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日蓮大聖人御書講義160949~0975

         富木殿について
0949~0949    富木殿御消息
0949~0949    富木殿御返事
0950~0950    真間釈迦仏供養遂状
0950~0951    土木殿御返事(依智滞在御書)
0951~0954    寺泊御書
           はじめに
  0951:01~0951:04 第一章 寺泊到着を知らせる
  0951:05~0952:09 第二章 末法怨嫉の経証を知らせる
  0952:09~0952:18 第三章 諸経は法華経の讀命重宝と明かす
  0952:18~0953:11 第四章 善無畏等の内心帰伏を明かす
  0953:11~0954:02 第五章 折伏値難は経証身読なるを明かす
  0954:02~0954:08 第六章 正法流布の時を末法と示す
  0954:09~0954:14 第七章 入道を帰し富木殿に謝す
0951~0954    寺泊御書(2011:11大白蓮華より 先生の講義)
0955~0956    富木入道殿御書(願望仏国事)
  0955:01~0955:04 第一章 佐渡の近況を伝える
  0955:05~0955:13 第二章 末法適時の果報を喜ぶ
  0955:14~0956:14 第三章 死身弘法の決意を述べる
  0955~0956    富木殿御返事(願望仏国事(願望仏国事)(2015:07大白蓮華より 先生の講義)
0956~0961    佐渡御書(富木殿等御返事)
           はじめに
  0956:01~0956:03 第一章 論釈等の送付を依頼する
  0956:04~0957:01 第二章 不惜身命の信心を勧める
  0957:02~0957:12 第三章 折伏こそ時機に叶う修行と明かす
  0957:13~0958:07 第四章 自界叛逆難の予言的中を挙げる
  0958:08~0958:16 第五章 留難も先業によるを明かす
  0958:16~0959:14 第六章 一国謗法の根源を示す
  0959:15~0960:09 第七章 謗法の罪報を今世に転ずるを明かす
  0960:09~0960:16 第八章 自身の滅罪と謗法者の造業を示す
  0960:17~0961:06 第九章 愚癡の門下を戒める
  0961:07~0961:11 第十章 本抄の閲読を勧める
  0957~0961    佐渡御書(富木殿等御返事)(2009:01.02.03大白蓮華より 先生の講義
0962~0962    富木殿御返事
0963~0963    土木殿御返事
0964~0964    富木殿御書(道中御書)
0964~0964    土木殿御返事
0965~0967    法華行者逢難事
  0965:01~0965:13 第一章 三大秘法の名目を明かす
  0965:14~0966:08 第二章 法華行者逢難の文証と事実を挙ぐ
  0966:09~0966:11 第三章 仏の在滅の法華経の行者を挙ぐ
  0966:11~0967:09 第四章 末法の法華経の行者を明かす
0968~0968    富木殿御返事
  0968:01~0968:09 第一章 経典を引き母の恩を示す
  0968:09~0968:15 第二章 供養の功徳を教える
0969~0970    富木殿御書(止暇断眠御書)
  0968:09~0968:15 第一章 謗法の悪業深重を示す
  0969:15~0970:03 第二章 賢聖の謗法懺悔を挙ぐ
  0970:04~0970:18 第三章 真言三師の謗法根源を明かす
0971~0971    御衣並単衣御書
0972~0973    観心本尊得意抄
  0972:01~0972:05 第一章 商那和修と供養の功徳を示す
  0972:06~0972:10 第二章 迹門不読の疑心を正す
  0972:11~0973:03 第三章 爾前諸経を引証する所以を示す
  0973:04~0973:12 第四章 法華大網・爾前網目の文証を挙ぐ
0974~0975    聖人知三世事
  0974:01~0974:07 第一章 三世を知るが聖人なるを示す
  0974:08~0974:10 第二章 不軽を継ぐ行者なるを明かす
  0974:10~0974:15 第三章 一国一同に頭破七分なるを示す
  0974:15~0975:02 第四章 妙法なる故に人貴きを示す

         富木殿についてtop

 富木常忍およびその女房に与えられた御書を講義する前に、次の三点に分けて述べることにする。すなわち、
   第一に、富木家の家系・家族構成・常忍の社会的地位の考察
   第二に、日蓮大聖人と富木常忍の関係・常忍の信心について
   第三に、常忍の晩年と大聖人滅後の御書の厳護
 についてである。
第一 富木家について
(一)出自について
富木常忍の居住地

 富木常忍は、下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住し、千葉氏に仕えていた武士である。
 現在、中山法華経寺の奥の院の寺城が館跡であるといわれ、周囲に武士の館跡を思わせる土塁が残っている。若宮館址と呼ばれ、中世前期に特徴的な単郭方形館の様相を示している。なお、一時的には多郭式な館であったとも考えることのできる部分がある。
 若宮の地に、このほかには、武士の館を思わせるような遺構はみられない。したがって、若宮館址こそが、鎌倉中期のころに構築された富木家の館跡であるとみてよいであろう。
 また、この地は、かつての下総国の国府にも近かった。
富木常忍の呼び名
 富木常忍の呼び名については、大聖人の御書、本人の署名、弟子の文献、ならびに「聖教紙背文書」によってさまざまである。とき殿、富木入道、常忍上人、日常、常修院日常、富木五郎、富木五郎入道、沙弥常忍等である。
 また、「日蓮教団全史上」によると、摂津国梶折一乗寺に所蔵する、天正年間(1580頃)の作と推定される「正中山法華経寺日常聖人由緒」という文書には「富木五郎常忍」と記され、宝暦5年(1755)の中山法華経寺縁起には「常忍」に「ツネノブ」と読みが付けてあると述べている。
 これらを総合すると、常忍の呼び名は、富木五郎常忍といい、入道してからは「常忍」をそのまま法号として用い、富木五郎入道常忍と称し、その後、大聖人から日常との法名を賜ったといわれ、常修院日常と号したようである。
 従来「富木五郎胤継」が本名であるという説があった。しかし、大聖人の御書をはじめ、古い記録には「胤継」という名称は見られない。この名称が文献にみられるのは、享保5年(1270)に著された智寂日省の本化別頭高祖伝に「富木氏に胤継という者あり」とあるのが初めてのようであり、その後、六牙院日潮が本化別頭仏祖統紀巻十に「五郎胤継」と記述した。
 これは、富木常忍が千葉氏一族と深いかかわりをもち、しかも常忍の死後、中山法華経寺第三代日祐のころから、中山法華経寺が千葉胤貞一族の氏寺化するようになったために、日祐の外護者であった千葉胤継と常忍が混同され、いつしか「富木胤継」が本名であるという誤解が生じ、そのまま伝えられたものと考えられるのである。
富木常忍の出身地
 富木常忍の出身地は因幡国(鳥取県)であり、元来、下総国の人ではない。このことは、大聖人が弘安元年(1278)8月に伊与房日頂に授与した御本尊に、日興上人が「因幡国富城五郎入道の息伊与房日頂の舎弟寂仙房に之を付属す」と添書しており、また富士一跡門徒存知の事に「因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる」(1605-08)とあることからも明らかである。
「和名類聚抄」によれば、因幡国法美郡に罵城郷があり、これを「度岐」と註記している。おそらく「罵」は「富」を誤記したものと思われるので、富木常忍の本貫の地は、この因幡国法美郡富城郷(鳥取県岩美郡)であったと考えられる。
 大聖人の御消息の宛名をみると、その大部分が「富木」と書かれているが、なかには「土木」とあったり、「富城」と書かれているものもある。当時の習慣として、このような借音が用いられたとみられるが、出身地名からすれば、「富城」が正しいと思われる。
 富木常忍が、この因幡国から下総国へいつ、いかなる理由で移ってきたのか、そのことは明らかではない。
 ただ、常忍が、自分の所従を因幡国一宮の公文元富が拘留しており、早く自分の許に返すよう、一宮の政所に訴えた沙弥常忍訴状がある。その中で「件の条、彼の奴原は去る建長2年(1250)の比、富城中太入道法名蓮忍の手より常忍これを譲得するところなり。譲状顕然なり。蓮忍、関東に居住せしむるの後、件の奴原自然に元富の辺を経廻せしむる……」とある。
 この文にある富城中太入道蓮忍とは、常忍の父と思われ、常忍に所従を譲った後に関東に移住したようである。つまり、富木氏は、蓮忍の代に、それも、建長2年(1250)以降に因幡国から関東に移住したものと考えられるのである。なお、聖教紙背文書の中で、常忍に宛てられた文書のうち、日付けが明らかなものは、建長3年(1251)3月20日付のものが初めてである。
富木常忍の出生
 富木常忍の生い立ち等に関しては、信頼できる文献、資料が少なく、さらに俗伝等が加わって種々の説があり、不明瞭な点が多い。
 生年については、大聖人御聖誕の2年前の承久2年(1220)とする説もあるが、永仁7年(1299)3月20日に84歳で寂したという本化別頭仏祖統紀の記載から逆算した、建保4年(1216)とする説がおもに用いられている。
 出生地に関しては、下総国若宮、鎌倉、さらに因幡国富城郷とする説等々、いくつか挙げられる。前述のように、おそらくは因幡国富城郷ではないかと思われるが、いずれにしても決定的なことはわからない。
 幼少年期および青年時代についての資料は皆無に等しい。常忍の身辺が明らかになるのは、建長年間に入ってからであり、それ以前のことについては詳らかではない。
 父母については、俗伝等が加えられたその最たるもので、古来より伝えられるところによれば、父は将軍源実朝の近仕であった土岐左衛門尉光行であり、母は下総国の千葉胤政の娘であるといわれている。しかし、この説はただちに信ずることはできない。
 なぜなら、土岐氏は元来、美濃国土岐郷(岐阜県)から興ったのであり、常忍の本貫の地は因幡国富城郷であることが明らかだからである。
 また、常忍が光行の子であるとするならば、隠岐守である土岐光定と同一人物か、もしくは兄弟となるわけであるが、系図等でみるかぎり、常忍との関係を裏付ける記述は皆無である。さらに、常忍直筆の沙弥常忍訴状にみえる、常忍に所従を譲った富城中太入道蓮忍についても、土岐氏との関係はみられない。
 おそらく、土岐光行を常忍の父とするのは、富木氏を美濃国の土岐氏と結びつけるために起こった説ではないかと思われる。
 むしろ、沙弥常忍訴状にみえる富城中太入道蓮忍こそ父ではないかと考えられる。もとより、蓮忍についても、その事績等については明確ではないが、沙弥常忍訴状等より推察すれば、因幡国の国衙に関係のあった人ではないかと思われるのである。
 母についても、千葉胤政の娘との説は土岐光行との関係においていわれたものであり、信憑性は薄い。
 いずれにせよ、常忍の母が長命であったことは、文永12年(1275)の「富木殿御返事」に、御供養した帷について「此れは又齢九旬にいたれる悲母の愛子にこれをまいらせさせ給える」(0968-09)とあることからもうかがえる。
 忘持経事に「然りと雖も一人の悲母堂に有り朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り営む所は悲母の為め存する所は孝心のみ」(0977-08)と大聖人がおほめになっているように、常忍は孝養の誠を尽くしていたが、建治2年(1276)2月下句に、常忍、尼御前等にみとられながら死去している。一説には93歳であったと伝えられている。
 常忍は、さっそく、亡き母の遺骨を抱いて、身延の大聖人のもとに参じ「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置」(0977-15)し、追善の回向をしているのである。
(二)家族構成
妻・富木尼御前

 常忍は、初め大田乗明の姉を娶ったが、不幸にも早くに死別したために、その後、富木尼御前と大聖人から呼ばれた妙常を妻として迎えたといわれている。
 尼御前は、駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市重須)に生まれ、初め伊予守橘定時に嫁し、まもなく定時が死去したために、富木常忍のもとに再嫁したと伝えられている。
 建治2年(1276)3月、常忍は亡き母の遺骨を奉じて、身延の大聖人のもとに参じた。その折に常忍に託された「富木尼御前御返事」には「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり……ときどのの御物がたり候はこのはわのなげきのなかにりんずうのよくをはせしと尼がよくあたりかんびやうせし事のうれしさいつのよにわするべしともをぼえずと・よろこばれ候なり」(0975-01)といわれている。尼御前は妻としてよく内助の功に励み、嫁として姑に仕えては従順で、しかも孝養心の厚い女性であったと推察できるのである。
 こうした尼御前の人柄もさることながら、「尼ごぜん又法華経の行者なり」(0975-08)とあるように、大聖人に帰依し純真な信仰を貫いていたようである。大聖人はこの純真な信心に対し、弘安2年(1279)には御本尊を授与されている。「因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与え申す」と日興上人が添書された大聖人の御本尊が現存している。
 しかし、尼御前は、建治元年(1275)のころから病魔に悩まされていたようである。可延定業書には「今女人の御身として病を身にうけさせ給う」(0985-14)とある。そして、大聖人は「心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし」(0985-15)また「早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるべし」(0986-03)と激励され、「しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」(0985-15)と、四条金吾の治療をうけるよう勧められている。
 その後、病状は一進一退を続けていたようではあるが、弘安2年(1279)ふたたび発病したとみられる。大聖人は、尼御前の身を心配され、「尼御前御寿命長遠の由天に申し候ぞ」(0987-01)、「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」(0978-06)と病気平癒の御祈念をされている。
 晩年には、我が子日頂・日澄が日興上人に帰伏して富士に移ったことから、尼御前もまた娘の乙御前とともに故郷である富士の地に帰り、日興上人に帰伏し、重須の地で死去したと伝えられる。
 没年については、墓石のある重須正林寺の寺伝によれば嘉元元年(1303)11月1日といわれている。
子供
 常忍には3人の子がいたと思われる。男子2人と女子1人である。
 男子二人については、日蓮大聖人が弘安元年(1278)8月に日頂に授与された御本尊に、日興上人が「因幡国富城五郎入道の息伊与房日頂の舎弟寂仙房に之を付与す」と添書されている。また大石寺十七世日精の富士門家中見聞の日澄伝に「五郎入道常忍、後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闍梨日頂なり、則ち高祖直弟六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是なり、誕生は弘長二年壬戌暦……」と記している。
 これらから、子息2人のうち長子は、のちに六老僧の1人となった伊与房日頂であり、次子は、のちに富士重須談所の初代学頭となった寂仙房日澄である。
 女子については、富士門家中見聞に「乾元元年には下総国伊与阿闍梨日頂、富士に参詣なり、寂仙房帰伏の後、初めて参詣し給へり、此年日澄に本尊授与し給ふ、同母公妙常并に乙御前母子兄弟4人富士に移りて爰に於て終焉なり」とあり、乙御前と呼ばれている。
 ゆえに、常忍には、日頂・日澄の子息2人と乙御前と呼ばれる娘がいたと考えられるのである。
日頂
 日頂は建長4年(1252)駿河国重須(静岡県富士宮市重須)に生まれた。文永4年(1267)大聖人の弟子となったと伝えられる。以後、修学に励み、文永7年(1270)父の常忍が、真間の弘法寺に釈迦仏を造立した時には、大聖人から開眼供養の導師に推されるほど行学は進んでいた。
 大聖人が佐渡に流罪された時も「伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ」(0963)と土木殿御返事にあるごとく、文永10年(1273)は大聖人の側にあって給仕につとめ、大聖人はまたその才能を認められていたのである。
 大聖人が身延に入山されてからは、弘法寺に住していたが、身延に下総にと活躍し、弘安2年(1279)の「富木尼御前御返事」には「いよ房は学生になりて候ぞつねに法門きかせ給へ」(0990-01)とあり、大聖人は下総地方における指導者として、大きな信頼を寄せられていた。
 弘安5年(1282)10月8日、大聖人は、御入滅後のため、本弟子六人を定められ、各地の信徒の要とされた。日頂はその一人に選ばれたのである。大聖人の信頼の大きかった証拠である。
 しかるに、大聖人御入滅後は墓所輪番にも応ぜず、あまつさえ正応4年(1291)には、「天台法華宗沙門」と名乗って幕府に申状を奉呈するなど、大聖人の正意に反する行動をとるようになった。
 のち、いかなる事情によってか明らかではないが、父・常忍から勘当を受けたようで、正安4年(1302)には、真間弘法寺を去って、先に富士に移っていた舎弟の日澄を頼って重須に行き、日興上人に帰伏した。晩年には、自ら重須に正林寺を建てて住み、信心の心を清めて、文保元年(1317)3月8日、66歳をもって死去した。
 なお、日頂の実父は、伊与守橘定時であり、父の死によって母が富木常忍と再縁したため、常忍の義子となったといわれている。
日澄
 日澄については、日精の日蓮聖人年譜に「同二年壬戌富城寂仙房日澄下総に生ず。日頂の舎弟、日向の弟子なり。富士に帰伏し、学頭となるなり」とある。弘長2年(1262)下総国若宮に生まれ、幼少にして民部日向の弟子として出家した。寂仙房と称し、大聖人から日澄との法号を賜り、修学に励んだ。
 日向に従って、日興上人離山後の身延に登ったが、永仁年中に甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町下)の地頭・左衛門四郎光長が新堂を造立して一体仏を安置した。日澄はそれに疑問を抱き、日興上人の許に行って大聖人所立の正義を聞き、自義としたのである。
 正安2年(1300)日向が、その新堂並びに一体仏を開眼供養するに及んで、日向と義絶し、富士重須へ行き日興上人に帰伏した。
 以来、日興上人の側にあって教学の興隆に務め、乾元元年(1302)重須談所の初代学頭となった。延慶2年(1309)には日興上人の命によって「富士一跡門徒存知の事」の草案を作ったといわれる。
 日順阿闍梨血脈には「日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し・宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す、其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざること無し」と、その学匠としての博学ぶりを推賞している。
 延慶3年(1310)3月14日、49歳にして重須で死去している。
乙御前
 乙御前については、詳しいことはわかっていない。初め南条時光の弟七郎五郎の妻となったが、夫に先立たれて尼となり、妙国尼といったという説もあるが、七郎五郎は16歳で死亡しており、信じがたい。
 堀日亨上人の富士日興上人詳伝には「澄師が先に富士に移りしによって、それをたのみに、母の妙常も、姉の乙御前も、また頂師自身も、心身ともに興師に帰伏して……」と、乙御前を日澄の姉とし、日興上人に帰伏したと述べている。
 徳治3年(1308)2月7日、重須に死去したことが正林寺の寺伝に記されている。
 なおこの乙御前を、大聖人から「日妙聖人」と名を賜った婦人の娘・乙御前と同一人物である、すなわち、日妙尼が常忍と再婚して富木尼御前と呼ばれたのであるという説があるが、御書を拝するかぎり、同名異人であると思われる。
(三)社会的地位
 富木常忍については、従来、鎌倉幕府に仕えており、おそらくは問注所の役人ではなかったかと考えられてきた。これは、問注得意抄にある「今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し……各各は一処の同輩なり」(0178-04)との御文をとおして、問注所に「知音」「一処の同輩」がいる等々の理由から推定された説のようである。
 しかし、近年、中山法華経寺に現存する聖教紙背文書の解明、研究が進み、常忍の社会的地位がほぼ明らかになった。
 それによると、常忍は、下総国の守護である千葉介の有力な被官、それも執事のような地位にあった家臣ではなかったかと推定されている。本節では、それらの文書等を参考にしながら、常忍の社会的地位を明らかにしておこう。
 まず、大聖人の御書等から常忍の社会的立場をみてみると、
   ① 幕府の役人の中に「知音」「一処の同輩」すなわち知人を持っている。
   ② 「御供・雑人」を引き連れている身分である。沙弥常忍訴状をみると、所従をもつ階層に属していた。
   ③ 忘持経事にみられる「朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り」(0977-08)という日常生活を送っていた。
   ④ 漢文で認められた、しかも法門についての御書を多く賜っている。このことは、常忍がそれらの書状を読み、理解することができる能力を備えていたことを示している。
 常忍の社会的地位は、こうした条件を満たすべき地位であったわけであるが、この解明に手掛かりを与えたのが聖教紙背文書である。
 聖教紙背文書は、大聖人直筆の「双紙要文」「天台肝要文」「破禅宗」「秘書」等と題する要文書の裏に記されていた文書で、133通にも及ぶものである。
 この紙背文書の中で宛名が明らかなものは四十通あり、このうち、富木常忍に宛てたものが23通と多く、千葉介の6通、法橋御坊の3通、その他となる。関係する国名の明らかなものは35通あり、下総国12通、肥前国10通、伊賀国4通、肥後国2通、その他となる。内容をみると、幕府の流鏑馬に関するもの3通、御所御垸飯、鶴岡御放生会に関するもの各2通、その他、千葉氏に関するもの、所領・下人等についての訴訟・譲与等、雑務沙汰に関するものが多数ある。
 このうち、文書にみられる国名の多くは、千葉氏と関係の深い国であることがわかる。下総国は、千葉氏が鎌倉時代の初めより、守護職を世襲していた国であり、伊賀国も宝治・建長のころから元弘にいたるまでは千葉氏が守護であった。肥前国も、小城郡に所領を有していたことが明らかであり、千葉介頼胤はその地で死去しているのである。
 また内容にみられる流鏑馬、御所御垸飯、鶴岡御放生会等は、御家人の負担すべきものであった。
 このように、聖教紙背文書を全体的にみれば、下総国の守護千葉介を中心として、それを取りまく所領内の住人、地頭、被官達の往復文書であることが明らかとなるのである。その意味で、富木常忍は、千葉介をめぐる一人として、最も深い関係にあった人といえるのである。
 さらに、常忍と関係のある消息をみてみると、「ときの入道殿」に宛てたさいしむ書状には「このやうを御心え候て、ひんきの時しかるべきやうに、けさんにいれさせ給候て……」とあり、同じく「富木五郎殿」に宛てた長専書状には、「御書御垸飯事」として、幕府より下された御教書の趣旨と、その費用についての心得を富木常忍に伝え、この旨を「御披露有る可く候」とし、「かつこの由を御気色によつて申さしむ候なり」とある。
 こうした富木常忍に宛てた形式をとりながら、そのじつ、他の人に披露してくれるよう願っているものは、この他にも法眼後家陳状案、胤長書状等、幾つかみられる。
 また常忍・快有等連署奉書は、よしたの百姓「けんけう六をとこ」のために、「けんけう尼」の娘が「きやうふさえもん」に売られた件で、その処置についての仰せを常忍以下3名が連書して「ミやうちの御房」「きやうふ左ゑもん」に通達しているものである。
 このように、富木常忍が仰せを受け、また他の者からの書状の意を申し入れたり、披露したりしていることは、常忍がまさに誰人かの執事としての役割を担っていたことを端的に物語っていよう。
 つまり、富木常忍は、下総国の守護である千葉介の被官、それも執事のような地位にあり、若宮の屋敷から守護所に通い、幕府からの通達を受けたり、地頭・領主との折衝、訴訟・譲与に関する処理を行うなど、守護千葉頼胤の裁断を受け、司法・行政に関する事務にたずさわっていたものとみられるのである。
 こうしてみると、常忍が千葉介の執事であったために、常忍の手もとには多くの書類が集まったものと思われる。後年、不要となった書類を、大聖人の要文筆写のための用紙として御供養したのであろう。これが聖教紙背文書であったわけである。
 初めにいくつかの前提条件を挙げたが、富木常忍が千葉介の被官だとすれば、これらの条件をことごとく満たしているのである。
 まさしく、「忘持経事」に「朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り」(0977-08)とあるとおりの日常生活であったわけである。
 しかも、鎌倉幕府の有力御家人である千葉介の被官であってみれば、たびたび鎌倉に出向くことも多かったと考えられるし、幕府の役人の中には当然、問注得意抄に見られる「知音」「一処の同輩」が多数いたことであろう。
 また千葉介の執事としての立場であってみれば、当然、漢文体の書類を読み、理解できることはいうまでもないことであった。
第二 日蓮大聖人との関係と富木常忍の信心
(一)富木常忍の入信

 日蓮大聖人と常忍との最初の出会いが、いつ、どこであったか、また常忍がどのような経路で信仰の道に入ったか、このことはあまり明らかではない。
 常忍が大聖人からいただいた御消息は、今日残っているものでは、「御書全集」には収録されていないが建長5年(1253)と推定される12月9日付の「富木殿御返事」が最初である。
 「よろこびて御殿人給はりて候。ひるはみぐるしく候へば、よるまゐり候はんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給ふべく候。又御はたり候て法門をも御だんぎあるべく候」という文で「お迎えの御家来をつかわしていただき喜びにたえません。日中は見苦しく存じますので、夜になってからまいりたいと思います。夕方の六時前後に迎えを給いたく思います。また、こちらにもおいでくださって、法門等を御談義しましょう」という趣旨のお手紙である。
 この文面を拝するかぎり、大聖人と常忍とはすでに知り合っており、法門について話し合うほどの間柄であったことがうかがわれる。この時、常忍が入信していたかどうかは、このお手紙からは知ることはできない。いずれにしても、建長5年(1253)12月という、大聖人が立教開宗された直後に、すでに常忍は大聖人と法門の談義をしているのである。
 さらに、建長7年(1255)には「一生成仏抄」を賜ったといわれている。この御書は、信仰の目的は一生成仏であり、妙法を唱えることのみが、一生成仏への最直道であることを教え、一生成仏を遂げるよう勧められている。しかも「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(0383-14)と、信仰者としての基本姿勢を示されている。このことは、入信まもない常忍に対し、信仰の目的、信仰者としてのあり方等を教えられたものとも拝することができる。
 こうした点を併せて考えてみると、常忍は、建長5・6年(1253・4)ごろに大聖人と出会い、入信したと考えられるのである。
 入信のいきさつについては、種々の説がある。建長6年(1254)のある日、常忍が鎌倉への途次、たまたま葛飾の浦から大聖人と同船して知り合い、その後、教化を受けるにいたったという説が、智寂日省の本化別頭高祖伝等多くの文献に記載されている。
 しかし、異説も多い。建長5年(1254)当時、大聖人は鎌倉の名越に住まわれていたが、ゆえあって下総におもむかれた折、富木家と大聖人の母方とが姻戚関係にあったため大聖人が挨拶に富木家を訪れ、常忍の信仰していた真言宗を破折され、その博学に驚嘆して入信した等、大聖人が下総の地におもむかれた時に常忍と出会い、折伏されたという説もある。
 逆に、常忍が、鎌倉において大聖人が諸宗を破し、法華経を流布していることを聞き、好奇の心押えがたく草庵を訪れ、何回かの法論の末に大聖人に帰伏したとか、あるいは、鎌倉で大聖人の辻説法を聞いて等といった、常忍が鎌倉に来た折に大聖人の教化に浴したという説もある。
 いずれも、あまりに俗説が加わりすぎて、そのままただちに信ずることはできない。しかし、明らかにすべき資料も見い出せないために、諸説を挙げるにとどめておく。
 ともあれ、信仰について日ごろから深い関心を寄せていた常忍にとって、大聖人との出会いが、まさに人生における大きな転機となり、大聖人の仏法を信受し、広布の道に進むことになったことはまちがいない。
 やがて、常忍は、大聖人から大きな信頼を寄せられ、下総地方の信徒の中心者として活躍していくことになるのである。
 なお、大聖人に帰依したことと関連して、常忍が入道した時期について若干ふれておきたい。「日蓮宗の成立と展開」等によると、この時期は、建長3年(1251)から同5年(1253)にかけてといわれている。
 聖教紙背文書をみると、建長3年(1251)2月20日付の長専奉書には、宛名の1人として「ときの五郎殿」とあり、「建長五年十二月三十日」と端裏書にある長専書状には、宛名が「ときの入道殿」となっている。
 この宛名の変化から、常人は建長3年(1251)2月20日から建長5年(1253)12月30日の間に入道したと推定される。
 この期間はまた、常忍が大聖人と出会ったと思われる時期と重なり合う。入道となるには、それなりの理由があろう。大聖人との出会いが、まさしく常忍にとって大きな機縁となったのかもしれない。
(二)富木常忍の活躍
松葉ヶ谷法難と富木常忍

 日蓮大聖人は、立教開宗されてから七年後の文応元年(1260)7月16日、鎌倉において立正安国論を著され、前の執権・北条時頼に上書された。第一回目の国主諌暁である。幕府の実権者である北条時頼の迷妄を開かんとされたためである。
 これに対し、「下山御消息」に「御尋ねもなく御用いもなかりし」(0355-03)とあるように、幕府からはなんの沙汰もなく、黙殺のかたちとなった。
 ほぼ一か月の間沈黙が続いたが、同年8月27日の夜になって、不意に念仏の僧およびその信徒の一団が、松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を殺害せんとしたのである。松葉ヶ谷の法難である。
 大聖人は、危うくこの難は免れられ、ひとまず鎌倉の地を避け、下総の富木常忍の館に身を寄せられたといわれている。常忍は自邸の近くに堂を建て、大聖人にご寄進申し上げ、大聖人はここで長期にわたって法を説かれたといわれる。一説によれば、一日に一座で百日間、つまり百座の説法をされたとも伝えられている。
 この時、大田乗明、曾谷教信、秋元太郎等が大聖人に帰依したといわれ、下総における教勢は一時に拡大したのである。
佐渡流罪中の富木常忍
 文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉頼綱は、松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を捕えて竜の口で斬罪に処せんとした。
 下山御消息に「去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」(0356-07)とあるごとく、この事件は、最初から大聖人を亡きものにしようとする企てであった。
 しかし、いかに平左衛門尉の権力をもってしても、末法の御本仏日蓮大聖人を殺害することはできなかった。
 竜の口から相模国(神奈川県)依智の本間六郎左衛門尉重連の邸へ移された大聖人は、翌日の9月14日、富木常忍に宛てて一書を認め送られている。「土木殿御返事」であり、竜の口法難後の第一報であった。
 ひとたびは無罪放免説に傾いた幕府内の意見が反転して佐渡流罪と決まり、大聖人は、約一か月後の10月10日に依智を出発され、12日の旅を経て、10月21日に越後国(新潟県)寺泊に着かれた。そこからまた、常忍に宛てて「寺泊御書」を送られている。
 この「寺泊御書」には「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す、御志し始めて申すに及ばず候人人に是くの如く申させ給え、但し囹僧等のみ心に懸り候便宜の時早早之を聴かす可し」(0954-09)とある。
 富木常忍は、日蓮大聖人の佐渡流罪に当たって、彼の従者と思われる入道を大聖人のお供に付けた。大聖人の御身の上を思ってのことであったろう。また、牢に入っているお弟子達に富木常忍から、この「寺泊御書」で述べられている法門を伝え聴かせるようにといわれている。この一事をもってみても、大聖人の信頼のほどがうかがわれる。
 10月28日には佐渡に渡られ、11月1日に塚原三昧堂に入られた。11月23日付の「富木入道殿御返事」は、塚原御到着後の、今日知られる限り最初のお手紙である。
 「天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」「流罪の事痛く歎せ給ふべからず、勧持品に云く不軽品に云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(0955-06)との御文には末法御本仏としての御心境が拝せられ、門下に対しても不惜身命の信心を勧め、激励されたのである。
 「又貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず候」(0955-14)と、常忍に一切経等の要文の保管を託されている。一説によれば、竜の口法難後の松葉ヶ谷の草庵は、常忍が後始末をし、そのために大聖人が集められた教典類等は、すべて常忍の許に保管されていたといわれる。
 文永9年(1272)5月ころには、常忍を中心に、門下が幕府に対して大聖人赦免の運動を起こした。
 富木常忍は、大聖人佐渡御流罪という逆境のなかを、門下の重鎮として、房総・関東方面の信徒の中心者として、付近の大田乗明、曾谷教信、さらに鎌倉の四条金吾等とも連絡を取り合い、団結して臆することなく戦っていた。
 こうした常忍に対して、大聖人は、「佐渡の国は紙候はぬ上……」(0961-07)とあるように困窮の中から、激励につぐ激励のお手紙を送られたのである。
 文永 9年(1272) 3月「佐渡御書」4月、「富木殿御返事」5月、「真言諸宗違目」
 文永10年(1273) 5月「観心本尊抄」「同送状」7月「土木殿御返事」11月「土木殿御返事」
 文永11年(1274)1月「法華行者逢難事」
 等々と、大聖人の御内証を明かされた甚深の法門を送られている。
 佐渡御流罪中に、これほど集中して御書をいただいた信徒は、他にはいない。大聖人は、依智から、寺泊から、塚原からというように、行く先々で、まず最初に常忍に御消息を送られているのである。
 これらの御消息を拝すると、常忍個人に与えられてはいるが、その内容は、常忍をとおして門下一同に与えられたと拝せるお手紙が多くある。
 「佐渡御書」には「此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たうのつじ十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給うべき人人の御中へなり」(0956-01)とあり、末文にも「此の文を心ざしあらん人人は寄合うて御覧じ、料簡候て心なぐさませ給へ」(0961-07)とある。真言諸宗違目には、冒頭に「土木殿等の人人御中」(0139-01)とあり、末尾には「此の書を以て諸人に触れ示して恨を残すこと勿れ」(0142-02)とある。
 さらに法華経行者逢難事には、宛名として、
 「 河野辺殿等中
   大和阿闍梨御房御中
   一切我弟子等中
   三郎左衛門尉殿
  謹上            日蓮
   富木殿           」(0965-01)
 とあり、文中には「富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」(0965-12)、末尾には重ねて「一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ」(0967)と仰せられている。
 個人的なお手紙はべつにして、門下一同に宛てたお手紙は、おおむね、まず常忍のもとに届けられている。そして、鎌倉の常忍の屋敷に四条金吾、塔の辻十郎入道、さじきの尼御前等門人の人々が集まったのであろう。こうして信心のある者が寄り合って、皆で大聖人からのお手紙を拝したのである。
 一人一人が逆境に置かれている時である。そうでなくても一人になれば不安になり、臆する心も出てくる。集まって団結し合い、励まし合えば、逆境を乗り切ることができる。こうした大聖人の御心遣いがあったのであろう。
 当然、「佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし」(0961-07)との理由からでもある。がしかし、それよりも、竜の口法難・佐渡流罪という、門下にとっても最大の苦境を、富木常忍を中心に団結して、乗り越えるよう示唆されたものと思われるのである。大聖人が、常忍を信頼されていたなによりの証左であろう。
 このように、常忍は、大聖人の在家信徒の重鎮として、門下の支えとなっていたことがうかがわれる。
御供養の誠を尽くす
 常忍の大聖人に対する外護の誠は、御供養の面でもあらわれている。常忍は、大聖人が住まわれていた鎌倉へ、佐渡へ、そして身延へと、自ら御供養の品々をたずさえて訪れ、また人に託して、御供養申し上げたのである。
 御書にみられる御供養の品々を、年代順に記してみる。
  年   月   御供養の品       出典御書
文永 7年    白米一ほかひ・本斗六升 富木殿御返事
   8年10月  鵞目一結        寺泊御書
   9年 4月  鵞目員数        富木殿御返事
   10年 4月  帷一つ・墨三長・筆五官 観心本尊抄送状
   10年 7月  鵞目二貫        土木殿御返事
   10年11月  白小袖一つ       土木殿御返事
   11年    鵞目一貫文・青鳧一貫文・帷一領 
                     富木尼御前御返事
   12年 2月  帷一領         富木殿御返事
建治 元年 8月  鵞目一結        富木殿御書  
   元年 9月  御衣の布・御単衣    御衣並単衣御書
   元年11月  鵞目一貫文・厚綿の白小袖一つ・筆十管・墨五丁
                     観心本尊得意抄
   2年 3月  鵞目一貫・つつひとつ   富木尼御前御返事
   2年12月  鵞目五貫文        道場神守護事
   3年 4月  青鳧一結         四信五品抄
   3年    鵞目一結・三年の古酒一筒 鼠入鹿事
   4年 2月  青鳧七結         始聞仏乗義
弘安 2年 5月  白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫    
                     四菩薩造立抄
   2年11月  銭三貫文・米二斗     富城殿御返事
   3年 4月  鵞目一結         富城入道殿御返事
   3年11月  鵞目一結         富木殿御返事
   4年10月  銭四貫          富城入道殿御返事
 以上のように、文永7年(1270)から毎年、多い年には2回、3回というように、御供養申し上げているのである。文永7年(1270)以前については、現存している御書が少ないために、明らかでないだけで、おそらくは、大聖人に帰依して以来、御供養を続けていたと思われる。
 当時は、大雨があったり、逆にひでりが続いたりして、食料も欠乏しがちな世の中であった。常忍から送られた「白米」には、どれほど喜ばれたことであろう。
 大聖人が佐渡に向かわれる時には、「鵞目一結」を御供養している。「人の心は禽獣に同じ」(0955-03)とあるような状況の中で、この銭がどれだけ役に立ったことであろうか。
 また厳寒の11月、身延の大聖人の許に「厚綿の白小袖」等を御供養している。降り続く雪と湿気の多い山中である。大聖人は非常に喜ばれ「昼夜の行法もはだうすにては堪え難く辛苦にて候に此の小袖を著ては思い有る可からず候なり」(0972)と述べられるとともに、商那和修の故事を引かれて、常忍の信心をめでられている。
 前述の表をみてもわかるように、常忍の御供養の特徴は、比較的貨幣が多いことである。南条時光や四条金吾等が、品物の御供養が多いのと対照的である。これは多分に地理的な関係からであろうか。また、品物にしても、「白米」とか「帷」、「白小袖」といった、当時としては高価な品物を御供養している。常忍は、経済的には恵まれていたようである。
 ともあれ、弘安2年(1279)11月の「富城殿御返事」に「来年三月の料の分銭三貫文米二斗送り給び畢んぬ」(0987-02)とあることからみて、常忍は、定期的に御供養申し上げ、大聖人の御生活に支障がきたさないよう、外護の誠を尽くしていたものと思われる。
(三)法門についての信解
  観心本尊抄等重書を賜る 文永10年(1273)4月25日、日蓮大聖人は、佐渡一谷において「観心本尊抄」を著され、翌26日、送状を添えて富木常忍に送られた。
 「観心本尊抄」は「観心の本尊」こそ、末法の衆生の帰命すべき本尊であることを明かされた書で、法本尊開顕の書ともいわれている。「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し……正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(0247-15)と、文底下種の三大秘法の御本尊の相貌を初めて明かされているのである。
 前年の文永9年(1272)2月に著され、四条金吾に与えられた人本尊開顕の書たる「開目抄」と合わせて、ここに人法一箇の当体が明らかにされたわけである。
 日蓮大聖人がこの書をいかに重要視されたかは、観心本尊抄送状に「此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開祏せらる可きか……設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ」(0255-01)と、認められていることからもうかがえる。
 したがって、当時は、門下の中でも、常忍のほか下総の一部の人のみが、同抄を拝読することができたものと思われる。常忍への賜書とはいえ、大聖人の御真意は、あくまで末代の弟子檀那へ向けられており、ひとえに広宣流布、令法久住のためであることは明らかといえよう。
 このように、大聖人自ら「日蓮身に当るの大事なり」といわれた重書中の重書を、常忍が賜ったのである。常忍が、大聖人の門下の中にあって、鎌倉の四条金吾と並んで、外護における双壁であったことを如実に示すものであろう。
 このほか常忍は、大聖人から40余編にものぼる御書を賜っており、「法華取要抄」、「四信五品抄」、「佐渡御書」、「法華行者逢難事」、「観心本尊得意抄」、「聖人知三世事」、「常忍抄」、「始聞仏乗義」、「四菩薩造立抄」、「治病大小権実違目」等、その多くが大聖人の御内証を明かされ、宗旨の肝要を述べられた重要な御書である。常忍は、天台・真言の教理にも通じ、学解においても、相当に力のあった人であることがうかがわれるのである。
 しかし、「四菩薩造立抄」に「一御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云」(0987-03)との質問を、大聖人にしている。弘安2年(1279)5月のことである。「本尊抄」、「法華取要抄」等を賜り、また御本尊も拝していたことを考えると、常忍が、大聖人の甚深の法門については、どの程度まで理解できていたのか、はなはだ疑問ではある。おそらく十分には理解できていなかったのではないかと思われる。
 そうしたなかで、大聖人が常忍に重書を送られたのは、常忍が法門を理解できたからではなく、常忍こそ、御書を後世に残す人であると信頼されたからではあるまいか。
 当時の社会的、政治的に不安定な状況を考える時、御書を後世に残すことは、非常に困難なことであった。社会的基盤が安定していない者に保管させたとすれば、年月が経つ間に散失してしまうにちがいない。
 この点、常忍は、幕府の有力御家人である千葉氏に仕える武士であり、しかも、最も古くからの信徒である。大聖人は、常忍こそ、御書を後世まで伝えるべき任を果たす適任者であると考えられて、厳護を託されたと推察することができる。
釈迦仏造立
 常忍は、文永7年(1270)9月、下総国(千葉県)真間の弘法寺に釈迦仏を造立して供養した。このことは常忍の信心のあらわれであった。釈迦仏造立をもって、自身の成仏得道を願い、さらに、弘法寺に安置することによって、大聖人の仏法を真間の地に定着させようとしたともいえるのである。当時の寺は、付近の人人にとっての拠り所となっていたからである。
 大聖人は「真間釈迦仏御供養逐状」に「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」(0950-01)と述べられて、常忍の釈迦仏造立に対して、めでられている。
 いうまでもなく日蓮大聖人の正意においては、釈尊の仏像を用いない。日寛上人の末法相応抄にも明らかなように、絵像・木像の本尊は立てないのである。あくまでも三大秘法の御本尊をもって本尊とするところに大聖人の御正意がある。
 しかし、当時は本尊開顕にいまだいたらず、日本中が弥陀念仏を称えている時にあって、大聖人はひたすら妙法五字の題目を唱えることを教示され、もっぱら題目の流布に努められていた。そのため佐渡以前においては、本尊のことについては、それほどきびしくはされず、釈尊の一体仏を一往容認されていたともいえるのである。
 常忍は釈迦仏を造立供養することが、自身の偉大な福徳となり、広布推進の一歩前進につながると信じていたのである。まして、常忍はもともと天台教学を学び、台家の習慣がいまだ残っていたようであり、造像を好む癖があった。「いつぞや大黒を供養し」(0950)とあり、大国より釈迦仏の造立のほうが勝れるから、仮にこれを賞讃されたともいえるのである。
 大聖人が釈迦仏造立をほめられ、許されたということは、そうした一つの段階での、大聖人の、一往の御化導であったことを知らなければならない。
 なお、この釈迦仏の造立については、建治3年(1275)に主君を失い、建治2年(1276)母を亡くしたことからくる追善供養、さらには自身の成仏のためとして、建治2・3年(1274・5)とする説もあるが、やはり文永7年(1270)ごろと考えるべきであろう。
真間問答
 弘安元年(1278)9月、富木常忍は、了性、思念という学僧と法論を行い、勝利を収めた。了性、思念は、当時下総国(千葉県)真間に住し、広学多聞の名声高き学僧であった。一説によると、了性房は真間弘法寺の住持であったともいわれる。しかし、天台法華宗の僧であるにもかかわらず、「彼の了性と思念とは年来・日蓮をそしるとうけ給わる」(0982-05)とあるように、大聖人を前々から誹謗していたようである。
 この問答は「此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき」(0981-11)とあるところから、おそらく公の場で、しかも上司の面前で行われたと推察できるのである。
 法論の内容は、常忍抄に明らかである。まず、常忍が、妙楽大師の法華文句記巻九下の「権を稟けて界を出づるを名けて虚出と為す」の文を挙げて、法華経本門以外は無得道であると主張した。これに対して了性房は、「全く以て其の釈無し」(0980-02)とし、論議の結果は常忍の勝ちとなったとみられる。
 また、不信は謗法であるか否か、止観の行者は戒を持つべきか否か、が論じられたようである。
 常忍は、四条金吾、池上兄弟等と同じ武士階級の者であった。しかしながら、大聖人からの賜書、この問答の内容からみると、天台教学にはかなり精通していたようである。
 大聖人は、常忍から問答の報告を受けられるや、ただちに常忍抄を認めて送られている。この中には、問答で争われた論点について、詳しく教示されるとともに、大聖人の弘める法門は「天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えし」(0981-09)第三の法門であることを示されている。
 さらに、今回の勝利は了性房等の天罰の故であり、謗法の科が顕われた故であるが、「但し此の法門の御論談は余は承らず候・彼は広学多聞の者なりはばかり・はばかり・みた・みたと候いしかば此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき」(0981-10)と、注意を喚起されている。
 さらに今後の対処の仕方についても教示され、「此れより後は下総にては御法門候べからず了性・思念を・つめつる・上は他人と御論候わば・かへりてあさくなりなん」(0982-04)と法論を禁じられている。
 これは、広学多聞の了性房等を論破したのであるから、その他の人と法論したりすれば、かえって評価を下げ、浅くみられてしまうであろうと、常忍の立場を心配されて、自粛するよう誡められたのである。
 ともあれ、この真間問答は、常忍の学解の深さをいかんなく発揮したものといえるであろう。
 なお、了性房は、この問答の敗北によって、弘法寺から退出してしまった。その後、弘法寺には、常忍の子・伊予房日頂が住持として入り、ここを拠点として、弘教に励んだともいわれている。
曾谷教信の迹門不読について
 建治元年(1275)11月には曾谷教信が、弘安2年(1279)5月には大田乗明等が、観心本尊抄の「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)等の文を誤って解釈し、迹門は無得道であるから読まない(迹門不読)という説をとなえるという事件があった。
 同じ下総に住み、ともに信心に励んできた常忍は、そのことを大聖人に報告し、指導を求めたのである。
 これに対して大聖人は「不相伝の僻見にて候か」(0972-06)、「是は以ての外の謬なり」(0989-03)と述べ、さらに大聖人の御真意を説かれている。
 「観心本尊得意抄」には「所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり」(0972-07)と説かれている。
 また、「四菩薩造立抄」には「本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし」(0989-04)と述べられ、いま、末法の時は法華経一部のなか、本門が正意で迹門が傍意である。ゆえに傍意の迹門を無得道といったからといって、迹門を捨てて本門ばかりを信ずることは、いまだ大聖人の本意を心得ていないためである、と御教示されている。
 そして、常忍に対して「去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候しが其の通りを以て御教訓有る可く候」(0972-07)、「此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり」(0989-10)と、観心本尊抄を賜った身として、正しく教導するよう託されているのである。
(四)大聖人の身延御入山以後の富木常忍
身延後入山と富木常忍

 日蓮大聖人は、文永11年(1274)3月26日、佐渡流罪を赦免され、無事に鎌倉に戻られた。そして4月8日には、平左衛門尉頼綱と対面され、三度目の諌暁をされた。
 しかし、これも聞き入れられず、「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(0358-04)とあるごとく、5月12日鎌倉を出られて、17日身延に入山された。
 この時も、入山後ただちに富木殿御書を認められ、「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし」(0964-03)との御心境を常忍に伝えられている。
 さらに、大聖人は、「法華取要抄」の御述作に取りかかられ、5月24日には書き終えられ、これもまた、常忍に宛てて送られている。「法華取要抄」は、法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が、末法弘通の正法であることを明かされた重書であった。
建治二年前後の富木常忍
 一方、富木常忍にとって、大聖人が佐渡流罪にあわれた文永8年(1271)から建治3年(1277)にかけては、外に蒙古の襲来、ひきつづいて主君の死、内には母の死、夫人の病気と、めまぐるしく変転した時期であった。また、そのために建治年間に入っては、出家の志すら抱いたようである。
 当時、蒙古の動向は、日本の民衆にとっては最大の国難であり、常忍にとっても切実な関心事であった。文永5年(1268)正月、蒙古からの国書がもたらされてから、それに対処するため、幕府からさまざまな対策が打ち出されたからである。
 文永8年9月13日には、九州に所領をもつ東国御家人に対し御教書が発せられた。その内容は、九州に所領を持ちながら、その地に在住していない者は、早急に本人または代官を九州に下向させ、その地の守護とともに、蒙古の来襲に対する防備の任に当たるようにというものである。
 同趣旨の御教書は千葉氏にも下されたと思われ、千葉頼胤も肥前国(佐賀県)小城の地に下向している。頼胤に仕えていた被官、所従の多くも頼胤に従って下向したものと思われる。
 建治2年(1276)の「富木尼御前御返事」には「当時つくしへむかへばとどまるめこゆくをとこ、はなるるときはかわをはぐがごとくかをと・かをとをとりあわせ目と目とをあわせてなげきしが……うちそうものはなみだなりともなうものはなげきなり」(0975-11)と、蒙古の防備のために九州へ下向する武士と、それを見送る妻子の別離の悲しみを述べられている。
 常忍は、主君および多くの同僚を九州へ見送った。その心情は、まさに悲痛なものであったにちがいない。常忍にとって、もはや蒙古襲来は他人事ではなかったわけである。
 文永11年(1274)10月、ついに蒙古軍は来襲し、日本に多大なる損害を与えた。常忍の主君・千葉頼胤は、その戦いで負傷し、翌、建治元年(1275)8月、肥前国小城の地で没している。37歳であった。
 長年にわたって頼胤に仕えていた常忍にとって、頼胤の死は、千葉家における立場をも微妙なものにしたであろう。
 このような不安定な状況の中にあって、常忍は、建治2年(1276)2月下旬には、90歳を超える長命であった母を亡くしたのである。「営む所は悲母の為め存する所は孝心のみ」(0977-08)とあるように、人一倍母に対する孝養心の厚かった常忍にとって、母の死は、たとえようのない悲しみであったにちがいない。
 常忍は、さっそく亡き母の遺骨を奉じて、身延の大聖人のもとに参じた。「忘持経事」には「離別忍び難きの間舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ(中略)案内を触れて室に入り教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」(0977-11)と述べられている。
 常忍の夫人・尼御前は、建治元年(1275)ころから健康を害し、病魔に悩まされていたようである。常忍は、身延に登った折、夫人の病気のことについても報告したようである。常忍が帰る時には、尼御前に「法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし」(0975-07)と、富木尼御前御返事を認められ励まされたのである。
 常忍は、こうして十分に母の追善供養を行い、また大聖人のもとにあって久しく御教示を受け、下山したのである。この時、常忍は、大切な持経を庵室に置き忘れてしまった。大聖人は「夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か」(0976-03)といわれ、使者に託して届けられている。
 こうした主君と母の死、夫人の病気に遭遇した常忍にとって、人間の無常を実感するに十分であった。それゆえにこそ、なおいっそう自身の無始以来の罪業を消滅し、成仏の永遠の道を求めようとしたのである。
 そのあらわれか、常忍は、建治3年(1277)3月、「畏(て言上せしめ候。受け難き人身を受け、遇い難かるの仏法に遇う事、宿業の感ずる所……」で始まる不審状と呼ばれる書状を、日昭に託して大聖人のもとに差し上げたようである。
 その中で、常忍は「適々明師に逢い奉り、法門を聴聞せしむと雖も、根性闇鈍の間所得の法門忽に忘失す。是れ謗法の先業歟、憂喜相交る者なり」と自身の先業の重きを深く歎き、「余年齢已に六旬に及ぶ。縦い長命を期すと雖も余命幾ならず、念念歩歩の所作皆以って三途の業なり。仰て仏法を信ずと雖も、若し罪業を尽さざれば悪趣に堕ちん事疑い無し。不軽軽毀の衆、信伏隋順せしむと雖も、謗法の罪を滅せざれば千劫阿鼻に堕す」と、堕地獄の恐怖を述べ、後生における救済を切実に求めたのである。
 さらに、救済の具体的方途として「唯願くは、聴聞を垂愍せられ、速に世事を捨て、蘭室に入って親近給侍し奉らんと欲す」と、身延の大聖人に常随給仕することを願っている。
 常忍は、以前から入道となり、忘持経事に「身は俗に非ず道に非ず禿居士」(0977-07)とあるような身ではあったが、この時期、真に出家して仏道に専念する希望を強く持っていたと思われる。
 この常忍の不審状に対する大聖人の回答が、四信五品抄であったといわれている。この内容、またそれ以後の御書を拝するかぎり、常忍の出家した様子はみられない。おそらく、大聖人からさまざまな激励を受け、この危機を信心で見事に超克したのではないかと考えられる。
熱原法難および大聖人御入滅と富木常忍
 日蓮大聖人身延入山5年後の弘安2年(1279)9月、駿河国熱原(静岡県富士宮市厚原)に法難が起こった。熱原の農民信徒204人が捕えられ、鎌倉へ送られたのである。この法難において日興上人を助けて活躍したのは日秀、日弁であった。幸い日秀、日弁は、捕えられることはなかったが、もはや富士の地に住することは周囲の状況からみて困難であった。
 この時、大聖人は、日頂に付けて日秀・日弁を下総に遣わし、常忍夫妻に、その外護を託されている。
 農民信徒たちの不惜身命の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられ、出世の御本懐を遂げたと「聖人御難事」において宣言されたが、日秀・日弁の保護に当たった常忍にとっては、関心が薄かったようである。堀日亨上人は、富士日興上人詳伝の中で「大聖人は熱原法難を御自身の大法難と『聖人御難事』におおせられてあっても、下総に避難した日秀・日弁等には、刻心鏤骨忘るることのできぬ恨事であっても、富木殿以下の人々は、さはど重事には扱わなかった」と述べておられる。
 常忍の信解のいたらなかった面が、このようなところにもあらわれているのかもしれない。
 日蓮大聖人は弘安5年(1282)10月13日、一切を日興上人に付嘱され、池上宗仲の館において、集まった常忍はじめ多くの弟子檀那の読経・唱題のうちに、安祥として御入滅なされた。
 常忍は、御葬送の折、門下の重鎮として、香炉を持って参列している。
第三 晩年の御書の厳護
(一)大聖人御入滅後の富木常忍

 大聖人御入滅後の下総においては、六老僧の一人であり常忍の子息でもある伊予房日頂を中心に信仰活動が進められていた。ところが、永仁の初め常忍は、日頂を勘当し、下総から追放してしまったのである。
 その理由は定かではないが、中山法華経寺出身の日親の伝燈抄には、若宮で行われた大聖人の3回忌法要に、宗論のためとはいえ、遅参したゆえであると述べている。3回忌法要は、弘安7年(1284)であることから、この記述は13回忌法要のまちがいであったかもしれない。また日感の「常師行状・三寺初祖」と題する慶長末年ころの記録には、弘法寺俗別当の及川宗秀が、自分の子の日樹を弘法寺の住持にしようとして「日頂は、真言僧と親しくして弘法寺の勤行を疎かにしている」と常忍に讒言したためであるとしている。
 いずれにしても、日頂を勘当した常忍は、日頂にかわって、自ら下総における信仰の中心者として、折伏・弘教を進めなければならなかった。そのため常忍は、日常と名乗り、自邸内の持仏堂を改めて法華寺とし、その住持となったのである。
 永仁3年(1295)10月以降には、自ら本尊を書写して与えるなど、大聖人の御教示に反する行動をとり、日興上人からも離れ、独自の門流を形成するようになっていった。こうして中山門流が形成された。
 こうしたなかにあって、常忍は、「観心本尊抄」、「立正安国論」をはじめとする数多くの御書の保存には全力を尽くしたのである。大聖人の御真筆の御書は、湿気を考慮して風通しの良い皮かごに納め、写本等は、保存に適切な桐箱に納めたようである。いかに保存に心をくだいたかがしのばれる。
 永仁7年(1299)3月4日、常忍は、法華寺に厳護している御本尊ならびに御書の保存に関する置文を定めた。「定め置く条条の事」と題する日常置文である。
 その第一条、第二条には次のように定めている。
 一、聖人の御書並びに六十巻以下の聖教等、寺内を出す可からざる事。
   右、聖教を惜む事は法慳に似たりと雖も、借失するに至っては尚彼よりも甚し、よって何なる大事有りと雖も、当寺の困外に出す事、一向に之を停止すべし。但し至要の時は、道場に於いて之を被見する事は制の限りに非ず。聖教目録別紙之有り。
 一、聖教殿居の事。
   日常存生の時の如く、一分の懈怠も無く之を勤めらるべし。
 これによると、まず、大聖人の御書類は、けっして寺の外に持ち出してはならないことが挙げられている。常忍は、その但し書きにもあるように、御書の貸し出しを禁ずることは、いかにも法を惜しむようではあるが、貸し出して失っては、惜しむ罪よりも重いと、その理由を述べている。どうしても披見する必要がある時は、寺の中で見るように、それならば差し支えはないと厳しく定めているのである。
 さらに、これらの御書を納めている聖教殿の勤めについて述べている。常忍は、自分が勤めていた時と同じように、自分の死後においても、聖教殿の殿居を少しも怠るようなことがあってはならないと定めたのである。
 この御文を見てもわかるように、大聖人の御書を後世まで守り伝えることについて、いかに強い使命感と責任感を持っていたかがしのばれる。
 常忍は、この置文を制定しおわって後、3月6日には、さらに「常修院本尊聖教事」と題し、法華寺に所蔵する御本尊、御書等の目録を作成している。
 このおもな内容は、「御自筆皮籠」の標題の下に、観心本尊抄一帖、法華取要抄一巻、要文集等五帖を記し、「巻物分」の標題の下に、御書および要文集13通を記し、「御消息分」の標題の下に、54通の御消息を記している。以上が、大聖人御自筆の分で、おもに常忍一家に賜った御書等である。
 つぎに「御書箱」の標題の下に、「立正安国論」一巻、「開目抄」上下二帖をはじめ、一巻十六帖の御書を記し、「要文箱」の標題の下に、20種の要文集を記している。これらは、いずれも写本であり、常忍が収集し保存していたものである。
 大聖人滅後、多くの弟子檀那が、大聖人から賜った御書を、仮名で書かれてあるから先師の恥になるといって焼いたり、すき返しにしたりしたなかで、常忍は厳として、大聖人の御書を守り抜いたのである。
 常忍が日常置文、常修院本尊聖教事を著したのは、永仁7年(1299)、大聖人滅後18年目であった。以来、二代日高、三代日祐と常忍の遺言どおり、大聖人の御書を集め保存することに心をくだいている。
 こうして、常忍開基と伝える中山法華経寺には、観心本尊抄等50数編の大聖人の御真筆御書が現存しているのである。中山法華経寺が大聖人の法義にはずれ邪義に陥った科は科として、この一点に関しては、常忍の護法の大功績といってよいであろう。
 こうして、30年にわたって外護の任を果たし、晩年は自らの教団の基礎を固めた常忍は、「当寺並びに本尊聖教は帥殿に申し付け奉り候、弘法寺は兵部阿闍梨に申し付け候」と、日高、日陽に教団の後を託し、とくに日高に第二代を付し、永仁7年(1298)3月20日、84歳をもって死去した。
(二)富木常忍没後の中山門流
 常忍没後の中山門流は、第二代日高、第三代日祐と継承し、千葉胤貞一族の外護を受け、門流の体制を整えていった。第三代日祐は、曼荼羅本尊を幾幅も書写したり、法華寺・本妙寺に仏殿を建立し、釈迦・多宝の二仏と四菩薩の造立を行う等、諸堂の整備を行った。また毎年のように、日興上人離山後の身延山久遠寺の大聖人の墓所に参詣し、身延山三世の日進と親交を深めたりもしている。
 第七祖日有の時代には、「なべかむり日親」と呼ばれる久遠院日親が出た。日親は、門流のあり方に疑問を持ち、不惜身命の折伏弘通こそが大聖人の正意であると、不受不施の信仰態度を強く主張した。加えて日有の謗施受用、本尊の雑乱勧請等の謗法行為を諌言したため、逆に門流から破門された。
 さらに、日親は、日興上人の「原殿御返事」を用いて、これまで通用していた身延山は、大聖人の御教示から違背しており、「身延は高祖の御墓所、池上は御荼毘所たりといへども、下馬をも成す可からざる上は参詣は沙汰の限なり」とも主張したのである。
 その後、中山門流は、中山法華経寺を中心として分立、対立を繰り返しつつも、釈迦本仏および祖師信仰と鬼子母神信仰を軸に、教義には本迹一致をもって日蓮宗に属し教勢を拡大してきた。
 昭和27年(1952)には、日蓮宗内の複雑な事情によって、中山法華経寺は日蓮宗から分離独立し「中山妙宗」と称したが、昭和48年(1973)には、ふたたび身延山久遠寺を祖山とする日蓮宗と合同し今日に至っている。このように常忍没後の中山門流は、御書の保存を唯一の誇りとしながらも、大聖人の教義からは大きく外れて謗法と化していったのである。
 今日の中山法華経寺をみると、本尊に迷い、祈禱と荒行の根本道場となっている。
 境内には、いくつかの堂舎がある。大聖人の御影および中山法華経寺の六祖までの木像を安置した祖師堂、一尊四士を安置する常修殿、法華堂、十羅刹女を祀る刹堂、蛇身を御神体として祀る宇賀神堂、その他、八大竜王堂、妙見堂、清正堂、大田稲荷等々、まさしく本尊雑乱のきわみとなっている。
 また、日蓮宗で祈禱の本尊としている鬼子母神を安置し、子育てをはじめとして、除厄、安産成就、また商売繁昌等の現世利益を願い、鬼子母神の開帳や加持祈禱を盛んに行っている。ともに祈願の種類によって志納金が定められている。
 一方、境内には、日蓮宗加行所と呼ばれる荒行堂があり、百日間の水行と読誦行とにより、木剣加持の伝授を受けるという荒行が行われている。
 これらは、いずれも日蓮大聖人の御教示からは大きく逸脱し、謗法の行為となっていることはいうまでもない。富木常忍の大聖人の仏法に対する信解の誤りが起因となって、今日の中山法華経寺を形成したといえる。

0949~0949    富木殿御消息top
富木殿御消息    文永六年六月    四十八歳御作
01   大師講の事今月明性房にて候が此月はさしあい候又余人の中せんと候人候はば申させ給えと候、 貴辺より仰を
02 蒙り候へ、御指合にて候はば他処へ申すべく候、恐々。
03       六月七日                          日蓮花押
-----―
 大師講の事、今月は明性房の所であるが、この月はさしさわりがあり、また、余人の中で引き受けようという人がいたら、お願い申し上げたい、とのことである。貴辺はどうか、御返事をいただきたい。さしさわりがあれば、他の人に申しつけよう。恐々。
  六月七日               日 蓮  花 押
   土 木 殿 

大師講
 天台大師の命日である11月24日に報恩謝徳のために営まれた法会。毎月24日にも講会が営まれ、信者が輪番でその宿をつとめたものと思われる。
―――
明性房
 日蓮大聖人御在世当時の弟子で、伊東八郎左衛門尉となんらかの縁があった人と推測される。
―――
さしあい
 ぶつかりあってうまくいかないこと。
―――――――――
 本抄は文永6年(1269)6月7日、大師講に関して富木常忍へ出されたお手紙である。御真筆が存し「六月七日」とあるだけで年号の記載はないが、古来、文永6年で通り、異説はない。同じく大師講について書かれた金吾殿御返事に「大師講に鵝目五連給候い了んぬ、此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候」(0999)とあり、これが文永7年(1270)の御書とされるところからも、文文永4・5年(1267・8)ごろから大師講が始められていたと考えられる。
 大師講は天台大師講である。これは11月24日に行われるもので、先の金吾殿御返事は11月28日に著されているから、その直後のお手紙であることがわかる。ところが本抄は6月7日のお手紙である。大師講は他に伝教大師の大師講があるが、これは6月4日から行われるもので、本抄は6月7日付であり、伝教大師のものではないことがわかる。「此月」とあるから、毎月24日に大師講を行い、毎年11月24日に規模を大きくして行ったものであろう。金吾殿御返事のものは11月のそれであり、本抄にある大師講は毎月それぞれの門下のところで回りもちで行われたものを指すと考えられる。
 この大師講について触れられているのは、このほか諸御抄に散見される。建治2年(1276)11月29日の「富木殿御返事」に「鵞目一結天台大師の御宝前を荘厳し候い了んぬ」(0978-01)とあるのも、日付からして大師講と考えられるし、文永10年(1273)9月の「辧殿尼御前御書」にも「辧殿に申す大師講を・をこなうべし・大師とてまいらせて候」(1224-01)とあり、佐渡御流罪中にも休まず続けられていたことがわかる。天台大師への報恩とともに、法華・止観を講ずるなかに、末法における正法の弘宣を図られたのであろう。
 さて本抄では、この月行われるはずであった大師講について、明性房の関係で行われる予定であったが、明性房から今月は少しさしさわりがあるから、だれかほかの人でできるところがあればいってほしいという申し入れがあったと述べられている。そして大聖人は、富木常忍のつごうはどうかと聞かれ、もし常忍もつごうが悪いようであれば、他へいうけれども、といわれているのである。
 明性房という人はどういう人であるかは明確ではない。名前が出てくるのは、本抄のほかに、わずかに「辧殿御消息」に「伊東の八郎ざゑもん今はしなののかみは・げんに、しにたりしを・いのりいけて念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが・かへりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ぬ」(1225-08)とあるのにみえるくらいである。大聖人が伊豆に流罪になられていた時、地頭の伊東八郎左衛門尉が病気で死ぬところを大聖人が救われ、念仏者にはならないと明性房にいったが、結局は謗法になってしまったとある。このことから、明性房は伊東八郎左衛門尉とはなんらかの関係にあった人であろうと考えられる。本抄で触れられている、大師講を開くのにさしさわりがあるといってきたことについても、それがいかなるさしさわりであったかは全く不明である。
 いずれにしても、本抄から当時、大師講が活発に行われ、研鑽の波が広がっていたことが拝せられる。
大師講について
 大師講は、天台宗において、
   ①天台大師智顗の忌日11月24日、また、
   ②伝教大師最澄の忌日6月4日に行われる法会である。また真言宗では、
   ③弘法大師空海への報恩として月ごとの21日に行う講会を指す。
   ④民間では全国的に、11月23日夜から24日にわたり、家ごとに小豆粥などを供える忌籠りが行われたといわれる。
 地域により、天台大師・伝教大師の他、元三大師良源、あるいは弘法大師空海を「大師」と祀ったが、歴史上の大師とはまったく関係のない独自の伝承が、数多く伝えられるという。
 この民間行事が行われた旧暦霜月23夜は、ほぼ冬至に該当する。この日を境に、太陽が再び力強い生命を持つに至るのであり、大師講は、冬越しの行事に宗教的意味合いが加わったものと知れる。
 北欧においても、冬至祭がキリスト教伝播以前より存し、その習俗が転用され、誕生日が聖書に記されていないキリストの生誕祭を、12月25日に祝うものとなったと推測されている。
 ともあれ、大聖人御在世当時、大師講はその内容を混沌としながらも、年中行事として、世に定着していたわけである。大聖人は、権実雑乱の時なればこそ、仏法の正統なる法流を明確にする機会と捉えられたと思われる。すなわち「大師」とは天台大師のことと定め置かれ、大師講のたびごとにその意義を一門に説かれたものと、拝察するのである。

0949~0949    富木殿御返事top
富木殿富木殿御返事    文永七年    四十九歳御作
01   白米一ほかひ本斗六升たしかに給候、ときれうも候はざりつるに悦び入り候、何事も見参にて申すべく候。 ・
02     乃 時                                 花押
03     富木殿
-----―
 白米一ほかい、本斗六升たしかに頂戴した。ちょうど斎料も尽きたところで、大変ありがたく、よろこばしく思っている。それにつけても、万事、お目にかかって申し上げます。
  乃 時                    花 押
   富 木 殿

ほかひ
 遠行の際に食料を納めて持参する曲物の類。食物を納める移動用の調度。
―――
本斗六升
 本斗は1斗とも考えられるが、意味不明。1斗は10升で、1升は約1.8㍑。しかし、当時の度量衡はかなり乱れており、後三条天皇(在位1068~1072)の施かれた延久宣旨枡を使用しているとすれば、当時の1升は現在の約6合に該当する。
—――
ときれう
「とき」は僧家でいう食事のこと。「ときれう」は僧侶の「とき」にあてる金銭や米など。
―――
乃時
 すぐその時。即時・即刻と同じ。手紙が到着すると同時に返事を書いた時に用いる語。
―――――――――
 本抄は文永7年(1270)、富木常忍が白米を御供養されたのに対する返礼の書である。御真筆はかつて存在していたようであるが、現在はない。
 これは白米の御供養への返事だけの短い書であるが、当時、食事にあてる米にも事欠く状況にあったことに驚かされる。文永5年(1268)、蒙古から牒状がきて、立正安国論での予言が的中したことから各所へ11通の御状を出されてより、大聖人の周辺があわただしくなり、人の出入り等も激しくなったことが考えられる。文永8年(1271)に至って迫害が本格的になっていることからも、活発に弘教が行われていたであろう。そうしたことから、経済的に逼迫されていたのかもしれない。
 富木常忍の御供養は、じつにタイミングがよかったことになる。だれかからそうした状況を聞いて御供養したのかもしれない。おそらく常忍は、つねに大聖人のことを案じていたのであろう。また、その信心を知っておられたゆえに、大聖人もこのように喜ばれているものと拝せられる。
 文中、最後にある「乃時」は、そのとき、すぐさまの意である。御供養を携えてきた使いの者に対し、すぐさま返事を書かれて託されたのであろう。口頭ですますのでなく、心からの返書を、時を置かずにしたためられ、激励される大聖人の深いお心遣いを拝察したい。
 「何事も見参にて申すべく候」といわれているように、富木常人は、大聖人にしばしばお会いしていたことがわかる。

0950~0950    真間釈迦仏供養遂状top
0950
真間釈迦仏御供養逐状    文永七年九月    四十九歳御作
01   釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、 はせまい
02 りてをがみまいらせ候わばや、 「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、 但し仏の御開眼の御事はい
03 そぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、 法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて 生身の教
04 主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、 自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、 御所領
05 の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、 かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、 いつぞや大黒を供養して候
06 いし其後より世間なげかずしておはするか、 此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く 福きたり命な
07 がく後生は霊山とおぼしめせ。
08       九月二十六日                      日蓮花押
09     進上 富木殿御返事
-----―
 釈迦仏を御造立になったとの事。無始曠劫より今日まで、いまだ一度も顕れたことのない己心の一念三千の仏を、いま造立し顕現されたのであるか。急ぎ参って拝し奉りたいものである。法華経方便品第二に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」といわれ、如来寿量品第十六に「然るに我、実に成仏してより已来、無量無辺」と宣べられたその釈尊の造立顕現である。
 ただし、この仏の御開眼の事はすみやかに伊予房に行わせなさい。法華経一部を御仏の御六根に読み入れ参らせて、生身の教主釈尊となし奉ってお迎え申し上げ奉安なさい。それにはあなた御自身ならびに御子息でなければどうかと思われる。御所領の堂の事については大進の阿闍梨が承知している。かえすがえすもこの御仏を拝し奉り、成仏得脱を願うべきである。
 いつか大黒を供養されたことがあったが、そののちより世間のわずらわしきことはありませんか。このたびの功徳は大海の潮が満つるように、また月が満ちるようであり、福が来たり、命も永らえて後生は霊山に生まれることは間違いないと思いなさい。
  九月二十六日             日 蓮  花 押
   進上 富木殿御返事

無始曠劫
 無始は始まりがないとの意で、無限・永遠の過去を意味する。曠劫もはてしないかなたの時をさす。
―――
一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来
 法華経方便品第2に、「衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に」また如来寿量品第16に「然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり」とある。方便品の文は衆生の己心に仏知見・仏性が内在することを明かしたものであり、寿量品の文は仏が久遠常住であることを明かしたものである。
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伊よ房
 伊予阿闍梨日頂のこと。六老僧の一人。駿河の国(静岡県)富士郡重須郷の生まれ。父の死によって母とともに鎌倉に住したが、母が富木常忍と再縁したのでその養子となったといわれる。文永4年(1267)大聖人に帰依。その後、真間弘法寺に住して教化弘通に励んだ。大聖人滅後は墓所輪番にも応ぜず、大聖人の正意に反する行動をとったが、乾元元年(1302)真間弘法寺を日揚に付して日興上人に帰依した。文保元年(1317)重須で死去した。
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六根
 目・耳・鼻・舌・身・意のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。六根の対境にあたるものが、六境または六塵で、六根が六境と関係して生ずる感覚を六識という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。また生命には意根があるから、こわいとか楽しい等の意識を生ずるのである。
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生身の教主釈尊
 仏師の造った釈迦仏に開眼供養を施したもの。
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御所領の堂の事
 文応元年(1260)、富木常忍が建立した下総若宮(千葉県市川市)の法華堂のことと思われる。
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大進の阿闍梨
 大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。
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大黒
 摩訶迦羅(Mahākāla)の訳。古来、インドの民間信仰神。一切経音義巻十にある降魔神としての大黒、南海寄帰内法伝巻一にある施福神としての大黒等がある。この施福神としての大黒が中国に伝わり、さらに伝教大師によって日本に持ち帰られ、天台宗の厨房に安置された。後に民間信仰として弘まり、室町末期には夷と結びつけられ、七福神の一つとして、夷大黒と並称され、流行した。
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 本抄は文永7年(1270)9月26日、富木常忍に与えられた書である。御真筆は、今は存していない。内容は、富木常忍が釈迦仏を造立したことについて、その信心を喜ばれ、開眼供養について提示されている。
無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか
 日蓮大聖人の御本意は下種仏法の開顕にあり、脱益の仏である釈迦像を造立することは誤りのはずである。にもかかわらず、富木常忍が釈迦像を造立したことを許され、しかも喜ばれてさえいるのはなぜかという疑問が生じよう。これについては日寛上人が末法相応抄で明らかにされているので、その御教示にそって意義を明らかにしておこう。
 まず、釈尊の像を本尊とすることが大聖人の本意でないことの文証としては、「本尊問答抄」の御文が挙げられる。
 「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365-01)、また「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず」(0366-07)と。ここに、本尊とすべきは〝法華経の題目〟であって釈尊ではないことが明白である。
 また、二祖日興上人も「富士一跡門徒存知の事」に「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606-02)と明言されている。
 釈尊の像を本尊としない理由として、日寛上人は次に三点を挙げておられる。
 第一は、色相荘厳の釈尊は、熟脱の教主であるからである。末法は下種の時であり、下種の仏を本尊としなければならない。熟脱の教主は、在世・正像の衆生を救えても、末法の衆生は救えないのである。
 第二は、末法の衆生にとって、主師親三徳の縁が浅いからである。在世・正像の衆生は本已有善で、色相荘厳の仏とすでに縁している。しかし、末法の衆生は本未有善で、色相荘厳の仏とは全く縁していない。ゆえに縁が浅く、本尊とならないのである。
 第三に、色相荘厳の仏は人法勝劣で、法に比べてはるかに劣るゆえである。色相荘厳の仏は世情に随順している仏であり、法に比べれば天地のごとき差がある。下種の本尊は、久遠元初において我が身即妙法と悟られた人法一箇の当体を、そのまま末法今日にあらわされたものであり、すぐれていることはいうまでもない。
 このように釈尊の像を本尊としないのは文証、理証から明確であるのに、富木常忍の釈尊造立を喜ばれていることについて、日寛上人は次の三点を挙げられている。
 第一は、まだ一宗弘通の初めであり、大聖人の御本意にそわないことがあっても許されたのである。最初から種脱相対の深い原理は、富木常忍等には理解に無理があり、根本的な誤りでなければ許されることもあったのである。「阿仏房尼御前御返事」には「軽罪の者をば・せむる時もあるべし・又せめずしてをくも候べし、自然になをる辺あるべし・せめて自他の罪を脱れて・さてゆるすべし」(1307-13)とあり、用捨自在であったことがわかる。
 第二は、当時の人々は本尊といえば権教たる阿弥陀経の教主たる阿弥陀仏と思っており、権実雑乱の時であった。そうした時に実教の教主である釈尊像を造ることは、阿弥陀の権教を捨て法華経の実教を立てることであり、その意味では尊いのである。
 第三には、富木常忍等にとっては釈尊像であったが、大聖人の御境界からみれば、それはそのまま一念三千即自受用身の本仏だったのである。そのゆえに許されたのである。本抄に「己心の一念三千の仏」といわれているのは、まさにこの第三の観見から仰せになっている。「無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ」といわれているところからも、それは明らかであろう。
 「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」の文は、その前の「無始曠劫」よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏」の御文に対応しており、「然我実成仏已来」は無始曠劫すなわち久遠の仏であるということをあらわし、「欲令衆生開仏知見」は衆生の己心の一念三千の仏であることをあらわす。
 この「一念三千の当体」「久遠元初自受用報身の御生命」をそのまま顕されたのが曼荼羅の御本尊である。しかしこの御開顕は佐渡期以後であり、この段階では未だ開顕されていないので、釈迦像を、その意義をもったものとして許されたのである。
法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ
 これは開眼の意義を述べられているのである。開眼については「木絵二像開眼之事」等に示されている。いわく「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)と。すなわち、仏の姿として仏像を造立しても、それだけでは三十一相しか具足していず、仏の声教の最極である法華経を心法として初めて、三十二相を具足した仏となるのである。草木も一念三千の当体であり、成仏するゆえに仏としての力用をあらわしうるのである。
 この、法華経をもって仏像に仏の力用をあらわすのを、開眼というのである。大聖人は、その開眼を富木常忍の養子である伊予房をもって至急行いなさいといわれている。「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」とあるのは、富木常忍自身及びその子をもって厳護していくべきことを教えられている。
 「御所領の堂」のことについて大進阿闍梨が承知しているといわれているのは、内容はわからないが、富木常忍と大聖人のあいだに堂のことについて話し合いがあり、大聖人のお考えについては大進阿闍梨が知っているからとの意ではなかろうか。
 富木常忍はかつて大黒を造り、供養した。大黒は現世の福徳の神であることから「其後より世間なげかずしておはするか」といわれたのであろう。今度は釈尊の像を造立したのである。その功徳は必ずや大海に潮が満ちるように、月が満月になるように、今生において福徳に満ち、また寿命をたもつのみでなく、成仏は疑いないと、釈尊造立をほめたたえ、その功徳がはるかに大きいことを述べられている。
 ただし、前述のように、御本尊を顕される以前の段階での御教示であることを忘れてはならない。

0950~0951    土木殿御返事(依智滞在御書)top
土木殿御返事   文永八年九月    五十歳御作   於相模依智
01   上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、 月はかけてみち・ しをはひてみつる事疑なし
0951
01 此れも罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん。
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 北条幕府が責めてくれるので、日蓮が法華経の行者であることがはっきり顕れた。月はかけて満ち、潮は引いて満ちることは疑いない。日蓮も罰を受けたから必ず徳を得るのである。どうして嘆くことがあろう。
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02   此の十二日酉の時・御勘気・ 武蔵守殿御あづかりにて十三日丑の時にかまくらをいでて佐土の国へながされ候
03 が、たうじはほんまのえちと申すところにえちの六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎と申す者あづかりて候が、 いま
04 四五日はあるべげに候、 御歎きはさる事に候へども・これには一定と本よりごして候へば・なげかず候、いままで
05 頚の切れぬこそ本意なく候へ、 法華経の御ゆへに過去に頚を・うしないたらば・かかる少身のみにて候べきか、又
06 数数見擯出ととかれて度度失にあたりて 重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば 我と苦行をいたす事は心ゆへ
07 なり。
08       九月十四日                               日蓮花押
09     土木殿御返事
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 この十二日酉の時に御勘気をこうむり、武蔵守殿の御あずかりとなり、十三日丑の時に鎌倉を出て、佐渡の国へ流されることになった。当分は本間の領地の依智というところで、依智の六郎左衛門尉殿の代官で右馬太郎という者にあずけられており、いま四、五日はここにとどまるようである。
 御嘆きはもっともであるが、自分としてはもとより覚悟していたことであるからいまさら嘆いてはいない。今まで頚を切られないでいることこそ残念に思っている。法華経のために過去世にもし頚を切られていたら、今生にこうした少身の身は受けなかったであろう。また経文には数数見擯出と書かれており、法華経のためにたびたび御勘気をこうむることによって過去の重罪をけしてこそ、仏になれるのであるから、我と我が心から求めて苦行をしているのである。
  九月十四日             日 蓮  花 押
   土木殿御返事

御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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武蔵守殿
 武蔵守北条宣時のこと。佐渡の知行者。良観の熱心な信者であったらしい。
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えちの六郎左衛門尉殿の代官・右馬太郎
 佐渡の国の守護職・本間六郎左衛門尉の代官で、神奈川県依智の本間屋敷を預かっていた右馬太郎のこと。
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数数見擯出
 法華経勧持品第13の二十行の偈文。「数数擯出せられ」と読む。「数数」とは、しばしばという意。「見擯出」とは所を追われるという意。日蓮大聖人は、この経文どおりに二度まで流罪された。一度は弘長元年(1261)5月12日伊豆国伊東、二度目は文永8年(1271)10月10日佐渡。日蓮大聖人は、仏滅後にこの「数数見擯出」の経文を身業読誦されたのは御自身のみであると述べられている。
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 本抄は、文永8年(1271)9月14日、相模国の依智(神奈川県厚木市依智)から富木常忍に宛てられたお手紙である。竜の口の法難の直後のお手紙であり、依智滞在中にしたためられた重要な御抄である。御真筆が存している。
 「種種御振舞御書」によれば、この日の朝6時ごろ、十郎入道がやってきて、前日に執権北条時宗のところで騒ぎがあり、陰陽師に占わせたところ、日蓮大聖人をとらえたゆえで、赦免にしなければますます大きな事件が起こるであろうと言ったので、幕府首脳の間で議論があり、赦免にしようという意見と、様子をみてからにしようという意見が出ていることを報告している。それによると、赦免になる可能性が強かったようであるが、本抄を拝すると、大聖人は佐渡流罪になることを覚悟しておられたようである。一つには「数数見擯出」の経文から、いま一つは念仏者等が簡単にあきらめるわけはないとの洞察から、佐渡流罪は避けられないと考えておられたにちがいない。事実、こうした幕府の大聖人赦免の動きに対して、このあと念仏者らは鎌倉市中に放火・殺人事件を起こし、日蓮一門のしわざだとデマを流して、大聖人を流刑にするよう幕府へ働きかけていったのである。
 「上のせめさせ給う……」とあるのは、最初に位置しているが、御真筆を拝すると、お手紙を書かれたあと、最初の余白部分に書かれた追伸のようである。
 さて「此の十二日酉の時・御勘気・武蔵守殿御あづかりにて十三日丑の時にかまくらをいでて佐土の国へながされ候」といわれているが、酉の時というのは、午後6時ごろである。9月12日、日蓮大聖人は一昨日御書を著され、平左衛門尉に9月10日対面の返事を迫られていて、それに逆上した平左衛門尉が、武蔵守宣時に謀って大聖人を逮捕したものであろうか。「あづかり」は囚人を預る係のことである。宣時が佐渡を知行していたためであろう。
 ところで竜の口の法難については、「撰時抄」では「文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり……」(0287-11)となっている。申の時とは午後4時ごろである。また「神国王御書」には「世間には一分の失なき者を・一国の諸人にあだまするのみならず・両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小路をわたす事・朝敵のごとし」(1525-10)ともある。したがって、大聖人が逮捕されたのは午後4時ごろで、それから引き回しがあり、酉の刻つまり午後6時ごろ、幕府からの処罰申し渡しがあったということである。
 御勘気そのものは流罪だったが、死罪にしてもとがめはなかろうということで、平左衛門尉は大聖人を斬罪に処そうとした。しかし末法の御本仏を斬ることはできず、結局は流罪にするしかなかったのである。この間のようすについては、「種種御振舞御書」に詳しい。
 「開目抄」には「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて……」(0223-16)という有名な御文があり、それと本抄の御文とをあわせて考えると、子丑、すなわち真夜中に頸の座につかれ、斬首することができずに、そのまま当初の予定どおり佐渡流罪と決まったようである。
 当分の間ということで依智の本間邸に滞在され、本抄の時点では「あと四、五日」と予測しておられたようだが、幕府の決定に時間がかかったのか、結局は10月10日まで依智に滞在される。
 こうした状況のなかで、富木常忍の嘆きは深刻なものであったことであろうが、大聖人のお立場からすれば、もとより覚悟のうえであるから、嘆かれるどころか「いままで頚の切れぬこそ本意なく候へ」と、残念なほどであったといわれている。
 法華経流布のゆえに過去に頸を切られることでもあったならば、とっくに成仏しており、このような凡夫の身になることはなかったといわれ、いま仏法ゆえの難にあうことによって成仏することができるのであると喜ばれているのである。
 とくに「数数見擯出」の文を引かれ、先の伊豆流罪と今度の佐渡流罪によって「数数」の文字を身読することができることを述べられ「重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれ」との仰せは、未来に成仏を託された表現ではあるが、元意は発迹顕本を成し遂げられた御本仏の境地を述べられたと拝せられよう。なおここで「数数見擯出」の文を引かれているのは、本抄が最初である。大聖人が佐渡流罪になることを期しておられたのは、このことからも明らかであり、「我と苦行をいたす事は心ゆへなり」と仰せになっているのはそのゆえであろう。
 追伸で、権力者によって迫害されることによって、法華経の色読・身読がはっきりとするといわれているのも、それにあたるといえよう。このように権力者によって罰せられても、仏法のためであれば、必ず功徳があるのは疑いないのであり、どうして嘆く必要があろうかと、御自身の確信、弟子檀那への励ましをもって結ばれている。

0951~0954    寺泊御書top
         はじめにtop

 本抄は、日蓮大聖人が文永8年(1271)10月23日、越後の寺泊(新潟県長岡市寺泊)で認められ、富木常忍に与えられたものである。
 本抄の冒頭に「今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて……十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ」と述べられているように、大聖人は同年10月10日に相模国依智の本間六郎尉の屋敷を出発して、配流の地佐渡へ向かわれ、途中12日を経て10月21日に寺泊へ着かれている。
 寺泊は、平安時代初期の弘仁13年(0822)に開かれたと伝えられる古い港で、北陸道の宿駅として、また佐渡へ渡る港町として栄えていた。承久の乱で幕府に破れた順徳上皇が佐渡へ流された時も、寺泊から海を渡っている。大聖人もそこで佐渡への船便を待たれたことは、「此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず其の期を知らず」との記述からうかがうことができる。
 寺泊に着かれた翌日、大聖人は「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す」と、佐渡までお供をすべく付けられた家人の入道に本抄を託されて、富木常忍のもとへ帰されたのである。
 寺泊で著されたので「寺泊御書」と呼ばれてきたが、涅槃経の贖命重宝の法門が述べられているところから「贖命重宝抄」と称されたこともある。本抄の御真筆は中山法華経寺に現存する。
本抄の大意
 はじめに依智を旅立って12日で寺泊に着き、佐渡へ渡る船の風待ちをしていること、旅の間に筆舌につくせぬ辛苦があったことを示され、それも、もとより承知のうえなので歎くことではないとの御心境を述べられている。
 ついで、法華経・涅槃経の文を引いて、末法には釈尊在世に勝る怨嫉の起こることを明かし、大聖人こそその経証のとおりの怨嫉をうけていることを示されている。
 つぎに、涅槃経の贖命重宝の法門とその天台大師の釈を引かれて、法華経の前後に説かれた諸経は法華経の命を贖うための重宝であることを示され、法華最勝を認めない諸宗の学者等の誤りを破されている。
 とくに、善無畏等に始まる真言宗の邪義を挙げて破折され、各宗の祖師がその心は天台宗に帰伏していることを知らない末弟らが、法華誹謗の罪を犯していることを指摘されている。
 また、大聖人の折伏行に対する四つの疑難を挙げられ、折伏弘教によって難に値うことは法華経の経証どおりであり、勧持品二十行の偈を身読された大聖人の実践の正しさを示して、疑難を破されている。
 さらに、釈尊が予言した法華経流布の時が末法の始めであることを示され、大聖人こそ時にあたって法華弘通の人であることが明かされている。
 最後に、富木常忍から付けられた入道を帰すにあたって謝意を述べ、本抄の意を門下に伝えるよう依頼して筆をおかれている。
本抄の背景
 本抄が、佐渡御流罪の途上、越後の寺泊から門下の信徒の中心的存在だった富木常忍に与えられ、しかも「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」と念記されているのは、弟子檀那へも幕府や主家・世間からの迫害が激しくなったことから、耐えきれずに退転する者や、疑いを起こして信心を失う者が多く出ていることを知られ、大聖人が難に値うことは法華経の予言どおりであることを明かされて、門下一同に確信を与え、疑いを晴らして、この大難を耐え忍んで信仰を貫くよう激励されるためだったと拝される。
 弟子檀那に対する弾圧の模様については、
 「今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし」(0200-18)
 「竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし」(0504-07)
 「同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(1189-14)
 「故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」(1253-18)
 「夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり」(1169-10)
 等の御文からうかがうことができる。
 そのため、文永10年(1273)9月の「辧殿尼御前御返事」に「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(1224-05)と述べられ、文永12年(1275)の「新尼御前御返事」では「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候人人も・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候」(0907-02)と仰せのように、門下の多くが退転したようである。
 しかも、「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539-10)と、弾圧にあって疑いを起こし、動揺する人を誘い堕とす「大魔のつきたる者ども」(1539-08)が出現したのである。
 これらの人々は「始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり」(1088-18)と述べられているように、退転しただけでなく、大聖人に反逆し返り矢を射たのである。そうしたことが門下の不信と動揺を拡大し、退転者を増加させたといえよう。
 彼等は、難にあうのは大聖人の折伏行が誤りである証拠だとしたり、諸天の加護がないのは大聖人が法華経の行者ではないためであると主張するなど、大聖人を批判して己義をかまえ、保身のために世間に迎合した、臆病で醜く愚かな姿を示したのである。
 大聖人はそれを「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234-08)と指摘され、また「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」(0501-05)と厳しく指摘されている。
 しかし、退転して地獄へ堕ちていく人々の姿を眼前にみられた大聖人は、門下の間にはびこる不信の闇を晴らすために、なぜ難にあうのか、またなぜ諸天の加護がないのか、末法の修行はなぜ折伏に限るのか、などの疑問に対して明確な解答を与えようとされた。そのために最初に著されたのが本抄なのである。さらに、「開目抄」、「佐渡御書」、「如説修行抄」をはじめ佐渡期の御書の多くはそのために著されたといってよいであろう。
 本抄では「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなりと」と、大聖人の折伏行に対する疑難を四つ挙げて、あらあらその誤りを破されているのである。
 そして、佐渡・塚原へ入られた後の11月23日の「富木入道殿御返事」でも「去十月十日に付られ候し入道・寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ」(0955-05)と述べて、本抄の趣旨をよく理解するように言い送られている。そのことからも、本抄の重要性がうかがえる。
 本抄の趣旨をさらに広く深く展開され、勧持品の予言のままに大難を忍ぶ大聖人こそ末法の法華経の行者であり主師親三徳具備の御本仏であることを明らされたのが、文永9年(1272)2月に佐渡・塚原で認められた「開目抄」である。そうした意味で、本抄は一連の重要な佐渡期御書の最初の御述作であり、御自身の命をも知れぬ大難のさなかで、弟子檀那のことのみを思いやられた御本仏の大慈悲の発露なのである。

0951:01~0951:04 第一章 寺泊到着を知らせるtop
寺泊御書   文永八年十月    五十歳御作   与富木常忍    於越後寺泊
01   鵞目一結給び了んぬ、心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし。
02   今月十月なり 十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河の宿に付き十二日を経て越後の国寺泊の津に付
03 きぬ、此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず 其の期を知らず、道の間の事心も及ぶこと
04 莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し、又本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば之を止む。
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 鵞目を一結頂戴しました。志のある人々は一処に集まって、この文の法義を聴聞しなさい。
 今月(十月である)十日に相州の国愛京郡依智の郷をたって、武蔵国の久目河の宿に着き、十二日かかって越後国の寺泊の港に着いた。
 これから大海を渡って佐渡国に渡ろうとしているが、順風が定まらないために出発の日がわからない。ここまでの道中のことは、想像も及ばないほどで、また筆で書くこともできない。ただ推量にお任せする。またこの苦難はもとより覚悟のうえなので、いまはじめて歎くべきことでないから、やめておく。

鵞目一結
 鵞目は孔のあいた銭のこと。鎌倉時代の通貨。鳥目、青鳧等ともいわれた。鵞目とは、四角い孔が鵞鳥の目に似ていることからそう呼ばれた。一結は、銭の孔に紐を通して一連にしたものをいう。ふつうは百枚、百文。
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相州愛京郡依智
 現在の神奈川県相模原市依智。日蓮大聖人は竜口法難以降佐渡流罪が決定するまでの約1ヶ月間、この地の本間六郎屋敷に留め置かれられている。
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武蔵の国久米河の宿
 現在の東京都東村山市久米川。鎌倉から奥州や越後に向かう交通の要所。宿場町。
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寺泊の津
 新潟県長岡市寺泊。佐渡に向かう船が出ていた港。北陸道の終点。
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佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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 本抄の最初で、富木常忍へ寺泊への到着を知らせ、道中の難渋を推せしめている。
 文永8年(1271)10月10日に相模国愛甲郡依智郷(神奈川県厚木市依知)の本間六郎左衛門尉の邸を出発した日蓮大聖人の一行は、武蔵国久目河(現在の東京都東村山市久米川町)を通り、途中12日の道のりを経て、10月21日に越後国寺泊(新潟県長岡市寺泊)の港に着かれたのである。
 依智から佐渡への道は、高崎から三国峠を越えて湯沢へ出る三国街道と、中山道の追分から碓氷峠を越えて柏崎、寺泊に至る北国街道の二つがあった。旧暦の10月10日は新暦の11月10日前後にあたり、冬が迫っていることから、距離の短い三国街道を行かれたであろうとの推定と、三国峠は雪が降ると通行が不能になることや、12日という所要日数から北国街道をとられたとの説があり、明確ではない。
 いずれにせよ、現在の道路で概算して300㌔以上の遠路を10数日で歩まれた旅が、困苦の連続だったことは、「道の間の事心も及ぶこと莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し」との御文から推察することができる。
 越後は「およそ雪、九月末より降りはじめて、雪中に春を迎え、正・二の月は雪なお深し」とあるように雪深い所であり、雪中の旅が困難であったこともあろうが、「鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」(1052-04)との記述から、道中の宿々や村里の人々が大聖人を念仏の敵と憎悪して悪口雑言を吐き、石や泥を投げかけたであろうし、殺害しようとする者さえあったことが推されるのである。
 そうした敵中を征くが如き筆舌に尽くせぬ厳しく辛い道中を、大聖人は「本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれ」と、むしろ随従する日興上人らを励まされつつ、毅然として歩を進められたと拝される。
 越後の寺泊では、「順風定まらず其の期を知らず」とあるように、佐渡への便船が出航できる時を待って、7日の間滞在されている。
 当時の航海は帆走によったため、風向きとその強さに左右され、風浪が激しければ船出できず、風待ち、天気待ちのうえでやっと出港した。旧暦の10月末は現在の11月下句に当たるため、日本海上では北西の風が強く、高波を立てるため、一枚帆の小舟ではとうてい航海できなかったのである。江戸時代に至っても、10月初めには日本海航路の廻船は陸に引き揚げられ、現在でも新潟・佐渡間の定期航路は冬期にしばしば欠航している。
 なお、文永11年(1274)3月に佐渡流罪を赦免されて鎌倉への帰途につかれた際の記述に「思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(0920-15)とあることからも、佐渡への渡海がいかに困難であったかがうかがえよう。

0951:05~0952:09 第二章 末法怨嫉の経証を知らせるtop
05   法華経の第四に云く 「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切
0952
01 世間怨多くして信じ難し」、 涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく○大王今は唯・
02 一の大悪人有り瞿曇沙門なり ○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り 而も眷属と為つて善を修する
03 こと能わず呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目ケン連等を調伏す」云云、 此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる
04 二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり、 法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、 天台の意
05 に云く「一切の声聞・ 縁覚並に近成を楽う菩薩」等云云、 聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざるは言
06 を出して謗ること莫きも皆怨嫉の者と定め了んぬ、 在世を以て滅後を推すに 一切諸宗の学者等は皆外道の如し、
07 彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、 一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、 彼の外道は先仏の説教
08 流伝の後・之を謬つて後仏を怨と為せり、 今諸宗の学者等も亦復是くの如し、 所詮仏教に依つて邪見を起す目の
09 転ずる者大山転ずと欲う、 今八宗・十宗等多門の故に諍論を至す、
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 法華経の第四の巻法師品第十には「この法華経は如来の現に在ます時でさえ怨嫉が多い。ましてや釈尊の滅度の後においてをや」とあり、第五の巻の安楽行品第十四には「一切の世間の中に怨が多くて信じ難い」とある。また涅槃経には「その時に一切の外道が阿闍世王の前へ出てみなこう言った。『大王よ、いま世の中に一人の大悪人がいる。瞿曇沙門がそれである。世間のあらゆる悪人は利欲のために彼のもとに集まって、その眷属となり、善いことをすることがない。また彼は呪術の力によって迦葉や舎利弗、目連などを帰伏させ、弟子としている』」とある。この涅槃経の文は、一切の外道が自分達の本師である二天三仙の説いた経典を仏陀に破られたために言った悪口なのである。
 法華経の文は、仏を怨とするという経文ではない。天台大師の解釈にも「一切の声聞・縁覚の二乗、ならびに始成正覚の仏を求めて久遠実成を信じない菩薩が怨である」とあるように、法華経を聞こうともせず、信じようともしない人々は、ことばに出して誹謗することがなくても、みな怨嫉の者と定められているのである。
 釈尊の在世のことから滅後を推し量ると、一切の諸宗の学者等はみな仏在世の外道のようなものである。彼等がいう「一大悪人」とは日蓮にあたる。「一切の悪人がそこに集まっている」とは日蓮の弟子檀那等のことである。彼の外道は過去の仏の教えを誤り伝えて、かえって今の仏である釈尊を怨としたのである。今の諸宗の学者等もまた同じである。結局のところは、仏の残された教えによって邪見を起こしたのである。ちょうど酔って目の回っている者が大きな山が回っているように見えるのと同じである。今の八宗・十宗等が多くの流派を作って諍論をしているのも目の回っているものの類である。

法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
瞿曇沙門
 釈尊のこと。瞿曇は釈迦族の名。沙門とは出家者の総称。この語は、おもに、バラモンや提婆達多などが釈尊の蔑称として用いた。
―――
眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある 。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
目犍連
 釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
―――
二天三仙
 古代インドのバラモン教でとくに崇拝された二天と三仙のこと。この二天三仙は神の啓示を得てヴェーダを説いたといわれる。二天とは摩醯首羅天と毘紐天をさし、三仙とは迦毘羅・漚楼僧佉・勒沙婆をいう。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
縁覚
 辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
―――
近成
 始成と同義。久成に対する語。インド応誕の釈尊が30歳ではじめて成道したとする始成正覚のこと。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
目の転ずる者……
 涅槃経巻二には「譬えば人の酔いてその心愐眩して、諸の山河・石壁・草木・宮殿・屋舎・日月・星辰の、皆悉く廻転するを見るが如し」とある。邪見に陥って物事を正しく見ることのできない譬えとして用いられている。
―――
八宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
―――
十宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
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 本章では、末法に釈尊在世に勝る怨嫉の起こる経証を挙げ、大聖人こそ、その文のとおりの怨嫉を受けていることを明かされている。
 はじめに、法華経法師品の「猶多怨嫉・況滅度後」、安楽行品の「一切世間・多怨難信」の文を引き、つぎに一切の外道が阿闍世王に向かって釈尊こそ大悪人なりと訴えた涅槃経の文を引かれている。
法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず……
 この涅槃経の文は、バラモン教の所説を破折された外道が釈尊に怨嫉して讒言したものであり、開目抄にも「六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く『瞿曇は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前とす、大海の衆流をあつめ大山の衆木をあつめたるが・ごとし、瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉・舎利弗・目連・須菩提等なり、人身を受けたる者は忠孝を先とすべし、彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず、家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる、一国に跡をとどむべき者にはあらず、されば天には日月・衆星・変をなす地には衆夭さかんなり』なんど・うつたう」(0206-03)とある。
 それに対して、大聖人は、法華経に説かれた「怨嫉」「怨多し」とは外道が仏を怨嫉するという意味ではなく、声聞・縁覚、近成を願う菩薩から怨をなす者が出るということである。これらの人は仏弟子であるから、怨嫉されるのは仏ではない。すなわち、法華経および法華経の行者を怨嫉する者が多く出ることを明かした文となるのである、とされている。
 すでに妙楽大師は法華文句記の中で「猶多怨嫉」の文を釈して、小乗の修行を願う二乗や始成正覚の仏のみを信ずる菩薩が怨嫉の者である、としている。すなわち、40余年に説かれた始成正覚の権教権仏を未顕真実と打ち破って久遠実成の顕本を明かした法華経を聞こうとも信じようともせず、法華経は教えは勝れているが我らの機根には合わないなどといったり、たとえ口に出して謗らなくても信じないのは、みな怨嫉の者である、としているのである。
 そのことから末法を考えてみると、諸宗の学者は釈尊在世の外道が釈尊を一大悪人と謗ったように、末法においては、諸宗の学者が国主等に向かって大聖人とその門下を口をきわめて中傷し讒言したのであり、これこそ末法の怨嫉の姿といえる。
 その具体的な姿は、報恩抄に「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は籠に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり」(0322-12)とあるとおりだった。
 竜の口法難とそれに続く佐渡流罪も、祈雨の勝負に破れた極楽寺良観をはじめ、建長寺道隆ら大聖人にその邪義を徹底的に破折された諸宗の悪侶の怨嫉から起こったのである。
 なお、大聖人は開目抄でも同じ経証を引かれたうえで「夫れ小児に灸治を加れば必ず母をあだむ重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう、在世猶しかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし……今末法の始め二百余年なり況滅度後のしるしに闘諍の序となるべきゆへに非理を前として濁世のしるしに召し合せられずして流罪乃至寿にも・をよばんと・するなり」(0202-01)と述べられている。大聖人の値難は、まさしく経証のとおりであることが明らかである。
 本章の最後では、外道が過去の仏の教えを謬り伝えて、その時に叶って出現した現在の仏たる釈尊を怨嫉し敵対したと同じように、大聖人御在世の諸宗の学者等も、先仏たる釈尊の教えを謬り習って邪見に陥ったために、末法の御本仏たる大聖人を怨嫉し迫害を加えていることを示されている。そして、酒に酔って目が回っている者が、周囲の山が回っていると錯覚するのと同様に、仏教によって邪見を起こした者は、正常でない眼で見るために、正師を邪師と見、正義を邪義と思う大きな誤りを犯していると指摘され、八宗十宗の諍論もすべてその類であると断じられている。

0952:09~0952:18 第三章 諸経は法華経の讀命重宝と明かすtop
09                                 涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり、
10 天台大師の料簡に云く 命とは法華経なり重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり、 但し涅槃経に説く所の円教は如
11 何、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ 涅槃経の円常を以て法華経に摂す、 涅槃経の
12 得分は但・前三教に限る、 天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり重ねて掌を抵つのみ」文、籤の三に云く
13 「今家の引意は大経の部を指して以て重宝と為す」等云云、 天台大師の四念処と申す文に法華経の「雖示種種道」
14 の文を引いて先ず四味を又重宝と定め了んぬ、 若し爾らば法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり、世間の学
15 者の想に云 此れは天台一宗の義なり 諸宗は之を用いず等云云、 日蓮之を案じて云く 八宗十宗等は皆仏滅後よ
16 り之を起し論師人師之を立つ 滅後の宗を以て現在の経を計る可からず 天台の所判は一切経に叶うに依つて一宗に
17 属して之を弃つ可からず、 諸宗の学者等自師の誤りを執する故に 或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語
18 らい結句最後には悪心強盛にして 闘諍を起し失無き者を之を損うて楽と為す、
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 涅槃経の巻十八に「贖命重宝」という法門がある。天台大師はこれを解釈して「命というのは法華経であり、重宝とは涅槃経に説かれた蔵・通・別の三教である」と言っている。それでは涅槃経に説かれるところの円教はどこに属すのか。この円教は法華経に説くところの仏性常住を重ねて説いて本の法華経に帰せしめ、涅槃経の円常を法華経に摂してしまうので、涅槃経の得分はただ蔵・通・別の前の三教に限られるのである。
 天台大師の法華玄義巻三に「涅槃経は法華経の命を贖う重宝である。重ねて掌をうったようなものである」とあり、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三には「天台家で涅槃経の贖命重宝の譬喩を引く意は、涅槃経を重宝とし法華経を命とするのである」と明かされている。
 天台大師の四念処という書物に法華経の「雖示種種道」の文を引用して華厳・阿含・方等・般若の四味の諸経をまた法華経の命を贖うための重宝である、と定められた。もしそうであるなら法華経の前の諸経も後の涅槃経も法華経のための重宝なのである。
 ところが世間の学者は「これは天台宗だけの義であって、諸宗ではそういう義は用いない」と述べている。日蓮はこれを考えるに、八宗・十宗等の諸宗はすべて釈尊の滅後に起こったもので、論師・人師が立てた宗である。仏滅後にできた宗義から釈尊在世の経文の意を判じてはならない。天台大師の判釈は、一切経の意に叶っているから、これを天台宗のみの義として棄ててはならない。
 諸宗の学者等は自らの師の誤りに執着するために、あるいは法華経を機根に合わない、あるいは祖師の仰せだからといい、あるいは賢王を語らって味方につけ、そのあげく最後には悪心が盛んとなって諍論を起こし、罪のない者を迫害して楽しみとするのである。

贖命重宝
 命を贖う重宝の意で、天台大師・智顗が定めた『涅槃経』の教えを指す。
―――
円教
 円融円満で完全無欠な教のこと。中国では諸教の教相判釈に対して、最高の教を円教と定めた。法華経のこと。
―――
仏性常住
 仏の性分は衆生の生命に本然としてそなわっており、常に存在し、永遠不滅の実在であること。
―――
円常
 円は完璧の意で仏性をさす。円常とは仏性が常住であることをいう。
―――
得分
 ①利益。②分け前。③功徳・利益。
―――
玄義
 法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――
「涅槃は贖命の……」
 天台大師の法華玄義巻二下の文。涅槃経の円は法華経の純円を重説したものであり、また、涅槃経は法華経の命を贖う重宝であると釈している。ここでいう「重ねて掌を抵つ」とは、売買の値の決まった時、手を打つのと同じく、法華経で定まったことを重ねて説いたことを意味する。なお、この文は法華玄義の巻三とされているが、使用されたものが現行本と違うのか、明らかではない。
―――

 妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
―――
四念処
 天台大師の著。四巻。釈尊の入滅に際して、滅後の行道を示したなかで、四念処によって行道すべしと述べた四念処について明かしたもの。蔵通別円の四教それぞれの四念処観を説き、この修行が天台教学の観法の真髄であることが述べられている。
―――
雖示種種道
 法華経方便品第2の文。「種種の道を示すと雖も、其れ実には仏乗の為なり」と読む。釈尊・三世十方の諸仏は衆生を安穏ならしめるために、種々の方便を設ける。一切衆生皆成仏道の法華経を説くため、蔵通別の権教を説いて、衆生を化導し調機調養した。
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四味
 四味とは五味のうち醍醐味を除く乳味・酪味・生酥味・熟酥味のこと。
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論師人師
 論師とは梵名で阿毘曇師。はじめは三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、のちに論議をよくする人、あるいは論を造って仏法を宣揚する人をいうようになった。人師とは、論師に対する語。仏、菩薩ではなく、しかも人々を教導する者をいう。竜樹、天親等を論師といったのに対し、天台、妙楽をはじめ法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等を総称して人師といった。
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一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
或は事を機に寄せ
 末法の衆生の機根は頑愚であるゆえ、法華経などの難解な教えを理解できず、念仏の易行道でなければ救われないとする浄土宗の考え方。
―――

 説法を受ける所化の衆生の機根。
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 本章では、涅槃経に説かれる贖命重宝の法門とその天台大師の釈を引かれて、法華経の前後に説かれた諸経は法華経の命をあがなうための重宝であることを明かされ、それを認めない諸宗の学者の誤りを破されている。
 贖命重宝の法門とは、涅槃経に「七宝を蔵するのは未来の事のためであり、未来の事とは飢饉や、賊が国を侵したときや、悪王に値った時に、命を贖うための用なのである」と説かれていることをいう。
 贖の字は、あがなう、つぐなう、という意味で、古代のインドや中国では過失による罪のために死刑になるというときに金銭や財宝によって命を贖うことができるという風習があり、それを贖命といったことから、仏性常住の円教は命であり、蔵・通・別の前三教は仏性常住の命を保護し贖う七宝であると譬えたもの。なお、涅槃経には「七宝」とあるが、七宝は贖命の財宝なので、天台大師は「重宝」と釈している。
 この贖命重宝の法門の意義を、天台大師は、命とは法華経であり、法華以前に説かれた蔵・通・別の三教はもとより、涅槃経すらも贖命の重宝にあたる、と釈しているのである。前三教は当然としても、なぜ涅槃経も重宝にあたるのかといえば、涅槃経は法華経に漏れた一部の衆生を救済するために、爾前に説いた蔵・通・別の三教を後から追って説き、そのうえで、三教を否定して法華一実の円教に帰入させようとしたものなので、涅槃経で説いた仏性常住の円教の理は法華経の再説であり法華経に摂せられるので、涅槃経で重ねて説いた前三教は、その命を贖う重法となるのである。
 なお、法華経と涅槃経の勝劣については、「報恩抄」に「第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、所謂経文に云く『是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・記別を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し』等云云、経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始・捃拾の位と定め給いぬ、此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ」(0300-03)と述べられている。
 このように涅槃経の経旨によって一切経の中の根本・生命は法華経であり、その前後に説かれた諸経はその命を守り贖うための重宝であり、実教たる法華経を説くための権教方便の教えであることが明らかなのである。
 しかし、天台大師が五時八経の判釈によって法華最勝の義を立て、法華経こそ一切経の命であることを明かしても、諸宗の学者等は「天台一宗の義なり諸宗は之を用いず」と、己義を改めようとしないまま、大聖人御在世に至っているのである。そして「自師の誤りを執する故に或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語らい結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し失無き者を之を損うて楽と為す」と破されているように、大聖人が諸宗の邪義を破折されると猛然と怨嫉し迫害を加えたのである。
 そのことを「開目抄」では「仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く『末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土』とみへぬ、法滅尽経に云く『謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石』と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり……法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし」(0199-15)と述べられているのである。

0952:18~0953:11 第四章 善無畏等の内心帰伏を明かすtop
18                                      諸宗の中に真言宗殊に僻案を至す
0953
01 善無畏・金剛智等の想に云く 一念三千は天台の極理一代の肝心なり 顕密二道の詮たる可きの心地の三千は 且く
02 之を置く、 此の外・印と真言とは仏教の最要等云云、其の後真言師等事を此の義に寄せて印・真言無き経経をば之
03 を下すこと外道の法の如し、 或る義に云く大日経は釈迦如来の外の説なりと、 或る義に云く教主釈尊第一の説な
04 りと、 或る義には釈尊と現じて顕経を説き大日と現じて密経を説くと、道理を得ずして無尽の僻見之を起す、 譬
05 えば乳の色を弁えざる者 種種の邪推を作せども本色に当らざるが如く 又象の譬の如し、今汝等知る可し大日経等
06 は法華経已前ならば華厳経等の如く已後ならば涅槃等の如し。
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 諸宗のなかでも真言宗がとくに邪義を構えている。彼らの祖師の善無畏、金剛智等は「一念三千の法門は天台の至極の法門であり、釈尊一代の肝心である。顕密二道の究極である心地の三千はしばらくおく。このほかに印と真言は仏の教えの最も要である」と述べた。それ以後、真言師等が、祖師の義に事寄せて印と真言のない経々を下すこと、まるで外道の法のようである。
 ある者は「大日経は釈迦如来のほかの大日如来の説である」といい、ある者は「大日経は教主釈尊の第一の経である」といい、またある者は「ある時は釈尊と現れて顕経を説き、ある時は大日如来と現れて密経を説いたのである」と主張している。
 これらの者は仏の教えの道理を知らないで果てしない邪見を起こしているのである。譬えば乳の色を知らない者が集まってさまざまな誤った推察をめぐらしても、本当の色がわからないようなものである。また、盲目の者が集まって象を論じても、象の全体の形がわからない譬えのようなものである。いま諸宗の学者等は、大日経は法華経以前なら華厳経等のようであり、法華経以後なら涅槃経等と同じく、法華経の命を贖うための重宝にすぎないことを知るべきである。
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07   又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経
08 と名づくるか、 譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し、仏の滅後天竺に於いて此の詮を得たる
09 は竜樹菩薩、漢土に於いて始めて之を得たるは天台智者大師なり、 真言宗の善無畏等・華厳宗の澄観等・三論宗の
10 嘉祥等・ 法相宗の慈恩等名は自宗に依れども 其の心は天台宗に落ちたり其の門弟等此の事を知らず如何ぞ謗法の
11 失を免れんや、
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 あるいはまた、インドの法華経には印と真言もあったが、中国の訳者がこれを略して、羅什三蔵は妙法蓮華経と名づけ、善無畏は印と真言を加えて大日経と名づけたのであろうか。たとえば、法華経にも正法華経、添品法華経、法華三昧経、薩曇分陀利経等があるようなものである。
 釈尊の滅後にインドにおいて法華経と諸経との関係を正しく知ったのは竜樹菩薩であり、中国ではじめてこれを知ったのは天台智者大師である。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等は、名はそれぞれの宗の祖師として一宗を立てているが、内心は天台宗に帰伏しているのである。その門弟等はこのことを知らないで邪義を構えているが、どうして謗法の罪を免れることができようか。

真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
僻案
 誤った教えや見解のこと。
―――
善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
―――
金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
―――
印と真言
 印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
―――
真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
釈迦如来
 釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
―――
顕経
 「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
―――
密経
 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
―――
大日
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
―――
僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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象の譬
 涅槃経巻三十二に出てくる。釈尊が「一切衆生悉有仏性」を理解させるために使った譬喩。ある国王が一人の大臣に象を牽いてこさせ、多くの盲人に触れさせて、象が何であるかを答えさせる。鼻に触れた者は「象は杵のよう」といい、尾に触れた者は「象は縄のよう」等と答えるなど正しいものはなかった。釈尊はこのことから真理を知る国王を如来の智慧、象を牽いてきた大臣を涅槃経、象を仏性、象がわからない盲人を無明の衆生に喩えた。ここでは、最勝の法華経の法理を知らず、劣った大日経を勝れていると誤っている真言密教の僧を盲人に譬えている。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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羅什
 (0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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正法華
 十巻。法華経の漢訳・現存三経中の最古のもの。中国・西晋の太康7年(0286)竺法護の訳。    
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添品法華
 七巻(または八巻)。中国・隋代の闍那崛多と達磨笈多の共訳。添品妙法蓮華経の略称。現存の漢訳三経の一つ。
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法華三昧
 法華三昧経のこと。中国・劉宋元嘉4年(0427)智厳の訳。王女利行が法華三昧を得る方法を述べたもの。
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薩云分陀利
 薩曇分陀利経のこと。中国・西晋代の訳とされるが、訳者不明である。この経は妙法蓮華経の提婆達多品第十二に相当する分が別になったものである。釈尊の前生譚、提婆達多の授記、竜女の成仏が明かされている。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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澄観
 (0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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嘉祥
 (0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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慈恩
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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 本章では、諸宗のなかでも、とくに真言宗の邪義を挙げて破折され、真言・華厳・三論・法相の各宗の祖師等がその心は天台宗に帰伏したにもかかわらず、その末弟等がそれを知らずに謗法を犯していることが述べられている。
 まず、中国真言宗の祖である善無畏・金剛智等は、天台大師の極説であり釈尊一代の仏教の肝心である一念三千の法理を知って、「顕密二道の詮たる可きの心地の三千は且く之を置く」すなわち一念三千の理に心伏したうえで、「此の外・印と真言とは仏教の最要等」と邪義を立てたのである。
 「開目抄」に「華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり、華厳宗の澄観・此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす、真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり……善無畏三蔵の閻魔の責にあづからせ給しは此の邪見による後に心をひるがへし法華経に帰伏してこそ・このせめをば脱させ給いしか」(0215-17)と詳しく論じられている。
 そうした事実を知らない真言宗の末弟達は、善無畏や金剛智の説に依拠して、印・真言のない顕教の経々を卑しめて外道の法のように劣るとしたり、大日経は釈尊以外の仏、すなわち大日如来の説であるとしたり、大日経等の密教は釈尊第一の教説であるとしたり、同じ仏が釈尊と現れて顕教を説き、大日如来と現れて密教を説いたのだ、等の諸説を唱えたのである。それらはいずれも法華経と大日経の勝劣の根本を知らず、善無畏等の邪義を淵源として己義をさらに拡大したものといえよう。
 大聖人は「今汝等知る可し大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く已後ならば涅槃等の如し」と、前述の贖命重宝の法門を挙げて、大日経が法華経以前であれ以後に説かれたにせよ、法華経の命を贖う重法にすぎないと、その立場を一言で明確にされているのである。
 また、真言宗で大日経が他に勝れる理由とする印と真言についても、法華経と大日経が同本異訳であるとする説を挙げて、インドの法華経の原点には印・真言があったが、訳者の羅什三蔵がそれを省略して妙法蓮華経と名づけ、のちに善無畏が印・真言を加えて大日と名づけたものかと、印・真言などは枝葉であることを示されている。
 印・真言の有無によって法華経と大日経の勝劣を定めることが誤りであることについては、法華真言勝劣事にくわしい。すなわち「日蓮云く威儀形色経・瑜祇経等の文の如くば仏説に於ては法華経に印真言有るか、若し爾らば経家・訳者之を略せるが……若し爾らば天台真言の理同事異の釈は経家並に訳者の時より法華経・大日経の勝劣なり、全く仏説の勝劣に非ず……印契真言の有無に付て二経の勝劣を定むるに大日経に印真言有つて法華経に之無き故に劣ると云わば、阿含経には世界建立・賢聖の地位是れ分明なり、大日経には之無し、彼の経に有る事が此の経に無きを以て勝劣を判ぜば大日経は阿含経より劣るか……法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり、諸経に印真言を簡わざるに大日経に之を説いて何の詮か有る可きや」(0122-16)と。
 仏の滅後に、法華経と諸経の勝劣を正しく知り得たのはインドでは竜樹菩薩であり、中国では天台智者大師だった。そして前述のように、真言・華厳・三論・法相の諸宗の祖師達は、いずれも内心は天台大師の一念三千の法門に帰伏していたのである。
 そのことを、真言七重勝劣事には、
     「天台宗に帰伏する人人の四句の事
  一に身心  倶に移る─┬三諭の嘉祥大師
             └華厳の澄観法師
             ┌真言の善無畏・不空
  二に心移りて身移らず─┼華厳の法蔵
             └法相の滋恩
  三に身移りて心移らず─┬滋覚大師
             └智証大師  
  四に身心倶に 移らず──弘法大師」(0131-13)
 と整理されている。
 そのような自宗の祖師の法華帰伏の実態を知らない諸宗の末師末弟らは、それぞれの宗義によって法華経を批判しているため、正法誹謗の重罪を免れることができないのである。

0953:11~0954:02 第五章 折伏値難は経証身読なるを明かすtop
11        或る人日蓮を難じて云く機を知らずしてアラ議を立て難に値うと、 或る人云く勧持品の如きは深位
12 の菩薩の義なり安楽行品に違すと、 或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、 或る人云く唯教門計りな
13 りと、 具に我之を存すと雖も卞和は足を切られ清丸は穢丸と云う名を給うて死罪に及ばんと欲す・ 時の人之を咲
14 う、然りと雖も其の人未だ善き名を流さず汝等が邪難も亦爾る可し。
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 ある人が日蓮を非難して「末法の衆生の機根を知らないで、荒々しい折伏をするから難に値うのだ」といい、ある者は「勧持品に説かれる折伏の修行は深位の菩薩の行であり、初心の行の者は安楽行品の摂受の行によるべきであり、日蓮房は、これに背いている」といい、ある人は「自分も内心は法華第一の義を知っているが言わないでいるのだ」と述べている。またある人は「日蓮は教相門ばかりで観心門がないではないか」と責めている。
 こうした非難を日蓮はよく知っているが、中国の卞和は足を切られ、清丸は穢丸という名をつけられたうえ、死罪にされようとした。その当時の人々はそのありさまを笑ったが、笑われた人は名を残し、笑った人々はその名を後世まで残してはいない。汝らの邪な非難もまた同様であろう。
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15   勧持品に云く 「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、
16 「及び刀杖を加うる者」等云云、 日蓮は此の経文を読めり 汝等何ぞ此の経文を読まざる「常に大衆の中に在つて
17 我等が過を毀らんと欲す」等云云、 「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、 「悪口して顰蹙し数数擯出せられ
18 ん」数数とは度度なり 日蓮擯出衆度流罪は二度なり、 法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持
0954
01 品今の勧持品は過去の不軽品なり、 今の勧持品は未来は不軽品為る可し、 其の時は日蓮は即ち 不軽菩薩為る可
02 し、
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 勧持品第十三には「諸の無智の人々が悪口罵詈をする」とある。日蓮はこの勧持品の文のとおりになっている。汝らは、なんでこの経文に入らないのか。また「そして刀杖を加える者がいる」と。日蓮はこの経文を身で読んだのである。汝らは、なんでこの経文を身で読まないのか。また「つねに大衆のなかで、法華経の行者を毀ろうとする」とも、「国王、大臣、バラモン等に向かって法華経の行者を誹謗する」とも、「悪口し、軽蔑して、そのため法華経の行者は数数処を追われたりする」ともある。数数とはたびたびである。日蓮は処を追われること数回、流罪は二度である。
 法華経は三世の諸仏の説法の儀式である。過去の威音王仏の時の不軽菩薩の修行を明かした不軽品は、今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。今の勧持品は未来には過去の不軽品となって修行の範となるであろう。その時、勧持品を色読した日蓮は過去の不軽菩薩として折伏の範となるであろう。

麤議
 荒々しく乱暴なさま。
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勧持品
 妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される
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深位の菩薩
 修行が進み、52位の中の深位にある菩薩のこと。
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安楽行品
 法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
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教門
 仏の教説、教法のこと。仏の教えは生死解脱の道に入る能入の門である。
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卞和
 中国・周代楚の人。卞邑出身の和氏のこと。韓非子和氏篇によると荊山で玉璞を得て厲王に献上した。王が玉人に鑑定させたところ、ただの石というので、王を欺く者として左足を切らせた。厲王の没後即位した武王にも同様に璞を献上したが、またも石と鑑定されて右足を切られた。その後、文王が即位すると楚山の下で璞を抱いて三日三晩泣き明かし、ついに血涙を出した。文王がこれを知り理由を問うて璞を得、磨かせたところはたして宝石であったため、これを和氏の璧と名付けて天下に尊ばれた。
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清丸
 (0733~0799)。和気清麻呂のこと。奈良末期から平安初期の貴族・政治家。武官として藤原仲麻呂の乱の鎮定に功を立て、従五位下・近衛将監に進み、藤野和気真人の姓を賜った。神護景雲3年(0769)に称徳天皇の寵僧・道鏡を天皇に立てよという託宣を勅使として確かめに宇佐八幡宮へ行き、「無道の人を除くべし」との神託を報告して道鏡の野心をしりぞけた。そのため別部穢麻呂と名を変えられて大隅(鹿児島県)に流され、一族も流罪となった。道鏡失脚後、宝亀元年(0770)に許されて都に帰り、国造、造営大夫となって活躍した。
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顰蹙
 顔をしかめて憎むこと。
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三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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不軽品
 法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」といって一切衆生を礼拝した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。また、不軽を軽賤し迫害を加えた者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、ふたたび不軽の教化にあい仏道に住することができたという。
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 本章では、大聖人が難に値うのは衆生の機根も知らずに折伏したためであるなどと、さまざまに大聖人の折伏行を非難する者達に対して、折伏弘教によって難に値うことは法華経の経証どおりであると、勧持品の二十行の偈を身読された大聖人の実践の正しさを示され、疑難を破されている。
 はじめに、大聖人の折伏行に対する四つの疑難が挙げられている。その第一は、いかなる法によって成仏するのかという衆生の機根を見分けないで、南無妙法蓮華経の一法しか成仏の道はないと立てるのは粗雑な教義である。だから難に値うのだとするもの。第二は、勧持品に説かれている三類の強敵を耐え忍び弘教する折伏行は深位の菩薩の修行法であり、浅学初心の行者は安楽行品に説かれている摂受の修行によるべきなのに大聖人はそれに背いているというもの。第三は、大聖人の立てている教説は自分も知ってはいるが折伏すべきでないと思っているゆえに外に向かっては言わないのだと責任逃れをしつつ、自らを悟っているという増上慢のもの。第四は、大聖人は教相門によって権実相対して諸宗を折伏しているが、観心門が欠けているではないか、との批判である。
 こうした疑難は、諸宗からあったこともあろうが、大聖人が幕府から迫害され竜の口で処刑されようとしたため、門下周辺から猛然と起こったものと考えられる。
 翌文永9年(1272)2月の「開目抄」では「世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心」(0203-11)と、大聖人が諸天の加護もなく大難にあうのは法華経の行者ではないためではないか、との疑難を挙げられている。そして「守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし」(0231-15)と諸天の守護なき理由を明かされ、三類の怨敵を呼び起こした大聖人こそまさしく末法の法華経の行者であり、主師親三徳具備の仏であることを明かされているのである。これは、本抄の疑難の第一と第二に対する解答にもなっているといえよう。
 また、同年3月の「佐渡御書」では「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して……日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと」(0960-16)と述べられており、心弱くして退転しながら、かえって大聖人を批判する愚かな門下が出ていたことを物語っている。
 また「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539-10)との御文もあり、賢げに大聖人を批判する門下によって、多くの弟子檀那がたぶらかされて信心を捨てていったのである。
 本抄に挙げられた折伏に対する批判も、そうした輩の言い分だったとも考えられる。大聖人が佐渡流罪へ出発されたのち、残された門下は幕府や主家等から迫害されたこともあって動揺し、大聖人が誤っていたと考えれば退転する正当な理由があることになるため、そうした批判には耳に入りやすかったことであろう。
 大聖人が本抄を著されたのも、そうした門下の疑いを晴らし、確信を与えて難に耐え、信仰を貫かせるためだったと拝される。
 大聖人は、正しきがゆえに迫害されながら後世に名を残した卞和や和気清麻呂の故事を引かれ、邪難をなす者が後に恥となることを示し、法華経勧持品にあるように無智の者に悪口罵詈され刀杖を加えられた日蓮こそ「此の経文に当れり」「此の経文を読めり」と、経文をそのまま身読・色読されたことを明かされているのである。
 さらに、王難にあったのは三類の敵人のうち、道門・僣聖増上慢の輩の讒言によるものであり、伊豆・佐渡と二度の流罪にあったことは「数数見擯出」の経文どおりであることを示されている。
 なお、「開目抄」にも「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く『諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う』等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ……常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-10)と、全く同趣旨の御文がある。
 そして、法華経は過去・現在・未来と三世の諸仏の説法の儀式を説いたものであるから、過去威音王仏の像法時における不軽菩薩の弘教の方規は、今、日蓮大聖人が身読実践されている勧持品と全く同じであり、今の勧持品が未来に過去の不軽品と仰がれる時がくれば大聖人は「過去の不軽菩薩」として仰がれるであろうと仰せになって、忍難弘教こそ末法の正しい修行であることを結論されている。
 この場合の大聖人が不軽菩薩と仰がれるとは、正法弘通の範となるという意味もあろうが、その文意は「不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(0960-13)、「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974-09)、「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507-06)等の御文から、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、大白法を建立し弘通される御本仏として仰がれるとの意と拝されるのである。

0954:02~0954:08 第六章 正法流布の時を末法と示すtop
02   一部八巻・二十八品・天竺の御経は一由旬に布くと承わる定めて数品有る可し、 今漢土日本の二十八品は略の
03 中の要なり、 正宗は之を置く流通に至つて宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ、勧持品の二万・ 八
04 万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず 但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始を指すなり、 此
05 の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世」等云云、 同本異訳の正法華経に云く「然後末世」 又云く
06 「然後来末世」、 添品法華経に云く「恐怖悪世中」等云云、時に当り当世三類の敵人は之れ有るに但八十万億・那
07 由他の諸菩薩は一人も見えたまわず 乾たる湖の満たず月の虧けて満ちざるが如し 水清めば月を浮かべ木を植うれ
08 ば鳥棲む、日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す彼の諸の菩薩の加被を請う者なり。
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 法華経は一部八巻二十八品であるが、インドの原典には一由旬の広さに布かれるほどの量があると聞く。おそらく経本は現在のもの以外にもっと多くの品があったのであろう。今の中国・日本の二十八品は略の中の要なのである。
 この法華経は序分・正宗分・流通分に分かれているが、その正宗分はさておき、滅後の弘教のあり方や功徳の説かれた流通分にいたって、見宝塔品では三箇の勅宣をもって霊鷲山と虚空会の大衆に滅後の弘教を仰せつけられた。また勧持品で二万・八万・八十万億等の大菩薩が滅後の弘教を誓言されたことについても、日蓮の浅い智慧では量れない。
 ただし、その御誓言に「恐ろしい悪世の中」との経文は末法の始めをさすのである。この「恐ろしい悪世の中」と説かれた次の品の安楽行品等には「末世において」とあり、同本異訳である正法華経には「然るに後の末世に」とあり、また「然るに後に末世が来たりて」とあり、また添品法華経には「恐ろしい悪世の中」と説かれている。
 この末法の時にあたる現在、三類の強敵が出現しているのに、八十万億那由他の諸菩薩は一人もおみえにならない。たとえば乾あがった湖に水が満ちず、虧けた月が満ちないようなものである。水が澄めば月は影を浮かべ、木を植えれば鳥が棲むようになるのである。日蓮は八十万億那由他の諸菩薩の代官として、この法華経を弘通するのである。必ず彼の諸の菩薩の加護を受けるであろう。

由旬
 梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
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正宗
 正宗分のこと。
―――
流通
 承通分のこと。その内容的な意義について分析する場合、大きく序分・正宗分・流通分の三段に分ける。序分とは、中心眼目をあらわすための前置き、準備段階、正宗分とは、正論、中心眼目となる部分、流通分とは、正宗分に説かれた哲理・法理を、時機にしたがって応用し、流れかよわしめること。
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宝塔品
 妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
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三箇の勅宣
 法華経見宝塔品第十一で、釈尊が大衆に滅後の妙法華経の弘通を三回にわたって勧め命じたことをいう。勅宣はみことのりの意で、仏の金言をいう。三箇の鳳詔、三箇の諌勅ともいう。❶付嘱有在 「開目抄」には、「法華経の第四宝塔品に云く『爾の時に多宝仏・宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す』等云云、第一の勅宣なり」(0217)とある。❷令法久住 「開目抄」には、「又云く『爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊・久しく滅度し給うと雖も宝塔の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏・恒沙等の如く来れる法を聴かんと欲す各妙なる土及び弟子衆・天人・竜神・諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け』、第二の鳳詔なり」(0217)とある。❸六難九易 「開目抄」には、「多宝如来および我が身 集むる所の化仏 当に此の意を知るべし、諸の善男子・各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数・恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し須弥を接つて 他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後・悪世の中に於て能く此の経を説かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子・我が滅後に於て誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」とある。六難九易を詳細すれば、仏の滅後の悪世に、(イ)「六難」は、①広説此経難(悪世の中で法華経を説くこと)②所持此経難(法華経を書き、あるいは人に書かせること)③暫読此経難(悪世の中で、しばらくの間でも法華経を読むこと)④少説此経難(ひとりのためにも法華経を説くこと)⑤聴受此経難(法華経を聴受して、その義趣を質問すること)⑥受持此経難(法華経を受持すること)(ロ)「九易」は、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説くこと②須弥擲置易(須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を演説すること)⑤把空遊行易(手に虚空・大空を把って遊行すること)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること)⑦大火不焼易(枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること)。
―――
霊山虚空の大衆
 法華経説法の霊鷲山会と虚空会に連なった一切の大衆。
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恐怖悪世中
 法華経勧持品第13の文。「恐怖悪世の中に」と読む。白法隠没・闘諍堅固の末法の時を指している。同じ文が添品法華経勧持品第12にある。
―――
於末世
 正法華経勧説品第12の文。「末世に於いて」と読む。悪世末法の時を指す。法華経安楽行品第14の「於後末世」と同意。
―――
然後末世
 正法華経勧説品第12の文。「然るに後の来世に」と読む。末法を指す。
―――
然後未来世
 正法華経勧説品第12の文。「然るに後に来世が来たりて」と読む。末法を指す。
―――
三類の敵人
 法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。①俗衆増上慢(法華経を弘める者に対して、悪口罵詈等し刀杖を加える在家者)。②道門増上慢(邪智で心が曲がり、覚りを得たと錯覚している我慢の心の強い出家者)。③僣聖増上慢(山林に住み衣を着て、真実の仏道を行じたと思い込み人を軽蔑し、自らは利益のみにとらわれ、しかも在家に法を説き、世間から敬われ、権力に近づき正法を弘める者を迫害する出家者)。
―――
那由他
 梵語ナユタ(Nayuta)の音写。那由多、那由佗とも音写し、兆または溝と訳す。インドにおける数の単位の一つ。具体的数量は経論によって諸説があり、定かではない。
―――
代官
 主君の代理として職務に当たる者。
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加被
 加護のこと。
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 本章では、釈尊が予言した法華経流布の時が恐怖悪世中等とあるように末法の始めであることを示し、大聖人こそ、その時にあたって法華経を弘通する人であることが明かされている。
 法華経宝搭品第十一で釈尊滅後に法華経を弘通すべきことを勧めた三箇の勅宣が発せられ、それを受けた勧持品第十三では八十万億那由陀の菩薩が「仏の滅度の、恐怖悪世の中に於いて、我れ等は当に広く説くべし」と誓い、二十行の偈を説いて三類の敵人の出現を予言、「是の経を説かんが為めの故に、此の諸の難事を忍ばん」と忍難弘教を誓言しているのである。
 勧持品で三類の強敵が競い起こるとされた正法流布の時とは、「『恐怖悪世中』の経文は末法の始を指すなり」とあるように、明らかに正法・像法時代ではなく末法を指しており、安楽行品や正法華経・添品法華経の文もいずれも末法を指している。
 ところが、末法に入り三類の強敵はすでに出現しているにもかかわらず、勧持品で誓言した八十万億那由陀の菩薩が出現していないので、大聖人はその代官として正法を弘通するのであると仰せになっているのである。
 すなわち、ここで再び三類の敵人を呼び起こす折伏こそ、勧持品の意にかなった末法の弘教であることを述べて、末法に折伏を否定し摂受を主張する者を破しておられるのである。
 この御文もまた、「開目抄」に「妙法華経に云く『於仏滅度後恐怖悪世中』安楽行品に云く『於後悪世』又云く『於末世中』又云く『於後末世法欲滅時』分別功徳品に云く『悪世末法時』薬王品に云く『後五百歳』等云云、正法華経の勧説品に云く『然後末世』又云く『然後来末世』等云云……此は教主釈尊・多宝仏・宝塔の中に日月の並ぶがごとく十方・分身の諸仏・樹下に星を列ねたりし中にして正法一千年・像法一千年・二千年すぎて末法の始に法華経の怨敵・三類あるべしと八十万億那由佗の諸菩薩の定め給いし虚妄となるべしや、当世は如来滅後・二千二百余年なり大地は指ば・はづるとも春は・花は・さかずとも三類の敵人・必ず日本国にあるべし、さるにては・たれたれの人人か三類の内なるらん又誰人か法華経の行者なりとさされたるらん・をぼつかなし」(0225-09)と同趣旨のより詳しい御文があり、「開目抄」は本抄の意を更に展開されたものである事をうかがうことができる。

0954:09~0954:14 第七章 入道を帰し富木殿に謝すtop
09   此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き 用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す、 御志し
10 始めて申すに及ばず候 人人に是くの如く申させ給え、 但し囹僧等のみ心に懸り候便宜の時早早之を聴かす可し、
11 穴賢穴賢。
12       十月二十二日 酉の時                   日蓮花押
13     土木殿
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 この入道はあなたの言いつけであるから、佐渡の国まで御供をするという。しかし、費用もかさみ、なにやかやと面倒なことでもあるからここで還すことにする。あなたの御志は今さら言うまでもないが、人々にもよくこのことを伝えてもらいたい。それにつけても土牢で苦しむ弟子達のことが心配なので、よい機会に早くこの法門を聞かせてほしい。穴賢穴賢。
  十月二十二日 酉の時       日 蓮  花 押
   土 木 殿

入道
 仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
―――
用途
 要する費用。旅費の意。つかいみち。
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囹僧
 牢獄に入れられた僧のこと。囹は牢屋の意。竜の口法難の時、日朗等の五人の門下が土籠に入れられた。
―――
便宜
 ①よい機会、好都合。②音信、便り。
―――
酉の時
 午後6時頃。またその前後2時間で午後5時から7時をいう。
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 本抄の最後で、富木家から佐渡へお供すべく付けられた入道を帰されるにあたり、富木常忍の志に感謝するとともに、人々に本抄の趣旨を伝えることと、捕えられ入獄している弟子達のことが心懸かりなので、寺泊御書で述べられている法門を伝え聴かせてほしいと依頼して、筆をおかれている。
 入道を返されるのに「然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に」とされているのは、流人の身として多くの供を佐渡まで伴うことはできないためや、供の者の旅費や食費などがかさむこと、また酷寒の佐渡へ供させることが気の毒と思われたこと、富木家へ迷惑がかかることを配慮されたため、などが考えられる。富木常忍の意を体して10数日の苦難の旅をともにし、佐渡までもと思いつめていた入道を、大聖人は、門下にとって重要な消息を一日も早く富木常忍のもとへ届けるようさとされたであろうと推される。
 また「囹僧等のみ心に懸り」と仰せられているのは、竜の口法難の際に大聖人とともに捕えられ、土牢に入れられた日朗、日心、坂部入道、井沢入道、得業寺の五5人の身の上である。大聖人は依智に滞在中の10月3日と9日の2回、激励の御状を書かれており、とくに依智出発前の9日には、「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ……籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん」(1213-01)と弟子の身を思いやる大慈悲の御心境を伝えられている。
 御自身が苦難の旅の途上であり、配所へ向かう身でありながら、鎌倉に残った弟子檀那のことのみをつねに思われ、人々の疑心を晴らすべく温かくも厳しい信心指導の書状を認められるとともに、とくに囚れの身の門下の身を案じられているのである。

0951~0954    寺泊御書(2011:11大白蓮華より 先生の講義)top

正義は必ず勝つ!毅然たる師弟の大前進を

 人間にとって最も尊貴な生き方とは何か。
 私は迷わず、「正義」に生き抜くことであると答えたい。
 正義が栄える世の中でなければ、本来、民衆が生命に具えている善性を薫発させていくことはできません。反対に、人々の無限の向上を否定する思想が広がってしまえば、不幸と苦しみが蔓延してしまう。
 混沌とする時代・社会にあって、正々堂々と正義の真実を叫び抜く、これほど尊く、高潔な人生はありません。
 「正義によって立て!汝の力、二倍せん」この有名な先哲の箴言は、私が座右の銘としてきた言葉です。若き日から胸に刻み、その通りに実践してきたつもりです。そして、波浪や烈風にあうたびに、正義によって立ち、力を増して乗り越えてくることができました。
 私たちは、妙法という最高の法を持ち、全人類の宿命転換のために戦っている。広宣流布こそ、仏法の正義に生き抜く大闘争です。民衆救済の崇高な思想を持ち、決然と立ち上がった一人一人の力は、何倍にも何十倍にもなるのです。
 日蓮大聖人は、その尊き御生涯にあって、万人の成仏を掲げ、仏法の精神を歪める諸宗に対して破邪顕正の闘争を続けられました。 配流の地・佐渡の対岸に臨み、風待ちのために滞在されていた寺泊の地においても全くかわりませんでした。
 「正義は必ず勝つ!」
 「毅然たる我が前進を見よ!」
 大弾圧の烈風に動揺を隠せない弟子門下たちに対して、一歩も退くことなく、威風堂々と大言論戦を展開するお姿を示す「反転攻勢の一書」が、今回拝する「寺泊御書」です。
02   今月十月なり 十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河の宿に付き十二日を経て越後の国寺泊の津に付
03 きぬ、此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず 其の期を知らず、道の間の事心も及ぶこと
04 莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し、又本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば之を止む。
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 今月(十月である)十日に相州の国愛京郡依智の郷をたって、武蔵国の久目河の宿に着き、十二日かかって越後国の寺泊の港に着いた。
 これから大海を渡って佐渡国に渡ろうとしているが、順風が定まらないために、出発の日がわからない。ここまでの道中のことは、想像も及ばないほどで、また筆に書くこともできない。ただ推量にお任せする。またこの苦難はもとより覚悟のうえなので、いまはじめて歎くことではないから、やめておく。

厳寒の道を敢然と歩まれる
 日蓮大聖人は、文永8年(1272)9月12日に竜の口の法難直後、約1カ月にわたり、相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の屋敷に留め置かれました。そして10月10日に依智を出発され、武蔵国久米川を経由し、12日の道のりを経て、寺泊の港に着かれました。配流先の佐渡は目前ですが、順風待ちで船が出航できないため、寺泊で滞在されていたようです。本抄は、この寺泊で、10月22日に富木常忍に宛てて認められたお手紙です。
 旧暦の10月といえば、現在の11月から12月にあたります。晩秋から冬に向かう季節です。吹きすさぶ北風の中、厳寒の北国へ一歩一歩、向かわれていく道中であったと拝察されます。北国への道は、まさに厳冬の如き法難への道でもあった。大聖人は、この法難の烈風の中を敢然と歩み抜かれたのです。
 本抄で大聖人は仰せです。
 「本より存知の上なれば」もとより覚悟の上なので、今初めて嘆くべきことではないのだ、と、大聖人自身は、いかなる艱難、苦難に遭おうとも、悠然たる御境涯であられた。その時、胸中に去来していたのは、ただただ、同様に迫害を受け苦しんでいる門下たちのことであったに違いありません。
 「寺泊御書」の末尾では、富木常忍がお供に付けた入道を帰されるにあたり、「人人に是の如く申させ給え」「早早之を聴かす可し」本抄の趣旨をすぐに皆に伝えてほしい、と仰せです。
 寸暇を惜しんで門下への激励の書で綴られた様子が伝わってきます。その大慈大悲のお心が拝されてなりません。
05   法華経の第四に云く 「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切
0952
01 世間怨多くして信じ難し」、 涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく○大王今は唯・
02 一の大悪人有り瞿曇沙門なり ○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り 而も眷属と為つて善を修する
03 こと能わず呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目ケン連等を調伏す」云云、 此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる
04 二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり、 法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、 天台の意
05 に云く「一切の声聞・ 縁覚並に近成を楽う菩薩」等云云、 聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざるは言
06 を出して謗ること莫きも皆怨嫉の者と定め了んぬ、 在世を以て滅後を推すに 一切諸宗の学者等は皆外道の如し、
07 彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、 一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、 彼の外道は先仏の説教
08 流伝の後・之を謬つて後仏を怨と為せり、 今諸宗の学者等も亦復是くの如し、 所詮仏教に依つて邪見を起す目の
09 転ずる者大山転ずと欲う、
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 法華経の巻第四の法師品第十には「この法華経は如来の現に在ます時でさえ怨嫉が多い。ましてや釈尊の滅度の後においてをや」とあり、第五の巻の安楽行品第十四にはに「一切の世間の中に怨が多くて信じ難い」とある。また涅槃経の三十八には「その時に一切の外道が阿闍世王の前にでてみなこう言った『大王よ、今世の中に一人の大悪人がいる。瞿曇沙門がそれである。世間のあらゆる悪人は利欲のために彼のもとに集まって、その眷属となり、善いことをすることがない。また彼は呪術の力によって迦葉や舎利弗・目連などを帰伏させ弟子としている』」とある。この涅槃経の文は、一切の外道が自分達の本師である二天三仙の説いた経典を仏陀に破られたために言った悪口なのである。
 法華経の文は、仏を怨すという経文ではない。天台大師の解釈にも「一切の声聞・縁覚の二乗、ならびに始成正覚の仏を求めて久遠実成を信じない菩薩が怨である」とあるように、法華経を聞こうともせず信じよともしない人々は、言葉に出して誹謗することがなくても、みな怨嫉の者と定められているのである。
 釈尊の在世のことから滅後を推し量ると、一切の諸宗の学者等はみな仏在世の外道のようなものである。彼等がいう「一大悪人」とは日蓮にあたる。「一切の悪人がそこに集まっている」とは日蓮が弟子檀那のことである。彼の外道は過去の仏の教えを誤り伝えて、かえって今の仏である釈尊を怨としたのである。今の諸宗の学者等もまたこれと同じである。結局のところは、仏の残された教えによって邪見を起こしたのである。ちょうど酔って目の回っている者が、大きな山が回っているように見えるのと同じである。

「猶多怨嫉」「多怨難信」を示す
 なぜ難にあうのか。当時、門下たちが抱いた疑問に明確に答えるためにも、何よりもまず法華経の経文のから始められます。
 「如来現在猶多怨嫉・況滅度後」「一切世間多怨難信」
 末法において法華経を弘通すると迫害を受けることは必然であり、経文に記された通りです。大聖人こそが、その経文通りに実践し、難を受けられているのです。
 諸宗の乱立する中にあって、大聖人がただお一人、法華経の正義を宣揚なされた。そして民衆を不孝へと陥れる謗法に対して決然と戦われていったのです。
 しかし、諸宗の僧は、自宗の教えに執着するゆえに、かえって、誤りの本質を鋭く責められたことに対して憎悪を覚えます。そして、法論では敵わないために、讒言によって大聖人を陥れようと行動します。
 さらに、その讒言によって幕府の権力者が動き、正義の人に大弾圧を加えたのが、竜の口の法難であり、佐渡流罪なのです。
 大聖人は続く御文で、涅槃経の文を通して、この迫害の構図について述べられます。
 ここでは、釈尊からバラモン教の教説を破折された外道が、阿闍世王に讒言したことが記されています。
 「瞿曇沙門という一大悪人がいる」「一切の悪人が、そのもとに集まっている」人々を生老病死の苦しみから救うために立ち上がり、修行し、民衆の中に分け入って説法を続けてきた釈尊にとってみれば、いわれなき非難中傷があったことは、言うまでもありません。
 それに続く御文では、大聖人と門下に対する悪行や罵詈雑言が、これと同じ構図に当てはまることを、鋭く指摘しておられます。
 「一大悪人とは日蓮に当れり」
 「一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり」
 ここに仰せの通り、例えば極楽寺良観らの一派は、自分たちの邪義を隠そうとして、守護・地頭に対して「日蓮とその弟子たちは、阿弥陀仏を火に入れ、水に流したりする。あなたたちの大怨敵である」と、作り話を並べ騒ぎ立てました。そして「頸を切れ、所領を追い出せ」などと、権力者を動かしたのです。
 釈尊の時代の外道たちも、大聖人御在世の批判者たちも、同じ手段で謀略を巡らせていった。いつの時代にも、正義を装った偽物が、根拠なきデマで真の「正義の人」を迫害するのです。
 「仏法に依って邪見を起こす」諸宗の僧は、自分たちのほうが仏法を誤って理解し、邪見を起こしていることに気がつかない。
 そのことを大聖人は、酒に酔った者が、自分の目が回っているのに、大きな山が回っていると錯覚しているのと同じであると、その転倒を喝破されています。
 創価学会も創立以来、「猶多怨嫉」「多怨難信」と経文に説かれるままの迫害との連続闘争でした。
 戸田先生が次のように言われたことが、今もって脳裏に鮮やかに浮かびます。
 「牧口先生が幾たびとなく弟子に語った、この言葉を断じて忘れてはならない。
 『悪口罵詈、猶多怨嫉の難は法華経の実践者の誉れなのである』と」
 その通り、初代、2代会長は、正義を貫き通し、法難のために投獄されたのです。私も無実の罪で牢に入りました。その後も、幾多のデマによる激しき中傷がありました。
 しかし学会も三代の師弟もまた、一切の障魔の嵐を敢然と勝ち越えてきました。御聖訓通りの実践で、謀略や迫害に断じて屈することなく正義を叫び続けてきたからです。“難こそ誉れ”と、金剛不壊の異体同心の団結で歩みを進めてきたから勝利できたのです。
05   法華経の第四に云く 「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切
0952
01 世間怨多くして信じ難し」、 涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく○大王今は唯・
02 一の大悪人有り瞿曇沙門なり ○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り 而も眷属と為つて善を修する
03 こと能わず呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目ケン連等を調伏す」云云、 此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる
04 二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり、 法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、 天台の意
05 に云く「一切の声聞・ 縁覚並に近成を楽う菩薩」等云云、 聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざるは言
06 を出して謗ること莫きも皆怨嫉の者と定め了んぬ、 在世を以て滅後を推すに 一切諸宗の学者等は皆外道の如し、
07 彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、 一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、 彼の外道は先仏の説教
08 流伝の後・之を謬つて後仏を怨と為せり、 今諸宗の学者等も亦復是くの如し、 所詮仏教に依つて邪見を起す目の
09 転ずる者大山転ずと欲う、
-----―
 法華経の巻第四の法師品第十には「この法華経は如来の現に在ます時でさえ怨嫉が多い。ましてや釈尊の滅度の後においてをや」とあり、第五の巻の安楽行品第十四にはに「一切の世間の中に怨が多くて信じ難い」とある。また涅槃経の三十八には「その時に一切の外道が阿闍世王の前にでてみなこう言った『大王よ、今世の中に一人の大悪人がいる。瞿曇沙門がそれである。世間のあらゆる悪人は利欲のために彼のもとに集まって、その眷属となり、善いことをすることがない。また彼は呪術の力によって迦葉や舎利弗・目連などを帰伏させ弟子としている』」とある。この涅槃経の文は、一切の外道が自分達の本師である二天三仙の説いた経典を仏陀に破られたために言った悪口なのである。
 法華経の文は、仏を怨すという経文ではない。天台大師の解釈にも「一切の声聞・縁覚の二乗、ならびに始成正覚の仏を求めて久遠実成を信じない菩薩が怨である」とあるように、法華経を聞こうともせず信じよともしない人々は、言葉に出して誹謗することがなくても、みな怨嫉の者と定められているのである。
 釈尊の在世のことから滅後を推し量ると、一切の諸宗の学者等はみな仏在世の外道のようなものである。彼等がいう「一大悪人」とは日蓮にあたる。「一切の悪人がそこに集まっている」とは日蓮が弟子檀那のことである。彼の外道は過去の仏の教えを誤り伝えて、かえって今の仏である釈尊を怨としたのである。今の諸宗の学者等もまたこれと同じである。結局のところは、仏の残された教えによって邪見を起こしたのである。ちょうど酔って目の回っている者が、大きな山が回っているように見えるのと同じである。

「猶多怨嫉」「多怨難信」を示す
 なぜ難にあうのか。当時、門下たちが抱いた疑問に明確に答えるためにも、何よりもまず法華経の経文のから始められます。
 「如来現在猶多怨嫉・況滅度後」「一切世間多怨難信」
 末法において法華経を弘通すると迫害を受けることは必然であり、経文に記された通りです。大聖人こそが、その経文通りに実践し、難を受けられているのです。
 諸宗の乱立する中にあって、大聖人がただお一人、法華経の正義を宣揚なされた。そして民衆を不孝へと陥れる謗法に対して決然と戦われていったのです。
 しかし、諸宗の僧は、自宗の教えに執着するゆえに、かえって、誤りの本質を鋭く責められたことに対して憎悪を覚えます。そして、法論では敵わないために、讒言によって大聖人を陥れようと行動します。
 さらに、その讒言によって幕府の権力者が動き、正義の人に大弾圧を加えたのが、竜の口の法難であり、佐渡流罪なのです。
 大聖人は続く御文で、涅槃経の文を通して、この迫害の構図について述べられます。
 ここでは、釈尊からバラモン教の教説を破折された外道が、阿闍世王に讒言したことが記されています。
 「瞿曇沙門という一大悪人がいる」「一切の悪人が、そのもとに集まっている」人々を生老病死の苦しみから救うために立ち上がり、修行し、民衆の中に分け入って説法を続けてきた釈尊にとってみれば、いわれなき非難中傷があったことは、言うまでもありません。
 それに続く御文では、大聖人と門下に対する悪行や罵詈雑言が、これと同じ構図に当てはまることを、鋭く指摘しておられます。
 「一大悪人とは日蓮に当れり」
 「一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり」
 ここに仰せの通り、例えば極楽寺良観らの一派は、自分たちの邪義を隠そうとして、守護・地頭に対して「日蓮とその弟子たちは、阿弥陀仏を火に入れ、水に流したりする。あなたたちの大怨敵である」と、作り話を並べ騒ぎ立てました。そして「頸を切れ、所領を追い出せ」などと、権力者を動かしたのです。
 釈尊の時代の外道たちも、大聖人御在世の批判者たちも、同じ手段で謀略を巡らせていった。いつの時代にも、正義を装った偽物が、根拠なきデマで真の「正義の人」を迫害するのです。
 「仏法に依って邪見を起こす」諸宗の僧は、自分たちのほうが仏法を誤って理解し、邪見を起こしていることに気がつかない。
 そのことを大聖人は、酒に酔った者が、自分の目が回っているのに、大きな山が回っていると錯覚しているのと同じであると、その転倒を喝破されています。
 創価学会も創立以来、「猶多怨嫉」「多怨難信」と経文に説かれるままの迫害との連続闘争でした。
 戸田先生が次のように言われたことが、今もって脳裏に鮮やかに浮かびます。
 「牧口先生が幾たびとなく弟子に語った、この言葉を断じて忘れてはならない。
 『悪口罵詈、猶多怨嫉の難は法華経の実践者の誉れなのである』と」
 その通り、初代、2代会長は、正義を貫き通し、法難のために投獄されたのです。私も無実の罪で牢に入りました。その後も、幾多のデマによる激しき中傷がありました。
 しかし学会も三代の師弟もまた、一切の障魔の嵐を敢然と勝ち越えてきました。御聖訓通りの実践で、謀略や迫害に断じて屈することなく正義を叫び続けてきたからです。“難こそ誉れ”と、金剛不壊の異体同心の団結で歩みを進めてきたから勝利できたのです。
13               卞和は足を切られ清丸は穢丸と云う名を給うて死罪に及ばんと欲す・ 時の人之を咲
14 う、然りと雖も其の人未だ善き名を流さず汝等が邪難も亦爾る可し。
-----―
 中国の卞和は足を切られ、清丸は穢丸という名をつけられたうえ、死罪にされようとした。その当時の人々はそのありさまを笑ったが、笑われた人は名を残し、笑った人々はその名を後世まで残していない。汝らの邪な非難もまた同様であろう。

正義の反転攻勢を開始
 末法とは、仏教内で争いが絶えない時代です。実際に大聖人の時代には仏教が「八宗・十宗」と分かれ、それぞれが自説に執着をもち、互いに争っていました。大聖人は本抄で涅槃経に説かれる「贖命重宝」の法門を挙げられます。そして、釈尊滅後に人師・論師が立てた宗派の教えを基準とするのではなく、仏が残した一切経を根幹とすべきだと教えられています。
 「贖命重宝」とは“最も大切な命を守るための重宝”という意味です。大聖人は、この「命」とは法華経を譬え、「重宝」とは、法華経前後に説かれたすべての経を譬えると仰せです。
 すなわち、万人の成仏という仏意を明らかにし、その仏意の実現を説いた法華経こそが仏法の命ともいうべき教えであり、諸経に説かれる法理がいかに価値があるといっても、法華経の仏意に背けば意味がないということです。
 しかし、当時の諸宗の僧たちは、一切経に基づく法華最勝の結論を無視し、それを大聖人が指摘すると、ますます自宗の誤りに執着しました。挙げ句には、悪心が強盛であるゆえに争う心を起こし、仏法的にも社会的にも何ら罪のない大聖人および門下たちを迫害し、しかも、それを喜ぶという異様な姿をあらわしていきます。大聖人は本抄で、公式の法論を避けて逃げ、権力と癒着して正義の人を亡き者にしようとした当時の諸宗の僧らの実態を鋭く論破されています。
 本抄で「贖命重宝」の法門に言及されているのは、仏法の命ともいうべき法華経を、命をかけて弘める「法華経の行者」の精神を示す意があられたと拝することができます。それとともに、特に、天台密経を含む真言宗の根本的な過ちに対する本格的な破折に着手されるためとも拝察できます。
 当時、盛んに真言宗の祈禱が行われていましたが、それを根本で支えているのが真言宗および天台密経の「理同事勝」の教義でした。すなわち、法華経に基づく成仏の「理」である一念三千は大日経にも説かれているとしたうえで、大日経は印と真言という「事」が説かれている点で勝れているとするものです。
 これに対して大聖人は、大日経も法華経の前後の経典であることは変わりがないので、法華経という命を贖う重宝と位置づけるべきであり、法華経こそが根本の経典であることを明かされています。
 いずれにしても大聖人が真言破折を本格的に展開されていくのは、佐渡期から身延期にかけてとなりますが、本抄はその導入が示されているともいえます。
 あらためて考えてみれば、この時点で大聖人は、流罪地を目前とした状況に置かれています。しかし、破折顕聖の炎はいやまして盛んに燃えておられる。むしろ、今まで以上に、新たな広宣流布の戦いの地平が開かれていることが本抄からも伝わってくるのです。
 いうならば、大難のさなかで大聖人は、広宣流布の再構築を目指されたとも拝することができます。
 何が日本国を狂わせているのか。亡国・亡民という危機に瀕している日本国の人々を救うために、真に弘めるべき大法とは何か。その末法の法華弘通にあって、日蓮大聖人はいかなる存在か。そして、どのような精神で立ちあがってこそ真正の法華経の行者と言えるのか。大聖人は、流罪地で「開目抄」「観心本尊抄」等を著され、末法万年の民衆救済の大仏法を確立されていかれるのです。
 幕府がどのように大聖人を処罰しようと、「師子王の戦う魂」を奪うことはできません。檻に入れようとも、師子王の魂を封じ込めることはできない。大聖人は門下に、この師子王の自由自在の大境涯を教えようとされたとも拝されます。
大聖人に対する邪難を破折
 本抄では当時、迫害の渦中を大聖人に寄せられた批判を4点あげられています。すなわち、
    第1に”末法の衆生の機根を知らずに、粗雑な折伏行を立てるから難にあう”
    第2に”勧持品に説かれる折伏は高位の菩薩の行であり、初心の菩薩は安楽行品の摂受を行ずるべきで、日蓮はこれに違背している”
    第3に“自分も内心は法華第一の義を知っているが言わないでいる”
    第4に”日蓮が諸宗を折伏しているのは、教相の面だけを見ているにすぎない”
 などとする批判です。
 しかし、大聖人は、これらを「汝等が邪難」と退けられます。本抄では、末法において、法華経の経文通りに戦う姿を示されていることで総括的に破折し、ここでは一つ一つ細かくは言及されていませんが、詳しくは、佐渡期の諸御抄で明確に示されています。
 例えば「開目抄」では「末法に摂受・折伏あるべし」(0235-12)と、無智の者・悪人が国土に充満している時は、安楽行品に説かれる「摂受」を第一とし、邪智・謗法の者が多い時は不軽品に説かれる「折伏」を第一とすべきであると説かれています。
 末法では「闘諍言訟・白法穏没」の時であり、権教と実教が入り乱れしまっている。そうした正と邪が転倒する時にあっては、正邪を明確に決する折伏行こそが、時に適った実践であり、弘めるべき正しい方軌なのです。
 そしてまた、大聖人の折伏の闘争とは、民衆を目覚めさせ、民衆に力を与え、民衆による堅固な団結を築くための、宗教観の大転換であったとも拝されます。それは「人間のための宗教」の確立ともいえましょう。
 今日で言えば、宗教は、人々の精神の向上に寄与するものでなければならない。うなわち、万人の幸福の実現を掲げて、人間の善性を薫発する宗教、すなわち、民衆を尊敬し、強く賢くしていく宗教であるのか、反対に、人間を愚かにして、権力に隷属させていく宗教なのか。宗教の使命と役割が、今ほど問われている時代はありません。
 人間主義の宗教の要件として、宗教は独善であってはならない。まして、日蓮仏法は、対話の宗教です。
 現代にあっては、幾多の宗教紛争の悲劇を超えるためにも、宗教観対話のさらなる推進が切望されています。互いに切磋琢磨しあい、平和に貢献していく宗教、人間主義の宗教が待望されているのです。
 翻って大聖人の御在世当時、法華経誹謗を繰り返す諸宗は、まさに、万人の仏性の開発を否定して、仏教本来の精神を見失っていたといえます。
 法華経に違背し、仏教の本質を否定する諸宗を大聖人は、言論の力で論破された。先に述べた通り、最も指摘されたくない点を痛烈に破折された既成宗教は、あらゆる方策を用いて大聖人に迫害を加えてきました。
 本抄に戻れば、続く御文以降では、そもそも根拠なき、実態なき批判などに翻弄されてはならないことを示されていきます。
 大聖人はここで、正義の人でありながら、迫害されたものの、後世に名を残した下和と清丸の故事をひかれます。すなわち、正義のために迫害を受け、世間から非難された人々こそが、後に真実が明らかになった時に、後世に「善き名」を残しているのです。
 反対に、こうした人をあざ笑い、批判した者たちの名など、後世に残るわけではありません。ましてや、迫害した人間は「悪名」が永遠に歴史に刻まれるだけです
 「汝等が邪難も亦爾る可し」と、厳然と大聖人は師子吼されます。
 歴史が必ず真実を証明する!
 大聖人の断固たる大確信が胸に迫ります。
15   勧持品に云く 「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、
16 「及び刀杖を加うる者」等云云、 日蓮は此の経文を読めり 汝等何ぞ此の経文を読まざる「常に大衆の中に在つて
17 我等が過を毀らんと欲す」等云云、 「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、 「悪口して顰蹙し数数擯出せられ
18 ん」数数とは度度なり 日蓮擯出衆度流罪は二度なり、 法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持
0954
01 品今の勧持品は過去の不軽品なり、 今の勧持品は未来は不軽品為る可し、 其の時は日蓮は即ち 不軽菩薩為る可
02 し
-----―
 勧持品第十三には「諸の無智の人々が悪口罵詈をする」とある。日蓮はこの勧持品の文のとおりになっている。汝らは、なんでこの経文に入らないのか。また「そして刀杖を加える者がいる」と。日蓮はこの経文を身で読んだのである。汝らは、なんでこの経文を身で読まないのか。また「つねに大衆のなかで、法華経の行者を毀ろうとする」とも、「国王・大臣・婆羅門等に向かって法華経の行者を誹謗する」とも、「悪口し、軽蔑して、そのために法華経の行者は数数処を追われたりする」ともある。数数とはたびたびである。日蓮は処を追われることは数回、流罪は二度である。法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。今の勧持品は未来には不軽品となって修行の範となるであろう。その時、勧持品を色読した日蓮は過去の不軽菩薩として折伏の範となるであろう。

大聖人の闘争に三類の強敵が出来
 誰が経文通りの実践をしているのか。大聖人こそが法華経を身読されたことを明らかにされ、批判者たちの偽の仮面をはぎ取られ、その正体をあばかれていきます。
 法華経勧持品では、滅後末法の法華経弘通の行者に「三類の強敵」が競い起こることが示されています。この「三類の強敵」について具体的に説かれた文が、有名な「勧持品二十行の偈」です。
 この段では、「二十行の偈」の文に引かれながら、一つ一つが大聖人の身に当てはまることを確認されていきます。そして、「汝等何ぞ此の経文を読まざる」と仰せのように、経文通りの迫害を受けている者は、ほかに誰もいないことを厳しく指摘しておられます。
 なかでも「常に大衆の中に在って」「国王大臣」「三類の強敵」のうち、最も見破りにくい僭聖増上慢の姿を表した文です。大聖人は、当時、生き仏のようにあがめられていた極楽寺良観の本質を、道理と実証のうえから暴かれました。それに反発した良観らは、デマや讒言によって大聖人を迫害しました。まさに僭聖増上慢の姿があらわになったのです。これも経文通りです。
 また「悪口して顰蹙し数数擯出せられん」とあります。大聖人は「所を追われることは幾度も、流罪は二度である」と仰せです。すなわち、伊豆流罪・佐渡流罪という2度の流刑は、まさに「数数見擯出」の経文を身で読まれた以外のなにものでもありません。
 “すべてが経文に書いてある通りではないか。私は、その通りの難を受けているのだから、正しいということではないか。誰がこのことを批判できようか。反対に非難する人間たちで経文を身で読んだ者がいるのか”
 迫害する者や、それに加担する諸宗の人々への痛烈な破折です。同時に、現実の難に惑う弟子門下たちに対しての力強い御指導であったとも拝されます。
 続く御文で、大聖人は結論として、次のようにおおせになっています。
 「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」
 実に重要な御文です。
 法華経には過去・現在・未来と三世にわたる仏法の弘通が説かれています。そして、悪世における不惜身命の実践こそ、それにあたることが示されているのです。ここで、「過去の不軽品」とは、釈尊の過去世における不軽菩薩の実践のことを指しています。
 また「今の勧持品」とは、これまで拝してきたように「二十行の偈」に説かれる三類の強敵と敢然と戦い、法華経を弘通されている大聖人の御闘争そのものです。
 すなわち“過去の不軽菩薩の一切衆生礼拝の闘争を、今末法において、三類の強敵と戦いながら私がこの身で実践しているのである”との、厳然たる御宣言です。
 また「未来には不軽菩薩になるに違いない」と仰せです。これは「其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たる可し」とあるように“未来には、不軽菩薩と同じく必ず皆を救って成仏するであろう”との大確信の御言葉です。
 大聖人は「佐渡御書」でも、不軽菩薩と「同じ因」を行ずるこで、成仏という「同じ果」を得ることができると仰せです。
 すなわち、三類の強敵と戦う姿の中に成仏があることを門下に教えられていると拝することができます。
 本抄では、この御文の後、三類の強敵は現実に出現している。したがって、事実のうえで、経文の通りに大聖人が末法の地涌の実践を貫かれていると示されていきます。
「信心は大聖人の時代に還れ」
 まさに「寺泊御書」は、冒頭に「本より存知の上」とあったように、大聖人は覚悟のうえで、むしろ、仏意仏勅のままに戦う御自身の心境を門下に教えられている御書です。
 本抄御執筆の翌月、佐渡で直ちに著された「富木殿御返事」では「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(0955-15)とも仰せです。何があろうが、命が続く限り、私は戦い続ける。師の峻厳な戦いを受け継ぐ不二の弟子よ、出でよ。大聖人は、このような御心境であられたでしょうか。
 ともあれ、忘れてはならないことは、大聖人の不惜身命の実践とは、すべて経文通りであられたということです。今日の私たちでいえば“御書の通り”“大聖人の仰せの通り”ということであります。
 「信心は日蓮大聖人の時代に還れ!」とは戸田先生の永遠の指導です。大聖人の御精神こそが「永遠の学会精神」「師弟の魂」です。
 創立の月、そして如説修行の学会が“魂の独立”から20年を迎える11月、あらためてこの「創立の心」を確認しておきたい。
 民衆救済のため、一人立ち上がられた大聖人のお心を、完全に見失ったのが邪宗門です。かっての宗門は広宣流布を忘れ、軍国主義の思想統制の中で権力からの弾圧を恐れ、御書の要文を削除した。そして、世界広宣流布がいよいよ上げ潮となった時には嫉妬に狂って、和合僧団である学会の分断を謀りました。濁流と化し邪教と化してしまった。
 一方、大聖人の御精神のままに、人々の幸福のため、世界平和のため、正法を護持し弘通してきたのが学会員です。御聖訓に拝し、実生活の上で眼前の苦難に耐え、宿命転換を果たしているのは、誉れの我が同志の皆さま以外、断じてないのです。大聖人が御照覧であられます。諸仏・諸天が皆さまを讃嘆されています。
 いかなる逆境を前にしても、正義の旗高く、毅然と進みゆく。これが初代・2代・3代の創価の師弟が貫いてきた魂であり「創立の心」なのです。
 戸田先生は言われました。
 「苦悩する自身の生命は、同じく、その苦悩を打開する力を持っている」
 また「試練の山を一つ切り抜けるたびに、成仏という、崩れることのない境涯となっていくのである」
 さらに「広宣流布という偉大な理想を実現するうえにおいても、苦悩や経済苦といった人々の苦しみの解決を第一歩としなければ前進はない」と。
 皆さま方一人一人の信心の勝利から一家の勝利、広宣流布の勝利は無量無辺に広がっていくのです。
 世界は今、さまざまな困難や課題を前にして、先行きの見えない茫然とした不安が蔓延し、行き詰まりを見せている。このような時だからかそ「民衆に活力を与える宗教」「人間革命の正義の宗教」が求められています。
 その先頭を担うのは、私が最も信頼する後継の青年部の諸君です。
 どうか、大聖人のお心のままの「破邪顕正」「立正安国」の大闘争に我が身を置いて前進をお願いします。
 邪悪の根を断ち切る正義の言論を!
 民衆一人一人を幸福へと導く対話を!
 平和の礎を築く世界平和の拡大を!
 どこまでも、大聖人門下の誉れも高く、3代の師弟の「創立の心」のままに、威風も堂々と、晴れやかに連戦連勝の勝ち戦を頼みます。

0955~0956    富木入道殿御書(願望仏国事)top
0955:01~0955:04 第一章 佐渡の近況を伝えるtop
0955
富木入道殿御返事   文永八年十一月    五十歳御作   於佐渡塚原
01   此比は十一月の下旬なれば相州鎌倉に候し時の思には 四節の転変は万国皆同じかるべしと存候し処に此北国佐
02 渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども 日の光をば見ることなし、 八寒を現身に感
03 ず、 人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや、 此等は且く之を
04 置く。
-----―
 このごろは十一月の下旬であるから、相模国の鎌倉に居た時には、季節の移り変わりはどこの国でもすべて同じであると思っていたが、この北国・佐渡の国に来てから二か月の間、寒風がしきりに吹き、霜や雪が降らない時はあっても太陽の光を見る日はない。八寒地獄の苦しみを現身に感じている。そのうえ、佐渡の人々の心は禽獣のようで主君や師匠、親をも弁えない。ましてや仏法の邪正、それを弘める師匠の善悪などは思いもよらないことである。これらのことはしばらくおくことにしよう。

相州鎌倉
 相模国(神奈川県)を相州という。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。鎌倉は源頼朝が幕府を開いた地で、北条家が引き継いだ地名。
―――
四節
 春夏秋冬の四季に対して、春から夏へ変わる時、夏から秋に変わる時等を四節という。
―――
佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
―――
八寒
 八寒地獄のこと。八種の極寒の地獄のこと。涅槃経巻十一には阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄の八種が説かれている。この中の前の四地獄はあまりの寒さのため阿波波・阿吒吒・阿羅羅・阿婆婆と悲鳴を発することによる。後の四地獄は極寒のために身体が裂けて優鉢羅・波頭摩・拘物頭・芬陀利のようになるということから名づけられた。
―――
禽獣
 鳥と獣のこと。道理や恩義をわきまえない人にたとえる。
―――
主師親
 一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
―――――――――
 本抄は、日蓮大聖人が佐渡に着かれたあと、最初に出されたお手紙である。大聖人は文永8年(1271)10月10日に依智をたち、21日に寺泊へ着かれたあと28日に佐渡に上陸、11月1日に塚原の三昧堂へ落ち着かれている。その後、身辺の整理をされ、安否を案じているであろう鎌倉の弟子檀那のことを思われ、また塚原三昧堂が狭いので同行した人の中から若干の人数を帰されるにともなって、11月23日、本抄を認められたものと推察される。御真筆は存していない。
 佐渡へ渡られる直前の「寺泊御書」にせよ、本抄にせよ、ともに富木常忍に消息を寄せられていることから、大聖人がいかに信頼を厚くしておられたかが拝せられる。佐渡で重要な法門書を著されるにあたって必要となる資料収集を富木常忍に託していることにも、いかに頼りとされていたかが推し量られる。
 本抄は短いお手紙ではあるが、佐渡の厳しい状況がさりげなく示され、淡々たる表現のゆえに、かえって艱難のさまが思いやられる。そのなかで、死を覚悟されながら、法華経身読の喜び、天台・伝教を超える、末法御本仏としての御境界を顕されていることが拝せられる。
此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし
 大聖人は10月28日に佐渡に入られているから、この時は足かけ二か月になる。とくにこの季節は、西高東低の冬型気圧配置によって、日本海側は曇り、降雪の多い時である。安房、鎌倉と太平洋側に住まわれていた大聖人にとって、晴れた日の多い冬のイメージを一変させる天候の日々は、やはり少なからぬ驚きであられたろう。「日の光をば見ることなし」の御記述にも、それが察せられる。
 佐渡の冬は厳しい。全島が雪に覆われる自然現象もさることながら、塚原の三昧堂は屋根は破れ壁は崩れた荒れはてた廃屋であり「八寒を現身に感ず」のさりげない表現のなかに、風雪にさらされながら、読経・唱題、御書の執筆にあたられる過酷な環境の模様が拝せられる。
 地獄といえば、焦熱に焼かれる八大熱地獄を思い浮かべるが、寒苦に責められる八寒地獄も、極苦であることは疑いない。釈尊の九横の大難のなかにも寒風索衣が挙げられている。しかしこれは冬至のころ、八夜のあいだ寒風が吹きすさんだため三衣を索めて寒さを防がなければならなかったというもので、インドでのことであり、はるかに酷寒である佐渡における大聖人の越冬とは比べものにならないことはいうまでもない。
人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや
 佐渡の人々の当時の民度の低さをいわれている。「禽獣におなじく」とは、十界論でいえば畜生道である。「癡は畜生」とあるごとく、倫理・道徳をわきまえず、本能的に行動する状態であり、主人・師匠・親を尊ぶという、人間としての規範をすらわきまえない生命である。
 まして、その仏法のなかでの正邪の別、仏法を説く師にも、正しい教えを説く善師と、外見はよくても内心は邪であり、人々に悪法を説いて不幸をもたらす悪師を見分けることなどは、思いもよらない状態なのである。
 もとより、これは佐渡ばかりのことではない。鎌倉でも同じであった。それゆえにこそ、大聖人はこのような大難にあわれたのである。
 むしろ、大聖人が佐渡に流罪人として来られたがゆえに、佐渡の人々が流罪人だから悪いにきまっているとか、鎌倉の人達が悪いといっているから悪僧にちがいないとかの次元で、大聖人を敵視していたことを、このように言われたとも考えられる。またべつの味方をすれば、佐渡の人々は当時文化的に進んでいた鎌倉の人々に較べて純朴であったから、感情を露骨に表現したということであったかもしれない。しかし、一応、「此等は且く之を置く」といわれている。

0955:05~0955:13 第二章 末法適時の果報を喜ぶtop
05   去十月十日に付られ候し入道・ 寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ、已に眼前なり仏滅後二
06 千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之
07 を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや。
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 さる十月十日に日蓮に付けられた入道を寺泊から還した時に書き送った法門で推量されたであろうが、大法興隆はすでに眼前の事実なのである。仏滅後二千二百余年の間に、インド、中国、日本、そして一閻浮提の内で「天親、竜樹は内鑑冷然にして、外には時の宜しきに適う」とあり、天台大師、伝教大師は少しはこの大法を釈されたが、弘められなかった。こうした人々が弘通されずに残された一大事の秘法を、この日本国に初めて弘通するのである。日蓮こそ、その弘通の人ではないだろうか。
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08   前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり神世十二・ 人王九十代と仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞
09 なり神力品に云く「仏滅度の後に於て能く是の経を持つが故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云、 「如来
10 一切所有之法」云云、 但此の大法弘まり給ならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし、 伝教大師云く「日出て
11 星隠る」云云、遵式の記に云く「末法の初西を照す」等云云、 法已に顕れぬ、 前相先代に超過せり日蓮粗之を勘
12 うるに是時の然らしむる故なり 経に云く「四導師有り一を上行と名く」云云 又云く「悪世末法時能持是経者」又
13 云く「若接須弥擲置他方」云云。
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 前相はすでに顕れている。正嘉元年(1257)の大地震は前代未聞の大瑞であった。それは神の世十二代、人王九十代、仏滅後二千二百余年の間にかつてなかった大瑞である。
 法華経神力品第二十一には「仏の滅後に、能くこの妙法を持つが故に、諸仏は皆歓喜して無量の神力を現ずる」と説かれ、また「如来の一切の所有するところの妙法を上行菩薩に付嘱する」と説かれている。この大法が弘まったならば、爾前経や迹門の経教は一分も利益がなくなるのである。伝教大師は「日が出て星は隠れる」といい、遵式の南獄禅師止観序には「末法の初め西を照らす」と述べられている。
 大白法はすでに顕れたのである。その仏法出現の瑞相は先代を超越している。日蓮このことを勘えるのに、大法が弘まる時がきたためである。従地涌出品第十五には「地涌の菩薩には四導師がいる。その第一を上行という」と、また分別功徳品第十七では「悪世末法の時、能くこの経を持つ者」とあり、見宝搭品第十一には「若し須弥山を接って他の世界に擲げ置くことより、この法華経を持つことは難しい」と説かれている。

入道
 仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
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寺泊
 新潟県長岡市寺泊に。佐渡航路の師始発点。北陸道の終点にあたる港町・宿場。
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仏滅後二千二百余年
 釈尊の入滅は(一説によれば)西暦前0949である。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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天親・竜樹内鑑冷然外適時宜
「天親、竜樹、内鑑冷然にして、外は時の宜しきに適う」と読む。摩訶止観巻五上の文。天親、竜樹が内心の悟りは鏡のように冷ややかに澄んでいて絶対平等の境地に止住するが、外面は時に適った相対差別の法を説いたこと。天親、竜樹は内心では法華経の一念三千の法理を知っていたが、外に向けては説かず、その時代にあわせて権大乗教を弘通したということ。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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一大事の秘法
 一大事とは、これ一つしかない究極の大事との意で、諸仏がそのために世に出現したところの秘密の大法を一大事の秘法という。ここでは文底独一本門の三大秘法をさしている。
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正嘉の大地震
 正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
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大瑞
 兆し・前兆。善悪ともに通じる。
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神力品
 妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。
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如来一切所有之法
 神力品に「要を以て之を言わば、如来の一切の持つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆此の経に於て宣示顕説す」とあり、如来一切所有の法を含む四句の要法の付嘱が地涌の菩薩に対して行われ、滅後の弘通が正式に託されたのである。
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日出て星隠る
 日蓮大聖人の三大秘法の大仏法が出現すれば、釈迦仏法・一切の小法は姿を消すということ。
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遵式
(0964~1032)。中国・宋代の天台宗の僧。寧海(浙江省台州府)の人。 姓は葉氏。字は知白。慈雲懺主、霊応尊者ともいう。はじめ禅を学んだが、20歳の時、禅林寺で具足戒を受け、宝雲について天台学を学び,28歳の時、法華・維摩・涅槃・金光明の四経を講説した。また天台学を宣揚して天台宗の章疏を大蔵経に入れさせた。著書には「大乗止観釈要」四巻、「往生淨土懺願儀」、「金園集」三巻、「天竺別集」三巻などがある。
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遵式の記
 南岳大師の「大乗止観法門」の序として遵式が書いた「南獄禅師止観序」をさす。
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末法の初西を照す
 末法のはじめに、仏法が日本に興り西の中国を照らすとの意。これは、日本の天台僧寂照が源信の使として入宋した時、南岳大師の「大乗止観」を持っていった。この書は、中国では久しく失われていたので、遵式が「始め西より伝わる、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如く」と述べた。この文を用いて仏法が中国に流伝していくとの意で引かれたのであろうか。
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悪世末法時能持是経者
 分別功徳品に「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」とある。
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若接須弥擲置他方
 法華経見宝塔品第11の文。「若し須弥を接って、他方に擲げ置かん」と読む。六難九易のなかのひとつ。
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 「去十月十日に付られ候し入道」とあるのは、この十月十日、大聖人が依智を発たれ、佐渡に向かわれたので、富木常忍がそのお世話にと、入道を大聖人のお供につけたのである。大聖人はその入道を、寺泊の地から帰された。富木常忍としては、佐渡までお供をさせる心であり、その入道もその由を大聖人に申し上げたが、大変だからと帰されたのである。この点については、「寺泊御書」に「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す」(0954-09)とあるとおりである。
 帰っていく入道に託して書きつかわされたのが寺泊御書である。
 寺泊御書では、大聖人こそ法華経の勧持・不軽の両品の教えを身で読みきった法華経の行者であることを述べられているが、本抄では、そのことをよく推量するようにと、富木常忍にいわれているのである。
天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや
 天台は、天親・竜樹について、内心では一念三千の妙法を悟っていたが、外は時にかなった法を説いたと述べている。これが内鑑冷然外適時宜である。天親や竜樹は直接、法華経や一念三千の妙法を弘めたわけではない。小乗を打ち破って権大乗を弘めることに主眼点があった。しかし、法華経の極理についてはよく知っていたのである。
 竜樹は大智度論を説いたとされている。この大智度論は、大品般若経を釈したものである。竜樹は中論にもみられるように、般若皆空を説き、大乗思想の根本的な立場を明らかにした。その精華が大智度論である。この大智度論のなかで、般若経で説く般若波羅蜜はまだ最極の法ではなく、二乗作仏を説いている法華経が最もすぐれた経であると説いているのである。
 また天親は、俱舎論を説いて小乗を宣揚したが、後に悔いて大乗を弘めた。そのなかに法華論がある。この法華論のなかでは、七譬、三平等、十無上等の法門を示し、法華経が他経に比べて無上の法門であることを明確に説いているのである。
 このように、竜樹も天親もともに奥底においては「一大事の秘法」すなわち南無妙法蓮華経の大白法を知っていたが、時は小乗と大乗の交代期にあたり、小乗を打ち破って大乗のすぐれていることを示すことが時にかなっていたので説かなかったのである。
 つぎに「天台・伝教は粗釈し給へども」とあるのは、天台大師・伝教大師が法華経を釈し一念三千の法門を明かしたことをいわれている。それに対し「之を弘め残せる」とあるのは下種の事の一念三千の大法を天台大師・伝教大師は、弘めないで残したことをいわれる。
 これについては開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)とあるなかの「天台智者のみこれをいだけり」の御文について日寛上人が三重秘伝抄で「天台は第一第二を宣ぶること文義分明なり、而れども未だ第三を弘めず」と釈されている。ここで第一第二とは、迹門の百界千如と本門の一念三千であり、第三とは事の一念三千の南無妙法蓮華経である。この解釈を本抄の御文にあてはめて考えるならば、「粗釈し給へども」は法華経本門迹門であり、「之を弘め残せる」とは文底独一本門であることがわかる。
 したがってここに述べられている「一大事の秘法」とは事の一念三千である文底独一本門の三大秘法ということになる。語訳にも示しておいたが、一大事とは、法華経方便品の「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」とある文からきており、諸仏が出世した究極の目的をいう。それこそ三世十方の諸仏の成道の根本たる三大秘法の南無妙法蓮華経であり、したがって「一大事の秘法」とは、法華経の文底に秘沈されている三大秘法のことをいわれているのである。それゆえに「弘め残せる」といわれたのである。
 「種種御振舞御書」に「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり」(0919-02)とある御文からもわかるように、大聖人は十一月、おそらく塚原に着かれるとすぐに開目抄の執筆にとりかかられている。本抄をあらわされたときは、すでに「開目抄」の執筆に入られていた。したがって、本抄の内容に「開目抄」と通じるものがあるのは当然であろう。
 この一大事の秘法、すなわち三大秘法を「此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」といわれているのは、まさしく末法の御本仏の御確信そのものである。「初めて之を弘む」との仰せをよくよく拝さなければならない。
前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり
 正嘉の大地震を、正法の弘まる瑞相ととらえられての仰せである。正嘉の大地震は、「立正安国論奥書」に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-02)とあるように、立正安国論御執筆の機縁となった災害である。
 「立正安国論」では、この現象は「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017)とあるように、一国が謗法に陥っているゆえの結果であるとされている。
 それに対し、本抄ではその意味は変わっている。すなわち、釈尊滅後に未曾有の法が弘まる瑞相としての意味を強調されている。上行を上首とした地涌の菩薩が釈尊から滅後の弘法を付嘱されるにあたって、神力品では十神力が現じられた。それを超えるような瑞相がこの日本にあらわれている以上、この日本に未曾有の法が弘まることは疑いないとの御宣言なのである。
 神力品の十神力のなかには「地皆六種震動」と、大地の震動が説法の瑞相として示されており、正嘉の大地震を、未曾有の大法興隆の瑞相ととらえられている。「立正安国論」では、あくまで当時の人々を正法に目ざめさせる目的で一国謗法の果としての面から強調されたのであるが、本抄のように大法興隆の瑞相とされているのは、末法万年に流布しゆく仏法を打ち立てられる御本仏としての御立場に立たれているからである。「如来一切所有之法」の文を引かれているのは、釈尊の所有している法の一切を結要した大法が大聖人御所持の妙法であることを宣明されているのである。
 同趣旨の仰せは、佐渡期に著された「観心本尊抄」、「顕仏未来記」等にも仰せられる。大きな災厄をもたらす地震が、仏法の眼からみれば、謗法による罰であることは疑いない。しかし、それだけでは、こういう原因があるからこの結果が生じたという分析にとどまるのみである。それゆえにこそ、謗法を断ち切り、正法を興隆させ、大悪を大善へと転換していかなくてはならない、との救済者としての実践的御自覚に、末法御本仏としての深い御確信がうかがわれるのである。
此の大法弘まり給ならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし
 末法においては、もはや日蓮大聖人の仏法のみが衆生を救う力をもち、爾前迹門は力を失うとの御文である。この爾前迹門とは釈尊の仏法の意である。すなわち釈尊の仏法は正像をもって終わりを告げ、末法は日蓮大聖人の仏法でなければならないということなのである。同様のことを記されたのに「顕仏未来記」があるが、そこでも、「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)として、釈尊の仏法を月、大聖人の仏法を太陽にたとえて、その仏法は「必ず東土の日本より出づべきなり」と決せられているのである。伝教の「日出て星隠る」や遵式の「末法の初西を照す」はその意をもって引用されている。
 なお法華経涌出品の文は、大聖人が外用の辺において上行菩薩であることを明確にされ、分別功徳品、宝搭品の文はともに、悪世において持ちがたいことを示したもので、大聖人が難にあわれていることは、その文に合していることをあらわすのである。

0955:14~0956:14 第三章 死身弘法の決意を述べるtop
14   又貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず候、
15 又小僧達談義あるべしと仰らるべく候流罪の事痛く歎せ給ふべからず、 勧持品に云く不軽品に云く、 命限り有り
0956
01 惜む可からず遂に願う可きは仏国也云云。
02       文永八年十一月二十三日              日蓮花押
03     富木入道殿御返事
04   小僧達少少還えし候此国の体為在所の有様御問い有る可く候筆端に載せ難く候。
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 また、あなたに頼んであった一切経の要文、大智度論の要文の五帖を一か処に取り集めておいてもらいたい。それ以外の論釈の要文も散失しないようにお願いしたい。
 また小僧達の学問談義を怠らないように伝えてもらいたい。私の流罪のことはけっして歎いてはならない。勧持品や常不軽菩薩品にあるとおり、法華経の行者は大難にあうのである。命は限りあるものである。これを惜しんではならない。願うところは寂光土である。
  文永八年十一月二十三日        日 蓮  花 押
   富木入道殿御返事
 小僧達を何人か還した。この佐渡の国のようす、居るところの塚原三昧堂のありさまをたずねられたい。筆には尽くすことはできない。

一切経
 仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称。一代蔵経・大蔵経ともいう。古くは仏典を三蔵と概称したが、のちに三蔵の分類に入り切らない経典、論釈が出てきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
智論
 大智度論の略称。大論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。「摩訶般若波羅蜜経」(梵語マハー・プラジュニャーパーラミター・スートラ Mahā-prajñāpāramitā Sūtra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書にとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――

 一般には折本のこと、また、折本を数える単位として用いる。
―――
論釈
 論と釈のこと。仏の説いた経や律について論じた書が論。解釈をした書が釈。
―――
勧持品
 妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される
―――
不軽品
 法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
―――
仏国
 仏の住む国土。寂光土。
―――
体為
 ありさま。様子。
―――
在所
 住んでいる所。
―――――――――
 ここで仰せのように、大聖人は資料などもよく富木常忍にあずけられていたようである。諸御抄を執筆されるのに必要な最小限の資料を佐渡へ持って行かれ、あとを富木常忍に託されたのであろう。それらを保管しておくよう依頼されていること、また門下に研鑽を続けるよう教えられているところに、御自身の危難のなか、令法久住に心を配られていることが拝される。
 また、富木常忍はこの大聖人の仰せをよく守ったゆえに、今日、富木常忍の関係の御書は多く御真筆が残っているのであろう。
 「勧持品に云く不軽品に云く」とは、勧持品の二十行の偈にある三類の強敵による大難、上慢の四衆によって蒙った不軽菩薩の杖木瓦石の難をいわれ、大聖人はそれを身読された真実の法華経の行者であることを述べられているのである。文を略されているのは、富木常忍がよく知っている内容であり、寺泊御書にもすでに「過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(0953)等と、明らかに述べられているゆえである。
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」の仰せは烈々たるものである。まさに死を覚悟しつつ、仏国に至ることは疑いないとの御確信と喜びがあらわれている。限りある人身を受けながら、仏道を成ずるという永劫の幸福を確立しうる喜びこそ、最大のものであろう。
 なお追伸で小僧達を何人か帰したとあるが、この小僧は、佐渡へ連れて行かれたのであるから子供というより、年若い僧のことであろう。

0955~0956    富木殿御返事(願望仏国事(願望仏国事)(2015:07大白蓮華より 先生の講義)top
世界を照らす太陽の仏法
広布と人生――「大いなる理想」の実現を!

 「広宣流布」は仏の願いであり、人類の希望の太陽です。
 民衆の幸福と世界の平和――この「大いなる理想」に生きることを誓願する人生ほど、価値ある悔いなき一生はありません。
 今年は終戦70年の節目です。
 戦争が終結する直前、焦土と化した荒野に、ひとり立たれた恩師・戸田城聖先生は、この地上から悲惨と不幸を根絶することを強く願い、妙法流布の一歩を踏み出されました。
 この恩師の誓願の姿が、一人また一人と、私たち青年の心に、平和の時代を創りゆく光を灯したのです。
 師が切り開いた、大いなる理想の道に弟子が続いていく。今日の壮大なる広宣流布の前進が開始されたのです。
青年こそ新しき時代を創る主人公
 7月は、青年部結成の月です。
 1951年(昭和26)7月11日、男子部結成の折、戸田先生は語られました。
 「広宣流布は、わたくしの絶待やり遂げねばならぬ使命であり、各自その尊い地位を自覚してもらいたい。近くは明治の革命をみても、原動力は青年であり、はるか日蓮大聖人御在世のときも、御弟子の方々は、みな青年であった」――つねに青年が時代を動かし、新しい時代を創っていくのだ、と。
 さらに19日の女子部結成の時には、こう語られました。
 「学会の女子部員は、一人残らず幸福になるんですよ。これまでの女性史というものは、一口で言えば、宿命に泣く女性の歴史といってよかった。皆さんは、若くして妙法を持った女性です。もはや宿命に泣く必要はない」と。
 今、この誓願を、わが誓願として立ち上がる青年が、世界中に陸続と出現しています。地球を包む若き地涌の群舞を、恩師がどれほど喜ばれていることか。師匠の夢の実現へ、生涯をかけてきた私にとって、これほど嬉しいことはありません。
 今回は、この地涌の若人たちと一緒に学ぶ思いで、私が青年時代から命に刻んできた御聖訓を拝していきます。
05                                           已に眼前なり仏滅後二
06 千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之
07 を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや。
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 大法興隆はすでに眼前の事実なのである。仏滅後二千二百余年の間に、インド、中国、日本、そして一閻浮提の内で「天親、竜樹は内鑑冷然にして、外には時の宜しきに適う」とあり、天台大師、伝教大師は少しはこの大法を釈されたが、弘められなかった。こうした人々が弘通されずに残された一大事の秘法を、この日本国に初めて弘通するのである。日蓮こそ、その弘通の人ではないだろうか。
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14   前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり神世十二・ 人王九十代と仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞
15                 候流罪の事痛く歎せ給ふべからず、 勧持品に云く不軽品に云く、 命限り有り
0956
01 惜む可からず遂に願う可きは仏国也云云。
――――――
 私の流罪のことはけっして歎いてはならない。勧持品や常不軽菩薩品にあるとおり、法華経の行者は大難にあうのである。命は限りあるものである。これを惜しんではならない。願うところは寂光土である。

「難こそ誉れ」の誓願の大道を
 「富木入道殿御返事の一節です。
 私は、この、「命限り有り惜しむ可からず」の一文のままに、恩師の大理想を実現するために、ありとあらゆる悪戦苦闘を尽き抜けて、広布に走り続けてきました。
 この御文は、いかなる逆風も、仏の大願の火を消すことはできない。いな断じて消してはならないという毅然たる魂の叫びであると拝されます。
 あらためて確認したいことは、本抄は、日蓮大聖人が、竜の口法難後、佐渡の塚原に到着されて間もなく、最大の逆境の中でご自身の戦う心境はいやまして盛んであり、いよいよこれからが広宣流布の大事な時であると門下に教えられた御文だということです。
 ここで簡潔に経過を示せば、佐渡流罪の処分を受けた大聖人は、文永8年(1271)10月10日相模国依智(神奈川県厚木市依智町)を出て、12日間をかけて越後国寺泊(新潟県長岡市)に到着されました。この地で数日、風待って佐渡に渡られたのが10月28日。在所となる塚原三昧堂に入られたのは11月1日のことでした。
 本抄は、同年11月23日のお手紙です。今の暦にすると12月26日にあたり、極寒の只中です。本抄の冒頭には、厳しい北国の様子がつづられています。
 「佐渡の国に到着してからの2ヵ月は、寒風が吹きすさび、霜や雪が降らない日はあるけれども、日の光は見ることはない。八寒地獄の苦しみを生きながら感じている」と仰せです。身が裂かれるような寒さに苦しめられていたのです。さらに大聖人は、罪人として扱われ、十分な食料も与えられませんでした。また、仏法の正邪など弁えない人々には、“諸宗を批判する悪僧が流されてきた”と映っていたはずです。実際に絶え間なく命を狙われていました。
 本抄の末尾には、「実際の厳しさは筆端に載せ難く候」と綴られ、帰したお供の者たちから聞いてほしいと記されています。お供の者たちを帰さざるを得ないほど、過酷な生活環境であったということです。
 しかし大聖人のお心は、一点の曇りもなく、妙法のために生き抜く喜びにあふれていました。
 その御境涯を弟子たちに理解させるため、大聖人は佐渡に渡る直前、寺泊から富木常忍に送られたお手紙の内容をよく考えていきなさいと言われています。
 このお手紙には、大聖人こそ法華経の行者であり、諸々の菩薩の加護は絶対に間違いないことが明かされているのです。
 大聖人は、「難こそ誉れ」との御自身のお振る舞いを通され、広宣流布の使命に断じて生き抜くよう呼びかけられ、真正の弟子を育成されていったのです。
「一大事の秘法」を初めて弘める
 本抄では、仏教史を俯瞰され、正法・像法時代の竜樹・天親・天台・伝教たちが、それぞれ時に応じて正法を説き広めたものの、「一大事の秘法」、すなわち万人の成仏を実現する根源の法、南無妙法蓮華経を説き弘めることはなかったと記されています。
 そのうえで、「一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」と仰せです。大聖人こそが末法の衆生を根本的に救っていける大法を弘めた、との大宣言です。身は国法で縛られようとも、心は誰も縛ることはできません。まさしく師子王であり、生命の大王者です。
 末法の御本仏として、大聖人が一人立ち上がり、弘教を開始された。そのことによって、未来の大法興隆の道が開かれたのです「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-02)と、後に「報恩抄」で述べられている通りです。
 この御境涯に触れた時、門下の心から、心配や不安の闇は打ち払われ、胸中に広宣流布の希望の太陽が赫々と輝き渡ったでしょう。大聖人に続いて、自らも一人立つ誓いが勇気凛々とみなぎったに違いありません。
 大願に生きる時、生命が大きく開かれます。大きな生命境涯を得ることで、現実の課題や悩みを見下ろし、勝ち越えていくことができるのです。
 だからこそ大聖人は本抄で、「痛く歎せ給ふべからず」と仰せです。これは、「千が九百九十九人は堕ちて候」(0907-07)といわれる大迫害の渦中の門下へ、嘆いてはならないと呼びかけられた励ましでもあります。
 さらに大聖人は「勧持品に云く法華経に云く」と、経文通りに三類の強敵による大難、杖木瓦石の難に遭っていることは、真実の法華経の行者の誉れであると示されています。
 であるなら、その師と同様に難に遭っている弟子もまた、法華経の行者であると讃えられているのではないでしょうか。
 信心のゆえに、不当な非難中傷に遭うこともあるでしょう。しかし、広宣流布のための一切の苦難は、法華経の通りに生きている証しである。すなわち、成仏の大直道を歩んでいる証明なのです。
 今の現実の苦難は、自らの人間革命、成仏のためであり、一切が自身の生命を鍛え上げる仏道修行です。そう決めて祈れば、困難に向かっていく勇気が沸き起こります。その姿こそ、仏界の生命が涌現していく実像なのです。
 広布に生ききる人生とは、人間としての最極の生き方そのものなのです。
法のために生ききる重要性
 大聖人は、本抄の最後で、苦難の嵐の中で懸命に戦う門下に、「命限り有り惜しむ可からず遂に願う可きは仏国也」と結論されています。
 師匠も弟子も、明日の命さえ危ぶまれる状況下にありました。
 そのなかにあって、法のために生き抜け!身を惜しまず、永遠の仏を目指しゆけ!と仰せになったのです。しかし、だからと言って、決して命を粗末にせよと教えられているのではありません。
 生を受けた以上、誰人も死を免れるわけにはいきません。だからこそ、かけがえのない、自分に与えられた命の時間を、どのように生きればよいのか。
 「佐渡御書」には「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956-15)と仰せです。
 命よりも大切なものだからこそ、その最も大切な命を何のために使うのか。その生き方が問われるのです。
 人間は必ず死に臨む時が来ます。この厳粛なる事実と正面から向き合う時、今の瞬間瞬間の生をいかに価値あるものにするのか。その大切さに気づくことができるのです。
「心の財」は永遠に輝く
 「人身は受けがたし」「人身は持ちがたし」だからこそ、大聖人は、どう一日を意義あらしめるかを三種財宝を通して教えられています。「蔵の財」も「身の財」も、今世だけで消え去ってしまうのです。「心の財」があってこそ、真に崩れざる価値が生まれます。この命の価値を永遠ならしめるために、「心の財」を積むことがどうしても必要です。まさに、「心の財第一」なのです。
 その「永遠」につながる確かな価値を見いだすことで、人間は、この「生」を最大に生ききることができます。それゆえにこそ、宗教が必要なのです。
 永遠の中で、人間の一生は、一瞬のようなものかもしれません。しかし、真の宗教は、その一瞬に永遠の価値を創る道を示している。
 「とにかくに死は一定なり」(1561-02)です。同じ一生を生きるのであれば、大願に生きて、わが露を大海に入れ、わが塵を大地に埋めるが如く、無量の価値を生み出す一生を送るべきです。
民衆のために、悪知識と戦え
 大聖人は、この後にも、富木常忍に「万歳悔ゆること勿れ」と仰せです。
 それが、「富木殿御書」の御金言です。
 「我が門家は夜は眠りを断ち冬は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」
 牧口常三郎先生が御書に線を引かれていた一節です。
 ここで大聖人は「我が門家」と、全門下に呼びかけられています。
 すべての弟子が「止暇断眠」で常に案ずべき「之」とは何か。お手紙の趣旨を要約して述べれば次のようになります。
 「持戒・我見の高僧等」、すなわち世間から立派な振る舞いをして尊敬を集めているが、仏法の根本をわきまえず、民衆をたぶらかしている悪知識の僧たちの正体を見破っていきなさい――。
 そう呼びかけられているのです。
 ここで、「持戒・邪見の高僧等」の例として挙げられているのは、弘法・慈覚・智証の3人であり、その末弟たちです。なかんずく、天台の座主であった慈覚・智証は、本来なら、師匠である伝教大師が伝え弘めた正法を護持し、弘通して、民衆を幸福に導くべき存在です。それが、師の没後、時を経ずして、正法を見失い、民衆を迷わせ、謗法を一国にはびこらせてしまったのです。
 大聖人は、釈尊・天台・伝教という法華経の行者の系譜を踏まえ、正法が滅びるのを惜しまれて、護法のために、報恩のために、不惜身命の大闘争を貫かれました。
 わが門下であるならば、この峻厳な事実をよく考えに入れて、どこまでも正義の心を受け継げとの師子吼が拝さえてなりません。
日蓮仏法を創価学会が継承
 正法を守るために戦うべき人が戦わない。それが、法滅を招きます。
 大聖人の仰せ通りに正義を叫び、軍部政府によって投獄されたのが、牧口先生であり戸田先生でした。
 この時、よく知っているように、宗門は軍部政府の圧力に怯え、国家権力に迎合しようとしたのです。そのなかで、牧口先生は「一宗が滅びることではない。一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。と、断固、正法正義を守り抜かれた。この殉教・護法の精神を貫く創価の師弟にこそ、大聖人の魂が脈打っているのです。
 先の「富木殿御書」の御文で厳しく戒められている「空しく」とは、根本の使命を忘れ去って、目先のことに流されて漫然と生きる人生を指しています。
 「命限り有り惜む可からず」
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」
 この覚悟の深さが、人生の深さを決定づけます。
 青年時代、私は医師から「30歳まで生きられないだろう」と告げました。「命限り有り」を痛感する日々でした。それゆえにこそ、一日一日を真剣勝負で広布のために走り抜きました。いつ倒れてもいいように、“師弟不二の弟子の模範を後世に残そう”と覚悟を定め、真剣勝負で戦い切りました
 私はこの心で信仰に生き抜いてきたゆえに、「更賜寿命」の妙法の果徳を頂戴したと確信しています。また、「更賜寿命」の勝利を語る同志の体験談は枚挙にいとまがありません。その一つ一つが御金言通りの人生のすばらしさを実証しています。慈折広布の誓願の使命に徹した人生は、雲一つない最高に晴れやかな境涯が約束されているのです。
 古代ローマの哲人マルクス・アウレリウスは、こう言いました。「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可通のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ」
 だからこそ、「今」を真剣に生きるのです。
 ただ「身」を惜しむだけで何も行動しなければ、何も残りません。法を惜しんで、苦労をいとわず、広宣流布に邁進することです。1回限りの今世の人生を、広布に捧げることが「万歳悔ゆること勿れ」となるのです。
 いうまでもありませんが「身を惜しまず」ということと、無理をすることは別です。「法」のために、わが身を使っていけるよう、賢く健康第一でいくことです。一日でも長生きして広布の人生を生き抜くことが最高の財宝となるのです。
 所願満足の人生とは、妙法という最高の法のため、人々のため、社会のために、一日一日、完全燃焼していくことです。
「創価の連帯」を世界の各地で
 恩師の後を継ぎ、第3代会長として戦いを開始してより55年、世界に妙法という平和の種を、久遠の同志と共に植えてきました。
 同じ誓願を抱いた地涌の同志が、各地、各国で一人また一人と立ち上がり、今やSGIの平和と幸福のスクラムは、世界192ヵ国・地域に広がりました。
 草創の友は、世界広布とう夢を共有し、それこそ幾多の困難を乗り越え、共に歩んでくれました。今、その方々が「学会員でよかった」「こんなにすごい時代が自分の生きている間に来るとは思わなかった」「広布の戦いは一切無駄がないし、悔いはない」と口々に語っています。
 先日SGI春期講習会で来日した方々の中にも、私が最初の世界歴訪の折、出会いを結んだ方のお子さん方が何人もいました。世界を超えて、広宣流布の誓願が受け継がれていることは、頼もしい限りです。
 一人の人間の一生は限りがあります。しかし、広布の祈りも、誓願も、行動も、世代を超えて永遠に流れ、伝っていくのです。生命に積んだ福運も、そして、人々に仏法を弘めてきた功徳も、絶対に崩れません、「広布のため」「人々のため」との大願の行動は、即「自分自身のため」「自分の眷属のため」の大福徳となります。
 「私は妙法に生ききった」――こう胸を張って言い切れる崇高なる生涯は、必ず周囲を照らし、照らし続けます。わが生命を燃え上がらせた闘争は、末法万年尽未来際に輝いていくのです。すなわち、広布に生きる人生は、三世永遠にわたる幸福境界を開くことができるのです。
 私たちの広布の人生には、仏の生命の大歓喜があります。絢爛たる世界広布の大ロマンがあります。まだまだ、壮大な末法万年の序分です。希望の遠征は始まったばかりです。50年先、100年先と、未来への大潮流の思いをはせれば、胸が躍ります。
 だからこそ、青年に申し上げたい。
 断固として、現実の苦労に勇敢に忍耐強く勝利していただきたい。そのために、自身が今いる場所で勇んで、大法弘通の使命に立ち上がることです。
皆が広布大願の勝利の人生を
 わが地涌の使命に目覚めた人生は、いくらでも深くなります。いくらでも強くなる。そして、自在に共感を広げ、永遠の価値を生み出していくことができます。
 大事なことは青年時代に、「広宣流布こそわが人生」との誓いを決定しゆくことです。そして、わが理想を貫き通していくことです。そのなかで、絶対に悔いのない深き生涯を築き上げることができるのです。
 青春時代の誓いが魂の光源となって、一生を照らします。ゆえに、どんなことがあっても、光を失ってはなりません。
 講義を結ぶにあたって、世界の青年たちに、また青年と共に戦う全同志に呼びかけたい。
 どこまでも共戦の前進を!
 最高に価値のある広布と人生の旅を!
 大いなる理想の一生を勝ち飾ろう!

0956~0961    佐渡御書(富木殿等御返事)top
         はじめにtop

 本抄は、日蓮大聖人が文永9年(1272)3月20日、佐渡・塚原において著され、「日蓮弟子檀那等御中」と宛名されているように、門下一同へ与えられたものである。なかでも「富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たうのつじ十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給うべき人人の御中へなり」とあるところから、まず富木常忍、四条金吾など信徒の中心的存在の人々に読ませ、本抄の趣旨が門下に伝わるよう御配慮なされたものと拝される。
 追伸にも「佐渡の国は紙候はぬ上、面面に申せば煩あり、一人ももるれば恨ありぬべし。此の文を心ざしあらん人人は寄合うて御覧じ、料簡候て心なぐさませ給へ」と認められており、本抄の重要性をうかがうことができる。
 佐渡で御述作になった重書であるところから、古来「佐渡御書」と呼ばれているが「与門人等書」とか「富木殿等御返事」とも称された。
本抄の大意
 はじめに仏法のために身命を惜しまない信心を貫くことが成仏の道であることを示されている。
 つぎに、その不惜身命の仏道修行にも摂受と折伏があり、それは時によることを明かされ、悪王が正法を破り邪法の僧等がその味方をして正法を失わんとする時には、身命をなげうって折伏を行ずることこそ、時機にかなった実践であることを述べられている。
 さらに、同年二月に起きた北条時輔の乱の因を経文の教示に求めて、北条一門が大聖人を迫害したため予言どおりに自界叛逆難が起きたことを明かされ、大聖人の迫害を喜ぶ謗法の法師等は悪鬼入其身であり、自分達の破滅を招くものであることを示されている。
 また、大聖人が難に値われる理由として、世間の失は一分もなく、過去の謗法の重罪を転じ今生に軽く受けて消滅するためであることを明かされ、諸宗の僧こそ仏法を破る外道であり謗法であることを述べられている。そして、人々の謗法を教え顕して助けようとしても、かえって我が身には謗法などないと抗弁しているようすを述べられている。つぎに、般泥洹経に説かれている八つの大難を大聖人が一身に受けられているのは、過去に法華経と法華経の行者を誹謗したためであることを明かされている。その八難が競い起こっているのは、強く法華経の敵を責めたためで、これこそ護法の功徳力であり、過去の謗法の重罪を消して不軽菩薩と同じく成仏できるのであると述べられている。
 最後に、このように大聖人が大難にあっておられることから、疑いを起こして信心を捨てるのみでなく、大聖人を批判する門下が出たことに対して、無間地獄に堕ちることをあわれんで警告されている。
本抄の背景
 文永8年(1271)10月28日、越後の寺泊から海を渡って佐渡に着かれた日蓮大聖人は、11月1日に配所の塚原三昧堂に入られた。
 三昧堂のようすは「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」(1413-16)、「かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす」(0916-16)と述べられているように、人里離れた墓地の中の荒れ果てた小堂で、大聖人はそこで厳寒に耐えながら、翌文永9年(1272)4月ごろまで約5ヵ月を過ごされている。
 そこでの御生活は「佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず」(0955-01)、「北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし……現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」(1052-06)などの記述からうかがうしかないが、寒さと飢えの苦しみを一身に受けられていたのである。
 佐渡の生活の厳しさから11月23日に、ここまでお供をしてきた年若い弟子達を鎌倉へ帰されて、「小僧達少少還えし候此国の体為在所の有様御問い有る可く候筆端に載せ難く候」(0956-04)と富木常忍への御状を託している。佐渡の寒苦の中で、大聖人に常随給仕されたのが日興上人だった。
 当時の佐渡は念仏者が多く、そのため大聖人を憎悪し、迫害しようとする動きも強かった。それは「此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(1132-01)とか、「彼の島の者ども因果の理をも弁(わきま)へぬ・あらゑびすなれば・あらくあたりし事は申す計りなし」(1326-04)等の御文から知ることができる。
 しかし、一方では阿仏房・千日尼夫妻が帰依して、大聖人を外護するために人目をしのんで尊い給仕の誠を尽くしている。また、国府入道夫妻、最蓮房なども間もなく大聖人に帰依している。
 大聖人が佐渡へ着かれた直後から、大聖人を亡き者にしようとする動きが始まった。念仏者や禅・律僧の唯阿弥陀仏、生喩房、印性房など数百人が寄り合い、謀議をこらしたうえで「六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべし」(0917-17)と、守護所に押し寄せて守護代の本間六郎左衛門尉重連に大聖人の処刑を迫ったのである。だが、本間重連は「上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(0917-18)と彼らの要求を斥け、法論による対決をすすめた。
 そのため、文永9年(1272)1月16日、佐渡一国はもとより、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の国々からも海を渡って来た数百人の諸宗の僧が、三昧堂の前に集まった。彼らの口々に大聖人をののしり騒ぐ声は地震か雷鳴のようだったと大聖人は記されている。
 大聖人はしばらく騒がせた後、「各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなし」(0918-07)とさとされ、問答が開始された。そのもようは「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず……利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」(0918-08)というありさまで、鎌倉の諸宗の学匠達でさえとうてい太刀うちできない大聖人に、浅学のいなか法師が挑んでも勝負になるわけがなかった。
  「仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ……或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ」(0918-10)という醜態をさらし、「或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(0918-12)とあるように、かえって正義にめざめて改宗する者さえ出たのである。
 塚原問答が大聖人の圧倒的な勝利に終わり、集まった人が帰ろうとした時、大聖人は本間重連を呼び止めて、いつ鎌倉へ上る予定かと尋ねられた。重連が七月ごろにと答えると、大聖人は「只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべし」(0918-16)と、近く鎌倉に戦さが起こることを予言されたが、重連はそのことばをあやしむばかりだった。
 翌1月17日、前日の法論に惨敗した念仏者等は、彼等の棟梁である印性房弁成を塚原によこし、再び大聖人に法論を挑んできた。そのことは、本抄に「今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし」と述べられている。その時の問答記録が「法華浄土問答抄」として遺されており、その末尾に印性房弁成が大聖人とともに署名し花押を認めていることは、念仏が邪義であることを自ら承認したことになる。
 塚原問答の後、2月に、大聖人は開目抄上下2巻を完成し、四条金吾の使いに託されている。これは、鎌倉で退転者が続出するという一門の危機にあたって、有縁の弟子檀那の疑いを晴らすためであるとともに、末法万年の一切衆生の盲目を開くために末法御本仏の御境界を明らかにされ、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)と、末法の人本尊を開顕された重要な御書なのである。
 当時の門下の状況については、「寺泊御書」の講義を参照されたい。
 塚原問答の予言からちょうど1ヵ月後の2月18日に佐渡へ着いた船便が、内乱の起きたことを告げた。本間重連は家来をつれて、ただちに本土へ向かったが、出発前に大聖人を訪れ、大聖人に手を合わせて「たすけさせ給へ……永く念仏申し候まじ」(0919-08)と誓っている。
 この内乱は、「二月騒動」とも「北条時輔の乱」ともいわれ、京都の南六波羅探題だった北条時輔が、北条本家の家督を継ぎ執権となった異母弟の時宗を嫉み、名越教時らと謀って時宗を倒そうとしたことから起こっている。この策謀を事前に察知した時宗側が、2月11日に時輔方とみられた名越教時、仙波盛直らを鎌倉の邸に急襲して誅殺、同15日には京都の北波羅探題北条義宗が時輔の邸を攻め、時輔一族を滅ぼしたのである。
 この事件について大聖人は、本抄で「今年二月十一日十七日又合戦あり……薬師経に云く『自界叛逆難』と是なり、仁王経に云く『聖人去る時七難必ず起らん』云云……日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか」と仰せになっている。遠くは「立正安国論」の予言が、近くは竜の口法難の際の平左衛門尉への諌暁が、そのまま現実のものとなったのである。
 18日の使いが知らせたのは、まず11日の鎌倉での戦乱の報であったと思われる。京都での時輔誅殺はその後伝えられたもので、その日付を17日と書かれたのは、佐渡に伝わったニュースがあいまいだったためであろう。ともあれ、大聖人の予言の的中と、本間重連の帰伏を知った佐渡の島人の中には「此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ」(0920-02)と大聖人に畏敬の念を抱き、念仏を捨てて心を寄せる者も出てきた。
 また、「かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ、天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ」(0927-16)とあるように、幕府も驚いて竜の口法難の時に捕えて土牢に投獄していた日朗ら五人の大聖人門下を急に釈放している。
 本抄は、このような状況の下で著されており、大聖人御自身のことによせて、過去の謗法の重罪のゆえに大難にあうのであり、また難にあうことによって転重軽受して重罪を消滅し成仏できることを明かされ、大聖人の予言どおり自界叛逆難が起きたことから、いっそう確信をもって不惜身命の信心に励むよう、門下一同を激励されているのである。
 本抄を拝した戸田二代会長が「この御書を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人ご自身のお命もあやうく、かつは御生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく、いつくしむ愛情が、ひしひしとあらわれていることである」と述べているように、御本仏の大慈悲を本抄の文々句々から拝すべきであろう。

0956:01~0956:03 第一章 論釈等の送付を依頼するtop
佐渡御書    文永九年三月    五十一歳御作   与弟子檀那
01   此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき 人人の御中
02 へなり、 京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、 外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等 これへの人人もち
03 てわたらせ給へ。
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 この手紙は富木殿の方、四条三郎左衛門尉殿、大蔵塔の辻十郎入道殿等、桟敷の尼御前などの一人一人に見てもらいたいものである。京都や鎌倉の合戦で死んだ人々の名を書き付けて送ってほしい。また、外典抄、法華文句の二の巻、法華玄義の巻四の本末、勘文や宣旨なども、佐渡に来る者に持たせて送ってもらいたい。

三郎左衛門殿
 (1230頃~1300)。四条金吾のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒。北条氏の支族・江間家に仕えた武士。武術・医術に通達していた。建長8年(1256)池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。竜の口法難では殉死の覚悟で供をし、佐渡の地より人本尊開顕の書である開目抄を与えられている。左衛門尉は官名。
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大蔵たうのつじ十郎入道殿
 生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。鎌倉の大蔵塔の辻に住んでいた。
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さじきの尼御前
 生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。鎌倉の人で一説には印東三郎左衛門尉祐信の妻といわれる。また、日昭の縁故の者ともいわれるが、明らかではない。
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京・鎌倉に軍
 北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は本抄御執筆の1ヵ月ほど前、文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
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外典抄
 仏教以外の経典のこと。ここでは「弘決外典抄」四巻、あるいは天台六十巻に引用されている外典の抄録等ではないかとする説もある。
文句の二
 天台大師の法華文句の巻二のこと。法華文句は、妙法蓮華経文句の略称で、因縁・約教・本迹・観心の四釈を用いて法華経の文々句々について解釈している。
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玄の四の本末
 天台大師の法華玄義巻四とそれを釈した妙楽大師の法華玄義釈籤のこと。本は玄義を、末は釈籤をさす。法華玄義は法華経の題号である妙法蓮華経について、五重玄を用いて解釈している。
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勘文
 朝廷や幕府の役人が諮問に対して、典拠や故実を勘えて意見を述べた書。
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宣旨
 天皇の詔。朝廷から出される詔文書。
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 はじめに、本抄が富木常忍、四条金吾、大蔵塔の辻十郎入道、桟敷の尼など、信徒の主な人々にあてられたものであることを示されている。「一一に見させ給べき」とあることは、本抄を読む一人一人が自分に与えられた書として読んでほしいとのお心と拝される。
 大聖人が佐渡に流され、鎌倉方面の弟子檀那にも厳しい迫害の嵐が吹いているとき、富木常忍や四条金吾などは、疑いを起こして退転しようとする門下を必死で励まし、信心を貫かせようとしていたことであろう。大聖人が富木常忍に寺泊御書を送られ、四条金吾に開目抄を賜ったのも、信徒の中心である二人に大聖人の仏法が末法適時の正法であることを示し、ひいては門下一同の疑いを晴らそうとされたものであろう。
 本抄は、「日蓮弟子檀那等御中」と宛名されているように、門下一同にあてられたものだが、とくに富木、四条ら信徒のおもだった人にその趣旨をまずよく理解させ、信徒の人々に徹底するよう配慮されたとも拝される。
 また最初に「富木殿のかた」とあり、「外典抄・文句の二・玄の四の本末・勘文・宣旨等、これへの人人もちてわたらせ給へ」と依頼された御文から、本抄は富木常忍のもとへ届けられたとも考えられる。それは、文永8年(1271)11月23日の富木入道殿御返事に「貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず」(0955-14)とあり、大聖人の命によって経論を集めていたことがうかがえるので、その中の一部を佐渡へ届けるよう依頼されたとも思えるからである。
 本抄の追伸にも「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし」と述べられていることから、あすをも知れぬ大難の中で、令法久住のため、門下のためを思って法門を遺されようとする御本仏の大慈悲を感ずるのである。
 「京・鎌倉に軍に死せる人人を書付けてたび候へ」とは、同年2月11日に鎌倉で、同15日に京都で起きた二月騒動で、多くの人々が合戦にまきこまれて死傷しており、大聖人門下の武士でも時宗側・時輔側のいずれかで合戦に加わって死亡したものがあったと思われ、追善供養のためにその名を知らせるよう仰せになったものであろう。

0956:04~0957:01 第二章 不惜身命の信心を勧めるtop
04   世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし 牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を
05 惜む何に況や壮人をや、 仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て 仏経に供養せんに
06 は如かず」取意、 雪山童子の身をなげし 楽法梵志が身の皮をはぎし 身命に過たる惜き者のなければ是を布施と
07 して仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・ 他の宝を仏法に惜べしや、 又財宝を仏法におしまん物まさる身命を
08 捨べきや、 世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし 又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数
09 多し 男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、 魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に
10 穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ 鳥は木にすむ木のひきき事をおじて 木の上枝にすむしかれど
11 もゑにばかされて網にかかる、 人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども 大事の仏法なんどには捨る事
0957
01 難し故に仏になる人もなかるべし。
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 世間で、人の最も恐れるものは、火炎につつまれることと、刀剣の影におびやかされることと、そして我が身が死ぬことである。牛馬ですら命を惜しむ。まして人間が惜しまぬわけがない。不治の病である癩病に罹った人でさえ命を惜しむ、まして健康な人が命を惜しむのは当然である。
 仏は法華経に「三千大千世界に満ちるほどの七宝をもって供養するよりも、手の小指を仏経に供養するほうがはるかに功徳が大きい」と説かれている。昔、雪山童子は木の上から身を投げて教えを求め、楽法梵志は紙がないため身の皮をはいで教えを書写しようとした。身命にまさるほど惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏となるのである。身命を捨てる人が、他の宝を仏法に惜しむようなことがあるだろうか。また財宝を仏法のために惜しむ者が、財宝にまさる身命を仏法に捨てることがあるだろうか。
 世間の法にも、重恩に対しては命を捨てて報いるのである。また主君のために命を捨てる人も少ないようではあるが、その数は多い。男子は恥に命を捨て、女人は男のために命を捨てる。魚は命を惜しむために池にすむが、池が浅いことを歎いて池の底に穴を堀ってすむのである。しかし、釣人の餌にだまされて針をのんでしまう。鳥は木にすむ。木が低いからといって木の上枝にすむが、餌にだまされて網にかかってしまうのである。
 人間も同じようなものである。世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事な仏法のために命を捨てることはむずかしい。そのために仏に成る人もいないのである。

癩人
 ハンセン病を患っている人。
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壮人
 壮健な男子。
―――
「七宝を以て……」
 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三の「若し発心して阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲すること有らば、能く手の指、乃至足の一指を燃やして、仏塔に供養せよ。国城・妻子、及び三千大千国土の山林・河池、諸の珍宝物を以て供養せん者に勝らん。若し復た人有って、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せんも、是の人の得る所の功徳は、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」の趣旨をとられている。
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七宝
 諸経典によって異なるが、法華経見宝塔品第十一では金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝である。
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三千大千世界
 略して三千世界ともいう。古代インド人の世界観による全宇宙。須弥山を中心として、その周囲に四大洲があり、そのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界で一つの小世界という。この世界に日・月・須弥山・四天下・四天王等々を含む。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。一つの中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
―――
供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
―――
雪山童子
 釈尊が過去世で修行をしていたときの名。涅槃経巻十四等にでてくる。釈尊は過去の世に雪山でバラモンの姿で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地におき、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
―――
楽法梵志
 釈尊が過去世で修行をしていた時の名。楽法ともいう。大智度論巻四十九にでてくる。楽法が菩薩の修行中、仏にあえず、四方に法を求めても得られなかった時、バラモンに化身した魔が、身の皮を紙とし、骨を筆となし、血を墨として書写するならば、仏の一偈を教えようといった。楽法は即座に自らの皮を剥ぎ、それをさらし乾かしてその偈を書写しようとした。すると魔はたちまちに消えた。この時、楽法の求道心を知って、仏が下方から湧出して楽法のため深法を説き、これを聞いた楽法は無生法忍を得ることができたという。
―――
布施
 物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
―――
魚は命を……鳥は木に……
 貞観政要巻六にある。また後漢書巻三十九にも同様のものがある。
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 本章では、仏法のためには身命を惜しまない信心を貫くことこそ成仏への直道であることが示されている。
 大聖人は、文永5年(1268)10月11日、十一通の御状をもって幕府と鎌倉の諸大寺へ公場対決を迫られた時、同時に弟子檀那に対して「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ……各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177-01)と、不惜身命の覚悟を促され、「無量劫より・このかた・をやこのため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき。譬えばゆをわかして水に入れ、火を切るにとげざるがごとし。各各思い切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり」(0910-13)と門下に教えられている。
 そして、文永8年(1271)9月12日、竜の口の刑場へ向かわれる途上、大聖人は四条金吾に向かって「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし」(0913-12)と、仏法のために命を捨てることのできる喜びを語られているのである。
 竜の口で発迹顕本なされた大聖人は、末法御本仏の御境界から、弟子檀那を等しく成仏へ導かんとの大慈悲で、大難を受けることを喜びとする不惜身命の信心を勧められているのである。しかし、多くの門下は、身命を惜しみ、財宝を惜しみ、名聞名利にとらわれて信心を捨てていった。大聖人の御心中はいかばかりであったろうか。「身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是を布施として仏法を習へば必ず仏となる」との御文に、大聖人のお心をひしひしと感ずるのである。
 ただし、不惜身命といっても、それは命を粗末にすることでも簡単に捨てることでもない。生命は最高の宝であるがゆえに、最高に価値ある生き方を勧めているのであり、どこまでも不惜身命の精神で生きぬき、妙法流布のために我が生命を使いきることが、人間として最高の生き方であることを教えられているのである。

0957:02~0957:12 第三章 折伏こそ時機に叶う修行と明かすtop
02   仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩
03 埵王子は身を布施とせば法を教へん 菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、 肉をほしがらざる時身を捨つ可き
04 や紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、 破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸
05 戒を堅く持べし儒教・ 道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽
06 うすべし、 釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等
07 の如く大小・ 権実・顕密を強盛に分別すべし、 畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し
08 智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる 諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、 悪王の正法を破るに
09 邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は 師子王の如くなる心をもてる者 必ず仏になるべし 例せば日蓮が如
10 し、 これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり
11 例せば修羅のおごり帝釈にせめられて  無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時
12 機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
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 仏法を弘通するための摂受と折伏は時によるべきである。たとえば、世間の文武の二道のようなものである。そのゆえに、昔の聖人は時に応じて教えを行じた。雪山童子や薩埵王子は「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の修行である」と言われたので、身命を捨てている。肉を求めるもののない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない世には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである。
 破戒の者や無戒の者を毀り、戒を持ち、正法を修行する者を用いる世であるなら、諸戒を堅く持つべきである。儒教や道教によって仏教を抑えようとする時には、道安法師、慧遠法師、法道三蔵等のように身を捨てても国王を諌めなくてはならない。あるいは仏教のなかで、小乗・大乗・権経・実経が入り雑り、ちょうど明珠と瓦礫、牛乳と驢乳の二乳の見分けがつかないような時には、天台大師、伝教大師等のように、大乗と小乗、権経と実経、顕教と密教の勝劣の立て分けを強く述べるべきである。
 畜生の心は弱い者を威し強い者を恐れる。いまの世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者が弱い立場であるのを侮り、邪な王法を恐れる。諛臣というのはこういう者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある士と知ることができる。悪王が正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。こういうのは傲った気持ちからではなく、正法が滅することを惜しむ心が強いからである。傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が生まれてくるものである。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。
 正法は一字一句であっても、時と機根に叶うなら必ず成仏することができる。たとえ千経・万論を習学しても、時と機根に相違するなら成仏することはできない。

摂受・折伏
 仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
―――
大聖
 偉大な聖人。智慧が広大無辺で徳が高く、三世を見通して誤りのない人。
―――
薩埵王子
 釈尊が過去世で菩薩行を修行していた時の名。摩訶羅陀王の第三子で摩訶薩埵王子という。金光明経巻四によると、薩埵王子が二人の兄と竹林で遊んでいた時、子を産んで飢え苦しんでいる虎を見つけた。二人の兄は去ったが、薩埵王子は我が身を与えて虎を助けたという。
―――
菩薩の行
 菩薩とは菩薩薩埵の略で、無上菩提を求める人のこと。利他を根本とした大乗の衆生をさす。菩薩が仏果を得るために行う修行を菩薩の行といい、六波羅蜜などがあっる。
―――
破戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
―――
無戒
 「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
―――
持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――
儒教
 総じては中国古来の思想をいい、別しては孔子・孟子の流れをいう。修身・斉家・治国・平天下などのことばにもあるように、道徳を重んじ、平和の社会を築こうとしたもの。孔子は紀元前5世紀の人で、仁・義・礼や忠孝の道を説き、門弟3000人といわれ、その言行は論語として残っている。のちに数々の派に分かれ、孟子が性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えた。開目抄には「かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり 国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり」(0186-10)とある。
―――
道教
 中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。
―――
釈教
 釈尊の教え、仏教。
―――
道安法師
 生没年不明。中国・北周代の僧。天和4年(0569)北周の武帝は、儒・仏・道の三教の優劣を定めようと論議を起こした。この席で、甄鸞は「笑道論」を作って道教と仏教を批判した。これに対し、道安は「二教論」を武帝に奏し、仏教が儒・道の二教に勝れていることを説いたが、武帝は建徳3年(0574)仏教を廃した。これによって道安は林沢に逃れ、以後、勅があっても命に服することなく没した。
―――
慧遠法師
 (0523~0529)。中国・北周から隋代にかけての僧。敦煌(甘粛省)の人。姓は李氏。晩年に浄影寺に住んだので、浄影寺慧遠、浄影ともいう。13歳で出家し、四分律を学ぶ。建徳6年(0577)北周の武帝は斉国を攻略し、ここで儒教を第一として廃仏を行った。この時、五百余人の僧は黙然として従ったが、慧遠は武帝を「陛下、邪法を以って人を化し、現に苦業を種ゆ。当に陛下と共に同じく阿鼻に趣くべし」と諌めた。武帝はこの諫言を容れず、慧遠は西山に行き、法華経・維摩経等を誦していた。しかし、隋代になって仏教の再興を図る文帝に優遇され、大徳六人の一人として浄影寺に住した。著書に「大乗義章」十四巻などがある。
―――
法道三蔵
 (1086~1147)。中国・宋代の僧。永道のこと。徽宗皇帝が老子・荘子の学を尊んで、宣和元年(1119)仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称名を用いるとした。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。法道は宣和7年(1125)に許されて帰ったが、徽宗は靖康2年(1127)金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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権教
 実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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実教
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する ①明珠、宝珠の一種。明月摩尼・明月珠ともいう。その輝きが明月のようであるためこういう。実大乗経などを濁水を清める徳のある明珠にたとえる。②瓦礫、瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
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牛驢の二乳
 牛乳と驢乳は同じ色であるが、牛乳は精製して醍醐を得るが驢乳は精すれば糞になるといわれている。竜樹は大智度論で内外相対・大聖相対を説明するのに用いた語。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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顕密
 真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
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畜生
 飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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智者
 物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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諛臣
 へつらう臣下、家来のこと。
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方人
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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修羅のおごり……
 観仏三昧経巻一の要旨と思われる。香山の乾闥婆の娘と阿修羅との間に生まれた娘の 悦意を、帝釈が求めて妻とした。ある時、帝釈が多くの綏女と歓喜園で遊戯しているのをみて嫉妬した悦意は、父の阿修羅にこのことを知らせた。阿修羅は激怒し、四兵を出し、帝釈の住む喜見城、須弥山を動かし、また、四大海の水を波動させて帝釈を攻めた。帝釈は、善法堂で大名香をたき、般若波羅蜜を持して仏道を護持する大誓願をすると、虚空から大刀輪が下りてきて、阿修羅の耳・鼻・手・足を切り落とした。阿修羅は恐れおののいたが遁げるところがなく、小身となって蓮の絲の孔の中に入った。
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修羅
 梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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無熱池
 無熱悩池のこと。古代インドの想像上の閻浮洲四大河の水源池。倶舎論巻十一には、大雪山の北、香酔山の南にあり、金・銀・瑠璃・頗胝の四宝を岸とし、周囲八百里の大池で、その中に阿耨達竜王が住み、清冷の水を四方に流し閻浮洲をうるおすという。
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得道
 仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
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 本章では、弘教の方軌である摂受と折伏は時によるべきことを明かされ、邪智謗法の悪王邪僧が智者を失わんとする時にあっては、折伏こそ時機に叶った修行であることを明かされている。
 大聖人は前年の十月に「寺泊御書」で「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値う」(0953-11)等と、大聖人の折伏弘教を批判する門下の疑難をいくつか挙げて破折され、また、この文永9年(1272)2月の「開目抄」でも「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし……末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし……時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき」(0235-10)と、邪智謗法の国、破法の国にあっては折伏に限ることを明かされている。
 本抄も「開目抄」と同意であり、本抄の最後にあるように「日蓮御房は師匠にておはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべし」と大聖人の折伏を批判し、摂受を主張する信心退転の徒の誤りを厳しく破折されているのである。
 まず、摂受と折伏は時によるべきことを示され、つぎに仏教史上の前例を挙げて、過去の雪山童子が法を求めた事例、正法時代の戒律を重んじた例、像法時代の中国で仏教が失われようとした時に身命を捨てても王を諌めた道安等の例が、また仏教の中で大小権実が混乱した時、天台大師や伝教大師が強く邪義を破折して正義を立てた例を示されている。
 そして、大聖人当時の諸宗の学者は「弱きをおどし強きをおそる」畜生のような心で、智者であり末法の御本仏たる大聖人を軽蔑し、邪悪な権力を恐れ正義をおおいかくして一国を滅亡に導こうとしており、この時は師子王の心をもって正法を守るべきであると末法の時は折伏でなければならないと教えられている。
悪王の正法を破るに……正法を惜しむ心の強盛なるべし
 「悪王」とは、当時にあっては大聖人を迫害する幕府権力であり、執権北条時宗や平左衛門尉等を指すといえよう。「邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」とは、「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ」(0322-12)等とあるように、極楽寺良観や建長寺道隆をはじめとする諸宗の僧が、大聖人を幕府権力に反逆する者と讒言して亡き者にしようとしたことをいう。
 その時に、なにものをも恐れぬ師子王のような心をもって、正法を破る悪王や邪義の僧らを強く破折する者は必ず成仏できると仰せなのである。大聖人は、まさに師子王のお姿であられた。
 弘安2年(1279)10月の熱原法難に際しても、大聖人は「各各師子王の心を取出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり」(1190-07)と、門下に師子王の子たる信心を貫くよう指導されている。
 いつの時代にあっても、正法を惜しむ心が強く、正法流布のため、令法久住のために、何ものをも恐れず戦い抜く者こそ、師子王の子であり、必ず成仏への道が開かれるのである。「強敵を伏して始て力士をしる」とあり、強敵と戦い勝ってこそ、はじめて勇気と力のあることが知られるように、苦難に直面したときに、本当の信心が現れるものなのである。いざという時にこそ、信心の強さも弱さも、生命の美しさも醜さも、長所も欠点も現れてくることを思えば、そのためにも日ごろの信心を怠りなく励むことが大切になってくる。
 日ごろ自らの力におごっている者は、いざ強敵に出あうと恐れる心が出て、帝釈に責められた修羅のように醜く小さくなってしまうのである。極楽寺良観が世人から生き仏のように崇められていながら、大聖人にその邪義を責められ、法論対決を挑まれると門を閉じて逃げまわり、祈雨の勝負に敗れると、大聖人を讒言して竜の口法難を起こしたことなど、まさにそのとおりの姿だったのである。
 正法は、たとえ一字一句でもそれを時機に叶って修行すれば必ず成仏できるが、千経万論を習学しても、その実践が時機に叶わなければ、絶対に成仏はできないのである。
 大聖人は、この同じ文永9年(1272)5月に、四条金吾に対して「今日蓮が弘通する法門は、せばきやうなれどもはなはだふかし。其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり」(1116-09)と述べられ、末法の時機に叶った唯一の正法たる日蓮大聖人所弘の法が三大秘法の南無妙法蓮華経であり、御本尊を信じて題目を唱える修行は狭いようであるがはなはだ深いことを明かされている。
 ゆえに、末法には千経万論を習学することは全く意味がなく、三大秘法の南無妙法蓮華経を、自行・化他にわたって行ずる以外に、正しい修行はないのである。

0957:13~0958:07 第四章 自界叛逆難の予言的中を挙げるtop
13   宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必
14 ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、 大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、 薬
15 師経に云く「自界叛逆難」と是なり、 仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、 金光明経に云く「三十
16 三天各瞋恨を生ずるは 其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、 日蓮は聖人にあらざれども 法華経を説の
17 如く受持すれば聖人の如し 又世間の作法兼て知るによて注し置くこと 是違う可らず現世に云をく言の違はざらん
18 をもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る
0958
01 時・ 七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時 大音声を放てよばはりし事これなるべ し纔に六十日
02 乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし 実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、 世間の愚者の思に
03 云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す 日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり 仏阿羅漢を殺し
04 血を出す者あり 提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、 日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢
05 の如し然を流罪し 主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり 謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかく
06 なるを一旦は悦ぶなるべし 後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、 例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討
07 て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
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 宝治の合戦からすでに二十六年たった。今年の二月十一日、十七日にまた合戦があった。たとえば、外道や悪人によって、如来の正法が破られることはないが、かえって仏弟子等によって仏法は破壊されるのである。師子の身中に寄生した虫が師子を食むとはこれである。大果報の人は、他の敵には破られないが、かえって親しい者に破られる。薬師経に「自界叛逆難」とあるのがこれである。仁王経には「聖人が国を去る時には七難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「三十三天がそれぞれ瞋りをなすのは、その国王が悪事をほしいままにし、その悪事を改めないことによる」と説かれている。
 日蓮は聖人ではないが、法華経を説の如くに受持しているから聖人のようである。また、世の中の出来事についてもあらかじめ知ることができたので、それを記しておいたことが違うはずがない。このように現世に言っておいたことが的中したことをもって、後生のことについて言っていることも疑ってはならない。
 日蓮はこの関東の北条一門にとっては棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、眼目である。この日蓮を国が捨て去る時には、必ず七難が起こるであろうと去年の九月十二日に御勘気を蒙った時、大音声を放って叫んだことはこのことである。竜の口法難からわずかに六十日から百五十日でこのような自界叛逆難が起きたのは華報なのである。実果が現れた時は、どれほど嘆かわしいことであろうか。
 世間の愚者は「日蓮が智者なら、どうして王難にあうのか」などと言っている。日蓮は難にあうことをかねてから知っている。父母を打つ子がある。それは阿闍世王である。阿羅漢を殺害し、仏身から血を出す者がいる。それは提婆達多である。六臣はこのことを讃め、瞿伽利等はそれを悦んだ。
 日蓮は現在においては、この北条一門の父母である。仏・阿羅漢のようなものである。そのような日蓮を佐渡まで流罪し、主従ともに悦んでいるのは、あわれでかわいそうな人々である。謗法の法師等が、日蓮によって自らの禍が既にあらわれたのを歎いていたのが、日蓮がこのように流罪になったのをみて一度は悦んでいるであろう。しかし、のちには、かれらの歎きは日蓮の一門に劣らないものとなろう。たとえば、藤原泰衡が弟の忠衡を殺し、九郎判官を殺害して一度は悦んでいたが、後に滅ぼされたようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの国に入っているのであろう。法華経勧持品第十三には「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのがこれである。

宝治の合戦
 鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、吾妻鏡しか現存しない。
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今年二月十一日十七日
 鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉(2月11日)と京(2月17日)で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。
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如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
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師子身中の虫
 師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
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大果報の人
 大果報とは大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。俗に幸福な人。運のよい人をいう。
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薬師経
 欲界・色界二界の中間、大法坊等で説かれた方等時の説法のひとつ。訳に四種あり。①東晋の畠戸梨密多羅三蔵訳の「仏説灌頂抜過生死得度経」一巻。②隋の達磨笈󠄀多訳「仏説薬師如来本願経」一巻。③唐の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」一巻。④唐の義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」二巻。通常、薬師経は③をさす。仏が維耶離音楽樹下に遊んだ時、文殊師利が昔の諸仏の名字、国土の清浄荘厳の事を請問した。この請いに応じて説かれたのが本経である。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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金光明経
 釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。  
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三十三天
 忉利天のこと。梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
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瞋恨
 瞋り恨むこと。
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棟梁
 家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
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去ぬる年九月十二日御勘気
 文永8年(1271)9月12日の竜の口法難のこと。御勘気とは主君や役所から咎めを受け、罪を付されることをいう。
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華報
 未来に受ける果に対して、その前兆として受ける報い、現証のこと。
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実果
 仮の報いである華報に対して、未来に受ける果のこと。報の華にたとえるのに対して実にたとえていわれている。
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王難
 王命・国家権力の迫害のこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960-04)とある。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
六臣
 阿闍世王の六人の重臣のこと。涅槃経巻十九によると、阿闍世王が父王の頻婆沙羅を殺害した罪で、体中に瘡が生じ悪臭を放った。その時、地獄に落ちるのではないかと悩む阿闍世王に対して、仏の教えを笑い、それぞれ外道の師に教えを請うように勧めた。
―――
瞿伽利
 梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、漢訳して悪時者・牛守という。釈迦族の出身。提婆達多の弟子である。大智度論十三に「瞿伽利は常に舎利弗・目連の過失を求めていた。舎利弗・目連の二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれる。
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泰衡
 (1155~1189)。藤原泰衡のこと。平安時代末期の奥州の豪族。奥州藤原氏の三代秀衡の嫡子として四代を継いだ。父の遺言によって源義経をかくまっていたが、頼朝の圧迫に耐えられず、ついに衣川の館で義経を攻め滅ぼし、義経に協力的であった弟の忠衡をも殺した。やがて頼朝の討伐を受け、敗走の途中、家臣に殺害された。
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九郎判官
 (1159~1189)。源義経のこと。平安末期の武将。義朝の第九子で、頼朝の弟。平治の乱で捕えられたが、幼いため鞍馬寺に入れられた。後に奥州の藤原秀衡の保護を受けたが、治承4年(1180)兄の頼朝の挙兵を聞いて参軍した。その後、木曾義仲を破り、平氏を一谷、屋島、壇ノ浦で滅ぼした。しかし御家人の梶原景時らと不和を生じ、さらに後白河法皇から検非違使・左衛門尉等に任じられたが、頼朝の許可を得ていなかったため怒りにふれ、文治元年(1185)行家と反乱を企てたが失敗。ついに奥州に逃れて藤原秀衡の保護を求めたが、秀衡の死後、泰衡に襲われて、衣川で自刃した。
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悪鬼入其身
 勧持品に「濁劫悪世の中には、多くの諸の恐怖あらん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」とある。六道の一つである餓鬼道の衆生を鬼といい、天竜等の八部衆を神というが、この鬼神、天神、夜叉鬼等の類いを悪鬼という。人に対しては病気を惹き起こし、また思想の乱れを起こす。国家社会に対しては、天変地変や思想の乱れ等を惹き起こす働きをする。ここでは、法然・弘法等の邪宗の僧が、国家権力に取り入って、法華経の行者を迫害することをさす。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1083-04)とある。
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 本章では、文永9年(1272)2月11日に起きた二月騒動こそ、大聖人が、かねて予言されていた自界叛逆難であって、大聖人が北条一門にとって主師親の三徳を具えておられることを実証するものであるとともに、日蓮大聖人を流罪にしたために起こった華報であり、謗法の法師等が流罪を悦んでいるのは我が身を滅ぼす悪鬼が其の身に入った姿であることを明かされている。
 宝治の合戦とは、宝治元年(1247)6月に、執権北条時頼が幕府内で最大のライバルだった評定衆の三浦泰村一族を滅ぼした合戦をいい、「三浦氏の乱」ともいわれた。その直後に上総の名門豪族千葉秀胤一族も時頼に滅ぼされており、それ以後、北条一門による幕府の独裁体制が成立している。
 三浦氏と北条一族の関係はかなり密接で、三浦泰村の妹が北条泰時の夫人となり、時頼の父時氏を産んでいるので、泰村は時頼にとっては大伯父にあたっている。三浦氏を滅ぼしたことによって、北条氏の独裁体制が確立され、もう内乱はないと考えられていたのである。ところが、二月騒動という、文字どおり北条一門内部の醜い権力抗争が、またも起こったのである。大聖人はそれを薬師経の「自界叛逆難」であり、また仁王経の「聖人去る時七難必ず起らん」の経文どおりであると指摘されている。
 「外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食む」といわれているのは、正法を破るものはけっして外敵ではなく、仏弟子の中より師子身中の虫のごとき者が出て仏法を破壊するのであるとの戒めである。
 「撰時抄」に「悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず、三衣を身にまとひ一鉢を頚にかけ八万法蔵を胸にうかべ十二部経を口にずう僧侶が彼の仏法を失うべし……若し仏記のごとくならば十宗・八宗・内典の僧等が仏教の須弥山をば焼き払うべきにや、小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり真言の善無畏・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり」(0286-07)とあるように、仏弟子と称しながら仏法を破っているのが諸宗の祖師等であり、とくに大聖人御在世当時、僭聖増上慢となった極楽寺良観や建長寺道隆をはじめ、大聖人に敵対した道門増上慢の僧等は、すべて正法を破る師子身中の虫だったのである。
 また、釈尊に提婆達多や善星比丘がいたように、大聖人にも三位房などがおり、はじめは信じながら後に反逆し敵対する弟子が必ずいるのである。この佐渡御流罪当時も、自ら信心を捨てただけではなく、大聖人を批判して多くの門下を誘いおとして退転させる者が出ている。大聖人は「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(1337-14)といましめられている。そうした者は、仏法を破壊する魔と見破っていかなければならない。
 「世間の作法兼て知るによて注し置くこと是れ違うべからず」とは、「立正安国論」において北条時頼を諌暁した際予言したことが、眼前の自界叛逆難となって現れたことを指しており「現世に云いをく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」とは、安国論の予言が仏法の法理どおりに現実となった以上、念仏等が堕地獄の邪法であり正法によって成仏できることも疑いないと仰せなのである。
日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり……大音声を放ちてよばはりし事これなるべし
 自界叛逆難の勃発について、大聖人は近くは文永8年(1271)9月10日、幕府へ出頭して平左衛門尉と対面したさい、「世を安穏にたもたんと・をぼさば、彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば、国に後悔あるべし。日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし。其の時後悔あるべし」(0911-09)と警告されている
 さらに同9月12日、松葉ヶ谷草庵へ逮捕に向かった平左衛門尉らに対して「あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」(0912-05)と再び厳しく諌められているのである。
 そして、「纔かに六十日乃至百五十日に此の事起るか」とあるように、竜の口法難から約2ヵ月後に蒙古から重ねての使者が来ており、ちょうど5ヵ月後に、大聖人が予告されたとおりの内乱が起こったのである。
 大聖人は、これらはまだ「華報」であり「実果の成ぜん時」すなわち他国侵逼難が現実のものとなり、北条一門が滅亡するような事態となって、地獄の苦脳をうけるときにはどれほど歎くことだろうかと、大聖人を迫害する北条一門をあわれまれているのである。
 なお「此の関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり」「日蓮当世には此御一門の父母なり」とは、「開目抄」の「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-05)の御文と同じく大聖人こそ末法の主師親であることを示されており、棟梁とは主徳を、日月・亀鏡・眼目は師徳、父母は親徳に配せられる。また「日蓮は愚なれども釈迦仏の御使・法華経の行者なりとなのり候を・用いざらんだにも不思議なるべし、其の失に依つて国破れなんとす……日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ」(1330-07)の御文とも同じ趣旨と拝される。
 そして、大聖人は、「日蓮智者ならば、何ぞ王難に値うや」との批判を、仏法を知らない「世間の愚者の思」であるとされ、北条一門にとって主師親にあたる大聖人を流罪にして悦んでいるのは、阿闍世王や提婆達多、また彼らの悪行をほめた者と同じであり、あわれな者であると仰せになっている。
 そして、それは、奥州に勢力をはっていた藤原泰衡が、源頼朝の圧迫に屈して、藤原家の安泰のためにと、かくまっていた源義経を衣川の館に攻めて滅ぼし、弟の忠衡も頼朝の命で討ったが、のちに頼朝の大軍に攻められて自らも滅びたようなものであると、歴史の先例に譬えられているのである。この故事については「頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡を誑して義経を討たせ」(0523-12)との御文がある。
 大聖人を迫害して喜ぶことが、のちに我が身を滅ぼす事になるのであり、北条一門を滅ぼす大悪鬼がこの国に入り、物事を正しい道理を見失わせているのであると述べられている。

0958:08~0958:16 第五章 留難も先業によるを明かすtop
08   日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず 不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に
09 罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし 何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり 心こそ
10 すこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て 畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり 其中に識神をやどす
11 濁水に月のうつれるが如し 糞嚢に金をつつめるなるべし、 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず
12 身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり 心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、 又過去
13 の謗法を案ずるに誰かしる 勝意比丘が魂にもや大天が神にもや 不軽軽毀の流類なるか 失心の余残なるか五千上
14 慢の眷属なるか 大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし 鉄は炎打てば剣となる 賢聖は罵詈して試みる
15 なるべし、 我今度の御勘気は世間の失一分もなし 偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべ
16 し、 
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 日蓮もまたこのような大難にあうのも過去世の悪業がないわけではないからである。法華経常不軽品第二十には「其の罪は畢え已って」と説かれている。不軽菩薩が無量の謗法の者に罵詈打擲されたのも過去世の悪業の報いなのである。まして日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅の家に生まれている。心こそ少し法華経を信じたようであるが、身は人身にして畜生の身である。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、そのなかに精神を宿している。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身は畜生の身であるから、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然である。
 心も、身に対すればこそ月や金にたとえられるのであるが、その心も過去の謗法の罪をもっている。誰が知ることができるだろうか。我が心は勝意比丘の魂か、大天の神であろうか。不軽菩薩を軽毀した四衆の流類だろうか、久遠下種を忘失した者の余残か、五千人の増上慢の眷属か、あるいは大通覆講の時の第三の未発心の余流なのであろうか。宿業ははかりがたい。鉄は炎に入れて焼いて打つことにより剣となる。賢人聖人は罵詈して試みるものである。日蓮がこのたびに受けた御勘気に世間の罪は一分もない。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるのであろう。

先業
 前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
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不軽品
 法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
―――
「其罪畢已」
 「其の罪は畢え已って」と読む。法華経常不軽菩薩品第二十の文。過去世の罪障が消滅して大利益を受けることをいう。不軽菩薩は衆生の迫害を忍受して礼拝行を続けることによって、過去の罪業を消滅しおわって仏道を成ずることができた。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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罵詈打擲
 ののしり、打ち据えること。
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貧窮下賎
 貧しく卑しいこと。
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旃陀羅
 屠者・殺者のこと。施陀利ともいう。獄卒の輩、屠殺者の種類の総称。インドのカースト制度では最下層の階級。転じて身分がいやしいという一般的な意味にも使われている。
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赤白二渧
 赤は母の血、白は父の精。赤白の二渧が和合することにより識が宿り、人間が生まれることをいう。摩訶止観巻七上には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以て体質と為す」とある。
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識神
 生命・たましい・生命。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
勝意比丘
 諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
―――
大天
 摩訶提婆のこと。訳して大天という。中インド・末土羅国の出身。大毘婆沙論巻九十九によると、大天は出家以前は、父・母・阿羅漢を殺害する無間の重罪を犯した。また、出家後は天魔の所為によって阿羅漢は不浄の漏失を免れることができない、阿羅漢は煩悩障の疑惑は已に断じているが世間的な疑惑がある等の五つの悪見を起こしたという。
―――
不軽軽毀の流類
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる増上慢の四衆の仲間の意。過去、威音王仏の滅後の像法年間に、常不軽菩薩が二十四文字の法華経を唱えてあらゆる人への礼拝を行じていた時、増上慢の四衆は悪口罵詈し、杖木瓦石で迫害した。のちに悔いて不軽に帰伏し、罪の大部分を消したが、余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた。やがてこの罪を消して、再び不軽の教化にあって仏道に住したという。
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失心の余残
 法華経如来寿量品第十六に説かれている。失心とは毒気深入のため本心を失って父の与えた良薬を服さなかった者をいい、ここでは釈尊の化導を受けても、正法を信受せず、成仏にもれた者の仲間の意。
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五千上慢の眷属
 法華経方便品第2に説かれる5000人の増上慢の眷属。
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大通第三の余流
 久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心できなかった者の流れということ。法華経化城喩品第七に説かれている。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。これを大通覆講という。第十六王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。末法の我々は、法華経を聞いても発心すらしなかった最も下根の衆生である未発心の衆生の余流であるのかもしれないとの意。
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宿業
 宿世の業因。過去世につくった業因。現世に果報を生ずる原因となった過去世の善悪の行為。
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後生の三悪
 悪業によって未来世に堕すべき地獄・餓鬼・畜生。
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 本章では、大聖人がこのように難にあって責められるのも、世間の失は少しもなく、ただ過去の謗法の重罪を今に消滅するためであることが明かされている。
 はじめに、不軽菩薩の故事を引かれて、大聖人が難にあうのも過去世の業を今生に感じ消滅するのであるとされている。
 「開目抄」にも「天台云く『今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り』等云云、心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云、不軽品に云く『其の罪畢已』等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」(0231-03)とある。
 しかし、大聖人は外用においては本化地涌の菩薩であり、その御内証は久遠元初の自受用身であられるのに、なぜ過去世に謗法があると仰せになっているのだろうか。根本的には十界互具、一念三千の仏であられるゆえであるが、日寛上人は「示同凡夫の辺に拠るなり」と仰せである。
 邪智謗法の末法の衆生を化導し救われるためには、衆生と同じ荒凡夫のお姿をもって出現されなくては大衆を導き、苦悩から救い出すことはできないので、「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり……仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766-第十三常不値仏不聞法不見僧の事-03)と仰せのように、末法の仏は凡夫のお姿で出現されるのである。
 そして、衆生が謗法の先業のために苦悩しているのを救うために、衆生と同じに衆生の謗法を我が身の謗法とされ、大難を敢然と乗り切られたお姿をとおして、過去・現在の謗法の重罪を消滅する方途をお示しくださったのである。ゆえに大聖人が難を忍ばれたのは、全く御自身のためではなく、末法の衆生を地獄の苦悩より救われんがための大慈悲のお振る舞い以外のなにものでもなかった。
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)の御文のとおり、末法の一切衆生のために大慈悲をもって大難を忍ばれた大聖人こそ、天台・伝教に越えた御本仏なのである。
 この御本仏の大慈悲に浴した我らは、大聖人の大難にはとうてい及ぶことはなくとも、広宣流布、正法護持のために起こるあらゆる艱難を耐え忍んで、成仏の道を歩まなければならない。
 「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出でたり……」等の御文は、大聖人が御自身の凡夫であることを述べられているが、「糞嚢に金をつつめるなるべし」「梵天帝釈をも猶恐しと思はず」の御文は、御本仏の御内証の一端を示されていると拝せる。
 「色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」とは、愚者は眼前の凡夫としての色法の面しか見ないので、大聖人を侮るのも無理はないとの仰せである。
 しかし、心法の面も、色法が糞嚢とすると金、色法を濁水とすると月に譬えられるが、その内奥を考えると、そこにはどのような重い正法誹謗の罪業を潜在させているか知れないと仰せられて、勝意比丘、大天、不軽を軽毀した四衆、寿量品の失心の衆生、方便品に説かれる五千の上慢、化城喩品の大通結縁の第三類などの余残・眷属であるかも知れないと述べられているのである。
我今度の御勘気は世間の失一分もなし……三悪を脱れんずるなるべし
 大聖人は、いま佐渡に流罪されているのも、世間の罪は全くなく、ただ過去の謗法の罪のためであり、その重罪を今生に消して成仏し、未来に三悪道に堕ちることを脱れるためであると、留難の根本的な因を明かされている。
 世間の罪など少しもない大聖人を、極楽寺良観ら諸宗の僧の讒訴をうけた平左衛門尉が、北条一門を呪詛し世を乱さんとする悪僧として、謀反人のような扱いで逮捕し処刑しようとしたのである。「世間の失によせ或は罪なきをあだす」(0231-01)とあるように、世間の失なき無実の大聖人を世間の罪におとしたのであり、しかもそれは謗法の僧の讒言によるというのが、留難の表面的な原因といえよう。大聖人はそれを「世間の失一分もなし」の一言で破られ、そのうえでなぜそのような難にあうのかを、罪障消滅のためであると明示されているのである。
 なお、「鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし」とあるが、「開目抄」には「鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し……睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233-02)とある。罵詈されることによって賢人・聖人とあらわれるのであり、大難にあってはじめて信心もきたえられ、宿業の打開もできることを教えられていると拝せよう。

0958:16~0959:14 第六章 一国謗法の根源を示すtop
16    般泥オン経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経
17 を誹謗すること有らん当に知るべし 此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、 此経文を見ん者自身をはづべ
18 し今我等が出家して袈裟をかけ 懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、 法然が一類大日
0959
01 が一類念仏宗禅宗と号して 法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て 権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号
02 して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は 六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、 うれへな
03 るかなや涅槃経に 仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に 罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆
04 成仏せる故なり 但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき 彼等がうみひろげて今の世の日本国の一
05 切衆生となれるなり。
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 般泥洹経には「未来の世に、かりに袈裟をつけて我が法の中で出家学道したとして、懶惰懈怠であって、これらの大乗経典を誹謗するような者は、これらはみな今日の諸の外道の者であると知るべきである」と説かれている。この経文を見る者は自分自身を恥ずべきである。現在、出家して袈裟をかけながら懶惰懈怠である者は、釈尊在世の六師外道の弟子であると仏は記されている。法然の一門、大日の一門が念仏宗、禅宗と名乗って、「捨閉閣抛」の四字を加えて法華経を制止して権教である弥陀称名ばかりを勧め、あるいは「教外別伝」といって、法華経は月をさす指のようなもので、ただ文字を数えるにすぎないなどと笑っている者は、六師外道の末流が仏教のなかに生まれてきたものであろう。
 まことに憂うべきことである。涅槃経に仏が光明を放って地下の百三十六の地獄を照らされた時、罪人は一人もいなかったとある。それは法華経の如来寿量品でみな成仏したからである。ただし、一闡提人といって謗法の者だけは、地獄の獄卒に留められたのである。彼ら一闡提人が生み広げて、今の世の日本国の一切衆生となったのである。
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06   日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば 今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一
07 等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば 酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し 歎けども甲斐なし此罪
08 消がたし、 何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば 烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけ
09 るなるべし外道は知らずして自然と云い 今の人は謗法を顕して扶けんとすれば 我身に謗法なき由をあながちに陳
10 答して法華経の門を閉よと法然が書けるを とかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ 天台真言等の人人彼が方
11 人をあながちにするなり、 今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等 数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり
12 日蓮が許に来て云く 法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず 一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に
13 御往生疑なしと書付て候を 山僧等の流されたる並に寺法師等・ 善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき
14 鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
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 日蓮も過去にすでに正法をそしった者であるから、今生には念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未有一人得者」「千中無一」等と批判していた。いま謗法の酔からさめてみれば、酒に酔った者が父母を打ちすえて悦び、酔がさめた後で嘆くように、後悔してもどうしようもない。この罪は消しがたいのである。
 まして、過去の謗法が心中に染まっているのは、なおさらのことである。経文を見ると烏の黒いのも鷺の白いのも、過去世の業が強く染まりついたからだとある。それを外道は知らないで自然の成りゆきであるという。今の人は、日蓮が謗法であることを教えて扶けてあげようとすると、自分には謗法はないと声を荒立てて答えて、法然が「法華経の門を閉じよ」と書いていることさえいちいち理由をつけて争うのである。
 念仏者のことはさておく、天台真言等の人々がかえって強引に念仏者の味方をしているのである。今年一月十六日、十七日、佐渡の国の念仏者等数百人のなかの印性房という念仏者の棟梁が、日蓮の許に来ていうには「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない。一切衆生に念仏を称えさせたのであり、この大功徳によって往生は疑いないと書き付けられたのを、比叡山や園城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』とほめている。それなのに、なぜ念仏を破られるのか」と言うのであった。まったく鎌倉の念仏者よりもはるかに劣っており、哀れというしかない。

般泥洹経
 一般には法顕訳の仏説大般泥洹経をいう。
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袈裟
 梵語(Kasōya)の音訳。不正雑色の意。僧侶が左脇から右脇下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条・七条・九条の三種がある。法衣・功徳衣・無垢衣・忍辱鎧ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せたたのが衣としたのが由来とされる。以来仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するよになった。袈裟の色は青・赤・黄・白・黒を避けて、他の雑色を用いることが決まりとなっており、普通似黒・似赤・似青を用いる。インドでは乾陀色、中国では木蘭色、日本では香色という。
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懶惰懈怠
 なまけおこたること。仏道修行に精進しないこと。
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方等契経
 方等は方正・平等の意で、契経は道理や衆生の機根に契った経典のこと。大乗経典をさす。
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六師外道
 釈迦在世時代に中インドで勢力をもっていた六人の外道の思想家。①プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那迦葉)道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。②マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)裸形托鉢教団アージーヴィカ教の祖。決定論者。③サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)懐疑論者④アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。⑤パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延)七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。⑥ニガンタ・ナータプッタ( Nigantha Nataputta)ジャイナ教の開祖。相対論者。
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法然
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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大日
 生没年不明。大日能忍のこと。鎌倉時代初期、臨済宗の僧で日本達磨宗の祖。当時、中国で全盛の南頓禅を取り入れた。摂津国水田(大阪市東淀川区大桐)に三宝寺を建てて弘めた。畿内で多くの帰依者を得たが、大日能忍の禅には師承がないと謗るものが出たため、文治5年(1189)弟子の練中と勝弁を宋に遣わして、当時全盛を誇っていた臨済禅の楊岐宗大慧派の拙庵徳光(1144~1203)から印可を受けて帰国させた。以後、日本達磨宗と号して南頓禅を日本に弘めた。南頓禅は教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を強調する禅の一派。大聖人御在世当時、禅の中でも大日能忍とその弟子の仏地房覚晏の禅が盛んであった。大日能忍は、甥の平景清に誤って刺殺されたと伝えられる。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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弥陀
 阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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弥陀称名
 南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。
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教外別伝
 「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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一百三十六地獄
 地獄に136種類の地獄があること。8大地獄にそれぞれ16の小地獄があり、小地獄の128と大地獄の8を加えて136となる。罪の軽重によって堕ちる地獄が異なる。法華玄義巻六下には「重き者は遍く百三十六を歴、中なる者は遍くせず、下なる者は復た減ず」とある。
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法華経の寿量品
 法華経如来寿量品第16のと。仏の悟りの真実を説いた実教たる法華経のなかでも、寿量品は久遠の本地を明かした最重要の品であり、娑婆即寂光が明らかにされた。
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一闡提人
 一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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未有一人得者
 道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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自然
 自爾・法爾・任運・天然・ありのまま・おのずから等。
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天台真言
 ①天台宗と真言宗のこと。②比叡山延暦寺等が立てる台密のこと。
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印性房
 日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏僧。佐渡の念仏者の中心的存在。
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往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
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山僧
 ①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。ここでは②のこと。
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寺法師
 園城寺の僧のこと。延暦寺を山門といい、その僧を山僧・山法師と称すのに対し、園城寺を寺門といい、その僧を寺法師という。
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 般泥洹経に述べられているのは、釈尊在世のころは外道として、外から仏法や仏教教団を誹謗し迫害していた連中が、未来に仏教が弘まった時には、仏教教団の中にあらわれて仏法の正義を歪めたり教団を乱したり正しい修行者を誹謗したりして、仏法を破壊しようとするであろう、ということである。本抄の第四章にも仰せの「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食む等云云」の原理から、外側から仏法を破ることが難しいと知った魔は、内側から破ろうとするのであるともいえよう。
 まさに、この代表として、ここでは法然の浄土宗と大日の禅宗を挙げられ、これらが日本一国に流布し隆盛を誇っている姿をさして、法華経の寿量品でも救われずに地獄守に留められた一闡提人が子孫を生みひろげて日本国の一切衆生となったのであると仰せられている。
 これは、末法の日本の衆生が、釈尊の脱益仏法によっては救われない本未有善の機根であり、三毒強盛の堕地獄の衆生であることを比喩的に述べられたのである。
 そして、大聖人御自身、そのような邪知謗法の国に生を受け育ったのは、過去世の謗法の種子をもっているゆえで、今生においても、道善房のもとで修学された数年間は、ともに念仏の邪法を行じたと言われている。
 この念仏がいかに浅薄な宗であるかを、そして、にもかかわらず、その点に多くの人が気がつかないで迷わされているかを、佐渡の印性房を例に挙げて示されているのである。
 「今生に念仏者にて数年が間……笑いしなり」と仰せられているのは、大聖人が、安房の清澄寺で出家・修学された時代、道善房が念仏者であったためである。
 「日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす」(1407-07)との御文もある。大聖人が弥陀称名に疑いを起こされたのは、念仏を称える人々の臨終が狂乱頓死の姿を示したからであり、そこから一切の経教の肝要と諸宗の実態を究めようと誓願されたのである。
 そのように、現世における謗法の罪さえも消し難いのに、過去の謗法の宿業が生命に深く刻みつけられたものにおいてをやとされ、烏が黒く鷺が白いのも先業によって染められたもので、けっして偶然ではないと、厳しい生命の因果の理法を明かされている。これは、仏法以外の外道の法が、生命の因果律を知らないためにすべてが自然である等とするのと、根本的に異なる点なのである。
 また、大聖人が、今の人々に謗法を犯していることを教えて地獄の苦悩から救おうとされても、けっして謗法を犯しているとは思わず、日本の念仏宗の祖法然が選択集で明らかに法華経の門を閉じよなどと書いていることさえ、けっして法華経を抛てと書いたのではないと強弁している。また、念仏はともかくとして、天台宗までがその味方をしているのである。その例として、大聖人は同年1月17日に行われた佐渡の念仏者の中心だった印性房弁成と対論された折の彼の言い分を挙げられている。
 1月16日の塚原問答で惨敗した念仏側は、翌17日、印性房弁成が塚原の大聖人のもとを訪れて再び法論を挑んだのである。その内容は「法華浄土問答抄」にくわしく記録されているが、そこには「法然上人・聖道の行機堪え難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す、故に是れ慈悲の至進なれば此の慈悲を以て浄土に往生し全く地獄に堕すべからざるか」(0119-05)との弁成の幼稚な説と、それを「慈悲の故に法華経と教主釈尊とを抛つなりと云わば所詮上に出す所の証文は未だ分明ならず慥なる証文を出して法然上人の極苦を救わる可きか」(0119-12)と一言で論破された大聖人の言がのせられている。
 そのように、大聖人が諸宗の教義を正法誹謗の邪義であると責められても、彼らは仏説によらずただ先師の言によってそれを認めようとはせず、かえって反発し、怨憎の念を抱いたのである。

0959:15~0960:09 第七章 謗法の罪報を今世に転ずるを明かすtop
15   いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けん かかる国に生れけんいかになるべし
16 とも覚えず、般泥オン経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或
17 は形状醜陋衣服足らず飲食ソ疎 財を求めて利あらず貧賎の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、 又云
18 く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは 斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、 此経文は日蓮が身
0960
01 なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、 一には或被軽易 二には或形状醜陋三には衣服不足 四には飲食ソ疎五には求
02 財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、 此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、 高山に登る者
03 は必ず下り我人を軽しめば 還て我身人に軽易せられん 形状端厳をそしれば醜陋の報いを得 人の衣服飲食をうば
04 へば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば 貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず 善戒を笑へば国土の民
05 となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、 日蓮は此因果にはあらず 法華経の行者を過去に軽易せし故に法
06 華経は月と月とを並べ星と星とをつらね 華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を 或は上げ或
07 は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、 此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを 日蓮つよく法華
08 経の敵を責るによて 一時に聚り起せるなり 譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれど
09 もいたくせめず年年にのべゆく 其所を出る時に競起が如し 斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、
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 このように責められる日蓮の、過去世、現世、先々からの謗法が今さらながら恐ろしく思われる。このような日蓮の弟子となり、このような国に生れた弟子達はこの先どのようになるのかはかり知れないのである。
 般泥洹経には「善男子よ、過去にはかり知れない多くの罪やもろもろの悪業を作った者は、その多くの罪報によって、あるいは人から軽しめられ、あるいは顔かたちが醜く、あるいは着物が足らず、食べ物は粗末で、財を求めても得られず、貧賎の家、邪見の家に生まれ、あるいは王難に遇う」等と説かれている。また「さらに、このほかの種々の人間の苦しみを現世に軽く受けるのは、これ護法の功徳力による」等と説かれている。
 この経文は、もし日蓮がいなければ、まったく仏の妄語となってしまうのである。一には「あるいは人から軽しめられる」、二には「あるいは顔かたちが醜い」、三には「着物が足らず」、四には「食べ物が粗末である」、五には「財を求めても得られない」、六には「貧賎の家に生まれ」、七には「邪見の家に生まれ」、八には「あるいは王難にあう」等がそれである。この八句は、まったく日蓮一人が身に受けていることである。
 高い山に登る者は必ず下るように、人を軽しめれば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ物を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賎の家に生まれる。正法を謗れば邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遇うのである。これらは因果の定まった法である。
 日蓮が苦難にあっているのはこれらの因果のゆえではない。過去に法華経の行者を軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星をつらね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊くすぐれた御経であるが、その法華経をあるいは上げ、あるいは下してあざけりあなどったために、この八種の大難に値っているのである。
 この八種の難は、尽未来際の間に、一つずつ現れるはずであったのを、日蓮が法華経の敵を強く責めたことによって、今生に一時に集まり起こしたのである。たとえば、民が郷郡などに住んでいる時は、どれほどの借銭が地頭等にあったとしても、厳しく取り立てられることもなく、年年に返済を延ばしてもらえるが、その住む所を出る時には、厳しく取り立てられるようなものである。「これは護法の功徳力によるのである」というのはこのことである。

先生
前生のこと。前世・過去世のこと。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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善男子
 仏法を信奉する在家・出家の男子をいうが、大聖人の仏法においては男女・僧俗の区別はなく、三大秘法を信じ実践するっひとをいう。
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軽易
 ①軽んじて蔑ること。②手軽であること。③軽率であること。
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 「形状」は顔かたち、「醜陋」は醜いの意。顔だち容姿が醜いということ。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「形状端厳をそしれば醜陋の報いを得」(0960-03)とある。
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飲食麤疎
 食物に不自由し粗末なものしか得られないこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」(0960-03)とある。
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妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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形状端厳
 顔・形が端正でおごそかなこと。
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餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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持戒尊貴
 堅く戒律を持つ尊貴な人。
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善戒
 善い戒を持つこと。戒を持つもの。
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華山
 中国の名山。秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(2200㍍)のこと。古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。
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或は上げ或は下して
 念仏宗では、法華経は道理は深く尊いと称えながらも、末法の愚鈍な衆生の機根には難解であり、衆生の成仏の法にならないといって、法華経への信を否定した。また真言宗は法華経は大日経より三重に劣ると下げている。
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嘲弄
 からかい、あざけること。
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尽未来際
 未来の果て、未来永遠。
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 本章では、大聖人が現世に八つの大難を同時に受けているのは、常の因果の法にあてはまる悪業のためではなく、過去の正法誹謗のためであると述べられ、それは未来永劫にわたって一つずつ報いを受けて消滅しなければならないところを、護法の功徳力によって今世にまとめて受け消滅すると明かされている。
 はじめに、これまで述べられたように過去・現在に謗法の重罪を犯した大聖人の弟子となり、邪智謗法のはびこる日本国に生まれた者たちの行末はどうなることだろうかとあわれまれている。しかし、これは大聖人と同じく謗法を責めて難にあうことによって必ず罪障消滅して成仏の道を歩むことができるとのお心と拝したい。
 そして、般泥洹経を引かれて因果応報の道理を明かされている。般泥洹経には、過去に無量の諸罪や種々の悪業を作ったことによって受ける八種の罪報が説かれている。その八種の大難とは、高い山に登った者は必ず下らなくてはならないという道理があるように、人を軽しめると今度は自分が人に軽易される、形状端厳をそしると自分は醜陋の報いを受ける、人の衣服飲食をうばえば餓鬼となる、持戒尊貴を笑うと貧賤の家に生まれる、正法の家をそしると邪見の家に生まれる、善戒を笑えば国土の民となり王難にあう、というもので、それが「常の因果の定れる法なり」と仰せなのである。
 大聖人は「此八句は只日蓮一人が身に感ぜり」といわれ、開目抄でもこの般泥洹経の文を引かれて、「此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く『軽賎憎嫉』等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食麤疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや」(0232-11)と述べられている。
 しかし、「日蓮は此因果にはあらず」と、大聖人が八種の大難を一身に受けられているのは「常の因果」の罪報によるのではなく、「法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経……を或は上げ或は下して嘲弄せし故に」と、過去の謗法の罪によって現世にその報を感じているのであるとされている。 
 正法を誹謗した場合は、正法が一切の功徳を収めた具足の法であるゆえに、八種として示されたようなあらゆる罪業を造ったことになる。しかも、根源の大法であるゆえに、その罪業は深く、尽未来際という永い間にわたってこれを受け、一つずつ消滅していかなければならないのである。
 しかるに、今生に正法を護持し弘める大功徳によって、その重罪を今生にまとめて受け、しかも今の一生の苦によって、それを消滅することができるとの仰せである。
 大聖人が弘教折伏のために王難にあわれているのは、この過去の罪障を消している姿であるということである。この原理は、まさに宿業深重の我々のためにお示し下さっているのであり、まことにありがたいことと拝さなければならない。

0960:09~0960:16 第八章 自身の滅罪と謗法者の造業を示すtop
09                                                  法華経
10 には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられ
11 ん」等云云、 獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん 当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日
12 蓮は過去の不軽の如く 当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、 父母を殺せる人異なれど
13 も同じ無間地獄におついかなれば 不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき 又彼諸人は跋陀婆羅等と云は
14 れざらんや 但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ 是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜし
15 かども後には信伏随従せりき罪多分は滅して 少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく 当世の諸人は翻す心な
16 し譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
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 法華経勧持品第十三には「諸の無智の人があって法華経の行者を悪口罵詈等をし、刀杖瓦石を加え(中略)国王、大臣、婆羅門、居士に向かって讒言をし(中略)度々擯出される」等と説かれている。獄卒が罪人を責めなければ地獄を出ることができないように、現在の王臣がなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことはできない。日蓮は過去の不軽菩薩の如く、現在の人人は、不軽菩薩を軽毀した四衆の如くである。人は替わっても、その因は一つである。父母を殺害した人は異なっても、同じように無間地獄に堕ちるのである。不軽菩薩の因の修行をする日蓮一人がどうして釈迦仏とならないことがあろうか。また、現在の誹謗の人々は跋陀婆羅等といわれないだろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることだけはかわいそうなことである。これはなんとしたらよいのか。
 不軽菩薩を軽毀した人々は、はじめは誹謗していたけれども、後には信伏随従した。罪の多くは消滅して、少しばかり残ったのに、父母を千人殺害したほどの大苦を受けた。現在の人々は誹謗を悔い改める心がない。譬喩品にあるように無数劫の長い間、無間地獄で苦しむであろう。また三千塵点劫か五百塵点劫の長い間を送るであろう。

無智の人
 仏法に無知な在家の人。三類の強敵の第一、俗衆増上慢をさす。
―――
悪口罵詈
 法華経の行者をさだむ三類の強敵の第一類・俗衆増上慢の人の行為をいう。悪口をいい、ののしること。「罵」は面と向かって謗り、「詈」は陰に隠れて謗ることを意味する。
―――
刀杖瓦石
 刀・杖・瓦・石のこと。
―――
婆羅門
 インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
―――
居士
 梵語で(grha-pati)といい、家長・長者と訳す。出家しないで仏門に帰依した男子。
―――
擯出
 人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。
―――
獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
―――
軽毀の四衆
 不軽菩薩の礼拝行に対して、悪口罵詈し、杖木瓦石で迫害した比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆のこと。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
釈迦仏
 迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
跋陀婆羅
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩。跋陀婆羅等の五百人の菩薩は過去世に不軽菩薩に対して、悪口罵詈等をして迫害をした人々とされる。
―――
千劫阿鼻地獄
 極めて長い時間の単位。
―――
譬喩品
 妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
―――
無数劫
 数えきれないほどの長い時間。阿僧祇劫ともいう。
―――
三五の塵点
 三千塵点劫と五百塵点劫の昔のこと。
―――――――――
 本章では、大聖人が不軽菩薩のごとく難にあうことによって過去の謗法の重罪を滅して成仏できるのに対し、逆に大聖人を迫害する者は長く阿鼻獄の苦悩を受けることが明かされている。
 大難にあうことによって過去の謗法の重罪を消滅するという転重軽受の法理については、文永8年(1271)10月に「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり」(1000-03)と述べられている。
 大聖人を迫害する幕府の為政者がいるからこそ、過去の謗法の重罪を滅することができると仰せられた大聖人は「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」(0916-12)、また「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509-05)との御心境であられた。
 しかし、大聖人が過去の威音王仏の像法の時に出現して正法を弘通して大難にあった不軽菩薩と同じ実践をされたとするなら、大聖人を迫害する人々は不軽菩薩を軽毀した四衆と同じ行為となるのである。人は違っても因が同一なら果も同じになるはずで、不軽菩薩と同じ実践をされた大聖人が不軽菩薩と同じに仏にならないはずはなく、大聖人を迫害した人々が無間地獄に堕ちて大苦悩を受けることも必定である。それも、不軽菩薩を迫害した人々は、初めこそ誹謗したが、後には信伏随従しているのに、それでもなおその罪は少分は残って、千劫の間大苦悩をうけているのであり、それにひきかえて当時の人々は少しも悔いる心がないのだから、どれほど長く地獄の苦をうけるかわからないのである。
 大聖人は四恩抄で「我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く、彼の不軽菩薩を打擲せし人現身に改悔の心を起せしだにも猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず」(0939-704)と歎かれているが、末法は衆生が謗じても強いて折伏し下種して、逆縁によって救うしかないのである。

0960:17~0961:06 第九章 愚癡の門下を戒めるtop
17   これはさてをきぬ 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず
18 かへりて日蓮を教訓して 我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事 不便とも申す計りなし、
0961
01 修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ 外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く 日蓮御房は師匠に
02 ておはせども余にこはし 我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江
03 が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。
04   南無妙法蓮華経。
05       文永九年壬太申歳三月二十日              日 蓮 花 押
06   日蓮弟子檀那等御中
-----―
 これはさておく。日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのように大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分の方が賢いなどと思っている。このような僻人等が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不便としかいいようがない。
 修羅は仏は十八界を説くが、自分は十九界を説くといい、外道が仏は一究竟道、自分は九十五究竟道といったように、このような僻人等が日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも強すぎる。われわれは柔らかに法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川が河や海を軽侮し、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものである。南無妙法蓮華経。
  文永九年太歳壬申三月二十日         日 蓮  花 押
   日蓮の弟子檀那等の御中へ

僻人
 ひねくれ者。変わり者。悪人。
―――
修羅が、仏は十八界、我は十九界
 涅槃経巻三十六に、仏の姿をよそおった魔が「今当に汝が為に更に五諦・六陰・十三入・十九界を説くべし」といい、仏の説いた四諦・五陰・十二入・十八界より勝れているといって人を惑わしたとある。仏の説いた十八界とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、六境(色・声・香・味・触・法)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)を合わせていう。
―――
仏は一究竟道、我は九十五究竟道
 大智度論巻第十八の「仏に問うて言く『一の究竟道とや為ん。衆多の究竟道とや為ん』と。仏の言わく『一の究竟道にして衆多無し』と。梵志の言く『仏は一道と説くも、諸の外道の師は各各に究竟道有り……』」の趣旨をとられていると思われる。九十五究竟道とされているのは、釈尊在世に外道が九十五派あったからと思われる。
―――
究竟道
 極め尽した道のこと。
―――
烏鵲
 鳥の名。「うじゃく」とも読み、「鵲」とも書く。カラスよりやや小。羽先と腹面とが白色である以外は、黒色で光沢がある。
―――
鸞鳳
 鸞鳥と鳳凰のこと。ともに古代中国で、聖人が治世を行う時、その瑞相としてあらわれるとされた想像上の動物。鸞鳥は鳳凰の一種で、形は鶏に似て、羽毛は赤色の中に青黄白黒を交えた五色で、声は五音であるという。鳳凰の形は、前は麟、後ろは鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷は燕、嘴は鶏に似て、高さは1・5~1・8㍍という。羽には五色の紋があり、梧桐に宿り、竹の実を食べ、醴泉を飲むという。
―――――――――
 本章は、大聖人が佐渡に流罪されたことから、疑いを起こして信仰を捨てただけでなく、大聖人を賢しげに批判する門下に対し、念仏者よりも長い間無間地獄に堕ちることをあわれまれ、仏法を知らず、身のほどを知らないものであると笑われている。
 大難に心臆した門下を、大聖人は開目抄では「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234-08)と叱咤され、如説修行抄でも「我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」(0501-067)と厳しく指導されている。
 しかし、難を恐れて信心を失い、名聞名利に走った愚かな者達は、大聖人がこのように難にあうのは弘教の方法が誤っているからであると批判し、自己の退転の正当性を主張して、他の門下まで誘い堕としたのである。そのため大聖人は厳しくその浅見を打ち破られ、他の門下へのいましめとされたのであろう。

0961:07~0961:11 第十章 本抄の閲読を勧めるtop
07   佐渡の国は紙候はぬ上 面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし 此文を心ざしあらん人人は寄合て
08   御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、 世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死す
09   る人人実不実は置く幾か悲しかるらん、 いざはの入道さかべの入道いかになりぬらん かはのべ山城得行寺
10   殿等の事いかにと書付て給べし、 外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息も
11   かかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。
-----―
 佐渡の国には紙がないうえに、一人一人に手紙を送るのは煩わしくもあり、また一人でももれれば恨みに思うことだろう。
この手紙を志のある人々は寄り合って読み、よく理解して心を慰めなさい。世間で、大きな嘆きが起きると、小さな嘆きはものの数ではなくなる。京都・鎌倉での戦いで死んだ人々は、謀反の実不実はしばらく置くとして、どれほどか悲しいことであろう。伊沢の入道、酒部の入道はどうなっただろうか。河辺山城得行寺殿等のことはどうなったのか知らせてもらいたい。外典書の貞観政要やすべての外典の物語、八宗の相伝等がなければ、手紙も書けないので、忘れないで送ってもらいたい。

料簡
 思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
いざはの入道・さかべの入道……かはのべ山城得行寺殿
 生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の門下。いずれも大聖人の竜の口法難の時、土牢に幽閉され、五人土籠御書をいただいたと伝えられる。なお牢に入れられた五人については諸説があり、僧には日朗、日心等、俗には山城入道、坂部入道、伊沢入道、得行寺入道等が挙げられるが、明確ではない。
―――
貞観政要
 十巻。中国・唐の歴史家呉兢の撰。唐の太宗が貞観年間に群臣と交した政治上の問答、ならびに名臣達の事績を分類編纂したもの。後世まで治世の書として広く読まれた。日本にも早くから伝わった。
―――
八宗の相伝
 俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言の相伝書。
―――
消息
 手紙文のこと。
―――――――――
 本章は、追伸の御文で、佐渡は紙がないうえ、一人一人に書状も出せないため、本抄を心ある人々は集まり寄って拝読し、信心を励ますよう勧められ、あわせて門下の消息を重ねて案じられるとともに、必要な書籍を送るよう依頼されている。
 佐渡で紙が入手しにくかったことは、翌文永10年(1273)4月に著された観心本尊抄が、和紙17枚の表裏両面に認められていることからもうかがうことができる。
 紙も乏しく、御自身も大変な困苦の中で、令法久住のため、また門下の指導激励のために、ひたすら筆をとり続けられた御本仏の大慈悲に、深い感動を覚えずにはいられない。
 本章は、追伸の御文で、佐渡は紙がないうえ、一人一人に書状も出せないので、本抄を心ある人々は集まり寄って拝読し、信心を励ますよう勧められ、あわせて門下の消息を重ねて案じられるとともに、必要な書籍を送るよう依頼されている。
 佐渡で、紙が入手しにくかったことは、翌文永10年(1273)4月に著された観心本尊抄が、和紙17枚の表裏両面に認められていることからもうかがうことができる。
 紙も乏しく、御自身も大変な苦難の中で、令法久住のため、また門下の指導激励のために、ひたすら筆をとり続けられた御本仏の大慈悲に、深い感動を覚えずにはいられない。

0957~0961    佐渡御書(富木殿等御返事)(2009:01.02.03大白蓮華より 先生の講義top

「師子王の心」で、弟子よ勝て
「御書」は「勝利の源泉」

 御書は「勝利の教典」です。私たちが人生に勝利し、社会で勝利し、宿命で勝利し、魔性に勝利する。その一切の原動力が御書です。
 日蓮大聖人の仏法は、最高に「人間」を強く賢くし、「心」を豊かに鍛え上げる「生命の変革の哲理」です。御書の一文字一文字は、人間の根源の力を引き出すための仏の金文字です。御書の一編一編に「わが弟子を、民衆の一人一人を、何としても、かたせずにおくものか!」との御本仏の御自愛の叫びが轟わたっています。
 御書は、民衆が永遠に勝ち栄えゆくための「勝利の源泉」なのです。ゆえに、学会は「御書根本」で進む限り、万代にわたって発展し続けることは断じて間違いない。
 2009年「青年・勝利の年」が開幕しました。私も、ますます健康です。「青年」のため「勝利」のために、「御書根本」の世界広宣流布の指揮を一層、力強く執っていきます。仏法の真髄である「師弟の魂」を、未来のために語り、綴り残していきます。どうか皆さんも、この一年、一緒に、創価学会の「永遠の聖典」である御書を拝し、勝利また勝利の偉大な民衆のスクラムを、さらに築き広げていこうではありませんか!
「佐渡御書」は学会精神の根本
 さて、この「勝利の教典『御書』に学ぶ」では、草創以来、三代の精神の柱となった御書を深く拝していきたい。最初に拝読するのは「佐渡御書」です。
 「佐渡御書」は、いわば「創価学会の御書」と申し上げても、過言ではありません。大聖人が、燃え上がる正義の炎で綴られ遺され、弟子たちの心に打ち込まれた御書を、学会の三代の師弟は不惜身命の信心で、色読してきたからです。牧口常三郎先生は、本抄の最後の「烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」の一節を折々に拝して、増上慢の弟子を戒められました。そして折伏行に邁進しゆく学会の大使命を宣揚していかれたのです。
 戸田城聖先生も繰り返し、この「佐渡御書」を私たちの生命に刻みこむように講義されました。昭和31年(1956)、あの、「大阪の戦い」の折には、大阪・中之島の中央公会堂で関西の学会員へ、弟子の勝利のために講義してくださった。私の若き日にとっても、本抄は信仰の源となった御書です。胸を患い、戸田先生の事業は蹉跌、まさに絶体絶命の窮地にあって本抄を繰り返し拝読しては勇気を奮い起して戦い、一日一日を乗り越え、また勝ち越えて進みました。だからこそ、私は、この「佐渡御書」を全身全霊で講義してまいりました。仙台で、川越で、葛飾で、行く先々で。
 戸田先生が逝去された翌年、御師の謦咳懐かしき東京・豊島の公会堂で一般講義をさせていただいたのも「佐渡御書」でした。「弟子たちよ、総決起せよ!」との恩師の叫びを、私は不二の分身となって、同志の胸中深くに訴えていったのです。また、未来を担う鳳雛たる高等部に対しても、大人に接するのと同じ姿勢で「佐渡御書」全編を全魂で講義しました。この時の鳳雛たちも、今や、立派な世界広宣流布の指導者と育っています。
01   此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき 人人の御中
02 へなり
-----―
 この手紙は富木殿の方、四条金吾殿、大蔵塔の辻十郎入道殿等、桟敷の尼御前など一人一人に見てもらいたいものである。

全門下に「師子の魂」を伝える
 ここは御消息の本文とは別に、とり急ぎ伝えたい事柄を書き込まれた一節ですが、日蓮大聖人が、門下一人一人に語りかけるよう認められたお心が拝されます。
 本抄は、大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272)3月、「日蓮弟子檀那御中」と宛名があるように、全門下に送られた御消息です。本抄の末尾には「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」とも記されております。当時、鎌倉の門下たちにも弾圧の嵐が吹き荒れていました。その渦中で、心ある門下が、よく連携を取り合い、大聖人の御指導を根本に、一人ももれなく団結し、困難を乗り越えていくよう強調されているのです。
 戸田先生は、論文「佐渡御書を拝して」に、こう記されました。
 「この御抄を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人御自身の御命もあやうく、かつは御生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく慈しむ愛情が、ひしひしとあらわれてくることです。春の海に毅然たる大岩が海中にそびえ立ち、その巌のもとに、陽光をおびた小波があまえている風景にも似ている感がある」
 命に及ぶ流罪のなか流人の身であられながら、門下に慈愛を注がれる、あまりに偉大な大聖人の御境涯、それを戸田先生は「春の海にそびえ立つ巌」に譬えられています。
 先生ご自身が戦時中の弾圧を越えて、岩窟王の如く戦い抜かれました。その恩師なればこそ、大聖人の雄大な御境涯、大慈悲のお振る舞いを拝して、何ものにも揺るがぬ“毅然たる巌”として表現されたものでありましょう。
 大難によってこそ、人間の境涯は限りなく開かれる。その極理を教えてくださるのが仏法の師匠です。師匠とは何とありがたい存在でしょうか。この恩師に報いてこそ「弟子の道」です。本抄はまさしく「師弟不二」という信仰の奥義が凝縮した「誓願の一書」であると拝したい。
02      京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、 外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等 これへの人人もち
03 てわたらせ給へ。
-----―
 京都や鎌倉の合戦で死んだ人々の名を書きつけて送ってほしい。また外典抄、法華文句の二の巻、法華玄義の巻四の本末、勘文や宣旨なども、佐渡に来る者に持たせて送ってもらいたい。

悠場迫らぬ御本仏の大境涯
 京や鎌倉の戦で亡くなった人の名前を書いて送ってほしいとの仰せは、追善の題目を唱えてくださるためでありましょう。三世にわたる幸福を祈られる大聖人の大慈悲が拝される一節です。さらに、佐渡を訪れる人に「外典抄」や『法華文句』などの文献を持たせるよう依頼されています。
 最果ての流刑の地で、大聖人はますます大情熱を注がれ、末法の民衆救済のための重要な御思索と御執筆を重ねておられたのです。
 書物を依頼されるこの一節にも、悠場迫らぬ御本仏の、ふだんと変わらぬありのままのお姿を浮き彫りになります。こうした短い仰せからも、門下は大きな勇気を贈っていただいたのではないでしょうか。
04   世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし 牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を
05 惜む何に況や壮人をや、
-----―
 世間で、人の最も恐れる者は、火炎につつまれることと、刀剣の影におびやかされることと、そして我が身が死ぬことである。牛馬ですら命を惜しむ。まして人間が惜しまないわけがない。不治の病であるハンセン病に罹った人でさえ命を惜しむ。まして健康な人が命を惜しむのは当然である。

「生死」こそ人間の根本課題
 「世間に人の恐るる者は」「佐渡御書」の冒頭には、万人の胸に迫る語りかけが綴られております。
 死を恐れ、命を惜しむのが、生あるものの常です。
 「火炎の中」事故や災害です。
 「刀剣の影」暴力や戦乱です。
 そして、いかなる人にとっても、「此身の死する」ことほど恐ろしいことではない。
 動物にとっても人間にとっても同じです。しかし、ただ死を恐れて、命を惜しんでいるだけであれば、本当の深い人生は分かりません。人間、何のために生き、何のために死んでいくのか。自身の「生死」を真剣に見つめていくことは深い生き方を可能にします。
 大聖人は本抄を「生死」という人生の根本問題から説き起こされた。それによって、大難に苦しむ門下に、人間の根源の課題を解決するために仏法がある。ゆえに、どんなに大難の嵐が吹き荒れても、根本となる「信心」は絶対に見失ってはならないと御指導されているのです。
05             仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て 仏経に供養せんに
06 は如かず」取意、 雪山童子の身をなげし 楽法梵志が身の皮をはぎし 身命に過たる惜き者のなければ是を布施と
07 して仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・ 他の宝を仏法に惜べしや、 又財宝を仏法におしまん物まさる身命を
08 捨べきや、
-----―
 仏は法華経に「三千大千世界に満ちるほどの七宝をもって供養するよりも、手の小指を仏教に供養するほうがはるかに功徳は大きい」と説かれている。昔、雪山童子は木の上から身を投げて教えを求め、楽法梵志は紙がないために身の皮をはいで教えを書写しようとした。身命にまさるほどの惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏となるのである。身命を捨てる人が、他の宝を仏法に惜しむようなことがあるのだろうか。また財宝を仏法のために惜しむ者が、財宝にまさる身命を仏法に捨てることがあるだろうか。

かけがえのない「生」を何に使うか
 では、このかけがえのない身命を何に使うのか、本抄では、仏法のために捧げてこそ、仏になることができると教えられています。
 大聖人は、まず法華経の薬王品を挙げられて、身命を仏法に捧げることの甚深の意義を示されています。そして、釈尊が過去世において修行していた時の姿である雪山童子や楽法梵志を挙げ、不惜身命こそが仏道修行を成就させる要諦であることを明かされています。
 また大聖人は、不惜身命の覚悟がある者が他の宝を惜しむはずがないと仰せです。これは、所領没収等の難に怖じ恐れている門下たちに対して、“今こそ、この身を代えて仏に成れる最大のチャンスではないか”“成仏が目前にあるのだから、何も恐れる必要はないではないか”と、あえて厳愛の指導をされているのです。
 そのうえで、ここには現代人にとっても学ぶべき大切な精神性が込められています。
 その一つは、身命をただ惜しんでいるだけでは、真実の幸福は得られないということです。「何のため」という根本の目的を定め、労苦を惜しまぬ覚悟で正しい「人生の道」を求めてこそ、深い喜びや充実感が得られる。低い欲望に流されて、大事な時に身を惜しんでしまえば、生命が委縮し、後悔と不幸に向かってしまうのです。
 もう一つは、仏道修行によって得られる境地は、今世の仏の有限性を超えた永遠性のものであるということです。仏法のために尊い生涯を捧げるならば、生々世々、功徳と幸福に包まれた人生を歩んでいけることは絶対に間違いありません。
 「三世の生命観」「永遠の幸福観」に目覚めることこそが、人生と社会のさまざまな問題を打開するための根本的な転換点となるのです。正しき生死観を持てば、人類の境涯も高まります。生死観の浅深を見極めていくことが、21世紀の文明を開く哲学の急所であるといってよい。その先覚の道を歩んでいるのが、わが同志の皆さまなのです。どうか、このことを確信し、誇りに満ちて進んでいただきたい。
08       世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし 又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数
09 多し 男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、 魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に
10 穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ 鳥は木にすむ木のひきき事をおじて 木の上枝にすむしかれど
11 もゑにばかされて網にかかる、 人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども 大事の仏法なんどには捨る事
0957
01 難し故に仏になる人もなかるべし。
-----―
 世間の法にも、重恩に対しては命を捨てて報いるのである。また主君のために命を捨てる人も少ないようではあるが、その数は多い。男子は恥に命を捨て、女人は男のために命を捨てる。魚は命を惜しむために池にすむが、池が浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って住むのである。しかし、釣人の餌にだまされて釣をのんでしまう。鳥は木に住む。木が低いといって木の上枝にすむが、餌にだまされて網にかかってしまうのである。
 人間も同じようなものである。世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事の仏法のために命を捨てる事は難しい。そのため仏に成る人もいないのである。

最極の生命を仏法のために使う
 本抄の冒頭には、思いがけない事故や事件、あるいは戦乱などに巻き込まれて命を落とすことを通して、あらためて、誰もが自分の身命を大切にしていることが説かれます。しかし、その一方で、世間の倫理観・価値観に従って、あえて自らの命をすてることも少なくないと指摘されています。
 それとともに、命を大切にしているつもりで、結果として愚かにも捨ててしまう場合も多い。ここで示されている魚と鳥の習性は、大聖人が読まれた『貞観政要』などにも説かれる先人の洞察です。「餌にばかされて」とは、せっかく自分のために、あれこれ用心していながら、自分の欲望に突き動かされたり、狭い料簡から判断を誤ったりして、結局、身を滅ぼしてしまうことを譬えています。現代も、こうした「人間の愚かさ」は全く変わらないと言わざるを得ません。
 だからこそ、大聖人は、「世間の浅き事」のために命を捨てるのではなく、「大事の仏法」のためにこそ一番大事な「身命」をささげるべきであると教えられているのです。
 「不惜身命」といっても、真実の仏法は、いたずらに命を捨てる「殉教宗義」などでは断じてありません。牧口先生、戸田先生、そして私は、「尊い学会員から一人の殉教者も出さずに広宣流布を進めていこう。そのために自分の義が犠牲になることは本望だ」との覚悟で行動してきました。これからも、これが創価学会の代々の会長の精神であらねばならない。
 皆さんは、尊い命を絶対に無駄にしてはいけない。青少年の皆さんも、どんなに辛いことや苦しいことがあったとしても、それに負けて自分や他人の命を粗末にするようなことが絶対にあってはならない。皆さまの命は、何よりも尊極な、不思議なる仏の生命だからです。
 それでは、それほど大切な命を「大事の仏法」に捧げるとは、具体的に、どういう実践をしていけばよいのでしょうか。
 大聖人は、末法の凡夫成仏の在り方を次のように教えてくださっています。
 「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(1596-16)
 ここに究極の不惜身命論があります。末代の凡夫は、雪山童子のように身を投げることがなくとも、「志ざし」によって「不惜身命」の実践をするのと同じ功徳を得ることができると、力強く御断言されているのです。
 「心こそ大切」です。仏法のあめに、正義のために「一念に億劫の辛労を尽くす」ことです。私たちにとって「不惜身命」とは、恐れなく南無妙法蓮華経と唱え抜くことであり、世界のため、未来のため、人々のために、懸命に信心の実証を示しきっていくことに尽きるのです。
 牧口先生は、この生き方を「不自惜身命の大善『ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり』生活法」と呼ばれました。
 大善生活とは、独善や臆病を乗り越え、自他共の幸福を尽くすことです。そして、これは「一度意識的に実証され、誰にでもできることが解つて見ると、最早誰でも仕たくてたまらぬ、仕なければならぬ平凡の生活法である、人並みの人間道である」。
 ゆえに、「創価教育学会は直ちに大善生活の生きた実証」であると牧口先生は主張されました。
 すなわち「不惜身命」は、“誰でもできる”平凡に見える日常生活のなかにこそあるのです。
 要するに、私たちが日々、広宣流布のために心身を使って、大勢の人を励まし、心を尽くして仏法の素晴らしさを語っていく行動のなかにこそ、「不惜身命」の実践があるのです
02   仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如し                      ・
-----―
 仏法を弘通するための摂受と折伏は時によるべきである。たとえば世間の文武の二道のよう
なものである。

「末法の時は折伏以外にない」
 ここから、末法という「時」に適った仏法の実践について明かされます。
 「摂受」は、人々の機根に合わせて法を説いていく姿です。
 「折伏」は、極理の南無妙法蓮華経を説ききっていく姿です。
 「時によるべし」の「時」とは、時代と衆生が何を求めるかを深く洞察することによってのみ把握できるものです。教典では、その「時」を「正法・像法・末法」の三つに大別しました。大聖人が「仏眼をもつて時機をかんがへよ」(0258-01)と仰せのごとく、今はいかなる時かは仏の智慧によって洞察していく以外にありません。
 戸田先生は語られました。
 「この時という字を誤って読んではいけない。『摂受・折伏時によるべし』というのだから、今は世間がうるさいから摂受でやろう、みんななにもいわないから折伏をやろうというように、自分で考えて時をつくるのだと思っている」「これは間違いです」「末法の時は折伏以外にないのです」
 いついかなる実践にあっても、どこまでも「折伏精神」を忘れずに行動する。これが、折伏の師匠に連なる、真正の弟子の道です。
02                              されば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩
03 タ王子は身を布施とせば法を教へん 菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、 肉をほしがらざる時身を捨つ可き
04 や紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、 破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸
05 戒を堅く持べし儒教・ 道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽
06 うすべし、 釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等
07 の如く大小・ 権実・顕密を強盛に分別すべし、
-----―
 それゆえに、昔の聖人は時に応じて教えを行じた。雪山童子や薩埵王子は「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の修行である」と言われたので、身命を捨てている。肉を求めるもののない時に身を捨てるべきであろうか。紙のない世には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである。
 破戒の者や無戒の者を毀り、戒を持ち、正法を修行する者を用いる世であるなら、諸戒を堅く持つべきである。儒教や道教によって仏教を抑えようとする時には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等のように身を捨てても国王を諌めなくてはならない。あるいは仏教のなかで、小乗・大乗・権経・実経が入り雑り、ちょうど明珠と瓦礫と牛驢の二乳の見分けがつかないような時には、天台大師・伝教大師等のように、大乗と小乗、権経と実経・顕教と密教の勝劣を強く述べるべきである。

「折伏の旗を断じて降ろすな!」
 過去の大聖や菩薩たちは、皆、「時」に適った修行をして仏になることができました。仏法では、「時」に適った実践を最も重視します。
 仏教そのものが誕生する以前は、先達者たちは命を賭して「法」を求め抜きました。また、正法が広く人々に受け入れられている時は、仏法者は、人々がさらに正しく正法を持つように模範の姿を示さなければならない。反対に、仏教を否定し弾圧しようとする王がいる時は、身命を失う覚悟で王を諌めるべきである。そして、仏教のなかで、諸教が入り交じって人々が混乱している時は、教えの勝劣を明快に立て分けることが急務です。今がいかなる時か。「時」に適った実践をすることによって、はじめて仏法は正しく伝えられます。
 ここで大聖人が「昔の大聖」と仰せのように、「時」を正しく知り、必要な行動をすべき時に行う人こそ、仏法における「聖人」であり「智者」です。こうした仏法の先達者や指導者の底流に脈打っていたのは、仏の正しい教えを何よりも大切に思い、命をかけて民衆に伝えようとする、「仏法護持の心」にほかなりません。「大聖」たちは、不惜身命に徹したからこそ、今、自分は何をすべきかを明確に知ることができたのです。
 「時」を知り、「時」に適った弘教をすることが、仏法の指導者の根本条件です。
 創価学会は、初代牧口会先生、二代戸田先生が常に「時」に適った指揮を執ったからかそ大発展してきたのです。私も、胸中で戸田先生と対話しながら、絶えず「時」に適った広宣流布の道を祈り開いてきました。だからこそ勝利してきたのです。
 昭和55年(1980)の春、5度目の中国訪問を終えた私は、上海から九州に直行しました。前年に会長辞任を余儀なくされた私にとって、初の地方指導となりました。長崎から福岡に入った私は、深い決意を秘めていた九州の愛弟子に語った。
 「折伏の旗を降ろしてはならない。信心の炎を消してはならない。
 宗門問題で苦しみ抜かれた九州の地から、日蓮仏法の「不惜身命」の旗を断固、掲げ続けよと“反転攻勢の烽火”をあげたのです。今、この「時」を外して、学会の未来永遠の勝利は築けない。その思いで九州の同志は、私と共に立ち上がりました。時に適った師弟の実践があれば、必ず勝利する。九州は、その歴史を厳然と築いてくださった。
 今度は、この重大な創価の師弟の魂魄を、後継の青年部の皆さんが永遠に受け継いでいく時を迎えているのです。
07                        畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し
08 智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる 諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、
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 畜生の心は弱い者を威し強い者を恐れる。今の世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者が弱い立場であることを侮り、邪な正法を恐れる。諛臣というのはこういう者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある士と知ることができる。

正義を嫉み弾圧する「畜生の心」
 正義を嫉み、弾圧する末法の社会的様相を明かされた個所です。
 竜の口法難・佐渡流罪は、幕府権力と、極楽寺良観らが結託して、大聖人とその一門を殲滅せんとした宗教弾圧でした。
 「畜生の心」とは、極楽寺良観ら諸宗の僧らの本質を指しています。かれらは「智者」を侮蔑し。「王法の邪」を恐れていたのです。これが、大聖人一門の大弾圧を生んだ、当時の日本社会の精神土壌でした。
 しかし大聖人は、「強敵を伏して始て力士をしる」強い敵を倒してこそ、真に力のある力士である。と。この大難を厳然と受けて立たれたのです。
09                                            悪王の正法を破るに
09 邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は 師子王の如くなる心をもてる者 必ず仏になるべし 例せば日蓮が如
10 し、 これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし
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 悪王の正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。こういうのは傲った気持ちからではなく、正法を滅することを惜しむ心が強いからである。

悪王・邪悪の僧を破る正義の師子吼
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」これは、政治的権力と宗教的権威の野合です。正義を抑え込もうとする“弾圧の構図”は、いつの世にも変わらない。
 轟然たる迫害の嵐。この「時」に、大聖人は一歩も退かれずに「師子王の心」で挑まれたのです。
 「畜生の心」を悠然と見下ろし、打ち破るのが「師子王の心」です。仏法でいう「師子王」とは、仏の異名にほかならない。この心で立ち上がる人こそが、必ず仏になる。
 「例せば日蓮が如し」私を見よ!これは決して傲って言うのではない。「正法を惜しむ心」が強盛だから言うのである。
 この正義の大確信を、よくよく拝すべきです。わが命よりも「正法を惜しむ心」が強盛だからこそ、誰にも怖じることなく、堂々と正義を主張する勇気が持てるのです。
 ここに信心の極意があると言ってよい。
 恩師・戸田先生と出会って以来60年余、私は一歩も退かず創価の正義を叫び、世界に広げてきました。その力が出せたのも「我が命よりも尊い広宣流布の師匠のため」という一念に徹したからです。創価学会という仏意仏勅の団体を断じて護り、師匠の大願の通りに世界に発展させるのだという魂で立ち上がったのです。
 先ほど「不惜身命」の精神と、この「師子王の心」とは、表裏一体です。すなわち、「法」を惜しむゆえに「法華経の敵」に対して「師子王」の如く戦うことは、全く同じです。一人一人が「不惜身命」たる師弟不二の「師子王」たれ!ここが本抄前半の要です。大聖人はこの一点を門下に強く教えておられると拝してまいりたい。
 「例せば日蓮が如し」師が一切の魔性を打ち破ったように、弟子も「師子王の心」を取りいだして魔を破れ!師と同じ心で戦うのだ!師とともに!師と同じ覚悟で立て!
 大聖人は「不二の弟子」が立ち上がることを待ち望まれ、弟子の心の深奥に呼びかけられたのです。
 戦時中、この御本仏の「師子王の心」を受け継いだのは牧口先生、戸田先生だけでした。宗門は卑劣にも逃げました。不惜身命の師子王の血脈は、創価学会だけが受け継いだのです。大聖人の「師子王の心」を、寸分も違うことなく受け継ぎ、世界広宣流布の道をひらいてきたのが、わが学会です!ゆえに皆様方の功徳は絶大です。この大いなる確信に燃えて、いよいよ創価の師弟の正義を語りに語り抜いていっていただきたいのです。
10                            おごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり
11 例せば修羅のおごり帝釈にせめられて  無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、
-----―
 傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が生まれてくるものである。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。

「正法を惜しむ心」に無限の勇気が
 大聖人が叫ばれる「正義」は、傲りなどでは断じてありません「おごれる者は必ず強敵に値ておそれる心出来するなり」単なる虚栄や傲慢の者は、いざ強敵にあうと怖じ気づいてしまう。本当にその通りです。
 「傲れる者」の正体は「エゴ」です。自分中心だから、強敵に対して自分の身を案じる。それゆえに「恐れる心」が出てくる。
 これに対して「師子王の如くなる者」は、どこまでも「法根本」に生きる。不惜身命だから、法を破る者に対して厳然と立ち向かっていく勇気が、ますますわいてくるのです。
11                                        正法は一字・一句なれども時
12 機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
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 正法は一字一句であっても、時と機根に叶うならば必ず成仏することができる。たとえ千経・万論を習学しても時と機根に相違するならば成仏することはできない。

「時機」に適った実践が仏法への道
 折伏は「師子王の心」で悪を責め、正義を語り抜くことです。その「師子王の心」があれば、一字・一句を語るだけでも、必ず成仏の功徳があると断言されています。この根本の魂、すなわち「正法を惜しむ折伏精神」がなければ、たとえ千経・万論を学んでも成仏はできません。
 英国の作家チェスタントが書いている。
 「自分以外の何物か」私たちでいえば、「妙法」であり、「師匠」です。「同志」であり、「民衆」です。「創価学会」であり、「広宣流布」です。「自分一個の生命など忘れ去ってしまう」とは、「不惜身命」であり、「身軽法重」の精神に通じる箴言でしょう。
 戸田先生は、法華経の「不自惜身命」の経文を講義され、指導されました。
 「不自惜身命の心がなかったならば、題目は唱えられません」「皆さんも、折伏に行って賞められた覚えがないでしょう。ですから、自ら身命を惜しまずの心がなかったならば、広宣流布はできません。人に悪口をいわれたり、なぐられたくらいで、へこんでしまうくらいなら、最初からやらないほうがいいのであります」
 これが折伏の大師匠・戸田先生の大精神です。草創以来、学会の同志はこの通りの勇敢にして健気なる実践を貫いてきました。
 この師弟の魂を胸に刻んで、「法のため」「社会のため」「友のため」と、日夜、まじめに戦う同志の皆様にこそ、仏法史に永遠に輝く「不自身命」即「師子王の心」の闘士であると私は讃嘆したいのです。
 師弟の魂を受け継ぐ限り、学会は永遠に勝ち栄えていく。このことを、わが門下、なかんずく直系の弟子である青年部の諸君に、私は強く語っておきたい。
 「師子王の心」の師に続け!
 「師子王の心」で、弟子よ勝て!
 これこそが「佐渡御書」を身読する、創価の師弟の常勝の叫びなのです。
-----―
「大難即宿命転換」の成仏の直道を!
 私たちは、何のために生まれてきたのか。
 それは幸福になるためです。そして、多くの人々を幸福にするためです。
 そのために大事なことは「自分に勝利する」ことです。無明に勝ち、宿命に勝ち、障魔に勝ち、三類の強敵に勝ちゆくための信仰です。すべてに勝利する「智慧」と「力」が、誰人にも厳然と具わっていることを教えたのが仏法です。仏法は勝利の哲学の法です。この希望の哲学を学び、連戦連勝の一切の根源にしていくのが「仏法勝利の教学」です。
 かつて戸田先生は、宿命に立ち向かうある女子部員を励ましてくださいました。その人は、幼くして父を亡くし、生きる支えであった母も亡くした。経済苦の中で病と闘っていた。指導を求める乙女に、戸田先生は慈顔で語られました。
 「その問題についてどこまで悩んでいるかね。この信心は悩む信心なんだ。悩んで解決しゆく信心なのだよ」
 仏法の急所を突いた御指導です。私も戸田先生からこう語られたことがあります。
 「大ちゃん、人生は悩まねばならぬ。悩んではじめて、信心もわかる。偉大な人になるのだ」
 あの昭和31年(1965)の歴史的な「大阪の戦い」に臨む直前でした。
 「悩む」とは、本気で生老病死の宿命と格闘することです。翻弄され、嘆き泣いていては、宿命を破ることなどできません。宿命は、勝って乗り越えるために存在しているのです。仏法の眼から見れば、宿命は、妙法の偉大さを証明するための方便です。
 師の激励を受けた女子部員は、自己を卑下する悲哀から脱し切ることができました。迷いは、自らの使命の自覚を見失った時に生じることを知りました。
 やがて、その女性は、女子部のリーダーとして、そして、婦人部のリーダーとして活躍し、人生の最後の瞬間まで「師弟の道」「報恩の道」を歩み抜きました。その尊き勝利の姿は、今も幾多の同志の心に、希望を贈り続けています。
 日蓮大聖人は、佐渡流罪という大難の中で、弟子の一人一人に、この「絶対勝利」の信心を教えられました。「佐渡御書」の冒頭で「不惜身命の信心」と「師子王の心」を記されているのも、弟子の勝利のためです。はかりしれない「不惜の喜悦」を説き明かしてくださっているのです。
 今回の範囲で、大聖人は、悪王と邪法の僧を打ち破る御自身の師子王の行動を示されております。とともに、宿命転換を実現する信心の要諦を、大聖人自身が「手本」となって弟子に打ち込んでくださっていると拝されます。
 “後悔なき師弟の正道を歩め!”“不二の大道を飾りゆけ!”“弟子よ!ただ勝ちまくれ!”これが今回の主題です。
13   宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必
14 ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、 大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、 薬
15 師経に云く「自界叛逆難」と是なり、 仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、 金光明経に云く「三十
16 三天各瞋恨を生ずるは 其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、
-----―
 宝治の合戦からすでに二十六年がたった。今年の二月十一日・十七日のまた合戦があった。たとえば、外道や悪人によって、如来の正法が破られることはないが、かえって仏弟子によって仏法は破壊されるのである。師子の身中に寄生した虫が師子を食むとはこれである。大果報の人は、他の敵にはやぶられないが、かえって親しい者に破られる。薬師経に「自界叛逆難」とあるのがこれである。仁王経には「聖人が国を去る時のは七難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「三十三天がそれぞれ瞋りをなすのは、その国王が悪事をほしいままにし、その悪事を改めないことによる」と説かれている。

「立正安国論」の予言的中
 宝治の合戦とは、宝治元年(1247)執権・北条時頼が、幕府内の要職にあった三浦氏の一族を滅ぼした戦乱です。これにより北条一門は、最大のライバルを倒し、独裁権力を確立したとされています。
 しかし26年たって、今度は北条一門の内部で権力抗争が起こった。これが「二月騒動」です。ここで、日蓮大聖人は、この「二月騒動」こそ薬師に説かれた「自界叛逆難」の姿であり、「立正安国論」における予言が的中したのであると明言されています。
 内乱をはじめ三災七難が起こる根本原因は、正法が見失われたことにあります。「邪法の僧等」が出現して、教えを歪めてしまえば、仏法は内部から破壊される。大聖人は謗法の悪僧こそ、仏教破壊の「師子身中の虫」であると断じられました。
 思想の乱れによって生じた価値観の混乱によって、人々の三悪道・四悪趣が誘発され助長されます。そのため瞋りや貪り、愚かさ、嫉妬から、正法を弘める智者を迫害し、社会から追いやろうとする。それが末法です。
 悪王と邪法の僧が結託し、智者が失われてしまえば、「畜生の心」が充満した社会になってしまう。内乱が起こり、民衆が苦しむ。
 仏眼・法眼から見なければ、正法迫害の事件の核心、また、社会の動乱の根本原因は分かりません。
 仏法は勝負です。ゆえに、師子王の心で立ち上がり、勝利しなければならない。
16                                  日蓮は聖人にあらざれども 法華経を説の
17 如く受持すれば聖人の如し 又世間の作法兼て知るによて注し置くこと 是違う可らず現世に云をく言の違はざらん
18 をもて後生の疑をなすべからず、
-----―
 日蓮は聖人ではないが、法華経を説の如くに受持しているから聖人のようである。また、世の中の出来事についてもあらかじめ知ることができたので、それを記しておいたことが違うはずがない。このように現世に言っておいたことが的中したことをもって、後生のことについて言っていることも疑ってはならない。

智者は社会の現象の本質を知る
 「聖人」であるかどうかは、外見や地位で判断するものではありません。振る舞い、行動こそ基準です。
 「法華経を説の如く行ずる」如説修行の行者こそ、真実の聖人です。
 「一切の法は皆是仏法なり」です。仏法を極めた聖人は、世法も熟知します。社会の現象の本質を鋭く見通すからこそ、未来を的確に展望することができる。
 「佐渡御書」で、大聖人が予言的中の大宣言をされたことは、弾圧下で戦う門下にとって、最大の希望と励ましとなりました。
 「眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」(1045-16)と仰せのように、「眼前の証拠」があれば、広宣流布は大きく進んでいきます。
 「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」
 大聖人こそが三世を知る真の智者であることは間違いない。門下たちは、あらためてこの確信を深めたことでしょう。
 次元は異なりますが、創価の師弟も、大聖人の仰せ通りに「眼前の証拠」を大事にして、一つ一つ、社会で勝利の現証を示してきました。だからこそ、社会の信頼を勝ち開くことができたのです。
18                日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る
01 時・ 七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時 大音声を放てよばはりし事これなるべ し纔に六十日
02 乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし 実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、
-----―
 日蓮はこの関東の北条一門にとっては棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、眼目である。日蓮がこの国を捨てる時には、必ず七難が起こるであろうと去年の九月十二日に御勘気を蒙った時、大音声を放って叫んだのはこのことである。竜の口の法難からわずかに六十日から百五十日でこのような自界叛逆難がおきたのは華報なのである。実果が現れた時は、どれほど嘆かわしいことであろうか。

民衆救済の不惜の諌暁
 「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり」との仰せには、きわめて重大な意義がこめられています。
 この「御一門」とは北条氏一門を指し、幕府の中枢、ひいては日本国全体を指すとも拝されます。そして、「棟梁」は「主」の徳、「日月・亀鏡・眼目」は「師」の徳、その後述べられる「父母」は「親」の徳を表し、大聖人御自身が、主師親三徳を具備された、末法の御本仏であることを示唆されているのです。
 そして、前段で引かれた「聖人去る時七難必ず起らん」という経文に合わせて「日蓮捨て去る時・七難必ず起るべし」との御確信を述べられています。
 しかしまだ、今起きたことは前兆に過ぎない。「実果」本当の報いが現れる前に、真実に目覚めるべきであると仰せです。絶対に戦乱を起こしてはならない。民衆の安穏のために、手遅れにならぬうちに権力者よ、人々よ、目覚めよと、不惜身命の諌暁を続けられているのです。
02                                             世間の愚者の思に
03 云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す 日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり 仏阿羅漢を殺し
04 血を出す者あり 提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、
-----―
 世間の愚者は「日蓮が智者ならどうして王難にあうのか」などと言っている。日蓮は難にあうことをかねてから知っている父母を打つ子がある。阿闍世王である。阿羅漢を殺害し、仏身から血を出す者がいる。それは提婆達多である。六臣はこのことを讃め、瞿伽利等はこれを悦んだ。

広大無辺な師徳の恩
 続いて「日蓮が智者というなら、なぜ王難にあい、流罪されるのか」という世間の疑難を挙げられています。
 これは二つの批判から成り立っています。一つは、智者がどうして自身に起こる迫害を予想できないのか、もう一つは、智者ならば世間から尊敬されるはずではないか、という批判です。しかし大聖人は、一言で「愚者の思」と一蹴しておられます。
 「兼ての存知なり」迫害されることはもとより承知である。仏は必ず迫害される。これが仏法の道理です。
 法華経の行者に対する迫害は、周囲の一人一人の内面の境涯を浮き彫りにします。賢者か、愚者か、迫害を一身に受けた師に感謝し、共に歩もうと決意するのか。反対に、迫害する者に加担し、悪逆の行為を増長させるのか。
 戸田先生は、この御文を拝して語られました。
 「私も第一回の王難にあいましたけれども、運がよければもう一回あいたいものだと思っている」「そのくらいのことは覚悟しています。覚悟していなければやれません」
 大阪事件で私が無実の罪で逮捕されたときも、戸田先生は衰弱したお体で。検事正に抗議するため、自ら大阪地検に出向いてくださった。
 「学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろ」「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか!」
 あまりにも、ありがたい師匠です。この広大無辺の師恩に報じることが弟子の道です。私は、62年間、弟子の正道を貫いてきました。一点の悔いもありません。
04                                  日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢
05 の如し然を流罪し 主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり 謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかく
06 なるを一旦は悦ぶなるべし 後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、 例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討
07 て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
-----―
 日蓮は現在においては、この北条一門の父母である。仏・阿羅漢のようなものである。そのような日蓮を佐渡まで流罪し、主従ともに悦んでいるのは、あわれでかわいそうな人々である。謗法の法師等が、日蓮によって自らの禍が既にあらわれたのを嘆いていたのが、日蓮がこのように流罪になったのをみて一度は悦んでいるであろう。しかし、のちには、かれらの嘆きは日蓮の一門に劣らないものとなろう。たとえば藤原泰衡が弟の忠衡を殺し、九郎判官を殺害して一度は悦んでいたが、後に滅ぼされたようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの日本に入っているのであろう。法華経勧持品第十三には「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのがこれである。

立正安国の実践を堂々と!
「日蓮は、当世にはこの北条御一門の父母である」なんと堂々たる御宣言でしょうか。権威など微塵も恐れない。むしろ、御自身を流罪・死罪にした北条氏一門の父母にあたる存在であると、厳然と仰せです。これが、御本仏の偉大な御境涯です。
 その大聖人を迫害し、「主従共に悦」んでいた者たちが、その後、いかなることになったか。後には彼らが嘆きとあらわれてしまうのです。この原理は、いつの時代も変わりません。
 創価の三代の師弟は大難と戦い抜き、そして勝ちました。この峻厳な歴史の刻印を、永久に忘れないでいただきたい。
 さらに大聖人は、「一門を亡す大鬼」がこの国に入っていると断言されています。正義の人が迫害される姿を見て人々が喜んでいるさまは、まさに「悪鬼入其身」の社会です。物事の判断を狂わせる大鬼が一国に入り込んでいる。
 思想の混乱ほど恐ろしいものはありません。この社会を変えていくのが、私たちの立正安国の実践です。それが日蓮仏法の魂です。
08   日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず 不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に
09 罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし 何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり 心こそ
10 すこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て 畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり 其中に識神をやどす
11 濁水に月のうつれるが如し 糞嚢に金をつつめるなるべし、 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず
12 身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり 心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、 又過去
13 の謗法を案ずるに誰かしる 勝意比丘が魂にもや大天が神にもや 不軽軽毀の流類なるか 失心の余残なるか五千上
14 慢の眷属なるか 大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし
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 日蓮もまたこのような大難にあうのも過去世の悪業がないわけではないからである。法華経常不軽品第二十に「其の罪畢え已って」と説かれている。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲されたのも過去世の悪業の報いなのである。まして日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅が家に生まれている。心こそ少し法華経を信じたようであるが、身は人身にして畜生の身である。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、そのなかに精神を宿している。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身は畜生の身であるから、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然である。
 心も、身に対すれば月や金にたとえられるのであるが、その心も過去の謗法の罪をもっている。誰が知ることができるだろうか。我が心は勝意比丘の魂か。大天の神であろうか。不軽菩薩を軽毀した四衆の流類だろうか。久遠下種を忘失した者の余残か、五千人の増上慢の眷属か。あるいは大通覆講の時の第三の未発心の余流なのであろうか。宿業はかりがたい。

人類の宿命転換の大闘争
 「佐渡御書」は大聖人御自身の師子王の闘争を記されると同時に、門下にも「師子の子は、師子王たれ!」と呼びかけられる「師弟不二の一書」です。
 ここまで、大難と戦う師子王の実践を示し、迫害者の悪王と邪法の僧らは、師子吼の前に畜生の境涯を露呈することが認められてきました。ここからは、師子王の成仏への精神闘争の軌跡を明かされていきます。すなわち、成仏とは自身の宿命転換にほかならない。そして、大難と戦うことによってこそ、過去世からの宿業を打開していくことができると明かされていきます。不惜身命の闘争こそ、永遠の幸福の道なのです。
 大難は、即「宿命転換の直道」です。
 だからこそ「戦う心」を忘れては断じてならない。現実に、宿命を破ることは簡単なことではありません。ゆえに、どこまでも仏法を持ち抜く実践が不可欠になることを、大聖人御自身が教えてくださっているのです。
 そのために大聖人は、まず、自身の宿命と戦い切る覚悟を促されています。
 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず」とは、迫害の社会的背景はともあれ、大難をうけること自体、実は、御自身の過去世からの罪業のゆえであると教えられております。
 それがまた法華経に説かれる原理にほかならないことを、不軽菩薩の「其罪畢已」の法理を通して示されています。
 不軽菩薩は、万人に具わる仏性を礼拝して、皆成仏道の法華経の原理を実践しました。そのために杖木瓦石などの迫害を受けたが、実は、それはすべて不軽菩薩自身の先業の報いであった。しかし、迫害の中に、礼拝行を貫くことで、不軽は自身の罪業を消滅し、後に仏となった。これが法華経の教えです。
 私たちもまた、三障四魔、三類の強敵と戦う中で、必ず自身の罪障を消滅し、絶対的な幸福境涯、永遠の幸福を確立していくことができる。それが成仏の功徳です。
 続いて大聖人は「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ栴陀羅が家より出たり」と、御自身の出世について述べられています。
 ここでは言うまでもなく、日蓮仏法こそが、庶民の味方であり、真実の民衆仏法であることの証しとなります。信仰者にとって、出発点が「貧窮下賤」であることは最大の誉れです。ゆえに、「創価学会は永遠に民衆の側に立つ」これは絶対不変の精神です。
 御文に戻れば、大聖人は御自分の身は「畜生の身」であることを強調されています。
 「心」は、法華経への信心を貫いているがゆえに、尊く輝いている。何も恐れるものがない尊極な魂をもっている。しかし「畜生の身」と「尊極な心」とでは、あまりにも相応しているがゆえに、迫害を受けるのも一面の道理である。いな、心を凝視していけば、過去の迫害者や退転者の生命境涯に通ずる無明もある。大聖人の御洞察は続きます。
 そして、「宿業はかりがたし」宿業がどれだけ重いのか、見当がつかないほどであるとまで仰せられております。いささかも妥協されない。厳しいまでの生命の凝視です。この大聖人御自身の強靭な精神闘争があればこそ、人類普遍の宿命転換の大道が完成したのです。
 日蓮大聖人がおられればこそ、末法万年にわたる一切衆生の無間地獄への道が塞がれました。そして、この大聖人に直結する、人類の「宿命解放の先駆」の実証が、わが学会員の無数の宿命転換のドラマにほかならない。「最高の仏法」と「奇跡の民衆」が人類の宿命転換への道を実現したと、後世の歴史が証明することは絶対に間違いありません。
14                                鉄は炎打てば剣となる 賢聖は罵詈して試みる
15 なるべし、 我今度の御勘気は世間の失一分もなし 偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべ
16 し、
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 鉄は炎に入れて焼いて打つことにより剣となる。賢人・聖人は罵詈して試みるものである。日蓮がこのたび受けた御勘気に世間の罪は一分もない。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪堕すことを脱れることになるのであろう。

生命の鍛錬こそ最高の功徳
 宿命転換の仏法を実践する急所を教えられている一節です。
 わが生命の鍛錬こそが、最高の功徳です。鍛え抜かれた生命が、永遠の幸福を約束するのです。「世間の失一分もなし」社会的罪など、全くない。ただただ、流罪は今世における宿命転換のためにあったとまで仰せです。
 わが生命を鍛え、変革しゆくための仏法です。
 私たちは皆、「自分の幸福の鍛冶屋」なのです。
 わが弟子よ、鋼となれ!剣となれ!真実の賢人・聖人として立ち上がれ!
 大聖人は、苦闘する門下の肩を揺さぶるようにはげまされているのです。
 「宿命を転換するのは自分自身だ。自分の中に、その力がある!」
 「苦難を避けるな。本当の勝利は、自分自身に勝つことだ!」
 「大いなる悩みは大いなる自分をつくる!永遠の勝利者となれる!」と。
16    般泥オン経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経
17 を誹謗すること有らん当に知るべし 此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、 此経文を見ん者自身をはづべ
18 し今我等が出家して袈裟をかけ 懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、 法然が一類大日
0959
01 が一類念仏宗禅宗と号して 法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て 権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号
02 して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は 六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、 うれへな
03 るかなや涅槃経に 仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に 罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆
04 成仏せる故なり 但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき 彼等がうみひろげて今の世の日本国の一
05 切衆生となれるなり。
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 般泥洹経には「未来の世に、かりに袈裟をつけて我が法の中で出家学道したとして懶惰懈怠であって、これらの大乗経典を誹謗するような者は、これらはみな今日の諸の外道の者であると知るべきである」と説かれている。この経文を見る者は自分自身を恥ずべきである。現在、出家して袈裟をかけながら懶惰懈怠である者は、釈尊在世の六師外道が弟子であると仏は記されている。法然の一門、大日の一門が念仏宗・禅宗と名乗って、「捨閉閣抛」の四字を加えて法華経を制止して権教である弥陀称名ばかりを勧め、あるいは「教外別伝といって、法華経は月をさす指のようなもので、ただ文字を数えるにすぎないなどと笑っているふ者は、六師外道の末流が仏教のなかに生まれてきたものであろう。
 まことに憂うべきことである。涅槃経に仏が光明を放って地下の一百三十六の地獄を照らされた時、罪人は一人もいなかったとある。それは法華経の如来寿量品でみな成仏したからである。ただし一闡提人といって謗法の者だけは、地獄の獄守に留められたのである。彼ら一闡提人が生み広げて、今の世の日本国の一切衆生となったのである。

日本は謗法が充満する国
 一転して、ここでは迫害の側、すなわち邪法の僧たちと、その毒気深入によって本心を失った日本中の人々の業報を見抜かれています。
 般泥洹経に照らせば、仏教の中にあって、懈怠であり、、法華経を誹謗する悪僧たちは、釈尊在世の仏法を批判した外道の末流であると指摘されている。
 ここで、大聖人御在世の時代に法華経に対する誹謗を重ねていた諸宗の僧らの言い分を破折されています。そこに共通するのは、根拠なく法華経を誹謗し、法華経を捨てさせようとした独善的態度です。大聖人は、その正体を六師外道の末流と喝破されています。
 この御文を拝して戸田先生は、断言されました。大聖人をいじめた悪僧が、今度は現代の諸宗に、さらには日蓮正宗の中に出現するであろう、と。
 まさにその予見通りであったことは、広布に敵対する日顕一派の悩乱を見れば明瞭です。
 そして御文は続いて、大聖人は悪口し、批判してきた日本中の人々もまた、法華経寿量品でも成仏できなかった一闡提の生命と変わらないことを指摘されています。
 いわば大聖人が戦ってきた「法華経の敵」の正体が示されているとも拝することができます。ここでいう六師外道や一闡提とは、法華不信の誹謗の生命です。
 その根っこにあるものは何か。
 それは、法華経の「万人尊敬」の精神を理解しえない無明の生命にほかならない。現代的に言えば、「生命尊厳の否定」「一人の無限の可能性の否定」です。
 自分で自分が見えていないのに、正しき法を求めようともしない。平気で正しき人を蔑む。大聖人の御洞察は、現代日本人の「宗教蔑視」「思想軽視」の傾向と重なる面があるようです。
 例えば、中村元博士は論じておられた。
 「一般の日本人は形而上学的な領域に思いを馳せる傾向が弱いために、仏教を信じても、かならずしも心の奥底から敬い畏れて尊重しているのではない。むしろ仏を馬鹿にして茶化していることがある。『知らぬが仏』とか『仏の顔も三度』とかいうように、仏ははなはだ慣れ慣れしいものといなされている」「仏教のまじめなことばが、日常生活においてはくずれた、ふざけた意味に用いられていることが非常に多い」
 生命の根本の大事である仏法の哲理について、真正面から学ぼうとしない。それどころか、軽蔑したり、揶揄しようとする。現代において、こうした不信に襲われた日本社会の精神土壌に粘り強く挑戦し、人々に境涯を高める精神闘争を続けているのが、私たちの対話運動なのです。
06   日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば 今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一
07 等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば 酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し 歎けども甲斐なし此罪
08 消がたし、 何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば 烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけ
09 るなるべし外道は知らずして自然と云い 今の人は謗法を顕して扶けんとすれば 我身に謗法なき由をあながちに陳
10 答して法華経の門を閉よと法然が書けるを とかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ 天台真言等の人人彼が方
11 人をあながちにするなり、 今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等 数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり
12 日蓮が許に来て云く 法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず 一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に
13 御往生疑なしと書付て候を 山僧等の流されたる並に寺法師等・ 善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき
14 鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
-----―
 日蓮も過去にすでに正法をそしった者であるから、今生には念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未有一人得者」「千中無一」等と批判していた。いま謗法の酔からさめてみれば、酒に酔った者が父母を打ちすえて悦び、酔がさめて後で嘆くように、後悔してもどうしようもない。この罪は消しがたいのである。
 まして、過去の謗法が心中に染まっているのは、なおさらのことである。経文を見ると烏の黒いのも鷺の白いのも、過去世の業が強く染まりついたからだとある。それを外道は知らないで自然の成りゆきであるという。今の人は、日蓮が謗法であることを教えて扶けてあげようとすると、自分は謗法はないと、声を荒立てて答えて、法然が「法華経の門を閉じよ」書いていることさえいちいち理由をつけて争うのである。
 念仏者のことはさておく。天台真言等の人々がかえって強引に念仏者の味方をしているのである。今年正月十六日・十七日、佐渡の国の念仏者等数百人のなかの印性房という念仏者の棟梁が日蓮が許に来ていうには「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない。一切衆生に念仏を称えさせたのであり、この大功徳によって往生は疑いないと書き付けられたのを、比叡山や園城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』とほめている。それなのに、なぜ念仏を破られるのか」というのであった。まったく鎌倉の念仏者よりはるかに劣っており、哀れというしかない。

「人間のための宗教」の復権
 続いて大聖人は御自身の修学時代に例を挙げながら、日本国の多くの人々が、当時の念仏の浅薄さに気づかずに迷っていることを指摘されています。
 法華経に対する敵対者とその信奉者の充満。しかし、それ以上に問題なのは、「法華経の敵」を見ておきながら放置して戦わない、“法華経の修行者”たちの存在です。
 立派な伽藍、伝統と格式、社会的な地位。そうしたものがいくらあっても、「正義のために戦う心」を失ってしまえば、堕落と衰退、権威化と空洞化が始まります。
 宗教は人間のために存在します。しかし、人々を苦悩に沈ませる宗教を放置し、民衆の救済を忘れてしまえば、それ自体が「民衆の敵」となってしまう。
 そうした民衆の敵を絶対に許してはならない。日蓮大聖人の折伏の実践とは、釈尊の真の慈悲の精神を復興し、人間の境涯を高めていく宗教の復権への闘争なのです。
 「人物が偉大であればあるほど、嘲笑の矢は当たりやすい。小人に矢は当たりにくいのである」
 あらゆる迫害と批判を見おろして、悠然と自身の「宿命転換」即「成仏の大道」を大聖人は自ら示されています。
 「日蓮と同意」「日蓮が如く」との信心で、弟子が立ち上がり勝利することが、師匠の期待です。この師弟の宝光を受け継いできたのが、わが創価学会です。
 21世紀の今日、創価学会は「日本の柱」「世界の眼目」「人類の大船」として燦然と輝きを放っています。
 牧口先生、戸田先生、そして第三代の私が不惜身命の戦いで残した日蓮仏法の「師弟の魂」を受け継いでいく限り、学会は永遠に栄えていく。この広宣の勝利の方程式を、とくに後継の青年部の皆さんは深く生命に刻んでほしいのです。。
-----―
一生涯、「師弟の大道」に生き抜け!
 「佐渡御書」を拝すると、鮮やかに蘇ってくる光景があります。
 それは、戸田先生の事業が最も苦しい状況にあった時のことです。
 先生は学会の理事長を辞任され、ひたすら事業の打開に向けて苦闘されていました。あるとき、先生が「佐渡御書」を拝読されていた。佐渡で日蓮大聖人が、悪口罵詈され、衣服も食べ物も不自由な思いをされるなど、経典に説かれる通りに、さまざまな御苦労をされている内容のところです。
 「ああ、大聖人様も、こういう状態におられた。今おれも、こういう状態だよ」「いくら儲けても、儲からないしなァ」
 そう言われながら、先生は笑っておられるのです。事業の苦境と先生の笑顔。その悠然たる振る舞いが、胸に焼き付いて離れません。
 また、ある日のこと、大蔵省に行かれた先生が、みぞれまじりの寒波に震えながら帰ってこられました。
 「世の中は、寒いなあ」と笑っておられた先生が、こう語られました。
 「大作、自分は、決して負けたのではない。事業が破れたに過ぎぬ。本当の戦いはこれからだ」と。
 経済では破れたようにみえるが、人生において、負けたのでは断じてない。おれには本物の弟子がいる!これからが本当の勝負だ!その気迫に接して私も「先生に、指一本、差させてもなるものか!」という覚悟と闘志を、さらに燃え上がらせました。
 御書には、吹きすさぶ苦難の烈風のなかから、不屈の闘志を燃え上がらせる厳たる力があります。日蓮大聖人の御精神がわが身に脈動すれば、何も恐れるものではありません。
 心して御書を拝する限り、どんな宿業にも負けることはありません。そして、師弟に徹する限り、いかなる障魔も障りとなりません。「御書と師弟」に生き抜けば、あらゆる壁をも破ることを確信していただきたい。
 今回は、全民衆の宿業転換を実現された「師子王の大境涯」を拝していきます。
15   いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けん かかる国に生れけんいかになるべし
16 とも覚えず、
-----―
 このように責められる日蓮の、過去世・現世、先々からの謗法が今さらながら恐ろしく思われる。このような日蓮の弟子となり、このような国に生まれた弟子達が、この先どのようになるかはかり知れないのである。

“わが門下よ!師子王たれ!!”
 「人生の師匠」に出会い、「師弟の道」に徹しゆくことほど、誇り高い人生はない。
 日蓮仏法は「師子王の宗教」です。
 大聖人は「佐渡御書」で弟子たちに、一生涯、「師弟の大道」に生き抜くことを教えられています。
 師匠は、師子の境涯で戦い抜いた。弟子もまた「師子王の心」で戦えば、必ず、仏になれる。“この大難の中でこそ、偉大な宿命転換ができる。成仏は間違いない。ゆえに、我が宿業転換の闘争を見よ!範とせよ!”「佐渡御書」は、どこまでも、弟子の身を案じていく「師匠の心」が全編に漲っています。
 前回、確認したように、宿業転換の法理を示すために、大聖人は、まず不軽菩薩の実践に触れられます。佐渡流罪という、命にも及ぶような大難に遭われるのは、御自身の「先業」のゆえであると明かされます。そして「宿業はかりがたし」と言われて、御自身の宿業を寸分の妥協もなく、深く見つめておられた。
 この御文では、さらに、過去世だけでなく、今世であっても、仏法を学ぶ中で、御自分が謗法を犯したとまで仰せです。しかし「謗法おそろし」とは、日本の仏教界が正法誹謗に陥っている現実を指摘されていると拝することができます。真に「恐ろしい」のは、仏教を学びながら謗法を犯してしまうという、当時の日本国の一国謗法の状況そのものにほかなりません。
 それとともに、「かかりける者の弟子と成けん」と、師弟の絆を確認されています。このことは、「師とともに戦う人生の喜び」を教えられるためであると拝されます。大聖人の弟子として迫害を受け、大難と戦える境涯がどれほど崇高で素晴らしいのか。この魂を、門下に打ち込まれたのです。
16       般泥オン経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或
17 は形状醜陋衣服足らず飲食ソ疎 財を求めて利あらず貧賎の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、 又云
18 く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは 斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、 此経文は日蓮が身
0960
01 なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、 一には或被軽易 二には或形状醜陋三には衣服不足 四には飲食ソ疎五には求
02 財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、 此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、
-----―
 般泥洹経には「善男子よ、過去にはかり知れない多くの罪やもろもの悪業を作った者は、その多くの罪報によって、あるいは人から軽しめられ、あるいは顔かたちが醜く、あるいは着物が足らず、食べ物は粗末で、財を求めても得られず貧賎の家、および邪見の家に生まれ、あるいは王難に遇う」等と説かれている。また「さらに、このほか種々の人間の苦しみを現世に軽く受けるのは、これ護法の功徳力による」等と説かれている。
 この経文は、もし日蓮がいなければ、まったく仏の妄語となってしまうのである。一には「あるいは人から軽しめられる」、二には「あるいは顔形が醜い」、三には「着物が足りない」、四には「食べ物が粗末である」、五には「財を求めても得られない」、六には「貧賎の家に生まれる」、七には「邪見の家に生まれる」、八には「あるいは王難に値う」等がそれである。この八句は、まったく日蓮一人が身に受けていることである。

「八種の大難」を身で読まれる
 前段で引用された般泥洹経では、仏の滅後悪世において正法を誹謗する僧たちは、仏在世における外道の末流であることが示されました。
 この段では、その直後の経文が引用され、そうした輩が跋扈し、正法が滅せんとする危機の時代に、「正法を護持する功徳」について述べられています。
 すなわち「転重軽受」の法理です。
 ここでは、過去の無量の罪や悪業によって受ける報いの例を八種挙げて、こうした苦報を現世に軽く受けることができるのは「護法の功徳力」によることが示されています。
 大聖人は、八種の姿すべてを、御自身が一身に受けられ、それゆえに仏説が虚妄とならずにすんだと仰せられています。
 大聖人が身にあらわされた「八種の大難」は、次のように拝することができます。
 一には戒被軽易……大聖人は正法を弘められたがゆえに、日本国中から悪口罵詈され続けた。
 二には或形状醜陋…流人として汚名を着せられていることを指されていると拝される。
 三には衣服不足……極寒の地で、寒さをしのぐ満足な衣服さえなかった。
 四には飲食麤疎……流罪地で十分な食料を得られるはずがなく、飢え死にを覚悟されたこともあった。
 五には求財不利……住居等、生きていくために必要なものに事欠く御生活であられた。
 六には生貧賤家……大聖人は「貧窮下賤」の生まれだと仰せられた。
 七には及邪見家……正法を護持する家にお生まれになったわけではなかった。
 八には或遭王難……伊豆流罪・佐渡流罪など、権力からの迫害を受けた。
 そして「此八句は只日蓮一人が身に感ぜり」と結ばれています。「開目抄」にも同じ趣旨が説かれ、一つ一つ「予が身なり」とも示されている。
 普通に見れば八方ふさがりといっていい窮状ですが、大聖人御自身には、それを嘆く様子など皆無です。堂々とそびえ立つ巌が、波浪を厳然と受けきっているがごとく、莞爾として難を受けいれられている。むしろ、ここからは、経文を身読された喜びが伝わってきます。悠然たる御境涯が示されている御文です。
02                                               高山に登る者
03 は必ず下り我人を軽しめば 還て我身人に軽易せられん 形状端厳をそしれば醜陋の報いを得 人の衣服飲食をうば
04 へば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば 貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず 善戒を笑へば国土の民
05 となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、
-----―
 高い山に登る者は必ず下るように、人を軽しめば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ者を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賎の家に生まれる。正法を謗れば邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遇うのである。これらは因果の定まった法である。

宿業からの解放を目指すのが仏教
 「高い山へ登る者は、必ず下っていかなくてはならない」大聖人は誰にでも分かりやすい道理を通して、仏教一般で説かれる「因果応報」の原理を示されています。
 宿業の「業」とは、もともと、仏教以前から古代インドにある「カルマ」という言葉で「行動・行為」の意味です。古代インド思想では、人間が悪業の苦悩から解放されるためには、特別の「行為」、すなわち聖職者による祭祀を行い、神々による救済をまたなければならないとされていた。
 これにたいして仏教は「業思想」を大きく転換しました。自分を離れた超越的な存在、例えば神などが、自分の運命を左右するとは捉えません。仏教は、自分自身が自己の業を形成するという「内道」の教えです。
 現在の自分自身は、過去世の自分の意志と行為の結果です。また、未来に向かって、新たな「善の業」を形成するのか、「悪の業」を更に積み重ねてしまうのか、一切は、現在の自分自身の行為によって決まります。
 この点については、トインビー博士との対談でも一つの焦点になりました。
 博士も「われわれには、自分の行動によっていますぐにでも自分の宿命を向上させるという自由もあります」と強調されていました。
 博士が注目されていたように、仏教は、人間自身の行動と一念を最大限に重視した思想であるといえます。
 ただ、“過去に悪因があったから現在の悪果がある”“過去に善因があったから現在の善果がある”とする仏教通途の因果応報にとどまれば、実は、宿命転換の原理とはなりません。過去の悪業の罪の報いを、一つ一つ受けて消し去るためには、極めて長遠な時間が必要になってしまうからです。
 大聖人は、本抄で、こうした因果応報は「常の因果」であるとしたうえで、結局、日蓮仏法は、この「常の因果」ではないと断言されております。
05                        日蓮は此因果にはあらず 法華経の行者を過去に軽易せし故に法
06 華経は月と月とを並べ星と星とをつらね 華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を 或は上げ或
07 は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、 此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを 日蓮つよく法華
08 経の敵を責るによて 一時に聚り起せるなり 譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれど
09 もいたくせめず年年にのべゆく 其所を出る時に競起が如し 斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり
-----―
 日蓮が苦難にあっているのは、これらの因果のゆえではない。過去に法華経の行者を軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊くすぐれた御経であるが、その法華経をあるいは上げ、あるいは下してあざけりあなどったために、このて八種の大難に値っているのである。
 この八種の難は、尽未来際の間に一つずつ現れるはずであったのを、日蓮が法華経の敵を強く責めたことによって、今生に一時に集まり起こしたのである。たとえば、民が郷郡などに住んでいる時は、どれほどの借銭が地頭にあったとしても、厳しく取り立てられることもなく、年々に返済を延ばしてもらえるが、その住む所を出る時には、厳しく取り立てられるようなものである。「これは護法の功徳力によるのである」というのはこのことである。

「妙法の因果」こそ宿業転換の根本
 ここは、より根本的な「生命の因果」を明かされています。大聖人が八種の苦の報いを今世において一身にうけているのは、先に挙げた「常の因果」いわゆる因果応報によるものではない。法華経の行者を過去に誹謗した「謗法」のゆえであると仰せです。
 法華経は、諸教の王であり、「月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるがごとくなる御経」です。
 その法華経を持ち弘める「法華経の行者」に対する誹謗という根源的な悪業によって、大聖人は八種の大難に遭われたと仰せられています。これは、人間に苦しみをもたらす、すべての業因の究極の「謗法」があることを示されたことになります。
 それゆえに、法華経の敵と戦い、妙法を弘通する法華経の行者の実践を貫けば、逆に、究極の悪因を打ち破って根源的な善業を積むことが可能となります。
 ここで説かれているのは、根源的な悪を滅し、仏界、すなわち、根源の第九識を力強く顕現していく「成仏の因果」です。この因果こそが、法華経の文底に秘沈されている「妙法の因果」、すなわち南無妙法蓮華経です。
 この「妙法の因果」に基づいた場合、宿業の報いに苦しむ生命に直ちに仏界の大生命を湧現させることが可能となります。すなわち、九界即仏界、仏界即九界の生命変革が行われる「因果俱時の妙法によってのみ、真の宿業転換が実現するのです。
 これに対して、爾前権教の「常の因果」は「因果異時」であり、一つ一つの悪業を滅していく時間が必要となるゆえに、実質上、今世における宿業転換は不可能となります。
 大聖人は「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」と仰せです。
 さらにここでは「根源の善の因」となる実践が示されています。すなわち、「法華経の敵」を責める折伏行こそが「妙法の因果」を貫き、宿業を転換する行為となるのです。
 「例せば日蓮が如し」師匠と同じように、師子王の心を取り出して「不二の実践」に立ち、勇敢に戦うことで、ダイナミックな躍動を開始していきます。
 「護法の功徳力に由る故なり等は是なり」師匠と同じ「師子王」となって、「法華経の敵」を責める護法の実践、すなわち折伏によって、宿業転換が実現する。どんな宿業の苦しみも報いも「ぱつと」消え、それだけではなく成仏の境涯が確立されていくのです。
 したがって、私たちにとっての「護法の功徳力」とは、「師と共に戦う実践の力」であることは忘れてはなりません。
09                                                  法華経
10 には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられ
11 ん」等云云、 獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん 当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日
12 蓮は過去の不軽の如く 当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、 父母を殺せる人異なれど
13 も同じ無間地獄におついかなれば 不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき 
-----―
 法華経勘持品第十三には「諸の無智の人があって法華経の行者を悪口罵詈等をし、刀杖瓦石を加える(乃至)国王・大臣・婆羅門・居士に向かって(乃至)度々擯出される」等と説かれいている。獄卒が罪人を責めなければ地獄を出ることができないように、現在の王臣がなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことができない。日蓮は過去の不軽菩薩の如く、現在の人々は、不教菩薩を軽毀した四衆の如くである。人は替わっても、その因は一つである。父母を殺害した人は異なっても、同じように無間地獄に堕ちるのである。不軽菩薩の因の修行をする日蓮一人がどうして釈迦仏とならないことがあろうか。

法華経に説かれる「師弟不二」の原理
 ここで改めて法華経の行者が責められるべき「法華経の敵」の正体を浮き彫りにされています。それが、法華経勧持品第13に説かれる「三類の強敵」です。
 「諸の無智の人有り悪口罵詈」等とは、悪口雑言を浴びせ、危害を加えようとする俗衆増上慢。「国王・大臣・婆羅門・居士に向つて」とは僭聖増上慢の讒言です。「数数擯出せられん」は、「邪法の僧」と「悪王」が結託し、追放等の処罰が法華経の行者に加えられることが示されています。
 三類の強敵の出現は、法華経の行者の経文身読を証明することになります。強敵による迫害がなければ、法華経の行者自身の宿業転換と成仏は実現しません。「当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難く」です。
 そして、大聖人は、この「迫害即宿業転換」の実践は、法華経の常不軽菩薩品第20に説かれる不軽の成仏の原理と全く同じであることを示されます。
 不軽菩薩は万人を尊敬・礼拝することで、増上慢の四衆から迫害を受けました。その大難によって、不軽菩薩自身の「其罪畢已」を実現しました。つまり、不軽は難を受けることで罪障を消滅し、六根清浄の果報を得て、仏、すなわち釈迦仏となったのです。
 大聖人は、この原理に照らして、「日蓮は過去の不軽の如く」と仰せです。
 時代によって、行う「人」は違っても、成仏への「因」は同じです。したがって、不軽と同じ「因」を行ずれば、必ず仏になれる。
 ここで「日蓮一人釈迦仏とならざるべき」と示されている元意は、弟子のためです。大聖人と同じく難を乗り越え、折伏行を貫くならば、弟子もまた、必ず成仏できるとの師弟不二の原理を示されたものと拝されます。
 偉大な先人と平凡な自分では、当然ながら「人」が違う。境遇も、性格も、才能も異なる。しかし「因」となる修行、行動を同じくしていけば、同じ結果を得ることができる。それが仏法の「師弟の因果」です。
 師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と「同じ誓願」「同じ理想」「同じ行動」を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる。
 これが、法華経に説かれる「師弟不二」の成仏への軌道です。
13                                        又彼諸人は跋陀婆羅等と云は
14 れざらんや 但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ 是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜし
15 かども後には信伏随従せりき罪多分は滅して 少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく 当世の諸人は翻す心な
16 し譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
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 また、現在の誹謗の人々は跋陀婆羅等といわれないだろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることはかわいそうなことである。これはなんとしたらよいのか。
 不軽菩薩を軽毀した人々ははじめは誹謗していたけれども、後には信伏随従した。罪の多くは消滅して、少しばかし残ったのに、父母を千人殺した程の大苦を受けた。現在の人々は誹謗を悔い改める心がない。譬喩品にあるように無数劫の長い間、無間地獄で苦しむであろう。また三千塵点劫か五百塵点劫の長い間を送るであろう。

峻厳な「因果の理法」
 一方、不軽菩薩を迫害した者たちは、その罪によって、二百億劫もの間、仏に出会うこともなく、千劫もの長きにわたって、阿鼻地獄で大苦を受ける。
 大聖人は、不憫に思っても、これをどうすることもできないと仰せです。因果の理法は誰人も操作できない、峻厳なるものだからです。しかし、それでも彼らは、不軽とたびたび縁を結んだお陰で、最後は再び不軽の教化に巡りあい、最終的には跋陀婆羅など、釈尊の弟子となることができたと仰せです。
 それに比べ、大聖人を誹謗した「当時の諸人」たちは、改心すらしない。結果として、どれほど長遠な間、苦しみの流転に沈まねばならないか、と嘆かれているのです。
17   これはさてをきぬ 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず
18 かへりて日蓮を教訓して 我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事 不便とも申す計りなし、
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 これはさておく。日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのように大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分の方が賢いと思っている。このような僻人等が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不便としかいいようがない。

師敵対の本質は第六天の魔王の働き
 しかし、一番問題なのは、増上慢の弟子たちであることが指摘されています。
 最初から正法を信じることなく誹謗する人間よりも、いったん門下となりながら、心を翻し、あまつさえ、「我賢し」と思い上がって離れていく人間のほうが、はるかに罪が重い。報いも厳しい。
 しかも、無明の生命が増長した弟子は、他の門下にも働きかけ、大勢を退転させようとする。それが第六天の魔王の恐ろしさです。
 大聖人は「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」(1539-09)と仰せです。
 せっかく信心していながら、第六天の魔王に生命を支配されてしまう。その根本の理由は、「慢心」であり、その本性は、師匠をないがしろにする「嫉妬」である。
 「かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人」との御教示は、日蓮門下の永遠の訓戒です。
 仏法の因果の理法だけは、間違いない永遠の法則です。「妙法の因果」に則った人は、永遠に栄えます。末法万年尽未来際まで、一家眷属に福徳が伝わっていきます。
 反対に、師弟を忘れ、破和合僧と化した人が「念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん」となることも御本仏の御断言であられる。
 仏は万人救済の法を悟りました。成仏という根本の道にあって、御本仏の教えは絶対です。また師匠は、命を注いで弟子を訓育しようとする。ですから、師匠の教えは峻厳です。その師匠の「思い」さえも届かない輩がどんなに悪口していこうが、そうした「僻人」の存在を、大聖人は悠然と見おろしておられたのです。
01 修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ 外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く 日蓮御房は師匠に
02 ておはせども余にこはし 我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江
03 が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。
04   南無妙法蓮華経。
05       文永九年壬太申歳三月二十日              日 蓮 花 押
06   日蓮弟子檀那等御中
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 修羅は仏は十八界を説くが、自分は十九界を説くといい、外道は仏は一究竟道、自分は九十五究竟道といったように、このような僻人等が日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも強すぎる。われわれは柔らかに法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川や河が海を軽蔑し、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものである。
   南無妙法蓮華経。
       文永九年壬太申歳三月二十日              日 蓮 花 押
   日蓮の弟子檀那等の御中へ

「弟子の勝利を約された一書」
 大聖人は最後に、師子王の御確信を述べられ、佐渡御書の本文を結ばれています。
 増上慢の人間は、仏の教えに何か我見を付け加えようとするものです。釈尊が「十八界」を説けば、修羅は一つ加えて「十九界だ」と威張る。仏が一究竟道を説けば、外道は九十五究竟道を説くのだ」と勝ち誇る。
 こうした愚人らと同じく、師匠を見下した者たちは、「日蓮の御房は師匠ではあるけれども、あまりにも強引である。我らはもっと柔らかに法華経を弘めよう」などと言っていた。彼らは、一見、「法華経を捨てていない」つもりで、実は、最も大事な「法華の心」を完全に失っていた。だから、法華経を弘通する師匠の偉大さに、全く気づかなかったのです。
 仏法の眼から見るならば、佐渡流罪などの大難の本質は、第六天の魔王が権力者らの身にとり入って、大聖人と門下との「師弟」の間を引き裂くことにありました。
 「師弟」によって、妙法の威光勢力は増し、「師弟」によって、令法久住の命脈は強く広がり、「師弟」によって、仏法の根本目的たる、一切衆生の幸福と平和の大道が開かれるからです。
 その意味で、一見、賢く立ち居振る舞い、大聖人を批判して、難を逃れた人間こそ、第六天の魔王に「完敗」したのです。最も大切な「師弟の魂」の座を、魔性に明け渡してしまったからです。
 蛍火が日月を笑い、蟻塚が華山を下し、井江が河海を侮り、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものだ!大聖人の大音声が聞こえてくるようではありませんか。
 この大聖人の御確信通りに、創価の三代の三代の会長は戦いました。
 「佐渡御書」は身命に及ぶ大難の中で、御本仏の大境涯を高らかに示され、「師匠の勝利を宣言された一書」です。それとともに、師と共に大難を乗り越えようとする勇者の門下に対して、断じて勝ちゆけと師子吼され、「弟子の勝利を約された一書」です。
07   佐渡の国は紙候はぬ上 面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし 此文を心ざしあらん人人は寄合て
08   御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、 世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死す
09   る人人実不実は置く幾か悲しかるらん、 いざはの入道さかべの入道いかになりぬらん かはのべ山城得行寺
10   殿等の事いかにと書付て給べし、 外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息も
11   かかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。
-----―
 佐渡の国には紙がない上に、一人一人に手紙を送るのは煩わしくもあり、また一人でももるれれば恨みに思うことだろう。
 この手紙を志ある人々は寄り合って読み、よく理解して心を慰めなさい。世間で、大きな嘆きが起きると、小さな嘆きはものの数ではなくなる。京都・鎌倉での戦いで死んだ人々は、謀反の実・不実はしばらく置くとして、どれほど悲しいことであろう。河辺山城得行寺殿等のことはどうなったのか知らせてもらいたい。外典書の貞観政要やすべての外典の物語、八宗の相伝等がなければ、手紙も書けないので、忘れないで送ってもらいたい。

「弟子の勝利」が「創価の勝利」
 追伸にあたるお言葉です。門下一人一人を思いやられる深き御慈愛がしのばれます。門下の消息を尋ね、なおいっそう手紙を書きたいから、資料も送ってほしいと伝えられている。絶海の佐渡の地で、大聖人の大慈悲の精神闘争は止むことなく続いていたのです。
 師匠はなんとありがたい存在か。
 恩師の一分でも感じた者は、渾身の報恩行に尽くすべきです。
 恩師、戸田先生の会長就任の直前となる昭和26年(1951)の4月の末、私は師弟勝利の証として「佐渡御書」を改めて拝しました。
 日記にも綴りました。
 「『佐渡御書』に曰く、
 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、云云」
 「日蓮御房は師匠におはせども余りにもこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは蛍火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、云云」
 私にとって、「佐渡御書」とは、恩師とともに拝して逆境を乗り越えた「師弟勝利の御書」となりました。
 私は誓いました。
 師匠の構想の実現のためには、まず自分が頑張ることであり、自分が責任を持つことである、と。
 そのために、まずは、わが地区の前進を決意し、家庭訪問に歩き、座談会を開き、折伏の大波を起こしていきました。
 かけがえのない創価の「師弟」の世界を、我が地区から広げゆくなかにこそ、広布の未来の勝利が」あるからです。偉大な師弟の道を、師子王の心で語り抜いていく、一対一の正義の対話。ここに「佐渡御書」の実践があります。
      わが「本門の弟子」たちが
      創価三代の師弟に続くことを念じて。

0962~0962    富木殿御返事top
0962
富木殿御返事   文永九年四月    五十一歳御作   於佐渡一の谷
01   御返事
02   日蓮が臨終一分も疑無く 頭を刎ねらるる時は 殊に喜悦有るべし、 大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可
03 きか。
04   鵞目員数の如く給び候い畢んぬ御志申し送り難く候、 法門の事先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ其の書能
05 く能く御覧有る可し、 粗経文を勘え見るに日蓮法華経の行者為る事疑無きか 但し今に天の加護を蒙らざるは一に
06 は諸天善神此の悪国を去る故か、 二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、 三には大悪鬼三類の心中に入
07 り梵天帝釈も力及ばざるか等、 一一の証文道理追て進せしむ可く候、 但生涯本より思い切て候今に飜返ること無
08 く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり、 摂受・折伏の二義仏説に依る、 敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期
09 す、恐恐謹言。
10       卯月十日                        日蓮花押
11     土木殿
-----―
 御返事
 日蓮の臨終が少しも疑いなく、頭をはねられるときは、とりわけ喜ぶべきである。大盗賊にあって大毒を宝珠と交換するようなものと思うべきである。
 銭は数のとおり受けとりました。御志はお伝え申し上げがたい。法門のことは、先ごろ四条三郎左衛門尉殿に書いて持たせた。その書をくれぐれも御覧になりなさい。あらあら経文を考え見るのに、日蓮が法華経の行者であることは疑いない。ただし、いまだに諸天の加護を蒙らないのは、一には諸天善神がこの悪国を去ってしまったからであろうか、二には善神が法味を味わわないために威光勢力がないのであろうか、三には大悪鬼が三類の強敵の心中に入って梵天・帝釈も力がおよばないのであろうか等と思われる。その一つ一つの文証や道理は追って書いて差し上げよう。ただ私の生涯は、もとより覚悟のうえである。今になって飜えることはしないし、そのうえまた遺恨もない。諸の悪人はまた善知識である。摂受を修すべきか折伏を行ずべきかの二義は、仏説によるのである。けっして自分勝手にゆがめたものではない。万事は霊山浄土を期してのことである。恐恐謹言。
  四月十日              日 蓮  花 押
   土 木 殿

鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
四条三郎左衛門尉
 (~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
―――
諸天善神
 法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
―――
法味
 妙法の慈悲のことを味にたとえた語。
―――
大悪鬼
 奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――
三類
 法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
―――
摂受
 仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
―――
折伏
 摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。
―――
霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――――――――
 本抄は文永9年(1272)4月10日、富木常忍からの御供養への返事としてしたためられたものである。この年の4月、大聖人は塚原三昧堂から一谷入道の邸に移られている。
 ふつう、墓場にある三昧堂から一谷入道の邸に移るのであるから、待遇の面でも、安全性のうえからも、少しはよくなったと想像されるが、一月の塚原問答で敗れた念仏者達は、いよいよ大聖人の命をねらうようになっていたから、その意味では、いっそう状況は厳しくなっていたのである。
 身柄を預っている一谷入道自身、大聖人を敵視している念仏者であった。いつだれが襲ってくるかしれない。一谷入道御書には「文永九年の夏の比・佐渡の国・石田の郷一谷と云いし処に有りしに・預りたる名主等は公と云ひ私と云ひ・父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありし」(1328-17)とあって、いかに大変なところに大聖人が行かれたかがわかる。
 したがって、本抄にも、この一谷入道の邸に入って、今度こそは死を免れることはできないと、切迫した調子で述べられているのである。
 このように、一谷への移動直後は最も危険な状態であったが、大聖人に直接会った入道やその周囲の人達は、やがて大聖人の立派な姿に、内々心を寄せるようになるのである。彼らはうわさで大聖人を邪推していたのであり、阿弥陀仏を悪くいうという理由だけで敵視していたのであるが、大聖人に直接ふれて、先入観念を改めざるをえなかったのであろう。「一谷入道御書」には「宿の入道と云ひ・妻と云ひ・つかう者と云ひ・始はおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内内・不便と思ふ心付きぬ」(1329-01)とあって、大聖人に心服したようすがわかる。「千日尼御前御返事」には「入道の堂のらうにて、いのちをたびたびたすけられたりし事……」(1315-03)と、一谷入道に大聖人が命を助けられたことを述べられており、暴挙に出ようとする者から大聖人を守るまでに心を寄せていたのがわかる。
 さて本文に入り、最初に御供養を謝されたあと「法門の事先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ」といわれているのは、四条金吾につかわした「開目抄」のことである。2ヵ月前の文永9年(1272)2月に著されている。また同年3月には佐渡御書を著されており、本抄と、この3編は内容が共通している。それはなぜ諸天の加護がないかについて考察されていることと、あくまで折伏を貫くことが、仏説どおりの実践であると述べられていることである。
 まず諸天の加護がないことの理由として、本抄では、
   ①諸天善神がこの国を捨てている
   ②諸天善神が法味を味わわず力を失っている
   ③大悪鬼が三類の強敵の中に入って諸天善神が及ばない
 の三点を挙げられている。
 それに対して「開目抄」では、諸天の加護の結果としての現罰のない理由として
   ①前世に法華誹謗の罪のある故
   ②迫害する側が重罪で現罰を受けない
   ③諸天善神がこの国を捨て去っている
 が理由として示されている。
 「開目抄」の③と本抄の①は同じであり、また「開目抄」の②と本抄の③は通じている。本抄の②は「開目抄」の③に含まれているであろう。したがって「開目抄」で示されている②③の内容が、本抄で明らかにされていることになる。本抄では、「開目抄」に示された第一の理由が挙げられていないが、「開目抄」と本抄のあいだに著され富木殿に託された「佐渡御書」では、もっぱら過去世の謗法あるゆえに諸天の加護がないむね記されており、そのため本抄ではとくに記されなかったのであろう。
但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり
 「本より思い切て候」と覚悟のうえで折伏を行じられ、難にあわれたのであるから、今さらひるがえることもないし、迫害者への違恨もないとの仰せである。大聖人は立宗を宣せられた日より、難の連続は覚悟しておられた。ゆえに、竜の口法難、佐渡流罪という最大の難局に際しても、全くひるがえることはないのである。
 また、大聖人に加えられた迫害は、世間的にみれば、すべて不当なものである。大聖人は諸御抄に、世間の失は一分もないと仰せである。そうした不当な弾圧を受ければ、恨みの心を生ずるのが人情であろう。しかし、仏法上からいえば、起こるべくして起こった難であるから「其の上又違恨無し」といわれているのである。
 善知識とは、ふつうは仏道修行を助けてくれる存在をいう。仏道修行においては善知識は非常に大切なものであり、つねに善知識に近づくことを心がけなければならないと教えている。善知識に近づけば、信心が増し、智慧も豊かになるからである。法華経妙荘厳王品にも「善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。大王よ。当に知るべし、善知識とは、是れ大因縁なり」と、その重要性を教えている。
 しかし、この善知識と、本抄で仰せの善知識とは、外面的には全く様相を異にしている。仏法を迫害する敵を善知識と呼ばれているのである。いかなる大悪をも大善に変えていくところに、大聖人の仏法信仰の真髄があるといえよう。善知識を同じ志の者の中にしか見い出さないあいだは、その人の信仰はまだ浅く、ひよわいといわなければならない。いかなる風波にも負けない強靭な信仰においては、真正面から敵対する者であっても、自らの宿業打開と更なる信心の深化の機縁にしていけるのである。
摂受・折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず
 これも「開目抄」、「佐渡御書」、それに先立つ「寺泊御書」、さらには後の「如説修行抄」と内容の共通するものである。大聖人がこのような難にあうのは、折伏という強義を用いて、ことさらに敵を呼び起こすからであり、法華経安楽行品にある四安楽行のような修行をすればよいではないかという批判が、大聖人の門下のなかにあり、その迷妄を破るために諸御抄で、折伏が時に叶った正しい実践であることを述べられているのである。
 それらの内容については、詳しくは「佐渡御書」の項に譲るが、仏の教えを実践するやり方には摂受と折伏がある。勝鬘経にも「応に折伏すべき者は之を折伏し、応に摂受すべき者は之を摂受せん」とある。「開目抄」では摩訶止観の「夫れ仏に両説あり一には摂・二には折」や弘決の「一切の経論此の二を出でず」を引かれている。
 さらに涅槃経の疏を引いて、時代が平であれば摂受を用い、時代が嶮であれば折伏すべきであることを述べ、権実雑乱の現在こそ折伏すべきであって、それを非難するのは愚かであるといわれている。如説修行抄には「法華折伏破権門理」の天台大師の文を引いて、法華経自体が折伏の経典であることを述べられている。
 このように、折伏を行ずるのは仏説によるのであって、大聖人の独善ではないと明言されているのである。
大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか
 お手紙の前の余白に書き込まれたもので、追伸である。死を覚悟され、頭を刎ねられても、喜び以外のなにものでもないといわれたあと、このように述べられているのである。大賊は大聖人を迫害した悪人等である。大毒は宿業深き凡夫の身をたとえ、宝珠は仏身をたとえておられる。「種種御振舞御書」にも「各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」(0910-15)「くさきかうべをはなたれば、沙に金をかへ、石に珠をあきなへるがごとし」(0912-01)と、同様の御文がある。本抄では、迫害を加える人々は大賊のようなものであるが、この大賊は大毒を奪って、代わりに宝珠をくれる、ありがたい大賊なのであるといわれている。
 これらの御文では、いずれも「かえる」ということを、貿易の意味でいわれている。すなわち煩悩におおわれた宿業深き凡夫の生命を石、糞、沙、大毒にたとえ、それを仏身をたとえる金、米、宝珠と取りかえるということである。ゆえに、大聖人は、身命を捨てる難にあうことを何よりの喜びであると述べられ、門下にも決定した信心に立つよう教えられているのである。

0963~0963    土木殿御返事top
0963
土木殿御返事    文永十年七月    五十二歳御作
01   鵞目二貫給候い畢んぬ、太田殿と其れと二人の御心喜び候、伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ、御勘
02 気ゆりぬ事・御歎き候べからず候、 当世・日本国子細之れ有る可き由之を存ず定めて勘文の如く候べきか、 設い
03 日蓮死生不定為りと雖も 妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か 伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、
04 但し定慧は存生に之を弘め 円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか、 仏滅後二千二百二十余年今
05 に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、 当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れた
06 るか、 文理無くんば大慢豈之に過んや、 章安大師天台を褒めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ
07 労しく語るに及ばん 此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、 日蓮又復是くの如し 竜樹天親等尚其の類
08 に非ず等云云、 此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ、 故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に
09 沾わん」等云云、 伝教大師当世を恋いて云く 「末法太はだ近きに有り」等云云、幸いなるかな我が身「数数見擯
10 出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな、諸人の御返事に之を申す故に委細、恐恐。
11       七月六日                        日蓮花押
12     土木殿御返事
-----―
 銭二貫文を受けとりました。太田殿とあなたとの二人の御心を喜んでいる。伊与房は機量者である。今年はこちらに留めておくことにした。佐渡流罪が赦されないことを、お嘆きになってはならない。
 当世の日本国に面倒なことがあるであろうことは承知している。必ず立正安国論で述べたようになるであろう。たとえ日蓮の生き死にが定かでないとしても、妙法蓮華経の五字の流布は疑いないであろう。
 伝教大師は御本意の天台法華宗を日本に弘めようとされた。ただし円定と円慧は生存中に弘められ、円頓戒壇は死後に建立された。具体的な形をともなうものであるために、ひときわ大きな難があったのであろう。
 仏滅後二千二百二十余年の間、いまだに法華経寿量品文底の仏と肝要の妙法蓮華経の五字とは流布していない。現時の自身の果報を論ずれば、恐らくは伝教大師や天台大師にも超え、竜樹や天親よりも勝れているであろう。文証・現証がなければ、これに過ぎる大慢心があろうか。
 章安大師は天台大師を褒めて「インドの大智度論でさえ、それに肩を並べるものではない。中国の人師の書など、どうしてわずらわしく語る必要があろう。これは誇って見せびらかしているのではない。説かれた法理の内容がそうさせるのである」等といっている。日蓮もまた、そのとおりである。竜樹や天親等でさえ肩を並べるものではない等と。これは誇り見せびらかしているのではない。法理の内容がそうさせるのである。ゆえに天台大師は日蓮を指して「後の五百歳にわたって遠く妙法によって利益されるであろう」と述べている。伝教大師は現在の世を恋い慕って「末法は非常に近くにある」といっている。
 まことに幸せなことは、我が身が「しばしば所を追われる」という経文にあてはまっていることである。なんと悦ばしいことであろう、悦ばしいことであろう。諸人の御返事にこのことを述べておいたので委しくは略す。恐恐。
  七月六日              日 蓮  花 押
   土木殿御返事

鵞目
 鎌倉時代に使われていた、穴のあいた通貨が鵞鳥の目のようであったことから、こう呼ばれた。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧等ともいった。
―――
太田殿
 日蓮大聖人御在世当時の信者。太田五郎左衛門尉乗明のこと。太田乗明、太田金吾、太田左衛門尉ともいう。鎌倉幕府の問注所の役人で富木常忍に折伏されたといわれる。下総国葛飾郡(千葉県市川市)の中山に住し、富木や曽谷氏らとともに大聖人の外護に努めた。三大秘法抄、転重軽受法門など多数の御書をいただいている。
―――
伊与房
(1252~1317)。伊予阿闍梨日頂のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子。六老僧の一人。駿河国郷(静岡県富士宮市重須)に生まれ。幼くして父を失い母とともに鎌倉に住したが、母が下総国の富木常忍と再婚したのでその義子となったといわれる。
―――
機量物
 才能や徳のすぐれた者。
―――
御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
―――
勘文
 勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
円宗
 円教である法華経を依経とする宗派。
―――
定慧
 戒定慧の三学のうちの定と慧。「定」は禅定、心を静めて悟りを開くこと。「慧」は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。
―――
円戒
 円頓戒のことで、天台はこれを建立しなかった。伝教は叡山にこれを建立している。法華円頓戒のこと。
―――
事法
 有形の物事のこと。理法に対する語。無形の諸法を理法。有形の諸法を事法という。
―――
寿量品の仏
 ①久遠五百塵点劫成道の釈尊のこと。②久遠元初の教主釈尊のこと。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
大慢
 大慢婆羅門のこと。インドの外道の僧で、慢心を起こして外道の三神および釈尊の像を高座の四足としてわが徳四聖に優れたりと称していたが、賢愛論師に法論で敗れ、国王に処刑されるにあたり、賢愛論師は王に請うて彼の罪を減じ、かつこれを慰問したが、大慢はなお諭師をののしり、仏法僧を誹謗したので、ことば終わらざるうちに大地さけて現身に地獄に堕ちた。
―――
章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
真旦
 中国の歴史的呼称。梵語チーナスターナ(Cīna₋sthāna)の音写。真丹・震旦とも書く。チーナは秦の音写。スターナは地域・場所の意。秦人の住んでいる地域との意。古代インドで中国をさした呼称。おもに仏典のなかで用いられた。
―――
誇耀
 誇り輝かす。見せびらかす。誇張する。
―――
法相
 法理の姿。内容。
―――
後の五百歳
 法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。
―――
妙道
 妙法の道。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
数数見擯出
 法華経勧持品第十三の二十行の偈文。「数数擯出せられ」と読む。「数数」とは、しばしばという意。「見擯出」とは所を追われるという意。日蓮大聖人は、この経文どおりに二度まで流罪された。一度は弘長元年(1261)5月12日伊豆国伊東、二度目は文永8年(1271)10月10日佐渡。日蓮大聖人は、仏滅後にこの「数数見擯出」の経文を身業読誦されたのは御自身のみであると述べられている。
―――――――――
 本抄は文永10年(1273)7月6日、富木常忍にあててしたためられたお手紙である。御真筆が存している。同じ下総の太田乗明と2人で鵞目二貫を御供養したのに対する返書である。2人の信心を喜ばれたあと、富木常忍の子である伊予房日頂を、大変すぐれた資質をもっているとほめられ、今年は大聖人のもとにとどめておくといわれている。日頂は、後に六老僧の一人に加えられている。大聖人の滅後は、墓輪番につらなりながらその役目を怠るなどの非があったが、晩年には前非を悔い、日興上人を慕って富士の重須に来て、この地で亡くなった。
御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候、当世・日本国子細之れ有る可き由之を存ず定めて勘文の如く候べきか
 流罪後2年にもなろうというのに赦免にならないということで、鎌倉にいる弟子達は残念に思っているだろうが、嘆いてはいけないといわれている。これについては、門下のあいだで大聖人が赦免になるように運動をしたらしい形跡があり、大聖人はそんなことをしてはいけないと戒められたことがある。文永9年(1272)9年5月、同じ富木殿にあてられた「真言諸宗違目」にそのことがみえる。
「日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり、敢て後生を扶く可からず、各各此の旨を知れ」(0139)と。
 非常に厳しい調子である。赦免を願うなどという、権力に対する卑屈な態度は、大聖人の最も忌むべきものであったからであろう。
 そして、もし仏法が正しいならば、赦免運動など起こさずとも、そのような状況になっていくのは疑いないと、大聖人は期されていたようである。それは、必ずこの国に子細がある、なにか出来事が起こるにちがいないということである。それは勘文に述べた通りになるというのである。勘文とは「立正安国論」であり、そこで予言された自界叛逆難と他国侵逼難が現実となることによって、幕府が悔い改めることを期待されたのであろう。
 すでに自界叛逆難は文永9年(1272)2月、北条時輔の叛逆によって現実となっている。そのことに驚き、佐渡の地頭の本間重連は大聖人に心服したが、時宗ら幕府の関係者は心を改めるに至っていない。
 しかし、他国侵逼難が現実になれば、今度は安閑とはしていられまい。大聖人はその時を待っておられたのであろう。そして事実、翌文永11年(1274)になって、大聖人を赦免するのである。
伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか
 伝教大師は、天台大師の法華経を基とした円宗を日本国に弘めようとした。しかし、戒定慧のうち定と慧は生前に弘めたが、戒は死後になってようやく現実化したと述べられている。戒定慧は仏家の軌則で、この三学が宗旨にそなわっていなくてはならない。法華経迹門の定と慧はすでに確立したが、戒はまだそなわっていなかった。伝教大師の時代は戒を受けるのに小乗の戒を受けていたのである。法華経の大乗の法を持っているのに、戒を受ける戒壇だけは小乗というのはおかしい。そこで伝教大師は大乗円頓の戒壇を建立することを願って朝廷に訴えた。しかし奈良六宗の反対にあって、戒壇建立の許可はおりなかった。
 伝教大師は、戒壇建立の許可を得られないまま弘仁13年(0822)に亡くなった。時の嵯峨天皇がそれを聞いて気の毒に思い、すぐ許可し、5年たって比叡山に法華円頓の戒壇が建立されたのである。「円戒は死後に之を顕す」というのはこれである。
 日蓮大聖人の仏法においても、戒定慧はそなわっている。定は虚空不動定といい、本門の本尊。慧は虚空不動慧で本門寿量の南無妙法蓮華経である。戒は虚空不動戒で本門寿量の大戒壇である。三学俱伝であり、この三つは切り離すことはできない。この三学はすべて本門の本尊にそなわっている。本門の本尊に向かって唱える題目が本門の題目であり、唱えるところはすなわち本門の戒壇なのである。したがって、その義はすでにそなわっているわけであるが、現実に戒壇を建立することについては、大聖人は滅後にこれを託された。「三大秘法抄」、「一期弘法抄」にそれは明らかである。
 本抄で伝教大師の例を挙げられているのは、戒壇建立を滅後に託さんとの意をすでに含められているのであろうか。
 伝教大師でさえ戒壇を建立するのにこれだけの苦難があった。大聖人は仏滅後2220余年、未だかつて弘まらなかった法を弘めようとされているのであり、それ以上の難があるのは当然であるといわれているのである。
仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか
 ここで述べられている「寿量品の仏と肝要の五字」とは本門の本尊と本門の題目である。法華経の文上の法門であれば、天台大師や伝教大師がすでに述べている。文底独一本門の三大秘法を弘めんとされているゆえに、天台大師・伝教大師に超えているといわれているのである。
 章安大師は天台大師の法門を讃して、竜樹の大智度論さえ比較にならないといった。大聖人は、このことばを用いて御自身にあてはめ、竜樹・天親は「其の類に非ず」といわれている。
 それだけではなく、天台大師の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」の文を、大聖人を指したものであり、伝教大師も大聖人が出現される末法を恋い慕ったのであるといわれている。末法の御本仏としての大確信の仰せである。しかもそれは、たんなる慢心などではけっしてなく、法相のしからしむるのみなのである。そしてその証左として「数数見擯出」の文を身読されたことを挙げられている。いかに天台大師・伝教大師が偉人であろうと、この経文を身で読んではいないからである。天台大師・伝教大師、さらに竜樹・天親が大聖人と比較にならない存在であり、かえって大聖人を慕っていたとする文証としてこの文を挙げられているのはそのゆえである。
 「報恩抄」に「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」(0329)と。この御文をよくよく味わいたい。
 本抄の最後に「諸人の御返事に之を申す」といわれているのは、通解では「諸人への返事に法門を述べておいたのでここでは略す」との意に解しておいたが、「鎌倉等の門下から、いろいろお手紙などがきたけれども、この手紙をもってそれらの人々へのお返事とする」との意とも考えられる。

0964~0964    富木殿御書(道中御書)top
0964
富木殿御書    文永十一年    五十三歳御作
01   けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし、 此の御房たちも・みなかへして但一人候べし、 このよ
02 しを御房たちにもかたりさせ給へ。
03   十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、 十七日このところ・いまだ
04 さだまらずといえども、 たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて
05 日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし、恐恐謹言。
06       十七日                        日蓮在御判
07     ときどの
-----―
 飢えは言いようがないほどである。米は一合も売ってくれない。餓死してしまうことであろう。この御房達もみな帰して、ただ一人いることにしよう。この事情を御房達にも語らせて、お聞きいただきたい。
 十二日に酒匂、十三日に竹之下、十四日に車返、十五日に大宮、十六日に南部、十七日にここに着いた。まだ定まらないけれども、おおむねはこの身延の山中は心にかなっているので、しばらくは居ることであろう。結局は一人になって日本国を流浪するであろう身である。また、もしとどまる身ならば、お目にかかりたいものである。恐恐謹言。
  十七日             日 蓮  在 御 判
   と き ど の

けかち
 飢えと渇きのこと。飲食物の欠乏。
―――
一合
 穀物を計る単位。現在の0.18㍑。米に概算して150㌘。
―――
さかわ
 相模国足柄下郡酒匂(神奈川県小田原市酒匂)酒匂川下流の東岸の地。
―――4
たけのした
 駿河国駿東郡(静岡県駿東郡小山町竹之下)酒匂川上流の鮎沢川の流域で、足柄峠の西方の地。
―――
くるまがへし
 駿河国駿東郡(静岡県沼津市三枚橋町)御殿場市駒門の西にあったのではないかという説もある。
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ををみや
 駿河国富士郡(静岡県富士宮市大宮)浅間大宮がある。
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なんぶ
 甲斐国巨摩郡南部(山梨県南巨摩郡南部町)身延の地と隣接している。
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この山中
 山梨県南巨摩郡身延(山梨県南巨摩郡身延町)身延山の山中のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)5月から弘安5年(1282)9月まで、この身延の山中で過ごされた。
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 本抄は、文永11年(1274)5月17日、鎌倉を去って身延に赴かれた日蓮大聖人が、入山されたその日に富木常忍にあてて出された短信である。そのなかに入山された身延の過酷な環境がうかがえ、またそれをありのまま記されるなかに富木常忍への信頼のほどが拝せられる。
 大聖人が鎌倉から身延に向かわれた道は、5月12日に東海道を小田原市の酒匂まで行かれ、そこから足柄街道に入って13日に静岡県駿東郡の小山町、そこから沼津市付近へ14日に入って東海道に戻り、富士宮市へ15日、16日に山梨県南巨摩郡の南部町を経由して、17日に身延へ入られたようである。
 大聖人が身延に入られたのは、日興上人の案内によるものであろう。ここの地頭・波木井六郎実長は、日興上人の教化により帰依していたゆえである。大聖人御入滅のあと、日興上人を富士にお招きし、大石寺開基の大檀那となった南条時光は、まだこの時、15歳であり、その父・兵衛七郎はすでにこの世を去っている。信心は純真であっても、まだ大聖人をお迎えする状態ではなかった。おそらく日興上人は波木井氏の願いによって、身延へ大聖人をお迎えしたのであろう。
 ただ、本文からもうかがえるように、この時点では、ここを永住の地とはまだ定めておられなかったようである。基本的には心にかなっているので、しばらくはいようといわれている。しかしやがては、日本国中を巡ることもあるかもしれないと考えておられたようである。もしこの地にとどまるようになればお会いしましょうといわれているのは、大聖人と離れて寂しい思いをしている富木常忍の心を察せられての仰せであろう。
 なお「けかち申すばかりなし……」の最初の二行は、冒頭に位置しているが、御真筆を拝すると、右側の余白部分に書き込まれたようにみえ、追伸と考えられる。飢饉がひどく少量の米さえ売らないので餓死の危険さえあるといわれ、大聖人に付き従ってきた御房達を帰されたことから、かなり逼迫した状況であったことがわかる。「但一人候べし」は大聖人お一人残られていることか、あるいは、給仕の人を一人だけ残したということであろう。そうだとすれば、たぶん日興上人だと思われる。このことを他の人達にも伝えんとされているのは、富木常忍をはじめとする門下の人達を頼りにされているからであろう。本抄全体の調子からすれば、大聖人と波木井実長との関係はまだ薄かったもののようである。地頭が強盛な信心で外護の決意を固めていれば、このような状況は考えられないからである。
 身延入山の直後はこうしたありさまだったが、やがて、各地の門下の人達が真心からの御供養をし、また波木井実長も喜んで大聖人をお守りし、不便なところではあったが、徐々に安定していったようである。

0964~0964    土木殿御返事top
土木殿御返事
01   仕候なり
02   褒美に非ず実に器量者なり、来年正月大進阿闍梨房と越中と之を遣わし去るべく候、 白小袖一つ給い候い畢ん
03 ぬ、今年日本国一同に飢渇の上 佐渡の国には七月七日已下天より忽ちに石灰虫と申す虫と雨等にて 一時に稲穀損
04 し其の上疫病処処に遍満し方方死難脱れ難きか、事事紙上に尽し難く候、恐恐謹言。
05       十一月三日 日蓮在御判
06     土木殿御返事
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 よく仕えている。(もしくは「……しました」)
 ほめていうのではないが、まことに器量者である。来年の正月、大進阿闍梨房とともに越中(富山県)にこれを派遣するつもりである。白小袖を一つ受けとりました。今年は日本国全体に飢饉のうえに、佐渡の国には七月七日以降、空から急に石灰虫という虫が降ってきたのと雨等によって、いちどきに稲や穀物を損い、そのうえ伝染病があちこちに広く充満し、人々は死を脱れがたいようである。いろいろな事は紙上に書き尽くしがたい。恐恐謹言。
  十一月三日            日 蓮  在 御 判
   土木殿御返事

機量者
 才能や徳のすぐれた者。
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大進阿闍梨房
 日蓮大聖人御在世当時の弟子。曽谷氏に縁のある人といわれる。大聖人の有力な門下の一人として、大聖人の佐渡流罪中には鎌倉で信徒を教導した。弘安元年(1278)9月15日の四条金吾殿御返事には死去のことが述べられている。なお、富士方面にいて大聖人門下を迫害した大進房とは別人と思われる。
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越中
 北陸道7か国の一。現在の富山県にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのなか。
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飢渇
 飢えと渇きのこと。飲食物の欠乏。
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佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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石灰虫
 蝗のこと。蝗虫とも書く。稲等の葉を食べる害虫。
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疫病
 悪性のウイルスによる伝染病。
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 本抄は富木常忍に与えられた書で御真筆が存している。しかし、日付については11月3日とあるだけで、年号の記載はない。ただ、文中に佐渡の模様が述べられていて、佐渡で著されたのは確かであるから、文永9年(1272)か文永10年(1273)のお手紙ということになる。この年、佐渡が大変な飢饉であったとあり、日本全体も飢饉であったとあるが、飢饉の年は多く、これだけではいずれとも定めがたい。
 ところが、本抄は前の部分が紛失し、途中からのものであろうとされており、冒頭部分はだれかを「実に器量者なり」とほめられていて、「来年正月」に大進阿闍梨と越中(富山県)へ派遣するといわれている。そこでこれはだれを指すかということであるが、富木常忍の義子で大聖人の弟子になっている日頂ではないかと思われる。
 そのように推側される理由は、文永10年(1273)7月の「土木殿御返事」に「伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ」(0963)とある御文と共通するからである。
 この二つのお手紙をあわせて考えてみると、大聖人は富木常忍に、伊予房をほめられて、今年は大聖人のもとに置いておこうといわれ、次いで、来年は大進阿闍梨とともに越中へ派遣しようと伝えられたことになる。このように二つのお手紙が関連していると考えると、本抄は文永十年のお手紙ということになるのである。
 大聖人も本抄で「器量者」といわれているように、すぐれた才能の持ち主であったようだが、のちに「天台法華宗の沙門」と名乗っているのをみると、少し天台の教えに流される傾向があったものとみられる。
 日頂は六老僧の一人で真間弘法寺の住職となったが、大聖人滅後、墓所輪番に応ぜず、日興上人に背いた。一説にはのちに義父の富木常忍に弘法寺の別当から讒言されたといわれ、下総にいられず、前非を悔い日興上人に帰伏して重須で晩年を過ごした。
 本抄では伊予房を大進阿闍梨とともに越中へ派遣しようといわれているが、多分この地方で法論か弘教が展開されていたのであろう。
 文永9年(1272)1月の塚原問答では越中からも念仏者達が来ていたとあり、彼らを大聖人が完膚なきまでに打ち破られた話は、広く伝わっていたであろうし、また越中には太田・曾谷両氏の所領があったこともあり、門下の人々もいて、大聖人の流罪中といえども活発な活動が続けられていたであろうと推察されるのである。
 この年、佐渡では、イナゴの害、天候不順、病気の流行等が続き「紙上に尽し難」いほどの艱苦が襲っていた。そのなかで、三度目の厳冬を迎えられる大聖人に、富木常忍から届けられた白小袖は、なによりの心のこもった御供養であったろう。
 本抄は富木常忍に与えられた書で御真筆が存している。しかし、日付については11月3日とあるだけで、年号の記載はない。ただ、文中に佐渡の模様が述べられていて、佐渡で著されたことは確かであるから、文永9年(1272)か文永10年(1273)のお手紙ということになる。この年、佐渡が大変な飢饉であったとあり、日本全体も飢饉であったとあるが。飢饉の年は多く、これだけではいずれとも定めがたい。
 ところが、本抄は前の部分が紛失し、途中からのものであろうとされており、冒頭部分はだれかを「実に器量者なり」とほめられていて「来年正月」に大進阿闍梨と越中に派遣するといわれている。それではこれはだれを指するかということであるが、富木常忍の義子で大聖人の弟子になっている日頂ではないかと思われる。
 そのように推側される理由は、文永10年(1273)7月の「土木殿御返事」に「伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ」(0963-01)とある御文と共通するからである。
 この二つのお手紙をあわせて考えてみると、大聖人は富木常忍に、伊予房をほめられて、今年は大聖人のもとに置いておこうといわれ、次いで、来年は大進阿闍梨とともに越中に派遣しようと伝えられたことになる。このように二つの御手紙が関連していると考えると、本抄は文永10年(1273の御手紙ということになるのである。
 大聖人も本抄で「器量者」といわれているように、すぐれた才能の持ち主であったようだが、のちに「天台法華宗の沙門」と名乗っているのをみると、少し天台の教えに流される傾向があったものとみられる。
 日頂は六老僧の一人で真間弘法寺の住職となったが、大聖人滅後、墓所輪番に応ぜず、日興上人に背いた。一説にはのちに義父の富木常忍から弘法寺の別当から讒言されたといわれ、下総にいられず、前非を悔い日興上人に帰伏して重須で晩年を過ごした。
 本抄では伊予房を大進阿闍梨とともに越中へ派遣しようといわれているが、多分この地方で法論か弘教の展開がされていたのであろう。
 文永9年(1272)1月の塚原問答では越中からも念仏者達がきていたとあり、彼らを大聖人が完膚なきまでに打ち破られた話は、広く伝わっていたであろうし、また越中には大田・曾谷両氏の所領もあったこともあり、門下の人々もいて、大聖人の流罪中といえども活発な活動が続けられていたであろうと推察されるのである。
 この年、佐渡では、イナゴの害、天候不順、病気の流行等が続き「紙上には尽し難」いほどの艱難が襲っていた。そのなかで、3度目の厳冬を迎えられる大聖人に、富木常忍から届けられた白小袖は、なによりの心のこもった御供養であったろう。

0965~0967    法華行者逢難事top
0965:01~0965:13 第一章 三大秘法の名目を明かすtop
0965
法華行者逢難事   文永十一年正月   五十三歳御作   与富木常忍
01     河野辺殿等中
02     大和阿闍梨御房御中
03     一切我弟子等中
04     三郎左衛門尉殿
05   謹上                 日蓮
06     富木殿
07   追て申す、竜樹.天親は共に千部の論師なり,但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝
08   有り,天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう,所詮一には仏
09   .授与したまわざるが故に、 二には時機未熟の故なり,今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず
10   之を知りぬ、西王母の先相には青鳥・客人の来相にはカン鵲是なり、各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜ
11   よ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ。
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   河野辺殿等中
   大和阿闍梨御房御中
   一切我弟子等中
謹上 三郎左衛門尉殿   日蓮            
   富木殿                
 追って申し上げる。竜樹・天親はともに千部の論師であるが、ただ権大乗の義を述べただけで、法華経については心に知っていて、口には説かれなかった。天台大師や伝教大師は法華経の義を宣べたが、本門の本尊と上行等の四菩薩と本門の戒壇と南無妙法蓮華経の五字とについては説かずに残された。結局は、一には仏が授与されなかったからであり、二には時機が未だ熟していなかったからである。今すでに時は到来した。四菩薩は出現されたであろうか。日蓮はこのことを、いちはやく知ったのである。西王母が来る先兆には青鳥が飛来し、客が来る前兆にはかささぎが鳴くといわれるのは、これである。おのおの我が弟子たろうとする者は深くこのことを承知しておきなさい。たとえ大難が身命に及んでも退転してはならない。
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12   富木.三郎左衛門の尉・河野辺.大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には
13   互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ。
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 富木、三郎左衛門尉、河野辺、大和阿闍梨等の殿達や御房達、おのおの互いに読み、聞かせてさしあげなさい。このような濁世には互いにつねに話し合って、ひまなく後世を願うようにしなさい。

河野辺殿
 日蓮大聖人御在世当時の信徒。佐渡御書、弥源太入道殿御返事などに、その名が見えるが、詳細については不明である。
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大和阿闍梨御房
 日蓮大聖人御在世当時の弟子。弁阿闍梨日昭という説もあるが、明らかではない。
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三郎左衛門尉殿
 (1230頃~1300)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。左衛門尉という官名の唐の呼び名を金吾といったことから、四条金吾と通称された。北条氏の支族・江間家に仕えた武士で、医術にも通じていた。建長8年(1256)ごろ、池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。文永8年(1271)の竜の口法難の時は、大聖人に殉死の覚悟で供をし、文永9年(1272)には、佐渡の大聖人より人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。
―――
竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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本門の本尊
 日蓮大聖人が建立された宗旨である三大秘法の文底独一本門・事の一念三千の大御本尊のこと。
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四菩薩
 四人の菩薩のこと。①華厳経の四菩薩(法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵)。②胎蔵界の四菩薩(文殊、普賢、弥勒、観音)。③法華迹門の四菩薩(文殊、普賢、薬王、観音)。④法華経本門の釈尊(上行、無辺行、浄行、安立行)。
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戒壇
 受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。
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西王母の先相には青鳥
 事文類聚後集に同意の文がある。西王母は西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住むとされた伝説上の女神のこと。
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客人の来相には鳱鵲
 法華玄義巻六上に「世人は蜘蛛挂るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときはすなわち行人至ると以ふ」とある。鳱鵲はカササギのこと。
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後世
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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 本抄は文永11年(1274)正月14日にしたためられ「一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ」「富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え」と念をおされていわれているように、門下一同にあてられたお手紙である。
 文永11年(1274)正月14日といえば、大聖人の佐渡流罪に対する鎌倉幕府の赦免が決定された2月1日のちょうど一か月前である。しかし、本抄に示されている文永10年(1273)12月7日の武蔵の前司・北条宣時の命令書のように、大聖人を助けようとする者には厳罰を加えるということが行われていた時であり、あすの命も知れない状態であったと思われる。
 このゆえに、本抄は釈尊、天台大師、伝教大師等の受難の前例を挙げられ、日蓮大聖人の今の難がそれらに超過する大難であることを示されて、法華経の行者の証であると喜びを述べられているのである。
 本抄の御真筆は、中山法華経寺に現存している。宛名は、富木常忍、三郎左衛門尉、河野辺、大和阿闍梨の名を挙げられているが、御本意は「一切我弟子等中」にあったことは、先に述べた背景からも明らかであろう。
 「種種御振舞御書」には、北条宣時が佐渡の唯阿弥陀仏等の直訴を受けて「上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよ」(0920-09)と勝手な命令を出し、しかもそれを下文にして布告し、それを三度も重ねた、と記されている。
 そうしておいたうえで、執権・時宗に報告したところ、時宗は宣時の予想に反して大聖人赦免の決定を下したという。
 おそらく北条時宗は、日蓮大聖人が無実の罪であることを知っており、このまま放置しておくと、大聖人の生命が危ういことを察知して、急いで赦免したものと思われる。その意味からも、正月十四日の本抄御執筆の時点は、大聖人の身にひしひしと危険が迫っていたころで、大聖人はそのゆえに、このお手紙を書かれて、弟子檀那一同に対し、信心の自覚を強く促されたのであろう。
 さて、本抄の冒頭に「追て申す」と記されていることからも明らかなように、第一章全体が、追伸の御文であり、本来は、本抄の最後になるのが順当である。しかし、御真筆では追伸の御文が最初の余白に書き込まれているために、このようになっているのである。
 日蓮大聖人の御手紙は、一枚一枚紙に書かれていき、何枚かを重ねて、門下に出されたものであるが、後世の人が散逸を防ぐために順を追って貼り合わせている。本抄の場合は、最後の追伸の部分が最初のところになったため、このような形になったのである。それゆえ、本章はあくまでも、本抄の一番最後に書かれた追伸の御文として拝していきたい。
 本章において、日蓮大聖人は、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師・伝教大師が明確には宣説せず、末法のために残した法門として「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」を挙げられている。
 三大秘法の内容については、もとより早くから御胸中に抱かれていたと拝せられるが、その具体的な御教示――とくに戒壇ということについて明確にいわれたのは、本抄が最初と思われる。
 すなわち、文永9年(1272)5月2日の「四条金吾殿御返事」には「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり」(1116-09)とあり、翌文永10年(1273)5月28日の「義浄房御書」には「次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし、天台・伝教等も粗しらせ給へども言に出して宣べ給はず竜樹・天親等も亦是くの如し……其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり(0892-06)と述べられている。
 そうしたなかで、文永10年(1273)4月の「観心本尊抄」には「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」(0253-13)あるいは「諸法実相抄」には「上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る」(1359-08)等、本尊と題目については述べられているが、そこでは、戒壇という名目を示されることはなかった。
 その意味からいえば、文永11年(1274)の本抄で戒壇の名目を示されたのは、重大な意義があると考えなければならない。
 なお、この追伸で竜樹・天親、天台大師・伝教大師の顕さなかった三大秘法を大聖人がはじめて顕し、そこに日蓮大聖人の独自性があることを宣言されているのは、本抄末尾の、釈尊、天台大師、伝教大師の三人に御自身を加えて四人と為して「法華経の行者末法に有るか」と述べられたことを補足して、このように書き加えられたと拝せられよう。
天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう
 前述したように、三大秘法の名目を明らかに示された重要な御文である。
 この御文の前では、正法時代にインドに出現した竜樹菩薩・天親菩薩はともに〝千部の論師〟といわれるほど、数多くの論を造り、仏法の深遠な法理を説いたのであるが、「但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず」と述べられている。
 つまり、実大乗の法華経を心の中では知ってはいたが、権大乗の教えだけを実際には宣説し、法華経に関しては一言も外に向かって説かなかったのである。
 なお「此に口伝有り」と記されている〝口伝〟とは、摩訶止観の「内鑑冷然、外適時宣」の文を指すと思われる。すなわち、竜樹・天親は内心の悟りにおいては、法華経の一念三千の理を覚知し、鏡のように冷ややかに澄んでいたが、外に向かっては、時にかなった教えを説いたという文である。
 つぎに、像法時代に出現した天台大師、伝教大師は、釈尊の出世の本懐たる法華経に関し、その深遠な意義を詳しく説いたのであるが、〝三大秘法〟だけは説かずに末法のために残したと仰せである。
 ここに「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」という四つの意義が示されているが、四菩薩を除く三つが、本門の本尊・戒壇・題目の〝三大秘法〟であるということである。
 すなわち、末法の時に、四菩薩が出現し、末法の民衆のために弘通する真実の法門こそ〝三大秘法〟であると明言されたのがこの御文なのである。
 ところで、この四菩薩とは、法華経の従地涌出品において、地の下から涌出した六万恒河沙という、無数の地涌の菩薩の上首である、上行・無辺行・浄行・安立行の各菩薩であることはいうまでもない。
 この四菩薩が末法に出現して、三大秘法の法門を弘通するといわれているのであるが、ではいったい、具体的には誰を指すのかといえば、現実に、南無妙法蓮華経を不惜身命の実践で弘通された末法の御本仏・日蓮大聖人であられることは改めて論ずるまでもなかろう。
 このように、日蓮大聖人こそ末法の御本仏なのであるが、ここでは、一往、謙遜の意味を込められて、「今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」と述べられ、御自身を西王母の先相としての青鳥、客人の来相としての鳱鵲、という先駆けの立場になぞらえられているのである。

0965:14~0966:08 第二章 法華行者逢難の文証と事実を挙ぐtop
14   法華経の第四に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、 同第五に云く「一切世間怨多く
15 して信じ難し」等云云、 涅槃経の三十八に云く「爾の時に外道に無量の人有り○心瞋恚を生ず」等云云、 又云く
0966
01 「爾の時に多く無量の外道有り和合して共に摩伽陀の王・ 阿闍世の前に往きぬ○今は唯一大悪人有り 瞿曇沙門な
02 り王未だ検校せず我等甚だ畏る、 一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為る乃至迦葉・舎利弗・
03 目ケン連」等云云如来現在猶多怨嫉の心是なり、 得一大徳天台智者大師を罵詈して曰く「智公汝は是れ誰が弟子ぞ
04 三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説の教時を謗ず」、 又云く「豈是れ顛狂の人に不ずや」等云云、 南都七大
05 寺の高徳寺・護命僧都・景信律師等三百余人・ 伝教大師を罵詈して曰く「西夏に鬼弁婆羅門有り東土に巧言を吐く
06 禿頭沙門あり 此れ乃ち物類冥召して世間を誑惑す」等云云、 秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判
07 なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、 天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、 叡山の一
08 家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云云。
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 法華経の第四の巻に「仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」等とある。同第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」等とある。涅槃経の第三十八の巻に「その時に無数の外道がいて○心に瞋を生じた」等とある。また「その時に多く無数の外道がいた。寄り集まってともにマガダ国の王・阿闍世の前へ行った。○『今ただ一人大悪人がいる。釈尊である。王は未だ取り調べをしていない。私達は非常に畏れている。一切世間の悪人が己の利益のために、その所に集まって従者となっている。(中略)迦葉や舎利弗や目犍連である』といった」等とある。「如来の現在すら猶怨嫉多し」の文の意はこれである。得一大徳が天台智者大師をののしって「智者大師よ、おまえはいったいだれの弟子なのか。三寸に足らない舌で、覆面舌の仏の説かれた教時を誹謗するとは」と、また「これこそ顚倒して狂っている人間ではないか」等といっている。南都七大寺の高徳といわれていた護命僧都、景信律師等の三百余人は伝教大師をののしって「西北インドに鬼弁バラモンがいた。東土には巧みにことばを操る坊主がいる。これはとりもなおさず、物怪の類がひそかに通じ合って世間を誑かしているのである」等といっている。法華秀句には「浅い教えは信じやすく深い教えは信じがたい、というのは釈尊の教判である。浅い教法を去って深い教法に就くのが丈夫の心である。天台大師は釈尊を信じ順い法華宗を助けて中国に宣揚し、比叡山の天台家は天台大師に相承を受け法華宗を助けて日本に弘通するのである」とある。

涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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瞋恚
 怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
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摩伽陀
 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
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阿闍世
梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
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瞿曇沙門
 釈尊のこと。瞿曇は釈迦種族の名で、沙門は出家の総称。おもにバラモンや提婆達多などが、釈尊に侮蔑の意をこめて用いた呼称。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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目犍連
 釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
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得一大徳
 生没年不明。平安時代初期の法相宗の僧。徳一・徳溢とも書く。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。著書に「仏性抄」「中辺義鏡」三巻などがある。
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毀罵
 誹謗し謗ること。
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覆面舌
 仏の顔全体を覆うほど広く長い舌のこと。広長舌相ともいい、仏の三十二相の一つ。嘘・偽りのないことを示す。
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南都七大寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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護命僧都
 (0570~0834)。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学んだ。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著書に「法相研神章」などがある。
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景信律師
 生没年不明。景深とも書く。平安時代初期の東大寺の僧。伝教大師の大乗戒壇設立の上奏に対して「迷方示正論」を著して反対した。
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西夏
 ①唐の夏州節度使の後裔である李元旲が建てた国、中国西北区甘粛省から内モンゴル西部にあたる地域。②北インドあるいはインド北方。
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鬼弁婆羅門
 二世紀ごろインドにいたバラモンの一人。鬼を祀って福を求め、論談しては人々の尊敬を集めていた。激しい論難には帷を垂れて面談しようとしなかったが、馬鳴菩薩によって論破され、その虚名がさらされたという。
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東土
 日本のこと。
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禿頭沙門
 剃髪した出家僧のことをいうが、侮蔑の意味で使われることが多い。
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秀句
 法華秀句三巻のこと。伝教大師最澄の著。天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、十の観点から論証している。
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丈夫
 身心ともに堅固な人。武士。
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震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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敷揚
 仏法を普く敷き及ぼすこと。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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 本章から本題に入る。
 本章は、法華経や涅槃経等の経文と、伝教大師の「守護章」「法華秀句」等を引用されて、法華経を信じ行ずる者に大難が必ず競い起こるということを、経文の上から、歴史的な事実の上から述べられている。
 すなわち、法華経の法師品と安楽行品の二文をとおして、法華経の経説に対して、一般世人が信じ難く怨嫉をいだくということを強調されている。これらの経文は、難が仏の在世と滅後の両方にわたる、普遍的な事象であること、むしろ滅後の難は在世のそれを超過するであろうことを述べたものである。
 初めの法師品の「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」という文は〝如来の現在〟すなわち、釈尊の在世中ですら、釈尊が法華経を説くにあたっては、怨嫉や大きな難があったのであるから、〝況や滅度の後をや〟つまり、釈尊の滅度の後にあってはなおさら、大きな難があると説かれている。
 日寛上人は、「況や滅度の後をや」の〝滅度の後〟を、正法・像法・末法の三時に配し、正意は別して末法を指すと解釈され、末法においてこそ、法華経を信じ行ずる者に、最も大きな難や怨嫉が競い起こると述べられている。
 なにゆえに、法華経が怨嫉や大難にあうかといえば、法華経は爾前権経の教えを破折して正義を教えるからである。今、法華経の内容についてそのごく基本的な点を要約していえば、法華経は、人間を含め、あらゆる生命に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界の命を平等に具えているという実相を明らかにし、生命それ自体の無上の価値を徹底して説き明かしている。これは、生命に価値の差別を設けた爾前権経に対立するもので、その差別の上に君臨して、権威、権力を恣にせんとする上層階層や、反対に、自らの価値を卑下し、卑屈になっている人々もまた、法華経の経説に対し、無意識の内に反発し、怨嫉を起こすのである。その結果、法華経を信じ行ずる者に、留難が絶えないことになる。まさに、安楽行品の「一切世間に怨多くして信じ難く」なのである。
 逆に、留難、怨嫉が競い起こることが、真に法華経を信じ行じていることの現実的な証拠とさえなるのである。
 以上のように、法華経の法師品、安楽行品の二文を引用されて、法華経の教えそのものが、信じ難く必ず怨嫉を受けることを述べられた後に、具体的な歴史的事実を挙げられていく。
 まず、「如来の現在すら猶怨嫉多し」の事例として、涅槃経の二文を引用され、釈尊存生中に、釈尊に対して加えられた外道からの怨嫉の難を挙げられている。
 つぎに、滅度の後の例として、像法時代の中国の天台大師、日本の伝教大師が受けた怨嫉の難を挙げられている。
 中国の天台大師に対する怨嫉については、日本の平安時代初期の法相宗の僧である得一が起こしたものである。
 得一の怨嫉は、法相宗の教義の上から、法華経を釈尊の出世の本懐とする天台大師の五時八教論を罵ったものである。
 得一のことばの〝覆面舌の所説の教時を謗ず〟とは、釈尊の、顔を覆うような広く長い舌をもって説かれた「教時」を、天台大師が三寸に足らない凡夫の舌でもって誹謗している、という意味である。
 ここに「教時」とは、法相宗の依経である解深密経の中で説かれているもので、一代仏教を三つの時期に分類し、釈尊は最初に小乗を説き、第二時に〝空〟を中心とする大乗教を説き、第三時には、〝中道〟を中心とした大乗を説いたとし、第三時の大乗こそ解深密経であるとするものである。
 この三時の教説に対して、中国の天台大師が、はるかに緻密な論理的な裏づけをもって、五時の教説を樹立して打ち破り、法華経第一の正義を展開したので、法相宗に執着する得一が天台大師に怨嫉し、「豈是れ顚狂の人に不ずや」と悪口雑言を投げかけたのである。
 同じく、伝教大師は南都七大寺の護命僧都や景信律師等を代表とする三百人余りの僧達によって罵られた。
 伝教大師は日本において、初めて、法華経の正しい意義を顕したのであるが、それゆえに、伝教大師をインドの鬼弁バラモンに比して、物怪と一緒になって巧言を吐いて、世間の人々をだましていると罵られたのである。
秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり……助けて日本に弘通す」云々
 伝教大師の法華秀句の重要な文である。
「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり」とは、浅い教えや法門は信じ易く就き易いが、深い教えはなかなか信じ難く就き難い、つまり、法華経は深いがゆえに難信難解であるということである。
〝釈迦の所判〟とは、法華経法師品において「我が説く所の教典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、この法華経は最も為れ難信難解なり」と、また同宝搭品において六難九易を釈尊自身が説いていることを指すと考えられる。
 だが、いかに難信難解であっても、浅い教えを捨て去って、深い教えに就いていこうとするところに〝丈夫の心〟があると、伝教大師は説いているのである。〝丈夫の心〟とは、ますらおの心であり、心があらゆるものごとに動ぜず、堅固であることをいう。ここでは、深くて難信難解の法門である法華経を信じ護持し、退くことのない修行者の心を指している。日寛上人は撰時抄愚記で「余の教典を去って法華経に就くが故に『浅を去って深に就く』というなり。当に知るべし『丈夫』は即ち釈迦の異称なり」といわれている。
 そして、中国の天台大師、日本の伝教大師は、ともに〝丈夫の心〟をもって法華経の深きに就き、釈尊に信順して、法華集をそれぞれ、中国と日本に弘通するのであると、法華秀句に述べ、天台大師と伝教大師の正統なる立場を宣明しているのである。 法華経の第四の巻に「仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」等とある。同第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」等とある。涅槃経の第三十八の巻に「その時に無数の外道がいて……心に瞋を生じた」等とある。また「その時に多く無数の外道がいた。寄り集まってともにマガダ国の王・阿闍世の前へ行った。……『今ただ一人大悪人がいる。釈尊である。王は未だ取り調べをしていない。私達は非常に畏れている。一切世間の悪人が己の利益のために、その所に集まって従者となっている。(中略)迦葉や舎利弗や目犍連である』といった」等とある。「如来の現在すら猶怨嫉多し」の文の意はこれである。得一大徳が天台智者大師をののしって「智者大師よ、おまえはいったいだれの弟子なのか。三寸に足らない舌で、覆面舌の仏の説かれた教時を誹謗するとは」と、また「これこそ顚倒して狂っている人間ではないか」等といっている。南都七大寺の高徳といわれていた護命僧都、景信律師等の三百余人は伝教大師をののしって「西北インドに鬼弁バラモンがいた。東土には巧みにことばを操る坊主がいる。これはとりもなおさず、物怪の類がひそかに通じ合って世間を誑かしているのである」等といっている。法華秀句には「浅い教えは信じやすく深い教えは信じがたい、というのは釈尊の教判である。浅い教法を去って深い教法に就くのが丈夫の心である。天台大師は釈尊を信じ順い法華宗を助けて中国に宣揚し、比叡山の天台家は天台大師に相承を受け法華宗を助けて日本に弘通するのである」とある。

0966:09~0966:11 第三章 仏の在滅の法華経の行者を挙ぐtop
09   夫れ在世と滅後と正像二千年の間に法華経の行者・唯三人有り所謂仏と天台・伝教となり、真言宗の善無畏・不
10 空等・華厳宗の杜順・智儼等・三論法相等の人師等は実経の文を会して権の義に順ぜしむる人人なり、竜樹・天親等
11 の論師は内に鑒みて外に発せざる論師なり、 経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず、
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 さて釈尊の在世と滅後の正法・像法二千年の間に法華経の行者は、ただ三人いた。いわゆる仏と天台大師と伝教大師とである。真言宗の善無畏や不空等、華厳宗の杜順や智儼等、三論宗・法相宗等の人師達は実経の文を解釈して権経の義に順わせている人々である。竜樹や天親等の論師は内心には明らかに知っていたが、外に向かっては説かなかった論師である。経のとおりに宣べ伝えることについては、正法時の四依も天台大師や伝教大師にはおよばない。

正像二千年
 仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)。伝教大師。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒壇実現に努力、没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。弘法大師空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、自らの教えを大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお真言宗を東密といい、天台宗の慈覚・智証がとりいれた密教を台密という。
―――
善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。宋高僧伝によれば、東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などを翻訳し、また「大日経疏」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
―――
不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
―――
華厳宗
 華厳経を所依とする宗派のこと。中国・唐代に杜順によって開かれ、法蔵によって大成された。日本には天平8年(0736)、唐の道璿により華厳経典が伝来し、天平12年(0740)新羅の審祥が講経し、その教えを受けた良弁が東大寺で宗旨を弘めた。教義は、一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという全宇宙を統一する理論である法界縁起を立て、これによってすみやかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。
―――
杜順
 (0557~0640)。中国華厳宗の開祖。帝心尊者ともいわれる。18歳で出家し、僧珍に仕えた。のちに唐の太宗に厚く信任され、華厳宗を弘めた。著書に「華厳法界観門」一巻などがある。
―――
智儼
(0602~0668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。十四歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」五巻、「華厳孔目章」四巻などがある。
―――
三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
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法相
 法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
―――
正法の四依
 正法とは釈尊滅後の正法時のこと。四依とは四つの依りどころの意であり、法の四依と人の四依とがあるが、ここでは人の四依のことで①具煩悩性の人、②須陀洹・斯陀含の人、③阿那含の人、④阿羅漢の人をいう。すなわち正法時代に民衆の依処となった竜樹・天親等をさす。
 正法の前五百年
   小乗の四依――┬ 初依:三賢(煩悩性を具す)
          ├ 二依:初果(須陀洹の人)
          ├ 二依:二果(斯陀含の人)
          ├ 三依:三果(阿那含の人)
          └ 四依:四果(阿羅漢の人)
  正法の後五百年
   権大乗の四依―┬ 初依:十住・十行・十回向
          ├ 二依:初地~六地
          ├ 三依:七地~九地
          └ 四依:十地・等覚
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 前章を受けて、釈尊の在世と滅後の正像二千年間における法華経の行者として、仏、天台大師、伝教大師の三人の名を挙げられている。
 法華経の行者とは、いうまでもなく、法華経を行ずる者という意味であるが、ふつう法華経を修行する者の意で用いられる。その意味では仏は〝行者〟には入らないはずである。
 しかし、ここで、釈尊をも法華経の行者とされているのは、釈尊は法華経を説いた教主であるととともに、法華経こそ釈尊の生命であり、その振る舞いは法華経を体現したものであるからである。
 これに対して、天台大師、伝教大師は、法華経を修行した立場である。これらに対し、日蓮大聖人の場合は、外用の辺では法華経修行の立場であるが、内証の辺では法即人、人即法の、妙法を体現された仏という意味での行者であられる。
 ともあれ、末法より前でいえば、以上の三人こそ法華経の行者であったのに対して、真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論・法相等の人師達は、それぞれ法華経をそれなりに研鑽はしたが、「実経の文を会して権の義に順ぜしむる」ことをしたゆえに、法華経の行者の中に入れないと述べられている。
 つまりこれらの人師は、実経たる法華経の文を、自分勝手に理解し、解釈して、権経の義に順わせ、本末転倒の邪見に陥ってしまったからである。
 つぎに、竜樹・天親等の論師は「内鑑冷然・外適時宜」といわれるとおり、法華経の意義を内心で深く知ってはいたが、仏からの付嘱がなく、また、法華経を弘める時と機根でもなかったため、法華経を外には説かなかった。この点において、竜樹・天親等の論師も、「法華経の行者」とはいえないことを暗示されている。

0966:11~0967:09 第四章 末法の法華経の行者を明かすtop
11                                                  而るに
12 仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し 其の時の大難・在世に超過せんと云云、 仏に九横の大難有り
13 所謂孫陀利の謗と金鏘と馬麦と琉璃の釈を殺すと 乞食空鉢と旃遮女の謗と調達が山を推すと 寒風に衣を索むると
14 なり、其の上一切外道の讒奏上に引くが如し記文の如くんば天台・伝教も仏記に及ばず。
-----―
 しかしながら仏の未来記のとおりであれば、末法に入って法華経の行者がいるはずであり、その時の大難は釈尊在世をはるかに超えているであろう、ということである。仏に九つの大難があった。いわゆる孫陀利から謗られたこと、金鏘の供養の果報を説いた釈尊が婆羅門に謗られたこと、馬の餌の麦を食べなければならなかったこと、釈迦族の者が多く琉璃王に殺されたこと、乞食しても得られず鉢が空であったこと、旃遮女に謗られたこと、提婆達多に大石を落とされたこと、寒風に責められ三衣を求めなければならなかったこと、である。そのうえ一切の外道の讒奏は前に引用したとおりである。経文のとおりであるならば、天台大師・伝教大師も仏の未来記にかなっていない。
-----―
15   之を以て之を案ずるに末法の始に仏説の如く行者世に出現せんか、 而るに文永十年十二月七日・武蔵の前司殿
16 より佐土の国へ下す状に云く自判之在り。
-----―
 これらのことから考えてみるに、末法の始めに仏説のとおり法華経の行者が世に出現するであろう。ところで文永十年十二月七日、武蔵前司殿より佐渡の国へ下げわたした書状に次のようにいっている。自身の判がある。
-----―
17   佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由 其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後
18 彼僧に相い随わん輩に於ては 炳誡を加えしむ可し 、猶以て違犯せしめば 交名を注進せらる可きの由の所に候な
0967
01 り、仍て執達件の如し。
02       文永十年十二月七日                       沙門観恵上る
03   依智六郎左衛門尉等云云。
-----―
 「佐渡の国の流人の僧・日蓮が弟子等を率いて悪行を企んでいるとの噂をきいている。そのような企ては、はなはだけしからぬことである。今後、かの僧に随おうとする者には、明らかな誡めを加えさせよ。それでもなお違犯するならば、その名を書き連ねたものを急いで報告されよ。通達の意向は以上のようである。
  文永十年十二月七日   沙門観恵奉る
   依智六郎左衛門尉」等とある。
-----―
04   此の状に云く悪行を巧む等云云、外道が云く瞿曇は悪人なり等云云、又九横の難一一に之在り、 所謂琉璃殺釈
05 と乞食空鉢と寒風索衣とは仏世に超過せる大難なり、 恐くは天台・伝教も未だ此の難に値いたまわず 当に知るべ
06 し三人に日蓮を入れ四人と為して 法華経の行者末法に有るか、 喜い哉況滅度後の記文に当れり 悲い哉国中の諸
07 人阿鼻獄に入らんこと茂きを厭うて之を子細に記さず心を以て之を推せよ。
08       文永十一年甲戌正月十四日                      日蓮花押
09   一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ。
-----―
 この書状に「悪行を企んでいる」等とあるのは、外道が「瞿曇は悪人である」等といったのと同じである。また九横の大難一つ一つについても相応した難が日蓮にある。いわゆる琉璃殺釈、乞食空鉢、寒風索衣は、日蓮の方が釈尊在世にはるかに超えた大難である。おそらくは天台大師・伝教大師も未だこの難にあわれていない。まさに知るべきである。釈尊・天台大師・伝教大師の三人に日蓮を入れて四人として、日蓮こそ末法に出現した法華経の行者であることを。なんと喜ばしいことか、「況や滅度の後をや」の経文に我が身が当たっているのである。なんと悲しいことか、国中の諸人が無間地獄に入るであろうことは。繁雑になることを避けて、このことを細かには記さない。心をもってこのことを推し量りなさい。
  文永十一年甲戌正月十四日      日 蓮  花 押
 一切の諸人はこの書を見聞いて、志ある人々は互いにこのことを語りなさい。

仏記
 仏の未来記。予言する経文。
―――
九横の大難
 大智度論等に述べられている釈尊が在世中に受けた九つの大難。諸説あるが、日蓮大聖人は次の九つを挙げておられる。
  1.孫陀利の謗。     外道にそそのかされた孫陀利という女が、釈迦と関係があったといいふらして謗ったこと。
  2.金鏘。        下婢の真心からした、腐って臭い米の汁の供養に対し、その果報を説いた釈尊が一人のバラモンから嘘だと謗られたこと。
  3.阿耆多王の馬麦。   釈尊が五百人の僧とともにバラモン種の阿耆多王の招きに応じて赴いた時、食事が出されなかったために九十日間、馬の餌の麦を食べて飢えをしのがなければならなかったこと。
  4.瑠璃の殺釈。     多くの釈迦族の人々が波瑠璃王によって虐殺されたこと。
  5.乞食空鉢。      釈尊がバラモン城で乞食しようとした時、王は民衆に布施と法を聞くことを禁じたため、鉢が空であったこと。
  6.旃遮女の謗。     バラモンの旃遮女が腹に鉢を入れて、釈尊の子を身ごもったといって誹謗したこと。
  7.調達が山を推す。   提婆達多が耆闍崛山から釈尊めがけて大石を落とし、その飛び散った小片によって釈尊の足の指から血を出したこと。
  8.寒風に衣を索む。   冬至前後の八夜、寒風が吹きすさんだ時、釈尊が三衣を索めて寒さを防がねばならなかったこと。
  9.阿闍世王の酔象を放つ。提婆達多にそそのかされた阿闍世王が、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたこと。
―――
讒奏
 讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。
―――
武蔵の前司
 武蔵国の前の国司、北条宣時(1238~1323)のこと。は文永4年(1267)6月に武蔵守に任じられ、同10年(1273)までその職にあった。その間、竜口の法難に際して、大聖人の身柄の保護監督にあたる「預り役」となっており、佐渡での大聖人の配所は宣時の知行地である。後に連署にまでに進んだ幕府内の実力者であったが、武蔵守当時、三度にわたって私製の御教書を発して大聖人の外護を禁ずるなど、佐渡在住中の大聖人を迫害しつづけた。
―――
佐土の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
―――
炳誡
 きびしくいましめること。
―――
交名
 文書に人名を書き連ねること。また、その人名を列記した文書。
―――
観恵
 北条宣時自身を示す署名とする説や、宣時の秘書役の名とする説があるが明らかではない。
―――
依智六郎左衛門尉
 本間六郎左衛門尉重連のこと。北条宣時の家人で佐渡国の守護代であったが、本館が相模国依智(神奈川県厚木市依智)にあったことからこう呼ばれた。佐渡に流された日蓮大聖人を預かっていたが、塚原問答後の予言の的中により大聖人に帰伏したといわれる。
―――
阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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 末法において「法華経の行者」と称しうるのは、日蓮大聖人唯一人であることを明かされる。
 「仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し其の時の大難・在世に超過せん」とあるように〝仏記〟すなわち、仏の未来記によれば、末法に入って「法華経の行者」が必ず出現するが、その時には、仏が受けた大難をはるかに超える大難が、その法華経の行者に競い起る、と予言されている。
 〝仏記〟とは、釈尊が記し置いた法華経の文であることはいうまでもない。
 例えば分別功徳品には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」とあり、末法に法華経の行者が出現することが示されている。
 また、仏の受けた大難を超える大難が競い起こることについては「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」との法師品の文がそれであり、勧持品には、八十万億那由佗の菩薩達が、未来末法を予言して述べた〝二十行の偈〟の中に、〝三類の強敵〟としてはっきり記されている。
 問題は、〝仏記〟のとおり、いったいだれが法華経の行者として、仏在世のそれを超えるような大難を受けたか、ということであろう。
 これを明らかにするために、まず、仏・釈尊の九横の大難を挙げられ、「記文の如くんば天台・伝教も仏記に及ばず」と。天台大師・伝教大師が法華経のゆえに受けた難といえども、仏の九横の大難には及ばないことは明白である。「之を以て之を案ずるに」とあるように、仏は明確に説かれているのに、これまで、それに当たる人はあらわれていない。今すでに末法であり、仏の予言が偽りであるわけがないから、今、末法の始めにあたって、九横の大難を超える大難を受ける法華経の行者が出現しなければならないと述べられ、暗に、日蓮大聖人その人であることを示唆されている。
 そしてその証拠として、文永10年(1273)12月7日に、武蔵の前司である北条宣時が佐渡の国に下した命令の文書を挙げられている。
 この文書は、当時の人々が、日蓮大聖人とその弟子檀那を陥れるためになした根拠のない訴えを北条宣時が真に受けて、大聖人に対し、大変な瞋をいだいて発したものである。内容は、佐渡の国に流された日蓮が、弟子達を引き連れて悪行をたくらんでいるとの風聞があるから、日蓮に随う者を厳しく取り締まるよう指示し、それでもなお、違反する者があるならば、名前を書いて鎌倉に届け出るよう命令している。
 日蓮大聖人は、この文書中の〝悪行を巧む〟との讒言を、釈尊が在世中に蒙った〝瞿曇は悪人なり〟との外道の讒言と並べ合わせ、仏と同じ大難を受けた証拠とされている。
 さらに、仏の九横の大難以上の難を受けたことについては「九横の難一一に之在り、所謂琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣とは仏世に超過せる大難なり」と、明確に述べられている。
 すなわち、九横の大難に匹敵する難を日蓮大聖人は悉く受けたが、なかでも、琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣に関しては、仏に超過する大難を受けたと断言されている。
 「琉璃殺釈」とは、波瑠璃王によって、釈迦族が全滅させられた事件であるが、釈尊自身は殺されるという危難にはあっていない。
 これに対し、日蓮大聖人は、竜の口の法難で、権力者が頸をはねようとしたのである。これは、釈尊の「琉璃殺釈」よりは大きい難である。また、小松原法難で、御自身は傷を負われ、鏡忍房や工藤吉隆が殺されたことも、この中に含まれるであろう。
 また、「乞食空鉢」とは、釈尊が乞食行をしてバラモン城に入ろうとしたとき、王は民衆が釈尊に帰依することをねたんで、布施したり法を聞く者に罰金を課した。そのため、民衆は全て家の門を閉じて布施する者がなく、釈尊の鉢は空鉢であったという。釈尊の場合は、たまたま、バラモン教を信ずる国ではこの難を受けたが、その他の所、とくに王自ら仏教に帰依している国では、王族以下万民から尊敬されていた。
 日蓮大聖人の場合は、佐渡流罪の身であるうえ、その佐渡の人々に〝日蓮を助けてはならない〟という触が回されたのであるから、釈尊の場合とは比較にならないほど厳しい状況であった。
 次の「寒風索衣」についても、厳寒の佐渡での流罪生活は、インドの釈尊のそれをはるかにしのぐ苛酷さであったことはいうまでもない。
 以上の点において、大聖人は「仏世に超過せる大難」を受けたと断言されているのである。
当に知るべし三人に日蓮を入れ四人と為して法華経の行者末法に有るか、喜い哉況滅度後の記文に当れり悲い哉国中の諸人阿鼻獄に入らんこと
 これまでに述べられたことから、日蓮大聖人こそ末法の法華経の行者であることを結論されている。
 この御文の前で、末法において、法華経を弘通するゆえに仏在世の大難を超える留難を蒙ったのは、日蓮大聖人以外にないことを論証されたが、それには喜ばしい面と悲しい面の両面があることを述べられている。
 すなわち、仏、天台大師、伝教大師の三人の法華経の行者に、日蓮大聖人御自身を加えられて「法華経の行者末法に有るか」と述べられ、大聖人こそ末法の法華経の行者であることを明確に示されている。これは「喜い哉況滅度後の記文に当れり」と、日蓮大聖人が法華経の行者であり、末法の仏であられる一面である。これほど喜ばしいことはない。しかし、また反面、大聖人が法華経の行者たるためには、大聖人に迫害を加えた人がいるわけで、これらの人は、もし悔い改めて正法に帰依することがなければ、無間地獄の苦におちなければならない。これほど悲しいことはないとの大慈悲の御言葉である。これらの両面を挙げて述べられている御言葉の奥に、大聖人の烈々たる御本仏としての御確信が拝せられるのである。

0968~0968    富木殿御返事top
0968:01~0968:09 第一章 経典を引き母の恩を示すtop
0968
富木殿御返事    文永十二年    五十四歳御作
01   富木殿御返事                                   日蓮
02   帷一領給び候い畢んぬ、 夫れ仏弟子の中・比丘一人はんべり、飢饉の世に仏の御時事かけて候いければ比丘袈
03 裟をうて其のあたいを仏に奉る、 仏其の由来を問い給いければ・しかじかとありのままに申しけり、仏云く「袈裟
04 はこれ三世の諸仏・ 解脱の法衣なり、 このあたひをば我ほうじがたし」と辞退しましまししかば此の比丘申すは
05 「この袈裟あたひをば・いかんがせん」と申しければ、 仏の云く「汝悲母有りや不や」答えて云く「有り」仏云く
06 「此の袈裟をば汝母に供養すべし」此の比丘・ 仏に云く「仏は此れ三界の中第一の特尊なり一切衆生の眼目にてを
07 はす、 設い十方世界を覆う衣なりとも大地にしく袈裟なりとも能く報じ給うべし、 我が母は無智なる事牛のごと
08 し羊よりもはかなし いかでか袈裟の信施をほうぜん」と云云、 仏返して告げて云く「汝が身をば誰か生みしぞや
09 汝が母これを生む 此の袈裟の恩報じぬべし」等云云、 
-----―
   富木殿御返事                                  日蓮
 帷一着を受け取りました。そもそも、仏弟子のなかに一人の僧がおられた。飢饉の世に仏がいらした時、物がなくて不自由していたので、僧は袈裟を売ってその代金を仏に差し上げた。仏がその由来を問われたので、かくかくしかじかとありのままに申し上げた。
 仏は「袈裟は三世の諸仏の解脱のための法衣である。この代金に報いる力は私にはない」といって辞退されたので、この僧は「この袈裟の代金をいかがいたしましょう」と申し上げたところ、仏は「あなたに悲母はいるかどうか」と尋ねられた。「います」と答えると、仏は「この袈裟をあなたは母に供養するがよい」といわれた。
 この僧は仏に「仏は三界のなかで最も尊い方です、一切衆生の眼目であられます。たとえ、あらゆる世界を覆うような衣であっても、大地に布きみつるような袈裟であっても、よく報じられることでしょう。私の母は無智であることは牛のようであり、羊よりも浅はかです。どうして袈裟の施物に報いることができましょう」といった。仏は返事して「あなたの身をだれが生んだのか。あなたの母親が生んだのである。この袈裟の恩に十分報いられている」といわれた、ということである。


 夏の着物の一種。「片方」の意で、古くは衣服に限らず裏のつかないものの総称であった。それが、平安中期には公家装束の下着である単小袖をさすようになり、小袖が男女の表着となると麻や絹縮みの単衣を帷と呼ぶようになった。
―――
一両
 一着
―――
袈裟
 梵語カシャーヤ(Kaṣāya)の音写。加沙野・迦沙とも書く。濁・不正色・壊色と訳す。壊色とは、五正色と五間色とを離れた混濁した色。古来インドでは白色が尊ばれたが、僧は在家の白色や正色、単純色を嫌い糞掃衣の色や泥色を衣に使用した。この泥色が日本に入ってきて薄墨色となった。大聖人御在世当時は天台宗の僧がこの薄墨色の衣を使用していた。インドの僧団でこの壊色の衣服を法衣と定めたことから、法衣をさしていうようになった。細長い布を縫い合わせて長方形につくり、左肩から右の脇の下にかけて被うもの。縫い合わせた布の条数から大衣、上衣、中衣の三種に別けられ、総称して三衣という。中国・日本では寒冷なため袈裟の下に衣を着すようになり、それが法衣に変遷したので、袈裟は仏教の標幟として用いられるものとなった。
―――
三世の諸仏
 過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
―――
解脱
 梵語で(Vinukti)。煩悩の束縛から脱して、憂いのないやわらかな境涯に到達するという意味。
―――
三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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信施
 信者が仏・法・僧の三宝に供養したもの。
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 本抄は文永12年(1275)2月7日、富木常忍が大聖人に帷を御供養したのに対し、その功徳を説かれた御返事である。御真筆が存している。
 帷は裏地のない夏用の和服である。旧暦の2月は現在の3月ころで、夏に向かい暖かさの増してくるころである。そうした時にあたって、富木常忍は大聖人に帷を御供養したものであろう。他の御書をみても、このころに夏着を供養されている例が多い。また衣に着添えられたこともあったのであろう。
 富木常忍の御供養といっても、本文に述べられているように、90歳にもなる母が作ったものである。そこで大聖人は、供養の功徳とともに、母の恩を、経典の説話をとおして教えられているのである。短いなかにも、大聖人の温かい慈悲にあふれた、味わい深いお手紙である。
 最初の段では、仏典の説話を例示されている。ただ、この説話の出典については、何に依られたものであるかは不明である。
 飢饉の時に、一人の比丘が袈裟を売って、代価を仏に奉ったが、仏は由来を聞いて受け取らず、比丘の母に供養させたという話である。この話は、富木常忍が大聖人に対してした供養とは異なる内容である。比丘が袈裟を売ったのに対し、富木常忍は帷を供養しているからである。しかし、袈裟の尊いこと、親の恩の大きいことを教えているこの説話は、富木常忍に対して大切な示唆となるものである。そこで大聖人は、この話を引かれたのであろう。
 比丘が袈裟を売って仏を助けようとしたと述べられているのは、釈尊の教団も幾度か経済的な苦境に陥ったことがあると推察させる。天候の不順によって飢饉がしばしば起こったこと、釈尊の教団の伸長を喜ばないバラモンを中心とした勢力の迫害等、さまざまな要因があったであろう。教団には自らの収入はない。乞食等によって供養をうけるのみである。したがって、飢饉などによって在家の側に供養する余裕がなくなると、大きな影響を受ける。またバラモン等が大衆にあらかじめ供養しないように圧迫すると、供養を受けられなくなるのである。
 釈尊の受けた九横の大難のなかにも、バラモン城における乞食の際、空鉢であったこと、また臭い米汁を受けバラモンから謗られたこと、また90日間、馬の麦を食べざるをえなかったことの三つが、こうした類のものとして挙げられている。
 仏として尊敬され、また頻婆娑羅王等の諸王に護られた釈尊の教団でさえそうである。それに対し日蓮大聖人の一門は、権力者による庇護はもちろんない。逆に迫害されることのみであられた。そのなかでの窮迫は、釈尊の教団のそれを超えるものがあったであろう。そうしたなかでは、富木常忍のような在家の信者の供養のみが、大聖人をお護りし、一門を支えていくことになったのである。その意味からも、富木常忍らの供養の功徳は計り知れないものがあるといえるだろう。
 さて、釈尊の窮状を見兼ねた比丘は、袈裟を売って釈尊に供養しようとするが、釈尊はそれを受け取らない。ここでは袈裟の価に報ずることはできないからという理由が示されているが、それは袈裟が三世の諸仏の解脱の法衣だからである。比丘の釈尊を助けようとする志は尊いが、釈尊は、自らが袈裟の尊さに値しないと断わられる。そして、そのお金をどうしたらいいかわからないで困っている比丘に、釈尊は、それを比丘の母に供養すべきことを教える。
 比丘は、仏は智者であり、袈裟の代価に十分報ずる力をもっておられるが、母は無智であり、報じられるはずがないと考える。それに対して仏は、比丘を生んだ母こそ、袈裟の恩にすでに値する大恩の人であると教えている。
 比丘は母を、智者か無智かという尺度で計っている。そのゆえに、仏とは比べものにならないと考えるのである。それに対し釈尊が教えているのは、親の恩である。また比丘を生み出した親の徳である。この親の恩を忘れている比丘の誤りを、釈尊は教えたのである。ここには、仏法が親の恩の大きさ、高さという、人間としての基本的なあり方を何よりも大切にすることが示されている。

0968:09~0968:15 第二章 供養の功徳を教えるtop
09                           此れは又齢九旬にいたれる悲母の愛子にこれをまいらせさ
10 せ給える我と両眼をしぼり身命を尽くせり、 我が子の身として此の帷の恩かたしと・をぼして・ つかわせるか日
11 蓮又ほうじがたし、 しかれども又返すべきにあらず此の帷をきて日天の御前にして 此の子細を申し上げば定めて
12 釈梵諸天しろしめすべし、 帷は一なれども十方の諸天此れをしり給うべし、 露を大海によせ 土を大地に加るが
13  ごとし生生に失せじ世世にくちざらむかし、恐恐謹言。
14       二月五日                        日 蓮 花押
-----―
 これはまた歳が九十になっている悲母が、愛子に帷を差し上げられたのである。自ら両眼を無理し、身命を尽くして作られたことであろう。富木殿は子の身としてこの帷の恩は報じがたいと思ってよこされたのであろうか。日蓮もまた報じがたい。しかしながら、かといって返すべきではあるまい。この帷を着て、日天の前でこのくわしい事情を申し上げれば、きっと帝釈・梵天・諸天善神も知られることであろう。帷は一つであっても、十方世界のあらゆる諸天善神がこのことを知られるであろう。露を大海に入れ、土を大地に加えるようなものである。生生に失われないし、世世に朽ちないであろう。恐恐謹言。
  二月五日               日 蓮  花 押

齢九旬
 旬は10を意味する。したがって90歳のこと。
―――
日天
 日宮殿に住む天人のこと。日天子・大日天・日宮天子・宝光天子などともいう。太陽を神格化したもので帝釈天の内臣とも観音菩薩・大日如来の化身ともされる。密教では十二天の一つで胎蔵界漫荼羅の外金剛部院東方に位置する。日蓮大聖人は諸天善神の一つに数えられており、本尊の中にもしたためられている。
―――
釈梵
 帝釈天と大梵天のこと。①帝釈・釈王ともいう。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakra-devānām-indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。②大梵天・仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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 富木常忍が帷を供養したいきさつとして、常忍の母が、愛する子である常忍に「我と両眼をしぼり身命を尽く」して縫い上げた帷を与えたが、富木常忍はそれほどまでにして完成させた帷はもったいなくて受けられず、大聖人に御供養したのであろうといわれている。あるいは、たんに母が作ったとして富木常忍が御供養したのに対し「おそらくお母さんは息子である常忍のために作られたのではないか」と推測されたのかもしれない。
 「御衣並単衣御書」には「この衣をつくりてかたびらをきそえて法華経をよみて候わば」(0971)とあり、また「単衣抄」にも「此の帷をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば」(1515)とあって、通常、行住坐臥に用いられていたことがわかる。
 ともあれ、富木常忍が供養した帷は、90歳という高齢の母が目に無理をかけ身体をいためて精魂傾けて縫い上げたものである。そのゆえに大聖人は、「日蓮又ほうじがたし」といわれているのである。人の労作業の尊さを大聖人がいかに大事にされたかがうかがわれる。
 それほどに尊いものではあるが、だからといって返したならば、富木常忍、そしてその母の、せっかくの好意を無にしてしまうことになる。「此の帷をきて日天の御前にして此の子細を申し上げば」といわれているのは、この供養にこめられた無二の志が諸天を動かし、諸天の加護があることは疑いないということである。
 「十方の諸天此れをしり給うべし」とあるのは、供養の志は全宇宙に及び、宇宙全体に瀰漫する利益の力を呼び起こさずにはいられないのである。しかもその功徳は、生生世世に朽ちることはないのである。
 本抄に限らず大聖人は、門下の供養に対し、さまざまな譬え、経典の説話等を引いて、そのつど供養の功徳の大きさを教えておられる。大聖人への純真な志もさることながら、こうした大聖人の懇ろな御指南にふれ、人々はますます大きな喜びに包まれ、信心を深めていったことであろう。

0969~0970    富木殿御書(止暇断眠御書)top
0968:09~0968:15 第一章 謗法の悪業深重を示すtop
0969
富木殿御書    建治元年   五十四歳御作   与富木常忍
01   妙法蓮華経の第二に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗し経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉
02 して結恨を懐かん 其人命終して阿鼻獄に入らん 乃至是の如く展転して無数劫に至らん」第七に云く「千劫阿鼻獄
03 に於てす」第三に云く 「三千塵点」第六に云く「五百塵点劫」等云云、 涅槃経に云く「悪象の為に殺されては三
04 悪に至らず 悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云、 賢慧菩薩の法性論に云く「愚にして正法を信ぜず邪
05 見及びキョウ慢なるは 過去の謗法の障りなり不了義に執着して供養恭敬に著し唯邪法を見て善知識に遠離して謗法
06 者の小乗の法に楽著する是の如き等の衆生に親近して大乗を信ぜず故に諸仏の法を謗ず、智者は怨家・蛇・火毒・因
07 陀羅・霹靂・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、 彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入ら
08 しむること能わず、 畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して 人をして畏るべき阿鼻獄に入らし
09 む、 悪知識に近づきて悪心にして仏の血を出だし及び父母を殺害し 諸の聖人の命を断じ和合僧を破壊し及び諸の
10 善根を断ずると雖も 念を正法に繋ぐるを以て能く彼の処を解脱せん、 若し復余人有つて甚深の法を誹謗せば彼の
11 人無量劫にも解脱を得べからず、 若し人衆生をして是の如きの法を覚信せしめば 彼は是我が父母 亦是れ善知識
12 なり、 彼の人は是智者なり如来の滅後に邪見顛倒を廻して 正道に入らしむるを以ての故に三宝清浄の信・菩提功
13 徳の業なり」等云云、 竜樹菩薩の菩提資糧論に云く「五無間の業を説きたもう乃至若し未解の深法に於て執着を起
14 せるは○彼の前の五無間等の罪聚に之を比するに百分にしても及ばず」云云。
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 妙法蓮華経の第二の巻に「もし人が信じないで法華経をそしり、この経を読誦し書持する者を見て、軽んじ賎しめ憎み嫉んで恨みを懐くならば、その人は死んで阿鼻地獄に入るであろう。(中略)そのように阿鼻地獄に生まれることを繰り返して無数劫にいたるであろう」とあり、第七の巻に「千劫の間、阿鼻地獄において大苦悩を受けた」とあり、第三の巻には「三千塵点劫の間、成仏できずにいた」とあり、第六の巻には「五百塵点劫の間、六道に堕してきた」等とある。涅槃経には「悪象のために殺されたときは三悪道に堕ちない。悪友のために殺されたときは必ず三悪道に堕ちる」等とある。
 賢慧菩薩の宝性論には「愚かで正法を信ぜず邪見および憍慢なのは過去の謗法の罪障である。不了義に執着して供養恭敬されることに著し、ただ邪法に眼を向けて善知識から遠ざかり離れて、謗法の者で小乗の法に執着するような衆生に親しみ近づいて大乗を信じない。ゆえに諸仏の法を誹謗するのである。智者は、怨をなす敵人や、蛇、火の毒、雷神、雷、刀や杖、諸の悪獣、虎、狼、師子等を畏れるべきではない。それらはただ命を断つのみで、人を畏るべき阿鼻地獄に入れることはできない。畏るべきは深遠な妙法を謗ることと謗法の友人である。かならず人を畏るべき阿鼻地獄に入れる。仏道修行を妨げる者に近づき、悪心をいだいて、仏の血を出だし、父母を殺害し、諸の聖人の命を断ち、和合の教団を破壊し、諸の善根を断つとしても、一念を正法につなげ置くことによって、よくあの阿鼻地獄を脱れ悟りを得るであろう。またもし、他の人がいて甚深の正法を誹謗するならば、その人は量り知れないほどの長遠の時を経ても苦を脱れ悟りを得ることはできない。もし人が衆生にそのような正法を覚知させ信じさせるならば、彼は父母であり、また善知識である。その人は智者であり、如来の滅後に邪見、顚倒を正して正道に入れるがゆえに、三宝に対する清浄の信をもち、悟りを得させる功徳の所作をなす者である」等とある。竜樹菩薩の菩提資糧論には「五逆罪による無間地獄の業を説かれている。(中略)もし未だ理解していない深遠の法に対して、執着を起こして仏説でないというのは○前の五逆による無間地獄等の罪を集めて、この罪に比べると百分の一にも及ばない」とある。

阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
三千塵点
 三千塵点劫のこと。法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講(ふっこう)し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
―――
五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
三悪
 三悪道・三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
―――
悪友
 悪知識と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。
―――
賢慧菩薩
 生没年不明。堅慧菩薩とも書く。六世紀ころの中インドの学僧といわれ、「究竟一乗宝性論」の著者とされるが、異説も多い。他に「大乗法界無差別論」一巻を著したといわれる。
―――
法性論
「究竟一乗宝性論」四巻のこと。宝性論と通称される。著者は堅慧といわれるが、弥勒とする説もある。内容としては一切衆生に仏性があるとして二乗、も成仏することができると主張している。
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憍慢
 自らおごり高ぶって正法をあなどること。十四誹謗の第一。
―――
不了義
 仏法の道理が完全明瞭に説きつくされていないこと。
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善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
怨家
 自分に対して怨をなす敵人のこと。互いに怨みあっている者。
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因陀羅
 梵語インドラ(Indra)の音写で、主・帝と訳す。仏教では帝釈天として諸天善神の一つに数えられているが、仏教以前には雷・風雨を司る雷神とされていた。
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霹靂
 雷、雷鳴のこと。
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悪知識
 善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
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三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
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菩提
 菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
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 ①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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菩提資糧論
 六巻。竜樹の作といわれる本頌と自在比丘の長行釈より成る。中国・隋代の達摩笈多訳。内容は菩提を得るための資糧を論じ、種々の修行を説いている。
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五無間の業
 五無間は五つの無間地獄に堕ちる重罪で、五逆罪と同じ。このうち一つでも犯せば無間地獄に堕ちるため、五つの無間の重罪・五無間といわれている。すなわち無間地獄に堕ちる業因のこと。
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罪聚
 罪業が集まること。
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 本抄は建治元年(1275)8月23日、身延の地より富木常忍に与えられた御抄とされている。御真筆が存している。しかし御真筆には「八月二十三日」とあるだけで年号の記載はない。そこで建治元年(1275)のほか、建治2年(1276)の説もある。また文永10年(1273)11月3日の「土木殿御返事」の花押に極めて似ているところから、文永10年(1273)8月23日の御抄とする説もある。本抄は漢文で書かれており、佐渡から富木常忍にあてられたお手紙は漢文ばかりで、身延からのものは半漢・半和文であることも、文永10年(1273)説の根拠である。
 本抄は謗法の恐ろしさ、悪知識に紛動されてはならないことを強調され、日本国の諸宗が弘法・慈覚・智証に影響を受けて謗法に陥っていることを嘆かれている。しかし本抄の最後では「問うて云く」として、各宗の先徳がこの三大師を信じ崇めているではないかとの疑難を挙げたままで終わられ、この重大な問題について「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ」と、門下の人々に研鑽をゆだねられている。そこで本抄の別名を「止暇断眠御書」とするのである。
謗法・悪知識について
 本抄は、まず冒頭に経論を挙げて、謗法を畏れなければならないことを教えられている。
 最初の譬喩品の文は、法華誹謗の者が無間地獄に堕ちることを説いた有名な文である。この文のあとには、無間地獄を免れたあとも、蜒々と苦報を受けなければならないことが説かれている。蛇身となって小虫に蝕まれたり、野犬として人々から嫌悪されることなどが例として挙げられている。そこに説かれているのは、総体としては、人々から嫌われる姿である。人の生き方について正しく説いた法、またそれを修行する人々を軽蔑したり恨んだりする人は、因果の厳しい理法によって、今度は、人々から嫌われる報いを受けなければならないのである。謗法の果報の一つは、人々から最も嫌われる存在になるということなのであろう。
 次の「千劫阿鼻獄」の文は、常不軽菩薩が人々の仏性を敬って但行礼拝したのを、上慢の四衆が杖木瓦石の迫害を加えたことにより、後に千劫阿鼻地獄に堕ちたことを指している。ここで大切なのは、この四衆は最初、不軽菩薩を誹謗したが、のちにその正しさを知って、信伏随従したにもかかわらず、わずかに残った罪のため千劫の間、阿鼻獄に堕ちたことである。正法誹謗のいかに恐ろしいかを示した文である。
 次の三千塵点、五百塵点は、久遠の昔に正法を聞きながら退転して仏道を成ずることのできなかった衆生を指している。釈尊は久遠五百塵点劫の成道の際、衆生を教化した。そのとき、不退、退大、未発心の三種の衆生がいた。法を聞いて退転しなかった人、法を信じたが後に退転した人、最初から発心しなかった人である。この第二、第三の人は苦悩の世界に沈んでいったのである。
 その後、三千塵点劫に至って、大通智勝仏の十六王子の教化に巡りあったが、五百塵点劫の下種を思い出した衆生は仏道に入り、そこでも、不退の人は成仏したが、退転した人もおり、この退転した人と、思い出さず発心しなかった衆生はまた、今日の釈尊の出世まで苦業を受けなければならなかったのである。法華経の説くところによれば、この衆生は寿量品に至ってことごとく妙覚の位を得たとされるが、根本は南無妙法蓮華経を悟ったゆえであることはいうまでもない。
 次の涅槃経の文は、悪知識を恐るべきことを説いたものである。悪象に殺されるとは、物理的な力により我が身が破壊されることを意味するのであろう。それに対し悪友に殺されるとは、悪友は仏法上の悪友、すなわち悪知識であるから、悪知識により我が心が破壊されるのである。仏法を破壊する悪知識に紛動されることの恐ろしさを教えたものである。
 賢慧菩薩の宝性論には、この点がさらに詳細に説かれている。謗法の果報は三世にわたるものであり、愚癡、不信、邪見、憍慢、執着等がそのあらわれであり、永劫にその苦しみを繰り返していかなければならないものであるから、智者たるものは、世のさまざまな災害、暴力等を恐れるよりも、謗法と、それをそそのかす悪知識を恐れなければならないと力説している。なぜなら、災害、暴力等は命を断じても阿鼻獄に堕とすことはないが、悪知識は人を阿鼻獄に堕とすからである。
 さらに同じ無間地獄に堕ちる業でも、五逆罪の場合は、正法に信をつなぐことにより無間地獄を脱することができるが、誹謗正法により無間地獄に堕ちたものは、苦を脱れて悟りを開くことができないと、論を進めている。
 したがって、人々を正法に目覚めさせる善知識の尊さと、その功徳の大きさは計り知れないのである。
 最後の竜樹の菩提資糧論は、五逆罪による無間地獄の業を百集めても、一つの謗法に及ばないと決している。
 これらの経論はいずれも謗法の罪の大きいことを明確に述べた例であるが、大聖人は四箇の格言等をもって厳しく諸宗を責められたのは、じつにこの誹謗正法を、諸宗が犯しているゆえなのである。小乗・権大乗・法華経迹門等が、正像年間を過ぎて末法に至っては、功力のないのはもちろんであるが、そのうえに、仏の本懐たる法華経を誹謗しているところに、誤りの最たるものがあることを知らなくてはならない。
 また、謗法とともに悪知識をいかに恐るべきかを説いた経論を引いておられるのは、人々に、いつのまにか謗法を犯させている悪知識の存在こそ、最大の悪の根源であることを教えられているのである。法然しかり、弘法、慈覚、智証しかりである。人々から尊敬を受けているようでありながら、仏法の眼からみれば、最大の悪人なのである。
 悪知識は、それを悪知識と見破れば、悪知識ではない。強盛な信、智慧の持ち主にあっては、かえって善知識ともなるのである。そこで大事なことは、それを見破る賢明さであり、大聖人が本抄の末尾で、我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇をとどめて思索・究明せよといわれている意味はそこにある。

0969:15~0970:03 第二章 賢聖の謗法懺悔を挙ぐtop
15   夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く 大火は小水を畏怖し大樹は小鳥に値いて枝を折
0970
01 らる智人は恐怖すべし大乗を謗ずる故に、 天親菩薩は舌を切らんと云い 馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い吉蔵大師は
02 身を肉橋と為し 玄奘三蔵は此れを霊地に占い不空三蔵は疑いを天竺に決し 伝教大師は此れを異域に求む皆上に挙
03 ぐる所は経論を守護する故か。
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 さて賢人は安全な所に居ても危険にそなえ、よこしまで愚かな人は危険な状態にあっても安穏を願う。大火は少しの水をも畏れ、大樹は小鳥にあっても枝を折られる。智人は大乗を誹謗することを恐れるのである。そこで天親菩薩は舌を切ろうといい、馬鳴菩薩は頭を刎ねようと願い、吉蔵大師は身を橋となし、玄奘三蔵は何が正法かをインドの霊地において占い、不空三蔵はその疑いをインドに行って解決し、伝教大師はこれを求めて中国に行った。みな以上にあげた事柄は経論の正義を守護するためであった。

佞人
 よこしまな智慧の人。口先がうまく、こびへつらう人。
―――
天親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
馬鳴菩薩
 2世紀ころ、中インドに出現したといわれる大乗の論師。付法蔵の第十二祖・アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)のこと。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。馬鳴菩薩の頭を刎ねられることを願ったという話は、いずれの出典によるか明らかでない。
―――
吉蔵大師
 (0549~0623)。中国・隋・唐代の人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。吉蔵が身を肉橋とした話は、法華文句輔正記巻三に吉蔵が天台大師に対して身を肉隥として高座に登らせた、とあることによると思われる。隥とは、はしごの意。
―――
玄奘三蔵
 (0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
―――
不空三蔵
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。のちにスリランカに行き密教経典を集め、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など110部百433巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力、没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
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夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く
 この御文のそのままの意味は、賢人は、安穏なところにいても、いつ危険がくるかと慮るが、愚かな人は、自らが危険なところにいるのにそれを察知して対処しようとせず、安穏であることを願うということである。賢人か愚人かの分かれ目は、未来を考え自らが今どういうところにいるかを知っているか否かにあるという教えである。
 賢人は、今が安穏であっても、それがやがて崩れ危険な状態になることを見抜いて、常に準備しているのである。したがっていつ災難が襲いきたっても、それをかねてからの存知のこととして受け止め、乗り越えていくのである。
 愚人は、危険な状態にあっても気づかず、対処しようともしないばかりか、安穏であることを願っているのである。
 ここでこういうことをいわれているのは、前に引用された経論と関連している。すなわち、賢人は正法を持って安穏の境地にいても、つねに厳しく謗法を戒め、謗法を犯して苦道に陥ることのないよう、心を配っているということである。
 それに対し、邪智で愚かな人は、すでに謗法を犯して無間地獄に堕ちようとしていても、その自分の誤りに気づかないでいるということである。
 大聖人が天親以下の例を挙げられているのは、真実の求道の人は謗法を最も恥とし、また正法を護持していても、常に誤りがないかと自問し、生涯求道を続けるものであることを示さんがためである。
 天親、馬鳴、吉蔵の例は、自らの謗法を恥じたものである。馬鳴の例は出典が明らかでないが、外道を信じていて仏法と論じ、負けたとき、自らの謗法の大きさを自覚していったということであろう。吉蔵は般若第一を立てていたが、天台大師に信伏し、前非を悔いて、身を肉橋としたのである。
 玄奘、不空、伝教は、求道のために、遠く旅した例である。玄奘は法相宗、不空は真言宗の祖で、ともに正法の伝灯者とはいいがたいが、ここでは経論を求めていったその求法の情熱をいわれているのであろう。伝教大師についてはいうまでもない

0970:04~0970:18 第三章 真言三師の謗法根源を明かすtop
04   今日本国の八宗並びに浄土.禅宗等の四衆上主上・上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く弘法.慈覚・智証
05 の三大師の末孫・檀越なり、円仁・慈覚大師云く「故に彼と異り」円珍・智証大師云く「華厳・法華を大日経に望む
06 れば戯論と為す」空海弘法大師云く「後に望むれば戯論と為す」等と云云、此の三大師の意は法華経は已・今・当の
07 諸経の中の第一なり然りと雖も 大日経に相対すれば戯論の法なり等云云、此の義心有らん人信を取る可きや不や。
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 いま日本国の俱舎・成美・律・法相・三論・華厳・天台・真言の八宗と浄土宗・禅宗等の出家在家の男女は、上は天皇・上皇から下は臣下・万民にいたるまで一人も漏れなく弘法・慈覚・智証の三大師の末孫であり、檀家である。慈覚大師円仁は「華厳等の経は如来の秘密の教えを説き尽くしていないがゆえに真言教とことなるのである」といっている。智証大師円珍は「華厳経や法華経を大日経に対すれば、それらは無益な経論である」といっている。弘法大師空海は「法華や華厳等は後の真言に対すれば無益な経論である」等といっている。この三大師の意は、法華経は已説・今説・当説の諸経の中の第一であるけれども、大日経に相対すれば無益な経論である、ということである。この義を心ある人は信ずべきであろうか。
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08   今日本国の諸人.悪象.悪馬・悪牛.悪狗.毒蛇.悪刺.懸岸.険崖.暴水.悪人.悪国.悪城.悪舎・悪妻.悪子.悪所従等
09 よりも此に超過し以て恐怖すべきこと百千万億倍なれば持戒・ 邪見の高僧等なり、 問うて云く上に挙ぐる所の三
10 大師を謗法と疑うか叡山第二の円澄寂光大師.別当光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都.檀那僧
11 正・慧心先徳・此等の数百人、弘法の御弟子実慧・真済・真雅等の数百人並びに八宗.十宗等の大師先徳・日と日と.
12 月と月と・星と星と・並びに出でたるが如し、 既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑わず汝
13 何なる智を以て之を難ずるや云云。
14   此等の意を以て之を案ずるに我が門家は夜は眠りを断ち 昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆ
15 ること勿れ、恐恐謹言。
16       八月二十三日                             日 蓮 花 押
17     富 木 殿
18   鵞目一結給び候畢んぬ、志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか。
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 いま日本国の諸人が悪象・悪馬・悪牛・悪犬・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも百千万億倍超えて恐るべきものは、戒を持つ邪見の高僧等である。
 質問していう。上に挙げた三大師の義を謗法と疑うのか。比叡山第二代座主の寂光大師円澄・別当の光定大師・大楽・大師安慧・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳等の数百人、弘法の弟子の実慧・真済・真雅等の数百人、ならびに八宗・十宗等の大師や先徳は、日と日と、月と月と、星と星とが並んで出でたような方々である。すでに四百余年を経過しているのに、これらの人々は一人としてこの義を疑っていない。あなたはどのような智慧をもって、これを疑難するのか、と。
 これらの主旨からこれを考えるに、わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生を空しく過ごして、万歳に悔いることがあってはならない。恐恐謹言。
  八月二十三日            日 蓮  花 押
   富 木 殿
 銭を一結受け取りました。志ある人々は一所に集まってお聞きなさい。

八宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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上主
 天皇のこと。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。讃岐(香川県)に生れる。延暦12年(0793)勤操にしたがって出家したといわれる。延暦23年(0804)入唐し、青竜寺の慧果について密教を学んだ。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘仁14年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)円澄の跡を受け延暦寺の第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」七巻、「蘇悉地経疏」七巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来した。帰国後、貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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檀越
 布施をする在家信者のこと。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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已・今・当
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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悪狗
 人を殺害する狂暴な犬。無間の業をもつ衆生が悪犬をもって釈迦を殺害しようとしたと大集経にある。
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悪刺
 毒をもった刺のあるもの。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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円澄寂光大師
 (0771~0836)。延暦寺第二代座主。寂光大師は諡号。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「報恩抄」には「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320)とある。
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別当光定大師
 (0779~0858)。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、30歳の時に伝教大師の弟子となる。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。
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安慧大楽大師
 (0794~0868)。天台宗の僧。延暦寺第四代座主。大楽大師は山門のおくり名。河内(大阪府)に生まれ、13歳で伝教大師の弟子となり、後に円仁に師事し、止観ならびに密教を学んだ。著書に「顕法華義抄」十巻などがある。
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慧亮和尚
 (0801~0859)。天台宗の僧。信濃(長野県)に生まれ、幼くして比叡山に登り、後に円澄・円仁について顕密の法を学んだ。西塔の宝幢院に住し、同院の検校となった。
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安然和上
 (0841~)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
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浄観僧都
 (0843~0927)。天台宗の僧。増命のこと。京都に生まれ、幼くして比叡山に登り、延最に師事する。後に円珍にしたがい、延喜6年(0906)延暦寺第十代座主となった。治癒の祈祷に験があったといわれる。静観と諡された。
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檀那僧正
 (0953~1007)。日本天台宗檀那流の祖。覚運のこと。京都に生まれ、比叡山で良源に師事して天台教学を修し、後に皇慶について密教を学んだ。東塔南谷の檀那院に住していたことからこの名がある。恵心僧都源信と並び称された。著書に「玄義鈔」一巻などがある。
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慧心先徳
 (0942~1017)。日本天台宗恵心流の祖。恵心僧都源信のこと。先徳とは、徳望の高い人を尊敬していう語で、とくに亡くなった高徳の僧をいう。大和(奈良県)に生まれ、幼くして比叡山に登り、良源に師事して天台の教義を学んだ。権少僧都に任ぜられたとき、横川恵心院に住んでいたので恵心僧都と呼ばれた。著書に「往生要集」三巻などがある。
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実慧
 (786~847) 平安初期の真言宗の僧。弘法大師空海十大弟子の一人。「じつえ」ともいう。晩年に河内(大阪府)檜尾山法禅寺に隠棲したため、別名を檜尾僧都(という。空海と同じ讃岐(香川県)の出身で、幼少のころ儒学を学んだが、長じて仏道を志し、806年)空海の弟子となってからは密教の修行に励む。816年空海が高野山を開くにあたって協力し、また827年河内檜尾に観心寺を建て密教を広めた。835年の大師入定後は日本第二の大阿闍梨となり、翌年には東寺第2代長者となる。円行の入唐に際し、書と法衣を託して空海の師である恵果の墓前に供えて孫弟子の礼をとった。846年には高野山で『大日経疏』を講義し、これ以降に高野山における講義の伝統が始まった。著作は多数ある。
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真済
 (0800~860)平安時代の真言宗の僧。空海の弟子。一般に高雄僧正,紀僧正と称される。空海のあとをうけて高雄山神護寺の第2世となった。また承和3 (836) 年入唐を志したが台風のため断念。のちに東寺の長者となり僧正に進んだ。
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真雅
 (801~879)平安時代の真言宗の僧。空海の弟。兄の遺命によって,弘福寺,東寺の経蔵を管理し,東大寺の別当,さらに東寺の長者を歴任し,のちに貞観 16 (874) 年に貞観寺を創建した。 79歳で寂。諡は法光大師。
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十宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
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鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
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 日本において、人々を謗法の大罪に陥れた、最も恐るべき悪知識こそ弘法・慈覚・智証であることを指摘されている。日本国の八宗・十宗がことごとくこの3人の末孫であると述べられているが、それほど当時の密教の影響は大きかった。弘法は真言密経を立てているゆえに法華経を誹謗しているのはもちろんだが、慈覚・智証という天台宗の座主までが、真言密経を取り入れ、法華経を誹謗さえしていることは、まことに驚くべきことである。
 大聖人は三大秘法抄に「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023-01)と、天台宗の密経化を嘆かれている。
 弘法は真言を密経とし、法華経を顕教として、大日経こそが如来の真実の教えであって、応身の釈尊が説いた法華経等は戯論であると述べている。しかし、彼が根本とした大日如来こそ、たんなる法身如来であり、この世界に現実にあらわれない架空の仏なのである。大日如来とは、宇宙に根本的真理の存在することを象徴した譬喩的仏身であるともいえよう。したがって、真言の教えこそ、法華経の実義からすれば戯論にすぎない。法華経は、現実にこの世界に出現した釈尊が仏の悟りの極理を明かした、真実の如来秘密の経なのである。
 いわんや、慈覚・智証らが法華経と大日経を比較して、一念三千を明かしていることにおいて法華経と大日経は理同であり、大日経は印・真言のゆえに事勝であるなどと説くのは、憐れむべき混迷ぶりである。
 印(手を結ぶこと)や真言(呪)などは、仏法にあらざるインド外道の呪術宗教の名残りに他ならない。
 理同に至っては、善無畏等の邪義に全くのせられたものといってよい。これについては日寛上人の三重秘伝抄で破折されているが、大日経の大那羅延力をもって二乗作仏の文とするなどはこじつけ以外の何ものでもなく、法身本有を説いただけの文を久遠実成と同列に考えるのは無認識も甚だしいと断じられている。しかも法華経がこれらの義を明確に説いた経であるにもかかわらず、大日経以外の経にはこれらは明かされていないなどといっているのは誹謗正法の最たるものといわねばならない。
 さらに、これらの三人の教えを、叡山の座主・高僧、真言宗の僧等がすべて、受け入れているのは嘆かわしいかぎりである。真言宗の僧のみではなく、本来、法華経を根本と立てた天台宗までが、密教の軍門に下っていることの罪は、このうえなく重いといわなければならない。
 しかも、人々はこの邪義を、地位・名声のある人達のいうことだからというだけで、無批判に受け入れている。ここに末法の衆生の宗教観の一つがあらわれている。仏説によるのでなく、人師の言葉を用いているところに、誤りを生じた根源があるのである。
 大聖人が、最後で問いに対する答えを書かず、門家に対し、止暇断眠をもって案じていけといわれているお言葉を、心から拝していかなければならない。真言宗にかぎらず、人々を誤謬に陥れる悪知識は、いつの世にも充満しているものである。その誤りをつき、人々を正法に目覚めさせるには、不断の研鑽・実践が大切である。その使命を忘れて一生を空しく過ごしたならば、その悔いは万歳に残るとの仰せである。地涌の使命はこのうえなく大きい。

0971~0971    御衣並単衣御書top
0971
御衣並単衣御書    建治元年    五十四歳御作
01   御衣の布並びに御単衣給び候い畢んぬ鮮白比丘尼と申せし人は生れさせ給いて御衣をたてまつりたりけり、 生
02 長するほどに次第にこの衣大になりけり、 後に尼とならせ給いければ 法衣となりにけり、ついに法華経の座にし
03 て記ベツをさづかる一切衆生喜見如来これなり、又法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし、 物たね
04 と申すもの一なれども植えぬれば多くとなり 竜は小水を多雨となし人は小火を大火となす、 衣かたびらは一なれ
05 ども法華経にまいらせ給いぬれば法華経の文字は六万九千三百八十四字・ 一字は一仏なり、 此の仏は再生敗種を
06 心符とし 顕本遠寿を其の寿とし常住仏性を咽喉とし一乗妙行を眼目とせる仏なり、 応化非真仏と申して三十二相
07 八十種好の仏よりも 法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて 仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあ
08 り、 仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり、 この衣をつくりてかたびらをきそえて法華経を
09 よみて候わば日蓮は無戒の比丘なり法華経は正直の金言なり、 毒蛇の珠をはき伊蘭の栴檀をいだすがごとし、 恐
10 恐謹言。
11       九月二十八日                             日 蓮 花 押
12     御 返 事
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 御衣の布と御単衣を頂戴した。鮮白比丘尼という人はお生れになったときから御衣を着けておられた。成長するにしたがって次第にこの着物も大きくなり、後に尼になられたときには法衣となった。そして、ついには法華経の会座において記別を受けられた。一切衆生喜見如来がそのお方である。
 また、法華経を説く人は柔和忍辱衣といって必ず衣を着なければならない。
 物の種は一つであっても植えれば多数となる。竜は少しの水を大雨とし、人は小火をもって大火とする。衣かたびらは一つであるが、法華経に供養すれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字あり、その一字一字が一仏である。しかもこの仏は再生敗種を己が心となし、顕本遠寿をその寿とし、常住仏性を咽喉とし、一乗妙行を眼目とする仏である。「応化は真仏に非ず」といって、三十二相八十種好の相を現じた仏よりも法華経の文字こそが真の仏である。仏在世に仏を信じた人のなかには成仏しない人もいる。仏滅後に法華経を信ずる人は、一人も成仏しない人はいない、とは仏の金言である。
 この衣をつくり、帷を着添えて法華経を読み奉るならば、日蓮は無戒の僧であるが、法華経は仏の正直の金言であるから、毒蛇が珠をはき、伊蘭のなかから栴檀が生ずるように、大功徳を生ずるのである。恐恐謹言。
  九月二十八日            日 蓮  花 押
   御 返 事

単衣
 単衣のこと。裏地のついていない衣服。夏季とその前後の季節に着るもの。装束の下の肌着、または肌小袖の上に着る裏なしの衣。
―――
鮮白比丘尼
 釈尊の弟子、白淨比丘尼ともいう。撰集百縁経等によると、迦毘羅衛国の長者・瞿沙の娘。この女児は生まれた時、白淨の衣を着けており、成長するに従ってその衣も大きくなり、出家すると、その衣も袈裟になったという。
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一切衆生憙見如来
 勧持品で釈尊の姨母である摩訶波闍波提比丘尼が授記を受けて得た仏の名。
―――

 梵語ナーガ(Nāga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。
―――
かたびら
 夏の着物の一種。「片方」という意で、古くは、衣服に限らず、裏のつかないものの総称であった。それが、平安中期には、公家装束の下着である単小袖をさすようになり、小袖が男女の表着となると、麻や絹縮みの単衣を帷と呼ぶようになった。
―――
法華経の文字は六万九千三百八十四字
 法華経の文字数は訳本・数え方によって多少の違いがあるが、一般には69,384文字とされている。
―――
再生敗種
 敗種が再び生ずること。
―――
心符
 こころ。心中。
―――
顕本遠寿
 仏の久遠の本地のこと。
―――
常住仏性
 常に存在して生滅変化のない、無始無終の仏の性分。
―――
一乗妙行
 一乗の仏乗である法華経の修行。
―――
応化非真仏
 『止観弘決』に「応化は真仏に非ず。亦、説法者に非ず」とある。もとは天親菩薩の『金剛般若論』に有る句。7天親菩薩の『金剛般若論』に「(無著菩薩の)偈に云く」と云って、「応化は真仏に非ず。 亦、説法者に非ず。」とあるをいう。
―――
無一不成仏
 方便品の文「一りとして成仏せずということ無けん」と読む。法華経を聞いた衆生は、一人として成仏しない人はいないという意味。
―――
伊蘭
 梵語エーランダ(Eranda)の音写。トウゴマ属の植物。悪臭を放つ木。茎の高さは約2㍍、葉の直径はおよそ50㌢、色は緑色または赤色を帯び、楓のように七つに裂け、花は総状で雄蕊は上部、雌蕊は下部にある。種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。
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栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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 本抄は建治元年(1275)9月28日、富木常忍から衣の布と単衣が供養されたのに対して書かれた返書である。御真筆が存している。衣の御供養に関して鮮白比丘尼の話をとおして供養の功徳が述べられている。富木常忍の妻の御供養に対して返事を出されたものと考えられている。この年の2月には、常忍の母が帷を作って御供養しており、富木常忍がこうした季節の節目に衣類を御供養しているのは、細かい心遣いである。
 最初に鮮白比丘尼の例が挙げられている。鮮白比丘尼は、迦毘羅衛国の長者・瞿沙の娘とされており、生まれた時すでに白浄の衣をつけていた。大きくなるにつれ衣も大きくなり、出家すると衣は袈裟になったという。これは過去迦葉仏の世に布を供養した功徳であると説かれている
 ところで本抄では、この鮮白比丘尼が一切衆生喜見如来となったといわれている。法華経で一切衆生喜見如来となったのは、釈尊の姨母である摩訶婆闍波提である。ではこの両人は同一人かというと、摩訶婆闍波提は天臂城の城主・善覚王の第八女とされているから別人であろう。もっとも天臂城は迦毘羅衛国の近くにあった。
 ただ雑宝蔵経巻四には「昔仏世に在しき。大愛道は仏の為に金縷織成の衣を作り、齎し来りて仏に上れり」と、摩訶婆闍波提が衣を仏に捧げたことが説かれている。また勧持品で摩訶婆闍波提は一切衆生喜見如来の記を受けた時、六千の学無学の比丘尼とともに仏になると説かれているから、そのなかに含められてこのように述べられたのかもしれない。
 大田殿女房御返事にもあるように、鮮白比丘尼と同じような徳をもっていた人として、商那和修が有名である。この商那和修は付宝蔵の第四につらなっており、阿難から教えを受けて優波毱多に法を付している。この商那和修も出生からすでに衣服を着し、長ずるにしたがって衣服も大きくなったとされている。
 このように衣服に恵まれたことが多く説かれているのは、衣服が貴重であり、それを供養することが大きな福徳になることを教えたエピソードであり、大聖人も、この話を通じて、今の帷の供養の大きさを述べられたのである。
 「この衣をつくりてかたびらをきそえて法華経をよみて候わば日蓮は無戒の比丘なり法華経は正直の金言なり」との御文を拝し富木常忍夫妻はどれほどか喜びに包まれたことであろう。
法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし
 法華経法師品には、仏の滅後、法華経を弘めるにあたって三つの方軌を示している。これを衣座室の三軌という。
 「如来の滅後に四衆の為めに是の法華経を説かんと欲せば、云何んが応に説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為めに、広く斯の経を説くべし」と。
 そして、この如来の衣・座・室の内容を法師品の次下には次のように説かれている。「如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは、一切法空是れなり」と。ここに如来の衣として出てくるのが、本抄の柔和忍辱衣なのである。
 如来の室に入るとは大慈悲心に住することである。如来の衣とは柔和忍辱の衣を着すこと、如来の座とは一切法空の真理に坐して法を説くということである。天台は法華文句において、この三軌に法身・般若・解脱の三徳を配している。
 この三軌のなかの柔和忍辱衣とは、柔和は仏の教えに対し信伏随従することである。また忍辱はさまざまな難、悪口等に対して忍辱をもって臨むのである。法華経勧持品には、八十万億那由佗の菩薩が二十行の偈の中で「我れ等は仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん」と述べている。衣とあるも鎧とあるも同じ意であり、悪世末法に三類の迫害を忍ぶゆえに、とくに鎧としたものであろう。日蓮大聖人は御義口伝に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり、衣とは柔和忍辱の衣・当著忍辱鎧是なり」(0737)と教えられている。
 法華経を流布するにあたっては難を受けるのは当然であり、いかなる困難に直面してもどこまでも仏の教えに随順する柔和の心を失わず、忍辱をもって乗り越えていかなければならない。本抄では衣の重要性を述べるためにこの文を引かれているが、所詮は忍辱の心を堅持していくことが衣を着すということであり、仏法の僧は、その覚悟をあらわすために法衣を身につけるのである。
 富木殿が供養した衣は一着であっても、種が一つでも多くの実を結ぶように、法華経69,384字の一字一字が仏であり、法華経の行者であられる大聖人に衣を供養したことは、69,384のすべての仏に供養したのと同じことになるのであるとの仰せである。
此の仏は再生敗種を心符とし顕本遠寿を其の寿とし常住仏性を咽喉とし一乗妙行を眼目とせる仏なり云云
 色相荘厳の応化は真実の仏ではなく、法華経の文字の一字一字が仏であるというその仏こそ、一切衆生を仏になす真仏であることを示されている。これは妙楽の法華文句記の文を用いられての仰せである。
 文句記には「此の経は常住仏性を以って咽喉と為し、一乗妙行を以って眼目と為し、再生敗種を以って心腑と為し、顕本遠寿を以って其の命と為す」とある。
 再生敗種とは、敗種、すなわち仏種が腐敗して絶対に成仏できないとされた二乗の作仏を法華経が説いたことを示している。これは法華経迹門に説くところである。これに対し、顕本遠寿、常住仏性は法華経本門の法門である。本門寿量品では始成正覚を打ち破って、久遠五百塵点劫の成道を示し、久遠の仏寿を顕した。この仏性の常住があらわれることによって真実の一念三千が定まったといえる。法華経は爾前に説く三乗を破って一乗をあらわしたのであり、衆生が三乗を求めるのに応じて化現する権経の仏は真実の仏ではない。三十二相八十種好の仏は、姿はいかに荘厳でも、衆生に随順した仏であって法より劣るのである。これを人法勝劣という。権経では、二乗や女人、悪人等は成仏できないとされたが、法華経は「無一不成仏」すなわち、一人として成仏しない者はなく、天地の違いがあるのである。
 ただ、ここでは権経の仏と法華経との相対のうえから法華経の勝れることが強調されているが、法華経本門といえども、その仏は三十二相八十種好の仏であり、したがって究極は本門文底の人法一箇の仏に帰着することはいうまでもない。
 なお、最後の段で「日蓮は無戒の比丘なり法華経は正直の金言なり」といわれているのは、大聖人は凡夫僧であるが、法華経が勝れるゆえに、大聖人が御供養の衣を着て法華経を読み題目を唱えられるならば、法華経の文字69,384の真仏への供養となり、無量の功徳となることはまちがいないと、富木常忍夫妻の御供養が全て妙法に帰せられることを述べられているのである。

0972~0973    観心本尊得意抄top
0972:01~0972:05 第一章 商那和修と供養の功徳を示すtop
0972
観心本尊得意抄    建治元年十一月    五十四歳御作
01   鵞目一貫文厚綿の白小袖一つ筆十管墨五丁給び畢んぬ。
02   身延山は知食如く冬は嵐はげしくふり積む雪は消えず極寒の処にて候間・ 昼夜の行法もはだうすにては堪え難
03 く辛苦にて候に此の小袖を著ては思い有る可からず候なり、 商那和修は付法蔵の第三の聖人なり、 此の因位を仏
04 説いて云く「乃往過去に病の比丘に衣を与うる故に生生・世世に不思議自在の衣を得たり」、 今の御小袖は彼に似
05 たり此の功徳は日蓮は之を知る可からず併ながら釈迦仏に任せ奉り畢んぬ。
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 銭一貫文、厚綿の白小袖一枚、筆十管、墨五丁をいただいた。
 身延山はご存じのように、冬は嵐が激しく、降り積もる雪はなかなか消えない。極寒の所なので昼夜の修行も薄着では耐え難く、辛く苦しく思っていたところにこの小袖を着てはなんの辛いこともない。
 商那和修は付法蔵の第三の聖人である。この因位について仏は「過去の世に病の比丘に衣を与えた功徳によって生生・世世に自由自在になる不思議の衣を得たのである」と説かれている。今、あなたがお送りくださった御小袖は、ちょうど商那和修の過去の因行に似ている。この功徳は日蓮は凡夫だから知らないが、ただ釈迦仏におまかせ申し上げてある。

鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、穴のあいている形が鳥の目に似ているということから、鵞目、鳥目、青鳧と呼ばれた。一貫文は千文。
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商那和修
 梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ(Śānavāsa、Śanakavāsa)の音写。舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優波毱多に法を付嘱した。
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付法蔵 
 釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計24人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。
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「乃往過去に……」
 付法蔵因縁伝巻二に商那和修について「昔商那和修、商主として諸の賈客と共倶に大海に入て珍宝を採らんとせしに、其の前む路に辟支仏の身の病に嬰りて、気命羸れ惙へたるを見て、医薬を求めて之を治療しその恢復するや、支仏を浴せしめんとしてその衣の弊悪なるを見て、上妙の衣を奉らんとす。時に支仏此衣を著て出家成道し、又涅槃に入るべしと、此の功徳に依て和修、母の胎に処りしより商那衣を著し、乃至身と倶共に増長せり。故に商那和修と称す」とある。
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 本抄は建治元年(1275)11月23日、日蓮大聖人が54歳の御時、身延から下総国東葛飾郡八幡荘(千葉県市川市)に住む富木常忍へ宛てて送られた書である。御真筆は現存していない。
 これより以前に、下総の同じ住人・曽谷教信が観心本尊抄の「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)等の文を誤って解釈し、迹門は未得道であるから方便品は読誦しないとの義を立てていた。このことを富木常忍が大聖人に御報告したのに対する御返事である。
 勤行に際して迹門方便品を読まないとする曽谷教信の誤りを正される一方、大聖人が諸抄で「迹門を捨てよ」と破折されている迹門は、天台過時の迹であり、「予が読む所の迹門」といわれている迹門は観心文底の義から読む、すなわち寿量文底下種の南無妙法蓮華経の体内の迹門であると仰せられている。
 題号の「得意」とは「意を得」と読み、真意を理解すること、真意を会得することをいう。観心本尊抄」で明らかにされた仏法の真義は、大聖人の教えを忠実に拝することによってのみ「正しい会得ができるといえよう。
 妙本寺日我が「観心本尊抄抜書」で「彼の他門浅学の経中本迹種脱迷乱の方々、自己の智分に任せ、書き置かれたる謗法の書物等を以て、此の抄を得意之れ有らば、還って謗法の根源とは成る共、全く成仏の種子たるべからず」と述べているが、まさに至言である。
 つぎに「爾前の経は未顕真実であると捨てながら、「立正安国論」では爾前経を文証として引用しているのは、どういうわけか」との疑問に対して、大綱と網目の関係から、法華経は成仏の大綱であり、爾前経は法華経の網目であり、成仏のこと以外に関しては助証となるゆえんを示して、疑問への明確な答えとされている。
 本章は富木常忍が厚綿の白小袖等を御供養されたことに対して礼を述べられ、付法蔵の第三・商那和修の故事に寄せて、衣の供養の功徳の絶大なることを説かれている。
 「冬は嵐はげしくふり積む雪は消えず極寒の処」の身延の御生活ゆえに、厚綿等の御供養をされた富木常忍の厚い志に応えられる日蓮大聖人の御心境が「堪え難く辛苦にて候に此の小袖を著ては思い有る可からず」の御文に如実にうかがわれる。
 商那和修とは麻衣・胎衣・自然衣と訳す。商那とは麻の一種で、商那で編んだ衣を商那衣といった。出生から死ぬまで商那衣を着ていたことにその名が由来している。
 「妙法比丘尼御返事」に詳述されているが、同抄によってその因縁・因位を尋ねると、商那和修は過去に商主として、五百人の商人とともに大海に船を浮かべて商いをしていた時、海辺に重病で苦しんでいる辟支仏がいた。商主は医薬を求め、真心を尽くして看病し、辟支仏を助けた。
 その折、辟支仏の衣がひどく汚れ、破れていたので、香湯に浴させ、新しく衣を供養したのである。この功徳善根によって、生々世々、衣に不自由しない身に生まれた、と付法蔵経に説かれている。
 「今の御小袖は彼に似たり」と、富木常忍の供養の志を賞でられながら、「此の功徳は日蓮は之を知る可からず」と、あくまでも御謙遜の立場で仰せられている。
 日蓮大聖人は末法の御本仏であり、内実は辟支仏はもちろん、釈尊を供養する功徳よりもはるかに甚深無量である。「南条殿御返事」に「釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候」(1578-05)と説かれているとおりである。
 「併ながら釈迦仏に任せ奉りんぬ」と述べられているのは、この釈尊の教えを富木常忍はよく知っていたので、あえて述べられなかったと拝するのである。

0972:06~0972:10 第二章 迹門不読の疑心を正すtop
06   抑も今の御状に云く教信の御房・観心本尊抄の未得等の文字に付て迹門をよまじと疑心の候なる事・不相伝の僻
07 見にて候か、 去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候しが其の通りを以て御教訓有る可く候、所詮・
08 在在・ 処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、 叡山天台宗の過時の迹を破し候
09 なり、 設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し 何に況や慈覚自り已来大小権実に迷
10 いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。
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 さて、この御状によれば教信の御房が観心本尊抄の未得等の文字について、迹門は読むまいという疑問の心を起こしたとのこと、これは日蓮が相伝しない間違った考えである。去る文永年中にこの書についての相伝は詳しく書いてあなたにお送りしたが、そのとおり教訓されるがよい。
 要するに日蓮があちこちに「迹門を捨てよ」と書いたのは、今、我々が読むところの迹門ではなくて、比叡山天台宗の、過去・像法時代における法華経迹門の意である。たとえ天台、伝教のように経文のとおりに受持し弘めても、今末法に至っては去年の暦のようなものである。まして慈覚以後は大乗・小乗、権教・実教の区別に迷って正法を謗り、大謗法の者と同じになってしまっているのであるから、像法の利益さえなくなっており、まして末法における利益などあるはずがない。

教信の御房
 日蓮大聖人門下の曽谷二郎兵衛尉教信のこと。下総国葛飾郡曽谷に住んでいたので曽谷氏と呼ばれた。富木、太田氏と協力して法塁を堅め、強盛な信心を貫き通したが、教解の進むにともなって観心本尊抄等の御文により迹門不読の見をもつようになり、本抄にみられるように訓戒をこうむっている。大聖人から法蓮日礼の法号を授かり、「法蓮抄」、「曽谷入道殿御書」など七編に及ぶ御書をいただいている。
―――
未得等の文字
 観心本尊抄のなかで大聖人が述べられた「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相 教と名く、其の機を論ずれば徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり」(0249)の文をさす。
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迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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叡山天台宗
 延暦寺の立てる天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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大小権実
 大小とは大乗教と小乗教。権実とは権教と実教のこと。衆生の機根にしたがって三乗を格別に説く教えを権教といい、一仏乗の理を示す法を実教という。天台大師の五時教判では実教は法華・涅槃時の教えで、他の四教の教えは権教となる。また、化法の四教に判ずれば円教が実教にあたり、蔵通別の三教は権教となる。
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 本章は、曽谷教信が「観心本尊抄」の「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)等の文を曲解して、迹門に得道はないから、勤行にも方便品を読まないといいだしているとの富木常忍の報告に対する日蓮大聖人の御指南である。
 迹門未得道については、同じ下総の太田五郎左衛門尉乗明の一族の中からも己義を構える人がいたようで、「四菩薩造立抄」に「大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由・其の聞え候と是は以ての外の謬なり」(0989-03)との御文がみられる。
 前掲の「観心本尊抄」の文は、文底下種の南無妙法蓮華経を顕示するにあたり、五重三段に分けて詳説したなかの第五重・文底下種三段を説いた一節である。ここで述べられている「一品二半」とは末法の本門、広開権顕遠の一品二半であり、文底下種の本尊のことである。
 曽谷教信は大聖人の深意を汲めず、単純に本門の一品二半以外は小・邪・未・覆の教と思い込み、迹門方便品の不読を主張したものであろう。
 日蓮大聖人はこうした己義、邪見を厳誡されて、四年後の弘安2年(1279)5月御執筆の「四菩薩造立抄」で「今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり、私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし……総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(0989-03)と仰せられている。
 ここで留意したいのは「不相伝の僻見にて候か」と述べられていることである。大聖人の教えは大聖人の教えの通り正しく信解しなければならない。
 例えば報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(0328-15)の御文にしても、読み方によっては釈尊本仏の根拠にも、大聖人本仏の文証にもなる。それを正しく読み、正しく信解するためには、御書の仰せを忠実に拝することが不可欠である。
 相伝とは相い伝えることであり、師の教えをそのとおり承け伝えることである。師とは日蓮大聖人である。ゆえに、大聖人の御書を根本とした信行学の実践こそが相伝であり、御書根本であってこそ、正義を〝得意″できるのである。
 御書によらず、また御書を否定したり、無視したりするならば、「不相伝の僻見」となり、邪義や己義、僻見におちいるといえよう。
 大聖人滅後においては、本迹勝劣派の天目が、やはり極端に迹門不読を唱えたが、第二祖日興上人はその邪義を五人所破抄(1616)で破折されている。
我等が読む所の迹門
 本抄で仰せられている「在在・処処に迹門を捨てよ」の迹門は、天台大師が像法時代において用いた過去の迹門である。これは、末法に入れば機と法とが相応しなくなり、去年の暦のように無益・無力でしかない。それゆえに「叡山天台宗の過時の迹を破し候なり」と仰せなのである。
 まして、日本の天台宗は第三祖慈覚以降、真言密教を取り入れ、理同事勝の邪義を構えて大謗法と化している。像法時代の立場でも、開祖伝教大師に背いて清流を濁す師敵対の非法に堕しているのであるから、「像法の時の利益も之無し」なのである。
 「今我等が読む所の迹門」とは、体内の迹門であり、寿量品が家の方便品である。体内とは諸法を開会して究極の法体の中で包摂することである。ゆえに寿量品が説かれたあと寿量品を根本として読む迹門を〝体内の迹″と名づけるのである。
 観心本尊抄でお示しのように、文底下種本門に相対すれば、法華経本迹二門をはじめ、一切経ことごとく小・邪・未・覆の教となるが、文底下種本門が説き顕されて会入した立場では、一切経が南無妙法蓮華経の体内となり、方便品も、御本尊を讃嘆し証明するものとして読誦するのである。「御義口伝」の「妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るを妙法蓮華経方便品とは云うなり」(0714-09)がその意である。
 なお、日寛上人は「我等が読む所の迹門」に所破、借文の両意を含むとして、「当流行事抄」で詳しく論じられている。
 もとより、日蓮大聖人御自身が、方便品を勤行として読誦されていたことが諸御抄から拝される。大聖人の門下にとっては「四菩薩造立抄」に仰せの「日蓮が如くにし候へ」との御文の遵守こそ肝要であり、それが「此の仏の意を信ずるを信心とは申すなり」(0776-04)で、大聖人の御金言通りの信心なのである。
 大聖人御入滅後において、日昭・日朗等の五老僧が天台沙門と称し、本迹二門を教相では勝劣、観心では一致と、本迹一致・迹門有得道を唱えたが、これも御書を正しく拝することができなかったがゆえの僻見にほかならない。現在、今なお身延派をはじめとする他門他派がその流れをくんで邪義を構えているのは哀れという以外にない。

0972:11~0973:03 第三章 爾前諸経を引証する所以を示すtop
11   一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら 安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と
12 不審の事・前前申せし如し、 総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、 初の大綱とは成
13 仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、 次に網目とは法華已前の諸経なり、 彼の諸経等は不成仏の教なり、
14 成仏得道の文言之を説くと雖も 但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、 伝教大師の決権実論に云く「権智の所
15 作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、 但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず 法華の為の
0973
01 網目なるが故に、 所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、 法華の為の網目なるが故に
02 法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、 其の上法華経にて実義有る可きを 爾前の経にして名字計りののしる事全く
03 法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし。
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 お手紙には北方の能化が「日蓮御坊は法華経以前の諸経は未顕真実であるとして捨てながら、安国論で爾前の経を引き文証としているのは自語相違である」と非難しているとの事、これは前々にも申したとおりである。
 およそ釈尊の一代聖教を大略二分することができる。一つには大綱、二つには網目である。初めの大綱とは成仏得道の教えであり、成仏の教とは法華経である。つぎに網目とは法華経已前の諸経であり、それらの諸経は不成仏の教えである。たとえ文言のなかに成仏得道を説いていてもそれは名字ばかりで、その実義は法華経にあるのである。伝教大師の決権実論には「仏の方便の説には唯名のみ説いて実義がない」といわれている。ただし爾前権教においても成仏得道の外は説かれた教えに偽りはない。法華経のための網目として説かれたものであるゆえである。すなわち成仏の大綱を法華経に説き、そのほかの網目は諸経に明かしたのである。法華経のための網目であるゆえに法華経を証する文として引き用いることができるのである。そのうえ、法華経において実義があらわされることを、爾前経で名字だけを説いたのはまったく法華経のためであるから、なおのこと法華経の証文となるのである。

北方
 千葉県市川市にあったと思われる談義学問所のことか。
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能化
 能く化導する人のこと。菩薩は人に対しての能化であり、仏は菩薩・一切衆生の能化である。
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未顕真実
 法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
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自語相違
 自ら言った言葉のなかで矛盾があること。
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一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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大綱
 基本的な事柄。
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網目
 物事の細目。
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決権実論に云く「権智の所作は……」
 決権実論は、伝教大師の撰で、序文と、本文である依法華経十問難、依三車譬十問難の三段からなる。弘仁7年(0816)に法相宗の僧・徳一と三一権実論争をしており、本書で得一の三実一権を破し、一実三権を説き、法華経による一切衆生の成仏を示している。「権智の所作は唯名字有りて実義有ること無し」は、仏の方便権智の所作である他経の説は、ただ成仏の名ばかりはあっても、その実義はない、との意。
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 本書では、やはり富木常忍の報告から、北方の能化がいう「日蓮は諸抄で、爾前の諸経は未顕真実であるから捨てよといいながら、「立正安国論」では金光明経などの四経を引いて文証としている。これは自語相違ではないか」との疑難に対する御指南である。
 北方の能化については古来から諸説があるが、下総国中山(千葉県市川市)付近の北方に住していた天台僧をいったものであろう。また北方は「ぽっけ」「ぼっけ」とも読み、そこに天台宗の談義所があったようである。富木常忍の折伏の手がこの北方の僧にもおよび、大聖人の教えに対して不審を立てる者もあったことが本章からうかがえる。
 たしかに「立正安国論」には、正法を捨てて邪法に帰すれば、諸天および聖人がその国を捨て去り、三災七難が起こるという証文として、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の文が引かれている。
 この四経はともに法華経以前に説かれた、いわゆる爾前経である。しかも、大聖人が諸御書で、無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず」、方便品の「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」等の経文から、爾前諸経を破折していることも事実である。
 このように爾前諸経を破折されながら、なぜ爾前の諸経を引証されているのか。これはだれもが抱く素朴な疑問であろう。これに対して、大綱と網目の関係から北方の能化の浅見に明快に答えられている。
大綱と網目
 本文に「総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり」とあるように、一切経の中で〝大綱〟に譬えられるのが法華経であり、他の経教は大綱に対する〝網目〟となるのである。
 大綱とは〝根本となる綱〟のことで、網目とは〝細かい網の目〟のことである。網の目は、それを束ね引っ張る綱につながっていなければ用をなさない。逆にいえば綱につながっていればこそ、その効力を発揮することができるわけである。
 法華経がなぜ〝大綱〟となるかといえば「成仏得道の教」であるからである。一切衆生皆成仏道の実義を説いた法華経こそ、まさに一切経の〝大綱〟である。
 これに対し、爾前の諸経には二乗・菩薩の修行法は説かれても成仏の根本法は明かされていない。また成仏とか得道ということばはあっても、ただその名のみ説かれているにすぎない。いわゆる有名無実で、その実義は法華経にあるのである。ゆえに大聖人は「彼の諸経等は不成仏の教なり」と仰せられたのである。
 さらに「所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す」と〝網目〟にあたる諸経の立場と役割について述べられている。すなわち、仏法の最大事である成仏の基本大綱は法華経に、その他の細事網目は諸経に説かれているのである。
 したがって、成仏得道の教は法華経に限るが、成仏得道以外のことについては「説相空しかる可からず」の諸経に明かされているから、大綱のための網目として法華経の証文に用いるのである。諸経はあくまでも法華経あっての経教であり、法華経に結びつくことによって、初めて説かれた意義も役割も活きてくるといえよう。
 日寛上人は「立正安国論愚記」で、爾前の諸経引証の理由を、略して四意あるとして次のように御教示されている。
 第一には、法華経は大綱であり、爾前は法華経のための網目であるから、大綱のために網目を用いるのである。
 第二には、文は爾前の経に出ているが、義は法華にあるからである。
 第三には、爾前の劣る経ですら、このとおりであるから、まして勝れた法華経においてはなおさらのことである。
 第四には、爾前の文を借りて法華の義を顕すのであり、開会の上であらゆる経文を用いるのである。
 このように、法華経が大綱、爾前経は網目という役割を正しく知れば爾前の文を用いることができるのである。ところが諸宗は、不成仏の爾前の諸経を成仏の経として根本にしようとし、成仏の実義を説く法華経を不成仏の経と誹謗している。これは全く顚倒の考えである。そのゆえに大聖人は他宗を厳しく破折されているのである。

0973:04~0973:12 第四章 法華大網・爾前網目の文証を挙ぐtop
04   問う法華を大綱とする証如何、 答う天台は当に知るべし此の経は唯如来説教の大綱を論じて網目を委細にせざ
05 るなりと、 問う爾前を網目とする証如何、 答う妙楽の云く「皮膚毛綵衆典に出在せり」云云、問う成仏は法華に
06 限ると云う証如何、 答う経に云く「唯一乗の法のみ有て二も無く亦三も無し」 文問う爾前は法華の為との証如何
07 答う経に云く「種種の道を示すと雖も仏乗の為なり」 委細申し度く候と雖も 心地違例して候程に省略せしめ候、
08 恐恐謹言。
09       十一月二十三日                             日蓮花押
10     富木殿御返事
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 問う、法華経を一代聖教の大綱とする文証があるのか。
 答う、天台は法華玄義の第十で「法華経は仏が教を設ける大綱だけを明かして網目までは委細に説いていないことを知るべきである」といわれている。
 問う、爾前経を網目とする文証はあるのか。
 答う、妙楽は法華文句記巻十上に「皮膚毛綵は諸経にある」といわれている。
 問う、成仏は法華経に限るという文証はあるのか。
 答う、法華経方便品第二に「唯一仏乗のみで二乗、三乗の教などはない」と説かれている。
 問う、爾前経が法華経のためという文証はあるのか。
 答う、同じく方便品に「種々の教えを説いたが皆一仏乗に引き入れるためであった」とある。
 なおくわしく申し上げたいが、気分がすぐれないので、ここで省略する。
  十一月二十三日            日 蓮  花 押
    富木殿御返事
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11   帥殿の物語りしは下総に目連樹と云う木の候よし申し候し、 其の木の根をほりて十両ばかり両方の切目には焼
12 金を宛てて紙にあつく・つつみて風ひかぬ様にこしらへて大夫次郎が便宜に給び候べきよし御伝えあるべく候。
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 帥阿闍梨日高がかつて話していたのは、下総に目連樹という木があるとのこと、その木の根を掘って十両ばかり両方の切り口を焼き金を当てて焼いて、厚く紙につつみ、風にあたらぬように拵えて、大夫次郎が来る時、いただきたいと伝えてほしい。

妙楽の云く「皮膚毛綵……」
 法華文句記巻十上の文。綵はいろどりのこと。
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帥殿
 諱は日高。伊賀阿闍梨・帥阿闍梨ともいう。日蓮大聖人御在世当時の弟子。太田五郎左衛門尉乗明の子。永仁7年(1299)富木常忍の跡を継いで若宮法華寺、中山本妙寺の住職となった。
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目連樹
 ムクロジ科の落葉高木。木槵子のこと。本州西部の日本海側、朝鮮半島、中国に分布し、寺院に多く栽植される。高さ十㍍に達する。実は黒色で固く、数珠玉などに用いる。
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十両
 両は重さや、貨幣などの単位のほかに、数量二つ、すなわち二つで対になっている物の双方をいう場合がある。ここではその意味で、十両は20本のことと思われる。
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大夫次郎
 富木殿と何らかの関係のある人と思われる。

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 本章では問答形式をとって、釈尊一代の聖教のなかで、法華経が大綱であり、爾前諸経が網目であるとの文証を、天台大師、妙楽大師の釈、法華経の文を挙げ、重ねて御指南されている。
 〝法華大綱〟については、天台大師の法華玄義巻十上に「当に知るべし此経は唯如来設教の大綱を論じて、微細の綱目を委しくせず」とある。これを承けて妙楽大師は法華玄義釈籖巻十九で「故に法華を説いては唯大綱を存して綱目に事らず」としている。
 〝爾前網目〟については、やはり妙楽大師の文句記巻十上の「円教の行理の骨目自ら成ず、皮膚毛綵は衆典に出在せり、故に知ぬ此経は是れ大綱を紀定するの教なり、綱目を以て之を釈すべからず、若し此の意を得ば即ち一家の教旨、大理通ずべし」の文によっても、法華のための網目であることは明白である。
 また、成仏得道を明かした経は法華経一経に限る文証として、法華経方便品の「十方仏土の中には唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し、仏の方便の説をば除く」の文を挙げられている。唯一乗の法、すなわち仏を成ずる道はただ一つ法華経しかない。〝乗〟は成仏に到達する乗り物の譬えであり、一仏乗の教法の意である。
 さらに爾前の諸経は法華経を説くための方便であるということの文証として、方便品の「種種の道を示すと雖もそれ実には仏乗の為なり」の文を示されている。無量義経説法品の「種種に法を説くこと方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕さず」の文と併せ勘えるとき、なおのこと明確になろう。
 釈尊は衆生の機根や欲するところが様々であるところから、それらに応じたさまざまな教法を説示したが、それはあくまでも成仏の教法である法華経を説くための方便として説かれたのであり、それ以外のなにものでもないのである。
 したがって、方便である網目の経教にとらわれ、大綱の教である法華経を離れたりすれば、成仏得道は思いもよらないのである。
 ところで、末法今時においては、一切衆生の成仏を成就する究極の教法は南無妙法蓮華経の御本尊である。「曾谷入道殿御返事」に云く「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)と。すなわち、三大秘法を整足した御本尊こそ成仏の真実の〝大綱〟であり、本迹二門をはじめ、あらゆる経教がすべて〝大綱〟たる御本尊の〝網目〟となるのである。
 したがって、法華経がいかに釈尊一代聖教の中で最高であったとしても、南無妙法蓮華経を根本としなければそれは名のみあって体なく、死の法門となってしまう。法華経の体を南無妙法蓮華経としたとき、文々句々がすべて生かされ、活の法門となるのである。第二章で述べた「我等が読む所の迹門」と同じ原理である。
 「御義口伝」には「妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや、此の法門秘す可し秘す可し、 天台の『綱維を提ぐるに目として動かざること無きが如し』等と釈する此の意なり、妙楽大師は『略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む』と、此等を心得ざる者は末法の弘通に足らざる者なり」(0766-第十五於如来滅後等の事-04)と仰せられている。「妙法蓮華経の五字」が文底独一本門の南無妙法蓮華経であり、「品品の法門」が文上の法華経をさしていわれていることは明白である。

0974~0975    聖人知三世事top
0974:01~0974:07 第一章 三世を知るが聖人なるを示すtop
0974
聖人知三世事   建治元年    五十四歳御作   与富木常忍
01   聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外
02 道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、 小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、
03 小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、 通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、 別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫
04 の過去を知る、 法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、 本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも
05 之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、 之に依つて之を案ずるに 委く過未を知るは聖人の本なり、 教主釈尊
06 既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは 後五百歳・広宣流布疑い無き者か、 若し爾れば近きを以て遠きを
07 推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり。
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 聖人というのは委しく過去・現在・未来の三世を知る人をいう。儒家の三皇・五帝や三聖といわれる孔子・老子・顔回等はただ現在のみを知って過去と未来を知らない。外道は過去八万劫、未来八万劫を知るから一分の聖人といえる。小乗教の二乗である声聞、縁覚は過去と未来の因果を知るから外道に勝れた聖人といえよう。さらに小乗の菩薩は三阿僧祇の過去を知り、権大乗の通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴し、同じく別教の菩薩は一つ一つの位のなかにおいてさえ多倶低劫の過去を知る。また法華経の迹門では釈尊が三千塵点劫という長遠の過去を説かれている。これは一代超過の法門である。さらに法華経本門では五百塵点劫という遠々劫の過去を明かし、また未来無数劫の事までも宣べられている。
 これらの例証によって考えてみるに、過去と未来を具に知ることこそ聖人の本である。教主釈尊はすでに近くは三月後の入滅を知り、遠くは滅後末法の始めの五百年の法華経の広宣流布を明言されたが、必ず事実となるであろう。もしそうであれば近きをもって遠きを推し量り、現在をもって未来を知ることができるのであり、法華経方便品の「如是相乃至本末究竟等」の文はこのことである。

儒家
 儒者・儒者の家。
―――
三皇
 中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・黄帝・神農とされるなど異説も多い。
―――
五帝
 三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば伏羲・顓頊・帝嚳・尭・舜。
―――
三聖
 中国古代の三人の聖人。摩訶止観巻六下には老子・孔子・顔回の三人を挙げているが、異説も多い。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
三僧祇
 三阿僧祇劫のこと。菩薩が仏果を得るまでに修行する長時を三つに分けたもの。すなわち菩薩の階位五十位のうち、十信、十住、十行、十廻向の四十位を第一阿僧祇劫とし、十地のうち初地から七地に至るまでを第二阿僧祇劫、八地から十地に至るまでを第三阿僧祇劫としている。三大阿僧祇劫、三祇ともいう。
―――
動踰塵劫
「動もすれば塵劫を踰ゆ」と読む。通教の菩薩の修行の期間が塵劫を踰えていること。通教の菩薩は十地の第七・已弁地で三界見思の惑を断ずるが、断じ尽くすと三界に生ずることができないゆえに、誓って習気を扶持して三界に生じて衆生を化度し、第八地、第九地で修行に励み、塵劫を経て第十地の仏地で余残の習気を断じ尽くし、七宝樹下に天衣を座として成道する。この期間が動もすれば塵劫を踰えることをいう。
―――
多倶低劫
 多くの倶低劫の意。「倶低」は「倶胝」とも書き、数の単位。十万、千万あるいは億とする説もある。「倶低劫」は数えきれないほど長遠な時間のこと。多劫のこと。
―――
三千塵点劫
 法華経化城喩品第七で、三千塵点劫の昔に、大通智勝仏の第十六王子として釈尊が声聞の弟子を化導したことを明かしている。劫とは長時の意。三千塵点劫とは、三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の千の世界を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土も下さなかった国土も合わせて微塵にし、その一塵を一劫と数えて、その微塵の数以上の無量無辺の長遠な時をいう。
―――
一代超過
 釈尊一代の教説中、法華経が他の一切経に勝れていることをいう。
―――
五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六で明かされた、釈尊成道以来の長遠の時のこと。五百塵点劫とは、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土と下さなかった国土とを合わせて微塵にし、その一塵を一劫とした長遠の時にさらに百千万億那由他阿僧祇劫過ぎた時をいう。
―――
後五百歳
 釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
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如是相乃至本末究竟等
 法華経方便品第二の十如是の前後をあわせ、中間を略した文。
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 本抄は建治元年(1275)、聖寿54歳の御述作とされる。身延から下総国(千葉県)若宮の富木常忍に与えられた。
 建治の年号は文永12年(1275)4月に改元されており、時の執権は北条時宗。第91代後宇多天皇の御代である。
 日蓮大聖人は文永11年(1274)3月26日、佐渡から鎌倉に帰られ、平左衛門尉に対して3度目の諌暁をされた。「いま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがために」(1461-07)との救国の心情からである。
 しかし、大聖人の衷心からの諌めも幕府は用いるところとはならず、「三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわる」(0982-06)故事に習い、文永11年(1274)5月12日に鎌倉を出て、5月17日、身延に入られたのである。
 そのころ鎌倉では、文応元年(1260)7月に日蓮大聖人が幕府に上奏した立正安国論の予言が的中し、自界叛逆難、即ち北条一門の同士討ちが、文永9年(1272)2月に起こり、本抄御述作の1年前、文永11年(1274)秋に他国侵逼難の方も第一回の蒙古襲来「文永の役」として事実となったのであった。しかも、蒙古からは文永の役のあと直ちに使者が来ており、再度の襲来に備えるため国内は騒然としていた。
 蒙古の侵攻に対処するため軍備の増強が図られるとともに、蒙古軍の上陸を阻止するため博多湾の箱崎から今津に至る沿岸に石塁・石築地が構築された。
 そのうえ、幕府と朝廷は、この未曾有の国難を払うため、神社・仏閣に対し、蒙古調伏、国家安泰の祈禱を命じたのである。
 こうした背景をもとに、本抄では初めに五重相対しながら聖人の位を明かされ、つぎに法華経の行者を謗る者は頭破七分の罰を受けることについて「今日蓮を毀呰する事は非一人二人に限る可らず日本一国・一同に同じく破るるなり」と仰せられて「日蓮は一閻浮提第一の聖人」なることを明言されている。
 さらに大聖人の諌言を用いず、かえって軽んじているところから、一国が総罰を受けている旨を明かし、「設い万祈を作すとも日蓮を用いずんば」と、大聖人の仏法による以外に国難を免れる道はないとの大確信を師子吼されている。
 本抄の御正筆は中山法華経寺に伝えられているが、年月日及び御自署の花押を欠いている。ゆえに系年については、古来から「建治元年」とされてきているが、諸史料の考証などから「文永十一年」の御述作と考えることが妥当とする説もある。
 題号は「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」との冒頭の一節から後代に付されたものである。
聖人について
 本章では、まず「委細に三世を知るを聖人と云う」と、聖人について定義されている。
 聖人の聖とは、本来、耳の穴がよくとおって、ふつうの人には聞こえない声までよく聞くことができるという意味があるといわれる。
 儒教では、賢人は五百年に一人出で、聖人は千年に一人出る等といい、智徳すぐれて万事に通達し、万人が尊仰してやまない理想の人物を聖人と称したようである。中国上古の帝王とされる唐堯や虞舜等、また孔子・老子等がそれである。唐代以後は天子の尊称にも用いられた。
 楚辞・屈原の漁父辞には「聖人は物に凝滞せず」とあり、聖人は時勢とともに推移して物事を的確に処置するところから、執着、拘泥して苦しむことがない、としている。
 しかし、これらの聖人は過去・未来にわたる永遠の生命観を知らないために真の聖人ということはできない。ゆえに日蓮大聖人は「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」(0168-02)と仰せられているのである。
 日寛上人は「立正安国論愚記」で「三略の下に云く『賢去れば則ち国微え、聖去れば則ち国乖く』と已上。世間の聖人尚爾なり、況や出世の聖者をや。今はこれ出世の聖人なり」と述べられている。
 大聖人は聖人について「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(0287-08)と過去、現在、未来を正しく知っているところにその本質があるとされている。
 「三世を知る」ということは、いわゆる通力ではない。事象の法則に通達しているということである。科学の世界でも同じことがいえるが、不変の法則を正しく洞察したときに、物象や未来の予見ができるのである。仏法は生命の正しい法理を究めたものであるゆえに、仏法に通達した聖人は「三世を知る」ことができるのである。
 したがって仏法上の聖人とは、三世の生命観に立って一切の法門を究尽し、智慧が広大無辺で、慈悲心の深大な人格、すなわち仏を意味する。いわば聖人は仏の別号なのである。本抄において「委く過未を知るは聖人の本なり」とされ、そのうえで御自身を「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」と明言されている深義に意を留めていきたい。
 日蓮宗他門流では、古来から「日蓮大菩薩」「日蓮上人」等と呼んで、近年になって「日蓮聖人」と呼称するようになったが、仏法僧の三宝のうちの僧宝に大聖人を位置づけ、仏宝に釈尊を仰ぐ、いわゆる釈尊本仏観は依然として変わらず、大聖人を悪しく敬うも甚だしいといわなければならない。
 「一閻浮提第一の聖人」であられるゆえに「大聖人」と申し上げるのである。しかも、「開目抄」に「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す」(0191-05)と。「撰時抄」には「当世には日本第一の大人なり」(0289-07)と。また法華経方便品には「慧日大聖尊」とある。尊即人、人即尊である。したがって、「大聖人」とは日蓮大聖人の自称にして、また仏の別号であることは明白である。
 いわゆる〝聖人〟の呼称は内道・外道に共通して用いられる。したがって、本抄では、五重相対しながらその過去・未来の深さを比較され、聖人の位について勝劣を判じられている。
 「儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず」とあるように、中国の外典が教えているのは、現在の人生の中での生きる規範である。インドの外道は「過去八万・未来八万」を知見はするが、そこに流れる生命の因果の法を知らない。ゆえに、与えて〝一分の聖人〟といわれているが仏法の立場から奪っていえば、いまだ三惑未断の凡夫である。開目抄上に「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし」(0188-06)と破折されているように、仏法で説く聖人とは、とても比較にはならないのである。
 三世を貫く生命の因果の理法の解明は、実に仏教に限られるのである。それゆえに「小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり」といわれるのである。
 この内道の一代聖教においても、小乗の菩薩が過去三阿僧祇劫であるのに対し、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は五十二位の一つ一つに多俱低劫、法華経迹門は三千塵点劫、本門は五百塵点劫というように、より深く遠い過去を知っている。それだけに偉大な聖人といえるのである。
教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり
 釈尊は三か月後の自身の死期を予言し、そのとおり入滅した。これは近き未来の予言の合致である。
 遠き未来の予言は「後五百歳・広宣流布」である。法華経薬王品の「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」の文がそれである。
 後五百歳というと、釈尊滅後二千年から二千五百年の間であり、末法の始を指す。「近きを以て遠きを推し」とあるように、釈尊自身の三か月後の入滅予言の的中という現実の証拠から、遠く二千年先の末法には未曾有の大正法が広宣流布するとの予言に間違いないことを推側しなさいといわれるのである。
 その原理として方便品の「如是相乃至本末究竟等」の十如是の文を示されている。
 本末究竟等について、法華玄義巻二には「初の相を本と為し後の報を末と為す」とある。究竟とは物事の極み・究極のことで如是相から如是報にいたる九如是が一つに帰趨するところを究竟等というのである。
 如是相は目に見える相、姿をいい、現在の目に見える姿をとおして未来を知見することができるということである。「現を以て当を知る」と同意である。すなわち、本とは現であり、末とは当である。究竟等とは現在に未来が含まれていることである。
 釈尊の涅槃の予言が的中という実相を本とし、末法に妙法流布という遠き未来の予言を末として、本末究竟して等しいゆえに「後五百歳・広宣流布疑い無き者か」と仰せなのである。

0974:08~0974:10 第二章 不軽を継ぐ行者なるを明かすtop
08   後五百歳には 誰人を以て法華経の行者と之を知る可きや予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵
09 逼之を以て我が智を信ず 敢て他人の為に非ず又我が弟子等之を存知せよ 日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を
10 紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・ 信ずる者は福を安明に積まん、
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 後の五百歳の末法には誰人を法華経の行者と知るべきか。日蓮は未だ自身の智慧を信じないけれども自界叛逆難と他国侵逼難の二難の的中により、我が智慧を信じないわけにはいかない。これは他人のためではない。また我が弟子達もこのことをよく知って欲しい。日蓮こそまさしくこの末法にあって法華経の行者なのである。不軽菩薩の跡を承継する法華経の行者であるゆえに、軽しめたり毀ったりする人は頭が七分に破れ、信ずる者は福徳を須弥山のように積むのである。

自他の返逆・侵逼
 日蓮大聖人が文応元年(1260)に上奏された立正安国論のなかで予言された自界叛逆、他国侵逼の二難のことで、文永9年(1272)2月に鎌倉と京都で起きた北条一門の内乱「二月騒動」、さらに文永5年(1268)蒙古からの最初の牒状に始まり同、文永11年(1274)10の蒙古軍の九州襲来をさしている。
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不軽 
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」といって一切衆生を礼拝した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。また、不軽を軽賤し迫害を加えた者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、ふたたび不軽の教化にあい仏道に住することができたという。
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安明
 須弥山のこと。須弥山の漢訳名で妙高とも訳す。
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 本章では、後五百歳の末法においては、誰人をもって法華経の行者と知るべきであるかとの設問に対して、「立正安国論」の予言の的中という歴然たる現証から、日蓮大聖人御自身が三世を知る聖人であり、「法華経の行者」即、末法の本仏であることを高らかに宣言されている。
 大聖人は安国論で金光明経等の四経を引いて説き、「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(0017-12)ゆえに国に三災七難が起こることを明かされ、自界叛逆難・他国侵逼難を予言されたが、それがすでに現れ、予言が的中したことは、まぎれもなく日蓮大聖人が三世を知る聖人であられるとの証拠である。「我が智を信ず」「我が弟子等之を存知せよ」のおことばには「日蓮は是れ法華経の行者なり」の大確信が躍如としているのである。
 「法華経の行者」とは、先に外道から小乗、大乗、法華経と比較相対して示されたように、最も勝れている法華経の聖人ということであり、末法の御本仏の別称と拝すべきである。
不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん
 「不軽」とは法華経常不軽菩薩品第二十に出てくる不軽菩薩のことである。
 同品によると、昔、威音王仏の像法時代に、常不軽菩薩がもっぱら教典を読誦せず、上慢の四衆に対して「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱えて、あらゆる人を礼拝した。
 しかし、衆生の多くは不軽菩薩を悪口罵詈して杖木瓦石を加えた。当然のことながら迫害の四衆は阿鼻地獄の苦を受け、その罪畢えおわっのちに再び不軽の教化に巡りあっている。
 釈尊はこの不軽菩薩の修行をとおして、滅後の弘教の方軌と逆縁の功徳を説いたのである。
 「寺泊御書」に「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり(0953-18)と。
 また「御義口伝」には「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」(0766-第十二常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事)と示し、同じく「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(0764-第五我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事)と説かれている。
 末法今時の南無妙法蓮華経の七文字の法華経と不軽菩薩の廿四字の法華経とは、ともに下種仏教であり、行者の位もともに凡夫である。また毒鼓の縁・逆縁の功徳によって毀謗者を救うという弘教の方軌も同じである。「不軽の跡を詔継する」意はここにある。
 「頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」とは、まさしく正法誹謗の罰と信受の功徳を明かしている。
 「頭七分に破」の出典は法華経陀羅尼品第二十六で、同品に「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」とある。
 頭破作七分とは、精神が錯乱して物事の正しい判断ができなくなる意である。頭は人間存在の最も大切な精神機能をつかさどっているところであり、それが破壊されていくことを「頭七分に破」といわれたものであろう。
 これに対して、大聖人の正法を信受する人は「福を安明に積む」のである。安明とは須弥山の別名である。須弥山のように福徳を積んでいくことができるということである。
 この信受・供養の功徳と、軽毀・悩乱の罰についての仰せはそのまま御本尊の両肩に厳然としたためられているところである。

0974:10~0974:15 第三章 一国一同に頭破七分なるを示すtop
10                                    問うて云く何ぞ汝を毀る人頭破七分無
11 きや、 答えて云く古昔の聖人は仏を除いて已外之を毀る人・ 頭破但一人二人なり今日蓮を毀呰する事は非一人二
12 人に限る可らず日本一国・ 一同に同じく破るるなり、所謂正嘉の大地震・文永の長星は誰か故ぞ日蓮は一閻浮提第
13 一の聖人なり、 上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月・ 四天と
14 隣国に仰せ付けて之を逼責するなり、大集経に云く・仁王経に云く・涅槃経に云く・法華経に云く・設い万祈を作す
15 とも日蓮を用いずんば必ず此の国今の壱岐・ 対馬の如くならん、
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 問うて言う。日蓮御房を毀る人がどうして頭が七分に破れないのか、と。
 答えて言う。仏を除いて昔の聖人を毀って頭が破れたのはただ一人二人である。今、日蓮を毀ることはその罪が一人二人に限らない。日本国の人々が一同に頭が破れているのである。すなわち正嘉の大地震や、文永の大彗星はだれのために起きたのであろうか。日蓮は一閻浮提第一の聖人である。日本国の上下万民が一同にこの日蓮を軽んじ毀り、刀杖を加え流罪にしているために梵天、帝釈をはじめ日月、四天等がいかりをなし、隣国にいいつけて攻めさせ、これらの謗法を責めているのである。大集経、仁王経、涅槃経、法華経にこのことが説かれている。たとえ、どのような祈禱を行っても、日蓮を用いないならば、日本国は必ず今の壱岐・対馬のようになるであろう。

毀訾
 謗って非難すること。
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正嘉の大地震
 正嘉元年(1257)8月23日の午後九時ごろ、鎌倉地方一帯を襲った大地震。「吾妻鏡」巻四十三にはその時の模様が次のように記されている。「二十三日、乙巳、晴。戌刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩す。人屋顚倒す。築地皆悉く破損す。所々地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し云々」。
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文永の長星
 「史料綜覧」によると、文永元年(1264)6月26日に東北の上空に彗星が出現し、7月4日に再び現れ、8月に入っても光は衰えなかった。このため、彗星を攘う祈禱が連日のように行われたという。「安国論御勘由来」には「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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梵と釈と日月・四天と隣国
 梵天王・帝釈天・日天・月天・四天王という国家を守護する諸天と隣国(主として蒙古をさす。)。
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大集経に云く
 「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て、捨てて擁護せざれば、是くの如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」等の文をさす。
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仁王経に云く
 「国土乱るる時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱れ、賊来って国を劫かし、百姓亡喪して、臣と君と太子と王子と百官と共に是非を生ず。天地怪異にして、二十八宿星の道も日月も時を失し度を失し、多くの賊起ること有り」、「我今五眼をもって明かに三世を見るに一切の国王皆過去に五百の仏に侍うるに由りて帝王の主と為ることを得たり。是の故に一切の聖人羅漢は、為に彼の国に来り生じて大利益を作さん。若し王の福尽きん時には一切の聖人は皆捨て去らん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」等の文をさす。
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涅槃経に云く
 「善友を遠離し正法を聞かず……悪法に住せば……是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って、受くる所の身形、縦広八万四千由延ならん」等の文。
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法華経に云く
 妙法蓮華経巻二譬喩品第三の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等の文。
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壱岐・対馬
 朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
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 本章は、日蓮大聖人を軽毀している人は頭破作七分となっていないではないか、との質問に対して、古昔の聖人を毀る者は一、二人で、頭破作七分の罰も目に見えてわかったが、大聖人の場合は一国挙げて軽毀しているため、日本一国一同に頭破作七分となっているためわからないのである。しかし、その証拠として依正不二の原理で天変地夭が競い起こるのであると明かされている。
 それにもかかわらず、一閻浮提第一の聖人である日蓮大聖人を刀杖や流罪に処してなおも迫害しているため、諸天が隣国に仰せつけて日本を責めさせているのである。
 「撰時抄」にも「正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く『智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る』等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者 勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり」(0284-10)と述べられている。
 狂い病んでいるのが少数の人である時は、狂っていることが識別できるが、皆が狂っているときは認識しがたい。だが、自分で見えない自分の顔も、鏡に映せばわかるように、正報の生命の狂いは依報の上に映し出される。それが正嘉の大地震、文永の彗星等の異変であると仰せである。

0974:15~0975:02 第四章 妙法なる故に人貴きを示すtop
15                                我が弟子仰いで之を見よ此れ偏に日蓮が貴尊な
0975
01 るに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、 身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑る 松高ければ藤長く源
02 深ければ流れ遠し、幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已。
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 我が弟子達よ、この言を信じてその時を見なさい。このことは日蓮が貴尊であるのではない。法華経の御力がことに勝れていることによるのである。我が身を挙げれば慢心していると思い、身を下せば法華経をあなどる。松が高ければ松にかかる藤は長く、源が深ければ流れもしたがって長い。なんと幸せなことよ。楽しいことか。穢土にあってこのような喜びを受けるのは、ただ日蓮一人のみである。

穢土
 けがれた国土のこと。浄土に対する語。凡夫の住む、苦悩に満ちた娑婆世界を穢土という。
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 本章は法華経の力が殊勝なるゆえに、これを持ち、弘通する人も尊貴なのであるという「法妙なるが故に人貴し」の原理を、松にかかる藤、川の源とその流れの関係を例に挙げて述べられている。
 日蓮大聖人が「一閻浮提第一の聖人である」と御自身を称揚すれば、尊大高慢と取るのが世間の習いであるが、といって御自身を卑下すれば、人々は、大聖人の所持の法である南無妙法蓮華経を蔑如することになる。
 松が高ければ、それをつたって伸びる藤も高く伸びていく。川の源が深ければ深いほど、その流れも長遠となる。これが「法妙なるが故に人貴し」の道理である。
 われわれの信心に約せば、「松高ければ」とは、宇宙の本源たる南無妙法蓮華経であり、御本尊が偉大であり尊高であられるゆえに御本尊を信受した人は、福徳も無限に伸び、悠々たる人生を歩むことができるのである。
 「源深ければ」とは、御本尊が久遠元初の妙法の当体であるゆえに、「流れ遠し」で、個人にあっては永遠の幸福を確立することができ、また、大聖人の仏法が末法万年に流布していくのである。
 「幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」とのお言葉に、御本仏としての絶対的な御境界を拝するべきであろう。
 穢土とはこの娑婆世界である。穢土というも、浄土というも「心の善悪による」ゆえに、すべて一念一心の反映であり、大聖人の場合、御本仏の御境界のおもむくところ、いずこにあられても即寂光土なのである。
 御流罪の地・佐渡にあられて「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(0223-02)とも、また「流人なれども喜悦はかりなし」(1360-17)と仰せられたのも同意である。
 「但日蓮一人なる而已」の「但」とは唯一の意であり、大聖人こそ末法万年の闇を照らす御本仏であるとの、広大無辺の大慈大悲の御境界が躍如としていると拝するのである。