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日蓮大聖人御書講義170975~0998

0975~0976    富木尼御前御返事(弓箭御書)
  0975:01~0975:05 第一章 尼御前の内助の功を讃む
  0975:05~0976:09 第二章 病気克服の方途を示す
  0975~0976    富木尼御前御返事(弓箭御書)2013:04月号大白蓮華より。先生の講義
0976~0978    忘持経書
  0976:01~0977:02 第一章 内外の忘失者の例を挙ぐ
  0977:03~0978:02 第二章 悲母への追善供養を讃える
0978~0978    富木殿御返事
  0978:01~0978:06 第一章 供養の功徳の大なるを教える
  0978:06~0978:10 第二章 尼御前の病気平癒を祈らる
0979~0979    道場神守護事
0980~0982    常忍抄(稟権出界抄)
  0980:01~0980:11 第一章 稟権出界正釈を示す
  0980:12~0981:07 第二章 本門と諸経の益の勝劣を判ず
  0981:08~0981:10 第三章 正像末弘の第三法門を明かす
  0981:10~0981:18 第四章 止観の教示ふまえ不退勧める
  0982:01~0982:03 第五章 止観に説く持戒と末法無戒
  0982:04~0982:12 第六章 了性等は師子王の前の蚊虻
0982~0984    始聞仏乗義
  0982:01~0983:13 第一章 二乗開会の名目と意義を明かす
  0983:14~0984:18 第二章 末代凡夫の即身成仏の原理を明かす
0985~0986    可延定業書
  0985:01~0985:15 第一章 定業を延ぶる方途を示す
  0985:15~0986:17 第二章 生命の尊厳を教示す
  0985~0986    可延定業書2007:10月号大白蓮華より。先生の講義
0987~0987    富城殿御返事
0987~0989    四菩薩造立抄
  0987:01~0987:04 第一章 本門の本尊御建立の時を尋ねる
  0987:04~0988:01 第二章 前代未聞・閻浮提未曾有なるを明かす
  0988:01~0988:10 第三章 付嘱に約し正像末弘を述べる
  0988:11~0989:02 第四章 四菩薩建立の時を示す
  0989:03~0989:18 第五章 迹門捨棄の僻見を戒む
0987~0989    富木殿女房尼御前御書
0991~0992    諸経と法華経の難易の事(難信難解法門)
  0991:01~0991:07 第一章 法師品の「難信難解」の意を明かす
  0991:07~0991:12 第二章 易信易解と難信難解の理由を示す
  0991:13~0992:01 第三章 随自意・随他意を知る重要性示す
  0992:01~0992:12 第四章 諸経が随他意である証文
  0992:12~0992:18 第五章 法華経を根本とすべきを明かす
0993~0995    富城入道殿御返事(弘安役事
  0993:01~0993:06 第一章 病中に執筆する心情を述ぶ
  0993:06~0995:01 第二章 真言亡国の前例を承久の乱に見る
  0995:01~0995:05 第三章 法華堂修築に御供養を充つ
0995~0998    治病大小権実違目(治病抄)
  0995:01~0995:05 第一章 御供養の御礼を述べる
  0995:06~0996:06 第二章 身の病と心の病を示す
  0996:07~0997:03 第三章 迹門・本門と文底を明かす
  0997:04~0997:11 第四章 性善性悪の法門を明かす
  0997:12~0998:08 第五章 日本国の疫病の先例を示す
  0998:09~0998:18 第六章 事理の一念三千を説く
  0995~0998    治病大小権実違目(治病抄)2013:06月号大白蓮華より。先生の講義

0975~0976    富木尼御前御返事(弓箭御書)top
0975:01~0975:05 第一章 尼御前の内助の功を讃むtop
富木尼御前御返事     建治二年    五十五歳御作
01   鵞目一貫並びにつつひとつ給い候い了んぬやのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、 をと
02 このしわざはめのちからなり、 いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり、 けぶりをみれば火を
03 みるあめをみればりうをみる、 をとこをみればめをみる、 今ときどのにけさんつかまつれば尼ごぜんをみたてま
04 つるとをぼう、 ときどのの御物がたり候は このはわのなげきのなかにりんずうのよくをはせしと尼がよくあたり
05 かんびやうせし事のうれしさ いつのよにわするべしともをぼえずと・ よろこばれ候なり、
-----―
 銭一貫文ならびに筒一つをいただいた。
 箭が飛ぶのは弓の力により、雲のゆくのは竜の力、男の所業は女の力による。今、富木殿がこの身延の山へ来られたのは尼御前のお力による。煙を見れば火を知る。雨を見れば竜を知り、夫を見れば妻をみる。今、富木殿にお会いしていると尼御前をみているように思われる。
 富木殿が話されていたことは、このたび母御が逝かれた嘆きのなかにも、ご臨終がよかったことと、尼御前が手厚く看病されたことのうれしさは、いつの世までも忘れられない、と喜んでおられた。

鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
―――
りう
 神力ある蛇形の鬼神のこと。畜生類の代表で八部衆の一。水中に住し、天に昇って雲、雨、雷電などを自在に支配すると考えられていた。
―――
けさん
 対面・お目にかかること。
―――――――――
 本抄は、建治2年(1276)3月27日、下総国若宮から、富木常忍が母の遺骨をもって身延を訪れた折、尼御前が病気であることを聞かれ、尼御前にあてて書かれたお手紙である。御真筆が現存している。
 なお、富木常忍は、尼御前へのこのお手紙をたずさえて帰る時、所持の法華経を置き忘れて下山したので、大聖人が弟子に持たせて届けられたことが、忘持経事に記されている。
 まず、御供養への謝辞が述べられた後、はるばる富木常忍が来てくれたことについて、夫を身延に送り出したのは妻の力であると内助の功を讃えられている。
 また、富木常忍が大聖人に母の臨終の姿がよかったことを報告するとともに、その母を尼御前が手厚く看病したことを喜んでいる旨を尼御前に伝えられている。おそらく、富木常忍がそうした感謝の気持ちを尼御前に伝えていないことを推知されて、尼御前に知らせることにより、富木夫妻の愛情がいっそう深まることを期待され、また尼御前の心を引き立たせようとされたのではあるまいか。そうした細やかなお心遣いを拝することができる一節である。
やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり
 箭が飛ぶのは弓の力により、また、雲の動くのは竜の力によるといわれるように、男の所業は女の力によるとの仰せである。
 そして、身延を訪れた富木常忍をとおして、背後にいる妻の力に想いを馳せられ、尼御前自身に会ったような気がするとまで述べられている。
 こうした事例は、四条金吾が鎌倉から佐渡の御流罪地へ訪ねた時や、阿仏房、国府入道が佐渡から身延へ大聖人を慕ってきた時にも見られる。眼前にいる、訪ねてきた人とともに、その背後にあってその人を送り出した陰の人をつねに思いやられ、一緒にきたのと同じであると、その真心を讃えられているのである。眼前のものだけにとらわれない深い智慧と、人間に対する広大な慈愛がそこに拝せられる。
 また大聖人は、種々の譬えでもって夫婦一体の愛と女性の役割、生き方について教示されているが、本抄では、妻を弓に、夫を箭に譬えて、夫が社会でどのように活躍できるかは、妻の力によると、むしろ妻の方が主役であることを力説されている。
 また、「兄弟抄」では「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」(1088-08)と説かれ、男性にしたがいながら巧みにリードするところに女性の生き方があることを教示されている。
 もとより、大聖人の門下は寡婦もいたし、すべての人にこの原理を当てはめられているわけではない。現代にあっては、夫婦であっても、妻が社会的に活躍する場合も当然あろう。
 ただ家庭にあって妻という立場でいるからには、この原理は円満な家庭生活のためにきわめて重要な御教示といえるのではないだろうか。
 妻は、一家の人々の幸・不幸を左右する力ある存在である。その力をどのように賢明に使うかによって、夫の心を動かし、持てる力を社会の中で存分に発揮させるか否かも決まってくるのである。このような妻として、女性がもっている特質に気づかず、男性に自分のエゴを押しつけても、自尊心を傷つけるのみならず、夫から生命力を奪い、夫婦愛をこわしてしまうことにもなりかねないのである。
 男性であれ女性であれ、主体的に賢明に生きなければならないが、その生き方は、置かれた立場、それぞれの特質にそったものでなければなるまい。
 家庭にあっても、社会にあっても、女性と男性のそれぞれの特質が十分に発現され、調和が実現されるところに、理想的な営みがなされるのである。
 日蓮大聖人が、女性の内助の功を称賛されるのは、男性が自分だけの力であり、功であると思っていても、その奥には女性の妻としての力が働いていることを指摘され、夫婦の協調を示される意味も含められていたと考えられよう。

0975:05~0976:09 第二章 病気克服の方途を示すtop
05                                           なによりもをぼつかな
06 き事は御所労なり、 かまえてさもと三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ、 病なき人も無常まぬかれがたし但
07 しとしのはてにはあらず、 法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、 設い業病なりと
08 も法華経の御力たのもし、 阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ陳臣は十五年の命をのべたり、 尼ごぜん
09 又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・ しをのみつがごとし、 いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強
10 盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ、 なげき出来る時はゆきつしまの事だざひふの事 かまくらの人人の
11 天の楽・のごとにありしが、 当時つくしへむかへばとどまるめこゆくをとこ、はなるるときはかわをはぐがごとく
12 かをと・かをとをとりあわせ目と目とをあわせてなげきしが、 次第にはなれてゆいのはま・いなぶらこしごえさか
13 わはこねさか一日二日すぐるほどに、 あゆみあゆみとをざかるあゆみを かわも山もへだて雲もへだつればうちそ
0976
01 うものはなみだなりともなうものはなげきなり、 いかにかなしかるらむかくなげかんほどに・ もうこのつわもの
02 せめきたらば山か海もいけとりか・ふねの内か・かうらいかにて・うきめにあはん、これ・ひとへに失もなくて日本
03 国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく 或はのり或は打ち或はこうじをわたし、 ものにくるい
04 しが十羅刹のせめをかほりてなれる事なり、 又又これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし、 不思議を
05 目の前に御らんあるぞかし、 我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・ なにのなげきか有るべき、きさきになりても・
06 なにかせん天に生れても・ようしなし、 竜女があとをつぎ摩訶波闍波提比丘尼のれちにつらなるべし、 あらうれ
07 し・あらうれし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えさせ給へ、恐恐謹言。
08       三月二十七日                      日蓮花押
09     尼ごぜんへ
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 しかし、何よりも心懸かりなことは尼御前の御病気である。必ず治ると思って、三年の間、終始怠らず灸治されるがよい。病気でない人でも無常の理はまぬかれ難いものである。
 ただし、あなたはまだ年老いたわけでもなく、しかも法華経の行者であるから、思わぬ死などあるわけがない。まさか業病であるはずがない。たとえ業病であっても、法華経の御力は頼もしく、病が治癒しないはずはない。
 阿闍世王は法華経を受持して四十年という寿命を延ばし、天台大師の兄の陳臣も十五年の寿命を延ばしたといわれる。尼御前もまた法華経の行者で、御信心は月の満ち、潮のさしくるように強盛であるから、どうして病がいえず寿命の延びないことがあろうかと強くおぼしめして、御身を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである。
 もし、嘆きや悲しみが起きてきたときは壱岐・対馬の事、太宰府の事を思い起こされるがよい。あるいは、天人のように楽しんでいた鎌倉の人々が九州へ向かっていくにあたって、とどまる妻子、行く夫、愛しい者同士が顔と顔をすり合わせ、目と目を交わして嘆き、生木をさかれる思いで別れを惜しみ、次第に離れて由比の浜、稲村、腰越、酒勾、箱根坂と一日、二日と過ぎるほどに歩一歩と遠くなって、その歩みを川も山も隔て、雲も隔ててしまうので、身に添うものはただ涙、ともなうものはただ嘆きばかりで、その心中の悲しみはいかばかりであろうか。
 こうした嘆きのなかに蒙古の軍兵が攻めてきたならば、山や海で生け捕りになったり、船の中か高麗かで憂き目にあうであろう。このことはまったく、なんの罪もないのに日本国一切衆生の父母ともいえる法華経の行者日蓮を、理由もなく謗り、打ち、あるいは街なかを引き回して、物に狂っていたのが十羅刹の責めを被ってこのような目にあっているのである。彼らの身の上にはまだまだこれより百千万億倍の大難が出来するであろう。こうした不思議をよくご覧なさるがよい。
 我らはまちがいなく仏になると思えばなんの嘆きがあろう。皇妃に生まれても、また天上界に生まれてもなにになろう。竜女のあとを継ぎ、摩訶波闍波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。なんとうれしいことであろうか。ただ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とお唱えなさい。恐恐謹言。
  三月二十七日            日 蓮  花 押
   尼ごぜんへ

非業の死
 定命をまっとうせずに迎える死のこと。
―――
業病
 前世の悪業の因によって起こる病気。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
陳臣
 生没年不明。陳鍼のこと。天台大師の兄。仏祖統紀巻三十七によれば、張果仙人から一か月後に死ぬことを予言されたが、天台大師が陳臣のために小止観を述べ、陳臣はその教えどおりに修行することによって、寿命を15年間延ばしたといわれる。
―――
ゆきつしま
 朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
―――
だざひふ
 7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、現在でも地元は「太宰府」を使っている。
―――
つくし
 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
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ゆいのはま・いなぶらこしごえさかわはこねさか
 鎌倉から西国に向かう道中を示されたもの。ゆいのはま(由比の浜・神奈川県鎌倉市の海岸)いなぶら(稲村ケ崎・鎌倉市西南部)こしごえ(腰越)さかわ(酒匂・小田原市)はこねさか(箱根坂)。と順に進んでいく。
―――
かうらい
 高麗、朝鮮半島のこと。
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こうじをわたし
 街路を引き回すこと。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
―――
竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
―――
摩訶波闍波提比丘尼
 梵語マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢剌闍鉢底とも書く。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で成仏の記別を与えられ、一切衆生憙見如来の号を受けた。
―――――――――
 尼御前の御病気を心配され、まず「三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ」と具体的に治療を加えるよう勧められるとともに、病気と戦う生命力を増すための根本的治療法ともいうべき信心について説かれていく。そして、尼御前は法華経の行者であり、信心も強盛であるから、必ず、どのような病気でも克服し、寿命さえ延ばすことができると激励されるのである。
 この個所で、日蓮大聖人は、病気を克服するための基本原理をわかりやすく示されている。それは、肉体的・精神的治療とともに、さらに宿命転換という根源的治療の方途である。
 第一に、肉体的な治療法としては、灸治を三年間、怠らず続けるように、また、身体を養生するように指示されている。当時の日本の医学を十分に活用するようにとの意であろう。
 つぎに、仏法への強い信心によるならば、生命力そのものを増し、宿業によるものであっても、それを治しうることを教えられている。釈尊の時代の阿闍世王、天台大師の兄である陳臣の例を挙げて、定業さえも転換し、寿命を延ばすことも可能であることを述べられている。この二例は、同じく尼御前に与えられた「可延定業書」でも挙げられている。
 第三に、精神的な面から激励されている。
 すなわち、鎌倉の人々が、蒙古との戦いのために妻子と別れゆく悲しみ、また九州に着けば蒙古に襲われて山に隠れても海へ逃げても生け捕られ、敵の船中か、高麗へ連れて行かれて殺される苦しみを想い起こしなさい、と教示され、日本国の人々が、このような苦しみ、嘆きに値わなければならないのは、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害したゆえに十羅刹女の責めを蒙っているのであり、しかも、これより百千万億倍も耐え難い苦しみが襲いかかってくるであろうと、死後の無間地獄の苦を暗示されている。それに対して、正法を信仰している尼御前は、成仏は間違いないのであるから、今の病苦を嘆く必要はないと激励されるのである。
 病気においては、悲しみ、嘆き、絶望等は、最大の敵である。それは、病気をひきおこす原因の一つになるとともに、病気を悪化させる要因にもなるからである。人間の病気は、いかなる病気も、心の状態が深く結びついている。心に嘆きがあれば病状は悪化し、逆に希望の光がともれば病気と戦う力が湧き起こってくる。
 現今、悲しみ、嘆き、失望、絶望等が、心臓病のみならず、ガンの発病と悪化にも深く関係することが証明されつつある。その他、白血病、潰瘍、糖尿病やその他の病気に心の状態が深く結びついていることはいうまでもないであろう。
 また、その悲しみや苦しみも、将来、治るという期待があれば耐えられるが、苦しみの連続でいつまで続くかわからない性質のものであれば、人間の心は耐えることができず、病と対決する気力、生命力を失うことになる。日蓮大聖人は、尼御前の病苦の嘆きを、当時の鎌倉の人々の苦しみと対比させ、成仏できる喜びを教えられることによって、悲しみの底から未来への勇気と希望の炎を燃えたたせようとされたのではなかろうか。
 このように、未来に希望の光を見つめつつ、法華経の信心をいっそう強盛にしていくとき、心身の治療の効果と、生命力の増強があいまって、たとえ業病でも克服することができるのである。
 しかも、法華経の信心を根本とした病気との戦いは、ただ病気が治るということだけにはとどまらない。病気と戦うことそれ自体が、宿業の転換となり、あらゆる苦悩を克服し、一生成仏への道へとつながっていくのである。
 その成仏の境界は、人界の最上の王妃や天人等の受ける幸福境涯をはるかに超えた、深く永遠性をもったものである。人天の幸福は所詮、皮相的なものであり、また無常をまぬかれない。それに対して、成仏の境界は、永劫にくずれない金剛不壊の幸福なのである。
 病気との信心による対決がこのような幸福境涯を得させてくれることを知るならば、いまの病苦は嘆きではなくなり、心は未来への希望におおわれる。その希望が、また病気の好転をもたらす力となるのである。
病なき人も無常まぬかれがたし但しとしのはてにはあらず、法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし
 人間だれしも死はまぬかれえない。どのように健康を誇っていても、不慮の事故で生命を断たれることもある。また、寿命が終わればだれびとも死を迎えねばならない。寿命の尽きることが「としのはて」である。尼御前はまだそんな年齢ではないとの仰せである。
 また、法華経の行者であるから「非業の死」であるはずはないともいわれている。法華経の力は、現世での種種の災難を防ぎ、守ってくれるからである。非業の死とは、本来の意味では定業ではない死のことであるが、ここでは現在の種々の災難によって横死することである。
 また、よもや業病でもあるまいと仰せである。業病とは、先世からの悪業によってひきおこされる種々の難病である。摩訶止観巻八上には、業病について次のように記されている。「業病とは、或は専ら是れ先世の業、或は今世に戒を破して先世の業を動じ、業力病を成ず」と。ここにあるように、業病とは、先世の悪業が現れて、その業力が病気をひきおこす場合と、今世での破戒が先世からの悪業を動かし、顕現させて、そのために病気になる場合とがある。いずれも宿業が病気の根本原因になっているのである。
 たとえ難病であっても、先世からの悪業によるものでない場合は、医学の力によって治すことが可能である。しかし、業病だけは、業そのものを転換できる仏法の力によらなければ治すことはできないのである。
 業病、つまり定業の病でも、法華経を信心し強盛にして乗り越えていくことができるのである。「可延定業書」にも「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く『此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり』等云云、此の経文は法華経の文なり」(0985-02)と述べられている。御本尊に過去世の謗法を懺悔すれば、どのような悪業でも消滅できるのである。
 南無妙法蓮華経の大仏法を信受した以上は成仏は間違いないのであるから、「きさきになりても・なにかせん……摩訶波闍波提比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれし・あらうれし」と、成仏できることになによりの喜びを感じて、その感謝と随喜の心で題目を唱え、信心に励んでいくよう御教示されて結ばれている。これこそ、たんに病苦を乗り越えるためのものであるにとどまらず、信心の根本姿勢であると拝すべきであろう。

0975~0976    富木尼御前御返事(弓箭御書)2013:04月号大白蓮華より。先生の講義top

眼前の一人を励ます 人間主義の行動
 それは、昭和27・8年(1952・3)ごろのことでした。60年たった今も、私の脳裏に鮮やかに蘇る幾つもの光景があります。
 すなわち当時、東京・市ヶ谷にあった学会本部分室の狭い部屋で、来る日も来る日も、第2代会長・戸田城聖先生が粘り強く続けられた「個人指導」です。
 病苦、経済苦、家庭不和、人間関係、あるいは差別やいじめ、さまざまな悩みを抱えた庶民が、必死の思いで戸田先生の指導を求めて来ていました。しかも、その悩みの内実は、一人一人、違います。
 先生は親身に、そして辛抱強く、友の話に耳を傾け、妙法の大確信のうえから、必ず乗り越えられる。必ず宿命転換できる、絶対に幸福になっていけると教えられていったのです。
 この眼前の「一人」を励まし、希望の光を送り、人生に立ち向かう力を呼び覚ます。それはまさしく、法華経の「万人成仏」の法理をもって、不幸からの挑戦に敢然と応戦していく大闘争でありました。
 かつて恩師は、自ら渾身の力を注いだ。この「励まし」を終えた後、息をつかれて、こう語られたことがあります。
 「わたしは今、一本の旗をもって、たった一人で濁流の中に立っているみたいなものだよ。少しでも油断すると、旗と一緒に濁流に流されてしまいそうだ」
個人指導は創価学会の伝統
 この偉大な師子王ありて、創価学会の今日があります。“創価の父”である初代会長・牧口常三郎先生も、個人指導を最大に大切にされていました。毎週2回、学会本部か自宅に訪ねて来る会員と面談し「仏法は生活法なり」と、懇切に一人一人を励まされたことも、その一例です。
 「一人を大切に」という人間主義こそ、仏法の結論であり、創価学会の伝統精神です。私も、全く同じ思いです。直接、出会った方はもちろん、手紙や報告等で伺った場合も「励ますのは今しかない」と、一期一会の決心で、激励指導に生命を注いできました。
 一対一の対話、さらに一対一の励まし。それは実は、仏法哲学の真髄であり、宗教の本来の精神ではないでしょうか。
 私が想起するのは、インドの独立運動のなか、マハトマ・ガンジーが日課としていた行動です。
 ガンジーの日常生活の多くの時間は、たとえば農民の食事の心配や亡くなった人への哀悼、若い女性の結婚相談、病気の激励など、民衆からかれのもとにひっきりなしに寄せられる悩みごとに対処することに費やされたといいます。一日平均百通ともいわれた膨大な手紙をおくるほか、直接人々に面談しての励まし、いわば“個人指導”の繰り返しだったのです。
 有名なガンジーの評伝は、「ガンジーは全国のために心配ごとに取り囲まれていながら、一介の人間のことを気にとめていた」と指摘しています。日常の雑事と映るそれらの悩み事に対処することは、ガンジーにとっては、決して疎かにすることのできない、いや、それどころか、彼が最重要の関心事でした。
 なぜなら、民衆一人一人が、直面している眼前の悩みや困難に負けず、逞しく乗り越え、一個の人間として自立し、人生に勝利していくことこそ、インドの自立、すなわち、独立の本質だったからです。
人間革命、生活革命から、社会革命へ
 一人一人が、まさに千差万別の悩みと格闘している「人間の心」の問題と真正面から取り組んで、いかに解決し、いかに現実の生活・行動に変革を及ぼしていくのか。そこに思想も、哲学も、本当の勝負があります。
 ガンジーはいいました。「社会革命をもたらす正道は、それをわれわれの生活の瑣事において実証していく以外にはない」
 宗教の生命もまた、自身の人間革命、生活革命にあります。
 一人一人が現実に直面している生活の悩みと格闘し、生命の境涯を変革していく、その軌道の中にしか、真の社会変革の道もないし、立正安国もないのです。
 この出発点にある人間革命を開いていく大道こそ、一人への「励まし」です。
 今回は「富木尼御前御返事」を拝して、この日蓮大聖人の「励まし」の世界を学びます。短い御書ですので、全文を掲げて拝していきたいと思います。
01   鵞目一貫並びにつつひとつ給い候い了んぬやのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、 をと
02 このしわざはめのちからなり、 いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり、 けぶりをみれば火を
03 みるあめをみればりうをみる、 をとこをみればめをみる、 今ときどのにけさんつかまつれば尼ごぜんをみたてま
04 つるとをぼう、 ときどのの御物がたり候は このはわのなげきのなかにりんずうのよくをはせしと尼がよくあたり
05 かんびやうせし事のうれしさ いつのよにわするべしともをぼえずと・ よろこばれ候なり、
-----―
 銭一貫目並びに酒一筒をいただいた。
 箭が飛ぶのは弓の力により、雲のゆくのは竜の力、男の所業は女の力による。今、富木殿がこの身延の山へ来られたのは尼御前のお力による。煙を見れば火を知る。雨を見れば竜を知り、夫を見れば妻を見る。今、富木殿にお会いしていると尼御前をみているように思われる。
 富木殿が話されていたことは、このたび母御が逝かれた嘆きのなかにも、御臨終がよかったこと、尼御前が手厚く看病されたことのうれしさは、いつの世まで忘れられない、と喜んでおられた。

富木尼御前の功労を賞讃
 本抄は建治2年(1276)3月、下総国の女性門下・富木尼御前に与えられた御書です。
 前年2月の御手紙には、夫の富木常忍の「齢九旬」にも及ぶ高齢の母親が苦心して縫い上げた着物を大聖人に御供養されたことが記されています。そして、この母が亡くなり、富木常忍は遺骨を携えて大聖人を身延にお訪ねしました。その際、母親の臨終の様子や家族の近況などを報告したようです。そして帰途につく常忍に託して、妻の尼御前に送られたのが本抄です。
 冒頭の「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」等と仰せです。「矢と弓」「雲と竜」、あるいは「煙と火」「雨と竜」という平易な譬を引いて、夫の富木常忍を送り出した妻の尼御前の功労を讃えられています。
 大聖人が富木尼御前の存在をどれほど大切にされているか。師の慈愛はあまりにも深く大きいものでした。
 大聖人は本抄で、固定的な男女の性差や役割を語られているわけではありません。本抄でいえば、富木常忍と尼御前の夫妻の姿に即しながら、具体的に励ましを送られているのであり、別の夫婦であれば、また異なった激励をされたことでしょう。
 より重要な点は、眼前の人を最大に励まされることはもちろんのこと、そうであればこそ、常に、その背後にいる人。そうした存在を絶対に見逃すことなく、温かな慈眼を注がれているということです。むしろ、支え守る労苦の人に対して、より深い感謝を抱かれています。
 表に現れて見える部分は、その背後に広がる目に見えないものがあってこそ成り立ちます。そう捉えていくことが、「縁起」の法に眼を開いた仏法者の視座ではないかと思います。
 大聖人は富木常忍の背後に、ただちに夫人の存在をご覧になられました。「富木殿がこれまで来られたのは、尼御前のお力があったればことです」「今、富木殿にお会いしていると、尼御前を見ているようです」と。
 尼御前は“師匠は全部、分かってくださっているのだ”と、どれほど感動し、安心したことでしょうか。
「励ましの芸術」が世界を変える
 また大聖人は「富木殿から聞きましたよ」と、尼御前が姑の介護に尽してきたことを、夫の富木常忍が心から感謝していたと、常忍の気持ちを代弁するように綴られています。
 日本の男性には、今日でも、妻への感謝の心情を、たとえ心に思っていても、直接、口に出して伝えられない傾向があるのではないでしょうか。いずれにしても、夫妻を大きく包み込む大聖人の慈愛が伝わる一節です。
 仏法の人間主義とは、具体的には何なのか、それは結局、こうした「濃やかな配慮」「温かな励まし」に表れるのではないでしょうか。
 人間の絆がますます希薄化している時代にあって、こうした「励ましの芸術」によって、一人を大切にし、生命の尊厳を守る、温かい人間共和の社会を築くことが、広宣流布の大いなる前進であると私は確信してやみません。
05                                           なによりもをぼつかな
06 き事は御所労なり、 かまえてさもと三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ、 病なき人も無常まぬかれがたし但
07 しとしのはてにはあらず、 法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、 設い業病なりと
08 も法華経の御力たのもし、 阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ陳臣は十五年の命をのべたり、 尼ごぜん
09 又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・ しをのみつがごとし、 いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強
10 盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ、 
-----―
 しかし、何よりも心懸かりなことが尼御前の御病気である。必ず治ると思って、三年の間、終始怠らず灸治されるがよい。病気でない人でも無常の理はまぬかれ難いものである。
 ただし、あなたはまだ年老いたわけでもなく、しかも法華経の行者であるから、思わぬ死などあるわけがない。まさか業病であるはずがない。たとえ業病であっても、法華経の御力は頼もしく、病が治癒しないはずはない。
 阿闍世王は法華経を受持して四十年という寿命を延ばし、天台大師の兄の陳臣も十五年の命を延ばしたといわれる。尼御前もまた法華経の行者で、御信心の月は満ち、潮のさしくるように強盛であるから、どうして病がいえず寿命の延びないことがあろうかと強くおぼしめして、御身を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである。

「確信」と「決意」一切の源に
 牧口先生が所持されていた御書では、本抄のページの余白に「病気激励」と記されていました。この段は、まさに大聖人の「病気激励」であり、深い慈愛であふれています。
 富木尼御前に与えられた他のお手紙を拝しても、大聖人は尼御前の体調を深く心配しておられます。
 心身共に苦しい状況のなかで夫を支え、義母の介護にも心を尽くしてきた。その忙しさで自分の病の治療が滞りがちになった面ももちろんあったでしょう。尼御前自身も、「良くならないのではないか」という不安を抱えていたと思われます。「必ずよくなる」「必ず治してみせる」という確信と決意を強めていけるよう、妙法の絶大な功力を通して励ましていかれます。
 とともに、大聖人は、尼御前の長患いについて、決して安易な身立てをされていません。姑の献身的な看護を終えて、いよいよ尼御前自身の治療に専念できる状況になったことも見られて、「必ず良くなると決めて、3年間、しっかり治療しなさい」との御指導には、いよいよ本気になって病魔と闘いなさいとの厳愛が感じられてなりません。
一人一人が健康長寿の賢者に
 また、特に尼御前を二度にわたり「法華経の行者である」と言われ、阿闍世王や天台大師の兄・陳臣の例も引いて、法華経の行者が病魔に負けることは断じてないと激励されています。法華弘通の大使命に生き抜く人生は敗北はないのです。
 そのうえで「いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ」と仰せです。
 ここに健康長寿の賢者として生き抜いていくための大事な指針があります。
 第一には「強盛におぼしめせ」です。妙法には無量の功力があります。ゆえに「必ず乗り越えられる」「絶対に大丈夫だ」という強い強い確信を持つことです。心が病魔に負けてはまりません。
 第二には「身を持し」です。生活を律し、厳しい現実に立ち向かっていくことです。
 そして第三には「心に物をなげかざれ」です。「決して悲観的になって嘆かない」「くよくよしない」という逞しく聡明な生き方が大切です。
 こうした大聖人の最大の励ましをうけた富木尼御前は、実際に「更賜寿命」の大いなる功徳を得て、長寿を全うしていきました。
 ある時、戸田先生は、郷里の母親が重病であるという青年の相談をうけられました。
 「そうか、分かった。それなら私の言う通り君が手紙を書きなさい。『一、御本尊に祈れば病気は絶対治る。二、題目はあげて、信心は続けなさい。三、生命は永遠であるから安心して療養しなさい』」と。そして、先生が手紙に署名をなさいました。その方のお母さんは手紙を読んで感激し、やがて散歩できるまでに回復したと青年から報告をききました。
 どこまでも、「最善の治療」と「最高の信心」が大事です。全員が賢者となって健康第一で生き抜いてほしい。それが私の願いです。祈りです。
10                       なげき出来る時はゆきつしまの事だざひふの事 かまくらの人人の
11 天の楽・のごとにありしが、 当時つくしへむかへばとどまるめこゆくをとこ、はなるるときはかわをはぐがごとく
12 かをと・かをとをとりあわせ目と目とをあわせてなげきしが、 次第にはなれてゆいのはま・いなぶらこしごえさか
13 わはこねさか一日二日すぐるほどに、 あゆみあゆみとをざかるあゆみを かわも山もへだて雲もへだつればうちそ
0976
01 うものはなみだなりともなうものはなげきなり、 いかにかなしかるらむ
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 もし、嘆きや悲しみが起きてきたときには壱岐・対馬のこと、太宰府の事を思い起されるがよい。あるいは、天人のように楽しんでいた鎌倉の人々が九州へ向かっていくにあたって、とどまる妻子・行く夫・愛しい者同士が顔と顔とをすり合わせ、目と目を交わして嘆き、生木をさかれる思いで別れを惜しみ、次第に離れて由比の浜・稲村・腰越・酒匂・箱根坂と一日・二日と過ぎるほどに、歩一歩と遠くなって、その歩みを川も山も隔て、雲も隔ててしまうので、身に添うものはただ涙、ともなうものはただ嘆きばかりで、その心中の悲しみはいかばかりであろうか。

「同苦の心」と「他者への共感」
 人生には、涙が枯れるほど泣くような辛い出来事もあります。消し去ることのできないような悲しみもある。心に溢れ抑えきれない嘆きもあります。普段は気を張って頑張ることができても、ふと涙が止まらなくなる時もあるかもしれない。幾山河を越えて生き抜くということは、そうした悲嘆たる胸中に折り畳んでいかねばならないことでもあります。
 健気に頑張る富木尼御前が抱える長患いの不安もまた、そうした底深いものであったのでしょう。大聖人は、尼御前の悲嘆を解きほぐすように語りかけていかれます。
 再度の蒙古襲来が切迫するなかで、人々には2年前の悲惨な戦争が生々しい記憶が残っていたことと思います。さらに出兵する兵士と家族の別離も眼前にありました。その事実を通して、誰もが「嘆き」を我が身に持っていることを教えられていきます。
 ここで、注意したいことは、尼御前に「不幸にはまだ下がある」「まだましなのだ」などと言われているのではありません。そうではなく、塞ぎ込んで孤独に陥りそうな尼御前を励まし「苦しんでいるのは、あなた一人ではないのです」と、その押しつぶれそうな心を大きく広げられているのです。いわば、自他の苦悩の共有・目覚めという「同苦」の心を教えられているとえましょう。
「生命の無限の可能性」を開く
 私は、キサー・ゴータミーという女性の仏弟子のエピソードを思い起こします。
 彼女は貧困の渦中に夫を亡くし、さらに最愛の幼い子どもまで突然の死に奪われた。悲嘆と絶望のなかで、愛児のなきがらを抱きしめ「この子を生き返らせてほしい」と街中を走り回るなかで、釈尊に出会う。
 「家々を訪ねて、芥子の種をもらってきなさい。しかし、いまだ死人を出したことなない家からでないと駄目だよ」
 キサー・ゴータミーは、仏の言葉通りに、一軒また一軒と訪ね歩いた。芥子の種を持っている家は何軒もあった。だが、死人を出したことのない家は一軒もない。どの家も近親者を亡くした悲しみを抱えていた。
 やがて彼女は気づく。死の苦しみを味わっているのは自分一人でないことを。
 「同苦」の心は、人をして「自分は一人ではないと気づかせます。他者への共感に目覚めます。
 富木尼御前もまた大聖人の励ましを胸に、自分の苦しみをバネとして、大きく境涯を開いていったに違いありません。
 ともあれ、生老病死の苦悩から無縁の人間は誰一人いません。また同時に、その苦悩を乗り越えゆく生命の無限の可能性、仏性を具えていない人間もいないのです。この万人平等の真実に眼を開くことが、苦悩からの解放の第一歩なのです。
01                                  かくなげかんほどに・ もうこのつわもの
02 せめきたらば山か海もいけとりか・ふねの内か・かうらいかにて・うきめにあはん、これ・ひとへに失もなくて日本
03 国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく 或はのり或は打ち或はこうじをわたし、 ものにくるい
04 しが十羅刹のせめをかほりてなれる事なり、 又又これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし、 不思議を
05 目の前に御らんあるぞかし、
-----―
 こうした嘆きのなかに蒙古の軍兵が攻めてきたならば、山や海で生け捕りになったり、船の中か高麗かで憂き目にあうであろう。このことはまったく、なんの罪もないのに日本国の一切衆生の父母ともいえる法華経の行者日蓮を、理由もなく謗り、打ち、あるいは街なかを引き回して、物にくるっていたのが十羅刹の責めを被ってこのような目にあっているのである。彼らの身の上にはまだまだこれより百千万億倍の大難が出来するであろう。こうした不思議をよくよくご覧なさるがよい。

一切衆生を救う大慈悲の行動
 戦争の恐ろしさは、民衆一人一人の平和の願いとは全く関係なく、人々を戦禍の濁流に巻き込んで、不幸のどん底へ突き落としてしまう。この凶暴さにあるといえます。
 大聖人は、こうした時代社会の狂いの根源を浮き彫りにされています。
 それは、すなわち、最も偉大な正義の人。万人の生命に仏性が具わっていることを教え、立正安国を実現させてゆく法華経の行者・日蓮大聖人。を、亡き者にしようと血眼になった幕府の権力者や、それを見て見ぬふりをし、無知ゆえに加担してしまった世間の人々の根本の誤りといえましょう。
 その謗法の罪のゆえに、日本国の人々が大難を受けざるを得ないことを、厳しく呵責されているのです。
 また、「日本国の一切衆生の父母」との仰せには、いうまでもなく「主・師・親の三徳」のうちの「親の徳」が明かされています。一切衆生を救わんと願ってやまない御本仏としてのお心が伝わってきます。
 まさしくこの段には、ひたすら迫り来る戦争の影を深く憂えられ、民衆の平和と幸福の実現。立正安国を願われる大聖人の叫びが刻まれております。
05               我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・ なにのなげきか有るべき、きさきになりても・
06 なにかせん天に生れても・ようしなし、 竜女があとをつぎ摩訶波闍波提比丘尼のれちにつらなるべし、 あらうれ
07 し・あらうれし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えさせ給へ、恐恐謹言。
-----―
 我らはまちがいんく仏に成ると思えばなんの嘆きがあろう。皇妃に生まれても、また天上界に生まれてもなにになろう。竜女のあとを継ぎ、摩訶波闍波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。なんとうれしいことであろうか。ただ南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えなさい。恐恐謹言。

苦悩を見下ろす勝利の大境涯を
 大聖人の励ましは、さらに続きます。
 私たちが仏になることは、絶対に間違いないのですよ。今どんなに苦しくとも、最後は必ず勝つと決まっているのです。三世永遠の生命の世界を遊戯できるのです。そのことを確信すれば、なにをくよくよと嘆く必要がありましょうか。
 たとえお妃となって栄華をほしいままにしたとしても、はかない現世のみの楽しみでしかありません。また天上界に生まれたとしても、これまた六道輪廻の無常を免れることはできません。
 しかし、妙法を唱え、「法華経の行者」として生きるあなたは、あの女人成仏の道を切り開いた「竜女」の跡を継いで、必ず、必ず成仏するのです。そしてまた、やはり法華経の中で「一切衆生喜見如来」として未来成仏を約束された「摩訶波舎波提比丘尼」と同列に並ぶのです。何の心配もいりません。安心して生き抜くのですよ、と。
 この「摩訶波舎波提比丘尼」は、釈尊の乳母であり、最初の女性の門下です。「一切衆生が喜んで見える仏」と敬愛されるであろうと讃えられた女性です。
 富木尼御前の胸にわだかまる不安を、ともすれば、こぼれそうになる涙を、一切、拭い去らずにおくものかと、生命を揺さぶるような大聖人の慈愛のほとばしりです。
 しかも、嘆きの谷を越えた境地は、「あらうれし・あらうれし」です。ぱーっと雲が晴れて、心の青空が広がるのです。朗らかで、明るく、楽しいのです。
 現実の人生には、あれやこれやと、苦しく辛いことが多いかもしれない。しかし、妙法の信心を貫く人は、その苦悩の泥沼に足を取られて沈むような必要は断じてないのです。じめじめなんかしないで、からりと心を軽くして、前にむくのです。
 喜び勇んで、朗々と、題目を唱え抜いていくのです。題目を唱え抜く生命自体が、煩悩即菩提であり、すでに勝利なのです。苦悩を見下し、勝っているのです。
 戸田先生は、よく「指導とは激励なり」と言われていました。その人が、“よし、やろう”勇気を奮い起して立ち上がるまで、力強く励まされていました。
 仏法の励ましの世界は「感傷」や「慰め」ではありません。その人の仏性を呼び覚ます真剣勝負の世界です。だから、戸田先生は、本人に「また来なさい」と語られ、また周囲に、「激励していくように」結果が出るまで心配された。一人一人に「信心してよかった」という喜びを断じて味わわせるのだと、励ましを続けられていた。そして、皆が自身の仏性を開き、負けずに立ち上がった姿、勝利の姿を何よりも喜んでくださった。
 まさに仏法は、一人一人が、最高の「幸福博士」の勝利の生き方を実現することを教えているのです。
強靭なる「楽土主義」で堂々と
 ここに私は、日蓮仏法に生き生きと脈打つ、強靭なる「楽観主義」の真髄を見る思いがする。
 マハトマ・ガンジーは語っています。
 「私はどこまでも楽観主義者である。正義が栄えるという証拠を示し得るというのではなく、究極においては正義が栄えるに違いないという断固たる信仰を抱いているからである。
 このガンジーの非暴力の思想を継承したマーチン・ルーサー・キングは、「宇宙は正義に味方する」と確信していました。
 私たちの法華経の信仰は、いかなる人も生命の無限の可能性を開き、自他共の平和と幸福を確立していける大道です。
 さあ、毅然と頭を上げて、朗らかに前進しましょう!
 もしも、今、不幸だというなら、自分で幸福を生み出すのです。
 まず自分自身が太陽になって、周りに陽光を広げるのです。
 大聖人の仰せの通りに進む「法華経の行者」である学会員を諸天善神が護ります。三世十方の仏菩薩が護ります。全宇宙が味方します。何も心配はいらないのです。
 我らの生命は、無限の価値創造の源泉です。絶望の闇を破る、永遠の希望の当体です。
 その偉大な力に目覚めよ!と、声高らかにかたりながら、どこまでも、また、どこまでも励まし合いながら、私たちは進みましょう。
 恩師・戸田先生が昭和30年(1955)の年頭、いよいよ本格的な広宣流布の飛躍を期して詠まれた和歌阿が、あらためて私の胸に迫ってまいります。
    妙法の
     広布の旅は
       遠けれど
      共に励まし
        共々に征かなむ
 幾多の山を越え、谷を越え、創価の師弟の広布旅は、21世紀の今に至りました。
 希望と幸福の民衆の大連帯は、世界中に広がりました。
 私は、誉れの弟子たちが、聡明な女性たちが、そして若き青年たちが、人類の宝である創価の「励ましの世界」を、さらに大きく地球社会に広げてくれることを信じております。

0976~0978    忘持経書top
0976:01~0977:02 第一章 内外の忘失者の例を挙ぐtop
忘持経事    建治二年    五十五歳御作   与富木常忍
01   忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす。
02   魯の哀公云く人好く忘る者有り移宅に乃ち其の妻を忘れたり云云、 孔子云く又好く忘るること此れより甚しき
03 者有り 桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり等云云、 夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり今常
04 忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か、 大通結縁の輩は衣珠を忘れ三千塵劫を経て貧路に踟ユウし久遠
05 下種の人は良薬を忘れ 五百塵点を送りて三途の嶮地に顛倒せり、今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀
06 の本意を忘失し 未来無数劫を経歴して 阿鼻の火坑に沈淪せん、 此れより第一の好く忘るる者あり所謂今の世の
0977
01 天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗し 念仏者等を扶助する是れなり、 親に背いて敵に付き刀を持ちて自を
02 破る此等は且く之を置く。
-----―
 お忘れになった御持経、追って修行者に持たせお届けした。
 魯の国の哀公が孔子に「よく物忘れする人がいて、転宅するときに妻を忘れてしまったそうだ」と言うと、孔子は「もっとはなはだしい物忘れがいる。夏の桀王や殷の紂王は我が身さえも忘れてしまった」と言った。また槃特尊者は、自分の名さえ忘れたというから、これこそ世界第一の物忘れの人である。今、常忍上人は御持経をお忘れになったから、日本第一のよく物忘れをされる方といえようか。
 大通結縁の者は衣のえりにかけられた宝珠を忘れ、三千塵点劫という長い間、貧路に迷い、また久遠下種の人は良薬を忘れて五百塵点劫の間、三悪道に堕ちて苦しんだ。今、真言宗、念仏宗、禅宗、律宗等の学者等が釈尊の本意を忘失し、未来無数劫の間、無間地獄の火坑に沈むであろう。これらより第一に仏意を忘失した人達がいる。すなわち今の世の天台宗の学者達と法華経を持つ者達で、法華経の行者である日蓮を誹謗し、念仏者達を助けているのがそれである。これはちょうど、親に背いて敵に付き、刀をもって自らを切り破るようなものであるが、これらのことはしばらく置く。

御持経
 富木常忍が持参している経本。
―――
魯の哀公
 中国,春秋時代末期の魯の君主の哀公のこと。(在位前 494~468) 。三桓氏と対立し,前 468年越の援助によって三桓氏を討とうとして失敗,衛に亡命した。その後,帰国の途中で死亡。
―――
移宅
 古くは貴人・寺院の転居や神輿のおでましをいったが、後世になって引っ越しをいうようになった。
―――
孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
―――
桀紂の君
 桀は中国・夏王朝の最後の王。名は履癸。史記によれば暴虐で人民を苦しめ、民財を尽くして酒池肉林の楽にふけった。殷の湯王に滅ぼされる。紂は紀元前11世紀ごろの人で殷王朝最後の王。名は受、死後辛と称された。史記によれば専断的で臣下の言を用いず酒池肉林をきわめ、民に重税をかけ苦しめた。周の武王に滅ぼされる。桀、紂とも中国における悪王の代表とされる。
―――
槃特
 梵語パンタカ(Panthaka)の音写で半託迦、槃特迦などとも書く。十六羅漢の一人。釈尊の弟子でバラモン出身の兄弟二人をさす場合、兄の莫訶半託迦、あるいは弟の周利槃特をさす場合等、諸説がある。兄弟ともに愚鈍で仏の教えを理解できなかったという説、また兄は聡明で弟は愚鈍であったという説がある。
―――
大通結縁の輩
 三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子が父王から聞いた法華経を、諸国に赴いて重ねて講じた時、聞法して縁を結んだ人達。本文中の「三千塵劫」は三千塵点劫の略。
―――
衣珠
 衣裏宝珠の略。法華経五百弟子授記品第八に説かれる貧人繋珠の譬に由来する。宝珠は一切衆生に本然的にそなわっている仏性をたとえたもの。
―――
久遠下種の人
 久遠五百塵点劫に下種を受けた人。下種とは、種蒔にたとえて、仏が衆生の心田に成仏の種子を下すことをいう。
―――
五百塵点
 五百塵点劫の略。法華経如来寿量品第十六で明かされた、釈尊成道以来の長遠の時のこと。劫とは長時の意。五百塵点劫とは、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土と下さなかった国土とを合わせて微塵にし、その一塵を一劫とした長遠の時にさらに百千万億那由他阿僧祇劫過ぎた時をいう。
―――
三途の嶮地
 地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみ。嶮地はけわしい場所、危険な所の意。
―――
仏陀
 仏のこと。
―――――――――
 建治2年(1276)2月下旬に母を失った富木常忍は、翌3月に母の遺骨を胸に抱いて、はるばる身延の大聖人のもとを訪れ、仏事をなし、孝養の真心を尽くした。ところがその帰途に、所持していた経を身延に忘れてきてしまったのである。
 そこで、大聖人はその経の返却をある修行者に託されるとともに添えられた御手紙が本抄である。
 したがって、本抄は年月が記されていないが、建治2年(1276)3月、日蓮大聖人が55歳の御時、身延でしたためられた書であることがわかる。御真筆は、中山法華経寺に現存している。
 本抄の題号は、冒頭に「忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす……今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か」と記されていることから「忘持経事」と呼ばれるようになったのである。
 さて、本章では富木常忍の持経を修行者に持たせて届けさせるようにしたことを述べられ、その大事な持経を忘れたことに関連して、まず、内外の一般的な忘失の例を挙げ、ついで、我が生命の法華経の下種を忘失するという最も重大な忘失に説き及ばれている。
 転宅の時、妻を忘れた男、自分の身を忘れ国をほろぼした夏の傑王と殷の紂王、自分の名を忘れた仏弟子の槃特尊者の例を、内外の有名な忘れものの例として述べられ、持経を忘れた常忍は日本一の忘れ者であると注意を与えられたうえで、それより最も甚だしいのが真言、念仏等の諸宗の人々の仏の本意を忘失していることであると糾明される。
 この、仏の本意の教えを忘れ、己心の仏性の下種を忘失することは、自分の最も深刻な苦しみの因となることを、大通久遠結縁の衆生を例に挙げられている。すなわち大通結縁の輩が、衣の裏に縫い込まれた珠で譬えられる法華経の結縁を忘れたために三千塵点劫の間、生死苦界に迷ったこと、また、久遠下種の者が、法華経の良薬を忘れて服さなかったため、五百塵点劫もの間、三悪道に堕ちたことを挙げられている。
 そしてこれを受けて日蓮大聖人の御在世当時の、真言、念仏、禅、律等の僧達も、釈尊の本意である法華経を忘れて、未得道の諸経によっているゆえに未来永劫の間、無間地獄の火坑に沈むであろうと指摘されているのである。
 しかし、それよりも甚だしい忘失者が天台宗の学者、すなわち僧と、持経者、すなわちその檀那達が、日蓮大聖人を誹謗して念仏等の味方をしている例である。
 彼等は元来、法華経を学び受持する宗でありながら、真言の邪義にたぶらかされ、さらには、法然等にだまされて念仏者の味方をし、末法の法華経の行者である日蓮大聖人を謗っているのである。法華経の行者である大聖人は、いやしくも法華経を持つ人にとって親のような存在であるから、親に背いて敵につくようなものであり、刀で自分を傷つけるようなものであるといわれているのである。
大通結縁の輩は衣珠を忘れ三千塵劫を経て貧路に踟蹰し久遠下種の人は良薬を忘れ五百塵点を送りて三途の嶮地に顚倒せり
 大通結縁の輩とは三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六王子から法華経を聴聞し結縁した衆生である。
 その衆生に三類があり、第一類は不退といい、発心して退転せず得道した者を指す。第二類は退大取小といい、発心はしたが途中で退転して小乗教におち、さらに悪道におちて流転した者をいう。第三類は未発心といい、久遠下種を忘失していたために法華経を聞いても発心しなかった者のことである。
 衣珠とは法華経五百弟子授記品に説かれる衣裏珠の譬にでてくる衣裏宝珠のことである。酔って眠っている貧しい人のために、親友はその衣服の裏に無価の宝珠を縫い込んでおいたのであるが、本人は酔いからさめたあともそれを知らず、衣食にも事欠き貧路をさまよったというのである。
 この譬喩は三千塵点劫の昔に法華経に結縁しながら、退転して悪道に流転した、前述のとくに第二類の衆生を指している。
 つぎに、久遠下種の人が良薬を忘れたとは、法華経寿量品に説かれる良医病子の譬をいわれている。
 これは、良医が所用で他国へ旅に出ていた間に、子供達が毒薬を飲んでしまい、苦しみで地をころげまわっていた。そこへ父の良医が帰ってきて良薬を調合して与えたところ、本心を失っていなかった者は良薬を飲んで治ったが、毒気深入のために本心を失った者は、良薬を見ても飲もうとはしなかったという。これは久遠五百塵点劫の昔、釈尊から成仏の種子を植えられながら、その後邪法を信じたため苦悩の世界を流転した衆生が、大通結縁の時、仏が妙法の大良薬を与えようとしたにもかかわらず信受しようとせず、苦しみの世界を流転してきたことをあらわしている。
 これらは、過去に悪道を流転してきた例であるが、それを受けて、いま、真言、念仏、禅、律等の謗法の人々は、仏の本意である妙法を忘失することによって、これから先無数劫の間、阿鼻地獄に堕ちるであろうと指摘され、憐れまれている。しかも、本来、法華経を立ててきたはずの天台宗にいたっては、これらよりもさらに甚だしい忘失の例であると厳しく破折されているのである。

0977:03~0978:02 第二章 悲母への追善供養を讃えるtop
03   夫れ常啼菩薩は東に向つて般若を求め善財童子は南に向いて 華厳を得る雪山の小児は半偈に身を投げ楽法梵志
04 は一偈に皮を剥ぐ、此等は皆上聖大人なり其の迹をカンガうるに地.住に居し其の本を尋ぬれば等妙なるのみ.身は八
05 熱に入つて火坑三昧を得・ 心は八寒に入つて清凉三昧を証し身心共に苦無し、 譬えば矢を放つて虚空を射石を握
06 つて水に投ずるが如し。
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 昔、常啼菩薩は東方に向かって般若を求め、善財童子は南に向かって華厳の教えを得た。雪山童子は「生滅滅已、寂滅為楽」の半偈の法を得ようと鬼神のために身を投げ、楽法梵士は一偈の文を書き写すため身の皮をはぎ紙とした。
 しかしこれらは皆、すぐれた聖人であり、この垂迹をかんがえてみるに別教の初地、円教の初住の菩薩の位に居られ、その本地を尋ねてみれば等覚、妙覚の位に居られる。身は八熱の苦しみにあっても火坑三昧を得られ、心は八寒地獄に堕ちても清凉三昧をさとられている人であるから、身心ともに苦しみがない。たとえば矢を放って虚空を射、石をつかんで水に投ずるように、なんらの障りもないのである。
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07   今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり、 身は俗に非ず道に非ず禿居士心は善に非ず悪に非ず羝羊
08 のみ、 然りと雖も一人の悲母堂に有り朝に出で主君に詣で夕に入て 私宅に返り営む所は悲母の為め存する所は孝
09 心のみ、 而るに去月下旬の比・ 生死の理を示さんが為に 黄泉の道に趣く此に貴辺と歎いて言く齢既に九旬に及
10 び子を留めて 親の去ること次第たりと雖も 倩事の心を案ずるに去つて 後来る可からず何れの月日をか期せん二
11 母国に無し今より後誰をか拝す可き、 離別忍び難きの間舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で 下州より甲州に至
12 る其の中間往復千里に及ぶ 国国皆飢饉し山野に盗賊充満し 宿宿粮米乏少なり我身羸弱・所従亡きが若く牛馬合期
13 せず峨峨たる大山重重として 漫漫たる大河多多なり高山に登れば 頭を天にウち幽谷に下れば足雲を踏む鳥に非れ
14 ば渡り難く鹿に非れば越え難し眼眩き足冷ゆ、 羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云、 然る後深
15 洞に尋ね入りて一菴室を見る 法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ、 案内を触れて室に入り教主釈尊
16 の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して 両眼を開き尊容を拝し歓喜身に余り心の苦み忽ち息む、 我が
17 頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、 譬えば種子と菓子と身と影と
18 の如し教主釈尊の成道は浄飯.摩耶の得道・吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり、是の如く観ずる時.無
0978
01 始の業障忽ちに消え心性の妙蓮忽ちに開き給うか然して後に随分仏事を為し事故無く還り給う云云、恐恐謹言。
02     富木入道殿
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 今、常忍殿、あなたは末代の愚者で見思の一惑さえ断じていない凡夫である。身は俗でもなく僧でもない禿居士であり、心は善でもなく悪でもなく羝羊と変わりがない。しかし、家に一人の悲母がおり、朝に出でては主君に仕え、夕には家に帰って、もっぱら孝養を尽くされたが、去る二月下旬のころ、母御は生死の理を示さんがために黄泉の旅におもむかれた。
 ここに、あなたは嘆いていうのに、すでに齢九十を超され、子を残して親が逝くことは順序であるというものの、しかしよく考えてみるに、母御が去って後いつの日にか再び会うことができようか。世に二人の母はない。これからは誰を母として崇めていくべきだろうか。
 そこで別離の悲しみが忍びがたいので、その御遺骨を頸にかけ、足にまかせて大道に出て、下総からこの甲州まで来られた。その間の道のりは往復千里にも及ぶ。国々は皆飢饉で、山野には盗賊があふれ、宿々では粮米も乏しく、そのうえ身体も弱く、かつ従者もないに等しい。牛馬とてあてにはならず、大山は峨峨として折り重なり、満々と流れる大河は多い。
 高山に登れば頭は天につくほどであり、幽谷に下れば足下に雲を踏む。鳥でなければ渡ることが難しく、鹿でなければ越え難い。目はくらみ、足はこごえる。羅什三蔵が葱嶺を越えた様子、役の行者が大峰をよじ登ったのもこのようであったかと思われる。
 このような旅を経て身延の深洞に尋ね入り、一つの菴室をみる。そこからは法華経読誦の声が青天に響き、一乗妙法を談義する言が山中に聞こえる。
 案内を請い室に入り、教主釈尊の御宝前に母御の御骨を安置し、五躰を地に投げて合掌し、両眼を開き尊容を拝すると、歓喜が身にあまり、心の苦しみがたちまちにやむ。
 思うに我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口である。たとえれば種子と菓子と身と影とのようである。教主釈尊の成道は親の浄飯王、摩耶夫人の得道であり、目連尊者の成仏は、親の吉占師子・青提女と同時の成仏であった。このように観ずるとき、無始以来、過去遠々の罪障もたちまちに消えて、己心の仏性を即座に開かれたことであろう、こうして十分に仏事を営み、お帰りになられたのである。恐恐謹言。
  富 木 入 道 殿

常啼菩薩
 梵名サダープララーパ(Sadāpralāpa)。音写して薩陀波倫。般若経卷三百九十八に説かれる。身命を惜しまず、財利を顧みず、東方に般若波羅蜜を求めたという。常啼の名の由来について、大智度論卷九十六には「小事に喜んで啼いた故、また衆生の悪世にあって貧窮・老病・憂苦するのを見て悲泣する故、あるいは仏道を求めて啼哭すること七日七夜であった故に常啼という」とある。
―――
般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
善財童子
 華厳経に出てくる菩薩。長者の五百童子の一人で、生まれえる時、家の中に金・銀・瑠璃・真珠などの宝珠が自然に湧き出た。そのため善財と名づけられたという。また文殊師利菩薩に会って菩提心を起こし、菩薩行を修めて法を得るために禅知識を捜し求めた。可楽国の和合山の頂に住む功徳雲菩薩をはじめとして、五十三菩薩を訪れ、最後の普賢菩薩に会って、正覚・自在力・転法輪・方便力・妙音声力等を得て法界に入ったという。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
善財童子
 華厳経に説かれる。華厳経巻四十五によれば、長者の五百童子の一人で、生まれた時、種々の珍宝が地より涌き出で、衆宝や諸の財物を降らして一切の庫蔵に充滿させたところから、善財と名付けられたという。文殊師利菩薩に会って菩提心を発したのを初めとして、南方に法を求めて五十余の善知識を歴訪し、ついに広大不可思議の仏海に証入したという。
―――
楽法梵士
 釈尊が過去世に菩薩道を修行していた時の名。仏の一偈を聞き、それを残すために皮を剝いで紙とし、骨を削って筆とし、血を墨として書写した。大智度論巻四十九にでている。
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上聖大人
 凡夫に対する語で、聖人のこと。
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地・住
 大乗の菩薩が最初に菩提心を起こしてから修行を積み、仏果に至るまでの52位のうち、十地と十住をいう。
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等妙
 等覚位、妙覚位のことで、別教で説く菩薩の修行の階位52位のうち、最後の2階位のこと。釈迦仏法では、等覚・妙覚にいたるまでには数多くの段階があり、しかも歴劫修行によって次第に昇っていく以外になかった。だが大聖人の仏法においては等覚・妙覚の最高の境地も、御本尊に対する信の一念によって、開き悟ることができる。
―――
八熱
 八種類の熱気や火炎に苦しめられる地獄のこと。等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄(無間地獄) をいう。
―――
火坑三昧
 火坑は猛火の穴、三昧は禅定。猛火の穴に入って悟りを得ること。
―――
八寒
 八種類の極寒の地獄のこと。阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄の八つが挙げられる。この中の前の四地獄はあまりの寒さに思わず阿波波・阿吒吒・阿羅羅・阿婆婆と悲鳴を発する地獄で、後の四地獄は極寒のために身体が裂けて優鉢羅(青蓮華)・波頭摩(紅蓮華)・拘物頭(赤蓮華)・芬陀利(白蓮華)のような姿になる地獄をいう。
―――
清凉三昧
 清涼はきよらかでさわやかなこと、三昧は禅定。一切の愛憎の心を断じて身心ともにすがすがしい悟りの境地を得ること。
―――
見思未断
 見思は三惑の一つで見惑と思惑のこと。見惑は邪に道理を分別して起こす我見、偏見をいい、思惑は世間の事物を思慮して起こす貪瞋癡等の妄情をいう。見思未断とは、この見思惑を未だに断じていないこと。
―――
禿居士
 外見は頭を剃っているが、戒を受けない在家者をさしていう。涅槃経巻三金剛身品第二に詳しい。
―――
羝羊
 ① 牡羊。②生まれて三歳を経た羊、小羊。従順だが、愚かで分別のない者にたとえていう。ここでは②の意と考えられる。
―――
生死の理
 人は誰しも生と死の相を繰り返すという道理。
―――
黄泉の道
 よみじ・死者が行くところ。
―――
九旬
 ①旬は一ヶ月を三つに分けた、10日間のことで90日。②10年を一旬として90歳のこと。
―――
事の心
 出来事の真意・本質。
―――
粮米
 食料の米。
―――
羸弱
 かよわいこと。
―――
葱嶺
 インド北方・パミール高原の中国名。西域記巻十二に「多く葱を出すの故に葱嶺と謂う」とある。世界の屋根といわれ、中国と西方諸国を結ぶ交通路の要所として、多くの隊商や僧侶がここを通ったが、最大の難所であった。
―――
役の優婆塞
 役の行者ともいう。名は小角。大和国葛城上郡茅原の人。舒明天皇6年(0634)に生まれる。生駒山、熊野に入り、苦行を続け、32歳の時、葛城山に入った。以来30余年、穴居して巌窟の中に孔雀明王の像を安置し、呪を唱えて奇異な験術を得た。大峰、二上、高野など近畿一帯の高山に足跡をしるし、修験道の開祖とされる。
―――
浄飯
 浄飯王のこと。梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
摩耶
 善覚長者の長女で浄飯王の后」となる。釈尊を産んで7日後に死亡している。
―――
吉占師子
 目連尊者の父。
―――
青提女
 目連の母。生堤女とも書く。盂蘭盆経によると、目連は亡くなった母・青堤女が餓鬼道に堕ち、飲食も自由にならず、骨と皮ばかりになって苦しんでいる姿を見て、神通力で救おうとしたが叶わず、釈尊の教えどおりに盂蘭盆会を修して母を餓鬼道の苦しみから救ったという。
―――
目犍尊者
 釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
―――
無始の業障
 無始の過去から生死の中で犯してきた悪業と、それによって起こる種々の障りや悪果報。
―――――――――
 この段では、富木常忍の悲母への孝養の厚さ、とくに亡き母の遺骨を持って身延に日蓮大聖人を訪れ、御本尊を拝し、母への追善供養を尽くしたことを讃えられ、母子ともの成仏の間違いないことを述べて激励されている。
 まず、上代の賢聖の例を挙げられ、富木常忍が険難の路を旅して身延にまで来たその求道の真心を讃えられている。
 常啼菩薩や善財童子、楽法梵志といった古来の賢聖は身命を賭して仏法を求めたが、彼らは迹の立場でも別教の初地・円教の初住の菩薩であり、その本地をたずねると等覚及び妙覚という高い位におられるのであるから、八熱地獄や八寒地獄といえども、さほどの苦としない人々である。
 ところが、富木常忍は末法の凡夫であるから、苦痛を耐えがたいのがふつうである。それを耐えて、危険に満ちた、険しく遠い道を旅して身延にまで来た真心が尊いと言われているのである。
 そして、この身延の御草庵の様を、その仏法上の意義から荘厳に表現されている。「深洞に尋ね入りて」とは、深い谷間の様をいわれたのであろう。
 悲母との別離の悲しみをいだき、長旅で疲れはてて到着した富木常忍は、大聖人がおられ、法華経を読み題目を唱える声が空に響きわたり、法華経の講義が山中に響いている身延の御草庵のありさまに、霊山浄土に着いたような安心感に包まれたことと思われる。
 「教主釈尊の御宝前に」と言われているのは、大聖人が所持されていた釈尊像が安置されていたとも推測される。だが、その意義は大聖人己心の釈尊であり、久遠元初の自受用身如来をあらわしていた。
 ともあれ、富木常忍はこの時、たちまちに「歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」心地を味わったのであろう。
 ゆえに大聖人は、釈尊と目連の例を引いて親子一体の成仏を述べられているのである。親と子の生命は一体不二であるから、富木常忍の即身成仏はそのまま母親の成道をも意味している。
 このように、富木常忍が信じて題目を唱えた時、母の過去久遠からの業障は、たちまち消え去り、仏性を開いて瞬時に成仏されたにちがいないと述べられている。
 こうして富木常忍はその後も十分に仏事を行い、喜び勇んで山をおりたのであるが、うれしさの余りか、持経を草庵に忘れていってしまったのである。

0978~0978    富木殿御返事
top
0978:01~0978:06 第一章 供養の功徳の大なるを教えるtop

鵞目一結
 鵞目は孔のあいた銭のこと。鎌倉時代の通貨。鳥目、青鳧等ともいわれた。鵞目とは、四角い孔が鵞鳥の目に似ていることからそう呼ばれた。一結は、銭の孔に紐を通して一連にしたものをいう。ふつうは百枚、百文。
―――
天台大師
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――
十号
 仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正?知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
安明
 須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。
―――
無間
 無間地獄のこと。八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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 妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
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方便
 悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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第五十人
 五十展転のこと。法華経を聞いて随喜した人が次々に他人に語り伝え、50人目になってもその功徳があるということ。随喜功徳品には「是の如く第五十人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり」とある。展転とは、ころがる、めぐるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この50番目の人が法を聞いて、随喜する功徳は、400万億阿僧祇の世界の衆生に80年にわたり楽具、珍宝等を供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれていると説いている。化他の功徳を欠く50番目の者さえ功徳が絶大であることを説いて、一番目の自行・化他を具足する者の功徳がいかに大きいかをあらわしている。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
法慧
 法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
―――
功徳林
 華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
金剛薩埵
 真言八祖の第二祖。大日経の対告衆。
―――
博地
 凡夫を内凡・外凡・博地の三種類に分けたうちの一つで、下劣の凡夫のこと。
―――
法蔵
 (0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の批判を五教十宗判として立てた。「華厳経探玄記」「華厳五教章」「華厳経伝記」などの著があり、則天武后の帰依をうけた。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。

0978:06~0978:10 第二章 尼御前の病気平癒を祈らるtop
06            尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば 昼夜に天に申し候なり、此の尼ごぜ
07 んは法華経の行者をやしなう事 灯に油をそへ木の根に土をかさぬるがごとし、 願くは日月天 其の命にかわり給
08 へと申し候なり、又をもいわするる事もやと・いよ房に申しつけて候ぞ、たのもしとをぼしめせ、恐恐。
09       十一月二十九日                             日蓮花押
10     富木殿御返事
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 富木尼御前のご病気のことは、我が身の上のことと思って昼夜に諸天に祈っている。この尼御前は法華経の行者を、灯に油を添え木の根に土をかぶせるように供養してきた人である。願わくは日天・月天が尼御前の命に代わって助けられよ、と祈っている。また、思い忘れることがあってはと、伊予房に申しつけてある。頼もしく思われるがよい。恐恐。
  十一月二十九日           日 蓮  花 押
   富木殿御返事

御所労
 病気や煩いのこと。
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日月天
 日天子、月天子のこと。日天子は日宮殿に住む天人のこと。月天子は月を宮殿とする天人。日天、月天ともそれぞれ太陽、月を神格化したもので、法華経の会座にも列なり、法華経守護の諸天善神とされる。
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いよ房
 (1252~1317)。伊予阿闍梨日頂のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子。六老僧の一人。駿河国富士郡重須郷(静岡県富士宮市重須)に生まれ。幼くして父を失い、母とともに鎌倉に住したが、母が下総国の富木常忍と再婚したのでその義子となったといわれる。
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 富木尼の病気については、建治元年(1275)ごろのお手紙にも触れられている。一時、大事に至るのではと思われたものの、その後もちなおしたようだが、弘安2年(1279)にはまた具合が悪くなったらしい。ただその時は「尼御前御寿命長遠の由天に申し候ぞ」(0987-01)といわれている程度で、それほど差し迫った病状ではなかったようだが、本抄を拝すると、かなり切迫した状態であったと考えられる。
  「我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候」の仰せに、富木尼の病気を我が事のように心配され、祈られている大聖人の御慈悲が拝せられる。しかも、その諸天に対しては「其の命にかわり給へ」といわれているのである。諸天を叱咤され、急いで尼御前の命を守護するよう促されているのである。
 なぜなら、諸天善神は、法華経説法の座において、法華経受持の者を守護することを誓っているからである。嘱累品第二十二の総付嘱にこたえて諸菩薩、諸天善神が「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」と述べているのがそれである。
 したがって、末法に法華経を受持する者を守護しなければその責めを果たせないのであるから、富木尼の命にかわってでも救わなければならないと叱咤されたのである。
 大聖人は御自身が竜の口の法難に際会された時も、正八幡大菩薩を叱咤されている。また南条時光が大病を患った時には、鬼神等に対して「剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか」(1587-05)とまでいわれている。法華経を受持する門下の人々を深く慈愛されるお心とともに、諸天・善鬼をも厳然と叱咤される御本仏の境界が拝せられるのである。
 富木尼は長年にわたって大聖人を外護し信心の真心を貫いてきた。夫の富木常忍が一貫して大聖人に供養の誠を尽くし、外護してきたのも、尼の内助に支えられるところ大であったといってよい。そのことは可延定業書にも「富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるに」(0986-09)と述べられているところからも、うかがわれる。
 とくに、大聖人が身延の地に入られてからは、大聖人の身辺は窮乏の度を加えていた。そのなかでの供養はまさに、消えんとする法華弘通の法灯に油をそそいで支える「灯に油をそへ」のごとき尊い志であったろう。同時期の「上野殿御返事」にも「一度にをもひ切つて・うへしなんと・あん じ切つて候いつるに・わづかの・ともしびに・あぶらを入そへられたるがごとし、あわれあわれたうとく・めでたき御心かな」(1562-04)と仰せであ、このころの大聖人の御心境と、それを支えた門下の姿が拝せられる。
 このように、大聖人を支えてきた富木尼の信心であったからこそ、大聖人は「我身一身の上」のこととまでいわれて病気平癒を祈られたのである。のみならず、尼の子の伊予房にまでわざわざ言い含められたのは、重ねがさねの慈愛あふれる御心である。この大聖人の祈りと尼の信心に諸天の加護もあらわれたのであろうか、このあと富木尼は20数年の寿命を延ばして、晩年は富士へ帰り、日興上人のもとで生涯を全うしているのである。

0979~0979    道場神守護事top
0979
道場神守護事    建治二年十二月    五十五歳御作
01   鵞目五貫文慥に送り給び候い了ぬ、 且つ知食すが如く此の所は里中を離れたる深山なり衣食乏少の間読経の声
02 続き難く談義の勤め廃しつ可し、 此の託宣は十羅刹の御計にて檀那の功を致さしむるか、 止観の第八に云く「帝
03 釈堂の小鬼敬い避くるが如し道場の神大なれば妄りに侵ニョウすること無し、又城の主剛ければ守る者も強し城の主
04 オズれば守る者忙る、 心は是れ身の主なり同名同生の天是れ能く人を守護す心固ければ則ち強し身の神尚爾なり況
05 や道場の神をや」弘決の第八に云く 「常に人を護ると雖も必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」又云く 「身
06 の両肩の神尚常に人を護る 況や道場の神をや」云云、 人所生の時より二神守護す所謂同生天同名天是を倶生神と
07 云う華厳経の文なり、 文句の四に云く「賊南無仏と称して尚天頭を得たり 況や賢者称せば十方の尊神敢て当らざ
08 らんや但精進せよ懈怠すること勿れ」等云云、 釈の意は月氏天を崇めて 仏を用いざる国あり而るに寺を造り第六
09 天の魔王を主とす頭は金を以てす 大賊年来之を盗まんとして得ず有時仏前に詣で物を盗んで法を聴く、 仏説いて
10 云く南無とは驚覚の義也盗人 之を聞いて南無仏と称して天頭を得たり、 之を糾明する処盗人上の如く之を申す一
11 国皆天を捨てて仏に帰せり云云、 彼を以て之を推するに設い科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか、 而るに今
12 示し給える託宣の状は兼て之を知る 之を案ずるに難を郤て福の来る先兆ならんのみ、 妙法蓮華経の妙の一字は竜
13 樹菩薩の大論に釈して云く 「能く毒を変じて薬と為す」と云云、 天台大師の云く「今経に記を得る即ち是れ毒を
14 変じて薬と為すなり」と云云、 災来るとも変じて幸と為らん何に況や十羅刹之を兼るをや、 薪火を熾にし風求羅
15 を益すとは是なり、言は紙上に尽し難し心を以て之を量れ、恐恐謹言。
0980
01       十二月十三日 日蓮花押
02     御返事
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 銭五貫文、たしかにお送りいただいた。すでに御承知のように、この身延の場所は里を離れた深山である。あなたの供養がなかったら衣食が乏しいために読経の声は続きがたく、談義の勤めはやめてしまわなければならないところである。この託宣は十羅刹の御計らいで、あなたに檀那としての功徳を積ませようとしたものであろうか。
 摩訶止観の第八巻に「帝釈の堂を小鬼が敬って避けるようなものである。道場の神が偉大であれば、むやみに病が侵すことはない。また城の主がいときは守る者も強い。城の主が恇れるときは守る者も怖れる。心は身の主である。同名・同生の天はよく人を守護する。心が堅固なときは、天の守りも強い。身の神でさえそうである。ましてや道場の神は、なおさらである」とある。止観輔行伝弘決の第八巻には「常に人を守護するといっても、必ず心の堅固さによって神の守りは強いのである」とあり、また「身の両肩にいる神でさえ常に人を守護するのである。まして道場の神はなおさらである」とある。
 人は生まれた時から二神が守護しているのである。いわゆる同生天と同名天である。これを倶生神という。華厳経の文にある。
 法華文句の第四巻には「盗賊が南無仏と唱えてさえ天人の像の頭を得たのである。ましてや賢者が唱えたならば十方のあらゆる尊神が守護の任にあたらないことは絶対にない。ただひたすら仏道修行に励みなさい。怠ることがあってはならない」等とある。
 この法華文句の文の意は、月氏において天を崇めて仏を用いない国があった。寺を造っても第六天の魔王の像を本尊としていた。その像の頭は金でできていた。大盗賊が数年来これを盗もうとして、得ることができないでいた。あるとき仏前に詣で、物を盗んで法を聞いた。仏が説いていうには「南無とは驚覚の意義である」と。盗人はこれを聞いて「南無仏」と称えることによって第六天の魔王の像の頭を得ることができたのである。
 のちにこれを糾明したところ、盗人は前述のように述べた。そこで一国の人々は皆、天を捨てて仏に帰依したという。
 このことからあなたのことを推測するに、たとえ科がある者でも仏・法・僧の三宝を信ずるならば大難を脱れることであろう。しかるに今、示された託宣の書状は、かねてから承知していることである。このことを思案するに、これは難を去って福が来る先兆であろう。妙法蓮華経の妙の一字については、竜樹菩薩の大智度論に「よく毒を変えて薬とする」と釈しており、天台大師は「二乗は法華経において記別を得た。すなわちこれは、毒を変えて薬とするようなものである」といっている。災が来たとしても、それは変じて幸いとなるであろう。ましてや十羅刹女がこのことを前もって知らせているのであるからなおさらである。薪が火の勢いを熾んにし、風が加羅求羅虫を大きくするというのはこのことである。言葉は紙面に書き尽くしがたい。心でこれを推し量りなさい。恐恐謹言。
  十二月十三日            日 蓮  花 押
   御 返 事

鵞目五貫文
 銭五貫文に同じ。銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1000文にあたり、当時の物価で米150㎏に相当した。
―――
託宣
 神仏が人にのりうつったり、夢にあらわれたりなどして、その意思を告げ知らせること。神に祈った事によって受けるお告げ。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
同名同生の天
 同名天、同生天のこと。この二天は人が生まれた時から、つねに両肩にあって、その人の行動の善悪を瞬時も漏らさず記して天に報告し、その人を守護するという。一般に俱生神と同一とみなされており、説によっては一人であったり、男女の二神とされたり一様ではない。華厳経巻六十には「人の生じ已れば則ち二天有りて恒に相い随逐す。一を同生と曰い、二を同名と曰う。天は常に人を見れども人は天を見ざるが如し」とある。吉蔵の無量寿経義疏では、同生は女神で右肩にあって悪業を記録し、同名は男神で左肩にあって善業を記録するとあるが、異説もある。
―――
弘決
天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。
―――
倶生神
 人が生まれた時に倶に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行為を記して閻魔王に報告するとう同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によって倶生神を一人といい、男女の二人にするなど一様ではない。薬師瑠璃光如来本願功徳経に「諸の有情には倶生神有って、其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之れを書して、ことごとく持して琰魔法王に授与す。その時、彼の王は其の人に推問して所作を算計し、其の罪福に随って之れを処断す」とある。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
文句
 天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
―――
天頭
 金でできた天人の像。
―――
懈怠
 おこたること、なまけること、低い教えは民衆を幸福にすることを怠る懈怠の法である。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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薪火を熾にし風求羅を益す
 摩訶止観第5に「行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる。~猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」とある。障魔を縁として仏道修行を高めることができるのである。
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求羅
 梵語カラークラ(Kalākula)の音写である迦羅求羅の略で、黒木虫と訳す。大智度論巻七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得れば転た大にして、乃至能く一切を呑食するが如し」とあり、風を得て成長する生き物といわれる。
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 本抄は建治2年(1276)12月13日、日蓮大聖人が55歳の御時、身延でしたためられたもので、御真筆が中山法華経寺に現存する。
 宛名は明らかではなく、富木常忍と推定されているが、南条時光等とする説もある。しかし、御真筆が中山に存することから、富木常忍か、あるいは下総方面の信徒と考えられる。
 本抄の大意は、御供養の謝意を述べ、おそらく富木常忍が十羅刹を夢に見たと報じたことについて、心固ければ同生・同名の倶生神の守りは強く、まして法華の道場を守る神においてをやとされ、法華文句を引いて、仏・法・僧の三宝を信ずれば科ある者でも大難を脱れることを明かし、十羅刹の夢は難を去って福の来る先兆であり、たとえ災いが来るとも幸いに変じるであろう、と述べられているのである。
 本抄の内容は、大聖人に報告された「託宣」の内容が不明のため意味がとりにくいが、それが「十羅刹の御計」いで「檀那の功を致さしむる」ものと仰せであり、その後で道場神の守護を強調されていること、また「難を郤て福の来る先兆ならん」とか、「災来るとも変じて幸と為らん」等の御文から推察すると、富木常忍自身のことではなく、身延の大聖人の御身の上になんらかの変事、災難がふりかかることを予知して、通知したもので、今こそ常忍が檀那として大聖人を外護すべきことを教えたものと考えられるのである。
道場神と同生・同名天
 はじめに大聖人は、摩訶止観と弘決の文を引かれている。すなわち、道場の神が大であれば侵されることはなく、心が固ければ身の神である同生・同名天が守る、まして道場の神においてをやである、と。ここでいう道場の神とは、護法の善神をいい、止観の本来の意では、道場の神が守っていれば、諸の病に侵されることはない、ということであるが、大聖人はこの文を、諸天善神の加護によって諸の災難から守られる、という意味で用いられていると拝される。
 そして、道場神が守る例証として、倶生神が挙げられている。人が生まれた時から必ずその両肩にあって、一瞬も離れずにその人の行動の善悪をすべて記し、かわるがわる天に知らせるというのが同生天・同名天の二神で、これを倶生神ともいって、その人の心が固ければよく守ってくれるといわれているのである。
 同生・同名天については同生同名御書に「人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて、影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、かはるがはる天にのぼて申し候と、仏説き給う」(1115-09)と述べられている。
 この同生・同名の二神は、生命を貫いている因果の理法をあらわしており、人の善悪にわたる一念、行動は、すべて己れ自身の生命に刻まれて、必ず善悪の報いを受けることを意味しているのである。
 「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)と仰せのように、過去の業が現在の果報となって現れ、現在の業が未来における善悪の果報の因となるのである。この因果の法則は、過去世・現世・未来世という三世にわたる生命の連続のうえに、厳然と働いているのである。この因果の働きを理解させるために、具象化して説かれたのが、同生天・同名天であったといえよう。
 大聖人が、人を必ず倶生神が守るように、道場の神が守らないわけはないと強調されているのは、富木常忍が十羅刹にかかわるなんらかの夢を見て、それを変事の予兆と感じて大聖人に申し上げたのに対し、どのような災いが起ころうとも、諸天善神の加護があるから心配しないようにとの御心と拝することができる。
 つぎに、法華文句に述べられている、盗賊が南無仏と唱えて第六天の魔王像の首を得ることができたという故事を引かれ、「設い科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか」とされている。
 法華文句には、賊が南無仏と唱えてさえ功徳があるのだから、賢者が唱えたら十方の善神が守護に当らないわけがなく、そのためにも、怠らず仏道修行に精進することが大事である、とある。これは現在でいえば、末法の御本仏である日蓮大聖人とその正法に帰命する者は、たとえ世間の科がある身でも、必ず十方の諸天善神の加護があって大難をもまぬかれることができるのであり、そのためには仏道修行に精進すべきである、との意に解することができよう。
 ここでも、大難をまぬかれることができると仰せであり、その後の「而るに今示し給える託宣の状は兼て之を知る之を案ずるに難を郤て福の来る先兆ならんのみ」との御文からしても、やはり十羅刹の託宣の内容が難の来ることを示していたと考えられる。大聖人は、難がくることが先にわかったということは、難が去って福のくる先兆であろうとされ、たとえ災いが起きたとしても、妙法の力で変毒為薬して、幸いに変ずることができるのである、と断じられている。「何に況や十羅刹之を兼るをや」といわれているところから、その託宣は十羅刹が下したものだったと推される。
 最後に、大聖人は、障魔を縁としてこそ仏道修行が進むことを説いた摩訶止観の文意を示され、災いが起こったとしても必ず幸いとなることを強調されて本抄を結ばれている。

0980:01~0980:11 第一章 稟権出界正釈を示すtop
常忍抄    建治三年十月    五十六歳御作
01   御文粗拝見仕り候い了んぬ。
02   御状に云く常忍の云く記の九に云く「権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す」云云、了性房云く全く以て其
03 の釈無し云云、記の九に云く寿量品の疏「無有虚出より昔虚為実故に至るまでは為の字去声権を禀けて界を出づるを
04 名ケて虚出と為す三乗は皆三界を出でずと云うこと無し人天は三途を出でんが為ならずと云うこと無し並に名けて虚
05 と為す」云云、文句の九に云く「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し、 故に知んぬ昔の虚は去声実の為
06 の故なり」と云云、 寿量品に云く「諸の善男子・ 如来諸の衆生小法を楽う徳薄垢重の者を見て乃至以諸衆生乃至
07 未曾暫廃」云云、此の経の文を承けて、 天台・妙楽は釈せしなり、 此の経文は初成道の華厳の別円より乃至法華
08 経の迹門十四品を或は小法と云い或は徳薄垢重・或は虚出等と説ける経文なり、 若し然らば華厳経の華厳宗・深密
09 経の法相宗・般若経の三論宗・大日経の真言宗・観経の浄土宗・楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は依経の如く其の経を
10 読誦すとも三界を出でず 三途を出でざる者なり何に況や或は彼を実と称し或は勝ぐる等云云、此の人人・ 天に向
11 つて唾を吐き地を忿んで忿を為す者か。
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 お手紙あらあら拝見いたしました。
 ご書状によると、常忍殿が「法華文句記の第九巻に『権教を受けて三界を出離する、というのを名づけて虚出とするのである』とある」と言ったところ、了性房は「まったくもって、その釈はない」と言ったということであるが、法華文句記の第九巻には「法華文句の『無有虚出』から『昔虚為実故』までの文については、権教を受けて三界を出離するのを名づけて虚出とするのである。三乗はみな三界を出ないということはなく、人界・天界の者は三途を出るためにならないということはない。これをともに名づけて虚とするのである」とあり、法華文句の第九巻には「虚から出て真実の覚りに入らない者はない。ゆえに、昔の虚は真実の覚りに入れるためであることを知るのである」とある。法華経寿量品第十六に「諸の善男子よ、如来は諸の衆生の小法を欲する徳薄垢重の者を見ては、この人のために『私は若くして出家し、無上の覚りを得たのである』と説くのである。(中略)諸の衆生は種々の性質、種々の欲望、種々の行為、種々の想いが別々であるがゆえに、諸の善根を生起させようと思って多くの因縁や譬喩や言葉をもって種々に法を説くのである。そのような仏の振る舞いは、いまだかつて瞬時も止むことがない」とある。この経文をうけて天台大師や妙楽大師は釈したのである。この経文は、釈尊が初めて覚りを開いて最初に説いた華厳経の別円二教から法華経の迹門十四品までを小法といい、徳薄垢重、虚出等と説いた経文である。もしそうであれば華厳経を所依とする華厳宗、深密経を所依とする法相宗、般若経を所依とする三論宗、大日経を所依とする真言宗、観無量寿経を所依とする浄土宗、楞伽経を所依とする禅宗等の諸経の諸宗は、依経のとおりにその経を読誦したとしても三界を出離せず、三途を出られないのである。ましてや、それらの経を真実の教えと称したり、あるいは法華経より勝れている等というにいたってはなおさらである。これらの人々は天に向かって唾を吐き、大地をつかんで怒りをなす者と同じである。

常忍
 (1216~1299)富木五郎左衛門尉常忍のこと。因幡国富城庄の本主で、父蓮忍の代から下総国八幡荘若宮に移り、千葉氏に被官したとつたえられている。その後、入道して常忍と称した。建長5年(1253)ないし翌6年に入信して以来、房総方面の門下の中心とした活躍し、鎌倉の四条金吾とも力を合わせて外護の任にあたった。大聖人より日常と法諱をいただいている。大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。
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 妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
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了性房
 (1213~?)千葉県市川市真間町にあった天台宗檀林の化主。東京都で生まれ、幸範について出家し、天台額学を学んだ。叡山に登って研鑽し、土佐堅者の称号を得た。のちに檀林を設けて関東における天台教学を興隆させたといわれる。
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寿量品の疏
 法花文句記のなかの如来寿量品に関する注釈の箇所。
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為の字去声
 去声とは漢字の四声の一つで、最初高く急に下る調子の声音をいう。この音によって字の意味が異なることがあり、「為」の字についていえば、平声の場合は「なす」等の意であり、去声の場合は「ため」等の意味となる。
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三乗
 十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。
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三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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人天
 人界と天界のこと、また、その衆生。人界は人間としてのごく普通な平穏な心・生命状態・境涯。天界は快楽に満ちた境涯。
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三途
 死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。
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文句
 天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
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小法
 小乗の法。経力の少ない法。
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徳薄垢重
 徳が薄く、煩悩の垢が重いこと。
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未曾暫廃
  「未だ曾て暫くも廃せず」と読む。仏が衆生を教化して仏道に入らしめるための説法は、いまだかつて瞬時も止むことなく、なされてきているの意。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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初成道
 インド生誕の釈尊が、菩提樹下で初めて悟りを成じたこと。
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華厳
 華厳経のこと。正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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別円
 別教と円教のこと。①別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。②円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。
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迹門十四品
 垂迹仏が説いた法門の意で法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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楞伽経
 漢訳本に四種あり、三種の訳書が現存する。仏が楞伽山頂で大慧菩薩に対して説いたとされる経。唯識の立場からさまざまな大乗の教義が列挙されている。また名字によって一切法の相を分別することを虚妄としてしりぞけ、四種の禅を明かし、諸法の空・無生・不二を悟って仏の境界に入るよう勧めている。達磨は禅宗の依経とした。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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 本抄は建治3年(1277)10月1日、聖寿56歳の御時、身延で述作された富木常忍へのお手紙である。
 当時、下総真間に天台宗の檀林があり、その天台宗の了性房と常忍との間で法論が行われた。その状況報告を受けられた日蓮大聖人が、その問答の内容について後日の万全を期するため御指南されたものである。
 まず法論の主題となった禀権出界について御教示され、爾前迹門の小法をもって本門の大法を謗っている当時の諸宗はことごとく邪宗邪義であり、出離生死は不可能であると断破されている。
 そして法華経と爾前の諸経を当分・跨節で相対し、三重に従浅至深して、正像未弘の大法を「日蓮が法門」「第三の法門」とされ、種脱相対の立場から大聖人の法門が独自の正法であることを明かされている。
 さらに了性房の法論の敗北は謗法の科の顕れであると断じられ、また止観の行者の持戒の有無に触れて、末法の持戒の者は「市の中の虎」と末法無戒を教示されている。
 そのうえで今後の問答を誡められ、大進房の近況については捨邪帰正の志がなおあいまいであり、道理を尽くして十分反省をうながすよう教導されている。
 「此の使いいそぎ候へばよるかきて候ぞ」と末文にみられるように、常忍の便りを持参した使者が急ぎ下山するため、返事を持たせて帰すべく、夜におしたためになられた御様子が拝せられる。
 弟子檀那のひたむきな折伏活動を賞でられながらも、細部にわたって御心を配られる大慈悲が胸にひしひしと伝わってくるようである。
 御真筆は中山法華経寺に伝えられており、御自署花押も存する。なお系年については諸説あり、御書全集では建治3年(1277)とされているが、近年、御花押についての拝考結果から、本文の全体および蕨手の形状と、それに至る運筆が、弘安元年(1278)から2年ごろの御花押に類似点が拝せられるとして、弘安元年(1278)と推定するのが有力である。
 常忍抄の題号は後代に付されたものであるが、冒頭の法門御指南の内容から「禀権出界抄「禀権抄」また「第三法門抄」とも呼ばれる。
 さて、本章は常忍と了性房との問答の主題となった文句記九の「権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す」の文についての御指南である。了性房は「そのような釈文はない」と否定したようであるが、明らかに文句記九にある。
 虚出とは虚しい出離のことで、出離とは迷いの世界を離れて悟りの境地に至ることをいう。ちなみに禀とは受ける、さずかるの意である。
 法華経以前の権教で、三乗が三界六道の迷いを出で離れたというのは、まだ真実の出離ではないとの意である。ゆえに〝虚出〟と名づけているのである。
 したがって、記の九の文の意味は、権教によっても三乗は三界を、人・天は三途を出離するのであるが、これらはともに法華経の真実の出離に対すれば仮の出離、つまり虚出であるとの釈である。
 この釈は、寿量品の「諸の言説する所は、皆な実にして虚しからず」の文を、天台大師が文句九で注釈し「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し云々」と述べた文を、さらに妙楽大師が解説したものである。
 すなわち、爾前権教はあくまでも仏の本意である法華経寿量品を説くための仮の教え、方便であり、寿量品が説き明かされて、初めて真実の出離が可能となる。「三大秘法抄」に「但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」(1022-02)と説かれるとおりである。ひるがえって寿量品から爾前権教を望めば「昔の虚は実の為の故」となり、会入ののちは寿量品の説明文、助証となるゆえに、寿量品に説かれるように「皆実不虚」となるのである。
 この天台大師・妙楽大師の説くところは、寿量品の「諸の善男子よ。如来は諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見て(中略)諸の衆生は、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に(中略)作す所の仏事は、未だ曾て暫くも癈せず」の経文を承けて釈したものである。
 この寿量品の文意によれば、釈尊成道後、初転法輪となった華厳経をはじめとした、いわゆる爾前四十余年の諸経ならびに法華経迹門十四品まではすべて小法、虚の出離の法であり、あるいはその教えを受ける機根の衆生は徳薄垢重の者となる。
 このことを小乗大乗分別抄には「又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり」(0520-09)と述べられている。
 〝小法〟とはたんに小乗経に限らない。諸大乗経も法華経迹門も、久遠実成を説いた寿量品に対すれば、小法であり、乗の法となるということである。
 したがって、諸法はこれらの〝小法〟を依経としているのであるから、どんなに経説のごとく修行しても、真実の出離を得られるわけがない。まして、これらの〝小法〟をもって真実とし、仏の本懐たる法華経寿量品に勝る等というは言語道断であり、謗法の罪科を還って我が身に重ねることになるのである。
 三論宗の「会二破二」、法相宗の「一乗方便・三乗真実」、真言宗の「法華は無明の辺域・戯論の法」「理同事勝」、浄土宗の「千中無一」「未有一人得者」「理深解微」などが「天に向つて唾を吐」く法華経誹謗の邪論として挙げられよう。

0980:12~0981:07 第二章 本門と諸経の益の勝劣を判ずtop
12   此の法門に於て如来滅後・月氏一千五百余年・付法蔵の二十四人・竜樹・天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土
13 一千余年の余人も未だ之を知らず但天台・妙楽等粗之を演ぶ、 然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、 伝教大師
0981
01 以て是くの如し、 今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く 「若し三法に於て異の想を
02 修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・ 縁覚・菩薩の果を証す
03 ることを得ず」等云云、 此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり 寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に
04 譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量
05 品已前の在世の益は闇中の木の影なり 過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云、 又不信は謗法に非ずと申す事、
06 又云く 不信の者地獄に堕ちずとの事、 五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は 則ち当に悪道に堕つべし」云
07 云。
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 この法門については、釈尊滅後、インドにおいて千五百余年の間には付法蔵の24人、竜樹や天親等は知ってはいたが、いまだこれを説き顕していない。中国においては千余年の間、他の人はこれを知らず、ただ天台大師や妙楽大師等だけが概略これを述べたのである。しかしながら、いまだその真実の義を説き顕してはいないようである。伝教大師もまた同様である。今、日蓮があらあらこれを考えてみるに、法華経のこの寿量品の文を重ねて涅槃経に説いて「もし仏・法・僧の三法に対して異なる想いをいだく者は、まさに知るべきである。この輩は清浄な三宝に対する帰依、すなわち依りどころを失い、諸教の禁戒はみな具わらず、結局、声聞・縁覚・菩薩の果を証することもできないのである」等といっている。この経文はまさしく法華経の寿量品を説き顕しているのである。寿量品を樹木に譬え、爾前経や迹門を木の影に譬えている文である。経文にまた、これは説かれている。
 五時八教・当分跨節・大乗小乗等の判別の利益というのは木の影のようなものであり、法華経本門の法門は木のようなものであるとか、また寿量品が説かれる以前の経による釈尊在世の得益は暗闇の中の木の影のようなものであり、それは過去世に寿量品を聞いたことのある者のことをいっているのである等と。
 また了性房が「不信は謗法ではない」といったこと、また「不信の者であっても地獄に堕ちない」といったことについては、法華経の第五巻に「疑いを生じて信じない者は、必ず悪道に堕ちるであろう」とあるとおりである。

月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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付法蔵の二十四人
 釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者24人。「大夫志殿御返事」には「所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺羅・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者」(1079:07)とある。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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三帰
 仏法に帰依する最初の門で、仏・法・僧の三宝に帰すること。すなわち南無仏・南無法・南無僧のこと。
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声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
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縁覚
 辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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爾前
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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五時・八教
 天台大師智顗が明かした教判を後代の天台宗が体系化したもの。法華経を中心に、諸経に説かれる教えを釈尊一代で説かれたものとして総合的に矛盾なく理解しようとした。五時とは、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五つ。八教には、「化儀の四教」と「化法の四教」がある。
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当分・跨節
 当分は当位の分際のことで、そのままの立場のこと。跨節は節を跨ぐことで、一歩深い立場のこと。天台宗ではこれを教判として、爾前経を当分、法華経を跨節としている。
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大小
 大乗教と小乗教のこと。「乗」とはのせる、の義で小乗教は俱舎宗・成美宗・律宗など。阿含の四経をよりどころとして、小乗の戒律を立てる教えで、少ない範囲の人を、わずかな期間救おうというものである。大乗教とは華厳・方等・般若・法華をいい、小乗教より教えが高慢であり、多くの民衆を長い期間にわたって救おうというものである。大乗と小乗は相対的なものであり、文底下種の南無妙法蓮華経に対すれば諸教はみな小乗となる。
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本門
 仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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 法華経寿量品の「此の法門」は、釈尊滅後、正像二千年には三国未聞の法門であることを示し、涅槃経に寿量品の実義が重説されていることを示しながら、爾前・迹門の得益との勝劣を判じられている。
 また、了性房が不信は謗法ではないといったことに関し、法華経従地涌出品第十五の文を示して、不信は謗法であり、堕獄は必定であることを決判されている。
 法華経本門寿量品已前の爾前・迹門の諸経を悉く〝小法〟〝小乗の法〟と判じた「此の法門」について、正法時代ではインドの竜樹・天親等が、内心には知りながら言葉には宣べず、像法時代では中国の天台大師・妙楽大師、そして日本の伝教大師が種々の疏釈を著して、あらあら演べたものの、実義は顕さなかった。いずれも時機未熟のゆえである。
 続いて大聖人は、寿量品以外にこの義を説いた経文として涅槃経の文を引用されているが、これは同経寿命品の文である。「もし三法の常住を信じない者があるなら、もはや三法に帰する依処もなくなり、三乗の果さえ証得できないことになる」との意であり、寿量品で説かれた仏身常住を重ねて顕説したものである。
 ちなみに涅槃経の立場は「涅槃は命を贖うの重宝なり、重ねて掌を抵つ耳」と天台大師が説いているように、法華経を命とし、法華経の命を贖う重宝の役割りを担う。すなわち「仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ涅槃経の円常を以て法華経に摂す」と仰せられる意がそれである。
 また同経寿量品には「譬えば樹に因りて則ち樹影有るが如し、如来も亦爾なり。常法有るが故に、則ち帰依有り」とある。これは寿量品の三宝常住を樹に譬え、爾前・迹門の諸経をその影に譬えているのである。
 「経文に又之有り」と仰せあるのは、同じく涅槃経の「『若し如来は是れ無常なりと言わば、如来は則ち諸天世人の所帰依の処に非ざるなり』。迦葉菩薩、仏に白して言さく、『世尊、譬えば闇中に樹有りて影無きが如し』。『迦葉、汝樹有りて影無しと言うべからず、但肉眼の見る所に非ざる耳』」の文か。
 五時・八教、当分・跨節、大乗・小乗の分別はあっても、本門の「此の法門」に相対すれば、諸経はすべて〝小法〟であり、その得益は木に随う影のようなものである。すなわち〝虚出〟である。
 また本文の「寿量品已前の在世の益」とは、爾前の成仏往生、法華経迹門の二乗作仏等であり、これを「闇中の木の影」とされている。
 諸経の得益については、「大乗小乗分別抄」に「華厳・阿含・方等・般若等の経経の間に六道を出づる人あり是は彼彼の経経の力には非ず過去に法華経の種を殖えたりし人・現在に法華経を待たずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり」(0524)と説かれている。
 同抄で仰せの「過去に法華経の種を殖えたりし人」と、本文の「過去に寿量品を聞きし者」とは同義である。「過去に寿量品を聞きし」下種が薫修し、諸経を縁として根源の種子・妙法蓮華経を発得して成道した「在世の益」である。
 寿量品已前の諸経の得益は、本来が寿量品の力によるものであり、したがって、寿量品を離れれば、作仏・得道という文のみあって実義はなく、有明無実の〝虚出〟となる。このことを、同じく「大乗小乗分別抄」では「本門寿量品をもつて見れば寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり」(0523-03)と仰せられている。

0981:08~0981:10 第三章 正像末弘の第三法門を明かすtop
08   総じて御心へ候へ法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は
09 第三の法門なり、 世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を
10 示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、 五五百歳は是なり、
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 総じて心得ておきなさい。法華経と爾前経と相対して勝劣浅深を判別するのに当分・跨節の立て分けに三つの仕方がある。日蓮が法門は第三の法門である。
 世間においてはあらあら夢のように第一、第二については述べているけれども、第三の法門については述べていない。
 第三の法門は、天台大師や妙楽大師や伝教大師もあらあらこれを説き示しているけれども、いまだ説ききっていない。結局、末法の今に譲り与えられたのである。五五百歳というのはこれである。

第三の法門
三重に秘伝された寿量文底の一念三千。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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五五百歳
釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
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 ここまで「寿量品」とのみ呼ばれてきたが、そこに意味されている正像末弘の法とは、文上の寿量品ではない。それについて「日蓮が法門は第三の法門なり」と寿量文底秘沈・独一本門の深義であることが示されるのである。
 「当分・跨節の事に三つの様有り」と仰せのように、法華経と爾前経とを比較して勝劣・浅深を判釈するとき、当分・跨節の義に三つの分別・段階がある。
 当分・跨節は仏法判釈に際して用いる基準の一つであり、当分とはその分、そのままの意で、ある範囲内で論じた場合のことをいう。
 それに対し、跨節とは節を跨ぐ意で、一重立ち入ってさらに深く高次元から論じることである。また一往・再往・部分観・全体観ともいえる。
 「三つの様」の
   第一は、爾前経は当分であるのに対し法華経は跨節である。これ権実相対にあたり、日蓮大聖人の第一法門である。
   第二は、法華経迹門は当分で、法華経本門は跨節である。これ本迹相対にあたり、第二法門である。
   第三は、釈尊の脱益仏法は当分で、日蓮大聖人の下種仏法は跨節である。これ種脱相対であり、第三法門である。
 この「第三の法門」について日寛上人は「宗祖出世の本意なり」と述べられているように、種脱相対を明確にし、末法弘通の大白法たる三大秘法の大御本尊を建立されることが、日蓮大聖人の御本意であるから「日蓮が法門」といわれているのである。
 ところが他宗では、「三つの様」について古来から天台大師が説いた「三種の教相」ととらえ、そのうちの第三の「師弟の遠近・不遠近の相」をもって、大聖人の「第三の法門」にあたるとの解釈をしている。不相伝のしからしむところとはいえ、甚だしい邪義に堕しているのである。
 天台大師の「第三」をもって「第三の法門」とするならば、本文で「第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず」とは仰せられるわけがないのである。
三種の教相と第三法門
 天台大師の三種の教相とは、釈尊の法華経と爾前経とを比較して、その勝劣を三つの観点から述べたものである。
 すなわち、法華玄義巻一上に「教相を三となす。一には根性の融・不融の相、二には化導の始終・不始終の相、三には師弟の遠近・不遠近の相なり、教とは、聖人、下に被らしむるの言なり、相とは、同異を分別するなり」とある。
 これを日蓮大聖人の法門「三つの様」と比較すると「世間に粗夢の如く一二をば申せども」という天台大師第一の「根性の融・不融の相」および第二の「化導の始終・不始終の相」は、ともに日蓮大聖人の第一法門、すなわち権実相対に入る。なぜなら、天台大師の第一・第二はともに爾前経と法華経迹門との勝劣を述べたものだからである。
 天台大師の第三である「師弟の遠近・不遠近の相」は、日蓮大聖人の第二法門、すなわち本迹相対に属するのである。
 妙楽大師が釈籤で「前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約す」と釈しているように、あくまでも釈尊の仏法における権実・本迹を論じたものであって、天台大師がすでに明確に論じているところであるから「日蓮が法門」といわれるわけがない。
 日蓮大聖人は、これらの第一、第二法門より一重深い種脱相対を立てられて「第三の法門」とされたのである。
 したがって「第三の法門」とは、日蓮大聖人独自の正義であり、天台大師の教域の全く及ばぬとこれであるゆえに「日蓮が法門」といわれているのである。
 「四条金吾殿御返事」に「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり」(1116-09)と仰せの「一重立ち入りたる」法門こそ、大聖人の「第三の法門」にほかならない。その法体は「寿量品の三大事」たる三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 この種脱相対すなわち下種益と脱益の仏法の相対こそ、末法下種の機と在世脱益の機との相対の意を含んでいる。
 ゆえに「開目抄」では「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられ、観心本尊抄では「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と、また「御義口伝」では「此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云」(0753-第三我実成仏已来無量無辺等の事-07)と述べられているのである。
 また、その法体の顕示や弘通は当然ありえないから「末だ事了えず」と説かれたのである。所詮「第三の法門」は、法華経薬王品に「後五百歳」とあるように末法の要法であり、それを天台大師等は重々知っていたゆえに「末法の今に譲」ったのである。

0981:10~0981:18 第四章 止観の教示ふまえ不退勧めるtop
10                                     但し此の法門の御論談は余は承らず
11 候・彼は広学多聞の者なりはばかり・はばかり・みた・みたと候いしかば此の方のまけなんども申しつけられなば・
12 いかんがし候べき、 但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせ
13 めなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり、 又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かしまの大
14 田次郎兵衛・大進房・又本院主もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ、 此れ等は経文に子細ある事なり、
15 法華経の行者をば 第六天の魔王の必ず障うべきにて候、 十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造ら
16 しむるをば悦ぶ事に候、 強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ 又二乗の行をなす物をば・あなが
17 ちに怨をなして善をすすむるなり、 又菩薩の行をなす物をば遮つて二乗の行をすすむ是後に純円の行を一向になす
18 者をば兼別等に堕すなり止観の八等を御らむあるべし。
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 ただし、この法門についての御論談は私は承っていない。彼は博学で知識ある者である。「はばかりながら、見た見た」といって、こちらの方の負けである、などときめつけられたならば、どのようにするのか。ただし、かの法師達が法華文句記の釈の文を知らなかったことはさておいたとしても、「六十巻のなかにない」などと言ったのは諸天の責めによるのである。謗法の罪が法華経の御使にあって顕れたのである。またこの論議も、きっと理由があって起こったのである。賀島の大田次郎兵衛や大進房また本院主も、どのようにいっているか、よくよくお聞きなさい。これらは経文に詳しく説かれていることである。法華経の行者を第六天の魔王が必ず妨げるのである。十境のなかの魔事境がこれである。魔の習癖は、善事を妨げて悪事をさせるのを悦ぶことにある。どうしても悪をなさない者には、力が及ばずに善事をさせるのである。また二乗の修行をする者には、ひたすらに怨をなし善事をすすめるのである。また菩薩の修行をする者には、それを邪魔して二乗の修行をすすめる。最後に純円の教の修行をいちずにする者を別教を含んだ円教等の修行に堕とすのである。摩訶止観の第八巻等をご覧になりなさい。

六十巻
 天台大師の説いた「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻と、妙楽大師がそれぞれを注釈した「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻を合わせて六十巻といわれている。
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かしま
静岡県富士市加島町のことと思われる。
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大田次郎兵衛
日蓮大聖人御在世当時の人。太田五郎左衛門尉乗明とは別人であろう。
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大進房
下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
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本院主
中心寺院の住職。
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第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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十境
 止観の修行における十種の対境のこと。①陰入界境、②煩悩境、③病患境、④業相境、⑤魔事境、⑥禅定境、⑦諸見境、⑧増上慢境、⑨二乗境、⑩菩提境の十。摩訶止観には、以上の十種の対境の名目は挙げられているが、その内容が説かれているのは第七の諸見境までである。
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二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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純円
 「純」は二乗・三乗等の方便を帯びないで、一仏乗・即身成仏の義が説かれること。「円」は円満のこと。完全無欠の意。純一無雑で、宇宙の実相を完全に説きつくしていること。
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兼別
 別教の理を兼ねるの意で、別教の理を含んだ円教のこと。爾前の円であり、華厳経の円教をいう。純円に対する語。
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止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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 了性房が、この問答において、法華経を持つ者の折伏にあって、謗法の科で敗れたことを指摘されるとともに、法華経の行者に対して必ず第六天の魔王が障りをなすことを、「十境の魔境」をふまえて指摘され、心するよう促されている。
 十境とは止観修行の十種の対境のことで、天台大師が摩訶止観巻五から巻十のなかで説いたものである。
 魔境とはその十境のなかの第五・魔事境のことで、仏道を成ずる障げとなる種々の現象が起こる境界のことである。またこれに対処する修行を観魔事境といっている。
 天台大師は「魔事は是れ天子魔なり。魔は奪者と名づく」と述べているように、魔は仏道修行者の生命を蝕む働きであるが、それはまた生命自体に内在するものでもある。
 魔の働きの習性として、人が善事を行おうとするのを妨害し、悪事を行わせるのを喜ぶものである。しかし、菩提心を発して外縁に紛動されない丈夫の心の人には魔の力も及ばないので善事を許容するが、それでもなお次善に堕とそうと計る。なんとしても最高善の成仏を阻もうとするわけである。
 そこで四諦・十二因縁等の修行をしている二乗に対しては、一段下がった五戒・十善等の善事を勧め、六波羅蜜を修行している菩薩に対しては、より劣った二乗の修行を勧めるのである。
 同様に「純円の行」たる真実の法華経を如説修行する人に対しては、「兼別」すなわち別教の理を加味して説かれた華厳の円等の権教へ堕とそうとするのである。
 「兄弟抄」に「たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ……此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり」(1081-18)と仰せられているのと同意である。
 第六天の魔王は法華経に向かおうとする心を妨げるために、法華経以外にもすばらしい教えがあるように錯覚させる。よく似たものには迷ってしまう傾向がある人間の陥りやすい盲点、弱点を巧妙につくのである。
 このように仏道修行の過程にある我々から御本尊への〝信〟を捨てさせ、御本尊から離そうとして、スキを不断にねらっているのが魔である。魔の誘惑を魔の所為と見抜いて斥ける日ごろの用心が肝要であり、我が心の内の弱さと妥協せず、心の中の悪魔のささやきを撃つ戦いを持続しなければならない。ふだんの唱題、善友との行学の切磋琢磨がなによりも大切なゆえんである。

0982:01~0982:03 第五章 止観に説く持戒と末法無戒top
0982
01   又彼が云く止観の行者は持戒等云云、文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす経文又分明なり、
02 止観に相違の事は 妙楽の問答之有り記の九を見る可し、 初随喜に二有り利根の行者は持戒を兼ねたり鈍根は持戒
03 之を制止す、又正・像・末の不同もあり摂受・折伏の異あり伝教大師の市の虎の事思い合わすべし。
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 また彼は「止観を修する者は戒を持つ」等といったとのことであるが、法華文句の第九巻には、初めと第二、第三の位の行者が戒を持つことについては、これを制止している。経文にもまた明らかである。摩訶止観にそれと相違している文があるということについては、妙楽大師が問答の形でこれを述べているので、法華文句記の第九巻を見なさい。初随喜の位の行者にも二種あり、利根の行者は持戒を兼ね合わせ、鈍根の行者においては持戒を制止するのである。また正法・像法・末法の時代による違いもあり、摂受・折伏の修行における異なりもある。伝教大師が「市に虎がいるようなものである」と説いていることを考え合わせるがよい。

初随喜
 釈尊滅後の法華経修行の位を五つに分けたうちの第一で、法を聞いて歓喜の心を起こす初信の位のこと。法華経分別功徳品第十七の「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」の文に基づいて、天台大師が法華文句巻十上に述べている。
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利根
 利は鋭利、根は信根不疑等の五根、あるいは眼等の五根である。鈍根に対する語。能力の鋭利なものをいう。
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鈍根
 鈍い機根の意で、仏法を受容する理解力の鈍いこと。機根が劣っていて、仏道修行する力が乏しいものをいう。
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正・像・末
 仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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摂受
 仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
―――
折伏
 摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。
―――
市の虎
 伝教大師の著といわれる末法燈明記に「設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可けん」とある。市の虎は、ありえないことのたとえとして用いられている。
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 了性房が「止観の行者は持戒でなければならない」と主張したということに関して、持戒は正像末の三時等によって不同であり、末法今時は無戒であることを説示されている。
 止観巻四上には確かに「持戒清浄」とある。一方、文句十では行人によって持戒を制止している。このことは法華経分別功徳品第十七に明らかに説かれており、同品には法華経を信じて仏道修行に励む者の功徳がさまざまに説かれているが、天台大師は文句のなかで、この経文を解釈して「四信五品」に立て分けた。つまり釈尊の在世と滅後にわたる信心・修行の段階を四種と五種に分別したのである。
 「四信」は釈尊在世の弟子が仏の説法を聞いて信心を深めていく段階を示したもので、
   ①一念信解
   ②略解言趣
   ③広為他説
   ④深信観成
 である。「五品」は滅後の弟子の信行の方法・位で、
   ⑤初随喜品
   ⑥読誦品
   ⑦説法品
   ⑧兼行六度品
   ⑨正行六度品
 である。本文にある「初・二・三の行者」とは「五品」のなかの最初の三品を指している。
   ⑤の初随喜品とは法華経を聞いて随喜の心を起すこと。
   ⑥の読誦品とは法華経を読誦すること。
   ⑦の説法品とは自ら受持して他人のために説くこと。
 である。
 以上三品の位の行人は「持戒をば此れをせいす」で、戒を持つ必要なしと止められ、第四・第五品の菩薩の修行をする上位の行人だけが戒を持つことになっている。それは、初心は縁に紛動されやすく、正行の信が妨げられるためである。
 このように天台大師が止観では「持戒清浄」といい、文句では持戒を制止していて、そこに相違があることについては、妙楽大師が文句記十で問答し「文句は初心に対して持戒を制し、止観は後心について持戒を許した」と釈している。このゆえに大聖人は、それを見よと仰せなのである。
 また初随喜の位にも同様があって、利根の人には持戒を兼ねることを許し、鈍根の人には持戒を止めている。
 また持戒は正像末の三時によっても戒体がそれぞれ異なる。
 正法時代には小乗の四衆の五戒・八斎戒・二百五十戒・五百戒等があり、像法時代には権大乗の菩薩の三聚浄戒・十重禁戒・四十八軽戒等があり、二乗や菩薩はその戒体を受けて生身得忍を得るのである。実大乗の法華経に入ると、受持即持戒で、法華経を受持することが即持戒となる。
 「摂受・折伏の異あり」とは、正像は摂受、末法は折伏、という修行の方軌の違いがあるとの意である。正像の行人は求法・求道のために種々の戒を持って段階的な修行をする、いわゆる摂受であったのに対して、末法では折伏による弘教が修行の根幹をなす。
 末法では、釈尊在世や正法像法のように複雑な、段階的な修行法は必要としない。これを大聖人は、「四信五品抄」に「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340)と仰せられて、御本尊を信受し唱題することが「四信」の最初の「一念信解」を確立し、「五品」の初めの「初随喜品」を貫くことであるとされ、末法の法華経修行の肝要であると示されている。一念信解とは仏の教えを聞いて即座に信ずる心を起こすことであり、初随喜品とは妙法を聞いて歓喜し、信順しぬくことである。
 したがって、末法今時では正像時代の種々の戒律・戒法はすべて無益・無用となる。いわゆる末法無戒である。本文の「伝教大師の市の虎の事思い合わすべし」の意もここにある。
 すなわち、伝教大師が末法燈明記のなかで「但し今の論ずる所は末法に唯名字の比丘のみ有り、此の名字を世の真宝と為して、更に福田無し、設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し」と述べた文がそれである。
 我々がただ南無妙法蓮華経を受持することによって、仏道修行の究極である即身成仏ができるのも、ひとえに持つ御本尊の仏力・法力が偉大であるからにほかならない。
 日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せである。
 受持即観心の義を示された明文である。御本尊を受持することが最高の持戒となるのであり、大聖人はこれを末法唯一の金剛宝器戒として示されているのである。

0982:04~0982:12 第六章 了性等は師子王の前の蚊虻top
04   此れより後は下総にては御法門候べからず了性・思念を・つめつる・上は他人と御論候わば・かへりてあさくな
05 りなん、 彼の了性と思念とは年来・日蓮をそしるとうけ給わる、 彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見
06 ずしてうはのそらに・ そしる程のをこじんなり、 天台法華宗の者ならば我は南無妙法蓮華経と唱えて念仏なんど
07 申す者をば・あれはさる事なんど申すだにも・きくわいなるべきに其の義なき上・偶申す人をそしる・でう・あらふ
08 しぎふしぎ、 大進房が事さきざき・かきつかわして候やうに・つよづよとかき上申させ給い候へ、大進房には十羅
09 刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給うとをぼへ候ぞ、 又魔王の使者なんどがつきて候いけるが・ はなれて候と
10 をぼへ候ぞ、 悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ、事事重く候へども、此の使いそぎ候へばよるかきて候ぞ、
11 恐恐謹言。
12       十月一日                        日蓮花押
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 これよりのちは下総においては法論すべきでない。了性房や思念房を論詰したうえは、他の人と法論したならば、かえって浅くなってしまうであろう。かの了性房と思念房は数年来、日蓮を謗っていると聞いている。彼等程度の蚊や虻のようにつまらぬ者が、日蓮ほどの師子王のごとき者を、聞きもせず見もしないで、いいかげんに謗るくらいの愚か者である。天台法華宗の者であるならば、自身は南無妙法蓮華経と唱えて念仏などを称える者のことを「あれは、あれでよい」などというだけでも奇怪であるはずなのに、奇怪だといわないばかりか、たまたま念仏の邪義を指摘する人を謗るということはまったくおかしなことである。大進房のことについては、前に書き送っておいたように、きわめて強く書き立てていいなさい。大進房には十羅刹女がつかれて引き返すようにされたのだと思われる。また第六天の魔王の使者などがついていたのが離れていったのだと思われる。「悪鬼がその身に入る」というのは、よもや嘘ではあるまい。いろいろのことがたくさんあるけれども、この使いが急いでいるので夜に書いた。恐恐謹言。
  十月一日               日 蓮  花 押

下総
 現在の千葉県北部および茨城・埼玉の一部を含む地域。
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思念
 日蓮大聖人御在世当時に下総に住したと思われる天台宗の僧。
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蚊虻
 蚊と虻。弱小なもの、つまらないもののたとえ。
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天台法華宗
 天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
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十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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悪鬼入其身
 勧持品に「濁劫悪世の中には、多くの諸の恐怖あらん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」とある。六道の一つである餓鬼道の衆生を鬼といい、天竜等の八部衆を神というが、この鬼神、天神、夜叉鬼等の類いを悪鬼という。人に対しては病気を惹き起こし、また思想の乱れを起こす。国家社会に対しては、天変地変や思想の乱れ等を惹き起こす働きをする。ここでは、法然・弘法等の邪宗の僧が、国家権力に取り入って、法華経の行者を迫害することをさす。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1083-04)とある。
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 終わりにあたって、天台の学僧・了性房を法論で破折したうえは、それ以外の者との法論はもはや無用であるとさとされ、蚊虻に等しい彼らは天台大師の本意すら弁えぬ奇怪な者であると断破されている。また大進房の信心の進退についてもお心を配られ、重ねて常忍に注意を喚起されている。
 本文にある思念という人物も、了性房同様、中山近在に住んでいた天台の学僧であろう。常忍等の折伏活動が活発化するにつれ、了性房とともに以前から日蓮大聖人を誹謗していたようである。
 しかし彼らは大聖人と直接会って法門を聞く勇気があるわけでもなく、ただ陰湿に弟子檀那を中傷・誹謗する、あたかも蚊虻のような動きをしていたのであろう。
 「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」(1190-08)と。また「師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる」(1525-03)である。まして野干、狗犬よりも劣る蚊虻の徒輩である。御自身を師子王になぞらえ、彼らを「おこじん」なりと鎧袖一触、歯牙にもかけない毅然たる態度を示されるなかに、末法の御本仏としての大確信が拝される。
 最後に、大進房の近況を伝える報告に対して指示されている。
 大進房は一度は大聖人門下に名を列ねながら、大聖人並びに門下一同を襲った弾圧の嵐に耐えかねて退転した人である。あるいは、本抄御述作の時点ではわずかでも正信にめざめる兆しがみられたのであろう。
 しかし、大聖人は状況の推移によって挙動を変える大進房の本質を見抜かれてか、けっして心を許すことなく、十分諌めるよう、常忍に注意を促されているのである。
 「悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ」とは、大進房の本心ではなく、悪鬼が其の身に入って動かしたのであろうとの意である。このように大きい慈悲に包容されたにもかかわらず、後年ふたたび退転し、弘安2年(1279)9月の熱原の法難の折には、謗徒に加担し、苅田狼藉という無実の罪で正信の農民達を捕えようとして落馬、それがもとで死亡したといわれる。
 大聖人は聖人御難事のなかで「大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか」(1190-05)と、正法の信を破った現罰なりと喝破されている。
 なお、同じ門下だった大進阿闍梨と大進房とを同一人物とする説が古来からあるが、大進阿闍梨は弘安2年(1279)8月以前に死去していることが、弘安2年8月17日御述作の曾谷殿御返事にみえており、両人は別人であろう。

0982~0984    始聞仏乗義top
0982:01~0983:13 第一章 二乗開会の名目と意義を明かすtop
始聞仏乗義    建治四年二月    五十七歳御作   与富木常忍
01   青鳧七結下州より甲州に送らる 其の御志悲母の第三年に相当る 御孝養なり、 問う止観明静前代未聞の心如
02 何、答う円頓止観なり、 問う円頓止観の意何ん、答う法華三昧の異名なり、 問う法華三昧の心如何、答う夫れ末
03 代の凡夫法華経を修行する意に二有り 一には就類種の開会 二には相対種の開会なり、 問う此の名は何より出る
0983
01 や、答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性」の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、 一には就類
02 種二には相対種なり、 其の就類種とは釈に云く 「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因
03 の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、 其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・ 其の当体を押えて法身
04 と般若と解脱と称する是なり、 其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、 妙
05 楽云く 「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、 此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は
06 他師の円なり、 又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、 問う其の相対種の
07 心如何、 答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有り
08 と雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ 是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、 法
09 身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり 般若清浄なれば余亦清浄なり 解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞く
10 こと亦是の如し 皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、 此の釈は即ち相対種の手本なり其の意
11 如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・ 十八界なり煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり結
12 業とは五逆・十悪・四重等なり、 法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫
13 より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり。
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 銭七結、下総より甲斐の身延に送られたそのお志は、悲母の三回忌の追善供養のためである。
 問う。「止観の明静なることは前代に未だかつて聞かない」と章安大師が讃めた意味はどういうことか。答う。円頓止観の法門を讃めたのである。
 問う。円頓止観というのはどういうことか。答う。法華三昧の異名である。
 問う。法華三昧とはどういうことか。答う。末代の凡夫が法華経を修行する方法であり、それには二つある。一には就類種の開会、二には相対種の開会である。
 問う。この名目はどこから出たのか。答う。法華経巻三薬草喩品第五にいう「種・相・体・性」の四字である。その四字の中の第一の「種」の一字に二意があり、一には就類種、二には相対種である。
 その就類種の開会とは、法華玄義巻九下に「およそ心のある者は、皆正因の仏種である。随って経文の一句でも聞くのは了因の仏種である。頭を低く垂れ手を挙げて拝むのは縁因の仏種である」と解釈している。その相対種の開会とは、煩悩と業と苦との三道を、その体をそのまま法身と般若と解脱と称することである。
 その中に就類種の開会の一法は、根本は法華経に有るのであるが、少分はまだ爾前の経々にも通じている。妙楽大師は法華文句記巻七下に「別教はただ就類の種はあるが、相対種はない」と釈している。この釈の別教というのは、もとのままの別教のことではなく、爾前経に説かれた円教、あるいは天台家以外の他師の立てた円教のことである。また法華経の迹門の中、方便品第二の「舎利を供養する者」已下の二十余行に説かれた法門も、だいたい就類種の開会である。
 問う。その相対種の開会とはどういう法門か。答う。摩訶止観巻一上に「どのようなことが円教の法門を聞くということなのか。それは、この生死の身がそのまま仏の法身常住の身体となり、煩悩がそのまま仏の般若の智慧となり、悪業がそのまま仏の解脱の徳となると聞くことである。三つの名があるけれども、三つの体があるのではない。本来は一体であるのを、三つの名を立てたのである。この三つはすなわち一相であり、その本体は別々ではない。法身が究竟すれば、般若も解脱もまた究竟する。般若が清浄であれば、余の二つもまた清浄である。解脱が自在であれば、余の二つもまた自在である。一切の法を聞くことはまたこのようなものである。皆仏法を具えて減少するところがない。これを円教を聞くと名づけるのである」と解釈されている。この釈は、すなわち相対種の開会の手本である。
 その意味はどういうことか。答う。生死とは、我等が過去の業によって受けた果報としての苦しみの身心である。いわゆる五陰・十二入・十八界である。煩悩とは、見思・塵沙・無明の三惑である。結業とは、五逆・十悪・四重禁等である。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来である。我等衆生は、無始の昔からこの煩悩・業・苦の三道を具足しているのであるが、いま法華経に値って、三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となるのである。

青鳧七結
 青鳧は鎌倉時代の通貨のこと。青鳧は青蚨に同じで、かげろうの意。捜神記等によれば、かげろうの母子の血をとって、それぞれの銭に塗ると、その片方の錢を使えば、残った方を慕って銭が飛び帰るという言い伝えがある。転じて銅銭、孔あき銭のことを青鳧といった。なお諸説がある。七結は、銭の孔に紐を通して一連にしたもの七つをいう。一結は、ふつう100枚、100文である。
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下州
 下総・現在の千葉県北部。
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甲州
 甲斐国のこと。現在の山梨県。
―――
観明静前代未聞
 摩訶止観の最初にある文。章安大師が天台大師の摩訶止観を撰述するにあたり、その縁由を述べた序分。「止観の明静なる前代に末だ聞かず」と読む。
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円頓止観
 天台大師の説いた三種止観のひとつ。法華経を根本にした観法で、修行の段階や能力の差にかかわらず、直地に順一実相を対象として、実相の他に別の法なしと体得する止観のこと。妄念を止め、心を特定の対象に注ぐことを「止」といい、止によって智慧を起こし対象を観ることを「観」という。摩訶止観に体系化して説かれている。
―――
法華三昧
 法華経に基づき、中道実相の理を観ずる三昧のこと。三七日(3週間)にわたって行道と礼拝と坐禅を兼ねて修し、その間に礼仏、懺悔、誦経などを行ずるもの。半行半座三昧といい、天台大師所立の四種三昧の一つである。妙楽大師の止観大意には「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なる耳」とある。
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就類種の開会
 すべての衆生が共通かつ本然的にもっている正・了・縁の三因仏性を開発し顕現して成仏すること。就類とは同類の義。
―――
相対種の開会
 衆生が本来具足している不成仏の因たる煩悩・業・苦の三道をそのまま法身・般若・解脱の三徳と転ずること。相対とは、反対の義。
―――
正因の種
 成仏する正因の種子。正因仏性のこと。三因仏性の一つ。一切衆生が本然的に具えている仏性をいう。涅槃経巻二十七の「一切衆生悉有仏性」等の文によって、すべての衆生に本来、正因仏性が具わっていることが明かされている。
―――
了因の種
 了因仏性のこと。三因仏性の一つ。一切衆生が本然に具えている法性・真如の理を覚知する智慧をいう。
―――
縁因の種
 縁因仏性のこと。三因仏性の一つ。了因仏性を助けて正因仏性を開発していくすべての善行をいう。
―――
煩悩と業と苦との三道
 衆生が六道の生死を続けていく状態を示したもの。①煩悩・衆生の身心を煩わし悩ませる種々の精神作用。無明、貪欲、瞋恚等。②業・煩悩から起こる善悪の身口意の所作。③苦・煩悩、業を因として招く三界六道の苦しみ。④三道・三つが互いに因果となって相通ずること。煩悩から業に、業から苦に、苦から煩悩を生じ、展転していくのである。
―――
法身と般若と解脱
 仏に備わる三種の徳相。三徳。①法身・仏の清浄な真身それ自体。②般若・ものの道理を明らかに見通す仏の智慧。③解脱・煩悩の縛から解き放たれ、迷いや苦しみを脱し、自在なくこと。
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爾前の円
 爾前諸教に説かれる円教のこと。釈尊が30歳で成道して以来、法華経を説くまでの42年の間、法華経に誘引するために説かれた方便の経。円教は円融円満で完全無欠な教法のことで、天台大師の教判では化法の四教の第四にあたる。爾前諸教においても、凡夫の位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説くことを爾前の円という。
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他師の円
 帯権の円ともいう。権教を帯びた円教を信受する機根のこと。在世の衆生が権教によって調機調養されて後、円教を聞いて得脱したことをいう。
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華経の迹門
 迹門は本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
生死即法身
 生死を繰り返す凡身がそのまま常住不滅の法身であるということ。
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煩悩即般若
 煩悩と般若が一体であるということ。煩悩即菩提のことをいう。
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結業即解脱
 結業も解脱も本然として一体不二の関係にあること。結業の結とは惑に結縛されていること。業とは所作の意。ゆえに結業とは、煩悩によって起こる所作、六道輪廻の姿をいう。解脱とは、煩悩の結縛を離れて自在を得た状態をいう。結業即解脱とは煩悩を断尽することなく、六道輪廻の姿そのままで仏の自在の力用を得ることをいう。
―――
苦果の依身
 凡夫の身心のこと。苦果は悪業の因によって受ける苦しみの果報をいい、六道の衆生の生死・苦しみをさす。
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五陰・十二入・十八界
 五陰とは、生命活動を構成する色陰・受陰・想陰・行陰・識陰の五つをいう。陰は集積の意で、一切の衆上はこの五陰が集まり和合して成り立っているとされる。十二入とは、六根と六境を合わせたもの。十二処ともいう。さらに六識を加えて十八界という。六根は対象を感知する感覚器官、またはその機能で、これが六境に縁することによって六識を生じ、具体的に物事を認知するのである。この関係を総称して十八界という。また、この五陰・十二入・十八界を三科といい、ともに凡夫の我への執着を打ち破るために説かれた法門である。とくに心に迷う者のために五陰を立てる。心を開いて受・想・行・識の四陰となし、色陰を合わせて五陰とし迷いを破す。とくに色法に迷う者のために十二入を立てる。色を開いて十入とし、心を二入とし、合わせて十二入とし迷いを破す。色心ともに迷う者のために十八界を立てる。色を開いて十界とし、心を八界とし、会わせて十八界とし迷いを破すのである。
―――
見思・塵沙・無明
 天台大師が一切の惑を三種に立て分けたもの。見思惑とは三界六道の苦果を招く惑をいい、見惑と思惑とに分けられる。見惑は、物事の道理に迷うこと。後天的、知的な迷いをいい、辺見・邪見等の妄見をいう。思惑は、貪・瞋・痴等の煩悩による本能的な迷いをいう。塵沙惑とは、大乗の菩薩が人を教化する時に生ずる障害をいう。塵沙とはその数が無量であることをたとえる。無明惑とは、中道法性の悟りを妨げる一切の煩悩の根本となる惑をいう。
―――
五逆・十悪・四重
 五逆とは五逆罪のことで、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血の五つ。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。十悪とは、十悪業、十不善業ともいい、身に行う三悪である殺生、偸盗、邪淫、口の四悪である妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪である貪欲、瞋恚、愚癡をいう。四重とは、四重禁の略で、十悪のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語のこと。
―――
法身如来
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
報身如来
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
応身如来
 仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
無始曠劫
 無始は始まりがないとの意で、無限・永遠の過去を意味する。曠劫もはてしないかなたの時をさす。
―――
三道即三徳
 三道の迷いも妙法を信受することによって三徳に開き仏道を成ずることができること。
―――――――――
 本抄は富木常忍が母の三回忌追善のために、身延山におられる日蓮大聖人に青鳧七結を御供養申し上げたのに対し、その返礼として建治4年(1278)2月28日付けで書かれたお手紙である。
 内容の大意は、法華経に明かされているところの相対種開会と就類種開会の二種開会について問答形式で説明されながら、とくに相対種開会をとおして、末代の凡夫の即身成仏の法門を述べられ、富木常忍の成仏によって母も成仏することを述べられている。
 なお題号の始聞仏乗義は、本抄の最後の問答で「問う是くの如し之を聞いて何の益有るや、答えて云く始めて法華経を聞くなり」とある御文からとられたものである。もとより、この題号は御真筆にはなく、後世に名づけられたものである。
 御真筆は、中山法華経寺に所蔵されている。
 さて、本抄は冒頭に青鳧七結が、下州の富木常忍から亡き母の追善供養のためにと、甲州の身延におられる日蓮大聖人のところに送られてきたことを述べられている。
 そして、以下に、円頓止観の法が凡夫の即身成仏の法を説いていることを述べられ、富木常忍の成仏によって亡き母も成仏することを教えられているのである。
 はじめに、天台大師が摩訶止観に明かした円頓止観が法華三昧の異名であることを述べられ、この法華三昧の修行による開会に就類種・相対種の二種があることを示される。そして、この二種のうち、就類種は法華経だけでなく爾前の経にもあるが、相対種の開会は法華経に限ることを教示されるのである。
円頓止観について
 本抄ではまず、天台大師の著した摩訶止観十巻を、章安大師が“前代未聞”の法門と讃えているのであるが、いったい摩訶止観のどの法門を讃えたかといえば、止観に説かれている円頓止観の法門であると答えられ、その円頓止観とは、法華三昧の異名であることを述べられている。
 つまり、天台大師の説いた止観に三つあり、漸次止観、不定止観、円頓止観の三種で“三種止観”とも呼ばれる。
 止観というのは、仏教の修行の方法で、「止」と「観」とから成る。「止」とは、心を一定の対象にそそぎ止めて心が外界の諸現象にひきずられて散乱・動揺するのをおさえることをいい、「観」とは、「止」によって不動になった心が正しい智慧を起こし、事物の実相の真理を観察することをいう。
 ここから「止」を定、寂、静などともいい、「観」を慧、照、明などともいい、止観は定慧、寂照、明静としても使用される。
 そのことは章安大師の「止観明静前代未聞」の言葉にも明らかであろう。
 ところで、三種止観の漸次止観とは、散乱する心をおさえ、一定の対象に心を止める「止」の修行をおさめながら、浅きから深きへと次第に事物の実相の真理を「観」察しつつ悟っていく方法をいい、不定止観とは修行者の性格や能力などの個別差に応じて修行の順次次第が定まっていないものをいう。これらに対し円頓止観とは初めから、直ちに実相を対象として、たちどころに悟るのをいう。
 天台大師は、漸次止観を次第止観という書に、不定止観を六妙門という書に、そして、最後の円頓止観を摩訶止観に述べているのである。
 ではなぜ、円頓止観が前代未聞なのかといえば、修行者における性格、能力の個別差や修行の段階の差にかかわらず、直ちに実相の対象として、即座に悟る修行法であり、全く法華経によったものだからである。それゆえに妙楽大師は「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名たるのみ」と止観大意に記しているのである。
 この妙楽の言葉を受けられたのかであろうか。日蓮大聖人は、円頓止観を法華三昧と述べられている。
法華三昧は、もともと法華経にもとづく三昧で、とくに天台宗では、法華経により中道実相の真理を観ずる修行法のことをさしている。法華経の三昧によってなぜ機根等によらない円頓の止観を成じうるかといえば、己心の仏性を開覚する就類種の開会のみでなく、煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と転ずる相対種の開会を可能にするのが法華経だからである。
二種の開会について
 二種の開会とは、法華経巻第三薬草喩品第五の文に由来している。その文とは「唯だ如来のみ有って、此の衆生の種相体性、何の事を念じ、何の事を思い、何の事を修し、云何に念じ、云何に思い、云何に修し、何の法を以て念じ、何の法を以て思い、何の法を以て修し、何の法を以て何の法を得ということを知れり」である。
 この文は、ただ如来、仏だけが衆生の種類や、衆生それぞれの姿、形、衆生それぞれの本質、衆生それぞれの改まらざる性分を知っており、また、衆生それぞれの修行の仕方や内容を知っているという意味であるが、この「衆生の種、相、体、性」の〝種〟について、天台大師は法華文句巻七上で、仏の種子と解し、就類種と相対種の二種の開会を挙げたのである。
 本抄で日蓮大聖人は、法華経薬草喩品の文を解釈した法華文句巻七上を要約されて「薬草喩品に云く……」とされている。
 では、就類種と相対種とはいかなる意味であろうか。まず、「開会」とは衆生の生命の内にある仏の種子、仏性を開発して、衆生が仏果を開くことをいう。その仏種、仏性の開発の仕方に二つあるというのが二種の開会である。
 まず、就類種とは、同類種ともいい、原因と結果が同じ種類でなければならないとの前提に立って仏性を開発する仕方である。
 どういうことかといえば、仏種、仏性が仏果と同類のものでなければならないから、仏性開発の修行法は、煩悩を排し、迷いを除き、染法をしりぞけながら、ただただ清浄なる仏性を開き仏果に至ろうとするのである。
 この就類種開会とは三因仏性を開発することに他ならない。ゆえに、日蓮大聖人は、天台大師の法華玄義巻九下、法華文句巻七上の取意としての「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」の文を引用されているのである。
 ここにいう正因の種とは、一切衆生が本然的に具えている仏性のことで、この正因の仏性を事実の上に顕して覚知する智慧を了因の種といい、経文の一句でも聞き、理解したり、了解したりすることのなかに現れてくるものである。また縁因の種とは、〝低頭挙手〟して仏や化導の師を敬うことや仏前に香華、灯明を供えること、合掌することなどにみられるように、了因仏性を開発する助縁となる善根功徳を指す。
 さて、本文にも「宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず」と説かれているように、就類種開会は、その根本は法華経にあるといっても、爾前の円教にも説かれていて、必ずしも法華経独自の法門とはいえないのである。
 なぜなら、涅槃経一つとっても「一切衆生悉有仏性」と説き、あらゆる衆生に仏性有りとするがゆえに、その仏性を育て開いて仏果に至ると、事実上はともかく教えの上だけでも衆生の成仏を説いているからである。
 また法華経においても、迹門が明かしているのはこの就類種開会である。その一つとして、大聖人は法華経方便品の文を挙げられている。
 その文とは、「諸仏は滅度し已って 舎利を供養する者は 万億種の塔を起てて 金銀及び頗黎 硨磲と碼碯玫瑰瑠璃珠もて 清浄に広く厳飾し 諸の塔を荘校し 或は石廟を起て 栴檀及び沈水……」に始まる部分で「……諸の過去の仏の 現に在すとき或は滅後に於いて 若し是の法を聞くこと有らば 皆な已に仏道を成じたり」で終わる〝二十余行の法門〟である。
 この部分は偈頌から成っており、四句を一行としてちょうど〝二十行〟になる。残る〝余行〟とは、この部分の前にくる「又た諸の大聖主は 一切世間の 天人群生類の……」に始まり「……是の如き諸の衆生は 皆な已に仏道を成じたり」で終わるところであろう。
 それはともかく、この方便品の文を見ると、童子が戯れに砂を集めて仏塔を作っても、また、人が散乱の心をもってひとたび南無仏と唱えても、画像、仏像も一華でも供養しても、仏道を成ずることができることを明かしている。これなどは縁因仏性の例であろう。
 また、法を聞くものは仏道を成ずるとの表現もあり、これなどは了因仏性を指していることがわかる。
 つぎに、相対種開会についてみると、本文で、大聖人は「其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」と述べられている。
 相対種開会の〝相対種〟とは、敵対種ともいい、煩悩と菩提、迷いと悟り、染法と浄法、生死と涅槃、善と悪などの、相互に対立する異なった種類のものをいい、たとえば、悪を開いて善に会するというような場合、相対種開会という。
 つまり、就類種開会の場合は、清浄なる仏性、仏種と相対立する煩悩や業や苦などの染法を排除しつつ仏種を開発し仏果に至るのであるが、この相対種開会は、自らに相対立する煩悩などの染法を包みこみ、むしろ、染法あるがゆえにこそ自らの開発も促進されるという力を仏種そのもののなかに見いだした法華経の独創的な法門である。
 この相対種開会を端的にあらわしているのが煩悩即菩提、生死即涅槃である。
 煩悩と菩提、生死と涅槃はまさしく相対立する異種類のものであるが、人間から煩悩や欲望を否定し去ったならば、人間は生きることすらできなくなるであろう。この煩悩断滅をめざして修行をしたのが、小乗教徒であったことはいうまでもない。しかし、人間の煩悩を菩提を求める方向に転じたとき、むしろ、煩悩を燃えたぎらせることが菩提への修行を促進させるということになるのである。
 要は、煩悩があることが問題なのではなく、どのように煩悩の質を高め、価値づけるかにあるのである。このような観点から、相対種開会の法門は衆生の生命のあり方を、その本源まで遡って導き出した法華経の独妙の法理であるといえるであろう。
 この相対種開会の意味を、大聖人は「煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する」と説かれたのである。
 三道の当体を〝押えて〟とは、三道を捨てたり、断ち切ろうとしたりするのではなく、三道をありのままにとらえて、これを、仏種を開発し仏果を開くための機縁にしていくとき、煩悩は即般若の仏智に、業は即解脱の仏徳に、苦は即法身の仏身になるといわれているのである。
 天台大師も、前述した法華文句巻七上で、相対種開会を説明する際に「種とは三道是三徳の種なり。浄名に云く、一切煩悩の儔を如来の種と為すと、これ煩悩道に由りて即ち般若有ることを明かすなり。また云く、五無間皆解脱の相を生ずと、これ不善に由りて即ち善法解脱有るなり。一切衆生は即ち涅槃の相にしてまた滅すべからずとは、これ生死に即して法身と為すなり、これ相対に就いて種を論ずるなり」と論じ、煩悩道によって般若あり、不善の業によって善法解脱あり、生死の苦に即して法身ありと、三道即三徳を明かしているのである。
 さらに、本文に摩訶止観巻一上の「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し……」の文を引かれている。
 この文は、天台大師が三種止観のうち円頓止観を説明するなかで述べたもので、生死即涅槃、煩悩即般若、結業即解脱、という相対種開会が示されている。そのうえ、法身、般若、解脱の三つの名は、仏に具わる三種の徳相で、三徳ともいうが、三つの名に分かれてはいても、それぞれの名に対応する本体があるわけではなく、ただただ仏身そのものを表しているにすぎず、三即一相であると注釈している。それゆえに、法身究竟すれば、般若も解脱も究竟し、般若が清浄なれば、法身も解脱も清浄になり、解脱が自在なれば、他の二つも自在になるのである。
三道即三徳
 では、今まで何度も述べてきた三道即三徳について、本文にそってもう少し詳しく説明すると、まず、三道であるが、生死=苦は「我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり」と説かれている。生死は六道を輪廻する衆生・凡夫の苦しみの生命それ自体を指しており、その生命活動は五陰により営まれ、十二入・十八界という、外界を感覚し認識する働きがあって支えられていく。しかし、六道を輪廻する衆生の生命活動である限り、五陰も十二入・十八界も迷いと苦しみを招くものでしかないのである。
 この、生死の苦しみの生命をもたらす因として、煩悩と業がある。
 煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑をいい、業とは、五逆・十悪・四重等をさし、三惑にまとめられる煩悩が原因となって、五逆・十悪・四重等の業を結び、その業の報いとして、六道の生死を流転する苦しみの生命という果報を受けるのである。それゆえ、生死の苦しみは煩悩→業→苦の次第を経て形成されるのである。
 この凡夫の迷いと苦しみの生命自体が、そのまま、仏種、仏性を開発するきっかけとなって仏果を成ずることができるというのが、前述したように、相対種開会である。
 仏果を成ずるとは、仏身となることであり、凡夫の生命自体が即、仏の生命になることである。仏身にはおのずから三徳と三身がそなわっている。三徳とは三つの徳用、働きのことで、法身は、真理に安住する常住の仏身のことであり、般若は、仏が働かす清浄で一切に透徹した智慧のことであり、解脱は煩悩と業の束縛から離れて自在を得た状態のことである。この三徳はそのまま三身となり、本文にもあるように、法身=法身如来、般若=報身如来、解脱=応身如来となって、三道即三徳=三身が成立するのである。
 凡夫の迷いと苦しみの生命それ自体がそのまま究極の真理を体とする仏の生命それ自体としての法身に、凡夫の生命を煩わし悩ます種々の精神作用としての煩悩・三惑がそのまま仏の智慧としての般若に、煩悩を因として起こす五逆・十悪等の業はそのまま仏の慈悲の自在なる振る舞いとしての解脱に止揚されるのである。
 ところでこれまでの説明は、どこまでも二種の開会の内容、とくに相対種開会の卓越した法門の内容を明らかにしてきたことになるが、では、いかにすれば末代の凡夫が相対種の開会を事実の上で為し得るのかという実践的な問題は説かれていない。
 わずかに、本章の最後に「我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり」と述べられ、〝今法華経に値つて〟との言葉が実践的な問題への方向を暗示されているにすぎない。
 この問題は本抄の後半に説かれるのである。

0983:14~0984:18 第二章 末代凡夫の即身成仏の原理を明かすtop
14   難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因・ 悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我
15 等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・ 赤白二渧和合して一身と為る 悪の根本不浄の源なり、 設い大海を傾け
16 て之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貧・瞋・癡の三毒より出ずるなり、 此の
17 煩悩苦果の二道に依つて業を構う 此の業道即ち是れ結縛の法なり、 譬えば篭に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を
18 以て三仏因と称するや、 譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、 答う汝が難大いに道理なり
0984
01 我此の事を弁えず 但し付法蔵の第十三天台大師の高祖 ・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く
02 毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱な
03 り、 能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、 天台云く妙は不可思議と名づく等云云、又
04 云く一心乃至不可思議境・意此に在り等云云、 即身成仏と申すは此れ是なり、近代の華厳・真言等此の義を盗み取
05 りて我が物と為す大偸盗天下の盗人是なり。
-----―
 難じていう。火から水は出ない。石から草は生じない。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏教の定まった習いである。しかるに、我等の出生の根本を尋ね究めてみれば、父母の精血・赤白二渧が和合して一身となったのであり、悪の根本、不浄の源である。たとえ大海の水を傾けて洗っても清浄になるはずがない。またこの苦果の依身は、その根本を探ってみれば貪・瞋・癡の三毒より生じたのである。この煩悩と苦果の二道によって業を作る。この業道が我等を三界六道の苦しみの世界に縛りつけているのである。譬えば籠に入れられた鳥のようなものである。どうしてこの三道をもって三仏因と称するのか。譬えば糞を集めて栴檀の香木を造っても、けっして栴檀の香りはしないようなものである。
 答う。あなたの不審は至極もっともなことである。私はこのことを心得ていない。ただし付法蔵の第十三祖で、天台大師の高祖である竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して「譬えば大薬師がよく毒を以って薬とするようなものである」といわれている。毒とは何をさしていったのかというと、我等の煩悩・業・苦の三道のことである。薬とは何かというと、法身・般若・解脱の三徳である。「よく毒を以って薬とする」とはどのようなことかというと、三道を変じて三徳とすることである。天台大師は法華玄義に「妙は不可思議と名づける」といわれている。また摩訶止観巻五上に「一心に十法界を具している。乃至、不可思議境という。意はここにある」といわれている。即身成仏の法門というのはこのことである。近代の華厳宗や真言宗などの学者は、この義を盗み取って我物としている。大偸盗、天下の盗人である。
-----―
06   問うて云く凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや、答う私の答は詮無し竜樹菩薩の大論に云く九十三なり「今漏
07 尽の阿羅漢還つて作仏すと云うは 唯仏のみ能く知ろしめす、論議とは正しく其の事を論ず可し測り知ること能わず
08 是の故に戯論すべからず若し仏を求め得る時 乃ち能く了知す余人は信ずべく而も未だ知るべからず」等云云、 此
09 の釈は爾前の別教の十一品の断無明・ 円教の四十一品の断無明の大菩薩・普賢・文殊等も未だ法華経の意を知らず
10 何に況や蔵通二教の三乗をや何に況や末代の凡夫をやと云う論文なり、 之を以て案ずるに法華経の唯仏与仏・ 乃
11 能究尽とは爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押えて法身・般若・解脱と説くに二乗還つて作仏す菩薩・
12 凡夫も亦是くの如しと釈するなり、 故に天台の云く二乗根敗す之を名けて毒と為す 今経に記を得る即ち是れ毒を
13 変じて薬と為す、 論に云く余経は秘密に非ず 法華は是れ秘密なり等云云、 妙楽云く論に云くとは大論なりと云
14 云、問う是くの如し之を聞いて何の益有るや、 答えて云く始めて法華経を聞くなり、 妙楽云く若し三道即是れ三
15 徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る 況や三界をやと云云、 末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非
16 ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり病身為るの故に委細ならず又又申す可し。
17       建治四年太歳戊寅二月二十八日                    日蓮花押
18     富木殿
-----―
 問うていう。凡夫の我等にもこの秘法の意を理解することができるであろうか。
 答う。私見による答えは無益である。竜樹菩薩の大智度論巻九十三には「今、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は、仏にはなれないと決まっているのに、かえって成仏するというのは、唯仏のみがよく知っていることである。論議とは正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。このゆえに戯れの論議をしてはならない。もし仏になることができた時は、よく了解することができる。それ以外の人は、ただ信ずべきであって、未だ了解することはできない」といわれている。この釈は、法華経以前の別教に説く十一品の無明を断じた菩薩、円教に説く四十一品の無明を断じた大菩薩である普賢菩薩・文殊菩薩等も未だ法華経の意は分からない。ましてやそれ以下の蔵教・通教の二教における三乗においてはいうまでもない。まして、末代の凡夫においてはいうまでもないと論ぜられた文である。
 このことをもって考えると、法華経方便品第二の「唯仏と仏とのみがよく究め尽くしている」とは、爾前経において灰身滅智した二乗が、法華経において煩悩・業・苦の三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となると説かれ、成仏した。菩薩や凡夫もまた同じく成仏することが可能となったと解釈するのである。ゆえに、天台大師は法華玄義巻六下に「二乗の根敗したのを名づけて毒とする。法華経において成仏の授記を得たのは、すなわちこれ毒を変じて薬としたのである。論には『余経は秘密の経ではない。法華経はこれ秘密の経である』とある」といわれている。妙楽大師は法華玄義釈籤巻十三に「『論にいう』とは大智度論である」と注釈している。
 問う。以上のような法門を聞いて、何の利益があるのか。
 答えていう。始めて法華経を聞くということである。妙楽大師は止観輔行伝弘決巻一の二に「もし三道がそのまま三徳であると信ずれば、よく分段・変易の二種の生死の河を渡ることができる。ましてや三界を渡りうることはいうまでもない」といわれている。末代の凡夫がこの法門を聞くならば、唯自分一人だけが成仏するばかりでなく、父母もまた即身成仏するのである。これが第一の孝養である。病身であるために委しくは書けない。またまた申し上げよう。
  建治四年太歳戊寅二月二十八日    日 蓮  花 押
   富 木 殿

赤白二渧
 赤は母の血、白は父の精。赤白の二渧が和合することにより識が宿り、人間が生まれるという。摩訶止観巻七上には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以って体質と為す」とある。
―――
貧・瞋・癡の三毒
 十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡.。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。 
―――
三仏因
 法身・般若・解脱の三徳と法身如来・報身如来・応身如来の三身の原因。
―――
栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
付法蔵
 釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
妙は不可思議と名づく
 法華玄義の私記縁起に「妙は不可思議を名づくるなり」とある。
―――
一心乃至不可思議境・意此に在り
 天台大師の摩訶止観巻5上に「「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」とある。
―――
即身成仏
衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
大偸盗
 人の物を盗む盗賊、盗人、十悪業のひとつ。
―――
阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
―――
爾前の別教の十一品の断無明
 法華経以前の別教の菩薩は、52位のうち、初地の位から一品の無明を断じて一分の中道の理を証し、第十地の位で十品の無明を断じ、最後の等覚位において11番目の無明を断じて妙覚位に入ると説かれている。
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円教の四十一品の断無明
 円教の菩薩は、52位のうち初住位~十住・十行・十回向・十地の40位に40品の無明を断じ、最後の等覚位において41番目の無明を断じて妙覚の仏位に入ると説かれている。
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普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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蔵通二教の三乗
 蔵教と通教で説く声聞・縁覚・菩薩のこと。
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唯仏与仏・乃能究尽
 方便品の文。「唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と読む。ここに、爾前経では秘しかくしてきた一念三千の法門が、諸法実相に約して説かれている。ただし、まだ久遠実成を明かさず、本因・本果・本国土がとかれていないから、真実の一念三千だはなく、理の一念三千にとどまるのである。
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灰身滅智
 身を灰にし智を滅するの意。 一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すこと。小乗仏教の理想とする涅槃の境地。灰滅。無余灰断。
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二乗根敗す……法華は是れ秘密なり
 天台大師の法華玄義巻六下の文。根敗とは、五根が敗壊して活用しなくなった状態をいう。二乗根敗とは二乗が煩悩を断じ灰身滅智することをいい、この文はそうした二乗を〝毒〟と呼び、法華経で成仏を許したのは、毒を変じて薬としたようなものであると述べた語である。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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二死の河
 分段の生死と変易の生死の二種の生死を迷い・苦悩の河にたとえたもの。分段の生死とは、三界六道の迷いの世界に輪廻する凡夫の生死をいう。凡身の寿命がおのおのの業因によって分限し、その形体に段別があるので分段という。変易の生死とは、三界の迷いの世界を離れ、輪廻を超えた声聞・縁覚・菩薩等の聖者の生死をいう。分段の身を変え易め、煩悩の迷いを滅していくゆえに変易という。
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三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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 先に就類種、相対種の開会を示し、とくに煩悩・業・苦の三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳とあらわれると述べられたのをうけて、まず相対種開会の法門に対する疑難を設けられる。
 仏法の通常の因果律からいえば、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むのであって、悪因がそのまま仏因になるという相対種開会は理解されがたいのである。「如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや」との疑難が起こるのは至極当然である。ちょうど、糞を集めて栴檀の香木を造るようなもので、たとえ造っても、香りを発しないようなものであるとの譬えは、この疑難の内容をよく表している。
 その答えとして、日蓮大聖人は、その疑問は道理であるとされながら、竜樹と天台大師の釈を挙げられている。
 まず、竜樹は大智度論巻百において、妙法の〝妙〟の字を釈して「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と述べている。これは、相対種開会でいうと、毒が、煩悩、業、苦の三道にあたり、薬が法身、般若、解脱の三徳にあたる。
 名医は、病者の病を治すために、毒を調合して薬とするのであるが、問題は、毒をいかにして病に効く薬とするかにある。その場合、患者の生命自身の力が、名医の調合した毒を自らの病を治す薬に転じているのであって、名医は、患者自身の生命のもつ力をよく知っていて、その力を計算に入れて薬を作るのである。
 これを、相対種開会の法門にあてはめれば、名医は仏であり、患者とは、六道の衆生、凡夫にあたる。病は六道の生死を輪廻する衆生の迷いそのものである。
 この衆生の迷いという病を治すために、名医たる仏は迷いの病をひきおこす毒である三道そのものを逆に使って、病んでいる衆生の生命のなかで三徳の薬となるよう仕向けるのである。その際、患者自身の生命のもつ力とは、妙法の〝妙〟の力により蘇生した生命力といえるであろう。竜樹は、妙法の〝妙〟の一字を、名医の変毒為薬に譬えたのである。
 ここから、この〝妙〟の一字を、天台大師は法華玄義で「不可思議」ということであると述べ、さらに摩訶止観巻五では、一念三千を「不可思議境」と呼んでいる。
 なお、天台大師は維摩経文疏巻九で、相対種開会を不思議種、就類種開会を思議種と立て分けている。就類種開会は、通途の仏教の因果でいう、善因を積んで善果である仏果を成ずる開会であるから、凡夫の思議しやすいものである。しかし、相対種開会は、通途の因果の考えではとらえられない開会であるから〝不可思議〟といったのである。
 このように、相対種開会、即身成仏の法門は、凡夫の思議しがたき秘法であるから、つぎに「凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや」との問いを設けられ、凡夫は信ずる以外にないことを強調されている。
 ここで引用されている竜樹の大智度論の文の内容は、爾前経で永不成仏と断定されていた阿羅漢が法華経に来て作仏することができたのは、その理由をただ仏だけが知っているのである。論議とは内容を知ってできることで、知り得ないで論じてもになってしまう。戯論をしてはならないのである。ただただ自ら仏に成ってみてはじめて了解できるものであるから、未だ成仏していない者は、信ずる以外になく、戯れの論議はすべきではない、というものである。
 この文で〝信ずるしかない〟といわれたのは、別教の菩薩や円教の大菩薩、普賢、文殊等の大菩薩であり、ましてや、二乗や末代の凡夫が法華経の妙法の力を知ることができるはずがなく、ただ信ずる以外にはないと強調されているのである。
 ここから、法華経の妙法は真実の秘密の法門になるのであり、法華経以外の余経は秘密の法門とはいえないのである。そのことを、大智度論巻百で「余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり」と述べたのである。
 秘密について天台大師は法華文句巻九下で「昔説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自知するを名けて密と為す」と釈しているのを見ても、法華経こそが秘密の法門なることが明らかである。
 結局、相対種開会、即身成仏の法門は「唯仏与仏、乃能究尽」の秘密の法門であり、凡夫の思議しがたき法門なのである。
 では、そのような秘密の不可思議の法門を聞いていかなる利益があるのであろうか。
 大聖人は、その答えとして「始めて法華経を聞くなり」と述べられている。
 つまり、この答えが本抄の題号である始聞仏乗義の由来になるのであるが、相対種開会の即身成仏の法門を聞いて始めて、真の意味で法華経を聞いたことになるのである。なぜなら、法華経は一切衆生皆成仏道の経典であり、仏の出世の本懐は、一仏乗、即身成仏を説くところにあったからである。
 それゆえ、凡夫の即身成仏を可能にする相対種開会の法門を聞かない限り、その他の法華経の種々の法門を聞いてはいても、それは聞いたことにならないのである。
 法門を聞くとは、法門を信ずることと同義である。ゆえに、大聖人は、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一の「若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る况や三界をや」という文を引かれて、相対種開会の法門を信ずることの重要性を強調されているのである。
 三道即三徳と開く相対種開会の法門を信ずるならば、三界六道を輪廻する凡夫の迷いの境界である分段の生死と三界六道を離れた声聞、縁覚、菩薩の聖者の生死である変易の生死の二種の生死を越えて、即身成仏するわけであるから、ましてや三界六道の迷いなどもののかずではない、というのが、妙楽大師の文の内容である。
 最後に「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」と述べられ、富木常忍が、この相対種開会の法門を聞き、信じたということは、自身の即身成仏のみならず、父母の成仏をも可能にしたことになるのであり、これこそ第一の孝養なりと称えられている。
 なお、いまは、本文に即して相対種開会、即身成仏の法門について解説してきたが、本抄の元意を拝するには法華経寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経を信受し、勤行・唱題に励むことこそ唯一の成仏の直道であることを前提にして読んでいかねばならないことはいうまでもない。したがって本講義中、「大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の譬えにおける仏とは、末法の御本仏日蓮大聖人であり、〝妙〟の一字の力とは、三大秘法の南無妙法蓮華経の仏力・法力を指すと拝すべきである。

0985~0986    可延定業書top
0985:01~0985:15 第一章 定業を延ぶる方途を示すtop
0985
可延定業書   弘安二年    五十八歳御作   与富木常忍妻
01   夫れ病に二あり一には軽病二には重病・重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、 業
02 に二あり一には定業二には不定業、 定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す 何に況や不定業をや、 法華経第七
03 に云く 「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、 此の経文は法華経の文なり、 一代の聖教は皆如来
04 の金言・無量劫より已来不妄語の言なり、 就中此の法華経は仏の正直捨方便と申して真実が中の真実なり、多宝・
05 証明を加え諸仏・舌相を添え給ういかでか・むなしかるべき、 其の上最第一の秘事はんべり此の経文は後五百歳・
06 二千五百余年の時女人の病あらんと・とかれて候文なり、 阿闍世王は御年五十の二月十五日に大悪瘡・身に出来せ
07 り、 大医耆婆が力も及ばず 三月七日必ず死して無間大城に堕つべかりき、 五十余年が間の大楽一時に滅して一
08 生の大苦・三七日にあつまれり、 定業限りありしかども仏・法華経をかさねて演説して涅槃経となづけて大王にあ
09 たい給いしかば身の病・忽に平愈し心の重罪も一時に露と消えにき、 仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命
10 知命にありと申して 五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、 其の
11 上不軽菩薩は更増寿命ととかれて 法華経を行じて定業をのべ給いき、 彼等は皆男子なり 女人にはあらざれども
12 法華経を行じて寿をのぶ、 又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・ 夏の菊花のごとし、当時の女人の法華経を
13 行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。
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 そもそも病には二つある。一には軽病、二には重病である。重病でも善い医者にかかり、早く治療すれば命を永らえることができる。まして軽病はいうまでもない。業には二つある。一には定業、二には不定業である。定業でもよくよく懺悔すれば必ず消滅する。まして不定業はいうまでもない。法華経第七の巻薬王菩薩本事品第二十三には「この経は、全世界の人の病を治す良薬である」等と説かれている。此の経文は法華経の文である。釈尊一代に説かれた聖教は、みな如来の金言であり、無量劫からこのかた、不妄語のお言葉である。その中でも、この法華経は釈尊が「正直に方便を捨てる」といわれて説かれた経であるから、真実の中の真実の経である。多宝如来は「皆これ真実」と証明を加えられ、十方分身の諸仏は舌を梵天につけて、それにそえられている。どうして虚妄があろうか。そのうえ、最第一の深秘の法門がある。この経文は、仏の滅後、第五の五百年、二千五百余年になる時、女人に病があるであろうと説かれている文なのである。阿闍世王は、五十歳の二月十五日に大悪瘡が身体にでき、名医の耆婆の力も及ばず、三月七日に必ず死んで無間地獄に堕ちることになった。五十余年の間の大楽は一時に消えて、一生の大苦が三週間の間に集まった。定まった寿命ではあったけれども、仏が法華経を重ねて説いて涅槃経と名づけて大王に与えられたところ、身体の病気はたちまちに平愈し、心の重罪も一時に露のように消えてしまった。
 釈尊滅後一千五百余年に陳臣という人がいた。寿命は知命までといって五十年に定まっていたが、天台大師に会って十五年の命を延ばし六十五歳まで生きられた。そのうえ、不軽菩薩は「更増寿命」と説かれて法華経を修行して定業を延ばされた。
 彼等は皆男子である。女性ではないけれども、法華経を修行して寿命を延ばした。
 また、陳臣は「後五百歳」の文にもあたらない。冬に稲がみのり、夏に菊花が咲くようなものである。後五百歳に当たる今時の女性が、法華経を修行して定まった寿命を転じて延ばすことは、秋に稲が実り、冬に菊花が咲くようなもので、誰が驚くであろうか。
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14   されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず 四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身とし
15 て病を身にうけさせ給う・ 心みに法華経の信心を立てて 御らむあるべし、 
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 それゆえ、日蓮が悲母の重病を祈ったところ、現身に病を治しただけでなく、四年の寿命を延ばしたのである。今、尼御前は、女性の身として病気になられた。試みに法華経の信心を発して修行してごらんなさい。


 ①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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懺悔
 過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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一代の聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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不妄語
 偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。
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正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
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多宝・証明を加え
 多宝如来がいずこにあっても、法華経の説かれるところに出現して、真実であると証明を加えること。
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諸仏・舌相を添え給う
 舌相は仏の32相のひとつで広長舌相のこと。古代インドには真実の証明として舌を出す風習があり、長ければ長いほど真実の確かな証明とした。諸仏は広長舌相をもって法華経が真実であると証明したのである。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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大悪瘡
 「悪瘡」とは、悪性のできもの。はれもの。普賢菩薩勧発品には「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑することある者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜唇平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし」とある。正法誹謗の罪によって起こる悪重病のひとつ。
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耆婆
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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陳臣
 生没年不明。天台大師の兄・陳鍼のこと。仏祖統紀巻三十七によれば、張果仙人から一か月後に死ぬことを予言されたが、天台大師が陳臣のために小止観を述べ、陳臣はその教えどおりに修行することによって寿命を15年間延ばしたといわれる。
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知命
 『論語』為政篇の「五十而知天命」から50歳のこと。「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」とある。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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更増寿命
 法華経常不軽菩薩品第二十には、威音王仏の滅後の像法時代に出世し、四衆から悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、但行礼拝した。そして「是の比丘は終らんと欲する時に臨んで、虚空の中に於いて、具さに威音王仏の先に説きたまう所の法華経二十千万億の偈を聞いて、悉く能く受持して、即ち上の如き眼根清浄、耳・鼻・舌・身・意根清浄を得たり。是の六根清浄を得已って、更に寿命を増すこと二百万億那由他歳、広く人の為めに、是の法華経を説く」とある。
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 本抄は、日蓮大聖人が御年58歳の弘安2年(1279)に身延でしたためられ、下総国の葛城郡若宮に住む富木常忍の夫人に与えられた御手紙である。
 富木尼御前は、夫の常忍が入道すると同時に剃髪して尼になり、妙常と号したといわれる。その人となりは、温良貞淑で、よく夫を助けて、ともに信心を全うした夫人であった。
 しかし、晩年は健康がすぐれず、つねに病魔に悩まされていたようである。本抄では、病気に苦しむ尼御前に対して、定業をも転換できる仏法の偉大な力を教えられ、懇切に信心の指導をされ、激励されている。
 本抄の題号は、その内容から「依法華経可延定業」といい、これを略して「可延定業書」と称せられている。また「定業延命抄」とも呼ばれている。
 御真筆は中山本門寺に現存しているが、その末尾の年号月日は欠けている。
 しかし、本文の中に四条金吾が身延の大聖人のもとへ来た時を〝去年の十月〟と述べられ、大聖人が尼御前の病状について話したところ「明年正月二月のころをひは必ずをこるべし」と言っていたとあることから、一、二月ごろの御書と考えられる。
 ただし、系年についても、弘安2年(1279)説と文永12年(1275)説があるが、弘安2年(1279)説は、弘安2年(1279)11月の「富木殿女房尼御前御書」などにより、そのころ尼御前の病状が相当に悪化していたと思われることを根拠にしている。
 文永12年(1275)説の方は、建治2年(1276)3月27日の「富木尼御前御返事」に「なによりもをぼつかなき事は御所労なり、かまえてさもと三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ」(0975-05)と仰せであり、それが本抄で四条金吾に治療を頼むようすすめられているのと関係するのではないかと見られるからである。
 さて本抄は、初めに病気にも軽病、重病があり、業、つまりここでは寿命にも定業と不定業があることを述べられ、重病も善医にかかれば治せるし、定業も正法への信心によって転じ延ばすことができると言われている。
 これは、病気のために弱気になり、もう寿命も終わりではないかと絶望的になっている尼御前を励まし、希望を蘇らせようとのお気持ちから言われたと拝せられる。
 そして、まず文証によって法華経こそあらゆる人の病を癒やす大良薬であること、とくに女人の幸せを約束した経であることを強調されている。
 また、現証として、阿闍世王、陳臣、不軽菩薩が定業を延べた例を挙げ、男子でさえも、そうした大利益を得ているのであるから、女人が救われないわけがないと述べられて、日蓮大聖人御自身が、御母の病気を祈られて、寿命を四箇年延ばされた実証を引かれて、信心を奮い起こすよう指導されている。
 定業によって寿命が尽きていなければ、重病でも、名医による治療を受ければ、病気の好転を期待することができる。それは、その生命体に生きようとする力、病気と戦う力が残っており、ただ発動を阻害されているにすぎないからであり、医術によって、その阻害しているものを除いてやれば生命力が再びわきあがってくるということである。
 だが、病気の基盤に定業があれば、生きるための生命力そのものが衰弱し、消え去ろうとしているのであり、どのような名医も手の施しようがないのである。
 このような場合には、なによりも、生命力自体の強化が要請される。この消えようとする生命力を蘇らせるためには、正法による懺悔を通じて定業を転ずる以外に方法はない。定業を転じてはじめて、生きるための本源力が蘇ってくるのである。
 それゆえに、日蓮大聖人は、四条金吾の治療を受けるようすすめられるとともに、尼御前の信心を強く指導されているのである。
業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや
 元来、定業・不定業の分類には種々の観点があるが、主要なものを挙げれば三種になる。
   (一)には、いかなる果報を受けるかが定まった業を定業といい、それが十分に定まらない業を不定業という。これは果報の内容による分類である。
   (二)には、いつ果報を受けるかという、時が定まっているのを定業、それが定まっていないのを不定業とする分類である。
   (三)には、結果と時と両法定まっている業を定業とし、定まらない業を不定業とする。
 そこで、ではどういう場合に定業になるかについてみると、倶舎論には「重惑と浄心とに由るものと、及び是れ恒に造る所なると、功徳田に於て起すと、父母を害するとの業は定なり」とある。
 「重惑と浄心とに由るもの」とは善悪いずれにせよ、強い一念をこめた時ということである。次の「恒に造る所」とは習慣的に繰り返した場合である。「功徳田に於いて起すと、父母を害する」とは、何を対象として行為したかの場合である。
 私達の生命には、以上のように分類されるあらゆる種類の定業や不定業がはらまれているのである。
 ところで、本抄で大聖人は、定業を寿命に関する業の意味に使用されている。それは、寿命こそ、あらゆる業の中でも人間が最も深刻に考える業であり、おそらく富木尼御前も、そうした気持ちをもらしていたからであろう。
 そこで日蓮大聖人は、寿命が定業として定まっている場合にも、それを延ばしうることを明かされ、寿命を延ばす方途を教示されている。
 それが「能く能く懺悔」することである。では、懺悔するとは、どういうことであろうか。本来は、師父等の前で自らの犯した過ちを述べ許しを請うことであったが、法華経の説く懺悔は、より深い根本的なものである。すなわち、法華経の結経である普賢経には「一切の業障海は 皆な妄想従り生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如く 慧日は能く消除す」とある。
 〝実相〟とは一切法の究極にあり一切法を包含している妙法をいう。この実相を日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の御本尊として顕された。ゆえに日蓮大聖人の仏法においては、「実相を思」うとは、御本尊を信じ題目を唱えることであり、それによって、過去世からのあらゆる業障を太陽の光に照らされた霜露のように消滅させることができるのである。
 この御本尊の定業能転の功徳によって、寿命を短縮していた悪業の作用も無くなり生命力を蘇らせ、豊かな人生を享受できるのである。

0985:15~0986:17 第二章 生命の尊厳を教示すtop
15                                     しかも善医あり中務三郎左衛門尉は
0986
01 法華経の行者なり、 命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり、
02 法華経の一代の聖教に超過して いみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、 閻浮第一の太子なれども 短命なれば草
03 よりもかろし、 日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、 早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ
04 御対治あるべし、 此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり 又我が志のうすきかと・ をもう者もあ
05 り人の心しりがたき上先先に少少かかる事候、 此の人は人の申せばすこそ心へずげに思う人なり、 なかなか申す
06 はあしかりぬべし、 但なかうどもなく・ひらなさけに又心もなくうちたのませ給え、 去年の十月これに来りて候
07 いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり、 当事大事のなければ・をどろかせ給わぬにや、 明年正月二月の
08 ころをひは必ずをこるべしと申せしかば・これにも・なげき入つて候。
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 しかも善い医者がいる。四条中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者でもある。命というものは人間一身の第一の珍宝である。一日でも、寿命を延ばすならば千万両の金にもまさる。法華経が釈尊一代の聖教のなかでもぬきんでて勝れているというのは、寿量品のゆえである。一閻浮提第一の太子であっても、短命であれば草よりも軽くはかない。太陽のように明らかな智者であっても、若死すれば生きた犬にも劣る。早く志の財を積み重ねて、急ぎ急ぎ病気を対冶されるがよい。
 日蓮からも頼んであげてもよいが、人によっては、他の人が頼むことによってよい事もあり、またそれでは本人の誠意が足らないと思う者もいる。人の心は知りがたいうえ、以前に少々このようなことがあった。この人は、他の人から頼まれたのでは快く思わない人である。なまじ他の人が頼むのはよくないと思う。ただ仲介者も入れず、真心こめて一心に頼まれたほうがいい。去年の十月、身延に来られた折、あなたの病気のことを大変に心配していると話した。する「今は大したことはないので気にされていないのでしょうが、明年正月か二月のころには必ず発病するでしょう」と話されたので、日蓮も心配していた。
-----―
09   富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるになんど申して候いしなり随分にわび候いしぞ・きわめて・まけじ
10 たましの人にて 我がかたの事をば大事と申す人なり、 かへすがへす身の財をだに・ をしませ給わば此の病治が
11 たかるべし、 一日の命は三千界の財にもすぎて候なり 先ず御志をみみへさせ給うべし、法華経の第七の巻に三千
12 大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・ 法華経に供養せよと・とかれて候はこれなり、 命は三千に
13 もすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず、 而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべ
14 し、 あらをしの命や・をしの命や、御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐ
15 べし、いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。
16                                  日蓮花押
17     尼ごぜん御返事
-----―
「富木殿もこの尼御前を杖とも柱ともたのみにしているのに」などと話され、大変心配されていた。四条金吾は、極めてまけじ魂の人で、自分の味方の事を大切にする人である。くれぐれもいうが、身の財さえも惜しむならば、この病気を治すことはむずかしい。一日の命は三千世界の財よりも勝れている。まずお志を示されるがよい。法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも、手の指一つを焼いて仏・法華経に供養しなさい、と説かれているのはこのことである。命は三千世界よりも尊いものである。しかも、尼御前は、年もまだそれほどとっているわけではない。しかも法華経にあわれたのである。一日生きておられれば、それだけ功徳も積めるのである。ああ惜しい命である。惜しい命である。ご姓名ならびにお年を自分で書いてとくに遣わしなさい。日蓮から大日月天に申し上げよう。伊予殿も、非常に心配しているから、日月天に自我偈を読んで御祈念するであろう。恐恐。
                    日 蓮  花 押
   尼ごぜん御返事

中務三郎左衛門尉殿
 (1230頃~1300)。四条頼基のこと。一般に四条金吾と呼ばれる。日蓮大聖人御在世当時の信徒。鎌倉に住し、北条氏の支族・江馬氏に仕えた武士。武術・医術に通じていた。建長年間、池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。竜の口法難では殉死の覚悟で供をし、佐渡の地より人本尊開顕の書である開目抄を与えられている。なお、中務は官位。父の頼員が中務省の少丞に任じられていたところから、中務と称されていた。左衛門尉は官職で、左衛門府の尉官という意味である。また左衛門尉を唐風に呼ぶと左金吾校尉となるため、略して四条金吾と通称された。
―――
寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
閻浮第一
 一閻浮提第一のこと。全世界第一7を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
三千界
 三千大千世界のこと。三千世界ともいう。古代インド人の描いた宇宙。須弥山を中心として、そのまわりに四大洲があり、さらにそのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界の単位で小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
―――
大日月天
 日天と月天のこと。太陽と月を神格化した呼び方。
―――
いよどの
 (1252~1317)。伊予阿闍梨日頂のこと。六老僧の一人。駿河国富士郡重須郷(静岡県富士宮市重須)の生まれ。幼くして父を失い母とともに鎌倉に住したが、母が富木常忍と再縁したのでその養子となったといわれる。文永4年(1267)大聖人に帰依。その後、真間弘法寺に住して教化弘通に励んだ。大聖人滅後は墓所輪番にも応ぜず、大聖人の正意に反する行動をとったが、乾元元年(1302)真間弘法寺を日揚に付して日興上人に帰依した。文保元年(1317)重須で死去した。
―――
自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
―――――――――
 本章では、同じ大聖人門下の同志であり、医術にも勝れていた四条金吾の治療を受けるよう勧められている。それは、本抄冒頭の「重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す」の御文に対応しているといえよう。
 罪障を消滅し、定業を転じて生命の本源力を湧現するには、あくまで御本尊への真剣な信心がなければならないが、生命のもつ自然治癒力が旺盛になっても、その病気克服への機能が阻害されていたのでは、重病の好転は望みえないからである。
 名医は、生命の状態を正確に診断し、自然治癒力の発現を妨げ弱めている部分や機能を調整して、自然治癒力が十分に働くように援助するのである。
 そして、生命はなにものにもかえられない第一の宝であるから、一日も長く生きて功徳を積むようにと、慈悲あふれる指導をされている。
 それとともに、四条金吾に治療を依頼するに際しての心構えを、細々と教えられている。この個所は種々解釈の分かれるところであるが、四条金吾の性格について述べられ、それをよくわきまえ、人を介するより直接、真心こめて頼んだほうが、親身になって面倒をみてくれるであろうと言われているものと拝される。四条金吾は剛毅、直情径行の人であり、権威等で動く人ではない。それよりも真心を尽くして直接頼ったほうが、自分の身内のような心を抱いて接する人なのである。このように、機を知ることの重要性は人と接する場合すべてに通ずるといえよう。
 この段は、指導にあたってはつねに、信心の根本を教えて発心を促すとともに、具体的に知恵を発揮していくべきことを示されていると拝したい。さらに、四条金吾が登山してきた時に尼御前の病気について、大聖人からも話したこと、それを聞いて、四条金吾も大変心配していたことを述べられ、四条金吾にみてもらって、早く病気を克服し、一日でも長生きするよう励まされている。
命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし
 すべての人間にとって、最も尊い宝は自己自身の生命である。他のいかなる財宝も、生命があってこそ、それを楽しみ生かすことができるのであり、もし生命を失ってしまえば、どのような財宝も何の意味もなくなってしまうであろう。
 「白米一俵御書」には「三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(1596-06)と記され、本抄にも「命は三千にもすぎて候」と述べられている。
 全宇宙を満たした宝よりも生命が尊いということは、何ものともかえることのできない絶対的な価値をもっているのが生命であるということである。それは、あらゆる生命の奥底に仏性という尊極の当体を秘めているからである。
 どのように煩悩に汚れ、悪業に苦しむ生命であっても、その奥底には、英知と慈悲に輝く仏性が秘められていることを明かした経典が、法華経如来寿量品である。
 すなわち、寿量品で釈尊は「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と、久遠五百塵点劫の昔に成道したことを明かし、さらに「是れ自従り来、我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」と、それ以来、この娑婆世界に常住してきたことを明かした。
 この寿量品の説法は、釈尊という仏の生命が本有常住であるということを通じて、一切衆生の生命に内在する仏性の常住を示したのである。
 末法の御本仏日蓮大聖人は、寿量品の文底に秘沈された本有常住の妙法を三大秘法の御本尊として御図顕され、一切衆生が己心の中の常住の仏性を湧現することができるようにしてくださったのである。
 ゆえに、本文に「而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし」と仰せられ、御本尊を受持し題目を唱える一日一日であってこそ、真実の意味で尊い一日一日の生命となることを知らねばならない。

0985~0986    可延定業書2007:10月号大白蓮華より。先生の講義top

健康長寿 「生きて生きて生き抜く」ための信心
 「生きる」こと以上の宝はありません。
 「生きて生き抜く」ことが、仏法の目的です。「健康長寿」のための信心です。
 今回は「可延定業書」を拝読します。長く病と戦ってきた富木尼御前に対し、妙法への強盛なる信心で、必ず宿命転換できることを教え、励まされた御手紙です。
 私にとって「可延定業書」は恩師との思い出多き御書でもあります。
 戸田先生が一般講義で、本抄を講義されたのは、今からちょうど50年前(1957)の9月27日、私も会場の一隅で、拝聴していました。あの歴史的な「原水爆禁止宣言」が発表された同じ月のことです。
 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」
 誰もが生きる権利をもっている。まさに、この宣言をされた同じ月に、恩師は、生命の尊厳性を説き明かした「可延定業書」を講義なされたのです。
 恩師の逝去後、私は、先生の講義や講演を、後世に厳然と残していくためにレコード化していきました。恩師の「魂の声」の集成 その一枚目として完成したのも、実はこの「可延定業書」だったのです。
 御文を拝して先生は言われました。
 「病気で悩むとうことは、その人の罪業を消す手段なのだ! 長く生きよ、御本尊を信じて! 短命であってはならぬ!」
 その気迫みなぎる声が、今も胸の奥深く、響きわたっていきます。
 先生のご体調もあり、一時、中断していた戸田大学の「朝の授業」を再開しようと言ってくださったのも、このころです。
 「人間をつくらねばならぬ。広宣流布を成し遂げる本当の後継者を、命をかけても、それをなさねばならぬのだ」これが先生の、深く峻厳な覚悟であられた。
 「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」 「一日」また「一日」と、まさに御自身の命を削られての訓練でした。私は感動に打ち震えながら、一心不乱に学び、戦いました。私の、30歳を目前とする秋でした。
 そして今、私は、あの日の戸田先生と同じ思いで、「一日」「一日」を出発しています。
 二度と来ない、今日という「宝の一日」をどう行ききるか、かけがえのない「わが命」を何に使うのか 今回は、この「宿命転換の要諦」「健康長寿の信心」を、「可延定業書」を拝して学んでいきましょう。
14   されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず 四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身とし
15 て病を身にうけさせ給う・ 心みに法華経の信心を立てて 御らむあるべし、 しかも善医あり中務三郎左衛門尉は
0986
01 法華経の行者なり、 命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり、
02 法華経の一代の聖教に超過して いみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、 閻浮第一の太子なれども 短命なれば草
03 よりもかろし、 日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、 早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ
04 御対治あるべし、
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 それゆえ、日蓮が悲母の重病を祈ったところ、現身に病を治しただけでなく、四年の寿命を延ばしたのである。今、尼御前は、女性の身として病気になられた。試みに法華経の信心を発して修行してごらんなさい。
 しかも、四条金吾という善医がいる。中務三郎左衛門尉は法華経の行者でもある。命というものは人間第一の珍宝である。一日でも寿命を延ばすならば千万両の金にもまさる。法華経が釈尊一代の聖教のなかでも、ぬきんでて勝れているというのは寿量品のゆえである。一閻浮提第一の太子であっても、短命であれば草よりも軽くはかない。太陽のように明らかな 智者であっても、若死すれば生きた犬にも劣る。早く心ざしの財を積み重ねて急ぎ急ぎ病気を対冶されるがよい。

病身の富木尼御前を励ます
 当時富木尼御前は、長く病気を患っていました。子供を抱えたまま富木常忍と再婚したことで、目に見えない心労が積み重なっていたのかもしれません。病が長期化し、ともすると、この病はもう治らないのではないか、などと弱気になっていた面もあるようです。
 しかし、大聖人は、本抄で、どんなことがあっても、寿命を延ばしていけるのが仏法の力であると激励されています。
 本抄の題号に「定業」とあります。「業」とは、身や心や口による行いのことです。それが原因となり、未来にさまざまな苦楽の報いが、結果として現われます。
 その報いの内容や現れる時期が定まっている業を「定業」、定まっていない業を「不定業」といいます。本抄では、定業を特に「寿命」の意味で用いられていると拝することができます。
 本抄の前段で大聖人は、どんな重病も善医にかかれば治せるように、いかなる定業も、法華経の大良薬によって転じ、寿命を延ばすことができると強調されています。
 その先例をいくつか挙げられながら、末法に生きる女性が、法華経を行じて定業を転うることは、当然のことなのです、と励まされました。
 そして今回の拝読範囲の冒頭に、更に例として挙げられたのは、大聖人御自身が病気平癒を祈られた、お母さまのことです。法華経に説かれる「更賜寿命」の偉大な実証です。
 大聖人は、叫ばれるように、また、命を揺さぶられるように、富木尼御前に呼びかけていかれます。
 私の母も、妙法の力で病を治し、4年の寿命を延ばしました。あなたも同じ女性の身として、今こそ法華経への信心に立ち上がりなさい。名医である法華経の行者の四条金吾もついております。「一日生きる」ことは無量の財宝以上に価値があるのです。釈尊の教えの中で最も法華経が尊いのは、仏の生命の永遠を説いた寿量品があるからです。ゆえに短命であってはなりません。早く信心の志を重ねて、一日も早く病を治すのです。
 生きるのだ! 生きるのだ! 断じて生き抜くのだ! と、あたかも苦悩の泥沼から尼御前をすくいあげてくださるような、烈々たる大聖人の獅子吼であられます。
永遠の生命を明かした寿量品
 生命ほど尊いものではありません。
 大聖人は「命と申す物は一身第一の珍宝なり」と仰せです。
 本抄の最後の方にも「命は三千にもすぎて候」とあります。
 ここで大聖人が生命の尊さを強調されているのは、「一日でも長く、生き抜いていきなさい」と、尼御前の“生きる意思”を呼び起されるためと拝することができます。
 生命はそれ自体、限りなく尊い。一日でも生きるならば、その一日というのは、譬えて言えば「千万両の金」「三千界の財」以上に、尊い価値がある。だからこそ、一日でも長く生き抜きなさいと励まされています。
 釈尊の教えの真髄である法華経の如来寿量品は、まさに、生命の無限の尊さを説き明かしております。この生命の尊厳を知ることこそが、仏法の真髄なのです。ゆえに、法華経を信ずる人は、尊厳なる生命を一日でも長く生き抜いていくことです。
 如来寿量とは「如来の寿命を量る」という意味です。一切経の中で寿量品だけが釈尊の永遠の生命を説き明かしています。
 しかし、私たちを離れて釈尊一人だけが「永遠の生命に」に生きていると説いているのではありません。
 寿量品で説く「永遠の生命」は、私たちの生命でもあるのです。「永遠の生命」「大いなる生命」を、私たちは皆、現実の我が身のうえに現すことができる。そのことを、久遠の如来である釈尊の姿で示したのが寿量品です。
 そして、万人が事実として、永遠にして尊極なる生命を我が身に実現していけるように、大聖人は南無妙法蓮華経を顕してくださったのです。
 私たちの今生は、仏法で説く永遠の生命を覚知するための一生です。そして、永遠の生命に生き抜き、自他ともの永遠の幸福境涯を築き上げていくための一生です。
 戸田先生は、よく病気で悩む方に、こう答えられました。
 「生死を問わず、永遠の生命の姿において、幸せになるために信仰させたのであります!」「病気は必ず治る」それが戸田先生の大確信でした。自行化他の信心に励めば、必ず、永遠の生命に連なる現証が現れる。なんらかの形で、生命が病魔を打ち破る実証がある。したがって、病気で心が揺れ動き、信心が決定しない人がいれば、戸田先生はその姿勢を厳しく正されました。
 生命には「生き抜く力」があります。「治す力」がある。それを引き出す最高の「大良薬」が妙法です。治すのは「自分自身」であり、治すと決めるのは自分の「信心」です。本抄では「心ざしの財」と仰せです。
 病気を宿命転換の好機と定める。その強き一念が、一切の病魔を破り、幸福への軌道を広げます。病気を契機に燃え上がる信心の大確信は、あたかも大気園を突破する宇宙船のごとく、今生だけでなく、三世の生命を旅する最強のエンジンとなって、永遠の幸福を自在に満喫しゆくことができるのです。
ためらわずに、早めの治療を!
 「いそぎいそぎ御対冶あるべし」とあります。一日の生命の尊さがわかれば、治療を躊躇する理由はありません。治療を受けることをためらったために後悔することがあっては絶対になりません。「早く治療しなさい」と、大聖人が仰せであられる。仏法は、どこまでも道理なのです。
 仏典には「善をなすのを急げ」「善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ」とあります。
 「一日でも早く健康に!」そして「宿命転換のチャンスを逃がすな!」との深い御慈愛が、胸に迫ってなりません。
04          此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり 又我が志のうすきかと・ をもう者もあ
05 り人の心しりがたき上先先に少少かかる事候、 此の人は人の申せばすこそ心へずげに思う人なり、 なかなか申す
06 はあしかりぬべし、 但なかうどもなく・ひらなさけに又心もなくうちたのませ給え、 去年の十月これに来りて候
07 いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり、 当事大事のなければ・をどろかせ給わぬにや、 明年正月二月の
08 ころをひは必ずをこるべしと申せしかば・これにも・なげき入つて候。
-----―
 日蓮から頼んであげてもよいが、人によっては、他の人が頼むことによってよい事もあり、またそれでは、本人の誠意が足りないと思う者もいる。人の心は知りがたいうえ、以前に少々このようなことがあった。四条金吾は他の人から頼まれるのを快く思わない人である。なまじ他の人が頼むのはよくないと思う。ただ仲介者も入れず、真心こめて一心に頼まれたほうがいい。去年の十月、四条金吾が身延にこられた折、あなたの病気のことを大変心配していると話した。四条金吾が「今は大したことはないので気にされないでしょうが、明年の正月か二月のころには必ず発病するでしょう」と話されたので、日蓮も心配していた。
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09   富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるになんど申して候いしなり随分にわび候いしぞ・きわめて・まけじ
10 たましの人にて 我がかたの事をば大事と申す人なり、
-----―
 「富木殿もこの尼御前を杖とも柱ともたのみにしているのに」などと話され、大変心配されていた。四条金吾は、極めてまけじ魂の人で、自分の味方の事を大切にする人である。

どこまでも弟子を思いやる師匠
  医術に心得のある四条金吾に治療を受けるよう勧められ、その心構えと注意を具体的にアドバイスされた御文です。
 四条金吾の人柄を的確にとらえられ、だれかに仲介してもらうのではなく、富木尼御前が直接、四条金吾に、誠意を尽くして頼むよう助言されています。
 もちろん、大聖人が金吾に頼めば、金吾も断るはずはなかったでしょう。また尼御前の方に、こうしたやりとりを苦手に思う面があったのかもしれません。
 すべてをご存じのうえで、大聖人は、二人の門下の立場を尊重され、同志と同志が互いに気持ちよく、真心で支え合っていく和合の在り方を教えられたと拝されます。
 それにしても、尼御前が実際に治療に踏み出せるよう「これほどまでに」と思われるほど、こまやかな配慮を、大聖人はなされています。
 そのお振る舞いから、私たちはあらためて仏法指導者の模範の姿を学びたい。
 「一人の人」を、どこまでも大切に! その具体的な行動なくして、万人の幸福も、世界の平和もありえないからです。
「どんなことでもしてげたい」
 「一人の人」のことを、どこまで祈り、励ましてけるか。「一人の青年」の成長のために、どこまで心を砕き、道を開いていけるか。だれが見ていようがいまいが、その戦いの中にしか、仏法はないのです。
 戸田先生は「人々がどう自立し、生命力を強く生ききっていけるか。宗教は、その点に鋭く目を向けねばならない」と指導された。
 戸田先生の振る舞いそのものが、この言葉の通りでした。
 入信間もない友が、悩みながらも、広宣流布の人材として活躍できるようになるまで、親も及ばぬ真剣な薫陶を重ねていかれた。
 体の不調で相談に来たある壮年には「それはビタミンの欠乏だ。そのままにしてはいけない。私の家のそばにいい病院があるから、すぐ注射しなさい。私も一緒に行くから」といって、即座に手を打ってくださったことがあるます。
 また、ある学校の先生が信心しているために不当な弾圧を受け、転任されそうになったと聞くや、先生は解決のために、わざわざ出向いていかれた。しかも、寒い冬の朝のことです。「私は弟子をなかせたくはないよ。私にできることは、どんなことでもしてあげたい」と、語られる先生でした。
 「これにも・なげき入って候」大聖人が万感を込められた温かい一言に、尼御前はどれほど感激し、奮い立ったことでしょう。
 この大聖人のお心を受け継いで、三代の師弟が全身全霊で築いてきた、広宣流布の麗しき同志の世界が、創価学会です。師の大恩に報いんとする弟子のたたかいによって、この「人類の宝の連帯」は、世界へ未来へ、さらに大きく広がっていくにちがいありません。
10                           かへすがへす身の財をだに・ をしませ給わば此の病治が
11 たかるべし、 一日の命は三千界の財にもすぎて候なり 先ず御志をみみへさせ給うべし、法華経の第七の巻に三千
12 大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・ 法華経に供養せよと・とかれて候はこれなり、 命は三千に
13 もすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず、 而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべ
14 し、 あらをしの命や・をしの命や、御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐ
15 べし、いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、
-----―
 くれぐれもいうが、身の財さえも惜しむならば、この病気を治すことはむずかしい。一日の命は三千世界の財よりも勝れている。まずお志を示されるがよい。法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも、手の指一つを焼いて仏・法華経に供養しなさい、と説かれているのはこのことである。命は三千世界よりも尊いものである。しかも、尼御前は年もまだそれほどとっているわけではない、しかも法華経にあわれたのである。一日生きておられれば、それだけ功徳も積めるのである。ああ惜しい命である。惜しい命である。ご姓名ならびにお年を自分で書いてとくに遣わしなさい。日蓮から大日月天に申し上げよう。伊予殿も、非常に心配しているから、日月天に自我偈を読んで御祈念するであろう。

「一日生きる」ことの尊さ
 「一日生きる」ことは、それ自体、何ものにも代え難い「光」であり、「価値」であり、「生命の歓喜の讃歌」です。それを奪うことは、宇宙の根本の法則に背く重罪です。
 戸田先生は、「どんな理由があっても、絶対に人を殺してはならない」と厳しく戒めておられました。
 病気に対する姿勢として、大事なことは「おそれず」です。
 病気になること自体は、決して敗北ではありません。仏も「少病少悩」という通り、病気との戦いがあります。大切なことは、病気と戦う以前に、「心の次元」で敗れてはならない、という点です。病気に立ち向かっていく「戦う心」の源泉が信心です。ですから、先に拝したように、大聖人は本抄で、まず「心ざしの財」を教えられているのです。
 そのうえで、具体的に治療に励むのは当然です。「信心しているのだから何とかんるだろう」とか、「たいしたことない」と考えるのは、誤った信心の捉え方であり、自身の体への軽視です「いそぎいそぎ御対治」する行動が大事です。ゆえに、大聖人は「身の財」すなわち行動することを惜しんではいけないと厳しく戒められています。
 「病魔」「死魔」を打ち破る根本の力が、妙法です「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」(1124-07)です。大事なのは、「戦う心」と「最高の治療」、そして「生命力」です。なかんずく、心を強めるのも、最高の治療を生かしていくのも、生命力をわきたたせるのも、唱題が根幹です。
 本抄でも、大聖人は、宇宙よりも尊いわが生命を使って、法華経を讃えるのだ。供養するのだと仰せです。
 本抄には「手の指をもって供養する」との趣旨の経文を挙げられていますが、末法の仏道修行にあっては、唱題する音声、妙法を弘通する真剣で誠実な「声」と「行動」こそが、妙法に対する最大の“身の供養”となります。
 ゆえに大聖人は「一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命や・をしの命や」と仰せなのです。
 題目を唱え、広宣流布に邁進する「一日」が、どれほど尊いか。
 師と心をあわせ、創価学会とともに、妙法の永遠の楽土を築きゆく「一日」がどれほど素晴らしいか。
 病との戦いは、その栄えある真実を如実に見つめる機縁ともなる。「病によりて道心はをこり候なり」(1480-01)です。信心している人が病気になるのは必ず深い意味がある。永遠の生命を悟る一つの回路であるともいえる。戸田先生も、よく、「大病を克服した人は深い人生の味を知っている」と言われた。また、そう決めきって、戦った人が「健康長寿の信心」の勝利者です。
 あるドクター部の方が語っていました。唱題根本に病気と戦っている人は、必ずと言っていいほど感謝がり笑顔がある。その姿は、間違いなく病気を克服している勝利の姿である、と。
 もちろん、病状は千差万別です。さまざまな経過もある。寝たきりの場合もあるでしょう。しかし唱題根本に戦っている人、あるいは戦ってきた人は、生命それ自体が輝いている。妙法に包まれるがゆえに、何の心配もないのです。三世永遠の福徳が約束されていることは断じて間違いありません。
21世紀を「生命の世紀」に!
 さらに大聖人は、富木尼御前が自らの名前と年齢を書いたものを掲げて、諸天に平癒をお祈りしますと仰せです。
 富木殿に宛てた別の御書にも、こう記されている。
 「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば 昼夜に天に申し候なり」(0978-06)尼御前のご病気のことは、私の身の上のことと思っておりますので、昼も夜も、尼御前の健康を諸天に祈っております。  と。
 大聖人は、門下の苦悩を「我が身の上のこと」として祈っておられました。
 富木殿の他の御書に、「尼御前御寿命長遠の由天に申し候ぞ」(0987-01)ともあります。
 常に門下の健康長寿を祈り抜く。これが師の大慈大悲であられる。そして、尼御前もまた、その師のあまりにも深い真心に何としても応えんと、御指導の通りに、勇気ある信心を貫いた。
 その師弟の共戦で、尼御前は、20数年もの寿命を延ばしています。まさに「定業」を見事に転換した「健康長寿」の勝利の姿でありました。
 大聖人の御入滅後も、尼御前は、後継であられる日興上人のもとへ馳せ参じ、その御指導を仰いで、生涯を全うしたと伝えられています。
 私も、この大聖人のお心を拝し、病気の同志、また、ご家族のことをうかがった際には、真剣に平癒の御祈念をさせていただいています。
 そして、わが尊き全同志のご健康とご長寿、無事故とご繁栄を、妻とともに、強く深く祈り続けております。
 21世紀を「生命の世紀」に!
 そして「健康の世紀」「長寿の世紀」に!
 その模範と輝く創価の「宝の中の宝」の同志が、かけがえのない「一日」「一日」を見事に生き抜き、勝ち抜いて、無量無辺の価値を創造していかれますように!
 それが、私と妻の毎日の、そして生涯、永遠にわたる、全生命を込めての祈りなのです。

0987~0987    富城殿御返事top
0987
富城殿御返事
01   尼御前御寿命長遠の由天に申し候ぞ其の故御物語り候へ。                       ・
02   不断法華経来年三月の料の分銭三貫文米二斗送り給び畢んぬ。
03       十一月二十五日                    日蓮在御判
04     富城殿御返事
-----―
 富木尼御前の御寿命が長遠であるようにと諸天に申している。そのことを尼御前にお話しください。
 断えることなき法華経への御供養、来年3月の分として銭3貫文と米二斗をお送りいただき、たしかに受けとりました。
       十一月二十五日                    日蓮在御判
     富城殿御返事

尼御前
 ①執権や高官の未亡人。②在家の身で仏門に入った女性。
―――
銭三貫文
 貫は銭を数える単位。一貫は、銭を一つなぎにしたものの意で、時代によって異なるが、普通、一文銭千枚のことをいったことから、3000文のこと。
―――
米二斗
 斗は穀物を計る単位で1.2㍑。重量にすると二斗は30㌕。
――――――――― 本抄は富木常忍が銭3貫文、米2斗の御供養をしたのに対する返礼の御手紙である。御真筆は存している。執筆年月については「11月25日」とあるだけで年次の記載はないが富木殿女房尼御前御書と同日の書とされており、同抄に越後房、下野房を伊予房につけて富木常忍のもとへやったとあるところから、熱原法難直後の弘安2年(1279)とされており、そこで本抄も弘安2年(1279)11月25日の書と考えるのが妥当のように思われる。なお両抄とも弘安3年(1280)とする説もあるが、富木殿御返事が弘安3年(1280)11月29日の書とされており、日時が接近しすぎて不自然であろう。
 「富城殿」と宛名されているが、本貫の地が因幡国の富城郷だったからである。他に音をとって「富木」「土木」とされているものが多いが、出身地名から考えれば「富城」が正式と考えられる。
 本文に入って「尼御前」とあるのは、追伸である。富木常忍の夫人については、諸御抄からうかがわれるように、病弱だったようで、文永12年(1275)の書とされる可延定業書あたりの御消息から夫人の病気についての記述がみられ、弘安2・3年(1279・80)には再発もしくは病状の悪化があったようである。ことに弘安3年(1280)は、急迫した状態であったように拝せられる。
 そこで富木常忍への返礼の書のなかにも、尼御前の息災延命を祈念しているむね書き添えられたのであろう。また、大聖人の御心を常忍に知らせることによって、夫婦団結して病魔を乗り越えるべきことを教えられているのであろうか。「其の故御物語り候へ」とは、富木常忍から尼御前に、大聖人の御心、仏法の偉大さを話すようにとのことで、尼御前への激励であるとともに、二人が信心をみがきあいながら進んでいくことを期待されているのであろう。
 「不断」とあるのは富木常忍がつねに供養を怠らず、地道に信心を持続していることをいわれているのではなかろうか。「来年3月の料の分」として銭3貫文、米2斗を受け取ったといわれているのは、斎料であろう。来年の3月のを11月とはずいぶん早い感じもするが、在家のあいだで当番を決め、富木常忍の御供養が3月分にあたったのかもしれない。また、常忍の母の命日が2月末であるところから追善供養の意義がこめられていたとも考えられる。いずれにしても、富木常忍が欠かさず御供養し、大聖人の教団を支えていたようすが、この短いお手紙にも明確に拝せられる。

0987~0989    四菩薩造立抄top
0987:01~0987:04 第一章 本門の本尊御建立の時を尋ねるtop
四菩薩造立抄    弘安二年五月    五十八歳御作
01   白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、 今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日
02 期してか対面を遂げ心中の朦朧を申し披や。
-----―
 白小袖一枚、薄墨染の衣一枚、同色の袈裟一帖・銭一貫文を頂戴した。今に始まったことではない御志、言葉をもって述べがたい。いずれの日か対面して日蓮の心中の朦朧を申しのべたいものである。
-----―
03   一御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り 脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候い
04 き、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云、
-----―
 一、御状に、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと、かねて聴聞いたしている。では聴聞のとおりならそれはいつの時か、といわれている。  一、御状に、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと、かねて聴聞いたしている。では聴聞のとおりならそれはいつの時か、といわれている。 

白小袖
 小さい袖の衣服。袖が筒状であったので、小袖といい、もとは下着であったが、のちに表着として用いられた。
―――
薄墨染衣
 薄墨色に染めた衣。薄墨色は淡い墨色のこと。五正色(青・赤・白・黒・黄)と、五間色(緋・紅・紫・緑・硫黄)を離れた壊色(青、黒、木蘭の三色系統の濁った色)で、木蘭色ともいう。古来インドでは白色が尊ばれたが、僧は在家の白色や正色、単純色を嫌い糞掃衣の色や泥色を衣に使用した。この泥色が日本に入ってきて薄墨色となった。大聖人御在世当時は天台宗の僧がこの薄墨色の衣を使用していた。
―――
袈裟
 梵語カシャーヤ(Kaṣāya)の音写。加沙野・迦沙とも書く。濁・不正色・壊色の意。法衣の一種。縫い合わせた布の数から大衣、上衣、中衣に大別され、総称して三衣という。袈裟は本来、色の名称で、その色については、金属のさび色・泥色に樹皮や果汁の色の三種壊色とする説、あるいはたんに濁った赤色とする説などがあるが、いずれも五正色、五間色を避けた純粋でない色を用いた。古来インドでは僧侶の着る法衣を三種とし俗人から区別するため、世間で尊ばれた白色を避けて濁色に染めたことから、濁色を意味する袈裟という言葉がそのまま法衣の意に用いられるようになった。
―――
鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
朦朧
 おぼろなさま。物事のはっきりしないさま。ここでは心につもるもろもろのこと、というほどの意か。
―――
御状
 文章・手紙。
―――
本門久成の教主釈尊
 法華経本門寿量品第16で説かれた久遠実成の教主釈尊。
―――
脇士
 つねに仏の両脇に立ち随って仏の化導を助ける菩薩のこと。夾侍、挾侍、脇、脇立ともいう。釈尊には文殊と普賢、阿弥陀仏には観音と勢至、薬師如来には日光と月光の各菩薩が脇士になっている。
―――
久成地涌の四菩薩
 久遠実成の教主釈尊の化導を助ける四菩薩のこと。上行・無辺行・浄行・安立行。
―――――――――
 本抄は、弘安2年(1279)5月17日、日蓮大聖人が58歳の御時、身延から下総(千葉県)の富木常忍に送られた御返事である。御真筆は古来、所在不明である。
 内容は三点に分けられる。第一は、法華経本門久成の教主釈尊と四菩薩が造立される時期について、富木常忍が質問したのに答えて、末法が四菩薩造立の時であり、顕す人が必ず出現するとし、仏法の上からみれば末法の法華経の行者である大聖人は世界一の富める者であると宣せられている。第二は、末法は一向に法華経本門の時だからといって、迹門を捨てよとは教えていない旨を述べられ、そういう邪説を立てる者は日蓮の弟子ではないと厳しく指導されている。最後に、三位房日行の死去の報にふれられている。
薄墨染衣一・同色の袈裟一帖
 これは、富木常忍が奉った御供養の衣と袈裟であるが、大聖人が法衣として御着用あそばされていた衣と袈裟は、薄墨染めの色であったことが、ここから明らかである。
 僧侶が着用する衣服を「法衣」といい、三種あるところから「三衣」という。古来、インドでは原則として法衣のみを着用し、これを〝袈裟〟と呼んでいた。ところが、中国や日本では気候風土が寒冷なため、袈裟の下にさらに衣服を着るようになり、この下衣を「ころも」、上にかける法位のことを「袈裟」と称して区別するようになったのである。
 三衣について、四分律資持記の巻下には、次の三種を挙げている。一に「僧伽梨」、これは大衣と訳し、王宮などに出入りする時や、説法等の儀式に用いた礼服、二に「鬱多羅僧」、これは上衣と訳し、修行用の平服、三に「安陀会 」、これは中衣と訳し、日常の雑務服である。
 また分別功徳論巻四では、夏、冬、春秋の三時のために三衣があり、季節によって着分けるとされている。
 さて、法衣の色に関して、第二祖日興上人が万年救護、令法久住のために定められた二十六箇条の遺誡置文の中には「一、衣の墨・黒くすべからざる事」(1618-12)と。
 なぜ、薄墨染めの衣を着用するのか、すなわち薄墨は泥色で五正色(青・赤・白・黒・黄)と、五間色(緋・紅・紫・緑・硫黄)を離れた壊色である。この薄墨染めの衣を「糞掃衣」ともいう。これは、糞掃除をする布切れのような汚い、棄てられた布を集めて洗濯し、縫い合わせて作った衣のことである。
本門久成の教主釈尊を造り奉り……
 まず「本門久成の教主釈尊と久遠地涌の四菩薩」の造立時期について、大聖人に対し奉った富木常忍の質問が示されている。すなわち、末法には本門の教主と本化の四菩薩が造立されるべきであることを、かねてから聴聞しているが、その御教示どおりであるならば、造立の時期はいつかという質問である。
 富木常忍がすでに賜わっている「観心本尊抄」に、末法所願の本尊の相貌を御教示されて、次のように述べられている。
 「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩(中略)正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(0247-16)。
 この本尊抄の御文は、釈迦多宝の二仏が並座し、本化等が列座している寿量品の在世脱益の儀式を借りて、末法下種の御本尊の相貌を顕されたのである。
 「本尊抄」に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と仰せのように、在世は文上脱益の一品二半であり、末法は文底下種の南無妙法蓮華経である。
 したがって先の本尊抄に仰せの本尊とは事の一念三千の本尊であり、十界具足の大曼荼羅である。人法一箇のゆえに法本尊の全体をもって即寿量品の仏といい、また仏像ともいわれたのである。本門寿量品の仏とは、文底下種の本仏・久遠元初の自受用報身のことである。
 本尊抄にはさらに「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず」(0254-08)と仰せである。「此の時」とは末法・闘諍堅固の時を指し、「地涌千界出現」とは御本仏大聖人の出現である。「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」とは前引の御文に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」(0247-16)とある妙法五字の法本尊である。
 このように「観心本尊抄」を賜わり、その御文を拝していたにもかかわらず、その御真意を富木常忍は知りえなかったのである。ゆえに「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべし」といわれる本尊はいつ造立されるのでしょうかと御質問したのである。
 弘安2(1279)の時期には、すでに大聖人は御本尊の御図顕をなされている。文永10年(1273)8月の経王殿御返事には、四条金吾に御本尊を授与され「其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり」(1124-03)と前代未聞・未顕の御本尊であることを御教示されているのである。
 そのために古来から、富木常忍が、大聖人の甚深の御法門をどの程度まで理解できていたのか、はなはだ疑問視され、恐らく十分には理解できていなかったのではないか、といわれているのである。
 常忍は、本尊といえば木像か何かを想像していたようである。佐渡期以前ではあるが、大黒供養とか、釈尊の一体仏の木像を造立したことがある。大聖人は一機一縁の化導の上から、一往容認されているが、文底下種仏法の正義ではないことは勿論である。
 したがって、日興上人は、大聖人の仏法における本尊について、「富士一跡門徒存知」の事に「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606-02)と御指南されているのである。
 この「富士一跡門徒存知」の事にみられるように、日興上人以外の五老僧も本尊について誤りに陥っていたのである。この事実からも、富木常忍が大聖人の正意を知らなかったであろうことは容易に察せられる。

0987:04~0988:01 第二章 前代未聞・閻浮提未曾有なるを明かすtop
04                    夫れ仏・世を去らせ給いて二千余年に成りぬ、其の間・月氏・漢土・日本
05 国・一閻浮提の内に仏法の流布する事・僧は稲麻のごとく法は竹葦の如し、然るに・いまだ本門の教主釈尊並に本化
06 の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し三朝の間に未だ聞かず、 日本国に数万の寺寺を建立せし人人も本門の教主・
07 脇士を造るべき事を知らず上宮太子・ 仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども 阿弥陀仏を本尊として脇
08 士には観音等・四天王を造り副えたり、 伝教大師・延暦寺を立て給うに中堂には東方の鵞王の相貌を造りて本尊と
0988
01 して久成の教主・脇士をば建立し給はず、 南京七大寺の中にも此の事を未だ聞かず田舎の寺寺以て爾なり、
-----―
 仏が世を去られて二千余年になる。その間にインド、中国、日本、さらに一閻浮提の内に仏法が広く流布し、僧は稲や麻のように、法門は竹や葦のように繁多である。しかし、いまだに本門の教主釈尊と本化の菩薩を造って本尊とした寺は一か処もない。インド、中国、日本の三国でいまだに聞いたことがない。日本国に数万の寺寺を建立した人々も、本門の教主と脇士を造るべきことを知らない。上宮太子は日本における仏法最初の寺院と号して四天王寺を造立したけれども、阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等を立て、四天王を造り副 えた。伝教大師は延暦寺を建てられたが、中堂には東方の鵞王の相貌を造って本尊とされ、久成実成の教主と脇士は建立されなかった。奈良の七大寺の中にもこの事はいまだ聞いたことがない。田舎の寺々もまた同様である。

月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼称。紀元前三世紀ごろから中央アジアに月氏という民族が活躍し、紀元前後からインドの一部を領していた。この地を経て中国へ仏教が伝わったので、中国では、月氏をインドそのものとみていたようである。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jambū-dvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
稲麻
 稲や麻のことでたくさん集まっているさまをいう。
―――
竹葦
 竹や葦のように群生するさまを転じて多くの者が入り乱れるさまをいう。
―――
本化の菩薩
 迹化の菩薩に対する語。法華経本門にいたって出現した菩薩で、釈尊の久遠の弟子である地涌の菩薩をいう。一重立ち入って言えば本化の本とは久遠元初の独一本門のことであり、久遠元初以来の日蓮大聖人の本眷属をいう。
―――
三朝
 インド・中国・日本のこと。
―――
上宮太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
四天王寺
 天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
―――
阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―――
四天王
 四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
延暦寺
 滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(0767~0822)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。寺紋は天台宗菊輪宝。
―――
中堂
 苦楽の二受や有無の二辺、断常の二見などの両極端に執着しない不偏にして中正の道をいう。①快楽主義と苦行主義の二つの生き方を捨てること。②竜樹の中道論では空こそ生滅・有無等の両辺を超越した諸法のありのままの姿であり、これを中道としている。③天台は空仮中の三諦・円融に基づく中道を説いた。④日蓮大聖人は一生成仏抄のなかで、次のように述べられている。「有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり」(0384-08)と。非有非無の中道の理の本体を妙法蓮華経とするのである。
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東方の鵞王
 鵞王は仏の異称。鵞は鵞鳥のこと。応化の仏の三十二相の中に手足指縵網相といって手足の指の間に水かきがあり、鵞鳥の足に似ていることから仏の異称とされたもの。薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であることから、東方の鵞王といわれている。
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南京七大寺
 南都七大寺のこと。奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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 常忍の質問は、すでに本尊抄等で明確にされていることではあるが、大聖人は、文底下種の本尊造立に関して、重ねて述べられていくのである。
 とくにこの御文で言われている内容は、観心本尊抄の「月氏震旦に未だ此の本尊有さず、日本国の上宮……東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず」(0254-09)等の御文と、ほとんど同じである。
 そこで、文底下種の本尊の造立は、いつ(時)、どこで(国)、だれ(能弘の人)によってなされるのかが問題であるが、富木常忍の質問は、とくに〝時〟を尋ねている。
 したがって「夫れ仏・世を去らせ給いて二千年に成りぬ」と、釈尊の滅後、正法・像法の二千年を過ぎ、大聖人御出現の時代は末法であることを示し、前代の正像二千年には文底下種の本尊は建立されなかったことを述べられるのである。
 すなわち、この二千年間、僧は稲麻のごとく無数に輩出し、法は竹葦のごとく乱立して説かれたけれども「本門の教主釈尊並びに本化の菩薩」を造立して本尊としたということは、インド、中国、日本の三国の歴史を通じて前代未聞である。
 その三国のなかでも、とくに日本について見ると、聖徳太子造立の四天王寺の本尊は阿弥陀仏であり、脇士は観音菩薩、勢至菩薩等である。また伝教大師建立の延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来の形像を立てている。久成の教主と脇士を建立して本尊とした人はいまだかつていないのである。
 観心本尊抄には「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と述べられ、いつ(時)、だれが(能弘の人)、どこに(国)立てるかを明らかにされている。この点については、本抄でも、以下に述べられていく。

0988:01~0988:10 第三章 付嘱に約し正像末弘を述べるtop
01                                                   かた
02 がた不審なりし間・法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨顕然なり、 末法・闘諍堅固の時にいたらずんば造るべか
03 らざる旨分明なり、 正像に出世せし論師・人師の造らざりしは仏の禁を重んずる故なり、 若し正法・像法の中に
04 久成の教主釈尊・ 並びに脇士を造るならば夜中に日輪出で日中に月輪の出でたるが如くなるべし、 末法に入つて
05 始めの五百年に上行菩薩の出でさせ給いて造り給うべき故に正法・ 像法の四依の論師・ 人師は言にも出させ給は
06 ず、 竜樹・天親こそ知らせ給いたりしかども口より外へ出させ給はず、 天台智者大師も知らせ給いたりしかども
07 迹化の菩薩の一分なれば 一端は仰せ出させ給いたりしかども 其の実義をば宣べ出させ給はず、 但ねざめの枕に
08 時鳥の一音を聞きしが如くにして 夢のさめて止ぬるやうに弘め給い候ぬ、 夫れより已外の人師はまして一言をも
09 仰せ出し給う事なし、 此等の論師・人師は霊山にして迹化の衆は末法に入らざらんに正像二千年の論師・人師は本
10 門久成の教主釈尊並に久成の脇士・地涌上行等の四菩薩を影ほども申出すべからずと御禁ありし故ぞかし。
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 あれこれ不審であったので法華経の文を拝見するとその旨があきらかである。すなわち末法・闘諍堅固の時にいたらなければ造立してはならない旨が明瞭である。正法、像法二千年間に出世した論師、人師が造立しなかったのは仏の禁を重んずるゆえである。もし正法、像法の中に久遠実成の教主釈尊と脇士を造るならば、夜中に日輪が出、日中に月輪が出現したようなものである。末法に入って始めの五百年に上行菩薩が出現されて造立されるべきであるゆえに、正法、像法年間の四依の論師、人師は言葉にも出されなかったのである。
 竜樹、天親こそ心の中で知っておられたが、口に出して外に説くことはなかった。天台智者大師も心には知っておられたが迹化の菩薩の一分であるから、一端はもらされたが、その実義は述べられなかった。ちょうど寝ざめの間際に時鳥の一声を聞いたように、目がさめて夢が途切れてしまったように述べられたのみであった。いわんやそれ以外の人師は一言も仰せられていない。それは、これらの論師、人師は霊鷲山で正像二千年間に出現する迹化の衆に、末法になるまでは本門久成の教主釈尊、並びに久成の脇士、地涌上行等の四菩薩のことを、影ほども申し出してはならないと、厳しく禁られたからである。

末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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闘諍堅固
 五種の堅固の一つ。釈尊滅後の第五の五百年のことで、争いが絶えず正しい教えが隠没する時代のこと。堅固とは仏の予言が的中し固定していること。大集経に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等猶お我が法に於て、解脱(堅固なり、次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦・多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於て、多くの塔寺を造りて、堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於て闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり」とある。
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正像
 正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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日輪
太陽のこと。
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月輪
月のこと。
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上行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
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四依
 四つの依りどころとするものの意で四不依に対する語。法の四依、人の四依、行の四依、説の四依の四種がある。ここでは人の四依の意。人の四依は衆生が信頼してよい四種の人の意。涅槃経巻六等では、①具煩悩性の人、②須陀洹・斯陀含の人、③阿那含の人、④阿羅漢の人の四依が説かれる。
   正法の前五百年
    小乗の四依――┬ 初依:三賢 煩悩性を具す
           ├ 二依:初果 須陀洹洹
           ├  〃:二果 斯陀含
           ├ 三依:三果 阿那含
           └ 四依:四果 阿羅漢
   法の後五百年
    権大乗の四依―┬ 初依:十住・十行・十回向
           ├ 二依:初地~六地
           ├ 三依:七地~九地
           └ 四依:十地・等覚
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
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迹化の菩薩
 本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等の八十万億那由佗の菩薩がこれにあたる。勧持品で仏滅後の弘通を誓い出たが、涌出品で釈尊は本化地涌の菩薩を召し出し、神力品で付嘱した(別付嘱)。しかし迹化の菩薩は嘱累品において付嘱を受け(総付嘱)正像2000年にのみ出現して権大乗や法華経迹門を弘通した。
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霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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 ここからは、釈尊滅後の二千余年間、どうして「文底下種本門の教主と脇士」が造立されなかったのかという理由を明らかにされている。
 すなわち法華経の文に「末法・闘諍堅固の時にいたらずんば造るべからず」とあるからで、正法・像法時代にこの本尊を覚った人はいたが、この仏のいましめがあるので、これを口に出して説いたり顕したりはしなかったのである、と。
 法華経薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」とあり、迹化・他方の菩薩たちが〝末世〟〝恐怖悪世〟における弘通を許していただけるよう願ったのに対して、釈尊は涌出品で「止みね善男子」と、その願いを制止した。そして、大地から涌出した本化の菩薩にこの悪世末法における弘通を付嘱したのである。
 どうして、迹化・他方の菩薩の末法弘通の要請を制止したかという理由について、天台大師は法華文句に「前三後三の六釈」を示している。前三とは他方の滅後弘通を止めた理由、後三とは本化に付嘱した理由を明らかにしたものである。日寛上人は、この「他方・本化の前三後三」に加えて「迹化・本化の前三後三」を明らかにし、次のように示されている。
 まず、他方・本化の前三後三
   前三――他方を制止した三つの理由
    一に釈尊の直弟子でない。
    二に住国が不同で、本拠は娑婆世界でない。
    三に娑婆世界の衆生に縁が薄い。
   後三――本化を召し出した三つの理由
    一に釈尊久遠の直弟子である。
    二に久遠以来、娑婆世界に常住していた。
    三に滅後末法の衆生に縁が深い。
 つぎに、迹化・本化の前三後三
   前三――迹化を制止した三つの理由
    一に始成正覚の迹仏の化導を受け、久遠の釈尊の初発心の弟子でない。
    二に釈尊のもとでの行功を積むことが浅い。
    三に末法の衆生に対して利生得益が少ない。
   後三――本化を召し出した三つの理由
    一に久遠の釈尊の初発心の弟子である。
    二に久遠以来、深く行功を積んできた。
    三に末法の衆生に対して利生得益が盛んである。
 以上の十二釈にみられるように、滅後の弘通を託す〝人〟として問われるその資格条件は、仏との関係の有無、衆生との縁の厚薄、行功の浅深等である。結局、こうした条件に叶わないので、他方・迹化の菩薩は滅後末法の弘通を制止されたのである。
 日蓮大聖人は迹化・他方の正像未弘の理由として「曾谷入道殿許御書」に「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028-16)と御教示である。これを〝正像の四故〟という。これに対して、末法の四故は、
   一には自身堪えうるが故に、
   二には所被の機有るが故に、
   三には仏より譲り与えられるが故に、
   四には時来たるが故に、
 となる。天台大師の六釈や日寛上人の十二釈はこの中の第三「仏より譲り与えられざる故」について、なぜ譲られなかったかを論じたものである。
 本抄では、とくに〝時〟について述べられている。
 法華経には、弘めるべき時を末法と明確に定められているのであるから、もし正法・像法の時代に久成の教主と脇士を造るならば、それはちょうど夜中の太陽・日中の月のようなものである。宇宙のリズムに叶わないならば、自然界・人間世界等の一切の関係を混乱させ、生命活動を破壊することになる。仏法においても、時を違えれば衆生の機根を破壊し、仏法は有害無益のものとなってしまうのである。
 ゆえに、正法時代の竜樹・天親も、内心には文底下種の本尊を覚っていたが、末法にのみ弘めなさいとの仏の戒めを知っていたので、正法時代には弘めなかったのである。また、像法時代の天台大師の場合は、迹化の菩薩であるから、やはり覚っていて、その一端は述べたが、実義は説かなかったのである。
 天台大師は薬王菩薩の化身であるといわれており、像法時代の導師として、理の一念三千を論じたのみである。しかし、本門文底・事の一念三千の実義は述べていない。結局、時が来ていない、付嘱がないということで、実践の弘通は、末法本化の導師に託したのである。

0988:11~0989:02 第四章 四菩薩建立の時を示すtop
11   今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば本仏・ 本脇士造り奉るべき時なり、当時は其の時に
12 相当れば地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、 先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし 尤も今は然るべき時な
13 りと云云、 されば天台大師は 後の五百歳遠く妙道に沾わんとしたひ、 伝教大師は正像稍過ぎ已て末法太だ近き
14 に有り法華一乗の機今正に是れ其の時なりと恋いさせ給う、 日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども 仏法を
15 以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり、 是れ時の然らしむる故なりと思へば喜び身にあまり 感涙押へ難く教主
16 釈尊の御恩報じ奉り難し、 恐らくは付法蔵の人人も日蓮には果報は劣らせ給いたり天台智者大師・ 伝教大師等も
17 及び給うべからず最も四菩薩を建立すべき時なり云云、 問うて云く四菩薩を造立すべき証文之れ有りや、 答えて
18 云く涌出品に云く 「四の導師有り一をば上行と名け二をば無辺行と名け 三をば浄行と名け四をば安立行と名く」
0989
01 等云云、 問うて云く後五百歳に限るといへる経文之れ有りや、 答えて云く薬王品に云く「我が滅度の後後の五百
02 歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。
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 今末法に入って、仏の金言のとおりであれば、本仏並びに本脇士を造立し奉るべき時である。今はまさにその時に当たっているので、本化地涌の菩薩もやがて出現されるであろう。まず、その時こそ四菩薩を建立し奉るべきである。もっともいまはその時である。それゆえに天台大師は法華文句巻一で「後の五百歳遠く妙道に沾うであろう」と末法を慕い、伝教大師は守護国界章巻上の下に「正像稍過ぎ已て末法は太だ近きに有る。法華一乗が弘まるのは今正に是れ其の時である」と恋慕されている。
 日蓮は世間的にみれば日本第一の貧しい者であるけれども、仏法の上から論ずるならば、一閻浮提第一の富める者である。これは時のしからしむるゆえであると思うと、喜びは身にあまり、感涙押えがたく、教主釈尊の御恩は報じ奉りがたい。おそらくは付法蔵の人々も日蓮より果報は劣っておられるし、また天台智者大師、伝教大師等も及ばないであろう。今こそ、四菩薩を建立すべき時である。
 問うて云う。四菩薩を造立すべき証文はあるのか。
 答えて言う。法華経従地涌出品第十五に「四人の導師が有って一をば上行と名け、二をば無辺行と名け、三をば浄行と名け、四をば安立行と名く」とある。
 問うて云う。後五百歳に限るという経文はあるのか。
 答えて言う。同じく薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶することが無い」とある。

後の五百歳遠く妙道に沾わん 
 天台大師の法華文句巻一の文。「但だ当時に大利益を獲るのみに非ず、後の五百歳、遠く妙道に沾う故に」とある。
―――
正像稍過ぎ已て……其の時なり 
 伝教大師の守護国界章巻上の下の文。「当今の人機、皆転変し、都て小乗の機無し。正像稍過ぎて末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正く是れ其時なり。何を以て知ることを得、安楽行品の末世法滅の時なることを」とある。
―――
付法蔵の人々
 釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者24人。「大夫志殿御返事」には「所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺羅・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者」(1079:07)とある。
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 今はすでに「末法の時」であり、法華経に説かれたとおりであれば、末法所弘の本尊として「本仏・本脇士」を造立すべき時が来ていると述べられ、この時に法華経を身読した大聖人御自身、一閻浮提第一の富める者であると断言されている。
 ここで「本仏・本脇士造り奉るべき時なり」といわれ、やがて地涌の菩薩が出現されるであろうから「先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし」と仰せられている。
 地涌の菩薩が出現されたならば「本仏・本脇士」を造られるであろうが、今は、とりあえず「四菩薩」を建立すべきであるといわれているのである。
 なぜ、このようにいわれたのかを考えてみるのに、日蓮大聖人は、あくまでも御謙遜の立場から、御自身が地涌の菩薩であるとは仰せられず、その序分、先がけであると、つねにことわられている。「本仏・本脇士」は地涌の菩薩自身が造立されるはずであるから、その先がけという立場をとられる以上、それ自体を建立するというわけにはいかない。ゆえに「先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし」と仰せられたのである。
 しかしながら、日蓮大聖人のお振る舞いは、法華経に予言された末法弘通の上であうべき大難を悉く身に受けられており、地涌の菩薩自身であられ、その本地は久遠元初の自受用報身如来であられることが明白である。したがって、大聖人が顕されている御本尊が、ここに仰せの「四菩薩」であるとともに「本仏・本脇士」であり、これは表現上だけの違いとなるといえよう。
 これと同趣旨の意を述べられた御文が文永11年(1274)正月の法華行者逢難事にある。
 「天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう……今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」(0965-08)と。
 この御文を日寛上人は本尊抄文段に挙げて「本門の本尊」とは人即法の本尊であり「四菩薩」とは法即人の本尊である。したがって「今既に時来れり四菩薩出現」等というと説明されている。
 こうした偉大な仏法が打ち立てられる時であるゆえに天台大師や、伝教大師も末法を恋い慕ったことを指摘され、この時に出現された御自身を「一閻浮提第一の富る者」と述べられたのである。
日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり
 この御文には、大聖人が無量無辺の功徳、そして広大深遠の妙用を一身に具えられた末法下種の御本仏、久遠元初の自受用報身如来であられることを含意されている。
 大聖人は、世間的な目から見れば「日本第一の貧しき者」である。佐渡御書にも「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり」(0958-09)と、また開目抄にも「辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり」(0200-02)等と仰せである。
 だが、仏法の眼をもって論ずれば、大聖人は末法の御本仏であり「一閻浮提第一の富る者」であられる。同様の御文として撰時抄にも、「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284-08)と述べられている。法華経を身をもって読まれた法華経の行者であることは法則人の仏であり、久遠元初の自受用報身如来であられるということにほかならない。

0989:03~0989:18 第五章 迹門捨棄の僻見を戒むtop
03   一御状に云く大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由・其の聞え候と是は以ての外の謬なり、
04 御得意候へ本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし、一代聖教を弘むべき時に三あり機もつて爾
05 なり、仏滅後・正法の始の五百年は一向小乗・ 後の五百年は権大乗・像法一千年は法華経の迹門等なり、末法の始
06 には一向に本門なり 一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず、 法華経一部に於て前の十四品を捨つべ
07 き経文之れ無し本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時 ・爾前・迹門は正法・像法或は末法は本門の弘まらせ給
08 うべき時なり、 今の時は正には本門・傍には迹門なり、 迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさ
09 せ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ 以ての外の僻見なり、 私ならざる法門を僻案せん
10 人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして 自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、 此の
11 法門は年来貴辺に申し含めたる様に 人人にも披露あるべき者なり 総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人
12 人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心
13 中は量りがたし。
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 一、御状によれば、太田方の人々が、今末法においては一向に本門のみに得道があって、迹門には得道がない、といわれているそうであるが、これはもってのほかの謬である。よく心得ておかれたい。本門と迹門の浅深、勝劣、与奪、傍正は仏法流布の時と機根とによるのである。
 仏の一代聖教を弘める時に正・像・末の三時がある。機根もまたこれらの三時によって異なる。仏の滅後、正法の始め五百年間は一向小乗教の弘まるべき時であり、正法の後半五百年は権大乗教、像法一千年は法華経迹門等が流布する時である。末法の始めには一向に法華経の本門が弘まる時である。ただし、一向に本門の時であるからといって迹門を捨てるべきではない。
 いったい、法華経一部において、前の十四品を捨てよという経文はない。本門、迹門の判別は一代聖教を三重に配当する時、爾前と迹門とは正法と像法の時に弘まり、末法の時は本門の弘まるべき時である。今の時は正には本門であり、傍には迹門である。ゆえに迹門無得道といって迹門を捨てて、本門ばかりを信ずる人々は、いまだ日蓮の本意の法門を知らないのであって、もってのほかの僻見である。大事な法門を曲げて考える人はひとえに天魔波旬がその身に入り替わって、他人と自身とともに無間大城に堕としてしまうのである。愚かなことである。
 この法門は、長年あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるがよい。総じて日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は日蓮のようにしなさい。そうするならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹も必ず守護されるであろう。そうであるのに太田方の人々はどうしたのであろう。心中を量りがたい。
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14   一日行房死去の事不便に候、 是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・
15 多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ、身の所労いまだきらきらしからず候間省略せしめ候、
16 又又申す可く候、恐恐謹言。
17       弘安二年五月十七日                   日蓮花押
18     富木殿御返事
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 一、日行房が死去されたとのこと、かわいそうに思う。この身延の山で法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて、願わくは日行房を釈迦、多宝、十方の諸仏が霊山浄土へ迎え取らせてほしいとお願い申し上げた。
 我が身の病気もいまだ快くないから、他は省略する。また後日申し上げることにする。恐恐謹言。
  弘安二年五月十七日          日 蓮  花 押
   富木殿御返事

一向
 ①ひたむきなこと、純粋でまじれけのないこと。②まったく・一切・まるで。③一向宗のこと。
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与奪
 与えることと奪うこと。仏教の教相判釈の用語。与は容与の義で、自己の本意を隠し、妥協して相手の主張を容れる立場。奪は斥奪の義で、直ちに自らの真実を明らかにし、妥協せず相手の主張を斥ける立場。
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傍正
 従と主。諸説の法門の傍と正。
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一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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法華経の迹門
 迹門は本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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天魔波旬
 天魔は天子魔のことで四魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)の一つ。第六天の魔王のことであり、波旬は殺者・悪者等と訳し、魔王の名。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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十方の分身
 中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
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十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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日行房
 (~1279)三位房日行のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子。学才があり、諸宗との問答に活躍したが、ともすると才智におぼれて大聖人の指導に背くことがあり、たびたび訓戒を受けていた。熱原の法難の初めごろ退転し、不慮の死を遂げたと思われる。
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 下総の太田五郎左衛門尉乗明の一族の中に「一向に迹門に得道あるべからず」といいだしている者が出たとの富木常忍の報告を受けられて、その点について厳しく誡められている。
 本抄より数年前の建治元年(1275)11月23日の観心本尊得意抄でも、同じ下総の住人・曾谷教信が「観心本尊抄」の「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)等の御文を曲解して、迹門に得道はないから、勤行にも方便品を読まないといいだしたことに対して、「不相伝の僻見」と厳しく指弾して御指南されている。
 日蓮大聖人は、本抄でもまた、迹門無徳道といって迹門を捨てるという考え方に対して、日蓮が本意の法門ではなくもってのほかの邪見であると厳誡されている。
御得意候へ本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし 
 いかなる教法を流布すべきかは時と機によってきまる。時機と教行が適ってこそ成仏の証が得られるからである。ゆえに、各時代の正しい仏法の導師は時機を知り、それに適った教法を弘通し、その時代の人々を教化していったのである。
 たとえば釈尊滅後の正法時代の後半に出現した竜樹・天親等は、法華経が最高に勝れている教えであることも、その究極に妙法があることをも知っていたが、にもかかわらず権大乗経を弘めたのがそれである。
 同じく、像法時代に出現した南岳・天台大師等も、妙法が究極であることを知っていたし、自ら題目を唱えていたにもかかわらず、弘めたのは法華経の迹門であった。
 それに対して末法は一向本門流布の時である。「観心本尊抄」には「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す」(0249-14)と仰せであり、本因妙抄には「今末法は本化の薩埵・上行等の出世の境・本門流宣の時尅なり、何ぞ理観を用いて事行を修せざらんや、予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪なり」(0873-04)と仰せられており、その類文をあげれば限りがない。
 しかしながら、修行においては、正意の教法だけでなく、その一歩手前の法を補助として用いることがある。像法迹門の導師・天台大師は、正意に法華を立て傍意に爾前を用いた。つまり爾前の阿弥陀経を読んだのがそれである。当時は権実相対の時であり、法華経迹門を宣揚するための助行であり、助証として用いたのである。
 同様に、末法の場合は「今の時は正には本門・傍には迹門なり」と。大聖人は末法本門の導師であるから、正には本門寿量品を読み、傍には「我等が読む所の迹門」と名づけて迹門方便品を読むのである。
 この修行論については、日寛上人の当流行事抄に詳しく述べられており、修行に正行・助行を立て、助行に傍正を立てて論じられている。正行は題目であり、方便品・寿量品読誦は助行である。そのなかで、寿量品が正、方便品は傍となるのである。
 これは自行・化他にわたる修行の中の自行の辺であるが、化他の辺については、末法相応抄の最後に「化他の正意但題目に在り若し助証を論ぜば尚一代に通ず何に況や一部をや、太田抄に云く此大法を弘通せしむるの法は必ず一代聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし等云々」と指南されている。
 したがって、迹門無徳道といって迹門を捨て、本門のみを取る極端な本門主義を唱える人々は「日蓮が本意の法門」を習学していないとんでもない邪見であると破しておられるのである。
 大聖人本意の法門については、すでに文永年中に観心本尊抄をもって相伝してあると、得意抄に仰せがあり、この本尊抄の指南どおりに教訓しなさいと述べられている。
 そこで大聖人門下全般に対して「私ならざる法門を僻案せん人」すなわち己義・邪見を構える人は、人を惑わし、自他共に正信を破壊する天魔であり、「無間大城」に堕ちるであろうと、きびしく誡め「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と仰せられて、正しき信行学に励んでこそ仏天の加護を受けることができるといわれている。
日行房死去の事
 日行房とは、三位房日行のことで、下総国の出身で、早くから大聖人の門下に入った。門下の中でも重きをなし、日興上人の富士弘教の補佐や諸宗との問答で活躍した。
 大聖人からは、御輿振御書、法門申さるべき様の事、十章抄等の御書をいただいている。
 しかし、才智におぼれ、ともすると大聖人の教化にそむくところがあり、たびたび訓戒を受けていた。「日行房死去の事不便に候」といわれているのは、熱原の法難のころに退転して不慮の死をとげたとされていることを意味するのであろう。 

0987~0989    富木殿女房尼御前御書top
0990
富木殿女房尼御前御書    弘安二年十一月    五十八歳御作
01   いよ房は学生になりて候ぞつねに法門きかせ給へ。
02   はるかに見まいらせ候はねば.をぼつかなく候、たうじとても.たのしき事は候はねども・むかしは・ことにわび
03 しく候いし時より・やしなはれまいらせて候へば・ことにをんをもくをもいまいらせ候、それについては・ いのち
04 はつるかめのごとく・さいはいは月のまさり・しをのみつがごとくとこそ法華経にはいのりまいらせ候へ、 さては
05 えち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ
06 給へ。
07       十一月二十五日                          日蓮花押
08     富城殿女房尼御前
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 日頂は立派な学生になった。つねに法門を聞かれるがよい。
 はるかに遠く離れてお会いすることができないので、尼御前の御病気を心配している。今でも楽をしているわけではないが、むかし、とくに不自由であった時から御供養をお受けしてきたので、まことにご恩の重い方であると思っている。
 それにつけても、いのちは鶴亀のように、幸福は月の満ち、潮の満つるようにと、法華経に祈りなさい。さて、越後房と下野房を伊予房につけておいた。しばらくの間、めんどうをみてくださるよう、富木殿に申していただきたい。
  十一月二十五日            日 蓮  花 押
   富城殿女房尼御前

いよ房
 (1252~1317)。伊予阿闍梨日頂のこと。六老僧の一人。駿河国富士郡重須郷(静岡県富士宮市重須)の生まれ。幼くして父を失い母とともに鎌倉に住したが、母が富木常忍と再縁したのでその養子となったといわれる。文永4年(1267)大聖人に帰依。その後、真間弘法寺に住して教化弘通に励んだ。大聖人滅後は墓所輪番にも応ぜず、大聖人の正意に反する行動をとったが、乾元元年(1302)真間弘法寺を日揚に付して日興上人に帰依した。文保元年(1317)重須で死去した。
―――
学生
 仏道を修行する者のこと。修学僧・学僧。教え導く指導者に対して、学びきわめる弟子をいう。
―――
えち後坊
 (1239~1311)日蓮大聖人の門下で、日興上人の直弟子・越後坊日弁のこと。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷(山梨県山梨市牧岡町か?)の人で、富士郡下方荘熱原郷市庭寺(静岡県富士市伝法)の天台宗の寺院・滝泉寺の僧であったが、日興上人の富士弘教により、日秀・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導していたので、院主代・行智の迫害を受け、ここが熱原法難の因となった。この時、日秀と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。後に下総の日頂のもとに移った。富木殿女房尼御前御書には「さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ」(0990-04)と述べられている。その後日弁は上総・奥州地方まで布教したと伝えられているが、日興上人の弟子分帳には「背き了んぬ」とあることから、滅後の弘安年中には退転しているようである。晩年には富士に帰したともあるが明瞭ではない。
―――
しもつけ房
 (~1329)日秀のこと。日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
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 本抄は、富城殿御返事(0987)と日付けが同じであり、富木常忍への手紙と同時に、尼御前にも認められたものと考えられている。そこで御執筆の年次は弘安2年(1279)11月25日ということになる。両書ともに弘安3年(1280)とする説もある。本抄は御真筆が存している。
 冒頭の「いよ房……」の御文は追伸である。「学生」は仏道を修学する者のことであるが、ここでは修学が進んで立派な弟子となったことをいわれている。子供の伊予房が立派になったことを述べられて、母である尼御前を励まされているのである。本抄以外にも、夫人に与えられた書で、大聖人はしばしば伊予房をほめられている。またこの御文は、たとえ子であっても、法門のことについては求めて聞く姿勢でなければならないことを教えられたものとも拝せる。
 「はるかに見まいらせ候はねば・をぼつかなく候」の御文からは、尼御前の病弱の身を案じられる大聖人の御心がにじみでている。身延と下総(千葉県北部及び茨城県の一部)は、現在で想像するよりはるかに遠隔の地である。在家の中心的存在である富木常忍の尼御前の病身を思われ、つねに祈られていたことは、前述の「富城殿御返事」からも察することができる。
 とくに、大聖人が最も苦境にあられた時から、御供養の誠を尽くしてきた尼御前の信心は、言葉にはあらわせないほどの尊いものであった。富木常忍は大聖人が佐渡流罪という苦境にあられた際にも、また身延入山後の種種不自由をされていた時も大聖人のもとを訪れ、また御供養の数々を差し上げているが、その裏にはつねに尼御前の内助の功があったことはうまでもない。「富木尼御前御返事」には「をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり」(0975-01)と仰せになっている。
 苦境に陥ったとき、それまでついてきた人でも離れていくのが世の常である。逆にいえば逆境に陥ったときにこそ真実の友人・同志であるかどうかがわかるともいえる。大聖人がいかなる状況にあるときも変わらぬ誠を貫いて支えてきた尼御前の信心は尊く、そのゆえに「ことにをんをもくをもいまいらせ候」といわれているのであろう。
 「いのちはつるかめのごとく」といわれているのも、尼御前の長寿を願われての激励である。さらに、たんに長寿を願うのみではなく、月が満ちて光を増し、潮がひたひたと満ちてくるように、幸せに満ちみちた生涯であるようにとの思いも込められている。大聖人のこうした激励・指南に応えてか、尼御前は病気がちではあったが、このあと20年以上も生き、常忍の死後は一子乙御前とともに富士の重須にきて晩年を過ごしたと伝えられる。
 さて、文中、越後房・下野房が伊予房につけられて富木家に赴いたことが記されている。越後房は日弁、下野房は日秀で、ともに熱原法難の際、活躍した弟子である。
 二人はもともと、富士郡熱原郷の南部、市庭寺にあった天台宗滝泉寺の僧である。日興上人の折伏によって帰依してからおおいに折伏に励み、それが機縁となって熱原法難が起こったのである。日興上人によって帰依した弟子のなかでも、とくにこの二人の活躍は目ざましく、熱原の三烈士をはじめ、法難の際に捕えられた農民達は、二人が折伏した信徒であることが弟子分帳に記されている。
 三烈士が斬罪に処せられるなど法難が激しくなり、二人も熱原にとどまれなくなったが、よるべなき身でもあり、大聖人は日頂につけて、富木常忍に庇護を依頼されたものであろう。二人のうち日秀は後々まで信心を貫き、日興上人本弟子六人の一人として大石寺創建の際には理境坊を建立しているが、日弁は大聖人滅後日興上人に違背している。
 このように富木常忍は熱原法難の際にも外護の任を果たしていることがうかがわれるが、それを尼御前をとおして依頼されているところにも、尼御前の信心の強盛なことが推察されるのである。

0991~0992    諸経と法華経の難易の事(難信難解法門)top
0991:01~0991:07 第一章 法師品の「難信難解」の意を明かすtop
0991
諸経と法華経と難易の事    弘安三年五月    五十九歳御作
01   問うて云く法華経の第四法師品に云く難信難解と云云いかなる事ぞや、 答えて云く此の経は仏説き給いて後二
02 千余年にまかりなり候、 月氏に一千二百余年・漢土に二百余年を経て後に日本国に渡りて・すでに七百余年なり、
03 仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり、 所謂月氏には竜樹菩薩の大論に云く 「譬えば大薬師の能
04 く毒を以て薬と為すが如し」等云云、 此れは竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給いしなり、 漢土には天台智者大
05 師と申せし人読んで云く「已今当説最も為れ難信難解」と云云、 日本国には伝教大師読んで云く 「已説の四時の
06 経・今説の無量義経・ 当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に 此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故
07 に」等云云、
-----―
 問うて言う。法華経の第四の巻、法師品第十に「難信難解」と説かれているのはどういうことか。
 答えて言う。この経は仏が説かれてから二千余年を経ている。インドに一千二百余年、中国に二百余年を経てのち、日本に伝来してすでに七百余年になる。仏滅後にこの法華経の難信難解の句を読んだ人はただ三人だけである。インドの竜樹菩薩は大智度論に「譬えば大薬師が能く毒をもって薬とするようなものである」と述べている。これは竜樹菩薩が難信難解の四字を読んでいわれたのである。中国では天台智者大師という人が読んで、法華玄義のなかで「法華経は已今当の三説の中において最も難信難解の経である」といわれている。日本国では伝教大師が読んで、法華秀句に「已に説いた四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解の法門である。なぜなら、それらは皆、随他意であるゆえに。この法華経は最も信じ難く解し難い。それは随自意の教えであるから」と述べている。

難信難解
 法師品には「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。信じがたく解しがたいとで、法華経の信解は及びもつかないほど甚深の義があることを言いあらわしている。易信易解に対する語。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
竜樹菩薩
 仏滅後700年ごろ、南インドに出現して、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んだが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、それ以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」四巻等がある。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā Sūtra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)の人。12歳で近江国分寺の行表について出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)に入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等多数ある。
―――
已説の四時の経
 法華経法師品第10にある「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」との文の「已に説き」とは、法華経の前に説かれた華厳・阿含・方等・般若の四時の経を指すということ。
―――
無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
易信易解
 教法や法理が信じやすく理解しやすいということ。
―――
随他意
 仏が衆生の機根や能力などに随って説法し、次第に真実の法門に誘因する方法。
―――――――――
 本抄は、弘安3年(1280)5月26日、日蓮大聖人が59歳の御時に、身延から下総(千葉県北部及び茨城県の一部)の富木常忍に対して与えられた御手紙である。
 内容は大きく二つに分かれる。
 まず冒頭の「問うて云く法華経の第四法師品に云く……」(0991-01)から「……譬えば定木の曲がりを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし」(0992-12)までの部分は、つの問答から成っている。その大意は、法華経以外の諸経が仏の随他意の教えであることをもって易信易解であるとされ、これに対し法華経は仏の随自意の教えであるがゆえに難信難解であると示され、法華経こそ一切経中の王であり、一切衆生皆成仏道の経であることを明かされている。
 つぎに「此の明鏡を以て一切経を見聞するに……」(0992-12)から最後までは、仏法は体、世間は影、との法理から、随他意の法門が流布して、仏法が顚倒(し体が曲がっている日本国の状態を憂えられ、仏の随自意の経たる法華経の正法を立てて体を正さなければならないと訴えられている。
 題号の、諸経と法華経と難易の事は、後に名づけられたもので、御真筆には題号はなく、ただ宛名に、富木殿御返事とあるのみである。御真筆は、中山法華経寺に所蔵されている。
 冒頭に、法華経第四の巻法師品第十の難信難解の文がいかなる事を言い表そうとしているのか、という問いを設けられている。
 その文とは「爾の時、仏は復た薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」というものである。
 この問いに対して、日蓮大聖人は、この法師品の文それ自体の意味を解説されずに、むしろ「仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり」と答えられ、いかに、法華経を本当に理解することが難しいかを示唆されて、答えとされている。
 しかも、その三人、すなわち竜樹菩薩、天台大師、伝教大師のそれぞれが、どのように、この難信難解の文を説明しているかを、それぞれの著作の引用を通じて明らかにされるなかで、おのずと、法師品の難信難解の意味内容が明かされていくのである。
 まず、竜樹菩薩であるが、その著・大智度論巻百の中で次のように述べている。
 「問うて曰く、更に何の法が深甚にして、般若に勝る者有りて乃至法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏するを説き、大菩薩は能く受持し用う。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と。
 爾前経では永久に成仏できないとされた敗種の声聞・縁覚の二乗が、法華経において成仏を許されたのであるが、二乗を成仏させるこの法華経の絶大な力について、名医が毒を変じて薬とするようなものであると竜樹は譬えているのである。
 大聖人は、大智度論のこの文により、竜樹が、法華経の「難信難解」の四字を本当に理解した菩薩であると断定されている。
 なぜなら、法華経の二乗作仏と久遠実成の法門は、爾前経には全く説かれていない独自のものであり、法華経を難信難解にしている「二箇の大事」だからである。竜樹はそのうちの一つである二乗作仏が難信難解であることを理解したゆえに「大薬師の……」という譬えで説明したと考えられるのである。
 つぎに、中国の天台大師と日本の伝教大師の言葉は、難信難解の文それ自体について述べたものである。
 天台大師、伝教大師ともに、先の法師品中の「已に説き」は爾前経である華厳・阿含・方等・般若の四時の諸経を指し、「今説き」は法華経の開経たる無量義経を指し、「当に説かん」は、涅槃経を指す、と解説し、それら已今当の説法に対して、法華経が最も難信難解であるとの法師品の真意を明確にしている。
 さらに、両者ともに、已今当の諸経は、仏の随他意の法門であるがゆえに易信易解なのに対し、法華経のみは仏の随自意の法門なるがゆえに難信難解であると、その理由を述べている。
 なお、随他意、随自意については、以後の問答で詳しく展開されていくので、ここでは詳しい説明を避けることとする。

0991:07~0991:12 第二章 易信易解と難信難解の理由を示すtop
07       問うて云く其の意如何、 答て云く易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり云云、弘法大
08 師並びに日本国東寺の門人をもわく 法華経は顕教の内の難信難解にて密教に相対すれば易信易解なり云云、 慈覚
09 智証並びに門家思うよう 法華経と大日経は倶に難信難解なり 但し大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解・
10 大日経は最も為れ難信難解なり云云、 此の二義は日本一同なり、 日蓮読んで云く外道の経は易信易解・小乗経は
11 難信難解・小乗経は易信易解.大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり.般若と華厳と・華
12 厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。
-----―
 問うて言う。その意はどういうことか。
 答えて言う。易信易解は随他意のゆえであり、難信難解は、仏の随自意のゆえである。
 弘法大師や日本国の東寺の門人の思うには、法華経は顕教の内の難信難解で、密教に相対すれば易信易解であると。
 慈覚・智証並びにその門家の思うには、法華経と大日経はともに難信難解であるが、ただし大日経と法華経とを相対してみると法華経は難信難解で、大日経は最も難信難解であると。これらの二義は日本一同に流布している。
 しかるにいま日蓮が読むところは、外道の経は易信易解で、小乗経は難信難解である。小乗経は易信易解で大日経等は難信難解である。大日経等は易信易解で般若経は難信難解である。般若経と華厳経(を相対すれば般若経が易信易解で華厳経は難信難解)、華厳経と涅槃経(を相対すれば華厳経が易信易解で涅槃経は難信難解)、涅槃経と法華経(を相対すれば涅槃経が易信易解で法華経は難信難解)、法華経迹門と法華経本門(を相対すれば法華経迹門が易信易解で法華経本門は難信難解)と、このように(諸経と法華経との間に)重々の難易があるのである。

弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
―――
東寺の門人
 東寺は京都市南区にある真言宗の本山で、弘仁14年(0823)弘法に下されている。したがって門人は弘法の流れをくむ者。
―――
顕教
 「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
―――
密教
 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
―――
慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
―――
智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
本門
 仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
―――――――――
 難信難解という意味はどこにあるのかとの問いを設け、先に引用された伝教大師の法華秀句の言葉を用いて「易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり」と答えられている。
 そして、とくに当時の日本の密教である東密・台密の二流派の考えを挙げられて、御自身の読み方を示されている。
 東密は、弘法大師空海が弘めた密教で、真言宗のことを指し、京都の東寺が根本道場であったところからこの名がある。
 この東寺の真言宗の考えは、法華経は顕教の内では難信難解の法門であるが、密教と比較すれば易信易解の法門であるときめつけている。
 これに対し、天台宗に真言密教の教義を取り入れたものを台密というが、日本天台宗ではとくに第三祖の慈覚・第五祖の智証から密教化が激しく、日蓮大聖人は諸御抄でこれを嘆かれ破折されている。台密の考えは、法華経と大日経はともに難信難解の法門であるが、法華経を難信難解とすると、大日経は最も難信難解であるとしている。
 どちらにも共通しているのは、なんとか、大日経のほうが法華経より難信難解であることを主張しようとしている点である。
 日蓮大聖人は、この東密・台密の二流派の邪義が日本の仏教の主流を占めていることを指摘され、それに対して、大日経等は小乗経よりは難信難解であるが、般若経よりは易信易解と位置づけられている。
 この日蓮大聖人のとらえ方は、難信難解と易信易解との比較相対を、より広い視点から示されたものである。まず、外道が易信易解なのに対し、内道の小乗経が難信難解になる。しかし、その小乗経も大乗経である大日経等に比べれば易信易解であり、大日経等の方が難信難解になる。
 だが、同じ大乗経でも、大日経は般若時の般若経と比べると易信易解であり、般若経が難信難解になる。その般若経と華厳経とでは、蔵・通・別・円の四教の立場からいって、般若が、別円二教になお通教を帯びている「帯」であるから易信易解、華厳は別円二教を兼ねて通教を帯びない「兼」であるから難信難解となる。また、華厳は円教に別教を兼ねているから、一部純円で別教を兼ねない涅槃経に比べれば易信易解となり、涅槃経が難信難解になる。
 その涅槃経も法華経に対すれば、蔵通別の三教を帯びている部分があるので易信易解であり、法華経は純円そのものなので難信難解となる。
 今度は、同じ法華経でも、迹門は、久遠の本地を明かしていないから易信易解、本門はこれを明かしているから難信難解となる。
 さらに、本文には述べられていないが、日蓮大聖人の元意の辺では、同じ本門でも、文上脱益の法門が易信易解なのに対し、寿量文底下種の三大秘法の法門が難信難解となる。すなわち、寿量文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ最も難信難解になるのである。

0991:13~0992:01 第三章 随自意・随他意を知る重要性示すtop
13   問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・ 元品の無明を切る利剣は此の法門
14 に過ぎざるか随他意とは真言宗・ 華厳宗等は随他意の易信易解なり 仏九界の衆生の意楽に随つて説く所の経経を
15 随他意という譬えば賢父が愚子に随うが如し、 仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という、 譬へば聖父が愚子
0992
01 を随えたるが如きなり、日蓮此の義に付て大日経・華厳経・涅槃経等を勘え見候に皆随他意の経経なり、
-----―
 問うて云う。この法義を知ってどういう益があるか。
 答えて言う。生死の長夜を照らす大燈明、衆生の元品の無明を断破する利剣はこの法門をおいて他にはない。随他意とは、真言宗・華厳宗等の教えは随他意の易信易解である。仏が九界の衆生の意楽に随って説いた経々を随他意という。譬えば、賢父が愚子に随うようなものである。
 仏が仏界に随って説いた経を随自意という。譬えば、聖父が愚子を随わせているようなものである。いま日蓮が、この随自意・随他意の義の上から大日経・華厳経・涅槃経等を勘えてみるに、みな随他意の経々である。

元品の無明
 衆生の生命に本然にそなわっている根本の迷いのこと。元品は根本または元初の意。無明は迷いで物事が明らかにみえないこと。勝鬘経によると無明に二種あり、貪瞋癡などの煩悩と相応して起こる無明を四住地の惑、煩悩と相応せず独り起こる無明を無始無明住地の惑といい、合わせて五住地という。この無始無明住地の惑こそ最勝の力を持つ一切の煩悩の根本であり、如来の悟りの智慧のみがこれを断ずることができると説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経という真如の理に対する根本的な迷いが元本の無明となる。
―――
真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
九界
 十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。
―――
意楽
 意の満足を得て、悦楽すること。
―――
仏界
 完全・絶対の理を覚った人の境地。十界の最上位。覚者・智者・覚・仏という。法華経では如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊との十号を明かしている。
―――――――――
 ここではまず、一代聖教を随自意の難信難解と随他意の易信易解に立て分けることに、いかなる価値、意義があるのか、との問いを設けられる。
 その答えとして「生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」と述べられ、真に成仏の直道を説く経を知るためにこそ、随自意・随他意の立て分けによる諸経の難易・勝劣の選択が重要であることを明かされ、あわせて、随自意・随他意の意義が説かれるのである。
 そして、大日経・華厳経・涅槃経等の諸経は随他意の経々であると断定されている。
生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか
 〝生死の長夜〟とは、生死、生死と流転を繰り返す、迷い、煩悩の苦しみを長い闇夜にたとえられている。〝元品の無明〟とは衆生の生命に本然的に備わっている根本の迷いのことで、このために、衆生は“生死の長夜〟に苦しむのである。
 したがって、元品の無明を因とすれば、生死の長夜は果という関係になるといってよいであろう。この迷いの因である元品の無明を転じて成仏の直道を教えた仏法を知るためにこそ、仏の随自意の法門か随他意の法門かを判別する必要があるのである。
 そして、この文の奥にある大聖人の元意は、法華経寿量文底下種の三大秘法の法門こそが末法今時にあっては成仏の直道であり〝生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣〟であることを示されるところにあるといってよい。
 すなわち、日蓮大聖人が出世の本懐として顕された三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊への信こそ、生死の苦海を照らす〝大燈〟であり、一切衆生の生命に備わっている根本の迷いを断ちきって、法性へと転ずる〝利剣〟なのである。
随自意・随他意
 随自意・随他意の意義内容が、譬えをもって明かされている。
 まず、随他意とは、「仏九界の衆生の意楽に随つて説く所の経経を随他意という譬えば賢父が愚子に随うが如し」と説かれている。
 つまり、仏が衆生の機根や好みに応じ随って説法したもので、自らの悟りの真実の法門に誘引するための方便の教えを指す。爾前・権教はすべてこの随他意の法門である。
 譬えとして、賢父が愚子を導く際に、本当に言いたいことをひとまず隠して、愚子の求めに応じて随いながら、次第にわからせていくという方法を挙げられている。
 したがって随他意の教えは、衆生にとっては、易信易解の法門になることは当然であろう。
 つぎに、随自意とは「仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という、譬へば聖父が愚子を随えたるが如きなり」と説明されている。
 つまり、衆生の機根や好みがどうであれ、仏が自らの悟りをそのまま説き示すことを随自意といい、先の方便の教えに対し、真実の教え、すなわち法華経を指す。
 譬えにも、聖父が愚子の求めに合わせるのでなく、自分の正しい考えに随わせるという方法を挙げられているように、随自意の法門は、衆生には難信難解なのである。
 こうして、随他意・易信易解と随自意・難信難解は、諸経の勝劣を判別し、どの経や教えが衆生の成仏の直道であるかを知るためには不可欠の法門なのである。

0992:01~0992:12 第四章 諸経が随他意である証文top
01                                                 問うて云
02 く其の随他意の証拠如何、 答えて云く勝鬘経に云く 「非法を聞くこと無き衆生には 人天の善根を以て之を成熟
03 す声聞を求むる者には声聞乗を授け縁覚を求むる者には、 縁覚乗を授け大乗を求むる者には授くるに 大乗を以て
04 す」と云云、易信易解の心是なり、華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し「爾の時に世尊・薬王菩薩に因せて八万
05 の大士に告げたまわく薬王汝是の大衆の中の無量の諸天.竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅.摩ゴ羅伽・
06 人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・仏道を求むる者を見るや、是
07 くの如き等類咸く仏前に於て 妙法華経の一偈一句を聞いて 一念も随喜する者には我皆記を与え授く当に阿○菩提
08 を得べし」文、諸経の如くんば人は五戒・天は十善・梵は慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五
09 百戒・声聞の四諦・ 縁覚の十二因縁・菩薩の六度・譬へば水の器の方円に随い象の敵に随つて力を出すがごとし、
10 法華経は爾らず八部・ 四衆皆一同に法華経を演説す、 譬へば定木の曲りを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を
11 出すがごとし。
12   此の明鏡を以て一切経を見聞するに大日の三部・浄土の三部等隠れ無し、
-----―
 問うて云う。それらの諸経が随他意の経であるという証拠はどうか。
 答えて云う。勝鬘経に「非法のみを行ずる衆生には、人間や天上に生まれる善根を説き、声聞を求める者には声聞の法を設き、縁覚を求める者には縁覚の法を説き、菩薩を求める者には菩薩の法で教え導く」とある。これは衆生の機根に応じて法を説く随他意の法門であるから易信易解である。華厳経・大日経・般若経・涅槃経等もまた同じである。
 また、法華経法師品第十に「爾の時に世尊が薬王菩薩に因せて八万の菩薩に告げていわれるのに、是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆、あるいは声聞乗を求める者、あるいは縁覚乗を求める者、あるいは仏道を求める者等、これら一切の者咸く仏前に於て一仏乗たる妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、ほんの一念でも随喜する者には我成仏の記を与え、平等に無上正覚の境界に入らしめるであろう」と説かれている。諸経のように人間界には五戒、天上界には十善、梵王には慈悲喜捨、魔王には一無遮、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒、声聞には四諦、縁覚には十二因縁、菩薩には六度というように、そのおのおのの機根に随って各別の法門を説くことは、ちょうど水が器の方円に随い、象が敵に随って力を出すようなものである。法華経はそうではない。八部・四衆皆一同に法華経を説くのであって、それはたとえば定木が曲がりをけずり、師子王が相手の剛弱にかかわらず大力を出すようなものである。
 この法華経の明鏡をもって一切経を見聞してみるに、大日等の真言三部経、浄土の三部経などは皆随他意の法門であることが明瞭である。

勝鬘経
 勝鬘師子吼一乗大方便広経のこと。
―――
人天
 十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
―――
声聞乗
 仏の教誨を聞いて悟る人。二乗のひとつ。
―――
縁覚乗
 縁覚の悟りに至らしめる十二因縁のこと。
―――
大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
「爾の時に世尊・薬王菩薩に……」
 法華経法師品第十の文。「爾の時、世尊は薬王菩薩に因りて、八万の大士に告げたまわく、『薬王よ。汝は是の大衆の中の無量の諸天・龍王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人、及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・仏道を求むる者を見るや。是の如き等類は、咸く仏の前に於いて、妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せば、我れは皆な与めに当に阿耨多羅三藐三菩提を得べしと授記す』と」。
―――
薬王菩薩
 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
―――
大士
 ①祭祀を司る人。②道徳の高い優れた人。③位階、権威のある人。④大菩提心を起こした人。菩薩の通称。
―――
大衆
 ①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
―――
諸天
 諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
―――
竜王
 竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
―――
夜叉
 梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
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乾闥婆
 仏法護持の八部衆の一。帝釈に仕え、香だけを食し、伎楽を奏する神。法華経では観音三十三身の一つに数える。
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阿修羅
 阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「」(0430-)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
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迦楼羅
 ①想像上の大鳥。翼は金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う。天竜八部衆の一。密教では仏法を守護し衆生を救うために梵天が化したとする。②伎楽面の一。鳥の形をして、口の先に小さな玉をくわえる。
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緊那羅
 元来はインド神話上の半神。『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』のインドの二大叙事詩に多く現れ,類似の Kiṃpuruṣaとともに出るが,両者の関係は明確ではない。
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摩睺羅伽
 仏教を守護する護法善神の一尊。天竜八部衆や二十八部衆に数えられる。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。もと古代インドの神であったが、後に仏教に取り入れられた。身体は人間であるが首は大蛇、または頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれ、龍種の一つとされる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされる。ナーガがコブラを神格化したものであるのに対してこのマホーラガはニシキヘビの様なより一般的な蛇を神格化したものである。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられてる。
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比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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優婆塞
 在家の男子をいう。
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優婆夷
 在家の女子をいう。
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辟支仏
 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
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 妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
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五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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十善
 十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
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阿○菩提
 阿耨多羅三藐三菩提のことと思われる。無上正等覚、無上正覚、無上菩提等と訳す。
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 大梵天王のこと。
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慈悲喜捨
 四無量心のこと。仏・菩薩が衆生を憐愍する四種類の量り知ることのできない心。①慈無量心②悲無量心③喜無量心③捨無量心をいう。大智度論巻二十に説かれる。これらを修すれば大梵天に生ずるとされる。
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一無遮
 布施行の一つで、国王などが賢聖・道俗、貴賤・上下などの区別をせず、平等に一般大衆へ財施・法施を行うこと。弘決にはこの一無遮会を設けることによって魔王に生ずると説かれている。
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四諦
 四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦のことで、苦諦は世間の果報・集諦は世間苦果の因縁・滅諦は出世間涅槃の果、道諦は出世間の果を得る因をいう。
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十二因縁
 生命流転の因果関係を12に分けて説いたもの。権大乗教で説く苦しみの因縁である。十二因縁とは、過去の二因 ①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとする説。
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六度
 六波羅蜜のこと。「波羅蜜」は梵語、パーラミター(Pāramitā)の音写。彼岸と訳す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧波羅蜜の六行があり、その行は万差であるから、六度万行という。菩薩等がこの六法を修して生死の彼岸よりよく涅槃の彼岸に至るということである。爾前経においては菩薩の歴劫修行を説いてきたが、無量義経にいたって「末だ六波羅蜜の修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれている。すなわちこれは、三大秘法の御本尊の功徳をたとえ、即身成仏を説いている。
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八部
 八部衆のこと。仏法を守護する八種類の神々のこと。①天(天界に住む諸神)②竜(竜王・竜神)③夜叉(鬼神の一種)④乾闥婆 (天の音楽の神)⑤阿修羅(鬼神の一種)⑥迦楼羅(金翅鳥のこと。竜を主食とする鳥)⑦緊那羅 (天の音楽の神)⑧摩睺羅伽(蛇神)。
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四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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大日の三部
 真言宗の立てる三部経のこと。大日経7巻・金剛頂経3巻・蘇悉地経3巻のことをいう。
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浄土の三部
 念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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 大日経、華厳経、涅槃経等の諸経が随他意の経であるとの経文を示され、あわせて、法華経が随自意の経である証拠も示されている。
 諸経が随他意であることの証文としては、勝鬘経を挙げられている。
 法華経が随自意であることの文証としては、法華経法師品の一節を示されている。このように両者の文証を並べ挙げられたのち、もう一度、随他意、随自意の意味について、わかりやすく説明されている。
 まず、諸経が随他意である理由を、勝鬘経の内容を受けて、よりいっそう具体的に明かされている。〝非法を聞くこと無き〟衆生には、仏が人天の善根をもって導き機根を熟させる、と勝鬘経にあったのを、具体的に「人は五戒・天は十善」と述べられている。
 同様にして、梵は慈悲喜捨、魔王には一無遮、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒、声聞に四諦、縁覚に十二因縁、菩薩に六度、というように、仏が諸経において、いかに衆生の機根に応じて、それぞれのための法門を説いたかが示されている。ここでは諸経が随他意の法門であることを理解すれば十分であろう。
 これに対し、法華経については法師品の文を受けて「八部・四衆皆一同に法華経を演説す」と述べられている。
 諸経がさまざまな衆生の機根や好みに応じて説かれた法門であるのに比し、法華経は、衆生のいかんを問わず「皆一同に」説かれたという一点が決定的に異なる。まさに、随自意の法門なのである。
 なお、随他意の譬えとして、水が器の四角形や円形にしたがって形を変えたり、象が敵の強弱に応じて力の出し方を変える例を出されている。これに対し、随自意の譬えとしては、定木が曲がっているところを削り、師子王が相手の力の剛弱にかかわりなく、大力を出す例を出されている。
 そして「この明鏡を以て一切経を見聞するに大日の三部・浄土の三部隠れ無し」と述べられ、諸経…随他意・易信易解、法華経…随自意・難信難解というふうに正しく見分けていくとき、とくに当時、流布していた真言宗の依経たる大日経・金剛頂経・蘇悉地経や浄土宗の阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経のそれぞれの三部経は、すべて随他意、易信易解であり、不成仏の経であることが明瞭となると断定されている。
 ともあれ、以上の問答をとおして、日蓮大聖人は、法華経こそが仏の随自意の難信難解の法門であるがゆえに、一切衆生を悉く成仏させる経であることを強調されているのである。

0992:12~0992:18 第五章 法華経を根本とすべきを明かすtop
12                                   而るを・いかにやしけん弘法・慈覚・智
13 証の御義を本としける程に 此の義すでに隠没して 日本国四百余年なり、 珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれ
14 り、仏法やうやく顛倒しければ 世間も又濁乱せり、 仏法は体のごとし世間はかげのごとし 体曲れば影ななめな
15 り、 幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、 世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まん
16 ことなり、委細の旨又又申す可く候、恐恐。
17       五月廿六日 日蓮花押
18     富木殿御返事
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 それなのに、どうしたわけか弘法、慈覚、智証の義を根本にしてしまったから、日本では法華経最勝の義が隠れてしまい、すでに四百余年がたった。これはちょうど、珠を石に替え、栴檀の香木を凡木に替えたようなものである。仏法がこのように次第次第に顚倒したので、世間もまた濁り乱れてしまった。仏法は本体であり世間法はその影のようなものである。体が曲がれば影は斜めになる。幸いに我が一門は仏の御本意に随って自然に涅槃の海に入ることができるが、世間の学者達は随他意の経を信じているから苦海に沈むことになる。くわしくは、またまた申すことにする。恐恐。
  五月二十六日            日 蓮  花 押
   富木殿御返事

旃檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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薩般若海
 仏の智を海にたとえていった言葉。薩般若は梵語サルヴァジュニャーター(Sarva-Jnātā)の音写で、一切智と訳す。すなわち一切智によって一切の法相に通達するとの意から、仏の智を広大無辺の海にたとえていったもの。
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 これまでに明らかなように、随自意・難信難解の法華経こそ一切衆生皆成仏道の教えであるにもかかわらず、弘法・慈覚・智証の随他意・易信易解の密教の教えにたぶらかされてから、日蓮大聖人が御出現されるまでの、日本国、四百余年間は「珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれり」という状態になってしまったと嘆かれている。法華経を珠、栴檀にたとえ、大日経を石、凡木にたとえられていることはいうまでもない。
 随自意・難信難解の法華経を根本とせずに、随他意・易信易解の密教の教えを根本としたために、この仏法の顚倒によって世間の様相もますます濁乱してきたことを「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり」と述べられて、あらゆる不幸、災厄の根本を指摘されているのである。
 そして、世間の仏教の僧達が随他意の教えを信じて生死の苦海に沈むのに対し、大聖人門下は仏の正しい心にかなっているがゆえに自然に成仏をとげることができるのであると、その法華経を信ずることのできた素晴らしさを述べて結ばれている。
仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり
 仏法と世間の事象とが不離の関係にあり、仏法の正邪が、現実社会の幸不幸を決する根本であることを明快に教えられている。そして、それは日蓮大聖人の御生涯を貫く立正安国の精神の基盤にある大確信でもあられる。
 大聖人の、苛烈なまでの他宗折伏は、どこまでもこの御精神の発露であり、国を想い、民衆をあわれみ、社会の動向を憂える大慈悲と宗教的正義に支えられたものであって、他の何ものでもなかったのである。
 時は移り、社会の様相は変わっても、この法理そのものは微塵も変わるものではない。
 この大聖人の確信と御心を受け継いで、広宣流布を進め立正安国の実現に邁進していくところに、日蓮大聖人の門下としての不変の精神があるのである。

0993~0995    富城入道殿御返事(弘安役事)top
0993:01~0993:06 第一章 病中に執筆する心情を述ぶtop
0993
富城入道殿御返事    弘安四年十月    六十歳御作    与富木胤継    於身延
01   今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比到来せり、 其の外度度の
02 貴札を賜うと雖も 老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候 条其の恐れ少からず候、何よりも去ぬる後の
03 七月御状の内に云く鎮西には大風吹き候て浦浦・ 島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人・又云く理豈然ら
04 んや等云云、 此の事別して此の一門の大事なり 総じて日本国の凶事なり仍つて病を忍んで 一端是れを申し候は
05 ん、 是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、 其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の
06 人人の大科今に始めざる事なり 然りと雖も且く一を挙げて 万を知らしめ奉らん、 
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 今月十四日の御手紙は同じく十七日に到着、またさる閏七月十五日の御手紙も同じく二十日ごろに到着した。そのほかたびたび御手紙をいただいたが、老病の身の上であり、また食事が進まないので、まだ返事をさしあげていないことを恐縮に思っている。
 それらのなかで、なによりも閏七月の御手紙のなかに「鎮西には大風が吹いて、浦浦・島島に破損の船が充満している」、また「京都で思円上人の調伏の祈禱によって蒙古が敗れたといわれている。またそのような道理があるでしょうか」等とあった。このことは、別しては日蓮一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでそのことについて一端を申し上げよう。
 思円の祈禱によって蒙古を調伏したなどということは、ただ、日蓮を葬ってしまおうとして、ないことを造り出したこととかねてから知っている。それは日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大悪事の謀は今に始まっ たことではない。しかし、ここで一例を挙げてすべてをお知らせしよう。

後の七月十五日
 閏7月15日のこと。当時は太陰太陽暦が使用されて、現在使用している太陽暦より一年の日数が少ないため、そのずれた日数を調整するために、19年に7度、閏月が設けられた。
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老病
 老衰によって起こる病気。
―――
鎮西
 九州のこと。天平 14 (742) 年1月筑紫におかれていた大宰府が廃され,翌年 12月鎮西府がおかれた。同 17年6月再び大宰府が復活したが,鎮西府と称され,鎮西は九州の別称として平安時代末期から鎌倉時代にかけて用いられた。
―――
思円上人
  (1201~1290)。叡尊のこと。思円は字。鎌倉時代の律宗の復興者。大和の人。謚号は興正菩薩。本朝高僧伝巻五十九等によると、はじめ密教を学んだが戒律の廃れていることを嘆いて律を学び、自誓受戒した。皇室・公家・幕府などに多く信者を得た。弘安4年(1281)6月、後宇多天皇の勅によって蒙古調伏の祈祷を命じられ、7月、山城国の男山八幡宮で蒙古調伏をしたという。弟子には極楽寺良観等がいる。著書には「梵網古迹文集」十巻などがある。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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七宗・八宗
 俱舎・成美・律・法相・三論・華厳の六宗に真言を加えて七宗。天台宗を加えて八宗となる。
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大科
 重罪、大きなあやまち。
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 本抄は日蓮大聖人が、弘安4年(1281)10月22日、身延で認められて富木常忍に与えられた御消息である。
 本抄の大意は、その5月から7月にかけ北九州地方に襲来した蒙古軍が台風によって壊滅したことについて、世人が思円上人の蒙古調伏の祈禱によると評判しているとの常忍からの書状に対し、大聖人は真言の邪法による祈禱が成就するはずは絶対にないと、承久の乱の先例を詳しく挙げて述べられている。
 まず、富木常忍からの書状に蒙古の軍船が九州の海上で大破したとの報と、それが思円の調伏の効験だとする世評を伝えて質問したのに対して、そのような世評は大聖人を失おうとする諸宗のたくらみであると指摘、それを明らかにするために病をおして本抄を執筆される心情を述べられている。
 富木常忍からの書状は、たびたび身延に届けられていたようだが、大聖人は「老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候」と仰せのように、御病体であったために返報されなかったが、事が重大であり、門下を世評で動揺させないためにも、「病を忍んで一端是れを申し候はん」と、自ら筆を執られたのである。
 弘安4年(1281)5月の池上兄弟への御状に「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」(1105-01)と述べられているように、60歳という御老齢のためや、身延の厳しい気候環境や、衣食の不足、長い間の御苦難のお疲れなどが重なって、当時の大聖人は健康を損なわれていたのである。
鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人……
 富木常忍からの閏7月15日の書状には、襲来した蒙古の軍船が、台風のためにその多くが沈没または破損して壊滅したとの報告がなされていたのである。
 ここで第二次蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」の経過について、簡単に述べてみよう。
 文永11年(1274)10月の第一次蒙古襲来、いわゆる「文永の役」では、蒙古軍は九州上陸後、陸上戦闘で一方的に日本の沿岸警備軍を撃破して大勝しながら、夜になって海上の軍船に引き上げてしまい、その夜半に暴風雨にあって多くの兵船が難破したため、敗退している。
 だが、蒙古の世祖フビライは、日本遠征をあきらめるどころか、翌文永12年(1275)には、再び日本に入貢し服属すべしと勧告した国書を杜世忠らに伝えさせた。鎌倉幕府は、その蒙古使五人を鎌倉郊外の竜の口で頸を斬っている。
 このように強硬な措置をとった幕府は、戦備を固めることに全力をあげ、異国警護番役の規則を厳重にし、北条一族を九州諸国の守護にして派遣したほか、蒙古軍の上陸を阻止するために博多湾沿岸に防塁(石築地)を築くこととした。石築地の工事は、建治2年(1276)から始められ、述べ約20㌔にわたって防塁が築かれたという。
 弘安2年(1279)6月、蒙古への服属をすすめる宋からの牃状をたずさえた使者が対馬に上陸したが、これも斬首している。そのため、蒙古側では外交折衝をあきらめ、弘安3年(1280)には日本遠征を具体化すべく征東行省を設けた。
 弘安4年(1281)5月、900艘の軍船に40,000の東路軍で朝鮮の合浦を進発、21日に対馬を襲い、6月8日に博多湾に入ったが、防塁のために上陸できず、志賀島に拠った。一方、遠征軍の主力である江南軍は遅れて、3500艘の軍船に100,000の大軍で慶元を出発、6月下旬に壱岐を襲ったが、日本軍が奮戦したために上陸をあきらめている。その後、東路軍と江南軍は平戸島あたりで合流し、20日間にわたって海上で遊弋していた。ようやく、7月下旬に肥前(佐賀県)の鷹島に集結している。
 ところが、閏7月1日の夜半から大暴風雨が北九州一帯を襲った、旧暦の7月は秋であり、すでに台風の季節になっていた。しかも、そのときの台風はかなり大型のものだったらしく、それがまともに博多付近を通過したのである。そのため、当時の粗悪な軍船ではひとたまりもなく、ほとんどが沈むか大破した。蒙古軍の大半は戦わずして海中に沈み、鷹島付近に打ち上げられていた敗残兵もことごとく捕えられ、首を打たれた、その数10,000余といわれる。遠征軍140,000のうち、本国へ帰り着いた者はわずかに30,000だったという。
 嵐が過ぎ去った後には、海面をうずめ尽くして、軍船の残骸が無残な姿を示して漂っていたことが当時の記録にも見える。「大将軍の船は……恐れを成て逃去ぬ。残所の船共は皆破損して磯にあがり、興にただよいて、海の面は算を散すにことならず、死人多くかさなりて、島をつくに相似たり」と。
 蒙古軍壊滅の報はただちに京・鎌倉に伝えられ、それを富木常忍が大聖人へお知らせしたのが「鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間……」との一節なのである。
 同時に常忍は、蒙古軍壊滅を、世人は京都の思円上人の祈禱の効験と評判しているが、そのようなはずがあるのでしょうか、との疑問を寄せた。それに対して大聖人は「此の事別して此の一門の大事なり総じて日本国の凶事なり」と、その重要性から本抄を著されたのである。
 思円上人とは、奈良・西大寺の叡尊のことで、叡尊ははじめ高野山で密経を学び、のちに律宗の衰えていることを嘆いて東大寺の覚盛らに授戒し、西大寺に住んで南都の戒律を復活させ、律宗の再興をはかった。そして、皇室、公家、幕府の有力者に多くの信者をもち、亀山上皇や北条時頼などにも授戒している。真言による祈禱をよくしたため、弘安四年の蒙古襲来の際にも朝廷から命ぜられて男山八幡宮で蒙古調伏の祈禱を行じている。ところが、蒙古軍が壊滅したため、京都では思円上人が祈禱したためであるとするうわさが流れ、それが鎌倉にまで伝わったものであろう。また、鎌倉・極楽寺の忍性良観は叡尊の高弟であり、良観らが故意にそうしたうわさを鎌倉にまきちらしたとも考えられる。
 大聖人はそうしたうわさを「是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科今に始めざる事なり」と述べられている。すなわち、それは大聖人を葬るための作りごとであり、そうした諸宗の策謀は今に始まったことではないとの意である。
 真言宗をはじめ諸宗は、大聖人の予言どおり自界叛逆と他国侵逼の二難が起きたことに脅威を感じており、とくに亡国の悪法と破折されている真言宗では、大聖人の諌暁が幕府や朝廷に用いられることをもっとも恐れていたであろう。それが、叡尊の愛染法等の真言密教の祈禱によって蒙古の軍船が覆滅したということになれば、叡尊の名があがるだけではなく、真言密教の霊験が明らかになり、反対に大聖人の破折が誤りだったことが証明される。
 そのために〝思円上人が勅命により男山八幡宮に詣り、7月1日に戒を説き、仁王会を開き、愛染法を修したところ、雷雲俄に起こって西へ向かい、その夜西海に神風が吹いて蒙古の軍船が悉く覆没した〟という筋の虚構の霊験談を作って流布させたのであろう。
 大聖人はその策謀を鋭く見抜かれるとともに、そのことが人々に信じられるようなことがあれば一国の凶事であるとして、本抄で、真言の祈禱は敵を調伏するどころか、国を亡ぼし家も我が身も亡ぼす大禍となることを、歴史の先例を挙げて証明されているのである。

0993:06~0995:01 第二章 真言亡国の前例を承久の乱に見るtop
06                                        去ぬる承久年中に隠岐の法皇
07 義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日
08 鎌倉殿の御代官・ 伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、 然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて
09 同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、 同じき六月十三日其の夜の戌亥の時
10 より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・ 車軸の如き雨は篠を立つるが如し、 爰
11 に十九万騎の兵者等・ 遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり 在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれ
12 て緜の如し、 武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然
13 る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には
14 似る可くも無し武士之を見て 皆臆してこそ見えたりしが、 然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故
15 に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・ 此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁
0994
01 渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、 然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中
02 に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等
03 之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十
04 五壇の法を弥盛んに行われければ 法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け 大法師等の御足を御手にて摩給いしか
05 ば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。
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 去る承久三年に隠岐法皇が北条義時を除くために、義時調伏を比叡山の座主・東寺・仁和寺・七寺・園城寺に命ぜられ、同じ三年の五月十五日、鎌倉幕府の代官・伊賀太郎判官光末を京都の六波羅で殺害させたのである。
 そうする間に同じ五月十九日二十日にその報が届き、鎌倉中が大騒ぎとなって、北条義時は、同五月二十一日東山道・東海道・北陸道の三道から十九万騎の兵を京都に向けて出発させた。同じく六月十三日、その夜の戌亥の時から青天がたちまち曇って雷電が鳴りわたって、武士達の頭の上に懸ったうえ、車軸のような激しい雨は篠を立てたようであった。
 十九万騎の兵達は、遠い道を行軍して、兵乱のために米は尽き、馬は疲れていた。付近の住民は皆逃げ隠れてしまった。冑は雨に打たれて綿のようだった。武士達が宇治・瀬田に押し寄せてみると、いつもなら三丁・四丁の幅の川なのが、大雨のため六丁・七丁・十丁の川幅にもなっている。しかも、一丈・二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木によって流れが塞がれることも間がない。昔、足利利綱と佐々木高綱等が渡った時とは比べることもできなかった。武士はこれを見て、皆臆したようにみえたが、きょうを過ごしてしまうと皆心を飜して京都方に堕ちてしまうだろう。そのために、馬筏を作って向こう岸に渡ろうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千騎、万騎と、そのようにして皆われもわれもと川を渡ったのだが、あるいは一丁、あるいは二丁、三丁と渡りかけても、向こう岸に着く者は一人もいない。こうして緋綴・赤綴等の甲、そのほか弓や箭や刀や薙刀、白星の冑等が川の中に浮かぶ姿は、まるで九月十月ころの紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。
 このことを聞いた比叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等は、真言の秘法・大法の験と喜んだのである。宮中の紫宸殿では、比叡山の座主・東寺・仁和寺の高僧が、真言密教の五壇・十五壇の修法をいよいよ盛んに行じたので、後鳥羽院上皇は感嘆されることこの上もなく、玉の飾りを地につけ、修法の大法師等の足をその手で摩でられたので、そのほかの大臣・公卿等は庭の上へ走り落ちて五体を地につけ高僧等を敬った。
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06   又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔よ
07 り今に至るまで王法に敵を作し奉る者は 何者か安穏なるや、 狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が
08 日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し 遠き例は且く之を置く、 近くは我が朝に代始まつて人王八
09 十余代の間・大山の皇子・ 大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者な
10 し皆頚を獄門に懸けられ 骸を山野に曝す関東の武士等・ 或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国
11 の民為る義時が下知に随う故に かかる災難は出来するなり、 王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に
12 乗せられて東西南北に馳走するが如し 今生の恥之れを何如、 急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして 参参と招きける
13 程に、 何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・ 河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一
14 人も無く山林に逃げ隠るるの間、 四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ
15 或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候に、 今亦彼の僧侶の御弟子達・御
16 祈祷承はられて候げに候あひだ いつもの事なれば秋風に纔の水に敵船・ 賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取
17 たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、 又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、 其の外はい
18 かに申し候とも御返事あるべからず御存知のためにあらあら申し候なり。
0995
01  乃至此の一門の人人にも相触れ給ふべし
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 また宇治・瀬田に出陣した公卿・殿上人は関東武士に対し冑を震いあげて大音声を放っていった。「義時の家来のいなかもの達よ、心して聞け。昔より今にいたるまで王法に敵対した者で安穏であった者がいるか。犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射てかえってその箭が自らの眼にあたらなかったことはなかった。遠い外国の例はしばらくおいて、近くは日本がはじまって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子、大石の小丸をはじめとして二十余人が王法に敵対したが、誰一人として謀叛の目的を達した者はいない。皆獄門に頚をかけられ、骸を山野に曝した。今や関東の武士等、あるいは源氏と平氏、あるいは家柄の良い家々が先祖から相伝えた大君を捨てて、伊豆の国の民である北条義時の命令に随うために、このような災難が起こったのである。王法に背き民の命令に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に駈けまわっているようなものである。これこそ一生の恥であり、これをどうするのか。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ、弓弦をはずして降参せよ、降参せよ」と招いた。ところがどうしたことか。申酉の時にもなると、関東の武士等は川をかけ渡り、勝ちほこって攻撃したので、京都方の武者達は、一人のこらず山林に逃げ隠れてしまった。そこで、関東の武士達は四人の王を四つの島へ流罪にしてしまい、また高僧・御師・御房達は、あるいは住む寺を追われ、あるいはさまざまな恥辱にあって、それから今まで六十年の間、いまだにその恥をすすいでいないと思われているのに、今また、それらの祈禱を修した僧侶の弟子達が祈禱を仰せつけられたようである。そして、いつも吹く秋風によるわずかの波浪で蒙古の船が破損したのを、蒙古の大将軍を生け取りにしたなどといい、祈りが成就したなどと吹聴しているのである。また、祈りが叶ったというならば、蒙古の大王の頸が届いたのかと反問すべきである。そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なお、このことは一門の人々にも伝えておきなさい。

隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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義時
 北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
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調伏
 仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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山の座主
 比叡山延暦寺の貫首・管長。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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御室
 第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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七寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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園城
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
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御代官
 主君の代理として職務に当たる者。
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伊賀太郎判官光末
 鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。伊賀朝光の長男。母は二階堂行政の娘。姉妹に北条義時の継室・伊賀の方がいる。姉妹が鎌倉幕府の執権北条義時の正室である事から、北条氏外戚として重用された。建暦2年(1212年)、常陸国内に地頭職を与えられる。建保3年(1215年)、左衛門尉、検非違使。建保7年(1219年)2月、大江親広と共に京都守護として上洛。
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六波羅
 京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。天暦5年(0951)空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれているとされる。
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山道・海道・北陸道
 古代・中世のころ京都と東国を結んだ三つの街道。①山道、東海道。近江の草津で東海道と別れ木曽・塩尻から武蔵野国に至る(中山道ともいう)。②海道、東海道。近江の草津から桑名・浜松を通る太平洋側の街道。③北陸道、近江・米原から福井を通る日本海側の街道。
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戌亥の時
 現在の午後8時から10時までの間をいう。
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在家
 ①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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宇治勢多
 宇治川と瀬田川に沿った一帯の地名。滋賀県琵琶湖に源を発する瀬田川は勢多・瀬多とも書き、京都府宇治市に入って宇治川に名を変える。古来、東海道から京都に入る要所である。この県境付近は急流となっているが、流れをはさんでしばしば合戦が行われた。
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 長さの単位。現在の109㍍。
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 長さに単位。現在の3.03㍍。
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利綱
 生没年不明。足利俊綱のこと。平安末期の武将。治承4年(1180)に以仁王が源頼政の勧めで平氏追討の宣旨を出した時、子の忠綱とともに、頼政の軍を宇治川で破り、平氏に大勝をもたらした。
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高綱
(~1214)。佐々木高綱のこと。鎌倉初期の武将。源氏と縁故関係にあり、治承4年 (1180)源頼朝挙兵の報を聞いて加わり、石橋山の合戦の時は奮戦して頼朝の危機を救った。寿永3年(1184)義経のもとで義仲追討に加わり、梶原景季との宇治川の先陣争いで名をあげた。戦功により左衛門尉に任ぜられ、長門・備前の守護となった。
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馬筏
 流れの急な大きな川などを騎馬で渡るときにとる隊形を、筏にたとえた語。馬をつなぎ合わせ強い馬を上流に、弱い馬を下流に配置して筏のようにつくる。
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緋綴・赤綴
 ともに鎧の威の一種。威とは鎧の扎を綴る糸または細い革のこと。赤綴は緋綴に比べてやや黒みがかっている。
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弓箭
 弓矢のこと。
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兵杖
 武器。
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白星の冑
 冑の鉢を釘づけする鋲頭の星の表面を銀で包んだもの。
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長月
 旧暦の9月
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神無月
 旧暦の10月
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吉野・立田の河
 ①吉野、奈良県吉野郡吉野。古くからの桜の名所。②立田川、奈良県北西部、生駒山地の東側を南流して大和川に注ぐ川。古くからの紅葉の名所。
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 働き方によって現れる結果。
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内裏の紫宸殿
 天皇が居住する御殿で、正殿・即位・朝賀・節会など公式行事が行われる場所。
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五壇
 五壇法のこと。密教で行われる修法の一つ。密教修法の中で五大明王(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王)を個別に安置して国家安穏を祈願する修法のことである。
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十五壇の法
 後鳥羽上皇の命で承久3年(1221)4がつ19日、密教の髙僧等41人が各寺院で関東調伏のために行った修法が15あったことをいう。祈祷抄にくわしい。
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法皇
 仏門に入った上皇のこと。
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御叡感
 天皇・上皇などの皇族が感嘆・感激すること。
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大臣
 太政官の上官の長。
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公卿
 朝廷や王族に仕える貴族の総称。
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殿上人
 清涼殿に昇ることを許された人。
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毛人
 大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称である。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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狗犬
 犬のこと。
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修羅
 梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
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大山の皇子
 生没年不明。第十五代応神天皇の皇子・大山守皇子のこと。日本書紀巻十一等によると、弟の菟道稚郎子皇子が皇太子に任じられたことに不満を抱き、父の応神天皇の死後、ひそかに弟の殺害を計ったが、密計がもれて逆に殺害された。
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大石の小丸
 生没年不明。日本書紀巻十四の第二十一代雄略天皇13年(0469)8月の条にある播磨国御井隈(兵庫県・詳細不詳)の人・文石小麻呂のことを、鎌倉時代には大石の小丸と誤伝していたものか。日本書紀では暴虐で商客の船を奪い取り、法を犯して租税を納めなかったので、討伐されたと記されている。
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二十余人
 日本国の初代から大聖人御在世当時までに皇帝に敵した数と思われる。
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素懐
 かねてからの望み、平素の志、まえからの願い。
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源平
 源氏と平家。
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高家
 格式の高い家、権勢のある家柄のこと。由緒正しい家。名門。
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伊豆の国
 静岡県東部の伊豆半島をいう。
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下知
 上から下に出す指令・命令。
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申酉の時
 現在の午後4時から6時にあたる。
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四つの王をば四つの島へ
 承久の乱によって後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ配流され、4歳の仲恭天皇は廃された。
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蒙古の大王
 フビライ汗のこと。
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蒙古
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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 本章では、真言によって祈禱・調伏しても、叶うどころか、かえって国を亡ぼし我が身を亡ぼすことになると、承久の乱の先例を詳しく挙げて述べられ、今、例年のように台風が吹いたために蒙古の軍船が破損したのを、真言師らの祈りが成就したなどと主張しているのは偽りである、と破折されている。
去ぬる承久年中に隠岐の法王……
 ここで、承久の乱に京の朝廷方が破れたのは、真言の祈禱によることを、戦乱の経過をとおして述べられている。
 承久の乱はこの段で述べられているとおりの経過で、承久3年(1221)5月14日、朝廷の実権をにぎっていた後鳥羽院上皇の討幕計画により、流鏑馬ぞろえの名目で北面・西面の武士をはじめ、総勢二千騎が鳥羽離宮に集まって幕府追討に決起したことに始まる。幕府側の京都守護の一人だった大江親広をはじめ、大番役で在京した諸国の武士達も多く参加している。
 上皇の意に背いて参加しなかった京都守護の伊賀光季の館は、翌15日、上皇方の軍勢に包囲され、激しい抵抗のすえ滅ぼされた。そして、執権として幕府の実権を握っていた北条義時追討の院宣が、諸国の守護・地頭に向かって発せられた。
 その報が5月19日ごろ鎌倉に届き、朝敵となった幕府側は重大な危機に立たされて動揺したようである。しかし、急を聞いて馳せつけた多くの御家人を前にして、尼将軍と呼ばれた源頼朝の妻政子が熱弁をふるったため、結束して幕府を守り抜くことになった。
 5月21日、義時の長子泰時が大将として鎌倉を出発、東国十五か国の御家人が動員され、吾妻鏡によれば、東海道を北条泰時以下100,000余騎、東山道を武田信光ら50,000余騎、北陸道を北条朝時ら40,000四万余騎と、合計190,000騎の大軍が京へ向かったとされている。
 六月六日、木曽川沿岸の防御陣地を破られた上皇方は、全軍を集めて京都防衛の最後の要衝であった宇治川での決戦を期した。幕府側は宇治へ北条泰時、勢田へ北条時房が向かい、6月13日、降り続く豪雨の中で戦いが始まった。守る上皇方は宇治・勢田の橋板をすべて引き落として幕府方の進撃を阻み、橋げたを伝わったり川を渡ろうとする東国勢に雨霰と矢をふりそそいだので、さすがの坂東武者も攻めあぐんだ。
 しかし、翌14日の明け方、宇治の泰時軍が強引な攻撃を行い、濁流に流されたり、矢でうちとられるなど多くの犠牲者を出しながら、川を渡ることに成功したのである。そのため、上皇方は総崩れとなり散りぢりに敗走していった。
 幕府側の大軍が京に侵入したため、後鳥羽上皇はあわてて義時追討の宣旨を取り消し、「今回の討幕計画はすべて謀臣らのなせることで、よって藤原秀康・三浦胤義らの追討を命ずる」という宣旨を発したのである。泰時・時房らは16日に六波羅の館に入り、上皇側近の公卿6人を首謀者として捕え、処刑したうえ、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳天皇を佐渡へ、土御門上皇を土佐へ配流し、仲恭天皇を退位させ、後堀川天皇を皇位につけるという厳しい報復措置をとった。
 この間の経過については、「祈禱抄」にも「承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時、関東調伏の為、隠岐の法皇の宣旨に依って始めて行はれ御修法十五壇の秘法(中略)五月十五日伊賀太郎判官光季京にして討たれ、同十九日鎌倉に聞え、同二十一日大勢軍兵上ると聞えしかば、残る所の法、六月八日之れを行ひ始めらる(中略)五月二十一日武蔵守殿が海道より上洛し、甲斐源氏は山道を上(る、式部殿は北陸道を上り給う。六月五日大津をかたむる手、甲斐源氏に破られ畢んぬ。同六月十三日、十四日、宇治橋の合戦、同十四日に京方破られ畢んぬ。同十五日に武蔵守殿六条へ入り給ふ。諸人入り畢んぬ。七月十一日に本院は隠岐の国へ流され給ひ、中院は阿波の国へ流され給ひ、第三院は佐渡の国へ流され給ふ。殿上人七人誅殺せられ畢んぬ」(1353-09)と述べられている。
 この承久の乱により、京の朝廷と鎌倉幕府の立場が逆転したといってよく、律令制国家なって以来、不可侵の存在であった天皇方が惨敗したことによって、幕府こそ天下の実力者であり、支配者であることを世に示すとともに、東国を支配する地方政権ともいえた幕府の勢力が、西国へ浸透して全国規模に拡大強化されたのであり、「武士の世」の到来を告げた、日本の歴史の上で重大な分岐点・転換点だったといえる。
 本文中に「今日を過さば皆心を翻し堕ちぬ可し」と仰せのように、戦いが長引いて幕府方が不利になるようなことがあれば、もともと、上皇の宣旨に背き、朝廷に敵対することに恐れを抱いていた御家人達の多くが、心をひるがえして朝廷方についてしまう恐れが多分にあったのである。北条泰時が京へ出陣する時、上皇自ら出陣されたらどうしたらいいかと父義時にたずねたところ、そのときは弓のつるを切って降参せよ、と義時が答えたという逸話も伝えられており、幕府側の雰囲気を伝えている。
 大聖人は、なぜ国主である上皇方が破れ、臣下である義時側が勝って実権を握ったのかについて、諸御書で次のように評されている。
 「承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず(中略)いかにいのらずとも大王の身として民を失わんには大水の小火をけし・大風の小雲を巻くにてこそ有るべけれ、其の上大火に枯木を加うるがごとく・大河に大雨を下すがごとく・王法の力に大法を行い合せ(中略)頼朝と義時との御魂・御名・御姓をば・かきつけて諸尊・諸神等の御足の下にふませまいせていのりしかばいかにもこらうべしともみへざりしに・いかにとして一年・一月も延びずして・わづか二日一日にはほろび給いけるやらむ」(1520-05)
 「隠岐の法皇の御宇に至つて一災起れば二災起ると申して禅宗・念仏宗起り合いぬ……此の三の大悪法鼻を並べて一国に出現せしが故に此の国すでに梵釈・二天・日月・四王に捨てられ奉り守護の善神も還つて大怨敵とならせ給う然れば相伝の所従に責随えられて主上・上皇共に夷島に放たれ給い御返りなくしてむなしき島の塵となり給う詮ずる所は実経の所領を奪い取りて権経たる真言の知行となせし上日本国の万民等・禅宗・念仏宗の悪法を用いし故に天下第一・先代未聞の下剋上出来せり而るに相州は謗法の人ならぬ上・文武きはめ尽せし人なれば天許し国主となす」(0354-10)
 すなわち、朝廷方が亡国の大悪法である真言の修法によって幕府を調伏したために、悪法によって人を害そうとすると祈りが逆になって自らが破れるという法理どおりになり、主君を臣下が流罪するという前代未聞の異常事態が起き、天下の実権が北条義時に移ったのである、と仰せになっている。
 また、真言の祈禱に加えて、禅・念仏の二宗が流布したことも、その因となっていると指摘されているのである。
 なお、調伏のための修法については「十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星王・太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して命を召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり」(0372-08)と仰せであり、また「祈禱抄」にも詳しく述べられている。
 朝敵を降伏して密厳浄土へつかわすはずの修法をしながら、反対に朝廷方が簡単に幕府側との戦いに敗れて、三上皇が臣下によって辺土に配流されるという亡国の結果になっているのだから、まさに還著於本人というしかないのである。
 真言亡国の先例について、大聖人は、承久の乱以外にも、平氏一門が政治を私して乱したうえ、源頼朝を真言で調伏したため安徳天皇とともに滅亡したことを挙げられている。
今亦彼の僧侶の御弟子達……問い給うべし
 大聖人は、承久の乱の先例を詳しく述べたられうえで、その折に祈禱を修した僧達の弟子等が、今また蒙古襲来にあたって調伏を命ぜられているのだから、その祈りは、成就するどころか、かえって国を亡ぼす悪行となるであろうと警告されているのである。そして、だからこそ叡尊の祈禱が成就したなどと世人が考えることを「日本国の凶事なり」とされているのである。
 叡尊に限らず、蒙古調伏の祈禱・祈願を行った社寺の中には、我が祈禱の効験だとして、朝廷や幕府に恩賞を請求するところまで現れていた。
 そして、蒙古の軍船が破損・沈没したことは、例年のように北九州地方を襲った台風による波浪のためにすぎないとされ、それにもかかわらず、蒙古の大将軍を生け捕りにしたなどといい、祈りが成就したと言いふらしているのであると、諸宗の主張が虚構であることを指摘されている。
 そして、もしも祈禱が叶ったと主張するのなら、蒙古の大王の首が届いたのかと反論すべきであると教えられ、蒙古の大王が討ち死にしたか降伏したのでない限り、禍いの根が断たれたわけではなく、調伏が成就したとはいえないと指摘されているのである。
 事実、蒙古の世祖フビライは、二度にわたる侵攻の失敗にもかかわらず、日本遠征をあきらめたわけではなく、その後も日本行中書省を二度、三度と復活して遠征の準備を進めたが、中国本土や、高麗、ベトナムなどで反乱や紛争が続発したために実行されず、永仁2年(1294)にフビライが死んではじめて、日本遠征計画に終止符が打たれている。
 幕府側も蒙古があきらめたとは思えなかったので、その後も、九州の異国警護番役と石築地の築造を継続しており、そこから生まれた御家人の経済的負担や政治的不満が、鎌倉幕府を滅亡させる一つの大きな原因となったのである。
 なお、大聖人は、蒙古の大軍が九州に襲来したことを知られた直後の弘安4年(1281)6月16日、「人人御中」として門下一同に対して「小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり」(1284-01)と通知されている。
 すなわち、蒙古軍襲来について、門下の者が、他人に対しても、またうちうちのなかでも話題にして、大聖人の予言が的中したことを誇ったり語ったりしてはならないと命ぜられ、それに背いた者は破門にする、と厳しく戒められたのである。
 大聖人の「立正安国論」の予言は、あくまでも人々に正法を信受させるための諌言であり、日本の国が滅びることを座視されたものではない。大聖人が日本の安穏と民衆の幸福を心から祈願されていたことは、「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-16)等の御文に明らかである。
 御本仏日蓮大聖人がおられ、その大慈悲に包まれていたればこそ、日本は二度の他国侵逼の大難を切りぬけることができたのである。

0995:01~0995:05 第三章 法華堂修築に御供養を充つtop
01                     又必ずしいぢの四郎が事は 承り候い畢んぬ、予既に六十に及び候へば
02 天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ みぐるしげに候房をひきつくろい候ときに・ さくれうにおろして候な
03 り、銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、恐恐。
04       十月二十二日 日蓮花押
05     進上富城入道殿御返事
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 また、椎地四郎のことは承知した。
 日蓮はすでに齢六十にもなったので、天台大師の御恩を報じようと思って、見苦しくなっている房を修繕、改築する費用に御供養の銭を下して使用した。
 銭四貫文を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい。恐恐。
  十月二十二日             日 蓮  花 押
   進上 富城入道殿御返事

しいぢの四郎
 大聖人御在世当時の信徒。弘長元年(1261)「椎地四郎殿御書」をいただいている。詳細は不明だが四条金吾と交流があったと思われる。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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天台大師の御恩……
 大聖人は天台大師への報恩として、天台大師の忌日である11月24日に法会を行われた。文永7年(1270)11月の金吾殿御返事に「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候」(0999)と仰せになっていることから、文永三、四年ごろから始められていたと思われる。法会には、天台大師の画像を安置して、読経、法華経や摩訶止観等の著作の談義も行われていたらしい。
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 僧房のこと。修行僧の居所。房所ともいう。もと寺院で僧の住する区域を坊と呼び、坊の中にいくつかある建物を房と称したが、後には坊は房と混同された。日蓮大聖人は身延入山後庵室を作られ、建治3年(1277)に一度修理を加えられたが、手狭であり、建物も痛みが激しくなって来たので、本抄を御執筆された弘安4年(1281)10月に大坊の建設に着手した。11月1日に小坊と馬屋が完成し、8日に柱だて、9日10日に屋根を葺き終え、11月23日に10間四面の大坊建設が落成している。
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 宿坊のこと。
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さくれう
 ①物を作る代金。②耕作地を借りる代金。
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一閻浮提第一
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。 すなわち世界一のこと。
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法華堂
 法華経を修行する道場。
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霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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 本抄の結びにあたって、富木常忍から供養された銭四貫文を、身延の大坊造営の費用にあてたことを述べて謝意を表されている。
 椎地四郎のことは承知したと仰せになっているが、その内容はわからない。椎地四郎については、弘長元年(1261)4月28日付けで大聖人から御消息をいただいており、その中に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」(1449-02)との御文があるところから、四条金吾と親交があったことがうかがわれる。現在の静岡県沼津市に「椎路」という地名が残っているところから、そのあたりの住人だったとも考えられる。
 いずれにせよ、古くからの門下であった椎地四郎に関して、富木常忍のほうから何らかの報告があったものであろう。
 つぎに、富木常忍から御供養された銭四貫文を、身延の房を修繕する費用として用いたとことわられ、それで「一閻浮提第一の法華堂」を造立したとされているのは、弘安4年(1281)11月23日に完成した十間四面の身延の大坊をさしておられる。
 一閻浮提第一の御本尊が後安置され、一閻浮提第一の法華経の行者が住される所であるゆえに、こういわれたのである。
 文永11年(1274)に大聖人が身延へ入られた時建てられた最初の草庵は、3年後の建治3年(1277)にははなはだしく破損したために修復の手が加えられており、その後も修繕や建て増しでしのがれてきたが、弘安4年(1281)11月に、十間四面の大坊として建て直されたのである。
 弘安4年(1281)11月25日に波木井実長へ与えられた地引御書に「坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ……十一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる・八日は大坊のはしらだて九日十日ふき候い了んぬ」(1375-01)と、大坊建設のようすが詳細に述べられている。
 そして、この御文に「二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつり」(1375-01)といわれているところから、天台大師の忌日である11月24日に、新築なった大坊で、天台大師講がとり行われ、延年の舞いも演ぜられているのである。
 大聖人はこの大坊を「身延山久遠寺」と命名されたのである。おそらく銭四貫だけで出来たわけではなく、建立費用の一部として用いられたのであろうと思われるが、富木常忍の御供養が造立の資となったことについて、来世にわたる功徳善根を積んだことを確信するよう述べられているのである。

0995~0998    治病大小権実違目(治病抄)top
0995:01~0995:05 第一章 御供養の御礼を述べるtop
治病大小権実違目    弘安五年六月    六十一歳御作
01   富木入道殿御返事 日蓮
02   さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ。
03   今度の人人のかたがたの御さいども佐衛門尉殿の御日記のごとく給い了んぬと申させ給い候へ。
04   太田入道殿のかたがたのもの・ ときどのの日記のごとく給い候了んぬ 此の法門のかたづらは佐衛門尉殿にか
05 きて候、こわせ給いて御らむ有るべく候。
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 富木入道殿御返事               日  蓮 (本文に入る前の先付け文)
 左衛門殿にことづけられた帷子たしかに頂戴した。
 今度の人々のそれぞれの御供養も左衛門尉殿の書き付けにあったようにいただきましたとお伝えいただきたい。
 太田入道殿の方々の品、富木殿の書き付けのようにいただいた。この書に認めた法門の一端は左衛門尉殿に書いて送ってあるので、借用して拝見されたい。

さへもん殿
 (1230頃~1300)四条金吾のこと。詳しくは四条中務三郎左衛門尉頼基と称する。日蓮大聖人御在世当時の信徒。北条氏の一族である江馬家に仕えた武士であり、医術にもすぐれていたといわれる。弘安5年(1282)の大聖人御入滅に際しても、最後まで看病にあたった。
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便宣
 ① ある目的や必要なものにとって好都合なこと。便利がよいこと。②特別なはからい。そのときに適したやり方。③音信。
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御かたびら
 ここでは夏に着る麻、木綿、絹などで作ったひとえの着物。
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御さい
 仏事法要の時などに食を供養するのを斎食といった。ここでは供養の品々をさしていると思われる。
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御日記
 ①事実を記録すること。②日々の出来事や感想を日付をつけてまとめたもの。
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太田入道殿
 (1222~1283)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。大田乗明・太田金吾・大田左衛門尉ともいう。千葉氏の家臣であり、下総国葛飾郡八幡荘中山郷(千葉県市川市中山)に住み、富木常忍、曽谷教信らとともに、下総中山を中心に外護の任にあたった。建治元年(1275)次子を出家させ、自身もまた弘安元年(1278)頃に入道して妙日の号を賜り、その住居を本妙寺とした。
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 本抄は「さへもん殿」すなわち四条金吾に託して届けられた富木常忍の御供養と御手紙に対する御返事である。この「さへもん殿」と後に出てくる「左衛門尉殿」とは同じで四条金吾であることは、ほぼ疑いない。
 さて、本抄の御真筆は、中山法華経寺に現存しており、その最初には、富木入道殿御返事としたためられているが、その内容から「治病大小権実違目」、略して「治病抄」「治病事」等とも呼ばれている。
 本抄の御真筆の巻尾には、6月26日とあるが、年号は記されていない。系年については、弘安元年(1278)説と弘安5年(1282)説がある。
 弘安元年説は、四条金吾に与えられた「二病抄」との関連に基づいている。
 つまり、本抄に「此の法門のかたづらは佐衛門尉殿にかきて候」と仰せであり、四条金吾への御手紙が予想される。それが二病抄であることは「夫れ人に二病あり、一には身の病……二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり」(1178-01)と書き始められ、心の病の浅深勝劣に筆を進められる内容を見れば明瞭である。
 また、本抄の冒頭に富木常忍が帷子を四条金吾に託していることが記されているが、「二病抄」には「ときどののかたびらの申し給わるべし」(1179)とあり、帷子御供養についての状況も一致している。
 また、本抄には「御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云」と認められており、二病抄にも「今の日本国去今年の疫病」(1179-15)と記されており、疫病の流行に関する状況も一致している。
 二病抄の末尾にも6月26日と記されている。もとより、二病抄も月日が記されているのみであり、年代は確定していないが、疫病流行の記録等から総合して、本抄は、二病抄と同じく弘安元年(1278)6月26日の書と考えられる。
 なお、弘安5年(1282)説には、適切な論拠は見当たらない。
 この部分の示す具体的事情は、少しこみいっていてわかりがたいが、おそらく6月25日の天台大師講のために四条金吾が各地の信徒達からの御供養の品々をとりまとめて代表して身延に参詣してきたのであろう。富木常忍は帷子を御供養し、太田入道の御供養は富木常忍が受け取りその目録を記して四条金吾に託した。四条金吾自身も、おそらく鎌倉の後輩の人々の御供養を預かりその目録を記して持参したのに違いない。
 そこで大聖人は、四条金吾が帰っていったあと、手紙をしたためられて、各地に帰っていく門下のお弟子に託されたのではないだろうか。その時、四条金吾にあてては「二病抄」を書かれ、富木常忍に対しては本抄をしたためられたのであろうと思われる。 

0995:06~0996:06 第二章 身の病と心の病を示すtop
06   御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云、夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一
07 風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此
08 れを治するにゆいて愈えずという事なし、 二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・
09 六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、 又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、六道の凡夫の
10 三毒・八万四千の心病は小仏.小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師.人師此れを治するにゆいて愈えぬべし、但し此
0996
01 の小乗の者等・ 小乗を本として或は大乗を背き或は心には背かざれども 大乗の国に肩を並べなんどする其の国其
02 の人に諸病起る、 小乗等をもつて此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし、 諸大乗経の行者をもつて此
03 れを治すれば則ち平愈す、又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して我が宗は或
04 は法華経と斉等或は勝れたりなんど申す人多く出来し 或は国主等此れを用いぬれば此れによつて三毒・ 八万四千
05 の病起る、 返つて自の依経をもつて治すれども・いよいよ倍増す、 設い法華経をもつて行うとも験なし経は勝れ
06 たれども行者・僻見の者なる故なり。
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 御手紙には「疫病がいよいよ盛んに流行している」等とあった。
 いったい、人には二つの病がある。一つには身の病。これは地大百一、水大百一、火大百一、風大百一の以上四百四病である。この病は、たとい仏ではなくともこれを治すことができる。治水・流水・耆婆・扁鵲等の名医が薬で治療することによって快癒しないということはない。
 二には心の病。これはいわゆる貪瞋癡の三毒から八万四千の病がある。この病は二天・三仙・六師等も治すことが難しい。まして神農・黄帝等の薬ではとうてい及ばない。
 また、心の病は重々に、浅深・勝劣が分かれている。六道の凡夫の三毒から八万四千の心の病は、小乗の仏、小乗の阿含経、倶舎・成実・律宗の論師・人師が、これを治せば癒る。ただし、この小乗の者等が、小乗に執着し、あるいは大乗に背き、あるいは背かないが大乗の国に肩を並べようとすると、その国や国民に諸病が起こる。それを小乗等をもって治療にあたれば、諸病は増大するばかりで治ることはない。諸大乗経の行者がこれを治せば、病は平癒することができる。
 また、華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人々でも、それぞれに劣謂勝見を起こして、我が宗は法華経と斉しいとか、あるいは法華経より勝れているなどという人が多く出てきて、国主等がこの誤りを用いれば、これによって三毒・八万四千の病が起こるのである。権大乗の人々が、自らの依経をもって治そうとしても、かえって病はますます倍増する。彼らが法華経で治療にあたっても功力はあらわれない。それは経は勝れてはいるが、行者が誤った者だからである。

疫病
 悪性のウイルスによる伝染病。
―――
身の病
 地・水・火・風の四大によって起こる病。
―――
治水・流水
 金光明経巻三に説かれる名医の親子。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来がおり、涅槃した後、像法の時代に天自在光王がいた。王は正法を修行し、法の教えるとおりに世を治めていた。この国に治水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。ある時、国内に疫病が流行した。治水は年老いて治療にあたれなかったが、子の流水は父から法を学んで、治水に代わって病の治療にあたり、国中の人々を疫病から救ったという。
―――
耆婆
 梵語ジーヴァカ(Jīvaka)の音写の略。釈尊在世当時の名医。阿闍世王の侍医。画期的な外科療法を行なったといわれる。涅槃経巻十九によると、仏法を深く信じ、阿闍世が父を殺害し、全身に瘡ができ臭穢を放って悔悟していた時、釈尊に帰依することを勧めたことが説かれている。
―――
扁鵲
 中国・春秋戦国時代の名医。史記列伝第四十五によると、姓は秦、名は越人。渤海郡鄭(河南省)の人。長桑君という隠者より医術を伝授され、扁鵲はあらゆる医術に長じた。諸国をめぐって医業を行ない、その名声は天下に聞えた。しかし、秦の太医令の李醯にねたまれ、刺客を向けられて殺害されたという。
―――
方薬
 調合された薬。処方薬。
―――
心の病
 貧・瞋・癡の三毒によって起こる病。
―――
三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
―――
八万四千の病
 実際の数というより、大数・多数をあらわしている。「御義口伝」(0775)に「八万四千とは我等が八万四千の塵労なり南無妙法蓮華経と唱え奉る処にて八万四千の法門と顕るるなり」とある。
―――
二天
 もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、梵語マヘシバラ(Maheśvara)と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
―――
三仙
 インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派、サーンキヤ学派(Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じく六派哲学の一つ、勝論学派、バイシェーシカ学派(Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道(ジャイナ教)の開祖であるといわれている。
―――
六師
 釈尊在世時代に中インドで勢力を持っていた6人の外道の思想家。富蘭那迦葉・末伽梨拘舎梨・刪闍耶毘羅胝子・阿耆多翅舎欽婆羅・迦羅鳩駄迦旃延・教尼乾陀若提子
―――
神農
 中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる王。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。
―――
黄帝
 中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。史記五帝本紀等によると、少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。すでに徳の衰えていた神農の子孫と戦い、これを破って神農氏の子孫に代わって帝位についた。五行説にいう黄竜のような土徳があったので、黄帝と呼ばれた。衣服・貨幣の制をはじめ、医薬の方法を定めた。
―――
六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
小仏
 小乗教の仏。
―――
小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
阿含経
 釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
成実
 四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
―――
律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
論師
 毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――
人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
―――
大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
華厳経
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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劣謂勝見
 「劣を勝と謂う見」と読む。自己の見解に執着し、増上慢を起こして、劣っているにもかかわらず勝れているという考え方。五利使・辺見・邪見・見取見・戒禁取見のうちの見取見と同義。倶舎論巻十九に「劣に於いて勝と謂うを、名づけて見取と為す」とある。
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 働きかけによって現れる結果・利益。
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僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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 富木常忍が大聖人への手紙の中で、このごろ疫病がますます盛んになってきたと報告したのに対し、日蓮大聖人は、病にも心身の二病があり、身の病はまだ治しやすいが、それより治し難い、重い病が心の病であることを示される。
 身の病とは、四大の不調和によって起きる病気であり、一方、心の病は三毒等の煩悩がひきおこす病気である。身の病は医学によって治せるが、心の病は、仏法でなければ治しえないものである。
 さらに、心の病にも浅深、軽重があることを五重相対の規範から論じられている。
 まず、内外相対の立場からは、六道の凡夫が外道の範疇で起こす心の病は、小乗教によって治すことができる。しかし、小乗の者が、自教に執着して大乗に背いたり、肩を並べようとすることによって起こった病は、小乗教で治そうとしても、逆に悪化してしまう。これは大乗経で治すことによって初めて癒すことができる。これは、大小相対の立場である。
 権実相対では、権大乗の者が、法華経と等しいとか、法華経に勝るなどと主張し、その邪見を国主が用いたりすると、社会に病気がまんえんする。
 これらの病気は権大乗教で治そうとしても、逆に悪化する。法華経によって治す以外にはないのであるが、たとえ法華経によったとしても、法華経こそ最第一の正法であることを知らない権大乗の行者が行った場合は、全く効果はない。
 ここで「心の病」といわれているのは、生命の濁りそのものであるとともに、この生命の濁りが原因となって生じている身の病をも指しておられる。心の病が因となっている身の病は、たんに身体の治療だけでは治らないからである。
 その心の病にも重々の浅深勝劣があるゆえに、その病の質、程度に応じて、適切な治療をすることが肝要となる。
身の病と心の病
 前述したように、身の病とは、地水火風の四大の不調和がひきおこす疾病のことをいう。仏法では人間の身体は、四大によって構成されるとしており、四大が質、量ともに調和している時は健康であるが、そのバランスが崩れた時に病気になると考える。
 四大の不順をもたらす誘因としては、気候の変化、食物の過不足、生活のリズムの乱れ、種々の微生物等が挙げられる。
 四大不順の症状について、例えば、五王経には、次のように記されている。
 「人に四大有り。和合して其身を成ず、何を四大と謂う、地大水大火大風大なり、一大不調、百一の病を生ず、四大不調、四百四病なり、同時に具作す、地大調わざれば挙身沈重、水大調わざれば挙身膖腫、火大調わざれば挙身蒸熱、風大調わざれば、挙身掘強にして百節苦痛す」。
 四大はそれぞれ独自の性質をもっている。地大は堅性、水大は湿性、火大は熱性、風大は行動性である。四大がそれぞれ特質を発揮し調和しあって健康状態をつくりだしているのである。
 ところが、そのバランスが乱れて、地大が増大しすぎると「挙身沈重」となる。全身が太って沈重になる。水大の増加は「挙身膖腫」となり顔や手足に浮腫ができる。火大の熱性が異常に高まると「挙身蒸熱」になる。発熱や下痢をひきおこす。風大の行動性の異常な増加は、スムーズな気の動きをなくし、疼痛や戦掉を起こす。「挙身掘強」して、「百節苦痛」の症状があらわれる。
 摩訶止観巻八上にも、同様の記述が見られる。「若し身体苦重にして堅結し疼痛し、枯痺痿瘠するは是れ地大の病相なり。若し虚腫脹胮するは是れ水大の病相なり。若し身を挙げて洪熱し、骨節酸楚し、嘘吸頓乏なるは是れ火大の病相なり。若し心懸かに忽怳し、懊悶忘失するは是れ風大の病相なり」。
 この考え方は、広く東洋医学の根本思想となったもので、東洋の医師は、患者にあらわれた四大の病相を詳しく観察し、そこから四大の不順の状況を把握し、治療の方針を立てるのである。
 ゆえに、名医であれば、病相から四大の状況を洞察することが可能である。治療は種々の方法を使って四大の調和を再び取り戻すことをめざす。
 このような診察と治療のあり方は、西洋近代医学とは全く方法論を異にするものといえよう。
 つぎに、心の病については、大智度論巻五十九には、次のように記されている。
 「根本の四病は、貪・瞋・癡・等分にして、婬欲の病に二万一千を分ち、瞋恚の病に二万一千を分ち、愚癡の病に二万一千を分ち、等分の病に二万一千を分つなり」。
 心病は三毒を基本にして起きる病気である。貪欲の病、瞋恚の病、愚癡の病、等分の病がある。等分とは、三毒が等分にかかわって起きる病を指している。
 人間の心の中に渦巻いている三毒をはじめとするさまざまな煩悩によって心の世界の調和が乱れると、心病が発現してくるのである。
 煩悩による心病を洞察し、その治療法を求めるところに、仏教の卓越性が認められよう。もともと、仏教医学は、インド医学を母体にしており、身病の診察法や治療法は、インド医学を取り入れたものである。しかし、仏教を基盤にして心の病に取り組んだところに、仏教医学はインド医学の一支流ではなく、独自の医学体系を形成するに至ったのである。
 さて、本抄では病気を身心の二病に分けられているが、前述したように、病気が身体の病と心の病として大別されて存在するという意味ではない。
 いかなる病気も、身体的側面と心理的側面をもっているのであり、そのなかで病気をひきおこした原因が主として身体的側面に見いだされる場合を身の病と呼び、主な原因が心の中の煩悩にあるケースを心の病とよぶのである。
 現代西洋医学においても、身体病、心身症、神経症、精神病というように大別する場合がある。身体病の原因は主に生理的側面にあり、精神病はいうまでもなく心理的側面の病である。しかし、生理的、物質的原因によって起きたと思われる身体病でも、心の働きが深くかかわっている。
 また、逆に、精神、心の働きが主要因であると考えられる精神病にも、生理的基盤が見いだされる場合もある。
 ただし、その場合も、精神病の主要因が心それ自体にあり、心の快復がなければ全治は望みえないという事実に変わりはない。
 心身症、神経症は、両者の中間に位置するもので、生理と心理がともにかかわっている。
 ゆえに、どのような病気でも、身体的側面と心理的側面からの治療が要請されるのである。現代の医学では、身体的側面のかかわりは、西洋近代医学や漢方医学が担っている。だが、心の世界へのかかわりは、西洋の場合、心身医学としてようやく手をつけ始めたばかりであり、心の領域に渦巻く煩悩のコントロールは、きわめて至難の作業である。
 しかし、現代社会においては、人間のストレスが強まり、心理的原因に基づく心身症、神経症、精神病等が激増の傾向にある。
 ここに、心の病の治癒に偉大な光明を投げかけた仏教が着目され、求められるべき所以がある。
心の病・重重に浅深・勝劣分れたり
 心の領域は広大であり、仏法は、それが空間的には宇宙大であり、時間的にも宇宙の始源を包含していることを明らかにしている。
 ゆえに、このような心の領域に含まれる煩悩にも、重々に浅深・勝劣があり、生命の表層部に生起する浅く弱い煩悩もあれば、深層部から湧き起こる強く強烈な煩悩もある。
 仏教はそうした、人々の煩悩の浅深に応じて、浅い法から深い法へと、重々の法門を説いたのである。浅い煩悩ならば浅劣な法でも治療できるが、深い煩悩が生起すれば、勝れた法でなければ治すことはできないのである。
 六道の凡夫の煩悩はたとえば社会的、心理的ストレスによって起こる瞋恚や貪欲等の煩悩であり、これによる心の調和の乱れは心の深層部までは及んでいない。ゆえに、小乗のような劣った法であっても調整し快復させることができるのである。
 しかし、小乗教の浅く劣った教えに執着して大乗教に背くと、この心奥の煩悩が原因となって、六道の凡夫の心病よりも治療しがたい難病を生ずるのである。小乗教に執着する者に特有の心病は六道の凡夫とは比較にならない強い自我意識にとらわれた利己主義である。これによって出てくる三毒は、六道の凡夫の三毒よりも一段と強烈なものである。
 例えば、他者への瞋りは、心身症をひきおこしやすい。六道の凡夫の心身症の基盤にある瞋りはまだ根が浅い。だが、小乗教にとらわれた者の起こす瞋りは、一段と根が深くなる。
 この場合、六道の凡夫の心身症も、二乗の心身症も、病気としては同じ種類に属する。しかし、皮膚病をひきおこしている瞋りが、何を対象とし、生命のいかなる深さから出てきているかによって、その治癒の難易は全く違ってくるのである。
 小乗教に執着している二乗の心身症は、大乗教によって利己主義を打ち破り利他の精神に転換させない限り治すことはできない。もし、この病気に小乗を用いたならば、利己主義を助長し、その病状を悪化させるだけである。
 つぎに、大乗仏教にも権大乗教と実大乗教とがある。権教は、小乗教よりは一段深い生命の次元を説いているものの、まだ部分観をまぬかれず、宇宙の源泉にまでは達していない。時間的にも、永劫の過去にはとうてい及ばない。実教である法華経のみが、空間的にも時間的にも生命の奥底を究め全体像をあますところなく説いているのである。
 ゆえに、権大乗教を絶対と思い込んで法華経に敵対し、法華経に等しいとか勝れる等の邪見を起こせばきわめて深刻な諸病を誘発してしまうのである。部分による全体の混乱は、生命の底辺からの調和を極度の破壊に導くからである。

0996:07~0997:03 第三章 迹門・本門と文底を明かすtop
07   法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、 例せば爾前と法華経との違目よ
08 りも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども 相似の辺も有りぬべし、 所説に八教あり爾前の円と迹門の円
09 は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、 今本門と迹門とは教
10 主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、 弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、 而るを本
11 迹を混合すれば 水火を弁えざる者なり、 而るを仏は分明に説き分け給いたれども 仏の御入滅より今に二千余年
12 が間三国並びに一閻浮提の内に分明に分けたる人なし、 但漢土の天台・日本の伝教・此の二人計りこそ粗分け給い
13 て候へども 本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず、 詮ずる処は天台と伝教とは内には鑒み給うといへども
14 一には時来らず 二には機なし三には譲られ給はざる故なり、 今末法に入りぬ地涌出現して弘通有るべき事なり、
15 今末法に入つて本門のひろまらせ給うべきには小乗・ 権大乗・迹門の人人・設い科なくとも彼れ彼れの法にては験
16 有るべからず、 譬へば春の薬は秋の薬とならず設いなれども春夏のごとくならず何に況や彼の小乗・権大乗・法華
17 経の迹門の人人或は大小権実に迷える上・ 上代の国主彼れ彼れの経経に付きて 寺を立て田畠を寄進せる故に彼の
18 法を下せば申し延べがたき上・ 依怙すでに失るかの故に大瞋恚を起して 或は実経を謗じ或は行者をあだむ国主も
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01 又一には多人につき或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故・或は自身の愚癡の故・ 或は実教の行者を賎しむ
02 ゆへ等の故彼の訴人等の語を・をさめて実教の行者をあだめば実教の守護神の梵釈・日月・四天等・其の国を罰する
03 故に先代未聞の三災・七難起るべし、所謂去今年・去ぬる正嘉等の疫病等なり。
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 法華経にまた二経がある。いわゆる迹門と本門である。この本迹の相違は火と水、天と地ほどの違いなのである。たとえば爾前経と法華経との違いよりもさらに相違がある。爾前経と迹門は相違があるといっても似ているところもあるのである。
 釈尊の説かれた教えに八教がある。そのなかで爾前の円教と迹門の円教とは似ている。爾前の仏と迹門の仏は劣応身・勝応身・報身・法身というように異なってはいても、始成正覚の立場であることは同じなのである。
 いま本門と迹門とは、教主に久遠実成と始成正覚の違いがある。たとえば百歳の翁と一歳の幼子のようなものである。仏の弟子もまた水と火ほど違いがある。所住の国土の先後もいうまでもない。これほどの相違があるのに、本門と迹門を混合するのは、水と火との区別を弁えないようなものである。
 ゆえに釈尊はこれを明確に説き分けられたのであるけれども、御入滅から今にいたる二千余年の間、インド・中国・日本の三国並びに一閻浮提のなかで、明らかに分けた人はいないのである。ただ中国の天台大師、日本の伝教大師の二人だけが、あらあら分けられたが、本門と迹門との大事な法門があるなかで、法華円頓の戒法はいまだ明らかにされなかった。これは結局、天台大師と伝教大師の二人は、内心ではご存じだったが、一つには時が来ていないのと、二つには機根がないのと、三つには釈尊からの付嘱がなかったことから明らかにされなかったのである。今は末法に入った。地涌の菩薩が出現して本門の法華経を弘通されるはずである。
 今末法に入って本門が弘まるのであるから、小乗・権大乗・迹門の人々は、たとい法に背いていなくともそれぞれの爾前・迹門の法では功力のあるはずがない。たとえば、春の薬は秋の薬にならないようなものである。たとえ薬となっても春や夏のようには効果がない。ましてや彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人々は、あるいは大乗と小乗、権教と実教に迷っているうえ、昔の国主がそれらの経々を信じて寺院を建立し、田畠を寄進していることから、それらの法を真実ではないと下せば、何とも言い開きがつかなくなるうえ、自分が怙む国主を失ってしまうために大瞋恚を起こして、あるいは実経の法華経を誹謗し、あるいは法華経の行者を怨むのである。
 国主もまた、ひとつには多人数の方につき、あるいは昔の国主が崇重してきた教えをあらためることが難しいため、あるいはまた自らの愚癡のゆえに、あるいは法華経の行者を賎しむ心から、彼の讒訴人の言葉を受け入れて法華経の行者を迫害している。このために法華経の守護神である梵天・帝釈・日月・四天王等がその国を罰するゆえに前代未聞の三災七難が起きているのである。去年や今年、または正嘉等の疫病等がそれである。

迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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本門
 仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
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八教
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。
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爾前の円
 爾前諸教に説かれる円教のこと。釈尊が30歳で成道して以来、法華経を説くまでの42年の間、法華経に誘引するために説かれた方便の経。円教は円融円満で完全無欠な教法のことで、天台大師の教判では化法の四教の第四にあたる。爾前諸教においても、凡夫の位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説くことを爾前の円という。
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迹門の円
 法華経迹門で説かれる成仏の教法。法華経方便品第2に十界互具が明かされ、一切衆生皆成仏道が理の上で説かれる。
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爾前の仏
 蔵通別経の仏・劣応身・勝応身・報身の仏をいう。
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迹門の仏
 法華経迹門の教主としての仏のこと。
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劣応・勝応
 天台宗では天親の法華論によって三身を立て、これを法身・報身・応身とし、応身を劣応身・勝応身に分ける。劣応身は凡夫・二乗・初地未登の菩薩に示現する丈六の仏身をいい、凡聖同居土に住している。勝応身は初地以上の菩薩に対して示現する仏で、丈六の身ではあるが、神通によって自在の仏身を示現し、方便土に住す。
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報身
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。
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法身
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。
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始成
 始成正覚の略。釈尊がインドに応誕し19歳で出家し、30歳ではじめて成道したことをいう。
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久始のかわりめ
 久遠実成と始成正覚の違い。
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土の先後
 土は仏の住む仏国土のことで、始成正覚の立場では娑婆世界は仮の世界に過ぎないが、久遠実成の立場では、この娑婆世界こそ久遠以来の本国土であることが明かされる。
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三国
 仏教でいうところの三国は、インド・中国・日本をいう。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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地涌
 地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち(法華経452㌻以下)。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。これに対して、文殊・弥勒などは、迹仏(始成正覚の釈尊など)あるいは他方の世界の仏から教化された菩薩なので、迹化・他方の菩薩という。
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依怙
 ①頼ること。②一方をひいきすること。③私利・自分の利益。
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瞋恚
 怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
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実経
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
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訴人
 告訴人のこと。
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梵釈
 法華経の本門と迹門のこと。本門は仏の本地をあらわした法門で、迹門は垂迹仏の説いた法門をいう。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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三災七難
 三災に「大の三災」と「小の三災」がある。「大の三災」は火災、水災、風災で、「小の三災」は穀貴(五穀の値段が高い、すなわち物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等がはやること。また、精神分裂、思想の混乱なども疫病の一つといえよう)。七難は経文により多少の差異はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、人衆疾疫の難(伝染病等がはやり、多くの人が死ぬ難)、他国侵逼の難(他国から侵略される難)、自界叛逆の難(仲間同士の争い、同士打ちをいう)、星宿変怪の難(天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする)、日月薄蝕の難(日蝕月蝕をいう)、非時風雨の難(季節はずれの暴風や強雨)、過時不雨の難(雨期にはいっても雨が降らない天候の異変)をいう。この三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにあるのである。
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 先の内外相対、大小相対、権実相対につづいて、本迹相対と種脱相対の立場から論じられている。
 「開目抄」に「此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり」(0197-10)と仰せのように、爾前経では、二乗は永不成仏の者と弾呵され、悪人、女人の成仏も許されていない。それに対し、法華経迹門方便品で諸法実相・十如是等の法門が説かれ、二乗、悪人、女人等も含め、万人の成仏の可能性が示された。
 しかし、このような爾前経と迹門との相違も、本迹の相違にくらべるとはるかに小さい。むしろ、爾前と迹門との間には、相共通する面があると述べられ、教法の側面では、爾前の円と迹門の円が似ており、教主についていえば、ともに始成正覚であることが共通していると指摘されている。
 「一代聖教大意」に「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く『円満修多羅』文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』文、観経に云く『韋提希時に応じて即ち無生法忍を得』文、梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る」(0396-02)。
 この御文に明らかなように、華厳経、浄名経、般若経、観経、梵網経等の爾前経にも、凡夫が五十二位の段階を経ないで成仏できるとか、煩悩を断じないままで仏に成れるとか、また一善一戒を修するだけでも成仏が可能である等と説かれている。これらは、法華経迹門の十界互具・理の一念三千という迹門の円に通ずる教説といえるのである。
 教主については、爾前経の仏は、説いた法門の内容によって、劣応身・勝応身・報身・法身と異なるが、インドに生まれ三十歳で始めて正覚を得た釈尊であるとすることに変わりはない。
 以上のように爾前経と法華経迹門とは相違があるにしても、相通ずる側面もある。ところが、本門と迹門とは教主の立場が久遠実成の仏と始成正覚の仏というように根本的に相違している。
 久遠実成が開顕された意義について、「開目抄」には「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(0197-15)と述べられている。
 「観心本尊抄」には本迹の相違を、迹門については「始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて」(0248-13)と、本門については「十界久遠の上に国土世間既に顕われ」(0249-02)と示されている。
 このように、説法する教主も、法門の内容も、本門と迹門では根本的な相違がある。さらに本抄では「弟子又水火なり」と述べられている。迹門の仏の弟子は文殊菩薩や普賢菩薩という迹化の菩薩達であるが、本門の釈尊の弟子は、上行菩薩を上首とする本化地涌の菩薩達である。迹化の菩薩と本化の菩薩の資格や本地の違いは、水火のように大きいのである。
 次の「土の先後いうばかりなし」とは、爾前迹門ではこの娑婆世界は仮の世界であるのに対し、本門では、釈尊は久遠の成道以来、この娑婆世界に常に住してきたと本国土妙が明かされ、娑婆即寂光土の法理が示されている。
 〝先後〟の〝先〟とは、久遠という〝先〟から、この娑婆世界が本仏の世界であるということであり、それに対して迹門の仏の立場では、この世界ははるか〝後〟にできた迹土であるということである。
 「而るを仏は分明に説き分け給いたれども仏の御入滅より……」以後の御文は、本門の流通を示される段である。
 ところで、法華経本門には、その文底に末法弘通の三大秘法の南無妙法蓮華経が秘沈されている。文上の本門そのものが釈尊滅後、とくに末法のために説かれたことが明らかである。「観心本尊抄」には「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す」(0249-14)と述べられている。
 この三大秘法の南無妙法蓮華経を、釈尊は明らかに寿量品の文底に説いたのであるが、釈尊の滅後、これを明瞭に分別した人はいなかった。ただ天台大師・伝教大師の二人だけは、一念三千の法門をあらわし、自ら題目を唱えたけれども、あくまで理行の法門であって、本門と迹門を分かつ要である事行の法門は顕さなかった。円戒とは、具体的な事相にあらわされることを意味する。
 天台大師・伝教大師は内証では文底下種仏法を証得していたが、外に向かっては明瞭に説かなかったのである。その理由を、本抄では「時来らず」「機なし」「譲られ給はざる故」と示されている。
 第一の「時来たらず」とは、下種益の南無妙法蓮華経が弘まるのは、法華経薬王品の「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布」等の釈尊の言葉によって末法であるから、像法時代に出現した天台大師、伝教大師は本法を説くことができなかったのである。
 第二の「機なし」とは、像法時代の衆生の機根は本已有善であり、南無妙法蓮華経の下種を直達すべき本未有善の衆生ではなかったということである。
 第三の「譲られ給はざる故」とは、神力品における別付嘱は、本化上行菩薩に対してなされたものであり、天台大師、伝教大師の本地たる薬王菩薩等の迹化の菩薩には付嘱されていないために彼らは弘めることができなかったのである。
 それゆえ、末法に入って、上行菩薩の再誕である日蓮大聖人が、本未有善の衆生のために、下種益の事の一念三千の当体である南無妙法蓮華経を直ちに下種されるのである。
 末法では、文上の脱益仏法を、その経文の通りに実践したとしても、全く無益である。その譬えとして、薬の季節による効能の違いを述べられている。昔の薬は薬草から作る生薬であるから、季節による効力の違いが顕著だったのである。
 薬草は、採取される土地や季節によって成分が微妙に違ってくるのである。同種の薬草だからどの季節に採取しても良いというのではない。有効な成分が含まれる時期を知って、その季節の薬草を用いなければならない。
 また、人間の身心も季節のリズムに応じて変動しているから、調合に際しても、人間の季節変動に合わせて、種々の薬草を配合する。
 ゆえに、春に採取した生薬で、その季節の人間の生理に合わせて調合された薬剤を、秋に用いても効果はなかったのである。たとえ、少し効力が残っていたとしても、ずっと弱くなっている。
 このように、正像時代の本已有善の衆生のために釈尊が与えた脱益仏法は、本未有善の末法の衆生には何の効力もないか、はるかに弱くなっているのである。
 のみならず、文上脱益仏法に執着して、文底下種仏法に敵対すれば、病のなかで最も重い病気が引き起こされるのである。本抄で大聖人は、建治3年(1277)より弘安元年(1278)にかけての疫病の大流行、また正嘉年代の疫病等がその例であるといわれている。
 そして、このような疫病の大流行の原因を、大聖人は次のように分析されている。
 まず、僧侶が教法の勝劣浅深に迷っているうえに、昔の国主も彼等の爾前迹門の教えを信じて寺院や田畠を寄進してきたゆえに、大聖人から破折されて間違っていたことがわかっても、それを言えば自分の立場がなくなるので申し開きもできず、また、もしそのことが明らかになれば国主の帰依が失われるので、大聖人に対して大瞋恚を起こして、末法の法華経を誹謗し、行者を怨んだことが第一の原因である。
 つぎに国主も、権力を維持するためもあって多数である邪法の僧の味方となり、また上代から国主が崇重してきた法を改められないという保守的本質から正法を拒み、さらには仏法への無知のため、法華経の行者である大聖人を身分が低いからといって軽蔑する心があったため等の理由で、大聖人を訴える者があるとそのまま取りあげて大聖人を迫害したことが第二の原因として加わっている。
 こうした二つの原因が重なり、邪法の僧や国主のみならず、一般の人々の心の中にまで、大聖人に対する大瞋恚がひきおこされたのである。
 この正法誹謗を諸天善神が治罰しようとして起こしているのが伝染病の流行であるといわれている。すなわち、富木常忍が御手紙のなかで報告した疫病の大流行の根本因は、邪法の僧、国主、一般の人々の心にわきおこった大聖人に対する大瞋恚が原因であるとの仰せである。
但漢土の天台・日本の伝教・此の二人計りこそ粗分け給いて候へども本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず
 天台大師は釈尊一代の仏教をことごとく明説し、三種の教相等に約しその意義を述べた。
 しかし、下種本因妙の仏法については「曾谷入道殿許御書」にも「然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず・自身之を存すと雖も敢て他伝に及ばず」(1034-09)と記されているように天台大師は内証では悟っており、自身、題目も唱えていたが、あえて他伝しなかったのである。「常忍抄」には「第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり」(0981-09)とおおせである。
 「開目抄」の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)の御文について、日寛上人の「三重秘伝抄」には「但の下は別して第三を結するなり……別して結すとは、天台は但第一第二を宣べて、而も第三を宣べず、故に之れを懐くと云うなり」とある。
 この「第一第二」とは権実相対・本迹相対であり、これについては「宣べ」た。しかし、第三の法門、すなわち種脱相対については、「いだけり」であったが、「宣べず」だったのである。しかも、第二の本迹相対については、「宣べ」たものの、迹門を表としていた故に、「粗分け」たにとどまっていたのである。
 つぎに「本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず」とは、どういう意味であろうか。法華経迹門の仏法において、天台大師が、戒定慧の三学のうち、円慧と円定は打ち立てたが、円戒は立てず、のちに伝教大師が比叡山に法華経の円頓戒を建立したことは、「下山御消息」にも「教大師・像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内・其の中・円頓の戒壇を叡山に建立し給いし時二百五十戒忽に捨て畢んぬ」(0347-02)と仰せのとおりである。
 しかし、この比叡山の戒檀は迹門の戒であり、独一本門の戒ではない。独一本門の戒によってはじめて本門と迹門との区別が明確となる。というのは、基本的には天台大師の場合、円定、円慧といっても、本門を裏に迹門を表にしたもので、本迹の区別はさほど明確ではない。
 この本迹を明確にして、観念の円定・理行の題目でなく、現実に円定を御本尊として顕し、その御本尊に向かって事行の題目を唱える所としての本門の円戒を打ち立てられたのが末法の日蓮大聖人であられる。
 日興上人も、「富士一跡門徒存知の事」で「日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所持の正戒なり」(1602-10)と、迹門の戒と本門の戒を明確に立て分けておられる。
 末法の独一本門の戒については、次の御書に明白である。
 「教行証御書」に「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」(1282-10)と末法の戒法を示されている。
 また、「御義口伝」には「御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」(0760-第廿五建立御本尊等の事-01)と仰せである。
 つまり、日蓮大聖人が建立された御本尊がそのまま戒定慧の三学の当体なのであり、大聖人御建立の寿量文底下種の御本尊を受持し奉ることが末法の戒法なのである。

0997:04~0997:11 第四章 性善性悪の法門を明かすtop
04   疑つて云く 汝が申すがごとくならば此の国法華経の行者をあだむ故に善神此の国を治罰する等ならば諸人の疫
05 病なるべし何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや、 答えて云く汝が不審最も其の謂有るか 但し一方を知りて一方を知ら
06 ざるか、 善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は 善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失
07 有るべし、 法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無
08 明は第六天の魔王と顕われたり、 善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、 末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中
09 に充満せり瓦石草木の並び滋がごとし善鬼は天下に少し聖賢まれなる故なり、 此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・
10 律僧等よりも日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か、 いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・ すく
11 なく死に候は不思議にをぼへ候、人のすくなき故か又御信心の強盛なるか。
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 疑って云う。汝がいうように、この日本国の人が法華経の行者を怨む故に諸天善神がこの国を治罰する等というのなら、謗法の人々だけが病気になるはずである。どうして汝の弟子たちも病に罹り死んだりするのか。
 答えて云う。汝の疑いはもっともである。だが、一方を知って一方を知らないものである。善と悪とは無始以来の左右の法である。権教や、それによる諸宗の教えでは、善と悪とは等覚の菩薩までに限られている。そうであるなら等覚までは互いに失があるはずである。それに対し、法華宗の意は一念三千の法門であって、本性に具わった善悪は妙覚の位にまで備わっているのである。その元品の法性が梵天・帝釈等の諸天善神と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れているのである。善神は悪人を怨み、悪鬼は善人を怨む。今は末法に入っているから、おのずから悪鬼が国中に充満している。ちょうど無用の瓦石や草木がはびこっているようなものである。それは悪世であるから善鬼が天下に少なく、聖人や賢人がまれだからである。この疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、日蓮の一門の方にこそ多く病に罹り死ぬ人が出るはずである。ところがどういうわけであろうか、権宗の彼らよりも病むものも少なく、死ぬ者も少ない。このことを不思議に思っている。これは日蓮の一門の人数が少ないせいか、それとも信心が強盛のためであろうか。

等覚
 仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、別教の菩薩は十一品の無明、円教の菩薩は四十一品の無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。また一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。
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一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
―――
性悪性善
 一切衆生の生命に本性として善悪両面をそなえていること。
―――
妙覚の位
 仏の覚りの位。大乗の菩薩の五十二位の最高位。円教の修行の六即位では究竟即にあたる。
―――
元品の法性
 根本の悟りのこと。元品は根本または元初の意味 。法性は真実不変の本性で真如ともいい悟りの本体をさす。衆生の生命の内奥にある 一切の真理、智慧の根本となる法性のこと。
―――
元品の無明
 釈迦仏法において立てる三惑の第三、無明惑の根本である。無明惑とは中道法性を障えるいっさいの生死、煩悩の根本であり、別教では十二品・円教では四十二品をたてる。四十二のうち最後の無明惑を元品の無明というのである。大聖人の仏法から見るならば、元品の無明とは、三大秘法の大御本尊を信じない惑であり、根本の迷いなのである。元品とは生命と訳し、迷えば無明になり、悟れば法性となる。御義口伝には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)と仰せである。すなわち衆生の生命に本然にそなわっている根本の迷いのこと。元品は根本または元初の意。無明は迷いで物事が明らかにみえないこと。勝鬘経によると無明に二種あり、貪瞋癡などの煩悩と相応して起こる無明を四住地の惑、煩悩と相応せず独り起こる無明を無始無明住地の惑といい、合わせて五住地という。この無始無明住地の惑こそ最勝の力を持つ一切の煩悩の根本であり、如来の悟りの智慧のみがこれを断ずることができると説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経という真如の理に対する根本的な迷いが元本の無明となる。
―――
第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
―――
善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
悪鬼
 悪鬼とは奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――
善鬼
 仏法を守護し国土を守る諸天善神。
―――
聖賢
 聖人と賢人のこと。
―――――――――
 疫病の大流行は、法華経誹謗の人々を諸天が罰するためであるとの日蓮大聖人の御指摘に対して、もしそうであるならば、迫害を加えている者だけが疫病にかかるのが当然なのに、大聖人の弟子まで病気になったり死んだりしているのは何故であるか、という反問が取り上げられている。
 具体的な事実は不明であるが、当時、大聖人の弟子の中にも病気にかかり、死に至った者も出たのであろう。
 これに対し、大聖人は、その疑問はもっともであるが、物事の一面しか知らないものであると、法理の上から、また事実をとおして答えられている。
 まず、法理の面では、天台大師の一念三千・性善性悪の法門によって示されている。すなわち一念三千の法門によれば、人間生命には善も悪もその本性としてもともと備えている。
 善とは広くいえば四聖であり、その極善が仏界である。悪は広くいえば六道であり、また三悪道、四悪趣を指し、極悪は地獄界である。
 妙覚の仏といえども、十界互具・一念三千の当体であり、極悪の地獄から、極善の仏界まで、すべての生命は善と悪をともにそなえているとするのが法華宗の教えである。
 これは、善悪をそなえているのは等覚の菩薩位までに限られるとする爾前権教と根本的に違う点である。
 この、すべての生命にそなわる性善、つまり元品の法性が依報の上に顕れれば、正法を守護する梵天・帝釈等の諸天善神の働きとなる。逆に、本有の性悪、すなわち元品の無明が顕れれば、法華経の行者を悩ます第六天の魔王の働きとなる。
 末法に入っては白法隠没して邪法がはびこり、法華経の行者を迫害するゆえに、悪鬼が国中に充満しているのに対し、法華経の行者はまれであるから善鬼は少なくなっている。
 そこから考えると、正法を護持しているがゆえに第六天の魔王に怨まれる大聖人の弟子のほうが多く疫病にかかり、死ぬのが道理である。
 ところが、現実は逆であり、謗法の者は多く病気にかかって死んでおり、大聖人の弟子の被害は少ない。その理由を、大聖人は、人数が少ないからであるか、それとも、信心強盛のゆえに病から免れているのであろうか、と述べられている。
 もちろん、大聖人の元意が、後者にあることはいうまでもない。
一念三千・性善性悪について
 性善性悪があらゆる生命に具わっていること、妙覚の仏でさえ、その例外ではないということは、一念三千・十界互具説が必然的に意味するところである。
 性善性悪は、すべての生命に本来的にそなわる善悪の性分を指している。これに対して、行動の次元に本来の性分が顕れて、その効用を発揮することを修善修悪という。諸法実相・十界互具を説く天台家では、法性真如に善悪の性徳を具すと主張するのである。
 観音玄義巻上には「問う、性徳の善悪は何ぞ断ずべからざるや。答う、性の善悪は但是れ善悪の法門なり。性改むべからず、三世を歴て誰も能く毀つものなく、復断壊すべからず」と記されている。
 すなわち、性分としての善悪は、本有の存在であり、迷悟にかかわらず改変しえないものである。
 ゆえに極善の仏にも性悪を具し、逆に極悪の一闡提も性善を断壊することはないのである。ただし、仏に修悪はなく、一闡提に修善はないのである。
 仏は性悪を具すことによって、極悪の衆生が悪をなし罪業をおかすに至った心情を理解することもでき、また、そうした衆生を救済することも可能になる。
 観音玄義巻上には「仏は性悪を断ぜずと雖も、而も能く悪に於て達す。悪に達するを以っての故に、悪に於て自在なり。故に悪の染する所とならず、修悪起こるを得ず、故に仏永く復悪無し。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて、終日染まらず」とある。
 仏は性悪があっても、悪に縛られるということはなく、それによって悪によく通達し、悪を自在に制し、それによって、衆生をよく救済することができるのである。つまり、仏は悪を用いても、悪に染まり、悪の行をすることはないのである。
 このような性善性悪の法理にのっとって、末法においては日蓮大聖人が、濁悪の世の衆生に具した性善を開発し顕現するために、文底下種の南無妙法蓮華経を説かれたのである。

0997:12~0998:08 第五章 日本国の疫病の先例を示すtop
12   問うて云く日本国に此の疫病先代に有りや、 答えて云く日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天
13 皇の御代に疫病起りて日本国やみ死ぬる事半にすぐ、 王始めて天照太神等の神を国国に崇しかば 疫病やみぬ故に
14 崇神天皇と申す、 此れは仏法のいまだわたらざりし時の事なり、 人王第三十代・並びに一二の三代の国主並びに
15 臣下等疱瘡と疫病に御崩去等なりき、 其の時は神にいのれども叶わざりき、 去ぬる人王三十代・欽明天皇の御宇
16 に百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る、 蘇我の宿禰等崇むべしと申す物部の大
17 連等の諸臣並びに万民等は 一同に此の仏は崇むべからず 若し崇むるならば必ず我が国の神・瞋りをなして国やぶ
18 れなんと申す、 王は両方弁まえがたくをはせしに三災・七難・先代に超えて起り万民皆疫死す、大連等便りを得て
0998
01 奏問せしかば僧尼等をはじに及ぼすのみならず 金銅の釈迦仏をすみををこして焼き奉る寺又同じ、 爾の時に大連
02 やみ死ぬ王も隠れさせ給い 仏をあがめし蘇我の宿禰もやみぬ、 大連が子・守屋の大臣云く此の仏をあがむる故に
03 三代の国主すでに・やみかくれさせ給う我が父もやみ死ぬ、 まさに知るべし仏をあがむる聖徳太子・馬子等はをや
04 のかたき公の御かたきなりと申せしかば 穴部の王子・宅部の王子等・並びに諸臣已下数千人一同によりきして仏と
05 堂等をやきはらうのみならず、 合戦すでに起りぬ結句は守屋討たれ了んぬ、 仏法渡りて三十五年が間・年年に三
06 災・七難・疫病起りしが守屋・馬子に討たるるのみならず神もすでに仏にまけしかば災難忽に止み了んぬ、 其の後
07 の代代の三災・七難等は大体は仏法の内の乱れより起るなり、而れども或は一人・二人或は一国・二国或は一類・二
08 類或は一処・二処の事なれば神のたたりも有り謗法の故もあり民のなげきよりも起る。
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 問うていう。日本国で前の代にこのような疫病があったことがあるか。
 答えていう。日本国では、神武天皇から十代目にあたられる崇神天皇の治世に疫病が起こって日本国中が病み、死者は半分以上であった。天皇が始めて天照太神等の神を諸国で崇めたところ疫病がやんだ。ゆえに、崇神天皇といわれるのである。これは仏法がまだ渡来する以前のことである。
 人王第三十代と三十一代・三十二代の三代の天皇と臣下等は天然痘と疫病で御崩されたり亡くなられたりした。その時は神に祈ったけれども叶わなかったのである。人王第三十代の欽明天皇の治世に百済国から経・論・僧等が伝えられただけでなく金銅の教主釈尊像が伝えられていた。蘇我稲目等は、これを崇めるべきであると言い、物部尾輿等の諸臣をはじめ万民等は、一同に、この仏を崇めてはならない、もし崇めたなら、必ず我が国の神が瞋って国が亡びてしまうであろう、と言った。天皇はどちらとも定めかねているうちに三災・七難が先代に超えて起こり、万民は皆疫病によって死んだ。物部尾輿等はこの機会をとらえて天皇に排仏を奏上したので、僧尼等をはずかしめたうえ、金銅の釈迦仏を炭をおこして焼き、寺をも焼いたのである。その時に物部尾輿も疫病で死に、欽明天皇も亡くなられ、仏法を崇めた蘇我稲目も病んだ。
 物部尾輿の子の大臣の守屋が言うには、この仏を崇めたために、欽明・敏達・用明の三代の国主もすでに疫病で亡くなられ、我が父も病で死んだ。まさに仏を崇める聖徳太子・蘇我馬子等こそは親の敵、天皇の敵である、と。そこで、穴穂部皇子、宅部皇子等、また諸臣以下数千人が一団となって釈迦仏と寺院等を焼き払っただけでなく、合戦までが起こった。その結果、守屋は討たれてしまったのである。
 仏法が渡来して三十五年の間、年々に三災・七難、疫病が起こったが、守屋が馬子に討たれただけでなく、神も仏に負けてしまったので災難はたちまちにやんでしまった。その後の代々の三災・七難等は、大体は仏法の内部の乱れから起こったものである。しかし、あるいは一人・二人、あるいは一国・二国、あるいは一族・二族、あるいは一処・二処のことであり、その原因は神の祟りもあり、謗法のためのこともあり、民の嘆きから起こったものもある。

神武天皇
 第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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崇神天皇
 第十代天皇。第九代開化天皇の第二子。御間城入彦五十瓊殖天皇という。大和国磯城に都を定め、瑞籬宮と称した。即位して五年、国中に疫病が流行して、民衆の大半が死に、翌年には百姓が流浪し、反乱を起こすものが出てきたため、豊鍬入姫命に命じて天照太神を祭らせ、また八十万の神を祭って疫病をはらったという。
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疱瘡
 天然痘のこと。
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崩去
 天子・天皇がなくなること。
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欽明天皇
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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百済国
 古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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蘇我の宿禰
 (~0570)。宣化・欽明両朝の大臣。蘇我稲目のこと。宿禰は貴人の尊称。馬子の父。二人の娘を欽明・用明天皇の妃とし、国政に参加した。朝廷の屯倉の新設・経営につとめた。欽明天皇の時代には崇仏・排仏問題について物部尾輿等と対立したが、向原の自邸を寺として仏教を保護し、日本の仏教流布の基礎を作った。
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物部の大連
 生没年不明。物部尾輿のこと。守屋の父。日本書紀巻十九等によると欽明天皇の時代に大連となり、朝鮮政策をめぐって対立者の大連大伴金村を失脚させ、大連を独占した。ついで、蘇我稲目と対立し、排仏・崇仏で激しく争った。
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奏問
 奏上のこと。天子や君主に進言すること。
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 曽我稲目の自邸であった向原寺のこと。
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守屋の大臣
 (~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
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三代の国主
 欣明・敏達・用明の三天皇。
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聖徳太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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馬子
 蘇我馬子のこと。(0551?~0626)、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。
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 天子・天皇。
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穴部の王子
 (~0587)。日本書紀等によると名を埿部穴穂部皇子 という。欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目の女、小姉君。敏達天皇の死に際して皇位につけなかった皇子は、次の用明天皇が没すると物部守屋と結んで再び皇位を望んだが、弟の泊瀬部皇子を推す蘇我馬子らと争い、殺害された。
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宅部の王子
 (~0587)。用明天皇の死後、穴穂部皇子と仲がよかったため、泊瀬部皇子を推す蘇我馬子の指示によって殺害された。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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 仏教渡来以前からの日本における疫病流行の先例を示されている。
 まず、仏教渡来以前の例として、崇神天皇の時代に疫病が流行し、数多くの人々が病み死んだが、天皇が国中に天照太神等の神を崇めさせたところ疫病が止んだという。
 天照太神は大和朝廷の祖先神であり、それを崇めるということは、自らの祖先を崇び父母や祖先の恩に感謝するという倫理観が人々の間に確立されたことを意味する。
 同時に天照太神は本来、太陽神であり、万物を養い育てる力の象徴として、農耕社会で尊崇されていた神である。この神を崇めることは、大宇宙を貫く法に知らずしらずのうちに適っていったのである。
 まだ、仏教渡来以前のことであるから、この大宇宙根源の法がいかなるものであるかを知ることはできなかったが、天照太神を通じて、大自然の恵みをもたらす究極の力に心奥からの感謝の念を捧げたのである。
 つまり、一方では、祖先への報恩の心が煩悩による身心混乱の働きを阻止し、他方では、宇宙根源力への畏敬の心が身心調和のエネルギーを引き出していったといえよう。
 当時の人々にとって天照太神の信仰は、以上のような効果をもたらし、よく疫病の流行をとどめたのである。
 しかし、仏教が渡来してからは、仏教に背くことは、より根源的な法に背くことになるから、神に祈っても効力はなくなる。その実例として仏教渡来と蘇我、物部の争いのいきさつを辿り、仏教の勝利によって疫病が止んだことを示されている。
 さらに、それ以後の日本に起こった三災七難は、大体は、仏法のなかでの正邪の乱れが原因になって起きていると述べられ、しかし、日本一国一同にといった大規模なものではなかったことを指摘されている。それは、これまでは大小相対、権実相対の次元で起きた疫病等であったからである。
 この次元の病気は、ある程度、生命の内部へと入り混乱を招くが、まだ、生命の最奥底である元品の無明を呼び起こすようなことはないのである。ゆえに、疫病の流行等も、一人、二人といった個人次元、また一類、二類といったグループの範囲、一国、二国等の地方的出来事にとどまったのである。
 また、疫病の原因にしても、神の祟によるものや謗法のゆえの場合や、悪政による民衆の嘆き等のことや、種種のケースがあったといわれている。ここでいわれる謗法とは、小乗の立場から大乗に背くことや、権教の立場から法華経に背いたことであるが、その法華経というのも伝教大師の迹門の法華経であったから、日本国中の人々が元品の無明を激発させるようなことはなかったのである。

0998:09~0998:18 第六章 事理の一念三千を説くtop
09   而るに此の三十余年の三災.七難等は一向に他事を雑えず日本.一同に日蓮をあだみて国国.郡郡・郷郷・村村.人
10 ごとに上一人より下万民にいたるまで 前代未聞の大瞋恚を起せり、 見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始
11 めなり、 神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし、 但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き
12 奉る結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし、 止観の十境・十乗の観法は天台大師説き給いて後・行
13 ずる人無し、妙楽・伝教の御時少し行ずといへども敵人ゆわきゆへにさてすぎぬ、 止観に三障・四魔と申すは権経
14 を行ずる行人の障りにはあらず今日蓮が時具さに起れり、 又天台・伝教等の時の三障・四魔よりもいまひとしをま
15 さりたり。 一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すで
16 に勝る故に大難又色まさる、 彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり 天地はるかに殊なりことなりと御
17 臨終の御時は御心へ有るべく候、恐恐謹言。
18       六月二十六日                              日蓮花押
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 しかるに、この三十余年の三災・七難等の原因は、全くほかのことではなく、日本国一同が日蓮を怨んで、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに、上一人から下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起こしているからである。
 見思惑を断じていない凡夫が、一切の迷いの根本である無明の煩悩を起こしたことは、これがはじめてである。このような凡夫が神と仏と法華経に祈り奉るならばいよいよ増長するのである。ただし、法華経の本門を法華経の行者につけて除く。結局は、勝負を決する以外には、この災難を止めることは難しい。
 摩訶止観に明かされる十境・十乗の観法の修行は、天台大師が説かれて後は行ずる人はいない。妙楽大師・伝教大師の時には少し行じられたが、反対者が弱かったので、とりたてるほどのことはなかった。摩訶止観に三障四魔が起こるというのは、権経を行ずる人に起こる障りではなく、いま実教の法華経の行者である日蓮の時に盛んに起こっているのである。天台大師・伝教大師等の三障四魔よりもいまひとしおまさっている。
 一念三千の観法に二つある。一には理であり、二には事である。天台大師・伝教大師等の時は理であり、いま日蓮の時は事である。一念三千の観法においてすでに日蓮のほうが勝っているので、大難もまた盛んなのである。天台大師・伝教大師は迹門の一念三千であり、日蓮は本門の一念三千である。この相違は天と地ほどのはるかな違いであると、御臨終の時は心得られるべきである。恐恐謹言。
  六月二十六日            日 蓮  花 押

見思未断
 見思惑を断じていないこと。見思惑は三惑の一つ。三惑は天台大師が一切の惑を三種に立て分けたもの。見思惑とは見惑と思惑のことで、三界六道の苦果を招く惑をいう。見惑は事物の道理に迷う後天的・知的な迷いをいい、これには五利使と五鈍使がある。思惑は俱生惑ともいい、生まれつきそなわっている本能的な迷いをいう。これには八十一品あるとする。
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止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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十境
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた10種の対境のこと。陰入界境・煩悩境・疾患境・業相境・魔事境・禅定境・諸見境・増上慢境・二乗境・菩提境をいう。
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十乗の観法
 十境に対する10種の能観。①観不可思議境②起慈悲心③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥修道品⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛という。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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三障・四魔
 仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障。②業障。③報障である。四魔は①煩悩魔。②陰魔。③死魔。④天子魔である。
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一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり
 ❶理の一念三千、法華経迹門で、諸法実相・十如是、開示悟入の四仏知見が明かされて、開三顕一と悪人成仏・女人成仏が説かれたことにより、十界互具・百界千如が確立した。このことによって、一念三千の理論的な枠組みがほぼ整った。これを理の一念三千という。❷事の一念三千、理の一念三千に対する語。ひとくちに事の一念三千といっても、天台教学における事の一念三千と日蓮仏法における事の一念三千があり、両者は異なる。①天台教学における事の一念三千。法華経本門の如来寿量品第16では、開近顕遠が説かれて久遠実成が明かされ、久遠の仏の本果が示されるとともに、その本因としての菩薩道も示され、この本因と本果の常住が明かされた。さらに、久遠の本仏が、九界の衆生の住む娑婆世界の上に現れるという娑婆即寂光が説かれ、真実の国土世間とその常住が明かされた。これによって、一念三千を構成するすべての要素が完備した。これは仏の振る舞いの上に事実として現れている一念三千である。これが天台教学における事の一念三千である。②日蓮仏法における事の一念三千。日蓮大聖人が御自身の振る舞いの上に体現して説き示された、三大秘法の南無妙法蓮華経。天台教学における一念三千の理と事は色相荘厳の仏に即したものであり、機根の劣った凡夫である末法の衆生にとっては、いずれも結局は理論上の枠組みとしての「理」にとどまる。したがって、凡夫が事実の上で成仏できる法は、大聖人が名字即の凡夫である御自身の振る舞いの上に体現して説き示された三大秘法の南無妙法蓮華経である。
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 日蓮大聖人御在世当時の三災七難、疫病の大流行は、法華経の行者であり末法の御本仏である日蓮大聖人を怨み迫害したことに原因があると述べられ、したがって、その災難をとどめる方途も法華経の行者たる大聖人によって法華本門の大法に祈る以外にないことを示されている。
 正嘉の大地震、疫病等の30余年間に起きた三災七難の原因は、ただ一つである。つまり、日本国のすべての人々が、日蓮大聖人に大瞋恚を起こし、元品の無明を胎動させたゆえである。ゆえに、外道やインド応誕の釈尊や法華経二十八品に祈ったとしても、ますます災難を増加させるだけである。
 そこで、日蓮大聖人は、文底下種仏法に敵対している元凶、つまり邪法の僧侶との正邪を決し、正法を打ち立てる以外にないとされ、「結局は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と述べられるのである。
 ここに「勝負」を決するとは、仏法の正邪の勝負である。公正な法論によって、正邪を明らかにし、文底独一本門をもって日蓮大聖人が祈り、日本国のすべての人々を根底から救済されようとする大慈悲の御言葉である。
 つぎに、天台大師や伝教大師の法華経の実践に対する迫害と、日蓮大聖人への迫害とを比較され、留難の大きさをもって大聖人の仏法の勝れることを示されている。
 天台家の実践修行の根本は摩訶止観の十境・十乗の観法である。一念三千の法理が凡夫の己心にも具することを覚知し、証得するための観法である。
 この観法は天台大師によって説かれたものの、以後、正しく行ずる人はなく、妙楽大師、伝教大師の時に少し実践されたが、この時は、法華経に敵対する者が弱かったために、修行を妨げる三障四魔もたいしたことはなかった。しかしいま、日蓮大聖人の身に烈しく起こってきているのである。
 摩訶止観巻五上の煩悩境の下には「行解既に勤むれば、三障、四魔、紛然として競い起こり、乃至随うべからず。畏るべからず。之に随わば人を将いて悪道に向かい、之を畏るれば正法を修することを妨ぐ」とある。ところが、天台大師や伝教大師の時に、それほど起こらなかったのは、一つには、像法であり、衆生は本已有善の機であったから「敵人ゆわきゆえに」大難にはならなかったのである。それに対し、末法の衆生は本未有善の機であるから、見惑未断の凡夫でさえ元品の無明を起こし、法華経の行者に大瞋恚を起こすのである。
 第二に、より根本的な理由は、天台大師、伝教大師の法門と日蓮大聖人の法門とは、その内容に天地の差がある故である。天台大師、伝教大師の観法は、理の一念三千の法理を十境・十乗の観法によって己心に覚知する修行をいう。これに対して、日蓮大聖人の仏法の修行は、事の一念三千の当体である人法一箇の御本尊を信受し、自行化他の題目を唱えることによって、凡夫の即身成仏を実現するのである。
 天台大師が立てたのは、迹門の一念三千によって己心を観ずる修行であり、日蓮大聖人の教えは、独一本門の一念三千の当体である御本尊を受持することであり、一切衆生を成仏させる法である。ひときわ力ある勝れた法であるゆえに、日蓮大聖人の折伏弘教に前代未聞の三障四魔が競い起こってきたのである。
一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり……彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なり
 天台大師、伝教大師は法華経を修行したけれども、ただ迹門の理の一念三千の観法にすぎない。
 天台大師所説の理の一念三千の法理は、法華経迹門方便品の文を依処に、裏に本門の意義をおいて説かれたものであり、迹面本裏ともいわれる。「十章抄」には「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」(1274-05)と仰せである。つまり、迹門の理だけでは一念三千の意義をつくすことができないので、本門の理を裏に用いて一念三千の意義を完結させたのである。
 これに対し、日蓮大聖人が弘通されている法は、法華経本門寿量品の文底に秘沈された事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、その場合、日蓮大聖人は文上法華経二十八品をすべて迹門とされ、これを流通分として使用された。ゆえに、天台大師の迹面本裏に対して、日蓮大聖人の法門を本面迹裏ともいうのである。
 日寛上人は、「観心本尊抄文段」で「謂く、彼は前十四品を迹面と為し、後の十四品を本裏と為す、此れは迹本二門を通じて迹裏と為し、文底下種の妙法を本面と為すなり。故に台当両家の意、天地水火なり」と述べられている。したがって、本抄にある天台大師、伝教大師の迹門理の一念三千とは、迹面本裏の文上の法華経であり、日蓮大聖人の本門の事の一念三千とは、文底独一本門の南無妙法蓮華経なのであり、そこには天と地ほどの相違があることを知らねばならない。
 人生の総決算である臨終の時には、以上のような本迹・事理を正しくわきまえて信心強盛に事の一念三千の当体である御本尊に唱題するように激励されて、本抄を終えられている。

0995~0998    治病大小権実違目(治病抄)2013:06月号大白蓮華より。先生の講義top

「最高の哲学」で時代の病を打ち破れ!
 6月は、創価の父・牧口常三郎先生の生誕の月です。
 私の恩師・戸田城聖先生は、牧口先生を偲ばれる時は、いつも襟を正しつつ、実に懐かしそうに語られました。また、投獄・獄死されたことを語られる時は、涙を流しながら憤怒されるのが常でした。
 戸田先生は、自著の小説『人間革命』の中で、恩師・牧口先生の実像を生き生きと描写さえています。
 この小説の前半は、印刷工場で働き、八軒長屋に住む巌さんが牧口先生と出会い、妙法の力によって、長屋の住人たちと共に蘇生していく物語となっています。
 戸田先生の念頭にあったのは、「どんな裏町までも、どんな家庭までも折伏の陣頭に立って進んでいかれる」牧口先生のお姿でありました。庶民一人一人が希望の人生を歩むために「『人間革命の真髄』を読み取って欲しい」との戸田先生の熱願が伝わってきます。
 小説では、さらに、この巌さんが牧口先生を師と仰ぎ、創価学会の理事長となり、師と共に軍部政府の弾圧と戦われた、創価学会の師弟の原点が描かれています。
「正義」と「共戦」の炎
 大阪事件の嵐の中の「7月3日」出頭するため、札幌から大阪へ向かう途中の羽田空港で、戸田先生が万感こめて手渡してくださったのが、上梓されたばかりの『人間革命』の単行本でした。私は、大阪の機中で真剣に読みました。戸田先生ご自身の獄中日記ともいうべき一節一節から、先生の闘争の魂が伝わり、胸中に「正義」と「共戦」の炎が明々と燃え上がりました。
 いかなる境遇にあっても、そこから自分の偉大な人間革命をすることができ、価値創造をすることができる。これが仏法の精髄である。
 日蓮大聖人の仏法は、どこまでも現実に力強く変革する「希望の宗教」です。
 戦後の悲惨な社会のなかで、ある人は、人間が置き去りにされた社会のなかで、苦悩に打ち沈んでいた人々が信心で立ち上がり、仏法の偉大な変革の力を証明してきたのが、創価学会の民衆運動にはかなりません。
 今回、拝読する「治病大小権実違目」は、深刻な疫病に苦しむ門下をはじめ、多くの人々のために、その解決の根本の道を示されたお手紙です。
 「絶対勝利」の人生を勝ち取るために、仏法の真髄の哲学を伝えたい!大聖人の深き御自愛と民衆救済の御精神が脈打つ本抄を拝し、学んでいきましょう。
06   御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云、夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一
07 風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此
08 れを治するにゆいて愈えずという事なし、 二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・
09 六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、 又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、
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 御手紙には「疫病がいよいよ盛んに流行している」等とあった。
 いったい、人には二つの病がある。一つには身の病、これは地大百一・水大百一・火大百一・風大百一の以上四百四病である。この病はたとい仏ではなくともこれを治すことができる。治水・流水・耆婆・扁鵲等の名医が薬で治療することによって快癒しないということはない。
 二には心の病、これはいわゆる貧瞋癡の三毒から八万四千の病がある。この病は二天・三仙・六師等も治すことが難しい。まして神農・黄帝等の薬ではとうてい及ばない。
 また、心の病は重々に浅深・勝劣が分かれている。

仏法は三毒の病を治す良薬
 本抄は、富木常忍から「疫病がますます盛んになってしまっている」との報告を受けて、認められたお手紙です。現在は、弘安元年(1278)6月26日の御執筆と考えられています。
 前年から弘安元年にかけて蔓延した疫病は、極めて深刻なものでした。大聖人は他の御書でもこう記されています。
 「十家に五家・百家に五十家皆やみ死し或は身はやまねども心は大苦に値へりやむ者よりも怖し、たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・天地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・心あらん人人争か世を厭はざらん、三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候」(十軒に五軒、また百軒に五十軒まで家族全部が伝染病で死んでしまったり、また、身体は病には罹らなかった者も、心は大苦悩に値っているので病に冒された人以上に苦しんでいる。たまたま生き残っても、影の形にそうようのいつもそば近くにいた子供もなく、両眼のようにむつまじくつれそっていた夫や妻もなく、天地のように頼りにしていた父母も亡くなっている。これでは、生きていて何のかいがあるであろうか。心ある人々は、どうして、この世の中を厭はないでいられようか。「三界は安きことなし」とは仏は説いておられるが今日の世相は度を過ぎてあまりにも悲惨な状態である)(1389-07)
 これほど深刻な疫病であれば、大聖人の門下にも、その家族にも、病に倒れた人が多くいたでしょう。
 歴史をひもとくと、大聖人の御在世、日本国は地震・天候不順・飢饉・疫病・天体の異変などがあり、三災七難の連続でした。人々は苦難に打ちひしがれ、不安におののいていました。
 大聖人は、今再びの疫病の大流行に際し、本抄で最初に、人には「身の病」と「心の病」があることを示され、それぞれの病を治す方途があることを教えられています。
 ここで「身の病」とは身体の構成要素である「地・水・火・風」の四大の不順が原因で、身体に現れる病です。これは名医によって治らないものはないと仰せです。
 「心の病」とは、今日でいうところの精神的な病とは異なります。「生命の濁り」「時代・社会の歪み」といってもよいでしょう。
 その原因・正体は、一言で言えば「煩悩」です。
 煩悩は、貧瞋癡の三毒をもとに八万四千ともいわれるほど多岐にわたります。
 これらは「身の病」と異なり「無明」という、生命の根底の闇から起こるため、生命を深く洞察した仏法によって解決するしかありません。いかにすぐれた名医や薬でも治すことはできない。しかも、仏法で「心の病」を治すには、幾重にも「浅深・勝劣」があると仰せです。
社会の繁栄築く「真実の哲学」
 本抄の続きの御文を要約すると、六道の煩悩の衆生を、小乗の教えは癒すことができる。しかし、大乗がすでに弘まっているのに、それに背いたり、大乗に肩を並べたつもりで、小乗の教えを用いたりすると、病はかえって増すことになる。さらに、大乗のなかでも、権大乗の諸経に対して、実大乗である法華経が最も勝れていることを弁えねばならない。そうでなく偏見をもって、権大乗を用いたり、または為政者が偏見に気づかず、それを採用した場合も、逆に一層、病を悪化させることになる、と。
 言い換えれば、「心の病」すなわち「時代・社会の歪み」を治すには、釈尊の真実究極の教えである法華経以外にない。諸経への執着を捨てて、法華経をこそ用いよと教えられているのです。
 戸田先生は、「この御書には、一字一句にも、大聖人の御心がこもっております」と本抄を講義されたことがあります。だから「広々として、天空をわたるような境涯」で拝していきたいとも語られていました。
 そして、民衆救済のために立ち上られた大聖人の強靭な御精神を拝されながら、社会を発展させるためには、真の最高の哲学が必要であると強調されました。
 「哲学は、最高の哲学をとらないと、負けだ」「低い哲学を用いて、民衆の興隆があるものでしょうか。大聖人はそうおっしゃっているのです。最高の哲学を使いなさいと。最高の哲学でなければ民衆の興隆はないぞと、こうおっしゃっているのです」と。
 いつの時代にあっても、社会の盛衰は、いかなる哲学を根本とするかで決まります。
 この最高の哲学を弘めるために、私たちは生まれてきたのだとも、戸田先生はおおせです。その使命のままに、社会の変革に立ち上がる私たちの大確信の闘争を、戸田先生はどれほど、喜んでおられるでしょうか。
07   法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、 例せば爾前と法華経との違目よ
08 りも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども 相似の辺も有りぬべし、 所説に八教あり爾前の円と迹門の円
09 は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、 今本門と迹門とは教
10 主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、 弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、 而るを本
11 迹を混合すれば 水火を弁えざる者なり、 而るを仏は分明に説き分け給いたれども 仏の御入滅より今に二千余年
12 が間三国並びに一閻浮提の内に分明に分けたる人なし、 但漢土の天台・日本の伝教・此の二人計りこそ粗分け給い
13 て候へども 本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず、 詮ずる処は天台と伝教とは内には鑒み給うといへども
14 一には時来らず 二には機なし三には譲られ給はざる故なり、 今末法に入りぬ地涌出現して弘通有るべき事なり、
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 法華経にまた二経がある。いわゆる迹門と本門である。この本迹の相違は水と火、天と地のほどの違なのである。たとえば爾前経と法華経との違いよりもさらに相違がある。爾前経と迹門は相違があるといっても似ているところもあるのである。
 釈尊が説かれた教えに八教がある。そのなかで爾前の円教と迹門の円教は似ている。爾前の仏と迹門の仏は劣応身・勝応身・報身・法身というようの異なってはいても、始成正覚の立場は同じなのである。
 いま本門と迹門とは教主に久遠身成と始成正覚の違いがある。たとえば百歳の翁と一歳の幼子のようなものである。仏の弟子もまた水と火ほどの違いがある。住所の国土の先後もいうまでもない。これほどの相違があるのに本門と迹門を混合するのは、水と火との区別を弁えないようなものである。
 ゆえに釈尊はこれを明確に説き分けられたのであるけれども、御入滅から今にいたる二千余年の間、インド・中国・日本の三国並びに一閻浮提のなかで、明らかに分けた人はいないのである。ただ中国の天台大師・日本の伝教大師の二人だけが、あらあら分けられたが、本門と迹門との大事な法門があるなかで、法華円頓の戒法いまだ明らかにされなかった。これは結局、天台大師と伝教大師の二人は内心ではご存知だったが、一つには時が来ていないのと、二つには機根がないのと、三つには釈尊からの付嘱がなかったことから明らかにされなかったのである。今は末法に入った。地涌の菩薩が出現して本門の法華経が弘通されるはずである。

末法は正邪が顚倒した社会
 法華経こそ「心の病」を治す最勝の教えであるとされたうえで、この法華経にも、前半の迹門と、後半の本門との間では、水と火との区別のように明らかな違いがあることを示されています。
 ここで大聖人が、本迹の違いとして挙げられているのは、教主釈尊の境地、弟子の使命、仏国土のとらえ方です。
 この本迹の法門を明確に把握していたのは、仏滅後、像法次代の天台大師と伝教大師の二人だけであった。しかし、この二人もまた、条件が整っていなかったために、この違いを明瞭に説くことはしなかった。そして今、末法に入り、本門の大法を弘通する資格を持つ地涌の菩薩が出現して、本門を弘通すべき時がきている。このように述べられています。
 それほど、本門の教えと、それを弘通する主体者が出現することには深い意味があります。そのことによって、悪世の一番不幸な民衆を救うことができる。それが、釈尊をはじめ諸仏の願いであったということです。
 しかし、その願いが成就する前に、国土に三災七難が起こるのは、依然として小乗・権大乗・迹門の法門に執着する人々が途絶えないからだと、大聖人は鋭く喝破されています。
 昔の国主が、それらの経々を信じて寺院を建てたり、土地を寄進しているから、人々は、それらの法を真実ではないという弁明が難しく、自らの寄る辺を失わないよう、逆に諸経の非を指摘する法華経の行者に対して、瞋りの心をあらわして攻撃する。
 このような時に国主もまた人数の多い方に傾き、昔の国主が崇拝した教えを改めるのも難しいため、あるいは自分の愚かさから、あるいは法華経の行者を卑しむ心から、あるいはウソの告げ口を受け入れて、法華経の行者を迫害する。
 すなわち、正邪を見極めるべき立場の人間が、確かな見識も思慮もなく、むやみに前例を踏襲したり、多数派に迎合したり、讒言を真に受けたりして愚かにも、正義の人を憎む。このことで前代未聞の三災七難が起こったと仰せです。
 正邪が顚倒する社会、価値観が混乱し、生命尊厳の思想や人間の可能性を開花させる哲学が見失われていく社会。こうした歪んだ社会の底流を根本的に変えるために立ち上がるのが法華経の行者の存在です。人々が不幸になり、迷い苦しむ社会だからこそ、大聖人はどこまでも正義の闘争を続けていくことを門下に教えられているのです。
06      善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は 善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失
07 有るべし、 法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無
08 明は第六天の魔王と顕われたり
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 善と悪とは等覚の菩薩までに限るといわれている。そうであるなら等覚までは互いに失があるはずである。それに対し法華宗の意は一念三千の法門であって、本性に具わった善悪は妙覚の位にまで備わっているのである。その元品の法性が梵天・帝釈等の諸天善神と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れているのである。

妙法を持った人は永遠の勝利者に
 ここで、法華経の行者を迫害する国を、諸天善神が罰するゆえに疫病が起こるとするなら、なぜ日蓮の弟子たちも災難を蒙らねばならないのか、との問いが立てられます。
 これに対し、大聖人は、もっともな疑問だが、「一方を知って、一方を知らない」ものだと喝破されています。
 すなわち、法華経の行者を迫害する者には諸天の治罰がある一方で、人々を苦しめる悪鬼もまた国中に充満しているということです。むしろ、悪鬼充満の末法において、大聖人の門下が亡くなる方が少ないのは、不思議なことだと述べられています。
 ここで、念のために確認しておきたいことは、たとえ不慮の事故や病気などで亡くなったとしても、信心を貫いた人の成仏は絶対であるということです。
 生前に妙法に縁し、健気に生き抜くならば、あるいは家族や同志の懸命な追善の題目に包まれていくならば、必ず、三世永遠の幸福の軌道へと入っていけるのです。
 大聖人は、遺された家族の心情に、どこまでも寄り添われ、故人の境涯について「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504-06)と語り掛けられました。広宣流布の題目に包まれた死は、「永遠の勝利」への出発です。必ず再び広宣流布の陣列に、清新なで生命で戻ってこられるのです。
「性悪性善」の生命の深理
 ここで拝読した御文では、法華経の一念三千の法理に基づいて、生命の真実を示されます。
 法華経以外の諸経では、仏になるには悪を消滅させることだと考えました。
 しかし法華経では、私たちの生命には、善も悪も、その性分としては本来もともと具わっており、「妙覚」という究極の仏の境地に達したとしても、悪が消えてなくなるわけではなく、両面具わっていると説きます。善悪のすべてが我が一念に納まっていると明かすのが、「一念三千の法門」です。
 ただし、仏は、本性として具わる地獄界などの悪が、そのまま悪の働きを顕して、罪業を作り、苦悩に陥ることはありません。すべてを仏の慈悲と智慧の善なる働きで包み込み、自身のみならず、他のひとびとをも幸福へと導いていくのです。
 一方、地獄の境涯の衆生にも、極善の仏界は厳然と具わっています。ただし、善縁に巡り合えず、絶えず悪縁に触れて、その悪の働きが顕れ、自身を苦悩に陥らせ、さらには縁する人々をも不幸に陥らせ、さらには縁するひとびとをも不幸へ陥れてしまうのです。
 生命に本性として具わる善性、その働きが、「元品の法性」です。
 「元品の法性」とは「仏性」と同じです。その名前は「南無妙法蓮華経」です。御本尊という「事の一念三千」の鏡を拝し、我が身の仏性を信じて「南無妙法蓮華経」の題目を唱え抜くとき、我が生命の「元品の法性」が呼ばれて厳然と躍動し、その光で、わが身心を、人間関係を、そして環境世界をも、生き生きと照らしていけるのです。
 この妙法という不可思議なる生命の法則を知らずに、あるいは聞かされても、強く反発してしまう人が多いのが末法という時代です。哲学・思想が混乱し、正しい判断力を失われているのです。
 その時代には、生命の本性として具わる根源的な悪の働き、すなわち「元品の無明」が、社会に充満する悪縁に触れて、活発になってしまうのです。「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と仰せの通りです。
 したがって、末法において、このような悪の旋風が吹き荒れる中で、法華経の行者が仏の善の勢力を拡大しようとすれば、法華経の行者を迫害する勢力がより一層、反発を強めます。この時に、「善神は悪人をあだみ善人を護る」「悪鬼は善人をあだみ悪人を助ける」という様相を呈するのです。
前進また前進の価値創造を
 大聖人は「無明と法性とは一心の異名なり」(0564-08)と仰せです。「元品の無明」が顕れ、妙法に反発し、悪行をなすのも人間であり、妙法の信と行で「元品の法性」を顕し、善の連帯を広げるのも同じ人間です。
 外なる悪との戦いは、自身の内なる悪に打ち勝って、内なる善を開き顕す戦いと一体なのです。
 無明・煩悩の薪を燃やして、法性・智慧の光を灯し、自他共の幸福の道を照らし出していく。これが宿命転換・人間革命です。
 “もうだめかもしれない”と思うような厚い苦難のカベにぶつかった時にこそ、題目によって生命の本然の底力を涌き上がらせていけるのです。「強敵を伏して始て力士をしる強敵を伏して始て力士をしる」(0957-08)のです。
 そのための御本尊です。信心です。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751-15)と仰せの通りです。
 したがって、私たちの信心の修行、広宣流布の挑戦に“もう十分である、終わりである”という終着点はありません。
 どこまでも革新!どこまでも蘇生!どこまでも成長!。無明に支配された人生から法性が輝く人生へと転じゆく偉大な「価値創造」のドラマを、永遠に楽しく、力強く演じながら、前進していくのです。
 戸田先生は叫ばれました。
 「全人類を仏の境涯、すなわち最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢餓もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする。全人類を最高価値のものとするこれが『如来の事』を行ずるのであります」と。
 このために、私たちはどこまでも、祈りと行動で「善の生命」を拡大いていきたい。人類的な価値創造をすることが、我が創価の一大使命だからです。
09   而るに此の三十余年の三災.七難等は一向に他事を雑えず日本.一同に日蓮をあだみて国国.郡郡・郷郷・村村.人
10 ごとに上一人より下万民にいたるまで 前代未聞の大瞋恚を起せり、 見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始
11 めなり、 神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし、 但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き
12 奉る結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし、
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 しかるに、この三十余年の三災・七難の原因は、全くほかのことではなく、日本一同が日蓮を怨んで、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに、上一人から下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起こしているからである。
 見思惑を断じていない凡夫が、一切の迷いの根本である無明の煩悩を起こしたことは、これがはじめてである。このような凡夫が神と仏と法華経に祈り奉るなばいよいよ増長するのである。ただし、法華経の本門を法華経の行者につけて除く。結局は、勝負を決する以外には、この災難を止めることは難しい。

結句は勝負を決する実践を
 大聖人が「立宗宣言」されて以降、30数年の間の三災七難は、日本国中の人々が、皆こぞって大聖人を憎み、前代未聞の瞋恚の心を起こした故であると仰せです。
 したがって、大聖人の南無妙法蓮華経の大法によって祈る以外に、災難の解決はないことを示されています。
 また「見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり」と仰せです。
 「元品の無明」は成仏を目指す菩薩が、見思惑・無明惑・塵沙惑を断じた後、最終段階で起こし、それを打ち破ってこそ、成仏を遂げられるものとされています。それを、見思惑すらまだ破っていない凡夫が、いきなり「元品の無明」を引き起こしたことは、前代未聞のことである、と。
 これは、大聖人の法門が、凡夫に、生命の根源から転換をもたらし、ただちに成仏の境涯を開かせる、即身成仏の法門であることを意味します。
 すなわち大聖人に瞋恚をいだくことによって、生命の奥底に秘められていた元品の無明を噴出させますが、その報いとして苦しみを受け、そこから正法に目覚めた場合には「元品の法性」が一気に顕れ、即身成仏の境涯が開けるのです。これは、根底からの「生命の変革」です。「宿命転換」です。
 法華経の真髄である南無妙法蓮華経を、日蓮大聖人の民衆救済の精神と行動を受け継いで唱えるのです。正義の中の正義である大聖人の仏法を、勇敢に叫び抜くのです。広宣流布のための戦いに、断固として「仏法勝負」の実証を切っていくのです。
 牧口先生の御書には、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」との一節に線が引かれています。
 「勝負を決する」とは、現実社会に正義を確立することです。それは、言論の戦いです。勇気で勝つことです。現証で勝つことです。そこに初めて「元品の法性」が発動し、災難を乗り越えていくことができるのです。
15       一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すで
16 に勝る故に大難又色まさる、 彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり 天地はるかに殊なりことなりと
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 一念三千の観法に二つある。一には理であり、二には事である。天台大師・伝教大師等の時は理であり、いま日蓮の時は事である。一念三千の観法においてすら日蓮のほうが勝っているので大難もまた盛んなのである。天台大師・伝教大師は迹門の一念三千であり、日蓮は本門の一念三千である。この相違は天と地ほどのはるかな違いであると。

「事の一念三千」とは現実の変革
 天台の修業した一念三千の観法は、一念三千の法理が衆生の生命に具わることを、瞑想によって会得した修行法でした。
 しかし、天台が説いた後、行ずる人はほとんどなく、成就できた人はさらに少なく、万人に開かれた修行法ではなかったのです。
 また『摩訶止観』に、「修行と理解が深まれば、三障四魔が紛然として競い起こる」と記されています。
 しかし、天台の一念三千の実践は瞑想の修行であり、三障四魔が競い起こる舞台も、実践者一人一人の心の中でした。
 まだ末法ではなく、法華経誹謗の悪が蔓延しておらず、一国を挙げての迫害や命に及ぶような難は、さほど起こりませんでした。
 それに対して、大聖人の修行には、天台・伝教らとは比べ者にならないくらいの熾烈な三障四魔が、現実の迫害・苦難となって競い起こりました。「天台・伝教等の時の三障・四魔よりもいまひとしをまさりたり」(0998-14)です。大聖人の一念三千の実践は、法華経の本門で末法末弘を託された地涌の菩薩の先駆けとして、末法の混迷した社会の実現を舞台としています。その中で具体的な人物や勢力として姿を現した三障四魔との、壮絶な闘争の展開です。
 大聖人は「観念すでに勝る故に大難又色まさる」と仰せです。この「観念」とは「慈悲」の意義にも通じます。末法の一切衆生を救わんとの大慈悲の発露として、現実社会で、大悪と戦い抜くゆえに、天台をはるかに凌駕する大難を呼び起こされたのです。
 あえて私たちの実践に引き寄せて言えば、「理の一念三千」は「個人の変革」の可能性を理論上、確立したものであり、「事の一念三千」は、事実の上で「人間革命」し、そして、自他共に「幸福の軌道へ入り」、さらに「社会の変革」へと大きく展開していくものです。
 つまり、広宣流布という「仏の大事業に」に参画することであり、具体的には「広宣流布の指導者」に続いて行動していくことなのです。
生活に生ききる一人一人の行動から
 ちょうど60年前の5月、戸田先生は「婦人訓」という指針を発表されました。
 これは、東京のある支部婦人部長が、会合で発表した決意発表を戸田先生が聞かれ“原稿を私に寄贈してくれないか”と依頼され、「予が永らく願望せる婦人の確信と一致せり」などの言葉を添えて、そのまま婦人部に贈られたのです。
 「私達は安心して話せる婦人、何でも聞いてくれる婦人、何でも応えてくれる婦人であらねばならないと思います。
 今まで婦人は怨嫉の製造元のように言われて参りました。今日この機会に創価学会の婦人からは、この言葉は返上到そうではありませんか」
 そこには、広宣流布の成否を決するのは、創価学会婦人部であるとの使命感が躍動していました。子育てや介護など、いかなる生活闘争からも一歩も退かず、自分の境涯革命のため、折伏に、教学に挑戦し、広宣流布の団結の要と光っていこうとの気概が満ちあふれていました。
 戸田先生は、この婦人部の代表が語った精いっぱいの確信と誓願の一言一言を、これこそ「創価学会会長戸田城聖の心の言々句々」であると、最大に尊重され、宣揚されたのです。
 「いよいよ新聞を出すからには、小説だって載せねばならないだろう」と言われながら、戸田先生は、聖教新聞に小説『人間革命』を綴り、一人一人が「創価学会の精神的支柱を学んで欲しい」と願われました。と同時に、この人間革命の真髄は、日々の生活に苦闘しながら、広宣流布に健気に奮闘する婦人部をはじめ、無名の庶民の群像のなかにこそ、戸田先生は誰よりも深くご存じであったのです。
 私たちの「生命」以上の「価値の宝庫」はありません。いかなる状況にあっても「価値」を創造し続ける力が、私たちにはあるのです。この価値創造という「創価の力」の源泉こそが「信心」です。
 この確かな生命尊厳の哲理を持った我らは、今日も、大切な友の心に希望と勇気の光を贈り、わが地域に、そして社会に、「平和の価値」「友情の価値」「幸福の価値」を勇敢に創り広げていこうではありませんか!。