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日蓮大聖人御書全集
1601~1619他
1601 1602 1603 1604 1605 1606 1607 1608 1609 1610
1611 1612 1613 1614 1615 1616 1617 1618 1619
弟子檀那列
da01 da02 da03 da04 da05 da06 da07 da08 da09 da10
da11 da12 da13 da14 da15 da16 da17 da18 da19 da20
da21 da22
美作房御返事
1729 1730
原殿御返事
1731 1732 1733 1734 1735

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富士一跡門徒存知の事
01   先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては曾つて異義有るべからざるの処、 其の整足の弟子等忽に異趣を起して
02 法門改変す況や末学等に於ては面面異轍を生ぜり、 故に日興の門葉に於ては此の旨を守つて 一同に興行せしむべ
03 きの状・仍つて之を録す。
04   一、聖人御在生の時・弟子六人を定むる事、弘安五年十月 日 之を定む
05     一 日昭 弁阿闍梨
06     二 日朗 大国阿闍梨
07     三 日興 白蓮阿闍梨
08     四 日向 佐渡阿闍梨
09     五 日頂 伊予阿闍梨
10     六 日持 蓮華阿闍梨
11   此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条条の事。
12   一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、 又云く先
13 師日蓮聖人・ 天台の余流を汲むと云云、 又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと
14 欲す云云。
15   日興が云く、 彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に
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01 載せ畢んぬ、此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。
02   一、五人一同に云く、 諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企
03 て精誠を致し二世の所望を願う。
04   日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、 故に悪鬼神・其の国土
05 に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。
06   一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍つて在在所所に法華三昧又は一日経を行ず。
07   日興が云く、 此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず、之に依つて日興と五人
08 と堅く以て不和なり。
09   一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ。
10   日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、 日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所
11 持の正戒なり、之に依つて日興と五人と義絶し畢んぬ。
12   已前の条条大綱此くの如し此の外巨細具に注し難きなり。
13   一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・
14 南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年
15 月義絶する条条の事。
16   釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
17   次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
18   次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三。
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01   次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。
02   已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、 此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と
03 永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり。
00
04   一、聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事。
05     一 日目┐
06     二 日華┤
07     三 日秀┼ 聖人に常随給仕す。
08     四 日禅┤
09     五 日仙┘
10     六 日乗─聖人に値い奉らず。
11   已上の五人は詮ずるに聖人給仕の輩なり、一味和合して異義有るべからざるの旨・議定する所なり。
00
12   一、聖人御影像の事。
13   或は五人と云い或は在家と云い絵像・ 木像に図し奉る事・ 在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
14   爰に日興が云く、 御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きな
15 り、 之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異ら
16 ずと雖も 大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、 但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二
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01 年日順図絵の本有り、 相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、 而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめん
02 が為裏書に不似と之を付け置く。
00
03   一、聖人御書の事 付けたり十一ケ条
04   彼の五人一同の義に云く、 聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字
05 を以て仏法の因縁を粗之を示し、 若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて 愚癡の者を引
06 摂したまえり、而るに日興、 聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、 故に諸方に散
07 在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。
08   此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。
09   一、立正安国論一巻。
10   此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、 一本は弘安年中身延山に於て
11 先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。
12   一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
13   佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。
14   一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15   身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。
17   一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
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01   駿河国西山由井某に賜る正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り
02   一、下山抄一巻。
03   甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以
04 て遣さる、正本の在所を知らず。
05   一、観心本尊抄一巻。
06   一、取要抄一巻。
07   一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く。
08   已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。
09   一、本尊問答抄一巻。
10   一、唱題目抄一巻。
11   此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に
12 爾なり。
13   一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く、 先例無きに非ざる
14 か。
00
15   一、本尊の事四箇条
16   一、五人一同に云く、 本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造
17 立供養の御書之れ在りと云云、 而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御
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01 筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。
02   日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法
03 蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
04   一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り、 或は又
05 沽却する族も有り、此くの如く軽賎する間・多分は以て失せ畢んぬ。
06   日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、 然れば則ち
07 日興門徒の所持の輩に於ては左右無く 子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、 同一所に安置し奉り六人一同に
08 守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し。
09   一、日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事・ 誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと
10 雖も或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も 子孫等之を捨て、 或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与す
11 と雖も弟子等之を捨つ、 之に依つて或は以て交易し或は以て他の為に盗まる、 此くの如きの類い其れ数多なり故
12 に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。
13   一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等
14 なり。
15   日興の弟子分に於ては在家出家の中に 或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩
16 に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。
17   本尊人数等又追放人等、頚切られ、死を致す人等。
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01   一、本門寺を建つ可き在所の事。
02   五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山・本
03 朝の比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師・何の国・何の所とも之を定め置かれずと。
04   爰に日興云く、 凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の
05 名山なり、 最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、 仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用
06 いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
00
07   一、王城の事。
08   右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、 就中仏法は王法と本源躰一なり居処随つて相離るべからざるか、
09 仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、 然れば駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国
10 なり二には四神相応の勝地なり、 尤も本門寺と王城と一所なるべき由・ 且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本
11 願の所なり。
00
12   一、日興集むる所の証文の事。
13   御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、 或は大綱・随義転用し或は粗意を取つ
14 て述用し給えり、 之に依つて日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、 其の功未だ終らず且らく集む
15 る所なり。
16   一内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之を撰ぶ
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01   一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。
02   一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。
03   一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。
04   已上七巻之を集めて未だ再治せず。
00
05   一、奏聞状の事。
06   一先師聖人文永五年申状一通。
07   一同八年申状一通。
08   一日興其の年より申状一通。
09   一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
10   一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
11   一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。
12   一先師の書釈要文一通。
00
13   一、追加八箇条。
14   近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。
15   一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す 彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、 仍つて甲斐国下山郷の地
16 頭.左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中.新堂を造
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01 立し一躰仏を安置するの刻み、 日興が許に来臨して所立の義を難ず、 聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部
02 阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、 爰に日澄・ 本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と
03 為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり、
04   一、去る永仁年中越後国に摩訶一と云う者有り天台宗の学匠なり日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通する
05 の由之を聞く。
06   一、去る正安年中以来.浄法房天目と云う者有り聖人に値い奉る日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す,又祖
07 師の添加を蔑如す。
08   一、弁阿闍梨の弟子少輔房日高去る嘉元年中以来日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。
09   一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、 而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩
10 薩の像は宝冠形なり。
11   一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う、 彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事
13 を留むるの由聞くなり。
14   一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り寂日坊向背の弟子なり日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を
15 弘通す是れ又四脇士を造り副う彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり、又神詣を留むるの由之を聞く。
16   一、諸方に聖人の御書之を読む由の事。
17     此の書札の抄・別状有り之を見る可し。
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五人所破抄
01   夫れ以れば諸仏懸遠の難きことは譬を曇華に仮り 妙法値遇の縁は比を浮木に類す、 塵数三五の施化に猶漏れ
02 て正像二千の弘経も稍過ぎ已んぬ、 闘諍堅固の今は乗戒倶に緩うして人には弊悪の機のみ多し 何の依憑しきこと
03 有らんや、 設い内外兼包の智は三祇に積み大小薫習の行は百劫を満つとも 時と機とを弁ぜず本と迹とに迷倒せば
04 其れも亦信じ難からん。
05   爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主為りと雖も、 早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻五字を紹
06 継するが為に六人の遺弟を定めたもう。
07   日昭と日朗と日興と日向と日頂と日持と已上六人なり。
08   五人武家に捧ぐる状に云く未だ公家に奏せず。
09   天台の沙門日昭謹んで言上す。
10   先師日蓮は忝くも法華の行者と為て専ら仏果の直道を顕し天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云云。
11   又云く、 日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る、已
12 に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや詮を取る。
13   天台沙門日朗謹んで言上す。
14   先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実経を弘通せしむるに、 最要未だ上聞に達せず愁欝を
15 懐いて空しく多年の星霜を送る玉を含みて寂に入るが如く 逝去せしめ畢んぬ、 然して日朗忝くも彼の一乗妙典を
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01 相伝して鎮に国家を祈り奉る詮を取る。
02   天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。
03   桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。
04   右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。
05   又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。
06   日興公家に奏し武家に訴えて云く。
07   日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、 所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい世を三時
08 に分ち法を四依に付して以来、 正法千年の内には迦葉・阿難等の聖者先ず小を弘めて大を略す竜樹・天親等の論師
09 は次に小を破りて大を立つ、 像法千年の間異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、 本朝には亦
10 桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む、 今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり 正像已に過ぎぬ何
11 ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、 就中天台・伝教は像法の時に当つて演説し 日蓮聖人は末法の代を
12 迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所・解釈炳焉たる者なり。
13   凡そ一代教籍の濫觴は法華の中道を説かんが為三国伝持の流布は盍ぞ真実の本門を先とせざらんや、 若し瓦礫
14 を貴んで珠玉を棄て燭影を捧げて日光を哢せば 只風俗の迷妄に趁いて世尊の化導を謗ずるに似るか、 華の中に優
15 曇有り木の中に栴檀有り 凡慮覃び難し併ながら冥鑑に任す云云、 本と迹と既に水火を隔て 時と機と亦天地の如
16 し、何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。
17   次に祈国の段亦以て不審なり、 所以は何ん文永免許の古先師素意の分既に以て顕れ畢んぬ、 何ぞ僣聖道門の
18 怨敵に交り坐して 鎮に天長地久の御願を祈らんや、 況や三災弥起り 一分も徴し無し 啻に祖師の本懐に違する
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01 のみにあらず還つて己身の面目を失うの謂いか。
02   又五人一同に云く 凡そ倭漢両朝の章疏を披いて本迹二門の元意を探るに判教は玄文に尽し弘通は残る所無し、
03 何ぞ天台一宗の外に胸臆の異義を構えんや、 拙いかな尊高の台嶺を褊して辺鄙の富山を崇み、 明静の止観を閣い
04 て仮字の消息を執する、 誠に是れ愚癡を一身に招き耻辱を先師に及ぼす者か、 僻案の至りなり甚だ以て然るべか
05 らず、若し聖人の製作と号し後代に伝えんと欲せば宜く卑賎の倭言を改め漢字を用ゆべし云云。
06   日興が云く、 夫れ竜樹・天親は即ち四依の大士にして円頓一実の中道を申ぶと雖も而も権を以て面と為し実を
07 隠して裏に用ゆ、 天台伝教は亦五品の行位にして 専ら本迹二門の不同を分ち 而も迹を弘め衆を救い本を残して
08 末に譲る、 内鑒は然りと雖も外は時宜に適うかの故に或は知らざるの相を示し或は知つて而も未だ闡揚せず、 然
09 るに今本迹両経共に天台の弘通と称するの条は 経文に違背し解釈は拠を失う、 所以は宝塔三箇の鳳詔に驚き勧持
10 二万の勅答を挙げて此土の弘経を申ぶと雖も 迹化の菩薩に許さず、 過八恒沙の競望を止めて不須汝等護持此経と
11 示し地涌千界の菩薩を召して如来一切所有の法を授く、 迹化他方の極位すら尚劫数の塵点に暗し 止善男子の金言
12 に豈幽微の実本を許さんや、本門五字の肝要は上行菩薩の付嘱なり誰か胸臆なりと称せんや委細文の如し経を開いて
                                                 見るべし。
13   次に天台大師経文を消したもうに、「如来之を止むるに凡そ三義有り汝等各各自ら己が住有り若し此の土に住す
14 れば彼の利益を廃せん、 又他方は此土に結縁の事浅し宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん、 又若し之を許さ
15 ば則ち下を召すことを得ず 下若し来らずんば迹も破することを得ず遠も顕すことを得ず是を三義と為す、 如来之
16 を止めて下方を召して来らすに亦三義有り、 是れ我が弟子応に我が法を弘むべし、 縁深厚なるを以て能く此土に
17 遍して益し分身の土に遍して益し他方の土に遍して益し、 又開近顕遠することを得、 是の故に彼を止めて下を召
18 すなり」文、 又云く「爾時仏告上行の下是れ第三に結要付嘱」と云云、 伝教大師は本門を慕いて「正像稍過ぎ已
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01 つて末法太だ近きに有り 法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」文、 又云く「代を語れば則ち 像の終り末の初
02 め地を原ぬれば則ち唐の東.羯の西・人を尋ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時.経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に
03 以有るなり」云云。
04   加之大論の中に 「法華は是れ秘密なれば諸の菩薩に付す」と宣ぶ、 今の下文に下方を召すが如く尚本眷属を
05 待つ験けし余は未だ堪えず、 輔正記に云く 「付嘱を明せば此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何を以ての故に
06 爾る、法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」論釈一に非ず繁を恐れて之を略す。
07   観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや、正像過ぎて二千年未だ上行の出現を聞かず末法も亦二
08 百余廻なれば本門流布の時節なり 何ぞ一部の総釈を以て猥に三時の弘経を難ぜんや、 次に日本と云うは惣名なり
09 亦本朝を扶桑国と云う 富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、 爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州
10 共に相応す弘通此の地に在り、 遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり 大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、
11 近く我が国の大日山を尋ぬれば 日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、 閻浮第一の富山なれ
12 ばなり五人争でか辺鄙と下さんや。
13   次に上行菩薩は本極法身・ 微妙深遠にして寂光に居すと雖も未了の者の為に事を以て理を顕し地より涌出した
14 まいて以来付を本門に承け 時を末法に待ち生を我朝に降し訓を仮字に示す、 祖師の鑒機失無くんば遺弟の改転定
15 めて恐れ有らんか、 此等の所勘に依つて浅智の仰信を致すのみ、 抑梵漢の両字と扶桑の一点とは時に依り機に随
16 つて互に優劣無しと雖も 倩上聖被下の善巧を思うに 殆んど天竺震旦の方便に超えたり、 何ぞ倭国の風俗を蔑如
17 して必ずしも漢家の水露を崇重せん、 但し西天の仏法東漸の時・ 既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖
18 語も広宣の日は 亦仮字を訳して梵震に通ず可し、 遠沾の飜訳は諍論に及ばず 雅意の改変は独り悲哀を懐く者な
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01 り。
02   又五人一同に云く、 先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに
03 及ばんや云云。
04   日興が云く、 諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に
05 小乗三蔵の教主は迦葉・ 阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、 此の外の一躰の形像豈頭陀の
06 応身に非ずや、 凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず 倩聖人出世の本懐を尋ぬれば 源と権実已過
07 の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、 図する所の本尊は亦正像二千の間・ 一閻浮提の内未曾有の大漫
08 荼羅なり、今に当つては迹化の教主・ 既に益無し況やタタ婆和の拙仏をや、 次に随身所持の俗難は只是れ継子一
09 旦の寵愛・ 月を待つ片時の螢光か、 執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を
10 用ゆること勿れ云云。
11   又五人一同に云く、 富士の立義の体為らく啻に法門の異類に擬するのみに匪ず剰え神無の別途を構う、既に以
12 て道を失う誰人か之を信ぜんや。
13   日興が云く、我が朝は是れ神明和光の塵・仏陀利生の境なり、然りと雖も今末法に入つて二百余年・御帰依の法
14 は爾前迹門なり誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘うる所なり、 何ぞ善神・ 聖人の誓願に背き
15 新に悪鬼乱入の社壇に詣でんや、但し本門流宣の代、垂迹還住の時は尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。
16   又五人一同に云く、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写・読誦に於ても相違有るべからず云云。
17   日興が云く、如法・一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎
18 えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず 但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も 諸師の邪義を責む可き
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01 者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、 何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや、但し四
02 悉の廃立・二門の取捨宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云。
03   又五人の立義既に二途に分れ戒門に於て持破を論ず云云。
04   日興が云く、夫れ波羅提木叉の用否・行住四威儀の所作・平嶮の時機に随い持破に凡聖有り、爾前迹門の尸羅を
05 論ずれば一向に制禁す可し、法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。
06   但し本門の戒躰・委細の経釈・面を以て決す可し云云。
07   身延の群徒猥に疑難して云く、 富士の重科は専ら当所の離散に有り、縦い地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍
08 ぶ可し既に御墓に参詣せず争か向背の過罪を遁れんや云云。
09   日興が云く、 此の段顛倒の至極なり言語に及ばずと雖も未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん、夫れ身延興隆の
10 元由は聖人御座の尊貴に依り 地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや、 然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂
11 勝見の僻案を起し 師弟有無の新義を構え理非顕然の諍論を致す、 誠に是れ葉を取つて其の根を乾かし流を酌んで
12 未だ源を知らざる故か、 何に況や慈覚・智証は即伝教入室の付弟・叡山住持の祖匠なり、若宮八幡は亦百王鎮護の
13 大神・ 日域朝廷の本主なり、 然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て先聖は慈覚を指して本師違背の仁
14 と称す、 若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の誤謬なり、 非例を致して過無くんば其の国・棄捨
15 の誓い都べて垂迹の不覚か、 料り知んぬ悪鬼外道の災を作し 宗廟社稷の処を辞す善神聖人の居は 即ち正直正法
16 の頂なり、 抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば 汝等将に砕身の舎利を信ぜんと
17 す何ぞ法華の持者と号せんや、 迷暗尤も甚し之に准じて知る可し伝え聞く 天台大師に三千余の弟子有り章安朗然
18 として独り之を達す、 伝教大師は三千侶の衆徒を安く義真以後は其れ無きが如し、 今日蓮聖人は万年救護の為に
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01 六人の上首を定む然りと雖も法門既に二途に分れ門徒亦一准ならず、 宿習の至り正師に遇うと雖も伝持の人・ 自
02 他弁じ難し、 能く是の法を聴く者此の人亦復難しと此の言若し堕ちなば将来悲む可し、 経文と解釈と宛かも符契
03 の如し迹化の悲歎猶此くの如し 本門の墜堕寧ろ愁えざらんや、 案立若し先師に違わば一身の短慮尤も恐れ有り言
04 う所亦仏意に叶わば五人の謬義甚だ憂う可し取捨正見に任す思惟して宜しく解すべし云云。
05   此の外支流異義を構え諂曲稍数多なり、 其の中に天目の云く、已前の六人の談は皆以て嘲哢すべきの義なり但
06 し富山宜しと雖も亦 過失有り迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり信受すべきに足らず、 若し所破
07 の為と云わば弥陀経をも誦すべけんや云云。
08   日興が云く、 聖人の炳誡の如くんば沙汰の限りに非ずと雖も慢幢を倒さんが為に粗一端を示さん、先ず本迹の
09 相違は汝慥に自発するや去る 正安二年の比天目当所に来つて問答を遂ぐるの刻み 日興が立義・ 一一証伏し畢ん
10 ぬ、 若し正見を存せば尤も帰敬を成すべきの処に還つて方便読誦の難を致す誠に是れ無慚無愧の甚しきなり、 夫
11 れ狂言綺語の歌仙を取つて自作に備うる 卿相すら尚短才の耻辱と為す、 況や終窮究竟の本門を盗み己が徳と称す
12 る逆人争か無間の大苦を免れんや、照覧冥に在り慎まずんばあるべからず。
13   次に方便品の疑難に至つては 汝未だ法門の立破を弁ぜず恣に祖師の添加を蔑如す重科一に非ず罪業上の如し、
14 若し知らんと欲せば以前の如く 富山に詣で尤も習学の為宮仕を致す可きなり、 抑彼等が為に教訓するに非ず正見
15 に任せて二義を立つ、 一には所破の為二には文証を借るなり、 初に所破の為とは純一無雑の序分には且く権乗の
16 得果を挙げ廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明す、 此れを以て之を思うに方便称読の元意は 只是れ牒破の一段
17 なり、 若し所破の為と云わば 念仏をも申す可きか等の愚難は誠に四重の興廃に迷い未だ三時の弘経を知らず重畳
18 の狂難嗚呼の至極なり、 夫れ諸宗破失の基は天台・ 伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず何ぞ所破の為に読ま
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01 ざるべけんや、 経釈の明鏡既に日月の如し天目の暗者邪雲に覆わるる故なり、 次に迹の文証を借りて本の実相を
02 顕すなり、此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃ぶ所に非ず(正機には将に之を伝うべし)云云。
03       嘉暦三戊辰年七月草案す                  日 順
日興遺誡置文
01   夫れ以みれば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、 於戲仏法に
02 値うこと希にして喩を曇華の蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、 尚以て足らざる者か、 爰に我等宿縁深厚なるに依
03 つて幸に此の経に遇い奉ることを得、 随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、 偏に広宣流布の金言を仰がんが
04 為なり。
05   一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
06   一、五人の立義一一に先師の御弘通に違する事。
07   一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。
08   一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。
09   一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。
10   一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可け
11     んや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。
12   一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。
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01   一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。
02   一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事。
03   一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。
04   一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
05   一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。
06   一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
07   一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
08   一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。
09   一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。
10   一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
11   一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
12   一、衣の墨・黒くすべからざる事。
13   一、直綴を着す可からざる事。
14   一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。
15   一、謗法の供養を請く可からざる事。
16   一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。
17     但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。
18   一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。
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01   一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦ヨウ犯有りと雖も衆徒
02     に差置く可き事。
03   一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。
04   右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇
05   条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず、仍つて定むる所の条条件の如し。
06       元弘三年癸酉正月十三日                 日 興 判
弟子檀那列伝top
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弟子檀那等列伝
01   弟子檀那等列伝目録               東条新尼─────────────────03
02                           光密房──────────────────03
03  義浄房・浄顕房──────────────03   工藤左近尉吉隆──────────────04
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01  寂日房日家────────────────04   中興入道─────────────────12
02  富木五郎左衛門尉胤継───────────04   最蓮房日栄────────────────12
03  大田五郎左衛門尉乗明───────────05   波木井六郎実長・入道法寂房日円──────13
04  曾谷二郎兵衛尉教信────────────05   大井荘司入道───────────────13
05  池上右衛門太夫宗仲・兵衛志宗長兄弟────05   因幡房日永及び下山庫五郎光基───────13
06  四条中務三郎左衛門尉頼基─────────06   松野六郎左衛門入道────────────13
07  比企大学三郎能本─────────────07   新池左衛門尉───────────────14
08  弥源太入道────────────────07   船守弥三郎────────────────14
09  宿屋左衛門入道光則────────────07   新田四郎信綱───────────────14
10  日妙───────────────────07   椎地四郎・岡宮妙法尼───────────14
11  妙一尼──────────────────08   石河新兵衛実忠入道道念及び女房──────15
12  妙密上人女房───────────────08   白蓮阿闍梨日興──────────────15
13  武蔵公──────────────────08    新田卿阿闍梨日目・蓮華阿闍梨日持・下野房
14  弁阿闍梨日昭───────────────08    日秀・小輔房日禅・越後房日弁・寂日房日華
15  大国阿闍梨日朗──────────────09   浄蓮房──────────────────20
16  民部阿闍梨日向──────────────09   神四郎・弥五郎・弥六郎──────────20
17  伊予阿闍梨日頂──────────────10   豊前公──────────────────20
18  三位房日行────────────────10   高橋六郎兵衛入道─────────────21
19  大進房──────────────────11   西山入道─────────────────21
20  阿仏房日持────────────────11   南条七郎次郎平時光入道大行及び兵衛入道行増22
21  国府入道─────────────────12
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弟子檀那等列伝
      義浄房・浄顕房
01   共に道善房の弟子で大聖人の法兄である、 故に宗旨御建立の時、大聖人が地頭景信に追撃されたのを救つて次
02 第に大聖人の弟子となり、 清澄一山も漸次大聖人に傾いてきた、 又清澄寺大衆も御書に 円浄房等数名出ている
03 けれども、 明らかに大聖人の弟子となつたかはわからないが 逆徒は多かつたやに見ゆる、別当御房という御書が
04 あるが、 これは恐らく義浄房ではなかろうか、 聖密御房は清澄山衆ではなくて、その地方の在家の僧であつたろ
05 う。
      東条新尼
01   長狭郡東条は北条の支族名越家の領である、 その領家の尼を大尼と言い、その嫁が剃髪して新尼と言われてお
02 り、新尼の方が信心強盛であつた。
      光日房
01   光日房は清澄山下天津の人である、 その子弥四郎が青年時代に大聖人に親近し、 後に横死したが、 その前
02 大聖人に両親の事を申し上げて光日房及びその尼も大聖人の信徒になつた。
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      工藤左近尉吉隆
01   天津の人で大聖人の信徒であつた、 文永元年十一月十一日、大聖人を花房蓮華寺より自宅に御招待した、その
02 途中小松原で東条左衛門に要撃され、此の急を聞いて吉隆が馳せつけ、 影信と戦つたが衆寡敵せず、 義隆は鏡忍
03 房と共に身命を捨てて大聖人を御護りした強信者である。
      寂日房日家
01   日家は興津の人、佐久間兵庫亮の子であり、 一家悉く大聖人に帰依していたから、日家も亦大聖人の弟子とな
02 り、後小湊に誕生寺を興した。
      富木五郎左衛門尉胤継
01   因幡国の人で弱冠にして鎌倉幕府に仕え下総国葛飾郡の若宮に住し入道して常忍と称し、 大聖の化を受けて日
02 常と法諱を賜つて次第に行学奉仕積りて 殆んど房総武相関東方面の信徒の棟梁らしき地に在つた、 付近の大田曽
03 谷等の武人と連盟し鎌倉の四条氏と結合して 外護に当り安国論奉献前後の法難を凌いで 少しも退く事なく勇猛精
04 進を励んできた、 此を以つて信徒の首領として老弟子等と比肩するに至り 本門第一の重書たる観心本尊抄を始め
05 数十の義抄を賜わつて居り、 又関東の重鎮として聖教多く自然に集まりて 今に現存している、 殊に付近の真間
06 の天台寺に住する了性房と云う学僧を折伏して走らしめ 其跡に所縁の伊予房を居きて自ら此を管理した、 若宮の
07 地に法華寺を起して 大田乗明の子の帥阿闍梨日高を住せしめたが、 後に大田家が其住地中山に本妙寺を越すに及
08  んで若宮の寺と合併して妙法華寺即ち中山の大寺となつたのである。
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01   又富木女房尼御前も貞節にして 内助の功有り母に仕えて至功あり 伊予房を助け下野、越後房の富士より逃れ
02 たる両房を愛護したる等の美挙があつた。
      大田五郎左衛門尉乗明
01   下総国葛飾郡の八幡荘の中山に住して 大聖人の化を受け信解大に進んだので 三大秘法抄等の如き重要の数数
02 の賜書が残つて居り、 富木氏に次ぎて曽谷氏等と連結して大聖師弟の外護に努めた、 又其の子を捧げて帥の阿闍
03 梨日高と賜い日常の跡を継がしめ、 中山の地に本妙寺を起したるが、 若宮の寺を此に合併したのは日高であつて
04 現今の大規模の法華経寺である。
      曽谷二郎兵衛尉教信
01   下総国葛飾郡曽谷に住して富木氏に次いで入信し信行次第に増進し一生不退に大聖に奉仕したが、 教解の進む
02 に伴いて本門に猛進し迹門不読の見を起して訓誨を蒙つた事もある、 但し住地其他の縁故に依り富木・ 大田に協
03 力して法塁を堅め通した。
04   猶此の地方には金原法橋が在り秋元太郎兵衛が在た、帰嚮強く互に道交密で信行に進んで来た。
05   又星名五郎太郎も此の地方の人か。
      池上右衛門太夫宗仲・兵衛志宗長兄弟
01   父の左衛門太夫康光は鎌倉幕府に仕えて武州国池上なる千束の郷を給わつていた、 門下の長老弁阿闍梨日昭の
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01 俗甥に当る。
02   宗仲宗長兄弟は共に幕府に仕え鎌倉に在つたが、 夙に四条氏等と前後して大聖人の信者になつた、 然し父康
03 光は極楽寺良観の熱心な信者であつたから 二人の信仰に反対し文永十二年には宗仲を勘当した、 此の時大聖人か
04 ら与えられた御書が「兄弟抄」である。
05   その後宗仲の勘当は一旦赦されたが、 又一家に信仰上の葛藤を生じ兄は勘当され、 弟はともすると動揺の色
06 を見せたが、 終に兄弟揃つて父を諌め弘安元年に康光を法華経に帰依せしめた、 永年にわたる一家の騒動は兄弟
07 を苦境に立たしめたが、又これに対する大聖人の懇切をきはめた御指導を拝すべきである。
08   弘安五年十月大聖人は池上邸に於いて御入滅遊ばされた、今の池上本門寺はその跡である。
      四条中務三郎左衛門尉頼基
01   当時の慣例で唐官に依つて金吾と通称さられて居り、 北条の支族江間家の代代の忠臣で武道に欠くる所なきの
02 みならず医道にも通達していた、 建長年間大聖人の折伏逆化を受け、池上兄弟等と共に檀越となる、 文永八年竜
03 の口の法難に際しては 大聖人の馬の口に取りすがり殉死の覚悟で御伴した、 信心強盛の為に又性格の真卒に依り
04 ??同輩と衝突し、 建治三年には讒言を以て陥れられ苦境に立つたが、 頼基は所領身命を抛つて主家を諌めた、
05 此の時大聖人より御代筆を以て与えられた陳情が 即ち「頼基陳情」である、 いくばくもなく主家にその至誠が通
06 じ却つて所領を増せしめた。
08   佐渡に身延に常に伺候を怠らず、 池上御入滅の時は疾く看病し奉り、御葬送には、池上兄弟と共に旗を捧げ奉
09 る、その後入道して所領たる甲州内船に隠居し、正安二年三月十五日寂す。
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01   妻日眼女は熱心な信者であり、その子月満、経王とともに大聖人の信者になつた。
      比企大学三郎熊本
01   比企能員の子で、比企家没落の後京都に学し、 長じて鎌倉幕府に用いられ儒官となつた、 立正安国論は予め
02   熊本に示されているという、その後縁故によつて大聖人に帰依した、後の比企妙本寺はその跡である。
03   女房も亦大聖人の熱心な信者であつた。
      弥源太入道
01   北条家の一門で立正安国論当時より大聖人に心を寄せた者である、 大石寺に在る宗近の名刀は弥源太の奉納し
02 たものであるろいう。
      宿屋左衛門入道光則
01   幕府に仕えていた人であり、 安国論は此の人によつて献上された、その後極楽寺良観等の帰依をやめて大聖人
02 の信仰に入つた。
      日妙
01   鎌倉に住した寡婦であり、大聖人の帰依者であつた、 乙御前と言う少女を携えてはるばる佐渡に大聖人を尋ね
02 た程の純信者であつた、日妙聖人の名はその信念の賜である。
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01 後に興師等の化を慕つて乙御前と共に重須に来る。
      妙一尼
01   鎌倉に在りし老尼であり、昭師縁故の篤信者であって、 佐渡にも一僕を遣わして大聖人の従者とした等の事が
02 ある。
      妙密上人女房
01   鎌倉福谷住の在家の信者である。
      武蔵公
01   鎌倉住の学僧であり、大聖人に命ぜられて経論を寄せた事がある。
      弁阿闍梨日昭
01   承久三年下総国海上郡能手の郷に生る、 父は伊東成親の孫印東次郎左衛門尉祐昭、母は工藤左衛門尉祐経の長
02 女であると云われている。
03   十五歳にして出家し、 郡の天台宗の寺に上つて成弁と称した、又叡山に上り俊範の会下に参じて天台の教観を
04 学ぶ。
05   建長五年の春大聖人は山を下り、 安房に立宗の第一声を掲げられ、次いで鎌倉に移られた当時、成弁は大聖人
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01 学徳を慕うて松葉谷の草庵を訪い、三十三歳にして弟子となる。
02   それ以来門下の大長老として終始し、 弘安五年大聖人の上足六人中首座に列し、同七年鎌倉浜土に一宇を創立
03 したのが転転して今の玉沢妙法華寺となつたのである。
04   桟敷女房は昭師の縁類の人であるという説がある、 又大聖人佐渡御流罪中鎌倉に坂部入道、伊沢入道、得業寺
04 入道等の信者があつたが退転したようである。
      大国阿闍梨日朗
01   下総の国平賀の人少年の時鎌倉にて大聖の門に入り交名を越後公と云われ、 温順至孝の性で後世に給仕第一と
02 追称さられた、 伊東御流罪の時も小松原の襲撃にも亦竜口の法厄にも、 他の人人よりも牢獄等の辛酸を嘗められ
03 た、 大聖の晩年には本弟子六人の第二に列り 御遷化の時には葬列の後陣の首であり身延の墓輪番十八人の中の六
04 人首列の中であつたが、 宗義弘教折伏等の功績の著しきもの少しと雖も門下に九老等の秀才少からずして、 後世
05 に其の門葉次第に繁盛して 全日蓮教団の大半に拡がるの幸運を開かれた、 又在世には殆んど鎌倉常住の因縁と池
06 上の俗縁とに依り比企谷の妙本寺及び池上の本門寺の基礎を固められたのは其の性格の然らしめる処であろう。
      民部阿闍梨日向
01   房総方面の出身であろう、 文永元年大聖人が房総地方に遊化さられるにあたり、少年にして弟子となり交名を
02 佐渡公と云い後に民部阿闍梨と称せられた。
03   建治二年清澄の道善房の訃に身延より「報恩抄」を奉じて房州に至り、 仏事を展べ報恩抄を読み且つ大聖の聖
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01 教を講演した、又各地に転教して上総の藻原に住して居た。
02   弘安五年六上足の第四に列し、 墓輪番に加わつたが、暫く弘安八年頃身延に上り院主日興上人より学頭職に補
03 せられたのに、 鎌倉方面の軟風をもつて地頭波木井日円を誘惑し、自らも亦非行多く身延汚濁の因となつた、 但
04 し延山院主職は長からずして上総に退隠したと伝えられる。
      伊予阿闍梨日頂   
01   駿州富士郡重須の郷に生れたと言われるが明確の資料を見ず幼にして父を失い母に従つて鎌倉に在つたが、 時
02 に下総若宮富木胤継に母が再縁したので頂師もその義子となつたとの説がある。
03   幼にして真間の弘法寺に入つた、弘法寺は天台宗で富木氏の所縁の寺であつたが、 後に富木氏が大聖人に帰依
04 するに及び、 寺主了性は富木氏を論難したが却つて論破せられその跡をくらますに至り自然に其跡に住した、 其
05 れより先き大聖の門に入り伊予公の交名の儘に房号にも称せられたようである。
06   大聖人の晩年は本六人に列し又御入滅後は墓輪番の班につらなつた。
07   後に富木常忍の別当及川宗秀に讒せられて下総に居るに堪えず、嘉暦元年真間の法燈を日ヨウに伝え、日興上人
08 を慕うて富士重須に赴きて正林寺に遷化した。
      三位房日行
01   下総の出身にして早く大聖人の門に投じ、 叡山に留学し秀才に任せてややもすれば宗祖の恩意に背くことがあ
02 つて屡屡訓戒を蒙ると雖も、 然も門下に重きをなしていた、為に日興上人富士弘教の補助を命ぜられ、 又は諸宗
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01  問答の主任に当らしめられた事がある、惜しいかな信念全からず、却つて大聖人の弘教の妨げとなつて晩年を完う
02 しなかつた。
      大進房
01   下総出身の門下の長老で、大聖人が佐渡御在中は法兄日昭と共に鎌倉を守つていた。
02   建治三年身延より大聖人の御名代として富士の賀島に赴き富士方面の弘教に当られた、 然し富士地方は実相寺
03 滝泉寺を始め、 由比・南条・大内等の諸氏の外護を得て興師の教風が牢固としていた、興師より先輩の大進房は俗
04 気の強い人で 自分の活躍の場面がないことにより自負心を傷けられたのであろう、 弘安二年熱原法難の際には遂
05 に叛逆して滝泉寺院主代行智の側に立ち、 長崎次郎兵衛等と共に乗馬で暴徒を指揮し法華の信者を迫害したが、此
06 の時誤つて落馬しそれが原因で死去した。
07   大聖人はこれを「法華の厳罪」と仰せられている。
      阿仏房日持
01   京都の遠藤家で為盛と称し順徳上皇の北面の武士で、 上皇が佐渡へ流された時御伴して来り佐渡に定住したと
02 伝えているが、 或は其れ已前の土着の人であつたろう、 大聖人の佐渡御流罪中塚原三昧堂において論詰せんとし
03 て却つて折伏せられ、御大法を聴き従来深信の念仏を捨てて全く帰伏し、在佐渡中御給仕に努めた。
04   身延に入られてからも八九十の老体を妻の千日尼と交交度度参伺し、豊後房・覚静房・山伏房等を指導し又子息
05 の藤九郎盛綱も其の志を継ぎ、 曾孫の如寂日満は年少より富士に上りて興師に仕え、 北陸仏法の棟梁を命ぜられ
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01 たのも全く阿仏房が大聖人の御時代に北陸仏法の首領であつたからである、 大聖人御入滅後も興師の御教導に浴し
02 て 古代の佐渡は純一に富士門徒であつたのである、 其の中に小関(小木在)の法華衆として弥次郎太夫定久等の
03 一味があつた。
04   又塚原一円を支配する役人に 本間六郎左衛門重連がある、 塚原問答の時大聖人の予言に感じて帰依する所あ
05 り、尚又是日尼と言う信者があるが、行実不明である。
      国府入道
06   国府入道同尼御前は佐渡の国中の国府に住した人であり、夫婦共に大聖人を外護した信者である。
      中興入道
01   佐渡の国中方面中興に在つて本間の家人であつた、 初め念仏の熱心な信者であつたが文永九年大聖人が一の谷
02 に移住なされた時に折伏した、身延入山後も屡屡音信を寄せて御教化を仰いだようである。
      最蓮房日栄
01   天台の学匠らしく台観付順の賜書が多くあり、 尚本門受戒の行作が記されているものもあるけれども行跡に不
02 明の点が少くない、 但し京都の出身で佐渡に流罪中大聖人の御門下となり、 行学堅固ではあるが病身であつたも
03 のの如く、 大聖人が身延入山後赦免せられて京都へ帰り、 次いで甲斐へ移り、 下山の本国寺を開いたと伝えられ
04 る。
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      波木井六郎実長入道法寂房日円
01   甲斐源氏の南部の一門で四十九院の縁故にてか日興上人と道交ありて大聖の門に入る、 波木井三郷の地頭で波
02 木井に常住して居たので波木井殿の通称であつた、 大聖が鎌倉を引き上げられて身延山中に入られたのも 実長と
03 興師との合議の上の御誘導であつた、 其の後も深く興師に帰伏して大聖同然の院主と渇仰せしが、 誘惑者の為に
04 興師を富士に走らしむる程の宗連の不幸を惹起せしめたのであるが、 色法より量より観れば別途である、 但し此
05 の間の史談は後世に大いに歪曲せられている。
06   諸史料に残る南部六郎.六郎恒長は多分実長なるべく又波木井の一門に次郎・三郎兵衛.藤兵衛・右馬入道・弥三
07   郎・弥六郎及び越前房・播磨公等の僧分もある。
      大井荘司入道
01   甲斐の国中巨摩郡の大井荘を司どる甲斐源氏の一門で名乗は不明だが、 小室日伝の祖父であり日興上人の弟子
02 である、俗伝大に誤る。
      因幡房日永及び下山兵庫五郎光基
01   甲斐の国・南巨摩郡の下山に住し因幡房日永は日興上人の弟子であつて、 同所の兵庫五郎光基を化するに頗る
02 苦労さられた、下山御書は其の当時の大聖の御代作と見ゆる。
      松野六郎左衛門入道
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01   富士河の西なる庵原郡松野に住んで居り、 南条家の姻戚で多分日興上人に依つて入信した人であろう、則ち日
02 持ち上人の生家である、御書にも後家尼・女房又は其の族らしきに妙法尼・刑部左衛門尉女房がある。
03   猶松野の付近に内房女房があつた。
      新池左衛門尉
01   遠江の国磐田郡の新池(袋井在)に住して、日興上人に依つて入信せられたであろう、尼と共に純信の人であつ
02 た。
      船守弥三郎
01   伊豆の国・伊東在の河名の住人で大聖人の流罪の時に河名の津に上がられた時、 官憲の追放に苦しまれしを密
02 に保護して遂に入信した人である、俗伝の爼岩は大なる誤と思う。
      新田四郎信綱
01   伊豆の国、仁田郡畠(現今の田方郡畑毛)の住で本貫が奥州の登米郡であるが、祖父の代から北条家に仕うる為
02 畠郷・館の地に給田を賜わつた、 南条家とは姻戚関係であり、又其の次第が日目上人で、此等の重縁で日興上人に
03 導かれて大聖人に帰依し婦人の弟たる南条時光を輔けて 大石寺の経営に尽した日興第一の弟子と云われし程の 篤
04 信の人である、又此の付近に興師の弟子分で仁田土佐房があつた同系の入信者であろう。
      椎地四郎・岡宮妙法尼
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01   共に駿東郡内の其の地の信徒であろうが明確に知られていない。
      石河新兵衛実忠入道念及び女房
01   駿河の国富士郡の重須に住せる人で今の静岡近郷にも給田があつたようである、 此の人の入信の時代は不明で
02 あるが、女房は南条時光の姉であり興師に依つて信仰に入つた、今の北山本門寺は実忠の子・能忠の開基である。
      白蓮阿闍梨日興
01   後深草天皇の寛元四年丙午三月八日、 甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢に生れ給う、御父は遠州の紀氏なる大井の橘六
02 にて御母は富士の由比氏である。
03   少にして父を失い、外祖父河合の由比入道に養われ富士に移り、 蒲原荘内の四十九院(天台宗)に上り外典を
04 駿東の須津荘の良美作阿闍梨に学び、同地頭冷泉中将隆茂に歌道国書を研修し兼て書道を究めた。
05   正嘉二年大聖人実相寺に閲蔵の時 十三歳にて御弟子となり伯耆房と改め後に大聖人法諱を校えて日興と授け白
06 蓮阿闍梨と賜う。
07   弘長元年大聖人伊東流罪の時に自ら往き苦難を共にし間を得て付近を行化せられ、 密徒の金剛院行満を改宗せ
08 しめ其の寺を大乗寺と号して青年日興が開山となられた。
09   師の赦されて鎌倉に帰るや親しく膝下に教誥を受け又其の翰墨の才は大いに師を翼けたる跡が多い。
10   大聖人佐渡御流罪の時は、 日興一人能く万難を忍んで常随給仕し其の信行の熱烈なるは、本間の一族及び阿仏
11 一家を動したる事は甚大で佐渡の仏法は上代に於ては純一に富士門徒であつた。
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01   文永十一年三月、 大聖人赦されて帰鎌後も有司の宿迷覚めず形式の優遇策を一蹴せられ身延の深山に入つて無
02 数劫の雄図を計られたのも、 偏に日興の誘引に依る、 即ち身延の地頭波木井実長は 日興深縁の信士であるが故
03 に
04   文永十一年六月、鎌倉より身延山に嚮導し、 大聖人の草庵成るや富士地方の指導に当られ、甲斐に於ては南部
05 波木井の残族を化了し甲斐源氏の中で小笠原・秋山等の諸武人を化導し、 波木井一族より播磨公越前公、 甲斐源
06 氏よりは日華(秋山氏)日仙(小笠原氏)日伝(大井氏)日妙等次第に改宗す、甲斐中部は柏尾の蓮長、伊豆は新田
07 家其の地より土佐房、 駿河に在りては上野の南条七郎次郎及び河西の松野、 興津、松野より日持、南条より日位
08 が門下に加わり、実相寺の越前房.豊前房・四十九院の日源・滝泉寺の日秀.日弁・日禅等弟子となり、遠江に延びて
09 新池相良等の武人を教化せらる、 此等の中に最も長く住せられしは四十九院・ 実相寺・上野の南条家にして最も
10 弘教に身血を濺がれしは熱原滝泉寺の相分の指導及び其れに依つて入信せる在家への慈教である。
11   従つて其の影響も猛烈にして、 反対の大衆も頗る多く、滝泉寺の院代行智を首領とする強大なる反法華党を作
12 り、 弘安二年九月熱原の大法難となり、 大聖人は興上弘教の熱誠を賞し其の功績重大なるに伴いて法難の熾烈な
13 事は、 実に末法怨敵の当鉾なりと雖も是れ全く日蓮出世の本懐満足の画期として 弘安二年十月十二日本門戒壇の
14 大ご本尊を興上に親付し給うたのである。
15   二十有余年の諌暁にもかかわらず鎌倉政府の迷蒙は覚めず最後の一大事を興上に付して日目を代官として、 弘
16 安四年申状を朝延に奉ぜしめ、同五月更に命じて天意を奉伺す。
17   その時、皇帝朕他日法華を持たば必ず富士山麓に求めんとの下し文を賜る。
18   大聖人の門下は多士済済固より文筆無きに非ざれども 興上は稀に国漢文に長じ又能筆格勤なるを以て最も秘書
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01 に適していた、 故に隋侍の期間も長く自然に宗義の深妙をも相伝せられ、遂に本尊の相伝、曼荼羅の代筆、 百六
02 箇本迹の区別、本因妙の深義等に及ぶ、 御義口伝は興上が其の首たり、其の他滝泉寺申状案、諌暁八幡抄、 三筆
03 の聖教等其の証が歴歴としている。
04   弘安五年九月日興を以て滅後の大導師として法華本門戒壇建立の準備を命ず。
05   十月八日池上に於て各地に散在せる門下の部将として 本弟子六人を定め興師を抜擢して久遠寺の後革と定め総
06 貫主たらしめ、十月十三日安祥として入滅せらる。
07   同年身延に廟所を営み、 六月一日墓番帳を制し高弟十八人を以て順次守塔に充てたが、 其の過半数は興上の
08 門葉であつたのである。
09   興上は祖命に酬えて延山に主たり、各地に安住する五老等多少の異図あらんも表面化すること無きが如きも、興
10 上の厳粛にして安国論の主張、 神社禁詣等を快く思わず、 遂に墓輪番すら空制に帰せしめて延山を顧みず、 追
11 慕の大法要を池上に執行するに至つた、之は門葉分裂の先兆である。
12   民部日向は弘安八年頃登延し院主も地頭も大歓迎して学頭の要職に補したけれども、 寛縦にして地頭を誘惑し
13 て鎌倉の軟風を鼓吹し、忽ち祖風を乱して地頭と結託し院主の告諭を要いず。
14   波木井日円在鎌の期多く興上の親化に遠ざかるに及んで鎌倉の軟風に浸潤し、 民部日向の風化が鎌倉と同致な
15 るを以て其の多数に傾き、 此れ全く大聖の低意に合致するものと信じ 宗祖の厳禁せられていた邪義を執行して三
16 四の謗法を為し、興上の化風を以て頑執迂愚と見、其の懇論に怨言を放つに至つた。
17   学頭日向の越権は単に日円をして謗法を敢行せしめたのみならず、遂に自ら国トウの厳儀の願文に違例を作る、
18 事些末に似たりと雖も宗致上却つて重事なり。
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01   茲に於て大法伝持、宗義厳守の為、 汚濁の敗山を捨てて興上は更に清浄の勝地に移るの外なし、千慮万考の末
02 身延を離山せられ、 河合の養家より下条の南条家より大石ヶ原の勝地に日目・日華・時光・信綱等一挙して正応三
03 年十月大御坊の造営成り、 本尊奉仕の本六僧安定の後、 隣村の地頭石河孫三郎能忠の懇願に依り其地に大聖人の
04 御影堂及び天照大神の垂迹堂、 永仁六年二月十五日に成るを以て之に移られ新弟子次第に集まる、 これが後世新
05 六の本である。
06   拡張の初期には開山自ら学生を指導せられたが 正安年中寂仙日澄の帰伏に依り之を以て初代の学頭に補し 澄
07 師早逝の後はその弟子三位日順を談所の第二代学頭職に補せられた。
08   興尊富士の教学は五老側への影響決して微少に非ず。
09   頂師が真間を脱して富士に同安し興尊の弘化を助け、日朗も遠きを厭わず同志の歩を運ぶ等あり。
10   正慶二年正月遺誡二十六ケ条を定め二月七日重須本門寺に八十八歳の高齢を以て遷化せられた。
11   日興上人の弟子分で大聖人の直弟に進まれし人に、前出の外に日目上人.日華上人・日仙上人・日性上人.日伝上
12 人等の数輩がある。
01 新田卿阿闍梨日目  は伊豆畠の新田家で南条家の縁で伊豆山 (走湯寺) 円蔵坊の習学地より興師の門に入り延山
02 に上りて御遷化後に十八老僧の中に入られ、 身延より富士への、 又奥地への又は公武の数十箇度の諫奏代の教効
03 に依り大石寺の二代となり、晩年朝廷(後醍醐帝)復権の佳期に望み西上の途中で病死せられた。
01 蓮阿闍梨日持   建長二年駿河国庵原郡松野の郷に生る、 松野六郎左衛門入道の二男で、 南条兵衛七郎の室も
02 亦兄弟の一人である、 幼にして出家し同国蒲原荘四十九院に上り日興上人の下に従つて甲斐公と交名し、 名を日
03 持と賜い後に蓮華阿闍梨と号して、擯出の厄に遇い師友と共に苦難を凌いだ。
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01   大聖人の晩年には 六本弟子の一として御滅後墓輪番の班に列したが、 又兄六郎左衛門尉が其の邸城に蓮水寺
02 を創立するに及び之に止住し、又池上に祖像を奉安した。
03   永仁三年松野の寺を日教に托して孤影飄然弘通の途に上り、 奥地を歴て蝦夷に渡り、更に靺鞨に航し、更に北
04 京に進み外蒙古にまで弘教の足を憩めなかつたと言われている。
01 下野房日秀   熱原滝泉寺の寺家である、 日興上人の御教化を受けて  後大聖人の直弟に加えられ、 弘教の効
02 果甚大なるが為に熱原の法難に遇い、 且く真間に避けられたが、 日興上人身延御離山後には師に随順して大石が
03 原に移り、理境坊を建てて護法の任に当られた。
01 小輔房日禅   は富士北部の人で 日秀等と共に滝泉寺の寺家であつたが、  法難の当初に熱原を去つた、 御離
02 山後に西御大坊の前に南の坊を建てて住せられ静岡にも弘教されている。
01 越後房日弁  上人は秀師と共に富士下方市庭寺の   滝泉寺の寺家である、 日興上人に改衣し、 熱原の法難に
02 苦労せられ御慈計にて真間日頂の許に転ぜられて、 上総奥州地方にまで布教の手を延ばされて 奇跡を残されたと
03 伝えており、晩年富士に帰せしやの説もあるが明瞭でない。
01 寂日房日華  は甲斐源氏秋山氏の出身で  富士修験の霊場たる 右左口円楽寺より興師の門に改衣して、  直に
02 直門に進まれ鰍沢の蓮華寺等を開きて此に久住せるが、 其の間興師の離延に陪して上野に寂日房を起し、 老年に
03 及び秋山氏に伴うて讃岐に下り更に富士に上りて後に南条氏の邸内に妙蓮寺を起された。
01 日仙   は甲斐源氏小笠原氏の出身で師と共に興師の門に改衣し、 富士草創の時は上蓮坊を起して此に住せしが、
02 重須日代上人と方便品読否の論に 鉾が利き過ぎてか、 讃岐に下りて 秋山奉忠に依りて高瀬の地に 本門寺(近
03 代までの法華大坊)を起された。
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01   肥前坊日伝  は大井荘司の孫で小室妙法寺の開山であり(山伏)たることは誤なきも、 俗伝(山伏問答の如
02 き)は大いに誤つている。
03   大和房日性 は佐渡の人であるが師と同じく山伏であつたと見ゆる、御書の山伏房は或は此の人であつたか、泉
04 の本光寺を開いて住んでいた。
05   此の外の華師門下を略す。
      浄蓮房
01   駿河国の庵原郡興津に住せる在家の強信の僧で、 富士の高橋氏と族縁がありて熱原の法難にも他と共に外護に
02 当つた人である、此も俗伝は誤つている。
      神四郎・弥五郎・弥六郎
01   此三人の兄弟は富士郡下方荘熱原郷の里民で付近の市庭寺(今の伝法村三日市場か)に在りし滝泉寺の寺家僧日
02 秀日弁(日興上人に改衣せし後)等に教化せられて強盛の法華衆となつたので 滝泉寺の院主代左近入道行智の弾圧
03 に遇い、 同士二十余人と鎌倉に拘引せられて拷問を受けたが、 少しも信仰を曲げざるに世つて此の三人が張本と
04 指されて斬罪に遇ひ余の十余人は追放の刑を受けた。
05   猶史料に残る熱原新福地の神主.六郎吉守・三郎太郎.江美弥次郎・市庭市の太郎太夫入道.子息弥太郎・又次郎.
06 弥四郎入道・田中弥三郎等は此の追放の中で長く苦難を忍んだ人であろう。
      豊前公
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01   駿州岩本実相寺の住侶で越前公と同宿であつた、 日興上人の教化によつて大聖人の御門に入つたが、大聖人滅
02 後興師に遠かつたのは実相寺動乱の余波であつたろう。
03   実相寺越前公あり四十九院に賢秀日源あり、 冶部房(承賢)日位があつて、共に南条家の支族の出身で日興上
04 人の門下であつた。
05   又石本日仲聖人と言うは豊前公の法緯であるか否か文献の微すべきものがない。
      高橋六郎入道
01   富士郡賀島荘(現今の富士町)の住であり、 日興上人の叔母が其の妻である縁に依り興師の門より大聖への強
02 信者であり、 西山河合の由比一族は固より岩本実相寺内にも亦越前房がをり、 付近の熱原市庭寺の里民の信徒と
03 も連絡し、 遥か北方なる上野の南条家又は河西の人人とも 共に四十九院の法難にも熱原の法難にも殆んど外護の
04 本部となられたのであり、今現存する常諦寺は其の跡であろう。
05   猶六郎次郎又は日厳尼等も不明ながら此人の所縁であろう。
      西山入道
01   富士郡西山(現今の芝富村)の芝川畔に住する人で人名が明確でない、 俗伝尽く大内安浄とするのは恐く誤り
02 で、直近の芝川が富士河に合流する河合に住せし由比氏(興師の外戚)の老翁が其れであろう。
03   窪の尼・窪の妙心尼・持妙尼も西山由比の人で持妙尼の新しくて旧き墓が 西山本門寺の門先で芝川を渡つた所
04 (字を窪と云う)に現存している、此の墓より古器物が出土した事もある。
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01   三沢房 は三沢小次郎と云うとの事だが、明確な史料は無い、三沢の地は現今の富士郡柚野村大鹿窪の一部で西
02 山の直北で三沢寺が其の跡といつている。
      南条七郎次郎平時光入道大行及び兵衛入道行増
01   兵衛七郎は伊豆国南条郷より富士の上野郷の地頭として移住したが、 伊豆已来北条の家人であつて鎌倉勤務の
02 時に大聖人に帰依し、 壮年に多児を遺して死去したので、 婦人も其の儘上野の下条の家に信仰に便つて児女の生
03 長を楽しんで居たが、 長児太郎が水死(自然の低地)して後に次男の時光が長じて地頭を襲職して青年ながら興師
04 を師兄と恃みて信仰に猛進せられた、興師の行動の陰には必ず時光が居た。
05   富士の法難殊に熱原の時の如きは法縁俗縁地縁加うるに青年の勇気と共に鎌倉政府に睨まれながらも、 法華衆
06 の頭領として熱原の数十の僧俗を庇護せられた、 興師富士移転大石奠定の時は 殊に主として尽力せられて今の大
07 規模を残した、 老年に任官して次郎左衛門尉と云い入道して大行と称せられたが、 当時の一般の習いとして住地
08 に因みて上野殿と通称せられた、 父の兵衛七郎以上の多児であつて家門も繁昌し 相模にも丹波も領地があつた。
09 但し上野国との関係伝説は誤りである、 邸内の一部の持仏堂が今の下之坊で其他が妙蓮寺となつている、 墳墓は
10 東郊の高台にある。
11   猶南条平七郎は一族であり、上方荘成出(富士宮市外小泉の地)に母が住した史料もあるが、九郎太郎は不明で
12 ある。
美作房御返事top
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美作房御返事   弘安七年十月十八日
01   熊と申さしめんと欲し候の処、此の便宣候の間悦び入り候。 今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに、
02 身労なのめに候はば何方へも参り合せ進らせて、 御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、 所労と申
03 し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らざず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候。
04   抑代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、 安国論の事、 御沙汰何様なるべく候らん。鎌倉には定
05 めて御さはぐり候らめども、 是れは参りて此の度の御世間承らず候に、 当今も身の術なきままはたらかず候へば
06 仰せを蒙ることも候はず、 万事暗暗と覚え候。 此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候い
07 つるに其れも叶わず候。 何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、 鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、 目も
08 当てられぬ事に候。 地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、 御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。
09   其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、 此の殿ばかりあり。然れば墓をせんにも国主用いん程は尚
10 難くこそ有らんずれば、 いかにも此の人の所領に臥すべき御状候いし事、日興の賜ってこそあそばされてこそ候い
11 しか。是れは後代まで定めさせ給いて候を、 彼には住せ給い候はぬ義を立て候はん。如何が有るべく候らん。 所
12 詮縦い地頭不法に候はば昵んで候なん。 争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。 師を捨つべからずと申
13 す法門を立てながら、 忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候。 此くの如き子細も如何
14 がと承り度く候。波木井殿も見参に入り進らせかたらひ給い候。 如何が御計らい渡らせ給い候べき。委細の旨は越
15 後公に申さしめ候い了んぬ。 若し日興等が心を兼ねて知し食す事渡らせ給うべからず、 其の様誓状を以て真実知
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01 者のほしく渡らせ給い候事、 越前公に申させ候い畢んぬ。 波木井殿も同じ事におわしまし候。 さればとて老僧
02 達の御事を愚かに思い進らせ候事は、 法華経も御知見候へ。 地頭と申し某等と申し、努努無き事に候、 今も御
03 不審免れ候へば悦び入り候の由、 地頭も申され候。 某等も存じ候。 其の旨さこそ御存知わたらせ給い候らん。
04 (聞こし)めして候へば、 白地に候様にて御墓へ御入堂候はん事苦しく候はじと覚え候。 当時こそ寒気の比にて
05 候へば叶わず候とも、明年の二月の末三月のあわいに、 あたみ湯冶の次いでには如何が有るべく候らん。越後房の
06 私文には苦しからず候、 委細に承り候はば先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり。 いかにも御文には尽し難
07 く候て、併ら省略候い畢んぬ。恐恐謹言。
08       弘安七年甲申十月十八日              僧 日興 判
09     進上 美作公御房御返事
原殿御返事top
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原殿御返事   正応元年十二月十六日
01   御札委細拝見仕り候い畢んぬ。抑此の事の根源は、 去ぬる十一月の頃、南部弥三郎殿、此の御経を聴かんが為
02 入堂候の処に、 此の殿入道の仰せと候いて、 念仏無間地獄の由聴き給はしめ奉るべく候。此の国に守護の善神無
03 しと云う事云わるべからずと承り候いし、 是こそ存外の次第に覚え候へ。 入道殿の御心替らせ給い候かとはつと
04 推せられ候。殊にいたく此の国をば念仏・真言・禅・律の大謗法故、 大小守護の善神捨て去る間、 其の跡のほく
05 らには大鬼神入り替って、 国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、 故に日蓮聖人の勘文関東
06 の三代に仰せ含まれ候い畢んぬ。 此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ。 国の為、世の為、一切衆生の為
07 の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として、 大慈悲を以て 身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば、 弥三郎
08 殿、念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ。 守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審末だ晴れず候。 其の故は
09 鎌倉に御座し御弟子は 諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候。 身延山の御弟子は 堅固に守護神此の国に無き
10 由を仰せ立てらるの条、 日蓮阿闍梨は入滅候。誰に値ってか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、 二
11 人の外弟子の相違を定め給うべき事候。 師匠は入滅し候と申せども其の遺状候なり。立正安国論是なり。私にても
12 候はず、三代に披露し給い候と申して候いしかども、 尚心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ。 是れと申し候は此
13 の殿三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いし間、 夜半に出で候いて、 越後坊を以ていかにこの法門安国論の
14 正意、日蓮聖人の大願をば破し給うべき、 御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して、 永く留め進らせし事を
15 入道殿こし召され候いて、 民部阿闍梨に問はせ給い候いける程に、 御返事申され候いける事は、 守護の善神此
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01 の国を去ると申す事は、 安国論の一篇にて候へども、 白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて
02 候。法華の自者参詣せば、 諸神も彼の社檀に来会すべく、尤も参詣すべしと申され候いけるに依って、 入道殿深
03 く此の旨を御信仰の間、 日興参入して問答申すの処に、 案の如く少しも違わず民部阿闍梨の教なりと仰せ候いし
04 を、白蓮此の事は、 はや天魔の所為なりと存じ候いて少しも恐れ進らせず、 いかに謗法の国を捨てて還らずとあ
05 そばして候守護神の御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、 師敵対七逆罪に候はずや。 加様にだに
06 候はば、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候はば、 其の科日興遁れ難く覚え候。 今より以後かかる不法の学頭をば擯
07 出すべく候と申す。
08   やがて其の次に南部郷の内福士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候。 以ての外の僻事に候。総じて此の二十
09 余年の間、 持斎の法師影をだに指さはらざりつるに、 御信心何様にも 弱く成らせ給いたる事の候にこそ候いぬ
10 れ、是れと申すは彼の民部阿闍梨、 世間の欲心深くしてへつらひ諂曲したる僧、 聖人の御法門を立つるまでは思
11 いも寄らず大いに破らんずる仁よと、 此の二三年見つめ候いて、 さりながら折折は法門説法の曲りける事を謂れ
12 無き由を申し候いつれども、 敢えて用いず候。 今年の大師講にも啓白の所願に天長地久御願円満、左右大臣、文
13 武百官、各願成就との給い候いしを、 此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、 争でか国恩をば知り給
14 はざるべく候とて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき。
15   此れのみならず 日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へ
16 ども、末だ木造は誰も造り奉らず候に、 入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、 御用途も
17 候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、 其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、 固く其の
18 旨を御存知候を、 日興が申す様は、 責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。 それも其の仏は上行等の脇
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01 士も無く、始成の仏にて候いき。 其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。 なにのほしさに第二転の始成無常
02 の仏のほしく渡らせ給へ候べき。 御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、 聖人の
03 文字にあそばして候を御安置候べし。 いかに聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をば 最前には破し
04 給うべきと、強いて申して候いしを、 軽しめたりと思食しけるやらん。 日興はかく申し候こそ聖人の御弟子とし
05 て其の跡に帰依し進らせて候甲斐に、 重んじ進らせたる高名と存じ候は、聖人や入替らせ給いて候いけん、 いや
06 しくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諌め進らせぬる者かなと自讃してこそ存じ候へ。
07   総じて此の事は三の子細にて候。 一には安国論の正意を破り候いぬ。二には久遠実成の如来の木像最前に破れ
08 候。三には謗法の施始めて施され候いぬ。 此の事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、 偏に諂曲したる法
09 師の過にて候へば、 思食しなおさせ給い候いて、 今より已後安国論の如く聖人の御存知在世二十年の様に信じ進
10 らせ候べしと、 改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、 軽しめたり
11 とや思食し候いつらん。 我は民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰せの由承り候いし間、 さては法華経の御信心逆
12 に成り候いぬ。 日蓮聖人の御法門は、 三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候を捨てて、
13 阿弥陀仏を憑み奉るによって、 五逆罪の人と成って無間地獄に堕つべきなりと申す法門にて候はずや。 何を以て
14 聖人の信仰し進らせたりとは知るべく候。 日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、 二代三代の
15 末は知らず、末だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ。
16   身延沢を罷り出で候事、面目なさ、 本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いずくにても聖人の
17 御義を相継ぎ進らせて、 世に立て候はん事こそ詮にて候へ。 さりともと思い奉るに、 御弟子悉く師敵対せられ
18 候いぬ。 日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候はば、 本意忘るること無く候。
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01 又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入って候。 殊更御渡り候へば 入道殿不宣に落ちはてさせ給い候はじと覚
02 え候。
03   尚民部阿闍梨の邪見奇異に覚え候。 安房の下向の時も入道殿に参り候いて、外典の僻事なる事再三申しける由
04 承り候。 聖人の安国論も外典にてかかせ渡らせ給い候。 文永八年の申状も外典にて書かれて候ぞかし。其の上法
05 華経と申すは漢土第一の外典の達者が書きて候間、 一切経の中に文詞の次第目出度とこそ申し候へ。 今此の法門
06 を立て候はんにも、 構えて外筆の仁を一人出し進らせんとこそ思進らする事にて候いつれ。 内外の才覚無くして
07 は国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候。総じて民部阿梨の存知自然と御覧じ顕さるべし。
08   殊に去ぬる卯月朔日より諸岡入道の門下に候小家に篭居して、 画工を招き寄せ曼荼羅を書きて、同八日仏生日
09 と号して、 民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、 入道其の心中を知
10 って妻子を喚び出して酒を勧むる間、 酔狂の余り一声を挙げたる事、 所従眷属の嘲弄口惜しとも申す計りなし。
11 日蓮の御恥何事か之に過ぎんや。 此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。此の事をば只入道殿には隠し進む
12 らせては候へども、 此くの如き等の事の出来候へば、 彼の阿闍梨の大聖人の御法門継ぎ候まじき小細顕然の事に
13 候へば、 日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり。 同行に憚りていかでか聖人の御義をば隠
14 し候べき。 彼の阿闍梨の説法には、定めて一字も問いたる児共の日向を破するはとの給い候はんずらん。 元より
15 日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが 還って失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか。 何よりも
16 御影の此の程の御照覧如何、見参に非ざれば心中を尽し難く候。恐恐勤言。
17       一二月一六日                    日興  判
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01     進上 原殿御返報
02   追って申し候。 涅槃経第三第九二巻御所にて談じて候いしを、 愚書に取具して持ち来って候。聖人の御経に
03 て渡らせ給い候間、 慥かに送り進らせ候。 兼ねて又 御堂の北のたなに 四十九院の大衆の送られ候いし時の申
04 状の候いし、御覧候いて便宣に付し給うべくや候らん。見るべき事等候。毎事後信の期して候。恐恐。