八幡抄」にいわく、
 「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0588-18)
 故に、日蓮大聖人は、もともと世界広布を前提としておられたことが明らかである。

0911:15~0912:15 第四章 二度目の諌暁と御勘気top
15   去文永八年太歳辛未九月十二日.御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ,了行が謀反
16 ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、 平左衛門尉・大将として数百人の兵
17 者にどうまろきせて ゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、 大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとり
18 ながら国をやぶらんとせしににたり、 ただ事ともみへず、 日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまう
0912
01 けたりつる事はこれなり、 さいわひなるかな 法華経のために身をすてん事よ、 くさきかうべをはなたれば沙に
02 金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、 さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者 はしりよりて日蓮が懐中せ
03 る法華経の第五の巻を取り出しておもてを 三度さいなみて・さんざんとうちちらす、 又九巻の法華経を兵者ども
04 打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所も
05 なし、 日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱を
06 たをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはな
07 くして.これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、十日並びに十二日の間.真
08 言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事・つぶさに平左衛門尉に・いゐきかせてありしに或はどつとわらひ或
09 はいかりなんど・せし事どもはしげければ・しるさず、 せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨の
10 いのりして 日蓮に支へられてふらしかね・あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上・逆風ひまなくてあり
11 し事・三度まで・つかひをつかわして一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶ
12 いろごのみの身にして 八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、 能因法師が破戒の身として・うたをよみて天
13 雨を下らせしに、 いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて 七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風
14 は吹き候ぞ、 これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒
15 せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。
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 去る文永八年太歳辛未九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたことはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てようとは。臭い凡身の首を斬られるならば砂と黄金を交換し石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。
 さてそのときの光景は、平左衛門尉の第一の郎従である少輔房という者がかけ寄って、日蓮が懐にいれていた法華経の第五の巻を取り出し、それで自分の顔を三度なぐりつけてさんざんに抛げ散らした。また残り九巻の法華経を兵士達が抛げ散らし、あるいは足で踏みつけ、あるいは身にまきつけ、あるいは板敷きや畳など、家の中の二三間に散らさないところがなかった。このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ! おのおのがたはただ今日本国の柱を倒しているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見えるべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。
 十日の召し出されたときと十二日の逮捕の夜、真言宗の失や禅宗・念仏宗の邪法であること・良観が雨乞いを祈って降らすことをできなかったことを詳しく平左衛門にいい聞かせたところ、あるいは一斉にあざ笑い、あるいは怒りなどした事は煩しいので書かない。要するに、六月十八日から七月四日まで幕府の命を受けて良観が雨乞いをして、日蓮に阻止されて降らせることができず、汗を流し涙だけ流して雨が降らなかった上に逆風が吹き続けたこと、この祈りの間、三度まで使者をつかわして「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀を越えられようか。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒で制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まってひと七日もふた七日も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを、一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたが、理に詰まり弁護しきれなくなってついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここには書かない。

去文永八年太歳辛未九月十二日
 竜の口の法難をいう。北条執権の内管領で侍所所司である平左衛門尉は、同日、武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲い、大聖人を捕え、未明に殺害しようとしたが、果たせなかった。発迹顕本の法難である。
―――
了行が謀反
 建長3年(1251)、9條堂の僧了行は、矢作左衛門尉、長次郎左衛門尉久連等と鎌倉幕府の転覆を謀った。だが未然に発覚し、幕府は建長3年(1251)12月26日に了行等を逮捕し、死刑に処した。この事件が重大視されたのは、背後で、前将軍頼経や公家の藤原道家等が関係していたからである。
―――
大夫の律師
 鎌倉時代の武将。名は良賢という。駿河の三浦義村の子で、鎌倉幕府の滅亡を企み、陰謀を謀ったが、平左衛門尉盛時や、諏訪盛重入道等に弘長元年(1261)6月22日に捕われ、殺された。
―――
どうまろ
 鎧の一種。平安時代に創始され、桶側のように胴を円く囲み、それを右脇で合わすように作ったもの。軽装で、活動に便利なため近世まで用いられた。
―――
ゑぼうし
 男子が用いた袋型のかぶりもの。奈良時代から江戸時代まで用いられた。その初めは天武天皇であるといわれている。
―――
太政入道
 (1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
―――

 まさご。石のきわめて細かいもの。
―――
少輔房
 はじめ日蓮大聖人に帰依しながら退転した僧。平左衛門尉頼綱に仕え、大聖人を鎌倉・松葉ヶ谷の草庵に襲い、法華経第五の巻で大聖人の頭を打った僧でもある。「聖人御難事」、「弁殿御消息」、「法門申さるべき様の事」、「上野殿御返事」等にも退転した少輔房のことが書かれてある。
―――
法華経の第五の巻
 法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。
―――
真言宗の失
 真言宗の過失、真言亡国の所以。①大日経が法華経に勝れているとする謗法の失。②大日如来が教主釈尊に勝れているとする僻見。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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いづみしきぶ
 和泉式部は平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったという。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことわりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」という和歌を詠み、雨を降らせたという。
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八斎戒 
八関戒とも、八支斎とも、八戒ともいう。関とは禁の義である。殺・盗・淫等の八罪を禁じて犯させないという意味である。斎とは過中不食といって日中をすぎてものを食べないことをいう。八戒をもって斎法を助成し、斎法をもって八戒を成弁するのである。共に相支持するので、八支斎法と名づける。在家の男女が一日一夜修行する戒法で、受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず。八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために出家の法を制す」とある。毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日において八斎戒を行ずれば諸天相慶祥して、福禄を増し寿命を述べるという。これを六斎日といっている。1日、18日、24日、28日を加えて十斎日ともいう。この八斎戒には二意があるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離という。①離殺生 ②離不与取 ③離非梵行 ④離虚誑語 ⑤離飲諸酒 ⑥離塗飾香鬘歌舞視聴 ⑦離眠坐高広厳麗牀座 ⑧離食非時食である。受十善戒経等はこれと同じである。
大智度論、雑阿含経等は「塗飾香鬘「歌舞視聴」を別にしている。すなわち、①不殺生 ②不盗 ③不淫 ④不妄語 ⑤不飲酒 ⑥不座高大牀上 ⑦不著華瓔珞不香塗身 ⑧不自歌舞作楽不往視聴 ⑨一日一夜不過中食 となっている。これは八戒と斎法を別にしたのである。ここで「八斎戒にせいせるうた」とは⑨の「不自歌舞作楽不往視聴」を指していると思われる。
―――
能因法師
 本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。生没年は不詳。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して能因と称した。伊予国の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちにして雨が降ったという。
―――
破戒
 戒を破る者の意。ここでは能因法師は、僧の身でありながら、戒に制止している和歌を詠み、また、京都・北嵯峨にいながら東北を旅したごとく「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と虚偽の和歌を詠んでいる。故に破戒の身と評されているのである。
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二百五十戒
 男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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法華経の第五の巻
 平左衛門尉の一の郎従少輔房が、大聖人の懐中から取り出した法華経は、不思議にも第五の巻であった。第五の巻には、提婆品、勧持品、安楽行品、従地涌出品の四品が含まれている。このなかで勧持品は如来の滅後、法華経を弘通するときには三類の強敵が出現し、その弘教を妨げるという偈文が説かれている品である。したがって、ここで「第五の巻」と仰せられているが、とくには勧持品を指されているのである。
 「日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします……日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや」(1557-04)
 未来記の経文とはまさしく勧持品である。
 さて観持品については、文句巻八下に「二万の菩薩、命を奉じて経を弘む、故に持品と名づく、重ねて八十万億那由佗を勧めて経を弘む、故に勧持品と名づく、問う、何が故に爾るや。答う、二万は是れ法師品の初の別名の数なり、故に旨を奉じて受持す、八十万億那由佗等は、前に別命無し、止だ是れ通じて覓む、今仏は眼に視て其をして誓いを発し、此土に経を通ぜしむ、通経の証験は深重にして仏意は殷勤なり、是故に勧を蒙て而も弘む、故に二意有るなり」とある。
 また観心の立ち場より見れば、日蓮大聖人は「御義口伝」において次のように明かされている。
 「勧持の事、御義口伝に云く勧とは化他・持とは自行なり南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり」(0747-第一勧持の事-04)と。
 すなわち末法今日における勧持とは、南無妙法蓮華経を行じ弘めることに尽きる。ここにもったいなくも日蓮大聖人が、命をも惜しまず南無妙法蓮華経を弘通されている、その御本仏のお振舞いこそは、勧持品を身口意の三業で読まれているお姿でなくしてなんであろうか。
 しかして、「寺泊御書」に「勧持品に云く『諸の無智の人有って悪口罵詈し』等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、『及び刀杖を加うる者』等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる……『悪口して顰蹙し数数擯出せられん』数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり」(0953-15)と述べられて、日蓮大聖人こそが勧持品を、文のごとく身をもって読まれたことを示されているのである。
 翻って、今日においては、日蓮大聖人ご在世のように、折伏を行じて刀杖を加えられたり、流罪にあったり、身命に及ぶようなことはない。いまや、創価学会という一大和合僧団が出現して広宣流布に向かって邁進しているのである。順風に帆をはった舟のごとく、ただ広宣流布という大目的に向かって、一筋道を悠々と進んでいるのである。
 ではこの勧持品の精神は、今日のわれわれの信心にあてはめてみるならば、どこに流れているのであろうか。「南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり」とは「折伏」の実践に尽きるであろう。
 勧持品は、釈尊にとっては、末法の法華経の行者の相貌を説き顕した予言書であり、日蓮大聖人にとっては、自らが御本仏たることの証明である。さらに日蓮大聖人は、この勧持品を観心の立ち場より、御義口伝に釈されているのである。この御義口伝の「勧持」の釈こそ末法のわれわれに対する付嘱であり、広布達成の御遺命ではないか。またわれわれの信心の明鏡である。
日蓮・大高声を放ちて申す。あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす
 まさに御本仏にして初めて喝破せる言葉である。自らの処刑を前にして、今回の大難の首謀者たる平左衛門尉に向かって、このように大高声をもって諌められるなどということは、到底凡夫のできることではない。
 そして「兵者どものいろこそ・へんじて見へしか」と申されているように、この場の大聖人のあまりにも崇高な、厳然としたお姿になみいる召捕人達も「さては、この召捕りは不法かな」と、自らの行動に不審を抱き、顔面蒼白となってしまったのである。
 さらに、この文は「日本国の柱云云」と申されているとおり、御本仏の確信が躍如としている。「開目抄」にいわく「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-05)と。ここに主師親三徳を具した御本仏とは、日蓮大聖人御自身なることを明かされたのである。翻って本抄の「日本国の柱云云」との仰せも、御本仏と拝するになんの異議があろうか。
 およそ、古今東西の先哲、偉人あるいは教祖と称される人々の行動が、いかに、世間から秀れているといわれていても、日蓮大聖人のお振舞いに比較するならば、太陽の前の蛍火にも似た存在となってしまう。
 この堂々たる大聖人のお振舞いに比較するに、キリストの臨終は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と憔悴しきった哀音を発していたという。最後の最後まで奇跡を信じていた信徒達であったが、肝心の磔の刑の際には、奇跡は起こらなかったのである。大聖人のお振舞いには、御本仏としての偉大なる確信と、諸天善神の加護が厳然とあった。
 それに対して、キリストが煩悶懊悩しながらその一生を終えたという明白なる事実は、動かしようがないのである。われわれは、この冷厳なる事実に眼を開き、日蓮大聖人の大師子吼を胸中に抱いて、雄々しく広宣流布の大道を邁進していきたいものである。
良観が雨ふらさぬ事
 文永8年(1271)の2月ごろから6月にかけて起こった全国的な大旱魃は国土を荒廃させ、民心を疲弊させた。そこで6月18日、良観は祈雨の法を行じて、万民を助けようと公言したのである。良観が祈雨の法を行ずると聞いた大聖人は、いまこそ良観の邪法ぶりを天下に知らしめんと、法の勝負を挑まれたのである。「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし」(1157-17)と。
 これを聞いた良観は喜んだ。良観は、弟子百二十余人を集結して、念仏を称えたり、請雨経を読んだり、法華経を読んだり、あるいは八斎戒を説いたりして、あらゆる祈雨の法を行じたのである。
 ところが、4日たっても5日たっても、雨の降る気配が全く見えない。約束の日が目前に迫っている。良観は気違いのようになって多宝寺の弟子等を数百人呼び集めて肝胆をくだいて祈禱したが、約束の7日が経過しても、露ほどの雨も降らず、ここに良観の悪法邪法ぶりが弾劾されたのであった。
 良観はさらに7日の猶予を大聖人に願って修法を続けた。「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350-10)その結果、以前よりももっとひどい大旱魃に見まわれ、さらに大悪風を招来してしまったのである。
 卑劣極まる良観は、この勝負の明らかな敗戦にもかかわらず、自らの非を悔い改める気配など微塵もなかった。それどころか、この一件によってさらに大聖人への怨みを深め、讒言を用いることによって大聖人を竜の口の法難にまで追い込んだのである。「持戒・持律の良観房は……数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや」(1158-09)と。
 日蓮大聖人は、日本に知らない人がいない天下に並びなき法華一乗の行者であり、良観は、慈善行為によって身を飾り、やはり天下に知れたる虚飾の僧である。衆目は、当然この法の勝負に集まったことであろう。敢然とお一人で勝負を挑まれた大聖人、祈っても祈っても雨が降らず魂を抜かれた良観、数百人もの衆徒を集結し、盛大な修法を試みるが、しょせんは邪法の祈りである。諸天が怒りをなし、悪風・旱魃を増大するのも当然である。
 そして大聖人は、良観らの邪法によってはむずかしい往生成仏など絶対にできないぞ、と強折された。このとき良観の邪法の根は大聖人の正法の利剣によって断ち切られたといって過言ではない。
一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか
 ここに「一丈のほり」とは雨を降らすことであり、「十丈・二十丈のほり」とは往生成仏である。
 良観は、すでに祈雨の勝負で日蓮大聖人の正法に阻止されて雨を降らすことができず、その法の低級ぶり、邪教ぶりを天下にしらしめたのであった。そこで大聖人は、良観のもつ法では、往生など絶対に叶わないぞ、と痛烈に破折されたのである。
 この文をわれわれの生活にあてはめて論じてみるならば、「十丈・二十丈」とは個人にとっては絶対的な幸福生活の確立、すなわち成仏であり、社会的にみれば広宣流布である。そして「一丈のほり」とは、われわれの日常生活・行動となろう。
 われわれの日常生活・行動が、御本尊を根本にした毎日であるか、あるいはほかのなにかを根本とした毎日か、この違いが、その人の将来を大きく左右するのである。いうなれば、仏法は瞬間瞬間が勝負である。その瞬間の勝負を信心根本に乗り越え、勝ってこそ、未来の大きな勝利の栄光があるのである。その勝負は塵芥のごとき極少のものかもしれない。だが大山も塵芥の集積によってなっていることをしらねばならない。
 したがって個人個人の最終目的である成仏も、瞬間瞬間の勝負を信心の二字でもって勝っていったときに、その人の頭上に燦然と輝くのである。さらに、われわれの信心の実践とは、広宣流布に通ずるものである。公布の大願成就も所詮、地道な粘り強い戦いによってかちとられていくことを知らなくてはならない。

0912:16~0913:10 第五章 若宮八幡での諸天善神の諌暁top

16   さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢに
17 うちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、 日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、 八幡大菩薩
18 に最後に申すべき事ありとて 馬よりさしをりて高声に申すやう、 いかに八幡大菩薩はまことの神か 和気清丸が
0913
01 頚を刎られんとせし時は 長一丈の月と顕われさせ給い、 伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈
02 裟を御布施にさづけさせ給いき、 今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、 日本国
03 の一切衆生の法華経を謗じて 無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、 又大蒙古国よりこの国を
04 せむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか、其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方
05 の諸仏・菩薩あつまりて 日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、 無量の諸天並びに
06 天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよ
07 と・せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、 さるにては日蓮が申すまでもなし・いそぎいそぎこそ誓状
08 の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す、さて最後には日蓮・今
09 夜・頚切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ 起請を用いぬかみにて候いけれとさし
10 きりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。
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 さて十二日の夜は、武蔵守宣時の預かりで夜半に達し、それから首を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路に出たとき、四方を兵士が取り囲んでいたけれども日蓮は「みんな騒ぎなさるな、ほかのことはない、八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬からおりて大高声で次のようにいった。「本当に八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清磨呂が道鏡の策謀によって首を斬られようとしたときはたけ一丈の月と顕われて守護し、伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられたときは紫の袈裟をお布施としておさずけになった。今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。いま法のために首を斬られようとしているがこれは日本の国のいっさいの衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を助けようとして申している法門である。また大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられようか。その上、釈迦仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略な守護をいたしませんという誓状を差し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立てたではないか。である以上は日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願を果たすべきであるのにどうして此の大難の場所には来合わせないのか」と朗々と申しわたした。そして最後には「日蓮が今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときには、まず、天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと名をさしきって教主釈尊に申し上げよう。それを痛いと自覚されるならば、大至急お計らいなされ」と𠮟ってまた馬に乗った。

武蔵守殿
 武蔵守北条宣時のこと。佐渡の知行者。良観の熱心な信者であったらしい。
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あづかり
 重大犯人に対しては幕府の法則では「預かり」と「使い」を設けていた。預りは身柄を保護監督し、使いは護送や判決の執行をしたものらしい。この場合は預かりが北条宣時、使いは平左衛門尉。
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わかみやこうぢ
 鎌倉鶴岡八幡宮の前の街道。
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和気清丸
 称徳天皇時代の廷臣。一般に清麻呂と書く。道鏡の天皇の位をねらう謀略を阻止しようとして、彼の怒りにふれ、大隅に流された。これだけで満足できない道鏡は、人を遣わして清丸を殺そうとしたが、にわかの雷雨に目的が果たせなかった。道鏡失脚後、その至心忠誠によって再び登用され、平安遷都に尽力した。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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釈迦仏
 釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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諸天
 諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
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聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
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教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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神天上の法門
 神天上とは、「立正安国論」に「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-02)とあるように、その国が、正法に背き、邪法がはびこって謗法の世となったとき、法華経の行者を護るべき諸天善神が、南無妙法蓮華経の法味に飢えて神威を失い、守護すべき国土を捨離するのである。
 日興上人は、「日興遺誡置文」に後学の者のため、広宣流布の金言を仰がんがためにと仰せられて、「檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云」(1617-10)と訓誡されている。
 さらに、第三祖日目上人の申し状をみても「それ我が朝は神朝なり、神は非礼を受け給わず」と述べられているように、南無妙法蓮華経の法味のほかは、すべて非礼であり、威光も失せてしまうのである。
 わが日本の国には、古来氏神信仰といって、各部族あるいは集団には、それぞれ独特の祖先神を伝承し、形成して祭祀信仰していた。そして国家統一の神として天照太神と正八幡大菩薩があったのである。
 ところが、欽明天皇の時代(0538)に、百済より仏教が渡来し、ここで仏教を受け入れようという崇仏派と仏教を排斥しようという排仏派との30数年間の争いの結果、崇仏派が勝って日本は仏教国としての第一歩を踏み出したのであった。すなわちこのときの排仏派というのは神道崇拝派なのである。
 神道信仰の根本的欠陥は、神を信仰の対象とするところにある。神は正法の法味を嘗めて威勢を増長するのであるから、正法が流布することによってのみ神は守護の国土を護るのである。
 この原理から見るならば、排仏派が滅亡したのも当然の結果なのである。さらに、翻って太平洋戦争における日本の敗戦も、上からの命令で一国あげて天照太神を祭らせ、拝ませた罰であることが判然とするのである。
いかに八幡大菩薩はまことの神か
 この文は、日本第一の法華経の行者である日蓮大聖人が、このような大難にあっているのに八幡大菩薩の守護の働きがないのはどういうわけか、と叱咤されているのである。安国論の神天上の法門によるならば、そのとき八幡宮には、八幡がいなかったことは明らかである。では大聖人が八幡を叱咤された元意はどこにあるのか。
  ここで八幡大菩薩という神は、一個の実体を指すのではなく、働き、作用をいうのである。したがって、八幡宮に神がいるとかいないということは問題ではない。しかるに、このとき大聖人は己心の八幡を、そこにまいらせてはっきりと念をおされたのである。すなわち大聖人己心の八幡とは、宇宙に弥漫する生命であるからそのまま通ずるのである。
 諸天善神は、法華経の序品第一で、釈尊の説法がはじまると、すぐにその会座に勢揃いする。すなわち序品に「爾の時、釈提桓因は、其の眷属の二万の天子と倶なり。復た名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子は、其の眷属の三万の天子と倶なり。娑婆世界の主の梵天王・尸棄大梵・光明大梵等は、其の眷属の万二千の天子と倶なり」とあり、日本の守護神である天照太神、正八幡大菩薩もこの会座に列なっていたのである。そして、これらの諸天善神は、法華経の行者を守護することを、安楽行品および嘱累品において誓っているのである。
 すなわち安楽行品に「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し」と。また同品に「天の諸の童子は、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と。さらにまた嘱累品に「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」と。
 日蓮大聖人の御在世、あるいは今日においても寺社といえば完全に謗法である。すなわち日興遺誡置文のとおりである。このような悪鬼乱入の寺社に赴くことは、われらの生命に地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の三悪道・四悪趣が染まり、苦しむのみである。
 よって大聖人が八幡宮の社前での叱咤は、悪鬼乱入の鶴岡八幡宮に対してではなく、宇宙即我・我即宇宙の原理から、生命論の上からと拝すべきである。
今日蓮は日本第一の法華経の行者なり
 また「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」の御文は、御本仏としての大確信をお述べになった文である。すなわち「御義口伝」(0760)に「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事-02)と述べられているように、日蓮大聖人の一身の当体が即御本尊なのであり、大聖人が末法の人本尊なることを述べられた御文なのである。さらに日蓮大聖人のお振舞いとは、久遠元初の自受用報身如来のお振舞いそのままなのである。
 このことについて日寛上人は「人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」と述べられ、また「事を事に行ずるが故に事と言うなり」と申されている。「事を事に行ずるが故に事と言う」とは、これは、久遠元初における自受用報身如来のお振舞いを末法今日において芥爾ほども異なることなく、そのまま行ずることである。
 さらに文証をあげるならば、
 「本因妙抄」に「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」(0877-06)と。「百六箇抄」にいわく「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」(0863-03)と。同じく「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(0863-05)と。

0913:11~0914:15 第六章 竜の口法難と発迹顕本top

11   ゆいのはまに.うちいでて御りやうのまへに・いたりて又云くしばし.とのばら・これにつぐべき人ありとて、中
12 務三郎左衛門尉と申す者のもとへ 熊王と申す童子を・つかわしたりしかば・いそぎいでぬ、今夜頚切られへ・まか
13 るなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみと
14 なりし時は・ねこにくらわれき、 或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度
15 だも失うことなし、 されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、 今度頚を法
16 華経に奉りて 其の功徳を父母に回向せん 其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事 これなりと申せしか
17 ば、左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへたつの口にゆきぬ、此にてぞ有らんずらんと・をもうとこ
18 ろに案にたがはず 兵士どもうちまはり・さわぎしかば、 左衛門尉申すやう只今なりとなく、 日蓮申すやう不か
0914
01 くのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のし
02 まのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、 十二日の夜
03 のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、 太刀取目くらみ・たふれ臥し
04 兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり 或は馬の上にて・うずくまれるも
05 あり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ 近く打ちよれや打ちよれやと・たかだ
06 かと・よばわれども・いそぎよる人もなし、 さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみ
07 ぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。
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 由比の浜に出て御霊社の前にさしかかったとき、また「しばらく待て殿方、ここに知らせるべき人がいる」といって、中務三郎左衛門尉という者のところへ熊王という童子を遣わしたところ彼は急いで出てきた。
 「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ、ねずみとなったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、だが法華経のためにはただの一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい僧侶の身と生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない、今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう、その余りは弟子檀那に分けようと申してきたのはこれである」といったところ、左衛門尉の兄弟四人は馬の口に取りついて御供をし、腰越竜の口に行った。
 首を斬るのはここであろうと思っていたところが、案にたがわず兵士どもが自分を取りかこんで騒いだので、左衛門尉が「今が御最期でございます」といって泣いた。それをさとして日蓮が「不覚な殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が鞠のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで人の顔も見えなかったが、これが光って月夜のようになり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士共はひるみ怖れ首を斬る気を失って一町ばかり走り逃げる者もあり、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もある。日蓮が「どうして殿方、これほど大罪ある召捕人から遠のくのか、近くへ寄って来い寄って来い」と声高高に呼びかけたが急ぎ寄る者もない。「こうして夜が明けてしまったならばどうするのか、首を斬るなら早く斬れ、夜が明けてしまえば見苦しかろうぞ」とすすめたけれどもなんの返事もなかった。
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08   はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す、 此れは道知る者なし・さきうちすべし
09 と申せどもうつ人もなかりしかば・さてやすらうほどに 或兵士の云く・それこそその道にて候へと申せしかば道に
10 まかせてゆく、 午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ、 さけと
11 りよせて・もののふどもに・のませてありしかば各かへるとて・かうべをうなたれ手をあさへて申すやう、 このほ
12 どは・いかなる人にてや.をはすらん・我等がたのみて候・阿弥陀仏をそしらせ給うと.うけ給われば・にくみまいら
13 せて候いつるに・まのあたり をがみまいらせ候いつる事どもを見て候へば・たうとさに・としごろ申しつる念仏は
14 すて候いぬとて・ひうちぶくろよりすずとりいだして・すつる者あり、 今は念仏申さじと・せいじやうをたつる者
15 もあり、六郎左衛門が郎従等・番をばうけとりぬ、さえもんのじようも・かへりぬ。
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 しばらくしてから「相模の依智という所へお入り下さい」という。「自分の方には道を知る者がいない、案内しなさい」といったけれども先立ちする者もないのでしばらく休んでいると、ある兵士が「そこがその道でございます」といったので道にまかせて進んだ。正午ごろに依智というところへ行き着いたので本間六郎左衛門の邸へ入った。酒を取り寄せて、ついてきた兵士に飲ませていたところ、彼等が「帰りますが」といい出し、頭を下げ合掌して申すには「今まではどんなお方であるか存じませんでしたが、われわれが頼んできた阿弥陀仏を誹っていると聞いたので憎み申し上げておりましたが、直接に拝顔して昨夜来のお振舞いを拝見しました所、あまりにも尊いので、長年称えてきた念仏は捨てました」といって火打ち袋から珠数を取り出して捨てるものがあり「今後は念仏を申しません」と誓状を差し出す者もあった。六郎左衛門尉の家来達が警護の役目を受け取った。左衛門尉も帰っていった。

ゆいのはま
 現在の神奈川県鎌倉市にある海岸をいう。日蓮大聖人が竜の口の頸の座にのぞまれるとき、この浜を通って行かれた。
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御りゃう
 特定の人の霊を祭ったやしろ。ここでは、平安末期の武士で、後3年の役(1083~1087)に、源義家に従って奥羽で戦い、有名をはせた鎌倉権五郎景政の霊を祭った社である「御霊社」のこと。今の鎌倉長谷山の近くにある。
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中務三郎左衛門尉
 四条中務三郎左衛門尉頼基(1230頃~1300)。一般に、四条金吾という。当時の慣例で唐官によって金吾と通称され、北条の支族江馬家の代々の忠臣で武道に通達、学問にも優れ、医術の心得もあり名医の誉れが高かった。建長年間、大聖人の折伏教化を受け、池上兄弟と共に壇越となる。そして文永8年(1271)、竜の口の法難のときは大聖人の馬の口に取りすがり殉死の覚悟でお供した。信心強盛のためにまた性格の率直により度々同輩と衝突し、建治3年(1277)には讒言をもって陥れられ苦境にたったが、頼基は所領・身命を捨てて主家を諌めた。このとき大聖人よりご代筆をもって与えられた陳状が「頼基陳状」である。最終的に主家にその至誠が通じ、かえって所領が倍増した。しかして金吾の信心は終始一貫して輝き、大聖人の外護の任にあたった。すなわち、佐渡に、身延に常に供養を怠らず、その後入道して所領たる甲州内船に隠居し、正安2年(1330)3月15日寂す。妻日眼女もその子月満・経王もともに大聖人の熱心な信者となった。
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熊王と申す童子
 熊王丸のこと。大聖人の法難の際、お供をした小童。
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娑婆世界
 娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
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貧道の身
 身に一物もないことをいい、一般的に僧侶が自分の謙称として用いる。
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左衛門尉・兄弟四人
 四条金吾の兄弟については詳細は不明であるが、左衛門尉頼隆、四郎頼李、七郎頼實がいたといわれている。
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こしごへ
 現在の神奈川県鎌倉市腰越の地のこと。文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が頸の座に坐られ発迹顕本なされた竜の口刑場は、七里が浜の西端、腰越の地にある。昔は、相模国鎌倉郡で、鎌倉時代は、鎌倉の門戸として重要な関所となっていた。
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たつの口
 現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
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月のごとく・ひかりたる物
 よほどの大流星であったと思われる。一般に流星は月のない晴れた夜、突然星が一秒か二秒光り、消えてしまうが、その光りも満月くらいの明るいものもあれば、やっと望遠鏡で見えるものもある。色もいろいろあり、一般的に青いものは速く、赤みがかったものはゆっくりと動く。とくに明るいものは火球と呼ばれ、その一部は隕石となって地上に落ちてくる。流星が光りはじめる高さは地上100㌖から150㌖であり、地上60㌖から80㌖で消える。
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辰巳
 方位のひとつ。南東をいう。
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戌亥
 方位のひとつ。北西をいう。
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太刀取
 斬首刑の執行者。
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召人
 捕らえられている人。
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さがみのえち
 地名。現在の神奈川県厚木市依智。本間六郎左衛門重連の邸宅があったところで、大聖人は文永8年(1271)9月13日から約1ヶ月間滞在されている。
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さきうち
 道先案内人。
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午の時
 時刻。現在の正午~午後2時をいう。
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本間六郎左衛門
 生没年不詳。佐渡国の守護であった武蔵守・北条(大仏)宣時に仕えた武士。佐渡国の守護代(代官)を務めていた。相模国愛甲郡依智郷(神奈川県厚木市北部)にも所領があり、依智六郎左衛門尉とも呼ばれた。日蓮大聖人は文永8年(1271)の竜の口の法難の後、流罪先の佐渡へ出発するまでの約1カ月間、依智の本間邸に滞在されている。佐渡到着後の11月1日、大聖人は配所としてあてがわれた塚原の三昧堂に到着されるが、そこは「六郎左衛門が家のうしろ」(916㌻)で、佐渡における重連の館とは至近にあったようである。念仏者を中心とする佐渡の道俗は、「阿弥陀仏の大怨敵」(917㌻)として大聖人の命をねらったが、重連は管理責任上これを制し、法門によって責めるようにと促した。その結果、文永9年(1272)正月の対論(塚原問答)が行われたが、逆に大聖人の正義を知らしめることとなった。この問答の際、重連は大聖人から近いうちに内乱が起きるからと鎌倉への出仕を促されるが、それが同年2月に起きた「二月騒動」を予見したものであったことを重連が後で知るに及び、大聖人へ心を寄せるようになったようである。文永10年(1273)12月7日、武蔵前司(北条宣時)は本間重連に命令書を与えた。これは大聖人を一層厳しく取り締まる内容であったが、正式・公的なものではなく私的なものと思われる。大聖人はこの全文を3カ月後に著された「法華行者逢難事」(0966~0967)に転載されている。おそらく重連もしくはその周囲の者を通じて披見できたものと思われ、重連の好意を示すものと理解されている。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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ひうちぶくろ
 火を得るための道具。携帯用として持参するもの。
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 この章は、竜の口の刑場に臨まれた大聖人のお振舞いを中心として、その前後の模様を述べられている、この時こそが大聖人発迹顕本の時である。すなわち一行が、刑場への途中、由比が浜に出て、御霊社の前にさしかかったとき、大聖人はちょうどその近辺の長谷に住居を持つ四条金吾の許へお供の熊王丸という小童をやって、法難のようすを知らせたのである。金吾にとってみれば、いざというときの覚悟は、当然できていたとしても、あまりの事態の重大さにその驚きは尋常ではなかったであろう。とにかく、おっとり刀で駆け付けたのである。
四条金吾の信心とわれらの決意
 四条金吾は、門下のなかでも、池上宗仲・富木胤継等と並んで最も強盛な信者の一人である。しかも竜の口の法難という、重大な事件のおりにも日蓮大聖人のおそばについて殉死の決意で同行したのは数多い門下のなかでも四条金吾のみである。
 したがって、ここで四条金吾の信心を学ぶことは、700年後の今日においても大いに意義があると思う。
 四条金吾は、詳しくは語訳に示したが四条中務三郎左衛門尉頼基といい、名門の武家の出である。
 金吾の主君、江馬入道光時は、北条義時の孫で、遠江守朝時の嫡子である。だが光時は大聖人迫害の張本人である極楽寺良観の熱心な信者であった。このような悪環境にあってなおかつ信心強盛を貫き、門下でも最も大聖人の信頼を得たのであるから、金吾の勇気、信心は後世の鏡とする。このように今日においても輝く名をとどめえたのも、ただただ日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、お慕い申し上げ、外護しきっていくとの不自惜身命の精神が金吾の全身に脈打っていたからにほかならない。
 とくに竜の口の法難時における金吾の覚悟は、後世の信者の鏡ともいうべきであろう。日蓮大聖人は、このときの金吾を次のようにおほめになっている。
 「去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ……かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ」(1113-01)と。
 弘演は、中国の春秋の世に、衛国の主君であった懿公の臣である。主命を奉じて遠く使いし、帰ってみれば衛国は北狄に攻められ、懿公は殺されて肝が捨ててあった。弘演は、主君の恥をかくすためにその主君の肝を、わが腹を裂いて、その中に入れて死んでいったという。大聖人は、金吾の信心は、それに勝れること百千万倍であると讃嘆されている。
 このような金吾の純真な信心に対して日蓮大聖人は、30数編ものお手紙を与えられている。そしてそれらは生活のこと、家族のこと、また宮仕えのあり方等々、実に細やかなことにまで配慮されたお手紙が数多い。これからみても、日蓮大聖人が金吾をいかに信頼し、愛されていたかがしれるのである。
此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時云云
 この文は、一行が刑場の地に到着したので、金吾は「只今なり」といって泣いた。おそらくそのときの金吾は、「只今なり」というのが精一杯ではなかったろうか。大聖人はその金吾の姿をみて「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」と叱咤された。
 このなかに師弟の無限の愛情が感ぜられるではないか。
 日蓮大聖人は、この竜の口の法難によって発迹顕本され、久遠元初の自受用報身如来すなわち御本仏の御身を顕現なされたのである。「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて云云」と申されているのは、まさに御自身が凡夫の御身を払われて久遠の本仏と顕われたことを明かされた明文である。したがって大聖人が処刑の場に臨んで「これほどの悦び」(0223-16)と金吾に申されたのは、御自身が法華経の勧持品の文を身をもって読んだという喜びであり、さらには御本仏としての大確信に立たれたからにほかならない。
 また、随行の四条金吾はどうであろうか。やはり法華経に命を捧げ、不惜身命の信心に立脚していた。したがってこのとき、金吾の成仏も決定したといっても過言ではあるまい。
 さて「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」とは日蓮大聖人がつね日ごろ門下に対して法華経のために命を捨てることの尊さを指導されてきた。そして金吾をはじめ数々の弟子は大聖人に不惜身命の信心を誓ってきたのである。そして今、命におよぶ大難に遭遇して、日ごろ誓ってきた「不惜身命の契り」が、眼前になったのである。よってこれは突発的な事故でもなければ、全く予期せぬ出来事でもない。法華経の文に照らせばすべて明らかであるという意をこめた文である。金吾としても、門下の方々と共に、不惜身命の誓いを度々かわしあってきた。だが、師の日蓮大聖人の処刑を眼前にして思わず泣き伏してしまったということは、凡夫の金吾の振舞いとして、けだし当然ではあるまいか。また大聖人が、御自身処刑を眼前にしながら、なおかつ金吾に「不かくのとのばらかな」と申されたのは、御本仏の大確信が脈々と伝わってくるとともに御本仏と不惜身命の信心に立った弟子とのあまりにも深く暖かい関係が感ぜられるではないか。
江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる
 この文は、日蓮大聖人の留難を諸天善神が守護した実証である。時刻はまさに子丑三世の諸仏成道のときである。光り物が東南の方向から西北の方向へと光り渡り、斬首刑にあたった太刀取りは目がくらむほどの大きなものであった。
 この光り物については、「四条金吾殿御消息」に「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く『則遣変化人為之作衛護』疑あるべからず……強盛の信力こそありがたく候へ」(1114-01)、また「御義口伝」に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(0750-第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事)と述べられている。
 三光天子とは、太陽と月と星の三つで、諸天善神である。法華経の会座では、序品にこの三光天子はそろって列座している。すなわち「名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり」と。
 日蓮大聖人が八幡大菩薩を叱りとばされたのは、嘱累品の「如世尊勅当具奉行」との誓言をもってその怠慢を責められたのであるが、この大聖人の叱声に呼び覚まされて出現したのが三光天子のなかの月天子である。したがってこのときの「光り物」が月天子の眷族であることは明らかである。
 そこで次に八幡大菩薩と月天、そして「光り物」について若干の考察を加えてみたい。
 大聖人が竜の口の刑場において八幡大菩薩を叱咤されたのは、大聖人己心の八幡大菩薩であることは、第五章で述べたとおりである。この八幡大菩薩の働きは、法華経を信ずる者を守護することにあるが、妙法を信ずればあらゆる諸天の加護があることはいうまでもない。諸天善神の働きの本質は、大宇宙それ自体が妙法を守り、妙法の信者を守護するのである。ならば、ここで大聖人が大宇宙に偏満する八幡大菩薩に向かって諌められたということは、大宇宙のあらゆる諸天が、大聖人をお護りするために働くことなのである。
 次に「光り物」であるが、この光り物の実体はなんであったかは、当時の記録が明らかでないため判然としないが、火球であったことは文中より察せられる。それも「太刀取目くらみ」とあるから、そうとう巨大なものであったのであろう。
 この現象をみて科学者は、いろいろ説明するであろう。また科学的に説明されて当然である。だが、日蓮大聖人が、諸天を叱られたあと、しかも、まさに斬首刑が実行されようとしたその刹那に、こうした現象が起きたということは、仏法の因果より見る以外にない。
 科学的説明は、この現象を物理化学的な側面より分析と統合の結果として導き出された帰結であって、その現象全体の説明とはいえない。すなわち、大聖人がまさに斬首されんとしたときに、この現象が起きたという不思議な「時」の一致の問題については、科学の範疇を超え、仏法によって解決されているのである。
 この竜の口の現象および依智の本間邸における不思議な現象について、池田会長著の「立正安国論講義」には次のように説明されている。
 「この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球とも説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。
 火球は、あたりを明るく照らし出す。その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がするとのことである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに空に現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのため、森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。
 竜の口の現象も、あるいは『物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ』とあるからこの火球がそれであったかもしれない。それならば、隕石が空気中で燃えて火球となったので、奇跡でもなんでもないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に証明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対し加護せよとしたあと、しかも首を斬られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったという動かすことのできない事実、これは科学で説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。
 さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく「種種御振舞御書」に『いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし』と。
 これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理科学的な面の説明であって、現象それ自体のすべての説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、先の竜の口における現象とを合わせ考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである」と。

0914:16~0916:03 第七章 月天の不思議と弟子檀那への迫害top

16   其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頚切れという・かさねたる御使かと・
17 もののふどもは・をもひてありし程に 六郎左衛門が代官右馬のじようと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざま
18 づひて申す、今夜にて候べし・あらあさましやと存じて候いつるに・かかる御悦びの御ふみ来りて候、 武蔵守殿は
0915
01 今日・卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へば・いそぎ・あやなき事もやと・まづこれへはしりまいりて候と申す、か
02 まくらより御つかいは二時にはしりて候、 今夜の内にあたみの御ゆへ・はしりまいるべしとて・まかりいでぬ、追
03 状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべしと云云。
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 その日の午後八時ごろに鎌倉からお上の使いということで立て文を持ってきた。首を斬れという再度のお使いかと武士達が思っていたところ、本間六郎左衛門の代官・右馬尉という者が立て文を持って走って来てひざまづいて申すには、「斬首は今夜であろう。なんとも情けないと思っておりましたのに、このようなお悦びの手紙が参りました。武蔵守殿は今日卯の時に熱海の湯へお立ちになりましたから、理不尽なことがあっては大変だと思い、急いでまずこちらへ走って参りましたと申しております。鎌倉から使者は四時間で走って参りました。そして、今夜のうちに熱海の湯へ走って参りますといって出発いたしました」と。追状には「此の人は罪の無い人である。今しばらくしてから赦されるであろう。あやまちをしたならば後悔するであろう」と認めてあった。
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04   其の夜は十三日・兵士ども数十人.坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に.はれ
05 てありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文のあらあら申して
06 抑 今の月天は 法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、 宝塔品にして仏勅をうけ給い 嘱累品にして仏に
07 頂を なでられまいらせ 「世尊の勅の如く 当に具に奉行すべし」と誓状をたてし 天ぞかし、 仏前の誓は日蓮
08 なくば虚くてこそをはすべけれ、 今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・は
09 たして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、 いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、 何なる事も国になく
10 しては鎌倉へもかへらんとも思はず、 しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、 大集経には
11 「日月明を現ぜず」ととかれ、 仁王経には「日月度を失う」とかかれ、 最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」
12 とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、 其のしるしにや天より明星の如くなる 大星下りて前の
13 梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり 或は大庭にひれふし或は家のうしろへに
14 げぬ、 やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。
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 その夜は十三日で、兵士達が数十人、坊のあたりと大庭にならんでひかえていた。九月十三日の夜であるから月が実によく晴れていたので、夜中に大庭へ出て月に向かって、自我偈を少し誦み奉り諸宗の勝劣と法華経の文を概略申し述べて「そもそも今の月天は法華経の御座に列席している名月天子ではないか。宝塔品で仏勅を受けられ、嘱累品で仏に頂を摩でられて『世尊の勅のとおりまさに正確に実行する』と誓状を立てた天神ではないか。仏前の誓いは日蓮がいなかったならば虚しくなってしまうであろう。だが今こういう大難が出てきたのであるから、急いで、悦んで法華経の行者にも代わり、仏勅をも果たして誓言の験を果たしなさい。一体どうしたのか、今験がないのは実に不思議なことである。なに事も国に起こらなければ鎌倉へも帰ろうとも思わない。たとえ験を現わさないにしても嬉し顔で澄み渡っているのはどうしたわけであるか。大集経には『日月は明るさを現さず』と説かれ、仁王経には『日月は平静を失う』と書かれ、最勝王経には『三十三天がおのおの瞋りを生ずる』と明らかに見えているではないか。いかに月天、いかに月天!」と責めたところが、その験であろうか、天から明星のような大星が下ってきて前の梅の木の枝にかかったので、武士たちが皆縁側から飛び降り、ある者は大庭に平伏し、ある者は家のうしろへ逃げてしまった。間もなく一天かき曇って大風が吹いてきて、江の島が鳴るということで空が鳴りひびくありさまは大きな鼓を打つようであった。
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15   夜明れば十四日卯の時に 十郎入道と申すもの来りて云く・昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあ
16 り、 陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは 大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ
17 召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、 ゆりさせ給へ候と申す人もあり、 又百日の内に軍あるべ
18 しと申しつれば・それを待つべしとも申す、依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人
0916
01 をころす事ひまなし、 讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、 さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌
02 倉に置くべからずとて 二百六十余人しるさる、 皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば 頚をはねらるべしと聞
03 ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。
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 夜が明けると十四日で、午前六時ごろに十郎入道という者が来て「昨夜の八時ごろに執権相模守殿の邸に大きな騒動があり、陰陽師を呼んで占わせたところが、彼がいうには『大いに国が乱れましょう。それはこの御房をご勘気にしたためである。大至急召し還さなければ世のなかがどうなるか判りません』といったので、『すぐ赦されますように』という人もあり、また『大聖人が百日の内に軍が起こるであろうと申していたからそれを待ちましょう』という者もあったとのことでございます」と告げた。
 依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七、八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」というので、役所ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子達を鎌倉に置いてはならぬとの方針で二百六十余人の名が記された。その者達は皆遠島へ流されるだろう。すでに入牢中の弟子達は首を斬られるだろうと聞こえてきた。ところが真相は放火などは持斎や念仏者の計りごとである。そのほかのことは繁くなるから書かない。

戌の時
 時刻。現在の午後8時~午後10時。
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たてぶみ
 ① 折らずに全紙そのままを横長に用いて書いた書状。立て紙を用いて書いた書状。 ② 書状を礼紙で包んだ上を別の紙で細長く包み、上下の余った部分を筋交いに折ったのち、さらに裏側へ折ったもの。ひねりぶみ。
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代官
 主君の代理として職務に当たる者。
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卯の時
 時刻。現在の午前6時~午前8時。
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あやなき事
 筋道が通らないこと。わけがわからないこと。
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追状
 前の手紙に追って出す手紙。文章。
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自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
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名月天子
 月天のこと。本地は大勢至菩薩で、その応身の姿とされ、月天子ともいわれる。
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宝塔品
 妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
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仏勅
 仏の勅命。仏のおおせのこと。
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嘱累品
 法華経嘱累品第二十二のこと。はじめに「我れは無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習し、今以て汝等に付嘱す。……汝等は当に受持・読誦し、広く此の法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と一切の菩薩への付嘱を明かした。これを神力品の上行菩薩への別付嘱に対して総付嘱という。諸菩薩は付嘱を受け、「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と誓った。嘱累品で宝塔品より始まった虚空会は終わり、分身の諸仏、地涌の菩薩も本土へ還り多宝の塔も閉じてもとの霊鷲山会に移行した。
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大集経
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳.大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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最勝王経
 中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
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三十三天
 忉利天のこと。梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
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十郎入道
 本間重連の家人と思われる。
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陰陽師
 中国から伝わった陰陽および五行の思想にもとずいて、ぼくちく・天文・暦あるいは疾病治療などのための技術的知識を持った人のこと。我が国に陰陽道が伝えられたのは推古天皇の時代に、百済の僧観勒がつたえたのがはじまりといわれる。その後、奈良・平安時代には律令制度のもと、中務省の所管におかれ、次第に盛んに行われるようになった。
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讒言
 告げ口・悪口をいうこと。
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 竜の口の法難を諸天の加護によって堂々と乗り切られた大聖人は、本間六郎左衛門邸にひとまず身を寄せられたのである。ここで幕府の沙汰を待っていたが、ここでも、第六章で諸天を叱咤されたように諌暁されている。とくにこの章の前半では、鎌倉から執権の命令書を持った使いが来て、大聖人の刑の執行について「ゆるさせ給うべし」との書面の内容を知ったとき、まわりの警護の役人や六郎左衛門もほっと安堵したことであろう。また、とくに金吾の喜びたるやいかばかりであったろうか。
追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべし
 日蓮大聖人が無実であったことは、この文において明白である。そして今回の大難も平左衛門尉や良観等の陰険な策謀によるものであったことも明らかである。
 この事件を知った北条時宗は武藏守宣時に立て文を出した。内容は刑の執行中止を命じたものであった。ところが武藏守はその日の早朝6時に熱海の湯へ静養に行ったあとのことであったので、本来なら時宗から宣時へ、宣時から本間六郎左衛門へ、そして大聖人へと回るべき立て文が、このような事情によって、立て文の内容は、まず大聖人に知らされたのである。宣時は情勢悪しと見て、責任上、熱海へ急遽逃避したのではあるまいか。
 この文は、立て文の追状の内容である。これを見ると、時宗は大聖人を「とがなき人なり」と明確に無罪を認めている。そこで、この竜の口の法難を考えてみるに、これは平左衛門尉の独断でなされたことであることがわかる。これは当然、平左衛門尉の越権行為であるが、平左衛門尉は、このころ北条一門のなかでも相当権力を持つ存在であったので、刑の執行などもときとして独断で裁定することがあったのであろう。
 平左衛門尉は正式には、平頼綱といい、左衛門尉は官名である。
 執権・北条家の家司で専ら家政を司る、いわば執事のごとき立ち場である。故に、もともとは御家人より低い身分であり、幕府の役職者でないから、幕府そのものを牛耳る立ち場とは到底ならない。
 しかし鎌倉幕府は三代将軍、源実朝以後は北条氏が執権としてその実権を握り、次第に幕府機構を独占専制化するにつれて、北条家被官 の上首である内管領の発言力も増大していったのである。
 実朝の没後の幕府内勢力関係は、必ずしも北条一門のみが最大の実権派ではなかった。東国豪族と呼称される三浦、千葉、小山、後藤氏等の勢力も大きかったのである。
 当初の幕府の職制が、評定衆などのように合議制・集団指導制であったのは、これら豪族や御家人の意思を無視しえず、その立ち場と権益を擁護するという名分が必要だったからである。いわば北条執権は、これら有力豪族の指示をとりつけて、初めてその存在を保障されていたのであり、豪族間の勢力均衡の上にかろうじて安定を保っていたのである。
 しかし執権時頼が、宝治の乱で、北条氏と比肩するこれら有力豪族を倒して無力化させ、一族の名越氏をも斥けることに成功してのちは、北条一門で幕府要職のことごとくを独占してしまったのである。
 それは北条氏嫡流家の支配力強化の方向をひらき、また合議制が次第に廃されて権力のことごとくが執権の一身に集中することになった。
 幕府の政務決定は評定衆の合議制であったが、時宗が執権となったころには評定制は無力化してしまい、名目だけとなっていた。そして北条氏嫡流家の従者である得宗の被官達の寄り合いによって、重要政務が決定されていく得宗専制政治が現出することになった。また北条氏は幕府の独占支配を推し進め、一門や得宗の被官を幕府の要職に登用するにおよんで、得宗の被官達は隠然たる政治勢力を形成するようになった。そして平左衛門尉はこの得宗の被官の上首として絶大な権勢を誇るようになったのである。具体的には、内管領と侍所頭人として、得宗のもとに軍事・警察権を握り、全国御家人の統括権・検断権も掌握した。また執権の家司として政務決定にも強大な発言権を持ち、常に最高決定機関である寄り合いの席に臨むなど、幕府全体にその権力を発揮するほどの強力な実権を握ることになった。
 しかも頼綱のときは、父祖三代にわたって内管領を務めてきており、その権威は不動のものとなっていた。ときには執権を上回る権勢をもち、重要政務の裁定を独断で行なうなど横暴をきわめていた。
 したがって評定制が確立し、御成敗式目にのっとった評定がなされていたら、大聖人は、このような大難にあわれなかったであろう。
 ここでさらに考えられることは、第六章で述べられているように、本間六郎左衛門の邸にひとまず身を寄せられ、警固の役人達にお酒などをふるまわせているうちに、まわりの役人達は、大聖人の威厳にうたれ、引き上げるころには、大半の役人達が大聖人に帰伏してしまったことである。
 このありさまはこの章でも浮き彫りにされている。すなわち「六郎左衛門が代官右馬のじょうと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざまづひて申す」と述べられているのは、日蓮大聖人の威厳にうたれ、帰伏した姿でなくしてなんであろうか。そもそも代官が罪人にひざまずいて立て文を手渡すことなど考えられるわけがない。御本仏日蓮大聖人のお姿がほうふつとしてくるではないか。
宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし
 この御文は、法華経の行者には諸天の加護が絶対にあることを明かされた文である

 ここで日蓮大聖人が、月天に対して嘱累品の「如世尊勅当具奉行」の文をもって諌暁されたのは、まさにこれ迹化の菩薩が、法華経の行者守護の誓いをなした言葉であるが故である。すなわち日蓮大聖人はこの文を文底観心の立ち場から御義口伝において「如世尊勅当具奉行の事、御義口伝に云く諸の菩薩等の誓言の文なり、諸天善神菩薩等を日蓮等の類い諌暁するは此の文に依るなり云云」(0772-第三如世尊勅当具奉行の事)と述べられている。
 さて宝搭品の仏勅とは、宝搭品三箇の勅宣のことである。すなわち見宝搭品第十一の「爾の時に多宝仏、宝搭の中に於いて、半座を分ち」に始まって「誰か能く此の経を受持し読誦せん、今仏前に於いて自ら誓言を説け」で終わる文をいう。
 また、嘱累品第二十二では釈尊は、迹化他方の菩薩をはじめ一切衆生に付嘱するのである。この付嘱を三摩の付属という。三摩とは、仏が三たび、諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でることである。
 この三摩の付嘱について、日蓮大聖人は「御義口伝」に文底観心の立場から次のように釈されている。
 すなわち「御義口伝に云く起とは塔中の座を起ちて塔外の儀式なり三摩の付嘱有るなり、三摩の付嘱とは身口意三業三諦三観と付嘱し給う事なり云云」(0772-第一從法座起の事)また「御義口伝に云く此の品には摩頂付属を説きて此の妙法を滅後に留め給うなり、是れ又妙法の付属なれば十界三千皆付属の菩薩なり、又三摩する事は能化所具の三観三身の御手を以て所化の頂上に明珠を譲り与えたる心なり、凡そ頂上の明珠は覚悟知見なり頂上の明珠とは南無妙法蓮華経是なり云云」(0800-一嘱累品)と。
 法華経見宝搭品第十一に至って、七宝の搭が地より涌出し、空中に住在する。すなわちこれより儀式が霊鷲山会より虚空会に移るのである。そしてこの虚空会の儀式のなかの寿量品第十六において、滅後末法の要法たる三大秘法の南無妙法蓮華経が説き明かされ、神力品第二十一において本化地涌の菩薩に対する本化付嘱、次の嘱累品第二十二において、迹化の菩薩に対する迹化付嘱がなされるのである。この一連の儀式は、いずれも三大秘法の南無妙法蓮華経をめぐって展開されたことは当然である。
 さらにこれは観念の上の付嘱ではない。仏が三業・三諦・三観にわたって、迹化の菩薩および一切衆生に付嘱したのである。だが、この嘱累品の付嘱も、文底観心よりみるならば、その本意は上行菩薩にあることが明らかである。すなわち日蓮大聖人は、嘱累品の「如来是一切衆生之大施主」の文を文底観心の立ち場より次のように釈されているのである。「御義口伝に云く如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり、大施主の施とは末法当今流布の南無妙法蓮華経主とは上行菩薩の事と心得可きなり、然りと雖も当品は迹門付嘱の品なり上行菩薩を首として付嘱し給う間上行菩薩の御本意と見たるなり云云」(0772-第二如来是一切衆生之大施主の事)と。
依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず
 北条時宗からの処刑中止の命令書が届いて、その後の大聖人の処遇を決めるのに役人の間で相当な論議が交わされたのであろう。大聖人は依智の本間邸で、二十数日もの間、なんの音沙汰もなく過ごされたのである。本来ならば、執権からの刑の執行中止の命令が下ったならば、ただちに無罪放免となるべきはずである。ところがわざとこのように二十数日も本間邸で過ごさせたのは、一体なぜであろうか。
 思うに、一つには執権の権力がかなり弱体化していたということであり、もう一つには、もともと今度の法難は平左衛門尉の独断で実行したことである。そしてその本質は釈迦在世の提婆達多のごとき、魔の首領のごとき存在である。日蓮大聖人をなんとか亡き者にせんとの悪意から出た行為であることは、火を見るよりも明らかである。
 われわれはこの文から、平左衛門尉、良観等の悪辣極まりない謀略に心の底から憤りを覚えるではないか。
 持斎や念仏者たちが共謀して、鎌倉の家々に火をつけ、これを大聖人の弟子の仕業であるなどといいふらすとは、なんと卑怯な、悪心に満ちた策謀であろうか。彼らは、ただただ大聖人を迫害するために今世に生を受けた魔の眷属としかいいようがない。結局は、こうした讒言がいいふらされて260余人もの弟子が牢に入れられたのである。結局、この策謀で罪なき大聖人を無理に佐渡流罪にもち込んだものであろう。
 このときのようすは「土籠御書」に「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ……法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ……籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん」(1213-01)と述べられている。
 これは、佐渡へ発たれる前日、すなわち10月9日に相模の依智より日朗に与えられたものである。まことに御本仏の慈悲が胸にこみあげてくるではないか。御自身、厳寒の地へ配流の身となる日を翌日にひかえて、なおかつ弟子の身を案じておられる大聖人の境涯たるや、御本仏にして初めてなせる、悠々たる境涯であると拝するのである。

0916:04~0917:09 第八章 塚原三昧堂での御法悦top

04   同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、 十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申
05 す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに 死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、 上はいたまあはず四壁はあば
06 らに雪ふりつもりて消ゆる事なし、 かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、 夜は雪雹雷
07 電ひまなし昼は日の光もささせ給はず 心細かるべきすまゐなり、 彼の李陵が胡国に入りてがんくつにせめられし
08 法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて 江南にはなたれしも只今とおぼゆ、 あらうれしや檀王
09 は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、 不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて 一乗の行者といはれ
10 給ふ、今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり、 仏滅度後・二千二百余年が間・恐ら
11 くは天台智者大師も 一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、 一句一偈・我
12 皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし、 相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽
13 利尊者・持斎等は善星比丘なり、 在世は今にあり今は在世なり、 法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等
14 とのべられて候は是なり、摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」文、又云く
15 「猪の金山を摺り衆流の海に入り 薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」等云云、 釈の心は法華経を教のご
16 とく機に叶ひ時に叶うて解行すれば七つの大事出来す、 其の中に天子魔とて第六天の魔王 或は国主或は父母或は
17 妻子或は檀那或は悪人等について 或は随つて法華経の行をさえ或は違してさうべき事なり、 何れの経をも行ぜよ
18 仏法を行ずるには分分に随つて留難あるべし、 其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし、 法華経を・をしへ
0917
01 の如く時機に当つて行ずるには殊に難あるべし、 故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず 仏乗を慕わずと知
02 れば魔・是の人に於て猶親の想を生す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして
03 法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして 人間につきて其の人をもてなし供養す 世間の人に実の僧と思はせん
04 が為なり、 例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し、 されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるに
05 てあるなり、 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、 今の世間を見るに人をよくなすものはかた
06 うどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、 眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は 義盛と隠岐法皇まし
07 まさずんば争か日本の主となり給うべき、 されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、 日蓮
08 が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華
09 経の行者とはなるべきと悦ぶ。
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 同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に三昧堂へ入ったが、ここは本間六郎左衛門の家のうしろの塚原という山野のなかの、洛陽(京都)の蓮台野のように死人を捨てる場所にある一間四面の堂で仏もない。上は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消えることがない。こういう所に敷皮をしき蓑を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・雹・雷電の絶え間がなく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当たり前の住居である。彼の李陵が胡国へ入って巌崛に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗皇帝に責められて顔にかな焼きを押されて、江南に放逐されたのも只今だと感じた。
 ああ嬉しいことである。須頭檀王は阿私仙人に責め使われて法華経の功徳を得、不軽菩薩は増上慢の比丘等に杖で打たれて一乗の行者といわれた。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅後二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識であることよ、平左衛門こそ提婆達多よ、念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。
 摩訶止観第五にいわく「行解すでに勤めたならば三障四魔が紛然として競い起こる」文と、またいわく「三障四魔の働きは猪が金山を摺ってますます光らせ、沢山の流れが海に入っていよいよ海水を増し、薪が火をますます熾んにし、風が吹いて迦羅求羅という虫を太らせるようなものである」等と。この釈の心は、法華経を教えのとおりに機根に叶い時に叶って信解し修行すれば七つの大事が出てくる、そのなかに天子魔といって、第六天の魔王があるいは国主あるいは父母あるいは妻子あるいは檀那あるいは悪人等にとりついて、あるいは行者に随って法華経の行者をさまたげあるいは反対するはずである、どの経を行ずるにもせよ仏法を修行するならば分々に随って留難があるはずである、そのなかでも法華経を行ずるならば、強盛にさまたげるであろう、法華経を教えのとおりに時と機根に適合して行ずるならばとくに強く難があるはずである、ということを述べているのである。
 故に、弘決の八にいわく「若し衆生が生死を出離せず仏乗を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して親のような想いを生ずる」等と。釈の心は、人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いを起こして人間についてその人を優遇し供養をする、それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊敬する僧をあらゆる人が供養するようなものである、といっているのである。
 であるから、国主等がかたきにするのはこちらが正法を行じている証拠なのである。釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると人を良くするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇とがおられなかったならばどうして日本国の主となられたであろうか。故にこの人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者になれただろうかと悦んだのである。

佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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塚原
 日蓮大聖人が佐渡に流罪され最初に住まわれたところ。
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洛陽の蓮台野
 洛陽は中国・古代王朝の都で河南省西部にある。歴代の天子が政治の中心とした。我が国の京都はこれに模して都をつっくている。蓮台野は墓地。地名にもなり,特に京都市北区船岡山の西麓にあった死人捨場。
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一間四面なる堂
 主柱4本からなる建築様式の建物。
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李陵が胡国に入りて
 李陵は中国前漢の武将で字を少卿という。将軍・李広の孫で、幼いときから弓術に長じており、下士をよく愛した。時に武帝に請い部下5000人を率いて匈奴と戦い、よく敵軍をやぶり、兵を返すときに敵方、単于の率いる80,000の大軍に囲まれ、矢尽き刀折れて匈奴に捕われた。李陵の降参したこと、さらに李陵が匈奴に兵術を教えていることを聞いて、武帝は怒り、李陵の一族を皆殺しにした。李陵はこの報を聞き、実は兵術を教えていたのは李緒であり、李緒のために家族が皆殺しにあったとして、人を遣わして、李緒を殺す。さらに、武帝の行ないに李陵は、単于の娘をめとって報い、故郷に帰ることなく没した。胡国は北方の北狄の一部で、匈奴のこと。漢の北方に位置する遊牧騎馬民族の匈奴の領地をさす。
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がんくつにせめられし
 「法蓮抄」(1052)には「李陵が巌窟に入って六年蓑をきて」とあり、李陵は、胡国で6年間捕われの身として巌窟にとじこめられていたのである。
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法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて
 法道三蔵は宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年、帝が詔して仏僧の称号を改めようとしたときに、法道は上書してこれを諌め、これにより帝は怒って法道の面に火印をおし江南の道州に放逐した。せめられてとはこのことをさす。なお、法道はその後、同7年に許されてかえった。
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檀王は阿私仙人にせめられて
 檀王とは須頭檀王のことで、釈迦の過去世における因位の修行をしたときの名。正法を求めるために王位を捨てて、阿私仙人に従い仏道修行をしたときのことをさす。
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上慢の比丘
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている。威音王仏の像法時代の末に出現して折伏行に励んだ不軽菩薩に、杖木瓦石、悪口罵詈等の迫害をした高慢の僧をいう。
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一乗の行者
 法華経の行者のこと。種種御振舞御書には「あらうれしや檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて 一乗の行者といはれ給ふ、今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり」(0916-08)とある。
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一切世間多怨難信
 安楽行品の文。末法の法華経の行者には怨嫉が多くて、一切衆生は信じがたいというということを予言した文。
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数数見擯出
 法華経勧持品第十三の二十行の偈文。「数数擯出せられ」と読む。「数数」とは、しばしばという意。「見擯出」とは所を追われるという意。日蓮大聖人は、この経文どおりに二度まで流罪された。一度は弘長元年(1261)5月12日伊豆国伊東、二度目は文永8年(1271)10月10日佐渡。日蓮大聖人は、仏滅後にこの「数数見擯出」の経文を身業読誦されたのは御自身のみであると述べられている。
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一句一偈・我皆与授記
 法華経法師品第10に「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く」とある。法華経のなかの一句一偈を聞いて、信心の心を起こしたものは、仏がみな、その人たちへ、仏になる証明を与えるということ。
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阿耨多羅三藐三菩提
 梵語anuttara samyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。
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相模守殿
 相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
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善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
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提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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瞿伽利尊者
 瞿伽利は梵語。悪時者、守牛と訳す。釈迦族の出で、浄飯王の命令により出家して仏弟子となったが、のちに提婆達多を師として舎利弗・目連を誹謗し、生きながら地獄へ堕ちた。
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善星比丘
 釈尊の出家以前の三子の内、第三夫人・釈の長者の娘鹿野の子。羅睺羅の庶兄。善星は出家し仏道を修行して第四禅定を得たが、これが真の涅槃の境涯であると思い、のち苦得外道等に近づいて退転した。そして仏法を否定する邪見を起こし、釈迦に対しても悪心を懐いたため、現身に地獄の大苦を受けた。このことから闡提比丘、四禅比丘の名がある。
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諸法実相
 諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358-01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。
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本末究竟等
 本と末は一貫して等しいこと。
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三障・四魔
 仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)。②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)。③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)。②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)。③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)。④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。
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猪の金山を摺り
 大智度論第三十、あるいは摩訶止観第五にある。猪が金山の輝いているのを憎み、自分のからだをこすりつけて、その輝きをなくそうとするが、かえって金山の輝きは増す。すなわち、正法を教えのとおり時機にかなって修行すれば、必ず三障四魔が競い起こってくるが、それによっていよいよ信心が強盛になることを譬えている。大智度論巻第三十に「忍は從瞿たり、能く瑩いて諸徳を明らかにす。若し人悪を加ふるも、豬が金山を摺ればますますその明を発するが如く、仏道を求め衆生を度するの利器なり」とある。
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風の求羅を益す
 求羅とは梵語の迦羅求羅の略称で、黒木虫と訳す。インドに棲息するトカゲの一種。大智度論巻第七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得ば転た大となり、乃至よく一切を呑食するがごとし」とあるように、風を得て成長するといわれる。
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七つの大事
 三障四魔のこと。
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天子魔
 他化自在天のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六天にあるので第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王とも天子魔ともいう。三沢抄には「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の 一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(1487-12)とある。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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弘決
 天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。
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善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
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鎌倉の御一門
 北条氏一門のこと。
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義盛
 和田義盛のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。
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隠岐法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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景信
 生没年不詳。鎌倉時代、安房国東条郡(千葉県鴨川市)の地頭。熱心な念仏者であった。入道となって蓮智と称した。建長5年(1253年)4月28日、日蓮大聖人が立宗宣言を行った際に浄土教を破折したことから、清澄寺の住僧であった円智房や実城房と共に大聖人に迫害を加えた。この結果、大聖人は道善房から勘当され、清澄寺を出ることとなった。また、景信は清澄寺内で鹿狩りをして殺生禁断を冒し、清澄寺の寺僧を浄土教の所従にしようとし、さらに清澄寺や二間の寺を支配下に置こうとするなどの非法を行った。こうした景信の侵犯に対して、かつて両親が領家から御恩を蒙ったとして、大聖人はこの地の領主であった領家の尼について訴訟を勝利へと導き、景信の侵略を退けている。文永元年(1264年)、大聖人は安房に帰郷された。これに対して、大聖人への怨念をはらすべく待ちかまえていた景信は、同年11月11日に東条松原の大路で数百人の念仏者をひきいて大聖人一行を襲撃し、弟子の一人を殺害し、二人には傷害を負わせた。また、大聖人にも頭に疵と左手を打ち折る重傷を与えた(小松原の法難)。景信の没年は明らかではないが、「報恩抄」(323㌻)によれば大聖人が佐渡へ流罪されるまでに死んだようである。
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道阿弥陀仏
 念仏宗の僧と思われるが詳細は不明。四信五品抄では、盲目になったと記されている。
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 日蓮大聖人が佐渡に着かれたのは、10月28日であった。そして11月1日には塚原三昧堂に住まわれている。ここに翌文永9年(1272年)4月2日まで、5か月にわたって住まわれ、その後4月3日に一の谷入道の邸に移られ、ここで文永11年(1274)3月、赦免され佐渡を発たれる日までお暮らしになられるのである。
 この塚原三昧堂のあたり一帯は、死人を捨てる地であり、とても人間が生活できるような場所ではない。佐渡流罪は罪人のなかでも、政治犯や殺人犯など、とくに重犯罪者に対して科せられたのであり、この地に流罪となったということは、すでに死罪を宣告されたに等しいものであった。
 また、とくに大聖人の御身にとっては、佐渡は念仏者達のひじょうに多い国土世間であり、鎌倉の大罪人あるいは念仏無間を唱える天地にゆるすべからざる罪人であるなどの風評も、讒人によって流されていたであろうから、殺意をもって近づく者も多かった。
 今日、われわれの信心の鏡ともいうべき阿仏房夫妻も、もとはといえば、そうした佐渡における念仏の強信者の一人であった。ところが日蓮大聖人を論詰せんとして、塚原の三昧堂へ行き、大聖人にお会いするや、その威厳にうたれて、それまでの念仏を捨て大聖人に帰伏したのである。以後、阿仏房夫妻は、佐渡においてご不自由な生活をなされる大聖人の許へ風雪をいとわず、危険を顧みず、お給仕を務めたのである。
 さらに、大聖人が到着されたころは、まさに厳冬を迎える直前で、とくに極寒の佐渡にあっては、寒さが膚身に沁みるような毎日であったであろう。「富木入道殿御返事」にいわく「相州鎌倉に候し時の思には四節の転変は万国皆同じかるべしと存候し処に此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず」(0955-01)と。
 この寒さを防ぐものとしては、板間の合わぬ天井、荒れ果てた壁、床に敷皮を敷いて着るものは蓑しかない状態であったから、常人なら数日もしない内に凍死してしまったであろう。もったいなくも御本仏日蓮大聖人は、かくも厳しい環境のなかでご生活なさっていたのである。
一間四面の堂
 塚原三昧堂は、その広さ一間四面と述べられている。一間四面というのは、建築用語で四本柱の堂ということである。ふつう一間というと尺貫法で六尺(1.8㍍)と換算するが、それをこの一間四面に応用して六尺四方の堂と理解するのは早計である。なぜなら、六尺四方というとちょうど畳2枚の広さになる。ここに「堂の仏もなし」と仰せられているから祭壇はあったのであろう。したがって畳2枚では内部はさらに狭くなり、日常の起居さえもおぼつかなくなってしまう。故にここの「一間四面の堂」は、尺貫法で換算するのではなく、建築用語として理解すべきである。ただ付言するならば、塚原三昧堂はそんな大きなものではなかったと思われる。
 また「上はいたまあはず四壁はあばらに」と申されているから、相当に古びた建て物であったと思われる。「住居」は、このように貧しかったのである。
 また「食」については、一の谷に移られてからでさえも「預りより・あづかる食は少し付ける弟子は多くありしに・僅の飯の二口三口ありしを或はおしきに分け或は手に入て食し」(1329-02)と申されているように、とうてい凡人では飢えも忍べぬほど、ごく少量であった。このような厳しい状況の下にご生活なさる大聖人を、佐渡の人達は、いつか飢え死にするのではあるまいか、と思っていたことであろう。
 「道にても・又国にても・若しはころすか若しはかつえしぬるかに・ならんずらんと・あてがはれて有りしに」(1333-08)のお言葉のなかに、当時の食生活の困窮がしのばれるではないか。
 食べるものも、着るものもなく、厳寒といっても火の気もないところで過ごされた大聖人のご境涯は想像を絶するものであった。まさにそのご生活の環境をしのぶに、それは凡夫の立ち場ではとうてい、切り抜けられるものでないことがひしひしとわかる。
 人間が生活していく上における最も基本的な条件は、衣食住であるといわれている。佐渡流罪中の大聖人は、この三つの条件が、凡人の思慮には到底およばぬ最悪の状態にあられた。なかんずく塚原三昧堂での五か月間のご生活は、どんなにか苦闘苦難の連続であったことであろうか。
 われわれ凡夫は、寒い冬に氷柱を見ただけでも身を縮めるし、また突如の雷雨の襲来に肝を冷やすのである。
 しょせん、いかなる恐ろしい環境をもってしても、大聖人の塚原三昧堂でのご生活を振り返るとき、まだ天地の開きがある。ましてや罪人として最も罪重き者の流罪される場所である佐渡におけるご生活である。本抄には、また「日蓮房・此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり」とお述べのように、大聖人ご自身の危険は、自然との戦いだけでなく、謗徒の突然の襲撃も考えられ、瞬時たりとも、安らかなときはお過ごしになれなかったこととご推察申し上げるのである。
 だが、大聖人はこのようななかで数々の重要な御書をお認めになっているのである。
 次に佐渡期にお認めになった御書を掲げてみたいと思う。
     文永8年   
   佐渡御勘気抄(10月)
   富木入道殿御返事(11月23日)
     文永9年
   法華浄土問答抄(1月17日)
   開目抄上下(2月)
   生死一大事血脈抄(2月11日)
   八宗違目抄(2月18日)
   草木成仏口決(2月20日)
   阿仏房御書(3月13日)
   佐渡御書(3月20日)
   富木殿御返事(4月10日)
   最蓮房御返事(4月13日)
   同生同名御書(4月)
   四条金吾殿御返事(5月2日)
   真言諸宗違目(5月5日)
   日妙聖人御書(5月25日)
   真言見聞(7月)
   辧殿御消息(7月26日)
   四条金吾殿御返事(9月)
   経王御前御書
   祈祷抄
     文永10年
   祈祷経送状(1月28日)
   観心本尊抄(4月25日)
   観心本尊抄送状(4月26日)
   顕仏未来記(5月11日)
   諸法実相抄(5月17日)
   義浄房御書(5月28日)
   如説修行抄(5月)
   土木殿御返事(7月6日)
   土木殿御返事(11月3日)
   波木井三郎殿御返事(8月3日)
   経王殿御返事(8月15日)
   辧殿尼御前御書(9月19日)
   当体義抄 
   当体義抄送状
   小乗大乗分別抄 
   呵責謗法滅罪抄
   妙法曼陀羅供養事
     文永11年
   法華行者逢難事(1月14日)
 「佐渡御書」には「佐渡の国は紙候はぬ」(0961-07)と申されている。お手紙を書くにも事欠くご不自由ななかで「開目抄」、「観心本尊抄」、「当体義抄」など30数篇にのぼる重要な御書を著わされたのである。その御境涯たるや、われわれの想像もおよばぬお振舞いであり、ひとえに末法の民衆を救済せんとなされる御本仏の大慈悲を深く痛感するのである。
在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり
 仏法は、生命の究極の実相を説いた大哲理であり、大宇宙の本源の原理である。在世というも末法今時というも、時代の底流となり、本質をなしているものは、生命それ自体である。
 時代の変遷、社会の変貌も、様々な、複雑な因果がからみ合いながら進展してくるものであるが、その究極の根底には厳然たる生命の法則が貫かれている。この生命の法則こそ、一念三千の大哲理であり、法華経の哲理である。
 在世といっても、それは過去のことではない。そこに展開された姿は、そのまま末法今時の実相でもある。そしてこの現在の瞬間それ自体に、すでに未来をも写し出しているといえる。いまここでは仏と魔との戦いを、生命の本源に言及して述べられている。釈迦と提婆達多の関係も、日蓮大聖人と平左衛門の関係も、まったく過去のことではない。仏と魔との峻烈な戦いは、生命の実相であり、本末究竟して等しく、そのまま今日の姿である。
 しかして、魔にかつものは、つねに仏の生命しかない。その生命の本質を見抜くとき、いかに、創価学会の戦いが、最も生命の本源に根ざした、時代の底流を築く、偉大な革命であるかを知るのである。

0917:10~0919:01 第九章 塚原問答と自界叛逆難top

10   かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし、眼には止
11 観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ 夜は月星に向ひ奉りて 諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年
12 もかへりぬ、いづくも人の心のはかなさは佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百
13 人より合いて僉議すと承る、聞ふる阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房・此の国にながされたり・なにと
14 なくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、 設ひいけらるるとも・かへる事なし、 又打ちころした
15 りとも御とがめなし、 塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば 集りていころ
16 せかしと云うものもありけり、 又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが 守殿の御台所の御懐妊なれば・しばら
17 くきられず終には一定ときく、 又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべしと云う、 多くの義の中
18 に・これについて守護所に数百人集りぬ、 六郎左衛門尉云く上より殺しまうすまじき副状下りて あなづるべき流
0918
01 人にはあらず、 あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、 それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念
02 仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頚にかけさせ 或はわきにはさませて正月十六日に
03 あつまる、佐渡の国のみならず越後.越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭.山野
04 に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、 念仏者は口口に悪口をなし
05 真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、 在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・のの
06 しり.さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、日蓮は暫らく・さはがせて後・各各しづまらせ給へ.法門の御為にこそ御
07 渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば・六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて悪口せし 念仏者をば・そくびを
08 つきいだしぬ、さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめ
09 つめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ
10 給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、 仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経
11 文をわすれて論と云ひ 釈をわすれて論と云ふ、 善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等
12 をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、 或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ 或は念仏ひが事な
13 りけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。
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 このような心境で過ごしていたが、庭には雪が積もって人も通わず、堂には荒い風のほかは訪ずれるものもない。眼には止観や法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱え夜は月星に向かって諸宗の違いと法華経の深義を講じている間に年が改まった。
 どこでも人の心のあさはかさは同じことで、佐渡の国の持斎や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等数百人が寄り合って協議していると伝わってきた。「有名な阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房がこの国に流されてしまった。特別な罪人ではなくてもこの島へ流された人で最後まで活かされたためしがない。たとえ活かしておいても元の国へ帰れた例がない。また流人を打ち殺したとしてもお咎めはない。彼は塚原という所にただひとりでいる。いかに剛の者でも力が強くても人のいない場所なのだから集まって射殺してしまえ」という者もあった。また「いづれにしても首を斬られるはずであったが相模守時宗殿の夫人がご懐妊なのでしばらく斬罪を延ばしているがやがて必ず執行されると聞いている。だから放っておくがよい」とか、また「地頭の本間六郎左衛門尉殿に斬ってもらうように訴えて、斬らなかったならわれわれで謀ろうではないか」という者もあり、さまざまな意見が出たあげく、この問題について守護所へ強訴に数百人集まった。
 これに対して六郎左衛門尉が「お上から殺してはならぬという副状が下っていて、軽蔑すべき流人ではない。彼の身にあやまちを起こしたならば重連が大きな罪になる。だから殺すなどということは考えないで、それよりもっぱら法門で攻めるように」と答えたので、念仏者等があるいは浄土の三部経、あるいは摩訶止観、あるいは真言の経釈等を小憎等の首にかけさせ、あるいは小脇に挟ませて正月16日に集まった。佐渡一国だけではなくて越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から集まった法師等なので、塚原の堂の大庭から山野へかけて数百人、それに六郎左衛門尉と兄弟一家やそれ以外の者、百姓の入道等が数知れず集まった。
 念仏者は口々に悪口をいい、真言師は怒りのために面々に顔色を失い、天台宗は自分達こそ勝つのだと声高に騒いだ。在家の者どもは「かねて聞き及ぶ阿弥陀仏のかたきめ」と罵り、この騒ぎが響きわたるさまは地震か雷鳴のようであった。日蓮はしばらく騒がせて置いてから「おのおのがた静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と申したところ、六郎左衛門を始め多数の人々が「そうだ」といって悪口した念仏者を首根をつかまえて突き出した。
 さて、止観・真言・念仏の法門を、一一相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めつき詰めすると、相手はみな一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。善導が首をくくって柳から落ち、弘法大師が三股の金剛杵を投げたとか大日如来と現れたとか等について、あるいは妄語あるいは気違い沙汰である点を一一くわしく責めたところ、ある者は悪口し、ある者は口を閉じてしまい、ある者は顔色を失い、あるいは「念仏は間違いであった」という者もあり、あるいはその場で袈裟や平珠数を捨てて念仏は称えまいという由の誓状を立てる者もあった。
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14   皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、 日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭
15 よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、 かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、 日蓮云
16 く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ 田畠つくるとは申せ、 只今いくさのあらん
17 ずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、 さすがに和殿原はさがみの国には 名ある侍ぞかし、 田舎にて
18 田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・
0919
01 持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。
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 皆帰って行くので六郎左衛門も帰り一家の者もかえっていった。このとき日蓮は不思議を一ついおうと思って、六郎左衛門を大庭から呼び返して「いつ鎌倉へ上られるのか」というと、彼が答えるには「下人どもに農事をさせてからで、七月ごろになりましょう」という。日蓮は「弓箭取る者は主家の御大事に間に合って、ほうびに所領の一つも賜わることこそ田畠を作るとはいうものではないか。ただ今いくさが起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄をたてて領地を賜わらないか。なんといってもあなたがたは相模の国では名の知れた侍である。それが田舎で田を作っていていくさにはずれたならば恥であろう」といったところ、なんと思ったのであろうか、帰り急いでものもいわなかった。見ていた念仏者・持斎・在家の者どもも、これは一体どうしたことかと恠しんだ。

諸宗の違目
 諸の宗派の教義上の相違点。
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法華経の深義
 日蓮大聖人は竜口法難以後、久遠元初の御本仏として説かれた法門。
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唯阿弥陀仏
 日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏者。
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生喩房
 日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の律宗の僧。
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印性房
 日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏僧。佐渡の念仏者の中心的存在。
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慈道房
 日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えたなかの一人。
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悪知識
 善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
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守殿の御台所
 北条時宗の奥方。
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守護所
 源頼朝が地方警備のために諸国に置いた役所。
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副状
 何かを命じたり、物を送った時に、副えておく文章。書簡。
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浄土の三部経
 念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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小法師
 小僧、修行中の僧。
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越後
 北陸道7か国の一。現在の新潟県の、佐渡を除く全域にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのしり。
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越中
 北陸道7か国の一。現在の富山県にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのなか。
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出羽
 令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県・秋田県。
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奥州
 東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。
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信濃
 かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。現在の長野県。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
在家
 ①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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自語相違
 自ら言った言葉のなかで矛盾があること。
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 仏が説いたもの。
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 ①経文の意を論議して明らかにしたもの。②法門について問答採決したものを集大成した書。
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 人師が経論を注釈したもの。
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善導
 善導(0613~0681)は中国唐代の浄土宗の僧。その出生は明らかでないが、幼くして出家し、太宗の貞観年中に西河の玄中寺に赴いて、道綽の弟子となり、観経を信仰して正雑二行の判を立てて専修念仏を主張し人々に称名念仏を勧めた。こうして浄土の法門を演説すること三十年、ついに気が狂って寺前の柳の木で自殺をはかり、極楽往生しようとしたがはたさず、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しみぬいて死んだと記録されている。唐の高宗の永隆二年のことであった。おもな著には「観経疏」「往生礼讃」があり、浄土の謬義を拡張した。
―――
弘法大師
 弘法(0774~0835)は日本の真言宗の祖で、空海という。弘法大師とは醍醐天皇よりの諡号である。15歳の時京都へ上り、18歳で大学に入って漢籍を学び、20歳の時出家した(25歳出家説、31歳とする説もある)。夢のなかで、大日経こそ自分の求めている経であるとの教えを受け、それを一部手に入れ、唐へ渡って勉強しようと決意したというが、もとより後世の作り話である。唐の長安青龍寺に行き、慧果より胎蔵・金剛両部の秘奥の法を学び、毘盧遮那・金剛頂等の経およびもろもろの新訳の経論をもち、帰朝した。天長時代に少僧都に任命され、承和2年(0835)62歳のとき、病で死んだ。弘法の墓はない。のち、天安2年(0858)に大僧正、延喜21年(0921)に弘法大師と勅諡された。世間に有名だが、真言の邪義が与えた影響は大きく、まれにみる仏法破壊者となった。ここに「三鈷を投たる」とあるのは、三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさいに、中国明州の浜より海上に向かって投げた三鈷が後日、高野山において発見され、高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義である。 また「大日如来と現じたる」というのは、弘法の弟子真済(0800~0860)、が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。
―――
平念珠
 平型の珠でつくった数珠。浄土宗で用いる。日寛上人は当家三衣抄に「応に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。玄文第一に云く『理は偏円を絶するも、円珠に寄せて理を談ず』云々。弘の五の上に云く『理体欠くる無し。之を譬うるに珠を以ってす』云々」と説かれた上で、「土宗の平形大いに所表に違うなり」と平念珠の使用を禁じられている。
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高名
 ①名声が高いこと。有名。②手柄をたてること。
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所知
 所領・知行・領地。
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 この章は、有名な「塚原問答」の模様を示され、自界叛逆難を予言なされたところである。
 「阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房」が佐渡の国に流罪されてきたということを伝え知った佐渡の国の持斎、念仏者等数百人がいきり立ち、「とにかく生かしておいてはならない」と、騒いでいたが、本間六郎左衛門から「上から厳重にいわれているので、危害を加えては困る。法門で攻めよ」と諭されて、法論をせんものと集まって来る。佐渡の島のみならず、越後(新潟)越中(富山)出羽(山形、秋田)奥州(福島・宮城・岩手・青森)信濃(長野)という、実に広い範囲から邪宗の僧らが集まった状況をみても、いかに日蓮大聖人のお名前が当時の日本にとどろいていたかが知れるのである。
 敵意と憎しみに満ちみちた数百人を相手に法論し、これを見事に圧倒し、屈服させることは至難中の至難である。ここにわれわれは日蓮大聖人の御本仏としての大生命力を驚嘆せざるを得ない。
 そればかりではない。皆帰っていくとき、本間六郎左衛門を呼びとめて、俗に二月騒動といわれている自界叛逆難をハッキリ予言され、しかもそれが1か月もたたぬうちにピタリと的中しているのである。
 大聖人は流罪中の御身で、いっさいの情報を断たれているにもかかわらず、天地の実相を観察されてこれを知られた自受用報身の御仏智は、まさに本有無作の虚空不動慧そのものであり、問答における大生命力は無作の応身の御示現である。
 また、衣食住を欠く厳寒の佐渡を生き抜かれた事実は無作法身を示して余りあるのではないか。
 こうしてみると、大聖人の人本尊としての事行の一念三千のお振舞いは、すでに佐渡御流罪の初頭において、はっきりと事実をもって世に顕現されたのである。
眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ
 日蓮大聖人が、学問の立ち場では法華経を読まれたが、修行としては、法華経一部の読誦ではなく、唱題に励まれていたことを示す重要な文証である。
 日寛上人は、身延派等の邪宗が、日蓮大聖人の御聖意に背いて、法華経の一部読誦の修行を行なっていることを破折せられて、六巻抄の末法相応抄に、次のように述べられている。
 「問うて云く日辰が記に云く『連祖身延九箇年の間読誦する所の法華経一部手に触るる分・黒白色を分つ、十月中旬二日・九年読誦の行功を拝見せしむ』云云、此の事如何、
 答う人の言謬り多し但文理に随わん、天目日向問答記に云く『大聖人一期の行法本迹なり毎日の勤行・方便寿量の両品なり御臨終の時・亦復爾なり』云云、既に毎日の勤行は但是れ方便寿量の両品なり何ぞ九年一部読誦と云うや、又身延山抄十八初に云く『昼は終日一乗妙典の御法を論談し夜は竟夜要文誦持の声のみす』云云、既に終日竟夜の御所作・文に在りて分明なり何ぞ一部読誦と云うや、又佐渡抄十四ノ九に云く『眼に止観法華を曝し口に南無妙法蓮華経と唱うるなり』云云、故に知りぬ並びに説法習学の巻舒に由って方に触手の分有り那ぞ一概に読誦に由ると云わんや」と。
 大聖人の仏法の真髄を知らずに、いまだ、徒らに法華経一部の読誦に固執する者は、御本尊の偉大な功力を知らないためであるといえよう。
 では、大聖人の御本意に叶う仏道修行とはなにか。
 末法のわれらの修行に二つある。すなわち正行と助行である。助行とは方便寿量の両品を所破所用の立ち場からする読誦であり、正行とは文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経の唱題にある。法華経二十八品の肝要たる方便寿量の両品といえども、正行の甚深の功徳を助顕するためのものであり、故に助行というのである。
 唱法華題目抄に「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」(0013-03)と。
 この御文を、日寛上人は「宗祖の元意二十六品は方便寿量の両品に納まり、方便寿量の両品は妙法の二字に収まる。故に但此の肝要を取って応にこれを修行するなり」と釈されているのは、その意である。
 故に、「報恩抄」にも「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-16)と仰せなのである。
 大聖人ご所持の法華経が手あかで汚れていたのは、読誦のためではなく、説法習学のために用いられたことによる。さらに付言すれば、説法習学といえどもその正意は題目の五字にあり、法華経はあくまでも助証として用いたのである。
 また「曽谷入道等許御書」の「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(1038-13)との仰せを拝せば、助証として、一切経すなわちいっさいの学問が用いられ、それを活かされていることを知るべきである。
日蓮不思議一云はんと
 日蓮大聖人が、本間六郎左衛門尉重連に対して自界叛逆難を予言したのは佐渡で、文永9年(1272)1月16日のことであった。そして現実に合戦が起きたのは同年2月11日である。いわゆる「二月騒動」と呼ばれるもので、執権北条時宗の異母兄の時輔の陰謀がもちあがったのである。
 時輔は、時宗の兄に当たるわけであるが、正妻の子でないという理由で、家督を弟の時宗にとられてしまった。それを恨んで秘かに謀反を企てたのが露見してしまい、ついに合戦となったものである。時宗はすぐさま大蔵頼季を遣わし、陰謀に加担した名越時章、教時等を倒し、ついで北条義宗に時輔と合戦させこれを滅ぼした。かくして、一応は合戦が治まったものの、執権とその兄が醜く争い合う姿は、そのまま世相に反映し、人心の動揺は深刻なものがあり、社会の混乱はエスカレートするばかりであった。
 大聖人から初めて聞かされた六郎左衛門は、軍があろうなどとは夢にも思っていなかった。だからこそ、のんびり構えて「下人共に農せさせて七月ごろ……」などといったのであろう。ところが大聖人は「いまにも戦いが起こる」と仰せられた。はたして一か月を待たずして合戦が起きた。それも幕府の土台をゆさぶるような同士討ちである。六郎左衛門はびっくり仰天した。彼は鎌倉の中央から遠く離れ、さらに海を隔てた地方の佐渡にあっては、世情にも疎かったであろうが、大聖人の予言がこれほどまでに確実に、的中したので、大聖人に対して畏敬の念を持ちはじめた。
 不思議といえば、これほどの不思議はなかろう。六郎左衛門ならずとも驚くのは当然といえる。しかし、大聖人が的確に世情を予見されたそのもとは、いわゆる世間一般にあるような祈禱師や陰陽師が、よくする世相を占うような、利根や通力によるものではない。それは、すでに文応元年(1260)7月16日、国家諌暁の書として、時の前執権時頼に提出した「立正安国論」に示されたとおり、厳密な仏法哲理に透徹したうえでの予言である。すなわち仏法こそ真実の生命観を説き、大宇宙の生命を余すところなく説ききわめた大生命哲学であり、生命科学なのである。かくして御本仏の深遠なる理解力と洞察力は寸分も違わぬ偉大な予言として実証されたものである。
 大聖人は、文永9年(1272)5月25日付で、佐渡から乙御前の母に与えた「日妙聖人御書」に、二月騒動前後の世相を次のように認められている。
 「相州鎌倉より北国佐渡の国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨峨、海は濤濤、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすくとまりとまり民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふるか。其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑいまだ世間安穏ならず」(1217-12)
 竜の口の法難が文永8年(1271)9月12日、その竜の口を出発されてから佐渡へ上陸されたのが文永8年(1271)10月28日、途中依智の本間六郎左衛門の邸で約一ヵ月ほど留まっていたが、とにかく相模の鎌倉から武蔵、上野、信濃、越後の各国を通過して一か月半にわたって具さに地方の様子を見聞きされている。また大聖人を訪ねる門下の人々が持ちよる各地の動きなどを聞くにつけ、当時の社会情勢は「立正安国論」に示したとおりに悪化の一途を辿り、大聖人が最も心配されていた七難のうち残る一難、「他国侵逼難」、すなわち外国からの侵略が襲い来る様相を色濃くしていたのである。「日妙聖人御書」に「いまだ世間安穏ならず」(1217-12)と認められた、その大聖人のご胸中には門下の子弟の生活を安じられ、日本の行く末を案じて、ますます大法流布への熱血は、激しく燃えていたと拝さずにはいられない。
 大聖人は、「御義口伝」に「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758-05)と仰せである。苦悩の民衆を幸福と繁栄へと導かんとする、この偉大なる責任感、この大慈悲があればこそ、大聖人は厳しい迫害と弾圧の渦中にあっても、瞬時も休まれず大折伏を敢行されたのである。ここに日蓮大聖人の予言の真髄があることを知らねばならない。

0919:02~0920:04 第十章 御本仏としての開目抄の御述作top

02   さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、 頚切るるならば日蓮が不思議とど
03 めんと思いて勘えたり、 此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、 譬へば宅に柱なければ・たもたず
04 人に魂なければ死人なり、 日蓮は日本の人の魂なり 平左衛門既に 日本の柱をたをしぬ、 只今世乱れてそれと
05 もなく・ゆめの如くに妄語出来して 此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、 例せば立正安国論に
06 委しきが如し、 かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、 つきたる弟子等もあらぎかなと思へども
07 力及ばざりげにてある程に、 二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、 六
08 郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、 去る正月十
09 六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく 三十日が内にあひ候いぬ、 又蒙古国も一定渡り候いな
10 ん、 念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、 いかに云うとも相模守殿等の用
11 ひ給はざらんには 日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、 日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦
12 仏の御使ぞかし、 わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小
13 神ぞかし、 されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、 太政入道・
14 隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、 此れはそれにはにるべくもなし 教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮
15 も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、 法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、
16 かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、 何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、 此の国の
17 亡びん事疑いなかるべけれども 且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ 今までは安穏にありつれ
18 ども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又 此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、
0920
01 ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、 和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、 あさましげ
02 にて立帰りぬ、 さて在家の者ども申しけるは・此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今
03 は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ、 念仏者・良観が弟子の持斎等が云く此の御房は謀叛の内に入りたり
04 けるか、さて且くありて世間しづまる。
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 さて皆帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったのである。この文の心は次のとおりで、「日蓮によって日本国の有無は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である、日蓮は日本の人の魂である、平左衛門はすでに日本の柱を倒してしまった、そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう、例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。側についていた弟子達も、強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に島に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。
 六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡って行った。そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日のお言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたず三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう、念仏無間地獄も一定でございましょう、今後は決して念仏を申しません」といったので、「あなたがどのようにいおうとも、相模守殿等がお用いにならぬならば日本国の人は用いまい、用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが、法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はそれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天帝釈は左右に仕え日天月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰が当たってしまったのである。またこのたびも用いなければ大蒙古国から打手を向けてきて日本国は亡ぼされるであろう、これは平左衛門が自ら好んで招くわざわいである。そのときはあなた方もこの島であっても安穏ですむはずはない」と申し聞かせたところ、驚きあきれたようすで帰って行った。
 さて、これを伝え聞いた在家の者どもがいうには「この御房は神通のお方なのであろうか、ああ怖ろしい怖ろしい、今後は念仏者も養うまい持斎も供養すまい」と。念仏者や良観の弟子の持斎等は「内乱をあらかじめ知っていたところを見るとこの御房は謀叛の仲間に加わっていたのであったか」といった。さてしばらくして世間の騒ぎは静まった。

開目抄
 「開目抄」は日蓮大聖人が佐渡御配流中、文永9年(1272)2月、聖寿51歳の時の御著作で、四条中務三郎左衛門尉頼基に与えられた。大聖人の御遺文中、最も重要な十大部のひとつであり、上下2巻からなる。法本尊開顕の「観心本尊抄」に対して、この「開目抄」は人本尊開顕の書であり、教行証に配すれば教の重にあたる実に重要な御抄である。まず、一般に尊敬すべきものとして、主・師・親の三徳を示され、中国の儒教、インドの婆羅門、さらに仏教に入って、種々の主師親とその依経を五重相対によって判釈され、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237)と結論され、ご自身こそ末法の御本仏であることを明示されている。
―――
日蓮が不思議
 日蓮大聖人こそ、主・師・親三徳具備の末法の御本仏であるということ。大聖人は竜口法難および佐渡流罪を契機として、上行菩薩としての垂迹の立場を払われ、久遠元初の自受用法身如来としての御境涯をあらわれされた。このように凡夫のお姿で出現された大聖人が、末法の御本仏として発迹顕本された事実を「不思議」という。
―――
此の御一門どしうち
 北条家一門の同士討ち、自界叛逆難、二月騒動(文永9年(1272)2月に起きた北条氏一族の内紛。鎌倉幕府執権の北条時宗は,異母兄で六波羅探題南方の地位にあった北条時輔が謀反を企てたため,これを討った)をいう。
―――
鎌倉に軍あり京にもあり
 文永9年(1272)2月、京都六波羅に北条時輔の乱が起こり、鎌倉においてもそれに応ずる者があって、戦乱が京都にも鎌倉にも渦巻いた。日蓮大聖人が「立正安国論」等の諸御書に明示された自界叛逆難のご予言が、現実の証拠となって顕われたのである。北条時輔は、鎌倉幕第五代執権の北条時頼の長子であり、第八代執権北条時宗の異母兄にあたる。幼名を宝寿丸といい、9歳のとき元服して、相模三郎時利と称した。文永元年(1264)に六波羅南方探題となり、翌年には式部丞に任ぜられ。従五位下に叙された。しかし、第七代執権北条政村の後継として、弟の時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古・高麗の牒使の来朝にさいし時宗と対立した。文永九年にいたって、両者の対立はその極点に達し、ついに時宗は時輔に叛心があるとして、まず大蔵頼季らをもって、時輔の与党である名越時章・教時・仙波盛直等を討った。ついで北条義宗を派遣して、六波羅南方に時輔を襲い殺させた。これを二月騒動という。
―――
正月十六日の御言
 塚原問答のこと。日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272年)1月16日・17日に塚原三昧堂で、佐渡・信越・北陸の念仏をはじめとする諸宗の僧ら数百人と行った問答のこと。念仏者らは当初、大聖人の殺害を計画していたが、佐渡の守護代・本間重連から制止され、本間重連の立会いのもと法論に及んだ。16日の問答で、諸宗の僧らは大聖人に徹底的に打ち破られた。その結果、多くの僧が自らの信仰を捨て、大聖人に帰依した。16日の最後に大聖人は、本間重連に急いで鎌倉に行って武勲を立てるよう促した。翌月18日に鎌倉から来た知らせによって、二月騒動が起こって鎌倉で戦が行われていることが分かり、重連はこれを機に念仏を捨てて大聖人に帰依した。17日に念仏僧・弁成との問答が行われ、その記録は「法華浄土問答抄」(117㌻)として残されているが、これは塚原問答中のものと推測される。また弁成は、念仏僧の中心者の一人である印性房ではないかと推測されている。
―――
神人
 神社に仕える神主以外の人。
―――
七人半
 天照太神・正八幡に仕える人を殺すことは、普通の人を7人半殺したことになるとする説。
―――――――――
開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり
 日蓮大聖人は佐渡に流罪されたその翌年、文永9年(1272)に「開目抄」、またつづいて翌文永10年(1273)には観心本尊抄と当体義抄とを著わされている。
 「開目抄」は人本尊開顕の御書であり、「観心本尊抄」は法本尊開顕の御書として、極めて重要な意義を有するものである。それに「当体義抄」を合わせて教行証の三重をこの佐渡で著わされた。
 日蓮大聖人は竜の口の法難をもって発迹顕本され、御本仏としてのお姿を示されるのであるが、このことを「開目抄」において、
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(0223-16)とお述べになり、同抄の最後では、結論として「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)と示され、日蓮大聖人こそ、末法の全ての衆生に対して主師親の三徳を具えられた御本仏であることを明らかにされたのである。
 なお「開目抄」、「観心本尊抄」、「当体義抄」を御著作あそばされるその動機を、「三沢抄」(1489)には、
 「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり」(1489-07)と述べられている。この「内内申す法門」こそ、観心本尊抄送状に「此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開柘せらる可きか」(0255-01)、「当体義抄送状」に「国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり」(0519-04)と仰せのごとく、「開目抄」と「観心本尊抄」と「当体義抄」とを指しておられるのである。
日蓮によりて日本国の有無はあるべし
 この文は、「開目抄」執筆の元意を述べた御本仏のご確信である。「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり」といえば日蓮大聖人は佐渡へ上陸されたのが文永8年(1271)10月28日であり、そして塚原に到着したのが11月1日である。以来、塚原三昧堂での厳しいご生活が始まった。したがって、塚原三昧堂に入居されると同時に、「開目抄」ご執筆の準備にかかり、翌年の2月まで、約3か月を費やして書き終えられている。その間においても、門下の子弟に対して数々の信書を送り、指導されているのである。
 しかし、「開目抄」といえば、非常に長文の重要なる法門書である。しかも、佐渡流罪という筆舌に尽くせぬ大法難の最中、筆紙の窮乏しているなかから認められたものである。
 「開目抄」のなかで「此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(0223-17)と申されているように、遺言的に書きとめられた重要法門書である。すでに日蓮大聖人は死を一定と決定し、その上に立って法体の広布成就までの御存生を内心に秘められていた。「顕仏未来記」には「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」(0509-02)とまで申されているのである。また「義浄房御書」には「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」(0892-11)と仰せられ、文字どおりの死身弘法の尊姿であり、全生命を打ち込んで烈々たる気迫で重要御書を認め、もっていっさいを弟子に託される御心中のほどを拝さなければならない。
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とは、なんと偉大なご確信であり、ご決意ではないか。このときの大聖人のご心境は、天の助けも借りぬ、諸難をも恐れぬ、ただ一身一命をなげうって正法の弘通に邁進するのみであった。かくして大聖人の法華流布の大願、その決意は、法華を捨てて観経等の信仰に入り後生の極楽往生を願うならば日本国の位を譲ろう、などとの大誘惑があろうとも、また念仏を申さなければ父母の頸をはねる、との大脅迫があろうとも屈するような軽薄な、観念的なものではない。
 しかし、日本国の位を譲ろうという大きな誘惑は退けられても、父母の頸をはねんにいたっては、孝養第一の大聖人にとって忍ぶにたえないところではなかったろうか。それとても敢然といいきられたのである。
 日蓮大聖人の言々句々は、民衆救済の大精神に起たなければ、とうてい拝することはできない。生半可な気持ちで拝したところで、訓詰注釈はできても、大聖人の大慈悲心にふれることなど及びもつかないところである。大聖人の時代は逆縁広布であり、一国こぞって謗法と化していた。佐渡期はその緊迫した時代の中でも最も緊迫した時期であったことは、御文の中からひしひしとうかがわれる。
 今日、時代は大転換し、順縁広布の時代である。妙法流布の機は熟し、民衆は御本尊を求めて、日本の潮、世界の潮流となって新しい世紀の幸福と繁栄の社会を築こうとしているのである。妙法の大地は、われらが一歩二歩と踏みしめて前進するごとに、明るく開けいくのである。
 しかるに、幸福といい、繁栄といい、その底流には建設への死闘があることを忘れてはならない。この建設精神なくしては、現当二世にわたる大福運はないというべきである。
 富木殿御返事にいわく「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」(0969-15)と。順縁の時代にあって逆縁の死闘、厳風を忘れてはならないであろう。
 今日の創価学会あるは、わが国敗戦の廃墟の曠野にただ一人立起ち上がった二代戸田城聖会長の死闘の建設によるものである。広布の礎は深く、より深く強固に築かれた。そしてそれは、日蓮大聖人が七百年後の今日、妙法の蓮華が開花する時を待たれて、大法興隆の魂魄を大乗有縁の日本国にとどめたがゆえであった。その大法戦は、本抄に拝するごとく空前絶後の死闘であった。この草創期の建設精神を、よくよく心腑に染むべきである。われらは今「日本国の有無」のカギを握っている。否、今日の世界は、われらの前進、後退が地球民族の有無を決する重大な立ち場にあり、大使命を担っているのである。今や宇宙時代である。地球のみにとどまっていた古き世界観は音を立てて崩れ、大宇宙に眼を向けて新しき世界観を確立しなければならない新時代が到来したのである。
 目をみはる現代の科学の発展にひきかえ、地球上における人間同士の対立と相克、葛藤はなんと醜いことであろうか。しかるに、この人間社会の醜態をなにをもって解決しようとするのか。生命の軽視、人間性の喪失、主体性の失われた現代人の生活はどうあるべきなのか。すでに、既成の思想をもってしては解決の糸口は見つけようもない。世の識者たちは、いたずらに人間回復を叫んでも、その力ある指導理念も方途も示せないのが現実ではないか。
 いやむしろ、それは東洋仏法の真髄・日蓮大聖人の大生命哲学の興隆を待望する声であろう。「撰時抄」に「いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや、……提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0286-18)と。
 この大聖人の御文こそ、現代社会の姿を生き映しているではないか。日本はもとより、世界中で生命の尊重、人間回復、主体性の確立等々、お題目のごとく唱えているが、それはあたかも仏を忘れ南無とばかり叫んでいるのと同じであり、まことに哀れむべき姿である。
 日本の識者、指導者たちが、謙虚になって日蓮大聖人の大仏法を求め、ここに現代の指導理念を請うべきである。
 かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし
 この御文は、厳しい罰論による「誡」である。「法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ」とは、別して法華経の行者は末法出現の仏であり、その仏とは日蓮大聖人なのである。したがって、大聖人を仮に用いても、悪しく誤って敬ったならば国が亡ぶ大罰を受けるとの仰せである。「下山御消息」には「教主釈尊より大事なる行者……日蓮」(0363-01)とも述べており、それほど大事な大聖人を二度までも流罪にし、さらに死罪にまで及ぼしたのである。この大謗法の大科はいかにしても消しがたいというべきである。しかるに大聖人は、御本仏の大慈悲をもって日本国の安穏を見守ってきたが、鎌倉帰還後の最後の諌めをも用いようとせず、卑劣にも幕府は、なかんずく平左衛門尉は懐柔策に出て、大聖人をあたかも占師か真言の祈祷師のごとく扱い、禄を与え、一寺を設けて蒙古調伏の祈祷をさせようとした。日蓮大聖人はついに、三度諌めて用いられなければ国を去るとの故事にならって、文永11年(1274)5月、身延へ入るのである。
 その後、同年10月に日本は、文永の役にあう、すなわち、蒙古の第一次襲来を受け、日蓮大聖人の他国侵逼難の予言が的中してしまった。さらに7年後の弘安4年(1281)には弘安の役、すなわち第二次襲来を受ける。こうした二回の蒙古襲来も、御本仏、日蓮大聖人が身延山中に去られたとはいえ、厳然と日本国におられることによって、亡国は回避しえたのである。しかし、莫大な戦費を費やした北条幕府は、経済的にも窮迫して、やがて亡びざるをえなかったのである。
 日蓮大聖人の時代には、御本仏の祈りによって亡国の悲運からは免れたが、いくら本門戒壇の大御本尊がいます日本の国であっても、「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」のご警告のごとく、あまりにもその謗法が過ぎれば、罰が出て敗戦亡国となるのである。すなわち、大聖人滅後、六百数十年にして、あまりにもその謗法が過ぎ、遂に国が滅びた。
 しかし、日本国には日蓮大聖人によって建立された一閻浮提総与の大御本尊が厳然と存在し、(中略)さらに、創価学会牧口常三郎初代会長の至誠あふるる国家諌暁、大折伏の法戦、そして死身弘法の行跡があった。故に、逆縁の国にもかえって、変毒為薬の大功徳を生じさせたのである。この大功徳、大福運は、ひとり創価学会ばかりに施されたのではなく、一国に及ぼされ、大敗戦を喫しながらも、日本国の存立を決したと信ずるものである。また、戸田城聖二代会長という、不世出の偉大な指導者を出現させたものと確信する。冥の照覧を信ずべし。後世に大歴史家が出現し、必ずや昭和の大敗戦前後の跡を辿り、どこに日本国その後の興隆があったかを探るとき、ここに真実を発見するであろうし、正しく証明するであろう。
 「撰時抄」に「若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ」(0289-03)との仰せどおり、ついに日本は世界を相手に戦い敗れるという「国にしるし」が顕われた。しからば、広宣流布というしるしも顕現しないわけがない。ここに創価学会の重大な使命があり、学会の出現なくば広布も、大聖人の仰せの全てが大虚妄となってしまう。大聖人の御文を借りて学会精神をいわば「若し創価学会・正法弘宣の集団ならば、忽に化儀の広宣流布、王仏冥合の実現を、わが国に、いな全東洋に、全世界にしるしを見せ給え」と。この真剣な祈りこそ創価学会の真髄であり、学会には、それ以外の野心も野望も、名聞名利も断じてない。
 日寛上人は、他国侵逼難について、撰時抄文段に大要次のようにいわれている。
 「問う、太平記によると、日本は元軍を破って勝っているのではないか。国が亡ぶという日蓮大聖人の予言は的中しなかったのではないか。答う、この文には多くの意味があるけれども要約すれば、これは大慈悲忠諌の辞である。父が子供の過ちを責めるときには、改めないと必ず身を亡ぼし家を亡ぼすであろうというが、その意は身を全うし家を全うさせんがために、親心の親切からいうのである。大聖人もまた、謗法の過ちを責めて蒙古の攻めと仰せられるが、その意は、身を安んじ国を安んぜんがための大慈悲心である。
 問う、また太平記によると、大元の軍を打ち破ったことは、わが国の武勇によるのではなくて、大小の神祇が冥助した神力によって勝利をえたのだという。もしそうなら諸天善神がこの国を捨て去ったという所論と違うではないか。答う、神天上とは謗者に約するのであって、信者の頂には常に神がいる。たとえば濁水には月の影は写らないが清水には映るのと同じである。しかしてわが国の神が冥助した理由に二意があり、一には鎌倉幕府が改悔したことによる。大聖人を佐渡へ流し奉ったが、終に赦免して大聖人のご弘通を妨害しなくなった。二には日蓮大聖人が国を護られたことによる」と。

0920:05~0921:01 第11章 宣時の迫害と御赦免top

05   又念仏者集りて僉議す、 かうてあらんには我等かつえしぬべし・いかにもして此の法師を失はばや、既に国の
06 者も大体つきぬ・いかんがせん、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観が弟子の道観等・鎌倉に走
07 り登りて武蔵守殿に申す、 此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、 阿弥陀仏をば或
08 は火に入れ或は河にながす、 夜もひるも高き山に登りて日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る、其の音声・
09 一国に聞ふと申す、 武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、 先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国
10 をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、 又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに 心をもて計りぬべ
11 し、 或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子を
12 とる、 かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して 去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月
13 八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たま
14 たま御勘気を蒙りて 此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、 やうやうの支
15 度ありしかども何なる事にや有りけん、 思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五
16 十日にもわたらず、 順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等
17 は雲集して僉議す、 島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、 我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御
18 前をば・とをすまじと僉議せしかども、 又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力
0921
01 及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
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 また念仏者が集まって協議した。こうしていたのではわれ等は飢え死にするだろう、どうしてもこの法師を亡きものにしようではないか、既に国中の者も大体彼についてしまった、どうしようか、と相談して、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観の弟子の道観等が鎌倉へ走り登って武蔵守宣時殿に讒訴し「此の御房が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないであろう、阿弥陀仏をあるいは焼き払いあるいは河に捨て流しております、夜も昼も高い山に登って日月に向かって大声をあげてお上を呪咀しております、その音声は一国に聞こえております」といった。
 武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上へ申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文が代官へ下った。このように三度まであり、その間の出来事はとくにはふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいてお上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。
 念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵しるほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか、思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければ百日五十日を経ても渡らず順風では三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。
 これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである、われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉へ入った。

呪咀
 神仏に祈り、うらみに思う相手をのろうこと。
―――
武蔵前司
 北条宣時のこと。前司とは、前任の国司という意味。武蔵守であった宣時は、すでに文永10年(1273)7月に、その職を北条義政に譲っていた。
―――
私の下知
 下知とは下の者に知らせること、あるいは命令や号令を下すことをいう。とくに鎌倉および室町時代には、裁判の判決または判決文のことをいった。当抄に「私の下知」とあるのは、公の命令書ではなくて、武蔵前司が、さらに大聖人に弾圧を加えるために、文永10年(1273)12月7日、独断で佐渡の国へ下した私製の命令書をさす。その内容は、法華行者逢難事(0966)には次のようにある。「佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後彼僧に相い随わん輩に於ては炳誡を加えしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を注進せらる可きの由の所に候なり、仍て執達件の如し。文永十年十二月七日」と。
―――
下文下るかくの如く三度
 下文とは、文書の初めと終わりに「下」という字を書いた実用的な公文書のこと。平安時代から鎌倉時代にわたって、諸官庁、諸家、寺社、荘園、荘園預所等の文書に広く用いられた。執権政治の時代になると、下文と御教書の両様式が総合されて、下知状となった。ここでは、武蔵前司である北条宣時が、執権北条時宗の権威を借りて下した偽の下知状をさす。
―――
信濃の善光寺
 長野県長野市元善町にあり、寺号を定額山という。宗旨は天台宗、浄土宗に両属す。同寺縁起によると「欽明天皇のとき、百済国聖明王より阿弥陀一光三尊を献上され、宮中に安置されたが、当時悪疫が流行し、原因がその仏像であるとして難波の堀江に捨てられた。敏達天皇の2年(0573)に再び像を内裏に安置したが、守屋がまたこれを沈めてしまった。その後推古天皇の10年(0594)に、信濃国麻績里の本田善光が難波の堀江からその像を拾い、持ち帰って郷里の自宅に安置した。皇極天皇の元年には、水内郡芋井郷に移された」といい、本尊は一光三尊像を安置しているが、初期の像とは異なる。同寺縁起にいう弥陀像は、もと善光所持の難波の堀江の釈尊で、中古、釈迦像の手の指を切って弥陀像に改めたもの。
―――
人かつたい
 仁義や恥を知らない者。転じて人を罵ることにつかわれるようになった。
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生身の阿弥陀仏
 善光寺の本尊の阿弥陀如来をさす。
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 日蓮大聖人ご在世当時の宗教界が、いかに堕落をしていたか、本抄を拝読していくとその実態が手にとるようにわかるであろう。とくに、本章においては、僧侶がただ生活の利害関係にのみ鋭敏となり、自己の利を守るためにはいかなる手段をも選ばぬ餓鬼界、修羅界の醜さ、いやらしさを露骨にした姿が、浮き彫りされている。僧侶の生活は、はじめからこうではなかった。大宝律令で定められ、厳重に取り締まられていたのである。
 ところが、末法五濁悪世の時代相を呈して来た平安末期あたりから乱れはじめ、課税のがれのために出家する俄坊主が増えてきたので、その質の低下はひどいものであった。しかも、寺院には貴族や武家から多くの所領が寄進され、絶えず祈禱の依頼を受け、多額の布施や寄付が集まったのである。彼等は坊主商売であり、生活のために僧侶となり、寺院に集まっていった。そして全く非生産的な存在と化していくのである。
 涅槃経には未来の比丘の醜態を予言して、次のように述べている。「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て除に行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と。これほど的確に、鏡で映したように符合していることに驚きを覚えるが、まことに無用の長物、否、有害な存在といわざるをえない。
 さらに、忌み嫌うべき点は、僧侶と国家権力との結びつきである。世の為政者達は、災難を対治するのに僧侶の祈禱に頼り、そのために僧侶を重んじた。また権力者達は民衆を操縦する具として、宗教を利用した。そして僧侶もまた、名聞名利のために、巧みに権力者に取り入ったのである。
 念仏者の念阿、禅宗の道隆、律宗の良観等が政治権力を動かし、わが世の春を謳歌していた。こうした時代に、日蓮大聖人は最高唯一の正法を唱え、邪宗教の根源を喝破し、四箇の格言を宣言したのであるから、惰眠をむさぼっていた彼等が、恐怖を感じたのは勿論である。そして自己保身のために、容易に、それも公然と国家権力と結託して動いたことはうなずけるであろう。
 今日においても、邪宗邪義と国家権力の間に醜い結託が見られるがその行動の根底には思想も理念もなにもない。ただあるのは、自己の保身のみである。したがって、自分達の勢力拡張のため、栄誉・栄達をはかるためであれば、かつての発言とうらはらなことをいったとしても、また、行動にうつしたとしても、意にも介さないのである。
 しかも、勢力を拡張するためであれば、いかなるところにも迎合し、いかなる権力とも容易に結びつく。そのいき方は無節操きわまりない。このような理念なき既成宗教に人々を幸福に導く力などあろうはずはない。まして、一国の行く末を論ずる資格などあるべくもない。それを見抜くことができず、甘言につられ、慣習にひきずられている人々こそ、哀れとしかいいようがないのである。

0921:02~0921:15 第12章 三度目の国諌top

02   同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念
03 仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は 爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申
04 しぬ、 平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、 日蓮答えて云く今年は一定なりそ
05 れにとつては 日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、 譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増す
06 べし、 真言師だにも調伏するならば 弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて
07 御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ 申すともしらせ給はめ、 又何なる不思議にやある
08 らん他事には ・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、 後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり
09 権大夫殿は民ぞかし、 子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、 所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用
10 いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、 此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智
11 証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば 還著於本人とて其の失還つて
12 公家はまけ給いぬ、 武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ 今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知
13 のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ、 是
14 をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿・事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこ・あなかしこ・さ・いは
15 ざりけると・おほせ候なと・したたかに申し付け候いぬ。
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 同4月8日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。
 平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱をしてはならない。各々は仏法を知っておいでならばともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。また、どういう訳であろうか、よそ事には異なって日蓮が申す事に限ってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるためにる事実をあげて申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。

爾前得道の有無
 法華経以前の経によって、成仏することができるかできないかということ。権教・方便の教えによって、過去に成仏した者がいるかいないかということ。
―――
権大夫
 鎌倉幕府第二代の執権・北条義時(1163~1244)のこと。元久2年(1205)、父の時政が失脚したあとを受けて執権となった。承久3年(1221)、後鳥羽上皇(1180~1239)を中心とする朝廷方が討幕の挙に出るや、大軍を進めて京都を占領した。ついで、後鳥羽上皇の院政を廃止し、上皇を隠岐に遷した。この承久の乱の結果、皇室は全く権力を失い、北条氏による執権政治が確立された。
―――
公家
 朝廷に仕えるもののこと。本来は天皇・朝廷をさすが、武家に対して朝廷に仕えた貴族・官人の総称となった。
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智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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園城寺
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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還著於本人
 法華経観世音菩薩普門品第二十五にある句で、「還って本人に著きなん」と読む。邪法によって相手を調伏すると、祈りが逆に還ってきて、自分が破れることをいう。また法華経の行者、あるいは正法を持つ者を謗り、害せんとする者は、かえって自らの身に害を受ける。
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ゑぞ
 北海道や樺太等の未開の地をいう。
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安藤五郎
「保暦間記」によると、北条義時が執権のとき、安藤五郎を東夷の固めとして津軽代官職に任命した。のちにその末裔である安藤五郎三郎は、自分の一族である安藤又太郎と争いを起こした。双方とも鎌倉幕府に訴えたが、内管領長崎高資が両方から賄賂を受け取り、両方へ下知した。このため双方に味方をする蝦夷等が度々合戦をした。合戦は元応2年(1320)から、正中2年(1325)の6年間におよんだ。そのため又太郎の代官職を解任、改めて五郎三郎を代官に任命したことがある。ここにいう安藤五郎は、五郎三郎の父または祖父と思われる。五郎が蝦夷に殺されたのは、直接蝦夷との合戦によるのではなく、権力争いから蝦夷人によって殺されたらしいとの説もある。
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同四月八日平左衛門尉に見参しぬ
この御文は、第三回目の国家諌暁を示したものである。日蓮大聖人は「余に三度の高名あり」と仰せのように、三回にわたって国諌を行なわれている。
 第一回は、文応元年(1260)7月、日蓮大聖人は「立正安国論」をもって、時の前執権・北条時頼を諌め、邪法を禁じて正法を立て、国を安んぜよ、もしこれを聞き入れなければ、自界叛逆・他国侵逼の両難が起こると警告あそばされた、しかるに、幕府はこの至誠の国諌を聞き入れないのみか、幕府要人の上郎、尼御前達に取り入った念仏、真言、律等の諸宗の邪僧の言葉に迷い、ますます激しい弾圧と迫害を日蓮大聖人およびその門下に加えたのである。
 第二回は、文永8年(1271)9月、竜の口法難の直前に問注所において、平左衛門尉に「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287)と諌め、重ねて、自界叛逆、他国侵逼の二難を予言した。平左衛門尉頼綱といえば、幕府の軍事、警察権を一手に握っていた権力者であり、日ごろから大聖人を最も憎んでいた張本人である。日蓮大聖人は、その彼に対して厳然と諌め、迫りくる国難にあたって覚醒を求めた。しかし熱誡あふれる諌言も、歪みきった彼には通ぜず、ますます怒りを爆発させるのである。こうした国諌の経緯については、すでに本抄の御文を通して拝してきたとおりである。
 第三回の国諌は、文永11年(1274)4月8日、佐渡流罪が赦免となり、鎌倉へ帰還されたときに平左衛門尉に会見し、国諌をなされている。この場面を描写されたのが、本章の冒頭の御文である。
 このとき、時の執権時宗は日蓮大聖人を優遇して法的に外護しようとの意を持ったのであるが、禅・律・念仏等と同等の扱いで、形式的な優遇策であった。このことが平左衛門を通して伝えられたわけであるが、勿論大聖人は本意にあらずとして一蹴されている。そして大聖人は、平左衛門が「大蒙古国はいつ攻めて来るか」と、あたかも幕府の代表者のような姿で問うたのに対し「今年こそは間違いない」と答えられ、大聖人の言を用いず、日本国がこのまま謗法を重ねるならば、他国より攻略され亡国の憂き目にあうことを最終的に警告したのである。
 大聖人が立正安国論を幕府に提出した文応元年(1260)、39歳のころは、誰人も蒙古が攻めて来ようなどとは、夢だに思っていなかった。しかし、当時の蒙古は、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築き、フビライ汗が即位していたのである。そしてフビライ汗は、1260年代には高麗を下し、日本侵略の命令を課そうとしていた。期せずして大聖人は他国侵逼難の警告を発していた。まことに不思議な御本仏のお振舞いというべきであろう。そして文永の役、弘安の役へと他国侵逼難は、現実となって日本は戦禍を受けることとなったのである。
 なぜ日蓮大聖人が佐渡流罪を赦されたかは本抄に拝するとおりであるが、あれほど邪僧達の讒言があり、平左衛門が憎んでいた大聖人を、結局赦さざるを得なかったとは、平左衛門にとっては全く皮肉なことであったろう。さらに不思議なことは、佐渡から鎌倉まで、大聖人のご生命をねらう邪僧達から大勢の幕府の武士達がその身を警護に当たったことである。法華経授記品にいわく「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」と。この方程式は寸分の狂いもなく大聖人によって実証されたのである。それは今日においても変わらざる原理であり、むしろ順縁広布の時代である現代こそ、方程式にのっとった時代の展開なのである。
譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし
 病気を治すのに、その原因・本体を突き止めて、はじめてそこから正しい処方に従って治療が施されることは誰でも知っているし、経験しているところである。病気の治療については医者がその任に当たっており、現代医学の進歩は目覚ましいものがあり、さらに研究もなされつつある。
 しかし、医学がどれほど進歩したからといっても、それは病気になったあとで、その病原を対治するか取り除くかの技術でしかない。さらに強い病原菌が現われて、人体を冒していくこととなる。このように、その場を繕うのが精一杯という姿ではなかろうか。
 こうした姿は、医学ばかりではない。政治、経済、教育等々の世界にも多く見られる。社会や国家を脅かす災厄に対して、抜本的対策を立てず、場当たり的に糊塗するようなやり方で、その場を繕うという愚策を重ねて、ごまかしていることが余りにも多いのが現実ではないか。そのために、積年の病弊がつもりつもって爆発し、治癒困難に至っているのである。
 かりにも、一つの社会、一つの国家の幸福と繁栄について責任をもった指導者、為政者であるならば、それを脅かし破壊する災害に対して根本的に究明すべきであろう。
 日蓮大聖人が「病の起り」といわれたのもそこに真意があった。すでに災難の根源を究明し、その治術の方途を立正安国論をもって明示されたのである。にもかかわらず、当時の幕府、なかんずく、平左衛門は用いようとしなかった。彼等為政者達は、己れの私利私欲、名聞名利にとらわれて、大聖人の言々句々を無視した。そのために民衆は犠牲をしいられ、苦悩に沈んでいたのである。民衆の苦しみをわが苦悩とし、社会の全体を我が身と自覚できないような指導者は、その資格がないと知るべきである。
 日蓮大聖人は700年前に認めた「立正安国論」に「是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや」(0017-09)の疑問に答え、指導理念を説き示されたのである。すなわち、色心不二の大生命哲学こそ、真実に、正しき生命観、社会観、世界観、宇宙観を説ききったものであり、いっさいの病の、より本源的な解決は、この日蓮大聖人の大仏法によらなければならないのである。かくして、現代の科学も医学も、政治、経済、教育等、いっさいの文化が、その技術・学問を生かすこともできることを知るべきである。
還著於本人
 大聖人は、承久の乱を指摘して、邪宗邪義をもととするならば亡国の災いとなることを述べられたのである。
 承久の乱は、まさに日本の主導権が京都の天皇・公卿から鎌倉の武士に移ったことを決定づけた事件である。この承久の乱は、法然が選択集を著わしてから3年目、その邪義がようやく京都の上下にひろまり、当時、既成仏教として伝統と権威を誇っていた比叡山をはじめ、興福寺等から、念仏禁止の声が次第に高まってきた。ところが、朝廷内には、後白河法皇をはじめ、主だった貴族の熱心な信仰を集め念仏一門の地位は確固たるものとなっていたのである。
 こうしたなかで、後鳥羽上皇を中心とした朝廷側の公家の間に、討幕計画が企てられていったのであるが、念仏への熱烈な信仰、真言等の祈禱等、邪義邪法の害毒はおおうべくもなく、その害毒のために日本国始まって以来の、天皇方の大敗北、三上皇の島流しという哀れむべき結末を現出したのである。
 大聖人は「富木入道殿御返事」のなかで、承久の乱の模様を書き記されているが、その末文に「王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや」(0994-07)といわれているように、当時においては、天皇の権力は絶対であり、それが一般的通念でもあった。朝廷方と対戦した関東の武士の間にも、そうした考え方が強く信じられていた。
 ところが、絶対者であるべき天皇をいだく朝廷方は敗れ、ばかにしていた東国の幕府が勝ったのである。そして勝ち誇った幕府は三上皇に島流しという、厳しい処罰をなし、天皇の譲位を思うがままにしたのである。
 この大事件を、大聖人は東寺等に仰せつけて盛んに幕府方を調伏する真言宗の加持祈祷を行なったために、その害毒によって、自らを滅ぼす根源となったと、還著於本人の理を示されたのである。
 大聖人ご在世においては、悪侶の元凶たる極楽寺良観と平左衛門尉の関係があり、この二人は大聖人をことごとに弾圧し迫害を加えた張本人である。はたせるかな、平左衛門尉一族は、大聖人門下を三人斬首した熱原法難からちょうど14年後、そして大聖人滅後11年目に、執権をしのぐ権勢をもっていたのに、権力争いの渦中に追い込まれ、弟の資宗を将軍にしようとする陰謀があると密告されそのために捕えられた。そして自分の屋敷で平左衛門と資宗は自害、長男宗綱は佐渡へ流罪、以下一族郎党は全て逮捕されるという悲惨な末路を辿っている。これ還著於本人の姿といえよう。
 また、近くは、太平洋戦争当時、時の軍部政府は神道を立てて、妙法護持の創価学会を弾圧し、初代牧口会長、二代戸田会長等20数人を投獄した。結末は敗戦亡国となり、当時の権力者達の末路も悲惨なものであった。ここにも還著於本人の現証を見ることができる。

0921:16~0922:18 第13章 阿弥陀堂法印の祈雨・大悪風をまねくtop

16   さてかへりききしかば同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて 雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智
17 人・をむろ等の御師.弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台・華厳等の諸宗を.みな胸にうかべ
18 たり、 それに随いて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて 風ふかず雨しづかにて一日一夜ふりしかば・守殿御感
0922
01 のあまりに金三十両むまやうやうの御ひきで物ありと・きこふ、 鎌倉中の上下・万人・手をたたき口をすくめてわ
02 らうやうは日蓮ひが法門申して・すでに頚をきられんとせしが・とかうしてゆりたらば・さではなくして念仏・禅を
03 そしるのみならず、真言の密教なんどをも・そしるゆへに・かかる法のしるしめでたしと・ののしりしかば、日蓮が
04 弟子等けうさめて・これは御あら義と申せし程に・日蓮が申すやうはしばしまて 弘法大師の悪義まことにて国の御
05 いのりとなるべくば隠岐法皇こそ・いくさにかち給はめ、 をむろ最愛の児せいたかも頚をきられざるらん、 弘法
06 の法華経を華厳経にをとれりとかける状は 十住心論と申す文にあり、 寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされた
07 る文は秘蔵宝鑰に候、 天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり、 一乗法華経をとける仏をば真言師のはきも
08 のとりにも及ばずとかける状は 正覚房が舎利講の式にあり、 かかる僻事を申す人の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮
09 にかつならば竜王は法華経のかたきなり、 梵釈・四王にせめられなん子細ぞあらんずらんと申せば、 弟子どもの
10 いはく・いかなる子細のあるべきぞとをこつきし程に、 日蓮云く善無畏も不空も雨のいのりに 雨はふりたりしか
11 ども大風吹きてありけるとみゆ、 弘法は三七日すぎて雨をふらしたり、 此等は雨ふらさぬがごとし、三七・二十
12 一日にふらぬ雨やあるべき 設いふりたりとも・なんの不思議かあるべき、 天台のごとく千観なんどのごとく一座
13 なんど.こそたうとけれ、此れは一定やうあるべしと・いゐもあはせず大風吹来る、大小の舎宅・堂塔・古木.御所等
14 を或は天に吹きのぼせ或は地に吹き入れ、 そらには大なる光り物とび地には棟梁みだれたり、人人をも・ふきころ
15 し牛馬ををくたふれぬ、 悪風なれども秋は時なれば・なをゆるすかたもあり此れは夏四月なり、其の上日本国には
16 ふかず但関東・八箇国なり八箇国にも武蔵・相模の両国なり両国の中には相州につよくふく、相州にも・かまくら・
17 かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり、ただ事ともみへず・ひとへにこのいのりの・ゆへにや
18 と・おぼへて・わらひ口すくめせし人人も・けうさめてありし上我が弟子どももあら不思議やと舌をふるう。
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 さて、帰って聞いたところによると、同四月十日から阿弥陀堂の法印に命じて雨乞いのご祈禱があった。この法印は東寺第一の智者であり御室の道助法親王等の御師であって、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけたごとくに精通し、天台・華厳等の諸宗を皆胸に浮かべるように知り尽くした人物である。それに随って十日からの祈雨で十一日に大雨が降って風は吹かず、雨は静かであって一日一夜降ったので、相模守時宗殿はたいそう感じ入って、金三十両に馬などさまざまの賜わり物があったと聞こえてきた。
 これを知って鎌倉中の上下万人が手をたたき口を蹙めて嘲笑し「日蓮が間違った法門を主張してすでに首を斬られようとしたが、やっと免されたのだから神妙にするかと思ったがそうではなくて相変わらず念仏・禅を誹るばかりでなく、真言の密教などさえも誹るものだから、このような法の験が現われたのはいい見せしめで目出度い」と罵ったところ、日蓮の弟子達はがっかりして「これは粗暴な主張」といったので、日蓮はこう喩していった。
 「しばらく待て、弘法大師の悪義が真実であって国の祈りになるものならば隠岐の法皇こそ戦さに勝ったはずである。御室の道助法親王の最愛の稚児・勢多迦も首を斬られなかったであろう、弘法が法華経を華厳経に劣っていると書いた状は十住心論という文にあり、寿量品の釈迦仏を凡夫であると記した文は秘蔵宝鑰にある、天台大師を盗人と書いた状は顕密二教論にあり、一実乗の法華経を説いた仏を真言師の履きもの取りにも及ばないと書いた状は正覚房覚鎫の舎利講の式にある、こういう邪義をいう者の弟子である阿弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば竜王は法華経の敵である、梵天・帝釈・四大天王に責められるであろう、この降雨にはなにかわけがあるだろう」というと、弟子達がいうには「どんなわけがあるのだろうか」と嘲笑したので、日蓮はこう答えた「善無畏も不空も雨乞いの祈りに雨は降ったものの大風が吹いたと見えている。弘法は三七日過ぎてから雨を降らせた。これ等は雨を降らせなかったと同じである。なぜならば三七・二十一日の間に降らぬ雨などあるものではない。たとえ祈りで降ってもなんの不思議があろうか。天台のように千観などのように一座の修法で降らせてこそ尊いのだ、これは必ずわけがあろう」といいも終わらぬうちに大風が吹いてきた。
 大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を・あるいは天に吹きのぼらせ、あるいは地に吹き入れ、空には大きな光り物が飛び、地には棟や梁が倒れ乱れた、人々さえも吹き殺し牛や馬がたくさん倒れた。悪風であっても秋なら季節であるからまだ許すこともできる、だがこれは夏の四月である、その上・日本全国には吹かずに但関東八か国だけである、八か国のなかにも武蔵・相模の両国であり、両国のなかでもとくに相州に強く吹いた、相州のなかでも鎌倉、鎌倉のなかでもとくに御所・若宮・建長寺・極楽寺等に強く吹いた。してみるとただの暴風とも見えず、全くこの祈禱のゆえかと思われて、日蓮を嘲笑し口を蹙めた人々も興醒めしてしまったうえ、わが弟子達も「あら不思議な!」と驚いていい合った。

阿弥陀堂法印
 鎌倉大倉の阿弥陀堂の別当で、加賀の法印定清のこと。真言宗小野流定清方の開祖。
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をむろ
 第59代の宇多天皇(在位0887~0897)が入道して、仁和寺を京都西山の地に建立し、御室を構えてからこの言葉が起こった。その後法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れを汲むようになり、それらを御室と呼称するようになった。御書に出てくる御室は、承久の乱の祈祷を行なった、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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御ひきで物
 もと、馬を庭に引き出して贈り物にしたところからこういう。祝宴のときなどに、主人から招待客におくる贈り物。引き物。
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密教
 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
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せいたか
 佐々木山城守広綱の第六子、勢多迦童子をいう。仁和寺の御室、道助法親王の侍童として寵愛されたが、承久の乱(1221)のとき、叔父信綱の讒訴により斬首された。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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十住心論
 秘密曼陀羅十住心論の略。弘法の書で、全十巻より成る。天長7年(0830)ごろの作といわれ、大日経・菩提心論を依処として、十住心を立て顕密二教を判じた。とくに第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳、第十住心に真言を立てて、法華経は華厳経にも劣るとなし、大日に劣る第三の戯論と立てている。
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寿量品の釈迦仏
 久遠五百塵点劫成道の釈尊のこと。
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秘蔵宝鑰
 弘法の書で三巻から成る。十住心論を要約したもの。天長年中に、淳和天皇が諸宗の要義を聞かれたときに、さし出したものをいう。
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二教論
 弁顕密二教論の略。弘法の著作で、顕教よりも密教が優れているとの邪義を説いたもの。弘法は横豎において教相を判釈しているが、横の判教が弁顕密二教論であり、豎の判教が十住心論、秘蔵宝鑰であるとしている。
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正覚房が舎利講の式
 正覚房とは、覚鑁(1095~1144)の号で、聖覚房とも書く。真言宗新義派の始祖で、その師弘法と同じく、法華経を誹謗した邪悪の僧である。舎利講の式は覚鑁の著で、仏舎利供養の講演をまとめたものである。五編から成るが、この第四門のなかで覚鑁は、法華経は真言の履物取りにもおよばないと、邪義を述べている。 撰時抄(0278)には「いかにかかるあさましき事はありけるやらん、かかる僻見の末へなれば彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く『尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり驢牛の三身は車を扶くること能はず秘奥なる者は両部・漫陀羅の教なり顕乗の四法は履を採るに堪へず』と云云、顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候」とある。
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竜王
 竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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千観
 平安時代中期、天台宗摂津金龍寺の僧(0918~0984)。相模守橘敏貞の子。園城寺に入って出家し、顕密二教を学んだ。応和2年(0962)夏、旱魃のさいに朝廷は千観に詔を下して雨乞いをさせた。そのとき、千観は摂津箕面山にいて、法華三宗相対の釈文を撰していたが、勅使が到着するや、庵から三里ほどのところにある大きな柳に登って祈ったところ、たちまちに大雨が降ってきたという。永観元年(0983)12月、66歳で没した。法華三宗相対抄五十巻、十願発心記等の著作がある。
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関東・八箇国
 江戸時代以前の関東の八か国の称。相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)・安房(千葉県)・上総(千葉県)・下総(千葉県)・常陸(茨木県)をいい,現在の関東地方に当たる。関東八州。坂東八箇国。八州。
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武蔵
 東京を中心に埼玉・神奈川の一部地域
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相模
 関東八州のひとつ。現在の神奈川県。
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わらひ口すくめせし
 口をすくめて笑うこと。
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 三度目の国諌に対して、幕府はこれ見よがしに真言宗徒へ祈雨を命じて応えた。これほどの暴挙がまたとあろうか。ここにおいて大聖人は幕府を見捨てて身延へお入りになることになる。これによって、幕府は正法を拒否し亡国の邪法を敢えて用いて自らの滅亡をおのれの手で決定した。愚挙の極というべきであろう。
 三度の国家諫暁については、すでに述べたとおりであるが、「撰時抄」の「余に三度のかうみょうあり」(0287-07)と仰せられたところの御文によると、第一回と第二回とは、共に念仏、禅を破し、第三回目に至って真言を破しておられる。
 ここで、真言宗がその源において、いかに邪義を構えて亡国の因であったかを解明しておこう。
 インドでは真言密教が確立すると、間もなく西から回教徒のアラブ民族に侵略され、全インドがその後数百年間、異民族支配下におかれることとなる。この時には仏教・ヒンズー教・その他あらゆるインドの宗教が、寺院は破壊され、僧侶は殺された。そのためにインドの密教徒が続々と中国に亡命してきた。時は八世紀であり、真言亡国はすでにインドではっきりと現証を顕わしていた。三三蔵が中国へ来たのもそのためである。
 真言宗が宗派をなしたのは、中国であり、その開祖は善無畏である。彼は、インド・烏萇奈国の太子であったが、兄弟のねたみにあい、いったんは王位に就いたが追われるところとなり、その後出家して密経を学んだのである。彼の学んだ密教とは、仏教を哲学的に信解するというより、行体によって会得しようとする流派であり、それは多分にヨガ等の外道の影響を受けていたものである。
 善無畏は大日経をもって中国に渡った。当時中国は、インドとの国交が盛んであり、インドからの仏教僧はとくに優遇されていたのである。しかし、中国においては、すでに天台大師によって南三北七といわれる邪義は破折され、宗教界は天台宗によって統一されていた時代であった。そうしたなかで、彼は天台僧でありながら天台宗に不満をいだく一行禅師を懐柔し、一行から天台宗その他各宗の教義を聞きとり、「自分の持ってきた大日経はインドでは法華経と同じで、釈尊は舎利弗や弥勒に向かって、大日経の印と真言を捨てて、理だけを説いて法華経と名づけた、また大日如来は金剛薩埵に向かって、法華経を大日経と名づけて説いた」と全くのデタラメを教えたのである。
 一行は彼の巧言に乗ぜられ「大日経疏」なる書を著わし、彼の中国における布教を助けることとなった。しかも彼は、王族出身という家柄を巧みに利用し、玄宗皇帝の篤信を得て、急速に真言の邪義を弘めていった。彼のあとに、金剛智、不空等が、共にインドから渡って真言密経を弘めていった。この三人を中国・真言宗の三三蔵と称するのである。善無畏は地獄の相で死んでいる。大聖人はそのわけを、大日経を法華経より勝れているとしたこと、大日如来は釈尊に勝れているとした二つの大謗法によるといわれている。中国史上空前の繁栄を誇った大唐帝国は、この真言の悪法の流行と共におとろえ、やがて亡んでゆく。中国でも真言は亡国の現証をはっきり顕わした。
 日本・真言宗の開祖は空海である。彼は伝教大師と同じ船団で延暦年中に入唐し、青竜寺の慧果に真言密教を学んだ。そして、毘廬遮那、金剛頂経など二百余巻の経、論、釈を持ち帰った。
 ところが、彼は真言を弘めるのに、全く子供だましの方法をもってした。唐から帰るにさいして、明州の浜から日本へ向かって三鈷を投げ、これが落ちたところを根本道場としようと願をかけたという。かくして発見されたのが高野山であったというのである。また、帰朝後、真言宗を開こうとして朝廷に各宗を集め、智拳の印を結んで南方に向かったら、口が急に開いて法身仏になったという。さらにまた、弘仁9年(0818)の春、天下に疫病が流行したとき、彼は般若心経で祈ったら疫病は止み、夜、太陽が輝き出したという。
 いずれも稚戯に等しい話ばかりである。ところが、明治・大正期に洋行帰りが珍重されたように、当時、彼は唐帰りの高僧という看板にものをいわせ、安易に民衆をたぼらかすことができた。
 空海の邪義は「十住心論」「秘蔵宝鑰」「二教論」に明らかである。その二、三を列挙してみよう。その一、十住心論に、華厳経と大日経に比べると、法華経は戯論である。その二、舎利講の式に、法身の大日如来に相対すると釈尊は無明の辺域であって、ゾウリ取りにも及ばない。その三、天台宗は真言の六波羅蜜経から醍醐味を盗み取った盗人である。
 これらは空海一流の大嘘で、いずれも、経文にはない我慢偏執による邪義である。その三に挙げた議論についていえば、六波羅蜜経といえば、これは唐代にはじめて中国に伝来した経文で、天台大師の出現は唐以前の陳隋であり、すでに没した天台大師がどうして六波羅密経の教義を盗んだというのか。醍醐味は生前、天台によって立てられたものである。空海は、全く不可解な議論を立てたものだ。
 法盗人は天台でなく、むしろ空海ではなかったか。真言の教義は、大日、金剛頂、蘇悉地の三部経であり、さらに菩提心論、空海の十住心論、秘蔵宝鑰等が依処となっている。それらの経論の内容は、全ては地水火風空識の六大から成り、仏も衆生も同じであり、いっさいの仏・菩薩・明王・諸天は始覚的な智をあらわす金剛界と、本覚的な理をあらわす胎蔵界とに分けられるが、究極においては大日如来によって統一されている等となっている。ところが、これらの教義は、天台の一念三千の法門、法華経の開近顕遠の哲理を盗んでつくりあげられたものであることは明瞭である。
 そればかりか、彼は真言宗それ自体で名をあげたというよりも、土木事業、とくに新田開墾用の用水池のため堤をつくったことなどで有名である。この有名の二字に真言の邪義をのせて弘めるなどは、今日の低級宗教にも劣らぬ手口である。
 真言亡国論は、すでに承久の乱によって証明されているが、中国においても玄宗皇帝の時代、楊貴妃の問題、内政の紊乱等、真言の邪法帰依によって、玄宗は退位のやむなきに至っていることでも明白である。故に、「三沢抄」に「ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前にも申して候、真言宗がに此の国とたうどとをば・ほろぼして候ぞ」(1490-13)と。
 このように、真言宗はその源において邪悪を極めており、末流においてなにをかいわんやである。なお、大聖人は諸御書に真言は亡国、禅は天魔、念仏は無間地獄といわれているが、日寛上人は、それは一応の説であって、再往はこれらの三宗が無間であり、天魔であり、亡国であるとされている。すなわち無間地獄に人は堕ちるが、天魔でもない亡国でもないということはありえない。地獄へ堕とす悪法は、天魔であり亡国でもあるのである。
祈雨と法の正邪
 極楽寺良観が、文永8年(1271)6月、祈雨の修法を行ない、見事に失敗した点については、すでに第四章の講義で述べたので省略する。なお若干の付言をするならば、良観の祈雨について、頼基陳状に次のように述べられている。「去る文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時、彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由・日蓮聖人聞き給いて此体(これてい)は小事なれども此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、良観房の所へつかはすに云く七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり」(1157-15)と。
 日蓮大聖人は、良観が祈雨によって日照りのために苦しんでいる大衆を救済すると公言したのを伝え聞いた。そこで祈雨などは些細なことであるが、過去にも祈雨によって法の正邪を決した例があるので、これを機会に大聖人の仏法が正しいということを万人に納得させるために、良観の祈雨は失敗すると予言した。もしも7日間の内に雨が降るようなことがあれば、いままでいってきたことは誤りと認め、良観の弟子になろう、といわれた。すなわち現証によって法の正邪を決しようとされたのである。
 「三三蔵祈雨事」にも「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と仰せられている。文証・理証・現証とは宗教批判の原理の三証であるが、これをもってみても日蓮大聖人の仏法がいかに厳密な科学的方法によって、その正しさを証明されようとしていたかを知ることができよう。
 大聖人は「立正安国論」をはじめとしていかなる御書を拝しても、正確な文献上の証拠を引用し、理証として、仏法哲理を解明され、さらに現実の証拠を必ず示されている。またご自身が公言されたことを、寸分違わず実証されたのである。
 古来、仏法による祈雨の例は多い。中国において真言の善無畏は、唐の玄宗の時に大雨を降らせたが、同時に大風が吹いて国土を荒した。金剛智の場合も7日目に大雨が降ったが大風が吹き、このときは国外追放の命令さえ下された。不空も大雨と大風であった。
 日本では、天長元年(0824)2月に大旱魃があり、弘法が天皇の命を受けて祈雨を行なうことになったが、まず守敏が行ない、7日目に降らせたが京都のうちだけで田舎には降らず、続いて祈った弘法の場合21日過ぎても降らず、天皇が自分で祈ったところ雨が降ったということである。ところが、この雨は弘法が降らしたといったというのであるから、あきれはてたことである。
 法華経によって祈った天台大師の場合は、大雨にもあらず風も吹かず甘雨を降らせて、陳の世の大旱魃を救った。また伝教大師も、弘仁9年(0818)の春の旱魃のときに三日目にほどよく降らして大地を霑した。この時、天皇は非常に喜んで大乗戒壇の建立を許している。
 このように、法華経と真言の邪法との勝負、現証において顕然である。
 さらに本章においてお示しのように、大聖人ご在世当時の文永11年(1274)の4月、東寺第一の智者と仰がれた阿弥陀堂の加賀法印が祈雨を行ない雨を降らせた。だが逆風が吹きまくり、それも、鎌倉の御所、若宮、建長寺、極楽寺などの正法正師誹謗の権力者の住所、邪智の僧侶が住するところに強く吹いたというのであるから皮肉なことである。
 「法蓮抄」(1045)にいわく「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045-03)と。この文をもってみるならば、近き現証とは加賀法印の真言による祈雨が、大悪風を起こして鎌倉を荒したことといえようし、真言によって祈るならば亡国となる、との遠き信を取るべきであった。同年10月には、大聖人予言のとおり第一次蒙古の襲来を受けたのである。

0923:01~0923:12 第14章 身延入山後蒙古襲来すtop

0923
01   本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・
02 いでて此の山に入る、 同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、 太宰府もやぶら
03 れて少弐入道・大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、 又今度よせくるならば・い
04 かにも此の国よはよはと見ゆるなり、 仁王経には「聖人去る時は七難必ず起る」等云云、 最勝王経に云く「悪人
05 を愛敬し善人を治罰するに由るが故に 乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云、 仏説まことならば此の
06 国に一定悪人のあるを国主たつとませ給いて 善人をあだませ給うにや、 大集経に云く「日月明を現ぜず四方皆亢
07 旱す是くの如く不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊せん」云云、 仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・
08 太子・王子の前に於て 自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く、 其の王別えずして此の語を信聴せん是を破仏法破国
09 の因縁と為す」等云云、 法華経に云く「濁世の悪比丘」等云云、 経文まことならば此の国に一定・悪比丘のある
10 なり、夫れ宝山には曲林をきる大海には死骸をとどめず、 仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫・四重の濁水を
11 ば入るれども誹謗の死骸と一闡提の曲林をば・をさめざるなり、 されば仏法を習わん人・後世をねがはん人は法華
12 誹謗をおそるべし。
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 今度の諌めも用いられまいとかねて心に期していたことなので、三度まで国を諌めても用いなければその国を去るべしとの習いに従った。そこで同五月十二日に鎌倉を出発して此の身延山に入った。
 同十月に大蒙古国が攻め寄せて壱岐・対馬の二か国を打ち取られただけでなく、太宰府も破られて、少弐資能入道覚恵や大友頼泰入道道忍等はそれを聞いて逃げ、そのほかの兵士どもはやすやすと大体打ち取られてしまった。また今度攻め寄せてくるならばいかにもこの国は弱体に見受けられる。仁王経には「聖人が去るときには七難が必ず起こる」等とあり、最勝王経には「悪人を愛敬して善人を治罰するに由る故に乃至他方の怨賊が来寇して必ず国中の人が滅ぼされる乱に遇う」等とある。仏説がまことであるならば、この国に間違いなく悪人がいるのを国主が尊敬して、善人にあだをするからではないか。
 大集経にいわく「日月に光なく四方が皆ひでりとなる。このような不善業の悪王と悪比丘とがわが正法を破壊するのである」云云と、仁王経にいわく「諸の悪比丘が多く名誉と利益とを求めて国王・太子・王子の前において進んで破仏法の因縁・破国の因縁を説くであろう、その王は説の善悪を分別できなくてその言葉を信じて聴く、これが破仏法・破国の因縁である」等云云、法華経にいわく「濁世の悪比丘」等云云、経文が真実ならばこの国に間違いなく悪比丘が存在している。そもそも宝の山においては曲がった木は伐り去り大海には死骸を留めて置くことがない、仏法の大海・一実乗の宝山には五逆の瓦礫や四重禁戒を破る濁水は入れるけれども誹謗の死骸と一闡提の曲林は収めないのである。であるから仏法を習おうという人・後生を願おうとする人は法華誹謗を恐るべきである。

三度・国をいさめんに
 三度の高名のこと。①文応元年(1260))7月十164日、幕府の最高実力者である前執権・最明寺入道時頼に対する『立正安国論』の提出。②文永8年9月12日、大聖人を捕らえにきた平左衛門尉頼綱に対する諌暁。③文永11年(1274)4月8日、佐渡配流を赦免されて鎌倉へお帰りになり、頼綱の召喚に応じて対面された時の諌暁。
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壱岐
 壱岐島のこと。西海道12ヵ国のひとつ。九州・博多湾と対馬との中間にある島。現在は長崎県に属する。対馬とともに古くから日本と大陸を結ぶ交通の要衝であった。蒙古襲来における現証となった地。
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対馬
 日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。対馬の大半を占める主島の対馬島のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国や対州、また『日本書紀』において対馬島と記述されていた。旧字体では對馬。
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太宰府
 天智天皇3年(0664)筑前国筑紫郡に設置された地方官庁、九州諸国の行政管理や外国使節の応対、海辺防衛、貿易管理などの対外関係を仕事とした。
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少弐入道
 少弐資能(1198~1281)のこと。少弐氏は北九州の名族で、資能は大宰府にあって外交の任に当たった。建治元年(1275)、北条実政を鎮西奉行に迎え、家督を経資に譲って入道して覚恵と称した。
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大友
 豊後国の守護大名。ここでは第三代頼泰をさす。頼康ははじめ豊後国守護職にあったが、鎮西談義所奉行人となり、国内の旧族士豪を従え、府内(大分市)に館を構えていた。
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七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す。
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五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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四重
 四衆のうち、比丘の極重罪のことで、十悪業のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語の四つをいう。また四重禁戒といって、一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不邪淫戒、四に不妄語戒で、これを犯せば教団を放逐される。出家としての最重罪である。
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一闡提
 断善根、信不具足等の意で、仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。
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 日蓮大聖人は、三度国を諌めて用いられないところから、ついに鎌倉を去って身延山中に草庵を結んでそこに入られたのである。一往は正法誹謗の日本国を去られた形をとられ、再往で、かく振舞われたご真意は、日本国の安泰を祈らんがためであり、また未来広宣流布の時を待つために、永遠の令法久住のために、門下の子弟養成とその礎をより深く強固に築く深慮のゆえであったと拝するものである。
 仁王経、最勝王経、大集経等々の経文、いずれも一個人や一家庭を不幸に陥れるのは誤った思想・哲学によるものであり、さらに一国を滅亡に導いていくのは共に低級邪悪な思想よりくるとの意が説かれたものである。
 われわれの生活とは生命活動の発露であり、その生命の奥底を支配しているものが、思想であり、哲学であり、宗教なのである。したがって邪悪な思想、低級な哲学を依りどころとした生命活動、また誤れる人生観、社会観をもととした生活をすれば、生命それ自体が、三悪道、四悪趣といった非常に濁った癖のあるものとなる。
 そうした生命の濁りは、個人にあっては偏狭なる人格を形成し、社会にあっては歪んだ人間社会の濁りを露呈していくこととなる。そうして、その家庭、社会、国家から誕生する指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。
 この人間生活への思想の影響、関係性というものは、目に見えないだけに恐ろしいといわなければならない。目に見えて影響が及ぼされていることを知ったときは、すでにその思想・哲学の、生命・社会への浸透度はかなり深くなっているのである。
 なかでも宗教の影響は多大である。かりに誤れる宗教であるならば、信仰という関係力によって、本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられ、知らずしらずのうちに生命力は弱められていく。もはや生命活動は宇宙のリズムに調和せず、その人の生活にあらわれる果報は苦悩の連続であり、不幸の巷を流転することとなってしまう。
 誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいかは、過去の歴史を通して知り尽くしているであろう。西欧におけるキリスト教には異端者、異教徒に対する生命の尊厳を全く無視した弾圧迫害の歴史がある。イスラム教も同様である。ナチの人種論は残虐非道をなす人間を誕生させた。またソ連の共産主義はチェコの自由化を阻止するために武力介入をし、人間性を無残にも踏みにじるという行為をなした。まだまだ数えあげれば、狂気とも残忍とも、形容しがたい悲劇を演じた歴史的事実が山ほどある。
 そのほか、インド、中近東、東南アジアにおける宗教の害毒、そして日本の邪宗教等、いずれも根本的には邪宗、邪義、邪智によって人間の善心を破壊し、生命を濁らせた結果なのである。
 過去の歴史ばかりではない。現実の社会に低級、邪悪な宗教の害毒に犯された姿は無数にあることを知るべきである。現代人の無気力な姿、あるいは気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、修羅葛藤の姿、こうした人間模様が眼前に展開しているのである。宗教が人間生活に及ぼすその魔力は、まことに恐るべきであろう。
 末法五濁悪世の時代相は、その底流に宗教界の混乱が同時にあった。こうした日本の土壌から邪悪・低級な宗教が横行し、邪智にたけた僧侶が誕生し、それに呼応するかのように権力におごる横暴な指導者や為政者が出現する。かくして、国家は滅亡へと悲惨な末路を辿ることとなるのである。
 大集経、仁王経に説かれた悪比丘の代表は、極楽寺の良観である。彼は低級きわまりない宗教をもととしながら宗教界の名声、地位、尊崇をほしいままにしていた。また悪王とは幕府の権力者達であり、なかんずく平左衛門尉頼綱である。彼は絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握っていた。
 そして、良観と平左衛門とは、利害のために結託し、御本仏日蓮大聖人を迫害する暴挙に出たのである。すでに、悪法、悪比丘、悪王の三つが揃ってしまったうえは、国家存亡の危急をまねくは必定であったわけである。

0923:13~0924:09 第15章 臨終の相をもって法華誹謗を証すtop

13   皆人をぼするやうは・いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用うべきと、他人は・さてをきぬ安房の国の東西の人
14 人は此の事を信ずべき事なり、 眼前の現証ありいのもりの円頓房・清澄の西尭房・道義房・かたうみの実智房等は
15 たうとかりし僧ぞかし、 此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし、 これらはさてをきぬ、円智房は清澄の大堂
16 にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて 十巻をそらにをぼへ、 五十年が間一日一夜に二部づ
17 つよまれしぞかし、 かれをば皆人は仏になるべしと云云、 日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の
18 底にをつべしと申したりしが 此の人人の御臨終はよく候いけるか・いかに、日蓮なくば此の人人をば 仏になりぬ
0924
01 らんとこそおぼすべけれ、 これをもつて・しろしめせ弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せし
02 かば公家にもしらせ給はず末の代は・いよいよ・あをぐなり、 あらはす人なくば未来永劫までも・さであるべし、
03 拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。
-----―
 あらゆる人が思い込んでいるさまは弘法や慈覚を謗る人をどうして用いられようかと。しかし、他人は別として、安房の国の東条と西条の人々はこの事を信ずべきである。それは眼の前に現証があるからである。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・片海の実智房等は貴いといわれてきた僧であった。だがこれらの人々の臨終はどうであったろうかと尋ねてみるべきである。これらはさておくが、円智房は清澄の大堂において三か年の間・一字三礼の法華経を自身で書写し十巻を暗誦し、五十年の間一日夜に二部づつ読まれたのであった。だから彼を人は皆・必ず仏になるだろうといっていた。これに対して日蓮だけが「念仏者よりも道義房と円智房こそ無間地獄の底に堕ちるであろう」といっていたが、此の人々の御臨終は良かったか、どうか、そうではなかったではないか。もし日蓮がいなかったならば、この人々を世間では仏になったであろうと思ったに違いない。これをもって知りなさい。弘法・慈覚等は臨終があまり悪くてあきれる事があったけれども、それを弟子共が隠したために、朝廷においてもその事実を知り給わず、時代が下るにつれて末の世ではますます尊敬しているのである。もしそれを顕わす人がないならば未来永劫までそのままとおってしまうであろう。昔、天竺の拘留外道は石となって八百年過ぎてから陳那菩薩に責められて融けて水となり、迦毘羅外道は石と化して一千年後に同じく陳那菩薩に責められたために融けて水と化し、その失が顕われたではないか。今もまた同じことである。
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04   夫れ人身をうくる事は五戒の力による、 五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上同生同名と申して二
05 つの天生れしよりこのかた左右のかたに守護するゆへに 失なくて鬼神あだむことなし、 しかるに此の国の無量の
06 諸人なげきを・なすのみならず、 ゆきつしまの両国の人・皆事にあひぬ太宰府又申すばかりなし、此の国はいかな
07 るとがのあるやらん・しらまほほしき事なり、一人・二人こそ失も・あるらめ・そこばくの人人いかん、これひとへ
08 に法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師・善導・法然が末の弟子等・達磨等の人人の末の者ども国中に充
09 満せり、故に梵釈・四天等の法華経の座の誓状のごとく頭破作七分の失にあてらるるなり。
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 一体、人身を受けるということは五戒の力によるのである。人と生まれてからも五戒を持っている者に対しては二十五の善神がこれを守る上に、同生同名といって左神・右神の二つの天神が、生まれたときからその人の左右の肩の上にいて守護しているために、その人に失がなければ鬼神が仇をすることはない。しかるにこの日本の国の無数の諸人が三災七難に遇って悲嘆しているばかりか、壱岐・対馬の両国の人は皆大事件に遇ってしまった。筑紫の太宰府もまたいうまでもないさんざんな体たらくである。このように神の守護なく大難に遇うのはこの国に一体どんな罪があるのであろうか。これこそぜひ知りたいことである。一人・二人ならば失もあるだろうが、大勢の人々に失があるということは一体どうしたことか。これは偏に法華経を見下して誹謗する弘法・慈覚・智証等の末葉の真言師、善導・法然の末の弟子等、達磨などの人々の末葉の者どもが国中に充満して邪法を弘めているゆえに、梵釈・四天等が、法華経の会座の誓状のとおりに頭破作七分の治罰を加えているのである。

円智房
 円智ともよばれる。安房の国清澄寺の住僧。詳伝不明。学問にはすぐれていた僧らしいが、謗法を犯し、現罰を受けて悲惨な死に方をしたことが明らかである。四信五品抄(0342)に「明心と円智とは現に白癩を得」と。
―――
清澄の西尭房・道義房
 ともに、大聖人御在世当時に清澄寺に住んでいた住僧と思われる。
―――
かたうみの実智房等
 大聖人御在世当時に清澄寺に住んでいた住僧と思われる。
―――
円智房
 大聖人御在世当時に清澄寺に住んでいた住僧と思われる。
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一字三礼の法華経
 法華経書写の修行に、一字書いては三礼し、次の字を書いて三礼……とする行があったといわれている。
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拘留外道は八百年ありて水となり
 拘留外道は倶留ともいい、倶留は鵂鶹の借字で、鵂鶹は漚楼僧佉のこと。釈迦が出現する八百年以前のインド勝論学派の祖。「報恩抄」(0311)にも「拘留外道は石となって八百年・陳那菩薩にせめられて水となりぬ」とあるが、その根拠としては、止私記巻十には「真諦云く、休留仙人成劫の末に出でて長生の薬を服し、変じて石と為る、形・牛の臥せるが如し。仏前八百年の中に在りて石消融すること灰の如し、門人皆称して涅槃に入ると称す」とある。また輔行巻十に「外道が身の死するのを恐れて林中で化して石となった。その石に偈を書いて祈ると何でも願いがかなうという。のちに陳那菩薩がこれを破折し、その石に偈を書くと石は裂けて水になった」とある。つまり、これらより倶留は仏前八百年に化石消融し、のちにふたたび拘留外道のなかに石となったものがいて、陳那のために責められ水となったと考えられる。
―――
迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか
 迦毘羅はインド・婆羅門教の数論学派の開祖と伝えられる。止観輔行伝弘決巻十に、迦毘羅は石となり、陳那菩薩がその義を破折するために石の上に偈を書くと、石が裂けたとある。すなわち一千年後に破折されてその失があらわれたのである。
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五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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二十五の善神
 帝釈天の勅を奉じて、五戒を持つものを守護するという25の善神。
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同生同名
 同生天、同名天の二神で、倶生神ともいう。人が生まれたときから、常に左右の肩にあって瞬時も離れず、その行動の善悪を記して天に報告し、その人を守護するという。「四条金吾殿女房御返事」(1135)には「人の身には左右のかたあり、このかたに二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがために母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・つき随いて候」と。薬師瑠璃光如来本願功徳経に「諸の有情には倶生神有って、其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之れを書して、尽く持して琰魔法王に授与す。爾の時、彼の王は其の人に推問して所作を計算し、其の罪福に随って之を処断す」とある。
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事にあひぬ
 悲惨な憂き目にあうこと。
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達磨
 禅宗の初祖。菩提多羅のこと。のちに般若多羅より法を受け、菩提達磨の名を授けられた。般若多羅は、かれの滅後67年に震旦に行って弘法せよと、達磨に游化を許したので、梁の普通元年、中国に入り、武帝に謁見したが受け入れられず、崇山少林寺に寓して壁に向かって坐禅したので、人々は彼を壁観婆羅門と呼んだ。大通2年に死去。唐の代宗は円覚大師とおくり名した。
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法華経の座の誓状
 法華経の会座で、諸天善神や菩薩が釈尊に向かって、法華経の行者を必ず守護すると誓った状をいい、この誓いを破れば、罰を受けるであろうと記した文。
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頭破作七分
 陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
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此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし
 現代人、とくに若い人達は死後の生命など信じようともしないし、無間地獄の恐ろしさなど、想像もできないであろう。
 しからば、法華経の譬喩品に「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれた経文はどのように読むべきであろうか。
 たしかに、現代の大部分の人にとっては、地獄といえば針の山や血の海であり、大火焔が渦巻く絵巻の光景しか思い浮かばない。既成仏教が地獄観について寓話的に語り、お伽話のように扱って、民衆にそう思い込ませてしまったのだ。だから、仏は死んだ人のことで、死んで仏になって地獄へ行ったなどというような矛盾も、矛盾と感じないのである。責任の大半は、彼ら既成宗教にあるといえよう。
 だが、地獄とはわれわれの生命の苦悩の境涯にほかならない。業病の激しい痛みに責められ悶える人、それ自体が地獄の姿であり、戦争の渦中にあって国土を焼かれ生命を害され、肉親を失う悲惨そのものが地獄である。
 死後の問題についても、生命の現世のみの存在として限定すると、さまざまな疑問が生ずる。もし生命が偶発的に生滅するとするならば、なぜ個人によって能力や性格、容姿などの相違が出るのか。遺伝や環境論をもって一応は説明できても、どうしてそういう遺伝のもとに生まれ、そうした環境のなかで生活しなければならないのかと、追究するとなにも解明できないであろう。
 「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と。われわれ現在の姿は一つの結果であって、過去の行業にその因を求めなければならない。また未来の果は現在の因にある。したがって臨終の相は現世における行因の結果であり、死後の生命が感得するその果報を示す姿でもある。
 故に大聖人は、「妙法尼御前御返事」に「大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり……されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」(1404-03)と、臨終の事は仏法の大事であると仰せである。 また「教行証御書」には「一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(1279-16)と、邪宗邪義を唱えた者が堕地獄の臨終の姿を示したことを指摘されている。
 因果の理法ほど厳しいものはなかろう。少しのおまけも、ごまかしもありえない。正法を持ち実践したか、邪法を持って行じたか、現世の行動の全てが総決算されるのが死の姿であり臨終の相である。
 われわれは、妙法を信受し、生涯、妙法に生きるとき見事な臨終の相を現ずることができる。そして、それはそのまま未来永劫の絶対的幸福に通ずるものである。故に、一生成仏の信心に強盛に励むべきである。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはいった。
 「遺憾なく過ごした一日は、楽しい眠りをもたらす。それと同じく善く用いられた一生は、安らかな死を与える」と。死後の意味をよくいい表わした言葉といえよう。
 こうしてみると、本文にお示しの臨終の相の問題、元寇によってうけた総罰の現証、これらがことごとく邪法・邪師より起こり、遂に頭破七分に至るという事実を、現代人は厳粛に見つめ、法華経誹謗を恐れるべきである。

0924:10~0925:01 第16章 最大の総罰・頭破作七分top

10   疑つて云く 法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に・日蓮房をそしれども頭もわれぬは日蓮房は
11 法華経の行者にはあらざるかと申すは 道理なりとをぼへ候はいかん、 答えて云く日蓮を法華経の行者にてなしと
12 申さば法華経をなげすてよとかける法然等 ・無明の辺域としるせる弘法大師・理同事勝と宣たる善無畏・慈覚等が
13 法華経の行者にてあるべきか、 又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ刀をもてきるやうにわるるとしれるか、 経
14 文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ、 人の頭に七滴あり七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ 三滴を食へば寿絶え
15 んとす七滴皆食えば死するなり、 今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しら
16 ざるなり、 例せばてをおいたる人の或は酒にゑい或はねいりぬれば・をぼえざるが如し、又頭破作七分と申すは或
17 は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、 死ぬる時は・わるる事もあり、 今の世の人人は
18 去ぬる正嘉の大地震・文永の大彗星に皆頭われて候なり、 其の頭のわれし時せひせひやみ・五臓の損ぜし時あかき
0925
01 をやみしなり、これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや。
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 疑って言うが、法華経の行者を仇とする者は「頭破れて七分と作らん」と説かれているのに、日蓮房を謗ったけれども別に頭も割れないのは、日蓮房は法華経の行者ではないのか、というのはには理に叶っていると思うがどうであろうか。
 答えていおう。日蓮を法華経の行者ではないというならば、法華経をなげ捨てよと書いた法然達、釈尊をまだ無明に属する者であると書いた弘法大師、法華と真言は理は同じだが事では真言が勝れると宣べた善無畏・慈覚等こそが法華経の行者であるだろうか。断じてそうではなかろう。また、頭破作七分ということはどういうことであるか汝等は刀を以って斬ったときのように割れるのだと心得ているのか、経文には「阿梨樹の枝のごとし」と説かれているではないか。だから刀で斬ったような割れ方ではないのだ。もともと人の頭のなかには精気の根元をなす七滴の水があるが、七人の鬼神がいてこれを取って食べようとすきをうかがっていて一滴食えば頭を痛める、三滴を食えば寿命が絶えようとし、七滴全部を食えば人は死ぬのである。今の世の人々は鬼神に頭の水を食われて皆・頭が阿梨樹の枝のように破れてしまっているが悪業が深いために自覚していないのである。たとえば傷を負った人があるいは酒に酔うかあるいは深く寝入ってしまえばその傷の痛みを感じないようなものである。また、頭破作七分というのは、または心破作七分ともいって、頭の皮の底にある骨が心気の激動によって罅破れるのである。心が破れきって死んだ場合には割れることもある。今の世の人々は去る正嘉の大地震・文永の大彗星出現のときに皆頭が破れてしまった。その頭が破れたときに喘息を病み、五臓を損なったとき赤痢を病んだのであった。これは法華経の行者を誹ったために当たってしまった現罰であると気がつかないのか。

無明の辺域
 真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
―――
理同事勝
 真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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如阿梨樹枝
 法華経陀羅尼品第二十六に、十羅刹女が法華経を持つ者を守護する誓いのなかに「若し我が呪 に順ぜずして、説法者を脳乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」と罰論が説かれてあり、天台は文句に「地に堕つれば、法爾として、破れて七片と為る」と釈している。阿梨は梵語で、樹とも樹状の阿梨樹の枝草ともいう。熱帯、また亜熱帯地方に産する蘭香等という説もあるが不明である。いずれにしても法華経誹謗の者がうける罰を阿梨樹にたとえる。
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七鬼神
 鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事(1246)に「鬼のならひとして人を食す……下品の鬼神は糞等を食し・中品の鬼神は骨等を食す・上品の鬼神は精気を食す、此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」と。すなわち七鬼神とは人の精気を吸う上品の鬼神のこと。そのため、頭破作七分となる。
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正嘉の大地震
 正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。
「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
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文永の大彗星
 文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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せひせひやみ
 呼吸器障害。肺・気管支の病。
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五臓
 ❶仏教の典籍を五種に分類したもの。①経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵。②爼多覧蔵・毘那耶蔵・阿毘達磨蔵・般若波羅蜜多蔵・陀羅尼蔵。❷肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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頭破作七分と申す事
 仏法の現証論を明かした章である。とりわけ、仏法の真髄・法華経を謗ずる者はいかなる現象に値うかを明示している。これすなわち仏法でいう罰論である。
 法華経陀羅尼品に「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」と。
 安楽行品に「若し人悪み罵らば、口則ち閉塞せん」と。
 文句記第四には十双歎の一つとして「頭破れて七分と作る」と。
 以上の経釈が、法華誹謗の厳罰を明かしているのである。さて末法今時においては、三大秘法の御本尊を信ずる人を誹謗する者が、この罰の現象を自己に招くのである。
 さて、頭破作七分とは、頭が刃物で七つに寸断されることではなく、精神が錯乱して支離滅裂になることをいい、思想が乱れてしまうことである。それゆえ、人生の目的、人間本来の願望である幸福の追求をないがしろにして、なんの定見、確たる人生観を持たず、結果は人生を暗中模索して苦しみ悩む状態に陥ることをさすのである。
 「聖人知三世事」では日蓮大聖人のお立ち場から仏法の現証について大要次のとおり仰せである。
 「日蓮大聖人は法華経の行者である。しかも威音王仏の像法の末にあらわれた不軽菩薩の二十四字の略法華経を弘めたその実践の跡をうけ継いでいるゆえに、妙楽大師の文を借りるに、大聖人を軽んじ、毀謗する人は頭が七分に破れてくる。逆に、法華経すなわち三大秘法の御本尊を信ずる者の福は須弥山のような莫大な功徳を受けることができる」(0974.現代語訳)と。
 本章では「しかし法華経の行者たる日蓮大聖人に怨をなし、種々の迫害を加える者に現罰として頭破作七分の現証があらわれないではないか」との疑問に答えられたのである。
 これについて「撰時抄」(0266)に次の仰せがある。もって因果の法則の罰の厳しさを知るべきである。
 「『頭が七分に破れる』『口が閉塞する』という現証が現われないのはまた道理のとおったことである。そういう罰は浅い罰であってただ一人か二人のうけることだ。大聖人は世界第一の法華経の行者である。この大聖人を謗ったり怨んだりする者の味方になるような者は、世界第一の大難に値うであろう。その現証が日本国を振りゆるがす正嘉の大地震や一天を罰する文永の大彗星となって現われたのだ。これらを見よ。釈迦仏が入滅してから今日まで、今の日本のような大難は一度もなかった。その理由は、南無妙法蓮華経と一切衆生に唱えしめた者が、いまだかつてなかったからである。いまだ誰一人、弘めたことのない三大秘法を日本国に弘通する日蓮大聖人の高徳は、誰人が一天に眼を合わせ、四海に肩を並べる者がいるだろうか、いるはずはないのである」(0266.現代語訳)と。  日寛上人は、「撰時抄文段」にこの御文の意を次のように解釈されている。
 「謗法者がもし一人や二人なら、頭破口塞もあるだろう。しかるに、今は上一人より下万民に至るまで、日本国中、みな謗法者である。たとえば、一本、二本のしらがであれば抜くこともできるが、みな白髪となれば、抜き捨てがたくなるようなもので、国中が、皆謗法者であれば、頭破口塞のなかったのは道理であるというのである。しかるに日蓮大聖人は閻浮第一の法華経の行者なるゆえに、これを怨む人々は、閻浮第一の大罰を蒙るのである。いわゆる正嘉の大地震、文永の大彗星これである。これすなわち謗法者の罰が大きいのによせて、大聖人の徳の大なることをあらわすのである」と。
 また、現罰の有無について、「開目抄」の文段では次のように述べられている。
 「日本は悪国謗法のゆえに諸天善神が国を捨てて去った。ために、謗法の者に現罰がない。もしこれが正法流布の国であり、法華経の行者に過去世の謗法がなければ、謗ずる者にたちまち現罰がある。また地獄に堕ちるような謗法でなく、諸天が国土を守護しているときは現罰がある。ところが、大聖人は過去世に謗法があり、当時の衆生も堕地獄必定の逆縁であった。そして諸天は悪国を捨て去っていたために、謗ずる幕府がかえって安穏で、大聖人門下に大難があったのである。なぜ、御本仏に過去世の謗法があったかという意は、一つには示同凡夫による。当時の衆生を化導するには、凡夫と同じ姿を、振舞いを示さなければ、大衆を指導し、その苦悩から救い出すことができないのである。二つには謗法者充満のときであり、妙法によってのみ救われる機根であるところから、仏でありながら凡夫と現じたのである」と。
 現代の社会も、まさに頭破七分であるといえる。思考の混乱、思想の乱脈は甚しく、狂気の社会とさえ思われる。人々は、正常な思考能力を失い、巨大な時代の潮流の中に自己を没入させ、不透明な暗い未来に、焦躁の日々を送っている。所詮、生命それ自体の濁りは、どこどこまでも、人間の思考、そしてその体系である思想に、亀裂を生ぜしめていくのである。
 現代は、理性の時代でなくてはならなかったはずだ。だが、その人間の理性それ自体が、光沢を失い、血なまぐさい、冷酷な世界を現出してしまったのである。もはや、理性のもう一歩奥の生命それ自体に大光明を射し込んだ仏法に、人類の眼を開くべき時がやってきたといえるのではなかろうか。

0925:02~0925:11 第17章 身延山での御生活top

02   されば鹿は味ある故に人に殺され亀は油ある故に命を害せらる女人はみめ形よければ嫉む者多し、 国を治る者
03 は他国の恐れあり財有る者は命危し 法華経を持つ者は必ず成仏し候、 故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を
04 持つ人をば強に嫉み候なり、 此の魔王疫病の神の目にも見えずして 人に付き候やうに 古酒に人の酔い候如く国
05 主父母妻子に付きて 法華経の行者を嫉むべしと見えて候、 少しも違わざるは当時の世にて候、日蓮は南無妙法蓮
06 華経と唱うる故に二十余年所を追はれ 二度まで御勘気を蒙り最後には此の山にこもる、 此の山の体たらくは西は
07 七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがた
08 し、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼
09 は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、 殊に今年は雪深く
10 して人問うことなし命を期として法華経計りをたのみ奉り候に 御音信ありがたく候、 しらず釈迦仏の御使か過去
11 の父母の御使かと申すばかりなく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
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 そもそも鹿はいい味があるために人に殺され、亀は油があるために命を奪われる。女人は器量が良いと嫉む者が多い。国を治める者は他国からすきを狙われる恐れがあり、富める者は強奪に遇い勝ちなので命が危うい。法華経を持つ者は必ず成仏するゆえに第六天の魔王という三界の主が此の経を持つ人を強烈に嫉むのである。この魔王はあたかも疫病神が誰の目にも見えずに人に付くように、芳醇な酒に人が知らずしらず気分よく酔い入ってしまうように国主・父母・妻子に取り付いて法華経の行者を嫉むのであると経文に見えている。これに寸分も違っていないのが現在の世相である。日蓮は南無妙法蓮華経と唱えるゆえに、二十余年間、住む所を追い出され、二度まで幕府のご勘気を蒙り、最後にはこの身延の山に籠った。
 この山のありさまは、西は七面山・東は天子嶽・北は身延山・南は鷹取山が取り巻きそびえ、この四つの山の高いことは天に付くばかり、嶮しさは飛鳥も飛びにくいほどである。そのなかに四つの河がある。いわゆる富士河・早河・大白河・身延河である。その四つの河に挟まれたなかに一町歩ほどの空地があるところに庵室を構えた。こういう谷間であるため昼は日を見ず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は雑草が茂り、訪ね来る人もまれなので道を踏み分けることも難しい。殊に今年は雪が深くて人が訪ね来ることがない。そのため死を当然と心得て御本尊だけを頼み奉って暮らしていたのにご音信をいただきありがたく存じている。おそらくは釈迦仏の御使いか過去の父母の御使いかと感謝に絶えません。
 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

三界の主
 迷いの衆生が生死を繰り返す、欲界、色界、無色界の三界の主のこと。
 ① 仏のことをいう。法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とある。[後文割愛。講義の末尾に追記し、割愛した理由を付す]
 ② 三界の主神で、色界の初禅天の高楼閣に住する大梵天王のこと。
 ③ 三界のうち、欲界の第六天の主、他化自在天のこと。
 ここでは③の意。
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二十余年所を追はれ
 日蓮大聖人が南無妙法蓮華経を唱えるがゆえに、建長5年(1253)の立宗宣言から種種御振舞御書執筆の建長5年(1253)までの間に種々に所を追われたこと。
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二度まで御勘気を蒙り
 伊東・佐渡の二度にわたる流難をさす。すなわち、妙法蓮華経勧持品第十三の「濁世の悪比丘は、仏の方便、随宜所説の法を知らずして、悪口して嚬蹙し、数数擯出せられ、塔寺を遠離せん」の文を身業読誦なされたのである。
 「開目抄」(0202)には「今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」とある。
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 前章のごとき謗法者の悲惨さに対して、大聖人には燦然と輝く成仏の大果報があられることを述べられている。大聖人のご一生を拝するに言葉をもっては尽くしえない崇高な人生ではないか。日蓮大聖人は、文永5年(1268)から建治2年(1276)に至る9か年間のお振舞いを回想されて本抄を結ばれるにあたり、世事にも女性は器量が良いと嫉む者が多いなどの例があることを引かれ、成仏すなわち絶対に破壊することのできぬ永遠の幸福を築く仏道修行には、なおさらそれを妨げようとする強固な魔の働きがあるとの道理を述べられた。しかして大聖人の建長5年(1253)4月28日、立宗宣言以来20余年にわたるお振舞いは、末法出現の御本仏として一切衆生を仏になさんとするものであり、その仏事を妨害する第六天の魔王との熾烈な法戦であった。
 「辧殿尼御前御書」にも「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし、しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり、尼ごぜんの一文不通の小心に・いままで・しりぞかせ給わぬ事申すばかりなし」(1224-03)と仰せのように、いかに激しい戦いであったかがうかがい知れよう。
 しかし、大聖人は一人起たれたのでありながら「大兵を・をこして」と仰せられたのは仏は魔に勝つとの偉大な確信であり、「日蓮一度もしりぞく心なし」と、全く魔をよせつけず、魔が権力者や邪智謗法の僧侶等の身に取りついて、いかに流罪、死罪を課そうと、むしろ大聖人はわが身を仏になさんとする善知識であるといわれ、悠々たるご境涯で、大難を受けられたのであった。
 そして、ことごとく第六天の魔王の働きを押え、ついに佐渡流罪は赦免、幕府はなかば大聖人の化導を認めざるを得なくなったのである。しかし、大聖人の御法門を全面的に用いたのではなく、大聖人は身延山へこもられながらも、さらに魔の蠢動を押えるため、厳然と妙法広布の指揮を取られていたのである。これひとえに国のため一切衆生のため令法久住のためなのである。わが国が二度の元寇の難を受けながら不思議にも亡国を免れた事実の奥を深く考えて見るべきであろう。まことに御本仏にあらずんばなしえないお振舞いと深く信じ仰ぐべきである。
 最後の身延でのご生活を述べられる御文は、障魔と戦われたお振舞いの御文とは対照的になんと人間味に溢れたお言葉であろう。年老いかつ孤独な光日房が便りを寄せられたのに対し、「釈迦仏の御使か過去の父母の御使か」と、親しく心を通わされ、大慈悲をもって包容された。
 これほどの御書をいただいた光日房は、御本仏を眼前にする思いで拝されたであろう。そしてまた、御本仏の大生命力にふれ、感応し、さぞや歓喜に満ちた余生を送ったであろうと信ぜずにはいられない。
 翻って、今日、本抄を拝すとき、身命を捨てて民衆救済に起たれ、末法万年のために大御本尊をお遺しあそばされた大聖人の大恩を感じない者はなかろう。
 その大恩を感じ、かつ報い奉ろうと思うなら、妙法を弘通するわれらの仏道修行は、自己の幸せのみを願うのでなく、一国の繁栄、全人類の平和を願う実践でなければならない。
 時はまさに一国広布の機熟し、はたまた世界広布の黎明期を迎え、民族を越え国境を越えて妙法を渇望する声は高まり世界の潮流をなしつつある。この時こそ法華流布の大願、折伏の大使命に起ち、大聖人のお心に応えねばならない。
 大聖人いわく「法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」と。
 仏道修行は峻厳である。さらに障魔は競い起こるであろう。日蓮大聖人のご一生も、瞬時の暇もなく、魔と戦われたのである。「法華経を持つ者は必ず成仏し候、故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を持つ人をば強に嫉み候なり」との仰せどおりであった。しかして、つねにご自身及び門下に対する魔、さらには他国侵逼難の形でわが国の一切衆生に迫ってくる魔を押えられたのである。われらは妙法を奉ずるゆえに生涯が仏と魔との戦いであり、勝負である。その勝負を決して障魔に打ち勝ち、仏界の生命を輝かし、国をも救ってこそ、われらの一生成仏も叶い、真の人間革命、宿命の転換もなされていくものである。

0909~0925      種種御振舞御書 2012:4~6月号大白より、先生の講義top

正義の言論に生き抜く戦い
 今、日本全国、そして世界のSGIの同志が、青年を先頭に「励ましの対話」を繰り広げています。新時代を開く「希望の拡大」「幸福の拡大」の波が大きくひろがっている。
 素晴らしいことです!
 壮年・婦人部の皆さま!大切な青年の成長と活躍を、私と一緒に、懸命に祈り、支えてくださり、ほんとうにありがとう!
 皆さまこそ三世永遠の「妙法の戦友」です。どうかこれからも青年への励ましを、新入会の友の応援を、よろしくお願いします。
 私も、青年時代に入信した一人です。戸田先生と出会い、19歳で入信して、今年で65年になります。
 愛する青年たちに語りかける思いで、入信したところを、少々述べておきたい。
 当時、学会の先輩たちは、こう語っていました。
 「人生、一瞬先は闇です。どういう宿命が襲いかかってくるかわからない。この信心以外に、宿命打開の道はありませんよ」
 「『死』という問題は誰人も避けられない。この難問を、根本から解決できるのが、妙法の信仰です」
 さらに、「青年は、より高いものを求めていくべきだ。勉強していこうよ」と。
 話を聞いて、私は「なるほど」と思いました。
“戸田先生のもとでの人生”
 それにも増して、入信を決意する際、私の心に打ったのは、戦時中、牧口先生、戸田先生が、真っ向から軍部権力と対峙して、投獄されても戦われたという事実でした。
 それだけに、私は悩みました。
 もし何かあって退転するようなら、初めからやめたほうがよい。自分は一生涯、御本尊を護持していけるのか!学会と運命をともにしていけるのか!と。
 唱題と折伏に挑戦し、私は決心しました。
 「よし、戸田先生のもとでの人生であるならば、何でこの身を惜しもうか。学会のために尽くそう。広宣流布のために、凡愚の身であるが、尽くさせていただこう」と。
 そして入信から10年を経た昭和32年(1957)、戸田先生の願業である「75万世帯」の弘教が、いよいよ実現せんとする時、夕張炭労問題、大阪事件と、新しい民衆の連帯を妬む「権力の魔性」の勢力が、次々と学会の前進を阻んできたのです。
 私は、戸田先生と心を一つに、最前線に立って戦いました。
 その年の前半、戸田先生が大阪で、東京で、渾身の力を注いで、何回にもわたって一般講義で拝してくださったのが「種種御振舞御書」です。
 本抄は、妙法流布のために、権威・権力による卑劣な大弾圧と戦われる日蓮大聖人のお振る舞いと、偉大なご境涯を、記しとどめられた御書です。
「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」
 「種種御振舞御書」は、建治2年(1276)日蓮大聖人が55歳の御時、身延で認められた御書とされています。安房国の門下・光日尼に与えられたものとされていましたが、正確にはわかっていません。
 本抄では、文永5年(1268)に蒙古からの牒状が日本に届き、「立正安国論」で述べられた「他国侵逼難」の予言が現実のものとなったところから筆を起こされています。
 そして文永8年(1271)竜の口の法難、佐渡流罪。佐渡での塚原問答、「開目抄」の御述作。さらに文永11年(1274)鎌倉に御帰還されての国主諌暁まで 最も熾烈な大難との闘争が、あたかも目に浮かぶような鮮烈な叙述で綴られています。
 本抄で貫いているのは、いかなる迫害も悠然と見下ろし、威風も堂々と、そして、大誠実で妙法の正義を語り抜かれる大聖人の大境涯です。その一つ一つの象徴とも拝されるのが、次のお言葉ではないでしょうか。
 「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(0910-03)
 その前段で、大聖人は述べられています。
 国を救うために著した「立正安国論」の予言が的中し、本来ならば日蓮の意見を聞くべきであるのに、政治を司る者たちは用いるどころか、かえって悪口し、ますます日蓮を憎んで、処刑せよ、追放せよ、日蓮の門下も、さまざまに懲らしめよと謀議するありさまであった と。
 こうした理不尽な権力者たちとの対応と迫害に対して、「もとより承知の上だ、うれしい限りだ」と、言い切られているのです。
 それはなぜか 「末法の始」という時には、「法華経の肝心の題目の五字」を弘める者が必ず出現し、時に適った折伏の実践によって迫害される。しかし、自界叛逆難・他国侵逼難の現証が厳然と現れる。このことは、すべての経文に説かれている通りだからです。
 大聖人の崇高なご境涯と民衆救済の大情熱が脈打つ本抄を当時の門下も、どれはど心強く拝したことでしょう。
「弟子の勝利」のための激励
 実は、本抄御執筆の年とされる建治2年(1275)ごろには、蒙古襲来の予言的中もあって、大聖人の一門は急速に勢いを増していきました。これに対して、三障四魔、三類の強敵が、門下の身にも次々と競い起ります。
 熱原法難の始まりとなった滝泉寺院主代・行智からの迫害、また、四条金吾に対する同僚や主君からの圧迫、池上宗仲に対する父の勘当も、このころ競い起るのです。
 「わが弟子に、何としても勝ってもらいたい!」「法華経の行者の振る舞いとは、境涯とは、いかなるものか、後世に示し残しておきたい!」 そうした大聖人の迸るような熱き思いが、本抄には込められていると、拝されてなりません。

12                   各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、 をやをを
13 もひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる
14 事は大地微塵よりも・をほし、 法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かか
15 る事出来せしかば退転してやみにき、 譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、 各各思い切り
16 給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
-----―
 各各日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは、大地の土の数よりも多い。だが法華経のためにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えばせっかく湯を沸かしておきながら水を入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか。今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換うるようなものである。
-----―
17   仏滅後.二千二百二十余年が間.迦葉.阿難等.馬鳴・竜樹等・南岳.天台等・妙楽・伝教等だにも.いまだひろめ給
18 わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきが
0911
01 けしたり、 わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしら
02 がをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なり
03 と申しふくめぬ、
-----―
 仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗の付法者、または南岳・天台等や妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まっていく瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者二陣・三陣と自分に続いて大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄へ堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣の人々である」とよくよく弟子檀那に申しふくめた。

師と共に「二陣三陣」と続け
 大聖人の門下として戦う「無上の誉れ」と、「不惜身命の覚悟」を教えられた御文です。
 「日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆病であってはならない」 「一人も」との仰せから、大聖人の深き御慈愛が伝わります。
 妙法の信仰を捨てさせようとする三障四魔は、その人の最も弱いところ、あるいは、大事にしている人に付け入って働きかけてきます。親や子、妻や夫、仕事や経済などです。
 無量の昔から、自分の命を捨ててなお、親子の所領を大事にすることは「大地微塵よりも多い」。それなのに、法華経のためには「いまだ一度も捨てたことがない」と大聖人は仰せです。
 今こそ成仏を決する大事な時だからこそ、一番根幹となる信仰を退いてはならないと、厳しく言われています。「一人もをくしをもはるべからず」です。全門下が勇気を持て、と御指導されているのです。
 「不惜身命」とは小さな自分への執着を捨てて、大きな自分を獲得することとも言えます。それを大聖人は「転捨にして永捨に非ず」(0731―第三捨是身已の事―01)と指南されています。本抄に仰せのとおり「石を金に代える」のです。
 三世の生命から見れば、無量の福徳に、永遠に強く深く、包まれていくのです。
 さらに大聖人は、大聖人門下の「無上の誉れ」を高らかに宣言されています。
 すなわち 仏の滅後、いまだ誰も弘めたことのない「法華経の肝心」「諸仏の眼目」である南無妙法蓮華経の大法を、全世界に弘めゆく先陣を日蓮が切ったのだと。
 末法の闇夜に、元初の太陽が昇ったのです。その大光に、世界の全ての人々が包まれていくのです。
 大聖人門下の私たちは、迦葉・阿難、天台・伝教ら大学者たちの後ろに「ついていく」のではない、彼らを凌駕し「超えていく」存在だと仰せです。何と誉れ高き一人一人でしょうか!
 戸田先生は講義の中で「実際、いま大聖人のお示しのとおりにやっているのは創価学会だけです」と強調されました。
 「羊千匹よりも獅子一匹」 牧口先生は叫ばれました。「臆病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる」と。
 「わづかの小島のぬしら」の権力の脅しにも臆してはならない、と大聖人は仰せです。学会は師子の陣列で、厳然と進みましょう。

09   詮ずるところ、 上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばら
10 を召し合せて・きこしめせ、 さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、 日
11 蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・
12 一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、 其の後は他国侵逼難とて四方より・こ
13 とには西方よりせめられさせ給うべし、 其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども 太政入道のくるひ
14 しやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう。
-----―
 「詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるなら、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件があろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使を用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日月・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府御一門の同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申し付けたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。

一歩も退かずに堂々たる論陣を
 竜の口の法難の2日前 文永8年(1271)9月10日、大聖人は幕府に召喚され、訊問を受けられます。その際の、平左衛門尉頼綱のやりとりを記されたのが、この御文です。
 なぜ召喚されたのか。
 後に述べられていますが、同年6月、真言律宗の僧・極楽寺良観が、大旱魃に際し、祈雨の修法を行いました。
 大聖人は「もし7日の内に雨がふれば、日蓮一門は良観の弟子になる。降らなければ、日蓮が弟子になれ」と良観に伝えたのです。
 結果、雨は全く降らず、さらに7日間延長して祈っても悪風は増すばかりで、良観は大惨敗、面目をつぶされた良観は、大聖人を恨み、約束を無視し、諸宗の僧らに働きかけ、大聖人を幕府に訴えさせます。
 しかし、それも叶わぬとなると、良観は、今度は、幕府高官の夫人に働きかけます。
 すなわち、彼らは「日蓮は“故最明寺入道、故極楽寺入道は地獄に堕ちた。建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え。道隆・良観の頸をはねよ”などと言っている。それが事実かどうか、日蓮を召喚して尋ねよ」というのです。その結果、幕府が大聖人を召し出します。そして、「本当に、このように言ったのか」との平左衛門尉の問いに、大聖人は毅然と答えられます。
 「その通りだ。しかし、故最明寺入道殿・故極楽寺入道殿は地獄に堕ちたといったというのは、ウソである。為政者の謗法の罪については、二人が生きているときから言ってきたことである」と。
 さらに大聖人は「これらの事は、国のことを思って言ったのだから、世の安穏を願われるならば、彼の法師たちを呼び出して、日蓮と公場対決させよ」と。
 ちなみに「頸をはねよ」との表現は、決して大聖人の御真意ではありません。むしろ幕府の側が、大聖人の頸を「はぬべきか」と議論していたことは、本抄にも触れられている通りです。そうした議論をしている者たちに対して、“「頸をはねよ」というならば、日蓮ではなく、法華経の行者を亡き者にしようと画策している彼らの頸ではないのか”と喝破されたのです。
 もとより悪僧を誡める在り方については、すでに「立正安国論」で、「決して頸をはねることではなく、布施をとどめることに尽きる」と表現されている通りです。
 ともあれ、公の場で、あくまでも言論で、正邪を皆にわかるようにしようではないか。 これが大聖人の主張であられたのです。
 しかし、そこまで堂々と正義を主張する大聖人とは、あまりにも対照的に、良観らは、陰でコソコソと画策し、遂に最後まで表に出ることはなかった。
 大聖人は平左衛門尉に対して、こうした悪僧たちの言い分を聞いて、大聖人を理不尽に処断するならば、必ず後悔することになろうと、クギを刺されます。
 もし、そのように幕府が行えば「仏の御使」を迫害したことになり、自界叛逆難、他国侵逼難が起きるのは避けられない。こう述べると、平左衛門尉は、異常なまでに逆上したと綴られています。
 魔性の権力者、国を思う仏の使い。あまりにも対照的な振る舞いに、境涯の差は歴然としていたといえるでしょう。

15   去文永八年辛太未歳九月十二日.御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ,了行が謀反
16 ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、 平左衛門尉・大将として数百人の兵
17 者にどうまろきせて ゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、 大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとり
18 ながら国をやぶらんとせしににたり、 ただ事ともみへず、 日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまう
0912
01 けたりつる事はこれなり、 さいわひなるかな 法華経のために身をすてん事よ、 くさきかうべをはなたれば沙に
02 金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、
-----―
 去る文永八年九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたのはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てよとは、臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し、石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。

「幸いなるかな」と不惜の闘争へ
 9月12日の竜の口の法難 その日、平左衛門尉が大挙して大聖人を捕らえてきた様子が綴られています。
 ただ一人、大聖人を捕らえるために、武装した兵士が数百人、かつて幕府転覆を謀った謀反人を召し捕ったとき以上の、ものものしさです。
 大聖人が「法を超えた異常さ」と表現された、その様子は、あえて周囲に目立つように「見せしめ」の効果を狙ったものだったのかもしれません、いずれにせよ、圧倒的な勢力に物言わさ抑え込もうという魔性の権力そのものの態度でありました。
 これを見て大聖人は、重ねて「不惜身命」の悦びを語られます。「常々考え、覚悟していたのは、まさに、このことだ。なんと幸いなことだろう。法華経のために身を捨てることができるとは!砂を黄金に代え、石で珠を買うようなものではないか」と。
 この厳然たるお姿こそ、師子王の境涯です。
 そして、この御聖訓通りに戦われた方が、創価の父・牧口先生であり、わが恩師・戸田先生にほかなりません。
 両先生は、開かれた言論の広場である「座談会」を各地で敢行し、「不惜身命」の実践を貫き通したがゆえに、軍部権力によって投獄されました。牧口先生は獄死。戸田先生は、極限まで衰弱したお体で出獄されました。この崇高な師弟の闘争は、永遠の「学会精神の宝」であり、未来を照らし続ける「偉大な希望の光源」なのです。
 ある時、戸田先生は、獄中闘争で勝ち得たご自身の境涯についてこう言われた。「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人に、あげてもあげても出てくるんだ。尽きることはない。君たちも、こういう境涯になれ、なりたかったら、法華経のため広宣流布のため、ちょつぴり牢屋に入ってみろ」
 そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。
 次元は異なりますが、中国の周恩来総理も、語られたそうであります。
 「いちばんよい死に方」とはいかなるものか それは「人民を抑圧する者とのたたかいのなかで、弾丸にあたって死ぬ」ことだ。
 「しかし、そういうたたかいをするなら、生命がけで仕事をすることだ」
 すなわち「鞠躬尽瘁し、死して後已まん」 一身を捧げて人民に尽くし、死ぬまで戦いをやめないことだ と。
 友のため、同士のため、民衆のために、生涯、骨身を惜しまず尽くし抜く。ここに創価の師弟の「不二の道」があることを、忘れないでいただきたいのです。

05     日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱を
06 たをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはな
07 くして.これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、
-----―
 このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ!おのおのがたはただ今日本国の柱をたおしているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見るべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。

「日本国の柱」たる大確信
 大聖人の大境涯を前に、権力の魔性の狂った本質と、その限界が、あぶり出されている場面です。
 平左衛門尉の家来である少輔房が、大聖人の懐にあった法華経の第五の巻を奪い取り、大聖人の顔を3度なぐったり、さらには、兵士たちが草庵に押し入って、法華経の経巻を巻き散らし、踏んだり、身に巻きつけるなどの異様な様を呈していました。
 その様子に、大聖人は「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大音声で叫ばれます。その声に、慌てたのは、兵士たちのほうでした。
 「仏様が泰然自若として、そのようにおっしゃれば、その声の響きで生命力の弱い連中は縮みあがったでしょう」戸田先生は講義でこう語られていました。
 大聖人こそ「日本の柱」である この御確信の宣言は、他の御抄にも拝されます。
 「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云」(0312-10)
 また、「種種御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」(0919-03)と。
 ゆえに学会こそ、なかんずく創価の青年こそ「日本の柱」そして「世界の柱」なり!との大確信で進もうではありませんか。
 柱が太く強ければ、建物は盤石です。
 青年の決意が深く強ければ、人類の未来の希望は大きい。
 これまで何度か語ってきましたが、若き日、戸田先生に「なぜ、不惜身命の信心が大事なのか」を質問したことは、今でも忘れられません。先生はおっしゃいました。
 この地球上では、戦争で人が殺し合う。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。政治、科学、教育、宗教も人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。
 その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけでは命をかけてやって悔いがないのだ。
 妙法に生き抜く人生が、どんなに晴れやかな人生であるか。大聖人は、権力の魔性との戦いの先頭に立たれ、悔いなき人生の本質を、私たちに教えてくださいました。
 後を継ぐのは創価の師弟です。
 わが愛する青年諸君です!

11                  一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶ
12 いろごのみの身にして 八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、 能因法師が破戒の身として・うたをよみて天
13 雨を下らせしに、 いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて 七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風
14 は吹き候ぞ、 これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒
15 せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。
-----―
 「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀をこえられようは。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒を制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まって一週間・二週間も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして、高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたのか、理につまり弁護しきれなくなって、ついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここでは書かない。

迫害者の本質を喝破する
 大聖人が平左衛門尉や兵士たちに、諸宗の誤りや、良観の実態 とくに祈雨の大惨敗について語られた場面です。大聖人が、つぶさに語られると、ある者は、どっと笑い、ある者は怒りにかられた。ものものしい修羅場も、大聖人の「声の力」「言論の力」にかかっては、自由自在です。兵士たちを引きつけていった様子が目に浮かびます。
 「一丈のほりを」とのおおせには、良観に対し、大聖人が「目先のことすらできないのに、成仏往生など遂げられようか」と責められてお言葉です。
 当時、良観は人々から「極楽寺の生仏」と仰がれていましたが、大聖人は、その醜い本性を見抜かれていました。戒律を大事にしているようで、実は、権力と結びついて私利私欲を貪っていたのです。
 大聖人は「布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす」(0746-13)「道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り」(0764-13)と、およそ僧の振る舞いにはあるまじき実態を明らかにされています。
 そして、良観の祈る雨の実態が兵士たちの前で暴かれたのです。平左衛門尉も言葉に詰まって、何も言えなくなってしまった。
 権力を発動した補縛の場が、一転して、大聖人の正義を証明する言論の場となって、大聖人に圧倒されていった顛末が、鮮やかに浮かびます。
「人間革命の真髄」を
 戸田先生は、この正義の言論戦の御精神を、私たちに幾度も教えられました。「大聖人の如く戦うのだ」「大聖人の仰せのままに、一歩も退くな!」と。
 そして、「われわれは広宣流布をまっとうし、そうして霊鷲山会に大いばりで『創価学会員、広宣流布してまいりました』と、日蓮大聖人様にお目通りできるように、信心をしていこうではありませんか」とよびかけられました。
 昭和32年(1957)、戸田先生の誓願成就が目前に迫った時、熾烈な「権力の魔性」との戦いが繰り広げられました。
 その最中の昭和32(1957)年7月3日、大阪府警へ出発するため、札幌から大阪へ向かう途中、羽田で、戸田先生は上梓されたばかりのご自身の小説『人間革命』を手渡してくださいました。
 開くと、「人間革命の真髄」と提するあとがきに、こう記してくださっていた。
 「真の人間革命はまだまだこれからである。三類の強敵と戦い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」と。
 いよいよ、「人間革命の真髄」を!
 いよいよ、本物の広宣流布の闘争を!
 私は、あの日、戸田先生から授かった燃える決意を、今こそ、若き後継の諸君に、全力で託し、贈りたいのです。
-----―
生命の真実最高の力を顕せ!
 昭和26年(1251)の晴れわたる5月3日、戸田先生は、第2代会長に就任されました。その意義を先生は日蓮大聖人に直結する創価学会の発迹顕本とされたのです。先生は、語られました。
 牧口先生は、口癖のように「創価学会は発迹顕本せねばならぬ」と言われていた。
 創価学会の発迹顕本とは何か、最初は皆、わからなかったが、私は2年間の獄中闘争を経て、ようやく亡き牧口先生に、こう応えることがせきた。
 「われわれの生命は永遠です。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびた地涌の菩薩です」と。
 そして、ついに学会総体として「われらこそ、末法に七文字の法華経を流布すべき御本仏の眷属なり」との偉大な自覚を生ずることになった。
 その自覚の証しが第2代会長の就任であり、ここに学会は、牧口先生が言われた発迹顕本をなしたのである と。
我が使命の大道を歩み抜け!
 創価学会の発迹顕本。それは、一人一人が日蓮大聖人の仏弟子たる覚悟で、大難即広布に立ち上がることにほかなりません。
 「ここで牧口先生のご期待に応えることができたよ」と語る戸田先生の毅然たるお姿は、今も忘れることができません。
 学会員の一人一人に、地涌の自覚の歓喜が横溢している。皆、一人ももれなく、この世で果たさん使命の道を、威風も堂々と力強く歩んでいる。そうしていくことが、牧口先生、戸田先生の崇高なる誓願でした。
 広宣流布に生き抜くなかにこそ、一人一人が自身の大いなる境地を開き、本当に大満足の所願成就の人生を築きゆくことができるからです。
 根源の境地に目覚めた人間は、かくも偉大なりと、日蓮大聖人が自らおしえてくださったのが「竜の口の法難」での御振る舞いです。この法難を機に日蓮大聖人は、御自身の凡夫の胸中に、久遠元初自受用報身如来という妙法と一体の仏の境地を顕されました。
 今回は、引き続き「種種御振舞御書」を学び、この発迹顕本のお姿を通して、民衆救済の闘争を貫かれた師子王の大境涯を拝していきましょう。

12                                           今夜頚切られへ・まか
13 るなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみと
14 なりし時は・ねこにくらわれき、 或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度
15 だも失うことなし、 されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、 今度頚を法
16 華経に奉りて 其の功徳を父母に回向せん 其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事 これなり
-----―
 「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ、ねずみとなったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、だが法華経のためには一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい僧侶の身として生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない、今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那に分けようともうしてきたのはこれである」

八幡大菩薩を厳然と諌暁
 文永8年(1271)9月12日、大挙して草庵を襲った平左衛門尉らに連行され、大聖人は、身柄を佐渡の守護であった武蔵守北条宣時の手に預けられました。
 この宣時は、その後、諸宗の僧らと種々に画策し、佐渡にあられた大聖人を迫害する人物です。
 12日の夜半、四方を兵士に囲まれながら、大聖人は、鎌倉の宣時のもとから連れ出されます。
 「今夜頸を斬られに行く」とは、竜の口へ向かう途中、大聖人が四条金吾に使いを送り、その知らせを聞いて駆けつけた四条金吾に語られたお言葉です。
 法華経のゆえに命を失うことは、むしろ願ってきたことである。人間に生まれ、このような機会に巡りあうことは、今までなかったであろう。ゆえに、父母の恩、国の恩に報いる力も、なかなか持てないでいた。しかし今度は法華経に身命を捧げ、その大功徳を父母に、さらに門下にも、回向できるのだ、と。
 さらに、この御文の前にも、大聖人の悠然たるお姿が記されています。
 大聖人は、鎌倉から竜の口の途中、若宮小路に出たところで、「八幡大菩薩に最後に申すべきことがある」と言われ、馬を下りて、大音声で叫ばれたのです。
 若宮小路とは、幕府の守護神である八幡大菩薩をまつる鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までつながる大通りです。
 「いったい八幡大菩薩は、まことの神であるか。法華経が説かれたとき、あなたがた諸天善神は、諸仏菩薩の前で法華経の行者を守護すると誓ったではないか。
 今、日本は日本第一の法華経の行者である。その上、身に一分の過失もない。日本国の一切衆生が法華経を誹謗して無間地獄に堕ちて苦しむのを防ごうと法門を説いている。大至急、守護の誓いをはたすべきであるのに、どうして、この場にこないのか!」
 そして「日蓮が頸を切られ、霊山浄土に参上したならば、天照太神・八幡大菩薩こそ、法華経の行者を守護するという誓いを果たさない神であったと、教主釈尊に申し上げようそれでもよいのか!」と。
 八幡大菩薩・天照太神は日本の支配層の守り神です。当時の最高権力者たちが最も頼みとする神々を、大聖人は叱りつけたのです。
 全民衆を救う根本の法が法華経である!その法華経の行者を守るのが、本当の神ではないのか!
 この大確信の音声は「全宇宙に向かって」の叱咤であったと、戸田先生は本抄の講義で語られています。
 大聖人は、命を懸けての民衆救済の大闘争の功徳を、自身に与えてくださった父母、また、共に苦難のなか、広宣流布に戦う門下に、回らし向けよう、と仰せです。
 人を救う。人々を功徳で包んでいく。その根本の姿勢を、大聖人は教えてくださったと拝されます。

18                                             日蓮申すやう不か
0914
01 くのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のし
02 まのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる
-----―
 日蓮が「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が鞠のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。

一切の障魔を打ち破った勝利の姿
 竜の口に到着し、「ただいまなり」と泣く四条金吾に、大聖人は語られます。
 「これはどの悦びはないのだ。笑いなさい」
 そのとき、江ノ島のほうから、月のような「光り物」が現れ、東南から西北の方角へ、渡っていった。大聖人の頸を、まさに斬ろうとしていた兵士は、目がくらんで倒れ臥し、刀をおろすことができなかった。「斬るならば、早く斬れ。夜が明けてしまえば見苦しかろう」と大聖人が促しても、何の返事もなかった。
 光り物の正体はなにであったか。さまざまに考察はできるでしょう。
 しかし重要なのは、いかなる横暴な権力も、大宇宙をも包み込む大聖人の御境涯に圧倒され、結局、手出しできなかったという厳然たる事実です。
 いかなる大難をも突き抜けて、「絶対に一切衆生を救うのだ!」という、大聖人の強き御一念・御行動。そこに仏の大生命力が顕現され、魔性を完全に打ち砕いたのです。
 しかも、仏といっても、決して色相荘厳の特別な姿になられたのではない。世間で言われる「仏」のイメージとは正反対の、囚人、流人の御境遇です。むしろ、最も虐げられた凡夫の身に、生命の真実最高の力を開き顕された。ここに大聖人における「発迹顕本」の大きな意義があると拝されます。
 開目抄には「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)と仰せです。
 この御文を釈して日寛上人は述べられました。
 「この文の元意は、連祖大聖人は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真実の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」
 頸の座に臨むにあたって、四条金吾を「これほどの悦びをば・わらへかし」と励まされ、明日の命をも知れぬ、厳しい佐渡においても「流人なれども喜悦はかりなし」(1360-17)との大境涯であられた。
 流罪の地で、数々の重書を著され、御本尊の御図顕を開始された。最悪の境遇のなかで、末法万年にわたる一切衆生の最極の幸福の大道を厳然と切り開かれたのです。
 何と崇高な御振る舞いであられたことか!
 いかなる権力も、どのような権威も、大聖人が不屈の闘争で、御自身の生命に開きあらわし、築かれた大境涯を壊すことはでなかった。妙法の心の財は不滅なのです。
 凡夫即極。一人の人間が、本来、どれほど偉大な存在であるかを、大聖人は、身をもって示してくださったのです。
 また大聖人は「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)と述べられています。
 佐渡以前の法門は、いまだ大聖人の御真意が尽くされていない。すなわち、末法万年にわたって全ての衆生を救いゆく大法を、発迹顕本を経て、いよいよ説き示していくのだとの決意に立たれていたのです。
念仏を捨てる兵士たち
 さて、「種種御振舞御書」の流れに戻りますと、大聖人は、竜の口から、やがて相模国・依智の本間六郎左衛門の邸へ、翌13日の正午ごろに到着されます。
 大聖人は、随行してきた兵士たちを、酒まで取り寄せて労われました。彼らは鎌倉に戻る際、大聖人に頭を下げて合掌し、挨拶した。なかには「直接にお振る舞いを拝見して、あまりにも尊いので、長年唱えてきた念仏は捨てました」と言って、念仏の数珠を取り出して捨てる者や、「念仏は今後唱えない」との誓いを立てる者もいたと、本抄には綴られています。
 大聖人は、身分や立場や今までの経緯などと関係なく、一人の人間として、目の前の人を大切にされた。どこまでもこまやかに人々を包み込む大聖人の人間味に触れて、敵意も吹き飛び、むしろ深い敬愛に転じたのです。
 最も人間性深き人格、それこそが真実の仏のお姿と拝されます。
 そして、夜の8時ごろ、本間邸には大聖人の処遇にかかわる幕府からの書状を持つ者が到着しました。
 これは、武蔵守宣時が熱海へ行ってしまった後だったために、命令の伝達が真に合わなければ大変なことになると、使者が、まず真っ先に本間邸へ届けたのです。
 書状は、大聖人について「この人は罪なき人である」と明確に記し、処刑中止を命ずるものでした。このことからも竜の口での処刑が、平左衛門尉らの専横によるものであることが分かるといえるでしょう。

18                     依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人
0916
01 をころす事ひまなし、 讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、 さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌
02 倉に置くべからずとて 二百六十余人しるさる、 皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば 頚をはねらるべしと聞
03 ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。
-----―
 依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七・八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」というので、役所ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子達を鎌倉に置いてはならぬとの方針で二百六十余人の名が記された。その者達は皆遠島へながされるだろう。すでに入牢中の弟子達は首を斬られるだろうと聞こえてきた。ところが真相は放火などは持斎や念仏者の計りごとである。そのほかのことは繁くなるから書かない。

悪僧たちの謀略で流罪が決定
 幕府から処刑中止の命令書が届いた後、大聖人の処遇はなかなか決まらず、大聖人は二十数日間も依智に留め置かれることになります。おそらく、幕府の要人らの間で、相当の議論があったのでしょう。
 実はその間、大聖人を無罪放免にさせまいとする悪僧たちの謀略の嵐が、鎌倉の門下を巻き込んで吹いていたのです。
 本抄によると 放火が数回、殺人事件も絶えなかった。「日蓮が弟子どもが火をつけた」との讒言が入り、さもありなんということで、大聖人の主な門下を追放すべく、名前が挙げられた。その数、260人あまり、その者たちは、皆、島流しにすべきだとか、すべて牢に入っている者は斬首すべきだとか、噂も流れてきました。
 しかし、放火などは、持斉や念仏者たちの策略であることは後に判明したと、大聖人は仰せです。
 御自身もままならないなか、大聖人は、どのような思いで、弟子たちの苦闘の様子を聞かれたことでしょう。
 囚われの身となった弟子に対して、大聖人は「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ」(1213-01)と案じられます。そして、法華経を身で読む戦いができることは何と貴いことかと励まされています。
極寒の塚原三昧堂でも著作
 依智を出発された大聖人が山海を超えて到着されたのは、佐渡の塚原という山野にある一間四面の三昧堂でした。
 その様子は、人が、まともに生きられる環境とは到底思えない、過酷きわまりないものであった。
 天井は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消えることがない。夜は、雪・あられ・雷が絶え間なく、昼は日の光もさしこまない。しかも、念仏者らが絶えず命を狙っていた。
 大聖人は、11月1日から最初の極寒の冬を、この三昧堂で過ごされました。そして「開目抄」「佐渡御書」等、数々の重書を、ここで執筆された。
 そこに込められた大聖人の御自愛、気迫、大確信の光は、今も世界中の妙法流布の闘士を包みこんでいます。また、これからも人類を永遠に照らす「精神の光源」になっていくことを確信します。
 闇夜のごとき最も過酷な御境遇のなかから、最も偉大な太陽の仏法を、燦然と昇らせてくださったのです。

10    今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり、 仏滅度後・二千二百余年が間・恐ら
11 くは天台智者大師も 一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、 一句一偈・我
12 皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし、 相模守殿こそ善知識よ 平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽
13 利尊者・持斎等は善星比丘なり、 在世は今にあり今は在世なり、 法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等
14 とのべられて候は是なり、
-----―
 今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅度後・二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯出」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識である。平左衛門こそ提婆達多である。念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。

法華経身読の悦び
 法華経をただ一人、身をもって読まれた誇りを述べられ、そこに至ることは、迫害者の存在が不可欠であったことに言及されています。
 「一切世間多怨難信」「数数見擯出」 正法を弘める大聖人を、一国こぞって悪口・中傷し、正法を誹謗しました。さらに、幕府権力は、2度までも大聖人を流罪に処した。
 ゆえに「一句一偈・我皆与授記は我なり」 妙法を実践する喜びに満ちあふれ、仏の大境涯を得ることは間違いないとの御確信を述べられています。
 また、鎌倉幕府の最高権力者である執権・北条時宗を「善知識」と位置づけられた後、大聖人を迫害する平左衛門尉らの面々と、釈尊を迫害した提婆達多らを対比されて挙げられます。
 「在世は今にあり今は在世なり」と仰せです。
 釈尊在世も、大聖人の時代も、「仏と魔との戦い」は変わりません。そして、この原理は、現代も変わりません。
 そして法華経の中心的法門である方便品の「諸法実相」「本末究竟等」の経文を挙げられています。
 釈尊在世も大聖人当時も、広宣流布の方軌は全く同じであることを示されていると拝されます。
 迫害者である提婆達多や平左衛門尉等も、広宣流布の主体者からすれば、“彼らの大悪を責め抜いてこそ、善の偉大さが証明される”という存在となるのです。 
 さらに大聖人は「但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり」(0962-07)とまで仰せです。
 すべての存在に意味があり、すべてを広宣流布へ生かしていける 妙法に生き切るならば、自然と、心の底から、そう思えるようになる。それが、仏の境涯です。
一切の三障四魔を打ち破る
 「種種御振舞御書」では、この後、天台大師の釈などを通し、仏法の修行と理解が深まれば、それを阻もうとする三障四魔が必ず競い起ることが示されています。
 同じ仏でも、低い教えには、それなりの困難しか起こらない。法華経という最高善の教えを持ち、時に適った修行をすれば、それが成仏へ直結しているがゆえに、それをなんとしても阻もうと、最も熾烈な障魔が競い起るのです。
 三障四魔のうち、最も熾烈な「天子魔」は、国主・父母など、影響力の強い人の身に入り代わって、法華経の行者に襲いかかる。天子魔が動くということは、妙法が正しい証拠です。大聖人への迫害が、そのことを最もよく物語っています。
 牧口先生は、よく、「すすんで魔を取り出して退治する」といわれました。戸田先生も、会長に就任された後、三類の強敵は必ず現れてくるが、「私は喜んでおっても、あなた方が腰を抜かして、退転したのではだめなのです」と語らえていました。
 事実、「魔を呼び起こす勢いで」「魔を魔と見破って」、敢然と広布の指揮をとってきたのが、創価の三代の師弟です。
 今こそ私たちは、日蓮大聖人の御精神を深く拝していきたい。三障四魔と戦うなかに、成仏の境涯が開けます。魔が大きければ大きいほど、それ以上に、功徳は絶大なのです。

05        釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、 今の世間を見るに人をよくなすものはかた
06 うどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、 眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は 義盛と隠岐法皇まし
07 まさずんば争か日本の主となり給うべき、 されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、 日蓮
08 が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華
09 経の行者とはなるべきと悦ぶ。
-----―
 釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人をよくするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇がおられなかったならばどうして日本国の主となれたか。この人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者となれただろうかと悦こんだのである。

「迫害者こそ第一の善知識」との大境涯
 人を成長させるのは、味方よりも、むしろ敵である。その意味では、迫害者こそは、境涯革命のための真実の味方であるといえる。権威・権力の迫害との戦いは「法華経の行者」の誉れと喜びを引き出してくれる。だから喜ばしいことなのだ と教えられています。
 これは、もちろん「敵も味方も仲良く」ということではありません。大切なのは「戦い切る」ことです。妥協は許さず「絶対に負けない」ことです。
 “日蓮にとって最大の味方は”とおつしゃって、小松原の法難を起こした東条景信、そして竜の口・佐渡流罪の弾圧に暗躍した良観・道隆・道阿弥陀仏、迫害を行った平左衛門尉・北条景信を挙げられています。
 宗教的権威と幕府権力のトップの名を挙げ、これらのお陰で法華経の行者になることができたと悦こばれているのです。
 「悦ぶ」ということは、成仏という人生の真の勝負に「勝った」ということです。世間の地位がどうであれ、生命の位である「境涯」において「天地雲泥」です。誰よりも民衆のために、大難を乗り越え、広宣流布のために戦い抜かれた大聖人だからこその「大勝利宣言」なのです。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「『大聖人は、あれだけの大難を忍ばれたから偉い方である』という人がいる。
 そうかもしれないけれども、もっとも偉大なことは、ありとあらゆる大難をも忍ばれながら、一切衆生を救おうとされた大慈大悲の戦いをなされたことである」と。
 大聖人は最も劣悪な境遇のなかから、何者も奪うことのせきない、人間として最高真実の力を顕されたのです。
 竜の口で兵士が大聖人を処刑できなかったのも、極寒の佐渡でなお、門下のため、末法万年のために大法を説かれたのも、迫害者を善知識とみる御境涯も「最も偉大な生命の力」の現れと拝されます。
 大聖人御自身の発迹顕本によって、末法の一切衆生に凡夫成仏の道が開かれたのです。
 大聖人の広宣流布の御闘争に連なり、私たち自身が、生命の真実最高の力を発揮することが、私たち一人一人にとっての「発迹顕本」と言えるでしょう。
学会は「地涌の菩薩の集団」
 また戸田先生は、発迹顕本とは、行き詰まりを打開することだと教えられました。
 「行き詰まりを感じた時に、大信力、大行力を奮い起して、それを乗り越えていくことだ、これが、私たちの『発迹顕本』となる」と、広宣流布を目指し、大聖人の御遺命の達成を目指し、どこまでも前へ前へ突きすすんでいく、そこに、具体的な「発迹顕本」の実像があるとの指針です。
 戸田先生は、会長就任の時から、一段と力をこめて「東洋広布」を訴えられました。
 その大精神を受け継いで、私は、第三代会長就任して間もなく、世界広宣流布への第一歩を踏み出しました。今や、世界中に、大聖人の本眷族を自覚する広宣流布の闘士のスクラムが広がっています。そこにこそ、大聖人に連なりゆく現代そして未来への「発迹顕本」があると確信してやみません。
 末法の初め、南無妙法蓮華経の大法の出現を「一日」に譬えるならば、御本仏・日蓮大聖人の発迹顕本は、闇の最も深き「子丑の時」のことをいうべきでしょう。
 そして、この大法を守り抜く牧口先生・戸田先生の獄中闘争は、夜明け前の時刻であり、闇を破って立ち上がった創価学会の発迹顕本は、まさに太陽の仏法が大地を照らし始める「黎明」ともいえるのではないでしょうか。
 そして今、太陽の仏法は「午前8時の青年」のごとく、颯爽と、赫々と、世界を照らし始めました。
 創価学会は、末法広宣流布のために出現した「地涌の菩薩」の集団です。
 その本領発揮はいよいよこれからであります。
 その先頭を進むのが、わが青年諸君です。
 行き詰まりを打開し、無限に価値を創造しつつ、どこまでも、使命の完成へと走りゆくのが、創価の青年の本領発揮 「発迹顕本」であると、立ち上がっていただきたいのです。
-----―
広宣流布 人類の宿命転換の「柱」と立たん!
 1972年の5月、20世紀最大の歴史家トインビー博士を、ロンドンの御自宅に訪ね、2年越しの対話を開始しました。
 テーマはそれこそ多岐にわたりましたが、博士の研究に関連して、こう質問しました。
 「博士が今、最もなさりたいことは何でしょうか」
 少々唐突だったかもしれません。しかし博士は、柔和な深い眼差しで答えてくださった。
 「私たちが今、この部屋でしているようなことを、続けていきたいと思います。
 つまり、ここでの私たちの対話が意味するものは、人類全体を、一つの家族として結束させようとする努力です。
 このことは、それ自体、大変重要なことであり、人類が存続を続けていくためには、全人類が単一の大家族になっていかなければならないと信じるからです」
 全人類を一つの家族に!そのための対話を!どこまでも対話を!
 人間の可能性を信ずるトインビー博士の、胸奥の闘士を、慈愛を、私は垣間見た思いがしました。
人類の「精神の柱」たらん
 大家族が暮らす「世界」を、一つの「家」となるのか。博士と確かめ合ったのは、宗教、なかんずく大乗仏教が、人類の未来に、必ずや大きな役割を果たすであろうという希望でした。
 「精神の柱」がなければ、「家」も「社会」も「人類」も栄えていかない。
 日蓮大聖人は、大乗仏教の精髄である法華経の精神を根本の柱とした社会を築こうとされました。そのために、為政者を目覚めさせ、仏教の智慧と慈愛の精神で一国を救おうと、ただお一人、立ち上がられたのです。
 法難の渦中で、大聖人は叫ばれました。
 「我日本の柱とならむ」(0232-05)
 「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287-11)
 この魂のメッセージを、苦難と戦う門下に、そして未来の人類のために、御自身の振る舞いを通して、あらためて示されたのが「種種御振舞御書」です。
 大聖人の民衆厳護の大精神に続きゆく「弟子の信心」を拝し、学んでいきましょう。

08        さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめ
09 つめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ
10 給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、 仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経
11 文をわすれて論と云ひ 釈をわすれて論と云ふ、
-----―
 さて止観・真言・念仏の法門を、一一相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めすると、相手は一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。

堂々たる「王者」の振る舞い
 深い雪に閉ざされ、寒風吹きすさぶ佐渡・塚原の三昧堂、そこで大聖人は、南無妙法蓮華経と唱え、夜も月や星に向かって法華経の深義を談ずる日々であられた。
 いかなる迫害があろうと、何ものをも恐れない師子王の大境涯であればこそ、流罪地にあっても、どこまでも「法」を根本とし、基準とされたことが拝されます。
 前回、確認したように、「迫害者こそ、日蓮を法華経の行者たらしめた善知識である」と、大聖人は悠然たる御境涯に立たれていました。一方で、大聖人とは対照的に、佐渡にいた数百人の諸宗の僧らは、大聖人を亡き者にしようと色めき立っていた。
 これに対し、本間六郎左衛門尉は、皆を制して、「お上から殺してはならないという添え状が下されている。軽んずべき流人ではない。あやまちを起こせば私の罪になる。それよりも法門で責めよ」と提案します。
 そこで六郎左衛門尉の立ち会いのもと、法論が行われることになりました。これが、文永9年(1272)1月16日の「塚原問答」と呼ばれる対論です。
 この日は、佐渡国だけでなく、荒波を越えて、越後・越中・出羽・奥州・信濃などの近隣の国々からも諸宗の僧らが続々と塚原に集合します。
 憎むべき大聖人を目の当たりにして、それぞれが、ただやみくもに、騒ぐだけ騒いでいた「震動雷電の如し」と仰せですから、尋常ではない悪口罵詈の騒ぎであったと想像されます。
 しかし大聖人は悠然とされました。しばらく、彼らの好きにさせたあと「おのおの方、お静かに、法論のために、わざわざ来られたのであろう。悪口などは無意味ではないか」とたしなめます。六郎左衛門尉らも「その通りだ」と応じて、特に騒いだ念仏者を取り押えました。
 しかし、いざ始まったものの、法論にもなりません。大聖人が「あなたの主張は、要するにこうですね」と念を押したあと、その誤りを指摘すると、相手は、すぐに言葉に詰まってしまう。鎌倉の諸宗の者と比べても、たわいもなく、まるで、“鋭い刀で瓜を切るようなものであった”と仰せになっています。
 拙いどころか、事語相違する者、仏法の最も基本である「経・論・釈」すら混乱している者もいる。法論以前のていたらくであった様子が伝わってきます。
 言うまでもなく、大聖人の圧勝です。反論できずに悪口ばかり言ったり、口を閉ざしたり、顔色を失ったりした。なかには、その場で袈裟や平念数を捨てて、「念仏はもう唱えない」と誓いを立てる者もあったほどでした。
 何百人が取り囲み、憎悪をぶつけても、大聖人は、微動だにされない。その堂々たるお姿自体が、周囲に圧倒したことは間違いありません。そして大聖人の正義は、何ものにも揺るがない、確固たる真実の法門に基づいたものであることが、あらためて証明されたと言えます。
 法論が終わって皆が帰るとき、大聖人は六郎左衛門尉に声を掛けられます。
 「いつ鎌倉へ上られるのでしょうか」
 何のことかピンときていない六郎左衛門尉は、例年どおりのつもりだったのでしょう。
 「農作業が終わって、7月ごろに」と答えました。
 大聖人は「武士たる者、主家の一大事に馳せ参じて名を上げ、所領を賜るべきである。『農作業に励む』と言っても、今、戦が起ころうとしているのに、時を逸しては恥となろう」と言われました。
 「不思議一云はん」と述懐されているように、六郎左衛門尉にとって理解できないことだったと思います。しかし、大聖人は、必ず「自界叛逆難」が起こることを確信されていました。それゆえに、厳然と六郎左衛門尉に告げたのです。実際、一月を経ずして、「二月騒動」という北条家の内紛が現実のものとなるのです。
 驚いたのは六郎左衛門尉です。大聖人の威徳にすっかり感服し、「今後は念仏を唱えません」と誓いを立てたのです。

02   さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、 頚切るるならば日蓮が不思議とど
03 めんと思いて勘えたり、 此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、 譬へば宅に柱なければ・たもたず
04 人に魂なければ死人なり、 日蓮は日本の人の魂なり 平左衛門既に 日本の柱をたをしぬ、 只今世乱れてそれと
05 もなく・ゆめの如くに妄語出来して 此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、 例せば立正安国論に
06 委しきが如し、 かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、 つきたる弟子等もあらぎかなと思へども
07 力及ばざりげにてある程に、 二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、 六
08 郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、 去る正月十
09 六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく 三十日が内にあひ候いぬ、 又蒙古国も一定渡り候いな
10 ん、 念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、 いかに云うとも相模守殿等の用
11 ひ給はざらんには 日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、 日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦
12 仏の御使ぞかし、 わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小
13 神ぞかし、 されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、 太政入道・
14 隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、 此れはそれにはにるべくもなし 教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮
15 も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、 法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、
16 かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、 何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、 此の国の
17 亡びん事疑いなかるべけれども 且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ 今までは安穏にありつれ
18 ども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、
-----―
 さて皆も帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるようならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったである。この文は次のとおりで、「日蓮によって日本国の存亡は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門がすでに日本の柱を倒してしまった。そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう。例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。側についていたに弟子等も強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に佐渡に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。
 六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日の御言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたずに三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう。念仏無間地獄も一定でございましょう。今後は決して念仏は申しません」といったので「あなたがどのように云おうとも、時宗殿等がお用いにならぬならば、日本国の人は用いまい。用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天・帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はこれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天・帝釈は左右に仕え日天・月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰があたってしまったのである。

「開目抄」を門下に与える
 竜の口の頸の座は免れたものの、大聖人は流人の身であり、いつ命を奪われても不思議ではない状況に、依然として置かれていました。
 そのことを覚悟され、「発迹顕本」された御境地を留めおくため、「開目抄」を著されたと述べられています。文永8年(1271)11月から構想され、翌9年2月に、四条金吾の使いの者に託したのでした。
 「開目抄の心」とは何か 大聖人は述べられました。“日蓮こそ日本国の柱である、日本の人々の魂である”“日蓮によって日本の存亡は決まるのである”“その日蓮を亡き者にせんとし、流罪に処したことは、日本の柱を倒したことになるのだ”“今まさに世は乱れ、自界叛逆難、他国侵逼難の二難が競い起るのは避けられない。これは、立正安国論に記した通りである”と。
 そして大聖人は このような「開目抄」を四条金吾をはじめ鎌倉の門下に宛てて送る際、側にいた弟子たちも「強すぎる主張だな」と心配顔であったが、止めることはできなかった。とも述べられています。
 さらに大聖人は、本抄でこう仰せです 日蓮は未熟者ではあるが、法華経を弘めている以上は、釈迦仏の御使いである。天照太神、正八幡といった神々も、教主釈尊の御使いである日蓮を敬うべきである。法華経の行者に対しては、梵天・帝釈は左右に仕え、日天・月天は前後をてらすのである、と。
 これは、2月18日に二月騒動の第一報を聞くや、慌てて佐渡から鎌倉に向かう本間六郎左衛門尉に対して、大聖人が述べたお言葉です。自界叛逆難の予言の的中に、六郎左衛門尉が手を合わせて、念仏を止めることを宣言します。そこで大聖人は、御自身が釈尊の使いとして、また法華経の行者として正法を弘められていることを示したあと「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡うべし」と仰せになったのです。
 なぜ、大聖人は、ここまで強く仰せなのか。
 それは、「仏の使い」であり「法華経の行者」であると仰せられているように、どこまでも、妙法という「法」が偉大だからです。
 「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり」(0465-18)とも仰せです。
 そしてまた、それは、民衆を救おう、民衆の幸福の道を確立しようとの強い「お心」からではないでしょうか。この「心」は、まさに「広宣流布の誓願」、すなわち「仏の心」です。
 「仏の心」とは「父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛に」(0236-17)と仰せのように、大切な仏子を、断じて不幸にさせてなるものかという闘士の沸騰です。
 60年前戸田先生は「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」との論文を発表しました。
 「私が大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈たる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。
 私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布が地をゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである。
 大聖人の御生涯の闘争は、まさに、大慈悲と大確信、そして、民衆救済の大情熱に満ちあふれておられました。なかんずく、この佐渡にあって、大聖人は広宣流布を断じて実現せん」と宣揚されます。
逆境の地で広宣流布を宣言
 「開目抄」の「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」との仰せは、全民衆を救わんとの大誓願です。
 「観心本尊抄」においても「一閻浮提第一の本尊」を立てて、三仏の未来記を示されています。
 「顕仏未来記」に「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)「此の大法興廃の大瑞なり」(0508-18)、「諸法実相抄」には「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)とも仰せです。
 最大の逆境たる流罪地で、末法広宣流布の実現を高らかに宣言なされている。それが佐渡期の大聖人の「心」であり、「魂」です。
 末法広宣流布こそ仏意であり、まさしく仏の未来記です。
 いわば、仏教本来の大願を今こそ実現すべきだと、大聖人は佐渡の地であらためて誓いを立てられています。
 全民衆を仏の境涯に高めていきたい。一人も不幸な人生を送らせたくない。国を救い、世界を救う。
 この尊極なる御確信を大聖人は、本間六郎左衛門尉に示したと拝されます。
 しかし、幕府の要人は、真実の人を見極めようともせず、悪鬼入其身の姿のまま、更なる迫害を加えようとしたのです。それが、流罪中の北条宣時の動きに現れます。

09           武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、 先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国
10 をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、 又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに 心をもて計りぬべ
11 し、 或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子を
12 とる、 かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して 去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月
13 八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たま
14 たま御勘気を蒙りて 此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、 やうやうの支
15 度ありしかども何なる事にや有りけん、 思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五
16 十日にもわたらず、 順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等
17 は雲集して僉議す、 島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、 我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御
18 前をば・とをすまじと僉議せしかども、 又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力
01 及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
-----―
 武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上に申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文を下した。このように三度まであり、その間の出来事にはとくにふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいて、お上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。
 念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵るほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか。思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければば百日・五十日を経ても渡れず、順風でも三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである。われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉に入った。

迫害を乗り越え、鎌倉に御帰還
 塚原問答などを経て、人々が大聖人に帰依していく様子に危機感を抱いた念仏者らが、謀議をこらします。「何としても日蓮を亡き者にしようではないか」
 そこで代表格の何人かが鎌倉に行って、武蔵守宣時に讒訴します。「日蓮が島にいると、諸宗の堂搭も、僧も、全滅するだろう。日蓮は阿弥陀仏を焼き払ったり、河に捨てたりしている。夜も昼も、山に登って日月に向かって大声をあげ、お上を呪詛している。その音声は国内に聞こえている」と。
 これを受けて宣時は、お上に申し上げるまでもあるまいと、勝手に偽の命令書を作って、大聖人の一門を弾圧します。「日蓮につく者は、追放あるいは牢に入れよ」と。
 こうした偽の命令書は3度にわたって発せられました。「法華行者逢難事」にも、その内の一通が引用されています。
 しかし、謀略こそ悪の証明です。どんな卑劣な画策も、大聖人を陥れることはできませんでした。門下も懸命に耐え抜きました。
 「水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・又はるることはり」(1333-13)です。文永11年(1274)3月8日、幕府からの赦免状が、佐渡に到着したのです。
 大聖人が、佐渡を出発されたのは3月13日、鎌倉へ向かう間も、念仏者は執拗に大聖人の命を狙いましたが、多くの護衛の兵士が大聖人についたため、手出しすることができなかった。そして、ついに3月26日、大聖人は、鎌倉に御帰還なさったのです。
 このことを大聖人は「鎌倉へ打ちいりぬ」と仰せです。“生きては還れぬ”とされた佐渡から、厳然と生きて還られた。苦難と戦う門下の人々は、どれほど待ちわびたことでしょう。鎌倉御帰還は、まさに大聖人の「凱旋」のお姿と拝されます。

02   同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念
03 仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は 爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申
04 しぬ、 平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、 日蓮答えて云く今年は一定なりそ
05 れにとつては 日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、 譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増す
06 べし、 真言師だにも調伏するならば 弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて
07 御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ 申すともしらせ給はめ、 又何なる不思議にやある
08 らん他事には ・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、 後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり
09 権大夫殿は民ぞかし、 子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、 所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用
10 いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、 此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智
11 証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば 還著於本人とて其の失還つて
12 公家はまけ給いぬ、 武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ 今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知
13 のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ、 是
14 をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿・事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこ・あなかしこ・さ・いは
15 ざりけると・おほせ候なと・したたかに申し付け候いぬ。
-----―
 同四月八日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。
 平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱してはならない。各々は仏法を知っておいでならともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。また、どういう訳であろうか、よそ事には異なってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるために事実を申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。

三度目の国主諌暁
 鎌倉に帰られた大聖人が、幕府から呼び出されて平左衛門尉と対面され、第3回の国主諌暁を行われる場面です。
 この時の幕府の対応は、前とは打って変わって、丁重なものでした。
 大聖人は、諸宗について聞かれて、経文を引いて述べ、平左衛門尉からは「蒙古はいつ襲来してくるか」と問われて「今年は必ず来る」と答えられます。そして、幕府が真言師らに調伏の祈禱をさせていることに対し、病の原因を知らない者が病を治療して、病状を悪化させるようなもので、必ず重大な危機に直面するだろうと諌められました。
 懐柔策に出た平左衛門尉は、大聖人に寺を与え、蒙古調伏の祈禱をさせようとした。これは、大聖人の立正安国の主張を用いたものではなく、他の諸宗の僧らと同列に扱ったに過ぎませんでした。まさに「あしくうやまはば」の姿そのものです。
 大聖人は、平左衛門尉に対して、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(0287-15)と高潔な御精神を示されています。
 「開目抄」に、たとえ「日本国の位を譲ろう」という甘言があろうと、脅迫があろうと、「我日本の柱とならむ」等の誓いは破られることはないと断言されている通りに、大聖人は、幕府の申し出を決然と断ります。
 幕府にとって宗教とは、結局は、権勢を維持するための手段でしかなかった。これに対して、大聖人は、仏法の目的はどこまでも民衆の幸福と安穏の実現にあるとの立場から、最後の諌暁をされたのです。
 大聖人は「本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめん」(0928-05)「いま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」(1461-07)とも仰せです。
広布は一人から一人へ
 結局、大聖人は、3度諌めて用いなければ国を去るとの故事にならって、同年5月身延へ入山されます。
 そして、この年の10月に「文永の役」が起こり、7年後の弘安4年(1281)には「弘安の役」が起こりました。いずれも日本を滅ぼすに至りませんでしたが、蒙古襲来の対応に負担を強いるだけで、十分な見返りのない御家人たちの不満が募り、主従関係の基盤が揺らいだことが、鎌倉幕府の衰退・滅亡につながったとの見方もあります。
 ともあれ、亡国か安国か この根幹の問題に対して幕府は誤った選択をしてしまった。
 一方、大聖人は、身延にあって、門下の育成にいっそう全力を注がれます。広宣流布の闘争は永遠に終わるものではないからです。
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360-09)、「日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人.百人・一国・二国 ・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん」(1241-02)、「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(0288-05)です。
 師匠の闘争に続いて、同じ志に立つ弟子が、一人また一人、唱え伝えていく中に、広宣流布の前進があります。また、その実践の中にのみ末法の成仏の道、国土建設の道があるのです。
 「法」根本の不惜身命の闘争があれば、大難を乗り越え、堂々たる発迹顕本の姿を満天下に示すことができる。いかなる権力の迫害も、宿命も侵すことのできない、一人の人間の尊厳性を確立できる、その生き方が一人からまた一人へと広がることが広宣流布です。この立正安国の闘争の中に、人類の宿命転換があります。
 弟子の大闘争を、自らのお振る舞いを通して教えてくださったのが、「種種御振舞御書」です。そして、大聖人の御闘争を、現代にあって、不惜身命の振る舞いで、一身を捧げて、あらゆる言葉を尽くして、私たちに教えてくださったのが、牧口先生であり、戸田先生です。この両先生の崇高なる精神のままに、私は戦ってきました。だからこそ、仏法は世界192カ国・地域へと広がったのです。
 この創価三代の師弟の心は、間違いなく、創価学会に、そしてSGIに、脈々と流れ通っています。学会員の「振る舞い」が、人類の宿命転換を願う多くの識者や民衆から賞讃され、「善の連帯」が広がる時代を迎えました。
恩師は「青年は国の柱」と
 「開目抄」の一説をめぐって、インド文化国際アカデミー理事長のロケッシュ・チャンドラ博士が、印象深い話をしてくださいました。サンスクリットの権威である父君ラグヴィラ博士が、日蓮大聖人の闘争の生涯を学んで、その感動を語ってくれたというのです。
 「今も私は、その時の父の表情、まなざしをありありと思い出します。
 父の高らかな声が響いてきます。
 『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』(0232-05)
 父はこの大聖人の言葉に自身を重ねていました。インドに対する同じ使命をわきあがらせたのです」
 「大聖人は、父にとって、すべてを支える根本であり、勇気そのものであり、力をわき立たせてくれる存在でした」
 「父にとって、大聖人は、『人間が逆境のなかで示す偉大さの模範』でした。『生命に具わる清らかさと栄光を象徴する人物』だったのです」
 まさに、この父子の願いのままに「民衆の時代」が到来しつつあります。
 今、21世紀に入り、人類は一つの家族のように結ばれゆく可能性が芽生えています。それと同時に、分断と差別という人類の宿命との戦いもまた、強くなっている。
 今、人類が、その宿命を転換できるかどうかの岐路だと、各界の識者たちの認識は一致しています。
 戸田先生は、叫ばれました。
 「青年は国の柱である」
 「青年よ、一人立て!」
 今、あらためて私も青年に呼び掛けたい。
 「青年は21世紀の柱である。
 「世界の青年よ、一人立て!」と。
 全人類が「大家族」へと結ばれゆく新時代 それは特定の一部の人ではない、「万人が『柱』と立ち上がる時代です。
 広宣流布は、妙法を抱いた人間の「振る舞い」を通して、一人一人が、人類の宿命転換の「柱」と立ち上がりゆく見聞の運動なのです。
    御書発刊60周年の佳節に拝す
    「御本仏直結」の創価学会の栄光の
    未来を担いゆくわが青年たちと共に。

0925~0931    光日房御書top
         はじめに(含 光日上人御返事、光日尼御返事)top

 本抄および、「光日上人御返事」、「光日尼御返事」の三抄を講義するにあたり、ここで一括して
   第一に 三抄の御述作の由来を明かし
   第二に 三抄の大意を論じ
   第三に 三抄の元意を論ずることにする。
第一 三抄の御述作の由来
 「光日房御書」は、建治2年(1276)3月、聖寿55歳の御作であり、光日上人御返事は、弘安4年(1281)8月8日、聖寿60歳の御述作で、両抄ともに身延において認められたものである。光日尼御返事は、9月19日とあるだけで、何年の御述作か不明である。だが一説によると、弘安3年(1280)9月19日、身延にて著わされたとする説もあるが、定説ではない。
(一)対告衆について
 三つの御抄の対告衆は、ともに安房の国天津の人、光日尼である。
 いつの頃かわからないが、はじめに子の弥四郎が大聖人門下となり、その子の勧めによって、昔より尊敬していた日蓮大聖人を慕い、法華経に帰依した。大聖人が佐渡に流されるや、ある人に託して、御供養の衣をお送りした。
 子の弥四郎は武士の身として何かやむにやまれぬ事件に遭遇してか、人を殺め、またみずからも横死したのである。光日尼は、この事件を大層悲しみ、弥四郎の後生はどうなるのかと手紙を出された。その御返事が光日房御書である。光日尼はこの事件を期し、大聖人の指導にもとづいて、さらに強盛な信力をもって、苦しみを克服し、大聖人の御本意に叶う信心をして生涯を終えたのである。
 光日尼に与えられた御書には「光日房御書」、「光日上人御返事」、「光日尼御返事」の三抄に加え、末法の御本仏の一代記である「種種御振舞御書」、良観および真言宗破折の「破良観等御書」がある。
 光日尼については、大聖人から、一大重書たる「種種御振舞御書」、幼少のときの模様を述べた「破良観等御書」、「種種御振舞御書」の伏線とも目される「光日房御書」等の大切な御手紙をいただいているので、大聖人の旧知であるとか、民部日向の母、男金藤四郎実信の妻ではないかとか、民部日向の伯母ではないかとする種々の説があるが、確実な証拠となる文献はとくにない。
 なお「光日房御書」、「光日上人御返事」の御正筆はかつて身延にあったことは、身延の霊宝目録によって明らかであるが、明治8年(1875)の火災の時に焼失してしまった。だが「光日尼御返事」の御正筆は、静岡県の富士宮市にある小泉久遠寺にその断簡が現存している。
(二)三抄の御述作の由来
(1)光日房御書

 本抄は光日房に与えられたが、文中に「この御文をば明慧房にあづけさせ給うべし」とあることからもわかるように、騒然とした時代に一介の女性が、永く本抄を後代に伝えることの困難を察せられ、滅後の弟子に残すために、清澄寺系の寺に住む明慧房に預けよといわれたものと考えられる。
 さて、本抄は、「種種御振舞御」と浅からぬ関係にある。すなわち、両抄共に建治2年(1276)と相前後して著作なされたことや本抄前半の内容と「御振舞抄」のそれとが頗る似ている故である。したがって、「御振舞抄」の一部分であるともいわれてきた。だが日亨上人の50余年に亘る研究の結果、本抄と「御振舞抄」とは分離され、今日の姿となった。本抄のとくに後半が「御振舞抄」の内容とは似ても似つかない内容であることからして、当然の御処置であるといえる。
 本抄と「御振舞抄」について若干触れてみると、本抄の前半、文永8年(1271)より文永11年(1274)5月12日、鎌倉を出て身延に入られるまでのなかで、とくに佐渡御赦免になる原因を認められた諸天叱責の段は「御振舞抄」にはない。「御振舞抄」には、ただこの当時の経過とその模様を簡単に述作されているだけである。
 さて本抄では、末法の御本仏として、諸天善神の怠慢を厳しく叱咤なされ、現証を求められている。その結果、弟子がまず赦され、その後大聖人も赦免され、死地・佐渡を去ることができたとのべられている。
(2)光日上人御返事
 本抄御述作の時が弘安4年(1281)8月8日である。同年は蒙古の来襲した年で、世に弘安の役といわれている。5月21日には蒙古軍が大挙して壱岐・対馬を攻め落とし、破竹の勢いで6月には筑前に侵入、7月にはさらに大軍を肥前に寄せたのであるが、閏7月30日にわかに大風が吹き、蒙古軍は自然の猛威に壊滅したのである。
 本抄は、こうした社会情勢を背景として認められたものである。
 この年の大聖人の御健康はあまりはかばかしくなく、5月に御述作の「八幡宮造営事」(1105)には「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ」とある。
 病の篤きなかにあっても、筆を起こされ、池上兄弟を激励なされたのである。そでは同抄の次下に「しかりと申せども此の事大事なれば苦を忍んで申す」と、あることからもわかろう。
 相前後したが、この年の蒙古襲来は前の文永の役とは比較にならないほど凄じく、上一人より下万民にいたるまで生きた心地がしなかったのである。
 これまさしく、末法の御本仏・日蓮大聖人を誹謗した現罰であり、生きながらにして無間地獄の苦を一人残らず味わったのである。本抄の中で「今日本国の四十五億八万九千六百五十八人の人人は皆此の地獄へ堕ちさせ給うべし」(0933)とお述べになったのはこうした理由による。だが日本国民は誰一人、蒙古に攻められた理由がわからないので、本抄ではその原因を明らかにされたのである。
 すなわち、本抄の第二章に、当時の国民の状態、予言の的中について述べられ、第三章に、蒙古の攻めの原因について述べられている。このように国内騒然とし、大聖人御自身大変ななかを亡くなった子・弥四郎の成仏をねがわれ、一心に信心に励む光日尼のために心血をそそいで認められたのが本抄である。
(3)光日房御返事
 断簡の御抄であるために年次は判断しがたい。本抄の内容からみて、大聖人から純粋な信心を貫いて今日にいたったことを称賛され、女人成仏の記を授けられた御抄と考えられる。
第二 三抄の大意
(1)光日房御書

 暗い宿命を背負い、宿命の趣くままに死んでいった弥四郎の後生は、一体どうなるのでしょうか。また人をあやめた罪は重いと思いますが、詳しく教えてくださいとの子を思う光日房の手紙に答えられたのが本抄である。
 本抄では、はじめに、文永8年(1271)の御勘気より佐渡配流の心情、さらに郷里の父母を懐かしく思い、光日房から送られた衣は、心を実に慰めたと喜ばれている。
 ついで、大聖人は法華経を弘め、一般の人々が父母よりも大事に敬う念仏・真言を破したために流罪になったのであるから、いかなる理由があろうと、とうてい、赦免になる訳がないと述べられている。
 だが、世間で不可能と考えられても、大聖人は法華経の行者であり、末法の御本仏である。故に諸天善神が守護しないことは絶対にない。「設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天といはれて須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり無間大城にはいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給へ」(0927)と声高に諸天を叱責され、現証を出せと迫られたのである。
 この結果、9月12日の御勘気から2か月目に自界叛逆難が起こり、翌文永9年(1272)2月11日には、一味の名越時章、教時は殺され、15日には執権北条時宗の異母兄、北条時輔が時宗配下の大蔵頼季らに殺害されたのである。日蓮大聖人の予言的中に驚き、恐れをなした幕府は大聖人門下をつぎつぎと赦免し、不可能とされていた大聖人の御赦免もここに実現したのである。
 文永11年(1274)2月14日についに大聖人の赦免状が下され、同年3月8日に佐渡に着き、同13日に流罪の地・佐渡を出発され、同26日に鎌倉に着き、平左衛門尉に会い三度目の国諌を口頭でなしたのであるが、聞き入れられなかった。故に大聖人は古賢の例に習って、身延へ入られたのである。
 この段までが、「種種御振舞御書」の伏線とも序編ともいえる段である。
 ついで、身延に居られ、懐郷の情しきりの祈りに光日房より、子弥四郎死去の報を聞き、嘆かれ、ありし日の弥四郎の様子をこまかに述べられ、親の嘆きがいかほどか察するにあまりある旨を叙されている。
 いわく「をひたるはわは・とどまりて・わきき子のさきにたつ・なさけなき事なれば神も仏もうらめしや」(0929)と。
 また子を思う母の愛情の深きことを故事を挙げて述べられたあと「此等を・をもひ・つづけさせ給はんには火にも入り頭をもわりて我が子の形をみるべきならば・をしからずとこそ・おぼすらめとをもひやられて・なみだもとどまらず」(0930)と光日房の心情を観取なされている。
 そして、光日房のお手紙に答えられて、「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(0930)と、現証として、懺悔しない者は小罪を犯しても、例えば粟を盗んでも三悪道に堕ちることをまず挙げたのち、大罪を犯した極悪非道な阿逸多や阿闍世王でも、仏に懺悔して罪を消すことができた例を挙げている。
 故に法華経を信じ、母にも勧めた弥四郎であれば、いかなる罪も消えないわけがないと述べられ、しかるのち悪知識たる法華経の敵にたぼらかされないよう再三注意なされた。
 最後に、三位房、佐度公よりこの文を読んでもらい、法門について聞き、この文を大事に保管するために明慧房に預けなさいとお述べである。
(2)光日上人御返事
 末法の御本仏・日蓮大聖人の国を思い民を思う一念を踏みにじり、悪口・罵詈し、御門下をさんざんに迫害した結果、弘安4年(1281)5月には、蒙古軍が大挙して日本を攻めたてたのである。故に国運とみに傾き、国情騒然として、人心は惑い、恐怖におののき、まさに地獄の絵巻を展開したのである。よって冒頭に無間地獄がいかなるものかを説き起こされている。
 次に現実の相として、蒙古の攻めにあっていることこそ、生きながらにして地獄で苦しむ姿なりと喝破なされている。譬えてみれば、釜に水と小魚をたくさん入れ、下から木をくべて煮たたせるようなものである。譬えの小魚とは日本の国民のことである。だが誰人もその原因を知らず、大聖人門下を責めたのではあるが、心ある人は、大聖人の御予言が的中して、このように皆が苦しんでいると思う者もわずかながらいた。大聖人ご自身としては、苦しんでいる民衆をみて、予言が的中した、現証がでたといいたくはないが、あえて後世のためにと、述べられている。
 さらに、蒙古来襲の根本の原因は、三宝を誹謗したためであり、詳しくは、一に真言宗の開祖・弘法をはじめとする邪宗の法華経誹謗の科、二には達磨等の悪僧の一乗妙法を誹謗する科とこれらに加担する権力者の科、三に国を思い難をも顧みず諌状を出した大聖人の言を用いず還って怨をなした大科によって、他国侵逼難が厳然として顕われたのである。
 だが、光日尼は法華経を信じたのである。遺竜は父の烏竜を妙法によって回向した。浄蔵・浄眼もまた父の妙荘厳王を仏に会わせて成仏させた。このように本来は子に回向してもらうのであるが、光日尼の場合は逆となっている。
 しかしながら子を思う金鳥は今の弥勒菩薩となり、貧女は大梵天王に生まれ変わったのである。したがって光日尼も成仏しないことは断じてないし、弥四郎も必ず成仏できると、御本仏の御確信をもって成仏の記別を与えたのである。
(3)光日尼御返事
 信心純真なることをめでられ、女性の持って生まれた三従・五障の業を断ち切られたこと、すなわち、女性としての幸福境涯を築かれたことを述べられた御抄である。
第三 三抄の元意
(1)光日房御書

 死を遂げた子の母を慰め、妙法を唱えれば必ず回向され、母も子も共に成仏することができると述べられたのが本抄の一往の意であるが、再往は、大聖人ご自身が、極寒の佐渡にて絶対の信心、大確信に立たれた故に、宿業を転ずることができた。すなわち、それは諸天を叱るほどの強盛な大信力を起こすことにより、大禍を、大難を、ことごとく克服なされたのであるとの、事実の生きた体験論である。
 すなわち、御本仏が不可能を可能へと変えていく大信力、大確信を、さらに妙法の偉大な功力を末法万年の民衆に教示なされたのが本抄の元意である。
(2)光日上人御返事
 御本仏・日蓮大聖人を謗る科により、必ず無間地獄へ堕ちる。この原理は、知るとしらざるとにかかわらず、いつの時代にも変わらない不滅の法爾なのである。
 日蓮大聖人御在世のときには、蒙古襲来により、天下一同に地獄の苦を味わい、太平洋戦争の時、牧口初代、戸田二代会長をはじめとして創価学会への国権の弾圧の結果、未曽有の日本の敗戦、そして占領軍の進駐と日本の歴史始まって以来の他国侵逼難が起き、旧来の国家型態はもろくも崩壊したのである。これ偏にその本質の帰するところ、正法誹謗にほかならない。
 いわく「今今御覧ぜよ法華経誹謗のと云ひ日蓮をいやしみし罰と申し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によって現生には此の国に修羅道を移し後生には無間地獄へ行き給うべし」(0933)とは実に厳しい御文ではないか。
 故に一国謗法の根源を排して、国家の安泰と社会の繫栄、そして個人の崩れざる幸福を三大秘法に求めなければならない。日蓮大聖人が、無間地獄の相を、蒙古襲来の予言が的中したことを、あえて世間の迫害を顧みずに公言したのは、全民衆の苦を根絶し、楽土を築くための大慈大悲の行為にほかならない。
 子を失って一人で暮らす、年老いた光日尼に対する深い慈愛もさることながら、後世の人に妙法を勧め、妙法によって無間地獄の苦しみを除く方途を教示なされたのが本抄の元意なのである。
(3)光日尼御返事
 断簡なので、全体を通じての意はわかりかねるが、本文でのみ推察するならば、本抄は、女性の幸福を簡潔に説いている。女性は何によって苦縛の身を離れることができるのか。いかなる思想、哲学、宗教をもってしても現実の苦縛を解くことはできず、いたずらに観念への逃避に終始している。妙法こそ女性の苦の本源たる三従、五障を離れ、真実の幸福を求めることができるのである。これが本抄の元意である。

0926:01~0926:09 第一章 懐郷の情を述べるtop

0926
光日房御書
01   去る文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて北国の海中・佐渡の嶋に・はなたれたりしかば、なにと
02 なく相州・鎌倉に住しには生国なれば安房の国はこひしかりしかども 我が国ながらも人の心も・いかにとや・むつ
03 びにくくありしかば、常には・かよう事もなくして・すぎしに御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、 しばら
04 く国の外に・はなたれし上は・をぼろげならではかまくらへはかへるべからず、 かへらずば又父母のはかをみる身
05 となりがたしと・をもひつづけしかば、いまさらとびたつばかり・くやしくて・などか・かかる身とならざりし時・
06 日にも月にも海もわたり山をも・こえて父母のはかをもみ・師匠のありやうをも・とひをとづれざりけんと・なげか
07 しくて、 彼の蘇武が胡国に入りて十九年かりの南へとびけるを・うらやみ、仲丸が日本国の朝使として・もろこし
08 にわたりてありしが ・かへされずしてとしを経しかば月の東に出でたるをみて、 我が国みかさの山にも此の月は
09 出でさせ給いて故里の人も只今・月に向いて・ながむらんと心をすましてけり、
-----―
 去る文永8年(1271)太歳辛未九月のころから、御勘気を蒙って北国の佐渡が島へ放逐されてしまった。なんとなく相州・鎌倉に住んでいたときは、故郷であるから安房の国は恋しかったけれども、安房の国は自分の国でありながら人の心も、どういうわけか親しみにくかったので、平素は往き来することもなく過ごしてしまった。だが、このように御勘気の身となって、死罪となるべきであったのが、減刑になって、さしあたり国外へ追放されてしまった以上は、特別なことでもなければ鎌倉へは帰れそうにない。帰れなければ再び父母の墓に参る身になり難い、と思い続けていたので、今更のように飛び立つばかりに悔しく、どんなに苦労しても父母の墓へも参り、師匠の様子をも、問い訪ねなかったのかと、嘆かわしく思っていた。かの蘇武が皇帝の命を受けて胡国に使いをしたまま捕われて、十九年の間、不自由な生活を送り、そのとき、雁が南へ飛ぶのを見ては、うらやましく思い、また仲丸が日本国の朝廷の使いとして、唐へ渡ったが、そのまま帰国が許されずに、年を経、月が東に出たのを見ては、日本のみかさの山にもこの月は出て、ふるさとの人々も今、同じくこの月をながめていることであろうと思った、そのような心境で日蓮は佐渡の地で心を澄ましていた。

文永八年太歳辛未九月
 文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難およびその後の佐渡流罪をさす。太歳とは、中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに12年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に12等分し、年ごとに木星のあるところの干支を順序に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに十二支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。そこで、歳星と逆方向に進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。この十二支だけでは12年で一周してしまうので、十干を組み合わせ、60年周期にして年紀を示したものである。この十干十二支の方法は、中国殷代につくられた十進法で、十干は一太陰月を上中下の三旬に分け、その一旬10日の毎日につけた記号から始まったといわれる。十二支は1年12ヵ月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、十二支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに1日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また方向を示すために用いられるようになったのは、戦国時代からである。十干十二支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて十母十二子と呼ばれたこともある。現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を甲・乙・丙・丁……と呼ぶのは陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の五行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように十干に呼び名をつけたものである。
―――
安房の国
 千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。
―――
をぼろげならでは
 特別なことがなければ。
―――
師匠
 師弟関係を持った間柄のうち身分の高い方を指す言葉である。
―――
蘇武が胡国に入りて十九年
 蘇武は中国前漢の武帝に仕えた名臣。字は子卿(前0140頃~前0060)。父蘇建が匈奴征伐に功績があったことから、天漢元年(前0100)武帝より中朗将の任を受けて、匈奴に使いをした。しかし、匈奴は漢の意向を破棄して伏せず、使者として当地に行った蘇武は捕われの身となった。蘇武は自害しようとしたがはたせず、穴牢へ幽閉され、以後19年間不自由な生活を送った。その間の蘇武への責めは過酷で、数日間飲食を断たれて雪を食べて生き抜くこともあった。幾度もの脅迫にも節を曲げず、とうとう後の昭帝の時代になり帰ることができた。昭帝は、匈奴に蘇武の帰還を要求したが、匈奴は、蘇武はすでに死去していると拒絶していた。そのとき、蘇武の身を救ったのは雁の足に付けられた帛書である。19年もの拘留という不遇で身はやつれ、髪は真っ白に変わっていた。しかし、無事帰国してからは、ふたたび昭帝の側近として仕え、功臣の誉を高くし、宣帝のときには関内侯の爵や、その後、数々の称号を賜っている。これは日蓮大聖人が、佐渡の島に流されてからの、降りしきる雪とたたかい、野草を摘んで食して飢えを耐え忍んだ、筆舌に尽くし難い生活を、蘇武の苦難の拘留生活に事寄せられてのべられたものである。
―――
仲丸
 阿倍仲麻呂(0698~0770)のこと。奈良時代の文学者。大和の人。霊亀2年(0716)遣唐留学生になり、留学生吉備真備、留学僧玄昉らとともに翌年遣唐大使多治比県守に従って入唐した。そこでは朝臣仲満、ついで朝衡と称して玄宗皇帝に仕えた。まず長安の大学に入学し、科挙に応じて進士科に及第し、唐朝廷に仕官して春宮坊司経局校、左拾遺、左補闕などに任ぜられた。天平5年(0733)遣唐使多治比広成らに従って帰国しようとしたが、唐朝はこれを許さず、さらに儀王友、衛尉少卿を歴任。0753年になって、遣唐使藤原清河に従って帰国の途についた。だが、その船は安南に流され、また唐に帰り、そこで一生を終わった。「妙心尼御前御返事」(1484)に「安部の中麻呂が漢土にて日本へかへされざりし時・東にいでし月をみてかのかすがのの月よと・ながめしも身にあたりてこそ・おはすらめ」と述べられている。在唐50余年、唐では文名高く、王維・李白らと交遊があり、わが遣唐使留学生のため大いに便宜をはかった。彼が故郷を慕って詠じた和歌が「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」である。
―――――――――
 この章は、大聖人が佐渡流罪のおりに、懐かしい故郷、安房の国を偲ばれ、故郷にある父母の墓にも参ることのできない心情を故事を挙げて吐露された段であり、望郷に事寄せ、故郷の人を大事に思われた大慈悲を表わされた段である。
 さて、文中にある蘇武は漢の武帝に仕えた名臣である。匈奴に十九年の間捕われの身となったが、バイカル湖の畔で、野鼠を食べ、草の実を食べて飢えを忍び、漢への忠誠を曲げなかったのである。
 阿倍仲麻呂は、平安の代に留学生として唐に渡り、玄宗皇帝の下で左散騎常侍として大いに活躍し、生涯を異郷の地で終えた逸材である。両者は共に、遠く故郷を離れ、自己の悲哀、自己の労苦に耐え、全生涯を国家と社会のために尽くした人物である。
 だが日蓮大聖人の艱難は、蘇武や仲麻呂に似るべくもない。またわれらの想像を絶する苦難であったことは言を俟たない。しかしながら、敢えて大聖人の御振舞いを述べるならば、流罪、死罪に遇われながらも、悠然たる大富士をみるがごとく、大聖人はいかなる苦難にも従容として微動だにもなさらなかった。しかして、大難を莞爾として受けて立たれ、日本の民衆、閻浮提の、全世界の民衆のために、民衆の苦悩を根底より断たれんとして、妙法を弘められたのである。
 「諸法実相抄」に「鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり」(1361-05)と。
 「御義口伝」に「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758-04)と。
 われらもまた、日蓮大聖人の、民衆を思われ、国を思われる大慈大悲の精神を堅持して、妙法広布に邁進すべきである。

0926:09~0927:07 第二章 仏法の故の流罪top

09                                     此れもかく・をもひやりし時・我が
10 国より或人のびんにつけて衣を・たびたりし時・彼の蘇武が・かりのあし此れは現に衣あり・にるべくもなく・心な
11 ぐさみて候しに、 日蓮は・させる失あるべしとは・をもはねども此の国のならひ念仏者と禅宗と律宗と真言宗にす
12 かされぬるゆへに法華経をば上には・たうとむよしを・ふるまい心には入らざるゆへに、 日蓮が法華経を・いみじ
13 きよし申せば威音王仏の末の末法に不軽菩薩を・にくみしごとく・上一人より下万人にいたるまで名をも・きかじ・
14 まして形をみる事はをもひよらず、されば・たとひ失なくとも・かくなさるる上は・ゆるしがたし、まして・いわう
0927
01 や日本国の人の父母よりも ・をもく日月よりも・たかくたのみ・たまへる念仏を無間の業と申し・禅宗は天魔の所
02 為・真言は亡国の邪法・念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明
03 寺 ・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給いたりと申すほどの大禍ある身なり、 此れ程の大事を上下万人に申し
04 つけられぬる上は設ひ・そらごとなりとも此の世にはうかびがたし、 いかにいわうや・これはみな朝夕に申し昼夜
05 に談ぜしうへ平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ ・いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし ・した
06 たかに・いゐきかせぬ、 されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも天よりふる雨は地に・をちずとも日蓮はかま
07 くらへは還るべからず、
-----―
 今、日蓮も流罪の地・佐渡の国で彼等のように故郷のことを思い遣っていたとき、故郷からある人の便宜に託して衣服を贈られたとき、かの蘇武が得たのはわずか雁の足に巻きつけた帛書のみであったのに、日蓮は現に衣服を贈られて、蘇武の喜びには比較にならないほどうれしく思った。日蓮はこれという失があるとは思わないが日本の国の人々の常として念仏者と禅宗と律宗と真言宗に騙されてしまったがゆえに、法華経を表面上では尊んでいるように振舞いながら、心では信じていないから、日蓮が、法華経が勝れた教えであるといえば、ちょうど威音王仏の像法の末の末法に、いっさいの四衆が不軽菩薩を憎んだように、上一人より下万人にいたるまで、日蓮の名を聞くまいとし、まして姿を見ることなどとんでもないと憎む者ばかりである。
 であるから、たとえ失はなくても、このように佐渡にまで流されてしまったからには、そう簡単に赦されるはずがない。まして日本国の人々が父母よりも重く日月よりも高く信じている念仏を無間の業といい、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法であるから、念仏者・禅宗・律僧等の寺をば焼き払い、念仏者どもの首を刎ねるべきであると申すうえ、事実無根の讒言ではあるが故最明寺入道時頼・極楽寺入道重時の二人の入道殿は、無間地獄に堕ちたといったほどの大罪ある身である。これほどの大事を上下万人に言明した以上は、たとえそれが虚事であっても、再びこの世にはうかびがたい。
 ましてや、これは日蓮が朝となく夕となくいい、昼となく夜となく万民に語り続けたうえ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に説得し、どのような科に処せられようとも、これは止めることはできない旨を、強くいい聞かせた。それ故、大海の底の、千人で引かなければ動かない大石がたとえ浮かび上がることがあろうとも、天から降る雨が地に落ちないことはあろうとも、日蓮は二度と再び鎌倉へ帰ることはできないのである。

彼の蘇武が・かりのあし
 蘇武(前0140~前0060)は中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海(バイカル湖)の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われたとおり単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝御も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
―――
念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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いみじき
 ①通常ではないこと。②誉める時にいう言葉。
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威音王仏の末
 不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。不軽品には「乃往古昔に、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて仏有ましき。威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と名づけたてまつる。劫を離衰と名づけ、国を大成と名づく。その威音王仏彼の世の中において、天人阿修羅の為に法を説きたもう。声聞を求むる者のためには、応ぜる四諦の法を説いて、生老病死を度し、涅槃を究竟せしめ、辟支仏を求むる者のためには応ぜる十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に因せて、応ぜる六波羅蜜の法を説いて、仏慧を究竟せしむ。得大勢、是の威音王仏の寿は、四十万億那由他恒河沙劫なり。正法世に住せる劫数は一閻浮提の微塵のごとく、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵のごとし。その仏、衆生を饒益しおわって、しかして後に滅度したまいき。正法、像法、滅尽の後、この国土に於いて、復仏出でたもうこと有りき。また威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と号づけたてまつる。かくのごとく次第に二万億の仏有す、皆同じく一号なり。最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して、後像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力あり。その時に一りの菩薩比丘あり、常不軽とづく」とある。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法年間に出現し、常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」との24文字の法華経を唱えて、一切の人々をことごとく礼拝した。ときに国中に謗法者が充満しており不軽菩薩を見て、皆これを迫害した。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、不軽菩薩は専ら礼拝の一行を全うした。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。かくて不軽菩薩は仏身を成ずることができたが、不軽を軽賤し迫害した謗法の衆生は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって、信伏随従して成道することができたのである。これは逆縁の功徳を説いている。「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり」と、また同じく「所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(0765)と申されている。
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念仏を無間の業と申し
 念仏を信ずる者は地獄のなかで最も恐ろしい無間地獄に堕ちるとの意。業とは、身口意の所作のすべてをいい、善業・悪業がある。ここでは、悪業をさし、無間地獄に堕ちるべき業因、すなわち、念仏を信ずることをいう。念仏は一般に浄土宗といわれ、日本における開祖は法然で、依経とするのは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経である。この娑婆世界を穢土と嫌い、信仰の目的は来世に極楽浄土に生まれることであると説く。そして釈尊の一切経を聖道門と浄土門、また難行道と易行道に分け、法華経は聖道門の難行道であるから「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」といい、浄土宗のみ浄土門の易行道で、成仏の宗であるという邪義を立て、法華経を誹謗した。この故に大聖人は、法華経譬喩品第三の「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人は命終して阿鼻獄に入らん」の文をもって念仏無間と破折されたのである。
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禅宗は天魔の所為
 禅宗が「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」を教義とし、仏説を否定するなどは、仏法を破壊する天魔の所為であるという意。禅宗は中国の始祖、菩提達磨が立てたもので、日本における開祖は栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、隠元の黄檗宗、などである。禅宗の特色は仏の経典を否定し、経文は月を指す指であり、月にあたる成仏の性を見れば、指である経文に用がないという。これは先にも記したように仏法を破壊する天魔の業である。なぜなら釈尊は涅槃経のなかで「願って心の師と作って心を師とせざれ」と説き、また「仏の諸説に順わざる者有らば当に知るべし是れ魔の眷属なり」と説いている。故に日蓮大聖人は「禅宗は天魔の所為」(1073)と破折されたのである。
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真言は亡国の邪法
 真言宗は、国を亡ぼす邪法であるとの意。中国の真言宗の始祖は善無畏三蔵、日本における開祖は弘法である。真言宗では法華経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経のみが法身の大日如来の説法で、これに比較すると、釈迦仏は無明の辺域であり、履物取りにも及ばぬといい、また法華経は一切経中の第三の劣であり、戯論である。また、大日経と法華経を比較すると、一念三千は大日経の教えであり、法華経にも説かれているから「理」は同じであるが、大日経には別に印と真言があるから「事」において勝れているという邪義をたてた。これに対して日蓮大聖人は真言亡国と破折されたのである。なぜなら、大日経は釈尊一代の権教であり、無量義経、および法華経方便品第二ではっきり「正直捨方便」と説かれている。しかも中国の真言宗は天台の一念三千の法を盗んで自宗の極理となし、日本の弘法は口をきわめて法華を罵っている。このように本主を突き倒して無縁の主である大日如来を立てるから亡国、亡家、亡人の法となると破折されたのである。
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最明寺殿
 北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し、法名を道崇と号したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。
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極楽寺の入道
 極楽寺入道は(1198~1261)のこと。北条義時の三男、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)を務めたあと、入道して極楽寺の別業となり、世人から極楽寺殿と称された。
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 この章は、日蓮大聖人の佐渡流罪が、ひとえに念仏、禅、律、真言の諸宗を破折し、法華経を流布するがゆえに起きた難であることを述べられた段である。
 洋の東西を問わず、また、いつの時代にあっても、先駆者は新時代を切り開くために、あらゆる苦難と戦い続けてきた。なかんずく、日蓮大聖人のそれは、未曾有の大法を弘めんとされた先駆者の戦いであった。
 当時、往生浄土を説く念仏宗は民衆の間に根強く信じられ、見性成仏を説く禅宗は武士階層に絶大な力をもちはじめていた。さらに鎌倉時代以前に弘まった、律宗、真言宗も全国的な規模で民心を惑わしていたのである。
 一方、鎮護国家の大法としての法華経の正意を伝えるはずの天台宗は、第三の座主慈覚、第四の智証によって、真言宗の邪義が汲み入れられ、正法正義は途絶えてしまった。力を誇示するため、また寺経営を成り立たせるために、僧兵を養い、時の法皇に強訴し、世を混乱へと陥れたのである。
 まさしく白法は隠没し、憂うべき末世の様相を呈していたのであった。
 日蓮大聖人は、経文の上からも、時代の様相からも、末法を知り、あらゆる迫害を知悉されながらも、敢えて苦悩の民衆を救われんがために、世の不幸の根源たる諸宗の邪法邪義をことごとく破折されたのである。
 「弟子檀那中への御状」に「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え」(0177-01)と。
 われらもまた、日蓮大聖人の弟子として、法華流布の大業を受けついで立ったのである。したがって、本末究竟して等しく、魔軍が立ちはだかるのは、けだし当然といえよう。
 だがわれらは大聖人の弟子であり、仏の軍勢である。今よりも比較にならないほど強大な魔軍を相手に、ただ一人立ち向かわれた大聖人のお姿を思い浮かべるとき、勇気りんりんたるものを覚えるではないか。
 さらに、われらは開けゆく生命の世紀の先駆者であり、主体者である。病める民衆の、その病根を絶つまで戦いきる誇り高き正義の戦いは、最高の哲学、理念をもつ平和の戦士によってなされるのである。この正義の戦さを推し進めるのが、われらの使命であると強く自覚すべきである。

0927:07~0927:17 第三章 諸天を叱責し赦免の前兆顕われるtop

07             但し法華経のまことにおはしまし 日月我をすて給はずばかへり入りて 又父母のはかを
08 も.みるへんもありなんと心づよく・をもひて梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給いぬるやらん、天照太神.正八
09 幡宮は此の国にをはせぬか、 仏前の御起請はむなしくて法華経の行者をばすて給うか、 もし此の事叶わずば日蓮
10 が身のなにともならん事は・をしからず、 各各現に・教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て
11 給いしが今日蓮を守護せずして捨て給うならば 正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、 十方三世の諸仏を
12 たぼらかし奉れる御失は 提婆達多が大妄語にもこへ 瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり設ひ大梵天として色界の
13 頂に居し千眼天といはれて 須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には ・たきぎとなり無間大城に
14 はいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給
15 へと高き山にのぼりて大音声を・はなちて・さけびしかば、九月の十二日に御勘気・十一月に謀反のもの・いできた
16 り、 かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ、 天のせめという事あ
17 らはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ。
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 ただし法華経の教えが真実であり、日天月天が日蓮を捨てないならば鎌倉へ帰り、再び父母の墓へ参ることもあろうと心強く思って、法華経の行者を守護すべき梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであるか、日本の守護神である天照太神・正八幡宮は日本国にはいないのか。仏前の御起請は空言であって、法華経の行者を捨て給うのか、もしこのことが叶わなければ、日蓮の身がどうなろうとも惜しくはないが、現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前で、法華経の行者を守護するという誓状を立てたのに、今日蓮を守護しないで捨てるならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加えることになる。それならば十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大妄語以上であり、瞿伽利尊者の虚誑罪よりも重い。たとえ大梵天として色界の頂上に住み、千眼天といわれ須弥山の頂上に居ても、日蓮を捨てるならば、阿鼻地獄の炎を増す薪となり、永久に無間大城を出るときはない。この罪が恐ろしいと思うならば、急いで日本の国に現証を顕わして、日蓮を本国へ帰しなさいと高い山に登って大音声に叫んだので、九月の十二日に御勘気を蒙って、まもないその年の十一月にはすでに謀反の者が現われ、翌年の二月十一日に日本国を警護すべき大将達が、いわれもなく討ち殺された。これは諸天の責めであることが明らかである。幕府はこれに驚いたのであろう、鎌倉の牢獄につながれていた日蓮の弟子達は釈放されたのである。

梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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仏前の御起請
 諸天善神が法華経の行者を守護するとの誓いである。安楽行品には「諸天昼夜に、常に法の為のゆえに、しかも之を衛護し・能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん。所以はいかん此の経はこれ、一切の過去、未来、現在の諸仏の、神力をもって護りたもう所なるが故に」、また「天の諸の童子、もって給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ、若し人悪み罵らば、口則ち閉塞せん、遊行するに畏れなきこと師子王の如く、智慧の光明、日の照らすが如くならん」とあり、陀羅尼品では、薬王・勇施等の菩薩・毘沙門天・持国天・十羅刹女・鬼子母神などが、つぎつぎと法華経の行者を守護せんと誓いをなしている。鬼子母神・十羅刹女が仏前の誓いにいわく「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」と。
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教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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多宝如来
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
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瞿伽利尊者が虚誑罪
 瞿伽利とは梵語であり、悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の一人で浄飯王の命で出家し、仏弟子となった。のちに提婆達多を師として仏法に反逆した。竜樹の大智度論十三に「常に舎利弗・目連の過失を求めていた。二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれている。
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 仏前の誓状を速やかに成就せよと諸天善神を激しく叱咤されたことにより、現証としてご自身の御赦免の前端として弟子達が赦免されたことを述べられた章である。
設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天といはれて須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり無間大城にはいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給へ
 この段は、末法の御本仏としての烈々たる気魄と大確信とを述べられている。
 大梵天とは、三界のうちの色界初禅天にいて娑婆世界を統領している諸王の主をいう。また千眼天とは、帝釈天の別名で、欲界第二の忉利天の主として須弥山の頂の喜見城に住し、三十三天を統領している。この梵天、帝釈はともに、法華経の会座に、眷属二万の天子をつれて列なり法華経の行者を守護することを誓っている。
 たとえ梵天・帝釈として三界を統領して尊ばれようとも、末法の御本仏日蓮大聖人を守護しない諸天善神は、必ずや無間地獄に堕するとの仰せである。これはまた、諸天善神が御本仏を守護しないわけが絶対にないとの大確信でもある。この大聖人の御確信のとおり、日本国に自界叛逆難という現証を生じ、大聖人は御赦免になり鎌倉に帰られた。この現証からしても大聖人こそが末法の御本仏と知るべきである。
 大聖人が、文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難を免れてから、幕府は良観らの奸計にそそのかされて、ついに佐渡流罪と決定した。かくて大聖人は10月10日、依智をたって、10月28日に佐渡に到着。11月1日、塚原の三昧堂に着かれた。
 「続日本記」によれば、神亀元年(0724)3月、佐渡を遠流地と定めており、古来、幾多の人々がこの厳寒の孤島へ流されている。これらの流人の多くは病没し果てている。佐渡へ流されるということは、死罪に匹敵したのである。
 しかるに大聖人は「遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911-11)と予言され、しかも諸天善神を叱咤し奮起を促されているのである。
 この御文の予言のとおり、文永9年(1272)2月に時の執権北条時宗の異母兄にあたる時輔の謀反陰謀が発覚し、北条一門が血で血を洗うという醜い同士打ちが起こった。しかも国情騒然として、他国侵逼難すなわち蒙古の襲来のあることは時間の問題となってきた。幕府も大聖人が立正安国論等で、正法をもちいなければ必ずや自界叛逆難、他国侵逼難の両難が競い起こると予言されたことが、寸分の狂いもなく的中しはじめたことに恐れをなしてか、やむなく鎌倉の牢に閉じ込められていた弟子達を赦免したのである。
 日蓮大聖人の強きご一念は、はるか佐渡におられながら、鎌倉の指導者の心を変えていったのである。この時、すでに勝負はついていた。いかに、巨大な権力といえども、御本仏の大生命の前には、小波のものでしかない。やがて、日蓮大聖人も、佐渡から御赦免となり、帰還されるが、これこそ、完全なる仏法が、王法に勝つ原理の実証にほかならない。
 日蓮大聖人が、諸天善神を叱咤されているが、これは、一念三千の大生命哲理に基づくものであり、強き妙法の一念は、大宇宙をもゆり動かしていくことを、ご自身の上に顕現されたものと拝する。
 諸天といえども、所詮、妙法の力用である。わが一念に、妙法の輝きがあるとき、大宇宙のいかなる働きであれ、その強き一念に動かされ、幸福の方向へ、正しき方向へと動き働くことを確信すべきである。

0927:18~0928:06 第四章 赦免・国諌と延山に入る経過を述べるtop

18   而れども・いまだゆりざりしかば・いよいよ強盛に天に申せしかば頭の白き烏とび来りぬ、彼の燕のたむ太子の
0928
01 馬烏のれい.日蔵上人の・山がらす・かしらもしろく・なりにけり、我がかへるべき・時やきぬらん.とながめし此れ
02 なりと申しもあへず、 文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月八日に佐渡の国につきぬ・同十三日に国を立ちて
03 まうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、 同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風に
04 はなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、 次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日
05 に鎌倉へ入りぬ、 同じき四月八日に平左衛門尉に見参す、 本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんが
06 ために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ。
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 しかしながら、弟子は許されても日蓮はまだ許されなかったので、いよいよ強盛に諸天に申し聞かせたところが、頭の白い烏が飛んで来た。昔、燕の国の丹太子が、秦の国の人質となったとき、馬に角がはえ、烏の頭が白くなったことから秦王は丹を帰した例もあり、また日蔵上人が白頭の烏の飛来するのを見て「山がらすかしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時やきぬらん」と詠んだことなどを思い合わせて、日蓮の帰るべきときも来たのだと話しているところに文永十一年二月十四日の赦免状が同三月八日に佐渡の国に到着した。同十三日に佐渡の一の谷を出発し真浦の港に出て、十四日はそこに泊って、同じく十五日越後の寺泊の港に着くべき予定であったが、大風のために、それを背にうけて運よくわずか二日の舟旅で柏崎に着いて、次の日は国府に着き、中十二日かかって三月二十六日に鎌倉へ入った。同じく四月八日に平左衛門尉に対面した。本より深く心に期していたことなので、日本の国の亡びるのを助けんがために、三度目の国家諌暁をした。だが、もしこれが用いられなかったならば、「三度諌めて用いずば国を出て、山林に交わる」との古賢の例を心得ていたので、それにならい、同五月十二日に鎌倉を出立したのである。

燕のたむ太子の馬烏のれい
 中国戦国時代の話。燕の太子・丹は人質として秦国にいたとき、丹は帰還を請うたが秦王はこれを許さず「烏の頭が白くなり、馬に角がはえたならば帰してやろう」といった。丹は、天を仰いで嘆いたところ、烏の頭が白くなり、また地に伏して嘆いたところ、馬に角がはえた。秦王は、やむをえず丹を帰したという。
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日蔵上人の・山がらす・かしらもしろく云云
 日蔵は、真言宗大和竜門寺の僧である。だが日蔵には「山がらす……」の詠はなく、これは増基法師の詠である。明治八年の身延の火災のときに消失した御真筆には「ぞう上人」とあり恐らく転写の際に日蔵上人と書いたものと思われる。
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御赦免状
 罪や過失を許すことを記した書状。
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まうら
 新潟県佐渡市真浦のこと。
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寺どまりのつ
 新潟県長岡市寺泊にある寺泊港のこと。
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かしはざき
 新潟県柏崎市にある旧の宿場町。
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こう
 律令制における国府。
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四月八日に平左衛門尉に見参す
 日蓮大聖人は佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月8日に鎌倉に戻られ、平左衛門尉と対面され、3度目の国家諌暁をされていることをいう。
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三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわる
 日蓮大聖人は幕府に対して三度にわたり国家諫暁をなされた。すなわち、第一回目は文応元年(1260)7月16日、立正安国論を宿屋入道を通して、最明寺入道に提出し幕府を諌めた。そのとき日蓮大聖人は、念仏宗等、邪法を捨てないならば一門の同士打ちが起こり、他国侵逼難を受けるであろうと諫言なされた。第二回目は文永八年(1271)9月、竜の口の法難の前日と召捕りの間に、平左衛門尉に向かって諌められている。そして、第三回目が、ここで述べられている文永11年(1274)4月8日の諫暁である。
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 この章は、初めに佐渡赦免の瑞相としての白頭の烏の故事を挙げ、次に御赦免ののち、最後の国諌をされ、遂に鎌倉を去られるまでの経過を述べられた段である。
本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ
 この御文はわずか二行であるが、御自身の身を顧みず、世のため、人のため、国のために、死を賭して妙法を弘められた御精神が、御文のなかに脈々と流れているではないか。「三度いさめん」とは、すなわち、文応元年(1260)7月16日、文永8年(1271)9月12日、文永11年(1274)4月8日と三度にわたっての国諌がそれである。
 だがこの三度目の諌暁にもかかわらず、幕府は阿弥陀堂法印へ祈禱を命じてこれに報いた。大聖人の諌暁は遂に叶えられなかったのである。それゆえ古賢の例にならって、文永11年(1274)月に鎌倉を出られ身延の沢に入られたのである。
 「種種御振舞御書」(0919-01)に「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども云云」()と。
 すなわち、大聖人が身延に去られると間もなく、蒙古軍が押し寄せてきた。そしてさらにもう一度。やがては、これが幕府滅亡の因となるのである。大聖人の予言は見事に立証されたのである。
 さて大聖人が身延に入られる模様について「富木殿御書」に「十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」(0964-03)と。
 「松野殿御返事」に「抑も此の山と申すは南は野山漫漫として百余里に及べり、北は身延山高く峙ちて白根が嶽につづき西には七面と申す山峨峨として白雪絶えず、人の住家一宇もなし、適問いくる物とては梢を伝ふ猨猴なれば少くも留まる事なく還るさ急ぐ恨みなる哉、東は富士河漲りて流沙の浪に異ならず、かかる所なれば訪う人も希なるに加様に度度音信せさせ給ふ事不思議の中の不思議なり」(1381-01)と。
 だが日蓮大聖人が身延に退かれたのは、形式上は古賢の隠棲の故事を借りたものの、彼らの振舞いとはくらべものにならない。なぜなら大聖人のそれは身延入山以前にいやましての死身弘法の戦いであったからである。
 竹林の七賢、伯夷・叔斉の例をあげれば、彼らの隠棲は、忠言、諌訴、自己の主張が時の為政者に聞き入れられないための隠棲であり、いわゆる隠遁であった。
 だが大聖人の隠棲は、ひとえに広宣流布の時を待つ故であり、令法久住のための隠棲であった。すなわち、門下の育成、訓練が身延入山の真実の意義なのである。そのために、門下にたいして、烈々たる山をも抜くがごとき折伏の闘魂を教え、かつ大海原を想わせる大慈悲をもって、ときには優しく暖かに、ときとして厳父の慈愛をもって御弟子を叱責、指導されたのである。
 たとえば、彼の熱原の法難は、日興上人をはじめとする門下の輝かしい富士弘教の活躍にたいし、滝泉寺の院主代行智が平左衛門尉と策謀して起こしたものであるが、大聖人は終始、現地で戦う日興上人に指導を与えながら「各各師子王の心を取出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり……彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ」(1190-07)と身延から力強い激励をされている。
 このほか主君の反対で所領を没収された四条金吾に代わって「頼基陳情」(1153)を書かれて主君江馬氏を諭され、父の反対に悩む池上兄弟に対して「兄弟抄」(1079)「兵衛志殿御返事」(1090)を、下山光基に反対された僧日永に代わって「下山御消息」を代作なされて、強力に支援されたのである。このほか数多くの御返事が現存していることをもってしても明白である。
 所詮、日蓮大聖人の戦いは、鎌倉にあっても、佐渡にあっても、隠棲の地・身延にあっても、行住座臥全てが妙法広布の不自惜身命の精神に立たれた、所作仏事・未曽暫廃の御振舞いであった。
 故に、われわれもまた妙法に帰依し、大聖人を御本仏と仰ぐ以上、生涯が魔との戦いであり、妙法への帰命でなければならない。たとえ何時如何なる処にいようと、自己と魔との戦いであり、広布達成への休みなき戦さである。とまれ、われらは輝かしい未来の檜舞台をめざして、未来永劫の指針たる令法久住の大聖人の御振舞いをゆめゆめ忘れることなく進みゆかねばならない。

0928:07~0929:09 第五章 弥四郎の生前を回顧top

07   但し本国にいたりて今一度.父母のはかをも・みんと・をもへども・にしきをきて故郷へは.かへれといふ事は内
08 外のをきてなり、 させる面目もなくして本国へ・いたりなば不孝の者にてや・あらんずらん、これほどのかたかり
09 し事だにも・やぶれて・かまくらへかへり入る身なれば又にしきを・きるへんもや・あらんずらん、其の時父母のは
10 かをもみよかしと・ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども・さすがこひしくて吹く風・立つくもまでも
11 東のかたと申せば庵をいでて 身にふれ庭に立ちてみるなり、 かかる事なれば故郷の人は 設い心よせにおもはぬ
12 物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべるところに・此の御ふみを給びて心もあらずして・いそぎい
13 そぎひらきてみ候へば・をととしの六月の八日に いや四郎にをくれてと・かかれたり、御ふみも・ひらかざりつる
14 までは・うれしくて・ありつるが、今此のことばを・よみてこそ・なにしにかくいそぎひらきけん・うらしまが子の
15 はこなれや・あけてくやしきものかな、 我が国の事はうくつらく・あたりし人のすへまでも・をろかならずをもう
16 に.ことさら此の人は形も常の人には・すぎてみへ・うちをもひたるけしきも・かたくなにも.なしと見えしかども、
17 さすが法華経のみざなれば ・しらぬ人人あまたありしかば言もかけずありしに、 経はてさせ給いて皆人も立ちか
18 へる、 此の人も立ちかへりしが使を入れて申せしは安房の国の・あまつと申すところの者にて候が、 をさなくよ
0929
01 り御心ざし・をもひまいらせて候上母にて候人も・をろかならず 申しなれなれしき申し事にて候へども・ひそかに
02 申すべき事の候、 さきざきまひりて次第になれまいらせてこそ申し入るべきに候へども・ゆみやとる人に・みやづ
03 かひて・ひま候はぬ上事きうになり候いぬる上は・をそれを・かへりみず申すと・こまごまときこえしかば、なにと
04 なく生国の人なる上そのあたりの事は・はばかるべきにあらずとて 入れたてまつりて・こまごまと・こしかたゆく
05 すへかたりてのちには 世間無常なりいつと申す事をしらず、 其の上武士に身をまかせたる身なり又ちかく申しか
06 けられて候事のがれがたし、 さるにては後生こそをそろしく候へ・たすけさせ給へと・きこへしかば経文をひいて
07 申しきかす、 彼のなげき申せしは父はさてをき候いぬ、 やもめにて候はわをさしをきて前に立ち候はん事こそ不
08 孝にをぼへ候へ、 もしやの事候ならば御弟子に申しつたへてたび候へと・ねんごろに・あつらへ候いしが、そのた
09 びは事ゆへなく候へけれども 後にむなしくなる事のいできたりて候いけるにや、 
-----―
 ただし、本国に帰って、今一度故郷の父母の墓へ参りたいと思うけれども、錦をきて故郷に帰れということは、内道・外道のしきたりである。これという面目もないまま故郷へ帰るならば、それは不孝の者ではなかろうか。だが、これほど困難とおもわれた佐渡赦免さえもその壁が破れ、鎌倉へ帰り入った身であるから、また錦をきる時もあることであろう。そのときは父母の墓へも参ろうと、深く思うゆえに、いまだに故郷へは帰らないけれども、さすがに故郷が恋しくて、吹く風・立つ雲までも、東の方からというと庵を出でてその風に身を触れ、また庭に立ってその雲を見ていたのである。
 このようなありさまであるから、故郷の人といえば、たとえ自分をこころよく思っていない者であっても、安房の国の人であるといえば、懐かしく思われるところに、尼御前からこの手紙を受け取り、心もうわのそらに、急ぎ急ぎ開いて拝見したところが、「一昨年の六月八日に子の弥四郎に先立たれて……」と書かれてあった。手紙も開く前まではうれしかったが、今この言葉を読んでなんでこのように急いで、この手紙を開いてしまったのであろうかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたのを悔いたのである。
 故郷の安房の国のことならば、日蓮に冷たくつらい仕打ちをした人の将来のことまでも疎略には思わない。とくにこの人は姿、態度も普通の人よりも勝れてみえ、考え方も頑固でないように見えたけれど、なんといっても法華経を講じている席でのこととて、知らない人々も数多く居たので言葉もかけなかったが、講義が終わって皆人々は立ち帰った。この人も立ち帰ったが、使いを日蓮のもとへ寄こして申すのには「自分は安房の国の天津というところに住む者ですが、幼少のときから、大聖人の御志を慕っております上、母もまた大聖人のことを疎略には申しておりません。ずうずうしいお願いではありますが、密かに申し上げたいことがございます。もっと先へいって次第にお見知りいただいてから申し上げるべきですが、弓矢とる人の側近く仕えていて暇がない上、事が急になりましたので、非礼を顧みず申し上げます」とこまごまと申してきたので、なにぶんにも故郷の人であるから、そのくらいのことは遠慮することはないと招き入れた。するとこまごまと今日までの経過と今後のことなど語ってのち「世間は無常です。いつ死なないとも限りません。その上私は武士として仕えている身です。しかも申しかけられたことは遁れることができません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりません。どうかお助け下さい」と申したので経文を引いて申し聞かせた。
 弥四郎殿が嘆いていうのには「父はすでに亡くなったのでさておいて、未亡人である母をさしおいて先立つことは、不幸に思えてなりません。自分にもしやのことがあったならば、私が大聖人の御指導をいただいて後世の備えをしてから死んだということをお弟子を通して母へお伝え下さい」と丁寧に依頼してきたが、そのときはなに事もなかったけれども、そののち死なねばならぬような事件が起きたのであろうか。

生国
 自分が生まれたところ。
―――
いや四郎
 光日房の子息。弥四郎のこと。青年時代に大聖人に帰依している。武家に仕える身で、何らかの事件により若死している。
―――
うらしまが子
 わが国の有名な古伝説・浦島太郎のこと。日本書紀、丹後国風土記、万葉集、浦島子伝等にみえる。丹後の国・水江(京都府与謝郡伊根町本庄)の漁夫。浦島が子は、ある日助けた亀に連れられて竜宮に至り、美女とともに三年の間、栄華のなかに暮らした。しかし故郷が恋しくなり、いったん帰国しようとする太郎に、女は決して開けるなといい含めて、みやげの玉手箱を与える。太郎が帰国してみると、故郷はまるで変わっており、すでに太郎が国を出てから七百年も経過していた。驚いた太郎は禁を犯してみやげの玉手箱を開けたところ、立ちのぼる白煙とともに白髪の老人になったという。この伝説は中国華南から東南アジア、ミクロネシア一帯に伝播している。
―――
あまつ
 千葉県安房郡の太平洋岸の地名。小湊の隣の町。小湊は日蓮大聖人御誕生の地であり、また付近には清澄山、妙の浦等があり、日蓮大聖人と関係の深い地が多い。本書を与えられた光日房も天津の人である。
―――
みやづかひ
 宮中に仕える人。貴人・武家の側人。給仕人。
―――
やもめ
 未亡人のこと。
―――――――――
 この章は日蓮大聖人が同郷の光日房に対して、御自身の故郷への想い、光日房から送られた手紙についての所感、生前の弥四郎についての回顧等を細々と認め、次の六章、七章で指導されるための序分とされた章である。
 本章では、大聖人は光日房の心をくんで、光日房と同じ気持ちにたたれて、在りし日の弥四郎のことを回顧されている。このなかに、日蓮大聖人の深いご慈愛が感ぜられてならない。
 いかなる三障四魔も、師子王のごとく打ち破っていく御本仏の勇姿とは対照的に、一個の人間として、一人のよるべのない婦人に、かくまであたたかい激励をされている。全日本、全世界、否、末法万年尽未来際のために戦われた大聖人は、同時に、一人一人と苦楽を共にし、情愛に満ちた人間性で、どこどこまでも不幸の人の味方となって進まれたのである。
 偉大なものは、遠くにあるのではない。深い人間性の中にこそあるのだ。一人の悩める人間を救えずして、どうして一国を救うことができようか。
 この原理は、昔も今も変わらない。深い人間性の発露こそ、一個の人間を変え、社会を変え、世界を変えていく、最強の力であることを確信すべきである。

0929:09~0930:02 第六章 光日房の心情を汲むtop

09                                       人間に生をうけたる人上下につ
10 けてうれへなき人はなけれども 時にあたり人人にしたがひて・なげき・しなじななり、譬へば病のならひは何の病
11 も重くなりぬれば是にすぎたる病なしと・をもうがごとし、 主のわかれ・をやのわかれ夫妻のわかれ・いづれか・
12 おろかなるべき・なれども主は又他の主もありぬべし、 夫妻は又かはりぬれば心をやすむる事もありなん、 をや
13 このわかれこそ月日のへだつるままに・いよいよ・なげきふかかりぬべくみへ候へ、 をやこのわかれにも・をやは
14 ゆきて・子は・とどまるは同じ無常なれども・ことはりにもや、をひたるはわは・とどまりて・わきき子のさきにた
15 つ・なさけなき事なれば神も仏もうらめしや、いかなれば・をやに子をかへさせ給いてさきには・たてさせ給はず・
16 とどめをかせ給いて・なげかさせ給うらんと心うし、 心なき畜生すら子のわかれしのびがたし、 竹林精舎の金鳥
17 は・かひこのために身をやき鹿野苑の鹿は胎内の子を・をしみて王の前にまいれり、 いかにいわうや心あらん人に
18 をいてをや、 されば王陵が母は子のためになつきをくだき、 神尭皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ
0930
01 給いき、此等を・をもひ・つづけさせ給はんには 火にも入り頭をもわりて我が子の形をみるべきならば・をしから
02 ずとこそ・おぼすらめとをもひやられて・なみだもとどまらず。
-----―
 人界に生を受けた人は、上より下まで、憂患のない人はないけれども、時にあたり、その人その人にしたがってそのなげきは区々である。たとえば病気のならいとして、どんな病気も重くなると、これ以上の重病はない、と思うようなものである。主人との別れ、親との別れ、夫妻の別れ、いずれが劣る嘆きではないけれども主人との別れにはまた他の主人に仕えることもあろう。夫婦の場合はまたかわりの人を得れば心を安めることもできよう。だが親子の別れだけは月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなってゆくものとみえる。また親子の別れでも、親が先に亡くなって子供が生き残るのは、同じ無常ではあっても自然の道理であろう。だが年老いた母が生き残って若き子が先立ったのは、余りに情けない事なので、神も仏もうらめしい。どうして、親と子をかえて、親の方を先立たせずにこの世に留め置いて、嘆かせられるのであろうかと実につらいことである。心ない畜生でさえも子との別れには堪え難いものである。竹林精舎の金鳥は卵を守るために焼け死に、鹿野苑の鹿は胎内の子の命を惜しんで身代りに狩りにきた王の前に出た。ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていったならば、たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ってもわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。

竹林精舎の金鳥
 竹林精舎はインド五精舎の一つ。中部インド摩伽陀国の都である王舎城の北郊にあった迦蘭陀長者の所有していた竹園であるが、迦蘭陀長者が釈迦に帰依してから、竹園を奉じて精舎を建てた。「金鳥」とは雉のこと。金色の羽毛があるので「金鳥」という。大智度論巻十六に、インド拘尸那城の近くの大森林に野火が起こったときに、一羽の雉がその羽根を清流に浸して、その火を消し、自分の生命を賭して、火林のなかの眷属を救ったという故事がある。また、雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれ、鳥のなかで母性愛の象徴とされている。
―――
鹿野苑の鹿
 大智度論巻十六、西域記第七等にある。すなわち、昔、波羅尼期国の大林中に群鹿があった。国王があるとき、狩に出て皆で鹿を射ようとしたとき、鹿王が進み出て「あなたには嬉遊逸楽の小事だが、群鹿は一時に皆死の苦を受けます。願わくは、これから毎日一頭ずつの鹿を送って、王の膳に供しますから」と願い出た。国王もその申し出を受けて、群鹿を救うことができた。ある日、懐妊している鹿が番に当たった。それを見て鹿王は身代わりとなって国王の前に進み出た。理由を聞いた国王は「我れは人の身にして鹿なり、汝は鹿身にして人なり」と深く恥じ、すべての諸鹿を放ち、その林を諸鹿の藪とした。これを施鹿林といい、鹿野の名もこれより起こったという。
―――
王陵が母
 漢の沛の人。王陵ははじめ県の豪族であったが、漢の高祖に従って項羽と戦った。項羽は王陵の母を捕えて母子の情に訴えて王陵を味方にしようとしたが、母は密かに使者を出して、王陵に漢王への忠節を尽くすことを訴え、自害して果てた。のちに王陵は高官に昇進し、安国公に封ぜられ右丞相となった。
―――
神尭皇帝の后
 神尭皇帝とは唐の高祖李淵のこと。その皇后で、竇皇后をいう。謚は太穆順聖皇后。才色兼備の后で、文と画に巧みであったといわれる。
―――――――――
 別れのうちで、最も辛い別れは親子の別れである。それは親の子を思う情が実に深いからであるといえよう。老いたる親が先立つのが世の習いである。だが、子が先立つことこそ、不幸のなかの不幸であり、親にとって嘆いても嘆ききれない。
 この章は、幾多の故事を挙げて、弥四郎に先立たれた尼御前を哀悼された段であり、夫もすでに亡く、老後の頼りとする子に先立たれて、ただ一人のこされた尼御前の心情を透徹して理解され、逆境の尼御前に希望を与えようとなされた大聖人の大慈大悲をよくよく理解すべきである。

0930:03~0931:05 第七章 懺悔滅罪の証の先例を引くtop

03   又御消息に云く人をも・ころしたりし者なればいかやうなる・ところにか生れて候らん・をほせをかほり候はん
04 と云云、 夫れ針は水にしずむ雨は空にとどまらず、 蟻子を殺せる者は地獄に入り死にかばねを切れる者は悪道を
05 まぬかれず、何に況や人身をうけたる者を・ころせる人をや、 但し大石も海にうかぶ船の力なり大火も・きゆる事
06 水の用にあらずや、 小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、 大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ、所謂る粟
07 をつみたりし比丘は五百生が間・牛となる、マコモをつみし者は三悪道に堕ちにき,羅摩王.抜提王.毘楼真王.那ゴ沙
08 王.迦帝王・毘舎怯王・月光王・光明王・日光王・愛王.持多人王等の八万余人の諸王は皆父を殺して位につく、善知
09 識にあはざれば罪きへずして 阿鼻地獄に入りにき、 波羅奈城に悪人あり其の名をば阿逸多という 母をあひせし
10 ゆへに父を殺し妻とせり、 父が師の阿羅漢ありて教訓せしかば 阿らかむを殺す、 母又他の夫にとつぎしかば又
11 母をも殺しつ、 具に三逆罪をつくりしかば隣里の人うとみしかば、一身たもちがたくして祇オン精舎にゆいて出家
12 をもとめしに諸僧許さざりしかば 悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ、 然れども釈尊に値い奉りて出家をゆるし
13 給にき、 北天竺に城あり細石となづく彼の城に王あり竜印という、 父を殺してありしかども後に此れをおそれて
14 彼の国をすてて仏にまいりたりしかば仏・懺悔を許し給いき、 阿闍世王はひととなり三毒熾盛なり十悪ひまなし、
15 其の上父をころし母を害せんとし 提婆達多を師として無量の仏弟子を殺しぬ、 悪逆のつもりに二月十五日・仏の
16 御入滅の日にあたりて 無間地獄の先相に七処に悪瘡出生して玉体しづかならず、 大火の身をやくがごとく熱湯を
17 くみかくるが・ごとくなりしに・六大臣まいりて六師外道を召されて悪瘡を治すべきやう申しき、 今の日本国の人
18 人の禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて蒙古国を調伏し後生をたすからんとをもうがごとし、 其の
0931
01 上提婆達多は阿闍世王の本師なり、 外道の六万蔵仏法の八万蔵をそらにして 世間出世のあきらかなる事日月と明
02 鏡とに向うがごとし、 今の世の天台宗の碩学の顕密二道を胸にうかべ一切経をそらんぜしがごとし、 此れ等の人
03 人・諸の大臣・阿闍世王を教訓せしかば仏に帰依し奉る事なかりし程に 摩竭提に天変・度度かさなり地夭しきりな
04 る上.大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘ひまなき上他国よりせめられて・すでに.かうとみえしに悪瘡すら身に出ししかば
05 国土一時にほろびぬとみえし程に俄に仏前にまいり懺悔して罪きえしなり。
-----―
 また御手紙には「弥四郎は人を殺した者であるから、後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。どうかお教え願います」等と書かれていた。
 針は必ず水に沈み、雨は空にとどまっていることがないように、また、蟻子を殺した者は地獄に堕ち、屍を切った者でさえ、悪道に堕ちることを免れない。ましてや人身を受けた者を殺した人はなおさらのことである。ただし大石も海に浮かぶ、それは船の力による。大火も消えるのは水の働きではないか。同じ道理で小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える。
 いわゆる過去世に粟を盗んだ比丘は五百生の間・牛に生まれ、苽を摘んだ者は三悪道に堕ちた。また羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人のインド古代の諸王は皆その父を殺して位についたが、善知識に値わなかったため懺悔することがなかったので罪が消えずに無間地獄に堕ちたのである。
 波羅奈城に悪人がいた。その名を阿逸多といった。母を愛したために、父を殺し母を妻とした。父の師の阿羅漢がいて、誡めたところがその阿羅漢を殺した。母がまた他の男と関係したので母をも殺してしまった。つぶさに三逆罪を犯したので近隣の人にいみきらわれ、身の置きどころがなくなって、祇洹精舎に行き、出家を願ったが、諸僧が許さなかったのでさらに悪心強盛になって多くの僧坊を焼いてしまった。しかしながら、釈尊に値って出家を許されたのである。
 また北インドに城があって細石といい、その城に竜印という王がいた。かつて父を殺したのであったが、のちにこのことを恐れて国を捨てて仏のもとに行ったので、仏は懺悔を許されたのである。
 阿闍世王は生まれつき貪瞋癡の三毒が熾盛であり、十悪を犯しつづけた。そのうえ、父を殺し母をも殺そうとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺した。こうした悪逆が積もった果に二月十五日、ちょうど仏の御入滅の日にあたって無間地獄に堕ちる先相として七箇所に悪瘡ができ、身体はもはや安穏ではなかった。その苦しみは大火に身を焼かれるようであり、熱湯を汲み浴びるようであったので、六大臣が参上して六師外道を召されて悪瘡を治されるように言上したのである。ちょうど今の日本国の人々が禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのんで蒙古国を調伏し後生を助かろうと思うのと同じである。またそのうえ、提婆達多は阿闍世王の本師である。提婆達多は外道の六万蔵、仏法の八万蔵を諳んじて、世間の学問と、出世間の仏法の事については、明るいこと日月と明鏡とに向かうようであった。それはあたかも今の世の天台宗の大学者といわれる徒輩が、顕密二教を胸にうかべ一切経を諳んじたと同じである。
 これらの提婆達多や邪見の六師外道や諸の大臣達が阿闍世王を指導していたので、阿闍世王は仏に帰依しなかったのである。ところが、摩竭提国に天変が度々起こり、地夭しきりであるうえ、大風・大旱魃・飢饉・疫癘が絶え間なく発生したうえに他国からは攻められて、事態が悪化してゆくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時に亡びるかにみえたときに、王もにわかに改心し、仏の前にきて、懺悔したのでその罪は消えたのである。

悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
―――
懺悔
 過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
―――
大逆
 はなはだしく、人の守るべき道理に背いた行為。主君や親を殺害する行為。
―――
粟をつみたりし比丘
 法華文句巻第二にある。仏弟子の憍梵波提は牛のごとく食物を食べ、後になってふたたび口中に出してかみ、足の爪も牛に似ていたという。仏は、この因縁について、過去世に粟を盗み、その罪によって五百年の間、牛と生まれ、今仏弟子となってもなおその余習が消えず牛のような習性をもっているのだと説いた。ついには、人々が笑うのをさけて、天上に住み、仏陀の入滅を知らなかったとある。
―――
羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王
 涅槃経第十九梵行品で、阿闍世王が悪瘡に悩んで、父を殺したことを悔いていたとき、外道の大臣悉知義が慰めて語った言葉のなかにでてくるインド古代の諸王。すなわち、皆自分の父を殺して王位につくことを得たが、一王も地獄に入る者がなかったのであるから悔いる必要なしと。だが大聖人はこれらの諸王は善知識にあわなかったので、その罪は消えず、必ず阿鼻地獄に入ったと仰せである。
―――
善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
―――
波羅奈城
 ヴァーラーナシー(vārānasī)の音訳。古代インドの国名。釈尊が成道後、はじめて四諦を説いた鹿野苑はこの国にある。
―――
阿逸多
 涅槃経第十九梵行品にある。五逆罪を犯したことを後悔し苦しんでいる阿闍世王を慰める大医耆婆大臣の話のなかに出てくる。阿逸多は悪逆の限りを尽くすが釈尊にあって出家を許される。同じ名をもつ弥勒菩薩とは別人である。
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祇洹精舎
 古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
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十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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六大臣
 阿闍世王に仕えた月称・蔵徳・実徳・悉知義・吉徳・無所畏の六人の大臣のこと。王が悪瘡にかかり、悪事を悔いているとき、六師外道の教えを聴くことを勧めた。
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六師外道
 釈迦在世時代に中インドで勢力をもっていた六人の外道の思想家。①プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那迦葉)道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。②マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)裸形托鉢教団アージーヴィカ教の祖。決定論者。③サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)懐疑論者④アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。⑤パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延)七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。⑥ニガンタ・ナータプッタ( Nigantha Nataputta)ジャイナ教の開祖。相対論者。
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蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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外道の六万蔵
 インドのバラモン経典のすべて。
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仏法の八万蔵
 釈尊一代の教法のすべて。八万は数ではなく、数の多いことをいう。
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世間
 ①世の中・世俗のこと。②六道の迷界のこと。③三世間・有情世間・器世間などのように差別の意をあらわす。
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出世
 世間を出離・越出すること。生死の苦しみ・煩悩の迷いを脱した涅槃・菩提の境地をいい、この出世間の法を出世間法という。
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顕密二道
 顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
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摩謁提
 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
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天変
 天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
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地夭
 地上に起こる異変。
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疫癘
 疫病、伝染病、流行り病、ウイルス性感染症のこと。
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 光日房の手紙にあった「弥四郎は罪深い者であるから、後生はどこに生まれるのでしょうか。御指導下さい」との問いにたいして、この章では、世間の道理、仏法の法理を挙げ、その裏付けとして過去の幾多の実例をとおして答えられた段である。すなわち、一般世間の道理からすれば蟻を殺しても地獄に堕ちる。況んやそれ以上の罪を犯した者は必ず地獄に堕ちる。だが仏法によって懺悔すれば、いっさいの罪を消すことができると、阿逸多、竜印、阿闍世王の体験を挙げられたのである。
小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ
 この世に生を受けた、いかなる小さな生命体であっても、これを殺す者は、必ず地獄に堕ちるのである。およそ、人は必ず生涯を通じて、蟻などの小さな生命体を殺さないわけがない。故に、この仏法の原理からすれば、皆悉く地獄の業火にさいなまされることは必定である。だが次下の「大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」の御文のとおり、妙法を信じ、妙法を行ずるならば、いかなる大逆、大罪も朝露が燦々と輝く太陽の前に消えるように、ことごとく、消滅させることができるのである。これこそ、仏法の大慈悲の原理・大荘厳懺悔なのである。
 世にいう懺悔は、キリスト教の専売特許であるかのごとき印象を与えているが、これは仏法に無知な者が、キリスト教でいうpenitenceをそのまま仏法の懺悔に置き換えて用いたのである。
 キリスト教でいう懺悔の意味は告白であり、悔悛の秘蹟である。すなわち、洗礼ののちに犯した罪を司祭、司教の前で告白することをいうのである。
 なんと愚かしいことであろうか。聖職者だからといっても、人間ではないか。神と人間との介在者であり、神の子というなら、まさしく原始時代のシャーマニズムの亜流を汲むものといえよう。キリスト教で説く懺悔は心理学的にいえば抑圧された心理を解放するための手段で、たんなるストレス解消法にすぎない。
 なおキリスト教や新興宗教で説く懺悔は実に幼稚であるから、一往の世人の批判を挙げることにする。
 ドイツの哲学者ニーチェは「ほかのひとに懺悔してしまうと、当人は自己の罪は忘れるが、たいてい相手のひとはそれを忘れない」といい、フランスのモラリストであるラ・ロシュフーコーは「心のうちを打ち明けるのは、虚栄のため、しゃべりたいため、他人の信頼を惹きつけたいため、秘密の交換をしたいためなのである」といっている。
 次に本来の懺悔について述べてみよう。法華経の結経である普賢菩薩行法経には「一切の業障海は皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」とある。この文の実相とは生命の本質であり、大宇宙の根源の南無妙法蓮華経である。人に約せば、御本仏の生命であり、法に約せば三大秘法の大御本尊なのである。故に、われらは大御本尊を信受することによって、いっさいの罪障を消滅することができるのである。
 「聖愚問答抄」にいわく「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし」(0497-14)と。
 日寛上人の「観心本尊抄文段上」に「この本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うればすなわち祈りとして叶わざるなく・罪として滅せざるなし・福として来らざるなく・理として顕われざるなきなり」と。

0731:06~0931:17 第八章 母子一体の成仏を示すtop

06   これらは・さてをき候いぬ人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども
07 親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、 されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母 ・釈迦仏の御宝前にして
08 昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、 いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみち
09 びく身とぞ・なられて候らん、 法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ、念仏者
10 と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば いかに法華経をよむとも 法華経のかたきとしろしめす
11 べし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ、あはれあはれ・けさんに入りてくわしく申し候はばや、 又
12 これよりそれへわたり候三位房・佐度公等にたびごとに・このふみを・よませてきこしめすべし、 又この御文をば
13 明慧房にあづけさせ給うべし、 なにとなく我が智慧はたらぬ者が 或はをこづき或は此文をさいかくとしてそしり
14 候なり、或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ・よも慈覚大師にはこへじ・なんど人くらべをし候ぞかし、 か
15 く申す人をば・ものしらぬ者と・をぼすべし
16       建治二年丙太子歳三月 日               日 蓮 花 押
17     甲州南部波木井の郷山中
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 これらはさておいて、人の親は悪人であっても子が善人であれば、親の罪を許すこともある。また子が悪人であっても親が善人であれば、子の罪を許されることもある。であるから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあろうか。ましてや弥四郎殿は生前は法華経を信じていたのであるから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられているであろう。
 法華経を信ずる人は、用心に用心を重ねて、法華経の敵を恐れていきなさい。念仏者と持斎と真言師とそのほかいっさいの南無妙法蓮華経と唱えない者は、どんなに法華経を誦んでも法華経の敵であると知っていきなさい。なにが仏道修行の敵であるかを知らなければ敵にだまされてしまう。なんとかして面会して詳しくお話したいものである。またこちらから行く三位房や佐度公等に会う度ごとに、この手紙を読ませて聞かせるがよろしい。またこの手紙を、明慧房に預けておきなさい。多分、大して智慧のない者が、日蓮をあるいは悪口したり、あるいはこの手紙を日蓮の才覚であるとして謗ったりするであろう。あるいはまさかこの御房は弘法大師には勝ることはないとか、まさか慈覚大師には超えることはない、などと人くらべをするに決まっている。こんなことをいう人は仏法の道理を知らぬ者であると、思っていきなさい。
  建治二年太歳丙子三月 日 
                   日 蓮   花 押
         甲州南部波木井の郷山中

悪人
 ①悪事をなす人。②正法を誹謗する人。
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けさん
 対面・お目にかかること。
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三位房
 三位房日行のこと。はじめは日蓮大聖人の弟子であった。賜書に御輿振御書、法門申さるべき様の事、十章抄、教行証御書がある。下総(千葉県)の出身で、早くから大聖人の御門下に入った。才智に秀で、宗門内で重きをなし邪宗破折の中心ともなった。だが熱原の法難で退転し、現罰で落馬して死んだ。聖人御難事(1191)に「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども……はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ云云」とある。
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佐度公
 六老僧の第四民部阿闍梨日向のこと。文永元年(1264)日蓮大聖人が房総地方に遊化せられたとき、13歳で得度した。建治2年(1276)清澄寺道善房死去のときに「報恩抄」を読み、大聖人の聖教を講演した。大聖人滅後弘安5年(1282)、輪番制に加わり、弘安8年(1285)ごろ身延に戻り学頭職に補せられた。だが、その後波木井実長(はぎりさねなが)に鎌倉方面の軟風をふきこみ、それによって実長は四箇の謗法をおかし、身延汚濁の因となった。身延山には正和2年(1313)まで居り、そののち、上総藻原(千葉県茂原)に移り、翌年9月3日に没した。
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明慧房
 詳細は不明。大聖人に師事した清澄寺系統の僧の一人であったといわれる。
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弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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 前章で光日房の「罪を犯した子弥四郎の後生について御指導いただきたい」との願いに答えて一般世間と仏法の立ち場から述べられ、本章では、具体的に答えられたのである。
 すなわち、光日房の強盛な信心によって、子の弥四郎を成仏させずにはおかないと答えられたところである。
 また親子の信心の大事なこと、法華経の敵対者に注意することを強調され、最後にこの御消息の読み方、保ち方を教えられ、くれぐれも謗法者に用心するよう細々と認められている。
親子一体の成仏
 およそ親と子の関係ほど、親密なものはなかろう。親は親、子は子でありながら、その間には何ものにもまさる不思議な力が働いている。まさに、眷属の妙という以外にない。それぞれ別個の生命が互いに融合し、一つの生命となっているともいえる。
 親が不幸であって、子供が心からの幸福を感ずる道理がない。また、子供が不幸であって、親が幸福などということも、決してありえない。親の幸福は、則子供の幸福であり、子供の幸福は、即親の幸福である。決して、別ではないのだ。また、親子ともに幸福になっていくことは、家庭全体の幸福でもある。すなわち、親子一体の成仏は、家庭革命の原理なのである。
 親の子を思う一念、子の親を慕う一念、そこに信心のほとばしりがあれば、即時福運となって全体を栄えさせていく。家庭内の一人の人間革命によって、家庭そのものが大きく変革し、家族の者すべてが福運を受けていくのである。
 たとえば、家族の中で、一人が信心し、あとは皆反対だったとする。しかし、その時すでに、家庭という一個の生命の根底は変革されているのである。これが、因果俱時、また依正不二の原理である。その根底の生命の法則にしたがって、次第にその証拠を、事実の上にあらわしていけることを確信したい。
 また、親子一体の成仏とは生きている時のことだけではない。すでに亡き親の抜苦与楽は、厳然と子供の生活の上に実証される。また、子供が信心によって、自己を人間革命していくことが、最大の親に対する回向である。
 いま、光日房の場合は、子供に先立たれたが、彼女が信心できたのは、その子弥四郎のすすめによってであり、また、彼女が、大聖人の指導によって、晩年真の幸福をつかんだことは、そのまま弥四郎の生命の実相であり、親子同時であることを仰せられたのである。
 さらに、これに関連して、信心の上から、親子のあり方についても言及しておきたい。
 かつて親子関係は「慈愛と孝」と考えられてきた。「親の慈愛は海よりも深く、親の恩は山よりも高い」といった道徳が支配し、肉親以上に「家」を背負わされた子は「親は親たらずとも子は子たるべし」とされてきた。
 しかるに時代の変遷とともに、「孝」は脆くも崩れ去った。封建的な家族制度が崩壊すると、「孝なき子」を嘆き憂いおろおろしている親の姿だけが残されたのである。
 仏法では、親子間をそのような浅薄なものとは考えていない。大聖人は、父母の恩を四恩の一つとして重要視されている。親の恩というと、なにか封建的な道徳観を思わせるがそのようなものではない。大聖人のお説きになる知恩、報恩とは、生命論のうえからの生命の奥底からの知恩、報恩である。さらに、三大秘法の仏法を根底にした知恩、報恩である。親の恩を報ずるのは当然であるが、その報恩の基準が三大秘法の御本尊であることを知らなくてはならない。
 親の恩を報ずるとは、親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いている。
 いわく「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」
 親を物質的に満足させることや、親の意向どおりに行動することが真実の孝養ではない。大御本尊を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰伏させ、また亡き親に対しては朝に晩に正法をもって回向することが最高の親孝行というべきである。
 「兄弟抄」にいわく「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085-07)と。
 「刑部左衛門尉女房御返事」にいわく「父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし」(1401-04)と。親に反対されたり、一家のなかに信仰反対の者がいようと、はじめに信心をした者が、しっかり信心修行に励み、自分の生活に大御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信心できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、一家のため、国のために波動が及んでいくのである。たとえ、親の反対があろうとも、声高らかに唱題し、親をも折伏しきっていく者こそ、大聖人の御金言に適うことを銘記したい。
 子の信心によって親を動かした例は枚挙にいとまがない。遠くは法華経の会座で、妙荘厳王が浄蔵、浄眼に導かれて娑羅樹王仏となった例がある。また法華経を謗じて地獄に堕ちた父烏竜を、法華経をもって救った子遺竜の話もある。さらに大聖人御在世にあっては、極楽寺良観の熱心な信奉者で、二十年にわたって猛反対をつづけた父康光を入信させた、池上兄弟の話もある。これらを信心の鑑として、一家和楽の信心を成就させたいものである。
 次に御文の後段は、親の立ち場から、親子の関係を述べることにする。
 ハーバード大学の非行少年研究の専門家、シェルドン・グルック教授は「私たちは、ドアをあけた瞬間、そこに住んでいる子供が、非行化しているかどうかをいいあてることができる」と述べている。この言葉は、子供というものがいかに家庭に影響されるものであるかをみごとに表現している。
 また教典に「人仏教を壊れば孝子無く六親不和にして……」とあるように、子供が早死にしたり、不良化したりするのは、根本は謗法を信じ仏教を破壊することにあるとの意味である。
 現在は、五濁悪世といわれる。すなわち、人間が生まれながらに持つ貪・瞋・癡・慢・疑の本能の乱れである煩悩濁、思想の乱れである見濁が根底になって、命濁すなわち生命力が弱まり、生活が乱れる現象を生む。この命濁から人間そのものの濁乱を意味する衆生濁となり、衆生濁はさらに拡がって時代そのものの乱れ、すなわち劫濁となるのである。
 この方程式を現代の青少年にあてはめてみれば、あまりにその適合することに驚かないではいられない。したがって、家庭においても、社会にあっても、この青少年問題は、単に道徳とか、躾とかいったものでは解決できないことを知るべきである。
 その真実の原因が、正法を誹謗するところからくる生命の濁りであるがゆえに、この五濁の根源を断ち切り、生命を浄化し、社会を健全化していく方法は、妙法を信じ、妙法を広宣流布する以外には断じてない。
 親として真に子を思うならば、信心を根本として、粘り強く、信心をもって育て抜くべきである。
 とまれ、新時代の親子関係は、支配と服従といった上下関係でも、反抗と抑圧といった権力関係でもない。親と子は眷属妙であるが、真実の眷属妙とは、親も子もともに日蓮大聖人の本眷族として、地涌の菩薩であるとのことである。妙法を根底にした、妙法に照らされた家庭、いな社会をともに手を携えて築くものでなくてはならない。
法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ
 この御文をわれらはよくよく心肝に染めるべきである。妙法を信じ、広宣流布の達成をめざす者にとって、なにが法華経の敵かをみきわめ、これと戦うべきである、と教示された御文である。
 だが「かたきををそれさせ給へ」とは、ただ臆病で恐れおののくことではない。成仏させまい、退転させようとする法華経のかたきを警戒せよとの意である。
 では一体なにが法華経のかたきなのか。法華経の敵とは、人間性の敵であり、人生の敵であり、根底の生命の敵である。
 ある人のいわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。最も恐るべき敵は、外にはなく、常に内にある。
 また、涅槃経には悪知識こそ法華経の敵であり、これを恐れよと説かれている。「菩薩悪象等に於いては心に恐怖すること無かれ悪智識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」と。
 悪知識、悪友とは共に邪宗教であり、邪智謗法の徒をさすのである。すなわち、邪宗教にしたがえば、誰でもが内奥に秘めている清浄な生命が破壊され、三悪道に堕ちて、永劫に苦悩に沈みゆくからである。
 この悪知識は、自身の生命を破壊するのみならず、社会を塗炭の苦しみに巻き込み、さらには一国を亡国へ亡国へ導くのである。
 されば、われらは妙法の眼をもって、自身の魔を魔と見破り、さらに社会の魔の本質をなす真実の敵を完膚なきまでに摧破して、不幸の根源を断ち切らねばならない。

0925~0931    光日房御書 2011:7月号大白より、先生の講義top

「生きる力」を引き出す渾身の励ましを
 今、目の前にいる「一人」の人を、どう励ましていくか、その人の心に、どう希望に贈り、勇気を湧きたたせるか。
 どこまでも「一人を大切に」することが仏法者の行動です。釈尊は眼前の一人を励まし抜きました。日蓮大聖人の御生涯は、門下の励ましに次ぐ励ましの連続であられました。牧口先生、戸田先生も、常に一人一人へ全魂の激励を重ねられました。徹して一人を大切にする。この根本精神を見失えば、仏法の価値は無に等しい。
 今回拝する「光日房御書」は、まさに日蓮大聖人が、一人の“嘆きの母”に対して、渾身の激励をされた一書です。これほどまでにという温かな心遣いにあふれけなげな母をなんとしても蘇生させずにはおかないという大慈悲のお心が伝わってくるお手紙です。
 本抄は、建治2年(1276)3月の御手紙です。御書をいただいた光日尼は、大聖人と郷里が同じ安房の人です。夫と別れ、しかも立派に育った子息・弥四郎が2年前に非業の死を遂げます、武士であったがゆえに、様々な苦悩を背負っていた。わが子の後生が心配であると、不安にさいなまれている一人の母に対して、凍りついた大地を解かす春の陽光のように、大聖人の慈愛が注がれていきます。
 その人の一番奥底にある根っこともいうべき悩みに光を注ぐ。徹して、一人の人に励ましを贈り、その人を蘇らせ、立ち上がるまで見守り続ける。時には、その人の成長を妨げる無明を破るため、慈愛の指導をする。これが、仏法者の慈悲です。
 仏法は、一番苦しんでいる人の味方です。一番悲しんでいる人、一番悩んでいる人を励まさずして、宗教としての存在価値はありません。最も不幸な人を、最も幸福にしていく行動のなかに、「人間のための宗教」の真価が現れます。
 そして現代にあって、人間主義の仏法を持ち、人間の善性を開花させ、民衆の境涯を高めて、万人に幸福をもたらすために前進しているのが、わが創価学会にほかなりません。目の前の一人を断じて幸福にせずにおくものかと戦われた御本仏の御精神を継承する。大聖人直系の団体です。
 ここまでしてくださるのかと思えるほど、徹して励まし、その人の心のひだに触れ、不安を根底から取り除き、確信を与えていく。どこまでも勇気と希望を贈る人間主義の真髄の振る舞いを共に学んでまいりましょう。今回は「光日房御書」を概観し、大聖人の励ましの慈愛と哲学を拝していきます。

01   去る文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて北国の海中・佐渡の嶋に・はなたれたりしかば、なにと
02 なく相州・鎌倉に住しには生国なれば安房の国はこひしかりしかども 我が国ながらも人の心も・いかにとや・むつ
03 びにくくありしかば、常には・かよう事もなくして・すぎしに御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、 しばら
04 く国の外に・はなたれし上は・をぼろげならではかまくらへはかへるべからず、 かへらずば又父母のはかをみる身
05 となりがたしと・をもひつづけしかば、
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 去る文永八年(1271)九月のころから御勘気を蒙って北国の佐渡ヵ島へ放逐されてしまった。なんとなく相州・鎌倉に住んでいたときは、故郷であるから安房の国は恋しかったけれども、安房の国は自分の国でありながら人の心も、どういうわけか親しみにくかったので、平素は往き来することもなく過ごしてしまった。だが、このように御勘気の身となって、死罪となるべきであったのが、減刑になって、さしあたり国外へ追放されてしまった以上は、特別なことでもなければ鎌倉に帰れそうにもない。帰れなければ再び父母の墓に参る身となり難い、と思い続けていたので、

大聖人の闘争の軌跡に全民衆が脈打つ
 本抄の冒頭は、懐かしい安房への望郷の思いから綴られています。
 あの文永8年(1271)の佐渡流罪の時、二度と鎌倉へ帰れぬ身となり、古里の父母の墓を見ることもできなくなってしまった。そうなってみれば、今更ながら帰郷しなかったことが残念で、ますます故郷を思う気持ちが湧き上がる一方であった、と記されています。
 もとより佐渡流罪といっても、何か世間上の罪のせいではありません。大聖人は、何ゆえに佐渡に流されたのか。その経緯を光日尼に伝えられます。
 すなわち、ただ民衆のために、法華経を誹謗する当時の諸宗を強く破折し、また、誤った諸宗を不当に庇護する為政者を鋭く諌めたからです。信念を曲げずに正義の行動を貫き通したがゆえに、かえって人々から憎まれ、権力からの弾圧を受けて、佐渡流罪に至ったと述懐されています。したがって、大聖人が信念を貫き通される以上、幕府は態度を変えて鎌倉へ戻すなど、ありえる状況ではなかったのです。
 しかし一方で、法華経が正しいゆえに、また、諸天善神の守護があるゆえに、必ず佐渡から鎌倉へ帰ることができ、再び故郷の土を踏めるはずである。 大聖人は、この大確信をもたれていることを記されています。
 本抄では、大聖人が大音声を放って、諸天善神に厳命する様子が詳細に描かれています。どこまでも強盛な一念で、諸天善神を揺り動かしていく。ここにも日蓮仏法の強さがあります。そして、「立正安国論」で警鐘を鳴らされた自界叛逆難が的中し、幕府も驚いたのでしょうか。まず弟子たちが許されました。
 更に大聖人が「いよいよ強盛に」諸天を動かした結果、流罪の赦免状が佐渡に着きます。威風堂々と帰還された大聖人は、鎌倉へ平左衛門尉に対面して幕府を諌暁し、最終的に鎌倉に出て身延に入られたのです。
 以上のように本抄では、正義と信念を貫き通した大聖人ご自身の足跡を、克明に一人の女性門下に教えられています。また、こうした経緯の結果、鎌倉から直接、身延に入った後、今に至るまで、まだ故郷に帰る機会がないことに触れられています。
 あの大難をも乗り越えたのだから、最後に勝利して帰郷する日が必ずあろうと思うが、望郷の念は更に募っていると心情を吐露されます。
 この身延の地でも吹く風、立つ雲までも、東の故郷の方角だと思えば、庵を出て身に触れて庭に立っているほどです、と仰せです。
 こうした御文の行間からも、“私の心は、いつも故郷の皆さんと一緒に戦っていますよ”との温かな大聖人のお心が伝わってきます。
 それとともに、大聖人が何ゆえに流罪になり、いかに厳然と勝利を勝ち取ってこられたのか。“かく戦い、かく勝利した”との「闘争の記録」を拝して、光日尼は、あらためて日蓮大聖人がどのような方であられるのか。また、大聖人の仏法こそが民衆のための宗教であることを深く知ることができたのではないでしょうか。
 大聖人のお心が真っすぐに伝わってくるお言葉に、光日尼は感謝と決意をもってお手紙を読み進めたことでしょう。励ましの第一歩は、信頼と共感から始まることを教えてくださっているのではないでしょうか。

11                              かかる事なれば故郷の人は 設い心よせにおもはぬ
12 物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべるところに・此の御ふみを給びて心もあらずして・いそぎい
13 そぎひらきてみ候へば・をととしの六月の八日に いや四郎にをくれてと・かかれたり、御ふみも・ひらかざりつる
14 までは・うれしくて・ありつるが、今此のことばを・よみてこそ・なにしにかくいそぎひらきけん・うらしまが子の
15 はこなれや・あけてくやしきものかな、
-----―
 このようなありさまであるから、故郷の人といえば、たとえ自分をこころよく思っていない者であっても、安房の国の人であるといえば、懐かしく思われるところに、尼御前からのこの手紙を受け取り、心もうわのそらに、急ぎ急ぎ開いて拝見したところが「一昨年の六月八日に子の弥四郎に先立たれて」と書かれてあった。手紙も開く前まではうれしかったが、今このように急いで、この手紙を開いてしまったのであろうかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたのを悔いたのである。

どこまでも「同苦」の心で
 しかし、そこには、子息・弥四郎が一昨年の6月8日に逝去していたことが記されていました。
 「あけてくやしきものかな」。 手紙を読むのではなかったと、門下を亡くした悲痛が伝わってきます。大聖人は、折あるごとに病の門下の平癒と長寿を祈り、皆の無事安穏を真剣に祈念してこられた。全門下の健康・幸福こそを心からの願いとされておりました。それゆえに、わが門下の訃報は、いかばかり悔しい思いが込み上げるものであられたか。
 もちろん、大聖人は、生死を超えた永遠の生命を悟られています。そのうえで、現実に肉親との突然の死別で悲嘆に暮れる門下に対して、共に嘆き、同苦してくださっている。
 南条時光の弟である七郎五郎が突然亡くなった時も、時光や、母である上野尼御前の嘆きを思いやられて、こう綴られています。
 「人は皆、生まれては必ず死ぬさだめであることは、智者も愚者も、上下万民が一同に承知していることですから、その時になって、はじめて嘆いたり、驚いたりするべきではないと、自分は心得、人にも教えてきました。けれども、時にめぐってみると、夢か幻か、いまだにわからないのです」
 大聖人ほど、民衆の嘆きに同苦され、共に前進することを願われた指導者はおられません。
 そして大聖人は、弥四郎の死を悔やむ言葉を述べたあと、更に、光日尼の心の奥に染み入らせるかのように、弥四郎との特別な思い出をこと細かく回想されていきます。御文に沿って、大聖人のお心を拝していきたいと思います。
 かつて大聖人が説法をしている場に、弥四郎が聴聞しにきたことがあります。その弥四郎の印象は、容貌も立派で、素直な感じであったと述べられています。しかし、その場では言葉は交わすことなく、後に、弥四郎からの使いが来ます。
 それによると、弥四郎は安房の天津の出身であること、幼き日より母と共に大聖人に対する尊敬の念を持っていたこと、本来であれば順を踏んで大聖人に御挨拶してからお話しできればと思っていたこと、しかし武士の身として主君に仕えていて暇がないところに急の事態が起きたため、失礼を顧みず直接お会いしたいこと、などの内容が伝えられました。心配された大聖人は、さっそく弥四郎を招いて、細々と聞かれて激励されています。
 そして、弥四郎が、「世間は無常であり、自分はいつ死ぬか分かりません。しかも自分は武士です。そのうえ、最近、言い渡されたことは逃げられません。後生を思えば恐ろしくて仕方ありません」と心情を吐露します。これに対して大聖人は経文を引いて誠実に激励なされました。
 最後に弥四郎は、夫のいない母を差し置いて自分が先に死んでしまえば、これほどの親不幸はありません。もしかの時は母のことをよろしくとお弟子にお伝えくださいと頼まれました。以上のように大聖人は、弥四郎との出会いの様子をありのままに再現されています。
 ここまで丁寧に大聖人が記されることで、光日尼は、母と子とがそろって大聖人からずっと見守られていたことを、あらためて知ります。それが、どれほど光日尼の心を安堵で包んだか、はかりしれません。
 このように在りし日の弥四郎の思い出を綴られたうえで大聖人は、光日尼の悲しみに、いっそう寄り添っていかれます。
 「人間に生をうけたる人上下につけてうれへなき人はなけれども時にあたり人人にしたがひて・なげき・しなじななり」(0929-09)。
 すべての人は何らかの憂いや苦悩をもって生きています。本当に一人一人の悩みは千差万別です。病気が重くなれば、これ以上の病はないと思うものです。主君との別れ、夫婦との別れもあります。しかし、親子の別れ、夫婦の別れもあります。しかし、親子の別れは、時間を経るごとに嘆きが深まる。まして「老いたる母」がとどまり、「若き子」が先立つほどの深い嘆きはありあせん。わが子のためなら何をも厭わない母尼の心を思えば「なみだもとどまらず」(0930-02)そのような思いでいっぱいであると綴られています。
 本抄に限らず大聖人のお手紙を拝すると、大聖人が門下一人一人の境遇や心の動きはそれぞれ異なります。そうした心情を思いやるところから、真心の励ましは始まります。
 ひるがえって現代は、他者の心を思いやる想像力を衰えていると憂える人は少なくありません。他者の無関心の風潮が広がる今ほど、人間同士の絆を取り戻すことが求められている時はありません。人間と人間の絆の回復と構築は、時代の要請です。
 私たちの創価の励ましの運動は、その変革の支柱として、多くの方から期待を寄せられています。大聖人の人間尊敬の宗教を信奉する私たちの社会貢献は、ますます、新たな潮流を起こしつつあるのです。
 さて本抄に戻れば、渾身の激励は、いよいよ光日尼の嘆きの核心に触れていきます。

03   又御消息に云く人をも・ころしたりし者なればいかやうなる・ところにか生れて候らん・をほせをかほり候はん
04 と云云、 夫れ針は水にしずむ雨は空にとどまらず、 蟻子を殺せる者は地獄に入り死にかばねを切れる者は悪道を
05 まぬかれず、何に況や人身をうけたる者を・ころせる人をや、 但し大石も海にうかぶ船の力なり大火も・きゆる事
06 水の用にあらずや、 小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、 大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ、
-----―
 また御手紙には「弥四郎は人を殺した者であるから、後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。どうかお教え願います」等と書かれていた。
 針は必ず水に沈み、雨は空にとどまっていることがないように、また、蟻子を殺した者は地獄に堕ち、屍を切った者でさえ、悪道に堕ちることを免れない。ましてや人身を受けた者を殺した人はなおさらのことである。ただし大石も海に浮かぶ、それは船の力による。大火も消えるのは水の働きではないか。同じ道理で小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える。

嘆きの母へ、全魂の激励を
 光日尼は大聖人の手紙で、こう質問されました。“子息の弥四郎は、武士として人を殺さざるを得なかった。死後はどのような所に生まれてしまうのでしょうか”と。
 そもそも、こうした問いがなされること自体が、戦争がもたらす悲劇があると言わざるをえません。戦争は、勝者も敗者もともに不幸である。悲惨であり無残です。だから絶対に戦争を起こしてはならない。光日尼のような“母の嘆き”を繰り返してはならない。そのために、指導者たちは真剣に英知を結集すべきです。生命の尊厳、そして平和の創出は、立正安国論の悲願であります。平和と共生への対話こそ、人類の進むべき第一歩であらねばならない。私たちの使命はますます重要です。
 ともあれ、弥四郎の場合も、自ら望んで作った罪はどうなるのか。嘆きの母に対して、大聖人は全魂の激励を続けられていきます。
 水に沈む大石も海に浮かぶことがある。それは、舟の力である。こうした譬えを通して大聖人は、仏法には、本来なら悪道に堕ちる人をも守り、導くことができる力があると示されています。
 大聖人は、続いて具体的に、小さな罪であっても懺悔しなければ悪道を免れることはできない。反対に、大罪でも懺悔すれば、その罪は消滅すると、仏典に示されている例を挙げて教えられています。
 懺悔とは、一般には、過去に犯した罪を仏や人々の前で告白し、許しを請うこと、すなわち悔い改めることです。もちろん、罪を犯した事実が消えるわけではありません。しかし、本人が心から罪を悔いて仏法に帰依し、正法に基づいて自他共の幸福を真に願っていくならば、必ず蘇生の大道を歩んでいくことができるのです。
 大聖人が本抄で取り上げられているのは、悪人の阿逸多と竜印と阿闍世王の懺悔です。いずれも、釈尊の前で懺悔して、新生の道を歩み出すことができました。特に阿闍世王の場合は、提婆達多という悪僧を師匠としてしまったことが最大の不幸でした。しかし、最高の善知識である釈尊に帰依して懺悔した時に、罪は消えて病も癒えたのです。
 大切なことは、自分自身を深く見つめ直し、心の底から生まれかわり、正法に生き抜く新たな自分を築くことです。悪知識の誤った教えを捨てて、正しい師匠の正しい法に基づくことによって初めて、自分を根本から変えることができます。法華経という万人成仏の法を根本とする正しい軌道に入れば、必ず大いなる善根を積むことができるのです。
 法華経の結経である普賢経には「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は露霜の如く、慧日は能く消除す」とあります。戸田先生もよく、私たちの懺悔といっても、それは、日々、御本尊の前で広布に生きる新たな前進を誓うことに尽きると教えてくださいました。
 いずれにしても、悪道に堕ちることを免れる方途があることを諄々と説かれる御慈愛に、光日尼は次第に納得し、妙法への確信を深めていったことでしょう。その光日尼に、“御子息は大丈夫ですよ。霊山からあなたを見守っていますよ”と最高の励ましをおくられるのが、次の御文です。

06   これらは・さてをき候いぬ人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども
07 親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、 されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母 ・釈迦仏の御宝前にして
08 昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、 いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみち
09 びく身とぞ・なられて候らん、 
-----―
 これらはさておいて、人の親は悪人であっても子が善人であれば、親の罪を許すこともある。また子が悪人であっても、親が善人であれば、子の罪を許されることもある。であるから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあろうか。ましてや弥四郎殿は生前は法華経を信じていたのであるから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられるであろう。

妙法に縁した家族の絆は永遠
 ここで大聖人は、光日尼と弥四郎の母子一体の成仏は間違いないと断言されています。
 大聖人は光日尼に与えられた他の御書でも、こうのべられています。
 「而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ、又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧めか此の功徳空しからざれば子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし」(0933-17)
 「何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき」(0934-07)
 妙法に縁した家族の絆は三世永遠です。
 かりにただ一人しか信心していなくとも、その人の妙法の回向の力は一族全員に及びます。しかも信仰を貫いた人は、必ず霊山に行き、そこで今度は、家族・眷属を導く存在となっていけるのです。
 肉親との別れほどの嘆きはありません。病気や事故で家族を失うこと、あるいは、子供に先立たれること、まさに、心が張り裂けるような思いにかけられます。悲しみが癒えるまでには、時間がかかるでしょう。
 しかし、釈尊の「芥子の種」の教えにも示されている通り、愛する人を失う悲しみを経験したことのない人はいません。
 必ず何かの深い意味があります。また、絶対に、その意味をみつけることができる。分かる日が必ず来ます。どんなことがあろうとも、恐れず惑わず、仏法の眼で見つめ乗り切っていくのです。
 大聖人は、あの「冬は必ず春となる」の一節を贈られた妙一尼に、こう仰せです。
 亡くなったご主人は、月が太陽の天の鏡に妻子の身を浮かべて昼も夜も片時もおかず見守っていますよ。あなたたち妻子の側は凡夫だから気づかないだけですよ。
 ひとたび妙法に縁した人が断じて守られないわけがありません。たとえ事故であれ、天災であれ、病気であれ、「心を壊る能わず」(0065-16)です。広宣流布の途上で亡くなられた方々は、透徹した信心の眼で見るならば、人類の宿命転換に挑み、今世における使命を全うした方々です。次なる生の準備として、霊山に旅立っているのです。むしろ、妙法に縁した故人は、必ず霊山で私たちを見守っています。「霊山にまいりて返てみちびけかし」(0234-11)と仰せです。
 「本有の生死」から見れば、私たちは、娑婆世界にいようと、霊山にいようと、共に永遠に広宣流布を目指し、共々に人類の宿命を転換するために戦い続ける「共戦の友」であり、「妙法の家族」であり、「広布の同志」なのです。
 私たちが信心を根本に戦っていけば、仏法の生死観を生命で実感し、納得する時が来ます。事実、根底にそうした生死観を身につけた学会員が大勢いらっしゃることは、皆さまがよくご存じの通りです。難解な哲学の言葉で語らずとも、妙法の同志は生死を超えてつながっていること、そして、「生も歓喜、死も歓喜」の大境涯があることを仏法の智慧で感じとっている方は数え切れません。学会員は心強い安心立命の行き方ができるのです。
 大切な人の死という悲しみの淵から立ち上がり、その意志を、さらに決然とさらに堅固に実現していく人生ほど、深く、尊く、強いものはない。 これは戸田先生がしみじみ語られたことです。
 光日尼も、御子息が霊山から母を導く身になっていますよとの大聖人の激励に心の底から安堵したことでしょう。何よりも、大聖人が見守ってくださっていること、大きく包まれながら強く生き抜く決意がうまれたのではないでしょうか。

09                法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ、念仏者
10 と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば いかに法華経をよむとも 法華経のかたきとしろしめす
11 べし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ、あはれあはれ・けさんに入りてくわしく申し候はばや、
-----―
 法華経を信ずる人は、用心に用心を重ねて、法華経の敵を恐れていきなさい。念仏者と持斎と真言師とそのほかいっさいの南無妙法蓮華経と唱えない者は、どんなに法華経を誦んでも法華経の敵であると知っていきなさい。なにが仏道修行の敵であるかを知らなければ敵にだまされてしまう。なんとかして面会して詳しくお話したいものである。

「法華経の敵」と戦い抜く決意
 大聖人は、“今、これから”光日尼が信心を貫くにあたって、重要な御指導を最後にされています。それは「法華経の敵」を見極めよ、悪知識に紛動されるなとの戒めです。
 「かたきをしなねば、かたきにたぼらかされ候ぞ」と仰せです。信心を貫けば必ず三障四魔が競います。安房は、かつて東条景信という、大聖人を憎み、迫害した地頭がいた地域です。絶対に油断してはならないし、そこで、法華経の敵に紛動されて信心を見失ってしまうことがあっては断じてならない。
 「不信」や「誹謗」があれば、わが心が破壊されてしまうからです。心が破壊されてしまうことは、身の破壊よりもはるかに恐ろしいことです。それこそ、悪道へ向かってしまうからです。
 そして、本当は直接お会いして、詳しく語りたいのですがといわれ、代わりに、私の弟子とよく連帯を取り、周囲に信仰を悪口する者がいても、とりあうことのないようにと指導されて本抄を結ばれています。
 何よりも一番大切なのは、本人の「信心」そのものです。その信心を育むために、同志の励ましがあり、広宣流布の会合があります。戸田先生の個人指導も、それはそれはこまやかでした。虚栄や慢心、傲慢には妥協をゆるされませんでしたが、まじめな学会員には、相手が恐縮するほど、細心の心配りをされていました。困っている人には親身に相談にのり、厳しい指導をされた後は、周囲に「後で激励しておくように」と指示され、その人が親身に相談にのれる人まで作られました。まさに「個人指導の達人」でした。
 激励は真剣勝負です。逆巻く激流の中で、大聖人の仏法を唯一の杭として、それにつかまる思いで励ましを重ねていくしかありません。「共に励まし、共々に征かなむ」の精神で、共に前進していくとちかうことが指導の要諦です。
 さて、光日尼のその後ですが、本抄から数年後に賜った二編の御手紙を拝してみましょう。そこでは「心の月くもりなく身のあかきへはてぬ、即身の仏なり・たうとし・たうとし」(0934-01)「法華経の行者と成り給ふ」(0934-07)
 大聖人に御安心いただき、元気に戦っている様子が伝わってきます。まさしく、大聖人の渾身の激励によって、一人の”嘆きの母”が蘇生し、宿命転換していった姿がうかがえます。この光日尼を、大聖人は「光日上人」とも呼ばれ、讃えられました。
 妙法の励ましは、その人自身が本来具えている妙法の力、すなわち人間の根源的な力を呼び覚ますことです。誰人にも具わる「生きる力」を湧現させ、「勇気」と「希望」と「確信」を贈ることです。
 指導は策や方法では生まれません。その人の幸福を願って徹して祈る。その心自体が自身の「仏性」を強く深く湧現させます。仏法の励ましは、その仏の智慧から生ずる励ましであり、根底は慈悲です。そして勇気です。共に「勝利を飾る」 その日まで、励まし抜くしかありません。
 私たちは、この大聖人の励ましの人間主義を広げ、人間宗の暖流で、社会を包んでいきたい。これが、私の願いです。
 大聖人の如くに、また、徹して「一人を大切に」を信条に、共々に偉大な前進をよろしく頼みます。皆が「励ましの達人」になれば、未来永遠に学会の大発展は約束されているのです。

0932~0934    光日上人御返事top
0932:01~0933:01 第一章 無間地獄の相貌を明かすtop

0932
光日上人御返事    弘安四年八月    六十歳御作
01   法華経二の巻に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云、阿鼻地獄と申すは天竺の言・唐土・日本には無間
02 と申す無間はひまなしとかけり、 一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候、 十二時の中にあつけれども又す
03 ずしき事もありたへがたけれども 又ゆるくなる時もあり、 此の無間地獄と申すは十二時に一時かた時も大苦なら
04 ざる事はなし 故に無間地獄と申す、 此の地獄は此の我等が居て候大地の底 ・二万由旬をすぎて最下の処なり、
05 此れ世間の法にもかろき物は上に重き物は下にあり、 大地の上には水あり地よりも水かろし、 水の上には火あり
06 水よりも火かろし、 火の上に風あり火よりも風かろし、 風の上に空あり風よりも空かろし、人をも此の四大を以
07 て造れり悪人は風と火と先ず去り地と水と留まる 故に人死して後重きは地獄へ堕つる相なり、 善人は地と水と先
08 ず去り風火留る 重き物は去りぬ 軽き物は留まる故に軽し人天へ生まるる相なり、 地獄の相重きが中の重きは無
09 間地獄の相なり、 彼の無間地獄は縦横二万由旬なり八方は八万由旬なり、 彼の地獄に堕つる人人は一人の身大に
10 して八万由旬なり多人も又此くの如し、 身のやはらかなる事綿の如し 火のこわき事は大風の焼亡の如し鉄の火の
11 如し、 詮を取つて申さば我が身より火の出ずる事十三あり、 二の火あり足より出でて頂をとをる・又二の火あり
12 頂より出でて足をとほる ・又二の火あり背より入りて胸より出ず・又二の火あり胸より入りて背へ出ず・又二の火
13 あり左の脇より入りて右の脇へ出ず ・又二の火あり右の脇より入りて左の脇へ出ず・亦一の火あり首より下に向い
14 て雲の山を巻くが如くして下る、 此の地獄の罪人の身は枯れたる草を焼くが如し 東西南北に走れども 逃去所な
15 し、 他の苦は且らく之を置く大火の一苦なり 此の大地獄の大苦を仏委しく説き給うならば我等衆生聞いて皆死す
0933
01 べし故に仏委しくは説き給う事なしと見えて候。
-----―
 法華経第二の巻の譬喩品にいわく「法華経誹謗の人は命終えて阿鼻地獄に入るであろう」と。阿鼻地獄というのは天竺の言葉で、阿鼻とは唐土および日本では無間という。無間は間断無しとの意である。地獄には百三十六の地獄があり、そのなかの百三十五は、苦しみに間断がある。十二時のほとんどが熱いといってもしばらくは涼しいこともある。その苦は堪え難いけれども、緩やかになるときもある。だがこの無間地獄というのは一日中で一時、片時も大苦でないことはない。故に無間地獄というのである。この無間地獄はわれわれの住んでいる大地の底・二万由旬をすぎて最も下の処にある。この世間の法則でも軽い物は上に重い物は下にある。大地の上には水がある。大地よりも水は軽いからである。水の上には火があり、水よりも火は軽い。火の上には風があり、火よりも風は軽い。風の上に空があり、風よりも空は軽いのである。人間もこの地水火風の四大で造られている。悪人は風と火とがまず去ってしまい地と水とが留まる故に、人が死んでのちに重いのは地獄へ堕ちた相である。善人は地と水とがまず去って風と火が留まる。重い物は去り軽い物が留まる故にその遺体は軽い。これは人界・天界へ生まれる相なのである。
 地獄の相は重いが、そのなかでも最も重いのは無間地獄の相である。彼の無間地獄は縦横が二万由旬であり八方では八万由旬である。この無間地獄に堕ちた人々は身体が大きくなり八万由旬になる。多人数でも同じである。身体が柔らかくなることは綿のようなものであり、火が強いことは大風に吹かれて焼亡するようなものであり、鉄火のようなものである。詮じつめていえばわが身より火を出すことに十三ある。まず二つの火があり、この火は足から出て頭の頂を通り抜ける。また二つの火があって、この火は頭の頂から出て足へ通り抜ける。また二つの火があり、この火は背中から入って胸より出る。また二つの火があり、この火は胸から入り背中へ抜ける。また二つの火があり、この火は左の脇から入って右の脇へ抜ける。また二つの火があり、この火は右の脇から入って左の脇に出る。さらにまた一つの火があり、この火は頭から下へ向かって入り、雲が山を巻くようにおりる。そのためこの地獄の罪人の身体は枯れた草を焼くようなもので、罪人がこの猛火を避けようとして東へ西へ南へ北へと走るけれども逃げ去るところがない。以上はこの罪人の受ける他の苦をまず置いて大火の一苦だけを述べたものである。この阿鼻大地獄の大苦を仏が委しく説くならば、われわれ衆生は聞いて驚き皆死んでしまうゆえに、仏は委しく説くことはないとみえるのである。

一百三十六の地獄
 長阿含経、倶舎論、正法念経等に説かれている。大小の地獄の全体の数で、八熱地獄は等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻地獄のおのおのに十六の別処があり、合わせて百二十八、これに八大地獄を加えて一百三十六の地獄となる。
―――
十二時
 一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。
―――
二万由旬
 由旬とは、里数をあらわす梵語。一由旬には諸説があるが、一般には大唐西域記の説を用い、帝王の一日の行軍里程で三十里(一里は600㍍)とも、四十里ともいわれている。したがって二万由旬は六十万里~八十万里。倶舎論の説によれば閻浮提の地下二万由旬のところに、たて、横、深さおのおの二万由旬の無間地獄があるといわれる。
―――
四大
 四大種の略称。地・水・火・風をいう。この地・水・火・風はともに空を依処としているのであり、五大と同意である。すなわち、妙法蓮華経を意味し、宇宙の根本を構成する要素であり、人間の五体もこの四大よりなっている。地は骨・肉・皮膚、水は血液、火は熱、風は呼吸をさす。
―――――――――
 正法誹謗の者はことごとく無間地獄に堕ちることを明かすにあたって、冒頭に法華経譬喩品第三の「其の人命終して阿鼻獄に入らん」の文を挙げておられる。
 すなわち、はじめに地獄一般の位置を示し、悪人は地獄に堕ち、善人は人天に生まれることを述べ、しかして、地獄に堕ちた者が無間地獄の業火に苛まれる様をつぶさに述べられた段である。
地獄の思想について
 「地獄」という言葉そのものから、燃え盛る炎のなかで獄卒に苛まれている罪人の姿を連想するように、この地獄の地とは最低のこと、獄とは拘束された不自由な境涯を意味する。合わせて、十界の最低であり、極度の苦悩と不自由の境涯を地獄というのである。
 ところでこの地獄は、その犯した罪業の種類や軽重、多少によって、その受ける苦しみも区別されるので、非常にたくさんの種類に分かれる。
 この段にも「一百三十六の地獄」とあるが、三重秘伝抄に日寛上人は「八大地獄に各々十六の別処あり故に一百三十六通じて地獄と号するなり」と述べられている。
 実は、この分け方は、経文によってかなり異なり、長阿含経では八熱地獄、十地獄、十六地獄を説き、俱舎論では八熱、八寒、孤地獄および八熱おのおのに十六小地獄があって百三十六地獄をあげている。
 このように地獄については様々な角度から論じられてはいるものの、地獄の本質は、われわれの生命に感ずる苦悩、煩悶の境涯であり、生命論を根底にしてはじめて、その実相を明らかに理解することができるのである。
 たとえば西欧思想における地獄観を取りあげてみよう。西欧思想にあっては、十界などという精密な概念はもとよりなく、ただ、死後の世界の善と悪の両極として天国と地獄を説いているにすぎない。なおこれに、中間の贖罪の世界として煉獄を加えるものもあるが、まことに幼稚なものである。
 ギリシャ神話では、ゼウスの治める天上界とポセイドンの治める海洋界に対し、ハーデースの治める冥界を立てる。このギリシャ神話と並んで、ヨーロッパの二大神話とされる北欧神話では、オーディンの治める世界に対して、女神ヘルおよび魔軍の治める地獄の世界を想定している。
 さらに旧約聖書では、最初は地獄を、忘失の国、眠りと完全な忘却と沈黙の国として描き出し、ついで悪しき者はゲヘナに投げこまれて永遠に焦熱の苦患を受けると説明した。新約聖書では、死者の霊のおもむくところとしてハーデース、悪人が永遠の刑罰を受けるところとしてゲヘナを立てる。これをのちに神学が煉獄と地獄に変形させたのである。つまり地獄があくまで悪しき者に対する永遠の苦罰の獄であるのに対し、一時的な浄めを要する死者の行くところが煉獄であるという。
 これらはいずれも、地獄をわれわれの世界とは離れた、死者の世界とするもので、観念論以外のなにものでもない。生命論からいっても、地獄、煉獄、地上、天国としか生命活動を分析しえない、浅薄な議論である。そこに、これらがあくまで神話にとどまり、哲学にはなり得なかった所以があるといえよう。
 しかるに、日蓮大聖人の生命哲学では、地獄を、生命論の上から、生活に約してみごとに論じきっている。すなわち、地獄は、絵画や物語に描かれた架空の世界ではなく、われわれが現実に経験する、希望も、前進も、充実感もない、苦悩に満ちた生命であり、妙法を信受することによって地獄即寂光と開くのである。
 「上野殿御家尼御返事」に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ……法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」(1504-09)と仰せである。
 このように、地獄界から仏界までの十界の生命が、それぞれ縁によって生じ、われわれの心身を支配しているのが生命の実相であり、生命の実体である。ただこの十種は融和一体となって、対境に縁するとき随時にあらわれ出でるものである。一つの生命が地獄を感ずるときは、その人にとっていっさいが地獄となり、他は冥伏するのである。
 さらに主体である人間が地獄の境涯になったとき、その環境もまた依正不二の原理によって、その人にとって地獄になる。苦悩のどん底にある人にとっては、他の人にとっては楽しかるべきものも、苦悩を増すものでしかない。
 顕謗法抄等に、八大地獄の凄じい様相が説かれているが、それは、なにもこの現実世界から離れた別世界ではない。日常生活で、病気、貧困、家庭の不和、子供の不良化等に悩み苦しむことが、そのまま地獄ではないか。
 無間地獄の住処を、地の下二万由旬等と説き、この段に「人死して後重きは地獄へ堕つる相なり」とあるのも、いずれも境涯論である。苦悩に苛まれている境涯は、なにもかもが重苦しく感ずるものなのである。また地獄の寿命についても、非常に長い時間論が説かれているが、これも苦しんだり悩んでいるときには、時間の経つのが遅く長く感じられることに通ずるのである。いわんや死後の地獄は御文のとおりである。
 したがって、地獄即寂光と開く抜苦与楽の大仏法こそ、地獄の責めを負っている現代の民衆の曙光といわねばならない。

0933:02~0933:09 第二章 弘安の役と予言的中top

02   今日本国の四十五億八万九千六百五十八人の人人は皆此の地獄へ堕ちさせ給うべし、 されども一人として堕つ
03 べしとはおぼさず、 例せば此の弘安四年五月以前には 日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざ
04 りしを日本国に 只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる、 其の時日本国の四十五億八万九千六百五
05 十八人の一切衆生 ・一人もなく他国に責められさせ給いて、 其の大苦は譬へばほうろくと申す釜に水を入れてざ
06 つこと申す小魚をあまた入れて枯れたるしば木をたかむが如くなるべしと申せば、 あらおそろし・いまいまし・打
07 ちはれ所を追へ 流せ殺せ信ぜん人人をば田はたを・とれ財を奪へ所領をめせと申せしかども、 此の五月よりは大
08 蒙古の責めに値いてあきれ迷ふ程に さもやと思う人人もあるやらん、 にがにがしうして・せめたくはなけれども
09 有る事なればあたりたり・あたりたり、日蓮が申せし事はあたりたり・ばけ物のもの申す様にこそ候めれ。
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 今、日本国の四百五十八万九千六百五十八人の人々は皆この地獄に堕ちるであろう。ところが誰一人として地獄へ堕ちるとは思ってはいないのである。たとえばこの弘安四年五月以前には日本の上下万人が一人も蒙古の責めに値うとは思っていなかったのを、日本のなかでただ日蓮一人だけが、蒙古の来襲がこの日本に起こると予知していたのである。そのときに日本国の四百五十八万九千六百五十八人の一切衆生は一人も残さず、他国に責めたてられて、その大苦は、譬えていえば焙烙という釜に水を入れ雑魚という小魚を沢山入れて、それを枯れた柴木で煮焚くようになるといったところ「日蓮は実に恐ろしい。実に忌々しい。彼を打て、所を追い出せ、島流しにせよ、殺してしまえ、彼を信ずる者の田畑を取り上げよ、財産を奪え、所領を没収せよ」といっていたが、この五月からは大蒙古の責めに値予言の的中にあきれ迷うようになったので、なかには「ほんとうにその通りなのかも知れない」と思う人々もあるだろう。非常に不愉快なことであるから、いいたくはないが、事実なので予言はあたったのである。日蓮が日ごろからいっていたことがあたったのである。だがいままで反対してきた謗法の者は、日蓮のいうことを化け物がいっているかのように思っているであろう。

四十五億八万九千六百五十八人
 当時日本全国の男女の総人口数。当時の億はいまの10万の位に当たる。したがって、4,589,858人となる。大聖人のもちいられたものは、8世紀の統計によると思われる。
―――
ほうろく
 平たい素焼きの鍋。食品、薬品などを炒めるが、主にゴマ・マメ類、麦米を炒めるのに使用した。炒鍋、早鍋ともいう。
―――
此の五月よりは大蒙古の
 弘安4年(1281)5月の蒙古襲来をさす。文永の役についで、日蓮大聖人の予言どおり弘安4年(1281)5月の第二回蒙古襲来は、モンゴル、漢、高麗合同の東路軍約42,000人、軍船900隻と旧南宋の江南軍100,000人、軍船3,500隻の二軍団の大軍であった。5月21日対馬、26日には壱岐を侵し、6月には九州・博多へと迫った。各軍一か所に集結し、大挙大宰府攻撃を企てたが、閏7月1日夜大風雨にあって大半が壊滅した。
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 未萠を知る聖人として、日蓮大聖人は法華誹謗の恐ろしさと他国侵逼の予言をなされたが、無知な民衆はことごとに大聖人ならびに御門下を迫害した。だが現実に予言が的中したことを明かされた段である。
 予言の的中と国難に値った民衆の苦悩、さらに大聖人が敢えて予言の的中を明かされた理由については通解を読めば理解できるゆえに講義を省略する。なお大聖人のご予言については、種種御振舞御書講義の第三章にあるので参照されたい。

0933:10~0933:16 第三章 国家滅亡の根本原因を明かすtop

10   去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして 京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り
11 戦を起して義時に責められ・あはて給いしが如し、 今今御覧ぜよ法華経誹謗の科と云ひ 日蓮をいやしみし罰と申
12 し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて 現生には此の国に修羅道を移し後生には無間地獄へ行き給うべし、 此
13 れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と此れ等の人人を結構
14 せさせ給う国主の科と、 国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして還つて怨をなす大科、 先例を思へ
15 ば呉王・夫差の伍子胥が諌を用いずして越王・勾践にほろぼされ、 殷の紂王が比干が言をあなづりて周の武王に責
16 められしが如し
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 去ぬる承久の合戦のときに、隠岐の法皇の前で京の二位・藤原兼子などというなにも知らない女官達が集まって、法皇をそそのかして合戦を起こし、かえって北条義時に打ち破られ、あわてたようなものである。現在をよくよく見なさい。法華経を誹謗した科といい、日蓮を卑しんだ罰といい、経である法華経と仏と僧の三宝を誹謗した大科によって、現世にはこの国に修羅道を現出し、後生には無間地獄に堕ちゆくであろう。これはまた偏に真言宗の弘法、慈覚、智証の三人の法華経を誹謗した科と、禅宗の達磨・念仏宗の善導・律宗の僧等の一乗誹謗の科と、これらの邪僧悪侶を増長させた国主の科と、国を思い生地を大事にして、かねてから諫暁しているのを用いないで還って怨を為す大科によるものである。これらの大科は、先例を思えば、呉王の夫差が伍子胥の諌言を用いないで越王の勾践にほろぼされ、殷の紂王が比干の忠言をあなどって周の武王に攻め滅ぼされたようなものである。

承久の合戦
 承久3年(1221)朝廷が幕府を倒そうとして企てた乱、失敗に終わった。地頭職問題で幕府側と不穏になった朝廷側は後鳥羽上皇を中心として謀議を企て、北面の武士や、幕府に不満をもつ武士等を集めるべく、北条義時追討の院宣を発した。義時は家人を結束させ、朝廷の軍勢を二か月で討った。その結果、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に配流したのをはじめとして、三上皇を配流し、天皇を交代させた。この結果、皇室は全く権力を失い、北条執権政治の時代が出現した。
 後鳥羽上皇を中心とする朝廷軍の根本的な敗因は、幕府調伏のため真言の祈禱を行なったことによる。「還著於本人」の経文どおり、亡国の悪法たる真言宗に祈禱したのであるから、かえってわが身を亡ぼす結果となったのである。
―――
隠岐の法皇
 後鳥羽上皇(1180~1239)のこと。承久の合戦の主謀者とされ、合戦ののち、幕府により隠岐に流された。
―――
京の二位殿
 藤原兼子(1155~1229)をさす。藤原範兼の女。後鳥羽上皇の乳母。朝廷内の陰の政治家で、典侍、従二位であったため二位殿とよばれた。院の幕府対策に常に参与し、幕府側の権勢者・尼将軍と相並んで、東西の二大女性政治家といわれた。承久の合戦後、上皇が隠岐の島に流されたあとも京にあったが、その勢力は衰えた。
―――
義時
 北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
―――
三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
呉王・夫差の伍子胥が諌を用いず
 夫差(不明~前0473)は中国春秋時代の呉王朝最後の王である。父の呉王闔閭は越王勾践に敗れ、その復讐を子の夫差に託して死ぬ。そこで夫差は、2年後に再び勾践と相対して勾践を敗る。勾践は夫差に和解を申し入れるが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。そのとき家臣の伍子胥は、越が後日軍備を整えて攻めてくるのを見通して、夫差に勾践の首をはねることを進言した。夫差はこれを聞き入れないので、再び勾践を殺すことを進言するが、それも聞き入れられず、かえって宰相・嚭の讒言により自害させられる。そのとき、伍子胥は「自分の死んだのちに、わが眼を呉の東門にかけておけ、敵国越が呉を亡ぼすさまを見届けよう」といって自害した。その後予言どおり呉は越に亡ぼされた。
―――
殷の紂王・比干
 紂王は紀元前12世紀ごろの中国殷代最後の王。帝辛ともいう。智力・能力・腕力ともに勝れたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、盛んに宮苑楼台を建築し、珍しい禽獣を集め、妲己のいうがままに酒を池とし、肉を木にかけて林とし、長夜の宴を張った。側近が諌めるのを全くとりあわず挙句は刑罰を重くし、炮烙の刑を新設した。また、自分のいうことを聞かない臣下を殺して塩漬けの肉としたり、それを諌めた家来を乾し肉にしたり、少しでも、敵意をもつ者は捕え、逆に讒言の上手な家来を用いるなどの悪行に、民心は完全に離れていった。このような紂王の乱行に、王子の比干は再三の諌言をしたが、全く聞き入れられず、ついに比干は「人臣たる者は、死を賭してお諫めしなければならない」と面をおかして紂王を諫めた。すると紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」といって比干を殺し、その心臓を解剖したという。こうした悪行の連続で、すでに民心は紂王のもとにはなく、ために周の武王が僅か800騎で攻めてきたのに、紂王70万の軍は寝返りを打つ者、戦意皆無の者ばかりで武王に敗れたのである。
―――
修羅道
 阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。
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弘法・慈覚・智証等の三大師
 弘法は日本真言宗の開祖、渡唐し長安青龍寺の恵果に胎蔵・金剛両部の法を学び、帰朝後、大日如来を本尊とし、法華経を戯論の法と唱え真言密教の邪義を弘めた。
 慈覚ははじめ伝教の弟子となり、天台宗延暦寺第三の座主となったが、伝教の法に従わず理同事勝と称して、大日経を尊び法華経を軽んじて、慈覚派の祖となった。
 智証は慈覚のあとをうけ、比叡山第四の座主となった。智証派の祖。慈覚以上に真言の邪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。いずれも悪相を現じて没した。
―――
達磨・善導・律僧等
 達磨は中国禅宗の祖、菩提多羅のこと。達磨は般若多羅より教えを受け、彼の滅後60余年間中国に法を弘めるように命ぜられ、梁の普通元年(0520)中国に入り、武帝に禅を説いたが、帝に拒否され、魏に渡り嵩山の少林寺の壁にむかい九年間坐禅した。そのため壁観婆羅門とよばれる。悪相を現じて死んだ。
 善導は中国唐時代の浄土宗の僧である。道綽の弟子で、浄土教を修し、念仏を弘め、浄土教義を完成した。のちに気が狂い柳の木に縄をかけ自殺しようとしたが地面におち、14日間苦しみぬいて死んだ。
 律僧は律宗の僧で、中国唐代の道宣等がいる。
――――――――
 蒙古に攻められた根本原因がどこにあるかを仏法の原理により、明瞭に示された段である。
 すなわち、正法の三宝を誹謗するがゆえであり、それはまた、邪法・邪師の罪と、これを増長せしめた国主の罪と、大聖人の諫言を用いないで、かえって怨をなした罪とに帰着する。この御教示は、一国の安穏、世界の平和を考えていくうえにおいて、最も重視すべき問題をおおせられているといえよう。
 国に正法を興隆し、思想を確立することこそ、平和建設の根本義である。なかんずく、現代においては、この原理が現実性をおびてきている。なぜかならば、恐るべき破壊力をもつ核兵器や、大陸間を一息に飛ぶミサイルなどが戦争の主役として登場した今日、一国の防衛も、集団防衛も、それが軍備である限り、なんの効果もありえないからである。
 むしろ、互いに軍備を拡大し合い、技術的発展を競い合うことによって、ますます戦争の危機を深めているのが現状ではあるまいか。したがって、国を滅し、文明を破壊し、そして人類を滅亡させる最も恐るべき元凶は、ほかならぬ、このようにゆがんだ人間の思想であり、生命の汚濁なのである。
 この人間生命の汚れと思想の歪みを生じた本源こそ、宗教の問題であり、これを正し、浄めるためには、生命の根本問題を解決した日蓮大聖人の大仏法によらねばならない。

0933:16~0934:10 第四章 母子一体を説き光日房を激励top

17   而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ、 又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧め
18 か此の功徳空しからざれば 子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし、 烏竜と云いし者は法華経を謗
0934
01 じて地獄に堕ちたりしかども其の子に遺竜と云いし者 ・法華経を書きて供養せしかば親・仏に成りぬ、 又妙荘厳
02 王は悪王なりしかども御子の浄蔵・浄眼に導かれて娑羅樹王仏と成らせ給う、 其の故は子の肉は母の肉・母の骨は
03 子の骨なり、 松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく 情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり、何に況や親と子との
04 契り胎内に宿して九月を経て生み落し数年まで養ひき、 彼にになはれ彼にとぶらはれんと思いしに 彼をとぶらふ
05 うらめしさ、 彼如何があらんと思うこころぐるしさ・いかにせん・いかにせん、 子を思う金鳥は火の中に入りに
06 き、 子を思いし貧女は恒河に沈みき、 彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給え
07 り、 何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、 母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし
08 、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき、恐恐。
09       八月八日                        日蓮花押
10     光日上人御返事
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 しかしながら光日尼御前はいかなる宿習によって法華経を信ずるようになったのであろうか。また亡くなった弥四郎殿が法華経を信じていたので、その子の勧めによってであろうか。法華経を信じた功徳はないわけがないのであるから、子の弥四郎殿と共に霊山浄土に参って会うことは疑いないことである。烏竜という者は法華経を誹謗して地獄に堕ちたけれども、その子の遺竜が法華経を書写して供養したので、親の烏竜は成仏したのである。また妙荘厳王は邪見の王であったが、その子浄蔵と浄眼に導かれて、娑羅樹王仏と成ったのである。その理由は子の肉体は母の肉体より生じたもので同じであり、母の骨は子の骨と同じで親子は一体のゆえである。松が栄えれば柏は悦ぶ、芝が枯れれば蘭はなくといわれる。非情の草木ですら友の喜び、友の歎きは一体なのである。ましてや親と子との宿縁はそれ以上ではないか。母は胎内に子を宿して九か月を経て出産し数年の間養育してきた。老後はその子に荷われ、死後も追善を営んでもらえるだろうと思っていたのに、逆に子の弥四郎を弔うこの悲しさ、わが子は今どうしているだろうかと思う心の苦しさは一体どうしたらよかろうか。子を思う金鳥は子を助けるために火の中に入って一命を捨てた。子を思う貧女は最後まで子を守ってガンジス河に沈んだ。だが彼の金鳥は今の弥勒菩薩であり、ガンジス河に沈んだ貧女は大梵天王と生まれたのである。ましてや今の光日上人はわが子を思うあまり法華経の行者となったのである。よって必ず母と子が共に霊山浄土に参ることができよう。そのときの対面はどんなにか嬉しいことであろう。どんなに嬉しいことであろう。恐恐。
  八月八日             日 蓮  花 押
   光日上人御返事

烏竜・遺竜
 中国・并州(山西省)の人。姓は李氏。烏竜と遺竜の話の原典は僧祥撰の法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。御書のなかでは「法蓮抄」に詳しく、また「光日上人御返事」にも引用される。
―――
妙荘厳王
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
―――
浄蔵・浄眼
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王、その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。この二子は、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家して、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父の前でいろいろな神通力を現じてみせ、ついに仏の教えに帰依させることができた。この二人の姿こそ、真の親孝行であり、大善を意味する。さらに、その因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者がその功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と、二人の王子に生まれて、王を救うことを誓った。これが浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼の二人の子供で、三人で妙荘厳王に仏道を得さしめ、過去世の恩を返したのであった。
―――
娑羅樹王仏
 妙荘厳王が法華経を修行し、仏から受けた成仏の記莂。
―――
松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく
 友情のあたたかさを樹木にたとえて示している。君臣のたとえにも使う。文選・陸士衡の歎逝賦に「松の茂りて柏の悦ぶことを信じ、芝の焚かれて蒐の歎くことを嗟く。翰が曰く、茂蒐は香草なり。言ふこころは親友既に逝す、其情聊きことなし」と。蒐とは蘭のことをいう。
―――
子を思う金鳥
 親の子を思う気持ちをあらわした故事。金鳥は雉のこと。発心集十三に「雉の子を生みて温むる時、野火にあひぬれば、一度は驚きて立ちぬれど、猶棄て難さの余りにや、煙の中に帰り入りて、終に焼け死ぬるにためし多かりしとぞ」と。雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれ、鳥のなかで母性愛の象徴とされている。
―――
子を思いしは恒河に沈みき
 涅槃経に子を思う母の姿を説かれている。「開目抄」(0233)に「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児を擕抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫の唼い食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず」とある。以下、釈を加えると次のようである。たとえば一人の貧女があり、おるべき家もなく、救護してくれる人もなく、その上に病苦と飢渇にせめられてさまよい乞食して歩いた。その時ある宿に止まり、子供を生んだ。ところがその宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。いまだ産して日も経たないのに、赤児を抱いて他国へ行こうと欲したが、その中途で悪風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くの蚊や虻や蜂や螫等にすい食われるありさまであった。このような苦難のおりに大河にさしかかり子供を抱いて渡ろうとした。その水は急流であったが、しかも子供を放ち捨てることなく、ついに母子ともに没しておぼれ死んでしまった。このような女人は子供を愛する慈悲の心の功徳によって死んでのちは梵天に生じたのである。
―――
弥勒菩薩
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――――――――
 光日尼が、子の弥四郎の勧めによって、法華経を信ずるようになった。したがって、その功徳により弥四郎と共に成仏することは疑いないと、幾多の故事を引いて賛嘆された章である。
烏竜と遺竜
 烏竜と遺竜の話の原典は法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。
 御書のなかでは「法蓮抄」と「上野尼御前御返事」に詳しくあるが、ここでは法華伝記より物語の大要を述べてみよう。
 烏竜は并州の人で、漢土第一の能書家であった。だが烏竜は法華経を謗じ、法華経を書写しない願を立て、生涯法華経を書かず、そのため発狂して死んだのである。その臨終のときに、遺竜に「法華経を信じてはならない。若し信ずれば災いが起こるであろう」といい遺したのである。
 時に并州を領していた国王・司馬氏は法華経を深く信じていたのである。そこで司馬氏は国第一の能書家に法華経を書写させようとして遺竜を召したのである。だが遺竜は父の遺言を堅く守り、国王の命に随わなかったのである。王はそこで経を写さなくとも但法華経八巻の題目を書くように命じたが遺竜はなおも辞したので、王は瞋りをなして「汝の父といってもわが臣である。親にたいする不幸を恐れて法華経の題目を書かなければ違勅の罪で刑に処す」といったので、遺竜は遺言を破る罪に苛まれながら題目を書いたのである。そのために書いてから一日一夜死ぬほど悩み抜いた。
 次の日の夜に遺竜は夢をみた。夢のなかに百千の天人を眷属として引きつれた大威徳天があらわれたのである。遺竜は合掌して「貴方はいかなる人か」と尋ねたところ「われは汝の父の烏竜である。法華経を信じなかったために大地獄に堕ちた。そしてその姿は炎を身にまとい、間断なく焼かれ、法華経を謗じた舌は日に数回となく抜かれる。またあるいは死に、あるいは生まれたが、地獄の苦しみを脱することはできなかった。まして汝に遺言した一言一句が炎となり、剣となってわが身を責めつけたのである。
 だが昨日突然光明がさし、光のなかより一仏があらわれ、その仏は偈を説いて『仮令法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん』と説いたのである。すると地獄の大火は大水をかけたように消え、清涼池と変じたのである。
 われらは合掌してその仏の御名を尋ねたところ『われは汝の子・遺竜が書いた法華経の題目のうちの妙の一字である』と答えられたのである。汝が題目を書くことによって、八巻一一の題目が八八・六十四仏と変じ、われと地獄の衆生の苦しみを救ってくれた。無間地獄の大闇は即大明と変わり、皆蓮の上に生じ、今では天上界の都率の内院に参ることができた。まずこの礼を汝に告げるために現われたのである」と夢のなかで遺竜に語ったのである。
 遺竜は目が覚めてすぐ国王・司馬氏に謁して夢の話をくわしく申し上げ、法華経の書写を拒んだ罪を悔い、涙を流したのである。それからは、法華経の書写に専念したのである。この書写によって遺竜は無量の功徳を受けた。以上が烏竜・遺竜にまつわる物語である。
 烏竜と遺竜の話は、たんなる説話ではない。われわれに多くの生きたなまなましい体験として万金の重みをもって教示しているのである。
 その一つは、いかに親が妙法に反対しても、断じて、生涯信心を貫かねばならないということである。それが最大の親孝行となるのである。
 「報恩抄」に「いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか……仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず……内典の仏経に云く『恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり』等云云」(0293-02)と。
 次に法華経は、その偉大な力があり、知ると知らざるとに拘らず、書写しただけでさえ、死人の成仏がなされるのである。
 第三に法華経を謗ずる者は地獄の苦しみを受け、讃ずる者は常寂光の世界、すなわち、悠々自適の最高の幸福境涯を築くことができるのである。さらに賞罰厳然とした妙法の法爾の上に立って、しかも最後には順逆の衆生をともに妙法の功徳に浴すことができるのである。
妙荘厳王は悪王なりしかども御子の浄蔵・浄眼に導かれて娑羅樹王仏と成らせ給う
 浄蔵・浄眼の二子が、婆羅門を信ずる父の妙荘厳王の邪見をひるがえさせて正法に帰依させ、娑羅樹王仏となることを明示した御文である。
 この話は法華経の妙荘厳王本事品第二十七に、大要を次のとおり述べられている。
 非常に遠い昔に、雲雷音宿王華智仏という仏がいた。その国を光明荘厳といい、その時代を憙見と名づけられた。その仏が法を説くなかに妙荘厳という王がおり、王の夫人を浄徳といい、王の子を浄蔵・浄眼といった。この二人は、大乗の教えを学び、大神力、福徳智慧を備え、久しく菩薩道を修行した。二人は諸波羅蜜・菩薩の諸三昧にことごとく通達したのである。
 一方、彼の雲雷音宿王華智仏は二子を教化したので、今度は父妙荘厳王を引導しようとして、法華経を説いたのである。時に浄蔵・浄眼の二子は母の所にいたって「願わくは、雲雷音宿王華智仏の所にり、仏に仕え供養礼拝していただきたい。理由は仏が法華経を説くからで是非聴いて下さい」と告げたのである。すると母は「汝が父は外道を信じ、深く婆羅門の教法に執着している。故に父も一緒に詣るべきです」といった。
 そこで浄蔵・浄眼の二子は「われらは仏の子である。だが邪見の家に生まれ残念です」といったところ、母は「他人のできない立派なことをすれば父の心も清浄になり、親子揃って仏の所に行けるでしょう」と述べたのである。そこで、二人は父を念うゆえに、あらゆる力を出し、王の心を清浄にさせたのである。
 父は歓喜して子に「お前方の師匠は誰か、誰の弟子か」と問うたので、二子は「父よ、仏は今七宝菩提樹下の法座で、いっさいの人天を相手に法華経を説いている。その仏がわれらの師で、われらはその弟子である」といったので、父は「お前方の師に会いたいので、一緒に行こう」と子にいったのである。
 二子は急いで母の所に行き、母に「父は只今信を発しました。われらは父のために仏事をなしてきました。願わくは出家することをお許しいただきたい」と請い、さらに重ねて「われらが出家して沙門となることをお許し下さい。仏に値うことは実に難しい。われらが仏に随って学ぶこともまた三千年に一度咲くの花に値うようなものです。どうかわれらの出家することを許してください」と告げたので、母は「お前方の出家を許す」と二子の願いを叶えたのである。
 ここにおいて、二子は父母に向かって「父母よ、仏の所に詣り仏を供養してください。理由は仏に値うことは難しい。優曇華のようなものであり、また一眼の亀が浮木の孔に値うようなものです。しかるにわれらは宿福深厚のゆえに仏法に巡り会えました。故に父母よ、われらを出家させていただきたい。理由は諸仏には値い難いからです」と繰り返し願ったのである。
 そのとき、妙荘厳王の家臣八万四千人は皆ことごとく法華経を受持した。浄眼は法華三昧を通達し、浄蔵は久しくして離諸悪三昧を通達した。一切衆生の諸の悪趣を離れしめることを欲した浄徳夫人は、諸仏集三昧を得て諸仏の秘密の蔵を知ったのである。二子は方便力をもってよく父を化導して仏法を信じさせた。
 そこで妙荘厳王は、群臣眷属と共に、浄徳夫人は采女眷属と共に、浄蔵・浄眼の二子は四万二千人と共に、一時に仏所に詣でたのである。そのとき、仏は王のために法を説いた。王は大いに歓喜し、謝意を表わすために王と夫人の首にかけていた真珠、瓔珞を仏に供養した。
 妙尊厳王は心に「仏身はまれで、その相はである。世間に比べものにならない」と思った。
 時に仏は四衆に「お前方よ、妙荘厳王はわが前において合掌し、恭敬の心をもって立っているではないか。この王はわが説法中に比丘となり、仏道を修した。まさに仏となることができよう。その名を娑羅樹王仏と号づける。国を大光といい、時代を大高王という」と授記されたのである。
 王はただちに国に戻り、国を弟に譲り、夫人と二子と諸の眷属を従えて出家し、八万四千歳という非常に永い間法華経を修行したのである。
 以上が妙荘厳王を仏道に入らせた浄蔵・浄眼の話である。
 さて妙荘厳王、浄蔵・浄眼の現代的意義について「御義口伝講義」に講じられているので要約してここに引用する。
 権力をもち財力をもって、正法に反対している政治家や実業家、あるいは学者等は、所詮、妙尊厳王である。妙法を受持した学会員は浄蔵・浄眼である。
 子である浄蔵・浄眼には、なんら権力も財力もない。だが、妙法の力によって、種々の神変を現じ、ついに父を信解せしめたのである。同じく、わが創価学会も、権力も財力もない庶民のなかから、妙法の力により、同志の団結の力によって、不可能と思われる戦いを成し遂げ、第三文明の力強い息吹を示して、邪見の人々を納得させ、正法に帰依せしめていくのである。
 また、浄蔵・浄眼が母・浄徳夫人と共に、父・妙荘厳王の邪見をひるがえさせ、妙法を信じさせたということは、一家における妙法流布の姿を代表したものともいえる。
 いかなる革命においても、それが恒久的な、新しい歴史を築いていく革命であるならば、その革命の息吹き、新しきものと旧きものとの相克は、家庭において如実にあらわれる。もし、それが、一時的な、表面的な春嵐のごときものであるならば、家庭のなかに、その新旧の対立があらわれるということは、まずないと考えてよい。
 妙法の広宣流布、すなわち王仏冥合の新しき時代を創る革命の波も、一つ一つの家庭における対立の小波を越え、おのおのの家庭に一家和楽の信心を確立していって、はじめて成就されるのである。
 かくして湧き起こった新しき時代の波は、いかなる障害をも乗り越え、永久に消えることのない、悠久の波であり、誰人も、いかんともできえぬ時代の潮流そのものなのである。
松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり
 この文は情非情にわたる友情論であり、妙法の友情論である。すなわち、非常の草木である松・柏、芝・蘭でさえ、常に変わらず、共に栄えることを喜び、共に枯れゆくことを歎くのである。ましてや有情の衆生、とくに妙法で結ばれた有情の絆は永遠に変わらぬものであり、これこそ真実の最も深い友情である。
 妙法の有情は、百界千如、一念三千を説き尽くしてあまりある深遠な生命哲学によって築かれたものであり、これこそ、妙法に根ざし、生命の奥底から触れ合う真の人間性の発露としての友情である。
 人間革命第一巻には「真の友情は、百の親類に優るといった人がいる。しかし友情にも、世法の友情と、仏法の友情がある。世法の友情は、深いようで、浅い。現実の苦境と利害にあって、自然に離れてゆく性質を含んでいる。時としては一転して醜い嫉妬にも変わり得る。そのような時に、妻や女性が介在するのも珍しくない。信心、そして主義主張に生きる同志の友情は、目的達成のために、生命を賭しての擁護があり、励まし合いが存する」とある。
 世間一般の友情の第一には、感情の共鳴によって結ばれた友情がある。この友情は実に微妙である。外的なあらゆる変化、抑圧によって一瞬の心の動揺で亀裂を生じ、昨日まで水魚のような仲であっても、今日は敵となるものである。
 第二の友情は利害関係に結ばれた友情である。これは自己保身と栄誉栄達にとらわれた友情で、虚飾、虚疑、虚栄とにみちた醜い関係で、自己にとって利益とならない友とは遠ざかる冷酷なものである。
 ドイツの詩人、ヴィルヘルム・ミュラーは「貧乏が戸口からこっそり家のなかへ忍びこんでくると、偽わりの友情はあわてて窓から逃げ出す」といっているのがそれである。またフランスのモラリストであるラ・ロシュフーコーは自著「道徳的反省」のなかで「世間のひとが友情と呼称するものは、社交・欲望のかけ合い、かけ引き、親切の交換にすぎない。つまり、自愛がつねに何か得をしようとする一種の取引きにすぎない」と述べている。
 第三には、世間で真実の友情と考えられている友情である。この友情について二つの引用を引くこととする。
 フランスの詩人、アベル・は「友人同士は完全な平等のうちに生ずる。この平等は第一に、彼らが会ったときに社会上のあらゆる相違を忘れるという事実から生ずる」と。
 ドイツの詩人・東洋学者であるフリードリヒ・リュッケルトは「真の友情は、うしろから見ても前から見ても同じものだ。前から見ればバラ、うしろから見れば刺、というものではない」と。
 以上の友情関係は互いに全くの平等であり、見栄でなく、裸のままで、心を開いて話し合える仲である。俗に「君が愁いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」といった歌で表現される友情である。だがこの友情は、同じ目的、清らかな友愛、他に左右されない互いの絆がなければ、生涯変わらざる友情を保つことは稀である。
 所詮、世間でいう真実の友情といえども、社会、生活環境、時代の流れを超越することは至難に近いものである。
 だが妙法の友情は時代を乗り越え、社会や生活環境に左右されるものではない。妙法の友情は、各人が三大秘法の御本尊を持ち、わが身は妙法の当体であることを自覚し合い、ありのままの姿で飾らず繕わず、なまの人間として、互いの人間性を理解し、長所は長所として、短所は短所として明らかにみつめながら、その上にたって、人間革命を王仏冥合を遂行していくときにこそ養われる。
 妙法を共に奉じ、生涯を通じて無血宗教革命の息吹に燃え、鉄のごとき団結からなりたつ友情をわれらの他に求めることができようか。われらは過去遠々劫の昔から共に生じ、共に栄え、共に語り合った三世常恒の同志だからである。

0934~0934    光日尼御返事top

光日尼御返事
01   なきなをながさせ給うにや、三つのつなは今生に切れぬ五つのさわりはすでにはれぬらむ、 心の月くもりなく
02 身のあかきへはてぬ、 即身の仏なり・たうとし・たうとし、くはしく申すべく候へども・あまりふみををくかき候
03 ときに・かきたりて候ぞ恐恐謹言。
04       九月十九日                      日蓮在御判
05     光日尼ごぜん御返事
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 「なきなをながさせ給うにや」の御文は、本抄が断簡で、前後不明のため語釈ができない。
 三つの綱は今世において切れた。五つの障りもすでに晴れたであろう。心奥の仏性の月は曇りがなく煌々と照り輝き、苦集の身の罪障である垢は消えた。まさしく光日尼あなたは即身の仏である。まことに尊いことである。さらにくわしく法門のことなどをいうべきであるが、あまり文を多く書いたときに、このお手紙は書いたのです。恐恐謹言。
  九月十九日              日 蓮 在御判
   光日尼ごぜん御返事

なきなをながさせ給うにや
 幾多の解釈がされているが、まずその一つに、死んだのちまで名を残されるであろう、との解釈がある。次に冒頭の「なき」を助動詞として用い、「……なき名」とも考えられる。
―――
三つのつな
 三従のこと。三従に縛られることから綱という語を使ったと思われる。三従とは女人が一生涯において服従すべき三つのことをいう。大智度論第九十九に「女人の体は幼なれば則ち父母に従い、少うして則ち夫に従ひ、老いては則ち子に従う」とあるように、生涯自由を得ることができず、家にあっては父母に、嫁しては夫に、夫死して子に服従し、修行をするのに困難な境涯にあると仏教典、儒教典に説かれている。したがって、従来の宗教では、女人成仏は不可能とされてきた。日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ女人の成仏は可能なのである。「日眼女造立釈迦仏供養事」(1188)には「抑女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候」とある。
―――
五つのさわり
 五障のこと。女人の持つ五つのさわりをいう。法華経提婆達多品第十二の舎利弗の疑問の中に、女人の身では梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身にはなれない、したがって、成仏できないのではないかとある。だが、舎利弗の疑いに対して、八歳の竜女が忽然の間に即身成仏の現証を示し、妙法蓮華経の正しさを証明するのである。
―――
即身の仏
 即身成仏のこと。衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
―――――――――
 本抄は、大聖人が弥四郎なきあとの光日尼のけなげな信心をめでられ、三従、五障をはなれて、即身成仏できると記別を与えられた御抄であり、真実の女性の幸福を的確に明かされた御書である。光日尼は夫に先立たれ、頼みの綱とした子の弥四郎を文永11年(1274)に亡くしたのである。だがこうした苦しみにめげず、唯ひたすらに妙法を求め抜いたのである。この結果、冥の照覧あって、五障三従をはなれ、安楽な生涯を送ることができたのである。
 この光日尼の信心こそ、女性の信心の鑑でなくして何であろう。われらもまた如何なる苦難があろうと、御本尊を堅く信じ、妙法を弘めゆく実践者、妙法の革命児として生きゆかねばならない。
 思うに今日ほど女性にとって恵まれた時代はない。社会的地位の向上、参政権の行使、家庭における婦人の地位等、その社会的進出は目をみはるものがあり、戦前の日本の社会では夢にもみることができなかったことである。だがいかに社会が女性のために好転しようと、女性のもつ本来の宿業たる貪・瞋・癡の三毒より起こる苦悩、三従の苦縛が解かれずして、真実の女性の幸福、婦人解放はありえない。
 外なる社会制度の変革によって、女性の幸福、婦人解放が行なわれても、内なる女性の本質にねざす幸福が究明されずして、真実の幸福、婦人解放はありえない。むしろその変革の実体は人間解放というべきであろうか。
 すなわち、人間革命なくして真実の女性の幸福、否、人類全体の幸福はないといえる。
 しかして、人間革命の原動力となる思想、哲学、これが色心不二の大生命哲理であり、三大秘法の大御本尊なのである。
 三大秘法の御本尊の力用は、人間の持つ三毒の汚濁した生命を三徳の清浄な生命へと転ぜしめ、過去・現在・未来の三世に亘る、揺るぎなき幸福境涯を築く本源の力なのである。
 「日女御前御返事」に「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねぎ後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く……」(1244-05)と。
 故に妙法を信ずる女性こそ、開けゆく栄光の未来にあって、人間を謳歌し幸福を満喫し得る女性となることができるのである。
 だが、いかに偉大な妙法であっても、信受の度合い、信心の厚薄によって、幸福は決定するのである。
 「日女御前御返事」に「穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(1244-14)と。
 「日厳尼御前御返事」に「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし」(1262-02)と。

0935~0939    四恩抄top
         はじめにtop

四恩抄の講義にあたり、まずその序講として、
   第一に、本抄御述作の由来を明かし 
   第二に、本抄の大意と元意を論じ
   第三に、報恩思想の現代的意義
 について論ずることとする。
第一 本抄御述作の由来
 本抄は、弘長2年(1262)1月16日、日蓮大聖人が聖寿41四歳のとき、ご流罪の地、伊豆の伊東から、安房の国(千葉県)天津の領主工藤左近尉吉隆に与えられた御抄である。別名、伊豆御勘気抄とも呼ばれている。建長5年(1253)4月28日の立宗宣言以来9ヵ年にわたる御化導、とくに2年前の「立正安国論」による第一回の国家諌暁から起きたところの伊豆ご流罪について、ご自身のお振舞いが仏記と合致することを大いなる悦びとされ、一方大聖人を迫害する者が、自業自得とはいえ厳しい仏罰を招くことを歎かれている本抄は、末法の御本仏としての体験を述べられた御抄の最初のものである。
(一)本抄の由来、対告衆について
 本抄の対告衆である工藤左近尉吉隆は、大聖人の直壇であり、建長から正嘉の頃にかけて、四条金吾、池上宗仲らと相前後して入信した。大聖人が伊豆ご流罪中にも、御供養を欠かさず信心の誠を尽くし、文永元年(1264)の小松原法難のとき、身命を捨てて大聖人をお護り申し上げ、難に殉じた純真な大信者である。工藤家は父祖代々天津の領主であった。吉隆は、工藤民部大輔小四郎行光の子と伝えられている。
 本抄には前後のいきさつ、大聖人と工藤吉隆との個人的関係などについては全く触れられていないが、吉隆から大聖人へのお見舞いに対する御返事か、御供養を携えてきた者に託して法門を述べられた御抄と考えられる。
 大聖人は伊東において、本抄のほかに「教機時国抄」、「顕謗法抄」、「船守弥三郎許御書」などを著わされている。「教機時国抄」は、大聖人の教判として初めて宗教の五綱を整足して述べられたもので、本抄より約一か月あとの御作である。これは本抄において伊豆流罪を、ご自身が末法の法華経の行者であるとの立証として喜悦されていることと表裏一体をなすものである。
 翌弘長3年(1263)2月23日、幕府は日蓮大聖人を赦免、大聖人は鎌倉へ帰られた。これは最明寺に出家していた前の執権・北条時頼が、この流罪を執権長時が念仏者であった父の重時と計っての弾圧であると見抜いて断を下したものである。「聖人御難事」には「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190-09)と述べられている。
 翌文永元年(1264)の秋、大聖人は故郷安房の国へお帰りになり、安房の小湊で病床にあった御母・妙蓮尼病気平癒を祈られたのである。まもなく妙蓮尼は全快され4年の寿命を延べられた。
 その後、日蓮大聖人は西条華房の蓮華寺に滞在されていたが、ここに再び、大聖人のご生命が危機にさらされる大難がまき起こった。小松原の法難がそれである。
 11月11日、工藤吉隆は、華房蓮華寺より、日蓮大聖人を天津の自邸に招待申し上げた。法難は、この道中のことである。大聖人の一行数名が、天津の西方約4㌔の小松原にさしかかったとき、東条の地頭・東条景信が一隊の兵を率いて大聖人一行を要撃してきた。念仏の強信者であった景信は、大聖人が建長5年(1253)に立宗されて以来、ことごとに敵視して、虎視眈々と大聖人殺害の機会をうかがっていたのである。
 急報を受けた吉隆は、僅かの手勢を率いて駆けつけ、よく奮戦し大聖人をお護りしたが、景信の多勢に圧され、遂に鏡忍房とともに乱戦のなかに壮烈な最期を遂げた。大聖人ご自身も、景信の太刀で眉間に傷を受け、左手を折られるなどの難を受けられた。「聖人御難事」には、このときの様子を「文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり、左の手を打ちをらる」(1189-13)と述べられている。大聖人は、吉隆に妙隆院日玉上人と諡され、僧礼をもって吉隆を弔われた。このとき、吉隆の夫人は懐妊中であったが、この子は、のちに出家し、刑部阿闍梨日隆と称した。念仏者、東条景信は、その後、狂死したと伝えられる。
 工藤吉隆へ賜わった御書は四恩抄一篇のみであるが、日蓮大聖人が法華経弘通のゆえに大難に値われていること、また、法華経の真文を身読することの悦びを述べられていることなど佐渡以前の御抄とはいえ、御本仏の確信に立たれた重要な御抄であることから、工藤吉隆の信心が、いかに純粋なものであったかを知ることができよう。
 本抄の御正筆は現存しない。なお、付言すれば、本抄の後半が大段第二のはじめ、引文のみで終わっており、前半に比較して極端に短い点からすると、後の部分を後世に欠失したとも推察される。
(二)本抄の背景
 建長5年(1253)4月28日午の刻、日蓮大聖人は末法万年尽未来際の一切衆生を救済する大仏法の立宗を宣言され、三大秘法のうちまず本門の題目を建立された。このときの状況は「聖人御難事」(1189)に「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房の国長狭郡の内、東条の郷・今は郡(なり……此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」と述べられている。この立宗宣言を契機として、種々の大難が日蓮大聖人の身にふりかかってきたのである。
 その先鋒が東条郷の地頭、東条左衛門尉景信であった。景信は強盛な念仏者であり、鎌倉幕府の連署・北条重時の権勢を背景に得ていたこと、地頭としては大きな兵力を擁していたことなどもあって、相当の自信家であったと思われる。その慢心家が、日蓮大聖人によって、自分の帰依している念仏を徹底的に破折されたために激しく大聖人を憎み、迫害を加えるにいたったのである。大聖人が立宗宣言、初転法輪を終え清澄寺を下山する際にも、種々、事をかまえたが、浄顕房、義浄房らの必死の努力によって大聖人は事なきを得たのである。
 その後、日蓮大聖人は、鎌倉松葉が谷に草庵を結び、法華弘通の法戦を開始された。そのため、念仏・禅・律等の諸宗の輩、なかんずく、念仏者、律宗の極楽寺良観などの迫害が日ごとに激しさを加えていったが、他方では、四条金吾・富木胤継・池上宗仲・工藤吉隆等大聖人門下の強信者といわれる人々が入信していったのである。
 当時の世相は打ち続く飢饉、疫病、地震などにより、餓死、病死する者も多く、人心は極度の不安におののいていた。いつの時代でも同じように、こうした民衆の心の動揺につけこんで、雑草のように新興邪宗教が跋扈していった。とくに念仏の流行は激しく、全国を覆い、幕府の要人にとりいった極楽寺良観の律宗も鎌倉を中心に民衆に深く浸透していった。不幸のよって来たる原因を知らず、救いを求めてすがりついたものが、人々の生命力をその根源から蝕んでいくという全く悪循環の姿そのものであった。
 まさに世相は経文の予言に違わず、「世間の罪に依って悪道に堕つる者は爪上の土・仏法によって悪道に堕つる者は十方の土」という正法滅尽の姿を呈していたのである。
 日蓮大聖人が身命を捨てて諸宗の非を説き、正法の理を述べても、無智な民衆はいよいよ邪義・邪師に親近して、大聖人の正義には耳を傾けようともしない。かえって日本国中の上下・万人が大聖人を憎むありさまである。この世相と仏法の原理との合致から「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」(0998-12)との決意で国家諌暁に踏み切られ、「立正安国論」の上書となったのである。安国論上書に対しては、なんの沙汰もなく、約1ヵ月の沈黙が続いたが、8月27日になり、鎌倉松葉が谷にある大聖人の草庵が、突如として念仏僧を中心とする暴徒に襲撃され、焼き打ちにあったのである。このとき大聖人は裏山に逃れ、危くこの難を免れられている。大聖人は、安国論の御正筆を富木殿の許に送られ、どのような最悪の事態にも立正安国論が失われないよう慎重な配慮をなされていた。この事は裏を返せば、身命に及ぶ大難を覚悟の上の国諌であったことを示唆するものである。「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべし」(0200-09)との開目抄の御文は、このご決意を述べられたものと拝することができる。
 文応元年(1260)8月の松葉が谷法難より翌弘長元年(1261)5月12日の伊豆伊東配流までの九か月余のご事跡については明確な記録は残されていない。しかし、鎌倉にはとどまるべくもないことは容易に推察されよう。一般には霊記の説により、下総の富木胤継の邸内の、法華堂において百日説法を行なったとされている。
 伊豆流罪は、鎌倉幕府という権力が表だって迫害を加えてきた最初のものであった。松葉が谷の法難では、幕府がこれを企てた首謀者を詮索しなかったという点で、自ら御成敗式目の権威を落したという事実は指摘されても、幕府直接の弾圧ではなかった。松葉が谷の草庵を襲撃した暴徒が念仏僧によって指揮されていたということは、事件の裏に、前の執権北条時頼が積極的に大聖人を罰しようとしないことに業をにやした連署北条重時の画策があったものと推察される。重時は強盛な念仏者であり、正元元年(1259)には良観を開基として極楽寺を創建したところから、極楽寺殿とも呼ばれ、幕府にあってはその子、長時とともに大聖人迫害の急先鋒であった。こうした事情について御書には次のように仰せである。
 「下山御消息」にいわく「先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ、然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事の政道を破る日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ、されば人のあまりににくきには我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか」(0355-03)と。
 また「妙法比丘尼御返事」に「念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし」(1413-01)と。
 北条重時、長時父子が大聖人迫害の急先鋒となった背景としては、
   ① 重時父子が強盛な念仏者であり、四箇の格言で念仏無間と強折された大聖人を強く憎んだこと。
   ② 重時が忍性良観を開基として極楽寺を創建しており、良観房もまた、四箇の格言により徹底的に破折されたことから大聖人を憎み背後から重時・長時を動かしたこと。
   ③ 北条一門で寛元4年(1246)に執権時頼に謀反を企て伊豆に配流された名越光時の一族が、元来、安房の国東条郷の領家であったことから、名越家の大尼、新尼が大聖人に帰依し、また松葉が谷の草庵を御供養していた。重時は連署として過去に謀反を行なった名越家を厳しく監視する立ち場であったが、名越家が大聖人に帰依したことから一層、大聖人を敵視するようになった。
   ④ 建長5年(1253)の立宗以来、日蓮大聖人を憎んでいた地頭・東条景信が、東条領家、名越家の寺である清澄・二間の二箇寺を奪い、念仏宗に改宗させようとして清澄寺の飼鹿を狩り取るという暴挙に出た。このとき、大聖人は「領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894)との御文のように、問注所への訴訟にもちこんで徹底的に景信と戦われた結果、勝訴となった。このため景信は、大聖人を憎むこといよいよ激しく、この事件が小松原法難の遠因となったとする見方もある。また、景信を背後から操って東条領家を圧迫しようとした重時も面目をつぶされたことで、いよいよ感情を害したことであろう。
 こうした諸事情がからみ合って、くすぶりつづけてきた大聖人迫害の火が一挙に燃え上がり、弘長元年(1261)5月12日の伊豆流罪となったのである。同じ年の11月3日、北条重時は64歳で死去している。弘長3年(1263)2月伊豆流罪は赦免となり大聖人は鎌倉へ帰られた。翌文永元年(1264)8月21日執権長時が35歳で病死している。その他、長男の為時は早死、次男長時は35歳、三男時茂は30歳、四男義政は39歳でそれぞれ死んでいる。ただ一人五男の業時だけが越後の守に任ぜられているのみである。「兵衛志殿御返事」には「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨(ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う・ただいまは・へちごの守殿一人計りなり」(1093-03)とある。「聖人御難事」にいわく「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし」(1190-02)と。いまさらのように正法誹謗の恐ろしさを知る思いである。
 流罪の地、伊豆における大聖人の生活については、本抄のほかに船守弥三郎許御書などにも述べられているように、船守弥三郎夫妻の生命がけの御供養や、大聖人の御祈念によって地頭伊東祐光の病悩が平癒し、大聖人に帰依したことなどがある。
第二 本抄の大意と元意
(一)本抄の題号

 本文に「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か」とあり、心地観経の四恩を述べられているところから、一般に「四恩抄」と題されている。また、伊豆ご流罪を通じて法華経の行者としての確信を述べられていることから「伊豆御勘気抄」と称されることもある。まれに対告衆にちなんで「工藤左衛門御書」とも称する。
(二)本抄の大意
 本抄では冒頭に全体の標示として「抑(そもそも)此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり」と述べられ、続いて「一には大なる悦びあり」とその理由を説かれている。
 大なる悦びとは大きく二つに分けられる。その一つは、日蓮大聖人が法華経の行者であるとの立証の悦びであり、仏記との合致、身業読誦に約してこれを述べられている。
 二には、伊豆流罪を通じてご自身の知恩報恩の悦びを述べられ、報恩の実践を勘められている。
 次に「第二に大なる歎きと申すは」と流罪にあたって、かくまで大聖人を迫害した者の堕獄の罰を経文を引いて述べられ、謗者の身を歎かれている。
 以上の大段を分科すると、本文は次の六章に分けられる。
   第一に、流罪について二つの大事を標示。
   第二に、流罪と仏記との合致を挙げる。
   第三に、法華経の行者の立証を悦ぶ。
   第四に、悪逆の国主に約して知恩を述べる。
   第五に、四恩を示し真実の報恩を述べる。
   第六に、大慈悲に立脚し謗法の堕獄を歎く。
 以上が本抄の大要である。
 次に、各章の大意を略して述べる。
 第一章では、冒頭に本抄全体の標示があり、大なる悦びの理由を述べるなかに、まず在世の悪逆を、娑婆世界と第六天の魔王とに約して述べ、後に仏記と大聖人の御身との合致を述べる前堤とされている。
 第二章では、在世の悪逆の相と末法における悪逆の相との相対の上に、釈迦仏の予言と日蓮大聖人の御身との符合を明かし、大聖人が末法における正法弘通の行者であることを悦ばれている。
 第三章では、流罪地、伊豆伊東における日蓮大聖人のお振舞いを述べられ、それが法華経を身をもって読んでいるのであり、またよく難を忍ばれることにより法華経の行者であることを立証されている。
 第四章では、日蓮大聖人を讒言し流罪に処した悪逆の国主こそ善知識であるとして、その恩を述べ、四恩を標示し、真実の報恩を説き明かす序分とされている。
 第五章では、四恩の名目を方等部の心地観経に借り日蓮大聖人が伊豆流罪という値難によって、真実の報恩を実践される示同凡夫のお姿に約し、三大秘法への報恩を示唆されている。
 第六章では、法華経、大集経などの文を引き、在世と末法を相対して、正法弘通を妨げる者の重罪を示し、謗法を厳誡することにより御本仏の大慈悲を顕わされている。
(三)本抄の元意
 純真な信心を貫いていた工藤吉隆に対し、御本仏の内証に立って、伊豆流罪中のお振舞いを示されたものと拝することができよう。この伊豆流罪における大いなる悦びと大いなる歎きとは、終始一貫して、御本仏の大慈悲のお振舞いであることが瞭々としている。本抄を拝すれば明らかな如く、四恩の中心が三宝の恩であり、他の三恩というも、この一恩が根本であることはいうまでもない。しかして、この三宝の恩を報ずるとは、いかなる難が来ようと三大秘法の御本尊を信受し、折伏を行ずることであり、それが真実の四恩を報ずることになるのである。「棄恩入無為・真実報恩者」とはこれである。
第三 報恩思想の現代的意義
 妙法を根底とした報恩の意味については、「本抄の元意」に述べたとおりであり、さらに根源的には池田会長の「報恩抄講義」に説かれているので熟読していただきたい。
 ここでは、従来の倫理学に検討を加え、仏法に説かれた報恩思想の現代的意義を明らかにしたい。
 本来、報恩という徳義は、洋の東西を問わず深く人間性に根ざした倫理観であった。しかし、さまざまな思想、哲学、宗教によって、また、生活環境の違い、生活感情の相違によって、千差万別の相を示している。
 わが国においては、長い封建時代の間、儒教倫理が封建的な主従関係を維持するために利用されてきた。これは、そのまま明治維新ののちも、皇恩と称して、天皇から受けた恩を生命がけで報いてゆくことが臣下たる国民の最高の徳義であるという教育が徹底され、富国強兵のスローガンのもとに、強固な軍国主義の体制を築く精神的な基礎とされた。このゆえに、敗戦によって、天皇絶対主義が崩壊すると同時に、この倫理は根底から崩壊し、報恩という言葉も、むしろ、こうした古くさい前時代的な道徳観であるとして排斥されるようになったのである。そのため、人間として不可欠の真実の報恩をも軽蔑する結果となり、表面的な繁栄とはうらはらに、正しい倫理観、価値観の欠如から社会秩序の混乱を招いている現状である。
 それでは、日本も含めて、世界に氾濫する、いかなる思想、哲学、宗教が正しい力ある倫理観を持ち、混迷する現代を指導しゆくことができるだろうか。現今の世界情勢を見るに、残念ながら、そうした思想、宗教は期待できないといわざるを得ない。ここで具体的な検討に入る前に、いわゆる西洋と東洋の倫理思想を生み出した思考力法について考えてみよう。
(一)東洋と西洋の思考法
 西洋文明は、その源をたずねれば、厳しい自然環境との不断の戦いのなかから生みだされたものだった。そこでは激しい自然との戦い、グループ同士での牧野と牧獣の奪い合い、徹底した生活の計画的分析、分解的全利用を必要とした。そのため、西洋人の世界では全てが計算的に物質科学的にそして精神上では権利伸展主義的・克服主義的に発達せざるを得なかった。こういう生活態度は、必然的に帰納的思考法と帰納的約束づけによる力の社会へと発展する。こうした生活態度からは、報恩思想は育たない。そこから生まれるものは報恩ではなく、権利思想であり、その裏返しとしての義務でしかありえない。
 今日、西洋から発して世界を二分するかに見える唯心、唯物の両思想が共に、権利・義務の概念に終始し、倫理学の不毛をきたしているのも、あながち理由のないことではない。
 これに反し東洋は、高温多湿の風土であり、牧畜にはむかず農業適地の世界であった。したがってとくに日本も含めて、主体は稲作農業の社会となった。農業という生業は自然を克服したり制覇したりしてやれるものではない。なぜならば、寒冷温暖という温度、降雨の過不足など、極力、自然に順応することによってのみ、よりよき収穫を期待できる生業である。
 そのなかで、人々は相互に協力し、協業社会での義務を守り合わなければ生産に重大阻害が起こるという条件下で生きてきた。だからその生活は、まず植物の生命を見つめ、天地の霊に加護を願い各人が信仰的に身を慎んでも自然との調和を祈る風習が発達した。そこで、とうぜん西洋にたいしてみたときに、東洋人は内的な精神面が発達し、偉大な父母である天地へ、尊敬の念を払って、深い観察をこころみ、生命論的に見ていくようになった。こうして、東洋の思考はつねに宗教、哲学において、宇宙の実相と生命の根源を究めて、最高の哲理に裏づけられた大宗教を生むに至ったのである。
(二)西洋の倫理思想
 西洋思想の流れをたどってゆくとき、西洋精神に特有な人間の原理が明確に自覚されるようになったのは近世に入ってからである。
 デカルト、スピノザ、ライプニッツと続く大陸の近世合理主義の流れは、独断論のそしりを受けるほどに人間の思惟の権能を拡大し、人間主義を基礎づけていった。18世紀に入って啓蒙主義のベーコンもカントもまた「人間の原理」の追究に偉大な業績を残している。
 この流れをうけて、18世紀後半から19世紀前半にかけて、活性化してきた市民階級の活動の上に、理想主義による倫理体系を築いたのがヘーゲルであった。彼は、世界を絶対者としての理念の自己展開であるとし、いっさいをその弁証法的発展の一段階として位置づけ、歴史を自由意思の自己展開としてとらえたのである。
 しかし、こうした「人間的自由の原理」はそのまま、豊かな人間性に溢れた社会を実現する力とはなりえなかった。市民社会を支える資本主義の経済体制が、しだいに発展して独占資本が形成されるようになると、近代市民社会は、本来、人間的な自由の原理を根本として出発したにもかかわらず、逆に人間の自由を束縛するような体制となってしまった。こうした社会の変貌のなかから、やがて新しいヒューマニズムを標榜するマルキシズムや実存主義哲学が台頭してくる。
 一方、新大陸アメリカにおいては、イギリスの経験論、功利主義などの影響を受けながら、これをさらに徹底して現実に即した、プラグマティズムの倫理思想を生みだし、新しい社会の建設が進められていた。しかし、ヨーロッパ大陸の理想主義的合理主義の倫理も、アングロ・サクソンの現実主義的自然主義の倫理も、ともに20世紀の世界を平和に導くことはできなかった。二度にわたる大戦は、これらの倫理思想の矛盾、いいかえると西洋的思考法の行きづまりを露呈したものといえよう。
 たとえば、自由国家の代表であるアメリカにおいては、過剰生産と大量失業の問題に悩んできた。その手っとりばやい解決策が戦争であることは周知の事実で、第二次大戦前の経済恐慌からアメリカを救ったものは、ニュー・ディール政策ではなく、実は第二次大戦そのものであったとさえいわれている。ベトナム戦争の場合も、それを非難する国際世論や反動運動の高まりにもかかわらず、その経済体制を維持するために容易に手を引けなかったことが指摘されている。この辺にプラグマティズムの倫理観の限界が顕われているといえよう。
 結局、理想主義的合理主義も、現実主義的自然主義も、ともに、人間の自由を標榜しながら、人間存在の究極たる生命の本質を解明した哲理の上から自由を論じていないために、その実践にあっては、逆に人間の自由を著しく束縛する結果に終わっている。
 要するに実践の学として倫理学を成立させるには、真実の生命論が絶対不可欠の条件となるのである。
 一方、マルキシズムでは、人間の平等を強調し、平等な社会を建設するための教育宣伝は強引に進められていても、自由については極端なまでの抑圧が行なわれている。平等といっても、それは人間性を無視した形式の平等のみであって、かえって実質的不平等を生んでいるともいえる。
 今日、核兵器の発達、宇宙開発の進展によって、すでに世界は運命共同体として一体化している。かかる事態にありながら、階級闘争のためには武力行使もいとわないとするマルキシズムの倫理は、全人類を滅亡へと導きかねない戦争の論理であって、これは人倫の敵といわなければならない。事実、ソビエト社会に内在する差別と平等の矛盾は深刻な内政問題となっている。また、人間性を無視した生産機構のため、農業生産の危機を招き、部分的にでも利潤方式の導入を認めざるを得なくなっている。
 また、ハンガリー事件、チェコ事件などもマルキシズムの平等の倫理が大きな崩れを見せたものとして象徴的である。結局、マルキシズムにおける倫理学の不在は、人々への説得力を欠き、社会主義社会を実現する上に、大きな蹉跌をきたしているといえよう。
 実践の学としての倫理学不在は、実存主義哲学や分析哲学では、さらに顕著となり、全く説得力を失ったものとなっている。実存主義哲学の強力な担い手であるハイデッガーは、「存在と時間」という主著を書き上げてから、「倫理学」の執筆を依頼されたが、もし書物として著わされた倫理学があったとしたら、それは生命なき死物であるとして、これを拒んだという。また分析哲学の創始者として著名なヴィトゲンシュタインにしても、その言語分析という分野の仕事のなかで、言語をもってしては表現できないもの、ただ示されるほかない神秘的なものがあることを述べ、倫理学もその一つであるとしている。
 このような西洋思想における倫理学不在は、何を意味しているのであろか。思うに、倫理を人間生活に密着した、必然の実践として理論づけることは、深い人間存在の洞察に基づかなければ不可能である。ハイデッガーにしても、ヴィトゲンシュタインにしても、この不可解な人間存在という深淵を前にして、口をつぐむ以外になかったのであろう。
(三)真実の報恩とは
 これに対して、仏法は演繹的に、しかも具体的な生活のなかから、人間生命と宇宙の本質とを解明し、説き明かしたものである。そして仏道修行によって自己の生命に冥伏している仏界という至高の宝を現実生活の上に開き顕わすことを教えたのである。人間生命を最も尊厳な妙法の当体と開覚することは最高の人間性の確立であり、これこそ至高の倫理観といわなければならない。十界三千の生命哲理からみれば、知恩とは生命に本然的に具わる菩薩界の自覚に通じ、平和な社会を実現しようとする一念といえよう。所詮、権利と義務に終始する限り、その境涯は餓鬼界・畜生界であり、六道の範疇を出ることはできないであろう。
 フランス哲学界の雄アンリ・ベルグソンは、民主主義について「それは理想的人間を前提とする」と警告しているが、彼の指摘をまつまでもなく、人間性の基盤を失った現代世界にあって、民主主義はその成立基盤を失ったかに見える。機能的、物質的な現代社会は、マス・メディアの発達と共に、画一的な文化を生み、画一化した生活を大衆に強いるようになった。こうした生活環境のなかから、政治的無関心の大衆が生まれ、大衆の政治参加という民主主義の基礎が揺らいできている。
 妙法によって、人間生命の尊厳を確立し、生命の尊重の上に立った自由、平等を、この世界に実現することが今日ほど重要になったときはない。故ジョン・F・ケネディは「人類は戦争に終止符を打たねばならない。さもなくば、戦争が人類に終止符を打つであろう」との言葉を残した。まことに至言というべきであろう。だが惜しいかな彼は、その方途をもたなかった。
 人類は五千年の文明が終焉の危機に立ちいたったことを知り、深刻な模索をくりかえしている。そして、その暗黒に差し込んだ生命尊重という一条の光明を指向して時代は、ようやく開けつつあるかに見える。その光明の源をなす実体こそ、東洋哲学の真髄、三大秘法の仏法なのである。

0935:01~0936:02 第一章 流罪について二つの大事を標示top

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四恩抄   弘長二年正月十六日    四十一歳御作   与工藤左近尉吉隆    於伊豆伊東
01   抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、 一には大なる悦びあり 其の故は此の世界をば娑婆と名
02 く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、 此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日
03 月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出で
04 まします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり 、此の娑婆世界より外の十方の国土は 皆浄土にて候へば人の心
05 もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝
06 父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて 無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せ
07 ずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり、故に釈迦如来・世に出でま
08 しませしかば或は毒薬を食に雑て奉り或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし・或は女人
09 を犯すと云い・或は卑賎の者・或は殺生の者と云い、或は行き合い奉る時は面を覆うて眼に見奉らじとし、 或は戸
10 を閉じ窓を塞ぎ、 或は国王大臣の諸人に向つては邪見の者なり高き人を罵者なんど申せしなり、大集経・涅槃経等
11 に見えたり、 させる失も仏には・おはしまさざりしかども只此の国のくせ・かたわとして悪業の衆生が生れ集りて
12 候上、 第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと・たばかりを成して・かく事にふれて・ひがめる事をな
13 すなり、 此のたばかりも詮する所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候、 其の故は魔王の習として三悪
14 道の業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、 又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とな
15 らんとする者をば・いたうなげく、 又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば 強になげき事
0936
01 にふれて障をなす、 法華経は一文・一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思ひて、 いたう第六天の魔
02 王もなげき思う故に 方便をまはして留難をなし 経を信ずる心をすてしめんと・たばかる、
-----―
 抑日蓮がこの伊東流罪の身となったことについて、二つの大事がある。
 その第一には大いなる悦びがある。そのゆえはこの世界を娑婆と名づける。娑婆というのは忍ぶということである。故に仏をば能忍と名づけるのである。この娑婆世界の内には百億の須弥山と百億の日月と百億の四州とがあり、そのなかの中央の須弥山・日月・四州に、仏は出現されたのである。この日本の国はその仏が出現された国からみて丑寅の角にあたっている小島である。この娑婆世界以外の十方の国土は皆浄土であるから人の心も穏やかで賢人や聖人をののしったり憎悪することもない。しかしながら、この国土は十方の浄土から捨て果てられてしまった、十悪を犯した者・五逆罪を犯した者・賢聖を誹謗した者・父母に不孝をした者・僧侶を敬わない者などの悪科をなした衆生が、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちて無量劫を経てから、かえって、この娑婆世界に生まれてきたが、前世の悪業の習気が消えないで、ややもすると十悪・五逆罪を作り、賢聖を罵り、父母に孝行をせず、僧侶をも敬わないのである。
 故に釈迦如来が世に出現されたところ、ある者は毒薬を食物のなかにまぜて奉ったり、ある者は刀杖・酒で酔わせた狂暴な象・人を食う師子・獰猛な牛・人を害する狂犬などの手段を使って仏を害そうとし、またある者は瞿曇は女人を犯すといい、ある者は身分の卑しい者といい、ある者は瞿曇沙門は殺生をした者であるといい、ある者は仏に行き合うと顔を覆って見まいとしたり、ある者は戸を閉じ窓を塞いだり、ある者は国王・大臣など諸人に向かっては瞿曇は邪見の者であり、高貴な人を罵る者であるなどといったのである。これらのことは大集経や涅槃経などに見えている。これという失も仏にはあるわけはなかったけれども、ただ、この国の悪癖や片輪として、悪業を持った衆生が生まれ集まったうえに、第六天の魔王がこの世界の衆生を他の浄土へ出すまいと謀をなして、このように、事にふれては、非道なことをするのである。
 この謀も詮ずるところは仏に法華経を説かせまいとの料簡と見える。その理由は第六天の魔王の常の習いとして三悪道の業を作る者を悦び、修羅、人、天の三善道の業を作る者を嘆く。また三善道の業を作る者にはそれほど嘆かず、声聞、縁覚、菩薩の三乗になろうとする者を大変に嘆く。だがまた三乗となる者にはそれほど嘆かず、仏となる業を作る者を非常に嘆き、事にふれてその妨害をなすのである。法華経は一文一句であっても、それを聞く者は既に仏になるであろうと思って、大変に第六天の魔王も嘆き思うゆえに、方法をめぐらして、種々の難をなし法華経を信ずる心を捨てさせようと企むのである。

此の流罪
 伊豆流罪をさす。弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。
―――
娑婆
 雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。
―――
能忍
 釈迦如来のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗・迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。善無畏三蔵抄には「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(0885-08)
―――
須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
丑寅
 ①午前2時~午前4時をいう。②方位・北東を意味する。
―――
十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
誹謗賢聖
 仏の教えを弘めていく人を謗ること。❶誹謗、悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。❷賢聖、賢人と聖人。(1)賢人、賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。 (2)聖人、①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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沙門
 梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
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毒薬を食に雑て奉り
 大方等大集経月蔵分忍辱品に、釈迦の出世に対して、第六天の魔王、悪業を持った衆生などが、毒薬を食事の中に混入したり、悪口・殺害しようなど、種々の難をなしたとある。
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刀杖
 刀杖の難のこと。①勧持品第13に出てくる三類の強敵の第一類、俗衆増上慢が起こす難。②文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。(小松原法難)。
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悪象
 性質狂暴で人畜を殺害する凶悪な象。阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、象を酒に酔わせて放ち、仏を殺させようとした。
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悪牛
 凶悪な牛。無間の業をもつ衆生が悪牛をもって釈迦を殺害しようとしたと大集経にある。
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悪狗
 人を殺害する狂暴な犬。無間の業をもつ衆生が悪犬をもって釈迦を殺害しようとしたと大集経にある。
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卑賎の者
 身分の卑しい者。
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殺生の者
 生命を奪う者。十不善業の第一。
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大集経
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳.大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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三善道
 三善趣ともいう。六道のなかの修羅・人・天の三趣のこと。三悪道に対する語。悪は苦悩をさし、善は楽しみ、幸せを意味する。自身の業因によって趣く所のゆえに〝趣〟という。修羅は善悪両方に通ずる。
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三乗
 十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。
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 冒頭にあたって流罪について大いなる悦びと大いなる嘆きの二つの大事があることを標示されている。この章では大いなる悦びを述べられるに際し、正法を行ずる者に対するさまざまな悪逆を、第一は娑婆世界に約し、第二には釈迦仏と第六天の魔王の関係に約してこれを述べ、第二章で末法悪逆の衆生が日蓮大聖人を迫害することの道理を述べられるための下地とされている。
此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる
 娑婆世界という国土に約して、難を受けることの道理を示されているのである。
 娑婆とは梵語で、訳して忍、勘忍という。したがって、娑婆世界とは、苦悩に満ちた世界であり、人生は、これに堪え忍び、不断に戦っていかなければならない。仏を能忍というのは「能く忍ぶ」すなわち、この苦悩と積極的にとりくみ、師子王のごとく敢然と生きぬいていく力強い人生というのである。
 この「忍」とは、苦悩に勝つことを諦め、なるがままにまかせていく、消極的・受け身な弱々しい態度をさすのでは決してない。力強い生命力を湧現し、毅然と、あらゆる苦悩に立ち向かい、これを打ち破っていくことが真実の仏法で説く「忍」であり「能忍」なのである。
 「報恩抄」にいわく、「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(0329-05)と。
 仏道修行といっても、この現実世界にある苦しみを離れてはありえない。むしろ、苦しみが大きければ大きいほど、そこで戦いきったときの功徳は偉大なのである。
 「御義口伝」には「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱 の力を以て弘通するを娑婆と云うなり、忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり娑婆とは堪忍世界と云うなり」(0771-第六娑婆是中有仏名釈迦牟尼仏の事)と説かれている。
 すなわち、末法において、大仏法を弘通するには大忍辱の力が必要であり、この大忍辱の力をもって妙法を弘通することを娑婆という。しかして、この大忍辱力をもって、大仏法弘通のために戦っていくとき、娑婆世界は即、寂光土とあらわれるとの仰せである。

0936:02~0936:15 第二章 流罪と仏記との合致を挙げるtop

02                                           而るに仏の在世の時は
03 濁世なりといへども五濁と始たりし上 仏の御力をも恐れ人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし時だにも竹杖外道
04 は神通第一の目連尊者を殺し、 阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、 提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華
05 比丘尼を害し、 瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき、 何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや、況や
06 世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に・そねみ・ねたまれん事は・おびただしかるべきか、 故に法
07 華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」と云云、 始に此の文を見候いし時は・さしもやと
08 思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。
09   日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども 此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて
10 随分世間の事おだやか・ならんと思いき、 世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服す
11 る僧もさてこそ候か、 日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず 只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯
12 せずして犯僧の名四海に満ち 螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、 恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉り
13 しに似たり、 是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも 少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つ
14 て・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賎・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にの
15 せられて留難に値うべしと 仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、
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 およそ日蓮は身に戒を行ずることもなく、心に貪・瞋・癡の三毒を離れてはいないが、この法華経を多分自らも信じ、人にも縁を結ばせることになると思って……、したがって正しいことをやっているのであるから世間の自分に対する扱いもかなり穏やかであろうと思っていた。いまは世が末になってしまったので、妻子を持っている比丘も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも帰依を受けるのが当たり前となっているではないか。ところが、日蓮はそうした妻子も持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失にされて、妻子を持たずして犯僧の名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった。恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀ったことに似ている。これは偏に法華経を信ずることが、人よりも多少経文通りに正しく信を向けたゆえに悪鬼が世間の身に入って、嫉妬するのであるかと思われる。そう考えればこれほどの卑しく無智・無戒の僧である自分のことが、二千余年も以前に説かれた法華経の文に載せられ、法華経の行者は必ず留難に値うであろうと仏が記し遺されたことの嬉しさはいい尽くし難いことである。

五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
―――
邪見
仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
―――
杖外道は神通第一の目連尊者を殺し
 目連尊者は摩訶目犍連のことで、釈迦十大弟子の一人、神通第一といわれた。釈尊の入滅前、日連は羅閲城に入って托鉢していたが、このとき、仏教徒を憎んでいたバラモンの一派、竹杖外道に囲まれた。いったんは脱出したが、過去の宿業と知って自ら戻り、殺されることによって宿業を消した。竹杖外道はこの罪により無間地獄に堕ちた。増一阿含経十八巻第十八の四意断品第二の十六の一にある。
―――
阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り
 阿闍世は梵語。未生怨、法逆と訳す。頻婆沙羅王の子。仏在世及び滅後における摩訶陀国の王。ここにあるのは、釈迦の九横の大難の一つで、阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、仏弟子である父王を殺して王位につき、さらに釈尊を殺して提婆を新仏にしようとし、酔象を放ち仏を殺させようとしたことをいう。釈尊は城内に五百人の弟子を連れ、乞食行をしていた。阿闍世王は悪象に酒を飲ませ、鼻に利剣を結び付けて放った。酒に酔った悪象は、はるかに釈尊をみると耳をふるい、鼻を鳴らして走ってきた。阿難を除き、余の弟子はみな逃げ散った。阿難は早く遠ざかることを願ったが、逆に釈尊に「如来を信じないのか」とたしなめられ、慈心三昧に入り、神通力をもって如来の五指より五師子王を化作し、左右から酔象に飛びかからせた。また象のうしろに大きな火が燃えたぎる坑を作った。悪象は進むことも、退くこともできず、地にひざまずいてしまった。そして「汝よ竜を害することなかれ、竜の現わるるはなはだ難し、竜を害せざるによりて、なんじ善所に生まるるをえん」との仏の偈を聞き、象は自ら剣を解き、釈尊に向かってひざまずき、鼻を仏の足にすりつけたという。如来は金剛身であり、いかなる怨敵も仏身を害することはできないことに譬えたもの。涅槃経にある。
―――
提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し
 提婆達多は調達ともいい、天熱と訳す。斛飯王の子、阿難の兄であり、釈尊の従弟にあたる。その出生のとき、諸天は提婆が成長してのち、三逆罪を犯すことを知って、心に熱悩を生じたので、天熱と名づけられたという。外道の六万蔵を誦持し、出家して神通を学んだが、心が憍慢で大衆の前で釈尊に叱責されたのを恨み、師に敵対し、三逆罪を犯した。その第一に、大衆に囲繞されれば仏と同じであると考えて、釈尊の和合僧団を破り五百の弟子を得た。破和合僧の罪である。第二に、山石を押して仏を圧死させようと、耆闍崛山の上から釈尊めがけて大石を落としたが地神がそれをうけとめた。その砕石が飛び散って釈尊の足指を傷つけた。出仏身血の罪である。第三がここに述べられているもので、摩訶摩耶経巻下にある。はじめ提婆にだまされて謗法を犯した阿闍世が、ついには改心して釈尊に帰依した。あるとき、提婆は王に会うために王舎城にやってきた。ところが王に城へ入ることを拒まれ苦悩しているとき、王宮よりでてきた蓮華比丘尼に、面と向かって謗法を責められたので、提婆は怒り蓮華比丘尼をなぐり殺してしまった。蓮華比丘尼は、蓮華色比丘尼ともいい、目連の化導によって釈尊に帰命し、修行の末、阿羅漢果を得た。したがって、彼女を殺すことによって、五逆罪の一つ、殺阿羅漢の罪を犯したのである。
―――
瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき
 瞿伽利は梵語。悪時者、守牛と訳す。釈迦族の出で、浄飯王の命により出家して仏弟子となるが、のちに提婆達多を師匠とする。提婆達多の弟子瞿伽利は常に舎利弗・目連の過失を求めていた。二人はある夜、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は、男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈尊もまた三度、瞿伽利を呵責したが受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死んで堕獄した。竜樹の大智度論巻十三にある。
―――
戒行
戒律を守って仏道修行すること。
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比丘
ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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犯僧
破戒の僧。
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螻蟻
ハチとアリのこと。取るに足りない小さなもの。
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無戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
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 この章では第一章をうけて、在世と末法とを相対し、「猶多怨嫉」の予言をご自身が身をもって読んでいることを述べられている。そして、この大聖人のお振舞いを、二千余年も昔に仏が予言しておいてくれたことに深い悦びを述べられているのである。
今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ
 伊豆流罪によって、今こそ「猶多怨嫉況滅度後」との法華経法師品の経文を色読しているのであるとの仰せである。
 いうまでもなく、日蓮大聖人の御本仏としての開顕は、文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難における発迹顕本である。しかし、これは一往の上のことであって、再往より拝するならば日蓮大聖人のご生涯は、あくまでもはじめから御本仏としてのお振舞いなのである。
 弘長年間の御書、とくに伊東における御述作には、その御確信にあふれた御抄と拝されるものが多いが、明らかに御自身の内証を述べられた御書は「船守弥三郎許御書」(1446)である。「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし(中略)凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり」と。
是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に云云
 過去にも法華経を信じ持った人は多い。しかし「経文のごとく」すなわち、「正直捨方便」また「不受余経一偈」の仏の教えのとおりに信じた人はなかった。したがって、法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す結果となり、成仏の道とはならなかったのである。
 この文は「余人よりも多し」と、謙遜したいい方をされているが、これは、大聖人が初めて法華経を正しく読み、成仏の大道を確立された御本仏であることを示されていると拝すべきである。
 このことは、また次下の文に「仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ」とあるように、所詮、法華経といえども、末法に凡夫僧として御出現になる、日蓮大聖人への予言書なのである。ここに、法華経の実義は、日蓮大聖人のお振舞いを証明することにあり、大聖人こそ、末法の御本仏であることが明瞭であろう。

0936:15~0937:07 第三章 法華経の行者の立証を悦ぶtop

15                                           此の身に学文つかまつ
16 りし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、 法華経を殊に信じまいらせ候いし事は わづかに此の六七年よりこ
17 のかたなり、 又信じて候いしかども懈怠の身たる上 或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一
18 巻・一品・題目計なり、 去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経
0937
01 を修行し奉ると存じ候、 其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば 行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ
02 候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。
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 この身に仏法を学ぶこと漸く24・5年になる。そのうちでも法華経をとくに信じまいらせたのはわずかにこの6・7年以降のことである。また信じてはいたけれども懈怠の身である上に、あるいは研究のことやあるいは世間の事に妨げられて法華経に打ち込むことは一日にわずかに一巻・一品・題目ばかりであった。だが去年の弘長元年(1261)5月12日伊豆流罪の日から今年の正月16日に到るまでの240余日の間は、昼夜ひまなく法華経を修行していると確信している。そのゆえは法華経のゆえに、このような流罪の身となったのであるから、これこそ、行住坐臥に法華経を身で読み、行じていることになるのである。人間世界に生を受けて、これはどの悦びがほかにあるであろうか。
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03   凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・は
04 げみ候へ、 是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か、無量劫の間・六道・四生を輪回
05 し候いけるには或は謀叛をおこし強盗・夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪・死罪にも行はれ候らめ、 是
06 は法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依つて 悪業の衆生に讒言せられて・かかる身になりて候へば 定て後
07 生の勤には・なりなんと覚え候、 是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ、
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 凡夫の習いとして、普通の人は、自ら励んで菩提心を発して、後生を願うといっても、自ら思い出して十二時のうちには一時か二時ぐらい励むにすぎないであろう。だが日蓮は、思い出さなくとも法華経を読み、口に読まなくとも法華経を行じていることになっているのである。考えてみれば過去無量劫の間・六道・四生を輪廻していた時には、あるときは謀叛を起こし・あるときは強盗・夜打ちなどの罪でこそ国主から処罰を受け、流罪・死罪に処せられたことであろう、ところがこのたびの処罰は法華経を弘めようと思う心が強盛であったことによって、悪業の衆生に讒言されて、このような流罪の身となったのであるから、必ず後生の成道のための勤めになるだろうと確信する。これほど作為のない、昼夜十二時休むことなく、法華経を行じている持経者は末代にはほかに絶対にないことではないか。

懈怠
 おこたること、なまけること、低い教えは民衆を幸福にすることを怠る懈怠の法である。
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昼夜十二時
 昔のひと時は2時間になる。したがって24時間・一日中。ひままく。
―――
行住坐臥
 ①行く・住む・坐る・臥す。②行・住・坐・臥。③日常の生活のすべて。
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菩提心
 悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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四生 
 四生は、衆生の四種の産生の意と、四たび生を受けるの意とがある。ここでは四種の産生の意で、卵生・湿生・胎生・化生をいう。①卵生は鳥のように卵から生まれ、②湿生は虫のように湿気の多い処から生まれ、③胎生は人間や獣のように母胎から生まれるもの、④化生とは諸天、地獄、中有及び劫初の衆生のように、他に託するところがなく、過去からの自らの業の力によって忽然と生まれるもの。倶舎論巻八に「何が化生なる、謂わく有情の類い生ずるに所託なし、是れを化生と名づく」とある。なお阿毘達磨集異門足論巻九によると、地獄界は化生、餓鬼界は胎生・化生の二生、畜生界・修羅界・人界は卵生・胎生・湿生・化生の四生、天界は化生とされている。
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 この章では日蓮大聖人のお振舞いが、自然のうちに一切、法華経を身読していることになっていると申されている。
 すなわち、大聖人が法華経を読まれるのは天台・伝教等の読み方とは全く異なる。天台や伝教のような学問のしかたからいうならば、一日にわずか一巻・一品・題目ばかりで、とうてい比較にならない。そのような理の学問は、大聖人においては問題とするに足りないのである。
 いま本文で「去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで」と仰せられているのは、弘長元年五月十二日、伊豆配流より、この御抄をしたためられているときに至る、流罪地での御生活をいう。この流罪それ自体が、法華経のゆえの難であるから、毎日の行住坐臥は全て、法華経を読み、行じていることになっているとの仰せである。
 したがって、われら末弟も、大聖人と同じく不惜身命の決意と実践に立ったときには、その全ての振舞い、言動が、自然のうちに、妙法に叶い、大宇宙のリズムに合致した、絶対的幸福の境涯となっていくことを知るべきである。
是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ
 「心ならぬ」とは、自分で、そのように振舞おうと努力したり、作為したりしないで、自然に、法華経の行者としての振舞いになっているという意味である。
 かつて、第二代戸田会長は「仏の慈悲とは、頭で考えて、慈悲を与えようなどとするものではない。仏の一切の活動が、無意識のうちに慈悲の行動となっているのである」との意味のことを教えられたことがある。
 いまの「心ならぬ法華経の持経者」というも全く同じである。大聖人の生命のリズムそれ自体が、知らず識らずのうちに、妙法となっているのである。
 「三世諸仏総勘文抄」にいわく「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」と。
 自行とは、仏の随自意の振舞いであり、この総勘文抄の御文と考え合わせるとき「心ならぬ法華経の持経者」(0570-01)と申されている、本抄のお言葉のなかに、すでに御本仏としての境涯がとしていると拝せるではないか。
 しかして「末代には有りがたくこそ候らめ」とは、末法今時において、そのような法華経の行者は、他にはないということであり、すなわち、末法の御本仏であるとの御確信と拝察することができるのである。

0937:08~0937:12 第四章 悪逆の国主に約して知恩を述べるtop

08 又止事なくめでたき事侍り無量劫の間六道に回り候けるには 多くの国主に生れ値ひ奉りて 或は寵愛の大臣・関白
09 等ともなり候けん、 若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか・法華経流布の国主に値ひ奉り其の国にて法華
10 経の御名を聞いて修行し 是を行じて讒言を蒙り流罪に行われまいらせて候 国主には未だ値いまいらせ候はぬか、
11 法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て 乃至名字をも聞くことを得べからず 何に況んや見ることを得て受
12 持し読誦せんをや」と云云、されば此の讒言の人・国主こそ我が身には恩深き人には・をわしまし候らめ。
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 また、格別に悦ばしいことがある。それは無量劫の間、六道を輪廻してきた間には、多くの国主に生まれ値い、あるいは国王に寵愛された大臣や関白等にもなったであろう、もしそうであれば領国を賜わり財宝や官禄の恩を受けたことであろう。だが法華経流布の国主に値い、その国において法華経の御名を聞いて修行し、法華経を行じて人に讒言され、流罪に処してくれた国主には、いまだに値ったことはなかったのである。法華経安楽行品には「この法華経は無量の国中において、その名字をも聞くことができない。ましてや見ることを得て受持し読誦することのできないのはいうまでもない」と述べられている。それゆえ、この讒言の人や国主こそ、わが身にとっては法華経を身読させてくれた恩の深い人であるといえよう。

止事なく
 止事は「やむこと」「やんごと」の当て字。格別に、との意。
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大臣・関白
 大臣とは律令制における最高機関で、太政官を統括する上官であり、太政大臣、左・右大臣、内大臣のこと。関白とは律令に規定されない令外官で、天皇を補佐して政務を執行した重職であり、太政大臣の上に位した。関白の語は宇多天皇の世に発せられた詔にはじまり、江戸時代末にまで及んだ。ここでは最高の官職の意で使われている。
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 大聖人は、いま伊豆流罪という難にありながら、この難に処した当時者である国主について「恩深き人」と申されている。そのゆえは、法華経を身読させてくれた人だからである。
 ここで、国主とは、いうまでもなく、北条執権をさしておられる。決して、天皇のことを述べられているのではない。この時代、実権の権限は鎌倉幕府にあり、京の朝廷は、全くの有名無実であったからである。形式主義や名目にはとらわれず、実質主義に立って論じていかれるのが大聖人の御精神であることを知らねばならない。
 いま大聖人を讒言した念仏者や執権長時等は、正法を弘通する大聖人に対し迫害を加えた者であるから、一往は、魔の働きであり、悪知識とみなすことができよう。しかし、再往、これを考えるならば、この難を受けることによって正法を修する者は、過去遠遠劫の罪障を消滅し一生成仏することができるから、これ善知識の働きとなるのである。
 「種種御振舞御書」には「されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917-04)と善知識についてのご教示がある。
 翻ってわれわれの信心に約すならば、創価学会の真の目的も知らずわれわれの信心を妨げ、悪口したり、いやがらせをする者は、皆、善知識であり、われわれの仏道修行を全うさせてくれる働きをなすのである。
 およそ、今日まで創価学会の歴史のなかで、折伏を行じたときに讃嘆され、感謝されることはほとんどまれであった。のちに入信し功徳に浴したときは感謝されるが、折伏にあたっては、ほとんどの場合、怨嫉され、悪口されたのであった。また、一家にあっても、一生懸命まじめに信心しようとするわが子を両親が反対したり、あるいは逆に親が信心したがっているときに、子供達がこれを妨げるなどの、さまざまな姿がある。
 しかし、仏法の生命論よりこれを見るならば、これこそ善知識であり自己の偉大な人間革命をなしとげる機縁なのである。したがって、決して怖れたりひるんだりしてはならない。
 むしろ、妨害されればされるほど信心に励むことによって、自己の宿命転換も成しとげられ、また反対し妨害した人々も最後には必ず信心を起こし、成仏への道を歩みゆくことができるのである。
 峻厳な尾根を登らずして、高峰をきわめた登山の醍醐味は味わえない。同様に障魔の嵐が激しければ激しいほど、その激闘のなかで磨かれた信行学の力は大きい。結局、激しい障魔といえども、信心があるならば大きな善知識となるのである。
 日々の生活にあっても、希望にあふれた忍耐強い実践をつみ重ねてゆくことが、信心即生活の偉大な勝利をもたらすことを確信して前進してゆくべきである。
若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか
 人生において、真に尊いものは、権力や財産、栄誉などではない。これらは無常の福徳であり、やがて、はかなく消えさってしまうものである。妙法を受持し、人々から悪口され、迫害を受けながら、しかも身命を惜しまず流布していくことこそ、無上最高の福徳であり、永遠に消えることのない財産であり名誉なのである。
 「宝軽法重事」にいわく、「一切の仏を尽して七宝の財を三千大千世界にもりみてて供養せんよりは・法華経を一偈或は受持し或は護持せんはすぐれたり」(1475-01)と。
 三千大千世界に山盛りに満たした金・銀等の宝を、一切の仏のそれぞれに供養するよりも「法華経の一偈」すなわち、南無妙法蓮華経の大白法を受持し護持することの方が、はるかに勝れているとの仰せである。
 いま、三大秘法の御本尊を受持し、末法化儀の広布に邁進する、われらの福運と栄誉こそ、至高無上であり、他のなにものにもかえられないことを深く自覚すべきであろう。

0937:13~0939:01 第五章 四恩を示し真実の報恩を述べるtop

13   仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、 一切衆生なくば
14 衆生無辺誓願度の願を発し難し、 又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、 二
15 には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を
16 犯さざれども其の業を成就す、 然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王
17 転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも 恩重きは今の某が父母なるか、
18 三には国王の恩、 天の三光に身をあたため 地の五穀に神を養ふこと 皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経
0938
01   を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや、四には三宝の
02 恩、 釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、
03 其の一分をば我が身に用ひ給ふ、 今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の
04 者・国に充満せん時、 無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださ
05 ず地神.地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母.六親に
06 孝せず・したしからざらん時、 我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりご
07 となからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、 又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、 仏
08 の寿命・百二十まで世にましますべかりしが 八十にして入滅し、 残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ
09 給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし 一切の草木を焼て墨となして 一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を
10 紙と定めて注し置くとも 争か仏の恩を報じ奉るべき、 法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は 法に依
11 る、 されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、 次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、
12 譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、 仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・
13 二千年過ぎて 末法へも伝はるべからず、 故に大集経に云く五箇の五百歳の後に 無智無戒なる沙門を失ありと云
14 つて・是を悩すは 此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、 然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩
15 を報じ給うべし、古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等・此等は皆我が身を鬼のうちかひとなし身の
16 血髄をうり臂をたき頭を捨て給いき、 然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道
17 を成ぜん、然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し 円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり、 某
18 は愚癡の凡夫・血肉の身なり三惑一分も断ぜず 只法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたる
0939
01 を以て大聖の臂を焼き髄をくだき・頭をはねられたるに・なぞらへんと思ふ、是れ一つの悦びなり。
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 仏法を習う身としては必ず四恩を報ずべきが道理であろう。四恩とは心地観経によれば、一には一切衆生の恩である。一切衆生がいなければ菩薩の四弘誓願の一つである衆生無辺誓願度の願いを発すことは難しい。また正法誹謗の悪人がいなくて菩薩に留難を加えないならば、どうして功徳善根を増していくことができようか。
 二には父母の恩である。われらが六道に生まれるためには必ず父母がある。そのなかにおいて、殺生や盗みを犯した家、畜類の屠殺を職業とする家、謗法の家等に生まれたならば、自分でそれらの罪を犯さなくとも、その宿縁によって、悪業を作ってしまう。しかるに、今生の父母は私を産んで法華経を信ずる身としてくれたのである。故に梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて欲界・色界・無色界の三界や四天下をゆずられて、人界・天界の四衆に鄭重に敬われるよりもさらに恩の重いのは、現在の私の父母である。
 三には国王の恩である。天に輝く日、月、星の三光によってわが身を暖め、大地に育つ米、麦、粟、黍、豆の五穀で生命を養っていくことができるのは皆これは国王の恩によるのである。そのうえ今度法華経を信じ、このたび生死の具縛を離れることができる善知識の国主に値えたのである。どうして多少の怨によってこの国王の恩をおろそかに思うことができようか。
 四には仏・法・僧の三宝の恩である。はじめに仏の恩を述べれば、釈迦如来は無量劫の間、菩薩の修行を立て給うときに、その修行によっていっさいの福徳を集めて、これを六十四に分けて功徳を身に得られたのである。だがそのうちの一分だけを自分のために用いられ、今残りの六十三分をこの娑婆世界に留め遺して、末法の五濁雑乱のとき、非法が盛んになるであろうとき、謗法の者が国中に充満するとき、無量の守護の諸天善神も正法の法味を受けることができずに威光勢力が減ずるであろうとき、日や月は光りを失い、天竜は雨を降らさず、地神は大地の養分を滅ずるとき、草木の根、茎、枝、葉、華、菓、薬等の七つの味もなくなるとき、過去世に十善戒を持った果報で今生に国王と生まれたその国王までもが貪瞋癡の三毒を増し、衆生は父母に孝を尽くさず六親が互いに不和になるとき、そうしたなかで仏の弟子が無智で無戒のまま髪ばかりを剃り、形式だけの出家となったため守護の諸天善神にも捨てられて、生命をつないでいく手段のない僧や尼僧に対して、その六十三分の福徳によって、かれらの命を支えようと誓われたのである。また仏は、成道によって得た果徳の寿命を三つに分け、その功徳の三分の二を自身のために用いられ、本来仏の寿命は百二十歳までこの世にいられるところであったが、八十歳で入滅し残るところの四十年の寿命を後世に留め置いて、われらに与えられたのである。したがって、その恩というものは四大海の水を硯の水とし、いっさいの草や木を焼いて墨を作り、いっさいのけだものの毛を集めて筆とし、十方世界の大地を紙として書き残しても、どうして仏の恩に報いることができようか。
 法の恩を述べるならば、法はいっさいの諸仏の本師である。諸仏が貴いことは法によるのである。それゆえに仏の恩に報いようと思う人は法の恩を報いるべきである。
 次に僧の恩についていえば、仏宝、法宝の二宝は必ず僧によって、後世に伝えられるのである。譬えば薪がなければ火はあり得ないし、大地がなければ草木は生えることができない。仏法があっても、真実の僧がいて習い伝えなければ正法・像法二千年を過ぎて末法へも伝わるということはできない。故に仏は大集経に「五箇の五百歳の後の末法に無智無戒の僧に対して罪があるといって、その僧を悩ますならば、この人は仏法の大燈明である正法を滅ぼすと思いなさい」と説かれている。したがって真実の僧の恩を報ずるのは実に難しい。
 それゆえなおのこと三宝の恩を報じなさい。昔の聖人には雪山童子、常啼菩薩、薬王菩薩、普明王などという人々がいるが、これらの人は皆、わが身を鬼神の餌食とし、身の血液と骨髄を婆羅門に与え、臂を燃やして供養し、頭を捨てたのである。そのようにして三宝の恩に報いようとしたのである。しかるに末法の凡夫は三宝の恩を受けるばかりで、三宝の恩を報じない。それでは、どうして仏道を成ずることができようか。しかるに心地観経や梵網経等には「仏法を学び、大乗円頓の戒を受ける人は必ず四恩を報じなさい」と説かれている。
 日蓮は愚癡の凡夫で人と変わらぬ血肉の身である。見思・塵沙・無明の三惑の一分も断じていないが、ただ法華経を弘めるゆえに、罵詈・毀謗され、刀杖を加えられ、流罪されたことをもって、昔の大聖が臂を焼き髄をくだき頭をはねられたことに、なぞらえようと思う。これが第一の大いなる悦びなのである。

心地観経
 唐の般若訳、8巻。大乗本生心地観経の略称。報恩の道について四恩が示され、次に出家の修行が説かれ、阿練若の静かな所に住して心を観ずる功徳が明かされている。また、心地の理について、三界の中には唯心を以て主とし、心を名づけて地とするとされている。
―――
衆生無辺誓願度
 「衆生の無辺なるを度せんと誓願す」と読む。いっさいの衆生を全て済度しようと誓うこと。菩薩の四弘誓願の一つ。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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悪律儀
 律儀とは身口意の過失を防護するための禁戒。善律儀に対する語。ここでは屠畜等を職業とする者をさす。
―――
四大天王
 帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する
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転輪聖王
 インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
―――
三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
三光
 太陽、月、明星の三つをいう。
―――
五穀
 主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
―――

 ①心の働きを司るもの。霊魂・精霊。②精神・気力。③心識・神識・霊妙な働き。④素質・天分。
―――
生死を離るべき国主
 大聖人のための善知識となり、成仏を成就させた国主。大聖人を迫害した北条執権のこと。種種御振舞御書には「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。」(0917-07)とある。
―――
六十四分
 大方等大集経巻五十に「一々の花果・衆味・精気に於いて六十四分の中、其の一分の精気を取りて以て身命を活し、余の六十三分を留めて衆生を活し、安楽を受けしむ」とあるが、これをさしている。
―――
果地の三分の功徳云云
 大集月蔵経十に「先の仏の作さざる者、我れ今衆生の為に、身・寿命を棄捨し、三精気を増さん為に衆生を悲愍す。故に寿の第三分を捨て、法が法海をして満たしめ、諸の天人を洗浴す。過去の諸の如来、寿に依って滅度したまへり」との文を転用して、仏の果報として受けた三分の功徳、すなわち寿命百二十歳を、自らのためにその三分の二の八十歳を、残りの三分の一の四十歳を滅後の衆生のために残されたとの意。
―――
五濁雑乱
 五濁が入り乱れていること。五濁は劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
―――
非法
 仏の正法にそむく行為や制法。社会の道理に反した行為、制度。
―――
守護の善神
 諸天善神のこと。梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩・四天王をはじめとする一切の諸天・諸菩薩の総称。法華経の行者を守護し、民衆・国土を守り、福をもたらす働きを持つ。安楽行品には「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」とあり、法華経の行者の守護を誓っている。立正安国論には「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-12)とあり、世の人々が正法に背く時には、善神は法味に飢えて守護の国土を捨てて天界の本地に戻ってしまい、その代わりに神社・仏閣には悪鬼・魔神が住んで、種々の災禍が起こる。
―――
天竜
 天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦等の八部衆。
―――
地神
 大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
―――
十善
 十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
―――
六親
 妻(夫)・父母・子供・兄弟等。一般には六親等までの血縁者。
―――
四大海
 古代インドの世界観で、須弥山をめぐる四方の大海。須弥山を中心としてそれぞれに一つの大洲を浮かべ全体を鉄囲山に囲まれた大海をいう。
―――
五箇の五百歳
 釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
―――
雪山童子
 釈尊が因位の修行をしたときの名。涅槃経巻十四等にある。釈尊は過去の世に雪山で法を求めて修行していた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
―――
常啼菩薩
 梵名サダープララーパ(Sadāpralāpa)。薩陀波倫と音写する。大般若波羅蜜多経巻三百九十八に「常啼菩薩摩訶薩は本・般若波羅蜜多を求むる時、身命を惜まず珍財を顧みず名誉に徇わず恭敬を希わずして、般若波羅蜜多を求む」とある。常啼の名の由来については、大智度論巻九十六に「其の小時に喜んで啼きしを以ての故に常啼と名づく」とあり、衆生が悪世にあって、貧窮し、老病し、憂苦するのを見て悲しみ、啼いて法を求めたゆえにこの名があるという。
―――
薬王大士
 薬王菩薩。法華経薬王菩薩本事品第二十三にある。過去、日月浄明徳仏の世に一切衆生憙見菩薩が出現し、仏から法華を聞いて、現一切色身三昧を得た。日月浄明徳仏の入滅を悲しみ、身を以って供養しようと、自らの臂を七万二千歳のあいだ焼き、供養した。釈尊は、一切衆生憙見菩薩とは今の薬王菩薩であると明かし、この供養は三千大千国土の珍宝を供養するよりも勝ると説いた。
―――
普明王
 梵名シュルタソーマ(Śrutasoma)。須陀須摩と音写し、須陀摩と略す。普明王は意訳。釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜の修行をしていた時の名。普明王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修したという。あるとき、斑足王に捕われ、他の九百九十九人の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の僧への供養をする約束をはたすために七日間の猶予を乞い、斑足王は帰国を許した。普明王は、彼の僧に供養をし、王位を太子に譲って約束の七日目に王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、普明王のみならず他のすべての王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある。
―――
うちかひ
 昔、旅人などが、食糧や金銭その他貴重品を入れて腰に巻きつけた袋のこと。ここでは鬼の餌食となるとの意。
―――
梵網経
 「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
―――
円頓の戒
 円頓の円とは円融円満、頓は頓極、妙戒とは最高の戒、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)とある。
―――
血肉の身
 功徳の法身に対する語で、六道輪廻・三惑末断の凡夫をいう。
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三惑
 見思・塵沙・無明惑のこと。①見思惑、三界六道の苦果を招く惑で、分けて見惑(五利使・五鈍使からさらに細分化し三界の四諦にあてて88使となる)と思惑(倶生惑といって、生まれて同時についてくる煩悩、欲界の貧・瞋・癡・慢、色界の貧・瞋・癡・慢、無色界の貧・瞋・慢と合わせて81品)になる。②塵惑、二乗菩薩が修行の過程で、小果に著し、あるいは化導の障りとなる等の惑で、その数が無量のところから塵沙と呼び、大乗の大菩薩のみがよくこれを断破するとされる。③無明惑、中道法性を障えるいっさいの生死煩悩の根本であり、別教には12品、円教には42品を立てている。42品のうち最後の無明惑を元品の無明といい、これを断じ尽くせば仏になれる。④以上の三惑は釈迦仏法において、浅きより深きにいたる立て分けであるが、末法の今日においては根本の惑はただひとつ、元品の無明惑である。三大秘法の大御本尊を信じ奉るときに、無明惑はたちまちに断破して、煩悩即菩提・生死即涅槃と開覚するのである。御義口伝には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751-15)とある。
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 ここでは心地観経に準じて四恩を表示されている。いわゆる一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩がそれである。これら四恩については、名目を心地観経に借りてはいるが、その義はあくまでも御本仏の文底深秘の大法によるもので、権大乗方等部の心地観経とは天地の開きがある。
 本抄では四恩のうち、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩については、知恩という立場が強調されており、それに対し、三宝の恩は、報恩という立ち場からこれを述べられている。三宝の恩を報ずることは非常に難しいことであるが、三宝の恩を報ずるということに、前の三恩に報ずることはすべて含まれてしまうのである。ゆえに「されば三宝の恩を報じ給うべし」と勘誡されているのである。
 さらに、雪山童子、常啼菩薩そのほかの先例を挙げて、三宝に対する報恩の実践を述べ、いま大聖人が凡夫の身として、法華経のゆえに難にあっていることこそ、これらの昔の聖人に匹敵する報恩の実践であることを述べられ「是れ一つの悦びなり」と結論されている。
仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か
 仏法を習うとは、正しい仏法の実践である。それは、さらに現代的に約していえば、人間完成への実践であり、人間としての正しい生き方である。
 正しい仏道修行は、社会から離れてあるのではない。「一切衆生の恩」とは、全ての人々が、自分と何らかの関係があり、自己の生命に恩恵を与えてくれているのである。「父母の恩」とは、自分を生み、育ててくれた父母の恩恵である。「国王の恩」とは、社会・国家の主権者である。また、これを拡大していえば、社会機構、政治体制、秩序ともいうことができよう。
 したがって「国王の恩」に報ずるとは、一国の広宣流布である。「一切衆生の恩」に報ずるとは、あらゆる人々に妙法を受持せしめ、救いきっていくことである。
 一般的にいっても、あらゆる生命体にとって、社会・仲間・同類の存在は、ほとんど絶対的なまでに不可欠であるといわれる。あるハツカネズミの実験によると、一匹だけ孤立して箱に入れておいたところ、一週間ぐらいで気違いのようになり、肉体的にも著しい変調をきたしたという。そこで、元の仲間と一緒にすると、たちまち、前のように元気になったのである。
 これは、人間の例とは違うから、そのまま人間にあてはめて論ずることはできないかも知れない。だが、生命の本質として、社会ないし仲間の存在それ自体に、どれほど大きい恩恵を受けているか、はかりしれないものがあることは事実である。
 社会と個人の関係について、従来の西洋思想では相反する二つの考え方がある。いわゆる「社会実在論」と「社会名目論」である。社会実在論とは、個人を超越して客観的な統一性をもつ実体としての社会を認める立ち場であり、コント、スペンサー等の社会有機体説に代表される。これが極端に進むとファシズム的、全体主義的社会観となり、個人の主体性は全く否定されてしまう。
 一方、社会名目論は個人のみを実在として認め、社会はたんなる名目上の存在にすぎないとしている。そして社会は個人の契約によって成り立つゆえに第二義的なものであるという。この立ち場は、ホッブス、ロック等の社会契約説に代表される。
 しかして、今日の社会学によれば、これら両者の考え方はいずれも両極端であって、一方のみを正しいとすることができないとされている。事実、現実に存在する個人はさまざまな社会的な関連のなかに生活している個人であり、いわば社会的人間ということができよう。
 このように、一般的に生活論、社会論のうえからいっても、社会の恩恵は測り知れないものがあるのだが、なお、そのように、大聖人の御身にあたって、大なる恩がある。それは、一切衆生の場合は大聖人にさまざまの悪口、誹謗し、留難をなしたからであり、国王の場合は、権力をもって弾圧してきたからである。
今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時……比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり
 一往は仏の慈悲を述べられたと拝することができるが、再往は釈迦仏はあくまで迹仏であり、末法に大聖人が出現され、文底深秘の大法を弘められるときのための準備をすることに、本義があったことを示されていると拝せられる。
 同じ伊豆御流罪中で、前半の弘長元年六月に船守弥三郎に与えられた御抄には「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」(1446-14)と申されている。
 末法の世に、釈迦仏が自身の福徳を残して僧尼の命の支えとするとの、今の御文と同じ意味である。ここで、末法の世の「比丘比丘尼」とは、別しては、末法の法華経の行者であり、日蓮大聖人御自身を指していわれていることは明らかである
法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る
 法宝の恩について述べられているこの御文は、いかにも短かい。だが、先に述べられた仏宝に比して、法は仏の師であると申されているこの御文から、法宝の重さを知るべきである。
 天台大師は法華文句の十に「法は是れ聖の師なり能生能養能成能栄・法に過ぎたるは莫し故に人は軽く法は重きなり」といっている。
 日蓮大聖人は「宝軽法重事」に「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり夫れ法華已前の諸経並に諸論は仏の功徳をほめて候・仏のごとし、此の法華経は経の功徳をほめたり仏の父母のごとし」(1475-06)と仰せである。
 したがって「法は諸仏の師」と申された、その法とは、とりもなおさず、法華経すなわち、三大秘法の南無教法蓮華経であることを知らなければならない。ゆえに、三宝の恩を報ずるといっても、その究極は、法宝の恩であり、三大秘法の大仏法を受持し、折伏を行じていくことに尽きるのである。
仏宝法宝は必ず僧によりて住す
 令法久住のために、身命をなげうって活躍していく人が真の僧の宝であるとの仰せである。次下の譬えにあるように、薪がなくなってしまえば、火は消えてしまう。また、大地がなければ草木は生じない。火は仏と法であり、薪は僧である。また、草木は仏法であり大地は僧である。この譬えのなかに、正しい法を伝える僧、すなわち後継者を重んじなければならないとの道理は、あまりにも明瞭である。
 今、大聖人の大仏法を根底にした未曽有の大文化建設の事業にあっても、何よりも大切なことは、後継者の問題である。否、この事業においては、単に先人の業を継いでいくだけではなく、あらゆる分野にますます発展させ、栄えさせていく無量の人材が輩出しなければならないであろう。

0939:02~0939:14 第六章 大慈悲に立脚し謗者の堕獄を欺くtop

02   第二に大なる歎きと申すは、 法華経第四に云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於
03 て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し、 若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀呰せん 其の罪
04 甚だ重し」等と云云、 此等の経文を見るに信心を起し身より汗を流し 両眼より涙を流すこと雨の如し我一人此の
05 国に生れて多くの人をして 一生の業を造らしむることを歎く、 彼の不軽菩薩を打擲せし人現身に改悔の心を起せ
06 しだにも猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、 今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず、 是体の
07 人の受くる業報を大集経に説いて云く 「若し人あつて千万億の仏の所にして仏身より血を出さん意に於て如何・此
08 の人の罪をうる事寧ろ多しとせんや否や、 大梵王言さく若し人只一仏の身より血を出さん無間の罪尚多し、 無量
09 にして算をおきても数をしらず阿鼻大地獄の中に堕ちん、 何に況や万億の仏身より血を出さん者を見んをや、 終
10 によく広く彼の人の罪業・果報を説く事ある事なからん 但し如来をば除き奉る、 仏の言はく大梵王若し我が為に
11 髪をそり袈裟をかけ片時も禁戒をうけず 欠犯をうけん者をなやましのり ・杖をもつて打ちなんどする事有らば罪
12 をうる事・彼よりは多し」と。
13       弘長二年壬戌正月十六日                       日蓮花押
14     工藤左近尉殿
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 流罪の身になったことについて、第二に大いなる歎きがある。というのは、法華経第四の巻・法師品第十に「もし悪人がいて、邪悪な心をもって、一劫の間、現実に仏前において、つねに仏を毀り罵ったとしてもその罪はなお軽い。だが、もし人がただ一つの悪言であっても、在家・出家の法華経を読誦する者を毀ったならば、その罪ははなはだ重いのである」等と説いている。わが身にあてて、これらの経文を拝見するとき、ますます信心を起こし、身より汗を流し、両眼から涙を流すことは雨のようである。そのわけは日蓮一人がこの日本国に法華経の行者として生まれたために、多くの人々を法華誹謗のために一生の悪業を造らせてしまうことを歎くのである。彼の不軽菩薩を打ちたたいた人々は、その生きている間に悔い改める心を起こしてさえも、なおその罪が消え難くて千劫という長い間阿鼻地獄に堕ちてしまったのである。ところが今、日蓮に怨をなした徒輩はいまだに少しも悔いる心も起こさない。
 こうした人の受ける業報を大集経に説いていうには「仏が問うに『もし人がいて千万億の仏の所で仏の身より血を出そうとしたならばどうなるか。またこの人の受ける罪は多いかどうか』と。大梵王が仏に申すには、『もし人あって、ただ一人の仏の身から血を出しただけでも無間地獄に堕ちて沢山の劫を経なければならない。その罪は算木をもちいても数えることができないほどの無量劫の間、必ず阿鼻大地獄のなかに堕ちるであろう。まして万億の仏の身体から血を出だした者においては、それよりはるかに罪が重いのである。それは、仏を除いては誰人も、その人の罪業と果報をことごとく説き尽くせる人はないであろう』と。仏のいわく『大梵王、もしわがために、髪を剃り、袈裟をかけている者なら、片時も禁戒を受けず無戒であっても、その者を悩まし、ののしり、杖で打ったりなどすることがあれば、罪を受けることは、万億の仏の身より血を出だす者よりも多いのである』」と。
  弘長二年壬戌正月十六日   日 蓮  花 押
   工藤左近尉殿

一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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一生の業
 謗法の罪業は一生の間のいかなる善悪の業をも覆い尽くしてしまい、阿鼻獄に落ちる罪業であるのでこういう。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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大梵王
 大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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禁戒
 悪事・悪行を禁止する戒律。
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欠犯
 戒律を犯し、戒体を欠くこと。
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 流罪について、これまで「大なる悦び」を述べてこられたのに対し、本章は「大なる歎き」を示されている。ただし、大聖人のお歎きとは、普通の凡夫のような、流罪地の生活がつらいとか、認めてくれないことが悲しいなどという歎きとは、次元が全く違う。
 大聖人に敵対し、迫害した人々が、仏法の道理として、無間地獄に堕ち、苦しむことを憐れんで「大なる歎き」といわれているのである。このお心こそ、まさに御本仏ならではの大慈悲ではないか。
 今日、世界的宗教といわれるキリスト教やイスラム教に比べ合わせるとき、仏法の慈悲が、いかに広大であり、絶対的なものであることか。キリストは、十字架にかけられたが、聖書には、キリストを死刑にしたユダヤ人を憎んで、ユダヤ人を殺せと命じている個所さえある。
 ヨーロッパ中世史、さらにルネサンス、宗教改革時代の近世は、異教徒と異端弾圧の嵐の連続であり、悲惨と残虐をきわめた時代であった。なかんずく、ユダヤ人に対する迫害は、非人道の限りを尽くし、執拗に繰りかえされたのである。二十世紀における、ナチスのユダヤ人大虐殺も、こうした一連の惨劇の一幕に過ぎないとすらいわれる。その最も根本の原因は、聖書にある〝命令〟であり、キリスト教の本質的な矛盾に求められるのである。
 ある学者は、このような〝憎悪〟の宗教が恐るべき科学文明と結びついているところに現代世界の危機の本源があるとさえ述べている。極端な論議のようであるが、まことにその通りといわざるを得ない。
 敵対し、迫害する者すら包容し、憐れみ、救っていく、絶対的な仏法の慈悲こそ、真の世界平和を具現する理念である。生命をあくまでも尊重し、信頼と調和の理想社会を建設する源泉は、何よりもまず、この仏法によるべきことを叫びたい。
我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く
 日蓮大聖人が末法の御本仏であることを、この文の底に厳然と示されていると拝すべきである。なぜかならば、次下の文に述べられるように「一生の業」とは無間地獄の罪であり、日本国の一切衆生の堕無間の業は、大聖人を境として起こったところの罪であるからである。したがって、このことは、逆に、日蓮大聖人に信順し、正法の信心修行に励んでいくならば、それが即、一生成仏への大道であることの明証でもある。
 いま、本抄のしめくくりとして、無間地獄の文証をあげられたのも、衆生をして無間地獄へ堕墜せしめないための大慈悲である。
 「御義口伝」にいわく、「不軽礼拝の行は皆当作仏と教うる故に慈悲なり、既に杖木瓦石を以て打擲すれども而強毒之するは慈悲より起れり、仏心とは大慈悲心是なりと説かれたれば礼拝の住処は慈悲なり」(0769-第廿六慈悲の二字礼拝住処の事)と。
 所詮、大聖人が強いて折伏を行じ、人々の誹謗をあえて呼び起こされたのも、毒鼓の縁によって救わんがためであって、全ては大慈悲の一念に包含されることを知るべきである。「報恩抄」の「無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-04)の御文を合わせ拝するとき、大聖人の民衆救済の広大な御精神が、ひしひしと胸を打つではないか。

0935~0939    四恩抄 2011:9月号大白より、先生の講義top

報恩こそ限りなき前進の原動力
 「生命の道は、進歩の道である」中国の革命家・魯迅は叫びました。
 「いかなる暗黒の思想が流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいられない。
 人間には、前進する力があります。正義によって立つ生命の「進歩の道」「向上の道」「使命の道」は、何ものも阻むことはできません。
自他共の幸福を実現する仏界の力
 ロシアの文豪トルストイも洞察しました。
 「ひたすら人間らしい幸福へと向かうことが人間の生命なのだ」。
 「人間らしい幸福」の実現に向かって、ひたすら前進する生命の底力 それは、日蓮大聖人の仏法で言えば、「自他共の幸福」を実現する「仏界の生命力」そのものです。
 人間が限りなく前進し、新しい時代を生み出すために、この「本源の力」を、どう涌現させていくか、その最も根本となる道が、恩を知り、恩に報いることです。すなわち「報恩」です。
 報恩の人生に、行き詰まりはありません。父母や師匠をはじめ、今の自分を築かせてくれた一切の人々への感謝と報恩の決意が、自分を向上させていく原動力となります。自分を育ててくれた人々を断じて裏切るまいと思えば、人生の正しき軌道から外れてしまうことはありません。いかなる苦境でも、恩ある人を思い浮かべれば「負けじ魂」が込み上げてきます。報恩は、人間の根源の力を引き出す源泉となるのです。
 反対に、忘恩の人生は闇です。人間を人間たらしめる基盤を自ら失ってしまうからです。
 ゆえに、大聖人は「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か」等、多くの御書で「報恩」こそ仏法者の生き方の根幹であることを教えられているのです。
 恩師・戸田城聖先生は喝破されました。
 「ひたすら現在の世相をみるに、人の道たるべき知恩・報恩のものがことごとく稀である。ここに社会の乱れや恨みの生活が生ずるのである。この世相を一新せんとせば、すべからく一乗妙法を弘通して、一切の民衆に帰趨するところを知らしめなくてはならない」と。
 仏法の師匠とは、万人に「知恩・報恩」の正しき人生を教える人にほかなりません。“最も尊敬すべき”“最も拠り所とすべき”根本の師匠とは誰か。 この一点を深く見定め、その教え通りに実践し、広く人々に知らしめていくのが私たちの戦いです。
 今年は、日蓮大聖人の伊豆流罪の法難から満750年です。大聖人が、流罪の地・伊豆で認められた「四恩抄」を共に拝し、恩に報ずる人間の正道を学んでいきましょう。

01   抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、 一には大なる悦びあり              ・
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 抑日蓮がこの伊東流罪の身となったことについて、二つの大事がある。
 その第一には大いなる悦びがある。

「法華経」を身で読む悦び
 「四恩抄」は弘長2年(1262)1月16日に認められ、安房国東条郷の門下・工藤氏に与えられたとされる御手紙です。
 伊豆流罪は、日蓮大聖人が「立正安国論」で国家諌暁をされた翌年に起りました。大聖人が、民衆を苦しめる「一凶」と戦い、いよいよ安国の社会の実現に向けて本格的な闘争を開始された時の法難です。まさしく伊豆流罪は、大聖人に対して、鎌倉幕府が表立って加えてきた最初の迫害となります。流罪に至る経緯は定かではありませんが、幕府の実力者であった北条重時や、その後継で当時の執権であった長時らの策謀ではないかと推察されています。
 大聖人は、弘長元年(1261)5月12日、伊豆の伊東へ流罪され、弘長3年(1263)2月に赦免されるまで約2年間、流罪の身となられました。
 本抄は、後半で「四恩」について述べられているところから「四恩抄」と呼ばれます。
 伊豆流罪の渦中に著されたものですが、一言一句が弾むように大難と戦い経文を身読された大歓喜に満ちあふれた御書です。
 本抄の冒頭は、大聖人の御確信を象徴する力強い言葉から始まります。
 「流罪の身となって、二つの大事がある。第一に大なる悦びである」と。そして本抄の終盤に、「第二に、大いなる歎きがある」と示されています。
 すなわち、命を賭して法華経を身で読んだ悦びであり、大聖人を迫害する者が悪業を刻むことに対する歎きです。いずれも、普通であれば、流人という境遇から生まれ得ない大境涯のお言葉です。この内容を本抄の記述に沿って簡潔に迫ってみたい。
 第一の「大いなる悦び」ですが、当時、大聖人が置かれた境遇は、全く「悦び」とは正反対の劣悪な状況でした。
 まず、この現実世界は娑婆世界、すなわち勘忍の世界と呼ばれます。なかんずく私たちのいる国土は、十方の仏たちに捨てられた悪逆の衆生が住む国土です。さらにこの世界では、私たちの成仏を妨げようと、第六天の魔王が動きます。そして、末法に入ると人々の「三毒」もますます強盛になっている。その中で法華経を弘通すれば、当然、悪鬼入其身の増上慢の衆生からの悪口や迫害を避けることはできません。
 大聖人は、悪世末法の一切衆生を救うために、経文の通りに流罪を受けられました。これこそ法華経を身で読まれたことであり、本抄では、人間に生を受けてこれほどの悦びはないと断言されています。
 法華経の身読とは、仏意の実現です。滅後悪世で万人を救済するという崇高な使命を果たす、誓願成就の証しです。この法華経の身読によって、末法万年の広宣流布の道を開くことができます。そして、仏の大願に生き抜くことで、自受法楽という大歓喜の境地を得ることができるのです。
 本抄では、経文身読に加えて別の観点からも、「大いなる悦び」の内容に言及されます。それが、報恩です。それが実現できた悦びを大聖人は表明されています。
 以上のように、本抄では、法華経を身読した悦び、報恩を果たして不惜身命で正法弘通に生き抜いた悦びを語られます。
 この威風堂々たる崇高な御境地を拝すれば、私たちもまた、難は即、自身の境涯を開く好機と捉え直すことができます。勇敢に難に立ち向かった時に、人間の生命は大いなる悦びに満ちあふれることを、大聖人は自らの姿を通して門下に示してくださっているのです。
 あらためて本抄が、流罪地からのお手紙であることに思いをはせれば、いやまして感動を禁じ得ません。
 本抄を賜ったとされる工藤氏は、安房国の東条郷に住む門下です。大聖人に敵対する地頭・東条景信の地域で、大聖人の一門、ゆかりの人々に対する圧力も厳しかった。その中で、流罪地・伊豆から“私がいるから何も恐れるな”“私の闘争に続け”と、師匠の大境涯を教えてくださっているのです。
 本抄の終盤では、二つの大事のうち第二の「大いなる歎き」が示されます。すなわち、法華経を弘通する大聖人を迫害することで、多くの人が法華経誹謗の悪業を生命に刻んでしまうことを歎かれているのです。
 しかし、仏法には「逆縁の功徳」という法理あります。妙法に縁する功徳は、順縁も逆縁も、ともに生命に刻まれます。誹謗した人は、因果の法理によって悪業の果報を受けますが、逆縁によって、最後は妙法の力で必ず救われるのです。
 したがって、大聖人の「歎き」とは、御自身の境遇に対する歎きなどではない。ついには、自分を迫害した者をも救済していく意志を込めた、大慈悲の御境涯の表明であられます。
 この「大いなる悦び」「大いなる歎き」とは、一個の人間がもつ「大いなる力」を満天下に示した大宣言なのです。

01                                           此の世界をば娑婆と名
02 く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、 此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日
03 月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出で
04 まします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり 、此の娑婆世界より外の十方の国土は 皆浄土にて候へば人の心
05 もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝
06 父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて 無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せ
07 ずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり
-----―
 そのゆえはこの世界を娑婆と名づける。娑婆というのは忍ぶということである。故に仏をば能忍と名づけるのである。この娑婆世界の内には百億の須弥山と百億の日月と百億の四州とがあり、その中の中央の須弥山・日月・四州に、仏は出現されたのである。この日本の国はその仏が出現された国からみて丑寅の角にあたっている小島である。この娑婆世界以外の十方の国土は皆浄土であるから人の心も穏やかで賢人や聖人をののしったり憎悪することもない。しかしながら、この国土は十方の浄土から捨て果てられてしまった、十悪を犯した者・五逆を犯した者・賢聖を誹謗した者・父母に不孝をした者・僧侶を敬わない者などの悪科をなした衆生が、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて無量劫を経てから、かえって、この娑婆世界に生まれてきたが、前世の悪業の習気が消えないで、ややもすると十悪・五逆罪を作り賢聖を罵り、父母に孝行をせず、僧侶も敬わないのである。

「信の力」で第六天の魔王を破る
 先述したように、私たちの住む世界は「娑婆世界」です。穢土ともいいます。浄土であれば、人々の心も清らかで、賢人・聖人を迫害することでもありません。しかし、娑婆世界は、十悪・五逆の悪業に染まる人々が集まり、賢人・聖人が迫害され、正しき信念の人を尊ばない、大悪の衆生が充満するところです。
 それに加えて、娑婆世界では「第六天の魔王」が親近者や権力者等の姿を借りて、三障四魔・三類の強敵となり、法華経を信ずる心を捨てさせようとします。
 この第六天の魔王とは、元品の無明の現われです。これに打ち勝つのが「信の力」の現われです。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751-15)とある通りです。「信の力」で無明を打ち破った時に、わが生命は妙法と一体となります。これが成仏なのです。
末法の娑婆世界に生きる師弟
 釈尊は、法華経寿量品で「仏は久遠に成仏してから常に娑婆世界にあって衆生に法を説き、教え導いてきたと明かしました。
 「娑婆即寂光」「煩悩即菩提」「九界即仏界」の法門です。法華経は、正法を根本に、人々が仏界の生命を開き顕すならば、いかなる環境・境遇も、仏国土へ、寂光土へと変革することができると教えています。
 日蓮仏法で言えば、この変革の挑戦が、「一生成仏の信心」であり、「立正安国の実践」なのです。
 本抄に「仏をば能忍と名けたてまつる」とあります。しかし、ただ単に、堪え難いことを忍ぶということだけの受け身ではありません。仏国土の建設に向けて、容易には現実できない人々の生命の変革を断固として成し遂げようとする強い意志こそが、能忍の本質です。
 同じく伊豆で著された「教機時国抄」には「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず之を顕すは法華経の行者なり」(0441-18)と仰せです。あえて三類の強敵を呼びあらわし、厳然と打ち破る能忍の御闘争によって、万年にわたる民衆救済の大道を切り開かれたのです。

06                                                    法
07 華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」と云云、 始に此の文を見候いし時は・さしもやと
08 思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。
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 法華経の法師品に「如来の現在ですらなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅後においては、これより一層多いことはいうまでもない」と述べている。初めにこの経文を見たときには、それほどでもあるまいと思っていたが、流罪された今こそ、仏の言葉は、やはり間違っていなかったと、とくに身に当たって思い知ったのである。
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09   日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども 此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて
10 随分世間の事おだやか・ならんと思いき、 世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服す
11 る僧もさてこそ候か、 日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず 只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯
12 せずして犯僧の名四海に満ち 螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、 恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉り
13 しに似たり、 是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも 少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つ
14 て・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賎・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にの
15 せられて留難に値うべしと 仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、
-----―
 およそ日蓮は身に戒を行ずることもなく、心に貧・瞋・癡の三毒を離れてはいないが、この法華経を多分自らも信じ、人にも縁を結ばせることになると思って、正しいことをやっているのであるから世間の自分に対する扱いもかなり穏やかであろうと思っていた。いまは世が末になってしまったので、妻子を持っている比丘も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも帰依を受けるのが当たり前となっているではないか。ところが日蓮はそうした妻子を持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけで、それを失にされて、妻子を持たずして犯僧の名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名は天下にはびこってしまった。恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀ったことに似ている。これは偏に法華経を信ずることが、人よりも多少経文通りに正しく信を向けたゆえに悪鬼が世間の身に入って、嫉妬するのであるかと思われる。そう考えればこれはどの卑しく無智・無戒の僧である自分のことが二千余年も以前に説かれた法華経の文に載せられ、法華経の行者は必ず留難に値うであろうと仏が記し遺されたことの嬉しさはいい尽くし難いことである。

「法華経の行者」の確たる証し
 ここでは、娑婆世界の様相にちなんで、釈尊在世の難が、どれほど熾烈であったかを述べられた後、法華経法師品の文を挙げられています。
 「仏の在世ですら、怨嫉による迫害は多かった。ましてや滅後は、なおさらである」。
 この法華経の予言を「まさに、その通りだ。間違いない」と、御自身の境遇に引き当てて思い知ったと仰せです。
 そして「身に戒行なく心に三毒を離れざれども」と、大聖人御自身も、一人の凡夫であられることを表明されながら、日本国中から悪口罵詈され、流罪に処せられたのは、全く世間的な過失によるものではなく、ただ一途に法華経を弘めようとする「信心」のゆえであると述べられます。
 「悪鬼其の身に入って・そねみを・なす」とは、法華経勧持品に説かれた法理です。正法を護持する人を罵り辱めようとする者が必ず現れるのです。社会的にも一点の過ちもない大聖人が、集中砲火のように非難される。まさに「悪名一天に弥れり」です。
 「嫉妬は火のように最高所を狙う」と、古代ローマの歴史家でありヴィウスは喝破しました。
 嫉妬の攻撃を受けるのは、まさしく偉大さの証明です。法華経を弘めるゆえの迫害は、真正の「法華経の行者」である証なのです。
 大聖人は、自分のような卑賤・無智・無戒の者が、法華経の未来記に符合することのうれしさは、言葉では言い尽くせないとのべられています。これは逆に、法華経の行者たり得るには、特別な身分や知識や戒律などは必要ない。身口意の三業で法華経を読む、無二の「信心」こそが大事なのだとの仰せと拝されます。
 「昼夜休みなく、毎日、法華経を修行しているのと同じだ。行住坐臥すべてにわたって、法華経を読み、行じていることになるのだ。人間に生まれて、これほどの悦びはほかにあるだろうか!」と綴られ、「このような法華経の持経者は、末法においてほかにないであろう」とも述べられています。大聖人こそ「末法の法華経の行者」であるとの御宣言と拝されるでしょう。
 この御文を法難の渦中で色読されたのが、牧口先生であり、戸田先生です。戦時中、押収された戸田先生の御書には、この一節に力強く線が引かれてありました。

13   仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、 一切衆生なくば
14 衆生無辺誓願度の願を発し難し、 又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、
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 仏法を習う身としては必ず四恩を報ずるのが道理である。四恩とは心地観経によれば、一には一切衆生の恩である。一切衆生いなければ菩薩の四弘誓願の一つである衆生無辺誓願度の願いを発すことは難しい。また正法誹謗の悪人がいなくて菩薩に留難を加えないならば、どうして功徳善根を増していくことができよう。

迫害の権力者をも「恩深き人」
 この御文の前に「止事なくめでたき事侍り」と述べられています。それは 法華経流布のゆえに、人に讒言され、それによって、流罪に処してくれる国主に会えたことであると。
 この「国主」とは、当時、政治への実権を握っていた北条幕府をさすと拝されます。
 この讒言の人や、国主の迫害によって、法華経を身で読むことができたがゆえに、これらの人々こそ、御自身にとって「恩深き人」であると仰せになっているのです。
 そして、ここから「四恩」へと論を展開されています。四恩とは、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩です。
 四恩の第一は「一切衆生の恩」です。衆生がいるから、菩薩の誓願の一つである「一切衆生をすべて救いきっていこう」という誓いを起こすことができる。また留難をなす悪人がいるから功徳を増すことができる これも衆生の恩であると仰せです。
 第二に「父母の恩」です。我が身を削るようにして自分を養いそだててくれた。その一点だけでも、何ものにも替えがたい大恩です。そのうえで大聖人は「今世において自分を産んで、法華経を信ずる身としてくれた」ことを挙げられています。
 第三に「国王の恩」です。これは、本来は、人々の生命・生活を支える国土・食料等を統括する働きといえるでしょう。そのうえで本抄では、国主の迫害によって、仏道を成就できる恩をいわれています。
 あらためて、なぜ「報恩」が大事か。「報恩」は、狭い自分を乗り越える飛躍台となるからです。
 釈尊が当初、二乗は「永く成仏できない」とされたのは、彼らが「不知恩」なるが故でした。
 「報恩」の心が欠けていたために「自己中心性」から脱却できなかった。万人に仏性が具わることを、見ようともしなかった。ゆえに自分の仏性も開けず、人々の仏性を開きゆく喜びも得られなかったのです。
 舎利弗が、あの乞眼の婆羅門の責めに耐えられず、菩薩行から退転したのも同じです。結局は、利他を貫けず、自利の網にとらわれてしまったのです。
 「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり」(1046-11)とも仰せのように、私たちが今世で縁する人々は、過去世からの恩ある存在です。
 「恩ある同士を守る」「友の幸福に尽くす」という肝心の戦いを忘れてしまえば、結局は「自利」だけの世界に閉じこもってしまう。信心とは、ある意味で「自己中心性」との戦いです。報恩がなければ、人間革命の完成もないのです。
 ともあれ、現実の闘争は、どこまでも苦闘の連続です。まさに娑婆世界にあって、「能忍」が不可欠です。そして、この「能忍」を支えるものこそ、心の奥深くに刻んだ「報恩」の志なのです。
 法華経勘持品にも、「我れ等は仏を敬信して、当に忍辱の鎧を著るべし」と説かれております。
 どんなに理不尽な批判があろうと、誰にほめられなくとも、広宣流布の責任から逃げない。「我が心の師匠」と対話しながら、どこまでも同士の幸福を願い、必死になって、師の大恩に報いていく。これが本物の弟子です。その人こそ、すべてに「感謝」できる、豊かな自分を開いていける。仏の大境涯を成就し、無上の悦びを満喫していけるのです。

01                                               四には三宝の
02 恩、 釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、
03 其の一分をば我が身に用ひ給ふ、 今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の
04 者・国に充満せん時、 無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださ
05 ず地神.地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母.六親に
06 孝せず・したしからざらん時、 我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりご
07 となからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、 又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、 仏
08 の寿命・百二十まで世にましますべかりしが 八十にして入滅し、 残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ
09 給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし 一切の草木を焼て墨となして 一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を
10 紙と定めて注し置くとも 争か仏の恩を報じ奉るべき、 法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は 法に依
11 る、 されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、 次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、
12 譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、 仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・
13 二千年過ぎて 末法へも伝はるべからず、
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 四には仏・法・僧の三宝の恩である。はじめに仏の恩を述べれば、釈迦如来は無量劫の間、菩薩の修行を立て給うときに、その修行によっていっさいの福徳を集めて、これを六十四に分けて功徳を身に得られたのである。だがそのうち一分だけを自分のために用いられ、今残りの六十三分をこの娑婆世界に留め遺して、末法の五濁雑乱のとき、非法が盛んになるであろうとき、謗法の者が国中に充満するとき、日や月は光を失い、天竜は雨を降らさず、地神は大地の養分を滅するとき、草木の根・茎・枝・葉・華・菓・薬等の七つの味もなくなるとき、過去世に十善戒を持った果報で今生に国王と生まれたその国王までもが貪瞋癡の三毒を増し、衆生は父母・孝を尽くさず六親が互いに不和になるとき、そうしたなかで仏の弟子が無智で無戒のまま髪を剃り、形式だけの出家となったために守護の諸天善神にも捨てられて、生命をつないでいく手段のない僧や僧尼に対して、その六十三分の福徳によって、彼らの命を支えようと誓われたのである。また仏は、成道によって得た果徳の寿命を三つに分け、その功徳の三分の二を自身のために用いられ、本来仏の寿命は百二十歳までこの世にいられるところであったが、八十歳で入滅し、残るところの四十年の寿命を留め置いて、われらに与えられたのである。したがってその恩というものは四大海の水を硯の水とし手、一切の草木を焼いて墨を作り、いっさいのけものの毛を集めて筆とし、十方世界の大地を紙として書き残しても、どうして仏の恩に報いることができようか。
 法の恩を述べるならば、法はいっさいの諸仏の本師である。諸仏が貴いことは法によるのである。それゆえに仏の恩に報いようと思う人は法の恩を報ずべきである。
 次に僧の恩についていえば、仏宝・法宝の二宝は必ず僧によって、後世に伝えられるのである。譬えば薪がなければ火はあり得ないし、大地が無ければ草木は生えることができない。仏法があっても、真実の僧がいて習い伝えなければ正法・像法・二千年を過ぎて末法へも伝わるということはない。

伝える人がいたから今がある
 四恩の第四に挙げられていたのは「三宝の恩」すなわち仏と法と僧の恩です。ここにおいて「仏宝」とは、釈尊を指しておられる。
 釈尊とは、修行の結果、得た功徳で120歳まで生きられるはずであった。その3分の2を我が身に使って80歳で入滅し、残る40年の寿命を世にとどめて衆生に与えられた、と仰せです。まさに、釈尊は「法」のため「民衆」のために、慈悲の命を注ぎきったのです。
 仏の恩が、どれほど大きく深いものであるか それは、さらに「法の恩」「僧の恩」へと連動していきます。
 まず、「法」は諸仏が仏となった根源であるから、諸仏の師である。仏の恩を報じようと思うなら、法の恩を報ずべきであると。
 さらに、仏宝・法宝は、僧が習い伝えてこそ社会に流布し、民衆に功徳を及ぼしていける。仏宝・法宝を草木に譬えれば僧宝は、それらを生い茂らせる大地のようなものであると。
 ここにおいて「僧宝」とは「法華経の行者」、すなわち大聖人のお立場にあたると拝されます。しかも法華経は、釈尊滅後のために説かれた教典です。末法に、真実の「法華経の行者」が出現しなければ、法華経は虚妄となってしまう。そうなれば、仏法そのものが断絶します。「大地」がなくなれば、「草木」も消えてしまうのです。
 ゆえに、真実の「法華経の行者」とは、日蓮大聖人であられることを知らなければなりません。大聖人を信じ、その教えを「大地」の如く根本としてこそ、末法の民衆は、無上の幸福境涯をそして立正安国の社会を生き生きと開花させることができるからです。
 ここで、確認しておきたいのは「僧」の本義についてです。もともと僧とは、インドで「集い」「団体」「組合」などを意味するサンガを音写した「僧伽」の略です。真実の「僧」とは、剃髪や衣など外形の姿で決まるものではなく、真に仏法を持ち弘める「伝持の人」のことなのです。現代でいえば、大聖人の仰せ通りに広宣流布の実践を貫く和合僧の団体そのものが、僧宝の後継者です。
弟子が書き残した「朱子行状」
 ここで次元は異なりますが、師を宣揚することの重要性について、儒学の中興の祖・朱子とその弟子の事跡を参考として見てみたい。
 朱子は晩年、時の権力者たちから「偽学」のレッテルを張られ、迫害の中で生涯を終えました。間違っていることを間違っていると言い切ったために、権威権力にすがる人間たちから憎まれたのです。朱子の弟子のなかには、保身のために、自分は弟子ではないと振る舞う恩知らず者もいた。
 日蓮大聖人の弟子ではなく、天台沙門と名乗った「五老僧」のごときであります。
 そうした朱子の門下の中で、師とともに迫害に耐え、朱子無き後、師の真実の姿を書き記した弟子がいました。黄榦です。彼は『朱子行状』という一書を著し、後世に残しました。そのなかで彼は、間違った権力者たちを仮借なく糾弾する姿を、ありのままに描いています。
 例えば、朱子が時の宰相に宛てた書状に「閣下には、国を憂える思いよりも、わが身かわいさの気持ちの方が切実のようです」と。
 こうした、立場ある人々の誤りをも克明に記す黄榦の執筆姿勢を見て、ある人は「先生のことをほめ過ぎて書いているようだ」と批判した。しかし彼は、毅然として宣言します。
 「正しいことを守るには、これくらい厳格にしなければならないのだ」。先生の出現によって「正しい道が、太陽の中央にくっきりとあらわれた時のように、いっぺんに明らかになったのである。
 一方、朱子を陥れた張本人は、戦争を起こして国を危険にさらし、最後は処刑されます。朱子が亡くなって7年後のことでした。
 黄榦が残した『朱子行状』は、朱子の思想と行動を伝える最も重要な書の一つとして、今も各国で読まれ続けています。
「報恩」の人生は最高に晴れやかに
 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経という根本の大法則を示されました。法華経を身読し、末法万年にわたる広宣流布の方程式を残されました。御書は、その大聖人の法華経身読の記録であり、大慈大悲の御境涯の結晶であると拝されます。
 今日において、この御書を身で読んできたのは創価学会だけです。御書の本当の拝し方を、「身をもって」教えてくださったのは、牧口先生、戸田先生だけです。だからこそ、「牧口先生!」「戸田先生!」と、声を大にして申し上げるのです。
 大聖人の仰せ通り、広宣流布一筋の信心を貫かれ、三類の強敵を呼び起こし、牧口先生は牢獄で殉教された。戸田先生も、獄中で極限まで命をすり減らし、出獄後、戦後の荒野に一人立たれて、今日の発展につながる創価学会を築かれた。
 牧口先生、戸田先生の死闘によって、日蓮大聖人の本眷族である「地涌の菩薩」の陣列は呼びあらわされたのです。私も一人の弟子として、一青年として、その崇高な闘争を受け継いで、世界広宣流布への道を、皆さまと共に切り開いてまいりました。
 私たち一人一人に、大聖人との久遠の契りを思い起させ、広宣流布という最も永遠性のある宇宙大の生きがいを教えてくださったのが、創価学会の師匠である。
 戸田先生は語られました。
 「この聖業は、だれびとの手によるか、仏意はかりがたきことなれども、創価学会を除いてほかになし。恩師牧口先生以来の因縁であり、宿命である。いまはただ前進あるのみ。闘争あるのみ」
 「広宣流布をなすのは、学会以外にない。われわれは和合僧なりと、こころから叫ぶ団体である」
 この峻厳なる仏勅の使命を教えてくださった師の大恩を、私は永久に忘れません。この威徳を、世界へ、未来へと宣揚していくのが、人間の道です。弟子の本道です。私は、若き日から、60余年にわたって、そのように生き抜いてきました。戦い抜きました。ゆえに今、一点の悔いもありません。
 どれほど晴れやかな人生であるか!
 どれほど誇り高い青春であるか!
 後継の青年たちもそうであってほしい。
 私以上に、広々とした、晴れ晴れとした、大海原の如き、大山脈の如き、勝利の一生を、生ききっていただきたいのです。
 若き地涌の友にロマン・ロランの言葉を贈ります。
 「今を生きる人々よ、若き君たちよ、君たちの出番だ!われわれを踏み台の一歩となして、前進せよ。われわれよりも、さらに偉大で、さらに幸福であれ」。

0940~0949    法華経題目抄top
         はじめにtop

 法華経題目抄の講義にあたり、まずその序講として、
 第一に、本抄御述作の由来を明かし、
 第二に、本抄の大意を述べ、
 第三に、本抄の題号について、日寛上人の文段により詳論することとし、
 第四に、「根本大師門人 日蓮撰」について同じく日寛上人の文段により論じ、
 第五に、本抄冒頭の「南無妙法蓮華経」について論ずることとする。
第一 本抄御述作の由来
 「法華経題目抄」は、日蓮大聖人が文永3年(1266)正月6日、聖寿四十五歳の時に認められた御書である。すなわち建長5年(1253)4月28日、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えられて、ちょうど13年目にあたっている。
 本抄の対告衆については、古来から諸説があって定かではない。日寛上人は房州天津の伯母御前といわれている。その文段次下に「彼の人は念仏の執情甚重なる人なり」とある。それゆえこの女性の阿弥陀への執心を翻させることは容易なことではなく、大聖人の御苦心の程を本抄にて拝することができよう。
 次に御正筆は各所に散在しており、現存する断簡は14片である。おそらく御正筆を所有していた寺主が、弟子に師資相承の証拠として御書を裁断して与え、現在のような断簡と化したのであろう。
 この行為は、五老僧が御真筆を「先師の恥辱を顕す」としてスキカエシにしたり、焼却したのと同じ謗法、重罪行為であり、令法久住を妨げた魔の所為である。
 なお古写本としては宮城県の妙境寺所蔵の日目上人御写本のみである。他に現存するものはいずれも後代のもので、正確さを欠き信ずるに値しない。
御述作の背景
 建長5年(1253)遊学を終えられた日蓮大聖人は、釈迦一代の聖教のなかで法華経こそ最高の教えであること、しかも末法の今日においては、法華経寿量品の文底に秘沈されている南無妙法蓮華経によってのみ一切衆生が即身成仏するとの御確信に立たれた。
 同年4月28日、日蓮大聖人が幼少のころに修学をつまれた安房の国・清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面にて、初めて三大秘法の南無妙法蓮華経を唱えられた。いわゆる立宗宣言であり、御年33の時である。
 「清澄寺大衆中」にいわく「建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」(0894-04)とあり、また、「聖人御難事」にいわく「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年」(1189-01)と。
 この日蓮大聖人の立宗宣言は一座の大衆にとっては青天の霹靂であった。今まで、彼らが依りどころとしていた念仏宗や禅宗や真言宗を完膚なきまでに破折され、南無妙法蓮華経こそ成仏の直道であるとの説法を聞いた大衆にしてみれば無理からぬことであったろう。その驚きは次第に怒りとなり、大聖人に対する憎悪となっていった。道俗ともに大聖人を信ぜず、かえって迫害を加えたのである。なかでも念仏の強信者であった地頭東条景信の激怒はひとかたならぬものがあったと思われる。
 文永元年(1264)の秋、伊豆流罪赦免の翌年に日蓮大聖人は御母の病気平癒祈願のため安房の国に帰られた。立宗宣言の時に清澄寺をおわれていらい、久しぶりに母と会われ、最大の孝養をつくされたのである。
 「可延定業書」にいわく「されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり」(0985-14)と。
 同年11月11日、花房蓮華寺にいる大聖人は、天津の工藤左近尉吉隆の招待をうけられた。
 そして天津の工藤邸に向かわれる途次、小松原で東条景信の襲撃をうけたのである。
 「聖人御難事」にいわく、
 「文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189-13)と。
 また、この法難の約一ヵ月後に、駿河の南条平七郎に宛てられた御書には「今までもいきて候はふかしぎなり、今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり」(1498-03)とある。
 このように大聖人は御自身に刀傷を負われ左の手を骨折されるという大難に遭遇された。また、工藤吉隆と弟子の鏡忍房は討ち死にしてしまった。
 東条景信も眉間に傷を受け、その傷がもとで日ならずして死んだといわれる。一説にはその微傷から破傷風を起こして七日の間に狂い死んだという。註画讃には「景信は十羅刹女の責を受け時節を経ずして死す」と。別頭高祖伝には「景信も亦日ならずして狂煩し斃れぬ」とある。
 また別の説によると、東条の菩提寺永明寺に伝わった過去帳に正応4年(1291)に死んだとなっているというが、これは誤りである。なぜなら建治2年(1276)に御述作になられている報恩抄に「但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども」(0323-11)とあり、景信は建治2年(1276)以前に死んだことは間違いない。
 日蓮大聖人はその後鎌倉へお帰りになったものと思われる。その後いやましにまして折伏活動を続けられたのである。しかして折伏御多端の中でこの法華経題目抄を著されたものと拝せられる。
 当時は戦乱続きの後であり、加えて、安国論の御予言どおりに三災七難は並び現じ、このため、民衆は塗炭の苦しみに打ち拉がれたのである。
 しかして、こうした犠牲はつねに女性なのである。その状況は、未亡人、身寄りを失った老女の姿に象徴される。そうした女性の多くは、悲しみや、苦しみを乗り越えるために宗教を求める。この現象はいつの時代も変わることはない。戦後の十数年における、不幸な女性の新興宗教への盲信も、大聖人御在世の念仏への執心と同じ原理によるものといえる。
 翻って、大聖人がこうした時代相に生きた、一人の念仏執心の女性の救済を、本抄において平易ながらも、理を尽くして順々と説かれたのである。
 この御化導こそ、再往は、宿命に泣く全ての女性を対告衆として、末法万年の世界に通ぜしめんがための重要な御教示であり、御著作と拝せられよう。
第二 本抄の大意
 本抄の内容は大きく二つに分かれている。日寛上人は本抄文段で「当抄の大意は佐渡以前・文永3年丙寅・御年45歳の時の述作なり、故に文の面は権実相対の判釈なり、文は初め能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。是れ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳の無量なるに由る故なり」と述べられている。
 すなわち、はじめから0942の9行目までは、題目を唱えることにいかに絶大な功徳があるかが明かされ、同の10行目「問うて云く妙法蓮華経の五字」から、終わりまでは、所唱の法体たる御本尊に、十方三世のあらゆる仏、経典の功徳が具わっていることが明かされている。
 ただし、本抄は、佐渡以前の御著作であるため、文面は権実相対を用いられている。
 まず第一の能唱の題目の功徳を明かす段では、とくに信心が根本であることが示されている。信心なくば、いかなる行も浮き草に等しい。信心こそ末法成仏の要諦である。信心を根本として唱題していくならば、いかなる罪業も消し去り、無量の福徳を具えていくことが明示されている。
 どれほど、御本尊が偉大であるとはいえ、その仏力・法力を顕現するのは、われらの信力・行力である。初めに、能唱の題目の功徳を明かされたのは、まさに、仏法は単なる理論や、観念ではなく、信心実践が根本であることを示されようとされたからであると拝する。
 第二に、所唱の妙法の具徳を明かされたのは、日寛上人も仰せのごとく、御本尊に無量の福徳が具わればこそ、信心によってその至宝を開いていくことができるからである。
 ここでは、御本尊の名目はないが、三世十方の諸仏の一切の功徳を包含した、大宇宙をも摂する妙法の法体、即御本尊の偉大さ、広大さが説かれている。妙法蓮華経とは、単なる名ではない。八万法蔵、否、全宇宙の一切を包摂した根本の法理である。これを、具体化されたのが御本尊である。
 なかんずく、妙の題号については、妙の徳を大海の一滴、一つの如意宝珠に譬え、一切を包含する義(具の義、円満の義)から、決定性の二乗、一闡提人等、一切を救い切っていくことを明言されている。
 御本尊は、一部の人々のためのものでも、一民族のためのものでもない。全民衆、全人類をば等しく救い切っていく偉大な法体である。その証拠として悪人成仏、女人成仏をあげ、とくに女人成仏は、絶対に妙法以外にありえないことを強調されている。婦人の実生活から遊離した爾前権経は、いたずらに女人を蔑視し、低い地位の中に閉じこめてきた。このような偏頗(へんぱ)な宗教で、どうして全民衆の宗教、哲理といえるであろうか。このことを示さんとして最後に女人成仏をもって、妙法の偉大な功徳を結せられているのである。
第三 本抄の題号について
 法華経題目抄とはまさしく法華経の題目である「妙法蓮華経」の五字の功徳甚深なることを証明されんがために題されたものである。
 以下、日寛上人の文段に準じて述べることにする。
 まず、この題号に附文と元意の二意がある。附文の辺にまた二意を含んでいる。
 すなわち一には「法華」の二字は体を挙げ「題目」の二字は名を挙げている。これは名には必ず体が備わっているゆえである。
 いわゆる妙法蓮華経とは法華経一部八巻二十八品という体の題目である。故に法華経題目抄というのである。
 本抄にいわく「釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給いたりしかども四十二年が間は名をひしてかたりいださせ給わず仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいでさせ給いたりき」と。
 二には雙観経等の題目に簡ぶ故に「法華経題目抄」というのである。これは日本一国こぞって念仏を称えているがためである。
 「撰時抄」にいわく「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや」(0284-03)と。
 次に元意の辺は、この題号において三箇の秘法を含むのである。すなわち「法華」の二字は所信の体をあらわしており、これは法華経本門寿量品文底下種の本尊にほかならない。また「題目」の二字は能唱の行、これ本門寿量文底下種の題目をあらわしている。しかして所在の処は、すなわち久遠元初の本門の戒壇である。
 問うていわく、何をもってこの事を知ることができるか。
 答う、「当体義抄」にいわく、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-10)と。
 故に因果の果がすでに本門寿量の当体蓮華の仏であるから因も当然、本門寿量の妙法でないわけがない。よって能唱の行、すでに本門寿量の妙法である。したがって所信の体は当然、本門寿量の本尊である。
 故に、「当体義抄」の「但法華経を信じ」とは法華経の本門寿量文底の本尊であり、今この題号の「法華」の二字は「但法華経を信じ」と同意である。
 また「題目」の二字は「南無妙法蓮華経と唱うる」と同意である。
 ここで「法華経題目抄」という題号は「但法華経の本門・寿量文底の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる」という義である。故に「法華経題目抄」というのである。
 これは日蓮大聖人の出世の本意に約する故に、元意の義を解了しなかったならば明らかにならない。
 最後に、不受不施派の日講の邪義に対して破折されている。
 問う、日講の啓蒙の23に、当抄の題号を釈していわく「本従り『法華の号は一門に専(もっぱ)らにせずの』道理の故に本迹一致の題目なり三大秘法の中の本門の題目と名異義同なり」と。この義はどういうものか。
 答う、日講は、天台家通途の法門である名通義別すら知らない。まして況んや日蓮大聖人の甚深の元意を知るわけがない。本来、「法華の号は一門を専らにせず」とは名通一往の辺であって義別の辺は勝劣分明である。
 故に文句記の十にいわく「具聞の言は全く本迹を表す況んや法華の号は一門に専らにせずとは先ず迹を表して次に本を表す、迹中の顕実すら尚而も之を強毒す。況んや復・本は実なり能く即ち受けんや」略抄。このようにすでに迹門を挙げて本門を比較対照している。これをみても勝劣分明ではないか。これが第一。
 次に、若し「本迹一致の題目なり、三箇秘法の中の本門の題目と名異義同なり」というならば、どうして日蓮大聖人が唱えられたごとく、本門寿量の南無妙法蓮華経と弘めないで、さらに本迹一致の題目などというのか。まさに、大聖人の教えに違背した謗法ではないか、これが第二である。
 日蓮大聖人の御書のなかで、どこに本迹一致の南無妙法蓮華経と述べられているか。これが第三である。 
第四 「根本大師門人 日蓮撰」について
 本抄には「根本大師門人 日蓮撰」のご署名がある。根本大師とは伝教大師のことであり、その門人とのご署名をなされているのは本抄が佐渡以前の御書だからである。
 「三沢抄」いわく「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)と。
 このように佐渡御流罪以前にあらわされた法門は、日蓮大聖人の真意を尽くしたものではなく、外用の辺で説かれた。したがって、この「根本大師門人」も外用の辺で述べられているのである。
 このことについて日寛上人の文段に準じて論じてみよう。
 根本大師とは伝教大師の事である。これすなわち根本中堂建立の大師なるが故である。
 問う、なぜ、根本中堂と名づけるのか。
 答う、法華止観の観心を根本とするが故である。ゆえに具には一乗止観院根本中堂というのである。
 また、「報恩抄」にいわく「日本の始第一の根本大師となり給う」(0310-07)と。この意は日本国の大師の根本なるが故に根本大師と名づけるのであろうか。
 この「日本の始第一」の文について「報恩抄文段」には次のように釈されている。
 「第一の言に就いて二義有り。一には最勝の極を第一と名づく、即最為第一の如し。二には衆次の首を第一と名づく、即序品第一の如し。今第一とは是れ衆次の首の義なり。当に知るべし、始第一とは是れ根本の二字の意を顕わすなり。謂く前に望むるに、日本元始の大師なり、故に根本大師と云う、後に望むるに第一の大師なり、故に根本大師と云う。故に前後に望みて其の意を顕わすなり」と。
 問う、伝教は迹化の菩薩であり、日蓮大聖人は本化の菩薩であるのに、どうして伝教の門人と号するのか。
 答う、本抄は佐渡以前の御書であるが故に、しばらく外相に準じてこのようにいったのである。しかし真実の姿は本化の菩薩であって、もし本抄で内証深秘の辺を明かすならば、どうして伝教の門人ということがあろうか。
 およそ内証を論ずれば、
 「聖人御難事」に「天台・伝教は余に肩を並べがたし」(1189-15)と。
 「下山御消息」に「教主釈尊より大事なる行者……日蓮」(0363-01)と。
 「百六箇抄」に「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(0863-05)と。
 以上、日寛上人が明確に述べられているがこの点について若干補足したい。
 このように日蓮大聖人は佐渡以前において、天台沙門ともおおせられたことがある。これは当時の仏教界の大勢が天台宗をもって最高とした時代であったからである。大聖人が宗旨を建立されても、末法の御本仏としての御内証をお説きになるには時が必要であった。
 そのため大聖人は外用の立ち場で天台沙門と名のり、「立正安国論」にもそのように署名されたのである。また四箇の格言にあるごとく東密、台密は破したが、純天台宗を破されなかった。
 日亨上人は富士日興上人詳伝に「建長五年、大聖清澄において宗旨建立の始めの四箇の格言のなかの真言亡国は、もっぱら東密を主とし、叡山よりこれに転向せる慈覚・智証以後の真言密教を併破せられたるも、伝教・義真の純天台叡山は破せられなかった。ゆえに「立正安国論」にも、天台沙門日蓮と署名して天台門徒と称せられた初期のいわゆる養利噉鈍の時代もあられたが、これは人の上で、所の上であって……」と述べられている。
 しかし釈尊の予言のごとく、勧持品の二十行の偈を身業読誦され、竜の口の法難、佐渡流罪を以って発迹顕本されて、久遠元初の自受用報身如来の本地を顕わされた。発迹顕本された後は天台沙門でなく、本朝沙門、または釈子日蓮と申されているのである。もしこれらの点を見失ったならば、五老僧のごとく異解を生じてしまうのである。なぜならば、佐渡においては「天台過時」とはっきり破しておられるからである。
 すなわち「富士一跡門徒存知の事」にいわく、
 「一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍って公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、又云く先師日蓮聖人・天台の余流を汲むと云云、又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云。
 日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ、此の相違に依って五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」(1601-12)。
 唯授一人の義によって、唯一人宗祖日蓮大聖人より血脈付法された日興上人の・正法正義を厳護せんとのご決意が脈々と流れているではないか。
 そして結局、五老僧がこのような異解を生じたのは、日蓮大聖人の仏法の奥底を知らなかったためであり、御書も文上の義のみしか読み取ることができなかった故である。
第五 「南無妙法蓮華経」について
 本抄は冒頭に「南無妙法蓮華経」とおしたためになっている。
 このことについて、日寛上人は文段に、
 「問う、始めに七字を置く、何の意ありや。答う、これ題中の題目及び入文に勧むるところの題目は倶にこれ口唱なることを顕すなり」と述べられている。
 すなわち本抄の題号「法華経題目抄」の題目とは、唱題の義であり、本文に入って勧められている題目も唱題の義であり、このことをあらわさんがために、まずその根本の首題をここにおかれたのである。

0940:01~0940:04 第一章 信心口唱の功徳を挙げるtop

0940
法華経題目抄    根本大師門人    日蓮 撰
01   南無妙法蓮華経
02   問うて云く法華経の意をもしらず 只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期
03 生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして 四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、 答
04 えて云くしかるべきなり、
-----―
 根本大師門人 日蓮 撰
 南無妙法蓮華経
 問うていうには、法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間に只一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣に堕ちないで、ついには不退転の位に到達することができるのか。
 答えていうに、いかにもそのとおりである。

四悪趣
四悪・四趣・四悪道と同意。悪行によって趣くべき四種の苦悩の境涯。地獄・餓鬼・畜生・修羅界のこと。
―――
不退の位
不退とは梵語(avivartika)。不退転のこと。仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても、退転しないで必ず成仏の境涯へ進むという位。天台大師は菩薩の五十二位のうち、初住をもって不退としている。
―――――――――
 御本尊を信じ、題目を唱える功徳が、いかに大きいかを述べられている段である。とくに、冒頭の「問うて云く法華経の意をもしらず」云々の問答は、たとえ、わずかの修行実践であっても、妙法に絶大なる仏力・法力があるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅といった四悪趣に堕ちることを免れることができるとの意である。
 涅槃経にいわく「若し善男子善女人、此の経名を聞くこと有らば四趣に生ずる者、是れ処り有ること無し」と。「此の経」とは、末法今時においては三大秘法の南無妙法蓮華経であり、「聞く」とは聞法であり、信受である。故に、この大仏法を人々に教え、受持させることは、人々を三悪道、四悪趣から救い出すことになると確信すべきである。
 四悪趣すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅とは、まさに現在の世界の実態ではないか。修羅とは、あるいは民族間の対立、さらには国内における、さまざまの抗争の姿がそれである。畜生界とは、弱きをおどし、強きにへつらうといわれているが、大国と弱小国家の関係、巨大な国家権力のもとにおける民衆のみじめさは畜生界の現象といえよう。
 また、アフリカ諸国等にひろがる深刻な食糧危機は、恐るべき餓鬼界を現出している。日本も含めて、先進諸国では、栄養過多による肥満が社会問題になっている一方、人類の大半が属するアジア・アフリカ諸国においては、数知れぬ人々が飢餓のために、どん底の苦しみにあえいでいる事実があるのである。地獄界も、決してこの地上から離れた、幽冥の世界のことではない。かつてのナチスによるユダヤ人虐殺、原爆を投下された広島・長崎、今日も跡を断たない戦禍、これらは、まさに地獄界の実相である。
 いま、この大聖人の御文を拝するとき、われらの妙法広布の戦いこそ、これらの四悪趣を追放し、この地上より〝悲惨〟の二字を消滅させる根本の道であることを痛感せずにはいられない。
 ところで、ここに題目を「一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたる」とあるところから、そんなわずかの信心実践でよいのかという疑問が湧くかも知れない。
 これについて、日寛上人は、文段に「若し過去の謗法なき人は実に所問の如し遂に不退に到るべし」と答え、しかるにわれら衆生は過去に無量の謗法を犯し、深重の罪をつくってきているから、それを消滅するためには、なみなみならぬ信心修行の努力が必要であることを示されている。
 およそ、無始の昔より生死生死と流転を繰り返してきているわれわれの生命に、謗法の罪が無いなどということはあり得ない。通途の仏法においては、蟻や蚊を殺すのも下殺といって殺生の罪になるし、そのほか、人の悪口をいったり、嘘をついたり、お世辞をいうのも、全て罪なのである。だが、これらは、法華経誹謗の罪に比べれば、ものの数ではない。法華経誹謗の罪とは、御本尊を疑い、御本尊を受持する人を憎み、苦しめる等である。これは、地獄のなかでも最も重い無間地獄に堕ちる罪であり、その罪障消滅のためには、御本尊を絶対に疑わず、身命を擲って妙法広布のために尽くす以外にないのである。
 この決意、確信と実践によってはじめて、過去無量の罪は全部変毒為薬されて、無量の福運と転じ、生きていること自体が楽しいという自在無碍の幸福境涯に住することができるのである。

0940:04~0942:02 第二章 仏道に入る根本を示すtop

04              問うて云く火火といへども手にとらざればやけず水水といへども 口にのまざれば水の
05 ほしさもやまず、 只南無妙法蓮華経と題目計りを唱うとも 義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事いかがあるべか
06 るらん、 答えて云く師子の筋を琴の絃として一度奏すれば 余の絃悉くきれ梅子のすき声をきけば口につたまりう
07 るをう世間の不思議すら是くの如し 況や法華経の不思議をや 小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡なを天に生ず三
08 帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる 何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり 汝等此れを唱え
09 て四悪趣をはなるべからずと疑うか、 正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得」と云い 雙林最後の涅槃
10 経には「是の菩提の因は復無量なりと雖も若し信心を説けば則ち已に摂尽す」等云云。
-----―
 問うていわく、ただ口で火火といっても燃えているその火を手にして用いなければ実際に物を焼くことはできない。また水水といっても実際に飲まなければ水の欲しさもやまない。ただ南無妙法蓮華経と題目ばかりを唱えてもその義趣を理解しなければ、悪趣を免れることがどうしてできようか。答えていわく、師子の筋を琴の絃にしてひとたび弾けば、他の動物の筋で作った絃はことごとく断ち切れてしまう。梅の実の酢っぱい名を聞けばそれだけで口に唾液がたまる。世間通途の不思議ですらこのようではないか。ましてや法華経の不思議はなおさらのことである。小乗教の四諦の法門の名ばかりをさえずる鸚鵡でさえも天界に生じた。仏・法・僧の三宝に帰依しただけの人は大魚の難を免れた。まして法華経の題目は八万聖教の肝心・一切諸仏の眼目である。それでも汝等は、この題目を唱えても四悪趣を離れることができないなどと疑うのか。
 正直に方便を捨てただ無上道を説く最極の法華経には「信を以って仏果に入ることができる」といい、雙林最後の涅槃経には「仏果に至る菩提の因行はまた無量であるが、若し信心を説けば、すでにそのなかに全ての菩提の因を摂め尽くすのである」等といっている。
-----―
11   夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす 五十二位の中には十信を本とす十信の位には信心初めなりたとひさとり
12 なけれども信心あらん者は 鈍根も正見の者なりたとひさとりあるとも信心なき者は誹謗闡提の者なり、 善星比丘
13 は二百五十戒を持ち四禅定を得十二部経を諳にせし者 ・提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼへ 十八変を現ぜしかど
14 も此等は有解無信の者 今に阿鼻大城にありと聞く、 迦葉舎利弗等は無解有信の者なり仏に授記を蒙りて華光如来
0941
01 光明如来といはれき・仏説いて云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」等云云、 此等は有解無
02 信の者を説き給う、
-----―
 このように抑も仏道に入る根本は信をもって本因とする。菩薩の五十二位のなかには十信位をその出発点とし、十信の位のなかでは信心が一番はじめなのである。故にたとえ理解はなくても信心のある者は、鈍根でも正見の者なのである。反対にたとえ理解はあっても、信心のない者は誹謗闡提の者なのである。
 その証拠に、善星比丘は二百五十戒を持って、四禅定を得、十二部経を全部記憶した者である。提婆達多は外道の六万蔵・仏教の八万法蔵の経典を理解し、身に十八神通を現じさせたけれども、これらは有解無信の者であるために、今なお阿鼻大城にあると聞いている。一法、迦葉・舎利弗等は無解有信の者であるが、仏より授記されて華光如来、光明如来といわれたのである。仏が涌出品に説いていうには「疑いを生じて信じない者は、すなわち必ず悪道に堕ちる」等と。以上は有解無信の者について説かれたのである。

義趣
 物事の根本的な意味。意義。文の義の帰着するところ。結論として帰り趣くところ。
―――
師子の筋
 百獣の王たる獅子からとった筋、弦のこと。
―――
梅子のすき声をきけば口につたまり
 梅の実と聞いただけで、口中に唾がたまるように、南無妙法蓮華経の題目には、義趣はわからなくても功徳があるということ。
―――
小乗の四諦
 小乗教で説かれる四諦のこと。四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦のことで、苦諦は世間の果報・集諦は世間苦果の因縁・滅諦は出世間涅槃の果、道諦は出世間の果を得る因をいう。
―――
小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡なを天に生ず
 賢愚経二鸚鵡聞四諦品に説かれている。仏が舎衛城・祇園にいたとき、須達長者の家に、律堤・賖律堤という二羽の鸚鵡がいた。仏の弟子が来るたびに、家内の人にその来たことを告げる。阿難がこの鳥を愛して四諦の法を教え『豆佉・三牟堤耶・尼楼陀・末迦』と偈を授けて行った。鸚鵡は喜んで誦習し、門前の樹を七返上下してこれを誦読した。ある夜、樹上に止まっていたとき、タヌキに食われてしまった。しかしこの善心によって、四天に生まれた。そして七回往返して欲界の六天に生を受け、後に閻浮提に人となって生まれ、出家して四諦を誦持し、辟支仏となって、曇摩・修曇摩と名づけられたという。日寛上人の文段に「一遍の功・豈・虚しからんや」とある。
―――
三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる
 三帰とは、仏法に帰依する最初の門で、仏・法・僧の三宝に帰すること。すなわち南無仏・南無法・南無僧のこと。この故事は大悲経巻第三にある。「昔、大商主が有り、諸の商人と大海にあるとき、その船が摩竭大魚に呑まれんとした。その時、商主も商人も非常に驚き、恐れ、もはや救われないと、皆悲しみ号泣した。その時、商主は我に従えといって、一心に仏を念じ合掌し、高声に諸仏の慈悲を乞うて三唱した。商人も同時に合掌礼拝し、南無諸仏と三唱した。大魚は仏の名を聞き、殺す心を止めて、口を閉じ、商主、商人は大魚の難を免れた」と。日寛上人は大論を引いて次のように述べられている。「是の魚は先世に是れ仏の破戒の弟子にて宿命智を得る者なり、今案ずるに譬喩経に云く『昔・沙門有りて塔寺を造作す、未だ成らざるの頃・五百の沙門・遠方従り来たるに五百の賢者有りて各各・袈裟被服を給与す。寺主の沙門云く<我れ功徳を積みて須弥の如し而るに国人助けず但・近を賤み遠を貴むと便ち火を以って塔寺を焼き遂に三悪に入り後に大魚と作る、身長四十万里・眼は日月の如く・牙は長さ二万里白きこと雪山に似たり・舌は広さ四万里赤きこと火山に似たり・目は広さ五万里なり。時に五百人有り海に入りて宝を採る・正に是れ先身は五百の沙門に衣を給いし者なり、因縁宿りて対す』等云云。当に知るべし亦是れ非法の国主等・多く此の報を受くるなり、賢愚経に云く『諸王大臣自から勢力をたのみ枉げて百姓を尅め殺戮無辺なるは命終して多く摩竭大魚に堕つ』等云々」と。
―――
八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり
 法華経の題目は一切経の肝心・眼目・根本であるということ。八万は数ではなく多数を意味する。
―――
正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
信を以て入ることを得
 法華経譬喩品第3の「以信得入」の文。「汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って得たり、況や余の声聞をや、其の余の声聞も、仏語を信ずるが故に、この経に随順す、己が智分に非ず」とある。智慧第一の舎利弗すら、信によって悟ったのである。
―――
雙林最後の涅槃経
 雙林とは拘尸那城跋堤河のほとりの沙羅雙樹の木のこと。沙羅とは梵語で樹名、釈迦は一木二双四方八株の沙羅雙樹に四方を囲まれた中において八十歳の年の二月十五日に入滅した。そのとき沙羅雙樹がことごとく白くなり、あたかも白鶴のように美しかったという。それで沙羅林を鶴林ともいう。釈迦の入涅槃の時と処を象徴して、雙林最後といい、そのときの説法である涅槃経を雙林最後の涅槃経というのである。涅槃経は法華経の流通分にあたる。
―――
五十二位
 菩薩の修行段階を 52に分けたもの。『瓔珞経』に説かれる。十信,十住,十行,十回向,十地,等覚,妙覚をいう。十回向までは凡夫で,それ以上から菩薩の位に入る。
―――
鈍根
 鈍い機根の意で、仏法を受容する理解力の鈍いこと。機根が劣っていて、仏道修行する力が乏しいものをいう。
―――
正見の者
 人生および世界の実相を正しく見ていくことのできる境涯。
―――
誹謗闡提の者
 正法を信じない不信謗法の一闡堤人。闡堤とは断善根のことで、三大秘法を信ぜず、御本尊に帰命しないこと。
―――
善星比丘
 釈尊が太子だったときの子。闡提比丘ともいう。出家して仏道修行に励み、十二部経を読誦し、第四禅定を得たが、これを真の涅槃の境涯と思って慢心を起こし、苦得外道に近づいて退転した。その上、仏法を否定する邪見を起こし、父である釈尊に悪心を懐いてしばしば殺そうとしたため、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。
―――
二百五十戒
 男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
―――
四禅定
 欲界を離れて色界の四禅天に生ずる初禅・二禅・三禅・四禅の四種類の禅定のこと。
―――
十二部経
 十二部とも十二分教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
六万八万の宝蔵
 外道の六万蔵と仏教の八幡法蔵の法門のこと。
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十八変を現ぜし
 18種の神通変化のこと。十八神変ともいう。1・右の脇より水を出す。2・左の脇より火を出す。3・左より水を出す。4・右より火を出す。5・身の上より水を出す。6・身の下より火を出す。7・身の下より水を出す。8・身の上より火を出す。9・水を履むこと地のごとく。10・地を履むこと水のごとく。11・空中より没して復・地上に現れ。12・地上に没して空中に現われ、13・空中を歩き。14・空中に住まり。15・空中に坐り。16・空中に臥し。17・大身を現じて虚空の中に満ち。18・大身から小身に変化する。ことをいう。
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阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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授記
 仏が弟子等に対して、成仏の記別を授けること。記別とは、未来のことを予記分別することで、未来世の成仏に対する仏の印可である。「開目抄」(0194)に「劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ劫をしるし所化の弟子なんどを定めさせ給へば」とあり、劫・国・名号が与えられることである。たとえば授記品で、迦葉に対して劫を大荘厳、国を光徳、名号を光明如来と授記されている。
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 有解無信と 無解有信とを相対し、仏法は信心が根本であり、たとえ解はあっても信がなければ、誹謗闡提であって、無間大城に堕ちると戒められている。
 「諸法実相抄」にいわく「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361-16)と。
 いうまでもなく、仏道修行の最も理想的なあり方は、有解有信である。なかんずく順縁広布、化儀の折伏の時代においては、人々を納得せしめうるだけの、勝れた教学力がなければならない。だが、あくまでも強い信心が根本であり、行学といっても信心より出発し、信心に帰着するのでなくてはならない。信心を忘れた行学はどんなに上達しようとも、堕地獄を免れないことを、深く肝に銘ずべきであろう。
 「十八円満抄」にいわく「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」(1367-12)と。
問うて云く火火といへども手にとらざればやけず云々
 この問いは、義趣もわからないで、ただ題目を唱えるだけで、どうして功徳があるのかという意味であるが、この問いに対する答えが御書全集0924-04行目までにいたる、約2㌻にわたって論じられているのである。
 そのうち「汝等此れを唱えて四悪趣をはなるべからずと疑うか」までは、唱題の妙徳、すなわち題目を唱える功徳のいかに偉大であるかを示し、「正直捨方便」よりは、信心の勝徳、すなわち信ずることの勝れた徳を明かす。しかして第二段に入って「善星比丘」よりのちは、信と解を相対して、あくまでも仏法は信が根本であることを論じられている。
 意味がわからなくとも、題目を唱えれば、苦しみを免れ、幸せになれるというのは、たしかに不可思議である。だが、理解できないからといって、そんなことはあり得ないというのは大なる誤りである。子供はテレビを見る。だが、その子供はテレビの原理を理解しているだろうか。子供に限らない。大部分の大人すら、原理はわからないままに、また理解しようとしないままに、テレビを見ているはずである。
 人間の生命は、このテレビの何百倍、何千倍も不可思議な現象に満ちている。現代の最先端をゆく科学すら、いまだ解明できないでいるのである。しかし解明できないからといって、生命現象を否定することはできない。
 仏法はこの生命原理の極致であり、もったいなくも、これを事実の上に具体化したのが御本尊であり、その実践が唱題である。
 人間の生命活動のなかにおいて、理性で処理される範囲は、きわめて限られたものでしかない。理性と意識とは、水面のさざ波のようなものであり、その底には、測り知れない無意識の深淵が広がっている。西欧心理学において、近世初頭以来の主知主義から脱却して、深層心理の分野に科学的証明が当てられるようになったのは、ごく最近のことである。
 題目を唱えることによって、三悪道、四悪趣の生命活動を克服し、強い、崩れざる自我と幸福生活を営んでいけるという原理も、こうした人間生命の奥底に起こる、いまの科学では解明できない問題に属する。あるいは、科学の進歩によって、いつの日か解明され、説明されるときが来るかもしれないが、少なくとも現在の時点では、眼前に存在するという動かすことのできない事実をもって、信ずる以外にないのである。
法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり
 この文は、人法の両面から題目が仏法の極理であることを示されている。「八万聖教の肝心」とは、法に約した立ち場であり、いっさいの仏の説法、あらゆる哲理の総要であり、肝心であるとの意である。これは、ただ日蓮大聖人のみの仰せではなく、天台大師の毎日行法日記にも「読誦し奉る一切経の総要・毎日一万遍」云々とあり、玄師伝の「一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なり」の文からも、仏法の正統学派においては、当然のこととされてきたことがわかる。
 「一切諸仏の眼目」とは、人に約した立ち場であり、この妙法の題目が三世諸仏の所証の法であるとの意である。天台大師の法華玄義の一にいわく「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり……三世の如来の証得する所なり」と。
〝信〟の意義について
 仏法では、信とは「随順して疑わない」ということである。
 四教儀の九にいわく「信は順従を以て義と為す」と。天台大師、法華文句にいわく「疑い無きを信と曰う」と。随順とは、如来の金言に随順することであり、信順ともいう。「信ぜば則ち所聞の理・会し、順ぜば則ち師資の道成ず」と、これを深く想うべきである。
 次に「疑い無きを信と曰う」の義に関しては、天台大師は摩訶止観に「三種の疑い」を明かし、それについて妙楽大師は弘決に、次のように述べている。
 「疑い過・有りと雖も然も須く思択すべし、自身に於いては決して疑う可からず・師法の二は疑いて須く暁むべし、若し疑わざれば或いは当に復・邪師邪法に雑るべし、故に応に熟疑して善思し之を択ぶべし、疑いは解の律と為るとは此の謂いなり、師法已に正ならば依法修行せよ、爾の時は三疑は永く須く棄つべし」と。
 ここに、三種の疑いとは、一に自身であり、二に師であり、三に法である。自身とは、わが生命の法性であり、汝自身の本質である。「自身に於いては決して疑う可からず」の文は、わがこの生命の実在は決して疑うことはできない、また疑ってはならないということである。
 いま天台が「自身」というのは、たんなる理性ではなく、もっと奥深い法性であり、三身即一身の生命それ自体である。
 「師法の二は疑いて須く暁むべし」とは、法に正邪あり、それを教える師に善師・悪師の別あるゆえである。
 仏教を知らない無責任な学者には、山にたくさんの登り口があっても、行き着く頂上は一つである等の詭弁を弄して、宗教に対する批判を封じようとする者が多い。だが現代の宗教界の実態は、山そのものが余りにも沢山ありすぎ、しかも高低を競っている状態なのである。はたして、いずれの教えが釈尊の精神を正しく継承した成仏得道の教えであるかは、まず疑ってみて、冷静に批判し、それによって明らかにしなければならない。その批判の基準が、文・理・現の三証であり、五重の相対等である。
 もし、誤った教えを盲目的に信じ、修行するならば、悪趣を増長し、無間地獄に堕ちると、釈尊自身が断言しているからである。無批判は、恐るべき堕地獄の道に通じていることを自覚しなければならない。
 しかして、じっくり疑い、批判した上で、正法正師を得たならば、あとは疑いを捨てきってその正法を根幹としてひたすら信心強盛に修行し実践していくべきである。正法を知ってもなお実践しないのは、臆病であり、卑怯である。でなければ結局、自身の境涯も、生活も、前進、成長させていくことができず、社会のために貢献していくこともできず、最後まで弱々しい人生に終わってしまわなければならない。
 日寛上人の文段にいわく「当に知るべし正法正師決定せば爾の時・疑い無きを信と云うなり」と。
 「当体義抄」にいわく「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518-16)云云と。
 翻って、この仏法の〝信〟による、各人の尊極無上なる生命の確立が、外典に説く人倫としての〝信〟を確固ならしめることを知るべきであろう。仏法を得る者は必ず世法をも得るのはこの道理による。
夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす五十二位の中には十信を本とす
 五十二位とは別教の菩薩の修行の位である。十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚とあるこの五十二位も、十信が最も土台であり出発点になっている。十信の位とは「始めて次第の三諦を聞いて随順して疑わざる位」という。
 摩訶止観第五にいわく「仏法は海の如し唯・信のみ能く入る、信は則ち道の源、功徳の母、一切の善法は之に由りて生ずるなり」と。
 およそ仏法の極妙の理は竪に深く永遠の生命を究め、横には広く宇宙を包含するものである。したがって、インド第一の智慧を謳われた舎利弗すら、ただ信ずることによって入ることができたのである。いわんや愚癡蒙昧の凡夫が、自分の頭でこの仏法を理解し尽くすことなどできる道理がない。「唯・信のみ能く入る」のである。「信は則ち道の源」とは、人間として具えるべき、あらゆる道義、力、資格の源は、大仏法への信心にあるということである。
 「功徳の母」とは、いっさいの福運、善根、幸福を生み出す母体もまた信心であるとの謂いである。
 しかして「一切の善法は之に由りて生ず」とは、人生、社会のいっさいの道理、人間が人間らしくあるための法理、人間を幸せにしていく思想は、全てこの妙法の信心から生じたのであるとの意である。
 したがって、妙法を信ずることこそ、一切の善法、人間としての力、福運を生み出す本源であると知るべきであろう。

0942:02~0942:04 第三章 重ねて唱題の妙用を顕すtop

02           而るに今の代に世間の学者の云く只信心計りにて解する心なく 南無妙法蓮華経と唱うる計り
03 にて争か悪趣をまぬかるべき等云云、 此の人人は経文の如くならば 阿鼻大城まぬかれがたし、さればさせる解り
04 なくとも 南無妙法蓮華経と唱うるならば悪道をまぬかるべし 譬えば蓮華は日に随つて回る蓮に心なし芭蕉は雷に
05 よりて増長す此の草に耳なし、 我等は蓮華と芭蕉との如く法華経の題目は日輪と雷との如し、 犀の生角を身に帯
06 して水に入りぬれば 水五尺身に近づかず栴檀の一葉開きぬれば四十由旬の伊蘭を変ず 我等が悪業は伊蘭と水との
07 如く法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉との如し、 金剛は堅固にして一切の物に破られず されども羊の角と亀
08 の甲に破らる尼倶類樹は大鳥にも枝おれざれども かのまつげに巣くうせうれう鳥にやぶらる、 我等が悪業は金剛
09 の如く尼倶類樹の如し 法華経の題目は羊の角のごとくせうれう鳥の如し琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう 我等が悪
10 業は塵と鉄との如く法華経の題目は琥珀と磁石との如し。
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 ところが今日の世間の学者がいうには「ただ信心ばかりで法門を理解する心がなく、南無妙法蓮華経と題目を唱えるばかりではどうして悪趣を免れることができようか」と。これらの世間の学者達は、経文に説かれているところによると阿鼻大城を免れがたい。それゆえ、そうした法門の理解はなくても南無妙法蓮華経とさえ唱えるならば自然に悪道を免れることができるのである。
 譬えば蓮華は日照に随って順々に開花してゆくが別に蓮華に解心があるわけではない。芭蕉は雷鳴によって生長するが芭蕉に耳があるわけではない。われらは蓮華や芭蕉のようなもので、法華経の題目は太陽や雷鳴のようなものである。犀の生角を身につけて水の中に入るならば、水が身から五尺離れて近づかない。栴檀の一葉が開くならば、四十由旬の範囲にある全ての伊蘭の悪臭を芳しい薫へと変えてしまう。われらの悪業は伊蘭と水とのようなものであり、法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉とのようなものである。金剛石は堅固で、どんなものをもってしても破ることはできない。しかしながら羊の角と亀の甲にだけは破られる。尼倶類樹は大鳥にもその枝を折られないが、蚊の睫に巣をつくるという鷦鷯鳥にだけは破壊されるのである。われわれの悪業は金剛石や尼倶類樹のようなものである。法華経の題目は羊の角や鷦鷯鳥のようなものである。琥珀は塵を吸い取り、磁石は鉄を吸いつける。われらの悪業はこの塵と鉄とのようなもので、法華経の題目は琥珀と磁石とのようなものである。
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11   かくをもひて常に南無妙法蓮華経と唱うべし、 法華経の第一の巻に云く「無量無数劫にも是の法を聞かんこと
12 亦難し」第五の巻に云く 「是の法華経は無量の国中に於て 乃至名字をも聞くことを得可からず」等云云法華経の
13 御名を聞く事はをぼろげにもありがたき事なり、 されば須仙多仏多宝仏は世にいでさせ給いたりしかども 法華経
14 の御名をだにも説き給わず 釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給いたりしかども 四十二年が間は名をひして
15 かたりいださせ給わず 仏の御年七十二と申せし時はじめて 妙法蓮華経ととなえいでさせ給いたりき、しかりとい
16 えども摩訶尸那日本の辺国の者は御名をもきかざりき 一千余年すぎて三百五十余年に及びてこそ 纔に御名計りを
17 ば聞きたりしか、 さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度華さく優曇華・ 無量無辺劫に一度値うなる
18 一眼の亀にもたとへたり、 大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに針のさきに芥子の・ つらぬかれ
0942
01 たるよりも法華経の題目に値う事はかたし、 此の須弥山に針を立てて かの須弥山より大風のつよく吹く日・ い
02 とをわたさんにいたりてはりの穴にいとのさきの・ いりたらんよりも 法華経の題目に値い奉る事かたし、 され
03 ばこの経の題目を・ となえさせ給はんにはをぼしめすべし、 生盲の始めて眼をあきて父母等を・みんよりも・う
04 れしく・強き・かたきに・とられたる者の・ゆるされて妻子を見るよりも・めづらしとをぼすべし。
-----―
 このように考えて、深く信じて、つねに南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。
 法華経第一の巻の方便品には「無量無数劫においてもこの経の題目を聞くことはさらにむずかしい」と、第五の巻の安楽行品には「この法華経は無量の国中において、すなわちその題名を聞くことができない」等と述べられているように、法華経の題名を聞くということは、並み大抵ではできないことである。さて、昔、須仙多仏や多宝仏は世に出現されたけれども、法華経の名前さえも説かれなかった。インド応誕の釈迦如来は、法華経を説く目的で世に出現されたのであったが、四十二年の間はその名を秘して語り出されず御年七十二歳のときに初めて妙法蓮華経と唱えだされたのであった。しかしながら当時は中国や日本のような辺国に住む者は、妙法蓮華経の名前さえも聞かなかったのである。中国では仏滅後一千余年過ぎてから、日本ではその後さらに三百五十余年もたってから、やっと妙法蓮華経という題名だけを聞いたのであった。そえゆえ、この法華経に値うことを三千年に一度華の咲く優曇華や無量無辺劫に一度栴檀の浮木に値う一眼の亀にもたとえている。また大地の上に針を立てて大梵天王宮から一粒の芥子を投げ落として、それが針のさきにあたって貫き通すよりも法華経の題目に値うことはむずかしい。またこちらの須弥山に針を立てて、向こうの須弥山から大風が強く吹く日に糸をわたすのに、正確にとどいて、その針の穴に糸の先が通るよりも、なお、法華経の題目に値うことは至難である。したがって、この経の題目を唱えるについては次のように信じなさい、生まれつき盲目の者が初めて眼があいて父母等を見るよりもなおうれしいことであり、また、強敵に捕らえられていた者が許されて妻子に再開するよりも、法華経の題目に値うことはきわめてまれであると思いなさい。

させる解りなくとも
 大聖人の仏法においては、教学について深い理解はなかったとしても、題目を唱え抜くことによって、妙法の功徳は自然に涌現してくるということ。
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蓮華は日に随つて回る
 涅槃経には「譬えば蓮華の如きは日の照らす所に為りて開敷せざること無し、一切衆生も亦復斯くの如し未発心の者も皆悉く発心して菩薩の因と為る」と、また、賢愚経には「譬えば蓮華の日を見て則便・開敷するが如し」とあり、日に随って開き回るということである。すなわち、一つの蓮華の花が太陽の動きにつれて向きを変えるというのではなく、太陽の光りの当たった花から順に開いていくのである。
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芭蕉は雷によりて増長す
 暑い夏の日にしおれていた芭蕉が、夕立ちにあってしゃんとする光景はよく見受けられる。また、雷が空中の窒素を分離し、雨とともに大地に吸収させて植物の生長をたすけることは、今日では科学的に証明される現象である。
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犀の生角
 犀の角は皮膚の角化したもので、骨のしんはなく一生成長を続ける。本草綱目によると、夜露に濡れず、薬に入れると神験あらたかであるとのこと。通天といって、犀の角を魚の形に刻んで水のなかにいれると、水が三尺開くという伝説がある。昔はくりぬいた犀角形の木を連ねて浮き用具を作ったという。
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栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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由旬
 梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
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伊蘭
 インドの高木。屍のような悪臭を放つ木。とうごまの一種といわれ、茎の高さは1.8㍍から2.4㍍、葉の直径は30㌢、色は緑色または赤色を帯び、楓のように7つに裂け、花は総状で雄蕊は上部、雌蕊は下部にある。実と種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。香木たる栴檀は伊蘭の中から生じ、栴檀の一葉が開くと四十由旬の伊蘭の悪臭が消えるといわれる(観仏三昧海経巻一)。伊蘭を煩悩に、栴檀の妙香を菩提に譬える。
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尼倶類樹
 くわ科に属する無花果樹である。この樹木はビルマ、イラン、シンガポール、アンダマン島などに存在している。長大な木であり、高さは9㍍から15㍍に達し、枝葉はよく茂っていて、樹の陰は熱帯の日を避けるのに適している。
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大鳥にも枝おれざれども
 日寛上人の文段によえば「我等が悪業広大なれば権教の力用の断ずることに譬うなり」とある。大鳥は三類の強敵。枝をもつ樹木は我らの肉身。
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せうれう鳥
 ミソサザイのこと。全長約10センチで日本産で最小の鳥の一。全体に濃い茶色で細かい黒斑がある。日本では漂鳥で、渓流沿いに多く、活発に動き回り、短い尾を立てる。春先に張りのある声でさえずる。
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琥珀
 天然樹脂の化石であり、宝石である。半化石の琥珀はコーパル(英: Copal)、加熱圧縮成形した再生コハクはアンブロイド(英: ambroid)というバルト海沿岸で多く産出するため、ヨーロッパでは古くから知られ、宝飾品として珍重されてきた。鉱物ではないが、硬度は鉱物に匹敵する。色は、黄色を帯びたあめ色のものが多い。
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須仙多仏
 須扇多仏のこと。大品般若経に説かれている過去の仏。須扇頭、須延頭ともいい、甚浄、極浄と訳する。菩薩を化導するために仏となり、半劫の間菩薩のために法を説き、以後受化の者がない故に記別を与え終わって滅度したといわれている。
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多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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摩訶尸那
 シナ・中国のこと。
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優曇華
 梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
―――
一眼の亀にもたとへたり
 「松野殿後家尼御前御返事」(1391)に詳しい。大要述べると次のとおりである。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さはまるで雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀のあつい腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところがこの亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に値えても栴檀に値うことは難しい。また栴檀に値えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には値い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き値えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西と見える。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。このように無量無辺劫かかっても一眼の亀が浮木に値うことはむずかしいのである。このように、薄徳の衆生をこの亀に、浮木の穴を文底下種の妙法にたとえられて、衆生が妙法に値いがたきことを述べられている。
―――
大梵天王宮
 大梵天王の住処。大梵天王は梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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此の須弥山に針を立てて~法華経の題目に値い奉る事かたし
 六難九易のひとつ。
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生盲
 生まれながらの盲。
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而るに今の代に世間の学者の云く只信心計りにて解する心なく南無妙法蓮華経と唱うる計りにて争か悪趣をまぬかるべき等云云、此の人人は経文の如くならば阿鼻大城まぬかれがたし
 解を重んじ、信心を軽んずる世間の学者は阿鼻大城まぬかれがたしと、厳しく責められている。ここで「今の代に」とは、たんに日蓮大聖人の御在世当時のみでなく、現代の世にも、そのまま通ずるお言葉である。むしろ現代の学者にこそ、ふさわしい、御本仏の師子吼なりと拝したい。未来もまた同じである。
 解とは、理解することであり、あくまでも第三者として認識するのにほかならない。信心とは自ら主体者として、実践することである。仏法は、この信心、実践なくしては、なんの功徳利益もないことは当然で、正しい理解・認識を得ることも難しい。なぜなら、仏法は自己自身の生命の問題であるからである。
 しかるに、世間の学者の多くが、仏法に対して、信心を無視し、客観的、第三者的に、これを理解しようとするのは、まことに愚かなことといわなければならない。こうした態度は、科学の探究において実験を拒み、実験の成果の実用を無視するのと同じであろう。
 さらに憂うべきは、こうした仏法に対する姿勢が、全てに反映しており、そこに、現代科学の歪みを生じていることである。真理の探究は“解”である。人間としていかに生きるべきか、また、研究によって得た成果をいかに人間の生活に応用していくか、これは広義ではあるが“信心”の範疇に属する。この“信心”と“解”の健全なバランスがあってはじめて、科学の成果を正しく活かし、悪の面を最小限におさえ、かくして、人類の幸福と繁栄を増進することができるのである。
 翻って、現代科学の実態をみると、原子の微小の世界の探求から、恐るべき巨大エネルギーが開発された。だが、その巨大エネルギーは何に使われているか。大部分が破壊と殺りくのための核兵器となっているのである。そして、これを発見した科学者自身も、人類絶滅の脅威にさらされている状態である。
 例をあげれば核エネルギーの一例のみではない。その他の残忍な生物・化学兵器等や、あるいは今日のあらゆる企業に普及しているオートメーションの問題なども、恐怖や疎外感など、いわゆる人間性喪失の現象を生み出しているのである。
 これらの悲劇も、つきつめていけば、現代の学者の“解”のみを重んじ“信心”を軽んずる一般的風潮に帰着するといえよう。
 もちろん、これは、広義での“信心”と“解”から論じたわけであり、その“信心”の究極の実体を求めていくならば、三大秘法の南無妙法蓮華経に帰することはいうまでもない。
 しかして、正法の信心を忘れ、観念的に仏法を考え、あるいは知識だけを追究する学者は無間大城をまぬかれがたしとの仰せは、あくまでも、自分自身の幸福を掴むことができないということである。だが、もう一歩すすんで考えるならば、そうした学者のもたらした学問の歪んだ発達が、人類絶滅という恐るべき地獄絵巻をこの地上に繰り広げようとしているのである。まさに「無間大城まぬかれがたし」ではないか。
 われわれは、今こそ、世間のあらゆる学者の迷盲を打ち破り、正しい人生観、世界観をこの仏法によって教えていかなければならないのである。
譬えば蓮華は日に随つて回る
 ここに示されているのは、正しく唱題の妙用を顕すところで、蓮蕉一双、角檀一双、金樹一双、琥磁一双の四つより成る。文の面においては、これらの四双・八句は、無解有信であっても唱題さえすれば、自然にこれらの功徳を得ることができるということである。日寛上人は、これをさらに掘りさげて、文底の意より、四悉壇を含むと教えられている。
 四悉檀の悉檀とは、梵漢兼称すなわち、インド語と漢語を組み合わせたものである。「悉」は漢語で、あまねくとの意。「檀」はインド語で施すということである。仏があまねく一切衆生に法を施すために用いる法を悉壇というのである。
 これに四種あり、世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀という。世界悉檀には楽欲・歓喜の意を含むとし、仏が衆生の楽欲に随って「正しく因縁は隔別の法を生ず」と説いて歓喜を生ぜしめることである。善を生じ悪を滅するのは為人悉檀・対治悉檀である。実相の妙理に入らしむ、すなわち妙法を教えるのは第一義悉檀である。
 いま、病人に譬えるならば、病人の欲するところにしたがって、勝れた医者を選び薬を与えて喜こばせるのは世界悉檀である。それによって病人が回復していくのは為人・対治悉檀である。病気がすっかり治り、もとの健康な身体になるのは第一義悉檀ということになる。
 そこで、四双八句の譬えについてみると、蓮華が日に随って回るとは、題目を唱える妙用によって、われわれの菩提心の花が開くことであり、芭蕉の雷によって増長するとは、題目を唱えることによって、善根が増長することである。これは為人悉檀をあらわしている。
 犀の生角が水を近づけないとは、われわれが題目を唱えることにより、悪業を遠離することであり、栴檀の一葉が伊蘭を変ずとは、悪業が転じて菩提の因となることである。これは善悪無差別の義である。このように善と悪とを論ずるのは世間悉檀であり、世界悉檀である。
 金樹一双すなわち金剛石と尼倶類樹(にくるじゅ)の譬えは、これほど堅い、大きい悪業も、唱題の力によって折破することができることを示している。したがって、これは対治悉檀である。
 最後に、琥珀が塵を吸い、磁石が鉄を吸引するのは、唱題の力によって、過去の悪業を吸いとり、清浄な妙法の生命をあらわすことを意味する。故に、これは第一義悉檀にあたるのである。そして一往は、世界・為人の二つは摂受、対治・第一義は折伏であるが、再往は前の三悉檀は、全てただ第一義悉檀のためのものである。
 このように、御本尊に向かって唱える題目は、四悉檀を全て具えた偉大な妙用・妙能があることを確信して、つねに南無妙法蓮華経と唱うべきであると申されているのである。
 次の段は法華経を受持することが、いかに希有であるかを歎ずるのである。はじめに、法華の名を聞くことすら難いことを示し、「さればこの経に値いたてまつる事」以下は値遇の難を示す。しかして、はじめの聞名難を示すにおいて、まず経を引いて、これを釈し、次に「されば須仙多仏」と事実をあげるのであるが、これも、過去の諸仏、現在の釈迦仏、未来の時代と、筋道を立てて示しておられるのである。
 また、値遇の難を示す段においても、はじめに正釈、終わりに結勧、すなわち妙法受持の心構えを厳然と説かれていることを知るべきである。
 釈迦在世当時、仏法が最もよく流布し、仏都といわれた舎衛城においてすら、仏を見、法を受持したのは三分の一、仏を見たが法を聞かなかった人が三分の一、残りの三分の一は仏を見たことも法を聞いたこともなかったと伝えられる。
 いわんや、世界的に視野をひろげてみるに、人類誕生以来百万年というが、大御本尊が建立されてわずか七百年にすぎない。いま、われら創価学会員の膨大な数も、人類百万年の歴史のなかで、生まれては死んでいった何百億、何千億の数に比すれば、まことに微少といわなければならないであろう。学会出現以前をたどっても、大御本尊を正しく信じ、自行化他の題目を唱えた人はきわめてわずかなものである。
 また、法華経第一の巻の「無量無数劫にも是の法を聞かんこと亦難し」とは、竪に時間に約しているのであり、同第五の巻の「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得可からず」の文は、横に空間に約しておられるのである。
 これほど、聞き難い妙法を聞き、値い難い大御本尊を受持した者の信心の心構えはいかにあるべきか。「生盲の始めて眼をあきて父母等を・みんよりも・うれしく・強き・かたきに・とられたる者の・ゆるされて妻子を見るよりも・めづらしとをぼすべし」と仰せである。
 信心は歓喜である。これほどの値い難い大御本尊に値い、過去無量劫よりの罪障を消滅し、未来永劫の大福運を積む機会に巡りあうことができたのである。それを自覚すれば、どうして歓喜せずにいられようか。永遠の生命に比して、今の一生は、まことに一瞬でしかない。この貴重な時間をどうしてむだにできようか。自らの宿命転換のため、福運を積むため、瞬間瞬間を惜しんで、この生涯を悔いなく過ごしたいものである。

0942:05~0942:10 第四章 唱題の功力を論証top

05   問うて云く題目計りを唱うる証文これありや、 答えて云く妙法華経の第八に云く 「法華の名を受持せん者・
06 福量る可からず」 正法華経に云く 「若し此の経を聞いて名号を宣持せば 徳量る可からず」 添品法華経に云く
07 「法華の名を受持せん者 福量る可からず」等云云、 此等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみへぬ、 一
08 部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、 方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、 但
09 一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり。
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 問うていわく、仏道修行として、題目だけを唱えるという証文はあるか。答えていわく、羅什三蔵の訳した妙法華経の第八陀羅尼品にいわく「法華経の名を受持する者の福は量り知ることはできない」と、また笠法護の訳した正法華経の総持品に「若しこの法華経を聞いて名号を宣持するならば、その功徳は量ることができないほどである」と、また闍那崛多と達磨笈多の共訳である添品法華経の陀羅尼品に「法華の名を受持する者のその福は量ることができない」等と、述べている。これらの経文には唯法華経だけを信じて題目ばかりを唱える福は計ることができないと説かれている。
 さて法華経修行の仕方を分別してみると、一部・八巻・二十八品を受持、読誦し、随喜、護持等するのは広略要のうちの広の修行である。経中の要品である方便品・寿量品等を受持し、乃至、護持するのは、略の修行である。但一四句偈ないし五字七字の題目だけを唱え又唱える者を護持するのは要の修行である。結論として、広略要のなかで、五字七字の題目は要中の要であり、信行の唱題こそ最も肝要なのである。

正法華経
 法華経の漢訳で現存する法華経の最古のもの。中国西晋の大康7年(0286)竺法蘭の訳、10巻。後の鳩摩羅什訳の妙法蓮華経にはない譬喩等を多く含んでいるが、27品からなり、提婆達多品を羅什訳の見宝塔品に相当する七宝塔品の後半に収めている。方便品第二を善権品第二、如来寿量品第十六を如来現寿品第十五としている。
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添品法華経
 七巻(または八巻)。中国・隋代の闍那崛多と達磨笈多の共訳。添品妙法蓮華経の略称。現存の漢訳三経の一つ。
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受持読誦
 五種の修行、五種の妙行(受持・読・誦・解説・書写)のうちの受持と読・誦。法師品に「若し復人あって、妙法華経の乃至一偈を受持、読誦し、解説、書写し、此の経巻に於いて、敬い視ること仏の如くにして(中略)是の諸人等、未来世に於いて、必ず作仏することを得ん」とある。法華経で説かれた仏道修行。このなかで受持が最も根本である。この五種の修行には、一字五種の修行、要法五種の修行、略品五種の修行の三義がある。末法においては受持即観心である。観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)とある。自行化他に配すれば受持・読・誦・書写は自行、解説は化他である。
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随喜護持
 随喜は法を聞いて随順し、歓喜すること。護持は、その法を身命を賭して守ること。
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方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり
 この文について日寛上人の文段に「『略』は闕略に非ず即ちこれ存略なり、故に大覚抄に云く『余の二十六品は身に影の随い玉に財の備わるが如し、方便品・寿量品とを読み候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり』」とある。すなわち、方便・寿量を持つということは、他の二十六品を切り捨てるのではなく、全部、方便・寿量のなかに含まれてしまうのである。
―――
一四句偈
 経文等において四句をもって一つの偈をなすもの。経論等のなかで一段または全部の終わりを結ぶ韻文。偈とは仏の徳または教理を讃嘆する詩のこと。雪山童子の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」などはその類いである。
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 本抄全体の上から、この段は大きく二つに分けた「第一信心口唱の功徳」「第二妙法五字具徳」のうちの第一、そのなかでも「正釈」の次の「引証」の段である。すなわち、この段では信心口唱の功徳の大きいことを、法華経の文を引いて論証されている。前半は正引証であり、後半は広略要を判じて要を決する段である。
 いうまでもなく、「題目計りを唱うる」とは、信じて唱えることであり、信心のない形だけの唱題をいうのではない。なぜかならば、本門の三箇の秘法、すなわち、三大秘法のうち、本門の題目は、信行を具するからである。信は行の始め、行は信の終わりであって、信と行とは、瞬時たりとも離れることのない関係にある。「諸法実相抄」の「行学は信心よりをこるべく候」(1361-12)との仰せも同じ意味である。
 ただし、たとえ信心はなくとも、唱えないよりは唱えるほうがまだ勝れているがそれは「宝山空手に似る」と日寛上人は申されている。われわれの信心の過程において、ときには惰性に陥ったり、壁にぶつかることもあるのは当然である。題目を唱えていても、さまざまの雑念に心を奪われ、信心がなくなったのではないかと思われることもあろう。だが、そこで行学までも中断してしまったら、それは「心を師とする」の姿である。
 信心は「心の師とはなるとも心を師とせざれ」の仏の金言を胸に、その弱い自己を乗り越えていくことが大切である。この態度さえあるならば、行学の実践によって、再び信心の歓喜を会得していけるのである。
 行学は信心より起こるものであるが、逆にいえば、行学はまた信心に帰着するといえよう。われわれの日々の仏道修行は、確固たる不動の信心を体得することにこそ、究極の目標があるといっても過言ではない。信心とはわれわれ凡夫の唯一の仏界であり、確固不動の信心は即、成仏の境涯なのである。
 なお、ここに、三種類の法華経が引証されているので、この点について触れておきたい。妙法蓮華経は、梵名を薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧といい、すでにインドにおいて、異本があったといわれる。そのためこれを中国で漢訳する段階では、訳者によって用いた原本が異なり、種々の漢訳本ができたと推察される。
 こうしてできた漢訳本は、次の六種である。
   ①  法華三昧経  六巻 魏の正無畏訳
   ②  薩芸分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳
   ③  正法華経   十巻 西晋の竺法護訳
   ④  方等法華経  五巻 東晋の支道根訳
   ⑤  妙法蓮華経  八巻 姚秦の鳩摩羅什訳
   ⑥  添品法華経  七巻 隋の闍那崛多・達磨笈多の共訳
 このうち、法華三昧経、薩芸分陀利経、方等法華経はすでに消失し、正法華経、妙法蓮華経、添品法華経の三本のみが現存しているので、六訳三存という。
 現存する三本のうち、最も釈迦の精神を正しく捉え、法華経の真意を誤りなく伝えているのは鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」で、中国および日本の天台宗においても、一般の間でもこれが最もよく用いられ、読誦されてきた。日蓮大聖人も、読誦し、御書に引証されている法華経は、この羅什訳である。
 いま本文で、妙法蓮華経のみでなく、正法華経、添品法華経の文も合わせて挙げられているのは、唱題の功徳が説かれているのは妙法蓮華経だけではないとの客観的裏付けを期されたものと拝される。
 「法華取要抄」(0336)にいわく「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」と。
 広とは法華経一部八巻二十八品、略とは方便品・寿量品、要とは南無妙法蓮華経の題目である。日蓮大聖人の仏法は、広略を捨てて、肝要たる南無妙法蓮華経を唱えることに尽きるのである。この南無妙法蓮華経は、文字は七字であるが、法華経二十八品はもとより八万法蔵のいっさいを包含するのである。なぜならば、この一法より無量義を生じ、最後には百千枝葉はこの一法の一根に帰趣するからである。なんと偉大な法ではないか。
 要とは、一を挙げていっさいを括る義であり天台大師は法華文句に「総じて一切を括るを要と為す」、法華玄義には「云何なるを要と為さん、……綱維を提ぐるに目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷として来らざる無きが如し」と述べている。
 唱法華題目抄には「其の上法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」とあり、同じく「一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし」(0013-03)と。
 「曾谷入道殿御返事」には「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)
 同「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く『蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す』と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候、されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は猨をはなれて肝をたづねし・はかなき亀なり、山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猨猴なり、はかなしはかなし」(1059-01)。
 そのほか、類文をあげれば際限がないが、南無妙法蓮華経とは、たんに法華経二十八品の題目もなければ、その意義を要約したものでもない。法華経それ自体の心であり実体なのである。
 いいかえると、法華経二十八品があって、それに題をつけて妙法蓮華経と称したのではなく、まず南無妙法蓮華経という法体があって、それを説明したのが二十八品の法華経なのである。故に、本体である南無妙法蓮華経を離れて、法華経二十八品、あるいは要品たる方便・寿量を読もうとも、それは猿をはなれて肝を求め、薬を捨てて効能書を尊ぶようなものである。
 それでは、本体であり、心である、妙法蓮華経とはなにか。これが具体化され、実体を顕わしたのが、三大秘法の御本尊である。したがって、日蓮大聖人が、この御本尊を顕わす唯一の資格ある久遠元初の自受用身如来として出現される以前においては、ただ心に観ずる以外になかったのである。天台が観念観法を修したのは、実にこのためにほかならない。
 いま、末法のわれらにして初めて、この究竟の法体であり、仏法の真髄である三大秘法の御本尊を眼前に拝し、わが胸に抱くことができるのである。この御本尊を受持することこそ、要中の要であり、広略の修行は、全てここに含まれていることを知るべきである。
 もし、この本末を転倒し、御本尊受持の要法を忘却したならば、いかに法華経を読もうとも「法華経を讃むると雖も還って法華の心を死す」類いとなり、大謗法の罪にあたるのである。
 なお、この段までで、能信・能行の功徳が無量であることを説き終わり、その信行の対境である妙法の法体については、第五章以下に説き進められるのである。

0942:11~0942:14 第五章 妙法五字の具徳を示すtop

10   問うて云く妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや、 答えて云く大海は衆流を納めたり大地は
11 有情非情を持てり 如意宝珠は万財を雨し梵天は三界を領す 妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並
12 に仏界を納む、 十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む、
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 問うていわく、その所信所行の妙法蓮華経の五字には一体どれほどの功徳を納めているのか。
 答えていわく、大海はあらゆる河川の流水を納めており、大地は有情、非情にわたり全てを包み持っており、如意宝珠は、あらゆる財宝をふらし、大梵天王は欲界、色界、無色界の三界の全てを治領する。
 妙法蓮華経の五字の妙体も全く同様であり、一切の九界の衆生も仏界もともに十界互具して妙法蓮華経に納めている。正報である十界の衆生が妙法蓮華経に納まっているならば、また十界の依報である国土も当然妙法に収まり、したがって三千の万法を全て収めているのである。

大海は衆流を納めたり
 一切の河川の水は大海に流れ込み、同一鹹味になるように、南無妙法蓮華経の一法に一切の法が収まるということ。
―――
有情
 ①梵語の薩埵、薩埵嚩、サットヴァ(sattva)の新訳。旧訳では衆生とする。感情や意識をもっている、生あるものの一切の総称。草木、山河、大地などの非情に対する語。 ②仏も有情のなかに含まれること。③九界の衆生をいう。④衆生の一身には有情と非情をそなえていること。⑤三世間の衆生・五蘊世間は有情・国土世間は非情。
―――
非情
 無心の草木・山河・大地などをいう。
―――
如意宝珠
 一珠から種々、無量の宝を意のままに取り出せる珠をいう。ここでは南無妙法蓮華経の功徳力を譬えられている。仏舎利変じて如意宝珠になるとか、竜王の脳中から出るとか、摩竭魚の脳中から出る等といわれた。摩訶止観巻第五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。「兄弟抄」(1087)には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」と。また「御義口伝」(0747)には提婆達多品の有一宝珠を釈して「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」と述べられている。
―――
三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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 この問いの意味を日寛上人は「能信能行の功徳の無量なることは既に命を聞き畢んぬ、所信所行の妙法蓮華経の五字には幾の功徳を納むるや」と問うているのであると示されている。これより「妙法蓮華経の五字」の妙体すなわち三大秘法の御本尊に、どれほど偉大なる功徳が納められているかを論じられている。「法華経題目抄」全体を大きく分けた、第二段がここからである。もとより、本抄は文永3年(1266)の御著作で、発迹顕本される以前のことであるから、三大秘法の名目は使われていない。だが、ここで述べられんとしているその実体は、所信所行の法体であり、三大秘法の南無妙法蓮華経以外のなにものでもないといえる。
 まず、この章においては「妙法蓮華経の五字」に十界の依正を納めることを示されている。大海・大地・如意宝珠・梵王は、その譬えとして挙げられているのであって、法説・譬説の関係になっている。
 しかして、妙法蓮華経に十界の依正を納むとは、次の当体義抄の文と全く一致するのである。すなわち「妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(0510-01)と。
 十界の依正とは、いいかえると一念三千である。釈籤の依正不二門にいわく「三千の中・生陰の二を以って正と為し国土の一千を依に属す、依正既に一心に居す一心豈・能所を分かたん能所無しと雖も依正は宛然たり」と。
 すなわち、一念三千のなかで、衆生世間、五陰世間は有情であり正報であるが、国土世間とは非情であり依報をいうのである。一念三千それ自体のなかに依正を含んでいるのである。
 この原理は、逆にいえば、われらの信心修行の実践において、たんにわが身の幸福をめざすのみの活動であってはならないということに通ずる。一念三千の法理に適った正しい仏道修行は、わが身の幸福とともに、社会の繁栄、国土の平和をめざすものでなければならない。
 その正しい実践活動の積み重ねがあってこそ、わが生命を事の一念三千の当体として輝かせていくことができるのである。ゆえに、王仏冥合というも、第三文明建設というも、所詮は一念三千の法理に納まるのであり、かつ一念三千の法理より出発するものなのである。
 爾前権経にせよ、キリスト教等にせよ、その教義は、唯心主義であり、社会性に欠けている。たとえば、キリスト教では「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」と教え、本来、信仰と世俗とを明確に分離している。中世ローマ法王が、神の王国の地上における模写を唱え、信仰と世俗との融合を試みたが、元来、それはキリストの教えには反する行為であった。ルター等の宗教改革運動はこのローマ・カソリックの逸脱に対するプロテストだったのである。
 端的にいうと、キリスト教は、本質的に現実遊離の思想であり、むしろ、現実を卑しみ天国に入ることのみを理想として憧憬する宗教なのである。そうした宗教に、この地上の現実世界をよくするための助力を求めること自体、大なる誤算というべきではなかろうか。
 仏教においても、爾前権経は、いずれも、このキリスト教と共通した基盤に立っている。念仏の浄土思想などは、キリスト教の天国思想と全く同じといっても過言ではない。仏教が現実世界を変革する哲学的基盤を確立したのは、実に一念三千の哲理によって可能となったのである。
 してみれば、戦乱と貧困や飢饉、権力の横行等のなかに三悪道、四悪趣の様相を呈している現代の世界を、根本的に変革し、衆生所遊楽の幸福世界としていく唯一の源泉は、ただ事の一念三千の大仏法にあるといっても過言ではないであろう。

0942:14~0943:10 第六章 通じて五字の具徳を明かすtop

12                              先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいは
13 ば経の一字は諸経の中の王なり一切の群経を納む、 仏世に出でさせ給いて 五十余年の間八万聖教を説きをかせ給
14 いき、仏は人寿・百歳の時・壬申の歳・二月十五日の夜半に御入滅あり、 其の後四月八日より七月十五日に至るま
15 で一夏九旬の間・一千人の阿羅漢・結集堂にあつまりて一切経をかきをかせ給いき、 其の後正法一千年の間は五天
16 竺に一切経ひろまらせ給いしかども 震旦国には渡らず、 像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平
17 十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来
18 る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり。
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 まず妙法蓮華経の五字の妙名にいっさいの法をことごとく納めている事を述べるならば、妙法蓮華経の経の一字は諸経のなかの王でありいっさいの群経を納めているのである。仏は世に出現して五十余年の間、八万聖教を説き遺されたのであった。そして人寿・百歳の時代の壬申の歳に八十歳で二月十五日の夜半に入滅されたのである。その後四月八日から七月十五日に至るまでの一夏九十日の間、一千人の阿羅漢が結集堂に集まって一切経を書き残したのであった。その後正法一千年の間は、五天竺に一切経がひろまったけれども震旦国には渡らなかった。その後像法に入って十五年、つまり釈迦滅後一千十五年、後漢の孝明皇帝の永平十年・丁卯の歳に仏像と経文が初めて中国に渡り、以来、唐の玄宗皇帝の開元十八年・庚午の歳に至るまで、両国の間を行き来した訳者は百七十六人、インド等から中国へ持ち来った経・律・論は一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙という。これらは皆法華経の経の一字の眷属である修多羅なのである。
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0943
01   先ず妙法蓮華経の以前・四十余年の間の経の中に大方広仏華厳経と申す経まします、 竜宮城には三本あり上本
02 は十三世界微塵数の品・ 中本は四十九万八千八百偈・下本は十万偈四十八品・此の三本の外に震旦・日本には僅に
03 八十巻六十巻等あり、 阿含・小乗経・方等・般若の諸大乗経等、大日経は梵本には阿バラ訶怯の五字計りを三千五
04 百の偈をもつてむすべり、 況や余の諸尊の種子・尊形三摩耶・其の数をしらず、而るに漢土には但纔に六巻七巻な
05 り、涅槃経は雙林最後の説・ 漢土には但四十巻是も梵本之れ多し、 此等の諸経は皆釈迦如来の所説の法華経の眷
06 属の修多羅なり、 此の外過去の七仏・千仏・遠遠劫の諸仏の所説・現在十方の諸仏の説経皆法華経の経の一字の眷
07 属なり、 されば薬王品に仏 ・宿王華菩薩に対して云く 「譬えば一切の川流江河の諸水の中に海為れ第一なるが
08 如く衆山の中に須弥山為れ第一・衆星の中に月天子最も為れ第一」等云云、 妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第
09 一」等云云、 此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり、 譬えば如意宝珠の一切の財を納め虚空の万象を
10 含めるが如し、 経の一字は一代に勝る故に妙法蓮華の四字も又八万法蔵に超過するなり、
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 まず妙法蓮華経の以前の四十余年の間に説かれた爾前経のなかに、大方広仏華厳経とという経がある。この経は竜宮城には上中下の三本あって上本は十三世界の微塵の数ほどの品数があり、中本は四十九万八千八百偈、下本は十万偈四十八品ある。この三本のほかに、中国・日本にはわずかに新訳八十巻、旧訳六十巻等があるのみである。また阿含の小乗経、方等・般若の諸大乗経等があり、そのなかで大日経は、梵本には阿バラ訶怯の五字の真言を三千五百の偈頌をもってむすんでおり、まして、このほか諸尊の種子・尊形三摩耶はその数を知らないほどである。しかしながら漢土・中国にはわずかに本経が六巻、供養経を加えて七巻である。また涅槃経は雙林最後の説で、漢土にはただ四十巻であるが、これも梵本では膨大なものである。これらの諸経は皆・釈迦如来の真実の所説たる法華経の眷属の経文なのである。このほか過去の七仏・千仏・遠遠劫の諸仏の所説の経々も、現在の十方世界の諸仏の説経も、皆法華経の経の一字の眷属なのである。
 それゆえ薬王品で仏が宿王華菩薩に対していうのには「譬えばいっさいの川流江河の諸水に対すれば海が第一であり、衆山のなかでは須弥山が第一であり、衆星に対しては月が第一であるように、諸経のなかでは法華経が最もすぐれている」といっている。この意をうけて妙楽大師はの「仏が已に説き、今説き、当に説く。そのなかで法華経が最も為れ第一」であると釈している。
 この法華経の経の一字の徳のなかに十方法界の一切経が納まっている。譬えば如意宝珠がいっさいの財を納め、虚空がいっさいの万象を含んでいるようなものである。
 妙法蓮華経の経の一字が一代聖教のなかで最も勝れている故に妙法蓮華の四字の徳もまた八万法蔵の徳に超過するのである。

人寿・百歳の時
 人寿とは人間としての自然的平均寿命。三千年前、インドに釈迦が出現したときは、人寿百歳であったといわれている。釈迦在世から現在までの三千年は、減劫の時代であるので、百年で一歳を減じていく原理によって三十歳を減じて人寿七十歳となる。
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壬申
 干支の組み合わせの9番目で、前は辛未、次は癸酉である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の申は陽の金で、 相生(金生水)である。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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結集堂
 釈尊滅後、迦葉等の弟子たちが、一切経を結集した法堂。
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震旦国
 中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住処の意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。
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孝明皇帝
 後漢の2皇帝、明帝のこと。先武帝の第4子で、早くから頭角をあらわし、父に愛された。建武19年(0043)に皇太子、中元2年(0057)に即位。父の意志をつぎ、さらに人徳をみがき、国内を治め、外交にも力を尽くした。西域に仏と名のる聖人がいることを聞き、使者を天竺に派遣して、仏教を求めた。中国における仏教の伝来は、孝明皇帝によって行われたのである。また洛陽郡に白馬寺を建立して、仏法を流布した。教機時国抄(0438)に「仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ」とある。
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玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
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 書物を包むおおい。
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修多羅
 梵語シュタラ(sūtra)の音写。線・① 経文。経典。契経  。②十二分経の一。散文で教理を説いたもの。契経。③ 袈裟  の装飾として垂らす、白赤4筋の組みひも。
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大方広仏華厳経
 華厳経のこと。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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竜宮城
 竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
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十三世界微塵数の品
 13の三千大千世界を微塵にしたほどのたくさんの品。
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八十巻六十巻
 ①新訳華厳経が80巻からなること。唐代・実叉難陀の訳。②旧訳華厳経は東晋代の仏駄跋陀羅の訳60巻38品からなるうちの第一離世間浄眼品のこと。現存の60華厳経には「離」の字はなあく世間浄眼品第一となっている。
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阿含
 阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
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小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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方等
 方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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阿縛羅訶佉
 真言宗の教義。大日経に説かれた大日如来の真言で、真言宗で立てる大日如来の秘密真言のなかでは一番根本として大事にしている呪文。
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種子・尊形三摩耶
 種子は仏になる根本の原因、尊形は色相荘厳の仏の相貌、三摩耶は諸仏・諸菩薩・諸天などが手に持っている標識・大日如来の卒塔婆・不動明王の剣・観音の蓮華・薬師如来の薬壺等で、仏の本誓をあらわすもの。
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六巻七巻
 大日経の漢訳は本経が6巻・供養経を加えて7巻となる。
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過去の七仏・千仏
 過去の7仏は長阿含経にあり、過去荘厳劫の3仏は毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏、現在賢劫の4仏は留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏、・釈迦牟尼仏で、いずれも入滅した仏であるので、過去仏という。
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宿王華菩薩
 薬王菩薩本事品第二十三にあらわれ、釈尊に薬王菩薩の因縁をたずねた菩薩。
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已今当説最為第一
 持妙法華問答抄には「設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は『了義経によりて不了義経によらざれ』と説き妙楽大師は『縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し』と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ」(0462-08)とあり、法華経が「已今当説最為第一」の経であるとある。
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十方法界
 「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
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虚空の万象を含める
 虚空とは宇宙、いっさいのものがすべて宇宙に含まれてしまうということ。
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先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいはば経の一字は諸経の中の王なり一切の群経を納む云々
 妙法蓮華経の五字の妙名に十界の依正・三千の万法を納むる具徳を明かすにあたって、妙法蓮華経の経の一字に一切の群経を納める「経の一字の具徳」を説かれるのである。
 はじめに、インドから中国へと伝来された一切の諸経が妙法蓮華経の眷属であることを明かし、次に「先ず妙法蓮華経の以前」云云は、通じて梵漢の諸経が法華経の眷属であることを明かし、「此の外過去の七仏・千仏」云云は、ひろく一切諸仏の諸経も皆、法華経の経の一字の眷属であることを明かしている。このように、狭きより広きへと説きすすめて一切経が法華経の眷属であることを示されているのである。
 なぜ、このように説かれているかというと、インドから中国へと伝えられ、訳された経典は膨大なものであるが、インドだけにとどまり、中国へ伝えられなかったものもたくさんある。さらに、仏法は釈迦一仏だけではなく、過去七仏・千仏・の諸仏、また現在の十方の他方の諸仏と、無数の仏がいることも知らなければならない。とすれば、釈迦仏法の範囲だけでいえば、一切経は妙法蓮華経の眷属であるかもしれないが、過去および他方の諸仏の説いた経は、そうではないのではないかという疑問が生ずる。それに対して、大聖人は過去および他方の一切諸仏のあらゆる経といえども、すべて妙法蓮華経の眷属なのだと断言されているのである。
 過去七仏、千仏あるいは遠々劫の諸仏とは、地球に人類が誕生して以来の歴史では説明できない問題である。現代の天文学によると、いま、われわれが見ている宇宙空間においても、崩壊の過程をたどっている天体があれば、まさに生成の途上にある天体もあることが明らかにされている。
 おそらく、現在の地球を含む、この太陽系も、あるいは、この太陽系が含まれている銀河系宇宙も、壮大な生成流転の歴史を繰り返しているのに違いない。そう考えると、今日、太陽が輝き、地球に生物が栄えているこの姿も、永劫の宇宙の生成流転の歴史のなかにおける、ほんの一幕にすぎないのかも知れない。はるかな過去にも、これと同じような姿が現出されていたであろうことは、想像にかたくない。
 そして、そこに仏があらわれ、説法をし、経典があらわされたということも、決してありえぬことではないと思われる。過去の七仏・千仏・遠々劫の諸仏とは、そうした悠久なる宇宙観、歴史観を前提としているのであり、それが、現代天文学の明らかにしはじめている宇宙観と見事に合致することに、改めて仏法の偉大さに驚嘆の念を禁じ得ないのである。
 また、現在、天文学で知られている、こうした天体の生滅のドラマは、数千万光年、あるいは数億光年という、遠い世界の出来事であるが、そのことは、今崩壊していると見ているこれらのドラマが、実は数千万年、数億年の過去に属することを意味する。宇宙の出来事は、現在と思っていることが、実は、はるか遠い過去にほかならないのである。
 宇宙の距離を測る〝光年〟という単位自体、「光が一年間に走る距離」であり、本来、時間の概念を応用したものである。このように、時間と空間とが微妙に交錯する世界、現在の一瞬に無限の過去を含む世界、それが、この宇宙であり、かつまた、それを認識し反映するわれわれの生命の不可思議なのである。「現在十方の諸仏」とは、現在、地球以外にも生物の生息する世界が存在し、そのなかには人間社会があり、やはり仏法が説かれている世界があるということである。
 かつての天動説、すなわち地球だけが生物なかんずく人間の存在しうる唯一の世界であるとした考え方から比べても、天文学の発達が、このように「十方世界」を説く仏法を理解することを容易ならしめていることは、明らかに認められよう。
 また、過去現在のいっさいの諸仏の経々とは、この地上の有史以前から今までのいっさいの教え、学説をも意味する。いかなる哲学、いかなる人文、物質科学の学説といえども、妙法蓮華経の経の一字の眷属に過ぎないということでもある。したがって、これらは日蓮大聖人の仏法の体外に置けば死の法門、体内に会入すれば活の法門となる。ここに、生命の世紀の第三文明建設の鍵があることを深く考えて、折伏に励むべきである。
人寿・百歳の時・壬申の歳云云
 人寿百歳の時とは、仏法において、人間の平均寿命が百年に一歳ずつ減って十歳になると、今度は同じく百年で一歳ずつ増えて八万歳にまでなる。人寿八万歳に達すると、今度はまた減っていくというように、増減を繰り返すという考え方から来ている。
 減っていく期間を減劫といい、増えていくのを増劫という。現在は減劫で、釈迦時代はちょうど平均寿命が百歳のときであったとされている。壬申の歳とは、中国の十干十二支の数え方で、年代でいうと、周の穆王52年、西暦紀元前0949年にあたる。生まれた年は周の昭王24年で、西紀前1029年である。
 現在の西欧歴史学による年代編では、釈迦の生没年は、前0563年から0483年ころ、または前0463年から0383ころとされており、約500年のズレがある。
 インドは世界でも稀なほど、年代を明記して歴史の事実を記した、確実な資料が欠乏した国なのである。中国民族が現実的であり、具体的歴史事実を尊ぶのに対して、インドは冥想と詩と夢幻に富む民族であるといわれる。したがってインドの歴史に関して、確定的な資料となるのは、インド人自身の記録はなく、西方からの旅行者や中国からの留学生などの記録によるのが大部分である。
 最近は考古学的な発掘調査によって、新しい資料が発見されてはいるが、人物の生没年等については、まだまだ推測の域を出ない。釈迦の年代についても、西欧歴史学の説が絶対に正しいとは決していえないのである。周の昭王24年~穆王52年説は、古来東洋においては定説として用いられてきたのであって、大聖人もまた、この説を採用されているのである。
 なおこの箇所は、日寛上人の文段によれば、「仏世に出でさせ給いて」云云は正説、「仏は人寿・百歳の時」云云は結集、「其の後正法一千年の間は五天竺に」云云は翻訳について述べられている。
 また「先ず妙法蓮華経の以前」以下の文については、初めに華厳をあげ、次に阿含・方等・般若の三味をあげ、なかでも大日経を代表として他経を例し、最後に涅槃経をあげている。このように、順序を追った見事な構成になっていることを注意すべきであろう。
此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり云云
 「御義口伝」にいわく「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり」(0708-09)と。
 南無妙法蓮華経の経の一字には如意宝珠がいっさいの宝物を納め、虚空がいっさいの物を含むように、十方世界のあらゆる経を納めるのであると申されている。
 「虚空のを含む」とは、虚空すなわち、この宇宙空間にいっさいの物質とその運動とを含むとの意であり、所詮、全ての物体の形は、それが空間のなかでいかなる部分を占めるかという問題である。
 その意味では、古代ギリシャのデモクリトスが、全ての存在の究極たる原子と真空とを想定した、あの古典物理学の考え方に通ずるといえよう。
 さらに敷衍していえば、アインシュタイン以後の近代物理学では、空間は単なる真空ではなく、それ自体一つの場であり、さらにいえば、存在の可能性を含んでいるものだといえよう。虚空は、たんなる〝無〟の世界ではなく、そのなかから存在を生み出していく母体であるとさえいわれるようになっている。その意味でも「虚空は万象を含む」とのお言葉に、はかりしれない真理が含められているように思われるではないか。

0943:10~0944:09 第七章 別して妙の一字の具徳を明かすtop

10                                          妙とは法華経に云く「方
11 便の門を開いて真実の相を示す」、 章安大師の釈に云く 「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」、妙楽大師此
12 の文を受けて云く「発とは開なり」等云云、 妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事
13 かたし開かざれば蔵の内の財を見ず 、華厳経は仏説き給いたりしかども経を開く鑰をば仏・彼の経に説き給はず、
14 阿含・方等・般若・観経等の四十余年の経経も仏説き給いたりしかども彼の経経の意をば開き給はず、門を閉じて・
15 をかせ給いたりしかば人・彼の経経をさとる者一人もなかりき、 たとひ・さとれりとをもひしも僻見にてありしな
16 り、 而るに仏・法華経を説かせ給いて諸経の蔵を開かせ給いき、 此の時に四十余年の九界の衆生始めて諸経の蔵
17 の内の財をば見しりたりしなり、 譬えば大地の上に人畜・草木等あれども日月の光なければ眼ある人も人畜・草木
18 の色形をしらず、日月・出で給いてこそ始めてこれをば知る事なれ、 爾前の諸経は 長夜の闇の如く法華経の本迹
0944
01 二門は日月の如し、 諸の菩薩の二目ある二乗の眇目なる凡夫の盲目なる闡提の生盲なる共に 爾前の経経にてはい
02 ろかたちをばわきまへずありし程に、 法華経の時・迹門の月輪始めて出で給いし時・菩薩の両眼先にさとり二乗の
03 眇目次にさとり凡夫の盲目次に開き生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ是れ偏に妙の一字の徳なり。
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 妙とは法華経の法師品にいうには「爾前方便の権門を開いて真実の相すなわち如来所証の本法を示すのである」と。章安大師は釈して「秘密の奥蔵を開いて法体法爾の本妙を顕示することを妙というのである」といい、妙楽大師はこの文を受けて玄義釈籖の第一に「発とは開くことである」といっている。すなわち妙ということは開くということである。
 一般的にいうと財を積んである蔵も、鑰がなければ開くことはできない。開かなければ当然蔵の内の財を見ることはできない。はじめに、華厳経を仏は説いたけれども、その経蔵を開く鑰を仏は華厳経自体には説かなかったのである。次に阿含、方等、般若、観経等の四十余年の爾前の経々も仏は説いたけれども、これらの経々の本意を開かないで門を閉じたままにしておかれたので、衆生は彼の爾前経の真意を悟る者が一人もなかったのである。たとえ「われ悟れり」と思う者があってもそれは僻見にすぎなかった。ところが終わりに仏は法華経を説いて諸経の蔵を開いたのであった。このときに四十余年の九界の衆生は初めて諸経の蔵の内にある財を見、知ることができたのである。たとえていえば大地の上には人畜・草木などが生存するけれども太陽や月の光がなければ、眼のある人でも人畜・草木の色や形を知ることができない。太陽や月が出てこそ初めて万物の姿を知ることができる道理である。爾前の諸経は長夜の闇のようなもので法華経の本門と迹門の二門は太陽と月のようなものである。両眼のある諸の菩薩も眇目の二乗も盲目の凡夫も生盲の一闡提も共に爾前の経々では色も形も分別できずにいたが、法華経が説かれたとき、すなわち、迹門の月輪が初めて出たときに両眼の菩薩が先ず悟り、眇目の二乗が次に悟り、盲目の凡夫が次に開き、生盲の一闡提も未来に成仏の眼を開き得る縁を結んだのである。これは偏に妙法蓮華経の妙の一字の功徳によるのである。
-----―
04   迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙合せて二妙、迹門の十妙本門の十妙合せて二十妙、迹門の三十妙・本門の
05 三十妙合せて六十妙、迹門の四十妙・本門の四十妙・ 観心の四十妙合せて百二十重の妙なり、六万九千三百八十四
06 字一一の字の下に一の妙あり 総じて六万九千三百八十四の妙あり、 妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙
07 とは具の義なり具とは円満の義なり、 法華経の一一の文字・ 一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり、
08 譬えば大海の一渧の水に 一切の河の水を納め 一の如意宝珠の芥子計りなるが 一切の如意宝珠の財を雨らすが如
09 し、
-----―
 さて、以上の妙の一字の徳を評論するならば、迹門十四品の一妙と本門十四品の一妙を合わせて二妙、迹門の十妙と本門の十妙と合わせて二十妙、迹門の三十妙と本門の三十妙とを合わせて六十妙、迹門の四十妙と本門の四十妙と観心の四十妙とを合わせて百二十重の妙である。
 法華経の全文字・六万九千三百八十四字の一字一字の根底に各々一つの妙があり、総じて六万九千三百八十四の妙は、ことごとく妙の功徳、勝能を含んでいるのである。さて、妙とは天竺では薩といい、漢土では妙という。妙とは具足の義で、具足の具とは円満という意である。すなわち、法華経の一つ一つの文字に、六万九千三百八十四文字の徳が欠けることなく具わり納まっているのである。譬えば大海の一渧の水にはいっさいの河の水が納まり、芥子ほどの大きさのたった一つの如意宝珠が、いっさいの如意宝珠の財を降らすようなものである。

章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
秘密の奥蔵
 爾前経においては、正しい仏法の究極の実体を説き顕されないで、奥に隠していた。これを秘密の奥蔵といった。
―――
観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
四十余年の九界の衆生
 爾前40余年の間は成仏の法が説かれなかったから、一切衆生は成仏できなかったということ。
―――
爾前の諸経は長夜の闇の如く本迹二門は日月の如し
 五重の相対の権実相対のこと。「闇」には世人の眼を閉ざす・人畜等の色形を失うの失があり、「日月」は爾前の失を明らかにする徳がある。
―――
眇目
 やぶにらみ・斜目。二乗は求道の方向が違っていることをいう。
―――
迹門の十妙
 天台大師智顗は『法華玄義』で、「妙法蓮華経」の「妙」の意義について、本門・迹門のそれぞれ10項目を挙げて論じている。迹門の十妙は、そのうち迹門における妙の意義を説いたもの。①境妙②智妙③行妙④位妙⑤三法妙⑥感応妙⑦神通妙⑧説法妙⑨眷属妙⑩功徳利益妙もこと。
―――
本門の十妙
 天台大師智顗は『法華玄義』で、「妙法蓮華経」の「妙」の意義について、本門・迹門のそれぞれ10項目を挙げて論じている。本門の十妙は、そのうち本門における妙の意義を説いたもの。①本因妙②本果妙③本国土妙④本感応妙⑤本神通妙⑥本説法妙⑦本眷属妙⑧本涅槃妙⑨本寿命妙⑩本利益妙のこと。
―――
法華経の時・迹門の月輪
 爾前の諸経と法華経の迹門の勝劣について、爾前の長夜の闇に譬えれば、迹門の勝ること月の光明の如く、また迹門の本門に劣ることを、日の光明に及ばないことに譬えてこのようにいう。
―――
妙とは具の義なり具とは円満の義なり
 妙とは具足の意味であり、具足とは円満という意味である。円満とはいささかの欠減もないこと。
―――――――――
 これより別して〝妙〟の一字の具徳について、あらゆる角度から詳細に論じられるのである。
法華経に云く「方便の門を開いて真実の相を示す」
 方便の門とは爾前の方便権経である。真実の相とは、仏が証得したところの根本の法である。この爾前権経を開いて、仏の根本の法を示すということが妙法蓮華経の妙という意味であるとの仰せである。
 日寛上人は文段に「今将にこの文の意を了せんとするに須く開顕の大旨を暁むべし」と申され、伝教大師の「『於一仏乗』とは根本法華経なり『分別説三』とは隠密法華経なり『唯有一乗』とは顕説法華経なり」の文を引いて示されている。すなわち「根本法華」とは如来所証の本法であり、「隠密法華」とは爾前の諸経である。「顕説法華」とは開顕の法華経である。したがって、これを月のたとえでいうと、如来所証の本法は天に輝く月であり、爾前の諸経は雲が月を隠しているようなものである。しかして、開顕の法華というのは、その雲を開いて月を顕すことにあたるわけである。
 本文についてみると「方便の門」とは爾前経であり、「真実の相」は如来所証の本法である。したがって、法華経の開顕というのは、如来所証の本法を開顕して示すことであり、如来所証の本法とは、末法御図顕の三大秘法の大御本尊にほかならないのである。
章安大師の釈に云く「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」
 秘密の奥蔵とは、爾前経においては隠秘されてきたことをいう。いま法華経にいたってこの奥蔵を開いて、根本の妙法を顕すが故に「之を称して妙と為す」というのである。
 この秘密には三つの意味がある。第一は法体の真秘で、妙法それ自体の深遠さを秘密と称する。三大秘法抄に引かれている天台の「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す」(1022-10)との釈は、この場合に属する。
 第二は在昔隠秘、すなわち法華経以前においては法体の真秘、甚深なる妙法を隠してきたが故に秘密というのである。「又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す」(1022-10)の釈がこれである。
 第三は開顕の真秘といい、法華経にいたって法体の真秘を顕示するが故に、これを秘密というのである。「顕露彰灼なる故に真秘と云う」の釈がこれである。
 いま本文の場合、「秘密の奥蔵」というのは、第二の在昔隠秘の例で、爾前経において妙法を隠してきたことをさす。この故に、「奥蔵」といって、財を隠す蔵にたとえているのである。法華経にいたって、はじめてこの秘密の奥蔵を開いて根本の妙法を顕わしたので「之を称して妙と為す」といったのである。
 「発く」は「開く」と全く同じで、そこには必ず、本体をおおっているものを除くということと、除くことによって、見えるという現象が伴うものである。したがって「秘密の奥蔵を発く」というのも、発くこと自体に意義があるのではなく、それによって、隠されていた妙法を見させることに意義がある。「之を称して妙と為す」の文も、真意は、根本の妙法が顕われることにあると拝すべきである。
 いいかえると、この章安大師の文は、法華経が説かれたこと自体を重要視しているのでなく、法華経によって明らかにされた根本の妙法、文底の南無妙法蓮華経こそ最も大事であることを述べているのである。
妙と申す事は開と云う事なり
 御本尊を曼荼羅と申し上げるが、これは梵語で、訳すると功徳聚の意である。御本尊それ自体が宇宙大の宝の聚まりなのである。信心の目的は、この功徳聚であられる御本尊を開いて、身に大功徳をいただくことである。宇宙大の御本尊であられるから、どんなにいただいても、なくなるなどと心配する必要はない。功徳を受ければ受けるほど、それによって信心を増し、成仏の境涯を会得することができるのである。
 この「開く」ということに、他の宗教とは全く違った深い哲理があることを知らなければならない。よく、この道理を知らない人は、仏法の利益というものを、タナからボタ餅が落ちてくるのを待っているように考えたり、弱い者が頼ったりするものであるかのごとく思うものである。これは大なる誤りである。
 仏法の利益は、自己の強い信力・行力によって、自らの手で開き、自らの手で掴みとるものなのである。ちょうど、たとえてみれば、金鉱をみきわめて、そこを掘っているのが、この妙法の信心ある人の姿である。信心なき人は、無計画に、掘っていれば、なんとか金鉱を掘りあてるだろうと汗水を流しているようなものである。
 なかには偶然、鉱脈にぶつかる場合もあろうが、わずかにかすった程度に終わってしまったり、横切ってしまって、たちまち、せっかく得たものも失って、あわてて迷ったりするのが大部分である。
 鉱脈を正しく見きわめ、それを辿って合理的に堀り進んでいけば、百の努力が何倍にもなって返ってくる。むだをすれば、百の努力をしても、わが身に帰ってくるのは、その何分の一という結果になってしまうのである。
 無量の宝を秘めた無限の鉱脈が御本尊であり、仏力・法力である。それを掘り出す、自分の力が信力・行力である。この仏力・法力と信力・行力の合致することによって、仏法の偉大な功徳が湧現するのである。したがって、正しい仏法は、たんなる他力本願でもなければ、たんなる自力本願でもない。自他の両方を含み、しかも超越した深い哲理であることが理解されよう。
鑰なければ開く事かたし
 どんなにすばらしい宝の積まれた蔵が目の前にあっても、鑰がなければ、これを開いて宝を取り出すことはできない。信心に約していえば、この鑰とは、正しい信心である。ただし、本文で大聖人の示されんとしている点に即していえば、とは法華経である。一代聖教の蔵を開き、その奥蔵に秘められている妙法の無上宝珠を取り出すには、法華経の鑰によらねばならないと申されているのである。
 なおこの文に関連して日寛上人の文段に「山門秘伝見聞」が紹介されているので、ここに掲載しておきたい。
 「伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝え給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚・悦んで天台の造り給える十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其の時伝教大師云く『師、此の一蔵を開き給え』と請い給いしに邃和尚云く『此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し』と云云、其の時伝教大師・日本よりの鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば、経蔵の内より光・空に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなり、ありがたき事なり、其の時・道邃和尚は還って伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云」と。
而るに仏・法華経を説かせ給いて諸経の蔵を開かせ給いき
 爾前権経の蔵を開く鑰は法華経であり、その鑰によって爾前経を開いたとき、なかよりあらわれる〝財〟とは法体の本妙である。
 いいかえれば、法華経を会得した人のみが爾前経の蔵のなかより、自在に宝を取り出し、用いていくことができるのである。法華経を知らずして、爾前経を読んでも、なんの益もないことは、この道理からして明らかであろう。日蓮大聖人は立正安国論をはじめとして御書の各所で、仁王経、薬師経、大集経等の爾前権経を引用しておられるが、それは全て法華経の立ち場よりこれを読まれているのである。それが絶待妙であり、会入の義である。
諸の菩薩の二目ある二乗の眇目なる凡夫の盲目なる闡提の生盲なる
 菩薩は、いわゆる両眼健在であったけれども、法華経以前においては、闇のなかと同じで、「いろかたち」を弁えることができなかった。「二乗の眇目なる」とは、めっかち、やぶにらみということである。二乗とは現代的に約すれば、学者、評論家、芸術家等である。これらの人々は、自分の専門分野に関したことであれば、その道のオーソリティとして一応の見識をもっているであろうが、往々にして、それで全てを知っていると思いがちである。そのため、物事を正しく判断することができないのを「眇目」というのである。まことに適切で、鋭い指摘ではないか。「凡夫の盲目なる」とは、宗教に無智な一般の民衆である。「闡提の生盲なる」とは、正法誹謗の輩である。ここで盲目と生盲の違いは、生盲とは、先天的で、絶対に治らない盲ということと思われる。
 いずれにせよ、法華経迹門が説かれて、ちょうど月が出たような状態になったとき、まず万物の「いろかたち」を見ることができたのは「二目ある」菩薩が最初であった。次に「眇目」の二乗が悟り、さらにおくれて凡夫の目が開いた。最後の一闡提は未来に眼を開くであろうという縁を結ぶことができたのである。
 ここで「法華経の時・迹門の月輪始めて出で」と申されているのは、あくまでも、日輪が出たのは本門であるからである。その前の「爾前の諸経は長夜の闇の如く法華経の本迹二門は日月の如し」というのも、同じく、本門を日、迹門を月とされているのである。
 「人生は一寸先が闇である」とは、古来、ひろくいい習わされてきた言葉であるが、まさに、この爾前の諸経に執着する人、真実の仏法を持たない人の生活は、一寸先が闇であるといわなければならない。動きの激しい現代社会においては、ますます、その感を深くせずにはいられない。一分後に、どんな事故が待ち受けているか、誰人も確信をもっていうことはできない現状ではなかろうか。
 われわれは、大御本尊を受持してはじめて太陽の光にさんさんと照らされた、わが人生街道をはっきりと見きわめ、確信をもって前進することができるのである。
迹門十四品の一妙云云
 妙の一字の具徳を明かすについて、これまで名の義を釈されてきたのであるが、ここで正しく妙の一字の具徳を明かすのである。この段の前半は、本門と迹門の題号について妙の一字の具徳を明かし、後半の「六万九千……」以下は、入文について明かすのである。
 いま、ここで挙げられている一妙、十妙、三十妙、四十妙について、概略、述べることにしたい。
 まず、「迹門十四品の一妙」とは、開権顕実であり、「本門十四品の一妙」とは開迹顕本である。次の「迹門の十妙・本門の十妙」とは、天台が法華玄義に説いているもので、迹門の十妙は境・智・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益の各妙である。これは、方便品の諸法実相によって立てたもので、境妙とは諸法実相、智妙とは諸法実相に冥合する妙智である。行妙とは、この妙智に導かれておこす修行をいい、位妙とは、行によって証する位をいう。三法とは妙位によって立つ心・仏・衆生の三法をいい、感応とは衆生の感と仏の応とをいう。神通妙は仏の功力、説法妙は仏の説法、眷属妙は法を聞いて帰依すること、利益妙は他を益することである。
 この迹の十妙があくまで始成正覚の生命観にとどまっているのに対し、本門寿量品の永遠の生命観を中心に立てたのが、本門の十妙である。すなわち、本因・本果・本国土・本感応・本神通・本説法・本眷属・本利益・本涅槃・本寿命の十妙である。
 本因妙とは久遠の本因の修行をいい、本果妙は久遠の成道妙覚、本国土妙は久遠本地成道の国土をいう。本感応妙は久遠本地第一番の教化の弟子と仏をいう。本神通妙は、久遠本地の仏の神通力、本説法妙は久遠本地本仏の説法、本眷属妙は久遠本地第一番の弟子、本涅槃妙は久遠本仏の寂定の境地、本寿命妙は、久遠の本仏が証得した寿命をいい、しかして本利益妙とは、この久遠の本仏の利益をいうのである。
 なお「迹門の三十妙・本門の三十妙」とは右の各十妙の上に、相待判麤の十妙と、絶待開麤の十妙を加える。「四十妙」の場合は、同じく各十妙の上に、心法の十妙と仏法の十妙、衆生法の十妙を加えるのである。「観心の四十妙」は、観心といっても天台家のそれで、右の四十妙の法に附して、もって己心を観ずるを観心の四十妙という。
 以上のことから、われわれは、南無妙法蓮華経と唱える、その題目の妙の一字に、実にこれほどまでに深い、無量の哲理と力とが全て包含されていることを知らなければならない。それを日寛上人は文段に「故に一返口唱の功徳広大なり」と讃嘆されているのである。
妙とは具の義なり具とは円満の義なり
 「観心本尊抄」に「無量義経に云く『未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す』等云云、法華経に云く『具足の道を聞かんと欲す』等云云、涅槃経に云く『薩とは具足に名く』等云云、竜樹菩薩云く『薩とは六なり』等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く『沙とは訳して六と云う胡法には六を以て具足の義と為すなり』吉蔵疏に云く『沙とは翻じて具足と為す』天台大師云く『薩とは梵語なり此には妙と翻ず』等云云、私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-11)と。
 右の観心本尊抄の御文にいっさいは尽くされているといっても過言ではない。妙の一字すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経はいっさいの功徳善根を円満に具足しているがゆえに、仏道修行はこの御本尊を受持することに尽きてしまうのである。
 おそれおおい譬えであるが、機械は高度化すればするほど、操作は単純化するように、宗教もまた、高度であればあるほど、修行は単純となるのである。
 ただ朝晩の勤行と題目、そして各々の力に応じて隋力弘通していくことでいっさいが具足される単純明快な日蓮大聖人の教えこそ、最も二十世紀の現代に叶った、しかも世界的普遍性を有する真の大宗教なりと声を大にして世に訴え通していこうではないか。
如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し
 この如意宝珠の譬えに関連して、日寛上人は「既に妙法の宝珠を持つ故に内外に就いて用心あれ」と、二つの難に気をつけよと戒められている。
 その一の難は焼亡、すなわち不信謗法の火であり、もう一つは盗難、すなわち、悪鬼魔王の障碍である。
 まことにその通りであり、この御本尊を受持した者は、自己自身の内より起こる不信と、諸宗の輩による障碍とに心して警戒し、生涯この 御本尊を護持しきっていくことが肝要である。
 もし、不信謗法の炎に焼失し、あるいは謗法の悪鬼にすかされて御本尊をはなしたときには、「九仭の功を一簣に虧き」、「千年のかるかやも一時にはひとなる」の御金言のごとく、これまで積んだ福運も一瞬に水泡に帰することを覚悟すべきであろう。

0944:09~0944:14 第八章 変毒為薬の原理top

09    譬えば秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉・華菓・出来するが如し、爾前の秋冬の草木の如くなる九界
10 の衆生・法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて 菩提心の華さき成仏往生の菓なる、 竜樹菩薩の大論
11 に云く 「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」云云、 此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文なり、
12 妙楽大師の釈に云く 「治し難きを能く治す所以に妙と称す」等云云、 総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり
13 第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・ 第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏
14 になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり。
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 さらに譬えていえば、秋冬のあいだ枯れていた草木が春夏になって太陽のあたたかい光を浴びて枝葉や花や実が出てくるようなものである。爾前四十余年のあいだは秋冬の草木のようであった九界の衆生が、法華経の妙の一字という春夏の太陽にあって、菩提心の花が咲いて成仏往生の実がなるのである。このことを竜樹菩薩の大智度論第百には「譬えば大薬師がじょうずに毒を用いて薬とするようなものである」と述べている。この文は、大智度論で法華経の妙の功徳を解釈した文なのである。妙楽大師は弘決に解釈して「爾前経で治し難い衆生をよく治して成仏させる、この理由によって法華経を妙というのである」と述べている。総じて成仏往生のでき難い者に四種類の人がいる。第一は決定性の二乗であり、第二は法華誹謗の一闡提の人であり、第三は外道の空心の者であり、第四は謗法の者である。これらの人々すら法華経においては成仏させたのである。この故に法華経を妙というのである。

菩提心の華さき成仏往生の菓なる
 菩提心は菩提を求め成仏を志す心。草木の花を仏道修行、果実を成仏にたとえ、因果を説いている。衆生は法華経に至って成仏するのである。
―――
竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
決定性の二乗
 決定種性のこと。爾前経で声聞・縁覚の二乗は六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして「決定性」とよんだ。法相宗ではとくにこれを強調し、法華経とは爾前と逆に、一乗方便・三乗真実と立てる。
―――
空心の者
 空理を観じ、空見に執着する外道の者。爾前の諸教においては不定仏と説かれた。日蓮大聖人は空心の者も法華経により成仏できると説かれている。
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 本章から第11章までは、妙用の具徳を難治・能治に約して明かされる段である。本章はそのうち総じて明かす段である。妙の功徳を草木の蘇生に譬え、薬師の病を治するに譬えて説かれている。しかして秋冬の枯れた草木、治しがたき病人にあたるのが「成仏往生のなりがたき者」すなわち第一に「決定性の二乗」、第二に「一闡提人」、第三に「空心の者」、第四に「謗法の者」である。これらの人々をさえも成仏せしめるのが法華経の力であり、故に妙と称するのである。
 「決定性の二乗」とは、語訳にあるように、法相宗の教義から出たもので、小乗の法に執着し、決定して二乗になる人々のことである。現代でいえば、自己の学問、芸術の完成のみを至上とし、人の不幸には心も動かさず、ときには、人の生命すらその目的のためには犠牲にするのもやむを得ないとするような人々である。
 「一闡提人」とは不信の人である。涅槃経には「一闡を信と名づけ、提を不具と名づく、信を具せざる故に一闡提と名づく」とある。次に第三の「空心の者」とは、空理を観じ空見に執する者と釈し、仏法の因果の理法を信じない者である。第四の「謗法の者」とは、正法を誹謗する者である。有名な法華経譬喩品の「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん(中略)其の人は命終して阿鼻獄に入らん」の「若し人は信ぜずして」とは一闡提であり、「此の経を毀謗せば」は謗法である。
 以上のうち、仏法上、最も罪が重いのは、一闡提、謗法であるが、それをも救うのが妙法の功力なのである。
 「法華取要抄」(0335-06)にいわく「涅槃経に云く『譬えば七子の如し父母平等ならざるに非ざれども然も病者に於て心則ち偏に重し』等云云、七子の中の第一第二は一闡提謗法の衆生なり諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり、諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり」と。
 いわんや「決定性の二乗」、「空心の者」は、大御本尊の大慈悲の前には、まだまだ軽い罪である。ただし、この大慈悲をわが身に受けるか否かは、おのおのの信心の厚薄によることは勿論である。

0944:15~0945:13 第九章 悪人提婆の成仏を挙げるtop

15   提婆達多は斛飯王の第一の太子.浄飯王にはをひ・阿難尊者がこのかみ.教主釈尊にはいとこに当る・南閻浮提に
16 かろからざる・人なり、 須陀比丘を師として出家し阿難尊者に十八変をならひ外道の六万蔵・仏の八万蔵を胸にう
17 かべ五法を行じて殆ど仏よりも尊きけしきなり、 両頭を立てて破僧罪を犯さんために 象頭山に戒壇を築き仏弟子
18 を招き取り、阿闍世太子をかたらいて云く 我は仏を殺して新仏となるべし太子は父の王を殺して新王となり給へ、
0945
01 阿闍世太子・ すでに父の王を殺せしかば提婆達多は又仏をうかがい 大石をもちて仏の御身より血をいだし阿羅漢
02 たる華色比丘尼を打ちころし 五逆の内たる三逆をつぶさにつくる、 其の上瞿伽梨尊者を弟子とし阿闍世王を檀那
03 とたのみ五天竺・十六の大国・五百の中国等の一逆・二逆・三逆等をつくれる者は皆提婆が一類にあらざる事これな
04 し、譬えば大海の諸河をあつめ大山の草木をあつめたるがごとし、 智慧の者は舎利弗にあつまり・神通の者は目連
05 にしたがひ・悪人は提婆に・かたらいしなり、されば厚さ十六万八千由旬・其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれ
06 て生身に無間大城に堕ちにき、 第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る旃遮婆羅門女も・おちにき・波瑠璃王もを
07 ちぬ善星比丘もおちぬ、又此等の人人の生身に堕ちしをば五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国の人人も皆
08 これをみる、六欲.四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき、三千大千世界.十方法
09 界の衆生も皆聞きしなり、 されば大地・微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず、 劫石はひすらぐとも阿鼻大
10 城の苦は・つきじとこそ思い合いたりしに、 法華経の提婆品にして教主釈尊の昔の師・天王如来と記し給う事こそ
11 不思議にをぼゆれ、爾前の経経・実ならば法華経は大妄語・法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり、 提婆が三
12 逆を具に犯して 其の外無量の重罪を作りし天王如来となる、 況や二逆・一逆等の諸の悪人の得道疑いなき事譬え
13 ば大地をかへすに草木等のかへるがごとく堅石をわる者・ナン草をわるが如し、故に此の経をば妙と云ふ。
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 提婆達多は斛飯王の第一の太子で、浄飯王には甥に、阿難には兄で、釈迦には従弟にあたり、南閻浮提においては決して軽い身分ではない人である。須陀比丘を師匠として出家し、阿難尊者から十八変の神術を習い、外道の六万蔵、仏の説く八万法蔵を胸にうかべ、五法の修行を行じて、ほとんど仏よりも尊いかにみえたのである。ところが仏と相対立して破僧罪を犯すことを企んで象頭山に戒壇を築き、仏弟子を招き味方にひき入れ、阿闍世太子をかたらっていうには「自分は釈迦を殺して新仏となろう。太子は父の頻婆舎羅王を殺して新王となり給え」と。その後阿闍世太子は父の王を殺したので、提婆達多もまた釈迦を殺そうとつけねらい、あるとき大石をもって釈迦の身体から血を出させた。また阿羅漢である華色比丘尼を打ち殺し、五逆罪のうちの三逆罪を犯したのである。そのうえ瞿伽梨を弟子とし、阿闍世王を檀那とたのんで勢を張ったので、五天竺、十六の大国、五百の中国等の一逆、二逆、三逆等を作った者はことごとく提婆達多の眷属でない者はなかった。そのありさまは、譬えば大海が諸河の水をあつめ、大山が草木をあつめたようなものであった。智慧ある者は智慧第一の舎利弗の下にあつまり、神通力を会得した者は神通第一の目連に従い、悪人は提婆達多の下にかたらうこととなったのである。その結果、厚さ十六万八千由旬もあり、その下には、最も堅い金剛の風輪さえある堅固な大地が裂けて、提婆は生きながら無間大城に堕ちてしまった。第一の弟子瞿伽梨もまた生身のまま地獄に入り、旃遮婆羅門女も地獄へ堕ち、波瑠璃王も善星比丘も堕ちたのである。一方これらの人々が生身のまま地獄に堕ちたのを五天竺、十六の大国、五百の中国、十千の小国の人々も皆これを見た。六欲天の者も、四禅天の者も、色界の者も、無色界の者も、梵王、帝釈、第六天の魔王も閻魔法王も皆これを御覧になったのである。三千大千世界の衆生も十方法界の衆生も皆この事件のことを聞いたのである。したがって、あらゆる人々が「これほどの逆罪を犯した提婆とその一類は、大地微塵劫という長い期間が過ぎても無間大城を出ることができるはずがない、天女の羽衣で磨り削って劫石が削られて薄くなるくらい長い期間が過ぎても阿鼻大城の苦しみは尽きるまい」と思い合っていたところが、法華経の提婆品において「提婆達多は釈尊の昔の師匠・阿私仙人で、未来には成仏して天王如来となるであろう」と授記された事こそ全く不思議なことであった。これを考えてみると、爾前の経々が真実であるなら法華経は大妄語の経であり、法華経が真実であるならば爾前の諸経は大虚誑罪にあたる。しかし法華の方が真実なのである。提婆達多がつぶさに三逆罪を犯し、そのほかに無量の重罪を作りながらも、天王如来となったのである。まして二逆や、一逆罪を犯した諸の悪人の成仏得道が疑いないことは、譬えていえば、大地を覆せば、その上の草木等も覆るように、また堅い石を割ることのできる力もちが輭かい草を破ることなど当然できるのと同じである。故にいっさいの悪人を成仏させるこの法華経の力用を妙というのである。

斛飯王
 浄飯王の弟で、釈尊には叔父にあたる。したがって、提婆達多・阿難の兄弟たちは釈尊の従弟になるわけである。
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
阿難尊者
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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南閻浮提
 須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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須陀比丘
 増一阿含経に出てくる。提婆達多の神通の師。
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外道の六万蔵
 インドのバラモン経典のすべて。
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仏の八万蔵
 仏教の典籍のこと。八万は数ではなく、多数・すべての典籍を意味する。
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五法
 弘決の婆沙説によれば、①糞掃衣(人の捨てた汚れた衣を洗って作り直して着る)。②常乞食(常に托鉢をする)。③一坐食(一日に一度しか食事をとらない)。④常露座(常に樹下石上に坐って、室宅で坐らない)。⑤塩および五味を受けず(塩および酸・苦・甘・辛・鹹の五味をとらない)。以上の五法を提婆は行じて、釈尊より優れていると見せ、人々の心をひきつけようとした。
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両頭を立てて破僧罪を犯さんために
 両頭とは、提婆が釈尊と対抗して教主になろう、サンガの首領となろうと野望をいだいて、釈尊への対抗勢力をつくろうとした意。破僧罪とは提婆が中心になって、釈尊から弟子を奪って、和合僧団を破ったこと。
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象頭山
 伽耶山のこと。伽耶城の西南にある山で、頂上の形が象の頭に似ているのでこの名がついた。提婆達多はこの象頭山に住し、釈尊に対抗するために戒壇をつくった。またある説によると、釈尊一行がこの山の麓にさしかかったときに大石を落とし、釈尊の小指より血を出したといわれる。
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戒壇
 受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。
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阿闍世太子
 阿闍世は梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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仏の御身より血をいだし
 提婆達多は釈尊を殺害するために耆闍崛山の上から大石を投下したが果たすことができなかった。「血を出だせし」とあるのは、その際、釈尊の足指から血が出たことをいう。
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華色比丘尼
 蓮華比丘尼ともいう。一説によると、はじめ淫女であったが、目連の化導により釈尊の弟子となり、ついに阿羅漢果を得た。提婆達多の謗法を大いに呵責したために、怒った提婆により拳で打ち殺された。
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五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国
 インドを構成している国のことで、東・西・南・北・中天竺を中心に、さらに細分化されていた。大国とは土地が広く人口の多い国。大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000~10,000人の国を中国、700~3,000人の国を小国という。
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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神通
 凡夫には計り知ることができない超人的な能力。
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目連
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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金剛の風輪
 無間大城
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旃遮婆羅門女
 略して旃遮女という。腹の中に鉢を入れて釈尊の子をみごもったといい、釈尊を誹謗した業因によって、無間地獄に堕ちた。
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波瑠璃王
 梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国(舎衛国。現在のウッタルプラデーシュ州北東部)の王。大唐西域記巻六等には「父王波斯匿が位についたとき、釈迦族の種姓が尊高なので、カピラバストゥ(迦毘羅衛城)に妃を求めた。舎衛国は大国であり、波斯匿王が暴悪なので、この要求に応じないわけにはいかず、釈迦族の美しい婢の娘を選んで結婚させた。波瑠璃がある日、迦毘羅衛城に行ったとき、釈尊を迎えるために造り、だれにも踏ませなかった大講堂にふみこんだので、釈迦族の人々は怒って、卑賤の婢が波瑠璃を生んだ事実を話して辱(はず)かしめた。波瑠璃は、即位後は必ず釈迦族を滅ぼすといい、後に父王を放逐し、国王となり、ただちに釈迦族を全滅させた」とある。しかし、その後七日目に、釈尊の予言どおりに焼死して地獄へ堕ちた。
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十千の小国
 インドを構成している国のことで、東・西・南・北・中天竺を中心に、さらに細分化されていた。一説には人口700~3,000人の国を小国という。
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六欲
 欲界には六重の天がある。すなわち四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天で、このうち四王天は須弥山の中腹にあり、忉利天は須弥山山頂にあるという。これを地居天また三十三天と名づけ、兜率天以上は空中にあるので、空居天と名づける。なお、欲界とは、下は地獄界から上は天上界の六欲天までのすべてを含み、食欲、性欲などの欲望の世界である。
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四禅
 四禅定のこと。欲界を離れて色界の四禅天に生ずる初禅・二禅・三禅・四禅の四種類の禅定のこと。
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 色界のこと。欲界の外の浄名の世界とされ、物質だけが存在する天上界の一部をいう。これに十八天がある。
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無色
 無色界のこと。仏質のない精神の世界で、最上の天上界をさす。色界は六欲天より高く、無色界は色界よりさらに高いところにあるとされる。
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梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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閻魔法王
 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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劫石
 劫の長さを決める石のこと。天人が天衣をもって磨減らす大石のこと。石が衣によって磨滅し尽くしたときを一劫といい、無限の時間を表わしている。
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提婆品
 妙法蓮華経提婆達多品第12のこと。法師品と見宝塔品が功徳の深重をあげて流通を勧めたのに対し、かつての提婆の弘教と、釈尊の成道の両方を兼ね益した前例を引いて、功徳の深重を証し、流通を勧めるのである。まず前段に国王と阿私仙人の昔話をあげ、釈尊が「果を採り、水を汲み薪を拾い食を設けて」千年間給仕するところの苦行のありさまを説いている。その阿私仙人とは提婆達多のことであり、この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから五逆を作り、現身で地獄に堕ちたが、妙法の効力によって、天王如来の記別を受けたのである。迹門正宗八品では声聞の作仏の得記を明かし、流通分にはいって法師品では善人成仏を明かしたのに対して、この提婆品では悪人と女人の成仏を説き、宝塔品では釈迦・多宝の二仏並座は、一切衆生の色心が本有の境智を顕わしているので、すなわち、理性の即身成仏を説いたのであるが、この品では地獄の提婆達多と、海中から出た畜生である竜女の成仏をといたのであるから、事相の即身成仏が説かれたのである。
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悪人成仏
 この章は、提婆達多の成仏をとおして、別して悪人成仏を明かし、もって治し難きものまでよく治する偉大な妙法の力用の徳を示しているところである。提婆達多の成仏は善悪不二、邪正不二、邪正一如の原理を示している。釈尊を宿世の敵とまで憎み、あらゆる陰謀をめぐらし、死に追いやること幾度という大逆罪の衆生であった。この提婆達多が法華経にて、天王如来の記別を受けたのである。しかも法華経提婆達多品に説くところによれば、提婆は無量劫の昔、阿私仙人という仙人であって法華経をもっていたとある。そのとき、釈尊の因位の修行の姿は壇王という国王であって、この阿私仙人を師匠として千歳の間、仕えきったのである。
 実に不思議なことではないか。いままで、五逆罪と謗法の者は、永久に無間地獄の焔にむせび、絶対に救われないものとされていた。提婆達多は、五逆罪どころか、生涯かけて釈尊を徹底的に迫害し、謗法の限りを尽くしたのである。当時のサンガを拠点として活動していた新興宗教界の実情を研究してみると、既成の婆羅門教に反対する革新思想家群が興隆していたが、これがいわゆる六師外道である。提婆はそのなかで徹底して教条主義者で、それなりに確信をもっていたと考えられる。そのために釈尊を異端と見なして、仏を弾圧することを正しい行為と誤り、かつ頑固に信じこんでいたものと思われる。
 その提婆達多が過去に阿私仙人という法華経の行者であったということ、かつ成仏の記別を与えられたということは、霊山会に参集した大衆にとっては青天の霹靂であったろう。過去に阿私仙人という法華経の行者であったのが、なぜ提婆達多の姿をとり、無間地獄に堕ちたかは、一つには業因業果の理を衆生に示さんがためであり、二つには、釈尊の大善を、いよいよ盛んならしめようとしたためである。これだけの事をなし遂げ得る者は、過去の師であり、かつ大きな生命力をもった法身の大士である提婆以外にはなかった訳である。
 第一の業因業果の理については、第二代戸田会長が次のように述べている。
 「再往この問題を考える時には、釈尊にしても大聖人にしても、およそ仏法を説かれるにあたっては、前世の業因が今世の業果と現われることを確信しているのである。また、それは生命の哲理なのである。現代の人々は過去に生き、現在も生き、未来もまた生命活動をなすのであるということを、なかなか信ずる者が少ない。しかし、われわれは皆、過去世の業因をもって現世に生まれてきているのである。されば阿私仙人が提婆達多と生まれてきて、釈尊の仏法を助け、業因業果を衆生に示したことは当然のことである。過去の師匠が今世の弟子となって現われたのである」と。
 釈尊と提婆達多の関係は、今世だけでなく過去遠々劫よりの関係である。あるときは師匠となり、またあるときは悪人の姿をとって説法を助ける等、未来永劫にわたって連続しゆくものであることが明かされている。
 第二に、釈尊の大善をいよいよ盛んならしめるためには、およそ悪がなければ、善をあらわすことはできない。ゆえに爾前経では「悪がなければ以って賢善を顕わすことができない。このゆえに提婆達多は無数劫以来、つねに釈尊とともにあって、釈尊は仏道を行じ、提婆は非道を行じてきた。しこうして、互いに啓発してきたものである」と。しかるに、対悪顕善が終われば、悪の全体は即これ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順となるのである。この原理は爾前教には説かれなかった奥底の義である。
 なお日寛上人の文段によれば「今日の提婆今に阿鼻大城に在らざらんや―これ展転無数劫の規則を示すなり―『法華経にて召し還して天王如来と記せらる』云云と、豈・相違に非ずや。 答う、今文は外用に約する故に『今に在り』と云うなり、彼の文は内証に約する故に『召し還して』と云うなり、是れ則ち調達は実にはこれ法身の大士なり。故に内証に約すれば任運自在にして往還無碍なり云云」とある。
 法華経で提婆達多が天王如来なりと説かれたことは、法華経の偉大さ、深さを示すものである。
 七重の具縛によって絶対に脱出することのできない無間大城といえども、妙法の大力用によれば出られるのである。極悪の末法の衆生が立派に人間革命できるのは、ひとえにこの原理によるのである。その妙法の所詮の法体が御本尊なのである。
 「呵責謗法滅罪抄」にいわく、
 「提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ臨終悪くして大地破れて無間地獄に行きしかども法華経にて召し還して天王如来と記せらる」(1131-16)と。
地獄界所具の仏界
 提婆達多の成仏を生命論からみれば、地獄界所具の仏界をあらわしているのである。
 「観心本尊抄」にいわく「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」(0240-08)と。地獄界に仏界を具するならば、十界を具することが明らかであり、悪人提婆の成仏は十界互具の哲理を理解させるために事実の上から説き明かした文証の一つである。
 提婆達多は三逆罪を犯し、大地がわれて地獄に堕ちたとされているが、これはあくまでも境涯論であって、地獄というも人間生命の一実相を説いているのである。地獄の地とは最低という義であり、獄とは拘束された不自由な境涯を意味する。併せて十界の最低であり、極苦不自由の境涯を地獄というのである。「顕謗法抄」等にも八大地獄の凄じい様相が説かれているが、それは、何もこの現実世界から離れた別世界にあることではない。われわれの日常生活で、病気、貧困、家庭の不和、子供の不良化等に苦しみ悩むすがたが、そのまま地獄ではないか。そして懊悩にさいなまされているときは、気力も失せ、下へ下へと引っぱられていく感じがするものである。
 また、地獄の寿命についても、非常に長い時間論が説かれているが、これも苦しんで悩んでいるときには、時間の経つのが遅く長く感じられることと通ずるのである。このように、主体である人間が地獄の境涯になったとき、依正不二の原理で、その環境もまたその人にとっては地獄となる。苦悩のどん底にある人にとっては、他の人には楽しかるべきものであったとしても、苦痛を増すものでしかない。
 この地獄界の生命は誰人といえども備えているのである。ここで妙法を信じない者は、地獄界に覆われた不幸な生活を解決する術を知らないで、六道輪廻の人生を歩んでいく。ところが、地獄界に覆われた生命といえども、一念三千の当体なるが故に、本来、尊厳極まりなき仏界の生命をも備えているのである。
 「御義口伝」にいわく「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」(0753-第四如来如実知見三界之相無有生死の事-01)と。「如来」とは、最も清浄な、力強い、何ものにも左右されない金剛不壊の仏の生命である。

0945:14~0947:02 第十章 女人成仏を明かすtop

14   女人をば内外典に是をそしり三皇五帝の三墳五典に諂曲の者と定む、 されば災は三女より起ると云へり国の亡
15 び人の損ずる源は女人を本とす、 内典の中には初成道の大法たる華厳経には 「女人は地獄の使なり能く仏の種子
16 を断つ 外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云い、 雙林最後の大涅槃経には「一切の江河必ず回曲有り一切の
17 女人必ず諂曲有り」と、 又云く「所有三千界の男子の諸の煩悩・合集して一人の女人の業障と為る」等云云、大華
18 厳経の文に「能く仏の種子を断つ」と説かれて候は 女人は仏になるべき種子をいれり、譬えば大旱魃の時・虚空の
0946
01 中に大雲をこり大雨を大地に下すに・かれたるが如くなる無量無辺の草木・花さき菓なる、 然りと雖もいれる種は
02 をひずして結句・雨しげければ・くちうするが如し、仏は大雲の如く・説教は大雨の如く・かれたるが如くなる草木
03 を一切衆生に譬えたり、 仏教の雨に潤い五戒十善禅定等の功徳を修するは 花さき菓なるが如し、雨・ふれどもい
04 りたる種のをひずかへりて・ くちうするは女人の仏教にあひて生死を・はなれずして・かへりて仏法を失ひ悪道に
05 堕つるに譬ふべし、 是を「能く仏の種子を断つ」とは申すなり、 涅槃経の文に一切の江河のまがれるが如く女人
06 も又まがれりと説かれたるは、 水はやわらかなる物なれば石山なんどの・こわき物にさへられて水のさき・ひるむ
07 ゆへに・あれへ・これへ行くなり、 女人も亦是くの如く女人の心をば水に譬えたり、心よわくして水の如くなり、
08 道理と思う事も男のこわき心に値いぬればせかれて・よしなき方へをもむく、 又水にゑがくに・とどまらざるが如
09 し、女人は不信を体とするゆへに 只今さあるべしと見る事も又しばらくあれば・あらぬさまになるなり、 仏と申
10 すは正直を本とす故に・ まがれる女人は仏になるべからず 五障三従と申して五つのさはり三つしたがふ事あり、
11 されば銀色女経には 「三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず」と説かれ大論には「清風は・と
12 ると云えども女人の心はとりがたし」と云へり。
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 女人は仏教でも外道の典籍においても嫌われ謗られている。中国の三皇五帝の徳行を記した三墳五典には「女人は諂曲の者」と定めている。故に古くから災いは三女より起こるといわれ、国が滅び人が亡びる源は女人に根本があるといっている。仏教のなかでは釈迦初成道の大法である華厳経には「女人は地獄の使いであり、よく仏になる種子を断つ。外面は菩薩に似ているが、内心は夜叉のようなものである」といい、雙林最後の大般涅槃経には「いっさいの江河は必ず曲がっている、同様に、いっさいの女人もまた必ず諂曲を懐いている」と説いている。また涅槃経には「あらゆる三千大千世界の男子の諸の煩悩が合集して、一人の女人の業障となっている」と述べている。大華厳経の文に「よく仏になる種子を断つ」と説かれているのは、女人は仏になるべき種子を焦ってしまったという意味である。譬えば大旱颰のときに空中に大雲ができて大雨を大地に降らすと、枯れたようになっていた無量無辺の草木が蘇り、花が咲き実がなる。しかしながら焦れる種は芽を出さないのみか、結局雨が繁くふれば、腐って無くなってしまうようなものである。この譬えでは、仏は大雲にあたり、説教は大雨、枯れていたような草木は一切衆生に譬えたのである。衆生が、仏教の雨に潤い、五戒、十善戒、禅定などの功徳を修める姿は花が咲き実がなるようなものである。ところがせっかくの慈雨が降っても焦った種子からは芽が出ないばかりかかえって朽ちうせるのは、女人が仏教に巡りあえても生死の果縛を離れず、逆に仏法を失い、悪道に堕ちていくことを譬えたのである。これを「よく仏になる種子を断つ」というのである。涅槃経の文に「いっさいの江河が曲がっているように女人の心もまた曲がっている」と説かれているのは、水はやわらかいものであるから、石や山などの堅い物に遮られて水のさきがひるむために、向こうへこちらへと曲がりくねって流れて行く。女人もまたこれと同じで、女人の心を水に譬えたのである。すなわち、心が弱くて水のようである。これが正しいと思ったことも男の強い心にあってしまうと、塞き止められて、自分の思ってもいない方向へと趣くのである。また水の上になにかを描いても、それが残り止まらないようなものである。女人は不信をもって心の本体とする故に、現在は、こうだと考えていることも、また、しばらくたつと全然ちがった状態に変わってしまうのである。仏は正直をその本体とする故に、曲がる心を持つ女人は仏になることができない。また女人には五障三従といって五つの障りと従わねばならぬ三つのことがある。それ故、銀色女経には「三世の諸仏の眼が大地に落ちるというあり得ないことが起ころうとも女人は絶対に仏になることはない」と説かれ、大智度論には「たとえ、吹いている風を捉えることができても女人の心は捉えがたい」といっている。このように諸経に嫌われた女人であるが、文殊師利菩薩が妙法蓮華経の妙の一字を説きたところ八歳の竜女は忽に仏になったのである。あまりに不審である故に宝浄世界に住する多宝仏の第一の弟子智積菩薩と釈迦十大弟子のうちの智慧第一の舎利弗尊者が、四十余年の大小乗経の経文の意をもって竜女が成仏するはずがないと論難したけれども、ついに疑難は叶わず仏になったのである。この事実によって、初成道の時の教えである華厳経の「よく仏になる種子を断つ」雙林最後の涅槃経の「いっさいの江河には必ず回曲が有り、女人の心も同じである」の経文は破れてしまった。銀色女経ならびに大智度論の女人不成仏の亀鏡もことごとく空文となってしまった。智積菩薩と舎利弗は舌を巻いて口を閉じ、霊鷲山に集まった人界、天界の衆生は歓喜のあまり合掌して拝んだ。これ偏に妙法蓮華経の妙の一字の偉大な徳用によるのである。この南閻浮提のなかには二千五百の河があり、一つ一つ、皆ことごとく曲がっている。ちょうど南閻浮提に住む女人の心が曲がっているようなものである。但し娑婆耶という河があり、この河だけは縄を引いて延ばしたようにまっすぐに西海に流れ込んでいる。法華経を信ずる女人だけはこの河と同じようにまっすぐに西方浄土・すなわち成仏の境涯に入ることができる。これこそ偏に妙法蓮華経の妙の一字の徳用によるのである。 女人は仏教でも外道の典籍においても嫌われ謗られている。中国の三皇五帝の徳行を記した三墳五典には「女人は諂曲の者」と定めている。故に古くから災いは三女より起こるといわれ、国が滅び人が亡びる源は女人に根本があるといっている。仏教のなかでは釈迦初成道の大法である華厳経には「女人は地獄の使いであり、よく仏になる種子を断つ。外面は菩薩に似ているが、内心は夜叉のようなものである」といい、雙林最後の大般涅槃経には「いっさいの江河は必ず曲がっている、同様に、いっさいの女人もまた必ず諂曲を懐いている」と説いている。また涅槃経には「あらゆる三千大千世界の男子の諸の煩悩が合集して、一人の女人の業障となっている」と述べている。大華厳経の文に「よく仏になる種子を断つ」と説かれているのは、女人は仏になるべき種子を焦ってしまったという意味である。譬えば大旱颰のときに空中に大雲ができて大雨を大地に降らすと、枯れたようになっていた無量無辺の草木が蘇り、花が咲き実がなる。しかしながら焦れる種は芽を出さないのみか、結局雨が繁くふれば、腐って無くなってしまうようなものである。この譬えでは、仏は大雲にあたり、説教は大雨、枯れていたような草木は一切衆生に譬えたのである。衆生が、仏教の雨に潤い、五戒、十善戒、禅定などの功徳を修める姿は花が咲き実がなるようなものである。ところがせっかくの慈雨が降っても焦った種子からは芽が出ないばかりかかえって朽ちうせるのは、女人が仏教に巡りあえても生死の果縛を離れず、逆に仏法を失い、悪道に堕ちていくことを譬えたのである。これを「よく仏になる種子を断つ」というのである。涅槃経の文に「いっさいの江河が曲がっているように女人の心もまた曲がっている」と説かれているのは、水はやわらかいものであるから、石や山などの堅い物に遮られて水のさきがひるむために、向こうへこちらへと曲がりくねって流れて行く。女人もまたこれと同じで、女人の心を水に譬えたのである。すなわち、心が弱くて水のようである。これが正しいと思ったことも男の強い心にあってしまうと、塞き止められて、自分の思ってもいない方向へと趣くのである。また水の上になにかを描いても、それが残り止まらないようなものである。女人は不信をもって心の本体とする故に、現在は、こうだと考えていることも、また、しばらくたつと全然ちがった状態に変わってしまうのである。仏は正直をその本体とする故に、曲がる心を持つ女人は仏になることができない。また女人には五障三従といって五つの障りと従わねばならぬ三つのことがある。それ故、銀色女経には「三世の諸仏の眼が大地に落ちるというあり得ないことが起ころうとも女人は絶対に仏になることはない」と説かれ、大智度論には「たとえ、吹いている風を捉えることができても女人の心は捉えがたい」といっている。
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13   此くの如く諸経に嫌はれたりし女人を文殊師利菩薩の妙の一字を説き給いしかば忽に仏になりき、 あまりに不
14 審なりし故に宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩、 釈迦如来の御弟子の智慧第一の舎利弗尊者、 四十余年の
15 大小乗経の経文をもつて竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども 終に叶はず仏になりにき、 初成道の「能く仏の
16 種子を断つ」 雙林最後の「一切の江河必ず回曲有り」の文も破れぬ、 銀色女経・並に大論の亀鏡も空しくなりぬ
17 智積・舎利弗は舌を巻きて口を閉ぢ 人天大会は歓喜せしあまりに掌を合せたりき、 是れ偏に妙の一字の徳なり、
18 此の南閻浮提の内に二千五百の河あり一一に皆まがれり、 南閻浮提の女人の心のまがれるが如し、 但し娑婆耶と
0947
01 申す河あり 縄を引きはえたるが如くして直に西海に入る、 法華経を信ずる女人亦復是くの如く直に西方浄土へ入
02 るべし是れ妙の一字の徳なり、
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 このように諸経に嫌われた女人であるが、文殊師利菩薩が妙法蓮華経の妙の一字を説きたところ八歳の竜女は忽に仏になったのである。あまりに不審である故に宝浄世界に住する多宝仏の第一の弟子智積菩薩と釈迦十大弟子のうちの智慧第一の舎利弗尊者が、四十余年の大小乗経の経文の意をもって竜女が成仏するはずがないと論難したけれども、ついに疑難は叶わず仏になったのである。この事実によって、初成道の時の教えである華厳経の「よく仏になる種子を断つ」雙林最後の涅槃経の「いっさいの江河には必ず回曲が有り、女人の心も同じである」の経文は破れてしまった。銀色女経ならびに大智度論の女人不成仏の亀鏡もことごとく空文となってしまった。智積菩薩と舎利弗は舌を巻いて口を閉じ、霊鷲山に集まった人界、天界の衆生は歓喜のあまり合掌して拝んだ。これ偏に妙法蓮華経の妙の一字の偉大な徳用によるのである。この南閻浮提のなかには二千五百の河があり、一つ一つ、皆ことごとく曲がっている。ちょうど南閻浮提に住む女人の心が曲がっているようなものである。但し娑婆耶という河があり、この河だけは縄を引いて延ばしたようにまっすぐに西海に流れ込んでいる。法華経を信ずる女人だけはこの河と同じようにまっすぐに西方浄土・すなわち成仏の境涯に入ることができる。これこそ偏に妙法蓮華経の妙の一字の徳用によるのである。

内外典
 内道と外道にわたる典籍や伝承。
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三皇五帝
 中国古代の伝説上の天子。「三皇」①伏羲・神農・黄帝②燧人・伏羲・神農③天皇・地皇・人皇(所説あり)「五帝」①少昊・顓頊・帝嚳・尭・舜②黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜(他説あり)。これらの人々によって、中国における人倫の道が確立され、理想郷が実現したとされている。
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三墳五典
 三皇・五帝が著わしたとされる書。尚書の序に「三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典という」とある。三墳の墳とは〝大道〟を意味し、五典の典とは〝常道〟を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。
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諂曲
 自分の意志を曲げて、相手に媚びへつらうこと。
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三女
 中国の伝説中の三女で、夏の妹喜、殷の姐己、周の褒姒をいう。それぞれ国を滅亡させた女性である。妹喜は夏の傑王を、姐己は殷の紂王を、褒姒は周の幽王を溺れさせ、国を滅亡させてしまった。
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初成道
 インド生誕の釈尊が、菩提樹下で初めて悟りを成じたこと。
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夜叉
 梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
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雙林最後の大涅槃経
 雙林とは拘尸那城跋堤河のほとりの沙羅雙樹の木のこと。沙羅とは梵語で樹名、釈迦は一木二双四方八株の沙羅雙樹に四方を囲まれた中において八十歳の年の二月十五日に入滅した。そのとき沙羅雙樹がことごとく白くなり、あたかも白鶴のように美しかったという。それで沙羅林を鶴林ともいう。釈迦の入涅槃の時と処を象徴して、雙林最後といい、そのときの説法である涅槃経を雙林最後の涅槃経というのである。涅槃経は法華経の流通分にあたる。
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煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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業障
 三障のひとつ。悪業によって生じた障害。
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仏の種子
 成仏の種子。衆生の仏性をいう。衆生の成仏の因種を草木の種子にたとえたもの。
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五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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十善
 十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
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禅定
 心を一処に定めて散乱させず、煩悩を断って深く思惟する境地に入ること。戒・定・慧の三学のひとつ。また六波羅蜜の一つ。禅定を得るために結跏趺坐することが最も安定した坐法として用いられている。
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五障三従
 五障とは女人の五つの障害をいう。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二の竜女成仏の段に、舎利弗が女人は法器に非ず等と歎じ、更に女人の五障を数えて成仏を難ずる文に「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何んぞ女身は速かに成仏することを得ん」とある。三従とは五障と並べて女人の劣機を示すのに使われる。三従とは、女人が一生涯において三つの服従すべきことをいう。「少くしては父母に従ひ、盛にしては夫に従ひ、老いては子に従ふ」(0742-06)と。仏教典、儒教典に通じ説かれている。
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銀色女経
 詳しくは仏説銀色女経という。元魏の仏陀扇多の訳。釈尊が過去世に銀色女として乳を施した功徳で変成男子して銀色王となり、命終えてのち、わが身を鳥獣や飢えた虎に施したことをもって不施の功徳と果報を説いた。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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宝浄世界
 多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
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智積菩薩
 多宝如来に従って法華経の会座にきている。「時に下方の、多宝世尊の所従の菩薩、名を智積と曰う。多宝仏に啓さく、当に本土に還りたもうべし。釈迦牟尼仏、智積に告げて曰わく、善男子、且く須臾を待て。此に菩薩あり、文殊師利と名づく。与に相見るべし。妙法を論説して、本土に還るべし」とある。
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竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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人天大会
 釈尊の説法の会座に、大衆が衆合したことを大会といい、別して出生の対告衆である人海・天界の衆生の名をあげてこれを人天大会という。
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娑婆耶
 須弥山の西方にある拘耶尼州の河の名。普通、河は曲がりくねっているが、この河は真直ぐに西海に入っているといわれる。涅槃経に「この三千大千世界において、渚あり、拘耶尼と名づく、其の渚に河あり、端直にして曲らず、娑婆耶と名づく、喩えば直縄の如くにして、直に西海に入る」とある。
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西方浄土
 阿弥陀仏の住む西方十万億土の極楽浄土のこと。ここでは鎌倉時代に阿弥陀信仰が盛んであったために、西方浄土にことよせて成仏の境涯に入ることを示されたのであり、当抄の本義は娑婆即寂光の即身成仏をいう。
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 第九章と同じく難治とされてきた女人成仏を明かされた段である。すなわち、初めに内外典で女人を嫌うことを明かし、次に「此くの如く諸経に」の下は、諸経の女人不成仏の説を断破して、法華経による作仏を明かし、三に「此の南閻浮提の内に」の下で、本門寿量文底の本尊を信ずる女人は、ことごとく妙法の妙の一字の功徳により成仏できると結している。
女人成仏の原理
 女人が成仏できると明かしたのは法華経である。すなわち、法華経提婆達多品において、八歳の畜身の竜女が文殊師利菩薩の教化により成仏の身を現じて、女人成仏の実証を顕したのであった。
 「御義口伝」にいわく「竜女とは竜は父なり女は八歳の娘なり竜女の二字は父子同時の成仏なり……されば女の成仏は此の品にあり」(0746-07)と。
 だが外典にあっては、つねに女人は忌み嫌い通されたのであった。儒教の三墳五典では、女性は諂曲の者と定めている。諂曲とは、自分の意志を曲げて、相手に媚へつらうことをいうのである。つまり正しい道理による確信ある生活を貫きとおせない本質的性格、これが女性の一大欠陥とされてきた。
 中国周代の人・栄啓期は、この世で女性と生れなかったことを楽しみの一つとたてており、本章に「災は三女より起ると云へり国の亡び人の損ずる源は女人を本とす」とあるごとく、外典では全く女性を嫌悪したのである。
 内典の仏教も同様である。釈尊の初説法たる華厳経では女人は地獄の使いと断定され、男子が仏道修行していく上で、その成仏の原因を摘む者が女人であり、その姿は、外形は菩薩のごとき立居振舞いであるが、内心は猛悪な夜叉であると説き、釈尊一代五十年、最後の涅槃経でも「所有三千界の男子の諸の煩悩・合集して一人の女人の業障と為る」と説いている。あるいは銀色女経では「三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず」等々と徹底して女性を斥けたのであった。
 儒教道徳の三従の思想も見逃せない。すなわち、女性として生まれた以上、幼き時は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うとの義である。
 しかして、女性は、三従の苦しみに縛られ、さらに仏法においても仏種を断ずる永不成仏の者として虐げられて、つねに苦しみと諦めのなかに終始してきたのであった。もし妙法が説かれなかったならば、女性は永遠にこの宿命に泣かなければならなかったであろう。
 だが、法華経において、竜女の成仏を明かし、挙一例諸として竜女一人の成仏で女人全体の成仏が明示されたのである。
 「開目抄」に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(0223-10)と。
 かくして、爾前経において罪業深重とされた女人も、法華経によって成仏を許されたのである。
 「諸法実相抄」に「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360-08)と。
 「妙法曼陀羅供養事」に「妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり」(1305-01)と。
 すなわち末法の御本仏・日蓮大聖人の顕された三大秘法の生命哲学により、男女平等の大原理が明かされ、等しく真実の幸福境涯を得ることが顕わされたのである。
 法華経提婆品の「当時の衆会は、皆な竜女の忽然の間に、変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方の無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ……」がそれにあたるのである。これは、女人が男子に変化するということではなく、女人もまた、男子と同様に仏界を顕現することができることを示したものである。
 ここに真実の生命論を基に、生命それ自体の解放が明かされ、真実の民主主義の根底が築かれたのである。
 古今東西にわたり、これほどの大原理を解明した思想、哲学、宗教は他に求めることができない。われらは女人成仏の原理、女性の最高の幸福が日蓮大聖人によって説き明かされた以上、妙法を唱え抜き、妙法に輝く新時代の女性像を実証しなければならない。
女性解放の歴史
 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」とは、明治の女性解放の先駆者、平塚雷鳥の言葉である。
 2000余年を経た日本の女性史は、平塚雷鳥の言葉のごとく、〝母権社会〟を基盤とした明るいスタートをきっている。しかし、社会が進むと、中心には男性が替わり氏族社会が確立し、中国から儒教・仏教が伝来したころからは、女性の位置は一段と低くなった。
 もっとも、鎌倉初期には北条政子にみるように、政治力をもった女性も出現しており、女性が相当に発言力を有した時期もあったようではあるが、それは、ほんの特例であり、かつ短期間のものであった。
  女人は三従ありとかや
  親に始めは身を任せ
  盛りはをとこに従ひて
  老の末には子をたのむ
 鎌倉初期の歌人がうたったものである。
 このうたが示すように、当時すでに三従思想は広く社会を支配していたのである。
 フランスにおいては一八九七年にいたるまで、刑法上では妻はつねに完全な人格者とみなされ、いっさいの重・軽罪犯行について夫と全く同じくその責任を問われたが、契約の締結、公正証書の作成等にさいしては証人となることもできないありさまであった。
 1793年、国民公会が人権宣言をした。平民婦人の代弁者オランプ・ド・グージュは、その人権が男権であり女権ではないことを感知した。そこで十七条から成る女権を定めパリの革命自治体に申し入れを行なった。そのなかの発言に「婦人に対して断頭台にのぼる権利があるならば、議政壇上にのぼる権利もまたなければならない」と。このオランプ・ド・グージュの要求はついに入れられず、それのみか、反逆者として断頭台にかけられたのである。婦人の女権獲得運動は灼熱化した。
「女性たちこそわが革命の前衛に立ったのである。それはなんら不思議なことではない。女性のほうが男たちよりもはるかに苦しみを味わっているからである」と、ミシュレ―は当時の婦人たちの姿を記している。
 同じ人間でありながら、女性がなぜにかくも虐げられなければならなかったのか。
 ベーベルは「婦人論」に「両性をいつも引き離しておいて、一方に他方のことがわからないようにさせているのは、わけてもキリスト教に起因する両性間の反目であって、これが、両性間のいっそう自由な交際、相互不信、性格的特性の相互の補いあいをさまたげているのである」と、キリスト教に起源することを喝破している。
 わが国における、女性を忍従の位置においた男尊女卑の思想は、儒教によるものであり、さらにみるならば、法華経以前の爾前の教説が強く支配していたのである。
 このように洋の東西を問わず、女性史をふりかえって見るに、女性の地位を低いところに追いこんでいたものは、キリスト教、儒教、そして爾前の諸経等であったのである。いまさらのように宗教思想の持つ影響力のおそろしさを考えさせられる。おそるべきは誤れる宗教・低級な思想である。
新時代の女性解放
 明治、大正、昭和と、近代史の中に、女性革命運動家達の手によって繰り広げられた、血みどろな女性解放運動は、一応その目的を達成したかのようだ。女性の社会進出はめざましくなり、今日ほど、女性が自由に、全ての社会に活躍するようになったのは、わが国の女性史上、未曾有のことであろう。
 だが、こうした社会の変革によって与えられた女性の今日の立ち場が、はたして女性に真実の幸福をもたらしているであろうか。
 先に述べたように、仏法の大原理に照らして見るとき、今日のごとき体制や環境による女性解放は、全く根無し草のようなものといわざるを得ない。人間生命を束縛するところの〝哲学〟という名の封建主義―また、生命に内在する〝宿命〟というものからは、少しも解放されていないのである。
 いかに環境が変わろうとも、個人のもつ、生命に内在するところの宿命に、奴れいのごとくしばられ、苦しみと悲惨な人生に泣く女性の姿が現実ではないか。ところが、仏法においては、妙法においては、女性である前に人間であることを教えている。法華経における竜女の成仏も、女人成仏も、その原理なのである。すなわち、妙法による人間解放なくして、真実の女性解放もないのである。
 女人成仏とは、正しい人生観、生活観、社会観を強くもちつづけて、家庭や、職場や、ひいては社会に対して、幸福への価値を創造していくことにほかならない。過去の因習を脱し、宿命を転じ、生活の中に、社会の中に、たくましく、清らかな生命を湧現して、新時代を築きあげていく女性こそ、理想の女性像なのである。
 「御義口伝」に「求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍つて現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」(0777-01)とある。
 すなわち、男性の本質たる未来への建設という力づよくたくましい生命力が、ともすると好戦的、破壊的なものになるのに対して、現世安穏すなわち保守的な女性の本能は、生命を守り育て維持していく本質・全くの平和主義者として顕われるのである。
 ギリシャの詩人アリストファネスは「女の平和」や「女の議会」などの戯曲でもって、奇想天外といわれる舞台を描いたが、女性の本質が平和主義者であることを知っていたからこそ、その多くの喜劇をとおして戦争指導者を槍玉にあげ、平和への希望を託したのではなかろうか。
 池田会長は「生命の尊厳を護るものへ」と題する詩において、女性の本質を次のようにうたっている。
  自由と平和と尊厳と
  この象徴の戦士が女性であった……
  ……団結と幸福と解放と
  最も地道に もっとも迅速に
  生命の尊厳を身をもって護るものよ
  永遠の平和と繁栄は
  いずこにあるものでもない
  あなたたちの純粋と力ある胸中にこそあるのだ……と。
  このように諸経に嫌われた女人であるが、文殊師利菩薩が妙法蓮華経の妙の一字を説きたところ八歳の竜女は忽に仏になったのである。あまりに不審である故に宝浄世界に住する多宝仏の第一の弟子智積菩薩と釈迦十大弟子のうちの智慧第一の舎利弗尊者が、四十余年の大小乗経の経文の意をもって竜女が成仏するはずがないと論難したけれども、ついに疑難は叶わず仏になったのである。この事実によって、初成道の時の教えである華厳経の「よく仏になる種子を断つ」雙林最後の涅槃経の「いっさいの江河には必ず回曲が有り、女人の心も同じである」の経文は破れてしまった。銀色女経ならびに大智度論の女人不成仏の亀鏡もことごとく空文となってしまった。智積菩薩と舎利弗は舌を巻いて口を閉じ、霊鷲山に集まった人界、天界の衆生は歓喜のあまり合掌して拝んだ。これ偏に妙法蓮華経の妙の一字の偉大な徳用によるのである。この南閻浮提のなかには二千五百の河があり、一つ一つ、皆ことごとく曲がっている。ちょうど南閻浮提に住む女人の心が曲がっているようなものである。但し娑婆耶という河があり、この河だけは縄を引いて延ばしたようにまっすぐに西海に流れ込んでいる。法華経を信ずる女人だけはこの河と同じようにまっすぐに西方浄土・すなわち成仏の境涯に入ることができる。これこそ偏に妙法蓮華経の妙の一字の徳用によるのである。 このように諸経に嫌われた女人であるが、文殊師利菩薩が妙法蓮華経の妙の一字を説きたところ八歳の竜女は忽に仏になったのである。あまりに不審である故に宝浄世界に住する多宝仏の第一の弟子智積菩薩と釈迦十大弟子のうちの智慧第一の舎利弗尊者が、四十余年の大小乗経の経文の意をもって竜女が成仏するはずがないと論難したけれども、ついに疑難は叶わず仏になったのである。この事実によって、初成道の時の教えである華厳経の「よく仏になる種子を断つ」雙林最後の涅槃経の「いっさいの江河には必ず回曲が有り、女人の心も同じである」の経文は破れてしまった。銀色女経ならびに大智度論の女人不成仏の亀鏡もことごとく空文となってしまった。智積菩薩と舎利弗は舌を巻いて口を閉じ、霊鷲山に集まった人界、天界の衆生は歓喜のあまり合掌して拝んだ。これ偏に妙法蓮華経の妙の一字の偉大な徳用によるのである。この南閻浮提のなかには二千五百の河があり、一つ一つ、皆ことごとく曲がっている。ちょうど南閻浮提に住む女人の心が曲がっているようなものである。
 但し娑婆耶という河があり、この河だけは縄を引いて延ばしたようにまっすぐに西海に流れ込んでいる。法華経を信ずる女人だけはこの河と同じようにまっすぐに西方浄土・すなわち成仏の境涯に入ることができる。これこそ偏に妙法蓮華経の妙の一字の徳用によるのである。らの人間革命が中心となって、家庭革命すなわち幸福で明るい健康な家庭の建設を実現するのである。その偉大な力は、やがて社会をも革命し、希望に満ちた平和と繁栄の新社会をも実現しゆくことができるのである。
 一生成仏をめざす妙法の女性が、そのエゴイズムを乗り越え、大目的に立って大きく力を結集したときこそ、偉大なる社会への価値創造であり、しかも一大平和勢力となりうるのである。妙法に生きる女性こそが、平和建設への旗手であり、新しき女性解放への歴史を開くパイオニアなのである。

0947:02~0947:09 第11章 妙とは蘇生の義と説くtop

02                妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、 譬えば黄鵠の子・死せるに
03 鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、 鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆
04 よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還
05 つて生ずるが如し、 天台云く「闡提は心有り猶作仏すべし二乗は智を滅す 心生ず可からず法華能く治す復称して
06 妙と為す」と、 妙楽云く「但大と云いて妙と名づけざるは 一には有心は治し易く無心は治し難し治し難きを能く
07 治す所以に妙と称す」等云云、 此等の文の心は大方広仏華厳経・大集経・大品経・大涅槃経等は題目に大の字のみ
08 ありて妙の字なし、 但生る者を治して死せる者をば治せず、 法華経は死せる者をも治するが故に 妙と云ふ釈な
09 り、
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 妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである。譬えば、黄鵠の子が死んだときに鶴の母が子安、子安と鳴くと、死んだ子が蘇るとか、鴆鳥が水に入れば魚介類はことごとく死んでしまうが、その場合、犀の角に触れれば、死んだその魚介類が皆蘇るといわれているのがそれである。同様に、四十余年の爾前の経々で仏になる種子を焦って死んだ声聞・縁覚の二乗も一闡提人も女人も、いずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持するならば、焦って死んだ仏種が蘇って芽を生ずるのである。天台は止観の第六に「一闡提の者は心があるゆえにまだ菩提心を起こして仏になる可能性が残っている。爾前では二乗は灰身滅智して身も心も無に帰するので、菩提心の母体である心も生ずることができない。だが法華経は闡提の重病も二乗の病もよく治すのでこの力用を称して妙というのである」と。妙楽は天台のこの釈を敷衍して弘決の第六に「爾前の諸経を、ただ大といって決して妙とは名づけない理由は、一つには心のある者は治しやすく、心のないすなわち死んだ者は実に蘇生し難いものである。だが法華経は、この無心の者をさえよく治す。故に妙と称するのである」と。これらの文の心は大方広仏華厳経、大集経、大品経、大涅槃経等は経題に大の字のみがあって決して妙の字を用いていない。したがって、ただ生きている者を治すが死んだ者は治せない。法華経は死んだ者まで蘇らせる故に妙と名づけるのであるとの釈である。

黄鵠
 「黄鵠」は大鳥の名で、年長のつるのこと。中国では古来仙人が乗り、一挙に千里を飛ぶといわれる。仙人が乗る鳥に黄鶴がおり、同じ鳥ともいわれている。
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子安となけば
 子安は仙人の名前。黄子安のこと。李白の詩に「白龍は陵陽に降り、黄鶴は子安を呼ぶ」とある。
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鴆鳥
「鴆鳥」は毒鳥の名で、中国の商州靳州南方の山中に住む鳥。雄を運日、雌を陰諧とよぶ。形は鷹に似て、ふくろうより大きい。色は黒く、目は赤いとされている。猛毒をもった鳥でその肉を食べると、たちどころに死ぬ。羽を浸して毒を作ることもできる。したがって魚蚌は鴆鳥が水に入ればたちまちに皆死んでしまうという。
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犀の角
 犀の角は皮膚の角化したもので、骨のしんはなく一生成長を続ける。本草綱目によると、夜露に濡れず、薬に入れると神験あらたかであるとのこと。通天といって、犀の角を魚の形に刻んで水のなかにいれると、水が三尺開くという伝説がある。昔はくりぬいた犀角形の木を連ねて浮き用具を作ったという。
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二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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有心
 ①有情の衆生。②二乗以外の衆生。
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無心
 ①心の無い非情。②灰身滅智した二乗。
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大方広仏華厳経
 華厳経のこと。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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大集経
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳.大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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大品経
 大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
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大涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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 本章は初めは妙の義を明かし、そのなかに法・譬・合を挙げ、次に「天台」の下は文を引いて釈して妙用の具徳の段として結んでいる。前章までに、難治の三類のうち悪人成仏と、女人成仏とが明かされた。すなわち、三逆罪を犯した提婆達多や、五障の女人は、爾前経においては、徹底的に弾呵され、成仏できえないとされていた。まさに死の宣告をうけたも同然であった。
 それらの提婆や、女人が法華経によって、成仏した事実こそ、実に妙といえるのである。妙とは蘇生の義であり、法華経にきて一切はよみがえったのである。故に法華経を妙法というのである。
 しかしながら、本章における正意は二乗作仏にあることを知るべきである。それは、天台の摩訶止観第六の「闡提は心有り猶作仏すべし二乗は智を滅す心生ず可からず法華能く治す復称して妙と為す」の文を引用されていることでも明らかである。
 それでは、なぜ二乗のみを挙げないで、闡提・女人を挙げたかといえば、まず妙の義を説明するゆえに、通じて、蘇生の類をあげられているのである。爾前経にて仏種をいりて死せる二乗が、法華経にて成仏したことこそ、真によみがえった姿ということができよう。
二乗作仏について
 ここで二乗作仏について概略述べてみたい。二乗とは、いうまでもなく、十界のなかの声聞、縁覚である。この二乗を生活にあてはめるならば、声聞とは学問をこころざし、研究に専念する学者階層がこれに該当する。縁覚とは、それぞれの専門において、いわゆるその道の真理に接した、大学者、思想家また、大芸術家等をさすと考えてよいだろう。
 釈尊在世の舎利弗・迦葉・須菩提・迦旃延等の人々が、この二乗に相当していたのである。ところがこれらの人々は、爾前の諸経においては仏に徹底的に嫌われ、弾呵されたのである。
 すなわち、大集経では「二種の人有り必ず死して活きず畢竟して恩を知り恩を報ずること能わず、一には声聞二には縁覚なり、譬えば人有りて深坑に堕墜し是の人自ら利し他を利すること能わざるが如く声聞・縁覚も亦復是くの如し、解脱の坑に堕して自ら利し及以び他を利すること能わず」と。自分では悟りを得たかのように錯覚し、独り高しとして他の不孝な人々を救おうとしない、ところが、結局は、自分自身さえも救うことができないというのである。
 「開目抄」においては、このような二乗を不知恩の者と断定されている。
 すなわち「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる」(0192-05)と仰せである。
 その他の爾前経においても、たとえば、維摩経には「已に阿羅漢を得て応真と為る者は終に復道意を起して仏法を具すること能わざるなり、根敗の士・其の五楽に於て復利すること能わざるが如し」とある。
 また、方等陀羅尼経では「文殊・舎利弗に語らく猶枯樹の如く更に華を生ずるや不や亦山水の如く本処に還るや不や折石還つて合うや不や焦種芽を生ずるや不や、舎利弗の言く不なり、文殊の言く若し得べからずんば云何ぞ我に菩提の記を得るを問うて心に歓喜を生ずるや」と、枯れてしまった木は花が咲かない。山水の流れは再び源に帰ることがない。割れた石は元に合わさることがない、また、焦った種は芽が出ない、それと同じように、二乗も仏種を焦り焼き尽くして、絶対に成仏できないというのである。
 ところが、法華経迹門にきてこれほどまで永不成仏と弾呵されていた二乗の成仏が許された。
 「開目抄」にいわく「而るを後八年の法華経に忽に悔還して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに」(0193-16)と。
 まず方便品の開三顕一、開示悟入の四仏智見、仏の一大事因縁を聞いて、上根の舎利弗が開悟し、譬喩品において華光如来の記別を受ける、いわゆる法説周である。
 つづいて、中根の迦葉、須菩提、迦旃延等は、譬喩品の長者窮子等の喩説を聞いて開悟し、授記品で記別を受ける。これが、譬説周である。さらに下根の富楼那・阿難・羅睺羅等は「仏が宿世の因縁、吾れ今当に説くべし汝等善く聴け」と、化城喩品で三千塵点劫の結縁を説くことによって悟るのである。富楼那および千二百の人は五百弟子品で、阿難らおよび学無学の二千人は人記品で、それぞれ記を受ける。この下根の声聞を因縁周といい、三周の声聞の説法が終わるのである。
 このように、二乗作仏が明かされたことは、悪人成仏とならんで、十界互具を顕わし、一念三千成立の基本となるのである。なぜなら、地獄から菩薩にいたる九界のうち、七界までは、仏性を具しても、声聞・縁覚に具さないとなれば、十界互具にならない。また、この七界および仏界に、声聞・縁覚を具していたならば、そのために成仏得道できないことになってしまう。二乗の成仏を許さない爾前経においては、十界互具はありえないわけである。故に、百界千如、三千世間になる道理がない。
 また、五陰・衆生・国土の三世間は法華経本門に入らなければ、あらわれないから、迹門においてすら、百界・千如までであって、一念三千にならない。このゆえに、迹門は、一応、本門の立ち場より望んで、一念三千の名目を附するが、理の一念三千にすぎない。
 しかも、迹門においては、未だ始成正覚の生命観が骨子となっていて、久遠の本地が明かされていない。したがって二乗が作仏したといえども、根源の種子を覚知しえないゆえに本無今有の二乗作仏であって、真実の二乗作仏ではない。
 したがって「開目抄」にいわく「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり」(0197-12)と。
 本門寿量品に至って、「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と久遠の本地を明かすのである。さらに「娑婆世界説法教化」と国土世間が説かれて、事の一念三千となり、二乗作仏も定まる。
 しかしながら、日蓮大聖人の文底仏法からみれば、以上はあくまでも理である。釈尊の一代聖教といえども、また法華経というも、ことごとく日蓮大聖人の仏法のために説かれたのであり、これらのさまざまな哲理も、大聖人の仏法を根本として、初めて、生かされてくることを知るべきである。
 「開目抄」(0189)にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」とあるごとく、事行の一念三千の南無妙法蓮華経は、寿量品の文底に秘沈されているのである。
 日寛上人は、「三重秘伝抄」に「寿量品の文底」とは、さらに寿量品第十六のいずれの文底であるかという点に、言及されていわく、
 「聞いて能く之を信ぜよ是れ憶度に非ず、師の曰く『本因初住の文底に久遠名字の妙法・事の一念三千を秘沈し給えり』云云、応に知るべし、後々の位に登るは前々の行に由るなり云云」と。このなかの「久遠名字の妙法・事の一念三千」とは、南無妙法蓮華経であり、事の一念三千の大御本尊にほかならない。
 本因初住とは、本因妙の「我本行菩薩道」の文の一番最初の時点にあたる。すなわち、本因とは、本因、本果、本国土の三妙のうちの本因であり、仏となった本因ということである。
 天台は、別教の菩薩の修行の位を五十二位に分けた、いわゆる十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚である。このうち、十住と等覚・妙覚の位は円教の法華経にも会入されている。
 ところで、釈尊が成仏できた本因を求めていくと、どうしても、十住の最初の位である、初住位にまでさかのぼらざるを得ない。十信はまだ、初信の段階であり、安定しておらず、いつ退転するかわからない位である。初住にきて初めて、信心の住処が定まり、不退転の位となる。したがって初住位に登れば必然的に妙覚に達することができるのである。
 ところが、日蓮大聖人は、一重立ち入って、久遠元初の本因妙を立て、名字凡夫位において、直達正観、事行の一念三千の南無妙法蓮華経を説かれたのである。すなわち、不退転の位たる初住位に登り得た根源力こそ、この南無妙法蓮華経であり、釈尊の成仏の根源は、実にこの南無妙法蓮華経を信受したからにほかならない。
 いうまでもなく、衆生もまたことごとく、寿量品にいたり、たんに寿量品の文上の域にとどまらず、等覚一転して凡夫の下種の位に立ちかえって、そこに秘沈されている南無妙法蓮華経を信受して成仏することができたのである。すなわち、これが妙覚である。なかんずく、二乗が、南無妙法蓮華経によって成仏したことは、当流行事抄の次の文で明瞭である。
 すななち「且く身子の如き鹿宛の断惑は只是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず・是れ則ち種子を知らざる故なり、然るに法華に来至して大通の種子を覚知す此れ即ち跨節の断惑なり、然りと雖も若し本門に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず、未だ久遠下種を了せざるの故なり、而る後本門に至って久遠の下種を顕わす此れ即ち跨節の断惑なり、然りと雖も若し文底に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり、若し文底の眼を開いて還って彼の得道を見れば実に久遠下種の位に還って名字妙覚の極位に至る・此れ即ち真実の跨節の断惑なり、故に経に云く『以信得入』等云云、以信・豈名字に非ずや、得入は即ち是れ妙覚なり、又云く『我等当信受仏語』云云、宗祖釈して云く『此の無作三は一字を以て得たり所謂信の一字なり』云云、信は即慧の因・名字即なり無作三身・豈妙覚に非ずや、身子既に爾り一切皆然らん云云」と。
 舎利弗は、当時智慧第一とうたわれた大学者である。その舎利弗すら、南無妙法蓮華経を信受して成仏し得たのである。多少の知識をふりかざしてみたところで、妙法に帰着しなければ、絶対に成仏できないことは明々白々ではないか。
 「御義口伝」にいわく「智者愚者をしなべて南無妙法蓮華経の記を説きて而強毒之するなり」(0735-第一学無学の事-04)と。
 所詮、折伏していく以外に、知識階級の二乗を妙法に目覚めさせることはできない。
 妙法を持った二乗の人々の振舞いは、利他主義となっていく。なぜならば、慈悲という生命の奥底に本然的に具わっている生命活動が妙法によって湧現するからである。そこで彼らは二乗所具の菩薩界を湧現して己れ自身のことだけでなく不幸な他人を、本源的に救い、幸せにしていくという、人間として最も偉大な行動をとるようになるのである。そこには、なんの作為もてらいもなく、喜々とした自由な振舞いがあるのみである。
 かつては象牙の塔に閉じこもって、単に知識のための知識となっていたものが、一転してその知識が幸福への価値創造に生かされてくる。故に妙法を根本に団結した英知の結集は、人類の福祉に大きく寄与し、世界を破滅から建設へと導くであろう。実に三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、真に蘇生の法門と決定されるのである。
蘇生の義について
 二乗の永不成仏、悪人不成仏を説く経々、すなわち一念三千の義を説いていない爾前権経は死の法門であり、法華経は活の法門である。ところが、法華経を根本として、爾前権経を会入した上で用いていけば、死の法門であった爾前権経も活の法門になるのである。すなわちこれ蘇生の義である。
 法華経は大綱であり、爾前権経は、網目であり部分観にすぎない。部分は部分として意味をもつのであって、部分と大綱とを混同し、部分観をもって全体観とするのは全くの誤りである。もし、部分を正しく部分とし、それを全体観に立脚して用いるならば、それは、ことごとく生きてくるのである。
 故に、日寛上人は、「三重秘伝抄」に次のように述べている。
 「問う昔の経経の中に一念三千を明さずんば天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや、答う彼の経に記小久成を明さず何ぞ一念三千を明さんや、若し大師引用の意は浄覚の云く「今の引用は会入の後に従う」等云云、又古徳の云く「華厳は死の法門にして法華は活の法門なり」云云、彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う、楽天が云く「龍門原の上の土・骨を埋むとも名を埋めず」と、和泉式部の云く「諸共に苔の下には朽ちずして理もれぬ名を見るぞかなしき」云云、若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」と。
 ところで、末法今日においては、いうまでもなく、釈尊の法華経といえども、一代聖教ことごとく網目であり、死の法門である。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法こそ、活の法門である。
 「御義口伝」にいわく「法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、其の故は妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや、此の法門秘す可し秘す可し、 天台の『綱維を提ぐるに目として動かざること無きが如し』等と釈する此の意なり、妙楽大師は『略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む』と、此等を心得ざる者は末法の弘通に足らざる者なり」(0766-第十五於如来滅後等の事-03)と。法華経二十八品は、南無妙法蓮華経の説明であり、大綱に対する網目である。
 南無妙法蓮華経を根本として、会入していけば、法華経二十八品も、いっさいの経教もことごとく、偉大な仏法哲学として、生き生きとよみがえってくるのである。
 この原理は、さらに、現在における思想、哲学、またいっさいの学問、さらには、社会制度にもあてはまるものである。すなわち、日蓮大聖人の仏法を根底にしない、いっさいの学問、制度等は「死の法門」である。ところが、それが妙法を根底としたとき、妙法の智水によって生き生きと輝き、いかなる学問も哲学もことごとく、広宣流布のために活動させていけるのである。

0947:09~0947:10 第12章 妙法の具徳を結するtop

09   されば諸経にしては仏になる者も仏になるべからず 其の故は法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ、 な
10 りやすき者は云ふにや及ぶと云う道理立ちぬれば法華経をとかれて後は諸経にをもむく一人もあるべからず。
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 それゆえ諸経においては仏になれる者でも仏になることができない。それに対して法華経は仏になることが難しい者でさえも仏になった。ましてや仏になりやすい者はいうまでもないという道理が成り立つので、法華経が説かれてからのちは、いっさい衆生は、他の諸経を信ずる者が一人もあってはならないのである。

 この章は大段第二の第一の最後、妙法五字の具徳を結して、次の「重ねて今昔を挙げて誡勧する」部分の起分となる段である。すでに第11章までにおいて妙法蓮華経の御本尊の功徳がいかに偉大なものであるかは、理論的にも現象上からも明々白々である。すなわち、成仏できる人々―幸せになれる可能性を充分持っている人々でも、爾前の経々を信じては幸せにはなれない。反対に、成仏困難な人といえども法華経を信ずるならば必ず成仏し、幸せになれるのである。このことは、細分化した高度な科学によって育てられたために、かえってその知識が慢心の種になってしまっている現代人にとって、まさに「頂門の一針」ともいうべき厳しいご教訓ではあるまいか。
 「なりやすき者は云ふにや及ぶ」以下は生である。成仏至難の者でも成仏する大法ならば、性質がよく、仏縁深く、成仏し易い人ならば、なお易々と幸福になれるのは理の当然であろう。この道理のゆえに、三大秘法の大御本尊が建立された以上、それに信順し奉るべきは当然のことである。

0947:11~0949:01 第13章 重ねて女人成仏を説き誡勧するtop

11   而るに正像二千年過ぎて末法に入つて当世の衆生の・ 成仏往生のとげがたき事は在世の二乗闡提等にも百千万
12 億倍すぎたる衆生の観経等の四十余年の経経によりて生死をはなれんと思うは・はかなし・はかなし、女人は在世・
13 正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経を・ はなれて仏になるべからず、 霊山の聴衆道場開悟たる天台智
14 者大師・定めて云く「他経は但男に記して女に記せず今経は皆記す」等云云、釈迦如来・多宝仏・十方諸仏の御前に
15 して摩竭提国王舎城の艮・ 鷲の山と申す所にて八箇年の間・説き給いし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけ
16 るに我五十余年の一代聖教を説きをく事は 皆衆生利益のためなり、 但し其の中に四十二年の経経には女人・仏に
17 なるべからずと説きたまひしなり、 今法華経にして女人仏に成ると・とくと・なのらせ給いしを仏滅後・一千五百
18 余年に当つて鷲の山より東北 ・十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり震旦国是なり、 此の国に仏の
0948
01 御使に出でさせ給ひ天台智者大師となのりて女人は法華経を・はなれて仏になるべからずと定めさせ給いぬ。
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 それなのに仏滅後正像二千年が過ぎて末法に入ったため、現在の衆生が成仏往生を遂げ難いことは釈迦在世の二乗、一闡提よりも百千万億倍もすぎているのに、その末法の衆生が現に観無量寿経等の四十余年の爾前権経を頼って生死の果縛を離れようと思いこんでいるのは全くはかないことである。女人は釈迦在世も滅後の正像末も、総じていっさいの諸仏の一切経のなかで法華経を離れては絶対に仏になることができない。霊鷲山の聴衆で、その後中国の光州大蘇山の法華の道場で開悟した天台智者大師は、文句の七で諸経と法華経とを相対し決定して「他経は但男子だけに成仏の記別を説き女人には授記していない。だが法華経において全てに成仏の記別を説いている」といっている。釈迦如来が多宝仏と十方諸仏を前にして、摩竭提国の王舎城の艮・霊鷲山という処で八箇年の間説いた法華経を天台大師はまのあたりに聞いたのであるが、そのとき仏は「自分が五十余年の一代聖教を説き遺すことは皆衆生を利益するためである。但しそのなかの四十二年の経経では女人は仏になることができない」と説いた。そして「今こそ法華経で女人の成仏を説く」と宣言したのを、仏滅後千五百余年の後に、霊鷲山より東北の方・十万八千里の山や海をへだてて摩訶尸那という国があり、震旦国がこれであるが、この中国に仏の使いとして出現し、天台智者大師と名乗り、女人は法華経を離れて成仏はできないと定められたのである。
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02   尸那国より三千里をへだてて東方に国あり日本国となづけたり、天台大師・御入滅・二百余年と申せしに此の国
03 に生れて伝教大師となのらせ給いて秀句と申す書を造り給いしに 「能化・所化倶に歴劫無し妙法経の力にて 即身
04 に成仏す」と竜女が成仏を定め置き給いたり、 而るに当世の女人は即身成仏こそ・かたからめ往生極楽は法華を憑
05 まば疑いなし、 譬えば江河の大海に入るよりもたやすく雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり、 而るに
06 日本国の一切の女人は 南無妙法蓮華経とは唱へずして 女人の往生成仏をとげざる雙観・ 観経等によりて弥陀の
07 名号を一日に六万遍・十万遍なんどとなうるは、 仏の名号なれば巧なるには似たれども女人不成仏・ 不往生の経
08 によれるが故に いたずらに他の財を数えたる女人なり、 これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり、 されば
09 日本国の一切の女人の御かたきは虎狼よりも山賊・ 海賊よりも父母の敵・ とわり等よりも法華経をばをしえずし
10 て念仏ををしゆるこそ一切の女人のかたきなれ。
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 中国より三千里を隔てた東方に国があって日本国と名づけている。天台大師は、中国で入滅されてのち二百余年後にまたこの日本に生まれて、伝教大師と名乗られて法華秀句という書を造られた。そしてこのなかに「真実の教法には能化も所化も共に歴劫修行はない。妙法蓮華経の偉大な功徳力によって即身成仏するのである」と竜女の女人成仏を定め置かれたのである。しかしながら現在の世の女人は即身成仏こそ難しいであろうが、臨終のときの往生極楽は法華経の功徳力をたよりとすれば疑いないのである。譬えば江河の流れが大海にそそぐよりもたやすく、また雨が空から降ってくるよりも速やかに成仏できるのである。ところが日本のいっさいの女人は成仏の最直道である南無妙法蓮華経とは唱えないで、女人の往生成仏を遂げない無量寿経や観無量寿経などを信じて、阿弥陀仏の名号を一日に六万遍だの十万遍だのと唱えているのは、たしかに阿弥陀仏であっても仏の名号には違いないから、一見、いかにも善い修行のようには見えるけれども、実は女人不成仏、不往生の経によっているのであるから、無駄に他人の財を数えるようなもので自分の身につかない修行をしている女人なのである。これはひとえに女人が悪知識である邪師にたぼらかされているのである。それ故日本国のいっさいの女人の敵は、虎狼よりも、山賊や海賊よりも、父母の敵や夫の妾などよりも、肝心の法華経を教えないで念仏を教える者こそ、いっさいの女人の最も悪い敵ではないか。
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11   南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみ・な
12 るやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にては・ あるべきに当世の女人は一期の間・弥陀の名号をば・しきり
13 に・ となへ念仏の仏事をば・ ひまなくをこなひ法華経をばつやつや唱へず供養せず或はわづかに法華経を持経者
14 に・よますれども念仏者をば父母・ 兄弟なんどのやうに・をもひなし持経者をば所従眷属よりもかろくをもへり、
15 かくして・しかも法華経を信ずる由を・ なのるなり、抑も浄徳夫人は二人の太子の出家を許して法華経をひろめさ
16 せ竜女は「我闡大乗教・度脱苦衆生」とこそ誓ひしが 全く他経計りを行じて此の経を行ぜじとは誓はず、 今の女
17 人は偏に他経を行じて法華経を行ずる方をしらず、 とくとく心をひるがへすべし・心をひるがへすべし、 南無妙
18 法蓮華経・南無妙法蓮華経。                             日蓮花押
0949
01     文永三年丙寅正月六日清澄寺に於て未の時書し畢んぬ。
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 南無妙法蓮華経と一日に六万遍・十万遍・千万遍等も唱えてから後に、もし余暇があるならばときどきは阿弥陀等の諸仏の名号であっても口ずさみのように軽い気持ちでとなえてこそ法華経を信ずる女人のあり方であるのに、当世の女人は一生の間、阿弥陀仏の名号だけをつねに唱えて念仏の仏事を暇なく行ない、法華経をいっこうに唱えず供養もしないありさまである。また、あるいはわずかに法華経を持経者に読ませはするけれども、念仏者の方をわが父母や兄弟のように親しみ大事にして、反対に、法華経の持経者に対しては、自分の所従や眷属よりも軽く考えている。それでいながら、それでも法華経を信じていると称しているありさまである。抑も女人成仏の手本である浄徳夫人は、淨蔵・淨眼の二人の太子の出家を許して法華経を弘めさせ、また同じく女人成仏の手本の竜女は提婆品に「我れ大乗の教えを闡いて、苦の衆生を度脱せん」とは誓ったが、二人とも全く法華経以外の経ばかりを修行して、この法華経を修行しないなどとは、誓ってはいない。ところが今の女人は一向に他の諸経だけを修行して、法華経を修行する正しい方法を知らない。これは大変なことである。往生成仏の最直道である法華経を信ずるよう、速やかに心を翻しなさい。心を翻しなさい。
 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。   日 蓮  花 押                
 文永三年丙寅正月六日清澄寺に於て未の時書き畢りました。

正像二千年
 仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
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霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
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十方諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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摩竭提国王舎城の艮
 艮とは東北の方角をいい、「鷲の山」すなわち霊鷲山はインド摩竭提国の都城・王舎城の東北に当たる。なお古来、一国の仏法の中心地は首都のうしとらに建てられている。「上野殿御返事」(1558)に「仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」と。また「文底秘沈抄」に「東北即ち是れ丑寅なり丑寅を鬼門と名づくるなり……類聚一の末五十三に云く『天竺の霊山は王舎城の丑寅なり震旦の天台山は漢陽宮の丑寅なり日本の比叡山は平安城の丑寅なり共に鎮護國家の道場なり』云云」とある。
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一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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秀句
 法華秀句三巻のこと。伝教大師最澄の著。天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、十の観点から論証している。
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能化
 能く化導する人のこと。菩薩は人に対しての能化であり、仏は菩薩・一切衆生の能化である。
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所化
 能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
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悪知識
 善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
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阿弥陀
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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弥陀の名号
 南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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持経者
 経典を受持・護持する者。正法を信じ、身口意の三業にわたって精進する者のこと。末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する者をさす。
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所従眷属
 所従は従者。家来。眷属は①一族・親族。②従者・家来・奴僕。③仏・菩薩の脇士。
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浄徳夫人
 妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で淨蔵・淨眼の母。二子が婆羅門の父妙荘厳王を救うのを助けた。過去世においては妙荘厳王、浄徳夫人、淨蔵、淨眼は、共に仏道修行をしている友人同士であったが、うち一人が家事を行ない、他の三人は仏道修行に励んで成仏した。家事を行なった一人は成仏することはできなかったが、修行者をたすけた功徳により生まれ変わるたびに王となる果報を得た。成仏した三人のうち一人はその夫人、二人はその子供となり、父の妙荘厳王を救ったのである。
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浄徳夫人
 妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で淨蔵・淨眼の母。二子が婆羅門の父妙荘厳王を救うのを助けた。過去世においては妙荘厳王、浄徳夫人、淨蔵、淨眼は、共に仏道修行をしている友人同士であったが、うち一人が家事を行ない、他の三人は仏道修行に励んで成仏した。家事を行なった一人は成仏することはできなかったが、修行者をたすけた功徳により生まれ変わるたびに王となる果報を得た。成仏した三人のうち一人はその夫人、二人はその子供となり、父の妙荘厳王を救ったのである。
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我闡大乗教・度脱苦衆生
 法華経提婆達多品第12に「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」とある。竜女が自身の成仏を喜悦して、他の成仏を請願した文。
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丙寅
 干支の一つ。干支の組み合わせの3番目で、前は乙丑、次は丁卯である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の寅は陽の木で、相生(木生火)である。
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清澄寺
 くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233)5月12日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253)4月28日に立教開宗を宣せられる。
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未の時
 時刻の数え方で、現在の午後2時~4時を指す。24時間を十二支に割り当てたうちの第8番目。
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 女人の成仏は、在世も正像も末法も、法華経を離れてはありえない。故にこの段では、前段第十二章の結前生後を受けて余経の修行・謗法を誡め、妙法の唱題の修行を勧めることを述べられている。則ち「而るに正像二千年」より「一切の女人のかたきなれ」までは誡。「南無妙法蓮華経と一日に六万」より「心をひるがへすべし」までは勧。二個の題目は誡勧を結して妙法に対する一層の結縁を祈念された大慈大悲の御心と拝すべきであろう。本文初頭の一個の題目と合わせて御本仏日蓮大聖人のご深意を拝察申し上げるべきである。
当世の衆生の・成仏往生のとげがたき事は在世の二乗闡提等にも百千万億倍すぎたる云云
 釈尊在世において、成仏し難い衆生の代表は二乗と一闡提と女人であった。これらの衆生が、四十余年の権経によっては成仏することができず、法華経において初めて成仏を許されたことは、すでに述べた通りである。しかるに、末法の衆生は、この二乗、一闡提、女人の百千万倍も成仏し難い。にもかかわらず、この末法の衆生が、爾前権経の観経等によって成仏往生を願っているのは、まことに不合理であり、はかないことであるとの仰せである。
 末法の衆生が、なぜ成仏し難いかといえば、本未有善だからである。すなわち、過去になんらの善根も積まず、いたずらに、邪法邪義を繰り返し、貪瞋癡の三毒強盛の、汚れきった生命に生まれついてきたのである。
 在世の衆生は、舎利弗等の二乗にせよ、提婆等の一闡提にせよ、三千塵点、五百塵点劫下種の衆生であり、過去に仏道を修業してそれなりの功徳善根を積んでいる。従って、今世において、あるいは二乗の利己主義におちいり、あるいは仏に敵対したとはいえ、本質的には、善根をもった本已有善の衆生であり、それが薫発して成仏することは、きわめて、たやすいことといえる。
 それに対して、なんの善根もなく、謗法の垢のみ厚く重なり、正法を聞いても信じようとせず、かえって、貪瞋癡が盛んでこれを誹謗さえするのが末法の衆生である。このような末法の衆生が、もともと成仏の法でない念仏等によって、いくら懸命に修行しようと、成仏できないことは、むしろ当然のことであろう。
 本未有善の末法の衆生を成仏させる法は、下種仏法以外にない。釈迦仏法は熟脱の法で、過去に善根を積んだ衆生に対してしか効力をもたないのである。また、三毒強盛で、反対し誹謗する衆生を救うためには、順逆ともに救う力ある大仏法でなくてはならない。この資格をもった宗教は、唯一つ、日蓮大聖人の三大秘法の大白法なのである。
「他経は但男に記して女に記せず今経は皆記す」等云々
 これは、天台大師が法華文句の第七で「他経は但菩薩に記して二乗に記せず・但善に記して悪に記せず・但男に記して女に記せず・但人天に記して畜に記せず」と述べているなかの一つである。ここは女人成仏のことを申されているので「男に記して女に記せず」だけを取りあげられ、ほかは「今経は皆記す」で結ばれたのである。
 日寛上人は、文段に、爾前経にも悪人・女人・竜畜の授記はある。たとえば、普超経の闍王の授記、大集経の婆藪天子の授記は悪人の授記である。勝曼経の離垢施女、般若経の恒河天女は女人の授記である。海竜王経の竜女の授記、師子月経の獼猴の授記は竜畜の授記である。ところが「他経では授記せず」というのは、どういうことかとの問いを設けられて、次のように説かれている。
 「東陽の忠尋の口伝に云く『他経にて悪人に記するとは実には善人に記すると習うなり、其の故は悪人の悪心を翻して善人と成る後に成仏す可き故に善人に記するの義なり』已上と、女人も例して爾なり、謂ゆる諂曲の心を改めて正直の心と成る後に成仏す可し、竜畜亦例なり謂ゆる心を改め身を転じて後に成仏す可きなり、故に皆是れ改転の成仏なり、故に知んぬ他経の悪人・女人・竜畜の授記は畢竟之れを論ずれば、善人・男子・人天の授記なり故に『悪に記せず・女に記せず』等と云うなり」と。
 ところで、さらに進んで、では爾前経の善人・男子・人天の授記は、真実の授記かということが問題である。周知のように、爾前に二乗の成仏が全く説かれていないこと、むしろ二乗不作仏が徹底して貫かれていることは明らかである。しかるに、生命は十界互具、一念三千の当体であり、菩薩界にも二乗の生命が具されている。あくまで二乗不作仏であるならば、この二乗の生命を具している菩薩自体も成仏できないことになってしまう。
 この故に、菩薩、男子、善人、人天に対する爾前の授記も、所詮は「虚妄の授記」にすぎないのである。天台自身も、それを知っていたが故に「但男に記して」と〝但〟の字を附したのである。
 「十法界事」にいわく「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり」(0421-09)と。
 すなわち、一念三千の授記でなければ、真実の授記ではあり得ない。一念三千の授記とは法華経の授記であり、妙法の授記である。しかして、一念三千の授記においては、一人に対する授記が十界のあらゆる衆生に対する授記になる。一人の授記は、法界の成仏となるのである。これを妙楽は「故に成道の時には此の本理に称って一身一念法界に遍し」と述べたのである。
 故に、爾前権経に成仏得道が説かれている男子も菩薩も、善人も人天も、それは名目のみであって、決して爾前権経では成仏できないことを知るべきである。
釈迦如来・多宝仏・十方諸仏の御前にして摩竭提国王舎城の艮・鷲の山と申す所にて云云
 天台智者大師が法華経の説法をまのあたりに聞いたというのは、天台大師が薬王の後身なるが故である。すなわち、天台大師は薬王菩薩として、法華経の会座に列なり、法華経の説法をまのあたり聞いた。その薬王菩薩が仏滅後千五百余年、中国に生まれて天台智者大師と名のり、像法の法華経、理の一念三千の法門を説いたのである。さらにまた、その天台大師の後身が伝教大師で、次の章に「天台大師・御入滅・二百余年と申せしに此の国に生れて伝教大師となのらせ給いて」云々とあるのは、この意味である。
「能化・所化倶に歴劫無し妙法経の力にて即身に成仏す」
 妙法の偉大なる功力によって、師も、弟子も、ともに即身成仏することができるのである。
 釈迦仏法においては、五百塵点劫下種と説き、衆生はこの五百塵点劫の間、種々に調機調養を受けて、法華経本門にいたってようやく得脱することができた。すなわち、釈迦仏法は暦劫修行の教えなのである。この文は、伝教大師の言葉であるが、その説き示そうとしている実体は、たんなる文上の釈迦の法華経ではなく、文底に秘沈せられた三大秘法の南無妙法蓮華経であることが明白であろう。
 「三大秘法抄」にいわく、
 「されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり」(1021-05)と。
 いま、伝教大師の文の意は、この三大秘法抄の御文と全く同じである。「即身に成仏す」とは、わが身がの三身とあらわれることである。しかして「妙法経の力」とは、三大秘法の大仏法以外のなにものでもない。
 即身成仏とは、現在のこの身をなんら改めることなく、そのままで成仏する、仏の境涯に入るということである。仏の境涯とは、絶対に壊れることのない、最高の幸福生活である。第二代戸田会長は「生きていることそれ自体が楽しくてしようがないという状態である」と教えられている。
 女性は女性として、男性は男性として、二乗は二乗として、さらに敢ていえば、悪人は悪人のまま、竜畜は竜畜のままで、それぞれに、金剛不壊の幸福境涯を確立することができるというのが即身成仏の原理である。
 この即身成仏の法が三大秘法の仏法である。すなわち、日蓮大聖人の御建立あそばされた大御本尊を信じ、題目を唱え、折伏を行じていったとき、あらゆる煩悩は即菩提と転じて成仏するのである。悪人は悪人のままということは、精神修養のような、外からの矯正手段等は必要としない。ただ、大聖人の教えをまじめに信じ行じていくならば、それだけで生命の本質から、自然に偉大な人間革命がなされていくのである。大事なのは、信行であり、そこにいっさいが含まれていることを知らなくてはならない。
而るに当世の女人は即身成仏こそ・かたからめ往生極楽は法華を憑まば疑いなし
 もとより、日蓮大聖人の本義は即身成仏であり、法華経の哲理は娑婆即寂光である。あえて、ここで「往生極楽」と申されたのは、本抄の対告衆である女性の往生極楽に対する執着が強かったからである。また娑婆即寂光、即身成仏といっても、それを理解させるには仏法哲学に関する深い探求が要求される。こうした哲理を論ずるのが、本抄の本意ではなく、対告衆の女性を法華経の信に入れることが目的だったからである。
 あたかも、法華経化城喩品で、導師が衆生を宝処にまで導くために、途中に化城を設けて、まずそこまで誘引したのと同じ原理といえよう。いま、大聖人も即身成仏という宝処に導くために、極楽往生という化城を用いられたということもできよう。
 当時の世は、念仏の全盛時代で、あらゆる人が念仏を称え、往生極楽を理想としていた。そのため、みずから往生極楽を願って、自殺した人があいついだという時勢だったのである。
 仏法を知るものの目からすれば、当然、往生極楽などということは、爾前権経において仏が無智の衆生を導くために、かりに設けた架空の物語にほかならない。
 だが、大切なことは、念仏を捨てて法華経を信ずることであり、衆生の願っている究極の理想が即身成仏か極楽往生かということは、その次の問題なのである。願うところは極楽往生であったとしても、法華経を純真に信ずることによって、自然のうちに、娑婆即寂光となり、即身成仏していくのである。「発心真実ならずとも正境に縁すれば功徳猶多し」とある通り、これが、仏の用いられる秘妙方便の原理である。
 われわれの信心に約するならば、功徳と罰がそれである。たとえば、病人が病気を治したいと願って信心に励む。もとより、病気を治すことが仏法の究極の目的ではない。仏法の目的は成仏である。だが、病気を治したいと願って、一生懸命に題目をあげ、信心に励むことによって、病気も治るとともに、あらゆる福運を積み、さらには、成仏を遂げることができるのである。
これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり云云
 悪知識とは、ここでは、法然や極楽寺良観等の念仏の僧をさして申されている。総じて正しい仏道修行を妨げ、人々を不幸に陥れる者を悪知識というのである。
 涅槃経には、次のように説かれている。
 「菩薩摩訶薩、悪象等において心に怖畏することなく、悪知識においては怖畏の心を生ぜよ。何をもっての故に、この悪象等は唯よく身を壊りて心を壊るに能わず、悪知識は二倶に壊るゆえに、この悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。この悪象等は唯よく不浄の臭き身を破壊す、悪知識はよく浄身および浄心を壊る。この悪象等はよく肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る。この悪象等は但身の怨となり、悪知識は善法の怨とならん。このゆえに菩薩、常にもろもろの悪知識を遠離すべし」
 この文には、いかに悪知識を怖るべきかを明確に説かれている。なかんずく、念仏の教えは、無間地獄の邪法であり、人を念仏の信仰に入れることは、即、その人を無間地獄に突き堕とすことにほかならない。はっきりと姿にあらわれた形では知ることができないが、その人の生命の内に鋭い観察の眼を向け、また、その人の生活の全般と人生行路を英知をもって捉えるならば、不幸の姿は歴然たるものがある。たんに肉体を傷つけるのではない。精神と肉体との両方を切りさいなみ苦悩のどん底に叩きおとすのである。しかも世間からは、あたかも高徳の人格者であるかのごとく、うやまわれ、供養されて、祭り上げられているのが、こうした邪教の指導者なのである。これこそ、いかなる凶悪犯人の何千万憶倍も恐るべき魔物ではないか。まことに、誤れる思想、そしてその思想を人に教える者こそ、世に最も恐るべきものである。
南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて云云
 末法の正しい仏道修行は、あくまでも法華経の題目を根本とすべきことを示されて、本抄の結びとされている。
 「南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみ・なるやうに申し給はんこそ」云々とは、相手の念仏に対する執着が強い点を考慮されて、このように申されたのである。
 これについて日寛上人は文段で次のように述べておられる。
 「問う、既に以上に判じて念仏を行ずるを以って他の宝を数うるに譬えまた之を勧むる人を以って悪知識と名づけて虎狼等に類す、今何んぞ時時は唱うべしと許すや。
 答う、且く念仏執情の女人に対する故に一往台家の法門を以ってこれを誘引したもうなり、台家の法門とは十章抄三十に云く『されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但しこれらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり』云云と、伝教大師云く『正には法華経に依り傍には一切説の円教に依る』等云云。況んや『心に存すべき事は一念三千の観法なり』と云云、故に知んぬ正しく台家の法門にして全く当家の法門に非ざるなり、況んや復究めて其の義を探るに正しく念仏制止の意なり、何んとなれば一日に一万返の後、尚暇有る可からず、況んや六万返の後をや何に況んや十万千万の後をや、故に知んぬ義意は究めてこれを制するなり」と。
 すでに、念仏が「女人不成仏・不往生」の修行であり、これを幾ら称えても「他の財を数える」ようなものである。さらには、虎や狼、山賊や海賊に襲われるよりも恐ろしいことであると、前に説かれているのであるから、ここに「時時、口ずさみのように軽い気持ちでならばとなえてもよい」といわれているのも、決して、それを許されているのではないことは明らかであろう。
 事実、一日に六万も十万も題目を唱えるとすれば、その暇に念仏を称えるなどということは不可能である。さらに、千万も唱えてというのは、事実上、無限ということであり、昼夜、朝暮に、南無妙法蓮華経の題目のみを唱えなさいとのおおせと拝すべきである。「正直捨方便」「不受余経一偈」の精神を、言葉の上ではなくとも、事実の上に教えられているのである。
 浄徳夫人、竜女の例は、女人成仏の代表である。経王殿御返事にいわく「浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ」(11025-02)と。
 この女人成仏の代表たる浄徳夫人は法華経妙荘厳王本事品に説かれており、淨蔵・淨眼の二人の太子の出家を許したのは法華経を弘めさせんがためであった。みずからも、法華経を信仰し、また、淨蔵・淨眼と力を合わせて、夫の妙荘厳王にすすめて信仰させたのも法華経である。
 竜女は、同じく法華経の提婆達多品に登場し、即身成仏を遂げて「我れ大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」と誓っている。この大乗経が法華経であることもいうまでもない。
 このように、女人成仏の手本である浄徳夫人も竜女も、ともに法華経を根本としている。しかるに、今日の世の女人は女人不成仏の念仏を行じて、成仏往生を願っているのは、まことにかわいそうなことである、速やかに念仏の執情を翻しなさいとのおおせである。

0940~0949    法華経題目抄 2014:7月号大白より、先生の講義top

唱題し抜く人は歓喜・幸福・栄光
 65年前の1949年(昭和24)7月。日蓮大聖人の仏法を世に知らしめ、広宣流布推進の原動力となる機関紙「大白蓮華」が誕生しました。
 当時の発行部数は1000部。
 恩師・戸田先生は「宗教革命」と題する巻頭言、さらには「生命論」を執筆されました。21歳だった私も校正作業に携わり、師弟一体の機関誌の創刊に尽力したことを、昨日のように思い出します。
 創刊号に掲載された恩師の師子吼に応えんと、私は「大白蓮華」の第2号に、詩「若人に期す」の一文を寄せました。
    「生命の本質を証明し
    宇宙の本源をあかした
    日蓮大聖人の大哲学にこそ
    若人よ わたしは身を投じよう
    知あるものは知れ
    人類を愛する者は動け
    悠久の平和 広宣流布
    若人よ 眼を開け
    若人こそ大哲学を受持して
    進む情熱と力があるのだ」
 人類を照らす大仏法を弘める主体者は“我ら青年なり”との決意を綴りとどめたのです。
慈悲と智慧あふれる「白蓮華」
 「大白蓮華」は、今や世界の識者も注目し、賞讃する論陣となっています。世界中に「姉妹紙」というべき機関紙が発刊され、愛読してくださっている知性の方々も多い。内外の友に、勇気と希望の哲理を届けている世界の機関誌とともに、広宣流布はいよいよすすんでいます。
 そもそも「大白蓮華」の「白蓮華」とは、妙法蓮華経の蓮華です。万人成仏の妙法を体現し、無限の慈悲と智慧にあふれる真実の仏の象徴です。
 妙法は、「一切衆生が皆、仏である」という真理にめざめさせる教えです。
 ゆえに妙法は、三世永遠の「絶対的幸福」の軌道です。
 妙法に勝るものは、断じてありません。
 「大白蓮華」という題字には、偉大なる妙法を説き明かし、その極理を万人に伝えゆかんとする誓願が込められているのです。
 草創の父母は、「大白」を携えて、勇んで友の激励に、弘教にと歩きました。
 どんな苦難や試練に直面しても、希望の哲学を胸に懐き、常に題目を唱えて進んでいく人生は、晴れ晴れと輝きます。自行化他の唱題で「心の財」を積む人は、三世永遠に幸福と勝利の軌道を進みゆけるのです。このことを大聖人は繰り返し記されています。
 まさしく、今回拝する「法華経題目抄」では、希望と勇気の源泉となる哲学が示され、女性門下に幸福になる直道を教えられています。妙法の偉大な功力を学んでいきましょう。

0940
法華経題目抄    根本大師門人    日蓮 撰
01   南無妙法蓮華経
02   問うて云く法華経の意をもしらず 只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期
03 生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして 四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、 答
04 えて云くしかるべきなり、
-----―
 南無妙法蓮華経
 問うて言う。法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間に只一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣に堕ちないで、ついには不退転の位に到達することができるのか。
 答えて言う。いかにもそのとおりである。

一遍の題目にも無量の功力
 「南無妙法蓮華経」の七字にいかなる力用が具わっているのか。
 大聖人は、本抄の冒頭で、「意味も分からずに一遍の題目を唱えたとしても本当の功徳があるでしょうか」との問いを立て、法華経の題目の功徳力を厳然と明かされます。
 本抄の執筆は、文永3年(1266)1月、与えられた人についての詳細は不明ですが、内容から、かつて念仏をしんじていた女性であると考えられています。入信して、ほどない門下とも思われます。
 大聖人は冒頭から、題目を唱える功徳が絶大であることを示されています。
 「一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間に、ただ一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣に趣かないで、ついに不退転の位に到達することができる」と御断言です。
 妙法には広大無辺な仏力・法力があるから、一切の悪業を転換することができるのです。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」(1124-07)です。
 どんなに百獣が吠えても、師子の一声はすべてを打ち破ります。一遍の題目の大善の功力は、諸の悪をすべて打ち破るのです。
 「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(1553-12)です。
 植物の種は、たった一粒であっても、芽を出し、多くの葉を茂らせ、万朶の花を咲かせ、実を結ぶという力が具わっています。
 仏種である南無妙法蓮華経の題目には、成仏をもたらす一切の修行の因と、成仏した時の福徳の果がすべて納まっています。それゆえ、ただ一遍でも、我が心の田に植えるなら、仏と同じ境涯をわが身に必ず実現することができるのです。
 本抄を頂いた女性門下は、「たとえ、一生に一遍の題目であったとしても、成仏の軌道に入れる」との大聖人の大確信に、深く安心して、信心を強め、さらに歓喜に燃えて唱題に励んだに違いありません。
一切経の肝心、諸仏の眼目
 引き続き大聖人は「師子の筋を琴の絃にしてひとたび弾けば、他の動物の筋で作った絃はことごとく断ちきられてしまう。梅の実の酸っぱい名を聞けば、それだけで口に唾液がたまる」と、世間の不思議ですらこのような例があり、ましてや「法華経の不思議」においては、なおさらであると仰せです。
 功徳とは、悪を滅し、善を生ずることです。「法華経の題目」は、生命の根源の悪を滅し、根本の善を生じさせます。それゆえに、無数の罪業は一時にぱっと消し去り、無量の福徳を開き現せるのです。
 迷い、悩み、苦しむ凡夫が、一遍の題目で変毒為薬し、希望と勇気と安心の境涯を開いていける。まさに凡夫にとって「不思議の法」であり、仏が悟った妙なる法であるゆえに、「妙法」なのです。
 大聖人は、「」(0940-08)と明言されています。「八万聖教の肝心」とは、一切の仏の説法、あらゆる法門の要であり、肝心であるとの意義です。仏教のけつろんとは、この凡夫成仏の妙法にあるといことです。
 また、「一切諸仏の眼目」とは、あらゆる仏が皆、この妙法を覚知して仏になったとの意です。すなわち「南無妙法蓮華経」こそ、三世永遠に万物を貫く根源の一法なのです。
唱題の根本は「信」の一字に
 この根源の大功徳を開く要諦は何か。
 それは「信」の一字です。大聖人は続いて「有解無信」と「無解有信」とを相対し「信」の重要性を教えられています。
 「有解無信」とは、仏法の法門に理解はあるが、信心はないこと。反対に「無解有信」とは、仏法の法門に理解はないが、信心はあることを指します。
 もちろん一番良いのは、仏法の法門について理解もあり、信心もある「有解有信」です。しかし、仏の智慧は甚深無量であり、その究極・肝心の法を、凡夫が自らの智慧ですべて理解することは不可能です。
 法華経の譬喩品第3には「以信得入」とあります。すなわち、釈尊の弟子で「智慧第一」と讃えられるほど優秀だった舎利弗も、最終的には「解」によってではなく、師の広大無辺な教えを信ずることによって、法華経の妙理を会得しました。まさに「信」こそ、仏道を成就する要諦なのです。
 御本尊は「功徳聚」ともいわれています。その尽きることのない功力を引き出していく要諦は、自身の強盛な信心です。本抄に「夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす」と仰せの通りです。
 真剣にして、地道な唱題の実践の中で、無限の功徳が現れるのです。題目を唱えれば、生命力が湧き、勇気が湧いてきます。
 「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(1143-05)です。苦しい時こそ題目、行き詰ったら題目です。
 戸田先生は、折々に語られていました。
 「御本尊への強い願いは、必ず通ずる。それには、条件が三つある。一つ、題目。二つ、題目。三つ、題目である」
 題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである。
 「題目は、真剣勝負で祈れば、必ず功徳となって現れる。真剣に祈れば、雑念は消え、広布の戦いに勝つことに集中できるようになる。
 「負けてたまるものか!と、腹を決めるのだ。題目をあげにあげて戦うのだ。根本は題目だ。祈りである」
 一人一人が広宣流布に生き、幸福になる直道を戸田先生が教えてくださったのです。
 創価学会は、「大聖人直結の信心」があります。各人が「誓願の祈り」を持っています。一切経の肝心・諸仏の眼目である「法華経の題目」を、最高の「信」をもって唱えているのですから、あらゆる宿業は全部敗れて、寂光の大空を自在に遊戯する大境涯になることは間違いないのです。

10   問うて云く妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや、 答えて云く大海は衆流を納めたり大地は
11 有情非情を持てり 如意宝珠は万財を雨し梵天は三界を領す 妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並
12 に仏界を納む、 十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む、
-----―
 問うて言う。その所信所行の妙法蓮華経の五字とは一体どれほどの功徳を納めているのか。
 答えて言う。大海はあらゆる河川の流水を納めており、大地は有情・非情にわたりて全てを包み持っており、如意宝珠は、あらゆる財宝をふらし、大梵天王は欲界・色界・無色界の三界の全てを治領する。
 妙法蓮華経の五字も全く同様であり、一切の九界の衆生も仏界とともに十界互具して妙法蓮華経に納めている。正報である十界の衆生が妙法蓮華経に納まっているならば、また十界の依報である国土も当然妙法に収まり、したがって三千の万法を全て収めているのである。

全宇宙の功徳が納まる「妙法」
 ここからは、「妙法蓮華経の功徳」そのものがいかに大きいかを説かれていきます。
 まず「妙法蓮華経の五字に、どれだけの功徳が納められているか」との問いを立てられ、九界並びに仏界の衆生すべて、そしてそれら十界の衆生が依って立つ環境である国土をも納めていると仰せです。
 「大海は衆流を納めたり」とは南無妙法蓮華経の一法に十界の依正、森羅万象が含まれることの譬えです。
 また、無量の宝を意のままに取り出せる「如意宝珠」という宝を一つ手にすれば、すべての宝を手に入れることができます。これは、南無妙法蓮華経から無量の功徳が開き、現せることの譬えです。
 妙法の題目には、一切の功徳がすべて余すところなく納まっているのです。
 言い換えれば、妙法といっても、自身を離れて、どこか外に求めてはならないということです。私たち一人一人の生命が、本来、妙法の当体なのです。自身の中に、もともとある力を引き出していく実践が唱題行です。
 大聖人は、自分の外に成仏の根本因を求める生き方は仏法ではないと断言され、「己心の外に法ありと思はば 全く妙法にあらず麤法なり」(0383-06)と厳に戒められています。
 戸田先生は「題目を唱え奉ることが、仏の境涯を開発することである」「信心とは、最も強く自分で確信することです。自分自身が妙法の当体なのだから、諸天善神が守らないわけがないと確信して、題目をあげた時に、必ずそうなるのだよ」と語られています。
 「妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる」(0942-12)です。したがって、仏法の真髄はどこまでも、「わが身こそ妙法の当体である」と確信して、自身に具わる妙法の功徳を開き現し、満喫することにあるのです。

10                                          妙とは法華経に云く「方
11 便の門を開いて真実の相を示す」、 章安大師の釈に云く「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」、 妙楽大師此
12 の文を受けて云く「発とは開なり」等云云、 妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事
13 かたし開かざれば蔵の内の財を見ず 、
-----―
 妙とは法華経の法師品にいうには「爾前方便の権門を開いて真実の相すなわち如来所証の本法を示すのである」と。章安大師は釈して「秘密の奥蔵を開いて法体法爾の本妙を顕示することを妙というのである」といい、妙楽大師はこの文を受けて玄義釈籤の第一に「発とは開くことである」といっている。すなわち妙ということは開くということである。
 一般的にいうと財を積んである蔵も、鑰がなければ開くことはできない。開かなければ当然蔵の内の財を見ることはできない。

妙とは「開の義」
 続いて大聖人は、「妙」の一字が持つ、甚深の意義について述べられていきます。本抄では、「開の義」「具足・円満の義」「蘇生の義」という「妙の三義」が示されています。
 まじ、「妙と申す事は開ということなり」との御文は、「開の義」です。法華経こそが、成仏の大目的である一切衆生の成仏の道を開く、唯一の経典であると明かされています。
 妙法には、九界の現実の人間生命が秘められた仏界という胸中の法蔵を開き、万人の生命を躍動させていく力があります。
 法華経が説かれる以前の諸経では、仏の究極の悟りでる妙法という財宝を納めた「蔵」は閉ざされたままでした。蔵があるように見えても、その中身の財宝を見た人はいなかったのです。
 万人成仏を明かす法華経が説かれることによって、初めて諸経の蔵が開き、釈尊が真に説きたかった妙法という「財」が現れました。
 これは仏教とは何か、という本質的な急所を教えられていると拝されます。さまざまな経典で、仏という偉大な人格や、広大な仏の覚りが説かれていますが、本当の意味でその教えが万人に開かれていなければ、何の利益もありません。
 実際に、私たち自身の人生が変わり、現実の生活の中に仏と同じ尊極の境涯が現れなければ、仏教の真価は発揮されません。当時の仏教信仰は、自分の外に「偉大な仏」を置いて、その仏の功力を頼むだけの信仰です。大聖人の時代に流布していた「念仏の題目」は、まさにその象徴です。これに対して、「法華経の題目」とは、自身の生命に具わる宇宙大の妙法の力を顕現し、成仏の大境涯を開いていくための題目です。
 冒頭に紹介した「大白蓮華」の創刊号の巻頭言「宗教革命」で、戸田先生は示されました。
 「そもそも宗教とは『生活の法則』であり、生活そのもののなかに存在しなければならない」「いま、かりに、青年や知識人に対して、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏とどう違うかと質問したら、それに答えられる者が、いく人あるだろうか。満足に答えられる者は、皆無といってよい。それほどまでに、仏教は社会に見放され、社会人は仏教を日常生活に必要としなくなった」と。
 本物の仏教があれば、社会は一新します。その本物の民衆仏法を大聖人は確立されました。それが妙法の題目です。
 大聖人の仏法はどこまでも自分を変え、現実を変革する宗教です。自分自身に具わる仏性を涌現させ、自身が人間革命していくのです。日々、朗々と題目を唱えて信仰の体験を積み、その喜びを語り善の連帯を広げていく。目覚めた民衆仏法の土台の上に、生命尊厳・人間尊敬の文化が開かれ、社会の繁栄、世界の平和も確立されていくのです。

06                                 妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙
07 とは具の義なり具とは円満の義なり、 法華経の一一の文字・ 一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり、
08 譬えば大海の一渧の水に 一切の河の水を納め 一の如意宝珠の芥子計りなるが 一切の如意宝珠の財を雨らすが如
09 し、
-----―
 妙とは天竺では薩といい、漢土では妙という。妙とは具足の義で、具足の具とは円満という意である。すなわち、法華経の一つ一つの文字に、六万九千三百八十四字の徳が欠けることなく納まっているのである。譬えば大海の一渧の水にはいっさいの河の水が納まり、芥子ほどの大きさのたった一つの如意宝珠が、いっさいの如意宝珠の財を降らすようなものである。

妙とは「具足・円満の義」
 続いて「妙とは具の義なり具とは円満の義なり」と述べられ「具足・円満の義」を示されます。先にも確認したように、法華経の題目は「根源の一法」であり、あらゆる功徳が完全に収まっています。
 御文には「譬えば大海の一滴の水に一切の河の水を納め」とあり、また、この御文の直後には「秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉・華菓・出来するが如し」(0944-09)と仰せのように、「妙」の一字には、あらゆる法と功徳が円満に具わり、縁に応じて現れます。
 この「妙」の一文字に、法華経の一切の功徳が、一つも欠けることなく具わっているのです。「妙法」は、古代インドの言葉「サッダルマ」を鳩摩羅什が意訳したものです。この「薩」には、「具足」という意味があるとされています。
 すなわち、芥子粒のように小さい如意宝珠から一切の宝が現れるように、また、秋冬に枯れはてえたようになっていた草木が、春夏の日を浴びて枝葉を茂らせ、花を咲かせ、実を成らせるように、法華経の一つ一つの文字は、あらゆる法と功徳を具えており、万物を生き生きと蘇生させます。
 妙法の音声には、全宇宙のあらゆる仏が具えている尊極の仏性を呼び覚ます力があります。ゆえに題目を唱えた瞬間から、仏天の加護が動き始め、すべてを味方へと転じていけるのです。

02                妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、 譬えば黄鵠の子・死せるに
03 鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、 鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆
04 よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還
05 つて生ずるが如し、 
-----―
 妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである。譬えば、黄鵠の子が死んだときに鶴の母が子安・子安と鳴くと、死んだ子が蘇つとか、鴆鳥が水に入れば魚介類はことごとく死んでしまうが、その場合、犀の角に触れれば、死んだ魚介類が皆蘇るといわれているのがそれである。同様に、四十余年の爾前の経々で種子を焦って死んだ声聞・縁覚の二乗も一闡提人も、女人も、いずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持するならば、焦って死んだ仏種が蘇って芽を生ずるのである。

妙とは「蘇生の義」
 最後に「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」です。この「蘇生の義」は、いかなる衆生をも蘇生させ、成仏させることができるという妙法の無量無辺の功力を説いたものです。爾前経で“成仏できない”とされた悪人・女人・二乗をも成仏させることができると示されています。
 ここでは「妙」の字の功徳を草木の蘇生に譬え、また、勝れた薬師が毒を薬と為すという変毒為薬の譬えを通し、「妙法」の功徳の偉大さを教えられています。蘇生とは、生き返ること、蘇るという意味です。
 法華経は、他のあらゆる経典に説かれなかった、一切衆生の成仏の法理を明らかにしました。どの経典も救わない悪人や女人の成仏を明かし、万人成仏の道を開いたのです。
 いわばすべての人が見捨てても、絶対に見捨てないのが法華経ともいえるでしょう。妙法を信受することで、いかなる人も成仏の境涯を開くことができるようになった。これは、人類の宿命を一大転換する光源です。苦悩のどん底から、創造の歓喜の生命へと変革させるエネルギーが、妙法の蘇生の力です。
題目を唱える人に行き詰まりはない
 初代会長の牧口常三郎先生が拝されていた御書にも「妙とは蘇生の義なり」の一節に傍線がひかれていました。戸田先生は「御本尊の力は、ただただ“妙”と申し上げる以外にない。絶対に功徳ある御本尊だ。祈りの叶わぬわけがない。寸暇を惜しんで題目をあげるのだ!」と語られていました。
 3年前、あの東日本大震災の直後、アメリカのデユーイ協会のガリソン元会長は、すぐさま真心の励ましを寄せてくださいました。その中で、博士は「私が直ちに想起するのは、創価学会が大戦の廃墟から、たくましく立ち上がった団体である、という事実です。まさに『妙とは蘇生の義なり』を、現実のうえで実証した団体であります」と語られていました。氏は「妙の三義」を挙げて、「自身の可能性を開き、蘇生させ、新たな創造へと」向かう」学会員の存在に、復興への希望を見出されていました。
 希望の淵から活力みなぎる生活への転換を果たす。まさしく一人一人の学会員の人間革命の姿にほかなりません。創価学会は「妙とは蘇生」の御聖訓を、全世界で証明してきました。この歓喜と躍動の民衆の潮流は、もはや誰人も止めることはできません。一人一人が「幸福の主人公」との逆転劇が、世界。中で演じられているのです。
 「妙の三義」の結論は、闇を破る旭日のように、妙法を唱え抜く人生には、絶対に行き詰まりがないということです。日蓮仏法の根本は唱題です。朗々と題目を唱える時、我が胸中に太陽が赫々と昇る。力があふれる。慈愛がわく。歓喜が燃える。智慧が輝く。諸天・諸仏が一斉に働き始める。人生が楽しくなる。題目の力にまさるものはないのです。
 今、世界5大州に題目の音声が響き渡る世界広布新時代を迎えました。なかでも21世紀の希望大陸と輝くアフリカ広布の伸展は著しい。一昨年私は、SGI青年研修会で聖教新聞社を訪れていた17人のアフリカ青年部のメンバーを激励しました。皆、地涌の誇りと使命に燃え、人類の未来を開くとの決意が迸っていました。母国へ戻り、一人一人が大きな広布拡大の原動力となっていることも、何よりも嬉しく、何よりも頼もしく聞いています。
 今、アフリカの大地に題目の音声が響き渡り、蘇生と希望の道を歩む同志が続々と誕生しています。青年が輝いている。妙法という幸の種が蒔かれ、幸福の波動が広がり、ついに「アフリカの世紀」が到来したのです。
「信心は勝利の軌道の法則」
 「南無妙法蓮華経を只一度申せる人・一人として仏にならざるはなしと」(1537-01)と仰せです。何か悩みがあったら、まず御本尊の前にすわり、どこまでも唱題根本に進む。その「心」を持っている人が勝ちます。
 戸田先生は言われました。
 「信心は宇宙の究極の法則」
 「信心は智慧の宝蔵」
 「信心は無上の幸福学」
 「信心は勝利の軌道の法則」
 題目を唱える我らに恐れはありません。さあ、きょうも、朗々たる題目を唱えながら、はつらつと生命力を湧き立たせ、勇んで、「幸福の対話」を繰り広げていこう!
 人間の可能性を開き、幸福への根源の力を蘇らせる偉大な哲学を、皆が待っています。求めています。創価の地涌の菩薩がいやまして全世界に躍り出て、大白蓮華の如く幸福勝利の大輪を咲き薫らせる時が来たのです。