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日蓮大聖人御書講義221109~1125
四条金吾について
1109~1109 四条金吾殿女房御書(安楽産福子御書)
1110~1110 月満御前御書(月満誕生御書)
1111~1112 四条金吾殿御書(盂蘭盆由来御書)
1111:01~1111:08 第一章 盂蘭盆の由来を明かす
1111:09~1112:06 第二章 餓鬼の修因を明かす
1112:06~1112:18 第三章 親を救う原理を示す
1113~1114 四条金吾殿御消息(竜口御書)
1113:01~1113:12 第一章 発迹顕本の義を明かす
1113:13~1113:15 第二章 金吾の至誠を賛嘆す
1113:15~1114:06 第三章 諸天の加護を明示す
1113~1114 四条金吾殿御消息(竜口御書)(2015:09大白蓮華より 先生の講義)
1114~1115 同生同名御書
1114:01~1114:07 第一章 法華経の慈悲を示す
1114:08~1115:02 第二章 古の賢者に較べられる
1115:02~1115:06 第三章 夫人の信心を称える
1115:06~1115:14 第四章 同生同名の二神を述べる
1116~1118 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)
1116:01~1116:11 第一章 文底仏法を展開する
1116:11~1117:07 第二章 諸仏の智慧の当体を明かす
1117:07~1117:13 第三章 法華誹謗の業因を示す
1117:13~1118:07 第四章 金吾夫妻の信心を激励する
1116~1118 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)2014:06大白蓮華より先生の講義
1118~1123 四条金吾殿御返事(梵音声御書)
1118:01~1119:02 第一章 国王の力を述べる
1119:03~1120:07 第二章 仏法流布の次第を述べる
1120:07~1120:18 第三章 留難の所以を明示す
1120:18~1121:09 第四章 仏の使いについて述べる
1121:10~1122:05 第五章 法華経の功徳を示す
1122:06~1123:03 第六章 梵音声の本義を説く
1118~1123 四条金吾殿御返事(梵音声御書)2013:05月号大白蓮華より。先生の講義
1123~1123 経王御前御書(経王誕生御書)
1124~1125 経王殿御返事
1124:01~1124:06 第一章本尊図顕の姿勢を示す
1124:07~1124:11 第二章本尊受持の精神を示す
1124:11~1124:13 第三章末法の独自性を示す
1124:14~1125:05 第四章法華経の功力の偉大なるを明かす
四条金吾についてtop
四条金吾関係の御抄を講義するにあたり、序講として
第一に 四条家の家系、地位の考察、家族構成
第二に 日蓮大聖人と頼基の信心
第三に 主君・江間氏と四条家の関係
第四に 頼基の受難時代
第五に 善医としての頼基の活躍
第六に 熱原法難と頼基および頼基の晩年
について、講義する。
第一 四条家の家系、地位の考察
(一) 家系と地位
四条金吾(1230頃~1300)は、詳しくは四条中務三郎左衛門尉頼基と称する。「四条」とは姓である。後に述べるが、頼基が晩年を送ったといわれている山梨県南巨摩郡南部町内船には、今も後裔と称して、四条と名乗る家が数十戸ある。
四条家の由来は定かではないが、内船の旧家・四条蔦次郎家に系図が伝えられていたといわれる。その信憑性については、なお研究を残すが、現存する唯一の資料なので参考としたい。なお、この系図には経王御前についてふれていないが、御書の御文から頼基の娘と考えられるのでここには付け加えておく。
藤原鎌足──(第18代目)四条隆季──(第5代目)四条頼員─┬三郎左衛門尉頼基┬┬(経王)
│日 目 女┘└ 月満┐
├左衛門尉頼隆───┬頼道┴┬頼里──(江馬家に仕え、元弘の難にて戦死)
├四郎頼李 └頼義 └頼益──(帰農、藤八郎三郎左衛門と称す)
└七郎頼実 └──(日義)
この系図によると、四条隆季から五代目が四条中務頼員で、頼基の父にあたる。母は池上氏の娘であるといわれ、兄弟は頼基をいれて、少なくとも4人はいたと考えられる。これら頼基の兄弟、家族等については後に述べる。
「中務」とは官位で、父の頼員が第二代執権北条義時の次男・名越朝時に仕え、中務省の少丞に任じられていたところから、中務と称されていた。
中務省とは律令制度による中央官制、すなわち2官8省のうちの第一で「なかのまつりごとのつかさ」と称し、天皇に待従し、詔勅の施行、国史の監修、諸国の戸籍、僧侶の名籍、女官の統制など宮中における一切の政務を掌っていた。
この省には卿1人、大輔1人、少輔1人、大丞1人、少丞2人、大録1人、少録3人、史生20人、侍従8人、そのほか200人近い職員が置かれていた。このうち卿は天皇に陪従し、詔勅・叙位等に関する任務で、輔は卿を補佐する。また大・小丞は宮内の取り締まりや、公文書案の審査などを行なっていた。
位階については、当時の資料で北畠親房の著になる職原抄上によれば少丞は従六位上に相当する。ただし、標注職原抄には、すでに九世紀初め頃から、中務省が有名無実となりつつあることが述べられている。すなわち「嵯峨天皇弘仁元年(0810)に蔵人所を置れしより、中務は宮中の統領にて、卿は親王、輔は名家より任ぜられ、その職は侍従獻替、その位は七省に冠たるゆゑに、主上も憚玉ふ所多くて、昵近うとくなりゆき、蔵人は今いふ納戸役の類にて、朝夕の服御の物を取扱はしめ玉ふまゝに、主上も御心やすく思しめさるるからに、奏宣出納、おのづから蔵人にうつりたり、故に中務は名ありて実なくなれり」とある。
さらに、鎌倉時代に入ってからは、幕府の政権下における朝廷の権力は次第に薄れ、ほとんどなくなってきたといってよい状態であったことから、いずれも官名だけを残し、実際の職務にたずさわったわけではない。また一般に、位より官の方が重視されていたが、官位がすでに有名無実な状態であることから、従六位上という位も、ほとんど形式的なものと考えられ、特別な権限はなかった。
次に中務三郎左衛門尉の「三郎」とは、通称と思われる。「左衛門尉」とは、2官8省とは別に、軍事面を扱うものに衛門府という官職の一つがあった。令制において衛門府、左右衛士府、左右兵衛府の五衛府が設けられ、大同3年(0808)に衛門府は左右衛士府に併合され、令外の左右近衛府を加えて六衛府と総称された。その後、弘2年(0811)に至って、左右衛士府は左右衛門府と改められ、ここに6衛府の制度が定まったのである。その任は、宮中の警備や護衛、また巡検して非違を査察し、不法をただしたり、人や物の通行許可の手形を司どることなどであった。
令制においては、これら諸の官職を督、佐、尉、志の4等官にわけている。これは唐の制度にならったもので、官名によって用いる名が異なるが、呼び名は全て同じである。
「左衛門尉」と称するのは、左衛門府の尉官という意味である。頼基は、名越朝時の子・光時に仕えこの左衛門尉に任ぜられていた。ただし、大尉であるか、少尉であるかは明らかではない。
大宝令に定められた尉の位階は、大尉が従六位上、少尉は正七位上にあたる。しかし、先に述べた「中務」が有名無実となっていたように、この左衛門尉の位も、特別な権威があったとは思われない。ただし、頼基が父子2代にわたって江馬家に仕えていたことや、医術にもすぐれていた点から考えて、その地位は安定していたものと考えられる。
また「左衛門」は、唐制の「金吾」にあたる。よって、四条金吾という呼び名は、唐の官名を用いた通称である。さらに「金吾」について述べるならば「金」とは刀剣、兵器を意味し、この兵器をもって宮門の外を護る官衙のことをさす。「吾」とは禦、すなわち金革をとって防ぎ守るの意である。また漢書補注によれば「金吾」とは不詳を避ける鳥の名であり、これに因んで天子が出行する折などに、非常を防ぐため先導する役目を「金吾」とよんだといわれる。
(二) 家族構成
(1)父母
頼基の出生地は、未だ明らかではない。伊豆方面、鎌倉、京都、また名越朝時の領地である越後方面などと、いくつかあげられるがいずれも決定的なものではない。生誕年月日も未詳であるが、入没年(正安2年・1300)とその年齢から逆算して、寛喜2年(1230)前後かと思われる。
幼少期および青年時代に関する資料は、皆無に等しい。もともと頼基の身辺が明らかになるのは入信し、大聖人に仕えるようになってからのことである。
父・頼員は承久の乱の後、北条氏の一門名越朝時に仕えていた。やがて寛元3年(1245)朝時が没したあとは、その子・光時を主君として仕えた。しかし、翌年、光時は執権時頼追放の陰謀に加担しているとの嫌疑をうけた。光時は自ら薙髪し出家したが、幕府は光時を伊豆の江馬へ流罪に処した。この時、家臣はことごとく主君・光時を捨て去ったが、頼員だけは最後までただ一人残って悲運な主君に従い流罪地の伊豆へ供をしたのであった。
その後、光時は許されて鎌倉に戻ったが、家督を子の親時にゆずり、蟄居生活を送ることになる。こうした不運な主君の下で、頼員は常に変わらぬ忠誠を貫き、やがて建長5年(1253)3月28日に没していった。法名を頼山とよぶ。
頼基の母は、池上家の娘であるといわれ、詳細は不明であるが、文永7年(1270)7月12日没している。「四条金吾殿御書」に「今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり、日蓮が檀那なり……是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給うらめ」(1112-08)と述べられているところから、頼基と共に大聖人に帰依していたことがわかる。この母の命日の7月12日には、頼基は毎年必ず大聖人のもとへ追善供養を願っている。
(2)兄弟
頼基の兄弟に関しては、あまり詳細に知ることはできない。しかし大聖人のお手紙より拝するならば、兄弟は頼基の他に少なくとも三人はいたようであり、また妹もいたと思われる。
兄弟の順は明らかではないが、先にあげた系図によると、左衛門尉頼隆、四郎頼李、七郎頼實が知られている。ただし、「崇峻天皇御書」には「殿の兄とは」(1272-14)とあり、また「四条金吾御書」に「御をととどもには」(1176-05)とあることから、頼基は長男でなかったこと、さらに末子でもなかったことが考えられる。
その他、兄弟については、「種種御振舞御書」に「左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて」(0913-17)とあり、とあり、文永8年(1271)の竜の口の法難のおり、居合わせた兄弟たちが大急ぎで、裸足で大聖人のもとへ駆けつけたことから、みな大聖人に帰依していたのではないかと思われる。しかしこの法難以降、大聖人門下に対する迫害はしだいに激しくなり、弟子たちの中には、とらわれたり、牢に入れられたりした者が少なくなく、さらに信仰を続けることは非常に困難な状態にあった。頼基自身も、法難のときは主君に庇護されてことなきを得たが、その後、主君に法門を説いてからは、主君より怨まれ、同僚からも狙われる日々が続き、ついに屋敷や領地を没収されるなどの数々の難がおそいかかった。
こうした迫害が、他の兄弟たちに影響を及ぼさないわけがなかった。とくに頼基の兄は先にも触れたが「竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし」(1172-14)とあるように、人肉を食う怪僧・竜象房と手を組み、頼基を圧迫していたと思われる。
だが頼基は大難のさ中、常に大聖人の指導を受けながら、敢然と信仰を貫いた。しかし他の兄弟たちは、数々の迫害にともすれば信仰の火も消えかね、次第に頼基から遠ざかりはじめたのである。大聖人のお手紙には「たのもしき兄弟なし」(1163-15)、「兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだちにもそばめられ」(1184-02)等々の御文があり、兄弟たちの様子がうかがわれる。
また大聖人は、頼基から離れていこうとした兄弟たちの仲を早くから心配されて、細々とした指導を与えている。文永10年(1273)のお手紙には「兄弟も兄弟とおぼすべからず、只子とおぼせ(中略)舎弟等を子とせられたらば今生の方人・人目申す計りなし」(1132-11 )とあり、また建治4年(1278)には「御をととどもには常はふびんのよしあるべし。つねにゆぜにざうりのあたいなんど心あるべし。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ、我がためにいのちをうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とがありとも、せうせうの失をばしらぬやうにてあるべし(中略)されば舎弟等を子とも郎等ともうちたのみてをはせば、もしや法華経もひろまらせ給いて世にもあらせ給わば、一方のかたうどたるべし」(1176-05)と述べられ、細かいところまで配慮をされている。
また頼基に与えられた御書の中に「夜廻の殿原」、「夜めぐりの殿原」と述べられているところが数か所あり、前後の関係から頼基の兄弟たちをさすのではないかとの説がある。しかし、これらの御文のすべてが皆兄弟のことをさすとは断定しがたい。当時の警護の者たちの中にも、多分に頼基に心を寄せ、信心をしていた者もあるのではなかろうか。あるいは、迫害の中にある頼基にとって、心にはあわなくても警護の者と心を通じさせることは、むしろ大切な事であったであろう。
したがって大聖人は「よるは用心きびしく、夜廻の殿原かたらいて用ひ、常にはよりあはるべし」(1169-10)、「いかに申すとも鎌倉のえがら・夜廻の殿原にはすぎじ。いかに心にあはぬ事有りとも、かたらひ給へ」(1172-07)等と述べられたのであろう。いずれにせよ、推定の域を出ないが、兄弟たちが鎌倉の警護、すなわち夜廻りをつとめていたとも考えられることを付しておく。
妹については、名は不明だが「妹等を女と念はば、などか孝養せられざるべき」(1132-07)、「我が母心ぐるしくをもひて、臨終までも心にかけしいもうとどもなれば、失をめんじて不便というならば、母の心やすみて孝養となるべしとふかくおぼすべし」(1176-11)とあることから、一人または二人以上の妹たちがいたと思われる。妹たちが頼基とともに信仰に励んだかは不明であるが「失を・めんじて」、「女るひはいかなる失ありとも」(1176-08)等の御文から、他の兄弟たちと同様、紛動され信心がぐらついていたとも考えられる。
これらの兄弟や妹たちが、その後どのようになったかは明らかではないが、前述の系図によると、次のようなことが知られる。
すなわち左衛門尉頼隆は、頼道、頼義の二子をもうけている。頼義は後に出家し日義と号し、甲州満沢村に一寺を創設した。また頼道は、藤太郎次郎左衛門尉といい頼基の娘・月満御前と結婚、頼里、頼益の二子をもうけた。子の頼里は江馬家に仕えたが、元弘3年(1333)北条氏滅亡の際に殉死したという。頼益は、藤八郎三郎左衛門といい、甲州の内船に帰農し、60歳で没したということである。
(3)家族
頼基の妻・日眼女については「夫婦共に法華の持者なり」(1109-03)とあるように、大聖人に帰依し純真な信心を貫いていたと思われる。とくに佐渡の大聖人のもとへ夫をつかわし、信仰への迫害の激しい中を一人、留守を守りきったことは、立派な信心といえる。また大聖人からも種々お手紙をいただき、細かな指導をうけている。
文永8年(1272)5月のお手紙には「若童生れさせ給いし由承り候。目出たく覚へ候。殊に今日は八日にて候……いそぎいそぎ名をつけ奉る。月満御前と申すべし」(1110-01)とあり、5月8日に女子が誕生したことがわかる。この月満御前は、後に頼道の室となった人で、文保元年(1317)12月15日に没している。法号を法蓮日妙という。
また文永9年(1272)のお手紙には「経王御前を儲けさせ給いて候へば、現世には跡をつぐべき孝子なり。後生には又導かれて仏にならせ給うべし」(1132-02)とあるところから、もう一人、経王御前という女子がいたようである。翌年8月には「経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候(中略)ただ歎く所は露命計りなり。天たすけ給へと強盛に申し候」(1124-03)とあり、幼くして病にかかったものと思われる。またこのお手紙を書かれる少し前に、大聖人は頼基一家に、御本尊を下付されている。しかし、月満御前がその没年まで明らかであるのに対し、経王御前に関してはこのお手紙を最後に、その後の消息は全くつかめていない。一説には幼く死亡したとして考えるものもあるようであるが、この考えは疑わしい。なぜなら、母親の命日には年々大聖人に追善供養をしているほどの頼基である。わが娘がもし亡くなっていたならば、文永10年(1273)以降にいただいた三十編近いお手紙の中に、そのことに関する文がみられてもよいはずである。しかるにそうした文が一か所もみられないということは、少なくとも大聖人の御存命中は、丈夫であったろうとも考えられるからである。
また文永10年(1273にしたためられた「訶責謗法滅罪抄」には「わが子・四郎は父母を養ふ子なれども悪くばなにかせん」(1132-05)とあり、「四郎」と称する子供がいたとも思われる。建治3年(1277)にいただいたお手紙には「とのは子なし」(1163-15)とあり、四条家の跡目を継ぐべき男子がいなかったのではないかとも考えられ、このあたりの消息は明確でない。
第二 日蓮大聖人と頼基の信心
(一) 頼基の入信
日蓮大聖人と頼基との最初の出会いが、いつ、どこであったか。また頼基がどのような経路で、信仰の道に入ったかは不明である。頼基が大聖人からいただいたお手紙は、今日わかっているものでは、文永8年(1271)以降のものと推定されるものばかりである。ただ、弘長元年(1261)4月28日付けで送られたとされる「椎地四郎殿御書」に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」(1149-02)とあり、頼基の名前がでている。ところで椎地四郎と頼基の関係については、弘安3年(1280)月、頼基にあてた「四条金吾許御文」に「しゐぢの四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ・よに・すずしく覚え候へ」(1195-05)とあるように、両者の間柄は、信仰という絆でかなり密接に結び合っていたことがうかがえる。
したがって、弘長元年(1261)当時、すでに頼基が入信していたことは確かであり、しかも「椎地四郎殿御書」の内容から、かなり強信者の一人として活躍していたようである。
弘長元年4月28日といえば、伊豆流罪の約二週間前である。すでに大聖人に対する国家権力の圧迫は日ごとに強まっており、大聖人は来たるべき難を敏感に察知されていたと考えられる。
前述の「椎地四郎殿御書」の中にも、大難がなければ法華経の行者ではないと明かされ、さらに、法華経の一文一句でも語る人は如来の使いであると、妙法流布に努めることがいかに偉大であるかを教えている。
これは、どんな難があろうと、如来の使いとしての使命を果たすべきであるという、信心を持つものの姿勢を強調されたといえよう。このことを、頼基に会ったならば、よくよく語りなさいと指示されているのであるから、頼基が門下の中でも中心者の一人として活躍していた様子がうかがえる。
したがって、日蓮大聖人が建長5年(1253)の夏に鎌倉入りをされ、伊豆流罪に至る間に、頼基は大聖人に出会い、門下となり、さらに伊豆流罪の頃には、信仰もかなり進んでいたといえよう。
ところで、大聖人と頼基の出会いについてはいくつか考えられる。もとより資料がないから、あくまで大聖人の御書を通した考察や、想像の域を出るものではないが、いくつか述べてみる。
その一つには、頼基の入信は建長8年(1256)頃と推定されている。。
建長5年(1253)の春、日蓮大聖人が弘法の第一歩を鎌倉の地に印した年は、執権・北条時頼が三年がかりの大伽藍「巨福山建長寺」を完成させた年でもあった。そしてこの建長寺に、宋から渡来した禅僧・蘭溪道隆を住まわせた。道隆が建長寺に入るのに続いて、京都にいた禅僧・円爾弁円が副寺の職につき、寿福寺に住んだ。道隆は建長寺仏殿梁牌銘に「皇帝万歳を祈る」ことを記し、また同牌銘に将軍家の安泰や平和をうたって鎌倉幕府の信任をかったのであった。時頼の信頼によって力を得た道隆は、その弟子・弁円とともに武士階級の上部の中に禅を弘めていった。
時頼、時宗等の参禅を目の前にして、当時の鎌倉武士の風潮として、それに連なる者もかなりあった。四条頼基もその例にもれず建長寺を訪れて道隆の門に参禅したと考えられる。
そして、大聖人が禅宗は天魔波旬の法なりと説くのを聞いて憤慨し、松葉ヶ谷に出かけていったが、かえって大聖人の智解と道理に服し、同じく参禅していた仲間の荏原義宗、工藤吉隆、池上宗仲・宗長の兄弟を誘って、共々に大聖人の信者になったといわれる。
いま一つは、頼基が名越一門であることから、名越家と大聖人との関係から頼基の入信を推定することができる。
大聖人は、立宗宣言後、安房国東条郷の地頭・東条景信の厳しい追手を逃れて鎌倉に渡り、名越の松葉ケ谷に草庵を結んだ。
だが、いかなる手ずるで松葉ケ谷に草庵を結んだかは、不明である。当然、宗教運動を展開するにあたって、地の利や交通の便など考慮したうえで名越の地を選定されたことと思われる。
しかし、その場所が幕府の所在地から、あまりにも近い距離にあり、幕府草創の頃ならともかく、北条執権政治がほぼ確立され、社会的秩序が整っていた当時、一介の無名の僧が草庵を結び得た背景には、なんらかの力添え、肩入れがあったと推定される。
松葉ケ谷の草庵跡と称される場所は、現在では三か所あって、正確な位置はわからない。しかし、北条一族の有力者であった名越家の邸宅の近くにつくられたことは確かであり、このことは注目すべきことである。
名越家は、三代執権・北条泰時の弟である朝時の代から名越の邸宅に住んでいたことから、名越家と称されていた。そして朝時の代に、和田義盛の乱(1213)で功をあげ、和田一族が滅亡してより、その領地を領土としたが、そこに安房国長狭郡が含まれていた。
大聖人が生まれた小湊も、修行に励み立宗宣言の第一声を放った清澄寺も、長狭郷の内である。そして、大聖人から「領家の尼」「名越の尼」「大尼」などと呼ばれたこの女性は、長狭郷の領家つまり名越の一族である。朝時の妻が、夫の死後出家して大尼といわれたのだともいわれ、あるいは正室ではなく側室ではないか、また名越一族の誰かの室ではないかなどはっきりはしていない。
いずれにしても、長狭郷の庄で、嫁の新尼とともに暮らしていたらしい。そして、大聖人の両親にかなり恩をかけていたようである。
清澄寺大衆中にも「領家の尼ごぜんは女人なり愚癡なれば人人のいひをどせば・さこそとましまし候らめ、されども恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なればいかにしても後生をたすけたてまつらん」(0895-02)といわれているし、「新尼御前御返事」にも「領家は……日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために」(0906-17)とあるから、大聖人および両親は、領家になんらかの恩をうけていることが考えられる。
この恩にたいして、大聖人は領家の所領(清澄寺、二間寺を含む)に、東条郷の地頭・東条景信が侵略の手を伸ばした時、領家の味方となって、二寺を領家にもどされたのである。その結果、地頭・東条景信は大聖人を深く怨んだようで、大聖人が東条郷に立ち入ることを禁じ、ついに立宗宣言の時、大聖人を追撃したのである。
これについては、清澄寺大衆中に「東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり(中略)一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894-14)とあり、善無畏三蔵抄の「文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時(中略)爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依って此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し」(0889-01)の文などから、この事件が立宗宣言以前ということが考えられる。。
所領を奪われずにすんだ領家は喜び、それは大聖人に対する信頼、尊敬から、妙法の信仰へと進展していったようである。後の文永8年(1271)の竜口の法難に際しては、退転し、大聖人から厳しく指摘されてはいるが、立宗前後は、かなり名越の領家と大聖人の間は密接であったと考えられる。
ゆえに、建長5年(1253)4月28日、大聖人が立宗宣言され、四箇の格言に念仏を破折されて、遺恨をむき出しにした東条景信によって追われた時、鎌倉へ脱出された大聖人にたいして、領家たる名越家が、救援の労を惜しまなかったことが推測できるのである。大聖人は領家の手ずるで、名越の地・松葉ケ谷に草庵を結んだと思われる。
早くから名越の従者であったのが四条家である。頼基も主命をうけて草庵におもむき、そこで頼基の生涯を決定する、大聖人との出会いがあったと考えられる。
やがて、妙法の信者として新しい人生の門出をなした頼基は、同僚や友人を誘って松葉ケ谷を訪れたのであろう。鎌倉地方の門下の中心として、大聖人から深く信頼され、活躍した頼基の生涯から考えて、大聖人が鎌倉入りされた早々、草案建設の時に、いち早く信者になったと考えても不思議ではない。
こうして縁故関係を通じながら、頼基を中心とした、活発な布教活動が繰り広げられ、妙法の輪は次第に拡大していったのであろう。
(二) 竜口法難と佐渡流罪
文永8年(1271)の2月頃から6月にかけておそった大旱魃は、全国的に国土を荒廃させた。民衆は水飢饉から食糧難にせめられ、さらに疫病にと苦悩の底に沈んでいった。
こうした現状に対し、幕府は極楽寺良観に雨乞いの祈禱を命じた。この知らせを聞いた大聖人は、良観に次のように申し入れた。「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし」(1157-17)と。
この申し入れに喜んだ良観は、6月18日から7月4日までの間、弟子百数十人を集め祈雨の法を行じた。その結果は「此に両火房上より祈雨の御いのりを仰せ付けられたり(中略)七日が間に三度の使をつかはす、然れどもいかんがしたりけむ一雨も下らざるの上、頽風・飈風・旋風・暴風等の八風・十二時にやむ事なし剰二七日まで一雨も下らず風もやむ事なし」(0349-17)と明らかであり、良観はその面目を失ったのである。
この一件により良観は、大聖人を深く怨み、7月8日に浄光明寺の行敏を通し、大聖人に対決を申し入れた。これに対し大聖人は返書をしたため、公場対決を要求した。良観らは是非なく訴状を問注所へ差し出し、幕府はこの訴状を大聖人に渡した。大聖人はこの訴状に対し、一つ一つ明確に論駁され、もはや良観らは、再び反駁することができなかった。
しかし「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911-03)とあるように、法論をもって大聖人に対することのできないことを知ると、良観はしきりと裏面から幕府の有力者や、尼御前たちを動かし、大聖人を抑圧しようと画策しはじめた。そしてついに、幕府の政治や軍事面の実権を握っていた平左衛門尉頼綱を動かしたのである。
9月10日、大聖人は評定所に呼び出され、尋問を受けた。しかし大聖人は、少しも憶することなく「理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし」(0911-15)と、逆に平左衛門尉を諌めたのである。
さらに9月12日、大聖人は書状をしたため「抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり」(0183-14)と、再び平左衛門尉を諌めたのである。しかし、この書状に溢れる大聖人の至誠も、所詮、通じることはなかった。逆に平左衛門尉は、その日のうちに大聖人を捕えようと迫ったのである。
12日の夕刻、平左衛門尉は松葉ケ谷の草庵にただ一人住まわれている大聖人のもとへ、武具に身を固めた数百人もの兵士を率い押し寄せてきた。その様子は諸御書にみられるが、「種種御振舞御書」には次のようにある。
「去文永八年太歳辛未九月十二日・御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行が謀反ををこし、大夫の律師が世をみださんと・せしを、めしとられしにもこえたり。平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして、眼をいからし声をあらうす。(中略)さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して、おもてを三度さいなみて・さんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所もなし。日蓮・大高声を放ちて申す。あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば、上下万人あわてて見えし」(0911-15)。
さて、数百人してやっと大聖人を捕えた平左衛門尉は、一往、公的には武蔵守宣時の預りとして、宣時の領国である佐渡へ遠流ということに裁決を下し、内密には竜口の刑場で斬首する手筈になっていた。そのため、大聖人はいったんは宣時の預かりとしてすごし、その日夜半になってから、再び多くの兵士にとりかこまれて竜口へと向かわれた。
途中、若宮小路の鶴岡八幡宮にさしかかった時「八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」(0912-17)と馬から下りられ「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(0912-18)と、大音声を放って叱咤されたのである。
さらに一行が由比ケ浜へ出て、御霊社の前へさしかかった時、大聖人は「しばし・とのばら・これにつぐべき人あり」(0913-11)といって、護送の列を止められた。そして、大聖人はお供していた童子の熊王丸を呼ばれ、長谷の頼基のもとに、この急を告げさせた。
熊王丸の知らせをうけた頼基の驚きは、いかばかりであったろう。さしも気丈な頼基も、すっかり度を失い、とるものもとりあえず、裸足のまま飛び出した。毎月12日は頼基の母の命日である。考心の厚い頼基のことである。この日も恐らく兄弟して、母の追善法養をしていたものか、たまたま居合わせた兄弟たちも、頼基のあとに続き、大聖人のもとへ駆けつけていった。
やがて一行に追いついた頼基は、夢中で馬上の大聖人にとりすがった。大聖人は「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり」(0913-12)と、静かに確信溢れる言葉で頼基に仰せになった。法華経のゆえに、頸の座にのぞまれることを、喜びとされている大聖人の厳然たるお姿に頼基も今はただ大聖人と共に殉死しようと覚悟を定め、泣く泣く大聖人の馬のくつわにとりすがって刑場へとお供をして行ったのである。この時の頼基の様子は、後に大聖人が佐渡あるいは、身延等で認められた御書にいくつかみられる。
「文永八年の御勘気の時・既に相模の国・竜の口にて頚切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし事実にならば腹きらんとの気色なりしをば・いつの世にか思い忘るべき」(1193-03)。
「去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ(中略)かかる日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給う事、かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも、百千万倍すぐれたる事なり。日蓮霊山にまいりてまづ四条金吾こそ、法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なり、と申し上げ候べきぞ」(1113-01)と。
竜口の法難という最大の事件の時に、大聖人のそばで、大聖人と共に殉死の決意で行動をしたのは、数多い門下の中でも頼基ただ一人であった。
前述の御文のように、その昔、弘演は主君・懿公の恥をかくすため、わが腹をさいて主君の肝をいれ、死んでいったという。こうした例をあげるまでもなく、臣下や武士は主君を大事にしていた。己れの生死は、常に主君と共にあったともいえる。したがって、主君のため、お家のためには、武士であるならば進んで命を捨てることが是とされていたのである。
だが、今ここに武士である頼基が、まさに命を捨てんとしたのは、主君ならぬ法華経の御故であり、大聖人の御故に我が命を捨てようとしたのである。
こうした頼基の姿こそ、不自惜身命の実践の姿である。また、仏法を守りきるという、烈々たる気概、気迫こそ今もかわらぬ大聖人の弟子としての精神といえるのである。
また、頼基が仏法のために命を捨てると決意した瞬間に、頼基自身の成仏、宿命の転換が決まったともいえよう。すなわち「頚切られんとせし時、殿はともして馬の口に付きて、なきかなしみ給いしをば、いかなる世にか忘れなん。設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」(1173-03)と。頼基がもし地獄に堕ちるのなら、ともに地獄に堕ちようとの一節を拝した頼基はいかばかり感激にむせんだことであろう。
さて、いよいよ竜口の頸の座にすわられた大聖人の姿をみて、頼基は「只今なり」と絶句し、泣き伏してしまった。しかし、大聖人は「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし」(0913-18)と、かえって頼基を叱咤し、激励されたのである。
まさに、何ものをも恐れぬ泰然自若としたお姿であった。御本仏としての御境涯は、いかなる権力、武力をもってしても、所詮こわすことはできなかったのである。
時刻はすでにあけて13日の丑の刻であった。突然「江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし」(0914-01)と。この竜口の法難の瞬間こそ、日蓮大聖人が上行菩薩として迹の姿を開いて、久遠元初の自受用身とあらわれた発迹顕本の時だったのである。
こうして、その夜の難を逃れた大聖人はしばらくして、ひとまず依智の本間六郎左衛門尉重連の家に預けられることとなった。大聖人と、なお、その身を案ずる頼基は、周章狼狽している役人たちと共に、依智を目指し道にまかせて進み、やっと13 日の昼に本間六郎左衛門の屋敷へ到着された。
本間邸に入られた大聖人の堂々たるお振る舞いに、警護の者も、しだいに大聖人に信伏する者も多くなった。一度は死を決意した頼基も、大聖人の悠々たるお姿や、本間家の家臣や警護の兵士たちが、むしろ信伏していく姿に、ひとまず安心し、大聖人と別れて鎌倉へ帰ったのである。
その後、20日あまりを依智で過ごされた大聖人は、10月10日、流罪の地、佐渡に向け出発された。
しかしこの間、迫害は門弟にまで及び、禁獄、所領没収、御内追放をうけた者もいた。さらに弾圧を恐れた人びとの中には信仰を捨てて退転した者もいた。
これらの弾圧は、おもに良観らが暴徒を使って鎌倉各所に火を放ち、殺人強盗をなし、これを全て大聖人門下の仕業であると捏造したために起きたものであった。しかも、幕府側も機会を捉えて大聖人一門を潰滅させようと、躍起になっていたのでこの弾圧がいかに激しかったかがうかがわれるのである。
こうした中にあって、頼基は大聖人の身を案じ、鎌倉から何度も便りを差し出している。文永8年(1271)9月21日付のお手紙の冒頭には「度度の御音信申しつくしがたく候」(1113-01)とあることから、頼基が相変わらず大聖人をお慕いし、守り切ろうとした心情がうかがえるのである。
大聖人が佐渡へその第一歩を下ろされたのは、文永8年(1271)10月28日、塚原の三昧堂に着かれたのは、11月1日であった。佐渡といえば、古来この地に流された流人のほとんどが病没している。承久の順徳天皇等、数えあげればきりがない。当時、佐渡へ流されるということ自体、死罪にも匹敵するほどの罪であったといえよう。
こうして厳寒の孤島に、しかも50歳の大聖人の、あまりにも峻烈な御生活がはじまったのである。そしてそれは、文永11年(1274)3月に至るまでの、2年数か月にわたったのである。
また、この地にも大聖人の命を狙う者がいた。しかし、地頭の本間重連や阿仏房夫妻に守られながら、大聖人は直ちに人本尊開顕の書である、開目抄の御執筆に入られた。
一方、大聖人の身を心から案ずる頼基は、大聖人の許を訪れてお見舞いしたいと思ったことであろう。しかし、武士として主君に仕える身で、長期の旅などできようはずがなく、そこで、文永9年(1272)のはじめ、大聖人の許へ使者をたて、数々の御供養の品を送ったのである。
大聖人は、2月に完成された「開目抄」をこの使いに託し、頼基に送られたのであった。「種種御振舞御書」には「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ(中略)かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ」(0819-02)とある。
この「開目抄」について、大聖人は同年4月に富木常忍に与えられたお手紙に「法門の事先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ其の書能く能く御覧有る可し」(0962-04)とその重要性を述べられ、頼基を中心に教義の浸透をはかられている。
「開目抄」がいかに重大な書であるかは、いうまでもない。しかも筆紙の窮乏するなか、残る門下一同に遺言として認められた重大な御書を、有縁の中の最も有縁の弟子として、頼基は賜わったのである。このことからして、大聖人がいかに頼基を信頼されていたかがわかる。また頼基も、大聖人の信頼どおり、鎌倉にあって、迫害の激しい中を信者の中心となって活躍したのである。
このころ鎌倉幕府は、内外ともに騒然とした空気に包まれていた。外には蒙古の襲来が時間の問題となり、内には北条一門の醜い同士打ちという内乱が起こったのである。
まさに前年の文永8年(1271)9月12日、大聖人が平左衛門尉に向かって断言された自界叛逆難、他国侵逼難が現実となってあらわれてきたのである。
文永9年(1272)2月15日に起こったこの内乱の首謀者は北条時輔であり、この時輔に江馬光時の弟・教時、時章が加担していた。したがって光時も、謀反人の一族との嫌疑を受け、頼基の主君である江馬家の命運は、まさに風前の灯であった。しかし、幸いなことに江馬家に対する謀反の疑いは晴れ、頼基もことなきを得たが、幕府の動揺は激しかった。
この騒動もようやく鎮まった文永9年(1272)の春、開目抄につづいて、頼基は富木殿といっしょに佐渡御書を受け取った。窮迫する御生活のなかにあって、御文にあふれる鎌倉の弟子や門下一同を心配される大聖人の誠心に、頼基は奮い立たずにはおられなかったであろう。主君に暇をこい、矢も楯もたまらず、佐渡をめざし、旅立ったのである。
鎌倉での騒動が鎮まったとはいえ、監視の眼は、なお厳しく、しかも江馬家に仕える身であり、勝手な行動を起こすことは不可能に近かった。そのうえ、流罪地・佐渡までの長期間の旅路は、考えただけでも並み大抵のことではなかった。しかし、頼基はそうした障害を乗りこえ、ただ大聖人にお目通りしたい一念で佐渡へ向かったのである。
道中の険しさは日妙聖人御書で察せられる。「相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに・へだて山は峨峨・海は涛涛・風雨・時にしたがふ事なし、山賊・海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし・犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか」(1271-10)と。
こうして佐渡の一の谷(現在の新潟県佐渡市市野沢)についた頼基は、感涙の中に大聖人にお会いすることができたのである。大聖人のお喜びも、またひとしおであったことと思われる。
そのことは後年、身延においてしたためられたお手紙で、この時の様子が次のように述べられている。「佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山颪に命助かるべしともをぼへず。年来の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らん事は、大海の底のちびきの石の思ひして、さすがに凡夫なれば、古郷の人人も恋しきに、在俗の官仕隙なき身に、此の経を信ずる事こそ稀有なるに、山河を凌ぎ、蒼海を経て遥に尋ね来り給いし志、香城に骨を砕き、雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき」(11930-05)と。
また、夫を佐渡へ送り出した日眼女に対しても、大聖人は直ちに感謝と激励の言葉を認められている。
やがて、大聖人から妻日眼女への手紙をたずさえ、名残りを惜しみながら頼基は佐渡を後にした。
大聖人の御尊姿を、ひさびさに懐かしく拝し、鎌倉に帰った頼基は、新たな感激の中にますます信心に励んでいったであろう。大聖人からは追いかけるようにして5月、感謝のお手紙をいただいている。その冒頭には「日蓮が諸難について御とぶらひ、今にはじめざる志ありがたく候」(1116-01)とあり、実に頼基の終始一貫した変わらぬ至誠がしのばれる。
その後、御不自由な佐渡での生活を思いやり、少しでもお助けしようと頼基は何回となく大聖人の許へ使者をたて、御供養の品を送っている。こうして門下一同にとって最大の迫害の中、頼基は大聖人の留守を守りきり、鎌倉の信者の中心として、活躍したのである。
第三 主君・江間氏と四条家の関係
(一)江馬光問について
江間氏は、四条金吾家代々の主君である。とくに日蓮大聖人のもとで実践第一の弟子として活躍した頼基にとっては善知識となって、その生涯と信心に多大な影響をあたえてきたといえよう。ここでは、江馬氏およびその一門である北条氏や鎌倉幕府などについて少々述べてみる。
日蓮大聖人の御在世すなわち13世紀初頭は、源頼朝が鎌倉に幕府を創立して以来50余年、承久の乱などによって、政治の中心は京都から鎌倉に移っていた。天皇の即位・年号の改元すら幕府の許可なしでは行うことができなかったという。
当時の鎌倉幕府の主は、わずか2歳の四代将軍・頼経であった。頼朝が没したあと、嫡子・頼家が二代将軍となり、その弟・実朝が三代将軍と源氏の嫡流が継いだが、有力御家人の争いにより、いずれも若くして暗殺され源氏はついに絶えてしまったのである。かわって、京都の貴族・藤原家から、名目上だが御家人を統一する意味で下った将軍が頼経であった。しかし、頼経は将軍といえどもあまりにも幼く、後見人として源頼朝の妻北条政子の北条家が実権を握っていくのである。
源頼朝(初代将軍)┬─┬頼家(二代将軍)─┬ 一幡(若死)
北条政子─────┘ └実朝(三代将軍) ├ 公暁(若死)
└竹の御所┐(子供を生まず死去)
藤原家からの養子 頼経┤(四代将軍)
藤原親の娘┴頼嗣(五代将軍)(後将軍職を解任され実権は北条家に移行)
北条氏は、もともと伊豆の一土豪である。頼朝の旗揚げに真っ先に応じ、妻・政子の外戚として、幕府創立の功績をなしてきたうえに、頼朝なきあとは尼将軍政子の背後にあって、幕府内随一の勢力をもち、こうして、五代将軍頼嗣のあと、北条時政が将軍職につくのである。
北条時政―──┬政子(源頼朝妻)
└初代執権 ├義時────┬泰時(三代執権)──時氏─┬経時(四代執権) ┌時輔(二月騒動の首謀者)
└二代執権 │ ├時頼(五代執権)──├時宗(八代執権)
│ 正室┐
├朝時┼名越殿─┬光時┴江間殿─親時
│ │大尼┘光時の室
│ ├時章(二月騒動にて斬首さる)
│ └教時(二月騒動にて斬首さる)
├重時──┌長時(六代執権)(子なくして没)
├政村(七代執権)
四条家の主君・名越氏は、北条氏のなかでも有力な名家でありながら、実に悲運の一族であった。初代・朝時すなわち江馬光時の父は、二代執権・義時の次子であり、三代執権・泰時の弟である。
邸が鎌倉の名越にあったことから名越氏と称するようになり、その子・光時の代になってから、執権・時頼への謀叛のため、流罪となった場所が伊豆の江馬であったから、江馬氏と呼ばれたようである。
日蓮大聖人も御書のなかに「名越の公達」(1162-14)とか「えまの四郎殿」(1175-07)などと、一族を呼称されている。
朝時は一時女性問題によって、三代将軍・源実朝の勘気、また父・義時よりの義絶を受けて駿河国富士郡に蟄居(建暦2年・1212)したが、建暦3年(1213)5月、和田義盛の乱の折に許されて参加、敵将・朝比奈義秀と戦い、かなりの傷を受けながらも勇戦した様子が吾妻鑑にみえる。
また、承久3年(1221)の承久の乱には、兄・泰時が東海道の総指揮官として出陣したのと共に、北陸道の総大将として上洛している。嘉禎2年(1263)には評定衆になったが、仁治3年(1242)には出家していることが、北条九代記、鎌倉年代記裏書などに述べられている。
その長子・名越光時は、嘉禎2年(1263)父の官職を継いで式部丞に任じられ、父、朝時の出家した翌年寛元元年(1243)には越後守となって、四代将軍・頼経の近習として寵遇を蒙った。四代将軍・頼経が執権・経時によって、引退させられると共に、光時の執権への道も遠のき、そこで得宗家に対する不満をもつ有力な御家人・三浦、千葉氏と共に前将軍・頼経をかついで、クーデターの計画をたてたのである。しかし事前に発覚し、光時は薙髪して謝罪、越後守など所帯の職を収公されて伊豆の江馬に流されたのであった。頼経は京へ戻され、三浦氏、千葉氏は滅ぼされた。
名越家は有力な北条の一門でありながら、鎌倉幕府の歴史のなかには、常にその一族が謀叛人となって登場しており、その子孫は不運な立ち場を余儀なくされている。家系図をみてもわかるように、得宗家に次ぐ有力な立ち場にあり、初代・朝時は父・義時からも愛されて、承久の乱には一軍の総大将として活躍しているにもかかわらず、執権、連署ともに、就任した者は一族では一人もいない。
名越家が不運な立ち場となったのは、次のような北条家のお家騒動が背景になっていたと考えられる。三代執権・北条泰時が病気になったのは、仁治3年(1242)5月9日であり、そのあとすぐ、5月11日には朝時が出家している。泰時は闘病一か月余で6月15日に没している。泰時の子・時氏はすでに早世しており、孫の経時が20歳未満であったが、四代執権となった。この仁治3年(1242)の記録については、幕府の日記を綴った吾妻鏡がどういうわけか一年間ぬけている。だが平戸記によると、騒動があった様子がうかがわれるし、また、泰時のあとについて、名越朝時が早々に出家して執権職を継がなかったことなど、かなり後継者争いがあったことが想像できる。つづいて起こったのが四代経時の早々の病死であった。そして五代目には実力者・時頼が執権職を継いだのである。名越光時による時頼へのクーデターは仁治3年(1242)からわずか4年目である。
光時は伊豆の所領江馬に蟄居したが、後に赦されて鎌倉に出ているようである。ただし、その後「関東往還記」の弘長2年(1262)7月13日の条にあらわれるが、越後入道、法名蓮智とよぶ在家沙弥の身なので、江馬家の当主ではなかったようである。北条氏得宗に対抗し公職を収公されたのであるから、当然といえよう。その子・親時は、その後、幕府に出仕するようになったようである。大聖人も「えまの四郎殿の御出仕に御ともの……」(1175-07)と述べている。
だが、江馬氏にとって、再び得宗家叛逆の疑いをかけられる事件が持ち上がった。文永9年(1272)の北条時輔の乱である。この内乱の首謀者である時輔は、八代執権・時宗の兄にあたっていたが、正室の子ではなかった。そのため執権職を相続されず、弘長元年(1261)に三代目の六波羅探題として京都に赴任した。父・時頼は、時宗の器量に早くから目をつけ、そのため時宗は相模太郎と呼ばれて家督相続を約束されていた。時輔は長男であるにもかかわらず、天下の実権も弟に奪われたゆえ、心中常に穏やかではなかった。
この時輔に気脈を通じていたのが、名越家の一族で、鎌倉の評定衆・中務権大輔教時であった。ゆえに時輔の乱が発覚するに及んで、教時は同罪とされ、また、その兄・名越民部大輔時章もその一味として強く疑われた。そして教時、時章は誅され、時輔も誅された。
この時、教時・時章の兄であった江馬光時も、謀叛人の一人として疑われ同じく断罪に処せられるところであったが、疑いが晴れて、光時はまたしても一命をとりとめたのである。
すぐ下の弟・時章は断罪の後、関係がなかったことがわかったが、没収された領地、財産などは、そのままで、ついに返されなかったという。
こうして、名越家は二代執権・義時の次子から誕生した由緒ある家柄にもかかわらず、ほとんどが絶えて、北条九代記などによる北条家図にあっても途絶えている様子がわかる。
天下の実権をわがものとして、武家政治の上にわが世の春をうたった北条一門にあって、一族中一人の花も咲かすことのできなかった名越家は、また初代朝時より代々得宗家に反骨を呈し続けてきた、宿命的ともいうべき一族であった。
(二) 実践の人・四条金吾
(1) 江間氏への折伏
頼基は、数多い日蓮大聖人門下のなかでも、実践第一の人であった。大聖人を徹底的に迫害し弾圧する絶対の権力・北条幕府の一門に仕えるという環境にあって、信心を貫きとおしたのである。
頼基の主君・江馬光時およびその子・四郎親時は、ともに大聖人迫害の元凶である極楽寺良観の熱心な信者であったから、その家臣の多くもまた主君とともに同じ信仰であった。ひとり頼基だけが主君と信仰を異にし、大聖人の仏法を信じていたのである。
その中にあって、しかも大聖人が国中から悪人と目され、国家権力による度々の迫害にあっていたにもかかわらず、頼基は確信に燃えて、主君に妙法を説いたのである。それは、文永11年(1274)、大聖人が佐渡流罪から御赦免となって、元気に帰られた年のことである。
文永8年(1271)9月12日の竜口の法難、続いて大聖人の佐渡流罪は、門下にとって、全く闇に閉されたも同然であった。すなわち、信心に対する疑妄はなくとも、御本仏たる大聖人が全く、赦免、帰還の見込みのない遠流の地・佐渡に流され、門下の弟子檀那もまた次々と所領をとられたり、所を追われたり、牢へ入れられたりするなど、その弾圧は厳しいものであったから、直接難を受けない信徒までもが、信仰に迷いを生じ、世間の眼を恐れて、次々と脱落していったのである。残って、健気に信心を続けていく人々にとって、流罪の身にありながら、遠く佐渡より弟子の身を案じて送られてくる大聖人の力強いお手紙が、唯一つの支えであった。いかなる権力にも負けず、怖れず、そしてへつらわぬ大聖人の仏法への大確信、さらには広宣流布への大情熱が御文の行間に躍動していて、ともすると難にくじけそうになる門下の人々を勇気づけたのである。そののち、大聖人の御確信通り、佐渡流罪上前例のない処置となって、ついに文永11年(1274)2月赦免状が下された。この事実は、門下の人々に信心への強い確信を与えたのである。
主君に対しても至誠一徹、そして純粋な信心を貫いてきた頼基は、ここで仏法の偉大さを痛感し、主君を折伏したのであった。涅槃経に説かれた「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり。彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり」との釈尊の金言もある。
頼基は、不幸の因たる良観を信仰する主君に対し、悪を除き、正法に帰伏せしめていくことこそ、最高の主恩を報ずることと、敢然と折伏を実践したのであった。
しかしながら、頼基の誠意の折伏に対して、主君は耳をかたむけず、かえって、頼基を疎み、遠ざけるようになったのである。極楽寺良観への非常に熱心な信者であった主君であれば、いかに忠臣が至誠を尽くしても、こと宗教に関しては、そう簡単には受け入れるわけにはいかなかったのであろう。
これに対して大聖人は、文永11年9月26日付けの「主君耳入此法門免与同罪事」に「一国こぞりて日蓮をかへりてせむ。上一人より下万民にいたるまで、皆五逆に過ぎたる謗法の人となりぬ。されば各各も彼が方ぞかし。心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ。今は御用いなくもあれ、殿の御失は脱れ給ひぬ」(1133-10)と指導されている。
日本国を挙げて、法華経の行者・日蓮大聖人に敵対し、大謗法を犯している。そのなかで、頼基は、心は大聖人と同じく正法を護持しているとはいえ、身は謗法の主君に仕えているゆえに、仏法の厳しい道理に照らしてみれば、与同罪を免れることはできない。だが、頼基が主君を折伏したことは、与同罪をも免れ、成仏することができると、頼基の健気な信心を誉められたのである。
現在の民主主義の世の中ですら、被雇用人が雇用主を折伏することは難事である。まして当時は、身分制度ゆるぎない封建社会であり、かりにも臣下の身にある者が、主君に改宗を迫るなど、到底考えられぬことであった。しかも、当時の主君は、文字通り、一切の死活の鍵をにぎった主君であり、主君の意向は、臣下にとって絶対的な影響力をもっていた。ゆえに、頼基が主君を折伏することによって、主君の不興をかうことは、それこそ一族の死活問題から、一族滅亡にすらもつながる大問題と発展することは当然なのである。だが頼基の一徹な信心と至誠は、あえてこの至難事をやりとげたのである。しかも、「主君耳入此法門免与同罪事」の次の文は「此れより後には口をつつみておはすべし」(1133-13)とあって、主君への折伏は、これ以降は口を閉じて、とどめておきなさいといわれている。剛直一途な頼基が末法の修行にふさわしく、真剣な弘教を展開したことがわかる。折伏して、正法に帰依させることが、主君に対する最高の報恩であるとの道理は理解できても、それを実践に移すときは、それこそ並々ならぬ勇気が必要である。ゆえに、大勇猛心をもって、主君を折伏した頼基は、もっとも勇気ある実践の人であるといえよう。
(2) 頼基の性格
この頼基のひたぶるな信心の実践力は、その人柄をよく物語っていた。
頼基、大聖人からしばしば「御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん」(1169-07)と指摘されているように、非常に短気で直情径行であった。ゆえに性急な言動があらわれるためか、人から恨みを買ったり、とかく不祥事を招きやすく、何かと大聖人も心配されて、細やかな指導をされている。たとえは、崇峻天皇御書において、かって崇峻天皇が短気な性格のため家臣に暗殺されたという事件の例を引いて諌め、また孔子の九思一言などを用いて注意されている。しかし、このような一途な性格であったからこそ、竜口の頸の座、あるいは佐渡訪問、また主家からの迫害の際にも至信の誠を貫き通すことができたともいえよう。これらの行為は、たんに形のみでできるものではない。頼基自身の生命の底から、ほとばしり出たものであり、頼基ならではの信心の発露えあったのである。
(3) 親子二代の忠誠
主君・江馬氏とは、いつ頃から主従の関係にあったか、はっきりはわからないが、四条家の領地が伊豆にもあることから、北条家が伊豆地方の土豪であったころからの主従関係ではなかろうかと思われる。
江馬氏は、前項でも述べたように、北条一門の一人で、あるいは執権職か、それに次ぐ連署の座についたであろうほどの有力な一族であった。しかしながら、名越朝時の時代から北条一門のなかでは不遇な立ち場におかれていた。
さらに、江馬光時の代になって、時頼への謀叛、また時宗執権時代には、教時ら光時の弟たちが時輔の乱に加担したなどして、四条家にとっての主君は代々日蔭の立ち場にあった。にもかかわらず、四条家では父・頼員、左衛門尉頼基と父子二代とも、実に忠誠を尽くしてきた。
「頼基陳状」(1161-01)に「頼基は父子二代・命を君に・まいらせたる事顕然なり・故親父中務某故君の御勘気かふらせ給いける時・数百人の御内の臣等・心かはりし候けるに中務一人・最後の御供奉して伊豆の国まで参りて候き、頼基は去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節・伊豆の国に候しかば十日の申の時に承りて唯一人・筥根山を一時に馳せ越えて御前に自害すべき八人の内に候き」と、大聖人も父子の忠誠を述べている。
この文の「故親父中務某故君の御勘気かふらせ給いける時……」とは、寛元4年(1264)名越光時が四代将軍・頼経と謀って、五代執権・時頼に謀反をしようとして事前に発覚、領地を没収され、伊豆の江馬に流された時、数百人の家臣がことごとく逆境にある光時を捨て去ったのであるが、ただ一人頼基の父・頼員は忠心を微動だにもせず、伊豆へ供したことである。
また次の文の「頼基は去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時……」とは北条時輔の乱のことをさす。
ここに「文永十一年」と記されているが、文永9年(1272)2月12 日の時輔の乱と考えられる。
江馬光時は、この時も謀叛の渦中にあり、疑いをもたれて、自刃せねばならぬ身となった。
このとき、頼基陳状の文のごとく、伊豆の領地という出先にあった頼基は、ただ一人箱根山を越えて、主君とともに自害すべき八人の中に加わったのである。幸い、江馬家に対する謀叛の疑いは晴れ、主従ともに事なきを得たのであった。
このようにして、父子二代にわたって、二度までも主君の危急存亡の際に、節をまげることなく、忠心を貫き通したのであった。しかも頼基の忠誠は、前述のように、武士としての主従の範疇だけではなく、主君の生命自体をも救って、成仏させようとしたのである。
「頼基陳状」にも「頼基が今更・何につけて疎縁に思いまいらせ候べき、後生までも随従しまいらせて頼基・成仏し候はば君をも・すくひまいらせ君成仏しましまさば頼基も・たすけられ・まいらせむと・こそ存じ候へ」(1161-05)とある。
同状の最後には「此くの如き厳重の法華経にて・をはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に・無量の小事をわすれて今に仕われまいらせ候、頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや、御内を罷り出て候はば君たちまちに無間地獄に堕ちさせ給うべし、さては頼基・仏に成り候ても甲斐なしとなげき存じ候」(1162-03)と。
詳細については後述するが、これらの文は主家からの迫害に対する頼基の示した忠心である。この主君に対する姿勢は、ついに同僚の卑劣な讒言にも、主君の怒りにもくずれることなく、人間としての勝利を勝ちとっていくことになるのである。
さて、主君江馬氏と四条家との関係は、名越朝時――江馬光時――江馬四郎親時の三代に、四条頼員――左衛門尉頼基の二代で主従関係を結んでいたようである。
父・頼員と名越朝時との関係は、代々の主従ということから、その関係が考えられるだけで、はっきりしない。江馬光時と頼員は、寛元4年(1246)の伊豆供奉の御文のごとくである。
では頼基と主君との関係はどうであったか。江馬光時が執権・時頼への謀叛を起こして、伊豆流罪となった時頼基は17歳ごろであるから、父・頼員とともに伊豆供奉をしているかどうかはわからない。
江馬光時は、寛元4年(1246)以来、この謀叛によって、領地、官位は没収され、出家しているから、隠居の身であり、江馬家の家督は、その子・四郎親時が務めていたようである。建治4年(1278)正月25日の「四条金吾御書」にも「えまの四郎殿の御出仕に御とも」(1175-07)といわれており、その様子がうかがわれる。
だが、大聖人が頼基に与えられた御書をみると、建治3年(1277)9月11日の「崇峻天皇御書」や、弘安2年(1279)9月15日に認められた「四条金吾殿御返事」などに「入道殿」と江馬氏に対して呼称されている。
したがって、江馬光時は出家して入道となり、隠居という立場となってはいたものの、名越、江馬一門内では、かなり権力をもっていたのではなかろうか。ゆえに、文永9年(1272)2月の自界叛逆難すなわち北条時輔の乱にあって、弟たち(時章、教時)とともに疑われたものと思われる。
以上から、頼基が仕えていた主君は、光時および親時の両方であったろう。
ここで問題になるのは建治3年(1277)に執筆されている頼基陳状において、光時のことを「故君」と呼称されていることである。これ以後の御抄に「入道殿」と度々呼称されているのは先に述べたが、子・四郎親時が壮年時代に入道となっている様子はない。したがって「入道殿」とは光時のことになる。
また「故君」については、日興上人が書写された頼基陳状の未再治本には「君ノ大方ノ御不審お蒙せ給て」とあり、再治本には「故君ノ御勘気カフラセ有ケル時」とあるから、弘安元年(1278)当時は生存し、正和五年(1316)には没していたと考えられている。
第四 頼基の受難時代
(一) 鎌倉の宗教界と僧侶
当時の宗教界は、平安朝の後期よりしだいに本来の目的を失いはじめ、鎌倉時代にあっては、むしろ互いに勢力を争うという、混乱の様相を呈していた。とくに比叡山をはじめとして、園城寺等の各寺院では、しだいに多くの僧兵をかかえはじめ、武力をもってその勢力を維持していた。彼らは互いに反目し、対立しあいながら、寺を守るためには、朝廷や法皇にまで直訴した。その手段として、神輿や神木を奉じ、大挙入京し、朝廷や法皇を威嚇し、市中をあばれまわり、血なまぐさい殺戮を繰り返したのである。
大聖人の幼年時代に限ってみても、嘉禄2年(1226)には金峯山衆徒が蔵王堂の焼失を高野山衆徒らの仕業だとして入京強訴を計り、安貞元年(1227)には比叡山延暦寺衆徒の訴えにより、念仏僧・隆寛等を遠流に処している。また翌年は興福寺衆徒が多武峯を焼き、このため延暦寺衆徒が蜂起して近江国の興福寺領を没収した。さらに嘉禎元年(1235)には、延暦寺衆徒、神輿を奉じて入京、興福寺衆徒も蜂起するなど、あいついで起こっている。こうして叡山を中心とする仏教界は、本来の姿から逸脱し、民衆を忘れ、むしろ民衆を腐敗と混乱の中に巻き込んでいった。しかもこうした僧侶の動きに加えて、火災や地震、河川の氾濫、さらに飢饉や疫病等の災禍の波は容赦なく民衆のうえにおおいかぶさってきた。
とくに寛喜2年(1230)の大飢饉は、翌年になってさらに餓死者を続出させた。なかでも京都では餓死者が道路に充満していたという。こうした惨状を前にしても為政者はいたずらに迷信を信じ、災難対冶のために、真言密教などによる加持祈禱を行なわせた。「史料綜覧」によれば、寛喜2年(1230)9月27日「幕府、五壇法ヲ修シテ、天変ヲ祈禳ス」。翌年4月11日「幕府、五壇法、一字金輪ノ修法ヲ行ヒテ、天変ヲ祈禳ス」。同五月四日「幕府、四角四堺鬼気祭等ヲ行フ」。同5月17日「幕府、炎早並ニ疫疾ノ事ニ依リテ、鶴岡八幡宮ニ大般若経ヲ読誦セシム」等々、祈禱が国家的行事として盛んに行なわれたことがわかる。
そして、これらの祈禱は、僧侶と権力者の結びつきをより強くし、僧侶を増強させる結果ともなった。日本の浄土宗の開祖・法然が登場したのは、これより少し前であったが、同じように不穏な社会情勢の中であった。彼は比叡山にのぼり仏法を学び、さらに黒谷の叡空のもとで念仏の行に打ち込み、専修念仏に到達した。そして彼は、念仏こそ誰でもが往生できる易行であり、弥陀の本願にかなったもっとも正しい教えであると、民衆の中に説いていった。
これまで往生を願っても、読経や書写、造搭など、実際には限られた一部の貴族にしかできなかった浄土教に対し、学問や財力などを必要とせず、弥陀の称名のみで往生できるという、もっとも単純化した法然の教えは、社会不安に戦く多くの貴族や武士階級に接近し、さらに一般民衆の間にも大いに受け入れられ、非常な勢いで広まっていった。
しかし、これら新勢力の台頭に、叡山の衆徒や興福寺等の旧仏教が黙視する筈はなく、念仏の禁止を朝廷に激しく訴えたため、ついに承元元年(1207)、念仏の弾圧にふみきり、法然を土佐へ流罪することを決定した。
やがて法然は没するが、念仏は、その後も既成仏教界から再三にわたって弾圧がなされた。しかし、朝廷や貴族の中でも念仏に帰依する者が少なくなく、さらに多くの弟子によって、京都、鎌倉をはじめ全国的に広まっていった。とくに建長年間から文応の頃の鎌倉では、長楽寺の智慶、鎌倉新善光寺の道阿、北条長時の保護を受けて建立された浄光明寺の真阿、悟真寺の然阿良忠らがその勢力をふるっていた。
一方、法然とは別に新たな力をもちながら芽生えたのが栄西による禅宗である。彼は建久2年(1191)二度目の渡宋をおえ、臨済禅を受け、帰国後、まず博多を中心に活動をはじめたが、既成仏教は栄西が新しい宗派を興すことを快く思わなかった。とくに比叡山の反発は激しく、ついに建久5年(1194)に、禅宗停止の宣旨が下った。
彼はこの迫害に対し、興禅護国論を著わし、弁駁につとめた。そののち、正治元年(1199)に鎌倉へと移っていった。
政治の中心地・鎌倉では、この年正月頼朝が没し、再び大きな変動期を迎えていた。こうしたなかをぬって栄西は、幕府の上層に近づいていった。そして将軍・頼家や、政子の帰依を受け、翌年の頼朝一周忌法要には、導師をつとめるまでになった。また政子の願いで寿福寺を建立、彼はその住持となった。さらに京都にも将軍・頼家の外護で建仁寺を建立、その住持となり、地位の安定を得ることができた。
また栄より帰国した道元は、京都へのぼり、坐禅を正行とする曹洞禅をひらいた。彼は興聖寺を建立、積極的な活動に入ったが、叡山の排撃をうけた。その後、越前に永平寺を建立、地方武士や農民の間に、禅の普及をつとめていたが、宝治元年(1274)に鎌倉にはいった。この時、執権・北条時頼以下数々の人が道元の下に授戒をしている。
さらに寛元4年(1246)、宋から臨済宗の僧・蘭渓道隆が渡来し、翌年、鎌倉の寿福寺にはいった。時頼は道隆を手厚くもてなし、建長寺を建立、道隆によって開山した。このように幕府の最高権力者たちが積極的に禅宗に帰依し保護したため、禅宗は鎌倉で着実にその根を張っていった。
こうして鎌倉に新しい仏教が勢力を伸ばす一方、京都の既成宗教も、新しい権力と勢力を求めて鎌倉へはいってきた。すなわち、天台、真言の僧侶は、関東周辺の地に根を下ろし、寺院を経営し弘教の活動をはじめた。またある者は鎌倉八幡宮、永福寺などの主要な寺院にはいり、幕府の要職にある人々に取り入り、信者を集め勢力を伸ばしていた。
奈良地方でおもに慈善救済で名を得ていた律宗では、建長4年(1252)忍性が東国弘通を目指して下ってきた。彼は疫病で倒れた病人や難民の救済事業を行ない、しだいにその名を高めていった。またその師・叡尊が鎌倉をおとずれた時、北条時頼、実時をはじめ一門の多くが叡尊の名声をしたい、彼に帰依し授戒している。その後、叡尊が帰還したあと、忍性が北条一門の帰依をそのまま受け継いだ。さらに忍性は鎌倉・極楽寺に別邸をかまえていた北条重時に近づき、幕府の権力者と結び、正元元年(1259)には重時が極楽寺を移転造営するにあたり、土地の選定にたちあうほどであった。重時は忍性を極楽寺の開山とした。そして翌年、重時が没した時は、忍性は葬儀の導師をつとめたのである。
このように建長5年(1253)、日蓮大聖人が立宗宣言をされる頃の鎌倉は、真言密教による加持祈祷や念仏が広まり、さらに禅宗の道隆、律宗の忍性等がたくみに権力者と結びつき、彼等の帰依のもとに自己の名声と力をほしいままにしていた時代であった。
そのほか、さらに叡山をおりた京都の僧侶たちもしだいに東へ下っていき、鎌倉に流れていく者も少なくなかった。彼らは民衆の無知につけこみ、外面は聖人のごとく振る舞いながら名声を得、たくみに権力者に取り入っていく者が多かった。こうした中に竜象房という僧がいた。洛中で人の骨肉を食い、叡山を追われた彼は、やがて鎌倉に現われ、忍性のもとへたどっていった。そして、建長3年(1277)鎌倉の長谷、桑ヶ谷で仏法を知っているもののごとく説法していた。そこへ大聖人の弟子、三位房が行き、竜象と問答し、完膚無きまでに破折した。これが「桑ヶ谷問答」である。この竜三房との問答の場に、頼基が加わっていたことから、日頃法華宗の四条金吾と妬んでいた同僚や、忍性側の大聖人に敵対するものたちが、大げさな讒言を行ない、そのため、頼基は同僚からの迫害、主君の怒りを受けて領地没収問題へと発展し、数年以上にわたる受難の日々が続くのである。
(二) 同僚の迫害
(1) 頼基迫害の背景と要因
文永11年(1274)3月、大聖人は佐渡御赦免となり、鎌倉へ帰られた。この年、頼基は主君の後世を願うあまり、江馬氏を折伏したのである。
その結果は、主君の不興をかうことになってしまった。
頼基が主君から疎んじられるようになったのを見てとり、公然と頼基に迫害を加えてきたのが、江馬家に仕える家臣たち、すなわち頼基の同僚である。
当時の武士の世界は、主従という上下関係つまり武士各人が主君とそれぞれに主従の契を結ぶことによって成立しているものであって、その家臣同士の相互関係はほとんどないのである。ゆえに戦いにおいても、とかく個人の勲功のみが主となっており、そのため主君の恩寵の競争が激しく、しばしば闘諍に及んだことが歴史書誌にも見えるほどである。
もともと武芸にすぐれ、医道も心得、家臣のなかでも、とくに主君から信頼を得ていた頼基に対する妬みがあったことは、当然であろう。
それに加えて、禍いしたのは、頼基の性格であった。前述のように、短気で、思ったことをすぐ行動にあらわす頼基の性格は敵をつくりやすかったのである。
さらにまた、こうした表面的な因のほかに、一方、当時の宗教界の陰険な策動が頼基にも大きく働きかけていたことこそ、迫害の要因といえよう。
その中心は、主君・江馬氏が尊敬する極楽寺良観である。彼は鎌倉進出の宗教界のなかで、とくに執権連署といった要路者と結びつき絶大な力を誇示していた。だが、彼は、日蓮大聖人との雨乞いに負け、公場対決をさけて、もっとも卑劣な手段で、大聖人および門下の人々に迫害を加えてきたのである。このことについては、頼基陳状に詳しく述べられているので少し長いが、ここにその文をあげてみる。
15 去る文永八年
16 太歳辛未六月十八日大旱魃の時.彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由.日蓮聖人聞き給いて此体
17 は小事なれども 此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、 良観房の所へつかはすに云く七日の内
18 にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて 良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、 雨ふらぬほどな
1158
01 らば彼の御房の持戒げなるが 大誑惑なるは顕然なるべし、 上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、 所謂
02 護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、 仍て良観房の所へ周防房・ 入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は
03 良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし 是を以て勝負とせむ、 七日の内に雨降るならば本の八
04 斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、 又雨らずば一向に法華経になるべしと・いはれしかば是等悦びて極楽寺
05 の良観房に此の由を申し候けり、 良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を
06 出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気
07 無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・ 七日の内に露ばかりも雨降ら
08 ず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、 いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の
09 三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う 上人の数百人
10 の衆徒を率いて 七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、 是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を
11 越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、 然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を
12 以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、 雨ふらす法と仏になる道をしへ奉
13 らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、 旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて 民のなげき弥弥深し、 すみや
14 かに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・ 使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をお
15 しまず口惜しがる日蓮御勘気を蒙る時・ 此の事御尋ね有りしかば有りのままに申し給いき、然れば良観房・身の上
16 の恥を思はば跡をくらまして山林にも・ まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば 道心の少にてもある
17 べきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせし
雨乞いの対決に敗北した極楽寺良観は、幕府の権力者に無数の讒言を構え、大聖人をなきものにしようとした、その上、弟子たちにも日蓮の弟子共は火つけをする、鎌倉においてはならないとふれまわらせるといった陰険な手段で、弾圧を加え、純真な門下の人々を苦しませたのである。
このため、多くの弟子たちは権力者によって、法華経を持つがゆえに、あるいは牢に入れられ、所領をとられ、あるいは鎌倉を追い出されるなどされたのであった。
さらに文永11年(1274)、大聖人が佐渡から帰られ、身延の山へ入られると、今度は門下に対して圧力を加えてきたのである。それは、文永の終わりから建治年間を中心として、弘安に入ってまでのことで、池上、鎌倉、富士、甲斐などあらゆる所に陰険なかたちであらわれたのであった。
富士方面では、弘安2年(1279)に頂点に達した大聖人門下の最大の法難――熱原の法難の兆しがあらわれたのは建治のはじめである。日興上人の活躍によって、富士・駿河方面では当時、多くの人々が入信してきた。建治元年(1275)の6月には駿河の熱原郷・滝泉寺の寺家、下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円など僧侶をはじめとして、多くの在家の人々が改宗入信したのであった。また7月に入って富士の加島における日興上人の弘教活動によって、その方面での入信者をみた。これに対して、同年6月には滝泉寺の院主など謗徒の迫害がおきたのである。
大聖人は「浄蓮房御書」、「異体同心事」などを差し出され「返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」(1435-05)、「あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成じ」(1463-01)と迫害のなかに戦う門下への激励をされている。
一方、甲斐の国の、身延の草庵に近い下山の郷の地頭を下山兵庫光基といった。阿弥陀堂を建立し、その子・因幡房に朝夕の勤行に阿弥陀経及び念仏を唱えさせていた。ところが、大聖人の教えを聞いて、因幡房がついにその弟子となるにおよび、父・光基は驚き叱責したのである。このことを聞かれ、建治3年(1277)6月、因幡房日永の名で、父・光基あてに大聖人が認められたのが「下山御消息」である。
頼基における、主君の下文に対して御代筆された「頼基陳状」と同じように、日永の名において認められているが、内容は、律、真言、念仏、禅など諸宗の教義への破折、大聖人の広布への実践活動と幕府の迫害に対する厳しい指摘、三諌していれられず身延へ入られたことなどを述べて、大聖人の仏法の正義を詳しく示されているものである。この下山御消息においても、頼基陳状と同様、良観房に対して厳しい批判がなされている。当時、多くの社会事業、慈善事業などをやって、名僧として一応世間の人々には仰がれ、権力者や、その女房たちにすっかり取り入っていた良観房である。その信頼度、その言動に左右されるのは、社会の上層部ほど強かっただけに、門下や弟子への反響も大きく、宗教弾圧となっていったことがうかがえよう。
それゆえに、大聖人は門下の人々の長上に対する御代筆には、詳細に良観の邪義を示され、また厳然たる破折をされているのである。
一方、池上兄弟とその父との信仰上の対立も、建治のはじめからである。とくに兄右衛門大夫に対する父・左衛門の二度の勘当にまでおよぶ信仰上の対立は、良観に使嗾されたことが、「兵衛志殿御返事」、「兵衛志殿御書」などに明瞭に述べられている。「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし」(1095-06)と。
このように、期せずして、大聖人身延入山後、各地におきた門下への社会的な弾圧は、鎌倉にあって信者の中心的存在であった頼基にも襲っていった。門下の中心であった頼基は、社会的な立ち場でも、主君からは信頼され、武芸、医術にもすぐれるというだけに、その動きは、他の門下にも大きな影響力があったことは当然であろう。大聖人に、さんざんにその邪義を責められ、破折された良観房らは、頼基を迫害し、正法から遠ざけることによって、鎌倉の大聖人門下の勢力を滅失できると考えたようである。「四条金吾殿御返事」に「良観・竜象が計ひにてやぢゃうあるらん。起請をかかせ給いなば、いよいよかつばらをごりて、かたがたにふれ申さば、鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなくせめうしなひなん」(1163-11)と大聖人も述べている。
だが、四条家は、父の代をはじめとして、主君・江馬氏へは、並々ならぬ忠誠を尽くし主君もまた厚い信頼をよせていた。ゆえに、文永8年(1271)の法難に際しても、他の大聖人門下が、所領をとられたり、牢に入れられたりしたなかで、頼基一人、邸も領地も、自身の身にも、何事も起こらなかったのである。大聖人も「我が身と申し、をや・るいしんと申し、かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或は所領を、ををかたよりめされしかば、又方方の人人も或は御内内をいだし、或は所領をおいなんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候」(1150-05)と申されて、その恩を忘れてはならないことを強調されている程である。
そこで良観らの策謀は日頃、頼基を妬ましく思っている同僚の家臣たちにむけられたのであろう。主君が熱心な良観の信者であったから、当然、その家臣たちにも、主君にならって良観に帰依していた者も多かったのである。
また、当時の武士階級は宗教に帰依している者が多く、ある者は念仏者であり、ある者は禅宗であり、ある者は真言を持つというように、それぞれ熱心な信者であった。
したがって、彼らの目に映る法華宗の頼基は、阿弥陀の敵であり、禅・真言の法敵である。武士としての対抗意識とともに、法敵という意識まで、良観らの策謀者たちに強くうえつけられた同僚の武士たちによって、ついに数年以上も頼基迫害が続いたのである。武家社会と邪宗による陰険な結びつきこそ、頼基迫害の要因であったといえよう。
大聖人の御書の文面からして、文永11年(1274)頃からはじまった迫害は、主君の御勘気の解けた後、弘安2年(1279)頃まで続いていたようである。とくに、弘安2年(1279)10月23日に大聖人からいただいたお手紙によれは「先度強敵ととりあいについて御文給いき。委しく見まいらせ候。さてもさても敵人にねらはれさせ給いしか」(1192-01)と、かなりの強敵に襲われたことがわかる。弘安2年(1279)10月といえば、富士方面での熱原の法難の直後である。良観らの策謀が執拗なまでに、門下の方々を苦しめていたことが歴然とするのである。同僚の家臣たちによる迫害の大きなものは、主君への讒言であった。
はじめは頼基の忠誠に深く信頼をよせていた主君であったが、陰険な度重なる讒言と、桑ヶ谷問答に連座したことが、仰々しく伝えられるにいたって、ついに策謀にのせられてしまったのである。
そして、頼基陳状を大聖人が代筆される因となった主君からの下状が、家臣を通じて渡され、ついに、所領問題へと発展し頼基はその苦境に立たされるのである。
ところで、気短な頼基が、このような迫害にあいながらも、大事を起こさず、長期間に渡って、耐えぬいたのは、ひとえに大聖人の弟子を思う、細々とした慈悲あふれる指導であった。そして大聖人を生涯唯一の師として信じきり、その指導を生命にかけて受けて立った頼基の信心でもあったのである。
(2) 迫害と大聖人の指導
文永11年(1274)頃から、弘安2年(1279)頃まで続いた同僚たちのさまざまの迫害に対して、大聖人は実に細々と、日常生活の一つ一つについて指導されている。愛弟子を心から心配され、もともと敵を作りやすい頼基の性格をよく見抜かれて、あるときは厳しく、あるときはさとすがごとく諄諄と弟子の身を思われる心が数々の御書のなかにあふれている。
文永11年(1274)9月の「主君耳入此法門免与同罪事」には「かまへてかまへて御用心候べし。いよいよにくむ人人ねらひ候らん。御さかもり夜は一向に止め給へ。只女房と酒うち飲んで、なにの御不足あるべき。他人のひるの御さかもりおこたるべからず。酒を離れてねらうひま有るべからず」(1133-14)と指導されている。主君を折伏した結果、主君との間が微妙になってきた頼基に対し、いち早く動き出した同僚たちの気配をみて、早速の大聖人の指導である。同僚との付き合いだからといって、決して酒宴などに気軽に同席しないように、酔って心にすきをつくらないようにとの、心からの御注意である。武芸者に対しては、尋常の手段では太刀打ちできないので、このように酒をすすめ、油断させて、すきを狙う者もいたのであろう。
文永12年(1275)3月6日には、「四条金吾殿御返事」をいただいている。
忠誠心の厚い頼基が、真心込めて折伏したにもかかわらず、案に相違して主君の不興をかってしまったことへの失望の気持ち、待っていたかのように同僚たちから露骨な迫害、さらに心ない讒言に心を動かしていく主君など、さすがに信心強盛で剛毅な頼基も、弱気となったらしい。
「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」との止観の文も、大聖人からよく聞かされてきたことであろうし、頼基も難があり、魔の競い起こることも覚悟のうえであったろう。だか、余りにもきびしい圧迫の前に、さすがの頼基も、くじけそうになってきたのであった。そして、弁阿闍梨日昭に「持つらん者は『現世安穏にして後に善処に生ぜん』と承って・すでに去年よりまで、かたの如く信心をいたし申し候処に、さにては無くして大難雨の如く来り候と云云」(1136-01)と問うたのである。
大聖人は「真にてや候らん、又弁公がいつはりにて候やらん。いかさまよきついでに不審をはらし奉らん」と前置きされ、「法華経の文に『難信難解』と説き給ふは是なり。此の経をききうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136-02)と指導激励されている。
建治に入ると、圧迫は熾烈をきわめてきたようだ。
「四条金吾殿御返事」には「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。『現世安穏・後生善処』とは是なり。ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(11463-03)と、信心の姿勢について、優しい文の中にも厳しい仏法の道理を示されている。
「四条金吾殿釈迦仏供養事」には「此の文御覧ありて後は、けっして百日が間をぼろげならでは、どうれい並びに他人と我が宅ならで夜中の御さかもりあるべからず。主の召さん時は昼ならばいそぎ参らせ給うべし。夜ならば三度までは頓病の由を申させ給いて、三度にすぎば下人又他人をかたらひて、つじを見せなんどして御出仕あるべし」(1147-14)と。
また、同僚の讒言が領地問題に及んだとき、頼基はあまりの仕打ちに訴訟しようとした。これに対しても、大聖人は訴訟することの是非を、仏法の帰依するものの立ち場として諄諄と説かれている。
「されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく、御内をばいでず、我かまくらにうちいて、さきざきよりも出仕とをきやうにて、ときどきさしいでておはするならば叶う事も候なん」(1152-14)と。
建治3年(1277)6月、桑ヶ谷問答に連座したことによって、さらに迫害は増してきた。ついに家臣たちの讒奏は、主君・江馬氏を動かし、下文が下ったのである。
法華経を第一としていく生活基準ではなく、是非につけて主君の所存に相随うという起請文を提出するように、さもなければ領地を没収との下文は、頼基を妬む同僚や、陰でそそのかしている良観らにとっては、まさに彼らの思い通りであった。公然と敵対してくる彼らに対し、どんな小さなところにも、細かい注意を怠らぬようにとの慈悲あふれる大聖人の指導が、建治3年(1277)頃のお手紙にはみられる。
「されば同じくはなげきたるけしきなくて、此の状にかきたるがごとく、すこしもへつらはず振舞仰せあるべし(中略)かへすがへす奉行人にへつらうけしきなかれ(中略)御よりあひあるべからず。よるは用心きびしく、夜廻の殿原かたらいて用ひ、常にはよりあはるべし。今度御内をだにもいだされずば、十に九は内のものねらひなむ。かまへてきたなきしにすべからず」(1163-16)。
「かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ」(1164-12)
「御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常には・よりあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず」(1164-15)
「御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん」(1169-02)
「吾が家に・あらずんば人に寄合事なかれ、又夜廻の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞ばやと仰せ候はんに悦んで見え給うべからず」(1169-09)と。
大聖人の指導通り、信心ひとすじで難局を乗り切ってきた頼基にとって、新段階がおとずれたのは、建治3年(1277)の9月であった。当時流行していた疫病に主君がたおれ、医術の甲斐もなく、はかばかしくなかった。医術にすぐれていた頼基は、主君に召し出され久々の出仕をしたのである。もともと信頼していた主君であったから、家臣の讒言で心を動かされたものの、病床にあって、旧情を思いやったのであろう。当然、家臣たちは、おもしろかろうはずがない。ゆえに大聖人は久々の出仕の報に接すると同時に、細やかな注意を与えられている。
「此れにつけても、殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ。一定かたきにねらはれさせ給いなん(中略)彼等がいかにもせんとはげみつるに、古よりも上に引付けられまいらせてをはすれば、外のすがたはしづまりたる様にあれども、内の胸はもふる計りにや有らん」(1171-07)と迫害の強くなることを示され、頼基の短気が禍いを起こしやすいこと、弟たち身内を大切にしていけば、いざという時に必ず役立つこと、また、主君の邸への出入りに対しては、言動から姿形までも注意するようとの指導である。
「敵も二人ある者をばいぶせがり候ぞ。いかにとがありとも、弟ども且くも身をはなち給うな。殿は一定腹あしき相かをに顕れたり」(1171-08)、
「又御をととどもには常はふびんのよしあるべし。つねにゆぜにざうりのあたいなんど心あるべし。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ、我がためにいのちをうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とがありとも、せうせうの失をばしらぬやうにてあるべし」(1176-05)と。
あるいはまた「上よりへやを給いて居してをはせば、其の処にては何事無くとも、日ぐれ暁なんど、入り返りなんどに、定めてねらうらん。又我が家の妻戸の脇、持仏堂、家の内の板敷の下か天井なんどをば、あながちに心えて振舞給へ。今度はさきよりも彼等はたばかり賢かるらん」(1172-05)とも申されている。
また、頼基の身寄りか、郎党か、いずれにしても、ゆかりのある者で、法華経のゆえに邸を取り上げられた者が頼基の邸に出入りをしていたらしい。
大聖人は弟たちを大事にしていけば、万一のとき身内というものは頼りになることを示されているとともに、これら同じく正法に帰依している者同士をも、大事にしていけば、魔のつけ狙うすきのないことも強調されている。また、夜廻りの殿原たちとも、よく知り合っておけば、いざという時に役立つとも教えられている。
「いかに申すとも鎌倉のえがら・夜廻の殿原にはすぎじ。いかに心にあはぬ事有りとも、かたらひ給へ(中略)此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしきを上へ召されたり。日蓮と法華経とを信ずる人人をば、前前彼の人人いかなる事ありとも、かへりみ給うべし。其の上、殿の家へ此の人人常にかようならば、かたきはよる行きあはじとをぢるべし」(1172-10)と。
主君の病も、頼基の医術によって快方に向かっていった。
建治4年(1278)1月25日のお手紙によると、頼基は再び出仕し、主君のお供など日々忙しく、一日・二日のひまもないとの報を大聖人に送っていることがわかる。身延にあっても、鎌倉の様子は大聖人のもとに訪れる門下の人々によって、逐一報告されていたことであろう。一度は、主君の御勘気にあって、自宅に籠り、苦境を耐え忍んだ頼基が、いま晴れやかに主君の供奉をしているその様子が、他のどの家臣より一段と立派であるとの評判を聞かれ、大聖人は心からのお喜びのお手紙を送られている。しかし、そのなかでも、以前にも増して敵がねらうことを指導して、油断してはならない。「されば今度はことに身をつつしませ給うべし」(1175-11)と、細やかな注意を与えておられる。また「今年かしこくして物を御らんぜよ」(1177-06)とも述べられ、時ということも教えられている。
微に入り細をうかがった大聖人の指導によって、頼基は、ついに主君はかえした所領を元どうりいただくとともに、さらに三倍の領地をたまわったのである。
だが頼基を妬む同僚の何人かは、理不尽な手段で頼基の命を奪おうとした。しかし、強敵との取り合いについても、日頃の大聖人の指導を純真に実践した頼基は、何ごともなく、無事を大聖人に報告できたのであった。「さても・さても・敵人にねらはれさせ給いしか、前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし」(1192-01)と大聖人からは、信心ゆえの存命であるとの御書をいただいているのである。さしもの敵人も、この頃から影をひそめているようである。数か年にわたる、さまざまな批判、圧迫を受けた頼基も、大聖人の指導のまま、毅然と戦いぬき、ついに勝利を期したのであった。
(三) 主君の下状と領地問題
(1) 鎌倉の宗教界と僧侶
頼基陳状に「宮仕をつかまつる者、上下ありと申せども、分分に随って主君を重んぜざるは候はず。上の御ため現世後生あしくわたらせ給うべき事を、秘かにも承りて候はむに、傍輩世に憚りて申し上ざらむは、与同罪にこそ候まじきか」(1160-15)と。また同に「後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はば、君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば、頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ」(1161-05)と述べられているが、これこそ主君に対する頼基の忠誠を如実にあらわしたものであった。ゆえに極楽寺良観に傾倒している主君の後世を願って、折伏したことは、頼基の至誠のいたすところにほかならなかったのである。
ところが、耳を傾けるどころか、かえって頼基の主家に対する忠誠の心にまで疑惑を抱きはじめ、あらぬ讒言に紛動されて、だんだんと自分を疎んじていく主君に、頼基は大きな失望の念を抱かずにはいられなかった。
建治2年(1276)7月にいただいた「四条金吾釈迦仏供養事」によると、頼基は父母孝養のため、供養の品を身延に届けたが、それとともに、近況を報じ、当時の心境を書き送っている。それは、主君への失望、周囲の迫害にあって、主家を去ろうとの意志であった。
大聖人は「御消息の中に申しあはさせ給う事、くはしく事の心を案ずるに、あるべからぬ事なり(中略)日蓮がさどの国にてもかつえしなず、又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は、たれかたすけん。ひとへにとのの御たすけなり。又殿の御たすけは、なにゆへぞとたづぬれば、入道殿の御故ぞかし。あらわにはしろしめさねども、定めて御いのりともなるらん。かうあるならば、かへりて又とのの御いのりとなるべし。父母の孝養も又彼の人の御恩ぞかし。かかる人の御内を如何なる事有ればとて、すてさせ給うべきや。かれより度度すてられんずらんはいかがすべき。又いかなる命になる事なりとも、すてまいらせ給うべからず。上にひきぬる経文に不知恩の者は横死有りと見えぬ」(1146-17)また「申させ給う事は御あやまちありとも、左右なく御内を出でさせ給うべからず。まして、なからんには、なにとも人申せ、くるしからず」(1147-18)と、御自身の立ち場までひかれて、どんなことがあろうとも、決して主君のもとを離れてはならない、それが主恩に対する真の報恩であると厳しく指導されたのである。
続いて頼基への左遷問題が起きてきたのである。あまりの同僚たちの中傷が激しかったため、主君がこうした処置をとらざるを得なかったのか、あるいは主君自身の配慮によるものかは、不明ではあるが、越後の国への領地替え問題が持ち上がってきたのであった。
ただでさえ、周囲の圧迫から逃れたい、主君のもとを離れたいとしている頼基の心境を大聖人は心配され、早速指導のお手紙をつかわされている。建治2年(1276)9月6日の「四条金吾殿御返事」である。
妙法を信じ、末法の御本仏を信ずる、頼基に苦境におち込むわけがない、定業亦能転の経文もあるし、天台の釈にも、定業すらのばすことができると述べられている。ゆえに、主君のもとを去るなどという行動はとらず、慎しんでいなさいと、あくまで頼基が主君に仕えきることを強調されている。そして一方、主君に対しては「主の御返事をば申させ給うべし。身に病ありては叶いがたき上、世間すでにかうと見え候。それがしが身は時によりて憶病はいかんが候はんずらん。只今の心はいかなる事も出来候はば、入道殿の御前にして命をすてんと存じ候。若しやの事候ならば、越後よりはせ上らんは、はるかなる上、不定なるべし。たとひ所領をめさるるなりとも、今年はきみをはなれまいらせ候べからず」(1149-18)といいきりなさいと指導され、外交上の戦いに対しても詳しく教示されたのである。
逆境にありながらも、頼基は大聖人の指示に従って、信心第一の戦いを続けていくうちに、所領問題をめぐって、さまざまな動きがでてきた。頼基が身延の大聖人のもとに報告かたがた使いを送ったのは、半年後のことであった。久々の報告に対し、事が領地問題だけに、折り返し大聖人から、御本尊の御下附とともに指導の手紙が届けられた。
「四条金吾殿御返事」が、その指導である。冒頭から「所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ、此の事は御文なきさきにすいして候」(1150-05)と申されて、苦境に立っている頼基の立ち場をよく理解され、最善の道は、主恩に対して、あくまで仕えきっていくことこそ従者の立ち場であると、信心を根本として指導されたのである。
とくに主君への恩については「我が身と申し、をや・るいしんと申し、かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或は所領を、ををかたよりめされしかば、又方方の人人も或は御内内をいだし、或は所領をおいなんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。このうへはたとひ一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給うべき主にはあらず」(1150-05)と指摘され、頼基の忠誠をうながされている。そして、法華経ゆえに邸をとられた人たちが、大聖人がひきとめられたにもかかわらず、訴訟を起こしてしまったことが、本抄にもみえている。頼基自身も領地問題の同僚の仕打ちに対して、訴訟を企てたらしい。大聖人は、訴訟など起こしてはならない、主君のもとを去らず、鎌倉にあって、時々出仕をしていれば、やがて、必ず頼基の思うところとなることを示されたのである。
これは仕事と信心のあり方についての根本的な指導である。環境が悪いからといって、自ら生活の基盤を崩していくようなことがあってはいけない。逆境と取り組み、戦って勝つことこそ、自己の宿命転換であり、ひいては社会をも開いていくと教示されたのであった。大聖人の微に入り細をうがつ、大慈悲の指導に従って、戦いぬいた頼基は、生涯、忠誠の士としての栄誉を勝ちとる因を築いたのである。
建治3年(1277)6月9日、桑ケ谷問答が起こった。京都の比叡山から追われた竜象房が、いつの間にか、鎌倉にあらわれ、極楽寺良観に取り入って、大仏の西の門、桑ケ谷に道場を構えた。そして、民衆の無知につけこみ、低い法話をして、大聖人を下していたのである。
大聖人の門弟である三位公・日行は敢然と法論を挑んだ。その時、桑ケ谷近くに邸をもつ頼基に同行を依頼したのである。武士として主君に仕える身の頼基は、三位公と同行できず、おくれて参加した。竜象房は、すでに法話を終えて「この満座の中に、仏法のことで御不審あるものは、なにごとでも申しなさい」と豪語している時だった。それに立ち上がったのが三位公である。しばらく三位公と竜象房のやりとりが続いたが、たちまちに三位公の理路整然とした応酬に、竜象房は口を閉じてしまった。
三位公の正論を聞き、初めて目ざめた一座の人々は、歓声をあげて、立ち去ろうとする三位公に、手を合わせて「今しばらく、御法門をして下さい」と押し留めようとした程だった。
しかし、卑劣で奸智にたけた竜象房は、都合のよいように事の次第を良観を通して、上部へ報告した。
一方、日頃、頼基に怨嫉している同僚たちは、よい機会とばかり主君に対して、頼基が法話の席に兵杖を帯して乱入し、悪口狼藉をはたらいて三位公を勝利に導いたと報告したのである。
6月23日付をもって主君・江馬氏から、これについての下状が出された。6月25日、江馬氏の重臣島田左衛門入道、山城民部入道の二人が使者として頼基への下状が届けられたのである。
その下状の内容は「竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第、をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず、同口に申し合い候事、驚き入って候。徒党の仁、其の数兵杖を帯して出入すと云云」(1153-02)という、なんの根拠もない虚言をもって始まり、結論として法華経を捨て、大聖人に帰依せぬ由との起請文を出されたい、もし起請の提出を拒むならば、所領を没収するというものであった。
この下状に接した頼基の憤りは一方ならぬものがあったろう。気の短い頼基ではあったが、日頃の信心は、この最大の難に遭遇した今、いかんなく発揮され、最も適切な行動と処置をとることができたのである。
即日のうちに、事の顛末と、下状と、そして同時に、たとえ主君のために二か所の所領全てを失い、身命に及ぶようなことがあろうとも、法華経を捨てるなどという起請文は書かないとの、固い決意を述べた誓状を認めて、身延の大聖人のもとへ送った。報に接した大聖人は、頼基の健気な決意、強盛な信心に感じられ、即刻、主君の下状に対する陳状(頼基陳状)を代作され、さらに激励のお手紙を認めて、頼基へ遣わされたのである。
激励のお手紙は「去月二十五日の御文、同月の二十七日の酉の時に来りて候。仰せ下さるる状と、又起請かくまじきよしの御せいじゃうとを見候へば、優曇華のさきたるをみるか、赤栴檀のふたばになるをえたるか、めづらしかうばし(中略)設い日蓮一人は杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶとも、妻子を帯せる無智の俗なんどはいかでか叶うべき。中中信ぜざらんはよかりなん。すへとをらず、しばしならば人にわらはれなんと、不便にをもひ候いしに、度度の難、二箇度の御勘気に心ざしをあらはし給うだにも不思議なるに、かくおどさるるに二所の所領をすてて、法華経を信じとをすべしと御起請候事、いかにとも申す計りなし」(1163-01)との書き出しのように、頼基の至信の姿を心から誉められたのである。
そして、頼基が、法華経を捨てるとの起請を書いたなら、彼らの思うつぼとなり、鎌倉中の大聖人の弟子たちは皆責められて、一人も残らず失ってしまうことになるであろうと、さらに堅い決意をうながされている。
また、大聖人が代作された頼基陳状について、三位房をつかわそうと思ったが、病がはっきりしないので代わりの僧に託した旨を述べられ「だいがくの三郎殿か、たきの太郎殿か、とき殿かに、いとまに随いてかかせて、あげさせ給うべし」(1164-06)と、誰かに清書してもらうようにいわれているのは、大聖人の深い配慮がうかがわれる。
ついで御文には「これはあげなば事きれなむ……」(1164-06)と申されて、この陳状書をひとたび主君に差し出せば、事件は落着するであろう。急いで差し出さないで、内々に内部を整え、また他の同僚たちにも、騒ぐだけ騒がせておいて、しかる後に差し出したならば、この陳状は結局、鎌倉方にも披露され、北条執権のところにも差しだされることになるであろう。そのようなことになれば、禍いも転じて幸いとなり、事態も好転すると指導され、陳状提出の時期をも指示されている。
そして「此の陳状、人ごとにみるならば、彼等がはぢあらわるべし」(1164-10)と確信を述べられ、主君に対しては「只一口に申し給へ。我とは御内を出でて、所領をあぐべからず。上よりめされいださむは法華経の御布施、幸と思うべし」(1164-12)といいきっていくよう指導され、かえすがえすも奉行人にはへつらう様子をみせず、「此の所領は上よりいただいたのではない、主君の病を法華経の良薬をもって助けた恩賞としていただいた所領であるから、それを召し上げるならば、主君の病も再びその身にかえっていくであろう。その時になって、頼基に詫び状をもってきても、役には立ちません」ときっぱりといいきることを教えられている。
(2) 新領地の授与
この陳状は、いつ頃、主君に差し出されたものか、実際に差し出したか否かについては明らかではない。
また前述の建治3年(1277)7月に送られた激励のお手紙のあと、さらに同年に認められたお手紙、「四条金吾殿御返事」があるが、月日はわからない。その「世雄御書」に「かまへてかまへて、此の間はよの事なりとも御起請かかせ給うべからず」(1168-18)とあることから、「頼基陳状」をつかわされた後、そう幾日もたっているものではないようである。同書の最後に「又今度いかなる便も出来せば、したため候いし陳状を上げらるべし。大事の文なれば、ひとさはぎはかならずあるべし」(1169-16)とあるところからみれば、この時点では、陳状はまだ差し出されていなかったことがわかる。
その2か月後、9月11日付で認められた「崇峻天皇御書」によると、主君は疫病にかかり、種々の治療も利き目なく、ついに頼基出仕となったのである。
もし陳状が差し出されていれば、大聖人の予言通り、ひとさわぎは当然あったであろうし、頼基が大聖人に報告をしないわけがない。それらしき消息のないところをみると、陳状を出すまでもなく、頼基の主君を思う一念は通じたようである。
さらに「四条金吾殿御返事」において「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(1169-05)とも申されているのである。
また「崇峻天皇御書」には「御内の人人には天魔ついて、前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをささえんがために、今度の大妄語をば造り出したりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがために、此の病はをこれるか。上は我がかたきとはをぼさねども、一たんかれらが申す事を用い給いぬるによりて、御しよらうの大事になりてながしらせ給うか。彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ。和讒せし人も又其の病にをかされぬ」(1171-02)と述べられている。
仏法の賞罰は厳然としている。この9月、鎌倉に疫病が流行し、竜象房は倒れ、頼基を讒奏した者も病に倒れてしまったのである。主君・江馬氏は、頼基を敵と思ってはいまいが、一度讒言を取り上げてしまったため、病気となって、そのように長引くのであろうとの大聖人の厳しい指摘である。
だからといって、油断してはならないと、頼基自身に対しても厳しい指摘がなされている。「かうの座をば去れと申すぞかし」(1172-03)と御文にあるように、出仕に際しては、万事控え目にし、身辺をよくよく警戒して、しかもなお、主君の治療に対しては、薬をすすめると共に法華経に祈っていくことを教えられている。
「此れにつけても、殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ。一定かたきにねらはれさせ給いなん」(1171-02)と、せっかく頼基を退けたにもかかわらず、主君の病によって、再び出仕してくることを心よく思わぬ敵に注意することをうながされている。
そして、少しでも敵意をもたれぬよう留意し、権力者の女房たちが、主君の御病気はいかがですかと問われても、頭を低くして、私などとても力が及ばないと辞退したのですが、奉公の身なのでやむなく御治療していますと、目立たぬ服装でいきなさいと細やかな注意を与えられ「そこばくの人の殿を造り落さんとしつるに、をとされずして、はやかちぬる身が、穏便ならずして造り落されなば、世間に申すこぎこひでの船こぼれ……」(1172-03)と申されて、多くの人たちがおとしいれようとしても、おとしいれられないから、もはや勝利の身であるのに、短気など起こして、彼らにおとしいれられたら、船を漕いで、岸に着く直前にひっくり返るようなものであると、仏法の勝利をあくまで実現しきるよう指導されている。
大聖人の教え通り、仏に祈りながら、誠心の治療をつくした結果は、ついに主君の病を快方に向かわせた。主君も、頼基の至誠にふれ、軽率にも、家臣の讒言を用いて、忠臣をもう少しで失うことを、おそらくは悔いたのであろう。
「人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけり、よかりけりと、鎌倉の人人の口にうたはれ給へ。穴賢穴賢。蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(1173-13)。
厳しい大聖人の指導である。だが、頼基は大聖人の指導を実践し、ついに「主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけり」との御文を身で読み切ったのであった。
長い冬は春となったのである。
建治4年(1278)1月、主君から召され、四郎親時の出仕の随行者の内に加えられるようになった。
この知らせを受けた大聖人は「なによりも承りてすずしく候事は、いくばくの御にくまれの人の御出仕に、人かずにめぐせられさせ給いて、一日二日ならず、御ひまもなきよし、うれしさ申すばかりなし……殿のすねんが間のにくまれ、去年のふゆはかうとききしに、かへりて日日の御出仕の御とも、いかなる事ぞ」(1175-03)と喜ばれ、これはひとえに諸天の加護であり、法華経の功徳であると述べられている。
主君を折伏したことによって不興をかって以来三年四か月、主君から下状まで与えられた最悪の時から半年後のことであった。主君の態度が、去年の秋、頼基の誠心と治療によって悪疫から回復してのち、大きく変化したことは想像に難くない。
大聖人はさらに申されている。
「其の上円教房の来りて候いしが申し候は、えまの四郎殿の御出仕に、御とものさぶらい二十四五、其の中にしうはさてをきたてまつりぬ。ぬしのせいといひ、かを・たましひ・むま・下人までも、中務のさえもんのじゃう第一なり。あはれをとこやをとこやと、かまくらわらはべはつじちにて申しあひて候しとかたり候」(1175-07)と。
この晴れがましい頼基の雄姿こそ、三障四魔、三類の強敵に打ち勝った〝信心の勝利〟そのものであった。
大聖人は、知らせを喜ばれるとともに、孔子の九思一言を引き、敵にすきをうかがわれぬよう、出仕のとき、帰宅の際、あらゆる夜半の行動などに諸注意を細かく与えられている。
さて、建治4年(1278)は2二月29日、改元されて、弘安元年となった。その年の10月、頼基は「四条金吾殿御返事」をいただいた。
本抄の「御所領上より給わらせ給いて候なる事、まこととも覚へず候。夢かとあまりに不思議に覚へ候」(1183-01)との御文から、主君に返上していた所領が、頼基に与えられたことがうかがえるのである。
しかも、頼基に与えられた領地の内容は「かの処は、とのをかの三倍とあそばして候上、さどの国のもののこれに候が、よくよく其の処をしりて候が申し候は、三箇郷の内にいかだと申すは第一の処なり。田畠はすくなく候へども、とくははかりなしと申し候ぞ。二所はみねんぐ千貫、一所は三百貫と云云」(1183-07)といわれるように、新しい領地は、かつて没収された「とのをか」の三倍の面積があるというのである。その三か郷の一つを「いかだ」といわれているが、現在のどのあたりにあるか不明である。佐渡の国のものがその所をよく知っているとあるから、佐渡という説もあるし、また翌閏10月22日のお手紙に「信濃より贈られ候いし物の日記」(1185-01)とあることから、新しい領地は現在の長野県にあったのではないかとも考えられている。
また「とのおか」については、現在長野県飯田市に上殿岡、下殿岡という地名があるが、弘安3年(1280)のお手紙に「殿岡より米送り給び候」(1193-01)と認められているから、この領地は一度主君に召し上げられたが、再び賜わったものと思われる。
このようにして、頼基は大聖人の法門を信ずるがゆえに、鎌倉中の諸人や、同僚の家臣はいうに及ばず、公達にもよく思われていなかった。しかも、主君が知行を与えようとした時にも、度々辞退もしているので、その行為は同僚の目には奇異に映ったであろうし、主君にとっては無礼な行為と思われていたであろう。主君の御内にあって数十人の同僚からは冷眼視され、今や兄弟も離れ去ってしまったという逆境のなかにあって、このような所領増加ということは、実に不思議なことである。
さらに、弘安2年(1279)4月23日にいただいた「陰徳陽報御書」によれば「いよいよかない候べし。いかにわるくとも、きかぬやうにてをはすべし。この事をみ候に申すやうにだにもふれまわせ給うならば、なをも所領もかさなり、人をぼへもいできたり候べしとをぼへ候。さきざき申し候いしやうに、陰徳あれば陽報ありと申して、皆人は主にうたへ、主もいかんぞをぼせしかども、わどのの正直の心に主の後生をたすけたてまつらむとをもう心がうじゃうにして、すねんをすぐれば、かかるりしゃうにもあづからせ給うぞかし。此は物のはしなり。大果報は又来るべしとおぼしめせ」(1178-01)と申されている。
この御文中「なをも所領もかさなり」「此は物のはしなり。大果報は又来るべし」と大確信にたって激励されているが、同年9月15日にいただいたお手紙に「いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに、度度の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へば、いくそばくのざんげんこそ候らんに、度度の御所領をかへして、今又所領給はらせ給うと云云。此程の不思議は候はず。此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり」(1180-10)とあるように、現実に功徳の現証は続々と頼基にあらわれたのである。
大聖人は、これ以上の不思議はないし、ひとえに陰徳あれば陽報ありとはこのことであり、「我が主に法華経を信じさせまいらせんとをぼしめす御心のふかき故か」(1180-10)と、頼基の健気な信心を心から誉められている。
さらに大聖人はお手紙で「今こそ仏の記しをき給いし後の五百歳、末法の初め、況滅度後の時に当りて候へば、仏語むなしからずば、一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん(中略)日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば、如来の御使に似たり。心は三毒ふかく、一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。過去を尋ぬれば、不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに『加刀杖瓦石』にたがう事なし。未来は『当詣道場』疑いなからんか。これをやしなはせ給う人人は豈浄土に同居するの人にあらずや」(1181-14)ともいわれ、また「兄弟にもすてられ、同れいにもあだまれ、きうだちにもそばめられ、日本国の人にもにくまれ給いつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこうにて、仏にならせ給うべし」(1184-02)ともいわれて、誰人も想像だにしなかった頼基の所領の加増は、竜口の法難に際して、殉死の覚悟で大聖人にお供をした、その絶大なる福運によるものであるとたたえられ、また、末法の御本仏日蓮大聖人に対し佐渡や身延に訪れて、御供養したその功徳により、また、お供したその果報によって、必ず成仏することは疑いないと、その確信を誉められたのである。 主君の病も、頼基の医術によって快方に向かっていった。
建治4年(1278)1月25日のお手紙によると、頼基は再び出仕し、主君のお供など日々忙しく、一日・二日のひまもないとの報を大聖人に送っていることがわかる。身延にあっても、鎌倉の様子は大聖人のもとに訪れる門下の人々によって、逐一報告されていたのであろう。一度は、主君の御勘気にあって、自宅に籠もり、苦境を耐え忍んだ頼基が、いま晴れやかに主君の供奉をしていくその様子が、他のどの家臣よりも一段と立派であるとの評判を伝え聞かれ、大聖人は心からお喜びのお手紙を送られている。しかし、そのなかでも、以前に増して敵がねらうことを指導され、油断してはならない「されば今度はことに身をつつしませ給うべし」(1175-11)と、細やかな注意を与えておられる。また「今年かしこくして物を御らんぜよ」(1177-06)とも述べられて、時ということも教えられている。
微に入り細をうがった大聖人の指導によって、頼基は、ついに主君に一度はかえした所領を元どおりいただくとともに、さらに三倍の領地を賜わったのである。
だが頼基を妬む同僚の何人かは、理不尽な手段で頼基の命を奪おうとした。しかし、強敵との取り合いについても、日頃の大聖人の指導を純真に実践した頼基は、何ごともなく、無事を大聖人に報告できたのであった。
「さてもさても敵人にねらはれさせ給いしか。前前の用心といひ、又けなげといひ、又法華経の信心つよき故に、難なく存命せさせ給い、目出たし目出たし」(1192-01)と大聖人からは、信心ゆえの存命であるとの御書をいただいているのである。さしもの敵人も、この頃から影をひそめているようである。数か年にわたる、さまざまの批判、圧迫を受けた頼基も、大聖人の指導のまま、毅然と戦いぬき、ついに勝利を期したのであった。
(四) 夫人の信心
(1) 留守を守る日眼女
大聖人が頼基の妻・日眼女に与えられたお手紙から察すると、夫・頼基の多難な信仰生活をひたすら励ましてその信仰をまっとうさせたのは、この夫人の陰の力が大きかったことがうかがえる。
騒乱の鎌倉の地にあって、幼い子供を抱える身で、頼基をはるばる佐渡の大聖人のもとへ送り、あるいは、また主君や同僚のたび重なる迫害のもとで、信仰を貫く頼基を励まし続けるなど、内助の功を発揮した。
日眼女の出生についての資料はほとんど見当たらない。ただ文永12年(1275)正月の大聖人からの御消息によると「今三十三の御やくとて御布施送りたびて候へば」(1135-04)とあることから、この年、33 歳を迎えていることがわかる。
ところで日眼女は、月満御前が生まれる前日の、文永8年(1271)5月7日付でお手紙をいただいている。「懐胎のよし承り候い畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出して候。能く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし。……就中、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん。目出度覚え候ぞ」(1109-01)と。喜びであるとともに、不安を伴う出産を前にした日眼女に対する、大聖人の慈悲溢れるおはからいであった。
翌日の5月8日、無事、女子が誕生した。それを知られた大聖人から、早速お祝いの手紙が届いた。「若童生れさせ給いし由承り候。目出たく覚へ候。殊に今日は八日にて候。彼と云い、此と云い、所願しをの指すが如く、春の野に華の開けるが如し。然れば、いそぎいそぎ名をつけ奉る。月満御前と申すべし(中略)定めて十羅刹女は寄り合うて、うぶ水をなで養ひ給うらん……念頃に十羅刹女・天照太神等にも申して候」(1110-01)と。大聖人は心から喜ばれ、月満と命名されたのであった。
頼基夫妻の家庭は妙法流布の種子を継ぐ新しい生命の誕生に希望に輝いていた。だが、思いがけない事件が起こった。同年9月12日夜半、大聖人の斬罪が熊王丸によって四条家に伝えられたのである。日頃の大聖人への迫害、不穏な鎌倉の中にあって、かねてから、覚悟はあったであろうが、頼基・日眼女夫妻のおどろきはいかばかりであったろう。はだしのままで大聖人のもとへ駆けつける夫を送り出し、日眼女は必死で、大聖人の無事を祈ったことであろう。御本仏として、厳然と諸天の加護を得て、竜口の頸の座でことなきを得た大聖人は、やがて流罪地・佐渡へと出発される。この法難の影響は大きかった。信仰で結ばれた同志の多くが、さまざまの弾圧のために退転していったのである。主君・江馬氏の庇護でその難を逃れた四条家だったが、翌文永9年(1272)2月、鎌倉の地で北条時輔の乱が起こり、主君・光時が疑われたため、頼基もその災厄にまきこまれた。無事、難を逃れた頼基に胸をなで下ろす間もなく、日眼女は頼基を佐渡へ送り出すことになった。
幼い子供を抱えて騒然とした時世に、頼りになる家人もいない中、留守をあずかるその覚悟は健気であった。佐渡の一の谷を訪れた頼基に託して、大聖人は日眼女に次の文を認められている。「はかばかしき下人もなきに、かかる乱れたる世に此のとのをつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神定めてしりぬらん。虚空よりもたかし、梵天・帝釈もしらせ給いぬらん」(1115-08)と。この騒がしい時に、はるばる佐渡の国へ夫を遣わされたあなたの心に感謝する者です。諸天も必ずご存知であると日眼女の信心を誉められている。
こうするうちに日眼女は経王御前をもうけたようである。この経王御前は幼くして病気にかかったのであろう。日眼女は大聖人に病気平癒の御祈念をお願いしている。抵抗力の弱い、いたいけな幼児、しかし大聖人は子供は親にとって信心の鏡であると指導されている。「夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候(中略)経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(1124-03)と。大聖人が一日中、心をかけてご祈念してくださっているというのに、親が落胆しているとは、何という弱い心であろうと、大聖人の慈愛に触れて日眼女はおのれの信心を振り返ったであろう。
(2) 苦境の夫とともに
文永11年(1274)2月、全く異例の処置として、大聖人が佐渡から帰られたのである。再びお会いすることのできないものと覚悟をしていただけに、門下にとって、その喜びは大きかった。四条家とておなじであった。ところが、夫・頼基が大聖人の弟子となって二十年近くの歳月を迎えようとしているのに、この二、三年は苦しいことばかりが続いていた。頼基に対する迫害、それは同僚からの妬み、さらに、主君・江馬四郎親時からも露骨に現われてきた。同年5月、大聖人が身延へ入山されるとすぐ、佐渡よりの帰還に信心の確信にもえた頼基が主君を折伏したことによって起こってきた。事態は意外にも険悪な空気をはらんでいったのである。
翌文永12年(1275)、日眼女は33歳を迎えていた。この年は世間でいう厄年にあたる。長い信仰生活を経てきた日眼女は、心に動揺はないはずであったが、一抹の不安がないとはいえなかったろう。やはり大聖人に伺ってみようと、御供養の品々とともに質問を認めたのである。早速大聖人から日眼女のもとへ御返事がとどけられた。「さえもんどのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり。これにあひつれさせ給いぬるは日本第一の女人なり。法華経の御ためには竜女とこそ仏はをぼしめされ候らめ(中略)又三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給うべし。七難即滅・七福即生とは是なり」(1135-10)と。厄年など何を恐れることがあろうか。法華経は変毒為薬の法門であり、信心によって宿命転換することができるのであるから、それを実証してごらんなさいとの力強い、また慈愛のこもる指導であった。心の中にあった不安は吹き飛んで、信心への強い確信と希望が湧いてくる日眼女であった。
大聖人は夫・頼基のことを「さえもんどのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり」と誉められてはいるが、だが頼基は短気である。裏を返せばそれは誠実とも一本気ともいえるが、それが禍いするところが今後の人生においてないとはいえないのであった。
文永12年(1275)3月、主君や同僚との軋轢で夫・頼基の晴れない心境を知る日眼女は信仰の心にも不安定なものがあったようである。そんな四条家の事態を察知した大聖人の弟子日昭はすぐさま大聖人にこの事を告げたのである。その答えが「四条金吾殿御返事」(1136-04)である。「此の経をききうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり。受くるはやすく持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」と。
こうして、いよいよ頼基にとって、競い起こる障魔との戦いが始まったのである。法華経の法門、変毒為薬をわが身に実証できるかどうか。「法華経の四条金吾」の名をあげるか否かは、ひとえに頼基のこれからの戦いにかかっているのであった。
それにはなによりも日眼女が仏法を理解して、信仰を深め、頼基の力になることである。大聖人は日眼女を厳しく指導された。
折りしも、鎌倉に大火が起こった。さいわいに難を逃れた一家はその時の様子を大聖人に報告した。ほどなくして身延からの御返事が届いた。その中に日眼女の信心に対する大聖人の厳しい指摘があった。
「又女房の御いのりの事、法華経をば疑ひまいらせ候はねども、御信心やよはくわたらせ給はんずらん(中略)御いのりの叶い候はざらんは、弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず(中略)いかに法華経を御信用ありとも、法華経のかたきをとわりほどには、よもおぼさじとなり」(1138-02)と。たとえ御本尊を信じても、法華経の敵に少しでも心を引かれるならば、その折りには感応はないとの指導である。信仰には一分の妥協はないという大聖人の気魄が文面にあふれている。
大聖人の厳しい指摘を受けた日眼女がそれまでの弱い信心を反省し、夫・頼基ともに苦境を切り開いていった過程は先に述べたとおりである。
弘安2年(1279)日眼女は、37歳を迎えようとしていた。37歳は女性の後厄にあたる。日眼女は厄除の祈念をこめて、教主釈尊の木像を一体造立すると、御供養といっしょに大聖人のもとへ送った。やがて大聖人から「譬えば頭をふればかみゆるぐ、心はたらけば身うごく。……教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき」(1187-06)との指導があった。どんな障魔も妙法の偉大な力の前には屈服していくことを確信して進んでいきなさいと日眼女を励まされたのである。そして最後に、日本国中の女人があげて念仏の信者となっているなかで、あなただけが法華経を信じて釈迦像を造立するのは不思議といえば不思議である。「二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし」(1188-15)と愛でられている。「女人の中の第一なり」とは、その夫の社会的地位ではない。ましていま得た名誉でもない。ただただ信仰を貫いたゆえなのである。その日眼女の精神を誉められての「日本第一」なのであった。日眼女の信仰、それは頼基とともに、健気であり純真そのものであり、その陰の力が、四条家を見事に革命なさしめたといえよう。
第五 善医としての頼基の活躍
(一) 主君の病気
頼基は、主君に忠誠を貫いた人物であると同時に、医術にもすぐれた技をもっていた。
建治3年(1277)の始め、それまでくすぶっていた疫病がしだいに勢いを増し、鎌倉の地をおそいはじめた。この流れは秋頃には、ついに頼基の主君・江馬四郎親時にまで及んだ。もちろん家臣たちは八方手を尽くし、名医をよんで治療にあたったと思われるが、結果ははかばかしくなかった。
ところが、頼基が以前にも主君の病を治し、その功により所領を賜ったことなどもあったため、ついに謹慎中の頼基が召し出され、主君の病気をみることになった。
頼基は、こうした状況を大聖人に報告した。大聖人もこのたびの主君の病気については、頼基の「御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがために、此の病はをこれるか」(1171-03)と述べられ、同僚がまだ頼基をおとしいれようとしているのであるから、以前にもまして、同僚を敬っていかなければならないと注意されている。また、同じく「崇峻天皇御書」(1171-15)には「きうだち・きり者の女房たち、いかに上の御そろうはと問い申されば、いかなる人にても候へ、膝をかがめて手を合せ、某が力の及ぶべき御所労には候はず候を、いかに辞退申せどもただと仰せ候へば、御内の者にて候間、かくて候とて、びむをもかかず、ひたたれこはからず、さはやかなる小袖色ある物なんどもきずして、且くねうじて御覧あれ」などと、大聖人は、まことに細やかな指導を頼基に与えられている。
こうして大聖人の指示を受けながら、頼基は、一心に真心をこめて主君の病を治療したのであろう。その利き目があってか、やがて病は快方へと向かい、さらに主君の勘気も、自然にとかれたのである。そして、翌年の建治4年(1278)正月、主君の出仕の供に加えられたのである。その時の様子については「えまの四郎殿の御出仕に、御とものさぶらい二十四五、其の中にしうはさてをきたてまつりぬ。ぬしのせいといひ、かを・たましひ・むま・下人までも、中務のさえもんのじゃう第一なり。あはれをとこやをとこやと、かまくらわらはべはつじちにて申しあひて候し」(1175-07)とあり、武士の面目を、大いに果たしたのであった。
このように、主君との危機を危く救ったのは、頼基の医術であったともいえる。
こうした頼基と主君との関係は、あたかも古代インドにおける名医・耆婆と阿闍世王との関係に類似しているといえる。
(二) 耆婆大臣と阿闍世王
耆婆は、生まれながらにして治病の具をもっていたといわれ、医王の名をはせるほどの名医であった。彼は摩竭陀国の阿闍世王に、大臣として仕えた。この阿闍世王は提婆達多を師と仰いでいたが、耆婆は深く釈迦に帰依していた。したがって阿闍世王は、耆婆が仏弟子であることを快くは思っていなかった。
むしろ阿闍世王は提婆達多にそそのかされて、釈迦に帰依していた父・頻婆娑羅王を幽閉し、そのうえ、母をも殺そうとした。この時、耆婆は阿闍世王を懸命に諌め、ようやく思い留まらせることができた。しかし今度は、阿闍世王は悪象を放って釈迦を殺そうとするなど、ことごとく釈迦に敵対していった。
こうした阿闍世王の敵対行為の結果は、やがて、厳然とあらわれたのであった。すなわち、阿闍世王が50歳になった2月15日、大悪瘡が全身にできてしまった。すでに名医・耆婆大臣の治療では及びもつかず、3月7日に死ぬことを予言されてしまった。その時になって、初めて阿闍世王は、自分の正法誹謗の罪を深く感じ、ついに耆婆大臣のすすめによって、釈迦の下へ行き、仏に帰依したのであった。釈迦はこの時、阿闍世王のために涅槃経を説き、これによって、身の病はたちまちに治り、さらには40年もの寿命を延ばすことができたのである。こうして深く改心し、仏法に帰依した阿闍世王は、釈迦滅後には、経典の結集をはかるなど偉業を残している。
このように、仏法に帰依しない阿闍世王を主君と仰ぐ名医・耆婆の立場は、きわめて困難な状態におかれていた。しかし、そうした立場にありながらも、耆婆は阿闍世王を諌め、韋提希夫人を救い、最終的には阿闍世王を釈迦に帰依せしめたことは、耆婆がいかに強信者であり、同時にすぐれた忠臣であったかを物語るものである。
この耆婆大臣について、大聖人は頼基への書状の中で次のように述べられている。
すなわち「阿闍世王は提婆六師を師として、教主釈尊を敵とせしかば、摩竭提国皆仏教の敵となりて、闍王の眷属五十八万人、仏弟子を敵とする中に、耆婆大臣計り仏の弟子なり。大王は上の頼基を思食すが如く、仏弟子たる事を御心よからず思し食ししかども、最後には六大臣の邪義をすてて、耆婆が正法にこそつかせ給い候しか」(1159-18)、また「阿闍世王は仏の御かたきなれども、其の内にありし耆婆大臣、仏に志ありて常に供養ありしかば、其の功大王に帰すとこそ見へて候へ」(1170-06)とある。
まさしく、鎌倉の武士、さらに名医・頼基の立場は、大臣、そして名医・耆婆の立場に符号している。
大聖人は、頼基こそ鎌倉時代の耆婆なりとあえて先例を引かれ、苦境にある頼基を激励されたのであろう。こうした大聖人のご信頼に、頼基もまた、どれほどか感涙にむせんだことであろう。そして、さらに法華宗の頼基として、妙法の名医として生き抜くことを、深く心に誓ったことと思う。
(三) 大聖人に薬を献上
一方、頼基は大聖人のもとへたびたび薬を送り、医学の面からも大聖人をお守りしていた。とくに、身延に入山されてからの大聖人は、しばしば持病のため、健康がすぐれず悩まれたようである。
弘安元年(1278)6月に頼基に与えられたお手紙には「将又日蓮下痢去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日日に度をまし月月に倍増す。定業)かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日日月月に減じて今百分の一となれり」(1179-11)とあり、頼基の薬を服され、良くなられたことがうかがえる。またこのことは同じ日、兵衛志に与えられたお手紙の中にも「はらのけは左衛門どのの御薬になをりて候」(1090-10)とあり、大聖人も少なからず喜ばれたものと拝する。
こうして、大聖人の病は頼基から送られる薬により、一時は良くなったものの、まだ時折は病苦に悩まされていたようである。同年九月十五日の四条金吾殿御返事(源遠長流御書)には「日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用いまじく候なり」(1182-08)とあり、大聖人の頼基に対する非常な信頼がしのばれる。このお手紙をいただいて後、閏十月に頼基は直接身延に大聖人を訪れ、お見舞い申し上げている。
医術に秀でた頼基が、大聖人の臨床で治療に最善を尽くしたことはいうまでもない。その至誠と医薬により、大聖人の病も平癒し、数日間の滞在の後、頼基は身延をあとにした。頼基が無事鎌倉へ着いた報に接し、大聖人がしたためられたお手紙には「又身に当りて所労大事になりて候つるを、かたがたの御薬と申し、小袖、彼のしなじなの御治法にやうやう験候て、今所労平愈し、本よりもいさぎよくなりて候……今度の命たすかり候は、偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か」(1185-06)とあることから、大聖人の病がなおり、健康をとりもどされた御様子がわかる。あわせて、大聖人から、このうえもなき感謝の言葉をもいただいている。
こうして、山中にこもられた大聖人の健康を気づかわれ、薬を差し上げ、お守りしつづけてきた頼基に対し、大聖人は、弘安2年(1279)富木常忍の妻に与えた書状の中で「しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」(0985-15)と述べられている。
大聖人より「善医」との言葉をいただいた頼基は、どれほど喜ばしく、誇らしく思ったことであろう。このように、医学の面ですぐれた名をあげた頼基こそは、まことの法華経の行者といえよう。
しかし、こうして「善医」とまでいわれるほどの医術を、武士・頼基が、どこでどのようにして体得したかは、定かではない。中務家が、元来医術にすぐれていたか、主君の邸に医学書があるなどして、比較的楽に手に入れることができたのか、あるいは頼基が禅寺等へ行き、そこで医学の勉強をはじめたか、いずれにせよ独学であったと思われるが、残念ながら、これらは推量の域をでない。
第六 熱原法難と頼基および頼基の晩年
大聖人一門にとって建治年間は苦難の年であった。鎌倉の地において、頼基が主君から執拗な迫害を受けているとき、駿河地方の信者もまた同じく、信仰の故に国家権力による弾圧をうけながらも、力強い戦いを展開していた。すなわち日興上人の折伏によって大聖人の弟子となっていた下方熱原滝泉寺大衆、日秀・日弁・日禅および百姓たちに対して滝泉寺の院主代・平左近入道行智を中心に弥陀信仰の徒が、数々の圧迫を加えていた。だが、法論のうえではかなわないので、ついに政所の役人と結託し、弘安2年(1279)9月21日「熱原法難」の名でしられる大法難を惹き起こした。
駿河の地は得宗領である。北条氏の政治基盤であるこの地で、いったん事が起これば強力な政治的圧力が加えられることを熟知していた大聖人は、機会あるごとに心をあわせて信心に励むよう指導されていた。しかしながらついに事態は重大な局面を迎えた。
熱原法難の原因は「滝泉寺申状」(0582-10)に次のようにある。「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云」と。右の訴状は行智の作成したものだが、これが捏造された訴状であることはいうまでもない。行智の手によって仕かけられた事件である。行智は得宗領駿河を治めるために置かれた下方政所と結託していた。9月21日、日秀に手伝って大聖人門下の百姓たちが稲の刈り取りを行なっていたところに、行智らは寺中のみならず政所の下役人まで集め、武器をもって取り囲んだ。門下の人達は初めは耐えたが、ついに鎌などで応戦した。だが大勢に無勢。ついに百姓20名は逮捕され、不当にも刈田狼藉の当事者として鎌倉に拘引されたのである。
事態を聞き知った大聖人は、法難の真最中に弟子一同に対して聖人御難事の文を差し出された。そして「余は二十七年なり」(1189-04)と述べられ、大聖人が立宗以来、27年にして本門戒壇の大御本尊建立という出世の本懐をとげられたことが示されている。そして法難による動揺を考えられたのであろう。熱原の人々に対しては「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ。彼等には、ただ一えんにおもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん地獄ををしへよ。をそろししといわばたかにあへるきじ、ねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ」(1190-18)と。大聖人の法難に当たっての弟子への指導は、厳しいものであった。
平左衛門尉の念仏称名の強要に屈せず、神四郎等はひたすら題目を唱えつつ斬首されたのである。神四郎等はわずか入信一年余にしてこの法難に立ち向かったという。
「聖人御難事」は、最後に「さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし」(1191-13)とあるように、別しては頼基に与えられたものである。当時の信者の第一人者として、頼基は大聖人の指示を受け、捕えられている神四郎たちへの激励、大聖人門下の人々への指導など、活躍したことが想像される。
頼基の手当てと投薬によって、一時、小康を取り戻された大聖人ではあったが、もはや余命いくばくもないと思われた御様子が池上兄弟、上野殿母御前へ宛てての御消息に述べられている。「日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし」(1105-01)、また「今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候」(1583-04)と。医者であった頼基が大聖人のお身体を気づかい、その回復に尽力したことはいうまでもない。弘安5年(1282)9月ごろになると大聖人の御病気は進み、身延の山中では養生もできないので、頼基は常陸の湯へとお供した。だが池上まで着くと大聖人は再び起たれず、ついに入滅されたのであった。
その時の頼基の心は断腸の思いであったろう。御葬送において池上宗仲とともに幡を捧げたことは周知の通りである。また大聖人の遺骨を身延の地に埋葬し、この傍に端場坊をつくって喪に服したという説もある。
晩年、頼基は四条家の領地といわれる甲州内船(山梨県南巨摩郡南部町内船)に移り、余生を送ったのである。大聖人の身にふりかかった大難にお供した頼基は、その晩年もまた大聖人をお護りし続けたのである。頼基の没年代については正安2年(1300)70歳前後で他界したと考えられる。
頼基は実践の人であった。大聖人の御入滅の2年前、すなわち弘安3年(1280)10月にいただいた御消息には次のように述べられている。
「何となくとも殿の事は後生菩提疑なし。何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模の国竜口にて頚切られんとせし時にも、殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし、事実にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思い忘るべき。それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山颪に命助かるべしともをぼへず。年来の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らん事は、大海の底のちびきの石の思ひして、さすがに凡夫なれば、古郷の人人も恋しきに、在俗の官仕隙なき身に、此の経を信ずる事こそ稀有なるに、山河を凌ぎ、蒼海を経て遥に尋ね来り給いし志、香城に骨を砕き、雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき」(1193-03)と。
御本仏日蓮大聖人より、このように誉められたように、その一途な性格とはいえ、誠に強盛な信心を生涯貫いた四条金吾頼基であったのである。
1109~1109 四条金吾殿女房御書(安楽産福子御書)top
| 1109 四条金吾女房御書 01 懐胎のよし承り候い畢んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承の中より撰み出して候・能く能く信心ある 02 べく候、たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、 つるぎなれども・わるびれたる人のためには何か 03 せん、 就中夫婦共に法華の持者なり 法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ、色心 04 二法をつぐ人なり争か・をそなはり候べき、 とくとくこそ・うまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いなかる 05 べきなり、闇なれども灯入りぬれば明かなり濁水にも月入りぬればすめり、 明かなる事・日月にすぎんや浄き事・ 06 蓮華にまさるべきや、 法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、 日蓮又日月と蓮華との如くなり、信心 07 の水すまば利生の月・必ず応を垂れ守護し給うべし、 とくとくうまれ候べし法華経に云く「如是妙法」又云く「安 08 楽産福子」云云、口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候・則如来の使なるべし返す返すも信心候べし。 09 天照太神は玉を・そさのをのみことにさづけて玉の如くの子をまふけたり、 然る間日の神・我が子となづけた 10 り、さてこそ正哉吾勝とは名けたれ、 日蓮うまるべき種をさづけて候へば争か我が子にをとるべき、「有一宝珠価 11 直三千」等、「無上宝聚不求自得・釈迦如来皆是吾子」等云云、 日蓮あに此の義にかはるべきや、幸なり幸なりめ 12 でたしめでたし・又又申すべく候、あなかしこあなかしこ。 13 文永八年五月七日 日蓮花押 14 四条金吾殿女房御返事 -----― 懐妊のことについて聞きました。それについて符をいただきたいとの事ですので、日蓮が相承の中から撰び出しました。これを服するためには、強盛な信心がなければなりません。たとえば、どんな秘薬であっても毒を入れたならば薬の効果は少ないし、また、いかなる剣であっても、臆病な人にはなんの役にもたたないものです。 信者のなかでも、とりわけあなた方夫婦は共に法華の持者です。法華経が流布していく種を継ぐところの玉のような子供が生まれるでしょう。まことにめでたいことです。法華経の持者であるあなた方二人の色心の二法を継ぐ人です。どうして出産が遅れたりすることがありましょうか。必ず、安産されるでしょう。この妙法という最高の薬を服されるならば疑いはありません。闇であっても灯をともせば明るくなり、濁水でも月が映れば澄んでみえるものです。 明るいことでは日月にすぎるものはなく、浄らかなことでは蓮華に勝るものがありましょうか。法華経は日月と蓮華のように最高の法です。ゆえに、妙法蓮華経と名づけるのです。日蓮もまた日月と蓮華のようなものであります。信心という水が澄むならば、利生の月は必ずその影を映し、諸天が守護することは間違いないのです。したがって、必ず安産されるでしょう。法華経方便品に「是くの如き妙法」と、また法師功徳品には「安楽にして福子を産まん」と説かれています。 口伝相承のことは、この弁公に詳しく申し含めてあります。すなわち弁公は如来の使いです。くれぐれも信心を起こしていきなさい。 天照大神は素戔嗚尊に玉を授け、素戔嗚尊は玉のような御子をもうけました。それゆえ日の神は、その子をわが子と呼んだのです。また、御子の誕生で素戔嗚尊は邪心のないことが証明されたので、正哉吾勝と命名されたのです。日蓮はあなたのお子に、安楽に生まれてくるよう、種を授けたのですから、どうしてわが子に劣りましょうか。 法華経の提婆品に「一つの宝珠有り、その価は三千大千世界なり」等と。信解品には「無上の宝聚を、求めざるに自ら得たり」と。また、譬喩品には「皆是れ吾が子なり」等と説かれていますが、日蓮もまた、全くこの義に変わりはありません。実に幸なことです。まことにめでたいことです。またまた申し上げることとしましょう。あなかしこ、あなかしこ。 文永八年五月七日 日 蓮 花 押 四条金吾殿女房御返事 |
わるびれたる人
気後れして卑屈に振舞ったり、未練がましく見苦しいようす、等。
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色心二法
色とは肉体・物質をいい、心とは精神をいう。色心二法とは生命のこと。
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をそなはり
遅くなる.延びる。
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利生の月
衆生を利益する仏力・法力を月にたとえたもの。
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応を垂れ
仏力・法力が衆生の生活の上にあらわれてくること。
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口伝相承
言葉で奥義などを伝えること。
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弁公
弁阿闍梨日昭のこと。(1222~1323)。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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そさのをのみこと
古事記には建速須佐之男命、日本書紀には素戔嗚尊とある。天照太神・月読命と共に伊弉諾尊、伊弉冉尊の子で、天照太神の弟にあたる。「すさのを」とは大風の荒れすさぶ意味で、勇猛迅速に荒れすさぶ男神、風神、嵐神等といわれる。海原、天下、根国の支配者で、出雲系民族の祖神として神話に伝えられている。
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正哉吾勝
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊のこと。「正哉」は「まさか」とも読む。正哉吾勝の名前の由来と素戔嗚尊の子として生まれ、天照太神の子となり、天原を治めるに至った経過は、日本書紀等にある。この説話に諸説あるが、その中の一つを挙げる。日本書紀巻第一に「日神、素戔嗚尊と、天安河を隔てて、相対ひて乃ち立ちて誓約ひて曰はく、『汝若し姧賊ふ心有らざるものならば、汝が生めらむ子、必ず男ならむ。如し男を生まば、予以て子として、天原を治しめむ』とのたまふ(中略)素戔嗚尊、其の左の髻に纏かせる五百筒の統の瓊を含みて、左の手の掌中に著きて、便ち男を化生す。即ち称して曰はく、『正哉吾勝ちぬ』とのたまふ。故、因りて名けて、勝速日天忍穂耳尊と曰す(中略)其れ素戔嗚尊の生める兒、皆已に男なり。故、日神、方に素戔嗚尊の、元より赤き心有ることを知しめして、便ち其の六の男を取りて、日神の子として、天原を治しむ」とある。また、「正哉」について、「マサは正。カは所の意。マサカは、まさにここで・まさに今の意」とある。
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有一宝珠価直三千
法華経提婆達多品第12に「爾の時に竜女、一つの宝珠有り。価直三千大千世界なり。持って以って仏に上る。仏即ち之を受けたもう」とある。
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無上宝聚不求自得
信解品に「爾の時に摩訶迦葉、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、我等今日、仏の音教を聞いて、歓喜踊躍して、未曾有なることを得たり、仏声聞 、当に作仏することを得べしと説きたもう、『無上の宝聚、求めざるに自ら得たり』」とある。摩訶迦葉等の四大声聞が、仏の開三顕一の説法を領解して歓喜して述べた言葉である。この無上宝聚とは御本尊様のことである。
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釈迦如来皆是吾子
法華経譬喩品第3に「衆聖の中の尊、世間の父なり、一切衆生は、皆是れ吾が子なり」とある。
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本抄は、別名を「安楽産福子御書」ともいう。日蓮大聖人聖寿50歳の文永8年(1271)5月7日に、鎌倉・松葉ケ谷において認められ、頼基の妻・日眼女に与えられた御手紙である。四条家に賜わった書は多いが、これは、現在判明しているうち、最も古いものである。
日眼女は、出産を間近にして出産の無事を願い、符の下賜をお願いしたものと思われる。大聖人は符を弟子の弁公に託して、早速届け、それにつけて、この手紙を認められたのであろう。文は短いが、大聖人の慈愛が行間ににじみ出ている。
内容は、符を服するには、何よりも、強盛な信心が大切であることを述べられ、頼基夫婦は、二人共に法華経の信者であり、その法華経流布の種を継ぐ子であるから、必ず安産で生まれてくる。まして、符を服するならば、安産は絶対に間違いないと激励されている。
なお、本抄をいただいた翌日、8日、日眼女は無事に女児を出産、大聖人より月満御前と命名していただいている。
秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし
どんなにすぐれた薬であっても、それに毒を入れたならば、薬としての効用は消えてしまう。この場合は符を〝秘薬〟にたとえ、〝毒〟は不信、疑惑にたとえていわれているが、さらに広く〝秘薬〟は御本尊、日蓮大聖人の仏法そのものと考えることができる。そこに、不信、疑いの毒が入ってしまったならば、大仏法の功力がいかに広大であるといっても、充分に享受することはできない。
仏法それ自体は、無限の力を秘めている。それは、宇宙大といってよい。これが仏力、法力である。だが、この仏力、法力を、衆生がどれだけ自身の生活のうえに、生命のうえに抽き出し、享受していくかは、その人の信力、行力によるのである。ゆえに、不信、疑惑によって、その人の信力、行力が鈍り、弱まるならば、御本尊の力がいかに広大といっても、功徳として顕現しないのである。
ただし、疑いといっても、疑いをもつこと自体が悪いのではない。疑いを起こすことによって、求道心を燃やし、信心が深まれば、それは境涯を高めることになろう。疑いをもっても、真実を究めようとせず、背を向けて不信の虜になっていくことがよくないのである。
つるぎなれどもわるびれたる人のためには何かせん
先の〝秘薬〟の譬喩と似ているが、前者が〝不信〟を戒めたものであるのに対して、これは、強靭な確固たる信心でなければならないことを強調されている。
人間の心は、病気や種々の悩みにぶつかったとき、怯みが出てくるものである。仏法の力によって乗り越えることができるのだといわれても、心から信じきれない場合も少なくないであろう。だが、その弱い自分を克服して、信心の強い確信に立つことが、仏法の偉大な力を顕現する要諦である。
御本尊への強い信仰と、病気や悩みに負けまいとする心、そして、それらを行動なり生活姿勢のうえに具現化する実践力――この条件がそろって、悩みを打破し、力強い人生の軌道に入ることができるのである。所詮、信心とは、奇跡をあてにするのでもなければ、天与の恩恵をまつものでもない。自身への対決を経てこそ、厳然たる功徳の実証がなされることを知らねばならない。
法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり
末法万年の闇を照らす大仏法であることを、人法の両面から断言された御文である。法華経とは、その元意は三大秘法の南無妙法蓮華経すなわち末法出現の法本尊である。日蓮大聖人は、久遠下種の教主、末法御出現の御本仏すなわち人本尊である。人本尊たる大聖人も、法本尊たる妙法蓮華経も、ともに日月と蓮華の徳を具えており、人法一箇であることを示されているのである。
もとより、周知のごとく、日蓮大聖人が御自身、久遠元初の自受用身であるとの明確なお振る舞いに入られるのは、このお手紙を認められた文永8年(1271)の数か月後、9月12日、竜口の首の座における発迹顕本以後である。だが、内証の辺では、すでに立宗の当初から、末法全人類救済の御本仏たる自覚を秘められていたはずである。なぜなら、正像二千年間の論師・人師はもとより、釈迦自身も弘めなかった法華経の肝心・南無妙法蓮華経の大白法をもって末法の白法隠没の世の一切民衆救済のために立ちあがられたこと自体、単なる釈迦の後継者ではありえないことを物語っているからである。
したがって、いま、このお手紙で、発迹顕本より数か月早いにもかかわらず、すでに人法一箇の義から、御自身を末法救済の本仏と暗に示されているとしても、なんら不思議はない。
「日月」の譬は、次上の文に「明らかなる事日月にすぎんや」とあるように、衆生の生命の本質的な闇、すなわち元品の無明を照らし、無明を法性と転ずる妙法の本源的な力をあらわす。法華経即大聖人を信ずる心は、仏界の一念となり、九界の生命は法性の光明に照らされて、本有の躍動へと変わるのである。一切の活動が歓喜にみちあふれ、それらが福運を増大する因としての活動となっていくのである。
「蓮華」については、同じく「浄き事蓮華にまさるべきや」とあるが、無始以来の生死の流転によって染まった悪業の汚れも、妙法蓮華経の大生命に感応することによって、悉く洗い落とされて浄化されてしまうのである。さらに、この世界は、煩悩に充満した汚泥の世界であるが、あたかも蓮華が泥沼にあってしかも少しも汚されないように、泥沼の社会にあっても、妙法を受持した人の生命は少しも穢れることはない。
三惑に約していえば、日月に譬えられた妙法の力は、元品の無明を元品の法性と転ずる力であり、蓮華に譬えられたそれは、塵沙惑、見思惑を断破し、煩悩即菩提と変える力といえよう。また、生命論に約していえば、日月の譬は、生命の本質の転換であり、蓮華のそれは、生命に付随する現象面の転換を意味すると考えることができよう。
信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ守護し給うべし
「利生の月」とは、一切衆生を利益し幸福にしていく妙法を月に譬えて、このようにいわれたのである。「応を垂れ」とは、あたかも月がその影を水面に浮かべるように、妙法の功力が生命のうえにあらわれることをいう。
したがって、妙法の力は、その影を落とす人々の生命の状態によって、千差万別のあらわれ方をする。病気の人にあっては、病気を打ち破るだけの強い生命力となってあらわれる。生活の問題で悩んでいる人にあっては、問題解決への英知となってあらわれるであろう。ゆえに、それは現象的には、その人自身の力によって苦悩を解決したとしか見えない。少なくとも、他の宗教等で喧伝するような、奇跡や通力のような現象形態はとらないのである。
妙法の力は、その人その人の生命のうえに「応を垂れ」てあらわれるのであって、それゆえにこそ、あらゆる人の、あらゆる苦悩を解決できる、本源的な力なのである。問題は、その人の力によって解決しなければならないのであって、その生命自体に力を与えるのが妙法である。したがって、いくら妙法の加護を祈っても、それを顕現する自らの努力をしなければ、功力はあらわれてこない。だが、逆に、全て自身の力を万能とする誤りにおちいって妙法を忘れたならば、その人生は、水源を断たれた川のように、衰減の一途を辿ることを知らなければならないであろう。
「則ち如来の使」なるべし。返す返すも信心候べし
日蓮大聖人の使いとして、仏法を伝え、信心を教えてくれる人に対してとるべき心の姿勢を教えられている。仏法を学ぶ態度は、このように真剣であるべきであり、また、教えてくれる人を尊敬しなければならない。また、教える立場の人も、自ら「如来の使」と自覚して、真摯でなければならないし、微塵も、仏法を我見によって歪めるようなことがあってはならない。
このように、教える人も、教わる人も、法の前に謙虚な精神を貫き、相互の信頼と尊敬の姿勢を結ぶなかに、はじめて仏法はおのおのの生命を変革し、無量の福運を積んでいく力の源泉となるのである。
1110~1110 月満御前御書(月満誕生御書)top
| 1110 月満御前御書 文永八年五月 五十歳御作 01 若童生れさせ給いし由承り候・目出たく覚へ候、殊に今日は八日にて候、彼れと云い此れと云い所願しをの指す 02 が如く春の野に華の開けるが如し、 然れば・いそぎいそぎ名をつけ奉る 月満御前と申すべし、其の上此の国の主 03 八幡大菩薩は卯月八日にうまれさせ給ふ 娑婆世界の教主釈尊も又卯月八日に御誕生なりき、 今の童女又月は替れ 04 ども八日にうまれ給ふ釈尊八幡のうまれ替りとや申さん、 日蓮は凡夫なれば能くは知らず 是れ併しながら日蓮が 05 符を進らせし故なり、さこそ父母も悦び給うらん、 殊に御祝として餅・酒・鳥目一貫文・送り給び候い畢んぬ是ま 06 た御本尊・十羅刹に申し上げて候、 今日の仏生れさせまします時に 三十二の不思議あり此の事周書の異記と云う 07 文にしるし置けり。 -----― お子さんが生まれたことを承りました。まことにめでたく存じます。ことに今日は八日です。お子さんの生まれたことといい、また今日が八日というよき日であることといい、全ての願いが叶っていく様は、潮が満ちてくるようであり、春の野に花が咲いたようなものです。 そこで、いそぎいそぎ名をつけました。月満御前と呼ぶのがよいでしょう。その上、この日本の国の主神である八幡大菩薩は四月八日の誕生です。娑婆世界の教主釈尊もまた四月八日に御誕生になったのです。 今あなたの女児も、月は替わっても八日に生まれております。釈尊や八幡大菩薩の生まれ変わりと申せましょうか。日蓮は凡夫であるからよくはわからないが、これはおそらくは日蓮が符を差し上げた功徳なのである。さぞかし父母もお悦びのことでありましょう。 ことに御祝として、餅、酒、銭一貫文をお送り下さいましたが、これまた御本尊、十羅刹に申し上げておきました。 今日の仏すなわちインドの釈迦がお生まれになった時に、三十二の不思議な瑞相があり、このことが周書異記という書物に記しおかれています。 -----― 08 釈迦仏は誕生し給いて七歩し口を自ら開いて「天上天下唯我独尊・三界皆苦我当度之」の十六字を唱へ給ふ、今 09 の月満御前はうまれ給いて・うぶごゑに南無妙法蓮華経と唱へ給ふか、 法華経に云く「諸法実相」天台の云く「声 10 為仏事」等云云、日蓮又かくの如く推し奉る、 譬えば雷の音・耳しいの為に聞く事なく日月の光り目くらの為に見 11 る事なし、 定めて十羅刹女は寄り合うて・うぶ水をなで養ひ給うらん・あらめでたや・あらめでたや御悦び推量申 12 し候、念頃に十羅刹女・天照太神等にも申して候、 あまりの事に候間委くは申さず、 是より重ねて申すべく候、 13 穴賢穴賢。 14 日 蓮 花 押 15 四条金吾殿御返 -----― 釈迦仏は誕生されると、すぐに七歩あるいて、口を自ら開いて「天上天下唯我れ独り尊し。三界は皆苦なり、我れ当に之を度すべし」の十六字を唱えられております。今の月満御前は生まれて、産声に南無妙法蓮華経と唱えたことでしょうか。法華経方便品第二に「諸法実相」と説かれ、天台大師の法華玄義に「声仏事を為す」等と説かれています。したがって日蓮はまたこのように推し測ってみるのである。 たとえば、雷の音も耳の聞こえない人には聞こえないし、日月の光りも盲目の人には見えることがない。 必ずや十羅刹女は寄り合って、産水をつかわせ、大切に養育することでしょう。まことにめでたいことです。お悦びのほどを推察申し上げます。 ねんごろに十羅刹女、天照太神等にも申し上げました。あまりのおめでたいことなので、今日は詳しくは申し上げませんが、また重ねて後に申し上げましょう。あなかしこ、あなかしこ。 日 蓮 花 押 四条金吾殿御返事 |
若童
10歳に達しない(正確に限定するものではない)幼い子供。
―――
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
卯月八日
4月8日のこと。インド応誕の釈迦仏・応神天皇(八幡大菩薩)の誕生日。
―――
凡夫
梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
―――
鳥目一貫文
銭一貫文に同じ。銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1000文にあたり、当時の物価で米150㎏に相当した。
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十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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三十二の不思議
釈迦が生まれた時に起こった三十二種の瑞相をいう。仏説太子瑞応本起経巻上に説かれている三十二種の瑞相は、
① 地が大きく揺れ動き、地面の帰伏が平らになる。
② 大地より自然と香がわく。
③ 自然界の草木の中の枯木がみな華葉を生じる。
④ 苑園が自然と甘菓を生じる。
⑤ 陸地に大きな蓮華が咲く。
⑥ 地中にうずまった茂が芽を出す。
⑦ 茂が宝物のごとく開き現じる。
⑧ 箪笥の中の衣が外に出て、着物掛に掛る。
⑨ 一切の川は、ゆるやかに流れ、清く澄んでいる。
⑩ 風はやみ、雲は消えて晴天となる。
⑪ 天上よりたくさんの香が雨ってくる。
⑫ 明月が殿堂の上に懸かる。
⑬ 宮中の灯は昼の如く明るく、火をともさない。
⑭ 日月星辰は皆輝きとどまっている。
⑮ 星が下って、釈尊のまわりを守り照らす。
⑯ 梵天・帝釈の諸天善神が宮上をおおう。
⑰ 八方の善神が釈尊に宝を献上しに来る。
⑱ 天の百味の食が在前する。
⑲ 宝の甕の口が、すべて甘露をつくる。
⑳ 天神が七宝をつんだ車をひいてくる。
㉑ 五百の白象の子が殿前に列なる。
㉒ 雪山の五百の白師子の子が城門の前に列なる。
㉓ 天の諸の婇女が妓女の肩の上に現ずる。
㉔ 諸の竜王女、宮の廻りをめぐる。
㉕ 天の一切の玉女孔雀の尾を取って宮上に現ずる。
㉖ 天の諸の婇女が金瓶を持って香汁を盛り、空中に列座して侍す。
㉗ 天より音楽をかなでる。
㉘ 地獄の苦しみはそのときとまる。
㉙ 毒虫は隠れ伏して、吉鳥がはばたき鳴く。
㉚ 漁・猟師の餌物を取る心が一時慈悲心に変わる。
㉛ 境内の妊婦は男子を生み、聾・盲・瘖その他一切の疾病は皆悉く治癒する。
㉜ 樹木が人と現じて、低く、礼をする。
これらの瑞相は、釈迦の人格の尊極なることを示したものと思われる。
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周書の異記
中国の六朝末頃にあったと考えられる書で現存はしない。釈迦入滅の年代について数十種の異説が生じているが、この周書異記を用いたものに法琳の説がある。
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天上天下唯我独尊・三界皆苦我当度之
「天上天下・唯だ我れ独り尊し、・三界は皆な苦なる、我、当に之を度すべし」と読む。インドの釈尊は誕生したとき七歩あるいて、立ち止まり、右手をあげて唱えたといわれる偈で誕生偈という。仏は世界・全宇宙において最も勝れ、尊いのであり、三界は苦しみの世界・仏はこの苦悩の世界に住して出現したのであるとの意。
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諸法実相
諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358-01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。
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声為仏事
「声・仏事を為す」と読む。章安大師の有名な言葉。思っていることが、そのまま言動に表れるということ、愛語仏心が回転の力を働かせて、世の為と成ることを言う。
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耳しい
声を聞き取ることができない聴覚障害者。
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念頃
真心を込めて、念をいれて、ていねいに。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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本抄は、別名を「月満誕生御書」ともいう。四条金吾から、文永8年(1271)5月8日に女の子が生まれたために、その報告とともに、命名を大聖人にお願いしたことに対して、与えられたものである。
前抄の「安楽産福子御書」に述べられているが、大聖人から安産のための符をいただいた翌日「しをの指すが如く、春の野に華の開けるが如し」と仰せのように、玉のごとき女の子が生まれたのであった。その喜びのしらせをうけた大聖人は、月満御前と命名され、日本国の主たる八幡大菩薩も、娑婆世界の教主釈尊も4月8日の御誕生である。月はかわっても同じ八日誕生の童女は、釈尊か八幡大菩薩の生まれかわりであろうかと祝福されている。
そして、法華経の行者としての魂を授けられた、この小さな生命であれば、その産声は南無妙法蓮華経と唱えたのであり、必ずや仏天の加護があることを示されて、前途を心から祝福されているのである。
一つの新しい生命の誕生といってもさまざまである。「人身をうくる事はまれなるなり」(0902-01)といわれているが、その人身として誕生したにもかかわらず、誕生それ自体が祝福されない生命もある。また、先天的な体質によって、一生苦難の人生を歩まねばならない生命もある。
ここに妙法持者の子として生まれた生命の福運がどれほどすばらしいかを大聖人は示されているのである。
「法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492-08)「花は開いて果となり・月は出でて必ずみち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさかう・人は善根をなせば必ずさかう」(1562-03)と。
妙法を持(たも)ち、大聖人の弟子として、父母ともに善根を積み福運に満ち満ちているのである。生命の因果の理法に照らせば、その子もまた、福運ある人生を歩むことは間違いないのである。
声仏事を為す
この文は月満御前の誕生に際して、日蓮大聖人が正法の家に生まれた子であるから、その産声は南無妙法蓮華経と唱えたものであると、章安大師の私記縁起の「声仏事を為す、之を称して経と為す」との文を引かれて述べられたものである。
それは、人間として初めての発声として、反射的に、無意識に出したように思われる声であっても、あたかも雷の音が聾の人には聞こえないのと同じように、あるいは日月の光りが盲目の人には見えないのと同じようなもので「諸法実相」の法門の立場からみれば、宇宙の森羅万象がことごとく妙法蓮華経の当体となるのであるから、産声も南無妙法蓮華経と唱えているのであると仰せなのである。
卑近な例であるが、幼児が「ああ」とか「うくん」とか発生のみで、母親と対話をしている光景がある。零歳児には発声はあっても、大人の聞くかぎりにおいて、言葉にはなっていない。しかし幼児は幼児なりに、とくに気分の良い時など、大人が聞いても理解できない発生をしたり、鼻歌でも歌うようにリズミカルな声を出す。母親だけが理解できるのも、母性本能によるのであろう。
こういった現象からみて、たとえそれは産声であっても、あるいは幼児の発声であっても一念の所作であり、それ自体、法なのである。
礼記・楽記第十九にも「凡そ音の起るは、人心に由りて生ずるなり。人心の動くは、物、之をして然らしむるなり。物に感じて動く、故に声に形る」と述べている。
法界三千の万法の姿は、妙法蓮華経の当体である。すなわち、大宇宙の現象、われわれ衆生の生命活動などの一切の実相は南無妙法蓮華経の一法となる。
これを開いていえば、われわれの一切の振る舞い、言々句々は一念の所作であり、一切の音声もまた一念三千の範疇に入るのである。その体とは南無妙法蓮華経なのである。
「御義口伝」に「一切衆生の語言音声を自在に出すは無問自説なり……此の音声の体とは南無妙法蓮華経なり」(0713-第七天鼓自然鳴の事-05)と。また「法界の音声・南無妙法蓮華経の音声に非ずと云う事なし」(0801-一妙音品-04)と。また「一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり三世常住の妙音なり」(0774-第一妙音菩薩の事-01)とも仰せである。したがって、南無妙法蓮華経は宇宙の大リズムの音声といえよう。
宇宙の大リズムの音声である南無妙法蓮華経を唱えるとき、その生命活動もまた、大宇宙のリズムすなわち「法則」と合致して、幸福な境涯を得ることができるのである。逆に人生の不幸は、誤った法を信ずる故に、大宇宙のリズム・法則と合わないゆえに起こるのである。
「声仏事を為す、之を称して経と為す」とあるように、一切の音声をさして経というのである。この経は一念三千の所作であるから、そのもの自体の真理と価値を表明するといえる。
ある言語学者は人間の言語について次のように述べている。「われわれが非常に複雑で、しかも秩序ある社会生活を営み、高度の文明を発達させつつあるのは、実に、言語、すなわち音声言語と文字言語の両者に負うところが多い。(中略)人間は言語のおかげで知識・経験を仲間に伝えて、協力的・分業的行動を営むことができる。チンパンジーや犬、猫は、いわば、一匹々々が同じ出発点から経験を積み重ねなければならないが、人間は言語のおかげで、いわば他人が到達した所を出発点とすることができる」と。
したがって、同じ人間のなかでも、凡下の者より智者、智者のなかでも大智者、とくにそのなかの仏と名づけられた、宇宙の法則を悟った覚者の経がもっとも高いと結論づけられるのである。
仏の音声とは、南無妙法蓮華経を大宇宙に向かって大宣言される声をいうのである。これこそ「声仏事を為す」である。
「木絵二像開眼供養之事」に「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり」(0469-01)と。
また、釈尊の説法の音声については、仏教典中に次のように記されている。梵摩渝経には「如来説法の声に八種あり。一には最好声・二には易了声・三には濡軟声・四には和調声・五には尊慧声・六には不誤声・七には深妙声・八には不女声」とあり、法苑珠林巻第三十六にも同じことが記されている。すなわち、非常にうるわしく、明瞭にして柔かく、聞き易く、怜悧にして正しい深みのある、しかも男性的な調和に富んだ声であったということである。
「音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなり」と。
大宇宙のリズムに調和した音声こそ、力強い、生命力に溢れた音声であり、幸福生活へと向かう明るい響といえよう。大御本尊に唱題し、妙法流布に活躍するものの言々句々こそ、真実の「声仏事を為す」ものなのである。
1111~1112 四条金吾殿御書(盂蘭盆由来御書)top
1111:01~1111:08 第一章 盂蘭盆の由来を明かすtop
| 1111 四条金吾殿御書 文永八年七月 五十歳御作 01 雪のごとく白く候白米一斗・古酒のごとく候油一筒・御布施一貫文、態使者を以て盆料送り給い候、 殊に御文 02 の趣有難くあはれに覚え候。 -----― 雪のように白い白米を一斗、古酒のような油を一筒、御布施を一貫文、これらの品々をわざわざ使者をもって盆料としてお送りいただきました。とくにお手紙の趣まことに感銘深く覚えました。 -----― 03 抑盂蘭盆と申すは源 目連尊者の母青提女と申す人慳貪の業によりて五百生・餓鬼道にをち給いて候を目連救ひ 04 しより事起りて候、 然りと雖も仏にはなさず其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に 母をも仏になす事 05 なし、 霊山八箇年の座席にして法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱えて 多摩羅跋栴檀香仏となり給い此の時母も仏 06 になり給う,又施餓鬼の事仰せ候、法華経第三に云く「如従飢国来忽遇大王膳」云云、此の文は中根の四大声聞.醍醐 07 の珍膳をおとにも・きかざりしが今経に来つて始めて 醍醐の味をあくまでになめて 昔しうへたる心を忽にやめし 08 事を説き給う文なり、 若し爾らば餓鬼供養の時は此の文を誦して 南無妙法蓮華経と唱えてとぶらひ給うべく候。 -----― そもそも盂蘭盆というのは、もと目連尊者の母・青提女という人が慳貪の業によって五百生の間、餓鬼道に堕ちたのを目連が救ったことから起こったのである。 しかしながらその時は母を成仏させることはできなかった。そのわけは目連自身が、まだ法華経の行者でなかったために母を成仏させることができなかったのである。その後、霊山八箇年の説法の席で、目連は法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱えて多摩羅跋栴檀香仏となり、このときに母も仏になった。 また、お手紙に施餓鬼のことをいわれているが、法華経第三の授記品第六には「飢饉の国から来て、いきなり大王の膳に遇うようなものである」と。この文は、中根の四大声聞が醍醐の珍膳の名さえ聞かなかったのが、法華経に来て始めて醍醐の味を飽きるほどなめて、それまでの飢えた心をたちまちに止めることができたことを説いた文である。それゆえ餓鬼供養の時には、この文を誦して南無妙法蓮華経と唱えて弔うべきである。 |
盆料
盂蘭盆の回向をお願いして差し上げた御供養のこと。
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盂蘭盆
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目連尊者
釈尊の声聞十大弟子の一人で、神通第一。摩竭陀国・王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈尊の教えを求めて二百五十人の弟子とともに弟子となる。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道する。授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。
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慳貪
欲が深く、自分の物を慳み、他人の物を貪ること。清浄心をおおう六種の悪心の一つ。
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霊山八箇年の座席
「霊山」は霊鷲山のこと。法華経の説処。八年は説法の期間。法華経説法の会座をいう。
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多摩羅跋栴檀香仏
目犍連が授記品で受けた未来成仏の授記の名号。同品に「是の大目・連は当に種々の供具を以て八千の諸仏に供養し、恭敬尊重……号を多摩羅跋栴檀香如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と曰わん」とある。
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施餓鬼
餓鬼に施す、餓鬼供養のこと。
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如従飢国来忽遇大王膳
法華経授記品第6の文。「飢えたる国 より来って 忽ちに大王の膳に遇うが如し」と読む。中根の四大声聞が法華経の説法を聞きえたことは、飢えた国からきて、たちまちに醍醐味である大王膳に遇うようなものであるということ。
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中根の四大声聞
釈尊の十大弟子を上中下根に分かち、譬喩説で領解した須菩提・迦旃延・迦葉・目連を中根とする。このゆえに喩説周ともいう。これに対し、方便品で十如実相の説法で得道した舎利弗を法説周といい、上根とする。また大通智勝仏以来の因縁を聞いて得道する富楼那を因縁周といい、これを下根とする。
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醍醐の珍膳
一切経の中の最上の教法である法華経を、最上の味である醍醐味にたとえたもの。
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本抄は、盂蘭盆の由来及び施餓鬼について指導されたお手紙である。
7月12日が母の命日にあたる四条金吾は、亡き母の追善供養のため、種々の品々をとりそろえて大聖人に御供養した。それに対し、大聖人は盂蘭盆についての由来、また、餓鬼供養について述べられ、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、真の供養になることを教示されている。
そして、邪法の僧は、食法餓鬼といって、仏法を弘めるふりをして名聞名利のために法を利用したり、あるいは欲心深くして、自分一人で供養をむさぼっている。また、在家にも僧の中にも父母師匠の命日を弔う人はまれである。
四条金吾の母は日蓮大聖人の弟子として正法を純真に信じ行じた人であり、餓鬼道に堕ちているはずがない。まして子の四条金吾が法華経のために、このように活躍しているのだから、霊山において、さぞ諸仏から大事にされていることであろうと述べられ、信心をいっそう深くしていくようにと指導されているのである。
盂蘭盆について
7月15日の盂蘭盆は、亡くなった人々の冥福を祈るための行事として、わが国でも、広く民間に行なわれてきた。
盂蘭盆とは、その語源及び意味について、いろいろの解釈があるが、古くから伝えられているところによると、梵語のウランバナ(Ullambana)という発音を、そのまま漢字で書いたものだといわれている。また烏藍婆拏とする説もあるが、盂蘭盆のほうが用いられることが多い。
この盂蘭盆の意味について、諸説があるが、救倒懸と訳す説が一般的である。倒懸とは倒さづりの苦しみをあらわす、といわれている。また中国の俗説から盂蘭と盆をきりはなして、盂蘭だけが倒懸の意で、盆はものをのせる器という解釈をしている場合もある。
また、ウランパナ(Ullampana)が語源ではないかという説もある。これは訳すと救済の意となる。また身近では、仏教が中央アジアを通って中国に入ってくる途中で、仏教の中に入りこんできたと思われるイランの古い言葉で、霊魂の意味をもつウルヴアン(Urvan)というのが語源であるとの新説もでている。
このように、盂蘭盆の語源や、その意味については、種々の説があり、いずれが正しいとも決めがたい。
さて、わが国や中国にある盂蘭盆会の行事倒さづりの苦しみを救うために、百味の飲食を盆に盛って、供養するというのは、盂蘭盆経によっている。
仏説盂蘭盆経に、盂蘭盆について大要次のように説かれている。
「釈迦仏が祇園精舎にいる時、弟子の一人目連尊者が六神通を得た。目連は、すでに亡くなっていた父母に恩返しをしたいと思って、天眼通をもって亡母の在所を見ると、餓鬼道に生じ、飲食も自由にならず、骨と皮になっていた。その姿に目連は大いに悲しみ、早速、鉢に飯を盛り、餓鬼道にいって母に与えた。
母は悦んで、左手にもった鉢の飯を右手でとって食べようとしたが、その食がまだ口に入らないうちに火炭と化し、どうしても食べることができない。
それを見た目連は悲しんで啼泣し、馳せ返って釈迦仏にこの事を陳べた。
釈迦仏がいわれるには『汝の母は罪根が深いから、汝一人の力ではいかんともすることができない。汝の孝順の声が天地を動かすとも、天神・地神・外道・道士・四天王神が寄り合っても、どうすることもできない。母を救うには、十方の諸衆僧の威神の力をかりれば、母の罪障を消して救うことができる。今まさに、汝のために救済の法を説き、一切の難、全ての苦しみを逃れて罪障の消滅をさせてあげよう』と。
さらに釈迦仏が目連にいうには『十方の衆僧が、七月十五日の自恣の時に集ってくるから、七世の父母、及び現在の父母の厄難に在るもののために、百味の飲食と五菓を汲み灌ぎする盆器と香油錠燭と床敷臥具とを具えて、世の全てをつくして盆中に備え、十方の大徳衆僧に供養しなさい』と。
目連尊者は仏のいわれた通りに種々に盂蘭盆の御馳走を衆僧に供えた。十方の衆僧大菩薩もこの食をうけて、大会の衆とともに悦びに満ちたとき、目連尊者の泣き声も止み、悲しみもとけたのである。そのとき母は、一劫の間餓鬼の苦しみを逃れることができた。
そこで目連尊者は、喜んで、後々の人々も盂蘭盆供養を以て現在の父母過去七世の父母のために孝養を為すようにしてはどうであろうかと、釈迦仏にうかがったところ、釈迦仏は悦んでこれを受け入れ、一会の衆に盂蘭盆会を勤むべきことをすすめられた」。
この他、仏説報恩奉盆経という経にも、これと同様のことが略して説かれており、また般泥洹後灌臘経には阿難尊者に対して、仏滅後には、4月8日の灌仏会と7七月15日の盂蘭盆会に斎会を行なうべき事がいわれている。このほかにも、法苑珠林第六十二の大盆浄土経にも盂蘭盆のことが説かれている。
さて、この盂蘭盆経については、古来より疏釈、註抄などが数えきれぬほど、中国にも日本にもあり、盂蘭盆の語源と同様、その起源や訳者にまつわる、いろいろな説がある。
一般に、西晋の武帝の時代(0265~0290)に竺法護の訳したものとされているが、訳者不明との説もあり、漢訳のみで原典がないこと、またその内容が中国の「孝」を中心とした思想であるところから、盂蘭盆経は中国でつくられたものとする説もある。
インド伝来説をとる人は、目連尊者が母を救うという、盂蘭盆経をはじめとする前述の経々の内容が古代インドの大叙事詩にもこれと似た説話があること、あるいはインドから南伝した南方仏教すなわち小乗仏教の国々にも、それらしい行事があることを、その理由として挙げている。しかし、盂蘭盆経そのものが作られたのは、中国ではないかというのが、今日、歴史学者等の間では有力な説となっている。
ところで、この盂蘭盆会はいつ頃から行なわれるようになったのであろうか。
今日のインドでは、盂蘭盆会の習慣はないし、かつて行なわれたかどうかも不明である。
中国で盂蘭盆会が公式に行なわれたのは、梁の武帝の初めという説と、唐の代宗の時に宮中で盂蘭盆会の儀式を行なったのが最初だという説がある。
おそらく、先祖崇拝の伝統の強い中国社会にあわせて、こうした行事が盛んになったのであって、民間では仏教が徐々に広まっていくとともに盂蘭盆会も始められていったと推定されている。それは、晋の歳時記の中に、盂蘭盆会が民俗行事の一つとして残っていること、また他の書にも晋隋の間に寺僧が自恣の時、供養を受けたとあるからである。
盂蘭盆にあたる7月15日は中国独自の宗教・道教の中元にあたっている。道教は晋の時代に最も盛んであった。中国の仏教は道教の中に交わって民間に広まっていったという歴史的事実の上からも、晋の時代あたりから盂蘭盆会も道教の中に入りこみ、中国の習慣となっていったのであろう。
我が国で初めて盂蘭盆会が行なわれたのは推古天皇の14年とされている。日本書紀第22推古天皇14年4月の条に「是年より初めて寺毎に、四月の八日、七月の十五日に設斎す」とある。次いで日本書紀第二十六斉明天皇三年七月の条に「辛丑に、須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且、盂蘭瓫会設く」とある。
宮中で盂蘭盆会が行なわれるようになった記録は、続日本紀第11天平5年7月の条に「庚午、始めて大膳職をして盂蘭盆の供養を備へしむ」とある。すなわち聖武天皇の天平5年(0733)7月14日のこの時に行なわれたのが始めで、以後、宮中の常例となり、続いて位官の家、さらに民間にと令されて、7月15日を前後にして盂蘭盆会が孝養のための仏事となっていったようである。
このようにして、盂蘭盆会は、中国やわが国で、先祖の追善供養として、古くから行なわれてきた。だが、仏法の本義からする真の追善供養とは、何かということを知らなければならない。
大聖人は「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)といわれ、本抄にも、目連尊者の例をあげて「我が身いまだ法華経の行者ならざる故に、母をも仏になす事なし」と指摘されている。
そして「盂蘭盆御書」には「しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ、故に法華経に云く我が願既に満ち衆の望も亦足る云云、目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(1429-07)といわれている。
一時的に餓鬼道の苦しみから逃れるだけでなく、成仏という最高の境涯にしていくことこそ真の追善供養であり孝養なのである。南無妙法蓮華経と唱えて、初めて自身が成仏し、三悪道に苦しむ親や先祖を供養することができるのである。
妙法を持つものが、まず人生の勝利の道を開き、自身の成仏をなすことによって、先祖を三悪道から救い、成仏させることが、子孫としての最高の供養といえよう。
1111:09~1112:06 第二章 餓鬼の修因を明かすtop
| 09 総じて餓鬼にをいて三十六種類・相わかれて候、 其の中に鑊身餓鬼と申すは目と口となき餓鬼にて候、是は何 10 なる修因ぞと申すに 此の世にて夜討・強盗などをなして候によりて候、 食吐餓鬼と申すは人の口よりはき出す物 11 を食し候・是も修因上の如し、 又人の食をうばふに依り候、 食水餓鬼と云うは父母孝養のために手向る水などを 12 呑む餓鬼なり、 有財餓鬼と申すは馬のひづめの水をのむがきなり是は今生にて財ををしみ食をかくす故なり、 無 13 財がきと申すは 生れてより以来飲食の名をも・きかざるがきなり、 食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる 14 人・我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて 名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて 今生をわたり衆生をたす 15 けず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて 法をくらふがきと申すなり、 当世の僧を見るに人に・ かくし 1112 01 て 我一人ばかり供養をうくる人もあり 是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、 是は未来には牛頭と云う鬼となるべ 02 し、又人にしらせて供養をうくるとも 欲心に住して人に施す事なき人もあり・ 是は未来には馬頭と云う鬼となり 03 候、又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみ 04 ち牛馬眷属・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん、 僧の中にも父 05 母師匠の命日をとぶらふ人は・まれなり、 定めて天の日月・地の地神いかり・いきどをり給いて不孝の者とおもは 06 せ給うらん形は人にして畜生のごとし 人頭鹿とも申すべきなり、 -----― 総じて餓鬼においては三十六種類に分かれている。そのなかの鑊身餓鬼という餓鬼は、目と口とがない餓鬼である。これはいかなる過去の修因によるかというと、この世で夜討ち、強盗などをしたことによるのである。食吐餓鬼という餓鬼は、人が口から吐き出す物を食べる。これも過去の修因は前と同じようなものである。また、他人の食を奪ったことによるのである。 食水餓鬼というのは、父母孝養のために手向ける水などを呑む餓鬼である。有財餓鬼というのは、馬の蹄の水をのむ餓鬼である。これは今生で財産を惜しみ食べ物をかくしたためである。無財餓鬼というのは、生れてよりこのかた飲食の名をも聞かない餓鬼である。 食法餓鬼という餓鬼は、出家となって仏法を弘める人のうちで、自分が法を説けば人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって人よりも勝れようと思って今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない人を食法餓鬼というのである。 当世の僧侶をみると、人には隠して、自分一人ばかり供養を受ける人もある。この人は狗犬の僧であると涅槃経に説かれている。この者は未来世には牛頭という鬼となるのである。 また人に知らせて供養を受けたとしても、欲心に住して、人に施すことのない人もある。この者は未来世に馬頭という鬼となる。 また在家の人々でも、自分の父母が地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦患を受けているのを弔わないで、自分は衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷属は充満して、自分の心に任せて楽しむ人を、どれほど父母は羨み恨まれるであろうか。 僧のなかにも父母、師匠の命日を弔う人はまれである。定めて天の日月、地の地神は怒り、憤って不孝の者と思っておられるであろう。このような不孝の人は、形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿ともいうべきである。 |
餓鬼にをいて三十六種類
正法念処経第16餓鬼品第4の1で説く36種の餓鬼をいう。1.迦婆離。鑊身餓鬼。2.甦支目佉。針口餓鬼。3.槃多婆叉。食吐餓鬼。4.毘師咃。食糞餓鬼。5.阿婆叉。無食餓鬼。6.揵陀。食氣餓鬼。7.達摩婆叉。食法餓鬼。8.婆利藍。食水餓鬼。9.阿賒迦。悕望餓鬼。10.區伊反吒。食唾餓鬼。11.摩羅婆叉。食鬘餓鬼。12.囉訖吒。食血餓鬼。13.瞢娑婆叉。食肉餓鬼。14.蘇揵陀。食香烟餓鬼。15.阿毘遮羅。疾行餓鬼。16.蚩陀邏。伺便餓鬼。17.波多羅。地下餓鬼。18.矣利提。神通餓鬼。
19.闍婆隸。熾燃餓鬼。20.蚩陀羅。伺嬰兒便餓鬼。21.迦倶邏反摩。欲色餓鬼。22.三牟陀羅提波。海渚餓鬼。23.閻羅王使。執杖餓鬼。24.婆羅婆叉。食小兒餓鬼。25.烏殊婆叉。食人精氣餓鬼。26.婆羅門羅刹餓鬼。27.君茶火爐。燒食餓鬼。28.阿輸婆囉他。不淨巷陌餓鬼。29.婆移婆叉。食風餓鬼。30.鴦伽囉婆叉。食火炭餓鬼。31.毘沙婆叉。食毒餓鬼。32.阿吒毘。曠野餓鬼。33.
賒摩舍羅。塚間住食熱灰土餓鬼。34.毘利差。樹中住餓鬼。35.遮多波他。四交道餓鬼。36.魔羅迦耶。殺身餓鬼。
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鑊身餓鬼
迦婆離鑊身餓鬼という。私利私欲で動物を殺したにも関わらず、全く反省しなかった人が堕ちる餓鬼。手足が細く、身長が普通の人間の二倍もあるという大柄な餓鬼で、この餓鬼の最大の特徴は、常に火の中で焼かれていること。 飢えで苦しい上に熱さでさらに苦しいという哀れな餓鬼で後々登場する餓鬼と比べればこれでもまだいい方。
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食吐餓鬼
槃多婆叉食吐餓鬼という。自分は美味しい物を食べていながら、家族にはそれを分け与えなかった人間がこの餓鬼に堕ちる。 荒野に住んでいる餓鬼で、食べ物を食べること自体はできるが、鬼たちによって無理やり吐かされてしまうので結局食べることはできない。 身長は約3.6kmと巨大。
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食水餓鬼
婆利藍食水餓鬼のこと。お酒を水で薄めて売ったり、蛾やミミズを混ぜたりするなどの、酒に関する悪行を行った人間が堕する餓鬼。この餓鬼は水を飲むことができないので、水に入って上がってきた人間から滴り落ちてくる水や、子供が親の墓前に供えた水をわずかに飲む。
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手向る水
神仏や父母孝養のために具える水。
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有財餓鬼
①飢えに苦しむ餓鬼の中で、物を食することのできる餓鬼。膿・血などを食う小財餓鬼と、人の食い残しや、祭祀などで捨てられた物を食う多財餓鬼とをいう。②財産を多く持ちながら、欲深い人。
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無財がき
わずかの食物もない餓鬼。わずかの食物もない餓鬼。
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食法がき
出家の身となって仏法を弘める者のうちで、自分が法を説けば人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって、人よりも勝すぐれようと思って、今生こんじょうをわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない者。
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狗犬の僧
犬のような下劣な僧侶のこと。名聞名利に執着し、心が曲がっている。邪見・謗法の僧のこと。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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牛頭
地獄の極卒のこと。体が人間で頭が牛の形をしている鬼。
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馬頭
地獄に住む馬頭人身の獄卒。馬頭羅刹のこと。死後の衆生が冥途へ行くとき、その前後で鉄棒をもって追いたてながら引導するという。首楞厳経卷八に「亡者の神識大鉄城を見る。火蛇火狗・虎狼獅子・牛頭獄卒・馬頭羅刹・手に槍矟を執り、城内に駆け入る」とある。
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餓鬼に、さまざまの種類があることを示し、その餓鬼道に堕ちる原因を明かされている。餓鬼道に堕ちる原因は、要するに利己主義である。そして、このようなエゴイズムの人びとの姿は「形は人にして畜生のごとし。人頭鹿とも申すべきなり」と仰せられるように、人間らしさの喪失にほかならない。この段は、言葉の表現から、現代とは無関係の、古い時代の考え方のようであるが、じつは、現代にこそ、最も深刻な形であらわれている人間性喪失の根源をなしていることを知るべきであろう。
鑊身餓鬼・食吐餓鬼・食水餓鬼について
鑊身の鑊とは「かなえ」で、その姿が「かなえ」に似ているところから名づけられたものである。胴が丸くふくれあがり、手足は不釣り合いに細い。飢餓による栄養失調が、ちょうど、このようになることを考えると、興味深い譬えといえよう。しかも、この鑊身は食を激しく求めながら、それを摂りいれる口がないというのである。餓鬼の苦しみが、いかにはなはだしいかをあらわしているのである。
食吐餓鬼とは、他人の吐き出した物を食べる餓鬼と説明されているが、なにも好んで他人の吐いた物を食べるのではない。食を求めても得ることができず、その飢えの極限において、かろうじて、他人の吐き出した物を食べてまでも、飢えをしのぐのである。食水餓鬼についても、同様である。
このように、餓鬼界というのは、求めてなおかつ得られず、得られないがゆえに、ますます激しくつのる欲望に身をさいなまれる苦悩の境涯をいうのである。それは、代表として食についての欲をもって示されているが、他の衣・住についても、金銭、名誉、権力などについても、みな、同じことである。食にのみ限定すると、現代の高度産業社会においては、このような〝餓鬼界〟は縁遠いように思いがちであるが、欲望の対象は、食だけに限られるものではない。金銭、名誉、権力などをめぐる醜い欲望に思いをいたすとき、まさに、こうした護身・食吐・食水等の餓鬼は、現代社会の本質をいっているのだということが理解されよう。
有財餓鬼・無財餓鬼について
餓鬼とは〝もの〟がない状態ばかりではない。〝もの〟の有無にかかわりなく、激しい欲望にさいなまれる状態である。往々にして、人間は〝もの〟があればあるほど、なお一層多くを欲求し、貪るようになる。それが有財餓鬼である。
この餓鬼道に堕ちるのは「今生にて財ををしみ、食をかくす故なり」といわれているように、みずからは〝財〟や〝食〟をあり余るほどもっているのであるが、他人に施すこともしないし、取られることを恐れて、窮々としているのである。そして、さらに多くを得ようとして、あくどく貪るのである。この業因によって「馬のひづめの水をのむ」という有財餓鬼となるのだとの仰せである。
「馬のひづめの水をのむ」とは、元来、馬のひづめには、水分はきわめて乏しいはずである。そういうなかからさえ、しぼりとろうという餓鬼道なのであろう。俗に、ケチンボの譬えとして「爪に火をともす」という言葉があるが、これなども、共通する表現のように思われる。
この有財餓鬼に対して〝もの〟がないために苦しむのが無財餓鬼である。「生れてより以来、飲食の名をもきかざる」餓鬼である。名をも聞かぬくらいだから、口にしたこともないことは、いうまでもなかろう。
ともあれ、この有財餓鬼・無財餓鬼の考え方のなかから、餓鬼とは、物質的な豊かさや貧しさによって決まるのでなく、人間の心のなかの欲望の強弱によることを知らねばならない。欲望に支配され、ひきずりまわされていく人生は、それ自体、餓鬼道なのである。
食法餓鬼について
民衆救済という仏法の根本精神を忘れ、自己の名聞名利のために仏法を説く者を食法餓鬼というのである。大事なことは、その根本の精神、思考と行動の原点がどこにあるか、である。この一点の違いによって、真の菩薩か、餓鬼道に堕ちるかが決まるからである。
この文は、仏法について述べられているのであるが、ひろく論ずれば、学問や芸術、社会事業、政治など、いっさいの道についても同じことがいえる。真理を究め、それによって人類に貢献しようというのが、ほんとうの学者であろう。美を創造し、人々に勇気と希望を与えようというのが、真の芸術家でなければならない。いわんや、社会事業や政治は、人々を利益することが、その目的である。
これらは、そうした利他の仕事であるがゆえに、人々から尊敬を受け、社会的にも高く評価されるのである。しかるに、人間の心は、醜い欲望に毒されると、人々を救うという目的を忘れて、尊敬されることのみを求め、名聞名利を目的とするに至る。こうした醜悪な欲望に穢された生命を食法餓鬼というのである。
現代の社会にあって、本来、尊敬されるべき仕事にたずさわる多くの人びとが、名聞名利に穢されて食法餓鬼と呼ばれるような様相を呈していることは悲しむべきことといわなければならない。ここに、末法濁悪の世相があると共に、民衆の不幸の根源があるといわなければなるまい。
1112:06~1112:18 第三章 親を救う原理を示すtop
| 06 日蓮此の業障をけしはてて 未来は霊山浄土に 07 まいるべしと・おもへば種種の大難・雨のごとくふり雲のごとくに・ わき候へども法華経の御故なれば苦をも苦と 08 もおもはず、 かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人・殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那な 09 りいかでか餓鬼道におち給うべきや、 定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん、是こそ四条金吾殿 10 の母よ母よと同心に頭をなで悦びほめ給うらめ、 あはれ・いみじき子を我はもちたりと釈迦仏と・かたらせ給うら 11 ん、法華経に云く 「若し善男子善女人有つて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は 12 地獄餓鬼畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん、 所生の処には常に此の経を聞かん、 若し人天の中に生れば勝妙 13 の楽を受け、 若し仏前に在らば蓮華より化生せん」と云云、 此の経文に善女人と見へたり妙法聖霊の事にあらず 14 んば誰が事にやあらん、 又云く「此の経は持つこと難し若し暫も持つ者は 我即ち歓喜す諸仏も亦然なり是の如き 15 の人は諸仏の歎めたもう所」と云云、 日蓮讃歎したてまつる事は・もののかずならず、諸仏所歎と見えたり、あら 16 たのもしや・あらたのもしやと・信心をふかくとり給うべし・信心をふかくとり給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙 17 法蓮華経、恐恐謹言。 18 七月十二日 日 蓮 花 押 19 四条金吾殿御返事 -----― 日蓮は法華弘通によりこれらの業障を消し果てて未来は霊山浄土に往くことができると思っているから、種々の大難が雨のようにふり、雲のようにわいても、それは法華経のためであるので、苦をも苦とは思わない。 このような日蓮の弟子檀那となった人々、とくに今月十二日が命日にあたる妙法聖霊は法華経の行者であり、日蓮の檀那である。どうして餓鬼道に堕ちることがありましょうか。きっと釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏の御宝前におられるであろう。そして、これらの仏は「これこそ四条金吾殿の母よ母よ」と皆同じ慈愛の心を込めて頭をなで、悦びほめておられることであろう。妙法聖霊は「ああなんとすばらしい子を私は持ったことでしょう」と釈迦仏と語られているであろう。 法華経提婆達多品に「若し善男子、善女人がいて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄い心で信敬して疑惑を生じない者は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちないで十方の仏前に生まれるであろう。しかも生まれる所には常にこの法華経を聞くことであろう。若し人天のなかに生まれれば勝妙の楽を受け、若し仏前にあるならば蓮華から化生するであろう」と。この経文に善女人とある。妙法聖霊のことでないならば誰のことであろうか。 また宝搭品にいわく「此の法華経は持つことは難しい。若ししばらくも持つ者は、我は歓喜する。諸仏もまた同様である。このような持者は諸仏の歎められるところである」と。日蓮が讃歎することはものの数ではない。十方の諸仏が歎めるというのだから、まことにたのもしいことであると信心を深くとりなさい。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。恐恐謹言。 七月十二日 日 蓮 花 押 四条金吾殿御返事 |
業障
三障のひとつ。悪業によって生じた障害。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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御宝前
仏のおわします御前。
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勝妙の楽
すぐれた快い感情のこと。楽は苦に対する語で、身心における快い感情。
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化生
四生の一つで、業力によって、忽然として生ずることをいう。「倶舎論」等によれば、諸天、地獄の衆生、及び劫初の衆生が化生の形をとるとされている。
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以上のように、種々の餓鬼界があるが、それは貪欲の罪によるものであって、四条金吾の母は、自らも法華経の信者であり、しかも息子の金吾が大聖人の弟子として信心に励んでいるのであるから、必ず霊山において、釈迦・多宝・十方の諸仏から誉められ、大切にされているであろうと述べられている。
日蓮此の業障をけしはてて、未来は霊山浄土にまいるべし云云
まず、日蓮大聖人御自身が、雨とふり雲とわく大難をものともせず、法華経のために戦っておられることを示されている。
「法華経の御故」とは、妙法を全民衆に教え、一切衆生の幸せを願っての活動であることを意味する。そのために、種々の大難を受けているのであるから、自己の名聞名利のためでは全くないし、貧欲とはまさに正反対である。もっとも本源的な利他の行動なのである。
およそ、人間として生きていくためには、少なくとも物質的な必要条件の充足を求めざるを得ない。慳貪の業を消滅するためには、他人に施せといっても、施す余力をもたない場合には、これは、きわめて至難である。しかも、物質的な布施は、必ず限界があって、あらゆる人に施すなどということはできないであろう。
こうした福運うすく、他に何の施す余力のない衆生であっても、人々に最高の布施をし、利益していけるのが、妙法の弘通である。すなわち、法の布施こそ、幸福の種子を分かち与えることであり、それは、無限に与えても尽きることがない。過去に、いかなる餓鬼道に堕する重業をもっていたとしても、法の布施という最大の利他によって、罪業を消し、無上の福運を積んでいけるのである。
「かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人」とは、そのような最大の利他をなす大福運の師の弟子檀那となった人人は、共にその福徳を分かち与えられることができるということである。しかも、四条金吾の母は、そればかりでなく、自らも「法華経の行者」であった。つまり、みずから妙法を実践し、折伏行=法の布施に励んだのである。したがって、どうして、餓鬼道などに堕ちていることがあろうかと、大確信をもって断言されている段である。
法華経に云く「若し善男子善女人有つて云云」の文
この文について、若干、解釈を要する。それは、なぜ「妙法華経の提婆達多品を聞いて」というのかという点である。提婆達多品とは、提婆達多の悪人成仏、竜女の女人成仏を明かし、妙法の即身成仏の大功徳を説いた品である。したがって、この提婆品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生じないということは、妙法の功力の絶大なることを純信に信ずることにほかならない。
悪道の提婆達多が成仏するとか、畜身で女人の竜女が成仏するなどということは、それ以前の経説からは想像さえできないことで、文字どおり惑耳驚心の説なのである。しかるに、それを信じて疑わないということは、仏の金言、なかんずく法華経への絶対の確信があってはじめて可能なのである。その強い、しかも法華経をまっすぐに信ずる信仰なればこそ、必ず三悪をまぬかれて仏前に生ずるという大功徳を得ることができるのである。
また、この提婆達多の悪逆の心、竜女の愚痴の生命は、そのまま末法濁世の衆生の本質ともいえる。ゆえに、提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生じないということは、いいかえると、わが身の即身成仏を信ずることであり、その信の一念が、己心の仏界となるのである。
若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん
一往は、人天という六道に生を受けたときには、最高の幸福生活を営み、仏前にあるときは仏となるだろうと、立て分けて述べられた文と拝してよい。
しかし、再往は、これは別々に分けられるものではなく「人天の中に生れば」とは、現実社会のなかにあっては、ということであり、「仏前に在らば」とは、内証の辺、生命の内なる境地をいったものと考えるべきであろう。「蓮華より化生」とは、仏界の生命の湧現することであり、成仏の境涯ということである。ただし、内心には仏界の境地があるといっても、現実の社会にあってあらわれてくるものは、あくまでも、人天等の六道の範疇におさまるのである。
なお、もう一歩これを進めていえば「人天の中に生れば」とは、生死の流転のなかの生の姿であり、「仏前に在らば」とは、死の姿ということもできよう。
ともあれ、妙法の大功徳を、浄らかな心で信じきって、疑惑を生じないならば、このように、大果報を受けるのであるとの仰せである。
1113~1114 四条金吾殿御消息(竜口御書)top
1113:01~1113:12 第一章 発迹顕本の義を明かすtop
| 1113 四条金吾殿御消息 01 度度の御音信申しつくしがたく候、さても・さても去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、 02 しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ、 日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故 03 に身命を捨てし所いくそばくか・ありけむ、 或は山にすて海にすて或は河或はいそ等・路のほとりか、然れども法 04 華経のゆへ 題目の難にあらざれば捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず、 成仏のためならざれば捨てし海・河 05 も仏土にもあらざるか。 -----― たびたびのお便りをいただき、その真心のありがたさは、言い尽くすこともできません。全く去る十二日の難の時、あなたは竜口の刑場まで連れそって下さり、そればかりではなく、腹を切るといわれたことは、不思議という以外にいいあらわせないほどである。 日蓮は過去において、妻子・所領・眷属等のために身命を捨てた所は、どれほど多くあったことであろう。あるいは山に捨て海に捨て、あるいは河、あるいは磯等、また路のほとりであろうか。しかしながら法華経の故、南無妙法蓮華経の題目の故の難ではないので、捨てた身命も、蒙る難等も成仏のためのものではなかった。成仏のためではないから、身命を捨てたその海や河も仏土ではなかったであろう。 -----― 06 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を 07 捨てたる処なれ仏土におとるべしや、 其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり、 経に云く「十方仏土中唯有 08 一乗法」と此の意なるべきか、 此の経文に一乗法と説き給うは 法華経の事なり、 十方仏土の中には法華経より 09 外は全くなきなり除仏方便説と見えたり、 若し然らば 日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、 娑婆世界の中 10 には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法 11 華経の 御故なれば 寂光土ともいうべきか、 神力品に云く 「若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃」 12 とは是か。 -----― 今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪にまでなった。流罪は伊東、死罪は竜口。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所である。したがって仏土に劣るものではない。そのわけは、すでに法華経の故に身命を捨てた所だからである。 法華経方便品第二に「十方仏土の中には唯一乗の法のみあり」とあるのは、この意であろうか。この経文に一乗の法と説かれてあるのは、法華経すなわち南無妙法蓮華経のことである。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全くないのである。これを法華経方便品第二には「仏の方便の説をば除く」と説かれている。もしそうであるならば、日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中では竜口に、日蓮が命をとどめおくことは法華経の故であるから、その地は寂光土ともいうべきであろう。法華経神力品第二十一には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においてもこの中に(中略)般涅槃したもう」と説かれているのはこの原理をいっているのである。 |
去る十二日の難
竜の口の法難のこと。文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が相模国竜口(神奈川県藤沢市片瀬)で斬首刑に処せられようとした法難。発端は、大聖人との祈雨に敗れた極楽寺良観が幕府の要人や女房達にとりいって画策したことに始まる。これを受けて内管領で侍所所司でもあった平左衛門尉頼綱は武装した多数の兵を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲って大聖人を捕らえた。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。身柄は一時、北条宣時の邸に預けられたが、何の取り調べもなく深夜、竜の口の刑場に連れ出された。刑吏が大聖人の頸を斬ろうとした時、巨大な光り物が上空を横切り、武士達は驚き怖れ、刀を捨てて逃げ伏し、ついに処刑は行われなかったのである。この法難の模様については「種種御振舞御書」に詳しい。
―――
たつのくち
現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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流罪は伊東
伊豆流罪のこと。弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。
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十方仏土中唯有一乗法
「十方の仏土の中には、唯一乗の法のみ有り」と読む。方便品の文。法華経のみが唯一の成仏の法であるとの意。宇宙の森羅万象ことごとく妙法蓮華経であり、大宇宙には妙法の一法しかないということ。
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除仏方便説
法華経方便品第2の文。「十方仏土の中には 唯一乗の法の有り、二無く亦三無し、 仏の方便の説をば除く、但仮の名字を以って衆生を引導したもう」とある。
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寂光土
仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
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本抄は、冒頭に「去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ」とあるように、日蓮大聖人の竜口の法難に際し、生死を共にする覚悟でお伴した四条金吾との不思議な師弟の縁を述べられ、この竜口の頸の座こそ、大聖人が発迹顕本された大儀式であることを明かされている。
そしてこの竜口こそ、御本仏の境涯を顕わされた場所であるから仏国土であると断定され、大聖人こそ末法の御本仏であることを教えられている。
さらに、依正不二の原理から、広宣流布、平和楽土建設への信心のあり方を御教示されているのである。
日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくかありけむ云云
示同凡夫の立ち場で仰せられている。人間は誰しも、何かのために人生をすりへらし、生命を捨てていくものである。人生の目的として明瞭に意識しないにしても、結果的に、事実の問題として、なんのために生きたか、がその人生の価値を決定する。
人間の生命、人生の価値は、総じていえば平等に尊厳なものである。そこに軽重の相対を設け、AのためにBを犠牲にしても止むをえないという考え方は許されない。いわんや社会的地位や財産の多少によって差別をつけることは、絶対にあってはならない。このように、平等に尊厳なものとしなければならないというのは、人間生命のもつ潜在的可能性の故である。たとえ、いまAの方がBよりも、社会に価値を創造しているとしても、十年、二十年後に、果たしてBの方が力ある存在とならないとは限らないからである。
このように、潜在する可能性という観点からいえば、すべての人を平等に尊厳なものとして接することが、人間の基本的な生き方である。そのうえに立って、現実にどう生き、何を創造したかという現実論になると、人それぞれによって、価値の不平等が生ずるのは避けられないことである。その人生の価値を決する要因は、一つは「なんのために生きたか」であり、それに加えて「どのように生きたか」である。
大部分の人は、自分の家族のため、所領――今日でいえば財産のため、あるいは自分の関係する人々のために、一生を終わっていく。これは、凡夫の生死である。もとより、自己の快楽のためや、衝動に身を任せて死んでいく人生に較べれば、家族のため、眷属(けんぞく)のために生命を捨てることは、はるかに尊い。だが、それは、永遠に崩れない福運の源泉とはなりえない。妙法という宇宙生命の当体に人生を捧げ、いかなる難にも屈することなく、自己の信念を貫き通した人生こそ、最も尊く、永劫に尽きない福運の源泉となるのである。
相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり
日蓮大聖人は、竜口の頸の座において、発迹顕本を遂げられた。ここで「日蓮が命を捨てた」といわれているのは、凡夫としての生命であり、上行菩薩の再誕としての垂迹の姿を払って、本地久遠元初自受用身如来とあらわれ、末法御本仏の姿をあらわしたことを示す。
周知のごとく、この竜口でも、幕府の役人たちは、ついに大聖人を斬ることはできなかった。それは「種種御振舞御書」に詳しく記されているように、煌々たる光り物が天空を走り、恐れおののいたために斬れなかったのである。だが、これは、結果として斬れなかったのであって、平左衛門尉頼綱に代表される当時の逆縁の衆生は、すでに大聖人を心で斬ったのである。ゆえに、大聖人は「命を捨てた」と仰せられたのであろう。
建長5年(1253)以来、この竜口に至る大聖人のお振る舞いは、あくまでも上行菩薩の再誕としてのそれであった。すなわち、阿弥陀如来や大日如来の信仰を破して釈迦如来を信ぜよと叫ばれ、爾前権教を破して法華経に帰命すべきことを訴えられた。末法に、法華経を弘めるために、仏の使いとして出現すると予言されている上行菩薩としての活動である。そして、末法に法華経を弘める行者が遭遇すると予告される流罪・死罪等の、あらゆる難を受けられたのである。
したがって、上行再誕として大聖人がこの世になすべきことは、いっさいを終えられたのであり、数々の受難は、大聖人が末法の法華経の行者であることを、完璧に証明しきったともいえる。ここに、上行再誕としての垂迹を払って、末法の本仏としての、独自のお振る舞いに入られた、その壮大な転機が竜口において展開されたのである。
もとより本抄において、大聖人は、自ら仏の境地に入ったとか、発迹顕本したということも、いわれてはいない。だが、国土世間に託して「仏土におとるべしや」といい、さらに「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」と仰せられているのである。これは、まさに、御自身が末法の本仏であるとの自覚を、間接的に表明されたものにほかならない。
1113:13~1113:15 第二章 金吾の至誠を賛嘆すtop
| 13 かかる日蓮にともなひて 法華経の行者として 腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを 14 入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、 日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをな 15 じく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ、 -----― このような日蓮にともなって、法華経の行者として腹を切ろうと言われたことは、かの中国の弘演が自分の腹をさいて、主人の懿公の肝を入れたことよりも、百千万倍すぐれたことである。 日蓮が霊山に詣でた時には、まず四条金吾こそ、法華経の故に、この日蓮と同じように腹を切ろうと言いましたと申し上げよう。 |
弘演
公演とも書く。中国の春秋時代、前0660年頃、衛の懿公に仕えた忠臣。弘演は衛国が狄人に攻め滅ぼされ、主君の懿公が殺され、はらわたが散乱しているのを見て、自分の腹をさいて主君の肝を隠して、主君の恥をかくし、名誉を守ったという。肝をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。
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四条金吾が、竜口において大聖人にお伴して、大聖人と共に死ぬといった信心の純粋さと強さを、重ねて誉められている。しかし、ここで讃嘆されている意味は、冒頭のそれとは一段と深い意義と比重を込められていることはいうまでもない。
なぜなら、前章で、竜口の頸の座が、まさに大聖人の発迹顕本を遂げられた、仏法上の重大儀式であることを明かされたうえで、それを受けて、その大聖人にお伴した四条金吾を称えられている段だからである。
本章冒頭の「かかる日蓮に」と仰せられているのは、凡夫としての大聖人ではなく、発迹顕本される大聖人、末法御本仏としての大聖人という意味である。そして、その四条金吾の決意を「法華経の行者として腹を切ろうとした」と、大聖人と同じ境地において判ぜられているのである。したがって、それは、中国の故事にある弘演の忠義などよりも、はるかにすぐれたものである。
弘演が主君の恥を隠すために、自分の腹を切ったのは、あくまで懿公という個人への忠誠による。そのような行動にかりたてたものは、封建道徳の絆であったろう。それに対して、四条金吾が大聖人と共に死のうとしたのは、自身、法華経の行者としての内発的な自覚から出たものであり、それゆえにこそ、はるかに尊いことなのである。もし、封建的な忠誠概念からいうならば、四条金吾は主君のために死ぬべきであって、法華経のために死ぬということは本分にもとるものだということになるに違いない。法のために殉ずるという精神こそ、封建道徳の絆を自ら解き放った、時代を越えて不滅なるところの、人間性の輝きをなしているのである。
法華経の御故に日蓮とをなじく云云
法華経はすなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。大聖人は、その妙法と人法一箇の仏であられる。そして、大聖人と四条金吾の関係は師弟である。だが、大聖人は「日蓮のために」とはいわれない。あくまで、法を中心とし、法を根本として、そのもとに、師弟不二の立ち場、自覚を教えられているのである。
法華経に「如我等無異」――我が如く等しくして異ること無からしめん――と。仏は衆生を自分と等しい境地に入らしめることをもって究極の目的とするのである。これは、キリスト教、ユダヤ教などにおいて、神が自分と等しくなろうとする人間に対して、厳しい罰を加えるというのと、根本的に違うのである。
ここに、仏の慈悲の広大さ、深さと、仏法精神の崇高さ、偉大さを、正しく知らなければならない。それと同時に、いかなる人であれ、妙法のもとに全て平等であるとの理念が、自己の行動のうえに、社会的活動のうえに、具現化されていかなければならないであろう。
十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり
いかなる世界へ行こうと、法華経すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経以外の法はないということである。逆に、この妙法を受持した人の住し活躍する所は、いかなるところであろうと、仏国土となるとの原理でもある。ゆえに「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」と仰せられているのである。
十方とは、宇宙の全てを包含した言葉である。大宇宙のなかには、地球上の人類と同等あるいは、さらに高度な文化をもつ生物の社会が存在しうると推定されている。人類が、将来、そうした社会に行けるようになるかどうかはわからないが、かりに、いかなる世界に行ったとしても、永遠に崩れることのない幸福確立の法は、三大秘法の妙法を根底とする以外にないというのである。
いわんや、この地球上の世界において、いずこの国へ行こうと、どのような社会に入ろうと、あるいは、いかなる分野にあっても、そこを最も幸福に満ちた、平和と栄光の世界にしていく法は、妙法を根底にすることなのである。仏土、仏国土とは、人間の尊厳を根幹とし、人間が最も人間らしく、平和に、充実して生きていける世界ということである。
1113:15~1114:06 第三章 諸天の加護を明示すtop
| 15 又かまくらどのの仰せとて内内・ 佐渡の国へ・つかはすべき由 1114 01 承り候、 三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、 明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参 02 し給ふ、 いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、 法師品に云く「則遣変化人為 03 之作衛護」疑あるべからず、 安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く 「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にて 04 は候はじ、強盛の信力こそありがたく候へ、恐恐謹言。 05 文永八年九月二十一日 日 蓮 花 押 06 四条金吾殿 -----― また鎌倉殿の仰せだといって、内々に佐渡の国へ配流されることを聞いています。 三光天子の中で月天子は、光物となってあらわれて竜口の頚の座で日蓮を助け、明星天子は四、五日前に下ってきて日蓮に見参したのである。いまは日天子だけが残っている。必ず守護があると強く思っている。 法華経法師品第十には「則ち変化の人を遣わして、之れが為に衛護と作さん」とある。疑ってはならない。安楽行品第十四には「刀杖も加えず」とあり、普門品第二十五には「刀尋いで段段に壊れなん」と説かれている。これらの経文はよもや虚事ではあるまい。強盛な信力こそもっとも尊いことである。恐恐謹言。 文永八年九月二十一日 日 蓮 花 押 四条金吾殿 |
かまくらどの
鎌倉幕府・将軍のこと。
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三光天子
日天子、月天子、明星天子の三つをいう。法華経の会座に列なった諸天善神である。法華経序品第一に「名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり」とある。
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明星天子は四五日已前に下りて
「種種御振舞御書」によると文永8年(1271)9月13日の夜、本間六郎左衛門邸での出来事である。
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則ち変化の人を遣わして之が衛護と作さん
法華経法師品第十の文。若し法華経の行者が危害を加えられようとする時、必ず諸天善神がさまざまな姿をもって加護をするとの意である。
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刀杖も加えず
法華経安楽行品第14に「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」とある。
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やがて佐渡へ配流されるであろうとの話を聞かれた時の心境を述べられている。すでに9月12日の竜口においては月天子の守護があり、依智における13日夜の明星天子の現証を挙げられて、三光天子のうち、残る日天子の加護が必ずあると大確信を述べられ、四条金吾に、いよいよ強盛なる信心に立つよう激励されている。
三光天子の加護について
竜口の光り物については科学的には、巨大な隕石の落下による〝火球〟が、その正体であったと考えられる。「明星天子云云」については種種御振舞御書に「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば……」(0915-12)と述べられているが、これも、空気中の電気が球状になって青白く光る現象を起こしたのであろうとの科学的説明は考えられる。
だが、ここで問題は現象の自然科学的な解明ではない。大聖人が諸天善神に対し、守護せよとの一念を向けられたとき、なぜ、そのような現象が起きたのであろうか。しかも御本仏の一念によって、大宇宙それ自体が御本仏を守護する働きをして作用してくることが重要なのである。
諸天善神とは、もちろん、画像、木像にあらわされている神などではない。仏法でいう「神」とは、自然界、生命の作用、働きなのである。
われわれが、妙法を持ち、自分の生命を妙法の当体と顕わしてゆくときに、環境としての自然、さらに社会のもつあらゆる力がわれわれの幸福を守り、増進する作用として働くのである。
竜口の刑場において、今まさに大聖人の頚をはねようとした役人は、夜空にあらわれた光り物に驚いて、ついに大聖人の頸を斬ることができなかった。さらに依智滞在中、庭の梅の木にかかった光り物、これらの事実はただ偶然の出来事として済まされるものではない。どのようしてそのような現象が起きたかは科学的に説明できるにしても、なぜ起きたかは、科学によっては説ききれるものではない。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。
1113~1114 四条金吾殿御消息(竜口御書)(2015:09大白蓮華より 先生の講義)top
世界を照らす 太陽の仏法
発迹顕本――真の自己の偉大な底力を示せ!
「怒涛の人生」――ある日ある時、私はこう書に認めたことがあります。
私が戸田先生の弟子となり68年。第3代会長に就任してからは55年――。それは、まさしく波乱万丈の歳月でした。一日片時の逡巡も停滞も許されぬ、怒濤また怒濤の人生を突き進んできました。
病弱で「30歳まで生きられない」とまで言われながらここまで生き、あらゆる大難を乗り越え、皆様方と共に滔々たる世界広宣流布の大河の流れを、晴れ晴れとひらくことができたのです。
「若人は進まねばならぬ」
思い起こせば、入信から1年を過ぎた1948年(昭和23)9月、戸田先生の広宣流布の信念と情熱が迸る法華経講義を受け、その感動を日記にとどめました。
「唯々、全民衆を成仏させんと、苦難と戦い、大悪世に、大曙光を、点じられた日蓮大聖人の大慈悲に感涙です。
若人は、進まねばならぬ、永遠に前へ。
若人は、進まねばならぬ。令法久住の為に」
戸田先生は、無名の一青年であった私に、崇高なる妙法流布に生きゆく師弟の道を自覚させてくださった。そしてわが学会員こそ地涌の菩薩であり、一人一人は「無限に可能性」を具えた尊極の仏にほかならないということを教えてくださったのです。
無明の雲を払えば、凡夫である普通の人間こそ、永遠にして宇宙大の底力を具えた存在であることが、明瞭にわかるのです。
人間には、尊極の力が秘められている。
人間はかくも偉大なり。荘厳なり。
その尊貴な生命は、万人に平等に存在している。
ゆえに仏法の教えは、生命尊厳の思想であり、人間尊敬の哲理です。
この大法を弘通する使命に目覚めた人間には、勇気と智慧が無限に開かれます。
日蓮大聖人は、御自身の不惜身命の大闘争を通して、末法の一切衆生に、その真実を示し切ってくださいました。一人を手本として万人の根源の境地を示した、この法理が「発迹顕本」です。
今回は、その甚深の意義を「竜口御書」との別名もある「四条金吾殿御消息」を拝して、共々に学んでいきましょう。
| さても去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、 02 しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ、 -----― 全く去る十二日の難の時、あなたは竜口の刑場まで連れそって下さり、そればかりではなく、腹を切るといわれたことは、不思議という以外にいいあらわせないほどである。 -----― 06 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を 07 捨てたる処なれ仏土におとるべしや、 其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり、 経に云く「十方仏土中唯有 08 一乗法」と此の意なるべきか、 此の経文に一乗法と説き給うは 法華経の事なり、 十方仏土の中には法華経より 09 外は全くなきなり除仏方便説と見えたり、 若し然らば 日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、 娑婆世界の中 10 には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法 11 華経の 御故なれば 寂光土ともいうべきか、 神力品に云く 「若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃」 12 とは是か。 -----― 今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪にまでなった。流罪は伊東、死罪は竜口。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所である。したがって仏土に劣るものではない。そのわけは、すでに法華経の故に身命を捨てた所だからである。 法華経方便品第二に「十方仏土の中には唯一乗の法のみあり」とあるのは、この意であろうか。この経文に一乗の法と説かれてあるのは、法華経すなわち南無妙法蓮華経のことである。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全くないのである。これを法華経方便品第二には「仏の方便の説をば除く」と説かれている。もしそうであるならば、日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中では竜口に、日蓮が命をとどめおくことは法華経の故であるから、その地は寂光土ともいうべきであろう。法華経神力品第二十一には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においてもこの中に(中略)般涅槃したもう」と説かれているのはこの原理をいっているのである。 |
不惜の弟子へ万感の激励
本抄は文永8年(1271)9月21日、竜の口法難の直後、大聖人が身柄を保護されていた相模国依智(神奈川県厚木市依智)の本間六郎左衛門尉重連邸から、四条金吾に送られた御書です。
斬首という絶体絶命の危機を越えられて、わずか9日後のことでした。
この法難に際して、知らせを聞いた四条金吾は、大聖人のもとへ馳せ参じ、竜の口までお供しました。
そして、金吾は師匠の頸の座に臨んでは、自らも腹を切る――すなわち師と共に殉ずると訴えたのです。
大聖人は、一緒に生死の境をくぐり抜けた金吾との師弟の縁を、「不思議とも申すばかりなけれ」と讃えられています。
悠然たる大聖人の大境涯
ここで、あらためて竜の口の法難の経過を振り返っておきましょう。
法難の背景には、大聖人に憎悪を募らせた真言宗の僧・極楽寺良観らの讒言がありました。さらに蒙古襲来の危機が迫る不安の中で統制を強める鎌倉幕府が、大聖人一門の存在を敵対視したことも見逃せません。
文永8年(1271)の9月12日――。
平左衛門尉頼綱以下、武装した大勢の兵士が、大聖人を捕縛するために、草庵を襲いました。大聖人は「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」(0912-05)と痛烈に呵責されております。捕らわれた大聖人は、幕府の実力者である北条宣時の屋敷に移されました。宣時は佐渡の守護職でした。大聖人を「遠流」、すなわち佐渡流罪に処すると決まっていたようです。
ところが、深夜、馬に乗せられて連れ出されました。一部の幕府要人がひそかに斬首に処すと企てていたのです。
兵士に囲まれながら由比ヶ浜沿いに進む途次、大聖人は使いを送って四条金吾を呼ばれました。急報を聞いて素足で飛び出してきた金吾は、「今夜、頸を法華経に奉る」と語られる大聖人の馬の口に取り付いたのです。
やがて人目につかない浜辺に到着しました。鎌倉のはずれの竜の口です。時は丑寅の刻、あたりは静かな闇です。刀が抜かれました。金吾は「只今なり」と落涙します。ところが大聖人は、法華経の故に命を捨てる以上の喜びがあろうか、笑いなさいと、悠然と仰せになったのです。
奪命者たる魔性が大聖人を殺害せんとした、まさにその時、不思議な現象がありて、大聖人が虎口を脱せられたことは有名な史実です。本抄の最後の段には、法華経の行者を守護する諸天善神である「三光天子」のうち、月天子が「光物」として現れ、頸の座にある大聖人を厳然と守ったと示されています。
兵士らは恐れおののき、遂には処刑は取り止めとなりました。大聖人は依智に移送され、四条金吾も随行しています。
なお本抄には、依智に移ってから明星天子が現れたことも記されており、さらに今度は日天子の守護もあるだろうと仰せです。
現在、竜の口があったとされる地域内に位置する山腹に、「SGI教学会館」が立っています。庭から江の島が望め、大聖人の殉難を偲び、広宣流布の決意を新たにする場所となっています。SGIの多くの友も訪れ、地元の同志とうるわしい交流を重ねています。
| 06 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ、流罪は伊東・死罪はたつのくち・相州のたつのくちこそ日蓮が命を 07 捨てたる処なれ仏土におとるべしや、 其の故は・すでに法華経の故なるがゆへなり、 経に云く「十方仏土中唯有 08 一乗法」と此の意なるべきか、 此の経文に一乗法と説き給うは 法華経の事なり、 十方仏土の中には法華経より 09 外は全くなきなり除仏方便説と見えたり、 若し然らば 日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、 娑婆世界の中 10 には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法 11 華経の 御故なれば 寂光土ともいうべきか、 神力品に云く 「若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃」 12 とは是か。 -----― 今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪にまでなった。流罪は伊東、死罪は竜口。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所である。したがって仏土に劣るものではない。そのわけは、すでに法華経の故に身命を捨てた所だからである。 法華経方便品第二に「十方仏土の中には唯一乗の法のみあり」とあるのは、この意であろうか。この経文に一乗の法と説かれてあるのは、法華経すなわち南無妙法蓮華経のことである。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全くないのである。これを法華経方便品第二には「仏の方便の説をば除く」と説かれている。もしそうであるならば、日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中では竜口に、日蓮が命をとどめおくことは法華経の故であるから、その地は寂光土ともいうべきであろう。法華経神力品第二十一には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においてもこの中に(中略)般涅槃したもう」と説かれているのはこの原理をいっているのである。 |
法華経ゆえの大難の地こそ仏国土
大聖人は、この御文の前に、自分は過去世におて、「妻子」「所領」「眷属」などのために多くの場所で身命を捨ててきたが、結局「法華経のゆへ」「題目の難」ではなかった。成仏のためでないゆえに、身命を捨てた場所は、いずれも仏国土とはならないと、まことに峻厳な省察をなされています。
これに対して、このたびの法難は「法華経の行者」として、そして「法華経の故」に流罪・死罪に及んだのであったと仰せです。
戦時中の弾圧で、当局に押収された戸田先生の御書には、この箇所に明確に印が付けられています。
この御文に記された「流罪」とは、弘長元年(1261)の伊豆の伊東への流罪を指し、「死罪」が竜の口の頸の座です。なかんずく、「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ」とあるように、それまで幾度となく命を狙われる経験をされた大聖人にとっても、竜の口の法難は決定的な出来事でした。
「法華経の故」に命をすてるような大難に直面して微動だにしない。それは即、成仏の大境涯です。その御確信の上から、大聖人が耐え忍ばれた国土を、「仏土におとるべしや」と述べられたのでありましょう。
その場が仏土であるならば、そこにいる方は、仏にほかなりません。釈尊は伽耶城に遠からざる菩提樹下に坐して成道を遂げました。大聖人は、この「頸の座」において末法の御本仏の大境涯を顕されたのです。
本抄は、「十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり」と方便品の文を踏まえて仰せです。十方のいずこの世界であれ、成仏の法は法華経以外にない。その法華経ゆえの法難の場所は、仏がいる国土そのものなのです。
いずこの地も、常寂光土へ変革
この法理の上から、「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」と洞察され、その中でも「日蓮が命を・とどめをく」ことになった場所こそ、「寂光土」すなわち永遠の仏土といえようかと言われているのです。
御文では、娑婆世界から日本国、相模国、片瀬、そして竜の口――と、大聖人御自身が壮絶なる仏と魔との激戦を刻まれた戦場を明確にされています。その竜の口は、法華経を行じる勇者がいなければ、ただの地上の一地点にすぎません。妙法に生ききる強盛な一念が、苦悩に満ちた娑婆世界の一国土を、妙法の永遠の功徳を顕す常寂光土へと開いたのです。「娑婆即寂光」です。
この文証として法華経神力品第21の文を引かれます。如来の滅後において、法華経の行者が「如説修行」する所は、いずこの地であれ――園林であれ、山谷や曠野であれ、そこはまさに、仏が覚り、仏が説法をし、仏が全てを成し遂げて般涅槃される場所であると説かれた一節です。
仏が入滅された後の時代では、仏の教え通り実践する人がいる所こそ、厳然と永遠の仏が常住する場所なのです。
宇宙大の境涯を開くための仏法
後日、佐渡の厳寒の中で認められた「開目抄」には、こう記されています。
「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)
大聖人の御生涯における「発迹顕本」の宣言です。宿業や苦悩に抱えた凡夫という迹を開いて、凡夫の身に、永遠の妙法と一体になった自在の境地である久遠元初自受用如来という本来の境地を顕されたのです。
法華経寿量品において、釈尊は、始成正覚という迹の姿を発いて、久遠実成という真実の姿を顕しました。
その元意は、釈尊が九界の衆生から超越した永遠の仏の姿を顕したのではなく、むしろ反対に、「人間釈尊に帰れ!」というメッセージであったと、私たちは拝してきました。
言い換えれば、人間釈尊を手本として、いまだ人間自身が気づいていない生命本来の偉大さに目覚めよと、訴えているのです。
大聖人は御自身の発迹顕本をもって、事実の上で、凡夫の身に仏界の生命を顕す「即身成仏の道」を万人に開いてくださったのです。
自身の利己的な欲望に突き動かされ、宿業と苦悩に覆われていた凡夫の身が、久遠元初の生命に立ち返り、宿業の軛を断ち切り、万人成仏を願う慈悲と智慧に満ちあふれた仏の身となるのです。それは、人間としての最も本然の尊貴な姿です。
その姿を戸田先生は、「久遠の凡夫」と言われました。
この人間本来の生命こそ、久遠元初の自受用身という仏です。何万年もの闇に閉ざされた洞窟も、ひとたび太陽の光が注げば、ぱっと明るくなる。そのように万人の成仏の道を厳然と示してくださったのです。
一人の発迹顕本が万人の境涯開く
本抄末尾の段には、四条金吾が「かかる日蓮」――その久遠の境涯を顕された師匠のお供をして竜の口まで行き、「法華経の行者」として「日蓮とをなじく」自らも殉ずる覚悟であったことを重ねて賞讃されています。
四条金吾は、ただ一心に師匠に随行しました。竜の口の法難が大聖人自身にとって、どれほど甚深の意義を持っていたかは、およそ理解に及ばなかったでしょう。
しかし、この仰せは、「師匠」はどこまでも、「弟子」の道を開いてくださっていることを示されていると拝されます。
仏の願いは師弟不二です。師は弟子が「我が如く」不二なる仏の大境涯を会得することを祈っているのです。弟子が必ずそうなると信じ、待っているのです。
言うならば、大聖人は、まず自ら、人間が置かれたなかで、およそ考えうる最悪の状況にあって、揺るぎない金剛にして不壊なる生命境涯を厳然と実証されたのです。
そして、誰もが「日蓮が如く」、この十界互具の大法を自分の身の上に顕していける。
自身が「本来仏なり」と知ります。
発迹顕本とは、自他共に尊極の生命を開く“顕本”です。自分自身も仏、皆もまた仏です。発迹顕本は、この人間尊敬の行動を支える究極の根拠でもあるのです。
したがって、大聖人の発迹顕本は、大聖人ただお一人の発迹顕本ではありません。誰もが自身の胸中の無尽蔵の法蔵を、現実の人生のなかで開き切っていける。そのために、師弟不二の誓願で、厳しい現実に果敢に挑戦する本因妙の信心を教えてくださっているのです。
仏とは「戦い続ける人間」の異名
法華経の行者として広宣流布に生き抜く限り、三類の強敵、三障四魔、総じて「魔」の戦いに終わりはありません。
釈尊も、そうでした。釈尊は菩提樹下で魔の誘惑を斥けて成道したことから、「降魔成道」と言われますが、初期の経典が伝えるところ、成道後にも、魔は釈尊に近づいて、説法を思い止まらせようと、幾度となく誘惑や迫害を重ねています。
悟達したからといって、それでもう修行はいらない。精神の戦いもない。などということはありえない。
何のための覚りか――万人を幸福にするための覚りです。目覚めてからが本番です。戦いを開始した後こそ、いよいよ魔が競い起こる。むしろ、戦い続ける生命こそが「仏」なのです。
大聖人が竜の口法難に臨まれ、御身に成就された発迹顕本は、久遠の仏の生命を、現実の大難を勝ち越える姿を通して顕されたものです。そして、今度は仏の大難と一体である根本の誓願に立って自在に力を発揮し、自由にあらゆるところに向かい、また本来の生命に目覚めていない人々に、「自分自身に生きよ」と呼び掛ける。大聖人の発迹顕本は、その意義が成就するのです。
大聖人の御精神を創価学会が継承
この発迹顕本の精神を、真っすぐに受け継いだのが創価学会です。
牧口先生は戦時中、国家主義との戦いの最中、「学会は発迹顕本しなければならぬ」と、常に言われていました。先師と共に牢獄に入られた戸田先生もまた、生きて獄門を出た後、この学会の「発迹顕本」を――創価の師弟が心一つに広宣流布の久遠の誓いに立つことを深く期されていました。
そして今もまた、学会は発迹顕本していかなければならない。それは、学会員一人一人が、地涌の菩薩の自覚に立つこと、大聖人の本弟子としての誓いに生き抜くことです。
いくら言葉で、生命には「偉大な力」がある、「無限の可能性」があると言っても、それだけでは抽象論にすぎません。むしろ、最大の逆境の中で戦い鍛えられてこそ、人間の底力が顕われる。自分で気づいていなかった真実の姿が現出するのです。
創価学会が創立されて85年、今や世界中で地涌の同志が生き生きと躍動しています。
宿命に泣き続けた人生、自分は駄目だとあきらめていた人生に終止符を打ち、朗々と題目を唱えつつ、自他共の幸福を勝ちひらくために立ち上がっています。自分にしかできない使命があると自覚し、勇気と希望の人生を歩んでいます。その一つ一つの生命のドラマこそ、民衆一人一人の人間革命の大叙事詩こそ、「人間は本来偉大なり」と、久遠の生命力を開いた発迹顕本の勝鬨であると、私は宣言したいのです。
「人間の内なる富は無限」
40年前、私は、ローマクラブの創立者ベッチョイ博士と初めてお会いしました。
現代文明の行く末を憂え、新たな希望を探りゆく対話は、やがて一点に集約していきました。私が仏法の「人間革命」について語っていくと、博士は深く頷かれました。
「必要なのは『人間精神のルネッサンス』です。『人間自身の革命』です。
戦時中はファシズムに抵抗して投獄され、過酷な拷問にも耐え抜いた博士でした。忘れ得ぬ精神の盟友であり、戦友でありました。
「外の資源は有限ですが、人間の内なる富は無限です。未開発です。それを引き出していくのが人間革命です。われわれは人間革命を推進するために、ありとあらゆる手を尽くさなければなりません」
一貫して博士が志向されていたのは、本来、人間自身が具えている無限の可能性を開く、「人間革命」の哲学です。
それは、「人間よ、汝自身の尊貴さに目覚めよ!」「民衆よ、胸中の無限の可能性を開け!」との発迹顕本の法理と深く響き合うものであると確信します。
今日より、いよいよ偉大な前進を!
御義口伝には、傅大士の釈を引いて仰せです。
「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」(0737-02)と。
発迹顕本とは、今この時に「本因妙」の信心に立つことです。「出発は今」です。今、戦いを発すのです。その生命に、久遠元初の大生命力が満々とたぎっていく。その瞬間瞬間、末法の闇を照らす「太陽の仏法」が赫々と昇りゆくのです。
さあ、今日より、いよいよ前進です。
自他共の「無限の可能性」を晴れ晴れと開きゆく「人間革命の太陽」を輝かせながら!
1114~1115 同生同名御書top
1114:01~1114:07 第一章 法華経の慈悲を示すtop
| 同生同名御書 文永九年四月 五十一歳御作 01 此の御文は藤四郎殿の女房と常によりあひて御覧あるべく候。 02 大闇をば日輪やぶる女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし、 幼子は母をしらず母は幼子をわすれず、 03 釈迦仏は母のごとし女人は幼子のごとし、 二人たがひに思へば・すべてはなれず一人は思へども一人思はざれば・ 04 あるときはあひ.あるときはあわず、仏は・をもふものの・ごとし女人は.をもはざるものの・ごとし、我等仏を・を 05 もはば・いかでか釈迦仏・見え給はざるべき、 石を珠といへども珠とならず珠を石といへども石とならず、権経の 06 当世の念仏等は石のごとし、 念仏は法華経ぞと申すとも法華経等にあらず、 又法華経をそしるとも珠の石となら 07 ざるがごとし。 -----― この文は藤四郎殿の夫人と、常に寄り合って御覧なさい。 大闇を太陽の光はやぶる。女の人の心は大闇のようなものであり、法華経はその闇をやぶる太陽の光のようなものである。幼子は母親のことを知らなくても、母親は幼子を片時も忘れることはない。釈迦仏はたとえてみれば幼子を忘れない母のようであり、女の人の心は幼子のようである。母子双方でお互いに思いあえば決して離れることはないが、一方だけ思っても、片方が相手を思わなければ、あるときはあっても、あるときはあわないこともある。仏は常に相手のことを思っている者にたとえられるが、女の人は少しも相手を思わない者と同じである。われわれが一心に仏を思うならば、どうして仏がわれわれの前にあらわれないことがあろうか。 石をいくら宝石だといっても宝石とはならない。反対に、宝石を石だといっても宝石が石になることはない。それと同じに権経を根本とする今の念仏の教え等は石ころのようなものである。いかに念仏の教えを法華経であるといっても、それは法華経ではない。また法華経をいくら謗っても、宝石が石にならないように、法華経の偉大さは少しも損ずることはない。 |
藤四郎殿の女房
藤四郎という人物については不明であるが、この御文から拝すれば、おそらく鎌倉に在住し、その妻と四条金吾の妻とは、ごく親しい関係にあったと考えられる。なお、3年後の建治元年(1275)に南条時光の母に与えられたといわれる単衣抄(1515)にも「此の文は藤四郎殿女房と常により合いて御覧あるべく候」との御文があり、南条家とも親交があったと思われる。
―――
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――――――――
文永9年(1274)4月、四条金吾は鎌倉から遠くへだてた距離をものともせずに、佐渡一の谷におられる大聖人のもとを訪れた。その時四条金吾に託して夫人に送られたのがこのお手紙である。
夫婦が心を合わせて強盛な信心をつづけ、またはるばるこの佐渡の地まで夫を遣わされた夫人の志は、大地よりも厚く、虚空よりも高い。したがって、その功徳は必ず仏に通ずることを述べて、さらに不退の信仰を勧められている。
四条金吾は北条氏の支族である江馬氏に仕える武士である。そうした立場で大聖人が鎌倉に止住するときはもちろんのこと、佐渡ご流罪中も、大聖人のもとへ、お金や米や油などの品々を御供養し、四条金吾自身も佐渡に赴いているのは並み大抵のことではなかったに違いない。
夫・四条金吾の信心の強さと純真さもさることながら、それを支えた夫人の信仰の厚さを忘れてはならない。この故に大聖人は佐渡まできた四条金吾に託して、夫人あてにお礼と激励の手紙を認められ、夫をはるばる佐渡の地まで送り出した夫人の信心を称賛されているのである。
冒頭でも、まず仲のよい藤四郎夫人と女性同士が力を合わせ、励まし合って信仰を深めるよう配慮され、女性の信心のあり方について述べられているのである。
すなわち、女性の心を闇にたとえ、法華経を日輪にたとえて、女性の心の闇を照すのは法華経であることを述べられている。さらに仏が衆生を思う慈悲を、母が子を思う姿にたとえ、衆生が仏を思う姿を、子が母を思うのにたとえて、双方が互いに思い合うことが大切であることを示されている。
此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候
同じく妙法を信仰する同志が、大聖人のお手紙を中心に、互いに励まし合い、研鑽し合って、共々に成長せよとの指導が、この短い御文に含まれている。
夫と妻が力を合わせていくことは当然のこととして、妻同志が有情の絆に結ばれ、互いに励まし合っていくことは、信心の成長にとって、欠かすことのできない条件である。夫人の信心の向上は、そのまま、夫である藤四郎の成長にもつながっていくことを、大聖人は見抜いておられたのであろう。
はるばる佐渡まで大聖人が訪ねてきた四条金吾を通して、その夫人を激励され、夫人と仲のよい藤四郎の夫人をも奮い立たせ、それをさらに通して藤四郎の成長をも期待されたのではないだろうか。こう考えると、このお手紙が最大限に効果を発揮する道を考えられた、大聖人の細かい配慮の一端がうかがわれるような気がしてならない。指導にあたっての、大事な原理が、この一事から学びとれるのではあるまいか。
なお、大聖人のお手紙を中心に、信徒が常に読み合い、励まし合って、信仰の向上を図っていく姿は、教学研鑽の、素朴ではあるが、最も基本的な原形であるといってよい。現在も、未来も、この精神は永久に変わらないし、また変わってもならないであろう。
大闇をば日輪やぶる。女人の心は大闇のごとし。法華経は日輪のごとし
法華経が説かれる以前、すなわち爾前経においては、女性は「外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」と嫌われ、女人は不成仏とされてきた。法華経においては、竜女の成仏、耶輸陀羅比丘尼等の授記が説かれ、一切女人の成仏が明かされたのである。ゆえに、女性にとって、法華経は唯一の成仏得道の依経として尊ばれ、わが国においても、奈良朝のころ、全国に「金光明四天王護国之寺」として国分寺が造立されると共に、女性のために「法華滅罪之寺」として国分尼寺が建てられたのであった。
いわんや、末法においては、法華経文底独一本門の、三大秘法の南無妙法蓮華経以外に女人成仏の法はない。ここに日輪にたとえられた「法華経」とは、日蓮大聖人が建立される三大秘法の大白法であることは、論をまたないところであろう。
では、なぜ、女人の心を大闇にたとえられたのであろう。邪見熾盛にして三毒強盛の末法の衆生の心は、総じて闇のようなものである。女性の場合、とくにその闇の深いことをさして、大闇といわれたのであろうが、なぜ、女性はとくにその心の闇が深いのか。
これには、女性の特質という問題を考えなければならない。女性はとくに保身の性向が強い。それが反面では、忍耐強さ、平和と安全を望む性格ともなっているのであるが、現実生活での安泰に執着することになる。ところが、仏道修行は、釈迦仏法にとくに顕著なのであるが、出家という形式に象徴されるように、現世の欲望をこえた、永遠の幸福と不動の自己完成を目指すところから出発する。女性の現実的なものへの執着は、この仏道の探求にとって大きな障りとなったのである。
法華経そして大聖人の仏法は「現世安穏・後生善処」と説き、この現実が娑婆即寂光と開ける原理であるから、現世執着の煩悩も、そのまま包含して、仏法の悟りの境地に昇華することができる。つまり、現実社会の中で、現実の幸せを願って妙法に祈ったことが、現実の願いも叶い、秘妙方便で、即、未来永遠への福運となり、自身の自己完成ともなっていくのである。ここに法華経の哲理によって、はじめて、女人成仏の道が開けたといわれるゆえんの一端がある。
しかしながら、現実的なものに執する女性の特質は、いつまでもそのままでよいということではない。仏法の教える、常住の幸福観に目覚め、大目的へと視野が開かれていかなければならない。その自覚がなければ、信仰の途上に起こってくる難にあったとき、結局、わが身を守るため、家庭を守るためという目先の小目的にとらわれて盲目となり、仏法を捨てたあげくは、自身も一家も滅ぼしてしまうのである。大目的に目覚めて、その理想に生きたとき、現実の幸福等も、盤石の強みをもって樹立することができるのである。
我等仏ををもはば、いかでか釈迦仏見え給はざるべき
法華経如来寿量品第十六にいわく「我常在此娑婆世界説法教化」と。仏は常に、この娑婆世界にあって、衆生のために説法教化する、というのである。その仏をわが心眼で見ることができるかどうかは、仏を信ずる一念の姿勢によるということである。
末法において、この仏とは、日蓮大聖人であり御本尊である。信心なき人にとっては、御本尊は、ただの文字としか映らないであろう。だが、信心をもって拝すれば、御本尊は即久遠元初の自受用報身如来であり、御本仏日蓮大聖人なのである。
また、いかなる所にあろうと、御本尊への強い信心に立脚した人は、常に御本尊に厳然と守られ、自在無礙の人生を楽しむことができる原理ともいえる。
1114:08~1115:02 第二章 古の賢者に較べられるtop
| 08 昔唐国に徽宗皇帝と申せし悪王あり、 道士と申すものにすかされて仏像・経巻をうしなひ僧尼を皆還俗せしめ 09 しに一人として還俗せざるものなかりき、 其の中に法道三蔵と申せし人こそ勅宣をおそれずして面にかなやきを・ 1115 01 やかれて江南と申せし処へ流されて候いしが、今の世の禅宗と申す道士の法門のやうなる悪法を御信用ある世に 02 生れて、日蓮が大難に値うことは法道に似たり、 -----― 昔、中国の宋の時代に徽宗皇帝という悪王がいた。この王は道士というものにそそのかされて、仏像を破壊し、経巻を焼き捨て、僧や尼を還俗させたのであるが、一人としてこれに反対して還俗しないものはなかった。そのなかで、法道三蔵という人はひとり勅命を恐れずにその誤りを批判したので、顔に火印を押されて江南の地へ流されたのである。現在の禅宗という、道士の法門にも似た悪法を幕府が信用されている世に生まれて、日蓮が大難に値うことは法道三蔵の身のうえとよく似ている。 |
唐国
中国をさして呼んだ名称。「もろこし」は「諸越」の訓読で、昔、中国浙江省あたりに越の国があり、日本との交渉が盛んであったことによるといわれる。
―――
徽宗皇帝
(1082~1135)。中国北宋の八代皇帝。姓は趙、名は佶。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると蔡京父子を重用し、民衆に重税を課した。そして豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなってしまった。王は道士に傾倒して、仏教を弾圧し、道教を庇護した。政治的には新興の金と同盟し、遼を攻めたが敗れ、逆に金に侵略され、その結果、欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
―――
還俗
出家した者が再び俗人にかえること。
―――
法道三蔵
宋の徽宗皇帝の時の高僧。宣和元年(1119)、帝が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたときに、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の顔に火印を押し、江南の道州に放逐した。なお、法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。仏祖統紀巻第五十四による。
―――
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
―――
かなやき
鉄の焼き印。
―――
江南
中国の揚子江以南の地域をいう。
―――
今の世の禅宗
中国の禅宗の始祖は達磨。日本には鎌倉時代の初めに、大日能忍があらわれ禅を興した。その後あらわれた栄西は北条政子の庇護を受けて寿福寺の開基となり、建仁年中に鎌倉一帯に勢力を張った。この栄西のあと、弁円があらわれ、初めは京都地方に根を張り、建長6年(1254)には鎌倉に到り、寿福寺に住して、北条時頼の力を借りてさらに勢力を拡大した。これと前後して宋僧の蘭溪道隆が来朝し鎌倉に入った。道隆もまた時頼の庇護を受け建長寺の開基となる。これらは臨済禅と呼ばれるものであるが、幕府権力と結びつき、権力をかさにきて名利を得、民衆とくに武士階級に信者を獲得した。また道隆の来朝のやや以前に現われた道元は寛元2年(1244)、越前に大仏寺を開き、平易な教えで民衆の間に弘めた。
―――――――――
本章では、中国・北宋の法道三蔵が仏法のために難を受けた例を挙げて、大聖人御自身の佐渡配流の難に比較されている。
法道三蔵の場合は、時の皇帝・徽宗が道士にそそのかされて仏教を弾圧し、そのなかで法道はただ一人、正義を訴えて抵抗したため、江南の地に流されたのである。大聖人の場合は、幕府為政者が禅宗に熱中し、やはりそうした邪法の僧等の讒言にそそのかされて、ただ一人、法華経の正義をかかげた日蓮大聖人を、佐渡の地に流した。
この二つの事件は、いくつかの共通する要素を含んでいる。
一つは、指導者が仏法ないし思想、宗教に対して無知な場合、よこしまな宗教、思想を説く者にだまされて、正しい思想、宗教を説く人を弾圧するという点である。
第二は、道教と禅宗との共通性である。確かに、この二つを較べると、禅宗は一応、仏教内に起こった邪法であり、道教は仏教外の外道であるという違いがある。だが、その本質をみれば、外道の道教といっても、仏教が中国に流布したのちの道教は、すでに大幅に仏教の教義を盗み入れている。また、一方、禅宗の方は、元来、天台のはじめた禅定の法を盗み取ってできあがったものだが、仏の教えの原典である経文を「月をさす指にすぎない」などといって、これを否定しており、むしろ、外道に近い本質をもっていたといえる。
しかも、禅宗は、現実をはなれて、静かな山林等で坐禅入定し、観念のなかに平安を求めようとする。これは道教の、仙人に象徴されるような超現実の境地を求めるのと、きわめて似かよったものがある。いずれも、現実を醜いものとして捨てて、高尚な理想に生きることを説きながら、実際は、自ら権力と結びついて、醜悪な売名に腐心したのである。
第三は、法道三蔵と日蓮大聖人の受難との共通性で、どちらも、ただ一人、正法を貫いたがゆえに、権力の弾圧を受けたのである。しかも、流罪という点は全く同じである。また、後に権力者側が無実を認めざるを得なくなり、許したということも共通する。
第四は、法道を弾圧した徽宗は、北蛮の金軍に攻められ、大聖人を迫害した北条幕府は蒙古の大軍に攻められ、仏法の因果の理法の厳然たる証拠を示していることである。
ともあれ、この段は、一国謗法の世に一人正義を貫くときには、必ず難を受けるのは道理であり、いま、大聖人が佐渡で配流の身となっているのも、もとより覚悟のうえであるとの意が込められていると拝せる。
1115:02~1115:06 第三章 夫人の信心を称えるtop
| 02 おのおの・わずかの御身と生れて鎌倉にゐながら人目をも・はば 03 からず命をも・おしまず法華経を御信用ある事ただ事とも・おぼえず、 但おしはかるに濁水に玉を入れぬれば水の 04 すむがごとし、しらざる事を・よき人に・おしえられて其のままに信用せば道理に・きこゆるがごとし、釈迦仏・普 05 賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩等の各各の御心中に入り給へるか、 法華経の文に閻浮提に此の経を信ぜん人は普賢 06 菩薩の御力なりと申す是なるべし、 -----― あなた方は地位があるわけでもない身と生まれて、幕府の膝元の鎌倉にいながら、人目をもはばからず命をも惜しまず法華経を信仰していることは、ただごととは思われない。ただ推測するのに、濁った水に宝石を入れたならば水が澄むように、自分の知らないことを智者に教えられて、そのまま信用するならば、それが道理として納得できるようなものである。釈迦仏をはじめ、普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩などが、あなた方の心の中に入っておられるのであろうか。法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文に「閻浮提に法華経を信ずることができるのは普賢菩薩のお力によるのである」と説かれているのはこのことである。 |
普賢菩薩
東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
―――
薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
宿王華菩薩
薬王菩薩本事品第二十三にあらわれ、釈尊に薬王菩薩の因縁をたずねた菩薩。
―――
閻浮提
全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――――――――
末法の世に、仏法の極理を知り尽くしたわけでもないのに、さまざまの難をものともせず、信心を貫くことができるのは、仏・菩薩が生命の中に宿っているからであろうと述べられ、四条金吾夫人、および藤四郎夫人を激励されているところである。
釈迦仏・普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩等の各各の御心中に入り給へるか
釈迦仏は、いうまでもなく法華経の教主であり、普賢以下のここにあげられている菩薩は、法華経において、仏の滅後、この法華経を弘めることを誓った菩薩たちである。
これらの仏・菩薩が、いま夫人たちの心中に入っているが故に、このように法華経の信仰を続けることができるといわれたのは、なぜか。元来、末法の衆生は、機根が悪く、とうてい純真に、強盛に法華経の信心を持続できるものではないと思われるのが道理である。ところが、幾多の難や苦しい境遇にもめげず、立派に信心を続けているのは、法華経の仏・菩薩がその心中に宿っているがゆえであろうといわれているのである。
生命論のうえからいえば、成仏を求め、信心に励む心は、菩薩界の生命であり、即、その内証は仏界である。「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界となす」と日寛上人は仰せである。われわれの生命は、凡夫だからといって人界のみからなっているのではない。御本尊にお認めの、十界三千の生命が、本来具備されているのであり、円融円満の当体なのである。
したがって、この御文は、一見譬喩的に述べられているようであるが、一念三千の当体としての生命の本質を、わかりやすく示された御文とも拝せる。
普賢菩薩の役割りについて
普賢菩薩は文殊師利菩薩とともに大乗の釈迦仏の脇士である。そして文殊が師子に乗って左方に位置しているのに対し、普賢は白象に乗って右方に位置している。
文殊は妙吉祥と訳し、智慧の猛威をあらわして師子に乗るのを常とする。
一方、普賢は、法華文句記巻第十下に「もし他に勝るに従って名とせば乃ち是れ一切に賢なるが故に名づけて普賢となす」とあって理を司るとされている。
生命論に約せば、普賢とは、学問あるいは法理を生みだす智慧の働きをいい、不変真如の理、すなわち普遍性、抽象性の働きをさし、文殊は、もっと具体的な生活についての智慧、または人々を幸福にしていくための智慧をいうのである。
ところで普賢菩薩の役割りについてであるが、法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。若し菩薩有って、是の陀羅尼を聞くことを得ば、当に知るべし、普賢の神通の力なり。若し法華経の閻浮提に行なわるるを受持すること有らば、応に此の念を作すべし、『皆な是れ普賢の威神の力なり』」とある。この文の意を大聖人は「末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり」と解釈されている。
つまりこの法華経を閻浮提に行ずるということは、普賢菩薩の威神の力、すなわち普賢菩薩という生命の力によるのであると。
考えてみるのに、普賢菩薩は法華経の会座において次のように誓ったのである。普賢菩薩勧発品第二十八に「是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」と。したがって、この経、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経が広宣流布するのは、普賢菩薩の守護であるということになる。
「普賢威神の力」の〝威〟とは、勢い、力を意味し、悪法邪義を屈服する強さをあらわしている。〝神〟とは生命の働きを意味する。すなわち普賢菩薩とは、この大宇宙に遍満し、また一人一人の人間生命にも具わっている生命の働きをいうのである。しかも、それは学問、道理を追究する生命活動であり、それが、広宣流布を大きく促進する働きとなるのである。
この三大秘法の妙法は、世界の仏法である。世界の人びとがこの仏法を信じていくのは普賢威神の力によると説かれているのは、妙法を信じた学識豊かな知性ある人びとこそ、世界へ流布する重大な使命を担っていることを意味するといえよう。
仏法流布の歴史を振り返ってみても、大乗仏法を弘めた竜樹・天親等、あるいは天台・伝教等は当時の最高の知識階級であった。いま日蓮大聖人の大仏法を世界に流布するにあたっても、その最大の使命を担っていくのは、こうした知性の人びとであるといってよいであろう。
1115:06~1115:14 第四章 同生同名の二神を述べるtop
| 06 女人は・たとへば藤のごとし・をとこは松のごとし須臾も・はなれぬれば立ち 07 あがる事なし。 08 はかばかしき下人もなきに・かかる乱れたる世に此のとのを・つかはされたる心ざし大地よりも・あつし地神定 09 めてしりぬらん・虚空よりも・たかし梵天帝釈もしらせ給いぬらん、 人の身には同生同名と申す二のつかひを天生 10 るる時よりつけさせ給いて影の身に.したがふがごとく須臾も・はなれず、大罪・小罪・大功徳.小功徳すこしも・お 11 とさず・かはる・かはる天にのぼて申し候と仏説き給う、此の事ははや天も・しろしめしぬらん、たのもしし・たの 12 もしし。 13 四月 日 日蓮花押 14 四条金吾殿女房御返事 -----― 女の人は譬えていえば藤のようなものであり、男は松のようなものである。藤は少しの間も松を離れてしまえば立ちあがることはできない。それを頼りになる召使いもないのに、このような乱れた世に、この殿を佐渡の地まで遣わされたあなたの真心は大地よりも厚い。必ず地神も知っていることであろう。またその真心は虚空よりも高い。きっと梵天・帝釈も知られていることであろう。 人の身には同生同名という二人の使いを天はその人が生まれた時からつけられており、この二人の神は影が身に随うように、寸時も離れず、その人の大罪・小罪・大功徳.・小功徳を少しもおとすことなく、かわるがわる天に昇っていって報告していると仏は説かれている。したがってあなたが殿をよこされたことは、すでに天も知っていることであろう。実にたのもしいことである。 四月 日 日 蓮 花 押 四条金吾殿女房御返事 |
須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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同生同名
この同生天・同名天は、人が生まれたときから、つねに両肩にあって瞬時も離れず、その行動の善悪を記して天に報告し、その人を守護するので俱生神ともいう。華厳経巻六十には、「人の生じ已れば則ち二天有りて恒に相い随逐す。一を同生と曰い、二を同名と曰う。天は常に人を見れども人は天を見ざるが如し」とある。吉蔵の無量寿経義疏では、同生は女神で右肩にあって悪業を記録し、同名は男神で左肩にあって善業を記録するとあるが、異説もある。
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この章は、夫を支えて懸命に仏道修行に励む夫人の真心は、必ず天に通ずるであろうことを、同生同名天の原理の上から述べられている。
女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。須臾もはなれぬれば立ちあがる事なし
女性というものの一般的立ち場を示された御文である。
妻は夫によって存在する。夫を失えば、自身の社会的存在の根本を失う。にもかかわらず、四条金吾の妻は、夫を、佐渡の大聖人の下へ、危険な旅に送り出した。その四条金吾の妻の強盛な信心を、このあとの文に「此のとのをつかはされたる心ざし、大地よりもあつし云云」と愛でられているのである。
「富木尼御前御返事」(0975)には「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」と仰せられている。矢自体には飛ぶ力はない。それが飛ぶのは、弓が矢にエネルギーを与えたからである。これと同じように、夫が仏法のためにどれだけ活躍できるかは、妻が仏法を深く理解し、夫を助けて、力を与えるかによるのである。
この御文は、夫婦が一体となって、護法のため、広宣流布のために活躍していくところに、福運の花が咲き、一家の幸せがあるのだということを示されたものと考えられる。
同生同名とは
人には生まれたときから必ず人の両肩にあって、瞬時もその人を離れずにその人の行動の善悪を細大漏らさず記して、かわるがわる天に報告するという同生天、同名天の二神があるとされている。この二神を別名、俱生神ともいう。
この俱生神は、経文によって一人であったり、男女の二人であったり一様ではない。男女の二神の場合も、同生は女神で右肩にあって悪業を記し、同名は男神にあたり左肩にあって善業を記すといわれているが、経文によって異なるのである。
この俱生神の働きによって薬師瑠璃光如来本願功徳経に「俱生神有って其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之を書して、尽く持して琰魔法王に授与す。爾の時、彼の王は其の人に推問して所作を計算し、其の罪福に随って之を処断す」とある。また地蔵菩薩発心因縁十王経に「諸の衆生、同生神、魔奴闍耶というもの有り。左の神は悪を記す。形、羅刹の如し。常に随って離れずして悉く小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥の如し。常に随って離れずして皆微善をも録す。惣じて雙童と名づく。亡人の先身の、若しは福、若しは罪の諸の業を皆書して尽く閻魔法王に奏与す。其の王、簿を以て亡人を推問し、所作を算計し、悪に随い、善に随って之を断分す」とある。
さて、この二神は生命論からいうならば、生命自身のもっている因果の理法をあらわしている。すなわち、われわれの善悪にわたる一念、振る舞いは、誰もが知らなくても、すべて自己の生命に刻まれ、必ず善悪の報いを受けていくことを意味しているのである。この生命の厳しい因果律は仏法が明かした根本的な原理である。
これを簡単にいうと、前世の業が今世における果報となる。また今世の業が来世における善悪の果報の原因となるということでもある。
仏教の経文にはこの因果の法則が厳しく説かれている。また大聖人もこの哲理を知らないことを無知の代表として用いられている御文が数多くある。すなわち「彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば」(1326-04)また「へびすの島・因果のことはりも弁えまじき上」(1588-04)また「ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ」(0921-12)等の文がそれである。
生命は永遠である。単に今世かぎりのものではなく、過去世、現世、そして来世と三世にわたって続いていくのである。そして、この三世にわたる生命の連続のうえに因果の法則がはたらいている。開目抄に「天台云く『今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り』等云云、心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)と。そして「佐渡御書」に「高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960-02)と説かれている。
すなわち高い山へ登って行けば、必ず下って行かなければならない。人を馬鹿にすれば、かえって、わが身が人に馬鹿にされる。この世で馬鹿にされている人は前世に人を馬鹿にしていたのだ。立派な人間を馬鹿にすれば、醜い身体、醜い顔になって生まれてくる。人の物を盗めば貧賤の家に生まれてくる。正法の家を誹ったなら、謗法の家に生まれてくる。正法の戒律を守っている人を笑えば国土の民となって王難にあう、というのである。
しかしながら、われわれは現世のことしか知ることができない。そのため、過去に因のある問題は、ただ運が悪いとか、あるいは社会が悪いから等というだけである。結局、生命の深い洞察がなくては、宿命という根本問題は解決されないのである。
「陰徳陽報御書」に「陰徳あれば陽報あり」(1178-03)とあるのも、生命の厳然たる因果の理法を示されているのである。この因果の生命の働きを具象化して説いたのが、同生天、同名天なのである。
1116~1118 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)top
1116:01~1116:11 第一章 文底仏法を展開するtop
| 1116 四条金吾殿御返事 文永九年五月 五十一歳御作 01 日蓮が諸難について御とぶらひ今に.はじめざる志ありがたく候、法華経の行者として.かかる大難にあひ候は・ 02 くやしくおもひ候はず、 いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、 又三悪・四趣にこそ候 03 いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候。 -----― 日蓮があった種々の難について御見舞い下さり、前々より変わらないあなたの志、ありがたいことである。 法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しくは思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また、三悪道、四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。 -----― 04 天台伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘め給うすら・なを怨嫉の難にあひ給いぬ、 日本にしては伝教より 05 義真.円澄・慈覚等・相伝して弘め給ふ、第十八代の座主・慈慧大師なり御弟子あまたあり、其の中に檀那・慧心.僧 06 賀・禅瑜等と申して四人まします、 法門又二つに分れたり、 檀那僧正は教を伝ふ、慧心僧都は観をまなぶ、され 07 ば教と観とは日月のごとし教はあさく観はふかし、 されば檀那の法門は・ひろくして・あさし、慧心の法門は・せ 08 ばくして・ふかし。 -----― 天台・伝教等は、法華経迹門の理の一念三千の法門を弘められたことですら、なお怨嫉の難にあわれた。日本においては、伝教より義真・円澄・慈覚等が法を相伝して弘められた。第十八代の座主は慈慧大師である。御弟子は数多くいた。その中に、檀那・恵心・僧賀・禅瑜という四人の高弟がいた。 法門もまた二つに分かれていた。檀那僧正は教相の法門を伝え、恵心僧都は観心の法門を学んだ。一体、これらの二つの法門を較べると、教相と観心の法門とでは太陽と月のようなものである。教相は浅い法門であり、観心の法門は深い。それゆえ、檀那僧正の教相法門は広くて浅い。恵心僧都の観心法門は狭くて深いのである。 -----― 09 今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは 10 一重立入りたる故なり、 本門寿量品の三大事とは是なり、 南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如 11 し、されども三世の諸仏の師範・十方薩タの導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり、 -----― 今、日蓮が弘通する法門は狭いようではあるが、実は甚だ深いのである。その理由は、彼の天台・伝教等の弘められた法門よりは、さらに一重立ち入っているからである。法華経の本門寿量品の三大事とはこのことなのである。 南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いように思われる。しかしながら、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生が皆仏道を成ずるための指南であるから、最も深いのである。 |
果報の生死
しあわせではない生死流転のこと。
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三悪
三悪道・三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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四趣
四悪道のこと。悪行によって趣くべき四種の苦悩の境界。地獄・餓鬼・畜生・修羅界のこと。
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生死切断
法華経を持つことにより、苦しみの流転を断ち切るということ。煩悩即菩提・生死即涅槃と転ずること。
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仏果
成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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迹門の理の一念三千
法華経迹門で、諸法実相・十如是、開示悟入の四仏知見が明かされて、開三顕一と悪人成仏・女人成仏が説かれたことにより、十界互具・百界千如が確立した。このことによって、一念三千の理論的な枠組みがほぼ整った。これを理の一念三千というが、ここではまだ迹門の法門であって、本門事の一念三千は大聖人を待たなければならなかったのである。
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怨嫉の難
正法を弘めるものが、怨まれ妬まれたりして受ける難。
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義真
(0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
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円澄
(0771~0836)。平安時代前期の天台宗比叡山延暦寺の第二代座主。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。
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慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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慈慧大師
(0912~0985)。元三大師ともいう。諱は良源。姓は木津氏。叡山第十八代座主。延喜12年(0912)九月、近江国浅井に生まれ、12歳で叡山に登り、康保3年(0966)8月、55歳で天台座主となる。以後19年間、天台教学の復興をはかり、一山の経営にも才腕を振った。後進の育成にも力を注ぎ、その結果、檀那院覚運、恵心院源信、僧賀、禅瑜等の異材を多く輩出させた。寂年は永観3年(0985)正月3日。74歳であった。忌日の正月3日にちなんで、叡山横川の四季講堂で法要が営まれる。これを元三会といい、元三大師のいわれはここにある。元三会は室町時代に一時絶えたが江戸時代まで続いた。
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檀那僧正
(0953~1007)。天台宗の檀那流を創した覚運のこと。京都に藤原貞雅の子として生まれ、池上の皇慶について受戒し、比叡山東塔南谷の檀那院に止住。天台の始覚教相の法門を伝えた学匠。慈慧の一門で、天台教学の双璧として恵心と並び称された。立正観抄送状(0534)に日蓮大聖人は「天台一宗に於て流流各別なりと雖も慧心・檀那の両流を出でず候なり(中略)両流の異義替れども共に本迹を出でず」と述べられている。行年55歳。
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恵心
(0942~1017)。慈慧大師の弟子。恵心院源信と呼ばれた。天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡に生まれ、9歳で比叡山に登り、13歳で得度し源信と名のった。以後、横川の恵心院に止住。四十四歳のときに著した往生要集は、後年、法然が浄土信仰に入る動機の書ともなっている。元来、恵心の本意は、爾前の念仏の利益と法華経の一念信解の功徳を較べて、一念信解のほうが念仏三昧より百万倍もすぐれると結論するためのものであったが、往生要集は、念仏臭が強かったのである。このことに気づいた恵心は、65歳のときに一乗要決を著わして、法華最勝の深義を論じている。以後、弟子の訓育と著述に努め、天台の観心の法門を宣揚した。行年76歳。
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僧賀
(0917~1002)。慈慧大師の弟子。橘恒平の子として延喜17年(0917)京都に生れ、10歳で叡山に登る。本朝高僧伝によれば、一生を通じて名聞名利と戦い、みずぼらしい姿で修行したために、大衆から狂人の扱いを受けた。だが僧賀は、泰然自若として志を貫き、晩年には多くの人々の尊敬を集め、幾多、門弟を育成したと記されている。行年87歳。
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禅瑜
慈慧の四高弟の一人。伝不詳。
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本門寿量品の三大事
大聖人建立の三大秘法。本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇のこと。
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三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
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十方薩埵
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。全宇宙を意味する。薩埵は、菩提薩埵の略で、菩薩のこと。
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本抄は、文永9年(1272)5月2日、佐渡の一の谷で認められ、四条金吾に送られたお手紙である。「同生同名御書」で明らかなように、四月に四条金吾が大聖人をお訪ねし、鎌倉に帰ったあと、その訪問のお礼の意味をこめて送られたのであろう。
短い手紙であるが、大聖人が弘められる法門は、天台・伝教等の所弘の法より一重立ち入った深い法門であり、「本門寿量品の三大事」であること、この南無妙法蓮華経こそ一切仏法の極説中の極説であること、その大仏法の力用として境智冥合、煩悩即菩提・生死即涅槃の原理等が明かされている。
すなわち、このお手紙の底流にあるものは、末法全民衆救済の御本仏、久遠元初自受用報身如来としての、烈烈たる御確信である。いうまでもなく、そうした内証の法門の内容については、同じ年の2月、やはり四条金吾に託された開目抄に、縷々説かれているところではあるが、要中の要をとって、実に簡潔にその核心が、ここには示されているわけである。
この一事をみても、大聖人が、いかに四条金吾に令法久住のための期待をかけること大であったかが伺われる。四条金吾もまた、大聖人の発迹顕本の座たる竜口の法難にお伴し、さらに、佐渡御流罪中も、あるいは使いを大聖人のもとに送り、あるいは、自身、佐渡まで赴くなどして、身命を願みず、大聖人をお守りしたのである。
今は生死を切断し仏果をうべき身となればよろこばしく候
すでに、竜口の頸の座において、凡身の迹を払い、久遠元初の自受用身の本地をあらわされたことを示されている御文である。一応「仏果をうべき身」と、未来に託した形で表現されているが「よろこばしく候」との大歓喜の御心境のなかに、じつは、果として証得されているのである。
生死とは、六道と四聖と相対するときは、六道を輪廻することをもって、生死流転の内容とするが、ここは、仏果と九界とを相対されているのであるから、九界の迷いの境涯を流転することをもって、生死といわれたと考えてよい。
「開目抄」にいわく「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ」(0223-16)云云と。
周知のように、大聖人は、実際には竜口で頸をはねられてはいない。幕府の役人が、まさに斬ろうとした瞬間、皓々と光り輝く物体が空にあらわれて、斬ることができなかったのである。しかるに、なぜ「頚はねられぬ」といわれたか。九界の凡夫としての大聖人の御生命は、そこで終わり、末法御本仏、久遠元初自受用身としての新たなる生へと入られたからである。
32歳での立宗以来、この竜口の頸の座の50歳になられるまでの大聖人のお振る舞いは、法華経文上の地涌の菩薩の棟梁、上行菩薩としてのそれであった。したがって、法華経の予言のとおり、ありとあらゆる大難を受け、ついに竜口の頸の座となったのである。大聖人を頸の座にお据えしたことは、結果的には斬れなかったにせよ、衆生の側としては、大聖人を殺害したと同じである。
ゆえに、これをもって大聖人は、上行再誕として一切のなすべき使命は終わったとし、その垂迹の姿を捨てて、生死の苦縛を離れた自受用身の本地の振る舞いをもってあらわれる。これが、発迹顕本であり、ここでは婉曲に、このように表現されたのである。
教と観とは日月のごとし。教はあさく、観はふかし
仏法を学ぶのに二つの流儀がある。教、すなわち教相は、経文・論釈の文々句々に忠実に、客観的・科学的に、その実態を追究していく行き方である。したがって、これは論理的であり、帰納的である。それに対して、観心とは、直観的に悟達の境地を究めようとするもので、実践的であり、演繹的である。
仏は、自ら悟った法を衆生に説き示すのに、衆生の機根に応じ、当時の時代相にあわせて、教え方にも、さまざまの手段を用いる。その教えの表面にあらわれたすがたが「教相」である。悟った法自体は「心」であって、それを直接に観じようとするのが「観心」である。ゆえに、教相の面から追及するのと、観心の立ち場とは、その迫り方が全く逆になるわけである。
教相の方が、客観的であるから、大きく誤りを犯すことが少ないが、教相のみにかかわっていては、いつまで経っても、観心には達しえない恐れもある。教相も、掘り下げて、つきつめていけば、仏の悟りに迫ることはできるのであるが、その理論的な手段のみにとらわれていては、悟りそのものは得られない。なぜなら、悟りとは、理論から実践に飛び移ったところにあるからである。
逆に、観心に固執し、教相を軽んずる行き方は、思いがけない、大きな誤りを犯す恐れがある。経文の正しい指示に従わないが故に、仏の悟りとは全く違った方向に、ガムシャラに進んでしまう危険性があるからである。そうした「観心」の行き方をとって、大きく誤った例を、われわれは「経文は月をさす指にすぎない」として、我見に執し、独善におちいった禅宗に見ることができる。また、この文に仰せの恵心僧都源信も、一時、称名念仏を宣揚した誤りに走ったのであった。
教は浅くて、仏の悟りに達し得ないことが欠陥であり、観は深いが、視野が狭いので、方向を誤る危険が残るのである。
したがって、正しい仏道修行は、教観ともに兼備して、過つことなく、しかも、深く実践的に仏法の極理を体得していかなければならないであろう。
日蓮大聖人の仏法においても、これは同じことである。教相面から、正しい認識を得るための教学、観心面の深い体得をめざす行すなわち実践の両者が、車の両輪のごとく、鳥の双翼のように整い、相い助け合って、はじめて、仏法の真髄を得ることが可能となるのである。
本門寿量品の三大事
ここで仰せの本門寿量品とは、文底独一本門の意である。すなわち、そのゆえに、次下に「南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すれば」云云といわれているのである。もし、これを文上の寿量品とのみ取れば、次下の文との連係は、きわめて不明瞭となってしまうであろう。
元来、法華経の本門は、全体が、末法弘通の大仏法たる三大秘法の南無妙法蓮華経への序分であり、予言書となっている。迹門においては、舎利弗以下の声聞の弟子たち、提婆達多のごとき悪人、竜女以下の女性等々、釈迦仏有縁の人々が、次々と成仏得道していく。それに対して、本門では、在世の衆生が、本門の説法を聞いて得脱したということは、一つとして説かれていない。このことからも、本門の説法は、それ自体、釈迦在世の衆生のためではなく、また、釈迦の仏法のためでもない、滅後のため、なかんずく、釈迦の教法が力を失う末法という時に出現する、新たなる大仏法のための準備の書であることが知られるのである。
本門十四品の肝心たる寿量品も、その例外ではない。否、寿量品こそ、末法出現の法体を、もっとも核心に迫って描き出そうとしたものだったのである。したがって「本門寿量品の三大事」とは、寿量文底深秘の独一本門の三大秘法の異名にほかならないのである。
三世の諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり
南無妙法蓮華経は、成仏の究極の本種であり、一切の仏法の根源であることを宣言された御文である。
「三世の諸仏の師範」とは、過去・現在・未来の、一切の仏が手本とし規範としたものが南無妙法蓮華経であるということである。これは、時間に約して、無始の過去より無終の未来にいたる全てを含み、本果の仏界に即していわれているのである。いかなる時代に生まれようと、いかなる仏にあおうと、成仏の究極の法は南無妙法蓮華経以外にないことを知らねばならない。
「十方薩埵の導師」とは、東西南北上下等の一切の国土において、菩薩の修行の導師は、ただ南無妙法蓮華経以外にないということである。これは、空間に約して、全宇宙を包含する。薩埵すなわち、菩提薩埵とは、成仏得道を目指して修行する人で、その修行を正しく導くものは南無妙法蓮華経なのである。この大宇宙のいかなる世界、国土に生まれようと、正しい仏道修行の導師は、南無妙法蓮華経以外には断じてありえないのである。
「一切衆生皆成仏道の指南」とは、十界の一切衆生にとって、皆ひとしく成仏できるための指南は、南無妙法蓮華経の一法であるとの謂である。いかなる境涯にあろうと、あらゆる衆生が平等に救われ、成仏できるのがこの大仏法なのである。
このように、時間と空間の全てを包含し、しかも、民衆の生命的境涯の全てを総括して、ただ妙法のみが成仏すなわち絶対的幸福を得る唯一の法であることを示されているのである。三世と十方つまり時間と空間とで、物理的世界は一切含まれる。だが、同じ時間、空間の中にいても、生命的には、それぞれの境涯によって、住む世界は全く異なる。そこに「一切衆生」の一言によって、こうした生命的境涯の違いも、皆平等に包みこまれるのである。
短い、簡潔な表現をされているが、この南無妙法蓮華経こそ、究極の救済の法であることが、明快に説かれ、しかも全てを包含して余すところがない。なお〝師範〟〝導師〟〟〝指南〟と使い分けられている言葉にも、深い御配慮がうかがわれる。仏法を知らない衆生にとっては、何を目指すべきかの方向を指し示す〝指南〟が必要であり、現に仏道を求めて修行し前進している菩薩にとっては、その前進を正しく導く〝導師〟が必要である。すでに仏果を得た仏にとっては、妙法は仏としての範を示す〝師範〟である。
これを、われわれの実践に約するならば「一切衆生皆成仏道の指南」ということは、苦しみ、悩みに直面したときに、根本的解決は何に求めるべきかというと、御本尊に祈り、真剣に唱提に励むことである。「十方薩埵の導師」とは、広宣流布を目指し、民衆救済を目指す活動において、あくまで御本尊を根本の導師としていくことである。「三世の諸仏の師範」とは、御本尊を師範とし、正境として境智冥合したとき、わがこの生命は仏界に住し、仏身を成ずるということである。しかも、それは、いかなる時代であろうと、いかなる国土であろうと、いかなる境涯にあろうと、永遠に変わることのない不動の哲理であることを知らねばならない。
1116:11~1117:07 第二章 諸仏の智慧の当体を明かすtop
| 11 経 12 に云く「諸仏智慧・甚深無量」云云、 此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏・真言宗の大日如来・浄土宗の阿 13 弥陀.乃至諸宗・諸経の仏・菩薩・過去・未来・現在の総諸仏.現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて次に智慧といへ 14 り、此の智慧とは・ なにものぞ諸法実相・十如果成の法体なり、 其の法体とは又なにものぞ南無妙法蓮華経是な 15 り、釈に云く「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といへり、 其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、 1117 01 諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、 是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、 境智而二にして・ 02 しかも境智不二の内証なり、 此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり、 まさし 03 く男女交会のとき南無妙法蓮華経と・となふるところを煩悩即菩提・生死即涅槃と云うなり、 生死の当体不生不滅 04 とさとるより外に生死即涅槃はなきなり、 普賢経に云く 「煩悩を断ぜず五欲を離れず諸根を浄むることを得て諸 05 罪を滅除す」止観に云く 「無明塵労は即是菩提生死は即涅槃なり」寿量品に云く「毎に自ら是の念を作す、 何を 06 以てか衆生をして無上道に入り、 速に仏身を成就することを得せしめん」と方便品に云く 「世間の相常住なり」 07 等は此の意なるべし、 此くの如く法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事なり、 -----― 法華経方便品第二にいわく「諸仏の智慧は甚深無量なり」と。この経文にある諸仏とは、十方三世の一切の諸仏のことであり、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀仏、ならびに諸宗および諸経の仏菩薩、過去・未来・現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏の〝一言〟で説き挙げている。そして次に、智慧といっている。 この智慧とは何か。それは諸法実相、十如果成の法体である。ではその法体とは、また何か。南無妙法蓮華経がこれである。釈にはこれを指して「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といっている。 その諸法実相というのも釈迦多宝の二仏であると相伝しているのである。諸法を多宝仏に約し、実相を釈迦仏に約す。これはまた境智の二法である。多宝仏は境であり、釈迦仏は智である。境と智とは二であってしかも不二であるというのが仏の内証である。これらは非常に大事な法門である。煩悩即菩提・生死即涅槃というのもこのことである。まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。 生死の当体は不生不滅であると悟ることのほかに生死即涅槃はないのである。普賢菩薩行法経に「煩悩を断ぜず、五欲を離れず、諸根を浄めることができて諸罪を滅除する」とあり、摩訶止観の第一には「無明の塵労は即ち菩提であり、生死は即涅槃である」と説いている。 法華経の如来寿量品第十六には「毎に自ら是の念を起こす。どのようにして一切衆生を無上道に入らしめ速かに仏身を成就させることができるかと」と説き、同方便品第二には「世間の相は常住である」等と説いている。これが煩悩即菩提・生死即涅槃の意である。このように法体といっても、全く他のものではなく、ただ南無妙法蓮華経のことである。 |
諸仏智慧・甚深無量
方便品の文。「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」とある。「諸仏智慧甚深無量」とは、仏の実智を歎じている文。
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大日如来
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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阿弥陀
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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諸法実相・十如果成の法体
諸法実相とは、宇宙にあるありとあらゆる存在ならびに現象を諸法ととらえ、その諸法のありのままの姿、真実の相を実相という。十如果成は、三周の声聞が法華経の会座にいたり、はじめて仏果を開いたことをさす。
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実相の深理・本有の妙法蓮華経
天台の言葉といわれている。方便品にいう諸法実相、その実相の本体は、本門に説く久遠以来本有である妙法蓮華経そのものであるということ。諸法実相抄(1359)にもこの文を引かれ「此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり」とある。
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煩悩即菩提
九界即仏界の哲理。煩悩がなければ悟りはない。人生に悩みがあるがその悩みがなくなったところが菩提ではなく、悩みそのものが菩提である。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、生死即涅槃の同意語。
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生死即涅槃
生死とは迷い、涅槃とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、煩悩即菩提の同意語。
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生死の当体不生不滅
生死生死を繰り返していく、その当体は生じたり滅したりするものではなく、不生不滅で本より常住の当体であるということ。生命それ自体の永遠性・普遍性をあらわす。
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普賢経
曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
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五欲
五根が五塵の境に対して起こす欲望である。すなわち色欲・声欲・香欲・味欲・触欲のこと。
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無明塵労は即是れ菩提
摩訶止観第一上に「無明塵労即ち菩提なれば集として断ず可き無く……生死即ち涅槃なれば滅として証す可き無し」とある。無明とは迷いのこと、塵労とは煩悩のことで、無明も塵労も共に、妙法によってそのままの姿で菩提と開くことができることを明かした文である。御義口伝(0780)には「八万四千の天女とは八万四千の塵労門なり、是れ即ち煩悩即菩提生死即涅槃なり」とある。
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無上道
種脱相対して、無上道とは文底下種の妙法であり、無上のなかの無上である。御義口伝には「無上道とは南無妙法蓮華経是なり」(0749-第十三但惜無上道の事-02)「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり」(0727-第五無上宝聚不求自得の事-05)等とある。
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世間の相常住なり
法華経方便品第二の文で「是の法は法位に住して 世間の相は常住なり」とある。世間の相とは差別相のことで、さまざまに変化する現象をいう。生住異滅・有為転変の世界が、この妙法を根本とするとき、そのまま、常住の幸福境涯となるということ。「世間の相」とは煩悩・生死であり、「常住なり」とは菩提・涅槃の境地といってもよい。
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前章で「三世の諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてまします」と仰せられたのを、さらに具体的に掘り下げて展開されている。
この章全体をあえて区分すると、まず、その諸仏智慧甚深無量ということについて、その智慧の当体が南無妙法蓮華経であることが明かされている。これは南無妙法蓮華経が「三世の諸仏の師範」であるということと対応する。
この諸仏の智慧とは、方便品において「諸法実相」と説くのであるが、諸法実相を分けて、諸法を多宝、実相を釈迦に約す。迹門では諸法実相の理であらわしたのが、本門では二仏並座の事としてあらわされるわけである。多宝は境、釈迦は智で、この境智が二にして不二であることをあらわしている。智慧とは、境と智が冥合するところにあるわけで、釈迦・多宝二仏並座の姿は、十方の菩薩の智慧を導く導師なのである。
縁覚以下の衆生に約するなら、二仏並座即境智冥合は、煩悩即菩提・生死即涅槃の原理を意味する。法華経本門の二仏並座の宝搭の儀式を実体としてあらわしたのが、南無妙法蓮華経の御本尊にほかならない。この御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、煩悩は煩悩のままに、生死は生死のままに、菩提・涅槃と開けて、絶対的幸福境涯に住することができるのである。
煩悩を断尽するのでなく、生死を厭離するのでなく、凡夫がその身そのままで仏界を開くことができるゆえに「一切衆生皆成仏道の指南」なのであり、あらゆる衆生が平等に救われることとなる。
諸仏の智慧は甚深無量なり
爾前権教においては、仏の功徳に満ちあふれた姿を宣揚するものが多い。それに対して法華経迹門では、仏の智慧を歎ずる。ここに応仏と真仏との違いがある。真仏は智慧を表とするのである。それに対し、応仏は、その荘厳華麗な三十二相八十種好の姿をもって衆生に憧憬の心を生ぜしめる。
これは、爾前権教にあらわれる仏が、たとえば西方十方億土の極楽世界の阿弥陀仏などのように、他土の仏であることと無関係ではない。この世界は穢土であり、いかんともしがたい苦悩の世界であって、仏は、この世界にあらわれることはない。衆生も、こうした世界で救われることはなくて、他土の仏に憧れ、救いを求めれば、来世には、その浄土へ生ずることができるのみである。仏にしてみれば苦悩の世界に入って、現実を変革し、民衆を救うわけではないから、智慧は必要としない。
ところが、法華経は、この世界において民衆を救うことを大前提とする。したがって、そこには、現実を支配する苦しみ、悩み、その由って来たる生命の汚濁と、どのように対決し、これを解決していくかが明らかにされなければならない。必然的に、法華経において、仏の最大条件は〝智慧〟となるのである。
しかしながら、この方便品の「諸仏の智慧」の文の主眼は〝諸仏〟にあるのではなく、〝智慧〟にある。諸仏の智慧、すなわち諸仏の悟りの究極の法、諸仏の師範とは、いったいいかなるものなのか。――これを明らかにすることこそ最大眼目である。つまり、この智慧とは、諸仏を仏たらしめた智慧、諸仏の仏としての活動を支える源泉であり、とりもなおさず「三世の諸仏の師範」にほかならないのである。
ゆえに、天台は法華文句に、この文を釈して「仏の実智の豎に如理の底に徹することを明す故に甚深と言い、横に法界の辺を窮む故に無量と言う」といったのである。如理とは真理であり、生命の究極の本質である。
「御義口伝」、涌出品一箇の大事にいわく「此の四菩薩は下方に住する故に釈に『法性之淵底玄宗之極地』と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く『下方とは生公の云く住して理に在るなり』と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり」(0751-09)と。
ここにいう〝如理〟とは〝理〟〝真理〟と同義で、生命の根本の実体としての南無妙法蓮華経にほかならない。仏の智慧とは、万法の底にあるこの〝如理〟に徹したものであるがゆえに〝甚深〟と表現されたのである。「横に法界の辺を窮む」とは、宇宙の全体、生命のあらゆる境地を窮めつくした智慧である。すなわち、宇宙即我、我即宇宙の境涯ともいえる。これまた、宇宙それ自体が南無妙法蓮華経であり、この妙法を窮むるがゆえにその智慧は〝無量〟なのである。
いかなる時代のいかなる世界の仏にせよ、およそ、仏たるものは、全て、この妙法――南無妙法蓮華経を悟ってはじめて仏たりうる。これを知らなければ、等覚の位には到っても、妙覚の仏ではありえない。爾前権教では、一言で仏とはいっても、それぞれ異なった法を持ち、それぞれに異なった智慧をもつように説かれてきた。それを、この法華経方便品の文は、一切の諸仏に通ずる、仏としての資格の原点というべき〝智慧〟があることを明らかにしているのである。
その智慧の内容を方便品では〝諸法実相〟と明かすわけであるが、この諸法実相とは何かを辿っていったとき、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経こそ、その永劫の実体であると結論されるのである。「釈に云く」の「実相の深理・本有の妙法蓮華経」は、天台の言葉であるが、迹門方便品にいう諸法実相の〝実相〟は、その本体は本門寿量品の〝本有の妙法蓮華経〟であるとの意である。〝本有の妙法蓮華経〟とは、その体、文底深秘の南無妙法蓮華経であるから、諸仏智慧とは諸法実相の法体であり、それが南無妙法蓮華経であるとの仰せを明確に裏付けているのである。
諸法実相と云うも釈迦・多宝の二仏とならうなり
迹門で諸法実相の理として説かれたものは、本門においては釈迦・多宝の二仏として実相にあらわされているのである。ここに、迹門は理を説いたのに対し、本門はそれを事によってあらわしていることが明白である。
次下の文に「諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す」とあるように、諸法・実相を仏身に約して示したのが、釈迦・多宝の二仏なのである。「諸法実相抄」を拝すると、諸法とは「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体」(1358-01)とも「法界のすがた」また「万法の当体のすがた」(1359-04)等と説かれている。実相とは「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり」(1359-03)である。
これは、多宝如来が何のために出現したかを経文によって見ると、明らかである。多宝の出現は、まず、迹門に焦点をおいてみれば、迹門における釈迦の所説を「皆是れ真実なり」と証明するためである。これを「証前の宝搭」という。すなわち、多宝の存在は、客観性を意味するのであり、釈迦の説を客観的に裏付ける意義をもつ。一方、諸法実相において、諸法とは前述のように「万法の当体のすがた」であり、客観的にあらわれた姿である。故に、多宝は〝諸法〟に対応する。
釈迦は説法する智慧の当体であり、その所説の極理である妙法蓮華経そのものをあらわす。ゆえに、釈迦は、諸法実相の〝実相〟に対応するのである。
また、以上のことから、多宝は境=客観性、釈迦は智=主観性となることも、明瞭に理解されよう。多宝の証明が終わって、宝搭の扉が開き、釈迦と多宝の二仏が並座する儀式は、本門の説法に入る序分であり、これを「起後の宝搭」という。この二仏並座は、境智冥合を意味し、すでに、境智冥合したところの奥にある法体、すなわち文底深沈の南無妙法蓮華経の根本義をここに示すのである。
この釈迦・多宝二仏並座に象徴される法華経本門の説法は弥勒等の菩薩を対告衆とする。したがって「是れ又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にして、しかも境智不二の内証なり」の段は、先の「十方薩埵の導師」という一文に対応する内容を持つと考えることができよう。
煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり
煩悩即菩提とは、煩悩すなわち九界の生命に必然的に具って起こってくる悩みが、妙法に縁することによって、即、菩提となるということである。菩提とは、仏の正覚の智慧の意である。生死即涅槃とは、九界の生命の苦しみである生老病死の四苦が、妙法の力によって、即、不生不滅の法性を証験した解脱の境地に転ずることである。
本来、爾前権教においては、菩提の智火は煩悩の火を滅してはじめて得られるものであり、涅槃の大海には生死の苦海を逃れてはじめて入ることができると説かれてきた。しかるに、菩提は煩悩あっての菩提であり、涅槃は生死が即涅槃になるのだと説いたのが法華経の哲理なのである。
ところで、ここで問題は、なぜ諸法実相、また境智不二の法理が煩悩即菩提、生死即涅槃になるかということである。この点について明らかにしておきたい。
諸法実相とは、すでに述べたように「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体」(1358)がそのまま妙法蓮華経の姿であるということである。すなわち、九界即仏界の法理をあらわす。ゆえに、九界の煩悩が即、仏界の菩提となるのである。また、九界の生死の境地が即、仏界の涅槃の境涯になるわけである。
次に、境智冥合の原理についてみると、これは、そこに、より実践的な要素を加味しなければならない。つまり、妙法の正境に縁したとき、自身の内なる妙法が境智冥合して開発し顕現して、わが身も妙法の当体となるのである。このゆえに、九界の身そのままで、内に妙法が開覚することにより、煩悩即菩提、生死即涅槃となるのである。
「男女交会のとき」とはいうまでもなく夫婦生活のことである。すなわち三界六道のありのままの姿であり、その煩悩・生死の姿そのままで、ただ南無妙法蓮華経と唱えるときに、煩悩は即、菩提と転換し、生死の苦しみは即、涅槃と開けることを教えられたものである。
次に引かれている普賢経の文、摩訶止観の文、また、寿量品、方便品の文も、みな、この衆生の煩悩が即、菩提となり、生死が即、涅槃となるとの原理の証明として示されているのである。したがって、真実の妙法、南無妙法蓮華経の大仏法は、九界の衆生が、そのありのままの生命活動を抑制したり歪曲したりすることは全く不必要であり、最も自然の姿で、日常活動のなかに実践し、しかも開覚していくことができることになる。先の章で述べられているように「一切衆生皆成仏道の指南」たる所以は、まさにここにある。
生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり
生死即涅槃といっても、生老病死の四苦そのものがなくなるわけではない。永遠の生命を覚知した仏といえども、生老病死の諸相を現ずるのが道理である。では、仏といっても九界さらには三界六道の迷いの衆生と変わるところがないのか。
否、である。生死は生命が本然の変化として現ずるもので、その生死を繰り返す当体としての生命そのものは、生ずるものでもなければ滅することもない、永遠不変の常住の実体である。その不生不滅の当体を覚知しているのが仏で、九界の衆生は、ただ現象のうえで生じたり死んだりする姿しか見ない。
これは、譬えていえば、目を開けて前方に何があるのかと見極め、今歩いている道がどこに通じていくかを知って進んでいくのが仏の境地である。それに対して、迷いの衆生は目を塞がれている状態である。一歩先がどうなっているかもわからず、したがって、今にも崖から落ちるのではないか、壁にぶつかるのではないか等と、不安に怯えながら進んでいくことになる。あるいは、また、明日を知って今日を生きるのと、明日を知るすべもなく、今日を生きるのとの違いともいえよう。
ともあれ「生死の当体不生不滅とさとる」か否かということは、わずかの違いといえばわずかである。だが、生きていくうえでの確信、英知、希望等々、その人の生命の状態は天地雲泥の違いがあるといわなければなるまい。
1117:07~1117:13 第三章 法華誹謗の業因を示すtop
| 07 かかる・いみじく・ 08 たうとき法華経を過去にてひざのしたに・をきたてまつり或はあなづりくちひそみ、 或は信じ奉らず、 或は法華 09 経の法門をならうて一人をも教化し法命をつぐ人を悪心をもつて・とによせ・かくによせ・おこつきわらひ、 或は 10 後生のつとめなれども先今生かなひがたければ・しばらく・ さしをけなんどと無量にいひうとめ謗ぜしによつて今 11 生に日蓮種種の大難にあうなり。 -----― このような非常に尊い法華経を過去において、膝の下に置いたり、あるいはあなどり、苦々しげに口をゆがめ、あるいはこの経を信じなかった。あるいは法華経の法門を習い一人の人でも教化して、法の命を継ごうとする人を、悪心をもって何かにつけて愚弄し嘲笑したりした。あるいは後生の大事なつとめではあるけれども、まず今生は叶いがたいので、しばらく止めておけなどと際限のないほど忌み嫌った。このように法華経を謗じたことによって、今生において日蓮は種々の大難にあうのである。 -----― 12 諸経の頂上たる御経をひきくをき奉る故によりて 現世に又人にさげられ用いられざるなり、譬喩品に「人にし 13 たしみつくとも人心にいれて 不便とおもふべからず」と説きたり、 -----― 諸経の頂上である法華経を低く置いた罪で、現世において、人に卑しめられ用いられないのである。法華経譬喩品第三に「人に親しみ近づいても、その人は心にかけて不便に思ってくれないであろう」と説かれている。 |
くちひそみ
正法を持つ者に対して、顔をしかめたり、眉をひそめたりすること。
―――
教化
教導・化益すること。衆生を教え導き、衆生に利益を与えること。開化・施化と同義。
―――
法命
① 仏法の命脈。仏法の伝統。②僧侶の寿命 。③「慧命 。
―――
おこづきわらひ
「おこづき」は調子にのっておどけること、ばかにすることで、「痴付き」「烏滸付き」とも書く。「わらひ」は、この場合、嘲笑すること。
―――
譬喩品に「人にしたしみつくとも……」
これは、法華経譬喩品第三の「貧窮下賤にして 人の使う所と為り 多病痟痩にして 依怙する所無く 人に親附すと雖も人は意に在かじ」を取意して、わかりやすく示されたものである。
―――――――――
日蓮大聖人が今生に、妙法流布の戦いにあたって、このように種々の大難にあっているのは、過去に、この偉大な妙法を誹謗し、この妙法の持者を馬鹿にした報いであると述べられている段である。
末法の御本仏であり、久遠元初の自受用報身如来である大聖人が、なぜ自らの過去をこのようにいわれたのか。いうまでもなく、これは、示同凡夫のお立ち場である。末法の三毒強盛の衆生に対しては、釈迦仏法のように、三十二相八十種好の荘厳な姿で、大衆とは別の次元に居て、それで衆生を教化することはできない。自らも、人々と同じであることを示し、大衆の中に入って、その平等の立ち場の上で、法を説くときにはじめて目覚めさせていくことができるのである。
もし、仏が一般衆生とは違った、特別な姿であったら、衆生は「仏とは我々と違うものであり、自分たちはとうてい仏になぞなれない」としか思えないであろう。仏の教化の目的は、仏を特別な存在として、これに憧れさせることや、畏敬(いけい)の心をもって従わせることにあるのではない。寿量品にあるように「いかにして衆生をして……仏身を成就することを得せしめる」かが目的であり、課題なのである。それには、衆生が、自分たちも仏になれるのだという気持ちをもたなければならない。ゆえに、仏は、凡夫と同じ姿を示してあらわれるのである。
いま一つ、この文によって示されていることの大事な点は、仏法の因果の理法の厳しさである。爾前権教では、たとえば心地観経に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」と説き、今生において受ける、さまざまの苦しみには、それぞれ過去の悪業が原因していると説く。今生に貧乏するのは、過去の盗みの報いである等々である。
これに対して、大聖人がここに示されているのは、全て、過去に妙法を誹謗した等の悪業の報いということである。それは、大聖人が今生においてあらわれている難は、全て妙法を受持し弘めるために起こったもので、「世間の失は一分もない」ということと対応する。法華経のゆえに苦しみにあうのは、法華経ないし法華経の行者を過去に誹謗したという悪業があるからである。
ところで、このように、御自身の立場では「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」の原理で、現在の姿を基準に過去を論じられているのであるが、この御文を、大聖人を迫害している民衆、権力者の立場に約すと、そのまま、未来への厳しい警告を秘めていることが理解される。すなわち「未来の果を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」で、いま、大聖人を軽蔑し、憎み、いじめている人々は、必ず未来において、種々の苦悩を受けることをまぬかれないのである。そうした全衆生に対する警告の意味も、この御文は包含していることを忘れてはなるまい。
1117:13~1118:07 第四章 金吾夫妻の信心を激励するtop
| 13 然るに貴辺法華経の行者となり結句大難にも 14 あひ日蓮をもたすけ給う事、 法師品の文に「遣化四衆・比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と説き給ふ此の中の優婆塞とは 15 貴辺の事にあらずんば・たれをかささむ、 すでに法を聞いて信受して逆はざればなり不思議や不思議や、 若し然 16 らば日蓮・法華経の法師なる事疑なきか、則ち如来にもにたるらん行如来事をも行ずるになりなん。 -----― ところがあなたは、法華経の行者となり、ついには大難にもあい、日蓮をも助けて下さった。法華経法師品第十の文に「化の四衆、すなわち比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を遣わして」と説かれているが、このなかの優婆塞とは、あなたのことでなければ、誰のことをさすのであろうか。なぜなら、あなたは、すでに法華経を聞いて信受し、違背するところがないからである。大変不思議なことである。 もしあなたが法師品の優婆塞であるならば、日蓮は法華経の法師であることは疑いないといえまいか。経文に説かれる「則ち如来の使」にも似た資格をもち、その行動は「行如来事」を行じていることになるであろう。 -----― 17 多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の 18 御使いか、 貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ是れ豈流通にあらずや、 法華経の信心 1118 01 を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉 02 中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、 あしき名さへ流す況やよき名をや 何に況や法華経ゆへ 03 の名をや、 女房にも此の由を云ひふくめて日月・両眼・さうのつばさと調ひ給へ、日月あらば冥途あるべきや両眼 04 あらば三仏の顔貌拝見疑なし、 さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ばん事・須臾刹那なるべし、 委しくは又又申 05 べく候、恐恐謹言。 06 五月二日 日蓮花押 07 四条金吾殿御返事 -----― 多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのである。このことはすなわち、日蓮は上行菩薩の御使いといえるのではないか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人にこの法を話されている。これこそ法華経流通の義ではないか。 法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。 人は悪名でさえ流すものだ。まして善き名を流すのは当然である。ましてや法華経のゆえの名においてはいうまでもない。 夫人にもこのことをいいふくめて、日月、両眼、双の翼のように、二人がしっかり力を合わせていきなさい。日月が共にあるならば、冥途の闇のあるはずはない。両眼があれば、釈迦、多宝、十方分身の三仏の御顔を拝見できることは疑いない。双の翼があれば、寂光の宝刹へ飛ぶこともほんの瞬間である。委しくは、またまた申し上げる。恐惶謹言。 五月二日 日 蓮 花 押 四条金吾殿御返事 |
遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷
法華経法師品第十にあり、仏は比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆を遣わして法師を供養せしめ、法を弘通せしめるとある。法師品の長行には「薬王よ。我れは余国に於いて、化人を遣わして、其れが為めに聴法の衆を集め、亦た化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして、其の説法を聴かしめん」とあり、同じく法師品の偈には、「我れは化の四衆、比丘比丘尼、及び清信士女を遣わして、法師を供養せしめ、諸の衆生を引導して、之れを集めて法を聴かしめん」とある。この〝清信士〟が優婆塞になり、〝清信女〟が優婆夷にあたる。比丘、比丘尼は出家の僧と尼。優婆塞、優婆夷は在家の男女の信者。
―――
行如来事
如来の振舞を行ずるということ。
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上行菩薩
法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。
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流通
承通分のこと。その内容的な意義について分析する場合、大きく序分・正宗分・流通分の三段に分ける。序分とは、中心眼目をあらわすための前置き、準備段階、正宗分とは、正論、中心眼目となる部分、流通分とは、正宗分に説かれた哲理・法理を、時機にしたがって応用し、流れかよわしめること。
―――
冥途
冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。
―――
三仏
①法身仏・報身仏・応身仏のこと。爾前の諸経では三仏が別々に説かれる。(蔵教の仏は、初地以前の凡夫二乗に対して応現する列応仏で、八相成道の仏、一丈六尺の仏身、老比丘の相をしている。通教の仏は、初地以上の菩薩に対して応現する勝応身の仏、他受用身ともいう。別教の仏は蓮華蔵世界七宝菩提樹の下大宝華王座に座し、円満の報身仏)法華経迹門では方便品第二の十如実相に約して、三身即一身の仏が説かれる。ここではまだ三身常住は説き明かされず、法華本門に至って、初めて久遠五百塵点劫以来の三身常住の仏が説き明かされた。この寿量品の仏といえども、五百塵点劫という過去の限界がある。文底独一本門の仏は、久遠元初自受用無作三身如来である。②釈迦仏・他方仏・十方分身の仏のこと。
―――
寂光の宝刹
仏の住する世界のこと。
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須臾刹那
須臾も刹那もともに瞬間のこと。
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四条金吾の一層の信心の自覚と成長を、さまざまな角度から、懇切に指導し、激励されている。まず、大聖人との関係について焦点をあてて述べられ、次に、社会との関係、最後に夫妻の関係に言及して、信心実践のあり方を示されるのである。
大聖人との関係は、いうまでもなく、信仰の根本の拠りどころの問題である。大聖人が入滅されて久しい今日といえども、さらに万年尽未来の先までも、御本尊と自分、大聖人のお教えと自分の人生という問題として、仏法を信じ実践する者にとって、中核の問題である。
対社会の問題は、ここでは「鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生」といわれているが、対地域社会ともいえるし、対職場社会、対専門分野等々ともいえよう。ともあれ、現に自分が生き、活動しているその社会で、法華経ゆえの名を流していきなさいとの仰せである。もとより、それは、当初は悪口憎言であるかも知れない。だが、真にその社会にあって、人間として立派に生き、妙法の哲理を実証し、人々を救いきっていくなら、必ずやそれは称賛の言葉となることは疑いない。「うたはれ給へ」とは、悪い名としてではなく、妙法ゆえの最高に善き名として、人々の口に伝えられていくことを、このようにいわれているのである。
さて、このように、大聖人につききっていくためにも、また、社会の中で活躍していくためにも、大切なのは、家庭の中の支えであり、とくに夫妻が心を一つにしていくことである。家庭は人間として生きていくための最も現実的な、物心両面にわたる支えであり、原動力である。夫妻が、同じ目的に向かい、同じ自覚に立って支え合い、励まし合っていかなければ、仏法を求めていくといい、社会に活躍していくといっても、やがては破綻し崩れてしまうものである。これは、卑近ではあるが、それだけ重要な問題である。身近なことが、人間の心を直接的に支配するからである。
法師品の文に「遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷」について
四条金吾は、常に大聖人の御身を心配し、はるばる佐渡の地へも自ら赴いたり、あるいは使いを出して、種々の物を御供養申し上げている。また、大聖人もおられず、おもだった出家の弟子たちも牢につながれたり、追放されたりしている鎌倉にあって、四条金吾は鎌倉在住の信徒の文字通りの中心者であった。多くの人に仏法を聴かしめていたであろう。
このように法師品の文の示すところが、そっくり今の四条金吾の実践に合致するがゆえに、この法師品の優婆塞とは、四条金吾のことでなくて誰をさすだろうかといわれたのである。
いうまでもなく〝法師〟とは日蓮大聖人である。南無妙法蓮華経の大法の師であり、人法一箇の仏である。四条金吾の大 聖人に対する関係は、今にはじまった偶然的なものではなく、法華経の法師品に明確に説かれている、深い因縁のものであり、ひいては久遠の契りなのだという意義をこめて示された御文であろう。
この「優婆塞」の自覚は、ひとり四条金吾に限るものではなく、末法万年尽未来にわたる、妙法の信徒の自覚でなければならないことは、いうまでもない。と同時に、我々は、この経の文から〝よき信者〟としての基本条件をしっかり胸におさめていかなければなるまい。
すなわち「法師を供養せしめ」とは、唯一の令法久住かつ広宣流布の団体、現今の僧宝である創価学会を厳然と守り、その発展に寄与することであり、個人の生活に約していえば、日々、御本尊に給仕し、勤行をすることともいえよう。「諸の衆生を引導して、之れを集めて法を聴かしめん」とは、民衆の中にあって、庶民の指導者として依怙依託となり、さらに妙法を聴かしめ、妙法に結縁せしめることである。
「則如来使」にもにたるらん、「行如来事」をも行ずるになりなん
法華経の法師品第十に「我が滅度の後、能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」とある。
ここで「法華経の乃至一句」とは、七文字の法華経たる南無妙法蓮華経に他ならない。一往、外用の辺においていうならば、大聖人は、上行菩薩として釈迦より付嘱を受けて、末法に南無妙法蓮華経の法を説かれるのである。この上行菩薩としての立ち場が「如来の使」「如来の所遣」ということになる。
「使い」「所遣」とは、その使いを出した当人に代わって、それと同じ権利を行使するものである。一国の大使や公使、あるいは特使は、自国政府ならびに国民に代わって、その国家意思を代弁して交渉ないし契約するのである。「如来の使」「如来の所遣」ということも、これと同じことである。「如来の使」であるということは、即「如来の事」を行ずるのである。
この文において、大聖人は「如来の使遣として如来の事を行ずる」ということを通し、御自身が、一往外用の辺では「如来の使」たる上行菩薩であることを示されるとともに、再往内証(さいおうないしょう)の辺では、末法の世における如来そのもの、すなわち、末法救済の仏としての自覚を述べられていると拝すべきであろう。
是れ豈流通にあらずや
仏法において大事なのは、いかに法を民衆の間に流通するか、また後の時代にまで令法久住せしめるか、である。釈迦の場合、法華経の文々句々、さらには一代の経々の全てが、ある意味では滅後の流通のためであったといえる。ゆえに、滅後の弘通を誰がするかというとき、釈迦は、弥勒・文殊等の迹化の菩薩を斥けて、本化地涌の菩薩にはじめて法を付嘱したのである。
大聖人の場合も、幕府権力の弾圧による激動の戦いの中に、民衆の間に妙法を説き、幾多の著作を通して後世のために理念を遺し、さらに、門下の育成に全魂を傾注されたのである。ゆえに、この文の上の文に「貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ」とあるように、この仏法を流通することの尊さを強調されているのである。
いかなる時代にあっても、妙法を受持した者として絶対に忘れてならないことは、この清浄無垢の法水を、いかに民衆の間に、後世のために流通せしめるかということである。したがって、法水を正しく流通することは、仏の弟子として、最も尊く、誇りある任務であり、逆に、法水の流れを滞らせたり、濁らせることは、最も罪深い行為と知らなければならないであろう。
強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ
妙法を受持した人は、現実の社会にあっても、最高に人から讃嘆され、慕われる、人生の勝利者でなくてはならないとの御文である。またそうした現実社会での、人間としての勝利の実証を示すことが、妙法の正しい実践の姿であるとの御文と拝すべきである。
法華経の信仰は、現実の社会で人間として生きていくさまざまの営為と離れたところにあるのではない。正しい信仰は正しい人間としての姿の中にあらわれる。信仰は即生活とあらわれ、生活の根底に信仰があるのである。信仰は立派であるが、人間としては感心しないというのは、その信仰自体が歪んでいることを知らねばならない。逆に、人間としていかに立派に、正しく生きていこうとしても、根底に正しい信仰がなければ、それは、必ず挫折してしまうものである。
信仰は一切の根底であり、人格の骨格であり土台である。だが、表面にあらわれてくるものは、人間としてのあり方、人格であって、骨格や土台は、表からは見えない。ただし、見えないけれども、それが、どれだけしっかりしているかによって、一切が決まってくるを知らなければならない。
女房にも此の由を云ひふくめて、日月・両眼・さうのつばさと調ひ給へ
夫婦がそろって、信仰に生きぬくことの大切さを述べられた御文である。およそ、家庭は、人間にとって、生活の基盤であり、社会に活躍していくうえでも重要な足場である。
すでに述べたように、真実の仏法の実践は、現実の生活、人生を離れたところにあるのではない。いかにして、自分自身を変革し、自己の家庭を向上させ、ひいては、この社会を変革していくかが大事である。その現実との対決を忘れては仏法はないといっても過言ではなかろう。
そうした、きわめて現実的な人間性の絆と、死後永劫の幸福、寂光の宝刹あるいは三仏の顔貌拝見という、高邁な理想とのギャップをどう考えるか。――この現実と理想を一体として示されたのが、この御文ともいえよう。いいかえると、この現実を背負い、この現実を変革しない限り、死後永遠の幸福、成仏の理想境涯ということも叶わないということである。否、この御文は、それをさらに進めて、重荷であり、煩悩の種であり、絆であった夫婦であったとしても、実は死後の暗黒を照らす日月であり、三仏の顔貌を拝見する両眼であり、寂光の宝刹へ須臾に飛ぶための翼であると明かされているのである。
このことは、夫婦という問題のみに限ることではない。現実社会の中で自分が負っていかねばならない種々の責任――職業や公的役目等々、あるいは自己の人間的な特質などについてもいえる。それらのものを、妙法のために生かし、人々の幸福と社会の繁栄のために最大に価値を発揮させていったとき、すべての煩悩は、即、菩提となり、一つ一つの苦労や努力が、永遠に崩れない福運の根源となっていくのである。
「日月あらば」以下の文は、死後の世界に約しての仰せであるが、現実のこの人生についても、そのまま当てはまる。「日月あらば冥途あるべきや」とは、日々の生活を最高に希望をもち、確信をもって、乱舞しながら前進していけるということである。「両眼あらば三仏の顔貌拝見疑なし」とは、最高に英知を発揮し、歓喜しながら、一日一日を生きていけるということである。「寂光の宝刹へ飛ばん事・須臾刹那なるべし」とは、生活革命し、その住する境遇の一切が功徳に満ちあふれた幸せの境涯になるということといえよう。
1116~1118 四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)2014:06大白蓮華より先生の講義top
我が身との、我が人生に輝く妙法の果徳
6月は、我らが創価の父・牧口常三郎先生の生誕の月です。86年前の1928(S03)、57歳で信仰の道を歩み始めた牧口先生は、その時の心情を、後日、次のように綴られています。
「一大決心を以ていよいよ信仰に入って見ると、『天晴れぬれば地明かなり、法華を知る者は世法を得可きか』との日蓮大聖人の仰せが、私の生活中になるほどと肯かれることなり、言語に絶する歓喜を以て殆ど六十年の生活法を一新するに至った」
“すべての子供の幸福を実現する教育を”と学問の探究を続け、思索と行動を重ねられた果てにたどり着かれたのが、日蓮仏法でした。ここに引用されている「観心本尊抄」の一節に明らかなように、大聖人の仏法は森羅万象を貫く根源の法であり、古今東西の哲学思想を見晴らし、リードする宗教です。苦難の暗雲を払い、人生を燦然と輝かせ、社会で堂々と勝ち光るための「太陽の仏法」です。
牧口先生にとっても、まさに、それまでの「生活法を一新」されるほどの、喜びに満ちた人生の大きな転換点となりました。先生は続けて、仏法の実践によって、「暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、畏れることが少なくなり」、そして「大胆なる念願」の実現へ踏み出したと述懐されています。
所願満足の大歓喜の生涯を
この「大胆なる念願」こそ「創価教育学体系」の誕生に他なりません。
これが真実の信仰を持つ喜びです。
生老病死の苦悩を打ち破り、人々の生命に幸福な境涯を確立し、所願満足の人生を送りゆく光源こそ、日蓮大聖人の仏法です。
今、私のもとには、全国、全世界の会員から「弘教が実りました」「友人を入会に導きました」「共々に幸福の人生を歩みます」「友の成長を祈っていきます」等々、喜びと決意に漲る報告が毎日、届いています。尊き同志から勝利の報告ほど、うれしいものはありません。そのドラマを伺うたびに、私の胸は熱くなります。
同時に、各地で陸続と誕生している新会員の友の声も爽やかに響き渡っています。それは、さらに新たな友の心をも揺さぶっていくに違いありません。信心の歓喜こそ、拡大の源泉です。
戸田先生は力強く語られました。
「御本尊様を受持した暁には、果徳が厳然と現れる。宿命の転換、貧乏、病人、家庭の悩み等、いっさいの人生の苦を解決することは、絶対に疑いない事実である」
最高峰の妙法を受持した人は、必ず現実の生活と社会で勝っていけます。最高の人生を勝ち開いていくことができるのです。
今回は四条金吾に与えられたお手紙を拝しながら、この一生で妙法の果徳は厳然と現しゆく「信心の実践」そして「人生と仏法」について、共々に学んでいきたいと思います。
| 1116 四条金吾殿御返事 文永九年五月 五十一歳御作 01 日蓮が諸難について御とぶらひ今に.はじめざる志ありがたく候、法華経の行者として.かかる大難にあひ候は・ 02 くやしくおもひ候はず、 いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、 又三悪・四趣にこそ候 03 いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候。 -----― 日蓮があった種々の大難について御見舞下さり、前々より変わらないあなたの志ありがたいことである。 法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しくは思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また三悪道・四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。 |
大難をも「よろこばしく候」と
大聖人は末法の全民衆の救済のため、「万人成仏の法」である南無妙法蓮華経の題目をあらわされ、文字通り命を賭して弘通されました。民衆を不幸に陥れる一切の魔性と戦われたがゆえに「諸難」が次々と起こった。とりわけ文永8年(1271)には、幕府権力からの弾圧で竜の口の頸の座に臨まれ、その後、当時では死罪にも等しい佐渡流罪になりました。本抄は、その佐渡で認められ、四条金吾に与えられたお手紙です。
金吾は鎌倉の中心的な門下であり、竜の口の法難の際には、自身の命を顧みることなくお供しました。流罪中にも自ら佐渡まで馳せ参じております。さらに、使いを大聖人のもとに送っています。
いうまでもなく、その陰には、夫を送り出した日眼女の決定した信心がありました。
大難が起きた時こそ、誰が真の信仰者か、本当の弟子が明らかになります。
一心に師匠を求め、師匠をお守りしようと行動した弟子・金吾の信心を、大聖人がいかばかりか喜ばれたことでしょう。「前々より変わらない弟子の志が、本当にありがたい」
大聖人は、その率直な御心情を綴られています。
それとともに、大聖人は御自身に競い起こった大難については「悔しいとは思わない」「これほどすばらしい果報の生死はない」と御断言なさっています。
さらには「生死の苦しみを断ち切り、仏の果徳を得られる身となったことが喜ばしい」とまで仰せになっているのです。
すべては経文通りであり、どれほど非難され、どれほど迫害されようとも、それこそ身命に及ぶ大難に遭われても、大聖人は「喜び」として悠然と乗り切られました。これが御本仏の御境涯です。
どうじにこれは、大聖人が示してくださった、人間としての「最高の生き方」であり、「最高に尊い人生」であると拝したい。
「絶対的幸福境涯」の確立を
人生とは、ある意味で苦難の連続です。悩みのない人生などありえない。しかし、何も苦しみがないのが幸福なのではありません。
どんな苦しみや悩みをも乗り越え、喜びに変えられる、その境涯に幸福は燦然と輝きます。確かな人生の充実があるのです。いかなる逆境にも屈せず、常に前進への価値を創造する。永遠に消えない「心の財」を積みながら、よりよき大満足の人生を実現していける。そのための仏法です。
「生きていること自体が楽しい」という「境涯」のことを、戸田先生は「絶対的幸福の境涯」と言われました。
戸田先生は、このように語っています。
「幸福には絶対的幸福と相対的幸福の二つがある。絶対的幸福を得ることが得ることが人生の楽しみであり、人間革命である。すがすがしい信心こそ、断じて幸福になれる秘訣である。信じきって折伏しなさい。
大聖人が示された「仏の果徳」、すなわち「絶対的幸福の境涯」を現代において、各人が広々と開いてきたのが、創価学会です。
その出発点は、牧口先生と戸田先生の師弟にあります。両先生は信教の自由を護るために戦い、1943(S18)年7月に軍部政府によって逮捕され、投獄されました。しかし、恐れや悲愴感など、微塵もありませんでした。
牧口先生が、獄中から家族に宛てたお手紙には、「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」「何の不安もない。必ず『変毒為薬』となると存じます」等と綴られています。
そして看守や取り調べの検事に対しても、価値論を説き、宗教の正邪を論じ「立正安国」の精神を訴えられたのです。当時の看守などの関係者の なかには、両先生の信念の師子吼が種となって、後に入会した人もいます。
また戸田先生は、殉教された恩師の三回忌の折に「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」とまで、厳かに語られました。
これが、いかなる厳しき迫害にも決して屈しない、創価の初代、2代の偉大なる大境涯です。そしてまた、生死を超えた仏法の峻厳な師弟なのです。この偉大な創価の源流があればこそ、今があります。
| 09 今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは 10 一重立入りたる故なり、 本門寿量品の三大事とは是なり、 南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如 11 し、されども三世の諸仏の師範・十方薩タの導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり、 -----― 今、日蓮が弘通する法門は狭いようではあるが、実は甚だ深いのである。その理由は彼の天台・伝教等の弘通された法門よりは、さらに一重立ち入っているからである。法華経の本門寿量品の三大事とはこのことなのである。 南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いようである。しかしながら、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生が皆仏道を成するための指南であるから、最も深いのである。 |
南無妙法蓮華経こそ成仏の根本法
続いて、大聖人が身命を賭して、民衆救済のために説かれてきた法門は何であるかについて教えられています。
まず結論として、「大聖人が弘通される法門は狭いようだが、実は甚だ深い。それは、天台や伝教が弘めた法よりも一重立ち入っているからである」と仰せです。
天台は八幡法蔵といわれる膨大な釈尊の教えを吟味し、法華経こそが釈尊の真意を説いた肝要の教えであり、その法理に基づく観心の実践を一念三千の法門として説き示しました。伝教もその天台の教えを日本に伝え、法華経の実践を宣揚しました。
大聖人は、そこからさらに一重深く、法華経寿量品の根底に秘沈されている、要中の要である成仏の根本法を取り出されたのです。
その法とは「本門寿量品の三大事」、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経こそが三世十方の諸仏の成仏の根本法であり、一切衆生の仏性を開く根源の仏種です。
もともと、万人の生命には成仏の因となる仏性が厳然と具わっています。しかし私たち凡夫は、無明という生命の迷いに覆われていて、本来の輝きを発揮することがない。
そこで妙法を持つ者の下種、すなわち妙法を語り聞かせ、仏の種を相手の心田に植えていくことで、その相手の生命を触発し、本来具わっている仏性を呼び覚ましていくことができるのです。
このように、大聖人は末法における修行の方途として、南無妙法蓮華経の「七字」を唱え弘めるという、事行化他の実践を確立されました。難解な経典を全部読誦する必要も、幾多の法理を究め尽くす必要もありません。「七字」の題目の実践です。末法万年にわたって、万人が実践できる法なのです。
南無妙法蓮華経の題目は「七字」ですので、ある一面では「狭い」法門に思えるかもしれない。しかし、広大無辺な仏法の要の中の要です。広大な教えを生み出す源であるがゆえに簡潔なのです。しかも、その内実がどれほど深い法門であるのか、その理由を、大聖人は三つの視点から教えられています。
第一に「三世諸仏の師範」とは、過去・現在・未来の一切の仏も、南無妙法蓮華経に出あい、その根本法を規範規範とすることで成仏できるということです。
第二に「十方薩埵の導師」、とは、東西南北上下等の一切の国土において、人々を救いながら仏を目指す菩薩の修行を導くものは、南無妙法蓮華経しかないということです。
そして第三に「一切衆生皆成仏道の指南」とは、十界の一切衆生にとって、皆が等しく成仏できるための指南が、南無妙法蓮華経であるということです。
つまり、一切の仏・菩薩が師と仰ぎ、万人を成仏へと導く根本法が南無妙法蓮華経であり、いかなる法よりも「深い」ほうもんなのです。
人生と生活を変革する仏法
この法門が、凡夫の我が身に、成仏の果徳を現するというのは、現実の人生のなかで、どういうことなのか、そのことを教えるために、大聖人は後段の御文で「此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり」(1117-02)と仰せです。万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経の実践のなかに、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理が包含されているということです。
「煩悩即菩提」とは、煩悩による迷いに支配されている衆生の生命に、成仏のための覚りの智慧が現れることです。また「生死即涅槃」とは、生死の苦しみに翻弄されている衆生の身に、仏が成就した真の安楽の境地が顕現することです。
ここで「即」とは「煩悩」と「菩提」など、正反対の概念を、単なる「イコール」で結ぶものではありません。「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(732-第一化城の事-05)示されているように、」妙法を唱え、妙法に生き抜いて、我が身の上で、迷いを悟りへと転じ、生老病死の苦しみの束縛を常楽我浄の自在の境涯へと転じていくことです。これ以上ない、ダイナミックな実践論であり、究極の希望の大哲学ではないでしょうか。
わが尊き学会同志は、現実と人生としゆくを変革しゆく、「万人成仏」この大法を既に持っているのです。
人生の目的とは何か
戸田先生はよく、「人生の目的」ということを教えられました。
私たちは、「一年の計」とか、就職とか、結婚、住居など、これから先の幸福を願って生活の目的を立てます。戸田先生は、「もちろん、こうしたことは、生活していくうえのそれぞれの目的に違いはないが、最高の目的からみれば、それ以下のことは、全部手段になってしまうのだ。逆にいえば、終局の目的がなければ、正当な手段も立ちようがないものである」と言われました。
人生の究極の目標と、途上でのさまざまな課題、この両者は異なります。最高にして究極の目的とは、広宣流布という大事業にほかなりません。成仏の大法たる南無妙法蓮華経を持ち弘めることは、究極の幸福を自他共に分かち合うことです。人生の目的を定めることで、途上の課題は全て、最高の善の方向へ生かされていきます。大願に生き抜くことで、一切を全て、創造の源泉に変えていける。これが、真の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」ではないでしょうか。
この「人生と仏法」の大道こそ確かな幸福の軌道であることを、無数の同志が誇りも高く証明してきました
| 13 然るに貴辺法華経の行者となり結句大難にも 14 あひ日蓮をもたすけ給う事、 法師品の文に「遣化四衆・比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と説き給ふ此の中の優婆塞とは 15 貴辺の事にあらずんば・たれをかささむ、 すでに法を聞いて信受して逆はざればなり不思議や不思議や、 若し然 16 らば日蓮・法華経の法師なる事疑なきか、則ち如来にもにたるらん行如来事をも行ずるになりなん。 -----― ところがあなたは法華経の行者となり、ついには大難にもあい、日蓮を助けて下さった。法華経法師品第十に「化の四衆、すなわち比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして」と説かれているが、このなかの優婆塞とは、あなたのことでなければ、誰のことをさすのであろうか。なぜなら、あなたは、すでに法華経を聞いて信受し、違背するところがないからである。大変不思議なことである、不思議なことである。 若しあなたが法師品の優婆塞であるならば、日蓮は法華経の法師であることは疑いないといえまいか。経文に説かれる「則ち如来の使」にも似た資格をもち、その行動は「行如来事」を行じていることになるであろう。 -----― 17 多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の 18 御使いか、 貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ是れ豈流通にあらずや、 -----― 多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのである。このことはすなわち、日蓮は上行菩薩の御使いといえるのではないか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人に話されている。これこそ法華流通の義ではないか。 |
学会員こそ現代の優婆塞・優婆夷
末法は「闘諍言訟・白法隠没」。の時代です。また貧瞋癡という三毒が強盛となり、人々の生命力が弱まっていきます。
このように人々が苦しみに苛まれ、不幸の連鎖が続く時代に、大聖人は迫害の嵐にも真っ向から挑まれ、民衆救済に立ちあがられました。人々の生命に仏の智慧と力を涌現される妙法を弘通することによって、一人ひとりの宿命の転換も、そして末法という時代の大転換も可能となることを示されたのです。大聖人は法師品の文を引かれ、法師を供養し、法を弘通するために仏が遣わした四衆のうち、金吾はまさに「優婆塞」にほかならないと、その信心の赤誠を讃えられています。「法を聞いて信受して逆はざればなり」との模範の弟子であるからです。
そして金吾が優婆塞であるなら、大聖人こそが「法華経の法師」であることは疑いないと宣言されるのです。
「法華経の法師」が大聖人であり、「優婆塞」が」金吾である。この仰せは、大聖人と金吾の師弟が今世における関係であるだけでなく、法華経法師品に明確に説かれている深い因縁であり、久遠からの契りであるという意義がしめされているとも拝されます。
末法今時において、大聖人の仏法に巡り合い、どこまでも御書根本に、御遺命たる広宣流布に生きぬく学会員は、久遠の使命を担って仏から遣わされた、現代の「優婆塞」であり、「優婆夷」であるともいえます。
「如来の使い」とは不二の実践に
御文に戻れば「行如来事」とは、同じく法華経法師品の文です。
法師品には、一人のために法華経の一句を説く者は「如来の使にして如来に遣わされて、如来の事を行ず」と説かれています。
法華経に説かれる虚空会の儀式において、釈迦・多宝の二仏が並び座る宝塔で、仏から地涌の菩薩の上首である上行菩薩に末法広宣流布の法が託されました。その法を大聖人は「妙法蓮華経」の「題目の五字」としてあらわされたのです。ゆえに、ここでは上行菩薩としてのお立場から、仏の使いであることを重ねて示されています。
そして、大聖人に従って、法華経の行者として人々に仏法を語り弘める金吾に対して、妙法流通の尊さを強調されているのです。
「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-03)です。
いかに「法」が最第一で尊くとも、末法万代にわたって流通させていく「人」がいなければ、法の功徳を人々が享受することができません。広宣流布とは、正しき師の仰せのままに、妙法を語り伝えていく人がいてこそ進展していくのです。
「日蓮にしたがひて」とは師弟不二です。
師弟不二の魂に燃えて実践に励む人こそ「法華経の行者」です「仏の使い」です。その人が、たとえ一句であったとしても語っていく意義は限りなく大きいものです。それゆえに、その功徳も絶大なのです。
| 18 法華経の信心 1118 01 を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉 02 中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、 あしき名さへ流す況やよき名をや 何に況や法華経ゆへ 03 の名をや、 女房にも此の由を云ひふくめて日月・両眼・さうのつばさと調ひ給へ、日月あらば冥途あるべきや両眼 04 あらば三仏の顔貌拝見疑なし、 さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ばん事・須臾刹那なるべし、 委しくは又又申 05 べく候、恐恐謹言。 06 五月二日 日蓮花押 07 四条金吾殿御返事 -----― 法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。強盛な大信力を出して法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。 悪名でさえ流ものだ。まして善き名を流すのは当然である。ましてや法華経ゆへの名においてはいうまでもない。 女房にもこのことをいいふくめて、日月・両眼・双の翼のように、二人がしっかり力を合わせていきなさい。日月が共にあるならば、冥途の闇があるはずはない。両眼あれば、釈迦・多宝・十方分身の三仏の御顔を拝見できることは疑ない。双の翼があれば、寂光の宝刹へ飛ぶことはほんの瞬間である。委しくは、またまた申し上げる。恐恐謹言。 五月二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |
一人一人が「法華宗の四条金吾」に
大聖人は、金吾に妙法流布の尊き使命を教えられたうえで、「法華経の信心を・とをし給へ」と持続の信心を強調されています。
火を起こすために木を擦り合わせるときに、途中で手を休めてしまっては、火は燃えいずることはありません。火が出るまで間断なく、勢いよく作業をしなければならない。それと同じように、魔に付け入る隙を与えずに、地道に信心を貫き通していくことの大切さを教えられているのです。
大聖人は人生の正念場において、苦境を乗り越え、我が身に仏の果徳を現しておくためにも、まず持続の信心に徹するよう訴えられます。
続けて大聖人は「強盛の大信力をいだして」と仰せです。
強き信力・行力に、偉大な仏力・法力も尽きることなく現れるのです。同じ信仰を持っているのであれば、大目的に向かって、大確信をもって、悠然と突き進んでいこうではありませんか。
そして大聖人は「法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の上下万人、さらには日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい」と励まされています。
「法華宗の四条金吾」、すなわち「日蓮大聖人門下の四条金吾」として、日本中の人々から賞讃される人物になりなさいと教えられているのです。
「信心即生活」です。「仏法則社会」です。社会の中で、信心根本に絶待勝利の実証を示し、人々から讃嘆されることこそ、仏法者のあるべき正しい姿です。
「法華宗の四条金吾」。この御指導は永遠の指標です。学会員は、この御金言を心肝に染め、現実の人生に妙法の果徳を厳然と現しながら生き抜いてきました。これ以上の尊き、素晴らしき人生はありません。
大聖人は「あしき名さへ流す況やよき名をや」と述べられています。世間での」悪評はあっという間に有名になります。良い評判であるなら、なおさらです。さらに大聖人は「何に況や法華経のゆえの名をや」と仰せです。法華経という最第一の哲理に生きて得られる栄光こそ、最大無上の誉れと輝くのです。
「日月・両眼・両翼」に
大聖人は本抄を結ばれるにあたって、金吾夫妻が力をあわせて信仰に生き抜くべきであることを教えられています。家庭は、」人間にとって生活の基盤であり、社会で活躍していくうえでも重要な足場です。人生と仏法を教えられている御書だからこそ、あえてお手紙の結びに、夫妻に対しての厳愛の御指導をされているものと拝されます。
大聖人は、太陽と月、二つの眼、鳥の二つの翼のように、夫婦はぴったりと呼吸を合わせて、信心に励んでいきなさいと仰せです。その夫妻の固い絆があれば、死後の暗闇も照らされる。霊山浄土に集う仏たちの顔を拝見できる。久遠の仏に住む世界に瞬時にとんでいけると仰せなのです。
夫婦して広宣流布の尊き歩みを貫く日眼女に、大聖人は後に「日本第一の女人なり」(1138-11)と賞讃されています。この大聖人の日眼女に対する慈愛の御指導を、そのまま受け継いだのが創価学会です。
牧口先生は、ある婦人に「日蓮大聖人の仏法は、自らが歩む道を温かく見守ってくれる太陽のような存在である」と語りました。
戸田先生も婦人部に指導されました。
「皆さんは幸せになるに決まっている。心田に、仏の種を植えたからである。宝の玉のなる木を植えたのである。あとは、木が育つにも時間がかかる。忍耐が大事である」
信心を貫く人は、絶対に幸せになれる。とくに女性が不幸に泣いてはならない。これが、牧口先生、戸田先生のご心境です。私も全く変わりません。
21世紀は「女性の世紀」です。この世界的潮流の最前線に躍り出て、現実に広宣流布を推し進めてくださっているのが、わが尊き婦人部・女子部です。新時代の希望を奏でる婦人部総会を祝し、全国のグループ長をはじめとする“太陽の母”たちに最敬礼して、感謝の大拍手を送ります。
妙法の人間主義の連帯が世界に
広宣流布新時代の開幕の今、尊き学会同志の皆さまの奮闘のおかげで、妙法流布の勢いは、いやまして加速しています。
日本だけではありません。世界で妙法の人間主義の信頼の連帯が、ますます広がっている。いずこの地にあっても、SOKAの名には賞讃と期待が寄せられています。
誉れ高き「法華経ゆえの名」が世界中に広がりました。各地に「法華宗の四条金吾」、さらには「法華宗の日眼女」が誕生しました。ひとえに、師弟不二の信心を貫き、わが使命の舞台で「創価の旗」を高く掲げる同志の皆様のおかげです。
全世界の優婆塞・優婆夷の皆様方が、尊き仏の使命を果たし、壮大な「如来事」、仏の仕事を世界的スケールで現実してくださいました。大聖人が皆様を賞讃されていることは絶対に間違いありません。
法華経の「皆が仏」との人間尊厳の思想は、あらためて今、人類の経典として待望されています。妙法を大勢の人が待っています。
広宣流布はいよいよかれからです。
人間主義の哲学を、世界が待っています。
「誓いの青年」を時代が待っている。
創価の師弟の勝利を、この地球の未来が待っているのです。
1118~1123 四条金吾殿御返事(梵音声御書)top
1118:01~1119:02 第一章 国王の力を述べるtop
| 四条金吾殿御返事 文永九年九月 五十一歳御作 01 夫れ斉の桓公と申せし王・紫をこのみて服給いき、楚の荘王と言いし王は女の腰のふとき事を・にくみしかば一 02 切の遊女・腰をほそからせんが・ために餓死しけるもの・おほし、 しかれば一人の好む事をば我が心にあはざれど 03 も万民随いしなり、 たとへば大風の草木をなびかし大海の衆流をひくが如し、 風にしたがはざる草木は・をれう 04 せざるべしや、 小河・大海におさまらずば・いづれのところにおさまるべきや、国王と申す事は先生に万人にすぐ 05 れて大戒を持ち天地及び諸神ゆるし給いぬ、 其の大戒の功徳をもちて其の住むべき国土を定む、 二人・三人等を 06 王とせず地王.天王・海王・山王等・悉く来臨して・この人をまほる、いかに・いはんや其の国中の諸民.其の大王を 07 背くべしや、 此の王はたとひ悪逆を犯すとも一二三度等には左右なく 此の大王を罰せず、但諸天等の御心に叶わ 08 ざるは一往は天変地夭等を・もちて・これをいさむ、事過分すれば諸天・善神等・其の国土を捨離し給う、若しは此 1119 01 の大王の戒力つき期来つて国土のほろぶる事もあり、 又逆罪多くにかさまれば隣国に破らるる事もあり、 善悪に 02 付て国は必ず王に随うものなるべし。 -----― 斉の桓公という王は紫の衣を好んで着た。楚の荘王という王は女の腰の太いことを憎んだので、一切の遊女が自分の腰を細くしようとして、餓死した者が多かった。このように一人の王の好むことに、万民は自分の心には合わなくとも随ったのである。たとえば、大風が草木をなびかせ、大海が多くの流水を引き入れるようなものである。風にしたがわない草木は折れ失せないでいられようか。小河の水は、大海に収まるのでなければ、どこに収まるべきであろうか。 国王といわれることは、前の世で万人よりすぐれて、大戒を持ったので、天神・地神及び諸神が王となることを許したのである。そして、その大戒の功徳によって住むべき国土を定めたのである。二人・三人等を王とはせず、地王・天王・海王・山王等が、ことごとく来臨してこの人を守るのである。ましてや、その国中の諸民がその大王に背くはずがあるであろうか。 この王はたとえ悪逆を犯したとしても、一度二度三度ぐらいではどうということはなく、諸天はこの大王を罰しない。但諸天等の心に叶わない行為に対しては、一往は天変地夭等をもって、これを諌める。だが背反の度が過ぎれば、諸天及び善神等はその国土を捨離する。 あるいは、この大王、前世に持った戒の功徳力が尽きると、時が来て、国土の滅ぶこともある。また大王の犯す逆罪が多く重なれば隣国に破られることもある。善悪につけて、国は必ず王に随うものなのである。 |
桓公
中国春秋時代の斉の国王(在位前0685~0643)。春秋五覇の第一。名は小白。管仲を用いて富国強兵を計り、諸侯と連盟して覇者となった。ここで述べている紫の故事について史記巻六十九に「智者の事を挙ぐるは、禍に因って福を為し、敗を転じて功を為す。斉の紫は敗素也。しかれども価十倍す」との記述があり、その註に次のように記されている。「韓子にいう、斉の桓公好んで紫を服る。一国ことごとく紫を服る。当時十素一つの紫を得ず。公之れを患う。管仲が曰く、君之れを正さんと欲せば、何ぞ之れが衣ることなきを試みざるやと。公左右に謂いて曰く、紫の臰を悪むと。公語ること三日にして境内、紫を衣る者有る莫し」とある。
―――
荘王
中国春秋時代の楚の国王(在位前0613~0591)。春秋五覇の一人。本文の故事は後漢書馬援列伝第十四にある。
―――
国王と申す事は、先生に万人にすぐれて
「十法界明因果抄」(0430)には「天道とは二有り、欲天には十善を持ちて生れ色無色天には下地は麤苦障・上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり」とある。また「妙法比丘尼御前御返事」(1420)には「王となる人は過去にても現在にても十善を持つ人の名なり」とも仰せられている。
―――
悪逆
道理に逆らう悪事。正法への反逆。十悪・五逆罪を犯すこと。
―――
左右なく
簡単に。容易に。
―――
天変地夭
天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等と地上に起こる異変。風水害・地震等。
―――――――――
本抄は別名を「梵音声御書」ともいう。文永9年(1272)9月、頼基が亡き母の三回忌追善供養のために、使いを大聖人のもとに遣わしたのに対して、返信をかねて認められたものである。
はじめに、一国の動向は王によって決まることを示され、仏法の流布も、王によって決定されてしまうことを述べられている。したがって、悪法であっても、王の帰依を得れば急速に隆昌し、王に逆えば大難をまぬかれない。大聖人が種々の難を受けるのも、王が悪法にたぶらかされているゆえであって、大聖人は仏勅を受けて出現された仏の使いである。しかも、その弘める法華経は真実の中の真実であって、一字一句が如意宝珠に譬えられるものである。法華経の文字はそのまま、生身の仏であると確信しなさいと、甚深の法門を示され結ばれている。
以上が、本抄の一往の大意であるが、その根底には、真実の仏法は、国王の権力などのはるかに及ばない偉大なものであることが示されている。また「仏陀すでに仏法を王法に付し給う。しかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず」等の御文は、仏法の流布において、最も重要な使命を在家の信徒の人々に託されていると拝すべきであろう。ともあれ、仏法を現実の社会に流布していくうえにおいて、重大な原理を説かれた御消息ということができる。
風にしたがはざる草木は、をれうせざるべしや。小河・大海におさまらずば、いづれのところにおさまるべきや
権力と民衆との関係をたとえて仰せられた文である。風は権力、草木は民衆、大海は権力、小河は民衆をたとえている。
「人間は社会的動物である」とアリストテレスは言った。人間は、人間らしく生きるためには、社会を離れることができない。物質的な面だけでなく、それ以上に精神的な面でも、人間は、社会に依存し、測り知れない恩恵を受けている。その社会とは、一つの有機的な組織機構によって成り立っている。その組織的機能をつかさどるのが「権力者」である。機能をつかさどる力を「権力」という。
時代により、状況によって「権力」は、一つの血族に固定されていく場合もある。いわゆる王制、帝制がこれである。ある階級集団によって占められ、そのなかで、多数の決議により、その都度、権力担当者が選ばれる方式もある。貴族制というのが、それである。全民衆が、権力を担当する人間の選出に参画する方式を民主制というわけである。「権力者」を決める手続きには、種々のタイプがあるが「権力」というもののもっている本質には変わりがない。
権力は、社会という組織を動かし、人々を従わせていくものであって、それがなくなれば、もはや「権力」ではない。「権力」の存在しない社会は、有機的な機能を失い、人々の安全と幸福を守るという、本来の使命も果たせなくなるだろう。
したがって、権力と民衆との関係は、風と草木のように、必然的に民衆は権力に従わなければならない関係にある。それは、いいとか悪いとかの問題は別として、人間が人間らしく生きるために、社会を構成したときから、必然的に生じた要請なのである。小河が大海に注ぎこんでいくように、全く自然な道理なのである。
だが、それでは、権力者は民衆の服従を得て、ただ、いい気になっていればよいのか。民衆は、権力者には、ただ服従しなければならない弱い立ち場だというのか。仏法はこれを厳しく否定する。ここで「厳しく」というのは、言葉のうえでの厳しさではない。生命の法理のうえから、根本的に権力の規制を説くのである。それが「国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち」以下の後段の文である。
ともあれ、ここまでの前半の文は、善悪は別として、権力というものが、民衆に対していかに強大な力をもっているかを、ありのままに示されたのである。衣服の色に対する好みや、身体のスタイルの問題などは、全く個人のプライベートな問題である。いかなる色を好むかは、個人の内面の心理の問題であるし、いわんや身体のスタイルなどは、意思以前の問題である。そうしたものまで左右しかねない権力者の影響力は、まさに絶対的なものといわなければならない。
現代人は、往々にして権力の恐ろしさを説く場合、戦争や粛清、拷問、重税などをすぐ思い浮べる。恐らく、大聖人がここにあげられた衣服の色とか、身体のスタイルとかいった例は、さして権力の強大さの象徴とは考えつかないかも知れない。事実、人々は権力で強制されて、紫の衣服を着たり、身体を細らせたのではない。これらは法的には人々の自由だったはずである。だが、そうした自由であるべき領域にまで、無意識のうちに従わざるを得ない潜在力をもっていたところに、権力の支配力の強大さがあらわれている。
大聖人は、さりげない筆致のなかに、権力のもつ恐るべき力の側面を、見事に示されたということができるのではないだろうか。
国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給いぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む
仏法では国王に生まれるのは、過去世において十善戒を持った果報であると考えられている。
受十善戒経十施報品第二に「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破るときは、上りては天上に生じ梵天王となり、下りて世間に生れて転輪王と作り十善を教化す」とあるのがそれである。
国王が諸天善神の守護を受け、万民を従えるのは、過去の善業によって身に具った福運のゆえである。十善戒とは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不愚癡をさし、この戒を持つとは人格的にすぐれることを意味する。すなわち、人間としてすぐれた人が政治をとるべきであり、自分の我欲のために権力を乱用するような王は、国王とは呼べないとの考え方であろう。
本文の少し先に「但諸天等の御心に叶わざるは、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ」とあるのも、この仏法の道理に背いて民衆を苦しめるような政治をする国王は、本当の意味の帝王とはいえないとの教えであろう。したがって、この文は国王に生まれるだけの福運をもった人は、万民を従える権利をもつということをいわれているのではなく、むしろ政治を行なうべきものを戒めておられると拝すべきである。
昔、中国の斉の宣王という人が孟子に問うたことがある。「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したと聞くが、これは臣下が主君を殺したことにならないのか」と。この時、孟子は「仁の道をそこなうものを『賊』と言い、義の道をそこなうものを『残』と申します。仁義の道に背く残賊の人を『一夫』と申します。周の武王は一夫である紂王を誅殺したのであって、その君を弑殺したのではありません。そのように聞いております」と答えたという。
仁義の道を破壊し、民衆を残賊する君主はもはや国王ではなく、一介の匹夫にすぎないという孟子の主張には、仏法の国王観に通ずるものがあろう。
プラトンはその著書「国家論第五巻」の中で「哲学者が王となるか、またはこの世界の王あるいは君主が哲学の精神と力をもち、政治的偉大さと英知とがひとりにおいて結合されるのでなければ、国家にとっても、人類種族にとっても、禍のやむことはないであろう」と述べている。このプラトンの主張は哲人政治を標榜したものであるが、彼もまた国王が単に政治的力量をもつだけでなく、人間として至上の存在と彼が考える〝哲人〟でもなければならないことを力説している。
孟子の王道思想にせよ、プラトンの哲人政治の考え方にせよ、ともに政治が単に政治の原理で終始すべきでなく、その根底に人間性の尊厳への洞察が必要であると訴えていることは注目に値する。
いずれにせよ、国王はすぐれた思想と人格をもち、福智を兼ね備えた存在でなければならないのである。
現代にこれをあてはめれば、王とは特定の個人ではなく、むしろ民衆すべてであり、全民衆が福運と賢明さをあわせもつ王者でなければならないといえよう。〝愚かなる大衆〟ではなく、すぐれた思想性と高い人格を備えた〝目覚めたる大衆〟とならねばならない。
だが、なおかつ、指導者の存在は必要不可欠である。民衆が指導者を生み、指導者が民衆を擁護していく、それが理想的な関係といえよう。「万人にすぐれて大戒を持ち」とは、指導者の地位は安楽椅子ではなく、他の誰人よりも厳しく自己と戦わなければならない「茨の道」であることを示されている。「天地及び諸神ゆるし給いぬ」と民衆の支持ともとれよう。
指導者が民衆に対する重い責任を自覚し、民衆のために身を挺して戦うところに、民衆の心は従い、生活を楽しむ社会が出現するのである。〝目覚めた民衆〟と〝責任を自覚した指導者〟によって、はじめて真の民主主義は完成するのではなかろうか。
この段は、権力者といえども、仏法の道理に従わなければ、ついには身を滅ぼすのであり、したがって、仏法とは、権力とか政治とかといったものより、はるかに高く、広大な存在であることを示されているのである。しかも、単に高く、広大であるというだけではなく、権力とか政治等といった現実世界に厳然と反映し、それらを規制する偉大な力ある法であることを明示されているのである。
また、逆にいえば、仏法とは、現実から離れたものであってはならず、権力を民衆の幸福のために働かせるよう、現実をリードすべきものでなければならないとの仰せとも拝することができる。
1119:03~1120:07 第二章 仏法流布の次第を述べるtop
| 03 世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども 04 王にしたがはざれば仏法流布せず、 或は後には流布すれども 始めには必ず大難来る、 迦弐志加王は仏の滅後四 05 百余年の王なり健陀羅国を掌のうちににぎれり、 五百の阿羅漢を帰依して 婆沙論二百巻をつくらしむ、 国中総 06 て小乗なり其の国に大乗弘めがたかりき、 発舎密多羅王は五天竺を随へて仏法を失ひ衆僧の頚をきる、誰の智者も 07 叶わず。 -----― 以上に述べたことは世間の法についてであるが、仏法についてもまた同じである。仏陀は既に仏法を王法に付嘱した。したがって、たとえ聖人、賢人である智者であっても、王に従わなければ仏法は流布しない。あるいは後には流布するとしても、始めには必ず大難が来るのである。迦弐志加王は仏の滅後四百余年に現われた王である。健陀羅国を掌中に握り、五百の阿羅漢を集め養って婆沙論二百巻をつくらせた。しかし、国中は総て小乗教で、その国に大乗教は弘めがたかった。 また、発舎密多羅王は五天竺を随えて仏法を破失し、仏法の僧たちの頚を斬った。どの智者も王の権勢には叶わなかった。 -----― 08 太宗は賢王なり玄奘三蔵を師として 法相宗を持ち給いき誰の臣下かそむきし、 此の法相宗は大乗なれども五 09 性各別と申して仏教中のおほきなるわざはひと見えたり、 なを外道の邪法にもすぎ悪法なり、月支・震旦・日本・ 10 三国共にゆるさず、 終に日本国にして伝教大師の御手にかかりて此の邪法止め畢んぬ、 大なるわざはひなれども 11 太宗これを信仰し給いしかば誰の人かこれをそむきし。 -----― 唐の太宗は賢王である。玄奘三蔵を師として、法相宗を持たれた。臣下の誰もこれに背くことはできなかった。この法相宗は大乗教であったが、五性各別といって、仏になれる者と、成れない者とが定まっているとたてるので、これは仏教を内から乱す大きな禍いであった。外道の邪法にもなおすぎる悪法であった。インド・中国・日本の三国共に許さない邪義である。そしてついに、日本国で伝教大師の手によって、この邪法は打ち破られたのである。これはどの大きな禍いであったが、太宗がこれを信仰されたので、誰もこれに背くものはなかったのである。 -----― 12 真言宗と申すは大日経.金剛頂経・蘇悉地経による・これを大日の三部と号す、玄宗皇帝の御時・善無畏三蔵.金 13 剛智三蔵・天竺より将ち来れり、玄宗これを尊重し給う事・天台・華厳宗等にもこへたり、法相・三論にも勝れて思 14 し食すが故に 漢土は総て大日経は法華経に勝るとおもひ日本国・ 当世にいたるまで天台宗は真言宗に劣るなりと 15 おもふ、彼の宗を学する東寺・天台の高僧等・慢・過慢をおこす、 但し大日経と法華経とこれをならべて偏党を捨 16 て是を見れば 大日経は螢火の如く法華経は明月の如く 真言宗は衆星の如く天台宗は日輪の如し、 偏執の者の云 17 く汝未だ真言宗の深義を習いきはめずして彼の無尽の科を申す、 但し真言宗・漢土に渡つて六百余年・日本に弘ま 18 りて四百余年・此の間の人師の難答あらあら・これをしれり、 伝教大師一人・此の法門の根源をわきまへ給う、し 1120 01 かるに当世・日本国第一の科是なり、 勝を以て劣と思い劣を以て勝と思うの故に大蒙古国を調伏する時・還つて襲 02 われんと欲す是なり。 -----― 真言宗というのは大日経・金剛頂経・蘇悉地経を依経としている。これを大日の三部経と名づける。唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵・金剛智三蔵が、天竺から持ってきたのである。玄宗皇帝がこれを尊重すること、天台宗や華厳宗に越えていた。また法相宗・三論宗よりも勝れていると思われたので、このため漢土では全ての人が、大日経は法華経より勝ると思い、日本国でも、当世にいたるまで、天台宗は真言宗に劣るものと思っている。この真言宗を学ぶ東寺・天台の高僧等は慢・過慢をおこしている。但し大日経と法華経とを並べて偏見を捨ててこれを見れば、大日経は螢火のようで、法華経は明月のようなものであり、また、真言宗は衆星のようなものであり、それに対し天台宗は太陽のようなものである。の者は「お前は、まだ真言宗の深義を習いきわめもしないで、真言宗を限りなく悪くいう」という。だが、真言宗が漢土に渡ってから六百余年、日本に広まってから四百余年になるが、この間の人師の論難応答を自分はだいたい知っている。そのなかで伝教大師ただ一人が、この真言の法門の根源をわきまえられたのである。しかるに今の世の日本国第一の謗法の罪科は真言宗である。勝れた法華経をもって劣れると思い、劣れる真言の法をもって勝れると考えているがゆえに、真言宗を用いて大蒙古国を調伏するときに還って敵を払いのけるどころか、襲われそうになっているのはこのためである。 -----― 03 華厳宗と申すは法蔵法師が所立の宗なり、則天皇后の御帰依ありしによりて諸宗・肩をならべがたかりき、 し 04 かれば王の威勢によりて宗の勝劣はありけり法に依つて勝劣なきやうなり。 -----― 華厳宗というのは、法蔵三蔵が立てた宗派である。則天皇后の御帰依があったために勢力を得て、諸宗は肩を並べがたいものとなった。こうした例によってみると、王の威勢によって宗教の勝劣があるのであって、法に依って勝劣はないかのようである。 -----― 05 たとひ深義を得たる論師・人師なりといふとも 王法には勝がたきゆへに・たまたま勝んとせし仁は大難にあへ 06 り、所謂師子尊者は檀弥羅王のために頚を刎ねらる、 提婆菩薩は外道のために殺害せらる、竺の道生は蘇山に流さ 07 れ法道三蔵は面に火印をされて江南に放たれたり、 -----― たとえ仏法の深い義を悟った論師・人師であっても、王法には勝ちがたいゆえに、たまたま王法に勝とうとした人は大難にあったのである。いわゆる、師子尊者は檀弥羅王のために頸を刎ねられ、提婆菩薩は外道のために殺害された。竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は顔に火印を押されて江南に追放されたのである。 |
聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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賢人
賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
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迦弐志加王
古代インドの健陀羅国の王。ガンダーラ地方のプルシャプラに都を定め、西は大夏の境より東はガンジス川中流付近にいたる広大な領土を支配した。玄奘の「大唐西域記」によれば初めは仏法を軽毀していたが、後に釈尊の予言に王自身の名があることをしり、仏法を信じ仏法の保護者となったといわれる。そして大規模な仏典の結集をはかり、また、プルシャプラの大塔を建立した。また、政治、経済、文化のあらゆる面でクシャン朝の最盛期を現出した。いわゆるガンダーラ美術の発達もこの頃が頂点であり、広く中央アジアの文化に影響を与えた。
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阿羅漢
羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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婆沙論二百巻
阿毘達磨大毘婆沙論のこと。略して大毘婆沙論ともいう。迦弐志加王の要請に応じて、付法蔵の第九、脇比丘のもとで五百人の阿羅漢が十二年間をついやしてつくったといわれる。内容は迦多衍尼子の著「阿毘達磨発智論」に対する諸論師の註釈を集めたものであるが、編集規模の大きさから仏典の第四回結集とされる。
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小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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発舎密多羅王
弗沙密多羅王とも書く。阿育大王の末孫にあたる国王といわれ、悪臣にそそのかされて塔寺を焼き、多くの僧を殺したと伝えられる。
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五天竺
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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太宗
(0598~0649)。唐朝の高祖の子。隋の末、父の李淵とともに太原に兵を挙げ、天かを平定して帝位についた。杜如晦・房玄齢等の賢臣を用い、その治世は〝貞観の治〟と呼ばれ、その善政を称えられている。賢臣・魏徴等と政治の要道を論じたものが「貞観政要」と呼ばれる有名な書である。
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玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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法相宗
唯識論に引用される華厳経、解深密経など六経十一論によって玄奘が立てた宗派。日本には白雉4年(0653)道昭により伝えられた。平安時代以後は次第に衰え、現在では薬師寺、興福寺を本山として30数か寺があるのみである。
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五性各別
解深密経によって、人の性質は本来五種、①声聞種性、②独覚種性、③如来種性、④不定種性、⑤無有出世功徳種性の決定的差別があるという考え方。したがって、その五性に適して説いた三乗・五乗等の教えこそ真実であって、一仏乗を説いた法華経は方便であるというのが法相宗の主張である。
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月支
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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真言宗
釈尊を卑しめ、大日如来を根本の仏とする宗派。印・真言を重んじ、密教と呼ばれる。本文にあるように、玄宗の時代に善無畏・金剛智等によって中国にもたらされた。一念三千の理においては天台宗と同じだが、印・真言の事において勝れると説き、権力に巧みに取り入って、またたくまに弘まった。わが国では、空海が、善無畏・金剛智と並んで三三蔵といわれた不空の弟子、恵果から学んで伝えた。そして伝教大師の死後、急速に弘め、ついには天台宗をも真言化してしまった。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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玄宗皇帝
(0685~0762)。唐朝第九代皇帝。姓名は李隆基といい、睿宗の第三子。韋皇后が夫の中宗を殺し政権を手中におさめようと謀ったため、隆基は兵を起こしてこれを治め、その功によって皇太子となった。0712年即位。初期の政治は、外征をおさえ、農民生活の安定に努めたので産業も大いに発展し、都、長安は繁栄をきわめた。これを〝開元の治〟という。しかし晩年には奢侈を好み、楊貴妃を寵したので、綱紀大いに乱れ、安禄山・史思明の大乱を生じた。楊貴妃は殺され、玄宗は一時蜀に逃れたが再び長安に帰り、悶々のうちに、78歳で死んだ。
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善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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金剛智三蔵
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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東寺・天台の高僧等
真言宗の僧。東寺の僧は、真言宗東寺派に属する東密の一派、天台の僧は、比叡山延暦寺第三祖・慈覚、第五祖・智証の流れをくむ台密の一派。いずれも法華経をくだし、権教の大日経を立てている。
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偏党
かたよること。
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偏執の者
偏ったものに執着すること。偏った考えに固執して正邪・勝劣をわきまえない者のこと。
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大蒙古国を調伏
調伏は仏神に祈って怨敵を降伏させること。13世紀、史上空前の大帝国を築いた大蒙古国は、矛先を日本に向けていた。この未曾有の国難に対し、幕府や朝廷は真言師等に命じて、必死の祈祷を行っている。
―――
法蔵法師
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
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則天皇后
(0623~0705)。則天武后ともいう。唐の第三代高宗の皇后。高宗の死後、自分の子、太子中宗を立てたが間もなくこれを廃し、その弟・睿宗を立てて権力をほしいままにした。その後、0690年には国号を周と改めて自ら聖神皇后と称した。法蔵三蔵を宮中に迎えて、華厳経の説法を聞いたという。82歳で没した。
―――
師子尊者
師子比丘ともいう。釈尊滅後1200年頃、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて付法蔵の二十四人の最後の伝灯者となった。師子尊者は罽賓国において仏法を弘めたが、その国王・檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門にそそのかされて仏教を弾圧した。そしてついに、師子尊者の首を斬ってしまった。伝説によると、このとき師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。これは、師子尊者が白法を持っていたこと、また成仏したことをあらわすという。また、首を斬った檀弥羅王の刀と腕は同時に地に落ちてしまい、7日後に命を終えたとも伝えられる。
―――
檀弥羅王
付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
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提婆菩薩
迦那提婆のこと。迦那とは片目の意で、一眼であったので、このようにいわれた。釈迦滅後750年頃、南インドの婆羅門の出身で、付法蔵の第十四番目の伝灯者。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化して広く法を求めた。南インドで、外道を徹底的に破折したとき、凶悪な外道の弟子が、自分の師匠が提婆に論破されたのを怨んで、提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
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竺の道生
中国東晋の時代から南北朝の宋の時代にかけての高僧。沙門竺法汰について出家したので笠を姓とする。のちに羅什三蔵の弟子として修行した。時の衆僧がいたずらに文字に執して円義をみないのに憤り、頓悟成仏の説を立て「二諦論」「仏性当有論」「法身無色論」等を著わし、これに反対する守文の徒と論争した。さらに、般泥洹経を学び、闡提成仏の義をたて当時の仏教界に波紋をよびおこした。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり洪州廬山に追放された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身に癘疾を表わさん、もし、実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、師子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり道生の説の正しいことが明らかとなり、その誓いのごとく宋の元嘉11年(0434)廬山において法座に登り、説法が終わると共に眠るごとく入滅したといわれる。
―――
法道三蔵は面に火印をされて
宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗皇帝が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたときに、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。なお、法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。仏祖統紀巻第五十四による。これら師子尊者、提婆菩薩、竺の道生、法道三蔵等は、共に法華経の行者として、死身弘法、不自惜身命の仏道修行の例として挙げられたのである。
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仏法が流布するかどうか、たとい正法であっても、大難にあって苦しまねばならないか、順風を受けて容易に広まるかどうかは、王の帰依の有無による。大聖人がなぜ、このように大難にあわなければならないのかを明かすにあたって、過去のさまざまな例を挙げられる段である。
もとより、大聖人は、自らが難を受けなければならない理由として、他の御書でも、いろいろな角度から示されている。「煩悩即菩提御書」のように、示同凡夫の立ち場から、過去世に法華経をあなどり、法華経の行者を誹謗した故であるとされている御書もある。あるいは、法華経の勧持品の予言から、末法の法華経の行者として、当然のことであると言い切られている御書もある。
ここでは、その時代の王すなわち政治権力者が仏法に対していかなる態度をとるか、つまり王法と仏法との関係を基軸に、この問題を解明されているわけである。過去の罪によるとするのが生命の因果論によっているのに対し、勧持品の原理から説くのは、境涯論、使命論になる。この王法と仏法との関係から論ずるのは、仏法流布、広布実現への実践的運動論をその内におのずから包含したものとなる。
いうまでもなく、ここに〝王〟と説かれているのは、別しては〝政治権力〟をさすが、より広く論ずれば、その時代の思想、思潮、あらゆる文化の基底にある価値観と考えることができよう。第一章の斉の桓公や楚の荘王の例でも示されているように、専制王政においては、そうした全てが王の一身に体現されていた。今日においては、もとより国によって異なるが、権力といえども時代の思潮によって規制され、その思潮もまた、より普遍的、大衆的、体質的な価値観によって支配されていることを知らなければならない。
この観点に立つならば「王にしたがふ」「王の帰依を得る」ということは、単に権力者に妙法を受持させればよいというものではない。根底にある時代の思潮そのものを変革しなければならないし、もしその思潮が人間性の道理に違わないものであるなら、それに従っていくべきである。さらに、文化の底流にある〝価値観〟といったものは、単に理論や議論で変革できるわけがない。妙法を持った人の、おのおのの分野における実践の展開を通して、はじめて真実も理解できるし、新しい息吹きを注ぎ込んでいくこともできるのである。
仏法の流布には、こうした、その時代的・社会的実情に応じた運動論の展開が要請される。大聖人が王と仰せられ「王にしたがはざれば仏法流布せず」といわれたからといって、仏法が王制を支持するのでもなければ、いわんや民主主義を排して王政復活を唱えるものでも毛頭ない。主権在民の社会では、民衆が〝王〟なのである。仏法は方程式を説くのであって、そこにいかなる数字、文字をはめこむかは、現実の社会の実態から判断すべきである。
仏陀すでに仏法を王法に付し給う。しかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず
ここは守護付嘱について説かれている。仏法を未来にわたって流布し、伝えていくことは、僧侶だけでなしうることではない。もし、謗法の徒が武力をもって、正法護持の人を迫害したらどうなるか。仏法は滅びてしまうであろう。故に、仏は仏法を付嘱するにあたって、権力をもつ国王や檀那にその守護を託すのである。これが守護付嘱である。
仁王経受持品第七にいわく「仏、波斯匿王に告げたまわく、是の故に諸の国王に付嘱して、比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以っての故に、王のごとき威力無ければなり」と。
涅槃経金剛身品第五にいわく「善男子正法を護持せん者は、五戒を受けず、威儀を修せず、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と。
これらの経文は、また正法を守るには権力を持たねばならないことを明かされている。しかし、これは政治権力によって他宗派を弾圧したり、あるいは、人々に特定の宗教を押しつけることを意味するのではない。宗教の正邪・勝劣はあくまで宗教の場で法論によって決定するのであり、その原則を無視した不当な権力による弾圧から正法を守護するために権力が必要であることを説いているのである。
事実、インドの阿育大王、中国の天台大師の時代の陳主、日本の桓武・嵯峨・平城の三帝などは、その時代の正法を大いに興隆せしめた為政者であるが、自らは公平な立ち場を貫き、哲学的教義論争は、当時者同士で公場においてなさしめ、それぞれの宗教の布教にも寛大な自由を与えていた。
逆に、誤れる宗教によってそそのかされた国王が、正法護持者に対して迫害を加えてきた歴史上の事実も多い。この御抄にも説かれている仏僧の頸を斬った発舎密多羅王、師子尊者を殺害した壇弥羅王、法道三蔵を流罪した栄の徽宗皇帝などは、その代表的な例である。
正法が王法によってその正当な地位を保証され、さらに王法が仏法の精神を文化に具現した社会にあっては、平和的、文化的な国家がつくりあげられた。先に挙げたインドの阿育大王の時代や中国の陳隋の時代、また日本の桓武朝などがその例といえようが、このような例はむしろ歴史上まれであった。
聖賢が正法を立てて、邪法邪義を論破しても、暗愚な権力者は、宗教上の正邪よりも、自己に取り入ることの巧みな宗教を好み、そうした邪悪な宗教が力をもつ場合の方がはるかに多かった。宗教の正邪よりも、権力の論理が支配してきたのである。したがって、そういう社会ではどんなに偉大な聖人・賢人でも王法にいれられなければ、その法がどんなにすぐれた法であっても世に流布しない。かえって、迫害と弾圧が加えられることがしばしばであった。法相宗は二乗の不成仏を説く低い教えであるが、唐の太宗の帰依を受けて一国に広まり、また、真言宗が玄宗皇帝により、華厳宗が則天皇后によって勢力をもったのである。まさに「王の威勢によりて宗の勝劣はありけり、法に依って勝劣なきやうなり」と嘆かざるを得ないありさまだった。
守護付嘱とは、これらと同じ姿になって、権力におもねり、権力を利用して教勢拡大をはかることなどでは断じてない。王仏冥合とは王法に仏法が屈することではない。妙法の理想を高く掲げ、その理念をあくまで守りつつ、社会の中に実現していくことが守護付嘱の実践である。妙法は人間主義である。したがって人間を蹂躙する権力の行動に対しては、徹底的に戦い抜くのが正しい仏法にかなった姿である。
末法の、日蓮大聖人の仏法においても、守護付嘱は言うまでもなく在家の信徒にある。われわれが、大聖人の精神を受け継ぎ、邪法邪義、邪悪な権力と不断に戦うなかに、広宣流布の成就があることを肝に命じなければなるまい。
此の法相宗は大乗なれども五性各別と申して、仏教中のおほきなるわざはひと見えたり
法相宗の五性格別とは、人の機根には決定的な差別があり、したがって、その機根に応じて説かれた三乗五乗等の教えが真実であるという考え方である。なぜ、これが「仏教中のおほきなるわざはひ」なのか。
確かに釈尊は、法華経以前においては、機根を中心として、それぞれの機根に応じて種々に法を説いた。法華経において、初めて、それが方便であったことを示し、仏の出現の目的は、ただ一切衆生をして成仏の道に入らしめることにあったことを明かし、真実の民衆救済の法は、妙法の一法以外にないことを説くのである。
しかるに、五性格別の法に執着することは「唯一乗の法のみあって二なく三なし」という仏の本意を拒否することになる。ゆえに、この法相宗の教義は、全く仏法に叛逆する邪悪な謬義になってしまうのである。
この問題は、現代世界においても、政治や教育、文化全般の上に、そのままあらわれており、しかも、この人間社会の最も根深い不幸の原因をなしている。すなわち、人間社会において、最もぬきがたい偏見の一つは、人間が人間を差別し、憎み合い、ときには殺し合うこともあえて辞さないという、この〝各別〟の思想である。それが民族・国家間の対立抗争、階級闘争、あるいは人種問題、部落問題等を生み出しているのである。
そうした差別相を越えて、根底的な平等観、一体観への哲学的・生命観的展開をなしとげたのが、ほかならぬ法華経なのである。いうならば「仏教中のおほきなるわざはひ」とは「人間社会の大なる禍い」であり、それを根底から解決する宗教的・哲学的理念と実践こそ、妙法の生命哲理にあることを知らなければならない。
勝を以て劣と思い劣を以て勝と思うの故に、大蒙古国を調伏する時、還って襲われんと欲す是なり
仏法の上において本末転倒しているがゆえに、現実の社会の上でも、一切が逆転してしまうということである。仏法は体であり、世法は影なのである。宗教という、人間生命の根本を決する問題において転倒していることは、依正不二で、現実の努力も、逆の結果を招いてしまうのである。
技術レベルの枝葉の問題については、人は容易にその誤りに気づく。そして、これを完璧にしようとして一生懸命に工夫し努力する。政治にしても、科学にしても、経済、教育等々、全て、この技術レベルの問題だといってよい。だが、それが、いかなる哲学、理念のうえに立っているかは容易に気づかない。人間の幸福を願って努力しても、たとえば科学が人間を物質視する考え方の上に組み立てられている場合、そうした科学の力によってする努力は、ますます人間を圧迫し、苦しめる結果となってしまうのである。
1120:07~1120:18 第三章 留難の所以を明示すtop
| 07 而るに日蓮は法華経の行者にもあらず又僧侶の数にもいらず。 08 然り而して世の人に随て 阿弥陀仏の名号を持ちしほどに阿弥陀仏の化身とひびかせ給う善導和尚の云く「十即 09 十生・百即百生・乃至千中無一」と、 勢至菩薩の化身とあをがれ給う法然上人此の釈を料簡して云く「末代に念仏 10 の外の法華経等を雑ふる念仏においては千中無一・一向に念仏せば十即十生」と云云、 日本国の有智・無智仰いで 11 此の義を信じて今に五十余年・一人も疑を加へず、 唯日蓮の諸人にかはる所は阿弥陀仏の本願には 「唯五逆と誹 12 謗正法とを除く」とちかひ、 法華経には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ず、 乃至 13 其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれたり、此れ善導・法然・謗法の者なれば・たのむところの阿弥陀仏にすて 14 られをはんぬ、余仏・余経においては我と抛ちぬる上は救い給うべきに及ばず、 法華経の文の如きは無間地獄・疑 15 なしと云云、而るを日本国は・をしなべて彼等が弟子たるあひだ此の大難まぬかれがたし。 -----― しかし、日蓮は法華経の行者でもなく、また僧侶の数にも入らない。そして、世間の人にしたがって阿弥陀仏の名号を持っていたところが、阿弥陀仏の化身と評判されている善導和尚がいうには「阿弥陀経により十人が十人、百人が百人、極楽浄土へ往生する。ところが法華経により成仏する者は千人の中で一人もいない」と。勢至菩薩の化身と仰がれている法然上人が、この釈を選択集で料簡していうには「末代に念仏の外の法華経等を雑うる念仏においては千人中一人も成仏しない。一向に阿弥陀仏を念ずれば十人が十人、往生する」と。日本国中の有智・無智の人々は、仰いでこの義を信じて、今に五十余年間、だれ一人、疑いを加えない。ただ日蓮が諸人とかわるところは、阿弥陀仏の本願には「ただ五逆を犯した者と正法を誹謗した者は除く」と誓い、法華経譬喩品には「若し、人が信じないでこの法華経を毀謗するならば、それは、一切世間の仏種を断ってしまうことになる。その人は命終して阿鼻獄に堕ちるであろう」と説かれている。これによれば善導・法然は謗法の者なので恃みにするところの阿弥陀仏に捨てられてしまっている。そのほかの余仏・余経においては自分から抛ったのであるから、もちろん、それらの余仏・余経が救おうと思っても、及ばないのである。しかも、法華経譬喩品によれば、無間地獄は疑いないと説かれている。このように言って日蓮は念仏を責めたのである。ところが、日本国の人はすべて、彼ら念仏宗の弟子であるから、このようにいう日蓮が大難を受けることはまぬかれがたいところである。 -----― 16 無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり先先の諸難はさておき候いぬ、 去年九月十二日・御勘気をかほり 17 て其の夜のうちに頭をはねらるべきにて・ありしが・いかなる事にやよりけん 彼の夜は延びて此の国に来りていま 18 まで候に世間にも・すてられ仏法にも・すてられ天も・とぶらはれず二途にかけたるすてものなり、 -----― 彼らが無尽の秘計をめぐらして日蓮を怨む根本原因はこれである。 先々の諸難はさておく。去年九月十二日に御勘気を蒙って、その夜のうちに頭を刎ねられるはずであったが、いったい、いかなることによったのであろうか。その夜は延びてこの佐渡の国に来て今までになるが、世間にも捨てられ、仏法にも捨てられ、天にも訪われない、世間・仏法の二途にかけて捨てられた者である。 |
善導和尚
(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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十即十生・百即百生云云
善導の「往生礼讃」の序説の文。念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人、一人ももれなく極楽浄土に往生することができるが、法華経などの他の一切の経々では、千人に一人も往生することはおぼつかないとの意味である。
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勢至菩薩
勢至は梵名マハースターマプラープタ ( mahaasthaamapraapta])といい、大勢至・得大勢・大精進とも訳し種々の経に説かれている。①爾前諸教では阿弥陀三尊のひとつとして、観世音菩薩とともに、阿弥陀仏の脇士となって智慧をあらわす。②法華経では八万の菩薩の一人として霊鷲山会にっその名を連ね、阿耨多羅三藐三菩提を得て退転なく、自在の法を説くことができたとある。③不軽品の対告衆
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
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阿弥陀仏の本願
無量寿経に説かれており、阿弥陀仏が過去世に法蔵比丘であったとき、世自在王仏のもとで立てた四十八の誓願のこと。ここではその四十八の誓願中の第十八願をさす。「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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日蓮大聖人が、なぜ大難を受けるのかを、念仏宗の関係から示されている。
大聖人は、凡夫僧であり、世間的にも、住寺すらない、卑しい身分である。しかるに、世間の人々から阿弥陀仏の化身といわれる善導や、勢至菩薩の化身と仰がれる法然の所説に対して、真っ向から破折を加え、善導や法然は無間地獄に堕ちていると主張されたがゆえに、種々の大難を受けたのである、と。
善導にせよ、法然にせよ、仏の金言によるのではなく、我見によって義を立てたのである。日蓮大聖人は、これを仏の教説に照らしてその誤りを指摘し、彼らは仏・菩薩の化身どころか、無間地獄に堕ちていると断定されたのである。どんなに、世間から尊敬され、権勢をもとうと、仏説に違背すれば、堕地獄は疑いない。仏法を真に行ずる人とは、世間の大難を恐れず、権威にへつらうことなく、ただ、法の正義に身を任せて、正法を叫びきっていく人である。
而るに日蓮は法華経の行者にもあらず、又僧侶の数にもいらず
先に引かれた、師子尊者や提婆菩薩、笠の道生や法道三蔵と並べて御自分のことを論ぜられるために、一応、謙遜して、このようにいわれたのである。
「法華経の行者にあらず」とは、法華経の行者というものについての、人々のイメージを考慮されていわれたお言葉と考えられる。なぜなら、大聖人は、三毒強盛の一般民衆となんら異なるところのない凡夫僧である。これに対し、恐らく、人々が〝法華経の行者〟ということについて抱いている印象は、獅子王のように雄々しく、清々しい理想人格であったろう。
もとより、大聖人の仏法に対する悟達の深さや、確信の強さ、衆生を愛する慈悲の広大さは、まさに一閻浮提第一の法華経の行者であったが、人々は、そのような内面の真実は知り得べくもない。外面の姿でしか判断しないとすれば、法華経の行者であると宣言されても、信じがたいところであったに違いない。
このゆえに、ここでは「法華経の行者にもあらず」といわれているわけで、あくまで、それは謙遜してのお言葉である。他の御書では、随所で、御自身が末法の法華経の行者であることを断定されている点からも、このことは明瞭であろう。
「僧侶の数にもいらず」とは、世間的な見地からいわれたのである。事実、生涯、正式の住持の寺も持たれなかった大聖人は、世間の人々の目から見れば、僧侶の数にも入らなかったであろう。
このように、当時の人々からみれば、大聖人は、出世間的にも、世間的にも、卑賤なお姿であったから、そのような大聖人が、隆盛を誇る念仏宗に対し、その教祖が無間地獄に堕ちたなどということは、理不尽千万な誹謗としか映らなかったのである。
此れ善導・法然謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ
阿弥陀如来が法蔵比丘のときに立てた四十八願中第十八願に「衆生が阿弥陀仏を念ずれば、極楽世界に生ぜしめる。ただし五逆と誹謗正法の者は除く」とある点からみて、善導や法然は、念仏を称えたが正法を誹謗しているから、阿弥陀仏に見捨てられ、極楽往生は叶わない、ということである。すなわち、彼らは、もっとも依りどころとしている阿弥陀仏によってさえ、救われないことになる。
では、阿弥陀仏以外の仏、阿弥陀経以外の経によってはどうかといえば、彼らは、阿弥陀経以外のものは「千人のうち一人も救われない」と蔑み、「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と言ったくらいであるから、今さら、それらの仏や経が救いの手をさしのべてくれる道理がない。阿弥陀仏や阿弥陀経が救いの手をさしのべてくれる可能性より、もっと望みがないことになる。
しかも、このように、ただ「救われない」ばかりではない。真実を説いた法華経にいたっては「此の経を毀謗するならば、その人は命終して阿鼻獄に入るであろう」と断言している。したがって、中国浄土宗の中心的指導者である善導、日本浄土宗の開祖である法然等は共に阿鼻獄すなわち無間地獄に堕ちてしまったと、大聖人は言いきられたのである。
世間にもすてられ、仏法にもすてられ、天にもとぶらはれず、二途にかけたるすてものなり
佐渡における大聖人の御生活は、言語に絶する厳しいものであったに違いない。世間の法のうえでは、流人の身であり、まわりには大聖人を阿弥陀如来の敵として命をねらう念仏者がとりまき、しかも、厳しい北国の風土のなかで、身を守るものは何一つとしてなかった。この一節は、大聖人のおかれた、そうした厳しい境遇を、端的に表現された御文と拝することができる。
もとより、現実には、この約半年前に、大聖人の身柄は塚原三昧堂から一の谷の一谷入道邸に移られ、比較的恵まれた御生活になっていた。また、諸天の加護についても、他の御書では「竜口の時に月天子、依智においては明星天子があらわれた。三光天子のうち残る日天子も必ずあらわれて加護をなすであろう。たのもしいことである」と述べて、喜ばれている御文もある。
したがって、ここで、このように「仏法にもすてられ、天にもとぶらはれず」云々といわれているのは、四条金吾が使いを遣わして来たことのありがたさを強調されるためであったと考えられる。あるいはまた、開目抄に「天もすて給え諸難にもあえ」(0232-01)とあるのと同じく、末法御本仏としての、孤高の境地、諸天の加護とか仏法の守護、いわんや世法に守られることなど問題ではない、金剛不壊の立ち場から、その心境をありのままに表現されたとも拝せるのではないだろうか。
1120:18~1121:09 第四章 仏の使いについて述べるtop
| 18 而るを何なる 1121 01 御志にて・これまで御使を・つかはし御身には 一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる 02 両三日は・うつつとも・おぼへず、 彼の法勝寺の修行がいはをが嶋にて・としごろつかひける童にあひたりし心地 03 なり、 胡国の夷陽公といひしもの漢土にいけどられて 北より南へ出けるに飛びまひける雁を見てなげきけんも・ 04 これには・しかじとおぼへたり。 -----― そのように世間にも仏法にも捨てられた身であるのに、いかなるお志で、ここまで使いを遣わされ、あなたにとっては一生の大事である悲母の御追善三回忌の御供養を送り遣わされたのであろうか。この二、三日は、現実とも思えずに過ごした。彼の法勝寺の僧・俊寛が硫黄が島に流されて、久しい以前から使っていた童子にあったと同じ心地である。胡国の夷・陽公という者が漢土に生けどられて、北から南に行った時に、そこに飛び舞っていた雁を見て胡国から来たのであろうと思い嘆いたのも、これには及ばないと思うのである。 -----― 05 但し法華経に云く 「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当 06 に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として 如来の事を行ずるなり」等云云、 法華経を一字一句も唱え又 07 人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、 然れば日蓮賎身なれども 教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れ 08 り、 此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は 無数の仏を供養するにも・すぎたりと 09 見えたり。 -----― ただし、法華経法師品には「若し善男子善女人が、我が滅度ののちに、能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説くならば、当に知りなさい。この人はすなわち如来の使いであり、如来の所遣として如来の事を行ずるのである」と。法華経を一字一句でも唱え、また、人にも語り申す者は教主釈尊の御使いである。この経の如くならば、日蓮は賎しい身であるけれども、教主釈尊の勅宣を頂戴してこの日本国に生まれてきた。この日蓮を一言でも誹る人々は罪を無間に開き、一字一句でも供養した人は無数の仏を供養することよりもすぎると説かれている。 |
法勝寺の修行
法勝寺は京都、東三条森の北(京都市左京区岡崎町)にあった天台宗寺院。承暦元年(一1077)12月、白河天皇の御願寺として建立された。六勝寺の一つで大毘廬舎那寺と号した。天皇の行幸もたびたびうけている。天正18年(1590)勅命により坂本西教寺と併合され、法勝西教寺と称したが、のち廃滅した。修行とは執行の音便で、諸務を行なう僧職名、またはその職にある僧で、ここでは、俊寛のこと。俊寛は仁和寺法印寛雅の子で法勝寺の執行であった。後白河院の信任を得、平清盛の専横を憤り、藤原成親、西光等と鹿ケ谷の山荘で平氏討伐の謀議をめぐらしていた。しかしこの謀議は発覚し、安元3年(1177)6月3日俊寛は逮捕され、成親の子・成経、平康頼と共に硫黄島に流された。翌年2人は許されたが、俊寛のみ島に残された。平家物語によれば、流罪されてから3年目、俊寛が幼少より可愛がり召し使っていた有王という少年が師の行方をたずねて島へ渡り、俊寛にめぐりあった。有王の持参した娘の手紙をみて俊寛は、以後食を断ち有王にみとられて死んだという。
―――
いはをが嶋
硫黄島のこと。小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。俊寛が流罪されている。
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胡国の夷・陽公
胡国とは、中国から未開辺地をさしていう語。秦漢以前は、もっぱら匈奴をさしたという。陽公については、詳細不明。
―――
教主釈尊の勅宣
教主釈尊は一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。末法に法華経を広宣流布せよということ。
―――――――――
本章は悲母の追善供養のためとはいえ、わざわざ鎌倉より佐渡の地まで使者を遣わしたその志に深く感謝され、その功徳を述べられているところである。
法華経を一字一句も唱え、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり
この文は自ら題目を唱え、折伏を行じていく人が如来の使いであり、人間として最も尊厳な姿であることを明かされている。
日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日立宗宣言以来、そのご一生は実に折伏教化の一生であられた。その外用の姿は法華経の予言のままに如来の使いたる上行菩薩の振る舞いであった。
また、「三大秘法禀承事」に「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(1022-14)と説かれている。まさに、力強く妙法を唱え、人々に語り、訴えていく実践こそ、大聖人のお振る舞いにもかない、御書に示されたとおりの信心修行なのである。
宗教とは大きな伽藍や古びた教義の中にあるのではなく、それを信じ、行じていく人々の生命の中にこそ生きて伝わるものであり、生命の歓喜の波動が社会に広がっていくものである。
さらに、化儀の広宣流布達成は日蓮大聖人がわれらに託された遺命である。したがって、悠久 にとどまるところなく広宣流布の流れをつくっていくことが、大聖人の使いとしての実践ともいえるであろう。
「一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたり」とは、法の供養、すなわち折伏を行ずる功徳を示された御文である。妙法を讃嘆し、妙法の偉大さを人々に知らしめ、妙法を宣揚することは、無数の仏を供養するよりもさらに大きい功徳を積むことになる。それは、妙法こそ、三世十方の一切の仏の根源の師であり、母体だからである。
1121:10~1122:05 第五章 法華経の功徳を示すtop
| 10 教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり、八万法蔵は皆金言・十二部経は皆真実なり、無量億劫より以来持 11 ち給いし不妄語戒の所詮は一切経是なり、 いづれも疑うべきにあらず、 但是は総相なり別してたづぬれば如来の 12 金口より出来して小乗.大乗・顕密・権経.実経是あり、今この法華経は「正直捨方便等・乃至世尊法久後・要当説真 13 実」と説き給う事なれば誰の人か疑うべきなれども多宝如来・証明を加へ諸仏・舌を梵天に付け給う、 されば此の 14 御経は一部なれども 三部なり一句なれども三句なり一字なれども三字なり、 此の法華経の一字の功徳は釈迦・多 15 宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、 たとへば如意宝珠の如し 一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の 16 宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、 たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり 一丸も百丸も共に病を治する事こ 17 れをなじ、譬へば大海の一渧も衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し。 -----― 教主釈尊は一代の教主であり、一切衆生の導師である。釈尊の説いた八万法蔵は、皆金言であり、十二部経は皆真実である。無量億劫より以来持きた、不妄語戒の所詮が一切経であり、いずれの経といえども疑うべきではない。ただし、これは総じて慨括的にみた場合である。別して検討してみると、釈迦如来の金口より出来した教えにも小乗教・大乗教・顕密二教・権経・実経の別がある。今この法華経は方便品に「正直に方便を捨てて」、また「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と説かれているので、誰も疑うはずはないけれども、多宝如来は証明を加え、諸仏は舌を梵天に付けて証明している。それゆえ、この経は一部であっても三部である。また一句であっても三句である。一字であっても三字である。この法華経の一字には釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳が収めてある。たとえば如意宝珠のようなもので、一珠も百珠も同じことである。一珠でも無量の宝を雨すし、百珠でも、また無尽の宝がある。たとえば、百草を抹って一丸乃至百丸とすると、一丸も百丸も共に病気を治すことは同じである。たとえば大海の一渧の水にも、あらゆる川の水を含み、一海も万流の味をもっているようなものである -----― 18 妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり、月支と申すは天竺の総名なり別しては五天竺是なり、 1122 01 日本と申すは総名なり別しては六十六州これあり、 如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり 竜王にこれを給いて頂 02 上に頂戴して帝釈是を持ちて宝をふらす、 仏の身骨の如意宝珠となれるは 無量劫来持つ所の大戒・身に薫じて骨 03 にそみ一切衆生をたすける珠となるなり、 たとへば犬の牙の虎の骨にとく魚の骨のウの気に消ゆるが如し、乃至・ 04 師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、 仏の説法をば師子吼と申 05 す乃至法華経は師子吼の第一なり。 -----― 妙法蓮華経というのは総名である。二十八品というのは別名である。月支というのは天竺の総称である。別しては五天竺がある。日本というのは総名である。別しては六十六州がある。如意宝珠というのは釈迦仏の舎利である。竜王はこれを給わり頂上に戴き、帝釈天がこれを持って宝をふらせる。仏の身骨が如意宝珠となることは無量劫以来持つところの大戒が、身に薫じて骨に染まって一切衆生を救う珠となるのである。たとえば犬の牙が虎の骨にとけ、魚の骨が鵜の気に消えるようなものである。また、師子の筋を琴の絃にかけて、これを弾けば他の一切の獣の筋の絃、皆切らないのに切れてしまう。仏の説法を師子吼という。ないし法華経は師子吼の第一である。 |
八万法蔵
煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」
―――
十二部経
十二部とも十二分経ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二種に類別したもの。
① 修多羅 (sūtra) 契経ともいい、散文で書かれた経典。長行のことで、長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。
② 祇夜 (geya) 重頌、また重頌偈といい、前の長行の文に応じ、重ねてその義を韻文で述べる。
③ 伽陀 (gāthā) 孤起頌、また孤起偈といい、前に長行がなく、独立して韻文で述べる。
④ 尼陀那 (nidāna) 因縁。いっさいの根本縁起を説く。
⑤ 伊帝目多(itivŗttaka) 伊帝目多伽。本事。諸菩薩、弟子の過去世の所業・因縁を説く。
⑥ 闍多伽 (jātaka) 闍陀伽。本生。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。
⑦ 阿浮達磨(adbhutadharma)阿浮陀達磨。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。
⑧ 婆陀 (avadāna) 阿婆陀那の略称。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。
⑨ 優婆提舎(upadeśa) 論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。
⑩ 優陀那 (udāna) 無問自説のこと。人の問いを待たず仏自ら説くこと。
⑪ 毘仏略 (vaipulya) 方広と訳す。経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。
⑫ 和伽羅 (vyākaraņa) 和伽羅那。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
―――
不妄語戒
偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。五戒・十重禁戒のひとつ。
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総相
一つのものを概括的にながめた相。
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顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
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如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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六十六州
北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、東山道八か国(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)、東海道15か国(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)、北陸道7か国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)、山陽道8か国(播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)、山陰道8か国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐)、南海道6か国(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海道9か国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)である。このほかに壱岐・対馬の2島加えて66か国2島とする。
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御舎利
舎利は梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
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竜王
竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
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帝釈是を持ちて宝をふらす:
帝釈天が阿修羅と戦ったときに、閻浮提に宝をふらしたといわれる。大智度論巻第五十九に「有人の言はく『是れ帝釈の金剛を所執して用い、阿修羅と闘いし時、閻浮提に砕落せり』」とある。
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鸕
ウ科に属する水鳥。潜水が巧みで魚を捕食する。鵜飼に使役される鳥。なお本来の字がこの「鸕」である。通常使用される「鵜」の字はペリカンを意味するが、日本には生息しないため混同された。
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師子吼
釈尊が説法する様子を 獅子のほえる様子にたとえたもの。釈尊が大衆に恐れることなく説法することをいう。
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釈迦の説法はことごとく真実であるが、なかでも法華経が最高であること、その法華経の一切を包含した極理が妙法蓮華経の題目であることを示されている。
この段は、まず〝法〟としての法華経を讃嘆し、次に「仏には三十二相」の段で〝人〟としての仏を称え、その人法一箇の姿として梵音声の説法を示されるのである。
此の法華経の一字の功徳は、釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う
「此の法華経」とは、一往は釈迦の説いた法華経二十八品であるが、再往は、文底独一本門の法華経たる三大秘法の御本尊と拝すべきである。
法華経は釈迦が自ら「真実の法」として説き、多宝如来が「皆是真実」と証明し、さらに十方の諸仏が舌を梵天につけて、真実であると証明を加えたのであるから、釈迦の功徳も、多宝の功徳も、十方の諸仏の功徳も、全て具っているとの仰せである。
それでは、釈迦の功徳、多宝の功徳、十方諸仏の功徳とは、それぞれ、具体的にいかなるものであろうか。総じていえば、仏の功徳とは、元来、仏の究竟の目的は一切衆生を成仏せしめることにあるのであるから、衆生の成仏ということに帰着する。だが、それだけならば、釈迦・多宝・十方の諸仏というふうに分けてその功徳という必要はないはずである。そこに、今一歩、深く思索すべき問題があるように思われる。
釈迦・多宝・十方の諸仏を三仏といい、釈迦を報身、多宝を法身、十方の諸仏を応身に配して、三身と立てる。したがって、釈迦・多宝・十方諸仏を並べあげられたところに意味されるものは、三身即一身の無作三身如来たる久遠元初自受用身、即、事の一念三千の御本尊と拝することができる。これは、文底深奥の義であり、究極である。
次に、釈迦を智、多宝を境に約する。このことから考えるならば、釈迦の功徳とは、自己の人格完成へ向かって進む、人間革命であり、多宝の功徳とは、身体の健康、物質的、経済的に恵まれる等の、生活革命ということができよう。そして、十方の諸仏の功徳とは、まわりの人間関係に恵まれ、人々から大事にされて人生を生きていけることといえないだろうか。
釈迦を智、多宝を境として、十方諸仏は境智冥合するところ慈悲あり、に相当する。人々から大事にされるということは、自身が人々に慈悲をもって接し、人々の幸福のために尽くすという実践があって、はじめて偽りのないものとなる。ともあれ、こうした対人関係において、恵まれた生活を送れるということは、人生において、きわめて重要な幸福の要件であることを知らねばなるまい。
如意宝珠について
如意宝珠とは、意のままに何でも取り出せる力をもった不思議な珠として、古代東洋人の考えたものである。もとよりそのような宝珠が現実にはありえようはずがない。だが、妙法は、まさに、この如意宝珠の力を有している。
いま、この本文で、大聖人は、如意宝珠を〝法華経の一字〟と〝仏の身骨〟との二つの譬えとされている。だが、元意は、仏の身骨が如意宝珠になったといっても、無量劫来持つところの大戒の故であり、「法妙なるが故に人貴し」であって〝法華経の一字〟すなわち妙法が如意宝珠の実体である。
妙法すなわち、末法においては御本尊である。御本尊が如意宝珠であるということは、いかなる人の、どのような願いも、信心をもって祈れば必ず叶うことを意味する。「願いとして叶わざるなく、罪として滅せざるなし」の御本尊の無量無辺の功徳力を強く確信すべきである。
たとへば犬の牙の虎の骨にとけ、魚の骨の鸕の気に消ゆるが如し云云
いかなる故事から引かれたものかは不詳である。犬の牙が虎の骨にとくとは、犬が虎の骨を噛もうとすると、その骨があまりに硬いので、牙の方が砕けるなり、すりへる等といったことをいっているのではないだろうか。魚の骨が鸕の気に消ゆとは、鸕は噛まないで魚を丸呑みにするわけだが、骨も残さず消化されてしまうさまを、このようにいわれたと考えられる。師子の筋云云の譬えは、師子の強さをあらわすための、こうしたエピソードがあったのであろう。
いずれにせよ「犬の牙」、「魚の骨」は、妙法を持つ者の、過去の種々の悪業を示していると考えられる。いかなる悪業も、正法を受持することによって、おのずから消滅するというのである。師子の筋と一切の獣の筋との譬は、正法が興隆すれば、他のあらゆる邪義・邪法は、おのずと破れ去っていくとの意である。師子吼の譬は、師子がひとたび吼えると、他の一切の獣は声をひそめてしまうということで、やはり、正法の出現の前に、他の低い宗教・哲学が、もはや人々の心に訴え時代を動かしてゆく力を喪失することをあらわしている。
1122:06~1123:03 第六章 梵音声の本義を説くtop
| 06 仏には三十二相そなはり給う一一の相・皆百福荘厳なり、肉髻・白毫なんど申すは菓の如し因位の華の功徳等と 07 成つて三十二相を備え給う、 乃至無見頂相と申すは釈迦仏の御身は丈六なり 竹杖外道は釈尊の御長をはからず御 08 頂を見奉らんとせしに 御頂を見たてまつらず、 応持菩薩も御頂を見たてまつらず、 大梵天王も御頂をば見たて 09 まつらず、これは・いかなるゆへぞと・たづぬれば父母・ 師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへに此の相 10 を感得せり。 -----― 仏には三十二相がそなわっている。一つ一つの相は皆百福によって荘厳されている。肉髻・白毫などという相は、菓のようなもので因位の華が功徳等となって、このように三十二相をそなえているのである。また、無見頂相というのは、釈迦仏の御身は一丈六尺である。竹杖外道は釈尊の身長をはかることができず、御頂きを見ようとしたが見ることはできなかった。応持菩薩も頂きを見ることができなかった。大梵天王も頂きを見ることができなかった。これは、どういう理由であろうかと尋ねてみれば、頂きを地につけて父母・師匠・主君を恭敬したゆえにこの相を感得したのである。 -----― 11 乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国 12 も破れ国も治まるなり、 宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言・一王の一言に及ばず、則ち三墳・五典なん 13 ど申すは小王の御言なり、 此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事・仏の大梵天王・帝釈等をしたがへ 14 給う事もこの梵音声なり、 此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、 其の中に法華経は釈迦如来の書き顕 15 して此の御音を文字と成し給う 仏の御心はこの文字に備れり、 たとへば種子と苗と草と稲とは・かはれども心は 16 たがはず。 -----― また、梵音声というのは、仏の第一の相である。小王・大王・転輪王等も皆この相の一分をそなえているがゆえに、この王の一言によって国も、あるいは破れたり、あるいは治まったりするのである。王が下す宣旨というのは梵音声の一分である。万民の万言であっても一王の一言には及ばない。すなわち三墳・五典などというのは小王の言である。日本というこの小国を治め、また、大梵天王が三界の衆生をしたがえることも、さらに仏が大梵天王・帝釈等をしたがえられることも、この梵音声によるのである。これらの梵音声が一切経となって一切衆生を利益するのである。そのなかでも法華経は釈迦如来の御志を書き顕わして、釈迦如来の音を文字となしたのであり、仏のみ心はこの文字にそなわっている。たとえば種子と苗と草と稲とは、形は変わっているけれども、その生命自体は互いに異ならないのと同じである。 -----― 17 釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、 然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来 18 にあひ進らせたりと・おぼしめすべし、 此の志佐渡の国までおくり・つかはされたる事すでに釈迦仏知し食し畢ん 1123 01 ぬ、実に孝養の詮なり、恐恐謹言。 02 文永九年 月 日 日 蓮 在 御 判 03 四条三郎左衛門尉殿御返事 -----― 釈迦仏と法華経の文字とは形は変わっているけれども心は一つである。そうであれば法華経の文字を拝見することは生身の釈迦如来におあいしているのだと思いなさい。あなたが志を佐渡の国まで送りつかわされたことは、すでに釈迦仏も知っていらっしゃることである。実に孝養の至りである。恐恐謹言。 文永九年 月 日 日 蓮 在 御 判 四条三郎左衛門尉殿御返事 |
三十二相
応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。
① 足下安平立相
② 足下二輪相
③ 長指相
④ 足跟広平相
⑤ 手足指縵網相
⑥ 手足柔軟相
⑦ 足趺高満相
⑧ 伊泥延膊相
⑨ 正立手摩膝相
⑩ 陰蔵相
⑪ 身広長等相
⑫ 毛上向相
⑬ 一一孔一毛生相
⑭ 金色相
⑮ 丈光相
⑯ 細薄皮相
⑰ 七処隆満相
⑱ 両腋下隆満相
⑲ 上身如獅子相
⑳ 大直身相
㉑ 肩円好相
㉒ 四十歯相
㉓ 歯斉相
㉔ 牙白相
㉕ 獅子頬相
㉖ 味中得上味相
㉗ 大舌相
㉘ 梵声相
㉙ 真青眼相
㉚ 牛眼睫相
㉛ 頂髻相
㉜ 白毛相
なお、三十二相の名称および順位については諸経論により異説がある。
―――
百福荘厳
百福とは釈尊がかつて暦劫修行を積んで得た百の福徳をいう。その百福をもって三十二相の一つ一つを荘厳すること。法蓮抄(1034)に「仏には必ず三十二相あり其の相と申すは梵音声・無見頂相・肉髻相・白毫相・乃至千輻輪相等なり、此の三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり」とある。
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無見頂相
仏の三十二相の一。仏の頭頂部にある肉髻(にくけい)。だれも見ることのできないところからいう。
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竹杖外道
婆羅門の一派で、仏教徒を憎んで目連尊者を殺したことで有名。釈尊の無見頂相を疑い、竹杖をもって測ろうとしたが、ついに測ることができず、杖を投じて去ったという。
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応持菩薩
妙楽は弘決巻第一之四に「応持菩薩のごとき、仏身を量らんと欲して、仏成道の後波羅奈に遊ぶ云云」と述べている。
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大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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梵音声
仏の三十二相の一つ。この梵音声の特質については、大智度論巻四に「二十八には梵声の相なり。梵天王の五種の声の口より出づる如し。一には深きこと雷の如し。二には清く徹して遠く聞え、聞く者は悦楽す。三には心に入りて敬愛す。四には締了にして解し易し。五には聴く者厭うこと無し」とある。
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転輪王
転輪聖王のこと。インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
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宣旨
天皇の詔。朝廷から出される詔文書。
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三墳・五典
中国古代の伝説上の天子である三皇・五帝が著わしたとされる書。一般的に三皇は伏羲・神農・黄帝で、三墳の墳とは大道を意味する。五帝は少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜で五典の典とは常道を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。
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三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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生身
①衆生の肉親をいう。②二身のひとつ。生身仏・父母生身ともいう。
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三十二相の代表的な例を上げて、仏の威徳の偉大さを示し、その仏の生命がそのままあらわされたのが法華経であることを教えられている。すなわち、人法一箇の当体が法華経であるとの義である。
もとより、正像が過ぎて、釈尊の白法穏没した末法今時の修行においては、ここに仰せの釈迦仏とは、末法御本仏たる日蓮大聖人、法華経の文字とは三大秘法の御本尊と拝すべきである。「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(1124-11)と仰せられるように、御本尊こそ日蓮大聖人の御生命であり、生身の大聖人であらせられるのである。
これはいかなるゆへぞとたづぬれば、父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへ
無見頂相すなわち、誰びともその頂きを見ることができないという仏の相は、過去に仏が父母・師匠・主君を、頂を地面にすりつけて、尊敬し大事にしたゆえに得たものであると、生命の因果の理法が、いかに厳然たるものであるかを示されているのである。したがって、逆に「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」(0960-03)ということになる。
さらに、父母・師匠・主君とは、いわゆる主・師・親の三徳といわれるもので、現実の人生においても、人間形成の上での測り知れない恩恵を与えてくれる存在である。親とはいうまでもなく、人間としてこの世に生まれ、育つために、なくてはならない存在である。師とは、人間が知的存在として成長するための、やはり不可欠の存在である。ただし、この場合、特定の人物と限定されるものではなく、親も、兄弟や友達も、社会全体、文化の総体が師としての働きをしてくれる。主とは、現代的にその本質をいえば、社会そのものである。社会的存在としての人間は、社会なくして人間らしい生活は維持できないことを知るべきである。
封建制の道徳においては、父母・師匠・主君の権威を本位にした忍従が強調され、形式主義に堕してしまったが、人間性を中心に考えれば、人間の尊厳を守るための重要な基盤が主師親であることに気づくのである。ここにいう父母・師匠・主君を恭敬するということも、自己を犠牲として仕えるという意味ではなく、その恩択を最大限に我が身に受け吸収することであり、それによって、自己はより偉大なる人格へと成長することができるのである。
無見頂相とは、その人格の偉大さ、崇高さを譬喩的にあらわしたものであって、物理的に、頂きを見ることができないなどというのではない。逆にいえばこの御文は、自己の、人間としてより大きい成長のために大事なことは、父母・師匠・主君を大切にすることだと教えられているとも拝せよう。父母を大事にせず、師匠を尊敬せず、主君を愛さない増上慢の人は、人間として下劣であり、自身のより大なる成長もありえないことを知らねばなるまい。
なお、信心に約していえば、永遠的な主・師・親の三徳を具備した当体が、開目抄に示されているように、御本仏日蓮大聖人であり、その御生命の実体である三大秘法の御本尊である。御本尊を恭敬することが主師親を尊敬することの究極なのである。同時に、ひらいて論ずれば、御本尊を尊敬する人は、社会にあっても、人間として偉大な人格になっていかなければならないという原理になる。
王の一言に国も破れ国も治まるなり
ここで仰せの原理は、専制君主政体の場合に限定されるものではない。民主主義政体といっても、権力を誰に委ねるかの過程およびある程度の権力者に対するコントロールの意味で、民衆の意思が反映される仕組みであって、権力を委ねられた人の決定が社会の命運を左右することには変わりがない。その意味で王とは、権力を担当する人と考えるべきである。
本来、権力とは、その社会の人々の行動を規制し、社会の動向を決する力であって、社会的機構には必ずつきまとう意思決定機能である。その一言は、おのずから、一般民衆の発言とは遥かに重い影響力をもつ。人々を動かし、社会をリードする力をもった言葉を、仏法では〝梵音声〟と表現したのである。
権力者、指導者の一言によって、社会は栄えもするし、誤れば、混乱し、殺戮・破壊が起こり、多くの人々が滅びてしまうことになる。ゆえに権力者、指導者は、方向を誤ることのないよう、正しい基本的な考え方と、正確な判断、そして人々をリードしていく強靭な意思とが要求されるのである。
所詮、梵音声とは、単に声が大きいとか、よく透るとかではなく、その声、言葉を発する人の社会的立ち場、資格、権限が、その言葉に力を与えるのである。だが、それだけでは、そうした社会の中においてのみ力を持つに過ぎない。社会的制約、時代的規制を越えて、あらゆる時代の、あらゆる人々の心に、強く訴え、動かしていく力を持つためには、その言葉に真実と真理があるか、その言葉に人々の幸福を願い苦悩を打ち破る慈悲があるかによるのである。仏の金言を〝梵音声〟というのは、権力や武力によるのではなく、この真実と慈悲との広大さ、深遠さによることを知るべきであろう。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり云云
すでに述べたように、文上脱益仏法の辺に約すれば、釈尊の生命は法華経であるという意である。「経王殿御返事」に「仏の御意は法華経なり」(1124-12)とあるのと、まさしく同意である。だが、再往、末法今時に約せば「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」(1546-11)であり、末法御本仏たる日蓮大聖人が「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(1124-12)と仰せの、文底独一本門の法華経すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経によらなければならない。
したがって、ここにいわれる〝釈迦仏〟とは、文底下種法門の教主釈尊である日蓮大聖人にほかならず、〝法華経の文字〟とは三大秘法の御本尊以外のなにものでもない。本文の次上の文にある「法華経は釈迦如来の御志を書き顕して此の御音を文字と成し給う。仏の御心はこの文字に備れり」と、「経王殿御返事」の「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(1124-11)の文と、なんとよく似ていることであろうか。
ゆえに「然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし」と仰せられるのである。これは、御本尊を拝することは、生身の日蓮大聖人にお会いするのと同じである。御本尊即大聖人と拝すべきであると教えられた御文といえる。
すでに竜口の頸の座において発迹顕本されて久遠元初の自受用身如来であるとの自覚に立たれた大聖人の境地と、御自身は佐渡にあって直接にはあえない四条金吾への深い慈愛とが、ここに拝察できるのである。
1118~1123 四条金吾殿御返事(梵音声御書)2013:05月号大白蓮華より。先生の講義top
勇んで語れ!正義と真実の声で
「大確信で語りに語れ!仏の力を持った声は必ず道を開く」
眼を閉じると、わが師・戸田先生の声が鮮明に蘇ってきます。
青年を薫陶する厳しくも温かな声。
苦悩に沈む声を包み込む優しい声。
そして、広宣流布を宣言する堂々たる声。
恩師の声は、今も耳朶を離れません。
私はかつて、戸田先生の「声」を後世、永遠に残したいと決意し、講義のレコード化を進めました。その着想の発端となったのは、昭和26年(1951)2月、恩師の膝下で英国の作家ホール・ケインの小説『永遠の都』を学んだ時のことです。
小説の舞台は1900年のローマ、主人公ロッシィが、師匠である老革命家の声を蓄音機で聴く場面がありなす。それは流刑地からの遺言でした。「跡を頼む」と。ロッシィは感涙にむせび、革命を誓うのです。
戸田先生を囲み、広宣流布の大理想を語り合いながら、私は思いました。
“先生の声を、永遠に残したい。いつかレコードのような形で”
そして、恩師の逝去後、初めて迎えた昭和34年(1959)の元旦、学会本部で皆と共に先生の講義の録音テープを聴きました。先生の凛とした声が響きわたると、誰もが襟を正し、感涙し、敢闘を誓ったのです。
師の叫びが、薄らいでしまうようなことがあっては断じてならない。ただただ、その一心で、ほどなくして、先生の「声」のレコード化の事業に着手しました。
「実に嬉しい。報恩」レコード一枚目が完成した時、私は率直な心境を日記に綴りました。
「声仏事を為す」
日蓮大聖人は「声」の力、その重要性を門下に教えてくださっています。
「声仏事を為す」(0708-09)
「音も惜まず」(0504-02)
「師子の声には一切の獣・声を失ふ」(1393-03)
広宣流布地は、大聖人の時代も、現在も、そして未来永遠にわたって言論戦です。だからこそ「声」が大事です「声」が弾丸です。「声」が剣です。
真実を語り抜けば、必ず相手の心に響きます。正義を叫び抜けば、邪悪を打ち破っていけます。真剣な声、必死な声は、人々の心を突き動かしてやみません。
今月は「梵音声御書」の別名もある「四条金吾殿御返事」を拝し、時代変革の「声」の力について学んでまいりたいと思います
| 03 世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども 04 王にしたがはざれば仏法流布せず、 或は後には流布すれども 始めには必ず大難来る、 -----― 以上に述べたことは世間の法についてであるが、仏法についてもまた同じである。仏陀は既に仏法を王法に付嘱した。したがって、たとえ聖人・賢人である智者であっても、王に従わなければ仏法は流布しない。あるいは後には流布するといっても、始めには必ず大難が来るのである。 |
民衆に奉仕してこそ真の為政者
本抄は、文永9年(1272)9月に佐渡の地から四条金吾に送られたお手紙です。大聖人は、仏法のうえの大難であり、仏勅の使命のままに、いよいよ一切衆生を救済する法華経を宣揚していくと力強く宣言され、四条金吾の真心を讃嘆されています。
まず、本抄の冒頭では、中国・春秋時代の斉の桓公や楚の荘王の例を通して、一国の動向は王によって大きく決まることを教えられています。
そのうえで大聖人は、王とは前世で、十善戒を持った果報によって国王として生まれてくる。そして諸天の心にかなう限りは王たりえるとする。当時の一般的な考え方を示されています。これは、王たる資質・条件について述べられたものと拝されます。
万人に尽くす人物が政治を司るべきであることは言うまでもありません。自分の利欲のために権力を濫用する者などは、本来、王とは呼べないからです。
例えば、インドのアショーカ大王は、「王のなかの王」と呼ばれた指導者でした。当初は暴虐を極め、人々から恐れる悪王でしたが、やがて仏法を基調として、平和と福祉の政治改革を行い人類史に不朽の名を留めました。
かつてアショーカ大王のことについて大いに論じ合った、インドの哲学者ラダクリシュナ博士は、次のように語っていました。
「アショーカ大王の偉大さは、彼が仏教の教えのなかに、合理的で倫理的な原理を見いだすことにあります」と。
戦乱によって苦しむ民衆を目の当たりにしたアショーカ大王は「軍事力に征服」から、「法による統治」へと、政治の在り方を大転換したのです。
指導者が仏法の精神を具現した社会にあって、平和的、文化的な国家を創り上げられました。歴史上、このような国家が築かれたことは極めて稀です。
大聖人は、聖人・賢人のような智者がいて、正しい法を理解する王がいれば、仏法は必ず流布するとの原理がしめされています。
しかし、王が悪法に帰依した場合は、正法の行者は大難を免れないとも教えられています。
悪王や邪法と戦われた大聖人
続く御文で、その具体的な例として、インド・中国・日本で、王の庇護があったために、劣った教えである法相宗や真言宗・華厳宗が一国に広まっていったことを述べられています。また、師子尊者や提婆菩薩、竺道生、法道三蔵が、正法を弘通したことによって迫害を受けた例を挙げられます。
争いごとが絶えず、正法正義が隠没する末法にあって、大聖人は、万人救済の「立正安国」の旗を掲げて、時の幕府権力者に国主諌暁されました。飢饉や疫病・地震など、災難にあえぐ民衆を救うには、一国にはびこる謗法の根を断ち、人々の心に正法を打ち立てるいがいにないとの御心境から、不惜身命の闘争を起こされたのです。
正法を護持し、民衆を不幸に陥れる悪王や邪法とは徹底して戦っている。これは現在においても変わらない方程式です。
主権在民の現代においては、「王」とは主権者たる「民衆」一人一人であるといえます。問題は、その「民衆」が織り成す社会が、いかなる社会なのかです。人間を軽んじ、差別が横行する社会なのか、共々に境涯を高めゆく社会なのか、その帰趨を決めるのが、社会を構成する一人一人の思想です。
ゆえに、法華経の行者は、一人一人の変革を通して、民衆の境涯を高める社会を実現しようとする行動を続けます。
「民衆のための社会」「人間のための社会」を実現するためにこそ、社会に巣くう民衆蔑視、生命軽視の風潮や思想とは断固戦い、正義の「声」をあげてくことです。
これが私たち学会員の日々の対話運動の根本理念です。また、大聖人に連なる広宣流布の誉の闘争なのです。
| 16 無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり先先の諸難はさておき候いぬ、 去年九月十二日・御勘気をかほり 17 て其の夜のうちに頭をはねらるべきにて・ありしが・いかなる事にやよりけん 彼の夜は延びて此の国に来りていま 18 まで候に世間にも・すてられ仏法にも・すてられ天も・とぶらはれず二途にかけたるすてものなり、 而るを何なる 1121 01 御志にて・これまで御使を・つかはし御身には 一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる -----― 彼らが無尽の秘計をめぐらして日蓮を怨む根本原因はこれである。 先々の諸難はさておく、去年九月十二日に御勘気を蒙って、その夜のうちに頭を刎ねるはずであったが、いったい、いかなることによったのであろうか、その夜は延びてこの佐渡の国に来て今になるが、世間にも捨てられ、仏法にも捨てられ、天にも訪わない。世間・仏法の二途にかけて捨てられた者である このように世間にも仏法にも捨てられた身であるのに、いかなるお志で、ここまで使いを遣わされ、あなたにとっては一生の大事である悲母の御追善第三年の御供養を送り遣わされたのであろうか。 |
いかなる大難も一歩も退かず
「無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり」この段では、大聖人がなぜ大難を受けるかにつて、邪僧との関係から示されています。
すなわち、大聖人は凡夫僧であり、卑しい身分である。それにもかかわらず、世間の人々から阿弥陀仏の化身とされる善導や、勢至菩薩の化身とされる法然に対して、仏説に基づいて真っ向から破折を加えられているから、種々の大難を受けたのである。と。
さらに「去年九月十二日に・怨勘気をかほりて」以降の御文では、文永8年(1271)9月の「竜の口の法難」、続く「佐渡流罪」のことについて綴られています。
いうまでもなく竜の口の法難とは、幕府権力によって、何の罪もない大聖人が斬首されようとした不当な迫害でした。大聖人への嫉妬に狂った宗教的権威が政治権力と結託して起こした弾圧です。そして斬首に失敗すると、次は当時にあっては死罪にも等しい佐渡への流罪を命じたのです。
流罪地の佐渡での大聖人の御生活は、言語を絶する厳しいものでした。北国の厳寒の地です。文永8年(1271)11月から翌年の春まで住まわれた塚原三昧堂は、「上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし」(0916-05)というありさまでした。
さらに、そもそも流人の身であるうえに、周囲には大聖人を敵視する勢力が取り巻き、常に命を狙う状況だったのです。
本抄で「世間・仏法の両方において捨てられた身である」と仰せになっているのは、佐渡での厳しい境遇を端的に表現されたものです。むろん、その御心境においては「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせ」(0232-01)と仰せの通り、諸天の加護があろうとなかろうと、いわんや世間がどう見ようと、全民衆救済のために決然と一人立ち上がられた末法の御本仏としての魂が脈打っていると拝されるのです。
大聖人と共に戦う「志」に感謝
しかしながら、現状的には最も劣悪な環境の真っ只中にあって、そのような大聖人のもとに、使いを遣わされた四条金吾の「御志」を、大聖人は深く感謝されています。本抄の末尾においても、金吾が使者を遣わしたことは、釈迦仏もご存じであり、実に孝養の至りであると重ねて賞讃されています。
四条金吾は亡き母の三回忌の追善回向のため、鎌倉から佐渡まで使者を遣わし、大聖人に供養を届けられました。
金吾といえば、竜の口の法難の際には、自身の死を覚悟して、涙ながらに大聖人のお供をした模範の弟子です。法難後、鎌倉にあっても大聖人門下への迫害が激しくなる中で、誠心誠意、師匠に仕え師匠を守るために行動した弟子の姿を、大聖人はことのほかお喜びになったのではないでしょうか。
大恩ある師匠を何としてもお守りする。師匠のために戦う。師匠に喜んでいただく、これが誉の「弟子の道」です。
創価三代の師弟も、大聖人の御遺命たる広宣流布のため、師弟の道を貫き戦いました。戸田先生は牧口先生のために、そして、私も戸田先生のためには、我が身を顧みることなく死力を尽くして戦ってきました。
師匠のために何ができるか。ただ、そのことだけを考えて、半世紀以上にわたって、「弟子の道」を歩み通してきたのです。
師弟の栄光「5・3」を迎える5月、頼もしき後継の青年部の諸君にこそ、この創価の師弟の魂を、脈々と受け継いでもらいたいのです
| 05 但し法華経に云く 「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当 06 に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として 如来の事を行ずるなり」等云云、 法華経を一字一句も唱え又 07 人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、 然れば日蓮賎身なれども 教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れ 08 り、 此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は 無数の仏を供養するにも・すぎたりと 09 見えたり。 -----― ただし法華経法師品には「若し善男子善女人が、我が滅度ののちに、能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説くならば、当に知りなさい。この人はすなわち如来の使いであり、如来の所遣として如来の事を行ずるのである」と。法華経を一字一句でも唱え、また、人にも語り申す者は教主釈尊の御使いである。この経の如くならば、日蓮は賎しい身であるけれども教主釈尊の勅宣を頂戴してこの日本国に生まれてきた。この日蓮を一言でも誹る人々は罪を無間に開き、一字一句でも供養した人は無数の仏を供養することよりもすぎると説かれている。 |
仏勅をもってこの国に生まれる
妙法を弘める「仏の使い」の意義について明かされています。
大聖人が引かれた法華経法師品には、一人のためにでも法華経の一句なりとも説く人は、「如来の使」であり「如来の所遣として如来の事を行ずる」人であると重ねて強調されています。
「如来の所遣」とは、仏にかわって衆生を化導するために派遣された者、すなわち「仏弟子」といえます。また「如来の事」とは、仏の大願である万人救済のための「妙法の弘通」をさします。
したがって大聖人は、仏にかわつて、法華経を一字一句でも唱え、語る者は「教主釈尊の御使」であり、一字一句でも供養する人は、大福徳を積むと仰せです。
不思議にも、末法に妙法を持った学会員一人一人が語った分だけ、間違いなく仏縁は広がる。正義が広がります。
「声」が」力です。「言葉」が武器です。そして「なんとか仏縁に触れさせたい」「幸福の道を歩んでもらいたい」との慈悲の勇気の祈りがある限り、私たちの「言葉」は必ず響きます。
妙法の声は、必ず相手の仏性を呼び覚ます力があるからです。たとえ、すぐに目に見える結果は出なくとも、相手の心に深く浸透していくことを確信していきたい。
また、学会員は皆、尊き「教主釈尊の御使」であるからこそ、リーダーはどこまでも「会員根本」「会員第一」で進んでいたがきたい。
法華経に「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」と説かれているように、広宣流布へ一生懸命に邁進する会員を、仏の如く最高に尊敬していくことです。
陰で戦っている人、苦労している人を見つけ出しては、「いつもご苦労さまです!」「本当にありがとうございます!」等と自分から声をかける。心から讃える。できることは何でもする。これがリーダーの鉄則です。
この段で大聖人は「日蓮は賤しき身ではあるが、教主釈尊から御遺命を頂戴して、この国に来た」とも仰せです。
仏法の眼から見れば、私たちも大聖人の門下として、かけがえのない使命をもって、自ら選んで、我が地域に生まれてきたのです。どうか「此の国に来れり」との御金言を深く深く拝していただきたいのです。自らの願い、誓いによって、この国土に涌出してきたのです。この「久遠からの誓い」を胸に、それぞれの地域に広宣流布を担い立つ崇高な使命に生き抜いていきましょう。
| 14 此の法華経の一字の功徳は釈迦・多 15 宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、 たとへば如意宝珠の如し 一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の 16 宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、 たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり 一丸も百丸も共に病を治する事こ 17 れをなじ、譬へば大海の一渧も衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し。 -----― この法華経の一字は釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳が収めてある。たとえば如意宝珠のようなもので、一珠も百珠も同じことである。一珠でも無量の宝を雨すし、百珠でも、また無尽の宝がある。たとえば百草を抹りて一丸乃至百丸とすると、一丸も百丸も共に病気を治することは同じである。たとえば大海の一渧の水にも、あらゆる川の水を含み、一海も万流の味をもっているようなものである。 -----― 18 妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり、月支と申すは天竺の総名なり別しては五天竺是なり、 1122 01 日本と申すは総名なり別しては六十六州これあり、 如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり 竜王にこれを給いて頂 02 上に頂戴して帝釈是を持ちて宝をふらす、 仏の身骨の如意宝珠となれるは 無量劫来持つ所の大戒・身に薫じて骨 03 にそみ一切衆生をたすける珠となるなり、 たとへば犬の牙の虎の骨にとく魚の骨のウの気に消ゆるが如し、乃至・ 04 師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、 仏の説法をば師子吼と申 05 す乃至法華経は師子吼の第一なり。 -----― 妙法蓮華経というのは総名である。二十八品というのは別名である。月支というのは天竺の総名である。別しては五天竺がある。日本というのは総名である。別しては六十六州がある。如意宝珠というのは釈迦仏の舎利である。竜王はこれを給わり頂上に戴き、帝釈天がそれを持って宝をふらせる。仏の身骨が如意宝珠となることは無量劫以来持つところの大戒が、身に薫じて骨に染まって一切衆生を救う珠となるのである。たとえば犬の牙が虎の骨にとりつけ、魚の骨が鵜の気に消えるようなものである。また、師子の筋を琴の絃にかけて、他の一切の獣の筋の絃、皆切られてしまう。仏の説法を師子吼という。ないし法華経は師子吼の第一である。 |
法華経の「一字」に無量の功徳
この段では、釈尊の説法はことごとく真実であるが、なかでも法華経が最高の経典であることを示し、あらためて大聖人が弘通する法華経の功徳について教えられています。
大聖人はまず、法華経方便品に「正直に方便を捨てて」「要ず当に真実を説きたまうべし」と説かれているので、誰も疑うはずがないと仰せです。さらに、法華経が真実であることを多宝如来が証明を加え、諸仏が舌を梵天につけて真実を証明した」とも仰せです。
ここで大聖人は「此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う」と明かされています。なぜなら釈尊も多宝仏も三世十方の諸仏も、真実の法である法華経を行じて成道したのであり、南無妙法蓮華経の妙法こそ諸仏を成道せしめゆく根源の法だからです。
この広大無辺な妙法の功徳を大聖人は「如意宝珠」に譬えられています。如意宝珠とは、無量の宝を意のままに取り出すことができる珠のことです。
これが一珠であろうが、百珠であろうが、無量・無尽の宝が得られると述べられています。また別の譬として、百草をすって作った薬が一丸であっても、病気を治せること、さらに大海の一滴であっても、あらゆる川の水を含んでいることを通して、妙法の功徳の大きさを示されています。
この「如意宝珠」について、かつて戸田先生が語ってくださった指導が忘れられません。それは昭和30年(1955)7月の杉並支部総会のことです。
先生はまず、「如意宝珠とは、心のままに宝を出す珠のことをいうのです。家がほしいと思えば家ができ、金がほしいと思えば金ができ、なにひとつとして心のままにならぬものはないという珠を、無量宝珠というのです」と。私たちに分かりやすく教えてくださいました。
そして凛然と語られました。
「御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。はっきりと私は申し上げます。いかなる願いも、かなわないことはないのです」
叶わない願いなど断じてない!恩師の烈々たる宣言でした。私たちも、この大確信で心して進んでまいりたい。
妙法を信じ抜き、題目を唱え抜き、果敢に実践しぬいていく限り、絶対に行き詰まりはありません。信心があれば、私たちの胸中に如意宝珠の御本尊が厳然と輝きわたっているからです。
一切の獣を破る「師子の筋」
続く御文で大聖人は、妙法の偉大さについて、「師子の筋」についての説話を通して教えられています。
師子の筋を、琴の絃にかけて、これを弾けば、他の一切の獣の筋の絃は皆、切らないのに切れてしまう 百獣の王の筋を絃として奏でる音は、他の絃を圧倒します。
それと同じように、仏の説法の中でも法華経こそが第一の「師子吼」であり、他の一切の経典を圧倒する正義と真実の叫びなのです。
「御義口伝」には「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(0748―第五作師子吼の事)と仰せです。師弟一体で師子王の題目を朗々と唱えていけば、いかなる苦難や宿命をも乗り越えていけます。そして必ずや、人生の幸福と勝利を開いていけるのです。
| 11 乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国 12 も破れ国も治まるなり、 宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言・一王の一言に及ばず、則ち三墳・五典なん 13 ど申すは小王の御言なり、 此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事・仏の大梵天王・帝釈等をしたがへ 14 給う事もこの梵音声なり、 此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、 其の中に法華経は釈迦如来の書き顕 15 して此の御音を文字と成し給う 仏の御心はこの文字に備れり、 たとへば種子と苗と草と稲とは・かはれども心は 16 たがはず -----― また梵音声というのは仏の第一の相である。小王・大王・転輪王等も皆この相の一分をそなえているがゆえに、この王の一言によって国も、あるいは破れたり、あるいは治まったりするのである。王が下す宣旨というのは梵音声の一分である。万民の万言であっても一王の一言には及ばない。すなわち三墳・五典などというのは小王の言である。日本という小国を治め、また、大梵天王が三界の衆生をしたがえることも、さらに仏が大梵天王・帝釈等をしたがえられることも、この梵音声によるのである。これらの梵音声が一切経となって一切衆生を利益するのである。そのなかでも法華経は釈迦如来の御志を書き顕わして、釈迦如来の音を文字となしたのであり、仏のみ心はこの文字にそなわっている。たとえば種子と苗と草と稲とは、形は変わっているけれども、その生命自体は互いに異ならないのと同じである。 |
梵音声とは「仏の第一の相」
仏の三十二相を示し、なかでも第一の相である「梵音声」について教えられています。
経典には、仏は皮膚の色が金色で、眉間から白毫の光を放つなどの32の勝れた身体的特質を具えていることが説かれています。八十種好ともいいます。
仏がこのような三十二相を示す意義は、衆生に仏への渇仰の心を起こさせて化導するためとされています。
すなわち、より本質的には、三十二相とは仏の境涯を示すのであり、人格のうえに具わる内面的価値を表したものであるといえるでしょう。
このことについて大聖人は「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり」(1443-07)と仰せです。
私たち凡夫も、南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、自然と仏の三十二相八十種好が具わると教えられています。もちろん、色相荘厳のきらびやかな仏になるという意味ではありません。妙法の信心によって、仏が具える智慧や人格の輝き、そして功徳を具えることができると仰せなのです。
本抄では「仏の第一の相」である「梵音声」について述べ、各国の国王も、梵音声の一分を具えているので、王の一言によって国の動向が決まることを教えられています。まして、仏の梵音声には無量の力があります。大聖人は、この仏の梵音声が一切衆生を救う経典となったのであり、なかんずく法華経の文字こそが仏の真意を書き表したものであることが明かされています。
大智度論では、梵音声の特質について、次の五つの観点から示されています。
第1に、深きことは雷のようである。
第2に、清く徹して遠くまで聞こえ、聴く者は悦び楽しむ。
第3に、心に入って敬愛の心を起こす。
第4に、明瞭にして分かりやすい。
第5に、聞く者が嫌がることがない。
すなわち、人々に勇気と希望を与える、清々しい確信の声のことであるといえます。王に例えれば、人々を動かし、社会をリードする責任ある力強い声ともいえるでしょう。
「人を励ます」真実の声を
ここで、別の御書で「三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は 不可見無対色なれば書く可らず作る可らず」(0468-01)と仰せのように、仏の三十二相のうち、梵音声だけは目で見ることができません。それは、心の表れだからです。大聖人が、この梵音声を「第一の相」とされたことは、甚深の意義が拝されます。
仏の願いとは万人の成仏、一切衆生の救済です。その願いを外に現し、人々に実際に働きかけるのが、声です。仏といっても、その他の三十一相が色相荘厳の姿を見せるだけでなく、人々を具体的に救っていくために「声」を出し続けたのかどうか、「言葉」を発し続けたのかどうか、「対話」し続けたのかどうかに尽きるのではないでしょうか。
妙法を唱えることは、御本尊を讃嘆することであります。その声を聞いて、諸天善神が働き、唱える人を守ります。
何を言っているかわからない弱々しい声では、諸天も動きません。朗々たる音声で、力強く題目を挙げていくことです。
病気などで声が出せないこともあるでしょう。そういう場合は「心の声」を響かせるのです。同志の幸福、広宣流布の勝利、自身の人間革命をどこまで真剣に祈っているのか。そのやむにやまれぬ「心の声」が、諸天を動かし、友の心を希望へ、蘇生へ、前進へと奮い立たせていくのです。
どういう声かが大事です。「いい声だな」「聞くと元気になるな」と言われるような、爽やかな温かみのある、真心が響く声で語りかけていただきたい。
特にリーダーの声は、温かく、優しい感じで、確信を持って、そして、胸を張り、生命力を大きく漲らせて、指導・激励していくことです。大誠実の振る舞いに徹してゆくことが、自身の人格を大きくします。そして、信心を、強く深くしていくのです。
大変な中でも、人を励ますからこそ、功徳があります。確信の声は、皆を安心させます。指導者は声で決まるといっても過言ではないのです。
確信ある青年の声の響きを
戸田先生は「命をかけてやる声は、必ず響く」「確信ある声の響きこそが、新たな革命の力である」と語られました。
そして、民衆を救う「声」であるゆえに、粘り強く、語り続けることが大事です。
「百回語れば、百倍の功徳となって返ってくる。これが『声仏事を為す』ということだよ」とも、戸田先生は指導されました。
「声」は仏の名代です。
満々たる生命力の題目の声を!
友を励ます勇気と希望の声を!
時代変革の正義と真実の声を!
さあ、平和社会の建設へ、民衆の幸福拡大へ、「立正安国」の大願に燃えて、声を張り上げて打って出ていくには、「今」この時なのです。
1123~1123 経王御前御書(経王誕生御書)top
| 経王御前御書 文永九年 五十一歳御作 01 種種御送り物給び候い畢んぬ、法華経第八・妙荘厳王品と申すには妙荘厳王・浄徳夫人と申す后は浄蔵・浄眼と 02 申す太子に導かれ給うと説かれて候、 経王御前を儲させ給いて候へば現世には跡をつぐべき孝子なり 後生には又 03 導かれて仏にならせ給うべし、 今の代は濁世と申して乱れて候世なり、 其の上・眼前に世の中乱れて見え候へば 04 皆人今生には弓箭の難に値いて修羅道におち後生には悪道疑なし。 -----― 種種の送り物いただきました。法華経の巻第八の妙荘厳王品という経文には、妙荘厳王と浄徳夫人という后は、浄蔵・浄眼という二人の太子に導かれたと説かれている。あなた方も経王御前を儲けられたのであるから、現世には、必ず跡を継ぐ孝子である。また、後生には、この子に導かれて仏に成られるであろう。 今の代は、濁世といって乱れている世である。その上、眼前の事実として、世の中が乱れているので、人は、みな今生では、弓箭の難にあって、修羅道に堕ち、後生には、三悪道に堕ちることは疑いない。 -----― 05 而るに法華経を信ずる人人こそ仏には成るべしと見え候へ、御覧ある様にかかる事出来すべしと見えて候、 故 06 に昼夜に人に申し聞かせ候いしを 用いらるる事こそなくとも科に行はるる事は謂れ無き事なれども、 古も今も人 07 の損ぜんとては善言を用いぬ習なれば 終には用いられず世の中亡びんとするなり、 是れ偏えに法華経・釈迦仏の 08 御使を責むる故に梵天・帝釈・日月・四天等の責を蒙つて候なり、 又世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは 09 人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ、 如何に申さじと思うとも毀らん人には弥よ申し聞かすべし、 命生て御坐ば御 10 覧有るべし、 又如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず 必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成 11 つて成仏す可し、恐恐謹言。 12 四条金吾殿御返事 日蓮花押 -----― しかしながら、法華経を信ずる人々こそ仏に成ると説かれている。 御覧のように、このような自界叛逆難・他国侵逼難が起こることは、経文に説かれている。故に、昼夜に、人に言い聞かせておいたのに、日蓮を用いられないことはともかくとして、罰せられることは理由のないことである。しかし、昔も今も、人が滅びていく時は、善言を用いないのが通例であるから、日蓮の言も結局、用いられないで、世の中は滅びようとしているのである。これは、偏に法華経、釈迦仏の御使いを迫害する故に、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神の責めを受けているのである。 また、たとえ世が滅びたとしても、必ず日本の国は、南無妙法蓮華経と、人ごとに唱えるようになっていくのである。どんなに、言うまいと思っても、妙法を毀る人には、いよいよ強く、言い聞かせなさい。もし生きながらえているならばその成り行きを御覧なさい。 また、いかに南無妙法蓮華経と唱えても、日蓮に怨をなした人々は、最初に必ず無間地獄に堕ちて、無量劫を経た後に、日蓮の弟子となって、成仏するのである。恐恐謹言。 四条金吾殿御返事 日 蓮 花 押 |
妙荘厳王品
法華経妙荘厳王本事品第27のこと。化他流通中の人をもって法を守ることを説き明かしている。薬王・薬上菩薩の本事品とも見られる。
―――
妙荘厳王と浄徳夫人
過去の雲雷音宿王華智仏の在世のとき、光明荘厳という国があり、劫を憙見といい、その時の王が妙荘厳王である。浄徳夫人との間に淨蔵・淨眼の二子があった。夫人および子供が正法を信仰していたのに対し、王ははじめ反対していたが、やがて二子に導かれて信仰し、娑羅樹王仏の記別を受けた。この四人の過去の因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は、仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者が、その功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と二人の王子に生まれて、王を救うことを誓ったという。
―――
濁世
濁って乱れきった社会・世の中。五濁悪世・濁劫悪世のこと。
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弓箭の難
箭は矢のこと。弓箭とは弓と矢。戦争のことで、戦争の災難をいう。
―――
修羅道
阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。
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かかる事
具体的事実としては、文永9年(1272)2月、執権・時宗の異母兄にあたる時輔の謀叛陰謀が発覚し、名越時章、教時らと共に討たれたこと。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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この手紙は、四条金吾が、佐渡流罪中の日蓮大聖人に使者を遣わし、種々の御供養をさしあげ、経王御前の誕生を御報告したのに対する御返事である。別名を「経王誕生御書」ともいう。
まず、御供養のお礼を述べられ、経王御前の誕生を祝福した後、末法の様相、南無妙法蓮華経の題目が流布する必然性、最後に逆縁の成仏を説かれている。
経王御前について
本書をいただく前年、文永八年五月に月満御前が誕生しているので、経王御前は年子であろう。
月満御前が誕生したとき、大聖人が月満と命名されたことから推察して、経王御前も大聖人が、経王と命名され、四条金吾の信心を激励されたと思われる。
経王御前については、古来、種々の異説があり、詳細は不明である。没年も明らかではない。
一説には「現世には跡をつぐべき孝子なり」(1123-02)と仰せになっているので、四条金吾の男子であるといわれているが、これは立派な子が生まれたので、励ましのお言葉であるとも考えられ、これだけでは、男子とは決定しがたい。
御前と呼ばれ「十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり」(1124-09)とも、また「浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ」(1125-02)とも仰せになっているので、むしろ娘であると思われる。
経王御前は、建治3年(1277)7月の四条金吾殿御返事に「とのは子なし・たのもしき兄弟なし」(1163-15)と仰せになっているので、建治3年(1277)7月以前に夭折したと推定する説もあるが、これは妥当でない。現に月満御前は、生存していたのであるから、一人も子供がいなかったわけではない。「とのは子なし」とは、跡を継ぐべき男の子供がいなかったという意味にとった方が妥当であると思われる。
現世には跡をつぐべき孝子なり。後生には又導かれて仏にならせ給うべし
子が親にとってどういう意味をもっているかを、世法と仏法の両面から示されている。「現世には跡をつぐべき孝子なり」とは、まず、現実のこの社会において親の跡を継いでくれるのが子であるということである。当時の封建社会にあっては、ほとんどの場合、親の職業、資産等は、そのまま子に受け継がれた。また、多くの場合、親の目指した理想や思想も、子供が受け継いだであろう。
もとより、個人主義の時代においては、子が親の職業や理想などを引き継ぐ例は、むしろ稀にならざるを得ない。この文は、子たる者は親の跡をそのまま継がなければ孝子といえないなどといっているのではない。物質や形式上の跡を継ぐのではなく、理想や信念、広い意味での人間的資質を引き継いでいく存在という意味に考えてよい。
したがって、これは、道徳的に義務づけるといったことを意図して言われたととるべきではない。このように信じて愛情を注いで育てた子供ならば、おのずと、引き継いでいくようになるのである。しかも、ここには、世法の上での跡継ぎということと同時に、信心のうえで、広宣流布への理想、仏法への確信も、必ずや跡を継いでくれるのだという意義がこめられている。
「後生には又導かれて仏にならせ給うべし」は、偏に仏法上の意義を示されている。その理由としては、直接的には妙荘厳王の例の通りであるが、単に、そうした特異な例ばかりではない。たとえば、四条金吾の場合は、自身が夫人よりも、まして生まれて間もない子供よりも、はるかに信心強盛である。妙荘厳王の例では、いかにも一見、不適当に思われる。だが、そうではない。
生きている間にも、とかく人間は年をとるにつれて、純粋性を失い、信心が濁ってくるものである。そうしたときには、子の穢(けが)れない信仰が、どれほど手本になり、導き手になるか測り知れないものがあろう。まして、死んでのちは、もはや自分の信心の実践を続けることは不可能である。残った子が、親の追善供養の題目をあげてくれることは、最大の回向であり、親孝行となるのである。
大聖人は、御書の各所で、親に孝行すべきことを教えられている。この御文は、逆に、親が子を尊ぶべきことを教えられているのである。子は親を大事にし、親は子を尊ぶとき、はじめて親子の断絶がなくなり、ともどもに幸せを享受しながら、成仏の直道を進むことができるのである。
今の代は濁世と申して乱れて候世なり
人間の歴史は、絶え間ない戦乱の連続であったといっても過言ではない。この意味では少なくとも文明時代に入ってからの人類史は常に濁世であったといえよう。しかるに、なぜ大聖人は、とくに当時の世をさして〝濁世〟と呼ばれたのか。もちろん、五五百歳等の釈迦仏法の予言があったことも事実ではあるが、客観的に納得のいくよう、この問題を考えておきたい。
まず、日本の国内についてみると、いわゆる五濁悪世の末法に入ったのは、天皇―貴族の体制が崩壊し、武士が実権を把握した時代とほぼ一致している。こうして公的に武家政権が確立したのが鎌倉時代で、天皇―貴族体制は、完全に無力化したのである。これ自体が日本の歴史における最大の転換期であり、乱世であったといえる。律令時代には、指導権は、血筋・門閥もあったが、知的能力のある者に委ねられることが本筋であった。源平以後、武家時代に入って、主導権は武力によって決せられることとなったのである。
もとより、ここに述べたことは、底流にある考え方の変化であって、現実には、そうでない事実も、相当あった。律令体制下でも、下剋上は繰り返されたし、乱脈は絶えなかった。だが、少なくとも、人々の心の中に、それを罪悪と戒める考え方の基準は、はっきりしていた。逆に、鎌倉時代以後も、たとえば主導権を握るべき人物には、単に武力だけでなく、道徳的な崇高さ、寛容な人格、知的能力のすぐれていることなどが要求された。だが、時代を貫く基本的な思考は、武力が一切の解決の最優先の手段とされ、強い者が弱い者を犠牲にしていくことが当然とされるにいたったのである。
このような巨大な社会的・思想的転換が起こったことは、それ以前にはなかったといってよい。それ以後は、この乱世がそのまま続いていると考えられる。
次に世界的に見ても、この時代が一つの大きい転換の始まりであったことが看取される。ヨーロッパ世界は十字軍の遠征によって東方文明に接し、続いてモンゴルの侵略を受けて以後、積極的に科学技術の東方からの摂取、やがて独自に研究、開発を進めるにいたる。〝進んだアジア〟に対して比較的無関心に、独自の世界を形成していた〝遅れたヨーロッパ〟がこの時期を境に、世界制覇の夢を追いはじめたのである。
もちろん、これも最初から意識して行なわれたことではない。しかも、直接的には、そんなこととは関係のないさまざまな要素が動因となっていたことも事実である。だが、この十二・三世紀ごろからの激動は、やがてヨーロッパの世界的進出へとつながっていくのである。ともあれ、ここに、この時代が大きな歴史的転換期であったとする所以がある。
歴史の転換をそのまま〝濁世〟ということはできないが、このような転換にからまる社会的変動、諸勢力の対立抗争は、乱世、濁世というべき世相を現じていった。そして、絶え間ない戦乱のなかに、多くの人々が修羅道に堕ちていったのである。しかも、そうした人間と人間とが争い合わなければならない事態は、全ての人に人間への深い不信と憎悪の念を植えつけずにはおかなかったであろう。その結果「後生には悪道疑なし」といわれるように、生命それ自体、悪道に流転を重ねることとなるのである。
世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ
どのように社会が変化しようとも、必ずこの妙法が広宣流布し、人々が南無妙法蓮華経と唱えるようになることは疑いないとの大確信を述べられた御文である。
また、この御文は、宗教の本義が何であるかを示されたものとも拝することができる。すなわち、社会の体制・機構や権力者がどうであろうと、仏法は、人間生命の本然的な苦悩を解決し、救っていくものである、ということである。
したがって、この日蓮大聖人の仏法を弘通する戦いは、なによりも、民衆の間に、この妙法への信仰を弘めていくことが根本である。民衆への流布がなされるならば、体制がどのように変わろうと、妙法が久住していくことは間違いない。令法久住の意義もここにあるといえよう。この民衆の基盤を忘れて、いかに権力者に受持させても、時代が移り、体制が変われば、たちまち法は滅尽してしまうのである。南無妙法蓮華経の大仏法は、本来、民衆仏法であることを忘れてはならないであろう。
如何に唱うるとも日蓮に怨をなせし人人は、先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏す可し
御自身が御本仏であるとの強い確信に裏づけられた御文である。と同時に、仏法の因果の厳しさを示されている。
大聖人に怨をなした人は、どんなに南無妙法蓮華経と唱えても、まず無間地獄に堕ちて、無量劫ののちに成仏することができるとは、なんと厳しいことであろうか。
大聖人に怨をなすということは、今日でいえば、人法一箇の御本尊を誹謗するということである。御本尊誹謗の罪の大きさを深く自覚しなければならない。同時に、逆に、御本尊を讃嘆し、信仰に励むことの功徳の大きさを知るべきである。
1124~1125 経王殿御返事top
1124:01~1124:06 第一章本尊図顕の姿勢を示すtop
| 1124 経王殿御返事 文永十年八月 五十二歳御作 01 其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給候、 又何よりも重宝たるあし山海を尋 02 ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候。 -----― その後、お便りを聞きたいと思っていたところに、わざわざ人を遣わしていただきました。また、何よりも重宝な金銭を受け取りましたが、これは山海を尋ねても、日蓮の身には、時にあたって大切なものであります。 -----― 03 夫について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ、其 04 の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申して・ 05 ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり、 日蓮 06 守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、 -----― お便りにあった経王御前の事は、昼夜に日月天に祈っております。先日差し上げた御本尊は、しばらくも身から離すことなく受持していきなさい。その御本尊は、正法、像法の二時には、習い伝えた人すらいない。まして書き顕わしたことは絶えてなかった。 師子王は前三後一といって、蟻の子を取ろうとするときにも、また獰猛なものを取ろうとするときにも、その勢いは、全く同じである。日蓮が守護の御本尊を認めるのも師子王に劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれである。 |
二六時中
昔、一日を十二支に分けて十二時と数えた。すなわち二掛ける六で、二六時といった。一日中ということ。
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日月天
日天子、月天子のこと。日天子は日宮殿に住む天人のこと。月天子は月を宮殿とする天人。日天、月天ともそれぞれ太陽、月を神格化したもので、法華経の会座にも列なり、法華経守護の諸天善神とされる。
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まほり
お守り御本尊のことと思われる。
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前三後一
他方の菩薩の拒否する理由が前三で、地涌の菩薩を召し出す理由が後三である。前三 ①他方の菩薩は、各、自己の任務があり、娑婆世界に永く住すれば彼の土の利益が失くなる。②他方はこの土に結縁が浅いから、娑婆世界で法を弘めても大利益がない。③他方の菩薩に弘法を許すなら地涌の菩薩を召し出すことはできない。後三。④地涌はわが弟子であるから我が法を弘めよ。⑤娑婆世界に結縁深厚である。⑥近成を開いて遠成を顕わす。
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師子奮迅之力
法華経従地涌出品第15に「如来今、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の師子奮迅の力、諸仏の威猛大勢の力を顕発し宣示せんと欲す」とある。
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本抄は、四条金吾夫妻が、娘・経王御前の病気について報告したのに対して、認められたお手紙である。宛名は「経王御前」となっているが、文永10年(1273)のこの時、経王御前は、幼児であるから、実際には、四条金吾または夫人の日眼女に与えられたものと考えられる。
このとき、大聖人は佐渡・一の谷の一谷入道の邸におられたが、流人の身であることに変わりはなく、不自由な境遇にあって、四条金吾から送られたお金を、とくに喜ばれている。
お手紙としても、決して長いほうではないが、御本尊が大聖人の生命であり、この御本尊を深く信ずることが大事であることが強調されており、内容はきわめて重要である。すなわち、大聖人は竜口の頸の座で発迹顕本され、末法の本仏、久遠元初の自受用身如来としての境地を開顕されたのであるが、一切衆生の信行の根本対象を確立することによって、その御本仏としての使命は完結する。
四条金吾をはじめ、当時の大聖人門下は、権教を捨てて法華経に帰すべきこと、日々の修行としては題目を唱えることは知っていても、信仰の対象は日蓮大聖人としか知らなかった。否、それさえ知らず、釈迦像を本尊と考えている門下も少なくなかったのである。それに対して、本抄では、その信行の根本依処が何であり、したがって、信仰の正しいあり方はいかにあるべきかを明確に教示されている。この点を明らかにされた御書は、数多い述作の中でも稀であって、その意味でも、本抄は、非常に大事な御書ということができる。
夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候
日蓮大聖人が経王御前の健康の回復を願って日天・月天等の諸天善神に二六時中祈っていると、最大の激励をされている一節である。
母親にとって子供が病気になることほど不安で心配なことはない。しかも経王御前の場合は、姉の月満御前と同じように大聖人から名前をいただいたものと推測され、経王御前御書においては「現世には跡をつぐべき孝子なり。後生には又導かれて仏にならせ給うべし」(1123)とまでいわれた子供である。四条金吾夫妻の心労は並々ならぬものであったろう。
そのような状態にあって、この「二六時中に日月天に祈り申し候」の一言は、どれほど大きな激励になったか測り知れない。「日月天に祈る」とは、宇宙生命の一つの象徴として日月天といわれたともいえるし、生命を守り育むべき諸天善神に仰せつけられたともいえよう。
確かに、大聖人は民衆の幸福を奪う傲慢な魔の勢力に対しては、師子王のごとく敢然と挑まれていった。
「立正安国論」「十一通御書」等には、烈々たる気魄、破邪顕正の精神が躍動している。その反面、大聖人は庶民の一人ひとりを実に大事にされた。庶民の幸福を願い、さまざまな角度から激励され、人情の機微をわきまえた細々とした配慮をなされているのである。
其の本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕し奉る事たえたり
中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられた、事の一念三千の御本尊は、正法・像法二千年間、だれも聞いたこともないし、まして書き顕わした事もない、未曽有の本尊であるとの仰せである。もちろん、釈尊も顕わしてはいない。その釈尊も、竜樹、天親も、天台、伝教も顕わすことのできなかった本尊を、いま末法において、日蓮大聖人がはじめて書き顕わしたのであるという、自負のお言葉と拝せよう。
仏法は「一切衆生皆成仏道」―全民衆を等しく成仏の道に入らしめることに本意がある。そのために釈迦は法華経を説いて生命の哲理を明かし、衆生の生命に仏性があることを示した。成仏とはこの仏性を開覚することにほかならず、その開覚のためには法華経を信じ、受持・読・誦・解説・書写の修行に励まなければならないと教えた。また、天台は己心に法華経の哲理を観ずることが成仏の要諦であると示したのである。しかしながら、では、その仏性の当体とは何か、成仏の根源の種子は何かを明示することはなかった。
これに対して、日蓮大聖人は、はじめて、その実体が「南無妙法蓮華経」であることを明かされ、本尊として図顕されたのである。そして、この本尊を受持し、信じて題目を唱えるならば、境智冥合して、わが身もまた妙法の当体となることを教えられている。すなわち、五種の修行や内観などという方法に重点をおいた釈尊および正像の仏法に対し、本尊を根本として、修行は信じ受持することに尽きるとするところに、末法の日蓮大聖人の教えの特質があるといえよう。
過去の仏法は、目的に迫る過程しか示すことができなかった。その目的そのものを、本尊という明確な実体として顕わしたのが大聖人の仏法である。ここに、仏としての力および資格の、格段の違いがあることを知らなければならない。また、厳密にして複雑な修行を必要とするものは、そうした条件にかなった一部の人々しか救うことができない。それに対して、修行の簡易な教えは、あらゆる階層、立ち場の人々を、等しく救っていくことができる。ここに、大聖人が、一切衆生皆成仏道の根本依処として、御本尊を図顕されたことの重大な意義があるといわなければなるまい。
日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず
御本尊を認めるにあたっての大聖人の心構え、姿勢を述べられた文である。大聖人は、全生命力をこの一幅の曼荼羅に込められているのである。それゆえにこそ、御本尊は即、日蓮大聖人の生命そのものであり、偉大な力があるのである。
御本尊の功力とは、衆生を成仏得道せしめることである。御義口伝(0753)にいわく「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」と。また観心本尊抄(0246)にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と。
仏法の八万法蔵を凝集し、宇宙生命の縮図ともいうべき当体が御本尊である。たとい一機一縁の御本尊といえども、小さなお守り御本尊といえども、衆生成仏の根源として、そこには仏法の一切が秘められているのである。すなわち、御本仏日蓮大聖人の全生命が注入されているのである。したがって、この御本尊を信受する者も、次章以下に教示されるように、強い確信をもって信行に励むことが要求されるのである。
1124:07~1124:11 第二章本尊受持の精神を示すtop
| 07 又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、 南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子 08 母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、 さいはひは愛染の如く福は毘沙門の如くなる 09 べし、 いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、十羅 10 刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし、 つるぎなんども・すすまざる人のためには 11 用る事なし、 法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・ かなぼうたるべし、 -----― また、この曼荼羅をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障をなすことができようか。 鬼女母神、十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文に見えている。幸せは愛染明王のように、福運は毘沙門天のように備わっていくであろう。 たとえ、どのようなところに遊びたわむれていても、災難のあるはずがない。悠々と遊行して畏れのないことは師子王のようであろう。十羅刹女のなかでも皐諦女の守護がとくに深いことであろう。 ただし御信心によるのである。剣なども、勇気のない人のためには何の役にも立たない。法華経という利剣は、信心の殊勝な人が用いる時こそ役にたつのであり、これこそ鬼に金棒なのである。 |
曼荼羅
梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
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鬼子母神
梵名ハーリティー(Hārītī)、音写して訶梨帝、訶梨帝母と書き、鬼子母神と訳する。インドでは出産の女神としている。鬼神槃闍迦の妻で一万の子があったといわれ、性質は凶暴で、王舎城に来て幼児を取って食うのを常とした。釈尊はそれを誡めるため、末子の嬪伽羅をとって隠したところ、探しあぐねて釈尊のところにいき、その安否をたずねた。釈尊は今後、人の子を取って食うことをしないと誓わせ、その子を返した。以後仏法に帰依し、法華経陀羅尼品で法華経の行者を守護することを誓った。
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十羅刹女
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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愛染
愛染明王のこと。大日如来あるいは金剛薩埵を本地とする明王で、衆生の煩悩を浄化し解脱させるとされる。愛染の梵語ラーガ(rāga)は愛貪染者の意。その姿は赤色で忿怒の相を示し、三目六臂で、その手にそれぞれの弓や箭などを持っている。
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毘沙門
毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
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皐諦女
もともと十羅刹女の中でも、ただ一人の善鬼とされており、法華経陀羅尼品でも「皐諦よ。汝等、及び眷属は応当に是の如き法師を擁護すべし」と。とくに皐諦女に法華経の行者の守護が託されている。
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けなげ
勇ましい。かいがいしい。たのもしい。
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御本尊を信受する心構え、その功徳がいかに広大であるかを説かれている段である。
此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし
「能く能く」と仰せられている言葉に、深く心を止むべき一文である。「能く御本尊を信ずる」という場合、では、いかに信ずることをいうのかということは、大聖人の教えのなかから全体的、総合的に考える以外にない。さまざまに考えられるが「無疑曰信」といわれているように、疑うことなく、どこまでも御本尊を信じきるということである。絶対に間違いないと確信することである。
また、この御本尊をただ一筋に信ずることである。他にも正しいものがあるのではないかといった信仰のあり方であってはならない。純粋に、ただ御本尊を信ずることが大切である。「法華折伏破権門理」の原理のままに、他に帰命すべき正しい本尊は絶対にないという信心でなければならない。
また、三障四魔、三類の強敵にあって崩れるような信心であってはならない。いかなる障礙にあおうと、毅然として信仰を貫くべきであるとの意も、この言葉のなかに含まれていると考えるべきであろう。
さらにまた、惰性の信心ではなく「月月・日日につより給へ」(1190-11)の御金言のごとく、主体性、能動的に、新鮮な決意と自覚をもって信仰することである。
もとより、このほかにも、さまざまな表現の仕方や、要素も考えられるであろうが「能く能く」とのお言葉に深く思いをいたして、強い信心を貫いていきたいものである。
南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや云云
御本尊を信受した者の功徳を二つの面から示されている。「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」云云とは、その人の本源的な生命の躍動の力をいわれている。すなわち、南無妙法蓮華経という本源的生命の力が、題目を唱えることによって躍動してくるのである。それは、あたかも百獣の王である師子の一吼が、あらゆる獣の声を圧して沈黙させてしまうように、煩悩や病悩の生命のリズムを吹き消してしまう、強大な力がある。ゆえに「いかなる病さはりをなすべきや」と断言されているのである。
およそ、病気というものは、生命力の衰えに乗じて起こってくるものである。古いドイツの諺に「病気は神が治す、カネは医者がとる」というのがあるが、病気を治す根本の力が、その人自身の生命力にあることは、よく知られているとおりである。そして、生命は本来、あらゆる病気に対して、抵抗する力、治癒する力をもっている。その生命力の本源の実体こそ、南無妙法蓮華経にほかならない。
いな「病」とは、肉体の上に起こる病気ばかりではない。人生のあらゆる悩み、苦しみも、みな、同じ方程式で起こってくる。生命力が弱まれば、病悩・苦悩に敗れて、不幸のどん底に落ちるのである。いかなる悩み、苦しみが襲ってこようと、強い生命力があるなら、悠々とこれを克服し、乗り越えていくことができる。むしろ、そうした起伏は、人生に華をそえるにすぎず、それゆえにこそ楽しいといえるようになるであろう。
これを幸福を実現する正報、主体の面の条件とすると、次の「鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」は、その依報、状況の面の条件といえよう。病気の人の例でいえば、腕のよい医者にめぐりあったとか、すぐれた薬が手に入った等の現象がこれにあたる。鬼子母神・十羅刹女といった諸天善神は、このような周囲の状況、環境条件について、その、人々の幸福に寄与する働きをシンボライズして立てられた概念なのである。ここでは、経王御前が女性であるところから、諸天善神も女性を代表としてあげられたのであるが、他に、梵天・帝釈・日天・月天・四天王などがあることはいうまでもない。
ともあれ、御本尊は、中央に認められた首題の「南無妙法蓮華経」を根本に、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩、さらに梵・釈・日・月・四天・鬼子母神・十羅刹女等、十界のあらゆる生命を包含している。ゆえに、この御本尊に題目を唱えるとき、根本の「南無妙法蓮華経」の大生命が躍動するのみならず、諸天善神などの働きも活発になり、いっさいが幸福の増進へと働いていくことになるのである。
さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし
愛染すなわち愛染明王は愛欲をつかさどる神とされ、煩悩をあらわす。「さいはい」とは「さきはい」の音便といわれ「さき」は「さち」と同じである。すなわち「さち」に満ちあふれる状態で、現実の姿の上で恵まれていることを意味する。したがって「さいはいは愛染の如く」とは、願望が満たされて感ずる幸福境涯であり、煩悩即菩提の原理をいわれたものと考えてよい。
毘沙門は、四天王の一人で多聞天といい、仏法を守護し、福徳を施与する神とされる。「福は毘沙門の如し」とは、生命の内に、知らず識らず積んでいく福運であると考えられる。具体的に現象としてあらわれるというより、生活、人生全体が、幸福に包まれていくような姿であろう。前者を〝顕益〟とすると後者は〝冥益〟といってもよいと思われる。
このように、人間の幸福には、二つの要因があり、その両方とも具現していくのが御本尊の功力であるとの仰せである。もとより、より根本的なのは〝冥益〟であり〝福〟の方であるが、人の世を生きていくうえにおいて、種々の悩みがつきまとうのは当然であり、生命の内にある〝福〟といえども、そうした生活の場面にあっては〝顕益〟とし、悩みが解決し菩提へと転ずるかたちをとらざるを得ない。この両面が具現されるところに、人間の真実の幸福があるのである。
いかなる処にて遊びたはぶるともつつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし
日蓮大聖人御図顕の南無妙法蓮華経の御本尊を信じきっていくならば、いかなる処であっても、衆生所遊楽の境地で、楽しんでいけるということである。すなわち、絶対的幸福の境涯になるとの意である。
「いかなる処にて」とは、どのような社会的条件のもとにあっても、ということである。どのような国土であろうと、いかなる職業や階層に属しようと、そこで、最高に幸福な人生を生きていけるのが「衆生所遊楽」である。「遊びたはぶる」また「遊行」とは、生きていること自体が楽しいという境涯である。
だからといって、人生途上において、障害や苦難がないというわけではない。種々の摩擦や起伏があるのは当然である。だが「畏れ無きこと師子王の如くなるべし」と仰せのように、百獣は横行するとも、あたかも師子王が、いかなる獣をも恐れないように、悠然と苦難や障害を乗り越えて、人生、社会を楽しみながら生きることができるというのである。
この一文は、所詮、人生の究極の理想は、生きること自体を楽しむことにあるとの真理を示されているといえる。もとより「生きること自体を楽しむ」といっても、心の底から楽しむためには、無気力な諦めに堕したり、他人の苦しみを無視したものでは、ありえない。自己自身の人間としての完成と、他のあらゆる人々の幸福のため、全生命を傾倒していく、張りつめた充実感のなかに、はじめてこの遊楽が可能となることを忘れてはならないであろう。
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ゆる事なれ。鬼にかなぼうたるべし
法華経すなわち南無妙法蓮華経の御本尊は、不幸の根源である生命の無明を断ち切る剣である。それは、あらゆる思想・宗教など比肩すべくもない利剣といえよう。その力がいかに偉大であるかは、これまでに述べられたとおりであり、衆生をして師子王のごとき遊楽の境地に住せしめることができるのである。
だが、どんなにすぐれた名剣であろうと、それを使いこなすためには、技術と勇気と、そして、正しい心が必要であるように、法華経の剣もまた、その力を充分に発揮させるためには〝信心〟がなければならない。「けなげ」とは勇気であるが、力強さ、深さ、まっすぐであること等の意味を含む。
信心が強く深ければ、それだけ、偉大な功力を抽き出すことができるのである。南無妙法蓮華経は宇宙生命の当体であるがゆえに、その力は、祈る人の信力・行力の強さにしたがって、無限に大きい。どれだけその力を具現化できるかは、全く、その人の祈りの強さによるのである。
しかしながら、ここで「祈り」といい、「信心」といっても、それは、御本尊に任せて、自分は努力しないということではない。人間として、社会に生きる者として、人一倍、真剣に努力し、誠意を尽くすことも〝信心〟のなかに入ると考えるべきである。なぜなら、「三世諸仏総勘文抄」に「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す」(0566-15)と教示されている。名字即とは「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」(0752-07)で、この御本尊の信仰の出発点であり、基本姿勢にほかならないからである。
この御本尊への確信、人間としての努力を忘れない人が「信心のけなげなる人」であって、そのとき「かなぼう」を得た鬼のように、いかなる苦難をも克服してゆける力強い人生を歩むことができるのである。
1124:11~1124:13 第三章末法の独自性を示すtop
| 11 日蓮がたましひをすみ 12 にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、 仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎた 13 るはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。 -----― この御本尊は、日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたのである。信じていきなさい。釈迦仏の本意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にすぎたものはない。妙楽大師の法華文句記に「本地の遠寿を顕わすことをもってその根本となす」と解釈されている。 |
日蓮がたましひ
日蓮大聖人の根本の当体が南無妙法蓮華経であるということ。
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仏の御意
釈尊の本意。元意。
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妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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顕本遠寿を以て其の命と為す
妙楽の法華文句記巻10にある。本の遠寿を顕わすこと。法華経本門において、久遠・五百塵点劫に成道なされた、長遠なる仏の命を顕されたことを意味する。文底下種の義においては、法華経本門寿量品の文底に秘沈なされた、久遠元初自受用身の本地の開顕、人法一箇の大御本尊の御当体となる。
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日蓮大聖人によって、この末法に初めて開顕された南無妙法蓮華経の御本尊が、いかに釈迦仏法と異なる独自のものであるかを示されている。
三大秘法抄にいわく、
「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(1022-08)と。
「五百塵点の当初」とは、すなわち久遠元初の謂である。ゆえに、この文に仰せの「教主釈尊」とは、とりもなおさず久遠元初の自受用身如来のことにほかならない。「寿量品に建立する所の」とは、釈迦が建立したという意味ではなく、寿量品を依文として、日蓮大聖人が建立する、との意である。それは、次の御義口伝の文に明らかであろう。
「御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(0760-第廿五建立御本尊等の事-01)と。
いま、三大秘法抄の文といい、この御義口伝といい、大聖人正意の本尊とは、久遠元初の自受用身即末法の法華経の行者の一身の当体であると明示されている。これは、人すなわち仏身に約して、このように説かれているのである。いいかえると、日蓮大聖人の生命自体が本尊であるということである。
しかしながら、それだけでは、大聖人御在世当時の人々はよいとしても、入滅されてのちの民衆は、根本依処の本尊がなくなってしまう。それを、大聖人は御自身の生命を「すみにそめながして」一幅の曼荼羅として、末法万年の未来まで、一切衆生の帰命すべき本尊を遺されたのである。この経王殿御返事の本文に仰せの「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」の言葉こそ、御本尊即大聖人の御生命、人法一箇であることを示されたものであり、大聖人を直接に拝することのできぬ衆生への大慈悲のお心なのである。
仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
種脱相対を明らかにされた御文である。「仏の御意は法華経なり」の仏とは、インド応誕の釈迦であり、脱益仏法の教主である。その釈迦の本意、根本精神は法華経二十八品である。これに対し、下種の教主である日蓮大聖人の生命は、南無妙法蓮華経以外のなにものでもないと断言されているのである。
「上野殿御返事」に仰せのように「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)である。末法においては、釈迦の教えは、たとえ法華経といえども、成仏の法とはなりえない。ただ日蓮大聖人の教えを信じ、三大秘法の御本尊を受持し、題目を唱え、行ずる以外に、成仏得道の法はないのである。
文は短く、内容も、釈迦と御自身がどう違うかを簡潔に言い切られているのみである。だが、この底には、もはや正像も過ぎて形骸化し、のみならず濁乱しきっている釈迦の仏法に対して、末法万年尽未来際の全民衆を救うべき、末法の仏が御自身であるとの大確信が秘められていることを知らなければならない。そして、その大聖人の教えの根本義こそ、御自身の生命を「すみにそめながして」図顕された南無妙法蓮華経の御本尊なのである。
妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」
法華文句記巻第十下の「此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗妙行を以て眼目と為し、再生敗種を以て心腑と為し、顕本遠寿を以て其の命と為す」の文である。顕本遠寿とは、いうまでもなく、寿量品の発迹顕本、開近顕遠すなわち五百塵点劫成道を明かしたことである。法華経二十八品においては、この顕本遠寿がその命であり、最も肝要であるとの意である。
いま、大聖人がこの妙楽の文を引かれた元意は、釈迦において顕本遠寿が命であるのと同じく、日蓮大聖人においても顕本遠寿がその御命であることを示さんがためである。では大聖人において顕本遠寿とは何か。本とは、本地内証の無作三身であり、遠寿とは久遠元初の生命である。これはすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。
このように、釈迦においては五百塵点劫の成道、大聖人においては久遠元初の妙法と、明確に区別されるが、両者は無関係のものではなく、甚深の関係がある。つまり、釈迦は五百塵点劫の成道の当初において「我れ本、菩薩の道を行ず」と、菩薩道を修したと説いている。この菩薩道は本因初住の位に入った根底に、久遠元初の妙法を受持したことが言外に示されているのである。
したがって、釈迦の顕本遠寿をもう一歩掘り下げて、そこに秘されている真理を究明したときに、日蓮大聖人の顕本遠寿があらわれてくるわけである。釈迦はただその結果しか明かしていないので本果妙の教主というのであり、大聖人はその本因を明示されたので本因妙の教主と申し上げる。これは当然、衆生救済のあり方にも反映し、釈迦の教えは、あくまで脱益仏法であり、大聖人の教えは、成仏の根源の種子をうえる下種仏法となるのである。
1124:14~1125:05 第四章法華経の功力の偉大なるを明かすtop
| 14 経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、 あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何 15 事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はば・ 1125 01 いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし、 法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は 02 露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候、 浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華 03 経、あなかしこ・あなかしこ。 04 八月十五日 日 蓮 花 押 05 経王御前御返事 -----― 経王御前にとっては、今の禍いも転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こしてこの御本尊に御祈念していきなさい。何事か成就しないわけがあろうか。 法華経薬王品には「その願いが充満して、清涼の池のごとし」とあり、また薬草喩品には「現世は安穏にして、後の世には善処に生まれる」とある。これらの経文の通りになることは疑いないところであろう。 また申し上げましょう。佐渡の国への流罪という大難が許されたならば、大急ぎで鎌倉へのぼり、お目にかかりましょう。 法華経の功徳力を思うと、不老不死は目前にある。ただ歎くところは、経王御前の露のようにはかない命だけである。天助けたまえと強盛に祈っております。浄徳夫人や竜女の跡を継ぎなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ。 八月十五日 日 蓮 花 押 経王御前御返事 |
不老不死
老いたり死んだりしない若々しい生命状態をいう。
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露命
露のようにはかない命。
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浄徳夫人
妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で浄蔵・浄眼の母。過去の雲雷音宿王華智仏の在世のとき、光明荘厳という国があり、劫を憙見といい、その時の王が妙荘厳王である。浄徳夫人および子供が正法を信仰していたのに対し、王ははじめ反対していたが、やがて二子に導かれて信仰し、娑羅樹王仏の記別を受けた。この四人の過去の因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は、仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者が、その功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と二人の王子に生まれて、王を救うことを誓ったという。
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竜女
法華経提婆達多品第十二に説かれた娑竭羅竜王の女。文殊師利菩薩の化導で菩提心を発し、即身成仏の相を示して、女人成仏の実証となった。
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これほどの偉大な力ある御本尊であるから、強盛な信力をもって祈念するならば、いかなる願いも叶い、満足しきった、永遠の幸福境涯に住していくことができると仰せられているところである。とくに「何事か成就せざるべき」との大聖人の大確信の言葉を、自らの信念としていくべきであろう。
経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし
経王御前が病気になってしまったということは禍いであるが、それを克服すればかえって幸いへと転ずるであろうと激励されているのである。
大病を克服した人が、病気をあまりしない人より強靭な体になることは、しばしば見聞されるところである。試練に耐えたからであろう。さらにこれは病気ばかりでなく、あらゆる人生の問題についてもいえる。失敗は成功の母であり、経験は人生の財なのである。
ただし、禍いを転じて福とするかどうかは、それにくじけず、努力と挑戦をやりきったかどうかによって決まることを忘れてはならない。
御本尊への信仰を根本に、自らの宿命を打ち破っていったときに、ただ禍いが解決するだけでなく、思いもかけない幸福境地が開けてくるのである。
法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。ただ歎く所は露命計りなり
「不老不死」とは、この肉体が不老不死になるということではない。肉体の生老病死は自然の理であり、それを逃れることはできない。
ここでいわれている意味は、御本尊の功力によって、己心に仏性が湧現し、永遠の幸福を会得するということである。いわゆる内証の覚知の問題である。
現実の肉体は、いかなる人も生老病死をまぬかれることはできないし、まして、病弱な幼児の経王御前の生命は、いつ、どのような災厄にあってかき消されないとも限らない。それを「ただ歎く所は露命計りなり」といわれているのである。
このように、肉身としての〝露命〟と、内に妙法の珠を抱くが故の〝不老不死〟とを分けられているのであるが、同じく、妙法の確信による〝絶対的幸福〟と、外界とのかかわりによる〝相対的幸福〟とも、本質的には別のものと考えるべきである。すなわち、相対的幸福は、どのように累積しても〝絶対的幸福〟にはならない。
〝絶対的幸福〟とは、ただ御本尊への不動の信仰から、己心に開かれる生命の歓喜にあるのである。大聖人が佐渡にあって、流人の身として、苦しみのどん底にありながら、日本第一の富める者といわれているのも、このことにほかならない。
ただし「仏法は体なり世法は影なり」と教示されるように、己心にひらいた〝絶対的幸福〟あるいは〝不老不死〟の境地は、必ず現実の生活、人生のうえにも〝影〟として実証されていくものである。これを、どう実証するかは、その人の努力と英知であり、社会に対する誠意ある実践による。ただ、経王御前の場合は、自らそうした力はまだないがゆえに、大聖人が「天たすけ給へ」と諸天善神に、その加護を仰せつけられているのである。成人にあっては、自身の社会における努力、社会人としての姿勢のなかに〝諸天善神〟の働きがあると考えるべきであろう。