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日蓮大聖人御書講義231125~1162

1125~1132    呵責謗法滅罪抄
  1125:01~1126:10 第一章 呵責謗法の意義を説く
  1126:11~1127:15 第二章 金吾夫妻の信心を称賛する
  1126:16~1128:05 第三章 本化付嘱を説く
  1128:06~1129:07 第四章 地涌の菩薩の出現を予告する
  1129:08~1129:16 第五章 御本仏の実践を示す
  1129:17~1131:03 第六章 御本仏の内証を明かす
  1131:04~1131:15 第七章 母への孝養を説く
  1131:16~1132:13 第八章 門下の信心を激励される
  1125~1132    呵責謗法滅罪抄 2015:02大白蓮華より先生の講義
1132~1133    主君耳入此法門免与同罪事(与同罪事)
  1132:01~1133:02 第一章 生命の尊厳を説く
  1133:02~1133:08 第二章 尊厳観の具体的原理を示す
  1133:09~1133:18 第三章 実践を喜び用心を促す
1134~1135    四条金吾殿女房御返事(夫婦同心御書)
  1134:01~1134:08 第一章 法華経の行者の立ち場を説く
  1134:08~1135:03 第二章 真実の女人成仏を明かす
  1135:04~1135:17 第三章 夫人の信心を激励する
1136~1136    四条金吾殿御返事(此経難持御書)
  1136~1136    四条金吾殿御返事(此経難持御書)2014:02大白蓮華より先生の講義
1137~1139    王舎城事
  1137:01~1137:08 第一章 火災の本因を説く
  1137:09~1137:13 第二章 両火房について述べる
  1137:14~1137:14 第三章 馬の事を話される
  1137:15~1138:01 第四章 名越尼について述べる
  1138:02~1388:07 第五章 夫人の信心を説く
  1138:07~1138:16 第六章 真実の孝養の道を示す
  1138:16~1139:03 第七章 御本仏の大慈悲を示す
1139~1139    四条金吾殿御返事(法論心得御書)
1140~1142    瑞相御書
  1140:01~1140:10 第一章 依正不二の原理を説く
  1140:10~1141:02 第二章 法華経の瑞相を明かす
  1141:02~1141:15 第三章 本門の瑞相を説く
  1141:15~1142:05 第四章 末法の大瑞の本質を明かす
  1142:05~1142:16 第五章 天変地夭の原因を説く
1143~1143    四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)
1144~1148    四条金吾釈迦仏供養事(釈迦仏開目供養事)
  1144:01~1144:06 第一章 法華経を持つ者は五眼を具す
  1144:07~1144:10 第二章 仏の徳を明かす
  1144:10~1144:14 第三章 真実の開眼供養を明かす
  1144:14~1145:10 第四章 仏像の真義を明かす
  1145:11~1146:07 第五章 日天子の利生を述べる
  1146:08~1146:16 第六章 孝養の志を讃む
  1146:17~1147:13 第七章 難の必然性を説く
  1147:14~1148:08 第八章 細心の用心を説く
1148~1150    四条金吾殿御返事(智人弘法抄)
  1148:01~1149:07 第一章 智人と檀那の関係を述べる
  1149:08~1149:18 第二章 末法の智人を明かす
  1149:18~1150:08 第三章 主君への返答を教示する
1150~1152    四条金吾殿御返事(八風抄)
  1150:01~1151:03 第一章 主君の大恩を述べる
  1151:03~1151:06 第二章 賢人の条件を示す
  1151:06~1151:16 第三章 師弟不二の祈りを説く
  1151:17~1152:16 第四章 真言の祈りを破す
  1150~1152    四条金吾殿御返事(八風抄)2013:10大白蓮華より先生の講義
1153~1162    頼基陳状
           はじめに
  1153:01~1153:10 第一章 桑ヶ谷問答の発端を述べる
  1153:11~1154:18 第二章 桑ヶ谷問答(1)諸宗の誤りを糺す
  1155:01~1156:10 第三章 桑ヶ谷問答(2)正師の実践を明かす
  1156:11~1157:05 第四章 桑ヶ谷問答(3)問答の終結
  1157:06~1167:15 第五章 良観房を破す
  1157:15~1159:01 第六章 良観房を重ねて破す
  1159:02~1159:06 第七章 竜象房について述べる
  1159:07~1159:17 第八章 主君を諌言する
  1159:18~1160:18 第九章 仏法の上から諌言する
  1161:01~1161:09 第十章 諌言を結す
  1161:10~1162:05 第11章 天変地夭の原因を明かす
  1162:06~1162:18 第12章 起請文の提出を拒む

1125~1132    呵責謗法滅罪抄top
1125:01~1126:10 第一章 呵責謗法の意義を説くtop
呵責謗法滅罪抄    文永十年    五十二歳御作
01   御文委く承り候、法華経の御ゆへに 已前に伊豆の国に流され候いしもかう申せば謙ぬ口と人は・おぼすべけれ
02 ども心ばかりは悦ば入つて候いき、 無始より已来法華経の御ゆへに実にても虚事にても科に当るならば争か・かか
03 る・つたなき凡夫とは生れ候べき、 一端は・わびしき様なれども法華経の御為なれば・うれしと思い候いしに少し
04 先生の罪は消えぬらんと思しかども無始より已来の十悪.四重・六重・八重・十重.五無間・誹謗正法・一闡提の種種
05 の重罪・大山より高く大海より深くこそ候らめ、五逆罪と申すは一逆を造る猶・一劫・無間の果を感ず。
-----―
 お手紙、詳しく承りました。法華経のゆえに已前、伊豆の国に流されたのも、このようにいえばへらぬ口をたたくと人は思うであろうけれども、心のなかでは悦びにひたっていたのである。
 無始から今に至るまで、法華経の信仰のために、真実にしても虚事にしても、罪を被ったことがあるならば、どうしてこのような拙い凡夫として生まれることがあろうか。
 したがって、流罪の身は、一端はわびしいようであるが、法華経のための受難であるから、嬉しいと思い、少しでも先生の罪が消えるであろうと思った。しかし、無始から今に至るまでの十悪、四重、六重、八重、十重、五無間、誹謗正法、一闡提の種々の重罪は、大山よりも高く、大海よりも深いのであろう。
 五逆罪というのは、そのうちの一逆罪を造る罪だけでも、なお一劫の間に無間の苦果を感ずる重罪である。
-----―
06   一劫と申すは人寿八万歳より百年に一を減し是くの如く乃至十歳に成りぬ、 又十歳より百年に一を加うれば次
07 第に増して八万歳になるを一劫と申す、 親を殺す者此程の無間地獄に堕ちて隙もなく大苦を受くるなり、 法華経
08 誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにもソシる程ならば 経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽し
09 めぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候、 不軽菩薩を罵打し人は始こそ・さありしかども
10 後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事・諸天の帝釈を敬ひ我等が日月を畏るるが如くせしかども 始めソシりし
1126
01 大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき。
-----―
 一劫というのは、人寿八万歳から百年ごとに一歳を減じ、このように減じていき十歳にまでなる。また、十歳から百年ごとに一歳を加えていくと次第に増して八万歳になる。その間を一劫という。親を殺す者は、これほど長い期間、無間地獄に堕ちて一瞬の休みもなく大苦を受けるのである。
 法華経を誹謗する者は、心では思っていなくても、顔、形に嫉みの色をあらわしたり、戯れにも訾ることがあれば、また経を嫉み訾るのではなくとも、法華経に名を寄せた人を軽蔑するならば、いま述べた一劫を重ねて無数劫の間、無間地獄に堕ちると経文には説かれている。
 不軽菩薩を罵り打った人は、始めこそそのように罵ったけれども、後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶこと、まさに諸天が帝釈を敬い、われらが太陽や月を畏敬するようであった。しかし、始めに訾つた大重罪は消えきれず、千劫の間、大阿鼻地獄に入って、二百億劫の間、仏法僧の三宝に見捨てられたのである。
-----―
02   五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、 謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事
03 なり、謗法の者は多くは無間地獄に生じ少しは六道に生を受く、 人間に生ずる時は貧窮・下賎等・白癩病等と見え
04 たり、日蓮は法華経の明鏡をもつて自身に引き向かへたるに都て・くもりなし、 過去の謗法の我が身にある事疑い
05 なし此の罪を今生に消さずば 未来争か地獄の苦をば免るべき、 過去遠遠の重罪をば何にしてか皆集めて今生に消
06 滅して未来の大苦を免れんと勘えしに当世・時に当つて謗法の人人・国国に充満せり、 其の上・国主既に第一の誹
07 謗の人たり、 此の時此の重罪を消さずば何の時をか期すべき、 日蓮が小身を日本国に打ち覆うてののしらば無量
08 無辺の邪法の四衆等・無量無辺の口を以て一時にソシるべし、 爾の時に国主は謗法の僧等が方人として日蓮を怨み
09 或は頚を刎ね或は流罪に行ふべし、 度度かかる事、出来せば無量劫の重罪・一生の内に消なんと謀てたる大術・少
10 も違ふ事なく・かかる身となれば所願も満足なるべし。
-----―
 五逆罪と謗法とを病に喩えるならば、五逆罪は霍乱のような病気で、急にその報いを得る。謗法は白癩病のようなもので、始めは緩かに、後に次第次第に大事にいたってくる。謗法の者は、多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生まれる。人間に生まれる時は貧窮であったり、下賎であったりする。また白癩病であったりすると経文に説かれている。
 日蓮は、法華経の明鏡を自分自身に引き向かえてみると、全て曇りなく映しだされる。過去の謗法がわが身にあることは疑いない。この罪を今生で消さなければ、どうして未来に地獄の苦しみをまぬかれることができようか。
 過去遠々の重罪をいかにして全て集めて今生で消滅して、未来に受ける大苦をまぬかれようかと勘えたところ、今の世は、末法という時にあたって謗法の人びとが国に充満している。そのうえ国主はすでに第一の法華誹謗の人である。このような時にこの重罪を消さなければいつの時を期待できるであろうか。
 日蓮が小身をもって日本国中を打ち覆うように、声高く謗法を呵責したならば、無量無辺の邪法の四衆等が無量無辺の口で一時に訾るであろう。
 その時に、国主は謗法の僧等の味方として、日蓮を怨み、あるいは頚を刎ねようとしたり、あるいは流罪にするであろう。そして、たびたびこのようなことが起きるならば、日蓮の無量劫の間積み重ねた重罪も、一生の内に消えるであろうと、くわだてた大術が少しも違うことなく、このような流罪の身となったので、その所願も満足するであろう。

伊豆の国に流され候いし
 伊豆流罪のこと。弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。
―――
十悪
 十善に対するもので、十不善ともいい、十種の悪業のこと。十不善業ともいい、身口意の三業のうちもっとも甚だしい十種の罪悪をいう。十悪は身・口・意の三業より起こり、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫。口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌。意の三悪として貪欲、瞋恚、愚癡がある。このうち、とくに殺生、愚癡が最も重罪とされている。
―――
四重
 出家者、とくに比丘の重罪で、殺生、偸盗、邪淫、妄語。これらを犯せば僧団から追放される。
―――
六重
 尼僧の六種の重罪で、優婆塞戒受戒品に説かれる。四重に、説四衆過、酤酒の二重が加わる。
―――
八重
 菩薩の重罪で、菩薩善戒経に説かれている。四重に、自讃毀他、慳惜財法、瞋不受悔、謗乱正法を加えた八種の罪過をいう。
―――
十重
 菩薩の重罪で、梵網経巻下、菩薩瓔珞本業経巻上に説かれている。六重に、自讃毀他、慳惜加毀、瞋心不受悔、謗三宝を加えた十種の罪過である。
―――
五無間
 五つの無間地獄に堕ちる重罪で、五逆罪と同じ。このうち一つでも犯せば無間地獄に堕ちるため、五つの無間の重罪・五無間といわれている。
―――
一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦、一闡底柯とも書く。断善根、信不具足、焼種、極悪、不信等の意で、正法を信じないで誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない者のこと。涅槃経一切大衆所問品第十七には「麁悪言を発して正法を誹謗し、この重業を造り永く改悔せず、心に懺悔無くば、是の如き等の人を、名づけて一闡提の道に趣向すと為す。もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定んで是の如き重罪を犯すを知りつつ、しかも心にすべて怖畏・慙愧無く、肯て発露せず。仏の正法において、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して、言に過咎多き、是の如き等の人も、また一闡提の道に趣向すと名づく」とある。
―――
五逆罪
 理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
―――
一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
信伏随従
 心から御本尊を疑わず、心身ともに妙法に随うこと。しかし、あるいは信ずる心が弱くて疑ったり、行学を怠けたりするなら、罪障を消滅しきれないのである。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
霍乱
 炎暑にあたって起こる諸病。症状は急激でコレラのように吐瀉する。今日の日射病、急性腸カタル、コレラ、疫痢等がこれにあたる。なお、丈夫な者が急に病気で倒れることを、俗に「鬼の霍乱」という。
―――
六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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白癩病
 癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
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四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
方人
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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 本抄は文永10年(1273)、佐渡に流された大聖人が鎌倉の愛弟子四条金吾に宛てて認められたお手紙である。
 題号の示す通り、謗法を呵責することによって、過去世からの重罪を今世のうちに滅除することができるとの原理が説かれた御書である。
 前半では伊豆流罪、佐渡流罪等の大難を受けられた大聖人御自身のお振舞いを通して、「呵責謗法滅罪」の法門を示されている。中段から後半にかけては、地涌の菩薩出現の客観的必然性を説かれ、その地涌の菩薩こそ久遠本仏の外用の姿であり、この菩薩の上首上行が久遠よりの大法南無妙法蓮華経を弘めゆくことを明かされている。このほか、四条金吾夫人の信仰を激励、謗法による三災七難の現証と妙法流布の瑞相との関連性、亡き母への孝養を行なう心構え、兄弟に対する境涯論等、本抄においても事細かに指導なされている。
 周知の如く、大聖人は佐渡という想像を越えた逆境の中にある。御自身がこうした環境にありながら鎌倉をはじめとして各所に点在する門下を心から憶われ激励なされたその姿は、まさしく御本仏の大慈悲のあらわれとしかいいようがあるまい。
 「何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(1132-10)と。自分がどうなろうと、弟子を必ず守るとの強い御一念とともに、いかなる難事であっても、必ず成就するとの不動で強固な御一念を掉尾に書き止められて終えられている。
五逆罪と謗法について
 五逆罪も謗法も、ともに無間地獄におちる重罪である。
 だが五逆罪が一劫であるのに対し、謗法の罪は、ただ嫉み戯れ、訾るだけで無数劫の間、無間地獄の大苦を受けるのである。訾った罪を悔いて、たとえ、信伏随従しても、千劫の間、大無間地獄に入って苦しみ、更に二百億劫の間、仏法僧の三宝にまで見捨てられるのである。
 しかも謗法の罪は、その罰が早くはあらわれず、それだけ知ることがむずかしいのである。これを病に喩えられ、「五逆は霍乱……謗法は白癩病」といわれている。五逆罪が霍乱、すなわち日射病や疫痢のように、直ちに結果のあらわれる重罪であり、これに比べて謗法は、白癩病のように、始めは緩かで大した病ではないようだが、次第に重くなり、ついには死に到るほどの極重罪であると説き示されている。
 五逆と謗法とがどうしてこれほどまで相違があるのか。五逆罪は〝殺〟と〝破〟の罪である。生命それ自体を傷つけ、死に追いやり、和合僧の集団を破る、反生命的、反社会的な行為である。これほどの重罪はないはずである。これに比べ、謗法は法への反逆である。それは、自身の仏種を、自身で断ずる行為をしていることになる。
 すなわち、五逆罪は、現象面の皮相的な罪であるのに対し、謗法は現象の内面に貫かれた法の本質面を犯す罪である。それゆえ、五逆罪とは較べものにならない重罪なのである。
 それでは、軽い五逆罪には直ちに結果があらわれ、重い謗法の罪には結果がなかなかあらわれないのはなにゆえか。それは、世間の法においても、死刑に処すべき者には、他の些細な罪を不問に付すのである。「開目抄」に「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし、一闡提人これなり」(0231-06)とあるのがそれである。心すべきは、現象の皮相面に目をうばわれるのでなく、その内奥にある本質的な原因を知り解決への道を進むことである。
 大聖人は、御自身を凡夫僧の立場に置かれ、三世の厳しき因果、仏法の峻厳な鉄側を説かれたのである。不幸に懊悩し、呻吟する民衆の姿は、謗法を犯した結果である。地によって倒れたものは、地によって立たねばならない。自身の妙法誹謗の本因を感じ、御本尊により重罪を払う信仰を進めることが大事なことである。

1126:11~1127:15 第二章 金吾夫妻の信心を称賛するtop
11   然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、 日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの
12 各仏法を見ほどかせ給わぬが 何程か日蓮に付いてくやしと・ おぼすらんと心苦しかりしに、 案に相違して日蓮
13 よりも強盛の御志どもありと聞へ候は 偏に只事にあらず、 教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙
14 押え難し、 妙楽大師の釈に云く記七「故に知んぬ末代一時も聞くことを得聞き已つて信を生ずる事宿種なるべし」
15 等云云、 又云く弘二「運像末に在つて此の真文を矚る宿に妙因を殖うるに非ざれば実に値い難しと為す」等云云。
-----―
 しかしながら凡夫であるので、ややもすれば後悔する心もあった。日蓮でさえも、このようであるのに、物事の前後の分別もつきかねる女の人などの、あなた方、仏法を理解していない方が、どれほどか日蓮に付き従ったことを後悔しているかと思うと、実に心苦しかったのである。しかし案に相違して日蓮よりも強盛な信心であると聞きましたが、これは全くただごとではない、教主釈尊があなた方の心に入り替わられたのではないか、と思えて感涙押えがたいほどである。
 妙楽大師の法華文句記の七に「末代において一時でも正法を聞くことができ、聞き已って信を起こすことは、過去世において、法華経の下種があった故であると知ることができる」といっている。また弘決の二にも「像法の末に生まれて、法華経の真文をみることができた。宿世に妙因を植えたのでなければ、実に妙法には値いがたいのである」と述べている。

妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
宿種
過去に植えられた仏種。宿縁。
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妙因
仏になる因。仏性を開いて成仏の境涯を得るところの仏因。
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 四条金吾とともに、とくにここでは四条金吾の夫人の信心を称えられ激励されたところである。女性はともすると、大小さまざまな迫害に耐えかねて、信心を怯みがちなものである。大聖人は、普通ならば信仰してしまったことを後悔しがちなものなのに、悠々と、しかも強盛に信仰している夫人の姿を聞き、心から喜ばれ、更に、「教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば、感涙押え難し」と激励なされたのがこの段である。
故に知んぬ、末代一時も聞くことを得、聞き已って信を生ずる事宿種なるべし
 聞きがたき妙法を末法今の時に聞くことができ、しかも聞いてのち信ずることができたのは、ただならぬ因縁によるものであり、これはとりもなおさず、過去世からの深き縁に結ばれているのだ、と大聖人は仰せである。
 この文句記の「末代」も弘決の「像末」も妙楽の時代のことをいったのであるが、そこに述べている精神は、末法の大聖人の時代、また現代にもそのままあてはまる。
 弘決の二の「此の真文を矚る」の真文とは、あらゆるものの中の真実の文、すなわち仏語であり法華経である。像末の今時末法においては御本尊である。御本尊を信受し奉ることがこの文の元意である。ここで、御本尊を信受できるのは、妙因を過去に植えていたからである。もしも妙因を植えていなければ御本尊に値うことはできなかったであろうとの謂である。
 聞きがたき妙法を聞くことができ、値いがたき御本尊に巡り会えたわが身の福運、我が身の深厚な宿縁を心から感ずる人が、これらの二文を身読する人といえよう。

1126:16~1128:05 第三章 本化付嘱を説くtop
16   妙法蓮華経の五字をば四十余年・ 此れを秘し給ふのみにあらず 迹門十四品に猶是を抑へさせ給ひ寿量品にし
17 て本果・本因の蓮華の二字を説き顕し給ふ、此の五字をば仏・文殊・普賢・弥勒・薬王等にも付属せさせ給はず、地
18 涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ、 儀式ただ事
1127
01 ならず宝浄世界の多宝如来・ 大地より七宝の塔に乗じて涌現せさせ給ふ、 三千大千世界の外に四百万億那由佗の
02 国土を浄め高さ五百由旬の宝樹を尽一箭道に殖え並べて・ 宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ 十方分身
03 の仏尽く来り坐し給ふ、 又釈迦如来は垢衣を脱で宝塔を開き多宝如来に並び給ふ、 譬えば青天に日月の並べるが
04 如し帝釈と頂生王との善法堂に在すが如し、此の界の文殊等・他方の観音等・十方の虚空に雲集せる事・星の虚空に
05 充満するが如し、此の時此の土には華厳経の七処八会・十方世界の台上の盧舎那仏の弟子・法慧・功徳林・金剛幢・
06 金剛蔵等の十方刹土・塵点数の大菩薩雲集せり、方等の大宝坊・雲集の仏菩薩・般若経の千仏・須菩提帝釈等・大日
07 経の八葉九尊の四仏・四菩薩・金剛頂経の三十七尊等・ 涅槃経の倶尸那城へ集会せさせ給いし十方法界の仏菩薩を
08 ば文殊・ 弥勒等互に見知て御物語り是ありしかば 此等の大菩薩は出仕に物狎れたりと見え候、 今此の四菩薩出
09 でさせ給うて後・釈迦如来には九代の本師・ 三世の仏の御母にておはする文殊師利菩薩も一生補処と・ののしらせ
10 給ふ弥勒等も此の菩薩に値いぬれば物とも見えさせ給はず、 譬えば山かつが月卿に交りエン猴が師子の座に列るが
11 如し、 此の人人を召して妙法蓮華経の五字を付属せさせ給いき、 付属も只ならず十神力を現じ給ふ、釈迦は広長
12 舌を色界の頂に付け給へば 諸仏も亦復是くの如く 四百万億那由佗の国土の虚空に 諸仏の御舌赤虹を百千万億・
13 並べたるが如く充満せしかば おびただしかりし事なり、 是くの如く不思議の十神力を現じて結要付属と申して法
14 華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、 我が滅後等には一経乃至・一代聖教をば付属せられしなり、本より影の身
16 に随つて候様につかせ給ひたりし迦葉・ 舎利弗等にも此の五字を譲り給はず此れは・さてをきぬ、文殊・弥勒等に
17 は争か惜み給うべき器量なくとも 嫌い給うべからず、 方方不審なるを或は他方の菩薩は此の土に縁少しと嫌ひ、
18 或は此の土の菩薩なれども 娑婆世界に結縁の日浅し、 或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌はれさせ
1128
01 給ふ程に、四十余年・並びに迹門十四品の間は一人も初発心の御弟子なし、 此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来・
02 教主釈尊の御弟子として 初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候、 天台の云く「但
03 下方の発誓を見る」等云云、 又云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」等云云、 妙楽の云く「子父の法
04 を弘む」等云云、 道暹云く「法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、 此の妙法蓮華経の五字
05 をば此の四人に譲られ候。
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 釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕わされたのである。
 この妙法の五字を、釈迦仏は文殊・普賢・弥勒・薬王等の菩薩にも付嘱されなかった。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して妙法を付嘱されたのである。
 この儀式は普通の儀式ではなく、宝浄世界の多宝如来が大地から七宝の塔に乗って涌現されたのである。三千大千世界の他に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹をことごとく一箭道に殖え並べて、その宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ、そこへ十方分身の諸仏がことごとく来て坐られたのである。
 また釈迦如来は、垢衣を脱いで宝塔を開き、多宝如来と並ばれたのである。この姿を譬えれば、青天に太陽と月とが並んだようなものであり、帝釈天と頂生王とが善法堂にいるようなものである。この世界の文殊等、他方の観音等の菩薩が虚空に雲集した姿は、さながら星が空に充満するようであった。
 この時、この娑婆世界には華厳経の七処八会に集まった十方世界の台上の盧舎那仏の弟子たる法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土の塵点数の大菩薩が雲集した。
 更に、方等経の大宝坊に雲集した仏・菩薩、般若経に集まった千仏、須菩提・帝釈等、大日経の八葉九尊の四仏四菩薩、金剛頂経の三十七尊等、涅槃経の倶尸那城へ集まられた十方法界の仏・菩薩を文殊や弥勒等の菩薩はたがいに見知っていて語りあっていたので、これらの大菩薩はその出仕にものなれているように見えたのである。
 しかし、今この上行をはじめとする四菩薩が出現された後は、釈迦如来にとっては九代の本師で、三世の諸仏の母であられる文殊師利菩薩も、また一生補処といわれた弥勒菩薩等も、この四菩薩に値ったのちではものの数とも見えないほどであった。譬えば山奥のきこりが高貴な月卿等の貴族の中に交わり、また猿が師子の座に列なったようなものである。
 釈迦仏はこの人びとを召して妙法蓮華経の五字を付嘱されたのである。その付嘱もただごとではなく、仏は十神力を現じられたのである。釈迦仏は広長舌を色界の頂に付けられたので、諸仏もまた同様にされた。四百万億那由佗の国土の空に諸仏の舌がまるで赤い虹を百千万億並べたように充満したので、実におびただしいことであった。
 このような不思議の十神力を仏は現じ、結要付嘱といって、法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、わが滅後に十方の衆生に与えよと慇懃に付嘱して、そののちまた一つの神力を現じて、文殊等の自界、他方の世界の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経および一代聖教を付嘱されたのである。
 もとより影が身に随っているように仕えていた迦葉・舎利弗等にも、この五字を譲られなかった。これはさて置こう。文殊・弥勒等に対してはどうして付嘱を惜まれるのか。たとえ滅後に弘めるべき器量がなくとも嫌うべきではない、等々不審であるのを、仏はあるいは他方の菩薩はこの土に縁が少ないと嫌い、あるいはこの土の菩薩であるが、結縁の日が浅いと嫌い、あるいはわが弟子ではあるが初発心の弟子ではないと嫌われたので、四十余年ならびに法華経迹門十四品のうちには一人も初発心の弟子がなく、この四菩薩こそ五百塵点劫より以来、教主釈尊の弟子として初発心の時より、また他の仏に仕えずに迹門・本門の二門をふまなかった人びとであると説かれている。
 天台は法華文句の九に「但下方より涌出した本化の菩薩の発誓をみる」等。またいわく「これ我が弟子である。我が法を弘めるべきである」と。妙楽は法華文句記に「子は父の法を弘める」と述べ、道暹は文句の輔正記に「法がこれ久遠実成の法であるから久遠実成の人に付嘱する」と述べている。この妙法蓮華経の五字を仏はこの四菩薩に譲られたのである。

迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
本果・本因の蓮華
 妙法蓮華経の五字のこと。宇宙森羅万象のなかで不可思議な因果一体の一切の根本法をいう。因果の理法は宇宙の法則性として厳然として存在する。この理法の本源の因果、すべての究極の因果の理法を蓮華になぞらえて「本果・本因の蓮華」という。
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文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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弥勒
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆(ほっきしゅ)となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――
薬王
 薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
上行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。常楽我浄の我徳、自我の生命が自由自在で他からなんの束縛を受けないことをいう。
―――
無辺行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、末法に妙法を受持し弘通するために、上行菩薩とともに大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩のひとり。常楽我浄の常徳、仏の境地、涅槃が永遠に不変不改であることをいう
―――
浄行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。常楽我浄の浄徳、煩悩のけがれをうけないことをいう。
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安立行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。常楽我浄の楽徳、無上の安楽であることをいう。
―――
宝浄世界
 多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797-宝塔品)とある。
―――
多宝如来
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
七宝の塔
 法華経見方等品第11に出現した金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝によって飾られているので七宝の塔という。この塔の内に釈迦・多宝の二仏が並んで座り(二仏並坐)、聴衆も空中に浮かんで、虚空会の儀式が展開された。日蓮大聖人はこの虚空会の儀式を借りて曼荼羅を図顕され、末法の衆生が成仏のために受持すべき本尊とされた。そして曼荼羅御本尊の中央にしたためられた南無妙法蓮華経を宝塔と同一視されている。また妙法を信受する人は、南無妙法蓮華経そのものであるので、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝(七聖財)に飾られた宝塔であるとされている。この塔の出現する意味には①証前の宝塔・多宝如来が法華経迹門の真実を証明すること。②起後の方等・本門を説き起こすためのもの。の二意がある。
―――
三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
一箭道
 矢を放って届く距離。嘉祥の法華義疏巻十一に「一箭道は二里なり」とある。また他説も多く、弓の的をかためた垜よりはかって百五十步,あるいは百三十步,あるいは百二十步とする説もある。法華経薬王品第二十三には「七宝を台と為して、一樹に一台あり。其の樹の台を去ること、一箭道を尽くせり」とある。
―――
頂生王
 別名を曼駄多という。釈尊の在世に先だって生まれた王。頂生王故事経によると、昔、善住王の頂に瘤が生じ、次第に大きくなり剖けて童子が生まれた。この話に因んで頂生王と名づけられた。長じて金輪王と称し、天下を収め忉利天に上った。その事については涅槃経聖行品に「天主釈提桓因は、頂生王の已に来りて外に存るを知り、すなわち出て迎え、逆見已りて手を執り、善法堂に昇り座を分って坐る。彼の時の二王、形容相貌等しくして差別なし」とあり、その時いかに権勢を誇っていたかが知られる。しかしこののち、帝釈天を害して已れが帝釈天に取って替わろうとしたが成しえず、還って地に下り、病に遇って死んだと説かれている。
――― 
観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―――
華厳経の七処八会
 華厳経の説法の場所と会座の数。釈尊は寂滅道場菩提樹下で正覚を成して後、3週間にわたって華厳経を説法したが、これが七つの場所で八回行われたので、七処・八会という。七処とは、①寂滅道場②普光法堂③忉利天④夜摩天⑤兜率天⑥他化自在天⑦逝多林。
―――
盧舎那
 普通には毘盧遮那が法身をさすのに対して盧遮那は報身をさすのである。
―――
法慧
 法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
―――
功徳林
 華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
―――
金剛幢・
 華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十回向の法門を説いた。
―――
金剛蔵
 金剛蔵菩薩のこと。華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。
―――
十方刹土
 十方世界のこと。「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
―――
大宝坊
 方等部の大集経が説かれたところ。欲界と色界の中間にある大庭。釈尊が耆闍崛山で大集経を説いたときに三昧力をもって、大法廷を珍宝で荘厳したところから大宝坊といわれる。
―――
般若経の千仏
 般若経では「空」の思想が明かされ、覚りの存在も自由自在に種々の様相となるとされる。その教えが説かれる同経には千仏という種々の仏が説かれる。
―――
須菩提
 梵語スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta)長者の弟の子といわれる。釈尊の十大弟子の一人。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。般若経の対告衆の一人でもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩
 大日経では、胎蔵界の中台院。すなわち、胎蔵界曼荼羅のの中央の一院が八葉の蓮華となっており、その中台に大日如来、周囲の八葉には四仏(東方宝幢如来・南方開敷華王如来・西方阿弥陀如来・北方天鼓雷音如来)・四菩薩(東南普賢菩薩・西南文殊菩薩・西北観音菩薩・東北弥勒菩薩)の八尊がすわっており、合計して九尊になるという。
―――
金剛頂経の三十七尊
 金剛頂経の羯磨会にあらわれた五仏・十六菩薩・そのほかの四菩薩をあわせていう。❶五仏 1毘盧遮那如来  2阿閦如来 3宝生如来  4無量寿如来 5不空成就如来。❷十六菩薩 ①東方四菩薩 6金剛菩薩 7金剛王 8金剛愛 9金剛喜 ②南方四菩薩 10金剛宝 11金剛光 12金剛憧 13金剛咲 ③西方四菩薩 14金剛法 15金剛利 16金剛因 17金剛語 ④北方四菩薩 18金剛業 19金剛護 20金剛牙 21金剛拳。 ❸その他の四菩薩 ⑤四波羅蜜菩薩 22金剛波羅蜜菩薩  23宝波羅密菩薩  24法波羅蜜菩薩 25羯磨波羅蜜菩薩 ⑥内供養の四菩薩 26金剛嬉菩薩 27金剛鬘菩薩 28金剛歌菩薩 29金剛舞菩薩 ⑦外供養の四菩薩 30金剛焼香菩薩 31金剛華菩薩 32金剛燈菩薩 33金剛塗香菩薩 ⑧四摂の四菩薩 34金剛鉤菩薩 35金剛索菩薩 36金剛鏁菩薩 37金剛鈴菩薩。
―――
倶尸那城
 梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。
―――
九代の本師
 文殊師利菩薩のことで、過去世に妙光菩薩として釈尊を化導した師であり、その釈尊が燃灯仏として九番目に法華経を受け成道したところから、こう呼ばれる。法華経序品第一に「仏の滅度の後、妙光菩薩は妙法蓮華経を持ち、八十小劫を満てて、人の為めに演説す。日月灯明仏の八子は、皆な妙光を師とす。妙光は教化して、其れをして阿耨多羅三藐三菩提に堅固ならしむ。是の諸の王子は、無量百千万億の仏を供養し已って、皆な仏道を成ず。其の最後に成仏したまう者を、名づけて燃灯と曰う。 八百の弟子の中に一人有りて、号づけて求名と曰い(中略)爾の時の妙光菩薩は豈に異人ならんや。我が身是れなり。求名菩薩は、汝が身是れなり」と。
―――
一生補処
 この一生は迷いの世界に縛られているが、次生には仏の位一生補処処を補う位になること。菩薩の最高位である等覚をさす。弥勒菩薩は釈尊の一生補処の菩薩とされ、釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊滅後56億7000万歳の時に下生して、一生補処釈尊の説法にもれた衆生を済度するという。
―――
山かつ
 猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。
―――
月卿
 総称して貴族、貴人をいうこと。禁中を天に喩え、天子を日に喩えるのに対して、公卿を月に譬え月卿といった。
―――
猿猴
 サル類の総称。
―――
十神力
 十種の大力ともいう。釈迦は十種の神力を現じて、上行菩薩に深法を付嘱した、すなわち①出広長舌、「広長舌を出して上梵世に至らしめ」②通身放光、「 一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧くく十方世界を照したもう」③一時謦欬、「然して後に還って舌相を摂めて一時に謦欬し」④倶共弾指「倶共に弾指したもう」⑤地六種動、「是の二つの音声、徧く十方の諸仏の世界に至って、地皆六種に震動す」⑥普見大会、「其の中の衆生、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等、仏の神力を以ての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆の宝樹下の師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬し囲繞したてまつるを見る」⑦空中唱声、「即時に諸天、虚空の中に於いて、高声に唱えて言わく」⑧咸皆帰命、「彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と」。 ⑨遙散諸物、「種々の華香、瓔珞、幡蓋、及び諸の厳身の具、珍宝、妙物を以って、皆共に遥かに娑婆世界に散ず」⑩十方通同、「時に十方世界通達無碍にして一仏土の如し」とある
―――
広長舌
 神力品に説かれる。法華経を付嘱するためにあらわした十種の神力の第一で広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
―――
色界の頂
 色界の十八天中、最頂上の色究竟天のこと。
―――
結要付属
 法華経神力品第二十一において、釈尊が本化の菩薩の上首・上行菩薩に、要を結んで妙法蓮華経を付嘱したことをいう。その文は「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」とあるのがそれである。
―――
慇懃
 ねんごろ・親切丁寧の意。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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初発心の弟子
 仏が初めて仏道心を発した時の弟子ということ。観心本尊抄(0253)には「我が弟子之を惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」とある。
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五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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二門をもふまざる人人
 釈尊の本眷属・地涌の菩薩のこと。法華経には迹門十四品、本門十四品と本迹二門があり、衆生は、迹門の初めから仏より法を聞き、領解、述成、授記の段階を踏む。だが、この菩薩達は迹門はおろか、本門の一々の段階さえ踏まずに、本門の涌出品の時に突如としてあらわれ、寿量品の大法を聞き、嘱累品で滅後の付嘱を受けた菩薩である。
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下方の発誓
 大地の下より涌出した地涌の大菩薩のみが滅後の弘法を誓った。なお下方ということについては、御義口伝に「此の四菩薩は下方に住する故に釈に『法性之淵底玄宗之極地』と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く『下方とは生公の云く住して理に在るなり』と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり」(0751-09)とある。
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子父の法を弘む
 子たる久遠の本眷属・地涌の菩薩が、父・釈尊の法を弘めることをいう。
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道暹
 道暹律師のこと。中国唐代の人。天台県(浙江省)の人。大暦年間(0766~0779)長安に来て盛んに著述を行ったという。妙楽の門人といわれる。著書に、天台の法華文句、妙楽の法華文句記を注釈した、法華文句輔正記十巻がある。
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道暹云く
 法華文句輔正記巻六の文。「付嘱とは、この経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何が故に爾る、法是れ久成の法なるに由る、故に久成の人に付す」と。
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久成の法
 久遠実成の法のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、その時証得した法をいう。文底からみれば、久遠元初自受用法身如来の所有の法、南無妙法蓮華経。
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久成の人
 久遠実成の人のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、この久遠以来化導してきた弟子が地涌の菩薩であるゆえに、本化地涌の菩薩を久成の人という。
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 末法出現の大仏法が本化地涌の菩薩に付嘱された様子を、きわめて分かりやすく、生き生きと、ドラマティックに述べられている。これは、前章に妙楽の「宿種なるべし」「宿に妙因を殖うる」の言葉をうけて、いま末法に妙法を信受し、ひろめる人々は、過去、法華経の会座において地涌の菩薩として付嘱を受けたのであり、その更に過去をたどると久遠より宿縁深厚の仏の弟子であり子であったことを示されているのである。
地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ
 地涌の菩薩が、もともと居た所は、いうまでもなく「大地」であるが、それは一体、何を意味するか。天台はこれを「法性の淵底、玄宗の極地」といっている。すなわち、大宇宙の仏界の生命ということである。いま、この文で、大聖人は「寂光の大地」といわれているのも、同じである。寂光とは、仏界を表現する言葉以外の何ものでもないからである。
 地涌の菩薩が、経文に説かれるあらゆる迹化の菩薩と異なる点は、ここにある。すなわち、迹化の菩薩は、あくまで成仏をめざして求道し修行する迷いの衆生の域を出ない。しかるに、地涌の菩薩は、本来、仏界に住する無作三身の仏なのである。それが、衆生救済のため、妙法を末代悪世に流布するため、菩薩という姿をとって法華経の会座に出現したのである。
 いま、末法濁悪の世に出現した我々は、この地涌の菩薩なのである。否、その姿は、三悪道、四悪趣の不幸の姿であるかも知れない。だが、本地は、尊極無上の仏の子であり、末法流布のため、願ってこのような姿をとってあらわれたのである。この本地を悟り、妙法流布の使命達成に励む人は、即、地涌の菩薩であり、その生命には尊極の仏界がひらかれていくことを確信すべきである。
宝搭涌現と釈迦・多宝・十方の仏
 宝搭が涌現して、その中に釈迦・多宝の二仏が並座し、十方の仏が列座するこの儀式が、そのまま、三大秘法の御本尊の相貌とあらわれていることは、いまさらいうまでもないところであろう。この点については、観心本尊抄講義などに本格的に論じられているので、ここでは省略する。
 生命論に約すると、七宝で飾られた多宝の搭とは、生命の尊厳をあらわしている。釈迦・多宝の二仏並座は境智冥合を表徴する。すなわち、生命に内在する仏界自体が〝境〟=多宝であり、それを覚知する智慧が〝智〟=釈迦で、これが冥合して、真実の成仏となるのである。そして「境智冥合するところ慈悲あり」で、宇宙を包含し、万物に限りなく注ぐ慈悲の行動、姿となってあらわれることを十方分身の仏は示している。
 また、釈迦・多宝・分身は、法・報・応の三身に配せられる。釈迦が報身、多宝が法身、十方分身が応身である。この三身即一で、無作三身の仏、久遠元初の自受用身、即、南無妙法蓮華経をあらわすのである。

1128:06~1129:07 第四章 地涌の菩薩の出現を予告するtop

06  而るに仏の滅後・正法一千年.像法一千年・末法に入つて二百二十余年が間・月氏・漢土.日本・一閻浮提の内に未
07 だ一度も出でさせ給はざるは 何なる事にて有るらん、 正くも譲らせ給はざりし文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十
08 年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、 其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、
09 薬王菩薩は天台大師となり 観世音は南岳大師と成り、 弥勒菩薩は傅大士となれり、 迦葉阿難等は仏の滅後二十
10 年・四十年・法を弘め給ふ、嫡子として譲られさせ給へる人の未だ見えさせ給はず、二千二百余年が間・教主釈尊の
11 絵像.木像を賢王.聖主は本尊とす、然れども但小乗.大乗・華厳.涅槃・観経・法華経の迹門.普賢経等の仏・真言.大
12 日経等の仏・宝塔品の釈迦・ 多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りが
13 たし、 釈迦如来は後五百歳と記し給ひ正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず、天台大師は 「後の五百歳
14 遠く妙道に沾わん」と未来に譲り、 伝教大師は「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等と書き給いて、 像法
15 の末は未だ法華経流布の時ならずと我と時を嫌ひ給ふ、されば・をしはかるに地涌千界の大菩薩は釈迦・多宝・十方
16 の諸仏の御譲り御約束を空く黙止て・はてさせ給うべきか。
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 ところが仏の滅後、正法千年、像法千年、末法に入って二百二十余年の間に、月氏、漢土、日本さらに一閻浮提の内に、いまだ一度も妙法を弘める四菩薩が出現されないのはどういう事なのであろうか。
 正しくもお譲りになられなかった文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、そののちも香山、清涼山から度度来て、大僧等となって法を弘められた。
 薬王菩薩は天台大師となり、観世音菩薩は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年、四十年法を弘められた。だが、嫡子として妙法を譲られた人はいまだに見えられない。
 二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした。しかしながら、但小乗、大乗、華厳経、涅槃経、観経、法華経迹門、普賢経等の仏、真言・大日経等の仏、宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、いまだに法華経寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない。どうした事とも推量しがたい。
 釈迦如来は後の五百歳と記され、正像二千年を法華経流布の時とはいわれてはいない。天台大師は文句の一に「後の五百歳は遠く妙道に沾うであろう」と未来に妙法流布を譲られた。伝教大師は守護国界章に「正法・像法がほぼ過ぎおわって末法ははなはだ近くにある」等と書かれて、像法の末はいまだ法華経流布の時ではないと、自身から像法の時を嫌われたのである。
 それゆえ推し量ってみると、地涌千界の大菩薩は、釈迦・多宝・十方の諸仏のお譲りとお約束を空しくそのままに捨ておいて、果てさせるつもりなのだろうか。
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17   外典の賢人すら時を待つ郭公と申す畜鳥は卯月五月に限る、此の大菩薩も末法に出ずべしと見えて候、 いかん
18 と候べきぞ瑞相と申す事は内典・ 外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり、 蜘蛛かかつて喜事来り
1129
01 カサ鵲鳴いて客人来ると申して小事すら験先に現ず何に況や大事をや、 されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞
02 なり、 涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり、 故に天台の云く「雨の猛きを見ては竜の大きなる事を知り
03 華の盛なるを見ては池の深き事を知る」 と書かれて候、 妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」と云云、
04 今日蓮も之を推して智人の一分とならん,去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日.戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲
05 子七月四日の大彗星、 此等は仏滅後二千二百余年の間・未だ出現せざる大瑞なり、 此の大菩薩の此の大法を持ち
06 て出現し給うべき先瑞なるか、尺の池には丈の浪たたず驢・吟ずるに風・鳴らず、 日本国の政事乱れ万民歎くに依
07 つては此の大瑞現じがたし、誰か知らん法華経の滅不滅の大瑞なりと。
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 外典の賢人でさえ時を待つ。郭公という畜鳥は四月五月に限って鳴く。この大菩薩も末法に出現するとみえるのである。どうしてそのようにいえるのか。
 瑞相というのは内典についても、外典についても必ず後に起こることが先に現われることをいうのである。蜘蛛が巣をかけると喜びごとが起こり、鳱鵲が鳴くと客人が来るといって、小事でさえ験が先に現われる。まして大事においては当然である。
 それゆえ法華経序品の六瑞は釈迦如来一代に超過した大瑞である。涌出品の大瑞は、またこれには似るべくもない大瑞である。ゆえに天台は文句の九に「雨がはげしく降るのを見ては、これを降らせる竜の大きさを知り、華が盛んに咲いているのをみては、池の深いことを知る」と書かれている。妙楽の文句記には「智人は物事の起こりを知り、蛇は自ら蛇を知る」と述べている。
 今日蓮もまた瑞相から未来を推し量って、智人の一分となろう。去る正嘉元年八月二十三日、戌亥の刻に起きた大地震と、文永元年七月四日の大彗星、これらは仏滅後二千二百余年の間に、いまだ出現しなかった大瑞相である。
 この地涌の大菩薩が寿量品の大法を持って出現される先瑞であろうか。一尺の池には一丈の波は立たない。驢馬がいなないても風は鳴らない。日本国の政治が乱れ万民が歎くことではこれほどの大瑞は現じがたい。誰が知ろう、この大瑞こそ法華経の滅不滅の大瑞相であると。

月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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清涼山
 中国山西省五台県にある山。五台山または清涼山ともいう。文殊師利菩薩の住処とされた。華厳経の菩薩住処品に「東北に菩薩の住処あり、清涼山と名づく、現に菩薩あり、文殊師利と名づく」とある。
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薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳
 これらの因縁は、法華伝記巻二の智顗伝の中にある。「宣律師、天に問うて曰く、陳の国の思、隋の国の顗は、神の徳、倫を超えたり。昔、霊山に在って同じく法華を聴く。昔、誰なるか審かならず……答えて云く、倶に是れ遊方の大士、本是れ古仏なり。思は是れ観音。普門一品の其の利を説く。顗は是れ薬王。日月浄明徳の世に興し、頓て一身を捨て、法に供養す」等とある。天台自身、南岳の下で四安楽行を授け、そののち薬王品の「是真精進、是名真法」の文で開悟したこと、南岳が普門品を用いたことからも、天台が薬王菩薩の後身、南岳が観世音菩薩の後身といわれるわけである。
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傅大士
 (0497~0569)。中国南北朝時代の人。名を傅翕、字を玄風といい、善慧大士と号した。傅大士というのは通り名。大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始したことで知られる。自伝に「われ兜率宮より来る。無上菩提を説かんが為なり。昔はこの事を隠し、今は覆蔵せず」と。兜率宮は弥勒菩薩の住処である。この言葉から、弥勒菩薩の再誕といわれた。
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阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
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寿量品の釈尊
 ①久遠五百塵点劫成道の釈尊のこと。②久遠元初の教主釈尊のこと。
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後の五百歳
 法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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郭公
 カッコウ目カッコウ科の鳥。全長約35センチ。全体に灰色で、腹に黒い横斑がある。ユーラシア・アフリカに分布。日本には夏鳥として渡来し、高原などでみられる。自分では巣を作らず、モズ・ホオジロなどの巣に托卵する。ひなは早く孵化し、仮親の卵を巣の外へ放り出す習性がある。閑古鳥。合法鳥。かっこうどり。
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瑞相
 きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。
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鳱鵲
 カラスより少し小さく、腹白で頭部が黒い。日本では北九州にいる。高麗烏といわれる。
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序品の六瑞
 釈尊が法華経序品を説いたときに起こった瑞相。❶此土の六瑞。①説法瑞 釈尊が説法をされた。読経などの声が聞こえる。 ②入定瑞 心を一つの対象に集中させて動揺を静めて平穏に安定させること。心の散乱を静めた瞑想の境地。『法華経』を説かれる前にそのような境地に入られる瑞相があらわれた。静かな暗闇や空・海が見える。 ③雨華瑞 『法華経』が説かれる前に花が雨ってくる瑞相があらわれた。めでたいしるしとして天から雨り、見る者の心を悦ばせるという。諸天が仏徳を讃歎して四華を散花する記事は諸経典に見える。法要中に散華といって花びらに似せた紙を散じることは、このことをあらわしている。空から無数の花びらが降ってくる。 ④地動瑞 『法華経』が説かれる前に、瑞相として普く仏の世界の地面が揺れた。大地や建物が揺れる。雷音や鐘・鈴などの音が聞こえる。 ⑤衆喜瑞 その場にいたものたちが瑞相を喜んで一心に仏をみること。仏を感じ、その姿を見える。光るものや何かが見える。 ⑥放光瑞 釈尊の眉間から光が放たれ、東方一万八千の世界を普く照らし、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界を映しだした。回りが急に明るくなったり、光を感じる。❷他土の六瑞。①見六趣瑞 その世界の六つのめでたい出来事の前兆が釈尊の眉間から映し出された。 ②見諸仏瑞 諸仏を見る瑞。 ③聞諸仏説法瑞 諸仏の説法を聞く瑞 。④見四衆得道瑞 諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見 る。⑤見行瑞  菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相猊あって菩薩の道を行ずるを見 る。⑥見帰涅槃瑞  諸仏の般涅槃したもう者を見、諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る。
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大瑞
 兆し・前兆。善悪ともに通じる。
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智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る
 妙楽大師の法華文句記巻第九中に「然るに智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る。豈補処の人その真応を識らざらんや」とある。文意は、智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っている。それゆえ、仏法の法灯を継ぐ智者は仏法の極理を知る、すなわち唯仏与仏と経にある通り、悟達の聖人のみが宇宙森羅万象の本質を知り予知している、との意である。
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 正像二千年間に、文殊、薬王、観世音、弥勒等の迹化の菩薩や迦葉・阿難等は、仏から付嘱を受けたとおりに、たしかに出現して、それぞれの法を弘めた。だが、仏の嫡子として最も偉大な妙法の付嘱をうけた地涌の菩薩は、まだ出現していない。また、仏がそのとき付嘱した「寿量品の釈尊」すなわち文底下種の御本尊も、どこにもあらわれていない。
 だが、いま、まさに出現しようとしている瑞相が、先ぶれとしてあらわれている。それが、正嘉の大地震、文永の大彗星等の天変地異である――と、大仏法の出現が間近であることを述べられている。
 もとより、この地涌の菩薩の出現ということも、その上首・上行が大聖人御自身にほかならないこと、また、末法に出現すべき「寿量品の釈尊」が、大聖人の本地たる久遠元初の自受用身であり南無妙法蓮華経の御本尊であることも、御承知のうえでの仰せである。ここは、あくまで、婉曲に、遠回しに仏法の当然の道理のうえから、これらの出現が必然であることを示唆されているのである。
「寿量品の釈尊」について 
 ここで寿量品の釈尊といわれているのは、インド応誕の釈迦とは根本的に異なることを知らなければならない。ゆえに「寿量品の」とことわられているのである。すなわち、結論的にいえば、大聖人が末法御本仏として、はじめてあらわされるところの、南無妙法蓮華経の御本尊のことである。
 「三大秘法抄」にいわく、
 「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(1022-08)と。
 また、この「呵責謗法滅罪抄」と同じ文永十年に著わされている「観心本尊抄」に「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」(0254-08)と明言されている。
 これらの御文から「寿量品の釈尊」が久遠元初の自受用身如来の生命たる南無妙法蓮華経の御本尊であり、この御本尊を建立すべき御自身の使命について、強い志向性と深い思索をこのころ、なされはじめていたことがうかがわれる。
 正嘉の地震、文永の彗星をその前兆として指摘され、天台の雨と竜の言葉などを挙げられている点など、本抄と「観心本尊抄」との間に共通するものが少なくない。

1129:08~1129:16 第五章 御本仏の実践を示すtop

08   二千余年の間・悪王の万人にソシらるる謀叛の者の諸人に・あだまるる等日蓮が失もなきに高きにも下きにも罵
09 詈毀辱刀杖瓦礫等ひまなき事二十余年なり、 唯事にはあらず 過去の不軽菩薩の威音王仏の末に 多年の間・罵詈
10 せられしに相似たり、 而も仏・彼の例を引いて云く我が滅後の末法にも然るべし等と記せられて 候に近くは日本
11 遠くは漢土等にも法華経の故にかかる事有りとは 未だ聞かず人は悪んで是を云はず、 我と是を云はば自讃に似た
12 り、云わずば仏語を空くなす過あり、 身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す、 日蓮は彼の不軽菩薩
13 に似たり、国王の父母を殺すも民が考妣を害するも上下異なれども 一因なれば無間におつ、 日蓮と不軽菩薩とは
14 位の上下はあれども 同業なれば彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや、 彼は二百五十戒の上慢の比丘
15 に罵られたり、 日蓮は持戒第一の良観に讒訴せられたり、 彼は帰依せしかども千劫阿鼻獄におつ、此れは未だ渇
16 仰せず知らず無数劫をや経んずらん不便なり不便なり。
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 仏滅後二千余年の間、悪王が万人に訾られたり、謀反の者が諸人にあだまれたりした。しかし、日蓮は世間の失もないのに身分の高い人からも、また低い人からも、悪王や謀反人のように罵詈され、毀辱され、刀や杖で打たれ、瓦礫を投げられるなど、迫害のやむひまのないこと二十余年である。これはただ事ではない。
 過去の不軽菩薩が威音王仏の末世に、多年の間罵詈されたことと似ている。しかも釈迦仏は不軽の例を引いて、わが滅後の末法にもそうなると記されている。だが、近くは日本、遠くは漢土等にも、法華経のゆえにそのような事があったとはいまだに聞かない。人は日蓮を憎んでこれをいわないのである。
 自分からこれをいえば自讃に似ている。しかしこれをいわなければ仏語を虚妄にする過がある。身を軽んじて法を重んずるのが賢人であるからいうのである。
 日蓮は彼の不軽菩薩に似ている。国王が父母を殺すのも、民が父母を害するのも、身分の上下は異なるけれども同一の業因なので無間地獄に堕ちる。日蓮と不軽菩薩とは名字凡夫と初随喜というように位の上下はあるけれども、同じ業なのだから彼の不軽菩薩が成仏されるならば、日蓮が仏果を受けることを疑えるだろうか。
 彼は二百五十戒を持った上慢の比丘に罵られた。日蓮は持戒第一の良観に讒訴された。彼の比丘衆は帰依したけれども、初めに謗った罪で千劫の間、阿鼻地獄に堕ちた。良観はいまだに日蓮を渇仰しない。その重罪は測り知れない。地獄に堕ちて無数劫を経ることであろう。実に不便なことである。

罵詈毀辱
 ①毀罵、誹謗し謗ること。②毀辱、毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
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刀杖瓦礫
 刀・杖・瓦・小石・等のこと。
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不軽菩薩
 法華経不軽品第二十に説かれる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)を弘めて、一切の人々をことごとく礼拝していた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石等の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受け、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」、また「不軽菩薩を軽賤するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766)とある。
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考妣
 一般には考妣とは亡父亡母をいう。もとの意は考とは長寿を保つこと、妣とは古くは母のこと。ここでは父母のこと。
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二百五十戒
 男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
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 すでに「法華経の滅不滅の大瑞」――すなわち、末法にひろまるべき法華経の肝心の大白法が出現する瑞相は、あらわれている。では、いったい、誰がその大仏法を持っているのか、末法の一切衆生を救済する真実の法華経の行者とは誰なのか。
 この重要な問題を解くにあたって、現象面にあらわれた明確な鍵がある。それは、法華経に、末法の法華経の行者が、さまざまな難を受けることが記されていることである。勧持品では迹化の菩薩たちの弘通の誓言によせてこれが示され、不軽品では、過去の不軽菩薩の振る舞いにことよせてこれが述べられている。
 それらの原理に照らしてみるとき、法華経の行者として、種々の大難にあった人は、日蓮大聖人を除いてほかにはない。この章では不軽品の場合をあげて、大聖人の姿が不軽菩薩と同じであり、したがって、大聖人御自身こそ、末法の真の法華経の行者であることを示されているのである。
身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す
 御自分が不軽菩薩に似ていることをいえば人々は、自讃だといい、かえって、大聖人を蔑むかも知れない。しかし、それをいわなければ、人々は法華経の正しいことに気づかないし、末法の大仏法を求める心も起きないに違いない。ゆえに、わが身の傷つく危険をあえて冒して、このことを言うのだ、との意である。
 一般に、日蓮大聖人に対し、自身のことを非常に高くいう人だという評価がなされてきた。普通は、自分のことはへり下った言い方をするのが日本的美徳とされるから、こうしたことは、あまり好意的にみられない。不軽菩薩に似ているということも、上行菩薩の最誕という外用の立ち場や、まして久遠元初の自受用身という内証のお心からすれば、問題にもならないほど、低い次元での言い方なのである。だが、それであっても、世間の人々は増上慢であるかのように思うに違いないのである。
 そのように思わせるということは、大聖人にしてみれば、自身に傷をつけるのと同じである。だが、いわなければ、人々は気づかないし、したがって、ますます正法を離れ、無間地獄におちる。この大慈悲と、ただ正法を守らねばならないという責任の上から、自身が憎まれることは敢えて覚悟の上で「日蓮は彼の不軽菩薩に似たり」とおおせられているのである。
 もちろん、民族性によって違いはあるけれども、少なくとも日本的倫理の世界においては、自分を自ら高くいうのは、かえって、人々には自分を低く思わせる効果しかない、大聖人は、この人情の機微を鋭く見抜かれた上で、なおかつ、ただ法のために、自身を不軽菩薩になぞらえられているのである。
 このことから、あらゆる御書のなかで、大聖人が自らを上行の最誕、あるいは、まして久遠元初自受用身であるということを避け、または、ぼかして言われている理由が明確になってくるのではないだろうか。そして、客観的に見て、事実の裏づけから、確かにその通りだと誰もが納得せざるを得ない限りにおいて、自身の立場、資格を述べられているところに、実に細かい御配慮を拝察することができるのである。
日蓮と不軽菩薩とは、位の上下はあれども、同業なれば、彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや
 大聖人と不軽菩薩との実践の共通性については、いろいろな御書に述べられているが、なかでも代表的な例として、「顕仏未来記」の次の御文がある。
 「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507)。
 この御文に明らかなように、不軽は初随喜の位で菩薩である。大聖人は名字即の凡夫である。位の上下の違いはあるけれども、その仏法を惜しむ心、わが身を捨てての実践は〝同業〟すなわち全く同じである。故に、不軽が成仏したのなら、大聖人の成仏も疑いない、とのお言葉である。
 仏法は、因果の理法である。因とは、いかなる信心の決意で、何を実践したかということである。その因の行によって、果の徳は決まる。否、むしろ、因果倶で、すでに因行のなかに果徳は含まれているといっても過言ではない。その人の位がどうであるかということは、この因果の厳しい理法の前には問題ではない。
 この法理を現代の我々の身に約せば、ましてや、社会的立場の違いや、組織における位の上下などは、成仏の条件としては、なんら問題にはならないことを知るべきであろう。

1129:17~1131:03 第六章 御本仏の内証を明かすtop

07     疑つて云く正嘉の大地震等の事は去る文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて故最明寺入道殿へ奉る
18 所の勘文・立正安国論には法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に天地瞋をなし自界叛逆難と他国侵遍難起るべ
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01 しと勘へたり、此には法華経の流布すべき瑞なりと申す先後の相違之有るか如何、 答えて云く汝能く之を問えり、
02 法華経の第四に云く 「而も此の経は如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、 同第七に況滅度後を重
03 ねて説いて云く 「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云、 仏滅後の多怨は後五百歳に
04 妙法蓮華経の流布せん時と見えて候、次ぎ下に又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼」等云云、行満座主伝教
05 大師を見て云く「聖語朽ちず今此の人に遇えり 我れ披閲する所の法門日本国の阿闍梨に授与す」等云云、 今も又
06 是くの如し 末法の始に妙法蓮華経の五字を流布して 日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり、 例せば
07 下女が王種を懐妊すれば諸女瞋りをなすが如し、 下賎の者に王頂の珠を授与せんに大難来らざるべしや、 一切世
08 間・多怨難信の経文是なり、 涅槃経に云く「聖人に難を致せば他国より其の国を襲う」と云云、 仁王経も亦復是
09 くの如し取意、日蓮をせめて弥よ天地・四方より大災・雨の如くふり泉の如くわき浪の如く寄せ来るべし、国の大蝗
10 虫たる諸僧等・ 近臣等が日蓮を讒訴する 弥よ盛ならば大難倍来るべし、 帝釈を射る修羅は箭還つて己が眼にた
11 ち阿那婆達多竜を犯さんとする金翅鳥は 自ら火を出して自身をやく、 法華経を持つ行者は帝釈・阿那婆達多竜に
12 劣るべきや、 章安大師の云く 「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親むは 即ち是れ彼が怨な
13 り」等云云、又云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云。
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 疑っていわく、正嘉の大地震等のことについては、さる文応元年七月十六日に宿屋入道に託して、故最明寺入道殿へ奉じたところの勘文、すなわち立正安国論には、法然の選択集に委せて、日本の国が仏法を失うゆえに天神地神は瞋りをなし、自界叛逆難と他国侵遍難が必ず起こると考え論じている。しかし、ここでは正嘉の大地震等を法華経の流布する瑞相であるといっている。安国論と今と相違があるのかどうか。
 答えていわく、あなたは能くこのことを質問した。法華経の第四の巻・法師品に「しかもこの法華経は釈迦如来の現在でさえなお怨嫉が多い。まして滅度の後はなおさらである」等と説かれ、同経第七の薬王品には「まして滅度の後はなおさらである」の意味を重ねて説いて「わが滅度の後、後の五百歳のうちに閻浮提に広宣流布するであろう」等と述べられている。これによれば仏滅後の多怨は後の五百歳である末法に妙法蓮華経が流布する時とみえる。その文の次下に「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等がつけいって、さまざまな災いをなすであろう」等ともある。
 行満座主は伝教大師を見て「聖語は朽ちない。今この人に遇うことができた。私は披閲する所の法門を日本国の阿闍梨に授与する」と語っている。今もまた全く同様である。末法の初めに妙法蓮華経の五字を流布して日本国の一切衆生が久遠の仏の下種を受け妙法を懐妊すべき時である。
 例えば下女が王の子を懐妊すれば、他の多くの女はねたんで瞋りをなすようなものである。下賎の者に王の頂の明珠を授与すれば大難が来ないはずはない。法華経安楽行品の「一切世間に怨多くして信じがたい」との経文はこれである。
 涅槃経には「聖人に難を加えれば、他国からその国を襲う」と説かれている。仁王経もまた同様である。
 日蓮を責めるならば、いよいよ天地、四方から大災害が雨のように降り、泉のように涌き、浪のように寄せてくるであろう。国の大蝗虫である諸僧、近臣等が日蓮を讒訴することがいよいよ盛んになるならば、大難はますます来るであろう。
 帝釈天を射ろうとする修羅は、射た箭が還って己れの眼に刺さり、阿那婆達多竜を火攻めで害そうとした金翅鳥は、自ら火を出して自身を焼いてしまった。法華経を持つ行者は帝釈天や阿那婆達多竜に劣るであろうか。
 章安大師は涅槃経疏に「仏法を壊乱する者は仏法の中の怨である。慈悲がなく詐り親しむのは、相手にとって怨となる」と説き、更に「彼のために彼の悪を除くことは彼の親にあたる行為である」と述べている。
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14   日本国の一切衆生は法然が捨閉閣抛と禅宗が教外別伝との誑言に誑かされて 一人もなく無間大城に堕つべしと
15 勘へて・ 国主万民を憚からず 大音声を出して二十余年が間よばはりつるは竜逢と比干との直臣にも劣るべきや、
16 大悲・ 千手観音の一時に無間地獄の衆生を取り出すに似たるか、 火の中の数子を父母が一時に取り出さんと思ふ
17 に手少なければ慈悲前後有るに似たり、故に千手・万手・億手ある父母にて在すなり、 爾前の経経は一手・二手等
18 に似たり法華経は 「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と無数手の菩提是なり、 日蓮は法華経並びに章安の釈
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01 の如くならば日本国の一切衆生の慈悲の父母なり、 天高けれども耳とければ聞かせ給うらん 地厚けれども眼早け
02 れば御覧あるらん天地既に知し食しぬ、 又一切衆生の父母を罵詈するなり父母を流罪するなり、 此の国此の両三
03 年が間の乱政は先代にもきかず法に過ぎてこそ候へ。
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 日本国の一切衆生は法然の捨閉閣抛と禅宗の教外別伝との誑言にだまされて、一人も漏れなく無間大城に堕ちるであろうと勘えて、国主万民をはばかることなく大音声を出して二十余年の間叫んできたのである。この行為は竜蓬や比干といった諌臣に劣らないであろう。大慈悲の千手観音が一度に無間地獄のなかで苦しむ衆生を救い出すのに似ているといえようか。
 火中の数人の子を父母が一時に取り出そうと思う時、手が少ないから、全部を一時に連れ出すことはできず、どうしても慈悲に前後があることになってしまう。故に仏法は、千手・万手・億手がある父母であらせられる。爾前の経々は、一手二手等の父母に似ている。法華経は方便品に「一切衆生を化導して皆ことごとく入道に入らしむ」とあるように、たとえば無数の手を持つ菩薩である。
 日蓮は法華経ならびに章安の釈の通りであれば、日本国の一切衆生の慈悲の父母である。天は高いけれども耳が早いので聞かれているであろう。地は厚いけれども眼が早いので見ておられるであろう。天も地もすでに知っておられる。また日本国の一切衆生は彼等の父母を罵詈するのであり、父母を流罪にしているのである。この国のこの二、三年の間の乱政は、先代にも聞かない法外なことなのである。

宿屋の入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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最明寺入道
 北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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法然
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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選択
 選択本願念仏集の略。上下二巻よりなる。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻、および「荘厳記」一巻をもって破折されている。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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他国侵遍難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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悪魔
 魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。
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魔民
 魔界の衆生。魔王の眷属の民衆。仏道修行を妨げる働きをするもの。
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諸天竜
 諸々の天神と竜神。
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夜叉
 梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
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鳩槃荼
 梵語クムバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を喰らう、馬頭人身の鬼。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある鬼の一つ。
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選択
 選択本願念仏集の略。上下二巻よりなる。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻、および「荘厳記」一巻をもって破折されている。
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阿闍梨
 梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。
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蝗虫
 バッタ目バッタ科の昆虫の総称。触角は短く,はねは退化したものからよく発達したものまで変化に富む。後肢は長く発達して跳躍に適している。雌は土中に穴を掘って産卵し,多くは卵の状態で越冬する。変態は不完全。草本,特にイネ科植物を好み,トノサマバッタのように大発生し,飛蝗となって農林作物に大被害を与えるものもある。イナゴ・トノサマバッタ・ショウリョウバッタ・オンブバッタなど。
―――
阿那婆達多竜
 八大竜王の一。古代インド伝説中の竜。長阿含経巻第十八にあり、大雪山にある無熱池に棲む竜王で、竜には熱風、熱沙に身を焼かれる苦、突風で塔や衣類を奪われる憂い、金翅鳥に狙われる苦の三種の苦悩があるが、この竜王は無熱池に棲むために苦悩がないといわれている。法華文句巻第二下に「この池は三患なし。若し鳥の心を起こして往かんと欲せば、即便ち命終わる。ゆえに無熱池と名づくなり」とある。
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金翅鳥
 天竜八部衆の一。古代インド伝説上の鳥。迦楼羅の訳名。翅や頭が金色なので、このように呼ばれる。翼をひろげると三百三十六万里あるとされ、須弥山の下に棲み、竜を食す猛鳥で、鳥の王といわれる。
―――
捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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竜蓬
 中国古代夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた諌臣。桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。
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比干
 中国古代の殷王朝の人。殷の紂王の叔父といわれる。殷の三仁の一人で、史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。
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千手観音
 千手を具す観世音菩薩のこと。六観音の一。千手千眼観自在、千眼千臂観世音と称し、身は金色を作し、千手に各々一眼を具し、紅蓮華上に半座し、円満な智慧をもって所願成就を司り、とくに一切衆生を地獄の苦悩から救うといわれている。
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 正嘉の大地震等の災害について、立正安国論では、法然の選択集による一国謗法がその原因であると論じ、いま本抄の前段では、末法に法華経の流布する瑞相であると述べている。この矛盾をどう考えればよいかということである。
 それに対してここで述べられているのは、末法に妙法を流布しようとするとき、必ず大難があること、この妙法を弘める聖人に難をなす故に国中に災禍が起こってくること、しかるに大聖人は、法然などの邪法によって無間地獄におちようとしている衆生を救う「一切衆生の父母」である、ということである。はじめの疑問に対して、この答えがどのようにそれを解いているのか、一見、わかりにくい。あえて論釈すれば、立正安国論で展開されている、一国謗法が災禍の原因であるということも、謗法による邪見のため、真実の法華経の行者である大聖人を迫害する故である、ということになる。つまり、もともと法に対する叛逆のため無間地獄におちなければならないところを、大聖人は「敢えてキズを出す」ことによって気づかせ、改めさせて救うために、厳しく指摘されたのである。もちろん、多くの人々は、大聖人を憎み、新たな謗法を犯した。
 しかし、大聖人という〝人〟への叛逆によって、現世に種々の災禍があらわれ、それだけ、はやく気づくことができるようになる。いわんや、自らの謗法に目ざめて邪法を捨て正法に帰依した人々は、今世から成仏への直道を歩むことができる。この大慈大悲の心から、大聖人は、人々が信ずるか信じないで迫害するかにかかわりなく、あえて、謗法を呵責し、きびしい折伏を敢行されたのである。したがって、立正安国論で論じられている災禍の原因論も、本抄で述べられた瑞相という考え方も、末法弘通のために立たれた日蓮大聖人の第一身において互いに合致しており、なんら矛盾はないことになるのである。
爾前の経経は一手二手等に似たり。法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と、無数手の菩提是なり
 爾前経は、衆生の機根に応じて説かれた、部分観の教法である。そこでは、声聞、縁覚の二乗、及び悪人、女人は絶対に救われないとされた。したがって、これら以外の、条件に叶った人々は、それなりに爾前の経々によって救われるということになる。だが、それは与えて論じた場合である。
 現実には、いかなる人の生命にも、二乗の生命があり、悪逆の心が潜んでいる。また、男女の差も、性転換手術の可能なことが物語っているように、絶対的なものではない。したがって、これらの二乗、悪人、女人が絶対に成仏できないものとするなら、いかなる人も絶対に成仏はできないことになるのである。「爾前の経経は一手二手等に似たり」というのは、あくまで与えていわれたものであることを知らねばならない。
 法華経にいたってはじめて、二乗も、悪人も女人も等しく成仏することが明かされ、十界互具、百界千如、一念三千の法理の上から、一切衆生皆成仏道が現実化されたのである。
日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母なり
 法華経の文とは「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」の文であり、一切衆生に注ぐ無限の慈悲を意味する。章安の釈とは「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」の文で、このことから、一切衆生の無間の大苦を打ち破り、仏道に入らしめようとする御自身を、大慈悲の父母にたとえておられるのである。
 父母たることの条件は、慈悲である。単に生み、育てることでもなければ、まして法律上の関係などではない。この本質的な原理からいえば「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦」(0758)と感じられ、その苦しみの根源を断ち切り、幸福境涯へ導こうとされた大聖人は、一切衆生の親なのである。
 仏の資格は一切衆生に対して主・師・親の三徳を具備されていることにある。大聖人がこの主師親三徳具備の本仏であられることは開目抄をはじめ、諸御書で明らかにされている通りであるが、ここでは、とくにその親徳をあげて、御自身が末法救済の御本仏であることを明言されているのである。

1131:04~1131:15 第七章 母への孝養を説くtop

04   抑悲母の孝養の事・仰せ遣され候感涙押へ難し、 昔元重等の五童は五郡の異性の他人なり兄弟の契りをなして
05 互に相背かざりしかば財三千を重ねたり、 我等親と云う者なしと歎きて途中に老女を儲けて 母と崇めて一分も心
06 に違はずして二十四年なり、 母忽に病に沈んで物いはず、 五子天に仰いで云く我等孝養の感無くして母もの云わ
07 ざる病あり、 願くは天・孝の心を受け給はば此の母に物いはせ給へと申す、其の時に母・五子に語つて云く我は本
08 是れ大原の陽猛と云うものの女なり、 同郡の張文堅に嫁す文堅死にき、我に一人の児あり名をば烏遺と云いき彼が
09 七歳の時・乱に値うて行く処をしらず、 汝等五子に養はれて二十四年・此の事を語らず、我が子は胸に七星の文あ
10 り右の足の下に黒子ありと語り畢つて死す、 五子葬をなす途中にして国令の行くにあひぬ、 彼の人物記する嚢を
11 落せり此の五童が取れるになして禁め置かれたり、 令来つて問うて云く汝等は何くの者ぞ、 五童答えて云く上に
12 言えるが如し、 爾の時に令上よりまろび下て天に仰ぎ地に泣く、 五人の縄をゆるして我が座に引き上せて物語り
13 して云く我は是れ烏遺なり、 汝等は我が親を養いけるなり此の二十四年の間・ 多くの楽みに値へども非母の事を
14 のみ思い出でて楽みも楽しみならず、 乃至大王の見参に入れて五県の主と成せりき、 他人集つて他の親を養ふに
15 是くの如し、何に況や同父同母の舎弟妹女等が・いういうたるを顧みば天も争か御納受なからんや。
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 そもそも悲母の孝養のことを仰せつかわされましたが、誠に感涙押えがたい。
 昔元重等の五人の童子は、五郡より集った姓を異にする他人であった。しかし、兄弟の契りをむすび互いに背かなかったから三千の財を貯えた。さて、われらには親という者がないと歎いて、あるとき、途で老女を得て母と崇め、一分も母の心に違(たが)わずに二十四年を経たのである。
 ところが、母は突然病に沈んで物をいわない。五人の童子は、天を仰いで「われらに孝養の感がないので母は物をいわない病にかかった。願くは天よ、われらの孝養の心を受けられてこの母に物をいわせ給え」といった。
 そのとき、母は五童子に向かって「私はもと太原の陽猛というものの女でした、同郡の張文堅に嫁ぎました。そののち文堅は死にました。我には一人の児があり、名を烏遺といいました。彼が七歳の時に戦乱にあい、行方が知れません。あなた方五人に養われて二十四年の間この事を語りませんでした。わが子には胸に七星の文があり、右足の下には黒子があります」と語り終えて死んだ。
 五人の童子は埋葬する途中で国令の行くのに行きあった。すると、その国令は物を記した嚢を落した。そこで五人が取ったとして縛りつけた。国令は来て「お前達はどこの者か」と問うた。五童は先にいったようなことを答えた。そのとき、国令は上から転げおりて、天を仰ぎ地に伏して泣いたのである。そして、五人の縄を解いて、自分のいた座に引き上らせて物語るには、「私が烏遺である。あなた方はわが親を養ったのである。わたしはこの二十四年間、多くの楽しみに値ったけれども、母のことのみが思い出されて楽しみも楽しみとならなかった」と。
 その後、国令は五人を大王に見参させて、五県の主とさせたのである。他人が集まって他人の親を養ってさえこのようなことがある。まして、父を同じくし母を同じくする弟妹が優しく尽せば、天もどうしてその孝心を受け入れないわけがあろうか。

元重等の五童
 摩訶止観輔行伝弘決巻第四の三に、蕭広済の「孝子伝」を引用し、この話を出している。五童とは、元重、淑重、中重、季重、稚重の五人をいう。それぞれ中山郡、常山郡、魏郡、鉅鹿郡、趙郡と全く異郷の孤児であったが、たまたま衛の国で巡り合い、兄弟の契りを結び一老婆を母と崇めて孝養を尽くした。
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太原
 中国山西省の地名。
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七星の文
 北斗七星の形をした七つのあざか黒子をさすと思われる。
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国令
 ①国の政令。②国主。
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 四条金吾が母を憶い、孝養を営むことについて、いかに孝養が人間として大切なことであり、崇高な行為であるかを、中国の説話を通して教え示されたところである。
 ここに示された中国の故事から、汲めども尽きぬ清浄で美しい人間性をみることができる。その一つは、見ず知らずの他人が集まって、実の母でない人に孝養を尽くしたことである。自分の親でさえ愛し慈しむことのできない中で、義理の母を心底から実母のように愛した行為は、実に美しい人間愛の発露である。
 第二は、義母をわが母と崇めて24年の歳月、一分の心を違えることなく、孝養を尽くしたことである。一口で24年とはいうものの、四半世紀にもおよぶし、俗に二昔ということになる。だが五人にとっては、世間でいう長さや、絶対時間など問題ではない。もし、老婆が更に生きていれば、30年でも40年でも義母の心にそって、一分の心も違えず孝養を尽くしたことであろう。
 第三は、義母の口がきけなくなったときに、「孝養の感が無くなったから母がものをいわなくなったのだ」と、五人が心から自戒したことである。常に自己を反省し、謙虚さを忘れぬ姿勢が、心を清浄無垢にすることを無言で暗示した例といえよう。
 第四は、実子が尊貴な立場となっても、母を憶い浮べていたことである。いつの時代にあっても、人間の本性は変らぬものである。恵まれた境遇であっても、自分を産んだ母を忘れることはできない。それは時代を超えた尊い人間の条件にほかならないのである。
 ともあれ、大聖人は、この説話を通して、人間愛の尊さを訴えられ、肉親の兄弟姉妹が協力し合って慈悲を尽くさなければならないことを教示されている。すなわち、母への孝養を通して、まず細かなことから出発して人間性を深め、身近な人に慈悲をかけることが大事であると、信仰者の姿勢と行動の規範を示されたわけである。

1131:16~1132:13 第八章 門下の信心を激励されるtop

16   浄蔵・浄眼は法華経をもつて邪見の慈父を導びき、提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ臨終悪く
17 して大地破れて無間地獄に行きしかども 法華経にて召し還して天王如来と記せらる、 阿闍世王は父を殺せども仏
18 涅槃の時・法華経を聞いて阿鼻の大苦を免れき。
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 浄蔵と浄眼の二人は法華経をもって邪見の父を導いた。提婆達多は仏の御敵であり、四十余年の経々では見捨てられ、臨終の姿も悪くて大地が破れて無間地獄に堕ちたけれども、法華経で召し還されて天王如来と記別を授けられた。阿闍世王は父を殺したけれども仏の涅槃の時に、法華経を聞いて阿鼻地獄の大苦をまぬかれたのである。
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1132
01   例せば此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候、 一
02 日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり、 是を以て計るに法華経をば釈迦・多宝・十方
03 の諸仏・大菩薩.供養恭敬せさせ給へば此の仏・菩薩は各各の慈父慈母に日日・夜夜.十二時にこそ告げさせ給はめ、
04 当時主の御おぼえの・いみじく・おはするも慈父・悲母の加護にや有るらん、兄弟も兄弟とおぼすべからず只子とお
05 ぼせ、 子なりとも梟鳥と申す鳥は母を食ふ破鏡と申す獣の父を食わんと・うかがふ、 わが子・四郎は父母を養ふ
06 子なれども悪くばなにかせん、 他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし、 舎弟等を子とせられたらば今生
07 の方人・人目申す計りなし、 妹等を女と念はば・などか孝養せられざるべき、 是へ流されしには一人も訪う人も
08 あらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず 、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、 是れ
09 偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。
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 例えばこの佐渡の国は畜生のようなものである。またこの国には法然の弟子が充満している。鎌倉で人々が日蓮を憎んだよりも百千万億倍も憎んでいる。よって、一日でも寿があるとは思えないが、あなた方の志のゆえに、今まで寿を支えてきたのである。このことをもって推し計ると、法華経を釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩が供養恭敬されているので、この仏や菩薩達は、あなた方の父母に日々、夜々、十二時に、法華経の行者・日蓮があなた方の子によく助けられていますと告げられることであろう。現在、あなたが主君の寵愛を受けているのも、慈父悲母の加護によるのであろう。
 兄弟も兄弟と思われるな。ただわが子であると思いなさい。だが子であっても梟鳥という鳥は母を食べる。破鏡という獣は父を食べようとそのすきをうかがう。わが子・四郎は父母を養う子であるが悪ければどうしようもない。他人であっても心から語り合えば命にも替わるのである。舎弟等をわが子とされたならば今生の味方となり、まして傍の目によいのはいうまでもない。妹達を娘と思えば、どうして孝養されないであろうか。
 日蓮が佐渡へ流された時には一人も訪ねてくる人はないだろうと思っていたが、同行する者は七八人を下らない。上下の資糧もあなたがたのお計らいがなければどうにもならない。これはひとえに法華経の文字があなた方の身に入り替って日蓮を助けているのであると思う。
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10   何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く
11 強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。
12     四条金吾殿御返事                       日蓮花押
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 どのような世の乱れにも、あなた方を法華経・十羅刹よ助け給へと、湿っている木より火を出し、乾いた土より水を出すように、強盛な信心で祈っている。事が繁多となるので止めて置きます。
                  日 蓮  花 押
   四条金吾殿御返事

浄蔵・浄眼
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている妙荘厳王の二子で、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父にいろいろな神通力を現じてついに仏の教えに帰依させた。その因縁をたずねると、昔仏道を求める四人の道士がいた。生活の煩いが多く修行が妨げられた。そこで一人が衣食を受けもち、他の三人が仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した道士がその功徳により国王と生まれ、他の三人は、その夫人と二王子に生まれ王を救うことを誓った。これが浄徳夫人、浄蔵、浄眼で、国王が妙荘厳王であるといわれる。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
阿闍世王
 阿闍世とは未生怨と訳される。釈尊在世ごろ中インドのマガダ国の王。父は頻婆舎羅王、母は韋提希夫人。父王に世継ぎがなかったので占師に夫人を占わせた。すると山中に仙人がいて、その仙人が死後に太子と生まれ変わると予言した。そこで王は早く子がほしいため、仙人の化身したうさぎを殺した。まもなく夫人は子を身ごもり、やがて男子が生まれた。子は長じて提婆達多に親近し、父を殺し、母を幽閉し、釈尊に危害を加えた。だが全身に悪瘡ができて臨終に近づいた。釈尊は阿闍世のために月愛三昧に入り涅槃経を説いた。その結果、悪瘡は癒えて寿命を延ばした。そのことで阿闍世は心から釈尊に帰依し仏滅後経典の結集に力を尽くしたといわれる。
―――
十二時
 一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。
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梟鳥
 梟鳥禽。フクロウのこと。俗に成長すると母を食うといわれるので、母食鳥とも不孝鳥ともいう。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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 邪見の親、邪智の師、暴逆の主であっても、法華経の功徳力によって、必ず成仏できることがまず説かれている。
 次に、鎌倉よりも数百倍、数千倍、いな数億倍も大聖人を憎みきっている佐渡にあって、今日、命を長らえているのは、門下の信心の賜物であり、法華経・御本尊の加護であると仰せられている。
 また、大聖人を命がけで守る四条金吾等に対して、一族における人間関係のあり方について指導され、最後に「何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと……強盛に申すなり」と、御自身逆境のさなかにありながらも、なおかつ、どこまでも弟子檀那を思われ、大慈大悲の御文をもって結ばれている。
兄弟も兄弟とおぼすべからず、只子とおぼせ
 兄弟が互いに低い次元でおれば衝突も摩擦も起こりうる。利害が対立して、二度と合わない亀裂を生む場合すらある。そこで、兄弟同士がどうしたらつねに団結し力を合わせていけるか、その秘訣を教えられているのである。
 「兄弟も兄弟とおぼすべからず」とは、他人と思えというのでは決してない。親が子を思うように思いなさいとの指南である。つまり、親が子を愛するような深く幅の広い境涯に立つべきであるとの示唆にほかならない。
 ところで、子といっても、次下の文で示されるように、母を食うフクロウ、父を食う破鏡といった、子が親を殺して食べる畜生がいるように、親を食いものにする人間もある。反対に、他人であっても、本当に心が通じ合えば、生命をかけて守ってくれることもある。
 ともあれ、弟を我が子と思い慈むならば、生きている限り自分の味方となり、傍からの目も兄弟愛に満ちた兄弟と映り、実に良いことである。妹を自分の娘であると常に親身になって思えば、必ず自分を守りいたわってくれることは間違いない。
 こうした細かい人情の機微にふれて、思いやりあふれる指導をされている段である。
何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 祈りというものが、本来、いかにあるべきかを、この御文から拝することができる。
 およそ、自分自身のことは、自らの力で、どのようにでも切りひらいていくことができるものである。信仰者といえども、自身の努力以外の力によって事の成就を願うのは、人間の主体性を本源的に樹立することをめざした仏法の精神に反するのである。
 その意味で「天は自ら助くるものを助く」というのは、人間として全ての人に通ずる大前提というべきであろう。その自らの力を養い、努力がそれにふさわしい結果を生むために、仏法の実践は測り知れない働きをするといえよう。
 これに対し、自分以外の人に関することはただ祈る以外にない。まして、この時の大聖人のように、御自分は佐渡にあり、四条金吾はじめお弟子たちと遠く離れている場合、いかんともしがたい。このいかんともしがたいお弟子たちのことを、大聖人は「法華経・十羅刹助け給へ」と強盛に申されているのである。
 しかも、その様は「湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く」である。それは、合理性、理屈を超えたものであろう。だが、道理に合った当然のことであれば、祈るまでもなく、自身の力で努力すればよいのである。不可能と思われることを可能にするところにこそ、祈りの所以があるのだ。
 ともあれ、このように、強い祈りをもって弟子たちのために祈られる大聖人のお心に、仏としての崇高なまでの大慈悲を拝することができる。

1125~1132    呵責謗法滅罪抄 2015:02大白蓮華より先生の講義top

広宣の旗高らかに!仏勅の使命を確信
 2月は、日蓮大聖人の御生誕の月です。
 大聖人は「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0587-09)と仰せです。
 この御金言に象徴されているように、大聖人の御生涯を貫くものは、人々の苦悩をどこまでも同苦され、万人を幸福にせずにはおかないという「民衆救済の大慈悲の誓願」でした。
 いかなる迫害にも屈しない御胸中には、常に広宣流布の大願が赤々と燃え盛っていました。それは、極寒の佐渡にあっても、決して変わることはありませんでした。
 むしろ「喜悦はかりなし」(1360:17)との歓喜の大確信に立たれ、佐渡から遠く離れた弟子たちに対して、「私と共に大願に生き抜け!」激励を送り続けられています。
 広宣流布とは、仏意仏勅の使命であり、人類救済の壮大な旅路です。御聖訓に照らし、その過程には、さまざまな障魔や苦難が必ず競い起こります。その時にこそ、本当の信心が試されるのです。
 だからこそ、師匠は常、常に弟子が大成するように祈り、激励していきます。
 共に誓願を成就しようと、勇気と希望を絶えず送ってくださいます。ほんとうにありがたいことです。
師弟の世界・同志の世界
 わが師・戸田城聖先生もまた、常に弟子に励ましを送ってくださいました。2月は、恩師・戸田先生の誕生の月でもあります。今年は、満115歳の誕生日ともなります。
 励ましを重ね、共々に、妙法流布へ前進していく、それが、広布の師弟の世界であり、同志の世界です。
 御書には、大聖人が厳しい状況下の門下を励まされるお言葉が満ちあふれています。
 世界広宣流布新時代の勝利を開くこの時に、今回拝読する「呵責謗法滅罪抄」に大聖人が込められた御心情を学び、仏勅の師弟の使命を確認していきましょう。

呵責謗法滅罪抄    文永十年    五十二歳御作
01   御文委く承り候、法華経の御ゆへに 已前に伊豆の国に流され候いしもかう申せば謙ぬ口と人は・おぼすべけれ
02 ども心ばかりは悦ば入つて候いき、 無始より已来法華経の御ゆへに実にても虚事にても科に当るならば争か・かか
03 る・つたなき凡夫とは生れ候べき、 一端は・わびしき様なれども法華経の御為なれば・うれしと思い候いしに少し
04 先生の罪は消えぬらんと思しかども無始より已来の十悪.四重・六重・八重・十重.五無間・誹謗正法・一闡提の種種
05 の重罪・大山より高く大海より深くこそ候らめ、
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 お手紙、委しく承りました。法華経ゆへに已前、伊豆の国に流されたのも、こおようにいえばへらぬ口人は思うであろうけれども、心のなかでは悦びにひたっていたのである。
 無始から今に至るまで、法華経の信仰のために、真実にして虚事にしても、罪を被ったことがあるならば、どうしてこのような拙い凡夫として生まれてくることがあろうか。
 したがって、流罪の身は、一端はわびしいようであるが、法華経のための受難であるから、嬉しいと思い、少しでも先生の罪が消えるであろうと思った。しかし無始から今に至るまでの十悪・四重・六重・八重・十重・五無間・誹謗正法・一闡提の種々の重罪は、大山よりも高く、大海よりも深いであろう。

法難こそ法華経の行者の証明
 本抄は、文永10年(1273)、大聖人が流罪地である佐渡から鎌倉の四条金吾に送られたお手紙であるとされてきましたが、詳細は不明です。ただ、本抄を送られた門下が、鎌倉の在住で、激しい迫害にさらされていたことは、間違いありません。
 本抄は随所に「開目抄」に通じる仰せが拝されます。同志と共に「開目抄」を繰り返し拝しながら、忍耐強く信心に励んでいた人ではないかと推察されます。
 その厳しい状況の中で、この門下は、亡き母の追善のために、大聖人に御供養をお届けしました。本抄は、その真心に対する御礼のお手紙です。
 御供養に添えられていた手紙には、迫害の厳しさや信心に十分な理解のない親族の状況、その中でも師匠の教えを守り、信心を貫こうとする決意などが縷々、綴られていたことでしょう。
 それに対して、大聖人は冒頭、「お手紙、詳しく承りました」と応えられています。そして、ご自身の迫害の半生を振り返られます。
 大聖人は続いて、伊豆流罪の時から、法華経の故に難に遭うことを「心ばかりは悦び入って候いき」と仰せです。なんという大境涯でしょうか!
 そして、そのように言われた理由を三世の生命観から示されています。
 ――私たちは無始という遠い過去から、法華経に巡り合う機会は無数にあった。そのたびに成仏できるはずだが、いまだに成仏できず、この悪世に生まれたということは、命を賭して法華経への信を貫くことができず、その無数の機会を逃してきたということなのである。
 だからこそ、今度ばかりは、命懸けで信心を貫いて成仏するのだ――
 それゆえ、「流罪の身は、一端はわびしいようであるが、法華経のための受難であるから、うれしいと思っていた」と述べられ、法難こそが法華経の行者の証明であるとの大確信を示されているのです。
 これは、まさに開目抄で「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200-09)と示された、立宗の時の誓願を再度述べられた仰せです。
 さらに、本抄で大聖人は、謗法こそが、私たち凡夫が苦悩に喘ぐ根本原因であることを明かされています。
 この苦悩の根本原因である謗法を根こそぎ断ち切るのは、信心の利剣、すなわち正法に対する堅固な信心です。
 強盛な信心を起こし、不信謗法の根を断つて正法を護持・弘通すれば、護法の功徳力で転重軽受して、この一生で必ず成仏できると仰せです。
転重軽受・宿命転換の大功力
 大聖人は、佐渡期の御書で、幾度も転重軽受・宿命転換の法理を教えられています。
 とりわけ、大聖人自らが凡夫の姿で重い宿業を必ず転換できる道を示してくださっています。
 宿業の重さを嘆くことも、罪障消滅への道の険しさを憂える必要もない。その反対である。妙法こそが宿命を完璧に転換できる法であり、三世にわたる永遠の幸福境涯を今、築くことができると教えられているのです。
 謗法が充満し、迫害が絶えない時代は、むしろ、罪を消し去っていける千載一遇の機会なのです。それゆえ、「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-16)なのです。
 本抄では「此の時此の重罪を消さずば、何の時をか期すべし」と記され、“この時を逃すな!今が「まことの時」である。難が連続するこの時こそ、またとない宿命転換の機会だ”と教えられています。
 開目抄では「鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、 度度せむれば・きずあらはる」(0233-02)と仰せです。一つ一つの障魔や難こそが、生命という鉄を鍛錬し、罪障という傷を責め出していく。それによって、何ものにも敗れない立派な宝剣へと鍛え上げられるのです。
逆境の中でこそ大願に生きる
 本抄で大聖人は「心ばかりは悦び入って候いき」「法華経の御為なればうれし」と繰り返し仰せです。
 流罪の地にあって、むしろ、喜んで、今こそ末法広宣流布の時であり、御自身と門下の使命がいかに甚大かを教え、ますます信心の折伏行に邁進していこうと、わが一門に呼びかけられています。この佐渡期の大聖人の御境涯と熱鉄の如き大願に触れて、門下の一人一人が勇気を湧き立たせ、境涯を広げていきました。それが、大難を乗り越え、逆境をはね返す根源の力になったであろうことは想像に難くありません。
 大聖人は、「開目抄」で示されている通り、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(0232-01)と忍難弘通を開始され、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべ からず」(0232-05)と民衆救済の「大願」を立てられました。
 末法の教主として南無妙法蓮華経の法旗を高く掲げられ、未来永遠の揺るぎない幸福の軌道を、この現実世界に確立するため、広宣流布の大闘争を展開されたのです。この精神を拝さずして日蓮仏法は存在しません。
 この大願を現在に蘇らせ、不惜の闘争で実現してきたのが、創価の師弟です。
 本年、第二次世界大戦終戦70年を迎えます。70年前、恩師戸田先生は焼け野原に一人立たれました。
 国家神道を精神的支柱とする軍部政府の不当な迫害に、勇敢に抗して殉教された先師・牧口常三郎先生。その師と共に投獄され、2年後に出獄した戸田先生は、弟子として仇を討つこと、すなわち、師匠の偉大さと正義を宣揚することを誓われました。
 そして、日蓮仏法の人間主義に基づく「創価」の思想を広げ、世界を「悲惨」の二字から解放しようと、一人一人を蘇生させながら、大民衆運動を開始されたのです。
 わたしもまた、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(0232:01)との「開目抄」の誓願を深く胸に刻み、第3代会長に就任しました。昭和35年5月3日のことです。
 その日の日記には、「生死を超え、今世の一生の法戦始む」と綴りました。「開目抄」の一節は、会長就任の時の私の決意であり、以来、55周年を迎える本年まで、片時も、わが胸から離れたことはありません。

11   然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、 日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの
12 各仏法を見ほどかせ給わぬが 何程か日蓮に付いてくやしと・ おぼすらんと心苦しかりしに、 案に相違して日蓮
13 よりも強盛の御志どもありと聞へ候は 偏に只事にあらず、 教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙
14 押え難し、 妙楽大師の釈に云く記七「故に知んぬ末代一時も聞くことを得聞き已つて信を生ずる事宿種なるべし」
15 等云云、 又云く弘二「運像末に在つて此の真文を矚る宿に妙因を殖うるに非ざれば実に値い難しと為す」等云云。
-----―
 しかしながら凡夫であるので、ややもすれば後悔するこころであった。日蓮でさえも、このようであるのに、物事の前後をつきかねる女の人などの、あなた方、仏法を理解していない方が、どれほどか日蓮に付き従ったことを後悔しているかと思うと、実に心苦しかったのである。しかし案に相違して強盛の信心であると聞きましたが、これは全くただごとではない。教主釈尊があなた方の心に入り替わられたのではないか、と思えて感涙押えがたいほどであった。
 妙楽大師の法華文句記の七に「末代において一時でも正法を聞くことができ、聞き已つて信を生こすことは、過去世において、法華経の下種であった故であると知ることができる」といっている。また弘決も二にも「像法の末に生まれて、法華経の真文をみることができた。宿世に妙因を殖えたのでなかれば、実に妙法は値いがたいのである」と述べている。

共に戦う門下を最大に賞讃
 ここで仰せのように、私たちは凡夫であるので、ややもすれば後悔する心も起こるものです。
 時には、こんなに大変なら信心しても意味がないとか、信心しなければこんな苦しい思いをしなくてすんだのにとか、ついつい目先の苦しみに負けてグチをこぼしてしまうことがあるかもしれません。
 そうした凡夫の特性をよくご存じのうえで、その凡夫が偉大な成仏への道を歩む方途を教えてくださったのが大聖人です。凡夫に内在する仏性への根本の信頼と尊敬があるのが、真の仏法です。
 とりわけ大聖人は本抄で、女性の信心を讃えられ、激励されています。
 師弟共に大変な迫害の中で、「大聖人以上に法華経を深く信じている」と思われるほどの信仰を貫き通す女性門下がいたのです。大聖人は、これは、「只ごとにあらず」と励まされています。
 流罪地で食料の調達もままならないところに、自らも大変であろう鎌倉の地から、命をつなぐ御供養をお届けした、健気な女性門下に対する、大聖人の最大の賞讃のお言葉であると拝されます。
一人一人へ感謝の思い
 こうした門下たちの行動に対して「教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思えば感涙押え難し」とも仰せです。
 地涌の菩薩の棟梁として、仏勅の広宣流布を不惜身命で進める大聖人を支えていることは、教主釈尊の御心を身に体されているのかと思われ、感涙を抑えがたいことですと言われています。
 大聖人は、本抄以外の御書でも、「涙を抑えがたい」と御心情を綴られています。
 「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し」(1069-09)あるいは「これはなみだをもちて・かきて候なり。」(1535-15)「なみだもとどまらず」(1595-13)等と仰せです。
 これらの御文には、門下の激闘を讃える感謝の思いが綴られています。
 「法華経の行者である師匠を支え、広宣流布に生き抜く人生がどれほど偉大か――。
 大聖人は末法広宣流布という御自身の大使命に連なる門下を最大に賞讃されるとともに、末法に法華経を自ら信じ、他の人にも弘める一人一人が、使命深きそんざいであることを強調されています。
師弟の絆は過去からの宿縁
 続いて、妙楽大師の釈を引いて、「聞きがたき妙法を今、この時に聞くことができ、しかも聞いた後に信ずることができたのは、過去世からの深き縁に結ばれているのだ」と、宿縁が深厚であることを述べられています。
 そして、現実に、末法で妙法を弘める大聖人こそが、久遠の仏の本弟子であり、滅後弘法の付嘱を受けた地涌の菩薩の使命を果たしていくことを説かれていきます。
 大聖人とその一門の使命が、どれだけ仏教上、重要な存在なのか、釈尊の真意を示しながら、妙法を唱え弘める行動が、いかに仏法の正統の実践であるかを明らかにされていきます。
 そこでまず、「釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして、初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕されたのである」と述べられています。
滅後末法に妙法五字を流布
 そして、「此の五字」の弘通は、末法になって初めて、教主釈尊の本弟子である地涌の菩薩が出現して行うことが明かされているのです。
 さらに実際に、釈尊滅後、正法・像法の2000年間に、さまざまな菩薩が偉大な正師となって出現したものの、法華経の流布は行わなかったことを指摘されています。
 そして、いよいよ末法に入り、地涌の大菩薩が出現する時を迎えたことを宣言され、「法華経の滅不滅の大難を明かされて、地涌の菩薩による妙法流布の時代が到来されたことを示されます。
 しかし、悪世末法ゆえに迫害も尋常ではありません。その嵐を突き抜けて、一国に仏法流布の時を創ってきた大聖人の大闘争が、次に綴られていきます。

08   二千余年の間・悪王の万人にソシらるる謀叛の者の諸人に・あだまるる等日蓮が失もなきに高きにも下きにも罵
09 詈毀辱刀杖瓦礫等ひまなき事二十余年なり、 唯事にはあらず 過去の不軽菩薩の威音王仏の末に 多年の間・罵詈
10 せられしに相似たり、 而も仏・彼の例を引いて云く我が滅後の末法にも然るべし等と記せられて 候に近くは日本
11 遠くは漢土等にも法華経の故にかかる事有りとは 未だ聞かず人は悪んで是を云はず、 我と是を云はば自讃に似た
12 り、云わずば仏語を空くなす過あり、 身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す、 日蓮は彼の不軽菩薩
13 に似たり、国王の父母を殺すも民が考妣を害するも上下異なれども 一因なれば無間におつ、 日蓮と不軽菩薩とは
14 位の上下はあれども 同業なれば彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや、 
-----―
 仏滅後二千余年の間、悪王の万人に訾られたり、謀反の者が諸人にあだまれたりした。しかし、日蓮は世間の失もないのに身分の高い人からも、また下い人からも、悪王や謀反人のように罵詈され、毀辱され、刀や杖で打たれ、瓦礫を投げられるなど、迫害のひまないこと二十余年である。これはただ事ではない。
 過去の不軽菩薩が威音王仏の末世に、多年の間罵詈されたことに似ている。しかも釈迦仏は不軽の例を引いて、我が滅後の末法にもそうなると記されている。だが、近くは日本、遠くは漢土等にも、法華経のゆえにそのような事があったとはいまだ聞かない。人は日蓮を憎んでこれをいわないのである。
 自分からこれをいえば自讃に似ている。しかしこれを言わなければ仏語を虚妄にする過がある。身を軽んじて法を重んずるのが賢人であるというのである。
 日蓮は彼の不軽菩薩に似ている。国王が父母を殺すのも、民が父母を害するのも、身分の上下は異なるけれども同一の業因なので無間地獄に堕ちる。日蓮と不軽菩薩とは名字凡夫と初随喜というように位の上下はあるけれども、同じ業なのだから彼の不軽菩薩が成仏されるならば、日蓮が仏果を受けることを疑えるだろうか。

不軽と同じ民衆尊敬の仏因
 「民衆が苦悩に沈む濁世」を「民衆凱歌の時代」へと変革するには、前代未聞の大難を乗り越え前進していく地涌の菩薩が必要です。この大偉業を遂行する根本の哲学こそ、万人の仏の生命を呼び覚ます法華経の法理です。それは不軽菩薩の行動にあります。
 本抄で大聖人は、御自身のお振る舞いが、不軽菩薩と全く同じであると指摘されます。
 そして、不軽菩薩が成仏して釈迦仏となったのだから、同一の因を行じている大聖人の成仏も疑いない、と御断言なさっています。
 ここで「悪口罵詈」「猶多怨嫉」が強調されています。
 なぜ、難が起こるのか、それは、悪世で、煩悩に駆られ迷える人々は、自らを幸福へとみ導く正法を正法として認識できず、かえって反発・敵対・怨嫉し、謗法を犯すからです。
 大難こそが、法華経の行者の証明です。言い換えれば、人々の無明を転換する根本の変革を促してこそ真の法華経の行者です。
 そのうえで、仏法の精神の崇高さは、自身を迫害してきた人々をも救い、全ての民衆を成仏させようと戦うことにあります。
 流罪地で命を狙われている状況にありながら「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509-05)と、迫害する人々を真っ先に救おうとされたのが、大聖人の御境涯です。本抄の「日本国の一切衆生の慈悲の父母なり」との御文に、大聖人自身が覚知なさった大使命が浮き彫りになるとともに、その大慈大悲が迫ってきます。
 法華経は、万人に具わる尊厳性を開く人間主義の教えです。それに反発する謗法とは、人間蔑視、差別主義、生命破壊の悪を孕むものです。そうした悪は、どこまでも破折しぬかなければなりません。そのうえで、大聖人は、御自身を迫害する国主などを断じて救おうとされたのです。
 先に触れた不軽菩薩の実践に象徴されるように、「万人に仏性があることを確信すること」が仏法の根本です。相手の地位や立場に関係なく、等しく皆を尊厳なるそんざいとして敬い、相手の仏性に向って法を説く――これが、広宣流布を目指す仏法者の姿勢です。
 この大聖人の大慈悲の折伏精神を現代に受け継ぎ、広宣の旗を高らかに掲げているのが、創価学会です。
偉大なる運動の五つの段階
 かつてマハトマ・ガンジーは、偉大なる運動は、「無関心」「嘲笑」「非難」「抑圧」「尊敬」の五つの段階を必ず経ると語っています。
 この通り、草創の学会員は信仰ゆえの無理解な非難、中傷、迫害を受けてきました。特に沖縄や奄美をはじめとした、離島メンバーの艱難辛苦は、筆舌に尽くしがたいものがありました。
 そうした多くの地で、粘り強く地道な対話と献身的な地域貢献の活動によって、今では周囲から信頼を勝ち取り、学会への理解を大きく深めていきます。離島でも、山間地でも、広宣流布への模範の楽土を築いています。地域に根を張り、周囲から賞讃され、私たちの民衆運動が喝采される宝土が増えています。
 まさしく、ガンジーが言うところの「尊敬」を集める地涌の連帯が全国に、そして世界に広がる時代を迎えました。逆縁の人々を救い、順縁広布の時を切り開いてきたのです。
 学会員の祈りと行動には、「万人尊敬」の哲学があります。どんな人も宇宙大の可能性をもっている。だから、懸命な人、苦しんでいる人を見たら、はげまさずにはいられない。この境地を確立しているからこそ、たとえば、かつて誤解ゆえに批判してきた人でも、大きく包み、その人の幸福を祈らずにはおられないのです。常に「人を敬う」振る舞いに徹してきたがゆえに、いかなる地をも、立正安国の仏国土へと転換してきたのです。これほど尊い、これほどの偉業を成し遂げた方々はいません。まさ
しく「偏に只事にあらず」です。御本仏が「感涙押え難し」と大賞讃されることは間違いありません。
 皆様の人生の見事な勝利の実証です。
 偉大な人生の逆転劇のドラマです。
 人間王者の堂々たる凱歌の舞台です。
 この広宣流布の大勝利は、もはや誰人もとえることはできません。民衆史に残る大偉業であると、世界の人々から賞讃される段階を迎えたのです。

07                                      是へ流されしには一人も訪う人も
08 あらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず 、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、 是れ
09 偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。
-----―
 日蓮が佐渡へ流された時は一人も訪ねてくる人はないと思っていたが、同行する者は七・八人を下らない。上下の資糧もあなたがたのお計いがなければどうにもならない。これはひとえに法華経の文字があなた方の身に入り替って日蓮を助けているのだと思う。
-----―
10   何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く
11 強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。
12     四条金吾殿御返事                       日蓮花押
-----―
 どのような世の乱れにも、あなた方を法華経・十羅刹よ助け給へと、湿っている木より火を出し、乾いた土より水をだすように強盛に祈っている。事が繁多となるので止めて置きます。
     四条金吾殿御返事                     日蓮花押

不可能を可能にする強盛な祈り
 広宣流布を担いゆく大事な門下だからこそ、乱世の中、断じて守りたい。本抄の結びには、その大聖人の思いが留められています。
 まず、鎌倉よりも「百千万億倍」も、人々が大聖人を憎んでいる佐渡にあって、今日まで命を永らえているのは、門下の真心の御供養によるおのであり、その一人一人の身に法華経の文字が入って、法華経の行者の命を助けられていると思われてならないと感謝し、讃嘆さえています。
 その心を綴られたのが、末尾のお言葉です。「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹女・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」
 鎌倉から遠く離れた佐渡の地で、弟子を思われる大聖人の御真情が烈々と迫ってきます。
 世の中が乱れているからこそ、わが門下たちの無事を真剣に願っているとの熱いメッセージが込められています。湿った木より火を出し、乾いた土より水を得るように、強盛に祈っているとの強いメッセージがつたわります。“弟子を断じて守り抜かずにおくものか!”との温かいメッセージが贈られています。
 大聖人の祈り、それは御自身の一念が、あらゆる状況を変えていくとの誓願の祈りです。自身の祈りで、あらゆる苦難を断じて突破し、全ての同志を守り切ってみせる――。
 私も、あの不可能を可能にした関西の戦いで、真っ先にこの御文を共に拝し、一緒に挑戦を始めました。私たちは、これからも、この大聖人の大確信を胸に、強盛なる祈りから出発し、前進してまいりたい。
「創価の師弟に一生をかけていけ」
 じんせいにおける最大の喜びとは何か。それは、人生の師匠に巡り合うことです。自身の全てを受け止め、守り、教え導き、育ててくださる師匠は、人生の最大の宝です。胸中に師をいだき、師と共に生きる中、無限の挑戦と成長があります。師と共に生きる人生に行き詰まりはありません。
 恩師・戸田先生と共に戦った青年時代が、私の一生を決めました。恩師は厳しくも温かく教育してくださり、広宣流布のために、人生と社会を勝ち抜く根本の道を教えてくださった。
 「創価の師弟に、一生をかけていけ!後悔は絶対ない」
 「まず自分自身が変わることだ。絶対に人を頼るな!自分自身が戦え!」
 「今が勝負だぞ。難があった時に、信心し抜いていけば、あとは功徳は大きい。題目を唱え切れ!」
 「肚を据えるのだ。人は人、自分は自分である。何があっても、私は戦うんだ!――こそ精神が一番、だいじなのだ」
 これらの言々句々は、今も私の耳朶から離れません。私は今も、戸田先生と心の中で対話しながら、世界広布の指揮を執っています。
 かつて世界的な国際法学者で、米・デンバー大学副学長のナンダ博士が、今日のSGIの大発展を理由として、創価の師弟に注目され、こう語られていました。
 「師弟の関係ほど、人々の心に深い共鳴と啓発を与えるものはありません。真の弟子の関係は、自分が何をすべきかを、弟子に目覚めさせるものです。そして、弟子に真に求められるものは、師匠の教えの実現であり、実証です。
わが地域に平和と友情の連帯を
 本年、SGIは発足40周年の佳節を迎えました。また、10月は、私の初の世界平和旅から55周年にも当たっています。訪問した一国また一国で、また一地域で、地涌の菩薩の出現を祈り、「仏の種」を植える思いで唱題を続けました。あれから半世紀余り――。今やSGIは、世界中で、平和と友情の花を咲かせる地球市民の大連帯へと発展しました。
 師弟が力を合わせて祈る時、広宣流布への大きなうねりが巻き起こります。仏勅の使命のわが地域に、共々に創価の師弟の勝利劇を綴っていこうではありませんか。

1132~1133    主君耳入此法門免与同罪事(与同罪事)top
1132:01~1133:02 第一章 生命の尊厳を説くtop

主君耳入此法門免与同罪事    文永十一年九月    五十三歳御作   与四条金吾
01   銭二貫文給び畢んぬ。
02   有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕つ、 然れば輪王は十善の始には不殺生・仏の小乗経
03 の始には五戒・其の始には不殺生、大乗・梵網経の十重禁の始には不殺生、 法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒
1133
01 の功徳に当つて候品ぞかし、 されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ六欲天も是を守る事なし、 此の由は世
02 間の学者も知れり日蓮もあらあら意得て候、 
-----―
 銭二貫文いただきました。
 有情の第一の財は命にすぎるものはない。これを奪う者は、必ず三悪道に堕ちる。それゆえ、転輪聖王は十善戒のはじめには、不殺生戒を守り、仏は小乗経のはじめには五戒を説き、そのはじめには不殺生戒を説いている。大乗の梵網経の十重禁戒のはじめにも不殺生戒を説いている。法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生戒の功徳に相当する品なのである。それゆえ、殺生をする者は、三世の諸仏に捨てられ、六欲天もこの人を守ることはない。このことは世間の学者も知るところであり、日蓮もだいたい心得ている。

銭二貫文
 一貫文は銭千枚、千銭のことで、千文ともいう。したがって、銭二貫文は銭二千文のこと。当時の記録によると、銭一貫文で米150㎏が買えたとある。
―――
有情
 梵語の薩埵、薩埵嚩(sattva)の新訳。旧訳では衆生とする。感情や意識をもっている、生あるものの一切の総称。草木、山河、大地などの非情に対する語。
―――
三途
 死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。
―――
輪王
 転輪聖王または転輪王ともいう。仏教で説く理想の君主で、即位するとき天より輪宝を感得し、その輪宝を転じて四方を制するのでこの名がある。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、感得する輪宝によって、それぞれ金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王とよばれる。
―――
十善
 十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
   ①  不殺生
   ②  不偸盗
   ③  不邪淫
   ④  不妄語
   ⑤  不綺語
   ⑥  不悪口
   ⑦  不両舌
   ⑧、 不貪欲
   ⑨  不瞋恚
   ⑩  不邪見
―――
不殺生
 戒律に規定されたことで,生物の生命を絶つことを禁止する戒。これを犯して殺すものは,僧伽では最も重い波羅夷 (教団追放の罪) になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
―――
梵網経
 「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
―――
十重禁
 十重禁戒のこと。十種の重大な禁戒。梵網経では、これらの戒を犯すと無間地獄に堕ちると説かれている。
   ①  快意殺生戒   決楽のためいたずらに生命あるものを殺害してはならない
   ②  劫盗人物戒他  人のものを盗んではならない
   ③  無慈行欲戒相  手を思いやる慈悲の心なくして婬欲を行じてはならない
   ④  故心妄語戒   わざと相手をだましてはいけない
   ⑤  酤酒生罪戒   酒を売ってはならない
   ⑥  談他過失戒他  人の過失をことさらに語ってはいけない
   ⑦  自讃毀他戒   自分を褒め他人を謗るのはいけない
   ⑧  慳生毀辱戒人  に教えを施すことを慳貪し、求める人に恥を与えてはいけない
   ⑨  瞋不受謝戒   立腹して相手の謝罪を受けず、なお怒りを向けてはいけない
   ⑩  毀謗三宝戒三  宝すなわち仏宝、法宝、僧宝を貶してはならない
―――
六欲天
 天上界のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界をいう。六天ともいう。またそのうちの最高位・他化自在天を特に指して言う場合もある。他化自在天は、天魔波旬の住処であることから第六天の魔王の住処とされている。
―――――――――
 本抄は、文永11年(1274)9月、四条金吾が主君・江馬光時に仏法について語り、信仰を勧めたことに関し、著わされたお手紙である。すなわち、四条金吾は、ひとたび主君を折伏することによって、相手が発心するしないにかかわりなく、すでに与同罪をまぬかれたのであると激励され、以後は充分に口をつつしみ、金吾を憎んでいる人人につけこむ隙を与えないよう、注意を促されている。
 しかしながら、本抄のもつ意義は、そうした四条金吾の身にかかる特殊な状況における指導というにとどまらず、仏法が生命の尊重を第一義とすること、この罪を犯す者は深重の苦を受けなければならないこと、ただし、そこで受ける罪の大きさは、相手の果報の大小による、等といった、生命の尊厳という原理について述べられている点にある。
有情の第一の財は命にすぎず。此れを奪う者は必ず三途に堕つ
 生命は尊厳である、ということは誰しも認めるところである。では、なぜ、尊厳なのかとなると、尊極だから尊極だとぐらいしか答えられないのが実情であろう。この「なぜ、尊厳なのか」という問題について、この一節は、見事に解答を提示されているのである。
 すなわち、あらゆる生きとし生けるものにとって、究極的な価値、目的は、自らの生を守り維持することにある。一応、ここでは有情――つまり、意識能力をもった生物を代表として挙げられているが、たとえば草木であっても、そのあらゆる機能、活動は、その生命を維持するためにあることを思えば、この文のもつ意味は、瞭然たるものがあろう。
 尊厳とは、かけがえのないこと、他の何物とも代えられないことであり、他の目的のために手段にできず、それ自体が究極の目的であるということである。それを、大聖人は「第一の財」と表現されたのである。
 なにごとにせよ、所有主が大切にしているものを奪ったり、傷つけたり、壊したりすることは罪になる。そして、大切にしているものであればあるほど、それを奪い、破壊した罪は深く大きいのである。生命は、あらゆる生命体にとってもっとも「第一の財」であるが故に、これを奪うことは重罪であり、必ず地獄、餓鬼、畜生の三途に堕ちるのである。
 このことから、あらゆる生物は、生きるために他の生命を犠牲にせざるを得ない、という現実をどう考えるべきであろうか。これだけで考えれば、生きることは常に罪を重ねていくことになるからである。
 事実、小乗仏教においては、生きることはますます罪をつくっていくことだとして、生の否定へと走った。いわゆる空に帰し、灰身滅智することをもって涅槃、悟りとしたのである。
 これに対し、単に罪をつくらないことのみをめざすのでなく、それを相殺し、超克する善を創造し、社会に、あらゆる生命に提供する方向を開いたのが大乗仏教の行き方であったといえよう。
法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当って候品ぞかし
 周知のように、寿量品は、釈迦自身の久遠の成道を説き明かし、一切衆生の生命に内在する仏界の常住を示した品である。ここにおいて、生死は本有の生死となり、生死を超えて永遠に実在する生命の実体が明らかになったのである。
 この寿量品こそ、一切衆生に自らの生命の永遠への覚知をもたらす大哲学であり、故にこれを説いたことは、釈迦にとって本源的な「不殺生戒」の実践となるのである。
されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ、六欲天も是を守る事なし 
 仏法の根本精神は、この段で述べられているように、不殺生――生命を最も尊重することである。故に、殺生をなすものは、仏法のあらゆる覚者――過去、現在、未来の一切の仏から見捨てられると仰せられているのである。
 また、本文に出ている転輪聖王をはじめ、梵天、帝釈等の六欲天に住するといわれた王たちも、不殺生戒を第一の戒として持って天界の衆生となったのであるから、殺生の罪を犯す者を守ることはないのである。
 「三世の諸仏にすてられ」るということは、成仏できないことはもちろん、生命の安定、心の安らかさや充実感を得ることができないということである。「六欲天も是を守る事なし」とは、社会、自然の外界がもつ力、作用が、この人の生命を守る働きをしないということである。精神的、内面的にも、物質的、環境的にも、どこにも頼るところなく、苦しみのどん底に陥るということである。

1133:02~1133:08 第二章 尊厳観の具体的原理を示すtop

02                      但し殺生に子細あり彼の殺さるる者の失に軽重あり、我が父母主君・
03 我が師匠を殺せる者を・ かへりて害せば同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし、 此れ世間の学者知れる
04 処なり、 但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば 必ず無間地獄に堕つ、 五逆の罪人も彼を怨と
05 すれば必ず人天に生を受く、 仙予国王・有徳国王は五百・無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う、
06 其の御弟子迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は彼の時に先を懸け陣をやぶり 或は殺し或は害し或は随喜せ
07 し人人なり、覚徳比丘は迦葉仏なり、 彼の時に此の王王を勧めて法華経のかたきをば父母・宿世・叛逆の者の如く
08 せし大慈・大悲の法華経の行者なり。
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 但し、殺生にも子細がある。すなわちその殺される者の失に軽重がある。自分の父母・主君・師匠を殺した者を逆に殺害すれば、同じ殺生の罪であるけれども重罪はかえって軽罪となるであろう。このことは世間の学者も知っているところである。
 しかし、法華経の敵を供養すれば、たとえ大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる。五逆罪の罪人であっても、法華経の敵を憎めば、必ず人天に生を受ける。仙予国王や有徳国王は、五百ないし無量の法華経の敵を討って、今は釈迦仏となられた。その弟子、迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は、その時に先を駆け、敵陣を破り、あるいは殺し、あるいは害し、あるいは、この正法を護る戦に随喜した人々である。その時の覚徳比丘が迦葉仏である。その時にこの有徳王に法華経を勧めて、法華経の敵を、父母の宿世の叛逆者のように討ち滅ぼさせた大慈大悲の法華経の行者である。

無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
五逆の罪人
 五逆罪を犯した人。殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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仙予国王
 釈尊の過去世における菩薩修行の時の姿。涅槃経の聖行品に説かれている。釈尊はその昔、過去世に閻浮提の大国の王に生まれ、仙予と名のっていた。そして大乗経典を愛念し敬重し、その心は純善で、粗悪の心や人をねたんだり物惜しみをするようなことはなかった。口には愛語、善語を述べ、身は貧窮と孤独を守り、布施、精進を少しも休み廃することがなかった。その時代には仏、声聞、縁覚はいず、婆羅門に師事した。その婆羅門に仙予国王が「師等今応に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし」といったところ、婆羅門は「大王、菩提の性は是れ有る所無く、大乗経典も亦復是の如し。大王、云何ぞ乃ち人と物とをして、虚空に同ぜしむ」と大乗経典を誹謗した。これを聞いた大王は直ちに五百人の婆羅門を殺した。この因縁によって大王はそれ以来地獄に堕ちず、殺された婆羅門も大乗誹謗を悔い、後の世に大乗の信を発して救われたという。
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有徳国王
 有徳王ともいう。釈尊の過去の菩薩修行中の姿。涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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目連
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
―――
覚徳比丘
 涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。
―――
迦葉仏
 過去七仏の第六で、現在賢劫の第九の減・人寿20,000歳のときに出現した仏、大智度論巻九には「この九十一劫の中、三劫に仏ありき、賢劫の前の九十一劫の初めに仏あり、鞞婆尸と名づく、第三十一劫の中に二仏あり、一を尸棄と名づけ、二を鞞恕婆付と名づく。この賢劫の中に四仏、一を拘留孫仏と名づけ、二を俱那含仏と名づけ、三を迦葉と名づけ四を釈迦牟尼と名づく、これを除いて余の劫は皆空にして仏なし、はなはだ憐愍すべし」とある。また、長阿含経巻一にも「毘婆尸仏のとき人寿八万歳。尸棄仏のとき人寿七万歳、毘舍婆仏のとき人寿六万歳。拘留孫仏のとき人寿四万歳。拘那阿仏のとき人寿三万歳、迦葉仏のとき人寿二万歳。われいま出世す。人寿百歳より少し出で、多く減ず」と説かれている。
―――
宿世
 前世・過去世。
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 生命は尊厳であるといっても、全てが平等に尊厳であるということではない。もし、そのように一律に尊厳であるとしたら、何も食べることができず、自らの生命は維持できないとし、どんな悪人をも罰することができず、悪が増長し、善は滅びてしまうであろう。
 したがって、一応は、根本的な尊厳性を認めなければならないが、再応は、その各々の果報によって、それを殺したときに受ける罪の多寡が異なってくるのである。もとより、果報の少ない者であっても、それを殺すことは少ないとはいえ罪を生ぜずにはおかない。大事なことは、その殺生が無意味なものではないよう、その犠牲によって得た自らの生を、より大なる善のために生かしていくことである。
 また、一切の生命に悪を及ぼす存在を許すことは、生命の尊重という善を行なっているようであって、実は、一切の生命に悪を及ぼす存在に加担したことになり、大きい罪を得るのである。これが、本抄の題名にも含まれている「与同罪」という概念に他ならない。この場合は、却って、その悪を及ぼす存在を改め、悪を及ぼすことのできないようにすることが「大善」となる。
 生命の尊厳という抽象的な理念に終わるのでなく、生命の尊厳を守るにはいかにすべきかという具体的実践原理を明らかにされているのが、この章である。
彼の殺さるる者の失に軽重あり。我が父母・主君・我が師匠を殺せる者をかへりて害せば、同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし
 あらゆる生命は、三世の流転のなかで、さまざまな罪を犯し、業を担っている。生命の本源的な見地に立てば、全む、といわれているのである。
 ただし、この文で注意しなければならないことは、決して殺すことを奨励されているのでなく、軽い罪で済むといわれているだけのことだという点である。したがって、国家的社会的に、人の罪を裁き、これに死という罰を加えようとする、いわゆる死刑制度は、正当とはいえない。
 また「失の軽重」によって、その生命の尊厳の度合いが異なるということから、真実に自らの生命を尊厳ならしめるには、自身の三世の流転によって得た罪業を消滅し、社会に一切生命に善を施す実践が要請されることを知るべきであろう。
但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば、必ず無間地獄に堕つ
 法華経すなわち御本尊は、宇宙生命の本源の法であり、あらゆる生命を生ぜしめる根源である。この妙法を誹謗し、迫害する者は、あらゆる生命に害を及ぼす大悪の者であり、したがって、この大悪を助ける人は、たとい「大慈大悲の菩薩」という大善の人であっても、この一事によって無間地獄におちるのである。
 これは、どんなに長い間、慈善を行ない、人助けをしてきた人であっても、残忍な殺人を犯せば、たちまち大悪人になってしまう現実と考え合わせれば、容易に理解できることであろう。いかなる大慈大悲の菩薩といえども、妙法そのものに及ぶ善はなしえない。妙法は宇宙大の力があり、あらゆる生命にその利益を及ぼすのである。これに対し、人間はどんなに力があるといっても、その及ぼしうる範囲は僅かであり、しかも、きわめて浅く、短期的なものでしかない。故に、いかなる善も、妙法に敵対すれば、たちまちに帳消しとなり、大悪と化してしまうのである。
 反対に、五逆罪という大悪を犯した人であっても、妙法を守るという善を行なえば、たちまち無間地獄の苦から救われ、人天に生ずることができる。さらに、もともと善根をもって人天にいる人々は、正法の敵対者を責め仏法を守りぬくことによって仏になることができるのである。
 法華経すなわち正法を守ることは、宇宙のあらゆる生命を守り育くむことであり、したがって、それに敵対する者の生命を破るという小罪は、超巨大の善のもとに呑みこまれてしまうのだとも考えられよう。
 ただし、ここで「法華経のかたきを打ち」「殺し」「害し」とあるのは、釈迦以前の仏教であり、釈迦以後は「其の施を止む」ということで、殺す意味ではない。この点については、立正安国論を拝されたい。

1133:09~1133:18 第三章 実践を喜び用心を促すtop

09   今の世は彼の世に当れり、 国主日蓮が申す事を用ゆるならば彼がごとく・ なるべきに用いざる上かへりて彼
10 がかたうどとなり一国こぞりて日蓮・ をかへりてせむ、 上一人より下万民にいたるまで 皆五逆に過ぎたる謗法
11 の人となりぬ、されば各各も彼が方ぞかし、 心は日蓮に同意なれども身は別なれば 与同罪のがれがたきの御事に
12 候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ ありがたく候へ、 今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひ
13 ぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。
14   かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女
15 房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、 酒を離れて・ねらうひま
16 有るべからず、返す返す、恐恐謹言。
17       九月二十六日                      日蓮花押
18     左衛門尉殿御返事
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 今の世は、仙予国王や有徳王の世に相当する。国主が日蓮のいうことを用いるならば、かの仙予国王や有徳王の時のようになるであろうに、用いないうえ、かえって、法華経の敵の味方となり、一国こぞって、日蓮を逆に責めている。そして、上一人から下万民にいたるまで、皆五逆罪にもすぎた謗法の人となってしまった。
 さて、あなた方もこの謗法の国主の側の人である。心は日蓮に同意であっても、身は別であるから、与同罪は逃れ難いことであったのに、主君の耳にこの法門を説いて聞かせたことは、実にすばらしいことである。たとえ主君が今は用いなくとも、あなたの与同罪は、免れたのである。
 これから後は、口を慎しんでいきなさい。また、諸天も必ずやあなたを守るであろう。日蓮からも諸天に申しつけましょう。
 心して、用心に用心をしていきなさい。いよいよ、あなたを憎む人がつけ狙うであろう。酒宴は、夜は一切やめなさい。ただ、女房と酒を飲んで、何の不足がありましょう。他人との昼の酒宴でも、油断してはなりません。酒を離れては、敵も狙う隙があるはずはない。くれぐれも用心をしていきなさい。恐恐謹言。
  九月二十六日           日 蓮  花 押
   左衛門尉殿御返事

かたうど
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
―――
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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与同罪
 主犯と連座して、同じ罪に処せられること。
―――
恐恐謹言
恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。
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 四条金吾が、主君に妙法を説いたことを称賛され、これによって金吾は、すでに与同罪を免れたのであるから、あとは口を慎しむよう指導されている。そして、この事件により今後ますます敵の乗ずる恐れがあるので一層用心するよう促されている。
心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ。今は御用いなくもあれ、殿の御失は脱れ給ひぬ
 与同罪の原理は、仏法の厳しさの一面を示すものといえよう。与同罪とは、自らがその主犯とはならなくとも、同意を示し、与することである。すなわち、自らは正法を破ることはしないが、他の人が正法を破ることを黙認するのは、結果として同意を示したこととなり、与同罪となるとの原理である。「曾屋殿御返事」にいわく「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(1056-06)と。
 四条金吾の主君江馬氏は、大聖人の迫害を目論んだ極楽寺良観の信者であった。その臣下である金吾が、江馬氏の信仰を黙認するならば、広い意味でこの与同罪はまぬかれられないことになる。当時の社会体制にあって、また信仰というものが、生活に深く根を下ろしていた状況下にあって、臣下の立ち場で主君を折伏することは、容易な決意をもってできることではなかったであろう。しかし、あえて主君への折伏を断行した金吾の勇気を「主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ」と、讃えられたのである。
 四条金吾のこの姿は、いかなる状況に立とうとも、またどれほど多数の反対者の中にあっても、自身の信仰を主張し、弘教を貫くことの大切さを教えておられる。すなわち、現代においては「主君」とは社会そのものであり、社会を構成するあらゆる人々である。故に、現代にあってはひろく社会に妙法を弘め人々に正法を教えていく人こそが、免与同罪の人である。

1134~1135    四条金吾殿女房御返事(夫婦同心御書)top
1134:01~1134:08 第一章 法華経の行者の立ち場を説くtop

四条金吾殿女房御返事    文永十二年正月    五十四歳御作
01   所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法・真言師にはすぎず是は且らく之を置く、 十喩は一切経
02 と法華経との勝劣を説かせ給うと見えたれども仏の御心は・さには候はず、 一切経の行者と法華経の行者とを・な
03 らべて法華経の行者は日月等のごとし諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を詮と思し食され候、 なにを・もつ
04 て・これを・しるとならば第八の譬の下に最大事の文あり、所謂此の経文に云く「有能受持是経典者亦復如是於一切
05 衆生中亦為第一」等云云、 此の二十二字は一経・第一の肝心なり一切衆生の眼目なり、文の心は法華経の行者は日
06 月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしと・とかれて候経文なり、されば此の世の中の
07 男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ、 梵王・帝釈は・あをが
08 せ給うらめと・ うれしさ申すばかりなし、 
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 詮ずるところ、日本国中の一切の人々の目をぬき、神をくるわせる邪法は、真言師の修する法に過ぎるものはない。しかし、このことはしばし置く。
 法華経薬王品に説かれている十喩をみるに、一切経と法華経との勝劣を説かれたように見えるが、仏の御本意は実はそうではない。それは法を持つ人の立場から、一切経の行者と法華経の行者とを比較して、法華経の行者は日月等のごとく勝れ、諸経の行者は衆星や燈炬のごとく劣るということをあらわすことを、その所詮とされたのである。
 どうしてそれがわかるかといえば、十喩の中の第八番目の譬喩の次下に最大事の文がある。その経文に「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復た是の如く、一切衆生の中に於いて、亦た為れ第一なり」等と説かれているのが、それである。
 この二十二字の文は、法華経一経の中で第一の肝心の文である。また一切衆生にとって眼目というべき文である。この文の意は、法華経の行者は日月や大梵王・仏のごとく勝れ、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとく劣るのであると、説かれた経文なのである。
 ゆえに、この世の中で法華経を持つ者は、男女・僧尼を問わず、一切衆生の主に当たると、仏は御覧になっているであろう。また梵天・帝釈もこの人を尊敬されるであろうと思えば、嬉しさは申しようもない。

真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
十喩
 法華経薬王菩薩本事品第二十三の十の喩で、いずれも諸経の中で法華経が第一の教である事を喩えている。その十喩を示すと、
   ①  水喩。     諸水の中で海が第一であるように、法華経が諸経の中で第一の教である。
   ②  山喩。     衆山の中で須弥山が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。
   ③  衆星喩。    衆星の中で月天子が第一であるように、諸経の中で法華経が第一である。
   ④  日光喩。    日天子がもろもろの闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を破る教えである。
   ⑤  輪王喩。    諸王の中で転輪聖王が第一であるように、法華経は諸経中の王である。
   ⑥  帝釈喩。    帝釈が三十三天中の王であるように、法華経は諸経の中の王である。
   ⑦  大梵王喩。   大梵天王が一切の衆生の父であるように、法華経は菩提の心を発す者の父である。
   ⑧  四果辟支仏喩。 四果・辟支仏が一切の凡夫の中で第一であるように、法華経とこれを持つ者は人法ともに第一である。
   ⑨  菩薩喩。    声聞・辟支仏の中に菩薩が第一であるように、法華経は諸経の中で第一である。
   ⑩  仏喩。     仏が諸法の王であるように、法華経は諸経の王である。
―――
一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
行者
 ①仏道を修行する者。②修験動を修行する者。
―――
衆星燈炬
 衆星は諸の一切の星。燈炬の燈は灯火、炬はかがり火のこと。法華経の行者を日月に譬えるのに対し、他の一切経の行者を衆星燈炬に譬えたものである。
―――
凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
―――
梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――――――――
 本抄は文永12年(1275)の正月、四条金吾夫人が33歳の厄年であることを報じ、御供養を申しあげたことに対する日蓮大聖人の御返事で、同月27日、身延において認められたものである。
 本抄の大意は、33歳の女性の厄年に当り、いささかの不安感を持っていたのであろうと思われる夫人に対し、大聖人は法華経を持つ女人は、一切衆生の中で第一に勝れ、且つ御本尊に厚く加護されることを説かれている。しかしその御本尊の加護も、信心の厚薄によってきまる故に、夫、金吾にならって、強盛な信心を貫くことをすすめられ、そのような信心に立った時には、33の厄も33の福と転ずると述べられている。
 さて、本章は法華経を持った人の位がいかに高いかを説かれている。
 法華経薬王品に説かれた十喩は、一応、一切経と法華経との勝劣を説かれているようであるが、実は〝人〟の立場から一切経の行者と法華経の行者の勝劣を説かれたものであると示され、御本尊を持った者は、男女・僧尼を問わず一切衆生の主であると述べられている。
一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとし
 法華経薬王品の十喩から、法華経の行者と諸経の行者との差は日月と衆星ほどの違いで、法華経の行者が遥かに勝れていることを説かれた文である。
 この文の前に大聖人は十喩について「十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給うと見えたれども、仏の御心はさには候はず」と述べられて、この文を続けられ、法の勝劣よりは、人の勝劣を明かすところに仏の本意があることをもって「詮と思し食されて候」と結んでおられる。
 このような十喩の読み方については、「撰時抄」にもこの旨が明らかにされている。
 「又云く『能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦これ第一なり』等云云。此の経文をもって案ずるに、華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等(中略)よりも、末代悪世の凡夫の一戒も持たず、一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、而も一分の解なからん人人は、彼等の大聖には百千億倍のまさりなりと申す経文なり」(0290-01)とあり、更に「されば今法華経の行者は心うべし。『譬えば一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し』。又『衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し』等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星のごとし。日蓮は満月のごとし」(0290-11)の文は法華経の行者と、諸経の行者の勝劣を説かれたものであることを述べられている。
 この文について、更に日寛上人は撰時抄文段下に、次のごとくその読み方を示されている。すなわち当抄の大聖人の意をとられて、「されば今法華経の行者は心得べし文。意に云く、有能受持等の文は第八の譬の下に在りと雖も、十喩の一一の下に之ありと心得べしとなり」と十喩のうちの第八喩のみが、法華経受持者と、他の諸経受持者との勝劣を明かしているが、実は他の九つの喩えもすべてが人の勝劣の意義を含めて説かれていると読むべきだ、と教えられているのである。
 この文の意味するところは、究極の、仏法の原理のうえからであり、あくまでも「法妙なるが故に人貴し」(1578-12)ということである。持つ妙法が尊極であるが故に、持つ人も尊いのである。一般に、人間の尊さ、人生の尊さは、いかなる思想、哲学を持ち、それを実践しぬいたかによって決まるといってよい。
 また、この文を実践論的に読むならば、偉大な法を持った人は、現実の生活、人生においても、その実証を示していかなければならない、と考えるべきである。法を持つとは、実践化を当然の前提とする。法を信じ、知っているというだけで、なんの努力をしなくても、自分は尊いのだとするのは、単なる自己満足であり、自己の姿から、かえって法を傷つけることになるのである。
有能受持是経典者・亦復如是。於一切衆生中・亦為第一
 法華経薬王品に説かれている十喩のうち、第八喩の四果辟支仏喩の中の文で、よくこの経典を持つ者は、一切衆生の中で第一の人であるとの意。この第八喩の文を経文にみれば次のとおりである。
 「又た一切の凡夫人の中に須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏は為れ第一なるが如く、此の経も亦復た是の如く、一切の如来の説きたまう所、若しは菩薩の説く所、若しは声聞の説く所、諸の経法の中に、最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復た是の如く、一切衆生の中に於いて、亦た為れ第一なり」と。
 この第八喩は他の九喩とは全く趣が異っている。それは、十喩についてみるに、他の九喩はどれも法華経と他の一切経とを比べて法の勝劣のみを説かれているのに対し、この第八喩は法と人の両面から、その勝劣が説かれている。
 しかもこの「有能受持」以下の文は、特に法華経能持の人について説かれたところである。この第八喩が人法に亘って説かれ、特に「能持の人」について特別に説かれたことは重要な意味があるので、本章に「此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の眼目なり」と述べられている所以である。ここは大聖人の御真意は、仏法において法は当然のこと根本となるが、それにも過ぎて、その法を説く人が重要な立ち場にあることを強調されておられるものと拝するのである。
 更に末法の弘経の方軌からみたときに、人の問題は法の問題を越えて重要であるといえる。「持妙法華問答抄」には「倩ら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是を悪む汝能く能く法の源に迷へり何にと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依って天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賎しと云はんやとこそ釈して御座候へ」(0465-16)とある。
 当時の人々は、法華経を讃嘆しても法華経の真髄を説く日蓮大聖人を認めようとしなかった。結局、偉大なる根源の法も、そのままでは人のよく知るところではない。つまり、この法を極めた人によって、その本質が明かされ、その真価が顕れるのである。この故に「能持の人」を強調されるのである。
 この「能持」について、「御義口伝」には「能持とは能の字之を思う可し」(0709-03)と、また、同の「能須臾説」では「能の一字之を思う可し」(0743-第十九能須臾説の事-01)とあって、常に大聖人は能の一字に心を留めることを説かれている。「能持是経者」も又、単に経を持ち、信心をするという意ではない。それは法華経を身・口・意の三業に読みきることを意味する。
 「本尊問答抄」に「されば日本国・或は口には法華経最第一とはよめども心は最第二・最第三なり或は身口意共に最第二三なり、三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなしまして能持此経の行者はあるべしともおぼへず」(0370-04)とあるのがこれである。
 すなわち、真の「能持是経者」とは法華経を身・口・意の三業に読む者のことでなければならない。それにはいかなることにも強盛な信心にたち大聖人の残された教え、すなわち御書を身読することにある。
 「祈禱経送状」に「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」(1357-05)とある。
 前半は「能持是経者」の信心の在るべき姿を、後半は持経者の受くべき果報、すなわち、「一切衆生中」第一の者と顕われることを物語っている。大聖人の仏法を実践し切った者は、今世においては生命力の横溢した人生を最高度に楽しみ、後生をもその延長の幸福者として生ずることができるという現当二世に亘る幸福の確立はもとより、更には広宣流布成就の主体者としてその使命を全うすることができるとの仰せである。まさに「一切衆生中第一」の人生を生きる者といえまいか。そのために〝能〟の一字の体得並びに実践をこそ心に期すべきであろう。
此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず、法華経を持たせ給う人は一切衆生のしとこそ仏は御らん候らめ
 法華経、すなわち末法において日蓮大聖人の仏法を持つ者は、男女の差や僧俗の如何を問わず一切の人々にすぐれ、それらの人の中心存在にあたるとの意である。
 ここに大聖人が「男女僧尼は嫌うべからず」といわれるのは、男女の性別や出家或は在俗の差、階層、学識の有無等に関係なく法華経を持つ者すべてをいう。
 「一切衆生のしう」とは、人間性の本源に立って、あらゆる人に人生、社会の生き方を教えうる力をもつことである。それは、努力なくしては達成できるものではない。
 しかし、妙法を持った人は、日蓮大聖人の仏法をわが身に研鑽し、他の未だ真の仏法を知らざる人々を根底から救うべく、その実践にすぐれた力を発揮せねばなるまい。或は仏法によって磨かれた英知をもとに、社会にその力を付与せねばならない。また無限の慈愛をもって周囲の者を暖かく包み育まねばならぬ。こうして御本尊を根本に内的に自己の充実をはかり、外的にも一切の人々にその力を還元しようと努力するならば、それはやがて一切衆生の主であり、中心存在にあたると仰せられているのである。

1134:08~1135:03 第二章 真実の女人成仏を明かすtop

08                      又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば常の法華経の行者にては候
09 はぬにはんべり、 是経典者とて者の文字はひととよみ候へば此の世の中の比丘・比丘尼・うば塞・うばいの中に法
10 華経を信じまいらせ候・ 人人かと見えまいらせ候へば・さにては候はず、 次下の経文に此の者の文字を仏かさね
11 てとかせ給うて候には若有女人ととかれて候、 日蓮法華経より外の一切経をみ候には女人とは・ なりたくも候は
12 ず、 或経には女人をば地獄の使と定められ或経には大蛇と・ とかれ或経にはまがれ木のごとし或経には仏種をい
13 れる者とこそとかれて候へ、 仏法ならず外典にも栄啓期と申せし者の三楽をうたひし中に 無女楽と申して天地の
14 中女人と生れざる事を一の楽とこそ・たてられて候へ、 わざはひは三女より・をこれりと定められて候に、 此の
15 法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候、 所詮・
1135
01 一切の人にそしられて候よりも女人の御ためには・いとをしと・をもはしき男に・ふびんと・をもはれたらんにはす
02 ぎじ、一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏.多宝仏・十方の諸仏・乃至梵王・帝釈・日月等にだにも・ふびんと.をも
03 はれまいらせなば・なにかくるしかるべき、法華経にだにも・ほめられたてまつりなば・なにか・くるしかるべき。
-----―
 またこの経文を昼夜に思索し、朝夕に読んでみると、この経文に説かれている行者とは一般にいう法華経の行者ではないのである。経文の、是経典者とあるその「者」の文字は、人と読むので、この世の中の僧や尼あるいは在家の男女の中で、法華経を信ずる人々をいうのかと思ってみたが、そうではない。次下の経文に、この「者」の文字を仏が重ねて説かれるには「若し女人有って」とある。すなわち法華経を持つ女性について述べられているのである。
 日蓮は法華経以外の一切経をみる時には、女性とはなりたくもないと思う。ある経には女性を地獄の使いと定められ、ある経には大蛇と説かれ、ある経にはまがれ木のようだと説かれ、ある経には仏種をいってしまった者と説かれている。
 仏法だけではなく外典でも、たとえば中国・春秋時代の栄啓期という者が三楽をうたっているが、その中に無女楽といって、この世の中に女性と生まれなかったことを一つの楽として挙げているのである。また、中国では、わざわいは三女から起こったと定められているが、この法華経のみには、この経を受持する女性は、他の一切の女性にすぐれるだけでなく、一切の男子にも超えていると、説かれている。
 詮ずるところ、たとえ一切の人に憎まれたとしても、女性にとっては最愛と思う夫に可愛いと思われたなら本望であろう。それと同様に一切の人に憎まれても、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏や梵王・帝釈・日天・月天等に可愛いと思われるならば、何の不足があろうか。ましてや法華経にほめられるならば、何の不足もあるわけはない。

比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
―――
比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
―――
うば塞
 在家の男子をいう。
―――
うばい
 在家の女子をいう。
―――
若有女人
 法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩の次下に、説かれた文の中にある。「若し女人有って、是の薬王菩薩本事品を聞いて、能く受持せば、是の女身を尽くして、後に復た受けじ。若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏・大菩薩衆の囲繞せる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生じ」と。ここでは是経典者こそ女性であることを、示すために用いられた。
―――
栄啓期の三楽
 栄啓期は中国春秋時代の人。濁世に超然として自然の中に遊び、天命に安んじ、人生を謳歌した楽天家。栄啓期はこの世に生まれて得た三つのよろこびを①人と生まれ、②男と生まれ、③長寿を得たことであるとした。列子・天瑞篇に「孔子、太山に遊び、栄啓期が郕の野に行くを見る。鹿裘して索を帯にし、琴を鼓いて歌ふ。孔子問うて曰く『先生の楽しむ所以は何ぞや』と。対へて曰く『吾が楽み甚だ多し。天の万物を生ずる、唯だ人を貴しと為す。而して吾れ人たるを得たり、これ一楽なり。男女の別、男は尊く女は賎し、故に男を以て貴しと為す。吾れ既に男たるを得たり。是れ二楽なり。人生、日月を見ず襁褓を免れざるものあるに、吾れ既に已に行年九十なり、是れ三楽なり』」とある。
―――
無女楽
 女と生まれなかったことの楽しみ。
―――
三女
 中国の伝説中の三悪女で、夏の妹喜、殷の姐己、周の褒姒をいう。それぞれ国王の寵愛を受けたが、かえって王を迷わせ、国を亡ぼすに至った。妹喜は夏の傑王を、姐己は殷の紂王を、褒姒は周の幽王を溺れさせたという。
―――――――――
 法華経にのみ、女人成仏が説かれていることを述べられている。
 それは、十喩の「能持是経典者」の〝者〟について「若有女人」とあり、女人を含むことが示されているからである。爾前経で徹底的に嫌われた女人が、法華経では一切の女人のみならず、男子にも越えること、したがって法華経の肝心たる御本尊を受持した女性は、御本尊の広大な慈愛に包まれているのであると説かれている。
此の法華経計りに、此の経を持つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず、一切の男子にこえたりとみえて候
 爾前経ではその性質を徹底的に弾訶され、成仏を許されなかった女性も、法華経ではこの経を持つ時には、男子をも含めて一切の衆生に越えて第一であるとの薬王品の文から、末法に真の法華経を持つ女性がいかにすぐれているかを述べられた文であると共に、法華経がいかに他の一切経にすぐれて力あるかを説かれた文である。
 先ず「此の法華経計りに」と特に強調され、法華経のみに女人成仏が説かれた様を考えてみる。「善無畏抄」には次の如くある。
 「文句と申す文の第七の巻には『他経には但男に記して女に記せず』等云云、男子も余経にては仏に成らざれども且らく与えて其をば許してむ、女人に於ては一向諸経に於ては叶う可からずと書かれて候」(1235-18)と。すなわち当分の得道ではあったが、爾前経においても男子には一往の授記があった。しかし女性は爾前経では終始その成仏は認められなかった。
 さて、法華経ではじめて一切の衆生は十界互具の生命体であって、尊極の仏界の生命をも具することを説いた。その具体例として展開されたのが、提婆達多品第十二で、最も救い難いとされた悪人と女人を提婆達多の成仏、竜女の成仏として描いたのである。
 竜女、年は八歳、竜王の女とはいえ蛇身の竜女が仏に成るなどということは、とうてい理解できるものでない。故に智積菩薩は大衆の疑いを代表して、次のように竜女に対して問うのである。
 法華経提婆達多品第十二に「汝は久しからずして無上道を得たりと謂えり。是の事は信じ難し。所以は何ん、女身は垢穢にして、是れ法器に非ず。云何んぞ能く無上菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修し、然る後に乃ち成ず」と。
 仏になるには無量劫の間、諸の修行を積んでこそなれるのであって、垢穢の多い女性の身で仏になるわけがないと、竜女に成仏の疑いをはさんだのである。これに答えて、竜女は突如、その身で現象を示した。すなわち「忽然の間に、変じて男子と成った」のである。
 この「変成男子」について、日蓮大聖人は「御義口伝」に「変成男子とは竜女も本地南無妙法蓮華経なり」(0747-09)と説かれている。これは爾前経にいう改転の成仏、すなわち、女人が女身を男子に変じて成仏するというのとは異る。その身そのままで久遠以来の妙法の生命体、尊極の仏界の生命を内蔵した十界の生命自体であることを示したのである。
 しかも竜女の成仏は「忽然の間に」男子に変じたことに意義がある。「忽然の間」とは「甚疾」であり、さらに「甚疾とは頓極・頓速・頓証の法門なり即為疾得無上仏道なり」(0747-06)とあるように、竜女の成仏が即身成仏であることを指す。こうして法華経ではじめて女性の成仏が許されたのは、法華経のみが十界互具・一念三千の法門を説いている故である。
 この竜女の成仏は、単に竜女一人の成仏ではなく、末法に妙法を持つすべての女性の成仏をいうのであることを、開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず……『挙一例諸』と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(0223-07)と説かれている。
 次に「此の経を持つ女人は一切の女人にすぎ……一切の男子にこえたりと……」の文について考察したい。
 女性の特質ともいうべき、驕慢・嫉妬・愚痴・自己中心主義の根源は、貪・瞋・癡の三毒にあるといえよう。「御義口伝」には「法界の衆生の逆の辺は調達なり法界の貪欲・瞋恚・愚癡の方は悉く竜女なり」(0797-一提婆品-02)とある如くである。
 この文よりすれば提婆達多に代表される反逆の姿は男性的特質といえる。それに対し女性は、貪瞋癡の三毒をあらわす。それは生命に本然的なものであるだけに害毒も深い。「女人は垢穢にして」(0472-14)、或いは「女人は智浅くして多く邪僻を生ず」(0718-第五比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事-03)とあるのも、この辺をいわれるのであろう。
 さて、爾前経で成仏を許されなかった女性が、成仏を許されたことは、極めて重要な意義がある。法華経薬王菩薩本事品第二十三には次のようにある。
 「後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏・大菩薩衆の囲繞せる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生じ、復た貪欲の悩ます所と為らず、亦復た瞋恚・愚癡(の悩ます所と為らず、亦復た憍慢・嫉妬・諸垢の悩ます所と為らず」と。貪・瞋・癡の三毒にも、驕慢・嫉妬・諸垢にも悩まされないと述べられている。故に未だ真の仏法を知らぬ男性の、無自覚な本能のままに生きるのを凌駕すること、遥かであるといえよう。
 このことは、竜女の成仏を、その師文殊師利菩薩が説いても、これを疑い信ずることのできなかった智積菩薩の姿が如実に示している。これについて大聖人は御義口伝(0746)には「元品の無明なり竜女は法性の女人なり(中略)智積菩薩を元品の無明と云う事は不信此女の不信の二字なり不信とは疑惑なり疑惑を根本無明と云うなり」(0746-03)と、述べられている。
 一切の生命が平等であること、いかなる卑賤の者の生命にも尊極の仏界の生命を有することが理解できぬ仏法不信の生命、それが元品の無明であり、真の仏法を知らぬ男性はこれに当ると、大聖人は決定されたのである。
 これに対するに、竜女は我が身が一念三千の当体であることを述べるのであるが、その最後に次の一文がある。「又聞いて菩提を成ずること唯だ仏のみ当に証知したまうべし。我れは大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」と。この「又聞成菩提」について、大聖人は御義口伝「竜女が智積を責めたる言なり」(0746-10)とされ、「苦の衆生」については「別して女人の事なり」(0746-11)と指摘されている。諸種の仏道修行を積みあげ、九界の衆生の最高位に居する菩薩に対し、畜身の竜女がこれを諌言する――まことにこれ「一切の男子にこえたり」の姿ではなかろうか。現代でいうならば、大聖人の仏法を持つ女性は、いかなる知識人、有力者、権力者の男性たちにも過ぎて優れていると拝すべきであろう。
 しかも、その願いは〝一切の苦悩の人々を救う〟という、人間のあり方として最高の崇高なる願いに立つのである。過去の、また現在のいかなる男性にも過ぎて尊貴であると、称賛される意味はここにある。
 故に本抄において大聖人は、過去の竜女の如く、現在法華経を持つ女性こそは、最も劣悪な性にあった者が、最高の仏界の位置にたつという、極めて大なる意義があるが故に〝一切の者に過ぎて第一なり〟と説かれ、しかもそれは女人を意味するのであり、仏の御本意もそこにあるのだと述べられているのである。

1135:04~1135:17 第三章 夫人の信心を激励するtop

04   今三十三の御やくとて御布施送りたびて候へば釈迦仏・法華経・日天の御まへに申し上て候、又人の身には左右
05 のかたあり、このかたに二つの神をはします一をば同名・二をば同生と申す、 此の二つの神は梵天・帝釈・日月の
06 人をまほらせんがために 母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとく・ つき随いて候
07 が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば・つゆちりばかりも・のこさず天にうたへまいらせ候なるぞ。
-----―
 今年あなたは三十三歳の厄であるからと、御供養を送ってこられたので、釈迦仏・法華経・日天の御前にささげ、あなたの信心の志を申し上げました。
 また、人の身には左右の肩がある。この両肩に二神がおられる。一を同名、二を同生という。この二神は梵天・帝釈・日月等が、人を守らせるためにつけた神で、人が母の胎内に宿った時から一生を終るまで、影のように、人の眼のようにつき随っているのであるが、人が悪行を作り、善行をしたことなどを、露・塵ほども残さず、これを諸天に訴えるのである。
-----―
08   華厳経の文にて候を止観の第八に天台大師よませ給へり、 但し信心のよはきものをば法華経を持つ女人なれど
09 も・すつると・みえて候、例せば大将軍よはければ・したがうものも・かひなし、弓よはければ絃ゆるし・風ゆるけ
10 れば波ちゐさきは自然の道理なり、 而るにさえもん殿は俗の中・日本には・かたをならぶべき者もなき法華経の信
11 者なり、 是にあひつれさせ給いぬるは日本第一の女人なり、 法華経の御ためには竜女とこそ仏は・をぼしめされ
12 候らめ、女と申す文字をば・かかるとよみ候、 藤の松にかかり女の男にかかるも今は左衛門殿を師と・せさせ給い
13 て法華経へ・みちびかれさせ給い候へ。
-----―
 これらのことは華厳経の文に説かれているのを、魔訶止観の第八で天台大師はこれを引用して説かれているのである。  
 但し信心の弱いものは法華経を受持する女性といえども、捨てると書かれている。例えば大将軍の心が弱ければ従卒も不甲斐ない。弓が弱ければ絃もゆるい。風がゆるければ波も小さいのは自然の道理である。
 ところで、左衛門殿は在俗の中では日本中には肩を並べる者もない強信な法華経の信者である。この夫に連れ添われるあなたも日本第一の女性である。法華経の御ためには、竜女にも匹敵する健気(けなげ)な女性であると、仏はおもわれているであろう。女という文字はかかると読む。藤は松にかかり、女は男にかかるものであるから、今はあなたは左衛門殿を師とされて、法華経の信心を導かれていきなさい。
-----―
14   又三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給うべし、七難即滅・七福即生とは是なり、年は・わかうな
15 り福はかさなり候べし、あなかしこ・あなかしこ。
16       正月二十七日                      日蓮花押
17     四条金吾殿女房御返事
-----―
 また、三十三の厄は転じて三十三の福となるであろう。「七難即滅・七福即生」というのはこれである。年は若返り、福は重なるでしょう。あなかしこ・あなかしこ。
  正月二十七日           日 蓮  花 押
   四条金吾殿女房御返事

釈迦仏・法華経・日天の御まへ
 釈迦仏は人、法華経は法で人法一筒。日天は諸天善神。あわせて御本尊をさす。御本尊の御前にとの意。
―――
同名・同生
 倶生神のこと。人が生まれた時から、つねに人の両肩にあって、その善悪を記して天に報告するという。
―――
華厳経の文
 華厳経入法界品第三十九に「人の生まるより則ち二天あり、恒に相随逐す。一を同生といい、二を同名と曰う。天は常に人を見れども、人は天を見ざるが如し。応に知るべし如来も亦復是の如し」とある。
―――
止観の第八
 止観は天台の三大部の一つ、摩訶止観のこと。天台が隋の開皇14年(0594)4月26日から、一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述、弟子の章安が筆録したもの。法華経の根本義たる一心三観・一念三千の法門が説かれている。十巻から成るが、第八の巻の下に「同名同生天はこれ神、よく人を守護す。心固ければすなわち強し、身の神なおしかり」とあって、華厳経の文を引いて説かれている。
―――
さえもん殿
 四条金吾のこと。(~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
―――
七難即滅・七福即生
 七難は仁王経、薬師経、金光明経等に説かれているが、仁王経の七難は①日月失度難 ②衆星変改難 ③諸火梵焼難 ④時節反逆難 ⑤大風数起難 ⑥天地亢陽難 ⑦四方賊来難の七つをいう。七幅は七難の滅することを七幅とする。天台宗では仁王経をもって七難即滅・七福即生の祈禱を行なった。末法においては三大秘法の南無妙法蓮華経が七難即滅・七福即生の法となる。
―――――――――
 強盛な信心によって、三十三の厄も三十三の福と転ずることを述べられている。
 諸天は法華経を持つ者を守護するのであるが、信心が弱ければ、その人には、守護の働きがあらわれない。日本第一の法華経の行者である四条金吾に連れ添う妻は、日本第一の女性であるから、夫について、信心を励むなら、厄は去り、福は重なり、生涯、若々しい生命力に溢ちた生活ができると、約束されている。
但し信心のよはきものをば、法華経を持つ女人なれどもすつるとみえて候
 信心の厚薄によって御本尊、諸天の守りにも強弱の差があり、信心弱きものは御本尊も見捨てるのであると述べられている。
 さきの法華経を持つ者は一切衆生の中に第一である――とは御本尊を持った者と持たぬ者との比較であり、御本尊が尊貴の故に持者も尊貴の存在となるのであるが、それはあくまでも如説修行ということを前提としていわれたものである。
 御本尊を持っても、その信心の強弱浅深によって、御本尊の守りも差があることになり、受ける功徳は異なるということになる。
藤の松にかかり、女の男にかかるも、今は左衛門殿を師とせさせ給いて、法華経へみちびかれさせ給い候へ
 夫の四条金吾を師として仏法を学び、更に立派に信心を貫くよう促された文である。
 あらゆる難を受けながらも、大聖人の教えを信じ、実践し、大聖人の外護に心を砕く姿には、大聖人もまた、ひとしお深い感情をもって遇されていたのではなかろうか。このお心が「左衛門殿を師とせさせ給いて」の文となってあらわれたのであろう。
 さらにこの「師とせさせ給いて」の言葉は夫と妻のあり方の根本を示されたものと拝せられる。夫婦の和合は単なる愛情をのみ基調としては成りたたない。お互いが人間として理解し合い、その信頼の上に各自の成長のために努力するとき、真の愛情が維持されていくのではなかろうか。
 大聖人のこの御文は、いつの時代にも夫婦は人間として成長すべきこと、そのためには妻も夫との対話を通して意識を向上させ、夫婦間の断絶をなくしたところに真の夫婦の和合も、一家の和楽も築けるのであると、示されたと思う。
 しかも、一人一人の人間のあり方を、深い生命観の上から洞察する仏法の上に成りたつものである。過去の主従の関係に等しい夫婦のあり方や、近代的な夫婦の情愛をのみ主体とするあり方を越えて、正しい〝法〟を媒体とした真の人間関係に成り立つ、夫婦のあり方の昇華をそこに見る。それが、真の「異体同心」であり、この〝心〟こそ、三大秘法の仏法を信ずる者の信心の心であることを銘記すべきである。
 なお、この〝師〟ということについてふれておきたい。生命の極致を説かれた仏法は、最高に高度な哲学の故に難解であり、師なくして一人では修得できるものではない。「蓮盛抄」に「止観に云く『師に値わざれば邪慧日に増し生死月に甚し稠林に曲木を曵くが如く出づる期有こと無けん』云云、凡そ世間の沙汰尚以て他人に談合す況んや出世の深理寧ろ輙く自己を本分とせんや」(0153-11)とある如くである。最後の悟りは自ら自得する以外にない故に無師智というが、そこに至る道程は必ず〝師〟によらなければならない。迷いの人生を彷徨する凡夫が、師弟の道を踏まずして、仏道を成就できるわけがないからである。同抄に仏の教えに依らぬ禅師をさして「等覚の菩薩すら尚教を用いき底下の愚人何ぞ経を信ぜざる」また、続いて止観の文より「此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり」(0154-02)とあるのはこれを物語っている。
 ただし、師弟の道とは、封建的な閉鎖的・固定的関係をいうのではない。法が高くすぐれる故に、一日でも一歩でも仏法に長じた者には師弟の礼をとって教えを請うべきなのである。日興上人の「遺誡置文」にも「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」(1618-09)とある。この文の意味するごとく、師として尊敬する意味合いは、仏法修得の度合いの深さに依るべきであって、身分・階層・年齢・男女等の差によるのでないことは明白である。
 四条金吾夫妻にあっては、夫婦揃って純粋な信心を続けたが、四条金吾には他に秀でた信心の実践があった故に「師とするように」と、大聖人は仰せられたのである。
「七難即滅・七福即生」とは是なり
 法華経を強く信ずることにより、いかなる難も福と転ずるということである。
 「七難即滅・七福即生」の七難は、語訳に示したとおり、本来は仁王経等に説かれた国家的な難をいい、末法今時において、その難を克服する法、即ち〝即滅〟の法は三大秘法の南無妙法蓮華経であり、これによって国家の安寧を保ち繁栄を期すことができるという、鎮護国家の原理を説かれたものであるが、大聖人はこの原理を個人の場合にも適用されたのである。七難をも転じて七福に換える、それはまた変毒為薬の原理を示されたものともいえる。
 そこには更に次のような意味をもって説かれたものと拝せる。
 一にはいかなる大難があろうとも、御本尊を受持する限り、必ず幸せに転ずることができるという、御本尊の偉大な功力を確信すべきことを説かれている。
 祈禱抄の「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(1351-18)とあるのは、これを物語っている。
 二に真の福、すなわち大いなる幸福は大いなる難を前提とするものであることを説かれていると拝せる。豊かな恵まれた環境に生まれ、不自由を知らぬ生活は、一応幸福であるといえようが、それで、はたして真の喜びを味わうことができるであろうか。況んやひとたび苦難に遭遇した時、それまでの栄華ははかなく崩れ去るのが世間の常である。そうした周囲の状況によって変化する幸福、すなわち相対的幸福は、環境のいかんにかかわらず、わが生命の内より打ちたてる幸福、すなわち絶対的幸福には劣るといえる。
 三に、転重軽受によって根本の宿命を打開したものこそが真実の幸福生活であること。
 いかなる難も、その因って来る原因がある。それらの根源は受難者の法華経誹謗の罪にあることは、諸御書に明かである。その重罪に比べれば現在、妙法を持っていかなる大難にあおうとも、まだまだ過去に犯した罪よりも軽いのであると、大聖人は説かれている
 「開目抄」に「此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招出だせるなるべし」(0233-03)と自身の重罪を消滅するため望んで招き寄せた難であると説かれている。
年はわかうなり、福はかさなり候べし
 三十三の厄の除災をねがう夫人に対し、七難が七福と転ずることを説かれた大聖人は、ついでそれが現実生活にどう現われるかを説かれたもので、法華経を持つ者の生命は、年々に若々しく、その生活は福運に満ちた人生が展開することを示されている。
 「年はわかうなり」は生命自体を指し、「福はかさなり候べし」はその生命をめぐって展開する生活現象をいわれているといえよう。
 法華経薬王品に「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」とある。大聖人は此の文を御義口伝(0774)に次のように説かれている。
 「若人とは上・仏果より下・地獄の罪人まで之を摂す可きなり、病とは三毒の煩悩・仏菩薩に於ても亦之れ有るなり、不老は釈尊不死は地涌の類たり、是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」(0774-第六若人有病得聞是経病即消滅不老不死の事-02)と。
 この「不老不死」とは現実に如何なる生命現象を指すのであろうか。法華文句に「不老は是れ楽、不死は是れ常、此の経を聞いて常楽の解を得」とある。
 人生の苦はさまざまであるが、その究極は生・老・病・死の四苦であるという。〝老〟は肉体的にも精神的にも、人間の負う大いなる〝苦〟の一つである。〝苦〟の反対である〝楽〟もさまざまといえるが、人生最大の苦の四苦が解決されることが、最大の楽となるのではなかろうか。
 今、薬王品の文、あるいは御義口伝の文に見るごとく、法華経を持ち、信心唱題に励む者に、仏の大慈悲は〝抜苦与楽〟と現われるのである。更には我が身が地涌の菩薩、釈尊の生命と現れる――即ち自らの仏界の生命を湧現し、慈悲の当体と現れるのであるから、いつか心身共に生命力は旺盛となって若々しく躍動し、高い目的観に立って人生を逞しく前進することができるのである。
 こうした生命のあり方の根底を知り、その生命観にたって日常を活動できる人生こそ、「福はかさなり候べし」の〝福運〟の人生というべきではなかろうか。
 「観心本尊抄」に「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と説かれている。
 インドの釈迦が三十成道まで、あらゆる苦行を通して求道したものの、更には四十余年間は明かされなかった深秘の秘法を、末法の現在、御本尊を持ち唱題に励む者が、直ちにその境涯に迫り、その法の主体者と顕れるのである。更にはその人の人生は「所願満足・衆生所遊楽」「現世安穏・後生善処」に示されるがごとく、人生を自由自在に遊戯しながら、かつ価値ある生活が送れるということは、まさに〝至福の人〟というべきであろう。「無上の宝聚求めざるに自ら得たり」はこのことを物語っている。
 「十字御書」には「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492-08)とあるが、この福運を招くためにも「信ずる」ことに重要な意義のあることを心すべきであろう。

1136~1136    四条金吾殿御返事(此経難持御書)top

四条金吾殿御返事    文永十二年三月    五十四歳御作
01   此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すで
02 に去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして 大難雨の如く来り候と云云、 真にて
03 や候らん又弁公がいつはりにて候やらん、 いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、 法華経の文に難信難解
04 と説き給ふは是なり、 此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希
05 なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、 此の経を持たん人は難に値うべしと心得
06 て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし、三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり、
07 経に云く「護持仏所属」といへり、 天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」云云、又云く「此の経は持
08 ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」云云、 火にたきぎを加える時はさかんなり、 大風吹け
09 ば求羅は倍増するなり、 松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる、 法華経の行者は火と求羅との如し薪と風
10 とは大難の如し、 法華経の行者は久遠長寿の如来なり、 修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れよ
11 り後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし、○恐恐。
12       文永十二年乙亥三月六日                        日蓮花押
13      四条金吾殿
-----―
 「此経難持」の事。弁阿闍梨日昭がいうには「私はあなたがいわれる通りに法華経を持つ者は『現世は安穏にして後には善処に生まれる』と承って、すでに去年から今日まで、型どおりに信心をしてきましたところが、現世安穏ではなくて、大難が雨のように降ってきました」といっていたとか。はたして、あなたが本当にいったことであろうか。それとも、弁阿闍梨の報告が偽りなのであろうか。どちらにしても、よいついでであるからその不審を晴らしましょう。
 法華経法師品第十の文に「法華経は信じ難く理解しがたい」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞き受ける人は多い。だが、真実に聞き信受して、どんな大難が来ても、この法華経をつねに憶い持って忘れない人はまれである。受けることはやさしいが、持つことはむずかしい。したがって、成仏は持ちつづけることにある。それゆえ、この法華経を持つ人は必ず難に値うのだと心得て持つべきである。法華経見宝搭品第十一の「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのである。
 三世の諸仏の大事である南無妙法蓮華経を念ずることを持つというのである。法華経勧持品第十三には「仏の所属を護持する」といっている。天台大師は法華文句巻八では「信力のゆえに受け、念力のゆえに持つ」といっている。また法華経見宝搭品第十一には「法華経は持ちがたい。もし暫くも持つ者は、我れ即ち歓喜する。諸仏もまた歓喜するのである」と説いている。
 火に薪を加える時には火は盛んに燃える。大風が吹けば求羅は倍増するのである。松は万年の長寿を持つゆえに枝をまげられる。法華経の行者は火と求羅のようなもので、薪と風は大難のようなものである。法華経の行者は久遠長寿の如来である。ゆえに松の譬えのように修行の枝を切られ、曲げられることは疑いないのである。これより以後は、「此経難持」の四字を暫時も忘れず案じていきなさい。○恐恐。
  文永十二年乙亥三月六日    日蓮 花押
   四条金吾殿

此経難持
 宝塔品に「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、 諸仏も亦然なり、是の如きの人は、諸仏の歎めたもう所なり、是れ則ち勇猛なり、是れ則ち精進なり、是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく、則ち為れ疾く無上の仏道を得たり、能く来世に於いて、此の経を読み持たんは、是れ真の仏子、淳善の地に住するなり」の文。法華経を受持することの困難なことを説いて、その功徳を示している。すなわち「此経難持若暫持者 我即歓喜諸仏亦然 如是之人諸仏所歎 是則勇猛是則精進 是名持戒行頭陀者 則為疾得無上仏道」=本門の本尊。「能於来世読持此経」=本門の題目、「是真仏子住淳善地」=本門の戒壇である。四条金吾殿御返事には「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」(1136-04)とある。
―――
弁阿闍梨
 (1222~1323)。日昭のこと。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
―――
現世安穏・後生善処
 法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。
―――
難信難解
 法師品には「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。信じがたく解しがたいとで、法華経の信解は及びもつかないほど甚深の義があることを言いあらわしている。易信易解に対する語。
―――
憶持不忘
 憶持とは、いつまでも胸奥に秘めて忘れず持つこと。不忘とは、忘れぬこと。法華経を、いついかなる時でも忘れず持ち続けること。
―――
求羅
 迦羅求羅の略、黒木虫と訳す。インドに棲息するトカゲの一種といわれる。大智度論巻第七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得れば転た大にして、乃至能く一切を呑食するが如し」とあるように、風を得て成長する生き物といわれる。
―――
乙亥
 干支の組み合わせの12番目で、前は甲戌、次は丙子である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生(水生木)である。
―――――――――
 本抄は、別名を「此経難持御書」ともいう。文永12年(1275)3月、主君からも、同僚からも怨まれ、苦境に立たされた四条金吾に対して、信心の基本姿勢を教えられ、いかなる大難にも信心を持続することが最も肝要であると、厳しく指導されたお手紙である。
 具体的には「法華経の持者の生活、境涯は『現世安穏にして後に善処に生ぜん』と聞き、信受してきたにもかかわらず、なぜ大難が雨のように降るのか」という質問に対して、法華経に「此経難持」「難信難解」と説かれていることが正しい証明で、大難が起これば起こるほど、正法であることを確信し、持ち続けるとき「無上の仏道」が得られる。そのためには、三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずることが大切である。したがって、この妙法を持つには、もともと持ち難い法であると心を決めて持つことが大事である等と答えられている。
受くるはやすく持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり。「ち為れ疾く無上の仏道を得」は疑なし
 御本尊を受持する基本姿勢が説かれている。大聖人は、ここで、なぜ「受」がたやすく、「持」が至難であると仰せなのであろうか。本来、受けること自体も難しいが、とりわけ持ち続けることはそれ以上に難しく、生涯にわたる持続は、さらに至難であるからだ。それゆえ、受持の中でもとくに「持」に重点を置いて、「持つはかたし」と仰せなのである。
 また、御本尊を受持する者には、必ず難が起こる。難とは、信仰をさせまいとする外的障害である。この難に容易に振り回され、なかなか信心を持ち続けることが困難である故に「持つはかたし」といわれたのである。
 だが、難を乗り越えてこそ成仏がある。いかなる難に対しても、御本尊を唯一絶対と信受し、実践するときに成仏がある。決局、持つことの厳しさを心得て、いかなる事態にも御本尊を受持しきるときに、そのまま最高の境涯を築くことができるのである。
天台大師の云く「信力の故に受け、念力の故に持つ」云云
 受と持との根本的な違いがここに明らかである。信と念との相違が、それである。信とは、まだ、仏の言葉あるいは御本尊、妙法を自分の外に置き、ただ、それを疑わないという段階である。「受」という言葉が示すように、与えられるものを受けとるという受け身の姿勢である。
 それに対して、念とは、仏の教え、御本尊、妙法を我が生命として、主体的、能動的に実践していく姿勢である。自身の内にとりこみ確立したのであるから、外界からいかなる障害、迫害がおそってこようと、崩れることはない。故に、生涯、持続しきることが可能となるのである。
 先の「受くるはやすく持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり」ということも、このことからふり返ってみるならば、単に、入信と、その後の信心の持続という関係ではなく、瞬間瞬間の信仰の姿勢の相違を述べられたものと拝せられるのである。
 そのとき「疾く無上の仏道を得」の〝疾く〟は、歴劫修行に対する一生成仏という意味の〝疾く〟ではなく、刹那の成道、即身成仏をあらわすと読むことができる。すなわち、妙法を自身の外になく、自己の生命そのものであると確信し、境智冥合したとき、その瞬間瞬間に無上道=仏界の生命が湧現し、成仏の境地に入るのである。
 また「若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり」の〝暫くも〟も、時間の長短ではなく、刹那を意味するというべきであろう。
 では、この瞬間瞬間の成仏ということと、生涯の持続による一生成仏との関係は、どのように考えるべきか。
 瞬間に仏界を湧現したといっても、日常生活に戻れば、それはふたたび九界であり六道である。そのくり返しが信仰者の人生であるといっても過言ではない。
 だが、仏法流布を願い、不幸の人を救うことを念願し、実践していく人生は、次第にその菩薩、仏界の生命を強靭にし、毎日欠かさぬ勤行、唱題によって仏界を自身の定業とするに至る。こうして「現世安穏にして後に善処に生ぜん」の文のままの生命境涯に入っていくのである。
法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝をきられまげられん事疑なかるべし
 どうしてさまざまな迫害や難が起こるのか、その結論がこの御文である。御本尊を持つ者は、永遠に人々を救っていくべき生命の当体であり、外形のいかんにかかわらず、その内面は、最も尊厳で崇高な如来の生命の当体である。すなわち妙法の実践者は、久遠元初の妙法を我が生命とすることにより、久遠元初の無作三身となるのである。
 この久遠長寿の如来となるための試練、修行であるから、そこに熾烈な難がきそうことは当然である。したがって、いかなる障魔がきそい、苦難があろうと、むしろ、その苦難を糧としてますます力を増し、福運を増大することができるのであり、それによって久遠の仏の生命を顕わしていくことができるのである。

1136~1136    四条金吾殿御返事(此経難持御書)2014:02大白蓮華より先生の講義top

「妙法の勇者」に恐れなし!

 2月は、御本仏・日蓮大聖人の御生誕の月であるとともに、恩師・戸田城聖先生の誕生の月でもあります。
 毎年2月を迎えるたびに、私は、あらゆる大難を厳然と勝ち越え、広宣流布に身を捧げられた御本仏の御生涯、そして第2次世界大戦後の焼け野原に一人立たれた恩師の大闘争に思いを馳せ、さらなる大法弘通への報恩の誓いを新たにしています。
 戸田先生は語られました。
 「広宣流布は、一生の戦いである。いな、永遠の戦いである。たとえ苦難の嵐があっても、断じて負けるな!」
 恩師は、社会から見捨てられ、いじめ抜かれてきた庶民を「本当にかわいそうだ、断じて幸福になってもらいたい」と抱きかかえていかれました。一人の友に同苦し、徹して励ましを送りながら、一歩また一歩と、広宣流布の大連帯を広げられていったのです。その原動力こそ“一対一の対話”でした。
 学会の草創期、戸田先生は東京の市ヶ谷にあった学会の分室で、毎日午後2時から4時過ぎまで、訪ねてくる会員の指導・激励にあたられました。御自身が座る机の前に7・8脚の椅子がある小さな部屋で、恩師は訪れてきた友を温かく迎え、「どうした?」と気さくに語りかけられました。その慈愛と声とまなざしに、同志は心から安心して、率直に悩みをぶつけていったのです。
 悩みも、経済苦、仕事の苦境、病気、家庭不和、子どもの問題、人間関係など先差万別でした。その一つ一つに先生は確信を込めて答えていきました。その激励に、同志は一人また一人と奮い立ったのです。
トンネルを抜ければそこに
 ある時、戸田先生は苦難に立ち向かう友を励まして、こう語られたことがありました。
 「人生は、トンネルに入ったような時もある。しかし、トンネルを抜ければ、また、きれいな景色が見えるではないか。途中で止まってはいけない。信心で最後まで戦い、進むのだ」と。
 この「最後まで戦い、進む」という恩師の言葉に、皆、希望を見い出しました。
 信心根本に進んでいく限り、いかなる難にも負けず、必ず勝利できる。恩師は、この絶待の確信を叫び、同志に語り抜かれたのです。
 今回学ぶ「四条金吾殿御返事」には、困難に直面した門下に対する、大聖人の厳しくも温かな御指導が綴られています。
 大聖人の励ましの世界の根底には、人間の無間の可能性への信頼と、万人への尊敬があります。
 誰人も「師子王の心」を持ち、いかなる逆境をも突き抜ける力を本然的に具えている。それを取り出せば、いかなる人も仏に成れる。だからこそ信心を根本にしていく限り、どんな試練も恐れることはないと断言されているのです。

四条金吾殿御返事    文永十二年三月    五十四歳御作
01   此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すで
02 に去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして 大難雨の如く来り候と云云、 真にて
03 や候らん又弁公がいつはりにて候やらん、 いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、 
-----―
 「此経難持」の事、弁阿闍梨日昭がいうには「私はあなたがいわれる通りに、法華経を持つ者は『現世は安穏にして後には善処に生まれる』と承って・すでに去る年から今日まで、型どうりに信心をしてきましたところが、現世安穏ではなくて、大難が雨のように降ってきました」といっていたとか。はたして、あなたが本当にいっていたことであろうか。それとも日昭の報告が偽りなのであろうか。どちらにしても、よいついでであるから不審をはらしましょう。

信心とは「勇気」の異名
 人間の真価は、いざというときに現れます。信心をしていても、さまざまな苦境に陥ることはあります。いな、正しい信心に励むからこそ難に遭うのです。その時に、御本尊を信じ抜き、「負けじ魂」で前進する人は、必ず最後は 勝利していくことができる。信心とは「勇気」の異名です。大聖人はその「不退の勇者」の生き方を教えられているのです。
 本抄は、文永12年(1275)3月、大聖人が54歳の時に身延で著され、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙です。別名を「此経難持御書」といいます。冒頭に「此経難持の事」とあり、再び文末には「此れより後は此経難持の四字を暫時も忘れず案じ給うべし」と結ばれています。
 「此経難持」とは、法華経見宝塔品第11にある「此の経は持ち難し、との文です。
 法華経では、この見宝塔品から「虚空会の儀式」が始まり、滅後末法のための付嘱の儀式が厳粛に進行していきます。このなかで「此経難持」とは、末法において南無妙法蓮華経を持つことが至難であり、広宣流布が難事中の難事であることを示しています。
 四条金吾がこのお手紙を頂く前年の文永11年(1274)3月、大聖人は佐渡流罪から鎌倉に帰還され、3度目の国主諌暁をされました。
 そして、5月には身延に入られ、末法万年尽未来際への令法久住の総仕上げを開始されました。そうした大聖人の大闘争を目の当たりにした金吾は深い決意に立ち、同年9月、主君・江間氏を折伏します。しかし、江間氏は極楽寺良観を信奉していることから、金吾は主君から次第にうとまれていき、それにつけこんだ同僚から、激しい卑劣な迫害を加えられたのです。
 「竜の口の法難」にも、決死の覚悟でお供した剛毅な四条金吾ですが、この時ばかりは、つい弱音を吐くほど、戸惑いを隠せずにいたのでしょう。“法華経を信じれば「現世安穏」になると聞き、信仰してきたのに、なぜ「大難」が雨のように降りかかるのか”。
 こうした金吾の疑問を、弁阿闍梨日昭を通して聞かれた大聖人が、その不審に答える形で記されたのが本抄です。
 “あなたが言ったことはほんとうなのか。それとも日昭の報告が誤っているのか”との仰せにも、金吾に対する心配りが感じられます。どこまでも、金吾のために、今こそ「此経難持」の言葉を命に刻ませようと、このお手紙を認められたのではないでしょうか。
仏とは戦い続ける人間
 人間は、えてして「いざという時」に迷いが生じるのです。凡夫の身として仕方のないことでもありましょう。しかし、何があっても、信心の歩みは止めてはならない。」成仏への道を閉ざしてはならない。
 日蓮仏法における成仏とは、“自身の生命に本来具わっている仏の境涯を涌現させ、何ものにも揺るがぬ、絶対的な幸福境涯を確立すること”にほかなりません。そのためには、絶えざる自身の生命練磨が不可欠です。
 成仏とは、決してゴールではない。どのような事態にも突き進んでいく、勇気と智慧の人が仏です。
 人間を離れて仏は存在しません。仏にも少病少悩というように、悩みも病もありなす。熾烈な魔との闘争もある。しかし、困難な環境を、さらなる飛躍・発展への好機と捉え返し、たゆまず前進する中に、本当の仏の生命の輝きがあります。戦い続ける人が仏だからです。
 日蓮仏法における成仏とは、その仏の境涯を、私たちの現実の生活の中に現し切る中にあります。そのための信心の実践です。
 戸田先生は、よく「たゆまず流れ出ずる水の信心であれ!溜まり水は動かないから腐ってしまう。人間も同じだ。進まざるは退転である」とかたられていました。
 この「此経難持」という法華経の文の後には、「是れは則勇猛なり、是れは則ち精進なり」と続きます。
 「勇猛精進」とは、法華経を実践する根本の魂であり、心が勇猛果敢で、苦難に挑戦し、力を尽くして仏道修行に励むことです。
 信心とは、常に自分自身との戦いであり、苦難に打ち勝つためには、戦いをやめてはならない。いな、戦い続けるなかに、必ず仏の生命が現れるのです。つまり、「此経難持」とは、法華経を持ち続けることの難しさを示すとともに、仏法者として、いかなる困難とも戦い続ける深い決意に立つことを教えているとも拝せます。かつて、初代会長の牧口常三郎先生は青年に語られました。
 「勇猛精進したまえ!仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」と。
 勇んで挑戦するところに、生命の躍動があり、智慧も生まれます。そこに歓喜があり、希望がみなぎるのです。勇猛精進に徹する人には、永遠に行き詰まりがない。勇猛精進の人こそ、仏法の真髄を体得する人と言えるのではないでしょうか。
真実の「現世安穏」の大境涯
 続いての御文に説かれる「現世安穏・後生善処」とは、法華経薬草喩品第5の文で、「現世安穏にして後に善処に生じ」と読みます。
 この「現世安穏・後生善処」の一節について、大聖人は本抄以外にも、四条金吾に、その本義を繰り返し教えられています。 「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)では、「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり」(1143-03)と記されています。
 「現世安穏」とは、何の難もないことではありません。どんいな難があっても微動だにせず、妙法を持ち抜いて師子王のように勇んで戦い、勝っていくことです。だから、法華経を持ち続ける中にこそ、本当の「現世安穏・後生善処」があるのです。
 大聖人の御在世に、この仏法を持ち続けていくことがいかに至難であったか。
 大聖人は、「我が弟子に朝夕教え鹿ども」(0234-08)、多くの弟子は、」実際に法難に直面すると、師の教えを忘れ、臆し、退いてしまったと、厳しく仰せです。
 信仰に命を惜しまない四条金吾でさえも、現実の複雑な人間模様を通して信仰への妨害があった時に、「現世安穏」への確信が揺らいでしまう。そうした厳しい金吾の現実の葛藤を、大聖人は深く見通されたがゆえに、弟子の不安を晴らすために、大確信と慈愛の励ましを、繰り返し送り続けられたのです。
 四条金吾もまた、その師の言葉を信じ実直な信心を実践し抜いたからこそ、たび重なる迫害に最後は勝利して、堂々たる師弟一体の栄光の実証を築きあげることができたのです。

03                                           法華経の文に難信難解
04 と説き給ふは是なり、 此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希
05 なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、 此の経を持たん人は難に値うべしと心得
06 て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし、
-----―
 法華経法師品第十の文に「法華経は信じ難く理解しがたい」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞き受ける人は多い。だが、真実に聞き信受して、どんな大難がきても、この法華経をつねに憶い持って忘れない人はまれである。受けることはやさしいが、持つことはむずかしい。したがって、成仏は持ちつづけることにある。それゆえ、この法華経を持つ人は必ず難に値うのだと心得て持つべきである。法華経見宝搭品第十一に「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのである。

憶持不忘の人を仏は讃嘆
 法華経は、仏の真意をありのままに説いた随自意の教えです。「難信難解」であり、法華経を弘通すれば、経文に説かれている通り、さまざまな反発や迫害に遭うことも必定です。大難は賢人・聖人も免れることはできません。まして、末聞の宗教革命となれば、非難を避けることはできないでしょう。
 この原理が分かっていても、いざ難に遭うと動揺してしまう。それゆえに大聖人は「大難来れども憶持不忘の人は希なるなり」と、厳愛の御指導をされているのです。
 「憶持不忘」とは、常に心に思って忘れないこと、心の中にとどめること、覚えることの意です。
 法華経の結経である普賢経には「深法を説くことを聞いて、其の義趣を解し憶持して忘れじ。日日に是の如くして、其の心は漸く利ならん」と記されています。
 この「此経難事」「憶持不忘」の一点さえ見失わなければ、信心の極意を得ることができます。
 「まことの時」に、信心を固く忘れぬ人こそ、人生の英雄であり、勝利者となるのです。
 今、多くの新入会の友が誕生し、喜びあふれた入会記念勤行会が各地で開催されています。その時に、よく確認される御文が、「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」との御指南です。
 ここでは、末法の仏道修行の根本である「受持」について、特に「受」と「持」に分けて述べられています。
 御本尊を受持することにもまして、信仰を持ち続け、一生涯信心を貫くことは、さらに至難なことです。大聖人は弟子や門下に対し、御書のいたる所で、信心を貫き通していくことの重要性を強調されています。
 「始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」(1182-01)
 「 法華経の信心を・とをし給へ」(1117-18)
 「とをす」「とをし」との言葉から、一貫して変わることのない信心の姿勢を重んじられた大聖人の御心が拝されます。本抄で言えば、それが「成仏は持つにあり」との仰せです。「持つ」とは、競い起こる難と戦い、仏の教えを実践していくという能動的な姿勢にほかなりません。
 信心を貫き通す」「持ち続ける」には、不断の精神闘争が必要です。ただ漫然と信仰するだけでは、押し寄せる大難の前に敗れてしまいかねない。
 「三障四魔」が競い起こった時に、それに立ち向かうか敗れてしまうか。信仰への非難や迫害、そして、宿業など自身を取り巻く環境に敗北するのか、攻め返していけるのかは、実は、私たちの信仰の強さ、深さです。常に自身の心を磨き、全部わが生命の変革から始まると決意をして、勝利するまで戦う誓願を起こすのです。それが「信心」にほかなりません。
「難来るを以て安楽」
 「御義口伝」に「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)とあります。
 信心を常に奮い起こす中に、御聖訓の「貫く」「持つ」実践の成就があるのです。まさしく「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)との一節は“わが弟子を絶対に退転させてなるものか”“全員を勝利者、幸福者にさせたい”との大慈大悲の願いが込められているものと拝されます。
 あらためて、「必ず難にあうのだと心得て持つべきである」「そのなかで、速やかに無上の仏道を得ることができる」との仰せは信仰の根幹を教えられたものです。
 「難来るを以て安楽と意得可きなり」(0750-第一安楽行品の事)との御文の通り、広宣流布に生き切る信心を教えてくださったのが、先師・牧口先生であり、恩師・戸田先生です。
 この両先生の不惜身命の実践に連なって、自身も広布の大道を生ききっていこうとする弟子の誓願と行動の中に、「成仏は持つにあり」の実現があります。
 大聖人が仰せになられた「希なるなり」を、草創以来の歴史を通して、数多くの学会員が実現してきました。それが「創価学会の信心」です。
 一人一人が、永遠に輝きわたる所願満足の人生を勝ちかざっていくことは、絶対にまちがいありません。

06                       三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり、
07 経に云く「護持仏所属」といへり、 天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」云云、又云く「此の経は持
08 ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」云云、 
-----―
 三世の諸仏の大事である南無妙法蓮華経を念ずることを持つというのである。法華経勧持品第十三には「仏の所属を護持する」といっている。天台大師は法華文句巻八では「信力のゆえに受け、念力のゆえに持つ」といっている。また見宝搭品第十一には「法華経は持ちがたい。もし暫くも持つ者は、我、即ち歓喜す。諸仏もまた歓喜するのである」と説いている。

社会に信念の人を
 大聖人は続いて「三世の諸仏が最も大事にしている南無妙法蓮華経を念ずることを『持つ』というのです」と仰せられています。私たちが「持つ」べき妙法が、いかに深遠であうのか。三世のあらゆる仏が修行の根本とした成仏の法が南無妙法蓮華経であり、この一法こそが私たちが持つべき法であることを示されています。
 この南無妙法蓮華経を「受持」する修行は、「信力」によって受け、「念力」によって持つことになるのです。
 ここで、「念」とは、「覚えておくこと」「忘れないこと」です。自身が師匠に約束した誓願を貫き通していく。そのことが「持つ」ことの最大の力となるのです。
 そして、「此経難事」と心得て、仏法を持つ者が、仏から最大に賞讃され、大功徳を得ていくことは間違いありません。
 戸田先生はかつて「社会に信念の人を」と題して、こう述べられました。
 きちんと出来あがっているように見えて、なんとなくもの足りない日本。何となく底が浅い日本。そのうつろさ、空虚さを、どう打ち破るか。
 原因は「人」にある。一人一人が「生き生きとして、はちきれるような生命力」にかがやくことだ。「信念の人」をつくることだ。
 そのためには「正しい宗教によって生命力を強める以外にはない」と。これが、戸田先生の教えと行動でした。
 また、このようにも、よく語られていた。
 御本尊を信じ、人生を生き切っていけ!これが一切だ。いくら愚癡をこぼしていても、つまらぬことでくよくよしても、どうしようもないではないか。御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生き切っていけ!」と。
 どこまでも、信心根本に生き抜く人が、勝利の人生を歩んで行けるのです。
 結局、困難というものは、どんなに逃げ回ったとしても、避けることはできません。同じ生きるなら、「さあ、何でもかかってこい」と勢いよく、強い生命力で楽しんで悠々と迎え撃つほうが、爽快であり、価値的です。学会には言うに言われぬ苦悩や悲嘆に屈せず、逞しく乗り越え、快活に戦い抜く姿を、誇りをもって人に示していく、信心の英雄というべき、無名の庶民が無数に存在します。
 大変であっても、明るい、苦しいはずなのに、賑やかに前進する。腹を決めて、大境涯から一切を包み込んでいく。自他共の幸福の実現。自他共の宿命の転換を目指し、日々、奔走する学会員の姿が、どれはど多くの人々に勇気と希望と確信をあたえていくことか。後世の民衆史に燦然と刻まれる大英雄たちであることは疑いありません。

08                               火にたきぎを加える時はさかんなり、 大風吹け
09 ば求羅は倍増するなり、 松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる、 法華経の行者は火と求羅との如し薪と風
10 とは大難の如し、 法華経の行者は久遠長寿の如来なり、 修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れよ
11 り後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし、
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 火に薪を加える時には火は盛んに燃える。大風が吹けば求羅は倍増するのである。松は万年の長寿を持つゆえに枝をまげられる法華経の行者は火と求羅ようなもので、薪と風とは大難のようなものである。法華経の行者は久遠長寿の如来である。ゆえに松の枝を切られ、曲げられることは疑いないのである。これより以後は「此経難持」の四字を暫時も忘れずに案じていきなさい。

大難が信心を強める
 最後に大聖人は、難に挑む私たちの姿勢はいかにあるべきかを、譬えをもって、また道理のうえから示されています。
 火の中に薪を入れると、火は一層大きく燃え上がり、勢いを増します。求羅とは仏典に出てくる想像上の生き物ですが、風が吹けば吹くほど成長し、体が大きくなるといわれます。ここでは、火と求羅を、法華経の信仰者としての私たちの信心に譬えられ、薪と風を、その信心に反対する大難に譬えられています。
 すなわち、火が薪を加えられて一層燃え上がり、求羅が大風を受けてますます大きくなるように、私たちも大難に遭えば遭うほど、信心の炎を燃え上がらせ、一層たくましく成長していくべきである、と教えられているのです。
 「法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑いなかるべし」とは、妙法を実践する者は久遠の妙法をわが生命とすることにより、「久遠長寿の如来」になることができる、そのための修行であるから、そこに熾烈な難が競うことは当然である、との仰せです。
 法華経の行者に難が起こるのは、「久遠長寿の如来」の境涯を得ること、すなわち“成仏”という偉大な目的のための修行であるからです。松が長年の風雪に鍛えられ枝を、曲げられながら逆に見事な枝振りとなっていくように、逆境を勝利への源泉としてこそ、成仏の大境涯を得ることができる、と大聖人は述べられています。
 したがって、どんな障魔が競い、苦難があろうと、それに負けずに信心に励めば、いよいよ威光勢力を増し、福運を増大することになります。「久遠長寿」です。私たちが苦悩を突き抜けた時に、偉大な境涯革命をした自分を知ることができる。広宣流布という壮大な目的に向かって、師弟一体で永遠に戦い続ける境地こそ「久遠長寿の如来」の生命にほかなりません。言うならば、崩れざる幸福境涯の確立です。
 ゆえに、大聖人が仰せの「此経難事の四字」を片時も忘れずに胸に刻み、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」との勇敢な前進が肝要なのです。
ブラジルSGI発展の因
 苦難を乗り越えた先に、晴れ晴れとした大きな勝利が開かれる。このことを、身をもって示してきたのが、ブラジルSGIの同志です。
 今から30年前の1984年4月2日、私は3度目となるブラジル訪問を果たしました。
 この10年前の74年3月、私は訪問先のアメリカからサンパウロでの文化祭に向かう予定でした。しかし、軍事政権によってビザが発給されず、ブラジルに入国できなかったのです。ブラジルの同志の胸中を思うと私の心は張り裂けそうでした。しかし、電話を通して、私はブラジルのリーダーに言いました。
 「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう。しかし、これも、すべて議御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ」「ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大躍進の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ。長い目で見れば、苦労したところ、呻吟したところは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ」と。ブラジルの同志は、ここから「よし!ブラジルの国土を変革するような題目をあげ抜こう!ムトイ・マイス・ダイモクを合言葉に前進しました。
 翌75年4月んは、首都ブラジリアの誕生15周年を祝う記念行事の一環として、ブラジリア連邦区からの要請で文化祭を開催しました。その模様は、地元紙にも「わが国の誇る文化団体」と報道され、社会の見る目も段々と変わっていきました。
 そして迎えた84年2月、軍政から民政へ道を開いたフィゲイレド大統領の招聘により、18年ぶり3度目の訪問が実現したのです。
 ブラジルのメンバーは、平和のため、人々の幸福のために日々、行動し、社会の発展に貢献してきました。偉大な勝利の実証を示していました。
 1984年2月25日、私は、待ちに待った友の乱舞の中に飛び込みました。第1回SGIブラジル大文化祭のリハーサルの際は場内を一周し、本舞台でも感動の渦の中にいました。会場に響きわたった「ピゲ!ピゲ!」の大歓声は今も、耳から離れません。ブラジルは、まさに全世界の王者として大発展を遂げています。
「師弟直結」勝利への奇跡
 本抄を頂いた四条金吾の苦難は、その後、数年にわたって続きましたが、常に大聖人より御指導を受けて、見事に乗り越えていきました。そして、主君を誠実に看病したことから、信頼を回復し、弘安元年(1278)には、所領も増加するという大勝利の実証を示したのです。
 金吾は大聖人に直結していたからこそ、信心を貫き、勝利することができたのです。
 信心とは間断なき魔との闘争です。
 信心とは、行き詰まりとの戦いです。
 信心とは諦めない勇気です。
 信心とは「困難に立ち向かう心」です。
 そして、信心とは、御聖訓を勇敢に実践する「師弟不二の心」です。
 私たちは、どこまでも御本仏の言葉を心に刻み、不退の勇者として共戦のスクラムも固く、世界広布新時代を前進してまいりたい。

1137~1139    王舎城事top
1137:01~1137:08 第一章 火災の本因を説くtop

王舎城事     建治元年四月    五十四歳御作   与四条金吾
01   銭一貫五百文給び候い畢んぬ、 焼亡の事委く承つて候事悦び入つて候、大火の事は仁王経の七難の中の第三の
02 火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、 夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢
03 人・福人・智者をば火やくことなし、 例せば月氏に王舎城と申す大城は在家・九億万家なり、七度まで大火をこり
04 てやけほろびき、 万民なげきて逃亡せんとせしに大王なげかせ給う事かぎりなし、 其の時賢人ありて云く七難の
05 大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、 然るに此の大火・万民をば・やくといえども内裏には
06 火ちかづくことなし、 知んぬ王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれ
07 てやくべからずと申せしかば、 さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、 されば
08 大果報の人をば大火はやかざるなり。
-----―
 銭一貫五百文いただきました。鎌倉極楽寺の火災のことを委しく承り悦んでおります。大火のことについては仁王経には七難の中の第三、法華経では七難の中の第一にあげられている。
 虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことはできない。同じように、聖人・賢人・福人・智者を火は焼くことはないのである。たとえをあげるならば、インドに王舎城という、九十万戸を擁する大城があった。この大城は、七度も大火が起こって焼け亡びた。万民が度重なる大火を嘆いて、この国から逃亡しようとした時、大王は限りなく嘆かれた。そのとき賢人があって次のようにいった。「七難の一つにあげられている大火ということは、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。ところが、今起きている大火は、万民の家は焼いても王宮には火は近づいてない。これは王の過失ではなく万民の過失によるものであることがわかる。したがってこれからは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名に恐れて焼くことはできないであろう」と。王はそのようなこともあるかもしれないと思い、王舎城と名づけてみると、それ以来、火災は止んだ。この例でもわかるように、大果報の人を大火は焼かないのである。

仁王経の七難
 仏説仁王般若波羅蜜経受持品には、日月失度難、衆星変改難、諸火梵焼難、時節返逆難、大風数起難、天地亢陽難、四方賊来難の七難があげられている。この中で第三の諸火梵焼難については次のように述べられている。「大火国を焼き万姓焼尽せん、或いは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり」と。またこの中で鬼火・竜火・山神火・樹木火などは、自然現象によって起こるもの、人火、賊火は人間の故意または過失によって起こるものと考えられる。戦争による火難なども、人火、賊火にあたるといえる。
―――
法華経の七難
 法華経で説く七種の難。観世音菩薩普門品第二十五にある、火難、水難、羅刹難、王難、鬼難、枷鎖難、怨賊難の七種である。
―――
聖人
 世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」(1240)には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」とある。
―――
賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
―――
福人
 過去に善根を積んだことによって、福徳・福運に満ちた人。
―――
智者
 物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――――――――
 この書は建治元年(1275)4月、四条金吾が身延の日蓮大聖人に鎌倉の極楽寺および御所の焼失を報告したのに対する御返事である。
 この御消息文の執筆年次について、ここには建治元年(1275)乙亥卯月12日としてある。この書の古写本である朝師本には年次の記載がないので推量するしかないが、建治2年(1276)とする説もある。
 建治元年(1275)4月12日だとすると、両火という点、御所炎上という事実から考えて、極楽寺炎上の折り、その火が御所に飛火したことになる。
 極楽寺炎上については、堂舎が焼け亡びたというだけでどれだけの規模で焼けたかわからないが、極楽寺は文応元年(1260)までに四十九院が建立されている。全焼というなら史料綜覧などに記載されているはずである。しかし、このことに関しては、いまのところ鎌倉市史の寺社編しか見当らないところをみると、それほど大規模に焼けたようには思われない。したがって極楽寺の火が御所に飛火したとは考えられないのである。
 次に建治2年(1276)説についてであるが、鎌倉御所が焼けた事件は、建治2年(1276)1月20日と同年12月15日である。両火ということからこの建治2年(1276)1月20日の御所炎上と前年の極楽寺炎上をかけて大聖人はおっしゃったのではないかと思われるが、いずれにしても推論の域をでない。
大果報の人をば大火はやかざるなり
 法華文句には王舎城の例を引いて、民衆の福徳薄きゆえに火災にあうと説かれている。また須達長者の話には、貪欲が強いから火災に見舞われるとある。仏法では、人間の受ける苦悩の根本原因を、人間自身の中に見出しているのである。火災という、現実社会にあって人間に苦悩をもたらす現象も、結局はそれを受ける人間の福徳と無関係ではないというのが仏法の見方である。あるいは、原因において、個人の行動と直接関係のない事柄、たとえば火災や風水害等は、現象のうえでの因果関係は認められても、それらの被害を受ける人にその原因を求めることはできないというかも知れない。たしかに現象面の因果関係を見るならば、そういうことになり、個々人の受ける被害は、起きた現象によってもたらされた結果にすぎない。しかし、このように苦悩の原因を環境側に求めていくならば、人間の幸・不幸は偶然によって支配されることになる。
 仏法では、さまざまな幸・不幸を感じていく人間自身に焦点をあてて、生命の因果関係を追究している。そしてめぐりあう一切の幸・不幸は、本質的には、自身の生命の因果のあらわれであることを明らかにしているのである。
 この背景には、人間と社会・自然との関係や、生命の因果の体系についての膨大な哲学があるが、それらの解説は他にゆずり、ここでは、仏法の捉え方を示すのみにとどめておく。 

1137:09~1137:13 第二章 両火房について述べるtop

09   これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、 然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりを
10 なして日蓮を降伏せんとする故に 弥弥わざはひ来るにや、 其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の
11 聖人・鎌倉中の上下の師なり、 一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、 又一火は鎌倉にはなちて御所やけ
12 候ぬ、 又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて 阿鼻の炎にもえ候べき先表なり、
13 愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用い候はぬは是体に候なり、不便不便、先先御文まいらせ候しなり。
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 ところが今度の大火では王の御所が焼けた。これは日本国の果報が尽きる前兆である。国の福運が尽きようとしているのに、日本国においては大謗法の僧等が日蓮を降伏させようと強盛に祈るが故に、ますます災いが起こるのであろう。そのうえ、名というものは本体を顕わすものであるが、両火房という謗法の聖人が鎌倉中の上下万民の師である。両火のうち一火は自身に留って極楽寺が焼けて地獄寺となった。また一火は鎌倉に飛んで御所を焼いた。また別の見方をすれば、一火は現世の国を焼くうえに、未来には日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえる先表である。愚癡の法師たちが智慧のある者の言を用いない結果は、このようなありさまである。まことに不便なことである。このことについては先先お手紙を差し上げてあります。

両火房
 極楽寺良観(1217~1303)を揶揄していわれたもの。良観は房名で、正しくは忍性。鎌倉時代の真言律宗の僧。極楽寺を創設した北条重時の子・業時に招かれて開山になった。
 良観は土木事業を盛んに行なう一方、悲田院という病院を建てて病人などの救済にあたった。だがその財源は、幕府に取り入って確保した利権にあった。すなわち和賀江島の関米徴収権や、鎌倉七口での木戸銭徴収権である。表では慈善事業を行ない聖者の顔をし、裏では民衆を苦しめていたのである。
 「極楽寺良観への御状」(0174)に「良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」とある。
 すなわち良観は、法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵中の第三、僭聖増上慢であり、仏のような姿で世人を幻惑し、内心には怨嫉をもち仏法を破壊しようとする、第六天の魔王の働きそのものである。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
先表
 前兆・事の起こるしるし。
―――
愚癡の法師
 仏法の道理を理解できない僧侶。
―――――――――
 当時、鎌倉の上下から生き仏のように敬われていた極楽寺良観を徹底的に揶揄しながら破折されている。
 良観は世智にたけた僧で、鎌倉幕府の要人たちにとりいり、一方では慈善事業などを行なって民衆の尊敬をあつめたのであった。
 しかし、その法は律と念仏を混合したような邪法で、内心には邪悪な念いが強く、正法をもって立たれた日蓮大聖人をことごとに迫害した陰の張本人であった。
 つねに権力者と結託してこれをけしかけ、自身は、その陰にかくれて、大聖人から公場での対論を申しこまれても、出てくることはなかった。あくまでも卑劣で、陰険なやり方で、わが身の安泰を図ったのである。
又一火は現世の国をやきぬる上に、日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえ候べき先表なり
 仏法の誤りは、現実の生活の乱れとして現われるだけでなく、未来のその人の生命活動をも根本的に狂わせていくことを示された御文である。外にあらわれた現象は、内なる生命の状態の表象である。
 「日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて云云」とは、一応来世の苦しみを述べたところである。しかし来世の姿は、そのまま、現世のなかに、さまざまな姿を現じている。生命の奥深くにあるものがそのまま、来世に続いていくからである。
 何を信ずるかによって、その信仰は、自身の生命の本質を形成し、方向づける。その生命の本質は、そのまま生命活動の上に表出していくのである。ゆえに大聖人は現実の姿の中から、鋭く生命の本質を洞察され、未来を警告されているのである。また厳しく謗法を訶責されたのも、その故であることを知らなければならない。

1137:14~1137:14 第三章 馬の事を話されるtop

14   御馬のがいて候へば又ともびきしてくり毛なる馬をこそまうけて候へ、あはれ・あはれ見せまいらせ候はばや、
-----―
 ところで馬を野飼いしておいたら、友引として栗毛の馬を儲けました。ぜひぜひあなたにお見せしたいものである。

ともびき
 友達を連れてくること。
―――
 四条金吾が差し上げた馬を野飼いしておいたところ、その馬が友引きをして、栗毛の馬を儲けた、見事な馬であるから、ぜひ見せたいという、人間味あふれる大聖人の心情を綴られた一節である。

1137:15~1138:01 第四章 名越尼について述べるtop

15 名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞えて候へ、 ある人の・ゆきあひて理具の法門自讃しけるを・さむざむに
1138
01 せめて候けると承り候。
-----―
 名越の尼のことについてはこちらでも多くの子細を聞いている。ある人が尼にたまたま出会って、天台の理具の法門を自讃しているのを、散々に責めたと聞きました。

名越の事
 名越の尼のことと思われる。名越遠江守朝時の妻で、始め日蓮大聖人に帰依したが、竜口の法難以後退転した。「上野殿御返事」(1539)に「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびゃうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」とある。これによれば所領屋敷を没収されることを恐れて、信仰を捨てたばかりか、大聖人門下の多くを誘って退転させたようである。
―――
理具の法門
 法理を具すことで、理を表にした法門のこと。
―――――――――
 名越尼のことについての一文である。尼は多少とも天台の法門に心得があったのであろうか。理具の法門を自讃していたところを大聖人の弟子から散々に破折されたようである。
 大尼の自讃した理具の法門とは、天台宗で立てる理の一念三千の法門である。理の一念三千とは、仏法の生命論の哲学的体系である。日蓮大聖人は、これをさらに掘り下げて、その発動を起こしていく、生命自体の力を見極められた。そして、それを南無妙法蓮華経とあらわされたのである。これを天台の哲学的、理論的体系である〝理の一念三千〟に対して〝事の一念三千〟とよぶ。生命の事実の力そのものをあらわしているからである。
 日蓮大聖人は、この天台の一念三千と大聖人の仏法との違いを、次のように述べられている。「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界千如・一念三千、其の義を尽せり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。所詮円機有って円時無き故なり」(0253-11)と。また「我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず。本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義を存して自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か(中略)若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜しく予が正義に随うべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種の実理なり」(0873-08)と。大聖人の仏法は、観念の理論体系の中に終わるのではなく、あくまでも、不動の哲理の上に立って、いかに現実の生命活動の中に、生命哲学によって見出された根源の力を湧現させるかに主眼があるのである。この大聖人の仏法の本義を忘れてはならない。

1138:02~1388:07 第五章 夫人の信心を説くtop

02   又女房の御いのりの事法華経をば疑ひまいらせ候はねども御信心やよはくわたらせ給はんずらん、 如法に信じ
03 たる様なる人人も実にはさもなき事とも是にて見て候、 それにも知しめされて候、まして女人の御心・風をば・つ
04 なぐとも・とりがたし、 御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆
05 病なるやうにて候べし、 あへて法華経の御とがにては候べからず、 よくよく念仏と持斎とを我もすて人をも力の
06 あらん程はせかせ給へ、 譬へば左衛門殿の人ににくまるるがごとしとこまごまと御物語り候へ、 いかに法華経を
07 御信用ありとも法華経のかたきを・とわりほどには・よもおぼさじとなり、
-----―
 また女房のお祈りの事は、法華経を疑ってはいないが、ご信心が弱くていらっしゃるのであろう。法の如くに信じているように見える人たちでも、実際はそれほどでもないと私は見ている。貴殿もそのことはご存知であろう。まして女の人の心は、たとえ空を吹く風をつかまえることはできたとしても、それ以上に捉えにくいものである。日眼女の祈りが叶わないというのは、ちょうど弓が強いのに弦が弱く、太刀や剣があっても使う人が臆病であるようなものである。決して法華経の失によるものではない。よくよく念仏と律宗とを自身も捨て、力のあるかぎり他人をも念仏や律宗から離れさせてあげなさい。例えば左衛門殿が人に憎まれながらもその信仰を持っているように実践していきなさいと、こまごまと話してあげなさい。いかに法華経を信じているとはいっても、法華経に敵対するものに対して、とわりほどには憎く思われていないだろうと思います。

念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
持斎
 斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
左衛門殿
 (~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
―――
とわり
 一人の男性をめぐって対立する相手の女性。先妻に対する後妻や、正妻からみた遊女等の意。
―――――――――
 女性の特質を見事にとらえ、簡明に表現されている。それは「風をばつなぐともとりがたし」といわれているように、縁にふれて動きやすい、ということである。またそれが、繊細で鋭敏な女性の長所ともなるのであるが、いつも周囲の縁によって動かされる受け身の行き方では、強い信心の持続はできないことになってしまう。まず、御本尊への強い信心に立ち、それだけは微動もしないという姿勢を確立することが大切である。
 この強い信心の確立のため、また大乗仏法の本義からいって、大事なことは、念仏等の謗法を排し、人々にもこの不幸の根源の邪法を捨てさせる、挑戦の心がまえと実践である。不幸の元凶に対する戦いの姿勢がなければ、知らず識らずのうちに、それは心を軟弱化させ、邪法に同化してしまうものである。また、自分のことだけしか考えない行き方も、自己を狭い殻にとじこめ、生き生きしたものをなくしてしまう。化他の精神こそ、大乗仏法の根本であり、そのように開かれた目的観と実践をつらぬいていくとき、心はおのずから強く鍛えられ、活力をたたえていくのである。
御いのりの叶い候はざらんは、弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず
 妙法の絶対性と強い信仰の大切さを述べられた御文である。仏法では不変の生命の法を追究している。妙法とは、生命の法の中でも最も根源的な一切を包含したものである。仏法の修行、仏法の祈りは、この妙法への帰命によって、自身の力にある妙法を発動せしめていくことにある。
 したがって、仏法の修行において、最も大切なことは、帰命する〝妙法〟であり、同時に帰命する力、すなわち信仰の力である。どれほど優れた法であっても、信仰の力が弱ければ、その法の顕現はない。また逆に、信仰の力がどれほど強くても、法自身が力弱き法であれば、信仰のかいがない。「あへて法華経の御とがにては候べからず」とは、大聖人の確立された御本尊への絶対の確信を述べた御文である。その上にたって、日眼女の信仰のあり方を指導されたのがこの御文である。
 仏法の信仰は、他者への依存ではなく、自身の開発であることを銘記すべきであろう。

1138:07~1138:16 第六章 真実の孝養の道を示すtop

07                                    一切の事は父母にそむき国王にしたが
08 はざれば不孝の者にして天のせめをかうふる、 ただし法華経のかたきに・なりぬれば父母・国主の事をも用ひざる
09 が孝養ともなり国の恩を報ずるにて候。
-----―
 一切のことについて、父母に背き、国王に従わなければ、不孝不忠の者として天の責めを受けなければならない。ただし父母・主君が法華経の敵になった場合には、父母や国主の言葉を用いないことが孝養ともなり、国の恩を報ずることにもなるのである。
-----―
10   されば日蓮は此の経文を見候しかば 父母手をすりてせいせしかども師にて候し人かんだうせしかども・鎌倉殿
11 の御勘気を二度まで・かほり・すでに頚となりしかども・ついにをそれずして候へば、 今は日本国の人人も道理か
12 と申すへんもあるやらん、 日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずしてついに天のたすけをかほる人は日蓮よ
13 り外は出しがたくや候はんずらん、 是より後も御覧あれ日蓮をそしる法師原が 日本国を祈らば弥弥国亡ぶべし、
14 結句せめの重からん時・上一人より下万民まで・もとどりをわかつやつことなりほぞをくうためしあるべし、 後生
15 はさてをきぬ今生に法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天・罰し給いて皆人に・みこりさせ給へと申し
16 つけて候、 日蓮・法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし、 
-----―
 故に日蓮は法華経の経文を見てからは、父母が手を合わせて止めたけれども、師匠であった人が勘当したけれども、また、鎌倉殿のご勘気を二度までも蒙り、すでに頸の座にもついたけれども、少しも恐れず信仰を貫いたので、いまでは日本国の人々も日蓮のいうことが道理かもしれないという人もあることであろう。日本国で国主・父母・師匠のいうことを用いないで、ついに天の助けを受けた人の例は日蓮よりほかに出すことはできないであろう。これから後も見ていなさい。日蓮を謗る法師等が日本国の安泰を祈るなら、いよいよ国は亡ぶであろう。結局、重い責めにあった時には上一人より下万民にいたるまで、弁髪の蒙古の奴隷となって臍をかむ時がくるであろう。
 後生のことはさておいて、今生に法華経の敵となった人を罰して皆の人の見せしめにするようにと梵天、帝釈、日月、四天等に申しつけてある。日蓮が法華経の行者であるか否かはこの一事をもってごらんなさい。

鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
―――
御勘気を二度
 勘気とは臣下が君父から咎めを受けること。この場合は伊豆と佐渡の二度にわたる日蓮大聖人の流難をさす。一度は弘長元年(1261)5月12日の伊豆の伊東への流罪、二度目は文永8年(1271)9月12日竜の口の法難ならびに佐渡への流罪。
―――
法師原
 僧侶たちということ。
―――
ほぞをくう
 「臍を噛む」ということで、腹のヘソを噛むことなどはとても及ばないことから、返らぬことを悔やむ、後悔するという意。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――――――――
 父母に従い、国主に従うということは、世間の倫理・道徳の分野である。父母に従うことは、人間としての情緒や生き方を受け継いでいくことである。国主に従うとは世間の法に従うことであり、社会人としての生き方を受け継いでいくことである。これら、父母からの伝承、社会からの伝承なくしては、人間としての全き生命を形づくることは不可能であるといえるだろう。また、それを通して人間社会の中に参画していくのである。これらの倫理は、時代がどのように変わろうと、人間が人間らしく生きていくための不変の原理である。
 しかし、日蓮大聖人は、さらに人間性の奥深くに関わってくるものが仏法であることを示されているのである。人間の存在自体を支え、規定していく力は、倫理・道徳でとらえられた世界のはるか深いところに横たわっている。この最も根源の法を説き顕わしたのが妙法である。この根本において誤ってしまえば、どれほど倫理・道徳の世界において正しく生きようとも、不幸の輪廻を免れない。ゆえに、何よりも第一義にすべきは、妙法への信仰の確立なのである。
 「日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずして、ついに天のたすけをかほる人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん」の御文は、大聖人が一切を打ち捨てて、建立し、護持しぬいた妙法が、正しかったことの宣言である。むしろ、それが唯一の正法であり、一切に超越した法であることを強く主張された御文である。

1138:16~1139:03 第七章 御本仏の大慈悲を示すtop

16                                   かう申せば国主等は此の法師のをどすと
17 思へるか、 あへてにくみては申さず大慈大悲の力・無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり、章安大師云く「彼
18 が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、 かう申すは国主の父母・一切衆生の師匠なり、事事多く候へども
1139
01 留候ぬ、又麦の白米一だはしかみ送り給び候い畢んぬ。
02       建治元年乙亥卯月十二日               日 蓮 花 押
03     四条金吾殿御返事
-----―
 このようにいえば国主等は日蓮が威すと思うであろうか。日蓮は憎んでいうのではない。大慈大悲の力で、未来に受けるであろう無間地獄の大苦を今世において消させたいためなのである。章安大師は「彼の為に悪を除くものは彼の親である」と。このように国主ならびに一切衆生の悪を責める日蓮は、国主の父母であり、一切衆生の師匠である。ほかにも、申し上げたいことは多くあるが、ここで筆を留める。また、つき麦一駄、しょうがを頂戴しました。
  建治元年乙亥卯月十二日      日 蓮  花 押
   四条金吾殿御返事

章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」二十巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年(0632)8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威に法灯を伝えた。
―――
彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり
 章安大師の涅槃経疏に「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり。慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり。能く糾治せんは是れ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」とある。すなわち、謗法の衆生に対し、苦を抜き、楽を与えることは、最高の慈悲の行為であるということ。
―――
一だ
 馬一匹に背負わせる荷物の重量をいう。およそ米二俵が通例とされていた。
―――
はじかみ
 生姜の別称。生薑、薑、生姜などと書く。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。
―――
乙亥
 干支の組み合わせの12番目で、前は甲戌、次は丙子である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生(水生木)である。
―――――――――
あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり
 日蓮大聖人が厳しく現象をもって謗法を責めるのも、ひとえに民衆を覚醒させんがためである。生命の法理の究極に到達された日蓮大聖人の眼からすれば、人々の苦しみが、ただ自然・社会の変動による一時的なものではなく、宗教の誤りに起因する生命の本質的な乱れのあらわれであり、生命の変革のない限り、未来永劫に繰り返されることが明らかであった。しかしそれをいいだすならば、一国あげての誹謗と迫害にあうことは明らかであった。それにも拘らず、大聖人が強盛に一国の謗法を責められたのは、正しく大慈大悲の力による以外の何ものでもない。「かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり」とのおおせが、単なる理論の上からでてきたものではなく、大聖人の御一生を通じての実践の上に発せられたものであることを、よくよく思索しなければならないであろう。

1139~1139    四条金吾殿御返事(法論心得御書)top

四条金吾殿御返事
01   態と御使喜び入つて候、又柑子五十・鵞目五貫文給び候い畢んぬ、各各御供養と云云、 又御文の中に云く去る
02 十六日に有る僧と寄合うて候時・諸法実相の法門を申し合いたりと云云、 今経は出世の本懐・一切衆生皆成仏道の
03 根元と申すも 只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり、 されば伝教大師は万里の波涛をしのぎ給いて相伝し
04 まします此の文なり、 一句万了の一言とは是なり、 当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪
05 義を云い出し候ぞ、 只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて正直捨方便・ 但説無上道と信ずるを諸法実相の開
06 会の法門とは申すなり、 其の故は釈迦仏・多宝如来・十方三世の諸仏を証人とし奉り候なり、相構えてかくの如く
07 心得させ給いて諸法実相の四の文字を時時あぢわへ給うべし・ 良薬に毒をまじうる事有るべきや・うしほの中より
08 河の水を取り出す事ありや、 月は夜に出・日は昼出で給う此の事諍ふべきや、此れより後には加様に意得給いて御
09 問答あるべし、 但し細細は論難し給うべからず、 猶も申さばそれがしの師にて候日蓮房に御法門候へとうち咲う
10 て打ち返し打ち返し仰せ給うべく候。
-----―
 態々お使いをいただき、喜んでおります。また、柑子五十、銭五貫文をいただきました。御家族一同からの御供養とうけたまわりました。
 また、お便りの中に「去る十六日に、ある僧侶と寄り合った時、諸法実相の法門を論議しあった」とありました。
 法華経は釈尊の出世の本懐であり、一切衆生を皆、成仏させる根元の法であるというのも、結局この諸法実相の四字より外には、全くないのである。それゆえ、伝教大師が、万里の波涛を越えて相伝されたのも、この文である。「一句万了の一言」とはこの「諸法実相」である。
 当世の天台宗が、開会の法門といっているものも、この経文を誤って理解して邪義をいいだしているのである。ただ、この法華経を持って、南無妙法蓮華経と唱えて「正直に方便の教えを捨てて、但無上道を説く」との経文を信じることを、諸法実相の開会の法門というのである。そのわけは、法華経は、釈迦仏、多宝如来、十方三世の諸仏を証人として説かれているからである。
 よくよく、このように心得て諸法実相の四文字を、折折考えていきなさい。
 良薬に、わざわざ毒薬を交えることがあるであろうか。潮の中から河の水を取り出すことがあるであろうか。月は夜に出、太陽は昼に出る。これはあえて言い諍うべき事柄ではない。
 これから後には、このように心得られて問答をしなさい。但し、細細とした論難はしてはならない。なおそれ以上相手がいうようであれば「私の師匠である日蓮房に問答なさい」と笑顔をもって、何度も繰り返しいいなさい。
-----―
11   法門を書きつる間・御供養の志は申さず候、有り難し有り難し委くは是よりねんごろに申すべく候。    ・
12       建治元年乙亥七月二十二日              日 蓮 花 押
13     四条中務三郎左衛門尉殿御返事
-----―
 法門のことを書きましたので、御供養の御厚意のお礼を申しあげませんでした。有り難く感謝しています。詳しくは後日、また懇切に申し上げたい。
  建治元年乙亥七月二十二日    日 蓮  花 押
   四条中務三郎左衛門尉殿御返事

柑子
 柑子蜜柑のこと。古くは「かんし」といったが、転じて「こうじ」となった。柑橘類の一種で、ミカン科に属す。温州ミカンなどより皮は薄く、果実は小さい。最初は酸味があるが後に甘くなり、味は淡白。普通のミカンより熟れるのが早く寒さに強い。日本では古くから栽培されている。
―――
鷲目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
出世の本懐
 仏がこの世に出現した究極の目的をいう。天台は法華玄義巻第二下に「法華は衆経を総括して而も事は此に極まる。仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり」と、釈尊の出世の本懐は法華経二十八品を説くことであったと述べている。
―――
一切衆生皆成仏道
 法華経方便品第二には「我が昔の願いし所の如きは、今者已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆な仏道に入らしむ」とある。すべての衆生を成仏させることが仏の究極の願いであり、なかんずく、一代聖教の眼目たる法華経の主旨は、すべての衆生が成仏できる方途を示すことにある。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
相伝
師から弟子へ教法を伝えること。相承・付嘱と同義。
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開会の法門
 開会とは、さまざまな角度から説かれた法を、さらに一歩深く立ち入った原理をもって統合し、その原理の中に収めることである。開顕会融、開顕会帰の義がある。諸法実相についていえば諸法を開けばそのまま諸法の体が実相であるということになる。しかし、開会したのちも、諸法は実相の体内の諸法であり、諸法と実相とが区別がなくなるわけではない。しかるに大聖人当時の天台僧は、開会の法門をはきちがえて、全て開会の後は諸法は即実相、権即実、諸乗即一乗であるとして、重大な誤りをおかしたのである。
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釈迦仏
 釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝如来
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方三世の諸仏
 「十方」は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。「三世」は過去・現在・未来。ありとあらゆる仏の意。
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 本抄は、建治元年(1275)7月、四条金吾が、他宗の僧と「諸法実相の法門」について法論したという便りを受けられて、諸法実相の法門が、いかに重要な法門であるかを述べられた御書である。
 また当時の天台宗が、法華開会の法門を曲解し、権実雑乱の邪義を立てて、その法門の意義を誤っていることを指摘され、さらに、法論の際の心構えについて指導なされている。
今経は出世の本懐、一切衆生皆成仏道の根元と申すも、只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり
 今経とは法華経のことである。法華経には、二乗作仏、竜女や、提婆達多の成仏など、一切の衆生が、皆成仏できることを説き示している。仏が、この娑婆世界に出現した元意は、一切の民衆に仏の境涯を会得させることにある。ゆえに、一切衆生の成仏を説いた法華経が、仏の出世の本懐であるとされるのである。これらの一切衆生皆成仏道の根本原理は、諸法実相の四字に収まるのである。
 では、諸法実相とは、いかなる法門か。諸法とは、宇宙のあらゆる存在、ならびに現象をさす。その諸法のありのままの姿、真実の相を、実相という。天台は、法華経方便品の「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」の十如実相の文を根本として、一念三千の哲理を体系づけた。そして、この一念三千が諸法の実相であり、あらゆる存在は、一念三千という本質をそなえていると説いた。ここに、爾前経等において、個々別々に、本質的に異なる当体として説かれていた十界各々の衆生が、仏となりうる道が初めて開かれたのである。
 しかし、いかに、あらゆる生命存在の本質が一念三千であり、仏も凡夫も本質的に等しい存在であるといっても、それは理の上のことである。
 日蓮大聖人は、天台の説き明した一念三千の生命の根源に、その一念三千の生命自体を揺り動かしていく、南無妙法蓮華経という一法が厳存することを説き明かされた。そして、これが、諸法の実相の本源であり、事実の上における仏界の顕現を可能ならしめるものであることを示されたのである。
 「諸法実相抄」に「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり(中略)天台云く『実相の深理本有の妙法蓮華経』と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり」(1359-03)といわれている。
 このように一切衆生が皆ことごとく等しく仏道―幸福境涯―に入るための本源の法が南無妙法蓮華経なのである。
只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と信ずるを、諸法実相の開会の法門とは申すなり
 当時、天台宗においては、法華経によって開会した後は爾前の諸経を読誦しても、いかなる仏をあがめても、所詮帰するところは同じであって、そこに優劣はないと唱えて権実雑乱の邪義に陥っていた。大聖人は、それを破し、実践論の上から、真実の諸法実相の開会の法門とは、三大秘法の御本尊を持って、他の一切の法門を捨て、ただ御本尊のみが正しいと信じ、南無妙法蓮華経と唱えることであると述べられている。
 ここでは、しばらく、開会とはいかなることかを述べてみよう。
 釈尊の説いた経文は、八万法蔵といわれ、膨大な数にのぼる。しかし、それらの経を、その内容によって分類すると大きく三種類に分けられる。第一は、声聞、縁覚の二乗を人生の目的であると説いた経々であり、第二は、菩薩になることが最高の人生であると説いた経々である。そして第三は、仏になることが究極の目的であることを示し、その仏になる原理を説いた経である。第一は小乗経を中心としたグループであり、第二は権大乗経を中心にしたグループである。第三は法華経である。
 では、釈尊の本意はどこにあったのか。法華経方便品第二には次のように説かれている。「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう。舎利弗よ。云何なるをか、諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと名づくる。諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。舎利弗よ。是れを諸仏は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと為す」
 ここに示される通り、仏の本意は、一切衆生にもともと具わっている仏の生命を開き、示し、悟らせ、その仏の生命の道へ入らしめることにある。ゆえに、先に述べた三種類の経文を比較相対していくならば、法華経にのみ釈尊の真意が説かれていることになり、他は捨てられなければならない。しかし、ここで、仏の元意が一切衆生を成仏させることにあると知った上で、立ち返って第一、第二の経文の元意を見てみると、それらの経々も結局は衆生を成仏に導くために説かれたものであることがわかる。
 このように、さまざまな角度から説かれた経々を、より深い経、すなわち法華経をもって、その元意を開き顕わし、法華経に摂することを、法華経の開会という。これを、各経々の優劣を相対的に判別していく相待妙に対し絶待妙という。この絶待妙の立ち場にたてば、諸経の所説はさまざまであるが、その元意はことごとく法華経と同じであり、一味平等であるということになる。
 ここで注意しなければならないことは、開会によって爾前経の元意が明かされたとはいっても、爾前経があくまで部分観であることには変わりがない。部分観が部分観として切り離して論じられる場合が相待妙であり、部分観を全体観の中で捉えなおすことが絶待妙であり、開会である。したがって、開会の後といえども、爾前の経経を法華経と全く等しいと論ずることは誤りである。部分観は全体観とはなりえないからである。
 この開会の原理を考え違いして、開会の後は爾前経も法華経も全く等しいと立てたのが大聖人当時の天台宗の人人である。これに対して、あくまでも開会の根本の法華経が中心とならなければならないとされたのが大聖人である。更に大聖人は、修行の上においては「正直捨方便・但説無上道」と信ずるのが真の開会の法門であると述べられている。これは、あるいは相待妙の立ち場ではないかと考えるかもしれない。しかし、開会ということは見方をかえていえば、諸経の所詮は法華経にある、ということであるから、修行において要中の要をとることは当然のことなのである。
 よって、天台僧が立てる、開会の後においては、いかなる修行をするのも同じである、との考えは全くの誤りである。開会の後に仏法中の真髄、要中の要法たる妙法を唱えることが正しく、助行に方便・寿量を傍依の経とすることが末法の正しい修行なのである。
 天台は、妙法を知りながら時を感じて、止観を正、弥陀経を傍とした。それも、妙法を知っていたとの前提があるのであって、弥陀経それ自体を正依の経典としたわけではないのである。すなわち、止観を開会の後の体内の実とし、弥陀を体内の権としたのである。末法今時にあっては、ただ妙法を修することが肝要であり、時に適い、法則に則っているのである。

1140~1142    瑞相御書top
1140:01~1140:10 第一章 依正不二の原理を説くtop

1140
瑞相御書   建治元年    五十四歳御作   与四条金吾
01   夫れ天変は衆人をおどろかし地夭は諸人をうごかす、仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う、 其
02 の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く 「東涌西没とは東方は青・肝
03 を主どる肝は眼を主どる西方は白・ 肺を主どる肺は鼻を主どる 此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅するを表
04 するなり鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互に滅す・余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云、 妙楽大師之
05 を承けて云く「表根と言うは眼鼻已に東西を表す耳舌理として南北に対す・ 中央は心なり四方は身なり身四根を具
06 す心アマネく四を縁す故に心を以て身に対して涌没を為す」云云,夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影
07 のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる、 眼根を
08 ば東方をもつて.これをつくる、舌は南方.鼻は西方・耳は北方.身は四方・心は中央等これを・もつて.しんぬべし、
09 かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・ されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山
10 くづれ草木かれ江河つくるしるしあり 人の眼耳等驚そうすれば 天変あり人の心をうごかせば 地動す・
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 天の異変は多くの人を驚かし、大地の災厄はもろもろの人を動揺させる。仏は法華経を説こうとされたときに、五瑞六瑞をあらわされた。その六瑞の中の地動瑞というのは、大地が六種に震動することである。この六種の震動というのは、天台大師が法華文句の第三に「東方が高く盛り上がり西方が低く沈んだというのは、東方とは青色で肝蔵をつかさどり、肝蔵は、また眼をつかさどる。西方は白色で肺蔵をつかさどり、肺蔵は、また鼻をつかさどる。それゆえ、東涌西没とは、眼根の功徳が生じて、それに応じて鼻根の煩悩が滅することを表わしている。鼻根の功徳が生じ、これに応じて眼の中の煩悩が滅する。その他の方角の涌没によって、それに関係する余根の功徳、煩悩の生滅を表わすのもこれと同じである」と説いている。
 妙楽大師は、これを受けて「各方角が六根を表わすというのは眼と鼻が已に東西を表わしているのであるから、耳と舌は道理として南北に対応する。中央は心である。四方は身である。身は四根を具し、心は徧く四根に縁している。ゆえに、心は身に対し涌没を起こさせるのである」と解している。
 十方は依報である。衆生は正報である。依報は、たとえば影であり、正報は体である。身がなければ影はない。と同じく正報がなければ依報もないのである。また、その正報は、依報をもってその体を作る。眼根は東方によって作られる。と同じく舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央に対応することは、これによって知ることができよう。それ故、衆生の五根が破れようとするときは、四方や中央の地が動くのである。したがって国土がまさに崩壊しようとする前兆として、まず山が崩れ、草木が枯れ、河川の水が涸れ尽きてしまう。また、人の眼や耳等が驚き騒げば、天変が起こり、衆生の心を動かせば大地が震動するのである。

天変
 天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
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地夭
 地上に起こる異変。
―――
六瑞
 法華経序品第一に、法華経が説かれる瑞相として、六種の瑞相が現われたと説かれている。これに此土の六瑞と他土の六瑞がある。
 此土の六瑞とは、
   ①説法瑞。   無量義経を説き終わっても聴衆は去らないで後説を待ち続けた。
   ②入定瑞。   仏が無量義経を説き終わって、無量義処三昧に入った。
   ③雨華瑞。   そのときに天より曼荼羅華等の四種の華を雨らせた。
   ④地動瑞。   雨華瑞のあと大地が六種に震動した。
   ⑤衆喜瑞。   これを見た大衆が内心に歓喜を生じた。
   ⑥放光瑞。   仏の眉間の白毫より光りを放って、東方八千の仏土を照らして、そこに現じた瑞を見た。
 また、他土の六瑞とは、
   ①見六趣瑞。  白毫相の光により、仏が阿鼻地獄より阿迦尼吒天に至る六界の衆生を見る。
   ②見六諸仏瑞。 六趣それぞれの土の諸仏を見る。
   ③聞諸仏説法瑞。その諸仏の説法を聞く。
   ④見四衆得道瑞。そのそれぞれの仏によって、諸の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆が得道するのを見る。
   ⑤見菩薩所行瑞。諸の菩薩摩訶薩の菩薩道を行ずるのを見る。
   ⑥見仏涅槃瑞。 諸仏の般涅槃したのを見る。
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地動瑞
 序品の文。「諸仏世界六種に振動す」と読む。前文を引くと次の通り。「諸の菩薩の為に、大乗経の、無量義、教菩薩法、仏所護念と名くるを説きたもう。仏、此の経を説き已って、結跏趺坐し、無量義処三昧に入って、身心動したまわず。是の時に、天より曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華を雨らして仏の上、及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に震動す」
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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五根
 目・耳・鼻・舌・身のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。
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 本抄は、建治元年(1275)、54歳の時に書かれたものである。末尾が欠けているため、誰に与えられたものであるかは不明であるが、四条金吾というのが一般に認められている説である。
 内容は、仏が法華経を説くにあたって起こった瑞相を取り上げ、末法流布の付嘱の儀式である神力品の際の瑞相がひときわ勝れていることを指摘されている。そして、特にこの瑞相の中でも大地が動いたということは、人の六根を動ずることの象徴であり、末法に妙法を弘めることが、いかに大きい波動を起こすものであるかを、現実の様相をあげて示されている。
 瑞相として経文に説かれているのは、自然界に起こる異変であるが、自然界と人間生命とが、依正不二の関係にあることを明かされており、本書は、そうした生命の不可思議の実相を解明されている書として、深遠な内容を包含している。
夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。譬へば依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもって此れをつくる
 衆生とは生命活動を行なっている主体である。十方とは、先の東西南北等をうけて、このように表現されたのであって、国土、宇宙という意である。この生命主体と国土・宇宙との関係は、正報と依報との関係になる。
 正報とは、果報を現ずる主体であり、依報は、その正報の依る所である。したがって、この正報と依報との関係は、正報を体とすると、依報はその影のようなものである。だが、では依報は、実在性のない幻のようなものかというと、そうではなく、依報によって正報は作られるのである。
 生命体は、物質的にも精神的にも、常に外界から必要なものを採り入れ、それによって活動を維持している。肉体を形成する物質は当然のこと、生命活動を維持するための空気、水などは、一瞬たりとも補給の欠かせない物質である。精神活動もまた、外界の絶え間ない刺激を受けて、健全な活動が行なわれるのである。外界の刺激が全く遮断された状況におかれると、精神活動は幻想を見るようになり、異常をきたすことは、幾多の実験によって明らかにされている通りである。
 生命活動は、その主体性、自律性に非生命的現象と区別される特質がある。つまり、最も単純な原始的生命も、自らを維持しようとする機能を有し、種属を維持する方法をもっている。そして、積極的に外界に働きかけ、そこから、自己の目的に必要な物質を摂取する。この生命活動の主体的機能についてみると、まさに、正報は〝体〟であり、依報は〝影〟である。
 〝報〟というものは、もともと生命活動のメカニズムのようなものであるから、正報がなければ、依報ということもありえない。故に「身なくば影なし、正報なくば依報なし」といわれているのである。しかしながら、その逆に、依報によって正報は成り立つのであるから、依報のない正報はありえないのである。この正報と依報の関係を依正不二というわけである。
 だが、ここに述べられている正報と依報の関係は、更に深く、微妙である。すなわち、正報の心の中の変動が、依報の異変をもたらすという原理である。ここでは、依報は正報を映す鏡のようなものとして把えられている。人の心の中の変動は、外から容易に見ることができない。個人の心の表面的・日常的な動きは、その表情の変化によって知ることができるが、社会全体の人々の心に起こった深層の激変は、顔などの表情を通しては把握できない。その巨大な深部の変動は、依報の鏡に映り、すなわち天変地夭として初めて知ることができるというのである。
 この生命の深層の真理は、凡智をもって理解することは難しい。ただ、仏法の法理と、透徹した仏の英知の直観力によってのみ、その実態を把握できるものなのであろう。「衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動ず」と仰せられているのが、これである。

1140:10~1141:02 第二章 法華経の瑞相を明かすtop

10                                                 抑何の経
11 経にか六種動これなき 一切経を仏とかせ給いしみなこれあり、 しかれども仏法華経をとかせ給はんとて 六種震
12 動ありしかば衆も・ ことにおどろき弥勒菩薩も疑い文殊師利菩薩もこたへしは 諸経よりも瑞も大に久しくありし
13 かば疑も大に決しがたかりしなり、 故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん但大疑
14 を生ずること無し」等云云、 此の釈の心はいかなる経経にも序は候へども此れほど大なるはなしとなり・されば天
15 台大師の云く 「世人以蜘蛛掛れば喜び来りカン鵲鳴けば行人至ると 小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て
1141
01 遠きを表す」等云云。
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 一体どの経に六種動がなかったという例があろうか。一切経を仏が説かれた時に、みな六種動はあった。しかし仏が法華経を説かれようとしたときの六種震動には、衆生もことに驚き、弥勒菩薩も疑問を発し、文殊師利菩薩がそのことに答えたのは諸経よりも瑞が大きく長かったので、疑いも大きく晴らしがたかったからである。故に妙楽は「何れの大乗経にも集衆・放光・雨花・動地等の瑞相がない例はないが、ただし人々がこのような大なる疑いを起こしたことはなかった」といっている。この釈は、いかなる経々にも序として瑞相というものがあるが、この法華経のような大きな瑞相を伴ったものはないという意である。
 故に天台大師も「世間の人は『蜘蛛が巣をかければ近く喜びごとが訪れ、鳱鵲が鳴けば客人が来る』という。このように世間の小事ですら前兆があるのであるから、まして仏法の大事にどうして瑞相のないことがあろうか。瑞相という近くに見えるものをもって、仏法の深遠の道理を表わすものである」と説いている。
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02   夫一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて法華経の迹門を・とかせ給いぬ、               ・
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 釈尊は一代四十余年の間、かってなかった大瑞相を現わして法華経の迹門を説かれたのである。

弥勒菩薩
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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鳱鵲
 カササギのこと。カラスより少し小さく、腹白で頭部が黒い。日本では北九州にいる。高麗烏といわれる。
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迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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 法華経が、それ以前の諸経に超過する高度な哲理を説いていることを、瑞相の大きさで論じられている段である。
 もちろん、こうしたことは、仏法を信ずる心のない人にとっては、あまり意味のない問題かも知れない。まして、法華経にそのような大瑞があったという意味のことが説かれていたとしても、我田引水に過ぎないのではないかという反論も出てこよう。しかも、今日においては、仏教学者の中にも、大乗仏教――したがって法華経も含んで――は、釈迦自身が説いたものでなく、後世になってつくられたものだとする説さえ有力である。
 もちろん、こうした説に対して、たしかに釈迦が説いたのだと反論できる証拠はない。たとえ、釈迦でない誰かが、後世になって説いたにせよ、大事なことは、法華経が、いかにすぐれた哲理を説き示しているか、である。
 仏教が、他のいかなる宗教も果たし得なかった偉大な真理を究明しているといえるのは、なんといっても、生命の哲理を余すところなく説ききっていることである。それは、法華経のみが解明しているところである。そして、この生命の正しい把握の上に立って、人間自身と、社会の変革、ひいては国土・自然の本源的変革の原理を示したのである。
 もし、法華経があらわれなかったら、仏教は、現実を否定して、虚無におちいってしまうか、西方極楽浄土の幻想を追い求めて、現実から逃避する思想でしかなかったであろう。もちろん、それでも、そこに至る論理的組み立ての完璧さ、事実の分析的手法の鋭さは、キリスト教やイスラム教などの、遙かに及ばない、優れたものを持ってはいる。だが、それだけに、救いようのない虚無主義や逃避思想に我が身を縛る結果となる。
 法華経がはじめて、この法華以前の経々がもっていた歪みを是正し、ある意味では百八十度転換して、現実に生きる人間の、この生における本質的救済の宗教としたのである。ただし、ここで注意しなければならないのは、この結論のみに目を奪われて、あたかも、法華経が、それ以前の経々のもっていた事相の分析や論理的組み立ての完璧なまでの見事な諸成果を否定してしまったと考えるのは早計であり、浅薄であるということだ。
 法華経は、これらを同じ次元で否定し崩壊せしめたのではなく、それらを全て生かしつつ、より深い次元の真理に目を開くことにより、一切を包摂し、止揚しているのである。すなわち、究極の理想の境地である仏界を、法華経以前の大乗教では、この世界を遙かに離れた極楽浄土等にあると説いた。法華経にいたってはじめて、それが、この現実に生きる衆生の生命の内にあると説いたのである。
 それは、仏界の境地のすばらしさを否定するものではない。また、崇高な理想をめざして前進しようとする姿勢を拒否するのでもない。法華経以前に説いたことは当然の前提としつつ、そうした理想を現実のものとする確固たる法理を解明したのが法華経である。
 また、法華経は、仏界という、絶対的な幸福境涯を教えるが、それは、たとえば小乗経で展開している、人間の苦悩への精緻な分析と洞察に比べて、あまりにも背反しているように考えられやすい。小乗経典の分析が知性的であるのに対し、法華経の教説は反知性的であるように思われるかも知れない。だが、法華経の大胆な結論は、小乗教等の細心の分析から離れて下されているのではなく、その根底は、確実にこれらの内容を踏まえて、説き明かしているのである。
 ここに、法華経が、それ以前の全ての経典を凌駕する卓越性があるのであって、それは瑞相などを神秘的な装飾として信じられぬという人も、認めざるを得ないところであろうと確信する。法華経が、こうした瑞相を挙げているのは、当時の人々にとっては理解しやすかったのと同時に、より深い意味では、そのような事相が、その奥底に不変の真理をあらわしていたのである。つまり、地動瑞とは、人々の心を動かし、社会を動かすということを、譬喩的に示しているわけである。これは秘妙方便という概念に属するものであり、したがって、やはりこれらの瑞相は、いかに非科学的に見えようと、落とすことのできない要素であったのである。

1141:02~1141:15 第三章 本門の瑞相を説くtop

02                                      其の上本門と申すは又爾前の経経
03 の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり、 大宝塔の地より・をどりいでし地涌千界・大地よりならび出でし大震
04 動は大風の大海を吹けば 大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のをひほにつくが・ ごとくなりしな
05 り、 されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問い涌出品の大瑞をば 慈氏は仏に問いたてまつる・これを妙楽釈して云く
06 「迹事は浅近・文殊に寄すべし久本は裁り難し故に唯仏に託す」云云・迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほ
07 ぼこれをしれり、 本門の事は妙徳すこしもはからず、 此の大瑞は在世の事にて候、仏・神力品にいたつて十神力
08 を現ず此れは又さきの二瑞には・にるべくもなき神力なり、 序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方
09 世界、序品の地動は但三千界・神力品の大地動は諸仏の世界地・皆六種に震動す、 此の瑞も又又かくのごとし、此
10 の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて 末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり、 経文に
11 云く「仏の滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云、 又云く「悪世末
12 法の時」等云云。
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 更にその上、法華経本門が説かれたときの瑞相は、爾前の経々の瑞相に迹門の瑞相を比べたよりもはるかに大きい瑞相であった。宝塔品において大宝塔が大地から涌現したり、次の涌出品になって地涌千界の大菩薩が大地から多数涌出したときの大震動は、ちょうど大風が大海に吹きつけて大山のような波を起こし、その波が蘆の葉のような小船を襲い、帆まで浸すような、大きな震動だったのである。
 ゆえに、序品の瑞相については弥勒菩薩が文殊師利菩薩に質問したのに対し、涌出品の大瑞については慈氏が仏に質問したのである。これを妙楽は文句記の三に釈して「迹門の事は浅近の法なるがゆえに文殊師利菩薩に委ねた。久遠の本地は解し難いゆえにただ仏に託したのである」と述べている。迹門の瑞相については仏は説かなかったが、文殊はだいたいこの意義を知っていた。ところが本門のことは、妙徳は少しも推量できなかったのである。ただし、この大瑞は釈迦在世のことである。
 仏は、更に神力品にいたって十神力を現じた。これはさきの序品や宝塔・涌出品の二瑞とは比較にならない神力である。序品のときの放光は東方万八千土の国土を照らしたにとどまったが、神力品の大放光は十方の世界にまで及んだ。また、序品の地動瑞は、ただ三千世界に限られていたが、神力品の大地動は十方の諸仏の全世界において、大地が六種に震動したのである。この瑞相もまた同様である。
 この神力品の大瑞相は仏滅後、正像二千年が過ぎて、末法に入り法華経の肝要が広まるという大瑞相である。法華経神力品には「仏の滅後に衆生が能くこの経を持つことによって諸仏はみな歓喜して、無量の神力を現わすのである」と説かれている。また、分別功徳品には「悪世末法の時」と説かれている。
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13   疑つて云く夫れ瑞は吉凶につけて或は一時.二時.或は一日.二日・或は一年.二年・或は七年.十二年か.如何ぞ二
14 千余年已後の瑞あるべきや、 答えて云く周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり、 訖利季王の夢は二万二千年
15 に始めてあいぬ、 豈二千余年の事の前にあらはるるを疑うべきや、
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 疑っていうには、瑞相は吉瑞凶瑞いずれにしても、一時二時、あるいは一日二日後、または一年二年後か、七年十二年後のことを示すものはあるが、どうして二千余年も後世のことを知らす瑞相があるのであろうか。
 答えていうには、昔、中国の周の昭王の瑞相は一千十五年後に始めて符合し、太古インドの訖利季王の夢は二万二千年後に始めて合致した。二千余年後のことが、前瑞としてあらわれたことを疑うにはあたらない。

大宝塔
 法華経見宝塔品第十一に「爾の時、仏前に七宝の塔有りて、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬にして、地従り涌出して、空中に住して」とある。この宝塔は、一応は迹門の説法の証明のためであるが、再応は本門の説法を起こす遠序としてあらわれたのである。ゆえに、宝塔品それ自体は迹門十四品の中に位置しているが、本文の瑞として挙げられているのである。
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地涌千界
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。
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慈氏
 弥勒菩薩のことで慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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妙徳
 文殊師利菩薩の訳。文殊は妙の義、師利は徳の義。
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神力品
 妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。
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十神力
 十種の大力ともいう。釈迦は十種の神力を現じて、上行菩薩に深法を付嘱した、すなわち①出広長舌、「広長舌を出して上梵世に至らしめ」②通身放光、「 一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧くく十方世界を照したもう」③一時謦欬、「然して後に還って舌相を摂めて一時に謦欬し」④倶共弾指「倶共に弾指したもう」⑤地六種動、「是の二つの音声、徧く十方の諸仏の世界に至って、地皆六種に震動す」⑥普見大会、「其の中の衆生、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等、仏の神力を以ての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆の宝樹下の師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬し囲繞したてまつるを見る」⑦空中唱声、「即時に諸天、虚空の中に於いて、高声に唱えて言わく」⑧咸皆帰命、「彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と」。 ⑨遙散諸物、「種々の華香、瓔珞、幡蓋、及び諸の厳身の具、珍宝、妙物を以って、皆共に遥かに娑婆世界に散ず」⑩十方通同、「時に十方世界通達無碍にして一仏土の如し」とある
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神力品の大放光
 法華経如来神力品第21には「一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く遍く十方世界を照したもう」とある。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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法華経の肝要
 日蓮大聖人建立の南無妙法蓮華経のこと。
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周の昭王の瑞
 周書異記にあるといわれる。昭王は中国古代・周の第四代の王。この昭王の24年の4月8日の夜中に五色の光気があらわれ、大地は六種に震動し、雨が降らないのに江河、井池の水があふれ出て、一切の草木に花が咲き、菓がなったという。王がこのことに驚き、大史蘇由に問うたところ、蘇由が答えていうには「西方の国に聖人が生まれた、その聖人の教えは一千年ののち、この中国に伝わってくるであろう」と。昭王はこのことを石に刻ませ、これを碑として建てた。この年月日は、ちょうど釈尊がインドに生まれた日に該当し、しかも、蘇由の予言どおり、1015年経った後漢の明帝の治世、永平10年(0067)に仏法はインドから中国に伝えられたという。
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訖利季王の夢
 守護国界主陀羅尼経巻第十の阿闍世王受記品第十にある。訖利季王は太古二万年前のインドの王で、迦葉仏の父。ある夜、王は二つの夢を見た。その一つは十匹の猿がいて、そのうちの九匹は城中の一切の人民、男女を擾乱して、飲食を侵奪し、器物を破壊した。ところが一匹だけ心に知足を懐いて、樹上に安座して人を乱すことはしなかった。他の九匹は、この一匹をいじめて、仲間から追い払った。もう一つの夢は、一匹の白象があり、首と尾に口があり、水草をみな食べ、つねに飲食しながら、しかもその身はつねに痩せていた。この二つの夢について、訖利季王が迦葉仏に質問したところ、迦葉仏は、この夢は五濁悪世に仏が出現し、その仏の滅後の遺法の相を示すものだと答えた。その仏は釈迦牟尼仏と称し、十匹の猿は、釈迦牟尼仏の十種の弟子であり、その中の一匹が少欲知足で独り樹上にいて、人を擾さないのは、釈迦如来遺法中の沙門であると教えた。また第二の白象の夢については、王の家臣が寵愛と栄禄をむさぼり、非理の追及を行なって、ついに家をほろぼし、身を破り、今度は仏法に出家すると、悪比丘となって邪見を起こして外道になることを示すものだと説いたという。
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 法華経の迹門と本門とを相対して、本門が迹門に対してはるかに勝れていることを、その瑞相の大きさの違いから示し、更に、同じ本門のための瑞相でも、在世に属する宝塔・涌出両品の瑞相と、一向に滅後末法のための神力品の瑞相との違いを指摘されている段である。
大宝塔の地よりをどりいでし、地涌千界大地よりならび出し大震動
 宝塔涌現および地涌千界涌出の様子については、語訳に示した通りである。この文では、これらを、いずれも在世の本門の瑞相として挙げられている。
 滅後末法の大法である文底下種の法門から立ち返ってみるならば、これらの儀式といい、迹門の説法といい、更には爾前権教の所説といっても、全て滅後末法のためといえる。なかんずく、宝塔の涌現は、末法流布の正体である三大秘法の大御本尊をあらわすためであり、地涌の出現は、末法弘通の使命を付嘱するためであるから「在世の事」というより「滅後の事」というべきであるようにさえ思われる。
 しかし、一応、経文の順序からいえば、宝塔涌現は、一に証前すなわち迹門の真実であることを証明するためであり、二に起後すなわち本門の説法の準備のためであった。ゆえに、在世本門の瑞相として扱われているのである。また、地涌千界の涌出も、一応は本門の釈尊の久遠の弟子として、五百塵点の遠寿をあらわすための補佐としてあらわれている。したがって、これも、在世本門の瑞相という扱いがされているのである。
 これに対し、神力品は、その文上の意味からいっても、全く滅後末法の付嘱の儀式であって、完全に在世のためではなく滅後のためである。ゆえに、神力品の十神力の瑞相を、末法に大白法を流布すべき前兆とされているわけである。
迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり。本門の事は妙徳すこしもはからず。此の大瑞は在世の事にて候
 迹門は、在世の衆生を得脱せしめるための法であり、声聞を代表とする一切衆生の生命の内に仏知見が具わっていることを明かした哲理である。文殊は、釈迦の九代前の師であったほどの智者であるから、これぐらいの真理は、仏が説かなくとも、前もって知ることができた。ゆえに、序品の瑞相が起こったときに、弥勒が質問を発したのに対し、文殊はそれに答えることができたのである。
 しかるに、本門は、滅後末法の衆生のために大仏法をあらわそうとした儀式であり、仏自身が久遠の昔に証得した仏界の境地を説くのである。これは、まだ菩薩の位でしかない文殊師利菩薩にとっては、推し測ることさえ不可能である。したがって、文殊は、本門の瑞相の意味については答えることができず、ただ仏がこれを明かしたという形をとっているのである。
 ここに、迹門と本門との違いが、明確に指摘されている。迹門は、在世の衆生を得脱させるため、まだ、仏の本地を明かさず、多分に化他の様相を帯びている。これに対し、本門は、仏の本地を解明し、その仏の悟りをそのまま、生命の儀式として展開した。この仏の悟りこそ「法華経の肝要」となるもので、それを滅後末法のため、本化の弟子、実は久遠元初の自受用身に付嘱する儀式が行なわれるのである。
仏、神力品にいたって十神力を現ず。此れは又さきの二瑞にはにるべくもなき神力なり
 「さきの二瑞」とは、迹門のための序品の瑞相と、在世本門のための宝塔・地涌の瑞相との二つと考えられる。
 ところで、序品の六瑞とは、
   1・説法瑞、
   2・入定瑞、
   3・雨華瑞、
   4・地動瑞、
   5・衆喜瑞、
   6・放光瑞、
 であり、これを「此土の六といい、他に「他土の六瑞」すなわち
   1・見六趣瑞、
   2・見諸佛瑞、
   3・聞諸佛説法瑞、
   4・見四衆得道瑞、
   5・見菩薩修行瑞、
   6・見諸佛涅槃瑞、
 がある。神力品の十神力とは、
   1・吐舌相、
   2・通身放光、
   3・一時謦欬、
   4・俱共弾指、
   5・地六種動、
   6・普見大会、
   7・空中唱声、
   8・咸皆帰命、
   9・遙散諸物、
   10・十方通同
 である。 
 この序品の六瑞と神力品の十神力とは、共通するものが幾つかあるが、それを較べてみるとき、一見、同じようであっても、その規模の大きさが全く違うことが理解される。
 序品の地動瑞は「普き仏の世界は六種に震動す」、「此の世界は六種に振動す」とあるのみである。涌出品の地涌千界出現のときの大地の振動については「娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。これに対し、神力品の地六種動は「一時に謦欬し、倶共に弾指したまう。是の二つの音声は、遍く十方の諸仏の世界に至って、地は皆な六種に震動す」とあるように、十方世界にわたっている。
 放光に関しても、序品の放光瑞は「爾の時、仏は眉間白毫相の光を放ちて、東方の万八千の世界を照らしたまうに、周遍せざること靡し」とある。それに対し、神力品の通身放光は「一切の毛孔より、無量無数色の光を放って、皆悉な遍く十方世界を照らしたまう」とある。
 このように、序品の時の瑞相が「此の世界」や「東方万八千の国土」に限られているのに対し、神力品の瑞相がいずれも十方世界に行きわたったというのは、迹門の仏がまだ始成正覚の垂迹の仏であるのに対し、本門の仏は久遠の本地をあらわした仏であるという、力の勝劣を示している。また、当然、そこにあらわされる迹門の法と、本門の法との歴然たる力の相違をも表象しているのである。特に、神力品のあらわそうとした法は、すでに末法の大法であり、南無妙法蓮華経そのものである。ゆえに、これは十方世界すなわち全宇宙を包含する広大深遠の力をもっているのである。
 また、本地は久遠元初の無作三身である地涌の出現によって震裂したのが「娑婆世界の三千大千の国土」に限られていたというのは、あくまでも垂迹の地涌の菩薩として出現したのであるから、これもまた、当然のことといわなければならないであろう。なお、放光とは、仏の智慧の働き、徳用が人々の心の闇を晴らすという姿を表象したものであり、大地の震動とは、人々の心に動執生疑を起こし、既成の価値観が崩壊し、正法にめざめていく姿を象徴したものと考えることができる。

1141:15~1142:05 第四章 末法の大瑞の本質を明かすtop

15                                問うて云く在世よりも滅後の瑞・大なる如何、
16 答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる、 人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、 爾
17 前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、 今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動
18 あり、 末代は又在世よりも悪人多多なり、 かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う。
1142
01 疑つて云く証文如何、 答えて云く而かも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや等云云、 去る
02 正嘉・文永の大地震.大天変は天神七代・地神五代は・さてをきぬ、人王九十代.二千余年が間・日本国にいまだなき
03 天変地夭なり、 人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、 人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭
04 出来す、 瞋恚の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、 今日本国・上一人より下万民にいたるまで
05 大悪心の衆生充満せり、 此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり、
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 問うていうには、在世の瑞相よりも滅後の瑞相のほうが大きいのはなぜか。
 答えていうのには、大地が動くのは人の六根が動くからである。したがって人の六根の動きの大小によって大地の六種の震動も高低がある。爾前の諸経は一切衆生の六根の煩悩を破っているようであるが、実際は、破っていない。今、法華経は、煩悩の最も根本である元品の無明を破るから大震動があるのである。しかも、末法は、在世よりも悪人が多い。その無明を破るのであるから、末法のための瑞相は、在世の瑞相よりも大きいということを仏は示し現わしているのである。
 疑っていうには、末法には特に悪人が多いという証文はどこにあるのか。
 答えていうには、それは法華経の法師品に「この経を弘通しようとすれば、如来の在世であっても怨嫉が多い。ましてや滅度の後においてはなおさらである」と説かれている。
 去る正嘉の大地震、文永の大天変は、天神七代・地神五代といった神代の時代は別として、人王九十代・二千余年の間というもの、日本国にいままでなかった天変地夭である。
 人の悦びが多ければ天には吉瑞が現われ、地には帝釈天の地動瑞が起こる。逆に人々の悪心が盛んになれば、天には不祥の異変が現われ、地には不吉な災厄が起こる。また人間の懐く瞋恚の大小によって、その現われる天変や地夭にも大小がある。現在の日本国には上一人より下万民に至るまで大悪心の衆生が充満している。この悪心の根本は日蓮によって起こったものである。 

煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
―――
元品の無明
 生命に本来そなわった根本の迷い。一切の煩悩、悪業等はここから起こる。元品とは生命の本質という意味で、無明は三惑の一つ。釈迦仏法では万法の本質である中道法性を障える一切の生死煩悩の根本とし、別教では菩薩の断ずべき無明を十二品たてる。円教では、更に四十二品を立てている。この四十二品のうち、最後の無明惑を元品の無明といい、これを断じ尽くせば仏になれるとしている。
―――
正嘉・文永の大地震・大天変
 正嘉元年(1273)8月23日の大地震と文永元年(1264)6~8月、の大彗星のこと。呵責謗法滅罪抄(1192)に「正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星」とある。
 正嘉の大地震は吾妻鏡巻四十三にはその時の模様が次のように記されている。「二十三日、乙巳、晴。戌刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩す。人屋顚倒す。築地皆悉く破損す。所々地裂け水涌き出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し云々」。
 文永の大彗星は、「文永の長星」ともいわれる。文永元年(1264年)6月26日に東北の上空に彗星が出現し、7月4日に再び現れ、8月に入っても光は衰えなかった。このため、彗星を攘う祈禱が連日のように行われたという。「安国論御勘由来」には「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」(0034)とある。
―――
天神七代
 地神五代より前に高天原に出た七代の天神。陽神(男神)と陰神(女神)がある初めは抽象的だった神々が、次第に男女に別れ異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
―――
地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
―――
人王九十代
 人王は神代に対して、神武天皇以後の天皇をいう。この建治元年(1275)当時の天皇は後宇多帝で、第九十一代とされる。
―――――――――
 大聖人の記された歴代天皇の代数と、現在の『皇統譜』によるそれとは異なる。第三十八代天智天皇の第一皇子で、壬
 大地の変動が人の六根の動きの反映であることは、本抄冒頭の、天台大師の文句に示されている通りである。爾前経は、その六根の汚濁をもたらす、生命の内にある煩悩を断尽することを説いた。
 しかしながら、爾前経の煩悩断尽の法は、いわば枝葉を切るようなもので、根や幹にまで到らない。ゆえに、一つの煩悩を切ることによって、他のさまざまな煩悩を派生させていく。しかも、切ろうとした煩悩自体も、ますます盛んになって、却って手に負えないものになってしまう。
 つまり、無数の煩悩を仏教では、大別して三惑に分けている。そのうち見思惑とは、事物の判断や思考の上に生ずる惑いであり、塵沙惑とは、生命の流転の上に累積してきた宿業である。だが、これらも、決局は、生命それ自体の本質につきまとう元品の無明が根幹となって現われているに過ぎない。
 したがって、元品の無明を打ち破らなければ、煩悩のどす黒いエネルギーは、いつまでもなくならないばかりか、枝葉をいじればいじるほど、激しく出口を求めて噴出してくるのである。
 では、元品の無明とは何か。本来、生命は一念三千であり、善悪無記である。その生命の実体を究め尽くし、境地冥合すれば、この生命を正しくリードし、惑いのない、赫々たる人生を歩むことができる。それを悟らずして、性悪の面である三悪道、四悪趣の生命に引きずられていけば、それは煩悩におおわれた人生とならざるを得ない。この、生命の実体を知らないのを元品の無明というのである。所詮、わが身妙法と開覚すれば、元品の無明は破れて、元品の法性とあらわれるのである。
 法華経の教えの真髄は、一切衆生の生命に内在する仏界の生命を開覚することにある。すなわち、一切衆生をして、わが身即妙法の当体なりと覚知せしめることが、法華経の極意である。爾前経で教えてきた三惑を断じ、五欲を離れることは、この法華経の極理が成就されれば、おのずから達成される。むしろ五欲、煩悩は、この根本さえ転換されれば、生命活動の上に不可欠の五欲であり、煩悩はそのまま、生命の楽しみとなっていくのである。
 ここで、六根と無明との関係について一言すると、六根のうち、中核をなすものが意根であり、全体を包含するのが身根である。これは、妙楽が「中央は心、四方は身」と約していることから明らかである。さて、意すなわち心、身すなわち色で、この色心の当体が生命である。この生命の拠って立つ姿勢、基盤が、元品の法性であり元品の無明であるわけだ。ゆえに、今の文で、六根の動きによって大地の動変があるといわれ「法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」(1141)と結論されているのである。
今日本国、上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり
 この前の「人の悦び多多なれば、天に吉瑞をあらはし……人の悪心盛んなれば、天に凶変……瞋恚の大小に随いて天変の大小あり云云」の文を受けて、現実の日本の様相を述べられているのである。もとより、それが、〝正嘉・文永の大地震・大天変〟の原因をなしていることを指摘されるためであることは、文の流れからいって当然である。
 悪心にせよ善心にせよ、その心の激しさ、強さも大小の判定の大切な基準であるが、より重要な問題は、対象にある。いま、大聖人が〝大悪心〟といわれているのは、全民衆を救済しようとして、ただその広大な慈悲から起ち上がられた大聖人に対して、人々は憎悪と憤りをもって応えるのみであった。ゆえに、これは、大悪心という以外にないのである。
 いわゆる大善に反対し、大善を憎むがゆえに、それは大悪となるのである。もし小善が対象であれば、憎悪、瞋恚の心がいかに激しくとも、それは小悪でしかない。また、もし悪に対する憎悪・瞋恚は、そのためにとる手段・方法は別として、それ自体は善にさえなるのである。
 末法御本仏、日蓮大聖人に対し、当時の日本民衆は、幕府権力の中枢から一般民衆にいたるまで、程度の差は万別であったろうが、みな、憎悪と瞋恚の心を抱いたのである。自分たちを救ってくれるべき、主・師・親の三徳を具備した人を憎んだのであるから、それは〝大悪心〟である。「此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」の一文に、民衆救済のために起たれた、大聖人の大確信が秘められていることを知らなければならない。

1142:05~1142:16 第五章 天変地夭の原因を説くtop

05                                     守護国界経と申す経あり法華経以後
06 の経なり阿闍世王.仏にまいりて云く我国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病.年年に起る上他国より我が国をせむ、
07 而るに仏の出現し給える国なり・いかんと問いまいらせ候しかば・仏答えて云く善き哉・善き哉・大王能く此の問を
08 なせり、 汝には多くの逆罪あり其の中に父を殺し提婆を師として我を害せしむ、 この二罪大なる故かかる大難来
09 ることかくのごとく無量なり、 其の中に我が滅後に末法に入つて提婆がやうなる僧・ 国中に充満せば正法の僧一
10 人あるべし、彼の悪僧等・正法の人を流罪・ 死罪に行いて王の后・乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満
11 せば国中に種種の大難をこり後には他国にせめらるべしと・とかれて候、 今の世の念仏者かくのごとく候上・真言
12 師等が大慢・提婆達多に百千万億倍すぎて候、 真言宗の不思議あらあら申すべし、 胎蔵界の八葉の九尊を画にか
13 きて 其の上にのぼりて諸仏の御面をふみて潅頂と申す事を行うなり、 父母の面をふみ天子の頂をふむがごとくな
14 る者・国中に充満して上下の師となれり、いかでか国ほろびざるべき。
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 守護国界経という経がある。これは法華経以後に説かれた経であるが、その中に「阿闍世王が釈尊の所へ参上していうには『わが国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病が毎年起る上に、他国よりわが国を攻めている。しかるに、わが国は仏の出現された国である。これはどういうことでしょうか』とたずねた。釈尊が答えていうには『すばらしいことだ。大王よ、よくそのことを質問した。あなたには多くの逆罪がある。その中で、父を殺し、提婆達多を師として私を迫害した。この二罪は重大であるために、このような大難がこのように無量に起こるのである』と答え、更に『わが滅後、末法に入って提婆達多のような僧が国中に充満するとき、正法を持つ僧が一人出現する。彼等悪僧たちが、この正法の僧を流罪・死罪に行なった上、王の后をはじめ、一般庶民の女性までも犯して謗法者の種子が国中に充満するであろう。そしてそのために国中に種々の大難が起こり、やがて他国からも攻められる』」と説かれている。
 いま、日本の念仏者は、この経文に説かれているのと同じであり、その上、真言師たちの大慢心は提婆達多よりも百千万億倍もすぎている。その真言宗の奇怪な点についてあらあら述べると、胎蔵界の八葉九尊を絵に画いて、その上にのぼって諸仏の御面を踏んで灌頂という儀式を行なうのである。これは父母の面を踏み天子の頂を踏むような者が国中に充満して、しかも上下万民の師となっているということである。これでどうして国が亡びないことがあろうか。
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15   此の事余が一大事の法門なり又又申すべし、 さきにすこしかきて候、いたう人におほせあるべからず、びんご
16 との心ざし一度・二度ならねばいかにとも。
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 このことは、私のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申しましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられるお志は、一度二度でなく、何とも感謝のことばもありません。 このことは、私のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申しましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられるお志は、一度二度でなく、何とも…。

守護国界経
 守護国界主陀羅尼経、守護国界主経ともいい、密教部に属するとされる。唐の罽擯国出身の般若三蔵と牟尼室利三蔵訳の共訳があり、十卷十一品よりなっている。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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逆罪
 理に逆らう重罪。重禁を犯す罪。
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提婆
 提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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胎蔵界
 真言密教の両部の一つで、金剛頂経に説く金剛界に対し、胎蔵界は大日経に説くもの。胎蔵とは母の胎内に児を蔵するとの意。仏の菩提心が一切を包み育成することを、母胎に譬えたとされる。真言宗では、金剛界、胎蔵界の両部を絵にして、曼陀羅と称している。
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八葉の九尊
 真言密教で描く胎蔵界曼荼羅は、中央の一院が八葉の蓮華になっていて、そこには大日如来が座し、それを囲む八葉の蓮華の上に宝幢仏、阿弥陀仏、沙羅樹王開敷仏、天鼓雷音仏の四仏、普賢、文殊、弥勒、観音の四菩薩が坐っている。
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灌頂
 水を頭上にそそいで一定の資格を具備することを証する儀式で、もとはインドで国王の即位する時、および立太子のときに四大海の水を頭上にそそいで祝ったという。真言宗では特にこの灌頂を重んじ、これにより、すみやかに大覚位を証することができると説いている。
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 守護国界経の文をあげて、まず前半に、大聖人御在世の天変地夭、および他国侵逼の大難に苦しむ日本民衆の不幸の原因がどこにあるかを示されている。後半は、同じくその守護国界経の予言している末法の世相が、まさにその通りに符合していることを明示されている。
 また、その一国謗法の中で、特に、真言宗をとりあげ、真言の邪義の一端を、わかりやすい例をあげて述べられている。
 つまり、天変地夭や他国侵逼難の原因が逆罪にあるとの、阿闍世王の例を示しての指摘は、天変地夭が大法出現の瑞相であるというこれまでの論議から、もう一歩進めて、核心をズバリ突いておられるわけである。すなわち、慶ぶべきこととしての「天に吉瑞・地に帝釈の動」の天変地夭ではなく、「人の悪心盛んなる」ゆえに起こっている災厄であるから、これを解決するためには、根源にある病因を打ち破り、治癒しなければならない。
 それは、同じく守護国界経に示されている「謗法の者が国中に充満し、唯一人の正法の僧を迫害している」ことが、一切の災厄の原因である。したがって、もし、この災いを転じようと思うならば、正法の僧への迫害をやめて、正法の僧に帰依する以外にない。すなわち、日蓮大聖人の教えに髄順することが、天変地夭をおさめ、他国侵逼難という日本民族の命運を決する危機を脱する唯一の方法である、との意である。
 ここに、現実に民衆が、社会が直面している苦悩に対して、それを救うのは自分以外にないとの強い確信と、深遠の大慈悲があふれていることを知らなければならない。また、宗教は決して、現実から離れたところで、現実を無視してあるものではないということも、この御文に明らかである。
 さらに「釈尊の出現した国が、なぜ幾多の災厄に見舞われるのか」という疑問に対する答えが示しているように、仏法は、これを信受する衆生の姿勢によって、その仏法の偉大な力を湧現して幸福な世界を築くこともできるし、逆に、仏法のない国よりも悲惨な不幸におちいってしまうこともありうるのである。このことは、仏法を受け止める衆生が大事であるという原理を示す文として、非情に重要であろう。
此の事余が一大事の法門なり
 本抄に述べられている、大聖人を迫害しているために種々の大災害に苦しんでいるのだということは、大聖人こそ、末法御本仏であるという証拠にほかならない。したがって、これは、大聖人の一大事の法門であり、へたにいえば、増上慢ととられて、大弾圧を招きかねない。身延入山後の大聖人のお考えは、万年尽未来際のために、いかに令法久住するかにあったことが推察される。おそらく、無用の難は、招くべきではないとのお考えから「いたう人におほせあるべからず」と仰せられたのではないだろうか。
 また、真言宗の問題については、一貫して慎重を期しておられたようである。これは、真言宗が、天台宗と一体化して、これを論ずる場合は、どうしても天台教義と絡まってくるため、微妙な問題が生じたからであると思われる。また、もう一面は、権力との関係から、真言宗が権力の中枢、特に朝廷と深く結びついていたことが考えられる。
 こうした事情から、真言宗の問題については、一貫して慎重を期されたのであろう。このことは、また、折伏、広宣流布の戦いにあたって、単なる蛮勇であってはならない、勇敢であるとともに、そこには細心の注意と賢明な対処がなければならないとの教訓と拝すべきであろう。

1143~1143    四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)top

四条金吾殿御返事
01   一切衆生.南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文.あに自受法楽に
02 あらずや、 衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、 所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色
03 心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや、 法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは
04 是なり、ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、 賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちの
05 みて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて 南無妙法蓮華経
06 とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ、恐恐謹言。
07       建治二年丙子六月二十七日                日蓮花押
08     四条金吾殿御返事
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 一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はない。法華経寿量品第十六には「衆生の遊楽する所なり」とある。この文は自受法楽のことをいっているのである。「衆生」のなかにあなたがもれることがあろうか、また「所」とは、一閻浮提を示しており、日本国はその閻浮提の内にある。「遊楽」とは、すなわちわれわれの色心、依報・正報ともに、一念三千の当体であり、自受用身の仏であるから遊楽ではないか。したがって、法華経をたもつ以外に遊楽はない。法華経薬草喩品第五にある「現世安穏にして、後に善処に生ず」とはこのことをいうのである。
 ただ、世間の種々の難が起こっても、とりあってはいけない。賢人や聖人でも、この留難は逃れられないのである。ただ、女房と酒を飲みかわして、南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。
 苦を苦とさとり、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないか。ますます強盛な信心をしていきなさい。恐恐謹言。
  建治二年丙子六月二十七日    日蓮 花押
   四条金吾殿御返事

衆生所遊楽
 法華経如来寿量品第十六の文。「……我が此の土は安穏にして天人は常に充満せり。園林諸の堂閣は種種の宝もて荘厳し、宝樹は花菓多くして衆生の遊楽する所なり」とある。
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自受法楽
 自ら法の楽しみを受けること。広大無辺な妙法を信じ悟る楽しみを享受することができる。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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色心
 色法と心法のこと。すべての存在を五種に分類した五位のふたつ。「色法」は一切の物質的存在のこと。一定の空間を占有し、自他互いに障害しあう性質と変化し壊れる性質を持つとされる。「心法」は心の働き・精神、及び一切法に内在する性質をいう。
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依正
 依報と正報のこと。「報」は過去の行為の因果が色心の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。依正の二法はともに過去の業によって報いたものであるから二果果報ともいい、相依相関性を有し、不二の関係にある。三世間でいえば五陰世間・衆生世間が正報、非情の国土世間が依報となる。
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一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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自受用身
 自受用報身のこと。御義口伝には「自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と.出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』」(0759-第廿二 自我偈始終の事-02)とある。
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現世安穏・後生善処
 法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。
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 同僚から憎まれ、主君・江馬氏から冷遇されて、苦境のどん底にあった四条金吾に対し、人生の真実の幸福は、妙法の信仰に生きることであると教え、激励されたお手紙である。しかし、ここに示されている教えは、こうした特殊な状況下のみの問題でもなければ、四条金吾個人の問題でもない。人間の究極の幸せとは何か、また、人間いかに生きるべきかという普遍的にして根源的な法理が説き明かされているのである。
 この意味において、このお手紙は、極めて短いが、重要な人生指導の書というべきである。しかも、仏法の深い哲理を、庶民的な言葉で、明快に示されており、一言一句が深遠な輝きと重みをもっている。畏れ多い言い方であるが、一字のムダもなければ、一分の隙もない。まさに玲瓏たる宝玉を見る思いのする御消息である。
一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり
 遊楽とは、遊び楽しむことであるが、ここで用いられている意味は、世間一般の浅い遊楽ではない。世間的にいう遊楽とは、ゲームとかスポーツとかが〝遊楽〟の対象として必ずある。それは、仕事や社会的義務から解放されたところで得られる、限定されたものである。
 この文のいう〝遊楽〟とは、人生そのものを遊楽することである。言い替えると、生きていることそれ自体が遊楽の境地になっていくことが、仏法の目指す理想の状況なのである。だが、それは、面白おかしく、不真面目に生きるということでは毛頭ない。それは現実を避けているだけで、今は、やりすごしても、その償いは、何倍も厳しい現実として、必ず、あとになって訪れてくる。したがって、それ自体、決して〝遊楽〟ではありえないのである。
 真実の遊楽とは、この人生の現実と厳しく対決しながら、これを悠々と乗り越えていくことである。その強い生命力と英知の源泉が妙法であるがゆえに「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」といわれたのである。
 遊楽の遊とは、現実に、人生を自在に生きていくことである。楽とは、人生を心の底から楽しむことである。強い生命の力と英知があれば、丁度、波があって波乗りが楽しめるように、嶮難の山があって山登りが楽しめるように、一切の激動も、楽しみながら、これを克服していくことができるのである。
 この人生を真実に遊楽しきっていける究極の淵源は、一切衆生――全世界民衆にとって南無妙法蓮華経の大仏法を実践すること以外には、断じてないことを知らなくてはならない。
所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり
 一応、この御文は「日本国は閻浮提の内なり」をより強調されているわけであるが、この「所とは一閻浮提なり」との仰せ自体に、他のあらゆる宗教と根本的に異なる大聖人の姿勢が明示されていることを認識すべきである。
 すなわち、キリスト教が、真実の遊楽の所としたのは、天国であった。天国の門を入る以外に、遊楽はありえないと教えたのである。仏教においても、浄土宗等のように、法華経以前の教えは、西方極楽世界などの他土が遊楽の地であり、この世は苦悩におおわれた穢土であるとした。この世界を〝娑婆〟すなわち堪忍世界と呼んだことのなかに、この考え方は明確にあらわれている。
 これに対し、法華経哲学は、はじめて、理想世界を他に求めるのでなく、この娑婆世界を衆生の遊楽する所と説き、また、そのような世界に転換する変革の原理を明らかにしたのである。
遊楽とは我等が色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや
 真実の遊楽の境地とは、わが身が一念三千の当体であり、自受用身の仏であると開覚したところに開けてくる、ということである。しかも、それは、単なる観念でもなければ、環境から孤絶した、自分一個のみの問題でもない。「色心・依正ともに」一念三千、自受用身の仏と現われるのである。
 一念三千とは即・自受用身であり、自受用身は即・一念三千である。一念三千とは法に約し、自受用身とは人に約しての呼称であって、人法体一がその実相である。
 元来、一念三千の法理そのものが、色心不二、依正不二の原理である。三世間の一つである五陰世間の内容は色・受・想・行・識であり、色は色法、受・想・行・識は心法である。また、五陰世間は正報であり、衆生・国土の二世間は依報である。したがって、わが身・一念三千の当体と現われるということは、色心・依正ともに、本源的変革をもたらすのでなければならない。
 自受用身とは、自受け用いる身との意で、自在にこの人生を生きていけることである。生きることそれ自体が楽しいという幸福境涯である。所詮、三大秘法の御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、わが身が一念三千の当体、自受用身の仏と開顕するのである。これが、凡夫即極の仏であり、仏界の生命の顕現にほかならない。ゆえに「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」といわれているのである。
ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず
 「世間の留難」とは、理想をめざし、実現へ努力する途上において起こってくる、現実社会からの妨害である。四条金吾の場合、同僚の迫害や、その讒言による主君・江馬氏からの圧迫があった。
 仏法の信仰に限らず、一つの理想を志向して前進するところには、必ずなんらかの形の迫害、抵抗が生ずることは避けられない。なぜなら、理想とは、現実を超克したところにあるものであり、その理想を目指すことは、現実を変革するか、現実から一歩脱却することを免れられないからである。
 とくに仏教の中で、これをみると、小乗教は、自己の内なる現実を否定することによって、煩悩を断じ、不変の平穏を得ようとした。その究極するところは、灰身滅智の自己否定にまで行き着かざるを得なかったのであるが、それは、自己自身の内なる世界に限られていたため、現実社会との摩擦は少なかったといえる。
 権大乗教は、架空の世界に理想郷を求めようとした。それは、理想主義的ではあったが、現実を変革するものではなく、現実から逃避するものであったため、これもまた、比較的抵抗を受けることが少なかった。むしろ、理想を死後に託し、現実には諦めを教えたので、過酷な現実に人民を耐えさせるには好都合で、為政者の多くはこれを利用しようとさえした。
 これに対し、法華経は、現実を変革する意図を、きわめて強烈に秘めている。ゆえに現実社会の安定、人民の忍従の上に成り立つ安定を欲する為政者、指導階層にとっては、法華経哲学は、警戒せざるを得ない側面をもっているわけである。「世間の留難」が、日蓮大聖人御自身に対しても、門下の人々に対しても、さまざまな形で降りかかってきたのは、むしろ当然だったといえるであろう。
 しかしながら、大聖人の御真意は、その現実変革の戦いを、社会現象と同一次元において展開することにあったのではない。生命内奥の変革、人間性の本質的次元における宗教的転換こそ、大聖人の意図された革命であり、社会の現象的次元における変革は、その結果としてもたらされるものなのである。
 いま、ここに「ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず」といわれているのは、そうした深い次元の戦いに真意があったからに他ならない。この点を理解しなければ、あたかも、大聖人が現実社会に対して諦観主義をとられたかのような誤解を生ずる恐れがある。もし、諦観主義をとるならば、立正安国論以来の大聖人の実践、日興上人等による国諫遂行などと、全く矛盾することとなってしまうであろう。
 更に、この「世間の留難」とは、正法を弘めようとすることに対して起こってくる、いわゆる〝法難〟のみではない。現実社会に生きていく上で起こってくる、あらゆる苦難、人生の悩みなども包含していわれていると考えてよい。世間すなわち三界六道の、現実につきまとう苦難である。
 それは、賢人・聖人といえども、免れることはできない。なぜなら、現実社会の六道を脱皮したところに不変の真理と幸福を求めようとする賢人・聖人といえども、自ら肉体をもつ凡夫であり、現実の中に生きる六道の生をもっていることに変わりはないからである。賢人・聖人の最極の存在として、仏といえども、この「世間の留難」は逃れられないのである。
 この原理を簡明に示したのが、十界互具の法である。賢人・聖人を声聞・縁覚・菩薩・仏の〝四聖〟、世間の留難を六道輪廻としてもよいし、別しては、賢人・聖人を仏、世間の留難を九界としても、この原理は変らない。事実を、そのあるがままに捉え、正しく認識しながら、その故にこそ、それに微動もしない不動の境地を体得するのが、賢人・聖人であり、むしろ、その九界の波動を悠々と楽しんでいくのが、仏なのである。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや
 人生に苦楽のあることは当然であり、誰びとも、これを逃れることはできない。「現世安穏・後生善処」の妙法を受持したからといって、この人生の苦楽が無くなるわけではない。ただ、苦楽のなかに埋没し、自分を見失ってしまうのではなく、妙法という大生命に生きる自我の確立によって、悠然と、この苦楽の波を楽しんでいくのである。
 苦楽とは、現実生活における〝相対的幸福〟の次元である。「南無妙法蓮華経」と唱え、自受法楽していく幸福は〝絶対的幸福〟である。絶対的幸福とは、相対的幸福の積み重ねによって現出するものではない。すなわち、過去の宿業を消滅し、苦しみのない境涯になることが、妙法のめざす理想の〝絶対的幸福〟なのではない。そうした境涯は、所詮、〝相対的幸福〟の範疇を一歩も出るものではないのである。
 絶対的幸福とは、相対的次元において、いかに苦悩におおわれていようと、妙法への深い確信から、妙法の大生命を自身の内に顕現することによって、この身このままで成就するところのものなのである。いわゆる「即身成仏」というのも、このことに他ならない。
 真実の幸福とは、苦しみがないということではない。むしろ、逆説的にいえば、苦しみがない人生、悩みのない社会ほど退屈で、苦しいものはないに違いない。キリスト教の説く天国、爾前経の教えた西方極楽浄土などというものは、いずれも、苦しみや悩みのない鈍化された幸福郷を描いている。それは、あくまでも、抽象化した観念の世界に過ぎない。現実は、どこまでも苦悩を伴うものであり、ただ、その苦悩に負けない自己を確立したときに、一切を楽しみきっていける境地が開けるのである。
 その現実の生命存在の姿、法を踏まえ、そこに絶対に崩れることのない幸福を会得する法を説き明かしたのが法華経である。それは、苦楽に目をふさぎ、逃れようとするのではなく、真正面に苦楽を据えて、苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらく、達観の法である。「南無妙法蓮華経とうちとなへ」るところに、その苦楽に押し流されない自己が御本尊と境智冥合して確立される。その確立された強い自己は、却って現実の苦楽をともに無上の喜びとして、楽しみきっていく。それが〝自受法楽〟である。この〝自受法楽〟こそ、人間の真実の幸福境地であることを知らなければならない。

1144~1148    四条金吾釈迦仏供養事(釈迦仏開目供養事)top
1144:01~1144:06 第一章 法華経を持つ者は五眼を具すtop

1144
四条金吾釈迦仏供養事    建治二年七月    五十五歳御作
01   御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云、開眼の事・普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸
02 仏の眼目なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏・是に因つて五眼を具することを得たもう」云
03 云、此の経の中に得具五眼とは一には肉眼・二には天眼・三には慧眼・四には法眼・五には仏眼なり、此の五眼をば
04 法華経を持つ者は自然に相具し候 、譬へば王位につく人は自然に国のしたがうがごとし、 大海の主となる者の自
05 然に魚を得るに似たり、華厳・阿含・方等・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其の義なし、今の法華経
06 には名もあり義も備わりて候・設ひ名はなけれども必ず其の義あり。
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 御日記の中に「釈迦仏の木像を一体造立した云云」とある。仏の開眼のことは、普賢経に「この大乗経典は諸仏の宝蔵である。十方三世の諸仏の眼目である」等と説かれている。また同じく普賢経に「この方等経は、是れ諸仏の眼である。諸仏は、この経によって、五眼を具すことを得られたのである」とある。
 この経文の中に「五眼を具することを得られた」とあるが、その五眼とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼をいうのである。法華経を持つ者には、この五眼が自然に具わってくるのである。たとえば王位につく人には、自然にその国民が従うごとく、また大海の主となる者には、自然に魚が従ってくるようなものである。
 華厳経、阿含経、方等経、般若経、大日経等には、五眼という名はあってもその義、すなわち実体はない。今の法華経には五眼という名もあり、その義も備わっているのである。たとえ、名がないとしても必ずその義は備わっているのである。

御日記
 狭義では、日々のことを記したものをいうが、一般には、儀式や年中行事を記したもの。一般に元服し、社会人として認められた時から執筆するが、必ずしも一定していない。また鎌倉時代では、その目的としては、儀式、典礼などを詳細に記し、子孫の処世のために残したとされている。本抄の中では、「御日記に云く、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕えさせ給ふ事云云」(1145)とあることから、四条金吾が、大日天子を祭るもようについて、記しておいたものを、亡き人の菩提をとぶらう意味をかねて、日蓮大聖人に送られたものと思われる。また同じような意味で上野殿母御前御返事(1568)には「御菩提のために送り給う物の日記の事」とある。
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開眼
 眼目を開くということ。新たに彫刻し、鋳造し、書写した仏像等を法をもって供養し、心を入れ、生身の仏・菩薩と同じにすること。またはその儀式で開眼供養ともいう。本尊問答抄(0366)に「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」とある。
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普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
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五眼
 物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五つをいう。①肉眼は人間の肉体に具わった眼。②天眼は昼夜遠近を問わず見ることのできる天人の眼。③慧眼は空理を照見する二乗の眼。④法眼は衆生を救うために一切の事象・法門に通達する菩薩の眼。⑤仏眼とは前の四眼をことごとく具足して、遍く万法の真実を照了する仏の中道の眼。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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阿含
 阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
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方等
 方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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 本抄は別名を「釈迦仏開眼供養事」といい、建治2年(1276)7月、父母の追善供養のため、四条金吾が釈迦仏の木像を造って、日蓮大聖人にその開眼を願い出たことに対する御返事である。
 はじめに仏像造立の功徳について述べ、法華経による開眼供養、一念三千の原理等が示されている。ついで、四条家では大日天子を九旬の間供養していることに対し、大日天子の働きはすべて仏法の力によることを述べ、また父母孝養の大事なる事を明かしている。また金吾の変わらぬ忠誠をめでられ、さらに主君江馬氏への恩を報ずべきを説き、知恩報恩の大切なことを述べられている。
 最後に、酒宴等は特に注意して慎しみ、不祥事の起こらぬよう、細かく注意を与えている。これは、とくに文永11年(1274)に金吾が主君江馬氏を折伏したことにより、主君をはじめ、同僚の反感を強くさせたことに関係する。しかも、金吾の大聖人に対するひたぶるな信心の情熱は、さらに燃えつづけ、また主君への忠誠をつらぬく変わらぬ態度に、同僚のねたみはいよいよはげしさを増していった。そしてついに建治二年九月には、越後へ減俸左遷という問題が起こるに及んだのである。
 このように金吾の背後には、同僚のざん言等大きな迫害が波打っており、金吾自身が非常に緊迫した中に身をおいていたのであった。こうした状況をすべて察知された上で、大聖人は、ともすると迫害のため、主家から暇をとりたいと願う金吾に、あくまでも主家にあって恩を報じ、信心をまっとうすることを、厳しくもまた温かく指導されたのが、このお手紙である。
 なお、著作の年代については、文永11年(1274)説、建治3年(1277)説等もあるが、建治2年(1276)7月15日の説が、もっとも妥当なものと考えられる。また本抄の末尾の数行の御真筆は、鎌倉の妙本寺に現存している。
釈迦仏造立について
 日蓮大聖人の仏法は、三大秘法の御本尊が一切の根本である。すなわち「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(1124)として、御図顕された三大秘法の御本尊を信仰の根本の依処とする。そして、それ以外の釈迦仏像をはじめとし、種々の仏、菩薩、神を本尊とすることは無価値であり、信仰して功徳がないばかりか、正しい本尊に違背することになる。
 しかし本抄では、題名からも知れるように、四条金吾が釈迦仏像を造立し、しかも大聖人にその開眼を願いでている。仏像像立のいわれに関しては、次の「開眼」の項で述べることとするが、金吾のこうした申し出に対し、大聖人はそれを受け入れ、むしろ讃嘆されているのは、いかなる理由によるのであろうか。
 このことについて、日寛上人は末法相応抄の中で、まず色相荘厳の仏像を本尊とすべきではないとして、その理由をあげ、次に「本尊に非ずと雖も而も之を称歎する」と、釈迦仏造立を称歎する理由を詳しく明かされているので、その大略を次に述べる。
 まず色相荘厳の仏像を本尊となすべきではない理由として、道理の上から次の三点があげられている。
    一、末法は下種の時であるから、下種の仏を本尊とすべきである。本因妙抄には「仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり」(0874-01)とあり、釈尊は脱益の教主であり、日蓮大聖人は下種の仏であることは明確である。故に色相荘厳の仏像を造立し、本尊となすべきではない。
    二、正像の衆生は本已有善である故に、色相の仏において三徳の縁が深い。しかし、末法の衆生は本未有善であるが故に、色相の釈迦仏には三徳の縁が薄い。すなわち「正像二千余年には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し根機を知らずんば左右無く実経を与う可からず、今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(1027-12)とあるごとくである。あくまでも三徳有縁なるを本尊とすべきであるが故に、末法今時では釈迦仏像を造立して本尊とはしない。
    三、色相荘厳の仏には人法勝劣があり、法が勝れ人が劣る。しかるに「本尊とは勝れたるを用うべし」(0366-05)であるから、色相荘厳の仏を造立して本尊とはしないのである。
 次に文証をあげる。
 文句巻八に云く「此の経は是れ法身の舎利なり須らく更に生身の舎利を安くべからず」。法華三昧懺儀に「道場の中に於いて好き高座を敷き法華経一部を安置し未だ必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず」と。また富士一跡門徒存知の事には「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606-02)と記されている。
 このように、道理、文証の上から、末法今時にあっては釈迦仏像を本尊とすべきではないことは、全く明らかである。しかし、こうした明白な理由があるにもかかわらず、金吾の釈迦仏像の造立をなぜ称歎されたのであろうか。
 金吾の場合、釈迦像は本尊として造立されたのではもちろんないが、それを称歎する理由は、さらに次の三意がある。
    一、大聖人の時代は未だなお一宗弘通の初めであった。よって、正意ではないが用捨時宣に随ったのである。
    二、当時は日本国中が一同に阿弥陀仏を本尊としていた。このような世にあって、阿弥陀の像を捨てて、釈迦の像を造り崇めるということは、むしろ称歎に価するものといえた。また、釈迦を立てることは、すなわち法華経に帰することであり、法華経に帰すれば、それは末法において上行菩薩の再誕たる本仏に帰依することになるのである。
    三、大聖人の観心からすれば、修行中の釈迦像が、全く一念三千即自受用身の本仏と映られた故である。
 以上のような理由により、大聖人は金吾の仏像造立を、むしろ称歎されたのであった。またこの他にも、あくまで根本たる本尊としてではないが、釈迦像を造立したものに、日眼女や富木常忍等がいる。しかし、これらはいずれも一体像で、一機一縁のためであり、継子一且の寵愛のごときものである。しかも未だ本門戒壇の大御本尊ましまさず、あたかも月を待つ片時の蛍火ともいえる。
 しかし現在は「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)として、三大秘法の御本尊が建立されて以来、すでに七百年を経ている。しかも寿量文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経は「一閻浮提第一」とおおせのように、日本のみならず、全世界の民衆にとって唯一無二の本尊であり、今やこの妙法の五字は全世界に流布すべき時を迎えている。したがって今日の民衆にとっては、何ら釈迦仏像等を造立したり、称歎したりする必要はなく、ただ三大秘法の御本尊を唯一絶対と確信し、信行学に励んでいくべきである。
開眼について
 開眼とは、仏像を造立して、そこに仏としての魂魄を入れることである。ここに開眼について述べる前に、仏像を造立するようになったいわれについて述べる。
 増一阿含経巻第二十八には、優塡大王の木像のことについて説かれている。これによれば、優塡大王が三十三天に昇った釈迦を思慕するのあまり、牛頭栴檀を刻んで仏像を造り、さらにこの話を聞いた波斯匿王は紫磨金をもって五尺の如来像を造ったという。同経には「爾の時閻浮里内に始めて此の二の如来の形像有り」とあり、これが仏像造立のはじめであるとされている。
 この経典は、0384年に訳されたが、その原典は二、三世紀頃に成立し、この物語もその当時のことを記したと思われる。
 このように最初の造仏は、釈迦の姿を慕うのあまりであり、礼拝等の目的で造られたものではない。一般には、仏滅後五百年ぐらいまでは、礼拝すべき仏像をもたない、いわゆる無像の時代であったと考えられている。このことについて、松本文三郎氏はその著『仏像仏画の起源』のなかで「仏滅より数百年の間、仏像制作はあらわれなかった。これは当時の技術家が制作すべき技を有さなかったのではなく、むしろ之を忌避し、故意に作らなかったのではないか」と述べている。つまり、仏は尊いものであるがゆえに形相の上に表わすことはできえないものと考えられていたようである。たとえば、波斯匿王が仏画をかかせた時、仏の光明が画工の眼を射り正視できず、やむをえず仏の姿を水に写してそれを画いたという説話もある。
 このように、釈迦滅後の初期には、釈迦を直接に表現しようとはせず、仏足石、塔、菩提樹下の金剛宝座などの彫刻によって、間接的に釈迦を表現し、それを釈迦の象徴として、崇拝の対象としていたと思われる。
 しかし、やがて仏像の造立が多くなされるようになり、造像にあたっては、できる限り三十二相八十種好という仏の高貴にして円満な、しかも威厳のある姿を整えなければならないとされた。その他に、特に身相不具足の像は不祥をおこすとして造るべきではないとされたり、また造像の寸法や材料など、造立への規範が細々と制定され、それに基づいて仏像の造立がなされていった。
 こうして仏像が造立され、最後に開眼の儀式が行なわれた。開眼は像ができたら、できる限り早く行なうとし、もし長期間おけば不吉な結果をもたらすと考えられた。したがって一般に、吉日を選んでなるべく早目に開眼の儀式が行なわれた。その式法は宗派により異なるが、造像や開眼の儀式に関することが述べられている一切如来安像三昧儀軌経には「眼を点じて相似すれば云云」とあり、仏師が像に眼をいれて開いたようである。日本でも天平勝宝4年(0752)、東大寺大仏の開眼供養の時は、菩提僧正が筆をとって開眼したとある。
 さて今、これらの開眼とは異なり、金吾が釈迦仏像の開眼を願いでたことに対し、大聖人の開眼とは、どのようなことを意味するのかについて述べてみたい。
 「木絵二像開眼之事」には「仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」(0468-02)とある。すなわち、木像や画像は、仏としての完成された三十二相のうち、三十一相までは兼ね備えているが、梵音声がかけているが故に真実の仏ではないとし、仏としての力はありえないとされた。
 また色心二法のうち、色法、すなわち形の上では立派に造ることができても、心法を造ることはできない。よって、仏像に梵音声を与え、心法を備えることが三十二相を備えた仏となり、開眼したことになるのである。
 すなわち、木画の二像の前に経を置く時、経文の一字一字がすべて仏の梵音声となり、したがって三十二相を具足し開眼したことになる。またさらに、経文の文字は心法が色法とあらわれたものであるから、経を置くことによって色心の二法が備わるのである。
 ただし、ここでいかなる経を置くかが問題である。「阿含経を置けば声聞とひとし……華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非ず……三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」(0468-08)とあるように、いま仏像の前に置かれる経は、正しく法華経、すなわち南無妙法蓮華経でなければならない。
 しかるに真言が、大日経をもって開眼供養を行なったことにより、真の開眼とはならず、利生が失われてしまったのである。すなわち「但印真言なくば木画の像の開眼の事・此れ又をこの事なり真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか、天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き或は説法し或は御物言あり、印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失たるなり」(0282-02)、また「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり」(1060-07)と述べられているごとくである。
 上の御文に明らかなように、真実の開眼供養はあくまでも法華経による以外にないのである。よって「本尊問答抄」に云く「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(0366-14)と。また「観心本尊抄」に云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)と。また本抄には「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり」(1145-02)と述べられているのである。
 このように、あくまで三大秘法の南無妙法蓮華経をもって開眼するとき、仏像全体が生身の仏と同じ働きをもつのであり、またこの原理が草木成仏にあたるのである。すなわち本抄における開眼は、釈迦仏像に対して行なわれたものであり、釈迦滅後の木画像も、法華経によって開眼すれば功徳あることを述べられている。しかし同時に釈迦仏像を破折し、三大秘法による開眼、すなわち草木成仏の大原理を示し、御本尊の偉大な力を示さんとするものである。
 また「此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」と述べられているように、我々凡夫における開眼という問題がある。それは法華経すなわち御本尊を受持することによって成就される。すなわち、一人一人に備わっている仏界の生命を妙法によって湧現し、磨きあげ、もっとも人間らしい人間に成長していくことこそ、個人における開眼といえよう。
 さらにまた、自己の殻に保守的にとじこもるのでなく、妙法によって大きく人間革命した姿を実社会に投影し、力ある存在として社会に妙法の哲理を昇華せしめていくことこそ、真の開眼といえるのである。

1144:07~1144:10 第二章 仏の徳を明かすtop

07   三身の事、普賢経に云く「仏・三種の身は方等より生ず是の大法印は涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種
08 の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田にして応供の中の最なり」云云、 三身とは一には法身如来・二に
09 は報身如来・ 三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報
10 身・月の影は応身にたとう、 一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします、
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 三身の事について普賢経には「仏の三種の身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という成仏の大海を証明したものである。この大涅槃海の中から、よく仏の三身の清浄の身を生ずるのである。この三種の身は、人天の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格をもつものの中で最高のものである」と説かれている。
 三身というのは、一には法身如来であり、二には報身如来、三には応身如来である。この三身如来を一切の諸仏は必ず具えている。たとえば月の体は法身にあたり、月の光は報身であり、月の影は応身にたとえられる。一つの月にも三つの側面があるように、一仏には、三身如来の徳が具わっているのである。

三身
 法身・報身・応身の三つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。
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普賢経に云く「仏三種の身は方等より生ず……応供の中の最なり」
 仏説観普賢菩薩行法経の文。に「此の方等経は、是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は、方等従り生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人天の福田、応供の中の最なり」とある。大法印とは教法の真実を証明することを意味し、涅槃とは解脱のことで、そのひろびろとした境涯の様を海にたとえ涅槃海という。福田とは、種をまき多くの収穫を得る田のように、衆生が仏に供養するという功徳善根の種をうえつけることによって、その行為に対する福徳の果報を得る田地との意味。応供とは供養を受ける資格を有する者のことで、仏の十号の一つである。
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此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす。譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします
 三身如来とは、法身如来、報身如来、応身如来のことである。この三身を生命にあてはめた場合、報身とは智慧、応身とは肉体であり、法身とは生命の本質、生命それ自体をいう。この法報応の三身が具備されて、はじめて完全なる生命といえるのである。
 しかし爾前経にあっては、十地経論巻第三に「一切仏とは三種の仏あり、一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とあるように、三種類の仏として三身を各別なものとして説いている。そして法華経に入って、はじめて三身が一体であることを明かされたのである。すなわち法華経本門寿量品において、久遠本有常住、此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれ、生命の実相があきらかになった。そして仏は、この三身即一身の生命として永遠に存在することが示されたのである。
 天台は文句第九に、寿量品の「如来秘密神通之力」の文を釈して云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す。神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり。仏は三世に於て等しく三身あり。諸教の中に於て之を秘して伝えず」と。
 今、日蓮大聖人は、一切の諸仏が三身を具することを月を例に述べられている。すなわち、月という実体そのものは法身にあたり、月の光り輝く作用、働きは報身、その月が具体的な影を映しているのを応身という。
 すなわち、法身とは生命の本質そのものであり、報身は生命の智慧、特に全民衆を幸福にしきる御本仏の智慧をさす。また応身とは生命があらわしている姿、形をいう。
 このように考えてみる時、一切のものに三身の働きが具足していることがわかる。たとえば、桃の木は梅でも桜でもない、桃の木そのものであるということは、法身にあたる。そして、桃が花を咲かせ、実を結ぶその働き、特質は報身であり、具体的な桃らしい姿、形は応身である。
 このように、あらゆる生命は必ずこの三身を具えているのであるが、仏について論ずる場合、最も重視されるのは報身である。文句第九には「此の品の詮量は通じて三身を明かす、若し別意に従わば正しく報身に在り」とあり、報身が中心となって、三身が一体の働きをなすと明かされている。
 これは人間一般についても同様で、日常生活、実際の活動も、あくまで報身が基盤となっている。つまり、実際に行動するときに働くのは、意識するとしないとにかかわらず、まずそれまでに体得した生活の知識や智慧であり、その智慧の働きによって、生活に展開され、行動化されていくのである。よって報身が三身の中核となっているといえるのである。このことを報中論三という。
 この、あらゆる仏の三身の生命を顕現せしめていく力は、三大秘法の御本尊による以外にないのである。ゆえに、仏像が単に応身だけでなく、仏としての生命、智慧を具えるための開眼は、三身如来を生ぜしめる本源である妙法によらなければならないのである。
 ひるがえって考えてみるに、妙法によらない知識や智慧は、確かに高度の科学技術を発展させてきた。しかしながら同時に、その無謀な発達は人類を死地においこもうとしている。これは、本来、人間の幸福を増大するものとして開発され、築かれた科学、技術、文明が、その開眼を得ないまま、恐るべき魔物としての生命を得たとも考えられよう。

1144:10~1144:14 第三章 真実の開眼供養を明かすtop

10                                        この五眼三身の法門は法華経
11 より外には全く候はず、 故に天台大師の云く「仏三世に於て等しく 三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
12 云云、此の釈の中に於諸教中とかかれて候は華厳・方等・般若のみならず法華経より外の一切経なり、 秘之不伝と
13 かかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり。
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 この五眼・三身の法門は、法華経以外には全く説かれていない。ゆえに天台大師は法華文句巻第九に「仏は三世にわたって等しく三身を具えている。しかし諸経の中にはこれを秘して伝えていない」と説いている。この釈の中で「諸教の中に於いて」とかかれているのは、華厳、方等、般若だけではなく、法華経以外の一切経のことである。「之を秘して伝えず」とかかれているのは、法華経の寿量品以外の一切経には、教主釈尊があえてこれを秘して説かれなかったとの意味である。
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14   されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、                   ・
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 であるから、画像・木像の仏を開眼供養することは、法華経・天台宗に限るのである。

画像・木像の仏
 画像は絵に書いた仏菩薩の像で曼荼羅ということもある。木像は木に彫った仏菩薩の像。
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 五眼も三身も、その生ずる根源は法華経のみにあり、したがって仏像の開眼供養は法華経に限ることを説かれている。
 像法時代に釈迦の法華経を正しく受け継ぎ、法華経による仏法体系を確立したのは、天台大師である。しかし末法に入って、真言、律、念仏等をはじめとする多くの僧侶が、勝手に我見で法を打ち立て、経文の本意をないがしろにするのみか、法を下げ、あるいは曲げ、更に、それぞれ自分の教えが最も正しいと主張しはじめた。
 こうした背景のもとに、大聖人は仏像に魂魄を入れる開眼の義は、必ず法華経・天台宗によらなければならないと指摘されたのである。
 ただし、ここでいう天台宗とは、慈覚・智証以後の真言の邪義に染まった流れをいうのではない。仏の本義をわきまえず、誤って伝えていった真言、律、念仏等に対して、天台宗といわれたのである。故に大聖人は、真言密教と同化した現実の天台宗を否定する意をこめて「法華経・天台宗」と仰せなのである。なお、末法今時にあっては、これは南無妙法蓮華経をさすことは、論をまたない。
のである。故に大聖人は、真言密教と同化した現実の天台宗を否定する意をこめて「法華経・天台宗」と仰せであり、末法においては南無妙法蓮華経をすことは論をまたない。

1144:14~1145:10 第四章 仏像の真義を明かすtop

14                                 其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よ
15 りをこれり、 三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置
1145
01 く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、 草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、 木と
02 申すは木像是より出来す、 此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力な り天台大師のさとりなり、 此の
03 法門は衆生にて申せば 即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり、 止観の明静なる前代いまだきかず
04 と・かかれて候と無情仏性・惑耳驚心等とのべられて候は是なり、 此の法門は前代になき上・後代にも又あるべか
05 らず、設ひ出来せば此の法門を偸盗せるなるべし、然るに天台以後二百余年の後・善無畏・金剛智・不空等・大日経
06 に真言宗と申す宗をかまへて仏説の大日経等には・ なかりしを法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、
07 しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば皆人此の事を知らず 一同に信伏して今に五百余年なり、
08 然る間・真言宗已前の木画の像は霊験・殊勝なり真言已後の寺塔は利生うすし、事多き故に委く注さず。
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 そのうえ、一念三千の法門というのは、三種の世間から起こっている。三種の世間というのは、一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間である。衆生世間、五陰世間の二つはしばらくおく。第三の国土世間というのは、草木世間のことである。
 草木世間というのは、五色の絵の具は草木からでき、画像はこの絵の具によってつくられるのである。木というのは、木像がこれから造られるのである。この画像、木像に魂魄すなわち神を入れることは、法華経の力である。またこれは天台大師の悟りである。この法門は衆生の立ち場からいえば、即身成仏とわれ、画像、木像の辺からは草木成仏というのである。
 章安大師が「天台大師の止観の法門はまことに明瞭に説かれており、これほどのものは前代には聞いたことがない」と讃嘆し、また妙楽大師が「無情界にも仏性があると明かしたことは、まさに、耳を惑わし、心を驚かすことである」と述べているのはこのことである。
 この一念三千の法門は前代になかったのみならず、後代にもまたあろうはずがない。もし、あったとするならば、それはこの天台の法門を盗みとったものにちがいない。
 ところが、天台大師から二百余年の後、善無畏、金剛智、不空等は、大日経によって真言宗という宗をかまえた。そして本来の大日経等には一念三千の法門など説かれていないのに、法華経の義・天台の釈を盗み入れて、真言宗の肝心としたのである。しかもその事を、インドから伝わったかのように言いふらし、中国、日本の後世の人たちをまどわしたのである。こうした事情を人々は誰も知らず、みな一同に信じきって、今に至るまで五百余年を経ている。それゆえ、真言宗以前の木像、画像は利生もことさらであったが、真言宗が開眼するようになって以後の寺塔は、利生がなくなってきた。このような事情については多くあり、わずらわしいので詳しくは書かない。
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09   此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ、優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからず、梵・帝・日
10 月・四天等必定して影の身に随うが如く貴辺をば・まほらせ給うべし是一。
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 殿の造立されたこの仏像こそ、生身の仏であられるのである。優塡大王のつくられた木像、また影顕王のつくられた木像とも、少しも異なることがない。梵天、帝釈、日天、月天、四天等は必ず影が身に従うように、殿につき従って守られるであろう。是れ第一である。

三種の世間
 生きものとしての衆生世間、その生きものの住む場所としての国土世間、この二つを構成する五蘊についていう五陰世間の三つの世間をいう。
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草木世間
 三世間のうちの国土世間のことで、非情界をさす。草木とは、草や木等の植物をさすが、仏法においては、動物や植物、生物や無生物として区別するのではなく、有情と非情とに区分される。有情とは人間や動物のように感情、意識等の「心の働き」のあるものをさす。非情とは、その他の草木や山河、大地等「心の働き」がなく、自分からは何もできないものをさす。この草木、山河、大地等にまた十界各々の差別がある故に、国土世間または草木世間という。
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魂魄
 一般には人間の霊魂を意味するが,中国において本来は,人間の体内のエネルギーである気を司るのが魂,形体を司るのが魄と呼ばれていた。前者は陽,後者は陰に属するとされ,人間が死ぬと,両者は分離して上下に飛散するとも考えられた。
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即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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草木成仏
 草木や土砂等の非情の物質が成仏することをいう。また、依正についていえば、依報の成仏である。日寛上人は、諸御書を案ずるに、草木成仏に二意あるとして、一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏があるとしている。まず不改本位の成仏とは、草木の全体がそのまま本有無作の一念三千即自受用身の覚体である。草木成仏弘決には「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339-06)、三世諸仏総勘文抄教相廃立のは「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574-14)御義口伝には「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784-第二量の字の事-02)とある。このように、無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず花咲き実の成る智慧は本覚の報身であり、有情を養育するは本覚の応身であり、これを不改本覚の成仏という。木画二像の成仏とは、四条金吾釈迦仏供養事には「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145-01)木画二像開眼之事には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)とある。御義口伝で「草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり」(0723-第五而自廻転の事-03)と仰せられているのは「法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを」(0723-第五而自廻転の事-01)ということについてである。すなわち、依報・正報ともに変わっていくということは、正報の成仏により、非情の草木等の依報も成仏するのである。一枚の紙が御本尊に変わることを木画二像の成仏である。
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偸盗
 人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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霊験
 祈願,信仰に対して与えられる不可思議な感応あるいは利益。呪術は人々が霊験を希求するところに生れたもので,霊験記の類は,世界各地の諸民族の説話や口碑のなかに広く見出すことができる。
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利生
 利益衆生の意で、衆生を利益すること。
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生身の仏
 五体をもって実在する仏のこと。
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優塡大王の木像
 優塡大王が造った世尊の像。優塡大王は釈迦在世の憍賞弥国の王。釈迦に帰依し、外護者となった。優陀延王と同一人物とする説もあるが、増一阿含経の五王品には「その時に五大国王あり。いかんが五王なる。いわゆる波斯匿王、毘沙王、優塡王、悪生王、優陀延王なり」とあり、別人としている。また四分律には優陀延王を狗睒弥国の王としている。
 増一阿含経巻第二十八・聴法品第三十六によると、釈尊が忉利天に上って、一夏の間、母・摩耶夫人らの為に説法した時、王は、釈尊を拝することができないのを深く悲しみ、ついに病気になってしまった。経文には「群臣王に白さく『云何が愁憂を以て患ひを成ずるや』と。其の王報へて曰く『如来を見たてまつらざるに由るが故なり。設し我如来を見たてまつらずば、便ち当に命終すべし』と。是の時群臣便ち是の念を作さく『当に何の方便を以て、優塡王をして、命終せ令めざら使むべきや。我等宜しく如来の形像を作すべし』と。是の時群臣王に白して言さく『我等形像を作らんと欲す、亦恭敬承事作礼す可きや』と。時に王、此の語を聞き已って、歓喜踊躍し、自ら勝ふる能わず、群臣に告げて曰く『善い哉、卿等の説く所至って妙なり』と。群臣王に白さく『当に何の宝を以て如来の形像を作るべきや』と。是の時王、則ち国界の内の諸の奇巧の師匠に勅して、之に告げて曰く、『我今形像を作らんと欲す』と。巧匠対へて曰く『是の如し、大王』と。是の時優塡王則ち牛頭栴檀を以て、如来の形像を作る。高さ五尺なり」とある。こうして、仏像を礼拝し、王の病はようやく回復したという。これが仏像造立の始めであると伝えられている。「日眼女造立釈迦仏供養事」(1187)には「昔優塡大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば云云」とある。
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影顕王の木像
 影顕王とは、頻婆舎羅王のこと。頻婆舎羅は梵語で、訳して影顕、影勝という。大聖人御在世当時、影顕と用いられていた。頻婆舎羅王は、インド・摩竭提国の王で、阿闍世王の父である。はじめ釈迦が出家したとき、王は釈迦を尋ねて出家をとめようとしたが、釈迦の志の堅いことを知り、かえって尊敬の念をいだいた。釈迦が成道してからは、深く帰依し、竹林精舎を建てて供養した。しかし晩年、息子の阿闍世王によって幽閉され、獄死してしまった。王は牢中にあっても常に釈迦を拝し、その光明に照らされ、悟りを得て死んだという。王の木像、画像については、出典が明らかではない。但し、「日眼女造立釈迦仏供養事」(1187)には「影堅王の画像の釈尊を書き奉りしも」とある。
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 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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 帝釈天のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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 木を刻んで作った仏像や草などからとった絵の具で描かれた絵像が、仏としての生命をもつということは、一念三千の法理によってはじめて可能となるのである。すなわち、一念三千の中の三世間、その国土世間とは非情の草木、国土であり〝一念〟の妙法の確立によって、草木、国土も仏の働きをもつのである。
 この一念三千の法理は、法華経にのみあり、それを明確に把握したのは天台であるから、法華経・天台によってのみ、非情の仏像に仏の生命をあらわすことが可能となる。
 本章の意味するところは大要、以上の通りであるが、ここに「法華経・天台」といわれているものが、現実の真言と化した天台宗を否定され、真実の正法を持って立たれた大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならないことはいうまでもないであろう。
一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり
 一念三千の哲理は、仏教の極理であり、法華経迹門では、方便品の「諸法実相」に約して、ほぼ説かれた。
 しかし、迹門ではまだ国土世間が明かされず、本門寿量品にいたってはじめて、三千を成ずる一切の内容が顕わされる。この法華経の示した生命の哲理を明確に体系化したのは天台大師であった。
 「玄文両部の中には並びに未だ一念三千の名目を明さず、但百界千如を明すなり、止観の第五巻に至りて正しく一念三千を明すなり」と日寛上人が指摘しているように、天台は文句、玄義では千如是までを明かし、最後に摩訶止観において、はじめて一念三千の法理を体系化したのである。
 すなわち、止観の巻第五上に云く「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す」と述べられている。
 さてここで、一念三千論のなかで三世間の持つ意味を考えてみたい。
 「一念三千法門」に云く「十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり」(0413-01)と。
 更に「一念三千理事」には玄義の釈籤をひいて「仮は即ち衆生実は即ち五陰及び国土即ち三世間なり千の法は皆三なり故に三千有り」(0408-10)とあり、また弘の五の文をひいて「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むること徧からず三諦に約せざれば理を摂ること周からず十如を語らざれば因果備わらず三世間無んば依正尽きず」(0408-11)とある。
 すなわち、仮と実の三世間がなければ、正報たる有情と依報の国土をもらさずつくすことができなくなる。
 また「一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか」(0415-14)と。ここに草木瓦礫とは国土世間であり、ここにはじめて、有情非情にわたっての成仏が説かれるのである。
 このように三世間を明かすことによって、十界の生命の具体的な存在の場、生活の舞台、環境が明らかとなり、空仮中の三諦がうちたてられるのである。これは、五陰世間、衆生世間、国土世間が説かれなければ成り立たない。よって、あくまでも三世間を基調として、一念三千論は展開されなければならない。
 更に天台が体系化したこの法理を、理論の上にのみとどまらせるのではなく、実践的に、その実体としてうちたてられたのが、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。
 すなわち「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり」(0414-06)の御文を、よく心にきざみつけるべきであろう。
此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり、天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり
 ここで「法華経の力」とは、いうまでもなく文底独一本門の一念三千の大御本尊、すなわち南無妙法蓮華経をさす。一片の画木に、南無妙法蓮華経をもって生命をふきこむ時、画木像全体が生身の仏と同じ働きをもつ。この原理がまた、草木成仏である。
 このことは「観心本尊抄」に「非情に十如是亘るならば、草木に心有って有情の如く成仏を為す可きや如何」との問を受けて、難信難解であるとしながら「木画の二像に於ては、外典・内典共に之を許して本尊と為す。其の義に於ては、天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(0239-09)と述べられているごとく、根本的には、非情たる草木にも、十界三千の生命があり成仏するのである。そしてまたこの一念三千の法門、すなわち南無妙法蓮華経の法理は、衆生という立場に約すとき、それは即身成仏の法門となり、草木という立場に約すとき、草木成仏という法門になる。
 ここで、特に非情界の成仏をあらわす草木成仏について考えてみたい。
 日寛上人は、草木成仏には不改本位の成仏と、木画二像の成仏の二意があるとされている。
 まず不改本位の成仏とは、非情の草木がそのままの姿で、本覚の如来となることをいう。すなわち、宇宙の活動や変化等、それ自体の事象が仏の生命の働きであるということである。「草木成仏口決」にいわく「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339-06)と。また「三世諸仏総勘文教相廃立」にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574-14)、さらに「御義口伝」にいわく「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故……桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784-第二量の字の事-02)と。
 すなわち無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず、花咲き実が成るという智慧の働きは本覚の報身であり、有情を養育する慈悲は本覚の応身である。このように、そのままの姿で本覚の三身如来となるが故に、これを不改本位の成仏というのである。
 また木画二像の成仏とは、詳しくは本抄に述べられているところであるが、木像、画像などの非情の生命であっても、大聖人の仏法を根本とするならば、それがそのまま仏の生命、仏の当体となるのである。故に「木絵二像開眼之事」(0469)には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)と述べられているのである。
 更にまた、依正の立場から述べるならば、正報が成仏することによって、依法である非情の草木等が成仏するのである。
 また「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(1339-01)とあるごとく、衆生が死んだ時、塔婆をたて回向することは、草木成仏の原理による。すなわち、有情の生命は死によって宇宙の生命の中に退き、非情の存在となる。この死後の非情の生命の境涯、特に苦悩の境涯を、妙法の偉大な力によって変革せしめていくことができるのが塔婆供養であり、草木成仏といえる。
 ただし「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)とあるごとく、文底秘沈の一念三千の仏種、すなわち、南無妙法蓮華経を根底として、はじめて成り立つことを忘れてはならない。
此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ
 一往、文脈の上からは、四条金吾が造立した釈迦の像についていわれているが、再往は三大秘法の御本尊こそ、この文にある〝仏〟であると拝さなければならない。
 すなわち、三大秘法の御本尊こそ、一念三千の当体そのものであり「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候」(1124-12)と仰せられた、真実の仏の生命なのである。
 また、人法一箇といわれるように、御本尊は即、末法御本仏、日蓮大聖人の生命であり、そのまま〝生身の仏〟なのである。

1145:11~1146:07 第五章 日天子の利生を述べるtop

11   御日記に云く毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間・大日天子に仕えさせ給ふ事、 大日天子と申すは宮殿
12 七宝なり其の大さは八百十六里・五十一由旬なり、 其の中に大日天子居し給ふ、 勝無勝と申して二人の后あり左
13 右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天女まします・ 七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり
14 四州の衆生の眼目と成り給う、他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事・耳にこれを・きくとも愚眼に未
15 だ見えず、 是は疑うべきにあらず眼前の利生なり 教主釈尊にましまさずば争か是くの如くあらたなる事候べき、
16 一乗の妙経の力にあらずんば 争か眼前の奇異をば現す可き不思議に思ひ候、 争か此の天の御恩をば報ずべきと・
17 もとめ候に仏法以前の人人も心ある人は皆或は礼拝をまいらせ 或は供養を申し皆しるしあり、 又逆をなす人は皆
18 ばつあり、 今内典を以てかんがへて候に金光明経に云く「日天子及以月天子是の経を聞くが故に精気充実す」等云
1146
01 云、最勝王経に云く「此の経王の力に由つて流暉四天下を遶る」等云云、 当に知るべし日月天の四天下をめぐり給
02 うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、 劣
03 なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、 何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや、 故に法華経
04 の序品には普香天子とつらなりまします、 法師品には阿耨多羅三藐三菩提と記せられさせ給う 火持如来是なり、
05 其の上慈父よりあひつたはりて二代我が身となりて・ としひさし争かすてさせたまひ候べき、 其の上日蓮も又此
06 の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、 既に日蓮かちぬべき心地す利生のあらたなる事・ 外にもと
07 むべきにあらず、是より外に御日記たうとさ申す計りなけれども紙上に尽し難し。
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 御日記によると、毎年四月八日から七月十五日までの約九十日間、大日天子を祭られるということである。
 大日天子の宮殿は七宝でできていて、その大きさは八百十六里・五十一由旬ある。その中に大日天子がおられる。勝、無勝という二人の后があり、また左右には七曜、九曜の星がつらなり、前には摩利支天女がいられる。七宝で造られた車を八匹の駿馬にかけて引かせ、四天下を一日一夜でかけまわり、四州の衆生の眼目となられるのである。他の仏・菩薩・天子等は、利益がすばらしいということは耳にはきくが未だ凡夫の眼には見ることができない。
 しかし、日天子に利生のあることは疑うことのできない眼前の事実である。教主釈尊でなければ、どうしてこのように利生があらたかなことがあろうか。また法華経の力でなければ、どうして眼前の奇異を現わすことができようか。不思議に思う。
 では、いかにしたらこの日天子の御恩を報ずることができるかともとめたところ、仏法以前の人々も、心ある人はみな、あるいは礼拝を行ない、あるいは供養をして、皆、利益を受けていた。またこれに逆らった人は、みな罰を受けた。今、仏教教典をもって考えてみると、金光明経には「日天子ならびに月天子は、是の経を聞くから、精気が充実するのである」と説かれ、最勝王経には「此の経王の力によって、日天子、月天子は世界をまわるのである」と説かれている。これによって知られるように日月天子が四天をめぐるのは、仏法の力によるのである。
 彼の金光明経、最勝王経は、法華経の方便である。法華経との勝劣を論ずるならば、乳と醍醐、金と宝珠とのごとくである。このように劣った経の力によってでさえ、なお、四天下をめぐるのである。ましていわんや、法華経の最高の力をもってすれば、どれほどの利生があるかはかりしれない。
 ゆえに法華経の序品には、日天子、月天子は普香天子とともに列なり、法師品では日天子は阿耨多羅三藐三菩提と成仏の記別を与えられた。「火持如来」というのがそれである。そのうえ、あなたは父君の代から日天子を祭って二代目であり、わが身になってから長いことたっている。どうして日天子がみすてられるようなことがあろうか。そのうえ、日蓮もまたこの日天子を恃み奉り、日本国とはりあって数年になるが、すでに日蓮が勝ったという心地がする。このように利生のはっきりしていることは、他にはもとめられない。これより他に、御日記に尊いことと思われるところがたくさんあるが、紙上には書き尽くし難い。

九旬
 旬(シュン)は10を意味する。したがって九旬は90日間・年齢90歳などを意味する。
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大日天子
 日天子ともいう。梵語蘇梨耶の訳で日神と称す。身より光を放ち、純金で造った金殿を照らし、金殿の光は日宮を照らし、更にその光は四天下にあまねく輝きわたるとされている。この天子は過去世に善心をもって、沙門・婆羅門を供養し、もろもろの窮乏を救い十善業を修した因縁によって日宮殿に生じたと説かれている。
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由旬
 サンスクリット名ヨージャナ(yojana)は、古代インドにおける長さの単位。古代インドでは度量衡が統一されておらず、厳密に「1ヨージャナは何メートル」とは定義出来ないが、一般的には約11.3kmから14.5km前後とされる。また、仏教の由旬はヒンドゥー教のヨージャナの半分とも言われ、倶舎論の記述などでは普通1由旬を約7kmと解釈する。古来より様々な定義がなされており、例えば天文学書『アールヤバティーヤ』(Aryabhatiya)では「人間の背丈の8000倍」となっている。他にも「帝王の行軍の1日分」「牛の鳴き声が聞こえる最も遠い距離の8倍」など様々な表現がなされている。また、「32000ハスタ」とする定義もある。ハスタ(hasta)とは本来「手」の意味だが、古代インドの長さの単位でもあり、この場合は「肘から中指の先までの長さ」(キュビット)と定義される。以下倍量単位が続き、4ハスタが1ダンダ(daNDa)、2000ダンダが1クローシャ(kroza)、2クローシャが1ガヴューティ(gavyuuti)、そして2ガヴューティが1ヨージャナとなる。仮に1ハスタを45cmとすると、1ヨージャナは14.4kmとなる。一方、仏教では1倶盧舎(クローシャ)が1000ダンダ(4000ハスタ)、そして4倶盧舎が1由旬とされているので、1由旬は7.2kmとなる。由旬を使ってその大きさが示されているものとしては、須弥山の高さ8万由旬などがある。
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七宝
 諸経典によって異なるが、法華経見宝塔品第十一では金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝である。
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七曜
 太陽,月と水星,金星,火星,木星,土星の七つの天体のこと。また日曜から土曜までの週日の総称。上記七つの天体の位置を示す七曜暦を作ることは《延喜式》に規定されていた。また東洋の星座である二十八宿と結びつけ日の吉凶を判断するために,七曜は今のような週日制のためではなく暦注として9世紀に導入された。藤原道長の日記には曜日がつけられている。そのころの具注暦には日曜のことを密または蜜と注している場合がある。
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九曜
 木火土金水の五惑星に太陽と月にを合わせたものが七曜。七曜に羅喉星(触星)と計都星(彗星)を合わせたものが九曜星。羅喉星と計都星は、インド天文学の白道と黄道の交点の星。昇交点が羅喉星。降交点が計都星。この九曜星を中心として二十八宿などをまつる。
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摩利支天女
 摩利支とは梵語で陽炎と訳す。インド民間に信仰された天神の一つで、一般に男神とされているが、陀羅尼集経第十にある摩利支天経には「其の像法を作るは天女の形に似たり」とある。また、常に日天子の前にあり、身を隠す神通力があってその姿が見えないので、縛られず捉えられず、能く敵を破るという。またこれを念ずれば、一切の災厄を離るという。このため、よく武士は、守護神として勝利を祈った。
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四天下
 鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超をいう。
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四州
 須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。
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一乗の妙経
 仏界を説き切った法華経のこと。
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金光明経
 釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。  
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最勝王経
 中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
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醍醐
 五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
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普香天子
 明星天のこと。三光天子のひとつ。帝釈天に率いられて、欲界衆に属し、正法の行者を守護する。
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阿耨多羅三藐三菩提
 法華経法師品第十に「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せば、我れは皆な与めに当に阿耨多羅三藐三菩提を得べしと授記す」とある。「阿耨多羅」は無上。「三藐」は正等または正徧。「三菩提」は完全な悟りを意味する。すなわち仏の智慧は無上清浄で、正等にして徧頗なく一切にゆきわたるという意。仏法の最高の悟りは、婆羅門等の外道や方便権教の悟りとは比較にならないものであることを表わしている。
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火持如来
 大日天子の成仏の宝号。
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慈父
 父親のこと。
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大日天子
 大日天子とは日天子、すなわち太陽に表徴される善神を意味する。月天子とならび称せられ天界に属するので、天子と呼ばれる。
 四条家では代々、大日天子を祭っていたようである。これを神として信仰することは、仏像をまつると同様に謗法である。しかし、第一章の〝釈迦仏造立について〟の項で述べたような理由によって、大日天子を信仰することを許されたのである。
 この日天子は、法華経の会座につらなり、正法を持つ者を守護すると誓っている。金光明経には、日月天子が正法を聞くことによって精気が増すと説かれている。この文にいう「是の経」とは金光明経をいうのではなく、仏の正法たる法華経、なかんずく文底下種の妙法である南無妙法蓮華経をさしているのである。
 「妙一尼御返事」には「日月は仏法をなめて威光勢力を増し給うと見へて候、仏法のあぢわいをたがうる人は日月の御力をうばう人・一切衆生の敵なり」(1259-11)とある。すなわち、諸天善神である日月天等は、仏法の法味を食としているのであるから、衆生が正法を護持していれば大いにその力を発揮することができる。しかし逆に、正法を誹謗していればたちまちに力を失い、ついには国土を捨て去ってしまうのである。このことについての金光明経の文は「立正安国論」にもあげられている通りである。
 「其の国土に於て此の経有りと雖も、未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し乃至供養すること能わず。遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き、正法の流を失い、威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず。必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん」と。ここにある「此の経」が金光明経のことではなく、法華経、南無妙法蓮華経を意味することは周知の如くである。
 大日天子とは、太陽そのものよりもむしろ太陽のもつ生命力を意味する。つまり、太陽のもつ巨大なエネルギーは、地上の万物を育てる力をもっている。もし、この太陽がなくなったら、人間も、生物も存在しえないであろう。太陽や月が、地球上の生活にいかに恩恵を及ぼしているか、はかり知ることができない。
 また一方、太陽それ自体も広大な宇宙の中にあって、あらゆる星と調和しつつ運行している。この生命の育成と自身の調和ある運行の力を「大日天」と表現したと考えられる。
其の上日蓮も又此の天を恃みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す
 本抄の御述作は建治2年(1276)であるから「数年なり」とは、文永8年(1271)年ぐらいからの歳月と考えられる。文永8年(1271)9月21日に四条金吾に与えられた御消息には「三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかとたのもしたのもし」(1114-01)との一節がある。
 この文と、本抄の「此の天を恃みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり」とを考え合わせてみると、竜口の法難で発迹顕本された大聖人の御胸中が、かすかながら伺われるように思われる。
 もともと「日蓮」と名乗られた立宗のはじめから、大聖人にとって、日天子はとくにゆかりの深い天であったのであろう。しかし、発迹顕本されて末法万年の闇を照らす御本仏の境地を開かれてから、ますます、それは近しいものと映ったにちがいない。
 根底的には、大聖人御自身が、闇を照らす日天のようなものであったし、その赫々たる御心境と依正不二の関係で、諸天なかんずく日天子が大聖人を守ってくれている現証を歴然と感じておられたと拝察される。
 「日本国にたてあひて数年なり」とは、こうして日本中の謗法の僧侶、またそれにたぶらかされた権力者と真っ向から対決をしてすでに数年におよぶということを意味している。そしてその間、濁流の渦まく中、身命におよぶ難を受けつつも、末法の御本仏として諸天に守られた大聖人の戦いの結論として「既に日蓮かちぬべき心地す」と断言されたのである。それはいかなる権力、魔力をもってしても大聖人を打ち破れなかったことを意味し、大聖人の仏法がまさしく、力ある大法であることを示したものであった。
 更に、この「かちぬべき心地す」とのお言葉は、未来永劫に必ず正法が流布されていくことを明確に覚知されていわれたと拝することができるのではないだろうか。

1146:08~1146:16 第六章 孝養の志を讃むtop

08   なによりも日蓮が心にたつとき事候、 父母御孝養の事度度の御文に候上に今日の御文なんだ更にとどまらず、
09 我が父母・地獄にや・おはすらんとなげかせ給う事のあわれさよ、仏の弟子の御中に目ケン尊者と申しけるは父をば
10 きつせん師子と申し母をば青提女と申しけるが 餓鬼道におちさせ給いけるを凡夫にてをはしける時は、 しらせ給
11 わざりければ・なげきもなかりける程に、 仏の御弟子とならせ給いて後・阿羅漢となりて天眼をもつて御らんあり
12 ければ餓鬼道におはしけり、 是を御らんありて飲食をまいらせしかば炎となりて・ いよいよ苦をましさせまいら
13 せ給いしかば、 いそぎ・はしりかへり仏に此の由を申させ給いしぞかし、 爾の時の御心をおもひやらせ給へ、今
14 貴辺は凡夫なり肉眼なれば御らんなけれども.もしも・さもあらばと・なげかせ給う・こは孝養の一分なり・梵天.帝
15 釈・日月・四天も定めてあはれとおぼさんか、華厳経に云く「恩を知らざる者は多く横死に遭う」等云云、観仏相海
16 経に云く「是れ阿鼻の因なり」等云云、今既に孝養の志あつし定めて天も納受あらんか是二。
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 なによりも日蓮の心に尊く感じたことがある。父母御孝養の事は、度々のお手紙で拝見していたが、今日の御文には、涙がいっこうにとまらなかった。「我が父母は、もしや地獄にいられるのではなかろうか」と嘆かれているお心の尊さよ。
 仏の弟子の御中に目連尊者という者は、父を吉占師子といい、母を青提女といった。その母が死後餓鬼道におちられたことを、目連は、凡夫であったときは知らなかったので、嘆きもしなかったが、仏の御弟子となられて後、阿羅漢となり、天眼をもってごらんになると、母は餓鬼道におられた。これをごらんになって、目連が食物や飲み物をさしあげたところ、それは炎となって、ますます苦しみをまさせてしまったので、いそいで走り帰り、仏にこのわけを話したのである。その時の目連の心中を思いやってごらんなさい。今、あなたは凡夫である。肉眼であるから、父母のことはごらんになれないが、もしもそのようなことがあったならばと嘆かれている。これは孝養の一分である。梵天、帝釈、日月、四天も定めていじらしいと思われるであろう。
 華厳経には「恩を知らない者は、多く横死にあう」等と説かれている。また観仏相海経には「恩を知らないということは、阿鼻地獄におちる因である」と説かれている。今、あなたはすでに孝養の志が厚い。必ず諸天も聞き入れて下さるにちがいない。是れ第二である。

目犍尊者
 釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
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餓鬼道
 梵語、薜茘多の訳。欲に支配された貪りの状態をいう。餓鬼の相について「盂蘭盆御書」(1427)に「其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、のむ事なし食うことなし、皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頚はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・うへたるひるの人のかをかげるがごとし」と、目連尊者の母が、餓鬼道におちた姿を説いている。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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恩を知らざる者は多く横死に遭う
 華厳経巻第四十八にある文。すなわち「諸の天子よ、汝等応に恩を知り恩を報ゆべし。諸の天子よ、其れ衆生有りて報恩を知らざれば多くは、横死に遭いて地獄に生ぜん」の文にあたる。
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観仏相海経
 現存の大蔵経中には、この経名は見当たらない。あるいは観仏三昧海経をさすのであろうか。十法界明因果抄には「観仏三昧経に云く『五逆罪を造り因果を撥無し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す』と阿鼻地獄なり」(0427)と述べられている。
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 金吾の父頼員は建長5年(1253)に、母は文永7年(1270)に没している。金吾の父母への孝養の厚いことは、文永8年(1271)にいただいた「四条金吾殿御書」(1111)、また翌年の「四条金吾殿御返事」(1118)に、それぞれ大聖人に追善供養をお願いしたことが述べられていることからも知れる。特に今回の御手紙では、父母がもしや地獄にいるのではないかと嘆いているようで、大聖人も大層その心中をいじらしく思われている。
 仏法では恩について四種あげ、特に父母の恩の重いことを論じている。「報恩抄」には「仏教をならはん者、父母・師匠・国の恩をわするべしや」(293-03)とあり、また「上野殿御返事」(1563)には「父母の恩のおもき事は大海のごとし」(1563-08)と述べられている。
 これらの恩を報ずるにあたっては、目連尊者が、法華経によってはじめて母を救うことができたように、法華経の力による以外にない。「上野殿御消息」には「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528-09)と、また「千日尼御前御返事」には「但法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へ」(1311-18)とも説かれている。すなわち、我が心にはなくとも、日夜、法華経の信仰に励むならば、その力によって、父母の恩に報いることができるのである。
 それでは、死んだ人が成仏しているかどうかを何によって知るかということであるが、それは、現世に残る人の生活が安定し、繁栄しているかどうかできまる。つまり、後に残った人々が、妙法の光に包まれ、功徳に満ち満ちた幸せな生活をしていること自体、死んだ人が必ず成仏している証拠であると確信すべきである。
 更にまた、真実の報恩は単に一個人、一家庭のワクにとどまっていてはならない。日寛上人は「報恩抄文段」の中で「但当流の学者三重の秘伝を知ると雖も、法を伝えずんば衆生を度せず。畢竟恩を報ずること無きか。如来説て云く『只通化伝法を以て報恩と名づくるのみ』と云云。問う、縦い当流と雖も、無智の俗男俗女は三重の秘伝を知らず。若し爾らば、恩を報ずる能わざるや。答う無智の男女は唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る、実にこの大恩を報ずるなり」とおおせである。
 すなわち、正法を伝え、民衆救済のために折伏の実践活動をして、はじめて恩を報じたことになるのである。

1146:17~1147:13 第七章 難の必然性を説く
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17   御消息の中に申しあはさせ給う事くはしく事の心を案ずるに・ あるべからぬ事なり、日蓮をば日本国の人あだ
18 む是はひとへにさがみどの・ のあだませ給うにて候ゆへなき御政りごとなれども・いまだ此の事にあはざりし時よ
1147
01 り・かかる事あるべしと知りしかば・今更いかなる事ありとも人をあだむ心あるべからずと・をもひ候へば、 此の
02 心のいのりとなりて候やらん・そこばくのなんをのがれて候、 いまは事なきやうになりて候、日蓮がさどの国にて
03 もかつえしなず又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は・たれか・たすけん・ ひとへにとのの御たすけな
04 り・又殿の御たすけは・なにゆへぞと・たづぬれば入道殿の御故ぞかし、あらわには・しろしめさねども定めて御い
05 のりともなるらん・かうあるならば・ かへりて又とのの御いのりとなるべし父母の孝養も又彼の人の御恩ぞかし、
06 かかる人の御内を如何なる事有ればとて・すてさせ給うべきや・かれより度度すてられんずらんは・いかがすべき・
07 又いかなる命になる事なりとも・すてまいらせ給うべからず、 上にひきぬる経文に不知恩の者は横死有と見えぬ・
08 孝養の者は又横死有る可からず、 鵜と申す鳥の食する鉄はとくれども 腹の中の子はとけず、 石を食する魚あり
09 又腹の中の子はしなず、 栴檀の木は火に焼けず浄居の火は水に消へず・仏の御身をば三十二人の力士・火をつけし
10 かども・やけず、 仏の御身よりいでし火は三界の竜神・雨をふらして消しかどもきえず、殿は日蓮が功徳をたすけ
11 たる人なり・悪人にやぶらるる事かたし、 もしやの事あらば先生に法華経の行者を・あだみたりけるが今生にむく
12 ふなるべし、此の事は如何なる山の中・海の上にても・のがれがたし、不軽菩薩の杖木の責も目ケン尊者の竹杖に殺
13 されしも是なり、なにしにか歎かせ給うべき。
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 お手紙の中につけ加えられていたことについてであるが、詳しく物事の道理を考えてみると、あってはならないことである。日蓮を日本国の人々が憎んでいる。これはひとえに相模守殿が日蓮を憎まれていたからである。道理にかなわない政道であるが、いまだこのことにあわぬときから、こういうことがあるだろうと知っていたから、今更、どんなことがあっても人を恨むような心は全くないと思っていたので、この心が祈りとなったのであろうか、数々の難をのがれてきた。そして今は、何事もないようになった。
 日蓮が佐渡の国でも餓え死にせず、また、これまで身延の山中で法華経を読誦できたのは、だれのたすけによるのであろうか。ただひとえに四条金吾殿の御たすけによるのである。また、殿の御たすけは何によるかとたずねると、主君江馬入道殿のおかげによるのである。
 入道殿はこのようにして日蓮をたすけていることをはっきりと御存知なくても、必ずそれは祈りとなり天に通じているであろう。そうであるならば、主君の祈りは、またかえってあなたの祈りとなるであろう。またあなたが父母に孝養できるのも、主君の御恩である。このように恩ある主君の御内を如何なることがあったとしても、捨て去るべきではない。もし主君より度度捨てられるならば、やむを得ないことであるが、どのような命におよぶことであっても、主君を捨てるようなことをしてはならない。
 先に引用した華厳経の中には「恩を知らない者は横死する」と説かれている。孝養の者はまた横死するようなことはない。鵜という鳥は鉄を食べるが、鉄はとけても腹の中の子はとけない。石を食べる魚がいるが腹の子は死なない。栴檀の木は火に焼けることはない。また浄居の火は水に消えない。仏の御身は、三十二人の力士が火をつけたが焼くことはできなかった。また仏の御身から出た火は、三界の竜神が雨をふらして消したけれどもきえなかった。あなたは日蓮が妙法を流布する功徳をたすけた人であるから、悪人に害されるようなことはまずないだろう。
 もしものことがあるならば、それは過去世に法華経の行者を憎んだ罪が今生に報いとして出ているのである。このことは、どんな山の中、海の上へのがれても、のがれることはできない。不軽菩薩が杖木瓦石の責めにあったのも、目尊者が竹杖で殺されたのもこれによるのである。どうして嘆くことがあろうか。

さがみどの
 相模守のこと。相模国(現在の神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代、相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼任した。本抄の当時の相模守は第八代執権の北条時宗。第5代執権時頼の子で、母は北条重時の娘。幼名は正寿。通称は相模太郎。文永元年(1264)連署となり、翌年相模守となる。文永5年(1268)3月に執権となった。二度の元寇という国家の危機のなかで、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、宋から無学祖元を迎えて円覚寺を創建し、後に出家した。
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入道殿
 江馬入道光時のこと。四条金吾頼基の主君親時の父親。北条義時の孫で、名越遠江守朝時の嫡子。寛元元年(1243)に越後守に任ぜられ、また将軍頼経の近侍となる。のちに頼経が譲位、入道したが、その周辺に謀叛のうわさが立ち、光時などもあやしまれた。光時は薙髪し出家してわびたが、伊豆江馬に流された。頼経も京都に護送された。その後、光時は許されて鎌倉に帰ったが、その間ずっと金吾の父は主君光時を守り最後まで仕えた。
―――
横死
 災害・事故等、思いがけないことで死ぬこと。
―――

 ウ科に属する水鳥で大きなアヒルよりも大きい。よく魚を捕食するので鵜飼に用いられる。ここで鵜が鉄を食するということは不明であるが、善悪ともにその果報功徳を他のものは破ることができないとの譬えにつかわれている。
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栴檀の木
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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浄居の火
 浄居とは浄居天のこと。色界十八天のうち最上の五天のこと。この天は阿那含、阿羅漢という悟りを得た声聞の住処とされ、風災の至らない天で、華も散らず火も消えないといわれる。これは涅槃の智火が消えない理想の世界をあらわしたもので、正法を信ずる人の功徳をあらわしている。但し、出典は明らかではない。
―――
三十二人の力士
 入滅した釈迦の棺を拘尸那城の三十二人の大力の者がかついだという。そして釈迦を荼毘に付そうとしたが、焼くことができなかったという。涅槃経後分巻下には三十六人とあり、三十二人とは見られない。
―――
三界の竜神
 三界は欲界・色界・無色界のこと。竜神は仏法を守護する働きのある八部衆のひとつで、雨を司る神、海の神ともいう。
―――
不軽菩薩
 法華経不軽品第二十に説かれる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝していた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石等の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受け、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」、また「不軽菩薩を軽賤するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766)とある。
―――
竹杖
 竹杖外道のこと。婆羅門の一派で、仏教徒を憎んで目連尊者を殺したことで有名。釈尊の無見頂相を疑い、竹杖をもって測ろうとしたが、ついに測ることができず、杖を投じて去ったという。
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 おそらく、四条金吾は主君江馬氏の仕打ちに憤慨して、江馬氏に仕えることをやめたいと考え、そのように大聖人への手紙の中に書いたのであろう。そのことに対し、人を恨む心は結局、自らの福運を消すこと、また大聖人が今日まで生命を永らえてこれたのは四条金吾のおかげであり、その四条金吾は江馬氏のおかげで今日あること、さらに父母の孝養のためにも江馬氏の恩を忘れてはならないと、あらゆる角度から、仕官をやめたいという四条金吾の考えの誤りを指摘されているところである。
栴檀の木は火に焼けず、浄居の火は水に消へず
 大方広仏華厳経巻第六十七に「摩羅耶山に栴檀香を出す、名けて牛頭と曰う、若し以て身に塗れば設い火坑に入るとも火も焼くこと能わず」とある。
 すなわちこれを身に塗れば火に焼けないように、法華経の信心に励む者は、他から害されることがないとの意である。また浄居天では、風が吹いても華は散らず、火も消えることがないといわれる。ともに、法華経の信仰にたつ者は、何ものによっても破られないことをたとえられたものである。
 またこのことについて「本尊供養御書」には「栴檀と申す香を身にぬれば大火に入るに焼くること無し、法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず」(1536-06)と、述べられている。
 ここで、法華経とはいうまでもなく三大秘法の南無妙法蓮華経である。

1147:14~1148:08 第八章 細心の用心を説くtop

14   但し横難をば忍には.しかじと見へて候・此の文御覧ありて後は・けつして百日が間をぼろげならでは.どうれい
15 並に他人と我が宅ならで夜中の御さかもりあるべからず・主の召さん時は昼ならば・いそぎ参らせ給うべし、 夜な
16 らば三度までは頓病の由を申させ給いて 三度にすぎば下人又他人をかたらひてつじを見せなんどして 御出仕ある
17 べし、 かうつつしませ給はんほどにむこの人もよせなんどし候はば人の心又さきにひきかへ候べし、 かたきをう
18 つ心とどまるべしと申させ給う事は御あやまち・ありとも左右なく御内を出でさせ給うべからず、 まして・なから
1148
01 んには・なにとも人申せ・くるしかるべからず、 おもひのままに入道にもなりておはせば・さきさきならばくるし
02 からず、又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば・なかなか悪縁・度度・来るべし、このごろは女は尼になりて人を
03 はかり男は入道になりて大悪をつくるなり、 ゆめゆめ・あるべからぬ事なり、身に病なくとも・やいとを一二箇所
04 やいて病の由あるべし、さわぐ事ありとも・しばらく人をもつて見せをほせさせ給へ。
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 ただし、不慮の災難は忍ぶにこしたことはない。この手紙を御覧になった後は、決して百日の間は、むやみに同僚や他の人とわが家以外で夜、酒盛りをしてはいけません。主君から召されたときは、昼ならば急いで出仕しなさい。夜ならば、三度までは急病であるとの理由を申し上げて、もし三度をすぎ召されるならば、下人やまた他人に語って、辻を見させるなどして出仕しなさい。
 このように身を慎んでいるうちに、蒙古の人が攻め寄せるようなことがあれば、人々の心もまた前とかわってくるであろう。敵として討とうとする心も、とどまるであろう。あなたが申されていた件ですが、たとえあなた自身にあやまちがあったとしても、そうたやすく御内を出るようなことをしてはならない。まして、あやまちがなければ、人がなんといおうと気にすることはない。
 心のままに入道するということは、もっと先であればよいであろう。それでも身にも心にもあわない事が多く起これば、かえって種々の悪縁が、度々来ることになるであろう。近ごろは女は尼になって人をたぼらかし、男は入道になって大悪を犯している。決してそのようなことがあってはなりません。
 身に病気がなくても、灸を一、二箇所すえて、病気を口実にしていきなさい。騒ぎなどがあっても、しばらくは人をつかわしてみさせなさい。
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05   事事くはしくは・かきつくしがたし、 此の故に法門もかき候はず、御経の事はすずしくなり候いてかいてまい
06 らせ候はん、恐恐謹言。
07       建治二年丙子七月十五日               日 蓮 花 押
08     四条金吾殿御返事
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 あれこれとくわしくは書きつくしがたい。この故に、法門のことも書きません。御経はすずしくなってから、書いてさしあげます。恐恐謹言。
  建治二年丙子七月十五日    日 蓮  花 押
   四条金吾殿御返事

頓病
 急病・にわか病。
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むこ
 蒙古国のこと。十三世紀はじめ初祖テムジンは十八歳で近隣の部族を統一し、自らチンギス汗と称した。その後全蒙古を統一し、東方の金、南方の西夏などを攻め、アジア大陸の東西にわたる大帝国となった。第二代オゴタイ汗のときにはヨーロッパにも遠征、ついに世界空前の大帝国を建設したが、内部の分裂により、四汗国と中国に基礎をおく元朝とに分裂した。その後、元は、世界制覇の気運にのってわが国にも、文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)5月と二度にわたって攻めてきたが、日本軍の奮戦と、おりからの大風によって、蒙古軍は大半が壊滅した。
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やいと
 もぐさなどを皮膚の一部に乗せて、火をつけ、温熱効果によって行う治療法。
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 四条金吾に与えられたお手紙には、生活面において細々と指導されたものが多い。この章では、主君や同僚からの風当たりがしだいに強く、窮地に陥ってきた金吾に対し、決して軽はずみのないよう、種々御注意をされている。
酒宴の事、出仕の事等、同僚からの危害を考え、日夜の用心また灸治にいたるまで、実に細かな配慮がうかがわれる。金吾も、こうした大聖人の細心を極めた、慈愛あふれるお手紙を拝し、さぞ感泣にむせんだことであろう。
 金吾は、この後も江馬氏から、また周囲の同僚からの迫害が続いた。しかし、これらの大聖人の指導を着実に実践しつつ、見事信心を貫き、建治4年(1278)1月には、晴れて主君出仕の御供25人の中に加わり、武士としてまた法華宗の四条金吾として、その面目を大いにほどこしたのであった。これは偏に大聖人の限りない愛情こまやかな指導によるものであるが、同時に、それらの指導を我が身に受けて、純粋に実践しぬいた金吾の信心とがあいまって、このような結果を生んだといえよう。

1148~1150    四条金吾殿御返事(智人弘法抄)top
1148:01~1149:07 第一章 智人と檀那の関係を述べるtop

四条金吾殿御返事
01   正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊
02 師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき、 設い正法
03 を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき・ 然れば釈迦仏の檀那は梵王・帝釈の二人なりこれは二人なが
04 ら天の檀那なり、仏は六道の中には人天・人天の中には人に出でさせ給う・人には三千世界の中央・五天竺・五天竺
05 の中には摩竭提国に出でさせ給いて候しに、 彼の国の王を檀那とさだむべき処に 彼の国の阿闍世王は悪人なり、
06 聖人は悪王に生れあふ事第一の怨にて候しぞかし、 阿闍世王は賢王なりし父をころす、 又うちそふわざはひと提
07 婆達多を師とせり、 達多は三逆罪をつくる上・仏の御身より血を出だしたりし者ぞかし、 不孝の悪王と謗法の師
08 とよりあひて候しかば人間に二のわざはひにて候しなり、 一年二年ならず数十年が間・仏にあだを・なしまいらせ
1149
01 仏の御弟子を殺せし事・数をしらず、かかりしかば天いかりを・なして天変しきりなり、 地神いかりを・なして地
02 夭申すに及ばず、 月月に悪風・年年に飢饉・疫癘来りて万民ほとんど・つきなんとせし上、四方の国より阿闍世王
03 を責む、 既に危く成りて候し程に阿闍世王・或は夢のつげにより・或は耆婆がすすめにより・或は心にあやしむ事
04 ありて提婆達多をば・ うち捨て仏の御前にまいりて・やうやうにたいほう申せしかば身の病忽にいゑ・他方のいく
05 さも留まり国土安穏になるのみならず・ 三月の七日に御崩御なるべかりしが命をのべて四十年なり、 千人の阿羅
06 漢をあつめて一切経・ことには法華経を・かきをかせ給いき、 今我等がたのむところの法華経は阿闍世王のあたへ
07 させ給う御恩なり。
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 正法を弘めることは必ず智者でなければならない。故に釈尊は一切経を説かれて、そのうち、小乗経を阿難に、大乗経を文殊師利に付嘱された。しかし法華経の肝要を、いっさいの声聞、文殊師子等のいっさいの菩薩をきらい本化たる上行菩薩を召し出して付嘱されたのである。
 たとえ正法を持つ智者がいたとしても、それを外護する檀那がいなければどうして正法が弘まるであろうか。それゆえ、釈迦在世においては、釈迦仏の檀那は梵王、帝釈の二人であった。これは二人とも天界の檀那である。仏は六道の中には人天に、人天の中では人界に出現されたのである。しかも人界の中では三千世界の中央である五天竺、五天竺の中には摩竭提国に出現されて、この国の王を檀那と定めるはずであったのに、この国の阿闍世王は悪人であった。聖人は悪王の国に生まれあうことが第一の不孝である。阿闍世王は賢王でその名を知られた父の頻婆沙羅王を殺した。それに加えて悪いことには、提婆達多を師匠としたのである。提婆達多は、三逆罪を犯したうえに、仏の御身から血を出した大悪人である。不孝の悪王と、謗法の師がよりあったのであるから、人々にとって、二重の災難であった。それが一年や二年の間だけでなく、数十年の間、仏にあだをなし、仏の御弟子を殺したことは、数えきれないほどであった。こうであったから諸天は怒り天変がしきりに起きた。地神も怒りをなして地夭はいい尽くせないほどであった。月月に悪風が吹き、年年に飢饉、疫病がやってきて、万民はほとんど死に絶えようとし、その上、四方の国からは、阿闍世王の国を攻めてきた。いまにも滅びようとした時、阿闍世王は夢の告げにより、あるいは耆婆のすすめるところにより、心におもいあたる節もあって、提婆達多を捨てて、釈尊の御前に参上し、さまざまに今までに犯した罪をおわび申し上げると、身体の病気もたちまちになおって、他国からの侵略もやみ、国内が平和になったばかりでなく、三月七日に崩御のはずであった寿命が、四十年も生き延びられた。この功徳に阿闍世王は、千人の阿羅漢を集めて一切経、とくに法華経をかき残させられたのである。今、われわれがよりどころにしている法華経は、阿闍世王が残された御恩なのである。

智人
 智慧のある人。智慧を得た仏のこと。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
大乗経
 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
―――
文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
上行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。
―――
六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
三千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
五天竺
 インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
―――
摩竭提国
 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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三逆罪
 五逆罪のうち提婆達多の犯した三逆罪をいう。それは一つに、大衆に囲繞されることを仏と等しいと考え、釈迦をねたむのあまり和合僧団を破り、五百人の釈迦の弟子をたぶらかした。二つには、釈迦を殺さんとして耆闍崛山の上から大石を投じたが、地神が受けとめたため、その砕石がとびちって釈迦の足にあたり、小指より血を出した。三つには、阿羅漢果をえた蓮華色比丘尼が提婆を呵責したので、拳をもって尼を打ち即死させた。この仏を恐れない悪業のため、提婆は大地が裂けて生きながら地獄に堕ちたのである。
―――
耆婆
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を7年間学んで摩竭提国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
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たいほう
 わびること。罪のゆるしを請う。懺悔すること。また、信伏随従の義である。
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千人の阿羅漢
 マカダ国の王舎城付近の畢波羅窟で行われた第一回の仏典結集の時に集まった阿羅漢のこと。
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 本抄は、別名を智人弘法抄といい、建治2年(1276)9月、日蓮大聖人が55歳の時、身延で認められ、四条金吾に送られた御手紙である。当時、金吾は大きい難関に直面していた。すなわち、主君の江馬氏は、家臣の讒言に動かされ、中傷を信じ、金吾に対して、越後(新潟県)へ領地替えをするという内命を下した。
 金吾は、急遽この事実を身延の大聖人に報告し、今後のとるべき態度、方針などについて相談したのである。これに対し日蓮大聖人が、対処の仕方、態度について詳細に書かれたのが本抄である。
 本抄は、はじめに「正法をひろむる事は必ず智人によるべし(中略)設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき」と、正法弘通のためには、正法を持った智人と、その檀那が大事であるとの原理を述べられ、四条金吾は末法の弘法の智人たる大聖人にとって大事な檀那であるから、必ず諸天の加護があると断言され、最後に主君にどのように返答すべきか具体的にこまごまと教えられている。
正法をひろむる事は必ず智人によるべし
 いかに偉大な正法であっても、法それ自体では自然に弘まることはない。妙法においても同様である。もしその人を得なければ法はうずもれてしまうであろう。ゆえに「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-03)とあり、また「一切の仏法も又人によりて弘まるべし」(0465-17)といわれているのである。
 その正法をひろめる人は〝智人〟でなければならない。一般的な意味での〝智人〟としての条件は、さまざまに論ずることができるが、ここでいわれる〝智人〟の根本的条件はその時代にひろまるべき正法を深く、正しく理解し、体得していることである。ゆえに「小乗経をば阿難、大乗経をば文殊師利、法華経の肝要をば……上行菩薩」と、その法に応じて、ひろめるべき人が定められたことをあげられているのである。
 したがって、いま末法広宣流布の時にあたって、三大秘法の仏法をひろめるべき智人とは、この三大秘法の大仏法を正しく深く理解し体得する人でなければならない。その意味で、仏法流布の実践者は、まず何よりも、仏法の理念を体得した智慧の人でなくてはならないのである。
 この仏法哲理への体得を根幹として、そこから当然、時代を正しく認識し、民衆の機根、思想状況に合わせて、賢明に自在に説き、実践化できるということも〝智人〟の条件となってくる。もし、これが自在に、正しくできなければ、根本の仏法そのものの理解も浅いものでしかないというべきである。こうした仏法自体への理解という根本から派生する〝智人〟としての条件は、教・機・時・国・教法流布の先後の、いわゆる五綱を正しくわきまえることといえよう。
設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき
 檀那とは「施主」と訳し、仏法を弘める智人を経済的・物質的に支える役目をする人である。すなわち、仏法を伝持し、弘める人はいわゆる世俗の生産活動を離れた立ち場であるから、自ら生活の資を得ることができない。したがって、この人を尊敬し、支持する人々の経済的・物質的援助によって支えられなければ、生きてゆけないであろう。
 仏法の伝持者・弘通者は、物質的にはこうして檀那の提供によると共に、そのかわり、仏法の力によって、精神的な豊かさを社会に還元したのである。これは、いわば分業の原理であって、単に仏法のみでなく、あらゆる宗教も、あるいは芸術、政治、科学技術なども、すべてこの原理によって維持され発展してきたといえる。
 しかしながら、仏法を「ひろめる」という積極的な活動の面からいえば〝檀那〟のもつ意義、使命も、いま一歩大きい立場で捉えなければならない。すなわち、世俗にあってしかも仏法を深く理解している〝檀那〟は、仏法を世俗社会に反映し、展開し、実践化していくうえでの、重要な〝カナメ〟といえる。つまり、仏法が、世俗を離れた修行僧の独占物となってしまうのでなく、ひろく社会にひろがり、万人の信仰と実践の法となるためには〝檀那〟は、単なる〝施主〟ではなく、仏法を根底として社会の繁栄と人々の幸福のために活躍する積極的な実践者でなければならないのである。
 釈迦の仏法においては、本格的な信行者は出家僧のみであり、これを王候、富豪等が檀那となって外護した。経文の殆んどが、世俗を捨てた弟子たちを対象に説かれていることは、釈迦仏法の性格を象徴的に示している。これに対し、日蓮大聖人の仏法は、その御書の殆んど全てが世俗の人々を対象にあらわされており、出世の本懐である三大秘法の御本尊も、在家の人を願主として図顕された。ここに、日蓮大聖人の仏法の、社会に開かれゆく姿を明確に見ることができる。
不孝の悪王と謗法の師とよりあひて候しかば、人間に二のわざはひにて候しなり
 人間にとって、最大の災いは、現実社会についての一切の決定者・支配者である王が、人間として失格者というべき悪人であること、精神面での根本を規定する宗教の問題について、正法を破壊する謗法の師が指導者であることだとの御文である。
「不孝の悪王」とは、人間としての最も基本的な条件を、自らの生を与えてくれた親に対する報恩、孝とし、それすら満たしていない失格者という意味をいわれたものと考えられる。
 現実の人生を生きていくうえで、幸・不幸を左右する直接的な外的要因は、社会――人間社会である。君主制体制においては、社会のあらゆる意思は王によって決まったから、「悪王」をもって、不幸の一つの元凶とされたのである。現代の民主主義体制にあっては社会そのものと考えるべきである。
 人間は物質的なものによって生きるものではない。外的要因のみによって幸・不幸を左右されるのではない。精神的なもの、内面的要因によって左右される比重は、むしろ物質的外的な要因のそれよりも更に大きい。この精神的なもの、内的要因を決定するのが思想哲学、なかんずく宗教である。しかも、これは、三世の生命観からみた場合、物質的・外的要因が現世のみにとどまるのに対し、精神的・内的要因は未来世にわたるのである。
 このゆえに「不孝の悪王と謗法の師とよりあひて候しかば、人間に二のわざはひ」といわれたのであり、この文はまた、人間社会になくてはならない二つの要因を明確に呈示されたものということができるのではないだろうか。

1149:08~1149:18 第二章 末法の智人を明かすtop

08   是はさてをきぬ・仏の阿闍世王にかたらせ給いし事を 日蓮申すならば日本国の人は今つくれる事どもと申さん
09 ずらんなれども・我が弟子檀那なればかたりたてまつる、 仏言わく我が滅後・末法に入つて又調達がやうなる・た
10 うとく五法を行ずる者・国土に充満して悪王をかたらせて・ 但一人あらん智者を或はのり或はうち或は流罪或は死
11 に及ぼさん時.昔にも・すぐれてあらん天変・地夭・大風・飢饉・疫癘.年年にありて他国より責べしと説かれて候、
12 守護経と申す経の第十の巻の心なり。
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 これはさておいて、釈尊が阿闍世王に語られたことを日蓮がいうならば、日本国の人は、今日蓮のつくった話だというであろう。しかし、あなたは私の弟子檀那であるから話します。
 釈尊のいわれるには「我が滅後、末法に入って調達のように、尊げな姿をして五法を行ずる者が国に充満して、悪王を味方にし、ただ一人正法を弘める智者をののしり、あるいは打ち、あるいは流罪にし、あるいは死にいたらせる時、昔にも増してより以上の天変、地夭、大風、飢饉、疫病が年々にあり、他国からその国を攻めるであろう」と説かれている。これは守護国界主陀羅尼経という経の第十の巻の心である。
13   当時の世にすこしもたがはず、然るに日蓮は此の一分にあたれり・日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへ
14 ども或は心ざしうすし・或は心ざしは・あつけれども身がうごせず・やうやうにをはするに御辺は其の一分なり・心
15 ざし人にすぐれて・をはする上わづかの身命をささうるも又御故なり、 天もさだめて・しろしめし地もしらせ給い
16 ぬらん殿いかなる事にもあはせ給うならば・ ひとへに日蓮がいのちを天のたたせ給うなるべし、人の命は山海・空
17 市まぬかれがたき事と定めて候へども・又定業亦能転の経文もあり・又天台の御釈にも定業をのぶる釈もあり、 前
18 に申せしやうに蒙古国のよするまで・つつしませ給うなるべし、
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 この経文はいまの世と少しも違わない。そして、日蓮は「但一人あらん智者」の一分に当たっている。この日蓮を助けようと志す人々が多少あるが、あるいは志が薄かったり、あるいは志は厚いようではあるけれども、実践が志にともなわない。さまざまであるが、あなたは、その一分に当たっている。日蓮を助けようとする志は弟子檀那の中ですぐれているばかりか、日蓮がわずかの身命をここまで支えることができたのも、あなたの実践のおかげである。このことは、天も必ず知っておられるし、地も御存知であろう。もし、あなたの身にいかなる災難でも起こったならば、それは、ひとえに日蓮の命を天が断とうとするのも同然である。
 人の命は、山海空市の何処にあっても死から免れ難いことであると定められているけれども「定まった業報でさえも正法修行によって、よく転ずる」という経文もあり、また、天台の御釈においても、定業を延べることができるという釈もある。前の便りでもいったように、蒙古国の攻め寄せてくるまでは用心しなさい。

調達
 提婆達多のこと。
―――
五法
 ここでは提婆達多の説いた五法をいう。弘決の婆沙説によれば、①糞掃衣(人の捨てた汚れた衣を洗って作り直して着る)。②常乞食(常に托鉢をする)。③一坐食(一日に一度しか食事をとらない)。④常露座(常に樹下石上に坐って、室宅で坐らない)。⑤塩および五味を受けず(塩および酸・苦・甘・辛・鹹の五味をとらない)。以上の五法を提婆は行じて、釈尊より優れていると見せ、人々の心をひきつけようとした。
―――
守護経
 山海・空市まぬかれがたき事
―――
定業亦能転
 過去の業因によって定まった業報を現世の正法修行によって能く転ずること。すなわち宿命転換のことをいう。「可延定業書」(0985)に「業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや」とある。なお定業、不定業については涅槃経師子吼菩薩品第十一に詳しく説かれている。一説には妙楽の法華文句記巻第十下に「若し其の機感厚きは、定業も亦能く転ず」とある文をさすともいう。
―――
天台の御釈
 天台の摩訶止観巻第八下に「仮令、衆障峯起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓って道場に畢る。捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん」とある文をさすか。または、妙楽の法華文句記巻第十下に「若し其の機感厚きは、定業も亦能く転ず」とある文をさす。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――――――――
 前章では、智人と檀那によらなければ仏法は弘まらないことが明かされたが、本章では、それを受けて、末法において日蓮大聖人がその〝智人〟であり、四条金吾は〝智人〟たる大聖人を助けるすぐれた檀那である、したがって、仏法守護の諸天善神が金吾を守らないわけがない、と力強く激励されている。
 四条金吾は、鎌倉の信徒たちの中心として先駆をきって弘法に励み、大聖人が佐渡に流されていた時も、また身延に入られてからも、かわらず御供養の品々を送り続けた大信者である。
 大聖人が今日まで命を長らえ得たのは四条金吾のおかげであり、いま四条金吾の身に何かがあれば、それは大聖人自身の命を断つのと同じである。そのようなことは絶対にあるわけがないとの大確信と、四条金吾への限りない慈愛が、この章の御文にこめられている。
人の命は山海空市まぬがれがたき事と定めて候へども、又「定業亦能転」の経文もあり
 定業とは、過去の因によって、このような果報を受けなければならないと定まっている業をいう。業には善悪の両方があるが、いずれにせよ、その果報がはっきり定まるほど強い因を過去につくった場合が定業である。
 不定業とは、ある程度の方向性が定まっているといった弱いもので、今世の注意、心がけ、努力によって変わりうる業である。
 定業をつくる原因は、慣習として繰り返す行為と、淳浄の心をもってする行為、そして仏・法・僧への祈りの三種があるとされる。これらは、深く生命に刻みこまれ、未来を強く規定していくのである。そして、ひとたび定業となったことは、山・海・空・市いかなるところにあろうと、これをまぬかれることはできない。
 逆に、過去にいかなる定業があるにせよ、現在、仏・法・僧すなわち正法に強く祈り、淳浄の心をもって信仰に励み、しかも怠ることなく信行学を貫くならば、悪い定業を転じ成仏への最高の定業を築いていくことができる。ここに、正しい仏法による宿命転換の原理がある。

1149:18~1150:08 第三章 主君への返答を教示するtop

18                               主の御返事をば申させ給うべし・身に病ありては
1150
01 叶いがたき上・世間すでに・かうと見え候・それがしが身は時によりて憶病はいかんが候はんずらん、只今の心は・
02 いかなる事も出来候はば 入道殿の御前にして命をすてんと存じ候、 若しやの事候ならば越後よりはせ上らんは・
03 はるかなる上不定なるべし、たとひ所領を・めさるるなりとも今年は・きみをはなれまいらせ候べからず。
-----―
 主君への御返事を次のようにいいなさい。「私は、いま病気でありますので遠国に行けとの主命に叶いがとうございます。その上、世情は大事が起こりそうな気配です。それがしの身は、その時にあたって、どうして臆病のはずがございましょうか。只今の心は、たとえどのようなことが起きようとも、入道殿の御前で一命を捨てる覚悟でございます。もし一大事が起きたときに、越後から、鎌倉の主君のもとに馳せ参ずるのには、あまりに遠すぎるし、行くことができるかどうかもわかりません。それゆえ、たとえ所領を取り上げられても、今年は、御主君の御側を離れません。
-----―
04   是より外は・いかに仰せ蒙るとも・をそれまいらせ候べからず、是よりも大事なる事は日蓮の御房の御事と過去
05 に候父母の事なりと・ののしらせ給へ、 すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし・後世は日蓮の御房にまかせ
06 まいらせ候と高声にうちなのり居させ給へ。
07       建治二年丙子九月六日                 日蓮花押
08     四条金吾殿
-----―
 これ以外にどのような仰せを蒙っても、少しも恐れはいたしません。これよりも大事なことは、日蓮の御房の御事と亡くなった父母のことであります」とはっきりと言いきりなさい。また「お見捨てになっても、私の命は差し上げます。後世は日蓮の御房にまかせてあります」と声高らかに申し上げなさい。
  建治二年丙子九月六日       日 蓮  花 押
   四条金吾殿

世間すでにかうと見え候
 世間には、早くも重大事が起こるかにみえるとの意。重大事とは、蒙古軍が襲ってくることである。本書を認められた2年前の文永11年(1274)10月に第一回目の蒙古襲来、いわゆる文永の役があった。これは斥けることができたが、翌建治元年(1275)4月に蒙古国の使者・杜世忠・何文著等五人が長門国室津(山口県豊浦郡豊浦町)へやってきた。幕府は、これらの使者を9月に、竜口で斬首し、12月には、安芸国の御家人や九州諸侯に「異国征伐」の準備を命じている。そして建治2年(1276)3三月には、第二次の蒙古襲来に備えて九州博多の海岸に要害石築地――いわゆる防塁(ぼうるい)の構築にかかり、8月にほぼ完成するに至っている。弘安4年(1281)5月には、第二回目の蒙古襲来、いわゆる弘安の役となる。
―――
越後
 北陸道7か国の一。現在の新潟県の、佐渡を除く全域にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのしり。
―――
入道殿
 江馬入道光時のこと。四条金吾頼基の主君親時の父親。北条義時の孫で、名越遠江守朝時の嫡子。寛元元年(1243)に越後守に任ぜられ、また将軍頼経の近侍となる。のちに頼経が譲位、入道したが、その周辺に謀叛のうわさが立ち、光時などもあやしまれた。光時は薙髪し出家してわびたが、伊豆江馬に流された。頼経も京都に護送された。その後、光時は許されて鎌倉に帰ったが、その間ずっと金吾の父は主君光時を守り最後まで仕えた。
―――
不定
 ①一定しないこと。②意外なこと。
―――
丙子
 干支の組み合わせの13番目で、前は乙亥、次は丁丑である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の子は陽の水で、相剋(水剋火)である。
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 主君・江馬氏に対し、どのように返答をすべきか、こと細かく教えられた段である。だがこれは、単に、それだけで終わる内容ではない。この御文のなかから、社会にある大聖人の信徒の、信仰と社会に対する根本的な心がまえが学びとられなければならない。
 まず、社会人として大事なことは、自分がその社会でもっている責任をどこまでも全うする、ということである。それは、封建的な主君の命令にさからっても、貫くべきものとして、明確に示されている。大聖人のお考えにある社会人としての倫理は、封建的主従関係の中にあった特殊な倫理を超えたものであったことが、ここにはっきりとよみとれよう。
 第二に「是よりも大事なる事は日蓮の御房の御事と、過去に候父母の事なり」という一文に示される、人間としての本源的な問題である。「父母の事」とは、人間としての普遍的な倫理である。これは、たとい主君の命たりといえども、破ってはならないものである。つまり、一個の人間としての存在の基盤にかかわることである。これは、社会的立ち場による主君への忠誠という倫理に優先するのである。
 更に「日蓮の御房の御事」とは、自己の宗教的信念、仏法の問題――ひいては、これは自覚ある人間としての精神の自由の領域である。これもまた、社会的忠誠に優先する。なぜなら、社会的忠誠は、現世の物質的幸福にしかかかわりえないが、仏法の問題は、三世にわたる生命の幸・不幸にかかわるからである。故に、現世のこの生命は、鎌倉武士として、主君に捧げるけれども、後世については「日蓮の御房にまかせまいらせ候と、高声にうちなのり居させ給へ」と教えられているのである。
げるけれども、後世については「日蓮の御房にまかせまいらせ候と、高声にうちなのり居させ給へ」と教えられているのである。

1150~1152    四条金吾殿御返事(八風抄)
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1150:01~1151:03 第一章 主君の大恩を述べるtop

四条金吾殿御返事
01   はるかに申し承り候はざりつれば・ いぶせく候いつるに・かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて
02 候又まほりまいらせ候、 所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ、 此の事は御文
03 なきさきにすいして候、 上には最大事と・おぼしめされて候へども御きんずの人人のざんそうにて あまりに所領
04 をきらい上をかろしめたてまつり候、 ぢうあうの人こそををく候にかくまで候へば 且らく御恩をば・おさへさせ
05 給うべくや候らんと申しぬらんと・すいして候なり・それにつけては御心えあるべし御用意あるべし、 我が身と申
06 しをやるいしんと申し・ かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上すぎにし日蓮が御かんきの時・
07 日本一同ににくむ事なれば 弟子等も或は所領を・ ををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし
1151
01 或は所領をおいなんどせしに其の御内に・なに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。
-----―
 久しくお手紙をうけたまわらないので、心もとなく思っていましたが、さまざまな御供養の物や、おつかいを受け、非常にうれしく思いました。また、お守り御本尊を差し上げましょう。
 所領訴訟の間題に関しては、主君から、あなたにあてたお手紙と、あなたのお手紙を引き合わせて拝見いたしました。このことについては、お手紙をいただく前から推察はしていました。主君は、このことを最も大事と思われているのに、御近臣の人々が讒奏して「頼基は、あまりにもふり替えられる所領をきらって、主君をあなどっているではないか。わがまま者は多いが、これほどまでわがままな者に対しては、しばらく恩をさし押えられてはどうでしょう」と申し上げたのではないかと推量している。それについては、十分な腹がまえをもって臨みなさい。
 あなた自身といい、親・親族といい、それぞれ家中のものとして恩恵を受けた大恩ある主君である。その上、日蓮が御勘気を受けた時、日本国一同の人が憎んでいたから、弟子等もある者たちは所領を幕府から取りあげられ、またその者たちの主君にあたる人々も、あるいは家中から勘当し、あるいは所領を追いはらったりしたのに、江馬氏からあなたに何のおとがめもなかったのは、あなたにとっては、なみなみならぬ大恩を受けたことになる。
-----―
02   このうへは・たとひ一分の御恩なくとも・うらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御恩を申し
03 所領をきらはせ給う事 ・御とがにあらずや、 
-----―
 このような大恩をうけたからには、たとえこれから一分の御恩を受けなくても、恨むべき主君ではない。それに重ねての御恩を期待して、これほどの領地をきらわれていることはあやまりではなかろうか。 

所領の間の御事
 建治2年(1276)におきた越後への領地替えの問題をさす。
―――
日蓮が御かんきの時
 御かんきは国家権力者、または主君からとがめをうけること。死罪・流罪等、公の罪科に処せられること。ここでは日蓮大聖人が幕府の迫害を受けて佐渡に流罪されたことをさす。
――――――――――
 本抄は、建治3年(1277)日蓮大聖人が56歳の時、身延で認められたものである。内容が、賢人がおかされないという八風について説かれているところから、別名を八風抄ともいわれている。
 かねてから主君思いの四条金吾に対する、主君の信頼は厚かったが、同僚の家臣の中には、金吾を妬んで、主君に讒言するものが多かった。
 そのためか、建治2年(1276)の9月には主命と称して減俸となり、越後に領地替えの内命が下った。更に、建治3年(1277)になると、領地替えの件について承諾しなかった四条金吾に対し、主君の恩命に従わない家臣なら、その領地を没収すべきであると進言するものがあって、四条金吾はいよいよ窮地においこまれたのである。
 そこで四条金吾は、その事情を身延の大聖人のもとに報告するとともに、同僚を主君に訴える意をもらしたようである。
 それに対して大聖人は、長年にわたっての恩ある主君であるのだから、人に乗ぜられて事を起こし、主君と争ったり、非理に恨んではならない。得意になって喜んだり、また失意にあって嘆いたりするのではなく、八風に犯されない賢人として、信心強盛に、主君に仕えるならば、かならず諸天は守護するのである。また、物事の祈りが叶うためには、師匠と弟子の心が合致するという師弟不二の信仰を貫くことが大切であり、そうすれば祈りは成就するであろうと、四条金吾を激励されているのである。
 当時の大聖人及び門下に対する幕府の態度をよく観察され、四条金吾の一徹な気性もふまえたうえで、幕府に仕える武士の立場と使命を、よく理解されての細やかな御配慮と指導である。
 あくまで信心第一にして、しかも信心に反対の主君や同僚にも、しっかり仕えて武士の第一人者になるようにとの一面厳しい大聖人の指導でもある。これは、仏法を持つものの心すべき原理であるともいえよう。
 仏法は、人間の生命の内面に光りをあて、そこに厳然とした法が貫いていることを説ききわめたものであるから、そこに通達していくことは、その生命の発動の場であり、人間が織りなしている社会の法にも通達していくことができるのである。
 ゆえに、純粋な信心を持続し、人間革命を目指すのならば、社会生活においても立派でなければならないし、仏法の理にかなった生活を営んでいくべきである。
 四条金吾は大聖人のこの厳しい指導があればこそ、ついに「法華宗の四条金吾」(1118-01)、「あはれをとこやをとこや」(1175-09)と鎌倉の人々にいわれるだけの信心と宮仕えをやりとげたのである。そしてまた、それだけの信心と実践力がある弟子であったがゆえに、大聖人は四条金吾に厳しい指導をされたともいえよう。

1151:03~1151:06 第二章 賢人の条件を示すtop

03                       賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・
04 衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、 をを心は利あるに・よろこばず・ をとろうるになげかず等の事なり、 此の
05 八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども
06 天まほり給う事なし、 
-----―
 賢人は八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。おおよそ、世間的利益があっても喜ばず、衰えるのを嘆かないなどということである。この八風に犯されない人を、必ず、諸天善神は守られるのである。ところがそれを、道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのである。

賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
―――
八風
 人心を煽動するゆえに八風という。四順(利・誉・称・楽)と四違(衰・毀・譏・苦)に分かれ、一切衆生は四順を愛欲し、四違を忌避しようとするために八風におかされる。
―――――――――
 真実の賢人とは、どのような人をいうのかを、明快に示されている。
 ふつう、賢人というと、自然界や社会の法に通達し、誤りのない判断をできる人を考える。たとえば、政治について、あるいは経済について、あるいは気象について、それぞれに賢人がある。しかし、ここにいう賢人とは、そうした外界の各分野についての賢人ではなく、自分というものを正しく知り、外界からの縁に紛動されて迷うことのない人をいうのである。
 ソクラテスがいったように「汝自身を知る」ことが、この八風におかされないということの元意であり、ポイントである。その賢人こそ、部分的問題についての〝賢人〟でなく、全てについての〝賢人〟たりうるのである。八風におかされてはならないからといって、外界からのこうした縁は、人間として生きている限り遮断できるものではないし、また、こうしたことに堅く心を閉ざしていくとすれば、それは人間性を封じこめ、圧殺し、人生を味気ない砂漠のようなものにしてしまうだけであろう。
 大事な点は、そのような消極的、閉鎖的な姿勢をいうのではなく、自己自身を知り、確立し、そこから、人生の変化、波を悠々と楽しんでいく積極的な姿勢をいったものとして捉えることである。
 「天がまもる」ということは、外界のあらゆる事象が、自分にとって有利なように働いてくることを意味する。確固たる自己に立って主体的に対処していくとき、外界の事象を、自身のために有利に転換し、生かしていくことができるし、また、事実、外界も変化していくのである。

1151:06~1151:16 第三章 師弟不二の祈りを説くtop

06            訴訟を申せど叶いぬべき事もあり、 申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候、夜めぐりの
07 殿原の訴訟は申すは叶いぬべきよしを・かんがへて候しに・あながちに・なげかれし上日蓮がゆへに・めされて候へ
08 ば・いかでか不便に候はざるべき、 ただし訴訟だにも申し給はずば・いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給わ
09 り候いぬと約束ありて・又をりかみをしきりにかき・人人・訴訟ろんなんど・ありと申せし時に此の訴訟よも叶わじ
10 とをもひ候いしが・いままでのびて候。
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 訴訟というものは、公に申し上げて叶うこともあれば、訴えずにいれば叶うものを、申し上げたために叶わなくなることもある。夜回りの方たちの訴訟は、申し上げて叶うてだてを考えていたところ、あまり強くなげかれていた上、それも日蓮の門下であるために屋敷や所領を没収されたのであるから、どうしてかわいそうだと思わないことがあろうか。ただし、訴訟をされないのであれば、祈ってあげようといったところ、そのようにいたしますと約束したのである。また公文書をしきりに書いて、人々の間に訴訟についての議論がさかんであるといわれている折、この訴訟は、おそらく叶うまいと思っていましたので、今まで、そのままになっている。
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11   だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候、はきり
12 どのの事は法門の御信用あるやうに候へども 此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・ いかんがと存じて候
13 いしほどに.さりとては・と申して候いしゆへにや候けん・すこし・しるし候か、これに・をもうほど.なかりしゆへ
14 に又をもうほどなし、 だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、 又だんなと師とをもひあ
15 ひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、 我が身も・だんなも・
16 ほろび候なり。
-----―
 比企大学三郎能本殿や、池上右衛門大夫殿のことは日蓮のいった通りにされたから、祈りが叶ったようである。波木井六郎実長殿は法門のことについては御信用なさっているようだが、この訴訟に関しては日蓮のいうとおりにはお用いにならなかったから、どうであろうかと思っていたところ、それでは訴訟は叶わないと注意しておいたからであろうか、多少の効果はあったようである。
 だが、こちらで思うほどに聞き入れなかったので、訴訟の効果も思うほどでなかった。このように、檀那と師匠とが心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので叶うわけがない。
 また、檀那と師匠とが心を同じくした祈りであっても、長い間、小法によって大法を犯している人々の祈りは叶わないばかりか、わが身も檀那も、共に滅びるのである。

夜めぐりの殿原の訴訟
 夜めぐりの殿原とは、一説には鎌倉荏柄の警護の任にあたっていた者といわれるが、四条金吾の弟達のことをさすとの説もある。ここではこの夜回りの殿原の訴訟は叶わないだろうと考えて指導された大聖人の仰せを、忠実に実行しないため、おもわしい結果にならなかった、身近な例を引かれて、金吾に訴訟を起こすことは得策ではないことをさとされている。
―――
をりかみ
 奉書等の紙を半折りにし、それに書いた訴状、目録のこと。公文書等に使う。
―――
だいがくどの
 (1202~1286)。比企大学三郎能本のこと。鎌倉幕府初期の儒官であった比企能員の子。比企家が没落した後、京都で儒学を学び、順徳上皇に仕えた。のちに鎌倉幕府に仕え儒官となる。立正安国論の校訂者であるといわれている。大学三郎の入信については、日蓮大聖人が立正安国論を、あらかじめ能本にみせたことが大聖人への帰依の縁となり、みずから出家して本行院日学と称し、大聖人の弟子として純真な信仰者となった。のちに、自分の住居を投じて、寺を建立した。比企ケ谷妙本寺がそれである。弘安9年(1286)に世を去った。
―――
ゑもんのたいうどの
 池上右衛門大夫宗仲のこと。鎌倉幕府の作事奉行であった池上左衛門大夫康光の子、兵衛志宗長の兄。池上家は武蔵国千束池のほとりに住居をかまえ、池加美の名をもって氏とした。宗仲、宗長兄弟は鎌倉にあり、また弁阿闍梨日昭の甥であった関係から、早くも建長8年(1256)ごろに日蓮大聖人に帰依していた。このことは四条金吾と共に、在家の中で最古参に属する。極楽寺良観の熱心な信奉者である父に、二度にわたって勘当をうけている。しかし、大聖人からの、「兄弟抄」等のお手紙で励まされ、ついには弟とともに父を入信させることができた。なお、永仁元年(1293)、72歳で没したといわれている。
―――
はきりどの
 波木井六郎実長のこと。入道して法寂房日円といった。念仏を信仰していたが、文永のはじめ日興上人に会い、その縁で念仏を捨てて一族ともども法華経に帰伏した。日蓮大聖人が文永11年(1274)4月、三度目の国諫の後、鎌倉を去られるにあたって身延山に草庵をつくり大聖人を招いた。しかし大聖人滅後、五老僧とともに日興上人に違背し、四箇の謗法を犯した。このため、日興上人は正応2年(1289)身延を離山し、河合を経て富士上野の南条時光のもとに行かれた。後、日興上人は誡状を実長のもとに送られたが、聞き入れないため、やむなく義絶された。永仁5年(1297)9月25日、76歳で没した。
―――――――――
 おそらく所領のことについて訴訟を起こしたい旨、四条金吾が申しあげたのであろう。その訴訟の問題について、叶った人、叶わないでいる人の例を具体的にあげながら、何が大事かを示されている。
 ただし、ここで大聖人が問題にされているのは、純然たる法制上のことではない。それは当時の幕府政治にあって行なわれていた法と、現実に四条金吾が直面している事態との関係で判断すればよいことだからである。
 大聖人が指導されているのは、一つは、それ以前の問題、つまり、人間としていかにあるべきかということである。前章の「ひりに主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給う事なし」というのが、それである。法律上では訴えることに理があっても、長年の間柄や、その間に受けてきた恩恵からみた場合、人間として正しくないことがある。
 事件そのものについては理があっても、人間としての道から外れている場合には、天の加護はない、というのが大聖人の指導である。天の加護がないということは、いろいろに考えられるが、身近な例でいうと、人々から恩知らずな人間として、訴訟には勝っても見放されてしまうなどが、それに当たるといえよう。
 このように、それだけの視野で判断するのでなく、広く人間としての原点に立ちもどって、そこから是非を考える姿勢が、あらゆる問題について大切である。現代文明の抱えている科学技術の問題、資本家のエゴイズムの問題等も、こうした判断基準の展開によってはじめて解決の緒を見出しうるのではないだろうか。
 もう一つ大聖人が強調されていることは、師と檀那、師弟というものが、心を一つにしてこそ、祈りが叶うという点である。大聖人は仏法の師である。だが「無量義は一法より生ず」で、妙法を達観した大聖人は、一切法についても、判断を誤まることはない。したがって、波木井氏のように、法門については大聖人を信じても、訴訟=世法については大聖人の言葉に従わないという行き方では、願ったとおりにならないのである。
 その持っている法が邪まな、悪法である場合には、いかに師と檀那が心を一つに合わせて祈っても、ともどもに身を滅ぼすだけであるのは、いうまでもない。正法によらなければならないということは、もっとも根本的な大前提条件なのである。
 このように、事を成就するにあたって、それが人間としての倫理に叶っていることを前提に、そのこと自体として筋が通っていることが必要であり、更に、正法による師弟不二の祈りがなければならないということは、信仰者の生活、社会の問題についての重要な指導と拝すべきである。

1151:17~1152:16 第四章 真言の祈りを破すtop

17   天台の座主・明雲と申せし人は第五十代の座主なり、去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流・山僧
18 大津よりうばいかへす、 しかれども又かへりて座主となりぬ・又すぎにし壽永二年十一月に義仲に・からめとられ
1152
01 し上・頚うちきられぬ・是はながされ頚きらるるを・とがとは申さず賢人・聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平
02 家の清盛との合戦の起りし時・ 清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたの
03 むべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四
04 郡を一向によせて候しかば、 大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をい
05 させしかども 義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り 叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にあり
06 しを引き出して・ なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して 頚をうち切りたりき、かかる事あれども
07 日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし・ 去ぬる承久三年辛巳五六七の三箇月が間・京・夷の合戦あり
08 き、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山.東寺・七大寺・園城寺等・天照太神・正八幡.山王等に一一に御いの
09 りありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主・慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は
10 度度・義時を調伏ありし上、 御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・
11 いくさに・まけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ、 かかる事候へども真言は・いかなるとがとも・あやしむ
12 る人候はず、をよそ真言の大法をつくす事・明雲第一度・慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、 今度第三
13 度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ給へ。
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 天台宗の座主であった明雲という人は、第五十代の座主である。去る安元2年(1276)5月に後白河法皇の怒りにふれて処罰を受け、伊豆の国に流されたが、比叡山の僧たちが途中の大津で奪い返した。そうして、再びかえって座主となった。またその後寿永2年(1183)11月に、義仲に捕えられ、その上、頸をきられてしまった。このようにいっても、流罪になったり、頚をきられたのを失というのではない。賢人や、聖人であっても、このようなことにあうのである。しかし、源氏の頼朝と平家の清盛との合戦が起こった時、清盛の一族、20余人が起請を書き連判を押して、願をたて「平家の氏寺として叡山をたのもう。叡山の僧三千人は我らが父母とおなじである。叡山の嘆きは我らの嘆きであり、叡山の悦びは我らの悦びである」といって、近江の国、24郡を全部、寄進したので大衆と座主と一同になって、内においては真言の大法をつくして祈禱し、外にあっては、僧兵たちを動かして源氏を討たせた。しかし木曾義仲の家臣で樋口兼光という武士が義仲とともに、わずか5、6人ぐらいで叡山中堂にはせ登って、調伏の壇の上にいた明雲座主を引き出し、縄でしばり、西坂を大石をころがすように引きずりおろして頸を切ってしまったのである。このような事実があったが、日本国中の人々は真言の教えを遠ざけることもしないし、またそのようなことになった原因を明らかにしようともしないのである。
 去る承久3年(1221)、5、6、7月の3か月の間、京と夷の合戦があった。その時、日本国第一の真言の秘法をつくして、叡山、東寺、七大寺、園城寺等などでは、天照太神、正八幡、山王等に対していちいちに鎌倉調伏の御祈禱をした。その中には日本第一といわれる僧侶が41人いた。いわゆる叡山の前の座主である慈円大僧正、東寺、仁和寺、三井寺の常住院の僧正たちは、しばしば義時調伏の祈禱をした。その上、道助法親王は紫宸殿で6月8日から、御調伏を祈祷したのだが、七日間で調伏できるといっていたのに、その7日目の14日に戦さに負け、最愛の勢多迦が頚を切られ、道助法親王もひどく嘆いて死んでしまった。このようなことがあったけれども、真言にはどのようなとががあるのかとあやしむ人もいない。今迄、真言の大法をつくして調伏したのは、明雲が一度目、慈円が二度目であるが、そのたびに日本国の王法はほろんでしまった。今度で三度目になる。
 すなわち、現在の蒙古調伏がこれである。この例のようなこともあるであろう。これは、秘密の事である。他人にはいわないで、あなたの心にとどめておきなさい。
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14   されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく 御内をばいでず我かまくらにうちいて・さきざきよりも出仕とを
15 きやうにて・ときどきさしいでて・おはするならば叶う事も候なん、あながちに・わるびれて・みへさせ給うべから
16 ず、よくと名聞・瞋との。
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 したがって、今度の所領替えのことについては、訴訟を起こさないで、また、主君を恨まずに、御内からも出ないで、自分はそのまま鎌倉にいて、以前よりも出仕をひかえ、ときどき出仕するようにしていたら、叶うこともあるでしょう。決して悪びれた振る舞いをしてはいけません。欲や名聞名利を求めたり瞋る心をおこさないように…。

天台の座主
 「座主」というのは大衆一座の主である。比叡山延暦寺等では、時の貫首を座主と呼んでいる。
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明雲
 (~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
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院勘
上皇・法王などの怒りにふれること。
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義仲
 (1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
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源氏の頼朝
 (1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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平家の清盛
 (1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
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連判
 文書の差出者が複数で署判している場合,これを連判,連署という。多人数が一致契約する場合,すなわち一揆の団結(一揆契状)や訴状等に用いる。紙をつぎたして連名する場合,また連判者間の地位の上下がないことを表すためや,主謀者を隠蔽するために円のまわりに放射状に連署する場合等がある。
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氏寺
 氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した寺。
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近江の国・二十四郡
 近江はかつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。古来から滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高嶋 の12郡となっている。24郡については不明。
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真言の大法をつくし
 真言のあらゆる秘法を尽くして、調伏の祈祷をしたことをいう。
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ひぐち
 樋口次郎兼光のこと。平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井兼平の兄。正式な名のりは中原 兼光(なかはら の かねみつ)。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人。信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した。
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叡山中堂
 根本中堂のこと。伝教大師最澄が延暦7年(0788)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされる。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられている。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
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調伏
 仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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調伏の壇の上
 源頼朝調伏のために、天台座主の明雲が祈祷の檀上にあったことをさす。
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西ざか
 京都から比叡山に登る道の西側ルート。
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京・夷の合戦
 承久3年(1221)、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側が、鎌倉幕府を倒そうとして企てた承久の乱のこと。鎌倉幕府設立以来、御家人の荘園、農村支配は強まり、朝廷は知行地を失い、経済基盤を奪われ、その権力も有名無実のものとなってしまった。朝廷側は源頼朝以来の源氏の血筋が、実朝の暗殺により、北条氏の手によって絶えたのを機に、後鳥羽上皇を中心に、北面の武士、および北条政権に不満をもつ武士を結集して、北条義時追討の院宣を発し、頼朝以来の武家支配に終止符を打つべくクーデターを起こした。しかしながら朝廷側の考えている程、北条政権は惰弱ではなく、逆にその力は、鉄の如き結束をもって朝廷側にいどみかかった。その結果、わずか2ヵ月で朝廷側の敗北となったのである。乱後、幕府は、主謀者の公家や武士を厳重に処罰し、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳天皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に遠流した。この乱によって北条幕府は天下の実権を握ったのである。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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七大寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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園城寺
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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正八幡
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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山王
 日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
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慈円大僧正
 (1155~1225)。平安時代から鎌倉時代にかけての天台宗の僧。天台宗の座主に四度(62代、65代、69代、71代)就く。承久の乱の前年(1220)、乱の起こることを見通して「愚管抄」を著わし、道理に合わない行ないは成就しないとの史観を述べ、後鳥羽上皇が武士の勢力を無視して、倒幕の計画をすすめることを風刺した。しかし、承久の乱の時には、後鳥羽上皇の命により、真言の法による幕府調伏の祈禱を行なった。
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御室
 第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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三井寺
 琵琶湖西岸、大津市園城にある園城寺のこと。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(
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義時
 北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
―――
紫宸殿
 京都市上京区にある御所内裏の正殿のこと。
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勢多迦
 佐々木山城守広綱の第六子、勢多迦童子をいう。仁和寺の御室、道助法親王の侍童として寵愛された。承久の乱の時、叔父、佐々木信綱の讒訴により斬首された。
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 前章の「又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもってをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり」をうけて、歴史上の具体的事実を示し、いままた蒙古調伏のため重大な過ちを日本中がおかしていることを指摘されている。
 天台座主・明雲と、それに帰依した清盛以下平氏一門の関係は〝師〟と〝旦那〟のそれである。彼らの祈った法は天台宗とはいうものの、真言の邪法に染まったもので、まさに大法たる法華経を、小法にすぎない真言の法によって犯したものであった。
 ゆえに、明雲は天台座主という、当時の日本の宗教、思想の世界で最高の権威ある立ち場でありながら、頸を斬られて死んでしまったのである。またその檀那である平清盛以下一門の無残な最期は、いまさらいうまでもない。まさに「我が身もだんなもほろび」てしまったのである。
 大聖人が本抄を認められているこの時代、鎌倉幕府も、京の朝廷も、未曾有の国難を前に、同じ過ちを犯していた。文永の役は辛うじて大きい禍いもなく過ぎたが、蒙古が更に大軍を用意して再度の侵略をめざしていることは、周知の事実であった。この蒙古軍調伏のため、為政者たちは、あげて真言の祈禱にうちこんでいたのである。それは、日本の国を滅亡に追いこむものでしかない、と大聖人は厳しくこれを戒め、警告を発せられていたのである。
 ただし、四条金吾に対し、あるいは一般の信徒に対しては、むやみとこれを人に言ってはならない、と注意されている。大聖人としては、いうべき為政者には筋を通して言われていることであるし、信徒たちが軽々しく口にすることによって、迫害、弾圧を受けることを警戒されたのであろう。信徒たちを守るための慎重な御配慮が、そこにうかがえるのである。

1150~1152    四条金吾殿御返事(八風抄)2013:10大白蓮華より先生の講義top

師弟に生き抜く「賢人」の道を
 今から32年前の秋、四国研修道場で、青年部の代表と懇談した折のことです。彼らが新しい学会歌の歌詞の案を持ち寄ってくれました。夜を徹して考えてきたのでしょう。青年たちの目は真っ赤でした。
 自分たちが一切の魁となる。この深い決意に燃える青年たちがいれば、学会は盤石だ。未来は洋々と開かれている。私は、そう確信しました。
 「分かった。君たちのために手伝うよ」
 滞在中の数日間、20数回に及んで推敲をてがけました。
 間断ない行事の合間を縫っての真剣勝負でした。
 こうして完成したのが、今も烈々と歌い継がれている、あの「紅の歌」です。
 2番目の原案には、「毀誉褒貶の人あるも」とありました。その歌詞を、私は「毀誉褒貶の人降し」と直しました。世間の風評など歯牙にもかけず、社会の荒波を毅然と勝ち越えていく「創価の魂」を、歌詞に託したかったのです。
「獅子として堂々と生き抜け」
 戸田先生がよく青年たちに語られていた指針があります。
 「決して恐れるな、獅子として堂々と生き抜け」と。
 この言葉の通り、学会も、そして学会員も、草創以来、信念の道を貫き通してきました。どんな嵐の中でも、自分の座標軸を見失うことなく、我が使命の人生行路を真一文字に進んできました。
 それゆえに私は、この学会精神を受け継ぐ青年たちの姿が何よりもうれしかった。
 その思いは今もかわりません。
 いよいよ世界中に地涌の青年の堂々たる陣列が築かれました。新たな時代に躍り出た、大いなる使命を担った青年たちです。それだけに皆、世間の評判や非難に一喜一憂することなく、世界広宣流布という大いなるロマンに向かって、目のさめるような自分自身の人間革命の戦いに、勝ち進んでいただきたいのです。
 正義と充実の人生を送るための仏法です。
 幸福と勝利の一生を築くための信心です。
 そこで今月は「八風抄」との別名もある「四条金吾殿御返事」を拝して、八風という毀誉褒貶に動じない「賢人」の道を共々に学んでいきたいと思います。

05                                                我が身と申
06 しをやるいしんと申し・ かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上すぎにし日蓮が御かんきの時・
07 日本一同ににくむ事なれば 弟子等も或は所領を・ ををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし
1151
01 或は所領をおいなんどせしに其の御内に・なに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。
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 あなた自身といい、親・親族といい、それぞれ家中のものとして恩恵を受けた大恩ある主君である。その上、日蓮が御勘気を受けた時、日本国一同の人が憎んでいたから、弟子等もある者たちは所領を幕府から取り上げられ、またそのものの主君である人々も、あるいは家中から勘当し、あるいは所領を追いはらったりしたのに、江馬氏はあなたに何のおとがめもなかったのは、あなたにとっては、なみなみならぬ大恩を受けたことになる。
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02   このうへは・たとひ一分の御恩なくとも・うらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御恩を申し
03 所領をきらはせ給う事 ・御とがにあらずや、 
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 このような大恩をうけたからに、たとえこれから一分の御恩を受けなくても、恨むべき主君ではない。それに重ねて御恩を期待して、これほどの所領をきらわれているのはあやまりではないだろうか。

逆境の四条金吾を励ます
 四条金吾は、大聖人門下の中でも特に実直に師を求め、勇敢に弘教に励んだ弟子でした。
 大聖人が佐渡から帰還された文永11年(1274)9月、金吾は、親の代から仕える主君の江間氏を折伏しました。
 江間氏は北条一族の中でも名門です。しかし、文永9年(1272)の二月騒動で処分を受けた名越氏の一門でもあります。蒙古襲来の危機が高まり、緊迫する中で、金吾は何としても恩ある主君の安泰のため、正法に目覚めさせたかったのでしょう。
 ところが、江間氏は極楽寺良観の信奉者でした。この金吾の折伏が発端となり、次第に江間氏から疎まれるようになります。
 さらには、もともと江間氏から信頼が厚かった金吾を嫉む同僚たちがこれを機にさまざまな謀略を巡らすようになったのです。
 金吾を取り巻く状況は悪化し、建治2年(1276)には、金吾に対して越後への領地替えの内命が下りました。
 この報告を聞かれた大聖人は、金吾に対して、所領のことなど大した問題ではなく、何があっても主君の側から離れずに仕え抜くよう教えられました。
 金吾も、大聖人の御指南通りに迷いなく行動しました。しかし、所領などに目もくれず、命を賭して主君を守ろうという金吾の誠心誠意の姿勢は、嫉妬の家臣たちによって捻じ曲げられていきます。
 〝主君の命令を断った”などと讒言が行われる状況のなか、一本気の金吾は、自身の潔白と真意を伝えるためでしょうか、所領問題で主君を訴訟しようと思いつめるようになつたのです。これらの報告を聞かれたことに対する御返事が本抄です。
 主君からの書状と、金吾からの手紙を引き合わせて御覧になった大聖人は「さきにすいして候」と、このような事態は前々から心配し、推察していたと述べ、金吾を温かく包み込まれます。そして、今回の所領問題の本質が、いったいどこにあるのかを懇切丁寧に指導・激励されていきます。
 すなわち、「所領を嫌い、主君を軽んじている」「恩賞を差し控えるべきである」との讒言による圧迫を加えているのは、金吾の存在を嫉む側近の家臣であり、同僚であることを指摘されます。
 正義の人が、悪質なデマや讒言で陥れられる。これは古今東西、変わることのない迫害の構図です。その謀略に翻弄されて、勇み足で取り返しのつかない行動に出てしまえば、それこそ敵の思う壺です。
 「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」です。本質を冷徹に見抜く目を持たなくてはならないのです。
 本抄で大聖人は、金吾に対して「御心えあるべし御用心あるべし」と、心を 引き締めてよく考えていくよう諫められています。
仏法は「人の振る舞い」を尊重
 大聖人は諄々と諭されます。
 金吾にも、また親や親族にも、ことのほか目をかけてくれた大恩ある主君ではないか。大聖人が幕府からの迫害を受け、佐渡に流罪された時、多くの門下にも弾圧が及ぶなか、江間家では何ごともなかったのは、並々ならぬ大恩ではないか。
 ゆえに、何の恩賞がなくても、主君を恨むべきではないと、大聖人は教えられています。それを、恩賞を望み、今回の所領を嫌っているように思われてしまうことは、金吾の過ちであると、厳愛の指導をされているのです。
 大聖人はこれまでも、金吾に対して再三にわたって、恩ある主君に仕える仏法者としての姿勢を示されてきました。
 金吾が武士をやめて入道になりたいとの心情を吐露した際にも、主君の恩を説き、「いかなる命になる事なりとも・すてまいらせ給うべからず」と、何があっても主君を捨ててはならないと、金吾の考えに反対されました。
 また領地替えの話が出た際には「入道殿の御前にして命をすてんと存じ候」と命懸けで主君に仕える覚悟を述べるよう指導されています。
 仏法では、「人の振る舞い」という究極の道理を説いています。
 他の門下から、信仰ゆえの圧迫を受ける中、金吾は江間氏によって守られてきました。
 すなわち、大局から見れば、江間氏は、広宣流布の一端を支えてくれた存在であるともいえる。
 ゆえに、仏法の上からも、道理の上からも、金吾が恩ある主君に仕えきっていくことが、人間としての正しい生き方であり、振る舞いであることを説かれているのです。

03                       賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・
04 衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、 をを心は利あるに・よろこばず・ をとろうるになげかず等の事なり、 此の
05 八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども
06 天まほり給う事なし、 
-----―
 賢人とは八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。およそ世間的利益はあっても喜ばず、衰えるのを嘆かないということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は守られるのである。ところがそれを、道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのである。

「八風」に侵されない人生を
 今いる使命の場所を何としても勝ってもらいたい。大聖人は金吾に対して、「八風」に侵されない人こそが「賢人」であることを教えられています。
 「八風」とは仏道修行をさまたげる働きであり、「利・誉・称・楽」の四順と、「衰・毀・譏・苦」の四違があります。
 それぞれを簡潔に言い表すと次のようになります。
 「利は、」は、利益を得て潤うこと
 「誉」は、世間から誉められること
 「称」は、人々から称えられること
 「楽」は、心身が楽しいこと
 「衰」は、さまざまに損をすること
 「毀」は、世間から軽蔑されること
 「譏」は、人々から悪口を言われること
 「苦」は、心身がくるしむこと
 一般的に人々が望み求めることが四順であり、いやがり避けることが四違です。
 しかし、仮に四順を得たとしても、それは一時的、相対的な幸福にすぎません。
 世間体や恰好、形式ばかり気にして、内実をおろそかにしたり、世間の毀誉褒貶や目先の利害損得の風向きのままに流されてしまう。それでは、大きな時代変動の嵐の前には、ひとたまりもなくなくなってしまいます。
 要は、八風に動じない「自分自身」であることです。
 大聖人は、利益があっても喜ばず、損しても嘆かないような、八風に侵されない人を必ず諸天が守っていくと仰せです。
 牧口先生が拝された御書には、この御文に厳然と線が引かれております。
堂々と真の賢人の生き方を
 また牧口先生はこう指導されています。
 「御書にも『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』(0237-08)とあり、仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断するさい、あくまで仏法で説く厳しき因果関係を基準にしなければならない。ひとの毀誉褒貶に左右されては大善人とはなれない」
 戸田先生も「青年訓」で、「愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」と呼びかけられています。
 これが牧口先生、戸田先生の師弟に貫かれた学会精神です。
 「〝まさか”が実現」と世間をあっと言わせた、あの昭和31年の大阪の戦いの直後にも、戸田先生はこのように語られました。
 「なにも、新聞にほめられたからといってうれしがることもなければ、悪口をいわれて驚くこともなければ、われわれの信仰は、ただ一途の信仰でなければならない」
 いよいよ学会の存在が社会で注目を集める中にあって、学会員はただただ、真っ直ぐな信心を貫き、折伏行に励んでいくよう指導されたのです。
 法華経に説かれる通り、悪口罵詈を受けてこそ、正しき信仰者の証しがある。広宣流布の不撓不屈の闘争は、ほかの誰でもない。御本仏が御照覧くださっています。これ以上の栄誉はありません。
 八風に侵されない不動の人、すなわち、何ものにも揺るがぬ心で、絶対的な幸福を追求する人こそが「賢人」です。真実の信仰者の究極の姿も、ここにあるのです。
 では、誰よりも真っ直ぐに師を求め、広宣流布の戦いに挑んできた金吾に対して、大聖人は、なぜここまで事細かに「賢人の道」を教えられたのでしょうか。
 それは、金吾自身の人間革命、人間としての成長によって、問題を根本的に解決していくべきであることを教えられていると拝されます。
 「賢人」とは一般的にも、正邪を峻別する力のある人を指します。本質を把握する力を持つ人ともいえるでしょう。
 八風に動じない確固とした自身を築くためには、正邪を峻別し、幸不孝の因果を説く「法」と「師匠」の存在が不可欠です。
 正しい法に説かれるがままに、そして正しい師匠はの指導通りに実践に励む。その「賢人の道」を貫き、妙法を根本とした生き方に徹するからこそ、諸天善神も守ると大聖人は仰せなのです。
 反対に「非理」、道理に背いた者は諸天は守りません。仏法は、法に基づく道理の世界だからです。
「負けじ魂 朗らかに」
 さて、八風に侵されない「賢人」の生き方とは、別の言い方をすれば「負けない人」の異名ともいえるでしょう。
 学会が、大難の連続の中、なぜこれだけの大発展を遂げることができたのか、それは、尊き我が学会員の皆さまが八風に動ずることなく、真っ直ぐな信心を貫き、断じて負けない人生を歩まれてきたからにほかなりません。だから、諸天からも厳然と守られたのです。
 「負けじ魂」です。
 負けないことが人生勝利の最大の要諦といっても過言ではありません。途中はどんなに辛く苦しくとも、へこたれない。あきらめない。粘り強く歩みを進めた人が、最後には必ず勝つのです。
 大聖人も金吾の人柄を「極めて負けじ魂の人であり、同志を大切にする人である」と、最大に讃嘆されています。
 「負けじ魂」の人には、決して悲愴感が漂うようなことはない。
 「負けじ魂 朗らかに」です。
 常に頭を上げ、前を向いて、胸を張り、朗らかに堂々と「負けじ魂」を発揮していくことです。
 私たちは「衆生所遊楽」の大仏法を持っているのです。「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(1143-05)です。すべてを見おろして、一歩また一歩と信心に励んでいけばよいのです。
 世界はますます深い仏法を求めている時代に入っています。
 一人一人が生まれ変わった息吹で、勇敢に楽しく賢く、広宣流布の大闘争を展開していこうではありませんか。これこそが、いかなる毀誉褒貶の八風にも微動だにしない、「賢人」の生き方です。

14                                           だんなと師とをもひあ
15 ひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、 我が身も・だんなも・
16 ほろび候なり。
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 このように、檀那と師匠とが心が同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので叶うわけがない。
 また、檀那と師匠とが心を同じくした祈りであっても、長い間、邪法によって正法を犯している人々の祈りはかなわないばかりか、わが身も檀那も、共に滅びるのである。

師弟共戦の祈りが根本
 八風に侵されない賢人の道を示された大聖人は、重ねて訴訟は思いとどまるべきであることを指摘されます。
 そして、実際に大聖人の仰せの通りに行動した大学三郎や池上宗仲の祈りは叶ったこと。後に退転した波木井実長は、大聖人の御指導に反してしまい、の祈りが少しは叶ったかもしれないが、思うような結果ではなかったことを例示されます。
 大聖人は結論として「だんなと師とをもいあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし」と述べられ、師弟の呼吸が一致した祈りが要諦であることを示されています。私たちが、何度も何度も拝してきた重要な御文です。
 大聖人は別の御書で「師弟相違せばなに事も成べからず」(0900-09)とも仰せです。
 「師弟不二」こそ、仏法の極意であり、根幹です。
 弟子が師匠に心を合わせ、広宣流布へ心を合わせ、真剣に祈り、戦っていく。その祈りは厳然と叶っていくことを確信して進んでいくことです。
 子弟と心を合わせる、呼吸を合わせるとは、「広宣流布の誓願」を同じくすることです。
 「一人を徹底して励ます行動」を同じくすることです。
 師匠ならば、どう祈り、どう考え、どう行動するのか。その一点を心の中心に置き、師の指導を胸に実践していく中に、師弟の呼吸は通い会うのです。
民衆のため国を救う大闘争
 さて、御文に戻れば、大聖人は、「弟子と師の思いが合っていたとしても、長年にわたって、勝れた法を劣った法をもって汚した人々の祈りは叶わないうえ、我が身も弟子も滅びてしまう」と仰せです。
 すなわち、師弟の呼吸が合った祈りであるとともに、妙法に基づいた祈りでなければならないと示されています。
 さらにこの御文の後段では、その具体的な事例として、大聖人は、天台座主や明雲が平家側につき、真言の祈禱を行ったことを挙げられます。
 源氏と平家の争いの時には、明雲が平家側につき、真言で祈りました。しかし、滅びたのは平家の方でした。朝廷と幕府の争いでは、朝廷側では慈円が真言で祈ったものの、同じく滅びたのは朝廷の方でした。
 このような歴史的事実があるにもかかわらず、大聖人は、真言にどのような誤りがあるのかを怪しむ人はいないと仰せです。
 この真言による2回のきとうによって、日本国内において、相対立する勢力の一方が敗北・滅亡しました。しかし、3回目となる真言による祈禱とは、朝廷・幕府ともにすがる蒙古の調伏です。
 その結果、もたらされるのは朝廷・幕府双方の滅亡であり、日本全体の亡国につながりかねません。
 幸不幸の正しい因果をわきまえて祈らなければ、今度は一国が滅びてしまう。一番苦しむのは民衆である。それだけは何としても食い止めなければならない。との大聖人の大慈悲が感じられてなりません。

14   されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく 御内をばいでず我かまくらにうちいて・さきざきよりも出仕とを
15 きやうにて・ときどきさしいでて・おはするならば叶う事も候なん、あながちに・わるびれて・みへさせ給うべから
16 ず、よくと名聞・瞋との。
-----―
 したがって、今度の所領替えのことについては、訴訟をおこさないで、また、主君を恨まずに、御内からも出ないで、自分はそのまま鎌倉にいて、以前よりも出仕とひかえて、ときどき出仕するようにしていったら、あなたの願いも叶うこともあるでしょう。決して悪びれた振る舞いをしてはいけません。欲や名聞名利を求めたる瞋る心をおこさないように。…。

門下に人間学の真髄を教える
 大聖人は、今後の金吾の具体的な行動について指導されていきます。
 訴訟を起こさないこと、また主君を恨まないことは、本抄前半で既に指摘された通りです。そして、江間家に仕えることをやめずに鎌倉にいて、そのうえで、以前よりも控えて時々、出仕するよう促されています。
 今は時を待って誠実に、忍耐強く行動せよ。金吾の置かれている状況をよく知悉されているがゆえの、的を射た御指導と拝されてなりません。
 また、決して悪びれた態度を見せてはいけないとも注意されています。金吾には全く非がありません。だからこそ、卑屈になる必要はなく、仏法者として堂々と振る舞うべきであることを教えられているのです。
 本抄の最後が「よくと名聞・瞋との」と、文章の途中で終わっているのは、これ以降の御文が失われ、伝わっていないためです。
 そのうえで拝察すれば「欲」に支配されてはならない。「名聞」に踊らされてもならない。「瞋」の心を露わにするのは愚かなことである。およそ、このような趣旨の戒めが続いていたのではないでしょうか。
 大聖人はこのように、折りにふれて、当時の金吾の境遇に適つた具体的な御指導を続け、人間学の真髄を教えられました。
 金吾も、こうした大聖人の御指南を深く心に刻み、その通りに実践する弟子でありました。今いる場所から逃げることなく、時を待ち、粘り強く戦い、人としての振る舞いに徹していったのです。
 やがて地域でも職場でも、見事な勝利の実証を示していきました。
一人を励ます行動が仏法に脈動
 このように、目の前で苦しむ一門下に対して、大聖人は何度も何度も激励・指導を重ねてこられました。師匠とは何と有り難い存在なのでしょうか。金吾もまた、その師の有り難さが分かる弟子でありました。
 徹底して一人を励まし抜く。これこそが、大聖人の御振る舞いに直結し、今、創価学会に貫かれる永遠不滅の魂です。
 牧口先生は、ご高齢にかかわらず、会員からの悩みを聞くと、すぐに行動に移される方でありました。
 青年に頼まれ、その家族への弘教のため、福岡県の八女にも訪れられました。三等車の堅い座席で、丸一日以上の旅でした。
 「なぜ、わざわざ、こんな遠くの一家族のところまで来てくださるのか」との質問に、牧口先生は「一人の本物の同志を育てたいからです」と答えられています。
 この大誠実の行動で、一人の青年を育成されたのです。
 戸田先生も人材育成の要諦を個人指導におかれていました。
 第2代会長に就任後、戸田先生は、市ヶ谷にあった学会本部の分室で、毎日のように学会員の個人指導にあたられました。当時の幹部たちは、分室に通い、先生の指導を真剣に見て学び、そのあり方を身につけていきました。
 すなわち、先生の個人指導とは、不孝に苦しむ学会員を何としても救いたいという大激励であると同時に、幹部の指導力を磨く、またとない機会ともなっていったのです。
 私も徹底して一対一の励ましの対話に取り組んできました。
 あの地でもこの地でも、日本であろうと海外であろうと、相手が、円熟の多宝の大先輩の時も、まだ幼き後継の未来部の友の時も。そして、その人が信心していようが、していまいが、徹して一人を。
 いかなる人であれ、目の前に縁した方に、何としても元気になってもらいたい。勇気を奮い起こしてもらいたい。励まさずにはいられない。ただただ、その一心で、全国・全世界を駆け巡ってきたのが、戸田先生と不二の私の人生であるといっても過言ではありません。
晴れ晴れと世界広布の本舞台に
 戸田先生は語られていました。
 「大作、学会の本当の偉大さが分かるのは200年後だ。200年先まで考えて、広布の盤石な路線を作っておくのだ」
 その「200年後」への中間点ともいうべき学会創立100周年が近づいてきました。これからが広布の正念場です。
 まして、広宣流布は万年の民衆を救う大聖業です。それゆえに、今、どう未来への手を打つのか。どう人材の城を築くのか。戸田先生のお心を我が心として、私は常に手を打ってきました。
 今、学会員の存在は社会で信頼と友情の絆を結び、次代を照らす松明として輝き、社会からの賞讃と期待を集める時代に入ってきました。三類の強敵を乗り越え、広宣流布の勢いが増しています。皆さまの尊い労苦のおかげで、世界中でSGIへの賛同の輪が広がっています。
 いよいよ世界広宣流布の新時代を迎えました。世界広布の本舞台です。従藍而青の時です。
 「創価の世紀」の到来です。
 だからこそ大事なのは「一人」です。
 大聖人が四条金吾を励まし、示されたように、一人一人が地域や社会から信頼される「賢人」となっていく。それが、世界広宣流布を実現していく実践です。
 「一人」が人間革命して、八風に侵されない賢人の生き方を確立していく。
 「一人」が発迹顕本して、今世における地涌の使命を果たし抜いていく。
 「一人」が元初の誓いに立ち返り、勇気と歓喜の行動を積み重ねていく。
 すべては「一人」から始まります。
 一人の「心」から、新時代が始まるのです。

1153~1162    頼基陳状top
         はじめにtop

頼基陳状について
 頼基陳状を講義するにあたり、まず最初に本抄御述作の背景と大意を述べることにする。
本抄御述作の背景
 頼基陳状は、四条金吾の主君江馬氏からの下し文に対して、頼基に代わって日蓮大聖人御自身が筆をとられ、その冤罪を訴えられた書状である。
 建治3年(1277)6月9日、鎌倉桑ヶ谷で問答が行なわれた。この時、日蓮大聖人門下の三位房日行が鋭い舌鋒をもって、当時名声をほしいままにしていた竜象房を完膚なきまでに破折したのである。居合わせた聴衆は、大いに歓喜し、三位房の説法を請うたほどであった。この時、頼基は聴衆の一人として参加していたにすぎなかった。だが、それから約半月後の6月25日、突然、下し文が主君から頼基のところに届けられた。
 下し文は、要約すると次のようである。
   (1) 頼基が桑ヶ谷問答の場で理不尽な行ないをした。
   (2) 頼基は主君が尊信している極楽寺良観、竜象房に批判を加えている。
   (3) 主親の考えに従うことが仏神の精神にも世間の礼儀にも手本であるのに、頼基は従わない。
 なお、陳状の末尾の文、並びに陳状を提出する際の細心の注意を認めた「四条金吾殿御返事」から、頼基に、法華信仰を止める旨の起請文を書くことを迫り、さもなければ所領を没収し、家臣を追放するとの内容が下し文に書かれていたことがわかる。
 頼基は、直ちに事件の発端である桑ヶ谷問答の顚末と、主君からの下し文とを添え、たとえ所領を没収されたとしても起請文は絶対に書かないことを、身延にいる大聖人のもとに急使を立て書状を送ったのである。
 急使は、25日の午後鎌倉を立ち、27日の午後6時頃には身延に到着した。日蓮大聖人は、頼基の堅牢な信心、死身弘法の覚悟を心から喜ばれた。また、事件の背後に、極楽寺良観と竜象房の暗躍があることを見抜かれている。そして、主君の下し文に対して、順次、頼基が応える形式で筆を起こされた御消息がこの「頼基陳状」である。
 この陳状は、あくまでも事実と道理に基づいたものであった。事実とは、桑ヶ谷問答の顚末であり、極楽寺良観と竜象房の真実の姿であった。前者は、問答の場における頼基の行動を明確にし、主君の疑惑を晴らすためであった。後者は、主君の帰依する宗教者の正体を通して、誤れる宗教への迷蒙を啓くことを目指したものであった。道理とは、世間と仏法の道理の上から、主君に仕える者の立ち場を明らかにし、頼基の立ち場を釈明されたものである。特に、主従の関係を単に現世だけで捉えるのではなく、現当二世の仏法の立ち場から述べられている。
本抄の大意
 はじめに、桑ヶ谷問答の場で頼基が武装の徒を率いて狼藉を働いたとの下し文に対して、これは事実と全く異なり、問答はどこまでも三位房と竜象房との法論であって、在家の頼基は聴衆の一人として参加していたにすぎない。従って、法論に口出ししなかったのはもとより、武装の徒を率いて法座に乱入したことなどは、全く身に覚えのない捏造であると真っ向から否定し、讒人達を召し合わせ真相の糾明を請うている。なお、その傍証に、桑ヶ谷問答の発端、問答応酬の経緯が詳述されている。
 次に、主君が尊信している極楽寺良観と竜象房に対して頼基は批判を加えているとの下し文に対して、良観と竜象房の虚像を排し、その実像を示し、主君の帰依に反省を促している。
 具体的にいえば、良観は表面的にどんなに上人顔を装い、「生き草でさえ伐るべからず」と高言しているが、日蓮最聖人を断罪するよう取り計らった張本人である。さらに、文永8年(1271)の祈雨の勝負の実態を通し、良観の誑惑ぶりを教えられている。
 竜象房も僧とは名ばかりの破戒の僧であり、人肉を食い鎌倉の心ある人びとから怖れられていることを教え、主君を諫められている。
 更に、主親の所存に従うことが仏神の精神にも、世間の礼にも手本であるとの主従関係のあり方を述べた下し文に対して、真実の主従関係について、微に入り細を穿った種々の観点からの回答がなされている。
 すなわち、儒教・仏教の文を引き、真実の主臣・親子の道を説き、頼基の立ち場を客観的に正当化されているのである。
 次いで阿闍世王に仕えた耆婆大臣の先例を挙げ、主君を阿闍世王に、頼基を耆婆になぞらえ、頼基が必ず主君を救っていくとの決意を披瀝されている。しかも主君の謗法の罪の深さを知ったために、主君を諫めないでいれば、与同罪になってしまうと、その苦衷が語られている。
 また、四条家が父子二代にわたり主君に命を捧げてきた事実を挙げ、頼基は、主君を決して疎遠に思ったりしていないと、変わらぬ忠誠心を示している。その上、主臣同時の成仏を願い、諸僧の説法を聞き、その結論として日蓮大聖人の法華経を信ずるに至ったと、入信の経緯を述べられている。
 然して、日蓮大聖人の法華経が他の諸経に比べてどんなに勝れた経であり、邪法がいかに人びとを不幸に導くものであるかを示唆されている。そして、この法華経により主君を救いたいと頼基が今日まで念願してきたのであると釈明されている。
 最後に、良観所依の小乗・律宗を大小相対の上から破折された後に、起請文の提出を拒否されている。つまり、頼基が起請文を提出するなら、主君に名越の公達の二の舞を踏ませてしまうと、厳しい生命の因果律の上から警告され、提出拒否の理由とされている。そして、重ねて讒人達を召し合わせてほしいことを要請し、本抄を結ばれている。 

1153:01~1153:10 第一章 桑ヶ谷問答の発端を述べるtop

1153
頼基陳状    建治三年六月    五十六歳御代作
01   去ぬる六月二十三日の御下文・島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿・両人の御承りとして同二十五日謹んで
02 拝見仕り候い畢んぬ、 右仰せ下しの状に云く 竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第をほかた穏便ならざる
03 由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合い候事驚き入つて候、徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。
-----―
 去る六月二十三日の御下し文は、島田の左衛門入道殿、山城の民部入道殿、両人のお取り次ぎで、同月二十五日、謹んで拝見しました。
 右の仰せ下しの状によると「竜象御房の御説法の場に行かれたときの成り行きは、およそ穏やかでなかったと、見聞していた人々が、みな一同に口を合わせて言っているのを聞いて驚いている。それによると、徒党の者が数人、武装して入り込んできた……」との仰せでした。
-----―
04   此の条跡形も無き虚言なり、 所詮誰人の申し入れ候けるやらん御哀憐を蒙りて召し合せられ実否を糾明され候
05 はば然るべき事にて候、 凡そ此の事の根源は去る六月九日日蓮聖人の御弟子・三位公・頼基が宿所に来り申して云
06 く近日竜象房と申す僧・ 京都より下りて大仏の門の西・桑か谷に止住して日夜に説法仕るが・申して云く現当の為
07 仏法に御不審存ぜむ人は 来りて問答申す可き旨説法せしむる間、 鎌倉中の上下釈尊の如く貴び奉るしかれども問
08 答に及ぶ人なしと風聞し候、 彼へ行き向いて問答を遂げ一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思い候、 聞き給
09 はぬかと申されしかども 折節官仕に隙無く候いし程に思い立たず候いしかども、 法門の事と承りてたびたび罷り
10 向いて候えども頼基は俗家の分にて候い一言も出さず候し上は悪口に及ばざる事・厳察足る可く候。
-----―
 このことは、なんの証拠もない虚言です。所詮、誰かがお耳に入れたことでしょうか。哀憐をいただき、その者と召し合わせられ、ことの実否を糾明されるならば最も妥当なことかと思われます。
 およそ、この事の根源は、去る六月九日、日蓮聖人の御弟子・三位公が、頼基の宿所に来て言うには「このごろ、竜象房という僧が、京都から、下って来て、大仏殿の門の西側の桑ヶ谷に居住して、日夜に説法している。その竜象房が言うには『現世と来世のために仏法について不審のある人は来て問答されるがよい』と説法している。そのために、鎌倉中の上下万民は、釈尊のように尊んでいる。しかしながら、誰ひとりとして問答をする人はいないと噂にきいている。私はそこへ行って問答をし、一切衆生の後生の不審を晴らしたいと思う。ついては同行して、聞かれてはどうか」と勧められたのです。だが、ちょうどその時は、官仕えで隙もなかったもので、思い立たずにいましたが、その後法門のことと承ったものですから、たびたび説法の場に出向いては行きましたが、頼基は在家の身分であるから、一言も発言はいたしませんでした。ですから、悪口などを言うことのなかったことは御厳察下さるに足ることと存じます。

御下文
 公武の上位者より下す公的文書。内容が要約されており、その形式は頭書に下文を下すとあって、次に本文、最後に年月日と連名連署されているのが一般的である。平安時代から鎌倉時代にわたって、諸官庁、諸家、寺社、荘園預所等の文書に広く用いられた。ここでは、四条金吾に下された主君江馬氏からの詰問状をさす。
―――
島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿
両人とも江馬氏の家臣と思われる。江馬氏の下文を四条金吾に取り付いた使者である。
―――
徒党の仁
あることを目論むために団結する仲間。
―――
三位公
 三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学していた博学の僧。早くから大聖人の門下となり、宗門内で重きをなし諸宗破折の中心として活躍した。だが、後に自己の才知にうぬぼれ、大聖人より才覚があるとさえ自負するようになった。このため、後年、後輩の日興上人が指揮していた賀島、熱原一帯の折伏応援に派遣されたものの、かえって、竜泉寺院主代・行智の甘言に乗り、日興上人に叛旗を翻して、迫害者を煽動した。弘安2年(1279)に変死を遂げている。
―――
頼基
四条金吾のこと。(~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
―――
竜象房
比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧で、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食して常用していたことである。これに気づいた山門の衆徒は行状を厳しく追及し彼の住房を焼き払われ、建治3年(1277)頃に鎌倉に下り、良観の後援によって桑ヶ谷に居住している。日蓮大聖人の弟子・三位房との法論に破れ、その後病に倒れている。
―――
桑か谷
鎌倉市長谷町桑ヶ谷。
―――――――――
 主君からの下し文が使者の手を経て頼基のもとに届けられたのは、6月25日のことであった。
 その下し文の内容は、周囲の人から聞いた頼基の理不尽な行動について責め、主君自身は、良観・竜象房を釈尊・弥陀のように尊崇していること、主君が信じているなら従臣もこれに従うのが臣下の道であること、さもなければ領地を没収する等といった全く一方的なものであった。
 本章では、「頼基が桑ヶ谷問答の場で理不尽な行ないをした」との下し文が全くの虚偽であることを強調され、以下に詳述する桑ヶ谷問答の発端が述べられているのである。
 そして、頼基は、法門問答には出向いたが、在家の身であり、一言も口をはさまないのみならず、悪口にも及んでいない。それは、主君が詳しく調べられればはっきりすることであると訴えられている。
桑ヶ谷問答の発端
 当時の鎌倉の民衆は、北条家の権力争いを直接間接に見、肉親同士の血で血を洗う醜い係争を通して、心ある者は人生の無常を感じていた。また、突然やってくる自然の脅威、外敵来襲の恐怖に眼前の無常を感じながら、現世に幸福を求めることより、死後の世界に成仏を求めようとする諦観の風潮がみられたのである。
 こうした状況下に京都から竜象房がやってきたのである。彼がいつ京都から、鎌倉に来たのかはさだかではない。ただ彼は鎌倉庶民の動揺を的確に捉え、その心を握ってしまったことは事実であり、そのことが彼の名声を上げるきっかけとなったのである。彼は、「現世と未来世の安穏のために仏法を求めなければならない。そこで、もし仏法に不審があるようならば、私のところへ来て問答し、その不審を晴らしなさい」と公言して憚らなかったのである。
 これほどの自信がかえって庶民に頼りがいのある高僧と映ったのであろう。激動の社会で、何を頼りにすべきか、その支えを見失い模索する庶民にとって、京都よりあらわれた僧の高言は、なににもまして力強い支えであり、柱と映ったにちがいない。それゆえ、竜象房のかつて行なった人間としてのあるまじき前歴など調べようとすらせず、たちまち、たぶらかされてしまったのである。
 こうした風潮に立ち向かったのが三位房である。彼は、日頃問答をよくし、京都鎌倉を往来して大聖人の仏法を説き回っていた。それゆえ、今こそ竜象房の邪義慢心と悪行を暴露し、妙法こそ民衆を救済する大法であり、わが師の振る舞いこそ、庶民を思うやむにやまれぬものであることをわからせるべく、頼基に呼びかけ、桑ヶ谷に出向いたのである。

1153:11~1154:18 第二章 桑ヶ谷問答(1)諸宗の誤りを糺すtop

11   ここに竜象房説法の中に申して云く 此の見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらる可くと申されし処に、
12 日蓮房の弟子・ 三位公問うて云く生を受けしより死をまぬかるまじきことはり始めて・ をどろくべきに候はねど
13 も、ことさら当時・日本国の災孼に死亡する者数を知らず眼前の無常・人毎に思いしらずと云ふ事なし、 然る所に
14 京都より上人・ 御下りあつて人人の不審をはらし給うよし承りて参りて候つれども 御説法の最中骨無くも候なば
15 と存じ候し処に・問うべき事有らむ人は各各憚らず問い給へと候し間・悦び入り候、 先づ不審に候事は末法に生を
1154
01 受けて辺土のいやしき身に候へども 中国の仏法・幸に此の国にわたれり 是非信受す可き処に経は五千七千数多な
02 り、然而一仏の説なれば所詮は一経にてこそ候らむに華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅とて十宗まで分れてをはしま
03 す、此れ等の宗宗も門は・ことなりとも所詮は一かと推する処に、 弘法大師は我が朝の真言の元祖・法華経は華厳
04 経・大日経に相対すれば門の異なるのみならず其の理は戯論の法・無明の辺域なり、 又法華宗の天台大師等は諍盗
05 醍醐等云云、法相宗の元祖慈恩大師云く「法華経は方便・深密経は真実・無性有情・永不成仏」云云、華厳宗の澄観
06 云く「華厳経は本教.法華経は末教・或は華厳は頓頓.法華は漸頓」等云云、三論宗の嘉祥大師の云く「諸大乗経の中
07 には般若教第一」云云、浄土宗の善導和尚云く「念仏は十即十生・百即百生・法華経等は千中無一」云云、法然上人
08 云く「法華経を念仏に対して捨閉閣抛或は行者は群賊」等云云、禅宗の云く「教外別伝・不立文字」云云、教主釈尊
09 は法華経をば世尊の法は久しくして 後に要当に真実を説きたもうべし、 多宝仏は妙法華経は皆是真実なり十方分
10 身の諸仏は舌相梵天に至るとこそ見えて候に弘法大師は法華経をば戯論の法と書かれたり、 釈尊・多宝・十方の諸
11 仏は皆是真実と説かれて候、いづれをか信じ候べき、善導和尚・法然上人は法華経をば千中無一・捨閉閣抛・釈尊・
12 多宝・十方分身の諸仏は一として成仏せずと云う事無し皆仏道を成ずと云云、 三仏と導和尚・然上人とは水火なり
13 雲泥なり何れをか信じ候べき何れをか捨て候べき・ 就中彼の導・然両人の仰ぐ所の雙観経の法蔵比丘の四十八願の
14 中に第十八願に云く「設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く」と云云、 たとひ弥陀の本願実にして往生
15 すべくとも、 正法を誹謗せむ人人は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか・又法華経の二の巻には「若し人信ぜざれ
16 ば其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、 念仏宗に詮とする導・然の両人は経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給
17 ふべしや、彼の上人の地獄に堕ち給わせば末学・弟子・檀那等・自然に悪道に堕ちん事・疑いなかるべし、此等こそ
18 不審に候へ上人は如何と問い給はれしかば。
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 ここに、竜象房は、説法の中で「この見聞満座の人びとの中で、法門にご不審のある人は尋ねられるがよい」と申されたので、日蓮房の弟子・三位公が質問していうには、「生を受けたときより死をまぬかれないという道理は、いまさら、驚くべきことではありませんが、とりわけ、当時、日本国の災難で死亡する者は数えきれません。眼前の惨状を見て、無常を観じない者は一人もいません。
 そうしているところに、京都から上人が来られ、人びとの不審を晴らされるということを承って来ましたが、ご説法の最中では無作法にあたってはと思っていましたところ、質問のある人は各々、誰にも遠慮せずに尋ねなさいとのことで悦んでおります。
 先ず不審に思うことは、末法の世に生まれ、仏の出現したインドから遠く離れた辺土の卑しい身分でありますが、仏法の中心の国の仏法が幸いにもこの日本の国に渡ってきました。是か非でも信受したいと思うのですが、経文が、五千、七千と数多くあります。しかも一仏の説ですからその所詮は一経であるはずなのに、華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅と宗教界は十宗にまで分かれています。これらの諸宗も宗門は異なっているとはいえ、究極は一つであろうとおしはかっていましたところ、弘法大師はわが国の真言宗の元祖で、『法華経は華厳経、大日経に相対すると、門が異なるばかりでなく、その理は戯論の法で、無明の分際である』といい、また、『法華宗の天台大師等はあらそって六波羅蜜経の醍醐を盗んだ』等と言っています。法相宗の元祖・慈恩大師は『法華経は方便であり、深密経は真実である。そして、無性有情の二乗は永く成仏できない』と説いています。また華厳宗の澄観は『華厳経が根本の教であり、法華経は枝末の教である』あるいは、『華厳経は、速かに仏果を得る頓々の教であるが、法華経は次第に仏果を得る漸頓の教である』等といっています。また三論宗の嘉祥大師は『諸の大乗経の中で般若教が第一である』といい、浄土宗の善導和尚は『念仏を修行する者は、十人が十人、百人が百人往生するが、法華経等では、千人に一人も成仏しない』といっています。更に法然上人は『法華経を念仏に対して、捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』といい、あるいは『法華経の行者は群賊である』と。禅宗では『仏法の神髄は一切経の外の別伝であり、文字によらない』といっています。
 しかし、教主釈尊は、法華経を『世尊は法を久しく説いて後に、必ず真実の教えを説くのである』といい、多宝仏は『妙法蓮華経は皆是真実である』と証明を加え、十方分身の諸仏も真実証明のため、『広長舌を梵天まで至らしめた』と経文に説かれています。だが、弘法大師は『法華経を戯論の法』と書いています。釈尊、多宝、十方の諸仏は『法華経は皆是れ真実』と説いていますが、いずれを信ずべきでしょうか。
 また、善導和尚と法然上人は法華経を『千人に一人も成仏しない』『捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』と説いています。これに対して釈尊、多宝、十方分身の諸仏は『法華経では一人として成仏しないということはない。皆ことごとく仏道を成ずる』と説いています。釈尊、多宝、十方分身の諸仏の三仏と善導和尚・法然上人の説とは水火・雲泥の相違です。一体、いずれを信じ、いずれを捨てるべきなのでしょうか。
 とりわけ、彼の善導・法然の両上人が尊ぶ雙観経の法蔵比丘の四十八願の中の十八願には『設い我れ仏を得るとも……唯五逆罪を犯したものと正法を誹謗した者は除く』とあり、たとえ阿弥陀の本願が真実であって往生できるとしても、正法を誹謗する人々は阿弥陀仏の往生から除かれるはずである。また、法華経の二の巻には『若し人がこの法華経を信じないならば、その人は命終えて無間地獄に堕ちる』と説かれています。念仏宗を仏法の詮要とする善導・法然の両人は、これらの経文が真実であるならば無間地獄をまぬかれることができるでしょうか。彼の両人が地獄に堕ちられるなら、その流れを汲んだ者・弟子・檀那らも、自然に悪道に堕ちる事は疑いないことです。
 これらのことこそ不審なことです。竜象上人はこれをどう考えられますか」と三位公は問い糺されました。

災孼
 災い、災害。
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無常
 常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
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辺土
 片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。
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中国の仏法
 中国とは「仏法の中心地」のことで、当時はインドを指していた。したがって、インドの仏法のことをいう。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
八宗
 奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わせて八宗という。
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浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
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 ①禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。②座禅による仏道修行法。
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十宗
 奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わた八宗に浄土宗、禅宗を合わせ十宗という。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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法華経は……戯論の法、無明の辺域
 弘法が説く邪義。その著「十住心論」において、真言のみが戯論を離れた仏乗の教であるとし、法華経はじめ諸経は全て戯論と批判した。またその著「秘蔵宝鑰」巻下の第八の「一道無為心」の中で、法華経は無明の分際であり真言密教は悟りの分際であると説いている。
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諍盗醍醐
 「争って醍醐を盗む」と読む。天台が六波羅蜜経の醍醐を盗んで、法華宗につけたとする弘法の邪義。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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慈恩大師
 (0632~0862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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法華経は方便、深密経は真実、無性有情永不成仏
 法相宗で説く邪義。深密経で五性各別を説き、人の性質は①声聞種性、②独覚種性、③如来種性(菩薩種性)、④不定種性、⑤無性有情の五種の決定的な差別があるという。そして、「無性有情」は声聞・縁覚・菩薩となる性がない有情であり、永久に成仏できないと説く。出世功徳の因を欠くとして「無有出世功徳性」とも呼ぶ。この法相宗の立場より三乗経を依経とする深密経は真実であり、諸法実相を説いて十界の平等を説く法華経は方便と邪義を立てるのである。
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深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
無性有情・永不成仏
 法相宗で説く邪義。深密経で五性各別を説き、人の性質は①声聞種性②独覚種性③如来種性④不定種性⑤無有出世功徳性(無性衆生)の五種の決定的な差別があるとし、無性有情は、声聞・縁覚・菩薩となる性がないので、永久に成仏できないと説く。
―――
澄観
 (0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
―――
華厳経は本教、法華経は末教
 華厳宗の「五教章」で一切経に五教十宗の教判を立て、一応華厳経と法華経とを円教と位置づけている。しかし、円教をさらに本末に分け、華厳は本であり、法華は末であると説き、華厳経こそ一切経の根本の教えであるとしたのである。
―――
華厳は頓頓・法華は漸頓
 頓頓は頓教の機根に対して説く即身成仏の教法。漸頓は漸教の機根に対して説く即身成仏の教法。華厳宗の澄観は、華厳の円は頓説中の円教であり、法華の円は漸説中の円教であるから、華厳は法華に勝るとの邪義を立てた。
―――
三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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嘉祥
 (0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
―――
善導和尚
 (0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
―――
念仏は十即十生、百即百生、法華経等は千中無一
 善導の著「往生礼讃」の序説の文。十人が十人、百人が百人、全員が極楽浄土へ往生するという意味。釈迦一代聖教中、観無量寿経のみが成仏得道の経であり、法華経など他の一切の経経では、千に一つも往生できないと説く浄土宗の立義。
―――
法然
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
―――
教外別伝、不立文字
 禅宗の教義で、仏法の真髄は経の外にあり、それは釈迦から迦葉に、文字によらずひそかに伝えられ、それを伝承したのが禅宗であると説く。文字を立てず自身の心を師とする等、仏典を曲げて解釈するので天魔の教えといわれる。
―――
舌相梵天
 神力品の偈文の冒頭に「諸仏救世者、大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現じたもう。舌相梵天に至り、身より無数の光を放って、仏道を求むる者の為に、此の希有の事を現じたもう」とある文をさす。
―――
釈尊
 釈尊とは通常釈迦牟尼仏をさすが、六種の釈尊がある。①蔵教の釈尊②通教の釈尊③別教の釈尊④法華経迹門の釈尊⑤法華経本門の釈尊⑥法華経本門文底の釈尊である。⑥を教主釈尊といい、久遠元初の自受用報身如来たる日蓮大聖人である。
―――
多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
導・然
 善導と法然のこと。
―――
雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
法蔵比丘の四十八願
 浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵比丘が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。『仏説無量寿経』のサンスクリット原典[2]である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
―――
設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く
 阿弥陀仏48願中の第18願。念仏往生願のこと。「たとい我仏を得んに、十方の衆生至心に信楽 して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。
―――
往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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 本章は、桑ヶ谷問答における三位房の竜象房への質問が述べられている。
 三位房は、竜象房との問答の機会をうかがっていた。なぜなら、衆人の注視の中で、竜象房の邪義を糺し、更には、仏法に迷う庶民の迷妄を晴らすために、桑ヶ谷まで出向いてきたからであった。
 そこに、竜象房からの「仏法について不審のある人は遠慮なく質問しなさい」との誘いをとらえ質問に入ったのである。
 その内容は、当時の社会が直面する時代状況を踏まえて、混乱の宗教界の実態を語り、その中でいかなる宗教を信ずるのが正しいのかという信仰者にとって最も基本的でかつ根本的な問いを提起し、鋭く竜象房の見解を求めたものであった。
 つまり、当時、社会は三災七難が相次ぎ、死者の数はおびただしく増え、その死者を眼前に見て、誰もが無常の人生を深く感ぜざるを得ないほど厳しい現実に直面していたのであった。無常観、末世観の支配的な世の中にあって、人びとの心は、暗い闇夜のような人生と社会とを打ち破る力強い太陽のような大宗教の出現を痛切に渇仰し、待望していたといえよう。
 ところが、人びとの行動の原点、精神的な支柱ともいうべき宗教は、現実には、混乱を窮め、八宗、十宗と分かれていて、しかも、各宗・各派とも他宗を排斥し、自宗のみが最高の宗教であると主張し合い、互いに一歩も譲らない様相を呈していた。
 そこで、三位房は、仏道を求める求道者の立場から、また、幸福を願う庶民の気持ちに立って、一体、いかなる宗教を信ずることが、末法の時代相応の信仰なのかを竜象房に問うたのである。だが、三位房自身にとっては、何が正しい宗教であり、何が誤れる宗教であるかは、もとより承知のことであった。だから、満座の聴衆を妙法に導くという目的から、邪師竜象房を破折しようとしたのであろう。
 そして、三位房は、宗教を信ずるうえで、信ずる宗教の選択がどれほど大事であるかを、広く社会に瀰漫している念仏宗を取り上げ示した。すなわち、念仏宗の元祖の末路は、法華経、更には彼らの依経である雙観経等の経文に照らして、無間地獄に堕ちたことは間違いない。故に、彼らの弟子檀那等も全く同じ方程式で無間地獄に堕ちることは疑う余地のないことであると警告したのであった。
 この質問の意味するものは、まことに重要な問題を秘めている。すなわち、信ずる宗教が真に信ずるに値する宗教であるか否かを確認しないで信仰するならば、開祖と同じ轍を踏まなければならないということである。たとえば、行先を確認しないで乗り物に乗り、気がついたら、とんでもない方向に向かっていたようなものである。幸福を求め仏法の世界に入っても、仏法の選択で誤りを犯すならば、その人の人生は不幸を招来するとの厳しい法理である。宗教が根本において間違っていたならば、どんなに真面目に人生を歩んだとしても、人びとの生命を歪め、不幸の人生を歩まざるをえない。
 それは、あたかも、大海原を航行する船舶に羅針盤が不可欠であるようなものだ。それゆえ、人間にとっては、その行動の座標軸ともいえる確固不動の力ある宗教を探し求めることが最も肝要であるといえよう。

1155:01~1156:10 第三章 桑ヶ谷問答(2)正師の実践を明かすtop

1155
01   竜上人答て云く上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき、 竜象等が如くなる凡僧等は仰いで信じ奉り候と答え
02 給しを、 をし返して此の仰せこそ智者の仰せとも覚えず候へ、 誰人か時の代にあをがるる人師等をば 疑い候べ
03 き、但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依つて人に依らざれ」と見えて候、 人師にあやまりあらば経に依れ
04 と仏は説かれて候、 御辺はよもあやまりましまさじと申され候、 御房の私の語と仏の金言と比には 三位は如来
05 の金言に付きまいらせむと思い候なりと申されしを。
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 竜上人がそれに答えていうには、「昔の賢人や哲人達をどうして疑うことができよう。竜象のような凡僧等はただ仰いで信ずるのみである」と答えたのです。
 三位房はその言葉を押し返して、「この仰せこそ、智者の仰せの言葉とも思われません。誰が、その時代に仰がれた人師らを疑うでしょうか。但し、涅槃経に仏の最後の御遺言として、『法に依って、人に依ってはならない』と説かれております。もし人師に誤りがあるならば、経文に依りなさいと仏は説かれているのです。御房はまさか先師に誤りがないといわれます。だが、御房の私的な言葉と仏の金言とを比べるならば、この三位は如来の金言のほうを信じていこうと思うものです」といわれました。
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06   象上人は人師にあやまり多しと候は・いづれの人師に候ぞと問はれしかば、上に申しつる所の弘法大師・法然上
07 人等の義に候はずやと答え給い候しかば・ 象上人は嗚呼叶い候まじ我が朝の人師の事は忝くも問答仕るまじく候、
08 満座の聴衆皆皆其の流にて御座す 鬱憤も出来せば定めてみだりがはしき事候なむ恐れあり 恐れありと申されし処
09 に、 三位房の云く人師のあやまり誰ぞと候へば 経論に背く人師達をいだし候し憚あり・ かなふまじと仰せ候に
10 こそ進退きはまりて覚え候へ、  法門と申すは人を憚り世を恐れて仏の説き給うが如く経文の実義を申さざらんは
11 愚者の至極なり、 智者上人とは覚え給はず悪法世に弘まりて人悪道に堕ち 国土滅すべしと見へ候はむに法師の身
12 として争かいさめず候べき、然れば則ち法華経には「我身命を愛まず」涅槃経には「寧ろ身命を喪うとも」等云云、
13 実の聖人にてをはせば 何が身命を惜みて世にも人にも恐れ給うべき、 外典の中にも竜蓬と云いし者、比干と申せ
14 し賢人は頚をはねられ胸をさかれしかども夏の桀・殷の紂をば・ いさめてこそ賢人の名をば流し候しか、内典には
15 不軽菩薩は杖木をかほり師子尊者は頭をはねられ 竺の道生は蘇山にながされ法道三蔵は面に火印を・ さされて江
16 南に・はなたれしかども正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しかと難ぜられ候しかば。
-----―
 そこで、象上人は、「人師に誤りが多いというのは、どの人師を指していうのか」と問われたので、三位公は「前にいったところの弘法大師や法然上人等の義ではありませんか」と答えられました。象上人は「ああ、それは容易ならないことである。わが国の人師のことは、恐れ多くて、問答を差し控えたい。この満座の聴衆は皆、弘法大師や法然上人の流れの人々である。抑えきれない怒りや、不満が出て、きっと乱れるようなことになるであろう、実にその恐れがある」といわれたので、三位房は「人師の誤りとは誰のことかといわれたので、経論に背く人師達を出したのです。それなのに、聴衆を憚り、問答ができないといわれることこそ進退きわまったとしか思えません。法門というのは、人を憚り世を恐れて、仏の説いた通りに経文の実義をいわないのは、愚者の至極です。智者上人とは思われません。悪法が世に弘まり、人々が悪道に堕ち、国土が滅びようとしているのに、法師の身として、どうして諫めずにいられましょうか。それゆえ、法華経には『我れ身命を愛まず』と説かれ、涅槃経には『寧ろ身命を喪うとも法を弘める』と説かれています。真実の聖人であるならば、どうして身命を惜しんで世間や人を恐れることがありましょうか。外典の中にも竜蓬という者、比干という賢人はそれぞれ頚をはねられ、胸をさかれたけれども、主君である夏の国の桀王や殷の紂王を諌めて賢人の名を末代まで伝えました。仏典には、不軽菩薩は杖木の責めを蒙り、師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は面に火印をされて江南に追放されましたが、正法を弘めた故に、聖人の名を得たのではないですか」と非難したのでした。
-----―
17   竜上人の云くさる人は末代にはありがたし 我我は世をはばかり人を恐るる者にて候、さやうに仰せらるる人と
18 ても・ことばの如くには・よもをはしまし候はじと候しかば。
-----―
 竜上人はそれに答えて「そのような賢人・聖人は末世にはありえない。我々は世を憚り、人を恐れる者である。そういわれる貴僧も、いわれた言葉どおりにはまさかなさっていないでしょう」といわれたのです。
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1156
01   此の御房は争か人の心をば知り給うべき 某こそ当時日本国に聞え給う日蓮聖人の弟子として候へ、 某が師匠
02 の聖人は 末代の僧にて御坐候へども 当世の大名僧の如く望んで請用もせず人をも 諂はず聊か異なる悪名もたた
03 ず・只此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法・並に謗法の諸僧満ち満ちて上一人をはじめ奉りて下万民に至るまで御
04 帰依ある故に法華経・教主釈尊の大怨敵と成りて現世には天神・ 地祇にすてられ他国のせめにあひ、後生には阿鼻
05 大城に堕ち給うべき由・ 経文にまかせて立て給いし程に此の事申さば大なるあだあるべし 申さずんば仏のせめの
06 がれがたし、 いはゆる涅槃経に「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば 当に知る
07 べし是の人は仏法の中の怨なり」等と云云、 世に恐れて申さずんば我が身悪道に堕つべきと 御覧じて身命をすて
08 て去る建長年中より今年建治三年に至るまで二十余年が間・あえて・をこたる事なし、 然れば私の難は数を知らず
09 国王の勘気は両度に及びき、 三位も文永八年九月十二日の勘気の時は 供奉の一人にて有りしかば同罪に行はれて
10 頚を・はねらるべきにてありしは身命を惜むものにて候かと申されしかば。
-----―
 それに対して、三位公は「あなたにどうして人の心がわかるでしょうか。私こそ現在、日本国にその名の聞えた日蓮聖人の弟子として身を置く者です。私の師匠の聖人は末代の僧でありますが、当世の大名僧のように自分から望んで人に招かれもしませんし、人にも諂わず、いささかの世間的な悪名も立ちません。ただ、この国に真言宗・禅宗・浄土宗等の悪法、ならびに謗法の諸僧が充満して、上一人を始めとして、下万人に至るまでそれらの宗に帰依しているために、法華経・教主釈尊の大怨敵となって、現世には、天神・地祇に捨てられ、他国の攻めにあい、後生には、阿鼻地獄に堕ちることを、経文に従って申し立てられているのです。だがこの事を言うならば大きな難がある。しかし、言わなければ仏の責めをのがれがたい。いわゆる涅槃経には『若し善比丘がいて、仏法を壊る者を見て置いて、その者を呵責せず、追い出しもせず、その罪を責めないならば、まさしくその比丘は仏法の中の怨敵である』と説かれている。
 世間を恐れて言わなければ、我が身が悪道に堕ちることを御覧になって、身命を捨てて、去る建長年間から今年建治三年に至るまでの二十余年の間、怠ったことはないのです。
 そうであるから私的な難は数えきれないし、国王のご勘気は二度に及びました。この三位も文永八年九月十二日のご勘気の時は、お供の一人であったので同罪に問われ、頚をはねられるところでした。それでも、身命を惜しむ者であるといわれるのか」と反詰したのでした。

涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
法に依って人に依らざれ
 仏法を判断する場合、仏の説いた経文によるのであって、誤った人師の言を用いてはならないこと。涅槃経で説く法の四依の一つ。涅槃経四依品第八には「法に依りて人に依らざれ。義に依りて語に依らざれ。智に依りて識に依らざれ。了義経に依りて不了義経に依らざれ」とある。
―――
我身命を愛まず
 「不自惜身命」と同義。わが身をもって命がけで仏法を守ること。
―――
寧ろ身命を喪うとも
 涅槃経菩薩品第16の文。「譬えば王使の善能談論し方便に巧みなる命を他国に奉け寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し、智者も亦爾なり凡夫の中に於て身命を惜まずして要必大乗方等を宣説すべし」とある。正法を弘める者の真実の姿を説かれたもの。
―――
竜蓬
 中国古代夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた忠臣。桀王はたいへんな暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。
―――
比干
 中国古代の殷王朝の人。殷の紂王の叔父といわれる。殷の三仁の一人で、史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。
―――
夏の桀
 夏の桀王のこと。夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
―――
殷の紂
 殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
師子尊者
 師子、師子比丘ともいう。付法蔵最後の伝灯者。釈迦滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び付嘱を受けて仏法を弘めたといわれる。景徳伝灯録によれば罽賓国において仏法を流布していたとき、外道二人が師子尊者を妬み、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、七日の後に命が終わったという説話がある。
―――
竺の道生
 中国東晋の時代から南北朝の宋の時代にかけて活躍した高僧。竺法汰につき出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。当時、衆僧がいたずらに文字に執して円義をみないのに憤り、法華経の義によって頓悟成仏の説を立て、「二諦論」「仏性当有論」等を著わし、これに反対する守文の徒と論争した。さらに般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に流された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0424)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
―――
法道三蔵
 中国北宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗皇帝が、仏僧の称号をことごとく改めようとした。それに対して法道は上書してこれを諌めた。これを皇帝は怒り法道の顔に火印を押し、江南の道州に放逐した。なお、法道はその後、宣和7年(1125)に許されて帰った。
―――
火印
 鉄の焼き印。
―――
天神
 ①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
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地祇
 大地を司る神。大地を堅牢にする神。
―――
阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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 本章は、桑ヶ谷問答における三位房と竜象房との問答応酬の場面である。
 前章では、三位房が、混乱の宗教界の中で一体いかなる宗教を信じたらよいのか、また、当時の社会に支配的であった念仏宗の元祖らの末路を彼らの依経としている雙観経、ならびに法華経の経文に照らして述べ、念仏宗を信ずる弟子・檀那も同じ運命を辿るであろうがどうか、と竜象房に問うたのであった。
 竜象房は、前述のとおり、鎌倉中の上下万民から釈尊の再来のような尊信を受け、しかも、問答では及ぶ人がいないといわれるほど風聞の高い僧であった。ゆえに、三位房の質問に対して、いかなる回答を与えるであろうかと満座の聴衆はかたずを呑み傾聴していたことであろう。三位房にとっても当然、名にし負う竜象房からの鋭い回答を予想していたに違いない。
 だが、現実には、期待に反して、全く貧弱な内容であった。つまり、竜象房は、いかなる宗教が末法適時の真実の宗教であるかも知らず、また、念仏の信者の末路がどうかを示すための素養もなければ規範も持ち合わせていなかったのである。そのため、三位房に限らず、満座の聴衆に対して、納得のいく回答を与えることはできなかった。そしてその回答は、いきおい、月並みで口当たりのいい、しかも権威をかさに着た発言となったのである。「上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき。竜象等は仰いで信じ奉り候」との文がそれである。
 そこで三位房は、弘法・法然等の人師を依処に仏法の判断をする竜象房の誤りを指摘し、あくまで、仏の金言により時代相応の真実の仏法を見究めなくてはならないとの規範を教えることから始めざるをえなかったのである。
 だが、竜象房は、真実の仏法を探る規範を指摘され直ちに改俊するような有羞の僧ではなかった。かえって、平然と、大衆に迎合し大衆を恐れて、わが国の人師に関する回答を控えたいという始末であった。つまり、竜象房の発言は、権威の座を依り処に、保身のために、平気で大衆にも迎合し、仏法を第二義と考えるものであったといえよう。
 したがって、三位房は、宗教者の布教の態度は一体どうあるべきかを竜象房に糺す結果となった。つまり、真実の仏法の実践者とは、世間とか人を恐れず命がけで仏法を弘めゆく勇気ある人であることを訴え、さらに、経文を引き、また死身弘法の実践者の先例を引き、重ねて、竜象房の姿勢を糺している。
 それでも、竜象房は、自身の迷妄から少しも目覚めることなく、厚顔無恥にも、死身弘法の実践者などは末法には存在しえないというありさまであった。
 そこで、やむなく、三位房は自身の素性を明かし、師匠・日蓮大聖人の立宗以来の20余年間にわたる絶えざる死身弘法の実践を述べたのである。そして、竜口の法難の際には、三位房自身も供奉の一人として同罪に行なわれ頸をはねられるところであったことを語り、死身弘法の実践者の一人であると反詰したのである。
法に依って人に依らざれ
 涅槃経に説かれた文で、仏滅後に衆生を利益する立ち場の導師が必ず遵守すべきことを説いた法の四依の一つである。その文意は、誤った人師の言説を足掛りに法の正邪を理解し判断するのではなく、仏説を唯一の依処にすべきことを示している。
 ここに、三位房が引用したのは、竜象房の過ちを糺すことはもとより、問答を進めるうえでの前提条件ともいうべき不可欠な判断の基準を示すために用いられたのであり、仏説を依処に論議の展開をなすべきことを確認したといえる。
 竜象房は、「上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき云云」の文に象徴されるように、法を軽視し、人に全幅の信頼をおいた体裁のよい示威ともとれる回答を三位房に与えたのであった。そこに、宗教者ならば、当然、法を依処に発言すべきであるのに、残念ながら、法を忘れた人間の陥り易い悲しい権威主義と保身主義とを垣間みることができるのである。
 それでは、竜象房は、どうして法を忘れ、人を強調した回答をしたのであろうか。それは、「人」と「法」との明確な位置づけを理解していなかったことはいうまでもない。だが、竜象房は、人の示威の荘厳さを楯に満座の聴衆の面前で、自身の立ち場を正当化しようとした傲慢な態度をみることができる。つまり、人間性の悪の面の代表ともいえる傲慢さが頭をもたげ、人を表に立てて法を軽視した態度にでたといえよう。そこに、権威主義と自己保身の温床があることはいうまでもあるまい。そしてまた、法を軽視し人を絶対視する姿勢は、適当なところで妥協するという安易な態度を生みやすいものである。三位房から誤った人師とは、弘法大師や法然上人のことであると指摘されるとたちまち、その問答については差し控えたいと発言するに及んだのはその典型である。
 当時、仏教の教義を説き、論議するのに、ほとんどは人師・論師の言葉を用いていた。大聖人は、まず原典である経典をもって判ずべきことを主張され、諸宗と戦われたのである。弟子の三位房もこの原則を主張し、竜象房との問答に臨んだのである。
 以上、「法に依って人に依らざれ」の文を竜象房に対し適用してきたが、この御文は、真実の仏法の実践者に適用すると、そのまま厳しい指導・警告を含んだものとなる。つまり竜象房の犯した誤りは、そのまま、仏法を知らない人一般にも当てはまる方程式であるからだ。仏法を知らない人びとが仏法を理解し判断するのは、法そのものに迫り仏法を理解するのはごくまれであって、たいていは法を持った人の具体的な日常の振る舞いを通じて仏法を判断するということである。したがって、真に仏法を行ずる実践者は、そのことを深く銘記し、法の体現者にふさわしい活動を展開したいものである。
法門と申すは、人を憚り世を恐れて、仏の説き給うが如く経文の実義を申さざらんは愚者の至極なり。智者上人とは覚え給はず。悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争かいさめず候べき
 竜象房に対して真実の法師のあり方を諭した御文である。
 竜象房は、前述のとおり、三位房の仏法に関する不審に対して何ら満足のいく回答をあたえられないのみか、三位房に誤った人師を依処にしていることを指摘されるや、自己保身から聴衆を恐れ、問答を回避しようと言い出す始末であった。どんなに巧妙に言辞を飾り、世間の風評を博したとしても、窮地に追いやられると人間の本性は現われるものである。決局、それは、竜象房の宗教そのものに対する甘さ、無知、並びに、宗教者としての資格のなさを暴露したといってよい。
 なぜなら、本来、宗教というものは、精神的な慰安や道徳性を説くのが主眼ではなく、この厳しい現実社会に生きる人間の規範ともいえる法を説いたものであり、その法による人間変革に宗教の生命がある。したがって、苦悩に沈む民衆の姿や、不安と混乱の社会を眼前に見て、手を拱いているのではなく、その人間苦の解決に本気になって取り組むことに宗教者の使命と目的があるからである。
 そこで、宗教者本来の使命と目的を忘れ、徒らに自己保身にその身をやつす竜象房の振る舞いは、まさしく愚者の至極であり、智者上人とは思えないと断言しているわけである。
 それでは、智者――真実の法師とは具体的にはどのような人をいうのであろうか。一言でいえば、智勇兼備の仏法の指導者ということができよう。すなわち、「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見え候はむに、法師の身として争かいさめず候べき」との御文によれば、悪法の流布が人間を不幸に導く根本原因であることを知った智人であるという立ち場と、不幸の根本原因を知っただけではなく、不幸の元凶を断ち切るために勇敢に諫暁しゆくという実践の立ち場とを兼ね備えた指導者であることが肯けよう。つまり、言葉や観念のうえで知っているだけではなく、知り得たことを基盤にして具体的な実践活動へと運動を高めていく指導者こそ、真実の法師であり、智人であるといえる。その根源の師こそ、日蓮大聖人であることは本章の後半に縷々述べられている。

1156:11~1157:05 第四章 桑ヶ谷問答(3)問答の終結top

11   竜象房口を閉て色を変え候しかば 此の御房申されしは是程の御智慧にては人の不審をはらすべき由の仰せ無用
12 に候けり・苦岸比丘・勝意比丘等は我れ正法を知りて人をたすくべき由存ぜられて候しかども 我が身も弟子・檀那
13 等も無間地獄に堕ち候き、 御法門の分斉にてそこばくの人を救はむと説き給うが如くならば 師檀共に無間地獄に
14 や堕ち給はんずらむ今日より後は 此くの如き御説法は御はからひあるべし、 加様には申すまじく候へども悪法を
15 以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば 返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめ・ のがれ
16 がたき上聴聞の上下皆悪道にをち給はん事 不便に覚え候へば此くの如く申し候なり、 智者と申すは国のあやうき
17 を・いさめ人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ、 是はいかなるひが事ありとも世の恐しければ・いさめ
18 じと申されむ上は力及ばず、 某は文殊の智慧も富楼那の弁説も 詮候はずとて立たれ候しかば、 諸人歓喜をなし
1157
01 掌を合せ今暫く御法門候へかしと留め申されしかども・ やがて帰り給い了んぬ、 此の外は別の子細候はず・且つ
02 は御推察あるべし・ 法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、
03 しかしながら御ぎやうさく有る可く候・ 其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答
04 の様かたり申し候き、 又た其の辺に頼基しらぬもの候はず只頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや 早早召し合
05 せられん時其の隠れ有る可らず候。
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 竜象房はこれを聞き口を閉じ、顔色を変えてしまいました。そこで三位房のいったことは「この程度の知恵では人の不審を晴らそうなどの高言は無用でしょう。昔、苦岸比丘や勝意比丘らは、自分は正法を知ったから人を救ってやろうと思っていたのですが、我が身も弟子・檀那らも共に無間地獄に堕ちました。
 あなたの法門の程度で多くの人を救おうなどと説法するようであれば、師檀共に無間地獄に堕ちるのではないでしょうか。今日よりのちは、このような説法は考え直されるがよい。このようにはいうまいと思ったけれどもいわなければ『悪法をもって人を地獄に堕そうとする邪師を見ながら責め顕わさないならば、返ってそれは仏法の中の怨である』との仏の戒めが免れがたく、その上、説法を聴聞している全ての人々が悪道に堕ちることが不便に思われたので、このようにいうのです。智者というのは、国の危機を諫め、人の邪見を止めることこそ智者ではないでしょうか。あなたは、どのような誤りがあろうとも世間が恐ろしいので諫めないといわれる以上はどうしようもございません。もはや文殊の智慧も富楼那(ふるな)の弁説も役には立ちません」といって座を立たれると、諸人は歓喜して、掌を合わせ、「いましばらく御法門をお聞かせ下さい」と引き止めました。だが三位房は、そのまま帰られてしまいました。
 以上のことのほかには別のことは何もありません。どうか、御推察ください。法華経を信じて仏道を願うほどの者が、どうして法門の問答の時に悪行を企てたり、悪口を旨とするでしょうか。すべて、その事情の経過についてご推察下さい。
 そのうえ、日蓮聖人の弟子と名乗った上、帰りましても御前に参りまして法門問答の様子を申し上げました。
 また、問答をした付近には、頼基が知らない者はいませんでした。おそらく、頼基を妬む人の作りごとでありましょう。早く、その者と召し合わせられれば、事の真相がわからずにいることはないでしょう。

苦岸比丘
 大荘厳仏の末法の時の謗法僧。薩和多、将去、跋難陀の三比丘と共に邪道に堕ち、仏法を破った。この苦岸等の四比丘の化導で六百四億の人が師弟ともに阿鼻獄に堕ち大苦悩を受けた。後にこれらの人は一切明王仏に会ったが、仏果をうることはできなかったといわれている。仏蔵経往古品に詳しい。
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勝意比丘
 師子音王仏の末法の時にあらわれた謗法僧。喜根(きこん)比丘が諸法実相の義を説いたとき、誹謗して地獄に堕ちたと諸法無行経巻下にある。
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文殊の智慧
 文殊師利菩薩の智慧のこと。文殊は梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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富楼那の弁説
 富楼那弥多羅尼子ともいう。釈迦十大弟子の一人で説法第一。聡明で弁論に長じ、その弁舌の巧みさをもって証果より、涅槃に至るまで九万九千人を度したといわれている。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。
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ぎやうさく
 事情の経過について推察すること。
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 本章は、桑ヶ谷問答の最後の場面と、問答について四条金吾に浴せられる批判に弁明したところとからなっている。
 まず前半では、三位房が完膚なきまで竜象房を破折し、二度と説法のできないほどまで論詰して、とどめを刺したところである。曰く「御法門の分斉にて、そこばくの人を救はむと説き給うが如くならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給はんずらむ。今日より後は此くの如き御説法は御はからひあるべし」と。
 しかも、三位房の鋭鋒は、たんに理論面や現証面から竜象房を破しただけではない。仏法の道理、民衆救済の慈悲心に立って破したわけである。
 次に、後半では、法門問答が感情論や理不尽な暴挙によってなされたとされているが、真相は、三位房、四条金吾の仏道者としてやむにやまれぬ破邪顕正の精神のあらわれとして行なわれたもので、しかも、真の仏道者らしい見識、礼儀、常識をわきまえた態度で問答は行なわれたのである。したがって、問答に対する批判中傷の根拠はない。そのことを断言した段である。
智者と申すは国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ
 智者の本義を明かした文である。次下に「是はいかなるひが事ありとも、世の恐しければいさめじと申されむ上……」と竜象房の小心翼翼として世間の声を恐れ誤りを糺せないその臆病心、智者にあるまじき惰弱な態度に対して、社会正義、人間倫理の立ち場から、悪を諫め、邪見を止める者こそ真実の知者であると断じたところである。
 したがって、ここでいう智者とは知恵ある人、才能豊かな人といった意味ではない。また、山林に交わり一人閑居して、思慮を廻らすが、実行のない知識者をさすのでもない。
 真実の智者とは、仏法の峻厳な眼で、過去・現在・未来の三世の因果律を知悉し、対社会に、対人関係に正論、正見をもって誤りを諫め、邪見をうつ英知と勇気の人であり、また、社会主義と人間愛とを内に秘め、正法で培った深い洞察力、直観智、判断力に基づいて、どこまでも人間社会を幸せな方向へ導く指導者である。
 苦悩の民衆の心を痛いほどわが生命に感じ、自ら苦悩の渦中に飛び込んで、泥まみれになりながら一人一人を救済していく、そうした実践者こそ智者といえよう。
 こうしてみてくると、前章で「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争かいさめず候べき」といわれた法師、さらには「実の聖人にてをはせば、何が身命を惜みて、世にも人にも恐れ給うべき(中略)正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しか」といわれた聖人と、ここでいう智者とは全く同義としてもちいられたといえる。
 翻って、三位房がこれほど確信に満ちた態度で最後まで論破できたのは、ひとえに得難き智者を我が師に持っていたからである。すなわち、日蓮大聖人こそ唯一の智者であり、立宗以来二十余年にわたって権力と戦い、邪智を破った智者であったからである。わが師の実証を知り、自分も共に実証を示してきたからである。そこに百万言の美辞麗句に打ち勝つ力があったのである。

1157:06~1167:15 第五章 良観房を破すtop

06   又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると此の条難かむの次第に覚え候、 其の故は日蓮
07 聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・ 上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師に
08 て御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて 殺罪に申し行はれ候しが、 いかが候けむ死罪を止て佐渡の
09 島まで遠流せられ候しは 良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、 抑生草をだに伐るべからずと
10 六斎日夜説法に給われながら 法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは 自語相違に候はずや如
11 何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや、 但し此の事の起は良観房・常の説法に云く日本国の一切衆生を皆持斎にな
12 して八斎戒を持たせて国中の殺生・ 天下の酒を止めむとする処に 日蓮房が謗法に障えられて此の願叶い難き由歎
13 き給い候間・日蓮聖人此の由を聞き給いて・ いかがして彼が誑惑の大慢心を・たをして無間地獄の大苦をたすけむ
14 と仰せありしかば、 頼基等は此の仰せ法華経の御方人大慈悲の仰せにては候へども 当時日本国・別して武家領食
15 の世きらざる人にてをはしますを・たやすく仰せある事いかがと弟子共・同口に恐れ申し候し程に、
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 また、仰せ下された状には「極楽寺の長老は釈尊の再来であると仰いでいる」とありますが、この条はどうしても賛同しがたく思われます。
 その理由は、日蓮聖人は経文に説かれているとおりであるならば、久成実成の釈尊の御使・上行菩薩の垂迹・法華経本門の行者・五五百歳の大導師であります。その聖人の頚をはねよとの申し状を書いて殺罪にしようとしたのですが、どうしたわけでしょうか、死罪を止めて佐渡の島まで遠流にされたのは、良観上人の仕業ではないでしょうか。その訴状は別紙にあります。
 そもそも良観上人は生き草でさえも切ってはならないと六斎の日夜に説法されながら、法華経・正法を弘める僧を断罪にせよと申し立てられるのは自語相違ではないでしょうか。この僧こそ天魔の入った僧ではありませんか。
 但し、この事の起こりは、良観房が平素の説法で「私は、日本国の一切衆生を皆、律宗の人となし、八斎戒を持たせて、日本国中の殺生と天下の飲酒を止めようと苦心しているのに、日蓮房の謗法に妨げられて、この願いが叶いがたい」と嘆いていたのでした。日蓮聖人がこのいきさつを聞かれて「なんとかして良観房の誑惑の大慢心を倒して、無間地獄の大苦を救ってあげよう」との仰せがあったので、頼基らは「この仰せは法華経の御味方の大慈大悲の仰せではありますが、良観房は現在、日本の国、とりわけ、武家鎌倉の世では、人々に尊敬されている人であるから、軽々しく仰せになることはどうでしょうか」と弟子どもが異口同音に気づかって申し上げておりました。

極楽寺の長老
 極楽寺良観のこと。(1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――
久成如来の御使
 釈尊より滅後の弘通を付嘱された本化上行菩薩のこと。日蓮大聖人のこと。
―――
上行菩薩の垂迹
 地涌の菩薩を代表する四菩薩の筆頭を上行菩薩という。法華経如来神力品第21では、末法における正法弘通が上行をはじめとする地涌の菩薩に付嘱された。この法華経の付嘱の通り、末法の初めに出現して南無妙法蓮華経を万人に説き不惜身命で弘通されたのが、日蓮大聖人であられる。この意義から、大聖人は御自身が地涌の菩薩、とりわけ上行菩薩の役割を果たしているという御自覚に立たれ、御自身を「上行菩薩の垂迹」(1157㌻)と位置づけられている。
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五五百歳の大導師
 五五百歳は釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる仏法がおこる時代でもあり、大導師は衆生を幸福に導く主・師・親三徳具備の御本仏。すなわち五五百歳の大導師は日蓮大聖人のこと。
―――
六斎日夜
 八斎戒を持って精進するように定めた日のことで、毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日の6ヵ日の昼夜のことをいう。
―――
良観房
 (1217~1303)。鎌倉時代の律宗再興の僧。良観は法号、諱は忍性。大和国磯城下郡に生まれ、17歳の時に東大寺の戒壇院で戒を受ける。23歳で西大寺の叡尊の弟子となる。師の叡尊のもとに戒律を修し慈善事業を営む。建長4年(1252)、36歳のときに関東に下る。正元元年(1259)、前連署重時に請ぜられ、極楽寺の造営に関与する。弘長元年(1261)11月3日、重時の葬儀に導師となる。同年、鎌倉の釈迦堂に住し、翌年春には多宝寺に住す。翌弘長3年(1263)、時頼の請を受ける。叡尊の鎌倉化導により将軍家、北条氏一族に多くの帰依者ができ、鎌倉における律宗宣揚に効果をあげる。文永元年(1264)、3000人に食を施す。この時代から強大な教勢を誇る。文永4年(1267)年50歳の時、極楽寺に住す。翌年、日蓮大聖人より「極楽寺良観への御状」が送られ、所行の非を厳しく叱責される。文永8年(1271)6六月18日、大聖人との祈雨の勝負に敗れ、貞永式目の悪口の科の条をたてに、得宗家の女房達を動かして大聖人を佐渡流罪にする。文永11年(1274)の飢饉の折には大仏ケ谷で粥(を施す。その後、摂津多田院、鎌倉永福寺、明王院・淨泉寺等の別当となり、幕命を受けしばしば雨を祈る。弘安10年(1287)には、桑ヶ谷に療病所を設ける。本朝高僧伝によると、生涯にわたり済度する弟子2740余人、白衣の弟子数を知らず、伽藍の修営83箇所、仏塔建立20区、諸州の架橋189箇所、水田の寄進180町、道路の修築71箇所等その他多くの慈善事業を営んだとされている。鎌倉在住51年。その間、国家権力を背景に徹底した功利主義を貫いた。嘉元元年(1303)に没す。87歳。だが西大寺流の隆昌は叡尊、良観の二代にかぎり、良観没後衰退の途をたどった。
―――
持斎
 斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
八斎戒
 小乗教の戒。在家の男女が一日だけ持つことを期する戒であって、出家生活を一日だけ守る形をとったものである。受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず(中略)八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために、出家の法を制す」とある。毎月、六斎日に行ずるという。八斎戒には二説あるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離と説き、①離殺生(生物を殺さない)、②離不与取(盗みをしない)、③離非梵行(淫欲を断つ)、④離虚誑語(嘘をいわない)、⑤離飲諸酒(酒を飲まない)、⑥離塗飾香鬘歌舞観聴(装身・化粧をやめ歌・舞を聴視しない)、⑦離眠坐高広厳麗床座(高くゆったりした床に寝ない)、⑧離食非時食(昼以後食べない)をあげている。
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 前章までは、主君の誤解を解くため桑ヶ谷問答の顚末を通し頼基の行動を釈明され、あわせて主君に真相の糾明を請うたのであった。
 だが、主君が法華経信仰を止める旨の起請文を頼基に要求したことに思いを馳せるとき、桑ヶ谷問答の一件が、かような下し文を書く直接原因とはなりえないことは容易に気づくところである。なぜなら、問答でのことは、真相糾明とともに頼基の当座の行動が証明され、落着するはずであるからだ。
 それでは、何故かくも問題がこじれ、起請文を提出しなければ、所領を没収し家臣を追放するとの二者択一を迫るまでに、主従関係に亀裂が生じたのであろうか。
 それは、宮仕え上の対立ではなく、信仰上のそれであった。つまり、主君は極楽寺良観の熱心な信奉者であり、家臣は名だたる日蓮大聖人の強盛な信者であったからである。
 その対立は、頼基の主君への折伏とともに始まっている。それは、大聖人の佐渡流罪が赦免になった文永11年(1274)の秋のことで、そのことについては「主君耳入此法門免与同罪事」にある通りである。加えて、同僚達との軋轢も日増しにこうじて主従関係は悪化の一途をたどり、桑ヶ谷問答を機に抜きさしならぬまでに発展したのである。
 そこで本章と次章は、主君の信仰の崇拝者である極楽寺良観の所行をあげてその矛盾ぶりを破し、主君に深刻なる理解を促された段である。とりわけ本章は、世評がいかに誤りであるか、良観の自後相違のはなはだしいことを述べ、決して釈尊の再来などではなく、天魔の其の身に入った邪僧であることを述べたところである。そしてその理由について本章の後半、次章とつづくのである。
 極楽寺良観は、律宗の僧で、叡尊の弟子となり諸国を往来して専ら慈善に励んだ。そして鎌倉に至り、弘長元年(1261)には北条時頼の帰依を得ている。さらに、重時・業時親子の厚い外護を受け、文永4年(1267)には極楽寺の開基となっている。以来、良観は道路を造り、橋をかけ、病院を建て、関所を設けて関米をとるなどの社会事業、福祉事業に精を出したのである。
 そうした活動は、宗教に無知な庶民の眼にはおそらく生き仏のように映ったのであろう。また、政治の執行者達にとっても好ましく映ったにちがいない。今日の良観評として、功利主義に徹した敏腕な経営家、政治家タイプの人物ではなかったかといわれている。
 ところで、主君江馬氏も良観を尊崇する一人であった。下し文に「極楽寺の長老」と記されていることからもうかがえる。「長老」とは、単に、年老いた者の敬称に使われるのではない。仏道にすぐれた名僧の異名として用いられることからも、主君の帰依の深く厚いことが知られる。
 ともあれ、良観の日夜の説法、また慈善活動は、あくまでも自身は二百五十戒を堅く持った聖人であると見せかける売名行為のためであった。さらには、幕府に取り入るための巧妙な手段であり、その本質は、名声と権勢にかけられたものであった。つまり、良観は、もともと仏法それ自体への深き研鑽を積み、その智徳で名声を得た僧ではなかった。いわば、慈善事業で幕府に取り入ってそれまでの地位を築いてきたのであった。その最も顕著な例を日蓮大聖人との対決の中に見ることができる。良観は大聖人との対決において決して正面からの勝負を挑むことはなかった。すなわち、法論という宗教の広場での対決はさけ、巧妙に手を変え、品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人をなきものにしようと企んでいたことは、諸御書にうかがえるところである。
 「種種御振舞御書」には「さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに、とりつきて種種にかまへ申す」(0911-03)とあり、「妙法比丘尼御返事」には「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴え」(1416-16)と仰せられている。そしてついに、良観は平左衛門尉を動かすに至った。
 平左衛門尉といえば、当時、軍事力、警察権等を一手に握った幕府の実力者であった。ここに、良観と平左衛門尉とが結託し日蓮大聖人の迫害へと進展するのである。その迫害の頂点が、竜口の法難であり、更には佐渡への遠流であった。本章に「久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや」と仰せられているのがそれである。
 次いで、良観は日夜の説法では〝生草をだに伐るべからず〟と不殺生戒を説きながら、日蓮大聖人を断罪に行なうべく暗躍しているその行動は全くの自語相違の姿であり、その本質は人間生命を破壊する〝天魔〟の僧であると良観の真の実像を鮮明にされたわけである。
 最後に、良観が、日蓮大聖人を亡き者にしようと目論み、実際にその行動に至った経緯についてふれられ、文永8年(1271)の祈雨の勝負へと進展するのである。

1157:15~1159:01 第六章 良観房を重ねて破すtop

15                                               去る文永八年
16 太歳辛未六月十八日大旱魃の時.彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由.日蓮聖人聞き給いて此体
17 は小事なれども 此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、 良観房の所へつかはすに云く七日の内
18 にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて 良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、 雨ふらぬほどな
1158
01 らば彼の御房の持戒げなるが 大誑惑なるは顕然なるべし、 上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、 所謂
02 護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、 仍て良観房の所へ周防房・ 入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は
03 良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし 是を以て勝負とせむ、 七日の内に雨降るならば本の八
04 斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、 又雨らずば一向に法華経になるべしと・いはれしかば是等悦びて極楽寺
05 の良観房に此の由を申し候けり、 良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を
06 出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気
07 無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・ 七日の内に露ばかりも雨降ら
08 ず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、 いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の
09 三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う 上人の数百人
10 の衆徒を率いて 七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、 是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を
11 越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、 然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を
12 以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、 雨ふらす法と仏になる道をしへ奉
13 らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、 旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて 民のなげき弥弥深し、 すみや
14 かに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・ 使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をお
15 しまず口惜しがる日蓮御勘気を蒙る時・ 此の事御尋ね有りしかば有りのままに申し給いき、然れば良観房・身の上
16 の恥を思はば跡をくらまして山林にも・ まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば 道心の少にてもある
17 べきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき・ 又頼基も
18 見聞き候き、他事に於ては・ かけはくも主君の御事畏れ入り候へども此の事はいかに思い候とも・いかでかと思は
1159
01 れ候べき。
-----―
 去る文永八年六月十八日の大旱魃の時、彼の御房は祈雨の修法を行なって万民を助けようと仰せつけられたという事を日蓮聖人が聞かれました。そして「このようなことはささいな事ではあるが、事のついでに日蓮が法験を万民に知らせよう」と仰せになって、良観房の所へ使いを遣わして、「もしも七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏無間という法門を捨てて、良観上人の弟子となって二百五十戒を持とう。だがもし雨が降らなかったなら、彼の良観房が持戒げに見えても大誑惑であることは、はっきりするだろう。上代にも祈雨によって法門の勝負を決めた例は多いのである。いわゆる護命と伝教大師、守敏と弘法との対決がそれである」と仰せになりました。そして良観房のもとへ、周防房、入沢の入道という念仏者を遣わしました。この御房と入道とは良観の弟子で、また念仏者であって、いまだに日蓮の法門を信じていません。そこで日蓮聖人は「この祈雨の一件で仏法の勝負をしよう。もし七日以内に、雨が降るならば、従来信ずるところの八斎戒、念仏の教えで往生できると思うがよい。しかしながら、もし雨が降らないなら、ひたすら法華経を信じなさい」と仰せられたので、彼らは悦んで極楽寺の良観房にこの事を申し伝えたのです。
 良観房は泣いて悦び、七日以内に雨を降らそうと、弟子達百二十余人とともに頭から煙を出すほど必死になり、声を天に響かせ、あるいは念仏を、あるいは請雨経を、あるいは法華経を、あるいは八斎戒を説いてさまざまに祈請したのです。だが四五日たっても雨の降る気配がないので、良観は動転して、更に多宝寺の弟子達数百人を呼び集めて、法力を尽くして祈りつづけたが、七日以内には露ほども雨は降りませんでした。
 その間、日蓮聖人は使いを遣わすこと三度に及んでいます。「泉式部という婬女や能因法師という破戒の僧でさえ、狂言綺語をもてあそぶ三十一文字で、たちまちに降らすことができた雨を、持戒・持律の良観房は法華・真言の義理をきわめ慈悲第一と評判の上人でありながら、数百人の衆徒を率いて、七日の間祈りながらどうして降らすことができないのであろうか。この事実をもって推し量りなさい。一丈の堀を越えられない者が、どうして二丈、三丈の堀を越えることができようか。雨を降らすという簡単なことでさえできないのに、どうして難事の往生成仏をさせることができようか。それ故、これからは、日蓮を怨む邪見をこの事実をもって改めなさい。後生をおそろしく思われるならば、約束どおりに急いで来なさい。雨を降らす法と仏になる道を教えてあげよう。七日以内に雨を降らすことができないではないか。旱魃はいよいよ盛んになり、八風はますます吹き重なり、民衆の嘆きはいよいよ深い。速かに、その祈りを止めなさい」と、使いを遣わしたのです。第七日目の午後四時頃に、使者は聖人の仰せのままにいったところ、良観房は涙を流し、弟子檀那も同じく声をおしまず悔しがって泣いたのであります。日蓮聖人が御勘気を蒙った時に、この事が尋ねられたので、ありのままに申し上げたのでした。ですから、「良観房は身の上の恥を思うならば、行方をくらまし山林にでも交わり、または、約束どおりに日蓮の弟子ともなったならば、少しは道心もあるのだが、実際には、そうではなく、尽きることのない讒言を構え、殺罪にしようと企てたのであるが、これを貴い僧であるといえようか」と日蓮聖人は仰せになっておりました。このことは、頼基も見聞しました。
 他の事においては、口に出していうことも、主君の事は畏れ多いことではありますが、此の事だけはどのように考えてみても、申し上げないわけにはまいりません。

旱魃
 長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
―――
祈雨の法
 雨乞いのこと。旱魃が続いた際に雨を降らせるため行う呪術的・宗教的な儀礼のこと。
―――
護命と伝教大師
 護命は法相宗の僧で、勅命によりしばしば宮中で最勝王経等を講じていた。弘仁9年(0818)の春、大旱魃の折り、嵯峨天皇から祈雨の勅命が下った。伝教は法華経、金光明経、仁王経をもって雨を祈った。結果は三日目に現われ、微雨がしずしずと降り、大乗戒壇建立の起縁となった。一方、南都第一の僧、伝教の師でもある護命は、40人の弟子と共に仁王経をもって雨を祈った。結果は5日目に雨を降らすことができたが、伝教大師の3日には及ばなかった。以上、伝教の戒壇建立の事情経過を述べた一心戒文巻上、三三蔵祈雨事に見られる。
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守敏と弘法
 守敏は真言宗京都西寺の僧。生没不明。幼くして出家し、弘仁14年(0823)嵯峨天皇より西寺を授った。そのとき弘法は東寺(教王護国寺)を授った。ここでは、天長元年(0824)の春の大旱魃の時に、祈雨の勝負をしたことをいう。守敏は7日で雨を降らした。弘法は3週間、21日間を経たが雨を降らすことができなかった。そこで天子が雨を祈り、雨を降らすと、東寺の門人等は、師の弘法が降らした雨だといいふらした。
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周防房・入沢の入道
 ともに浄土宗の僧で、良観の弟子。詳細不明。
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請雨経
 中国隋の那連提耶舎(0490~0589)訳。2巻。詳名は大雲輪請雨経。雨乞いの法を説く。異訳もある。
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多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
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泉式部
 平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったといわれている。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことはりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」という和歌を詠み、雨を降らせたという。なお、泉は通称、和泉と書くが、和は添字で読まない。
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能因法師
 本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。生没年は不詳。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して、能因と称した。伊予国(愛媛県)の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ、天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちに雨が降ったという。
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破戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
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狂言綺語
 道理に合わない言葉や、巧みに表面だけを飾った言葉。 転じて、虚構や文飾の多い小説・物語・戯曲などを卑しめていう語。
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三十一字
 和歌のこと。
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持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
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持律
 戒を持つこと。戒を持つ者。
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八風
 さまざまな害をなす悪風。
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讒言
 告げ口・悪口をいうこと。
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かけはくも
 「かけまくも」と同じ。口に出していうことも、の意。
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 前章では釈尊の再来とまでいわれて、世間より尊崇されている良観が、実は自己の野望を果たすためには人を死地へ追いやることすら辞さない天魔の僧であることを述べているが、本章においては、さらに具体的に、良観が日蓮大聖人を死罪、並びに遠流へとかりたてた直接原因ともいえる文永の祈雨の勝負の顛末を通し、重ねて良観の正体を教え、主君に良観帰依の再考を促されている。
 文永8年(1271)は、春から旱魃がひどく、梅雨期に入っても一向に降るようすがなかった。ために、その対策の一環として幕府は極楽寺良観に〝祈雨の修法〟を命じたのである。
 良観は「彼常に雨を心に任せて下す由披露あり」(0349-16)とあることからも、慈善活動と並んで〝祈雨の修法〟には自信をもっていたことがうかがえる。だから、幕府の命も快諾し「祈雨の法を行いて万民をたすけん」と高言して憚らなかったのであろう。
 そこで、前々から良観の誑惑と慢心とを倒し、無間の苦悩に呻吟する民衆を救おうと心を砕かれていた日蓮大聖人は「此体は小事なれども、此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばや」との立ち場から良観に祈雨の勝負を挑まれたわけである。
 無論祈雨の勝負とはいえ、宗教者の生命を賭けた法戦であることに変わりはない。人びとの雨を願う気持ちの高まりはそのまま祈雨の勝負への関心へと転化していったことであろう。従って、単に祈雨の勝負とはいえ、この勝負は正しく公場対決にも比肩する重みを持っていたといえよう。
 大聖人は良観の弟子で念仏者の周防房と入沢の入道の二人に「七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も祈雨に付いて勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法なり」、また「七日の内に雨降るならば、本の八斎戒、念仏を以て往生すべしと思うべし。又雨らずば一向に法華経なるべし」と良観の所に遣わしたのである。
 これを聞いた良観は、泣いて喜んだ。そして7日以内に雨を降らそうと弟子120余人が必死に祈ったが、4・5日経っても雨が降る気配がないので、良観は、多宝寺の弟子数百人を急遽増援をはかり、全力を尽くして雨を請うたが邪法の祈り、約束の7日に至ったが露ほどの雨も降らすことはできなかった。
 勝負は余りにも歴然としていた。邪法の僧等の必死の祈りは、雨を降らさないのみか、かえって、旱魃は激しくなり、八風が吹き重なり民衆の嘆きは深まるばかりであった。
 良観らの祈雨のさなか、大聖人は三度使いを遣わして良観を徹底的に破折されている。すなわち、世間に持戒・持律の上人とか法華経や真言の奥旨を極め、慈悲第一といわれても、現実に雨さえ降らすことができないならば、三十一文字で雨を降らした淫女・泉式部や破戒の僧・能因法師にも及ばないと断じられ、雨さえ降らすことのできない良観にどうして往生成仏が可能であるかと厳しく追及されている。
 祈雨の勝負で完膚無きまでに敗れた良観は、大聖人との約束も守らず、逆に大聖人を亡き者にしようと奸策を回らし、幕府要人に限りない讒言をいいふらし、大聖人を殺罪に行なおうとしたのであった。このような良観を貴い僧と頼基は仰ぐことができないと主君に陳情されているのである。

1159:02~1159:06 第七章 竜象房について述べるtop

02   仰せ下しの状に云く竜象房・極楽寺の長老見参の後は釈迦・弥陀とあをぎ奉ると云云、此の条又恐れ入り候、彼
03 の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由 露顕せしむるの間、 山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪
04 鬼・国中に出現せり、 山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し 其の身を誅罰せむとする処に自然に逃失
05 し行方を知らざる処に たまたま鎌倉の中に又人の肉を食の間・ 情ある人恐怖せしめて候に仏菩薩と仰せ給う事所
06 従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき、御内のをとなしき人人いかにこそ存じ候へ。
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 また、仰せ下しの状には、「主君が竜象房と極楽寺の長老良観に見参してからは、釈迦仏、阿弥陀仏のごとく仰ぎ奉る」と仰せでありますが、この条についてもまた恐縮ながら申し上げます。
 彼の竜象房は京都の市中で人の骨肉を朝夕の食物としていたことが露顕したため、山門の衆徒が蜂起し、「世も末になったので、悪鬼が国中に出現している。山王の御力で、この悪鬼を対治しよう」といって竜象房の住所を焼失し、その身を誅罰しようとしましたところが、素早く逃亡して行方がわからなくなっていたのです。ところが、たまたま鎌倉にあれわれ、市中でまた、人の肉を食べているので、心ある人々は恐れおののいているのに、その竜象房を殿は仏、菩薩と仰せになっている。所従の身として、どうして主君の誤りをお諌めしないでいられましょう。御一門の穏当な意見の人々はどのように思われているのでしょうか。

洛中
 京都の市中。平安京の左京を中国の古都洛陽に擬し、洛または洛中と称した。
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山門
 三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
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山王
 日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
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 本章は、竜象房を釈迦仏か阿弥陀仏かの如く敬信する江馬氏に対して、竜象房の人肉食という非道をあげ、その竜象房を仏菩薩と崇め奉るなど、とんでもないことであると妄信を諌めたところである。
竜象房について
 竜象房は、本章冒頭で「釈迦、弥陀とあをぎ奉る」といわれた通り、極楽寺良観と並び称せられるほど崇め奉られていた。だが心ある人びとは、彼の人倫を背く私生活には恐れをいだいていたのである。そのことは、本章の中に「たまたま鎌倉の中に又人の肉を食うの間、情ある人恐怖せしめて候に」とあるところから理解できる。
 そこで、竜象房という僧は一体どういう人物であったのか。竜象房は、もと比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧であった。彼の生まれも生い立ちも不明であり、いかなる立ち場の僧であったかも不明であった。だが唯一つ明白なことは、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食として常用したことである。
 これに気づいた山門の衆徒は、竜象房の行状を厳しく追及した。「天台座主記」の建治元年(1275)4月27日の記述にその時の模様がある。「山門の衆徒群り下りて東光寺に集会し、公友ならびに犬神人を差し遣し、竜象上人の住房を焼き払い、中山の住房は犬神人等これを破取す」と。
 また本章においても、「洛中にして、人の骨肉を朝夕の食物とする由、露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して、世末代に及びて悪鬼国中に出現せり。山王の御力を以て対治を加えむとて、住所を焼失し、其の身を誅罰せむとす……」と。
 京都から命からがら逃げのびた竜象房は、鎌倉市内に姿を現わしたのである。もちろん鎌倉に入ってからも人目を忍んでは人肉を食べていたようである。
 それにもかかわらず、人々は、頭から竜象房を上人と敬い、信じきっていた。これを厳しく指摘し、その過ちを破折されているのである。

1159:07~1159:17 第八章 主君を諌言するtop

07   同じき下し状に云く是非につけて主親の所存には相随わんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本と云云、 此の事
08 最第一の大事にて候へば私の申し状恐れ入り候間・本文を引くべく候、 孝経に云く「子以て父に争わずんばあるべ
09 からず臣以て君に争わずんばあるべからず」、 鄭玄曰く 「君父不義有らんに臣子諌めざるは則ち亡国破家の道な
10 り」新序に曰く「主の暴を諌めざれば忠臣に非ざるなり、 死を畏れて言わざるは勇士に非ざるなり」、伝教大師云
11 く「凡そ不誼に当つては則ち子以て父に争わずんばあるべからず 臣以て君に争わずんばあるべからず 当に知るべ
12 し君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず」文、法華経に云く「我れ身命を愛まず但無上道を惜む」文、
13 涅槃経に云く 「譬えば王の使の善能談論し方便に巧にして 命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に王の所説
14 の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り」文、 章安大師云く「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれとは身は軽く法は重
15 し身を死して法を弘む」文、 又云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親むは則ち是れ彼が怨な
16 り能く糺治する者は 彼の為めに悪を除く則ち是れ彼が親なり」文、 頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候らめど
17 も世の事にをき候ては是非父母主君の仰せに随い参らせ候べし。
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 また同じ下し状に「是非にかかわらず主君や親の考えには従うことが仏神の精神にも世間の礼にも手本となるのである」と仰せですが、このことはもっとも大事なことなので、私の意見は差し控えて、聖賢の御文を引きお答えいたします。
 孝経には「父に不義のある場合、子は父と争い父の誤りを正さなければならない。主君に不義のある場合には、臣下は主君と争い誤りを正さなければならない」とあり、鄭玄は「主君や父に不義があるのに、臣下や子が諫めないのは、国を亡ぼし、家を破る道となる」といい、新序では「主君の横暴を諫めないなら忠臣ではない。また、死を畏れて言わないのは勇士ではない」とございます。
 伝教大師は「一般に、道に背いた事柄においては、子は父と争わなければならないし、臣下は主君と争わなければならない。師弟の道においても、師に誤りがあれば、弟子は師と争わなくてはならない」と説かれています。
 法華経の勧持品には「我は身命を愛まず、ただ無上の道を惜しむ」と説かれています。涅槃経には「譬えば、王の使いが良く談論し、方便に巧みで、他国に使いしたときに、己れの生命を喪っても、最後までわが王の説く言教を主張し続けるように、智者もまたそうなのである」と説かれています。章安大師は「『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』とは、身は軽く法は重い、故に、身を死しても法を弘めなければならない」といわれています。また「仏法を壊り乱す者は仏法内の怨である。慈悲がなく、詐り親しむのは、彼のために怨である。よく罪を糺し治す者は、彼のため悪を除くものであり、これこそ彼の親の行為である」と説いています。
 このように申しますと頼基を同僚の者は主君に対して無礼であると思うでしょう。だが、世間のことであれば、一切、父母、主君の仰せに従いましょう。

仏神の冥
 しらずしらずの間に仏神の加護を蒙ること。
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孝経
 中国の儒教倫理の根本である「孝」について説いた書物。「論語」と共に、初学者必修の書として尊重されている。孔子と門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べられている。今、引用の文は、孝経の諫争章第十五の文である。云く「曽子曰く、夫の慈愛恭敬、親を安んじ、名を揚ぐるが若きは即ち命を聞けり。敢て問う、子、父の命に従うは、孝と謂うべきか。子曰く、是れ何の言ぞや、昔は天子に争臣七人あれば、無道と雖も天下を失わず。諸侯・争臣五人あれば、無道と雖もその国を失わず。大夫・争臣三人あれば、無道と雖もその家を失わず。(中略)故に不義に当れば即ち子以て父に争わざるべからず、臣以て君に争わざるべからず。故に不義に当れば即ち之を争う、父の命に従うは、又焉んぞ孝たるを得ん」とある。
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鄭玄
 中国後漢の経学者。字は康成で山東省高密県の人。周易、尚書、毛詩、儀礼、周礼、礼記、論語、孝経など諸経書を註解し、天文七政論、魯礼禘袷義、六芸論、毛詩譜等の著がある。
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新序
 中国春秋時代から漢代初期までの百家の伝記を収録した書物。漢代の学者である劉向(前0077~0006)の撰述で十巻よりなる。多くは古書の教訓的説話をとり、時の風俗に対する戒めを述べている。
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傍輩
 仲間・友人・同じ主君・師匠・家・などに使える同僚。
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 忠孝の根本精神について述べた章である。下し状では、全て主親に従うことが臣下の道であるとしている。これに対して、主親に従うことは当然の責務であるが、もしも主親に誤りがあれば、これを諫めることが臣下の道であり、逆に諫めなければ、一家の破滅、国家の衰亡を導くことにもなる故、主親を糺さなければならない、と孝経等の文をあげて述べている。
 君臣、親子等の人間関係の道を説いた儒教道徳は、ともすると封建的、固定的な思想のように思われがちであるが、その本来の精神を見るなら、きわめて自由主義的であり、近代的でさえあることが知られるのではないだろうか。
 今、四条金吾は、主親が世間の誤りを犯したことを云々しているのではない。仏法の誤り、生命それ自体の誤りを糺しているのである。そのことは本章最後の一行、「世の事にをき候ては、是非父母主君の仰せに従い参らせ候べし」とあることから理解できよう。世間の事であれば、必ず仰せに従うが、こと仏法に関しては、たとえ主君の仰せでも随うことができない、との言外の意味が込められたところである。仏法については随うことができないということは、思想、信教という人間精神の問題については、あくまでも個人の自由を守るということに他ならない。
 ともあれ、本章の中で、時代を超え、社会を超え、制度を超えた人間本来の倫理について幾多の示唆が含まれている。その一つ、主親に盲従するのではなく、主親を守りつつ随うのである。そのためには、もしも主親に不義があればこれを諌めること、それが主親を守る本義である。その二、たとえ尊厳な生命を犠牲にしても、社会正義、自己の主張を貫き妙法を守るという決意に立つこと。このことは、最も生命を尊重する筈の仏法に反するようであるが、実は矛盾しないのである。なぜなら、生命が最も尊貴になる根源の力が妙法であるからである。もしも妙法を犠牲にして我が身を守るなら、身は守られるが、我が身を内面より荘厳にする妙法は消え失せてしまう。身体のみあって自身を尊厳にする実体がなくなるのである。逆に、妙法を守りぬくことは、結果として尊厳な生命も仏法によって輝きわたり、生命を尊厳にすることができるのである。それ故、かけがえのない生命を賭しても、そこに尊い仏法の精神を守ることが、人間の道標であると説かれているのである。

1159:18~1160:18 第九章 仏法の上から諌言するtop

18   其にとて重恩の主の悪法の者に・たぼらかされ・ましまして悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり、阿闍世王は
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01 提婆六師を師として 教主釈尊を敵とせしかば摩竭提国・皆仏教の敵となりて闍王の眷属・五十八万人・仏弟子を敵
02 とする中に耆婆大臣計り仏の弟子なり、 大王は上の頼基を思し食すが如く 仏弟子たる事を御心よからず思し食し
03 しかども最後には六大臣の邪義をすてて耆婆が正法にこそ・ つかせ給い候しが・其の如く御最後をば頼基や救い参
04 らせ候はんずらむ此の如く申さしめ候へば 阿闍世は五逆罪の者なり彼に対するかと思し食しぬべし、 恐れにては
05 候へども 彼には百千万倍の重罪にて御座すべしと御経の文には顕然に見えさせ給いて候、 所謂「今此の三界は皆
06 是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾子なり」文・ 文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり師匠なり主
07 君なり阿弥陀仏は此の三の義ましまさず、 而るに三徳の仏を閣いて他仏を昼夜朝夕に称名し 六万八万の名号を唱
08 えましますあに不孝の御所作にわたらせ給はずや、 弥陀の願も釈迦如来の説かせ給いしかども 終にくひ返し給い
09 て唯我一人と定め給いぬ、 其の後は全く二人三人と見え候はず、 随つて人にも父母二人なし何の経に弥陀は此の
10 国の父・何れの論に母たる旨見へて候・観経等の念仏の法門は法華経を説かせ給はむ為の・しばらくの・しつらひな
11 り、塔くまむ為の足代の如し、 而るを仏法なれば始終あるべしと思う人・大僻案なり、塔立てて後・足代を貴ぶほ
12 どのはかなき者なり、 又日よりも星は明と申す者なるべし・ 此の人を経に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受
13 せず其の人・命終して阿鼻獄に入らん」、 当世・日本国の一切衆生の釈迦仏を抛つて阿弥陀仏を念じ法華経を抛つ
14 て観経等を信ずる人或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男・ 俗女等・存外に五逆七逆・八虐の罪ををかせる者を
15 智者と竭仰する諸の大名僧並びに国主等なり、 如是展転至無数劫とは是なり、 此くの如き僻事をなまじゐに承り
16 て候間・次を以て申せしめ候、 宮仕を・つかまつる者・上下ありと申せども 分分に随つて主君を重んぜざるは候
17 はず、上の御ため現世・後生あしくわたらせ給うべき事を秘かにも承りて候はむに傍輩・世に憚りて申し上ざらむは
18 与同罪にこそ候まじきか。
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 それにつけても、重恩の主君が悪法の者にたぼらかされて、悪道に堕ちられるのを嘆くばかりです。
 阿闍世王は、提婆達多や六師外道を師匠として、教主釈尊を敵としたので、摩竭提国が皆、仏教の敵となって阿闍世王の眷属五十八万人は仏弟子を敵とするその中で、耆婆大臣だけが仏の弟子でありました。大王は、あたかも主君が頼基に対して思われているように、耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われていなかったけれども、最後には六大臣の邪義をすてて耆婆の正法につかれたのです。そのように、主君を最後には頼基がお救いしてまいります。
 このように申し上げますと、阿闍世王は五逆罪の者であり、その阿闍世王に対応させるのかと思われるでありましょう。しかし、恐れ多いことですが、殿は阿闍世王より百千万倍も重罪であると経文には明らかに説かれております。
 いわゆる法華経の譬喩品には「今、此の三界は皆是れ我が有である。其の中の衆生は悉く是れ吾が子である」と。経文の通りであるならば、教主釈尊は、日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり、主君であります。阿弥陀仏にはこの主・師・親の三つの義は具わっていません。そうでありますのに、三徳の仏を閣いて、他仏を昼夜朝夕にその名を称え、六万、八万の名号を唱えておいでになる。どうして不孝の行ないではないでしょうか。阿弥陀の本願も本来、釈迦如来が説かれたものでありますが、最後には仏自から悔い改めて「唯、我れ一人のみ、能く衆生を救うものである」と定められた。その後は、全く二人、三人とは説かれていません。したがって、人にも父母は二人いないように、一体、いずれの経文に阿弥陀仏はこの国の父、いずれの論に母と、説かれているのでしょうか。
 観経等の念仏の法門は、仏が法華経を説かれるためのしばらくの準備なのです。あたかも塔を組むための足場のようなものです。それを、同じく仏法なのだから始めと終わりの違いだけであると思う人があれば、それは大変誤った考えといえましょう。その人は、塔を立てた後まで足場を尊ぶようなはかない人であります。また、その人は、太陽よりも星の光りのほうが明るいというような人であります。こういった人を経文では「また、仏の教えを聞いても、なお信受しない人は命終して阿鼻地獄に堕ちる」と説かれています。
 今の世の日本国の一切衆生は、釈迦仏を抛って阿弥陀仏を念ずる人、法華経を抛って観経等を信ずる人、あるいは、このような謗法の僧を供養する俗男俗女等、また思いのほか、五逆、七逆、八逆の罪を犯している僧を智者と渇仰する多くの大名僧、並びに、国主等であります。法華経譬喩品に「謗法の者はこのように展転して乃至無数劫に至る」とあるのはこのことをいうのです。
 このような誤りをなまじっかうけたまわっているので、ついでながら申し上げました。宮仕えをする者は、身分の上下があるとはいっても、おのれの身分にしたがって主君を重んじない者はございません。主君のために、現世と後生が悪くていらっしゃるであろうということを秘かにうけたまわりながら、同僚や世間をはばかって申し上げないのは与同罪になるのではないでしょうか。

六師
 釈尊在世時代に中インドで勢力を持っていた6人の外道の思想家。富蘭那迦葉・末伽梨拘舎梨・刪闍耶毘羅胝子・阿耆多翅舎欽婆羅・迦羅鳩駄迦旃延・教尼乾陀若提子
―――
六大臣
 阿闍世王に仕えた六人の重臣。釈迦に敵対し、悪瘡にかかった阿闍世王が、悪事を悔いているとき、この六人が六師外道のもとへ行くように勧めた。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
三の義
 主師親の三徳をさす。一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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足代
 足場のこと。建築工事のさいに、高い所に登れるように、材木やパイプを組み立てて造る足がかりのこと。建物の完成まではなくてはならぬ役目を持っているが、建物が完成すれば、解体される。ここでは、念仏等の爾前経を指して足代と破折されている。
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僻案
 誤った教えや見解のこと。
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五逆・七逆・八虐の罪
 五逆罪、七逆罪、八逆罪のこと。五逆罪は殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五種の逆罪のこと。七逆罪は五逆罪に加えて、殺和尚、殺聖人の七種の逆罪のこと。八逆罪は謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義をいう。五逆罪は親に背く罪、七逆罪は師に背く罪、八逆罪は主に背く罪である。
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如是展転至無数劫
 法華経譬喩品第三に「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。展転とはころがること、めぐることで、つぎつぎとめぐり続くこと。無数劫とは数えきれないほどの長い間のこと。すなわち、正法誹謗の無間地獄に堕ち、未来永劫にその苦悩を受けるさまをいう。
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与同罪
 共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
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 本章は、阿闍世王を諌めて救った耆婆大臣の例をあげて、今の江馬氏と四条金吾になぞらえ、江馬氏が大謗法の阿弥陀信仰をやめるよう諫めている。そして、主君が現当二世にわたって苦悩におちるのを諫めない朋輩たちこそ与同罪の者であると述べている。
此くの如く申さしめ候へば、阿闍世は五逆罪の者なり。彼に対するかと思食しぬべし。恐れにては候へども、彼には百千万倍の重罪にて御座すべし
 阿闍世王と耆婆の関係に事寄せて述べたことについて主君が、自分をあの極悪の阿闍世王と同じ立ち場に論ずるのかと怒られるかもしれない。だが、本当は、その百千万倍も重い罪であると経文に明白であると断ぜられたのである。 
 それでは、なにゆえ大聖人は阿闍世王以上に罪深いと述べられたのであろうか。阿闍世王の犯した罪は五逆罪である。それに対し、江馬氏は阿弥陀を信ずることによって誹謗正法の罪を犯している。五逆罪は無間地獄におちても一劫であるのに較べ、誹謗正法の場合は「無数劫に及ぶ」と経文に明示されている。ここに仏法の厳しさがあり、謗法の恐ろしさがある。
 仏法を知らない江馬氏に対して、仏法の真実を知らせるために、あえて厳しくその非を糺されたところといえよう。
所謂「今此の三界は皆是れ我有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」と文。文の如くば、教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり
 仏は必ず三徳を具備されている。まず迹門の仏の三徳について法華経譬喩品第三には「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とある。
 「皆な是れ我が有なり」は主徳をあらわし、「悉く是れ吾が子なり」は親徳をあらわし、「唯だ我れ一人のみ能く救護を為す」は師徳をあらわし、仏の三徳をあらわしている。
 次に、本門の仏の三徳については、本門寿量品にあり、「我此土安穏」の文が主徳、「常説法教化」の文が師徳、「我亦為世父」の文が親徳にあたる。
 翻って、末法当今の仏は誰にあたるか。この問いの答えになる本仏とは、西方極楽世界に住する阿弥陀仏でもなければ、インド応誕の釈迦牟尼世尊でもない。末法の荒凡夫日蓮大聖人こそその仏である。
 ところで、主師親の三徳とはいかなる徳用をさすのか。働きは何か。開目抄上の講義では、主徳が眷属を守る力、働きであり、師徳が眷属を指導する力であり、親徳が眷属を慈愛する働きであることをすでに示している。
 主師親の三徳は、なにも復古調でもなければ、封建倫理の遺物でもない。人間がこの世に生を受け、社会を構成し、生活を営む上で、欠くことのできない本質的な作用である。眷属を守る力がなければ、自分の住む生活空間を築き守り育てることはできない。いな生存すら脅かされるのである。また、人間が各々、大なり小なり持ちうる眷属を指導する力が、全くないなら、社会は善に向わず悪に、幸福に向わず不幸に走る危険すらある。バラバラに生きる人間、烏合の衆と化した群衆のみが築く社会は、無政府状態となり、社会すら構成しえなくなる。更に、眷属を慈愛する働きがなくなれば、人間社会に無慈悲と無情の嵐が訪れ、悲惨と冷酷の地獄の世界を生むであろう。
 主徳の主はそれ自体が今日では社会にあたる。したがって、主徳は社会から恩恵を受けるのではなく、社会に恩恵を与えようとする働き、大局観に立った人の働きである。民衆の幸福をつねに第一義と考えて行動する人の働きこそ主徳である。
 師徳は、漠然とした人生航路を行く人に、希望と明確な進路への光を与える灯台のような働きをする人である。政治家、教育者等の職業を持つ人をあたら指すのではない。哲学者、思想家をさすのでもない、無名であっても無冠であっても、真実の人生道を毅然と確信に溢れて指導する人こそ師徳を備えた人といえよう。人生の師、人間開眼の指導者を師徳を備えた人というのである。
 親徳は、厳父、慈母であらわされる親の徳用でもあるが、更にいえば、人間の不幸を救い、一切の苦悩をわが苦悩と感じてゆく人である。他人を顧みない人、自己の利害のみを考える人は、決して親徳を持つ人とはいえまい。自らも他も共に人間性豊かな生活を、人生が送れるように慈しみ育む働きをなす人が親徳を具えた人といえよう。
 これらの三徳をそのまま皆具えた人が日蓮大聖人である。そこで、大聖人御図顕の御本尊を受持し、信行に励める者の五体には、大聖人と同じ三徳の血が脈打ち、躍動することは間違いない。わが人生に、社会に、三徳に満ちた行動を体現し実践する者こそ真の妙法の信仰人なのである。
而るを仏法なれば始終あるべしと思う人、大僻案なり
 始めと終わり、つまり説かれた前後の違いだけで、いずれの経によっても成仏できるという玉石混淆の仏教観を破したところである。
 こうした考え方は、古来、伝統的に行なわれてきたし、現代においても、日本人の仏教観の基底になっている。しかし、それは、仏教経典の内容や各宗派の教義内容へのなんらの検討もなされないまま、いわば判断放棄の言い訳としていわれているようにさえ思われる。
 もし、その内容を厳密に探究し比較検討するならば、こうした言い方が、いかに無責任であるかは明瞭であろう。

1161:01~1161:09 第十章 諌言を結すtop

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01   随つて頼基は父子二代.命を君に.まいらせたる事顕然なり.故親父中務某故君の御勘気かふらせ給いける時.数百
02 人の御内の臣等・心かはりし候けるに中務一人・ 最後の御供奉して伊豆の国まで参りて候き、頼基は去る文永十一
03 年二月十二日の鎌倉の合戦の時、 折節・伊豆の国に候しかば十日の申の時に承りて唯一人・筥根山を一時に馳せ越
04 えて御前に自害すべき八人の内に候き、 自然に世しづまり候しかば今に君も安穏にこそわたらせ給い候へ、爾来・
05 大事小事に付けて御心やすき者にこそ思い含まれて候・頼基が今更・何につけて疎縁に思いまいらせ候べき、 後生
06 までも随従しまいらせて頼基・成仏し候はば君をも・すくひまいらせ君成仏しましまさば頼基も・たすけられ・まい
07 らせむと・こそ存じ候へ。
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 したがって頼基は、父子二代にわたり命を主君に捧げましたことは、明らかなことです。亡父中務頼員は、先君が執権より御勘気を受けられたときに、数百人の一族の家臣等が、心変わりした中で、ただ一人、最後まで供奉して伊豆の国までお供しました。
 また頼基は、去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦のとき、折りから、伊豆の国にいましたが、十日の申の時に主君の大事を聞き、ただ一人で箱根山をひとときで馳せ越えて、殿の御前に自害すべき八人の内に加わりました。その後、自然と世の中が静まったので、今では主君も安穏に暮しておられます。それ以来、大事、小事となにごとにつけても心を許せる者と思われる者の中に含めて下さった。その頼基が、いまさらどうして主君を疎縁に思うでしょうか。後生までも主君に随従して、頼基が成仏したならば主君をも救い、主君が成仏されたならば頼基も助けていただこうと思う所存です。
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08   其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて何れか成仏の法と・うかがひ候処に日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生
09 の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを信じまいらせたるに候、
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 それについて諸僧の説法を聴聞して、いかなる法が成仏の法かと尋ねたところ、日蓮大聖人は、三界の主であり、一切衆生の父母であり、釈迦如来の御使い、上行菩薩であられることが法華経に説かれていたのを信ずるに至った次第であります。

故君の御勘気
 故君とは江馬光時のことと思われる。江馬光時には、四条金吾の父頼員が仕えた。四条金吾は、父頼員の死後、すでに入道になっていた光時と、その子親時に仕えている。寛元4年(1246)4月、北条時頼が執権となるにおよび光時は、将軍藤原頼経を擁して時頼を除こうと謀ったが、五月に謀叛が発覚し、光時は出家し蓮智と名のり伊豆国に流された。この事件が御勘気であり、北条九代記上に記されている。
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御供奉
 供奉の丁寧表現語。行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること。また、その人。おとも。
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文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦
 文永11年(1274)は文永9年(1272)文永年の誤りであろう。文永9年(1272)の2月騒動をさすと思われる。この事件は北条時輔が家督を時宗に取られたのを恨み謀叛を企てたが発覚し、2月11日には時宗が、名越教時、仙波盛直らを鎌倉で攻め滅ぼした。2月15日には、京都で、北条義宗が時輔を襲撃している。
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 主君に対する諫言の結論をなす部分が本章である。四条一族は主君江馬氏に代々にわたって尽くしてきた。だが、信仰の問題から関係がこじれ、同僚からの讒言もあって、主君江馬親時と頼基との間に亀裂が生じてきた。桑ヶ谷問答がその両者の間のミゾをさらに深めてしまったわけである。
 そこで、本章の段において、主家の危急存亡の折に、いかに四条一門が主家に仕えてきたか、事実をもって誠心を示したところである。そして、四条頼基には、二心のなきこと、さらに、主君の成仏を念ずるが故に諫言し、今生も後生も、ただただ主君の成仏を願うのみであることを述べた段である。
 ここで、本章にあらわれた歴史的事件の沿革をみてみると、文中にある「故君の御勘気」とは、寛元4年(1246)の一件である。その時、鎌倉に謀叛があるとの噂が流れた。北条家で、将軍の地位を奪われた前将軍頼経を再び将軍に擁立しようとするものであった。この首謀者のなかに光時が加わっており、光時はこのため入道して伊豆に流されている。
 この時、光時の家来のほとんど全てが主君を見限って去っていったのに金吾の父瀬員一人、流罪地にまで主君の伴をしたのである。
 次に、「去ぬる文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦」とあるが、これはおそらく転写のときの誤りで、事件そのものは文永9年(1272)2月に起きた「時輔の乱」である。このときは、光時の弟にあたる教時と時章が首謀者となり、時宗の兄時輔をたて執権職につかせようとはかったわけである。だが、この事件も発覚し、教時、時章、さらに時輔が誅されている。
 江馬家では、光時の子親時が当主となっていたものの、教時、時章は親時の叔父にあたる。そのため、一門の忠臣の間では当主がもし誅殺されたなら自害しようとしていたようである。御文の「御前に自害すべき八人の内に」とあるところからも、その模様を伺うことができる。まさに風前の灯が江馬一門であったわけである。
 その後、執権からの疑いも晴れ、江馬氏一門は、安穏な日々が送れるようになった。
 このように父の代から変わらぬ忠誠を貫き、頼基が日蓮大聖人の教えに従うようになったのも、後生までも主君にしたがい、主君の成仏を願うが故である、と心情を述べている。

1161:10~1162:05 第11章 天変地夭の原因を明かすtop

10 今こそ真言宗と申す悪法・日本国に渡りて四百余年去る延暦二十四年に伝教大師・ 日本国にわたし給いたりしかど
11 も此の国にあしかりなむと思し食し候間宗の字・をゆるさず・天台法華宗の方便となし給い畢んぬ、 其の後・伝教
12 大師・御入滅の次を・うかがひて弘法大師・ 伝教に偏執して宗の字を加えしかども・叡山は用うる事なかりしほど
13 に・慈覚・智証・短才にして二人の身は当山に居ながら 心は東寺の弘法に同意するかの故に我が大師には背いて始
14 めて叡山に真言宗を立てぬ・日本亡国の起り是なり、爾来・三百余年・或は真言勝れ法華勝れ一同なむど諍論・事き
15 れざりしかば王法も左右なく尽きざりき、 人王七十七代・後白河法皇の御宇に天台の座主明雲・一向に真言の座主
16 になりしかば明雲は義仲にころされぬ頭破作七分是なり、 第八十二代隠岐の法皇の御時・禅宗・念仏宗出来つて真
17 言の大悪法に加えて国土に流布せしかば、 天照太神・正八幡の百王・百代の御誓やぶれて王法すでに尽きぬ、関東
18 の権の大夫義時に天照太神・正八幡の御計いとして国務をつけ給い畢んぬ、 爰に彼の三の悪法・関東に落ち下りて
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01 存外に御帰依あり、故に梵釈.二天・日月・四天いかりを成し先代・未有の天変・地夭を以ていさむれども.用い給は
02 ざれば鄰国に仰せ付けて法華経・誹謗の人を治罰し給う間、天照太神・正八幡も力及び給はず、日蓮聖人・一人・此
03 の事を知し食せり、 此くの如き厳重の法華経にて・をはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に・無量の
04 小事をわすれて今に仕われまいらせ候、 頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや、 御内を罷り出て候は
05 ば君たちまちに無間地獄に堕ちさせ給うべし、さては頼基・仏に成り候ても甲斐なしとなげき存じ候。
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 今、真言宗という悪法が日本の国に渡ってきて四百余年になります。去る延暦二十四年に伝教大師が日本の国に真言宗を渡されたが、この国にとって好ましくない教えと思われたので、宗の字を許さずに、天台法華宗の方便の教えとなされました。その後、伝教大師の御入滅の機会をうかがい、弘法大師は伝教大師に意地を張って宗の字を加えたけれども、叡山では真言宗を用いることがなかった。しかし、慈覚と智証が、短才で、二人は身は叡山に居ながら、心は東寺の弘法に同意したのであろう、自分の先師の伝教大師に背いて、始めて比叡山に真言宗を立てたのです。日本亡国の起こりはこれによります。
 それ以来、三百余年の間、ある者は、真言宗が勝れているといい、ある者は、法華経が勝れているといい、ある者は、法華も真言も同じであるというなど、論争の絶えることがなかったので、王法もどちらにも決めかねて、亡びることはありませんでした。しかし人王七十七代・後白河法皇の時に、天台の座主明雲は全く真言の座主となったために、明雲は木曾義仲に殺されました。法華経の「頭破作七分」とはこのことです。 
 また、第八十二代・隠岐の法皇の時に、禅宗、念仏宗が興って、真言の大悪法に加えて、日本の国土に流布したので、天照太神、正八幡の百王、百代までも守護するとの御誓いは破れて、王法はすでに尽きてしまいました。その結果関東の権の大夫・北条義時に天照太神、正八幡の御計らいで国務をつけられるに至ったのです。
 そこで、その三つの悪は京から鎌倉に下ってきたのですが、思いのほか御一門の御帰依がありました。故に、梵天・帝釈の二天、日天・月天・四大天王は怒りを成して、先代未有の天変地夭をもって諫めたけれども、用いられなかったので、隣国に仰せ付けて、法華経誹謗の人びとを治罰しました。それゆえ、天照太神、正八幡の力も及びませんでした。日蓮聖人御一人だけがこのことを知っておられたのでした。
 このように厳重な法華経である故に、主君をもお導きしようと思うので、無量の小事を忘れて今日までお仕えしてまいりました。この頼基を讒言する人は、主君のためには、不忠の者ではないでしょうか。頼基が御内を去ってしまうならば、主君は、たちまちのうちに無間地獄に堕ちられるでありましょう。それでは、頼基一人が成仏してもなんの甲斐もないと嘆くばかりでございます。

叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
―――
慈覚
 (0794~0864)。日本天台宗の第三祖。諱(いみな)は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
―――
智証
 (0814~0891)。延暦寺の第五座主。智証派の祖。天台宗寺門派の祖でもある。諱は円珍。弘仁5年(0814)、讃岐国那珂郡に生まれ、15歳で叡山に登り、座主・義真の弟子となる。嘉祥元年(0848)、大極殿の吉祥会で法相宗の義虎知徳と法論し、これを破した。仁寿3年(0853)、勅を受けて入唐し、長安の法全から密教を学んで天安2年(0858)に帰国した。貞観元年(0859)、三井園城寺を再興して唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。同10年(0868)に延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平3年(0891)10月、78歳で没。著書に大日経指帰、在唐記等がある。
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短才
 才能の乏しいこと。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
―――
諍論
 正邪・是非を論じあうこと。
―――
王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
―――
後白河法皇
 大治2年(1127)~ 建久3年(1192)。在位は久寿2年(1155)~ 保元3年8(1158))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
―――
御宇
 ひとりの天子の時代。
―――
明雲
 (~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
―――
義仲
 (1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
―――
頭破作七分
 陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
―――
隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
―――
権の大夫義時
 (1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
―――
梵釈
 大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
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 真言の悪法が平安朝以後、どのように日本の国を毒してきたか、更にそれに加えて、鎌倉時代に入ってから、禅、念仏が弘まり、いかに一国を危機におとしいれているかを示している。その災難の根本原因をただ一人知っているのが日蓮大聖人であり、その一門である四条金吾を讒言する人は不忠の人であり、もし、四条金吾が江馬家を去ってしまうならば、主君はたちまち無間地獄に堕ちてしまうであろうと断言しているところである。
 この原理は、時代は変わっても、あらゆる日蓮大聖人の門下の胸中に秘めて伝えられなければならない大精神である。すなわち、民衆を、社会を苦悩のどん底におとさせないための、重要な支えとして自分はこの社会にいるのだという自覚と、それを裏づける社会での実践がなければならない。その人こそ、真実の日蓮大聖人の弟子であり、大仏法の信仰者といえるのである。
日蓮聖人一人此の事を知し食せり
 人生、社会の幸・不幸の根本原因を知られた方は、日蓮大聖人ただお一人であることを頼基の言葉に託して獅子吼なされた御文である。
 それでは、日蓮大聖人ただお一人が知られた根本原因とは何であろうか。それは、思想・宗教に善悪・正邪があり、それがそのままそれを信ずる人間生命に反映し、幸・不幸を左右するとの命題である。
 だがここに、この幸・不幸の根本原因をただ知ることだけに日蓮大聖人の本義があるのではないことを知らねばならない。あくまでも、末法万年尽未来際の民衆救済のための一閻浮提総与の御本尊の建立こそ日蓮大聖人の究極の大目的であり、その前提条件として幸・不幸の根源を明かされたのである。
 それは、医者が、始めに患者の診察をして、病気の原因を知ってから、病に応じた適切な治療を施すようなものである。医者は、身の病を治すのが使命である。仏は、心の病――人間生命の苦悩を解決するのがその使命である。つまり、日蓮大聖人のこの獅子吼は、民衆に幸福を享受せしめるための究極の実体=御本尊の御図顕が内に秘められての宣言であって、御本尊御図顕の前に、衆生の病――不幸の根源を浮き彫りにしての宣言であることを知らなければ、画竜天晴を欠くことになるといえよう。

1162:06~1162:18 第12章 起請文の提出を拒むtop

06   抑彼の小乗戒は富楼那と申せし大阿羅漢・ 諸天の為に二百五十戒を説き候しを・浄名居士たんじて云く「穢食
07 を以て宝器に置くこと無れ」等云云、 鴦崛摩羅は文殊を呵責し・嗚呼蚊蚋の行は大乗空の理を知らずと、又小乗戒
08 をば文殊は十七の失を出だし如来は八種の譬喩を以て是をそしり給うに・ 驢乳と説き蝦蟆に譬えられたり、 此れ
09 等をば鑒真の末弟子は 伝教大師をば悪口の人とこそ・ 嵯峨天皇には奏し申し候しかども 経文なれば力及び候は
10 ず、南都の奏状やぶれて叡山の大戒壇立ち候し上は、 すでに捨てられ候し小乗に候はずや、 頼基が良観房を蚊蚋
11 蝦蟆の法師なりと申すとも経文分明に候はば御とがめあるべからず。
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 そもそも彼の小乗戒は、富楼那という大阿羅漢が諸天のために二百五十戒を説いたのを、浄名居士が破折して「穢れた食物を宝の器に入れてはならない」といい、鴦崛摩羅は文殊を呵責して「ああ、蚊や蚋の修行は大乗の空の理を知らない」といっています。また、小乗戒について文殊は、大乗戒と比較して十七の失をあげ、釈迦如来は八種の譬喩をもって小乗戒をそしられています。伝教大師は小乗戒を驢馬の乳と説き、蝦蟆に譬えられています。
 これらについて鑒真の末弟子は、伝教大師を悪口の人であると、嵯峨天皇に訴えましたが、経文に説かれていることであるからどうしようもありませんでした。南都六宗からの奏状は破れて、叡山の大戒壇が建立されたからには、すでに捨てられてしまった小乗戒ではないでしょうか。
 したがって頼基が良観上人のことを、蚊、蚋、蝦蟆の法師であると悪口しても、経文に明らかなことであるから御咎めを受けるはずはないと思います。 そもそも彼の小乗戒は、富楼那という大阿羅漢が諸天のために二百五十戒を説いたのを、浄名居士が破折して「穢れた食物を宝の器に入れてはならない」といい、鴦崛摩羅は文殊を呵責して「ああ、蚊や蚋の修行は大乗の空の理を知らない」といっています。また、小乗戒について文殊は、大乗戒と比較して十七の失をあげ、釈迦如来は八種の譬喩をもって小乗戒をそしられています。伝教大師は小乗戒を驢馬の乳と説き、蝦蟆に譬えられています。
 これらについて鑒真の末弟子は、伝教大師を悪口の人であると、嵯峨天皇に訴えましたが、経文に説かれていることであるからどうしようもありませんでした。南都六宗からの奏状は破れて、叡山の大戒壇が建立されたからには、すでに捨てられてしまった小乗戒ではないでしょうか。
 したがって頼基が良観上人のことを、蚊、蚋、蝦蟆の法師であると悪口しても、経文に明らかなことであるから御咎めを受けるはずはないと思います。
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12   剰へ起請に及ぶべき由仰せを蒙むるの条存外に歎き入て候、 頼基・不法時病にて起請を書き候程ならば君忽に
13 法華経の御罰を蒙らせ給うべし、 良観房が讒訴に依りて釈迦如来の御使・ 日蓮聖人を流罪し奉りしかば聖人の申
14 し給いしが如く百日が内に 合戦出来して若干の武者滅亡せし中に、 名越の公達横死にあはせ給いぬ、是れ偏に良
15 観房が失ひ奉りたるに候はずや、 今又・竜象・良観が心に用意せさせ給いて頼基に起請を書かしめ御座さば君又其
16 の罪に当らせ給はざるべしや、 此くの如き道理を知らざる故か、 又君をあだし奉らむと思う故か、頼基に事を寄
17 せて大事を出さむと・たばかり候・人等・御尋ねあつて召し合わせらるべく候、恐惶謹言。
18       建治三年丁丑六月二十五日          四条中務尉頼基・請文
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 そのうえ「起請文を書くように」との仰せを受けたことは思いのほかのことで残念でなりません。頼基が、仏法に背いている時代の風潮のままに、起請文を書いてしまうようであれば、主君はたちまちのうちに法華経の御罰を身に受けるでありましょう。
 良観上人の讒訴によって、釈迦如来の御使いである日蓮聖人を佐渡流罪に行なったところ、日蓮聖人のいわれたように百日以内に合戦が起こり、多数の武者が滅亡してしまいました。その中には、名越の公達も横死にあわれているのです。これはひとえに良観上人が武者達を失わせたものではないでしょうか。今、また、竜象房や良観上人の考えに意を用いられて、頼基に起請文を書かせられるならば、主君もまたその罪に相当するのではないでしょうか。
 このような道理を知らない故でありましょうか。それとも主君に害を加えようと思う故でしょうか、いずれにしても、頼基に事寄せて、大事を引き起こそうと謀っているその人びと等を呼ばれて、私と召し合わせていただきたいのでございます。恐惶謹言。
  建治三年丁丑六月二十五日     四条中務尉頼基 請文

小乗戒
 小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師に現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
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富楼那
 釈迦十大弟子の一人。法華経序品の説法の会座につらなり、説法第一といわれた阿羅漢。法華経五百弟子受記品で法明如来の授記を受けた。ここでは、富楼那がいまだ小乗戒に執着して、大乗の機根に対して小乗戒を説いた。それに対して、維摩詰が機根を観じて説法せよと誡めたことをいう。
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大阿羅漢
 阿羅漢・羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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浄名居士
 梵語では維摩羅詰、毘摩羅詰という。釈迦在世の時に中インドの毘耶離城に住んでいた大富豪。在家の仏弟子でありながら、大乗経を悟り、雄弁家で、智慧第一の舎利弗も及ばなかったという。仏道に大精進をした理想的な大檀那で、維摩経に説かれている。維摩の本地は阿閦仏すなわち、無動如来の浄土・妙喜国であり、維摩はその垂迹の姿であると説かれている。
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穢食
 不潔な食物のこと。
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鴦崛摩羅
 梵語で指鬘、指髻と訳す。本名は一切世間現。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。釈迦在世当時、インド波斯匿王の室羅婆悉底城に鴦崛摩羅という男がいて、頗羅呵私村の外道の摩尼跋陀羅という外道について四吠陀を学んでいた。師匠の摩尼が留守にしたときに、摩尼の妻との間を疑われ、師匠より「千人を殺し、その指を取って罪を滅せ」と厳命された。鴦崛は九百九十九人の指を取り、残る一人の指を切り取るために自分の母を殺害しようとしたので、仏はこれを教化した。その後鴦掘は大乗の法要を得て、大乗を讃嘆し、小乗真空の理に執着している目連、舎利弗、文殊師利の誤りを破折した。
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蚊蚋
 カとブヨのこと。小乗教の教えを蚊蚋と呵責している。
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文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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驢乳
 驢馬の乳のことで、まずくて飲みにくいので、とるに足りない小乗戒に喩えられる。大智度論巻第十八には「譬えは牛乳と驢乳との如し、其の色は同じと雖も、牛乳を攢むれば則ち酥と成り、驢乳を攢むれば則ち尿と成る」とある。また伝教大師の顕戒論巻中にも「牛驢の乳、其の色別ち難く、両迦の果、其の形何ぞ別たん」と述べられる。
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蝦蟆
 慈覚は顕揚大戒論で「若し別に菩薩戒無きは牛跡の外に応に大海無かるべし。若し無きと言わんは何ぞ蝦蟆に異らん。若し有りとせば当に知るべし小戒の外別に大乗菩薩戒なりと」と説き小乗戒に執着して大乗菩薩戒は無いという者を蝦蟆に譬えた。
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鑒真
 (0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
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嵯峨天皇
 (0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
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起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
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讒訴
 他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。
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若干
 ①いくつか。いくらか。②多数。多く。たいそう。はなはだ。ここでは②の意か。
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名越の公達
 名越家の子弟。北条義時の次男の朝時が鎌倉・名越に住んでいたことからこう呼ばれる。
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 本章は、頼基陳状の最終章であり、主君に対して、きっぱりと起請文の提出を拒否した段である。前段では、頼基が良観を悪く言う理由を、良観所依の小乗・律宗に対して経文を引き示されている。後段では、起請文の提出拒否の理由を、名越の公達の先例に基づき、仏法の厳しい因果の理法を通して述べられているところである。
 極楽寺良観の正体については、本講義の第五章で見てきた通りである。ここでは、良観の人間像ではなく、良観所依の小乗・律宗を取り上げ、法の面からの破折がなされている。
 浄名居士が富楼那を破した文は、末法の衆生に小乗教を説く良観の説法への破折である。また、鴦崛摩羅が文殊を呵責した文は、小乗教に執着していては、仏の説法の根本思想である大乗空の思想を知ることができないことを指摘したものである。そして、清浄毘尼経に説かれた文殊の十七の失、並びに釈迦如来の八種の譬喩は、小乗と大乗を持つ者の功徳に天地雲泥の違いのあることを示している。また、小乗戒が自己を利する自行の法に偏った教であるのに対して、大乗戒は自行に限らず広く衆生を救う利他の教であることを述べたものである。
 次に、伝教の驢乳の譬えは、小乗戒が衆生の成仏の法でないことを端的に述べたものである。すなわち、牛乳が渇ける衆生の喉を潤し生命を育んでいくのに対して、驢乳はまずく飲むにたえないことから肯けよう。また、蝦蟆の譬えは、「井の中の蛙大海を知らず」との格言で周知の通り、小乗戒が広く社会のために開かれた宗教ではなく、閉じた宗教であることを示したものである。
 しかも、その小乗戒は、大乗戒の成立までの生命であり、日本においては、伝教大師が叡山に大乗の戒壇を建立したのと同時に、南都の小乗戒は破棄された宗教である。したがって、今さら小乗戒を説くことは、時代錯誤もはなはだしいと諭され、良観破折の理由とされている。
 次に、主君の最大の関心事である起請文の提出について述べている。
 はじめに、桑ヶ谷問答の一件が主君の勘気を被り、起請文の提出にまで及んだことは、思いの外のことであり、家臣として大変嘆かわしいと頼基の心情を語っている。そして、起請文の提出を拒否する理由が述べられている。すなわち、頼基が起請文を書かないのは、仏法の法理に照らして、主君が名越の公達の轍を踏ませないためであると述べたのである。名越の公達の轍とは、文永9年(1272)2月の北条時輔の乱で横死した名越時章、教時のことである。しかもこの二月騒動こそ、前年の9月10日に日蓮大聖人が「遠流・死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし」(0911-11)と予言した自界叛逆難の的中であった。そして、この自界叛逆難の淵源は、良観の讒訴に端を発する日蓮大聖人の竜口の頸の座であり、佐渡への遠流にあった。換言すれば、名越の公達の横死の元凶は、他ならぬ極楽寺良観その人であることを主君に示されたわけである。主君にとっては、起請文を要求した行為が、名越の公達の二の舞を踏むとの厳しい警告であった。なぜなら、主君は良観への帰依厚く、また起請文の提出を目論んだ張本人は良観であり、竜象房であったからである。
 そして最後に、頼基に事寄せて大事を起こそうと謀っている関係者らを呼ばれて、頼基と召し合わせられることを願い、本状を結ばれている