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日蓮大聖人御書講義18上0999~1012

         大田乗明について
0999~1000    金吾殿御返事(大師講御書)
  0999:01~0999:02 第一章 止観の五を読まれる
  0999:03~0999:03 第二章 大師講への供養を謝す
  0999:04~0999:06 第三章 十一通御書に続く再度の諌暁
  0999:06~0999:11 第四章 諌暁への反応なきを訝る
  0999:12~1000:04 第五章 弘教のために死罪を覚悟する
1000~1001    転重軽受法門
  1000:01~1000:02 第一章 修利槃特の故事を引き三人に譬える
  1000:03~1000:10 第二章 転重軽受の法門を明かす
  1000:10~1001:16 第三章 大聖人の法華経色読を示す
  1000~1001    転重軽受法門2008:06月号大白蓮華より。先生の講義
1002~1005    大田殿許御書(天台真言勝劣事)
  1002:01~1002:06 第一章 法の勝劣を決すべきを明かす
  1002:06~1002:13 第二章 法華を下す真言の邪義を挙げる
  1002:14~1003:11 第三章 増上慢との非難を破す
  1003:11~1003:15 第四章 法華が真の諸経の王と示す
  1003:15~1004:01 第五章 他経の「諸経中王」の真意を示す
  1004:02~1004:08 第六章 経の勝劣を明かす意義を示す
  1004:08~1004:18 第七章 人の勝劣を判じた前例を示す
  1004:18~1005:05 第八章 真言に依るべからずと戒める
1005~1008    太田殿女房御返事(即身成仏抄)
  1005:01~1006:02 第一章 爾前諸経の即身成仏に実義なきを明かす
  1006:03~1006:07 第二章 真言諸師の誤りを指摘する
  1006:08~1006:14 第三章 竜樹の釈を引き法華経こそ妙と明かす
  1006:14~1007:15 第四章 真言の即身成仏義は不空の偽りと明かす
  1007:16~1008:05 第五章 即身成仏の法は法華経のみと明かす
  1008:06~1008:10 第六章 仏法違背が亡国の因となるを示す
1009~1012    太田入道殿御返事(業病能治事)
  1009:01~1009:10 第一章 病気について述べた経釈を挙げる
  1009:10~1010:06 第二章 病気を冶すための良薬を明かす
  1010:07~1010:13 第三章 法華誹謗の業病こそ冶し難きを明かす
  1010:13~1011:05 第四章 謗法を改め正法に帰した先例を挙げる
  1011:05~1011:13 第五章 法華最勝と真言の破法亡国を明かす
  1011:12~1012:05 第六章 重病も転重軽受のための信心を励ます

         大田乗明についてtop

一、呼び名
 大田氏の呼び名でるが、御書ではさまざまな呼称を用いられている。「太田殿」「太田入道殿」「大田左衛門尉殿」「太田金吾入道殿」「乗明聖人」「乗明法師妙日」「太田金吾殿」などがそれでる。このうち大田あるいは太田が姓であることはわかるが、講義録では「大田」で統一する。
 次に、「左衛門尉」「金吾」という呼称であるが、これは本来、武士としの職務に関する呼称である。
 まず、左衛門は左衛門府の略で、六衛府の一つ、六衛府は、律令制度の成立と変遷を経て、弘仁2年(0811)に成立したもので、近衛府・兵衛府・衛門府のそれぞれに左右が設けられ、六衛府となったものである。その名の示すとおり、朝廷の門の警備や護衛、人や物の通行に際して、検査するなどの任務を主とするものであるが、守護する門の違いによって三府が立てられた。
 しかし、鎌倉時代には、武士はその棟梁である将軍の本拠である鎌倉に中心を移し、実際には朝廷守護の任を負わなくなるのであるが、立て前のうえで天皇のもとにあるとの意義から、すべての武士に旧来の職務上の呼称が与えられたのである。
 また、尉は令制における職務の位階の名称で、督・佐・尉・志の四等のうちの一つである。さらに、金吾は左右衛門府の中国の令制における呼び名である。
 以上が左衛門尉の呼称の意味であるが、乗明は名で、大田乗明が姓名となる。乗明の読み方は「ジョウミョウ」「ノリアキ」または他の呼び方があるか、不明である。
 妙日は、入道に際し、日蓮大聖人からいただいた法名と考えられる。乗明聖人、乗明法師、妙日などの呼び名は、いずれも入道になってからのものである。
二、生年について
 弘安元年(1278)4月28日に著された太田左衛門尉御返事には「御状に云く某今年は五十七に罷り成り候へば大厄の年かと覚え候」(1014-02)とあるところから、大田乗明の出生の歳を推察すると、貞応元年(1222)と考えられる。没年については諸説があるが弘安6年(1283)4月26日とする所伝がある。
 出身地や父母などの出自についても諸説あるがいずれも確たることはいえない。
 そこで、以下、乗明が大聖人から賜った御書の記述から、推定される事柄を想像しつつ、その人物像を追っていくことにしたい。
三、その人物像と周辺について
(一)居住地、交友関係など

 まず、乗明の居住地を推定するうえで手掛かりになるのが、交友関係に触れられた幾つかの御文であろう。
 転重軽受法門に「修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり」(1000-01)とあり、この御書は大田左衛門尉殿、曾谷入道殿、金原法橋御房となっている。
 また、土木殿御返事に「太田殿と其れと二人の御心喜び候」(0963-01)とあり、ここで「其れ」は土木氏、すなわち富木常忍でることはいうまでもない。
 さらに、後にも触れることになる問注得意抄では「土木入道殿」で始まりながら「三人御中」とあて名されている。この「三人」を富木常忍・四条金吾・大田乗明とする説と富木常忍・大田乗明・曾谷教信とする説などあり定かではないが、以上のことから、ともかく、乗明は富木常忍・曾谷教信・金原法橋と密接な交友関係があったとみることができる。
 富木常忍が下総国葛飾郡八幡荘若宮に居住していたことは確かであり、現在の中山法華寺の奥の院の寺域がその館跡とされている。また、この地域には現在も中山・曾谷・八幡・若宮の地名が残っていることから、少なくとも富木常忍と曾谷教信とは近くに居住していたことは間違いない。
 しかし乗明の住居については、現存する資料からは場所を特定できないが、数々の伝承から、乗明と富木常忍の屋敷はすぐ隣接していて、両方を併せたものが中山法華寺の境内になっているとも考えられる。
 すなわち、乗明亡きあと、子息の帥阿闍梨・日高がその屋敷跡を本妙寺とした。さらにその後、富木常忍が邸内に建立していた法華堂を法華経寺と改めたうえで、両寺をあわせて、中山法華経寺としたという伝承である。
 また、乗明と富木常忍の親近関係を物語る説として、富木常忍の妻は大田乗明の姉であるとする説もある。
 なお、乗明聖人御返事に「相州の鎌倉より青鳧二結甲州身延の嶺に送り遣わされ候い了んぬ」(1012-01)とあり、乗明が鎌倉から使者を通じて身延の大聖人に御供養を送っていることを示す一節があるが、ここから乗明の居住地が鎌倉であったとする推測も可能であろう。
 だが、この一節は、居住地もさることながら、乗明が鎌倉幕府の問注所の役人であったことに由来するのではないかと推測できるので、次の項で触れることにしたい。
(二)問注所・真言宗・所領など
 乗明が鎌倉幕府の機構のなかの問注所の役人を努めていたとする説があるが、それを客観的に裏づける史料があるわけではないので、断定はできないが、大聖人から与えられた諸御書を拝すると、乗明が問注所にかかわる立場にいたことを推測させるものがある。
 その一つが問注得意抄である。前述したように、この御書のあて名は、初めに「土木入道殿」とあり、末尾に「三人御中」とあって、乗明が含まれているかどうかは定かではない。この問注得意抄は、文永11年(1269)5月の御執筆があるが、翌年の11月(あるいは同年)大田金吾あてにこれと関連すると思われる御抄が送られており、おそらく3人のなかに乗明も入っていたと想像される。
 問注所とは、訴訟の受理などを扱った役所で、問注得意抄は、十一通御状にあわてた諸寺の僧たちが大聖人を陥れるべく訴えを出したのをいち早く知った富木常忍、乗明らが大聖人にお知らせしたことに対する御返事である。
 さらに、ある伝承では、乗明を問注所執事・三善康連の子とする説がある。この説を有力な仮説として容認すると、問注所との関連のみならず、大田乗明あての御抄に、真言宗に多く言及されている理由が明らかになってくる。
 例えば、大田殿許御書・太田入道殿御返事・慈覚大師事などがそれで、これ以外にも乗明自身が日蓮大聖人に帰依するまでは、真言宗の熱心な信者であったことをうかがわせる御文もある。太田入道殿御返事の一節に「抑貴辺は嫡嫡の末流の一分に非ずと雖も将た又檀那の所従なり身は邪家に処して年久しく心は邪師に染みて月重なる設い大山は頽れ設い大海は乾くとも此の罪は消え難きか」(1011-14)とある。これは厳しく真言宗を破折された直後に、「貴辺は」として大田乗明自身に言及されたところである。この文意は、大田乗明が真言宗を支える直系中の直系の末流ではないものの、その周辺に位置する立場にあったということである。
 この仰せと、三善家からの代々の問注所の役人が輩出されてきたという史実、また同家が真言宗の大檀那であったという経歴とが、奇妙に結びついてくる。
 三善康連の父である三善康信は鎌倉時代の初代問注所執事として活躍するとともに、備後国の地頭職に補任され、大夫属入道善信とも称したとされる。
 真言宗と深い関係を示す資料としては吾妻鏡を挙げることができる。まず、「廿四日、己亥、仙洞、御願を為し、平家の怨霊を宥めさせる為、高野山に於いて大塔を建立せらる。去る五月一日より厳密に御仏事を行わせらる。而して供料所は備後国大田庄を以て、御手印を加え、今日寄せ奉らせらる所なり」とある。
 ここに、仙洞とは上皇の御所を指す。文治年間のことであるから後鳥羽上皇を指している。つまり、平家の怨霊を鎮めるために、上皇が願主となって、真言宗の総本山・高野山に大塔を建立したということである。その際の供養料は備後国の大田庄が年貢として納める旨、上皇の手印による承認があったことを記している。備後国大田庄といえば、ここの地頭職にあった三善康信が供養料を納めることと同じである。ちなみに、大田の姓がこの「大田庄」からきていることは、容易に推察される。
 さらに、吾妻鏡の承元3年(1209)3月の項には「一日、甲午、今日、高野山大塔料所備後国大田庄の乃貢対捍するの由、寺家これを訴へ申す。よってその沙汰のあるところ、かの使者の僧と地頭大夫属入道の代官と口論に及ぶ」とある。ここでは備後国大田庄が高野山大塔の供養料としての乃貢を納めることを拒否してトラブルのあったことを示してるが、ここに大夫属入道という地頭の名があがっている。全訳吾妻鏡では、大夫属入道の横に「三善善信」との注記が入っていることからも、三善康信の管轄する備後国大田庄がかなり長期にわたって高野山大塔を供養しつづけたことが分かる。
 この三善康連が太田入道と名乗り、康連の二人の兄弟である三善康俊は町野を、三善行倫は矢野を、それぞれ名乗っていることが明らかである。
 また、康連の子息にあたる三善康宗は太田太郎兵衛尉とも大田民部大夫とも称しており、三善康有は大田七郎と名乗っていることも同索引からも明らかである。
 さらに、同索引によると、この他に大田姓を名乗っているもののなかで、大聖人とほぼ同年代に生きた人物を探ってみると、大田四郎左衛門尉、大田次郎、などの名が見える。仮にこの二人を康連の他の子息と考えると、太郎、次郎、四郎、七郎となる。
 しかるに、大田乗明を三善康連の子息とする説では多くが「大田五郎左衛門」としていて、康連の五番目の子として位置づけている。
 また、康宗も康有もともに、問注所執事となっているが、大田乗明の立場に関しては、確たる資料はない。しかし、兄弟のなかに問注所執事がいるとなると、大田乗明が何らかの形で問注所と関わりを持っていたことは、十分に考えられるところである。
 なお真言宗との関連であるが、三善康信がいわば供養料を納める大檀那であることは明らかであるが、その系統はおそらく大田姓を名乗る康連に引き継がれ、さらにその長男である康宗へと引き継がれたとすれば、その兄弟筋にあたる大田乗明は「嫡嫡の末流の一分に非ず」ということになるが、同時に「檀那の所従」にはあたり、身心ともに真言の邪義に染まっているとの仰せの意味もより明瞭になるのではなかろうか、といって、御書には大田乗明に兄弟があったという記述はまったく見られのいので、確定的なことはいえず、あくまでも仮説にすぎない。
 さらに乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で「而るに風聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ」(1038-16)とあることからも明白なように、曾谷教信と大田乗明はともに越中に所領があったことが分かる。
 所領については、吾妻鏡には、建長2年(1250)の項に「押小路面二十本…二本 越中大田次郎左衛門尉」とある。つまり閑院の内裏を造営するさいの雑掌の一人として「越中大田次郎左衛門尉」とあり、御書の「越中の御所領」の御記述と符合するが、これが乗明であるか、確かなところは分からない。
 以上、さまざまな観点から大田乗明の人物像とその周辺をさぐってきたが、大田乗明への呼び名や賜った御書の内容からいって、問注所と関わりが深く、かなりの学識、教養、社会的地位のある武士で、大聖人の大檀那の一人であったということが浮かび上がってくる。また乗明の妻も「太田殿女房御返事」を賜っており、同抄の内容からいって、仏法教理の理解という点で、すぐれた婦人であったと推察される。

0999~1000    金吾殿御返事(大師講御書)top
0999:01~0999:02 第一章 止観の五を読まれるtop
0999
金吾殿御返事   文永七年十一月    四十九歳御作   与大田金吾
01   止観の五・正月一日よりよみ候いて現世安穏後生善処と祈請仕り候、便宜に給わり候本・末は失て候いしかども
02   これにすりさせて候多く本入るべきに申し候。
-----―
 摩訶止観を、明年の初め、元旦から読みはじめて「現世安穏にして後に善処に生じ」との福徳があるようにと、祈り請わさせていただこうと思う。
 お便りのついでにお送りいただいた本末は、破損しているけれども、こちらで修理させて使っている。本が多く入用であるので、お願い申し上げる。

止観の五
 天台大師が講述した摩訶止観巻5のこと。正説の第7・正修章が入っていて、正しく止観修業が明かされ、理の一念三千が明かされる最重要部である。
―――
現世安穏後生善処
 法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。
―――
祈請
 神仏に祈り請うこと。
―――
便宜
 都合の良いとき。ついで。便り。音信。
―――――――――
 本抄は、御書全集では文永6年(1269)11月28日に大田左衛門尉乗明にあてて認められた御手紙とされており、御真筆は中山法華経寺にある。
 ただし、冒頭の「止観の五・正月一日よりよみ候いて現世安穏後生善処と祈請仕り候、便宜に給わり候本・末は失て候いしかどもこれにすりさせて候多く本入るべきに申し候」の部分と、末尾の「いたづらに曠野にすてん身を同じくは 一乗法華のかたになげて雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり…」の部分は御真筆が現存しない。
 まず御真筆の年次であるが、現存している御真筆からでは、御執筆の年も、月日もわからないが、日澄の写本には「11月28日」とある。
 年次は、古来、文永7年(1270)といわれているが、御真筆を拝すると、「此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか・去年方方に申して候いし」との記述がある。この「方方に申して候いし」は、文永5年(1268)11月11日に出された11通御書のことを指しておられることは疑う余地がなく、それを「去年」といわれていることからすれば、本抄御執筆は文永6年(1269)ということになり、本講義では文永6年(1269)御執筆ということにしておく。
 次に「11月28日」の日付であるが、この部分の御真筆も残っていないので、断定はできないが、現存する御真筆の冒頭部分に「大師講に鵝目五連給候い了んぬ」とある。大師講は天台大師への報恩の意をこめて行われる法会で、天台大師の命日である11月24日を中心に行われたものである。他に伝教大師の大師講があるが、大聖人の場合建治2年(1276)11月29日の富木殿御返事の「鵞目一結天台大師の御宝前を荘厳し候い了んぬ」(0978-01)等の記述から、天台大師のものと推量される。そのほか文永6年(1269)6月7日の富木殿御消息に「大師講の事今月明性房にて候が」(0949-01)とあり、文永10年(1273)9月19日の弁殿尼御前御書に「辧殿に申す大師講を・をこなうべし」(1224-01)とあるところから、毎月24日に大師講が行われていたと思われる。本抄の大師講は、「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候」と仰せられているところから、毎月のものではなく、年単位のものであることが分かる。また、大師講の御供養に触れられているところからも、11月28日の日付は妥当性がある。
 ただ、前年の11通の御状に続いて「今年十一月の比方方へ申して」と再び書状を出されたことに触れられている。これについては、文永5年(1268)に蒙古から初めて国書が到来し、このことから文永5年(1268)10月に11通の御状をもって諌暁されたのであったが、立正安国論奥書に「又同六年重ねて牒状之を渡す」(0033-05)とあるように、再度の国使到来があり、このため、文永6年(1269)にも「方方へ申」されたと推察される。ただ、「28日」という月末であろうと、11月の御手紙のなかで、その月に出された書状について「此」とあいまいな表現をされているのは奇異な感じがする。しかし、これがたとえ12月の御執筆としても、あまり事情は変わらないだろうから、「此」という表現には他の原因を考えたほうがよい。推測ではあるが、11通の御状のように同じ日に一斉にだされたのではなく、10月の終わりごろから11月にかけて、幾度かに分けて少しずつ出されたのではないかと考えられる。
 なお、本抄のほうに「すでに五十に及びぬ」と仰せられている。本抄御真筆が文永6年(1269)とすると48歳であられるはずである。たとえ本抄が文永7年(1270)の御抄であっても、49歳である。文永8年になると、大聖人は50歳になられるが、もし、この「50年」にこだわって、本抄御執筆を文永8年(1271)とすると、11通の御状に関する表現や、この年には竜の口法難・佐渡流罪が起こっているから、本抄の「いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候」などの御記述と大きく食い違うことになる。したがって「すでに五十に及びぬ」との御言葉は、50になったとわれているのではなく、「既に50近い年になった」の意でいわれたのであろう。そう考えると、そのすぐあとで「余命いくばくならず」といわれているのと符節を合するのである。
 本抄の御執筆の年次については、以上のような推測から文永6年(1269)11月28日ということにしておきたい。
 次に本抄をいただいた人であるが、末尾に「御返事」とあるだけで、誰という記述はないが、古来、大田左衛門尉乗明であるとされ、これに特別の疑義がさしはさまれたことはない。むしろ、大田乗明とする説は、大師講に際しての御供養の額等からも首肯できるし、冒頭の部分が本抄のものであるとすると、資料の収集について言及されていることも、乗明であることを補強するものといえる。
 さて、この端書の御文をどう解すかについては、いくつかの説がある。本文のこの部分を、文体等を重視して解すると、次のように解することができる。
 「摩訶止観の巻五を、今年の初めの元旦から読みはじめて「現世安穏にして後に善処に生じ」との福徳があるようにと、祈り請わさせていただいている。お便りのついでにお送りいただいた本末は、少々破損してしまったが、こちらで修理させた。本が数多く入用であるので、お願い申し上げる。」
 しかしこのように解すると、「止観の五」以降の文と、「多く本入るべきに申し候」との文との関連が、漠然としてしまう。また、11か月も前の事柄を記されたことになる。そこで、文意の理解に重点を置いて、「止観の五」から「祈請仕り候」までを未来形と解する考え方がある。この場合、「正月一日」を本抄御執筆時より約一カ月後の未来のことと解することになる。また、「便宣に給わり候」の部分については「便宣に給べく候」とし、後の「多く本入るべきに申し候」の文につなげ「本」の一つに「止観の五」が含まれると理解するものである。そうすると、この部分は次のような意味になる。
 「摩訶止観の巻五を、来年の初めの元旦から読みはじめて「現世安穏にして後に善処に生じ」との福徳があるようにと、祈り請わさせていただこうと思う。ついては、都合のよい時にお送りいただきたい。本末とも破損していても、それはこちらで修理させよう。本が数多く入用であるので、お願い申し上げる」
 「今年の一月から止観の五を読んできた」というように過去のことをいわれていると拝するか、「来年の一月から止観の五を読もう思う」という未来のことをいわれているのかと拝するのか二つがありうるということである。しかし過去のこととして拝すると、止観の五を11ヵ月も前から拝してきたといわれていることになる。もとより大聖人は止観については既に掌中のものとされていたが、翌文永7年(1270)から9年間にかけて真言宗・禅宗を破折する御抄を集中的に著されていることから拝して、天台摩訶止観の真意を再度確認し、止観の本意を歪めている、これら諸宗の誤りを明確にしようとされたものとも考えられる。
 ただ、ここに興味のある別の御文がある。それは建治元年(1275)12月22日の御抄とされる上野殿母尼御前御返事中の御文である。この御抄は御真筆が存している。ここにその御文を引用しておこう。
 「止観第五の事・正月一日辰の時此れを・よみはじめ候、明年は世間怱怱なるべきよし・皆人申すあひだ・一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候が、文あまた候はず候御計らい候べきか」(1515-02)
 本抄とほとんど軌を一にする御文である。時期的にも、12月22日で、同じく年末である。しかも、この御文は、未来のことをいわれていることが明確に見てとれる。「止観の第五を正月の辰の刻から読み始めようと思う。来年は世間が騒然とするであろうと皆がいうので、後生のために15日まで止観を談じようと思うが、文が多くないので、収集の手配をしていただきたい」との意である。
 止観五を読み始める時刻も、日限も明示されている。しかも、本抄に「多く本入るべきに申し候」とあり、上野殿母尼御前御返事には「止観を談ぜんとし候が、文あまた候はず」との御記述があり、止観を講ずるのに、門下もそれらを手にしつつ学べるように、できるだけ多くそろえようとの御配慮と拝される。
 このように、両抄が関連する御手紙だとすると、上野殿母尼御前御返事も建治元年の御抄ではなく、文永6年の御執筆ということになる。その場合、上野殿母尼御前に資料の収集方を依頼されているのは奇異であるが、御真筆を拝すると最後の「上野殿母尼御前御返事」というあて名は本文の字体の年代と異なっており、別々のものが一緒にされたものとする説があって、富木常忍にあてたものといわれている。同抄中の「母尼ごぜん」は富木殿の母尼御前というわけである。資料の収集は大田乗明や富木常忍、さらには曾谷教信、四条金吾に依頼されることが多く、もしかすると同様の御手紙が他にも出されていたのかもしれない。
 これらのことを勘案して、現代語訳では、本抄冒頭の「止観の五」の部分は、一往、未来のことを仰せられているとして拝しておいた。
 本文に入り、止観の第五について述べられている。止観の五は、摩訶止観のうちで、天台大師が法華経の諸法実相の文をもって一念三千の法門を打ち立てられた重要な個所である。これを正月から大聖人が読まれるということは、もちろん、改めてよまれるとの意であり、そこに説かれる一念三千の法門に心をいたし、それをもって自らの成仏は当然のこと一切衆生の現世安穏後世善処を祈っていくとの御心が吐露されている。特に「上野殿母尼御前御返事」を拝すると「世間怱怱なるべきよし・皆人申すあひだ・一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候」(1515-02)といわれており、他国侵逼難・自界叛逆難の渦巻くであろう世相のなかで、止観を講じて門下が一致団結して自行化他に励み、自身の後生を祈念するのはもちろん、国土全体を救おうとされているのである。本抄で「現世安穏後世善処と祈請仕り候」と仰せられているのと同じである。
 「便宜に給わり候本・末は失て候いしかどもこれにすりさせて候」の御文も、すこぶる難解である。これを一つながりの文として解釈すると「便りのついでにお送りいただいた本と末は、破損したけれども、これを修理させた」という意味になる。
 本と末とは通常、最初と終わりということであるが、大聖人御在世当時は、天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観(大聖人は諸御書の引用でこれを略し、玄義・文句・止観といわれえいる)を本とし、その注釈書である妙楽大師の法華玄義釈籤・法華文句記・止観輔行伝弘決(大聖人は諸御書の引用でこれを略し、籤・記・弘決といわれえいる)を末と呼称いていたので、三大部の本末あるいは止観の本末であろう。前の御文からの関連を考えて「止観の五を読んでいこうと思う。前に送ってもらった止観の本末は破損したが修理させた。止観が多く入用なのでよろしくお願いしたい」との意にとるのが自然であろう。
 なお「本・末は失せて候いしかども」との御記述も、紛失したとの意ではなく、“破損したので修理させた”“失ったが補わせた”の意であろう。
 いずれにしても、ここは短文の添え書きであるが、諸宗との対決や、種々の災いが頻発する緊迫した世情のなおかで、多くの書を取り寄せ、それらを門下とともに読みながら、またそれらを駆使して民衆救済の戦いを展開されていた大聖人の御様子が拝察される。

0999:03~0999:03 第二章 大師講への供養を謝すtop
03   大師講に鵝目五連給候い了んぬ、此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候。     ・
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 大師講に際して、鵝目五連、御供養として確かに頂戴した。この大師講は、三・四年前から始めたものであるが、今年はそのなかでも、第一の盛大さである。

大師講
 天台大師の命日である11月24日に営まれた法会のこと。天台大師への報恩謝徳のための法会ではあるが、大聖人は法華経・摩訶止観を講ずるなかに正法弘通を計るとの意義から営のまれている。
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鵝目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
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 大師講への「鵝目五連」の御供養を受け取った旨を最初に述べられている。大師講は前章でも述べたとおり、天台大師の命日である11月24日に営まれた法会である。天台宗では伝教大師が初めて行い、以後、定期的に、天台大師への報恩の意義を込めて法華経や止観等の講説や供養を行った。大聖人もこれを踏襲して行なったと思われるが、大聖人における大師講は、当然、天台宗で行っていたそのままとは異なり、下種仏法から天台仏法を捉えてのものであったと思われる。大師講を縁として末法に弘める法を教えていかれたのであろう。
 本抄では「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候」と仰せられている。文永6年(1269)の3・4年前というと、文永2(1265)・3年(1266)ごろということになる。このころに大師講を始めたと仰せられているわけである。ただ本抄と同年の御著作とみられる富木殿御消息に「大師講の事今月明性房にて候が此月はさしあい候」(0949-01)とある。この書は日付が「6月7日」となっており、月1回、持ち回りで行われていたようである。この書からも、大師講がかなり定着して行われていたことがうかがわれる。本抄での大師講は「今年は第一にて候」との仰せからも分かるように、月例のものではなく、年一度の大師講で、しかも、これまでで最も盛大なものになったと仰せられているのである。年々、充実していったであろう。蒙古の牃状がきて立正安国論で予言された自界叛逆・他国侵逼の二難のうち他国侵逼の難が現実味を帯び、前年の11通御書の提出等、大聖人の諌暁が次々と行われ、門下の弘教の活動も活発となっていたことであろうが、この御記述からも拝することができる。なお、この大師講は大聖人が入滅される直前まで行われていたと思われる。弘安4年(1281)の地引御書に「二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつりて」(1375-01)とある。ちなみに「延年」とは法会のあとに仏をたたえて僧が舞ったもので「延年舞」ともいう。
 さて、この大師講に大田乗明が「鵝目五連」を御供養したとある。「鵝目」は孔あき銭の通貨である。それを「五連」御供養されたということである。五連とは五つの連なりで、連は紐を通して一魂にしたものである。百枚を連ねたもの、千枚のものなどがあったようである。これについては妙光上人御消息の冒頭に「青鳧五貫文給い候い畢んぬ」(1237-01)とあり、その御供養について「青鳧五連の御志」(1241-14)と仰せられている。青鳧は鵝目と同じ意である。すなわちこの場合「五連」は「五貫文」の意で、貫は千であるあら、五千枚ということになる。他に乗明聖人御返事に「青鳧二結」(1012-01)とあってこの御供養について「銅銭二千枚」と注釈されているから、「連」も「結」も、大聖人の場合は千枚をあらわすことが多かったようである。門下からの金銭の御供養は、他の御書を拝しても、「五連」は五貫文と考えてよさそうである。五貫文が現代の通貨でどの程度に相当するかは、当時の通貨価値の変動が激しく、かつ現代においても変動があるのは当然であるから、にわかには確定できないが、かなりの高額にあることは疑いない。大師講に対してこのように多額の御供養がされていることから、大聖人門下は、この大師講を中心として一堂に会し、ここから各地に散って弘教と、在家の人々の指導に当たっていたことがうかがわれる。

0999:04~0999:06 第三章 十一通御書に続く再度の諌暁top
04   抑此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか・去年方方に申して候いしかども・いなせの返
05 事候はず候、 今年十一月の比方方へ申して候へば少少返事あるかたも候、 をほかた人の心もやわらぎて・さもや
06 とをぼしたりげに候、 又上のけさんにも入りて候やらむ、 
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 そもそも、この法門のことは、諌暁の書での予言が現実になるか、現実にならないかによって、弘まるか、それともひろまらないかが決まる。昨年十一通の書状で、何人かの人に申し上げたが、拒絶とも承諾とも、いずれとも返事がない。
 今年の十一月ごろに、何人かの人々に申したところ、少々、返事をくださる人もいる。ほとんど、人の心も穏やかになって、そのとおりかもしれない、と思われたかのようである。また、執権殿の目にも入ったのかもしれない。

勘文
 勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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方方
 幾人かの人々。
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 天皇・幕府・将軍・主君。
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けさん
 対面・お目にかかること。
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 「此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか」の「この法門」とは、もちろん大聖人の文底独一法門である。末法の衆生は三毒強盛であるうえ一国謗法に染まっているから、大聖人の仏法を素直に信じる状況にない。そこで、予言の的中によって人々を正法に目覚めさせようとされたのである。「此の法門」が「弘まるか弘まらざるか」は「勘文の有無」によるとの仰せである。勘文とは、文応元年(1260)に出された立正安国論である。勘文は普通、朝廷と幕府が諮問し、それに応じて出される「勘えぶみ」である。しかし大聖人の場合、幕府等の諮問の有無とは関係なく、一国を安穏ならしめるために自ら勘えられた文なのである。あえていえば、大聖人が一国ひいては閻浮提を安穏にする方途とは何かを自らに諮問され、結論として出された文であるといえよう。
 大聖人が安国論のなかで「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。(0017-12)とあり、さらに「薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり(0031-11)と述べ、一国謗法という根源を改めない限り、残りの二難が起こるのは必定であると、予言されたのである。
 この二難が起こるか否か、すなわち勘文の「有無」が大聖人の仏法が広まるか否かの分かれ目となる。自界叛逆・他国侵逼の二難とも、一国にとっては大難である。特に他国侵逼難は、日本にとって、開闢以来、経験したことのない難である。それだけに、人々にとっては信じがたい予言・警告であったと思われる。しかも、経文のとおりであるならば、仏法が正しいならば、必ず事実となるにちがいない。難の起こることを願うのではもちろんないが、一国を救うためには、仏法の正しさを実感させねばばらない。それをとおして、日本に今広まっている諸宗は謗法の邪義であるとの大聖人の主張が受け入れられ、それによって大聖人の仏法が広まり、その立正によって安国となるのである。この思いから、大聖人は厳然として勘文のなかで二難を予言されたのである。
 はたして、文永5年(1268)閏1月、蒙古の使者が太宰府に到着し、通交を要求してきた。形は通交要求であるが、実質は隷属を迫ってきたのである。日本は騒然とした。まさしく、大聖人の他国侵逼の予言が的中したのである。こうして大聖人の予言が的中したのであるから、すぐにでも大聖人の諮問があっても当然であった。しかし、幕府は大聖人に対して黙殺の態度を変えなかった。大聖人は9月まで待たれ、10月11日、北条時宗、平左衛門尉、極楽寺良観など、幕府要人、各宗の高僧らに11通の諌状を出された。それをここでは「去年方方に申して候いし」と仰せである。
 ところが、またしても、大聖人の赤誠あふれる諌暁に、彼らは黙殺を続けた。「いなせの返事候はず候」とあるように、大聖人の仰せを尊重するとか、検討するという返事がなかったばかりか、はっきりとした否定もしなかったのである。公場対決を迫られる大聖人に、たとえ拒絶しても反応を示す以上、その理由をいないわけにはいかない。良観らはそれに恐れをなし、自ら無視するのは当然、幕府高官らにも無視するよう働きかけたであろうことは、容易に想像できる。
 ところが、幕府が煮え切らない態度をとっているあいだに、翌文永6年(1269)3月、蒙古の使者が再びきて、返事を要求し、さらに対馬の島民を拉致するという事件が起こった。続いて9月には高麗の使者がきて、この時、先に拉致した島民は返したが、最後通牃ともいうべき国書を伝えたのである。事ここに至って、大聖人は再度の諌暁を思い立たれた。それが本抄で述べられている「今年十一月の比方方へ申して候へば」である。この諌暁につては、本抄以外に具体的な記述が残されていず、どのような相手に出されたのかも明確ではない。「十一月の此」という時期と「少々返事あるかたも候」という、前回に比べ、少しは反応があったということが分かるにすぎない。
 この、反応は少しはあったということも、だれからのものであるかはもちろん分からないが、度重なる蒙古の通牃が、大聖人の主張に耳を傾けることになったのであろう。「又上のけさんにも入りて候やらむ」という記述からみると、上、すなわち、北条時宗らへの取り次ぎ役であった宿屋左衛門光則などからの反応があったのかもしれない。ただし、そのような変化があったにもかかわらず、その後、大聖人に特別の、諮問や反論等があったという記録はない。心ある人は大聖人に対して素直になりかけていたのだろうが、良観等の策謀がそれが実を結ぶのを妨げたのであろう。
 ところで、大聖人は先に挙げた上野殿母尼御前御返事で「明年は世間怱怱なるべき」(1515-02)と仰せられている。止観の購読はそのためであったが、事実、大聖人が止観五を講じられえいる最中の、ちょうど文永7年(1270)1月11日に、蒙古船が対馬にやってくるという事件が起こったのである。もし、国書を受け入れなければ、武力行使も辞さないという示威行為である。まさに「世間怱怱」が事実となったのである。
 こうして翌文永7年(1270)には波乱の度を増し、それにともなって大聖人およびその門下の弘教の戦いも激しさを増し、それに対する諸宗および幕府要人らの反応として文永8年(1271)竜の口法難・佐渡流罪へと事態は推移していくのである。

0999:06~0999:11 第四章 諌暁への反応なきを訝るtop
06                             これほどの僻事申して候へば流・死の二罪の内は一定
07 と存ぜしが・ いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候、 いたれる道理にて候やらむ、又自界叛逆難の
08 経文も値べきにて候やらむ、 山門なんども・いにしへにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給わり候、それならず子細
09 ども候やらん震旦・高麗すでに禅門・念仏になりて守護の善神の去るかの間・彼の蒙古に聳い候いぬ、 我が朝も又
10 此の邪法弘まりて天台法華宗を忽諸のゆへに 山門安穏ならず師檀違叛の国と成り候いぬれば十が八・ 九はいかん
11 がと・みへ候、
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 これほどの、道理に合わないことを申し上げているのだから、流罪か死罪か、その二罪のうちにはいずれかには必ず処えられることは決まっている。と思っていたが、今まで何ということもないのは、不思議であると思う。日蓮の主張が最上・究竟の法理であるのではないだろうか。
 また、他国侵逼難が起こるとの予言が的中したのであるから、自界叛逆難が起きるとの経文も符号するであろう。比叡山・延暦寺なども、過去の山門と寺門派の抗争の時の動揺よりも百千万億倍過ぎた動揺である、とうけたまわっている。
 それどころではない、深い理由などがあるのではないだろうか。震旦や高麗はすでに禅門・念仏になって守護する善神が去ってしまったので、かの蒙古に征服され従えさせられてしまった。
 わが日本もまたこの邪法がひろまって天台法華宗を軽んじたり、なおざりにしている故に、山門も安穏でなくなった。出家の師に対し檀那がそむく国となっているのであるから、十のうち八・九はどうであろうかとみえる。

僻事
 道理にあわないこと。事実と違っていること。
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流・死の二罪
 ❶流罪。①伊豆流罪。日蓮大聖人が弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。日蓮大聖人が文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。❷死罪。竜の口の法難。文永8年(1271年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、謗法を禁じ正法を用いなければ「立正安国論」で予言したように自界叛逆難・他国侵逼難が起こると再度、警告された。これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守兼佐渡国の守護であった北条宣時の邸宅に勾留された。ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。しかし突如、光り物が出現し、その試みは失敗した。この斬首の謀略は、大聖人を迫害する一派が、正式な処分が決定する前に護送中の事故に見せかけて、暗殺を図ったものと推定される。大聖人は、竜の口でのこの暗殺未遂によって、末法の凡夫(普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹)を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初の自受用身という本地)を顕されたのである。この御振る舞いを「発迹顕本」と拝する。この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた本間重連の依智(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は10月10日に依智をたって佐渡へと向かわれた。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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山門
 三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
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震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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高麗
 朝鮮三韓のひとつ。(0918~1392)開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗とした。0935に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の属国となり文永の役には蒙古軍の先導をつとめた。1392年に滅びた。
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禅門
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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守護の善神の去るかの間
 法華経の行者を迫害したり、邪教を尊崇すれば諸天善神はその国を去るということ。
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彼の蒙古に聳い候いぬ
 聳は恐れること。蒙古に征服され属国になってしまったとの意。
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蒙古
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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我が朝
 日本国のこと。
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天台法華宗
 天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
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忽諸
 軽んじること。
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山門安穏ならず
 山門(比叡山延暦寺)が安穏でないということ。
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師檀違叛の国
 出家の師とそれを支える在家の信徒が仲違いすること。
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 まず、大聖人がたびたび諌暁されたことについて「これほどの僻事」といわれている。大聖人にとって「僻事」であるのではもちろんない。幕府要人や他宗の高僧らにとっての僻事である。他宗が主張してきた教義がすべて誤りであること、特に安国論では、念仏が今の日本の惨憺たる状況の根本原因であること、そして彼らを信じ、大聖人をないがしろにしてきた幕府が、その誤りを助長してきたことを、大聖人は指摘されたのである。したがって、これはまさに、彼らにとって「僻事」以外の何物でもない。その故に大聖人はこういわれているのである。
 鎌倉幕府は京都に文化的に対抗するためと、仏教尊崇が一国繁栄の基盤になると信じて、禅宗・真言宗・念仏宗等に手厚い保護を加えてきた。しかし、それこそ仏教混乱のもとであり、国内は混乱し、他国には攻められ、天災地夭はその度を増して、日本は地獄に堕すること疑いないとまでいわれたのであるから、流罪・死罪にあうのは当然であろうと思っていたのに、今まで何ということもなくきているのは、不思議という以外にないと仰せられている。流罪・死罪は必ずあると思ってきたといわれているのは、そうなることを覚悟されたということである。というより、それを予期されていたということである。
 ところが、実に相違して「いままでなにと申す事も候はぬ」状態であると仰せである。大聖人は弘長元年(1261)に伊豆に流罪されている。ここでは伊豆流罪の後の諌暁、すなわち、本抄前年の11通の書状をもっての諌暁、および本抄直前の、重ねての諌暁に対する幕府等の反応についていわれているのである。
 このように反応がない理由として、大聖人は「いたれる道理にて候やらむ」といわれている。すなわち、大聖人の主張がいちいちもっともで、かつ公場対決という正々堂々としたものであった故に、彼らもどう対応すべきか悩んでいるのであろうか、との仰せである。
 また立正安国論で予言された二難のうち他国侵逼難は、蒙古国からの国書到来で現実となったのであるから、残りの一難すなわち「自界叛逆難の経文も値べきにて候やらむ」といわれている。この予言も本抄御執筆後2年ほどして北条時輔の乱が起こって実現するのであるが、彼らにとって、他国侵逼が既に実現化しつつあるだけに、さらに自界叛逆難が起きたら大変だという恐怖にとらわれていたであろうとの御指摘と拝される。
 「山門なんども・いにしへにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給わり候」と、比叡山の天台宗も騒然としていた様子がうかがえる。「いにしへにも百千万億倍すぎて」の「いにしえ」とは、天台宗山門派と寺門派の争いで、天台宗は、智証のころから、慈覚派と智証派に分かれて対立し、伝教大師滅後150年ぐらい経つころには双方が武力をもって抗争をくりかえすなど、険悪な醜態であった。教義のうえで、理同事勝の邪義にそまったばかりか、武力抗争に陥るという、まさに「土泥」の状態となったのである。大聖人は祈禱抄で「叡山の僧徒の薗城・山門の堂塔・仏像・経巻・数千万をやきはらはせ給うが、ことにおそろしく世間の人人もさわぎうとみあへるは・」(1352-16)といわれている。それにも増して動揺しているというのであるから、かなりの動揺が起こっていたのであろう。そうした動揺の根底には、もっと深い子細があるであろう、と仰せである。大聖人は、その原因を禅宗・念仏等の邪法によるといわれている。
 天台宗は中国の天台大師智顗によって確立された宗であるが、中国等では、禅宗や浄土宗が広まった。法華経に基づく天台宗に背いた故に、守護の諸天善神は国土を捨て去り、中国は蒙古に従うはめになったとの仰せである。日本もまた、禅・念仏等の邪法が広まり、天台法華宗をないがしろにしている故に、比叡山は安穏ではなくなった。大聖人は天台宗について、本抄御執筆以前にも慈覚や智証によって伝教大師の正義は失われていると指摘されているが、ここでは法華経を受持する正統の宗として、禅や念仏と対比されておられるようである。しかし、これらの邪法が広まった故に比叡山も安穏ではなくなったとの記述は、正統の宗でありながら、邪法の跋扈を破ることができず、謗法と同じてしまっている故に、まず自らが安穏でなくなったと大聖人は指摘されているのである。さらにいえば、禅、念仏という当時の信仰仏教そのものが、比叡山天台宗から派生したもので、それらが在家の貴族や武士、庶民の間に広まり、天台法華宗の軽視を招いていたのである。
 「師檀違叛」とは、直接的には、一往天台法華の教えを「師」すなわち出家の僧たちは守ろうとしても、「檀」すなわち在家信徒たちが禅宗や念仏宗に心を移し、「師」と「檀」がばらばらになってしまっている、つまり「自界叛逆難」に遭っているということである。しかし、再往は、出家・在家ともに、正法「違叛」になっているため、「十が八・九はいかんがと・みへ候」と、日本の累卵の危うきにいると、大聖人は警告されている。日本の行く末を案じられる大聖人の御心情が溢れている御文である。

0999:12~1000:04 第五章 弘教のために死罪を覚悟するtop
11        人身すでに・うけぬ邪師又まぬがれぬ、 法華経のゆへに流罪に及びぬ、今死罪に行われぬこそ本意
12 ならず候へ、あわれ・さる事の出来し候へかしと・こそはげみ候いて方方に強言をかきて挙げをき候なり、 すでに
13 年五十に及びぬ余命いくばくならず、 いたづらに曠野にすてん身を同じくは 一乗法華のかたになげて雪山童子・
1000
01 薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり、 南
02 無妙法蓮華経。
03       十一月二十八日                     日蓮花押
04     御返事
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 すでにうけがたい人身をうけることができた。邪師もまた免れた。法華経の故に流罪に及んだ。今、死罪に行われないことこそ不本意である。ああ、そのようなことが起これと、法華経の弘通に励んでいる方々に語調の強い言葉を書いてさしあげておいたのである。すでに年も五十近くになった。残された寿命もいくばくもない。いたずらに広野に捨てる身であるならば、同じくは一仏乗を説く法華経の方に投げて雪山童子や薬王菩薩の跡を追い、仙予国王や有徳王がその名を後の時代にとどめたように、日蓮もその名を後の時代にとどめて、末法の法華経・涅槃経に説き入れていただこうと願うところである。南無妙法蓮華経。
       十一月二十八日                     日蓮花押
     御返事

邪師
 邪な師匠。仏法を正しく伝えず、邪義・邪見をもって衆生を不幸に導き入れる者。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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一乗法華
 一切衆生を成仏させる法華経のこと。
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雪山童子
 釈尊が過去世で修行していたときの名。涅槃経巻十四等に出てくる。釈尊は過去の世に雪山で法を求めて修行していた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
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薬王菩薩
 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
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仙予
 仙予国王のこと。釈尊の過去世における菩薩修行の時の姿。涅槃経の聖行品に説かれている。釈尊はその昔、過去世に閻浮提の大国の王に生まれ、仙予と名のっていた。そして大乗経典を愛念し敬重し、その心は純善で、粗悪の心や人をねたんだり物惜しみをするようなことはなかった。口には愛語、善語を述べ、身は貧窮と孤独を守り、布施、精進を少しも休み廃することがなかった。その時代には仏、声聞、縁覚はいず、婆羅門に師事した。その婆羅門に仙予国王が「師等今応に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし」といったところ、婆羅門は「大王、菩提の性は是れ有る所無く、大乗経典も亦復是の如し。大王、云何ぞ乃ち人と物とをして、虚空に同ぜしむ」と大乗経典を誹謗した。これを聞いた大王は直ちに五百人の婆羅門を殺した。この因縁によって大王はそれ以来地獄に堕ちず、殺された婆羅門も大乗誹謗を悔い、後の世に大乗の信を発して救われたという。
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有徳
 有徳王ともいう。釈尊の過去の菩薩修行中の姿。涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
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花押
 文書・手紙が自己の意思に基づくものであることを証明するしるし。
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 大聖人の諌暁が死罪を覚悟してのものであることを吐露されている段である。末法に人身を受けることができたことは、まず大きな福徳である。そのなかで「邪師」をも免れたと、その福徳を喜ばれている。末法は白法穏没の時代であり、謗法充満の悪世である。仏道を志す者は、正法を願いながらも、一国のあらゆる人々が謗法に染まっているから邪法を邪師と見抜くことができず、自らも「邪師」になってしまうのを免れることは不可能といってよい。しかも、自分は正法を奉持しても、邪法を破折しなければ「与同罪」によって“邪師”たることを免れない。事実、大聖人の出家の師匠・道善房も、当然「邪師」であった。しかし、大聖人は仏法が乱れていることに不審を抱かれ、仏法を究められた結果、法華経文底の妙法こそが末法の正法であることを悟られるとともに、諸宗の誤りを正す戦いを起こされた。それによって大聖人は「邪師」を免れられたのである。
 「邪師」を免れたということは、正法に巡りあえたということである。これほどの福徳はない。大聖人はそれを喜ばれるとともに、邪法を破折し、正法たる法華経を弘通することによって、既に伊豆流罪という難にあった。「今死罪に行われぬこそ本意ならず候へ」と仰せられているのは、法華経を弘通することによって死罪にあうことこそ末法の法華経の行者の証であり、法華経を身読したことになる故である。
 「あわれ・さる事の出来し候へかしと・こそはげみ候いて方方に強言をかきて挙げをき候なり」とは、なんと峻烈な御言葉であろうか。難が起こることを予期し、覚悟を定めることさえ、末法の世にあては希有なのである。僧とは名ばかりで布施を得ることのみ願い修行もしないのは論外として、世間から離れ、一人静かに修行することをよしとし、法華経を信ずる者でさえ安楽行でよしとして難を避けることを願う者が大半である。そのなかで大聖人は難を莞爾として受けられ、まだ受けていない難に対して「難よ起これ」と叫ばれているのである。これこそ末法の法華経の行者であり、御本仏の御言葉である。
 この御文からすれば「方方に強言」されたこと、すなわち、安国論をはじめとして十一通御書、さらには本抄御執筆直前の諌暁は、難にあうことを目的として行われたとの意となる。もちろん、好んで事が起こることを願われたのではない。法華経を弘通するためであれば、難を受けることは、よろこびであるこそすれ、避けたり、恨んだりすることは全くないとの御心が根底にあっての御言葉である。そのうえで、なぜ死罪よ起これといわれているのかといえば、法華経勧持品第十三の二十行の偈・三類の強敵について説かれている「及加刀杖」「数数見擯出」を身で読まれたためである。同品の二十行の偈は三類の出現を予言したものであり、末法の法華経を弘める者は必ずあう難にあう。この難にあわなければ、末法の法華経の行者であるとはいえない。その故に、大聖人は難を覚悟され、待ち望まれているのである。
 もう一面からいえば、大聖人が難にあわれることは、法華経の勧持品の説が正しいことの証明になるということである。末法に法華経を読むものは少ないといっても、まだ多い、しかし、身で読んだ人は、これまで、だれもいない。もし、その大聖人が流罪・死罪にあわなければ、勧持品、法華経がうそを説いたことになる。ひいては仏法全体がうそになり、それを説いた釈尊がうそを説いたことになる。仏は真実を説く人であるから、釈尊がうそをいったとなれば、それは釈尊が仏でないことを意味する。大聖人が難にあわれることは、大聖人御自身にとどまらず、仏法全体にかかわる重要性をもっているのである。
 この大聖人の御言葉どおり、2年後の文永8年(1271)9月12日に、大聖人は竜の口法難にあわれ、続いて佐渡流罪になられた。まさに「及加刀杖」「数数見擯出」が現実となったのである。法華経の文からいえば、大聖人が既にあわれている小松原の法難で、刀杖の難にあわれ、伊豆流罪や松葉が谷の法難は数数見擯出にあたるといえる。しかし法華経には三類の強敵の僭聖増上慢について説くなかで、彼らが国王大臣・婆羅門居士等に向かって讒言して法華経の行者を誹謗するという文があり、国家権力による難を受けるがそれにあたるとされて、流罪・死罪といわれているのである。
 大聖人はこの難にあわれたことによって、外用は上行菩薩の再誕、内証は久遠元初自受用報身如来の再誕としての御姿をあらわされたのである。その大聖人のお心を知らない一部の門下から、大聖人があまり激しく諌暁されるから難が起こるのであり、もっと柔らかに弘めてはどうかという者が現れた。大聖人はそのような門下に対して、佐渡御書で「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし」(0961-01)と、その難を恐れ信心を失っている姿を哀れんでおられる。
 次に「すでに年五十に及びぬ余命いくばくならず」といわれている。大聖人はこの時、48歳であられた。50に及ぶ年となって、余命いくばくもない身であるから、同じ捨てるのであれば、法華経のために命を捨てようといわれている。「人生、僅か50年」といい、50年は人生における一つの節目である。現代と違い、平均寿命の短い当時にあっては、50という年齢に、人生の最終章を感じられたのであろう。そこには空疎な無常観ではなく、自らの人生を意義のあるものにしようという強い主体的姿勢がみなぎっている。このまま何もしなければ、いたずらに「廣野に」捨てる身なのだから、同じ捨てるのであれば、法華経のために捨てて、雪山童子・薬王菩薩・仙予国王・有徳王の列に我が身を加えることのほうが、どれほど誇らしい人生かしれない。との御心である。
 それとともに、現実次元においても、国を救おうとの一念から、一国を諌暁し、弘教を進めようとしてきたのに、愚かな幕府・僧侶たちは、我が身の安寧のみを考えて、一向に大聖人の言葉に耳をかたむけようとしない。その間に世間は騒然とし、国全体が混乱の極みに達しようとしている。早く公場対決を実現し、一国謗法を改めなければならないとの思いが「もう50になってしまつた」との述懐に含められているのではなかろうか。
  雪山童子・薬王菩薩は、仏法に身を捧げた例である。雪山童子は鬼に身を投げて法を求め、薬王菩薩は我が臂を焼いて灯明とした。仙予国王・有徳王の例は、外道と戦い仏法を守護した王である。大聖人が彼らの列に名を連ねようといわれているのは、身を捨てて正法を求め、邪師と戦って仏法を守護し、安国を現出せんとの御心である。雪山童子・仙予国王・有徳王は釈尊の前身であり、その列に名を連なるということは、仏になること疑いないということである。なお「法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり」といわれているのは、雪山童子・仙予国王・有徳王は涅槃経に説かれ、薬王菩薩は法華経に説かれている故である。

1000~1001    転重軽受法門top
1000:01~1000:02 第一章 修利槃特の故事を引き三人に譬えるtop
転重軽受法門   文永八年十月    五十歳御作    与大田左衛門・曾谷入道・金原法橋
01   修利槃特と申すは兄弟二人なり、 一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一
02 人も来らせ給へば三人と存じ候なり。
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 修利槃特という者は兄弟二人である。一人でもいたならば、すりはんどくというのである。大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の三人はまたこれと同じである。一人でも来られたならば三人と思うのである。

須利槃特
 梵語チューダパンタカ(Cūḍapanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典によって諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかって一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たという。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。
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 本抄は文永8年(1271)10月5日、日蓮大聖人が相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の屋敷で著され、大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の3人に与えられた御消息である。
 日蓮大聖人は、文永8年(1271)9月12日、鎌倉、名越の松葉ヶ谷の草庵におられたところを、幕府の侍所の所司である平左衛門尉頼綱の指揮する武装した兵士数百年に取り囲まれ、平左衛門尉の郎党・少輔房に法華経の第五の巻で顔を打たれた後に捕えられ、謀叛人のように鎌倉市内を引き回され、幕府に連行された。
 そして、表面は佐渡流罪とされ、佐渡の守護・北条宣時の預かりとなったが、12日の深夜に引き出されて、鎌倉郊外の竜の口の刑場で頸の座につかれた。
 しかし、光り物の出現によって武士たちが恐れて処刑ができなくなり、一時、佐渡の守護代である相模国依智の本間六郎左衛門尉の屋敷に預けられたのである。その間の経緯は種種御振舞御書に詳しく述べられている。
 竜の口の法難の後、大聖人が依智に滞在している間に、幕府では大聖人の処分について評議を行い、赦免すべきであるという意見も出たようである。しかし、鎌倉で放火や殺人事件が連続して起こり、大聖人門下の犯行であるとの讒言がなされたともあって、結局、幕府は佐渡へ流罪することを決定した。
 放火や殺人の犯行は、律僧や念仏者が策謀して、大聖人を陥れるために行わせたものであった。種種御振舞御書には「依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり」(0915-18)と述べられている。
 日蓮大聖人が依智に滞在中、大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の三人が訪れて、お見舞い申し上げた事に対する御返事が本抄である。ただし、冒頭の御文から拝察すれば、三人のうちだれかが代表して来訪したとも考えられる。
 本抄をいただいた大田五郎左衛門尉乗明は、下総国葛飾郡八幡荘中山郷に住んでおり、同じ八幡荘若宮に住む富木常忍の導きで文応元年(1260)ごろに入信し、門下になったといわれている。幕府の問注所の役人と伝えられ、学識もあり裕福で、しばしば大聖人に御供養し、多くの御消息をいただいている。
 曾谷二郎兵衛教信も、同じ八幡荘曾谷郷に住んでおり、大田乗明とともに入信したと伝えられている。学識も教養もあり、経済的にも裕福で大聖人を外護している。金原法橋も葛飾郡付近にすんでいたと思われる。
 3人は縁戚だったとする説もあるが、その根拠は明らかでない。いずれにせよ、近隣の親しい間柄であり、3人は富木常忍とともに下総の信徒の中心的な存在であったようである。
 大聖人が竜の口法難の後、依智の本間邸に滞在されていることを知った3人は、誘い合わせて、あるいはそのうち1人が代表する形で依智の本間邸を訪れたのであろう。また、その時に大聖人の佐渡流罪が確定していたとすれば、万感の思いで御別れを告げたのであろう。
 なお、大聖人は本抄を著された5日後の10月10日に依智を出発、10月28日に佐渡に着き、11月1日配所である塚原三昧堂に入られている。
 本抄は、初めに修利槃特の故事を引かれて、大田・曾谷・金原の3人に譬えられている。次に涅槃経に説かれる転重軽受の法門について、過去世の謗法よって未来に地獄の苦を受けなければならないところを、法華経を受持して難にあうことによって軽く受けて消すことができるとされ、不軽菩薩や不法蔵の人々の例を引いて、仏の教えの通りに修行することの難しさを述べられている。特に、末法に法華経を身で読んでいるのは大聖人一人であると述べられ、門下に対して難が来ても信心を貫き仏道修行に励むよう教えられている。
修利槃特を例に三人の同心を称賛される
 初めに、釈尊の弟子修利槃特の兄弟の例を挙げて、大田・曾谷・金原の三人に譬えられている。
 修利槃特は周利槃特迦・須利槃特・周陀・莎伽陀と書き、釈尊の弟子の名で、兄弟2人のうち弟を指すとする説と、兄弟2人を指すとする説があるが、ここでは兄弟2人の名とする説を用いられている。翻訳名義集巻一には、兄を修利、弟を槃陀伽といったとある。
 また、兄弟共に愚鈍だったという説と、兄は聡明だったが弟は愚鈍で、3年かかつて一偈も覚えられなかったとする説がある。
 法句譬喩経には槃特は500人の阿羅漢に一偈を教えられても暗誦できなかたが、釈尊の「口を守り、意を摂め、身に非を犯す莫かれ、是くの如く行ずれば、世を度することを得ん」という教えによって、阿羅漢果を得たとある。
 そのため、摩訶止観や大智度論等には鈍根の代表として挙げられる。なお、法華経五百弟子授記品では、兄弟ともに普明如来の記別を受けたと説かれている。大聖人もしばしば、機根の視点から二人の故事を挙げられ、三三蔵祈雨事には「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ」(1472-04)と述べられている。
 ただし本抄では、修利槃特の兄弟が1人でもいれば「すりはんどく」と呼ばれたように、大田・曾谷・金原の3人も同様で、1人でこられたなら3人で来られたと同じに思うであろう、と仰せである。このことから門下にも襲ってくるであろう難を見通されて、門下同士が異体同心で難を乗り越えていくようにとの御心を拝することができる。

1000:03~1000:10 第二章 転重軽受の法門を明かすtop
03   涅槃経に転重軽受と申す法門あり、 先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重
04 苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、 不軽菩薩の悪口罵詈せら
05 れ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・ 過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の
06 難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり 一是、又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては皆仏の
07 かねて記しをき給える権者なり、 其の中に第十四の提婆菩薩は外道にころされ 第二十五師子尊者は檀弥栗王に頚
08 を刎られ 其の外仏陀密多竜樹菩薩なんども多くの難にあへり、 又難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめ
09 たる人も候、 これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、 正像猶かくのごとし中国又しか
10 なり、 これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ二是、
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 涅槃経に転重軽受という法門がある。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこのような重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬならば人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのである。
 不軽菩薩の悪口をいわれ、罵られ杖木で打たれ、瓦や礫を投げられたのも理由がないわけではない。過去世に正法を誹謗したためと見えて、不軽菩薩品第二十に「其の罪を畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難に値うゆへに、過去世の罪の滅するかとみえるのである。これが第一の理由である。
 また付法蔵の二十五人は仏を除いては皆、仏が前もって記されていた化身のものである。そのなかに第十四の提婆菩薩は外道に殺され、第二十五師子尊者は檀弥栗王に頚を刎ねられ、その外、仏陀密多や竜樹菩薩なども多くの難にあった。また難がなくて国王の後帰依が厚くて法を弘めた人もいた。これは世に悪国と善国があり、法に摂受と折伏がある故かと見られる。正法・像法でもなおこのようである。仏教の中心地インドもまたそうである。ここ日本は仏教の中心から離れている土地であり、末法時代の初めである。このような大難があるだろうとは、前から思い決めていた。その時期こそ待っていたのである。これが第二の理由である。

涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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転重軽受
 「重きを転じて軽く受く」と読み下す。涅槃経(北本)巻31の語。正法を護持する功徳の力によって、過去世の重罪を転じて、現世でその報いを軽く受け、消滅させるとの意。この法門については、「開目抄」(232,233㌻)で明かされている。また「転重軽受法門」では、転重軽受の功徳について「地獄の苦みぱっときへて」(1000㌻)と仰せである。
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法門
 仏・菩薩の教え、その仏に従って学べば聖者の智に入ることのできる門。末法では御本仏日蓮大聖人の三大秘法をさす。
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先業
 前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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未来
 三世の一つで、将来。現世のつぎ。
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地獄の苦
 地獄界で受ける苦しみ。
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重苦
 重い苦悩・苦痛。身の苦と心の苦に分ける場合がある。
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人天
 人界と天界のこと、また、その衆生。人界は人間としてのごく普通な平穏な心・生命状態・境涯。天界は快楽に満ちた境涯。
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三乗
 十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。
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一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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 利益のこと。仏の教え・正法に従い行動することによって恩恵・救済。功徳のこと。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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悪口罵詈
 法華経の行者をさだむ三類の強敵の第一類・俗衆増上慢の人の行為をいう。悪口をいい、ののしること。「罵」は面と向かって謗り、「詈」は陰に隠れて謗ることを意味する。
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杖木瓦礫
 不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
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過去
 三世のひとつ。前生・前世。
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誹謗正法
 謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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其罪畢已
 法華経常不軽菩薩品第20の文。「其の罪は畢え已わって」(法華経564㌻)と読み下す。不軽菩薩が礼拝行を貫いて得た宿命転換の功徳。不軽菩薩は人々の迫害を受けたことで、過去の謗法の罪を受け尽くして消し去ることができた。そして臨終に法華経を聞いたことで六根が清浄となり、寿命を延ばし、多くの人々に法華経を説き聞かせて仏道を成就したという。
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過去の罪
 過去世に犯した誹謗正法。
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付法蔵の二十五人
 釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者24人に釈尊を加えて25人。「大夫志殿御返事」には「所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺羅・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者」(1079:07)とある。
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 一切諸法の現象と本体をありのままに覚知し、究極の真理を自ら現し、他を導いて真理を悟らせていく覚者のこと。
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権者
 かりの姿のこと。仏・菩薩が衆生救済のために、仮の姿でもってあらわれた存在。権化・権現ともいう。
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第十四の提婆菩薩
 一説には付法蔵第15と立てる。迦那提婆のこと。南インドの婆羅門の出である。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に施したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて提婆に危害を加えた。しかし提婆は命尽きる前に、かえってその加害者を救ったという。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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第二十五師子尊者
 一説には付法蔵第24。師子または師子比丘といわれる。最後の伝灯者である。中インドに生まれて鶴勒夜奢から法を受けた。のちに罽賓国に遊化して衆生を化導し仏法を大いに宣揚した。この国の二人の外道がこれを嫉んで、相謀って乱を起こし、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日ののちに命が終わったという。
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檀弥栗王
 檀弥羅王のこと。付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
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仏陀密多
 付法蔵の第八(一説には第九)。仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は、大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその非を糺そうとして赤幡をかかげて王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者居士と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。
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竜樹菩薩
 付法蔵の第十四(一説には第十三)。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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帰依
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
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いみじくて
 ①はなはだしい。②素晴らしい。③恐ろしい。
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 ①ダルマ(dhamma)。法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨、達摩、曇摩、曇無などとなり、通常は「法」と訳されている。②四念処の一つ、身念処のこと。諸法は無我であると観察する。諸々の法には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。意識の対象を観察する。 私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
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悪国
 無知悪人の充満する悪い国のこと。十悪・五逆の行為が当然のように横行する野蛮未開の国土。開目抄には「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235-12)
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善国
 命が清らかで、正しいものを素直に受け入れる衆生の充満する国土のこと。
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摂受
 折伏に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、相手の誤りを容認しつつ次第に誘引して正法に入らしめる化導法。
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折伏
 摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。
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正像
 正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。
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中国
 中国とは「仏法の中心地」のことで、当時はインドを指していう。
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辺土
 片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。
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末法の始
 釈迦滅後2000~2500年間。久遠元初の自受用身如来御出現の時。
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 時期・そのとき。
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 涅槃経に説かれえいる転重軽受の法門について明かされている。
 涅槃経の巻二十九には「有智の人は智慧の力を以って、能く地獄の極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚癡の人は現世の軽業を重受く」とあり、また「是の如きの人は、則ち能く身に戒、心に慧を修習して、是の人、能く地獄の果報を現世に軽く受く」とある。さらに般泥洹経の巻四には「余の種々の人間の苦報を現世に軽く受く、斯れ護法の功徳力に由る故なり」とある。すなわち、智慧の力、修善の功徳、護法の功徳等によって、過去世の重い罪業を転じて、その報いを現世に軽くうけることが明かされている。
不軽菩薩の受難を転重軽受の先例とする
 大聖人は涅槃経で説かれる転重軽受の法門とは、過去世の重業が今生で尽きずに、未来世に地獄の苦悩を受けるべきところを、今生のような重苦にあうことによって、地獄の苦しみがさっと消えて、死んだ後に人界・天界の境涯。声聞・縁覚・菩薩の三業の功徳、さらに仏界の利益を得られることがある、と述べられている。
 その例として、法華経不軽菩薩本事品第二十に説かれる、不軽菩薩が一切衆生を礼拝したことで悪口罵詈され、杖や木で打たれ、瓦や石を投げられるという難をうけたのも、その原因は過去世に正法を誹謗したためであり「其罪畢已 其の罪、畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難にあうことによって過去世の罪が滅したとみられるのである。と不軽菩薩の事例を挙げられている。すなわち「今生にかかる重い苦に値い候へば」とは、世間の苦悩ではなく、正法を弘通することによって受ける大難を指しているのである。不軽品には、過去世の威音王仏の滅後、像法に出現した不軽菩薩が、経典読誦を専らにせず、上慢の四衆に対して、「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」と唱えて礼拝を行じた、と説かれている。
 しかし、四衆からは悪口罵詈され、杖木で打擲され、瓦石を投げられたが、避けて遠くへ走り、なおも高声で「我敢えて汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし」と唱え続けて、その功徳によって、不軽菩薩は六根清浄を得て、やがて成仏した、と説かれている。
 不軽品の偈には「諸人聞き已って、軽毀し罵詈せしに、不軽菩薩、能く之を忍受しき。其の罪畢え已って、命終の時に臨んで、此の経を聞くことを得て、六根清浄なり(中略)不軽命終して、無数の仏に値いたてまつる。是の経を説くが故に、無量の福を得。漸く功徳を具して、疾く仏道を成ず」とある。不軽菩薩が、上慢の四衆から悪口罵詈され、杖木瓦石で打擲されたのも、過去世の正法誹謗の悪業のためであり、難にあうことによってその罪を受け終わって六根清浄となり、やがて成仏できたと説かれており、これが涅槃経に示された転重軽受の法門の第一の例である。
付法蔵の受難の例から末法に大難があるを示す
 次に、付法蔵の25人の中で、難にあった提婆や師子等の例を挙げられている。付法蔵とは、仏法の教説を後代に濠つたえていくために、仏が弟子に法蔵を付嘱することをいい、付法蔵の25人とは、正法時代釈尊から付嘱を受け、その教えを順次付嘱し布教していった正師をいった。付法蔵経には、釈尊から付嘱をうけた摩訶迦葉から最後の師子尊者までの24人の名が挙げられている。本抄では、「付法蔵の25人は仏をのぞきたてまつりては」と仰せなので、釈尊を含めて25人とあれたのであろう。付法蔵の人々は、仏が予言したとおりに出現した権者、すなわち本来は菩薩として浄土に住する身でありながら、衆生を救うために娑婆世界に現した化身である、と意義づけられ、それにもかかわらず、そのなかの提婆菩薩や師子尊者は、命をうばわれるという過酷な難にあっている、と仰せである。
 付法蔵の第14となる提婆菩薩とは迦那提婆といい、3世紀ごろの南インドの人で、付法蔵の第13の竜樹菩薩の弟子となった。外道に帰依していた国王を破折したり、邪道の論師を多く破折したため、その弟子の一人に恨まれて殺されている。
 師子尊者は、付法蔵第24の最後の伝灯者で、6世紀ごろの中インドの人。罽賓国で布教していた時、多くの寺塔を破壊して僧を殺し、仏法を迫害していた檀弥羅王によって首を切られたとされる。
 そのほかにも、仏陀蜜多や竜樹菩薩なども難にあったとされている。仏陀蜜多は、付法蔵の第9で、インドの提伽国の人である。付法蔵の第8、仏陀難提の弟子となって法を受けている。巧みな方便を用いて衆生を導き、多くの外道を論破した。外道を信ずる国王を教化するために、赤い旗を掲げて12年の間、王城の前を往来し、ついに王の目に止まり、王の面前で博学なバラモンたちと法論して論破したことで、王の帰依を得ている。
 竜樹菩薩は付法蔵の提13で、2・3世紀ごろ南インドで大乗の論師として活躍した、大乗の諸経典を注釈し、理想的な基礎を与えて大乗思想の興隆に貢献し後に俱舎・成美・律・法相・三論・華厳・真言・天台の8宗すなわち全宗派から祖師と仰がれた。竜樹も南天竺で、赤い旗を持って王宮の前を行き、7年にして王の目に止まって教化し、多くの外道を論破し弟子にしたとされている。
 仏陀蜜多や竜樹の場合、直接どのような難を受けたかの記述はないが、外道を信ずる王を教化するために何年も旗を掲げて王宮の前を行き来しなければならなかった。当然、番兵から咎められたり、人々から嘲笑やののしりをあびるなどの難があったとしてこのように仰せられたものと思われる。それに対して、難がなくて国王の帰依を受け、法を弘めた人もいる。と述べられている。そして、このように、正法を弘通するのに、難がある場合とない場合があるのは、国に善国と悪国があり、弘法に摂受と折伏があるからであろう、と仰せである。善国とは衆生が正法に帰依している国、衆生の命が清らかで素直に正法を受け入れる国をいう。悪国とは仏法に無知あるいは、命が濁っているために素直にうけいれようとしない衆生の充満する国をいう。善国では、国主や衆生が正法を受持するので、難を受けることなく正法を弘めることができるが、悪国では国主や衆生が邪法を持って正法を信じないばかりか、正法を弘める人に迫害を加えることで難が起こるのである。
 また、仏法の摂受を行ずる場合には難を受けることはない。それは、山林で、ひとり経を読誦し修行するか、人を教化するにも、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引していくやり方をとるからである。それに対して、折伏を行じた場合には、難が起こるのである。それは、相手の邪法・邪義を破折して正法に伏させようとするため、相手が感情的に反発し、怨嫉して迫害するからである。
 故に、付法蔵の正師であっても、悪国で弘教した場合や、折伏を行じた時には、身命に及ぶ大難にあうこともあり、弘教のうえで難にあうこともあるのである。
 ここで、正法・像法時代にあっても、悪国において折伏した場合は難にあったのであり、また仏教の中心地で機根が比較的優れているインドにおいても難にあうのだから、辺土の日本において末法の始めに正法を弘通した場合には命に及ぶ大難があることは初めから思いさだめており、その時を待っていたのである、と述べられている。そして、それが転重軽受の法門の第二例であるとされているのである。
 正法・像法時代であれ末法であれ、正法弘通が原因で大難にあうことは、過去の謗法の重罪を軽く受けている姿であることを教えられ、特に末法においてはその難が甚だしい、つまり大きな罪業を消滅できることを示されているのである。
 なお、開目抄には「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235-10)と述べられている。末法の現在の日本は、正法を誹謗する破法の国であり、故に大難を恐れずに折伏を行ずることが正しい仏道修行となるのである。

1000:10~1001:16 第三章 大聖人の法華経色読を示すtop
10                                                   この
11 上の法門はいにしえ申しをき候いきめづらしからず 円教の六即の位に 観行即と申すは所行如所言・所言如所行と
1001
01 云云、 理即名字の人は円人なれども言のみありて真なる事かたし、 例せば外典の三墳五典には読む人かずをしら
02 ず、 かれがごとくに世ををさめふれまう事千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし、 法華経は紙付
03 に音をあげて・ よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か、 譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有ら
04 ん者を見て軽賎憎嫉して 結恨を懐かん」法師品に云く 「如来現在すら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」勧持品に
05 云く 「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」安楽行品に云く 「一切世間怨多くして信じ難し」と、 此等は経文に
06 は候へども何世にかかるべしとも・しられず、 過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて
07 候いけると・みへはんべれ、 現在には正像二千年はさてをきぬ、 末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人
08 みへ候か、 昔の悪王の御時多くの聖僧の難に値い候いけるには又所従・眷属等・弟子檀那等いくぞばくか・なげき
09 候いけんと今をもちて・をしはかり候、 今日蓮・法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部を
10 やと、いよいよたのもし、 但おほけなく国土までとこそ・をもひて候へども 我と用いられぬ世なれば力及ばず、
11 しげきゆへにとどめ候い了んぬ。
12       文永八年辛未十月五日                         日蓮花押
13     大田左衛門尉殿
14     蘇谷入道殿
15     金原法橋御房
16     御返事
-----―
 この転重軽受の法門は昔に教えておいた。珍しいことではない。法華円教を修行する菩薩の六種の階位に観行即というのは「行ずる所は言う所の如く・言う所は行ずる所の如し」とある。それ以下理即・名字即の人は法華円教を信ずる人であるけれども、言葉のみあって、真に現実にするのは難しい。
 例えば仏教以外の典籍であるの三墳と五典を読む人は人数を知らないほど多い。しかし、その典籍のしめすように世を治め、振る舞うことは、千万に一つも難しい。そうだから世が治まることもまた難しい。
 法華経を紙に書いてあるままに声を上げて読むけれども、その経文どうりに振る舞うことは難しいであろう。法華経譬喩品第三に「法華経を読誦し書持し受持する者を見て、軽しめ、賎しみ、憎み、嫉んで恨みを懐くであろう」同経法師品第十に「如来の現在ですらなお怨嫉が多い、ましてや滅度の後においてはなおさらである」同経勧持品第十三に「刀や杖を加え(乃至)しばしば追放されるであろう」同経安楽行品第十三に「一切の世間には怨が多くし信じるのが難しい」とある。
 これらのことは経文には説かれているが、いつの世にそのような難があるとは分からない。過去世の不軽菩薩や覚徳比丘などは、その身をもって読まれたと見える。現在の時代では、正法時代・像法時代の二千年はしばらく置くとして、末法時代に入っては、この日本国で今の時に、これらの経文を身をもって読むのは日蓮一人だけであると思われる。昔の悪王の時、多くの高徳の僧が難にあったのに対しては、また従者や一族、弟子・檀那たちはどのくらい嘆いたことか。今の境遇から推し量られる。
 今日蓮は法華経一部八巻二十八品を身をもって読んだ。法華経の一句一偈を身を持って読むことによってさえ、仏から未来成仏の保証を受けている。ましてや法華経一部を読んだ場合はなおさらである。ますます頼もしいことである。ただ身のほどを知らずに国土まで安穏にしたいと思って、自ら進んで励んだことが用いられない今の世であるから、力が及ばなかった。これで筆を置くことにする。
       文永八年辛未十月五日                         日蓮花押
     大田左衛門尉殿
     蘇谷入道殿
     金原法橋御房
     御返事

円教の六即の位
 天台大師が立てた法華円教を修行する菩薩の六種の修行位。理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即のこと。
―――
観行即
 「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。
―――
所行如所言・所言如所行
 摩訶止観巻1下の文。「行ずる所は言う所の如く、言う所は行ずる所の如し」と読む。六即位の第三・観行即について述べた文。所言は仏の教え、所行は修行。説の如く修行する位を観行即という。
―――
理即
 天台の立てた六即位のひとつ。理の上で仏性を具しているというのみの凡夫の位。
―――
名字
 ①呼び名・名称・題名。②天台大師が摩訶止観巻1で立てた六即位の第二。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
―――
円人
 円教を信じて修行に励む人のこと。
―――

 言葉。
―――
外典
 仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
三墳五典
 三皇・五帝が著わしたとされる書。尚書の序に「三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典という」とある。三墳の墳とは〝大道〟を意味し、五典の典とは〝常道〟を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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譬喩品
 妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
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読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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書持
 経文を書写し受持すること。
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軽賎
 他人を軽蔑し卑しむこと。
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憎嫉
 憎み嫉むこと。善法や正法を弘通する人を憎み、嫉むこと。
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結恨
 恨みを結ぶこと。結んで解けないようなうらみを生ずること。
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法師品
 法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
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如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
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現在
 今・現在世。
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怨嫉
 うらみ、ねたむこと、正しい法を教えのとおり実践する者をあだみ、ねたむこと。
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滅度の後
 ①インド応誕の釈尊が入滅した後。②末法のこと。
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勧持品
 妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される
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刀杖
 刀剣と杖木
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乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
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数数
 たびたび、幾度も。
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擯出
 人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。
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安楽行品
 法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
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一切世間
 すべての世界、あらゆる世の中のこと。世間には三意がある。①世の中・世俗のこと、世は隔別・還流、間は内面にあるもの・間隔の義、世の中のすべての事物・事象をいう。②六道の迷界。③差別の意、五蘊世間・衆生世間・国土世間や有情世間・器世間など。
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 仏法に敵対すること。
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何世
 「いつのよ」と読む。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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覚徳比丘
 涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿?仏国に生まれ、阿?仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。
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聖僧
 惑を断じ悟りを得た優れた僧。常に民衆救済を忘れず、少欲知足で、正法を流布する僧。
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所従
 従者。家来。
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眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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弟子
 師匠に従って教えを受け、師匠の意思を受け継いで実践し、それを伝える者。
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檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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法華経一部
 法華経は一部八巻28品からなるということ。
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一句一偈
 経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。
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受記
 仏が弟子等に対して、成仏の記別を授けること。記別とは、未来のことを予記分別することで、未来世の成仏に対する仏の印可である。開目抄(0194)に「劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ劫をしるし所化の弟子なんどを定めさせ給へば」とあり、劫・国・名号が与えられることである。たとえば授記品で、迦葉に対して劫を大荘厳、国を光徳、名号を光明如来と授記されている。
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国土
 ①国家の統治権が行われる地域。②土地。③故郷。④十界の衆生の住むところ。
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辛未
 干支の組み合わせの8番目で、前は庚午、次は壬申である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の未は陰の土で、相生(土生金)である。
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花押
 文書・手紙が自己の意思に基づくものであることを証明するしるし。
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大田左衛門尉殿
 (1222~1283)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。大田乗明・太田金吾・大田入道ともいう。千葉氏の家臣であり、下総国葛飾郡八幡荘中山郷(千葉県市川市中山)に住み、富木常忍、曽谷教信らとともに、下総中山を中心に外護の任にあたった。建治元年(1275)次子を出家させ、自身もまた弘安元年(1278)頃に入道して妙日の号を賜り、その住居を本妙寺とした。
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蘇谷入道
 (1224~1291)曾谷二郎兵衛教信のこと。曾谷二郎入道・教信ともいう。日蓮大聖人御在世当時の信者。下総国葛飾郡曾谷(千葉県市川市曾谷)に住んでいた。文応元年(1260)ころに大聖人に帰依し、後に出家・法蓮日礼の法号を授かっている。安国寺・法蓮寺を建立している。
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金原法橋
 日蓮大聖人御在世当時の弟子。富木胤継・太田乗明・曾谷教信等と親交があった模様。
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 日蓮大聖人が、法華経に予言されたとおりに実践した故に、経文どおりの大難にあわれていることを明かされている。
 円教の六即の位とは、天台大師が法華円教を修行する菩薩に、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六種の修行位を立てたものである。
 そのなかで、観行即とは、実践修行を通して我が心性の仏を観じて、言行一致の修行に励む位をいう。「所行如所言・所言如所行」とは、摩訶止観のなかで観行即の位について述べた言葉で「行ずる所は言う所の如く・言う所は行ずる所の如し」と読み、仏の説の如く修行し、言葉で言うことと行動・実践することが一致している状態をいった。
 六即の位の中で、観行即の位に入る前の理即の名字即の位は、言葉のみそのとおりに実践するにいたっていない段階をいう。
 理即とは、理の上では仏性を具えているが、いまだ正法を聞いていない迷いの凡夫の位をいい、名字即とは初めて正法を聞いて、一切法は皆仏法であると知る位をいうのであり、いまだ実践には移っていない段階なので、このように述べられているのである。
 その一つの例として、中国古代の伝説上の聖君とされる伏羲・神農・黃帝の三皇と少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜の五帝の書とされる三墳五典を読んだ者は数多いが、そのとおりに実践して世を治め、行動することは難事であり、したがって、そこに説かれるように平和に世が治まったこともない、と指摘されている。
 堯・舜などの三皇五帝をはじめ、古代の先聖の道を集大成して、自己を修めて君子となり、徳行を及ぼして人を治め天下を治めることを本旨として儒教を興したのが、中国・春秋時代の孔子である。三墳五典は秦始皇帝の焚書坑儒で失われたといい、伝わっていないので、内容は不明だが、三皇五帝が世を治め、自らを律して行動したことを記したものとされる。そうした先人の振る舞いを学ぶのは易しいが、そのとおりに実践することは難しいのである。
 法華経についても、紙に書いてあるとおりに声を出して読むことは易しいが、経文に説かれているとおりに振る舞い、実践することは難しいであろう、と述べられている。
法華経の行者に大難の起こる経文を引く
 そして、法華経自体に、法華経に説かれているとおりに行じた場合には必ず大難が起こることが説かれており、しかも現実に経文とおりの難を受けるために、信心を貫くのが難しいことを、経文を引いて示されている。
 法華経譬喩品第三には「経を読誦し所持すること、有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん」と説かれている。仏の在世や滅後には、人々は法華経を誹謗し、法華経を持つ者を見て、軽んじ、賤しみ、憎み、嫉妬し、恨みを懐くであろう、という意味である。
 なお、この文の前の「憍慢懈怠、我見を計する者には」からこの文までは十四誹謗にあたり、そのなかでこの文は十四誹謗の最後の四つ、軽善・憎善・嫉善・恨善にあたる。これは妙楽大師の法華文句記に出ている。
 法師品第十には「此の経は、如来の現在すら、尚怨嫉多し、况んや滅度の後をや」と説かれている。法華経を説くと、釈尊の在世でさえも多くの怨嫉を受けるのだから、まして仏の滅後に法華経を弘める者が、より多くの怨嫉を受け、難にあうのは当然である、という意味である。
 勘持品第十三には「恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん(中略)濁世の悪比丘は、仏の方便、随宣所説の法を知らずして、悪口し顰蹙し数数擯出せられん」と説かれている。八十万億那由佗の菩薩が、仏の滅後の弘教を誓った二十行の偈の文で、三類の強敵の出現を予言している。
 すなわち、恐るべき悪い時代に、我等は広く法華経を説くであろう。それに対して、諸の無智の人が悪口罵詈し、刀や杖で迫害を加える者がいるだろう(中略)五濁悪世の悪比丘は、仏が方便で、衆生の機根を宣しきに随って説いた法を知らずに、法華経を弘める人を悪口し、顰蹙して、我等は数数擯出せられるだろう、という意味である。
 安楽行品第十四には「一切世間に怨多くして信じ難く」と説かれている。この法華経は、よく衆生を一切智に至らせる究極の法であるが、一切の世間の多くの人が怨嫉して信じようとしないであろう、という文である。
 いずれも、仏の滅後、悪世である末法に法華経を弘める者は、必ず人々から怨嫉され、迫害され、難を受けることを明かしている文である。
末法に法華経を身読するは大聖人のみと明かす
 そして、これらの文は、仏の説いた経文ではあるが、いつの世にそのようなことが起こるとは分からないが、過去の不軽菩薩や覚徳比丘などこそ、身に当たってこの経文を読んだ人であるとみられる、と仰せである。
 不軽菩薩は、法華経の常不軽菩薩品第二十に説かれている。すなわち、威音王仏の像法時代に出現して、一切衆生に仏性がある故に私は軽んじないという意味の、漢文では24文字から成る言葉を唱えながら、衆生を礼拝した。これに対し、人々は不軽を軽蔑し、杖や木で打ち、瓦や石を投げて迫害したが、不軽菩薩は礼拝行をやめなかった と説かれている。
 覚徳比丘については、涅槃経に 過去世の歓喜増益如来の滅後、あと40年で正法が滅しようとした末世に、覚徳比丘とその外護者の有徳王がいた。多くの破壊の悪僧が正法を護持する覚徳比丘を迫害したが、有徳王はそれを守って、全身に傷を受けて死んだ。二人は護法の功徳によって阿閦仏の国に生まれ、有徳王は仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった と説かれている。
 不軽も覚徳も、仏の末世に正法を実践し迫害にあっているので、法華経の受難の文を身で読んだ人であろう、と仰せなのである。しかし、いずれも遠い過去の例である。末法の現在においては、日本国で日蓮一人のみが、これらの経文を身で読んでいると思われる、といわれている。
 大聖人は御自身の受難について「既に二十余年が間・此の法門を申すに日日.月月・年年に難かさなる、少少の難は.かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(0200-17)と述べられている。
 また「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く『諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う』等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、『悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲』又云く『白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し』此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-11)と、ご自身が法華経を身読されたことを明かされている。
 大聖人が、前に挙げられた経文どおりの大難を、ことごとく一身に受けられていることは明らかであり、それこそが末法の法華経の行者である証なのである。それ故に、過去の悪王によって正法を弘通した聖僧たちが難にあった時、弟子檀那がどれほど嘆いたことかを今、実感していると仰せなのである。大聖人が、竜の口の法難に続き、佐渡へ流罪されようとしちることを、大田・曾谷・金原の3人をはじめ、門下がいかに悲しく思っているかを推察された御言葉であろう。
 そして、今、日蓮は法華経の一部八巻をすべて読んでおり、一句一偈を受持しても仏になれるという授記がなされているのだから、まして法華経一部を身読している御自身の成仏は疑いないことを頼もしく思う、と仰せである。
 それは、法華経法師品に「如来の滅度の後に、若し人有って、妙法華経の、乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我亦>阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と説かれており、その文意を引かれたものと拝される。
 法華経の一句・一偈を聞いて随喜した者が成仏の記別を受けているのだから、法華経一部を身で読んだ功徳は計り知れないのである。
 そして、自身の成仏のみではなく、国土を安穏にして、一切衆生までも、あまねく成仏させようと願っているが、大聖人自身、死身弘法の精神で、自ら進んで謗法厳誡、国主諌暁を実践されたにもかかわらず、そのことが用いられない今の世であるから、力の及ぶところでなかった、と結ばれている。「我と用いられぬれば」との仰せにあるものを拝察すると、大聖人は自分から権力者や人々に屈してまで用いられようとはなされない毅然たる態度を意味されるともいえる。
 大聖人は、命に及ぶ大難であった竜の口の頸の座をもって発迹顕本され、久遠元初の自受用身即末法の御本仏の本地を顕わされたのであり、その意味では、あうべくしてあわれた難である。本抄では示同凡夫の辺から、大難にあうことによって、転重軽受しているのであると示され、門下に対して難に屈せずに信心を貫くよう教えられたと拝されるのである。

1000~1001    転重軽受法門2008:06月号大白蓮華より。先生の講義top

「行動」こそ仏法者の魂 我と我が友の「宿命転換」のために!
 音楽の英雄ベートーヴェンの第五交響曲「運命」が、ウイーンで初演されてから、今年でちょうど200年になります。
 「ダダダダーン」という、あまりにも有名な提1楽章の冒頭、この旋律の意図についてベートーヴェンは「このようにして運命は扉を叩くのだ」と語ったといいます。
 発表の当時、ベートーヴェンは38歳
 20代後半から聴覚に異常をきたし、孤独と絶望の淵で死まで思いつめた逆境を勝ち越えて紡ぎ出した旋律です。それは、今も世界中の人々に、自ら運命に立ち向かう勇気を奮い起してやみません。
 人間の精神は無限である!
 どんな運命も、必ず乗り越えられる!
 苦悩を突き抜け、歓喜を勝ち取れ!
 私も青春時代、小さなアパートの一室で、幾たびもベートーヴェンのレコードをかけました。恩師をお守りして事業の危機に立ち向かった昭和25年(1950)の秋霜の季節も、この曲を聴きました。音律が流れるたびに、作品にあふれる「生命の勢い」に鼓舞され、励まされたことは忘れられません。
自他の運命を切り開く「菩薩の行き方」
 ベートーヴェンは叫んだ。
 僕の芸術は貧しい人々の運命を改善するために捧げられなければならない」
 自分自身の運命と格闘しながら、人々に運命と戦い勝つ勇気を贈っていく。まさに仏法の「菩薩の生き方」を想起させます。
 “いかなる苦難にあっても、打開できない苦難など存在しない”
 日蓮仏法の宿命転換の法門は、万人に希望と勇気と確信を贈る「人生勝利の大法理」です。すべての人間自身のなかに、宿命を必ず乗り越える力が本然的に具わっていることを示す、最高の「人間主義の哲学」です。また、そえを現実に引き出すことのできる生命根源の因果を説き明かした、無上の「生命尊厳の哲理」です。いわば、「人間の底力」を十全に示した人類待望の宗教です。
 今回拝する「転重軽受法門」は、文永8年(1271)10月、「竜の口の法難」から「佐渡流罪」へと続く、最も熾烈な大難の渦中に認めなれたお手紙です。
 何ゆえに、このような大難にあわねばならないのか。仏法の実践者にとっての「難の意味」が明らかにされていきます。そして、その中で、大聖人の仏法の根幹となる「宿命転換」の法理が示されたのです。
 この重書を、大聖人の魂魄を拝する思いで学んでいきましょう。
03   涅槃経に転重軽受と申す法門あり、 先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重
04 苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、
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 涅槃経に転重軽受という法門がある。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこのような重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬならば人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのである。

「大難」即「成仏」の御境涯を示す
 「大難」即「成仏」の大境涯を拝することができます。
 「難来たるを以て安楽」(0750-第一安楽行品の事)との、仏法と人生を貫く真実が明かされています。
 「法華経の故に受ける『題目の難』であれば、捨てる身も、受ける難も全部、成仏のためである」
 「仏に成る道は、必ず身命を捨てるほどのことがあってこそ、成仏することができる」
 法華経ゆえの大難は、即、成仏への軌道となる。したがって、何も恐れるものはない。これ以上の喜びはない。 これが「竜の口の法難」直後の大聖人の御心境であられたと拝されます。
 文永8年9月12日竜の口の法難から、10月10日、佐渡に向けて出発されるまでの役1ヵ月間、大聖人は、相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の邸に留め置かれておりました。
 「竜口までもかちぬ」(0843-一天台大師を魔王障礙せし事-08)と仰せられたように、大聖人御自身は、あらゆる障魔を打ち破り、民衆救済の誓願に生き抜かれる師子王の御境涯をあらわされております。
 そして、鎌倉や下総等の門下たちへ、師と同じ心に立つように、烈々たる激励の手紙を幾通も綴られています。
 こうした時、千葉方面の門下が師匠の身を案じて馳せ参じました。本抄は、その真心の行動に応じて認められたお手紙です。文永8年(1272)10月5日御執筆で、あて先は、大田乗明・曾谷教信・金原法橋の3人の連名となっています。
 本抄の冒頭では、修利槃徳という名前は、兄弟2人を指す場合もあれば、どちらか1人の名前を指す場合もあるという。釈尊在世の門下のエピソードを紹介されておられます。そして大田乗明ら3人のうち1人が来れば、3人がきたのと同じであると仰せられているのです。
 3人が一緒に依智まで来たのか、あるいは3人の総意を受けて1人が代表して来たのか、定かではありません。本抄冒頭の仰せから推察すると、1人が代表で来た可能性が高い。それは、預かりの身であられた大聖人にお会いするのは簡単ではなかったからでしょう。また、3人で来て、お会いできたとしても、十分な話ができる状態ではなかった。それゆえに、3人に宛てて手紙を書かれたと拝することもできます。
 いずれにしても、この危急時にあって、3人が一丸になって心を合わせ「異体同心」で前進していきなさいとの御指導の意が拝されます。
「苦難の意味」を教える
 本抄では、大聖人および門下が大難に直面していることの意味を、3つの角度から教えられています。
 第1には「転重軽受」の法門を示されて、この大難は宿命転換を遂げる好機であることを教えられています。
 第2には、難を受けるのは、正法を弘めているのであれば必然であることを、先例を挙げて明かされています。すなわち、釈尊や付法蔵の24人の先例に照らせば、正法時代のインドにおいてすら、「時」と「国」に応じて「折伏」をして難を受けざるを得なかった。まして、末法の初めの辺土日本における大聖人の法華経の弘教は、まさに折伏の「時」に当たっている。大難が起こることをもとより覚悟されていたのであり、むしろ待っていたことであるとの御心境をのべられています。
 第3に、大聖人がこのように大難を受けられたのは、法華経を「身読」されている意味があることを諸文を引いて明らかにされております。そして、大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを示唆されるのです。
 以上のように、大聖人は本抄全体で、第一義的には、法華経の行者が法難に直面することの意義を明らかにされておちます。それは「なぜ法華経の行者に大難があるのか」という門下たちの疑問への答えでもあります。この問題は、後に「開目抄」で本格的に論及されていくことになります。
 本抄では、大聖人は「転重軽受」に言及され、万人に当てはまる「宿業」の問題として苦難の意義を明かされております。すなわち、大聖人が難を乗り越えていかれるお姿を通して、人類全体に通ずる「苦難の意味」を示してくださっているのです。したがって、本抄の根底には「人生には必ず苦難がある。それは、いかなる意味があるのか」という問いへの答えがあると拝察できます。
 その回答とは「難来るを以て安楽と意得可きなり」(0750-第一安楽行品の事)という一点に拝されます。
 人間は苦難を突き破った時こそ、本当の安楽を味わうことができる。逆に、苦難から逃げ、挑戦を放棄したら、真の安楽は永遠に得られません。
 苦難のない人生はない。真実の生命の安楽を勝ち取るためにこそ、人生には苦難があるのです。しかし、苦難を撥ね返す人間生命の力を知らなければ、苦難はさらに苦難を生み、人間を押しつぶしてしまう。末法とは、人間生命が無明に覆われ、悪縁に満ちた時代です。悪から悪へ、不幸から不孝へと、人々は押し流されてしまう。ゆえに、末法の人々を救うためには、何よりも苦難を撥ね返す人間生命の力を教えなければなりません。
 本抄で明かされる「転重軽重」の法門は、苦難を撥ね返す人間生命の真髄の力を教える法理です。大聖人は、御自ら大難を撥ね返すことによって、その力を実証なされたのです。
転重軽受とは一生成仏と同義
 転重軽受とは「重きを転じて軽く受く」と読み、涅槃経に説かれた経文です。
 もし、今生に苦しみを受けるだけでは償いきれないほどの重罪が過去世にあったとすれば、さらに未来に生まれるたびに地獄の苦しみを受けなければなりません。それほど重い過去世の罪報であっても、今生に軽い苦難を受けることによって消すことができる。これが転重軽受の法理です。
 日蓮大聖人の仏法の宿業論は、いかなる重い罪業も転換できないものはないことを説く力強い「蘇生の宗教」です。そうした大聖人の宿命転換の法理が、本抄では転重軽受法門として語られているのです。本抄に示されている転重軽受の法門の要点は、第1に「地獄の苦しみぱつときへて」と断言されている点にあります。
 地獄の果報をもたらすような重い宿業であっても、その報いが将来にわたって次第に消えていくのではありません。“いつか”ではなく“今”“直ちに”消滅していくのです。
 何ゆえ、消滅させることができるのか、それは、十界互具の原理によるのです。通常の宿業の原理は、過去の因から現在の果への因果として説かれます。これは因果異時のあり方です。しかし、大聖人の宿命転換の原理は、生命が本来、具している「仏界」をあらわすことによるのです。太陽が昇れば、無数の星の光は直ちに消え去ります。それと同じように、仏界の生命を現せば、はかり難いほどの宿業も全て消し去ることができるのです。
 したがって、第2に転重軽受とは、そのまま「一生成仏」への入り口でもあるという点が重要です。
 大聖人は「地獄の苦しみぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」と仰せです。「一乗の益」とは成仏の功徳です。
 転重軽受とは、単なる“業の清算”ではありません。これまでの「悪から悪へ」の迷いの流転をとどめて「善から善へ」の幸福の軌道に入る生命の根本的な大転換をいいます。生々世々に、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・そして仏界の利益を得ていけるのです。
 すなわち、「転重軽受」は、即、「一生成仏」の大道を開く門です。言うならば、マイナスを“清算”してゼロにすることではなく、生命そのものの在り方を下降から限りない上昇へ、悪の軌道から確たる善の軌道へと、大きく方向転換することです。これが変毒為薬の妙法の力です。
 大聖人の仏法における転重軽受法門とは、“今、直ちに”“この身のままで”生命そのものを幸福へと変革する原理にほかなりません。転重軽受は、まさに悪から悪へ、不幸から不幸へという宿習を持つ自身の生命そのものを変革し、そして善から善への軌道を確立していくことにはかなりません。
 ゆえに、どこまでも大事なのは、その変革の戦いをする「今」であり「現在」です。
 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(0231-04)と、大聖人は「開目抄」の中で「心地観経」を引用されております。
 「今」は、過去の結果であると同時に、未来の原因でもあります。「今」この一瞬に、三世永遠に含まれている。大事なのは、今、この瞬間に、どう、我が一念を転換していくかです。未来の一切は、「今」この瞬間の決意と行動で自由自在に創造することができるからです。
 ここに通途の暗い侘しい宿業観から人々の心を明るく晴れ晴れと解き放つ、希望の革命があります。
03   涅槃経に転重軽受と申す法門あり、 先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重
04                                          不軽菩薩の悪口罵詈せら
05 れ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・ 過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の
06 難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり 一是、
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 不軽菩薩の悪口をいわれ、罵られ杖木で打たれ、瓦や礫を投げられたのも理由がないわけではない。過去世に正法を誹謗したためと見えて、不軽菩薩品第二十に「其の罪を畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難に値うゆへに、過去世の罪の滅するかとみえるのである。これが第一の理由である。

不軽菩薩と六根清浄の功徳
 ここで大聖人は、転重軽受・宿命転換の先例として、法華経常不軽品第20に説かれた不軽菩薩の「其罪畢已」について紹介されています。
 不軽菩薩は、「一切衆生に仏性がある」との法華経の根本思想を口に唱え、人々に訴えながら、出会うすべての人々を礼拝する実践を続けられました。
 しかし、悪僧や悪尼、在家の男女の四衆から悪口罵詈され、杖木で打たれ瓦礫をなげつけられました。そうした迫害に不軽菩薩は屈することなく、常に人を敬う振る舞いを続け、最後は、六根清浄の功徳を得て、一生成仏を遂げたのです。
 このように不軽菩薩は、正法を実践するゆえに難にあったが、それを勝ち越えて実践を貫いた功徳で、過去に正法を誹謗した罪を滅することができた。これが「其罪畢已」の結果として、不軽菩薩はいかなる功徳を得たのか。一つは現世の功徳として六根清浄の豊かな生命を成就しました。そして、その力で法華経を自ら完全に会得して、釈迦仏として生まれ変わったと説かれます。つまり、現世の生命の変革だけではなく、未来永遠にわたる確固たる仏界の生命を得たのです。
 法華経法師功徳品第19では、この六根清浄の功徳について、眼・耳・鼻・舌・意の六根がそれぞれに即して説明されています。
 例えば眼根の功徳についてはこうあります。法華経の功徳によって、私たちの眼は肉身の眼そのままで、三千世界の須弥山・大海を見ることができるようになる。そして、天眼を持たずとも、地獄界から天界の有頂天までのあらゆる衆生を見、その人々の業の因縁・果報を悉く知ることができるようになったと説かれています。
 すなわち、この三千世界を知見して、自他ともの生命の本質を明鏡に映すように明瞭に知ることができる。清浄、つまり無明の汚れを払い、曇り無き法性の眼で見れば、幸不孝の因果がわかり、あらゆる十界の世界を価値創造の源とすることができるのです。
 不軽菩薩が得た六根清浄の功徳こそ、苦難を撥ね返す生命力です。不軽菩薩は、悪世ゆえの迫害を受けました。しかし、自他ともに仏性がそなわっているという法華経に基づく信念は揺るがなかった。いわば迫害を超えて法を守り抜いた闘争によって、宿業の根本である無明を打ち破り、本来、妙法の当体としての生命力である六根清浄の功徳を得たのです。これが、法華経を守り抜く実践による宿命転換の功徳です。
護法の功徳力
 ここで転重軽受との関連で、折伏についての重要な意義を確認しておきたい。
 本抄では、末法の辺土日本で、しかも折伏を行ずる大聖人に大難があるのは当然であり、もとより覚悟のことであると言われ、さらにはこの大難を待っていたと仰せです。悪縁に満ちた悪世においては、折伏の実践こそが法を護ることになり、転重軽受・宿命転換の原動力となります。
 大聖人は、末法においては折伏の実践に「護法の功徳力」があると言われている。例えば「開目抄」で次のように仰せです。
 「今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233-03)
 末法においては、悪縁・悪知識が広がり、人々の無明を助長し、法性を忘れさせる反「法華経」の謗法が蔓延するなかで、法華経を断じて守り抜かなければなりません。すなわち、国中に充満する謗法の悪と戦わずして真の守護はありません。
 すなわち、今世の苦報をもたらした過去世の無数の悪業も、根本をたどれば妙法への無明・不信より起こったものです。また謗法の行動の根源も妙法への無明・不信にほかならない。ゆえに、不信・謗法を打ち破る護法の実践の功徳力によって、自らも無明をも打ち破ることができるのです。我が生命の無明を打ち破れば、本来の妙法の当体としての生命力、すなわち仏界の生命力が現れ、宿業による苦悩を消すことができるのです。
 過去世から現在への宿業の因果は「因果異時」の在り方をとる通常の因果です。これに対して、今の自分の生命の無明をうち破って、我が生命に直ちに仏界の生命力を現す因果は、「因果俱時」の在り方をとっています。いわば、前者が「時間的な変化」であるとすれば、後者は「瞬間的な転換」です。
 以上が「宿命転換」の原理ですが、これを苦難の軽重に焦点を当てて「転重軽受」と表現します。
 宿命転換をもたらす護法の実践も、苦難が伴います。謗法を厳しく責める護法の実践を貫けば、当然、法華経誹謗の勢力から迫害が起こり、大難が生じます。法華経の哲学を弘めた不軽菩薩においても、杖木瓦礫の迫害がありました。しかし、このような苦難も、もともと、計り知れない罪業によって受ける重苦に比べれば、軽苦に過ぎないと捉えることができる。軽苦を受けることによって、重苦を受けるべき罪業を消していけるので「転重軽受」というのです。
02                                               法華経は紙付
03 に音をあげて・ よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か、 譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有ら
04 ん者を見て軽賎憎嫉して 結恨を懐かん」法師品に云く 「如来現在すら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」勧持品に
05 云く 「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」安楽行品に云く 「一切世間怨多くして信じ難し」と、 此等は経文に
06 は候へども何世にかかるべしとも・しられず、 過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて
07 候いけると・みへはんべれ、 現在には正像二千年はさてをきぬ、 末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人
08 みへ候か、 昔の悪王の御時多くの聖僧の難に値い候いけるには又所従・眷属等・弟子檀那等いくぞばくか・なげき
09 候いけんと今をもちて・をしはかり候、 今日蓮・法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部を
10 やと、いよいよたのもし、 但おほけなく国土までとこそ・をもひて候へども 我と用いられぬ世なれば力及ばず、
11 しげきゆへにとどめ候い了んぬ。
-----―
 法華経を紙に書いてあるままに声を上げて読むけれども、その経文どうりに振る舞うことは難しいであろう。法華経譬喩品第三に「法華経を読誦し書持し受持する者を見て、軽しめ、賎しみ、憎み、嫉んで恨みを懐くであろう」同経法師品第十に「如来の現在ですらなお怨嫉が多い、ましてや滅度の後においてはなおさらである」同経勧持品第十三に「刀や杖を加え(乃至)しばしば追放されるであろう」同経安楽行品第十三に「一切の世間には怨が多くし信じるのが難しい」とある。
 これらのことは経文には説かれているが、いつの世にそのような難があるとは分からない。過去世の不軽菩薩や覚徳比丘などは、その身をもって読まれたと見える。現在の時代では、正法時代・像法時代の二千年はしばらく置くとして、末法時代に入っては、この日本国で今の時に、これらの経文を身をもって読むのは日蓮一人だけであると思われる。昔の悪王の時、多くの高徳の僧が難にあったのに対しては、また従者や一族、弟子・檀那たちはどのくらい嘆いたことか。今の境遇から推し量られる。
 今日蓮は法華経一部八巻二十八品を身をもって読んだ。法華経の一句一偈を身を持って読むことによってさえ、仏から未来成仏の保証を受けている。ましてや法華経一部を読んだ場合はなおさらである。ますます頼もしいことである。ただ身のほどを知らずに国土まで安穏にしたいと思って、自ら進んで励んだことが用いられない今の世であるから、力が及ばなかった。これで筆を置くことにする。

「行動」が宿命転換の直結
 大聖人の折伏行は、法華経の「身読」、すなわち身をもって法華経を実践していることにほかならないと明かされています。
 仏法の実践において大切なことは、「言うこと」と「行うこと」の一致です。天台の六即では「観行即」といって、この言行一致をもって真実の修行の始まりであると位置づけている。
 大聖人の仏法でも「行動」が根幹です。本抄では、法華経の修行といっても、世間で行われているように経文を紙に書いている通りに声を出して読むことは易しいが、経文に説かれている通りに振る舞うことは難しい、と言われています。
 特に大聖人が身読された法華経の四文を挙げておられます。いずれも、仏の滅後、悪世の末法に法華経を弘める者は、必ずひとびとから怨嫉され、迫害されることを明かした経文です。そして、その通りに振る舞われた事実のうえから、この法華経の予言通りに実践されたのは、末法において日蓮大聖人ただお一人であられることを宣言されているのです。
 さらにまた、過去の悪王の時代、正法を弘通した仏法者たちが、どれほど嘆いたかに思いを馳せておられる。これは、竜の口の法難、佐渡流罪と、権力者の魔の手が容赦なく一門に襲いかかるなか、師と苦難を共にする門下を思いやられてのお言葉です。
 しかし、大聖人は、そうした暗雲を打ち払うように「法華経全体を身読した日蓮が蒙る成仏の功徳は、どれほど素晴らしいことか。ますます頼もしいことだ」と悠然と言い切られております。さらに、正法を弘通するのは、自身の成仏のためではなく、国土の安穏を願って披歴されています。
 末法の一切衆生の成仏の道を開き、国土の宿命転換、さらには人類の宿命転換を実現しようとする大闘争、それが大聖人の御精神です。この万人の幸福と世界の安穏を築くために、生命の根底を洞察し、身命を賭して宿命転換の道を切り開かれた「根源の師」は、どなたであるか。真実の「法華経の行者」とは、どなたであるか。大聖人のほかにおられないことは、あまりにも明白です。
 門下たちを安心させるために、身読という、目に見える実践を示すことによって、大聖人は甚深の御自身の御境涯を教えられているのです。「安心して私を師として求めなさい」と呼びかけておられるのです。
 濁悪末法の現代にいて、大聖人の御精神を受け継ぎ、広宣流布のために、法華経の通り、御書に仰せの通りの難を受けてきたのは、創価学会以外にしかないことは言うまでもありません。
 その崇高な自覚に立たれた、日蓮仏法の現代の広布弘通の師匠が牧口先生であり、戸田先生でした。
 ある婦人が「戸田先生はなぜ病気をしておられるのですか」と質問されたことがあります。戸田先生は語られました。
 「私が、こうして病気をしていることは、大きな『転重軽受』なのだよ。この病気は学会が受ける大難を軽くすませているのだ」
 わたしは、この戸田先生の深きお心が忘れられません。まさに戸田先生は、来る日も来る日も、全宇宙の障魔の激流に身を投げ出して、師子王の指揮をとってくださった。
 私もまた、戸田先生の無二の弟子として、全同志に生々世々にわたる宿命転換の道を開く護法の実践を貫いてきました。
 大阪事件で、一切の矢面に立って戦う私に、戸田先生は言われました。
 「君が先頭に立って、大難を受け、戦ってくれるおかげで、本末究竟して、全同志の一生成仏の道が開かれることになる」と。
 今、全世界192ヵ国・地域に「宿命を使命に変える」という、生命の大道を喜々として、また堂々と歩み抜き、変毒為薬の勝利の現証を示した学会員が数え切れないほど大勢おられる。これこそが、「転重軽受」の最大の実証であると確信しています。
 本抄で、大聖人は、法華経の行者としての大確信と大闘争を、迸る勢いでかたられています。その一言一句の奥に「日蓮が如く強くあれ!」「日蓮とともに勝利せん!」との熱き鼓動が脈打っていると拝されてなりません。
 我が宿命と真正面から格闘しながら、友の宿命転換のために尽くし、広宣流布に生き抜いていく この尊き実践の中にこそ、大聖人の魂は脈々と流れ通います。ここにこそ、無上の喜びと生きがいに満ちた「師子王の人生」が開かれていくのです。
 「我と我が友よ、広布に走れ」。きょうも、我と我が友の宿命転換の尊き「行動」を貫いている大切な大切な皆さま方を、諸仏が歓喜して守りに護らないわけがありません。日蓮大聖人が称賛してくださっております。戸田先生がほほ笑み、身守られていります。

1002~1005    大田殿許御書(天台真言勝劣事)top
1002:01~1002:06 第一章 法の勝劣を決すべきを明かすtop
1002
大田殿許御書    文永十二年正月    五十四歳御作
01   新春の御慶賀自他幸甚幸甚。
02   抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか、 而るに諸経・諸宗の勝劣は
03 三国の聖人共に之を存し 両朝の群賢同じく之を知るか、 法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣は月支・ 日
04 本未だ之を弁ぜず西天・東土にも明らめざる物か、 所詮・天台伝教の如き聖人・公場に於て是非を決せず明帝桓武
05 の如き国主之を聞かざる故か、
-----―
 新年のお祝いに対し、自他ともの、ますますの幸せを祈ります。
 そもそも、世間の事相を明らかに知る俗諦のなかにおいても、仏が説きあらわそうとした究極の真理である真諦のなかにおいても、勝負をかなめとなし、世間においても、出世間においても、いずれがより優れ、いずれがより劣っているかをもって、第一の問題とするか。
 しかして、諸経および諸の宗派の勝劣は、三国の聖人はともにこのことを存知しており、中国と日本の賢人もまた、同じようにこのことを知っているようであるのに、法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣についてはインドと日本においてはいまだおれを立て分けていない。西天・東土においても明らかにされていないのではないか。
 結局、天台大師や伝教大師のような聖人が、公の場所において、正しいことと、間違っていることを決せず、明帝や桓武天皇のような君主もこれを聞いていない故か。

大田殿許御書
 「許」は影響が及ぶ範囲との意で、大田殿にあてられた手紙ではあるが、大田殿一人ではなく、より広い範囲の門下にあてられた御書であるということ。
―――
俗諦
 世間一般で認められる真実。世間の道理。
―――
真諦
 絶対不変の真理。究極の真実。第一義諦。勝義諦。
―――
勝負
 ①勝ち負けを決すること。②幸福になるか不幸になるか・功徳があるか罰があるか・成仏できるかできないかを決すること。
―――

 ①具さに事理を説き明かして帰着すること。せんじつめたところ・結局のところ。②利き目・しるし。③手段・手だて。
―――
世間
 ①世の中・世俗のこと。②六道の迷界のこと。③三世間・有情世間・器世間などのように差別の意をあらわす。
―――
出世
 世間を出離・越出すること。生死の苦しみ・煩悩の迷いを脱した涅槃・菩提の境地をいい、この出世間の法を出世間法という。
―――
甲乙
 事柄を比べ、いずれが優れているか比較すること。
―――
諸経
 もろもろの経・一切経。
―――
諸宗
 もろもろの宗派。
―――
三国
 仏教でいうところの三国は、インド・中国・日本をいう。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
両朝
 二つの国家。
―――
群賢
 数多くの賢人・賢者・聖人。
―――
法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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月支
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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西天・東土
 ①西天、中国からみたインド。②東土、インドから見た中国。
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所詮
 究極のところ、結局。言葉や文字によってあらわされるもの。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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是非
 ①正しいことと間違っていること。②どうあっても、きっと、必ず。
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明帝
 後漢第二代の皇帝で、第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外政に力を尽くし班超を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。
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桓武
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)~延暦25年3月17日(806年4月9日))。
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国主
 一国の主君。国王。天子。権力者。
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 本抄は文永12年(1275)1月24日に、大田乗明に与えられた御手紙である。御真筆は中山法華経寺にある。ただ、あて名については、御真筆に「大田金吾入道殿」とあり、また御執筆の月日についても「正月廿四日」とあって、それぞれ明らかであるが、御真筆の年次は記されていない。大方は文永12年(1275)としているが、弘安2年(1279)の説もある。建治元年(1275)としているものもあるが、これは文永12年と同じであり、別の説ではない。同年は4月に改元しているので、表記としては文永12年(1275)のほうが正しい。本講義では一応、文永12年説を立てておく。
 本抄は大田乗明個人にあてたとされているが、内容は単なる私信ではなく、門下のために法門を記されたものである。特に真言について法華との勝劣を明らかにすべきだと述べられている。大聖人は弘教の初期においては真言を強く破られることはせず、念仏などの破折に力を注がれ、真言、特に台密について厳しい破折を加えられているのは身延入山後である。
 本抄でも慈覚・智証らに始まる日本天台宗の密教化を破折されているが、これは本抄御執筆になんらかの状況があって述べられたものか、あるいは大田乗明がもともと天台真言宗を信じていた人であったためとも考えられる。三大秘法抄なども、台密について破られている。御手紙でなく、年頭にあたって門下に教示される形で記されていることは、大田乗明にあてながら、門下に天台宗の誤りを明確に教えておこうとの御配慮があったに違いない。
俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか
 最初に新春をともどもに祝われたあと、世間・出世間ともに「勝負」「甲乙」をきちんとつけることが大事であることを示されている。
 俗諦は世間の真理、真諦は仏法の真理である。俗諦・真諦が勝負を決するものであるということと、世間・出世間が甲乙を先とすべきであるとすることは同じ意である。
 ただし、この「勝負を以って詮と」するということは俗諦と真諦においては、ニュアンスを異にする。俗諦、すなわち世間における勝負は、文字どおり勝つか負けるかであり、それは道理で決まる場合もあるが、力ずくで決せられる場合もある。しかし、真諦における勝負とは、何が何でも相手をねじ伏せればよいという意味での勝負ではない。あくまで、道理のうえから、いかなる教えが勝り、いかなる教えが劣り、誤っているかを明確にすることなのである。大聖人がここで「勝負」といわれているのは道理による勝負であることはいうまでもない。
 そして、このように正々堂々と勝利を決しようとする場合、双方が自分の主張をするだけでは、結論が出ない場合がある。そこに必要なのは客観的立場からの「審判」である。双方が自分の正しさを主張しあい、冷静な第三者がどちらが勝れているかを判定し、負けたほうがそれに従うというルールがあってこそ、正当な勝負が出きるといってよい。スポーツにおける審判もしかり、裁判における裁判官もしかり、また政治の世界においては大衆が投票という手段で行う選挙も「国民の審判」といわれる。大聖人は真諦、すなわち仏法における勝負の審判にあたるものとして「公場対決」を主張されたのである。
 大聖人は幼少のころから、宗教界がまちまちに教義を主張して、いかなる教えが釈尊の本意の教えであるのか判然としないことに疑問をもち、この疑問を解決するために修学に励まれた。そのことはさまざまな御抄で述べられている。
 その結果、法華経こそ釈尊の出世の本懐の経典であり、かつ今の日本にさまざまな災難が続出しているのは、法華経誹謗の邪義を立てる諸宗を国中が崇めていることによると悟られ、立宗とともに、各宗派の誤りを指摘されたのである。それが四箇の格言である。この四箇の格言を根本として、当時の仏教界に警鐘を鳴らし、公場対決をもって一国謗法を攻めようとされたのである。
 このように教義の優劣に決着を付けることを、大聖人が「勝負」「甲乙」といわれていることもまた、深い意味があると拝する。
 たとえ、自らは正しい法華経を受持していても、人々に謗法を改めさせなければ、一国の堕地獄をすくうことはできない。「公場対決」という審判の場を実現し、誰もが納得するかたちで勝負を決しなければならない。この故に「勝負」といわれているのである。そのためには、自らの受持する法が正法である所以を明確に示せるだけの力をつけなければならないし、あらゆる諸宗についも、その誤りの根源を明確にしなければならない。そこに教学研鑽の重要性がある。
 日興上人の遺誡置文に「巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」(1619-03)とあるように、大聖人は問答に巧みな人を「賞翫」され、日興上人もまた大聖人と同じく大事にされ、門下にもそれを遺誡されたのである。
法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣は月支・日本未だ之を弁ぜず西天・東土にも明らめざる物か、所詮・天台伝教の如き聖人・公場に於て是非を決せず明帝桓武の如き国主之を聞かざる故か
 本抄全体のテーマがここで明らかにされている。すなわち法華経と大日経の2経、天台宗と真言宗の2宗、の間の勝劣を明らかにしていかなければならない、ということである。
 この2教と2宗以外の「諸経・諸宗の勝劣」については前の文からも明らかなように、すでに「三国の聖人」や「両国の群賢」によって存知されており、明白であると仰せられている。
 しかしながら2経間、2宗間の勝劣については「月氏・日本」でも弁じたれておらず「西天・東土」においても、明らかにされていない、と指摘されている。
 その理由として、この2経・2宗の正劣については、中国の天台大師、日本の伝教大師のような聖人が「公場に於て是非を決し」て諸経・諸宗間の勝劣を明らかにしたことがなく、したがって当然、両者の対決に立ち会って判定した中国の後漢の明帝や日本の平安朝の桓武天皇のような賢明な国主がいなかったからであると仰せられている。
 さて「諸経・諸宗の勝劣」といわれている。「諸経」とは、大日経などの真言経典以外の経のことで、法華経が勝れ、法華経以外の諸経が劣る、ということであり、「諸宗」とは真言宗以外の諸宗を指し、法華経を依経とする天台宗が勝れ、法華経以外の諸経を依経とする華厳宗・浄土宗・禅宗などの諸宗が劣るということを指されていることはいうまでもない。
 この背景には、真言経典が中国に伝来した唐代にはいってからで、それ以外の諸宗・諸経の勝劣については隋唐より前の陳の時代に天台智者大師によって決せられていたが、真言経典および真言宗については、天台大師が当然ながら何もいっていないという歴史的事実である。

1002:06~1002:13 第二章 法華を下す真言の邪義を挙げるtop
05                所謂善無畏三蔵等は法華経と大日経とは理同事勝等と慈覚・ 智証等も此の義を存
06 するか、 弘法大師は法華経を華厳経より下す等此等の二義共に経文に非ず同じく自義を存するか将た又慈覚・ 智
07 証等・ 表を作つて之を奏す申すに随つて勅宣有り、 聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶
08 に深秘と称す乃至譬えば猶人の両目・鳥の雙翼の如き者なり等云云、 又重誡の勅宣有り・聞くが如くんば山上の僧
09 等専ら先師の義に違して偏執の心を成ず 殆んど以つて余風を扇揚し旧業を興隆することを顧みず等云云、 余生れ
10 て末の初に居し学諸賢の終りを禀く慈覚・ 智証の正義の上に勅宣方方之れ有り 疑い有るべからず一言をも出すべ
11 からず然りと雖も円仁・ 円珍の両大師・先師伝教大師の正義を劫略して勅宣を申し下すの疑い之れ有る上・仏誡遁
12 れ難し、 随つて又亡国の因縁・謗法の源初之れに始まるか、故に世の謗を憚からず用・不用を知らず身命を捨てて
13 之を申すなり。
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 いわいる善無畏三蔵等は法華経と大日経とは理は同一だか、大日経は印と真言が説かれえいるので事においては法華経おり勝れている等といった。慈覚・智証等もこの教義にたっているようである。弘法大師は法華経を華厳経よりも低い教えでると下している。これらの二つの教義はともに経文の真意に反している。いずれも同じく自分勝手な考えである。
 それにまた慈覚・智証らが文書を作ってこのことを天皇に上奏した。この申し出に沿って、次の内容の宣旨があった。聞いているとおりであるならば、真言と摩訶止観の両方の教の要を同じく醍醐であると呼び、ともに深秘であるといっている。または、たとえば、なお人の両方目、鳥の二つの翼のようなものである等と。
 また重ねて誡める勅宣がある。私が聞いたとおりであるならば、比叡山延暦寺の僧らは、ひたすら先師である伝教大師の教義に違拝して、偏った邪義に執着した心をなしている。ほとんどこれによって、伝教大師が残した教えを扇揚することも、先人の遺業を興隆することも顧みないでいる、等と。
 私は、生れて末法の初めに住み、仏教に関する研究は、多くの賢人・聖人の終わりを受けている。慈覚・智証が正義を主張していたことに加えて、勅宣が何回も下されていて、疑いをはさむ余地はなく、口を出すべきでもない。
 しかしながら、円仁・円珍の両大師は、先師である伝教大師の正義を略奪して、勅宣をいただいたのではないか、との疑いがあるだけでなく、仏の誡をのがれることは難しい。したがってまた、亡国の因縁・謗法の根源はこれから始まったのではないだろうか。
 故に世間の人々からの謗りや非難を恐れずに、用いられるか、用いられないかも気にしないで、身命を捨てて、法華経が第一であることをいうのである。

善無畏三蔵
 (0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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理同事勝
 真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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弘法大師は法華経を華厳経より下す
 弘法は我が国における真言宗の開祖で、顕密二教判を立て、真言宗所依の経を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を示し真実を説いた密教であるとして、他経を応身の釈尊が衆生の機根に応じて顕に説いた経と下している。また弘法は十住心論を立て第八・一道無為住心・法華経、第九・極無自性心・華厳経、第十・秘密荘厳住心・大日経と立て、法華経を華厳経より劣るとしている。
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弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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此等の二義共に経文に非ず
 二義は善無畏が説く理同事勝と、弘法が説く法華第三の劣の義。これらの義は経文の裏づけのない邪義であるということ。
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自義
 自分勝手な考え、意見。
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慈覚・智証等・表を作つて之を奏す申すに随つて勅宣有り
 慈覚・智証らが文書を作って、真言が法華より勝れているとの教義の要旨を天皇に上奏したこと。この申し出に沿う内容の勅命の宣旨があった。
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聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶に深秘と称す
 智証の奏上に対する勅旨である。私が聞いている通りであるならば、真言と摩訶止観の両方の教えの要を、同じく醍醐と呼び、ともに深秘といっている、との意。言っている人は天台の座主慈覚・智証、聞いている人は天皇と推察できる。
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真言・止観両教の宗
 真言宗と摩訶止観の両方の教えの要。
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醍醐
 五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
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人の両目・鳥の雙翼
 真言と止観の両教は人間の両目・鳥の両翼のようなものであるということ。
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重誡の勅宣有り
 重ねて戒める勅宣があるということ。
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山上の僧
 比叡山延暦寺の僧。
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劫略
 脅かして力ずくで奪い取ること。
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仏誡
 仏の戒め。
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亡国
 国が亡びること。
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因縁
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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源初
 事象の起こるはじめ。
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身命
 肉体と精神からなる生命そのもの。
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 ここから、法華経と大日経、天台宗と真言宗の勝劣の問題に入っていく。まず、ここでは法華経を大日経に劣るとする真言の邪義が挙げられている。真言の邪義といっても台密と東密の2流派があり、それを初めに紹介されている。
 「善無畏三蔵等は法華経と大日経とは理同事勝等と慈覚・智証等も此の義を存するか」とあるように、もともと善無畏が立てたものであるが、比叡山延暦寺の第三代座主慈覚、同じく第五代座主の智証が拠り所とした台密の教義が挙げられ、次に「弘法大師は法華経を華厳経より下す等」と、東密の主張を挙げられている。そして、これらは「共に経文に非ず同じく自義を存するか」と、仏説によらないで我身にすぎないことを指摘されている。ここでの「経文」とは釈尊自身の教え、すなわち仏説のことで、台密の教義も東密の教義も、仏説を根拠とせず、それぞれの我見による邪義でしかないということである。
 次に「将た又慈覚・智証」以後は、2義のなかでも、特に台密の邪義の破折に焦点を当てられていく。ここでは、慈覚・智証の義が勅宣による認可まで得て、日本において不動の権威を獲得していることを示されたうえで、それにもかかわらず大聖人がこの義に対する異義を唱え、折伏せざるをえない所以を述べられているのである。
慈覚・智証等・表を作つて之を奏す申すに随つて勅宣有り、聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶に深秘と称す乃至譬えば猶人の両目・鳥の雙翼の如き者なり等云云、又重誡の勅宣有り
 報恩抄では勅宣の文それ自体を引用されているので、ここに紹介しておこう。「貞観八年丙戌四月廿九日壬申・勅宣を申し下して云く「聞くならく真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し倶に深秘と称す」等云云、又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開いて以て我が道と為す代代の座主相承して兼ね伝えざること莫し在後の輩豈旧迹に乖かんや、聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成ず殆んど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり、凡そ厥の師資の道・一を闕きても不可なり伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや、今より以後宜く両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し立てて恒例と為すべし」云云」(0307-01)とある。
 この勅宣は、慈覚・智証の上奏を受けて、それを鵜呑みにした形で、彼らの「理同事勝」の義が伝教大師の正統であり、これに従わない「山上の僧等」を先師に背く輩と決めつけているのである。
 このように、慈覚・智証の名声からいっても、勅宣の威を借りていることから考えても、これに異を唱えることは、極めてむずかしい。にもかかわらず、本来の伝教大師の正しい教えから考えると、そこには極めて悪質なすり替えがあり、仏説・仏誡への違背が明白である。故に、これだけでも仏法を学ぶ者として黙過するわけにはいかない重大問題である。
 しかも、このように正しい仏の教えと誡めに背いている故に、世法すなわち俗論にいては「亡国」の事態を招き、仏法すなわち真諦においては「謗法」という行為を招いているのである。これは台密の邪義が現当二世にわたって人々を塗炭の苦しみに陥れる元凶となっていることにほかならない。
 したがって、大聖人としては、仏法の正義を守るためにも、人々を苦しみから救うためにも、慈覚・智証の邪義が破折するために立ち上らざるをえないと、やむにやまれぬ心境を述べられている。しかも「理同事勝」をいかに理路整然と破折しても、世間から非難されるだけで、おそらくだれも受け入れてくれないだろう。それどころか、身命にかかわる迫害も覚悟して行動を起こしたことを述べられている。

1002:14~1003:11 第三章 増上慢との非難を破すtop
14   疑つて云く善無畏.金剛智・不空の三三蔵・弘法・慈覚.智証の三大師二経に相対して勝劣を判ずるの時或は理同
1003
01 事勝或は華厳経より下る等云云、 随つて又聖賢の鳳文之れ有り、 諸徳之を用いて年久し此の外に汝一義を存して
02 諸人を迷惑し剰さえ天下の耳目を驚かす 豈増上慢の者に非ずや如何、 答えて曰く汝等が不審尤最もなり如意論師
03 の世親菩薩を炳誡せる言は是なり、 彼の状に云く「党援の衆と大義を競うこと無く 群迷の中に正論を弁ずること
04 無かれと言い畢つて死す」云云、 御不審之れに当るか、 然りと雖も仏世尊は法華経を演説するに一経の内に二度
05 の流通之れ有り重ねて一経を説いて法華経を流通す、 涅槃経に云く 「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて
06 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」等云云、 善無畏・金剛智の両三蔵・慈覚・智
07 証の二大師大日の権経を以つて法華の実経を破壊せり。
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 疑つて言う。善無畏.金剛智・不空の三三蔵や弘法・慈覚.智証の三大師が法華経と大日経とを比較相対して、その勝劣を判ずるの時、あるいは理は同じく事において勝る。あるいは華厳経よりも下る、等といっている。したがって、また、聖人や賢人の鳳文がある。数多くの徳の高い人々が、この鳳文を用いて長い年が経過している。
 これをよそにあなたは、法華経こそ一切経のなかで最第一である、との一つの教義を立てて数多くの人々を迷わせ惑わせてり、それだけでなく、全世界の人々の耳目を驚かせている。あなたは増上慢の者ではないのか、どうか。
 答えて言う。あなたたちの不審は、もっともである。如意論師が世親菩薩に対して明らかないましめをした際の言葉は、まさにこれである。彼の書状に次のように書かれている。「徒党を組んで助けあう多数の人々と何が仏法上の最高の道理にかなって競ってはならない。また、群がり集った迷いの衆生のなかで仏法の正論を語っては弁ずることしてならない、と言い終わって死んだ」等と。あなたの御不審は、このことと相応するのであろうか。
 しかしながら、仏すなわち釈尊は、法華経を説法するに当たって法華経一経のうちに二度の流通分があり、さらに重ねて一経を説いて、法華経を流通している。涅槃経には次のように説かれている。「若し善い僧がいて、仏法を破壊する者を見ていながら、それを放置し、そのあやまりを責めず、その物の所を追い払わず、その罪過をはっきりと挙げて糾明しなければ、まさにこの人は仏法のなかのかたきである」等と。善無畏と金剛智の二人の三蔵と、慈覚と智証の二人の大師は、大日経という権経をもって法華経という実経を破壊したのである。
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08   而るに日蓮・ 世を恐て之を言わずんば仏敵と為らんか、 随つて章安大師末代の学者を諌暁して云く「仏法を
09 壊乱するは仏法の中の怨なり 慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり 能く糾治する者は即ち是れ彼が親な
10 り」等云云、 余は此の釈を見て肝に染むるが故に身命を捨てて之を糾明するなり、 提婆菩薩は付法蔵の第十四・
11 師子尊者は二十五に当る 或は命を失い或は頭を刎らる等是なり、
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 そうであるのに、日蓮が、世間を恐れて、このことをいわなければ、仏敵となるのではないだろうか。したがって章安大師は、末法時代における仏法を学ぶ者を諌め暁して次のようにいわれている「仏法を壊り乱すことは、仏法の中のかたきとなる行為である。慈悲心もなくて、詐りその者にとってかたきとなる行為である。仏法を壊り乱すものを糾すことはその者のために慈愛の行為である」等と。
 私は、この釈を見て、その趣旨を生命の奥底に染めているが故に、身命を捨ててこれをただして、あきらかにするのである。
 提婆菩薩は付法蔵の第十四にあたり、師子尊者は付法蔵の第二十五に当たる。師子尊者が頭をはねられたのは、身命を捨てて仏法破壊者を糾した例である。

金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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三三蔵
 「三蔵」とは経蔵・律蔵・論蔵のことであるが、人に対していう場合は仏典の翻訳者。三人の三蔵のことで善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵を「真言宗」では「三三蔵」とする。
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聖賢の鳳文
 ①聖人や賢人の説を正しいと宣揚した著述。②天皇の勅宣。
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諸徳
 数多くの徳の高い人々。
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天下
 天が覆っている下のこと。全国・全世界。
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増上慢
 仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと。四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。
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不審
 明らかにわからないこと。疑わしいこと。
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如意論師
 世親菩薩の師。大唐西域記には、「室羅伐悉底国の王は、私怨をいだき、論師をはずかしめようとし、他派の学者100人を集めて、論師と討論させた。99人が屈服したが、最後の1人は、王とともに強固に論師を辱しめた。論師は『党援の衆と大義を競うことなかれ、群迷の中に正論を弁ずることなかれ』と世親に遺誡し、みずから舌をかみ切って死んだという。
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世親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」6巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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炳誡
 きびしくいましめること。
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党援の衆
 ある目的のために徒党を組んで集まった多数の人々。
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大義
 仏法上での最も深い道理。
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群迷
 群がり集まった迷いの衆生。
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正論
 仏法における理にかなった主張。
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仏世尊
 釈迦牟尼仏のこと。
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演説
 仏・菩薩が衆生を済度教化するために教えを説き演べること。一般には、人前で意見を説き述べること。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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善比丘
 比丘とは出家した男子・僧侶のこと。よい僧侶をいう。
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法を壊る者
 仏法を破るもの。仏の教えを破壊する者。
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呵責
 叱り、責めること。相手の罪禍を追求し責め立てること。
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駈遣
 追い払うこと。駆は追う、遣は追う・はなつ等の意。仏教では、破仏法・正法誹謗の者を追放することをいう。
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挙処
 その罪を検挙し、世を挙げて処分すること
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 仏法に敵対すること。
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三蔵
 ①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
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大日
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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権経
 権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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実経
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
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破壊
 破り、壊すこと。
―――

 世間のこと。
―――
仏敵
 釈尊の最高の教えである法華経や行ずる人を批判・迫害する者。
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章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
末代の学者
 末法時代における仏法を学ぶもの。
―――
諌暁
 いさめさとすこと。「諌」は礼をもって他のあやまちをただすこと。「暁」は説なりとあるように、さとし明かすこと。別していえば、国家の安危について、その責任者に進言すること。また、人生の重大事について、相手の蒙を開いて目をさまさせること。結果として、いちじ相手が驚いたり、恨んだり、あだをなしたりすることが多い。法師品には「如来現在猶多怨嫉」とあり、末法には釈尊在世以上の怨嫉の難があると説き、また明楽は「惑耳驚心」と説いている。
―――
壊乱
 破壊し破り乱すこと。
―――

 慈悲のこと
―――
詐わり親しむ
 外面では仲良くしながら、内心では欺き騙すこと。
―――
糾治
 罪を糾弾し、法によって治めること。
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 ①父母。②主・師・親三徳のなかの親徳。
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肝に染むる
 生命の奥底に染めること。
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身命を捨てて
 身は色法・肉体。命は寿命・精神。捨てるは迫害を恐れず弘通すること。
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糾明
 明らかにしてただすこと。
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提婆菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後750年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
―――
付法蔵
 釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。
―――
師子尊者
 師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
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 ここから文末にいたるまで6問6答をもって本文は展開されていく。
 まずここでは、前章に「世の謗を憚からず」とあるように、東密・台密の2つの義を誤りであると断ずる大聖人に対して浴びせられた「世の謗」を具体的に挙げられている。
 初めに「汝等が不審尤最もなり」と答えられている。ここで「汝等が不審」とあるのは、東密・台密を信奉する者が大聖人に対して抱いた反発、言い換えれば大聖人が東密・台密の教義を誤りだと決めつけているのは増上慢にあたるのではないか、との非難であるが、これに対しては「尤最もなり」と答えられ、そのように思うのも無理はない、とまず受け止められている。その理由として如意論師が世親菩薩を誡めた時の言葉が挙げられている。その内容は、徒党を組んだ大衆と何が仏法の道理であるかについて争ったり、正しい仏法に背いて迷っている群衆の中で仏法の正義の論を語るようなことがあってはならない、というものである。
 この誡めは、おそらく当時の天台宗等の人々が金科玉条としたものであるが、これは、一歩譲ったとしても、摂受・折伏のなかでは摂受を表とした正法・像法時には妥当するが、折伏を表とすべき末法には当てはまらないことをわきまえる必要がある。
 ただし、厳しくいえば、大聖人はまさに、東蜜・台密が当時の日本仏教界では最も権威をかさに着た宗派であることから、徒党を組んだ大衆であり、迷っている群衆に過ぎず、その東密・台密を破折し、法華経が最勝の経であると主張することは増上慢に聞こえるのである、と述べられているのである。言いかえると、大聖人を増上慢と反発する人たちこそ、この如意論師の誡めにある「党援の衆」「群迷」に当たるとされているのであって、それだけに痛烈な破折となっているのである。
 次に「然りと雖も仏世尊は」からは大聖人が何故に、仏法上の邪義を破折するかについて、その理由と覚悟のほどを語られていくのである。その主たるものは「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」という涅槃経の一文に照らし、邪義を破折しないで仏敵となることを恐れられたことと、章安大師の「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり能く糾治する者は即ち是れ彼が親なり」という言葉によって、邪義を破折しないで無慈悲になることを恐れられた、ということである。そして「身命を捨てて之を糾明するなり」と覚悟のほどを示されている。
 この涅槃経の文とそれを受けての章安の言は「末代」すなわち末法の実践の根本は折伏であることを示したものである。
如意論師の世親菩薩を炳誡せる言は是なり
 この文については、本文のように読む者が多いが、御真筆は漢文調で「如意論師灼誡提波菩薩言是也」とあり「如意論師の灼誡、提波菩薩の言是なり」と拝することができる。しかし、本文の「如意論師の」から「彼の状に云く「党援の衆と大義を競うこと無く群迷の中に正論を弁ずること無かれと言い畢つて死す」」までを大唐西域記に基づいての御記述と考えたうえで、「大波(婆)菩薩を「世親菩薩」と解し、御書編纂時には、本文の読み方が採用されたものと考えられる。
 また「如意論師の灼誡、提婆菩薩の言是なり」と拝した場合、提婆菩薩は明らかに3世紀ごろの南インドの仏法伝燈者で付法蔵第14祖である。しかし、提婆菩薩伝等によると、バラモン出身で竜樹菩薩の弟子となり、南インドで外道に帰依している王を破し、邪道の論師を多く破折したが、彼らの弟子の一人に恨まれて殺されたという。提婆菩薩も、ひとり仏法の正義を叫んだ故に殺された。死の間際にあっても法を説いた点で如意論師と共通するところがある。しかし、提婆菩薩がそのような最後にあって「群迷の中に正論を弁ずること無かれ」に類する誡めをのこしたという記録はないし、法のために命を捧げたことを悔いるような言をのこしたとは考えにくい。したがって、ここでは、天台真言の学者たちが自らの摂受行の行き方を正当化するために用いていた大唐西域記の一文を、一往与える立場で挙げられたものと解するのが妥当であろう。
 しかもこの大唐西域記の記述でも、弟子の世親は、師大唐西域記亡きあと、いわば誡めに背いて論議を行い、外道を屈服させているのである。
彼の状に云く「党援の衆と大義を競うこと無く群迷の中に正論を弁ずること無かれと言い畢つて死す」云云
 如意論師が世親菩薩を誡めた言葉を、大唐西域記から引用されたところである。いま、この言葉が発せられるに至った如意論師のエピソードを原文の現代語によって紹介しておこう。
 「室羅伐悉底国の超日王は、如意論師を多数の人の中で辱めようと思い、外道の徳行の高深なる人を100人招き集めようとして、『現象界に視聴をむけることをやめ、真実の境地に入ろうと願うが、諸説紛々として心を寄せるにもより所がない。今諸説の優劣を考えて専心遵奉したい』と命令をした。
 論議に参集するにおよび、重ねて命令を下して、『外道の論師たちはみな秀才たちである。仏法の信者たちは信奉する教義を十分に述べよ、勝てば仏の教えを崇拝しよう。負けたならば僧徒を死刑に処す』といった。
 そこで如意論師は外道たちと論宣し、99人は敗退してしまった。下座に残る一人は如意論師を見ること蔑むがごとくであった。そこでこれとはげしく議論し、論は『火と煙』に及んだ。王と外道はともに大声で、『如意論師に間違いがある。一体、煙が先で、その後に火に言及する。これが事の道理の常だ』と叫んだ。
 如意論師は非難の釈を明かそうと思ったけれども、耳をかしよく考えようとするものもなく、衆人の中に辱しめられたのを恥じ、その舌をかみ切り、弟子の世親菩薩を戒めて『多数をたのむ群衆とは真理を争うことなかれ、迷える人々の中では正論を弁ずることなかれ』との言葉を書きとらせて、言葉が終わるや死んでしまった。
 それから間もなく超日王は室羅伐悉底国を失った。幼日王が新王につき、英賢は表彰されたのである。弟子の世親菩薩はさきの如意論師の恥をそそごうと思い、やってきて、幼日王に、『大王は聖徳をもち天下に君臨され、衆生の寿命を主っておられます。わが先師如意論師は、その学深奥を窮めましたが、前王の宿怨を買い、衆人にその高名を挫かれました。私は御指導を受けまして先の怨みを復したいと思います』と申し上げた。
 幼日王は如意論師が哲人であることを知っており、世親菩薩の立派な志を讃美した。そこで如意論師と論議した外道の人たちを招集し、世親菩薩は重ねて以前の火と煙の論理を述べた。外道は屈服し敗退した。」
 以上からも明らかなごとく、如意論師は超日王と外道の謀略によって辱しめられ、舌を噛み切って死ぬ直前、弟子の世親菩薩に、本文にある戒めの言葉を書き取らせたのである。世親菩薩はその遺誡を守って、新しい幼日王の時に如意論師の名誉は回復され、改めて世親はその外道たちと論議し、これを打ち破った、とその後日談が記されている。
仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり能く糾治する者は即ち是れ彼が親なり
 章安大師の大般涅槃経疏の文である。本文に引用されている文は一部省略されているので、ここに全文を紹介する。
 「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり、慈無くして詐わり親しむは是れ彼の人の怨なり。能く糾治せんは是れ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」とある。
 この釈文は本文の中で先に引用された大般涅槃経長寿品の「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」という文を章安が解釈したところである。
 章安はここで、仏法を破壊する怨敵に対して慈無くして“詐り親し”めばその怨敵のためになるどころか、逆に怨ともなる。むしろ、この怨敵をよく対冶する者こそ、彼に対して慈悲の行為をなした者であり、正法を護る声聞であり真の弟子であるとしている。

1003:11~1003:15 第四章 法華が真の諸経の王と示すtop
11                                疑つて云く経経の自讃は諸経・常の習いなり、
12 所謂金光明経に云く 「諸経の王」密厳経の 「一切経中の勝」蘇悉地経に云く 「三部の中に於て此の経を王と為
13 す」法華経に云く「是れ諸経の王」等云云、 随つて四依の菩薩・両国の三蔵も是くの如し如何、答えて曰く大国・
14 小国.大王・小王.大家・小家・尊主.高貴・各各分斉有り然りと雖も国国の万民.皆大王と号し同じく天子と称す詮を
15 以つて之を論ぜば 梵王を大王と為し法華経を以て天子と称するなり、
-----―
 疑つて言う。経典がそれぞれに自らを讃たたえているのは、諸経の常の習わしである。いわゆる金光明経には「諸経の王」と、密厳経に「一切経中の勝」と、蘇悉地経には三部の中に於て此の経を王となす」法華経には「是れ諸経の王」等とそれぞれ説かれている。
 したがって四依の菩薩や両国の三蔵も、これらの経文と同じように主張しているのであるが、どうか。
 答えて言う。たとえば、同じ国といっても、大国も小国もあり、同じく王といっても、大王も小王もあり、その王の家柄にも、大家も小家もあり、また、その国で尊ばれている中心者や高貴の人にもさまざまな分際がある。しあし、各国の全民衆は、みな、大王と号し、同じく天子と称している。
 だが、せんじつめたところ、釈尊の説いた一切経の究極の教えをもってこれを論うれば、王でいえば大梵天王を大王となし、経でいえば法華経をもって天子と称するのである。疑つて言う。経典がそれぞれに自らを讃たたえているのは、諸経の常の習わしである。いわゆる金光明経には「諸経の王」と、密厳経に「一切経中の勝」と、蘇悉地経には三部の中に於て此の経を王となす」法華経には「是れ諸経の王」等とそれぞれ説かれている。
 したがって四依の菩薩や両国の三蔵も、これらの経文と同じように主張しているのであるが、どうか。
 答えて言う。たとえば、同じ国といっても、大国も小国もあり、同じく王といっても、大王も小王もあり、その王の家柄にも、大家も小家もあり、また、その国で尊ばれている中心者や高貴の人にもさまざまな分際がある。しあし、各国の全民衆は、みな、大王と号し、同じく天子と称している。
 だが、せんじつめたところ、釈尊の説いた一切経の究極の教えをもってこれを論うれば、王でいえば大梵天王を大王となし、経でいえば法華経をもって天子と称するのである。

金光明経
 釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。  
―――
密厳経
 3巻。中国・唐代の不空訳。大乗密厳経のこと。8品からなる。三界六道の煩悩を断じた初地以上の菩薩が生ずる国として密厳経を説き、次に如来の法性は不生不滅・清浄無垢であると観ずる境地を如来蔵とし、更には万法の唯識の所現であるとして、その万法の根源を阿頼耶識として説いている。最後に密厳国に生ずるためには阿頼耶識を悟り、如来蔵を得べきであるとして、この三者を一体のものとしている。異訳に中国・唐代の地婆訶羅の大乗密厳経3巻がある。
―――
蘇悉地経
 蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
―――
三部
 ①胎蔵界の諸尊を三種にまとめた部位。仏部・蓮華部・金剛部のこと。仏部とは理智の二種をそなえた仏の覚りをあらわし、蓮華部は仏の大悲をあらわし、金剛界では五部(仏部・金剛部・宝部・蓮華部・竭磨部)を立てるが、これは胎蔵界の三部と等しく、会合の異なりにすぎないとしている。②台密では金剛界・胎蔵界・蘇悉地法を三部の秘法という。③三部経のこと。
―――
四依の菩薩
 「四依」には、法の四依と人の四依があり「菩薩」という場合は人の四依である。小乗・大乗・迹門・本門により、菩薩の位は異なるが、末法の四依は折伏を行ずる地涌の菩薩であり、別して日蓮大聖人のこと。
―――
両国
 インドと中国のこと。
―――
三蔵
 ①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
―――
万民
 すべての人々。
―――
天子
 天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
―――

 ①具さに事理を説き明かして帰着すること。せんじつめたところ・結局のところ。②利き目・しるし。③手段・手だて。
―――
梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――――――――
 本抄第2の問答である。
 ここでは、さきの「善無畏・金剛智の両三蔵・慈覚・智証の二大師大日の権経を以って法華の実経を破壊せり」の破折を受けて、なぜ、法華経のみが実教で諸経のといえるのか、との疑問が提起されている。
 その問いの出し方は「経経の自讃は諸経・常の習いなり」とあるように、さまざまな経が自らを讃えるのは常の習慣であるとして、自らの経を「最勝」と主張している言葉は法華経に限らず、金光明経、密厳経、蘇悉地経にも、それぞれにあるとして例をあげたのである。たとえ、法華経に自らを「諸経の王」と称える言葉があったとしても、それだけで「法華最勝」が真の仏意であると断定することはできない、というわけである。
 これに対して、大聖人は諸経それぞれに「諸経の王」等と称える言葉があるのは、同じ国といっても大国や小国があり、同じく王といっても大王や小王があり、その王の家柄も大家、小家があり、また、その国の中心者を称えて呼ぶ「尊主」だの「高貴」だのの呼び方にも、それぞれに程度や範囲、位置などの異なりがあるが、その国の人々は皆、自分たちの国主を「大王」とか「天子」などと呼んでいるのと同じであると答えられている。
 しかし、個々の国々での「大王」でなく、この閻浮提全体を統括する真の大王は大梵天王であるように、ある限られた範囲の経々のなかでの「諸経の王」でなく三世十方の一切経のなかでの「王」たる経は法華経以外にないと結ばれている。

1003:15~1004:01 第五章 他経の「諸経中王」の真意を示すtop
15                                  求めて云く其の証如何、 答えて曰く金光
16 明経の是諸経之王の文は梵釈の諸経に相対し密厳経の一切経中勝の文は次上に十地経・華厳経・ 勝鬘経等を挙げて
17 彼彼の経経に相対して一切経の中に勝ると云云、 蘇悉地経の文は現文之れを見るに 三部の中に於て王と為す等云
18 云、蘇悉地経は大日経・ 金剛頂経に相対して王と云云、 而るに善無畏等或は理同事勝或は華厳経より下ると等云
1004
01 云、此れ等の僻文は螢火を日月に同じ大海を江河に入るるか。
-----―
 求めて言う。其の証拠は、何か。
 答えていう。金光明経の「是諸経之王」の文は大梵天王や帝釈天が説いた外道の教えに相対して「王」といっているのである。密厳経の「一切経中勝」の文は、そのすぐ前に、十地経・華厳経・勝鬘経等を挙げて、それらの諸経に相対して一切経のなかに勝れる等といっているのである。蘇悉地経は、大日経、金剛頂経に相対して王等とっていることになるのである。
 そうであるのに善無畏らは、あるいは「法華経は大日経と理は同じであるが事においては大日経が勝れる」あるいは「法華経は華厳経より下る」等といっている。これらの誤った文は、ホタルの光を太陽や月の光と同じだとし、あるいは大海を川に入れようとするのであろうか。


 証拠。
―――
一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
十地経
 12巻。天親著、菩提流支訳。初期大乗仏教経典の一つ。後に『華厳経』に編入されたため、『華厳経』の「十地品」としても知られる。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
勝鬘経
 勝鬘師子吼一乗大方便広経のこと。
―――
現文
 明らかに現れている文・文証。
―――
三部
 ①胎蔵界の諸尊を三種にまとめた部位。仏部・蓮華部・金剛部のこと。仏部とは理智の二種をそなえた仏の覚りをあらわし、蓮華部は仏の大悲をあらわし、金剛界では五部(仏部・金剛部・宝部・蓮華部・竭磨部)を立てるが、これは胎蔵界の三部と等しく、会合の異なりにすぎないとしている。②台密では金剛界・胎蔵界・蘇悉地法を三部の秘法という。③三部経のこと。
―――
金剛頂経
 金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
―――
僻文
 誤った文。
―――
螢火
 蛍の放つ微細な光。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
大海
 大きな海。法華経が一切経を含有していることにたとえていう。
―――
江河
 大きな河のこと。②揚子江のこと。③黄河のこと。
―――――――――
 本抄第三の問答である。
 先の問答で、問者が金光明経・権密教・蘇悉地経にも自らを讃える言葉があるのではないかと反論したのに答えて、それぞれが「諸経の中の王」と自讃している。「諸経」というのは一切経のすべてを指しているのではなく、限られた範囲の教経にすぎないことを明らかにされている。それに対し法華経の「最勝」は次の章で述べられるように「已今当説」すなわち已に説いた爾前の諸経すべてや「今説いた」無量義経に対してあけではなく、「当に説かん経」すなわち今後説かれる経に対しても勝れることをあらわしている。
 それだけでなく、法華経のなかでは三世十方の総諸仏の経のなかで究極の法であることが述べられている。この論議はさまざまな経のなかで、繰り返し展開されているところである。

1004:02~1004:08 第六章 経の勝劣を明かす意義を示すtop
02   疑つて云く経経の勝劣之れを論じて何か為ん、 答えて曰く法華経の第七に云く「能く是の経典を受持する者有
03 れば亦復是くの如し 一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、 此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経
04 に超過すと云云、 第八の譬・兼ねて上の文に有り所詮仏の意の如くならば 経の勝劣を詮ずるのみに非ず法華経の
05 行者は一切の諸人に勝れたるの由之れを説く、 大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民なり、法華経の行者は須
06 弥山・日月・大海等なり、 而るに今の世は法華経を軽蔑すること土の如し民の如し真言の僻人等を重崇して国師と
07 為ること金の如し 王の如し之に依つて増上慢の者・国中に充満す青天瞋を為し 黄地夭ゲツを致す涓聚りてヨウ塹
08 を破るが如く民の愁い積りて国を亡す等是なり、
-----―
 疑つて言う。諸経の勝劣を論じることに何の意味があるのか。
 答えて言う。法華経の第七の薬王菩薩本事品第二十三に「よく是の経典を受持する者も、また、このようである。すべての衆生の中において、またこの人は第一である」等と説かれている。
 この経の薬王菩薩本事品第二十三に十種の譬喩を挙げて、法華経は、釈尊が「已に説」いた経「今説く」経「当に説」こうとしている経の、一切の経に超えすぐれている経である、と説かれている。
 十喩のなかの第八の譬である四果辟支仏喩は、上述した経文にあわせて記されている。結局、仏の意のとおりであるならば、経の勝劣だけでなく、法華経の行者はすべての人々に勝れることを説かれているのである。
 大日経の行者は、諸山であり衆星であり江河であり諸民なのである。法華経の行者は須弥山であり日月であり大海等なのである。
 そうであるのに、現在の鎌倉時代においては法華経をかろんじ、ないがしろにすることは、土のようであり、民のようである。真言宗の教えを第一とするひねくれ者達らを重んじ崇め尊んで、一国の民衆を導いていく大導師のように振る舞わせていることは、金のようであり、王のようである。
 これによって増上慢の者が国中に充満しているのである。天はいかりをなして天変が起こり、大地には災いをもたらしている。細く流れる水があつまって城の壁や堀をやぶるように、民衆の嘆きや悲しみが積もって国を滅ぼすというのはこれである。

法華経の第七
 法華経8巻のうちの巻7。妙法蓮華経常不軽菩薩品第20・如来神力品第21・嘱累品第22・薬王菩薩本事品第23・妙音菩薩品第24からなる。
―――
受持
 受は受領の義でうけおさめること、持は憶持の義で、心身ともに銘記して、よく持ち続けること。正法をよく信じ持って、いかなることがあっても、違背・退転しないことをいう。四条金吾殿御返事には「此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-04)とある。
―――
一切衆生
 すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
―――
薬王品
 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。
―――
十喩
 法華経薬王菩薩本事品第二十三の十の喩で、いずれも諸経の中で法華経が第一の教である事を喩えている。その十喩を示すと、①水喩。 諸水の中で海が第一であるように、法華経が諸経の中で第一の教である。②山喩。衆山の中で須弥山が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。③衆星喩。 衆星の中で月天子が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。④日光喩。日天子がもろもろの闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を破る教えである。⑤輪王喩。諸王の中で転輪聖王が第一であるように、法華経は諸経中の王である。⑥帝釈喩。帝釈が三十三天中の王であるように、法華経は諸経の中の王である。⑦大梵王喩。大梵天王が一切の衆生の父であるように、法華経は菩提の心を発す者の父である。⑧四果辟支仏喩。 四果・辟支仏が一切の凡夫の中で第一であるように、法華経とこれを持つ者は人法ともに第一である。⑨菩薩喩。声聞・辟支仏の中に菩薩が第一であるように、法華経は諸経の中で第一である。⑩仏喩。仏が諸法の王であるように、法華経は諸経の王である。
―――
已今当
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
―――
第八の譬
 法華経薬王菩薩本事品第二十三の十の喩の第八。四果辟支仏喩。 四果・辟支仏が一切の凡夫の中で第一であるように、法華経とこれを持つ者は人法ともに第一である。
―――
所詮
 究極のところ、結局。言葉や文字によってあらわされるもの。
―――
法華経の行者
 法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
―――
諸山
 須弥山以外の多くの山。いずれも第一ではない。
―――
衆星
 多くの星。
―――
江河
 大きな河のこと。②揚子江のこと。③黄河のこと。
―――
諸民
 数多くの人々。民衆。
―――
須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
大海
 海のこと。
―――
軽蔑
 かろんじ、ないがしろにすること。
―――

 大地を構成する要素。
―――

 民衆のこと。
―――
真言の僻人
 真言宗の教えは、法華経より勝れており、釈尊一代の教えを超過していると立てるひねくれ者のこと。
―――
重崇
 重んじ、あがめたてまつること。
―――
国師
 ①奈良時代に諸国に置かれた僧官。僧侶の監督・寺領の管理・経論の講義などを任務とした。②国家の師表として朝廷から贈られた称号。③仏教の億義を悟り、一国の民衆を導く大導師。
―――
増上慢
 仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと。四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。
―――――――――
 本抄第四の問答である。ここでは、経経の勝劣を明らかにすることが、なぜ必要であるかについて示されているところである。
 問いに答えて、まず、法華経巻七薬王菩薩本事品第二十三に説かれる十の譬喩のうち、八番目の四果辟支仏の譬から一文を引用されている。
 その内容が、法華経が最勝であることを示すとともに、よく法華経を受持するものは一切衆生の中で最も第一の者である、と讃えられていることからも明らかなように、経の勝劣によって経を受持する者の勝劣が決まると仰せられている。本文に「所詮仏の意の如くならば経の勝劣を詮ずるのみに非ず法華経の行者は一切の諸人に勝れたるの由之れを説く」とあるとおりである。経を受持する者の勝劣が決まるが故に、経の勝劣を明らかにする必要があるというのが大聖人の答えである。
 次いで、具体的に法華経と大日経の諸経の勝劣を須弥山と諸山、日月と衆星、大海と江河などの勝劣にたとえた後、大聖人当時の日本国は、このために増上慢の者がのさばり、それが原因となって天変地夭が起こり、民の悲嘆が重なってついには国が亡びる事態に陥っているのであると指摘されている。
 ここで、経の勝劣を論議することに何の意義がるのか、との疑問が立てられ、結局、それが尊ぶべき人を誤ることにつながり、法華経を誹謗している邪師である真言僧たちを“国師”として崇めているために諸天の怒りを招き、亡国の事態に陥っているのであると指摘されていることは、極めて重要である。すなわち、経の勝劣を論議しても、一見、空理空論に過ぎないように思われる。事実、仏教界の姿は、そうであった。しかし、大聖人が経の勝劣を論議されるのは、そうした抽象論のためではなく、現実に、仏法の歪みがこの社会の災い人々を苦しめている現象面と結びついている故である。
 本抄冒頭で述べられている「俗諦・真諦」「世間・出世」は一往は別々であるが、相互に関連しており、しかも「真諦」「出世」たる仏法の次元の歪みが「俗諦」「世間」の災いを起こす根源なのである。まさに人々の現実の苦悩を解決するという現実的課題に真っ向から、しかも、その根源から取り組まれたところに日蓮大聖人の生涯を貫く真髄があったことを忘れてはならない。

1004:08~1004:18 第七章 人の勝劣を判じた前例を示すtop
08                        問うて曰く内外の諸釈の中に是くの如きの例之れ有りや、 答え
09 て曰く史臣呉競が太宗に上つる表に云く 「竊かに惟れば太宗文武皇帝の政化・ 曠古より之れ求むるに未だ是くの
10 如くの盛なる者有らず唐尭・虞舜・夏禹・殷湯・周の文武・漢の文景と雖も皆未だ逮ばざる処なり」云云、今此の表
11 を見れば太宗を慢ぜる王と云う可きか政道の至妙・先聖に超えて讃ずる所なり、 章安大師天台を讃めて云く 「天
12 竺の大論尚其の類に非ず 真丹の人師何ぞ労く語るに及ばん 此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、 従
13 義法師重ねて讃めて云く 「竜樹・天親未だ天台には若かず」伝教大師自讃して云く 「天台法華宗の諸宗に勝るる
14 ことは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず 庶くば有智の君子経を尋ねて 宗を定めよ」云云、 又云く「能く法
15 華を持つ者は亦衆生の中の第一なり 已に仏説に拠る豈自讃ならんや」云云、 今愚見を以つて之を勘うるに 善無
16 畏・弘法・慈覚・ 智証等は皆仏意に違うのみに非ず或は法の盗人或は伝教大師に逆える僻人なり、故に或は閻魔王
17 の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり 権者は辱を死骸に与えざる処の本文に
18 違するか、 
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 問うて言う。内典・外典のさまざまな釈の中に、このような例があるかどうか。
 答えて言う。史臣である呉競が太宗に上奏した文書に次のようにある。「ひそかに考えてみれば文武に秀でた太宗皇帝の、よく国を治め、また、政治により民衆を導くことは、ひさしいから、これを求めていまだこのように盛んなる者はいません。唐尭・虞舜、夏の王・禹・殷の湯王、周の文王・武王、前漢の文帝・景帝といえども、みな、いまだ及ばないところであります」等と。今、この文章を見て太宗皇帝を慢心の王というべきであろうか。太宗の政治の行われ方は、極めて巧みで優れたものであることを、先代の聖人にも超えていると讃歎しているのである。
 章安大師は天台大師を讃めて次のようにいっている「インドの竜樹・天親の大論師でさえ、なお天台とは比較にならない。中国の仏教の師たちについて、どうして、わずらわしく語る必要があろうか、これは、みずから誇り、見せびらかすのではない。経典に説かれた法のすがたが勝れているからである」等と。従義法師は、重ねてほめて「竜樹も天親も、いまだ天台大師には及ばない」といっている。
 伝教大師は法華秀句に自らほめて「天台法華宗が他のさまざまな宗派より勝れているのは、依りどころとする法華経が勝れているからである。決して自らを讃め他を毀っているのではない。ねがわくは、仏法に通達し解了している人格者であるならば、所依の経を明らかにしたうえでその宗を定めなさい」などと説かれている。
 また、伝教大師は同じく法華秀句に「よく法華経を持つ者は、また一切の衆生の中の第一である。すでに仏説によっている。どうして自讃であるといえようか」などと説かれている。
 いま、わたしの愚かな智慧をもってこのことを勘えてみると、善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等は、みな仏意に合致していないだけでなく、あるいは、法の盗人であり、あるいは伝教大師に逆らっている邪悪な人である。
 故にあるいは閻魔王の責めをこうむり、あるいは墓がなく、あるいは通常人と同じように死去したにすぎないにもかかわらず、弟子らが入定したと言い張ったり、あるいは、たびたび大火災にあい、また多数の兵、大軍に攻められている。仏・菩薩が、衆生救済のために仮の姿をもってあらわれた存在であるならば、屍を辱められることはない。との古人の言葉に反するではないか。

内外の諸釈
 内典及び外典のさまざまな教釈。
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呉競
 (0670~0749)唐代の歴史家。経史に通じ史館に入って国史を編修した。これは韋述の編集による国史113巻の基礎となり、現在の旧唐書の重要な資料となった。
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太宗
 (0598~0649)。唐朝の高祖の子。隋の末、父の李淵とともに太原に兵を挙げ、天かを平定して帝位についた。杜如晦・房玄齢等の賢臣を用い、その治世は〝貞観の治〟と呼ばれ、その善政を称えられている。賢臣・魏徴等と政治の要道を論じたものが「貞観政要」と呼ばれる有名な書である。
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 天皇や主君、国王などに臣下が上奏する文書。
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太宗文武皇帝
 体操皇帝は文武に勝れていたので、このように言われることがある。
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政化
 よく国を治め、民衆を導いていく政治。
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曠古
 昔から、いにしえ。前代未聞・未曾有。
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唐尭
 中国上古の伝説時代の王。尚書によると唐堯は、父の黄帝の曾孫にあたる帝嚳高辛氏、母は陳鋒氏の女で、名を放勲といい、仁徳は天のごとく、智は神の如くであったという。黄色の冠をかぶり質素な服を着、赤い色の車を白馬に引かせて乗った。百官を適材適所に配し、人事は公明だったので、全諸侯の国々がよく和合した。義和に命じて日月星辰の運行をもとに暦を作り、大洪水を治め、大いに善政を施した。七十年の治世の後、舜の孝行を聞いて、挙用し、二女とめあわせて帝位をゆずった。退位二十八年で死んだとき、民は父母を失ったように悲しんだという。
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虞舜
 虞の人で有虞氏という。父が後妻をもらって舜を虐待し殺そうと図ったが、至孝をもって父および継母に尽くし、異母弟・象を愛した。それを堯王が知るところとなり、摂政に挙用され、二女を妻にめとり、さらに帝位について善政を行った。在位三十九年、禹王に後事を託して没。江南の九疑に葬られた。 .
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夏禹
 中国古代の伝説上の国。
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殷湯
 中国,殷王朝初代の王。前 18世紀頃の人。『史記』によれば,始祖契 (せつ) から第 14世にあたる。甲骨文では唐または大乙などと呼ばれる。文献では天乙あるいは成湯という。亳におり,伊尹を宰相とし,周囲の諸侯を合せ,ついに夏を倒して殷を開いたとされる。古文献は,多く明哲王としてその徳をたたえている。
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周の文武
 中国上代の王朝で、文王とその子武王のこと。①文王紀元前1152~1056)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。②周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。
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漢の文景
 中国前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)を表す。漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。文帝は農業を重視し、数度にわたり農桑振興を命じている。また一定の戸数に三老、孝悌、力田を選抜し、彼らに賞賜を与えることで農業生産の向上を図っていた。また文帝2年(紀元前179年)と12年(紀元前169年)には田租の半減を実施、文帝13年(紀元前168年)には田租の全免を実施する。これとあわせて周辺少数民族に対する軍事行動を抑制するための和平政策も実施した。文帝の生活自体も相当に質素であり、宮室内の車騎衣服も最低限のものとし、衣服も過度に長いものを禁じ、帷帳にも刺繍を行わないなどの徹底した倹約を行った。また諸国に対し献上品の抑制を命じている。これにより貴族官僚での奢侈が行われることはなく、その末年には民衆の生活は向上し、前漢の最盛期の基礎を築くと共に、次の時代となる武帝の匈奴遠征の物質的な基礎を築いた。
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政道の至妙
 政治の行われ方が極めて優れていること。
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天竺の大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。 「天竺」とあるのは、竜樹の住していたところ。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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其の類に非ず
 肩を並べることはできないということ。
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真丹
 震旦とも書く。中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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法相
 法理の姿。内容。
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従義法師
 (1042~1091)平陽の人。名は従義。天台の正統派(山家)に対して異説を立てたので山外派と呼ばれる。『天台四教儀集解』を著す。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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自讃
 自分で自分をほめること。
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天台法華宗
 天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
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諸宗
 もろもろの宗派。
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所依の経
 よりどころとする経。
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自讃毀他
 自らをほめたたえ、他人を謗ること。
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庶くば
 「こいねがわくば」と読む。
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有智
 仏法に通達し解了している者。
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君子
 徳や学識のある人格者。
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 宗派・宗旨。
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衆生
 梵語サットヴァ(sattva)の音写。薩埵と訳す。この世に存在するもの、生けるもの。主として人間をさす場合が多いが、感覚をもつ生き物すべてをいう。
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仏説
 仏が説いた教法。
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仏意
 仏の心・本意のこと。
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法の盗人
 善無畏三蔵が法華経の極意である一念三千の法門を盗み取って、大日経の教判としたこと。
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僻人
 ひねくれ者。変わり者。悪人。
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閻魔王
 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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墓墳
 死者を埋葬した築造物の総称。死体の処理方法すなわち火葬,土葬,風葬,また単独の埋葬か合葬か,死者を忌避するかその再生ないし来世を信じて死者に儀礼を尽すかなどのもろもろの背景によって,古今東西,国によって各種の形式や内容の墳墓が造られてきた。したがって考古学的には,過去の社会状況,文化相,思想などを知るうえで最良の手掛りをつかむことができる埋蔵資料であり,住居址やその他の遺跡とともに最も重要視される。
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 本抄第五問答である。先に経典の勝劣を明らかにしなければならない所以が人の勝劣にあることを述べられたが、ここでは仏教の内道はもとより、仏教外の外道の種々の釈においても、同じように人の勝劣を判じた実例があることを説かれていくのである。
 問いに答えられて、まず、仏教外の典籍として、唐の太宗の臣下で歴史家であった呉兢の貞観政要からの一文を引用されている。その内容は、文武に秀でた唐の太宗が行う政治について、これほど優れた政冶を行った例は中国史の上で、久しい昔からみられないほどで、唐尭・虞舜、夏の禹王・殷の湯王、周の文王・武王・前漢の文帝・景帝といったそうそうたる名君の治世といえども、みな、及ばない、というものである。
 このように呉兢から讃えられているからといって、太宗を増上慢の王とはいえないこと、あくまで、呉兢は太宗の「政道の至妙」にかんがみて、客観的に賛嘆しているのであると、大聖人は仰せられている。
 次に、同じことは仏教内にもあり、章安大師や従義大師、伝教大師がそれぞれの観点から天台大師を賛嘆しているのも、あくまでも仏意にかなっている故であって、単なる自讃ではない、と述べられている。
 それに対して「今愚見を以つて之を勘うるに善無畏・弘法・慈覚・智証等は皆仏意に違うのみに非ず或は法の盗人或は伝教大師に逆える僻人なり」と、東密・台密の代表者たちは、ただ仏意に適っていないだけでなく、法華経の法門を盗み、あるいは伝教大師に逆らったひとであると破折されている。
 そして、このような仏法上の違背の故に、それぞれにさまざまな形で現証が厳然とあることを示唆されている。
史臣呉兢が太宗に上つる表に云く
 貞観政要から一文を引用されているところである。史料によれば呉兢は貞観政要の編纂者ではあるが、上奏した相手は、唐の中宗に対してであって、太宗ではない。太宗の生没年が0958~0649で呉兢は0670~0749であるから、生存年代を考えても、呉兢が太宗に上奏することはありえない。
 そこで、この部分の「太宗」は「中宗」の誤りではないかとする説がある。確かに、史料と本文の記述からすればそのように解するほかないようにも思える。
 しかし、日蓮大聖人は、唐初期の治者である太宗・則天武后・玄宗とうについて諸御抄で言及されており、その政治の混乱の状況についても御存知であったと考えられる。また、貞観政要の内容が太宗の政治哲学を記したものであることは、よく知られているところである。
 したがって、史臣である呉兢が太宗に上奏した文書、と解するほうがより妥当ではないかと考えられる。
 すなわち、上奏の相手は中宗ではあるが、その内容に着眼すれば、すでに亡き太宗に献じた文書である、との視点から「太宗に上つる表」と表現されたとも考え得る。
 唐初期の治者の在位は高祖(0618~0626)太宗(0626~0649)高宗(0649~0683)中宗(0683~0684)睿宗(0684~0690)則天武后(0690~0705)中宗(0705~0710)睿宗(0710~0712)玄宗(0712~0756)である。
 そして、中宗は則天武后は皇后・王氏を廃して立てたものであり、則天武后はやがて中宗・睿宗を廃して自ら皇后となった。
 また則天武后の後に復位した中宗は皇后・韋氏に殺され、玄宗は韋氏を廃して睿宗を復位させた後まもなく即位した。
 すなわち、高祖・太宗・高宗・中宗・睿宗・則天武后・中宗(皇后・韋氏)睿宗・玄宗と、皇帝及び実質的な治者が錯綜している。また、中宗は治者としては優れていたとはいえず、皇后・韋氏に殺されている。そこで呉兢は、玄宗に再び上奏した、との史料もある。
 こうした政治の混乱を踏まえて、日蓮大聖人はあえて中宗の名を挙げられなかった、と考え得る。なお、曾谷入道殿許御書に「太宗より第八代玄宗皇帝の御宇に真言始めて月氏より来れり」(1029-14)と記されている。
 上記の高祖・太宗・高宗・中宗・睿宗・中宗・睿宗・玄宗として玄宗を「第八代目」とされたのではないこと考えられる。
事を入定に寄せ
 報恩抄には「弘法大師も又跡なし弘法大師の云く東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず等御いましめの状あり、しかれども寛平法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして我寺には叡山の円頓戒を持ざらん者をば住せしむべからずと宣旨分明なり、されば今の東寺の法師は鑒真が弟子にもあらず弘法の弟子にもあらず戒は伝教の御弟子なり又伝教の御弟子にもあらず伝教の法華経を破失す、去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば・公家より遺体をば・ほうぶらせ給う、其の後誑惑の弟子等集りて御入定と云云」(0311-02)とある。
 入定とは
   ①定に入ること。心を一処に定めて、身・口・意の三業の働きを止めること。
   ②得道者が死去すること。
 をいい、真言宗の主張する「入定」は、この①の意を含んだものであると考えられる。
 真言宗では、弘法の死は通常人の死にあたる入滅説を否定し、弘法は入定されたのであると主張する。この入定説の主張は「弘法大師御入定勘決記」等に記されている。
 入滅説を裏付ける資料には次のようなものがある。続日本後記の「法師の喪を弔い、並びに喪料を施す」との記述や、高野物語の「只世常人ノ入滅ノヤウトコソ見テ侍レ」などである。
 一方、入定説は、確かに史料もあり真言宗の信仰の枢要とはなっているが、極めて非現実的なものである。
 報恩抄に「或はかみをそりて・まいらするぞと・いゐ或は三鈷をかんどより・なげたりといゐ或は日輪・夜中に出でたりといゐ或は現身に大日如来となりたりといひ」(0311-07)と仰せのように、入定している弘法の髪が伸びたので剃ってきたとか、生前の所行についても、中国から投げた三鈷が高野山の地に留まったとか、現身に大日如来になられたなどというものである。このうち、遺骸の髪をそったことについては「今昔物語・三」にも記されている。

1004:18~1005:05 第八章 真言に依るべからずと戒めるtop
18       疑つて云く六宗の如く 真言の一宗も天台に落たる状之れ有りや、 答う記の十の末に之を載せたり、
1005
01 随つて伝教大師・ 依憑集を造つて之を集む眼有らん者は開いて之を見よ、 冀哉末代の学者妙楽・伝教の聖言に随
02 つて善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿れ、 予が門家等深く此の由を存ぜよ、 今生に人を恐れて後生に悪果を招
03 くこと勿れ、恐恐謹言。
04       正月廿四日                     日 蓮 花 押
05     大田金吾入道殿
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 疑つて言う。六宗のように真言の一宗も天台宗に降服した文章はあるのか。
 答えて言う。法華文句記の巻十の末にこの文章を載せている。
 したがって伝教大師は「依憑集」をつくってこれを集められている。眼のある者は、その眼を開いてこれを見なさい。
 願わくは、末代に仏法を学ぶ者は、妙楽・伝教の聖人の言葉にしたがい、善無畏や慈覚の凡夫の言葉を用てはならない。私の門家等は、深くこのことを弁まえなさい。今生に人生において人を恐れて、未来世に悪果を招くことがあってはならない。恐恐謹言。
       正月廿四日                     日 蓮 花 押
     大田金吾入道殿

六宗
 南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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依憑集
 伝教大師が弘仁4年(0813)に著した書。本文は13章からなる。内容は天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・華厳・三論・法相宗などが仏法の正義からはずれていることを破している。
―――
冀哉
 「ねがわしきかな」と読む。
―――
妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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聖言
 聖人の言葉。
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凡言
 凡夫の言葉。
―――
門家
 一門・門流。法門を同じくする者。
―――
今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――
悪果
 悪因によって生じる悪い結果。
―――
恐恐謹言
 恐れかしこみ、謹んで申し上げるの意で、手紙の末尾につける挨拶言葉。
―――
花押
 文書・手紙が自己の意思に基づくものであることを証明するしるし。
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入道
 仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
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 最後の問答にして、本抄の結びの部分である。
 まず、南都六宗が伝教大師の天台宗に対し、自らの劣ることを認める状を出したように、真言宗も天台宗に劣ることを自ら認めた書状があるのか、との問いに対して、中国天台宗・妙楽大師の法華文句記巻十の末尾と伝教大師の依憑集にそれが載せられていると答えられている。そして、眼ある者はこれを開いてよく見るようにと勧められるとともに、末代の学者と大聖人門下は、あくまでも妙楽・伝教の言葉にしたがうべきで、善無畏や慈覚などの凡夫の言葉を用いてはならない、と誡められている。
 最後に「今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ」、すなわち、今生に慈覚・智証や弘法といった人々の権威や世の人々の非難を恐れて謗法に陥り、後生に悪果を招くことがないように強く戒められて、本抄を結ばれている。
記の十の末に之を載せたり
 「之を載せたり」とは、このこと、すなわち真言宗が天台宗より劣っていることが記されている、との意。法華文句記巻十には「適、江淮の四十余僧と往きて台山に礼す。因って不空三蔵の門人・含光の勅を奉じ山に在って修造するを見る。云く『不空三蔵と天竺に親しく遊ぶ。彼に僧有って問うて曰く“大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び偏円を暁むるに湛えたりと。能く之を訳して将に此の土に至らしむ可んや”と』、豈、中国に法を失い之を四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者は少なし、魯人の如きのみ。故に、徳に厚く道に向かう者は之を仰がざるか莫れ。敬んで願くは学者・行者は力に随って称讃せよ」とある。
 この文は、不空の門人・含光が台山で修行中に妙楽大師と会見した。その折に含光が、妙楽大師の問いに応じて、西域における仏法弘伝の様子を語った。それによると「天竺を訪問した折、ある天竺の僧が、大唐には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の教迹があるから、それを翻訳してインドに伝えてほしい」と頼んだ、という。この含光の話を受けて妙楽大師は、唐の時代においては、仏教発祥の中心地・インドでは既に仏教は廃れ、そのために逆に中国に求めようとしていたのである、と記しているのである。
 この含光の話は、含光および不空が天台大師の法門が、真言宗より勝れていることをわきまえていたことを意味する。同趣旨の文は、宋高僧伝にも「代宗の光を重んずるや、不空を見るが如し、勅委して五台山に往きて功徳を修せしむ。時に天台の宗学湛然、禅観を解了して、深く智者の膏腴を得、嘗つて江淮の僧四十余人と、清涼の境界に入る、湛然、光と相まみえ、西域伝法の事を問う。光の云く、一の国の僧あり、空宗を体解すと。問うて智者の教法に及ぶ。梵僧云う、曾って聞く、此の教、邪正を定め、偏円を暁り、止観を明らかにすと、功第一と推す。再三光に嘱して、或は因縁重ねて至らば為に唐を翻じて梵と為して附来瀬よ。某、願くば受持せんと、しばしば手を握って叮嘱す。詳するに、その南印土、多く竜樹の宗見を行う。故にこの願有って流布するなり」とある。
 なお、含光は、唐代の真言僧で、生没年は不明である。不空の嗣法六大弟子の一人で、出身は明らかではないが開元年間(8世紀前半)に不空の弟子となり、師に従って西域地方を回り、後、獅子国(スリランカ)へ行き、尊賢阿闍梨から真言五部の灌頂を受けた。唐に帰って大興善寺に住み、不空の訳経を助けた人物である。
伝教大師・依憑集を造って之を集む
 依憑集は詳しくは「大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集」という。そのなかで伝教大師は「天竺の名僧大唐の天台の教迹最も邪正を簡ぶに湛えたりと聞き、渇仰訪問の縁」と提して、法華文句記巻十末の文を引用している。また、「大唐南岳の真言宗の沙門一行、天台の三徳に同じて、数息、三諦の義」と題した文では、真言宗の一行が天台の三徳に同じた義を述べているが、中国真言宗の開祖であり、日本の台密・東密両方の淵源である善無畏三蔵自身、一行を唆して「理同事勝」の義を展開させたのは、真言宗の義がそのままでは天台宗に適わないことを知っていたにほかならない。

1005~1008    太田殿女房御返事(即身成仏抄)top
1005:01~1006:02 第一章 爾前諸経の即身成仏に実義なきを明かすtop
太田殿女房御返事    建治元年    五十四歳御作    於身延
01   八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明に候ぞ、爾れば
02 とて彼の経経の人人の即身成仏と申すは 二の増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり、 記の九に云く「然して
03 二の上慢深浅無きにあらず如と謂うは乃ち大無慙の人と成る」等云云、 諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身
04 成仏の法門はいみじくをそたかき・ やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず、 其の心は二乗と申す
05 者は鹿苑にして見思を断じて・ いまだ塵沙無明をば断ぜざる者が 我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智
06 の者となれり、 灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし、 されば凡夫は煩悩業もあり苦果の依身も失う
07 事なければ煩悩業を種として 報身・応身ともなりなん、 苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと二乗
08 をこそ弾呵せさせ給いしか、 さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余・無余の二
09 乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時 二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり
1006
01 此の法門をだにも・くはしく案じほどかせ給わば華厳・ 真言等の人人の即身成仏と申し候は依経に文は候へども其
02 の義はあえてなき事なり僻事の起り此れなり。
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 八月分の供養米として、米一石を頂戴しました。
 即身成仏という法門は、諸々の大乗経や大日経等に明らかにされています。そうだからといっても、その実義は法華経で初めて明かされるのであって、諸大乗教や大日経の人々が即身成仏できるというのは、二種の増上慢に堕ち、必ず無間地獄へ入ってしまうのです。
 法華文句記の巻九には「そうであるならば二種の増上慢には深浅がないわけではない。仏と衆生が一如であるという者は、自身を省みる心のない大恥しらずの人となる」とあります。
 もろもろの大乗経にある煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は非常に勝れて尊いようであるけれども、これはあえて即身成仏の法門ではありません。そのわけは二乗と呼ばれる者は鹿野苑で仏の教えを聞いて、見惑・思惑の煩悩を断じただけで、いまだ塵沙・無明を断じていず、自分ではすでに煩悩を断じ尽したと思って無余涅槃に入って灰身滅智の者となってしまいました。
 身を灰とするのですから凡夫そのままの即身成仏ではなく、心智を滅するのですから成仏の義はありません。
 これに対して、凡夫は煩悩も業もあり、前生に作った業による苦果の現身を失うことがないので、煩悩。業を種として報身・応身となることができ、苦果の現身があるから、生死即涅槃と、そのまま法身如来となることができると説いて、二乗を叱り戒めたのです。
 そうであるからといって、煩悩・業・苦が法身・報身・応身の種にはなりえないのです。
 今、法華経において、有余涅槃・無余涅槃の二乗がなくした煩悩・業・苦を取り出して、即身成仏すると説かれた時、二乗が即身成仏しただけでなく凡夫も即身成仏したのです。
 この法門さえ詳しく考えを巡らせれば、華厳宗・真言宗などの人々がいう即身成仏は、その依経に文字はあっても、その実義はまったくありません。ここにこれらの宗の間違いの起こりがあるのです。

八木
 コメのこと。コメの字を分解して八と木に分けてこう呼ぶ。
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一石
 穀物の体積を計る単位。180㍑・150㌕をいう。
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即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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諸大乗経
 もろもろの大乗を説く経典のこと。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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二の増上慢
 法花文句記に説かれる二つの増上慢。①仏と衆生は本来、不二一如であるという理のみに執着し、直ちに即身成仏するとして仏道修行に励まないこと。②貧・瞋・癡の煩悩を断じない衆生もそのまま成仏できるとする、法華経の開会の智を信じないもの。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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無慙
 恥を知らないこと。「不信」と訳す場合もある。
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煩悩即菩提
 九界即仏界の哲理。煩悩がなければ悟りはない。人生に悩みがあるがその悩みがなくなったところが菩提ではなく、悩みそのものが菩提である。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、生死即涅槃の同意語。
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生死即涅槃
 生死とは迷い、涅槃とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、煩悩即菩提の同意語。
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二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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鹿苑
 中インド波羅奈国にある園で、古くは神仙の住所とされ、国王が狩をつかまえて放しておかれた地といわれる。釈尊は華厳経の3週間の説法のあと。この鹿野苑で憍陳如など五人を済度した。その後12年間、16大国で、阿含時の説法をしたが、これも鹿苑時と総称する。
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見思
 見思惑のこと。三惑の一つで見惑と思惑に分かれる。惑は煩悩の異名、迷妄の心・対境に迷って事理を顚倒することをいう。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。爾前経では、この見思を断ずることによって、涅槃が得られ、三界の生死を免れることができるとした。そして、これを断ずる順序があって、まず見惑を断じ、次に思惑を断ずるとし、見惑を断ずる位を見道といい、思惑を断ずる位を修道といった。声聞・縁覚は見思惑を断じて阿羅漢となり、三界の生死を免れて涅槃を得ることができるとする。更に菩薩は後の二惑を断じていく。また見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗に通ずる故に通惑ともいい、塵沙惑・無明惑を別惑という。
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塵沙
 塵沙惑のこと。三惑の一つ。菩薩が衆生を化導するのに障りとなる惑のこと。化導惑ともいう。菩薩が衆生を教化するためには、塵沙のように無数の惑を断じなければならないゆえにこういう。
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無明
 三惑の一つ。中道実相の理を障蔽する。すなわち成仏を妨げる一切の煩悩の根本となる惑のこと。障中道の惑。また菩薩だけが断尽することができるとされるところから、別枠ともいう。無明とは、明または悟り。法性の反対語で、不達・不解・不了の意。惑とは法性を知らないで迷うこと。天台大師所立の一切の煩悩の根本であり、三惑の見思と塵沙は無明惑より起こる。摩訶止観では惑を42に分け、最後の無明惑を元品の無明惑とたてている。
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無余
 無余涅槃のこと。色心の煩悩をすべて断じ尽くすことによって得られる二乗の最高の悟りの境地。
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灰身滅智
 身を灰にし智を滅するの意。 一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すこと。小乗仏教の理想とする涅槃の境地。灰滅。無余灰断。
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即身
 その身を改めず、そのままでとの意味。
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凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
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煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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 ①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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苦果の依身
 凡夫の身心のこと。苦果は悪業の因によって受ける苦しみの果報をいい、六道の衆生の生死・苦しみをさす。
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報身
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
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応身
 仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
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法身如来
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
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弾呵
 小乗の教えにとどまっているのを叱ること。弾は弾劾、呵は呵責を意味する。
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 梵語ドゥフカ(Duhkha)の訳で、苦しみ、心身を悩ます不快のこと。身と心を区別して、身に感ずる苦と、心に感ずる憂に分ける場合もある。楽に対する語で種々に分類されている。①二苦。老病死など自己の身心から起こる苦と外部から受ける苦の二つ。更に外苦には、悪人・獣などによる害苦と風雨寒熱など自然による災害の二種がある。②三苦。1.風水害・天災など好ましくない対象から感ずる苦、2.好ましい対象が崩れる時に感ずる苦、3.森羅万象が無常に感ずる苦。③四苦。生・老・病・死の四苦。④八苦。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八つの苦しみ。生老病死を一苦とし、五苦とする場合もある。⑤十苦。生苦・老苦・病苦・死苦・愁苦・怨苦・苦受・憂苦・病悩苦・流転大苦。⑥瑜伽論で説く110苦。⑦老・病・死を三種の身苦、貧・瞋・癡を三種の心苦ということもある。⑧苦の迷界は有漏から起こるので有漏の異名として用いられる。⑨三道(煩悩・業・苦)のひとつ。⑩四諦(苦・集・滅・道)のひとつ。⑪涅槃経には上苦・中苦・下苦の三種が説かれている。
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三身
 法身・報身・応身の三つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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有余
 有余涅槃のこと。迷いの火を吹消した状態を涅槃といい,この世に生存している間に得られる涅槃は,肉体や煩悩の条件を残しているので有余という。
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無余
 無余涅槃のこと。色心の煩悩をすべて断じ尽くすことによって得られる二乗の最高の悟りの境地。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
依経
 各宗派がよりどころとする経のこと。一代聖教大意には「華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397-05)とある。
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僻事
 道理にあわないこと。事実と違っていること。
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 大田殿女房御返事は、日蓮大聖人が建治元年(1275)7月2日に身延に著され、下総国葛飾郡八幡荘中山郷に住んでいた大田五郎左衛門尉乗明の夫人に与えられた御消息で、即身成仏の実義を明かしているところから、別名を即身成仏抄と呼ばれている。
 大田乗明の夫人は、夫とともに早くから大聖人の門下となったようで、数編の御消息をいただいており、その内容から仏教についての要素があったことがうかがえる。
 内容は、法華経のみが二乗・凡夫の即身成仏を説いていうことを明かし、即身成仏は法華経に限るのに、真言に即身成仏の法門を立てて、かえって法華経を誹謗した善無畏や弘法等の誤りを厳しく破られている。また、インドから中国へ経典を渡した人々の中で、鳩摩羅什のみが正しく仏の本意を伝えたことを述べられ、さらに政道の誤りと仏法の誤りによって国が滅びようとしている、と指摘されている。
 初めに、米一石の供養を受けたことが記されている。なお「八月分の八木」とあるところから、大田家から毎月のように米を供養していたことがうかがえる。一石というと十斗、百升にあたるが、身延の大聖人のもとには、常に数十人から100人近い門下が集っていたとの御文もあり、おそらく他の信徒からも種々の御供養があってまかなわれていたと想像される。なお「八月分」は八ヵ月分の意とも考えられる。
爾前の諸経でも即身成仏とするは増上慢と明かす
 冒頭では、爾前の諸経で説かれる即身成仏は、文のみあって実義がないことを明かされている。衆生が凡夫の身のままで仏になるとする即身成仏の法門は、諸大乗経や大日経等に説かれているが、文にその名があるだけで成仏の実義がないので、諸大乗教や大日経によって即身成仏の法門を立てる者は、二つの増上慢に堕ちて無間地獄に堕ちるのである。と破折されている。
 その文証として、妙楽大師の法華文句記の文が引かれている。この文の意は「仏も衆生も平等一如であるという法門を聞いた衆生は、ここに憍慢を生じて修行を廃し、また一方で、法華経の開会の智を信じようとしなくなる。この二種の増上慢の間には、浅い深いの相違があり、仏と衆生とが一如であるといっている者は大無残な人と成るのである」ということである。諸大乗教に説かれる仏も衆生も平等一如であるという法理は、だれびとも成仏できるという理の上の平等を明かしたものであって、衆生が仏になるための修行、実践が不要という意味ではない。しかし、その法理を聞いた衆生は、慢心を起こして、衆生を廃し善根をおさめなくなり、大無残の人となってしまう、とその誤りを指摘しているのである。
 そして、即身成仏は大日経等にあるのであって、法華経の開会の智は不要であるとする増上慢に対して破折を加えられる。諸大乗経の説く煩悩即菩提・生死即涅槃という即身成仏の法門は、すぐれているように見えるが、一方では二乗を永不成仏と厳しく弾呵しているので、一切衆生の即身成仏を明かした法門とはなっていない、と破折されている。二乗というのは、鹿野苑で釈尊から三蔵教を聞いて、見惑と思惑を断じたが、末だに塵沙惑・無明惑を断じていないのに、既に煩悩を断じ尽くしたと思って、無余涅槃の境地に入って灰身滅智の者となっており、身を灰にしているのでそのままではなく、智を滅しているので、成仏の義はない、と仰せである。
 灰身滅智とは、小乗教における二乗の究極の境地で、色身を焼いて灰にして心地を滅することで、煩悩の拠りどころとなる肉体も、悪業の果報である苦果も、すべて余すところなくなった状態をいい、無余涅槃ともいった。しかし、色心が存在しないのだから、二乗が即身成仏することはできないのである。
 権大乗では、これに対し、凡夫は煩悩も業もあり、悪業の果報を受けて心識の拠りどころとなる肉身をなすこともないので、煩悩を種として報身に、業を種として応身になり、六道の生死という苦果があれば、生死即涅槃によって法身如来となることもできるとして二乗の灰身滅智を断呵されたのであると仰せである。だからといって、権大乗教で衆生の煩悩・業・苦の三道がそのまま法・報・応の三身の種になるわけではない。法華経にきて初めて、有余涅槃・無余涅槃の境地に入ってなくしたはずの二乗の煩悩・業・苦を取り出して、この二乗がそのまま即身成仏できると説かれた時に、二乗だけではなく凡夫も即身成仏できることになったのである、と示されている。二乗作仏は法華経迹門で初めて説かれており、三種の声聞に対して三周の説法がなされ、舎利弗が華光如来、迦葉が光明如来等とそれぞれに未来成仏の記別が与えられている。諸大乗教によって永不定仏とされていた二乗が、法華経において成仏できることが説かれてことにより、九界のあらゆる衆生が成仏できることになったのである。
 三重秘伝抄には、十界互具・一念三千の法理の上から「若し二乗作仏を明かさざる則は菩薩・凡夫も仏に作らず、是れ則ち菩薩に二乗を具うれば所具の二乗、仏に作さざらず則は能則の菩薩、豈、作仏せんや(中略)菩薩既に爾り、凡夫も亦然なり、故に九界も同じく作仏せざるなり、故に九界即仏界の義なき故に、一念三千も遂に顕るることを得ざるなり、若し二乗作仏を明かす則は永不定仏の二乗、尚成仏す。何に况んや菩薩凡夫をや、故に九界即仏界にして十界互具、一念三千其の義炳然なり」と述べている。
 こうしたことを考えるならば、華厳宗や真言宗で立てる即身成仏の法門は、経文に文はあってもその義はない。にもかかわらず、華厳・真言にも即身成仏の法門があるとしているところに仏法を歪める僻事の根源がある、と指摘しているのである。

1006:03~1006:07 第二章 真言諸師の誤りを指摘するtop
03   弘法.慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候、何に況や其の已下の古徳.先徳等は言うに足らず、但天
04 台の第四十六の座主・ 東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ、 然れども天台の座主
05 慈覚の末をうくる人なれば・いつわりをろかにて・さてはてぬるか、 其の上日本国に生を受くる人はいかでか心に
06 は.をもうとも言に出し候べき、しかれども釈迦.多宝・十方の諸仏・地涌.竜樹菩薩・天台・妙楽.伝教大師は即身成
07 仏は法華経に限ると・をぼしめされて候ぞ、我が弟子等は此の事を・をもひ出にせさせ給へ。
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 弘法・慈覚・智証などは、この法門に迷った人であると私は見ています。ましてや、それより以下の古徳・先徳などはいうまでもありません。ただ天台宗の第四十六の座主である東陽の忠尋という人だけは、この法門を少し疑われたこともありましたが、それでも天台宗の座主・慈覚の末流の人なので、誤りから抜けきれないまま、生涯を終わってしまったのです。そのうえ日本国に生まれた人は、心には誤りではないかと思っても、どうして口に出していうことができるでしょう。
 しかし釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の菩薩・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は即身成仏は法華経に限ると考えられていました。我が弟子等はこの事を後々までの思い出すべきです。

弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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古徳・先徳
 いにしえや先の時代に活躍した高徳の賢人・聖人・僧侶。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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座主
 大寺の管長のこと。
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東陽の忠尋
 (1065~1138) 平安時代後期の僧。比叡山の覚尋の弟子で,長豪,良祐にまなび天台恵心流の教学の復興につとめる。大治5年(1130)天台宗比叡山46代座主となる。大僧正。保延4年(1138)10月14日死去。74歳。佐渡(新潟県)出身。俗姓は源。通称は大谷座主。号は東陽房。著作に「雑々集」「漢光類聚」など。
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釈迦
 釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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地涌
 地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち(法華経452㌻以下)。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。これに対して、文殊・弥勒などは、迹仏(始成正覚の釈尊など)あるいは他方の世界の仏から教化された菩薩なので、迹化・他方の菩薩という。
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竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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 即身成仏の実義は法華経のみに限られているにもかかわらず、弘法・慈覚・智証等の真言諸師がこのことに迷ったことを指摘され、釈尊をはじめ諸仏や正・像の正師は法華経のみが即身成仏の経としていることを強調され、大聖人門下はこの点をしっかり胸に刻むよう教えられている。
 日本真言宗の祖・弘法大師空海は、第一真言・第二華厳・第三法華と立て、真言を心法の一念三千に印・真言を荘厳した三密相応の秘法である、と主張した。
 また、天台宗の座主となりながら、真言に心を寄せた慈覚・智証等は真言の諸経と法華経を比較すると、一念三千の法門は同じだが印・真言の事において真言が勝るという理同事勝の義を唱えた。しかし、真言諸経は二乗作仏を説いておらず、したがって、一切衆生の即身成仏の法は明かされていないのである。
 真言見聞では「大日経には衆生の中に機を簡ひ前四味の諸経に同じて二乗を簡へり、まして草木成仏は思いもよらずされば理を云う時は盗人なり、又印契・真言何れの経にか之を簡える若し爾れば大日経に之を説くとも規模ならず、一代に簡われ諸経に捨てられたる二乗作仏は法華に限れり、二乗は無量無辺劫の間・千二百余尊の印契真言を行ずとも法華経に値わずんば成仏す可からず、印は手の用・真言は口の用なり其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏す可きや、一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば 物とせず事に依る時は印真言を尊む者・劣謂勝見の外道なり」(0164-14)と真言を破折されている。
 しかし、真言宗や天台真言の末徒は、弘法や慈覚・智証の誤りをそのまま受け継いで、真言に即身成仏の義があるとしてきたのである。ただ、天台宗の46代座主だった東陽房の忠尋だけは、真言に即身成仏の法門があるとするのに疑問をもっていたようだが、慈覚の流れを受けているため、その誤りを明らかにすることはなかった、と指摘されている。それ以外には、弘法や慈覚・智証の権威を恐れて、だれも真言の誤りを口に出して批判する者はいなかったのである。
 しかし、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の菩薩・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師等は、即身成仏は法華経に限ると定められていたのであり、このことを日蓮大聖人の門下は忘れてはならないと戒められている。
 釈尊は法華経方便品第二において「我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき、我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と述べて、法華経を説いたことによって、一切衆生の成仏の道を開いて、出世の本懐を遂げたことを明かしている。そして、法華経に明かされた十界互具・百界千如・一念三千の法門が一切衆生の即身成仏を裏付ける法理となっている。
 多宝如来は法華経見宝塔品第十一に出現して「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたもう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」と法華経が真実であることを証明している。
 十方の諸仏は、法華経如来神力品第二十一において、「広長舌を出して光を放ちたもう」と広長舌相を示して法華経が真実であることを証明しているのである。
 地涌の菩薩は、法華経従地涌出品第十五で、釈尊の「是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」との言葉に応じて大地より湧出し、釈尊の久遠よりの弟子であることが明かされ、如来神力品において滅後の弘教を付嘱されている。
 釈尊・多宝如来・十方の諸仏が真実であることを証明し、地涌の菩薩に滅後の弘教が付嘱された法華経こそ、一切衆生が即身成仏することのできる唯一の正法であることは明らかである。
 また、竜樹菩薩は、付法蔵の第十四祖で、大乗思想を大成して、八宗の祖といわれるが、大智度論の中で「法華経において二乗作仏を説いているのは、譬えば大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し」と述べて、法華経こそ最勝であることを明らかにしている。
 天台大師は、五時八教の教判を立てて、法華経こそ最勝第一の教説であることを示し、法華文句・法華玄義・摩訶止観の三大部によって法華経の深義を明らかにしている。妙楽大師は、法華一乗真実の立場から諸宗を論破して、衰亡の危機にあった天台宗を再興し、天台の三大部の注釈書等を著して、天台教学を宣揚している。
 伝教大師は比叡山に入って諸経論を究め、延暦21年(0802)に南都七大寺の華厳・三論・法相等の碩学十余人に対して法華経を講じ、法華最勝の義を承服させ、日本天台宗を開いている。
 竜樹・天台・妙楽・伝教等の正法・像法時代の正師は、いずれも一切衆生の即身成仏が説かれた法華経こそ最勝第一の経であることを明らかにしているのである。我が弟子たちはそのことを思い出にしていきなさいとの仰せは法華経のみ即身成仏の実義があるとするのが仏教の正統の立場であり、天台・伝教の末流でありながら、真言の邪説にたぶらかされた輩の轍をふんではならないと誡められている。

1006:08~1006:14 第三章 竜樹の釈を引き法華経こそ妙と明かすtop
08   妙法蓮華経の五字の中に諸論師・諸人師の釈まちまちに候へども皆諸経の見を出でず、但竜樹菩薩の大論と申す
09 論に「譬えば大薬師の能く 毒を以て薬と為すが如し」 と申す釈こそ此の一字を心へさせ給いたりけるかと見へて
10 候へ、毒と申すは苦集の二諦・生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし、 此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候
11 を妙の極とは申しけるなり、 良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり、 此の竜樹菩薩は大
12 論と申す文の一百の巻に華厳・ 般若等は妙にあらず法華経こそ妙にて候へと申す釈なり、 此の大論は竜樹菩薩の
13 論・羅什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり、 天台大師は此の法門を御らむあつて南北をば・せめさせ給いて候
14 ぞ、 
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 妙法蓮華経の五字の妙の字について、多くの論師・人師がさまざまな解釈をしていますが、すべて法華経以前の諸経の域をでません。ただ竜樹菩薩が大智度論という書に「たとえていえば大薬師が毒をもって薬とするようなものである」といわれた解釈がこの一字を心得られているように思います。
 毒というのは苦集の二諦であり、生死の因果は毒の中の毒です。この毒を生死即涅槃・煩悩即菩提とするのを妙の至極というのです。良薬というのは毒が変じて薬となったからです。
 この竜樹菩薩は大智度論という文の第百巻に、華厳経や般若経等は妙ではない、法華経こそが妙であると釈されました。この大智度論は竜樹菩薩の論であり、羅什三蔵が中国へ伝えたものです。天台大師はこの法門を御覧になって南地・北地の十派の人師を破折されたのです。

論師
 阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――
人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
大薬師
 偉大な医師のこと。大智度論では法華経を大薬師にたとえ、毒である爾前権教に執着する衆生を変じて薬(仏)にする最高の教えであると示している。
―――
苦集の二諦
 苦諦(迷いのこの世はすべてが苦であるとすること)集諦(苦を集めて起こす因は煩悩であるということ)の二つの心理。
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生死の因果
 三界六道の迷いの世界で生死流転する業因・業果のこと。
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毒の中の毒
 三界六道の迷いの世界で生死流転する業因・業果である生死の因果は生命の根源の苦をもたらすゆえに、毒の中の毒となるのである。
―――
妙の極
 一切衆生の煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転じていくことができる妙法の力用の究極。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
羅什三蔵
 (0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
南北
 南三北七のこと。中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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 妙法蓮華経の意義については多くの論師・人師が論じてきたが、法華経の独自性を正しく宣揚された教説として、竜樹菩薩の変毒為薬の釈を引かれている。
 付法蔵の第14祖とされる竜樹は、大智度論のなかで「般若波羅蜜は秘密の法に非ず、法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩の能く受持し用いるは、譬えば大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し」と述べている。阿羅漢の受決作仏とは、舎利弗等の二乗が仏から成仏の記別を受けて劫・国・名号が決定したことをいう。この文こそ、法華経がなぜ勝れるかを正しく明かしたものである、とされているのである。
 竜樹菩薩が著したとされる大智度論は、摩訶般若波羅蜜経釈論ともいい、大品般若経を注釈した書であるが、法華経などの諸大乗教の思想を根底にして般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などについても解明しており、後の一切の大乗思想の母体となっている。訳者は法華経と同じ姚秦の鳩摩羅什である。
 そして、変毒為薬の毒とは、苦・集の二諦であり、生死の因果は毒の中の毒であり、この毒を生死即涅槃・煩悩即菩提と変ずることを妙の極というのである、と釈している。妙とは比べるものがないほどの勝れていることをいうが、この「妙」の意義についての説明は、妙法蓮華経の独自性を裏づけるものとなっているのである。
 苦諦は苦聖諦ともいって、迷いのこの世はすべて苦であることをいい、集諦は苦集聖諦ともいって、苦を集め起こす因は煩悩であることをいう。集諦と苦諦とは迷いの世界の因と果を示している。また、生死の因果とは三界六道の迷いの世界で生死を繰り返す業因・業果のことをいう。煩悩によって苦が起こり集った三界六道の迷いの世界で生死を繰り返す業因・業果を生死即涅槃・煩悩即菩提と変じていくのが妙の極である。すなわち、迷いの凡夫をその身のままで即身成仏させるのが妙法蓮華経であるということである。
 大聖人はこれをさらに明確に、当体義抄において「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道・法身.般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦.即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(0512-10)と述べられている。
 良薬というのは、毒が変じて薬となったものをいうのである、と仰せである。良薬とは、本来は毒の作用のあるものを、病気を治癒させる薬の働きへ変じたものを指す、という意味であろう。近代でも、薬物学は最初は毒物学とも呼ばれており、毒性の強い薬品から病気を治癒させる働きを引き出し、毒性を弱めたものが薬として用いられているのである。そのため、強い効果のある薬ほど毒作用が強いのである。
 なお、法華経如来寿量品第十六には「是の好き良薬」を留めてここに置くとあり、観心本尊抄には「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(0251-09)と述べられている。法華経そのものが「良薬」であるが、その究極の当体が三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。
 竜樹菩薩の大智度論巻100の変毒為薬の文は、華厳経や般若経等の妙ではなく、法華経のみが妙だあるという意味なのである、と述べられている。諸大乗教において永不成仏とされてきた二乗を成仏させる法華経こそ、諸経に勝れている妙なのである。
 この大智度論は、竜樹菩薩が論じ、鳩摩羅什が訳して中国へ渡したもので、天台大師はそれを読んで法華最勝・最妙の立場から南三北七といわれた当時の諸宗を破されたのである、と指摘されている。天台大師は、法華玄義等に変毒為薬の文等を引いており、竜樹の法門を用いられていることは明らかである。南三北七とは、南地の三師と北地の七師のことで、中国の南北朝時代に行われれいた仏教の諸学派をいう。
 撰時抄には「南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等.各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云、漢より四百余年の末へ五百年に入つて陳隋二代に智顗と申す小僧一人あり後には天台智者大師と号したてまつる、南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり」(0261-16)と述べられている。

1006:14~1007:15 第四章 真言の即身成仏義は不空の偽りと明かすtop
14    而るを漢土唐の中.日本弘仁已後の人人のアヤマリの出来し候いける事は唐の第九.代宗皇帝の御宇不空三蔵と
15 申す人の天竺より渡して候論あり菩提心論と申す、 此の論は竜樹の論となづけて候、此の論に云く「唯真言法の中
16 にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く 諸教の中に於て闕て書せず」と申す文あり、 此の釈にばかされて
1007
01 弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり、但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし、 菩提
02 心論は竜樹の論・不空の論と申すあらそい有り、 此れはいかにも候へ・さてをき候ぬ、但不審なる事は大論の心な
03 らば即身成仏は法華経に限るべし 文と申し道理きわまれり、 菩提心論が竜樹の論とは申すとも大論にそむいて真
04 言の即身成仏を立つる上 唯の一字は強と見へて候、 何の経文に依りて唯の一字をば置いて法華経をば破し候いけ
05 るぞ証文尋ぬべし、 竜樹菩薩の十住毘婆娑論に云く「経に依らざる法門をば黒論」と云云自語相違あるべからず、
06 大論の一百に云く 「而も法華等の阿羅漢の授決作仏乃至譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」 等云云、
07 此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ、 但菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が水火の異をば・いか
08 んせんと見候に此れは竜樹の異説にはあらず 訳者の所為なり、 羅什は舌やけず不空は舌やけぬ、妄語はやけ実語
09 はやけぬ事顕然なり、 月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり 其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文
10 に私の言入れぬ人にては候へ、 一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、
11 羅什来らせ給いて前後一百六十四人がアヤマリも顕れ新訳の十一人がアヤマリも顕れ又こざかしくなりて候も羅什の
12 故なり、此れ私の義にはあらず感通伝に云く「絶後光前」と云云、前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後
13 を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて・すこしこざかしく候なり、 感通伝に云く
14 「已下の諸人並びに皆俟つ事」されば此の菩提心論の唯の文字は 設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり、 何に
15 況や次下に「諸教の中に於て闕いて書せず」と・かかれて候・存外のあやまりなり。
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 ところが、中国では唐代の中ごろ、日本では弘仁以後の人々に誤りがでてきたのは、唐の第九代、代宗皇帝の時代に、不空三蔵という人がインドから伝えた論があり、それを菩提心論といいました。
 この論は竜樹の論といわれています。この論には「ただ真言法の中においてのみ即身成仏するので三摩地の法を説いたものである。他の諸教には欠けて書かれていないものである」という文があります。
 この釈にだまされて、弘法・慈覚・智証等の法門はひどいものとなったのです。ただ大論は竜樹の論であることはだれもあらそいませんが、菩提心論については竜樹の論であるとするのと不空の論であるとするのとのあらそいがあります。これはいずれにしても、いまは言及しないことにします。
 ただ不審に思うことがあります。それは大論の精神からいえば、即身成仏は法華経に限ります。これは文にも明白で、道理も尽くされています。菩提心論が竜樹の論であったとしても、それならば大論に背いて真言でも即身成仏できるとしていることになるうえ、菩提心論にある「唯」の一字、つまり真言だけが即身成仏の法というのは強引な説にみえます。どの経文によって「唯」の一字を真言において、法華経の即身成仏を破しているのか、その証文を尋ねるべきです。
 竜樹菩薩の十住毘婆娑論には「経文によらない法門は邪義」とあります。自語相違はあってはならないのです。また大論の百の巻には「法華等で阿羅漢の記別を授けられたことは(乃至)たとえていうと、大薬師がよく毒をもって薬とするようなものである」等とあります。この釈こそ法華経の即身成仏の道理が書かれたものです。
 ただし菩提心論と大論は、同じ竜樹菩薩の論であるとすれば、水火のような違いはどう考えたらよいのだろうと思って、よく見ると、これは竜樹が異なる説をといたのではなく、訳者のせいなのです。
 羅什の舌は焼けませんでしたが、不空の舌は焼けてしまいました。うその訳者の舌は焼け、真実を伝えた舌は焼けなかったということは明らかです。
 インドより中国に経論を訳出して伝えた人は百七十六人いました。羅什一人だけが教主釈尊の経文に自分の考えを入れなかった人でした。残りの百七十五人の中で羅什の先後の旧訳の百六十四人は羅什の智をもつて推しはかることができます。
 羅什が来たことによってその前後、旧訳の百六十四人の誤りがあらわれ、新訳の十一人の誤りもあらわれました。また訳者が利口げになってきたのも羅什の存在があったゆえです。
 これは私の説ではなく感通伝に「羅什のような訳者は後代に絶えてなく、前代を光り輝かす」とあります。前代を光らすとは後漢から後秦までの訳者のことで、後代に絶えないとは羅什以後の善無畏・金剛智・不空などが、羅什の智を受けて、少しばかり訳が巧みになったということです。感通伝には「羅什以後の訳者は、皆、羅什を拠りどころにした」とあります。
 それゆえ、この菩提心論はたとえ竜樹の論であっても「唯」の文字は不空が勝手に加えた私の言葉です。ましてや、その次の文に「真言以外の諸教には即身成仏の義が欠けて書かれていない」とのべているのは、とんでもない誤りなのです。


 (0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
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弘仁已後
 弘仁年間は0810~0823のことで以降は0824年からとなる。
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代宗皇帝
 (0726~0779)。中国・唐の第8代皇帝 (在位 0762~0779) 。本名李豫。玄宗の嫡孫、粛宗の長子。15歳で広平郡王に封じられ、安史の乱に際しては至徳元年 (0756) 天下兵馬元帥となり、翌年郭子儀らとともに両京を奪回した。
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御宇
 ひとりの天子の時代。
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不空三蔵
 (0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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菩提心論
 「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。
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真言法
 真言の教法のこと。
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三摩地の法
 密教の法の総称。三昧に入る修行法のこと。
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闕て書せず
 欠落していて書かれていないこと。
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十住毘婆娑論
 全17巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。
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黒論
 善を白・悪を黒とし、仏説に依らない邪説を黒論という。
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自語相違
 自ら言った言葉のなかで矛盾があること。
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法華
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
―――
授決作仏
 授記差別と同義。仏から成仏の記莂を受けて劫・国・名号が決定することをいう。すなわち成仏の印可を与えられること。
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乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
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異説
 異なった説。
―――
訳者
 仏教を翻訳した人。
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所為
 行為・行い・しわざ。
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羅什は舌やけず
 羅什の訳文は内容の秀技と文体の簡潔とによって後世まで重用された。羅什は死に際して、その経の正しさを証明するために、わが身を焼いて舌が焼けたら我が経を捨てよと遺言し、その通り舌は焼けなかったと伝えられている。
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妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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実語
 うそ・いつわりのない真実の言葉。妄語に対する。①言語と所行・所作が矛盾せず、事実をあらわす語。②仏が説く真理・法理・実相をあらわす語。
―――
顕然
 明らかで迷う余地がないこと。
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月支
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
―――
感通伝
 中国唐代南山宗の祖・道宣の撰述。戒律の事相等について天人との問答を記した書。寺の縁起やそれにまつわる奇縁や不可思議な事象に関するものが多い。
―――
絶後光前
 律相感通伝の中にある文。羅什以前には彼ほどの正しい訳者はいず、以後の訳者も皆、羅什を頼りにしたということ。
―――
後漢
 中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
―――
後秦
 (0384年~0417)。中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦とも呼ばれる。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
存外
 おもいのほか・とんでもないこと。
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 真言の諸経にのみ即身成仏の教えがあるとの根拠が、不空訳の菩提心論にあり、これは竜樹著とされているが、もしそうとしても不空の訳に疑問があることを指摘されている。
 真言経によってのみ即身成仏できるという誤りは、中国では唐の代宗皇帝が不空に帰依して以後、日本では嵯峨天皇の弘仁7年(0816)に弘法が高野山に金剛峯寺を建てて密教を弘通し始めて以来のことで、その元凶が不空のもたらした菩提心論にあることを明らかにされている。
 竜樹の著とされた菩提心論の「諸仏菩薩・昔因地に在って是の心を発し已って、勝義行三摩地を戒と為す。乃ち成仏に至るまで時として暫くも忘るること無し、唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是れ三摩地の法を説く。諸経の中に於いて闕いて書せず」という文である。
 不空は、同じく中国・唐代の真言僧・金剛智の弟子で善無畏・金剛智とともに三三蔵と称されている。密教経典を求めてスリランカへ渡り、金剛頂経の経典を中国へ伝え、翻訳している。
 菩提心論とは、金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論の略称で、竜樹の造ということになっているが、不空の論すなわち不空が勝手に持論を展開したものという疑いもある論述である。
 大聖人は、歴史学的な検討はさておいて、述べられている内容面から、竜樹造とするには根本的に疑わしさがあると指摘されているのである。すなわち竜樹は、大智度論では変毒為薬の譬によって即身成仏は法華経に限ると断じているのに、菩提心論ではその反対に真言の即身成仏を立て、しかも「唯真言法の中にのみ」と断じているのに、菩提心論ではその反対に真言に即身成仏を立て、しかも「唯真言法の中にのみ」と断じて、法華経には即身成仏はないとする言い方をしていることである。この点については、何という経文によって真言のみが即身成仏できるとたてたのか、その文証を知りたいものである、と述べられている。
 そして、竜樹は従住毘婆娑羅論の中で「経に依らざる法門をば黒論」と述べられているのであるから、経文の裏付を示さないのは、その主張とも自語相違することになるのではないか、と指摘されている。黒論とは邪論をいう。経文に根拠のない勝手な説は邪論であり黒論なのである。
 そして、大智度論の変毒為薬の文を再び引かれ、この釈こそ即身成仏の道理を書かれたもので、大智度論と菩提心論が同じ竜樹菩薩の説とするなら、この人水のような違いをどう見たらよいのかと考えた結果、竜樹が矛盾したことをいっているのではなく、訳者である不空が作り上げたものである、と断じられている。不空が訳した誤りというよりも、故意に文理のない邪論を付け加えたものである。
 さらに、経典の翻訳について、鳩摩羅什と対比させ、羅什は死後、その翻訳に誤りがなかった証拠として、舌がやけなかったといわれているのに、不空の舌は焼けなかったことを指摘されている。そして、インドより中国へ経典を渡し、翻訳した176人の中で、羅什一人だけが釈尊の仏意を正しく訳し伝えたのであり、羅什を基準として見たときに、旧訳の164人の誤りも、玄奘以後の新訳の11人の誤りも顕れたとされている。とくに羅什のあとの人々のなかには、羅什の訳に習って少し小賢しい者も出た、と指摘されている。
 このように羅什こそ翻訳者として最高峰とするのは、大聖人一人の言ではないとされ、中国・唐代の道宣律師が律相感通伝の中で「絶後光前」と述べている例を挙げられている。詳しくは「什師一代に翻ずる所の経は、今に至るも新たな受持の転盛んなるは何なるや、答えて曰く、その人の聡明にして善く大乗を解し、以下の諸人並びに皆俊艾にして、一代の宝なり。絶後にして光前なり」とある。
 絶後とはその後もまた同じ例がないと思われるほどかちれていることで、前光とは前に訳されたものの光をあてたように明らかになるということである。この場合には、前を光らすとは後漢より後秦までの羅什以前の仏教の訳者を指し、後に絶つとは羅什以後の訳者をいい、善無畏・金剛智・不空などは羅什とは比較にならないが、その智慧を受けて少し小賢しくなったのであるとされ、そのことを感通伝二は、「已下の諸人並びに皆俟つ事」としているのである、と述べられている。俟つとは、うかがう、待つという意味で、羅什以後の人々が皆、羅什の釈から教えを受け、拠りどころとしたとの意であろう。
 そうしたことから、「唯真言法の中にのみ即身成仏す」とある「唯」の文字は、菩提心論が竜樹の書だとしても、不空が勝手に付け加えた言葉であり、さらに「諸教の中に於て闕いて書せず」と書いているのはもってのほかの誤りである、と糾弾されている。即身成仏の明文がある法華経を否定したもので、大きな誤りなのである。
 以上のように、竜樹の菩提心論を根拠として真言に即身成仏を立てることは、経文に根拠がなく、しかも法華経に背き、ないがしろにする誤りであり、不空が偽った者なのである。
 なお、一代五字継図のなかでも「菩提心論一巻七丁竜猛菩薩の造・不空の訳・或は不空の造」(0665-14)とあり、竜樹の作で不空の訳とされているが、あるいは不空自身の作であろう、とされている。

1007:16~1008:05 第五章 即身成仏の法は法華経のみと明かすtop
16   即身成仏の手本たる法華経をば指をいて・あとかたもなき真言に即身成仏を立て剰え唯の一字を・をかるる条・
17 天下第一の僻見なり此れ偏に修羅根性の法門なり、 天台智者大師の文句の九に寿量品の心を釈して云く 「仏三世
18 に於て等しく 三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候、 此れこそ即身成仏の明文にては候へ、
1008
01 不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて 「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に 是の三摩地の法を
02 説く諸教の中に於て闕いて書せず」とかかれて候なり、 されば此の論の次下に即身成仏をかかれて候が・あへて即
03 身成仏にはあらず 生身得忍に似て候、此の人は即身成仏は・ めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義
04 はあへて・うかがわぬ人人なり、 いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり、天台大師の
05 「於諸教中秘之不伝」の釈は千且千且恐恐。
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 即身成仏の手本である法華経をさしおいて、その片鱗すら明かしていない真言に即身成仏を立て、そればかりか「唯」の一字を置いたことは、天下第一の誤った考えです。これは、ひとえに修羅根性から出た法門なのです。
 天台智者大師の法華文句の九の巻に法華経寿量品の真意を釈して「仏は三世において等しく三身を具えているが、諸教には、これを隠して伝えていない」と書かれています。これこそ法華経に即身成仏が説かれているという明らかな文なのです。不空三蔵はこの釈を打ち消すために、竜樹にことよせて「唯真言の法の中にのみ即身成仏できるが故にこの三摩地の法を説いた。他の諸教の中には書かれていない」と記したのです。
 したがって、この論の次に即身成仏のことを書いていますが、まったく即身成仏ではなく、華厳経の菩薩の「生身得忍」に似たものにすぎません。
 不空菩薩は即身成仏が尊い法門であるとは聞いていましたが、即身成仏の実義はまったくうかがいしることのない人だったのです。まことに、即身成仏は、二乗の成仏と、久遠実成を説かれている法華経だけにあるべきことなのです。天台大師の「諸教の中には隠して伝えない」との釈がありますが、法華経の即身成仏は栴檀の香りのように他に抜きん出た勝れた法門なのです。

天下第一の僻見
 天下第一の邪義のこと。
―――
修羅根性の法門
 常に他に勝ちたいという修羅根性で立てた真言宗の教義。
―――
天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
―――
文句
 天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
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寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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明文
 明白で事理のとおった文。
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生身得忍
 父母から生じた肉体を生身といい、所生の肉体において、中道の無性法忍という境涯になったものを、生身得忍という。無性法忍とは三法忍の第三で、無相不相の法によって真理に契証するのをいう。忍とは、慧心の法に安住すること。父母所生の肉身を捨てて、実報土に生じ法性身を得たものを法身という。
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二乗成仏
 「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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久遠実成
 釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
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於諸教中秘之不伝
 天台大師の法華文句巻9下の文。「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と読む。
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 真言法の中にのみ即身成仏が説かれているとする不空の邪義を破折し、法華経のみに即身成仏の実義があることを明かされている。
 経文の根拠もなしに即身成仏を立て、しかも唯真言に限るとした不空の説は、即身成仏の法である法華経を否定したもので、天下第一の僻見であり、誤りであると指摘され、これは修羅根性の法門である、とされている。
 修羅根性とは、猜疑の心や嫉妬の心が強く、常に他に勝ることを望み他と争うことを好む心をいい、不空が即身成仏を説いた法華経を差し置いて、真言のみが即身成仏の法であるとした根底にあるものは、嫉妬と勝他の念以外の何ものでもないと指摘されたのである。
 そして、天台大師の法華文句の巻9に、寿量品の如来秘密の句を釈して「仏三世に於いて等しく三身有り諸経の中に於いて之を秘して伝えず」と述べられている文を引かれている。仏は過去・現在・未来の三世にわたって、常に報身・法身・応身の三身を具えているが、法華経以外の諸経には、これを秘して説いていない、との意である。
 法身・報身・応身の三身は爾前の諸経にも説かれているが、この三身を一身に具えたのが久遠常住であることを明かされたのは法華経のみである。しかし、法華経でも迹文における釈尊は、三身を具えているといっても始成正覚の仏なので三世常住の仏ではない。如来寿量品第16で久遠実成るが明かされ、久遠の昔から三世にわたって三身を具足する仏の本地が明かされたのである。
 三世常住に三身を具えた仏こそ真の仏なので、この文句の文こそ、真の即身成仏を明かした明文である、とされているのである。
 不空は、この天台の文が念頭にあり、それに対抗するために、竜樹の著作にかこつけて、唯、真言の法の中だけに即身成仏ができるから、三昧の行法を説いているので、その他の諸経にはまったく即身成仏の義は欠けていて説かれていない、と書いたのである、と指摘されている。不空は、真言の諸経には即身成仏の明文がないため、竜樹の著作という権威を借りて、真言のみに即身成仏の法が説かえているという偽りの文言を作り、人をたぶらかしたのである。
 さらに、菩提心論のその後の部分で即身成仏について述べているが、それは真の即身成仏ではなく、せいぜい華厳経などの菩薩の生身得忍に近いものに過ぎないと指摘されている。生身得忍とは、現実のこの身のままで無生法忍といって、一切の諸法は不生不滅であるという真理を悟って心が安住する位をいい、不退の位に入った華厳経の菩薩の境地をいう。しかし、生身得忍と似ているとされているのは、生身得忍ですらないということにもなり、即身成仏どころか菩薩の悟りを得られるに過ぎないことを示されているのである。
 なお、菩提心論の即身成仏の文とは「今、真言の行人、既に人法の二執を破り、能く真実の正見する智と雖も、或は無始の間隔を為し、末だ能く諸仏の自性に達し、諸仏の法身を悟り、法界体性の智を証し、大毘廬遮那仏と成る」とある文と思われる。
 そして、不空は即身成仏は珍しく尊い法門であるとは学んでいたようだが、即身成仏の実義は究めていなかった人であり、その理由は、即身成仏の実義は二乗作仏・久遠実成を説かれた法華経に限られるからである、と破折されている。
 そして、前に挙げた「諸経の中に於いて之を秘して伝えず」との伝教大師の法華文句の釈こそ、香り高く尊いものである、とされているのである。
 なお、妙一女御返事には、弘法大師が即身成仏はただ真言に限る文証として引いた経文を挙げ。「此等の経文は大日経金剛頂経の文なり、然りと雖も経文は或は大日如来の成正覚の文・或は真言の行者の現身に五通を得るの文・或は十回向の菩薩の現身に歓喜地を証得する文にして猶生身得忍に非ず何に況や即身成仏をや、但し菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下の科・依法不依人の仏説に相違す」(1256-16)と述べられている。
 また「いかにも純円一実の経にあらずば即身成仏は・あるまじき道理あり、大日経・金剛頂経等の真言経には其の人なし・又経文を見るに兼・但・対・帯の旨分明なり、二乗成仏なし久遠実成あとをけづる」(1257-14)とも述べられている。

1008:06~1008:10 第六章 仏法違背が亡国の因となるを示すtop
06   外典三千余巻は政当の相違せるに依つて代は濁ると明す、内典五千・七千余巻は仏法の僻見に依つて代濁るべし
07 とあかされて候、 今の代は外典にも相違し内典にも違背せるかのゆへに この大科一国に起りて已に亡国とならむ
08 とし候か、不便不便。
09       七月二日                        日蓮花押
10     太田殿女房御返事
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 儒教等の三千余巻の書籍には政道に相違すれば世の中が濁ると明かし、仏教の五千・七千余巻の経典には、仏法の誤った考えによって、世の中が濁ると明かされています。今の世は儒教等の教えにも相違し仏教の経典にも違背しているが故に、大きな罪が一国に起こって、すでに国が亡びようとしているのです。まことに不憫なことです。
       七月二日                        日蓮花押
     太田殿女房御返事

外典三千余巻
 「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
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政当の相違
 政治の道筋・道理に迷っていること。為政の方法の誤り。
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内典五千・七千余巻
 内典とは仏教経典のこと。開元釈教録によれば、5048巻に収められており、貞元釈教録には7388巻あるといわれるところから、こう呼ばれる。
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僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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大科
 重罪、大きなあやまち。
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 世が乱れ国が亡びる原因を外典と内典の両面から明かされ、当時、日本一国が蒙古に責められて、亡国になろうとしている原因を仏法に違背している故である、と指摘されている。
 本抄が著された建治元年(1275)の4月には、蒙古の国使・杜世忠の一行が長門の室津に着き、鎌倉へ護送されている。幕府は一切交渉をせず、9月7日竜の口の刑場で国使5人の首をきってしまった。蒙古の国使を処刑したことで、蒙古軍が襲来することは必至となったため、幕府は執権北条時宗の弟宗頼・実政等を鎮西に派遣し、博多湾の沿岸に防塁を築きはじめるなど、九州防備のための軍備の強化を図っている。
 しかし、先の文永の役で蒙古軍の強さは身にしみていたから、前回よりも強大な蒙古軍が再び来襲した場合、日本国は亡もされてしまうのではないかと、多くの人々が危惧していたのである。
 大聖人は、このように世の乱れる原因を、儒教等の外典では政道を誤ったためであると説き、仏典では仏法を誤って正法を信ぜず邪法が広まっているからであると説いている。
 政道は政治の道のことで、施政の方法やまつりごとの同義や道理をいう。儒教では、世を治め人民の苦しみを救うことを目的とする経世済民の道を説いており、為政者の道理に背いた悪政を行うと世が乱れるとしている。仏典では金光明経の諸経に、人々が正法を信ぜずに悪法を信ずる故に世が乱れて種々の災難が起こると説かれている。立正安国論で大聖人は、そうした諸経の文を引かれて「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(0017-12)とのべられ、競い起こる三災七難の原因は人々が正法を誹謗し悪法を信ずるからである、と明かされた。そして、安国論の中で、為政者がこのまま邪法への帰依を続けるならば必ず起こるであろうと予言された他国侵逼難が、現実になったのが蒙古の襲来だったのである。今の蒙古が襲来するというような大きな科は、為政者に説かれた政道の法にも仏法にも背いているから起きたことで、そのため国が亡びようとしているのであると明かされている。
 この点については下山御消息に「今の世も又一分もたがふべからず日蓮を賎み諸僧を貴び給う故に自然に法華経の強敵となり給う事を弁へず、政道に背きて行はるる間・梵釈.日月・四天.竜王等の大怨敵となり給う、法華経守護の釈迦・多宝.十方分身の諸仏・地涌千界.迹化他方・二聖.二天・十羅刹女・鬼子母神.他国の賢王の身に入り代りて国主を罰し国をほろぼさんとするを知らず」(0362-15)と述べられている。為政者が讒言を信じ、政道の法に背いて何の罪もない大聖人を不当に死罪・流罪にし、法華経の敵となったため、蒙古に責められて国が亡びようとしているのである。とのこの御文は、本抄と同じ趣旨をより具体的に示されているともいえよう。ともあれ、四箇の格言である「真言亡国」と述べられているように、謗法の諸宗にいずれも亡国の罪があるが、特に真言の邪法が亡国と関連しているというのが大聖人の一貫した主張であり、本抄でも真言の邪義を厳しく破折された上で、蒙古軍の再度の来襲が取り沙汰される時世に触れて、このように結ばれたと拝される。

1009~1012    太田入道殿御返事(業病能治事)top
1009:01~1009:10 第一章 病気について述べた経釈を挙げるtop
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太田入道殿御返事    建治元年十一月    五十四歳御作
01   貴札之を開いて拝見す、 御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ、維摩詰経に云く「爾の時に長者維摩詰自ら
02 念ずらく寝ねて牀に疾む云云、 爾の時に仏・文殊師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣して疾を問え」云云、大涅
03 槃経に云く 「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、 右脇にして臥したもう彼の病人の如くす」云云、法華経に云
04 く「少病少悩」云云、 止観の第八に云く「若し毘耶に偃臥し疾に託いて教を興す、 乃至如来滅に寄せて常を談じ
05 病に因つて力を説く」云云、 又云く「病の起る因縁を明すに六有り、 一には四大順ならざる故に病む・二には飲
06 食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故
07 に病む」云云、 大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず・二には五逆罪・三には一闡提
08 是くの如き三病は・世の中の極重なり」云云、 又云く「今世に悪業成就し乃至必ず地獄なるべし 乃至三宝を供養
09 するが故に 地獄に堕せずして現世に報を受く所謂頭と目と背との痛み」等云云、 止観に云く「若し重罪有つて乃
10 至人中に軽く償うと此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云、
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 あなたのお手紙を開いて拝見しました。 御病気のことについて、一たびは歎き、二たびは悦んだ。維摩詰経に「その時に長者の維摩詰が自ら念じた。寝込んで病床に伏そうと。その時に仏が文殊師利に告げられた。汝よ、維摩詰のところに見舞いに行って病状を問いなさい」とある。大涅槃経に「その時に如来は(乃至)身に病がある姿を現じ、右脇を下にして伏された、彼に病人のようになされた」とある。法華経に「少く病み少く悩む」とある。摩訶止観の第八に「維摩詰が毘耶梨城の自邸に倒れ伏し、病に寄せて教えを説き起こしたのと同じように(乃至)如来は入滅に寄せて常住を談じ、病によって功力を説いた」とある。また「病の起こる因縁を明かすのに六種ある。一には地・水・火・風の四大が順調でない故に病む・二には飲食が節制されていない故に病む・三には坐禅が正しく調わない故に病む・四には鬼が便りを得る・五には魔の為すところ・六には業の起こる故に病む」とある。大涅槃経に「世の病に治し難い三種の人がある。一には大乗を誹謗する人・二には五逆罪を犯す人・三には一闡提の人、このような三種の病は世の病のうち極めて重い」とある。また「今世に悪業を成就し(乃至)必ず地獄に堕ちるだろう(乃至)仏・法・僧の三宝を供養する故に地獄に堕ちることなく現世に報を受ける。いわゆる頭と目と背との痛み」等とある。摩訶止観に「もし重罪を犯して(乃至)人の中で軽く償うと。これは悪業が消滅しようとする故に病むのである」とある。

貴札
 手紙のこと。差出人に敬意を示して「貴」の文字をつける。
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御痛みの事
 痛みは身体の痛みであるが、病気のことをいう。
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維摩詰経
 維摩経のこと。釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。わが国では聖徳太子が「浄名経」の名で、法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。
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長者維摩詰
 梵語、ヴィマラ・キール。古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる。なお、彼の名前は維摩経を中心に、大般涅槃経などでも「威徳無垢称王」などとして挙げられている。したがって北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから彼は架空の人物とも考えられるが、実在説もある。彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。
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文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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大涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
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法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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少病少悩
 法華経従地涌出品第15に「世尊は安楽にして、少病少悩いやます」「如来は安楽にして少病少悩なり」等とある。
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毘耶
 古代インドの跋耆連合国の首都。釈尊は衆生教化のためにたびたびこの地を訪れた。在家の弟子である維摩詰はこの地に住んでいた。釈尊滅後、第二回仏典結集が行われた拠点。
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偃臥
 横ばいに臥すこと。
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因縁
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
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四大順ならざる故に病む
 地水火風の四大が順調でなく、自然の運行や身体の構成要素の乱れから起こる病。熱射病・低体温症など。
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飲食節ならざる故に病む
 暴飲暴食・拒食症など。
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坐禅調わざる故に病む
 体の動作や呼吸等の乱れによって起こる病。
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鬼便りを得る
 悪鬼が付け入って起こるところの病。
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魔の所為
 魔のしわざによって起こる病。
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業の起るが故に
 過去世からの宿業が現れることによって病むこと。
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大乗を謗ず
 大乗教・法華経を誹謗すること。
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五逆罪
 理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
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一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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今世
 過去・現在・未来世の中の現在世。現世のこと。
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悪業
 悪い行為。三悪道・四悪趣に堕すべき業因。
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地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
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供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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 過去世の業因に応じた報い。業の結果として受ける苦楽。
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止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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重罪
 誹謗正法・五逆罪などの重い罪。
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 ①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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謝せん
 ①あやまる。②お礼を言う。③断る・謝絶する。④去る・消える・なくなる。
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 本抄は、建治元年(1275)11月3日、日蓮大聖人が54歳の時身延で著されて、下総国の大田乗明に送られた御消息である。大田乗明が、病にかかったことを大聖人に手紙でご報告したのに対する御返事で、別名を「業病能治事」という。
 この建治元年(1275)4月には、蒙古の使者・杜世忠が長門の室津に着いている。幕府は一行を鎌倉へ連行したうえで、9月7日に竜の口の刑場で処刑している。これによって蒙古軍の再度の襲来は確実になったといえる。また、この年に、駿河国熱原郷の天台宗滝泉寺の住僧、日秀・日弁・日禅らが日興上人の化導によって大聖人の門下となっている。そのため、6月には院主代の行智による迫害が起こり、三河房頼円は退転し、日秀・日禅は滝泉寺を退去、日秀は寺に留まって熱原の農民に対して弘教を進めている。後の熱原の法難の萌芽がこの年に芽生えているのである。
 本抄の内容は、経訳の文を引いて病気の原因に6つあることを明かされ、その中でも第6の業病が最も治し難いこと、業病の中でも法華経誹謗の業病が最も重いことを示されている。次に大田乗明の病気の原因が謗法によるものであったとしても、妙法を持っているので病気を治すことができて長寿を招くことは疑いないとされ、病気の平癒を強く祈るように信心を励まされている。
 初めに、大田乗明が病気になったことについて、一度は嘆いたが、再びは悦んでいるとされ、悦んでいる理由について、経論の文を引かれ、これにより仏法をさらに深く学ぶことができるからであると仰せられている。維摩詰経には、在家の信徒でありながら大乗仏教に通達していた毘耶離城の長者維摩詰が、自ら念じて病を現して床についたのに対し、釈尊が文殊師利菩薩に維摩詰の所へ赴いて病気を見舞うように命じた、と説あれている。維摩詰は、見舞いにきた文殊に、衆生を憐れむ故に病を現じたのであると述べ、仏法の大慈悲について説くのである。大涅槃経には、釈尊が涅槃に入る時に際し、身に病を現して、右脇を下にして臥したが、これも衆生に仏の少病少悩を示すためで「仏には真実の疾病というのではない」と説いているのである。また、法華経の従地涌出品第十五では地涌の菩薩が仏に向かって「世尊、少病少悩にして、安楽に行じたもうや否や」と問うたのに対し、仏は「如来は安楽にして少病少悩なり」と答えている。
 次に、これら2つの事例の意義について、天台大師が摩訶止観の中で釈した文が引かれている。摩訶止観巻8で天台大師は維摩詰が毘耶離城の邸に倒れ伏し、病気によせて教えを説きおこしたように、仏は入滅によせて常住を語り、病気によってその力を説いているのである、と釈している。
 摩訶止観では、さらに病の起こる因縁に6つあることを明かし、1には人体や自然の構成要素である地・水・火・風の4大の調和が崩れることによって病み、2には飲食の不節制によって病み、3には坐禅が整わないために病み、4には悪鬼が便りをえることによって病み、5には天魔が悩ますために病み、6には前世に造った業によって病むのである、と説いている。
 第1の4大不順とは、仏教では宇宙の構成要素を地水火風の4大ととらえており、人体を構成する4大の不順によって病気が起こるとしている。仏医経では、これをさらに詳しく、4大の不順によって4百4病が起こることを説いている。竜樹の大智度論では、人体が4大によって構成されることについて、血・肉・筋・骨・骸・髄等が地大にあたるとしており、水大とはリンパ液等がそれにあたると考えられる。火大とは体温がそれであり、風大とは呼吸がそれにあたるとしている。
 したがって、これら4大がそれぞれに異常をきたして病が起きるのであるが、また環境世界を構成している4大の調和が乱れることによって、病がもたらされる場合もある。いずれにせよ、これらは「身の病」として括ることが可能で、中務左衛門尉殿御返事には、「一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病・此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもつて此れを治す」(1178-01)と述べられている。
 2の飲食の不節制による病とは、食べ過ぎや飲みすぎ、偏食や栄養失調などが原因となって起こる病気といえよう。
 3の坐禅が整わないために起こる病気は、坐禅は結跏趺坐とか半結跏趺坐といった身体の姿勢を調えることによって心の乱れを防ぎ、法性・仏性を求める修行法をいうところから、広い意味で、日常の姿勢を調えることによって心の乱れるのを防ぎ、法性・仏性を求める修行法をいうところから、広い意味で、日常の姿勢の悪さや、さらにいえば運動不足、逆にいえば肉体を酷使することなどによって起こる病気を指すと考えられる。
 4の鬼が便りを得ることによって起こる病気とは、鬼は人の功徳や生命を奪う働きとされていることから、現在でいえば病原菌等に起こる病気と考えられる。
 5の魔の所為によって起こる病とは、魔は衆生の心を悩乱させる働きをいうことから、本能的欲望や感情が乱れることにより指すものと考えられる。
 6の業が起こることによる病とは、前世の悪業を原因として起こる難病をいう。この病の6種の因は、病の起こる原因の違いによって立て分けたものと考えることができる。そして、この原因が潜むふかさによって対処法も異なってくるのである。
 特に悪業が原因となる病は重い。その悪業すなわち悪い行いにもさまざまあるが、最も深い悪業が、次の大涅槃経に説かれている三種である。ここでは、世の中に最も治し難い病人が3人おり、第一は大乗経を誹謗する者であり、第二は五逆罪を犯すものであり、第三は一闡提、すなわち断善根・不信具足と訳し、正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生であり、それによって起こる病は極重病である、と説かれている。これらの罪業はきわめて深く重いために、それを滅することは難しく、その業を原因として起こる業病も治し難いために極重病となるのである。また、同経には、今世に悪業をなせば来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、仏・法・僧の三宝を供養することによって地獄には堕ちず、現世にその報いを受けて頭と目と背の痛みとなって現れるのである、とも説いている。正法誹謗などの悪業を行えば、来世に地獄に堕ちることは間違いないが、正法を信受して三宝を供養するならば、地獄へ堕ちるべき悪業の報いを現世に軽く受けることができて、それが頭や目や背の痛みとして現れて罪業を滅するのである、と転重軽受の法理を明かしているのである。
 摩訶止観には、もし重罪があっても、今生に軽く償う場合には、悪業を消滅させるために病気になる、と説かれている。正法を持った場合には、過去の悪業の報いが病気となって現れ、今世に軽く受けて罪業を償うことができるのである。
 これらの文は、病気という角度から、人間の不孝・苦しみの起こる原因と、それを治す原理を明かしているもので、さまざまな他の苦悩にも当てはめて考えることができる。

1009:10~1010:06 第二章 病気を冶すための良薬を明かすtop
10                                   竜樹菩薩の大論に云く 「問うて云く若
11 し爾れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず 而も法華は秘密なり等、 乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬
12 と為すが如し」云云、 天台此の論を承けて云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く 乃至今経の得記は
13 即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」云云、 故に論に云く「余経は秘密に非ず法華を秘密と為すなり」云云、止観に
14 云く「法華能く治す復称して妙と為す」云云、 妙楽云く「治し難きを能く治す所以に妙と称す」云云、 大経に云
15 く「爾の時に王舎大城の阿闍世王其の性弊悪にして乃至父を害し已つて心に悔熱を生ず乃至心悔熱するが故にヒトエ
1010
01 体瘡を生ず其の瘡臭穢にして附近すべからず、 爾の時に其の母韋提希と字く種種の薬を以て 而も為に之を傅く其
02 の瘡遂に増して降損有ること無し、 王即ち母に白す是くの如きの瘡は心よりして生ず 四大より起るに非ず若し衆
03 生能く治する者有りと言わば是の処有ること無けん云云、 爾の時に世尊・大悲導師・阿闍世王のために月愛三昧に
04 入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ 其の光り清凉にして往いて王の身を照すに 身の瘡即ち愈えぬ」云云、
05 平等大慧妙法蓮華経の第七に云く 「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり 若し人病有らんに是の経を聞く
06 ことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」云云。
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 竜樹菩薩の大智度論に「問うて言う。もしそうであれば、華厳経や般若波羅蜜経は秘密の法ではない。しかも法華経は秘密の法である。(乃至)たとえば大薬師がよく毒を変じて薬とするようなものである」とある。
 天台大師はこの論をうけて「たとえば良医がよく毒を変じて薬とするように(乃至)法華経の記別を得ることは毒を変じて薬とすることである」と述べている。故に大智度論に「他の経は秘密ではない。法華経を秘密とするのである」とある。摩訶止観に「法華経はよく治す。また妙と称するのである」とある。妙楽大師は「治し難いのをよく治すために妙と称する」と述べている。涅槃経に「その時にマカダ国の首都・王舎城の阿闍世王はその性質が悪く(乃至)父を殺害した後、心に後悔の熱を生じた。心が後悔の熱に冒される故に、全身に瘡を生じた。その瘡は臭く汚くて、ちかよることができなかた。その時に、阿闍世王の母は韋提希という名であったが、種々の薬を阿闍世王につけたが、瘡はいよいよ増して、軽減することがなかった。阿闍世王は母にいった。このような瘡は心から出たものである。地・水・火・風の四大から起こったものではない。もし衆生がよく治す者いるというならば、それは偽りであるといった。その時に大慈悲の導師である世尊は阿闍世王のために月愛三昧に入られた。三昧に入りおわった時に大光明を放った。その光り清凉であり、王の身に届いて照らすと身の瘡は即座に愈えた」とある。平等大慧の妙法蓮華経の第七に「この経は閻浮提の人の病に効く良薬である。もし人が病になっている時に、この経を聞くことができるならば病は直ちに消滅して不老不死になるであろう」とある。

竜樹菩薩の大論
 大論は大智度論の略称。また大智度論とは「摩訶般若波羅蜜経釈論」の意である。すなわち大品般若経三十巻九十品の注釈で、後秦の時、鳩摩羅什の訳出で百巻よりなる。「中論」がもっぱら、般若思想を中心としているのに対して、この論は般若経の注釈でありながら、さらに法華経等の思想を包含し、それによって般若の空思想を積極的、肯定的に展開している。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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般若波羅蜜
 般若経のこと。般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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秘密の法
 秘め隠してあらわに示さない法。仏が末だ説いたことがなく、仏のみしか知らない深遠の教法のこと。
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法華
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
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秘密
 ひそかに隠して人に知らせないこと。仏の密意のことで、人に容易に知られない、分からない内容の深い法門・秘法。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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 ①経文の意を論議して明らかにしたもの。②法門について問答採決したものを集大成した書。
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余経
 法華経以外の経。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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大経
 ①大般涅槃経のこと。②無量寿経のこと。
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王舎大城
 王舎城のこと。古代インド、摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルにあたる。インド最古の都の一つで、仏教の外護者として著名なシャイシュナーガ朝ビンビサーラ王が建設したと伝えられる。付近には霊鷲山、提婆達多が釈尊を傷つけた所、七葉窟、竹林精舎、祇園精舎などの仏教遺跡が多い。王舎城の故事については法華文句巻第一上、西域記などにある。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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弊悪
 よくないこと。わるいこと。悪い習慣。
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悔熱
 犯した罪悪を悔いて激しく悩むために発する熱のこと。
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徧体
 体のすべて・全身。
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韋提希
 「韋提希」とは梵語、ヴァイデーヒー(Vaidehī)の音写で、毘提希とも書く。訳しては思惟、勝妙身。南インド摩竭提国・頻婆沙羅王の夫人で、阿闍世王の母。後に阿闍世王子のクーデターによって父王が幽閉されると、韋提希は深く王の身の上を気遣い、自分の体を洗い清めて、小麦粉に酥蜜を混ぜたものを塗り、胸飾りの1つ1つにブドウの汁を詰めて、密かに王の許に行き、それを食べさせたという。母である韋提希の行動を知った阿闍世は怒って、その剣を首筋に当てて王舎城から追い出し、同じように牢に幽閉させた。
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降損
 少しも快方に向かわないこと。
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四大
 大種の略称。地・水・火・風をいう。この地・水・火・風はともに空を依処としているのであり、五大と同意である。すなわち、妙法蓮華経を意味し、宇宙の根本を構成する要素であり、人間の五体もこの四大よりなっている。地は骨・肉・皮膚、水は血液、火は熱、風は呼吸をさす。
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世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
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大悲導師
 仏の異名。
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月愛三昧
 釈尊が阿闍世王の身心の苦悩を除くために入られた三昧の名。清らかな月の光が青蓮華を開花させ、また夜道を行く人を照らし歓喜を与えるように、仏がこの三昧に入れば、衆生の煩悩を除いて善心を増長させ、迷いの世界にあって、さとりの道を求める行者に歓喜を与える。(
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三昧
 サマーディ(Samādhi)の音写、訳して定・調査定・等持・等念という。心を一処に定めて動かぬこと。無量義経の無量義処三昧、法華経の法華三昧など、釈尊の教えの中には多数の三昧が説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、一心に御本尊に向かって題目を唱えることが三枚である。
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良薬
 良く効く薬。法華経が一切衆生の苦悩を取り除く良薬である。
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不老不死
 老いたり死んだりしない若々しい生命状態をいう。
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 さらに論釈を引かれ、法華経こそ治し難い病を治すための最高の良薬であることを明されている。
 初めに、竜樹菩薩の大智度論にある「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩は能く受持し用いるのは、譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の文が要約して挙げられている。
 阿羅漢の受決作仏が説かれていることは、舎利弗等の二乗が仏から成仏の記別を受けて劫・国・名号が決定したことをいうので、法華経こそが妙であり、比べるものがないほど勝れていることを明かしているのである。その意味から「華厳経乃至般若波羅蜜は秘密に非ず而も法華は秘密なり」と記されているであろう。秘密とは内容の深い法門をいい、秘密という意味である。
 天台大師は法華玄義で、大智度論の文意を承けて、譬えば良医が能く毒を変じて薬とするように、法華経において二乗が成仏の記別を受けたことは、すなわち毒を変じて薬とするようなものである、と釈している。諸経で永不定仏とされていた二乗が、法華経において成仏を許されたことは、毒を変じて薬とするようなものである、との意である。
 また、摩訶止観には、法華経はよく二乗や闡提を治すので、また妙と称するのであると説き、妙楽大師は他経では治せない者をよく治すので、妙と称するのであると述べている。法華経のみが、諸経では永く成仏できないとしている二乗や一闡提をも成仏できるとしているので、妙というのである。との意である。「秘密」も「妙」も凡夫の智慧・理解の及ばないことを意味しているのである。
 次に、涅槃経の阿闡世王の故事が引かれている。阿闡世王は中インドのマカダ国の王で、太子であった時に提婆達多に唆されて、仏教の外護者であった父・頻婆娑羅王を監禁して死に至らせた。王位についてからはマカダ国を当時のインド第一の強国にしたが、そのために近隣の国々を滅ぼしたり苦しめたうえ、強大な力を使って仏教を弾圧した。また、提婆達多を新仏にするために、象に酒を飲ませて放し、釈尊を踏み殺そさせようとしたという。
 マカダ国の王舎城の阿闡世王は、その性分が極悪だったが、父王を殺害したことへの強い後悔の念から熱を生じて、全身に瘡ができ、悪臭を放つため人々が近づくこともできない状態となった。母の韋提希夫人が種々の薬をつけたが、かえって悪瘡が増えるだけで、少しも軽くはならなかった。王は母に対して、この悪瘡は心から生じたものであって、四大の不調和から起こったものではないから、世間の者がこの病を治せるといっても、その道理はない、と語った。その時、世尊であり大慈悲の導師である仏が、阿闡世王のために月愛三昧に入って大光明を放ち、その清涼な光が王の身を照らすと悪瘡がたちまちに治った。というのが涅槃経の文の要旨である。
 月愛三昧の月愛とは、仏の慈悲の月の光をさまざまな働きに譬えたもので、大光明とは、仏の大慈悲が阿闡世王をつつんだことをいったものであろう。阿闡世王は、自分を唆した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたことを知り、また悪業への悔いから、全身に悪瘡を生じ、寿命も尽きようとしていたのを、耆婆大臣に諌められて、仏法に帰依し、仏の慈悲の力によって救われ、その後40年も寿命を延ばして仏教の外護をしているのである。
 次に、法華経の薬王菩薩本事品第二十三に説かれた法華経こそ一閻浮提の人の病の良薬であり、病の人がこの経を聞くことができれば、病が即消滅して不老不死となるであろう、との文が引かれている。
 平等大慧妙法蓮華経とは、妙法蓮華経こそ一切衆生を平等に利益する仏の智慧であることを示すために、このように書かれたと拝される。
 なお、この薬王品の文について、恩義口伝には、「是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(0774-第六若人有病得聞是経病即消滅不老不死の事-04)と述べられている。法華経の大良薬にしてはじめて謗法という最も重い悪業に起因する病などの病悩が癒されるのであり、妙法を受持した者は病即消滅となり、謗法の罪障を消滅して成仏することは疑いない、と示されているのである。

1010:07~1010:13 第三章 法華誹謗の業病こそ冶し難きを明かすtop
07   已上上の諸文を引いて惟に御病を勘うるに 六病を出でず其の中の五病は且らく之を置く第六の業病最も治し難
08 し、将た又業病に軽き有り重き有りて多少定まらず就中・法華誹謗の業病最第一なり、 神農・黄帝・華佗・扁鵲も
09 手を拱き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず、 但し釈尊一仏の妙経の良薬に限つて之を治す、法華経に云く上の如
10 し、 大涅槃経に法華経を指して云く 「若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し還りて正法に帰すること有れば
11 乃至此の正法を除いて更に救護すること無し是の故に正法に還帰すべし」云云、ケイ谿大師の云く「大経に自ら法華
12 を指して極と為す」云云、 又云く「人の地に倒れて還つて地に従りて起つが如し故に正の謗を以て邪の堕を接す」
13 云云、 
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 以上、上述の諸の経文を引いて、あなたのことを考えると、六種の病の域を出ない。そのなかの五種の病はしばらく指し置く。第六の業病が最も治すのが難しい。また業病に軽いものがあり、重いものがあって、さまざまである。
 なかでも法華経を誹謗した業病は最も第一でる。神農や黄帝・華佗・扁鵲といった名医も手を拱き、持水や流水・耆婆・維摩といった名医も口を閉ざしてしまった。ただし釈尊一仏だけが妙法蓮華経の良薬に限ってこの業病を治せるのでる。
 法華経には上述のように説かれている。大涅槃経に法華経を指して「もしこの正法を謗っても、よく自ら悔い改め、かえって正法に帰依すれば救われる(乃至)この正法を除いてはまったく救い護ることはできない。このために正法に帰依すべきである」と述べている。
 妙楽大師は「大涅槃経自ら、法華経を指して極極の教法としているのである」といい、また「人が地に倒れたとき、かえって地によって立ち上がるようなものである。ゆえに正法を謗って地獄に堕ちても、正法に帰依するならば、かえって堕地獄の罪を救うことになる」と述べている。

六病
 六種の病が起こる原因。①四大順ならざる故に②二には飲食節ならざる故に③三には坐禅調わざる故に④四には鬼便りを得る⑤魔の所為⑥業の起るが故に。
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神農
 中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる王。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。
―――
黄帝
 中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。史記五帝本紀等によると、少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。すでに徳の衰えていた神農の子孫と戦い、これを破って神農氏の子孫に代わって帝位についた。五行説にいう黄竜のような土徳があったので、黄帝と呼ばれた。衣服・貨幣の制をはじめ、医薬の方法を定めた。
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華佗
 中国後漢末から魏の初めに活躍した名医。生没年不詳。字を元化、名を?という。沛国?県(安徽省亳県)の人。華佗とも書く。諸経に通じ針灸、方薬でよく病を除いたといわれる。また養生術にたけ、百歳になってもなお壮健であったため仙人と思われていた。魏の武帝が侍医に招こうとしたが拒否したために殺されたとある。
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扁鵲
 中国・春秋戦国時代の名医。史記列伝第四十五によると、姓は秦、名は越人。渤海郡鄭(河南省)の人。長桑君という隠者より医術を伝授され、扁鵲はあらゆる医術に長じた。諸国をめぐって医業を行ない、その名声は天下に聞えた。しかし、秦の太医令の李醯にねたまれ、刺客を向けられて殺害されたという。
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手を拱き
 何もできないのでただ見ている状態。
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持水
 金光明経巻三に説かれる名医。治水とも書く。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来がおり、涅槃した後、像法の時代に天自在光王がいた。王は正法を修行し、法の教えるとおりに世を治めていた。この国に持水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。ある時、国内に疫病が流行した。持水は年老いて治療にあたれなかったが、子の流水が父から法を学んで、持水に代わって病の治療にあたり、国中の人々を疫病から救ったという。
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流水
 金光明経巻3に説かれる名医。持水の子。
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耆婆
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
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維摩
 釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。わが国では聖徳太子が「浄名経」の名で、法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。
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釈尊一仏
 釈迦如来ひとりだけ。
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正法
 正しい法。邪法に対する語。
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荊谿大師
 (711~782)湛然のこと。中国・唐代の天台宗の僧侶。妙楽大師と称された。天台宗の第6祖。
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 極上・最良・至極・道理・究極。
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 6種の病のなかで業による病が最も冶し難く、業病の中でも法華誹謗という業による病こそ最も治し難いこと、これを治すには、妙法の良薬によらなければならないことを明かされている。
 前に引いた諸論師の趣旨から考えると、太田入道の病気は、6種のいずれかであるが、そのなかで最も重い業病、しかも最も治し難い法華経誹謗による業病さえも治すことができるのが妙法であることを述べられている。もとより、いま太田入道のかかっている病が、6種のなかのどれに当たるかは分からないが、最も重く治し難い法華誹謗による業病さえ妙法によってなおせるのであるあら、他の5病に相当する場合も、治せないわけがないことを示されて、一日も早く快癒するよう励まされたものと拝される。
 なお、ここに挙げられている神農とは、古代中国の伝説上の皇帝で、三皇五帝の一人に数えられ、民に耕作や商業や薬草などを教えたといわれる。黄帝も、中国古代の三皇五帝の一人で、五穀の栽培を教え、衣服・家屋・文学・医術などを発明したとされている。
 華陀は、中国後漢の末から魏の始めに活躍したとされる名医で、諸経に通じ、鍼灸や方薬でよく病を治したといわれる。扁鵲は、中国の春秋時代の名医で、諸国を巡って医術を施し、開腹手術で?の太子を蘇らせ、婦人病・神経病・少児病などを直したといわれ、後に医術の宗家と崇められた。
 持水は、金光明経に説かれている名医である。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来が出現した時、一人の長者が持水といい、医方を知って諸の病苦を救い、方便によって4大の増損を知った、とある。持水の子が流水で、疫病が流行した時に、年老いた父から治病の秘法を授けられて、人々を救ったという。
 耆婆は、釈尊在世の名医で、釈尊や阿闍世王の病を治した。王舎城内での開頭手術、腸捻転の手術、頭痛の治療、失明や瘡の治療など、画期的な外科療法を行ったといわれる。阿闍世王に大臣として仕えている時、王が父を殺しただけでなく、母を殺そうとしたのを諌めている。
 維摩とは、釈尊在世の中インドの毘耶離城の長者だった維摩詰のことで、在家の信者であったが、大乗仏教の奥義に通達していたとされる。維摩詰経には、維摩が病気になり、見舞いにきた文殊師利菩薩と大乗の妙理について対論したことが説かれている。維摩詰が、一切衆生の病ある者に大乗の法を説いて、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せられたとあるので、名医の中に加えたものと思われる。
 こうしたインド・中国の名医の名を挙げたうえで、彼らも法華誹謗の業病に対しては手を拱き、口を閉じて無力を嘆くのみであり、釈尊の妙法蓮華経の良薬だけが治すことができる、と明かされている。その文証として、前に引かれた法華経薬王菩薩本事品第二十三の文と、大涅槃経の、もしこの人が正法を毀謗したとしても、よく自ら改悔し、正法に帰依するならば、その罪は消滅する。…この妙法を除いてはこの謗法の罪を救い護ってくれるものはない故に、この正法に還って帰依すべきである、との文を挙げられている。
 そして、この文でいう正法とは法華経を指しているのであるとされ、妙楽大師が法華文句記で、大涅槃経では法華経を指して至極の法としている、と述べている文をその証拠とされている。
 また、同じく法華文句記の、人が大地に倒れても、大地によって立ち上がるのと同じように、正法を誹謗した罪で地獄に堕ちた者は、他の邪見堕悪の罪も含めて、正法を信受した時にその罪業を消滅して救われるのである、との趣旨の文を引かれている。法華経を誹謗したことによる業病が、法華経を信受することによって治癒するだけでなく、他の原因による病も治せることを明確にされているのである。
 法華証明抄にも、この天台大師の文を引いて「地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候」(1586-13)と述べられている。

1010:13~1011:05 第四章 謗法を改め正法に帰した先例を挙げるtop
13     世親菩薩は本小乗の論師なり五竺の大乗を止めんが為に 五百部の小乗論を造る後に無著菩薩に値い奉りて
14 忽に邪見を飜えし 一時此の罪を滅せんが為に著に向つて舌を切らんと欲す、 著止めて云く汝其の舌を以て大乗を
15 讃歎せよと、 親忽に五百部の大乗論を造つて小乗を破失す、 又一の願を制立せり我一生の間小乗を舌の上に置か
16 じと、然して後罪滅して弥勒の天に生ず、 馬鳴菩薩は東印度の人、 付法蔵の第十三に列れり本外道の長たりし時
17 勒比丘と内外の邪正を論ずるに 其の心言下に解けて重科を遮せんが為に 自ら頭を刎ねんと擬す所謂我・我に敵し
18 て堕獄せしむ、 勒比丘・諌め止めて云く汝頭を切ること勿れ其の頭と口とを以て大乗を讃歎せよと、 鳴急に起信
1011
01 論を造つて外小を破失せり月氏の大乗の初なり、 嘉祥寺の吉蔵大師は漢土第一の名匠・ 三論宗の元祖なり呉会に
02 独歩し慢幢最も高し天台大師に対して 已今当の文を諍い立処に邪執を飜破し謗人・ 謗法の重罪を滅せんが為に百
03 余人の高徳を相語らい 智者大師を屈請して身を肉橋と為し頭に両足を承く、 七年の間・薪を採り水を汲み講を廃
04 し衆を散じ慢幢を倒さんが為法華経を誦せず、大師の滅後隋帝に往詣し雙足をキョウ摂し涙を流して別れを告げ古鏡
05 を観見して自影を慎辱す 業病を滅せんと欲して上の如く懺悔す、
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 世親菩薩はもともと小乗の論師である。インドの大乗を制止するために、五百部の小乗論を造る。後に無著菩薩にあって、たちまちに邪見をひるがえし、一時にこの罪を滅するために、無著菩薩に向かい、舌を切ろうとした。無著菩薩はそれを止めて「汝よ、その舌をもって大乗を讃えよ」といった。世親菩薩はたちまちに五百部の大乗論を造って小乗を打ち破った。また一つ願を立てた。我は一生の間、小乗を決して説かないと。そうして後、罪を滅して弥勒の都率天に生じた。馬鳴菩薩は東インドの人で、付法蔵の第十三に列なっている。往時、外道の長であった時、勒比丘という者と内道と外道の邪正を論じたところ、仏教の精随を一言のもとに理解して、今までの重科を止めるために、自らの首を切ろうとした。「我は我自身を敵にして地獄に堕とそう」といったところ、勒比丘は諌めて止めて「汝、頭を切ってはいけない。その頭と口をもって大乗を讃えよ」といった。馬鳴菩薩はわずかの間に大乗起信論を造って、外道と小乗を破った。これがインドの大乗の初めである。
 嘉祥寺の吉蔵大師は中国第一の名高い師匠であり、三論宗の元祖である。呉の国の会稽山に住み、比べる者がないほど優れ、慢心の幢も高かった。天台大師に対して、法華経法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かん」文について論争し、すぐその場で邪な執着を飜して、人を謗り法を謗った重罪を滅するために、百余人の高徳の僧らを誘って、智者大師に身を屈し墾請して講義を聴き、また自分の体を肉橋として高座に登らせ、頭に天台大師の両足を受けて踏み台とした。吉蔵大師は天台大師が入滅するまでの七年の間、薪を採り水を汲んで給仕をし、今までの自分の講義を廃し門下の人々の集いを解散し、慢心の幢を倒すため、法華経を誦されなかった。
 天台大師の滅後、隋帝のところに行って、両足をいただき最高の敬意を表して、涙を流して別れを告げ、古い鏡に写っている自分の影を見て慎しみ辱めた。これは正法を誹謗した自身の業病を滅しようとして、上述のように懺悔されたのである。

世親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」6巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
小乗の論師
 小乗教の論を作り、小乗教を宣揚する人。
―――
五竺の大乗
 五竺は五天竺・全インドのことで、インドに流布していた大乗教のこと。
―――
五百部の小乗論
 世親が小乗教を講述した500部の論のこと。
―――
無著菩薩
「無著」梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
―――
邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
―――

 無著菩薩のこと。
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讃歎
 ほめたたえる意をあらわした言葉。
―――

 世親菩薩のこと。
―――
五百部の大乗論
 世親が大乗教を講じた500部の論のこと。
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破失
 破折し失うこと。
―――
制立
 定め立てること。
―――
小乗を舌の上に置かじ
 小乗教を講じたり、説いたり、話したりしないということ。
―――
弥勒の天
 都率天のこと。都率は梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。六欲天の第四天。兜率天とも書く。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天界の衆生の欲楽する処とされる。
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馬鳴菩薩
 付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
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東印度の人
 インドを五つにわけたなかの東。東天竺のこと。
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付法蔵の第十三
 付法蔵は釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。第13は馬鳴菩薩とする場合と毘羅とする場合がある。
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外道の長
 インドのバラモンの指導的立場にいた者。
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勒比丘
 馬鳴の師のことであるが、脇尊者と富那奢の二説があり、どちらとも定めがたい。
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内外の邪正
 内外相対のこと。
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重科
 ①重い罪②重い刑罰。
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遮せん
 遮ること。消すこと。償うこと。
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我・我に敵して
 自身が説いてきた説を打ち消して・ひるがえして。
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堕獄
 堕地獄のことで、地獄に堕ちることをいう。
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 馬鳴菩薩のこと。
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起信論
 「大乗起信論」のこと。馬鳴著と伝えるが,中国撰述の疑いもある。五世紀頃の成立か。大乗仏教の代表的概説書。大乗に対する正しい信心を起こさせることを目的とし,心を本来の面(心真如門)と活動の面(心生滅門)の二面から考察する。
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外小
 バラモン教と小乗教のこと。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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大乗の初
 馬鳴菩薩が大乗起信論を作って外道・小乗を論破したことが大乗のはじめとされている。
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嘉祥寺の吉蔵大師
 吉蔵大師(0549~0623)は中国梁・隋代の人で三論宗の祖とされた。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。嘉祥寺は浙江省紹興市会稽にある。東晋時代(0370)に建立されたもので、律行清厳なところから多くの僧尼が集まってきた。隋代の初め、開皇年中に吉蔵がこの寺で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。聴衆は千余人に及び寺の名は天下にとどろいた。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。しかし晩年にいたって吉蔵は天台大師に心身共に帰伏した。
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漢土第一
 中国で最高・第一であるということ。
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名匠
 すぐれた仏宝指導者。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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元祖
 創始者。
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呉会に独歩し
 中国・呉国の会稽山に住いていた吉蔵のこと。その学徳は無比に優れていたといわれる。
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慢幢
 おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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已今当の文
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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邪執
 よこしまな見解・誤った義に執着すること。
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飜破
 ひるがえし破ること。
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謗人
 ①正法を誹謗する人。②正法をたもつ人を誹謗する人。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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高徳
 高く優れた人。またその人の持つ徳。
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智者大師
 天台大師のこと。(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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屈請
 身をかがめて、懇ろに請うこと。
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身を肉橋と為し頭に両足を承く
 吉蔵が天台大師が講義するに際し、身をもって、高座にのぼるための橋となり、また頭を台となって仕えたことをいう。
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隋帝
 (0581~0618)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。
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往詣
 詣でに赴くこと。
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雙足を挍摂し
 両足をいただいての意で、最高の礼を尽くすことを意味する。
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古鏡を観見して自影を慎辱す
 古い鏡に映った自分の姿を見て、正法を謗っていたことを辱めること。
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業病
 前世の悪業の因によって起こる病気。
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 世親・馬鳴・嘉祥など、もとは正法を誹謗していたが、後に正法に帰依した人々の例を挙げられている。
 世親は、4・5世紀ごろのインドの学僧・婆薮槃豆のことで、世親とも訳される。北インドの富婁沙羅国の出身で、無著の弟にあたる。初め、説一切有部の小乗教を学び、俱舎論など多くの論を著した。後に兄の無著に導かれて大乗を学び、十地経論、唯識二十論、摂大乗論釈、仏性論など大乗の論を数多く著して大乗経を宣揚し、千部の論師と呼ばれた。
 世親は、兄の無著によって大乗に導かれた時、小乗を弘めて大乗を妨げてきた今までの罪を滅するために舌を切ろうとしたが、その舌で大乗を讃嘆し弘めることが罪を滅することになると兄に諌められ一生の間に二度と小乗を説かないと誓願し、多くの大乗論を著して小乗を破し、その罪を滅して弥勒菩薩の住む兜率天に生まれることができたと伝えられている。
 兜率天は六欲天のちの下から4番目で、兜率は、喜足・喜楽と釈され、歓楽が満ちて満足を知るのでこう名づけられている。
 馬鳴は2世紀ごろに中インドの舎衛国にいた大乗の論師で、付法蔵の第12祖にあたる。初めは外道の学者として盛んに仏教を批判していたが、付法蔵第11の富那奢に論破されて仏教に帰依し、多くの衆生を教化したとされる。著書に仏所行讃、大荘厳論経などがあり、大乗起信論、大宗地玄文本論なども馬鳴の著とされている。後に大月氏国の迦弐志加王に従って北インドへ移り、大いに仏教を弘めて功徳日と敬称されたという。
 馬鳴は、仏教を誹謗した重罪を謝するため、自ら首をはねて地獄に堕ちようとしたが、その頭と口を使って大乗を賛嘆せよと諌められ、大乗起信論をつくって外道や小乗を破折した。これがインドにおける大乗の初めとなった。
 嘉祥寺の吉蔵は、中国・唐代の三論宗の再興の祖とされる。三論宗とは、竜樹の中論・十二門論と提婆菩薩の百論をよりどころにして立てられた大乗教の学派をいう。吉蔵は、12歳の時から法朗に師事して三論を学び、嘉祥寺に入ってからも研究を続けて三論宗を大成させた。法華経や涅槃経などの諸経典にも詳しく、開皇17年(0597)には天台大師と法華経について書簡を交換している。その後、法華経の研究をし、法華経を2000部書写している。著書には三論玄義、中観論疏、大乗玄論、法華玄論などのほか、諸経の注釈書がある。
 本抄では、吉蔵が天台大師に帰服して、謗法の罪を滅するために、100人の高徳を語らって天台大師の講説を聞き、自ら身をもって天台大師に仕えたことが明かされている。
 吉蔵が天台大師の講義を聞くように勧めた状には「千年の興五百の実復今日に在り乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し今は二尊に紹係す豈止甘呂を震旦に灑ぐのみならん亦当に法鼓を天竺に震うべし、生知の妙悟魏晉以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」(0270-04)とあったと撰時抄に引かれている。
 吉蔵については、報恩抄でも「嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば 悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき」(0341-12)また、開目抄でも「三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり」(0216-11)と述べられている。吉蔵は心から天台大師に帰伏して、自己の講会・講演を廃し、聴衆を解散させたとされていたのである。さらに道暹の法華文句輔正記には、吉蔵が天台大師に帰伏して、我が身を橋として天台大師を背に乗せて高座へ登らせたとある。
 本抄では、天台大師の滅後、随帝に別れを告げて古鏡に映った我が身を見て、この身が正法を謗っていたのだと辱めさとされ、それは謗法による業病を滅するためにそのように懺悔したのである、とのべている。このように、世親・馬鳴・嘉祥の例を挙げられているのは、法華経誹謗の罪がいかに重いかを示されるためであると、その罪を消滅する道は、逆に正法興隆の為に尽くすのであることを教えるためであると拝される。

1011:05~1011:13 第五章 法華最勝と真言の破法亡国を明かすtop
05                               夫れ以みれば一乗の妙経は三聖の金言・ 已今当
06 の明珠諸経の頂に居す、 経に云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」又云く 「法華最第一なり」伝教大師の云
07 く「仏立宗」云云。
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 謹んで思うに、一仏乗の妙法蓮華経は釈迦仏・多宝如来・十方分身の諸仏の三聖の金言であって、「已説・今説・当説…最為難信難解」との文を明珠として諸経の頂上にある。法華経薬王品第二十三に「この法華経は諸経の中において最も其の上にある」とあり、また 「法華経は最第一である」とある。伝教大師は「法華宗は仏の立てた宗旨である」と述べている。
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08   予随分.大.金.地等の諸の真言の経を勘えたるに敢えて此の文の会通の明文無し但畏.智・空.法・覚.証等の曲会
09 に見えたり是に知んぬ釈尊・大日の本意は限つて法華の最上に在るなり、 而るに本朝真言の元祖たる法・覚・証等
10 の三大師入唐の時・畏・智・空等の三三蔵の誑惑を果・全等に相承して帰朝し了んぬ、法華・真言弘通の時三説超過
11 の一乗の明月を隠して 真言両界の螢火を顕し剰え法華経を罵詈して曰く 戯論なり無明の辺域なり、自害の謬ゴに
12 曰く大日経は戯論なり 無明の辺域なり本師既に曲れり末葉豈直ならんや 源濁れば流清からず等是れ之を謂うか、
13 之に依つて日本久しく闇夜と為り扶桑終に他国の霜に枯れんと欲す。
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 私は随分と大日経・金剛頂経・蘇悉地経などさまざまな真言の経典を考究したが、強いてこの法華経の最第一の文を打ち破るだけの明文はない。真言経のほうが法華経より勝れているというのは、ただ善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの曲解のようである。ここに釈尊・大日如来の本意は法華経こそ最上ということにあると知ったのである。
 しかし、日本の真言宗の元祖である弘法・慈覚・智証などの三大師が唐に入った時、善無畏・金剛智・不空などの三人の三蔵の邪義を慧果・法全などから受け継いで、日本に帰ってきた。そして法華経と真言経とを弘通するに際して、已今当の三説を超過している一仏乗の法華経の明月を隠し、真言経の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅の螢火を顕し、その上で法華経をののしって「法華経は戯れの論であり、釈尊は無明の辺域である」などといったのである。これは自らを害する誤りであり大日経は戯れの論であり、無明の辺域であるといっていることになる。彼らの本師が既に曲がっているのであるから、その末葉の門下が真っ直ぐであるはずがない。源が濁れば流れが清くないとは、このことをいうのである。この邪義によって日本の国は永い間、謗法の闇夜となり、扶桑の国はついに他国の霜に枯れ滅びようとしているのである。

已今当の明珠
 法華経法師品第十の7「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。この文は法華経の頂を飾るすばらしい宝珠にたとえたものであるとの意。
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諸経の頂
 あらゆる経典の最高峰という意味。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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大・金・地
 真言の三部経のこと。大=大日経・金=金剛頂経・地=蘇悉地経。
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諸の真言の経
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経など真言宗の教えを示した経典。
―――
会通
 彼此相違した説を会して融通すること。「会」とは、あわせる、理解する、照らし合わせる擣の意で、「通」は開く、かよわす、伝える、説き明かす等のいみである。すなわち、よく理解して疑いやとどこおりのないことで、いろいろな議論に合わせて理解し説き明かすことの意。
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明文
 明白に意をあらわした文。
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畏・智・空・法・覚・証
 真言教を弘めた代表的僧侶。畏=善無畏・智=金剛智・空=不空・法=弘法・覚=慈覚・証=智証。
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曲会
 真理や道理を曲げて解釈すること。
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釈尊
 釈尊とは通常釈迦牟尼仏をさすが、六種の釈尊がある。①蔵教の釈尊②通教の釈尊③別教の釈尊④法華経迹門の釈尊⑤法華経本門の釈尊⑥法華経本門文底の釈尊である。⑥を教主釈尊といい、久遠元初の自受用報身如来たる日蓮大聖人である。
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大日
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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本意
 本当の意図・気持・意義。
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法華の最上
 法華経が一切経の中で最高であるということ。
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本朝
 ①日本の朝廷。②日本国。
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真言の元祖
 真言宗の創始者。
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法・覚・証の三大師
 日本に密教を弘めた三師。法=弘法・覚=慈覚・証=智証。
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入唐
 日本から中国に渡ること。
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畏・智・空等の三三蔵
 中国・真言宗の三人の三蔵。畏=善無畏・智=金剛智・空=不空。
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誑惑
 たぶらかすこと。
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果・全
 中国における二人の真言宗の僧。①慧果・(0746~0806)。照応の人で、俗姓を馬という。不空の弟子で、真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。日本から留学生として渡唐した弘法にその教えを伝えた。②法全・生没年不明。中国・唐代の長安青龍寺の僧。円仁、円珍が入唐した時に密教を教えている。円仁には胎蔵の儀軌、円珍には瑜伽を教え、伝法阿闍梨の灌頂をしている。
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相承
 相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。
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帰朝
 外国から(特に中国)日本に帰ってくること。
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法華・真言弘通の時
 法華経と真言経が弘通する時。
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三説超過の一乗の明月
 法華経を明るい月にたとえたもので、三説は已・今・当の三説。一乗は一仏乗。
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真言両界の螢火
 真言宗で立てる金剛界・胎蔵界の二界を法華経に対比すると、真言両界は法華の明月に対する蛍火のごときものであるということ。
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罵詈
 誹謗し謗ること。
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戯論
 児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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無明の辺域
 真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
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自害の謬悞
 法華経は戯論であり無明の辺域であるというのは、自らを害する誤りを犯しているのである。
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大日経は戯論なり無明の辺域なり
 真言の依経である大日経こそ戯論であり無明の辺域であるということ。
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本師既に曲れり末葉豈直ならんや
 真言宗の開祖である弘法が既に誤っているから、その末流の門下も間違っているということ。
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源濁れば流清からず
 水源が濁っていれば、川の流れは清くない。おなじように宗祖が間違っていれば、その末流も誤っているということ。
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扶桑終に他国の霜に枯れんと欲す
 日本国に真言の邪義が広まることによって、ついに他国から攻め亡びようとしていること。
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 法華経こそ一仏乗の妙経であり、釈尊一代の諸経のなかで最勝であるというのが仏説であるにもかかわらず、この仏説に反して善無畏らが我見をもって立てたのが真言宗であり、それが日本にひろまったため、今や亡国の危機に瀕していることを述べられている。
 法華経最勝は釈迦・他宝・十方の諸仏の金言であり、已今当最為難信難解の法師品の文は、法華経が已今当の一切経の頂点に位置することを示し、王の頂の明珠のようなものであると仰せられている。そして法華経の安楽行品第十四に「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」と説かれ、法師品第十に「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と明確に示されていること、さらに、伝教大師が法華秀句の中で「天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗なり」と述べていることを挙げられ、法華経を最も勝れているとするのが仏法の本義であることを示されている。
 大聖人は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の真言宗の依経を調べてみても、法華最勝と説き、三説超過という明文のある法華経に対して、大日経などの真言経が勝れている根拠となる文はまったく見当たらないと指摘され、真言の諸経が法華経に勝ると主張したのは、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の真言師が勝手に法を曲げたものでることは明らかで、釈尊の大日如来の本意は、法華経が最上とすることにあったと断じられている。
 日本の真言宗の祖とされる弘法大師空海と、天台密教の祖とされる慈覚大師円仁・智証大師円珍の3人が入唐した時に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵が立てた邪義を、慧果や法全から相承して日本へ伝えたのであると断じられている。
 慧果は、中国・唐代の真言僧で、不空から密経の奥義を受けたとされ、長安の青竜寺に住んで青竜寺和尚といわれた。弘法が延暦年間に唐へ渡った時、この慧果から真言を学んでいる。このことについては撰時抄にも「弘法大師は同じき延暦年中に御入唐・青竜寺の慧果に値い給いて真言宗をならはせ給へり、御帰朝の後・一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候」(0276-18)と述べられている。
 法全も、中国・唐代の真言僧で、慧果の法孫にあたり、長安の青竜寺に住み、日本から唐へ渡った天台僧の慈覚や智証に密経を授けている。帰朝後の慈覚や智証は、真言が法華経に勝るとする邪義を立てながら、後に比叡山延暦寺の第3代・第5代座主に登ったため、伝教大師の立てた天台法華宗を完全に天台密教へ堕落させ、転落させてしまった。
 大聖人は、弘法・慈覚・智証が、一往は法華経と真言諸経を弘めたのであるが、その際に、一仏乗の法華経の明月を隠して、真言宗の金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅という。はかない蛍火のほうを宣揚するという歪曲を犯したこと、しかも、それだけでなく、法華経を戯論であると下し、釈尊を無明の辺域である等と誹謗したのである、と指摘されている。
 戯論は、児戯に類した無益な論議のことだが、ここでは弘法が秘蔵宝鑰の中で「大乗の前の二を菩薩、乗後の二を仏乗、比くの如き乗乗、自乗の仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」と述べていることを指す。これは、弘法が大日経に衆生の心相が十種に分えていることに基づいて十住心の教判を立て、真言密教が最高であることを示そうとしたもので、十住心の第八・如実一道無為心と、第九極無自性心とを仏乗とし、ともに自らの教えに仏乗の名を得ているが、第十の秘密荘厳心に比べれば戯論になると主張し、真言が勝るとしたものえある。弘法は十住心の第八は法華経・第九は華厳経・第十は真言を意味するとし、法華経は真言に劣るだけではなく、華厳経よりも下である、と法華経を下したのである。
 無明の辺域とは、無明惑を断ち切っていない。真実から遠く隔たりのある境界をいうが、ここでは弘法が秘蔵宝鑰の中で十住心の第七の覚心不生心・第八の如実一道無為心・第九極無自性心のそれぞれの結びの文に記した言葉を指す。如実一道無為心は法華経に対する教判であるが、そこから、法華経の教主についても、顕教のなかでは究竟の理智法身であるが、真言門に望めば初門に過ぎず、その境界は無明の辺域である、と下したのである。
 そして、そうした邪義は自身を害する刀であり、大日経こそ戯論であり、大日如来こそ無明の辺域であると反論されたうえで、このように弘法・慈覚・智証等の本師が誤っているのだから、末葉である今の真言師が正しいわけがないと断じられ、源が濁れば流れが清いわけではないことはこのことである、と破折されている。さらに、このような真言の邪法が日本の仏教の中枢となってしまったために、日本は久しく闇夜となり、まさに扶桑の木が他国の霜によって枯れようとしていると仰せられ、日本が蒙古の襲来によって滅びようとしているのは、法華経と釈尊を誹謗する悪法である真言が流布した結果であると指摘されている。

1011:12~1012:05 第六章 重病も転重軽受のための信心を励ますtop
14   抑貴辺は嫡嫡の末流の一分に非ずと雖も 将た又檀那の所従なり 身は邪家に処して年久しく心は邪師に染みて
15 月重なる設い大山は頽れ設い大海は乾くとも 此の罪は消え難きか、 然りと雖も宿縁の催す所又今生に慈悲の薫ず
16 る所存の外に貧道に値遇して 改悔を発起する故に 未来の苦を償うも 現在に軽瘡出現せるか、 彼の闍王の身瘡
17 は五逆誹法の二罪の招く所なり、 仏月愛三昧に入つて其の身を照したまえば 悪瘡忽に消え三七日の短寿を延べて
18 四十年の宝算を保ち兼ては又千人の羅漢を屈請して一代の金言を書き顕し、 正像末に流布せり、 此の禅門の悪瘡
1012
01 は但謗法の一科なり、 所持の妙法は月愛に超過す、豈軽瘡を愈して長寿を招かざらんや、 此の語徴無くんば声を
02 発して一切世間眼は大妄語の人・ 一乗妙経は綺語の典なり・名を惜しみ給わば世尊験を顕し・誓を恐れ給わば諸の
03 賢聖来り護り給えと叫喚したまえと爾か云う書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん、恐恐。
04       十一月三日                                日蓮花押
05     太田入道殿御返事
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 そもそも、あなたは真言宗の正統の家筋の末流の一分ではないが、真言宗を檀那として支えた人の従者である。その身は邪法の家に住んで長い年が過ぎ、心は邪義の師に染みて月々を重ねてきた。たとい大山は崩れ、たとい大海は乾いたとしても、この謗法の罪は消えるのは難しい。しかしながら過去世の縁に誘われるところ、また今の世の仏に慈悲が薫るところ、思いのほかに貧道の身の日蓮に出会い、今までの信仰を悔い改める心を起こした故に、未来世に受ける重い苦を償うために、現在に軽い瘡が出ているのであろうか。
 彼の阿闍世王の身の瘡は五逆罪と謗法罪の二罪が招いたところである。仏が月愛三昧に入って、その阿闍世王の身を慈悲の光で照らされると、悪い瘡はたちまちに消え、あと三週間といわれた短い寿命を延ばして、それから四十年の年齢を保ち、その間に千人の阿羅漢を懇ろに要請して、釈尊一代の金言を書き残し結集して、正法・像法・末法の三時に流布したのである。今、仏道に入ったあなたの悪い瘡はただ正法を謗ったという一つの科罪である。あなたが受持されている妙法は月愛 三昧を超えている。どうして軽い瘡を治して長寿を招かないことがあろうか。この日蓮がいうような現証がなければ、あなたは声を出して「一切世間も眼である釈尊は大嘘つきの人であり、一仏乗の妙法蓮華経は飾り立てた偽りの言葉の経典である。名を惜しまれるならば釈尊は効験を顕し、法華守護を誓った諸の賢人・聖者はその誓いを破ることを恐れるならば直ぐにここに来て護りなさい」と叫ばれるがよい。このように言っても、書面は言葉を尽くさない。言葉は心を尽くさない。さまざまな事柄はお目にかかった時を期して話すことにしたい。恐恐。
       十一月三日                                日蓮花押
     太田入道殿御返事

嫡嫡の末流の一分
 正統の家系の子孫の一人。転じて正統の流派・宗派・血脈。
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檀那の所従
 檀那は施主・施者のこと。所従は従者・家来のこと。
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邪家
 邪な宗教の家。
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邪師
 邪な師匠。仏法を正しく伝えず、邪義・邪見をもって衆生を不幸に導き入れる者。
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宿縁
 宿世につくった因縁のこと。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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慈悲
 一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
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薫ずる
 香をたき、香りを染み込ませること。仏の慈悲が染み込むことにたとえる。
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貧道
 僧みずから呼ぶ謙称。道を修めることが、きわめて貧しいという意からいわれる。
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値遇
 思いがけなく値うこと。
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改悔
 悔い改めること。改心悔解の意。
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発起
 ①四衆の一つの発起衆のこと。②心を起こすこと。③事を起こすこと。④迷いが起こること。
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闍王の身瘡
 闍王は阿闍世王のこと。阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。
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五逆誹法の二罪
 五逆罪と誹謗正法の二罪のこと。
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悪瘡
 悪性のできもの、はれもの。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。
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三七日の短寿
 残り3週間・21日間の生命しかない重病。
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四十年の宝算
 40年間の尊い寿命のこと。
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千人の羅漢
 千人の阿羅漢のこと。阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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一代の金言
 釈尊一代50年の説法のこと。
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正像末
 仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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流布
 広く世に広まること。
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禅門
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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謗法の一科
 正法誹謗の唯一の罪科。
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所持の妙法
 受持している南無妙法蓮華経・御本尊。
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 現実の証拠
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一切世間眼
 すべての世界を正しく見る眼。その眼を持つ仏。
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大妄語の人
 うそつきの人。大虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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綺語の典
 真実に背いて巧みな言葉で飾り立てた経典。
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名を惜しみ
 名誉を大切に思うこと。
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世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
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 働きかけによって現れる結果・利益。
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 堅く約束すること。
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賢聖
 聖人と賢人のこと。
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叫喚
 叫びわめくこと。
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書は言を尽さず
 文章では言いたいことを十分に書き尽くせないということ。
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言は心を尽さず
 言語では思っていることを十分に言い表せないということ。
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見参
 対面・お目にかかること。
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 太田入道の病気が、過去の謗法の罪を滅して未来の大苦を免れるために起きたものであることを明かして、信心を励まされている。
 太田入道が、真言の檀那の家来筋の家に生まれ、長年の間、悪法に染まってきたことを指摘され、この謗法の罪は滅し難いが、宿縁があったためか、仏の大慈悲によってか、日蓮大聖人にお会いすることができて謗法を悔い改め、発心して正法を信受したことによって、未来に受けるべき大苦悩を償うために、現在に軽い病気が現れたのであると、述べられている。
 この転重軽受の法門は、文永8年(1271)10月に、太田入道・曾谷入道・金原法橋の3人に対して与えられた御消息の中でも明かされている。そこでは、大難を受けることが過去の正法誹謗の重罪を軽く受けて消滅するためであることを教えられているが、本抄では太田入道の病気も過去の謗法を軽く受けて消すためであるといわれている。したがって、現実には重い病気であっても、未来に受けるべき大苦悩に比べればはるかに軽い病気といえるのである。
 そして阿闍世王の場合、全身に悪瘡を生じて寿命まで尽きようとしたのは、五逆罪と謗法の罪によって招いたものであり、仏が月愛三昧に入って阿闍世王を照らしたために悪瘡がたちまちに消え、21日間の短い寿命が、40年も寿命を保つことができたと述べられ、それと比べ合わせたとき、太田入道がこの病を乗り越えられないわけがないと励まされている。
 寿命をのばすことができた阿闍世王は、釈尊の滅後、1000人の弟子が集って行ったとされる第1回の経典の結集を外護している。釈尊の滅後、仏の教法が散逸するのを恐れた迦葉が上首となって、阿難が経を、優婆離が律を誦して、経と律の結集が行われた。大唐西域記には、第1回の結集は阿闍世王の王舎城の南、畢波羅山麓の畢波羅窟の法堂で行われたとあるが、異論もある。なお、経典の結集はこのあと、100年ほどの間隔で4回にわたって行われている。
 いずれにせよ、釈尊はその教えを各地を巡回するなかで、さまざまな人を対象に説いたものであり、もし、阿闍世王の外護によってこの第1回の結集が行われていなかったら、各地にバラバラに伝えられるのみで、やがては消滅していったであろう。まさに阿闍世王の寿命が延びたことによって、釈尊の教えが、その後、正法・像法・末法にわたって流布し、人々を利益していきことが可能になったのである。
 阿闍世王に比べれば、太田入道の病気は、真言を信じて正法を誹謗した罪だけであり、しかも信受している妙法は、釈尊の月愛三昧とは比較にならない大法であるから、この軽病を治して長寿を招けないはずはない、と励まされている。
 そして、もし病が治らないようなことがあれば、仏は大妄語の人であり、法華経は真実でない偽りの経典であると訴え、名を惜しむならば、仏よ験を顕し、諸の賢聖は来って護りたまえと強く叫べ、と教えられている。
 阿闍世王の重い悪瘡でさえも治ったのであるから、太田入道の病気は、妙法の力で治らないはずはないとの大確信に立つよう促されて、本抄を結ばれている。