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日蓮大聖人御書講義20下1059~1078
1059~1065 曾谷殿御返事(輪陀王御書)
1059:01~1065:03 第一章 供養を謝し功徳の大なるを示す
1059:03~1060:01 第二章 法華経は五味の主なるを示す
1060;01~1060:08 第三章 法華経の題目こそ眼目と明かす
1060:08~1060:12 第四章 大日経等による開眼の誤りを破す
1060:12~1061:01 第五章 譬えを以て法華の最勝示す
1061:01~1062:03 第六章 輪陀王の故事を引いて釈す
1062:04~1062:13 第七章 日本の仏教流布の始めを述ぶ
1062:13~1063:11 第八章 伝教大師の法華経流布の功を説く
1053:11~1063:17 第九章 弘法の法華誹謗を明かす
1063:18~1064:08 第十章 慈覚・智証の謗法を挙げる
1064:09~1064:18 第11章 悪法強盛の故に三災起こるを示す
1065:01~1065:05 第12章 妙法受持の者に諸天の守護
1065:06~1065:12 第13章 供養の功徳を明かして結ぶ
1059~1065 曾谷殿御返事(輪陀王御書)2011:1月号大白蓮華より。先生の講義
1065~1069 曾谷二郎入道殿御返事
1065:01~1066:04 第一章 法華経の文を引き「其人」を釈す
1066:04~1066:11 第二章 「入阿鼻獄」の相を示す
1066:11~1066:16 第三章 一切衆生一業の所以を説く
1066:16~1067:01 第四章 重罪の根源は三大師にあるを標す
1067:01~1067:11 第五章 三大師の悪を挙げる
1067:11~1068:04 第六章 三大師破折の所以を述べる
1068:05~1068:09 第七章 法華の「第一」と諸経の「第一」を比較
1068:10~1069:08 第八章 法華行者迫害の重きを示す
1069:09~1069:12 第九章 師壇の縁を説き励ます
1070~1071 秋元殿御返事(五節供御書)
1070:11~1070:13 第一章 五節句の正意を述べる
1070:14~1071:05 第二章 師壇の深縁を教え信心を励ます
1071~1078 秋元殿御返事(五節供御書)2015:08月号大白蓮華より。先生の講義
1071~1078 秋元御書(筒御器抄)
1071:01~1072:12 第一章 完器に寄せて全き信心を説く
1072:12~1073:07 第二章 「四箇の格言」による値難を示す
1073:07~1074:02 第三章 古今に超過する値難の理由を明かす
1074:03~1074:11 第四章 謗人の相を示す
1074:12~1074:17 第五章 謗家の相を示す
1074:18~1075:10 第六章 謗国の相を示す
1075:11~1076:02 第七章 謗法治罰の功徳と安国の方途示す
1076:02~1076:15 第八章 真言に堕した天台宗を呵責する
1076:16~1077:05 第九章 謗国等の三失を脱れる方途を説く
1077:06~1077:10 第十章 竜門の故事を挙げ、此経難事を説く
1077:10~1077:15 第11章 呵責謗法せざるは仏の禁めに違背
1077:16~1078:11 第12章 身延の山河と厳冬の様子を述ぶ
1059~1065 曾谷殿御返事(輪陀王御書)top
1059:01~1065:03 第一章 供養を謝し功徳の大なるを示すtop
| 曾谷殿御返事 弘安二年八月 五十八歳御作 01 焼米二俵給畢ぬ、 米は少と思食し候へども人の寿命を継ぐ者にて候、命をば三千大千世界にても買はぬ物にて 02 候と仏は説かせ給へり、 米は命を継ぐ物なり 譬えば米は油の如く命は燈の如し、 法華経は燈の如く行者は油の 03 如し檀那は油の如く行者は燈の如し、 -----― 焼米二俵を頂戴しました。米はわずかなもののように思われるかもしれないが、人の命を継ぐものである。命は三千大千世界をもっても買うことができないものであると、仏は説かれている。米は命を継ぐものである。譬えていえば、米は油で、命は燈のようなものである。法華経は燈で、法華経の行者は油のようなものである。また檀那は油で、法華経の行者は燈のようなものである。 |
焼米
新米を籾のままで炒って殻を取ったもので、炒米ともいう。携帯用、保存用の食糧として用いられた。
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三千大千世界
仏教の世界観で、三千世界・大千世界ともいう。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六などによると須弥山を中心として、九山八海、四大洲があり、これを小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界を更に千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界といい、一仏の教化する範囲とされる。
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法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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本抄は、弘安2年(1279)8月17日、日蓮大聖人が聖寿58歳の時、身延において著され、曾谷教信の長子・四郎左衛門直秀(入道して道宗または道崇)に与えられた御消息である。
その内容から、焼米抄・五味主抄・輪陀王御書とも呼ばれた。御真筆は現存しない。
本抄の内容は、初めに焼米二俵の御供養に対して、米は命を支えるものであり、その米を供養して法華経の行者たる日蓮大聖人を支える檀那の尊さを示されている。
次に、五味のたとえによって、諸経は五味であり法華経は五味の主であること、また法華経の題目は一切経の魂であり眼目であることを明かされ、諸天善神は題目を唱える声を食として威光勢力を増すことを、輪陀王と白馬・白鳥の説話によって示されている。
更に、今の世は禅・念仏・真言等の悪法が盛んなために諸天の加護がなく、かえって大聖人と正法を迫害するゆえに飢饉・疫病・兵革の三災が起こることを明かされ、大聖人の門下となり題目を唱える者には必ず諸天の加護があることを確信するよう教えられている。
最後に、同年三月の身延の仏事に道宗が鵞目を多数御供養したことによって、多くの人が身延で修学できたことを感謝され、それが過去の祖先の聖霊への最大の孝養となっていることを示され、大進阿闍梨の死去に触れて結ばれている。
焼米二俵給畢ぬ
焼米とは、新米を籾のまま炒り、搗いて殻をとったもので、炒米ともいった。そのまま食べたか、湯や水に浸して食べたものらしい。日本書紀にもその名がでているように、焼米の起源は古く、おそらく、米を炊いて食べる以前の食法だろうといわれている。
鎌倉時代にも、保存食として、また糒とともに旅行の際の携帯食として日常的に用いられていたようである。
おそらく、曾谷道宗が「わずかの品物ですが」と断って御供養してきたのであろう。それに対して大聖人は、米が人の生命を継ぐのに必要な物であり、命というものは三千大千世界をもっても買うことはできない第一の宝であると仏は説いている、と述べられ、この御供養の尊さを強調されている。
この「仏は説かせ給へり」と仰せの御文の出典は明らかではないが、大智度論巻第十三には「一切の宝の中にて人命は第一なり、人の命の為の故に財を求む、財の為の故に命を求めず」とあり、梵網経古迹記巻下本に「智論に云うが如し、設い世界に満つる宝も身命に直する有るなし」とあるのを取意されたとも考えられる。
また、同じ趣旨の御文として白米一俵御書には「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり、されば・いのちは・ともしびのごとし・食はあぶらのごとし、あぶらつくれば・ともしびきへぬ・食なければ・いのちたへぬ」(1596-04)と述べられている。
そして、命を燈とすれば、米はその輝きを支える油のようなものであり、また法華経を燈とすれば、その法を弘め輝かせる法華経の行者は油のようなものであり、法華経の行者を燈とすれば、それを支える檀那は油のようなものである、と述べられている。
すなわち、この御文における燈と油のたとえは、命と米、法華経と行者、行者と檀那の関係と三重になっており、油がなくなれば燈は消えるように、法華経の行者、すなわち日蓮大聖人が末法に御出現になって弘通されなければ法華経が流布することはなく、その大聖人を外護し供養する檀那がいなければ大聖人も弘教することはできないのであり、したがって道宗が御供養した米は大聖人の命を養う功徳があるだけではなく、正法の流布を助ける大功徳があるのである。との意と拝することができる。
そのように、この御文は道宗の焼米を供養した意義と、その功徳の甚大なことを示されているのである。
1059:03~1060:01 第二章 法華経は五味の主なるを示すtop
| 03 一切の百味の中には乳味と申して牛の乳第一なり、 涅槃経の七に云く「猶 04 諸味の中に乳最も為れ第一なるが如し」云云、 乳味をせんずれば酪味となる酪味をせんずれば 乃至醍醐味となる 05 醍醐味は五味の中の第一なり、 法門を以て五味にたとへば儒家の三千・外道の十八大経は衆味の如し、 阿含経は 06 醍醐味なり、 阿含経は乳味の如く観経等の一切の方等部の経は酪味の如し、 一切の般若経は生蘇味・華厳経は熟 07 蘇味・無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし 又涅槃経は醍醐のごとし法華経は五味の主の如し、 妙楽大師 08 云く「若し教旨を論ずれば法華は 唯開権顕遠を以つて教の正主と為す独り妙の名を得る意此に在り」云云、 又云 09 く「故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主」等云云、 此の釈は正く法華経は五味の中にはあらず 此の釈の心は五味は 1060 01 寿命をやしなふ寿命は五味の主なり、 -----― 一切の百味のなかにあっては、乳味といって牛の乳が第一である。涅槃経の第七には「諸味のなかで乳が最も第一である」と説かれている。乳味を煎じると酪味となり、酪味を煎じると生蘇味、熟蘇味、醍醐味となり、この五味の中では醍醐味が第一である。 法門をもって五味にたとえるならば、儒家の三千の経書や外道の十八大経などは衆味のようなものであり、仏教のなかで最も劣る。阿含経は、醍醐味である。 阿含経は乳味で、観無量寿経等の一切の方等部の経は酪味、一切の般若経は生蘇味、華厳経は熟蘇味、無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐味のようなものである。また、涅槃経を醍醐味とすれば、法華経は五味の主である。妙楽大師の釈に「もし教えの趣旨を論ずると、法華経はただ、開権顕遠をもって教の正主としている。法華経が独り妙の名を得ている本意はここにある」云々と、また「ゆえに、法華経は醍醐の正主であることが分かる」等云々とある。この釈はまさしく、法華経を五味の中に含んではいない。この釈の意は、五味は命を養うものであるのに対し、命そのものが法華経であり、それが五味の主であるということである。 |
乳味
五味のひとつ。華厳時の教法をいう。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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酪味
乳を精製するときに経る味を五味に分けた第二。阿含時の経典を酪味とする。
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醍醐味
①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
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儒家の三千
儒教の経書を古典より大数にして示したもの。前漢書には3123巻、白虎通には3240、史記には3760巻等とある。
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十八大経
インドバラモン教の経典である四韋陀、六論、八論の総称。十八明処ともいう。「四韋陀」①リグ・ヴェーダ(太古の賛美歌集)、②サーマ・ヴェーダ(賛美歌に歌をつけた歌詠集)、③ヤジュル・ヴェーダ(祭詞を集めたもの)、④アタルバ・ヴェーダ(呪法の句を集めたもの)「六論」夜叉論・毘迦羅論・柯剌波論・竪底沙論・闡陀論・尼鹿多論は文法や天仙の因縁、天文、地理、算数、一切の名の語源などが記されている。「八論」肩亡婆論・那邪毘薩多論・伊底呵婆論・僧佉論・課伽論・陀菟論・揵闥婆論・阿輸論。諸法の是非や道理、音楽、医方などが説かれている。
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阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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方等部
方等部に説法した種々の経典の総称。小乗を弾呵し一切衆生に広く平等に教法を説きしめしたもの。
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般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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生蘇味
牛乳を精製するときにできる五味の第三。方等部の経典を生蘇味とする。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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熟蘇味
涅槃経で説かれる五味のうちの熟蘇味。牛乳を精製する過程を五段階に分けたなかの第四。
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無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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開権顕遠
「近を開いて遠を顕す」と読む。涌出品後半・寿量品・分別功徳品前半で説かれる法門。「近」は近成(始成正覚)、「遠」は遠寿(久遠実成)のここと。釈尊が始成正覚を開いて五百塵点劫の過去からの仏であったことを説き明かしたことをいう。
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ここでは、諸経を五味とすれば法華経は五味の主であって、一切経のなかで最も勝れることを明かされている。
五味について
五味とは、涅槃経第十四に「譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生穌を出し、生穌より熟穌を出し、熟穌より醍醐を出す。醍醐は最上なり。若し服する者有れば、衆病皆除く。有らゆる諸薬は、悉く其の中に入るが如し」とあることによる。
すなわち、牛乳を精製する時の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味をいう。
乳味は牛乳の味、酪味は牛乳から精製されたバターなどに相当するものの味、生蘇味とは練乳に相当する味、熟蘇味は生蘇が熟し醗酵したもので芳香のある乳酸菌飲料に相当する味と考えられる。醍醐味は蘇を精製した液とされ、甘美な最高の味で万病を治す働きがあるとされた。
天台大師は、この五味を用いて、経典等の勝劣を判じた。
天台四教儀には、釈尊一代の聖教をその内容によって五期に分類した華厳・阿含・方等・般若・法華の五時を五味に配して、華厳時を乳味、阿含時を酪味、方等時を生蘇味、般若時を熟蘇味、法華時を醍醐味とし、教が順序次第に生ずること、また衆生の機が順序次第に熟することにたとえている。
本抄で大聖人は、法門を五味にたとえれば、内外相対すると儒教の三千巻の書やバラモン教の主要な十八の経典は乳味に劣る衆味であり、それに対すれば小乗の阿含経は醍醐味にあたるとされている。更に、仏教のなかでは、阿含経は乳味、観経等の方等部の経は酪味、般若経は生蘇味、華厳経は熟蘇味、無量義経と法華経と涅槃経は醍醐味にあたる、と述べられている。
大聖人は、経典の内容、深さから法華経に次ぐ教理を説く華厳経を熟蘇味とされたものであろう。
一代聖教大意には「説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり、法門の浅深の次第を列ぬれば阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と列ぬべし」(0397-04)と述べられている。
また諌暁八幡抄にも「阿含小乗経は乳味のごとし方等・大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く華厳経等は熟蘇味の如く法華・涅槃経等は醍醐味の如し」(0577-05)と述べられている。
涅槃経は醍醐のごとし法華経は五味の主の如し
法華・涅槃の経は総じていえば醍醐味であるが、これを更に細かく分けて、涅槃経が醍醐味であり、法華経は五味の主となるとされている。
釈迦一代五時継図に「涅槃経は一日一夜の説三蔵教・通教・別教・円教を明す、亦は醍醐味とも名く……亦捃拾教と名け亦扶律顕常と云う、化儀は漸部・化法は四教なり法華の時猶未解の輩有り更に後番五味を以て余残の機を調熟し給う、涅槃の時四教の機同く・仏性を見る秋収冬蔵の如し、唯四機有り倶に常住を知る故に法華と合して同醍醐味と為すなり」(0643-13)と述べられている。
すなわち、涅槃経は、法華経の利益に漏れた衆生を拾い集めて利益するために説かれたものなので、捃拾経といわれている。したがって、涅槃経を醍醐味とした場合には、法華経は「五味の主」となるのであり、その文証として、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻七の文を挙げられている。
弘決の文は、天台大師が摩訶止観巻七で、法華経と涅槃経の異同を論じて、法華経と涅槃経は同じく醍醐味であるとするとともに、そのなかで勝劣を立てて「施化早く畢りて涅槃を俟たず」と法華経が勝れていることを明かした文を、妙楽大師が「故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主」と釈したものである。
更に妙楽大師は「若し教旨を論ずれば法華は唯開権顕遠を以つて教の正主と為す。独り妙の名を得る意此に在り」と論じている。
法華経には、涅槃経はもとより、諸経に説かれていない開権顕遠―開権顕実と開近顕遠―が説かれているので「教の正主」となるのであるとし、ゆえに法華経のみを妙と名づけるのである、と述べているのである。
開権顕実とは、四十余年の方便権教を開いて真実義である一仏乗を顕すことで、法華経迹門の説法を意味する。開近顕遠とは、釈尊が始成正覚を開いて久遠実成を説き明かしたことをいい、法華経本門に説かれる法門を意味している。この二つの法門のゆえに、法華経は「教の正主」であり、「妙」なのである。
この弘決の文意は、法華経は五味のなかではなく、五味は寿命を養う飲食物なので、五味によって養われる生命、すなわち五味の主こそ法華経であるとの意なのである。
1060;01~1060:08 第三章 法華経の題目こそ眼目と明かすtop
| 01 天台宗には二の意あり一には華厳・方等・般若・涅槃・法華は同じく醍醐味 02 なり、 此の釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり世間の学者等此の筋のみを知りて法華経は五味の主と申す法 03 門に迷惑せるゆへに諸宗にたぼらかさるるなり、 開未開・異なれども同じく円なりと云云是は迹門の心なり、 諸 04 経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり、 此の法門は天台・妙楽粗書かせ給い候へども分明なら 05 ざる間・学者の存知すくなし、 此の釈に若論教旨とかかれて候は法華経の題目を教旨とはかかれて候、 開権と申 06 すは五字の中の華の一字なり 顕遠とかかれて候は 五字の中の蓮の一字なり独得妙名とかかれて候は 妙の一字な 07 り、 意在於此とかかれて候は 法華経を一代の意と申すは題目なりとかかれて候ぞ、 此れを以て知んぬべし法華 08 経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、 -----― 天台宗で立てる解釈に二の意がある。一には華厳、方等、般若、涅槃、法華の諸経は同じく醍醐味であるとする解釈である。この解釈の意味は、爾前の諸経と法華経とを似かよったものにしているようにみえる。世間の学者等はこの筋合いばかりを知って、法華経は五味の主であるという法門を知らないために、諸宗にたぶらかされるのである。 法華経は開会の教え、他経は未開会の教えという異なりはあっても、どちらも同じ円教であるとする見方があるが、これは法華経迹門の解釈である。それに対して諸経は五味、法華経は五味の主であるとする法門は法華経本門の法門である。 この法門については天台大師、妙楽大師が大略を説かれたが、明瞭でないために知っている学者は少ないのである。妙楽大師の釈に「若し教旨を論ずれば」とあるのは、法華経の題目を教旨といったのである。「法華は唯開権顕遠を以つて」の「開権」とは五字の題目の中の華の一字に当たる法門であり、「顕遠」とあるのは五字の中の蓮の一字に当たる。「独り妙の名を得」とあるのは五字の題目のなかの妙の一字に当たり、「意此に在り」とあるのは、法華経が一代聖教の意であるというのは題目のことであると示されたのである。このことから、法華経の題目は一切経の神であり、一切経の眼目であることを知るべきである。 |
天台宗
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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円
まどかのことで完璧な教え。法華経のこと。
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天台宗には、小乗経を除く爾前の諸経と法華経をともに五味のなかの醍醐味とする釈と、法華経を五味の主とする釈の二つがあることを示され、法華経の題目こそ一切経の魂であり眼目であることが明かされている。
天台宗には二の意あり……
天台宗が諸経の内容・勝劣を判ずるのに二説があり、一つは「華厳・方等・般若・涅槃・法華は同じく醍醐味なり」とする釈であり、一つは爾前経を前四味、法華経を醍醐味とする釈である。
この二つの釈は約教別与と約部通奪といい、天台大師の法華玄義巻一上に説かれている。すなわち、三種の教相を説くなかの第一、根性の融・不融の相を釈すなかで、一切経を教に約すと法華と爾前の円教はともに円融相即を説いているので同一であるとする。これを約教別与という。
それに対して、部に約すと法華部のみに純粋な円教が説かれており、爾前の円教は方便権教を兼帯しているので法華経は勝れ、爾前の円教は劣るとする。これを約部通奪という。
第一の釈では、爾前の諸経と法華経を相似したものとみていることになり、天台宗の学者等はこの筋道のみを知って「法華経は五味の主」であること、すなわち法華経は諸経とは比べることができない第一最勝の経であるという法門を知らないために、真言宗の立てる理同事勝などの邪義にたぶらかされて真言の経が法華経に勝れるなどと思って法華経を下すようにさえなったのである。
華厳・方等・般若部の諸経と法華経を同じ醍醐味とするのは、法華経は方便の教法を開会して一仏乗に帰入せしめた開会の教であり、余経は未開会の教であるというように、その説相は異なってはいても、同じ円教であるとみることで、これは法華経迹門の立て方なのである。
それに対して、諸経は五味であり、法華経は五味の主であると立てるのは、法華経本門の法門である。そして、その義は前章に述べたように、天台大師の摩訶止観や妙楽大師の止観輔行伝弘決等に説かれてはいるが、あまり明瞭ではないために、それを明らかに知る学者は少なかったのである。
此の釈に若論教旨と……一切経の眼目なり
次に大聖人は、弘決に「若し教旨を論ずれば……」と述べている教旨とは、法華経の肝心である題目をさしているのである、と釈されている。妙楽大師の文意は、法華経の教旨―教えの趣旨、眼目は本門と迹門の開顕にあることをさしているが、大聖人はもう一重立ち入って、題目こそ教旨であるとされているのである。
すなわち、弘決の「法華は唯開権顕遠を以って教の正主となす。独り妙の名を得る意此に在り」の文の「開権」というのは妙法蓮華経の「華」の一字に、「顕遠」とあるのは「蓮」の一字に、「独り妙の名を得る」とあるのは「妙」の一字に、「意此に在り」と書かれているのは、法華経を釈尊一代の「意」とするのは題目にある、とされている。
「開権」を華、「顕遠」を蓮の字に配するのは、法華玄義巻一の序に「久遠の本果を指す、之を喩えるに蓮を以ってし、不二の円道に会す、之を譬えるに華を以ってす」とあるのによられたものであろう。
開権とは三乗の弟子に一仏乗を悟らせることで、権即実と不二の円理を説いたものなので、妙法五字のなかの華の一字の法門にあたり、顕遠とは仏の久遠の本果を示したものなので、妙法五字のなかの蓮の一字の法門とするのである。
「独り妙の名を得る」の文を妙の一字とするのは、妙法五字を五重玄に配する時は、妙の名を名玄義としているからである。
「意此に在り」とは、弘決の文意は開権と顕遠を「此」とさしているが、大聖人は法華経が一切経の「意」であるというのはこの題目の五字のことであるとされているのである。
すなわち、五味の主とされる法華経とは、二十八品の法華経ではなく、法華経の題目、すなわち寿量品の文底の南無妙法蓮華経をさしていると拝すべきなのである。
ゆえに「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」と結論されているのである。
このことは、報恩抄にも「如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり」(0324-10)と述べられ、また「妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心にあらずや」(0325-10)と明かされている。
1060:08~1060:12 第四章 大日経等による開眼の誤りを破すtop
| 08 大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に 大日経等 09 を以て一切の木画の仏を開眼し候へば 日本国の一切の寺塔の仏像等・ 形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆 10 生の心なり、 愚癡の者を智者とすること是より始まれり、 国のついへのみ入て祈とならず還て仏変じて魔となり 11 鬼となり国主乃至万民をわづらはす是なり、 今法華経の行者と檀那との出来する故に 百獣の師子王をいとひ草木 12 の寒風をおそるるが如し、 是は且くをく -----― 大日経等の一切経は、法華経によってこそ開眼供養すべきであるのに、大日経等をもって一切の木画の仏を開眼するから、日本国の一切の寺塔の仏像等は形は仏に似ているが、その心は仏ではなく、九界の迷える衆生と同じ心なのである。愚癡の者を智者とすることはこのことから始まったのである。そうした邪法に依っているから、国の費用をかけるばかりで祈禱の利益もない。かえって仏が変じて魔となり鬼となって、国主や人々を煩わすというのはこのことをいうのである。しかも、今、法華経の行者とその弟子檀那が出現したので、百獣が師子王をきらい、草木が寒風をおそれるように、諸宗の人師は日蓮等をきらい、恐れているのである。このことはしばらくおく。 |
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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開眼供養
仏像の眼目を開くという義をもじった法会のこと。新たに彫刻し、鋳造し、書写した仏像・絵像等を、法をもって供養し、心を入れ、生身の仏と同じにするための儀式、法会をいう。開明、開光明ともいう。草木成仏の法は法華経のみにある。本尊問答抄には「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり」(0366)と破折されている。
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木画の仏
木に彫られた仏像や紙幅に描かれた仏。
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大日経等によって仏像を開眼しているゆえに災いが起こっているのであると指摘されている。
大聖人は、大日経等の一切経は方便権教なので、大日経等によって開眼した木画の仏像は、形は仏に似ているが、仏の働きはない。方便権教は九界の衆生の迷心に順じたものなので、それによって開眼された仏像も、九界の迷いの衆生の心と同じものとなっている。したがって、造立や供養に国の財を費やすのみで、祈っても利益がないばかりか、かえって仏が変じて魔や鬼の働きを示して、災難をもたらし、国主をはじめ万民をわずらわせるのだと指摘されている。
開眼供養とは、仏像の眼目を開くという義の法要で、木画の仏像を法をもって供養し、心を入れて生身の仏と同じにするための儀式、法会をいう。開眼供養の根本の法理は草木成仏の法門であり、草木成仏の法理、すなわち一念三千の法門を明かしているのは法華経のみなので、仏に心を入れるのは法華経に限るのである。
木絵二像開眼之事にも「今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり……今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す、人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす」(0469-14)と仰せられている。
このように、信仰の根本である本尊に迷っているところから、仏法の道理に暗い愚癡の真言師などを智者として仰ぐ誤りが生じたのであり、その誤りを強く責める法華経の行者と檀那、すなわち日蓮大聖人とその門下の出現を、真言師らの謗法の徒は、百獣が強い獅子を恐れ、草木が激しい突風を恐れるように、はなはだ恐れたのである、と述べられている。
1060:12~1061:01 第五章 譬えを以て法華の最勝示すtop
| 12 法華経は何故ぞ諸経に勝れて 一切衆生の為に用いる事なるぞと申すに譬 13 えば草木は大地を母とし虚空を父とし 甘雨を食とし風を魂とし日月をめのととして生長し 華さき菓なるが如く、 14 一切衆生は実相を大地とし 無相を虚空とし一乗を甘雨とし已今当第一の言を大風とし 定慧力荘厳を日月として妙 15 覚の功徳を生長し 大慈大悲の華さかせ安楽仏果の菓なつて一切衆生を養ひ給ふ、 一切衆生又食するによりて寿命 16 を持つ、 食に多数あり土を食し水を食し火を食し風を食する衆生もあり、 求羅と申す虫は風を食す・うぐろもち 17 と申す虫は土を食す、 人の皮肉・骨髄等を食する鬼神もあり、尿糞等を食する鬼神もあり、 寿命を食する鬼神も 18 あり、声を食する鬼神もあり、石を食するいをくろがねを食するばくもあり、地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵 1061 01 王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ、 -----― 法華経は諸経に勝れており、一切衆生のために用いるべき経であるというのはどういう理由からであるかといえば、たとえば草木は大地を母とし、虚空を父とし、甘雨を食とし、風を魂とし、日月を乳母として生長し、花を咲かせ、実をつけるように、一切衆生は法華経の諸法実相を大地とし、無相の極理を虚空とし、一仏乗を甘雨とし、已今当説最第一の言葉を大風とし、定慧力荘厳を日月として、妙覚の功徳を生長し、大慈大悲の華を咲かせ、安楽の仏果の菓を実らせて、その力をもって一切衆生を養っていくのである。 一切衆生はまた、物を食することによって生命をたもつものである。その衆生の食するものにはさまざまある。土を食し、水を食し、火を食し、風を食する生き物もある。求羅という虫は風を食し、うぐろもちという虫は土を食す。人の皮肉、骨髄などを食する鬼神もあり、糞尿などを食する鬼神もある。寿命を食する鬼神や声を食する鬼神もあり、石を食する魚、鉄を食する獏という生き物もいる。地神、天神、竜神、日月、帝釈、大梵天王、二乗、菩薩、仏は仏法をなめて身とし、魂とされるのである。 |
実相
ありのままの姿
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無相
形や姿がないこと。
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一乗
一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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已今当第一の言
法華経法師品第十に「而も此の経の中に於いて、法華は最も第一なり(中略)我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とある。
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定慧力荘厳
法華経方便品第二に「仏は自ら大乗に住したまえり、其の得たまいし所の法の如きは、定慧の力もて荘厳せり、此れを以て衆生を度したまう」と説かれている。
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うぐろもち
モグラのことで、食虫目の獣。「むぐらもち」「もぐらもち」ともいう。
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ばく
①奇蹄目に含まれるバク科(Taipiridae)の構成種の総称。②中国から日本へ伝わった伝説の生物。人の夢を喰って生きると言われるが、この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に「獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむという。
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地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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天神
①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
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竜神
八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)の2番目。金翅鳥、修羅、竜神とともに、地動を起こすといわれる。
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日月
日天子、月天子のこと。日天子は日宮殿に住む天人、月天子は月を宮殿とする天人のことで、それぞれ太陽、月を神格化したもの。法華経の会座にも列なっており、諸天善神とされる。
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帝釈
帝釈天のこと。梵名シャクローデーヴァーナームインドラハ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もとはヴェーダ神話上の最高神で雷神であった。仏教では大梵天王とともに護法の主神となり、仏の説法の時には常に左脇に侍している。欲界第二忉利天の主として須弥山の頂の喜見城に住し、他の三十二天を統領している。
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大梵王
大梵天王のこと。梵名マハーブラフマン(Mahā- brahman)の訳。バラモン教では万物の生因である梵の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では色界の初禅天の主で、娑婆世界を支配する善神。仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天とともに仏の左右にあって仏法を守護するとしている。
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二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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法華経がなぜ諸経に勝れていて、一切衆生に与えるべきなのかを、譬喩をもって明かされている。
すなわち、草木が、大地を母、虚空を父、甘雨を食、風を魂、日月を乳母として成長し、花を咲かせ、果実をならせるのと同じように、一切衆生は法華経の諸法実相の法理を大地の母とし、絶対平等の無相の法理を虚空の父とし、一仏乗の教えを甘雨の食、法華経は已・今・当の三説に超過するとの法師品の言を大風の魂、仏の所得の法は定慧の力荘厳せりとの方便品の文を日月の乳母として、妙覚の功徳は生長し、大慈大悲の仏果の果実を実らせていくのである、と仰せである。
「実相を大地とし」と仰せの実相とは、ありのままの真実の相のことで、教法の所詮の真理をさす。何を実相とするかは諸経によって異なっており、法華玄義巻八には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印は小乗教の法印であり、大乗経にはただ一つの法印、すなわち、諸法実相の一実相法印のみがあると説かれている。
「無相を虚空とし」の無相とは、形や姿のないことをいい、生滅流転する無常なものを「有相」というのに対する言葉で、差別の相を超越した絶対平等の境界をさしている。また、無相を事象の真実の姿として、実相と同義にも用いられる。無量義経には「無量義とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相也」とある。すなわち、あらゆる現象を貫いている真実の姿、普遍の法を無相とするのである。
実相も無相もともに妙法蓮華経の異名であるが、実相が「諸法実相」と説かれるように具体的に諸法として顕れた側面であるのに対し、無相は形として顕れない面をいわれたと考えられる。ゆえに実相を〝大地″に、無相を〝虚空″にたとえられているのである。
「一乗を甘雨とし」の一乗とは、一仏乗のことで、ただ成仏を教えた法をいう。法華経には方便品第二に「如来は但だ一仏乗を以ての故に、衆生の為めに法を説きたまう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」とあるなど、爾前経で説かれた声聞・縁覚・菩薩の三乗の法を開いて、一切衆生をただ成仏せしめるための法が説かれている。法華経がただ一仏乗の法のみを説いていることを、成仏を促すための「甘雨」とされているのである。
「已今当第一の言を大風とし」と仰せの已今当第一の言とは、法華経の法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」と説かれていることをさし、この文を法華文句巻八には已説とは爾前の諸経、今説とは無量義経、当説とは涅槃経をいうと釈しており、この已今当の三説に超越して勝れた法華経を「三説超過」「三説の外」という。この法華経最勝の言を、成仏を促す「大風」とされているのである。
「定慧力荘厳を日月とし」と仰せの定慧力荘厳とは、法華経の方便品第二に「仏は自ら大乗に住したまえり、其の得たまいし所の法の如きは、定慧の力もて荘厳せり、此れを以て衆生をしたまう」と説かれており、仏が得た法を禅定と智慧の力をもって飾ることをいい、仏の智慧は太陽のごとく、禅定は月光のように明るく荘厳で衆生を照らし導くことを「日月」とされているのである。
このように法華経こそが、一切衆生を成仏へ導く力をもっているのであり、そのゆえに法華経のみを用いるべきである、と権実相対の立場から仰せられているのである。
次に、一切衆生は食物によってその寿命をたもつことができるが、衆生によってその食物に違いがあり、仏・菩薩・諸天善神は仏法の法味によって身を養い、勢力を増すと述べられている。
前半では、衆生が自身の成仏を遂げるために法華経を必要とすることを示されたが、ここからは、仏・菩薩・諸天の加護を増すためにも法華経による以外にないことを示されるのである。
1061:01~1062:03 第六章 輪陀王の故事を引いて釈すtop
| 01 例せば乃往過去に輪陀王と申す大王ましましき一閻浮提の 02 主なり賢王なり、 此の王はなに物をか供御とし給うと申せば 白馬の鳴声をきこしめして身も生長し 身心も安穏 03 にしてよをたもち給う、 れいせば蝦蟆と申す虫の母のなく声を聞いて 生長するがごとし、秋のはぎのしかの鳴く 04 に華のさくがごとし、 象牙草のいかづちの声にはらみ柘榴の石にあふて・さかうるがごとし、されば此の王・白馬 05 を・をほくあつめて・かはせ給ふ、 又此の白馬は白鳥をみてなく馬なれば、をほくの白鳥をあつめ給いしかば我が 06 身の安穏なるのみならず百官・ 万乗もさかへ天下も風雨・時にしたがひ他国もかうべをかたぶけて・すねんすごし 07 給うにまつり事のさをいにやはむべりけん・ 又宿業によつて果報や尽きけん・千万の白鳥一時にうせしかば又無量 08 の白馬もなく事やみぬ、 大王は白馬の声をきかざりしゆへに華のしぼめるがごとく月のしよくするがごとく、 御 09 身の色かはり力よはく 六根もうもうとしてぼれたるがごとくありしかば、 きさきももうもうしくならせ給い百官 10 万乗も・いかんがせんとなげき、天もくもり地もふるひ大風かんぱちし・ けかちやくびように人の死する事肉はつ 11 か骨はかはらとみへしかば他国よりも・をそひ来れり、 此の時大王いかんがせんと・なげき給いしほどに・せんす 12 る所は仏神にいのるには・しくべからず、 此の国に・もとより外道をほく国国をふさげり、又仏法という物を・を 13 ほくあがめをきて国の大事とす、 いづれにてもあれ白鳥をいだして白馬をなかせん法をあがむべし、 まづ外道の 14 法に・をほせつけて数日をこなはせけれども白鳥一疋もいでこず白馬もなく事なし、 此の時外道のいのりを・とど 15 めて仏教に・をほせつけられけり、 其の時馬鳴菩薩と申す小僧一人あり・めしいだされければ此の僧の給はく国中 16 に外道の邪法をとどめて 仏法を弘通し給うべくば馬をなかせん事やすしといふ、 勅宣に云くをほせのごとくなる 17 べしと、 其の時に馬鳴菩薩・三世十方の仏にきしやうし申せしかば・たちまちに白鳥出来せり、白馬は白鳥を見て 18 一こへなきけり、 大王・馬の声を一こへ・きこしめして眼を開き給い白鳥二ひき乃至百千いできたりければ百千の 1062 01 白馬一時に悦びなきけり、 大王の御いろ・なをること日しよくの・ほんにふくするがごとし、身の力・心のはかり 02 事・先先には百千万ばいこへたり、 きさきも・よろこび大臣公卿いさみて万民もたな心をあはせ他国も・かうべを 03 かたぶけたりとみへて候。 -----― 例えば、過去世に輪陀王という一閻浮提を治める賢王がいた。この王は何を食物にされたかといえば、白馬のいななく声を聞いて身体も生長し、身心も安穏で世を治めることができたのである。ちょうど、かえるが母の鳴き声を聞いて成長し、秋の萩が鹿の鳴く声を聞いて花を咲かすように、象牙草が雷の声で実を付け、柘榴が石に遭って栄えるようなものであった。それで、この王は白馬を数多く集めて飼っていた。また、この白馬は白鳥を見ていななく馬だったので、多くの白鳥を集めて飼っていたから大王自身が安泰であるばかりでなく、百官や諸臣も栄え、天下も風雨は時に従い、他国も頭を下げて従った。こうしたことが数年続いた。 ところが、王の政治に間違いがあったのか、また宿業により果報が尽きたのか、千万の白鳥が一時に飛び去ってしまったので、無量の白馬もいななくことをやめてしまった。大王は白馬のいななく声を聞くことができなくなったので、ちょうど花がしぼんだように、月が欠けてしまったように、身の色つやも変わり、力も弱くなり、六根も鈍り、老いぼれたようになられたので、后もまた老耄してしまわれた。百官や諸臣もどうしたものかと嘆き、天も曇り地も震え、大風が吹き旱魃になり、更に飢饉や疫病で人が死ぬことはおびただしく、死人の肉が塚をなし骨は瓦を積んだように見えたので、他国からも攻められるありさまであった そのときに、大王はどうしたものかと悲嘆にくれたあげく、所詮は仏神に祈るほかはないと考えられた。この国はもともと外道が多く、各地にはびこっていた。また、仏法を尊崇して国の大事ともしていた。そこで国王は、どちらであっても、白鳥を呼び出して白馬をいななかせたほうの法を崇めるようにしようと、まず外道の法に仰せつけて数日その修法を行わせたが、白鳥は一羽も現れず、白馬もいななくことはなかった。 このとき、外道の祈りを止め仏教に祈禱を仰せつけられた。そのとき馬鳴菩薩という一人の小僧がいた。王の前に召し出されたとき言うには「国中の外道の邪法を廃止して仏法を弘通されるならば、白馬をいななかせるのは容易である」と奏上した。大王は「そのとおりにしよう」と勅宣を下された。そして馬鳴菩薩が三世十方の仏に起請申し上げたところ、たちまちに白鳥が飛来した。白馬は白鳥を見て一声いなないた。大王は白馬の声を一声聞いて眼を開かれた。白鳥が二羽、三羽、百羽、千羽と出現すると、百千の白馬もよろこんで一時にいななきだした。大王の身の色つやが元に戻る姿は、日食が元に戻るようであった。そして、身体の力、心の働きも以前に百千倍もすぐれてきたのである。后も喜び、大臣や公卿も勇気が出てきて、人々も掌を合わせて拝み、他国も頭を低くして従ったということである。 |
輪陀王
釈摩訶衍論のなかに「過去世の中に、一りの大王あり。名づけて輪陀という」とあり、本文と類似の話が載っている。しかし、白馬と白鳥の関係が入れ変っている。なぜ、そうなったのかについては明らかでない。
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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百官
諸々の多くの役人。
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万乗
1万台の兵車のこと。「乗」は車または車の単位をいう。中国、周の制度では、戦時、天子はその直轄領から兵車1万台を出すことになっていたので、転じて天子の称となった。「万乗の君」「万乗の主」はこの例で、「万乗の国」は兵車1万台を出せる大国を意味した。なお、「千乗」は兵車1000台を出せる大諸侯をいい、その国を「千乗の国」とよんだ。また、「百乗の家」は兵車100台を出せる卿、大夫の地位にある者をいった。万乗は、日本では天皇の称として用いられ、「一天万乗の君」「万乗の位」などの用例がみられる。
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宿業
宿世の業因。過去世につくった業因。現世に果報を生ずる原因となった過去世の善悪の行為。
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果報
①果は過去世の業因による結果。報はその業因に応じた報い。②摩訶止観の正説分の第八章。この章から不説のままで終わっているが、大意章の五略によると、止観の結果として証得される果報が略説されている。
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六根
目・耳・鼻・舌・身・意のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。六根の対境にあたるものが、六境または六塵で、六根が六境と関係して生ずる感覚を六識という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。また生命には意根があるから、こわいとか楽しい等の意識を生ずるのである。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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馬鳴菩薩
付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
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小僧
就学途上の僧侶。
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勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
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三世十方の仏
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。
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仏・菩薩・二乗・諸天等が、仏法を食として威光勢力を増す例として、輪陀王と白馬・白鳥と馬鳴菩薩の故事が述べられている。
この話は、竜樹の著とされる釈摩訶衍論に説かれている。釈摩訶衍論は馬鳴の述とされる大乗起信論の注釈書であり、その中で馬鳴について、
①釈尊と同時に出世した、
②釈尊と同時だが①とは別人、
③仏滅後百年に出世、
④仏滅後三百年に出世、
⑤仏滅後六百年に出世、
⑥仏滅後八百年に出世、
の六説が挙げられており、その後に馬鳴の名の由来として輪陀王の故事が明かされているのである。
なお、そこでは輪陀王は白鳥の声を聞いて徳を増し、白鳥は白馬を見て声を出すとされており、その時に千の白馬を現して千の白鳥を鳴かせたので馬鳴と呼ばれたとある。
大聖人はその故事を用いられて、仏法を食として威光勢力を増す例証とされたもので、内房女房御返事にも本抄と同じ趣旨で述べられている。
この輪陀王の故事を引かれた元意は、本抄の末文で、「今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のごとし、白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」と仰せになっているとおりである。
輪陀王が白馬の声によって威光勢力を増したように、諸天善神は題目の声を聞くこと、すなわち正法の法味をなめることによって力を得て、正法を信ずる者を守るのである。
1062:04~1062:13 第七章 日本の仏教流布の始めを述ぶtop
| 04 今のよも又是にたがうべからず、天神七代・地神五代・已上十二代は成劫のごとし・先世のかいりきと福力とに 05 よつて今生のはげみなけれども 国もおさまり人の寿命も長し、 人王のよとなりて二十九代があひだは先世のかい 06 りきも・すこしよはく今生のまつり事もはかなかりしかば国にやうやく三災・七難をこりはじめたり、 なを・かん 07 どより三皇五帝の世を・をさむべきふみわたりしかば 其をもつて神をあがめて国の災難をしづむ、 人王第三十代 08 欽明天王の世となりて 国には先世のかいふくうすく悪心がうじやうの物をほく出来て 善心をろかに悪心はかしこ 09 し、外典のをしへは あさしつみもをもきゆへに外典すてられ内典になりしなり、 れいせばもりやは日本の天神七 10 代・地神五代が間の百八十神をあがめたてまつりて仏教をひろめずして・もとの外典となさんといのりき、 聖徳太 11 子は教主釈尊を御本尊として法華経・ 一切経をもんしよとして両方のせうぶありしに・ついには神はまけ仏はかた 12 せ給いて神国はじめて仏国となりぬ、天竺・漢土の例のごとし、 今此三界・皆是我有の経文あらはれさせ給うべき 13 序なり、 -----― 今の日本国もまた、これと同じである。天神七代、地神五代、以上の十二代は成劫の時のようなものであった。前世に戒律をたもった功徳や、福徳を積んだ力とによって今生にはこれという善行の励みはなかったけれども、国も治まり、人の寿命も長かったのである。人王の代になって二十九代の間は、前世の戒律を守った功徳も少し弱くなり、その政治もよくなかったので、国に次第に三災七難が起こり始めたのである。しかし、まだこのときは中国から、三皇五帝の治世の文書が伝わってきたので、どれをもって神を崇め、国の災難を鎮めることができた。 人王第三十代欽明天王の代になると、国には先の世に戒律を持った功徳や福徳を積んだ力が一層弱くなり、悪心の強盛な者が多く出来し、善心は衰え、悪心がたくましくなった。 外典の教えは浅く、人々の罪障は重くなってきたので、外典は捨てられ内典が用いられるようになったのである。 例えば、日本に仏教が渡来したときに、物部の守屋は日本の天神七代、地神五代の間の百八十神を崇めて、仏教の弘教を阻止し、外典の国にしようと祈ったが、聖徳太子は教主釈尊を本尊とし、法華経や一切経を文書として、この両者で勝負が行われたが、最後は神が負け仏が勝って、神国が初めて仏国となった。それは、ちょうどインドや中国の例と同じであった。法華経譬喩品の「今此の三界は、皆是れ我が有なり」の経文が現実化していく始まりであった。 |
天神七代
日本神話の神々で、日本書紀巻一によると、天地開闢の初、天地の中に葦牙のようなものが生り、それが神と化為った。第一・国常立尊、第二・国狭槌尊、第三・豊斟渟尊、第四・泥土煮尊と沙土煮尊、第五・大戸之道尊と大苫辺尊、第六・面足尊と惶根尊、第七・伊弉諾尊と伊弉冉尊。古事記・日本書紀では神世七代という。
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地神五代:
天神七代のあと、神が地上に降りて日本を治めたとされる。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草 葺不合尊の五神。
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成劫
四劫の一つ。器世間及び有情世間が成立する期間をいう。倶舎論巻十二には成劫について、まず有情の業増上力によって空中に微細な風が生じ、次第に風輪、水輪、金輪などができて器世間が成立し、次にの有情が天界から下の世界へ漸次に降生し、最後に有情世間が成立するまでを成劫としている。
―――
三災・七難
正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる災害。内容は経論により若干異なる。三災については大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国に当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり」(0020)とある。
また七難については薬師経では、
①人衆疾疫の難、
②他国侵逼の難、
③自界叛逆の難、
④星宿変怪の難、
⑤日月薄蝕の難、
⑥非時風雨の難、
⑦過時不雨の難
の七難が説かれている。
―――
かんど
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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三皇五帝
中国古代の伝説上の理想君主といわれる三人の皇帝、五人の帝王のことで、三皇は伏羲・神農・黄帝または伏羲・女媧・神農とされるが異説も多い。五帝は諸説があるが史記によれば黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜の五人をさす。
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世を・をさむべきふみ
三皇五帝治世の道を明かした書で、三墳五典のこと。
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欽明天王
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
外典
仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
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もりや
(~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
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百八十神
日本国を守護するとされる数多くの神々。
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聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
今此三界・皆是我有
法華経譬喩品第3の文。「今此の三界は、皆是れ我が有なり」と読む。
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正法によってこそ神も威光を増すことを示されるために、日本の神代以来の歴史を慨観される。この段ではまず、仏教初伝までの様相が述べられている。
古事記や日本書紀によれば、人王第一代神武天皇以前を神世、すなわち神が統治していた時代としており、天神七代、地神五代の合わせて十二代とされている。
この神世というのは、成・住・壊・空の四劫のなかの成劫のようなもので、そこに生まれた衆生は、前世に戒を持って得た功徳力や福徳によって、今世には善根をなさなくても国も平和に治まり、個人の寿命も長かった、と仰せられている。
人王の代、すなわち第一代の神武天皇以後、第二十九代の宣化天皇までの間は、前世の戒徳も減って薄くなり、今世の政治もよくなかったために、国に三災七難が起こり始めた。
治病大小権実違目に「日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代に疫病起りて日本国やみ死ぬる事半にすぐ、王始めて天照太神等の神を国国に崇しかば疫病やみぬ故に崇神天皇と申す」(0997-12)と述べられている。
また、古事記等によれば、第十五代応神天皇の代に、百済国から王仁という博士が論語・千字文などを持ってきたのが、日本に儒教が伝わった最初とされている。そのことをさして「かんどより三皇五帝の世を・をさむべきふみわたりしかば」と仰せになっているのであろう。その後、継体天皇の代には、百済から儒教の経典である五経を数える五経博士段楊爾が日本にきている。
孔子が、堯・舜などの三皇五帝をはじめ古代の先聖の道を集大成して、仁・義・礼・智・信の五常を行ずれば天下を治めることができるとしたのが儒教で、その大旨を大聖人は開目抄で「現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう」(0186-11)と示されている。
本抄では「其をもつて神をあがめて国の災難をしづむ」と仰せのように、儒教によって一時的に国の災難がしずまったとされている。
人王第三十代欽明天王の世となりて……
欽明天皇の13年(0552)に、百済の聖明王が使節をもって釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻を献上し、別に表文によって仏像礼拝の功徳をたたえた、と日本書紀にあり、これが仏教が日本に公に伝わった初めとされる。なお、現在では仏教公伝の年は0538年というのがほぼ定説となっている。
それ以前にも、すでに民間では仏教が伝わり、一部で信じられていたようだが、公伝以後、朝廷内で仏教を信ずべきかどうかで論争が起こり、古来の神や儒教と仏教の優劣が争われその結果として仏教が勝って一国に流布していくのである。
その経緯については、治病大小権実違目にも詳しく述べられているが、日本書紀によれば、天皇は「いまだかつてこれほど微妙な法を聞いたことがない」と歓喜し、仏像礼拝の可否を群臣に求めたという。そのとき、蘇我大臣稲目は礼拝すべしと答えたが、物部大連尾興は「わが国の天下に王とまします人は、常に天地の百八十神を四季ごとに祭ってきた。今、改めて蕃神を礼拝するなら、国神の怒りを招くであろう」と反対した。そこで天皇は、蘇我稲目に私的に礼拝することを許し、稲目は小墾田の家に仏像を安置して礼拝したという。
その後、国内に疫病が流行したため、物部尾興・中臣鎌子らはそれを蕃神礼拝のためと主張して、仏像の破棄を天皇に奏上したため、天皇は仏像を難波の堀江に流し、寺に火を付けて焼かせた。これは蘇我稲目が死去したために起きた弾圧と考えられる。
敏達天皇の13年には、稲目の子・馬子が自宅の東方に仏殿を構え、仏像を安置した。更に翌年には大野丘に仏塔を建てて大会を催し、仏舎利を納めている。
だがその年に疫病が流行したため、物部尾興の子・守屋はそれも仏法興隆のためと主張したので、敏達天皇は仏像を焼いて難波の堀江に投じさせた。
用明天皇の2年に、天皇が病の床について、仏法に帰依しようとしたので、蘇我馬子は物部氏らの反対を押し切って豊国法師を内裏に迎え入れたため、その後、蘇我馬子と物部守屋は激しく対立し、憎悪しあうようになった。
用明天皇が死去した後、皇位継承をめぐって崇仏派の蘇我馬子を中心とする一派と、排仏派の物部守屋の一派が武力衝突し、物部派の穴穂部皇子・宅部皇子を殺した馬子は、泊瀬部皇子・用明天皇の子の厩戸皇子を味方にして、激しい合戦の後に守屋を攻め滅ぼした。
日本書紀によれば、守屋側が頑強に抵抗したため、馬子側が苦戦に陥った時、厩戸皇子が白膠の木に四天王の像を刻んで、この敵を滅ぼすことができたら四天王のために寺と塔を建てようと誓願したところ、守屋を倒すことができたので、皇子は難波に四天王寺を建てた、とされている。
こうして、仏法興隆の端緒が開かれたのである。推古天皇の摂政となった聖徳太子は、仏教を尊信してその興隆に力を尽くし、飛鳥地方を中心に、多くの寺院を建立しており、また十七条憲法の第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」と定めている。
日本書紀には太子自ら法華経の講義をし、また天皇から播磨国の水田百町を賜わって斑鳩寺に収めたとあり、法華義疏をはじめ、勝鬘・維摩の三経の義疏を作ったともされる。また、法隆寺の金堂の本尊は釈迦三尊である。
そうしたことから「聖徳太子は教主釈尊を御本尊として法華経・一切経をもんしよとして」と仰せになったのであろう。
こうして、日本は仏法を根本とする「仏国」となったのであり、「今此三界・皆是我有」の経文のとおりになるはじめであると仰せになっている。
「今此三界・皆是我有」とは法華経譬喩品第三にあり「今此の三界は、皆是れ我が有なり」と読み、欲界・色界・無色界の三界はことごとく仏の所有であるとの意で、仏の三徳のうち主徳を表わしている。
すなわち、日本に仏法が流布しはじめたことを、一国が仏の所有する国土となり、一切衆生が仏を主と仰ぐ序分となった、との仰せである。
1062:13~1063:11 第八章 伝教大師の法華経流布の功を説くtop
| 13 欽明より桓武にいたるまで二十よ代・二百六十余年が間・仏を大王とし神を臣として世ををさめ給いしに 14 仏教はすぐれ神はをとりたりしかども未だよをさまる事なし。 -----― 欽明天皇から桓武天皇の代に至るまでの二十余代二百六十余年の間は、仏を大王とし神を臣として世を収めた。仏教は勝れ、神は劣っていたが、未だ世の中が十分治まらなかった。 -----― 15 いかなる事にやと・ うたがはりし程に桓武の御宇に伝教大師と申す聖人出来して勘えて云く神はまけ仏はかた 16 せ給いぬ、仏は大王・神は臣かなれば上下あひついで・ れいぎただしければ国中をさまるべしと・をもふに国のし 17 づかならざる事ふしんなるゆへに 一切経をかんがへて候へば道理にて候けるぞ 、仏教に・をほきなるとがありけ 18 り、一切経の中に法華経と申す大王をはします、ついで華厳経・大品経・深密経・阿含経等はあるいは臣の位あるい 1063 01 はさふらいのくらい・ あるいはたみの位なりけるを或は般若経は法華経にはすぐれたり三論宗・或は深密経は法華 02 経にすぐれたり法相宗・ 或は華厳経は法華経にすぐれたり華厳宗・ 或は律宗は諸宗の母なりなんど申して一人と 03 して法華経の行者なし、 世間に法華経を読誦するは還つてをこつき・うしなうなり、 「之に依つて天もいかり守 04 護の善神も力よはし」云云、 所謂「法華経を・ほむといえども返つて法華の心をころす」等云云、 南都七大寺・ 05 十五大寺・日本国中の諸寺諸山の諸僧等.此のことばを・ききて・をほきにいかり天竺の大天・漢土の道士.我が国に 06 出来せり所謂最澄と申す小法師是なり、 せんする所は行きあはむずる処にてかしらをわれ・かたをきれ・をとせ・ 07 うてのれと申せしかども 桓武天皇と申す賢王たづね・ あきらめて六宗はひが事なりけりとて初めてひへい山をこ 08 んりうして天台法華宗とさだめをかせ 円頓の戒を建立し給うのみならず、 七大寺・十五大寺の六宗の上に法華宗 09 をそへをかる、 せんする所・六宗を法華経の方便となされしなり、 れいせば神の仏にまけて門まほりとなりしが 10 ごとし、 日本国も又又かくのごとし 法華最第一の経文初めて此の国に顕れ給い能竊為一人・説法華経の如来の使 11 初めて此の国に入り給いぬ、桓武・平城・嵯峨の三代・二十余年が間は日本一州・皆法華経の行者なり、 -----― これはどういうわけかと疑問に思っているときに、桓武天皇の時代に伝教大師という聖人が出て、いわれるのに「神は破れ仏が勝って、仏は大王、神は臣下であり、上下の関係も明らかで、礼儀も正しくなったので、国中が治まるはずであるのに、国が静謐でないのは何ゆえであろうかと不審に思って一切経を調べてみると、治まらないのも道理であった。仏教に大きな誤りがあったのである。それは一切経のなかには法華経が大王であり、ついで華厳経、大品経、深密経、阿含経等となっていて、これらはあるいは臣下の位か、侍の位、または民の位であるのに、三論宗では般若経は法華経に勝れているといい、法相宗では深密経は法華経に勝れているといい、華厳宗では華厳経は法華経に勝れているといい、また律宗は諸宗の母であるなどといって、法華経の行者は一人もいない。世間も法華経を読誦する者を嘲笑したり、亡きものにしようとしたりした。そのために、諸天も怒り、守護の善神も力が弱くなったのである。たまたま法華経を讃嘆するものがあっても、その真意を正しく理解していないから、かえって法華経の精神を殺すような結果になっている」等と。 奈良の七大寺、十五大寺はじめ日本国中の諸寺諸山の多くの僧等は、この言葉を聞いて大いに怒り、「インドの大天、中国の道士が我が国に出現した。いまの最澄という小僧がそれである。仏教を擾乱するものであるから、行き会ったら頭を破れ、肩を切り落とせ、打ち、ののしれ」と言って迫害を加えようとしたのである。しかし、桓武天皇という賢王が、双方の主張を尋ね、明らかにされ、六宗が誤りであることを知った、と、初めて比叡山を建立して天台法華宗を定めおかれた。そして大乗円頓の戒檀を建立されたばかりか、七大寺、十五大寺の六宗の上に立つものとして法華宗を置かれた。 要するに、六宗を法華経の方便とされたのである。これはちょうど、神が仏に負けて、仏法の門番となったのと同じであった。日本国もまたこのようであった。「法華経最第一」の経文がこの国において初めて事実となり、「能竊為一人・説法華経」の如来の使いが、初めてこの国に入れられたのである。その結果、桓武、平城、嵯峨の三代・二十余年の間は日本一国が皆、法華経の信仰者となったのである。 |
桓武
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)~延暦25年3月17日(806年4月9日))。
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伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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大品経
大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
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深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
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三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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南都七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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十五大寺
平安時代のなかばから中世の末頃まで朝廷の尊崇を受けた 15の大寺をいう。2説があり,古説では東大寺,興福寺,薬師寺,元興寺,大安寺,西大寺,法隆寺 (以上南都七大寺) ,新薬師寺,本元興寺 (あるいは法華寺) ,唐招提寺,四天王寺,崇福寺,弘福寺,東寺,西寺。その後の説では南都七大寺に新薬師寺,不退寺,法華寺,超証寺 (超昇寺) ,竜興寺,唐招提寺,宗鏡寺,弘福寺の8ヵ寺を加えている。
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大天
大天は訳名で、梵名は摩訶提婆という。仏滅後百年に末土羅国の商家に生まれた。大毘婆沙論によると、大天は父母および阿羅漢を殺し、その罪を滅するために摩竭陀国の鶏園寺にはいって出家した。聡明で言詞巧みで、時の王にも崇敬され、我れ阿羅漢を得たり、と慢心を起こした。そして悪見を立て、上座部の耆宿と争い、大衆部をつくって仏法分裂の因をつくった、とある。
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道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
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六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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円頓の戒
円頓の円とは円融円満、頓は頓極、妙戒とは最高の戒、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)とある。
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能竊為一人・説法華経
法華経法師品第十に「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば」とある。
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平城
(0774~0824)第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(806年4月9日)~大同4年4月1日(809年5月18日))。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
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嵯峨
嵯峨天皇のこと。(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
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日本に仏教が伝来し流布したにもかかわらず、国内の災難が十分に治まらなかったのは仏教内に乱れがあったためであり、法華最勝の正義を立てて諸宗を破折した伝教大師の功績を明かされている。
欽明より桓武にいたるまで
聖徳太子による仏教興隆の後、二百数十年の間は、仏教が根本で神は従とされてきたが、それども世は治まらず、災害もなくなることはなかった。
その原因が仏教内の乱れにあったことを明らかにしたのが、平安時代の初めに出現した伝教大師最澄だった。伝教大師は一切経を比較検討して、諸の経典には勝劣があり、法華経こそ真実を説いた諸経の大王にあたり、その他の諸経は方便権教であり、臣下や民の位にすぎないにもかかわらず、法華経を卑しみ下しているところに「をほきなるとがありけり」と知ったのである。
それらの邪義の代表的なものとして、三論・法相・華厳・律の各宗が自らの依経を立てて法華経を下している例を挙げられている。
三論宗は般若経の教理を竜樹が体系づけた「中論」と、「中論」の入門書的な内容の「十二門論」、「中論」をうけた竜樹の弟子・提婆の「百論」を依りどころにしているのでその名がある。空の立場から仏教を解釈して八不中道を立てている。
顕謗法抄に「三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり」(0454-04)と述べられているように、般若経を諸経のなかで第一と立てたのである。
法相宗は、解深密経・瑜伽師地論・成唯識論などの六経十一論を依りどころとし、諸法の法相を分別し体系化することを目的とした大乗の学問宗である。顕謗法抄に「法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり」(0454-03)と述べられているように、解深密経を第一と立てている。
華厳宗は、一切経のなかで華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説いた法界縁起観によって悟りに至るとした。顕謗法抄に「華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす」(0454-01)と述べられているように、法華経は華厳経に劣ると下している。
律宗は、戒律を修行する小乗の宗派で、中国で四分律によって開かれ、日本では鑑真が来日して東大寺に戒壇院を設け、唐招提寺を開いて戒律研究の道場としてから律宗として成立している。その後、日本の僧尼は、東大寺・薬師寺(下野・栃木県)・観世音寺(筑紫・福岡県)の三か所の戒壇のいずれかで受戒することになったため、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。そのため「諸宗の母なり」と自賛したのである。
三論・法相・華厳・律の諸宗は、奈良を中心に栄えた宗派で、俱舎・成実の二宗と合わせて南都六宗と呼ばれていた。
そのように、南都六宗は、法華経を下してそれぞれの依経とする諸経を第一と立てており、伝教大師は、それらが仏説に背く邪義であることを指摘して破折し、法華経こそ真実究極の法であり、天台法華宗こそ釈尊所立の宗であることを明らかにしたのである。
釈尊の本意であり、諸経の大王たる法華経を卑下し謗って、方便権経であり法華経の臣下たる諸経をその上に置くという根本の誤りによって、正法を守護する諸天が怒り、反対に国を守護すべき善神は正法の法味に浴さないので力を失ったために、三災七難が起こる、と主張したのである。
「法華経を・ほむといえども返つて法華の心をころす」の文は、伝教大師の法華秀句巻下の「雖讃法華経。還死法華心」を引かれたものである。
この文は、中国法相宗の窺基が法華玄賛を著して法華経を讃嘆したようにみえたが、一方では成唯識論述記等で定性二乗不成仏・無性有情も成仏せず等の義を正意として、法華経の趣旨である開三顕一・二乗作仏の義を方便の説としていることは、法華経を否定する結果となっていると破折したものである。
法相宗の慈恩にかぎらず、当時の諸宗が法華経は余経には勝れているとしながら、我が宗の依経には劣るとして、結局は諸経のなかで最第一の立場にある法華経を、第二、第三と下している誤りは、この伝教大師の破折の文にそのままあてはまる、とされたのである。
南都七大寺・十五大寺・日本国中の
この伝教大師の厳しい破折にあって、南都六宗の七大寺や十五大寺と呼ばれた、おもな寺々の僧は、怨嫉し憎悪して、伝教大師を迫害しようとした。
しかし、当時の桓武天皇は伝教大師に帰依して、延暦15年(0796)には比叡山の一乗止観院を国家鎮護の道場に加え、王城の鬼門の鎮護にあたる寺とした。翌年には伝教大師を宮中内の道場に奉仕する内供奉に加えている。その後、伝教大師はたびたび諸宗の学匠を叡山に招いて法華経を講じている。そして、延暦21年(0802)1月19日には高雄寺で南都六宗七大寺の碩学十四人を招いて伝教大師が法華経を講じ、そのなかで六宗の立義を法華経や天台大師の論釈に照らして破折した。講会に参加した学匠達は謝表を奉呈してその非を認めている。
なおその経緯は、安国論御勧由来に述べられている。
伝教大師は延暦23年(0804)に入唐して天台の義を学んだ後、大同元年(0806)に天台宗を開き、弘仁4年(0813)には嵯峨天皇の護持僧となり、同5年(0814)1月には勅命により殿上で諸宗の学匠と対論して破折し、法華経を宣揚している。また、南都六宗の強い反対のなか大乗戒壇建立の実現に努力し、その没後に勅許されている。
このように、伝教大師の正法正義と桓武天皇の外護によって、法華経の法師品第十に「我が説く所の諸経、而も此の経の中に於いて、法華は最も第一なり」と説かれている法華最第一の義が一国に宣揚され、六宗が法華経からみれば方便の権宗であることが明らかになり、仏法伝来の際に神が仏に負けて仏法守護の門守になったように、諸宗は法華宗の門守の立場となったのである。
そして、法華経の法師品第十に「我が滅度の後、能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」の文を引かれて、伝教大師によって法華最第一の文が日本で初めて明らかになったことは、伝教大師こそ法師品に説かれた如来の使いにあたる、とその功を称賛されている。
そして、伝教大師による法華経流布の後、桓武・平城・嵯峨の三代の天皇の時代は、日本一国は皆、天台法華宗に帰依して法華経の行者であった、と仰せられている。
1053:11~1063:17 第九章 弘法の法華誹謗を明かすtop
| 11 しかれば栴 12 檀には伊蘭・釈尊には提婆のごとく伝教大師と同時に弘法大師と申す聖人・ 出現せり、漢土にわたりて大日経・真 13 言宗をならい日本国にわたりて・ ありしかども伝教大師の御存生の御時は いたう法華経に大日経すぐれたりとい 14 ふ事はいはざりけるが、 伝教大師去ぬる弘仁十三年六月四日にかくれさせ給いてのち・ひまをえたりとや・をもひ 15 けん、弘法大師去ぬる弘仁十四年正月十九日に真言第一・華厳第二・法華第三・法華経は戯論の法・無明の辺域・天 16 台宗等は盗人なりなんど申す書どもをつくりて、 嵯峨の皇帝を申しかすめたてまつりて 七宗に真言宗を申しくは 17 えて七宗を方便とし真言宗は真実なりと申し立て畢んぬ。 -----― さて、栴檀の生ずる所には伊蘭が生じ、釈尊には提婆達多が対峙したように、伝教大師と同時に弘法大師という聖人が出た。中国に渡り、大日経、真言宗を学んで日本に帰ってきたが、伝教大師が御存生の間は、大日経が法華経に勝れていると強くは言わなかった。ところが、伝教大師が去る弘仁十三年六月四日、御逝去されると、機会がめぐってきたと思ったのであろう、去る弘仁十四年正月十九日に、真言第一、華厳第二、法華第三とする十住心教判を立てて、法華経は戯論の法、釈尊は無明の辺域、天台宗等は法盗人であるなどと述べた書を著して、嵯峨天皇をたぶらかして、七宗の上に真言宗を加え、七宗を方便とし、真言宗こそ真実であると強く主張したのである。 |
栴檀
インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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伊蘭
梵名エランダ(Eranda)の音写。植物の名。屍のような悪臭を放つ木。とうごま属の一種といわれ、茎の高さは1.8㍍~12.4㍍、葉の直径は30㌢~160㌢、色は緑色または赤色を帯び、楓のように七つに裂け、花は総状で雄花は上部、雌花は下部にある。種子には毒分があり、油を搾って下剤として使われるという。香木たる栴檀は伊蘭の中から生じ、栴檀の一葉が開くと四十由旬の伊蘭の悪臭が消えるといわれる。伊蘭を煩悩に、栴檀の妙香を菩提に譬える。
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提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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真言第一・華厳第二・法華第三
弘法が十住心論で立てた教判。衆生の心相を十種に分類した十住心を経説に約し、そのうち第八・一道無為住心は法華経、第九・極無自性住心は華厳経、第十・秘密荘厳十心は大日経と立て、真言宗が最も勝れているとの邪義を立てた。
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法華経は戯論の法
弘法が法華経を蔑称した言。戯論は戯れ・ふざけること。
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無明の辺域
弘法が法華経を蔑称した言。いまだ無明惑を断ち切らない、真実の悟りからは遠く離れた境界であるとしている。
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伝教大師の没後、弘法大師空海が嵯峨天皇に取り行って真言第一と立て、法華経を第三の戯論等と誹謗したことを述べられている。
弘法は、伝教大師より7歳若く、初め儒教を学んだ後、延暦12年(0793)に20歳で仏道に入り、延暦23年(0804)に唐へ渡り、長安の青竜寺等で真言密経を学び、大日経や金剛頂経等二百余巻の経や諸の経論を持って大同元年(0806)に帰国した。帰国後、朝廷に取り入って、弘仁元年(0810)に東大寺別当に任じられ、同10年(0819)には高野山に金剛峰寺を開いている。伝教大師が没した翌年の弘仁14年(0823)に、弘法は嵯峨天皇から東寺を賜わり、真言密経の根本道場とした。
そして、天長年間に淳和天皇が各宗の要義で仏法の浅深を判ずるよう諸宗に宣旨を下した際、弘法は秘密曼荼羅十住心論十巻を著し、衆生の心の安住するところを十に分け、第八法華・第九華厳・第十真言と立てて、法華経は華厳経にも劣るので、大日経から見れば三重の劣であると下したのである。
また、十住心論の要点を三巻にまとめた秘蔵宝鑰のなかで、法華経は真言・華厳に劣る戯論であると下し、更に法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理智法身ではあるが、真言門に望めば初門にすぎず、悟りには遠い無明の辺域にすぎない、と法華経の教主である釈尊を卑しめている。
そのうえ、弁顕密二教論巻下のなかで「振旦の人師等、醍醐を争い盗んで各自宗に名づく」と述べ、六波羅蜜経によって真言密経こそ最高の醍醐味であるとし、諸宗が我が宗こそ醍醐味であると主張しているのは真言の教判を盗んだものであるときめつけ、天台大師が法華経こそ醍醐味であると立てた五時教判を批判したのである。
弘法の立てた十住心は、真言宗に都合よく定めた、なんの文証もない我見の教判であり、それによって法華経を三重の劣等と下したことは大謗法なのである。
しかし、弘法は巧みに天皇をたぶらかし、その邪義が公に認められたため、真言密経が急速に流布して、伝教大師の開いた天台法華宗をしのぎ、法華最勝の正義は真言第一の邪義に覆い隠されていったのである。
1063:18~1064:08 第十章 慈覚・智証の謗法を挙げるtop
| 18 其の後.日本一州の人ごとに真言宗になりし上・其の後又伝教大師の御弟子・慈覚と申す人.漢土にわたりて天台 1064 01 真言の二宗の奥義をきはめて帰朝す、 此の人・金剛頂経・蘇悉地経の二部の疏をつくりて 前唐院と申す寺を叡山 02 に申し立て畢んぬ、 此れには大日経第一・法華経第二・其の中に弘法のごとくなる過言かずうべからず、せむぜむ 03 に・せうせう申し畢んぬ、 智証大師又此の大師のあとをついで・をんじやう寺に弘通せり、 たうじ寺とて国のわ 04 ざはいとみゆる寺是なり、 叡山の三千人は慈覚・智証をはせずば真言すぐれたりと申すをば・もちいぬ人もありな 05 ん、 円仁大師に一切の諸人くちをふさがれ心をたぼらかされて・ことばをいだす人なし、王臣の御きえも又伝教・ 06 弘法にも超過してみへ候へば・えい山・七寺・日本一州・一同に法華経は大日経にをとりと云云、法華経の弘通の寺 07 寺ごとに真言ひろまりて法華経のかしらとなれり、 かくのごとくしてすでに四百余年になり候いぬ、 やうやく此 08 の邪見ぞうじやうして八十一乃至五の五王すでにうせぬ仏法うせしかば王法すでにつき畢んぬ。 -----― 弘法が邪義を弘めて以後、日本中の人ことごとくが真言宗に帰依したのみでなく、更にその後、伝教大師の弟子の慈覚という人が中国に渡って天台、真言の二宗の奥義を学び極めて帰朝した。この人は金剛頂経、蘇悉地経の二部の註疏をつくり、前唐院という寺を比叡山に建立した。その註疏のなかには大日経を第一と立て、法華経を第二と下すなど、弘法のような過言が数え切れないほどある。このことは、前に少々申し上げたとおりである。 智証大師もまた慈覚大師の後を継いで、園城寺を拠点に弘通した。今日、寺というなかで国の災いともいうべき寺はこの園城寺である。 比叡山三千人の大衆のなかには慈覚、智証がいなければ真言宗が法華経に勝れているなどという説を受け付けない人もあったであろうが、円仁大師に皆、口を塞がれ、だまされて反論する人もいなかったのである。 国主や王臣の御帰依もまた、伝教大師や弘法を越えるほどであったので、比叡山や奈良の七大寺、更には日本国中が一同に法華経は大日経に劣ると思うようになってしまった。かつて法華経が弘通した寺々に真言宗が広まり、法華経より上位になったのである。 こうして、すでに四百年が過ぎた。この間、次第にこの邪見が増長し、人皇八十一代の高倉天皇から続けて五代の天皇が御位を失った。仏法が滅びたために王法も滅びてしまったのである。 |
慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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前唐院
滋賀県大津市・比叡山延暦寺内の院・延暦寺第三代座主・慈覚が建て住んでいた居房。慈覚を指して「前唐院」と」呼ぶ場合もある。
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智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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をんじやう寺
園城寺のこと。琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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叡山の三千人
比叡山延暦寺の僧の数。数字は「平家物語」等による。一説には僧兵を合わせて一万人ともいわれている。
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円仁大師
(0794~0864)。慈覚のこと。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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八十一乃至五の五王
平安時代から鎌倉初期にかけて在位した第81代から第85代までの五代の天皇のこと。安徳(81代)、後鳥羽(82代)、土御門(83代)、順徳(84代)、仲恭(85代)の五天皇のこと。平清盛の息女・徳子を母にもつ安徳天皇は源氏軍に敗れて、八歳の身で壇ノ浦で海中に没し、後鳥羽、土御門、順徳の各上皇は、鎌倉幕府執権・北条義時追討の兵を挙げ、逆に鎌倉幕府方の大軍に敗れ、それぞれ隠岐、阿波、佐渡に流された。更に、八十五代仲恭天皇は、義時によって退位させられた。
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比叡山延暦寺の座主でありながら、大日経第一・法華経第二の邪義を立てて天台法華宗を真言密経によって汚濁させた慈覚・智証の謗法を挙げられ、このため王法も滅びたことを指摘されている。
其の後・日本一州の人ごとに
弘法が真言宗を立てて密経を弘通したことにより、日本一国が真言の邪義に覆われていったが、それに加えて、天台法華宗の比叡山延暦寺の第三代座主となった慈覚大師円仁と、第五代座主となった智証大師円珍の2人によって、天台宗そのものまで真言の邪義に毒されたのだった。
慈覚は15歳の時、比叡山に登って伝教大師の弟子となり、承和5年(0838)に入唐して天台・真言の二宗を学び、承和14年(0847)に帰国している。
その後、真言三部経のうち、金剛頂経と蘇悉地経の疏を著したが、そのなかで大日経第一・法華経第二と立てたのである。
慈覚は、法華経と真言の三部経の勝劣を定めるのに、真言の三部経は法華経とその所詮の理は同じ一念三千の法門であるが、密印と真言の事は法華経にはなく、法華経はただ理秘密で理論を明かしたにすぎず、真言の三部経は事理倶密であるから、真言のほうが勝れている、といい、いわゆる理同事勝の邪義を立てたのである。
この慈覚の理同事勝の邪義に対して日寛上人は、撰時抄愚記の中で「①真言の三部経のなかに、開権顕実の妙理も、二乗作仏の文義もないので、十界互具の理はない。ゆえに真言には真実の妙理はなく、法華と理が同じなどといえるわけがない。②衆生の成仏は十界互具の妙理によるのであり、印・真言は即身成仏すれば自然に具足するのである。ゆえに十界互具が説かれたかどうかが問題であって、印と真言の有無は問題ではない。③真言の教えでは印と真言は説くが、仏の久遠実成を説いていないのに、なぜ事において勝れるといえるのか。④伝教大師は法華を最勝とし、天台大師は法華を諸仏所証の本法としているのに、なんで本師に違背して真言が勝れるとするのか。⑤慈覚のいうように、伝教大師は唐に渡って一年しかいなかったために勉強が足りないといい、また天台大師は大日経等がいまだ渡らなかったのでその勝劣が分からなかったというのなら、釈迦仏、多宝仏、分身の諸仏が法華経第一と証明していることはどうするのか。釈尊が一代に説いた教えのなかに、真言が勝れ法華経が劣るという文はない」と破折されている。
そうした慈覚の法華誹謗の数々の悪言を「弘法のごとくなる過言かずうべからず」と仰せになり、真言宗の祖・弘法に劣らない大謗法であるとされているのである。
智証大師又此の大師のあとをついで
延暦寺の第五代座主智証も、慈覚の跡を継いで天台宗の真言密教化を推進したのである。智証は14歳で叡山に登って義真の弟子となり、仁寿3年(0853)には入唐して天台と真言を学んだ。天安2年(0858)に帰国し、叡山に住んでたびたび密経灌頂を行った。貞観10年(0868)に延暦寺の第五代座主になり、勅許を得てを賜わって延暦寺別院として、伝法灌頂道場とした。
その後、園城寺は真言密経を主とした顕密一如の教風を唱えて修験道を包含し、また神本仏迹論もこの寺から起こっている。
正歴4年(0993)に法性寺座主をめぐる争いから智証門徒千余人が延暦寺から園城寺へ移って独立し、その後五百年以上も、延暦寺と園城寺の対立抗争が続いた。
報恩抄に「智証の門家・園城寺と慈覚の門家・叡山と修羅と悪竜と合戦ひまなし園城寺をやき叡山をやく、智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ慈覚大師の本尊・大講堂もやけぬ現身に無間地獄をかんぜり」(0310-18)と述べられているように、山門と寺門は園城寺が戒壇建立の勅許を誓願したこと等をめぐって武力衝突を繰り返し、園城寺は七回も叡山の僧兵による焼き討ちにあっている。
真言の邪義を弘めるだけでなく、そうした紛争の元ともなっていたので「国のわざはいとみゆる寺是なり」と仰せになっているのであろう。
延暦寺の座主である慈覚・智証が、真言は法華経に勝ると断じたのだから、比叡山の三千の衆徒が「くちをふさがれ心をたぼらかされて・ことばをいだす人なし」という状態で従ったのは当然であったろう。
そのうえ、天皇が慈覚・智証に帰依したこともあって、日本一国が法華経は大日経に劣ると考えるようになり、天台法華宗の寺々も真言密教の寺と化していったのである。
慈覚・智証による天台宗の密教化のため正法が滅した結果、王法が尽きて、第81代安徳天皇以後、後鳥羽・土御門・順徳・仲恭の五人の天皇が、臣下のため失われるという未曽有の事態が起きるに至った。
すなわち、第81代安徳天皇は、母が平清盛の娘・徳子で、治承4年(1180)に3歳で即位したが、その直後に源平の争乱が起こって平氏は西海に追われ、寿永4年(1185)に安徳天皇は壇ノ浦に身を投じている。
次いで立った第82代後鳥羽・第83代土御門・第84代順徳・第85代仲恭の4人の天皇・上皇は、承久3年(1221)に鎌倉幕府の追討を図ったが、朝廷軍が幕府軍に破れたため、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡にそれぞれ流されて配所で没しており、仲恭天皇は即位してわずか3ヵ月で位を廃されている。
天皇が臣下に攻められ水死したり、流罪にされるなど、かつては考えられなかったような下剋上の事態が起きた原因は、いずれも弘法・慈覚・智証の三大師の大日経第一の邪義を信用して真言の悪法によって源氏を調伏し、あるいは鎌倉幕府の執権・北条義時を調伏した結果であると大聖人は指摘されている。
「仏法うせしかば王法すでにつき畢んぬ」と仰せのように、法華経の正法が失われたので王法も滅び、朝廷の権威が失墜して、実権は武士の手に帰していったのである。
1064:09~1064:18 第11章 悪法強盛の故に三災起こるを示すtop
| 09 あまつさへ禅宗と申す大邪法・念仏宗と申す小邪法・真言と申す大悪法・此の悪宗はなをならべて一国にさかん 10 なり、天照太神はたましいをうしなつて・ うぢごをまほらず八幡大菩薩は威力よはくして国を守護せず・けつくは 11 他国の物とならむとす、 日蓮此のよしを見るゆへに仏法中怨・倶堕地獄等のせめをおそれて粗国主にしめせども、 12 かれらが邪義にたぼらかされて 信じ給う事なし還つて大怨敵となり給いぬ 法華経をうしなふ人・国中に充満せり 13 と申せども人しる事なければ ただぐちのとがばかりにてある事今は又 法華経の行者出来せり日本国の人人癡の上 14 にいかりををこす邪法をあいし正法をにくむ、 三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき、 壊劫の時は大の 15 三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇 16 は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる、 今日本国の人人四十九億九万四千八 17 百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり、 所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば 人 18 ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり、是れ即ち小の三災の序なり。 -----― そのうえ、禅宗という大邪法や念仏宗という小邪法、真言宗という大悪法等が鼻を並べて国中に盛んになっている。天照太神は魂を失って氏子を守らず、八幡大菩薩は威光勢力が弱くなって国を守護することができなくなり、結局、他国に攻め滅ぼされようとしているのである。 日蓮はこの様子を見て、涅槃経の「仏法の中の怨」「倶に地獄に堕せん」等の経文の責めを恐れ、概略を国主に示したが、彼ら邪法の僧等の邪義にだまされて日蓮の主張を信じないばかりか、かえって法華経の大怨敵となってしまったのである。 法華経をなきものにしようとする人が国中に充満していると忠告しても、人々はそのことを知らないから、ただ、愚癡の咎を増すばかりであった。今はそのうえに、法華経の行者が出来したので、国中の人々は愚痴の上に瞋恚の心を起こし邪法を愛し、正法を憎んでいる。このように三毒が強盛な国がどうして安穏でいられるはずがあろうか。 壊劫の時は大の三災が起こる。いわゆる火災、水災、風災である。また減劫の時は小の三災が起こる。すなわち飢渇、疫病、戦争である。飢渇は貪欲の心から起こり、疫病は愚癡の心から起こり、戦争は瞋恚の心から起こる。 今、日本国の人々は四百九十九万四千八百二十八人を数え、男女人々それぞれ異なった存在であるが皆、同じ一つの原因から三毒が盛んとなっている。いわゆる南無妙法蓮華経を縁として起こした三毒であるから、人ごとに釈迦、多宝、十方の諸仏を一時にののしり、責め、流し、失っていることになるのである。これがすなわち、今、日本国に起きている飢饉、疫病、戦争等、小の三災の始まりなのである。 |
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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天照太神
天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照大神を生んだという。天照大神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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うぢご
氏子のこと。氏神の子孫のこと。同じ氏神を祭る人々。
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八幡大菩薩
日本古来の神で、八幡大明神。古くは農耕を守る神とされていた。日本の鎮守であり、日本国百代の王を守護する誓願を立てたと伝えられる。仏教の流布によって正八幡大菩薩とも呼ばれるようになった。また、武士の台頭とともに、とくに源氏に厚く信仰され、武士の守護神とされた。仏法上においては、諸天善神の一つとし、法華経の守護神としている。
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仏法中怨・倶堕地獄
大般涅槃経巻3の文。「若し善比丘ありて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」とある。
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三毒
貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
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壊劫
世界が壊滅する時期をいう。成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫の一つ。期間は二十小劫で、初めの十九小劫では地獄界から天界までの六道の有情が次第に壊滅し、最後の一小劫で火災・水災・風災が起こって山河、大地、草木等も壊滅してしまうといわれる。壊劫から空劫に移り、空劫が終われば、また成劫に移り、この成・住・壊・空の四劫は、循環して尽きることがないとされている。
―――
大の三災
四劫のうち壊劫の中の二十増減劫の終わりの一増減劫に起こる三種の災害で、火災・水災・風災の三災。
―――
減劫
人間の寿命が減っていくとされる時。仏教では、一つの世界が成立・継続・破壊を経て次の世界が成立するまでの間を四期に分けて、成・住・壊・空の四劫とし、この住劫のなかで人寿が減じていく時期と増していく時期とが繰り返されると説かれる。倶舎論巻十二によれば、住劫の初め、人寿無量歳から百年に一歳を減じて人寿十歳に至る。これを減劫という。次に人寿十歳から百年に一歳を増して人寿八万歳に至る時節を増劫といい、この増減を十八回繰り返し、最後に人寿十歳から百年に一歳を増して無量歳に至る。これを第二十の増劫とする。第一はただ一減、第二十はただ一増であるが、その時節の長さは、各中間の一増減に等しく、第二十の増劫をもって住劫を終わると説かれる。
―――
小の三災
一住劫の中に二十の増減劫があり、その減劫の終わりごとに起こる三種の災害で、穀貴災・兵革災・疫病災のこと。正法を迫害することによって起こる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国に当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり」(0020)とある。三種が同じ劫に起こるとする説と刀兵、疾病、飢饉の順に一増減劫に一つずつ起こるとする説とがある。
―――
日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人
ここで使われている〝億″は現在の10万にあたる。したがって、日蓮大聖人御在世当時の日本の総人口としてあげられている人数は、4,994,828人ということになる。この数値の出所については明らかでない。なお、他の御書には「四十九億八万九千六百五十八人」(1073)、また「四十五億八万九千六百五十九人」(1106:1287)との記述もある。
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鎌倉時代に入ると、天台密教の流行のうえに、禅宗・念仏宗・真言宗という悪宗が一国に盛んになったため、蒙古からも責められて国が滅びようとしているのであり、そのことを警告し諌められた日蓮大聖人をかえって怨嫉し迫害しているため、三災が起きているのであると述べられている。
あまつさへ禅宗と申す大邪法・念仏宗と申す
禅宗は大日能忍によって平安末から広まり始めていたが、鎌倉時代の初期に栄西が入宋して臨済宗を伝え、次に道元が入宋して曹洞宗を伝えてから、とくに盛んになった。鎌倉幕府第五代執権北条時頼は南宋から蘭渓道隆を迎えて本格的な禅宗寺院として建長寺を建て、更に兀菴普寧・無学祖元などを招いて帰依している。
大聖人は「禅宗は天魔の所為」(1073-02)と破折されている。
大聖人は「教外別伝・不立文字」として、仏の真実の教えは経文によらず心で伝えられたとし、涅槃の時に釈尊は微妙な法門を摩訶迦葉に文字を立てずに教外に別伝して付嘱したとする教義を立てる。そして「見性成仏」と言って坐禅によって心を観ずることが悟りの道であるとしている。
こうした、仏説を用いず、経文は月をさす指で無用であると誹謗する教義を大聖人は涅槃経巻七に説かれている「仏の所説に順わざる者は魔の眷属である」との文に照らして「禅天魔」と断じられ、本抄では「大邪法」とされているのである。
念仏宗とは、法然が平安末期に開いた一向専修念仏の浄土宗をいう。弥陀の本願を信じて念仏すれば浄土に往生できるという、安易で現実逃避の教義が、苦悩に沈む当時の民衆を引きつけて、朝廷や幕府のたびたびの禁令にもかかわらず一国に流布していた。
法然はその著「選択本願念仏集」のなかで、念仏のみが正行であるとして、浄土三部経以外の一代聖教を捨閉閣抛せよと述べている。
大聖人は立正安国論で選択集の捨閉閣抛の文について「近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』の誡文に迷う者なり」(0023-07)と破折されている。本抄では「小邪法」とされている。
真言宗は、前章に述べられているように、弘法によって日本に弘められ、大聖人御在世当時も、朝廷や幕府の依頼によって蒙古調伏の祈禱を行うなど、なおその影響は大きかった。本抄では「大悪法」と断じられている。
当時は、禅・念仏の新興宗派と、既成の真言宗が「此の悪宗はなをならべて一国にさかんなり」という状態で、多くの民衆をたぶらかして不幸に陥れるだけでなく、三災七難を引き起こしていたのである。
すなわち、正法の法味に飢えた日本国守護の天照太神や八幡大菩薩が威光勢力を失って国土や民衆を守らなくなったため、ついには他国から責められるという亡国の危機が到来していた。本抄御述作の弘安2年(1279)当時は、文永11年(1274)10月の第一回蒙古襲来は乗り越えたものの、再度の襲来は必至であり、当時は一国がその不安におののいていたのである。
大聖人は、蒙古が襲来するはるか前の文応元年(1260)7月に、邪法邪義の流行により他国侵逼・自界叛逆の二難が必ず起きることを予言され、立正安国論を提出して北条時頼を諌められた。しかし、幕府はそれを用いようとせず、かえって伊豆流罪・佐渡流罪等の迫害をもってむくいたのである。
そのことを「日蓮此のよしを見るゆへに仏法中・倶堕地獄等のせめをおそれて粗国主にしめせども、かれらが邪義にたぼらかされて信じ給う事なし還つて大怨敵となり給いぬ」と仰せになっている。
「仏法中怨・倶堕地獄」とは、大般涅槃経巻三に「若し善比丘、壊法の者を見て、置きて呵責・駈遣・挙処せずば当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり、若し能く呵責・駈遣・挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり」とある文と、南岳大師の法華経安楽行義に「若し菩薩有って悪人を将護し治罰すること能わず乃至その人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」とある文の意を取られたものであろう。
すなわち、正法を破ろうとする悪人を責めなければ、仏法のなかの怨となり、悪人とともに地獄に堕ちるであろう、との厳しい戒めなのである。
法華経をうしなふ人・国中に充満せり
大聖人が折伏を始められる以前は、人々は仏法の道理にくらく理非に迷うという愚痴の悪業だけだったが、大聖人の折伏に対し、日本国中の人達は、瞋りの心を起こし、更に邪法への執着の心を起こしたのである。
このように貧・瞋・癡の三毒が強盛になった一国が安穏なわけはなく、小の三災である飢饉と疫病の流行と戦乱が起こったのだといわれている。
三災とは仏教で劫末に起こると説く三種の災害をいい、大の三災と小の三災があり、俱舎論巻十二等に説かれている。
大の三災とは「壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり」と仰せのように、一つの世界が滅びる時という壊劫の末に起こるとされ、七つの日輪が同時に現れて世界を焼き尽くすという火災、大洪水が起こってすべてが水没する水災、世界のすべてが風のために飛散する風災の三つをいい、それによって世界が滅びるとされる。
小の三災とは衆生の寿命が減っていく減劫の末に起こるとされ、戦争が起こる刀兵災、伝染病・流行病がはやる疾疫災、天災等によって五穀が実らずに飢饉が起こる飢饉災の三つの災害をいう。
当時の日本には、この三つの災害がともに競い起こっていたのであり、立宗以後だけでも、飢饉は建長4年(1252)、正元元年(1259)、文永10年(1273)等に起こり、疫病の流行は康元元年(1256)、正元元年(1259)、文応元年(1260)、文永元年(1264)、文永7年(1270)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)、弘安5年(1282)等に起こっており、戦争は承久の乱をはじめ、文永9年(1272)2月の北条時輔の乱、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の蒙古襲来などが挙げられる。
大聖人はその原因を衆生の三毒によるとされ、更に飢饉は衆生の貧欲により、疫病の流行は衆生の愚癡―仏法への無知から起こり、戦争は衆生の瞋恚から起こるとされている。しかもその貧・瞋・癡は通常の三毒ではなく、大聖人に怨嫉し、末法の正法たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信ぜず誹謗するという正法を対境として起こる三毒なので、その罪はとりわけ大きい。
当時の日本国の人口は4,994,828人とされ、一人一人違いがあるが、この正法違背の罪については皆同じであり、一人一人が釈迦・多宝・十方の諸仏を誹謗し迫害したに等しい、あるいはそれ以上の大悪業を作っているのであり、それが殻貴・兵革・疫病の三災を引き起こしているのであると仰せられている。
1065:01~1065:05 第12章 妙法受持の者に諸天の守護top
| 1065 01 しかるに日蓮が一るいいかなる過去の宿しうにや法華経の題目のだんなとなり給うらん、 是をもつてをぼしめ 02 せ今梵天.帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩.日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のご 03 とし、 白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ 04 給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、 いかでか我等を守護し給は 05 ざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし。 -----― こうしたなかで、日蓮の一類はどのような過去世の宿習によって法華経の題目の檀那となられたのであろうか。 このことをもって考えると、今、梵天、帝釈、日月、四天、天照太神、八幡大菩薩、日本国の三千一百三十二社に祀られている大小の神々は、過去の輪陀王のようであり、白馬は日蓮、白鳥は我らが一門である。白馬がいななくのは我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等がどうして色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか、どうして我等を守護されないはずがあろうかと、強く思われるがよい。 |
日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎ
鎌倉時代の神社の総数。延喜式に出てくる。
―――――――――
日本一国が謗法に染まっているなかで、日蓮大聖人の門下となって題目を唱えている者に、諸天の守護があることを輪陀王と白馬・白鳥の故事にあてて明かされている。
悪法が盛んに流行し、三災七難が競い起こり、また大聖人に対する大難が相次ぐなかを信心を貫いて外護している弟子檀那に対して「いかなる過去の宿しうにや法華経の題目のだんなとなり給うらん」と仰せになって称賛され「梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎ……いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」と、諸天善神の守護があることを強く確信するように励まされている。
その理由として、先に引かれた輪陀王の故事にあてはめ、諸天善神を過去の輪陀王に、白馬を大聖人御自身に、白鳥を大聖人門下にたとえられている。
そして、白馬がいななくことは大聖人とその門下が南無妙法蓮華と唱える声にあたるので、その声を聞いた梵天・帝釈等の諸天善神は白馬の声を聞いた輪陀王と同じように威光勢力を増すことができるので、正法受持の者を力強く守護するのである、と述べられている。
諌暁八幡抄に「法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり」(0588-14)と仰せのように、謗法の人や国土には諸天の加護はないが、妙法受持の人には必ず諸天の守護があるのである。
1065:06~1065:12 第13章 供養の功徳を明かして結ぶtop
| 06 抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば 今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経を 07 よましめ談義して候ぞ、 此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ、 いくそばくか過去の聖霊 08 も・うれしくをぼすらん、 釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり貴辺あに世尊にあらずや、故大進阿闍梨の事な 09 げかしく候へども 此れ又法華経の流布の出来すべきいんえんにてや候らんとをぼしめすべし、 事事命ながらへば 10 其の時申すべし。 11 弘安二年己卯八月十七日 日 蓮 花 押 12 曾谷道宗御返事 -----― さて、あなたが去る三月の御仏事に、たくさんの銭を供養されたので、今年は百余人をこの山中で養うことができ、昼夜十二時にわたって法華経を読誦したり、講義したりするほど盛況である。この姿は、末代悪世においては世界第一の仏事というべきである。どんなにか、亡くなられた聖霊もうれしく思われていることであろう。釈尊は孝養の人を世尊と名づけられた。あなたも世尊というべきではないだろうか。 故大進阿闍梨のことは嘆かわしく思うが、これもまた法華経が広まるべき因縁ではないかと思っていきなさい。いろいろ申し上げたいことがあるが、命を長らえたならば、そのとき、また申し上げよう。 弘安二年己卯八月十七日 日 蓮 花 押 曾谷道宗御返事 |
御仏事
①仏法を教化し、法を流布する行為。②仏教に関する行為。③先祖の追善供養のための遠忌・葬儀など。
―――
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
十二時
一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。
―――
過去の聖霊
死者の生命。祖先。
―――
大進阿闍梨
大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。
―――――――――
最後に、曾谷道宗が去る三月の仏事の折に、多くの銭を御供養したことによって、百余人が身延の山中で法華経を読誦し法を談じ学ぶことがせきたと仰せになって、その功徳の大きさをたたえられている。三月の仏事の内容は不明だが「過去の聖霊も・うれしくをぼすらん」との仰せからすると、亡き祖父母か母かの命日にあたって追善供養をお願いしたものと考えられる。
弘安元年(1287)月の兵衛志殿御返事に「人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず」(1099-07)と述べられているように、当時の身延の草庵には、少ない時でも40人、多い時には60人からの弟子檀那が集まっていた。
したがって、翌年にその倍にもあたる百人以上が修学に励めたのは、道宗の御供養した銭を生活の費用にできたことによるので、その功徳は実に大きいと称賛されたのである。
涅槃経に「譬えば孝子の父母を供養する功徳甚だ深きが如し。功徳甚深は真の解説に喩う。真の解説は即ち是れ如来なり」と説かれていることから、最善の追善供養をし孝養を尽くした道宗のことを「世尊にあらずや」と仰せになっている。
最後に、大進阿闍梨のことに触れられている。「故大進阿闍梨の事なげかわしく候へども」との仰せから、すでに死去したことがうかがえる。
曾谷道宗に対して大進阿闍梨の死去を嘆かれているのは、曾谷教信の弟とする説(根拠不明)もあるように、大進阿闍梨が下総の出身で曾谷家と縁が深かったからであろう。
その死去を「此れ又法華経の流布の出来すべきいんえんにてや候らんとをぼしめすべし」と、大進阿闍梨が亡くなったことは、広宣流布の途上において深い因縁あってのことである、と仰せになっている。
なお、大進阿闍梨は弘安2年(1279)9月21日の熱原法難の際、農民信徒を捕らえるため出動し、落馬して死亡した大進房とは別人とされている。
1059~1065 曾谷殿御返事(輪陀王御書)2011:1月号大白蓮華より。先生の講義top
「朗々たる唱題」で「絶対勝利」の大道を!
「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」 南無妙法蓮華経の題目こそが、仏教の肝要です。一切衆生を根底から救う民衆仏法の要法です。
南無妙法蓮華経は宇宙の根本の法であり、生命の根源のリズムです。題目を唱える実践によって、仏の命そのものが、我が身に湧現し、私たちの生命に威光勢力が強まるのです。
深き信を奮い起こして唱える題目は、ただ一遍の題目であっても、生命を蘇生させる限りなく広大な功力を具えています。まして、日々、「信力」「行力」を尽くし、唱題に励む人に、どれほどの功徳が現われることか。汲めども尽きぬ無量の福徳が湧き出ることは御聖訓に照らして絶対に間違いありません。
今回は、この題目の深義を教えられた「曾谷殿御返事(輪陀王御書)」を拝読します。
本抄は弘安2年(1279)8月、曾谷教信の子息である曾谷道宗に送られたとされている御書です。蒙古の再襲来が想定される激動の時代に、生命力の本源というべき題目を弘める「日蓮が一門」の使命がいかに大きいか。その誇りを教えられているお手紙でもあります。
| 03 諸 04 経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり、 此の法門は天台・妙楽粗書かせ給い候へども分明なら 05 ざる間・学者の存知すくなし、 此の釈に若論教旨とかかれて候は法華経の題目を教旨とはかかれて候、 開権と申 06 すは五字の中の華の一字なり 顕遠とかかれて候は 五字の中の蓮の一字なり独得妙名とかかれて候は 妙の一字な 07 り、 意在於此とかかれて候は 法華経を一代の意と申すは題目なりとかかれて候ぞ、 此れを以て知んぬべし法華 08 経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、 -----― 諸経は五味、法華経は五味の主であるとする法門は法華経本門の法門である。 この法門については天台大師・妙楽大師が大略を説かれたが、明瞭でないために知っている学者は少ないのである。妙楽大師の釈に「若し教旨を論すれば」とあるのは、法華経の題目を教旨といったのである。「法華は唯開権顕遠を以つて」の「開権」とは五字の題目の中の華の一字に当たる法門であり、「顕遠」とあるのは五字の中の蓮の一字に当たる。「独り妙の名を得」とあるのは五字の題目のなかの妙の一字に当たり、「意此に在り」とあるのは、法華経が一代聖教の意であるというのは題目のことであると示されたのである。このことから、法華経の題目は一切経の神であり、一切経の眼目であることを知るべきである。 |
法華経こそが「五味の主」
本抄では題目の功力を明かすために、まず、法華経こそが一切経の原点であることを示されていきます。その際、日蓮大聖人は、天台大師が一切経の勝劣を論じるために使った「五味」の譬喩について、二つの解釈を示されています。
一つは、諸経を五味に分け、無量義経と法華経と涅槃経が究極の醍醐味に相当するとした解釈です。もう一つは、法華経は五味の中の最上である醍醐味にとどまるものではなく、「五味の主」であるとする、より深い解釈です。
五味とは、牛乳の精製過程で生ずる五つの味です。元の乳味から始まり、次第に精製されて最高の味である醍醐味に至ります。この五味は、それぞれ味も滋養分も薬効もことなりますが、いずれも人々の寿命を養います。これに対して「五味の主」とは、五味の中の醍醐味に譬えられます。これは、衆生の生命を養う利益の面を指します。これに対して法華経が「五味の主」であると捉える場合は、五味によって養われた衆生の生命に現われる「仏界の生命」そのものを説く経典であるがゆえに、法華経は最も勝れた経典であるとされるのです。
そして、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の題目こそが、一切諸仏を仏たらしめた能生の根源の法であり、「仏界の生命」そのものなのです。
御書にも次のように仰せです。
「法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(0940-08)
「寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ」(1212-寿量品得意抄-01)
「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)
「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)
まさに南無妙法蓮華経の題目は、「一切衆生の眼目」「十方三世の諸仏の母」「一切経の眼目」であり「一代の肝心」「法華経の肝心」「寿量品の肝心」であり「仏種」であり「大良薬」であり「法体」なのです。
末法で、この南無妙法蓮華経を最初に覚知し、弘通された方が日蓮大聖人です。大聖人御自身が、この南無妙法蓮華経を持たれた妙法の当体として、不惜身命で末法万年の広宣流布のために戦われ、あらゆる障魔に勝利されました。その大聖人の仏の御生命を一幅の曼荼羅として認められたのが、御本尊です。
私たちは、この御本尊を対境として、日蓮大聖人のお命であり、諸仏の眼目である南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、わが胸中の南無妙法蓮華経を呼び覚まし、根源の妙法の生命をわが身に現すことができます。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」です。南無妙法蓮華経の題目は、私たちが無明の闇を払い、大聖人と同じ仏の大生命を開き現していける究極の法です。
仏の慈悲と智慧の生命をわが身に現し、自他共に永遠に崩れない幸福境涯を築いていくことができる。そのための民衆救済の要法を、「題目の信行」として、日蓮大聖人が確立してくださったのです。
法華経の題目は一切経の眼目
本抄で大聖人は、妙楽大師の釈の文をもとに、法華経が「五味の主」であることを説明されていきます。
まず、法華経の「教旨」すなわち教えの肝要が、妙法蓮華経の五字の題目であることを示されます。
その妙楽の文では、法華経で最も重要な法門は「開権」「顕遠」であると述べています。迹門の「開権顕実」と、本門の「開近顕遠」です。
「開権顕実」とは、方便である爾前権経の教えの意義と限界を明確にして、真実である一仏乗、すなわち一切衆生成仏の妙法を顕すことです。
爾前権経が方便とされる最大の理由は、十界の差別、特に九界と仏界の差別を説く点にあります。ところが法華経迹門では、二乗作仏、悪人成仏、女人成仏などを説いて、九界の生命に仏の智慧と功徳を現すことができると説かれます。十界の差別という方便を取り払って、十界互具という真実から衆生の生命を見ているのです。これが「開権」ということです。
大聖人は、この「開権」は妙法蓮華経の五字における「華」の一字に当たると示されています。「蓮華」の二字を成仏の因果にあてはめれば、「華」は因、「蓮」は果に当たりますから、九界の衆生の生命についての方便を払う「開権」は「華」に当たることになります。
次に「開権顕遠」とは爾前・迹門では釈尊は今世で初めて成仏したと言われていましたが、法華経本門の寿量品では実はそうではなくて、久遠の過去世から成仏していた久遠実成の仏であるという真実を明かしたことです。本門で示される真実の仏果である久遠実成の仏は、久遠の昔に成道してからも、九界の生命を絶やさず、九界の種々の姿を現しては衆生を救っていく永遠の仏です。
この真実の仏果を明かすことが「顕遠」ですから妙法蓮華経の五字のうちでは「蓮」の字に当たります。
このように、題目の五字における「蓮華」の二字は、法華経における最重要の「開権」と「顕遠」の法門を表現しています。そして、それは、衆生の生命が十界互具・因果俱時の「妙」を体現しうることを明かしているのです。この衆生の生命における妙理・妙用を具えるゆえに、題目の五字には「妙」の字が冠されています。
要するに、衆生の生命こそが妙法の当体であることを明かす法華経全体の教旨は「妙法蓮華経の五字」にことごとく納まっているのです。
そして、こうした法華経の意義を捉えた時に「妙法蓮華経の五字」こそが、法華経の肝要であるばかりでなく、「一代の意」すなわち釈尊一代の教えの肝要、全仏教の根幹であることが分かると大聖人は仰せです。
以上のように、十界互具・因果俱時の妙理・妙用の当体として衆生の生命の真実を明かしたのが、法華経です。法華経は、五味によって養われる衆生の生命そのものの真実の全体像を明かす経典であるがゆえに「五味の主」であると位置づけられるのです。
法華経の題目は、単なる一経典の題名ではありません。私たちの生命に具わる妙理・妙用を表わしているのであり、万人の成仏のために種々の教えを説いた仏の「意」に当たる法なのです。それゆえに、「一切経の神」であり「一切経の眼目」であると結論されているのです。
| 17 其の時に馬鳴菩薩・三世十方の仏にきしやうし申せしかば・たちまちに白鳥出来せり、白馬は白鳥を見て 18 一こへなきけり、 大王・馬の声を一こへ・きこしめして眼を開き給い白鳥二ひき乃至百千いできたりければ百千の 1062 01 白馬一時に悦びなきけり、 大王の御いろ・なをること日しよくの・ほんにふくするがごとし、身の力・心のはかり 02 事・先先には百千万ばいこへたり、 きさきも・よろこび大臣公卿いさみて万民もたな心をあはせ他国も・かうべを 03 かたぶけたりとみへて候。 -----― そして馬鳴菩薩が三世十方の仏に起請申し上げたところ、たちまちに白鳥が飛来した。白馬は白鳥を見て一声いなないた。大王は白馬の声を一声聞いて眼を開かれた。白鳥が二羽・三羽・百羽・千羽出現すると、百千の白馬もよろこんで一時にいななきだした。大王の色つやが元に戻る姿が、日食が元に戻るようであった。そして、身体の力、心の働きも以前にも百千万もすぐれてきたのである。后も喜び、大臣や公卿も勇気が出てきて、人々も掌を合わせて拝み、他国も頭をひくくして従ったということである。 |
根源の生命力を呼び覚ます唱題の声
題目は“わが生命は本来、仏の大生命なり”との大歓喜の宣言です。また“汝自身の生命も本来、仏の大生命なり”と目覚めを促す呼びかけです。
この妙法の題目の渦が巻き起こり、皆を包んでいけば、十界のあらゆる衆生が威光勢力を増し、安穏の社会が実現するのです。
大聖人は、その例として、輪陀王と白馬の故事を挙げられています。御文に基づいて、物語を簡単に紹介しましょう。
かつて輪陀王という賢王がいました。この王は、白馬のいななきを聞くことで自身の生命力を高め、威光勢力を増していました。そのことによって、国の営みが栄え、人々も安楽となり、天候も順調で周囲の国からも尊敬の念を集めていました。
この白馬は、白鳥を見ていななくのですが、ある日、白鳥が一羽もいなくなります。そのために白馬が鳴くことがなくなり、大王をはじめ人々の生命力は弱まり、気候も不順となり、飢餓・疫病が起こり、外国からの侵略も始まってしまった。
外道の者が祈ったが白鳥は戻りませんでした。そこに馬鳴菩薩が現われ、三世十方の仏に祈ったところ、たちまち白鳥が現れ、白馬も喜びいなないた。輪陀王は回復し、以前の百千万倍の力に満ち、人々も活気を取り戻し、国が安穏になった。 という物語です。
本抄の後の段で「白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり」と仰せです。また、同じく輪陀王と白馬の故事を取り上げられた別の御書でも「白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し」(1424-15)とも仰せられています。
白馬のいななきをうながす白鳥についての解釈は少し異なりますが、いずれも法華経の行者が唱える唱題の声は、一切衆生の根源の生命力、すなわち仏の大生命、仏性を呼び覚ましてやまないという原理が示されています。
例えば、白馬のいななきを聞いた大王は「色つやは太陽のように輝き、肌は月のように鮮やかに、力は那羅延天のように豊かになった(膚は月の如し力は那羅延の如し謀は梵王の如し1424-03)とあります。
しかも、輪陀王は「先先には百千万ばいこへたり」とあったように、以前より、身体の力、心の働きが百千万倍もよくなりました。
私たちの朗々たる唱題の声は、必ずや、梵天・帝釈をはじめとする諸天善神に威光勢力を与え、守護の働きを強め、活性化します。また、一切の仏・菩薩も大きく動き、調和と価値創造の働きが社会・国土に満ちていきます。
「声仏事を為す」です。弱々しい白馬のいななきでは、輪陀王も力が出せません。私たちで言えば、唱題行にあって、常に「より強い信」「より深い行」を起すことが大事です。その確信と持続が、唱題の要です。
わたしたちの信力・行力が漲る無敵の題目こそ、自他の無明を打ち破り、一切衆生に本来具わる仏性の大きな威力を呼び現します。そして、自他共に喜びの世界が広がり、仏界という安心と活力の世界がいやまして現われるのです。
すがすがしい唱題を心ゆくまで
私たちが唱える題目のあり方について、この「白馬のいななき」には、譬喩とはいえ、大変な重要な意義が込められています。すなわち、白馬が颯爽と大草原を疾駆するが如く、爽快で、すがすがしく、朗々たる唱題が大切だということです。
そのうえで、唱題にあって大切なことは「ありのままの心」「素直な心」で祈っていくことです。
悩んでいる時もある。苦しい時、悲しい時もある。そんな時は、子供が母親の胸に飛び込むように、御本尊にそのままの命でぶつかっていけばいいのです。
よく戸田先生は「形式ではない」と言われた。先生は「御本尊へ本当の心でぶつかっていくのです」とも語られました。唱題行は、大聖人の生命をわが身に現わしていく修行であるとして、「大聖人の御生命のこもった題目」を指導されたこともあります。
たとえ悔やまれることがあっても、二度と繰り返さぬ決意をして、未来へ向かって新しい出発の唱題を、勝負を決する時は、断じて勝つと勇気凛々の力強い唱題を、三障四魔との戦いの時は、魔を断固、打ち破る獅師王の如き唱題を、宿命転換の時は、断じて負けないとの不退の唱題を、喜びの時は、深い感謝の題目を、御書に仰せの通り、「苦楽共に思い合わせ」、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。
わが生命を磨くには、唱題しかありません。「題目第一」の人は、無明に曇った生命も磨き抜かれ、必ず法性の明鏡の生命となることができます。題目は生命錬磨の作業です。ゆえに「心こそ大切」なのです。
したがって、題目の功徳は、何遍となえたかという数量できまるものでは絶対にありません。「心ゆくまで唱える」ことこそが大事なのです。
御書には、これだけの題目を唱えよなどと、となえるべき量を定めた仰せはりません。祈りは「心の固き」であり「信心の厚薄」であり、「志ざし」「一念」で決まります。
ただし、本人が心から決意して数の目標を定めることも信心の現れです。自分が決意した分だけ唱題する。そして絶えず決意をふかめていく。「日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(0384-04)と仰せのように、たゆまず、唱題行を持続した人が勝利することは間違いありません。
自身の生命変革を、決定した一念のない“おすがり”や逃避や臆病から、現実生活の努力や挑戦を放棄して“棚からぼた餅”を望むような信仰は、仏法の本義から逸脱しています。
唱題行は、わが生命を変革しゆく「人間革命」の修行です。どこまでも自身の一念を深め、諸天善神をも動かし、絶対勝利を実現する「誓願の題目」であってこそ、大聖人の仏法の唱題行となります。
「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(1143-01)と仰せの通り、題目には甚深で広大な生命変革の功徳があります。その最高の楽しみを、仏教史上、最も深く自覚し、満喫してきたのが、私たち創価学会員です。最高の仏道修行となり、この上ない歓喜の源泉となる南無妙法蓮華経の題目を唱えること自体、どれほど福徳のあることか。これ以上に深い喜びはありません。
輪陀王と白馬・白鳥の故事は、私たちの根源の生命力を開く唱題行の力を教えるものであるとともに、題目には社会に根源的活力を与える力があることをも示しています。
ここに「立正安国」の原理が浮かび上がってきます。本抄の後半の御文を通して、題目と立正安国の関係について拝察していきましょう。
| 14 三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき、 壊劫の時は大の 15 三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇 16 は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる、 今日本国の人人四十九億九万四千八 17 百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり、 所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば 人 18 ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり、是れ即ち小の三災の序なり。 -----― 三毒が強盛な国がどうして安穏でいられるはずがあろうか。 壊劫の時は大の三災が起こる。いわゆる火災・水災・風災である。また減劫の時は小の三災が起こる。すなわち飢渇・疫病・戦争である。飢渇は大貪欲の心から起こり、疫病は愚癡の心から起こり、戦争は瞋恚の心から起こる。 今、日本国の人々は四百九十九万四千八百二十八人を数え、男女人々はそれぞれ異なった存在であるが皆、同じ一つの原因から三毒が盛んとなっている。いわゆる南無妙法蓮華経を縁として起こした三毒であるから、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にののしり、責め、流し、失っていることになるのである。これがすなわち、今、日本国に起きている飢渇・疫病・戦争等、小の三災の始まりなのである。 |
三毒強盛による三災の激化
ここで大聖人は、人々の生命力が衰える減劫の時代には飢渇・疫病・合戦の三災が起こると言われ、生命の濁りである貧・瞋・癡の三毒と災害とは密接に関係することが説かれています。
すなわち「飢饉は大いなる貧欲から起こり、疫病は愚癡から起こり、戦乱は瞋恚から起こる」と。
同じことは天台大師の『法華文句』にも「瞋恚が増し劇しくなって刀杖が起こり、貧欲が増し劇しくなって飢餓が起こり、愚癡が増し劇しくなって疾疫が起こる」と記されています。天台は更に、三毒によって三災が起きると、人々の生命の三毒は更に激しくなり、この悪循環によって時代そのものがどうしようもなく濁り、衰えてしまうのが、劫濁の様相であるとも指摘しています。
三災のうち「飢渇については、大集経では「穀貴」とも説かれています。このような災いが起こるのは、三毒のうちの「貧欲」が人間の心の内に激しくなり、ついには社会を支配するからであると言われているのです。
これは経典に説かれる一例ですが、天候不順な時に、大農地を持つ有力な者が自分の利益だけを考え、文字通り我田引水をするなど貪欲に駆られれば、多くの農民は収穫が乏しくなり、穀物をはじめ、あらゆる物価も上がってしまいます。
このように人間の貪欲によって惨禍がもたらされる構造は、経典の時代から遠く離れた21世紀の現代でも残っているといわざるをえない。むしろその規模は地球全体に広がり、深刻さは増している。飢饉や貧困や格差や経済的危機に最も苦しむのは、いつの時代も弱者である民衆です。
次に「疫病については、三毒の内の「愚癡」から起こると言われている。
確かに、科学の発達した現代においても、原因が分からないゆえに流行する病気がある。また、分かっても適切な治療の手だてを発見できないために流行する病気もある。なかには、原因が分あり予防法や治療法が分かっていても、経済的・文化的理由で適切な救済が講じられないために惨禍を招くことすらあります。あるいは、目先の利害にとらわれて、全体が手を結んで対処できないなどの愚かさのために、疫病の被害が大きくなることもあります。
そして、「合戦は、三毒の内の「瞋恚」から起こると言われている。
瞋恚とは、自分の意に適わぬものへの激しく根深い怒り、やるかたない憤懣です。欲求が満たされず、傷つけられ、踏ににじられたと感じる心の奥底にうごめく瞋恚のマグマは、大きな破壊力を蓄積していきます。その負のエネルギーが爆発すれば、暴力・武力となって現れ、戦乱へとつながります。経済的対立・思想的対立・宗教的対立・そしてナショナリズムの対立などの形をとって憎悪が爆発していくことが、現代においても戦争や紛争の要因になっています。
日蓮大聖人は、当時の三災について、南無妙法蓮華経に敵対する三毒によって、日本国中の人々の生命が深く濁っているゆえに起こっていると言われます。
すなわち、日本国中の人々は、仏意を明らかにした法華経への誹謗が自分の信仰に含まれていることに気づかない宗教的な無知に陥っている。また大聖人の折伏で自らの法華経誹謗に気づいても、かえって強固に邪法に執着しつづける宗教的な貪りに囚われている人々も多い。更に、一切衆生を救うために南無妙法蓮華経を説き弘める法華経の行者つまり大聖人を、かえって自分たちを攻撃するものとして強く憎む宗教的な瞋恚を起している。
当時は、三災が絶えることなく起きていた時代でした。南無妙法蓮華経は、生命力の根源であり、仏種にほかならない。この妙法に背いて起こす根深く激しい貧瞋癡の三毒に、日本国中の人々が毒されている故に三災が起こっていると大聖人は喝破されているのです。
| 1065 01 しかるに日蓮が一るいいかなる過去の宿しうにや法華経の題目のだんなとなり給うらん、 是をもつてをぼしめ 02 せ今梵天.帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩.日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のご 03 とし、 白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ 04 給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、 いかでか我等を守護し給は 05 ざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし。 -----― こうしたなかで、日蓮の一類はどのような過去の宿習によって法華経の題目の檀那となられたのであろうか。 このことをもって考えると、今、梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社に祀られている大小の神々は、過去の輪陀王のようであり、白馬は日蓮、白鳥は我らが一門である。白馬がいななくのは我等が唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天・帝釈・日月・四天等がどうして我等を守護されないはずがあとうかと強く思われるがよい。 |
唱題は立正安国の原動力
謗法という宗教的な転倒によって三毒と三災と悪循環が起こり、亡国・亡民の危機に陥っている当時の日本国を救うために「五味の主」であり「生命力の根源」ともいうべき南無妙法蓮華経を唱え、弘めていくべきことを訴えられております。
ここで、先に述べられた輪陀王の故事に再び言及されていきます。白鳥に支えられた白馬のいななきが輪陀王を蘇生させ、民衆と国土に活力をもたらしたように、大聖人の一門の唱題の声が、諸天善神の威光勢力を増し、必ずその守護の働きを呼び起すことができると仰せです。
亡国・亡民という大いなる危機の時代であっても、生命力の根源である南無妙法蓮華経を、確信をもって唱え弘めていく人は、生命と宇宙に具わる根源的な生命力を呼び現し、危機の時代の変革者として立ち上がっていけるのです。
ここで白馬・白鳥によって譬えられている「我らが一門」とは、南無妙法蓮華経という根源的な変革の力を身に体して民衆救済に立ち上がられた日蓮大聖人を師として、大聖人と同じく強き確信をもって南無妙法蓮華経を自らも唱え、他にも唱え伝えていく変革者の集まりにほかなりません。
いうならば、末法において、ますます激化する三毒の病と、我らが唱える南無妙法蓮華経の大良薬のどちらが勝つのか根源的な勝負を担う、これが、南無妙法蓮華経を唱える末法の法華経の行者の使命なのです。「結局は、勝負を決する以外には、この災難を止めることはできない」との仰せの通りです。
乱世であればあるほど、師弟一体となっての南無妙法蓮華経の唱題の声が、各人の宿命の壁を破り、社会の暗雲を打ち払い、立正安国を実現していく最強の武器となるのです。
題目は「宿命転換の根源力」です。いかに強固なる宿命の鉄鎖も、わが生命の根源力を呼び現す題目の妙用で断ち切っていけるのです。
題目は「人間革命の源泉」です。わが生命に本来具わる仏の命を題目で呼び現し、その自由で晴れ晴れとした生命力を満喫するとき、「歓喜の中の大歓喜」というべき大境涯を開くことができるのです。
題目は「立正安国の原動力」です。題目でわが生命に開かれた歓喜の波動は、全宇宙へと瞬時に広がっていきます。それゆえ、必ず、一切衆生の歓喜の波動を呼び起こし、わが家庭、わが地域、わが国土が歓喜で包まれていくのです。
「師弟誓願の題目」を唱え、広宣流布に生き抜く人に、何もおされるものはありません。
新たな一年、新たな一日、朗々たる唱題で、自信と活力に満ち溢れた「絶対勝利」の大道を、威風も堂々と歩みゆこう!。
1065~1069 曾谷二郎入道殿御返事top
1065:01~1066:04 第一章 法華経の文を引き「其人」を釈すtop
| 曾谷二郎入道殿御返事 弘安四年七月 六十歳御作 01 日蓮 02 去る七月十九日の消息同卅日到来す、 世間の事は且らく之を置く専ら仏法に逆うこと、 法華経の第二に云く 03 「其人命終入阿鼻獄」等云云、 問うて云く其の人とは何等の人を指すや、 答えて云く次上に云く「唯我一人・能 04 為救護・雖復教詔・而不信受」と、又云く「若人不信」と、又云く「或復顰蹙」又云く「見有読誦書持経者・軽賤憎 1066 01 嫉・而懐結恨」と、又第五に云く「生疑不信者.即当堕悪道」と、第八に云く「若有人軽毀之言・汝狂人耳.空作是行 02 終無所獲」等云云、 其人とは此れ等の人人を指すなり、彼の震旦国の天台大師は南北十師等を指すなり、 此の日 03 本国の伝教大師は六宗の人人と定めたるなり、今日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師・並びに三階・道綽・善導等を 04 指して其の人と云うなり、 -----― 先月の七月十九日の消息が、同月の三十日に到着した。 世間の事はしばらく置くとする。ただ仏法に逆らうことについていえば、法華経の第二の巻譬喩品第三には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と説かれている。 問うていう。法華経で説かれる「其の人」とはどのような人をさすのであろうか。 答えて云う。その経文の少し前に「唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も、而も信受せず」と説かれ、また「若し人信ぜずして」と説かれ、また「或は復顰蹙して」と説かれ、また「経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」と説かれている。また法華経第五の巻従地湧出品第十五には「疑を生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし」と説かれている。また、法華経第八の巻の普賢菩薩勘発品第二十八には、「若し人有って之を軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ。空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと」等と説かれている。譬喩品の「其も人」とは、これらの経文に説かれている人々をさすのである。中国では天台大師は南北の十人の学匠をさし、日本国では伝教大師は南都六宗の人々をさして譬喩品の「其の人」に当たるとしている。 いま日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師並びに、三階禅師信行・道綽・善導等を指して「其の人」といっているのである。 |
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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顰蹙
顔をしかめて憎むこと。
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憎嫉
憎み嫉むこと。善法や正法を弘通する人を憎み、嫉むこと。
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結恨
恨みを結ぶこと。結んで解けないようなうらみを生ずること。
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震旦国
中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住処の意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。
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天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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南北十師
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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六宗の人人
南都六宗の高僧。善議(三論・空宗)・勝猷(華厳)・奉基(法相)・寵忍(不明)・賢玉(法相)・安福(不明)・勤操(三論)・修円(法相)・慈誥(不明)・玄耀(不明)・歳光(不明)・道証(法相)・光証(不明)・観敏(三論)等。
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弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
―――
慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
―――
智証
(0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
―――
三階
(0540~0597)中国・隋の時代の僧で、名を信行といった。天台とほぼ同時代の人。三階の仏法を立てたのでこの名がある。8歳で出家し、のちに相州の法蔵寺で具足戒を受けた。隋の開皇のはじめ真寂寺で「三階仏法」4巻をはじめ多くの書をあらわした。三階仏法を主張して在家仏法のはじめとなった。隋の開皇14年(0597)55歳で死んだ。三階教は一時は長安、大興の都を中心にひろまったが、隋の文帝、唐代の則天皇后、玄宗などによって圧迫され、やがて亡びてしまった。
―――
道綽
(0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
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本抄は、弘安4年(1281)閏7月1日、日蓮大聖人が60歳の御時、身延から千葉の曾谷二郎入道教信にあてられた御抄である。当時は陰歴を用いていて、平年を354日としていたため、一年に平均して11日のずれがある。そのため適宣に閏月を設けて調整していた。弘安4年閏7月はその調整月である。
御真筆は残っていないが、日興上人の御写本が北山本門寺にある。
本抄は曾谷教信からの書状に対する返書である。弘安4年といえば、弘安の役があった年であり、文永11年(1274)の文永の役に続いて、蒙古は再び日本侵攻を企て、5月には東路軍5万、翌6月には江南軍10万の大軍を派遣し、壱岐・対馬に攻め寄せた、曾谷教信の手紙は7月19日のものであるから、蒙古軍と日本軍の攻防戦の最中である。教信の手紙は、この未曾有の国難に触れられたものであったろう。本抄の末尾に「今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状已前に去る正嘉・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり」と仰せになっていることからも、それは推察できる。
しかし、蒙古襲来の原因等については、曾谷教信はよく存知していたはずである。ただ、その先の御文のあとの「有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか」との仰せからすると、いよいよ戦況が差し迫り、曾谷教信が戦場に赴かなければしれないという具体的な状況にあったことを報告し、身の処し方の御指南を仰いだことが考えられる。
その教信の報告に対して、大聖人はこの未曾有の国難はひとえに一国謗法のゆえであり、とくにその元凶は、弘法・慈覚・智証の三大師であると破折されている。そこから、本抄には「破三大師」との別名もある。
本抄では真言こそ一切の不幸の根源となっているとされ、念仏等は残余として扱われている。念仏の悪については、大聖人は御化導の初期に既に徹底的に破折されている。念仏の幼稚な教義に比べ、真言は邪智が巧みであるため、時期を待って佐渡以後に本格的に破折されていく、それとともに、蒙古襲来に関し、その調伏を幕府・朝廷が真言宗及び天台真言に盛んに行わせていたことから、真言に焦点を当てられたと拝察される。
内容は、最初に法華経誹謗の者は阿鼻地獄に堕ちるとの法華経の文を挙げられ、その地獄に堕ちる者は、弘法・慈覚・智覚等、また道綽・善導およびその流れを汲む念仏等であり、更に、それらの教えを信じ、法華経を誹謗している日本国の一切衆生であると述べられている。日本国の一切衆生のなかには、善人もいれば悪人もいるのに、どうしてすべてを束ねて同じ業をおかしているのかとの疑難を設けられ、それに対して、小善・小悪があっても、法華経を誹謗するという大悪のまえには一切、区別がないと教えられている。そのように一国謗法をもたらした元凶は弘法・慈覚・智証の、いわゆる三大師であり、それは彼らが法華経を第二・第三とののしったゆえであると仰せられている。そして、大聖人が彼らの誤りを正しく糾弾されてもますます瞋恚の念を抱いて、大聖人を迫害し、提婆達多さえ軽罪となるほどの重罪を犯すに至っているのであり、そのゆえに未曾有の大難が起こっていることを明らかにされている。最後に曾谷教信は大聖人の檀那であり、たとえ大難に巻き込まれるようなことになったとしても、霊山浄土は疑いないと励まされている。
さて曾谷教信が7月19日に出した手紙は、7月30日に大聖人のもとに着いた。大聖人が返事をしたためられたのが、翌日の閏7月1日である。そのことから考えても、曾谷教信が世の中が騒然としていることを大聖人に報告し、身の処し方について指導を受けたのに対し、さっそく御返事を出されたことが分かる。
最初に「世間の事は且らく之を置く」と仰せになっている。これは、世間のあわただしい動き、またその予測、原因等を世間の次元で述べるのはさておくと仰せられていると考えられる。とくにあとの仰せから考えると、そのような事態に立ち至った原因を教信は尋ねたのかもしれない。
大聖人は、仏法の次元から述べると、これらの原因がはっきりしている。と仰せられている。それは「専ら仏法に逆う」ゆえである。大聖人は一往「世間の事」はさておくと仰せではあるが、世間の次元では考えたれるさまざまな原因は、いずれも真実の原因ではないのであり、一国挙げての大難は、すべて仏法に逆らうことが根本原因であると仰せなのである。
大聖人は仏法に逆らうことが不幸の最大の原因であるとの文証として、法華経譬喩品第三の「其人命終入阿鼻獄」の文を引用されている。
そして、この譬喩品の文に当てはまるのはいかなる人であるかについて、問答形式を用いてその内容を釈される。まず、この譬喩品の文の前の部分を引用されている。
この文を大聖人が用いられた理由について考えるのに、長くなるが、この文をもう少し引用してみよう。「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す。復教詔すと雖も、而も信受せず(中略)又舎利弗、憍慢懈怠、我見を計る者には、此の経を説くこと莫れ。凡夫の浅識、深く五欲に著せるは、聞くとも解すること能わじ、亦為に説くこと勿れ。若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して、疑惑を懐かん。汝当に、此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き教典を、誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」
この文の最初の部分は、釈尊が主師親の三徳を有することを述べたところで、大聖人はそのような主師親三徳具備の仏が説いた教えを信受しようとしないことが阿鼻獄に堕ちる因であることを指摘されている。
そのあとの文は、仏が舎利弗に対して、どういう人に法を説くべきかを教示しているところである。この文は妙楽大師の法華文句記巻六下によって十四誹謗として分類されている。仏は正法を誹謗する者に説いてはならないと論じているのであり、そのなかで正法誹謗の者にはどのような罪報があるかを説いていくのである。
すなわち、
1.嬌慢 増上慢と同意。慢心、奢りたかぶって仏法をあなどること。
2.懈怠 仏道修行を怠けること。
3.計我 我見と同意。自分勝手な考え方で、仏法の教えを判断すること。
4.浅識 仏法の道理が分からないのに、求めようとしないこと。
5.著欲 欲望にとらわれられて、仏法を求めないこと。
6.不解 仏法の教えを分かろうとしないこと。
7.不信 仏法を信じないこと。
8.顰蹙 顔をしかめること。仏法を非難すること。
9.疑惑 仏法の教えを疑って、迷うこと。
10.誹謗 仏法をそしり、悪口を言うこと。
11.軽善 仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にすること。
12.憎善 仏法を信じている人を憎むこと。
13.嫉善 仏法の信者を怨嫉すること。和合僧を破る働きをすること。
14.恨善 仏法を修行する人を恨むこと。
の者の罪報は、命終して、阿鼻獄に入るというものである、と説いている。引用の文はここで終わっているが、このあとの経文は正法誹謗の者の罪報を詳細に説き、結論としてそういう者に法を説いてはならない、と舎利弗に教えているが、大聖人の引用の意はそこにあるのではなく、「7」・不信以降の文を引用され、また後の部分も省略されているのである。
大聖人はこの譬喩品の文のあと、法華経第五従地湧出品第15の文と、第八普賢菩薩勘発品第28の文を引用されている。
「願わくは仏未来の為に、演説して開解したまえ。若し此の経に於いて、疑いを生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし、願わくは解脱したまえ」
「若し後の世に於いて、是の経典を受持し、読誦せん者、(中略)若し人有って、之を軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ、空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと」。
涌出品の文は、地涌の菩薩が出現したことに対して弥勒菩薩が、いつこれらの菩薩を教化したのかと問うているところである。我々は仏の教えを信ずるが、滅後の者は疑いを生ずるであろうとし、そうすればその者達は悪道に堕ちると訴えて、仏に説法を請うのである。この文は「若し此の経に於いて疑いを生じて信ぜざる」とあるように、妙法への不信が悪道に堕ちる因であることを示している。
また勧発品の文は、ここに引用した文の前に「若し如来の滅後、後の五百歳に若し人有って、法華経を受持し、読誦せん者を見ては、応に是の念を作すえべし」とあって、末法の時代をさしていることは明らかである。そして「若し人有って之を軽毀し」の“之”とは法華経を受持・読誦する人をさしており、すなわち法華経の行者を軽毀することが阿鼻獄に堕ちる因であるとの文である。
大聖人は、これらの文を挙げて、譬喩品の「其人」であると仰せになって、末法において法華経及び法華経の行者を誹謗する者は地獄に堕ちることを御教示されている。
具体的に「其人」とはだれをさすかについて大聖人は天台大師は南三北七を、日本において伝教大師は南都六宗を、地獄に堕ちるべき「其人」と定めたと仰せられ、大聖人自身は「弘法・慈覚・智証等の三大師・並びに三階・道綽・善導等」を「其人」と仰せられている。
法華経の文からいえば「其人」はとくに邪師に限るわけではない。正法を誹謗しているすべての人に当てはまる。したがって日本一国すべての人が該当する。しかし、一国が謗法に陥った所以といえば、衆生に邪宗邪義を教えた邪師にこそある。そこで大聖人は彼らを別して「其人」として挙げられたのである。
弘法・慈覚・智証については、後に詳しく触れられるが、ここに中国の三階・道綽・善導が並び挙げられている。三階は三階教の師・真寂寺信行のことで、道綽・善導は中国浄土宗の祖である。三階教は日本では流布しなかったが、中国では一時流布した宗派である。末法においては普賢普正法を信ずべきであるとして法華経の修行を堕地獄の因とした。後に中国でも禁止された宗派である。これを邪師の代表に挙げられている理由は、その主張するところが念仏の立義の淵源となっている、とのお考えからであると思われる。撰時抄にはつぎのように仰せである。
「漢土の三階禅師の云く教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり末代のためには我がつくれる普経なり法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかどもわづかの小女の法華経をよみしにせめられて当坐には音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり、今の善導・法然等が千中無一の悪義もこれにて候なり」(0279-06)
この仰せからも分かるように、信行の説は念仏の説と軌を同じくしており、後世の念仏の主張の淵源となった悪義であるとして、信行を挙げられたのであろう。
1066:04~1066:11 第二章 「入阿鼻獄」の相を示すtop
| 04 入阿鼻獄とは涅槃経第十九に云く 「仮使い一人独り是の獄に堕ち其の身長大にして八 05 万由延なり其の中間にヘン満して空しき処無し、其の身周匝して種種の苦を受く設い多人有つて身亦ヘン満すとも相 06 い妨碍せず」同三十六に云く「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広八万四千由旬ならん」等云云、 普 07 賢経に云く「方等経を謗ずる 是の大悪報悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎ 必定して当に阿鼻地獄に堕つべし」等 08 とは阿鼻獄に入る文なり。 -----― また「阿鼻獄に入らん」ということについては、涅槃経第十九に「仮使い一人独り是の獄に堕ち、其の身長大にして八万由延なり。その中間にヘン満して空しき所無し。其の身周匝して種種の苦を受く。設い多人有つて身亦ヘン満すとも相い妨碍せず」と説かれている。同じ三十六には「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広八万四千由旬ならん」等と説かれている。仏説普賢菩薩行法経には「方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報応に悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし」等と説かれているのは阿鼻獄に入らん」の文のことである。 -----― 09 日蓮云く夫れ日本国は道は七.国は六十八箇国・郡は六百四・郷は一万余.長さは三千五百八十七里・人数は四十 10 五億八万九千六百五十九人・或は云く四十九億九万四千八百二十八人なり、 寺は一万一千三十七所・社は三千一百 11 三十二社なり、 今法華経の入阿鼻獄とは此れ等の人人を指すなり、 -----― 日蓮がいうのには、日本国というのは道は七道、国は六十八ヵ国、郡は六百四、郷は一万余であり、長さは三千五百八十七里あり人口は四百五十八万九千六百五十九人・あるいは四百十九十九万四千八百二十八人である。寺院は一万一千三十七所・社は三千一百三十二社である。いま法華経にとかれている「阿鼻獄に入らん」というのはこれらの人々をさすのである。 |
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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由延
由旬のこと。サンスクリット名ヨージャナ(yojana)は、古代インドにおける長さの単位。古代インドでは度量衡が統一されておらず、厳密に「1ヨージャナは何メートル」とは定義出来ないが、一般的には約11.3kmから14.5km前後とされる。また、仏教の由旬はヒンドゥー教のヨージャナの半分とも言われ、倶舎論の記述などでは普通1由旬を約7kmと解釈する。古来より様々な定義がなされており、例えば天文学書『アールヤバティーヤ』(Aryabhatiya)では「人間の背丈の8000倍」となっている。他にも「帝王の行軍の1日分」「牛の鳴き声が聞こえる最も遠い距離の8倍」など様々な表現がなされている。また、「32000ハスタ」とする定義もある。ハスタ(hasta)とは本来「手」の意味だが、古代インドの長さの単位でもあり、この場合は「肘から中指の先までの長さ」(キュビット)と定義される。以下倍量単位が続き、4ハスタが1ダンダ(daNDa)、2000ダンダが1クローシャ(kroza)、2クローシャが1ガヴューティ(gavyuuti)、そして2ガヴューティが1ヨージャナとなる。仮に1ハスタを45cmとすると、1ヨージャナは14.4kmとなる。一方、仏教では1倶盧舎(クローシャ)が1000ダンダ(4000ハスタ)、そして4倶盧舎が1由旬とされているので、1由旬は7.2kmとなる。由旬を使ってその大きさが示されているものとしては、須弥山の高さ8万由旬などがある。
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周匝
まわりめぐること。
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普賢経
曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
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国は六十八箇国
北海道除く日本全土を68か国に分割して数えたもの。畿内五か国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、東山道八か国(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)、東海道15か国(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)、北陸道7か国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)、山陽道8か国(播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)、山陰道8か国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐)、南海道6か国(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海道9か国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)壱岐・対馬である。
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次に譬喩品に「其人命終入阿鼻獄」の「入阿鼻獄」についてのべられている。
阿鼻地獄の様相については涅槃経の文を引かれている。阿鼻地獄は多くの経論で説かれており、正法念処経には、欲界の最も底にあるとし、他の七大地獄及び別処の苦の千倍で、阿鼻地獄にいる人は八大地獄の第七・大焦熱地獄の罪人を天界にいるがごとくに思うほどの苦であると説いている。観仏三昧海経には、七重の鉄網ありと説き、俱舎論等では阿鼻地獄の罪人の寿命は一中劫であるとしている。その他、源信の往生要集など、多くの釈論でも阿鼻地獄の様相を説いているが、大聖人は本抄では涅槃経で説く阿鼻地獄の罪人が受ける身の大きさの面から阿鼻地獄の苦を教えられている。
一人の人が阿鼻地獄に堕ちたとして、その身は縦横八万由延あるという。一由旬の長さは古代中国での16里、40里、30里等、経論によって差異があるが、いずれにしてもその8万倍であるから、甚だしく長大であることに変わりはない。また、観仏三昧海経等によると、阿鼻地獄の大きさは縦横八万由旬であるから、阿鼻地獄の大きさと罪人の身の大きさが同じことになる。それが「其の中間に徧満して空しき処無し」という意味である。そして、たとえ多数の人が阿鼻地獄に堕ちても、お互いに邪魔にならない、とも説いている。
なお、普賢経の文も引用されているが、これは涅槃経の阿鼻地獄の苦を説いた文とは異なっている。方等経典を誹謗した者がその悪報によって悪道に堕ちることは風雨に過ぎる勢いであり、必ず最も底にある阿鼻地獄に堕ちると説いている。方等経とは大乗経典の意で、普賢経においては法華経を意味している。これも法華経誹謗の者が阿鼻地獄に堕ちる文証である。
これらの経証を挙げられた後に大聖人は、日本は66ヵ国、そこには多くの人が住み、多くの寺社があるが、一国すべてが譬喩品の入阿鼻獄の人にあたると教示されているのである。
先に挙げた弘法・慈覚・智証等の邪師は別して入阿鼻獄の人であり、ここでは総じての立場で仰せられている。弘法等の邪師にたぶらかされただけであっても、正法誹謗・法華経の行者誹謗の罪は免れることはできず、堕地獄に変わりはないのである。
1066:11~1066:16 第三章 一切衆生一業の所以を説くtop
| 11 問うて云く衆生に於て悪人・善人の二類有り、 12 生処も又善悪の二道有る可し、 何ぞ日本国の一切衆生一同に入阿鼻獄の者と定むるや、 答えて云く人数多しと雖 13 も業を造ること是れ一なり、故に同じく阿鼻獄と定むるなり。 -----― 問うて云う。衆生には悪人と善人の二種類がある。ゆえにその生まれる所にもまた善と悪との二道があるはずである。どうして日本国の一切衆生が一同に「入阿鼻獄」の者と定めるのであろうか。 答えて云う。人数は多いけれども、造る業は一つである。ゆえに同じく「阿鼻獄」と定めるのである。 -----― 14 疑つて云く日本国の一切衆生の中に或は善人或は悪人あり善人とは五戒・十戒・乃至二百五十戒等なり、悪人と 15 は殺生・偸盗・乃至五逆・十悪等是なり、何ぞ一業と云うや、答えて云く夫れ小善・小悪は異なりと雖も法華経の誹 16 謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し是の故に同じく入阿鼻獄と云うなり、 -----― 疑って云う。日本国の一切衆生の中には、あるいは善人、あるいはは悪人がいる。善人とは五戒・十戒・乃至二百五十戒等の戒律を持つ人である。悪人というのは殺生・偸盗・ないし五逆・十悪等を犯す人である。どうしてそれを一つの業というのであろうか。 答えて云う。小善と小悪の異なりはあっても法華経の誹謗においては善人・悪人・智者・愚者の違いはない。このゆえにみな同じく「入阿鼻獄」というのである。 |
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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十戒
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
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二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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殺生
生きものを殺すこと。十悪の第一。四重禁の一つ。仏法では最も重い罪業の一つとし、五戒・八戒・十戒等の一つに不殺生戒を挙げている。
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偸盗
人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。
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五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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誹謗
悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。
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其人命終入阿鼻獄は日本国の一切衆生であるとの第一答に対して、第二問は一切衆生をすべて入阿鼻獄の者とどうして定めることができるのか、というものである。
問者の主張はこうである。衆生といっても、善人もいれば悪人もいる。したがって、命終の後に趣く道についても善道と悪道があるはずである。日本国の一切衆生がすべて阿鼻獄に入ると定められるはずがないではないか、と。善業を修する者は三善道、すなわち人・天・修羅の道に趣き、悪業を修する者は三悪道、すなわち地獄・餓鬼・畜生の三悪道に趣くとされているからである。
これに対して大聖人は「人数多しと雖も業を造ること是れ一なり」と仰せになっている。すなわち、仏法からみれば、すべて同悪業を造っている衆生となる、ということである。
第三問は、第二答のすべて同じ悪業を造っているという仰せに対して、同じ業を造っているはずがないと反駁している。善人とは五戒・十戒・二百五十戒等をたもっている人達のことであり、悪人とはそうした五戒を破り、十悪を犯し、更には仏に敵対するなどの五逆を犯した者をいうのであって、日本国の一切衆生のなかには、そうした戒をたもっている人もいれば、破戒の悪人もいて、さまざまである。それなのに、どうして同じ一つの業だというのか、と。それに対して大聖人は「小善・小悪は異なると雖も法華経の誹謗に於ては善人・悪人・智者・愚者倶に妨げ之れ無し」とおおせられている。
ここで、問者のとらえる善・悪と、大聖人がとらえる善・悪との次元の違いが浮き彫りにされている。すなわち、問者においては、戒律をたもつことが善でそれを破ることが悪であるのに対して、大聖人はそれらは小善・小悪であると仰せられているのである。そして、法華経を誹謗するか否かこそ最大の善と悪に分ける要因であり、日本国の一切衆生は法華経誹謗の極悪の業を犯しているのであるから、すべて入阿鼻獄の業を造っていると仰せなのである。
1066:16~1067:01 第四章 重罪の根源は三大師にあるを標すtop
| 16 問うて云く何を以てか 17 日本国の一切衆生を一同に法華誹謗の者と言うや、 答えて云く日本国の一切衆生衆多なりと雖も 四十五億八万九 18 千六百五十九人に過ぎず、 此等の人人・貴賎上下の勝劣有りと雖も是くの如きの人人の憑む所は 唯三大師に在り 1067 01 師とする所・三大師を離る事無し、 余残の者有りと雖も信行・善導等の家を出ず可らざるなり、 -----― 問うて云う。何をもって日本国の一切衆生をおしなべて法華誹謗の者であるというのか。 答えて云う。日本国の一切衆生衆は数が多いといっても四百五十八万九千六百五十九人にすぎない。これらの人々に貴賎上下の勝劣があるといっても、この人々がたのみとするところは、ただ三大師である。師とするところはただ三大師を離れることはないのである。三大師以外の者があったとしても、信行・善導等の流派を出ることはない。 |
信行
三階禅師のこと。(0540~0597)中国・隋の時代の僧で天台とほぼ同時代の人。三階の仏法を立てたのでこの名がある。8歳で出家し、のちに相州の法蔵寺で具足戒を受けた。隋の開皇のはじめ真寂寺で「三階仏法」4巻をはじめ多くの書をあらわした。三階仏法を主張して在家仏法のはじめとなった。隋の開皇14年(0597)55歳で死んだ。三階教は一時は長安、大興の都を中心にひろまったが、隋の文帝、唐代の則天皇后、玄宗などによって圧迫され、やがて亡びてしまった。
―――――――――
第四問は、日本国の一切衆生が同じく法華経誹謗の業を造っているとの答えに対して、何をもって法華経誹謗とするのか、と問うている。人々はそれぞれの宗派に属しているが、それらが法華経誹謗の宗派であることを知らないのである。
この問いに対し、大聖人は、法華経を誹謗していることになるのは三大師を信じているからであると述べられる。三大師は真言及び天台真言の祖師達である。その残余の者も、念仏の祖師に依っているのであり、法華誹謗は免れない。信行の場合は第一章で述べたごとく、念仏ではないが、念仏の主張の淵源となっているところから名を挙げられたのである。
大聖人の仏法に対して、当時、多くの人が他宗を攻撃するのは間違いであると非難した。大聖人門下のなかからさえも「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと」(0961-01)と言いだす者が出たのである。
しかしそれ以前に、他宗の祖師が法華経を口をきわめて誹謗していたことは、ほとんどの人が知らなかったといってよう。四箇の格言にしても、正法たる法華経を誹謗する罪の内容に即して、無間・天魔・国賊・亡国等と破折されたのである。法華経に照らすならば、余経の一偈を用いてはならないとの法華経の金言に背いて他経を受持するだけでも阿鼻獄に入る罪を造っているのに、法華経を誹謗するに至っては、これほどの重罪はないのであり、その最大の悪の根源的存在として三大師を指摘されているのである。
1067:01~1067:11 第五章 三大師の悪を挙げるtop
| 01 問うて云く三大師 02 とは誰人ぞや、答えて曰く弘法・慈覚・智証の三大師なり、 疑つて云く此の三大師は何なる重科有るに依つて日本 03 国の一切衆生を経文の其の人の内に入るや、 答えて云く此の三大師は大小乗持戒の人・面には八万の威儀を備え或 04 は三千等之を具す顕密兼学の智者なり、 然れば則ち日本国四百余年の間・ 上一人より下万民に至るまで之を仰ぐ 05 こと日月の如く之を尊むこと世尊の如し、 猶徳の高きこと須弥にも超え 智慧の深きことは蒼海にも過ぎたるが如 06 し、 但恨むらくは法華経を大日真言経に相対して勝劣を判ずる時は 或は戯論の法と云い或は第二・第三と云い或 07 は教主を無明の辺域と名け 或は行者をば盗人と名く、 彼の大荘厳仏の末の六百四万億那由佗の四衆の如き 各各 08 の業因異りと雖も 師の苦岸等の四人と倶に同じく無間地獄に入りぬ、 又師子音王仏の末法の無量無辺の弟子等の 09 中にも貴賎の異有りと雖も同じく勝意が弟子と為るが故に一同に阿鼻大城に堕ちぬ、今日本国亦復是くの如し。 -----― 問うて云う。三大師とは誰のことか。 答えていう。弘法・慈覚・智証の三大師のことである。 疑つて云う。この三大師にどのような重大な科があって、日本国の一切衆生を譬喩品の文の「其の人」の内に入れたのか。 答えて云う。この三大師は大小乗の戒を持った人であり、八万の威儀を備え、あるいは三千の威儀等を備えた顕密兼学の智である。そうであるから、日本国のこれまでの四百余年の間、上一人から下万民に至るまで、この三大師を仰ぐことはちょうど日月のごとく、尊ぶのは世尊のごとくであった。そのうえ、徳の高いことは須弥山にも超え、智慧の深いことは青い海にも過ぎるほどであった。ただ、残念なことは法華経を大日真言経に相対して勝劣を判ずる時、法華経をあるいは「戯論の法」といい、あるいは「第二の劣」「第三の劣」といい、あるいは教主を「無明の辺域」とづけ、あるいは行者を「盗人」と名づけているのである。 かの大荘厳仏の末の六百四万億那由佗の四衆の場合は、おのおの業因は異っていたけれども師の苦岸比丘等の四人とともに同じく無間地獄に堕ちてしまった。また、師子音王仏の末法の無量無辺の弟子等のなかにも貴賎の異なりがあったけれども、同じく勝意比丘の弟子となったために一同に阿鼻大城に堕ちてしまったのである。今、日本国の人々もまた同じである。 -----― 10 去る延暦弘仁年中・伝教大師・六宗の弟子檀那等を呵責する語に云く「其の師の堕つる所・弟子亦堕つ弟子の堕 11 つる所・檀越亦堕つ金口の明説慎まざる可けんや慎まざる可けんや」等云云、 -----― 去る延暦から弘仁年間に伝教大師が南都六宗の弟子檀那等を呵責して言った言葉として守護国界章に「其の師の堕つる所、弟子亦堕つ、弟子の堕つる所、檀越亦堕つ。金口の明説慎まざる可けんや慎まざる可けしんや」等とある。 |
重科
①重い罪②重い刑罰。
―――
大小乗持戒の人
大乗と小乗の戒律を持った人のこと。
―――
八万の威儀
大乗の菩薩が守るべき多数の意義。
―――
三千
①三千大千世界のこと。②森羅三千の諸法のこと。③一念三千の三千のこと。観心本尊抄には「「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」(0238-02)とある。
―――
顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
四百余年の間
弘法が弘仁14年(0823)嵯峨天皇から東寺を与えられてから本抄執筆の弘安4年(1281)までの期間。
―――
須弥
須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
蒼海
海。大海原。
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大日真言経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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戯論の法
戯論とは、児戯に類した無益な論議・言論のことで、無益な法のこと。
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教主を無明の辺域
弘法は秘蔵宝鑰で、十住心を立て、法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理法身であるが、真言門の初門に過ぎず、明の分位である果門に対すれば無明の辺域であると下している。
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行者をば盗人
弘法の弁顕密二経論で、六波羅蜜経に真言陀羅尼を醍醐味としたものを、各宗の学者が盗用して、自宗の醍醐味にしたと批判している。
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大荘厳仏
過去久遠無量無辺不可思議阿僧祇劫の仏。仏蔵経によれば、寿命は六十八百万億歳で、六十八百億の大弟子がいた。しかし出現した大荘厳仏の滅後百年に弟子は五派に分裂した。このなかで普事比丘だけは大荘厳仏の教えを正しく守ったが、他の苦岸、薩和多、将去、跋難陀の四比丘は邪道に迷い、邪見を起こして普事比丘を迫害した。四比丘とこれに従った大衆は地獄に堕ちたという。
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六百八十万億那由佗の四衆
仏蔵経によると六百八十万億那由佗の諸人とは、大荘厳仏の弟子衆のことであり、普事比丘を迫害した在家出家の大衆は六百四万億人である。那由佗とは経典によって諸説あるが、倶舎論巻十二の説では現在の数の一千億にあたるといわれる。
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四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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苦岸等の四人
仏蔵経に出てくる苦岸、薩和多、将去、跋難陀の四人の出家者。邪見に陥った悪知識で640万億人を大阿鼻地獄に堕としたという。
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師子音王仏
師子吼鼓音王如来のこと。諸法行法経に出てくる。過去・無量・無辺・不可思議・阿僧祇劫の仏で、国は千光明、寿命は十万憶那由佗歳。国土は説き尽すことができないほど荘厳で、この国の樹木は皆、七宝からなり、空の音・無相の音などの法音を出し、これら諸法の音をもって衆生を得道させたという。師子吼鼓音王仏は三乗の法を説き、九十九億の声聞の弟子は阿羅漢を得、九十九億の菩薩は無生法忍を得た。更にこの仏の説いた法は六万歳の間、住して後、樹木の法音も絶えてしまった。また師子吼鼓音王仏の末法に喜根比丘が現れ、諸法の実相を説いたが、勝意比丘に誹謗された。しかし喜根比丘は法を貫いて成仏し、勝意比丘等は地獄に堕ちたという。
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勝意
勝意比丘のこと。諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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第五問は、第四問において挙げられた「三大師」とは誰かを問うている。それは弘法・慈覚・智証であるとの答えに対して更に第六問として、その三大師はどのような罪があることによって日本国の人々を阿鼻獄の中に入れることになったにかと問う。大聖人はそれに対して以下のように答えられている。
まず弘法・慈覚・智証は戒律を固くたもち、また顕教を学ぶなど大学者として人々に尊敬されている。しかし、法華経と大日経等の真言の経典の勝劣の比較において真言経典のほうを勝れるとする根本的な誤りを犯してしまった。その誤りによって、かつて苦岸や勝意の弟子達が阿鼻地獄に堕ちたように、三大師を信順する一切衆生も阿鼻地獄に堕することを免れないのである。
弘法・慈覚・智証はともに大師号を受けているほどであるから、人々の尊崇は大変なものであった。三人ともに入唐しており、慈覚・智証も天台教学のみならず、密経をも学んで帰国している。これを大聖人は「顕密兼学の智者」と仰せられているのである。
「日本国四百余年の間・上一人より下万民に至るまで之を仰ぐこと日月の如く」と仰せになっているのは、弘法が弘仁14年(0828)、嵯峨天皇から東寺を受け、十住心論・秘蔵宝鑰を著して真言密教を弘め始めてから400余年を経過していることをいう。
この三人の法華経誹謗については、短く触れられているだけであるが、それは曾谷教信にはすでに幾度か御教示されてきたことなので、簡単に述べられたものであろう。しかし、苦岸・勝意等と同じ無間地獄に堕すると仰せられ、その邪義により日本国全体を阿鼻獄に堕とす罪の大きさを御教示されている。ちなみに、大聖人が曾谷教信に真言の邪義を教示されている御書は、曾谷入道殿御書、曾谷入道殿許御書、曾谷殿御返事等がり、曾谷入道殿許御書にはとくに詳しく説かれている。
本抄に挙げられている邪義は以下のとおりである。
①「或は戯論の法と云い」
これは、弘法が秘蔵宝鑰巻下に「他縁以後は大乗の心なり、大乗に於いての前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり。此くの如く乗乗、自乗の仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」と述べた言葉をいわれている。これは弘法が十住心を説いたなかで、第六の他縁大乗住心以後は大乗の心であるが、その中でも第六・第七は菩薩界であり、第八・第九は仏乗であるとしたうえで、しかしこれらもたとえ仏乗といったところで、「後」すなわち第十・秘密荘厳住心に比べれば戯れの議論にすぎない、と誹謗している文である。弘法はこの十住心で天台を第八・一道無為住心としている。第九は華厳にあてている。この十住心は一往、大日経はこれらの言葉の概説があるだけで、第八が法華であるとか、第九が華厳でるなどとは全く説かれていず、あくまでも弘法の己義に過ぎない。まして、大日経は方等部・権大乗の経典であるから、この位置づけが的はずれでることはいうまでもない。この言葉をもって釈迦仏の教えを戯れだとするのは、教主を誹謗することである。
②「或は第二・第三と云い」
このなかで「第三」とは、今述べたように、弘法が十住心を立てたなかで法華経を第八とし、第十の秘密荘厳心に比べれば第三にあたるとされていることである。
「第二」とするのは、慈覚・智証の台密の論である。台密では理同事勝を説くが、これは本来、中国の善無畏の論である。善無畏は天台大師の約100年後の、インドからの渡来僧で、中国へ大日経を渡した。大日経では自己を知ることを菩提というと説き、心をもって実相とするが、大日経を釈した大日経疏で、法華経の諸法実相と比較して「彼に諸法実相と言うは即ち是れ此の経の心の実相なり、更に別理なきなり」と述べ、また「我は一切の本初なり」の文を同経疏で「本初とは即ち是れ寿量の義なり」と釈して、法華経の一念三千の理と大日経の理は同じであるとした。そのうえ、身業である印契と口業である真言は法華経にはないから、意業の理は同じでも事において大日経のほうが勝れると主張したのである。しかし、理においては同じだとする。一念三千の法理は、大日経に説かれていないのである。大日経では二乗は不成仏であり、十界互具しないから、一念三千があるわけがない。大聖人が仰せになっているとおり、これらの理は法華経から盗んだものなのであり、歴史的にみて、真言教学に天台教学が加味されていることは、事実として認められていることである。
慈覚・智証はこの善無畏の義を用いている。一往、東密では大日経を密教とし、法華経等を顕教としているのに対し、慈覚等は等しく秘密教としている点では、これと一線を画している。しかし、秘密教のなかに理秘密の教と事理俱密の教えとがあり、法華経等は理秘密であるが、大日経等の三部経は事理俱密であるとし、結局は理同義勝と同じ義に堕している。智証は法華経を完全に密教として、顕密一致を説くなど幾つかの慈覚とは異なる点もあるが、大網においては同じ見解をとっている。
③或は教主を無明の辺域と名け」
先の二つはともに「法」を誹謗したものであったが、ここでは「仏」である釈尊を誹謗している言葉を挙げておられる。これは弘法の秘蔵宝鑰の文で、十住心を説くなか、第八の一道無為住心を釈した後「是くの如く一法界一道真如の理をば究竟の仏とや為ん」との問いを設け、「是くの如くの一心は無明の辺域にして明の分位に非ず」としているのである。しかもこれは、竜樹が一法界心は中道ではないと言っているとして、竜樹の名を借りて教主釈尊を誹謗しているのである。竜樹が法華経やその教主たる釈尊を誹謗していないのは当然である。
④「或は行者をば盗人と名く」
今度は「人師」を誹謗している。弘法は弁顕密二教論の巻下で「この経文に依らば、仏五味を以って五蔵に配当して、総持をば醍醐と称し、四味をば四蔵に譬えたまえり。震旦の人師等、醍醐を争い盗んで各自宗に名づく」と述べている。六波羅密経では、契経・調伏・対法・般若・陀羅尼門の五蔵を説いたが、これを順に五味に配し、最後の陀羅尼門を醍醐味とている。したがって、真言こそ醍醐味であるのに、各宗が自宗の理を醍醐味としているのは、六波羅密経から盗んだものである、というのである。しかし、この六波羅蜜経は唐の時代、貞元4年(0788)に訳出された経である。天台大師の没年は隋の開皇17年(0597)であるから、それより200年も前のことであり、天台大師が六波羅蜜経の教えを盗めるはずがない。天台大師が法華経を醍醐味であるとしたのが根本で、六波羅蜜経を訳出する際にこの天台大師の説を用いたということさえ考えられないのである。こうしたことをもって法華経を誹謗するのは全くの的外れである。
総括していうならば、①と②で法を誹謗し、③で仏を誹謗し④で僧を誹謗していることが明らかであるから、弘法等の三大師は仏法僧の三宝を誹謗したことになるのである。
この罪がいかに大きいかを大聖人は、苦岸・勝意の例を挙げて示されている。苦岸比丘等の四比丘は正法に敵対して地獄に堕したが、その弟子檀那六百四万億も「此の四師と倶に生じ倶に死す」とあるように、同じ地獄に生じたのである。同じく勝意比丘も喜根比丘を誹謗し大地獄に堕した。勝意比丘には「諸の弟子」がいた。諸法無行経にはその弟子達が同じく地獄に堕したとは記していないが、師が地獄に堕せば弟子も地獄に堕すのは当然であり、その意を取って大聖人は「一同に阿鼻大城に堕ちぬ」と仰せられたのであろう。ともに弟子・門下が地獄に堕ちたと仰せられているのは、三大師自身の罪の大きさは当然として、その教えを信じた日本国の一切衆生もその罪を免れることはできないと教えられているのである。
そのあと、大聖人は伝教大師が守護国界章で述べた言葉を引かれているが、これは伝教大師が慈恩を破したなかで、慈恩の説を後の者は信受してはならないことを戒めたものである。この文を用いて、誤った法を説いた三大師に従っている弟子・檀那も必ず悪道に堕ちることになると厳しく戒められているのである。
1067:11~1068:04 第六章 三大師破折の所以を述べるtop
| 11 疑つて云く汝が分斉・何を以て三大 12 師を破するや、 答えて云く予は敢て彼の三大師を破せざるなり、 問うて云く汝が上の義は如何、答えて云く月氏 13 より漢土・本朝に渡る所の経論は五千七十余巻なり、 予粗之を見るに弘法・慈覚・智証に於ては世間の科は且く之 14 を置く仏法に入つては 謗法第一の人人と申すなり、 大乗を誹謗する者は箭を射るより早く 地獄に堕すとは如来 15 の金言なり将又謗法罪の深重は弘法・慈覚等・一同定め給い畢んぬ、 人の語は且く之を置く釈迦・多宝の二仏の金 16 言・虚妄ならずんば弘法・慈覚・智証に於ては定めて無間大城に入り、 十方分身の諸仏の舌堕落せずんば日本国中 17 の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生は 彼の苦岸等の弟子檀那等の如く 阿鼻地獄に堕ちて熱鉄の上に於て 18 仰ぎ臥して九百万億歳・伏臥して九百万億歳・ 左脇に臥して九百万億歳・右脇に臥して九百万億歳是くの如く熱鉄 1068 01 の上に在つて三千六百万億歳なり、 然して後・此の阿鼻より転じて他方に生れて大地獄に在りて無数百千万億那由 02 佗歳・大苦悩を受けん、 彼は小乗経を以て権大乗を破せしも罪を受くること是くの如し、況や今三大師は未顕真実 03 の経を以て三世の仏陀の本懐の説を破するのみに非ず 剰さえ一切衆生成仏の道を失う深重の罪は過・現・未来の諸 04 仏も争か之を窮むべけんや争か之を救う可けんや。 -----― 疑つて云う。汝がような分斉で何をもって三大師を破すのか。 答えて云う。予はあえてかの三大師を破しているのではない。 問うて云う。汝が先に述べた義はどういうことか。 答えて云う。インドより中国・日本に渡った経論は五千七十余巻である。日蓮がほぼこれらの経論を見ると、弘法・慈覚・智証においては、世間の科はしばらく置くとして、仏法によって見るならば謗法第一の人々であるというのである。「大乗を誹謗する者は箭を射るより早く地獄に堕す」とは如来の金言である。そしてまた謗法の罪の深重であることについては弘法・慈覚等もまた同じく定められているところである。人の言葉はしばらくこれを置くとして釈迦・多宝の二仏の金言が虚妄でないならば、弘法・慈覚・智証は必ず無間大城に入り、十方分身の諸仏の舌が堕落しないならば、日本国中の四百五十八万九千六百五十九人の一切衆生は、かの苦岸比丘等の弟子檀那等のごとく阿鼻地獄に堕ちて、熱鉄の上に仰ぎ臥して九百万億歳、伏臥して九百万億歳、左脇に臥して九百万億歳、右脇に臥して九百万億歳、このように熱鉄の上にあって三千六百万億歳を送ることになるのである。その後、この阿鼻阿鼻地獄に転じて他方の世界に生まれては大地獄に在って無数百千万億那由佗歳の間、大苦悩を受けるであろう。苦岸比丘は小乗経をもって権大乗を破っただけで、このような罪を受けたのである。いわんや今、三大師は未顕真実の経をもって三世の仏陀の本懐の説を破るのみでなく、更には一切衆生成仏の道をなくしているのである。この深重の罪は、過去・現在・未来の三世の諸仏もどうしてこれを窮められようか。どうしてこれを救うことができようか。 |
五千七十余巻
仏教経典は5048巻、または7338巻あるといわれている法華経題目抄には「像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり」(0942-16)とある。
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大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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虚妄
空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
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十方分身の諸仏
中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
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他方
他方の菩薩のこと。①他方の国土に住む菩薩。②釈尊以前の他仏に教化された菩薩。③娑婆世界以外の国土。
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小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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三世の仏陀の本懐の説
法華経のこと。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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本懐
もとより心に懐く究極の目的。
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第七問は、汝のような分斉で、三大師を破ろうとするのか、との非難である。これは、大聖人に対する当時の僧侶や民衆の感情であったろう。
それに対して大聖人は「予は敢て彼の三大師を破せざるなり」と述べられている。これは、自分の我見をもって三大師のことをとやかく言っているのでは全くないという立場を鮮明にさせるためであろうと思われる。それで破折の所以を示すまえに、わざわざ第七の問答を設けられているものと拝する。
では「汝が義は如何」と重ねて問うた第八門に対して大聖人は、仏法の経典に照らしてみれば、この三大師こそ第一の謗法の人であると指摘される。謗法という点では、念仏や禅宗も同じであるが、禅宗は仏の経典全体を月をさす指であると位置づけてはいるが、法華経を名指して誹謗するといったことはしていない。また念仏も、機根において法華経は難しすぎるとして斥けてはいるものの、教義を低く評価したりすることはしない。律宗においては、時代遅れの戒律に執着しているのみで、法華経と議論する立場には全くない。しかし、真言宗では、とくに法華経の名を挙げ、これを口に極めて愚弄し誹謗しているのであるから、正法誹謗の罪は最も重いといわざるをえない。とくに天台宗でありながら、法華経を第二と置き、真言化させてしまった慈覚・智証の罪が重いのは当然である。そのゆえに大聖人は「謗法第一の人人」と仰せられているのである。
「人の語は且く之を置く」と仰せられているのは、論師や人師においても、正法誹謗の罪の重いことは説いているが、そうした「人の語」で論議すると、彼ら三大師も「人の語」で論じられているのであり、平行線をたどることにもなる。大聖人はあくまでも「人の語」によるのではなく、仏の金言によって判ずるという立場を鮮明させるため「且く之を置く」と仰せられているのである。それは、仏の教えそのものが、「人の語」を根本に置くことを戒めているからである。
そこで仏の金言によるならば、大乗を誹謗する者は箭を射るよりも早く地獄に堕す、と説いているのである。これは先に述べられた普賢経の「諸人等(略)方等経を謗じ(略)悪道に堕すべきこと暴雨にも過ぎん。決定して当に阿鼻地獄に堕つべし」の文意をとられていたとも拝される。
法華経は、釈尊が説き、多宝如来が皆これ真実であると証明した教えである。更に、十方分身の諸仏は、如来神力品第21で舌相を梵天に至らせて仏の説法の真実を証明したのであるから、三大師を信じている日本国の一切衆生は、堕地獄は免れないと仰せである。
次に、苦岸比丘が弟子檀那が受けた苦悩を例示して、日本国の一切衆生が受ける苦しみを示されている。苦岸比丘の弟子檀那が受けた苦については、仏蔵経は大乗律を説いた経であり、我慢心にとらわれている小乗を強く弾呵している経である。苦岸比丘もその小乗の破戒比丘として呵責されている一人である。それを「彼は小乗経を以て権大乗を破せし」と仰せられているのである。今、弘法等の三大師は権大乗経である大日経を、実経である法華経に勝れているとして法華経誹謗を自ら犯し、更にその邪義を弘めて一切衆生の成仏の道を閉ざしたのであるから、その罪の重さは三世の諸仏でさえも究められないほどであり、救うこともできないと仰せられている。法華経譬喩品第三には「斯の経を謗ぜん者、若し其の罪を説かんに、劫を究むとも尽きじ」とあるとおりである。
1068:05~1068:09 第七章 法華の「第一」と諸経の「第一」を比較top
| 05 法華経の第四に云く「已説今説当説.而於其中・此法華経.最為難信難解」又云く「最在其上」並に「薬王十喩」 06 等云云、他経に於ては華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等の諸教の中に経経の勝劣之を説くと雖も或 07 は小乗経に対して此の経を第一と曰い或は真俗二諦に対して 中道を第一と曰い或は印・真言等を説くを以て第一と 08 為す、 此等の説有りと雖も全く已今当の第一に非ざるなり、 然而るに末の論師・ 人師等謬執の年積り門徒又繁 09 多なり。 -----― 法華経の第四の巻の法師品第十には「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も難信難解なり」と説かれ、また安楽行品第十四には「最も其の上に在り」と説き、並びに薬王菩薩本事品第二十三は「十喩」等が説かれている。 他経においては、華厳経・方等経・般若経・深密経・大雲経・密厳経・金光明経等の諸教の中に勝劣を説くとはいっても、あるいは小乗経に対して「此の経は第一」といい、あるいは真俗二諦に対して「中道は第一」といい、あるいは印と真言等を説くことを第一としているのである。このような説があっても、そこで言っていることは全く「已今当の第一」ではない。そうであるのに、末の論師・人師等は長年にわたって誤った教えに執着し、また多くの人々が門徒となったのである。 |
薬王十喩
薬王菩薩本事品で法華経が諸教の中ですぐれていることを十喩をもって述べた文。すなわち、諸水の中に海第一なるが如く(第一・水喩)、衆山の中に須弥山第一なるが如く(第二・山喩)、衆星の中に月天子第一なるが如く(第三・衆星喩)、日天子の諸闇を除くが如く(第四・日光喩)、諸王の中に転輪聖王第一なるが如く(第五・輪王喩)、三十三天の中に帝釈天第一なるが如く(第六・帝釈喩)、大梵天王の一切衆生の父なるが如く(第七・梵王喩)、一切凡夫の中に五仏子第一なるが如く(第八・四果辟支仏喩)、一切の無学の中に菩薩第一なるが如く(第九・菩薩喩)、仏の諸法の王なるが如く(第十・仏喩)である。
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華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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大雲
北凉の曇無識の訳。大方等夢想経のこと。中国,北涼の曇無讖によって漢訳された。大方等無想大雲経6巻の略称。国王の仏教保護を説くこの仏典には,浄光天女が王位をつぐ,という一節があった。唐の則天武后の愛人,薛懐義は,洛陽の僧法明ら9人と共同で,この経に付会した讖文をつくり,太后は弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即くべしと宣伝し,永昌元年(0689)7月にはこの経を全国にわかち,いわゆる武周革命の端緒を開いた。
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密厳(経)
3巻。中国・唐代の不空訳。大乗密厳経のこと。8品からなる。三界六道の煩悩を断じた初地以上の菩薩が生ずる国として密厳経を説き、次に如来の法性は不生不滅・清浄無垢であると観ずる境地を如来蔵とし、更には万法の唯識の所現であるとして、その万法の根源を阿頼耶識として説いている。最後に密厳国に生ずるためには阿頼耶識を悟り、如来蔵を得べきであるとして、この三者を一体のものとしている。異訳に中国・唐代の地婆訶羅の大乗密厳経3巻がある。
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金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
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真俗二諦
真諦と俗諦のこと。①真諦・絶対不変の真理。究極の真実。第一義諦。勝義諦。②俗諦・世間一般で認められる真実。世間の道理。
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中道
苦楽の二受や有無の二辺、断常の二見などの両極端に執着しない不偏にして中正の道をいう。①快楽主義と苦行主義の二つの生き方を捨てること。②竜樹の中道論では空こそ生滅・有無等の両辺を超越した諸法のありのままの姿であり、これを中道としている。③天台は空仮中の三諦・円融に基づく中道を説いた。④日蓮大聖人は一生成仏抄のなかで、次のように述べられている。「有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり」(0384-08)と。非有非無の中道の理の本体を妙法蓮華経とするのである。
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印・真言
印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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已今当
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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謬執
謬に執着すること。
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法華経は三世諸仏の本懐であり、真実の「第一」であるが、諸経で言っている「第一」は当分の第一であることを示されている。大聖人は法華経が釈尊の説いた教えのなかで最第一であることを法華経の三つの文を用いてまず教示すされる。最初の法師品第10の文は有名である。「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん、而もその中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」とある。この「難信難解」というのは、最も教理が深いということである。このなかで已今当の“当”は、これから説かれるいかなる法をくらべても、法華経が第一であるということである。
次の文は安楽行品第14である。「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」は、あらゆる経典のなかで最も上に位置するとしているのである。
薬王品の十喩は、法華経が諸経のなかで第一であることを十の譬喩で示したものである。
これらの明確な文証に対して、諸経の文は、たとえ自経が勝れていると説いているものであっても、限定された勝劣なのである。大聖人が挙げられた経典ではそれぞれの諸経の王、といったような表現がある。例えば、華厳経には「能く此の法を信ずる甚だ難しとなす」とあるが、同経は別して利根の菩薩のために説かれた教えであり、最初から限定された対告衆への説法なのである。密厳経なども初地以上の菩薩を対象にした経であり同様である。
権大乗では小乗を弾呵しているのであって、「第一」といっているのも、その脈路のなかでとらえなくてはならない。また、真諦・俗諦に対して、中道を強調するために「第一」としている場合もある。先に挙げられた諸経のなかで般若経がその例である。大智度論は大品般若経を釈して造られたものであるが、ここでは有に偏することや、逆に空に偏することを斥け、非有非空の中道の理を説いている。したがって、ここで一往般若波羅密を第一としているといっても、竜樹自身が、般若はまだ秘密の法ではないとし、二乗の成仏は法華経に至って明らかとなる、と説いているのである。
大聖人がこの例を挙げられているのは、大智度論を造ったとされる竜樹が、八宗の祖といわれ、なかんずく真言宗では、大日如来から金剛薩埵を経て竜樹に付嘱されたとして、真言宗の第三祖としている点に鑑みてであろう。
「印・真言等を説くを以て第一と為す」とは、真言の邪義をさす。この説では全く経典にない我見にすぎないのである。大聖人は、真言見聞において、印と真言があるから勝れるという考え方が偏っていると仰せられた上で「印契・真言の勝るると云う事是を以て弁え難し、羅什所訳の法華経には是を宗とせず不空三蔵の法華の儀軌には印・真言之有り、仁王経も羅什の所訳には印・真言之無し不空所訳の経には之を副えたり知んぬ是れ訳者の意楽なりと(0146-03)と述べられている。不空が著した成就妙法蓮華経瑜伽観智儀軌には法華経の真言を示し、これを成就するための法を説いている。したがって、法華経にも本来は印・真言はあったのであり、羅什訳の妙法蓮華経でこれを省略したのであると仰せになっている。仁王経にも羅什の訳には印・真言がなく、不空の訳にはあるなどの異なりがあり、羅什は、妙法蓮華経を訳出する際、印・真言を不必要なものとして省略したのである。このことは、逆に印・真言が法の内容・修行に必要ないものであることを意味しているといえよう。大聖人は同抄で「二乗は無量無辺劫の間・千二百余尊の印契真言を行ずとも法華経に値わずんば成仏す可からず」(0146-16)と、印・真言をいかに行じても、法華経にあわなければ成仏はできないと破折されている。
このように三大師の大日経第一という義は仏説に背く邪義であるにもかかわらず、後の論師・人師はこの誤った考えに執着しつづけ、多くの人がその誤りを信じてきたのである。
1068:10~1069:08 第八章 法華行者迫害の重きを示すtop
| 10 爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥よ瞋恚を懐いて是非を糺明せず唯大妄語を構えて国主・国人等を誑 11 惑し日蓮を損ぜんと欲す 衆千の難を蒙らしむるのみに非ず 両度の流罪剰え頚の座に及ぶ是なり、此等の大難忍び 12 難き事・不軽の杖木にも過ぎ将又勧持の刀杖にも越えたり、 又法師品の如きは「末代に法華経を弘通せん者は如来 13 の使なり・ 此の人を軽賎するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎたり」等云云、今日本国には提婆達多・ 14 大慢婆羅門等が如く無間地獄に堕つ可き罪人・ 国中・三千五百八十七里の間に満つる所の四十五億八万九千六百五 15 十九人の衆生之れ有り、 彼の提婆・ 大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽 16 罪中の軽罪なり、問う其の理如何、 答う彼等は悪人為りと雖も 全く法華を誹謗する者には非ざるなり又提婆達多 17 は 恒河第二の人 第二に一闡提なり、 今日本国四十五億八万九千六百五十九人は 皆恒河第一の罪人なり 然れ 18 ば則ち提婆が三逆罪は軽毛の如し 日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は 猶大石の如し定めて梵釈も日本国を捨て 1069 01 同生同名も国中の人を離れ天照太神・八幡大菩薩も争か此の国を守護せん。 -----― このようなときに、日蓮はかの依経に成仏の道がないことを責めたので、いよいよ瞋恚を懐いて、その是非を糺明しないで、ただ大妄語を構えて国主・国人等を誑惑して日蓮を損じようとしたのである。そして多くの難を蒙むらせただけでなく、伊豆と佐渡の二度の流罪と、あまつたえ竜の口の頚の座におよんだのがこれである。これらの大難の忍び難いことは、不軽菩薩の杖木にも過ぎ、はたまた勧持品の刀杖の難にも超えている。 また法師品第十には「末代に法華経を弘通する者は如来の使いである。この人を軽賎する者の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎている」等と説かれている。 今、日本国には提婆達多・大慢婆羅門等のように無間地獄に堕ちることになっている罪人が三千五百八十七里の国中に四百五十八万九千六百五十九人もいるのである。かの提婆・大慢等の無極の重罪もこの日本国の四百五十八万九千六百五十九人の罪に対するならば、軽罪中の軽罪である。 問うて云う。それはどうゆう道理によるのであろうか。 答えて言う。彼等は悪人であるといっても、全く法華を誹謗した者ではないのである。また、提婆達多は恒河第二の人である。第二の一闡提なのである。今、日本国の四百五十八万九千六百五十九人は皆、恒河第一の罪人である。したがって、提婆が三逆罪は軽毛のようなものであり、日本国の上に挙げたところの人々の重罪は大石のようなものである。梵天・帝釈も日本国を捨て、同生天・同名天も国中の人々の肩を離れることは間違いないであろう。天照太神・八幡大菩薩もどうしてこの国を守護するであろうか。 -----― 02 去る治承等の八十一.二.三・四.五代の五人の大王と頼朝.義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり、 03 猶鷹駿と金鳥との勝負の如くなれば天子・ 頼朝等に勝たんこと必定なり決定なり、 然りと雖も五人の大王は負け 04 畢んぬ兎・師子王に勝ちしなり、 負くるのみに非ず剰え或は蒼海に沈み或は島島に放たれ、 誹謗法華未だ年歳を 05 積まざる時・猶以て是くの如し、 今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、 其の故は粗之を見るに蒙古 06 の牒状已前に去る正嘉・文永等の大地震・ 大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日 07 蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、 此の国の人人・ 今生には一同に修羅道に堕し後生には皆 08 阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。 -----― 治承等の代に、八十一代・八十二代、八十三代、八十四代、八十五代の五人の大王と源頼朝・北条義時とがこの国を争った。それは天子と民との合戦であった。けだし鷹駿と金鳥との勝負のようなものであったから、天子が頼朝等に勝つことは間違いないはずであった。しかし、五人の大王は負けてしまったのである。兎が師子王に勝ったようなものである。それも、ただ負けただけではなく、あるいは蒼海に沈み、あるいは島々に流されたのであった。法華経誹謗の年月がそれほどに積もらない時ですらこのようなものであった。今度はそのときの比ではない。彼はただ国の中での災いだけであった。そのわけをあらかた考えるに、蒙古国の牒状以前に、正嘉・文永等の大地震・大彗星の瑞相を見ることによって再三奏上していたが、国主はあえて用いることをしなかった。しかし、日蓮の勘文がほぼ仏意にかなうかのゆえに、蒙古国との合戦が既に起こっている。この国の人々は今生には一同に修羅道に堕ち、後生には皆、阿鼻大城に入ること疑いないのである。 |
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
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妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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誑惑
たぶらかすこと。
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両度の流罪
①伊豆流罪。弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。
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頚の座
竜口法難のこと。文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が相模国竜口(神奈川県藤沢市片瀬)で斬首刑に処せられようとした法難。発端は、大聖人との祈雨に敗れた極楽寺良観が幕府の要人や女房達にとりいって画策したことに始まる。これを受けて内管領で侍所所司でもあった平左衛門尉頼綱は武装した多数の兵を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲って大聖人を捕らえた。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。身柄は一時、北条宣時の邸に預けられたが、何の取り調べもなく深夜、竜の口の刑場に連れ出された。刑吏が大聖人の頸を斬ろうとした時、巨大な光り物が上空を横切り、武士達は驚き怖れ、刀を捨てて逃げ伏し、ついに処刑は行われなかったのである。この法難の模様については「種種御振舞御書」に詳しい。
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不軽の杖木
不軽菩薩は法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
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勧持の刀杖
法華経勧持品第13に「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらん」とある。
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一中劫
20小劫のこと。
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提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
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一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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恒河第一の罪人
涅槃経に説かれる「生死の河」を渡る人々を7種類に分けたものの第一。涅槃経32ではは入水即沒・36では常没。この衆生は、生死の河に溺れて沈んでしまい、浮かび上がることができない。妙法を信ずる心がなく、正法正義に背くゆえに生死の迷いや苦しみに沈没せざるを得ない。
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提婆が三逆罪
提婆達多が犯した五逆罪のうちの三つ。破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢をいう。
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梵釈
大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
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同生同名
倶生神のこと。人が生まれた時に倶に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行為を記して閻魔王に報告するとう同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によって倶生神を一人といい、男女の二人にするなど一様ではない。薬師瑠璃光如来本願功徳経に「諸の有情には倶生神有って、其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之れを書して、ことごとく持して琰魔法王に授与す。その時、彼の王は其の人に推問して所作を算計し、其の罪福に随って之れを処断す」とある。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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頼朝
(1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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義時
北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
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天子
天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
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鷹駿
優れた鷹のこと。
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金鳥
雉のこと。金色の羽毛があることから、この名がある。
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蒼海に沈み
第81代安徳天皇が壇ノ浦の合戦で源義経の軍に破れ、海中に沈んだこと。
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島島に放たれ
承久の乱で敗北した朝廷方は第82代後鳥羽天皇は隠岐・83代土御門天皇は土佐・84代順徳天皇は佐渡に流罪されたこと。
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蒙古
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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牒状
まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
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再三之を奏す
三度の高名のこと。「撰時抄」(287㌻)に説かれる。日蓮大聖人が3度の国主諫暁をされた際に難が起きることを予言され、それが後に現実のものとなり、大聖人の正しさが示されたこと。①文応元年(1260年)7月16日、時の最高権力者・北条時頼に「立正安国論」を提出し、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言したこと。②文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難において不当に捕縛された際、平左衛門尉頼綱を厳しく諫め、同じく二難を予言したこと。③文永11年(1274年)4月8日、佐渡流罪を赦免されて鎌倉に帰られ、幕府要人から諮問を受けた際に再度、頼綱を諫め、蒙古襲来が近いと予言したこと。
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勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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修羅道
阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。
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後生
未来世。後の世のこと。また未来世に生を受けること。三世のひとつ。
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大聖人が、諸宗の依経には成仏の法はないと指摘し破折されたのに対し、諸宗の僧等は、ますます瞋恚をいだき、仏法に無知な「国主・国人」をそそのかして大聖人に迫害を加えた。その難は「不軽の杖木」「勧持の刀杖」にも過ぎたものであると仰せられている。
次に、一劫の間、仏を誹謗することと、法華経を読誦する者を「一の悪言」でも誹謗した場合とを比較して、なお法華経を受持する者を誹謗するほうが罪が重いと説いた法師品の文を取意して挙げられている。原文のほうが厳しい表現である。
しかも、たった一回でなく「多年」のわたり誹謗し、更に、単なる悪言にとどまらず「流罪・死罪」に及んだのであるから、その罪は計り知れない。その罪を、釈尊の時代に誹謗の限りを尽くした提婆達多、滅後、釈尊を蔑如した大慢婆羅門の「無極の重罪」と比較し、彼らはまだ、「軽罪の中の軽罪」であると仰せられているのである。
その理由はなぜかということについて、提婆達多は法華経を誹謗しなかったが、日本国の人々は法華経を誹謗していること、また、提婆達多は涅槃経に説く恒河第二の人であるが、日本国の人々は恒河第一の人であることを指摘されている。
提婆達多は釈尊に敵対したが、法華経が説かれる以前に三逆罪のために生きながら地獄に堕ちたとされ、法華経説法の時は、この世にいないのであるあら、法華経誹謗にあたるはずがない。
恒河第一・第二の者という点については、涅槃経に、師子吼菩薩が仏に、一切衆生に仏性があるのに涅槃を得られない者があるのはどういうわけかと問うたのに対し、恒河に入った七種の衆生の譬喩をとおして機根の差を説く。恒河第一の衆生とは入水則没である。第二は出已復没の衆生である。恒河第一の衆生はまた常に没しているので常没ともいう。
恒河は生死の河をたとえており、第一の入水則没とは、生死の苦に埋没して浮かぶことを知らない衆生をさしている。涅槃経では、この第一の衆生を一闡提であると説いている。もともと善根もなく、ただ悪知識に縁して地獄に入るのである。
第二の衆生が恒河に入っていったん浮かぶとうのは、その衆生の善根による。例えば、人がもともと体の力が強く、泳ぎを知らなくても、本能的にいったんは浮かび上がるようなものである。しかし、泳ぎを知らない、すなわち生死を超えることを知らないゆえに、その後沈んでからは。もう浮かぶことができない。それが第二の衆生である。その善根とは善知識に縁して法を受持し読誦し書写する等の修行をすることであるが、鈍根のゆえにまた悪知識に縁して邪法におもむいて没してしまうのである。この第二の衆生も一闡提である。涅槃経には「第二の人は、意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、利根を断ずるが故に没して出づること能わず」とあり、断善根は一闡提である。慧心都源信の一乗要決では恒河第二の衆生に提婆達多・瞿伽利・善星比丘・満宿・広野比丘等を挙げており、大聖人は最蓮房御書で「第一は誹謗正法の一闡提常没の大魚と名けたり、第二は又常没其の第二の人を出ださば提婆達多・瞿伽梨・善星等なり、此れは誹謗五逆の人人なり」(1433-05)と仰せられている。
すなわち、恒河第一の衆生と恒河第二の衆生の違いは、いったん水面の上に出るかどうか。つまり善根を積むかどうかである。提婆達多は釈尊の弟子であり、仏道修行をしているから第二の衆生なのである。更に、大聖人は第一の衆生を「誹謗正法の一闡提」といわれ、第二の衆生を「誹謗五逆」の人であると仰せられている。第一の衆生は「法華経」に対する誹謗の人である。それに対して、第二の衆生は仏に敵対したりする五逆における誹謗であり、いわば「人」に対する誹謗といえよう。五逆と正法誹謗では誹謗正法のほうが罪が重いのは当然である。
これらの意を総合して、大聖人は、提婆の三逆罪と日本国の人々の罪とでは「軽毛」と「大石」の如き違いがあると断じられている。提婆達多が、仏身から血を出し、阿羅漢を殺し、和合僧を破したという罪も、末法の御本仏・日蓮大聖人を誹謗する罪からみれば、比較にならない軽罪なのである。
そのような重罪を侵した結果。日本国を守護すべき諸天善神も国を捨て去るのであり、それがこの未曾有の国難を喚起していると、仰せである。なお、諸天善神を挙げられるなかで、同生同名天が挙げられているが、この天は華厳経や十王経等では、人の両肩にあって、その行動の善悪を記録し閻魔王に報告する天とされており、薬師経等で説く俱生神と同一視されているが、摩訶止観、同弘決では人を守護する神として説かれている。ここでは守護の意味から同生同名をあげられていると拝される。
「去る治承等の81・2・3・4・5代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて」以下は、真言の邪法によって祈ったために、諸天善神の加護を失った例として挙げられている。治承年間の高倉天皇は即位したところが平清盛の全盛時代で、天皇とは名ばかりになり、中宮に清盛の娘、徳子を迎えている。その第一皇子・81代の安徳天皇は源平の合戦で破れた平氏とともに壇の浦に沈み、高倉天皇の第4皇子・第82代天皇であった後鳥羽院上皇は政権の奪回を図って北条義時追討令を下したが、破れて隠岐に流された。同じ承久の乱で、83代天皇の土御門上皇は阿波へ、84代天皇の順徳上皇は佐渡流罪になっている。85代仲恭天皇もまた、承久の乱の結果、在位わずか70余日で譲位させられている。
これらはすべて朝廷方と幕府方との争いの結果である。天皇に対し、源氏や北条氏は武士である。「天子と民との合戦」は本来からいえばタカとキジが戦うようなもので、天子の側が必ず勝つべきはずであるのに、5人の天皇が負けてしまったのは、あたかも師子が兎に負けたようなものであった。しかもただ負けたばかりではない。天皇の身でありながら、海に沈んだり、島へ流されたりしたのである。
これらの前例に比べ、今回は多年にわたり法華経誹謗を重ねてきているのだから、はるかに大きい災いが起こってもなんら不思議ではない。それは単なる一国の中での小さな災いではなく、国自体が危うくなるほどのものなのである。そのことは正嘉の大地震、文永の大彗星に瑞相として顕れており、国難が必ず起こると、蒙古の牃状が来る以前に再三諌暁されたのに、国主等は一向に信用しなかったのでる。
文応元年(1260)に上呈された立正安国論は安国論奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-02)と仰せになっていることから、立正安国論は正嘉の大地震を見てしたためられたことがわかる。また、文永5年の(1269)の安国論御勘由来には「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、 此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり」(0034-18)と、文永元年(1264)の大彗星について触れておられる。
大聖人は諌暁を用いなかったために、この元冦がおこったのであり、日本国の衆生はそれによって今生には蒙古との戦争という修羅道に堕して苦しむにとどまらず、後生は正法誹謗の因によって阿鼻地獄というもっとも大きな苦を受けなければならないと仰せになっている。
1069:09~1069:12 第九章 師壇の縁を説き励ますtop
| 09 爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に 此の難に値わんと欲するか感涙 10 押え難し、 何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、 設い身は此の難に値うとも心は仏 11 心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん、恐恐謹言。 12 弘安四年閏七月一日 日蓮花押 13 曾谷二郎入道殿御返事 -----― 思えば貴辺と日蓮とは師檀の一分である。しかしそうではあるが、有漏の依身は国主に随うものであるがゆえに、貴辺もこの蒙古襲来の難に値おうとしているのか。 その貴辺の立場を思うと感涙を押さえることができない。いずれの代に対面をとげることができるであろうか。ただ一心に霊山浄土に往くことを期されるべきであろう。たとえ身はこの難に値つたとしても、貴辺の心は仏心と同じである。今生は修羅道に交わったとしても後生は必ず仏国に居住するであろう。恐恐謹言。 弘安四年閏七月一日 日蓮花押 曾谷二郎入道殿御返事 |
師檀
師匠と在家の弟子のこと。
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有漏の依身
煩悩の所依とする凡夫の肉身のこと。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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仏国
仏の住む国土。寂光土。
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最後に大聖人と曾谷教信の師檀の縁を説いて信心を励ましておられる。曾谷教信は文応元年(1260)ごろに入信とされているから、この時点ですでに20年以上の信仰を続けてきたことになる。そして、大聖人を支える檀那として重要な存在であった。
このような師檀の関係をもつ大聖人と曾谷教信であったが、教信は幕府に仕える武士の身であるから、このような国難があると、それに従わなくてはならない。
このことについて大聖人が「感涙押え難し」と仰せられているのは、国主に従わなければならない身を嘆いていた教信に対して、こうした苦しみにあうことによって、深い罪業を消滅させることができるという意からであろうと拝される。
「何れの代にか対面を遂げんや」と仰せられているのは、曾谷教信にとって、戦争に赴くより、大聖人と今生に別れるはめでもなければ、これほど残念なことはなかったであろう。
まして、この時期は大聖人御自身、この12月に著された上野殿母尼御前御返事に「今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ」(1583-04)と仰せのように、体が衰弱しておられる状況であった。
同じく弘安4年(1281)10月、富木上人にあてられたお手紙で、7月ごろ幾度かお手紙をいただいたが、病気のために返事も書けなかったと仰せになっている。しかし、曾谷教信が戦地に赴くかもしれないことを知られてこの手紙をしたためられたと考えられる。
大聖人はご自身の病気のことなどおくびにも出さず、ただひたすら霊山浄土を期していくよう御指南されている。
蒙古の襲来は日本国にとって末曾有の大難である。文永の役の時、いったんは引き揚げていったものの、日本側は蒙古の強さ、恐ろしさを身にしみて知ったのである。今回の襲来を迎え撃つにあたっては、当然、死を覚悟しなければならない。「今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」との御文は、先の「此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん」と対比して仰せられたのである。一国謗法のゆえに、正法を受持していようといまいと、修羅道は免れない。
人々の修羅道はそれが因となってまた阿鼻地獄に堕さなければならない輪廻の修羅道である。しかし、正法を受持した場合は、修羅道を経ることによって宿業を断ち切り、「仏国」に生ずることができるのである。
1070~1071 秋元殿御返事(五節供御書)top
1070:11~1070:13 第一章 五節句の正意を述べるtop
| 1070 秋元殿御返事 文永八年正月 五十歳御作 於安房保田 01 御文委く承り候い畢んぬ、御文に云く末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人 02 の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・ 聴聞申して御弟子の一分に定まり候、 殊に五節供はいかなる 03 由来・何なる所表・何を以て正意として・まつり候べく候や云云、 夫れ此の事は日蓮委く知る事なし、然りと雖も 04 粗意得て候、根本大師の御相承ありげに候、 総じて真言天台両宗の習なり、 委くは曾谷殿へ申候次での御時は御 05 談合あるべきか、 先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、 正月は妙の一字のまつり天照 06 太神を歳の神とす、 三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、 五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以 07 て神とす、 七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、 九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの 08 如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ 現世安穏後生善処疑なかるべし、 法華経の行者をば一切の諸天・不退 09 に守護すべき経文分明なり、 経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に 而も之を衛護す」云云、又云く「天 10 の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、 諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり、 11 法とは法華経なり、 童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり、 「臨兵闘者皆陳列在前」是又「刀杖不加」の四 12 字なり、此等は随分の相伝なり能く能く案じ給うべし、 第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」 13 云云、五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ、委細は又又申す可く候。 -----― 御手紙を詳しく拝見しました。お手紙には末法の始めの五百年には、どのような法を弘めたらよいのかと思っておりましたが、聖人の仰を承ったところ、法華経の題目に限って弘めるべきであると聴聞して、御弟子の一分となりました。さて五節供はどのような由来で、どのようなことを表わしているのか、何を正意として祭るべきなのでしょうか、と記されていました。 この事は日蓮は委しい事は知らない。しかしながらおよそは心得ている。これについては、伝教大師の御相承があるようである。総じては真言宗・天台宗の習いである。詳しくは曾谷殿へ申しておいたので、ついでの時にお聞きください。 まず五節供の次第を考えると、妙法蓮華経の五字の次第の祭りである。正月は妙の一字の祭りで天照太神を歳の神とする、 三月三日は法の一字の祭りであり、辰をもって神とする、 五月五日は蓮の一字の祭りで、午をもって神とする、七月七日は華の一字の祭りで申をもって神とする、九月九日は経の一字の祭りで、戌をもって神とする。このように心得て南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。現世は安穏であり後生は善処に生まれることは疑いないことである。 法華経の行者を一切の諸天が不退に守護することは経文に明らかである。法華経の第五の巻には「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに法華経の行者を守護する」と説かれている。また 故に「天の諸々の童子が給使をし、刀杖を加えることができず、毒をもってしても害することはできない」と説かれている。諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等である。法とは法華経である。童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等である。「兵闘に臨む者は、皆陳列して前に在り」の呪も「刀杖を加えず」の四字にあたるのである。これらは大切な相伝であるので、よくよく思案すべきである。法華経第六の巻に「一切世間の治生産業は皆実相と違背しない」と説かれている。したがって五節供の時もただ南無妙法蓮華経と唱へて所願を成就していきなさい。委細はまたまた申し上げる。 |
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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五節供
季節ごとの食物を神に供えて,節日を祝う儀式。五節会が朝廷の儀式であるのに対し,公家以下庶民の行事であった。1月7日の人日(七草の節句)、3月3日の上巳(桃の節句)、5月5日の端午(菖蒲の節句)、7月7日の七夕(棚機)、9月9日の重陽(菊の節句)の5回である。鎌倉時代頃からは朝廷でも行われるようになり,江戸時代には幕府により式日として定められ,「節句」の字を用いた。
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根本大師
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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曾谷殿
(1224~1291)曾谷二郎兵衛教信のこと。曾谷二郎入道・教信ともいう。日蓮大聖人御在世当時の信者。下総国葛飾郡曾谷(千葉県市川市曾谷)に住んでいた。文応元年(1260)ころに大聖人に帰依し、後に出家・法蓮日礼の法号を授かっている。安国寺・法蓮寺を建立している。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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現世安穏後生善処
法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四大天王
帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する
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七曜
太陽,月と水星,金星,火星,木星,土星の七つの天体のこと。また日曜から土曜までの週日の総称。上記七つの天体の位置を示す七曜暦を作ることは《延喜式》に規定されていた。また東洋の星座である二十八宿と結びつけ日の吉凶を判断するために,七曜は今のような週日制のためではなく暦注として9世紀に導入された。藤原道長の日記には曜日がつけられている。そのころの具注暦には日曜のことを密または蜜と注している場合がある。
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二十八宿
日月や五星の位置および運動をあらわすために、黄道および赤道付近の周天に、その標準として立てられた28の星宿。五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。各星宿の標準としてとった星を距星というが、各距星の間隔は等しくない。古代中国においては、この二十八宿に関連して部位を示すために、東西南北の四宮・四陸にわけ、これを四獣に配し、さらに二十八宿に配した。この関連性を爾雅・左伝・国語・史記などによって示すと、次のようになる。
東宮――東陸――蒼竜――角 亢 氐 房 心 尾 箕
北宮――北陸――玄武――斗 牛 女 虚 危 室 壁
西宮――西陸――白虎――奎 婁 胃 昴 畢 觜 参
南宮――南陸――朱雀――井 鬼 柳 星 張 翼 軫
―――
摩利支天
梵語マリーチ(M arīcī)の音写で、威光・陽炎と訳す。常に日天に従って自在の神力をもっているという女神である。その像は、左手に扇をもっている。この神に念ずると、災をまぬかれ、身をかくす術が得られるとされ、武士の守護神として尊崇された。
―――
「臨兵闘者皆陣列在前」
「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」と読む。「抱朴子」には「兵闘に臨む者は皆陣列して前に行く」とある。本来、道教で、異変、災禍をのがれることができる呪として用いた文であるが、ひろく当時の日本でも武士の間で用いられていた。
―――
治生産業
世間の日常生活のすべてのこと。治生は生活の方途を立てることをいう。
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実相
ありのままの姿。
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本抄は文永8年(1271)正月11日、日蓮大聖人が51歳の御時、安房国保田から、下総国印旛郡の秋元太郎兵衛尉に与えられたお手紙である。御真筆は現存しない。
秋元殿については詳細は不明であるが、文応元年(1260)に、日蓮大聖人が松葉ヶ谷の法難を避けて下総中山に行かれた時、化導され入信したと伝えられている。
正応4年(1291)9月17日に逝去し、その邸は秋本寺となった。同じ下総葛城郡に住んでいた曾谷殿や太田殿と親しく、富木殿とは親類であったともいわれる。本抄のほかに弘安3年(1280)正月御述作の秋元御書を賜わっている。
内容は、秋元殿が日蓮大聖人に書状をもって、五節供の意義をお尋ねしたのに対し、その意義を述べられ、それらの祭りもすべて南無妙法蓮華経を中心に行えば、現世安穏・後生善処は疑いないと説かれている。そして、その証拠として、法華経の行者には諸天善神の加護があることを述べられている。
秋元殿が「末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に」と記していることに対し、師弟の契りは三世にわたるものであるから、今世において法華経を護持すれば、来世も必ず仏に値い、法華経を聞くことができると述べられ、一層信心に励むよう勧められている。
本抄は内容に即して、別名を「五節供抄」「佳節供抄」「佳節抄」とも称される。
五節供の由来と意義
秋元殿が日蓮大聖人に差し上げたところ、「末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に定まり候」と、入信の動機と決意を述べ、その信心の立場から五節供についてどう考え、対処すべきかについて尋ねている。
これに対して大聖人は「委く知る事なし、然りと雖も粗意得て候」と前置きされて、一往、その由来に関しては伝教大師の相承があることを述べられたあと「五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり」と説かれている。
五節供とは、一年のうちにある五つの節供のことである。節供は佳節の供御の意で、古くは「せちく」と読み、「せく」とも言った。「節句」とも書く。
元来は季節による特定の日を祝って神に供える食物のことであったが、後に日そのものをさすようになった。正月7日(人日)・3月3日(上已)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)をいう。
中国唐代に定着し、それが平安時代、第59代宇多天皇の時に日本に伝えられ、大聖人の時代にはかなり広く行われていたのであろう。その後、江戸時代になると、正月7日を七草の節供・3月3日を桃の節供・5月5日を菖蒲の節供・7月7日を笹の節供・9月9日を菊の節供というようになった。
日蓮大聖人は、この五節供を妙法蓮華経の5字に配されて、その意義を「正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし」と示されている。
五節供の正意は妙法蓮華経を根本とした祭りであり、ゆえに五節供のお祝いも御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることこそ、本当に五節供を祝ったことになり、経文に説かれる「現世安穏後生善処」は疑いないと御教示されている。
もとより五節供の起こりは、邪気をはらって健康で長生きしたいという幸福生活の願望から始まったことであるから、妙法受持を根本としたとき、その目的はかなえられるのである。
したがって、桃の節供に雛壇を設け、雛人形を飾って女児の成長を祝い、端午の節供に鯉幟を立てて男児の成長を祝うなど、民間の習慣に従うことはあったとしても、私どもはあくまでも、御本尊を根本に、妙法の一分の行事として家族で唱題し、我が子の健やかな成長を祈念していきたいものである。
なお「現世安穏後生善処」とは、法華経薬草喩品第五の文で「現世安穏にして後に善処に生ず」と読む。
妙法を聞いて信ずる人は、現世では安穏な境涯となり、未来世には必ず善い処に生まれることができるとの意で、妙法を信受した人々の現当二世にわたる福徳を表わし、妙法の功徳力を示したものである。
いうまでもなく最高究極の善処とは仏界のことであり、後生善処とは成仏の境涯へ入ることをいうのである
天台大師の法華文句記巻七上には「現世安穏後生善処とは、即ち是れ報因に報果を感ず」とあり、現世に妙法の信仰に励む因によって現世の安穏と後生善処という報果を得るのであるとしている。
御講聞書には「所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり」(0825-一現世安穏後生善処の事-07)とあり、一歩進めての弘教の功徳を強調されている。
「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」
続いて「現世安穏後生善処」の証拠の文として、諸天善神が法華経の行者を不断に守護するとの文を挙げられている。
すなわち「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害すること能わず」と。法華経第五安楽行品第十四の文を示されている。
そして「諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり」と仰せられている。
法華経序品第一には、梵天・帝釈をはじめとする一切の諸天善人が釈尊の説法を聞くために集まった様子が説かれ、安楽行品第十四でこれらの諸天善神が法華経の行者を常に守護すると誓ったことが説かれている。
また「常に法の為の故に」の「法」については「法とは法華経なり」と仰せられ、法華経を受持している人をこそ、諸天が守ることを示されている。
このことについては御義口伝に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(0750―第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事)、また諌暁八幡抄に「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり」(0588-14)と述べられている。
童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり
更に「天の諸の童子以て給使を為し」の「童子」について「童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり」と説かれている。
摩利支天等のもろもろの童子が法華経の行者に仕え、守護するから、刀杖を加えることもできず、毒をもって害することもできないという意味である。
七曜・二十八宿・摩利支天について、日蓮大聖人は大日天子・大月天子について記された「日月の事」で、大日天子の乗物である乗輅車を挙げ、次のように図示されている。
┌ 麻利支天女
乗輅車┼九曜
└七曜(0559-01)
輅車とは、一般に王族など高貴の者が乗る車で、四条金吾釈迦仏供養事には「其の中に大日天子居し給ふ、勝無勝と申して二人の后あり左右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天女まします・七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う」(1145-12)とあり、妙法を受持する一切衆生を守護・利益する働きの一つとして「七曜」と「摩利支天」が示されている。
また同じ「日月の事」には、
┌二十八宿
大月天┼乗鵞
└十二宮(0559-04)
とあり「二十八宿」を大月天子に連なる働きとされている。
七曜の曜とは照り輝く意で、太陽と月に、火星・水星・木星・金星・土星の五星を加えたものをいう。
二十八宿とは、古代インドや中国で用いられた天文説において黄道並びに赤道付近の周天にその標準として立てられた28種の宿星のことで、二十八宿経、宿曜経などに説かれている。
宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。
摩利支天は、本来は日光を神格化したもので、そこから、常に日天子の前にあり、隠身の神通力があって、その姿が見えないので、縛られず、捕えられず、よく敵を破る神とされたのであろう。
日本では、武士の間で護身・得財・勝利を祈る守り本尊として信仰され、その修行法を摩利支天法といった。
大聖人はこうした当時の風習を用いて諸天善神の一つとされて、四条金吾殿御返事に「日天の前に摩利支天まします、日天・法華経の行者を守護し給はんに所従の摩利支天尊すて給うべしや、序品の時・名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王・与其眷属・万天子倶と列座し給ふ、まりし天は三万天子の内なるべし、もし内になくば地獄にこそおはしまさんずれ、今度の大事は此の天のまほりに非ずや、彼の天は剣形を貴辺にあたへ此へ下りぬ、此の日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず、まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う」(1192-05)と述べられたのである。
ところで「諸天善神に守られる」というと、人間の生命の外に超越的な力があって、それが守ってくれるように思いがちである。
しかし、諸天善神は我々の生命を離れた存在ではなく、御本尊の中に諸天善神がしたためられているように、あくまでも宇宙・生命を貫く南無妙法蓮華経の一分なのである。
日蓮大聖人は治病大小権実違目で「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と仰せである。
ここで元品の法性とは仏界を顕現している悟りの状態であり、反対に、九界・六道の苦悩をもたらす根本の迷いが元品の無明である。
我々の一念に仏界が顕現しているときは、すべての事象が梵天・帝釈等の善神としての働きになるのであり、逆に悪縁にあって元品の無明に覆われているときは、第六天の魔王と顕われて生命を破壊する働きとなっていくのである。
ちなみに、梵天の「梵」とは、清浄と訳され、帝釈の「帝」とは主、「釈」とは有力・勇決の義である。ゆえに梵天・帝釈は清浄無垢で、なにものにも侵されないという力強い妙法の働きといえる。
「臨兵闘者皆陳列在前」
「臨兵闘者皆陳列在前」は「兵闘に臨む者、皆陳列して前に在り」と読み、抱朴子に「兵闘に臨む者は、皆陳列して前に行く」とある。
中国の道家・兵家の一種の呪文で、漢字が九字並ぶところから「九字護身法」といわれ、「六甲秘呪」ともいわれる。この一句を唱えながら、指で四本・横五本の線を描けば、あらゆる災難・災いを未然に防ぐことができ、安全でいられるという。
後に日本に伝来して修験道で用いられるようになり、鎌倉時代には広く武士の間で用いられた。秋元殿も武士であり、当然、深い関心を寄せていたと推される。
日蓮大聖人はこうした世間の慣習を取り上げ、この文も、本源は正法を持つ人を諸天善神が陣列を敷いて守護するということであって、法華経の信を根本としたときに実義があらわれると説かれ、安楽行品の「刀杖不可」と同じであると述べられている。
その根拠として「第六に云く『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』云云」と。法華経第六法師功徳品第十九の文を示されている。
これは同品に「諸の所説の法、その義趣に随って、皆実相と相違背せじ、若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのを、天台大師が法華玄義巻一上で釈して述べた言葉であるが、大聖人は、法華経全体の文とされたものと思われる。
「治世産業」とは、政治・経済・教育・文化など社会において行なわれている、あらゆる営みをさす。「治生」は生活の方途を立てることをいい、「実相」とは、諸法実相抄に「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり」(1359-03)と仰せのように、妙法をさす。
したがって、社会のすべての営みが南無妙法蓮華経の一法に含まれ、また、その義から発していることから「臨兵闘者皆陳列在前」の道家・兵家も妙法から出たものとしてとらえることができるのである。
おなじことは、四条金吾殿御返事にも「此の日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず、まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う、「臨兵闘者皆陣列在前」の文も法華経より出でたり、「若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法」とは是なり」(1192-09)と仰せである。
結論として、五節供は妙法蓮華経の五字の祭りであるから、御本尊を根本として初めて祝う意義も生きてくるのであり、くれぐれも南無妙法蓮華経と唱えて「悉地成就」すなわち成仏を目指すよう激励されている。
1070:14~1071:05 第二章 師壇の深縁を教え信心を励ますtop
| 14 次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、 師檀となる事は三世の 15 契り種熟脱の三益別に人を求めんや、 「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば 速かに菩提の道を 1071 01 得ん是の師に随順して学ばば 恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、 提婆品に云ふ 「所生の処常に 02 此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、 其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男 03 子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。 04 正 月 十 一 日 日蓮花押 05 秋元殿御返事 安房の国ほたより出す -----― 次に、法華経は末法の始めの五百年に広まることになっていると聴聞して御弟子となったと仰せられていることについていえば、師となり檀那となることは三世の契りである。種熟脱の三益の法理も別の人に求めてはならない。「在在諸の仏土常に師と倶に生まれる。もし法師に親近するならば、速やかに菩提の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒河の沙のほどの仏を見ることができる」との金言が違うはずがない。提婆品にある「生まれる処で常にこの法華経を聞く」の人は、どうして貴辺でないことがあろうか。そのゆえは、この前の文に「未来世の中に、若し善男子・善女人あって」と説かれているからである。善男子とは法華経を持つ俗人のことである。ますます信心に励んでいきなさい。信心に励んでいきなさい。恐恐謹言。 正 月 十 一 日 日蓮花押 秋元殿御返事 安房の国ほたより出す |
三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
―――
種熟脱の三益
仏が衆生の心田に成仏の種を蒔いてから解脱するまでの順序を3つに分類したもの。①種 - 下種益のこと。成仏得道の種を衆生の心田に蒔いて下すこと。最初に仏法と結縁させること。②熟 - 調熟益・成熟益のこと。蒔かれた種を熟し調えること。種々の手段を講じて修行の功があらわれてくること。③脱 - 解脱益のこと。熟した仏の種から茎が伸び成熟して開花するように、修行を完全にして円満なる証果を得て成仏すること。秋元御書には「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)、観心本尊抄には「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)、曾谷殿御返事には「仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056-15)とあり、さらに御義口伝には「当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法今日においては妙法五字の文底下種をうけて直達正観し、成仏することができるのである。
―――
提婆品
妙法蓮華経提婆達多品第12のこと。法師品と見宝塔品が功徳の深重をあげて流通を勧めたのに対し、かつての提婆の弘教と、釈尊の成道の両方を兼ね益した前例を引いて、功徳の深重を証し、流通を勧めるのである。まず前段に国王と阿私仙人の昔話をあげ、釈尊が「果を採り、水を汲み薪を拾い食を設けて」千年間給仕するところの苦行のありさまを説いている。その阿私仙人とは提婆達多のことであり、この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから五逆を作り、現身で地獄に堕ちたが、妙法の効力によって、天王如来の記別を受けたのである。迹門正宗八品では声聞の作仏の得記を明かし、流通分にはいって法師品では善人成仏を明かしたのに対して、この提婆品では悪人と女人の成仏を説き、宝塔品では釈迦・多宝の二仏並座は、一切衆生の色心が本有の境智を顕わしているので、すなわち、理性の即身成仏を説いたのであるが、この品では地獄の提婆達多と、海中から出た畜生である竜女の成仏をといたのであるから、事相の即身成仏が説かれたのである。
―――――――――
次に秋元殿が書状に「法華経の末法の始め五百年に弘まり給うべきと聴聞仕り御弟子となる」としたためてきたことに対して、師弟の契りは三世にわたるものであることを御指南されている。
そして「師檀となる事は三世の契り主熟脱の三益別に人を求めんや」と述べられ、下種益・熟益・脱益の三益ともに、日蓮大聖人を離れて成仏得道はありえないと、不退の信心を勧められている。
このことについては曾谷殿御返事にも「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(1055-14)と仰せられている。
種熟脱とは、下種・調熟・得脱のことで、仏が衆生を悟りに導く化導の始終を三段階に分けたものである。日寛上人の開目抄愚記に「問う、種熟脱のその義、如何、答う、即ちこれ化導の始終なり」とある。
この種熟脱の三義は、秋元御書に「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」(1072-05)と仰せのように、法華経のみに説かれた成仏の肝要なのである。
詳しいことは秋元御書に譲るとして、本抄では、末法今時の衆生は、根源の師であり、御本仏である日蓮大聖人の教えに随順することにより、南無妙法蓮華経の下種を受け、仏の境地を得ることができることを示されている。
法華経化城喩品第七の「在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」の文は、大通智勝仏の16人の王子それぞれによって化導された衆生が、あらゆる十方の仏土に、常にそれぞれの師である16王子とともに出生するという意味である。
ここでは三世十方のありとあらゆる仏土に、常に自らの師である仏とともに生まれるという意味で引用されている。
生死一大事血脈抄には「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ」(1338-01)と述べられている。
また法華経法師品第十には「若し法師に親近せば、速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば、恒沙の仏を見奉ることを得ん」とある。
正しい法を説く師に親近するなら、正しい菩薩道に入ることができ、またその師に随順して学んでいくなら、成仏を遂げることができる。との意である。
御義口伝で「親近とは信受の異名なり法師とは日蓮等の類いなり菩薩とは仏果を得る下地なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり」(0738―第十三若親近法師速得菩薩道の事)と釈されている。
これらの経文から、最初に仏道へ導いていれた師に従っていくことによって、種熟脱の三益、すなわち仏道を成じ、大聖人とともに未来世もまた仏国土に生まれることを約束されているのである。
更に法華経提婆達多品第十二には「所生の処には、常に此の経を聞かん」と、いつ、どこに生まれても、常にその所において、妙法を聞くことができると説かれている。
その聞法の人とは「あに貴辺にあらずや」と述べられ、その理由として、前掲の文の前に「未来世の中に、若し、善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して、疑惑を生ぜざらん者は」とあり、この文中の「善男子」とは「法華経を持つ俗の事」だからであるといわれている。
そのためには「是の師」である日蓮大聖人に、生涯、不退に随順し、如説修行に精進することが肝要であるところから「弥信心をいたし給うべし」と念を押され、本抄を結ばれている。
1071~1078 秋元殿御返事(五節供御書)2015:08月号大白蓮華より。先生の講義top
太陽の仏法
師弟共戦――三世永遠に誉れの大道
「どうして作家になったのですか?」
「一番大切なものは何ですか?」
「暴力をさけるために、どんなことが大事ですか?」
――南米アルゼンチンの小学生の皆さんから、たくさんの質問が寄せられたことがあります。ある小学校で私の童話が授業の教材で使われ、それを読んだ子どもたちから、作者に手紙を頂いたのです。
子供らしく卒直で、それでいて鋭く急所を押えた問いばかりでした。
「毎日どんなことをしていますか?」という質問もありました。
私は「一言でいえば『人を励ますこと』『人を勇気づけること』です」と答えました。
平和といっても、一人一人の幸福が根本であり、その一人一人を励まし、勇気づけることが、平和への確かな第一歩となると信ずるからです。
文章を書き残しているのも、「世界のどこかで、だれかがこれを読んで、元気になってくれれば」という思いからである――そんな偽らざる心情も綴りました。
断じて『平和の西紀』の建設を
さらに、「世界平和のために何歳から活動し始めましたか?」とも聞かれました。
私は19歳の時に、師と仰ぐ戸田城聖先生と出会ったエピソードを伝えました。人類に貢献する偉大な生き方を教えてくださる正しい人生の師匠に巡り合い、その時から、平和を実現するための戦いが始まった、と。
師の心を心として、断じて「未来の宝」の時代に引き継げる「平和の世紀」の建設を、との決意で私は、この人生を走り抜いてきました。
正しい師匠との出会い、師弟の歩みを刻んでいけば、いかに正しい軌道を進めるのか。いかに喜びと充実に満ち溢れていけるのか。
日蓮大聖人の御在世、正しい仏法を説く師匠と、真っすぐに求める弟子とを、不二とするドラマが幾重にも綴られました。
今回は「秋元殿御返事」を拝し、日蓮仏法における宿縁深き師弟の絆について、共々に確認していきたいと思います。
| 07 此くの 08 如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ 現世安穏後生善処疑なかるべし、 法華経の行者をば一切の諸天・不退 09 に守護すべき経文分明なり、 経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に 而も之を衛護す」云云、又云く「天 10 の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、 ―――――― このように心得て南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。現世は安穏であり後生は善処に生まれることは疑いないことである。 法華経の行者を一切の諸天が不退に守護することは経文に明らかである。法華経の第五の巻には「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに法華経の行者を守護する」と説かれている。また 故に「天の諸々の童子が給使をし、刀杖を加えることができず、毒をもってしても害することはできない」と説かれている。 |
末法広宣流布の師匠に巡り合う
本抄は、日蓮大聖人が下総国印旛郡(千葉県白井市)の秋元太郎平衛尉に送られたお手紙です。
秋元殿から大聖人に寄せられた書状には、「正しい師匠」と「正しい法」に巡り合えた喜びが綴られています。そのうえで秋元殿は、大聖人に「五節供」の意味について質問しました。
節句は、現在の日本でも、3月3日の「ひな祭り」や5月5日の「こどもの日」、7月7日の「七夕」など、年中行事として、私たちの生活に根付いています。
このような風俗・風習は、国によっても時代によっても変わります。そうした、生活に根ざしている年中行事などを、仏法は否定していません。
「随方毘尼」という考え方があります。随方毘尼とは、正法という根本の基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根幹にかかわる事柄でなければ、一般の風俗・世間の普通の約束事を尊重し、用いていくべきであるという教えです。
そのうえで、大聖人は「まず五節供の次第を考えると、妙法蓮華経の五字の次第の祭りである」と仰せです。五節供が妙法蓮華経の五字それぞれの一字を祭る意義があることを示されます。
妙法を根本に生きる時に、正月などの四季折々を、最高に有意義に迎えて心豊かに味わいながら、健康にして幸福な人生を自然のうちに歩んでいける。現世を悠々と楽しく、そして来世も、素晴らしい境涯を味わっていく道が、ここにあります。
そして、妙法の五字を受持する人を、春夏秋冬、昼夜を問わず、常に梵天・帝釈をはじめ、偉大な諸天善神のはたらきが、守り支えてくれると約束されているのです。
法華経の行者を法華経の行者を諸天が必ず守護
ここで、大聖人が引用された経文は、いずれも法華経安楽行品の文です。
「諸天は昼も夜も常に、法華経のためのゆえに、法華経の行者を守る」――法華経の会座に集まった梵天・帝釈をはじめとする諸天善神は、昼夜にわたり法華経の行者を守護することを誓います。
それは、大聖人御在世当時、厳然たる実証として示された事実であり、現代においても、尊き学会員の同志が草創以来、現実のうえで体験し、証明してきた通りです。
また、「法華経の行者には、天の諸々の童子が給仕をし、刀や杖などを加えることもできず、毒をもっても害することはできない」とあります。
法華経の行者に対して、いかに苦しめ、迫害を加えたとしても、必ず諸天が守りに護るという文証にほかなりません。
大聖人は回答の結びとして、五節供の時も、いつもと同じく、南無妙法蓮華経と題目を唱えて、「悉地成就」、すなわち、所願満足を勝ち取っていくよう、励まされています。
| 14 次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、 師檀となる事は三世の 15 契り種熟脱の三益別に人を求めんや、 「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば 速かに菩提の道を 1071 01 得ん是の師に随順して学ばば 恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、 -----― 次に、法華経は末法の始めの五百年に広まることになっていると聴聞して御弟子となったと仰せられていることについていえば、師となり檀那となることは三世の契りである。種熟脱の三益の法理も別の人に求めてはならない。「在在諸の仏土常に師と倶に生まれる。もし法師に親近するならば、速やかに菩提の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒河の沙のほどの仏を見ることができる」との金言が違うはずがない。 |
請願の師弟は「三世の契り」
「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」――仏法の師弟の絆は、永遠であると教えられています。今世で初めて弟子となったのではなく、三世の契りなのです。永遠の絆であると聞いた門下の感動と歓喜は、いかばかりだったでしょうか。
また、この一節は牧口先生が、傍線を引いて拝された御文であり、日蓮仏法、そして学会精神の根本を示す大変に重要な仰せです。
仏教は「師弟の宗教」です。師弟がなければ、民衆を幸福にする広宣流布の実践は成り立ちません。師匠は、民衆のために戦う仏の境涯を、なんとしても弟子に伝えたい。弟子は、その師匠の生き方を、わが生き方として貫き通すなかで、不二の境涯を自身の人生に厳然と確立していく。師と一体となって戦う民衆が出現することが、人間の境涯を高め、人類の宿命を転換する大道となるのです。
弟子を自分と同じ境地に導く師匠、また、師匠と同じ生き方を力強く歩む弟子。師弟共戦――共に戦うことが師弟不二の本義です。
そして、この師弟の絆は、今世だけのものではありません。師弟は「三世の契り」であることを、明確に教えているのが法華経です。
とりわけ法華経の焦点は、末法という法滅の時代の救済にあります。人々が正法から遠ざかり、無明が増長する闘争の時代です。この時に、正しき法を、正しく求めて、その法を説く正しき師匠と出会う。そして師匠と共に不惜と請願の人生を貫く。
そう決定した人にとって、師弟の縁は、現世だけのものではなく、過去世から未来世にわたっても続くものなのです。仏と同じ慈悲の行動を、自身の振る舞いで体現し、根源の地涌の使命を発揮しているからです。それゆえに、三世永遠に連なっている本来の境地を、生命の奥底に会得していけるのです。これ以上の誉の人生はありません。
師弟の縁を示す「種熟脱の法門」
仏法における師弟の深い縁について、大聖人は「種熟脱の三益」を通して教えられます。
法華経では、釈尊の方便品以降、「諸法実相」「開三顯一」の法理や譬喩を説いて、続いて、弟子の声聞たちのために、今世だけでなく、「因縁」を伝えます。すなわち、弟子たちは、遠い過去に成仏の教えを下種され、長時間にわたって導かれ、調え、成熟され、法華経に至って仏と等しい悟りに到達し、苦悩から根源的に開放、脱出できるのです。
後年、秋元殿に与えられた「秋元御書」でも、「熟脱の法門・法華経の肝心なり」(1072-04)と仰せです。まさしく、この種熟脱の三益は、法華経のみで明かされる成仏のための肝要です。
種を植えた人こそが、その種の正しい育て方が分かり、収穫まで携わることができます。それと同じく、仏種である法華経を説いて下種してくれた、自分にとって最も縁深い師匠を離れて、別の人に求めても成仏は成り立たないということを示されているのです。
大聖人は、化城喩品に説かれる師弟の三世の絆についての文証として、「在在の諸仏の土に 常に師と俱に生ず」という経文を引かれています。
このように、師匠とは、有縁の弟子を三世にわたって化導していくのです。弟子は師匠を求め抜き、師匠は弟子を守り導く。仏法の師弟とは、最高に麗しき「人間の絆」といえるでしょう。
「これは、弟子の側から見れば、単に「師匠と共にいた」という次元の話ではありません。師と共に菩薩行をしてきたという「共戦」の目覚めです。“師匠によって救われる存在”から、“師匠と同じ側に立って民衆を救う存在”へと、自身の本源の生き方を確立していく。それは、菩薩の誓願に徹することにほかならないのです。
自身の「久遠の使命」を自覚
この地涌の菩薩の誓願を私たちに教えてくださったのが、恩師・戸田先生です。「在在諸仏土 常与師倶生」との一節は、戸田先生が、文字通り、命を懸けて読み切られた経文でもあります。
戸田先生は戦時中、軍部政府からの弾圧を受け、先師・牧口先生と共に投獄されました。その獄中闘争で、戸田先生は法華経を身読され、遂に仏法の深い真実を覚知されたのです。その第一は「仏とは生命なり」との確信でした。さらに、唱題と思索の中で、「我、地涌の菩薩なり」との悟達を得られました。広宣流布い久遠の師弟の使命を覚悟されたともいえます。そして、師弟の縁もまた永遠であると深く感得されたのです。
これが、わが創価学会の確信の精髄であり、学会魂そのものなのです。
ちょうどその頃、獄中においてなお、不惜身命の実践を貫かれた創価の父・牧口先生は、栄養失調と老衰のため、獄舎で息をひきとられました。それは、正法正義のために戦い抜かれた殉教の姿そのものでした。
戸田先生は、牧口先生の三回忌法要で、次のように語られています。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたるしあわせでございましょうか。
根源の師・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に殉じゆく強き信心の一念、これこそが、牧口先生と戸田先生を不二ならしめた要因といえるでしょう。生きて牢獄を出られた戸田先生は、先師の意志を受け継ぎ、創価学会を再建し、本格的な、師弟不二の広布拡大の大闘争が開始されたのです。
師弟は永遠です。戸田先生は、牧口先生と来世も共にあること、そして、我々もまた共にあるのだと語られていました。
真実の「正しい人生」に生きる
第2次世界大先後の混沌とした時代に、私は稀有の師、戸田先生と運命的に出会いました。
昭和22年(1947)8月14日、19歳の私は、初めて学会の座談会に参加しました。友人から「生命哲学」の話を聞こうと誘われていたからです。
終戦からちょうど2年。折しも、読書サークルの友人たちと“真実の正しい人生とは何か”等と、毎晩のように議論しているさなかでした。そして、“自分たちの疑問に答えられる人がいれば、その人こそ師父である”と語り合っていたのです。
座談会の会場では、強い度のメガネをかけた壮年が、確信に満ちた闊達な声で、気迫を込めて語っていました。
「個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理をもって、根本から解決しない限り、一切のことははじまらないのです」
「私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです」
それは、戸田先生が「立正安国論」を講義されていたのでした。そして、講義と質疑応答が終わった後、先生は私に、旧知のような親しみを込めて声をかけてくださったのです。
私は、青年らしく尋ねました。「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」と。
先生は、「さぁ、これは難問中の難問だな」と、顔をほころばせながら、誠実に答えてくださいました。そして、最後に毅然とこうおっしゃったのです。
「正しい人生とは何ぞや、と考えるのもよい。しかし、考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。必ずいつか、自然に、自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。私は、これだけは間違いないと言えます」
このほかにも私は「本当の愛国者とは」等、日頃から友人たちと語り合ってきたことを質問しました。お話の中に出てきた「南無妙法蓮華経」についても伺いました。
先生は、全てに、確信に満ち溢れた明快な回答をくださいました。一人の青年に対して、なんの隔てもなく、懇切丁寧に語ってくださったのです。
私は感動しました。“この人の指導なら信じられる”と直感しました。
そして10日後の8月24日に入信しました。68星霜を数える今に至るまで、戸田先生に指導していただいた通りの「真実の正しい人生」を歩んでいくことができました。
恩師への感謝は尽きることがありません。今でも私は、戸田先生の顔を思い浮かべては、恩師と語り合う毎日です。
“この師匠に、随順して学ぶ”
さて、御文に戻れば、大聖人は続けて法師品の文を引かれます。正しい法を説く師に親近するなら、正しい菩薩道に入ることができる。その師に随順して学んでいくなら、多くの仏に会って学ぶことができ、成仏への軌道を歩み続けることができる、との意です。
「随順是師学」――師匠を定めたら、この師匠に随順し、徹底して学びゆく。
師弟とは、弟子の自覚で決まります。
私も、徹して戸田先生の仰せ通リに修行した。いついかなる時も、「私は戸田先生の弟子である」と言い切ってきました。先生の事行が逼迫した時も、ただ先生と運命を共にしようと、お仕えし、お護りしました。そして、戸田先生は、第2代会長に就任され、生涯の願業である75万所帯の折伏を宣言されたのです。
あの時の師弟の闘争があればこそ、冥の照覧の大功徳が雲の如くにわき上がり、今日に至る世界宗教への道が開かれたと確信しています。
師弟の大願に徹した時に、弟子の境涯は大きく開かれます。
「師弟共戦」とは、弟子が、わが使命の道で戦い、勝って、常に胸中の師匠に報告することにほかなりません。私は戸田先生のもと、常にその決心で真剣に戦ってきましたし、今もその思いは変わりません。
師弟は物理的距離ではありません。大聖人の御在世も、直接、お会いしない門下も多くいました。熱原の農民信徒たちもそうです。
たとえ、遠く離れていても、心は瞬時に伝わります。また、時代を超えて、生命と生命は響き合います。空間も、時間も、師弟を阻む壁にはならないのです。
万年に輝きわたる不二の前進を
麗しき師弟の絆にこそ、人間としての勝利の栄冠が輝くのです。
「師弟不二」であれば、人間革命を果たすことができる。
「師弟不二」であれば、必ず広宣流布を成し遂げられる。
「師弟不二だから、永遠に平和と正義の大道を歩んでいけるのです。
「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり」(0900-12)です。
三世にわたる日蓮仏法の師弟の法戦は、今や世界五大州、192ヵ国・地域にまで広がりました。御本仏・日蓮大聖人がいかばかりか称賛してくださっていることでしょうか。
この尊き創価の師弟の連帯に対して、世界の各国が信頼と期待を寄せる新時代が到来しているのです。
師を持つ人生に、行き詰まりはない。
師を持つ人生は、必ず勝利を開く。
師を持つ人生ほど、無上の誉はない。
この不二の劇は永遠に続きます。
三世にわたる共戦を誓願した絆です。
久遠以来、仏・菩薩の行動を貫く法を持ち続けた「永遠の同志」です。
さあ、万年に輝き光る」「弟子の大道」「後継の大道」「不二の大道」を共々に走り抜いていこうではありませんか。
1071~1078 秋元御書(筒御器抄)top
1071:01~1072:12 第一章 完器に寄せて全き信心を説くtop
| 秋元御書 弘安三年一月 五十九歳御作 於身延 01 筒御器一具付三十並に盞付六十送り給び候い畢んぬ、御器と申すは・うつはものと読み候、 大地くぼければ水 02 たまる青天浄ければ月澄めり、 月出でぬれば水浄し雨降れば草木昌へたり、 器は大地のくぼきが如し水たまるは 03 池に水の入るが如し、 月の影を浮ぶるは法華経の我等が身に入らせ給うが如し、 器に四の失あり・一には覆と申 04 してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、 二には漏と申して水もるなり、三には汀と申して・け 05 がれたるなり水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし、 四には雑なり・ 飯に或は糞或は石或は沙或は 06 土なんどを雑へぬれば人食ふ事なし、 器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり、 法華経 07 と申すは仏の智慧の法水を 我等が心に入れぬれば・ 或は打ち返し・ 或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆 08 ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ、 譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うす 09 くなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども 捨つる月もあり是は水の漏が如し、 或は法華経を行ずる人の一口は 1072 01 南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し、 法華経の文に「但大乗経 02 典を受持することを楽うて 乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり、 世間の学匠は法華経に余行を雑え 03 ても苦しからずと思へり、 日蓮も・さこそ思い候へども経文は爾らず、譬えば后の大王の種子を妊めるが又民と・ 04 とつげば 王種と民種と雑りて天の加護と氏神の守護とに捨てられ 其の国破るる縁となる、父二人出来れば王にも 05 あらず民にもあらず人非人なり、 法華経の大事と申すは是なり、 種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の 06 仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、 南無阿弥陀仏は仏種にはあらず 真言五戒等も種ならず、 07 能く能く此の事を習い給べし是は雑なり、此の覆・漏・汀・雑の四の失を離れて候器をば完器と申して・またき器な 08 り、 塹つつみ漏らざれば水失る事なし、 信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、今此の筒の御器は固 09 く厚く候上・漆浄く候へば 法華経の御信力の堅固なる事を顕し給うか、 毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて四天 10 下・第一の福天と云はれ給ふ、 浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音菩薩と成り給ふ、 今 11 法華経に筒御器三十・盞六十・進らせて争か仏に成らせ給はざるべき。 -----― 筒御器一具を三十、並に盞を六十送っていただいた。 御器というものは「うつわもの」と読むのである。大地が窪んでいれば、水がたまり、青天が浄ければ、月は澄む。月が出ると水は浄く見え、雨が降ると草木は栄える。器は大地の窪みのようなものであり、そこに水がたまるのは、池に水が入るようなものである。その水面に月の影を浮かべるのは、法華経が我等の身に入ったようなものである。 器には失がある。一つは覆といって、うつぶせることであり、又はくつがえすこと、又は蓋をおおうことである。二には漏といって水がもることである。三には汙といって、けがれていることである。水が浄らかでも、糞の入った器の水を用いることはない。四には雑である。飯にあるいは糞、あるいは石、あるいは沙、あるいは土などを雑えるならば、人は食べることはない。 また器は、我等の身心を表している。我等の心は器のようなものであり、口も器、耳も器である。法華経というのは、仏の智慧の法水であるが、それを我等の心に入れると、あるいは打ち返し、あるいは耳に聞くまいと左右の手で二つの耳を覆い、あるいは口に唱えまいと吐き出すのは、たとえば器を覆するようなものである。 あるいは少し信ずるようであっても、また悪縁にあって信心が薄くなり、あるいは打ち捨て、あるいは信ずる日はあっても、捨てる月もある。これは水が漏るようなものである。 あるいは、法華経を修行する人が、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏などというのは、飯に糞を雑え、沙や石を入れたようなものである。法華経の文に「ただ大乗経典を受持することを願って、ないし余経の一偈をも受けてはならない」等と説かれるのはこれである。世間の学匠は、法華経に余行を雑えても、さしつかえないと思っている。日蓮も一往そのように思うけれども、経文はそうではない。たとえば大王の種子を妊んだ后がまた民に嫁いだならば、王種と民種と雑って、諸天の加護と氏神の守護とに捨てられ、その国が破れる縁となる。父が二人できれば、王でもなく民でもない人非人となる。 法華経の大事というのはこのことである。種熟脱の法門は法華経の肝心である。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種子として仏になったのである。南無阿弥陀仏は仏種ではない。真言や小乗の五戒等も仏種とはならない。よくよくこの事を習っていきなさい。このことは雑である。 この覆・漏・汀・雑の四つの失のない器を完器といって、全き器である。塹の堤が漏れなければ、水が失くなることはない。信心の心が全ければ、平等大慧の智慧の水は乾くことはない。 今、あなたが供養されたこの筒の御器は、固く厚いうえに、漆も浄らかなので、法華経への御信力が堅固であることを顕しているのであろう。 毘沙門天は仏に四つの鉢を供養して、四天下第一の福徳の多い天といわれた。浄徳夫人は、雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養されて妙音菩薩となられた。今、あなたは、法華経に筒御器三十と盞六十を供養されたのであるから、どうして仏にならないことがあろうか。 |
筒御器
竹筒を加工した器。
―――
種熟脱の法門
仏が衆生の心田に成仏の種を蒔いてから解脱するまでの順序を3つに分類したもの。①種 - 下種益のこと。成仏得道の種を衆生の心田に蒔いて下すこと。最初に仏法と結縁させること。②熟 - 調熟益・成熟益のこと。蒔かれた種を熟し調えること。種々の手段を講じて修行の功があらわれてくること。③脱 - 解脱益のこと。熟した仏の種から茎が伸び成熟して開花するように、修行を完全にして円満なる証果を得て成仏すること。秋元御書には「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)、観心本尊抄には「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)、曾谷殿御返事には「仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056-15)とあり、さらに御義口伝には「当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法今日においては妙法五字の文底下種をうけて直達正観し、成仏することができるのである。
―――
三世十方の仏
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。
―――
仏種
仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性とも、とることができる
―――
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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覆・漏・汀・雑
器が用をなさない四つの場合のこと。法華文句巻二下には四衆の中の結縁衆を説くなかに「過去の根浅く、覆漏汙雑し、三慧生ぜず……」とある。本抄では、これを衆生の成仏を妨げる欠点に譬えている。
①覆はくつがえる、おおうなどの意で、正法を信じようとせずに、我が身の仏性を開かないこと
②漏はもれるの意で、正法を聞いても忘れてしまうこと
③汙はけがれ、よごれるの意で、心のよごれによって正法を聞いても汚してしまうこと
④雑はまじるの意で、正法正義に邪義をまじえること
この四つの失によって末法の衆生は容易に成仏できないとされる。
―――
平等大慧の智水
諸仏の実智のこと。諸法平等の理を悟り、一切衆生を平等に利益する仏の広大な智慧。
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毘沙門天
四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
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毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて
大智度論巻二十六に「仏鉢は人より受けたまわず、仏初めて道を得て、食時に器を須いんと欲したまうに、四天王は、仏の心念を知り、四鉢を持て仏に上れり。三世諸仏の法は、皆応に四天王あって鉢を上るべし」とあり、四天王が各々鉢を献じたことが説かれている。毘沙門天を四天王の上首とされてこのようにこのように仰せられたのであろうか。
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四天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超をいう。
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浄徳夫人
妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で淨蔵・淨眼の母。二子が婆羅門の父妙荘厳王を救うのを助けた。過去世においては妙荘厳王、浄徳夫人、淨蔵、淨眼は、共に仏道修行をしている友人同士であったが、うち一人が家事を行ない、他の三人は仏道修行に励んで成仏した。家事を行なった一人は成仏することはできなかったが、修行者をたすけた功徳により生まれ変わるたびに王となる果報を得た。成仏した三人のうち一人はその夫人、二人はその子供となり、父の妙荘厳王を救ったのである。
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雲雷音王仏
法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。過去に雲雷音王仏が有して、その国を現一切世間、劫を喜見といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の妓楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たとされる。
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妙音菩薩
法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。妙音菩薩が法華経の会座に列なるため、この娑婆世界に来至する時、「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」と、種々の神力を有するところから妙音の名がある。ここで華徳菩薩が釈迦牟尼仏に「是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか、是の神力有る」との問いを発すると、仏の告げたまうに、過去の雲雷音王仏 の在世の時、現一切世間という国があり、劫を喜見といった。その時一人の菩薩があり、名を妙音菩薩といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の伎楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の有す一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たのであると。そしてこの妙音菩薩品が説かれたことで、華徳菩薩は法華三昧を得たのである。
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本抄は、日蓮大聖人が弘安3年(1280)正月27日、59歳の御時、身延でしたためられ、下総国印旛郡白井荘の秋元太郎兵衛尉に与えられた御消息である。
秋元殿が筒御器30、皿60枚を御供養したことに対しての御返事であるところから、別名を筒御器抄ともいう。御真筆は現存していない。
日蓮大聖人は文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷の法難の後、下総中山の富木常忍の屋敷に身を寄せられたとされる。常忍が自邸に造営した法華堂で百日間の説法をされたが、秋元殿はこのとき化導されたと伝えられている。
それゆえ、富木殿とは親類だったともいわれる。文永8年(1271)正月11日の秋元殿御返事には「委くは曾谷殿へ申候次での御時は御談合あるべきか」(1070-04)とあり、本抄御述作の日と同じ弘安3年(1280)正月27日、大田入道へ賜った慈覚大師事には「法門の事は秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少少注して候御覧有るべく候」(1090-01)とあるところから、曾谷教信、大田乗明の両家とも親交が深かったようである。正応4年(1291)9月17日に他界。その家は秋本寺となった。本抄のほかに文永8年(1271)正月御述作の秋元殿御返事を賜わってる。
本抄では、初めに御供養の筒御器に寄せ、全き信心を貫くことの大切さを教えられ、次に謗法を呵責することの大事を明かされている。そして法華経を修行する者の心得として、謗人・謗家・謗国の三失を免れる方途はひとえに呵責謗法以外にないと教え、勇猛精進を勧められている。
最後に、身延の山河のありさまと、雪と氷に閉ざされた身延沢での厳しい御生活の様子を述べられ、訪ねくる人もまれであるのに、御供養の品を届けてこられた秋元殿の深信と厚い志をたたえられている。
覆・漏・汙・雑の四の失
初めに秋元殿が筒御器30、皿60枚を御供養したことに対する礼を述べられている。筒御器とは、筒の形をした、水や酒などを入れる塗り物の食器のことである。
本抄御述作の弘安3年(1280)正月は、前年の弘安2年(1279)9月に熱原法難の嵐が吹き荒れ、其の余燼がいまだ消えやらぬころである。
また、蒙古が文永の役に続き、再び日本侵攻の準備を進めていた時期でもあり、人心は亡国の危機への不安に覆われていた。
大聖人が庵室を結ばれた身延山中の冬は、寒さがことのほか厳しく、衣食も不足がちであられた。そのような身延であったが、「人はなき時は四十人ある時は六十人」(1099-07)とも述べられているように、大勢の弟子や訪ねてくる信徒がおり、秋元殿が御供養した多くの食器は不可欠の日用品だったのである。
その器が用をなさない場合の覆・漏・汙・雑という「四の失」を示し、「器は我等が身心を表す」として、衆生の成仏を妨げる要因にたとえられ、信仰の在り方を御教示されている。
覆・漏・汙・雑の四失は、天台大師が法華文句にこれを示し、妙楽大師が法華文句記巻二下で「聞慧なきがゆえに、器の現に覆するがごとく、思慧を闕くがゆえに器の漏るがごとく、修慧なきがゆえに器の汚雑せるがごとし」と述べられているものである。日蓮大聖人はこれを用いて、信心の在リ方を教えられているのである。
第一の「覆」とは、くつがえる、おおうの意で、正法に対して心を閉じ、受け入れないことをいう。
それを「仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば・或は打ち返し・或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ」と述べられている。
「仏の智慧の法水」とは三大秘法の南無妙法蓮華経である。
この妙法こそ人生究極の幸せへの直道であることを語っても、かたくなに心を閉ざし、耳を傾けようともしない。また妙法の名は口に唱えたくもないといって吐き出してしまう人もいる。間違った先入観をもっていたり、聞こうともしない状態がこれにあたり、仏法を求める姿勢のないことをいわれている。
第二の「漏」とは、もれるの意で、穴やヒビがあれば、水を入れても漏れてしまい、いつまでもいっぱいにならない。つまり中途で退転したり、怠ったりすることをいう。それを「或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり」と述べられている。
「悪縁」とは仏道修行を妨げ、三悪道・四悪趣に堕とす縁となるものをいう。中傷批判やおどしの場合もあるし、誘惑の場合もある。
こうした悪縁にあって動揺する信心状態は、あたかも水漏れする器のようなものであるとされ、「信ずる日はあれども捨つる月もあり」とは、熱しやすいが持続性のない「火のごとき信心」をいわれている。
第三の「汙」とは、けがれ・よごれるの意で、心のよごれによって、正法を聞いても汚してしまうことをいう。
「水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし」といわれるように、もともと汚れている器に清水を入れても飲むことができないのと同様、法水は清浄であっても、信ずる人の生命が我見や慢心、エゴなどで汚れているならば、信仰そのものもゆがめ、なんの益にもならないからである。
自己の醜い名誉欲や権勢欲を満たすために、その手段として信仰を考えているような場合も、この「汙」に相当するといえよう。
第四の「雑」とは、まじるの意で、正法正義に邪義をまじえることをいう。
それを「或或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し」といわれている。
妙法の題目を唱えながら念仏も称えるというように、妙法に邪法をまじえること自体、妙法のもつ功徳力を消滅することになる。
また表向きは妙法を受持しているといいながら、心は他宗の教義・思想などに堕しているような場合も、この「雑」にあたるといえよう。
法華経譬喩品第三には「但楽って、大乗経典を受持して、乃至、余経の一偈をも受けざる有らん」と説かれ“雑”を厳しく戒めている。
「世間の学匠は法華経に余行を雑えても苦しからずと思へり」とは、当時の天台宗の人々が法華経の開会の法門を曲解し、諸宗にも得道ありといって認め、称名念仏などを交えたことを指摘されている。
法華宗の者が余行である念仏を称えることは「不受余経一偈」の金口に背く誹謗正法以外なにものでもないのである。
このことは、たとえば大王の種子を宿した后が、また民へ嫁ぐようなものであり、その結果は王種と民種とが入り混じり、上下の関係が乱れて破国の因縁をつくるようなものだといわれている。
このように余経である念仏などの修行をまじえることなく、厳格な姿勢で妙法を受持しゆくことが、法華経修行の根本であるところから「法華経の大事」といわれ、化導の始終を示した種熟脱の法門が法華経の肝心であることを説かれている。
種熟脱の法門・法華経の肝心なり
種熟脱とは、下種、調熟、得脱のことで、仏が衆生を悟りに導く化導の始終を三段階に分けたものである。
「下種」とは仏が衆生の心田に仏になる種子を下すことで、仏法に縁した最初をいう。
「熟」とは過去に下種された仏種が次第に生長して、機根が調ってくることである。
「脱」とは仏種が生長し終わって仏の境界に至る化導の終わりをいう。
このように、種熟脱は、農作物の種をまき、手入れをして生長させ、収穫する、という三つの過程にあてはめて示された法門である。
この化導の始終は爾前の諸経では明かされなかった。初めて種熟脱が明かされたのは法華経迹門の化城喩品第七で、三千塵点劫の過去における大通下種である。更に本門の如来寿量品第十六において、久遠五百塵点劫以来の種熟脱が明かされている。
本抄で「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」と述べられたのはそのためで、この三義は法華経のみに説かれたのである。
観心本尊抄に、華厳経や大日経等について「設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)と仰せであり、それは成仏の種子は法華経に限られるからである。このことを曾谷殿御返事には「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056-15)と仰せである。
この法華経においても、種熟脱に迹門・本門・文底の三釈がある。
迹門の種熟脱は、法華経化城喩品第七で、三千塵点劫の過去に、大勝智勝仏の法華経の説法及びその十六人の王子による大通覆講の下種を明かし、退転して悪道を流転した衆生が再び釈尊に会って爾前の諸経で調機調養され、未来に得脱することが説かれている。
本門では、法華経如来寿量品第十六で久遠下種を明かす。これによって、三千塵点劫の大通智勝仏及び四十二年間の爾前経と法華経迹門までは熟益となり、本門寿量品に至って得脱することになる。
このように、釈尊の法華経は久遠に下種を受けながら退転して悪道を流転した衆生を得脱させるためのものであり、これを脱益の法華経という。
ところが、そうした久遠下種の衆生はもはやいなくなり、これから仏種を植えられるべき衆生のみの時代が末法である。
末法の衆生は本未有善の衆生であり、過去に下種を受けず、善根を積んでいないので、熟益・脱益の仏法では利益がなく、大聖人の文底下種仏法による以外に救われない。ここに、この一生で種・熟・脱が具わる文底下種仏法を日蓮大聖人が確立された意義がある。
大聖人は「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(1027-13)と仰せになり、末法は釈尊の仏法を弘通する時機ではなく「題目の五字を以て下種と為す可き」(1027-14)ことを明かされている。
すなわち、南無妙法蓮華経の下種を受け、直達正観、受持即観心の妙理によって、直ちに仏の境地を得られるのである。
観心本尊抄に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と仰せであり、御義口伝には「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-第三我実成仏已来無量無辺等の事-07)と示されている。
下種と脱益の相違について、日寛上人は観心本尊抄文段で「糟を脱するを米といい、脱せざるを籾と名づく。米は以って命を養い、籾は即ち種と成る。米は文上脱益の一品二半の如く、籾は文底下種の題目の五字の如し」と説明されている。
ゆえに、末法においては、成仏の根源の種子たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信受して即身成仏するのである。
三重秘伝抄に「種子を覚知するを作仏と名づくる」とあり、また本文で「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給えり」と説かれるように、釈尊をはじめとした三世十方の諸仏は、すべてこの久遠元初の下種の妙法を修行して悟りを開くことができたのである。
南無妙法蓮華経こそ一切の仏を生み出した本源の種子であり、一切仏法の肝要である。
この妙法の信仰に念仏や真言、小乗の五戒などの邪法の修行をまじえることが〝雑〟であり、成仏の種子の生長を妨げることになるのである。
この覆・漏・汙・雑の〝四失〟のないのが「完器」「またき器」であり、「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」と説かれている。
「平等大慧の智水」とは、一切衆生を偏頗なく平等に救済していく仏の広大な智慧を水にたとえたものである。
そして秋元殿が御供養した筒御器が固く、厚いうえ、塗った漆が清らかなことに寄せ、秋元殿の信力が堅固であることの表れであろうとたたえられている。
秋元殿は大聖人に御供養申し上げる御器ということで、とくにしっかりとした器で、漆も特別に念入りに塗られたのであろう。大聖人はこの御器の出来栄えをごらんになって、秋元殿の真心とあわせ、その堅固な信心を感受されたと拝される。
更に過去に仏に供養して福徳を得た毘沙門天・浄徳夫人の例を挙げながら、秋元殿の場合は諸仏成道の根源の種子である妙法の御供養であるから、功徳は無量であり「争か仏に成らせ給はざるべき」と、成仏の必定なることを断言されている。
1072:12~1073:07 第二章 「四箇の格言」による値難を示すtop
| 12 抑日本国と申すは十の名あり.扶桑.野馬台・水穂・秋津洲等なり、別しては六十六箇国・島二つ・長さ三千余里 13 広さは不定なり、或は百里・或は五百里等、五畿・七道・郡は五百八十六・郷は三千七百二十九・田の代は上田一万 14 一千一百二十町・乃至八十八万五千五百六十七町・ 人数は四十九億八万九千六百五十八人なり、神社は三千一百三 15 十二社・寺は一万一千三十七所・男は十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、 其の 16 男の中に只日蓮・第一の者なり、 何事の第一とならば男女に悪まれたる第一の者なり、 其の故は日本国に国多く 17 人多しと云へども其の心一同に南無阿弥陀仏を口ずさみとす、 阿弥陀仏を本尊とし九方を嫌いて西方を願う、 設 18 い法華経を行ずる人も真言を行ふ人も、 戒を持つ者も智者も愚人も 余行を傍として 念仏を正とし罪を消さん謀 1073 01 は名号なり、故に或は六万.八万・四十八万返・或は十返・百返・千返なり、而るを日蓮一人.阿弥陀仏は無間の業・ 02 禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・ 持斎等は国賊なりと申す故に上一人より下万民に至るまで父母の敵 03 宿世の敵.謀叛.夜討.強盗よりも或は畏れ・或は瞋り・或は詈り.或は打つ、是をソシる者には所領を与へ・是を讃む 04 る者をば其の内を出だし或は過料を引かせ・ 殺害したる者をば褒美なんど・ せらるる上・両度まで御勘気を蒙れ 05 り、 当世第一の不思議の者たるのみならず人王九十代・仏法渡りては七百余年なれども・かかる不思議の者なし、 06 日蓮は文永の大彗星の如し 日本国に昔より無き天変なり、 日蓮は正嘉の大地震の如し 秋津洲に始めての地夭な 07 り、 -----― さて、日本国というのは十の名がある。扶桑、野馬台・水穂・秋津洲等である。別しては六十六箇国と島二つで、長さは三千余里、広さは一定ではなく、あるいは百里あるいは五百里等である。五畿・七道で、郡は五百八十六、郷は三千七百二十九、田は上田が一万一千一百二十町、ないし八十八万五千五百六十七町、人数は四百九十八万九千六百五十八人である。神社は三千百三十二社、寺は一万一千三十七所で、男は百九十九万四千八百二十八人、女は二百九十九万四千八百三十人である。 その男のなかで日蓮は第一の者である。何事の第一かといえば、男女に憎まれたことが第一である。そのわけは日本国に国が多く人が多いといっても、その心は一様に南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀仏を本尊とし、九方を嫌って西方極楽浄土を願っている。たとえ、法華経を修行する人も、真言を行ずる人も、戒律を持つ者も、智者も、愚人も念仏以外の修行を傍として念仏を正とし、罪を消すための修行は弥陀の名号を称えることだと思っている。ゆえに六万・八万・四十八万遍、あるいは十遍、百遍、千遍と称えている。 そのようなところに日蓮一人だけが、阿弥陀仏を称えるのは無間地獄の業因であり、禅宗は天魔の所為であり、真言宗は亡国の悪法であり、律宗や持斎等は国賊であるというがゆえに、上は国主から下は万民にいたるまで、父母の敵・宿世の敵・謀叛人・夜討・強盗よりも恐れ、瞋ったり、あるいは罵ったり、あるいは打ったりするのである。そして、日蓮を謗る者には所領を与え、日蓮を讃める者に対してはその所を追放したり、あるいは罰金を科し、殺害した者には褒美を与えるなどとされたうえ、二度まで流罪にされたのである。 日蓮は当世において最も不思議な者というだけでなく、人王九十代の間、仏法が日本に渡ってからは七百余年であるけれども、このように不思議な者はいない。日蓮は文永の大彗星のようなものである。日本国に昔から今まで無かった天変である。日蓮は正嘉の大地震のようなものである。日本国始まって以来の地夭である。 |
扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
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野馬台
日本国の古称。後に転じて大和とも書くようになった。
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水穂
日本国の美名。古事記には「豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国」とある。千秋長五百秋とは千年も五百年も長く栄えるとの意。秋は穂を意味し瑞穂は水田に作る稲穂。
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秋津洲
日本の古称。本州をさす場合もある。
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六十六箇国
北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、東山道八か国(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)、東海道15か国(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)、北陸道7か国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)、山陽道8か国(播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)、山陰道8か国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐)、南海道6か国(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海道9か国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)である。
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島二つ
壱岐・対馬の二島のこと。
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五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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七道
①東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。②鎌倉への出入り口で七口ともいう「極楽寺坂」「大仏坂」「化粧坂」「巨福呂坂」「六浦坂」「名越坂」「小坪坂」をいう。
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南無阿弥陀仏
釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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九方
上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のうち西方を除いた方位。
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西方
西方極楽世界のこと。観世音菩薩は西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の脇侍とされている。
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余行
その他の修行。
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念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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名号
仏の名称のこと。
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無間
無間地獄のこと。八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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業
①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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天魔
天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
持斎
斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
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過料
罰金のこと。
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御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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文永の大彗星
文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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正嘉の大地震
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
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本章から謗法を呵責することの大事を明かすにあたって、まず日本国を中心に見た場合、念仏等の諸宗の謗法を呵責して、古今に超過する怨嫉を招来し、身命に及ぶ迫害を受けたのは日蓮大聖人御一人であることを示されている。
日蓮大聖人の御在世当時の日本の国土・国勢を述べられるなかで、総人口を「四十九億八万九千六百五十八人」とされているが、ここで使われている〝億〟は現在の十万にあたり、したがって、4,989,658人ということになる。この数値の出所については明らかではない。
なお、他の御抄には「四十九億九万四千八百二十八人」、「四十五億八万九千六百五十九人」との記述もある。
そのなかで「只日蓮・第一の者なり」といわれ、なにゆえに第一かといえば、国中の男女から憎まれるということで「第一の者」であると仰せられている。
なぜ憎まれるのか。その理由は、ただ大聖人御一人が、日本の上下万民が挙げて信じ、その名を称えていた阿弥陀仏を無間地獄の業因なりと呵責し、併せて禅天魔・真言亡国・律国賊と、いわゆる四箇の格言をもって破折したゆえであると述べられている。
阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・持斎等は国賊なり
日蓮大聖人が立教開宗以来、当時最も流布していた念仏宗、禅宗、真言宗、律宗の四宗を選び、各宗の教義の誤りを簡潔に破折された四箇の格言がここに示されている。
このうち律宗は奈良時代からあったが、真言宗は平安初期、念仏・禅は平安末期から鎌倉時代にこけて急速に広まっている。
とくに念仏は、上は幕府要人から下は庶民に至るまで、あらゆる階層に広まっていただけに、日蓮大聖人は、立宗の初めからまず念仏を弾呵され、本抄のこの段でも、念仏破折が難を招いた根源であることを述べられている。
「阿弥陀仏は無間の業」とは、念仏宗の信仰が、八大地獄のなかでも最も底にあり、最も苦しみの大きい無間地獄へ堕ちる業因となることをいう。
なぜそうなるのか。念仏宗では、この世を厭い離れるべき穢土 であるとして、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信じ、死後、浄土に往生することを理想とする。そのために阿弥陀如来を本尊とし、無量寿経など浄土の三部経を依りどころとしている。
そして、日本浄土宗の開祖・法然は選択集を著し、そのなかで法華経などの諸経は末法の衆生の機根に合わないとして「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と否定し、捨てさせたのである。
これは、法華経薬王品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」とあり、法華経を末法の衆生のために説いた仏の意に背くものであり、この法華経を捨てよと主張したことは、法華経譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば(中略)其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の文に明らかなごとく、法華経誹謗の罪によって阿鼻獄へ堕ちるのである。
また阿弥陀仏が因位の修行中に立てた四十八願のなかの第十八願を根拠に、念仏を称えれば、死後、西方極楽浄土へ往生するとしているのであるが、与えて弥陀の本願が真実であるとしても、そのなかに「五逆と正法を誹謗するとを除く」と断られているように、正法たる法華経を誹謗する者には浄土往生はかなわないことになる。
したがって、この法然の教えを信じている人は、いかに阿弥陀の名号を称えても極楽浄土に往生できないのであり、のみならず無間地獄へ堕ちることになるのである。
「禅宗は天魔の所為」とは、禅宗は仏法を破壊する天魔の教えであるということである。
禅宗では、釈尊が入滅の直前、黙ったまま花を拈って一座の大衆に示したとき、迦葉だけがその意味を悟って破顔微笑したといい、釈尊から迦葉、阿難と順に法が伝えられたとする。
ゆえに「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」といった邪義をたてるのである。
すなわち、釈尊の真実の教えは文字を立てず、教えの外に別に伝えられたのであって、経文は月をさす指であり、月を知れば指は不要であるように、経文は不要だとしている。更に、月すなわち仏性は各人の内にあり、坐禅によって「我が身がそのまま仏である」と悟れるとする。
この教義は大梵天王問仏決疑経等を依りどころとしたものであるが、これ自体、偽経説が有力である。
そもそも「不立文字」などと、仏説である経文を捨て去る行為は、涅槃経第七に「若し仏の所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあるように、仏法を破壊する天魔の振る舞い以外のなにものでもない。
また「即心即仏」などと、三毒強盛な凡夫の心をそのまま仏と同一視するのは、涅槃経の「願わくは仏の師と作って心を師とせじ」とある経文に背くことになるのである。
「真言は亡国の悪法」とは、真言宗は国を滅ぼす教えであるということである。
中国真言密経の開祖である善無畏は、法華経と真言の教えを比較すると、どちらも一念三千の法門があるから理は同じであるが、大日経には印と真言があるから事において勝れているという「理同事勝」の邪義を立てた。ところが大日経には一念三千の法門などなく、天台大師の教えから盗用したにすぎないのである。
更に、弘法大師空海が立てた日本真言宗では、法華経等の一切経は応身の釈尊が説法したもので、それに対し大日経は大日如来の説法であるといい、大日如来に比較すると、釈尊は無明の辺域であると、教主である釈尊を悪口し、下しているからである。
また法華経を大日経より三重の劣、戯論の法と謗っている。しかし、このような説は真言宗が依経とする大日経・金剛頂経などにも全く見当たらず、仏説にない妄説にほかならない。
仏についていえば、大日如来は実在の仏ではなく、単法身という理仏にすぎず、法身・報身・応身の三身を兼ね備えた法華経の釈尊とは天地の差がある。
このことを大聖人は「大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり」(0149-02)と破折のポイントを示されている。大日経はまさしく理仏にほかならないのである。
このように本来の教主である釈尊を倒して架空の仏を立て、真実を説いた法華経を第三の劣と卑しめることは、本来の主人を差し置いて無縁の主を立てることになり、亡国・亡家・亡人の法となるので「真言亡国」というのである。
「律宗・持斎等は国賊なり」とは、律宗は国を害する教えであるということである。持斎とは斎戒を持つ意である。
律宗は大聖人御在世時代、極楽寺良観が、戒律を持つ律宗に真言の祈禱と称名念仏を加えた真言律宗を弘め、二百五十戒の戒律を持っていると自己宣伝し、慈善事業を行うなどして生き仏のように尊敬を集めていた。
その一方で、大聖人を破戒・無戒と悪口をいい、御命をねらって策謀をめぐらし、迫害を加えたのである。
末法今時では二百五十戒などの戒律を持っても、何の役にも立たないばかりか、有害であり、世間を惑わすので「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」(0174-05)なのである。「那落」とは地獄のことである。
ゆえに律宗を信じ、弘める者は、国を破滅に導く賊であると破折されたのである。
概略、四箇の格言の意味を説明したが、念仏・禅・真言・律の四宗は、いずれも釈尊の「正直捨方便」という戒めに背いて「方便・権経」を依りどころとしたものであり「実経」である法華経を誹謗している邪法である。
当世第一の不思議の者たるのみならず人王九十代・仏法渡りては七百余年なれども・かかる不思議の者なし
日蓮大聖人御在世当時は「設い法華経を行ずる人も真言を行ふ人も、戒を持つ者も智者も愚人も」と述べられるように、法華経を依経としているはずの天台宗をはじめ諸宗の面々も、はかなき西方極楽浄土への往生を願求し、一同に称名念仏を正行とするほど念仏が大流行していた。
こうした情勢下で、日蓮大聖人ただ御一人「阿弥陀仏は無間の業」と獅子吼されたのであるから、国中の人々が大聖人並びに弟子門下を「父母の敵宿世の敵・謀叛・夜討・強盗よりも或は畏れ・或は瞋り・或は詈り・或は打つ」と述べられるように、仇敵視したのもむりからぬことで、それが迫害の嵐となって吹き荒れたのである。
あげくは「両度まで御勘気」を被られたのである。勘気とは、権力による咎めを受け、罪を付されることで、ここでは伊豆流罪と佐渡流罪をさす。
ここで日蓮大聖人が自らの値難の事実を示されたのは、大聖人御一人のみが、法華経法師品第十の「如来の現在すら、猶怨嫉多し。况んや滅度の後をや」の記文や、悪世に三類の強敵が迫害を加えることを示した勘持品第十三の二十行の偈」の文を身業読誦された末法の法華経の行者であることを明かされるためと拝される。
ゆえに御自身をさして「当世第一の不思議の者」「かかる不思議の者なし」といわれているのである。
不思議とは、ここでは当時の人々にとって、理解できないことを言われたものと拝せる。そして、仏教の信仰について当時の世に与えられた衝撃を譬喩的に「文永の大彗星の如し」「正嘉の大地震の如し」と言われたのであろう。
1073:07~1074:02 第三章 古今に超過する値難の理由を明かすtop
| 07 日本国に代始まりてより已に謀叛の者・二十六人・第一は大山の王子・第二は大石の山丸・乃至第二十五人は 08 頼朝・第二十六人は義時なり、 二十四人は朝は責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す、 二人は王位を 09 傾むけ奉り・国中を手に拳る王法・既に尽きぬ、 此等の人人も日蓮が万人に悪まるるに過ぎず、其の由を尋ぬれば 10 法華経には最第一の文あり、 然るを弘法大師は法華最第三・慈覚大師は法華最第二・智証大師は慈覚の如し、今叡 11 山・東寺・園城寺の諸僧・法華経に向いては法華最第一と読めども其の義をば第二・第三と読むなり、公家と武家と 12 は子細は知ろしめさねども御帰依の高僧等・皆此の義なれば師檀一同の義なり、 其の外禅宗は教外別伝と云云・法 13 華経を蔑如する言なり、 念仏宗は千中無一・未有一人得者と申す心は法華経を念仏に対して挙げて 失ふ義なり、 14 律宗は小乗なり正法の時すら仏免し給う事なし 況や末法に是を行じて国主を誑惑し奉るをや、妲己・妹喜・褒似の 15 三女が三王を誑らかして代を失いしが如し、 かかる悪法・国に流布して法華経を失う故に安徳・尊成等の大王・天 16 照太神・正八幡・に捨てられ給いて或は海に沈み 或は島に放たれ給い相伝の所従等に傾けられ給いしは天に捨てら 17 れさせ給う故ぞかし、 法華経の御敵を御帰依有りしかども是を知る人なければ其の失を知る事もなし、 「知人は 18 起を知り蛇は自ら蛇を識る」とは是なり。 -----― 日本国に代が始まってからこれまで、謀叛の者は二十六人いる。第一は大山の王子、第二は大石の山丸、ないし、第二十五人目は源頼朝、第二十六人目は北条義時である。前の二十四人は朝廷に責められて獄門に首を懸けられ、山野に骸を曝した。後の二人は王位を滅ぼし、国の実権を手に握った。王法は既に尽きてしまった。これらの人々も日蓮が万人に憎まれたのには及ばない。その理由を尋ねてみると、法華経には「最第一」の文がある。それを弘法大師は「法華経は最第三」とし、慈覚大師は「法華経は最第二」としている。智証大師は慈覚と同様である。今、比叡山や東寺や園城寺の諸僧は法華経に向っては「法華経は最第一」と読んでいるけれども、その義は「第二・第三である」と読んでいる。公家と武家は詳しいことは知らないのだが、帰依している高僧等が、皆この義であるので師と檀那ともに同じ誤りにおちている。その他、禅宗は「教外に別伝す」といっている。法華経を蔑ろにする言葉である。念仏宗は「千の中、一つも無し。未だ一人も得る者有らず」といっている。その意は、法華経を念仏に対して高い教えで衆生には理解できないと持ち上げながら排斥するのである。律宗は小乗である。正法時代の時でさえ仏は許されることはなかった。ましてや末法の時代にこれを行じて国主を惑わすことをお許しになるはずがない。妲己と妹喜と褒似の三人の女性がそれぞれ三人の王を誑かして代を亡ぼしたようなものである。このような悪法が国に流布して法華経を滅失したために、安徳や尊成等の大王は天照太神と正八幡大菩薩に見捨てられて、あるいは海に沈んだり、あるいは島に流されたりしたのである。代々仕えてきた臣下等に滅ぼされたのは諸天に捨てられたがゆえである。法華経の御敵に帰依されたのであるが、これを知って教える人がいなかったので、その過ちの深さを知ることもなかったのである。「智人は物事の起こりを知り、蛇は自ら蛇を識っている」というのはこれである。 -----― 1074 01 日蓮は智人に非ざれども蛇は竜の心を知り烏の世の吉凶を計るが如し、此の事計りを勘へ得て候なり、此の事 02 を申すならば須臾に失に当るべし申さずば又大阿鼻地獄に堕つべし。 -----― 日蓮は智人ではないけれども、蛇が竜の心を知り烏が世の吉凶を予知するように、このことを考察し判断できたのである。このことをいうならば、たちまちに咎を受けるであろうし、いわないならば、また大阿鼻地獄に堕ちるにちがいない。 |
大山の王子
生没年不明。大山守皇子のこと。第十五代応神天皇の皇子で、菟道稚郎子皇子の庶兄。日本書紀巻十一等によると、菟道稚郎子皇子を皇太子に立て、自身を山川林野の管掌にあてたことに不満を抱き、翌年応神天皇が崩御すると、密かに弟の殺害をはかったが、密計がもれて逆に殺害された。日本の初の謀反の者といわれる。
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大石の山丸
生没年不明。日本書紀巻十四の第二十一代雄略天皇13年(0469)8月の条にある播磨国御井隈(兵庫県・詳細不詳)の人・文石小麻呂のことを、鎌倉時代には大石の小丸とも誤伝されていたものか。日本書紀では暴虐で商客の船を奪い取り、法を犯して租税を納めなかったので、討伐されたと記されている。 尚「山丸」については小丸の転写ミスとも考えられる。
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頼朝
(1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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義時
北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
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王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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法華最第三
弘法は十住心論のなかで、衆生の心相を十種に分けて各宗の勝劣を判じ、天台宗を第八・一道無為住心、華厳宗を第九・極無自性住心、真言宗を第十・秘密荘厳住心として、法華経を大日経よりも三重に劣るとする邪義を立てている。
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慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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法華最第二
慈覚は蘇悉地経疏で、法華経は末だ如来秘密の意を究め尽していないとして、如来の事理俱密の意を究尽した大日経や金剛頂経等に劣ると説いた。
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智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
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園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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未有一人得者
道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。
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小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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正法
仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時のこと。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。仏滅後1000年までの期間。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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妲己
中国、殷の紂王の寵妃。有蘇氏を討って妲己を得た。紂王は彼女のいうことは何でもかなえてやり,淫声の楽を作らせ,賦課を重くして,酒池肉林にふけり,長夜の宴を催し,また炮烙 の刑を行なって妲己を喜ばせたという。
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妹喜
中国・夏王朝最後の王・桀の妃。桀は妹已の色香に溺れてその歓心を買うため政治を顧みず、ついに殷の湯王に滅ぼされたという。
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褒姒
周王朝の幽王の妃。幽王の寵愛を受け、王の子伯服を産んだ。一度も笑ったことのない褒姒の笑顔を見るため、幽王は非常用の烽火をあげ諸侯から反発をかい、また、王妃・申后と太子宜臼を廃し、褒姒と伯服を立てたことから、申后の父・申侯の怒りをかって滅ぼされた
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三王
中国古代、夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王をいう。異説には周王を武王ととるものがある。三王とも善政を施したことで特に尊敬を集めた。
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安徳
(1178~1185)。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁。母は平清盛の息女徳子である。治承4年(1180)3歳で第81代の天皇に即位。源氏に追われる平氏に擁されて西海に落ち寿永4年(1185)壇ノ浦で入水。文治3年(1187年)安徳天皇とおくり名された。大聖人は平家は真言によって源氏調伏の祈りを行なったためわが身を滅ぼしたと真言亡国の例に引用されている。
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尊成
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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正八幡
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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阿鼻地獄
阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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当時、日本における建国以来の謀叛人は二十六人といわれ、彼らは万人から憎まれたが、それでも日蓮大聖人が万人に憎まれたことには及ばないと述べられ、御自身がそのような難にあう理由を明かされている。
謀叛の者の第一に挙げられている大山の王子とは、第十五代応神天皇の皇子・大山守皇子のことである。
弟の菟道稚郎子皇子が皇太子に任じられたことに不満を抱き、応神天皇の死後、ひそかに弟の殺害を謀り、その密計が漏れていたことも知らずに兵を挙げて失敗。逆に殺されている。日本初の謀叛の者といわれる。
第二の大山の山丸とは、日本書紀巻十四の第21代雄略天皇13年8月の条にある播磨国・御井隈の人・文石小麻呂のことで、鎌倉時代には大石の山丸と誤伝していたらしい。
日本書紀では、暴虐で商客の船を奪い取り、法を犯して租税を納めなかったことから、天皇は春日小野臣大樹を遣わし、これを討伐したと記されている。
「乃至第二十五人は頼朝」とは、いうまでもなく鎌倉幕府初代将軍・源頼朝のことである。
頼朝を謀叛者としているのは、平氏が安徳天皇を擁し、源頼朝を朝敵として対峙したことから、こういわれたと思われる。安徳天皇は敗走する平氏とともに、最後は檀ノ浦に身を投げて亡くなった。
「第二十六人は義時」とは、鎌倉幕府第二代執権・北条義時のことである。
後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発したが、逆にわずか30余日で幕府軍によって惨敗を喫した。いわゆる承久の乱がそれである。
「二十四人は朝は責められ……二人は王位を傾むけ奉り・国中を手に拳る」と仰せられているのは、源頼朝、北条義時の二人によって朝廷方は敗北し、権力を奪われたことをさしておられる。
そうした違いはあるものの、以上の26人は朝廷に刃向かった謀叛人として、大なり小なり人々から憎まれた。しかし「此等の人人も日蓮が万人に悪まるるに過ぎず」と述べられているように、日蓮大聖人の場合は、これら謀叛の者とは比較にならないほどの激しい怨嫉・迫害を受けられたのである。
その原因は、亡国の邪教である真言をはじめ、国中の人が信じ崇めている念仏・禅等の諸宗の邪義を厳しく破折されたことにある。
真言宗や天台真言が亡国の邪教である理由は、法華経が一切経のなかで最も勝れた経であることが仏説に明白であるにもかかわらず、真言宗の弘法は大日経・華厳経より劣る「法華最第三」とし、天台宗第三代座主・慈覚と第五代座主・智証は「法華最第二」と位置づけていた。
したがって、仏法の教義内容に暗い公家・武家が、帰依している高僧等の意にしたがって「師檀一同」に法華経誹謗の罪に陥っていたのである。
禅天魔・念仏無間・律国賊の所以については前章に述べたとおりである。
このような悪法・邪法を信じ、正法正義たる法華経を失っているために、亡国の悲運を招いたのであると「安徳・尊成等」を例に挙げられている。
「或は海に沈み」とは第81代安徳天皇が檀ノ浦で亡くなられたことであり、「或は島に放たれ」とは「尊成」すなわち第82代後鳥羽天皇が承久の乱の結果、隠岐へ流されたことである。
「相伝の所従」とは、先祖から代々仕えてきた臣下と武士ということで、源頼朝や北条義時のことをいう。こうした朝廷方の悲運が「法華経の御敵」である真言宗などを尊崇していることにあることを大聖人御一人が見抜かれたのである。
「知人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」とは妙楽大師の法華文句記巻九中の文で、これは法華経従地涌出品第十五で地涌の菩薩が大地から忽然と現れたのに対して、補処の弥勒菩薩がその因縁を説きたまえと述べたところを釈した文である。
智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っているという文意である。
大聖人はこの文を引いて、御自身が、万象の根源にある仏法の極理を悟った聖人であることを暗に示されているのである。
「日蓮は智人に非ざれども……此の事計りを勘へ得て候なり」
あくまでも御謙遜の立場からの仰せである。
開目抄で「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200-09)と述べられていることと同趣旨である。
しかし、この悪法の失を明らかにして諸宗の誤りを公言するならば「睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233-05)とあるように、たちどころに大難を呼び起こすことは避けられない。
一方、大難を恐れて、諸法の諸宗を破折しなかったならば、自身が堕地獄を免れない。
涅槃経には「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し拳処せずんば当にしるべし是の人は仏法の中の怨なり」とあり、南岳大師の安楽行義には、謗法を責めずして成仏を求めても「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」とあるからである。
1074:03~1074:11 第四章 謗人の相を示すtop
| 03 法華経を習うには三の義あり一には謗人、勝意比丘・苦岸比丘・無垢論師・大慢婆羅門等が如し、彼等は三衣を 04 身に纒い一鉢を眼に当てて 二百五十戒を堅く持ちて而も大乗の讎敵と成りて 無間大城に堕ちにき、 今日本国の 05 弘法・慈覚・智証等は持戒は彼等が如く智慧は又彼比丘に異ならず、 但大日経真言第一・法華経第二・第三と申す 06 事・百千に一つも日蓮が申す様ならば 無間大城にやおはすらん、 此の事は申すも恐れあり増して書き付くるまで 07 は如何と思い候へども 法華経最第一と説かれて候に是を二三等と読まん人を聞いて人を恐れ国を恐れて 申さずば 08 即是彼怨と申して一切衆生の大怨敵なるべき由・ 経と釈とにのせられて候へば申し候なり、 人を恐れず世を憚か 09 らず云う事・我不愛身命・但惜無上道と申すは是なり、 不軽菩薩の悪口杖石も他事に非ず世間を恐れざるに非ず唯 10 法華経の責めの苦なればなり、 例せば祐成・ 時宗が大将殿の陣の内を簡ばざりしは 敵の恋しく恥の悲しかりし 11 故ぞかし、此れは謗人なり。 -----― 法華経を習学するには三つの義を心得ておく必要がある。一には謗人である。勝意比丘、苦岸比丘、無垢論師、大慢婆羅門等のような人々である。彼等は三衣を身に纒い、一鉢を掲げて、二百五十戒を堅く持っておりながら、しかも大乗の敵となって無間大城に堕ちてしまった。今、日本国の弘法、慈覚、智証等は戒を持つことは彼らのようであり、智慧はまた彼らと異ならない。ただし「大日経真言第一・法華経第二第三」といっていることは、百千に一つでも日蓮がいうとおりであるならば、無間大城にいることであろう。このことは言うことも恐れ多いし、まして書き述べることはどうかと思ったけれども、法華経が最第一と説かれているのに、これを第二、第三等と読む人を聞いて知っていながら、人を恐れ国を恐れて言わなければ「即ち是れ彼が怨なり」といって一切衆生の大怨敵となるであろうということが経と釈とに説かれているので言うのである。人を恐れず世を憚からず言うことは、法華経勘持品第十三の「我、身命を愛せず。但、無上道を惜しむ」という文の実践である。不軽菩薩が悪口され杖や石で打たれたのも、よそごとではない。世間を恐れないのではない。ただ、法華経の責めが厳しいからである。例えば、曾我祐成と時致が大将殿の陣の内であるからと遠慮もせずに仇討をしたのは、敵を討ち取りたいと思う心が切で仇を晴らせないという恥を残すことが悲しかったゆえであった。これは謗人である。 |
勝意比丘
諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
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苦岸比丘
大荘厳仏の末法の時の謗法僧。薩和多、将去、跋難陀の三比丘と共に邪道に堕ち、仏法を破った。この苦岸等の四比丘の化導で六百四億の人が師弟ともに阿鼻獄に堕ち大苦悩を受けた。後にこれらの人は一切明王仏に会ったが、仏果をうることはできなかったといわれている。仏蔵経往古品に詳しい。
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無垢論師
5・6世紀ごろの人で小乗教の論師。梵名はヴィマラミトゥラといい、無垢友と訳す。大唐西域記四によると、インドの迦逕弥羅国の人。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親の俱舎論に論破された衆賢の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その請願が終わらぬうちに舌が五つに裂け、後悔しながら地獄に堕ちたという。
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大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
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三衣
僧が着る3種の袈裟 。僧伽梨 (大衣・九条)・鬱多羅僧(上衣・七条)・安陀会 (中衣・五条)。僧の質素な生活をあらわすさまである。
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鉢
托鉢の時に布施で食べ物をもらい、それをいれるための食器。インドの僧団が僧侶が持つことが許されたもので、これらがあれば最低限は足りるという意味。
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二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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即是彼怨
妙楽大師の涅槃経疏巻八に「、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」とある。
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我不愛身命・但惜無上道
勧持品の文。「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と読む。勧持品では八十万億那由佗の菩薩が、釈尊滅後において三類の強敵を忍んで法華経を弘通すると誓う、請願の文。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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祐成
曾我祐成(1172~1193)のこと。鎌倉時代初期の武士。伊豆の豪族・河津祐泰の長男として生まれ、幼名を一万といった。安元2年(1176)父・祐泰が工藤祐経に殺され、母は曾我祐信に再嫁したため曾我の姓を名乗った。長じて父の仇討ちの機をうかがい、建久4年(1193)弟の時致と謀って頼朝の富士野の狩場で祐経を殺害したが、祐経の家臣・仁田忠常に殺された。曽我兄弟の仇討ちとして知られる。
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時宗
曽我時致(1174~1193)のこと。河津祐泰の次子で、祐成の弟。幼名を筥王といった。兄とともに父の仇の工藤祐経を殺して仇を討ったが、捕らえられて後に殺された。
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法華経を習学するうえで心しなければならないこととして、謗人・謗家・謗国の三義を示され、ここではその第一の謗人について説かれている。
謗人とは、文字どおり正法を謗る人、謗法の人をいう。
謗人の先例として、インドにおける勝意比丘、苦岸比丘、無垢論師、大慢婆羅門等の名を挙げられている。
彼らは三衣一鉢を帯し、小乗の二百五十戒を堅持していたが、小乗の低い教えに執着し、大乗を謗じたために、いずれも無間地獄に堕している。
三衣一鉢は略称して衣鉢ともいい、僧が着用する三種の法衣と食器用の一個の鉢のことである。鉢は施を乞うて歩く托鉢にも用いられた。
これらの人々が小乗に執して大乗を謗ったのに対し、日本における東密の弘法、台密の慈覚・智証等は、権大乗の大日経に執して、釈尊が一切経中最第一と定めた法華経を、弘法は第三、慈覚・智証は第二として誹謗したのである。
法華経譬喩品には「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば……其の人命終して、阿鼻獄に入らん」とあり、この仏説に照らせば、彼らが阿鼻地獄すなわち無間地獄に堕ちていることは明白であるといえよう。
弘法・慈覚等は歴代の王臣の帰依を得ていた高僧であるから、彼らが無間地獄に堕しているなどと直言することは恐れ多いことであり、まして文書として後世に伝えるとなればなおのことである。
しかし「法華経最第一」の仏説に背き、法華経を第二・第三とする邪法邪義をまえにして「人を恐れ国を恐れて」心がひるみ、呵責をためらったならば、章安大師が涅槃経疏に「即是彼怨」と言っているように「一切衆生の大怨敵」となってしまうゆえに、あえて謗法を呵責するのだと仰せられている。
章安大師のこの言葉は、涅槃経の「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」という文を釈したものであり、このことから「経と釈とにのせられて候へば」といわれている。
この仏説の戒めのゆえに、人を恐れず、世をはばかることなく、法華経勘持品第十三に説かれる「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」の経文どおりに謗法を呵責しているのであると仰せられている。
更に、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる常不軽菩薩が、一切衆生に仏性があるとして二十四文字の法華経を説き、礼拝を行じて上慢の四衆から杖木瓦石の迫害を受けたが、この常不軽菩薩の振る舞いも「他事に非ず」と述べられ、「世間を恐れざるに非ず唯法華経の責めの苦なればなり」と、世間からの難を覚悟のうえで、それを恐れる心より仏説に背くことを恐れる心のほうが強いゆえに折伏を行じているのであると仰せられている。
1074:12~1074:17 第五章 謗家の相を示すtop
| 12 謗家と申すは都て一期の間法華経を謗せず昼夜十二時に行ずれども謗家に生れぬれば必ず無間地獄に堕つ、 例 13 せば勝意比丘・ 苦岸比丘の家に生まれて或は弟子となり 或は檀那と成りし者共が心ならず無間地獄に堕ちたる是 14 なり、 譬えば義盛が方の者・軍をせし者はさて置きぬ・ 腹の内に有りし子も産を待たれず母の腹を裂かれしが如 15 し、今日蓮が申す弘法・慈覚・ 智証の三大師の法華経を正しく無明の辺域・虚妄の法と書かれて候は若し法華経の 16 文実ならば叡山・東寺・園城寺・七大寺・日本・一万一千三十七所の寺寺の僧は如何が候はんずらん、先例の如くな 17 らば無間大城疑無し、是れは謗家なり。 -----― 謗家というのは、一生のあいだ法華経を誹謗せず、昼夜十二時修行しても、謗法の家に生まれたならば必ず無間地獄に堕ちるのである。例えば、勝意比丘や苦岸比丘の家に生まれて弟子となったり、檀那となったりした者達が意に反して無間地獄に堕ちたというのはこれである。譬えば、和田義盛の一族の者は、戦をした者はさて置いて、腹の中にあった子も生まれるのを待たずに母の腹を切り裂かれて殺されたようなものである。今、日蓮がいうところの弘法と慈覚と智証の三大師が法華経をまさしく無明の辺域だの偽りの法だのと書いているが、もし法華経の文が真実ならば比叡山・東寺・園城寺・七大寺・日本の一万一千三十七か所の寺々の僧は、どうなることであろう。先例のとおりであるならば無間大城に堕ちることは疑いない。これは謗家である。 |
十二時
一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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義盛
和田義盛のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。
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無明の辺域
真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
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七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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謗人に続き、第二の謗家の相を示されている。
謗家とは、謗法の家のこと。正法を信じない家をいう。
すなわち、一生の間、法華経を誹謗せず、また昼夜に法華経を修行している人でも、謗家に生まれれば必ず無間地獄に堕ちるということである。
これは、正法誹謗の人と同座してその謗法を呵責しないとき、正法誹謗の者と同じ罪を受けることになるという与同罪の意を含んでの仰せと拝される。
例えば、インドの勝意比丘・苦岸比丘といった、正法を誹謗した人の家に生まれたり、あるいはその弟子・檀那となった人達が、不本意ながら無間地獄へ堕ちたようなものであるといわれている。
また、和田義盛一族が北条義時によって滅ぼされた実例を示されている。
義盛は源頼朝に仕えて戦功を立て、鎌倉幕府・侍所の初代別当に就いた将軍である。しかし、北条一門が幕府の実権を握るようになると、疎んじられるようになる。
建保元年(1213)5月、和田義盛はらの陰謀に加わったとして北条義時によって敵視され、三浦義村とともに挙兵したが、義時軍は事前に備えを固めており、三浦義村の寝返りもあって敗れ、一族は滅亡している。
この和田一族の末路は「義盛が方の者・軍をせし者はさて置きぬ・腹の内に有りし子も産を待たれず母の腹を裂かれしが如し」と述べられているように、実に凄惨なものだった。
こうした先例に比せられ、弘法等の三大師が「法華経第一」と説いた釈尊を、大日如来と比べれば無明の辺域、あるいは法華経は大日経に相対すれば戯論である等と主張していることは、まさしく法華経誹謗であり、法華経譬喩品の「此の経を毀謗せば……阿鼻獄に入らん」の文にあたる。そして、この三大師の流れを汲む全国寺々の僧、並びにその檀家の人々もまた、同じ謗法の罪によって無間大城は疑いないと断じられ、謗家の恐ろしさを示されている。
一般に、日本人は先祖伝来の宗旨だからといって、正邪・勝劣を弁別せず、真言・念仏など誤った宗教にかたくなに執着する傾向がある。そのこと自体、当事者の宗教に対する無知と関係なく、謗家となっているのである。
後文で「謗家の失を脱れんと思はば父母・兄弟等に此の事を語り申せ」と諭されているように、謗法の家に生まれても、正法に目覚めることによって、その非を糾し、謗法を呵責していくことが、謗家の失を免れる唯一の道であることを銘記していきたい。
1074:18~1075:10 第六章 謗国の相を示すtop
| 18 謗国と申すは謗法の者・其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり、 大海へは一切の水集り其の国は一 1075 01 切の禍集まる、 譬えば山に草木の滋きが如し、 三災月月に重なり 七難日日に来る、 飢渇発れば其の国餓鬼道 02 と変じ疫病重なれば其の国地獄道となる軍起れば其の国修羅道と変ず、父母・兄弟・姉妹をば簡ず妻とし夫と憑めば 03 其の国畜生道となる、死して三悪道に堕つるにはあらず現身に其の国四悪道と変ずるなり、此れを謗国と申す。 -----― 謗国というのは、謗法の者がその国に住んでいれば、その国中の皆が無間大城に堕ちることになるのである。大海へ一切の水が集まるように、その国には一切の禍が集まるのである。譬えば、山に草木が繁るようなものである。三災は月々に度重なり、七難は日々に起こってくる。飢饉が起これば、その国は餓鬼道と変わり、伝染病が度重なれば、その国は地獄道となる。戦争が起これば、その国は修羅道と変わる。父母や兄弟や姉妹を弁えずに妻としたり、夫としていくならば、その国は畜生道となるのである。死んで三悪道に堕ちるのではなく、現実の姿においてその国が四悪道と変わるのである。これを謗国という。 -----― 04 例せば大荘厳仏の末法・師子音王仏の濁世の人人の如し、又報恩経に説かれて候が如くんば過去せる父母・兄弟 05 姉妹・一切の人死せるを食し又生たるを食す、今日本国亦復是くの如し真言師・禅宗・持斎等・人を食する者・国中 06 に充満せり、 是偏に真言の邪法より事起れり、 竜象房が人を食いしは万が一顕れたるなり、彼に習いて人の肉を 07 或は猪鹿に交へ・或は魚鳥に切り雑へ・或はたたき加へ或はすしとして売る、 食する者数を知らず皆天に捨てられ 08 守護の善神に放されたるが故なり、 結句は此の国他国より責められ自国どし打ちして 此の国変じて無間地獄と成 09 るべし、 日蓮・此の大なる失を兼て見し故に与同罪の失を脱れんが為め仏の呵責を思う故に知恩・報恩の為め国の 10 恩を報ぜんと思いて国主並に一切衆生に告げ知らしめしなり。 -----― 例えば大荘厳仏の末法や師子音王仏の濁世の人々のようなものである。また報恩経に説かれているとおりであるならば、亡くなった父母や兄弟や姉妹をはじめ一切の人の死んだのを食べ、また生きたのを食べるのである。今、日本国もまたそのとおりである。真言師や禅宗や持斎等で人を食べる者は国中に充満している。これはひとえに真言の邪法から起こったのである。竜象房が人を食べたのは万のうちの一つが露顕したのである。彼に見習って人の肉を、あるいは猪や鹿の肉に交えたり、あるいは魚や鳥の肉に切り交えたり、あるいは叩き加えたり、あるいは鮨として売ったりしている。食べた者は数知れない。皆、諸天に見捨てられ、守護の善神に見放されたためである。結局はこの国は他国から責められ、自国では同士打ちをして、この国自体が変わって無間地獄となってしまうであろう。日蓮はこの大なる失をかねてから知見していたゆえに、与同罪の失を脱れんがために、また仏の呵責を思うゆえに、そして知恩・報恩のため国の恩を報じようと思って、国主並びに一切衆生に告げ知らせたのである。 |
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
三災
①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
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七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す。
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飢渇
飢えと渇きのこと。飲食物の欠乏。
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餓鬼道
梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。
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疫病
悪性のウイルスによる伝染病。
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地獄道
地獄は梵語ナラカ(naraka)の訳で、十界・六道・四悪趣の最下層にあたる境界。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛(けいばく)不自在で、拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。八熱地獄、八寒地獄、十六小地獄、百三十六地獄など、経典によって様々な種類の地獄が説かれている。大乗義章巻八末に「地下の牢獄は是れ其の生処なり。故に地獄という」とある。
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修羅道
勝他の念にとらわれ、絶えず他と争わないではいられない境界。修羅は梵語アスラ(asura)の音写である阿修羅の略。無端正、無酒、非天等と訳す。八部衆の一。常に帝釈天と争う鬼神であり、須弥山の外輪の大海の底に住むといわれている。
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畜生道
畜生は梵語ティリャギョーニ(tiryagyoni)の訳で、三悪道・十界の一つ。傍生ともいう。理性を失い、本能のままに行動する境界。観心本尊抄では「癡はとされている。
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三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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四悪道
四悪・四趣・四悪道と同意。悪行によって趣くべき四種の苦悩の境涯。地獄・餓鬼・畜生・修羅界のこと。
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大荘厳仏の末法
仏蔵経巻中に説かれる。過去久遠無量無辺不可思議阿僧祇劫に出現した大荘厳仏の滅後百年に弟子は五派に分裂した。このなかで普事比丘だけは大荘厳仏の教えを正しく守ったが、他の苦岸、薩和多、将去、跋難陀の四比丘は邪道に迷い、邪見を起こして普事比丘を迫害した。四比丘とこれに従った大衆は地獄に堕ちたという。
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師子音王仏の濁世
諸法行法経に出てくる。過去・無量・無辺・不可思議・阿僧祇劫の仏で、国は千光明、寿命は十万憶那由佗歳。国土は説き尽すことができないほど荘厳で、この国の樹木は皆、七宝からなり、空の音・無相の音などの法音を出し、これら諸法の音をもって衆生を得道させたという。師子吼鼓音王仏は三乗の法を説き、九十九億の声聞の弟子は阿羅漢を得、九十九億の菩薩は無生法忍を得た。更にこの仏の説いた法は六万歳の間、住して後、樹木の法音も絶えてしまった。また師子吼鼓音王仏の末法に喜根比丘が現れ、諸法の実相を説いたが、勝意比丘に誹謗された。しかし喜根比丘は法を貫いて成仏し、勝意比丘等は地獄に堕ちたという。
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報恩経
『大方便仏報恩経』のこと。 7巻。 訳者不詳。 出家して親を捨てるのは忘恩であるという非難に対して、一切の衆生を棄てないという大慈心をおこすことこそ真の報恩であると説いたもの。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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竜象房
比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧で、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食して常用していたことである。これに気づいた山門の衆徒は行状を厳しく追及し彼の住房を焼き払われ、建治3年(1277)頃に鎌倉に下り、良観の後援によって桑ヶ谷に居住している。日蓮大聖人の弟子・三位房との法論に破れ、その後病に倒れている。
―――
与同罪
共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
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謗人、謗家に続き、第三に謗国の相を示された段である。
謗国とは、謗法の国のこと。正法誹謗の者が充満している国土をいう。ゆえに依正不二の法理のうえから「其の一国皆無間大城になる」のである。
そこには、大海に一切の川の水が集まるように一切の禍が集中し、「三災月月に重なり七難日日に来る」という様相を呈するのである。
三災とは飢饉・疫癘・兵革の災いをいうが、このことを具体的に「飢渇発れば其の国餓鬼道と変じ疫病重なれば其の国地獄道となる軍起れば其の国修羅道と変ず、父母・兄弟・姉妹をば簡ず妻とし夫と憑めば其の国畜生道となる……」と述べられている。
しかも「死して」ではなく「現身に」と仰せのように、現実に飢饉、疫病、戦争などに苦しむ三悪道・四悪道となるのである。
次に謗国の先例を挙げられている大荘厳仏の末法とは、大荘厳仏の滅後に、普事比丘のみが正法を護持していた。他の苦岸比丘等の四比丘は仏の教えに背いて邪義を唱え、多くの弟子達とともに阿鼻地獄に堕ちたとされる。
曾谷二郎入道殿御返事に「彼の大荘厳仏の末の六百四万億那由佗の四衆の如き各各の業因異りと雖も師の苦岸等の四人と倶に同じく無間地獄に入りぬ」(1067-07)と仰せである。
師子音王仏の濁世とは、師子音王仏の末法に喜根比丘が現れ、諸法の実相を説いたが、勝意比丘等は喜根比丘を謗り、侮辱したため、生きながら地獄へ堕ちたとされる。
兄弟抄に「師子音王仏の末の男女等は勝意比丘と申せし持戒の僧をたのみて喜根比丘を笑うてこそ無量劫が間・地獄に堕ちつれ」(1082-14)と仰せである。
また報恩経には、濁世の相について「亡くなった父母・兄弟・姉妹をはじめ、一切の人々の死んだ肉を食い、また生きている人を殺してその肉を食う」と説かれているが、当世の日本国も同様の様相を呈しているとして、人々を悪法に導きながら、その布施によって身を肥やしている真言・禅・律等は「人を食する者」であると喝破されている。
こうした恐怖すべき世相を招来した元凶は「偏に真言の邪法より事起れり」と断定されている。そして、実際に人肉を食した竜象房は、こうした諸宗の僧達の「万が一」が露顕したにすぎないと糾弾されている。
竜象房が人を食いしは万が一顕れたるなり
竜象房とは、鎌倉時代の天台宗の僧である。生まれも生い立ちも不明で、いかなる立場の僧であったかも明らかでない。
ただ一つ明白なことは、比叡山延暦寺の堂塔内に住んでいたころ、人目を忍んでは洛中(京都市中)に下り、餓死者をあさって朝に夕に人肉を食していたことである。
これに気づいた比叡山の衆徒が竜象房の行状を厳しく追及したことが「天台座主記」の建治元年(1275)4月27日の記述にみられる。
すなわち「山門の衆徒群り下りて東光寺に集会し、公友ならびに犬神人を差し遣し、竜象上人の住房これを焼き払い、中山の住房は犬神人等これを破取す」とある。
頼基陳情にも「彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪鬼・国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し其の身を誅罰せむとす……」(1159-02)と述べられている。
住房を焼き払われ鎌倉に逃げ下った竜象房は真言律宗の極楽寺良観の庇護を受け、桑ヶ谷に法席を構えて説法していた。
建治3年(1277)に、日蓮大聖人の弟子・三位房日行がこれと問答し、徹底的に破折した。竜象はこのことを恨み、日行と同行した四条金吾が「徒党を組み、武器を所持して悪口・悪行し、竜象を責めた」と、虚偽の証言を行って金吾の主君・江間氏へ訴えたのである。
このため金吾は主君の勘気を受けている。しかし建治三年(1277)9月、金吾に与えられた崇峻天皇御書には「彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ、和讒せし人も又其の病にをかされぬ」(1171-05)と述べられているところから、竜象房は疫病にかかって倒れたようである。
ともあれ、竜象房の人肉食という行為は人倫の道に背くものとして他の僧等から糾弾されたのであったが、本質的にいえば、正法誹謗の邪法を人々に教えて布施を受けている諸宗の僧は皆、人肉を食しているようなものであると指摘されて、竜象房の例は「万が一顕れたる」ことであるとされている。そして、一般世間でも飢えの世に乗じて、人肉を猪や鹿、魚鳥に混入して売る非道がまかりとおっていたのである。
したがって、それを知らずに「食する者数を知らず」という状況となっていたのである。
このような非道が横行するようになったのも、人々が法華経を誹謗しているので、国を守護すべき諸天善神が捨離したためであるとされ、そのあげくのはては他国侵逼難・自界叛逆難によって、一国が無間地獄に変ずることを憂慮されているのである。
すでに飢饉・疫病・兵革の三災は眼前にあり、大聖人はその由来の根本原因が背正帰悪という「大なる失」にあることを知悉されたゆえに、これまで「国主並に一切衆生」に対し、覚醒を促すべく謗法を呵責してきたのだと、その理由を総括して述べられている。
一に、与同罪を免がれんがため、
二に、仏の呵責を重視するため、
三に、国恩に報いるため、
とされている。
与同罪とは、同じ罪をともに受けることである。与とは共にすること、一般にいう共犯・共同責任にあたる。
すなわち、謗法を黙認して呵責しなければ、結果としては、同意し与したことになるから、謗法の者と同じ罪を受けることになるのである。
「仏の呵責を思う故に」とは、先にも触れた「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」という涅槃経の文をいわれている。
大聖人は曾谷殿御返事で「此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり」(1056-06)と仰せである。
「見」とは単に「見る」というだけでなく「聞く」ことも含めた認識することを意味する。また「置」とは、放置する、見てみぬふりをするという意味である。
したがって「見」と「置」とを心腑に染めよとは、「法を壊る者」を見聞きしながら、それを破折しないで放置するならば、その人自身「仏法の中の怨」つまり仏の敵となってしまうという意である。また与同罪となるから心していきなさいとの御注意でもある。
「知恩・報恩の為め国の恩を報ぜん」とは、恩は深く人間性に根差したものであり、仏法上では更に父母・師匠・国主・三宝の四恩など広範囲にわたって論及している。大聖人は本抄では国の恩に報いるため、謗国となっている日本を救わんとしているのであると仰せである。
1075:11~1076:02 第七章 謗法治罰の功徳と安国の方途示すtop
| 11 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり、五戒の初めにも不殺生戒.八戒・十戒・二百五十戒・五百戒.梵網 12 の十重禁戒・華厳の十無尽戒・ 瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり、 儒家の三千の禁の中にも大辟こそ第 13 一にて候へ、 其の故は「ヘン満三千界・無有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、 14 蟻子を殺す者・尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや青草を切る者・猶地獄に堕つ況や死骸を切る者をや、 是くの如き重戒 15 なれども法華経の敵に成れば此れを害するは 第一の功徳と説き給うなり、 況や供養を展ぶ可けんや、 故に仙予 16 国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、 此等の 17 国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、 仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の 18 仁なり、今日本国も又是くの如し持戒・破戒・無戒・王臣万民を論ぜず一同に法華経誹謗の国なり、 設い身の皮を 1076 01 はぎて法華経を書き奉り肉を積んで供養し給うとも 必ず国も滅び身も地獄に堕ち給うべき大なる科あり、 唯真言 02 宗・念仏宗・禅宗・持斎等を禁めて身を法華経によせよ、 -----― 不殺生戒というのは一切の諸戒の中の第一である。五戒の初めにも不殺生戒があり、八戒・十戒・二百五十戒・五百戒・梵網経の十重禁戒・華厳の十無尽戒・瓔珞経の十戒等の初めには皆、不殺生戒が置かれている。儒家で説く三千の刑罰のなかにも死刑が第一になっている。そのわけは「三千界に徧満するとも、身命に直うこと有ること無し」といって三千大千世界に満ちる珍宝をもってしても命に替えることはできない。蟻の子を殺す者でさえ地獄に堕ちる。ましてや魚や鳥を殺す者はなおさらである。青草を切る者でさえ地獄に堕ちる。ましてや死骸を切る者はなおさらである。 このような重い戒ではあるけれども、法華経の敵に成るときは、これを殺害するのは第一の功徳であると説かれているのである。ましてや供養を行ってよいことがあろうか。故に仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し、阿育大王は十万八千人の外道を殺したのである。 これらの国王や比丘等は世界第一の賢王であり、持戒第一の智者である。仙予国王は釈迦仏となり、覚徳比丘は迦葉仏となった。阿育大王は得道の人である。 今、日本国もまた同様である。持戒・破戒・無戒、王臣・万民を問わず、みな同じく法華経を誹謗している国である。たとえ、身の皮を剥いで法華経を書写し、肉を積んで供養したとしても、必ず国も滅び身も地獄に堕ちるべき大きな科があるのである。ただ、真言宗・念仏宗・禅宗・持斎等を禁じて、法華経に帰依しなさい。 |
不殺生戒
戒律に規定されたことで,生物の生命を絶つことを禁止する戒。これを犯して殺すものは,僧伽では最も重い波羅夷 (教団追放の罪) になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。
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五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。①不殺生戒 ②不偸盗戒③不妄語戒 ④不邪淫戒 ⑤不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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八戒
小乗教で説かれた、在家の信者が一日一夜に限って守るべき八つの戒のこと。八斎戒、八関戒ともいう。戒の種類は経論によって多少の違いはあるが、倶舎論巻十四によれば①殺生 ②不与取 ③非梵行④虚誑語⑤飲諸酒 ⑥塗飾香鬘舞歌観聴⑦眠坐高広厳麗床座⑧食非時食 の八種を禁じている。
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十戒
小乗教の在家戒としての十戒は明確ではない。大乗教の在家戒である十善戒としては、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見がある。
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五百戒
比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
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梵網の十重禁戒
十重禁・十重戒ともいい、大乗の菩薩がこれを犯すと最も重罪とされ、破門・追放となった。一.殺戒…いかなる生き物でも、これを故意に殺傷を禁じる戒。二.盗戒…一銭・一草であっても与えられていない物を盗むを禁じる戒。三.婬戒…いかなる性行為・性交渉を禁じる戒。四.妄語戒…未だ達していない聖者の境地に達した、と虚言を禁じる戒。五.こ酒戒…酒を乞うてはならない・販売を禁じる戒。六.説過戒…仏弟子同士の罪過をあげつらうことを禁じる戒。七.自讃毀他戒…自身の徳を賞讃して、他者を謗ることを禁じる戒。八.故慳戒…財施・法施に限らず、いかなる物でも物惜しみしてはならない九.故瞋戒…殊更に怒りを起こし、それを悔いないことがあってはならない。十.謗三宝戒…如何なる場合でも、三宝を謗ることを禁じる戒。をいう。
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華厳の十無尽戒
華厳経の離世間品に説かれる十種の清浄戒のこと。①身清浄戒②語清浄戒③心清浄戒④不破一切学処清浄戒⑤守護菩提心清浄戒⑥守護如来所制清浄戒⑦隠密護持清浄戒⑧不作一切悪清浄戒⑨遠離一切有見清浄戒⑩守護一切衆生清浄戒。ただし十清浄戒は「十無尽戒とは示されておらず、瓔珞経に説かれている。
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瓔珞経の十戒
瓔珞経で説かれる十無尽戒のこと。①不殺生戒②不妄語戒③不淫戒④不盗戒⑤不沽酒戒⑥不説在家出家菩薩罪過戒⑦不慳戒⑧不瞋戒⑨不自讃毀他戒⑩不謗三宝蔵戒。
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三千の禁
古代中国で定められていた刑罰。墨・劓・剕・宮・大辟の五刑を細分化し三千となる。
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大辟
古代中国で定められていた五刑のうちの最も重い刑で首切りを意味する。
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徧満三千界・無有直身命
「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と読む。出典は不明だが、あるいは法華経薬王菩薩本事品第二十三の「若し発心して阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲すること有らば、能く手の指、乃至足の一指を燃やして、仏塔に供養せよ。国城・妻子、及び三千大千国土の山林・河池、諸の珍宝物を以て供養せん者に勝らん」の意をとられたのであろうか。
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三千界
三千大千世界のこと。三千世界ともいう。古代インド人の描いた宇宙。須弥山を中心として、そのまわりに四大洲があり、さらにそのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界の単位で小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
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仙予国王
釈尊の過去世における菩薩修行の時の姿。涅槃経の聖行品に説かれている。釈尊はその昔、過去世に閻浮提の大国の王に生まれ、仙予と名のっていた。そして大乗経典を愛念し敬重し、その心は純善で、粗悪の心や人をねたんだり物惜しみをするようなことはなかった。口には愛語、善語を述べ、身は貧窮と孤独を守り、布施、精進を少しも休み廃することがなかった。その時代には仏、声聞、縁覚はいず、婆羅門に師事した。その婆羅門に仙予国王が「師等今応に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし」といったところ、婆羅門は「大王、菩提の性は是れ有る所無く、大乗経典も亦復是の如し。大王、云何ぞ乃ち人と物とをして、虚空に同ぜしむ」と大乗経典を誹謗した。これを聞いた大王は直ちに五百人の婆羅門を殺した。この因縁によって大王はそれ以来地獄に堕ちず、殺された婆羅門も大乗誹謗を悔い、後の世に大乗の信を発して救われたという。
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覚徳比丘
涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿?仏国に生まれ、阿?仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。
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阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝(前0317頃~前0180頃)第三代の王。生来、暴虐な性格で、兄弟を殺して即位し、治世の前半を征服戦に費やし、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設した。しかし、即位九年後のカリンガ地方征服戦の悲惨さを見てから心を改め、後半は平和主義に徹し篤く仏教を信じて諸僧を供養するとともにその慈悲の精神を施政に反映した。更に、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。また、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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閻浮
一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
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謗人、謗家、謗国の三義を示されたうえで、謗法の僧への供養を戒められている。仏教では不殺生戒を第一としているが、例外として謗法の者を害することは第一の功徳になると説かれており、その過去の先例を示しながら、謗法を治罰することの功徳と安国の方途を明かされている。
まず仏教では、五戒・八斎戒・十重禁戒などの諸戒のなかで、不殺生戒を第一としていることを述べられている。
すなわち、有情の生命を奪うことを禁ずる戒律で、この戒を破って人間として生を受けたときは、短命・多病の二種の悪果を得るとされる。
中国古代の五刑でもを第一としている。大辟とは死刑・死罪のことで、辟は罪の意である。
総勘文抄でも五刑について「罪を治むるには五刑に法とる謂く墨・劓・剕・宮・大辟此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う」(0567-17)と記されている。墨は入れ墨、劓は鼻切り、剕は足切りで、宮は男子の去勢、女子は幽閉の刑である。
不殺生戒を第一とする理由について「三千界に徧満するとも、身命に直うこと有ること無し」という文を引用されている。
すなわち、三千界に遍く敷き満たすほどの財宝といえども、命と取り替えることはできないという意味で、生命のもつ尊厳性・無上の価値を説き明かした文といえる。
ゆえに「蟻子を殺す者・尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや」と、涅槃経梵行品で「殺に三有り、謂く下・中・上なり、下とは蟻子乃至一切の畜生なり」等と説かれている経旨に基づき、殺した者はその度合いに応じ、地獄・餓鬼・畜生界の苦を受けるとされ、青草を切ってさえ地獄の業となるのであって、ましてや竜象房等のように、人の死骸の肉を切る者においてはなおのこと堕地獄は必定であると指摘されている。
不殺生戒はこれほどの重戒であると説く一方で、経文には、例外として正法である法華経の敵となった者を害することは、むしろ第一の功徳になるものと説かれている。それゆえに法華経の敵である諸宗の僧への供養などはもはや論外であると戒められている。
ここで「法華経の敵に成れば此れを害する」と仰せになっているが、元意は、殺害することにあるのではなく、謗法の心を断つことにある。
ともあれ、法華経の敵となった謗法の者を治罰し、功徳を受けた先例として、過去の仙予国王、覚徳比丘、阿育大王の故事を示されている。
仙予国王とは、釈尊の過去世における菩薩の修行中の姿をいう。
涅槃経巻十二によると、釈尊はその昔、大国の王と生まれ、仙予と名乗っていた。しかも大乗経典を愛念し、敬い重んじていた。
その時代には仏がいなかったので、十二年間、五百人のバラモンに師事した。そして、その関係からバラモン達に菩提心を発すよう促したところ、バラモン達はかえって大乗経典を誹謗した。
そのため大乗経典を重んずる仙予国王は、即座に五百人のバラモンの命を断った。この因縁によって、それ以来、王は地獄に堕ちないと説かれている。
覚徳比丘とは、涅槃経巻三に説かれている過去世の正法護持の僧をいう。
それによると、歓喜増益如来の滅後、あと四十年で仏法が滅しようとした末世に、一人の僧がいて、名を覚徳といった。
同時に、正法を誹謗する多くの比丘がいて、悪心を起こし、刀杖で覚徳比丘を迫害した。その時の国王を有徳王といい、護法のために武器をもって謗法者と戦った。
覚徳比丘は有徳王の救援で迫害を免れたが、有徳王は全身に傷を受けて命を終えた。このことを「覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し」と、有徳王に寄せて説かれている。
二人は死後、護法の功徳によって阿閦仏の国に生まれ、それぞれの声聞衆のなかの第一・第二の弟子となり、覚徳比丘は迦葉仏となり、有徳王は釈迦仏となった。
釈尊はこの故事を説いて護法の精神を強調している。
阿育大王とは、インド・マウリア朝第三代の王で、インドを統一した最初の大王である。在位は紀元前二六八年~二三二年ごろとされている。
初めは暴君であったが、後に仏教の精神に基づいて慈悲深い王として善政を敷いた「得道の仁」であった。
王は生来、暴虐な性格で、兄弟を殺して自ら即位したという。また即位9年後(紀元前0259)に、カリンガ地方を征服し、約十万人を殺害し、更に十五万人を捕虜にしたという。
王はこの二年前に仏教に帰依していたが、この惨状を見て深く反省し、仏教を真剣に信じ、行ずるようになった。「十万八千の外道を殺し」たということは阿育王経巻三供養菩提樹因縁品に説かれている。
当時の日本国も、これらの先聖の時代と同様「一同に法華経誹謗の国」であるため、たとえ過去の楽法梵 のように自らの身の皮を剥いで法華経を書写し、あるいは雪山童子の例にならって肉を積んで法華経に供養したとしても、末法では機法不相応の修行であるから、なんの功徳もないばかりか、謗法容認の罪で、かえって地獄に堕ちざるをえないのである。
したがって、亡国と堕地獄を免れるためには、方途はただ一つ、その元凶である真言等の謗法を呵責し、諸宗への布施を止めて、正法である法華経に帰依する以外にないのである。
1076:02~1076:15 第八章 真言に堕した天台宗を呵責するtop
| 02 天台の六十巻を空に浮べて国主等には智人と思われたる 03 人人の或は智の及ばざるか、 或は知れども世を恐るるかの故に或は真言宗をほめ或は念仏・禅・律等に同ずれば彼 04 等が大科には百千超えて候、 例せば成良・義村等が如し、 慈恩大師は玄賛十巻を造りて法華経を讃めて地獄に堕 05 つ、 此の人は太宗皇帝の御師・玄奘三蔵の上足・十一面観音の後身と申すぞかし、音は法華経に似たれども心は爾 06 前の経に同ずる故なり、 嘉祥大師は法華玄十巻を造りて既に無間地獄に堕つべかりしが 法華経を読む事を打ち捨 07 てて天台大師に仕えしかば地獄の苦を脱れ給いき、 今法華宗の人人も又是くの如し、 比叡山は法華経の御住所・ 08 日本国は一乗の御所領なり、 而るを慈覚大師は法華経の座主を奪い取りて 真言の座主となし 三千の大衆も又其 09 の所従と成りぬ、 弘法大師は法華宗の檀那にて御坐ます嵯峨の天皇を奪い取りて内裏を真言宗の寺と成せり、 安 10 徳天皇は明雲座主を師として 頼朝の朝臣を調伏せさせ給いし程に、 右大将殿に罰せらるるのみならず安徳は西海 11 に沈み・明雲は義仲に殺され給いき、尊成王は天台座主・慈円僧正・東寺・御室並に四十一人の高僧等を請下し奉り 12 内裏に大壇を立てて 義時右京の権の大夫殿を調伏せし程に、 七日と申せし六月十四日に洛陽破れて 王は隠岐の 13 国・或は佐渡の島に遷され座主・御室は或は責められ或は思い死に死に給いき、 世間の人人・此の根源を知る事な 14 し此れ偏に法華経・大日経の勝劣に迷える故なり、 今も又日本国・大蒙古国の責を得て彼の不吉の法を以て御調伏 15 を行わると承わる又日記分明なり、此の事を知らん人争か歎かざるべき。 -----― 天台の六十巻を暗記して国主等には智人と思われている人々が、あるいは智慧が及ばないのか、あるいは知っていながら世間を恐れるゆえか、真言宗を褒めたり、あるいは念仏宗や禅宗や律宗等に与していることは、彼らの罪科よりも百千倍超えている。例えば、田口成良や三浦義村等のようなものである。慈恩大師は法華玄賛十巻を造って、法華経を讃嘆して地獄に堕ちている。それは、この人は太宗皇帝の御師である玄奘三蔵の高弟であり、十一面観音の後身といわれた人である。説いていることは法華経のようであるけれども、心は爾前経に同じていたからである。嘉祥大師は法華玄論十巻を造って、もう少しで無間地獄に堕ちるところであったが、我見で法華経を読むことを止めて天台大師に仕えたので地獄の苦を脱れられた。今、法華宗の人々もまた同様である。比叡山は法華経の道場であり、日本国は一乗法華経が治めるべき国土である。それを慈覚大師は比叡山の法華経の座主を奪い取って真言の座主とし、三千人の大衆もまたその従者となった。弘法大師は法華宗の檀那であられた嵯峨天皇を奪い取って、内裏を真言宗の寺としてしまった。安徳天皇は明雲座主を師として頼朝の朝臣を調伏せられたところ、右大将殿に罰せられただけでなく、安徳天皇は西海に沈み、明雲は源義仲に殺されてしまった。尊成王は天台座主の慈円僧正や東寺・御室等の四十一人の高僧等に命じられ、内裏に大壇を築いて右京の権の大夫殿を調伏したところ、七日目の六月十四日に京都は破れて、上皇方は、あるいは隠岐の国あるいは佐渡の島に流され、座主や御室はあるいは責められ、あるいは思い詰めて死んだりした。世間の人々はこの根源を知らない。これはひとえに法華経と大日経の勝劣に迷ったことにある。今もまた、日本国は大蒙古国から責められて、かの不吉の真言の法をもって御調伏をされると承っている。また日記に明らかである。このことを知る人はどうして嘆かずにいられようか。 |
天台の六十巻
天台大師が講述し、章安大師が筆録した天台三大部(法華文句・法華玄義・摩訶止観、各10巻)と妙楽大師が注釈した、法華玄義釈籤10巻、法華文句記10巻、止観輔行伝弘決10巻を合わせて60巻とする。
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成良
田口成良のこと。阿波の豪族。平氏に属し、治承4年(1180)年の源氏方の挙兵後も平氏方として各地を転戦したが、文治元年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで源氏方に寝返り、源氏方の勝利に貢献する。しかし、戦後、裏切りを咎められ、鎌倉にて処刑されたという。
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義村
三浦義村のこと。平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。義澄の子。母は伊東祐親の娘。元暦元年 (1184) 父とともに平氏追討のため鎌倉を発し,平氏滅亡まで海陸に転戦。文治5 年(1189) には源頼朝の奥州藤原氏征討に従軍。家督を継いで三浦介,相模国守護となり,幕府の有力御家人の一人となった。建久元年 (1190) 右兵衛尉。建仁3年 (1203) 土佐国守護。建暦元年 (1211) 左衛門尉。同3年(1213)の和田合戦には同族和田義盛に違約して北条氏を助け,和田氏敗北の一因をなした。承久の乱には主将北条泰時とともに東海道の将として京都に進攻。執権北条氏に信任され,河内国,紀伊国守護を兼ね,嘉禄元年(1225) 評定衆に就任した。
―――
慈恩大師
(0632~0862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
―――
玄賛十巻
慈恩撰の「妙法蓮華経玄賛」10巻。五性各別の邪義を説く。
―――
太宗皇帝
(0598~0649)唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
―――
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
―――
上足
弟子の中で特に優れたもの。高弟。
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十一面観音
「十一面観音」とは、11面の顔を持つ観世音菩薩のこと。衆生済度の化身として説かれている。十一面観音神呪経によると、前三面は観音面、左三面は瞋面、右三面は菩薩面に狗牙が上出している面、後ろ一面は大笑面、頂上面は仏面である。頂上の仏面は仏果を示し、他の十面は十地を顕すといわれる。
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後身
あとの身・生まれ変わった身。
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爾前の経
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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嘉祥大師
(0549~0623)。吉蔵大師の異名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
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法華玄十巻
嘉祥の「法華玄論」10巻。天台の「法華玄義」ではない。
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天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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比叡山
延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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一乗
一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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座主
大寺の管長のこと。
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嵯峨の天皇
(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
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内裏
天皇の住む宮殿。御所。皇居。
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明雲座主
(~1183)。比叡山延暦寺55.57台座主。弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する。治承3年(1179)、政変で院政が停止されると座主職に再任され、大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた。
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朝臣
位階の五位以上の人。
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調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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義仲
(1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
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慈円僧正
(1155~1225)。延暦寺62・65・69・71代座主。平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。
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御室(寺)
仁和寺のこと。京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
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大壇
密教修法の際、護摩壇等に対して中心となる本尊壇のこと。
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洛陽
①中国河南省北西部の都市。洛河北岸にある。西周時代に都として建設され洛邑とよばれ、漢代に改称、北魏・晋・隋・後梁・後唐などの首都。唐代には長安に対して東都とよばれ、経済・文化の中心として繁栄した。②平安京のこと。③京都のこと。
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隠岐の国
山陰道8ヶ国のひとつ。島根県東北部および隠岐諸島の全域をいう。遠流の地であり、承久の乱で敗れた後鳥羽天皇が流罪された地。
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佐渡の島
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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大蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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謗法呵責を強調されるなかで、本来、法華経を依経とする天台宗が真言の邪法に染まり、更に念仏・禅などに与同していることは、諸宗の謗法罪に百千倍超える大科であると指摘され、安徳帝・後鳥羽帝などが滅びたのは、この真言の邪法を根本としたためであると指摘されている。
「天台の六十巻を空に浮べて国主等には智人と思われたる人人」とは、天台宗の高僧達をさしていわれている。
「天台の六十巻」とは、天台大師が著した法華玄義、法華文句、摩訶止観の各十巻と、それを注釈した妙楽大師の法華玄義釈籤・法華文句記・止観輔行伝弘決の各十巻の、計六十巻をいう。
「或は智の及ばざるか、或は知れども世を恐るるかの故に」と仰せであるが、彼らは天台宗でありながら「理同事勝」と唱えて真言密教を尊び、法華経を下したのである。
「或は念仏・禅・律等に同ずれば」とは、愚かにも諸宗に得道ありといって法華経と同等に位置づけ、それのみか称名念仏などを自宗の修行として取り入れたことをいわれている。
こうした天台宗の高僧達の罪科は、権教を依経とする諸宗の人々の謗法罪より百千倍超えるものであると弾呵されている。それは、あたかも平安末期の武将・田口成良が平氏に背いて源氏に内通したり、また鎌倉時代の武将・三浦義村が、和田義盛に加担して北条氏に背いたようなものであるとされている。
次に、法華経を読み讃嘆しても、我見を根本にしている場合は、かえって堕地獄の因となることを、中国の慈恩大師、嘉祥大師の例によって示されている。
慈恩大師とは、唐代の法相宗の第二祖・窺基のことである。玄奘の弟子となって訳経に従事し、成唯識論等を訳出した。
著書には法華玄賛など多数あり、「太宗皇帝の御師」となって「十一面観音の後身」とまで仰がれた。本文の「玄賛十巻」とは、法相宗の唯識論の立場から法華経を釈した書である。
同書では法華経をたたえている半面、成唯識論述記及び成唯識論枢要では、法華経に明かされている二乗作仏の法門を方便であるといい、法華経では二乗・一闡提の人は成仏できないと邪説を唱えたのである。
また一代五時継図に「慈恩大師の西方要決に云く末法万年に余経悉く滅して弥陀の一教のみと文」(0687-09)と記されているように、念仏を讃嘆したのである。
このため慈恩は地獄に堕ちたのであり、大聖人は、その理由を「音は法華経に似たれども心は爾前の経に同ずる故」と断じられている。
嘉祥大師とは梁代の三論宗中興の祖・吉蔵のことである。
吉蔵は開皇9年(0589 )から嘉祥寺に止宿。以来、三論の講述と著述に専念、三論宗の教義を組織大成した。後世、吉蔵のことを嘉祥と呼ぶのは、この寺号によっている。
一方、法華経の研究にも力を注ぎ、法華玄論、法華義疏などの著書があるが、いずれも三論宗の立場から法華経を解釈したものである。
このため、やはり地獄に堕ちるところであったが、ある時、天台大師と会って、法華経法師品の已今当の文について法論を交わし、破折された。そして「般若経・中論を師として法華経をよむ」(1239-12)ことを打ち捨てて、天台大師に身心ともに帰伏し、堕地獄を免れている。
その様子は、善無畏抄に「結句は一百余人の弟子を捨て般若経並びに法華経をも講ぜず七年に至つて天台大師に仕えさせ給いき、高僧伝には『衆を散じ身を肉橋と成す』と書かれたり、天台大師高坐に登り給えば寄りて肩を足に備え路を行き給えば負奉り給うて堀を越え給いき、吉蔵大師程の人だにも謗法を恐れてかくこそ仕え給いしか」(1235-04)と記されている。
諸宗の元祖等が法華経を読み、言葉では法華経を讃嘆していても、それは、それぞれの依経を師として法華経を読み、釈しているので、法華経の真意に背く結果となっているのである。
伝教大師はこれを法華秀句下で『法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す』と述べて破折している。
大聖人はこうした先例を挙げ、当世の法華宗の人々も、この慈恩や嘉祥と同じ過ちを犯していると指摘されている。
比叡山はいうまでもなく伝教大師最澄が法華経を根本に大乗戒壇を建立し、鎮護国家の道場としたのであった。これを「比叡山は法華経の御住所・日本国は一乗の御所領」と仰せられている。
ところが第三代座主・慈覚以降、真言密教に染まっていく。法華経を大日経よりも劣るとする真言宗に対し、本来なら天台宗は厳然と破折すべきなのに、逆に天台宗の座主自ら「理同事勝」の邪義を唱え、真言は法華経に勝れりと同調したのである。「法華経の座主を奪い取りて真言の座主となし」とはこのことをいわれている。
したがって、比叡山延暦寺三千人といわれる学僧等もすべて真言の邪義を立てる座主のもとに従ったのである。
一方、日本真言宗の開祖・弘法大師空海は、弘仁7年(0816)、第52代嵯峨天皇に奏請し、同10年(0819)高野山に金堂、大宝塔を建て、金剛峰寺を開いた。弘仁14年(0823)には東寺を下賜され、真言密教の根本道場としている。
嵯峨天皇は伝教大師の教化により法華経に帰依していながら、伝教大師の滅後は、弘法の誑言にたぶらかされ、彼の奏上を承けて宮中真言院の創立を認可している。「法華宗の檀那にて御坐ます嵯峨の天皇を奪い取りて内裏を真言宗の寺と成せり」との御文は、このことをいわれている。
真言亡国の歴史上の先例
続いて、真言の邪法に染まった天台宗や真言宗を用いたことによって亡国を招いた歴史上の先例を示されている。
その一つに第81代安徳天皇の悲劇を挙げられている。
安徳帝は高倉天皇を父に、平清盛の娘・徳子を母に、その長子として生まれ、治承4年(1180)わずか3歳で即位した。
明雲座主は比叡山延暦寺第55・57代の座主である。当時、源氏が挙兵し、頼朝が漸次その勢力を増大していたため、安徳帝を奉じた平氏は、明雲に頼朝調伏の祈禱を命じたのである。
叡山では明雲を中心とした一山三千人の法師が五壇の大法の祈禱を行い、平氏もまた大臣以下の諸臣の家々で尊勝陀羅尼を誦し、不動明王を供養し、寺々に祈禱に必要な種々のものを奉って祈るなど、あらゆる秘法を行じたとされる。
しかし、明雲は寿永2年(1183)11月、入京した源義仲の軍に殺された。安徳帝を擁する平氏は西国に逃れ、次々と追われて、寿永4年(1185)3月24日、長門国(山口県)壇ノ浦の決戦で敗北。安徳帝はわずか8歳であったが、平氏一門とともに入水。短くもはかない生涯を閉じている。
次に、尊成王が北条義時のために隠岐島に流されるという結果をみた、有名な承久の乱(1221)に言及されている。
承久の乱は鎌倉時代の初期に起こった幕府と朝廷との戦いである。頼朝の死後、幕府内の政争が続いているのをみて、鎌倉幕府から権力を取り戻そうと図った後鳥羽上皇は、北条義時討伐の院宣を発し、兵を集めた。
それとともに幕府調伏の祈禱を大々的に行わせた。「内裏に大壇を立てて」天台の座主・慈円、真言東寺の座主・親厳、仁和寺の御室・道助法親王、園城寺常住院・良導など高僧四十一人、並びに伴僧三百余人が真言秘密の大法・十五壇の秘法によって祈ったのである。
この祈禱は承久3年(1221)5五月19日から6月14日まで行われ、それとともに紫宸殿で御室によって6月8日から祈禱が行われた。
ところが満願となるはずの6月14日、幕府軍が京都の市内になだれをうって入り、朝廷方はあえなく破れ去ったのである。
幕府は上皇に与した7人の公卿と武士たちのほとんどを斬罪に処し、首謀者である後鳥羽上皇を隠岐、順徳上皇を佐渡、土御門上皇を土佐へそれぞれ配流して、仲恭天皇を退位させた。
更に御室の御所に押し入り、御室の最愛の弟子だった勢多伽という童子を引き出して首を切った。それを目のあたりにした御室は悲嘆のあまり「思い死に死」んでいる。
このように、源平決戦と承久の乱における朝廷方の破北の根本原因を、世間では全く知らずにいるが、大聖人は「偏に法華経・大日経の勝劣に迷える故」に、法華経に背いて真言の邪法で祈禱したためであると喝破されている。
しかも今また蒙古の襲来をまえにして、幕府が「彼の不吉の法」である真言によって蒙古調伏を行わせていることに対し、三度目の不祥事を招来することを大聖人は心底から危惧されているのである。
四条金吾殿御返事でも「真言の大法をつくす事・明雲第一度・慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり」(1152-12)と述べられている。
なお「又日記分明なり」との仰せは、当時の蒙古調伏の祈禱記録が「調伏行法日記」に明記されていることをいわれている。
1076:16~1077:05 第九章 謗国等の三失を脱れる方途を説くtop
| 16 悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、 設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失・如何せん、 17 謗家の失を脱れんと思はば父母・兄弟等に此の事を語り申せ、 或は悪まるるか・或は信ぜさせまいらするか、謗国 18 の失を脱れんと思はば 国主を諌暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、 我不愛身命・但惜無上道と説かれ身 1077 01 軽法重・ 死身弘法と釈せられし是なり、 過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざ 02 りける故なり、 未来も亦復是くの如くなるべし 今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の 03 中にも当世の責のおそろしさと申し 露の身の消え難きに依りて或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす、 御経の 04 文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、 謗ずる人は大地微塵の如し・信ずる人は爪上の土の如し、 05 謗ずる人は大海・進む人は一滞。 -----― 我らが誹謗正法の国に生まれて大苦にあうことは、なんと悲しいことか。たとえ謗身は脱れても、謗家と謗国の失はどうしたものか。謗家の失を脱れようと思うならば、父母や兄弟等にこの事を話して聞かせなさい。憎まれるか、あるいは信じさせられるかであろう。謗国の失を脱れようと思うならば、国主を諌めて死罪か流罪かに処せられるべきである。法華経勧持品第十三に「我、身命を愛せず。但、無上道を惜しむ」と説かれ、章安大師の涅槃経疏に「身は軽く、法は重し。身を死して法を弘む」と釈されているのはこれである。過去遠々劫から今にいたるまで仏にならなかったのは、このようなことがあったときに恐れて言い出さなかったゆえである。未来もまたまた、同様であろう。今、日蓮自身の身をもって知ることができるのである。このことを知る弟子等のなかにも現在の世の責めの恐ろしさから、また露のようにはかない身でありながら消えてしまうようにはみえない現実の生に執着して、あるいは退転し、あるいは心の中だけで信じたり、そのほかさまざまな姿を示している。法華経の文に「信じ難く解し難し」と説かれている御文が、身に当たって貴く思われる。誹謗する人は大地微塵のように多く、信ずる人は爪の上の土のように少ない。誹謗する人は大海の水のように多く、持って進む人は一滴の水のように少ない。 |
諌暁
いさめさとすこと。「諌」は礼をもって他のあやまちをただすこと。「暁」は説なりとあるように、さとし明かすこと。別していえば、国家の安危について、その責任者に進言すること。また、人生の重大事について、相手の蒙を開いて目をさまさせること。結果として、いちじ相手が驚いたり、恨んだり、あだをなしたりすることが多い。法師品には「如来現在猶多怨嫉」とあり、末法には釈尊在世以上の怨嫉の難があると説き、また明楽は「惑耳驚心」と説いている。
―――
身軽法重・死身弘法
章安大師の涅槃経疏巻12の文。「身は 軽く法は重し、身を死して法を弘む」と読む。
―――
遠遠劫
長遠な時間。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音写で、劫波、劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。
―――
難信難解
法師品には「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。信じがたく解しがたいとで、法華経の信解は及びもつかないほど甚深の義があることを言いあらわしている。易信易解に対する語。
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これまで謗人、謗家、謗国の三義を示されたが、ここでは、その三失を脱れるにはどうすべきかを説かれている。
「悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ」との仰せは、正法である法華経を誹謗している謗国に生まれ、総罰として飢饉、疫病、他国侵逼難等の大苦にあっていることを述べられている。
そうしたなかで、邪法を捨てて正法に帰依することによって「謗身」だけは脱れることはできても、「謗家謗国の失」は脱れるわけにはいかない。
そこで「謗家謗国の失」を脱れる方術を示されるのである。
まず「謗家の失」を脱れるためには、父母・兄弟・師匠などを折伏することだと教誡されている。
その深い実践の結果は、誹謗・中傷されて憎まれるか、それとも誠意が通じて正法に帰伏させられるかのどちらかであるが、どちらにせよ自身は謗家の罪は免れるし、また、家族の人々も信・謗ともに救われるのである。
また「謗国の失」を脱れるためには、国主を諌暁すべきことを説かれている。
国主諌暁とは、為政者を諌め暁すという義である。
なお、大聖人は「国主」を、国務をとるもの、実質的に権力を握る者という意味で用いられている。したがって御在世当時は執権北条氏をさしている。現在は主権在民であるから、国の主権者である国民一人一人が国主にあたることはいうまでもない。
しかし、この国主諌暁は難事中の難事であり、「死罪か流罪か」という王難にあうことを覚悟しなければならない。
それゆえに法華経勧持品第十三の「是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん。我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」の文と、章安大師の涅槃経疏巻十二菩薩品の「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」という釈を示されている。
ともに教法弘通の精神を示した文で、一身を賭して教法を弘むべき旨を説かれたものである。
大聖人はこの経釈のままに、自ら立正安国論の上奏など三たび国主諌暁され「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(0200-17)という死罪・流罪を含む、身命に及ぶ大難にあわれたのである。
続いて、過去遠々劫以来、今に至るまで成仏できなかったということは、このような大難を恐れて呵責謗法しなかったためであり、未来もまたこの原理は不変であるとして、大聖人自身の体験に基づき、謗法を呵責する人のまれなることを示されている。
したがって、弟子・檀那のなかでも、日頃、大聖人から「経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり」(0501-07)と聴聞していても、呵責謗法による大難が現実に我が身に降りかかってくると、恐怖と不安から草露のようなはかなき身に愛着し、自己保身に汲々とするようになる。
「或は落ち」は退転である。「或は心計りは信じ」は、信仰を続けたい気持ちだけあっても、世論を気にして実践がともなわなかったり、あるいは呵責謗法に踏み切れない人のことをいわれている。
「或はとかうす」は、理由にならないことをとやかくいうことだが、臆病から人前をはばかってさまざまな口実を構えて、難を逃れようとすることをいう。
これは御在世当時の出来事として受け止めるのではなく、今日にも通ずる教訓として心すべきであろう。
法華経法師品第十に「我が所説の経典、無量千万億にして……而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」と説かれているのはこのためでもある。一切経のなかで最も「信じ難く解し難い」とされる法華経を、大聖人御一人のみ色読され、末法の法華経の行者としての御境地に立たれているところから「身に当つて貴く覚え候ぞ」と仰せられているが、御本意は弟子門下に対し、大聖人と同じく「身軽法重・死身弘法」の精神に立つよう促されていると拝するのである。
ゆえに「謗ずる人は大地微塵の如し・信ずる人は爪上の土の如し」という涅槃経の文を引用されている。
これは十方の土や大海の水に相対して、爪の上の土や一滴の水が大変に少ないことを、人身の得がたいこと、正法の信受しがたいことのたとえとしたもので、ここでは呵責謗法の人は甚だまれであるという意味で用いられている。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(1282-02)と仰せのように、競い起こる障魔の嵐にも微動だにすることなく、堅実な折伏による弘教以外に、謗国の失を脱れる道なしと銘記して、尊き使命の道を勇進してしていきたいものである。
1077:06~1077:10 第十章 竜門の故事を挙げ、此経難事を説くtop
| 06 天台山に竜門と申す所あり其の滝百丈なり、 春の始めに魚集りて此の滝へ登るに百千に一つも登る魚は竜と成 07 る、此の滝の早き事・ 矢にも過ぎ電光にも過ぎたり、 登りがたき上に春の始めに此の滝に漁父集りて魚を取る網 08 を懸くる事.百千重或は射て取り或は酌んで取る、鷲.クマタカ.鴟.梟・虎.狼・犬・狐.集りて昼夜に取りクラふなり 09 十年・二十年に一つも竜となる魚なし、 例せば凡下の者の昇殿を望み下女が后と成らんとするが如し、 法華経を 10 信ずる事・此にも過ぎて候と思食せ、 -----― 天台山に竜門という所がある。その滝は百丈である。春の始めに魚が集まってこの滝へ登ろうとするが、百千のうち一つも登れない。登った魚は竜となるのである。 この滝の流れの速いことは矢以上であり、電光以上であった。このように滝自体が登り難いうえに、春の初めにはこの滝に漁師が集まって、魚を採る網を百千重に懸け、あるいは射て採り、あるいはすくって採る。 また、鷲・くまたか・鴟・梟・虎・狼・犬・狐が集まって、昼夜に取って食う。そのため、十年、二十年に一つも、竜となる魚はない。例えば、凡下の者が昇殿を望み、下女が后となろうとするようなものである。 |
天台山
①中国浙江省天台県の北部にある山。陳の太建7年(0557)に天台大師が天台山に入って開宗した。天台山の中に「修禅寺」「国清寺」等がある。「天台宗」「天台大師」の名称もこの山によっている。②比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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竜門
中国、黄河中流の急流。山西省河津と陝西省韓城との境付近にある。魚が登りきると竜になるという。
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竜
梵語ナーガ(Nāga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。
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鵰
オオワシのこと。
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正法である法華経を信受し、成仏を遂げることが、いかに至難であるかを、中国の竜門の滝の故事を挙げて御教示されている。
竜門は中国・黄河の中流にある急流、あるいは地名をいう。陜西省と山西省の省境南部、山西省河津県の西北、陜西省韓城県の東北など、種々の説がある。
禹が竜門山を切り開いて通したものと伝えられ、地形は山岳が相対峙し、しかも険しいゆえに船を渡すことすらできなかったとされる。そして瀑布であることから〝竜門の滝〟と称され、また三段の滝からなるので〝竜門三級〟ともいわれる。
したがって、黄河の下流からさまざまな魚類や亀などが上流へ登ろうとしても、なかなか登り切ることができない。そこからこの滝を通過するものは〝竜〟となると、古来からいわれてきたのである。
これから転じて、立身出世の関門をたとえて〝登竜門〟という呼称が生まれた。
とくに中国では科挙という官吏登用試験に及第すると、進士という高位に就くことができたので、たとえに〝登竜門〟が使われた。
そして、この科挙試験場の正門は〝竜門〟といわれ、地中に伏していた竜が活動を始める門戸という意味にも用いられた。
本抄では「天台山に竜門と申す所あり」と述べられているが、この天台山の中にある瀑布は、黄河中流の竜門に擬したものといわれる。
登る魚を阻む急流、あるいは魚を狙う漁師、また鷲・虎などの鳥獣類は、正法受持を妨げようとする三障四魔・三類の強敵にたとえられよう。
ともかく「十年・二十年に一つも竜となる魚なし」と仰せられ、法華経を信受しきることがいかに至難であるかを教えられている。
それは、ちょうど身分の低い地下の者が殿上に昇ることを望み、また下女が天子の后になろうとするようなものだとされ、法華経信受の厳しさは、それをはるかに超えることを説かれている。
ちなみに「昇殿」とは、平安時代以後、四位・五位以上の人及び六位の蔵人が許されて、宮中の清涼殿の南面にある殿上の間に昇ることをいう。
これを許された人を殿上人といい、許されない人を地下といった。いわば庶民のことである。
1077:10~1077:15 第11章 呵責謗法せざるは仏の禁めに違背top
| 10 常に仏禁しめて言く何なる持戒・智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退 11 せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず 人を恐れて黙止するならば 必ず無間大城に堕つべし、 12 譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて 国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、 南岳大師の云く 13 「法華経の讎を見て呵責せざる者は謗法の者なり 無間地獄の上に堕ちん」と、 見て申さぬ大智者は無間の底に堕 14 ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、 日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪・ 死 15 罪に及びぬ、今は罪も消え過も脱れなんと思いて鎌倉を去りて此の山に入つて七年なり。 -----― 常に仏は戒めて言われている、どんなに戒律を持ち智慧が高くて一切経と法華経を自在に解する人であっても、法華経の敵を見ておきながら、責め、罵り、国主にも言わず、人を恐れて黙っているならば、必ず無間大城に堕ちるであろう、と。譬えば自分は謀叛を起こさなくても、謀叛の者を知りながら国主にも言わなければ、与同罪はその謀叛の者と同じである。南岳大師は「法華経の敵を見て呵責しない者は謗法の者である。無間地獄に堕ちるであろう」といわれている。見て言わない大智者は無間地獄の底に堕ちて、かの地獄のある限りは出ることはできない。日蓮はこの戒めを恐れるがゆえに国中の謗法を責めたところ、一度ならず流罪になり、死罪に及んだのである。今は罪も消え、過も脱れたであろうと思って、鎌倉を去ってこの山に入って七年になる。 |
南岳大師
中国南北朝時代の僧。天台大師の師。字は慧思。姓は李。河南に生まれる。15歳で出家し、法華経を学んだ。20歳の時に妙勝定経を読んで感じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。34歳の時、対論した僧に毒を盛られて死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。41歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まり来たった智顗等の弟子の育成にあたった。陳の光大2年(0568)戦乱を避けて南岳に移り、ここに晩年を過ごして大建9年(0577)に没した。
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いかなる大智者であっても、法華経の敵を見ながら、敵を恐れて呵責しなければ無間地獄に堕すというのが仏の禁めであるから、日蓮大聖人はこの禁めにしたがって、大難に臆せず、呵責謗法を貫かれ、「今は罪も消え過も脱れなんと思いて」身延に入山したと述べられている。
「仏禁しめて言く」とは、涅槃経の「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当にしるべし是の人は仏法の中のなり、若し能く駆遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」の文をさしていわれているのである。
仏法を破壊している人を見ながら、それを放置するのは、自らが仏法を破壊しているのと同じことになる。ゆえに「仏法の中の怨」となると禁められているのである。
天台大師の師である南岳大師慧思の「法華経の讎を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」という文も全く同じである。これは法華経安楽行義の終わりの部分の取意であろう。
「一切経並に法華経を進退せる人」「見て申さぬ大智者」は天台宗の高僧達をさすと思われる。
日蓮大聖人は涅槃経に示された仏の禁めどおり、謗法を破折されたために「一度ならず流罪・死罪に及」んだのである。
いうまでもなく「流罪」とは、弘長元年(1261)5月から同3年(1263)2月までの伊豆流罪、また文永8年(1271)10月から同11年(1274)3月までの佐渡流罪をいい、「死罪」とは、文永8年9月12日の竜の口の頸の座をいう。
それゆえ「今は罪も消え過も脱れなんと思いて鎌倉を去りて此の山に入つて七年なり」と仰せの御文に、法華経をすべて色読されて、もはや一点の曇りもない、澄み渡った御境界で身延へ入山されたことが拝される。
1077:16~1078:11 第12章 身延の山河と厳冬の様子を述ぶtop
| 16 此の山の為体.日本国の中には七道あり七道の内に東海道十五箇国、其の内に甲州.飯野・御牧・波木井の三箇郷 17 の内波木井と申す、此の郷の内・戌亥の方に入りて二十余里の深山あり、北は身延山・南は鷹取山・西は七面山・東 18 は天子山なり、板を四枚つい立てたるが如し、 此の外を回りて四つの河あり北より南へ富士河・ 西より東へ早河 1078 01 此れは後なり、 前に西より東へ波木井河の内に一つの滝あり 身延河と名けたり、 中天竺の鷲峰山を此の処へ移 02 せるか将又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ、 此の四山・四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、 爰に庵室を結 03 んで天雨を脱れ・木の皮をはぎて四壁とし、 自死の鹿の皮を衣とし、 春は蕨を折りて身を養ひ秋は果を拾いて命 04 を支へ候つる程に、 去年十一月より雪降り積て改年の正月・今に絶る事なし、庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を 05 壁とし軒のつららは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、 内には雪を米と積む、 本より人も来らぬ上・雪深くして道塞 06 がり問う人もなき処なれば 現在に八寒地獄の業を身につくのへり、 生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す 07 鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、 衣は冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し、 かかる 08 処へは古へ眤びし人も問わず 弟子等にも捨てられて候いつるに 此の御器を給いて雪を盛りて飯と観じ水を飲んで 09 こんずと思う、志のゆく所・思い遣らせ給へ又又申すべく候、恐恐謹言。 10 弘安三年正月二十七日 日蓮花押 11 秋元太郎兵衛殿御返事 -----― この山の様子は次のようである。日本国の中には七道がある。七道の内に東海道十五か国がある。その中に甲州の飯野・御牧・波木井の三か郷の内、波木井というこの郷の内の西北の方に入って二十余里にわたり深山がある。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山であり、板を四枚つい立てたようである。 この外を回って四つの河がある。北から南へ富士河、西から東へ早河があり、これは後ろである。前には西から東へ波木井河があり、その支流の内に一つの滝があって身延河と名づけられている。中インドの霊鷲山をここへ移したのか、それともまた中国の天台山が移って来たのかと思うほどである。 この四つの山と四つの河の間に手の広さ程の平らな所があり、ここに庵室を造って雨を避け、木の皮をはいで四方の壁とし、自然に死んだ鹿の皮を衣とし、春は蕨を折って身を養い、秋は果実を拾って命を支えてきたところが、去年十一月から雪が降り積もって年が改まった正月の今にいたるまで絶えることがない。庵室の高さは七尺なのに雪は一丈も積もり、四方の壁は氷を壁とし、軒のつららは道場を荘厳する瓔珞の玉のようである。室内には雪を米の代わりとして積んである。 もとより人も来ないうえ、雪が深くて道は塞がり、訪問する人もない所なので、現在に八寒地獄の業を身に償っている。生きながら仏には成らずに、むしろ寒苦鳥という鳥に似ている。頭は剃ることがないので鶉のようであり、衣は氷に閉ざされて鴦鴛の羽を氷が結んだようである。 このような所へは昔から親しかった人も訪れず、弟子等にも見捨てられていたところ、この御器を頂いて雪を盛って飯と思い、水を飲んで重湯と思っている。志のおもむくままに、思いを巡らしていただきたい。またまた申し上げよう。恐恐謹言。 弘安三年正月二十七日 日蓮 花押 秋元太郎兵衛殿御返事 |
東海道十五箇国
伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸。
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甲州
現在の山梨県。この南巨摩郡身延町に標高1148㍍がある。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結ばれている。
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飯野・御牧
地名。山梨県巨摩郡の一部。ともに波木井実長の所領。
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波木井
山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。
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戌亥
方位のひとつ。北西をいう。
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身延山
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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鷹取山
山梨県南巨摩郡にある山。標高1036㍍。七面山の東、身延山の南にある。
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七面山
山梨県南巨摩郡にある山。山頂付近に1,982.4mの三角点があるが、登山道からやや離れたところにある最高地点の標高は1,989mである。山頂付近が身延町の飛び地となっており、山頂は身延町と早川町の境になる。東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なる。
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天子山
山梨県南巨摩郡身延町と静岡県富士宮市の県境に位置する標高1,964mの山で、天子山塊の最高峰である。日本二百名山、山梨百名山及び静岡百山に選定されている。
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富士河
冨士川のこと。山梨県釜無川・笛吹川を源流とし、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾にそそぐ川。全長129㌔。日本三大急流のひとつ。
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早河
山梨県南巨摩郡早川町を流れる川。白根山・鳳凰山を境に源を発し冨士川に合流する。
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波木井河
山梨県南巨摩郡身延町を流れる川。身延川と相叉川が合流し波木井川となり、富士川に合流する。
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身延河
山梨県南巨摩郡身延町身延にあり身延山と鷹取山の間を流れる川。
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中天竺
インドを東・西・南・北・中と五つにわけたなかの「中」。中央インドのこと。
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鷲峰山
霊鷲山のこと。古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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蕨
シダ植物の1種。コバノイシカグマ科。かつてはイノモトソウ科に分類されていた。草原、谷地、原野などの日当たりのよいところに群生している。酸性土壌を好む。山菜のひとつに数えられている。
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尺
長さの単位。30㌢。
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丈
長さの単位。3㍍。
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瓔珞
サンスクリット語のムクターハーラ( muktāhāra)またはケーユーラ( keyūra)の訳語。インドで身分の高い男女が珠玉や貴金属を編んで,首,胸,腕などにつけた装身具。仏教では寺院内外の飾りや仏像の首,胸,衣服の飾りに用いる。
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八寒地獄
八種類の極寒の地獄のこと。阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄の八つが挙げられる。この中の前の四地獄はあまりの寒さに思わず阿波波・阿吒吒・阿羅羅・阿婆婆と悲鳴を発する地獄で、後の四地獄は極寒のために身体が裂けて優鉢羅(青蓮華)・波頭摩(紅蓮華)・拘物頭(赤蓮華)・芬陀利(白蓮華)のような姿になる地獄をいう。
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寒苦鳥
インドの雪山に住むという想像上の鳥。雪山鳥ともいう。この鳥は巣を作らないため、夜は寒苦に責められ苦しむとされる。「新池御書」にいわく「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう」(1440-13)。
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うづら
鳥綱キジ目キジ科ウズラ属に分類される鳥類。
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鴦鴛
鳥綱カモ目カモ科オシドリ属に分類される鳥類。
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こんず
重湯のこと。
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身延の山河のありさまと、山中に庵室を結ばれ、衣食窮乏のなか、風雪に耐えて生活されている様子を述べられている。
日蓮大聖人の身延山中における御生活は、文永11年(1273)から弘安5年(1282)に至る足かけ9か年である。
身延は、当時、波木井郡に属し、飯野、御牧、波木井の三郷は波木井六郎実長の領地であった。
日興上人の折伏によって入信した実長は、波木井郷の戌亥の隅にあたる身延山の西谷の地を大聖人に御供養申し上げたのである。
そこは、北は身延、南は鷹取、西は七面、東は天子と、四方を高い山に、また、富士河、早河、波木井河、身延河という四つの急流に囲まれており、大聖人はその「手の広さ程の平かなる処」に庵室を建てられたのである。
庵室といっても「木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみか」(1507-04)で、壁も「木の皮をはぎて四壁とし」た質素なものであった。
当時は気候が不順で、大雪・大雨にたびたびみまわれ、社会全般に毎年のように深刻な飢饉が起きていたから、身延山中での大聖人の御生活は、一層厳しいものであったと想像される。
とくに弘安三年の冬は、例年にない大雪のため「室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし……内には雪を米と積む」と仰せのようなありさまだった。
弘安元年(1278)11月、池上宗長に送られた御手紙にも、厳冬の山中の様子について「ひるも・よるも・さむくつめたく候事法にすぎて候、さけはこをりて石のごとく、あぶらは金ににたり、なべかまは小し水あればこおりてわれ・かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして・さしいづるものも・なし」(1098-12)と記されている。
こうした筆舌に尽くせぬ衣食貧窮の雪中の御生活を「現在に八寒地獄の業を身につくのへり」とされ、インドの雪山に棲み、常に寒苦に責められている寒苦鳥にも「相似たり」といわれている。
寒苦鳥とは、インドの雪山にいるとされる想像上の鳥のことである。この鳥は巣がなくて、寒苦に責められているときは巣を作ろうと思うけれども、暖かくなると巣を作ることを忘れ、常に寒さに苦しんでいるという。
言語に絶する厳しい寒苦から、この寒苦鳥に我が身をなぞらえられたのである。
最後に、大雪のため、人里から身延への道も断たれ、訪れる人もなく、衣食の貯えとて乏しい山中へ、筒御器などを届け、供養された秋元殿の尊くも厚い志を重ねて称賛されて、本抄を結ばれている。