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日蓮大聖人御書講義191024~1040
曾谷教信について
1024~1024 曾谷入道殿御御書(法華真言違目)
1025~1025 曾谷入道殿御返事
1026~1040 曾谷入道許御書(五網抄)
1026:01~1026:04 第一章 末法適時の要法を選ぶべきを示す
1026:04~1027:02 第二章 法華経弘通に摂受・折伏あるを示す
1027:03~1027:15 第三章 爾前経の得道も過去の下種によるを明かす
1027:15~1028:04 第四章 真言宗が所依の経に迷うを示す
1028:05~1028:10 第五章 諸宗の祖の天台帰伏を明かす
1028:10~1028:18 第六章 正法千年の弘教を明かす
1028:18~1029:02 第七章 真言宗の密教伝来の妄語を破す
1029:10~1029:18 第八章 像法時代の中国の弘教を明かす
1030:01~1030:05 第九章 像法末の伝教大師の弘教を明かす
1030:06~1030:13 第十章 末法の濁悪の相を示す
1030:13~1032:03 第11章 末法への付嘱の人法を明かす
1032:03~1032:18 第12章 末法に地涌出現の理由を示す
1033:01~1033:15 第13章 末法に地涌出現の文証を挙げる
1033:16~1034:03 第14章 付嘱の要法を挙げ広・略の付嘱を述ぶ
1034:04~1035:01 第15章 付嘱による正像の仏法流布を示す
1035:02~1035:18 第16章 真言宗の弘法の謗法を挙げる
1036:01~1036:18 第17章 法華経誹謗を糾した先例を挙げる
1037:01~1038:13 第18章 要法が末法に出現することを明かす
1038:13~1039:01 第19章 聖教の収集を依頼される
1039:02~1039:14 第20章 正法受持と誹謗の現証を明かす
1039:15~1040:05 第21章 二人の信心を励まして結ぶ
曾谷教信についてtop
曾谷教信とその子息・曾谷道宗がいただいた御書は、教信が大田乗明等と連名でいただいたものも含めて九編が伝えられているが、転重軽受法門を除く八編を18・19の二巻に収録した。
各編の講義の参考に、曽谷教信について次の二点を簡単に述べておく。
第一に、曾谷教信の人物像と家族について。
第二に、曾谷教信の信仰姿勢について。
一、曾谷教信の人物像と家族ついて
(一)出身
曾谷教信は下総国葛城郡八幡庄曾屋の領主で、幕府に仕えていた役人であるといわれている。
曾谷町一帯は、近年、日本でも最大級といわれる馬蹄型貝塚の跡である曾谷遺跡が発見され、縄文武士器が多数発見するなど、縄文時代から集落生活が営まれており、古代から人類が生活する条件に恵まれた土地柄のようである。
この曽谷町に、曾谷氏が領主として住んでいたといわれる城跡がある。「曾谷村長谷山安国寺略縁起」や「曽谷安国寺祖像記」などに、この城址についての記述がみられ、また、八幡庄曾屋郷の地名は、中山法華経寺文書の千葉胤貞譲状や、浄光院文書の千葉胤継寄進状案、さらには弘法寺文書の平某寄進状などにもみられる。
曾谷教信の出自につては、諸説がある。
日潮の「本化別頭仏祖統記」は教信と出自について、桓武平氏の流れをくむ下総国の豪族・千葉氏の系譜を探って千葉勝胤の子重胤が下総国千田庄に住し、その九代の裔が曾谷教信であるとしている。
日順の「御書略注」は、曾谷教信は清原皇后宮大進三位清原真人行清の裔の大野政清の子であるとしている。しかも、大野政清は大聖人の御母の兄にあたるとしているから。この説に従えば、教信は大聖人と従兄弟という関係になる。
ちなみに、大聖人の御母の係累については「産湯相承事に「悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云」(0878-01)と述べられており、「本化別頭仏祖統記」などは畠山政清は畠山氏の一族であるとしている。
日精の「日蓮聖人年譜」では「註画讃に云く母は清原氏云云、此の説末だ本拠を見ず。産湯記に云く悲母梅菊女童女の御女なり畠山殿の一類に御座す云云」と、産湯相承に述べられている畠山氏の名を挙げておられるだけで、清原氏との関係については確認する根拠がないとしている。
また「曾谷村長谷山安国寺略縁起」や「曾谷安国寺祖像記」によれば、右大将源頼朝は故あって千葉勝胤を下総を与えたが、その裔の千葉介胤鎮が同族の曾谷重胤に曽谷村の近在三千町歩を与えた。曾谷教信はこの重胤から二代後であるとしている。
更に、転重軽受法門の宛名に金原法橋御房の名がみえるが、千田庄金原郷は中山法華経寺の千葉胤貞譲状にもみえる地名で、法橋はこの地に住んで金原を名乗ったと思われる。当時、千葉氏の本領であった千田庄に住む金原法橋が千葉氏と無縁であったはずがなく、その金原氏と教信の深い交誼からすれば、教信と千葉氏との間に親戚あるいは姻戚関係があったとしても不思議ではない。
しかし、曾谷教信が千葉氏の系譜から出ているとする、いまひとつ確かな手掛かりがない。
千葉氏の系図は大部分が江戸時代に成立したものといわれているが「千葉大系図」の十一代千葉介胤宗の兄・宗胤は禅宗の円通寺に所領を寄進しているし、十二代千葉介貞胤は死にあたり、時宗の引導を受けている。
千葉氏は代々、念仏信仰に心を寄せていたようで、法華経の信仰をするようになったのは、宗胤の子・千田太郎胤貞の猶子で、中山法華経寺の三代目日祐以後といわれているから、大聖人が御遷化された後ということになる。このように教信の出自については、大野氏説、千葉氏説等があるがいずれも決め手を欠き、ここでは併記するにとどめる。
(二)教信の生年について
教信の生涯についても、先の諸説に応じて種々の諸説があり、確定できないが、ここでは「御書略注」の説によってみてみたい。
「御書略注」によれば大野氏の先祖は清原皇后宮大進三位清原真人行清で、家は代々、故実の博士で鎌倉幕府開創以来、問注所の役人で、大進家といったとある。下総八幡庄大野郷を所領とし、大野郷に住むようになって大野姓を名乗るようになったといわれる。
また大野政清は念仏の強信者で、教信の父が政清とすれば、建治元年(1275)の法蓮抄に「彼の諷誦に云く『慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す』等云云」(1047-08)と仰せられていることから逆算して、弘長3年(1263)に没している。
教信の生年については元仁元年(1224)説が用いられているが、この生年について明らかにする資料は見当たらない。
松戸市平賀にある長谷山本土寺の「本土寺大過去帳」に、「曾谷法蓮実名日礼五月」の記載はあるが年代は不明である。富士年表にもこの過去帳に依って、永仁2年(1249)5月1日の項に「曽谷入道法蓮卒」としているが、亨年は不明である。
(三)家、及び社会的立場
曽谷教信の社会的地位については、曾谷郷の領主で幕府に仕えていたこと以外は資料に乏しく推測の域を出ないが、大野政清の子とすれば教信も同じく問注所に勤めていた文官ではなかったかと思われる。
更に、最近の研究では富木常人が千葉氏の家臣であったことが通説になっており、教信も富木氏同様、千葉氏の家臣ではなかったかとする説もある。
また観心本尊抄送状に「観心の法門少少之を注して大田殿・教信御房等に奉る」(0255-01)と述べられているように、最も難解かつ重要な観心本尊抄をはじめ、御手紙も純漢文体の御書を送られており、大聖人の壇越でも富木常忍・大田乗明等と並んで屈指の知識階級に属していたと思われる。
また、文永11年(1275)3月の曾谷入道許御書に「貴辺並びに大田金吾殿・ 越中の御所領の内並びに」(1038-17)と仰せられているように、教信は越中に所領を有していることが分かる。更に、大聖人から莫大な費用の嵩む書物の収集を依頼されていることから、経済的にもかなり豊かであったことがうかがえる。
これらの点から、曾谷教信は大聖人の檀越のなかでも、豊かな知識と教養をもち、しかも、財力に恵まれ、門下の経済的支柱の一人であったことが分かる。
(四)家族について
曾谷教信の家族についても、確かな資料が乏しく、多くは俗伝であるが、ほぼ次のことがいえる。
(イ)妻
曾谷教信の妻は、法華経の信仰が厚く大聖人から蓮華比丘尼の名を授けられたとされ、寺誌などには三度大聖人を請じ、説法を欽奉したと記されている。
(ロ)子供
「本化別頭仏祖統記」によれば、教信には二人の子供がいたとされる。そのうち一人が女子で、芝埼の前といわれ、千葉宗胤の子・胤貞の室になったとある。
ただし「平賀本土寺史要には、千葉胤宗の子・貞胤の室とあり、芝埼の前が難産で、平賀本土寺の宗祖の御影に祈念したところ、たちまち安産をし、喜びのあまり平賀六ヵ村の男女がことごとく改宗し、本土寺の檀那となった旨が記されている。
胤貞、貞胤いずれの室であるかはともかくとして、曾谷教信は娘・芝埼の前を通して、下総国の実権者千葉氏と強いつながりをもっていたことがうかがえる。
教信のもう一人の子供が嫡子・曾谷四郎左衛門直秀、入道して道宗である。道宗は野呂の石井左近と縁があり、父と別居して野呂に移り住んだといわれている。後に、平賀に一寺を建立しようとする父・教信と野呂に建立しようとする道宗との間に五ヵ年間、不和が続いたという。建治元年(1275)11月、野呂の館内に一宇を建立し、日合を迎えて妙興寺を興した。
道宗は、身延の山中で御不自由な生活を余儀なくされている大聖人に多額の御供養をしている。曾谷殿御返事に「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ、いくそばくか過去の聖霊も・うれしくをぼすらん、釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや」(1065-06)と、その信心をほめられ「貴辺あに世尊にあらずや」とまで仰せられている。
後に、平賀本土寺とも交流するようになり、本土寺第八代日福は道宗の孫であるといわれている。
(ハ)弟
また、教信には二人の弟があると伝えられるが、確かなことは分からない。「御書略注」には一人は浄蓮房で金原大宮の別当金原法橋であるとし、もう一人は大聖人の御書にしばしば登場する大進阿闍梨がそうであるとしている。しかし、この二人が教信の弟であるとする明確な資料はない。
また、三位房も教信の弟であるとする説があるがこれも、全く根拠がない。
二、曾谷教信の信仰姿勢について
(一)入信について
大聖人と曾谷教信の出会いについて、いつ、どこで、どのような経緯で入信したのか明らかではないが、一説では、文応元年(1260)ごろ、富木常忍邸で大聖人の化導によって大田、秋元氏らとともに入信したと伝えられている。
文応元年(1260)7月16日、大聖人は前の執権北条時頼に宛てて立正安国論を上書されている。第一回目の国主諌暁である。これに対し、下山御消息に「御尋ねもなく御用いもなかりし」(0355-03)と述べられているように、幕府からなんらの沙汰もなかったばかりか、一月ほどした8月27日、突然、松葉ヶ草庵に暴徒の襲撃を受けられるのである。大聖人は危うくこの難を避けられ、ひとまず鎌倉を離れて下総の富木氏の館に身をよせられたといわれる。富木氏は法華堂を建立して寄進申し上げ、ここで百座の説法が行われたと伝えられている。
当時、富木氏の館は下総国葛飾郡八幡庄若宮にあり、教信の住む曾谷とは目と鼻の先の距離であり、日頃から富木氏と密接な交流があった教信が、説法の座に加わって入信したことも、ありえぬことではない。
(二)入道について
曾谷教信が大聖人からいただいた最初の御消息は、文永8年(1271)10月の「転重軽受法門」で、このときすでに「曽谷入道殿」の宛名になっている。文応元年(1260)に入信したとして、文永8年(1271)、までの11年間に教信の身辺に何が起こり、信仰の転機となって入道したのか、それを知る資料は見当たらない。
ただ、教信が大野政清の子であるとすれば、この間、弘長3年(1263)に政清が死去しているという事実がある。大聖人との出会いによって、法華経信仰の正しさを知った教信にとって、念仏信仰のまま最後まで、正法に目覚めることのなかった父への哀惜から、孝心の篤い教信が、この父の死を転機に入道したということも考えられる。
(三)教信の孝養
法蓮抄に「彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云」(1047-08)と述べられている。父の死去以来実に12年間、教信は自我偈一巻を父のために読誦し続けたのである。
大聖人は教信の孝養の志を喜ばれ、「法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何に況や情あらんをや又父子の契をや」(1047-06)と教信の信心を励まされている。
そして、その功徳について「今の施主・十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ」(1049-15)と述べられている。
更に「法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり 大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ」(1050-14)と仰せられている。
純真に大聖人の仏法の信仰に励み、かつ孝心の厚い教信に対して、大聖人は「法蓮上人」と述べられ、そのけなげな孝養の姿を烏竜遺竜の故事の遺竜にたとえられ「是れこそ実の孝養」と仰せられているのである。
(四)大田乗明、金原法橋と曾谷教信
転重軽受法門に「修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり」(1000-01)と仰せられているように、曾谷教信、大田乗身、金原法橋の三人は信仰上のみならず、日常生活においても密接な関係にあったようである。
大田乗明は大聖人と同年の貞応元年(1222)の生まれで、下総国葛飾郡八幡庄中山に住し、祖父・三善康信や父・大田康連と同様に鎌倉の問注所の役人であったといわれる。乗明は本来、三善家は高野山金剛峰寺に大搭を供養したこともあり、かなり熱心な真言宗の信徒であったようである。
文応元年(1260)、大聖人が富木邸で百座説法を講じられた席に教信等とともに参加し、入信したといわれているが、乗明も教信や富木氏同様、当時の知識階級に属する人達であったから、大聖人の真言亡国の説法を聞いても、初めはそれに反発し、憤りさえ感じたことであろう。しかし、大聖人の一国の安堵を願う大師子吼に感動し、真言を捨てて、大聖人のもとに帰依したのであろう。
文永12年(1275)3月教信は大田乗明と連名で曾谷入道殿許御書をいただいている。そのなかで「貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ」(1038-17)「若し此の書を見聞して宿習有らば其の心を発得すべし、使者に此の書を持たしめ早早北国に差し遣し金吾殿の返報を取りて速速是非を聞かしめよ」(1039-18)と大聖人から「大檀那」と呼ばれ、しかも諸山秘蔵の書物の収集という重要な依頼をされている。
また、この御文からも拝せるように、越中に所領を持っており、しかもかなり長期にわたって、滞在いていたようである。「吾妻鏡」建長2年(1250)3月1日の項の造閑院殿雑掌の事のなかに、裏築地の押小路面20本の中2本を越中大田次郎左衛門尉に割り当てられたことが記されている。
金原法橋については、転重軽受法門に一度だけ登場する。詳しいことは分からないが、千田庄金原郷に住した千葉氏有縁の人であったと思われる。ある説では、千葉胤長の兄の日諭がその人であるとしている。社会的立場は金原郷の在地領主である。
ともあれ、文応元年(1260)の富木氏邸における曾谷教信、大田乗明らの入信以来、大聖人の下総における教勢は一挙に拡大し、千葉氏の縁者にまで深く浸透していったことが分かる。
(五)曾谷教信と迹門不読について
建治元年(1275)11月、大聖人が富木常忍に宛てられた観心本尊抄得意抄に「抑も今の御状に云く教信の御房・観心本尊抄の未得等の文字に付て迹門をよまじと疑心の候なる事」(0972-06)と述べられている御文がある。大聖人に帰依し、一生不退を決意した教信が、行解が進むにしたがって、一時、法華経の迹門は読まなくてもよいのではないかとの、疑問を持ったことがあった。ともに信心に励んできた常忍がそのことを大聖人に報告し、指導を求めたのである。
なお、弘安2年(1279)5月の四菩薩像立抄にも「一御状に云く大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由」(0989-03)の御文が見られるから、大田乗明も迹門不読の我見を構えたことがあったようである。
このことは、大聖人が富木常忍並びに教信、乗明に与えられた観心本尊抄のなかの「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-09)等の御文を教信等が誤って解釈したものと思われる。一品二半とは、法華経従地湧出品の後半・半品、如来寿量品の全一品、分別功徳品の前半・半品のことをいい、この一品二半以外の教えは邪教等と大聖人が仰せられた以上、法華経以前の諸経はもちろん、法華経のなかでも迹門は無得道であろう。したがって迹門は読まなくてもよいのではないか、と考えたのである。
これに対して大聖人は「不相伝の僻見にて候か」(0972-06)と仰せられ、富木常忍に「去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候しが其の通りを以て御教訓有る可く」(0972-07)と教信に善導を託された後、大聖人は真意を説かれている。すなわち「所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり」(0972-07)と仰せられ、同じ法華経の迹門でも、いま末法において大聖人の読まれる迹門と像法時代の天台の迹門とは異なることを明されたのである。
もともと観心本尊抄の「一品二半よりの外は」云々の御文は、一切経を批判するにあたり、五重三段の法門をもって法体の勝劣を論じたもので、修行の是非を論じられたものではない。それを教信が法体と修行を混同して、迹門不読の我見を起こしたのである。
大聖人の御教示によって、教信も素直に迹門不読の我見を改め、再び純真な信心に立ち戻ったものと思われる。その後、大聖人の信頼はいよいよ厚く、教信は門下の大檀那として地歩を固めていったようである。
弘安4年(1281)7月曾谷次郎入道御返事には、蒙古襲来に備え、出陣することになるかもしれない教信に対して、大聖人は「然るに日蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し、何れの代にか対面を遂げんや」(1069-06)と、「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」とまで仰せられ、別れを惜しまれている。
(六)曾谷教信の事跡
(イ)平賀本土寺と曾谷教信
平賀本土寺と曾谷教信の関係については、寺伝や民間伝承などによってしか知ることができないが、本土寺の創建については文永6年(1269)、大聖人に帰依した郡の目代、蔭山土佐守が平賀郷神野の松原に法華堂を建てたのが始まりであると伝えている。
寺域は源氏一門の平賀家の屋敷跡といわれ、寺伝では、清和源氏新羅三郎義光の三男が平賀四郎盛義であり、その孫義信は武蔵守となり、美濃も領して80万国の大豪族となり、その子惟義は頼朝とは義兄弟で相模守となり、伊賀を領した。その子惟信が承久の乱で天皇側に与し、破れて当地に配流されていたと伝えられている。
また、日晴の「平賀本土寺継図次第」には、曾谷教信が平賀に在郷して、地蔵堂を改めて法華堂とし、日朗にその開山を要請したが、日朗は池上・比企谷の両寺を領していたため、代官として大円阿闍梨日伝を遣わす代わりに、日蓮大聖人授与の大曼荼羅、九条の袈裟ならびに水晶の数珠を授けた旨が記されている。また、本土寺第八世日福は曾谷教信の曾孫で、大野の法蓮寺から入山したとある。
また「平賀本土寺史要」は、建治3年(1277)正月に、檀越の曾谷山城守胤直が、平賀郷鼻和に一宇を建立し、地蔵堂を改めて法華堂を改めて法華堂とし、開堂供養の導師を大聖人にお願いしたが、大聖人は日朗に命じて代わりに導師を務めさせた。この時、九条の袈裟と念珠を日朗に賜ったと記している。
(ロ)安国寺と曾谷教信
曾谷山安国寺と教信の関係についても、確かなことは分からない。寺伝には曾谷日礼が文永11年(1274)11月に創建されたとある。山号は一般には長谷山と称したが、曾谷氏の城内にあったので、曾谷山というとうになったと伝えている。
また、別の資料では、建長年間に大聖人の折伏で入信した教信が、大聖人の恩に報いるために安国寺を建立し寄進したとも伝えられている。
(七)御供養と賜書
(イ)曾谷教信、道宗の御供養
御供養については、大聖人の御書に拝する限り多いとはいえないが、一回分の御供養の額、量が多いことに驚く。すなわち鵞目10貫、扇100本、小字法華経は際立っている。
また、弘安2年(1279)3月の「鵞目若干」の御供養については「若干」とあるものの「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(1065-06)とあることから、その規模がうかがえる。
御供養の品々には生活必需品ともいうべき、食料、衣料、果物、香辛料などがみられ、教信の細やかな気配りがうかがえる。さらに、先にも述べたように、身延の大聖人から諸山秘蔵の経巻等の収集を依頼されているから、各地から収集したかなりの書物を大聖人にお届けしたと思われる。
(ロ)賜書
曾谷教信・道宗が賜った御書は、転重軽受法門/曾谷入道殿御書(法華真言違目)/曾谷入道殿御返事/曾谷入道殿許御書(五綱抄)/法蓮抄(父子成仏抄)/曾谷殿御返事(成仏用心抄)/曾谷入道殿御返事(如是我聞事)/曾谷殿御返事(輪陀王御書)/曾谷二郎入道殿御返事の九編である。
なお、観心本尊抄送状によれば、観心本尊抄に註を入れて送られていることになるが、同抄の元本は富木入道になっているから、曾谷殿の賜書に加えないことにした。
送られた御書のうち、曾谷入道殿御書(法華真言違目)/曾谷二郎入道殿御返事の二編は漢文体であり、このような漢文体の御書を賜ったのは、富木常忍/大田乗明/大学三郎/波木井三郎/池上宗仲/妙一尼の6人だけとされており、曾谷教信は少なくとも漢文を解読でき、法門や種々の引用文を理解できたことがうかがえる。
教信の賜書に共通していることは、大聖人の法門に関する内容のものが多いということである。他の檀越にみられるように教信自身や家族に関する記述は少なく、わずかに法蓮抄に父の13回忌を迎えた教信の孝養ぶりを伺い知る程度である。
(八)曾谷教信の晩年
教信はその後、大野に移り、建治3年(1277)法蓮寺を創建している。
晩年の教信は、次第に富木氏や大田氏と疎遠になり、平賀の系統、すなわち日朗門流に傾斜していくようである。その背景にあった事情については、詳細は分からない。
ただ、檀越のなかでも仏法の信解も深く、大聖人から「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」(1069-09)とまで信頼され、門下の経済的支柱として功績のあった教信が、なぜか「宗祖御遷化記録」にも「御遺物配分事」にもその名前が記されていない。富木氏や大田氏の名は明記してあり、教信が大聖人御遷化という重要な席に、なぜ参加していなかったのか、いずれにしても、法華経の信仰者として教信の晩年に、信仰の節目となる何かがあったのではないかと推測されるが、それを明らかにする資料はないのが残念である。
1024~1024 曾谷入道殿御御書(法華真言違目)top
| 1024 曾谷入道殿御書 文永十一年 五十三歳御作 於身延 01 自界叛逆難・ 他方侵逼の難既に合い候い畢んぬ、 之を以て思うに「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民 02 諸の苦悩を受け土地に所楽の処有ること無けん」 と申す経文合い候いぬと覚え候、 当時壱岐・対馬の土民の如く 03 になり候はんずるなり、 是れ偏に仏法の邪見なるによる仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり、 禅宗 04 と念仏宗とを責め候しは此の事を申し顕さん料なり漢土には善無畏・ 金剛智・不空三蔵の誑惑の心・天台法華宗を 05 真言の大日経に盗み入れて還つて法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に 漢土滅するなり、 日本国は慈覚大 06 師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取つて 伝教大師の鎮護国家を破せしより叡山に悪義・出来し 07 て終に王法尽きにき、 此の悪義・鎌倉に下つて又日本国を亡すべし弘法大師の邪義は中中顕然なれば 人もたぼら 08 かされぬ者もあり、 慈覚大師の法華経・大日経の理同事勝の釈は智人既に許しぬ 愚者争でか信ぜざるべき慈覚大 09 師は法華経と大日経との勝劣を祈請せしに 箭を以て日を射ると見しは此の事なるべし、 是れは慈覚大師の心中に 10 修羅の入つて法華経の大日輪を射るにあらずや、 此の法門は当世・叡山其の外日本国の人用ゆべきや、 若し此の 11 事・ 実事ならば日蓮豈須弥山を投る者にあらずや、 我が弟子は用ゆべきや如何最後なれば申すなり恨み給べから 12 ず、恐恐謹言。 13 十一月二十日 日蓮花押 -----― 自界叛逆難と他方侵逼の難は予言が的中し、すでに現実のものとなった。このことから思うに「多くの他国の怨賊が攻めてきて国内を侵略し、人民は諸の苦悩を受け、どこにも安楽のところがない」という経文によく符合している。やがて日本国の人々は皆、今の壱岐・対馬の土民のように苦しみをうけることになるであろう。これはひとえに仏法上の邪見によるのである。 仏法上の邪見というのは、真言宗と法華宗との勝劣について誤った見解をいうのである。日蓮が禅宗と念仏宗の非を責めたのは、この真言宗の誤りを申し顕すまでの道筋にすぎない。中国では、善無畏・金剛智・不空の三三蔵が、誑惑の心によって天台法華宗に説く一念三千の法理を、真言の大日経のなかに盗み入れて、かえって、法華経の肝心と天台大師の徳とを隠したため、国が滅びたのである。日本国では、慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部経であると定めて、伝教大師の鎮護国家の法を破ってしまったから、比叡山に悪義が起こり、ついに、王法が滅びたのである。更に、この悪義は鎌倉にまでやってきて、また日本国を滅ぼすに至るであろう。 弘法大師の邪義は、かえってはっきりしているから、惑わされない者もいるが、慈覚大師の法華経と大日経との理同事勝の解釈は智者ですら認めてしまったくらいであるから、愚者はどうして信じないことがあろうか。慈覚大師は法華経と大日経の勝劣を定めるのに、祈請を凝らして、箭をもって日を射た夢を見たという。これは慈覚大師の心中に阿修羅王が入って法華経の大日輪を射たということではないか。この慈覚の法門を、当世の比叡山やその他日本国の人々は信ずべきであろうか。もし、大日経が法華経に勝るという慈覚の結論が本当ならば、日蓮は須弥山を投げる愚かなことをしている者となろう。だが、我が弟子はこのことを認めるべきであろうか。最後であるからいうのである。日蓮が申すことを信じないで、後で日蓮を恨んではならない。恐恐謹言。 十一月二十日 日蓮花押 |
自界叛逆難
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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他方侵逼の難
他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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壱岐
壱岐島のこと。西海道12ヵ国のひとつ。九州・博多湾と対馬との中間にある島。現在は長崎県に属する。対馬とともに古くから日本と大陸を結ぶ交通の要衝であった。蒙古襲来における現証となった地。
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対馬
日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。対馬の大半を占める主島の対馬島のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国や対州、また『日本書紀』において対馬島と記述されていた。旧字体では對馬。
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真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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法華宗
法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空三蔵
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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鎮護国家
仏法によって災難を鎮め国家を護ること。国王がその経を受持すれば諸天善神に守護されるとする護国思想を説く経典が、朝廷や貴族の間で重視され、講説・祈禱に用いられた。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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理同事勝
真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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修羅
梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
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大日輪
太陽のこと。
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須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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本抄は、文永11年(1274)11月20日、日蓮大聖人が御年53歳の時、身延から下総国の曽谷入道に与えられたお手紙である。
この1ヵ月前の10月6日には、大聖人が、最も心配されていた蒙古の襲来があり、対馬の守備軍は全滅、同14日には壱岐の守備兵が全滅して、いつ九州を襲ってくるかと、恐怖と不安で騒然となっていた時である。しかも御手紙の1ヵ月後には蒙古軍が博多湾に上陸してきたのである。
内容は、文応元年(1260)7月16日の立正安国論以来、数度にわたって繰り返し予言した自界叛逆・他国侵逼の二大国難が的中したことを指摘され、その根本原因が仏法の邪見、すなわち天台宗比叡山延暦寺の第三祖・慈覚が、法華経と真言の大日経との勝劣を「理同事勝」と解釈し、正法である法華経を大日経に劣ると下した邪義に原因があることを述べられている。
「自界叛逆難・他方侵逼の難既に合い候い畢んぬ」とは、文応元年(1260)7月16日の立正安国論において金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の明文に照らし予言したとおり、すでに国内には内乱が起こり、他国からは攻められるという、二大国難が的中し現実のものとなったことを仰せられている。
しかも、日蓮大聖人は文永8年(1271)9月12日に受けられた竜の口の大法難の直前、平左衛門尉に向かって、大聖人を迫害する時は、必ず自界叛逆と他国侵逼の二難があることを断言された。すなわち「遠流.死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911-11)と厳しく仰せられたのである。
この予言どおりに、「自界叛逆難」は安国論以後12年、竜の口法難以後150日に的中し、文永9年(1272)2月11日に、北条時輔の乱が起きたのである。時輔は北条時頼の子で、鎌倉幕府第八代執権時宗とは異母兄の関係にあった。時頼の正妻の子でないからという理由で、家督を時宗に取られたのを恨んでの謀反を企てたのである。だが、それを事前に察知した時宗は、2月11日に、一味と目された名越教時、仙波盛直らを鎌倉で誅殺し、同15日には京の南六波羅探題にあった時輔を六波羅北方の北条義宗らに襲わせたのである。「二月騒動」といわれる内乱事件である。
次の「他国侵逼の難」は安国論から8年後の文永5年(1268)に最初の国書が到来して現実の問題となり、更に安国論から14年の文永11年(1274)10月には大軍をもって襲来したのである。当時の大元帝国は、世祖フビライの時代であり、アジアの大部分、中央アジア、東ヨーロッパにまたがる広大な領域を支配していた。この強大な元帝国が日本討伐に襲いかかってきたのである。記録によると、蒙古軍三万、支配下の高麗軍一万三千を加えて、大小の戦艦九百隻をもって遠征してきたのである。10月6日、対馬を攻撃、守護代の宗助国以下全滅、10月14日には壱岐を攻撃、守護代の平景高以下全滅、更に12月20日、九州博多湾に上陸、博多、箱崎を侵略した。しかし、太宰府の占領を翌日に延ばして船に引き揚げたところ、冬の季節風にみまわれ、遠征軍は高麗の合浦に引き返したのである。
本抄を認められた11月20日の時点では、まだ九州本土へ上陸してくる前であり、大聖人は壱岐・対馬の例を挙げて今の日本の国が、壱岐・対馬と同じようになるであろうと述べられ、これもひとえに「仏法の邪見」から起こってくると、災難の根本原因を指摘されている。
仏法上の邪見の最たるものとして大聖人は真言の邪法を指摘され、中国を滅亡させ日本の朝廷を敗北させた事例を示されて、今度は日本全体を滅ぼすであろうと警告されている。
本抄では「仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり」と仰せのように、真言宗と法華宗との勝劣について真言は勝れ法華は劣るという邪義を取り上げられている。
大聖人の邪法邪義に対する破折は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四箇の格言に要約される。これを、大聖人御化導の次第からみると、法門弘通の当初から四宗を並列して同時に破折されたわけではない。
佐渡以前の破邪は、もっぱら念仏・禅の二宗であった。例えば、文応元年(1260)7月16日の「立正安国論」で明確に名を挙げて破折されているのは法然の念仏のみである。これは権実相対の上から破邪顕正に力を注がれたゆえと拝される。
佐渡以後、いよいよ真言宗に対して破折を加えられていく。それは例えば文永9年(1272)2月の開目抄で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられ「華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり」(0189-01)と破折されていることにあらわれている。
真言宗は弘法大師空海に始まるわけであるが、大聖人御在世当時は、伝教大師最澄が開いた比叡山天台宗までが法華宗とは名ばかりでありその実体は真言密教の亜流と化していたのである。しかも、天台、真言の両宗は朝廷、幕府の帰依を得、国家存亡の鍵を握る権力の中枢に深く根をおろしていた。
したがって、真言の邪義に対する破折は必然的に真言の邪義に染まった天台宗を打ち破ることになったといえよう。佐渡以前に禅・念仏を破折したのは、仏の本意を説いた正法が法華経であることを明らかにするためであったが、更に法華経の正意を明らかにしていくためには、必然的に真言の邪義を破折しなければならない。
そこで、真言の邪見がどのように作られ、真言宗を用いた結果がどうなったか、中国と日本の事例を示されている。
中国では、真言密教の開祖となったのが、善無畏・金剛智・不空の三人であった。彼ら三人によって、邪見の根源が捏造されたのである。善無畏がインドから真言密教をもって中国へやってきた時、すでに、中国仏教界の最高権威として天台宗が存在していた。善無畏らは、天台僧であった一行禅師をたぶらかし、ありもしない理同事勝の義を吹き込んだ。すなわち、インドでは大日経と法華経とは同じ経で、釈尊は大日経の印と真言を捨てて、理だけを説いて法華経と名づけたというのである。これをすっかり信じ込んだ一行は、「大日経の疏」を著し、善無畏らの布教を助ける結果となった。更に、善無畏はインドの王族の出身という触れ込みで、玄宗皇帝の帰依を受けたこともあずかり、急速に広まったのである。
この結果、天台の法華経の仏法は衰退し、この正法穏没が一国の滅亡を招くことになったのである。楊貴妃の色香に迷った玄宗皇帝のもとで楊氏一族が専横を振るい、安禄山の乱が起こって国内は混乱し、玄宗皇帝の退位もやむなきに至ったのである。表面的な原因は種々挙げられるが、その底流には亡国の邪法である真言を信仰したことが、害悪を引き起こしたというべきである。唐王朝のあとに建てられた栄王朝は弱体で、遊牧民族の金に、次いで蒙古に侵略され、漢民族は敗退を続けるのである。
わが国では、伝教大師によって開かれた天台法華宗比叡山延暦寺の第三代座主・慈覚が、真言宗と法華宗との勝劣について邪見を立てたのである。伝教大師は、小乗、権大乗を中心とした奈良仏教を打ち破って、実大乗の法華経を根本に、比叡山に迹門円頓戒壇を建立した。ところが慈覚は本師の伝教大師に背いて、真言の邪義を取り入れて台密を立て、大日経第一、法華経第二、諸経第三と立てた。そして、伝教大師の、法華経・金光明経・仁王経による鎮護国家の代わりに、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護の法としたのである。このように慈覚以後の、比叡山天台宗は真言密教の亜流と化し、仏教濁乱の根源となってしまったのである。
その結果、平安中期以降、国内は次第に乱れ、源平の争いのなかで安徳天皇は西海に沈み、更に、承久の乱では真言の悪法で幕府調伏を祈禱した朝廷方の第82代隠岐の法皇が、鎌倉幕府の北条義時に破れ、隠岐へ流罪されるというように、ついに王法の威光勢力は失墜してしまったのである。
ところが、今度は鎌倉幕府が、蒙古調伏の祈禱を真言の僧らに行わせており、今や日本国自体を滅亡させようとしている。大聖人はこのことを何よりも心配されたのである。
真言の邪法の源流は弘法と慈覚であるが、この二人を比べて、慈覚の流す害の方がおおきいことを次に示されている。
弘法は日本真言宗の開祖として、大日経を根本に立て、そのうえから法華経との勝劣を述べた、彼は「十住心論」「秘蔵宝鑰」「二教論」等のなかで「華厳経・大日経に比べると、法華経は第三の戯論である」とか「法身の大日如来に相対すると釈尊は無明の辺域である」などと述べているが、その誤りはむしろ見分けやすい。弘法の門人たちのなかでさえ「自分の師匠ではあるが、少し強く言い過ぎではないか」と批判した者もいるのである。
これに対し、慈覚の場合は、天台宗比叡山延暦寺の第三代の座主という立場にあった。しかも当時のあらゆる人々から、真言宗と法華宗の実義を学び尽くした大学僧であり、伝教大師よりも勝れていると思われていた有名人であった。この慈覚が、大日経と法華経は法理においては同じであるが、印と真言の事において大日経が勝れていると書いたのである。したがって、叡山三千人の大衆をはじめ、日本国の学者達が、その邪義にたぶらかされてしまったのである。
本来、叡山天台宗こそ真言の邪法と戦うべきなのに、座主の慈覚自身が真言に帰依して、真言宗の味方となってしまったわけである。
寛平親王の撰になる慈覚の別伝によると、慈覚は自分の著した法華経と大日経の勝劣論が仏意にかなうかどうかに迷い、仏像の前に安置し、七日七夜にわたって祈ったという。そして、五日目の夜明け方、夢を見た。その夢は、正午の太陽が輝いているのを仰ぎ見て、弓をもってこれを射ると、その矢が太陽に命中し、太陽は落ちたというものである。夢覚めて後、慈覚は自分の解釈が深く仏意に通達したと悟り、後世にこの疏を伝えるべきと決意した、という。
だが、これは、慈覚の心中に修羅が入って法華経の大日輪を射たもので、むしろ傲慢な仏敵となったことを証明しているのである。
このような修羅に魅入られた慈覚の邪義を、今の比叡山の僧徒、そのほか国中の人々が信ずべきでないことは明白である。もしも慈覚が正しいとするならば、それを破折している日蓮大聖人は須弥山を投げるような、およそ分知らずなことをしていることになろうと仰せられ、我が弟子は、慈覚の教えを正しいと認めることはできないはずであるかどうか、と問いかけられている。我が門弟だけは法門の正邪を誤って邪法を信じ、日本を亡国とするようなことがあってはならない、と厳父の慈悲をもって信を迫られているのである。
1025~1025 曾谷入道殿御返事top
| 1025 曾谷入道殿御返事 01 方便品の長行書進せ候 先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、 此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏 02 なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、 例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る 天人は甘露と見る水 03 は一なれども果報に随つて別別なり、 此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、 肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と 04 見る菩薩は無量の法門と見る、 仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、 されども 05 僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、 唯相構えて相構えて異念無く 一心に霊山浄土を期せら 06 るべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし、委細は見参の時を期し候、恐恐謹言。 07 文永十二年三月 日 日蓮花押 08 曾谷入道殿 -----― 方便品の長行を書写して差し上げた。先に差し上げた自我偈に添えて読まれるように。この経の文字は一字一字、ことごとく生身の妙覚の仏である。しかしながら、我等凡夫は肉眼なので、ただ、文字と見るのである。例えば餓鬼道のものは恒河を火と見、人間は水と見、天人は甘露と見る。水は同じでも果報によって別々なのである。それと同じように、この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず、肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧になるはずなのである。経に「即持仏身」とあるのはこのことである。けれども、僻見の行者はこのように尊い御経を破っているのである。ただ、用心に用心をして異念なく、一心に霊山浄土に参れるよう期せられるべきである。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文である。委細はお会いした時に申し上げる。恐恐謹言。 文永十二年三月 日 日 蓮 花 押 曾谷入道殿 |
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
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自我偈
寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
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生身妙覚の御仏
生身は肉身の意。妙覚の仏は元品の無明を断じ、一切の因行果徳を具足した仏のことで、生きている仏のこと。
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餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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恒河
ガンジス河のこと。
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天人
天界および人界の衆生。
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甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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心の師とはなるとも心を師とせざれ
六波羅蜜経巻七に「常に心の師と為るとも心を師とせざれば卒暴有ることなし」とある。
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六波羅蜜経
中国・唐の罽賓国・般若三蔵の訳10巻、大乗理趣六波羅蜜経のこと。
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本抄は、文永12年(1275)3月、日蓮大聖人が54歳の御時、身延においてしたためられ、曽谷教信に与えられた御消息である。なお、この年は4月25日に、年号が「建治元年」と改元されている。
この年は、曽谷教信の父が弘長3年(1263)に死去してから13回忌にあたっており、故聖霊の追善回向のために、御供養を大聖人に奉ったのであろう。この13回忌のことについては、本抄御述作の後、翌4月にしたためられたと拝される法蓮抄に教信自らが回向のために法華経五部を転読したこと、またこの13年間、自我偈を読誦し回向してきたことが記されている。しかも、自我偈読誦の功徳を述べられた個所では「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり」(1050)等とあり、ほとんど本抄と同文の内容となっている。この繰り返しは、おそらく教信からの諷誦の状に対して、まず、書写した「方便品の長行」に添えて短文の本抄が送られ、後に長文の法蓮抄が与えられたのではないかと推察される。
本抄の内容は、初めに方便品と自我偈の読誦を勧めておられる。そして、文底の深義のうえから、この経の文字は「事の一念三千」の法を説き明かしているとともに、一字一字が「生身妙覚の御仏」であり、人法体一であることを示されて、この経を信受し読誦することが、即仏身を持つ、すなわち我が身の即身成仏になることを教えられている。だが、我見を構える行者はこの尊い成仏の直道を破ると戒められ、心して教えどおりに信心修行していくよう勧められている。
日蓮大聖人は、曽谷教信にすでに法華経の本門寿量品の「自我偈」を書写して与えられていたようである。それが、この十三年間、故聖霊のために読誦してきたという「自我偈」であろうか。このたびは、迹門の「方便品の長行」を書写して与え、先の「自我偈」に相添えて読誦するよう述べられ、これからは、毎日の勤行において、方便・寿量の二品を読誦すべきことを教えられたものと拝される。
法華経二十八品のなかで方便品は迹門十四品の要であり、寿量品は本門十四品の要である。余の二十六品は皆、この二品の枝葉となるのである。このことは、月水御書に「寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり(中略)されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候」(1202)と仰せのとおりである。
大聖人の仏法は、法華経の本門寿量品・文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経をもって正意とし、究極の法体として御本尊とする。修行においては、御本尊を信受して正行と助行を立て、正行には題目を唱え、助行としては、正に本門の要である寿量品、傍に迹門の要である方便品を読誦するのである。成仏のための種子は御本尊を信受して、正行の題目を唱えることに限るわけであるが、その妙法の大功徳を助顕するために、方便・寿量の二品を読誦するのである。
しかも、「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり」と仰せられ、一々の文字が尊極の仏と顕れることを示されている。すなわち、この御文は文底の大事である文字即仏、人法体一の深意を示されている。「此の経の文字」とは、いうまでもなく、法華経二十八品の文字である。「生身妙覚の御仏」とは、本来、生身とは父母所生の肉身である凡夫のことであるが、この場合は生きた仏の生命の意である。妙覚とは悟りの極位に到達した仏を意味する。法華経は、釈尊の仏としての悟りを説き明かした経であるゆえに、その文字はことごとく生身妙覚の仏であると仰せられているのである。
これほど尊いこの経の文字であるけれども、凡愚の肉眼では、ものの表面しか見ず、文字即仏の尊い当体を、ただの文字としか見ることができない。
ものをどのように見、どのように受け止めるかは、見る者の「果報に随つて別別なり」と仰せである。果報とは、過去の業因によってもたらされた現在の生命の境界であり、十種の生命境界となって顕現する。
この十界に従って、ものの見方、受け止め方が異なるのである。例えば、同じ水であっても、貪りの餓鬼の境界にある者は、生命の渇きを潤すよりも我が身を焼く業火に見え、平穏な人間らしい境界にある者は普通の水と見、喜びの天界にある者は身心を清め、寿命を延ばす尊い甘露と見るように、生命の境界によって受け止め方が異なるのである。
この経の文字についても、同じことが言える。盲目の人は文字を全く見ることができない。凡夫は、目は見えても、ただの文字としか見ない。
仏法では、仏道修行によって身心を磨き、境界を高めていくことにより、肉眼のうえに、心の眼、生命の眼として天眼・慧眼・法眼・仏眼が具わることを説いている。声聞縁覚の二乗の境界には慧眼を具えているが、それは一切の諸法を実体のない空理であると悟る智慧の眼であって、文字を空と見る。菩薩の境界には法眼を具え、衆生済度のための無量の法門と見る。仏の境界には仏眼を具え、一々の文字を金色の釈尊、すなわち常住不変の生命の輝きをもつ仏なりと見ることができるのである。
しかし、「僻見の行者」すなわち邪見にとらわれた者は、このように尊い御経を爾前権経と同等視したりして破るのである。ただ用心に用心を重ねて邪義に惑わされ法華経以外にも成仏の道があるとするような異念をいだくことなく、妙法への正しき信心の一念を決定して、成仏を願い霊山浄土を期していかなければならないのである。
そのためにも、大事な信心の要諦は、六波羅蜜経に「常に我が心の師となって、心を師としてはならない」と戒めているように、常に仏説を根本として自分の一念に対し「師」となって自分の心を正信へ導いていくことである。
1026~1040 曾谷入道許御書(五網抄)top
1026:01~1026:04 第一章 末法適時の要法を選ぶべきを示すtop
| 1026 曾谷入道殿許御書 文永十二年三月 五十四歳御作 与曾谷入道 太田金吾 01 夫れ以れば重病を療治するには良薬を構索し 逆謗を救助するには要法には如かず、 所謂時を論ずれば正像末 02 教を論ずれば小大・偏円・権実・顕密・国を論ずれば中辺の両国・機を論ずれば已逆と未逆と已謗と未謗と師を論ず 03 れば凡師と聖師と 二乗と菩薩と他方と此土と迹化と本化となり、 故に四依の菩薩等滅後に出現し仏の付属に随つ 04 て妄りに経法を演説したまわず、 -----― つらつら思うに、重病を療治するには良薬を求め、五逆や誹謗正法の衆生を救済するには肝要の妙法五字を与えるほかない。 いわゆる、時を論ずれば、正法時・像法時・末法時という相違があり、教を論ずれば、小乗と大乗・偏教と円教・権教と実教・顕教と密教の相違があり、国を論ずれば中国と辺国の両国があり、機根を論ずれば已逆と未逆、已謗と未謗の相違があり、師を論ずれば凡師と聖師、声聞・縁覚の二乗と菩薩と、他方の菩薩と此土の菩薩、迹化の菩薩と本化の菩薩とがある。ゆえに、四依の菩薩等は釈尊の滅後に出現して仏の付嘱に従って法を弘めたのであり、みだりに経法を説くことはなかった。 |
構索
構は集めて作る、索は探し求めること。
―――
逆
逆罪のこと。
―――
謗
謗る・けなす・非難する・悪口をいう・誹謗すること。
―――
時
宗教の五綱のひとつ。現在がいかなる時であるかを知り、その時にどの法を広めるべきかを知っていること。
―――
教
宗教の五綱のひとつ。悟りを得た人が人々を化導するために説いた言葉。一切の宗教・思想、なかんずく仏教の教えについて、その内容の正邪・浅深・優劣を判別し、どの教えが最高の教えであるかを知ること。
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国
宗教の五綱のひとつ。それぞれの国や社会、地域によって異なる自然的、文化的状況の相違に応じて弘教の方法を考え、教えを展開していくこと。
―――
機
宗教の五綱のひとつ。説法を受ける所化の衆生の機根。人々の仏教を信じ理解する能力。人々がどのような教えを求め、どの法によって教化される衆生であるかを知ること。
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師
師匠。①学問・技芸を教える人。②涅槃にいたる道を示し、教え導く人。
―――
正像末
仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
小大
小乗教と大乗教のこと。
―――
偏円
偏ったものと完全なもの。部分的なものと全体的なもの。①一部の真理を説いた偏頗な教と、円融円満で余すところなく説いた教えのこと。天台大師所立の化法の四教のなか、蔵・通・別の三教を偏、円教を円という。②摩訶止観に説かれる五略十広のなか、十大章の第五・偏円章にあたる。教理に偏円等の別があるように止観にも異なりがあるが、いま説く止観はそれらの別を超えすべてを包含した円満な止観であることを述べている。
―――
権実
権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
―――
顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
中辺の両国
中国と辺国のこと。中国は仏教流布の中心地・インド。辺国は中心から離れた国・日本。
―――
已逆
すでに過去世に五逆罪を犯した者。
―――
未逆
過去世に五逆罪を犯していない者
―――
已謗
すでに過去世に謗法を犯した者。
―――
未謗
過去世に謗法を犯していない者
―――
凡師
凡夫のありのままの姿で一切衆生を教え導く師。示同凡夫。日蓮大聖人のこと。
―――
聖師
聖者で師道にある者。聖人の行にある者。
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二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
他方
他方の菩薩のこと。①他方の国土に住む菩薩。②釈尊以前の他仏に教化された菩薩。③娑婆世界以外の国土。
―――
此土
娑婆世界のこと。
―――
迹化
迹化の菩薩のこと。本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。
―――
本化
本仏に化導されること。
―――
四依の菩薩
「四依」には、法の四依と人の四依があり「菩薩」という場合は人の四依である。小乗・大乗・迹門・本門により、菩薩の位は異なるが、末法の四依は折伏を行ずる地涌の菩薩であり、別して日蓮大聖人のこと。
―――
滅後
仏が入滅したあと。
―――
付属
相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
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本抄は、文永12年(1275)3月10日、日蓮大聖人が54歳の御時、身延で著され、下総の曾谷教信・大田乗明の二人に与えられた御抄である。
御真筆は中山法華経寺に現存しており、その後草案の一部が散在している。他に大田禅門許御書・五綱抄・大田抄・曾谷抄などとも呼ばれている。
曾谷教信・大田乗明はともに下総国葛飾郡に住み、同郡内の富木常忍の折伏によって入信し大聖人門下となったと思われる。
入信後も、3人が団結して弘教に励み、大聖人の外護に努め、房総方面の信徒の中心的存在だった。本抄を二人の連名でいただいたことも、その密接な関係を示している。
また、本抄が長文で、しかも重要な教義を漢文体で記述されているのは、二人に相当な学識があって、ある程度は理解することができたからであろう。
本抄の内容は、宗教の五網によって、末法に流布すべき要法が、地涌の菩薩に付嘱された南無妙法蓮華経であることを明示されている。
初めに、教・機・時・国の違いによって、弘めるべき法が違うことを明かされている。
次に、正法・像法・末法の三時にわたって教法が流布した次第を詳しく述べられ、法華経を受持する功徳と、謗じた場合の罰が明かされている。
また大聖人がたびたびの大難の際に紛失した書物の補足を整理するため、曾谷・大田の二人の領内や近辺にある聖教を集めて身延山に送るよう依頼されている。
最後に、二人が大聖人の門下として、経文のごとく実践するならば、仏の金言に偽りがない証拠をつかむことができるであろう、と激励されている。
夫れ以れば重病を療治するには良薬を構索し逆謗を救助するには要法には如かず
冒頭のこの御文は本抄の全体を貫く主題、意義を示されている。
すなわち、重病を治療するためには良薬を探し求めなければならないように、五逆罪や正法誹謗の極悪の者を救って成仏せしめるためには要法しかない、とされている。「要法」とは肝要の法、肝心の法門の意であり、その実体については「法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり」と示されている。
なお、建治元年(1275)7月に後述作の高橋入道殿御返事にも「医師の習い病に随いて薬をさづくる事なれば・我が滅後・五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもつて一切衆生にあたへよ、次の五百年が間は文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさづけよ、我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩・観世音菩薩等・法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさづけよ、末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(1458-09)と述べられ、末法の衆生を救う良薬は上行菩薩が出現して弘通される妙法五字の要法であることが明かされている。
末法の衆生を重病とするのは、貧瞋癡の三毒が強盛であり、「逆謗」とあるように、五逆罪を犯し、正法を聞いても素直に信ぜず誹謗する逆縁の衆生だからである。その重病の者を救うには、釈尊の仏法では全く効かなく、日蓮大聖人が建立し弘通された要法たる三大秘法のみ、逆縁の衆生を救って、一切衆生を成仏させる功力が具わっているのである。
そのことを、法華取要抄には「末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」(0336-04)と述べられ、法華初心成仏抄には「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」(0552-14)と仰せである。逆順ともに成仏せしめるのが末法下種の要法なのである。
所謂時を論ずれば正像末教を論ずれば小大・偏円・権実・顕密・国を論ずれば中辺の両国・機を論ずれば已逆と未逆と已謗と未謗と師を論ずれば凡師と聖師と二乗と菩薩と他方と此土と迹化と本化となり、故に四依の菩薩等滅後に出現し仏の付属に随つて妄りに経法を演説したまわず
「所謂時を論ずれば正像末教を論ずれば小大・偏円・権実・顕密・国を論ずれば中辺の両国・機を論ずれば已逆と未逆と已謗と未謗と師を論ずれば凡師と聖師と二乗と菩薩と他方と此土と迹化と本化となり」の御文は、仏法を弘めるには、時・教・国・機・師・教法流布の先後という六つの面から考察し、それに適った法を選ばなければならないことを示されている。
初めに「時を論ずれは正像末」と述べられ、時に適った要法を知るには、まず仏法上の時である正法・像法・末法の違いを知らなければならないということである。
撰時抄に「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256-01)とあり、さらに、
02 所謂我が滅度の
03 後の五百歳の中には解脱堅固.次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固.次の五百年には多造
04 塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云、此の五の五百歳・二千五百余
05 年に人人の料簡さまざまなり、 漢土の道綽禅師が云く正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との 白法盛なるべ
06 し末法に入つては彼等の白法 皆消滅して浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし、 日本国の
07 法然が料簡して云く今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は大集
08 経の記文の正像二千年の白法なり 末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし 設い行ずる人ありとも一人も生死を
09 はなるべからず、 十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道・道綽の未有一人得者・善導の千中無一これなり、彼等の白法
10 隠没の次には浄土三部経・ 弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし、 此を行ぜん人人はいかなる悪人・愚
11 人なりとも十即十生・百即百生・唯浄土の一門のみ有つて路に通入すべしとはこれなり、 されば後世を願はん人人
12 は叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばい
13 とつて念仏堂につけば決定往生 ・南無阿弥陀仏とすすめければ 我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり、
14 日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ、 彼の大集経の白法隠没の時は 第五の五百歳当世なる事は疑ひ
15 なし、 但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の 一閻浮提の内・八万の国あり其の
16 国国に八万の王あり王王ごとに 臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を 四衆の口口に唱うるがごとく広宣流
17 布せさせ給うべきなり。(0258)と述べられている。
このように、末法においては、釈尊の白法はことごとく隠没して「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経」が広宣流布する時である、と知ることが「時」を知ることなのである。
次に「時を論ずれば正像末教を論ずれば小大・偏円・権実・顕密」と述べられ、仏法といっても経によってその教法の内容に相違があり、その勝劣浅深を知らなければならないことを示されている。
教機時国抄には「教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし」(0438-01)と述べられ、また日寛上人は依義判文抄には「教を知るとは、即ち一代諸経の浅深勝劣を知るなり」と示されている。
諸経に説かれる教えの浅深勝劣を定める基準が、小乗と大乗、偏教と円教、権教と実教、顕教と密教等の違いなのである。
小乗と大乗の「乗」とは「運載」、つまり物を載せて運ぶという意味で、仏の教法が衆生を乗せて悟りに至らせることを乗り物にたとえたもので、小乗とは小さな乗り物、大乗とは大きな乗り物の意である。
小乗教とは、声聞・縁覚の自分だけの解説を求める者のために四諦・十二因縁の理を説き、煩悩を断じ尽くして灰身滅智し、無余涅槃に入ることを教えた阿含部の教えをいう。
大乗教とは、数多くの衆生に大苦を滅して大利益を得させる教えの意で、成仏のための利他の菩薩道を説いた華厳、方等、般若、法華等の経をいう。
しかしながら、小乗大乗分別抄には、次のようにある。
01 夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い 五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、
02 外道の法に対しては 一切の大小の仏教を皆大乗と云う 大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、 仏教に入
03 つても鹿苑十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば 諸大乗経に対して小乗経と名けたり、 又諸大乗経には大
04 乗の中にとりて劣る教を 小乗と云う華厳の大乗経に 其余楽小法と申す文あり、 天台大師はこの小法というは常
05 の小乗経にはあらず十地の大法に対して 十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、 又法華経
06 第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり 天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず 華厳経の
07 別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、 又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は
08 初め華厳経より終り般若経にいたるまで 四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは 八教を会して一大円教に
09 合すとこそ・ことはられて候へ、 又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小
10 法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず 久遠実成を説かざる華厳経の円 乃至方等般若法華経の迹門十
11 四品の円頓の大法まで小乗の法なり、 又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等を
12 も小仏なりと釈し給ふ、 此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経・八宗の中には倶
13 舎宗・成実宗・律宗を小乗と云うのみならず華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として唯天台の
14 一宗計り実大乗宗なるべし、 彼彼の大乗宗の所依の経経には絶えて 二乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給は
15 ず、(0520)
そして、観心本尊抄には、「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)と仰せのように、末法においては、要法たる大聖人御内証の一品二半すなわち寿量品文底下種の南無妙法蓮華経以外は小乗教となるのである。
「偏円」の偏とは一分の真理を説いた偏頗な教え、円とは円融円満で欠けるところのない教えをいう。法華経を円教というのに対して、権教方便の教えを偏とする。
蒙古使御書に「外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、然れば経経に勝劣あり」(1473-08)と述べられているように、爾前権教は生命の法の部分観にすぎないので「偏」、法華経は生命の法の全体観を説いたものなので「円」というのである。「権実」の権とは「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意、衆生の機根を応じて方便として説かれた教を権教といい、究極普変の真実を明かした教を実教という。
衆生の機根にしたがって三乗を各別に説いた教を権教といい、一仏乗の理を示した教法を実教といい、天台大師の五時教判によれば実教は法華・涅槃時の教えで他の四教の教えは皆、権教となる。
「顕密」とは顕教と密教のことで、普通は真言宗の立てた、顕示教と秘密教に分ける教判をいう。顕とは顕了の意で、報身・応身の釈尊が衆生の機根に応じてあらわに説いた随他意の法門を顕教とする。密とは秘密幽妙の意で、法身の大日如来が自受法楽のために示した三密の法門を密教とし、その内容が表面から知りがたいので秘密としている。この教判により、釈尊を教主とする四諦・十二因縁・六度万行等の法門、また法華経を顕教であると下し、大日如来を教主とする金剛界・胎蔵界両部の法門を密教であり勝れているとしている。
それに対して大聖人は真言見聞のなかで次のようにと破折され、法華経こそ一切衆生の成仏の直道を示した真の秘密教であると述べられている。
12 抑
13 大日の三部を密説と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、 所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なる
14 か微密の密なるか、 物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり、 二には疵・片輪等を隠すは隠
15 密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり 其の故は始成と説く 故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小無し、
16 此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、 微密の密は法華なり、然れば則ち文に云く四の巻法師品に云く「薬王此の
17 経は是れ諸仏秘要の蔵なり」云云、 五の巻安楽行品に云く「文殊師利・此の法華経は 諸仏如来秘密の蔵なり諸経
18 の中に於て最も其の上に在り」云云、 寿量品に云く「如来秘密神通之力」云云、 如来神力品に云く「如来一切秘
01 要之蔵」云云、しかのみならず真言の高祖・竜樹菩薩・法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、 次に
02 二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず、 所以は何ん大日経に云く 「仏・不思議真言相道の法を
03 説いて一切の声聞・縁覚を共にせず 亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず」云云、 二乗を隔つる事前四味の諸教
04 に同じ、随つて唐決には方等部の摂と判ず経文には四教含蔵と見えたり、大論第百巻に云く第九十品を釈す「問うて
05 曰く更に 何れの法か甚深にして般若に勝れたる者有つて般若を以て阿難に嘱累し 而も余の経をば菩薩に嘱累する
06 や、 答えて曰く般若波羅蜜は秘密の法に非ず而も 法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す譬
07 えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、 玄義の六に云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如
08 く二乗の根敗反た復すること能わず 之を名づけて毒と為す今経に記を得るは即ち是れ毒を変じて薬と為す、 故に
09 論に云く 余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり、 復本地の所説有り諸経に無き所後に在つて当に広く明
10 すべし」云云、 籤の六に云く「第四に引証の中・論に云く等と言うは大論の文証なり 秘密と言うは八経の中の秘
11 密には非ず 但是れ前に未だ説かざる所を秘と為し開し已れば外無きを密と為す」文、 文句の八に云く「方等般若
12 に実相の蔵を説くと雖も 亦未だ五乗の作仏を説かず 亦未だ発迹顕本せず頓漸の諸経は皆未だ融会せず故に名づけ
13 て秘と為す」文、 記の八に云く「大論に云く法華は是れ秘密・諸の菩薩に付すと、 今の下の文の如きは下方を召
14 すに 尚本眷属を待つ験けし余は未だ堪えざることを」云云、 秀句の下に竜女の成仏を釈して「身口密なり」と云
15 えり云云、 此等の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き秘密教と定め給へるを 経論に文証も無き妄語を吐
16 き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや。(0144)
次に「国を論ずれば中辺の両国」と述べられているのは、仏法を流布するにはその国がいかなる国かを知って弘めなければならないことを示されている。
「中辺の両国」とは、中心の国と辺鄙な国の意で、古来、仏教においてはインドが発祥の地であるから、これを「中国」とする。日本は最も「辺国」になる。
教機時国抄には「仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし」(0439-13)と述べられている。
もとより末法では日本こそ日蓮大聖人の三大秘法が建立され、世界に広宣流布していく根本の国である。したがって、依義判文抄には「国を知るとは、通じて之を論ずれば法華有縁の国なり、別して之を論ずれば本門の三大秘法・広宣流布の根本の妙国なり(中略)此の如く知るを則ち之れ国を知ると謂うなり」と述べられている。
「機を論ずれば已逆と未逆と已謗と未謗と」と述べられているのは、末法の衆生の機根が已逆と未逆、已謗と末謗の違いこそあれ、逆謗の衆生であり、逆縁の衆生であることを正しく知り、それを救いうる要法を選ぶべきことを示されているのである。
「師を論ずれば凡師と聖師と二乗と菩薩と他方と此土と迹化と本化となり」と述べられているのは、法を弘める導師も一様ではなくて差異があることを示されている。
このように教・機・時・国の異なりがあるゆえに、「四依の菩薩等滅後に出現し仏の付属に随つて妄りに経法を演説したまわず」。すなわち、四依の菩薩が付嘱にしたがって出現して、正しく経法を弘めたと仰せられている。
このことは、観心本尊抄にも「四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず何に況や他方をや」(0251-07)と述べられている。
そのように、教・機・時・国・教法流布の先後の五義、及び末法の導師の六つの面からみると、末法に出現され、法華経の肝心である本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を弘通されている日蓮大聖人の御振る舞いの正しさと仏法上の意義が明白となるのである。
1026:04~1027:02 第二章 法華経弘通に摂受・折伏あるを示すtop
| 04 所詮無智の者未だ大法を謗ぜざるには忽ちに大法を与えず 悪人為る上已に実大 05 を謗ずる者には強て之を説く可し、 法華経第二の巻に仏舎利弗に対して云く 「無智の人の中にして此の経を説く 06 こと莫れ」 又第四の巻に薬王菩薩等の八万の大士に告げたまわく「此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり分布して妄りに 07 人に授与す可からず」云云、 文の心は無智の者の而も未だ正法を謗ぜざるには 左右無く此の経を説くこと莫れ、 08 法華経第七の巻不軽品に云く 「乃至遠く四衆を見ても亦復故に往いて」等云云、 又云く「四衆の中に瞋恚を生じ 09 心不浄なる者有り 悪口罵詈して言く 是の無智の比丘何れの所従り来りてか」等云云、 又云く「或は杖木瓦石を 10 以て之を打擲す」等云云、第二・第四の巻の経文と第七の巻の経文と天地水火せり。 -----― 所詮、仏法に無智であって、まだ正法である法華経を謗っていない者には、直ちに法華経を説いてはならない。悪人であるうえ、すでに実大乗を誹謗している者には、強いて法華経を説くべきである。 法華経も第二の巻譬喩品第三に釈尊は舎利弗に対して「無智の人の中にして、此の経を説くこと莫れ」と説き、また、第四の巻の法師品第十は薬王菩薩等の八万の菩薩に告げて「此の経は是れ、諸仏秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず」と説いている。この経文の心は無智の人で、しかも正法である法華経をいまだ誹謗していない人には、やたらと法華経を説いてはならないということである。 法華経第七の巻常不軽菩薩品第二十に「乃至遠く四衆を見ても、亦復故に往いて」等と説き、また「四衆の中に、瞋恚を生じ、心不浄なる者有り、悪口罵詈して言わく、是の無智の比丘、何れの所より来って」等と説き、また「或は杖木、瓦石を以って、之を打擲す」等と説かれている。この法華経の第二・第四の巻の経文と、第七の巻の経文と天地水火の相違がある。 -----― 11 問うて曰く一経二説何れの義に就いて此の経を弘通すべき、 答えて云く私に会通すべからず霊山の聴衆為る天 12 台大師並びに妙楽大師等処処に多くの釈有り 先ず一両の文を出さん、 文句の十に云く「問うて曰く釈迦は出世し 13 て踟チュウして説かず今は此れ何の意ぞ造次にして説くは何ぞや答えて曰く本已に善有るには釈迦小を以て之を将護 14 し本未だ善有らざるには不軽・大を以て之を強毒す」等云云、釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味の小大・ 15 権実の諸経・四教八教の所被の機縁・ 彼等が過去を尋ね見れば久遠大通の時に於て純円の種を下せしかども諸衆一 1027 01 乗経を謗ぜしかば 三五の塵点を経歴す然りと雖も 下せし所の下種・純熟の故に 時至つて自ら繋珠を顕す但四十 02 余年の間過去に已に結縁の者も猶謗の義有る可きの故に且らく権小の諸経を演説して根機を練らしむ。 -----― 問うて言う。一経に二説があるわけだが、どちらの義によって法華経を弘通すべきなのか。 答えて言う。私の解釈によってはならない。霊鷲山の聴衆である天台大師並びに妙楽大師等が処々に多くの釈を残している。ここでまず一・二を出そう。 天台大師は法華文句の巻十に「問うて曰く釈迦は出世して踟チュウして説かず、常不軽はひとたび見て造次して言うは何ぞや、答えて曰く本已に善有るには釈迦は小を以って之を将護し、本未だ善有らざるには、不軽は大を以って之を強毒す」と述べている。 この釈の心は、寂滅道場の華厳経・鹿野苑の阿含経・大宝坊の方等経・白鷺池の般若経等の前四味の小乗・大乗・権教・実教の諸経・四教八教を聞いた衆生は、彼らの過去世を尋ねてみると、久遠大通の時において純円の法華経の種を下されながら、一乗経の法華経を誹謗したため、三千塵点劫・五百塵点劫という長い間地獄を経たが、その時に下された種が時至っておのずから熟して、我が身の衣の裏に繋がった宝珠を顕してきたのである。ただし、法華経以前の四十余年の間は、過去世に結縁のあった衆生であっても法華経を謗るおそれがあるので、しばらく権教や小乗教を説いて根機を調熟したのである。 |
無智
仏法を理解していない在家の人。
―――
実大
実大乗教のこと。大乗教に権教と実教があり、法華経以外の諸大乗教を権教とし、法華経のみを実大乗教と立てる。
―――
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
薬王菩薩
衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
―――
八万の大士
薬王菩薩とともに、法華経法師品第10の対告衆となった八万の菩薩のこと。
―――
大士
①祭祀を司る人。②道徳の高い優れた人。③位階、権威のある人。④大菩提心を起こした人。菩薩の通称。
―――
不軽品
法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
―――
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
―――
比丘
ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
杖木瓦石
不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
―――
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
―――
会通
彼此相違した説を会して融通すること。「会」とは、あわせる、理解する、照らし合わせる擣の意で、「通」は開く、かよわす、伝える、説き明かす等のいみである。すなわち、よく理解して疑いやとどこおりのないことで、いろいろな議論に合わせて理解し説き明かすことの意。
―――
霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
文句
天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
―――
踟躊
ためらうこと。行きつ戻りつすること。
―――
本已に善有る
久遠にすでに下種を受け、善根を積んでいる人。
―――
将護
たすけ護こと。
―――
本未だ善有らざる
まだ下種されず、善根を積んでいない衆生。
―――
不軽
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」といって一切衆生を礼拝した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。また、不軽を軽賤し迫害を加えた者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、ふたたび不軽の教化にあい仏道に住することができたという。
―――
強毒
本末有善の衆生に対して、強いて法を聞かせること。
―――
寂滅
ニルヴァーナ(nirvāṇa)の音写。涅槃 と訳す。①煩悩の境地を離れ、悟りの境地に入ること。②消滅すること。死ぬこと。
―――
鹿野
鹿野苑のこと。中インド波羅奈国にある園で、古くは神仙の住所とされ、国王が狩をつかまえて放しておかれた地といわれる。釈尊は華厳経の3週間の説法のあと。この鹿野苑で憍陳如など五人を済度した。その後12年間、16大国で、阿含時の説法をしたが、これも鹿苑時と総称する。
―――
大宝
大宝坊のこと。方等部の大集経が説かれたところ。欲界と色界の中間にある大庭。釈尊が耆闍崛山で大集経を説いたときに三昧力をもって、大法廷を珍宝で荘厳したところから大宝坊といわれる。
―――
白鷺
白鷺池のこと。大般若経が説かれた四処十六会のうち、第十六会の説法の場所。釈尊は方等部の説法のあと法華経を説くまでの間に、三乗の機根を調えるため般若部の経をといたが、①王舎城の鷲峰山で第一会~第六会、②舎衛国の給孤独で第七会~第九会、③他化自在天宮で第十会、②で第十一会~第十四会、①で第十五会、④王舎城竹林精舎の白鷺池で四処十六会となる。
―――
前四味
五味のうち最後の醍醐味を除く四味のこと。乳味・酪味・生酥味・熟酥味をいう。
―――
四教八教
天台大師智顗による教判。「化法の四教」と「化儀の四教」を合わせて八教とする。❶化儀の四教。。①頓教(覚りの真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)③秘密教(仏は同一の説法を行うが、それを聞く衆生は互いにその存在を知らず、説法の理解に相違がある)④不定教(衆生は同一の場所で同一の内容の教えを聞き、互いにその存在を認識するが、教えの理解に相違がある)の四つ。❷①三蔵教。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。②通教。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。③別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。④円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。
―――
久遠大通
「久遠」とは、五百塵点劫の昔に久遠実成本果の昔に釈尊に結縁して下種を受けたもの。「大通」とは、三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏の16人の王子に結縁して下種をうけたもので、これらのいずれもが菩薩の行を退転して、その下種を忘失し、インド出現の釈尊に結縁するまで、輪廻の境涯にあって成仏できなかったこと。
―――
純円
「純」は二乗・三乗等の方便を帯びないで、一仏乗・即身成仏の義が説かれること。「円」は円満のこと。完全無欠の意。純一無雑で、宇宙の実相を完全に説きつくしていること。
―――
一乗経
一仏乗を説き明かした妙典。法華経のこと。
―――
三五の塵点
三千塵点劫と五百塵点劫の昔のこと。
―――
下種
「種を下ろす」と読み下す。仏が衆生を成仏に導くさまを植物の種まき・育成・収穫に譬えた、種熟脱の三益のうち最初の種。成仏の根本法である仏種を説いて、人々に信じさせること。仏が衆生に仏種を下ろすという利益を「下種益」という。釈尊が生涯にわたって説き残した膨大な諸経典には、仏種が明かされていない。唯一、法華経本門の如来寿量品第16で「我本行菩薩道(私は久遠の昔から菩薩道を実践してきた)」(法華経482㌻)と述べて、釈尊自身が凡夫であった時に菩薩道を実践したことが、自身の成仏の根本原因であったと示しているだけである。日蓮大聖人は、寿量品の文の底意として示された仏種を覚知し拾い出して、それが南無妙法蓮華経であると説き示され、南無妙法蓮華経を説き広めて末法の人々に下種する道を開かれた。それ故、大聖人は下種の教主であり、末法の御本仏として尊崇される。
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純熟
植えられた種子が芽生え、成長し熟すこと。
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繋珠
貧人繋珠の譬えのこと。五百弟子受記品第八。親友の家を訪問したある人が、酒をもてなされ、酔って寝てしまう。親友は出かけなければならなくなり、眠っている友人の衣服の裏に無価(無上の価値があること)の珠を縫い込んで外出する。酔いから覚めた友人は、宝を持っていることに気づかず、貧窮して諸国を放浪した後、たまたまその親友と再会するが、親友は友人のみすぼらしい姿を見て驚き、衣服の裏に無上宝珠があることを教える。衣裏珠とは一切衆生がもっている仏性を譬え、貧窮する友人は自身の内に仏界があることに気がつかない凡夫を譬えている。
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四十余年の間
釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
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法華経を弘通する方軌に、摂受と折伏の二つのあることが示されている。
所詮無智の者未だ大法を謗ぜざるには忽ちに大法を与えず 悪人為る上已に実大を謗ずる者には強て之を説く可し、法華経第二の巻に仏舎利弗に対して云く「無智の人の中にして此の経を説くこと莫れ」又第四の巻に薬王菩薩等の八万の大士に告げたまわく「此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり分布して妄りに人に授与す可からず」云云、文の心は無智の者の而も未だ正法を謗ぜざるには左右無く此の経を説くこと莫れ、法華経第七の巻不軽品に云く「乃至遠く四衆を見ても亦復故に往いて」等云云、又云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是の無智の比丘何れの所従り来りてか」等云云、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、第二・第四の巻の経文と第七の巻の経文と天地水火せり
仏法を知らずに大法誹謗の罪を犯していない人には、直ちに大法を与えてはならないが、それに対して、悪人であり既に実大乗教たる法華経を誹謗している邪智謗法の者に対しては、強く法華経を説くべきである、と述べられている。前者は摂受であり、後者が折伏である。
次に、それぞれの文証を挙げられる。法華経巻第二・譬喩品の「舎利弗に告ぐ…無智の人の中にして、此の経を説くこと莫かれ」と。巻第四・法師品の「仏、復薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく…此の経は是れ、諸仏の秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず」とある文は法華経弘通にあたって摂受を勘めた文である。
それに対して、同じく法華経の巻第七・常不軽菩薩品に「乃至遠く四衆を見ても、亦復故に往いて礼拝讃歎して」とあり、また同品に「四衆の中に、瞋恚を生じ、心不浄なる者有り、悪口罵詈して言わく、是の無智の比丘、何れの所より来って、自ら我汝を軽しめずと言って、我等が与に当に作仏することを得べしと授記する。我等、是の如き虚妄の授記を用いずと」とあるのは折伏を説いた文である。
このように、法華経迹門の譬喩品と法師品の摂受の行き方と、本門の不軽品の折伏の在り方とは天と地、水と火のような違いがある。
問うて曰く一経二説何れの義に就いて此の経を弘通すべき、答えて云く私に会通すべからず霊山の聴衆為る天台大師並びに妙楽大師等処処に多くの釈有り先ず一両の文を出さん、 文句の十に云く「問うて曰く釈迦は出世して踟チュウして説かず今は此れ何の意ぞ造次にして説くは何ぞや答えて曰く本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるには不軽・大を以て之を強毒す」等云云、釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味の小大・権実の諸経・四教八教の所被の機縁・彼等が過去を尋ね見れば久遠大通の時に於て純円の種を下せしかども諸衆一乗経を謗ぜしかば三五の塵点を経歴す然りと雖も下せし所の下種・純熟の故に時至つて自ら繋珠を顕す但四十余年の間過去に已に結縁の者も猶謗の義有る可きの故に且らく権小の諸経を演説して根機を練らしむ
したがって、この二つの説の、どちらの義に従って法華経を弘通すべきなのか、という疑問が出てくるのは当然であろう。
大聖人は、そのことについては、私に勝手に考えてはならないと戒められたうえで、天台大師と妙楽大師に多くの釈があるとして、その釈によるべきことを示されている。
「霊山の聴衆為る天台大師」と述べられているのは、天台大師が薬王菩薩の再誕、または後身とされていたためであろう。
薬王菩薩は法華経の会座では、法師品第十の対告衆となり、勧持品第13では他の二万の菩薩を代表して釈尊滅後の法華経弘通の誓願を立てており、薬王菩薩本事品第23では、自ら臂を焼いて仏に供養した本事が説かれている。
天台大師智覬は、陳の天嘉元年(0560)に大蘇山に南岳大師を訪れて修行の結果、法華経の薬王菩薩本事品第23の「是真精進。是名真法。供養如来」の句に至って法華三昧を感得して初栴陀羅尼の悟りを開き、無礙弁才を得たといわれる。これを大蘇開悟といい、そこから薬王菩薩の後身といわれるようになった。
妙楽大師湛然は、天台大師六世の法孫にあたり、天台三大部の注釈書を著すなど天台の法門を宣揚し、諸宗を論破して天台宗中興の祖と称された。
したがって、天台大師・妙楽大師の釈こそ法華経の真意を正しく伝える指南なので、それを用いるべきである、とされているのである。
そして、天台大師の法華文句巻十に、釈尊が出世して40余年の間説かなかった法を、法華経に至って説いたのはなぜかという問いに対して、本已に善有る衆生のためには、その善根を破らないために小乗教を説き、本末有善の衆生に対しては不軽菩薩が直ちに大乗の教えを強いて説いて毒するのである、と答えている文を挙げられている。
「本已に善有る」の善とは善根であり、この場合は法華経の仏種を下されたことをいう。過去世に法華経を聞いて仏種を植えられた者に対して直ちに法華経を説くとかえって誹謗して、過去の仏種を破る恐れがあるので、それを守るために釈尊は小乗教を説いたのである。
「本末だ善有らざるには」とは、過去に仏種を下されていないことをいう。そうした衆生に対しては、不軽菩薩のように直ちに大乗教すなわち法華経を強いて説くのである。
「強毒す」とは、たとえ反対し、誹謗して無間地獄の業を作らせても、逆縁を結ぶことをたとえている。
後に明らかにされるように、末法の衆生は本末有善の衆生であり、しいて法華経を説いて下種すべき機根なのである。したがって、末法には折伏が法華弘通の方軌となるのである。
次に、大聖人は、この法華文句にある本已有善の衆生のためには小乗の法を説いたということについて、久遠の昔に法華経を下種されながら、誹謗したために五百塵点劫、三千塵点劫を経たが、時がきて下種が熟し、おのずから仏種が顕れてきた衆生のために、これを再び謗じさせないように40余年間、小乗や権教を説いて機根をととのえさせた、と示されている。
「自ら繋珠を顕す」と仰せの繋珠とは、法華経の五百出弟受記品第八に説かれている貧人繋珠の譬のなかの無価の宝珠をさし、久遠の昔に仏から下された仏性をたとえたものである。
1027:03~1027:15 第三章 爾前経の得道も過去の下種によるを明かすtop
| 03 問うて曰く華厳の時・別円の大菩薩乃至観経等の諸の凡夫の得道は如何、答えて曰く彼等の衆は時を以て之を論 04 ずれば其の経の得道に似たれども 実を以て之を勘うるに三五下種の輩なり、 問うて曰く其の証拠如何、 答えて 05 曰く法華経第五の巻涌出品に云く 「是の諸の衆生は世世より已来常に我が化を受く乃至 此の諸の衆生は始め我が 06 身を見我が所説を聞いて即ち皆信受して如来の慧に入りにき」等云云、 天台釈して云く「衆生久遠」等云云、 妙 07 楽大師の云く 「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」又云く 「故に知んぬ今日の逗会は昔成熟するの機に赴く」 08 等云云、 経釈顕然の上は私の料簡を待たず 例せば王女と下女と天子の種子を下さざれば国主と為らざるが如し。 -----― 問うて言う。華厳経の会座の時、別円の菩薩が得道したことや、あるいは観無量寿経等の凡夫の得道はどうであったろうか。 答えて言う。彼らの成仏は時をもって論ずるならばその経によって得道したようにみえるけれども、実をもってこれを考えれば三千塵点劫・五百塵点劫の時に法華経に結縁した衆生なのである。 問うて言う。その証拠はどこにあるのか。 答えて言う。法華経の第五の巻の従地涌出品第十五に「是の諸の衆生は、世世より已来、常に我が化を受けたり、乃至此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞いて、即ち皆、信受して如来の慧に入りにき」等と説かれている。この文を天台大師は釈して法華文句に「衆生久遠」と述べている。妙楽大師は法華文句記に「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」と述べ、また法華文句記に「故に知んぬ今日の逗会は昔成熟するの機に赴く」等と釈している。 経釈に明らかなうえは、私の解釈を待つこともない。例えば、王女であっても、また下女であっても、国王の子を孕まなければ、その子が国主となることはできないようなものである。 -----― 09 問うて曰く大日経等の得道の者は如何、 答えて曰く種種の異義有りと雖も繁きが故に之を載せず但し所詮彼れ 10 彼れの経経に種熟脱を説かざれば 還つて灰断に同じ化に始終無きの経なり、 而るに真言師等の所談の即身成仏は 11 譬えば窮人の妄りに帝王と号して 自ら誅滅を取るが如し王莽・趙高の輩外に求む可からず今の真言家なり、 此等 12 に因つて論ぜば仏の滅後に於て三時有り、 正像二千余年には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し 根機を知 13 らずんば左右無く実経を与う可からず、 今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して 権実の二機皆悉 14 く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して 毒鼓を撃たしむるの時なり、 而るに今時の学者時機に迷惑して或は小乗を 15 弘通し或は権大乗を授与し 或は一乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか、 -----― 問うて言う。それでは大日経等の得道の者はどうであろうか。 答えて言う。これにはさまざまな義があるが繁雑になるのでこれを述べない。しかし、所詮それらの経々には種熟脱を説かないので、結局、灰身滅智と同じであり、化導に始終のない経である。 そうであるのに、真言師等がいう即身成仏などは、例えば貧しい者が妄りに自分を帝王と名乗って、自ら滅亡していくようなものである。中国の王莽とか趙高のような輩をほかに求めずとも、今の真言家がそうである。 これらによって論ずるならば、釈尊滅後に正法時・像法時・末法時の三時がある。そのうち正法時・像法時の二千余年にはまだ、過去に下種されていた者がある。例えば、釈尊在世四十余年のようなものである。その衆生の根機を知らずにむやみに実経である法華経を与えてはならないのである。 今は既に末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまった。今こそ、かの不軽菩薩が末法に出現して、毒鼓を打つべき時なのである。しかるに、今の学者は時と機根に迷って、あるいは小乗を弘通し、あるいは権大乗を授与し、あるいは一乗を説法するけれども、題目の五字をもって一切衆生を下種とすべき由来を知らないのである。 |
華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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別円の大菩薩
華厳経における法慧・垢徳林・金剛幢・金剛蔵等の菩薩。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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凡夫
梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
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涌出品
妙法蓮華経従地涌出品第十五のこと。この品より本門に入る。この品の前半で迹化・他方の八恒河沙の大菩薩が娑婆世界の弘教を請うたけれども、釈尊は許されない。そして迹門の大地を破って上行など四菩薩を上首とした本眷属、六万恒河沙の菩薩が出現するのである。これをみて、弥勒等の迹化の菩薩は、仏がいつ、これほどの大菩薩を教化したのであろうかと疑いを起こし、また「父少く、子老ゆ」の喩えを説いて「願わくは今為に解脱したまえ」と請うて、寿量品の説法にはいるのである。
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衆生久遠
釈尊在世得脱の衆生は、久遠に既に下種を受けた衆生であるということ。
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脱
仏種が成長しおわって仏の境地を得ること。
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逗会
衆生の機根が仏と投合すること。
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料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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灰断
身を灰にして、なにもかもなくすという二乗の修行法、灰身滅智のこと。小乗教においては、一切の不幸の原因は煩悩にあるとし、この煩悩を断ち切れば、無余涅槃という悟りの境地に到達すると説き、そのために、比丘に250戒・比丘尼に500戒等の戒、その他さまざまな戒を設定した。さらに、生ある以上煩悩がつきまとうというので、ふたたび、この三界に生じないように身も心もなくしてしまおうとしたのである。これを灰身滅智という。しかし、これはあくまでも架空の論議であり、またそのよううな境界がかりにえられたとしても、それなどは成仏の境界よりはるかに低く、しかも、かえってそのようなものを理想として、修行すれば、真実の幸福境界からは遠ざかるだけである。まことにもって空虚な幸福論といわなければならない。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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即身成仏
衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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窮人
貧しい者。
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誅滅
罪ある者を責め滅ぼすこと。
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王莽
(前0045~0023)。漢書王莽伝によると、中国・前漢末の政治家、新の建国者。名家の出身であるが、父が早死にしたため少年時代は貧しかった。一族の推挙を受けて出世し、哀帝の没後、9歳の平帝を立てて権勢を握った。平帝が長ずると毒殺して二歳の劉嬰を立て、自ら摂政となった。符命説で漢王朝の天命は尽きたと流言し、帝位を譲り受けて新を建国した。儒教の理想を実現しようと復古的政策をしいたが成功せず、内乱が続発する中で新は滅亡した。
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趙高
(~前0207)。中国・秦代の宦官。始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ、権力を握った。旧臣を退けて酷政を行なったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利とみるや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。
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三時
❶一日の昼と夜を三つの時に分けたもの。昼の三時は晨朝・日中・日没。夜の三時は初夜・中夜・後夜。❷仏滅後の時代を正像末に区分したもの。❸三時教判のこと。法相宗の教判。解深密経に基づき、釈尊一代の教えを三つに分類する。①初時有教。法のみ有である(不変で固有の実体をもつ)と説く教えで、阿含経など小乗の教えがこれにあたる。②第二時空教。一切諸法はみな空であると説く教えで、般若経などがこれにあたる。③第三時中道教。非有非空(有に非ず空に非ず)を明かす教えで、華厳経・法華経・解深密経などがこれにあたる。❹三転法輪のこと。
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毒鼓を撃たしむ
毒鼓の縁のこと。謗法の衆生に法華経を強いて説き聞かせることは、かえって法華経に縁する故に成仏の因となること。逆縁ともいう。「毒鼓」とは毒薬を塗った太鼓のこと。法を信じようともせず反対しても、やがて梵王を断じて得道することができることを毒鼓という。
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次に、華厳経や観無量寿経等で得道したとされる者も、五百塵点劫や三千塵点劫の昔に法華経によって下種された衆生であることを、文証・理証を挙げて示されている。
初めに、華厳経によって別教・円教の大菩薩が得道し、観無量寿経によって凡夫が得道したとされているが、これについてはどうか、との疑問が挙げられている。
そして、それらの衆生は、得道したその時をもって論ずれば、それぞれの経で得道したようにみえるが、実は三千塵点劫、五百塵点劫という昔に法華経を聞いて下種されていた人々であり、その久遠の昔に植えられた種子により、爾前経を縁として得道したのである、と明かされている。
その文証として、法華経の従地湧出品第15の「是の諸の衆生は、世世より已来、常に我が化を受けたり、亦、過去の諸仏に於いて、供養尊重して、諸の善根を植えたり。此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りにき」の文を挙げられている。この文は、釈尊の在世に仏法に縁した衆生は、現在だけでなく、遠い過去から仏に結縁し下種を受けていることを示したものである。
この文を釈した天台大師の法華文句巻九上には「易度両と易す。一に利根にして徳厚きは、世々より已来、常に大化を受け、始めて我が身を見る。即ち、華厳を禀けて如来慧に入る。果熟して零き易し、是の衆生度し易し、二に根鈍にして徳薄きは、世々已来大化を受けず…此の人をして今法華を聞きて仏慧に入らしむ」とある。
すなわち、利根で徳の厚い衆生は久遠に下種されて以来、常に仏の化導を受けてきたため、釈尊在世に仏に会い、華厳経を聞いて得道することができた。それは果物が熟すれば落ちやすいように、この衆生は救いやすいのである。鈍根で徳の薄い衆生は、仏との血縁が薄かったので、釈尊在世に法華経を聞いて、成仏させるのである、との意である。
そのように、涌出品の文は、久遠の昔に釈尊から下種を受け、その後も化導された機根のよい衆生が、釈尊在世に華厳経等を聞いて得道できたということを示しており、華厳経そのもので得道したものでないこが明らかとなっている。
また「天台釈して云く『衆生久遠』等云云」とは法華文句巻一上に「衆生久遠に仏の善巧の仏道の因縁を種せしむを蒙り、中間に相値うて更に異の方便を以って第一義を助顕し而して之を成熟し、今日雨花道地して如来の滅度を以って而して之を滅度したもう」とある文を略して挙げられたものである。
この法華文句の文は、法華経による種熟脱の三益を受ける四種の衆生について明かしたものである。
第一は、久遠の昔に下種を受け、中間に仏法にあって方便の教えを受けながら、機根が成熟し、法華経の序品の雨華瑞・地動瑞等六瑞を見て解脱した人である。
第二は、久遠に下種を受け、過去に熟し、その後に脱の益を得た地涌の菩薩である。
第三は、中間の化導を下種とし、爾前権教を熟とし、法華経を脱とする者である。
第四に、在世の法華経を下種とし、現世を熟とし、後世を脱とする衆生である。
この四種は、天台大師が文上の法華経を基準としたそれぞれの衆生の種熟脱の判釈である。いずれにせよ、あらゆる衆生は法華経の下種であり、それが成熟して得脱するのであって、それ以外に真の得道はないのである。
この判釈によれば、華厳経等で得道したとされる衆生も、じつはこの第一にあたるものであり、久遠の下種と中間の成熟があって、法華経の序品で得脱したのである。
「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」
更に大聖人は、妙楽大師の法華文句記にある「脱は現に在りと雖も具に本種を謄ぐ」の文を引かれている。この文は、前に挙げた法華文句の種熟脱の功徳を受ける衆生のうち、第一の衆生について釈したものである。
「脱」とは衆生に下された仏種が実を結んで、仏の境地を得ることをいう。「現に在り」とは現在に釈尊にあって法を聞いて得脱すること。「本種」とは、仏が衆生の心田におろした成仏の種子をいう。「謄」とは高くあがる、のぼる、はねあがる等の意、すなわち、この衆生が得脱した功徳は現に釈尊にあい、その法を聞いたことによって現れたものだが、より詳しくみると、それは久遠の昔に法華経の下種を受けていたのが浮かび上がってきたものなのである、との意となり、成仏得道のためには元の下種が大切にあることを強調した文である。
しかし、これはあくまでも釈尊の法華経文上の立場で種熟脱を論じたものであり、大聖人の仏法においては久遠元初の下種になる。
本因妙抄に「四には名体不思議是れ観心直達の南無妙法蓮華経なり、湛然の云く『雖脱在現・具騰本種』云云次に体の四重とは一に三諦隔歴の体・爾前権教なり、二に理性円融の体・迹門十四品なり、三に三千本有の体・本門十四品なり、四に自性不思議の体・我が内証の寿量品・事行の一念三千なり、次に宗の四重とは一に因果異性の宗・方便権教なり、二に因果同性の宗・是れ迹門なり、三に因果並常の宗・即ち本門なり、四に因果一念の宗・文に云く「芥爾も心有れば即ち三千を具す」と、是れ即ち末法純円・結要付属の妙法なり云云、次に用の四重とは一に神通幻化の用・今経已前に明かす所の仏・菩薩・出仮利生の事、二に普賢色身の用・即ち一身の中に於て十界を具する事なり本迹一代五時に亘る、三に無作常住の用・証道八相有り無作自在の事なり、四に一心の化用・或説己身等なり、次に教の四重とは一には但顕隔理の教・権小なり、二には教即実理の教・迹門なり、三には自性会中の教・応仏の本門なり、四には一心法界の教・寿量品の文の底の法門・自受用報身如来の真実の本門・久遠一念の南無妙法蓮華経・雖脱在現具騰本種の勝劣是なり。」(0870-15)と述べられている。
すなわち、釈尊の仏法によって成仏得道したとされる衆生も、一往は久遠の昔における下種によるものであるが、再往は寿量文底下種の法華経、久遠元初の南無妙法蓮華経の下種による、という意なのである。
また日寛上人の当流行事抄では「霊山一会の無量の菩薩・体内の寿量を聴聞して但・文上脱迹を信ずるのみに非ず・復・文底秘沈の種本を了して久遠元初の下種の位に立ち還りて本地難思の境智の妙法を信ずるが故に皆悉く名字妙覚の極意に至るなり…文底の眼を開いて還って彼の得道を見れば実に久遠下種の位に還って名字妙覚の極意に至る・此れ即ち真実の跨節の断惑なり」とも示されている。
このように、一切衆生を成仏させる最も根源の種子は南無妙法蓮華経であり、たとえ釈尊を含めた迹仏が説く法によって成仏したとしも、その本種・本因は久遠元初の下種・南無妙法蓮華経を覚知したためなのである。
観心本尊抄には「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず 本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-14)と述べられている。
所詮は釈尊の寿量品も脱益であり、それを聞いた在世の衆生は久遠元初に下種された妙法の種子を覚知し、初住の位から等覚という高い位まで登っていたのが迹門の執着であることを知って、一転して久遠元初の信の位である名字即の位に立ち還って妙法を体得し成仏した、というのが真の寿量品の得脱の相なのである。「雖脱在現・具騰本種」も、再往はこの意義から解すべきである。
次に妙楽大師の法華玄義釈籤の「故に知んぬ今日の逗会は昔成熟するの機に赴く」の文を挙げられている。「逗会」の逗とはなげる、会はあわすの意で、仏と衆生の機根が会うことを意味し、法華経の会座に連なることをいう。法華経の会座に列して得道したということは、久遠の昔に下種され、それが成熟してきた者が得脱したことをいうのである。
このように、爾前経による得道も、法華経によって下種があったからであるということが経釈によって明らかなのである。
問うて曰く大日経等の得道の者は如何、答えて曰く種種の異義有りと雖も繁きが故に之を載せず但し所詮彼れ彼れの経経に種熟脱を説かざれば還つて灰断に同じ化に始終無きの経なり、而るに真言師等の所談の即身成仏は譬えば窮人の妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し王莽・趙高の輩外に求む可からず今の真言家なり
次に真言宗等で大日経等によって即身成仏ができるといっているが、それはどうなのかとの問いを設がられている。
そして、大日経等の真言師の依経には種・熟・脱の三益が説かれないので、小乗教の灰身滅智と同じで、真の悟りではない。それは仏の化導の始めと終わりが明かされない経だからである、と破折されている。
そのことを次に「真言師等の所談の即身成仏は譬えば窮人の妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し」と譬喩を用いて破折されている。「窮人」とは」貧しい人の意で、身分の卑しい者が自分の帝王であるなどと称すれば罪をとがめられて滅ぼされるように、真言師が即身成仏できるなどというのは、自ら罪を招いて、中国の歴史から王莽と趙高の二人を挙げられている。
この二人を仏教における王莽・趙高すなわち「今の真言家」であると指摘されている。
なお、開目抄にも「真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし」(0215-13)と真言宗の立てる即身成仏が邪義であることが破折されている。
仏の滅後、正法・像法・末法の三時のなかで、正法・像法と末法とでは衆生の機根に根本的に異なりがあり、末法には題目の五字によって下種すべきことが明かされている。
「正像二千余年には猶下種の者有り」とは、釈尊在世に法華経の下種を受けたことである。そして「例せば在世四十余年の如し」と仰せられているのは、正像二千年の間の衆生は、ちょうど釈尊在世の40年間に得道した衆生が、久遠の昔に下種された機根であったのと同じく、小乗、権大乗を機縁として得脱したのである、との意である。
つまり、そういう衆生には、法華経を説くと誹謗して過去の善根を損なう恐れがあるので、考えなく法華経を説くことをしなかったのである、ということである。
そして、今はすでに末法に入っており、釈尊在世に下種を受けた者は次第にいなくなって、末法の今では、権実の二教で得脱すべき者が皆尽きてしまった。したがって、下種の仏が出現して下種の法を説くのである。しかも末法の衆生は逆縁であり、正法を聞いても信じようとせず、誹謗するが、それでもしいて説いて毒鼓の縁によって救うのである。
「彼の不軽菩薩末世に出現して」とは、実際に不軽菩薩が出現するという意味ではなく、不軽菩薩のように折伏によって衆生に下種する仏が出現してとの意であり、末法に御出現の御本仏・日蓮大聖人をさすことはいうまでもない。
しかし、各宗の学者は、末法という時と、衆生の機根という、仏法を弘通するうえでの最も重要な条件を知らないため、小乗教や権大乗教、あるいは文上脱益を説いているのである、とおおせられている。
ここで「小乗を弘通し」とあるのは、奈良・西大寺の叡尊や鎌倉・極楽寺の良観が律宗を再興して小乗の戒律を説いていることであり「権大乗を授与し」とは華厳・真言の諸宗であり、「一乗を演説す」とは天台宗をさしておられる。
1027:15~1028:04 第四章 真言宗が所依の経に迷うを示すtop
| 15 殊に 16 真言宗の学者迷惑を懐いて三部経に依憑し 単に会二破二の義を宣ぶ 猶三一相対を説かず 即身頓悟の道跡を削り 17 草木成仏は名をも聞かざるのみ、 而るに善無畏・金剛智・不空等の僧侶・月氏より漢土に来臨せし時本国に於て未 18 だ存せざる天台の大法盛に 此の国に流布せしむるの間・ 自愛所持の経弘め難きに依り一行阿闍梨を語い得て天台 1028 01 の智慧を盗み取り 大日経等に摂入して天竺より有るの由 之を偽る、 然るに震旦一国の王臣等並びに日本国の弘 02 法・慈覚の両大師之を弁えずして信を加う已下の諸学は言うに足らず、 但漢土・日本の中に伝教大師一人之を推し 03 たまえり、 然れども未だ分明ならず 所詮・善無畏三蔵・閻魔王の責を蒙りて此の過罪を悔い不空三蔵の還つて天 04 竺に渡つて真言を捨てて漢土に来臨し天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし是なり。 -----― とりわけ真言宗の学者は迷って真言の三部経に依拠して、会二破二の義を述べているだけである。彼らは三一相対さえ説かず、即身成仏の頓悟を開かせる道を削り草木成仏はその名すら聞かない。 そうであるのに、善無畏・金剛智・不空等の僧がインドから中国に来た時、インドになかった天台の大法が中国で盛んに流布していて、インドから所持してきた自愛の経は弘めがたいので、一行阿闍梨を欺いて天台の法門の智慧を盗み取り、大日経等に取り入れ、これはインドにもともとあった法門だと偽ったのである。 しかるに中国一国の王臣等並びに日本国の弘法、慈覚の二人の大師はこのことを弁えずに信じきってしまったのである。それ以下の人々はいうまでもない。 ただ中国と日本の中で伝教大師一人が、このことを弁えられたが、それでもまだ分明ではなかった。 結局、善無畏三蔵は地獄で閻魔王の責めをこうむり、法華経誹謗の罪を悔い、不空三蔵は中国からインドに帰って真言を捨て、再び中国に渡って天台の戒壇を建立し、胎蔵・金剛の両曼荼羅の中央に法華経を置いたのである。 |
三部経
①無量寿経・観無量寿経・双観経(浄土宗)。②大日経・金剛頂経・蘇悉地経(真言宗)。③法華経・仁王経・金光明経(鎮護国家)。④無量寿経・法華経・観普賢経(法華)等がある。
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依憑
よりどころとするもの。
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会二破二
二乗を会し、または破して一乗に帰着させること。
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三一相対
三とは、声聞・縁覚・菩薩の三乗。一とは一仏乗。華厳経・般若経などでも三乗のほかに一仏乗を立てているので一仏乗という。すなわち華厳宗や三論宗で立てたものである。しかし法華経の開三顕一法門には遠く及ばない。華厳と般若の二経はともに別教を兼帯した円教にすぎず、法華経の純円一実の円教よりは格段に異なっている。
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即身頓悟
即身成仏のこと。即身は凡夫の身そのまま、頓悟はすみやかに悟りを開くこと。
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草木成仏
草木や土砂等の非情の物質が成仏することをいう。また、依正についていえば、依報の成仏である。日寛上人は、諸御書を案ずるに、草木成仏に二意あるとして、一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏があるとしている。まず不改本位の成仏とは、草木の全体がそのまま本有無作の一念三千即自受用身の覚体である。草木成仏弘決には「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339-06)、三世諸仏総勘文抄教相廃立のは「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574-14)御義口伝には「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784-第二量の字の事-02)とある。このように、無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず花咲き実の成る智慧は本覚の報身であり、有情を養育するは本覚の応身であり、これを不改本覚の成仏という。木画二像の成仏とは、四条金吾釈迦仏供養事には「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145-01)木画二像開眼之事には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)とある。御義口伝で「草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり」(0723-第五而自廻転の事-03)と仰せられているのは「法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを」(0723-第五而自廻転の事-01)ということについてである。すなわち、依報・正報ともに変わっていくということは、正報の成仏により、非情の草木等の依報も成仏するのである。一枚の紙が御本尊に変わることを木画二像の成仏である。
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善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空
(0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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一行阿闍梨
(0683~0727)中国唐代の天台宗の僧であったが、真言宗の善無畏にたぼらかされて、真言の邪義を広めるのに力を尽くした。一行は中国の魏州の人で、唐の高宗、広通元年に生まれ、嵩山で剃髪した。普寂に禅を学び、さらに天台山国清寺で天台学を学んだ。開元4年(0726)、善無畏を助けて大日経を訳し、また善無畏にだまされて「大日経疏」20巻をあらわした。これは天台の教えを盗み、また誹謗した邪説である。開元15年(0727)45歳没。
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天台の智慧
法華経の極理から天台大師が創出した一念三千の法門をいう。
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摂入
摂め入れること。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
―――
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
閻魔王の責を蒙りて
大聖人は善無畏抄で「此の如くいみじき人なれども一時に頓死して有りき、蘇生りて語つて云く我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け鉄の杖を以て散散にさいなみ閻魔宮に到りにき、八万聖教一字一句も覚えず唯法華経の題名許り忘れざりき題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ息続いて高声に唱えて云く今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子・而今此処多諸患難・唯我一人能為救護等云云、七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき、 今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき、今日蓮不審して云く善無畏三蔵は先生に十善の戒力あり五百の仏陀に仕えたり、今生には捨て難き王位をつばきを捨てるが如く之を捨て幼少十三にして出家し給い、月支国を廻りて諸宗を習い極め天の感を蒙り化道の心深くして震旦国に渡りて真言の大法を弘めたり、一印一真言を結び誦すれば過去現在の無量の罪滅しぬらん何の科に依りて閻魔の責をば蒙り給いけるやらん 不審極り無し(1233-01)と、述べられている。
―――
閻魔王
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
―――
両界
真言宗の依経である大日経胎蔵界と金剛頂経金剛界曼荼羅。
―――――――――
ここは、とくに真言宗を破折されている。
殊に真言宗の学者迷惑を懐いて三部経に依憑し単に会二破二の義を宣ぶ猶三一相対を説かず即身頓悟の道跡を削り草木成仏は名をも聞かざるのみ、而るに善無畏・金剛智・不空等の僧侶・月氏より漢土に来臨せし時本国に於て未だ存せざる天台の大法盛に此の国に流布せしむるの間・自愛所持の経弘め難きに依り一行阿闍梨を語い得て天台の智慧を盗み取り大日経等に摂入して天竺より有るの由之を偽る、然るに震旦一国の王臣等並びに日本国の弘法・慈覚の両大師之を弁えずして信を加う已下の諸学は言うに足らず、但漢土・日本の中に伝教大師一人之を推したまえり、然れども未だ分明ならず
真言宗は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部経を依経としており、その教義は「会二破二の義」にすぎないのである。会二破二の会二とは二乗を会して一乗に帰着させることで、破二とは二乗を破して一乗を顕すことをいう。ただし、この一乗とは一仏乗ではなく、三乗のうち菩薩乗をさす。
すなわち、菩薩乗を基本として小乗教において声聞・縁覚という二乗を説いたが、その二乗も菩薩乗に入るのであるとするのが会二ということで、声聞乗・縁覚乗を説いたのは方便であるとする。また菩薩乗が正しいのであって、声聞・縁覚の二乗は釈尊の本意ではないと打ち破るのが破二になる。大日の三部経といっても、単にこの会二破二の義を説いて大乗の菩薩乗を主張しているにすぎないのである。
次の三一相対とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗と一仏乗を相対して、一仏乗が勝るとすることをいう。三一相対を説いているのは華厳経であり、真言の三部経は会二破二の義で菩薩乗を説いているのみで、三一相対、すなわち三乗を破して一仏乗など全く説かれていないのである。したがって、真言の三部経は華厳経にも劣っており、まして法華経には遠く及ばないのである。
そのことを撰時抄には「大唐の玄宗皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす、此の三経の説相分明なり其の極理を尋ぬれば会二破二の一乗・其の相を論ずれば印と真言と計りなり、尚華厳般若の三一相対の一乗にも及ばず天台宗の爾前の別円程もなし但蔵通二教を面とするを」(0275-05)と述べられている。
「即身頓悟」とは、即身成仏のことで、凡夫がその身のまま速やかに悟りを開くことをいう。爾前経では悪人は善人に身を変じ、長期の修行によって三十二相八十種好を具えて仏になると説かれていた。
しかし、法華経では歴劫修行によらず、妙法の功力によって凡夫の身がそのままの姿で成仏できると説かれている。真言の経々には、即身成仏の法門など跡形もないのである。
「草木成仏」とは、草木や国土など非情が成仏することで、その実義は、法華経に説かれる二乗作仏・十如実相・本国土妙などによって天台大師が立てた一念三千の法門にある。したがって草木成仏は法華経に限るのである。
観心本尊抄には「天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(0239-10)と述べられている。
一念三千・草木成仏の法理によって、初めて木画の像を本尊とする意義があるのである。しかし、真言の三部経には草木成仏の名目さえ説かれていないのである。
そのように真言の三部経の内容は低い経であり、インドから中国に渡った真言宗の祖・善無畏が大日経と蘇悉地経を伝え釈し、不空が金剛頂経を釈したが、中国にはすでに天台大師の一念三千の法門が流布していて、教えの低い真言の三部経などとても弘めることはできなかった。そこで、天台僧の一行をだまして天台大師の立てた一念三千の法門は大日経にも説かれていると偽り、そのように大日経疏に書かせたのである。
撰時抄には「善無畏三蔵一行にかたて云く、天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう汝かきなんやといゐければ一行が云くやすう候、但しいかやうにかき候べきぞ天台宗はにくき宗なり諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶わざる事一あり、所謂法華経の序分に無量義経と申す経をもつて前四十余年の経経をば其の門を打ちふさぎ候いぬ、法華経の法師品・神力品をもつて後の経経をば又ふせがせぬ肩をならぶ経経をば今説の文をもつてせめ候大日経をば三説の中にはいづくにかをき候べきと問ひければ爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩タに向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」(0275-)と善無畏が一行をだました内容を詳しく述べられている。
善無畏にだまされた一行は、善無畏のいうとおりに法華経と大日経はともに一念三千の法理を説いていることは同じだが、大日経には法華経にはない印と真言が説かれているので大日経のほうが勝る、という理同事勝の義によって大日経疏を書いたのである。
この善無畏述・一行記の大日経疏20巻に対して、一行の死後に智儼・温古が修正を加えて大日経義釈14巻を造った。日本の真言宗では弘法が大日経を用いて伝え、天台密教の慈覚・智証は大日経義釈を用い、伝えている。
この善無畏の立てた邪義によって中国に真言宗が広まり、日本の弘法・慈覚もたぶらかされて真言の三部経とその釈を伝えた。
弘法により日本真言宗が立てられ、慈覚・智証によって天台宗が真言化していったのである。ましてその門下が真言を信じたのは当然だったといえよう。
伝教大師だけは真言の誤りを知っていたが、明らかには説かなかったのである。「末だ分明ならず」と仰せられているのは、伝教大師がその著・依馮集のなかで「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯じ」と述べているのみだからである。
「筆受の相承を泯じ」とは、前述のように一行の大日経疏は、天台大師の立てた一念三千の法門の立場で大日経を解釈したものであるにもかかわらず、弘法は法華経を大日経に比べれば第三の劣であり戯論であるなどといって下しており、そのことは一行の善無畏からの相承を無視したことになる、との意である。なお「泯じ」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。
すなわち、善無畏が天台大師の一念三千の法門を盗み入れて大日経を飾り、法華経と理は同じとしたのにもかかわらず、弘法はかえって法華経を大日経にはるかに劣ると下しており、それは善無畏の相承に背いている、と破折したのである。
しかし、伝教大師が真言の誤りをそれ以上責めなかったのは、撰時抄に「日本国の伝教大師・漢土にわたりて天台宗をわたし給うついでに真言宗をならべわたす、天台宗を日本の皇帝にさづけ真言宗を六宗の大徳にならはせ給う、但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給う、入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論の計りなかりけるかのあひだ敵多くしては戒場の一事成りがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん皇帝の御前にしても 論ぜさせ給はず弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず」(0276-12)と述べられているように、法華経迹門の戒壇を建立するためと、末法に譲ったためにそれ以上の破折はいなかったのである。
所詮・善無畏三蔵・閻魔王の責を蒙りて此の過罪を悔い不空三蔵の還つて天竺に渡つて真言を捨てて漢土に来臨し天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし是なり
しかし、善無畏や不空が後に法華誹謗の罪を悔いたという事実があり、それこそが法華経が勝り真言の三部経が劣る現証であると述べられている。
「善無畏三蔵・閻魔王の責を蒙りて此の過罪を悔い」と述べられているのは、大日経疏巻五に「阿闍梨の言く、少かりし時、当に重病に因りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王を覩たり…赦されて、比に却還らせる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に繁持せられし処に、猶、瘡痕あり、旬月にして癒えたりき」とあることによるとされたのである。
なぜ善無畏が閻魔王の責めを受けなければならなかったのかについては、善無畏三蔵抄に「日蓮此の事を委く勘うるに二つの失有つて閻魔王の責に予り給へり、一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり 而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり、此の謗法の罪は無量劫の間・千二百余尊の法を行ずとも悪道を免るべからず、此の三蔵此の失免れ難き故に諸尊の印真言を作せども叶はざりしかば法華経第二・譬喩品の今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処多諸患難.唯我一人・能為救護の文を唱へて鉄の繩を免れさせ給いき」(0887-12)と述べられている。
また、不空は、金剛智や善無畏の死後、スリランカに渡って密教教典を得て中国に帰り、玄宗皇帝の帰依と外護を受けて密教を弘めている。
しかし、不空が大暦年間に代宗皇帝に上奏した表制集のなかに、五台山にあった呉摩子寺を大暦法華之寺と改め、国家安泰のために法華経を転読させたとある。このことから「天台の戒壇を建立し」と述べられたのであろう。
また、不空著の法華経観智儀軌によれば、真言宗の本尊である金剛界・胎蔵界の曼荼羅の中央に法華経を安置するとあり、そのことを「両界の中央の本尊に法華経を置き」と述べられている。
1028:05~1028:10 第五章 諸宗の祖の天台帰伏を明かすtop
| 05 問うて曰く今時の真言宗の学者等何ぞ此の義を存せざるや、 答えて曰く眉は近けれども見えず自の禍を知らず 06 とは是の謂か、嘉祥大師は三論宗を捨てて天台の弟子と為る 今の末学等之を知らず、 法蔵・澄観華厳宗を置いて 07 智者に帰す彼の宗の学者之を存せず、 玄奘三蔵・慈恩大師は五性の邪義を廃して 一乗の法に移る法相の学者堅く 08 之を諍う。 -----― 問うて言う。今の真言宗等の学者はどうしてこの義を知らないのであろうか。 答えて言う。眉は近いけれども見えない。自らの禍を知らないのはこのためであろうか。 嘉祥大師は三論宗を捨てて天台大師の弟子となったが、今の三論宗の学者はこのことを知らない。法蔵・澄観は華厳宗を差し置いて、天台智者に帰依したのであるが、かの宗の学者はこのことを知らない。玄奘三蔵・慈恩大師は五性各別の邪義を廃して、法華一乗の法に移ったのであるが、法相の学者は堅く自義に執着して諍論している。 -----― 09 問うて曰く其の証如何、 答えて曰く或は心を移して身を移さず或は身を移して心を移さず或は身心共に移し或 10 は身心共に移さず 其の証文は別紙に之を出す可し此の消息の詮に非ざれば之を出さず、 -----― 問うて言う。その証拠はどこにあるのであろうか。 答えて言う。これらの人々はあるいは心を移して身を移さず、あるいは身を移して心を移さず、あるいは身心ともに移し、あるいは身心ともに移さず等、さまざまである。その証拠となる文証は別紙に認めよう。この消息の要ではないのでこれを省略する。 |
嘉祥大師
(0549~0623)。吉蔵大師の異名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
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三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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法蔵
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の批判を五教十宗判として立てた。「華厳経探玄記」「華厳五教章」「華厳経伝記」などの著があり、則天武后の帰依をうけた。
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澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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慈恩大師
(0632~0862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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五性
五性各別のこと。解深密経によって、人の性質は本来五種、①声聞種性、②独覚種性、③如来種性、④不定種性、⑤無有出世功徳種性の決定的差別があるという考え方。したがって、その五性に適して説いた三乗・五乗等の教えこそ真実であって、一仏乗を説いた法華経は方便であるというのが法相宗の主張である。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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真言宗の祖の善無畏や不空ばかりでなく、三論宗の嘉祥・華厳宗の法蔵や澄観・法相宗の玄奘や慈恩などの諸宗の祖も天台大師の義に帰伏していたけれども、その末学達はそれを知らないでいることを指摘されている。
問うて曰く今時の真言宗の学者等何ぞ此の義を存せざるや、答えて曰く眉は近けれども見えず自の禍を知らずとは是の謂か、嘉祥大師は三論宗を捨てて天台の弟子と為る今の末学等之を知らず、法蔵・澄観華厳宗を置いて智者に帰す彼の宗の学者之を存せず、玄奘三蔵・慈恩大師は五性の邪義を廃して一乗の法に移る法相の学者堅く之を諍う
初めに、善無畏や不空が謗法を悔いたことを、今の真言宗の学者がなぜ知らないのかという問いを設け、眉毛の目の最も近くにありながら自分の目では見ることができないように、自宗の誤りというものは分からないものである、と答えられている。
そして、それは真言宗だけにかぎらず、三論宗・華厳宗・法相宗も、その開祖達が天台大師に帰伏したにもかかわらず、その宗の末学がそれを知らないことを挙げられている。
嘉祥大師は、隋から唐代の初めの僧で吉蔵ともいい、十二歳の時から法朗に師事して三論を学び、嘉祥寺に入ってからも研究を続けて三論宗を大成したので、中興の祖とされ、嘉祥寺に住んでいたので、嘉祥大師と呼ばれた。
三論宗とは、竜樹の中論・十二門論と、提婆の百論の三つの論を中心として、般若経を依経として立てられた宗派で、鳩摩羅什が三論を翻釈して以来、弟子に受け継がれて吉蔵によって大成された。その教義は、空の立場から仏教を解釈したもので、八不をもって一切の偏見を打破することが中道の真理を顕すという八不中道を立てている。
続高僧伝巻19の灌頂伝に「吉蔵法師と云うもの有り、興皇の入室なり…義記を求借して浅深を尋閲し、乃ち体解心酔して、従る所にあることを知る。因って講を廃し衆を散じ、足を天台に投じて法華を餐稟し、誓を発して弘演す。十七年に至りて、智者疾を現ずるや、暁夕に讒侍して、艱劬心を尽くす。爰に滅度に及び、親しく遺旨を承く。乃ち留書并びに諸の信物を奉じて、哀泣跪授す」とある。
そのことを太田入道殿御返事には「嘉祥寺の吉蔵大師は漢土第一の名匠・三論宗の元祖なり呉会に独歩し慢幢最も高し天台大師に対して已今当の文を諍い立処に邪執を飜破し謗人・謗法の重罪を滅せんが為に百余人の高徳を相語らい智者大師を屈請して身を肉橋と為し頭に両足を承く、七年の間・薪を採り水を汲み講を廃し衆を散じ慢幢を倒さんが為法華経を誦せず、大師の滅後隋帝に往詣し雙足をキョウ摂し涙を流して別れを告げ古鏡を観見して自影を慎辱す 業病を滅せんと欲して上の如く懺悔す」(1011-01)と述べられ、また開目抄には「三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり」(0216-11)と述べられている。更に撰時抄には、吉蔵が天台大師の講経を聞くように南北百余人の先達と長者に勧められた状が引用されている。
そのように、嘉祥大師は天台大師が帰伏して自らの三論の講座を廃し、弟子達を解散させて、天台大師に身をもって仕えたのである。
華厳宗の法蔵・澄観が天台に帰伏したというのは、伝教大師が依馮集に「大唐京兆魏国西明寺華厳宗の沙門法蔵、天台の義に依りて華厳義等二十三巻を造る」、「大唐大原府崇福寺の新華厳宗翻経の沙門澄観、天台の義を判じて理到円満とす」との頂を立てて、その立義が天台大師の義に依っていることを明かしているようによられたものであろう。
法蔵は中国・唐代の華厳宗第三祖で、華厳教学の大成者とされている。智儼に師事して華厳を学び、実叉難陀が華厳経80巻を翻釈するのを助けて華厳教学を深め、五教十宗の教判を立てた。しかし、その立義は天台大師の教えに依っていたのである。
澄観は中国・唐代の華厳宗の第四祖で、清涼国師とも呼ばれ、法華経をはじめ大乗の諸経論を研究し、妙楽大師について天台大師の摩訶止観も学んでいる。後、五大山大華厳寺で華厳経を講じ、華厳経疏等を述作した。その華厳経疏の内容は、天台大師の義を用いたものだった。
八宗違目抄に「華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏に之有り」(0156-07)と述べられ、開目抄にも「華厳宗は澄観が時・華厳経の心如工画師の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人これをしらず」(0190-06)と述べられている。更に、開目抄には「華厳の澄観は華厳の疏を造て華厳・法華・相対して法華を方便とかけるに似れども彼の宗之を以て実と為す此の宗の立義・理通ぜざること無し等とかけるは悔い還すにあらずや」(0216-14)と述べられ、澄観が華厳経を法華より勝るといいながら、他方ではどちらも同じ理を説いているといっているのは、内心では法華経が勝れていることを認めたのであろうと指摘されている。
伝教大師も依馮集の序に「旧到の華厳家は影響の規模を隠す」と、華厳宗が天台大師の法門の影響を受けていながらそれを隠していることを述べている。
法相宗の玄奘三蔵・慈恩大師は、衆生が本来具えている機根に五種があり、それは決して変えることはできないとして五性格別の説を立てていたが、後にそれを誤りと認めた。
このことは開目抄にも「法相宗は一向・天台宗に敵を成す宗・法門水火なり、しかれども玄奘三蔵・慈恩大師・委細に天台の御釈を見ける程に自宗の邪見ひるがへるかのゆへに自宗をば・すてねども其の心天台に帰伏すと見へたり」(0190-02)また、「法相の慈恩は法苑林・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり」(0216-12)と述べられている。
こうした各宗の開祖等が天台の法門に帰伏した事実があるにもかかわらず、各宗の末学末弟達はそれを知らず、自宗の謬義に執着して、法華経を誹謗しているのである。
問うて曰く其の証如何、答えて曰く或は心を移して身を移さず或は身を移して心を移さず或は身心共に移し或は身心共に移さず其の証文は別紙に之を出す可し此の消息の詮に非ざれば之を出さず
そこで、その証拠はどうか、との問いを設けられているが、この設問の意味は、なぜ開祖達が正法に帰伏せしたのに末学達が知らないのかということと考えられる。それに対して天台大師に帰伏した者に、
①心を移して身を移さない者
②身を移して心を移さない者
③身心ともに移した者
④身心ともに移さない者
の四種があり、それぞれ明らかな文証もあるが、それは本抄の目的ではないので挙げない、と答えられている。なお、四種の人については真言七重勝劣にも挙げられている。
ともあれ、内心は天台の法門の正しさを最後には認めて帰伏したとしても、形のうえでは相変わらず法相宗であったり、華厳宗であるから、後世の末学達は、その帰伏の事実を知らない場合が多いということである。
1028:10~1028:18 第六章 正法千年の弘教を明かすtop
| 10 仏滅後に三時有り、 所謂 11 正法一千年・前の五百年には迦葉・阿難・商那和修・末田地・ 脇比丘等一向に小乗の薬を以て衆生の軽病を対治す 12 四阿含経・十誦八十誦等の諸律と相続解脱経等の三蔵を弘通して後には律宗・倶舎宗・成実宗と号する是なり、 後 13 の五百年には馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の諸の大論師・初には諸の小聖の弘めし所の小 14 乗経之を通達し後には一一に 彼の義を破失し了つて諸の大乗経を弘通す 是れ又中薬を以て衆生の中病を対治す所 15 謂華厳経・般若経・大日経・深密経等・三輪宗・法相宗・真言陀羅尼・禅法等なり。 -----― 如来滅後に三時がある。初めがいわゆる正法千年である。正法時代の前半の五百年間には迦葉・阿難・商那和修・末田地・脇比丘等が小乗の薬で衆生の軽病を治した。いわゆる増一・長・中・雑の四阿含経・十誦・八十誦等の諸律と相続解脱経等の三蔵を弘通した。後に律宗・倶舎宗・成実宗と名乗ったのはこれである。また後半の五百年間には馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の諸の大論師が、初めには諸の小乗の聖人の弘めた小乗経を学び究め、後には一々にそれらの義を破失して諸の大乗経を弘通したのである。すなわち、中薬をもって衆生の中病を治したのである。いわゆる華厳経・般若経・大日経・深密経等・三輪宗・法相宗・真言陀羅尼・禅法等となったのである。 -----― 16 問うて曰く迦葉・阿難等の諸の小聖何ぞ大乗経を弘めざるや、 答えて曰く一には自身堪えざるが故に二には所 17 被の機無きが故に 三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり、 問うて曰く竜樹・天親等何 18 ぞ一乗経を弘めざるや、答えて曰く四つの義有り先の如し、 -----― 問うて言う。迦葉・阿難等の小乗の聖人はどうして大乗経を弘めなかったのであろうか。 答えて言う。それには一には自分が堪えるとができないゆえであり、二には衆生が大乗を受け入れる機根でないゆえで、三には仏から譲り与えられなかったゆえであり、四には時が来ていなかったゆえである。 問うて言う。竜樹・天親はどうして一乗経である法華経を弘めなかったのであろうか。 答えて言う。それも先に挙げた四つの義によるのである。 |
正法一千年・前の五百年
正像末の三時のうちの正法時代の前半の500年。五五百歳の第一。解脱堅固の時。仏道修行が盛んに行われ、多くの人が解脱し、悟りを開くことができる。解脱は煩悩を断じ、生死の束縛を離れることをいう。
―――
迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
商那和修
梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ(Śāṇavāsa、Śaṇakavāsa)の音写。舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優婆崛多に法を付嘱した。
―――
末田地
付法蔵の第三。阿難の弟子で罽賓国に仏法をひろめた。また、西域記には竜王を教化したとも伝えられる。
―――
四阿含経
4種の阿含経。長 阿含経・中阿含経・増一阿含経・雑 阿含経のこと。
―――
十誦
十誦律のこと。仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた律書のひとつで、説一切有部によって伝承されてきたもの。四分律・五分律・摩訶僧祇律とともに四大広律のひとつに上げられている。
―――
八十誦
80誦律のことで律蔵の根本。釈尊滅後100年ごろ第一回経典結集が行われた際、持戒第一の優婆離が律を80回にわたって誦したので、80誦律という。これは原始律といわれたもので、のちに要約したものが10誦律である。現存している小乗律は、十誦律・四分律・五分律・僧祇律である。
―――
相続解脱経
求那跋陀羅の訳。相続解脱地波羅蜜了義経と相続解脱如来所作随順処了義経をいう。ともに解深密経の部分訳。
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三蔵
①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
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律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
倶舎宗
仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
―――
成実宗
4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
―――
後の五百年(正法時代の)
正像末の三時のうちの正法時代の後半の500年。五五百歳の第二。禅定堅固の時。衆生が大乗を修して禅定に入り、心を静めて思惟の行に励んだ時代。
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馬鳴菩薩
付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
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竜樹菩薩
付法蔵の第十四(一説には第十三)。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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提婆菩薩
付法蔵の第十四。仏滅後750年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
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無著菩薩
「無著」梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
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天親菩薩
生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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大論師
偉大な論師のこと。
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般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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真言陀羅尼
真言と陀羅尼のこと。「真言」は仏の真実の意だが、密教では仏の悟りや誓願を示す言葉とされ、陀羅尼と併称されて使われる場合もある。「陀羅尼」はダーラニー (dhāranī)の音写で能持・総持と訳す。総は総摂の義、持は任持の義で、一字の中に無量の義を総摂し、一義の中に一切の義を任持するという意味である。陀羅尼は、能く悪法を遮し、能く善法を持するものである。後に呪・真言と混同され、口に唱えた者を守護し功徳を与える梵語の語句をもさすようになった。
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禅法
禅定によって心性の本質をつきつめる法のこと。禅宗で重んずる修法。経論の字句によらず、祖師が心から心へと悟りを伝えることをいう。
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釈尊滅後の、正法・像法・末法の三時について、それぞれの弘教が明かされているが、初めに正法時代千年間の弘教について述べられている。
正法一千年の前半五百年には、釈葉・阿難・商那和修・末田地・脇比丘が出現し、小乗教を弘めた。「小乗の薬を以て衆生の軽病を対治す」と述べられているように、正法時代の初めの衆生は、機根も勝れ、その煩悩も軽いために、小乗教の軽薬で治すことができたのである。
そのことを治病大小権実違目には「心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、六道の凡夫の三毒・八万四千の心病は小仏・小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師・人師此れを治するにゆいて愈えぬべし」(0995-09)と述べられている。
小乗の教えは、経・律・論の三蔵ともいわれた。経蔵とは釈尊が説いた教法をまとめたものをいい、律蔵とは修行上の禁戒や規則をいい、論蔵とは釈尊の説いた教法を体系化し注釈したものをいった。
釈尊の滅後、阿闍世王の外護のもとにマカダ国王舎城の南、畢鉢羅窟で迦葉を中心に第一回の仏典結集が行われ、阿難が経を誦出し、優婆離が律を誦し、迦葉が論蔵を結集したとされている。
「四阿含経」の阿含とは梵語アーガマの音写で、伝えられた教という意味である。本来、釈尊の言行や説法を伝え、集大成した蔵経全体の総称とされる。増一阿含・中阿含・雑阿含の四部からなるので四阿含経ともいう。
「十誦八十誦等の諸律」とは、十誦律・四分律・増祇律・五部律等の戒律をいう。八十誦とは八十誦律ともいい、十誦律を細分化したもので、第一回の仏典結集の時に優婆離が律蔵を80回にわたって湧出したのでこのように称される。この八十誦から諸律が分立したといわれている。
相続解脱経とは論蔵で、釈尊自らが所説の意義を説いたものなので経と呼ばれたといわれ、現在は残っていない。
そうした三蔵を依経とした小乗の宗派が律・具舎・成実などの諸宗で、小乗の教法を弘めたのである。
後の五百年には馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の諸の大論師・初には諸の小聖の弘めし所の小乗経之を通達し後には一一に彼の義を破失し了つて諸の大乗経を弘通す是れ又中薬を以て衆生の中病を対治す所謂華厳経・般若経・大日経・深密経等・三輪宗・法相宗・真言陀羅尼・禅法等なり
次に、正法時代の後半五百年には馬鳴菩薩・竜樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の大論師が出現した。これらの人々は初めは小乗教を学んだが、後には大乗教に帰依し大乗教を弘通した。
論師とは、論をつくって仏法を宣揚する人、議論に通じている人などをいい、大論師とはこれらの人々が大乗教を宣揚したことをいう。また利他を根本とする大乗教を弘通したため菩薩と呼ばれた。
馬鳴は2世紀ごろの中インドの人で、初め外道を学び仏教を非難していたが、付法蔵大11の富那奢に論破されて仏教に帰依し、仏教をもって多くの衆生を教化した。後に北インドに移り、功徳日と敬称され、仏所行讃・大乗起信論などの多くの著作を著したとされる。
竜樹は、3世紀ごろの南インドの人で、大乗思想の大成者とされ、後に八宗の祖といわれる。バラモンの出身で初め小乗教を学んだが、雪山で大乗教を学び、また南海の竜宮で多くの大乗経典を得たとされる。大乗教の諸教典を注釈して大乗思想の振興・宣揚に大きく貢献した。著書に中観論・十住毘婆沙論・十二門論等多数があり、また大智度論も竜樹造とされている。
提婆は、3世紀ごろの南インドの人で、バラモンの出身だったが、竜樹の弟子となり、邪道の論破を多数破折し、その弟子の一人に恨まれ殺されている。
無著は、4世紀ごろに北インドのバラモンの家に生まれ、出家して小乗教を学んだが満足できず、弥勒菩薩から大乗の空観を学んだと伝えられる。小乗に執着していた弟の世親を教化して大乗に帰入させている。摂大乗論・金剛般若論・順中論などを著した。
世親は、はじめ小乗教を学んで俱舎論を著したが、兄の無著に導かれて大乗に帰した。そしてそれまで小乗を弘めた罪を悔いて舌を切ろうとしたが、その舌で大乗をほめれば罪は消えると兄にさとされ、大乗の論を多く著して大乗教を宣揚した。十地経論・唯識二十論・摂大乗論釈・仏性論などその著書は多く、千部の論師とされた。
このように、正法の後半500年の論師達は、利他を根本とする大乗教を宣揚し、小乗教では救えなくなった衆生の苦悩を救ったのである。
その時代に弘通された大乗経典は華厳経・般若経・大日経・深密経などであり、そこから後世の三論宗・法相宗・真言宗等の各宗が成立していった。問うて曰く迦葉・阿難等の諸の小聖何ぞ大乗経を弘めざるや、答えて曰く一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり、 問うて曰く竜樹・天親等何ぞ一乗経を弘めざるや、答えて曰く四つの義有り先の如し
それに対して、なぜ迦葉や阿難などが初めから大乗教を弘めなかったのか、という疑問が起きてくる。この背景には大乗教・法華経も釈尊が説いたものであり、当初は存在しなかったはずであるという考え方がある。その問いに対して大聖人は四つの理由を挙げられている。
「一には自身堪えざるが故に」すなわち、迦葉・阿難等は大乗教を人々に説き教える能力がなかった、ということである。
「二には所被の機無きが故に」すなわち、衆生の機根が大乗教を説いても受け入れられないので、衆生の機根に相応した小乗教を弘めたのであるということである。
「三には仏より譲り与えられざるが故に」すなわち、仏から、小乗教を弘通する付嘱をうけていたが、大乗教を弘通する付嘱は受けていなかったのである、ということである。
「四には時来らざるが故なり」すなわち、大乗教を弘める時ではなく、当時は小乗教が時にかなった法であった、ということである。
このように、迦葉・阿難等の小乗教の聖人達は、大乗教を弘通する条件を備えていなかったために、小乗教を弘通したのである。
同じく、正法時代の後半の500年に権大乗教を弘通した竜樹や天親が一仏乗を説いた法華経を弘通しなかった理由も、これら4つに要約されるのである。
1028:18~1029:02 第七章 真言宗の密教伝来の妄語を破すtop
| 18 問うて曰く 諸の真言師の云く「仏の滅後八百年に相 1029 01 当つて竜猛菩薩・月氏に出現して釈尊の顕経たる華厳・ 法華等を馬鳴菩薩等に相伝し大日の密経をば自ら南天の鉄 02 塔を開拓し面り 大日如来と金剛薩タとに対して之を口決す、 竜猛菩薩に二人の弟子有り 提婆菩薩には釈迦の顕 03 教を伝え竜智菩薩には大日の密教を授く 竜智菩薩は阿羅苑に隠居して人に伝えず其の間に 提婆菩薩の伝うる所の 04 顕教は先づ漢土に渡る其の後数年を経歴して竜智菩薩の伝うる所の秘密の教を善無畏・金剛智・不空・漢土に渡す」 05 等云云此の義如何、 答えて曰く一切の真言師是くの如し又天台華厳等の諸家も一同に之を信ず、 抑竜猛已前には 06 月氏国の中には大日の三部経無しと云うか 釈迦よりの外に大日如来世に出現して三部の経を説くと云うか、 顕を 07 提婆に伝え密を竜智に授くる証文何れの経論に出でたるぞ、 此の大妄語は提婆の欺誑罪にも過ぎ 瞿伽利の誑言に 08 も超ゆ 漢土日本の王位の尽き両朝の僧侶の謗法と為るの由来専ら斯れに在らずや、 然れば則ち彼の震旦既に北蕃 09 の為に破られ此の日域も亦西戎の為に侵されんと欲す此等は且らく之を置く。 -----― 問うて言う。もろもろの真言師は「仏滅後、八百年にあたって、竜猛菩薩がインドに出現して、釈尊の顕経である華厳経・法華経等を馬鳴菩薩から相伝し、大日如来の密経を自ら南インドの鉄塔を開いて、まのあたりに大日如来と金剛薩埵とから口伝したのである。竜猛菩薩に二人の弟子があったが、提婆菩薩には釈迦仏の顕教を伝え、竜智菩薩には大日の密教を授けたのである。竜智菩薩は阿羅苑に隠居して人に伝えず、その間に提婆菩薩に伝えたところの顕教がまず中国に渡ったのである。その後数年を経て、竜智菩薩の伝えたところの秘密の教を善無畏・金剛智・不空・漢土に渡したのである」と言っている。この義はどうであろうか。 答えて言う。一切の真言師も同じことを言っている。また、天台・華厳等の諸家も一同にこれを信じている。 そもそも、竜猛菩薩以前には大日経の三部経はなかったのであろうか。釈迦仏とは別に大日如来が出現して三部の経を説いたというのであろうか。また、顕教を提婆菩薩に伝え、密教を竜智に授けたという文証はどの経論に出ているのか。 この大妄語は提婆達多の欺誑罪にも過ぎ、瞿伽利の誑言にも超えている。 中国・日本の王位が尽き、中国と日本の両朝の僧侶が謗法となったのも、その由来はもっぱらこの邪義によるのである。そのためか、かの中国はすでに北蕃のために滅ぼされ、この日本もまた西戎蒙古国のために侵略されようとしているのである。このことはしばらくおく。 |
竜猛菩薩
竜樹菩薩の別名。別説あり。
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顕経
「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
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大日如来
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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密教
呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
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金剛薩埵
真言八祖の第二祖。大日経の対告衆。
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竜智菩薩
真言宗の第四祖。竜樹菩薩の弟子で、金剛智の師。
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阿羅苑
竜智が隠居していた場所。阿羅は桃によく似た果実がなるという樹。
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大日の三部経
真言宗の立てる三部経のこと。大日経7巻・金剛頂経3巻・蘇悉地経3巻のことをいう。
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大妄語
大虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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欺誑罪
あざむきたぶらかす罪。
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瞿伽利
瞿伽利とは梵語であり、悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の一人で浄飯王の命で出家し、仏弟子となった。のちに提婆達多を師として仏法に反逆した。竜樹の大智度論十三に「常に舎利弗・目連の過失を求めていた。二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれている。
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北蕃
北狄ともいう。北方民族のこと。蒙古族の金をさしている。
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日域
日本のこと。
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西戎
①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
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前章で述べられた正法時代の仏法流布の正統な歴史に対し、真言宗では独自の真言密教の相承の系譜を立てており、本章ではその誤りを破折されている。
真言宗の立てる密教の系譜というのはこうである。釈尊滅後800年にインドに出現した竜猛菩薩は、華厳経や法華経などの釈尊の説いた顕教を馬鳴菩薩から相伝して提婆菩薩に伝え、大日如来の説いた密教を南天竺の鉄搭を開き大日如来と金剛薩埵に対面して口伝され竜智菩薩に伝えた。そして、提婆が伝えた顕教が先に中国に渡り、その後に竜智が伝えた密教が善無畏・金剛智・不空によって中国へ渡った。というのである。
すなわち、真言宗では、密教は大日如来――第二祖・金剛薩埵――第三祖・竜猛――第四祖・竜智――第五祖・善無畏の順で付法されたと立てている。
第四祖とされる竜智は南インドの人とされるが生没年ともに不明で、竜樹から密教の付法を受け、金剛智に付嘱したとされている。
数百年に及ぶ長寿をたもち、唐代にインドを訪れた玄奘にも会ったというのであるから当然、その実在は疑問視されている。
この真言宗の説は真言宗だけでなく、天台宗や華厳宗でもそう信じていたのであるが、大聖人はこれに対し、そうすると、竜樹の出現する以前にインドに大日経等の真言の三部経がなかったということになり、また釈尊とは別に大日如来が世に出現して説いたことになる。このことは、二仏出世を否定した仏説に背くことになると破折されている。
真言の三部経は大日如来の両説であるとする邪義に対して、真言見聞には
02 若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後
03 か如何、 対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは
04 聖教の通判なり、 涅槃経の三十五の巻を見る可きなり、 若し他土の仏なりと云はば 何ぞ我が主師親の釈尊を蔑
05 にして他方・疎縁の仏を崇むるや 不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、 若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別
06 仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや、 唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑なる父を崇む是一、六波羅蜜経に云
07 く「所謂過去無量ゴウ伽沙の諸仏世尊の所説の正法・ 我今亦当に是の如き説を作すべし所謂八万四千の諸の妙法蘊
08 なり○而も阿難陀等の諸大弟子をして 一たび耳に聞いて皆悉く憶持せしむ」云云、 此の中の陀羅尼蔵を弘法我が
09 真言と云える若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか 此の説に違す是二、凡そ法華経は無量千万億の已説・
10 今説・当説に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法
11 華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う是三、 威儀形色経に「身相黄金色にして
12 常に満月輪に遊び定慧智拳の印法華経を証誠す」と、 又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四、「要を以て之を
13 云わば如来の一切所有の法乃至 皆此の経に於て宣示顕説す」云云、 此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なる
14 のみに非ず 三世の諸仏の所説の中に第一なり 此の外・一仏二仏の所説の経の中に法華経に勝れたる経有りと云は
15 ば用ゆ可からず法華経は三世不壊の経なる故なり是五、又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経文之無し是六、釈
16 尊御入滅より已後天竺の論師二十四人の付法蔵・其の外大権の垂迹・震旦の人師・南三北七の十師・三論法相の先師
17 の中に天台宗より外に十界互具・百界千如・一念三千と談ずる人之無し、 若し一念三千を立てざれば性悪の義之無
18 し性悪の義無くば仏菩薩の普現色身・真言両界の漫荼羅・五百七百の諸尊は本無今有の外道の法に同ぜんか、 若し
01 十界互具・百界千如を立てば本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや、 天台円宗見聞の後・邪智荘厳の為に盗
02 み取れる法門なり、才芸を誦し浮言を吐くには依る可からず正しき経文・金言を尋ぬ可きなり是七。
03 涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く 一人出世すれば多人利益す一国土の中に二の転輪王
04 あり 一世界の中に二仏出世すといわば 是の処有ること無し」
と述べられている。
大日如来とはこの娑婆世界に出現して法を説いた仏ではなく、釈尊が方便で説いた法身仏にすぎないのであり、そのうえ釈尊以外の仏が同時に出現して法を説くことなどありえないのである。したがって、大日如来が出現して竜猛に真言の三部経を説いたというのは全くありえないことで、仏教に無智な者をだまして密教を導くと思わせるための虚偽なのである。
また大聖人は、竜猛が顕教を提婆に、密教を竜樹に授けたという文証があるか、どこにもないではないか、と破折されている。
このように、文証・理証のない真言宗の大妄語は、提婆達多が自らを「仏である」と称した欺誑罪にも過ぎる重罪であり、提婆達多の弟子・瞿伽利が目連を批判した誑言にも越える逆罪である、と断じられている。
提婆達多は「我は仏果を得た」等と妄語し、阿闍世王などを味方にして釈尊を誹謗し、三逆罪を犯したのである。
瞿伽利は釈迦族の出身で浄飯王の命令で出家して、仏弟子となったが、後、提婆達多を師として仏に反逆した。
大智度論巻十三では、舎利弗・目連の二人が雨にあって陶師の家に雨宿りをした。暗かったために先に女人が雨宿りをしているのを知らないでいたが、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を誹謗した。釈尊は三度にわたって瞿伽利を訶責したが受け付けず、後に全身に悪瘡を生じて地獄に堕ちた、とある。
真言の妄言は、提婆達多や瞿伽利の大妄語にも過ぎて仏法を破壊するものであり、その邪義が流布したことによって、中国では唐王朝がこの真言の邪法のために滅び、日本でも承久の乱によって京都朝廷が鎌倉幕府の武力のまえに破れ、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が流罪されるという「漢土・日本の王位の尽き」た状態を招いたのである、と仰せられている。
更に、中国では唐の次の栄もすでに北蕃に破られて滅び、日本もまた西戎のために侵略されようとしているのも、真言の悪法によるとされているのである。
大聖人が真言亡国と断じられたのは、早勝問答に「亡国の証拠如何、答う法華を誹謗する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり云云」(0167-02)と述べられているように、娑婆世界有縁の釈尊を捨てて権仏である大日如来を立てるためと、釈尊の本意である法華経を誹謗して権教である真言の三部経を立てるためであり、本師本法を誹謗して柱を倒す悪法なので亡国・亡家・亡人となるのである。
1029:10~1029:18 第八章 像法時代の中国の弘教を明かすtop
| 10 像法に入つて一千年.月氏の仏法・漢土に渡来するの間.前四百年には南北の諸師異義蘭菊にして東西の仏法未だ 11 定まらず、 四百年の後五百年の前其の中間一百年の間に 南岳天台等漢土に出現して粗法華の実義を弘宣したまう 12 然而円慧・円定に於ては国師たりと雖も 円頓の戒場未だ之を建立せず故に国を挙つて戒師と仰がず、 六百年の已 13 後・法相宗西天より来れり太宗皇帝之を用ゆる故に 天台法華宗に帰依するの人漸く薄し、茲に就いて隙を得て 則 14 天皇后の御宇に先に破られし華厳亦起つて 天台宗に勝れたるの由之を称す、 太宗より第八代玄宗皇帝の御宇に真 15 言始めて月氏より来れり 所謂開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経・開元八年には金剛智・不空の両三蔵の 16 金剛頂経此くの如く 三経を天竺より漢土に持ち来り、 天台の釈を見聞して智発して釈を作つて大日経と法華経と 17 を一経と為し其の上印・ 真言を加えて密教と号し之に勝るの由、 結句権経を以て実経を下す漢土の学者此の事を 18 知らず。 -----― さて像法に入つて一千年間、インドの仏法は中国に渡来したが、そのうちはじめの四百年間に、江南・江北の諸師のさまざまな義が乱れ、仏法の正邪が定まらなかった。像法に入って四百年から五百年までの百年間に、南岳大師・天台大師が中国に出現され、ほぼ法華経の実義を弘められたのである。しかし、法華円教の智慧と禅定については、国師であったが、法華円頓の戒壇についてはいまだこれを建立されず、それゆえに一国を挙げて天台大師を戒師と仰ぐことはなかったのである。 六百年以後、法相宗が中国から渡来した。太宗皇帝がこれを信じたので、天台法華宗に帰依する人がだんだん少なくなっていった。この隙をついて則天皇后の治世に、先に天台大師によって破折されていた華厳宗が再び興隆して、天台宗に勝れている、と言い出したのである。太宗皇帝から第八代の玄宗皇帝の治世に真言宗が初めてインドから渡ってきた。いわゆる開元四年に善無畏三蔵が大日経・蘇悉地経を、開元八年には金剛智・不空の二人の三蔵が金剛頂経をもたらした。 こうして彼らは真言三部経をインドから中国にもたらしたのであるが、中国で天台大師の論釈を見て思いつき、大日経は法華経と同じ経であるといい、その上に印と真言を加えて密教と呼び、大日経のほうが法華経より勝れているなどという釈をつくって権経をもって実経を下したのである。だが中国の学者はこのことを知らず信じてしまったのである。 |
南北の諸師
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師をいう。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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蘭菊
段菊のこと。夏に小さな花が葉の付け根ごとに密生し、段々状になるのでこの名前がある。ものが群がり並立するさまをたとえる。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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円慧
円教で修学すべき戒定慧の三学のうち慧学をいう。三学は四教(蔵・通・別・円)のそれぞれにあるが、そのうち円教の慧学を慧定という。
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円定
円教で修学すべき戒定慧の三学のうち円学をいう。三学は四教(蔵・通・別・円)のそれぞれにあるが、そのうち円教の定学を円定という。定は静慮の義で、心の散乱を静めて悟りを得る境地のこと。
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国師
①奈良時代に諸国に置かれた僧官。僧侶の監督・寺領の管理・経論の講義などを任務とした。②国家の師表として朝廷から贈られた称号。③仏教の億義を悟り、一国の民衆を導く大導師。
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円頓の戒場
円頓戒を授ける戒壇のこと。円頓戒は円戒ともいい、円頓の三学のひとつ。円頓は円満にして速やかに成仏するという法華経の義をいう。戒は防非止悪の義、円頓の教とは法華経をさし、この経旨によって立てた梵網経の十重禁戒・四十八軽戒などをいう
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戒師
戒和尚のこと。三師・七証の一人で得度のときに戒を授ける師主のこと。受戒師・伝戒師ともいう。
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西天
インドのこと。中国から見るとインドは西に位置するから、こう呼ばれてた。
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太宗皇帝
(0598~0649)唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
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天台法華宗
天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
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則天皇后
(0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
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御宇
一人の天皇が治める世。
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玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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印・真言
印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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像法時代に天台大師出現のあと、真言がいかにして広まったかを明かされている。
中国に仏教が伝来したのは、西暦1世紀半ばであるが、ふつう、この中国仏教の時代を像法時代とされている。
数百年に次々と招来されたさまざまな教典を拠りどころとして、南三北七といわれたように、揚子江の南に三師、北に七師の仏教家が現れて、それぞれ異なった宗旨を立てていた。
とくに、仏教の教法のなかで中心となる経典は何かを明かそうとして、それぞれの流派が教相判釈を立てていた。
しかし、撰時抄に「南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等.各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」(0261-16)と述べられているように、南三北七の十流が立てた教判の大網は華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三というものだった。
そうした義を破って、法華経第一との釈尊の本意を明らかにしたのが南岳大師と天台大師だったのである。
南岳大師慧思は、慧文からの観心の大法を伝授され、法華三昧を証得したとされる。天台大師智顗は大蘇山の南岳大師のもとで修行の末、法華三昧を感得したといわれる。そして南三北七の教判を破って五時八教の教判を立て、法華最勝の義を明らかにした。
その講説は弟子の灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられている。
天台大師は、法華経こそ一切経の根本であり、釈尊は法華経を説くために一代の仏教を説いたものであって、一代仏教は法華経から出たものであり、法華経に帰するものであることを悟り、五時八教の教判を立て、法華経の究極の理である一念三千の法門を弘通したのである。
ただし「然而円慧・円定に於ては国師たりと雖も円頓の戒場末だ之を建立せず故に国を挙つて戒師と仰がず」と述べられているように、天台大師は戒定慧の三学のうち、法華経による「円慧・円定」は摩訶止観で示したが、円戒にあたる「円頓の戒場」は建立しなかった。
したがって、国主から師と仰がれつつも、国をあげて戒師と仰がれることはなかったのである。
戒定慧の三学は、仏道を修行する者が必ず修学しなければならないもので、戒は禁戒で身口意の三業の悪を止め非を防いで善を修すること、定は禅定で心を一所に定め雑念をはらって安定した境地に立つこと、慧は智慧で煩悩を断じて真理を照らし顕すことをいう。
天台大師の説いた「摩訶止観」の「止」とは心の散乱を止めることで定にあたり、「観」とは心があらゆる事物の実相を照らして透徹するところの智慧ということで慧にあたり、摩訶止観に説かれる一念三千の法門とそれを悟るための観念観法の修行法が法華経を根本とした慧と定、すなわち「円慧・円定」にあたるのである。
しかし、法華経を根本とした戒法は打ち立てず、また法華経迹門の円頓の戒壇を建立することはなかったのである。
その後、法相宗が玄奘によって伝えられ、唐の太宗皇帝がこの法相宗を重んじたために天台宗に帰依する者が少なくなり、則天皇后のときには法蔵法師が出て華厳経が法華経に勝れると主張して用いるため、天台宗は更に衰えた。
更に、玄宗皇帝の代には真言宗がインドから伝えられ、開元4年(0716)に善無畏が大日経と蘇悉地経を伝え、開元8年(0720)に金剛智・不空によって金剛頂経が伝えられ、漢訳された。
そして、天台の一念三千の法門を知って一行に大日経疏を作らせ、大日経と法華経を元は一経であり一念三千の理は同じであるとし、そのうえに大日経には印と真言があるので勝れているとして、法華経を顕教として下し、真言を密教と号して宣揚したのである。そうしたことを中国の学者は知らないためにだまされて、密教を尊んで法華経を卑しみ、権実雑乱となったのである。
このように、像法の末には、天台大師の立てた法華経最勝の義は失われて、法相・華厳・真言などの権経・権宗が流布したため、仏教は混乱して中国が乱れたのである。
1030:01~1030:05 第九章 像法末の伝教大師の弘教を明かすtop
| 1030 01 像法の末八百年に相当つて 伝教大師和国に託生して華厳宗等の六宗の邪義を糾明するのみに非ずしかのみなら 02 ず南岳・天台も未だ弘めたまわざる円頓戒壇を叡山に建立す、 日本一州の学者一人も残らず大師の門弟と為る、但 03 天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知つて 而も分明ならず、 所詮末法に贈りたもうか此等は傍論為るの故に且ら 04 く之を置く、 吾が師伝教大師三国に未だ弘まらざるの円頓の大戒壇を 叡山に建立したもう此れ偏に上薬を持ち用 05 いて衆生の重病を治せんと為る是なり。 -----― 像法時代の末、八百年にあたって、伝教大師が日本国に生まれて、華厳宗等の六宗を糾し明らかにしただけでなく、南岳大師・天台大師もいまだ弘めなかった円頓戒壇を比叡山に建立した。それゆえ、日本一国の学者は一人も残らず伝教大師の弟子となったのである。ただ天台宗と真言宗との勝劣においては真言が人をたぶらかす邪法であることは知っていたが、しかし、そのことは明らかにされなかった。それは、結局、末法の導師にそれを譲られたのであろうか。このことは傍論なのでしばらくおく。 我が師・伝教大師がインド・中国・日本の三国にいまだ弘まらなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立されたのは、ひとえに上薬を用いて衆生の重病を治そうとされたためであった。 |
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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和国
日本のこと。
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託生
①他のものに身を寄せて生きながらえること。②本来菩薩でありながら凡夫の世界に生まれてきたこと。
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六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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誑惑
たぶらかすこと。
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上薬
小乗教を下薬、権大乗教を中薬、法華経を上薬という。
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天台大師が定慧のみで戒を立てなかったのに対し、日本の伝教大師によって法華円頓の戒壇が建立されたことが明かあされている。
本章では伝教大師に至るまでの日本の仏教伝来の歴史は省略されているが、欽明天皇の時代に百済から釈尊の像・教典・僧尼が日本に伝えられてから、観勒によって三論宗・成実宗が、道昭によって法相宗・俱舎宗が、審祥によって華厳宗が、鑑真によって律宗がそれぞれ伝えられて、奈良を中心に弘通されたので南都六宗と呼ばれていた。
伝教大師は、これら六宗の邪義を打ち破って法華最勝の正義を宣揚したのみでなく、中国の南岳大師や天台大師も顕さなかった円頓の戒壇を比叡山に建立したのである。
伝教大師は、法華経の実義によって六宗の邪義を破しただけでなく、法華経の経旨によって梵網経の十重禁戒・四十八軽戒を円頓戒として立て、この大乗戒を授ける場所である円頓戒壇を比叡山に建立したのである。したがって、伝教大師の仏教流布のうえにおける功績は天台大師にも超えるとされている。
ただし、伝教大師による戒壇の建立も、決して容易にできなかった。伝教大師は延暦21年(0802)、高野山において南都六宗・七ヵ寺の諸僧14人の学匠を相手に、法華経を講じて法華最勝の義を明かし、それに対して善識・勤操をはじめとする諸僧は桓武天皇の命によって謝表を捧げている。
しかし、伝教大師が法華円頓の大乗戒壇の建立を奏上すると、南都の諸宗は反対を唱えて論争が始まった。護命僧都等7人の反対に対して伝教大師は「顕戒論」3巻をもって破折を加えている。
結局、伝教大師入滅の7日後にあたる弘仁13年(0822)6月11日、戒壇建立の勅許が下り、翌14年(0823)に弟子の義信によって延暦寺戒壇院が建立されたのである。
伝教大師が真言の誑惑を知っていたことは、その著・依馮集になかで「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し」と述べて、新しく中国から渡ってきた真言宗は善無畏の相承を筆授した一行の大日経疏にも背いていると指摘していることからうかがえる。しかし、それ以上には具体的に真言宗を破折していないので「分明ならず」と仰せられている。
なお、報恩抄には伝教大師が法華経と大日経の勝劣を明らかにしなかったのは、戒壇建立を第一の目的としていたためだったことなどが明かされている。また、像法の人師では、真言の邪義を破折したことは、まことに難解であり、そのゆえに「所詮末法に贈りたむうか」と、それを末法に譲られたのであろうと仰せられている。
1030:06~1030:13 第十章 末法の濁悪の相を示すtop
| 06 今末法に入つて二百二十余年五濁強盛にして 三災頻りに起り衆見の二濁国中に充満し 逆謗の二輩四海に散在 07 す、 専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙謗法の者を尊重して国師と為す、 孔丘の孝経之を提げて父母の頭を打ち 08 釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す 不孝国は此の国なり勝母の閭他境に求めじ、 故に青天眼を瞋らして 09 此の国を睨み黄地は憤りを含んで大地を震う、 去る正嘉元年の大地動・文永元年の大彗星・ 此等の夭災は仏滅後 10 二千二百二十余年の間・月氏・漢土・日本の内に未だ出現せざる所の大難なり、 彼の弗舎密多羅王の五天の寺塔を 11 焼失し漢土の会昌天子の九国の僧尼を還俗せしめしに 超過すること百千倍なり大謗法の輩国中に充満し 一天に弥 12 るに依つて起る所の夭災なり、 大般涅槃経に云く「末法に入つて不孝謗法の者大地微塵の如し」取意、法滅尽経に 13 「法滅尽の時は狗犬の僧尼・恒河沙の如し」等云云取意、 -----― 今、末法に入って二百二十余年、五濁が強盛となって三災が頻繁に起こり、衆生濁と見濁の二濁が日本国中に充満し、五逆罪と謗法を犯した二輩が四海に散在している。人々はもっぱら一闡提の輩を仰いで棟梁とたのみ、謗法の者を尊重して国師としている。孔子の孝経を持って父母の頭を打ち、口では釈尊の法華経を読みながら教主の教えに背いているのである。まさに不孝国とはこの日本国のことである。勝母の閭を他に尋ねるに及ばない。ゆえに、天は眼を瞋らしてこの国をにらみ、地は憤りを含んで大地を震わすのである。 正嘉元年の大地震や文永元年の大彗星等の災難は、釈尊滅後二千二百二十余年の間、インド・中国・日本にいまだ出現したことのなかった大難である。かの弗舎密多羅王が全インドの寺塔を焼失し、中国・唐の武宗皇帝が国中の僧尼を還俗させるのに超えること百千倍である。まさに大謗法が国中に充満し、天下にはびこっていることから起こるところの災難なのである。涅槃経には「末法に入って不孝謗法の者大地微塵の如し」(取意)と説かれ、法滅尽経には「法滅の時は狗犬の僧尼、恒河沙の如し」(取意)と説かれている。 |
五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
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三災
①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
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衆見の二濁
五濁のなかの衆生濁と見濁のこと。
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四海
四海とは四方の海、天下、国内、四方の外国、世界等さまざまな意で用いられることがある。
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棟梁
家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
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孔丘
孔子のこと。(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
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孝経
中国の儒教倫理の根本である「孝」について説いた書物。「論語」と共に、初学者必修の書として尊重されている。孔子と門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べられている。今、引用の文は、孝経の諫争章第十五の文である。云く「曽子曰く、夫の慈愛恭敬、親を安んじ、名を揚ぐるが若きは即ち命を聞けり。敢て問う、子、父の命に従うは、孝と謂うべきか。子曰く、是れ何の言ぞや、昔は天子に争臣七人あれば、無道と雖も天下を失わず。諸侯・争臣五人あれば、無道と雖もその国を失わず。大夫・争臣三人あれば、無道と雖もその家を失わず。(中略)故に不義に当れば即ち子以て父に争わざるべからず、臣以て君に争わざるべからず。故に不義に当れば即ち之を争う、父の命に従うは、又焉んぞ孝たるを得ん」とある。
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教主
教法を説く主尊。それぞれの教法には、それぞれの教主がいることになる。法華経の教主は釈尊である。
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法華経を口に誦しながら教主に違背す
たとえば天台宗では法華経を誦しながら、真言・念仏等を称え、教主である釈尊に背いている。
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勝母の閭
中国の故事。史記などによると孔子の弟子の曾子は孝養の心が厚く、母に勝つという名称が不幸であるとして、勝母という名の土地に入る(攻める)ことができなかったという。
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弗舎密多羅王
弗沙密多羅王とも書く。阿育大王の末孫にあたる国王といわれ、悪臣にそそのかされて塔寺を焼き、多くの僧を殺したと伝えられる。
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五天
五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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会昌天子
武宗のこと。(在位0814~0846)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088)と述べられている。
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九国
中国の春秋戦国時代における9つの国。斉・楚・ 燕・趙・韓・魏・宋・衛・中山。
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還俗
出家したものが、再び俗人に帰ること。
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夭災
災い、災難。
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大般涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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法滅尽経
仏説法滅尽経。1巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、また光明を現じなかった。そこで阿難が3回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって生ずることを説いている。
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狗犬
犬のこと。
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恒河沙
ガンジス河の砂のことで、数え切れないほどの数を示す譬喩。
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本抄御述作の当時は、仏滅後2220余年であり、大集経に「闘諍言訟・白法隠没」と説かれたように、五濁が強盛で人々は正法に背いているため、三災が頻発していることを指摘されている。
五濁とは劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁をいい、劫濁とは時代の濁り、煩悩濁とは貧・瞋・癡などに支配されること、衆生濁とは人の心身がともに衰えること、見濁とは思想の濁り、命濁とは生命自体の濁りをいう。衆生が煩悩と誤った思想にとりつかれると、生命それ自体や衆生社会の濁り、この四濁が長く続くと時代の濁りを生むことになる。
末法の現在にはこれらの五濁が盛んとなり、穀貴・兵革・疫病の三災が頻発するのであるが、当時の日本は、とくに衆生濁・見濁が国中に充満して、五濁罪と謗法の衆生があらゆるところに散在している、と述べられている。
日蓮大聖人は立正安国論に「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(0017-12)と述べられ、日本中の人が正法に背き悪法に帰依していることが災難を招き寄せている根本原因であることを明らかに諌められた。
本抄でも「逆謗の二輩四海に散在す、専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙謗法の者を尊重して国師と為す」と、その歪みを指摘されている。
一闡提とは、断善根・信不具足などと訳し、本来は正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生をいうが、ここにいわれている「一闡提の輩」とは弘法・慈覚・智証・法然など、法華経を誹謗して権教権宗を立てた諸宗の祖をさしている。
また「謗法の者を尊重して国師と為す」と述べられているのは、大聖人御在世当時、幕府の権力者が禅宗の建長寺道隆や真言律宗の極楽寺良観を尊重したことをさしていわれていると拝される。
こうした一国謗法の状態を、孔子の説いた孝経をもって父母の頭を打ち、釈尊の正説である法華経を口に唱えながら教主の教えに背くものであり、日本こそ不幸の国であり、賢人がきらった勝母の里というべきであると断じられている。
そのように一国が謗法となった結果、天変地夭を招き、さまざまな災難が競い起っているのであり、その最たるものが正嘉元年(1275)8月23日に鎌倉方面に起きた大地震であり、文永元年(1264)7月に現われた大彗星である、と述べられている。
そして、この天変地夭は、仏滅後2220余年の間、インド・中国・日本で現われたことのない、規模の大きさのもので、その原因は、かってない大謗法が日本中を覆っていることにあると断じられているのである。
すなわち、インドで弗沙弥多羅王が仏教を迫害して多くの寺塔を焼いた謗法や、中国の唐の会昌天子が道教を重んじ、廃仏令を出して仏教を弾圧し、僧尼をすべて還俗させたという謗法に百千倍超えた大謗法の者が国中に充満し、一国にはびこったことによる、と述べられている。
そして、末法に謗法の者が数多く出現するのは釈尊の予見どうりであることを、大般涅槃経、法滅尽経を引いて示されている。
大般涅槃経の文とは、涅槃経の迦葉菩薩品第二十四に「戒を毀ち懈怠にして四重禁を犯し、五逆罪を作り、僧鬘者を用い、一闡提と作り、諸善根を断ち、是の経を信ぜず、十方界所有の地土の如し」とある文の取意とされる。
また法滅尽経の文とは「我が涅槃の後、法滅せんと欲する時、五逆濁世魔道興盛にして、魔沙門と作って、吾が道を壊乱し、俗の衣装を著、好き袈裟、五色の薬を楽び、酒を飲み肉を噉い、生を殺し、味を貪り、慈心有ること無く、更に相噉憎嫉せん」とある文の取意とされる。
まさに、末法の僧俗はこの経文の予言のように身は仏道でありながら仏法に背き、仏法を破壊する魔の存在となっていたのである。
1030:13~1032:03 第11章 末法への付嘱の人法を明かすtop
| 13 今親り此の国を見聞するに人毎に此の二の悪有り此等の 14 大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救せん、 大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆・ 謗の二罪を対治せしめ 15 んが為に一大秘法を留め置きたもう、 所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏・高さ五百由旬広さ二百五十 16 由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く 十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に 五由旬 17 の師子の座を並べ敷き衆星の如く列坐したもう、 四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は 華厳 18 寂場の華蔵世界にも勝れ 真言両界の千二百余尊にも超えたり 一切世間の眼なり、 此の大会に於て六難九易を拳 1031 01 げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諌暁せしむ、 金色世界の文殊師利・兜史多宮の弥勒菩薩・ 宝浄世界の智積 02 菩薩・補陀落山の観世音菩薩等・頭陀第一の大迦葉・智慧第一の舎利弗等・三千世界を統領する無量の梵天・須弥の 03 頂に居住する無辺の帝釈・ 一四天下を照耀せる阿僧祇の日月・十方の仏法を護持する恒沙の四天王・大地微塵の諸 04 の竜王等我にも 我にも此の経を付属せられよと競い望みしかども 世尊都て之を許したまわず、爾の時に下方の大 05 地より未見・今見の四大菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり、此の大菩 06 薩各各六万恒河沙の眷属を具足す形貌威儀言を以て宣べ難く心を以て量るべからず、 初成道の法慧・功徳林・金剛 07 幢・金剛蔵等の四菩薩各各十恒河沙の眷属を具足し 仏会を荘厳せしも大集経の欲・色二界の中間大宝坊に於て来臨 08 せし十方の諸大菩薩乃至大日経の八葉の中の四大菩薩も 金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も 此の四大菩薩 09 に比キョウすれば猶帝釈と猿猴と華山と妙高との如し,弥勒菩薩.衆の疑を挙げて云く「乃一人をも識らず」等云云、 10 天台大師云く 「寂場より已降今座より已往十方の大士来会絶えず 限る可からずと雖も 我れ補処の智力を以て悉 11 く見・悉く知る而も此の衆に於ては一人をも識らず」等云云、 妙楽云く「今見るに皆識らざる所以は乃至智人は起 12 を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 天台又云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て 池の深きを 13 知る」云云、例せば漢王の四将の張良.樊噲・陳平・周勃の四人を商山の四皓.綺里枳・甪里先生・東園公・夏黄公等 14 の四賢に比するが如し天地雲泥なり、 四皓が為体頭には白雪を頂き額には四海の波を畳み 眉には半月を移し腰に 15 は多羅枝を張り恵帝の左右に侍して世を治められたる事・ 尭舜の古を移し一天安穏なりし事・ 神農の昔にも異な 16 らず、 此の四大菩薩も亦復是くの如し法華の会に出現し三仏を荘厳し 謗人の慢幢を倒すこと大風の小樹の枝を吹 17 くが如く 衆会の敬心を致すこと諸天の帝釈に従うが如く 提婆が仏を打ちしも舌を出して掌を合せ 瞿伽梨が無実 18 を構えしも地に臥して失を悔ゆ、 文殊等の大聖は身を慙ぢて言を出さず 舎利弗等の小聖は智を失して頭を低る、 1032 01 爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に 十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、 其の所属の法は何物ぞ 02 や、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字.名・体・宗・用.教の五重玄なり、 03 例せば九苞淵が相馬の法には玄黄を略して駿逸を取り 史陶林が講経の法には細科を捨て元意を取るが如し等、 -----― 今、まのあたりに、この国を見聞するに、人ごとに五逆と謗法の二罪を犯している。このような大悪人はどのような秘術をもって救済したらよいのであろうか。 大覚世尊は仏眼をもって末法をこの五逆と謗法の二罪を対治されるために一大秘法を留め置かれたのである。いわゆる法華経本門久遠久成の釈尊と宝浄世界の多宝仏が、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大宝塔の中において並座したことは、ちょうどを日と月のようなものであり、十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き、多くの星のように列座されたのである。四百万億那由佗の大地に釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の三仏が虚空と霊鷲山の二つの会座に充満された儀式は、華厳経の寂滅道場の華蔵世界にも勝れ、真言の胎蔵・金剛両部の千二百余尊にも超えており、一切世間の眼というべき姿であった。 この大会において六難九易を拳げて法華経を弘通せよと、もろもろ大菩薩に諌暁されたのである。金色世界の文殊師利・兜史多宮の弥勒菩薩・宝浄世界の智積菩薩・補陀落山の観世音菩薩等・頭陀第一の大迦葉・智慧第一の舎利弗等、三千世界を統領する無量の梵天・須弥山の頂に居住する無辺の帝釈・一四天下を照らす阿僧祇の日月・十方の仏法を護持する恒河沙の四天王・大地微塵のもろもろの竜王等が我にも我にもと競ってこの法華経の付嘱を競い願ったが、世尊はすべてこれを許さなかったのである。 その時に下方の大地から今まで見たことがなかった、この会座で初めて見る四大菩薩を召し出されたのである。いわゆる上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩である。これらの大菩薩はそれぞれ六万恒河沙の眷属を連れている。その姿と威儀は言葉には述べがたく、心で推し量ることもできない。釈尊の初成道の華厳経説法の時に出現した法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の四菩薩がそれぞれ十恒河沙の眷属を率いて仏会を荘厳したことも、大集経の欲界・色界の中間の大宝坊に来た十方の諸大菩薩ないし大日経の八葉の蓮華の中の四大菩薩も、金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も、この本化の四大菩薩に比べたなら、なお帝釈と猿猴、華山と妙高とのように比較することもできないほどの違いがあった。 この時、弥勒菩薩は会座の大衆の疑いを挙げて「乃し一人をも識らず」等と述べた。天台大師は法華文句で「寂場より已降、今座已往は、十方の大士の来会絶えず、限る可からずと雖も、我は補処の智力を以って悉く見、悉く知る。而も此の衆に於いては一人も識らず」と釈している。また、妙楽大師は「今見るに皆識らざる所以は乃至智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等と、天台大師は「雨の猛きを見て竜の大なることを知り、華の盛なるを見て池の深きを知る」と述べている。例えば漢王の四将である張良・樊カイ・陳平・周勃の四人を、商山の四皓・綺里枳・里先生・東園公・夏黄公等の四賢人に比べるようなものである。そこには天地雲泥の差がある。四皓の姿は頭に白雪をいただき、額には四海の波を畳み、眉には半月を描き、腰には梓の弓を張ったようであり、恵帝の左右に侍して世を治めたさまは、尭舜の昔を今に移し、天下安穏であったことは神農の昔にも異ならなかった。この四大菩薩もまたこのようなものである。法華経の会座に出現し、釈迦仏・多宝仏・十方分身の三仏を荘厳し、謗法の人の慢心を倒すことは、ちょうど大風が小枝を吹き飛ばすように、会座の大衆が尊敬することは、諸天の帝釈に従うようなものであって、その時こそ釈尊に大石を落した提婆達多でさえ舌相を現じて合掌し、虚偽を構えて舎利弗を陥れようとした瞿伽梨も大地に伏してその失を悔い、文殊等の大菩薩も自身を恥じて何も言わず、舎利弗等の小乗の聖者は智を失って頭を垂れるのみであった。 その時に大覚世尊は如来寿量品を説法して、その後に如来神力品第二十一に十神力を示現して妙法を四大菩薩に付嘱したのである。 その付嘱した法とはどのようなものであるのか。その法は法華経のなかでも広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取るところの、いわゆる妙法蓮華経の五字、すなわち名・体・宗・用・教の五重玄なのである。例えば、九苞淵が馬を鑑定する時に、玄と黄等の色にかかわらず駿馬を選び、史陶林が経書を講義する時に細科を捨てて元意を取るようなものである。 |
扶救
たすけること。
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大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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仏眼
仏があらゆる人々を救済するために備える五眼のひとつ。仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」とある。
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鑒知
真偽・勝劣などを照らし、見分けて知ること。
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一大秘法
法華経如来寿量品第16の文の底に秘し沈められた南無妙法蓮華経。
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法華経本門久成の釈尊
法華経本門如来寿量品第16であらわれる久遠実成の釈尊のこと。
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宝浄世界
多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
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多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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由旬
梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
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大宝塔
法華経見宝塔品第十一に「爾の時、仏前に七宝の塔有りて、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬にして、地従り涌出して、空中に住して」とある。この宝塔は、一応は迹門の説法の証明のためであるが、再応は本門の説法を起こす遠序としてあらわれたのである。ゆえに、宝塔品それ自体は迹門十四品の中に位置しているが、本文の瑞として挙げられているのである。
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十方分身の諸仏
中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
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四百万億那由佗の大地
三変土田の儀式によって清浄になった四百万億那由佗の国土。三変土田は宝塔品で三度国土を変じて浄土となしたことをいう。すなわち同品で多宝如来の宝塔が涌現し、釈尊はその塔を開かんと欲して、まず白亳の光を放って娑婆世界を変じて清浄ならしめ、さらに八方おのおの二百万億那由佗阿僧祇の世界を変じて清浄ならしめ、十法分身の諸仏を集めて多宝の塔を開き、十方世界一仏土の相を現わした。これを三変土田という。
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二会に充満したもう
法華経は二処三会からなるが、十方の諸仏は前霊鷲山の終わりから出てきて虚空会の終わりには帰ってしまうので、三仏が列なったのは前霊鷲山会と虚空会の二会になる。
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華蔵世界
蓮華蔵世界とも華王界ともいう。華厳の教主毘盧遮那如来がその昔荘厳した世界であると説く。天台はこれを実報土の姿であると判じた。
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一切世間の眼
すべての世界を正しく見る眼。その眼を持つ仏。
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六難九易
宝塔品にある。一般にむずかしいとされるものを九つあげ、法華経を受持することのむずかしさを六つあげ、対比して、法華経受持の難しさをしめしている。宝塔品には「諸余の経典、数恒沙の如し、此等を説くと雖も、未だ難しと為すに足らず。若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為ず。若し足の指を以って大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦未だ難しとせず。若し有頂に立って衆の為に無量の余経を演説せんも、亦未だ難しと為ず。若し仏の滅後に、悪世の中に於いて能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす。仮使人有って、手に虚空を把って以て遊行すとも、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ちて、若しは人をしても書かしめん、是れ則ち難しとす。若し大地を以って足の甲の上に置いて梵天に昇らんも、亦未だ難しと為ず。仏の滅度の後に、悪世の中に於いて、暫くも此の経を読まん、是れ則ち難しとす。仮使劫焼に乾ける草を担い負って中に入って焼けざらんも亦未だ難しと為ず。我が滅度の後に、若し此の経を持ちて一人の為にも説かん、是れ則ち難しとす。若し八万四千の法蔵、十二部経を持ちて、人の為に演説して、諸の聴かん者をして六神通を得せしめん、能く是の如くすと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、此の経を聴受して其の義趣を問わん、是れ則ち難しとす。若し人法を説いて、千万億、無量無数、恒沙の衆生をして阿羅漢を得、六神通を具せしめん、是の益有りと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せん、是れ則ち難しとす」とある。項目別には以下の通り。(イ)「六難」は、①広説此経難(悪世の中で法華経を説くこと)②所持此経難(法華経を書き、あるいは人に書かせること)③暫読此経難(悪世の中で、しばらくの間でも法華経を読むこと)④少説此経難(ひとりのためにも法華経を説くこと)⑤聴受此経難(法華経を聴受して、その義趣を質問すること)⑥受持此経難(法華経を受持すること)(ロ)「九易」は、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説くこと②須弥擲置易(須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を演説すること)⑤把空遊行易(手に虚空・大空を把って遊行すること)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること)⑦大火不焼易(枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること)。
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諌暁
いさめさとすこと。「諌」は礼をもって他のあやまちをただすこと。「暁」は説なりとあるように、さとし明かすこと。別していえば、国家の安危について、その責任者に進言すること。また、人生の重大事について、相手の蒙を開いて目をさまさせること。結果として、いちじ相手が驚いたり、恨んだり、あだをなしたりすることが多い。法師品には「如来現在猶多怨嫉」とあり、末法には釈尊在世以上の怨嫉の難があると説き、また明楽は「惑耳驚心」と説いている。
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金色世界
金色の世界。文殊師利菩薩の住所の浄土の名。
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文殊師利
文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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兜史多宮
天界28天のうち六欲天の第四天。
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弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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智積菩薩
多宝如来に従って法華経の会座にきている。「時に下方の、多宝世尊の所従の菩薩、名を智積と曰う。多宝仏に啓さく、当に本土に還りたもうべし。釈迦牟尼仏、智積に告げて曰わく、善男子、且く須臾を待て。此に菩薩あり、文殊師利と名づく。与に相見るべし。妙法を論説して、本土に還るべし」とある。
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補陀落山
インド南海岸にあるという山の名。補陀落迦、補陀洛とも書き、海島・光明と訳す。観世音菩薩の住処とされる。華厳経巻五十には、遊行していた善財童子に釈尊が「此の南方に於いて山有り、名づけて光明と曰う。彼に菩薩有り、觀世音と名づく。汝彼に詣りて問え」と奨め、同巻五十一に童子が観世音菩薩に会ったことが述べられている。
―――
観世音菩薩
梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。
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頭陀
梵語(dhūta)。淘汰・修治と訳す。身心を修治し、貪欲等を払いのける修行をいう。
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大迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
三千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
統領
集団をまとめ、おさめる人。
―――
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
須弥
須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
一四天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
―――
照耀
照り輝くこと。
―――
阿僧祇
「阿僧祇」梵語、はアサンキャ(asaṃkhya)の音写では無数。「劫」は年時の名で長時の意。あわせて、数えることのできない長い間の意。
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日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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十方
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
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四天王
四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
―――
竜王
竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
―――
付属
相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
―――
下方の大地
地涌の菩薩の住所。
―――
未見・今見
今まで見ることがなく、はじめて見ることをいう。
―――
四大菩薩
本化地涌の菩薩の上首の四菩薩のこと。上行、無辺行、浄行、安立行をいう。
―――
上行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
―――
六万恒沙の眷属
「恒沙」とは、ガンジス川の砂粒のこと。無量無数を表す。湧出品で出現した地涌の菩薩の数で、その一人一人にさらに六万恒河沙の眷属があるとされる。
―――
威儀
一般的には、重々しく畏敬すべき挙動。いかめしい立居振舞い。作法に適った動作、礼の細則。仏法的には、行住坐臥の四つに分け、四威儀と立てる。さらに分けて三千の威儀、八万の細行ともいう。しかし、これは戒を重んずる小乗教の説くところであって末法においては無用である。三世諸仏総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0750-01)とある。すなわち三大秘法を深く信じて、正法を護持する者は、いっさいの振る舞いが自然のうちに宇宙のリズムと合致し、威儀が整うのである。
―――
法慧
法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
―――
功徳林
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
―――
金剛幢
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十回向の法門を説いた。
―――
金剛蔵
金剛蔵菩薩のこと。華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。
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大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳.大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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欲・色二界
生死の迷いを流転する六道の凡夫の境界・住処の三界のうち、欲界と色界のこと。
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大宝坊に於て来臨せし十方の諸大菩薩
大集経で説かれた大宝坊には、東方・諸法自在功徳芥子菩薩、南方・宝杖菩薩、西方称力王菩薩、北方・大海智菩薩、東南方・無勝光菩薩、西南方・大悲心菩薩、西北方・宝綱菩薩、東北方・無辺浄意菩薩、下方・荘厳楽説菩薩・上方・一切法神通王菩薩がそれぞれ十恒河沙等の諸菩薩とともに来集した。
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大日経の八葉の中の四大菩薩
大日経に説く胎蔵界漫荼羅の中央の一院は八葉の蓮華からなり、その中央に大日如来、八葉に四仏と四菩薩がざしている。東方・宝幢仏、南方開敷華王仏、西方・阿弥陀仏、北方・天鼓雷音仏、東南方・普賢菩薩、西南方・文殊菩薩、西北方・観音菩薩、東北方・弥勒菩薩。
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金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩
真言密教で立てる37尊の中の16の大菩薩。すなわち、東方阿閦仏を囲む薩埵・王・愛・喜、南方宝生仏を囲む宝・光・幢・咲、西方阿弥陀仏を囲む法・利・因・語、北方不空成就仏を囲む業・護・牙・金剛拳菩薩をいう。
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三十七尊
真言密教で立てる金剛界曼荼羅の中心になっている三十七の仏・菩薩のこと。 金剛界五仏(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)四波羅蜜菩薩(金剛・宝・法・羯磨)十六大菩薩(薩埵・王・愛・喜・宝・光・幢・咲・法・利・因・語・業・護・牙・拳)八供養菩薩(嬉・鬘・歌・舞・香・華・灯・塗香)四摂菩薩(鉤・索・鎖・鈴)をいう。
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比挍
比較する、比べる。
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帝釈と猿猴
帝釈天の尊さと猿猴の賎しさが比較できないように、迹化の菩薩と本化地涌の菩薩は比較できないほどの差があるということ。
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華山と妙高
崋山は中国の五岳のひとつ、妙高は須弥山のことで、その高さは迹化の菩薩と本化地涌の菩薩のように比較できないほどの差があるということ。
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張良
(~前0168)。中国・前漢の建国の功臣。字は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
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樊噲
(~前0189)。中国前漢の豪傑。沛の出身。張良、陳平、周勃とともに漢王の四将の一人。劉邦が微賤のときから仕え、天下統一に貢献したが、大業が成ってのちは、劉邦にうとんぜられた。
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陳平
中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。
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周勃
中国の秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。子は世子の周勝之、条侯・周亜夫、平曲侯・周堅らがいる。爵位は絳侯。諡号は武侯。
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綺里枳・甪里先生・東園公・夏黄公
秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に入りし隠士四人にして、東園公、綺里季、夏黄公、角里先生是なり、髪眉皓白の故に四皓と称す。東園公、姓は唐、字を宣明という、夏黄公、姓は廣、名は黄、角里先生は周術という、皆漢の世となるに及び、義、漢の臣とならず、高祖大に之を高しとし屡招けども到らず、高祖に寵姫威夫人あり、趙王如意を生む、会々上盈太子仁弱なりしを以て、之を廃し如意を以て之に替へんとす、太子の生母呂后之を憂ひ、張良に謀る、張良即ちこの四隠士を誘うて太子に侍せしむ、高祖之を見て驚きて問うて曰く、吾れ公を求むる歳あり、公我を避逃す、今児に侍す如何と、四人曰く陛下士を軽んじ善く罵る、今太子は即ち仁孝恭敬、士を愛するを聞く、故に臣等来ると、高祖遂に太子を廃する能はずという。
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多羅枝
ヤシ科の常緑喬木の枝のこと。弓材として用いられた。
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恵帝
中国,前漢第2代の皇帝 (在位前 195~188) 。姓名は劉盈。父は高祖,母は呂后。しばしば長安城の修築に努めたほか,挟書の律など過酷な秦の刑罰を除いたが,性柔弱で,実権は呂后や呂氏一族の握るところとなった。
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尭舜
中国上古に理想的な仁政を行ったとされる伝説上の帝王である唐堯と虞舜のこと。史記などでは、五帝に含まれる。尭は暦をつくり、治水のために舜を起用し、位を舜に譲った。舜は信賞必罰を明らかにし、天下を統一して地方を文治せしめ、禹に治水を任せ、禹に位を譲った。尭舜の時代は理想社会とされ、長く中国の政治の手本とされた。
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神農
中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる王。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。
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慢幢
おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。
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提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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寿量品
如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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十神力
十種の大力ともいう。釈迦は十種の神力を現じて、上行菩薩に深法を付嘱した、すなわち①出広長舌、「広長舌を出して上梵世に至らしめ」②通身放光、「 一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧くく十方世界を照したもう」③一時謦欬、「然して後に還って舌相を摂めて一時に謦欬し」④倶共弾指「倶共に弾指したもう」⑤地六種動、「是の二つの音声、徧く十方の諸仏の世界に至って、地皆六種に震動す」⑥普見大会、「其の中の衆生、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等、仏の神力を以ての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆の宝樹下の師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬し囲繞したてまつるを見る」⑦空中唱声、「即時に諸天、虚空の中に於いて、高声に唱えて言わく」⑧咸皆帰命、「彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と」。 ⑨遙散諸物、「種々の華香、瓔珞、幡蓋、及び諸の厳身の具、珍宝、妙物を以って、皆共に遥かに娑婆世界に散ず」⑩十方通同、「時に十方世界通達無碍にして一仏土の如し」とある
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名・体・宗・用・教の五重玄
天台大師が法華経を解釈するにあたって法華玄義で説いたもので五重玄といい釈名、弁体、明宗、論用、判教のことである。「名」とは万物の名前であり、「体」とは万物の当体であり、「宗」は万物各々が備えている特質をいい、「用」はその働き・作用であり、「教」はその活動が影響する事をいうのです。すなわち、万物ことごとく五重玄をそなえている。天台大師は法華経神力品の結要付嘱の文を五重玄の依文としているが、この文はまた日蓮大聖人が末法に建立された三大秘法の衣文でもある。すなわち「要を以て之を言わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事皆此の経に於て宣示顕説す」となるのであり、当体義抄には「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して 闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給う」(0513-04)とあり、三大秘法禀承事には「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(1022-14)とある。
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九苞淵
中国・春秋時代の馬の鑑定家。
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相馬の法
良い馬を見分ける法。
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玄黄
①天の黒い色と大地の黄色と。天と地と。②黒い馬が病気をすると黄変することから、馬の病気。また、病気の馬。
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駿逸
名馬のこと。
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史陶林
(0314~0366)支遁ともいう。性は関、字は道林。中国・東晋代・陳留の学僧。幼い時から聡明で、25歳で出家、各地で名声を得、棲光寺等、多くの寺を建てた。老子・孔子の思想にも通じ、般若経や維摩経の解説者として名声を博し、四禅の経を注釈している。
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講経の法
経を講ずること。経文の意を明らかにすること。
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細科
細かく区分すること。
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元意
①根本の意。②根本の意図・本意。③付文に対する語。経文に説かれている表面上の内容ではなく、その」一段奥深い究極の意。
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五濁強盛で五逆・謗法の衆生が充満する末法の世を救うために、釈尊は法華経で寿量品の肝要、妙法蓮華経の五字を説き、これを本化地涌の菩薩に付嘱したことを述べている。
前章に述べられたように、末法は法滅尽の時代であるが、釈尊は、ただ白法が穏没すると予言して入滅してしまったのではない。法華経には、その末法を救うべき法と人とが、明確に定められ、予言がなされているのである。もし、法華経がなければ、釈尊が、末法の衆生にとっては、まことに無責任な仏であるということであろう。
大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう
釈尊が「逆・謗の二罪」を対治する一大秘法を留めたことを具体的にあらわしているのは、法華経の提婆達多品と不軽菩薩品である。
すなわち、提婆達多品では、五逆罪のうち、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪まで犯しながら無間地獄に堕ち提婆達多について、その過去の因縁を明かすとともに、未来に天王如来となる、との成仏の記別を説いたのである。
また、不軽菩薩品では、釈尊が遠い過去世に不軽菩薩として24文字の法華経を弘めた際、これを誹謗した衆生が、その後、無間地獄に堕ち、罪障消滅の後、逆縁の功徳で再び不軽に会い、この法華経の会座に跋陀婆羅等と列なっていることを明かしている。これは、謗法の衆生を救うことのできる妙法の功力を明かしている。
つまり、こうした提婆達多品や不軽品の説法は、法華経に説く法体が、五逆と謗法の衆生の充満する末法をも救うことができることをあらわしているのである。
所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏・高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列坐したもう、四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり
末法の弘通のための付嘱の儀式に列なった仏が、いかにすばらしい仏達であったかを示されている。
この付嘱の儀式は宝搭品第11から始まり、嘱累品第22で終わるが、いうまでもなく、釈尊の久遠実成が明かされるのは如来寿量品第16においてである。
それにもかかわらず、この御文で「法華経本門久成の釈尊」と仰せられているのは、この宝搭品で釈尊が宝搭の中に入り、多宝如来と並座した時から釈尊の本地が久成にあることがすでに暗示されているという意味でこう述べられていると拝される。
すなわち、宝搭品の初めに多宝の搭が現れ、衆生が搭中の如来を拝みたいと求めたのに応えて、釈尊は宝搭を開こうとする。そのためには十方分身の諸仏を集めなければならないので、三変土田して四百万億那由陀の国土を浄化して仏土とする。そこに十方諸仏が来集して、釈尊は立って宝搭を開き、多宝如来の招きにより入って並坐するのである。この経過のなかで、十方世界に、かくも大勢の分身仏がいること自体、釈尊がインドで始めて成道した、いわゆる始成正覚の仏ではなく、久遠の昔に成道した仏であつたことが明示されているのである。
こうして釈迦・多宝・十方諸仏の三仏が列なった荘厳な儀式は、嘱累品第22で一切の付嘱の義が終わり十方諸仏が各々の本土に還るまで続く。
ゆえに、前霊山・虚空・後霊山の二処三会の法華経の全経過のうち、前霊山終わりごろと虚空会の期間中までが三仏が列座している儀式となっているので「三仏二会に充満したもうの儀式」と仰せられたのであろう。
そして、このような荘厳な姿は、他のどの経にもなく、法華経が最勝であること、なかんずく、そこで行われる末法弘通のための付嘱の重要性、付嘱される法の偉大さをあらわしていくのである。
此の大会に於て六難九易を拳げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諌暁せしむ、金色世界の文殊師利・兜史多宮の弥勒菩薩・宝浄世界の智積菩薩・補陀落山の観世音菩薩等・頭陀第一の大迦葉・智慧第一の舎利弗等・三千世界を統領する無量の梵天・須弥の頂に居住する無辺の帝釈・一四天下を照耀せる阿僧祇の日月・十方の仏法を護持する恒沙の四天王・大地微塵の諸の竜王等我にも我にも此の経を付属せられよと競い望みしかども世尊都て之を許したまわず、爾の時に下方の大地より未見・今見の四大菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり、此の大菩薩各各六万恒河沙の眷属を具足す形貌威儀言を以て宣べ難く心を以て量るべからず、初成道の法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の四菩薩各各十恒河沙の眷属を具足し仏会を荘厳せしも大集経の欲・色二界の中間大宝坊に於て来臨せし十方の諸大菩薩乃至大日経の八葉の中の四大菩薩も 金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も此の四大菩薩に比キョウすれば猶帝釈と猿猴と華山と妙高との如し・弥勒菩薩・衆の疑を挙げて云く「乃一人をも識らず」等云云、天台大師云く「寂場より已降今座より已往十方の大士来会絶えず限る可からずと雖も我れ補処の智力を以て悉く見・悉く知る而も此の衆に於ては一人をも識らず」等云云、妙楽云く「今見るに皆識らざる所以は乃至智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天台又云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」云云、例せば漢王の四将の張良.樊カイ・陳平・周勃の四人を商山の四皓.綺里枳・里先生・東園公・夏黄公等の四賢に比するが如し天地雲泥なり、四皓が為体頭には白雪を頂き額には四海の波を畳み眉には半月を移し腰には多羅枝を張り恵帝の左右に侍して世を治められたる事・尭舜の古を移し一天安穏なりし事・神農の昔にも異ならず、此の四大菩薩も亦復是くの如し法華の会に出現し三仏を荘厳し謗人の慢幢を倒すこと大風の小樹の枝を吹くが如く衆会の敬心を致すこと諸天の帝釈に従うが如く提婆が仏を打ちしも舌を出して掌を合せ瞿伽梨が無実を構えしも地に臥して失を悔ゆ、文殊等の大聖は身を慙ぢて言を出さず舎利弗等の小聖は智を失して頭を低る、爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に 十神力を示現して四大菩薩に付属したもう
法華経宝搭品で、釈尊が滅後の弘通を菩薩達に勧め、それに応えて、勧持品第13、湧出品第15の冒頭で、迹化・他方の諸菩薩が弘教を誓い、付嘱を願い出たこと。しかし、釈尊はそれを許さず、大地の下から上行を上首とする本化の菩薩を召し出し、寿量品を説法した後、神力品第21で、この本化の菩薩に妙法を付嘱したことを示されている。
すなわち、宝搭品から神力品に至る、本化地涌の菩薩への付嘱の次第が、法華経の流れに沿って、要約して明らかにされているのである。
そのなかで、本化地涌の導師である上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩の「形貌威儀」がいかに立派であったか、また、その四大菩薩は弥勒をはじめとする迹化の衆にとって未知の存在であったこと、この四大菩薩の前には、小智の者は自身を恥じ、悪逆の衆生も屈伏せざるをえないことを述べられている。
本化地涌の菩薩が弥勒など迹化の菩薩にとって、いまだかって見たことなない未知の存在であったというこことは、本化の境智の深さをあらわしている。
そして、本化の菩薩の前には、悪逆の提婆や瞿伽利も「掌を合せ」「失を悔ゆ」と述べられているのは、末法の五逆・謗法の衆生に善心に立ち返らせ、正法に帰依せしめる本化地涌の菩薩、末法の法華経の行者の力を表現されたと拝される。
また「文殊等の大聖は身を慙ぢ」「舎利弗等の小聖は智を失して頭を低る」とは、小乗・権大乗のあらゆる既存の仏教を屈服せしめる妙法の偉大さと、この妙法を信受した末法の法華経の行者は、一切の人々から師と仰がれていくであろうとの仰せである。
其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり
末法弘通のために、本化地涌の菩薩の上首上行菩薩に付嘱された法について述べられている。それは法華経の肝要たる妙法蓮華経であり、名体宗用教の五重玄であることが示されている。妙法蓮華経は、単に法華経の題名であるのではなく、法華経の体であり、五重玄を具えた法である。これを日蓮大聖人は、外用の辺では上行の再誕、内証深秘の辺では久遠元初自受用報身の再誕として末法に出現され、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法として御建立になった。この三大秘法は本門戒壇の大御本尊に帰着するので、前記のように「一大秘法」と称されるのである。
ともあれ、広略を捨てて要を取ることを述べられている御文は、本抄の前年にあたる文永11年(1274)5月に執筆され、富木常忍に与えられた法華取要抄にも「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり、九包淵が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取る支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る」(0336-08)と、ほぼ同じ内容である。
そしてそれは「仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せん」(0336-09)されたからであると述べられている。
釈尊自身が肝要を取って授与されたといわれるのは、神力品の「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」を承げてであることは明らかである。
1032:03~1032:18 第12章 末法に地涌出現の理由を示すtop
| 03 此 04 の四大菩薩は釈尊成道の始、 寂滅道場の砌にも来らず 如来入滅の終りに抜提河の辺にも至らず しかのみならず 05 霊山八年の間に進んでは迹門序正の儀式に文殊・ 弥勒等の発起影向の諸聖衆にも列ならず、 退いては本門流通の 06 座席に観音・妙音等の発誓弘経の諸大士にも交わらず、 但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後・仏の滅後正 07 像二千年の間に於て未だ一度も出現せず、 所詮・仏専ら末法の時に限つて此等の大士に付属せし故なり、法華経の 08 分別功徳品に云く 「悪世末法の時能く是の経を持つ者」云云、 涅槃経に云く「譬えば七子の父母平等ならざるに 09 非ず然も病者に於て心則ち偏に重きが如し」云云、 法華経の薬王品に云く 「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の 10 良薬なり」云云、 七子の中に上の六子は且らく之を置く第七の病子は一闡提の人・五逆謗法の者・末代悪世の日本 11 国の一切衆生なり、 正法一千年の前五百年には一切の声聞涅槃し了んぬ、 後の五百年には他方来の菩薩・大体本 12 土に還り向い了んぬ、像法に入つての一千年には文殊.観音・薬王・弥勒等・南岳・天台と誕生し傅大士.行基・伝教 13 等と示現して衆生を利益す。 -----― この四大菩薩は釈尊の成道のはじめである寂滅道場のみぎりにも来ず、如来の入滅の抜提河の辺にも来ず、のみならず霊山八年の間、進んでは迹門の序品、正宗分の儀式に文殊・弥勒等の発起衆・影響衆等にも列ならず、退いては本門流通の座席に観音・妙音等が滅後の弘経を誓う諸菩薩にも交わらなかったのである。ひたすらこの一大秘法を持って本処に隠居したばかりでなく、釈尊滅後正像二千年において、いまだ一度も出現していない。結局、それは仏がもっぱら末法の時に限ってこの法を弘めるように、これらの大菩薩に付嘱したからである。 法華経の分別功徳品第十七に「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」と説き、涅槃経に「譬えば七子の父母平等ならざるに非ず、然も病者に於いて心則ち偏に重きが如し」と説き、法華経薬王菩薩本事品第二十三には「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」と説かれている。七子のなかの上の六子はしばらくこれをおく、第七の病子は一闡提の人であり、五逆・謗法の者であり、これは末代悪世の日本国の一切衆生のことなのである。 正法時代千年の間、前半の五百年間に一切の声聞は涅槃してしまった。後半の五百年間に他方から来た菩薩がおおかたその本土に帰っていってしまった。像法時代に入っての千年に、文殊・観音・薬王・弥勒等の菩薩が、南岳大師・天台大師として誕生し、あるいは傅大士・行基菩薩・伝教大師として現われ衆生を利益したのである。 -----― 14 今末法に入つて此等の諸大士も皆本処に隠居しぬ、其の外・閻浮守護の天神・地祇も或は他方に去り或は此の土 15 に住すれども悪国を守護せず 或は法味を嘗めざれば守護の力無し、 例せば法身の大士に非ざれば三悪道に入られ 16 ざるが如し大苦忍び難きが故なり、 而るに地涌千界の大菩薩・ 一には娑婆世界に住すること多塵劫なり二には釈 17 尊に随つて久遠より已来初発心の弟子なり 三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり、 是くの如き等の宿縁の 18 方便・諸大菩薩に超過せり。 -----― 今、末法に入って、これらの諸菩薩も本処に帰ってしまった。そのほか閻浮提を守護する天神・地祇もあるいは他方に去り、あるいは此の土に住しても悪国を守護せず、あるいは法味を嘗めないので守護する力がないのである。例えば、法身の大士でなければ大苦を忍びがたいので三悪道に入ることができないようなものである。 しかるに、地涌千界の大菩薩は、一には娑婆世界に住することが多塵劫であり、二には釈尊の久遠の初発心以来、釈尊に随従してきた弟子であり、三には釈尊がこの娑婆世界において初めて成仏の種を下した菩薩である。 このような、過去世からの因縁の深さは余の諸大菩薩に超過している。 |
抜提河の辺
華厳経が説かれた場所のこと。
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迹門序正の儀式
法華経迹門の序分と正宗分のこと。序分は序品第一、正宗分は方便品第2~授学無学人記品第9までの8品をいう。正宗分では諸法実相に約し理の一念三千を明かし、釈尊は二乗の弟子に未来成仏の記別を与えている。
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発起影向
説会の四衆のなかの発起衆と影響衆のこと。発起衆は仏に対して説法を請い、仏の化導を促す衆生、影響衆は仏に髄侍して法を讃歎する衆生。
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本門流通の座席
法華経本門の流通分のこと。本門正宗分である寿量品と涌出品後半・分別功徳品前半の一品二半で説かれた功徳を、後の世に流通させていくための教えで、分別功徳品の後半~普賢菩薩勧発品までが本門流通分となる。流通には功徳流通と付嘱流通がある。①功徳流通・本門の教えを受けて修行していくところにあらわれる功徳を明かし、その功徳を通して流通をすすめるもので、分別功徳品後半~常不軽品まで。②付嘱流通・正宗分の内容を誰が後の人々に流通していくかについて説いたもので、如来神力品で別付嘱、嘱累品で総付嘱を明かし、以下薬王菩薩本事品~普賢菩薩勧発品までとなっている。本門流通の座席は嘱累品の付嘱が終わったあとのこと。
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妙音
妙音菩薩のこと。法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。妙音菩薩が法華経の会座に列なるため、この娑婆世界に来至する時、「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」と、種々の神力を有するところから妙音の名がある。ここで華徳菩薩が釈迦牟尼仏に「是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか、是の神力有る」との問いを発すると、仏の告げたまうに、過去の雲雷音王仏 の在世の時、現一切世間という国があり、劫を喜見といった。その時一人の菩薩があり、名を妙音菩薩といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の伎楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の有す一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たのであると。そしてこの妙音菩薩品が説かれたことで、華徳菩薩は法華三昧を得たのである。
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発誓弘経
菩薩たちが仏に対して弘教の請願を発すること。
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分別功徳品
妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。
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薬王品
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。
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閻浮提
一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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本土
仏の居住する本来の国土。多宝仏の本土は東方宝浄世界である。
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傅大士
(0497~0569)。中国南北朝時代の人。名を傅翕、字を玄風といい、善慧大士と号した。傅大士というのは通り名。大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始したことで知られる。自伝に「われ兜率宮より来る。無上菩提を説かんが為なり。昔はこの事を隠し、今は覆蔵せず」と。兜率宮は弥勒菩薩の住処である。この言葉から、弥勒菩薩の再誕といわれた。
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大士
①祭祀を司る人。②道徳の高い優れた人。③位階、権威のある人。④大菩提心を起こした人。菩薩の通称。
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行基
(0668~0749)。奈良薬師寺の僧。和泉国大鳥郡の百済系渡来人の豪族・高志氏の出身。15歳で出家して法相宗を学んだのち、諸国を遊歴して衆生を教化し、多くの帰依者を得たという。朝廷は、その動きに不安を感じ、民心を惑わす者として弾圧したが、のちに公認した。天平15年(0743)の大仏建立誓願には全国的に勧進を行い、同17年(0745)に大僧正に任じられた。諸国遊歴の時、要害の地に橋をかけ、堤を築き、路を修し、開墾や水利に尽くして民利をはかったので、行基菩薩と呼ばれた。本朝法華験記には行基菩薩が日本第一の法華の持者であり、過去二万億日月燈明仏の時に妙光法師として法華経を受持していたとの記述がある。
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本処
仏・菩薩・善神等のもともとの住所。
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天神・地祇
天上にいる神と大地に住む神。天神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
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法身の大士
大士とは菩薩、法身の菩薩のこと。
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三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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娑婆世界
娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
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伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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久遠より已来初発心の弟子
久遠は久遠実成で、釈尊五百塵点劫第一番成道をいう。初発心ははじめて仏道を求める心を起こしたこと。法華経の経文のうえでは、地涌の菩薩は久遠実成の釈尊から下種を受けた初発心の弟子とされる。
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宿縁
宿世につくった因縁のこと。
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本化地涌の菩薩が出現したのは、法華経湧出品第15から嘱累品第22までの8品の間のみで、爾前経の40余年間はもとより、迹門の間も、また本門でも、神力・嘱累の付嘱が終わると、“本処”に還り、釈尊滅後の正法・像法の二千年間にも、姿を現すことはなかった。それは、ただ末法に出現して法を弘めるべき使命を託されたからである、と仰せられている。
このように、本化の菩薩は末法にのみ出現して妙法を弘めることを裏付ける文として、分別功徳品の「悪世末法の時、能く是の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」と、涅槃経の「譬えば七子の」の文、また法華経薬王品の「此の経は…閻浮提の人の良薬」を挙げられている。
すなわち、正法時代の前半500年間は声聞の小乗の法で十分だったのであり、正法後半の500年は、他方の菩薩の権大乗教の教えで衆生を救うことができた。像法時代になると、文殊・観音・薬王・弥勒などの菩薩が、南岳大師・天台大師・傅大士・行基・伝教大師と示現して人々を救ったのである。
それに対して、末法は、そうした声聞や菩薩達には手に負えない、天神地祇も守りえない五逆・謗法の重病に侵された衆生の充満する時代であって、これを救うことができるのは唯一・本化地涌の菩薩のみななである。
本化地涌の菩薩のみが、末法の娑婆世界の衆生を救いうる力をもっている理由として、
一、娑婆世界に住すること多塵劫なり
二、釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり
三、娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり
の三つを示されている。
第一の「娑婆世界に住すること多塵劫」とは、地涌の菩薩は娑婆世界と衆生との宿縁が深厚であるということである。宿縁が深ければこそ、娑婆世界の衆生に注ぐ慈悲の心も強い、衆生の心をとらえることができる。
第二の「久遠より已来初発心」ということは、妙法を長く受持して修行してきているので習熟しており、自在に説けることを意味する。
第三の「最初下種の菩薩」とは、仏の初めて下種した菩薩ということである。しかし、大聖人の仏法の立場から見れば、地涌の菩薩こそ、末法の衆生に初めて下種する菩薩であるとの意を含んでいるのである。すなわち、地涌の菩薩は、その身は外用の辺では釈尊の弟子であるが、その御内証は久遠元初の自受用身であり、御本尊であられるゆえである。
百六箇抄に「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(0863-05)と明かされ、また「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(0863-04)と示されており、更に日寛上人は文底秘沈抄に「外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり、故に知りぬ本地は自受用身・垂迹は上行菩薩・顕本は日蓮なり…佐州以後は連祖即ち是れ久遠元初の自受用身なり」と述べられているように、久遠元初以来、この娑婆世界に最も縁が深く、娑婆世界の衆生に下種してこられたのが日蓮大聖人なのである。
したがって「是くの如き等の宿縁の方便・諸大菩薩に超過せり」と述べられているように、外用は地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であり、その本地は久遠元初の御本仏である日蓮大聖人が娑婆世界に最も宿縁が深いのは当然であり、迹化他方の諸大菩薩とは全く比較にならないのである。
1033:01~1033:15 第13章 末法に地涌出現の文証を挙げるtop
| 1033 01 問うて曰く其の証拠如何、 法華第五涌出品に云く「爾の時に他方の国土より諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙 02 の数に過ぎたる 乃至爾の時に仏諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく止みね善男子・ 汝等が此の経を護持せんことを 03 須いじ」等云云、 天台云く「他方は此の土結縁の事浅し宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無し」云云、妙楽云く「尚 04 偏に他方の菩薩に付せず 豈独り身子のみならんや」云云、 又云く「告八万大士とは乃至今の下の文に下方を召す 05 が如く尚本眷属を待つ験し 余は未だ堪えざることを」云云、 経釈の心は迦葉・舎利弗等の一切の声聞・文殊・薬 06 王・観音・弥勒等の迹化・他方の諸大士は末世の弘経に堪えずと云うなり、 経に云く「我が娑婆世界に自ら六万恒 07 河沙等の菩薩摩訶薩有り一一の菩薩に 各六万恒河沙の眷属有り 是の諸人等能く我が滅後に於て護持し読誦し広く 08 此の経を説かん、 仏是を説きたもう時・娑婆世界の三千大千の国土・地皆震裂して其の中より無量千万億の菩薩摩 09 訶薩有り同時に涌出せり、 乃至是の菩薩衆の中に四たりの導師有り一をば上行と名け 二をば無辺行と名け 三を 10 ば浄行と名け 四をば安立行と名く其の衆の中に於て 最も為上首唱導の師なり」等云云、 天台云く「是れ我が弟 11 子応に我が法を弘むべし」云云、 妙楽云く「子父の法を弘む」云云道暹云く 「付属とは此の経は唯下方涌出の菩 12 薩に付す何が故に爾る法是れ久成の法なるに由るが故に 久成の人に付す」等云云、 此等の大菩薩末法の衆生を利 13 益したもうこと 猶魚の水に練れ鳥の天に自在なるが如し、 濁悪の衆生此の大士に遇つて仏種を殖うること例せば 14 水精の月に向つて水を生じ 孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し、 天台云く「猶百川の海に潮すべきが如し 縁 15 に牽れて応生するも亦復是くの如し」云云。 -----― 問うて言う。その証拠はどうか。 答えて言う。法華経巻第五涌出品第十五には「爾の時に他方の国土の、諸の来れる菩薩摩訶薩の、八恒河沙の数に過ぎたるが乃至爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と説かれている。天台大師はこれを「他方は此の土結縁の事浅し宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無し」と釈し、妙楽大師は「尚、偏に他方の菩薩に付せず豈独り身子のみならんや」と、また「告八万大士とは乃至今の下の文に下方を召すが如く、尚本眷属を待つ験し余は未だ堪えざることを」と釈している。経釈の心は迦葉・舎利弗等の一切の声聞、文殊・薬王・観音・弥勒等の迹化、他方の諸菩薩は末法の世の弘経に堪えられないということである。 法華経に「我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に、各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん。仏、是を説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。乃至是の菩薩衆の中に。四たりの導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名け、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく、この四菩薩、其の衆中に於いて、最も為上首唱導の師なり」等と説かれている。天台大師はこれを「是れ我が弟子なり。応に我が法を弘むべし」と釈し、更に妙楽大師は「子父の法を弘む」と釈し、道暹は「付属とは此の経は唯下方涌出の菩薩に付す、何が故に爾る法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等と釈している。 これらの大菩薩が末法の衆生を利益することは、魚が水に練れ、鳥が天空を自在に飛ぶようなものである。濁悪の末法の衆生が、この菩薩に遇って仏種を殖えることは、例えば水晶が月に向かったときに水を出し、孔雀の雷の音を聞いて懐妊するようなものである。天台大師は「猶百川の海に潮すべきが如し。縁に牽れて応生するも亦復是くの如し」と釈している。 |
涌出品
妙法蓮華経従地涌出品第十五のこと。この品より本門に入る。この品の前半で迹化・他方の八恒河沙の大菩薩が娑婆世界の弘教を請うたけれども、釈尊は許されない。そして迹門の大地を破って上行など四菩薩を上首とした本眷属、六万恒河沙の菩薩が出現するのである。これをみて、弥勒等の迹化の菩薩は、仏がいつ、これほどの大菩薩を教化したのであろうかと疑いを起こし、また「父少く、子老ゆ」の喩えを説いて「願わくは今為に解脱したまえ」と請うて、寿量品の説法にはいるのである。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
―――
道暹
道暹律師のこと。中国唐代の人。天台県(浙江省)の人。大暦年間(0766~0779)長安に来て盛んに著述を行ったという。妙楽の門人といわれる。著書に、天台の法華文句、妙楽の法華文句記を注釈した、法華文句輔正記十巻がある。
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久成の法
久遠実成の法のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、その時証得した法をいう。文底からみれば、久遠元初自受用法身如来の所有の法、南無妙法蓮華経。
―――
久成の人
久遠実成の人のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、この久遠以来化導してきた弟子が地涌の菩薩であるゆえに、本化地涌の菩薩を久成の人という。
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法華経の従地涌出品第15の冒頭に「爾の時に他方の國土の、諸の来れる菩薩摩訶薩の、八恒河沙の數に過ぎたるが、大衆の中に於て起立し、合掌し、礼を作して仏に白して言さく、世尊、若し我等仏の滅後に於いて、此の娑婆世界に在って、勤加精進して、是の経典を護持し、読誦し、書写し、供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於いて、広く之を説きたてまつるべし」とあるように、他方の国土からきた八恒河沙の菩薩が末法の娑婆世界における弘通を誓願したのに対して、釈尊は「止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と斥けた。
天台大師はその理由を法華文句で、他の菩薩はこの娑婆世界との結縁が浅いので、経を弘めても必ず大きな利益がないからである、と釈しているのである。
更に妙楽大師は法華文句記で、他方の菩薩にさえ付嘱していないのであり、声聞の弟子すなわち舎利弗にだけ伝えなのではない、と釈している。すなわち、他方の菩薩でさえも末法には弘通することはできないので付嘱されなかったのだから、舎利弗などの声聞にはとても妙法を弘通することなどできるわけがない、との意である。
また同じ文句記に妙楽大師は、釈尊が八恒河沙の菩薩を制止したのは、その後に大地の下から本化地涌の菩薩を召し出すためであり、それ以外の菩薩はこの経を弘めるのに堪えられないからである、と釈している。
以上は、一切の声聞や迹化・他方の大菩薩はいずれも末法の弘教に堪えられないということである。次に、それに対し、本化地涌の菩薩のみに付嘱されたこと、その理由を挙げた釈が示されている。
まず、四大菩薩を上首とする本化の菩薩が大地から涌出したことを述べた涌出品の文が示されている。この本化地涌の菩薩に末法の弘教が託されるのであるが、この理由について、天台大師は法華文句に、地涌の菩薩こそ久遠の釈尊の弟子なので、法を付嘱されたのである、と釈している。妙楽大師は法華文句記に、子である地涌の菩薩が、父である釈尊の法を弘めたのである、とのべている。
また、中国・唐代の天台宗の僧である道暹が法華文句記を注釈した法華文句輔正記には、久成の法であるがゆえに久遠の人に付嘱されたのである、と釈している。
そうした経釈を受けて、大聖人は地涌の菩薩が末法に出現されてちょうど魚が水の中を自由に泳ぎ回り、鳥が天空を自在に飛ぶように、自由自在に衆生を利益させるのであり、末法の濁悪の衆生が、この地涌の大菩薩にあって、成仏の種子を植えられることは、水晶が月に向かって水を生じ、孔雀が雷の音を聞いて懐妊するようなものである、と仰せである。
この章は前章で、本化地涌の菩薩が娑婆世界に住すること多塵劫で、釈尊の久遠以来の弟子であり、娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩であるとの三つの理由を挙げ、本化地涌のみに付嘱されたことを示されたが、その証拠を明らかにされている段である。
したがって、ここに示された二つの涌出品の文は、前者は迹化他方を退けたこと、後者は本化を召し出したことをあらわす文証であり、それぞれに付された天台大師・妙楽大師等の釈は、その理由を示したものとなっている。他方の菩薩は「此の土結縁の事浅し」であるのに対し、本化の菩薩はもともと娑婆世界にいる菩薩である。そして天台大師が師弟、妙楽大師が父子の関係で示しているように釈尊の久遠以来の弟子である。ゆえに、本化の菩薩は「魚の水に練れ」「鳥の天に自在」であるように自在に法を説き、末法の衆生はこの本化の菩薩によって「水精の月に向つて水を生じ」るごとく、仏法に結縁するのである。そして、すべての川が大海に注ぐように、一切衆生は妙法の功徳の大海に浴することができる、と述べた天台大師の法華玄義の文を引かれている。
1033:16~1034:03 第14章 付嘱の要法を挙げ広・略の付嘱を述ぶtop
| 16 慧日大聖尊仏眼を以て兼ねて之を鑒みたもう故に諸の大聖を捨棄し 此の四聖を召し出して要法を伝え末法の弘 17 通を定むるなり、 問うて曰く要法の経文如何、 答えて曰く口伝を以て之を伝えん釈尊然後正像二千年の衆生の為 18 に宝塔より出でて虚空に住立し右の手を以て 文殊・観音・梵帝・日月・四天等の頂を摩でて是くの如く三反して法 1034 01 華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり、 其の後 02 涅槃経の会に至つて重ねて法華経並びに前四味の諸経を説いて文殊等の諸大菩薩に授与したもう、 此等はクン拾の 03 遺属なり。 -----― 慧日大聖尊は仏眼をもって、かねてこのことを知っておられたので、もろもろの菩薩を止められ、本化の四大菩薩を召し出して要法を伝え末法の弘通をさだめられたのである。 問うて言う。その要法の経文とはどのようなものであろうか。 答えて言う。口伝をもってこれを伝えよう。 釈尊は如来神力品第二十一で要法を付嘱してから、嘱累品第二十二出。滅後正像二千年の衆生のために、法華経の儀式の時に宝塔から出て虚空に住し、右の手で文殊・観音・梵帝・日月・四天王等の頂を摩でて繰り返し、法華経の要法とは別に広と略との二門や、法華経の前後の一代の経教をこれらの大菩薩に付嘱されたのである。それは正像二千年の衆生のためである。その後、涅槃経の会座に至り、重ねて法華経と前四味の諸経を説いて、文殊等の諸大菩薩に授与されたのである。これらは捃拾の遺属である。 |
慧日大聖尊
方便品に「慧日大聖尊、久しくあって乃し是の法を説きたもう」とある。
―――
捃拾の遺属
「捃拾」とはひろい取るの意で、別付嘱・総付嘱が終わってなおかつ漏れた衆生のために、重ねて付嘱しているのをいう。
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まず、釈尊が地涌の上首・上行菩薩の四菩薩を召し出して末法に弘通すべき要法を付嘱したことを述べられ、そのうえで正法・像法に弘通すべき法華経の広・略の二門や他の一切経を諸大菩薩に付嘱したことが明かされている。
慧日大聖尊とは、釈尊のこと。慧日とは仏の智慧が平等広大で一切衆生の苦悩の闇を明るく照らすことを日光にたとえたものである。
釈尊は仏眼をもって末法の相を明らかに知っておられたがゆえに迹化他方の菩薩達を退け、地涌の菩薩の上首である上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩を召し出して法華経の「要法」を付嘱したのである、と述べられている。
そして、その要法の経文はどうかとの疑問に対しては、ここでは「口伝を以て之を伝えん」とのみ答えられている。
これについては、法華経の如来神力品第21の「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣旨顕説す」がそれにあたることは三大秘法抄、観心本尊抄の御教示に明らかである。すなわち三大秘法抄には「『要を以て之を言ば如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す』等云云、釈に云く『経中の要説の要四事に在り』等云云、問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021-01)と述べられ、要法の依文として神力品の結要付嘱の文を示され、そこに説かれた要法とは本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法であることを明かされている。
ここで口伝をもって伝えると仰せになっているのは、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(0398-03)と示されているように、法華経の深義、大聖人の御本意を正しく知るためには、御相伝による以外にないからであると拝される。
釈尊然後正像二千年の衆生の為に宝塔より出でて虚空に住立し右の手を以て文殊・観音・梵帝・日月・四天等の頂を摩でて是くの如く三反して法華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり、其の後涅槃経の会に至つて重ねて法華経並びに前四味の諸経を説いて文殊等の諸大菩薩に授与したもう、此等はクン拾の遺属なり
如来神力品で末法のために本化の菩薩に付嘱されたのが要法であったのに対し、嘱累品での付嘱は正像2000年のためであり、広略の二門等であること、またそれ以後、涅槃経などの付嘱は捃拾遺嘱であるとの意義が明かされている。
末法の弘通を四菩薩等に付嘱された後に、釈尊は正法像法2000年間の衆生のために「法華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経」を「文殊・観音・梵帝・日月・四天等」に付嘱された、と述べられている。
これは、法華経の嘱累品第22に「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以って無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したまわく、我無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等応当に一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし。是の如く三たび諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したまわく、我無量百千万億阿僧祇劫に於て、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以て汝等に付嘱す。汝等当に受持・読誦し広く此の法を宣べて一切衆生をして普く聞知することを得せしむべし。所以は何ん、如来は大慈悲あって諸の慳悋なく、亦畏るる所なくして、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧を与う。如来は是れ一切衆生の大施主なり。汝等亦随って如来の法を学すべし。慳悋を生ずることなかれ。未来世に於いて、若し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして仏慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生あって信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」と説かれている文の趣旨をとって示されたものであろう。
ここで、釈尊が諸の菩薩に「此の法を流布」「此の法華経を演説」するように付嘱したのは、法華経の「広・略二門」をさしており、広とは法華経一部8巻28品に説かれる教えであり、略とは「諸法実相」を説た迹門方便品と、「久遠実成」を説いた本門寿量品をいう。
また、この嘱累品の文に「信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於いて、示教利喜すべし」と説かれているように、法華経を信受できない機根の者に対しては、法華経の前後に説かれた一切経、前に説かれた爾前の諸経と、後に説かれた涅槃経、をもって衆生を利益すべく付嘱したのである。
この付嘱は、あくまでも「正像二千年の為」でり、また一切経及び法華経の広・略二門は正法・像法時代の衆生のために説かれたものだったのである。
更に、法華経が説かれた後、涅槃経が説かれる会座に至って、小乗も大乗も、法華経の意義も説かれ、一切衆生ことごとくに仏性が具わっていることも示されているので「重ねて法華経並びに前四味の諸経を説いて」と述べられているのである。
そして、涅槃経に「内に智慧の弟子有って甚深の義を解し利養の為にせず、諍競を生ぜず、外に清浄の檀越有って仏法久住す、若し爾らずんば久住せず」と説かれている。この文は、道俗を戒めて正法をどこまでも流布していくことを勧めたものである。
この文について法華文句記に「有る人、大経の中に、内に弟子有って甚深の義を解し利養の為にせず、諍競を生ぜず、外に清浄の壇越有って仏法久住す、若し爾らずんば法久住せずというを引き、此れは是れ彼の経最後に道俗を誡勧して弘通せしむ、また捃拾の遺嘱のみ、今経は乃ち是れ一期宣暢し、他方散ぜんと欲し、十神力を現して、十方に嘱累し、仏親ら摩頂し、菩薩三たび受けて、法の慇懃を表するに同じからず」と釈しており、涅槃経は捃拾遺嘱であって法華経の付嘱とは異なることが明かされている。
捃拾遺嘱の捃拾とは、落ち穂拾いの意で、秋に稲が実って刈り取った後に残った落ち穂を“拾い取る”ことをいう。法華経で総付嘱・別付嘱が終わった後、なおそれに漏れた衆生のために重ねて付嘱したことを捃拾遺嘱という。
観心本尊抄には「薬王品已下乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり」(0252-16)と述べられている。
1034:04~1035:01 第15章 付嘱による正像の仏法流布を示すtop
| 04 爰を以て滅後の弘経に於ても仏の所属に随つて弘法の限り有り然れば則ち迦葉・ 阿難等は一向に小乗経を弘通 05 して大乗経を申べず、 竜樹・無著等は権大乗経を申べて一乗経を弘通せず、 設い之を申べしかども纔かに以て之 06 を指示し或は迹門の一分のみ之を宣べて全く化道の始終を談ぜず、南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・ 07 権実・迹本二門・化道の始終・ 師弟の遠近等悉く之を宣べ其の上に已今当の三説を立てて一代超過の由を判ぜるこ 08 と天竺の諸論にも勝れ真丹の衆釈にも過ぎたり旧訳・ 新訳の三蔵も宛かも此の師には及ばず、 顕密二道の元祖も 09 敵対に非ず、 然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず・自身之を存すと雖も敢て他伝に及ばず・此れ偏 10 に付属を重んぜしが故なり、 伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて 日本国に生れて小乗大乗一乗の 11 諸戒一一に之を分別し梵網・ 瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し 又法華普賢の円頓の大王の戒を以て 12 諸大乗経の臣民の戒を責め下す、 此の大戒は霊山八年を除いて一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を 叡山に 13 建立す、然る間八宗共に偏執を倒し一国を挙げて弟子と為る、 観勒の流の三論・成実・道昭の渡せる法相・倶舎・ 14 良弁の伝うる所の華厳宗・鑒真和尚の渡す所の律宗・ 弘法大師の門弟等誰か円頓の大戒を持たざらん此の義に違背 15 するは逆路の人なり、 此の戒を信仰するは伝教大師の門徒なり日本一州・円機純一・朝野遠近・同帰一乗とは是の 16 謂か、此の外は漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人.法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観.真言宗の善無畏・ 17 金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり、経に於ては大小・ 18 権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず論に於ては通申と別申とを糾さず申と不申とを暁めず、 然りと雖も彼の 1035 01 宗宗の末学等此の諸師を崇敬して之を聖人と号し之を国師と尊ぶ今先ず一を挙げんに万を察せよ。 -----― このように、滅後の弘経にも、仏の所嘱にしたがってそれぞれ限界があったのである。それゆえ、迦葉・阿難等は一向に小乗経ばかりを弘めて大乗経を説かなかった。竜樹・無著等は権大乗経を述べて一乗経を弘通しなかった。たとえ、これを述べたと言っても、わずかにこれを指し示し、あるいは迹門の一分のみを述べて、全く化道の始終を論じていない。南岳大師・天台大師等は観音・薬王等の化身として、小乗と大乗・権経と実経・迹門と本門の二門・化道の始終と不始終・師弟の遠近と不遠近等をことごとく述べ、そのうえに已今当の三説を立てて一代超過の理由を判釈したことは、インドの諸論にも勝れ、中国の衆釈にも過ぎている。旧訳・ 新訳の三蔵もこの師には及ばず、顕密二教の元祖も敵対できなかったのである。 しかし、法華経の広略二門を根本としたのであって、いまだ肝要の五字は弘められなかった。自分自身は知っていたけれども、他には伝えなかったのである。これはひとえに、釈尊の付嘱を重んじたからである。 伝教大師は、仏滅後一千八百年の像法時代の末にあたって日本国に生まれて、小乗教と大乗教と一乗教の戒律を一々に分別して、梵網経や瓔珞経の十重禁戒、四十八軽戒の別受戒をもって、小乗の二百五十戒を破り、また法華経と普賢経で立てた法華円頓の大王の戒をもって、諸大乗経の臣民の戒を責め下したのである。この法華円頓の大戒は霊鷲山の八年間を除いて、一閻浮提のうちにいまだなかったところの大戒壇を比叡山に建立したのである。そこで八宗の人々は自分の偏執を改めて日本一国を挙げて伝教大師の弟子となったのである。観勒の流れを汲む三論宗と成実宗、道昭が渡した法相宗と倶舎宗、良弁の伝えた華厳宗、鑒真和尚の渡した律宗、弘法大師の門弟も、だれが円頓の大戒を持たないものがいたであろうか。 この義に違背する者は師敵対の者である。この戒を信ずる人は伝教大師の門弟である。慧心僧都源信の一乗要結の「日本一州・円機純一・朝野遠近・同帰一乗」はこのことを言ったのであろうか。 このほかは中国の三論宗の吉蔵大師等の百余人、法相宗の慈恩大師、華厳宗の法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果、日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の菩薩にあらざる暗師であり、愚人である。経においては大乗・小乗、・権教・実経の区別があることも弁えず、顕・密の二道の意義も知らず、論蔵において通申論と別申論の差異のあることを明らかにせず、申と不申との区別を知らない。 そうであるのに、かの宗々の末学等はこのような諸師を崇敬して、聖人と号し国師と尊んでいる。今、まず一例を挙げたのである。万事を推察せよ。 |
化道の始終
仏が弟子に対し化導(教導)する際の順序として、下種→調熟→得脱を経て化導を終える。この過程が本格的に明示されたのは法華経「化城喩品第七」に於いて、釈迦が三千塵点劫の昔に大通智勝仏の王子として、父の大通智勝仏の説いた法華経を説法し、その説法を聞いた者が、現在の(化城喩品の説法時)法華経を聞いて成仏する声聞の弟子であると、化導の始めを説き明かした。即ち、三千塵点劫の過去の下種→弟子の根性の調熟→能化として再び出現→四十余年間の教化して現世における弟子達の機根の調熟→最後に法華経を説いて得脱させることを明かして今日の化導の始めを明かした。
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迹本二門
法華経の本門と迹門のこと。序品~安楽行品を迹門といい、その中心は諸法実相に約して理の一念三千を明かしている。本門は湧出品~勧発品までで、その中心は釈尊の久遠実成の本地を明かし、本因妙・本果妙・本国土妙に約し、仏の振る舞いから事の一念三千を説く如来寿量品である。
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師弟の遠近
天台の立てた三種教相の第三。師弟の遠近不遠近の相のこと。仏=師と弟子の関係は、今世で見出されたものであるのか、そうでないのかという事。仏の本地の開顕か不開顕との差。爾前経では仏はこの世に生まれて、菩提樹の下で初めて成仏した始成正覚の仏と説く。法華経では本門寿量品の長行に於いて五百塵点劫の昔に成仏し、以来娑婆世界に出現し衆生を教化してきた仏の本地を明らかにした。これにより、仏と弟子との関係は、単にこの世のものだけでなく実は遠大なる過去以来、師弟の関係にあることが明らかとなった。「親近」とも言い得るが、「遠近」とする。
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已今当の三説
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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旧訳・新訳の三蔵
漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳といい、それ以後に訳されたものを新訳という。旧訳とは主に鳩摩羅什や真諦の訳であり、新訳とは主に玄奘等の訳である。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、新訳の経は直訳である。貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、新訳416人である。また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人、新訳37人とある。三蔵は仏教に通達している法師・仏典の翻訳者のこと。
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小乗大乗一乗の諸戒
小乗戒は一乗別受戒。大乗戒は梵網経・瓔珞経による別受戒、一乗戒は法華経・普賢経による円頓戒。
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梵網
梵網経のこと。「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
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瓔珞
『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
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二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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法華普賢の円頓の大王の戒
伝教大師が立てた円頓戒のこと。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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観勒
百済の僧。生没年不詳。推古10年(0602)来朝し,暦本、天文地理書などをもたらした。同32年(0624)、日本で初めて僧正の位に任ぜられ、元興寺について仏法を弘めた。三論・成実の学問に通じていた。
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道昭
(0629~0700)。日本法相宗の開祖。河内国丹比郡に生まれ、元興寺に入って出家、白雉4年(0653)、遣唐大使にしたがって入唐。慈恩寺を訪れ、玄奘に師事し法相の教えを受ける。窺基とも交わり、恵満について禅も学んだ。斉明天皇6年(0660)に帰朝、元興寺に禅院を建立、法相宗を弘め、諸国をまわって慈善事業に励む。文武天皇4年(0700)3月寂。遺命によって遺骸を荼毘に付したが、これは日本における火葬の初めといわれる。
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良弁
(0689~0773)我が国華厳宗の祖。幼い時義淵僧正に拾養せられ、法相を学び、のちに金鐘寺を建てて華厳弘教の道場とした。審祥大師を請うて華厳の講を開き、華厳の興隆をはかり、華厳を聖主皇后に授けた。東大寺建立、とくに大仏の鉱金に力を尽くし、講堂・戒壇等を建立しておおいに寺観を整えた。第49代光仁天皇の宝亀4年(0774)85歳で没した。弟子の実忠・良興・良慧・忠慧が志を継いで皆華厳を弘通した。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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鑒真和尚
(0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
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逆路
師に従わず逆らう人のこと。逆路伽耶陀、古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に従わないで法を説いた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義に順わないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯すもののたとえに用いられる。
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日本一州・円機純一
慧心の著「一乗要決」の中の句。日本国中はみな円教である法華経に縁のある機根ばかりで、蔵通別の三教に縁のあるものはいないとの意。
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慧果
(0746~0806)。照応の人で、俗姓を馬という。不空の弟子で、真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。日本から留学生として渡唐した弘法にその教えを伝えた。
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申と不申
のべるとのべないこと。何を述べて何を述べないかということ。
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聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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釈尊滅後、正法・像法時代の弘教はすべて付嘱にしたがってなされたことを示されている。
まず正法時代の初めの迦葉・阿難等は小乗教のみを弘通して大乗教を弘めなかった。迦葉や阿難等は長い間、釈尊に隋順して仕えてきたので、小乗教だけではなく大乗教や法華経も含めて一代聖教をすべて聞いて知ってはいたが、釈尊から小乗教の弘通を付嘱されていたので小乗教のみを弘めたのである。
その理由については本抄の第六章で「問うて曰く迦葉・阿難等の諸の小聖何ぞ大乗経を弘めざるや、答えて曰く一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」と述べられている。
次に、正法時代の後半の竜樹・無著等は権大乗を弘めて法華経を弘通しなかった。これも、法華経を弘通する付嘱を受けていなかったからである。
また「設い申ししかども纔かに以て之を指示し或は迹門の一分のみ之を宣べて全く化導の始終を談ぜず」と述べられているように、竜樹は、法華経の意義の一分を明かしており、大智度論のなかで「法華は秘密の法」「大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し」等と述べられているが、それは法華経迹門の諸法実相の一分の義を説いたのみで、迹門全体の意義は明かしておらず、まして三千塵点劫の過去の大通覆講以来の化導の始終については全く論じていないのである。
南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ其の上に已今当の三説を立てて一代超過の由を判ぜること天竺の諸論にも勝れ真丹の衆釈にも過ぎたり旧訳・新訳の三蔵も宛かも此の師には及ばず、顕密二道の元祖も敵対に非ず、然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず・自身之を存すと雖も敢て他伝に及ばず・此れ偏に付属を重んぜしが故なり
次に像法時代に中国に出現した南岳大師・天台大師について述べられている。当時、南岳大師は観世音菩薩の生まれ変わり、天台大師は薬王菩薩の再誕とされていた。
南岳大師慧思は天台大師の師にあたり、法華三昧を証得し、「大乗止観法門」「法華経安楽行義」などを著して法華経を宣揚した。
天台大師智顗は、釈尊一代の経教を小乗・大乗、権大乗・実大乗教と分け、法華経のなかでは迹門14品と本門14品の勝劣を明らかにした。とくに法華玄義のなかで、爾前経と法華経の勝劣について「根性の融不融の相、化道の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相」の三種の教相を立てて、法華経が諸経のなかで最第一であることを判定している。
第一の 根性の融不融の相とは、衆生の機根が融であるか不融であるかを分別したもので、法華経の迹門と諸経とを相対して、衆生の機根に約して勝劣を明かしている。諸経は衆生の機根が三種各別と説くので不融、法華経迹門は一仏乗の機に融合されているので融となり、迹門が勝るとする。
第二の化道の始終不始終の相とは、仏の化導がいつ始まり、いつ終わるかを説いているか否か分別したもので、法華経化城喩品第七で三千塵点劫以来の仏と衆生の因縁を説いている。
第三の師弟の遠近不遠近の相とは、師弟の関係が久遠以来であるか否かを分別したもので、諸経で説く師として仏は始成正覚であり、弟子も現世のみの一時的な結縁なので不遠近である。法華経の本門寿量品では釈尊の五百塵点劫の昔の成道と、それ以来ずっと衆生を教化してきたという師弟の遠近を明かしているので、本門が勝るとする。
以上の三義によって、法華経本門が最勝最妙の経であると位置づけたのである。
また「已今当の三説」とは、法華経の法師品第十に「我が所説の教典、無量百千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」と説かれている文による。
天台大師は法華文句に、已説とは爾前の40余年に説かれた諸経、今説とは無量義経、当説とは涅槃経をいうと説いている。これを已今当の三説といい、法華経はこの三説に超過していることをいう。」
南岳大師・天台大師はこれらの義によって、法華最勝の義を明らかにした。
この南岳大師・天台大師の功績は「天竺の諸論」すなわちインドの論師達の論も「震丹の衆釈」すなわち中国の人師達も釈しえなかったものである。
また「旧訳・新訳之三蔵」、羅什三蔵や玄奘三蔵など経・律・論の三蔵に通達した訳経僧も、また華厳・法相・三論・俱舎・成実等の顕教の諸宗や真言密教の元祖らも、全く敵対することができないほど、天台大師の教えは深く、勝れていたのである。
しかし、天台大師の弘通した教法は、法華経一部八巻28品、また方便品・寿量品の法華経の広略の法門であって、法華経の肝要の法ではなかった。
天台大師自身は「肝要の法」を存知していたが、釈尊から付嘱を受けていなかったため、あくまでも法華経の迹門本門に説かれた法門を弘通したのであって、肝要の法については弘めることはなかったのである。
伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下す、此の大戒は霊山八年を除いて一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を叡山に建立す、然る間八宗共に偏執を倒し一国を挙げて弟子と為る、観勒の流の三論・成実・道昭の渡せる法相・倶舎・良弁の伝うる所の華厳宗・鑒真和尚の渡す所の律宗・弘法大師の門弟等誰か円頓の大戒を持たざらん此の義に違背するは逆路の人なり、此の戒を信仰するは伝教大師の門徒なり日本一州・円機純一・朝野遠近・同帰一乗とは是の謂か、此の外は漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり、経に於ては大小・権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず論に於ては通申と別申とを糾さず申と不申とを暁めず、然りと雖も彼の宗宗の末学等此の諸師を崇敬して之を聖人と号し之を国師と尊ぶ今先ず一を挙げんに万を察せよ
次に、日本の伝教大師が立てた戒について述べられている。
像法の末の神護景雲元年(0767)に近江国に生まれた伝教大師最澄は、諸経論を究め、天台三大部によって法華最勝の義を悟り、南都六宗を破折した後に、唐へ渡って天台の相承を受けて帰国、天台宗を開いている。
伝教大師の功績は、本抄でもすでに第九章で「像法の末八百年に相当つて伝教大師和国に託生して華厳宗等の六宗の邪義を糾明するのみに非ずしかのみならず南岳・天台も未だ弘めたまわざる円頓戒壇を叡山に建立す」と述べられているように、法華経の迹門戒壇を建立したことである。
伝教大師が出現する以前には、奈良の東大寺に聖武天皇の勅によって鑑真が建立した戒壇があり、他に下野国の薬師寺、筑紫国の太宰府の観世音寺にも戒壇が建立されて、天下の三戒壇と称されていたが、いずれも小乗の戒壇であった。
小乗の戒壇では五戒、十戒、比丘・比丘尼の具足戒として二百五十戒・五百戒等を授けた。
大乗の菩薩戒には三聚浄戒といって、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三つがある。摂律儀戒とは仏の定めた戒律のすべてを受持して悪を防ぐことをいい、摂善法戒は一切の善法を修することをいい、饒益有情戒とはいっさい衆生を教化してその利益のために力を尽くすことをいう。
そのうち摂律儀戒には小乗戒と大乗戒が含まれており、大乗の僧は通じて受ける戒は大乗の三聚浄戒だが、別して受ける戒としては、摂律儀戒のうちの小乗戒のみを小乗の戒壇で受けていたのである。
伝教大師は大乗流布の時に、小乗の戒をうけること、また大乗の僧が小乗の戒を受けることの誤りを破折して、法華円頓の戒壇の建立を主張したのである。
ただし、法華経には円頓戒の教理は説かれているが、具体的な戒相は説かれていないので、伝教大師は梵網経に説かれる三聚浄戒、また別受戒としてそのうちの十重禁戒と四十八軽戒、及び瓔珞経に説かれる十無尽戒を用いて円頓戒の戒相としたのである。それを「梵網・瓔珞の別受戒」というのである。
伝教大師の山家学生式の注釈である学生式問答巻四に「仏子の戒を授くとは、何経を戒とせんや。答えていわく、正しくは法華経の一乗戒・三如来室衣座の戒・身口意誓の四安楽行の戒・普賢四種の戒に依り、次には普賢経の三師諸証同学に依り、傍を梵網の十重・四十八戒・瓔珞の十波羅夷の律儀戒・慈悲喜捨の摂衆生戒・八万四千法門の摂善法戒・方等経・文殊問・大涅槃等の大乗経に依る。物機の宣しきに随い、広略開制して、修学することを得せしむ」とある。
伝教大師は、具体的な戒相においては「梵網・瓔珞の別受戒」を立てたが、それはあくまでも傍意であって、正意は「法華経普賢の円頓の大王の戒」にあった。
法華普賢の戒とは、一仏乗の法華経受持をもって戒とする「一定戒」、法華経法師品に説かれた大慈悲為室、柔和忍辱衣・諸法空為座の「三如来室衣座の戒」、法華経普賢品に説かれる、諸仏に護念せられ・諸の徳本を植え・正室聚に入り・一切衆生を救う心を発すの四法を成就すべしとする「普賢四種の戒」に、法華経の結経である普賢経に説かれる自誓自戒を合わせていう。結局、伝教大師は、法華経を信受することをもって正意の戒としたのである。
この法華経の大王戒によって、それ以外の戒をすべて「民臣の戒」と位置づけたうえで、伝教大師は未曾有の大乗の戒壇を比叡山延暦寺に建立したのである。既成の諸宗も、伝教大師の教えに帰依して後は、叡山の戒壇によらなければ真の受戒の僧とはいえないことになり、一国挙げて伝教大師の弟子となったのである。
こうして三論・成美・法相・俱舎・華厳・律・真言の諸師達が天台の法門を帰依した以上、これら各宗の門弟でありながら、この戒に背く者は「逆路伽耶陀」すなわち師敵対の人となるのである。
慧心僧都源信の著・一乗要決に「日本一州円機純一・朝野遠近同帰一乗」と述べているように、日本全体がこの伝教大師の円頓戒に従うようになったのであり、法華経迹門の法門が広宣流布したといえるのである。
そして、ここに挙げられた正法時代の付法蔵の人々、像法時代の南岳大師・天台大師・伝教大師といった人々が、仏の付嘱にしたがって時に適った法を弘通した正師であるのに対し、それ以外の中国・日本の三論・法相・華厳・真言等の諸宗の師達は、大小・権実・顕密等も知らない暗師であり、愚人に過ぎないと破折され、それにもかかわらず、これらの諸師を“聖人”だの“国師”だのと称して尊んでいる末学の愚かさを悲しまれているのである。
1035:02~1035:18 第16章 真言宗の弘法の謗法を挙げるtop
| 02 弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等に云く「此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作る」 03 又云く 「無明の辺域」又云く 「震旦の人師等諍つて醍醐を盗み各自宗に名く」等云云、 釈の心は法華の大法を 04 華厳と大日経とに対して・ 戯論の法と蔑り無明の辺域と下し・ 剰え震旦一国の諸師を盗人と罵る、 此れ等の謗 05 法・謗人は慈恩・得一の三乗真実・一乗方便の誑言にも超過し善導・法然が千中無一・捨閉閣抛の過言にも雲泥せる 06 なり、 六波羅蜜経をば唐の末に不空三蔵月氏より之を渡す 後漢より唐の始めに至るまで未だ此の経有らず南三北 07 七の碩徳未だ此の経を見ず三論・天台・法相・華厳の人師誰人か彼の経の醍醐を盗まんや、又彼の経の中に法華経は 08 醍醐に非ずというの文之有りや不や、 而るに日本国の東寺の門人等堅く之を信じて種種に僻見を起し 非より非を 09 増し・暗より暗に入る不便の次第なり。 -----― 弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等に「此くの如くの乗乗、自乗に名を得れども、後に望めば戯論と作る」とあり、また「無明の辺域」、また「震旦の人師等諍つて醍醐を盗んで各自宗に名づく」等と言っている。釈の心は法華経の大法を華厳経と大日経とに対して戯論の法であると軽くみてばかにし、無明の辺域と下し、そのうえに中国一国の諸師を盗人と罵ったのである。 このように正法を謗り、正師を謗るのは、慈恩や得一の「三乗真実・一乗方便」の誑言にも超過し、善導の「千中無一」法然の「捨閉閣抛」の雑言とも雲泥の差である。いったい醍醐という字の書いてある六波羅蜜経は、唐代の末に不空三蔵がインドから持ってきたものである。後漢から唐の初めに至るまで、いまだこの経は中国になかったのである。南三北七の碩徳もこの経を見たことがない。三論宗・天台宗・法相宗・華厳宗の人師のだれが六波羅蜜の醍醐を盗むことがあろうか。またかの経のなかに「法華経は醍醐に非ず」という文はあるのであろうか。そうであるのに日本国の東寺の門人等は堅くこれを信じて、さまざまな間違った考えを起こして、非から更に非を増し、暗きから暗きに入っているのである。まことに哀れなことである。 -----― 10 彼の門家の伝法院の本願たる正覚の舎利講式に云く 「尊高なる者は不二摩訶衍の仏・驢牛の三身は車を扶くる 11 こと能ず秘奥なる者は両部曼陀羅の教・顕乗の四法の人は履をも取るに能えず」云云、三論・天台・法相・華厳等の 12 元祖等を真言の師に相対するに牛飼にも及ばず 力者にも足らずと書ける筆なり、 乞い願わくは彼の門徒等心在ら 13 ん人は之を案ぜよ 大悪口に非ずや大謗法に非ずや、 所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか、 14 教主釈尊・多宝・十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して 皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し多 15 宝諸仏は各本土に還りたまいぬ、三仏を除くの外誰か之を破失せん。 -----― かの門家の伝法院の本願である正覚房覚鑁は舎利講式に「尊高なるは不二摩訶衍の仏、露牛の三身は車を扶くること能わず、秘奥なるは両部曼陀羅の教、顕乗の四法の人は履をも取るに堪えず」と言っている。これは三論宗・天台宗・法相宗・華厳宗等の元祖らを真言の師に相対するならば、牛飼いにも及ばず、力者にも足らないと書いているのである。 乞い願わくは、彼の門人等で心ある人はこれを案ずるがよい。大悪口ではないか、大謗法ではないか。所詮、これらの誑言は弘法大師の「後に望めは戯論と作る」の悪口から起こっているのである。教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏は法華経をもって已今当の諸説に相対し、法華経を「皆是れ真実なり」と定め、その後、世尊は霊山に隠れ、多宝仏・十方の諸仏はそれぞれ本土に帰られたのである。三仏を除く以外の何者がこの法華経を破ろうというのか。 -----― 16 就中弘法所覧の真言経の中に 三説を悔い還すの文之有りや不や、 弘法既に之を出さず末学の智・如何せん而 17 るに弘法大師一人のみ法華経を華厳.大日の二経に相対して戯論.盗人と為す所詮釈尊・多宝・十方の諸仏を以て盗人 18 と称するか末学等眼を閉じて之を案ぜよ。 -----― なかんずく、弘法の見た真言経のなかに法華経を已今当の三説に超過しているといったことを悔いている文証があるであろうか。弘法はこの文証を出してはいない。末学の徒はどうであろうか。 しかるに、弘法大師一人のみが法華経を華厳経・大日経の二経に相対して、「戯論」「盗人」としているのである。これは所詮、釈尊・多宝仏・十方の諸仏を盗人と称していることになる。末学等、眼を閉じてこの当否を案ぜよ。 |
十住心論
秘密曼陀羅十住心論の略。弘法の書で、全十巻より成る。天長7年(0830)ごろの作といわれ、大日経・菩提心論を依処として、十住心を立て顕密二教を判じた。とくに第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳、第十住心に真言を立てて、法華経は華厳経にも劣るとなし、大日に劣る第三の戯論と立てている。
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秘蔵宝鑰
弘法の書で三巻から成る。十住心論を要約したもの。天長年中に、淳和天皇が諸宗の要義を聞かれたときに、さし出したものをいう。
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二教論
弁顕密二教論の略。弘法の著作で、顕教よりも密教が優れているとの邪義を説いたもの。弘法は横豎において教相を判釈しているが、横の判教が弁顕密二教論であり、豎の判教が十住心論、秘蔵宝鑰であるとしている。
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戯論
児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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無明の辺域
真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
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醍醐
五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
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得一
平安時代初期の法相宗の僧。徳一・徳溢とも書く。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。著書に「仏性抄」「中辺義鏡」三巻などがある。
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三乗真実・一乗方便
法相宗の邪義である。諸乗一仏乗を主張するのは仏の方便で、三乗として、各衆性に応じて修行するというのが真実である。そもそも、すべての人が仏になることは不可能で、世には、声聞・縁覚・菩薩と、それぞれなるべき性分のものがある。すなわち五性はみな別なのである。このように法相宗は、人の差別の面からのみを根拠として法を説き、法華経のごとく一切衆生がみな成仏する教えとはまったく反対の教えである。
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善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
―――
捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
―――
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
―――
僻見
偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
―――
伝法院
和歌山県那賀郡岩田町根来にある真義真言宗の総本山、大伝法院のこと。根来寺ともいう。開基は覚鑁、本尊は胎内に鳥羽天皇修髪と伝えられる大日如来。大治5年(1130)覚鑁が高野山伝法院が建立し、天承元年(1131)勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)鳥羽上皇の勅願により、大伝法院の座主が金剛峰寺の座主を兼務すべしとの勅宣を受けた。以後、金剛峰寺との抗争が生じ、紛争が続くなかで、正応元年(1288)頼瑜は大伝法院と覚鑁の住房であった密厳院を根来に移した。これが新義派の起源となった。
―――
本願
仏・菩薩が過去世に衆生済度のために起こした請願。
―――
正覚
正しい覚り。妄惑を断滅した如来の真正の覚智。成仏。
―――
舎利講式
覚鑁の著で、仏舎利供養の講演をまとめたものである。五編から成るが、この第四門のなかで覚鑁は、法華経は真言の履物取りにもおよばないと、邪義を述べている。
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皆是真実
他謗仏は、東方宝浄世界に住む仏であるが、法華経の説かれるところに出現して「皆これ真実なり」と証明する文。
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我見によって邪義を弘めた諸宗の祖のうち、真言宗の祖、弘法大師空海の邪義を挙げ、その謗法を破折されている。
初めに引用されたのは秘蔵宝鑰の「他縁以外は大乗の心なり。大乗に於いて前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり、此くの如くの乗乗、自乗に仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」の文である。
すなわち、法華経にも仏乗が説かれてはいるが、真言で説かれる秘密荘厳住心に比べれば戯論。児戯に類した無益な論議。でしかない、と法華経を真言に劣ると下しているのである。
次に「無明の辺域」も同じ秘蔵宝鑰の文で、法華経の教主である第八如実一道無為住心の釈尊は顕教のなかでは究竟の理智法身であるが、秘密荘厳住心の大日如来に対すれば無明の辺域にすぎないと、釈尊を下した文である。
更に「震旦の人師」の文は、顕密二教論に六波羅密経を引いて「喩して曰く、今この経文に依らば、仏五味を以って五蔵に配当して、総持をば醍醐と称し、四味をば四蔵に譬えたまえり。震旦の人師等、醍醐を争い盗んで各自宗に名づく」とある文の取意である。
すなわち、六波羅蜜経で素怛纜・毘奈耶・阿毘達磨・般若波羅密多・陀羅尼門の五蔵を説き、五蔵が順次に乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味の五味に対応している文を引用して、弘法は真言密教こそ最高の醍醐味であるとし、諸宗が我が宗こそ醍醐味であるとしているのは、真言の教判を盗んだものであるとし、天台大師が法華経こそ醍醐味であると立てた五時教判を批判して、これは六波羅蜜経から盗んだものであるときめつけているのである。
大聖人はこうした弘法の法華経誹謗の罪は、法相宗の慈恩や浄土宗の善導や法然の罪よりも重いと述べられ、その誤りを破折されている。
すなわち、弘法は、六波羅蜜経で説かれた醍醐味を天台宗をはじめ他宗が盗んだというが、六波羅蜜経は唐代の末に不空三蔵がインドから伝えたものである。したがって、それより以前の南三北七の学者や、三論・法相・華厳の各宗の人師が六波羅蜜経に説かれている醍醐味を盗むことができないわけである。
また、与えて言っても、六波羅蜜経に、法華経は醍醐味の教えではない、という経文があるかどうか、ないではないか、とも指摘されている。
彼の門家の伝法院の本願たる正覚の舎利講式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏・驢牛の三身は車を扶くること能ず秘奥なる者は両部曼陀羅の教・顕乗の四法の人は履をも取るに能えず」云云、三論・天台・法相・華厳等の元祖等を真言の師に相対するに牛飼にも及ばず力者にも足らずと書ける筆なり、乞い願わくは彼の門徒等心在らん人は之を案ぜよ大悪口に非ずや大謗法に非ずや、所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか、教主釈尊・多宝・十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し多宝諸仏は各本土に還りたまいぬ、三仏を除くの外誰か之を破失せん
この弘法の流れを汲んだ正覚房覚鑁が、仏舎利供養の要法の際の表白文等の講演をまとめた舎利講式のなかで「尊高なるは不二摩訶衍の仏、露乳の三身の車を扶くること能わず。秘奥なるは両部曼荼羅の教、顕乗の四法も履を採るに堪えず」と述べて法華経の教主たる釈尊を蔑んでいることを挙げられ「乞い願わくは彼の門徒等心在らん人は之を案ぜよ大悪口に非ずや大謗法に非ずや」と、あまりにも非常識な彼の言葉の大謗法ぶりを門下の人々は認識すべきであると呼びかけられている。
そして、このようないいかげんな考え方も、根源は弘法の邪見にあることを指摘されて、法華経をそれ以外の諸経諸説と相対して皆是真実と定め、最高の経典であると示したのは、釈迦・多宝・十方分身の三仏であり、この法華経を華厳経・大日経と比べて戯論だとして、盗んだなどというのは、釈迦・多宝・十方諸仏を盗人呼ばわりしているのと同じであると述べられている。
1036:01~1036:18 第17章 法華経誹謗を糾した先例を挙げるtop
| 1036 01 問うて曰く昔より已来未だ曾て此くの如きの謗言を聞かず 何ぞ上古清代の貴僧に違背して寧ろ当今濁世の愚侶 02 を帰仰せんや、 答えて曰く汝が言う所の如くば愚人は定んで理運なりと思わんか 然れども此等は皆人の偽言に因 03 つて如来の金言を知らざるなり、 大覚世尊・涅槃経に滅後を警めて言く「善男子・我が所説に於て若し疑を生ずる 04 者は尚受くべからず」云云、 然るに仏尚我が所説なりと雖も不審有らば之を叙用せざれとなり、 今予を諸師に比 05 べて謗難を加う、然りと雖も敢て私曲を構えず専ら釈尊の遺誡に順つて諸人の謬釈を糾すものなり。 -----― 問うて言う。昔よりこのかた、このような弘法大師に対する謗言はいまだかって聞いたことがない。どうして上古清代の貴い僧に違背して、今の濁世の愚侶の言葉を信ずるであろうか。 答えて言う。汝の言うようなことは愚人は道理と思うであろうが、しかし、これらは人師の偽りの言葉を根本としているのであって如来の金言を知らないのである。大覚世尊は涅槃経に滅後を「善男子、我が所説において若し疑いを生ずる者は尚受くべからず」と警告している。仏ですら、自分の説法であっても、不審があるならば用いてはならない、と言っているのである。 今、あなたは私が他宗の諸師に比べて謗難しているが、私は、自分勝手な考えを言っているのではなく、釈尊の遺誡にしたがって人々の誤りを糾すものである。 -----― 06 夫れ斉の始めより梁の末に至るまで 二百余年の間南北の碩徳光宅・智誕等の二百余人涅槃経の「我等悉名邪見 07 之人」の文を引いて法華経を以て邪見之経と定め 一国の僧尼並びに王臣等を迷惑せしむ、 陳隋の比智者大師之を 08 糾明せし時始めて南北の僻見を破り了んぬ、 唐の始めに太宗の御宇に基法師・勝鬘経の 「若如来随彼所欲而方便 09 説・即是大乗無有二乗」の文を引いて一乗方便・ 三乗真実の義を立つ此の邪義・震旦に流布するのみに非ず、 日 10 本の得一が称徳天皇の御時盛んに非義を談ず、 爰に伝教大師悉く彼の邪見を破し了んぬ、 後鳥羽院の御代に源空 11 法然・観無量寿経の読誦大乗の一句を以て法華経を摂入し 「還つて称名念仏に対すれば雑行方便なれば捨閉閣抛せ 12 よ」等云云。 -----― 斉の初めから梁の末までの二百余年の間、南三北七の碩徳である光宅寺法雲・智誕等の二百余人は、涅槃経の「我等悉名邪見之人」の文を引いて、法華経を「邪見之経」と定め、一国の僧尼並びに王臣などを迷わせていた。陳隋の時代に天台智者大師がこのことを明らかにされたとき、初めて南三北七の僻見を破ったのである。 唐の初めには太宗皇帝の治世に窺基法師が勝鬘経の「若如来随彼所欲而方便説・即是大乗無有二乗」の文を引いて、一乗方便・ 三乗真実の義を立てた。この邪義は中国に流布しただけでなく、日本の得一が称徳天皇の時代に盛んにこの邪義を弘めた。これを伝教大師がことごとく破折されたのである。 後鳥羽院の時代には源空法然が観無量寿経の「読誦大乗」の一句に法華経を取り入れて「還つて称名念仏に対すれば雑行方便なれば捨閉閣抛せよ」等と言った。 -----― 13 然りと雖も五十余年の間.南都・北京・五畿.七道の諸寺.諸山の衆僧等.此の悪義を破ること能はざりき予が難破 14 分明為るの間・ 一国の諸人忽ち彼の選択集を捨て了んぬ 根露るれば枝枯れ 源乾けば流竭くとは蓋し此の謂なる 15 か、 加之ならず唐の半玄宗皇帝の御代に善無畏・ 不空等大日経の住心品の如実一道心の一句に於て 法華経を摂 16 入し返つて権経と下す、 日本の弘法大師は六波羅蜜経の五蔵の中に第四の熟蘇味の般若波羅蜜蔵に於て 法華経涅 17 槃経等を摂入し 第五の陀羅尼蔵に相対して争つて醍醐を盗む等云云、 此等の禍咎は日本一州の内四百余年今に未 18 だ之を糾明せし人あらず予が所存の難勢徧く一国に満つ必ず彼の邪義を破られんか此等は且らく之を止む。 -----― ところが、五十余年の間、奈良・京都・五畿七道の諸寺・諸山の僧等はこの悪義を打ち破ることができなかった。今、日蓮が難じて破ってその誤りを明らかにしたので、日本国の人々はたちまちに法然の選択集を捨ててしまったのである。「根露るれば枝枯れ、源乾けば流竭く」とは、あるいはこのことを言うのであろうか。 そのうえ唐の中頃、玄宗皇帝の治世に善無畏、不空等が大日経の住心品の「如実一道心」の一句に法華経を取り入れて、かえって権経と下した。日本の弘法大師は六波羅蜜経に説かれている五蔵のなかの第四・熟蘇味にあたる般若波羅蜜蔵に法華経と涅槃経等を取り入れ、第五の陀羅尼蔵に比べて、「争つて醍醐を盗む」等と言ったのである。 これらの罪咎は、日本国内において、四百余年の間、今に至るまで糾明する人はいない。日蓮が難詰していることは広く日本国に満ちて必ずかの邪義を破られるであろう。これらのことはしばらくおく。 |
上古清代の貴僧
古からの清らかな時代の貴い僧のこと。
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理運
道理にかなっていること。
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叙用
とり用いること。任用すること。
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私曲
身勝手な誤義・我見・邪見。
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光宅
光宅寺の法雲法師のこと。(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(058五)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園における法華経の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じたという。普通6年(0523)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
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智誕
中国・南北朝時代の学僧。江西にいて経論の研鑽に勝れており、名声が高かったが、法華経を邪見の経として一国の僧尼・王臣を迷わせたという。
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勝鬘経
勝鬘師子吼一乗大方便広経のこと。
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称徳天皇
(0718~0770)。第 48代の天皇,女帝 (在位0764~0770) 。第 46代孝謙天皇 (在位0749~0758) の重祚。名は阿倍,また高野姫。聖武天皇の第2皇女。母は贈太政大臣藤原不比等の娘安宿媛。
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後鳥羽院
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
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読誦大乗
大乗経典を読誦すること。
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南都・北京
南都は現在の奈良。北京は京都のこと。
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五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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七道
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。
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選択集
『選択本願念仏集』の略。法然(源空)の著作。1巻。九条兼実の依頼によって建久9年(1198年)に著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の『観無量寿経疏』の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は16章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏(南無阿弥陀仏ととなえること)こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」(17㌻)、「守護国家論」(36㌻)などでその誤りを破折されている。▷
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大日経の住心品
大日経巻1入真言門住心品第1のこと。住心は衆生自らの心の実相を如実に知ることをいう。
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如実一道心
あるがままに一道を覚知する心のこと。弘法の十住心論に説かれる十十住心の第八。一道無為心ともいい、三論の無相を越えて一仏乗を説く天台宗の住心としている。
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五蔵
❶仏教の典籍を五種に分類したもの。①経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・秘蔵。②爼多覧蔵・毘那耶蔵・阿毘達磨蔵・般若波羅蜜多蔵・陀羅尼蔵。❷肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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先に弘法を大謗法であると破したのに対し、清代たる昔の高貴な僧に背いて、今の濁世の愚かな僧に従う気にはなれない、と反論を挙げられている。
このように昔のほうが時代も濁っておらず、僧も尊い人々が多かったという感情は、大部分の人に共通したものといえよう。
これに対し、大聖人は、そうした言い分を仏法に暗い愚人は道理と思うかもしれないが、それは弘法等の「人の偽りの言」を信じて「仏の金言」を知らないためである、と厳しく破されている。
そして、釈尊が涅槃経に滅後のことを戒めて「善男子よ、仏の所説であっても、疑いを生ずるようなことがあれば、信ずる必要はない」と言っている文を引かれ、仏でさえ自分の説法の内容に不審があれば用いてはならないと言っているではないかと述べられ、弘法等の立義に誤りがあれば用いないのは当然であることを示されている。
そして弘法を「上古清代の貴僧」とし、大聖人を「当今濁世の愚侶」として卑しんでいるけれども、自分はあくまで釈尊の遺誡を根本とし、それに照らして弘法等の誤りを糾しているのであると述べられている。
そして、同じように過去の諸師の誤りを糾した先例として、天台智者大師、伝教大師を挙げられるのである。
中国の天台大師は、碩徳とされていた光宅寺の法雲らの僻見を打ち破り、法華経第一の義を明らかにしたのである。
法雲は、涅槃経巻74倒品に「迦葉菩薩・仏に白して言く、世尊、我、今日より始めて正見を得たり、世尊、是より前の我等を、悉く邪見の人と名づく」と、迦葉童子菩薩が涅槃経を聞かない以前は邪見であったと言っているのを取り上げて、涅槃経以前に説かれた法華経は邪見であると主張したのである。
迦葉童子菩薩は爾前経の会座にもつらならず、法華経の会座にも漏れた捃拾の機根の代表として涅槃経を聞いて初めて正見を得ることができたとのべているのであって、法華経を邪見とする意味など全くない。
天台大師は、釈尊一代の経々を五時八教の教判で統括して、法華経こそ一切衆生が成仏できる唯一の大法であり、涅槃経は重ねてその意を説いた捃拾の経であることを明らかにして、法雲らの涅槃経を第一とする邪義を打ち破ったのである。
日本の伝教大師は、法相宗の慈恩大師窺基が勝鬘経の文を引いて一乗方便三乗真実の邪義を立て、日本でも、もてはやされていた時に、その邪見を打ち破り、法華最勝、一乗真実三乗方便の正義を宣揚したのである。
勝鬘経には「若し如来は彼の浴する所に随って、而して方便を説く、即ち是れ大乗なり。二乗有ること無し」とあり、この文は本来、仏は衆生の欲するところにしたがって声聞・縁覚の修行のための教法を方便として説くが、その本意は大乗。一切衆生を成仏せしめるところにあるのであって、二乗を勧めるところにあるのではない、との意である。
ところが窺基はこの文意を、仏が衆生の欲するところにしたがって方便して説いた三乗の教えこそ大乗であって、それ以外に二乗はない、と誤って解釈し、それを根拠に一乗方便三乗真実という邪義を立てたのである。
法相宗では、法華経の一性皆成、一切衆生はすべて仏性があり、必ず成仏すること、に対して、衆生の機根には永久不変の五種があるという五性格別を説いて、一乗が方便で三乗こそが真実の義であると立てている。
つまり、仏が衆生の機根に応じて種々に法を説いたのは、ある者は菩薩の修行を積むことができ、ある者は声聞で終わり、ある者は縁覚で終わるべき機根なのだから、三乗の教えが必要なのであって、皆が仏になれると説くのは衆生に修行させるための方便にすぎない、としているのである。
この邪義が、日本にも法相宗の伝来とともに伝わり、元興寺・興福寺・法隆寺・薬師寺などで学ばれた。得一は平安初期の法相宗の学僧で、伝教大師と5年間にわたって法華経の権実に関する論争を行い、一乗方便三乗真実の邪義を主張した。伝教大師は守護国界章3巻を著して、得一の唯識思想の立場から天台の宗義を論難した中辺義鏡を破折したのである。
後鳥羽院の御代に源空法然・観無量寿経の読誦大乗の一句を以て法華経を摂入し「還つて称名念仏に対すれば雑行方便なれば捨閉閣抛せよ」等云云
ここからは、日蓮大聖人自身が、まず法然の立てた法華経誹謗の邪義を破折されたことが述べられている。
日本浄土宗の祖・法然房源空は、はじめ比叡山で天台を学んだが、後に浄土宗に移り、善導の観経散善義と源信の往生要集を読んで悟ったとし、一向専修念仏の浄土宗を開創した。
法然は、観無量寿経の「読誦大乗」の一句「仏阿難及び韋提希に告げたまわく、上品上生の者とは、若し衆生ありて彼の国に生ぜんと願せば…また三種の衆生あり、まさに往生を得べし。何らかを三とする。一には慈心にして殺さず、諸の戒行を具す。二には大乗方等教典を読誦す…」とある。を法華経を読誦する意として、それは称名念仏に対すれば雑行であり方便であるから捨てるべきである、という邪義を立てたのである。
観無量寿経には、衆生の機根の違いによって九種の極楽浄土への往生があるとし、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の九品往生を説いている。
そのうち上品上生とは、慈悲の心をもって殺生をせず、諸の戒を持ち実践する者、大乗経典を読誦する者、及び六念を修行する者が、臨終の際に阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩などの来迎を受け、金剛の蓮台に乗って浄土に往生し、見仏聞法の後、即座に無生忍を得る、とされている。
法然は、末法の衆生は下品下生、戒を破り、不浄な説法をするなどの悪事を働いて地獄へ堕ちるべき衆生、なので、弥陀の名号を称えることによってのみ西方極楽浄土に往生できるのであり、末法において上品上生の衆生のための「読誦大乗」はことごとく雑行であって「称名念仏」のみが正行である、と主張したのである。更に、浄土三部経以外の一切経およびその修行を聖道門・雑行道・雑行と呼び、選択本願念仏集に「聖道を捨て…定散の門を閉じ…聖道門を閣き…諸雑行を抛て」と排斥している。すなわち、法華経を修行することも、末法には雑行・方便であり、なんの役にも立たないので捨てよ、としているのである。
この法然の邪義が「然りと雖も五十余年の間・南都・北京・五畿・七道の諸寺・諸山の衆僧等・此の悪義を破ること能はざりき」と本抄で仰せられているのは、法然が立宗したのは承安5年(1179)であるが、撰択集を著したのは建久9年(1198)であり、日蓮大聖人が建長5年(1253)に立宗された時点で、ちょうど55年目にあたっていたことをいわれたのであろう。
大聖人は立教開宗の初めから一貫して念仏を破折され、無間地獄に堕ちる邪法であると指摘されてきた。
大聖人の明確な破折によって多くの念仏の信徒が改宗し大聖人の門下になった。このことを「一国の諸人忽ち彼の選択集を捨て了んぬ根露るれば枝枯れ源乾けば流竭く」と述べられている。
また、当時、念仏とともにはびこっていたのが真言宗の邪義であった。その邪義とは、第一には大日経の住心品によって十住心を立て、法華経の悟りを「如実一道心」であるとし、その奥に華厳経の「極無自性心」があり、更にその奥に大日如来の説いた秘密の境界である「秘密荘厳心」があると立て、法華経は大日経に劣ると下したのである。
第二は、弘法は六波羅蜜経が五蔵を説き、それを乳・乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五味に配しているのを利用して、第四の熟蘇味の般若原密蔵に法華経を含めて、第五の陀羅尼蔵である真言の醍醐味に劣ると下し、しかも、各宗はこの醍醐味を盗んで用いるのだ、と誹謗していることである。
これらの誤りは、弘法がそれを唱えてから400年の間、糾明した人はいなかったが、大聖人が初めてこれに破折を加えられ、それが人々にも行き渡って一国に満ち、必ず真言の邪義は破られるであろう、と述べられている。
1037:01~1038:13 第18章 要法が末法に出現することを明かすtop
| 1037 01 迦葉.阿難等・竜樹・天親等・天台.伝教等の諸大聖人知つて而も未だ弘宣せざる所の肝要の秘法は法華経の文赫 02 赫たり論釈等に載せざること明明なり生知は自ら知るべし 賢人は明師に値遇して之を信ぜよ 罪根深重の輩は邪推 03 を以て人を軽しめ之を信ぜず且く耳に停め本意に付かば之を喩さん、 大集経の五十一に大覚世尊・月蔵菩薩に語つ 04 て云く「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固.次の五百年は禅定堅固、已上一千年次の五百年は読誦多聞堅固.次の 05 五百年は多造塔寺堅固已上二千年次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」等云云、今末法に入つ 06 て二百二十余年・我法中闘諍言訟・白法隠没の時に相当れり、法華経の第七薬王品に教主釈尊・多宝仏と共に宿王華 07 菩薩に語つて云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜 08 叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむこと無けん」 大集経の文を以て之を案ずるに 前四箇度の五百年は仏の記文の如 09 く既に符合せしめ了んぬ、 第五の五百歳の一事豈唐捐ならん、 随つて当世の体為る大日本国と大蒙古国と闘諍合 10 戦す第五の五百に相当れるか、 彼の大集経の文を以て此の法華経の文を惟うに 後五百歳中広宣流布・於閻浮提の 11 鳳詔・豈扶桑国に非ずや、 弥勒菩薩の瑜伽論に云く「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」云云、 慈 12 氏菩薩仏の滅後九百年に相当つて無著菩薩の請に赴いて 中印度に来下して瑜伽論を演説す、 是れ或は権機に随い 13 或は付属に順い 或は時に依つて権経を弘通す、 然りと雖も法華経の涌出品の時・地涌の菩薩を見て近成を疑うの 14 間仏・請に赴いて寿量品を演説し 分別功徳品に至つて地涌の菩薩を勧奨して云く 「悪世末法の時能く是の経を持 15 たん者」と、 弥勒菩薩自身の付属に非ざれば之を弘めずと雖も 親り霊山会上に於て悪世末法時の金言を聴聞せし 16 故に瑜伽論を説くの時末法に日本国に於て 地涌の菩薩法華経の肝心を流布せしむ可きの由 兼ねて之を示すなり、 17 肇公の翻経の記に云く 「大師須梨耶蘇摩左の手に法華経を持し 右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏日西 18 に入つて遺耀将に東に及ばんとす 此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」云云、 予此の記の文を拝見して両眼 1038 01 滝の如く一身悦びをアマネくす,「此の経典東北に縁有り」云云西天の月支国は未申の方.東方の日本国は丑寅の方な 02 り、 天竺に於て東北に縁有りとは豈日本国に非ずや、 遵式の筆に云く「始め西より伝う猶月の生ずるが如し今復 03 東より返る猶日の昇るが如し」云云、 正像二千年には西より東に流る暮月の西空より始まるが如し 末法五百年に 04 は東より西に入る 朝日の東天より出ずるに似たり、 根本大師の記に云く「代を語れば則ち像の終り末の初・地を 05 尋ぬれば唐の東・羯の西・ 人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、 経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に 06 以有るが故に」云云、 又云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機・ 今正しく是れ其の時なり何 07 を以て知る事を得ん安楽行品に云く末世法滅の時なり」云云・此の釈は語美しく心隠れたり、 読まん人之を解し難 08 きか、伝教大師の語は我が時に似て心は末法を楽いたもうなり、 大師出現の時は仏の滅後一千八百余年なり、 大 09 集経の文を以て之を勘うるに 大師存生の時は第四の多造塔寺堅固の時に相当る全く第五闘諍堅固の時に非ず、 而 10 るに余処の釈に末法太有近の言は有り定めて知んぬ闘諍堅固の筆は我が時を指すに非ざるなり。 -----― 迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台大師・伝教大師等の偉大な聖人が、知っていまだ弘宣しなかった肝要の秘法は法華経の文に赫々として明らかであり、論釈に載っていないことも明々である。聖人は自ら知り賢人は明師に値遇してこれを信ぜよ。罪根深重の輩は邪推で人を軽しめてこれを信じようとしないが、しばらく耳にとどめ経の本意につこうとするならばこれを教えよう。 大集経の五十一に大覚世尊が月蔵菩薩に語って「我が滅後に於いて五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、(已上一千年)次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年は我が法中に於いて闘諍言訟して白法隠没せん」等と説いている。 今、末法に入って二百二十余年、「我法中闘諍言訟・白法隠没」の時にあたっている。法華経の第七の巻の薬王菩薩本事品第二十三に教主釈尊が多宝仏とともに宿王華菩薩に語って「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に、其の便を得せしむこと無かれ」と説かれている。大集経の文をもってこれを考えると前の四つの五百年は仏の未来記文の通りに符合している。第五の五百歳の未来記もまた空しくなることはあるまい。したがって、今の大日本国と大蒙古国と合戦しているさまは第五の五百歳に相当しているからであろうか。かの大集経の文をもってこの法華経の文を考えると「後五百歳中広宣流布・於閻浮提」の鳳詔はまさに扶桑国のことではないか。 弥勒菩薩の瑜伽論に「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」とある。弥勒菩薩は仏の滅後九百年にあたって無著菩薩の請いにしたがって中インドに下って瑜伽論を説いたのである。これはあるいは権機に随い、あるいは時によって権教を弘通したのである。 しかし、法華経の従地涌出品第十五の時、地涌の菩薩を見て釈尊の始成正覚について疑いを起こしたので、釈尊は請いに応じて如来寿量品第十六を説き、分別功徳品第十七に至って「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」と、地涌の菩薩に勧めたのである。弥勒菩薩は自身の付嘱がなかったのでこれを弘めはかったが、まのあたり霊鷲山の会上において「悪世末法時」の金言を聴聞したので、瑜伽論を説くの時に、末法に、日本国において地涌の菩薩が法華経の肝心の南無妙法蓮華経を流布されることを、あらかじめ示したのである。 僧肇の法華翻経の後記に「大師須梨耶蘇摩、左の手に法華経を持し、右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏日西に入って遺耀将に東北に及ばんとす、此の経典東北に縁有り。汝慎んで伝弘せよ」と記している。 日蓮はこの未来記を拝見して両眼から涙が滝のごとくにくだり、喜びが体にあふれるのである。「此の経典東北に縁有り」とあるのは、西天の月支国は西南の方角であり、東方の日本国は東北の方角である。インドにおいて「東北に縁有り」とは日本国のことではないだろうか。遵式は「始め西より伝う猶月の生ずるが如し、今復東より返る猶日の昇るが如し」と言っている。正像二千年には西から東へ流転した。ちょうど暮れる月が西の空から始まるようなものである。末法五百年には東から西に返るのである。ちょうど朝日が東の空から出るようなものである。 伝教大師は法華秀句に「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば中国の東・カムチャッカの西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く『猶多怨嫉・況滅度後』と。此の言・良に以有るなり」と言っている。また、守護国界章に「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり。何を以って知ることを得ん。安楽行品に云く『末世法滅の時なり』」と言っている。この釈は言葉が美しく、その心は隠されている。この文を読む人はこれを理解しがたいであろう。 伝教大師の法華秀句の言葉は自分自身の時代のことを言われたようであるが、心は末法を恋い慕われているのである。伝教大師出現の時は仏滅後、一千八百余年である。大集経の文をもってこれを考えると、伝教大師が生きておられた時は第四の多造塔寺堅固の時代に相当する。全く第五の闘諍堅固の時ではない。ところが、他の釈のところに「末法太有近」との言葉がある。これは、第五の闘諍堅固の文は自分の時代をさしていないことを知っておられたと思われるのである。 -----― 11 予倩事の情を案ずるに 大師薬王菩薩として霊山会上に侍して仏・ 上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したもう 12 故に粗之を喩すか、 而るに予地涌の一分に非ざれども兼ねて此の事を知る故に 地涌の大士に前立ちて粗五字を示 13 す例せば西王母の先相には青鳥・ 客人の来るにはカン鵲の如し、 -----― 日蓮はつくづくその意を考えるに、伝教大師が大師薬王菩薩として霊鷲山の会座に列して、釈尊が上行菩薩の出現の時をあらかじめ説かれているゆえに、ほぼこれを示されたのであろう。 しかるに日蓮は地涌の菩薩の一分ではないが、かねてからこのことを知っていたので、地涌の菩薩の出現に先立ってほぼ妙法蓮華経の五字を顕しているのである。例えば、西王母が現れる先相には青鳥がまず現れ、客人のくる時にはカン鵲が鳴くようなものである。日蓮はつくづくその意を考えるに、伝教大師が大師薬王菩薩として霊鷲山の会座に列して、釈尊が上行菩薩の出現の時をあらかじめ説かれているゆえに、ほぼこれを示されたのであろう。 しかるに日蓮は地涌の菩薩の一分ではないが、かねてからこのことを知っていたので、地涌の菩薩の出現に先立ってほぼ妙法蓮華経の五字を顕しているのである。例えば、西王母が現れる先相には青鳥がまず現れ、客人のくる時にはカン鵲が鳴くようなものである。 |
月蔵菩薩
大集経月蔵分の対告衆として出る菩薩。西方の月勝世界から眷属を率いて来会した。
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解脱堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。修行する者が盛んに解脱し、悟りを開くことのできる時代。第一の五百歳。正法時代の前半。迦葉・阿難などが小乗教を説いた。
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禅定堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。禅定に入るものが大多数の時代、第二の五百歳。正法時代の後半。竜樹・天親などが大乗の教を説いた。
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読誦多聞堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。経典を読誦し、説法を多く聞こうとする時代。第三の五百歳。像法時代の前半。鳩摩羅什等が多数の経典を漢訳している。この時代の末には天台大師等が大乗の教判を立てた時代である。
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多造塔寺堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。塔寺・伽藍を多く造立する時代。第四の五百歳。像法時代後半。伝教大師が法華経迹門をひろめ、比叡山の迹門大乗戒壇が建立された時代である。
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闘諍言訟して白法隠没せん
いろいろな争いや戦争が激しくなって、釈尊の正法が隠没する時代である。第五の五百歳。末法のはじめである。教行証御書には「されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(1276-04)とある。
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宿王華菩薩
薬王菩薩本事品第二十三にあらわれ、釈尊に薬王菩薩の因縁をたずねた菩薩。
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悪魔
魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。
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魔民
魔界の衆生。魔王の眷属の民衆。仏道修行を妨げる働きをするもの。
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天竜
天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦等の八部衆。
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夜叉
梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
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鳩槃荼
梵語クムバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を喰らう、馬頭人身の鬼。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある鬼の一つ。
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唐捐
むなしく捨てる。いたずらに捨てること。
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大蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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鳳詔
みことのり。詔勅のこと。鳳は鳥の王とされ、そこから国王、天子、仏の言葉をさして用いられた。
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扶桑国
扶桑とは①古代の中国で東海の日の出るところにあるといわれた神聖な木。②南史「夷莫伝」に出てくる植物。葉は桐・実は筍に似ていて食用となる。③「ぶっそうげ」のこと。アオイ科の植物で赤い花が咲く。「仏桑花」と書き中国原産であるが、日本原産とされていた。これらの由来にあてはまる国。
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弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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瑜伽論
法相宗所依の論。瑜伽師地論、ヨーガーチャーラ・ブーミ(Yogācārabhūmi-śāstra)。弥勒説・玄奘訳百巻。瑜伽は相応と訳す。一切の境・行・果・教が互いに相応することをいう。師地は、三乗の行者が聞思等によって次第に瑜伽を修習して境界を深め、それぞれの分に従って諸の有情を教化することをいう。瑜伽論の所行の境界には、第一・五識身相応地から第十七・無余依地までの十七地がある。十七地は以下の通り。1.五識身相応地、2.意地、3.有尋無伺地、4.無尋唯伺地、5.無尋無伺地、6.三摩哂多地、7.非三摩哂多地、8.有心地、9.無心地、10.聞所成地、11.思所成地、12.修所成地、13.声聞地、14.独覚地、15.菩薩地、16.有余依地17.無余依地。
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種姓
素性と同じ。生まれつきの性質・血筋・家柄・育ち。
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慈氏菩薩
弥勒菩薩のこと。
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近成
始成と同義。久成に対する語。インド応誕の釈尊が30歳ではじめて成道したとする始成正覚のこと。
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勧奨
すすめはげますこと。激励すること。
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肇公
(0384~0414)。僧肇のこと。中国東晋の僧。長安の人。鳩摩羅什の門下で、仏典漢訳を助け、理解第一と称された。著に「宝蔵論」「肇論」などがある。
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翻経の記
中国・唐代の僧祥の法華伝記巻2諸師序集第6の中にある僧肇の法華翻経の後記のこと。
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須梨耶蘇摩
4世紀頃西域沙車国の王子として生まれる。鳩摩羅什の師。法華翻経後記には、大乗諸教に通じ、法華経を鳩摩羅什に授けて、東方有縁の国に流布せよと命じたとある。
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鳩摩羅什
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀?国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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遺耀
残った輝きの意。夕日が沈んだ後もなお残っている光。残光・余光・残照のこと。仏の入滅後残された仏の教え。
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未申の方
方位。南西にあたる。
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丑寅の方
方位。北東にあたる。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西の方角を裏鬼門と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。
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遵式
(0964~1032)。中国・宋代の天台宗の僧。寧海(浙江省台州府)の人。 姓は葉氏。字は知白。慈雲懺主、霊応尊者ともいう。はじめ禅を学んだが、20歳の時、禅林寺で具足戒を受け、宝雲について天台学を学び,28歳の時、法華・維摩・涅槃・金光明の四経を講説した。また天台学を宣揚して天台宗の章疏を大蔵経に入れさせた。著書には「大乗止観釈要」四巻、「往生淨土懺願儀」、「金園集」三巻、「天竺別集」三巻などがある。
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暮月の西空より始まる
夕方、月が見える方向は、新月が西、以下、月輪にしたがって東にうつっていくこと。
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根本大師
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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唐の東・羯の西
唐は中国、羯は沿海州をいい、その間に「日本」があるとされた。
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西王母
中国における伝説の女神であり、女子で仙人となったものは、みなこの西王母に従ったという。
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カン(干鳥)鵲
カンは「干」徧に「鳥」の字を用意られているが、干鵲が一般的。カササギのこと。「鵲」は一文字でカササギと読むことが多い。
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地涌の菩薩に付嘱された肝要の法は、末法に初めて出現し弘通されるのであって、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台大師・伝教大師等の正法・像法時代の正師は、知っていたけれどもこれを弘めることはできず、末法の時を慕ったことが明かされている。
肝要の秘法は法華経の文赫赫たり
大聖人はここで正法・像法時代の正師がいまだ弘宣しなかった「肝要の秘法」は「法華経の文赫赫たり」と述べられている。
開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と述べられ、末法に弘通される要法は法華経本門寿量品の文底に秘沈されている。それなのになぜ「法華経の文赫赫たり」と仰せられたのか。
同様の御文として撰時抄にも「仏滅後に迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親.乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)と述べられており、この御文について日寛上人は、撰時抄文段で次のように釈されている。「即ちこれ文底秘沈の三箇の秘法なり。故に『最大深秘の大法』というなり、これ即ち先聖末法の深法なり。問う、若し爾らば何ぞ『経文の面に顕然』というや。答う、若し文底の謂い知れば、即ち三箇の秘法は経文に顕然なり」と。
更に依義判文抄にも「文底の義に依って今経の文を判ずれば三大秘法宛も日月の如し、故に経文の面に顕然なりと云うなり」と述べられている。
すなわち「法華経の謂れ」「文底の義」を知った立場で法華経を読めば、末法弘通の要法が説かれていることが明白になるということである。
迦葉・阿難・竜樹・天親また天台大師や伝教大師などの正像正師達も仏法の極理を究め、この文底秘沈の大法を知っていたが、まだ弘めるべき時ではなかったので「論釈等に載せざること明明なり」と述べられるように、明らかに論ずることはしなかったのである。「生知」生まれつき知っている聖人は「自ら知る」ことができるが、賢人は「明師に値遇して」それを学び、信ずるしかない、と述べられている。いうまでもなく、末法において「生知」とは大聖人である。
しかし、末法の衆生は「罪根深重の輩」が多く、容易に正法を信じようとしないが、少しでも耳を傾けて聞く意思があればこれを説こうと述べられている。
大集経の五十一に大覚世尊・月蔵菩薩に語つて云く「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固・次の五百年は禅定堅固、已上一千年次の五百年は読誦多聞堅固・次の五百年は多造塔寺堅固已上二千年次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」等云云、今末法に入つて二百二十余年・我法中闘諍言訟・白法隠没の時に相当れり、法華経の第七薬王品に教主釈尊・多宝仏と共に宿王華菩薩に語つて云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむこと無けん」 大集経の文を以て之を案ずるに前四箇度の五百年は仏の記文の如く既に符合せしめ了んぬ、第五の五百歳の一事豈唐捐ならん
法華経の肝要の法が広まるのは、大集経の五箇の五百歳のうち第五の五百歳、すなわち末法であることを示されている。
大集経の文によれば、釈尊滅後の教法流布の次第は、
第一の五百年 「解脱堅固」
第二の五百年 「禅定堅固」
第三の五百年 「読誦多聞堅固」
第四の五百年 「多造塔寺堅固」
第五の五百歳 「闘諍堅固」
とされている。
日蓮大聖人の当時すでに末法に入って220余年であり、大集経で説かれた「我が法の中において闘諍言訴訟して白法穏没せん」という時代にあたっていることは、衆目の一致するところであった。このように大集経で白法が穏没するとされている第五の五百歳に、法華経薬王品本事品では「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」すべき時代とされているのである。
大集経で釈尊の仏法が隠没するとされている第五の五百歳の時に法華経の要法が広宣流布するのである。
随つて当世の体為る大日本国と大蒙古国と闘諍合戦す第五の五百に相当れるか、彼の大集経の文を以て此の法華経の文を惟うに後五百歳中広宣流布・於閻浮提の鳳詔・豈扶桑国に非ずや
当時の世相を見ると、蒙古による前代未聞の戦争の危機にさらされている日本こそ闘諍堅固の説相に符合しており、この日本が末法の大法が出現すべき国であることを示されるのである。
もとより、蒙古による戦乱にみまわれた国は日本にかぎらない。しかし、大乗仏教が流布した国で、この大闘諍に襲われ、人々が更に偉大な仏法を求めざるにえない状況になっている国は、日本において他にないのである。この大闘諍大法出現の関係については、観心本尊抄のなかにも拝される。すなわち、大聖人は伝教大師の文を引いて「『代を語れば像の終末の初・地を尋れば唐の東・羯の西・人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良とに以有るなり』此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0506-06)と仰せられている。
また、撰時抄にも、大闘争のゆえに人々が正法を求めるようになるであろうと、次のように述べられている。
「第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、 一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259-06)。
更に、この日本こそ法華経有縁の国であることを明示するために、弥勒菩薩の瑜伽論、肇公の翻経の記にある須利耶蘇摩の言葉を挙げ、更に伝教大師の「唐の東・羯の西」の文を引用されるのである。
弥勒菩薩の瑜伽論に云く「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」云云、慈氏菩薩仏の滅後九百年に相当つて無著菩薩の請に赴いて中印度に来下して瑜伽論を演説す、是れ或は権機に随い或は付属に順い或は時に依つて権経を弘通す、然りと雖も法華経の涌出品の時・地涌の菩薩を見て近成を疑うの間仏・請に赴いて寿量品を演説し分別功徳品に至つて地涌の菩薩を勧奨して云く「悪世末法の時能く是の経を持たん者」と、弥勒菩薩自身の付属に非ざれば之を弘めずと雖も親り霊山会上に於て悪世末法時の金言を聴聞せし故に瑜伽論を説くの時末法に日本国に於て地涌の菩薩法華経の肝心を流布せしむ可きの由兼ねて之を示すなり、肇公の翻経の記に云く「大師須梨耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏日西に入つて遺耀将に東に及ばんとす此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」云云、予此の記の文を拝見して両眼滝の如く一身悦びをアマネくす、「此の経典東北に縁有り」云云西天の月支国は未申の方・東方の日本国は丑寅の方なり、天竺に於て東北に縁有りとは豈日本国に非ずや、遵式の筆に云く「始め西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」云云、正像二千年には西より東に流る暮月の西空より始まるが如し末法五百年には東より西に入る朝日の東天より出ずるに似たり、根本大師の記に云く「代を語れば則ち像の終り末の初・地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に以有るが故に」云云、又云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり何を以て知る事を得ん安楽行品に云く末世法滅の時なり」云云・此の釈は語美しく心隠れたり、読まん人之を解し難きか、伝教大師の語は我が時に似て心は末法を楽いたもうなり、大師出現の時は仏の滅後一千八百余年なり、大集経の文を以て之を勘うるに大師存生の時は第四の多造塔寺堅固の時に相当る全く第五闘諍堅固の時に非ず、而るに余処の釈に末法太有近の言は有り定めて知んぬ闘諍堅固の筆は我が時を指すに非ざるなり。予倩事の情を案ずるに大師薬王菩薩として霊山会上に侍して仏・上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したもう故に粗之を喩すか
瑜伽論とは、瑜伽師地論の略で、弥勒菩薩が無著の請いに応じて説いたとされており、瑜伽唯識という権大乗の法門が明かされている。そのなかに「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」という文があり、その意義を大聖人は「末法に日本国に於て地涌の菩薩法華経の肝心を流布せしむ可きの由兼ねて之を示すなり」と述べられ、東方の小国である日本に、末法の大白法である法華経の肝心、すなわち南無妙法蓮華経が弘通されることを予言した文とされている。
弥勒菩薩は、法華経の会座に列なっており、涌出品のときに地涌の菩薩の出現を眼前に見て疑いを起こし、一会の大衆を代表して「世尊、如来太子たりし時、釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を定ずることを得たまえり。是れより已来、始めて四十余年を過ぎたり。世尊、云何ぞ此の少時に於いて、大いに仏事を作したまえる…世尊。此の如き事は、世の信じ難き所なり…願わくは為に解説して、我等が疑を除きたまえ」と質問しており、それにこたえて釈尊は寿量品を説法したのである。
更に釈尊は、分別功徳品で地涌の菩薩に対して「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」と末法の弘通を勧めており、更に神力品で地涌の菩薩に付嘱して末法の弘通を託した。弥勒菩薩自身は付嘱を受けていないために弘通することはできないが、地涌の菩薩が大白法を弘通することを知っているため瑜伽論を説いたときにそのような言葉を残したのである、と述べられている。
大聖人御在世当時は、瑜伽唯識の祖と弥勒の法華経説法の座にいた弥勒と同一視があったのでこのように仰せられていると思われるが、ともに後世に正法弘通をたのんでいることは共通している。
次に、中国に法華経を伝え、翻訳した鳩摩羅什の高弟の一人、僧肇が著した法華翻経後記の文を引かれている。
翻経の後記とは羅什の法華経翻訳のあとがきの形をとって、それ以前にも訳出された正法華経などの違いや提婆達多品が加わって28品になっている理由などが書かれたもので、そのなかに「大師須梨耶蘇摩…仏日西に入つて遺耀将に東に及ばんとす此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」という文がある。これは鳩摩羅什がその師須梨耶蘇摩から法華経を授けられたときの話を記したものである。
大聖人は、この記文を拝見して両眼が涙にあふれ、喜びが一身に満ちたといわれ、そのわけは日本がインドからちょうど東北にあたるからである、と述べられている。
更に遵式の「始め西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」文を引かれている。この文は、中国で散失した南岳大師の著・大乗止観法門4巻を日本天台宗の僧・寂照が再び伝えた時に、中国宋代の天台僧・遵式が書いた序のなかにある。
この文にある「西」とは中国を意味し、西においてこの本が著されたのは月が西天に現われたようなものであり、大乗止観法門が「東」の日本から返ってきたのは日が東天から昇るようなものである、という意を示している。
しかし、大聖人はこの文を、正像2000年の間には釈尊一代の仏教が西のインドに生じて中国から日本へと伝わり、そして末法の初めには日蓮大聖人の仏法が東土の日本に生じて西に返っていく、との意で用いられている。
更に、伝教大師の法華秀句と守護国界章の文を引かれている。
法華秀句にある「唐の東」とは中国の東方をさし「羯の西」とある羯とは靺輵のことで、中国東北部の松花江流域に住んでいた一種族を隋・唐代に中国でそう呼んだのであり、唐の東羯の西とは日本をさしている。
守護国界章の文は、正法・像法はほとんど過ぎ終わって、末法がはなはだ近くなっている。法華一乗の法が広まるべき時であると述べている。
伝教大師の時代は仏滅後1800余年で、像法の末にあたる。したがって、守護章で「末法太だ近きに有り」といい、法華秀句で「五濁の生・闘諍の時なり」といっているのは、伝教大師自身の時をさしているのではなく、末法の始めをさしていることが明らかである。
伝教大師は天台大師の後身といわれ、天台大師は薬王菩薩の再誕とされている。薬王菩薩は、法華経の会座に列なり末法の法華経弘通の使命は上行菩薩に付嘱されたことを知っていたので、末法の時を慕い、あらあら記しておいたのである、と述べられている。
而るに予地涌の一分に非ざれども兼ねて此の事を知る故に地涌の大士に前立ちて粗五字を示す例せば西王母の先相には青鳥・客人の来るにはカン鵲の如し
ここで大聖人は御自身の立場を「地涌の一分に非ざれども」と述べられているのは謙遜されてのことであることはいうまでもない。
日蓮大聖人自身が、法華経神力品において結要付嘱を受けた上行菩薩の再誕であると言われれば、多くの門下がかえって疑いを起こさせ、不信を招く結果となるため、このように遠回しに述べられているのである。
しかし、法華経の肝心である妙法蓮華経の五字七字を末法に顕して弘通される方は、地涌の菩薩の上首・上行菩薩よりほかにおられるはずは絶対にないのであり、現実に一代聖教の肝要である妙法蓮華経の大法を弘通されていることは、大聖人こそ上行の再誕であり、その内証の辺は、末法の御本仏であられることが明々白々であるといわなければならない。
1038:13~1039:01 第19章 聖教の収集を依頼されるtop
| 13 此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教 14 を安置し八宗の章疏を習学すべし然れば則ち予所持の聖教 ・多多之有り、然りと雖も両度の御勘気・衆度の大難の 15 時は或は一巻二巻散失し 或は一字二字脱落し或は魚魯の謬ゴ或は一部二部損朽す、 若し黙止して一期を過ぐるの 16 後には弟子等定んで謬乱出来の基なり、 爰を以つて愚身老耄已前に 之を糾調せんと欲す、 而るに風聞の如くん 17 ば貴辺並びに大田金吾殿・ 越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の聖教あり等云云、 両人共に大檀那為り所 18 願を成ぜしめたまえ、涅槃経に云く 「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて 仏法久住 1039 01 せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。 -----― この大法を弘通するには必ず一代の聖教を手元に置いて八宗の章釈を習学すべきである。されば日蓮の所持する聖教も多くあったが、二度の御勘気やたびたびの大難によって一巻二巻を散失したり、一字二字を脱落したり、文字を写し間違えたり、一部や二部を破損したのである。 もしこのままにして一生を過ごしたならば、弟子等の間に誤りの生ずる基となるであろう。そこで、日蓮の老いる前にこれを調べ、糾しておきたいと思うのである。 聞くところによれば、貴殿と大田金吾殿の越中の所領内、近在の寺々に多くの聖教があるということである。二人はともに日蓮の大檀那であるから日蓮の願いを満足せしめられたい。涅槃経には「内には智慧の弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」と説かれている。天台大師は毛喜等に語って味方にし、伝教大師は大友国道・和気弘世等をたのまれたのである。 |
一代の聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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章疏
注釈書。章は編章を分けて教義を論じたものをいい、疏とは経・律・論の文句を注釈すること、または注釈したものをいう。
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両度の御勘気
①伊豆流罪。弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。
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衆度の大難
日蓮大聖人がお受けになられた数々の大難。①松葉ケ谷の法難、立宗宣言後の文応元年(1260年)の秋、鎌倉に移られた日蓮大聖人が、名越に構えられた草庵で念仏者らに襲われた法難のこと。草庵があった地は松葉ケ谷と伝承される(現在、松葉ケ谷の地名はない)。文応元年7月16日、大聖人は宿屋入道を仲介として、念仏などの謗法の諸宗を捨て正法に帰依するように勧めた「立正安国論」を北条時頼に提出し、第1回の国主諫暁を行われた。しかし、このことが幕府の権力者たちの怒りにふれ、念仏者をはじめ諸宗の僧らも大聖人に恨みを抱いた。その後間もなく、念仏を信仰していた北条重時ら権力者を後ろ楯とした念仏者らが、深夜に大聖人の草庵を襲撃した。大聖人はこの難を逃れ、一時、鎌倉を離れられたが、ほどなく鎌倉に戻られた。翌・弘長元年(1261年)5月12日、重時の息子で執権であった長時は、大聖人を無実の罪で伊豆へ流刑に処すなど、さまざまな迫害を加えていった。②伊豆流罪、弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。③小松原法難、文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。④竜口法難および佐渡流罪、文永8年(1271年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、謗法を禁じ正法を用いなければ「立正安国論」で予言したように自界叛逆難・他国侵逼難が起こると再度、警告された。これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守兼佐渡国の守護であった北条宣時の邸宅に勾留された。ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。しかし突如、光り物が出現し、その試みは失敗した。この斬首の謀略は、大聖人を迫害する一派が、正式な処分が決定する前に護送中の事故に見せかけて、暗殺を図ったものと推定される。大聖人は、竜の口でのこの暗殺未遂によって、末法の凡夫(普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹)を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初の自受用身という本地)を顕されたのである。この御振る舞いを「発迹顕本」と拝する。この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた本間重連の依智(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。⑤その他。
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魚魯の謬悞
似ている文字を間違えること。
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損朽
古くなって傷んでいること。
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老耄
おいぼれること。またその人。
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糾調
誤りを明らかにただし、その不完全なところを補い調えて、正義を宣揚すること。
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風聞
ほのかに聞くこと。うわさ。
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大田金吾
日蓮大聖人御在世当時の信者。太田五郎左衛門尉乗明のこと。太田乗明、太田金吾、太田左衛門尉ともいう。鎌倉幕府の問注所の役人で富木常忍に折伏されたといわれる。下総国葛飾郡(千葉県市川市)の中山に住し、富木や曽谷氏らとともに大聖人の外護に努めた。三大秘法抄、転重軽受法門など多数の御書をいただいている。
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越中
北陸道7か国の一。現在の富山県にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのなか。
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所領
領する所の意味で、土地・領地のこと。
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大檀那
寺や僧に布施をする在家の代表的な信者。
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毛喜
中国・南北朝時代の陳の大臣。幼少から学問を好み、尚書となって宣帝・後主に仕え重用された。
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国道
(0758~0825)大伴の国道のこと。奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。遣唐副使大伴古麿の曾孫。
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弘世
生没年不明。和気広世のこと。奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。和気清麻呂の長男で、真綱の兄。医学に通じて典薬頭となり、大学別当に任じられた。また、大学寮の南に弘文院を設置し、師弟の教育に尽くした。弟の真綱とともに神護寺を建立、また伝教大師の天台宗開創に寄与した。
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曾谷氏に対して、大田乗明とともに仏典収集にあたるよう依頼されている。
此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし
末法に法華経の肝要である大法を弘通するためには、必ず釈尊一代の聖教を安置し、八宗の章疏を修学すべきである、と述べられている。
なぜ、法華経を弘通するためには一代聖教を安置しなければならないのかというと、弘めるのは法華経であっても、仏の経説の異同を分類する「教相」を明らかにしなかったならば、法華経の「意義」を明らかにすることができないからである。一代聖教における諸経と法華経の関係を明らかにすることによって、釈尊一代の化導の意義が明らかとなり、一切衆生の即身成仏の大法は法華経にあることが明確となるのである。
また八宗の章疏を修学するのは、正法を弘めていくためには諸宗の謬義を破折していかなければならない。内容を知らずして破折することは不可能だからである。
然れば則ち予所持の聖教・多多之有り、然りと雖も両度の御勘気・衆度の大難の時は或は一巻二巻散失し或は一字二字脱落し或は魚魯の謬ゴ或は一部二部損朽す、 若し黙止して一期を過ぐるの後には弟子等定んで謬乱出来の基なり、爰を以つて愚身老耄已前に之を糾調せんと欲す、而るに風聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ、涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む
大聖人は、御自身が所持されていた聖教が、伊豆・佐渡の流罪の折や、たびたびの大難の際に散失したり、損朽したりしてしまったこと、また残っているものにも、写本の脱落や誤りが多いことなどを挙げられ、後の弟子のために聖教を集めておかなければならないと考えられ、曾谷・大田の越中の所領内や近辺の寺々にある聖教を領主の立場で集めて身延へ送るよう依頼されているのである。
大聖人が聖教の収集を依頼されたのは、本抄を著される前年の文永11年(1274)5月に身延へ入られており、その目的の一つは令法久住のために弟子を養成されることにあったので、弟子達のために聖教を集め、後代にわたる教学修得の基盤を築いておきたい、とのお考えによるものであったと拝される。
そして、曾谷教信に大田乗明と協力して、聖教収集の願いをかなえてくれるよう求められている。
更に仏法久住のためには「智慧の弟子」とともに、それを外護する「清浄の壇越」がなくてはならないとの涅槃経の文を引かれ、その具体的な事実として、天台大師と伝教大師の例を引かれている。
天台大師を助けた毛喜とは、中国・南北朝時代の陳の国の尚書で、宣帝・後主に仕えて重用され、天台に深く帰依したという。
伝教大師を外護した国道弘世とは、大伴国道と和気弘世のことで、国道は参議・右大弁となり、弘世は和気清麻呂の長子で典薬頭、大学別当に任じられている。弘世は延暦11年(0802)に勅により弟の真綱とともに南都六宗の碩学14人を高雄山に集め、伝教大師を講師として法華会を開き、後に天台宗の開宗を助けている。
そうした例を引かれて曾谷教信に、大聖人を外護する檀那としての自覚を促されているのである。
1039:02~1039:14 第20章 正法受持と誹謗の現証を明かすtop
| 02 仁王経に云く「千里の内をして七難起らざらしむ」云云、 法華経に云く「百由旬の内に諸の衰患無からしむ」 03 云云、国主正法を弘通すれば必ず此の徳を備う臣民等此の法を守護せんに 豈家内の大難を払わざらんや、 又法華 04 経の第八に云く「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」 又云く「当に今世に於て現の果報を得べし」 云 05 云、 又云く「此の人は現世に白癩の病いを得ん」又云く 「頭破れて七分と作らん」又第二巻に云く 「経を読誦 06 し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん 乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云、 第五の巻 07 に云く「若し人悪み罵らば口則ち閉塞せん」云云、 伝教大師の云く「讃する者は福を安明に積み 謗ずる者は罪を 08 無間に開く」等云云、 安明とは須弥山の名なり、 無間とは阿鼻の別名なり、国主持者を誹謗せば位を失い臣民行 09 者を毀呰すれば身を喪す一国を挙りて用いざれば 定めて自反他逼出来せしむべきなり、 又上品の行者は大の七難 10 中品の行者は二十九難の内・下品の行者は無量の難の随一なり、 又大の七難に於て七人有り第一は日月の難なり第 11 一の内に又五の大難有り 所謂日月度を失し時節反逆し或は赤日出で 或は黒日出で二三四五の日出ず 或は日蝕し 12 て光無く 或は日輪一重二三四五重輪現ぜん、 又経に云く「二の月並び出でん」と、 今此の国土に有らざるは二 13 の日・二の月等の大難なり余の難は大体之有り、今此の亀鏡を以て日本国を浮べ見るに必ず法華経の大行者有るか、 14 既に之を謗る者に大罰有り之を信ずる者何ぞ大福無からん。 -----― 仁王経には「千里の内をして七難起らざらしむ」と説かれ、法華経陀羅尼品第二十六には「百由旬の内に、諸の衰患無からしめん」と説かれている。国主が正法を弘通すれば必ずこの功徳を備えるのである。臣民がこの法を守護して、どうして家内の大難をはらわないことがあろうか。 また法華経の第八の巻普賢菩薩勧初品第二十八に「所願虚しからじ。亦現世に於いて、其の福報を得ん」と、また同じ普賢菩薩勧初品第二十八に「当に今世に於いて現の果報を得べし」と、また同じ普賢菩薩勧初品第二十八に「此の人は現世に白癩の病いを得ん」と、また陀羅尼品に「頭破れて七分と作ること」とまた第二の巻譬喩品第三に「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん(乃至)其の人命終して阿鼻獄に入らん」と、また第五の巻安楽行品第十四に「若し人悪み罵らば口則ち閉塞せん」と説かれている。 また、伝教大師は依慿集で「讃する者は福を安明に積み謗ずる者は罪を無間に開く」等と言っている。ここにゆう安明とは須弥山のことである。「無間」とは阿鼻地獄の別名である。国主が正法の持者を誹謗するならばその位を失い、臣民が法華経の行者を毀呰するならば身を滅ぼすであろう。一国がこぞって法華経の行者を用いなければ、必ず自界叛逆難・他国侵逼難が起こるであろう。 また上品の行者を謗る者には大の七難・中品の行者を謗れば二十九難のうちの一つ、下品の行者を謗った場合は無量の難のうちの一つがおきてくるであろう。大の七難が起きるのは七人の行者がいるのである。その七難の第一は日月失度難である。第一の難のなかにまた五つの難がある。仁王経に「日月度を失し時節反逆し、或は赤日出で、或は黒日出で、二三四五の日出づ、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」と説かれているとおりである。また経に「二の月並び出でん」と説かれている。 今、この国土に起きていないものは二の日・二の月等の大難である。それ以外の難はだいたい出現している。今、この亀鏡に日本国の姿を浮かべて見るのに、必ず法華経の大行者が出現しているであろう。すでに、法華経の行者を謗る者に大罰があるのである。どうして信ずる者に大福がないことがあろうか。 |
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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衰患
衰え患うこと。七難など衆生を衰え患わせる災害・災難のこと。
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軽賎憎嫉
軽蔑し、賤しみ、憎み、やきもちをやくこと。
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結恨
恨みを結ぶこと。結んで解けないようなうらみを生ずること。
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安明
須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。
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毀呰
そしりとがめること。
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自反他逼
自界叛逆難と他国侵逼難。内乱・戦争のこと。
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上品
衆生の機根・理解する能力を三つに分け、優れていること。
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中品
衆生の機根・理解する能力を三つに分け、普通であること。
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二十九難
仁王経に説かれる七難を伝教大師が細分化したもの。①日月失度難、1失度2顔色改変3日体増多4日月薄蝕5重輪。②星宿失度難、6失度7彗星8五星9昼出。③災火難、10竜火11鬼火12人火13樹火14大火四起。④雨水難、15時候変革16冬夏雨雪17雨土石山18非時降雹19雨水変色20江河汎漲。⑤悪風難、21昏蔽日月22発夜抜樹23飛沙走石。⑥亢陽難、24被地竭涸25草木枯死26百穀不成。⑦悪賊難27侵国内外28兵戈競起29百姓喪亡。
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下品
衆生の機根・理解する能力を三つに分け、劣っていること。
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無量の難
伝教大師は仁王経の七難を細分化し29としたが、さらに細分化し無量難としている。
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第一の内に又五の大難有り
伝教大師は仁王経の七難を細分化し29とした中の第一、日月失度難のなかの五難。1失度2顔色改変3日体増多4日月薄蝕5重輪難をいう。
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亀鏡
①亀鑑と同じ。亀の甲は吉凶を占うために用いられ、鏡はものの姿を映すもので、合わせて模範・手本の意味となる。昔、中国では、亀の甲を焼いて、その割れ方によって吉凶を占ったことから、「鏡」は物事を照らして是非をわきまえることから、手本を意味する。仏の経文を指して、このようにいう。②一切の規範の根本は仏説であるから、仏の教え、仏意に反しない人師・論師の教説。
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末法において正法を信受するとどのような功徳を得ることができるのか、逆に正法を謗るとどのような現証がえられるのかということを、法華経並びに諸経の文を引いて示されている。
初めに仁王経受持品を引かれている。「若し王行かん時は、常に其の前の一百歩の足に於いて、是の経は常に千の光明を放ち、千里の内をして七難起こざらしむ」とある文で、正法を受持する帝王は、その治めている国土のうちに、絶対に七つの難が起きないと説かれているのである。
仁王経は、正法を謗ずることによって七種の災難が起きるとされている。すなわち、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・ 悪風難・亢陽難・悪賊難の七つをいう。
逆に、正法を受持するならばこの七難は絶対に起こらないのである。すなわち、正法を誹謗すれば七難を招き、正法を受持すれば七難から守られるのであり、信謗による現証の表裏の関係にあるといえる。
次に法華経陀羅尼品第26の「我亦自に当に、世の経を持たん者を擁護して、百由旬の内に諸の衰患無からしむべし」の文を引かれている。
百由旬とは距離を表し、一由旬とは帝王が行軍する一日の距離とされており、中国の里程では60里とも50里とも40里ともいわれる。
中国では古くは一里を六町としたが、日本では一里は36町なので、一由旬を60里とすると、日本の里程では10里となり、百由旬は1000里・3600kmになる。
したがって、正法を持つ者は守られて千里四方の衆生を衰え患わせる災害や災難が起きることはない、という意になる。
この二文は国主が正法を護っている場合の功徳を示したものであるが、一人一人の民衆が正法を守護していけば、家の内から災厄をなくしていくことができるということでもある。
次に法華経普賢菩薩勧発品第28の「若し後の世に説いて、是の教典を受持し、読誦せん者は、是の人復、衣服、臥具、飲食、資生の者に貧著せじ、所願虚しかじ。亦現世に於いて、其の福報を得ん」の文と、それに続く「若し之を供養し、讃歎すること有らん者は、「当に今世に於いて、現の果報を得べし」の文を引かれている。
この文は、法華経を信ずる人は、その願いが必ず成就し、現世においてその福報を得ることができると明かされており、更に重ねて現世の果報が厳然とあらわれることを示しているのである。
次に、逆に法華経を信ぜず、法華経並びに法華経を信ずる人を誹謗する者には、必ず罰の現証が現れ、不幸の相をしめすことを明かした文として法華経普賢菩薩勧発品第28の「若し復是の教典を受持せん者を見て、その過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」の文と、陀羅尼品第26の「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作すること、阿梨樹の如くならん」、更に法華経譬喩品第3の「若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き教典を、誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤増嫉して、結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の文、法華経安楽行品第14の「是の経を読まん者は、常に憂脳無く、又病痛無く、顔色鮮白ならん。貧窮、卑賤、醜陋に生れじ。衆生見んと楽うこと、賢聖を慕うが如くならん。天の諸の童子、以って給使を為す。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ。若し人悪み罵らば、口則ち閉塞せん」とある文を引かれている。
以上の功徳・罰の両方が厳然としてあることを示した文として、伝教大師の依馮天台義集の文を引かれているのである。
国主持者を誹謗せば位を失い臣民行者を毀呰すれば身を喪す一国を挙りて用いざれば 定めて自反他逼出来せしむべきなり、又上品の行者は大の七難中品の行者は二十九難の内・下品の行者は無量の難の随一なり、又大の七難に於て七人有り第一は日月の難なり第一の内に又五の大難有り所謂日月度を失し時節反逆し或は赤日出で或は黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん、又経に云く「二の月並び出でん」と、今此の国土に有らざるは二の日・二の月等の大難なり余の難は大体之有り、今此の亀鏡を以て日本国を浮べ見るに必ず法華経の大行者有るか、既に之を謗る者に大罰有り之を信ずる者何ぞ大福無からん
法華経の「持者」を誹謗するのが国主である場合は、その位を失うことになり「臣民」である場合は、我が身を滅ぼすことになり、一国を挙げてこの正しい法華経の行者を用いなければ、自界叛逆難・内乱と、他国侵逼難・他国からの攻め、という大難が起こるであろう、と述べられている。
また、誹謗され迫害される法華経の行者の立場によって、罰のあらわれ方にも差異がある。「上品の行者」の場合は「七難」が並び起こり、「中品の行者」の場合は「二十九難の内」のどれかが起こる。また「下品の行者」を謗った場合は無量の難のなかの一つがおこるのである。
このうち「二十九難」というのは、仁王経の七難を伝教大師が顕戒論のなかでさらに細かく分けて二十九種の難に細分したものをいう。日月失度難に五難・星宿失度難に四難・諸火焚焼難に五難・時節叛逆難に六難・大風数起難に三難・天地亢陽難に三難・四方賊来難難に三難があり、合わせて二十九難となる。
下品の場合の無量の難のうちの一つというのは「大の七難」や「二十九難に比べるとはるかに小難となる。
「又大の七難に於いて七人有り」とは、七人の勝れた行者を謗った時に、七難が次第にに競い起ってくるということである、と仰せである。
そして、七難の第一である日月難のうちにまた、
①日月度を失い時節返逆し(日月失度難)
②或は赤日出で黒日出で(顔色改変難)
③二三四五の日出で(日体増多難)
④或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)
⑤或は日輪一重.二三四五重輪現ぜん(重輪難)
の五難がある。立正安国論には「日月度を失い.時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり」(0019-13)とある。
このうち「二の日」「二の月」が並び出るという難はまだ現われていないけれども、その他の難はほとんど現われている、と述べられ、その結論として、これらの経文を明鏡として日本国の相を照らしだしてみるならば、この「法華経の大行者」が出現していなければ、これほどの大難があるはずがないので、必ず「法華経の大行者」が出現しているはずである、と述べられている。まさしく大聖人御自身のことを示されているのである。
法華経を身読されて大難を忍ばれながら法華経の肝心たる妙法蓮華経を弘通された「法華経の大行者」たる大聖人を誹謗したからこそ、未曽有の三災七難が起きたのである。
そして「法華経の大行者」を謗った日本国の人々に七難が並び起こるという大罰があったということは、逆に正法を信じ、大聖人の教えのままに実践する者は「大福」がないわけがない、と述べられ、大聖人の仏法を正しく信ずる曾谷教信の一層の信心を励まされている。
1039:15~1040:05 第21章 二人の信心を励まして結ぶtop
| 15 今両人微力を励まし予が願に力を副え仏の金言を試みよ 経文の如く之を行ぜんに徴無くんば釈尊正直の経文・ 16 多宝証明の誠言・十方分身の諸仏の舌相・有言無実と為らんか、 提婆の大妄語に過ぎ瞿伽利の大誑言に超えたらん 17 日月地に落ち 大地反覆し天を仰いで声を発し地に臥して胸を押う 殷の湯王の玉体を薪に積み戒日大王の竜顔を火 18 に入れしも今此の時に当るか、 若し此の書を見聞して宿習有らば其の心を発得すべし、 使者に此の書を持たしめ 1040 01 早早北国に差し遣し 金吾殿の返報を取りて速速是非を聞かしめよ、 此の願若し成ぜば崑崙山の玉鮮かに求めずし 02 て蔵に収まり大海の宝珠招かざるに掌に在らん、恐惶謹言。 03 下春十日 日 蓮 花 押 04 曾谷入道殿 05 大田金吾殿 -----― 今、二人が互いに両励まし、日蓮の願いに力をそえて仏の金言を試みられよ。 経文のごとくい修行して徴がなければ、釈尊の「正直捨方便」の文も、多宝仏が「皆是れ真実なり」と証明の誠言も、十方分身の諸仏が舌を梵天に付けた証明も、ただ言葉があって実がないことになるであろう。それは、提婆達多の大妄語にも過ぎ、瞿伽利の大誑言にも超えたものとなろう。日月は地に落ちて大地は覆るようなものであり。天を仰いで声を発し、地に臥しては胸を押さえる思いである。 今、日本国は、例えば、殷の湯王が身体を薪に積んで雨を祈り、戒日王が顔を火に入れて、火災の消えることを祈った時のようなものである。 もし、この書を見聞して、宿習があるならば、必ずその心を発しなさい。 使いの者にこの書を持たせて早々に北国に差し遣わし、大田金吾殿の返事を聞いて、速やかに是非をしらせていただきたい。この願いがもし成就するならば、崑崙山の鮮やかな珠が求めずして我が蔵に収まり、大海の宝珠が招かずして我が掌中にすることができるようなものである。恐惶謹言。 下春十日 日 蓮 花 押 曾谷入道殿 大田金吾殿 |
殷の湯王
中国,殷王朝初代の王。前 18世紀頃の人。『史記』によれば,始祖契 から第 14世にあたる。甲骨文では唐または大乙などと呼ばれる。文献では天乙あるいは成湯という。亳におり,伊尹を宰相とし,周囲の諸侯を合せ,ついに夏を倒して殷を開いたとされる。古文献は,多く明哲王としてその徳をたたえている。
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玉体
玉のように気高く美しい体。①美人の体。②天皇・天子の体。③他人の体の尊敬。
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戒日大王
(0590~ 647)は、古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王。シーラーディトヤ(Siilāditya)と号した。グプタ朝滅亡後の混乱のうちにあった北インドを統一した文武両面に秀でた名君のひとり。この王の在位中に玄奘三蔵が入竺している。
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竜顔
帝王・天子・国王の顔の尊称。竜は中国で神霊化された想像上の動物で、雲を起こし雨を降らせるとされた。この竜の威力・権威を天子に関する事柄に冠したもの。
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発得
智慧などを我が身に引き起こし。体得・会得すること。
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崑崙山
崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈。中国では古くから美玉を産する山として有名。
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大海の宝珠
法華経提婆達多品第12に出てくる。竜王の八歳の娘が価直三千大千世界の宝珠を海中の竜宮から持参して、釈尊に捧げたこと。
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本抄の最後にあたって、曾谷・大田の二人に対して、再び聖教の収集を依頼され、正法外護の功徳を実証するよう励まされ、本抄を結ばれている。
令法久住への大聖人の発願に協力することは偉大な仏法の貢献であり、そこには絶大な功徳があると断言され、もし、そのとおりでならなければ、法華経のすべてが虚妄になるまでと言い切られている。
すなわち、功徳の実証が現われないとするならば、それは釈尊が法華経の方便品第2に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説いた。「正直の経文」が虚妄になり、法華経の見宝搭品第11で多宝仏が「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」と証明した言葉も虚妄となり、法華経の如来神力品第21で10方分身の諸仏が広長舌を梵天に至らせて法華経の真実を証明したことも述べられている。
もしそうなれば、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸の三仏がそろってウソつきになったとすれば、それは日月が地に落ち大地が引っくり返るようなもので、これ以上の嘘つきはない。そうならないためにも殷の湯王が玉体を薪に積み戒日王が身を炎の中に入れたように、五体をなげうって、仏法のため、初願成就のために尽くすべき時であると決意を促されている。
湯王とは中国・夏王朝最後の桀王朝を聞いた王で、名臣・伊尹を用いて治政の業績を上げ、高徳と仰がれたという。
暴虐の桀王を討って殷の国を立てた湯王が即位して7年目に大旱魃が起き、人々が難渋しているときに火災が起きた。湯王は“もし自分に国王としての福徳があるなら、自分は火災の中に入るので、人々を旱魃から救いたまえ”と誓願して火の中に入ったところ、不思議にも身が焼けずに雨が降って火が消え、旱魃が治まった、と伝えられている。
戒日大王とは、7世紀の初めに曲女城を都として中インドを支配した王で、仏教を信じて多くの寺塔を建立して慈悲の政治を行った。あるとき、仏教の大伽藍を都に造営中、火災が起こって、伽藍が炎上しはじめたという。そのとき、戒日王は自らの福徳を信じて我が身を火中に投じ、火の消えることを祈ったところ、その誓願によって火が消えた、という伝説がある。湯王と戒日王の事例を挙げられたのは、王が火災の中に我が身を投じた時と同じように、今は重大な時であり、一身をなげうって事に取り組むべきことを示されているのである。
若し此の書を見聞して宿習有らば其の心を発得すべし、使者に此の書を持たしめ早早北国に差し遣し 金吾殿の返報を取りて速速是非を聞かしめよ、此の願若し成ぜば崑崙山の玉鮮かに求めずして蔵に収まり大海の宝珠招かざるに掌に在らん
最後に、二人が本抄を見聞して、過去において法華経を聞いた宿習があるならば、この正法への信心を起こして聖教収集の願いを立てるべきであると述べられ、北国の領地にいる大田殿へ本抄を持たせた使者を遣わして、領内の聖教を収集できるかどうかの返事をもらって知らせるよう、重ねて依頼されている。
そして、もし聖教収集の願いが成就するなら、崑崙山にある明玉が求めずに蔵に収まるような功徳があり、大海中にある竜王の如意宝珠が招かないのに掌に乗るようなものである、とその意義の大きなことを示されて、本抄を結ばれている。