top ホームページtopへ
日蓮大聖人御書講義241163~1198

1163~1164    四条金吾殿御返事(不可惜所領事)
  1163:01~1164:04 第一章 金吾の決断を讃える
  1164:04~1164:18 第二章 禍を転じて幸となすを示す
  1163~1164    四条金吾殿御返事(不可惜所領事)2008:12月号大白より 先生の講義
1165~1169    四条金吾殿御返事(世雄御書)
  1165:01~1165:05 第一章 仏法と王法の相違
  1165:06~1165:15 第二章 日本への仏法渡来
  1165:15~1166:18 第三章 崇仏・排仏の争い
  1166:18~1167:14 第四章 崇仏派の勝利を示す
  1167:15~1168:05 第五章 漢土への仏法渡来
  1168:05~1158:18 第六章 仏法は賞罰正しいことを説く
  1168:18~1169:07 第七章 仏法は道理が必ず勝つことを示す
  1169:07~1169:18 第八章 身の用心を勧める
  1163~1169    四条金吾殿御返事(世雄御書)2010・10月号大白蓮華より。先生の講義
1170~1170    四条金吾殿御返事
1170~1174    崇峻天皇御書(三種財宝御書)
  1170:01~1171:02 第一章 内薫外護の法門を挙げる
  1171:02~1171:06 第二章 正法を妨げる者の罰を示す
  1171:07~1171:18 第三章 護身の注意を促す
  1172:01~1172:14 第四章 同志の団結を強調
  1172:14~1173:02 第五章 主君の信頼は法華経の故なるを示す
  1173:03~1173:09 第六章 同じく地獄なるべしの事
  1173:09~1173:16 第七章 心の財を積むことを勧む
  1173:17~1174:13 第八章 崇峻天皇の事
  1174:14~1174:17 第九章 人の振舞いの大切なることを示す
  1170~1174    崇峻天皇御書(三種財宝御書)2009:10・11・12月号大白蓮華より。先生の講義
1175~1177    四条金吾御書(九思一言事)
  1175:01~1175:09 第一章 信仰の実証を賞讃される
  1175:10~1176:05 第二章 細心の注意を促される
  1176:05~1176:17 第三章 兄弟等への心遣いを説く
  1176:18~1177:09 第四章災禍の本因を説く
1178~1178    陰徳陽報御書
1178~1179    中務左衛門尉殿御返事(二病抄)
  1178:01~1178:03 第一章 病に二種あるを説く
  1178:03~1179:05 第二章 心の病の浅深を述べる
  1179:05~1179:11 第三章 疫病を治すは法華経による
  1179:11~1179:18 第四章 病の快癒と御供養の謝意を表す
1180~1182    四条金吾殿御返事(源遠長流御書)
  1180:01~1180:13 第一章 金吾への信心を賛嘆する
  1180:13~1181:07 第二章 難信難解を明かす
  1181:07~1182:06 第三章 如来の使いであることを明かす
  1182:07~1182:11 第四章 金吾の医術を讃える
1183~1184    四条金吾殿御返事(所領書)
  1183:01~1183:13 第一章 所領の増加を喜ぶ
  1183:14~1184:08 第二章 成仏への信心を示す
  1184:08~1184:14 第三章 煩悩即菩提の原理を明かす
1185~1186    四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)
  1185:01~1185:12 第一章 御供養への礼を述べる
  1185:12~1186:02 第二章 道中の安否を気遣う
  1186:02~1186:12 第三章 李広将軍の故事に学ぶ
  1185~1186    四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)2012:07月号大白蓮華より 先生の講義
1187~1188    日眼女造立釈迦仏供養事
  1187:01~1187:08 第一章 釈迦と諸仏菩薩との関係
  1187:09~1187:14 第二章 除厄と加護
  1187:14~1188:02 第三章 仏像造立の功徳
  1188:03~1188:10 第四章 法華経と女人成仏
  1188:10~1188:18 第五章 日本国は女人の国
1189~1191    聖人御難事
           はじめに
  1189:01~1189:05 第一章 出世の本懐を宣べる
  1189:06~1189:12 第二章 仏の大難と況滅度後の値難を比べる
  1189:13~1190:02 第三章 自身の受難を挙げる
  1190:02~1190:07 第四章 罰の姿を明かす
  1190:07~1190:12 第五章 門下の信心を激励する
  1190:13~1190:17 第六章 迫害に対する覚悟を示す
  1190:18~1191:02 第七章 法難者への戒めを示す
  1191:02~1191:13 第八章 臆病者の先例を挙げて訓戒する
  1189~1191    聖人御難事(2015・10・11月号大白蓮華より。先生の講義)
1192~1193    四条金吾殿御返事(法華経兵法事)
  1192:01~1192:11 第一章 金吾の存命を喜びその理由を明かす
  1192:11~1193:04 第二章 強靭な信心を勧める
  1192~1193    四条金吾殿御返事(法華経兵法事)2008・04月号大白蓮華より。先生の講義
1193~1194    四条金吾殿御返事
  1193:01~1193:09 第一章 過去を願慮し金吾の信心を賞嘆す
  1193:09~1194:10 第二章 御本尊の確信を述べ信心を勧む
1195~1197    四条金吾許御文(八幡抄)
  1195:01~1195:04 第一章 供養への感謝を述べる
  1195:05~1195:11 第二章 八幡大菩薩の本地を明かす
  1195:11~1196:13 第三章 釈迦如来と八幡大菩薩の一致を述べる
  1196:04~1197:04 第四章 神天上の法門を説く
  1197:05~1197:18 第五章 八幡大菩薩の住処を明かす
1198~1198    四条金吾殿御返事(八日御書)

1163~1164    四条金吾殿御返事(不可惜所領事)top
1163:01~1164:04 第一章 金吾の決断を讃えるtop
1163
四条金吾殿御返事
01   去月二十五日の御文・ 同月の二十七日の酉の時に来りて候、仰せ下さるる状と又起請かくまじきよしの御せい
02 じやうとを見候へば優曇華のさきたるをみるか赤栴檀のふたばになるをえたるか 、めづらし・かうばし、 三明六
03 通を得給う上・法華経にて初地・初住にのぼらせ給へる証果の大阿羅漢・得無生忍の菩薩なりし舎利弗・目連・迦葉
04 等だにも娑婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ・ かなふまじき由・辞退候いき、まして三
05 惑未断の末代の凡夫が争か此経の行者となるべき、 設い日蓮一人は杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶとも妻子を帯
06 せる無智の俗なんどは争か叶うべき、中中・信ぜざらんはよかりなん・すへ・とをらずしばしならば人に・わらはれ
07 なんと不便にをもひ候いしに、 度度の難・二箇度の御勘気に心ざしを・あらはし給うだにも不思議なるに、かく・
08 おどさるるに二所の所領をすてて法華経を信じ・とをすべしと御起請候事いかにとも申す計りなし、 普賢・文殊等
09 なを末代はいかんがと仏思し食して 妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・ 上行等の四人にこそ仰せつけられて
10 候へ・只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・ 貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計
11 いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん、起請をかかせ給いなば・いよいよ
12 かつばらをごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん、凡夫のならひ
13 身の上は.はからひがたし、これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり、遠きをば・しばらく.をかせ給へ、
14 近きは武蔵のかう殿・両所をすてて入道になり結局は多くの所領・ 男女のきうだち御ぜん等をすてて御遁世と承わ
15 る、とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり、一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食
16 には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・
1164
01 ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し
02 給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし。
-----―
 先月二十五日付のお手紙が、同月二十七日の午後六時頃に着きました。主君の江馬氏から仰せ下された書面と、法華経を捨てるという起請を書かないという、あなたの御誓状をみましたが、優曇華の花が咲いたのを見るか、赤栴檀がはじめてふたばとして芽をだしたかのようにめずらしく尊いことであり、芳しく思いました。
 三明六通を得た上、法華経によって、初地初住の位にのぼった証果の大阿羅漢であり、無生忍の位を得た菩薩であった舎利弗・目連・迦葉等でさえも、この娑婆世界で、末法の時、法華経を弘通することの大難を耐え忍ぶことができないので、弘通の資格がないといわれ、辞退したのである。まして、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を未だ断じていない末法の凡夫が、どうして此の経の行者となることができようか。
 たとえ日蓮一人は、杖木・瓦石・悪口・王難を忍ぶことができたとしても、妻子をもった仏法の道理を知らない在家の人達は、どうして耐え忍ぶことができようか。かえって信じない方がよかったのではないか。最後まで信心を貫き通せず、わずかの期間の信心であるならば、人に笑われるであろうと、不便に思っていた。しかるに度度の難、二度の御勘気の折に不動の信心をあらわされたことさえ、不思議であるのに、このように自身がおどされた時に二か所の所領をすててまでも、法華経を信じ通しますという誓状を書かれたことは、とうていことばでは言いようがないほど立派なことである。
 釈尊は、普賢菩薩、文殊師利菩薩等でさえも、末法には、おぼつかないと思われて、妙法蓮華経の五字を地涌千界の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の弘通をたすけようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわられたのだろうか。または、教主釈尊の御計い事であろうか。江馬氏の身内の人々が増長しているのは、良観や竜象房が、きっと画策しているのにちがいない。
 もし、あなたが信仰を捨てるという起請を書いたならば、彼らはますます驕り高ぶって、方々に、それを吹聴するであろう。その結果、鎌倉にいる日蓮の弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう。凡夫の常として、自分の身の上のことは、計りがたいのであり、それを熟知するのを賢人・聖人というのである。
 遠くの事例はしばらくおいて、近くの事でいえば、武蔵の守殿が、二か所の領地をすてて入道になり、結局は、多くの所領、息子や娘、また妻等を捨てて御遁世なされたと聞いている。あなたには子供はない。また頼みとする兄弟もない。ただあるのは、わずか二か所の領地である。人間の一生は夢の上の出来事のように、はかないもので、明日の命もわからないものである。いかなる乞食になっても、法華経にきずをつけてはならない。それ故、同じ一生であるならば、嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しも、へつらわずに振舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって悪くなるであろう。たとえ、所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであるのだろうと思って、深く信をとり、諸天にゆだねておきなさい。
-----―
03   日蓮はながされずして・かまくらにだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん、此れも又御内
04 にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ、
-----―
 日蓮は、流罪されないで、鎌倉にでもいたならば、あの戦いの折りに、きっと打ち殺されていたにちがいない。あなたが、御内を追い出されたこともまた、主君の御内にいてはよくないであろうという釈迦仏の御計らいなのであろう。

起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
優曇華
 梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
―――
赤栴檀
 栴檀は白檀の異称であり、インドに産する香木で、赤、白、紫等があるが、赤栴檀を最高とする。
―――
三明六通
 小乗教において最高位の阿羅漢が得る神通力。三明とは、宿住智証明、死生智証明、漏尽智証明のこと。六通とは、六神通のことで、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通のこと。
―――
初地初住
 別教においては十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の五十二位を立て、十地の最初の歓喜地を初地とし、この初地以上を無明惑を断じた位とする。また円教では、別教の五十二位を借りて十住の最初の発心住を初住とし、悟りの段階は異なるが、初住以上を不退転の位とする。
――
証果の大羅漢
 六神通を得た阿羅漢のこと。すなわち、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのであり、阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
―――
得無生忍の菩薩
 無生忍を得た菩薩。無生忍とは、無生無滅の実相を覚知して安住する位。初地・初住あるいは七・八・九地の位に入った菩薩をいう。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
目連
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
三惑未断の末代の凡夫
 三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)をまだ断じ尽くしていない末法の凡夫のこと。
―――
王難
 王命・国家権力の迫害のこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960-04)とある。
―――
無智の俗
 仏法の道理をわきまえない在家の人。
―――
度度の難
 ①松葉ケ谷の法難。立宗宣言後の文応元年(1260年)の秋、鎌倉に移られた日蓮大聖人が、名越に構えられた草庵で念仏者らに襲われた法難のこと。草庵があった地は松葉ケ谷と伝承される(現在、松葉ケ谷の地名はない)。文応元年7月16日、大聖人は宿屋入道を仲介として、念仏などの謗法の諸宗を捨て正法に帰依するように勧めた「立正安国論」を北条時頼に提出し、第1回の国主諫暁を行われた。しかし、このことが幕府の権力者たちの怒りにふれ、念仏者をはじめ諸宗の僧らも大聖人に恨みを抱いた。その後間もなく、念仏を信仰していた北条重時ら権力者を後ろ楯とした念仏者らが、深夜に大聖人の草庵を襲撃した。大聖人はこの難を逃れ、一時、鎌倉を離れられた。②小松原法難。文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。他。
―――
二箇度の御勘気
 ①弘長元年(1261)5月11日~弘長3年(1263)2月22日までの1年10ヵ月間の伊豆の伊東(静岡県伊豆市伊東)への流罪=伊豆流罪②文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月13日までの2年5ヵ月間の佐渡(新潟県佐渡市)への流罪=佐渡流罪。
―――
普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
地涌千界の上首上行等の四人
 地涌の菩薩の上首・唱導の師である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、なかんずく上行菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩といい、この四菩薩の上首・上行菩薩の再誕こそ末法の御本仏である。
―――
良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――
竜象
 竜象房のこと。比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧で、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食して常用していたことである。これに気づいた山門の衆徒は行状を厳しく追及し彼の住房を焼き払われ、建治3年(1277)頃に鎌倉に下り、良観の後援によって桑ヶ谷に居住している。日蓮大聖人の弟子・三位房との法論に破れ、その後病に倒れている。
―――
武蔵のかう殿
 (1242~1282)北条義政のこと。初名は時景。文永2年(1265)に引付衆、同4年に評定衆、同7年に引付頭人を経て同10年(1273)に執権北条時宗を補佐する連署となる。だが建治3年(1277)には連署職を辞して出家。信濃国(長野県)に赴き、その所領・塩田で没する。行年40歳。
―――
十羅刹女
 鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
―――――――――
 本抄は、頼基陳状の添書ともみられるが、別名を「不可惜所領事」といい、建治3年(1277)7月、日蓮大聖人が56歳のとき、身延において四条金吾に対し、したためられたお手紙である。
 この当時、四条金吾は最大の苦難に直面していた。文永11年(1274)に主君・江馬氏を折伏して以来、金吾を憎む同僚の讒言、中傷は一段と強まっていた。
 とくに建治2年(1276)より主君の圧迫がひどくなり、恩命と称して事実上は減俸となり、越後へ領地替えの内命が下った。その時、金吾は領地替えを受諾しなかったので、主君の命に従わない家臣の領地は没収せよと上申する者もあった。
 建治3年(1277)には有名な桑ケ谷問答が起こり、金吾は法座を攪乱したと讒奏され、主君から法華経を捨てるという誓約を書くよう命令された。しかし、金吾は決して誓約は書かないと大聖人にお誓いしたのである。
 本抄は金吾のこの報告に対する御返事である。厳しい境遇にある金吾に対し、短文ではあるが信心の凝縮ともいうべき珠玉の指導が数多く織り込まれている重要な御書である。
 本章は、冒頭において、誓約書を書かないと誓った金吾の信心の厳格さを称賛され、さらに今後起こり得る難に対し「いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず」と信仰を貫く上の基本姿勢を厳しく指導されている。
優曇華のさきたるをみるか、赤栴檀のふたばになるをえたるか、めづらしかうばし
 人生の岐路に立たされたとき、大切なことは、いずれの道をとるべきかについて、正しい判断をし、決断することである。判断を誤ってはならないし、判断に誤りがなくても決断が下せなければ、それは苦悩を増すばかりである。この英知と勇気が、人生を勝利の栄光に導くか、敗北の闇におとしいれるかを決定する。
 とくに、究極の人間完成の道である信心の過程において、目先の利害に迷わされて、苦悩から苦悩へと続く悪道におちこんではなるまい。外からおそいかかった苦難のときこそ、自己の生命の中に、どちらの道に進むのかの決定的要因をつくる時なのである。いま四条金吾に難が起こっているのは、まさにそうした大事な岐路を意味し、彼が信心の大道を選んだことは、未来の成仏を決定づけたものとして、このように最大の讃辞をもってたたえられているのである。
舎利弗・目連・迦葉等だにも、娑婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ、かなふまじき由辞退候いき
 舎利弗等の声聞十大弟子たちが、末法にこの娑婆世界で法華経を弘通することを自ら辞退したということは、直接、経文には記されていない。ただ法華経勧持品に「五百の阿羅漢の記を受くるを得たる者」が「異の国土に於いて、広く此の経を説かん」と申し出ており、学・無学の八千人の人々は「世尊よ。我れ等も亦た当に他の国土に於いて、広く此の経を説くべし。所以は何ん、是の娑婆国の中は、人に弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄、瞋濁諂曲にして、心は不実なるが故に」と言っている。このことから、本文のように述べられたものと思われる。
 いずれにせよ、妙法を現実の社会の中に弘めるには、その生命が即、妙法である人でなければならない。すなわち、法に即して人、その法を自らのうちに体現した人でなければ弘めることはできないのである。
 もとより、本来、全ての人は、その本質は妙法の当体である。しかしながら、自身、それを覚知してはじめて人法一箇となるのである。舎利弗は三明六通といい、阿羅漢果、無生忍を得たといっても、その悟りは妙法の一部分であるにすぎず、これを得たという立場では、妙法を弘める資格は、とうてい持ち得ないのである。これは、人間的に差別する意ではなく、その持っている法・悟りによって必然的に生れる力の相違を述べているのである。
妻子を帯せる無智の俗なんどはいかでか叶うべき
 自己の信念を種々の迫害や苦難に耐えて貫き通すうえにおいて、最も越えがたい障害として出てくるのが、一つは妻子等の家族の苦しむ様であり、一つは自身の仏法への無知から生ずる迷いである。妻子によって出てくるものは人間的な情愛であり、無知ということの意味するものは知的な判断ということであろう。これらの知・情にからまる障害が意思を鈍らせ迷いを生ずるのである。
 したがって、信心の根本的な姿勢は「妻子眷属を憶うこと莫れ」(0177-03)と戒められるように、難をのりきるか否かの瀬戸際では、情愛に縛られてはならない。それが、ひるがえっては、妻子眷属を永遠の幸福に導くことになるのである。そして、全てにわたって根源的に大切なことは、仏法を正しく深く弁える〝智〟であり、教学の研鑽が要請される所以はここにある。大聖人が幾多の御書をしたためられ、弟子に手紙を書かれているのも、この〝智〟を与えるためであったといえよう。
すへとをらず、しばしならば人にわらはれなん
 信心において最も大事なことは、生涯の最後まで信じきり、実践を貫くことである。
 摩訶止観第五に「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる」とあり、日蓮大聖人は「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(0501-05)といわれているように、正法を行じていく上には、非難・中傷・迫害など三類の敵人が起ってくることは必然である。
 だが、「受くるはやすく持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり」(1136-05)といわれるように、成仏の要諦は、不動の信心を確立し、それを生涯持続することにあるのである。
凡夫のならひ、身の上ははからひがたし。これをよくよくしるを賢人・聖人とは申すなり
 自分のこと、自分はどう生きるべきかを知っているのが賢人・聖人である、ということである。
 外の世界のこと、他人のことを幾ら知っていても、それは真の賢人・聖人ではない。外の世界のことを知っている人は、学者ではあるが賢人ではない。他人のことを知っているのも、批評家ではありえても、賢人ではない。人間として最も尊い、自己の人間的価値に結びついている〝知〟とは「身の上」のこと、つまり、自己自身についてのそれである。
 その意味において、この一文は、古代ギリシャの賢人ソクラテスが叫んだ「汝自身を知れ」との言葉と、全く軌を一にするものといってよいであろう。
いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず
 〝乞食〟とは、この場合、社会的にみた人生の敗北者という意味であろう。とくに四条金吾のこの時の立場は、所領をとりあげられ、主君・家臣という絆をたちきられて、あすから路頭に迷わなければならないかも知れないような状況であった。文字どおり〝乞食〟になることも覚悟しなければならないような状態だったのである。
 しかし、社会的には、どのような立場になろうとも、人間として卑屈になり、へつらうようなことがあってはならない。卑屈になることこそ、法華経にきずをつけることになるのだ、との厳しい戒めの言葉である。
 誤解してならないことは〝乞食〟になることが、法華経にきずをつけることではない、ということである。つまり、法華経にきずをつけるということは、社会的評価の問題ではない。社会にあって敗北を喫し、それによって、世間が更に仏法の悪口をいい、大聖人の一門へ批判の声を高めたとしても、それは法華経のきずではない。あくまでも、人間としての尊厳を失い、卑屈になり、信心を失うことが〝法華経にきずをつけ〟ることなのである。ゆえに「されば……すこしもへつらはず振舞仰せあるべし」と励まされているである。

1164:04~1164:18 第二章 禍を転じて幸となすを示すtop
04                               陳状は申して候へども又それに僧は候へども・あ
05 まりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に・ いまだ所労きらきらしく候はず候へば・同事に此の御房をまい
06 らせ候、だいがくの三郎殿か・たきの太郎殿か・とき殿かに・いとまに随いて・かかせてあげさせ給うべし、これは
07 あげなば事きれなむ.いたう・いそがずとも内内うちを.したため・又ほかの・かつばらにも.あまねく・さはがせて.
08 さしいだしたらば若や此の文かまくら内にも・ ひろうし上へもまいる事もやあるらん、わざはひの幸はこれなり。
09   法華経の御事は已前に申しふりぬ、しかれども小事こそ善よりは・をこて候へ、大事になりぬれば必ず大なる・
10 さはぎが大なる幸となるなり、 此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我と
11 は御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、
12 かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ、 此の所領は上より給たるにはあらず、 大事の御所労を法華経の
13 薬をもつて・ たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば 御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御た
14 いじゃう候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげにて・かへるべし。
15   あなかしこ・あなかしこ・御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常には・よ
16 りあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず。
17       建治三年丁丑七月                    日蓮花押
18     四条金吾殿御返事
-----―
 あなたの主君への陳状は、したためておいたが、また鎌倉にも、弟子の僧はいるけれども、あまりにもおぼつかないので、三位房をつかわそうと思っていたところ、まだ病状の方が、はかばかしくないので、かわりにこの御房(だれかは不明)を参らせた。
 大学の三郎殿か、滝の太郎殿か、富木殿かに、ひまをみて浄書させて、差し出しなさい。これを主君に差し出せば、一切決着がつくでしょう。それほど急がずとも、内内に御内を整理し、またほかの法敵の者にも、騒ぐだけ騒がせて、差し出したならば、もしかしたら鎌倉中にこの陳状のことが伝わって鎌倉殿のところへ入ることもあるかもしれない。わざわいが転じて幸いとなるというのはこのことである。
 法華経のことについては、これまでにも申しておいたとおりである。しかしながら、小さな事こそ、小さな善事からおこるが、大事になったならば、必ず大きなさわぎが大いなる幸いとなっていくのである。
 この陳状を人々が見るならば、彼らの誤りがはっきりわかるであろう。あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から主君の御内を出て所領をさしあげる気持ちはありません。主君から召し上げられ、出すのならばそれは法華経への御布施であり、幸いと思います」といいなさい。
 くれぐれも奉行人にへつらうような様子があってはならない。「此の所領は、主君よりいただいたものではない。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領なのであるから、それを召し上げるならば、また御病気が再発するでしょう。そのときになって頼基に謝罪されても、もはや用いません」と、いいおいて、憎憎しげに帰りなさい。
 決して、決して御寄合にいってはならない。夜は用心を厳しくして、夜廻りの人々と親しく交わって用い、常日頃互いに寄り合っていきなさい。今度、もし主君の御内を出るようなことがなければ、十に九は御内のものがねらうであろう。決して見苦しい死に方をしてはならない。
  建治三年丁丑七月    日 蓮  花 押
   四条金吾殿御返事

三位房
 三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学した博学の僧。大聖人の門下で重きをなし才気煥発のため諸宗破折に活躍した。しかしのちに、自己の才知にうぬぼれ、熱原の法難のときは、竜泉寺院主代・行智の甘言にのって日興上人に叛き、迫害者を煽動した。弘安2年(1279)に変死を遂げている。
―――
だいがくの三郎殿
 比企大学三郎能本(1202~1286)のこと。京都で儒学を学び、順徳天皇に仕えた。のちに鎌倉に下り日蓮大聖人に帰依した。
―――
たきの太郎殿
 日蓮大聖人の檀那の一人。儒官であったといわれているが詳細は不明。ここの文章により達筆で学識のある人と思われる。
―――
とき殿
 富木五郎左衛門尉常忍のこと。因幡国富城庄の本主で、父蓮忍の代から下総国八幡荘若宮に移り、千葉氏に被官したとつたえられている。その後、入道して常忍と称した。建長5年(1253)ないし翌6年に入信して以来、房総方面の門下の中心とした活躍し、鎌倉の四条金吾とも力を合わせて外護の任にあたった。大聖人より日常と法諱をいただいている。大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。
―――
奉行人
 奉行の役人。鎌倉幕府以降に置かれた職名。安堵・評定・恩沢・問注などの総称。
―――
夜廻の殿原
 夜廻り警備の役をもった者達。「崇峻天皇御書」(1172)に「況や此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしきを上へ召されたり」と、信仰の故に迫害され、屋敷までも没収された人々のことが記されている。この人達が四条金吾のもとに身を寄せていたのであろう。
―――――――――
 前段において、根本的な信心の上から、四条金吾の決意を讃え、激励されたのに対し、この段では、具体的な行動について種々、教示されている。
 まず、金吾の苦境を救うために、金吾に代わって大聖人が自らしたためた陳状を、いつどのようにして提出すべきかということ。次に、金吾自身、現在の所領問題について、どのように発言すべきかということ。さらに、日常の行動のあり方について、である。
 これらの御教示のなかに、大聖人が愛弟子のために、実に細かい点にまで心を配り、弟子の気質からその置かれている状況を分析したうえで、指示されていることがうかがわれる。
 また、前段で、信心根本の確固たる心の姿勢を教えられながら、この段では具体的な行動について示されている。この全体を通して、信心と生活、根本の信念と具体的な行動のあり方についての、日蓮大聖人の明快な指南が拝せられる。
 すなわち、仏法の原理への確信に立った精神的な強靭さ、大胆さ――これは内心の問題である。そして、それは大前提でもある。しかし、だからといって、具体的な行動においては、粗雑であってはならず、細心の注意を払い、知恵を働かして臨まなければならない。これらは、一見、相反するように見えるが、実は、前者つまり仏法への深い確信が、後者つまり具体的行動への英知となって発露するのである。したがって、行動は細心であっても、微塵も卑屈さがないのである。
小事こそ善よりはをこて候へ。大事になりぬれば必ず大なるさはぎが大なる幸となるなり
 誤解してならないことは〝善〟は小事しか生まないというのではないということ、また「大なるさわぎ」つまり大きい災いは、それ自体で必然的に「大なる幸」になるというのではないということである。
 大きな苦難にぶつかった場合、人間はそれをのりこえるために、これまでの行き方を再検討し、根本的に改めてこれに対処しようとする。快調で、成功が続いている場合は、そうした反省は起こらない。そうした根本的な再検討と改革が、大きな次の成功の因となっていく。この原理は、個人においても、社会においても同じである。
 しかし、逆に「大なるさはぎ」が、より大なる苦悩へとつながっていく場合もある。それは、災いによって絶望したり、あるいは慌てふためくのみで英知が働かなかったり、あるいは失敗の責任を互いになすりつけ合って不信の泥沼におちこんだりした場合である。
 現在の成功も失敗も、それを次の〝善〟を生み出す基盤にしていけるかどうかは、それに対処する人間の知恵と勇気と生命の力にかかっていることを知らなけばなるまい。
 そして、このいかなる苦境をも、かえって大なる幸へと転ずる生命の主体性と知恵、その基盤としての生命変革の原理を説き明かしたのが、法華経の十界互具・一念三千の法門なのである。

1163~1164    四条金吾殿御返事(不可惜所領事)2008:12月号大白より 先生の講義top

威風堂々 いかなる逆境にも負けない
「師弟の大道」を悠然と!

 本当に偉大な人とは、どういう人をいうのでしょうか。
 ある時、戸田先生は語られました。
 「真実に偉いというのは、青年時代の命を一生涯、生ききっていく人が、人間的に最高に偉い人ではないか」
 これも、我が生命に焼き付けた指導の一つです。私は、本当に戸田先生のおっしゃる通りだと思います。
 創価学会の同志には、多宝会の方々をはじめ、この指導通りに不屈の信心を貫き、凱歌の人生を勝ち取った「庶民の王者」が多くられます。その方々を、私は心から讃えたい。
 信念は貫き通してこそ、まことの信念となる。
 「信仰」の精髄は、まさしく「不退転」にあります。
 いかなる逆境にも、ひとたび掲げた「信仰の旗」を厳然と振り続ける。
 その人が本当に偉大な人です。真の一流の人間です。御本仏・日蓮大聖人から賞讃される「誉れの信仰者」であることは間違いありません。
人生最大の苦境に入魂の激励
 四条金吾もまた、人生の岐路にあって、信心を貫き通した真実一路の人です。
 金吾の最大の苦境、それは建治3年(1277)6月、主君の江間氏から「“法華経を捨てる”との起請文を書け」と迫られたことでありました。
 事の発端は、この6月9日に行われた桑ヶ谷問答にありました。
 これは、大聖人の弟子・三位房が、当時、鎌倉の人々が惑わされていた竜象房の邪義をことごとく打ち破った破邪顕正の法論でした。
 この日、四条金吾は同席しておりましたが、一言も発することなく、法論を見守っていただけです。
 ところが後日、“四条金吾が、説法の場に、徒党を組んで刀を対して乱入した”という「虚言」が主君・江馬氏の耳に入ります。
 その結果、江間氏は四条金吾に対して、“法華経を捨てるとの誓状を書け。さもなければ、所領を没収し、家臣から追放する”との命令書を下します。
 所領問題は、武門の恥であり、生活の糧を奪われることにほかなりません。
 しかし、この時、四条金吾は迷わず信仰を選び取りました。
 そして、ただちに大聖人に報告します。
 金吾からの書状で事件の真相を把握された大聖人は、即座に筆を執られ、金吾に代わって、江間氏への長文にわたる弁明書を認められました。
 その中で、今回の讒言は「頼基をそねみ候人のつくり事」(1157-04)であるとして、主君の疑惑を晴らすとともに、四条金吾の立場と行動を通して、日蓮大聖人の仏法の正義を示されています。
 それが「頼基陳状」です。
 そして、この陳状に添え、金吾が“決して誓約書はかかない”“法華経は捨てない”との毅然たる誓いを大聖人に表明したことを讃えられたお手紙が、今回、拝する「四条金吾殿御返事」です。
 とともに戦い、生き抜く人生が、いかに誉れ高くいだいであるか。
 金吾の胸もまた、師と同じ大確信の曉鐘が鳴り響いていったに違いありません。
 その「師弟不二」の信心を、本抄を拝して学んでいきましょう。
08                                               普賢・文殊等
09 なを末代はいかんがと仏思し食して 妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・ 上行等の四人にこそ仰せつけられて
10 候へ・只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・ 貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計
11 いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん、起請をかかせ給いなば・いよいよ
12 かつばらをごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん、凡夫のならひ
13 身の上は.はからひがたし、これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり、
-----
 釈尊は、普賢菩薩・文殊菩薩等でさえも、末法には、おぼつかないと思われて、妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の弘通の道をたすけようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわれたのだろうか。または教主釈尊の御計い事であろうか。江間氏の身内であなたを憎んでいる人々が増長しているのは良観・竜象房が、きっと画策しているに違いないでしょう。
 もし、あなたが信仰を捨てるという起請を書いたならば、彼らはますます驕り高ぶって、方々にそれを吹聴するであろう。その結果、鎌倉にいる日蓮が弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう。凡夫の常として、自分の身の上のことは、計りがたいのであり、それを熟知するのを賢人・聖人というのです。

悪世末法に法華経を持つ信心を賞讃
 日蓮大聖人の言論戦は、常に「電光石火」であられました。
 弟子が苦境に立たされると察知あれるや、即座に渾身の激励の手を打たれた。
 弟子の心に巣くう「無明の闇」を晴らし、清新な「信心の風」を胸中に吹き込れてくださった。
 さらに、一切の魔性と戦われ「正義の旗」を満天下に打ち立てられた。この御本仏の疾風迅雷の師子吼によって、弟子が一人また一人と立ち上がり、広宣流布は音を立てて前進していったのです。
 本抄の前半では、信心を貫き通す覚悟を決めた四条金吾への賛嘆が、さまざまな観点から記されています。
 とりわけ大聖人は、四条金吾が「日蓮が道をたすけん」としたことを讃えられ、上行菩薩が四条金吾の身に入ったか、あるいは教主釈尊の御計らいであろうとまで仰せです。
 それほどまでに思うくらいに、大聖人は四条金吾の信心を称揚されています。
 それほど、一人の凡夫が悪世末法に信心を貫き、広宣流布に立ち上がることは希有なことだからです。
 なぜ、それほど困難なのか。
 それは、信心を貫くことは、生命の奥底にある無明と戦うという、根本的な次元での生命変革に挑み続けることだからです。それは、三障四魔、三類の強敵が紛起する至難の道です。
 しかし、それらを打ち破って自身の生命の変革を力強く遂行していく中にしか、真の成仏はありえません。その「偉大な凡夫成仏」の末法の先駆として四条金吾が師と共に戦い抜いたがゆえに、御本仏が照覧されていると拝されます。
良観の謀略を未然に防いだ金吾の「信心」
 大聖人は、ここで、今回のデマ事件は、極楽寺良観の画策によって起きたものであると喝破されております。
 悪人たちは、まず金吾を退転され、そのことを鎌倉中に吹聴する。そして、多くの門下を動揺させ、大聖人の弟子を一人残らず退転させようと企んでいたのです。
 第六天の魔王の働きは、それほど熾烈であり、陰湿かつ執念深いのです。
 竜の口法難、佐渡流罪へと続く大難の中で、大聖人は第六天の魔王に完全に勝利されました。
 それに対して、大聖人に敗れた第六天の魔王は、今度は、弟子を退転させ、教団を破壊しようと動きます。
 「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」(1539-09)
 一人を退転させることで、多くの人を堕としていく。
 その意味でも、どこまでも「一人」が大事になります。
 付け入る魔を破り「一人」を守ることが、広宣流布を守ることにつながるのです。
 金吾の深き覚悟が、天魔の謀略を未然に防ぐことになった。これも大聖人が四条金吾を賞讃された理由の一つと拝せます。
 特に「広宣流布の黄金柱」である壮年部の皆様は、大先輩の四条金吾の如く「日蓮が道」を支え、大聖人に誉められる信仰を貫いていく使命がある。
 大聖人は、諸御書で、門下の柱である四条金吾に対して「賢人」「聖人」の生き方を貫いていくよう、指導・激励されています。
 本抄でも「凡夫のならひ身の上は・はからひがたし、これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり」と仰せです。
 自分の身の上がどうなるのか、これがわからないのが凡夫です。
 しかし、信心を貫いた凡夫は、胸中から湧現する仏の智慧によって「賢人」「聖人」としての生き方を歩み通すことができます。
 戸田先生は、私たちは「久遠の凡夫」ともいうべき存在になることができる、と言われました。
 妙法の「信心」には、人間の奥底にある、仏と等しい根源の智慧を引き出す力があるからです。
15                                一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食
16 には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、
-----
 一生はゆめの上の出来事のように、はかなきものであり、明日の命もわからないのです。いかなる乞食になっても法華経にきずをつけてはなりません。

この一生の中で「永遠の幸福」築く
 「一生はゆめの上・明日をごせず」この御文は、私が胸に秘めている一節です。
 「永遠の生命」からみれば、一生といえども、一時の夢のようなものです。
 しかも、その夢のような、はかない一生においてさえ、明日、我が身がどうなるか分からない。これが凡夫の現実です。この一生における名誉や地位、財産なども幻のようなものです。
 しかし、一時の夢のようなこの一生が、永遠の幸福を開くか開かないか、その勝負を決する“一瞬”となる。
 今世におけるこのチャンス、永遠に自由自在に生き抜いていける生命を確立するために、妙法の信仰が必要となるのです。
 「生命の境涯を変える」このことは、科学でも経済でも政治の次元でも、せきません。生命の境涯を変えることができるのは仏法だけです。その仏法に、私どもは今生でめぐりあえた。ならば、この信仰を断固として貫き通していきなさい。これが大聖人の教えの結論です。
「法華経にきずをつけ給うべからず」
 その信心の究極の要諦を、大聖人は四条金吾に教えておられます。
 それが「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」との一節です。
 この一節こそ、信心の精髄を示された御文です。また、多くの学会員が胸に刻んできた御文でもあります。
 あえて申し上げるならば、この仰せは、創価学会の信仰の中にしか実現していないと言っても過言ではないと思います。
 仏法の価値観から見れば、「法華経に傷をつける」ことこそが、信仰の敗北となってしまうのです。
 すなわち、病気であれ、経済苦であれ、置かれた境遇がどんなに苦しくとも、その境遇に負けずに信心を貫けば、法華経に対して傷をつけることにはなりません。
 境遇に負けること、自分自身に負けることが、「法華経に傷をつける」ことになるのです。世間の評判を恐れて「臆病」に負けて毀誉褒貶に惑わされて「傲慢」に陥り、何よりも、一番大切な「信心」を見失ってしまうことが結果として「法」を下げることに通じていく。
 まさしく“法華経に傷をうけてしまった”忘恩の背信者たちに共通するのは、信心を見失い、地位や財産に固執する姿に陥っていることです。
 黒い濁りの生命ゆえに、信仰の魂をなくした、哀れな「精神の敗北者」の姿を露呈している。にもかかわらず、そのことを恥じる心すら失っている。
 それが、「無明」の恐ろしさです。「保身」や「慢心」「驕り」は、その「無明」への入り口となってしまうゆえに、厳に戒め合っていきたい。
 信仰とは、どこまでも、今世の毀誉褒貶を夢と見おろしながら、永遠の生命のうえから崩れざる宇宙大の境涯を自己自身に開いていくためのものです。
 屹立した「精神の王者」をつくるのが、真の宗教の使命です。
「小我」でなく「大我」に立脚を
 仏法は「小我」に執られて生きるのではなく「大我」に立脚すること教えたものです。
 一般に仏教というと「無常」が強調されています。
 確かに、移ろいゆく無常の現象を追いかけ、煩悩に責められる「小我」の生き方が、人生を苦しめることは間違いない。それゆえに、エゴにまみれた「小我」を捨てよ、とも説かれます。
 しかし、それは、決して「人生を捨てよ」とか、一切の社会的立場を捨てて「仙人のように生きよ」などと説いているものでは断じてありません。
 仏法は、究極的な生命の本質を見極め、無常の現象を包み込む「常住不変の法」に基づく「大我」の生き方を教えたものです。
 その「大我」に立脚した生き方とは、「小我」への執着を打ち破り「常住不変の法」と一体の確固たる主体性と生命力で無常の現象に紛動されず、我が生活を正しく方向づけていくことにほかならない。
 したがって、「いかなる乞食には・なるとも」とは、“もう、所領はあきらめよ”という意味ではありません。
 人生の断面として究極の二者択一に直面せざるをえなかった時は、常に悠然と「大我の道」、すなわち永遠不変の「信仰の道」を選び取りなさいとの仰せであります。
 その方向性さえ定まっていれば、現実の社会にあって勝利を目指して全身していくべきであることは当然のことです。
 「仏法は勝負」です。
 仮に世間上のことでたびたび破れることがあっても「最後の勝をば、仏にぞ祈らむ」との戸田先生の歌のままに、最後まで信心根本に真剣に戦い抜いた人が、必ず、凱歌の人生を勝ち飾れることは、御聖訓に照らし絶対に間違いありません。
 たとえ、宿命や障魔の嵐に直面したとしても、断固として、妙法を守り、師弟の道を貫き、創価学会を支え、和合僧を築く人は、その時点で、すでに生命の次元での勝利者です。
 「大我」に立脚することによって、一切の困難をはねかえす原動力を得ているからです。その精神次元での真の勝利こそ、必ずや、人生の「最後の勝」を開いていけるのです。
 また、そのためにこそ、たゆまざる日常の仏道修行によって、生命を磨き、日々、人間革命を実現していく必然性があるといえます。
 鍛え抜かれた生命こそが、いざという時に無明という強敵と戦い、悪の発動を抑える力となるからです。
 ともあれ、人生の岐路にあって、いかなる道を選ぶのか。
 人間としての向上の道を選ぶのか、あるいは毀誉褒貶に惑わされていくのか、ある意味で人生は常に岐路にあると言ってよい。
 ゆえに、人生には、絶えず正しき道を選び取る「揺るがぬ基準」が不可欠となります。
 その基準として、四条金吾が選択したように、どこまでも、師と共に歩む」という一点が重要になります。
 人生の十字路に立った時に、師弟不二で前進する人は、絶対に凱歌の道を歩めることは間違いない。師弟に徹した生き方が、人生の勝利の大道を創るのです。また、そのことを教えるのが、日蓮大聖人の師弟の仏法です。
18                        されば同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・
1164
01 ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し
02 給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし。
-----
 それゆえ、同じ一生であるなら、嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しも、へつらわずに振舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって悪くなるでしょう。たとえ所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであろうと思って、深く信をとり、諸天にゆだねておきなさい。
-----
03   日蓮はながされずして・かまくらにだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん、此れも又御内
04 にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ、
-----
 日蓮が、流罪されないで、鎌倉にいたならば、あの二月騒動の折りに、きっと打ち殺されていたにちがいありません。あなたが、身内を追い出されたことも、主君の身内にいてはならないだろうという釈迦仏の御計らいでしょう。

「信心の眼」「仏法の眼」で見よ!
 大聖人が本抄で四条金吾に教えられている生き方は、一貫して「威風堂々と生きよ」という誇りと勇気です。
 威風堂々たる生き方の対極は、へつらい、媚びる生き方です。
 「へつらい」とは、保身や臆病、うしろめたさから生まれます。
 何かに恐れをいだくことは、厳しく言えば、自身の毀誉褒貶という「小我」にとらわれた生き方です。
 本抄で繰り返し、主君や奉行人などに、卑屈な「へつらいの振る舞い」を見せてはならないと厳重に戒められているのも、「大我」に生き抜けという指導にほかなりません。
 続いて大聖人は、仮に四条金吾が所領を没収され、江間家を追い出されることがあったとしても、それは諸天善神の御計らいであると受け止め、どこまでも信心を根本に捉えていくべきことを教えられています。
 大聖人は、御自身の佐渡流罪についても、もし大聖人が流罪されずに鎌倉におられたならば、文永9年(1272)の北条一門の内乱である「二月騒動」の時に、戦乱に乗じてきっと殺されていたに違いないと振り返っておられます。
 大聖人がしめされたのは“「信心の眼」「仏法の眼」で見よ!”ということです。
 広宣流布の途上で直面する苦難には必ず意味がある。後になれば、分かる時がくる。「不惜身命」で戦うあなたを、諸天善神・仏菩薩が必ず護りにくることを確信していくのだ、と示されているのです。
 本抄の後の御文にもありますが、もしこの状況のまま四条金吾が江間家の中にいたならば、同僚たちに命を狙われる危険もありました。
 だから、今、江間家を出るようになっても、むしろ諸天の計らいと捉えるべきであると教えられているのです。
 「信心の眼」「仏法の眼」から見れば、すべて深い意味があるのです。
 目先のことに一喜一憂する必要はありません。
 晴れの日もあれば、雨の日もあります。移り変わる天侯に一喜一憂し、環境に紛動されては、本当の環境革命はありません。
 大事なことは、どこまでも妙法を信じ、力強い「信行学の軌道」に乗ることです。
 「人間革命の軌道」「宿命転換の軌道」に乗ることが、永遠に崩れない福徳と幸福の人生を築くことになるのです。
 何があっても、御本尊が厳然と守ってくださる。浅薄な心で信心の世界を推し量るのではなく、一切を悠然と見極めて進んでいくことです。
 時が経てば、万事一番良い方向に進んだことが必ず分かります。
 いかなる宿命の嵐にも負けずに、三世永遠にわたる「成仏の道」を威風堂々と歩みゆけ!日蓮大聖人の厳愛に包まれて、四条金吾は、この時を大転換として、人生勝利の夜明けを勝ち取っていきます。
09   法華経の御事は已前に申しふりぬ、しかれども小事こそ善よりは・をこて候へ、大事になりぬれば必ず大なる・
10 さはぎが大なる幸となるなり、 此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我と
11 は御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、
12 かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ、 此の所領は上より給たるにはあらず、 大事の御所労を法華経の
13 薬をもつて・ たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば 御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御た
14 いじゃう候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげにて・かへるべし。
-----
 法華経のことについては、これまで申しておいたとおりである。しかしながら、ちいさな事こそ、小さな善事からおこるが、大事になったならば、かれらのあやまりがはっきりわかるであろう。あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から主君の御内を出て所領をさしあげる気持ちはありません。主君から召し上げられ、出すのならばそれは法華経への御布施であり、幸いと思います」といいなさい。
 くれぐれも奉行人にへつらうような様子があってはならない。「此の所領は、主君よりいただいたものではない。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領なのであるから、それを召し上げるならば、また御病気が再発するでしょう。そのときになって頼基に謝罪されても、もはや用いません」と、いいおいて、憎憎しげに帰りなさい。
-----
15   あなかしこ・あなかしこ・御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常には・よ
16 りあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず。
-----
 決して、決して御寄合にいってはならない。夜は用心を厳しくして、夜回りの人々と親しく交わって用い、常日頃互いに寄り合っていきなさい。今度、もし主君の御内を出るようなことがなければ、十に九は御内のものがねらうであろう。決して見苦しい死に方をしては」いけません。

大悪は大善への瑞相
 本抄の後半で大聖人は、具体的に金吾がとるべき行動について、御指導されています。
 その中で、大聖人が認められた江間氏への金吾の陳状を、近しい門下に清書させ、主君に差し出すよう指示されました。
 陳状には、諸宗の誤りを糺し桑ヶ谷問答の真実について記され、さらに極楽寺良観らの魔性の正体についても、鋭くえぐりだされています。
 それを主君をはじめ人々が見るならば彼らの悪事が、明瞭に判別できる。
 また、このことが鎌倉中に広まれば、執権北条時頼のところへ入る可能性も高い、そうなると、事態は大きく回転し、広宣流布の環境も逆縁から順縁へと一変することも十分ありえます。
 大聖人は「大事になりぬれば必ず大なる・さはぎが大なる幸となるなり」と仰せです。
 大いなる騒ぎが起きた時に、法華経の変毒為薬の力によって、大悪を大いなる幸いへと転ずることができる。ゆえに、大悪は大善が起こる瑞相となるのです。
 したがって大切なことは、何があっても臆させないことです。勇敢に動執生疑を起こしながら、人々の無明を破り、正義と真実を威風堂々と訴え抜いていくことです。
 そこに妙法の勝利の方程式があります。
 そして本抄の最後に大聖人は、金吾に対して実にこまやかな注意を与えられています。
 不用意に寄り合ってはならない。夜は用心を厳しく、警護の人々と親しく交わって味方にしていきなさい、等々。
 特に、尊い生命を、不注意のためになくすようなことがあってはならないと厳命されています。
 絶対に悪を近づけない、断じて魔を寄せつけない。その毅然たる強さと智慧をもつべきであると教えられているのです。
 さて、その後、金吾はどうなったのか。
 急転直下、事態は好転します。本抄から2ヵ月後のお手紙である「崇峻天皇御書」には「彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ」(1171-05)とあります。
 何らかの現証によって、事態は激変していたことが拝されます。
 さらには主君が病気になり、四条金吾が懸命な看病をすることで、主君の信頼を取り戻すことができました。
 後に、改めて以前の三倍の領地が与えられるまでになります。
 「大なる・さはぎが大なる幸いとなる」との仰せが、現実となったのです。
 「法華経にきずをつけ給うべからず」という、「法根本の信心」「身軽法重、不惜身命の信心」が自身の人生を荘厳していくことは間違いありません。
 不惜身命の信心には、一切、無駄も犠牲も後悔もありません。
 戸田先生は、こう指導されたことがあります。
 「この地球上で、戦争は人を殺し合う、経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとはかぎらない。本来は人を救う指導者が、反対に人を見くだし、利用している輩も多い。
 その他、政治も科学も宗教も。とにかく人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本の道はない。
 その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示している。常楽我浄と、永遠の所願満足の軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。
 だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」
 私は、この先生の指導通りに、命をかけて、身を惜しまず、広宣流布の道を開き、人類の宿命転換の大道を進んできました。
 戸田先生の不二の弟子として、妙法の革命児として、ゆえに一点の悔いもありません。「われわれはいったい何をなすべきなのか」先生のもとで学んだ革命小説『永遠の都』の中で、主人公のロッシィは宣言しました。
 「人間としてのわれわれの義務とは、民衆の進む道に横たわるあらゆる障害を取り除くことでもあります。」
 さらにまた、彼は叫んだ。
 「民衆のために一身をささげよう。自分と、人の世のために尽くすとう仕事とのあいだには、たとえどんなことであれ割り込んでいく余地はない。」。
 私たちも、広宣流布という、永遠の「平和の都」「勝利の都」の建設へ、威風堂々と晴れやかに次の新たな戦いの出発にしていきたい。
 「創価学会には信心がある、何も恐れる必要がないではないか!」
 この戸田先生の不滅の師子吼を、日本、そして世界の21世紀の青年指導者に贈ります。

1165~1169    四条金吾殿御返事(世雄御書)top
1165:01~1165:05 第一章 仏法と王法の相違top
1165
四条金吾殿御返事    建治三年    五十六歳御作
01   御文あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、
02 王法と申すは賞罰を本とせり、 故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、 中にも天竺をば月氏という我国
03 をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、 名のめでたきは印度第二・扶桑
04 第一なり、 仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、 月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然
05 のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。
-----―
 あなたのお手紙の内容を概略うけたまわり、長い夜が明け、遠い道を歩いて、帰りついたように、安心いたしました。
 そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としている。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけるのである。この世界の国々のなかでも、天竺国すなわちインドを月氏といい、わが国を日本という。一閻浮提中にある八万の国のうちでも、大なる国は天竺であり、小なる国は日本である。しかし、その国の名のめでたさでいうならば、インドは第二であり、扶桑は第一である。
 仏法は月の国から始まって、日の国にとどまるであろう。月は西から出て東に向かい、日は東から出て西へ行くことが自然の道理であるように、このことは真理であり、あたかも磁石が鉄を吸い、雷が鳴って象華が成長するようなものである。誰がこの道理を破ることができようか。

王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
―――
世雄
 仏の異名。仏は世間において最も勇猛で、一切の煩悩苦を取り除くというところから世雄という。〝世〟とは、この現実社会であり〝雄〟とは、その中で力をあらわし、リードしていく人のこと。法華経化城喩品第七には「世雄に等倫無し 百福もて自ら荘厳し 無上の智慧を得たまえり」「世雄両足尊よ 唯だ願わくは法を演説し 大慈悲の力を以て 苦悩の衆生を度したまえ」とある。世雄両足尊とは、両足を有する有情の中で最も尊い存在という意味。
―――
自在
 なんの障りもなく、束縛もなく、思いのままの意。一切のものに通達して障りなきこと。自由自在という。真実の自由の境涯。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ中央アジアに、月氏という民族がおり、その地を経てインドから仏教が中国へと伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。また月氏の名称は、玄奘の大唐西域記によると、西天に月の出づる国としている。「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
―――
扶桑
 日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
―――
名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり
 国の名がめでたいことは、インドが第二であり、日本が第一であるとされる。諫暁八幡抄(0588)にいわく「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」と。日寛上人は当流行事抄で、この文は勝劣を明かすのであり「亦三意有り」として「一には国名に寄す。謂く、月氏は是れ迹門の名なり。故に脱迹の仏応に出現すべきなり。日本は即ち本門の名なり。下種の本仏、豈出現せざらんや。国名寧ろ勝劣に非ずや。二には順逆に寄す。謂く、月は西従り東に向かう、是れ左道にして逆なり。日は東従り西に入る、是れ右繞にして順なり。順逆豈勝劣に非ずや。三に長短に寄す。月は光、明らかならず、在世は但八年なり。日は光、明らかにして、末法万年の闇を照らす。長短寧ろ勝劣に非ずや」とある。
―――
象華
 芭蕉の一種である象牙草のことと思われる。花弁が大きくて、象牙に似ているところからこの名があるという。本草綱目巻十五に「其の花大にして象牙に類す。故にこれを牙蕉と云う」とある。雷鳴によって成長するともいわれている。
―――――――――
 苦境にある四条金吾に対して、日蓮大聖人は、仏法と王法の相違と、必ず仏法が勝つことを、歴史的事実によって示し、激励されている。ここに挙げられている歴史的事実とは、日本に仏教が伝えられたときのことと、中国に仏教が伝わったときとの二つの例である。そこには、王法すなわち政治権力と結びついた土着の宗教の、外来新来の宗教たる仏教に対する激しい排撃があった。しかし、結局、仏法はその法自体の持つ力によって勝利を収めたのである。
 いま、四条金吾が日蓮大聖人の仏法を、他の人々に先がけて受持し、主君・江馬氏やあるいは鎌倉中の人々から迫害されているのは、日本に、中国に、はじめて仏教が伝えられ、広まろうとしていた時と全く同じである。どのように激しい苦難があろうと、必ず仏法は王法に勝つのであり、いまの苦しみは先駆者としての栄光に変わる時が来る。全魂をこめた激励の中に、大聖人の愛弟子を思う深い慈愛と、万年の未来まで民衆を救う大仏法の広宣流布への大確信を拝することができる。
夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり
 〝仏法は勝負をさきとす〟ということは〝王法は賞罰を本とす〟との対比におい解されなければならない。〝勝負〟とは、権威によらず、法自体および法を持った人自身の力によって、いずれが勝れ、いずれが劣るか、いずれがより人間の幸福と尊厳のために尽くし得るかを決することである。これに対して〝賞罰〟とは、権威により、社会的権力によって、功ある人を賞し、罪ある人を罰するのである。
 したがって〝仏法は勝負〟ということは、仏法は人間の本源的な生命の力を重んじ、それをより強めていくものであるということになる。この主体は、個の人間としての存在である。それに対し、王法は、社会的権威と、その権威に服従する人々の忠誠心によって支えられた社会的力の反映である。その主体は王や独裁者という個人にせよ、内閣という集団にせよ、いずれにしても、個の人間ではなく集団的な力にほかならない。
 このように、王法の賞罰と対比して仏法の原理を勝負として示されたなかに、仏法が人間に焦点をあて、人間としての力を中心にすえていく精神と読みとることができる。
 しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を〝さき〟とし、王法は賞罰を〝本〟とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。〝さき〟とは、前後の〝前〟ではない。〝本〟に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が〝本〟である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということでなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
 仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果することが証明されるであろう。
 王法が賞罰を〝本〟とするということは、真に功ある人が賞せられ、真に罪ある人が罰せられることによって、それが秩序の維持と、人民の行動を律する規範となっていくのである。つまり賞罰とは、手本であって、全ての人々の行動に対する結果ではありえない。王の権力がいかに緻密に人々の上に行きわたっていようと、全ての人の、全ての行動を網羅することは不可能である。賞せられなかった人でも、賞せられた人より功のある人もいよう。罰せられた人よりはるかに大きい罪を犯しながら、罪を免れる人もありうる。これは、全体的統括を司る王法のもつ限界ともいえよう。ともあれ、ここに、王法と仏法の根本的相違があるのである。
月は西より出で東に向ひ……
 天文学上からみると、月の日周運動は、地球の東より出て西へ沈んでいくことになるが、肉眼で見える月は、新月、上弦、満月、下弦の時によりいろいろ変化する。
 月は白道上を一日平均13・2度進むが、このために月の出入りの時刻が一日ごとに平均約51分おくれることになる。
 つまり、新月の頃は月は太陽と大体同時刻に出入りする。だんだんおくれて上弦の頃は正午に東から出て夕方に南天、夜半に沈む。満月の頃は太陽と反対になり、夕方東に上って明け方沈む。下弦の月は夜半に上って正午に沈む。
 ところで太陽より弱い月の光は、太陽のある時間には、いつ東から出て、西へ沈もうと、われわれの目には映りにくい。
 したがって、太陽が沈んで、月の見えはじめる夕方の時刻を月の出としてみるゆえに、新月から満月にいたるまでの月の光りはじめる位置は西から東へ移動する。
 新月の頃は、太陽と同じであるから日没の時刻に月の位置は西である。西へ月の入る時間は毎日51分ずつおくれるから、翌日は日没時の月の位置は、西より少し南へ寄る。すなわち、月が西へ沈む時間がおくれるのである。毎日少しずつ、このようにして南寄りとなり、上弦の頃は真南となる。さらに、だんだんと東へ寄って、満月の頃は、日没時の月の位置は東となるのである。
 しかも、月は自分で光を発せず、太陽の光を反射させて光るのであるから、西から昇って東を照らしているように見えるのである。
 一方、太陽は、いまさらいうまでもなく、毎朝東天に昇り、日中は南天に輝き、夕方は西天に没していく。
 この月と太陽の動きと同じく、まず釈迦仏法は西に位置する月の国インドより発祥し、東へ東へと伝わっていった。中国に伝わり、朝鮮半島に伝えられ、日本へ渡って来たのであった。
 今、大聖人は東の日本より発祥した大聖人の仏法が、太陽のごとく中国、インドと西の国々に広まり、全世界を照らしていくことは、天然の理であるとの大確信を述べられているのである。

1165:06~1165:15 第二章 日本への仏法渡来top
06   此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十
07 代欽明天皇と申せし王をはしき、 位につかせ給いて三十二年治世し給いしに 第十三年壬申十月十三日辛酉に 此
08 の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、 其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢
09 を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣
10 に仰せて西蕃の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、 蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れ
11 を礼す・ とよあきやまとあに独り背やと申す、 物部の大むらじをこし中臣のかまこ等奏して曰く我が国家・ 天
12 下に君たる人は・ つねに天地しやそく百八十神を春夏秋冬に・さいはいするを事とす、しかるを今更あらためて西
13 蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、 爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、 此の事を
14 只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、 他人用いる事なかれ、 蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給い
15 て此の釈迦仏を我が居住のおはたと申すところに入まいらせて安置せり、
-----―
  この日本国に仏法が渡ってきた由来をたずねてみれば、天神七代、地神五代、すなわち神代の時代をすぎて、人王の時代となって、第一代神武天皇より第三十代目に欽明天皇という天皇がおられた。この天皇は位につかれて32年間、世を治められたわけであるが、その第13年目壬申10月13日辛酉に、日本国の西方に百済国という州があり、日本国の天皇が統治されていた国であるが、その国の大王で聖明王という国王がいた。この王が年貢を日本国につかわしたおりに金銅の釈迦仏、ならびに一切経、法師、尼等を渡らせたので、天皇は大いに喜んで群臣にむかって「西蕃の仏を崇め奉るべきかどうか」と問われた。
 すると、蘇我の大臣で稲目の宿禰という人が「西蕃の諸国はみな、これを礼拝しています。とよあきやまとひとりだけが、どうして背くことがありましょうか」と申しあげた。物部の尾興、中臣の鎌子等は「わが国家・天下の君主である人は、つねに天地、社稷、百八十神を春夏秋冬に祭拝するのをならいとしています。それをいまさら、あらためて西蕃の神を拝するならば、おそらくは、わが国の神は怒りをなすでしょう」と申しあげた。
 その時に天皇は判断しがたくて「この仏を試みに、ただ蘇我の大臣一人に崇めさせることにしよう。他の者は用いてはならない」と勅宣を下した。蘇我の大臣は、これを受け取って、大いに喜ばれ、この釈迦仏を自分の居住しているおはだというところに迎え入れ、安置した。

天神七代
 地神五代より前に高天原に出た七代の天神。陽神(男神)と陰神(女神)がある初めは抽象的だった神々が、次第に男女に別れ異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
―――
地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
―――
神武天皇
 第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
―――
欽明天皇
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
百済国
 古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
―――
日本国の大王の御知行の国
 四世紀中ごろから大和朝廷は、朝鮮直轄領地として任那を成立させ、日本府を設置して、朝鮮を支配する形をとっていた。百済は新羅・高句麗の圧迫を避けるため、日本と親交を結んでいたので、このようにいわれたものであろう。
―――
聖明王
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
―――
金銅の釈迦仏
 晴明王が献上したのは、日本書紀では「釈迦仏の金銅像」としている。しかし扶桑略記では「阿弥陀仏像」となっているが、おそらく後世、阿弥陀にすりかえられたものであろう。
―――
西蕃
 甘粛・四川・雲南地方の中国人が、隣接するカム地方のチベット人を指して用いた蔑称。
―――
蘇我の大臣いなめの宿禰
 蘇我稲目(~0570)のこと。大臣は官職、宿禰は敬称。蘇我高麗の子といわれる。宣化天皇の時代から大臣として勢力を伸ばし、欽明天皇の時にほぼ権勢を確立した。その間、屯倉の新設ならびに経営に力を入れ、仏教の受容を主張し自邸を寺とした。また娘を天皇の妃として皇室との姻戚関係を固めた。
―――
とよあきやまと
 日本の国の古名。日本のことを古くは、秋津島、豊秋津島、豊葦原千五百秋瑞穂国等と呼んだ。また、やまとは、大和と書き、これもわが国の古名である。これらの古称を略して、「とよあきやまと」とされたのであろう。
―――
物部の大むらじをこし
 物部尾輿のこと。生没年不詳。大連は官職名。大伴金村、蘇我稲目と並んで欽明天皇を支えた有力な中央豪族。対韓問題で大伴金村を失脚させ勢力をのばした。また仏教受容の際に排仏派の中心人物となり崇仏派の蘇我氏と対立した。諸国に疫病が流行した時、尾輿はこれを国神の怒り、たたりとみて、寺を焼き仏像を難波堀江に捨てたと伝えられている。
―――
中臣のかまこ
 当時の中臣氏の中心人物とみられるが不詳。
―――
しやそく
 しや(社)は万物を生ぜしめる国土の神。そく(稷)は五穀の神。最も尊敬するものとして、社稷を祭ることを国家の最大の礼とした。
―――
百八十神
 日本国を守護するとされる数多くの神々。
―――
勅宣
 天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
―――
おはだ
 「おはりだ」ともいう。飛鳥の同地異名。ただし、飛鳥は広く今日の明日香村のほとんどをさすが小墾田はもっと狭い地域をさしており、今日の奈良県高市郡明日香村豊浦附近をいったようである。この日本最初の寺は、向原寺、豊浦寺、小墾田寺ともいわれた。
―――――――――
 この段から、わが国に仏教が渡来し受容されるにいたった様相について述べられている。歴史的記述については、大聖人当時の社会で唯一の資料として一般に信じられていた日本書紀に依っておられる。したがって、今日の歴史学による成果からみれば、官撰記録ということからくる歪曲もあろうが、古来の神への信仰があり、そこへ仏教が定着するには、幾多の困難があったことは疑いない。
 ここに記されているのは、仏教の受けた苦難と、それをのりこえていかにして勝利を収めたかを示すためであって、したがって、それ以外の問題の真偽にこだわるべきではない。
 ただ参考までに、仏教公伝の古来ある論議について一言すると、本抄の仏法渡来の年次は「欽明天皇の第十三年壬申十月十三日辛酉」となっているが、これは日本書紀の欽明天皇13年壬申の条に「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献る」とあるのによっている。
 すなわち、日本書紀では、公伝を欽明天皇13年壬申(0552)としているわけであるが、今日では、これには有力な異説がある。それは聖徳太子関係の史料を集成した「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起並流記資財帳」にある「戊午の年(0538)」説である。
 上宮聖徳法王帝説には「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日。百済国主明王始奉度仏像経教並僧等」とあり、元興寺伽藍縁起並流記資財帳には「創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐廣庭天皇御世。蘇我大臣稲目宿禰仕奉時。治天下7年歳次戊午12月度来。百済国聖明王時。太子像並灌仏之器一具及説仏起書巻一篋度而言」とあり、これらは欽明天皇7年(0538)としている。
 これらの史料は、ともに奈良時代の作であって、上宮聖徳法王帝説は、古事記・日本書紀とは別の伝説を伝える貴重な資料であるから、その説は重要な価値を有するものとされている。
 また元興寺伽藍縁起並流記資財帳は、天平19年(0747)に、諸大寺に命じて縁起並流記資財帳を作った時の資料となったもので、奈良時代の古伝を録したものである。とくに用いられた仮名が周代の古音によっており、当時慣用の仮名の古音である。上宮聖徳法王帝説と符合するところがあって、貴重な伝説とされている。
 ところが、この戊午説を日本書紀にみると、宣化天皇3年(0538)になって、欽明朝のことではなくなってしまう。これをどう説明するかについては、歴史学者たちによってさまざまな試みが行なわれてきた。
 そのなかで、もっとも有力とされているのが、当時の大和朝廷の実権を握っていた豪族たちによって起こされた内乱による両朝分立説である。
 その根拠になるものは上宮聖徳法王帝説の欽明天皇の治世説で、それから計算していくと、継体天皇の崩御されたのは辛亥の年に当り、欽明天皇元年(0532)も辛亥の年に当る。したがって、継体朝の次は、欽明朝となり、仏教公伝の戊午年は欽明7年(0538)となる。
 ところが、この欽明天皇の即位をみとめぬ勢力があって、安閑、宣化と即位させ、ここに両朝分立となって各勢力が争い、宣化天皇の没後合一したのであろうという見方である。加えて日本書紀の継体朝の記に重複の記録があるために、年代に誤りを生じたものであるとの説が有力となっている。
 この時期を辛亥の変とか、内乱期と称する学者もあるくらいだから、複雑な当時の状況を、後々になって記述するということは、見方によって差異が生じてくるのは当然考えられることである。
 大聖人が本抄で欽明天皇13年壬申(0552)説をとられたのは、当時の定説となっていた日本書紀の欽明天皇13年説にもとづかれていると考えられる。
 ところで、ここにあげられているのは、仏法渡来といっても、あくまで公に渡来したものであって、その以前に帰化人などによって仏教が入っていたことは、当然考えられることである。
 六世紀の中頃には、北九州や瀬戸内の族長の間に、帰化人を通して仏教信仰が行なわれていたようだとの見解を述べる学者もある。4世紀頃から帰化人による大陸文化の導入が各地に行なわれ、神功皇后の時代から、度々の朝鮮出兵もあったことから、一般民衆が仏教にふれるチャンスはかなりあったことが考えられる。
 当時の日本の、中国や朝鮮との密接な交渉ぶりからみて、仏教が公伝以前に伝わった可能性を考える方が常識的であろうとする歴史学者もいる。
 仏教公伝以前の、いわゆる私伝とされる最初の文献で、必ず紹介されるのが、延暦寺の僧・阿闍梨皇円(~1169)が、国史や古史、僧伝縁起などを年代順に編集した扶桑略記の文である。
 この国史書において、仏教私伝を記録した部分は、平安時代の朱雀天皇(在位0930~0946)の頃で、やはり比叡山延暦寺の薬恒という人の書いた「法華験記」によっているが、今日、法華験記は現存していない。
 ところが、この法華験記も、仏教私伝については、延暦寺の僧禅岑の記を引用しているのである。
 ゆえに扶桑略記の文には「日吉山薬恒法師の法華験記に云く、延暦寺の僧禅岑の記に云く、第廿七代継体天皇即位16年壬寅、大唐漢人で鞍部村主の司馬達止、此の年の春二月に入朝、則ち草堂を大和国高市郡坂田原に結ぶ、本尊を安置し、帰依礼拝す、世を挙げて皆云う、是れ大唐の神之、このこと縁起に出ず、隠者此の文を見る、欽明天皇以前に、唐人仏像を持ち来る、しかれども流布せず」とある。
 この文中に「縁起に出ず」とあるのは、坂田寺の縁起のことで、この寺は飛鳥寺や豊浦寺などとともに七世紀の中ごろ非常に栄えた寺であるらしい。
 したがって、扶桑略記の引用文である法華験記は、禅岑の文を引用し、この禅岑はさらに坂田寺縁起を引用していたことになる。
 また、これらの引用文の原典は現存せず、しかも記述された年代が明快ではないので、引用文をめぐってさまざまな論議がなされてきた。
 一つは、継体天皇16壬寅(0522)となっているが、仏法公伝を欽明天皇13年壬申(0552)説としているから、これを欽明天皇の七年戊午(0538)の説にもとづいてみれば、継体天皇の時代ではなくなってしまう。また、司馬達止は帰化人ではないという説、扶桑略記の記事は、干支一巡の誤りで敏達天皇の11年の事とする説もある。
 一方、この坂田寺縁起は非常に信頼しうるものであって、司馬達止は中国から招かれた工人であり、その子孫が出家したり仏師となったことなどから、信憑性を重んじる説もある。
 いずれにしても、こういった文献の在否や、年代の少々の差こそあれ、ともかく、多くの帰化人や民間人を通し、公伝とされた国家の政治外交上の問題とは別に、仏法は、わが国に六世紀の中頃には、渡ってきたことは、ほぼまちがいない事実である。

1165:15~1166:18 第三章 崇仏・排仏の争いtop
18                                   物部の大連・不思議なりとて・いきどを
1166
01 程に日本国に大疫病おこりて死せる者・ 大半に及ぶ・ すでに国民尽きぬべかりしかば、 物部の大連・隙を得て
02 此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、 早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取り
03 て炭をもつてをこし・つちをもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むちをくわう、其の時
04 天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・き
05 るがごとく・やくがごとし、 大連は終に寿絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆること
06 なくして十九年すぎぬ。
-----―
 物部の大連は「これは意外なことである」といって、憤っていたところ、日本国に大疫病がおこって、死んだものは大半に及んだ。やがて国民が死につくしそうな様子であったので、物部の大連は、この時とばかり、この仏像をなくすべきであることを申したてたところ、「すみやかに、他国の仏法を捨てよ」との勅宣が下された。物部の大連は天皇の命をうけた使いとして、仏像を取り上げて、炭をおこして焼き、槌でうちくだき、仏殿には火をつけて焼きはらい、僧尼にはむちを加えた。
 その時、天には雲もないのに、大風がふき、雨がふり、内裏は落雷によって炎上し、天皇ならびに物部の大連、蘇我の臣の三人とも、疫病にかかったのである。その苦しみは、身を切られるごとく、焼かれるようであった。
 大連はついに命絶えてしまい、蘇我の臣と天皇とは、ようやくのことで生命を全うし、治った。けれども仏法を用いないままで十九年が過ぎたのである。
-----―
07   第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋・父の
08 あとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、 此の王の御代に聖徳太子生給へり・用明の御子・敏
09 達のをいなり御年二歳の二月・東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌にあり、 是れ日本国の
10 釈迦念仏の始めなり、 太子八歳なりしに八歳の太子云く 「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち
11 禍を銷し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇
12 我は勅宣を背きて 他国の神を礼す」等云云、 又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、 弓削守屋又此れを間奏
13 す云云、 勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻ぞくべし」等云云、 此に守屋中臣の臣勝海大連等両
14 臣と、 寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、 寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ・又
15 天皇並に守屋馬子等疫病す、 其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡をこる・はうそうといふ、馬子歎
16 いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、 馬子欣悦し精舎を造りて三
17 宝を崇めぬ。
-----―
 第三十一代の敏達天皇は欽明天皇の第二子で、十四年間国を治められた。その左右の大臣は、一人は物部の大連の子で弓削の守屋といい、父の跡をついで大連に任じられた。もう一人は蘇我の宿禰の子で、蘇我の馬子といった。
 この天皇の御代に聖徳太子がお生まれになった。太子は、のちの用明天皇の御子であり、敏達天皇の甥であった。御年二歳の二月に東に向かって無名の指を開いて、南無仏と唱えられると釈迦の御舎利が掌にあった。これが日本国の釈迦念仏のはじめである。
 聖徳太子が八歳になられたときに、その八歳の太子がいわれるには、「西国の聖人である釈迦牟尼仏の遺像を末世に尊べば、すなわち禍を消し、福を蒙る。またこれを蔑れば、すなわち災を招き、寿命を縮めるであろう」と。
 大連物部の弓削・宿禰の守屋等は怒って「蘇我は勅宣に背いて、他国の神を礼拝している」と奏聞した。また疫病はいまだやまず、すでに人民は死に絶えてしまいそうな様相であった。弓削の守屋は、またこれをざん奏した。そこで「蘇我の馬子は仏法を興行礼拝している。この仏法をよろしく退けるべきである」との勅宣が下った。
 そこで守屋及び中臣の勝海らの両臣は、寺に向かい、堂塔を切りたおし、仏像を焼きこわし、寺には火を放ち、僧尼のけさをはいで、笞をもって責めた。
 この結果、また天皇ならびに物部の守屋、蘇我の馬子らは疫病にかかった。その時の言葉にいわく「身を焼かれるようである。身を切られるようである」と。また、皮膚病がおこった。疱瘡という。馬子は嘆いて「やはり三宝を信奉しましょう」と奏上した。勅宣は「汝一人でうやまえ、ただし、他人のうやまうことは禁ずる」と下った。馬子は大いに悦んで、精舎を造って三宝をうやまったのである。
-----―
18   天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり                     ・
-----―
 敏達天皇は、ついに八月十五日に崩御だれた。この年、聖徳太子は十四歳であった。

内裏
 天皇の住む宮殿。御所。皇居。
―――
天火
 ①落雷によって起こる火災。雷火。また、自然に起こる火災。②日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている。
―――
敏達天皇
 (0538~0585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。
―――
弓削の守屋
 (~0587)。物部守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
―――
蘇我の馬子
 (~0626)古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷 の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 物部守屋と朝政をとった。崇仏の可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子,諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し,朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池に小島があったことから島大臣 ともいわれた。
―――
聖徳太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
用明
 (~0587)。用明天皇。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
―――
中臣の臣・勝海
 (~0587)。中臣の勝海。敏達天皇十四年、物部の守屋と共に崇仏派を攻撃し、疫病の原因が仏教崇拝にあると天皇に進言し仏教排斥の勅を得た。その後、用明天皇から崇仏の詔が出ると彦人、竹田両皇子の像を祀って仏像を呪ったといわれている。のちに舎人迹見赤檮に殺される。
―――
瘡をこる。はうそうといふ
 瘡とは、できもの、はれもののこと。疱瘡は皮膚伝染病の一種で、痘瘡が正称。天然痘のこと。このときの疫病について日本書紀に「瘡を発して」と記されている。
―――
三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
精舎
 仏道修行者の住居で、一般に僧院、寺院ともいう。パーリ語のアーラーマȧrȧma、サンスクリット語のビハーラvihraの訳。道に精進する僧尼が住む堂舎という意味である。精舎の始まりは王舎城の竹林精舎であり、また須達長者が釈尊に寄進した舎衛城の祇園精舎とともに有名である。
―――――――――
 物部氏と蘇我氏の間で、仏教の受容の是非について行なわれた争いを記されている。この問題について、最も重要な役割を担う聖徳太子については、この段階では、まだ幼く、次の段ではじめて主役となる。
 この間のいきさつおよび、蘇我・物部・聖徳太子の三者の立場について、明確にしておかなければならないことがある。もちろん、これに欽明・敏達・用明の三帝が加わるが、これらの天皇は端的にいって定見がなく、事のなりゆきによって、どちらへも動く存在であったから、一応、ここでは考える必要はあるまい。
 そこで、先の三者についてみると、物部氏は排仏派、蘇我氏は崇仏派ということで、一応の立て分けができるのであるが、それは正しいかどうか。今日、客観的な歴史的分析によって明らかにされているように、この両者の争いは、決して仏教の受容問題が原因で起こったのではなく、もともと当時の政界を二分する敵対勢力であり、その権力闘争の一つの手段として、この仏教問題が絡められたにすぎない。
 したがって、蘇我氏の仏教崇重も、本当の意味での崇重ではなく、おそらく崇仏の側に立つことによって、文化的先進国であった朝鮮と結び、文化移入によって自己の優位を決定的なものにしようとしたのであろう。そうした蘇我氏の本質については大聖人も、本抄のなかで暗に示されている。その一つは、前章で、欽明天皇が尋ねたときに蘇我の稲目が「西蕃の諸国みな此れを礼す、とよあきやまとあに独り背かんや」と答えた、というのがそれである。外国がやっているから、受けいれるべきだというのは、いわゆる舶来尊重と付和雷同主義だけで、仏法の偉大さへの理解など微塵もなかったことを示している。
 さらに、大聖人は、仏教が受け入れられたあと、蘇我氏は傲りたかぶって自らの身を滅ぼしてしまったことを挙げられている。これも、蘇我氏は、自己の権威を増大するための手段として仏教を使ったという一つの裏づけといえる。このことが、この段にもある、蘇我氏が試みにと仏教の信仰を許されたのに、疫病がなぜ広まったか、そして、その結果、物部派の巻き返しで仏像は破壊され、蘇我氏も物部氏・天皇と同じく病気にかかったのはなぜかという疑問に答えてくれる。
 これらに対し、聖徳太子の立場は、はるかにぬきんでた思考に立っている。すなわち、すでに8歳のとき、「釈迦の仏法を尊べば幸せを得、これを蔑れば災を招く」との、仏法の偉大さへの深い覚知に立っていたのである。それは、自らの権力のためではなく、あくまで日本民衆の幸福と、民族の繁栄のために、仏法を尊重する立場であった。太子は仏教の興隆のために、一応、蘇我氏と組んだが、その目的と精神は、蘇我・物部両者のそれとは遥かに異っていたことをしらなければなるまい。

1166:18~1167:14 第四章 崇仏派の勝利を示すtop
18                             第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太
1167
01 子の父なり、 治二年丁未四月に天皇疫病あり、 皇勅して云く 「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随
02 う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国の法師是なり、 物部の守屋・大連等・大に瞋り横に睨んで云く天皇を
03 厭魅すと終に皇隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ、 太子と馬子と押
04 し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く
05 「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重
06 すべし」と云云、 弓削なのつて云く「此れは我が放つ矢にはあらず 我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢な
07 り」と、 此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る、 太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢な
08 り」とて迹見の赤梼と申す舎人に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ、 はだのかはかつをちあひて
09 頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。
-----―
 第三十二代用明天皇は治世が二年間である。欽明天皇の太子であり、聖徳太子の父である。治世二年丁未四月に、天皇は疫病にかかられた。
 皇はついに「三宝に帰依したい」と勅宣された。蘇我の大臣は、詔に随うべきであるとして、ついに法師を内裏に引き入れたのである。これが豊国の法師である。
 物部の守屋の大連らは、大いに怒って、反発をまし、「天皇をのろうであろう」と言った。ついに、天皇はおかくれになった。
 五月に物部の守屋の一族は、渋河の家にひきこもって、多勢の人を集めた。聖徳太子と馬子が押し寄せて、戦いとなった。五月、六月、七月の間に四回合戦が行なわれた。そのうち三度は、太子側が負けた。
 第四回目の合戦のとき、聖徳太子は「釈迦如来の御舎利の塔をたてて、四天王寺を建立しよう」との願をたてた。馬子も「百済より渡ってきたところの釈迦仏を、寺を建てて安置し崇重しよう」と願った。
 いよいよ合戦に入って、弓削の守屋は「これは私が放つ矢ではない。私の先祖から崇重している府都の大明神の放たれる矢である」と名のりをあげた。その矢は、はるかにとんで、太子の鎧にあたった。太子も名のり、「これは私が放つ矢ではない。四天王が放ちたもう矢である」と告げて、迹見の赤檮という舎人に射させらせると、矢ははるかに飛んで守屋の胸にあたった。そこで秦の川勝が馳せつけて頸をとった。
 この合戦は、用明天皇が崩御されたあと、崇峻天皇が未だ位につかれない、その間のことである。
-----―
10   第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興寺と申す
11 寺を建立して 百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、 今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来と
12 いう誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部の一族むなしく・なりしなり又太子・教
13 主釈尊の像・ 一体つくらせ給いて 元興寺に居せしむ今の橘寺の御本尊これなり、 此れこそ日本国に釈迦仏つく
14 りしはじめなれ。
-----―
 第三十三代崇峻天皇が位につかれると、聖徳太子は四天王寺を建立した。これは釈迦如来の御舎利を安置したのである。馬子は元興寺という寺を建立して百済国から渡ってきた教主釈尊を尊重したのである。ところが、今の代で世間に第一に不思議なことは善光寺の本尊が阿弥陀如来であるということであり、これは世間をたぶらかすものである。
 また、釈迦仏に仇をなした故に、三代の天皇並びに物部一族は滅んだのである。また太子は教主釈尊の像を一体造られて元興寺に安置させた。今の橘寺の本尊がこれである。これこそ日本国で釈迦仏を造ったはじめである。

豊国の法師
 百済の国から帰化した僧。生没年不詳。豊前、豊後の地方(大分県及び福岡県の一部)に仏教を弘めたので、豊国法師の名がある。後に聖徳太子が摂津国(大阪府)駒ケ嶽に中山寺を開いて、豊国法師を請じた。
―――
厭魅
 まじないで、のろい殺すこと。
―――
渋河の家
 大阪府東大阪市渋川のあたりにあった物部守屋の居館。この地で崇仏派の聖徳太子と廃仏派の物部守屋が戦っている。
―――
四天王寺
 天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
―――
府都の大明神
 物部氏の氏神で、奈良県天理市布留町にある石上神宮の祭神・布都御魂大神のこと。神体は、神武天皇が物部氏の祖である饒速日命の子・宇摩志麻遅命に与えた神剣であると伝えられる。
―――
迹見の赤檮
 聖徳太子の勇猛な従臣。生没年不詳。舎人とは天皇や皇族に近侍し雑事等に従った官人。蘇我の馬子の下にいた官人でもあった。用明天皇二年、崇仏論争の後、物部の守屋と同じく排仏派の中心人物であった中臣の勝海を殺し、さらに馬子に従って物部の守屋をも討滅している。
―――
はだのかはかつ
 秦河勝。生没年不詳。山城(京都府)の葛野の秦氏の出身である。推古朝から大化のころにかけて朝廷に仕えたらしく、聖徳太子の信任を得た。太子没後、太子を偲んで山城国葛野郡太秦の蜂岡(京都市右京区太秦)に蜂岡寺を建立した。
―――
崇峻
 (~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
―――
御舎利
 舎利は梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
―――
元興寺
 奈良市にある華厳宗の寺院。飛鳥寺のこと。南都七大寺のひとつ。曽我馬子の発願によって飛鳥の地に建立された。
―――
善光寺
 長野市にある。宗旨は天台宗、浄土宗に両属す。善光寺縁起には欽明天皇の時、百済の聖明王より朝廷に献上された阿弥陀一光三尊が物部氏などによって何度か捨てられたり、また安置されたりしたが、0560年ごろ信濃国の本田善光によって長野の地に移されたと記されている。だが、欽明天皇の13年に聖明王から献上された像は、阿弥陀如来ではなく釈迦像であったのに、阿弥陀仏と名を変えて世間を惑わしているので、大聖人はこれを破折されているのである。
―――
橘寺
 奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
―――――――――
 これまで天皇は、崇仏とも拝仏ともどちらともつかず、蘇我・物部両氏の抗争のなかでどちらへでも動く存在であった。というよりせいぜい許しても、蘇我氏が単独で仏法を信仰するのは認めるという程度であったから、むしろ排仏的であった。しかるに用明天皇が自身の病のために仏法を自ら受け入れ、さらにその後、聖徳太子が長じて力をもつに及んで、朝廷の主流は崇仏に傾いたのである。
 すでに述べたように、聖徳太子の仏教への信仰に立った崇仏と、蘇我氏の政治主義に立った崇仏とは、はるかにその基盤を異にするものであった。だが、排仏派の物部氏と対抗するため、太子は蘇我氏と組み、この結果によって、遂に崇仏派が勝利を収めることができたのである。
 このことからも、いわゆる排仏派が、あなどりがたい勢力をもっていたことがうかがわれる。おそらく、皇族のなかにも、古くからの有力な貴族や豪族たちも、まだ仏教というものがどのような教えかは知る由もなかったし、古来の神々への信仰は根強いものがあったに違いない。そして、古来の神への畏れから、外来の新しい宗教を受け入れることには、心中、激しい抵抗があったことは、容易に想像されるところである。
 ところで、このような仏教の受容に関してはっきりしておかなければならないことは、仏教を受容したからといって、決して古来の神を祀ることが廃止されたのではない、という点である。仏教自体、そのような排他的な教えではなかったし、古来の神々をその体系のなかに包摂する裕りをもっていた。ちょうど、インドの場合、梵天・帝釈等の民族神が仏教の守護神と位置づけられたように、日本の天神・地祇も、守護神として受け入れられ、神を尊崇する素朴な心情は、仏教を信仰した場合にも、そのまま継承されていったのである。
 また、天皇自ら、仏教を信仰したということ、さらにさかのぼって、仏教の受容問題について決断を迫られたということは、当時、天皇が決して自ら神格化された存在ではなかったことを示している。天皇自身の神格化はむしろ後世になってからのことで、もし当時天皇が現人神であったとすれば、天皇が外来の宗教を信ずるか否かなどということは、問題にもなりえなかったであろう。当時の天皇は、もっともっと人間的な存在であったといえるのではないだろうか。

1167:15~1168:05 第五章 漢土への仏法渡来top
15   漢土には後漢の第二の明帝.永平七年に金神の夢を見て博士蔡イン.王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋
16 ねさせ給いしかば・ 中天竺の聖人摩騰迦・ 竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重あり
17 しかば、漢土にて本より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人此の事をそねみて・うつたへしかば、 同永平十
18 四年正月十五日に召し合せられしかば 漢土の道士悦びをなして唐土の神・百霊を本尊としてありき、 二人の聖人
1168
01 は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙み給う、 道士は本より王の前にして習いたりし仙経・三墳・
02 五典・二聖・三王の書を薪に・つみこめて・やきしかば古はやけざりしが・はいとなりぬ、先には水にうかびしが水
03 に沈みぬ、鬼神を呼しも来らず、あまりのはづかしさにチョ善信・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ、
04 二人の聖人の説法ありしかば 舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし、 画像の釈迦仏は眉間より光を放ち
05 給う、 呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す、 三十日が間に十寺立ちぬ、
-----―
 漢土では後漢の第二の明帝が、永平七年に金神の夢を見て、博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏に派遣して、仏法を求めさせたところ、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭という二人の聖人を同じく永平十年丁卯の歳に迎えることができて崇重したのである。
 すると、漢土で昔から皇室の祭祀をしていた儒家、道家の人人数千人が、この事を嫉んで訴えたので、同永平十四年正月十五日に、双方を召し合わせて、勝劣を決することとなった。
 漢土の道士は喜んで、唐土の神、百霊を本尊とし、一方、摩謄迦・竺法蘭の二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊となし、その力を頼りとした。
 漢土の道士は、昔から王の前で行なってきた習わしどおり、仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪と一緒に積んで焼いたところ、仏法渡来以前は焼けなかった書が、この度はことごとく灰となってしまった。また以前には水に浮かんだものが、今は水に沈んでしまった。鬼神を呼んでも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに褚善信・費叔などという道士は思い悩んで死んでしまった。
 一方、仏教の二人の聖人が説法をすると、仏舎利は天に登って光を放って、日の光すらみえないありさまであった。そして画像の釈迦仏は眉間から光を放たれたのである。
 呂慧通等の六百余人の道士は、その場で仏法に帰伏して出家し、三十日の間に十箇寺が建立された。

後漢の第二の明帝
 (0028~0085)後漢第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外征に力を尽くし、班超を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。仏祖統記には明帝7年(0064)に、帝が丈六の金人が庭の上を飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡?、秦景、博士の王遵ら18人を西域に遣わし、それを求めさせたとある。また、金湯編には、これらの18人が天竺の隣の月氏国に行ったとき、摩謄と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の経典60万言を得、それを白馬にのせて、摩謄と竺法蘭も連れて洛陽に帰った。帝はおおいに喜び、摩謄をまず鴻臚寺に迎え、ついで洛陽の西に白馬寺を建てたという。
―――
博士蔡愔
 博士は学識博通人をいう。  明帝のとき、郎中に任ぜられ、秦景らとともに仏法を求めて西域におもむいた。天竺にいたって摂摩騰・竺法蘭のふたりの高僧に出会い、同道して帰国した。このとき、仏教がはじめて中国に入ったともいう。
―――
王遵
 新代から後漢初期にかけての政治家、武将。字は子春。司隷京兆尹覇陵県の人。父は上郡太守で、諱は不詳。
―――
摩騰迦
 迦葉摩騰、摂摩騰ともいう。中天竺の人で、よく大・小乗経を解した。西インドにいったころ、一小国王のために金光明経を講じて敵国の侵害を防ぎ、大いに名をあらわしたといわれている。後漢の明帝の請をうけ、竺法蘭と共に中国に入ってからは四十二章経などの翻訳をし、また、洛陽に特に建立された白馬寺で中国仏教開宣の端をひらいた。
―――
竺法蘭
 中天竺の僧で後漢の明帝の請をうけ、竺謄迦と共に中国に入って仏法を伝えた。
―――
儒家
 儒者・儒者の家。
―――
道家
 老子,荘子を代表とする諸子百家の一つ。『漢書』芸文志には道家者流 37家を載せる。儒家や墨家における人為性を排し,宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の清浄な行いを重視する思想。老子は,これを小国寡民的原始社会への復帰という形で,一種の政治的提言として主張したが,荘子においては,それは現実の相対世界を超越した絶対自由の境地として,きわめて個人主義的かつ逃避的な性格をもつものとなっている。漢の初期には,秦の苛政の反動からこの思想は一時非常に尊ばれた。のち,道家思想は神仙の術と結びついて道教を成立させ,また六朝以後は,知識人の観念的逃避の理論 (慰めの哲学) としても強い影響力をもった。
―――
道士
 ①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
―――
五部の経
 十地断結・仏本生・法海蔵・仏本行・四十二章のこと。
―――
仙経
 道教の経典のこと。
―――
三墳
 孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、三皇の書をまとめたもの。
―――
五典
 孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、五帝の書をまとめたもの。
―――
二聖
 五帝の中で、とくに堯・舜の二帝をさして二聖といっている。
―――
三王
 中国古代、夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王をいう。異説には周王を武王ととるものがある。三王とも善政を施したことで特に尊敬を集めた。
―――
褚善信・費叔才
 いずれも詳細不明
―――
呂慧通
 後漢時代の道士。仏教と道教の対決の際の代表であったが、仏教に信伏し、600余人の道士を引き連れて出家得度し、わずか1ヵ月の間に10寺を建立し仏教の布教を行ったといわれている。
―――――――――
 本章では、漢土すなわち中国に仏教が渡来した由来及び、どのようにして儒教道教の国である中国の中に仏法が広まっていったかについて述べられている。
 そこで、中国への仏教伝来について少し述べておく。
中国への仏教伝来について
 中国に仏教が伝えられた年代については、文献によっていくつかの説がある。
 古くは、周代すなわち西周の5代穆王(前1000年頃)、すでに仏教が伝えられ、王が寺を建立して仏像を造ったというのがある。また東周の26年(前0745)に、阿育大王が仏塔建立を行なった時、中国にも仏塔を造立したという説もある。
 次に、秦の始皇帝の4年(前0243)に、西域の沙門が仏教を伝えたとの説、前漢の武帝が元狩2年(前0121)に匈奴を討ったが、匈奴の王が祭っていた金人すなわち仏像を武帝に奉ったところ、武帝が朝夕礼拝した。これが仏教の伝来であるとの説もある。この武帝より約40年後の成帝の時、宮廷から仏経典がみつかったとの説もある。さらに、哀帝の元寿元年(前0002)に大月氏王の使者より、経典を口授されたという説もある。
 本抄に述べられているのは、永平10年(0067)明帝が金人の夢をみて、蔡愔ら18人を西域に派遣し、迦葉摩騰、竺法蘭の二僧とともに、経典をもって帰ったところ、明帝は大いに喜んで、洛陽に白馬寺を建立して二僧を住わせ、経典の訳出をさせたという説である。
 これら数百年のへだたりをもった種々の伝来説に対して、その文献の真実性、時代背景からの考察が、古くからなされてきたが、今日では前漢の哀帝元寿元年の説が、かなり有力な裏付けのある説とされている。
 ところで、どうしてこのように、数百年にも渡る仏教伝来の説があるかというと次の二つの理由が考えられる。
 東洋に生れた古代文化を代表するのはインド文化と中国文化である。この二つの文化は、地理的にほとんど人類の生活を拒否し、また古代人に交通の道をあたえなかった巨大な山脈や高原、また砂漠や海洋によって遮断されていたので、久しく交流がなく孤立状態にあったとえる。
 だが、そうした段階においても、東西文化のきわめて細い交流は、おそらくは両方の為政者の知らないところで、かなり古くから行なわれていたことが認められている。
 インドの仏教は紀元前3世紀にマウリヤ王朝の阿育大王が出現し、その仏教外護によって、ほとんど全インドにわたって人々の帰依するところとなったばかりでなく、西北インドから国境を越えギリシア植民地国家にまで伝播していった。
 こうして西域諸国が仏教の中心として栄えた頃、西紀前2世紀末になって、長い間の内乱がおさまった中国が急速に対外拡張を行なうようになり、ここに中央アジア横断の東西交通路が花やかに歴史の舞台に登場したのである。すなわち、前漢の武帝が匈奴を討つために、はるか西方の月氏と結ぼうとして使者を派遣した。この張騫の遠征を皮切りに以後、中国と西域の間に政治上、貿易上の交渉が頻繁となり、東西文化交流の歴史が始まったのである。
 したがって仏教は、この東西交流開幕の当初からこうしたルートを通して、次第に中国に浸透していったと考えられる。否、武帝が匈奴を挟撃にするために西方の月氏国と結ぼうとしたことは、そもそも以前から月氏の存在が知られていた故であり、なんらかの交渉がそこにあり、仏教が伝えられていた可能性もないとはいえない。そのような東西文化の媒介役は、貿易商人いわゆる隊商であったろうが、中国には、このような隊商による仏教伝播に関する記録は全く残っていない。年次を決定することの困難さはここにあるといえよう。以上が第一の理由である。
 二つ目の理由は、中国に伝わった仏教と、中国に古くからあった、土着信仰ともいうべき道教との抗争が史料の混乱を招いたことがあげられる。両者の勢力が強大になるにつれて、その優劣論争が展開され、仏教側は伝来の古いことをもって優位に立とうとして、流入の時を漢代からさかのぼって秦代に、さらにはもっと古く周代にまで求める説が出現したのである。
 ところで、これらの諸説の信憑性についていうと、周代の説については、全く証明されるものがないから、今日では、ほとんど認められていない。次に秦の始皇帝四年の西域沙門の伝来説については、その出拠が「朱子行経録」などという、存在したかどうかさえ疑問とされている書物なので、事実の確定ができない。
 また、前漢の武帝の金人礼拝説も、匈奴の王が祭っていた金人を武帝に奉ったという史実はまちがいないが、その金人が仏像といえる根拠はなく、匈奴における一つの民俗神であろうともいわれている。
 また、成帝の時、宮廷から仏典がみつかったという説も、あまり信じられない。
 次に、従来一般常識化した定説となっていたのが、本抄にもある永平10年(0067)伝来説である。
 この説は、近年諸学者の研究によって、史実を伝えるものではなく、仏教伝来の説話にすぎないと考えられるようになった。たとえば、現存する迦葉摩騰・竺法蘭共訳の四十二章経についても、訳者、その年代など異論が多く、東晋以後の抄出であろうという説や、あるいは初期の外国宣教師によって説かれた仏教の要鋼や仏伝などが、仏教に関心をよせていた中国人によって筆録されたものが、四十二章経の原型であろうという説もある。あるいは迦葉摩騰や竺法蘭という二沙門についての存在や年代についても諸説があり、白馬寺宣伝のための縁起説だろうという学者もある。ともかく、明帝の漢朝と西域諸国との公の親和交流が当時断絶していた史実からみても、この明帝感夢求法説が史実でないことだけは、明確となっている。
 だが、仏教が中国として初めて盛んになった東晋時代(0318~0385)には、すでに南北の仏教界では明帝の求法説は仏教初伝の史実として公に認めるところとなっていたし、その後、南北朝時代(0386~0580)には、仏教初伝の史実として広く全てに容認されていたのである。
 こうした説話の誕生したことから考えてみて、明帝の時代には、すでに西域からの渡来僧もあったのではないか、そして、これより早く、すでに仏教はかなり古代中国社会に広がっていたのではないかということが考えられる。このことは、前漢の哀帝の元寿元年(前0002)説が現在学会でも最も妥当な説とされていることと関連している。
 この説は「魏略」の一文に、前漢の末哀帝の元寿元年に博士弟子景盧が大月氏王の使者伊存から、浮屠経を口授されたということが記録されていることである。「魏略」というのは、陳寿の「三国志」中の「魏志」西戎伝の中にあるもので、魏人魚豢の記録になるものである。史料としての信憑性も高く、仏教伝来に関する最も古い資料として、高い評価を有している。
 以上のごとく、中国仏教の伝来は、今日では紀元前二年の前漢の哀帝の時に始まるとされているが、これはあくまでも文献の上のことであって、この時をもって、仏教が初めて伝来されたというのではない。
 文化の伝来については、画然と年次やルートを定めて論ずることはむずかしい。あくまで自然のうちにもたらされるのであって、文献上に現われた時は、かなり時日を経た場合が多いといえよう。
 なお大聖人が明帝の求法説を採用されたのは、当時の漢土の仏教伝来説として、最有力な定説であったがゆえである。

1168:05~1158:18 第六章 仏法は賞罰正しいことを説くtop
05                                       されば釈迦仏は賞罰ただしき仏
06 なり、上に挙ぐる三代の帝・並に二人の臣下・釈迦如来の敵とならせ給いて今生は空く後生は悪道に堕ちぬ。
-----―
 このように、釈迦仏は賞罰が正しい仏である。前にあげた三代の天皇と二人の臣下は、釈迦如来の敵となったので、今生には命を捨て、後生には悪道に堕ちたのである。
-----―
07   今の代も又これに.かはるべからず、漢土の道士・信費等.日本の守屋等は漢土・日本の大小の神祇を信用して教
08 主釈尊の御敵となりしかば 神は仏に随い奉り行者は皆ほろびぬ、 今の代も此くの如く上に挙ぐる所の百済国の仏
09 は教主釈尊なり、 名を阿弥陀仏と云つて日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり、 神と仏と仏と仏との差別
10 こそあれども釈尊をすつる心はただ一なり、 されば今の代の滅せん事又疑いなかるべし、 是は未だ申さざる法門
11 なり秘す可し秘す可し、 又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、
12 其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰と馬子との父子二人の故ぞかし、 釈迦如来の出世の時の梵王・ 帝釈の
13 如くにてこそあらまじなれども、 物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり 国をも知行し一門も繁昌
14 せし故に高挙をなして崇峻天皇を失いたてまつり 王子を多く殺し 結句は太子の御子二十三人を馬子がまご入鹿の
15 臣下失ひまいらせし故に、 皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の
16 臣並に父等の一族一時に滅びぬ。
-----―
 現代にあってもこれと変るところがない。漢土の道士・褚善信、費叔才等、また日本の守屋等は、それぞれ漢土・日本の大小の神祇を信じ用いて、教主釈尊の御敵となったので、神は仏に随って、そのため行者は皆亡んだのである。
 今の時代も、それと同様である。前にあげた、百済国伝来の仏は教主釈尊である。しかるにその名を阿弥陀仏だといって、日本国をたぼらかし、釈尊を他仏にすりかえたのである。
 かつて仏法渡来の時は神と釈迦仏、今の鎌倉時代は阿弥陀仏と釈迦仏と、そのちがいこそあっても、釈尊を捨てる心は同じである。それゆえ、今の代が滅びることもまた疑いないのである。
 これは今までに申したことのない大事な法門である。深く秘していくべきである。
 また別しては、吾が一門の中の人であっても、信心がうすく、日蓮の申したことに背いたならば、蘇我一門のようになるであろう。
 その理由は、仏法が日本に受け入れられたのは、蘇我の宿禰と馬子との父子二人がいたからであった。仏法を守護したのであるから、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈のような立場となるはずであった。だが、蘇我氏は、物部の尾輿や、その子の守屋を滅ぼしてしまったために、大きな勢力をもった朝臣はただ蘇我一門だけになり、位も上がり、国をも知行し、一門も繁盛したため、おごりたかぶった心を起こして、ついには崇峻天皇を殺し、王子を多く殺し、結局は、聖徳太子の御子二十三人を、馬子の孫にあたる入鹿の臣下が殺してしまったのである。
 そこで皇極天皇は中臣の鎌子の計いで、教主釈尊を造って、逆臣の亡びることを強盛に祈って討伐したので、入鹿の臣ならびに、その父等の一族は一時に皆滅びてしまったのである。
-----―
17   此をもつて御推察あるべし、 又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、
18 日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、 
-----―
 この蘇我氏の興亡の例を以って推察しなさい。
 また我が一門のなかでも、信仰が浅薄で信心を貫き通せない人々は、かえって仏の罰を蒙るのである。その時になって日蓮をうらむことがあってはならない。少輔房・能登房、門下で退転した人々の姿を御覧なさい。

信・費
 褚善信と費叔才のこと。
―――
高拳
 おごりたかぶること。
―――
入鹿
 (~0645)。蘇我の入鹿のこと。蘇我の蝦夷の子で生年不明。帰朝した僧旻について学び、皇極天皇のときに、父に代わって政治を執ったが、その暴虐ぶりは、父の蝦夷すら慨嘆するほどであった。皇極天皇の2年(0643)、かねてから入鹿の専横ぶりをこころよく思っていなかった山背大兄皇子を斑鳩宮に襲い、自殺させた。皇極天皇の4年(0645)6月、ひそかに打倒入鹿の計画をめぐらしていた中大兄皇子、中臣鎌子らによって、大極殿で朝鮮からの貢ぎ物を奉る儀式の最中に斬り殺された。父蝦夷も自宅で自殺し、ここに蘇我氏は滅亡した。
―――
皇極天皇
 (0594~0661)。第35代天皇。女帝。在位0642~0645。敏達天皇の孫の茅渟王の王女で、舒明天皇の皇后。天智・天武両天皇の母。舒明天皇の死後、即位。皇居は小墾田宮。のち、飛鳥板蓋宮に移した。大化元年(0645)弟の孝徳天皇に譲位し、その没後、重祚して斉明天皇となった。
―――
中臣の鎌子
 のちの藤原鎌足(0614~0669)のこと。内大臣、大織冠となる。法興寺の蹴鞠会で舒明天皇の皇子中大兄皇子と君臣水魚の誓いをし、蘇我氏を、皇極天皇の4年(0645)6月、三韓上表のときに宮中の大極殿において葬る。そののち、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇の三代に仕え、国政を担当し、大化改新を推進した。また大津京の遷都、近江令の制定等の重責を果たし、律令体制の基盤を築くなど国政を刷新した。また藤原朝臣の姓を賜わり、平安時代に栄華を極めた藤原氏の祖でもある。
―――
少輔房
 はじめ日蓮大聖人に帰依しながら退転した僧。平左衛門尉頼綱に仕え、大聖人を鎌倉・松葉ヶ谷の草庵に襲い、法華経第五の巻で大聖人の頭を打った僧でもある。「聖人御難事」、「弁殿御消息」、「法門申さるべき様の事」、「上野殿御返事」等にも退転した少輔房のことが書かれてある。
―――
能登房
 文応元年(1260)7月、松葉ヶ谷の法難においては「御弟子能登公並に檀那進士太郎疵を蒙る云々」と日蓮聖人年譜にあるように、傷を負いつ、大聖人を守護しようとした。しかし、後に退転し大聖人にも敵対するようになった。「弁殿御消息」(1225)に「のと房はげんに身かたで候しが・世間のをそろしさと申し・よくと申し・日蓮をすつるのみならず・かたきとなり候ぬ、せう房もかくの如し」とある。
―――――――――
 中国と日本との、仏教伝来の時にみられた仏法と王法および土着信仰との抗争の例から、仏法に敵対した人々が必ず身を滅ぼしてゆくことを教えられている。
 仏法は生命自体の法を説き明かしたものである故に、社会体制の法にすぎない王法や土俗信仰よりもはるかに力があり、しかも、これから免れることはできないのである。
釈迦仏は賞罰ただしき仏なり
 冒頭の「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」との文に矛盾するようであるが、勝負の結果としてあらわれるのは、この現実の人生・社会においてであり、仏は精神の世界からの指導者であり王であるとの立場から、賞罰という概念を釈尊に付されたのであろう。
 この賞罰が正しいということは、賞を受けるにふさわしい人が賞せられ、罰をこうむるにふさわしい人が罰せられるということである。それは、王法におけるような、手本とか見せしめとしての賞罰ではなく、人々がその精神と行動の結果として、もらさず受けていくものなのである。したがって、ここで「釈迦仏」とあるのは、一応、〝人〟としての仏の名をあげられているが、〝法〟の力を讃えているのである。
又吾が一門の人人の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし
 蘇我氏は、崇仏派の中心として、一貫して仏教を支持し、わが国における仏教の受容に大きい役割を果たした氏族である。しかしながら、その本質は、すでに述べたように、信心ではなく、己れの権勢以外のなにものでもなかった。仏教の〝一門〟でありながら、信心はうすく、しかも、仏教の精神とかけはなれた、増上慢を示していったのである。すなわち、崇峻天皇とその王子たち、聖徳太子の子たちを殺したのが、この思いあがりのあらわれである。
 おそらく蘇我氏の心中には、物部氏という長年の対抗者を滅ぼして権力を一手におさめたうえ、仏教に対しても、自分が日本への伝来と興隆を可能にしてやったのだという自負があったに違いない。この仏教に対する傲慢が恐れを知らぬ権勢欲となり、天皇、皇族であっても意に従わない者は殺すという暴虐となってあらわれたのであろう。根本は、仏教に対する慢心が禍いの因であったことを知らなければならない。
 社会的立場や名声がどうであろうと、仏教のためになした功績がいかほどであろうと、宇宙大の仏法からみれば、一国における興隆や、ひいては地球における弘教すら、芥子粒のようなものであって、仏法に対して自己の優越を主張できるような人間は、ありえないというべきであろう。
又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は、かへりて失あるべし云云 
 これは先の蘇我氏の例と別種で、先の例が形だけは一門でありながら信心うすく大聖人に背いた人であるのに対し、これは一旦は信じながら退転した人のことである。
 信心において大切なことは、生涯、最後まで貫き通すことである。ある時期まで信じ、それなりに功を積んだとしても、退転してしまったならば「かへりて失あるべし」となるのである。「かへりて」とは、最初から信じないで敵対した物部氏のような例より、また形だけ仏教のもとにありながら信心のない蘇我氏のような例よりも、さらに深い、恐るべき苦しみを受けていくということである。

1168:18~1169:07 第七章 仏法は道理が必ず勝つことを示すtop
18                             かまへて・かまへて此の間はよの事なりとも御起請か
1169
01 かせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめる・水はのろき様なれども左右なく失いがたし、
02 御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・ 人にすかされなん、 又主のうらうらと言和かにすかさせ給うな
03 らば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、 きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくとけ候、冰を
04 ゆに入るがごとし、 剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、 まへにかう申すはきたうなる
05 べし、 仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いとをし・はなれじと思うめなれども死しぬれ
06 ば・かひなし.いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し.すこしも惜む事な
07 かれ、
-----―
 充分に用心して、当分、たとえ他の事であっても、御起請を書くようなことがあってはならない。
 火の勢いは、ものすごいようであっても、しばらくすれば消える。水はのろいようであっても、その流れは簡単にはなくならない。あなたは短気であるから、火の燃えるようなところがある。必ず人に足をすくわれるであろう。また、主君がのどかに、言葉やわらかにいいくるめようとするならば、火に水をかけたように、主君に説き伏せられてしまうだろうと思われる。
 鍛えていない鉄は、燃えさかる火の中に入れればすぐにとけてしまう。氷を湯の中に入れるようなものである。剣などは大火に入れても、しばらくはとけない。これは鍛えられているからである。
 あなたに事前に、こう申すのは、あなたを鍛えるためである。仏法というのは道理をもととするものである。道理というものは主君のもつ権力にも必ず勝つのである。いかに愛おしい、離れまいと思う妻であっても、死んでしまえばどうしようもない。また、いかに所領を惜しいと思っても、死ねば他人のものとなってしまう。
 あなたは所領をいただき、すでに栄えて年久しいことである。少しも所領など惜しむ心があってはならない。

御起請
 今でいう誓約書。この場合、頼基は主君江馬氏から怒りをかい信仰を捨てる旨の起請文を書くようにいわれていた。
―――
腹あしき
 怒りっぽい、短気であるとの意。
―――――――――
 これまで、仏教の中国と日本への伝来の歴史を通して、仏教が必ず王法に勝つことを示されたのであるが、この段では、四条金吾自身の性格を踏まえて、いま金吾が直面している問題にどのような態度で臨むべきかを教えられている。
 「御辺は腹あしき人なれば」といわれているように、四条金吾は直情径行で、思ったことをすぐに出す性格だったようである。そのため人に足元をすくわれる恐れが多分にあったのであろう。また「主のうらうらと云々」とあるように、情にもろく、柔らかく出られると簡単に同情してしまうところがあったに違いない。
 この点が大聖人としてもっとも心配しておられたようで、これをまとめて、火と水の譬えをもって、どちらかというと火のように熱しやすくさめやすい金吾に対し、懇切に指導されている。苦境にあって必死の戦いをしている同志に対し、たんなる仏法の原理からの一方的指導にとどまるものでなく、相手の心の隅まで知り尽くし、相手の身になって共に考え、共に進んでおられる大聖人の姿勢が如実にうかがわれる一段である。
きたはぬかねは、さかんなる火に入るればとくとけ候……まへにかう申すはきたうなるべし
 真実に鍛えられた人は、いざ苦難にあったときに、その強さを発揮する。鍛えられていない人は、苦難にあって敗れていくのである。では「きたえる」とは何か。もちろん総体的な観点からいえば、肉体が、強健であることも大事である。しかし、それは補助的な条件であって、主体は精神の強健さである。
 精神の強健さとは、自立の精神である。なぜなら、この四条金吾の場合もそうであるように、信仰を貫くか否かの試練に立たされたとき、頼りとするのは自己以外にない。他人ができることは励ましだけなのである。社会の中にあってもそうであるように、より根本的に、人生にあってもまた然りである。この、自主自立のうえで、自己の信念を曲げず貫いていくこと――これが人生の試練といってよい。したがって、「鍛える」とは、まず何よりも、他人に頼る心を捨て、自己の主体性、責任性に立って、いかなる苦難ものりこえる強い意志と信念を養い育てることである。
 また、自己の弱さ、特質をよく知り、起こりうる事態をあらかじめ知り、その時になっていかにすべきかを、心の中に準備しておくことも勝利のための不可欠の要因であろう。大聖人が、ここに四条金吾の性格等を指摘し、そのうえで、対処の仕方を指摘されているのは、まさに、この意味での「鍛える」ためなのである。
仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり
 道理とは、人間としての道理、人間の正しい生き方ということである。仏法は、この人間としての道理を教え、また、その道理を裏づける生命の哲理を究めたものである。したがって、人間としての道理をはずれた考え方は仏法にかなっているとはいえないことを知らなければならない。
 古来、宗教の堕落をもたらしたのは、宗教の権威をカサに着た指導者の、道理を無視した横暴であったといって過言ではない。自己に特別の宗教的権威が付与されていると錯覚し、自己の欲望や気まぐれ、ときには妄想をさえ押し通すことが許されていると思い込んで、他の人々を抑圧し、踏みにじり、犠牲に供していく。
 他人の人間としての尊厳に対する蹂躙は、非道の典型といえる。そうした非道が、宗教の場合、その神秘主義のヴェールに守られて堂々とまかり通ってきたのである。それが、あらゆる宗教改革をよびおこした原因であり、広くいえば、民衆の心が宗教から離反してきた根本要因であった。仏法は、どこまでも道理を重んじ、非道を排するのである。
 また、主というのは〝権力〟である。権力は、人間を支配し、人間を手段化するメカニズムを、それ自体の本性として持っている。その権力がいかに強大であろうと、人間の道理を無視した場合には、所詮、道理の前に敗れ去らずにはいない。なぜなら、権力といい政治といっても、人間を母体とし、人間の生命の発動の一分野にすぎないからである。
いかにいとをし、はなれじと思うめなれども、死しぬればかひなし
 妻に対する愛着、所領つまり財産に対する執着も、信心を貫くかどうかという瀬戸際に立ったときには、毅然としてのりこえていきなさいとの厳しい御文である。
 これらは、いずれも今世限りのものであり、死後には何の益もない。死に直面するときは己れ一人であり、ただ自身の内に秘めた信念だけが勇気と力の支えである。
 ただし、仏法を社会に、この人生に実証するうえにおいては、幸福な家庭生活いわゆる一家和楽の建設と、物質的な裏づけを無視できるものではない。自身が信心を貫くかどうかという場合と、仏法の功力を社会に実証するかどうかという場合とでは、おのずから異なるのであり、一人の社会人として仏法を生活の上に実証しなければならないときに、家族も財産も顧みないということは、信仰を観念化し、幻の世界に遊んでいるようなものであることを知るべきであろう。

1169:07~1169:18 第八章 身の用心を勧めるtop
07    又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。               ・
-----―
 また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。
-----―
08   日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦
09 仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。穴賢・穴賢あらかるべからず・吾が家に・あら
10 ずんば人に寄合事なかれ、 又夜廻の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られた
11 る人人なり、常はむつばせ給うべし、 又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少
12 の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞ばやと仰せ候はんに悦んで見え給うべからず、 いかんが候
13 はんずらん、御弟子共に申してこそ見候はめと・やわやわとあるべし・いかにも・うれしさに・いろに顕われなんと
14 覚え聞かんと思う心だにも付かせ給うならば火をつけて・もすがごとく天より雨の下るがごとく万事をすてられ
15 んずるなり。
-----―
 また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。
 日蓮は若い時から、今生の栄えを祈ったことはない。ただ仏になろうと思い願うだけである。しかしながらあなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである。
 決して争いごとをしてはならない。わが家でなければ、人と寄り合ってはならない。また夜廻りの同志の人達は一人も頼りがいがあるとはいえないが、法華経のために屋敷を取られた人々であるから、平常は親しくしていきなさい。夜の用心のためにもなり、また殿の守りにもなろう。わが味方の人々には少々の過ちがあっても、見ず聞かずのふりをしていきなさい。
 また、主君等より法門などを聞きたいとの仰せがあっても、軽率に悦んで出ていくようなことがあってはならない。「さあ、どうでありましょうか。日蓮大聖人の御弟子達に聞いてみましょう」と、ものやわらかにして、答えていなさい。いかにも、うれしそうな様子を顔色に顕し、法門を聞こうとの主君の心に乗ぜられたならば、火をつけて燃すように、天から雨が下るように、いままでの努力の全てを無にすることになろう。
-----―
16   又今度いかなる便も出来せば・したため候し陳状を上げらるべし、大事の文なれば・ひとさはぎは・かならずあ
17 るべし、穴賢穴賢。
18       四条金吾殿                  日蓮花押
-----―
 また今度、なにかの便宜がおきたならば、先ごろしたためて差し上げた陳状を、主君に奏上しなさい。大事なことをしたためた文であるから、一騒ぎは必ずおこるでしょう。穴賢穴賢。
                  日 蓮  花 押
   四条金吾殿

穴賢穴賢。あらかるべからず
 穴賢の本来の意は「おそれおおい」の義であるが、この場合は、「くれぐれも、決して」争いごとをしてはならない、の意。なお、本文最後の「穴賢穴賢」は本来の「おそれおおい」との意であり、書状の末尾としてつつしみを表わしている。
―――
夜廻の殿原
 夜廻り警備の役をもった者達。「崇峻天皇御書」(1172)に「況や此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしきを上へ召されたり」と、信仰の故に迫害され、屋敷までも没収された人々のことが記されている。この人達が四条金吾のもとに身を寄せていたのであろう。
―――――――――
 具体的な行動について、繰り返し用心するよう戒められている。冒頭に「さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし」とあるように、ここでいわれていることは、この前の同年七月のお手紙の末尾に書かれている注意と同じ内容である。しかし、周辺の状況について、いよいよ緊迫したものを感じられていたのであろう。「さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし」と強調されている。
日蓮は少より今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり云云
 日蓮大聖人は幼少のころから、現世の幸せのために祈ったことはない。ただ、成仏という永遠の目的のためにのみ祈ってきた。ただ今は、苦境にある四条金吾のために、その現世の安穏を祈っている、との仰せである。
 ここに、信心の最も根本的な姿勢が示されている。自身のためにとって、信心の目的は、仏になることである。成仏とは、自己の人間としての究極の完成である。それは、幸福とか不幸とかという問題を越えた高次元の目標である。そのためには、苦難もあえて身に引きうけ、のりこえなければならない。安逸に堕すことなく、自らを厳しく鍛えなければならない。自己にとっての信心の本質は、ここにある。
 しかし、だからといって、自己の完成ということは、自分の内だけに閉じこもっていくことによっては達成されない。むしろ、自己をかえりみず、人の幸福のために尽くしていこうとする、開かれた発動性のなかに、真の完成がもたらされるのである。つまり、これが〝菩薩道〟である。
 カントが「人間にとって同時に義務であるところの目的は何か。――自己の完成と他人の幸福である」と述べたように、自分のために追及すべきものは〝完成〟であり、他人のために求めるのは〝幸福〟である。これを逆転して、自分のために〝幸福〟を求めるのは利己主義につながり、他人のために〝完成〟を求めるのは、他人への侵害しかもたらさないであろう。
 仏法が菩薩道とその究極として成仏を修行のために説いているのは、まさに、このカントのいっていることと軌を一にする。否、カントが提唱したことに、現実的な裏づけを与えるのが仏法であるともいえる。大聖人の生涯は、また、この仏法の原理と、西欧の英知が理想としたところを、身をもって示しきった御一生でもあったのである。

1163~1169    四条金吾殿御返事(世雄御書)2010・10月号大白蓮華より。先生の講義top

弟子の勝利が「師匠の勝利」「仏法の勝利」に

 師匠は常に、弟子の勝利の報告を待っています。戸田先生もそうでした。私はいつも、戸田先生の直弟子として敢然と戦いました。勝利の結果をお伝えできることが、何よりも嬉しかった。今でもそうです。世界広布を進めゆく青年の陣列が出来上がりましたと、私は胸を張って、戸田先生にご報告できます。
 弟子が広宣流布の使命に戦い、勝利する。
 それでこそ、広布の実現の拡大が進みます。
 日蓮大聖人の御在世にあても、大聖人が身延に入られてからは、本格的な弟子の闘争の時代を迎えました。門下たちが障魔との戦いに挑み、乗り越え、各人の人生に勝利の大輪の花を咲かせます。またそのために、大聖人は激励を続けられました。
 四条金吾もその一人です。
 建治3年(1277)四条金吾は人生の最大の苦境の中にいました。
 この年の6月、桑ヶ谷問答に際し、金吾が徒党を組んで法座に乱入したという讒言を受けた主君・江間氏は、四条金吾に対して“法華経の信仰を捨てる”という起請文を提出するように迫りました。書かなければ、所領を没収されるという事態に陥ったのです。
 四条金吾は起請文を絶対に書かないとの決意を、大聖人に御報告しました。これに対する返書が、同年7月の「四条金吾殿御返事(不可惜所領事)」です。
 この中で大聖人は、四条金吾の決意を賞讃され、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(1163-15)と指導されます。そして、金言に代わって、主君への弁名書である「頼基陳情」を認められます。
 本抄の末尾にも、この「頼基陳情」のことが取り上げられ、提出の機会をうかがっている様子が伝わってきます。したがって、本抄の御執筆は「不可惜所領事」を認められた時から、そう離れていないと推察されます。
 ともあれ、本抄からは、幾度も激励を重ねて、金吾をなんとしても勝利へ導かれようとする大聖人の御心情が伝わってきます。
 弟子の勝利を願わない師匠はおりません。
 その師匠の指導の急所こそ「仏法は勝負」の指針なのです。
1165
四条金吾殿御返事    建治三年    五十六歳御作
01   御文あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、
02 王法と申すは賞罰を本とせり、 故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、 中にも天竺をば月氏という我国
03 をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、 名のめでたきは印度第二・扶桑
04 第一なり、 仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、 月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然
05 のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。
-----
 あなたのお手紙の概略をうけたまわり、長い夜が明け、遠い道を歩いて、帰りついたように、安心いたしました。
 そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としています。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけているのです。この世界の国々のなかでも、天竺国すなわちインドを月氏といい、わが国を日本といいます。一閻浮提中にある八万の国のうちでも、大なる国は天竺であり、小なる国は日本です。しかし、その国の名のめでたさでいうならば、インドは第二であり、扶桑は第一です。
 仏法は月の国から始まって、日本の国にとどまるであろう。月は西から東に向かい、日は東から西へいくことが自然の道理であるように、このことは真理であり、あたかも磁石が鉄を吸い、雷が鳴って象牙が成長するようなものです。誰もこの道理を破ることはできません。

仏法が勝利の根本
 本抄の冒頭のこの御文から、大難に直面する四条金吾の身に、何かしら安心できる変化があったことがうかがえます。大聖人は、長い夜が明けたようだと仰せです。あるいは、大変な状況であっても、金吾自身が深く決意できていることに、大聖人はひとまず安心されたのかもしれません。
 また後半に「主のうらうらと言和かにすかさせ給うならば」等と認められていることから考えると、主君との面談がかなうようになるなど、主君の態度に和らいだ様子があったのかもしれない。ただし、大聖人は「必ず人にだまされるであろう」などと、心配していることもうかがえます。
 いずれにしても、状況はまだまだ厳しく、これからの金吾自身が不動の信念に立って、粘り強く戦っていくことが一層、必要であると、大聖人は思われたのでありましょう。
 四条金吾の最大の試練にあって、真実の勝利を勝ちとるために、この「仏法は勝負」の哲学を教えられたのです。
 ここでは、仏法と王法の二つに言及されています。所領問題で悩む金吾にとって、信仰を貫いて所領を没収されるか、法華経を捨てて主君の命令を受け入れるか、すでに金吾自身の覚悟は決まっていました。法華経を捨てるという主君への誓状などは決して書かない、と。けれども、信仰と主君の命令との間で苦悩している金吾にとって、「仏法と王法」こそが最も切実なテーマとなっていたことは間違いありません。
 仏法は、世法上の価値を否定するものではありません。しかし、財産や地位・名誉など、世法上の価値に執着したり、王法の横暴な権力を恐れたりして、人間として最も根本の価値となる仏法を忘れてしまえば、真の幸福を実現することはできません。魂の破北とならざるをえないのです。
 それゆえに、常に、人生の根本基準として決然と仏法を選び取ることです。しかも、現実の生活のうえで、最後には勝利の姿を現じていく粘り強い戦いが重要となります。
 仏法を根本とするということは、王法の賞罰や、世法の毀誉褒貶に揺るがない不動の信心を貫くことです。
 「仏法と申すは勝負をさきとし」とは、まず何があっても、勝れた根本の仏法に基づいていくという信念です。それゆえに、必ず結果として仏法の実証を現していくという決意と実践です。
 ここで、「世雄」という仏の称号を挙げられているのは、なぜか、仏法の深い智慧で、本当に価値あるものを見極め、社会の中で堂々と、真の幸福勝利の人生を築くことの大切さを示されるためであると拝せます。「世雄」とは、あらゆる世間の中で最も勝れた智慧を体得して、煩悩に打ち勝ち、ゆるぎない幸福境涯を開いた勇者のことです。
 また、王について「自在」と呼ばれている。これは一応は、王法における王が賞罰等によって人々を意のままに統治することを指していると拝せます。しかし、大聖人の意は、むしろ、法華経に「我れは為れ法王にして、法において自在なり」とあるように、王法であり世雄である仏の力が自在でるとの意を込めて言われていると拝察できます。
 金吾が属する現実の武家社会にあっては、君主による賞罰が、武士たちの生活を決定づけていました。
 勝れた法である仏法を根本とすれば、その自在の力によって、たとえ、どのような強力で横暴な王法であっても、ついには打ち勝っていくことができることを示されているのです。
 そのことを明確にするために、本抄では、日本及び中国における仏教伝来の歴史を取り上げ、仏教がどのように受容され、仏法を根本とした時に人々がどのように繁栄していったかを示されています。
「釈迦仏は賞罰ただしき仏」
 本抄では、日本における仏教伝来の経緯が、『日本書紀』に基づいて詳しく記されています。いわゆる“崇仏派”とされる蘇我氏と、“排仏派”とされる物部氏との間の抗争です。もちろん、今日の歴史学から見れば、両者が単に仏教受容をめぐって対立したと捉えるよりも、権力闘争などのさまざまな背景があったと理解されます。ただ大事なことは、当時の史料に基づいて、大聖人が何を仰せられようとしていたか、ということです。
 大聖人は、仏教が幾多の批判や弾圧を越えて重んじられるまでの経緯を紹介され、王法の権力といえども、根本の仏法を用いて善政を行えば栄え、背けば滅びていく実例として示されているのです。
 更に、中国に仏教が伝来した時も、日本の仏教伝来の時も、木像や画像の釈迦仏を尊崇した者が栄えたという現証を踏まえて、「されば釈迦仏は賞罰をただしき仏なり」と仰せです。ここでいう「賞罰」とは、仏法の道理から厳然と現れる「功徳と罰」のことです。道理に則るか背くかによって、現実のうえに賞罰は厳然と現われることを明かされているのです。
 どのように権威・権力におごっている者も、仏法に背いては、道理として、ついには滅びないものはないのです。この原理に照らして、正しい仏法を持っている四条金吾を迫害する勢力も、ついには力を失い、必ず滅びていく。だからこそ、今は苦しくとも、“絶対に負けてはならない”と激励されているのです。
 弟子の勝利のために、歴史を繙き、道理を説いて、なんとしても確信を得させようと心を砕かれる深い慈愛が伝わってきます。
11             又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、
12 其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰と馬子との父子二人の故ぞかし、 釈迦如来の出世の時の梵王・ 帝釈の
13 如くにてこそあらまじなれども、 物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり 国をも知行し一門も繁昌
14 せし故に高挙をなして崇峻天皇を失いたてまつり 王子を多く殺し 結句は太子の御子二十三人を馬子がまご入鹿の
15 臣下失ひまいらせし故に、 皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の
16 臣並に父等の一族一時に滅びぬ。
-----―
 また別しては、吾が一門の中の人であっても、信心がうすく、日蓮の申したことに背いたならば、蘇我一門のようになるであろう。
 その理由は、仏法が日本に受け入れられたのは、蘇我の宿禰と馬子との父子二人がいたからであった。仏法を守護したのであるから、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈のような立場となるはずであった。だが、蘇我氏は、物部の尾輿や、その子の守屋を滅ぼしてしまったために、大きな勢力をもった朝臣はただ蘇我一門だけになり、位も上がり、国をも知行し、一門も繁盛したため、おごりたかぶった心を起こして、ついには崇峻天皇を殺し、王子を多く殺し、結局は、聖徳太子の御子23人を、馬子の孫にあたる入鹿の臣下がころしてしまったのである。
 そこで皇極天皇は中臣の鎌子の計いで、教主釈尊を造って、逆臣が亡びることを強盛に祈って討伐したので、入鹿の臣ならびに、その父蝦夷等の一族は一時に皆滅びてしまったのである。
-----―
17   此をもつて御推察あるべし、 又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、
18 日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、
-----―
 この蘇我氏の興亡の例を以て推察しなさい。またわが一門のなかでも、信仰が浅薄で信心を貫き通せない人々は、かえって仏の罰を蒙るのである。その時になって日蓮をうらむようなことがあってはならない。少輔房・能登房、門下で退転した人々の姿を御覧なさい。

不退転の信心を貫くように激励
 続いて大聖人は、かって“崇仏派”だった蘇我氏一門が、その後、権勢を振るい、権力の絶頂を極めるや暴虐の限りを尽くし、最後は一族が滅ぼされたという出来事に言及されます。「高挙をなして」いた蘇我氏一門は、結局釈尊を重んじ崇めた勢力によって、滅ぼされたと仰せです。
 いかにかって、“崇仏”の貢献があっても、後に慢心が芽生え、万人を慈愛し導く仏法の心から離れてしまえば滅んでしまう例とされています。
 大聖人は、門下のなかにも、万人成仏の法華経の不惜身命の実践に生き抜く師たる大聖人に背く者が現れれば、この蘇我氏のようになると戒められています。
 この教訓を通して、たとえいかなることがあっても、世法上の事柄にとらわれず、最後まで信心を貫き通すべきだと指導されているのです。もし、自分の弱い心に負け、目前の利益にとらわれて、信心を貫けずに退転してしまったならば、かえって失となってしまう。退転・反逆の少輔房・能登房のようになってはならないと仰せです。
 逆境の時にこそ、信心の真価が現れます。三障四魔・三類の強敵との戦いの時、あるいは、いざという宿命転換の戦いにあって、一番、大切なことは「不退転の信心」です。
 佐渡流罪の渦中も、また四条金吾の大難の時も、大聖人は常に、信仰を貫き通しなさいと金吾を激励されています。
 「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」(1117-18)
 「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136-05)
 難は信仰を鍛えます。人間を強くします。難は一生成仏の道において、避けて通ることはできない壁です。
 不退を貫き、壁を乗り越えれば、必ず勝利の栄冠が待っています。絶対に退転だけはしてはならない。この一段からも、弟子への厳愛が伝わってきます。
18                             かまへて・かまへて此の間はよの事なりとも御起請か
1169
01 かせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめる・水はのろき様なれども左右なく失いがたし、
02 御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・ 人にすかされなん、 又主のうらうらと言和かにすかさせ給うな
03 らば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、 きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくとけ候、冰を
04 ゆに入るがごとし、 剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、 まへにかう申すはきたうなる
05 べし、 仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いとをし・はなれじと思うめなれども死しぬれ
06 ば・かひなし.いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し.すこしも惜む事な
07 かれ、又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。
-----―
 充分に用心して、当分、たとえ他の事であっても、御起請を書くようなことがあってはならない。
 火の勢いは、ものすごいようであっても、しばらくすれば消える。水はのろいようであっても、その流れは簡単にはなくならない。あなたは短気であるから、火の燃えるようなところがある。必ず人に足をすくわれるであろう。また、主君などが、言葉やわらかくいいくるめようとするならば、火に水をかけたように、主君に説き付せられてしまうだろうと思われる。
 鍛えていない鉄は、燃えさかる火の中に入れればすぐにとけてしまう。氷を湯の中に入れるようなものである。剣などは大火に入れても、しばらくはとけない。これは鍛えられているからである。
 あなたは事前に、こう申すのは、あなたを鍛えるためである。仏法というのは道理をもととするものである。道理というものは主君のもつ権力にも勝つのである。いかに愛おしい、離れまいと思う妻であっても、死んでしまえばどうにもならない。また、いかに所領を惜しいと思っても、死ねば他人のものとなってしまう。
 あなたは所領をいただき、すでに栄えて年久しいことである。少しも所領など惜しむ心があってはならない。
 また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。

心を鍛え抜き、決定した信心を
 大聖人は、ここで、感情に支配され、軽率な行動をとってはならないと注意されているのです。厳しい脅しに屈したり、反対に、穏和な態度に油断して懐柔策にうまく乗せられてしまったり、結局、主君の思うままになって、信心を失ってはならない、と。どこまでも金吾を守ろうとなさるがゆえに、賢明に処していくべきであると、具体的に教えられているのです。
 これからもさまざまに起こるであろう出来事に対し、一喜一憂して自分の心が揺れ動いては本当の意味で勝利を築くことはできません。仏法は道理です。自分の心を鍛え抜き、信心で磨かれた曇りなき生命で対処していってこそ、初めて勝利への妙用がわが生命に現れる。
 信心根本に常に自分を磨き、鍛えていく。その妙法による生命練磨の道こそが、真の勝利への直道です。私たちでいえば、朝晩の勤行であり、学会活動です。自身の人間革命があって、初めて勝利の扉が開かれるのです。
 そのうえで、勝利への確かな道筋を、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」と、明快に仰せです。法華経への信心を根本に、正直に誠実に生きる人は、道理としてあらゆるものに勝利していくことができるのです。
 「主に勝つ」とは、賞罰をもって家来を支配する力をもった主君も、仏法の道理の力には断じて勝てない、ということです。
 時によっては、身命を賭して主君の悪を諌めていくことも必要となる。それゆえ大聖人は、主君への弁明書を書いてくださり、主君が信奉する極楽寺良観を厳しく破折されている。良観が仏法の上で悪の元凶だからです。本当の悪は厳しく責めて打ち破ってこそ、善へと包みこむことができるからです。
 ゆえに大聖人は、所領を惜しんで信心を失うことがあってはならないことを、あらためて強調されています。
 たとえ、どのようなことがあっても、絶対に信心だけは貫いていきなさいとの峻厳なる御指導です。ぎりぎりの選択をしなければならない時には、最後は、根本である信心を選び取りなさいとの明快な基準を教えられているのです。大難の時には、この決定した心がどこまでも肝要なのです。
 ただし、この場合、短気や自棄の心を起して所領を返上し、自分から主君の元を去っていくようなことは、当然、真実の解決とはなりません。これは、非道の主君から離れて信心を根本にした行動をとっているようでいて、結局は、自分の弱い心に負けている姿だからです。
 「主に勝つ」とは、どこまでも信心を貫いて、粘り強く誠実に振る舞い、ついには、主君に目覚めさせることです。
自他ともの幸福を
 妙法とは調和の法です。すべてを包み、すべてを生かす根源の法です。妙法は、調和の中心、根本です。この妙法の力によって、「誤解」を「理解」に、「対立」を「信頼」に「分断」を「結合」へと高めていくことが、真正の仏法の勝利です。妙法という調和力をあらわして、自他共の幸福を勝ちとっていくことこそ、大聖人が門下に教える確かな勝利の姿です。
 例えば、池上兄弟に対しては、兄弟の団結によって一家和楽の勝利の姿を目指すべきことを説かれた。父の理不尽な処置に対しても敢然と正義を貫いた兄弟は、父親からの勘当が解けるだけで終わらずに、信仰に反対していた父親自身が入信するという劇的な大勝利を生みます。兄弟の信ずる妙法が父を包みこみ、正義を目覚めさせたのです。
 四条金吾の場合も、主君が現実に金吾を迫害してきても、大聖人は、主君がいかに大恩ある存在であるかを指導されました。
 竜の口の法難・佐渡流罪の時、日本中が大聖人を憎み、門下も所領を取られたり、追放されるなかで、あなたは主君から守られていたではないか。その恩義を忘れて非理に恨んでは諸天善神も守らなくなる。と。
 本抄の次の御手紙でも、主君は今は信仰をしていなくても、信仰を貫く金吾を守ってきたことによって、主君にも善根が及び、栄えることは間違いとまで仰せられています。
 四条金吾もこうした御指導を受けて、主君が法華経への信仰を持つように、ずっと祈り続けます。やがて、主君は金吾への信用を回復し、態度が変わります。そして、金吾は新たに所領を賜わるという大いなる勝利の実証をあらわしていく。この勝利の因について、大聖人は「我が主に法華経を信じさせまいらせんと・をぼしめす御心のふかき故か」(1180-10)「此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり」(1180-12)と仰せです。
 まさしく四条金吾の信心によって、妙法の大いなる力用が主君を包み込んだのです。
 仏法の勝利は、妙法という最高の道理に基づく勝利です。妙法の調和の世界が生活の次元、職場の次元、地域の次元、さらには国家をも超える次元で広がっていくことこそ、仏法の大いなる勝利の実相なのです。
 いかなる悪縁をも善縁に変える、価値創造の力が妙法にはあります。大悪を大善に変える、宿命転換の力があります。
 非道を道理に変える、正義の力があります。
 それぞれの弟子が現実社会の中で勝利することは、一人一人の人間革命の実証です。一人一人が「心の財」を第一として、境涯を深めていく。法華経の哲学で言えば、「万人が仏である」との信念に立ち、「人を敬う、人の振る舞い」に徹していく。一人の信仰者としての人間的成長そのものが、勝利を約束するのです。
 それゆえに大聖人は「をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き」(1191-03)と、退転者が陥る心の闇が生じないようにと、どこまでも厳しい御指導をされています。心をゆがめ、信心を忘れてしまえば、いつしか世法の名誉や財産にとらわれ「心の財」を忘れた人生に堕しかねない。師匠が、弟子の「慢の心」「増上慢」を破ってくださるのは、最高の慈愛なのです。
智慧を尽くして賢明に
 四条金吾は、大聖人の仰せを忠実に守り、誠実な行動を貫きます。そして、大聖人の仰せ通りに「心」で勝ちました。それが、大きく一切の環境を変えていったのです。
 そのうえで現実の勝利とは、どこまでも「小事が大事」との、こまやかな智慧を働かせての戦いによって実現するものです。悪縁に満ちた悪世に信心を貫き実証を示すのだから、油断してはならない。これまでの「百千万億倍」の用心が必要だとも御指導されています。
 賢明な智慧が必要です。周囲の人を一人また一人と、確実な味方にするなど、勝利の環境を自ら作りあげていくことが大事であるとも教えられています。
 勝つことを深く心に定めて、信心根本で、耐えるべきことは歯を食いしばって耐え、切り抜けるべき時は智慧を尽くして切り抜けていくように、指導されえいるのです。
 弟子の勝利が広布を開く時代を迎えた時に、大聖人は、「仏法は勝負」の要諦を、金吾に教えられました。その要諦を再度、心に刻んでおきたい。
 その第一は、どこまでも、仏法が根本であり、信心根本で生きることです。
 第二に、自分の弱さと戦い、心を鍛え、迫害や誘惑など、あらゆる悪縁にも紛動されないことです。その本質は悪と戦うことです。
 第三に、妙法の無限の力を信じ、誠実な人間性豊かな粘り強い振る舞いを積み重ねていくことです。つまり、智慧を尽くしゆく道理の戦いを貫き通していくことです。
 「仏法は勝負」との妙法根本の行き方は、時代・社会の移り変わりを超えて、永遠にわたる根源的な勝利、真実の幸福を勝ち取っていく源泉となるのです。
08   日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦
09 仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。
-----―
 日蓮は若い時から、今生の栄を祈ったことはありません。ただ仏になろうと思い願うだけです。しかしながらあなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからです。

「法華経の命を継ぐ人」
 仏法は勝負です。一人の信仰者の勝利が、仏法の勝利です。師である日蓮大聖人は、御自身が「仏法は勝負」と厳然と障魔と戦われ、すべての魔性を打ち破られました。末法に生きる私たちの勝利の道を無限に開いてくださいました。その勝利の実証によってこそ、末法の衆生を救う大法が、この現実世界への流通を開始したのです。
 大聖人は、広宣流布・民衆救済という「法華経の命」を蘇らせたのです。では、この命を継ぐのは誰か。この道をさらに広げ、末法万年の人々を救うのは誰か。それは師と同じく「仏法は勝負」と挑戦し、勝ち切っていく弟子以外にありません。
 師弟が共に勝利した時に、そこに広宣流布の歴史が生まれ、末法万年への潮流となって迸るのです。
 大聖人は、弟子の勝利のために、金吾のことを絶えず祈り抜かれていると仰せです。それは、弟子の幸福を祈る大慈悲であることは言うまでもありません。とともに、何よりも、広宣流布の流れを絶やさず、法華経の功力を継承させていくためであるからと仰せです。
 「法華経の命を継ぐ人」が出現したことは、師匠の勝利であり、仏法の勝利です。
 あとは弟子が、師匠の思いを受け止め、師弟不二の信心で、戦い、勝利することです。
 大聖人は、ひたすら弟子の成長と勝利を願われました。
 門下は、それぞれの逆境と戦い、宿命を乗り越え、見事な実証を示してきました。四条金吾夫妻も、池上兄弟と夫人たちも、また、南条時光と母・上野尼、富木常忍夫妻、乙御前と母、妙一尼等々、皆、そうです。師匠の励ましを受けて、一人一人が大きく勝利のドラマを築いていった。そこに、末法万年尽未来際まで流れ通う、広宣流布の源流が成ったのです。
日蓮仏法における「師弟の絆」
 「仏法は勝負」とは、単なる教訓ではありません。日蓮仏法における師弟の魂であり、真髄です。
 「報恩抄」に「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と仰せです。
 末法万年の流通も、一切衆生の盲目を開く力も、無間地獄の道をふさぐ救済の力も、「仏法は勝負」との不惜の戦いがあってこそ開かれたのです。ゆえに、弟子の同じ不惜の闘争によってのみ継承されるのです。
 大聖人が示された、「仏法は勝負」の信仰を貫いてきたのは、創価学会しかありません。むしろ、学会出現以前は、仏法を根本とする人間革命・現実変革の闘争は、ほとんど忘れられていたと言っても過言ではないでしょう。
 牧口先生は「仏法は勝負」と、戦って勝ち取った実証こそ「宗教の命」であると述べられました。
 「日蓮大聖人が『仏法は勝負をさきとし、王法は賞罰を本とせり』と仰せになっているように、これこそ宗教の生命というべきもの」
 また戸田先生も「信心は、人間の、また人類の行き詰まりとの戦いだよ。魔と仏との闘争が信心だ、それが仏法は勝負ということだ」と述べられています。
 戸田先生の事業が窮地に立たされた時もそうでした。
 「大作、仏法は勝負だ、男らしく、命のある限り、戦いきってみようよ。生命は永遠だ。その証拠が、必ず、何かの形で今世に現われるだろう」
 私は、この言葉通り戦ってきました。証拠を出してきました。ゆえに、一点の悔いもありません。
 また、恩師は、常々語られていました。
 「我々は絶対勝利の信心をしている。その自覚から、仕事にせよ、何にせよ、断じて勝つことが大事なのだ」
 「仏法は勝負だ、闘争を開始するからには、それだけの準備と決意をもって断じて勝つのだ!」
 そして、歌にも詠まれました。
 「勝ち負けは、人の生命の、常なれど、最後の勝をば、仏にぞ祈らむ」
 恩師からいただいた最後の和歌です。
 まさに、創価三代の師弟は「仏法は勝負」を魂として、一切に勝利してきました。
 いかなる人にも、仏と魔の戦いという、生命の根本の闘争があります。仏法は、この根本的な勝負に勝つための法です。勝ってこそ正義です。仏法の正しさを証明されるのです。
 今、この「仏法は勝負」の行動を継承する「法華経の命を継ぐ」友が、世界中に誕生しました。陸続と続いています。
 弟子が立つ。弟子が舞う。弟子が勝ゆく。 創価の師弟の勝利が、地球を大きく包み込む時代になったのです。皆さんの勝利の笑顔が、人類を照らす希望の光源となっています。皆さんの幸福の実証が波動を広げ、世界を動かしていきます。
 いよいよ、創価青年学会の新たな拡大が始まった。私は「永遠の勝利」のバトンを、愛する君たち一人一人の心に、確かに託していきたいのです。

1170~1170    四条金吾殿御返事top
1170
四条金吾殿御返事
01   法華経本迹相対して論ずるに迹門は尚始成正覚の旨を明す故にいまだ留難かかれり、 本門はかかる留難を去り
02 たり然りと雖も 題目の五字に相対する時は末法の機にかなはざる法なり、 真実一切衆生・色心の留難を止むる秘
03 術は唯南無妙法蓮華経なり。
04       四条金吾殿御返事                     日 蓮
-----
 法華経の本門と迹門を相対して論じてみると、迹門はなお始成正覚という観点から論じているので、いまだ留難がかくれているのである。本門はこのような留難をまぬかれている。
 しかしながら、本門といえども門底独一本門の題目の五字に相対した時は、末法の衆生の機根に合わない法となる。
 真実に、一切衆生にとって、色心の留難を打ちやぶる秘術は、ただ南無妙法蓮華経以外にないのである。

法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
―――
迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
留難
 留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。
―――
本門
 仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
―――
末法の機
 末法の衆生の機根の事。末法は衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいい、下種本因の仏法である南無妙法蓮華経のみが衆生の機根に適しているのである。
―――
色心の留難
 肉体面・精神面の両面から迫る障害。成仏を妨げる諸現象。
―――――――――
 本抄は年号が記されていないが、前後の御書等からして、建治3年(1277)頃の御述作と考えられる。
 非常に短いお手紙であるが(或は前段が欠損しているか)われわれの唱える題目こそ一切衆生の不幸を止める秘術であり、三大秘法の南無妙法蓮華経こそ皆成仏道の根源の法であることを明かした重要な御書である。
 内容は、まず本迹相対の立場から、法華経迹門は始成正覚を根底として説かれているゆえ、生命に対する皮相的な見解から起こる様々な人生を渡る上で障害をとどめることができず、本門にきてはじめてこれを防ぎとどめることができるのである。しかし、大聖人の立場からいえば、法華経一部八巻二十八品ことごとく釈迦仏法に縁ある本已有善の衆生であるためであり、末法五濁悪世の衆生を決して救うことができない教えである。末法である現代においては根本的に留難をとどめる法は南無妙法蓮華経の一法しかない。この七字の題目こそ、一切衆生が人生を渡る上で被る障害や苦悩を悠々と乗り切る源泉であると述べられている。
真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり
 人生には、肉体的・物質的にせよ、精神的にせよ、さまざまな苦しみを与えるものがある。青年には青年の悩みがあり、老人には老人の悩みがある。男には男の、女には女の悩みがある。また、年齢や性別や、社会的差異とは関係なく、人間一般として免れることのできない苦しみもある。
 そうした苦しみをもたらす障害は、人間が互いに生きていかなければならない社会である以上、また、生ま身の肉体をもち、複雑な精神機能を営みながら生きていく以上、必ず起こってくるものである。これらを全くなくすということは、絶対に不可能といってよい。
 だが、ここにあえて「留難を止むる秘術」といわれたのは、このように起こってくる苦難を悠々と克服し、かえって、遊楽の人生の糧としていけるような、力強い生命、生き詰りのない英知を湧現するのが、仏法だからである。この確たる自己の実体をなすものこそ、仏界の生命であり、それは、本来、自我の奥底の本質として在るものである。
 しかるに、迹門の段階では、仏はまだ始成正覚の域を出ず、仏界の生命は、衆生にとって、一応、湧現の可能性は開かれたものの、現実には、はるかに遠い実在である。 本門において、仏は五百塵点劫の昔の自己の成道を示すことにより、有縁の衆生にも仏界を湧現することを実現化した。だが、それは過去に結縁した、限られたひとびとであって「一切衆生」にとっては、無関係の教えだったのである。
 成道の根本種子である南無妙法蓮華経の法によってはじめて、過去に結縁のない人々にとっても、等しく自らの仏界を開きあらわす大道が確立されたのである。故に「真実一切衆生色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」と仰せられているのである。

1170~1174    崇峻天皇御書(三種財宝御書)top
1170:01~1171:02 第一章 内薫外護の法門を挙げるtop
01   白小袖一領.銭一ゆひ・又富木殿の御文のみ・なによりも・かきなしなまひじきひるひじき.やうやうの物うけ取
02 りしなじな御使にたび候いぬ、 さては・なによりも上の御いたはりなげき入つて候、 たとひ上は御信用なき様に
03 候へども・ との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞな
04 り候らん、 大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきを
05 えて・さかうる事に候。
-----―
 白小袖一枚、銭一結、また富木殿のお手紙にある果物、なによりも柿と梨、また生ひじき、干ひじき等の様々の物を受け取り、品々を御使の方から頂戴しました。
 さて何よりも、主君・江馬氏の御病気のことは、嘆かわしく思っております。たとえ主君は法華経を信仰していないようであっても、あなたが主君の内にあって、その御恩のおかげで法華経を供養しておられるのであるから、その功徳はひとえに主君の病気平癒のための祈りとなるであろう。
 大木の下の小さな木や、大河のほとりの草は、直接雨にあたることがなく、直接水を得ることがなくても、自然に露を伝え、水気を得て栄えるのである。
-----―
06   此れもかくのごとし、 阿闍世王は仏の御かたきなれども其の内にありし耆婆大臣・仏に志ありて常に供養あり
07 しかば其の功大王に帰すとこそ見へて候へ、 仏法の中に内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候、 法華経に
08 は「我深く汝等を敬う」 涅槃経には「一切衆生悉く仏性有り」 馬鳴菩薩の起信論には「真如の法常に薫習するを
1171
01 以ての故に妄心即滅して法身顕現す」 弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり、 かくれたる事のあらはれたる徳となり候
02 なり、
-----―
 あなたと御主君との関係も、この通りである。
 阿闍世王は釈迦仏のかたきであったが、その身内の耆婆大臣が釈迦仏を信じて常に供養していたので、その功徳が阿闍世王に帰したと説かれている。
 仏法の中に、内薫外護という大事な法門があり、これは仏教の要めの原理である。
 法華経不軽品には、「我れ深く汝等を敬う」とあり、涅槃経には「一切の衆生は悉く仏性がある」とあり、馬鳴菩薩の著わした起信論には「真如の法が常に薫習する故に、妄心が即滅して、法身が顕現するのである」と説かれ、また弥勒菩薩の著わした瑜伽(ゆが)論に、同じようなことが説かれている。隠れた行ないが、外に現われた徳となるのである。

白小袖
 小さい袖の衣服。袖が筒状であったので、小袖といい、もとは下着であったが、のちに表着として用いられた。
―――
一領
 領は「くび」「えり」の意味。衣服の首を囲むところから、転じて衣服を数える単位になった。
―――
一ゆひ
 銭の中央の穴に紐を通して、一連にしたもの。ほぼ百文単位にして結んだものを、「一結」とか「一さし」とか呼んだ。
―――
なまひじきひるひじき
 ひじきの生と乾燥したもの。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
耆婆大臣
 耆婆とは、梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提(まかだ)国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希(いだいけ)を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
―――
内薫外護
 一切衆生の生命に内在する仏性が内から薫発して、仏性を覆いかくすもろもろの妄念を払いのけて顕現することを内薫という。さらにこの内薫に対応し、外から自己を護り助ける働きがあらわれる。これを外護という。妙楽の摩訶止観輔行伝弘決第四に「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん、故に知んぬ、悟を生ずる力は真如に在り、故に冥薫を以て外護と為すなり」とある。
―――
宗論
 ①経を総括して法義を立てて、宗旨とすること。②宗派間の論議のこと。勝劣・真偽を決定する法論。
―――
我深く汝等を敬う
 法華経常不軽菩薩品第二十には「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な 菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」とある。不軽菩薩は威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
一切衆生悉く仏性有り
 「一切衆生・悉有仏性」のこと。生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており、すべて悟りうるという仏教の思想。諸説もあって、なかには仏性をもたないものもありうるとする説 (法相宗) 、草木などの精神性をもたないものにまで仏性があるとする説 (天台宗) 、精神性をもたないものは仏性をもたないとする説 (華厳宗) などがある。
―――
馬鳴菩薩
 付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
――――
起信論
 「大乗起信論」のこと。馬鳴著と伝えるが,中国撰述の疑いもある。五世紀頃の成立か。大乗仏教の代表的概説書。大乗に対する正しい信心を起こさせることを目的とし,心を本来の面(心真如門)と活動の面(心生滅門)の二面から考察する。
―――
真如の法常に薫習するを以ての故に妄心即滅して法身顕現す
 一切衆生にそなわるべき性分を仏性とも真如ともいい、この仏性が熏発することによってこれを覆い隠している妄心を滅し、法身を顕現させることが内熏である。この法身の顕現によってまた内からの熏発を外護することになる。
―――
弥勒菩薩
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――
瑜伽論
 法相宗所依の論。瑜伽師地論、ヨーガーチャーラ・ブーミ(Yogācārabhūmi-śāstra)。弥勒説・玄奘訳百巻。瑜伽は相応と訳す。一切の境・行・果・教が互いに相応することをいう。師地は、三乗の行者が聞思等によって次第に瑜伽を修習して境界を深め、それぞれの分に従って諸の有情を教化することをいう。瑜伽論の所行の境界には、第一・五識身相応地から第十七・無余依地までの十七地がある。十七地は以下の通り。1.五識身相応地、2.意地、3.有尋無伺地、4.無尋唯伺地、5.無尋無伺地、6.三摩哂多地、7.非三摩哂多地、8.有心地、9.無心地、10.聞所成地、11.思所成地、12.修所成地、13.声聞地、14.独覚地、15.菩薩地、16.有余依地17.無余依地。
―――――――――
 この手紙は建治3年(1277)9月11日の日付けになっている。内容は、主君・江馬氏が病気になったのに対し、一応は正法の実践者である四条金吾を迫害したための罰であることを指摘されながら、いよいよ四条金吾自身は心を引きしめ、身を慎しむよう、短気から軽率な行動をとらないよう戒められている。そして、忍耐が大事であることを教えるために、短気のため身を滅ぼした崇峻天皇の故事を例に引かれているので、「崇峻天皇御書」と名づけられているのである。
 なお、江馬氏が病気になったことに関連して想起すべきことがある。それは、同年7月に四条金吾に与えられたお手紙のなかで「大事の御所労を法華経の薬をもってたすけまいらせて給びて候所領なれば、召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ」(1164-12)と、奉行人にいっておくよう書かれていたことである。2ヵ月後に、まさにその通りになったのである。
 それだけに、四条金吾がこのことを、うっかりして口に出す恐れは多分にある。もし、そうなれば、主君の怒りもさることながら、金吾を快く思わない同僚のなかには、金吾の命をねらう者さえ出てこないとは限らない。この点を、大聖人は憂慮されて、このお手紙を書き、厳重に戒められているのである。
 まして、大聖人のお心は、この段にも「さてはなによりも上の御いたはりなげき入って候」と仰せられているように、決して予言した通りになったからとか、現罰が明々であるとか、悦んではおられない。どこまでも苦しんでいる当人、たとえ、それが仏法に敵対している人であろうと、その人の苦しみを我が苦しみとして、深く心配されているのである。われわれは、真に仏法を信じ実践する人の精神をそこに学ばなければならない。
 さらに、仏法の哲理の上からいって、四条金吾が大聖人に種々御供養をし、仏法のために活躍できるのも、ひとえに、主君・江馬氏が金吾に恩顧をかけてくれている故である。いいかえれば、それは、もとをただせば主君・江馬氏から出たものといっても過言ではない。したがって、金吾が積んだ妙法の功徳は、全て江馬氏の上にも還っていくのである。
 このことは、ひるがえっていえば、現代の民主主義社会にあっては、個人の信心実践の功徳が、この社会全体の繁栄として反映されていく、との原理を示している。個人の仏法による実証は、その人個人にとどまることなく、家族に地域社会に、ひいては人類社会全体にまで影響していくのである。なぜなら、個人は社会の測り知れない恩恵によってその存在を支えられているからである。
仏法の中に、内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候
 内薫外護とは、読んで字のごとく「内より薫じ外より護る」ということである。いまの四条金吾の場合についていえば、四条金吾は江馬家の家臣である。四条金吾が、江馬氏のもとに生活を全うできることを感謝し、また江馬氏のおかげで法華経に供養することもできるのだと達観していくならば、それが、ひるがえって、江馬氏も、この金吾を大事にし、ひいては妙法の信仰を外護する働きを果たしていくことになる。金吾の内より発する信心と感謝の念が、江馬氏の外より護る浄らかな生命の働きを呼び起こしていくこととなるのである。
 もとより、内薫外護という言葉の本来意味したものは、法華経不軽品、涅槃経、起信論の文を引かれているように、個人における仏性の顕現の原理を示している。すなわち、あらゆる衆生の生命に、もともと仏性が内在しており、これを内より薫発することによって、周囲の人々や現象も、この顕れはじめた仏性の強化を助ける作用をするというものである。
 ただ大事なことは、根本はあくまで内薫という、自己の生命の変革、自己の開発にあるという点である。その反映として〝外護〟の面があらわれる。〝内薫〟を忘れて〝外護〟のみを求めるのは、本体を忘れて影を求めるに等しい。これは、個人における成仏の道においても、一家の変革においても、社会、世界の変革においても、相通ずる大事な一点であることを忘れてはなるまい。

1171:02~1171:06 第二章 正法を妨げる者の罰を示すtop
02     されば御内の人人には天魔ついて前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをささえんがために 今度
03 の大妄語をば造り出だしたりしを御信心深ければ 十羅刹たすけ奉らんがために此の病はをこれるか、 上は我がか
04 たきとは・をぼさねども一たん・ かれらが申す事を用い給いぬるによりて御しよらうの大事になりて・ながしらせ
05 給うか、 彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ、 和讒せし人も又其の病にをかされぬ、良観は又一重の大科の者
06 なれば大事に値うて大事を・ひきをこして・いかにもなり候はんずらん、よもただは候はじ。
-----―
 それゆえ江馬家の御内の人々には、天魔がついて、この内薫外護の原理で江馬氏一門が正法の家人となることを知って、あなたが法華経を供養することを防ぎとめるために、今回の竜象房等の大妄語をつくりだしたのである。ところが、あなたの御信心が深いので、十羅刹女があなたを護ろうとして、主君の病気をおこしたのであろうか。主君はあなたを自分のかたきとは思われていないけれども、ひとたび彼らのいうことを用いたことによって、御病気が重くなり、長引いておられるのであろうか。
 彼らが柱とたのむ竜象房も、すでにたおれてしまった。讒言した人々も、また同じ病におかされてしまった。良観はもう一層仏法上の大罪がある者であるから、大事件にあい、大事をひきおこして、法罰をこうむることにもなるであろう。よもや、ただではすまないであろう。

天魔
 天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
―――
今度の大妄語
 建治3年(1277)6月9日、鎌倉の桑ケ谷で竜象房が説法を行なっていた。その法座に大聖人門下の三位房日行がのぞみ、竜象房を完膚なきまでに破折した。このとき、四条金吾が、その場に座を連ねていたことを利用し、江馬家の家臣たちが、あたかも金吾が、説法の座で乱暴狼藉をはたらいたかのように讒言し、金吾を陥れようとしたことをさす。この事は、「頼基陳情」に詳しい。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
―――
竜象
 生没年不詳。はじめ、比叡山延暦寺のうちに止住していたが、人肉を食べ、叡山を追放された破戒僧。
―――
和讒
 一方では親しそうなふりをしながら他方で人を謗り、陥れること。
―――
良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――――――――
 江馬親時が、こんど再び病気になったのは、家臣の讒言に惑わされて、自分を正しい道に導いてくれる四条金吾を迫害したための罰であること、そして、正法に反対する人々がこのようにつぎつぎと罰を受けているのは、四条金吾の勝利が近い証拠であることを暗に示されている。
 讒言した同僚の人々のことを「天魔ついて」といわれているのは、現代的な感覚からいえば、古めかしい迷信のように感じられるが、そこには、仏法の達観と智慧がある。まず、智慧という点からいうと、悪いのは、その人の生命自体ではなく、なんらかの別のものがその人についていて、それが正法迫害という悪事をなさしめているのだということである。もし、悪の根源がその人の生命自体であるとすると、これはその人間に対する敵対心と憎悪を呼びおこさないではすまない。仏法のこの考え方は、人間と人間との仮借なき衝突と憎悪による争いを緩和する働きをしていくのである。
 また、達観という点についていうと、まさに、人間の思考の原理や行動の原理は、こう表現される通りなのである。すなわち、法華経の信仰を憎む心を、彼らが持っていたにしても、それは先天的にあるものではない。おそらく浄土宗の僧たちや、そこから形成された社会一般の雰囲気によって吹き込まれ、いつのまにか作りあげられたものなのである。それは、この正法に対する憎しみという問題に限らず、あらゆるイデオロギーや人生観にしても、同じことである。したがって、悪の根源は、人々の生命自体ではなく、生命は善にも悪にもなりうる中立的なものであって、誰かが吹聴し社会に流した思想・物の見方自体にある。これを古来「天魔」あるいは「悪魔」という言葉で表現したのを、大聖人は、そのまま使われているのである。
 ただし、そうした邪悪な思想や考え方を、はじめに言い出し、人々にこれを吹きこみ、その生命を染めあげていった人間がいる。こうした主導者は「良観は又一重の大科の者」といわれるように、単に吹きこまれ、踊らされている人々に較べ、はるかに重い罪にあたる。また、これを逆に正法の面でいえば、正しい仏法をただ受け入れてそれに従うだけという行き方に対し、自らのものとし、さらに人々にこれを伝えていく自行化他の人は、〝又一重の大善の人〟となるであろう。

1171:07~1171:18 第三章 護身の注意を促すtop
07   此れにつけても殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ、一定かたきに・ねらはれさせ給いなん・すぐろくの石は
08 二つ並びぬればかけられず車の輪は二あれば道にかたぶかず、 敵も二人ある者をば・いぶせがり候ぞ、いかにとが
09 ありとも弟ども 且くも身をはなち給うな、 殿は一定・腹あしき相かをに顕れたり、 いかに大事と思へども腹あ
10 しき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ・ 殿の人にあだまれて・をはさば設い仏には・なり給うとも彼等が悦び
11 と云う、此れよりの歎きと申し口惜しかるべし、 彼等が・いかにもせんと・はげみつるに、古よりも上に引き付け
12 られまいらせて・をはすれば・外のすがたはしづまりたる様にあれども内の胸は・もふる計りにや有らん、 常には
13 彼等に見へぬ様にて古よりも家のこを敬ひ・ きうだちまいらせ給いて・をはさんには上の召しありとも且く・つつ
14 しむべし、入道殿いかにもならせ給はば彼の人人は・まどひ者になるべきをば・かへりみず、物をぼへぬ心に・との
15 のいよいよ来るを見ては一定ほのをを胸にたきいきをさかさまにつくらん、 若しきうだちきり者の女房たち・ い
16 かに上の御そろうはと問い申されば、 いかなる人にても候へ・ 膝をかがめて手を合せ某が力の及ぶべき御所労に
17 は候はず候を・いかに辞退申せども・ただと仰せ候へば御内の者にて候間・かくて候とてびむをも・かかずひたたれ
18 こはからず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・きずして且く・ねうじて御覧あれ。
-----―
 それにつけても、あなたの身の上が危険に思われる。必ず敵にねらわれるであろう。すごろくの石は二つ並んでいればかけられないし、また車の輪は二つあれば道でかたむかない。このように敵も二人結束している者に対しては攻撃をためらうものである。このようなわけであるから、どのような過失があなたの弟達にあったとしても、少しの間であっても側から離さないようにしなさい。
 あなたは確かに怒りっぽい相が、顔にあらわれている。どんなに大事と思っても、短気な者を諸天は守らないということを知りなさい。あなたが人に殺されるならば、たとえ成仏はされるとしても、彼等は、悦ぶであろうし、こちらにしてみれば嘆かわしい。そのような事になれば、口惜しい事であろう。
 彼らが何とかしてあなたを陥れようと励んでいるところに、以前よりもあなたが主君に信用されているので、彼等は外面は静まったようであるけれども、胸の内は燃える計りの思いであろう。それゆえ、ふだんは彼等にめだたないようにして、前よりも江馬家の家人を敬い、また公達がこられている場合には、主君のお召しがあったとしても、しばらく慎しんでいるのがよい。
 もし江馬入道殿に万一の事があれば、彼等は所定めぬさすらい者になってしまうのに、それもかえりみず、物の道理をわきまえずして、あなたがますます出仕されるのを見ては、必ず嫉妬の炎を胸にむらむらと燃やし、息を荒らげることであろう。
 もし公達や、権威ある人の女房たちが、「主君の病気はいかがですか」と問われたならば、相手がどのような人であれ、膝をかがめ、手を合わせ、「私の力の及ぶような病気ではありませんが、どのように辞退申し上げても強いての仰せつけでありますので、御奉公の身である故、このように御治療いたしております」といいなさい。鬢もかかず、直垂もかたく張ったものではなくして、またあざやかな小袖や、目立つような色物などは着ないで、当分は辛抱していてごらんなさい。

いぶせがり候ぞ
 二人一緒にいるときは、敵も用心して襲ってこないということ。
―――
家のこと
 その家に生まれた子。同じ家門の人。家人。
―――
きうだち
 きんだち、貴族や名門の家の子弟。ここでは、北条一門の子息たち。
―――
きり者
 主君に愛される権勢ある人。権臣、権者、寵臣等の意。
―――
びむ
 鬢、頭の左右側面の髪。
―――
ひたたれ
 武家の服装の一種。直垂は平安時代以来文献に出ているが、それは夜着の類で、これを衣服として着たのは武士であった。直垂は、同質同色の上衣と下衣とからなっていて、合わせて一具とした。鎌倉時代は武士の常着だった。
―――――――――
 これまで四条金吾に害を加えてきた人々の側に現証があらわれたということは、勝利が間近にあるということである。しかし、それゆえにこそ、いっそう心を引きしめて行動しなければならない。命をねらう同僚たちはいよいよ厳しくつけ回すに違いない。それに対して、どうあるべきかを、いろんな角度から教えられている。
 一つは、一人でいてはならない。必ず弟達を身近に置いて、つれだって行動せよということである。
 第二は、短気であってはならない。「腹あしき」とは、自分の感情をむきだしにし、それに引きずられることである。自己を抑えられないようでは、諸天も守ってはくれない、と戒められている。
 第三は、主君が病気のため、医術の心得があり、以前にも治療したことのある四条金吾がこれから重んぜられる可能性がある。その場合、周りの人々は一層憎しみを強くしているであろうから、充分に気をつけなければならない。とくに江馬氏の家人を大切にし、態度をひかえ目にすべきこと。
 さらに、服装などについても、質素で、かまっていない様子でいるようにせよと教えられている。まさに、かゆいところに手のとどくような御指導である。仏の指導者とは、いかにあるべきかを、この御文から学ぶべきであろう。
いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ
 仏法を受持し弘めるべき大事な人であっても、自分を抑えられず、感情にまかせて軽率な行動をとる人に対しては、諸天の加護はないとの厳しい戒めである。
 これに関連する有名な文として、妙楽が弘決の八に述べている、「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」の文がある。この場合の「心の固き」というのも、自己を律することが固いということであり、そのような人にこそ諸天の守りは強いというのである。信心をしているのだから、とか、仏法上の使命をもっているのだから、自分は心をわずらわさなくとも、諸天は守ってくれるはずだというのは〝信心〟ということに甘えているのであって、真の信仰者の行き方ではない。
 所詮、諸天といっても、主体者の一念の姿勢が周囲の人々の生命や社会・自然の依報に反映したところにあらわれたものである。この厳しい生命の法則を学んでいるのが仏法者であるならば、それを無視した考え方は、仏法者としての初歩からしてすでに外れていることを知らねばならないのである。

1172:01~1172:14 第四章 同志の団結を強調top
1172
01 返す返す 御心への上なれども 末代のありさまを仏の説かせ給いて候には 濁世には聖人も居しがたし大火の中の
02 石の如し、 且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、 賢人も五常は口に説きて身には振舞
03 いがたしと見へて候ぞ、 かうの座をば去れと申すぞかし、 そこばくの人の殿を造り落さんとしつるにをとされず
04 して・ はやかちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すこぎこひでの船こぼれ 又食の後に湯の無きが
05 如し、 上よりへやを給いて居して・をはせば其処にては何事無くとも日ぐれ暁なんど入り返りなんどに定めて・ね
06 らうらん、又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、
07 今度はさきよりも彼等は・たばかり賢かるらん、 いかに申すとも鎌倉のえがら夜廻りの殿原にはすぎじ、 いかに
08 心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。
-----―
 返す返すもこのような事は心得ておられる事ではあるが、末代の世情を仏は「濁悪の世には聖人であっても、世にあることは難しい。大火の中の石のようなものでしばらくは堪えているようであるが、終には焼け砕けて、灰となってしまうのである。賢人も仁・義等の五常を口には説くが、それをわが身に実行することはむずかしい」と説かれている。世のことわざにも、「高い地位についたら、長居をするな」というではないか。
 たくさんの人々があなたを陥れようとしたのに陥れられず、もはや勝利を収めた身であるあなたが、もし短気をおこし穏かでなくして、陥れられるようなことがあったならば、世間にいわれるところの精出して漕いできた船が、もう少しで岸に着くところを覆えるようなものである。また、食事の後に湯がないようなものであり、残念なことである。
 主君の屋敷では、部屋を与えられ、そこにいるのであるから、そこでは何事もないが、日暮れの帰宅、早暁の出仕などの際には、必ずねらうであろう。また自分の家の妻戸の脇や、持仏堂、家の中の板敷の下とか、天井などには、よくよく心をくばって振舞いなさい。
 今度は前よりも彼等の謀りごとは、巧みになるであろう。何といっても、鎌倉の荏柄の夜廻りの人達ほど力になる者はいない。どんなに心に合わぬことがあっても、彼等と親しく交わっていきなさい。
-----―
09   義経はいかにも平家をば・せめおとしがたかりしかども・成良をかたらひて平家をほろぼし、大将殿は・おさだ
10 を親のかたきとをぼせしかども 平家を落さざりしには頚を切り給はず、 況や此の四人は遠くは法華経のゆへ近く
11 は日蓮がゆへに命を懸けたるやしきを上へ召されたり、 日蓮と法華経とを信ずる人人をば前前・ 彼の人人いかな
12 る事ありとも・かへりみ給うべし、其の上殿の家へ此の人人・常にかようならば・かたきはよる行きあはじと・をぢ
13 るべし、 させる親のかたきならねば顕われてとは・よも思はじ、かくれん者は是れ程の兵士はなきなり、 常にむ
14 つばせ給へ、 殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、 若しさるならば日蓮が祈りの力及びがたし、
-----―
 源義経は、平家を攻め落とすことは全く難しかったが、平家方の阿波(徳島)の豪族・田口成良を味方にひきいれて、平家を亡ぼした。また頼朝は、長田忠致を親のかたきと思っていたが、平家を攻め落とすまでは、その首を切らなかった。
 いわんやこの夜廻りの人達四人は、遠くは法華経のために、また近くは日蓮のために、命をかけて得た屋敷を、お上に召しあげられてしまったのである。このように日蓮と法華経を信ずる人々に対しては、以前にその人々にどのようなことがあったとしても、心にかけてあげなさい。その上、あなたの屋敷へこの人々が出入りするならば、敵も、夜行きあわないようにと、恐れるであろう。彼らにしても、親のかたきというわけではないから、よもや表ざたになってもよいとは思わないであろう。人目をはばかる者には、この四人ほど頼りになる兵士はいないであろう。常に仲睦まじくしなさい。あなたは短気な性質であるから、こういってもよもや用いないであろう。もし、そうであるなら、日蓮の祈りの力も及ばぬことである。

聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
―――
五常
 儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
―――
かうの座をば去れ
 かうは甲。十干の第一であるところから、ものごとの他に勝れる時に用い、最上をあらわす。そうした名誉ある上の座が甲の座で、そこを去れというのは、そのような席に居ると、自ら心のおごりたかぶることもあろうし、他人のねたみをかうことにもなるから、いつまでも長居をしてはいけないという意味である。
―――
妻戸
 ①殿造りで、建物の四隅に設けた外側に開く両開きの板戸。掛け金でとめる仕組みになっている。②両開きの板戸。端に設けた戸の意。
―――
持仏堂
 日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。
―――
えがら
 現在も鎌倉市二階堂に、荏柄の地名がある。もとは郷名で、大蔵ケ谷、扇ケ谷を含む。鎌倉幕府の館も、八幡宮の若宮大路も、この郷内にあったようである。
―――
義経
 源義經は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
―――
大将殿
 (1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
―――
おさだ
 尾張(愛知県)野間内海荘と駿河(静岡県)長田荘の在地領主で,長田荘司と称した。平治の乱に敗れた源義朝が郎党鎌田政家の舅忠致の家に身をよせるが,忠致は裏切って義朝と政家を謀殺した。のち壱岐守となる。
―――
かくれん者
 隠れようとする者。
―――――――――
 「返す返す御心への上なれども」と断わられて、末法の人間の心がいかに濁っているか、そのなかで特に周囲から憎まれている四条金吾は、いかに振舞うべきかを懇切丁寧に指導されている。
濁世には聖人も居しがたし……且くはこらふるやうなれども、終にはやけくだけて灰となる。賢人も五常は口に説きて、身には振舞いがたし云云
 聖人・賢人を対にして用いることは、中国からの伝統で、御書のなかでも、しばしば出てくる。一般的な意味でいわれる「聖人」とは、その人の言動がおのずから人間としての崇高な理想をあらわしており、それが後世の人々に対して手本となるような存在をいう。「賢人」とは、そうした聖人の理想やその教えを受けついで、これを世の人々のために説き伝える人のことをいう。
 したがって「聖人」が、色心・言行ともに崇高な徳をあらわしているような場合に名づけられるのに対し、「賢人」は〝言〟と〝行〟とが必ずしも一致していない場合がある。この違いを踏まえて、大聖人はこのように述べられているのである。
 すなわち、言行共に高徳であるべき〝聖人〟といえるような人は、人々の心がすさみ、生命が濁りきっている世の中では、まず存在しがたい。「且くは」とは、ある意味で「理想にもえ、情熱にあふれた青年の時には」とも読める。その若い間は、理想をかかげ、そのように振舞いもするが、四十歳、五十歳と年をとってくるにつれて、熱もさめ、理想もどこかへ消えて、自己の生存のため、名聞名利のために振舞うようになってしまう。「やけくだけて灰となる」のである。
 また〝賢人〟の場合は、言葉で理想を説けばよいのであるから、その意味では、いつまでも〝賢人〟でいることはできる。しかし、濁世にあっては、とうてい、自らの言うとおりに自ら行動することはできず、人々も、実行不可能であることを知って、やがては、その言葉にも耳を傾けなくなってしまうであろう。
 このことを通して大聖人が教えられていることは、そうした濁世にあっては忍耐が大事であるということである。短気を起こして自己の主張を通そうとしても、そのために世間の邪悪な攻撃を激化させ、集中させることになり、自ら崩れ去っていくばかりだからである。正義を貫くのに忍耐などということは卑劣であるように受けとられるかも知れないが、六波羅蜜のなかにも〝忍〟があげられているように、また「忍辱の鎧を着て」と教えられるように、正義を貫くためにこそ〝忍〟が大事になってくるのである。
日蓮と法華経とを信ずる人人をば、前前彼の人人いかなる事ありとも、かへりみ給うべし
 日蓮大聖人は人法一箇の御本仏である。ゆえに法華経すなわち南無妙法蓮華経の大法と並べて〝日蓮〟と名を示していらっしゃるのである。末法万年において、否、久遠元初以来のいつの時代においても、宇宙のどこにあっても、妙法と連ねて、自分のために命をかけ、信じ通した人は尊いといい切れる人は、日蓮大聖人以外にはない。
 もとより、人間の生命は尊厳であるから、誰びとであれ、その生命を尊び、生命を守るために自らの生命をなげだすことは、人間として最も尊い行為である。しかし、自分のためにと自らこのように言う資格ある人は、人法一箇の仏以外にはありえないのである。もし、大聖人以外にそのように言い他人に強制する者があったとすれば、それは、たとえばヒトラーのような独裁者の論理であろう。このように、人間はみな平等に尊い存在であって、一人の人間のために、生命と人間としての誇りを犠牲にさせられるようなことがあってはならないのだという徹底した人間主義のみが、ファシズムの危機に陥ることを防ぐ、唯一の根本的なブレーキなのである。
殿は腹悪き人にて、よも用ひさせ給はじ。若しさるならば、日蓮が祈りの力及びがたし
 大聖人の愛弟子を思う慈悲は無限であり、その幸せを祈る力は絶大である。しかし、それを受ける弟子が、真に大聖人を信じ、かつ大聖人の教えどおりに実践しなければ、大聖人の慈愛も、祈りの力も、あらわれることはない。いわゆる大聖人の慈愛は〝仏力〟であり、その祈りの力は〝法力〟である。弟子の大聖人を信ずる力は〝信力〟であり、教えどおり実践する力は〝行力〟である。仏力・法力といえども、信力・行力により、それに応じてあらわれるのである。信力・行力が無限大であれば、無限大の仏力・法力があらわれる。
 したがって、秘められた仏力・法力は絶対的であるが、それがどれだけあらわれるかは、信力・行力によるのであり、相対的なものなのである。仏の力、仏法の力が絶対だというのも、この関係をよくわきまえて理解されなければならない。なにもしないで、仏力・法力が自らあらわれ、働くということはない。それでは〝人間不在〟であり、これは、全知全能の神の恣意的な力の発現を説く一神教的宗教の特質である。仏教は、人間を焦点においた、人間主体の、全くこれらとは異なる偉大な宗教なのである。

1172:14~1173:02 第五章 主君の信頼は法華経の故なるを示すtop
14                                               竜象と殿の兄
15 とは 殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし 天の御計いに殿の御心の如くなるぞかしいかに天の御心に背かんとは
16 をぼするぞ設い千万の財をみちたりとも 上にすてられまいらせ給いては 何の詮かあるべき・已に上にはをやの様
17 に思はれまいらせ水の器に随うが如く こうしの母を思ひ老者の杖をたのむが如く・ 主のとのを思食されたるは法
18 華経の御たすけにあらずや、 あらうらやましやとこそ御内の人人は思はるるらめ・ とくとく此の四人かたらひて
1173
01 日蓮にきかせ給へさるならば強盛に天に申すべし、 又殿の故・御父・御母の御事も左衛門の尉があまりに歎き候ぞ
02 と天にも申し入れて候なり、定めて釈迦仏の御前に子細候らん。
-----―
 竜象房とあなたの兄は、あなたのためには悪い人であった。そこで諸天の御計いによって、あなたの思う通りになったのである。しかるに、どうしてあなたは諸天の御心に背こうなどと思われるのであろうか。たとえ千万の財宝を得たとしても、主君にすてられてしまっては、何の意味もないではないか。
 すでにあなたは主君からは親のように思われ、ちょうど水が器に随い、仔牛が母を慕い、また老人が杖をたよりにするように、主君があなたのことを信頼されているのは、法華経の偉大な力に守られているからにほかならないではないか。同僚の人々は、定めて羨ましいと思っていることであろう。早くこの四人と語りあって味方とし、その由を日蓮に聞かせなさい。そうするならば、日蓮もあなたのために、強盛に諸天の加護を祈りましょう。
 またあなたのなき御父、御母のことも「左衛門尉が、非常に歎いております」と、諸天に申しいれてあります。必ず御本尊のおぼえもめでたいことであろう。

殿の兄
 金吾の兄。法華経を信ぜず、あるいは竜象房に心をよせていたとも思われるが不詳。
―――
故御父御母
 金吾の父・中務頼員と母のこと。頼員は、北条朝時と、その子光時の二代にわたってつかえた。寛元4年(1246年)に光時が幕府の実権を奪おうとした陰謀に関係しているとの罪で、伊豆に流されたとき、多くの家臣が離れていったなかにあって、伊豆の国まで供奉した忠臣である。建長5年(1253)3月28二日になくなっている。母は、文永7年(1270)7月日に没しており、金吾とともに法華経を信じていたと思われる。
―――――――――
 四条金吾に敵対していた人々が敗れ、主君・江馬氏も金吾を頼らざるを得ない事態になってきていることは、すべて諸天のはからいでそうなってきたのである。したがって、いま短気を起こしてしまったならば、この諸天のはからってくれたことを壊すことになる。しかも、主君に捨てられてしまうということは人間としての敗北である等々と、さらに具体的に指導されている。ここは、とくに、これまで積みかさねられてきた一つ一つの勝利の成果を大事にしなければならないことを教えられている。

設い千万の財をみちたりとも、上にすてられまいらせ給いては、何の詮かあるべき

 「上にすてられる」とは、主君・江馬氏からの信用を失ってしまうことである。四条金吾のように封建的な主君に仕える立場の場合には、それは一人の封建君主であるが、広く現代的な意味からいうと〝上〟とは社会にほかならない。したがって「上にすてられる」とは、社会的信用を失うということと理解すべきである。つまり、この文は、物質的な富よりも、社会的信用、一個の人間として、社会から信頼されることが大事であることを教えたものなのである。
 どんなに巨富を積もうと、社会にあって人々から信用されない人は、寂しい。人から信頼されるということは、精神的な豊かさをもたらす。物質的な豊かさは、決してそのまま精神的な豊かさをもたらしはしない。もちろん、物質的な豊かさも、ある面で精神的豊かさを助ける条件にはなりうる。しかし、ほんとうの精神的豊かさは、物質によってではなく、人間の心によってのみもたらされるのである。ここに「社会的信用」を強調される所以がある。
とくとく此の四人かたらひて日蓮にきかせ給へ。さるならば強盛に天に申すべし 
 「此の四人」とは、すでに述べられてきたように、信心の故に地位を失い、いま四条金吾の身辺警護にあたっている人々である。したがって、四条金吾と生死を共にする人々ともいえる。大聖人は、四条金吾の無事を祈っておられるわけであるが、それには、金吾と常によりそい、生死を共にする人々と金吾が異体同心でなければならない。
 このゆえに、四条金吾が、これらの人々と語り合い心のつながりを固めて、それを大聖人に報告するように指示されているのである。「異体同心事」の「異体同心なれば万事を成し」(1463-02)の有名な御文を思い浮かべるべき御指導である。 

1173:03~1173:09 第六章 同じく地獄なるべしの事top
03   返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世
04 にか忘れなん、 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・ いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも
05 用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、 日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・を
06 はしまさずらめ、 暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが
07 如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな。
-----―
 返す返す今も忘れられぬ事は、文永八年九月十二日、竜口で日蓮が首を切られようとした時、あなたが私の供をし、馬の口にとりついて、泣き悲しまれたことである。これはいかなる世にも忘れることはできない。もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたといっしょに地獄へ入ろう。
 日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇の中に月が入って輝くようなものであり、また湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいてとかしてしまうようなものであり、また太陽に闇を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄即寂光の浄土となるであろう。
 もしこのことを少しでもたがえて取り返しのつかないことになったならば、日蓮をお恨みになってはなりません。
-----―
08   此の世間の疫病は・とののまうすがごとく年帰りなば上へあがりぬと・をぼえ候ぞ、十羅刹の御計いか今且く世
09 にをはして物を御覧あれかし、
-----―
 今、世間に流行している疫病は、あなたのいわれるとおり、年が改まれば、身分の高い人々にまでも及ぶことであろう。これも十羅刹女の御計いであろうか。今しばらくは、世間の様子をごらんなさい。

頚切れんとせし時
 文永8年(1271)9月12日、大聖人が竜口で首を刎ねられようとしたとき、四条金吾が大聖人の馬の口にとりつき、殉死の決意を示したこと。
―――――――――
 竜口の法難に際して四条金吾が日蓮大聖人に示した誠意に対し、御自分もまた、もし四条金吾が地獄へ行くようなことがあれば共に行くとの、真心あふれる心情を吐露されている。弟子を思う測り知れない慈愛がうかがわれるとともに、もし、大聖人が四条金吾と地獄へ行くならば、釈迦仏・法華経も一緒であり、したがって、地獄は寂光土となるであろうと、御本仏としての大確信がうかがわれる。
設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば……同じく地獄なるべし 
 四条金吾が大聖人の受難のときに示した真心に対し、いま四条金吾が苦難にあるとき、同じ真心を示されているのである。そこには、等しい人間としての真心の交流がある。封建的な君臣や師弟の関係にあっては、君主や師匠は臣下・弟子に、自分に真心・忠誠を尽くすことを求めはするが、臣下・弟子の苦難に対して自らを捧げようとはしない。大聖人の師弟観は、それとは根本的に異なる。共に、等しい人間としての基盤に立って、互いに真心を尽くすのである。ここに、人間の尊厳を根底とする仏法の大精神があることを知らなければならない。
 また、この御文から、師弟のつながりというのは「師が地獄へ行くなら自分も地獄へ」という弟子の師に対する隨順を意味するとともに、「弟子が地獄へ行くなら自分も地獄へ」という師匠の弟子に対する慈愛をも意味することが明瞭である。この両方が相まって、真の師弟不二といえるのであり、師が弟子に一方的に献身を求め、自らの我がままを押し通すのは、封建的な狭い師弟観であって、仏法の師弟観ではないのである。
 さらに、この関係は「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と断言できるほどの、正しい法を根本にしているとの確信に裏づけられたものでなければならない。明らかに師が誤った仏法を用いている場合には、これに従わず、正しい法を求め、ひるがえって師を正法に導くことが真の弟子の道である。大聖人が道善房に対して立たれた関係がこれであって、師弟関係をあくまでも重要視していくのが仏法だとすれば、大聖人が道善房のもとを離れることはありえなかったであろう。
 いずれにしても、正しい法を究めるための師弟関係であり、この法を究めるということにおいて師弟は平等であり一体であり〝不二〟となるのである。
日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ 
 御本仏としての烈々たる確信を秘めたお言葉である。単に、純粋な師弟の契りがあるところに「釈迦仏・法華経がある」ということではない。法然とその門弟の契りがいかに深く純粋であろうと、彼らの行くところは地獄であり、そこに待っているのは地獄の獄卒である。妙法を受持した大聖人と四条金吾なるが故に、その行く所が、かりに地獄であっても、そこには必ず釈迦仏・法華経も隨順しているはずであり、したがって、そうした地獄は、もはや地獄ではありえず、寂光の浄土となるのである。「法妙なるが故に人貴し」であり、「人貴きが故に所尊し」の原理である。
 このことはまた、地獄といい、仏界といっても、固定的に定められてあるものではなく、そこに住する衆生の生命の反映にほかならず、その衆生の生命は、受持する法によって決まることをあらわしている。すなわち、生命論の見地から、その一端の原理を示された文とも拝せられるのである。

1173:09~1173:16 第七章 心の財を積むことを勧むtop
09                 又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給うな、若しさるならば賢人に
10 は・はづれたる事なり、 若しさるならば妻子があとに・とどまりてはぢを云うとは思はねども、男のわかれのおし
11 さに他人に向いて我が夫のはぢを・みなかたるなり、 此れ偏に・かれが失にはあらず我がふるまひのあしかりつる
12 故なり。
-----―
 また世間が過ごしにくいようなことを歎いて人に聞かせてはならない。もし、そのようなことをするならば、賢人にはあるべからざることである。もし、そんなことをすると、後に残された妻子が、自分で恥をいうつもりではないけれど、夫との別れの惜しさに、他人に向かって自分の夫の恥をみな語ってしまうようなことになるであろう。これは、ひとえに妻の失ではなく、むしろ夫の振舞いが賢明でなかったからである。 
-----―
13   人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生
14 きて一日なりとも 名をあげん事こそ大切なれ、 中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも 世間の心
15 ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、 穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の
16 財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし。
-----―
 人間として生まれてくることは、難しいことであり、爪の上の土のように、わずかな存在である。また、たとえ人間として生まれてきても、その身を持つことは難しく、太陽が昇れば、すぐ消えてしまう草の上の露のようにはかないものである。たとえ、百二十歳まで長生きしても、汚名を残して一生を終わるよりは、生きて一日でも名をあげる事こそ、大切である。
 中務三郎左衛門尉は、主君のためにも、仏法のためにも、世間に対する心がけについても、非常に立派であったと、鎌倉の人々の口々にいわれるようになりなさい。穴賢穴賢。蔵にたくわれる財宝よりも、身の財がすぐれており、その身の財よりも、心に積んだ財が第一である。この文を御覧になってから以後は、心の財を積んでいきなさい。

人身は受けがたし、爪の上の土
 涅槃経巻第三十三迦葉菩薩品第十二の一の文。「爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、『是の土多きや、十方世界の地の土多きや』、迦葉菩薩、仏に白して言さく、『世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり』、『善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、諸根完具して中国に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、十方界の所有の地土の如し。善男子、禁戒を護持して精勤して懈らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧鬘物を用ひず、一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは爪上の土の如し』」とある。すなわち、人間として生まれてくることは、なかなか難しく、それは、あたかも爪の上にのった土のごとく、わずかな存在であるということ。 
―――
人身は持ちがたし草の上の露
 受けがたい人の身として生まれても、その身を持つことはむじかしい。あたかも太陽が昇れば、すぐに消えてしまう草露のようなものであるということ。
―――
百二十まで持ちて
 啓蒙には、金光明記の文を引いて次のようにでている。すなわち、寿命には上寿、中寿、下寿と三品あり人寿120歳というのが、釈尊当時の上寿にあたる。そして中寿が80歳、下寿が40歳である。したがって、百二十歳というのは、当時、もっとも長寿と考えられていたようである。
―――――――――
 男として、武士として、あとに恥を残してはならないことを教えられている。
 苦境におちいったとき、人間はその原因を社会や周りの人に求め、その悪口をいうことに慰めを見出そうとする。まして、四条金吾の場合、たしかに彼に罪はなく、ひとえに周囲の怨嫉によって、苦難にあっているのである。しかし、讒言した同僚を憎んだり、主君を恨んだり、世間の愚痴を言ったりするのは、却って自らの恥を残すのと同じだと、戒めておられるのである。
 これは、至難のことである。ふだんは立派なことをいっても、自分自身が嵐の中に身をさらすにいたると、相手を憎み、周囲の人々を怨むものである。だが、一切は自らの内にその原因があるとして、三世の生命論の上から自分の宿業を見つめ、さらに、これを試練として自己を磨き、より大なる成長を期することこそ、真実の人間の生き方であり、仏法を実践する人の在り方なのである。
百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ 
 人生は長いことが尊いのではない。短くとも、それをいかに内容あるものとするかが大切である。どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが肝要なのである。
 仏法の原理からいえば、寿命の長さは過去の宿命によるものである。事実、自殺という特殊な場合を除いて、人の寿命はその人自身にも、どうにもならない。もちろん、これも他人から与えられたり、超越的な神にとって定められたのではなく、自分自身の過去の行動が決定したのであるが、少なくとも現在の自分の自由意思を越えたものであるという意味では〝与えられた〟ものといえる。
 この〝与えられた〟人生の枠のなかで、自由意思のできることは、その人生をいかに誠意と情熱と英知をもって生き、充実せしめるかということである。そして、人間は、この内容の充実性をもって、自分の人生を、ということは自己の生命を、限りなく尊いものにすることができるし、逆に、限りなく卑しいものにしてしまうこともありうるのである。
 この御文で「名を腐して」「名をあげ」とおっしゃっているのは、世間的な名聞ということではなく、人間としての尊さをいわれているのである。それは、あとの「蔵の財・身の財・心の財」のお言葉から、充分に理解されるところであろう。
蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり 
 人生において大切なものは何であるかを、簡潔な言葉で示されている。「蔵の財」とは文字通り、物質的な富であり、金銭等である。物質的な富は自分の外にあるものであり、人間としての幸福という観点からみると、一つの条件にはなりうるが、浅く、はかないものにすぎない。むしろ、物質的な豊かさが、本当の人間としての豊かさをそこなっている場合も少なくない。
 「身の財」とは、肉体の健康や、身についた技術、あるいは社会的な地位等がそれであろう。これらも、幸福への条件の一つではあるが、全てではないし、かえって、これらを追い求めた結果は、人間としての貧しさをもたらす場合が少なくない。まして、死んでしまえば、蔵の財と同様、身の財も、何の役にも立たないのである。
 「心の財」とは、自己の生命の内に築いた豊さである。人々のために、どれだけ尽くしたか、自己を精神的・人間的にどれほど成長させたか、ということといえよう。そして、より根本的には、永遠の仏法を自分の内に体得し、宇宙大の生命を覚知することである。これのみが、死にのぞんでも悔いのない財となるのであり、人間としての揺るぎない幸福と、他の人々に限りない暖かみを与えていく、真の豊かさをもたらしてくれるのである。
 したがって、何よりもめざさなければならないのは「心の財」を積むことであり、「身の財」といい「蔵の財」といっても、「心の財」を豊かにするための手段にほかならないことを弁えていくことなのである。「身の財」「蔵の財」が、真に〝財〟でありうるのは、「心の財」につながっているときであり、逆に「心の財」を貧困にするような働きをしているときは、それは〝毒〟であることを知らなければならない。

1173:17~1174:13 第八章 崇峻天皇の事top
17   第一秘蔵の物語あり書きてまいらせん、 日本始りて国王二人・人に殺され給う、其の一人は崇峻天皇なり、此
18 の王は欽明天皇の御太子・聖徳太子の伯父なり、 人王第三十三代の皇にて・をはせしが聖徳太子を召して勅宣下さ
1174
01 る、汝は聖智の者と聞く 朕を相してまいらせよと云云、 太子三度まで辞退申させ給いしかども頻の勅宣なれば止
02 みがたくして敬いて相しまいらせ給う、 君は人に殺され給うべき相ましますと、 王の御気色かはらせ給いて・な
03 にと云う証拠を以て此の事を信ずべき、 太子申させ給はく御眼に赤き筋とをりて候人にあだまるる相なり、 皇帝
04 勅宣を重ねて下し・いかにしてか此の難を脱れん、 太子の云く免脱がたし但し五常と申すつはものあり此れを身に
05 離し給わずば害を脱れ給はん、 此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云、 且く
06 は此れを持ち給いてをはせしが・ややもすれば腹あしき王にて是を破らせ給いき、 或時人・猪の子をまいらせたり
07 しかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せあ
08 りしかば、太子其の座にをはせしが、 あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん、此の御言は
09 身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて 御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、 有人蘇我
10 の大臣・ 馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒・ 直磐井と申す者の子をかたらひて王を害し
11 まいらせつ、 されば王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、 孔子と申せし賢人は九思一言とてここの
12 たびおもひて一度申す、 周公旦と申せし人は沐する時は三度握り 食する時は三度はき給いき、たしかに・きこし
13 めせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ。
-----―
 最も大事な秘蔵の物語がある。ここに書いてさしあげよう。
 日本国が始まってから、二人の国王が臣下に殺されている。その一人は崇峻天皇である。
 この崇峻天皇は、欽明天皇の太子であられ、聖徳太子の伯父である。第三十三代の天皇であられたが、ある時聖徳太子を召して、「汝は聖者であると聞く。朕の相を占ってみよ」と仰せつけになられた。聖徳太子は三度までも辞退されたが、是非にとの仰せつけにやむをえず、つつしんで相を占われた。そして「陛下は、人に殺される相がおありです」と申しあげた。すると天皇の顔の表情がかわられ、「いかなる証拠をもって、この事を信ずべきか」と仰せになった。太子は「御眼に赤い筋がとおっております。それは、人にあだまれる相でございます」と申された。
 天皇は重ねて「どのようにすれば、この難をのがれることができるか」と仰せられた。太子は「まぬかれることは困難です。ただし、仁・義等の五常という兵があります。それを御身からはなされなければ、難をまぬかれることができるでしょう。この兵を仏典では、忍の行といって、六種波羅蜜の修行の一つとしております」と答えられた。
 天皇は、それからしばらくは、忍辱を持っておられたが、ややもすれば、気の短い御方であったので、これを破られた。ある時、猪の子を献上した人がいたが、その時天子は、笄をぬいて、猪の子の眼をずぶずぶとつきさし、「いつの日か憎いと思う奴を、このようにしてやろう」と仰せられた。聖徳太子はその座におられたが「ああ、なげかわしいことである。陛下は、必ずや人に恨まれるでしょう。今のこの御言葉は、自分を害する剣です」といわれて、多くの財宝を取り寄せて、そのとき天皇の前にいてこの言葉を聞いた人々に、このことを口外しないように引出物として与えられた。しかし、ある人が大臣の蘇我馬子にこの事を語ったので、馬子は自分のことであると思い、東漢直磐井という者の子、直駒に命じて、天皇を殺害させてしまったのである。
 されば、天皇の御身であっても、思っている事を、たやすく言わぬものである。
 孔子という賢人は、九思一言といって九度思索して後に、一度語ったという。また周公旦という人は、髪を洗っている時、客人があれば、途中でも髪をにぎって迎え、また食事中であれば、口中の食を吐いてでも、客を待たせず、応対した。このことをしっかりお聞きなさい。私の言を聞かず失敗して、私を恨まないようにしなさい。仏法というのは、このことをいうのである。

日本始りて国王二人、人に殺され給う
 もう一人は安康天皇。安康天皇は第十九代允恭天皇の第二皇子で、人の讒言を信じて兵を起こし叔父の大草香皇子を殺した。だが翌々年に父の仇として、その子の眉輪王に暗殺された。
―――
崇峻天皇
 (~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
―――
崇峻天皇
 (~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
―――
欽明天皇
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
聖徳太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
人王第三十三代の皇 
 普通は第三十二代とする。三十三代とあるのは、第十四代仲哀天皇の后・神功皇后を第十五代に数えた場合のことである。
―――
聖智の者
 凡人の及ばない心理を見通す智慧のある者をいう。
―――
五常と申すつはもの
 五常は儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。 この五常を欠くことなく振舞っていけば、身を災いから守られるので、兵士にたとえてつわものという。
―――
内典
 仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
―――
忍波羅蜜
 忍辱の心を保つ修行。この修行を 積むことが同時に悟りに至る行為でもあるのでこう呼ぶ。
―――
六波羅蜜
 「波羅蜜」は梵語、パーラミター(Pāramitā)の音写。彼岸と訳す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧波羅蜜の六行があり、その行は万差であるから、六度万行という。菩薩等がこの六法を修して生死の彼岸よりよく涅槃の彼岸に至るということである。爾前経においては菩薩の歴劫修行を説いてきたが、無量義経にいたって「末だ六波羅蜜の修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれている。すなわちこれは、三大秘法の御本尊の功徳をたとえ、即身成仏を説いている。
―――
こうがい
 笄。髪掻の音便。髪をかきあげるために用いた細長い道具。銀または象牙、竹、角などで、もとを平たく、末を細長く作り、髪の乱れ、髪の中が痒いときに直すために用いた。男女とも常にこれを身に帯し、婦女は、これを懐にし、男子は刀に添えていた。
―――
ひきで物
 引出物。饗宴の時、主人から来客に贈る物。古く、馬を庭に引き出して贈ったことから、こうよばれる。
―――
蘇我の大臣・馬子
 蘇我馬子のこと。(~0626)古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷 の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 物部守屋と朝政をとった。崇仏の可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子,諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し,朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池に小島があったことから島大臣 ともいわれた。
―――
東漢直駒・直磐井
 蘇我馬子が使った忍者。東漢やまとのあや氏で姓は直、父は東漢直磐井いわいとされる。崇峻天皇5年(592)11月、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害する。しかしその月に、馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって処刑された。
―――
孔子
 (前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
―――
周公旦
 周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
―――――――――
 四条金吾の短気を戒めるために、短気のために身を滅ぼした崇峻天皇の例を引かれたのである。冒頭に「第一秘蔵の物語あり」と断わられているのは、もちろん、この逸話自体、日本書紀のなかに記されていることではあるが、天皇たるものが臣下によって殺される話は、あまり公にすべきではないという、雰囲気があったからであろう。
 また、このエピソードを引かれている大聖人の考え方について、はっきりさせておかなければならない点がある。それは、天皇といえども、人間であって、宿命の支配はまぬかれない。その宿命は、その人の生きる上での心がけによって変革できるものだが、守るべき道理に則らなければ、宿命に破れてしまう、ということである。そして、この宿命と道理という問題は、善悪を超えた、より深い次元の法なのである。
 このことは、前の「四条金吾殿御返事」でも、崇峻天皇を害した蘇我馬子について「高挙をなして」と、その非道を指摘されている文からも、うかがえる。崇峻天皇のほうが正しかったとしても、それは、この場合は、別の問題である。同じく、四条金吾の場合も、彼に間違っている点はない。だが、もし短気を起こして耐え忍ぶことを忘れたならば、わが身を滅ぼすことになるであろう。いわゆる政治的な正邪の問題ではなく、生き方の是非を問題にされているのである。
されば王位の身なれども、思う事をばたやすく申さぬぞ 
 王となるということは、過去に大善根を積んだ故であるという考え方が仏法にはある。これは、ヨーロッパで、王は神の信頼と祝福によって権威づけられるのと似ている。ただ、ヨーロッパの場合は、その原因を〝神〟に求めるのに対し、仏法は、王自身の過去の行ないにあるとする点が異なる。
 だが、いずれにせよ、王たる者は、そうした善根があるのだから、仏法的にいっても諸天に守られるはずだということになる。事実、そのように論じられている御書も少なくない。しかし、それは無条件で、どんな非道な振舞いをしても、そのようになるというのではなく、言動に対して充分、心を配り、身を修めなければならない。いわゆる、王としてふさわしい徳を身につけ、実践しなければならないのである。
 それは、王たる者は、権力をもつと共に、それだけ大きい責任を担っており、その言動は、人民にとって手本であると同時に、政治として実行されれば人民の生活を左右する力をもつからである。故に、自分の思うことも軽はずみにはいわないのであり、もし無思慮に放言するようなことがあれば、人心の動揺を招き、信用を失って人々を離反させ、ひいてはわが身を滅ぼすもととなるのである。
 ここに〝王〟といわれているのは、皇帝、天皇、国王等の過去の権力者に限るものではなく、今日の政治家等、社会的権力をもつ者、すべてに通ずる。自らの短慮、浅薄、軽率、あるいは我儘によって、人々の心が離れたからといって、それを人々のせいにするのは誤りであり、自分をこそ最も反省しなければならない。この、一個の人間としての、自己の身の処し方こそ、権力をもつ者にとっても、なにより大事であり、大聖人が強調されている点でもある。故に「仏法と申すは是にて候ぞ」と念を押されているのである。

1174:14~1174:17 第九章 人の振舞いの大切なることを示すtop
14   一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈
15 尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。
16       建治三年丁丑九月十一日                       日蓮花押
17     四条左衛門尉殿御返事
-----―
 釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。
  建治三年丁丑九月十一日        日 蓮  花 押
   四条左衛門尉殿御返事

不軽品
 法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
―――
出世の本懐
 仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
―――
人の振舞
 人間としての生き方。人間らしい生き方。行動。
―――
はかなき
 変化して定まらない、頼りないこと。
―――――――――
 本抄では、苦境にある四条金吾に、細かい点にいたるまで種々指導されるとともに、一貫して、短気を戒め、忍耐づよく、賢明な行動をとらなければならないと教えられたのであるが、それがまた仏法の極理でもあることを示されているのである。
一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり 
 釈尊一代五十年の説法の肝心は法華経である。そして法華経の修行の仕方について教えている肝心は、不軽品なのである。
 不軽品を「法華経の修行の肝心」といわれているのには、多くの意味が考えられるが、その幾つかを、ここでとりあげておきたい。
 第一は、不軽という名が示すように、また彼が唱えた二十四文字の法華経にも明らかなように、一切の人々をその内奥に仏性が秘められているが故に、軽んぜず、敬うということである。それは、すべての人に、人間としての尊厳性を認めることであり、自らが尊敬することによって、相手に自身の内なる尊厳性を自覚させ、顕現させるのである。
 既存のあらゆる宗教がおちいった誤ちは、宗教指導者が自己を特別に権威づけられた存在であるかのように思いこみ、民衆を卑賎で愚かで、したがって、羊の群のように指導者に従順であるべき存在としたことであった。ここでは、尊厳であるのは、指導者のみであって、他は、この指導者とのつながりの厚薄によって、さまざまな〝価値〟をもつにすぎない。真の仏法は、これを根本的に打ち破り、すべての人が、その人自身の内に尊厳性をもっているという前提から出発するのである。
 第二は、不軽菩薩の実践は、人々の生命に直接に対決していくものであったため、激しい反感を呼び起こした。悪口を浴びせられ、杖や石で打たれる等の、あらゆる迫害となってあらわれたのである。しかし、不軽菩薩は、そうした人々の生命にも仏性という尊厳なる実体が内在することを覚知していたが故に、それを耐え忍んだのである。力で迫害してきたからといって、これを恨むのでなく、法の力を根本とし、さらに大きい慈悲によって包容していったのである。
 第三は、正しい仏法に反対し、その実践者を迫害した者は、必ず罰を受けるが、のちには必ず救われる。この〝救い〟とは成仏という最も深く大きいものであって、罰はこれに較べてみると、千劫阿鼻獄という大変なものであっても、はるかに小さいのである。すなわち、成仏という絶対的な救いのために、反対する人々にも、あえて説き伝えるのである。
 不軽品に示されている、これらの実践・修行の原理は、とりもなおさず、末法の日蓮大聖人の仏法の実践・修行のあり方を教えているのに他ならないことを知るべきである。
不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞ 
 不軽が、あらゆる人を敬い礼拝したということは、仏法というものが、ありのままの人間を尊重し、人間としての振舞い、人間存在を至尊のものとするということを象徴しているのである。したがって、釈尊が説こうとした究極の真理も、人間の尊厳を明確にし、これを樹立することにあった、ということである。
 一代の肝心である法華経が説いていることは、声聞の弟子をはじめ、九界の一切衆生の生命に仏性が内在しているという真理であり、この内在する仏性をいかにして顕現するかである。しかも、仏性を顕現したからといって、特別な存在になるのではなく、九界もそのまま持続しているのであり、なんら普通の人間と異なるものではない。
 ということは、仏性を顕現し成道するということは、人間としての完成ということであって、人間とは別のものになるのではない。この仏性の覚知を基盤としてあらわれてくる生命の特質は、法華経の最後の品と、結経の普賢経に象徴されるように、普賢すなわち、人生のあらゆる面に発揮される広大な英知、賢明さなのである。
 ゆえに「賢きを人といい、はかなきを畜といふ」と結ばれているのである。
 さらにいえば、この「賢き」とは、いわゆる外の世界に対する場合の〝賢さ〟〝知恵〟よりも、むしろ、自己自身に対した場合の〝賢さ〟に重点がある。四条金吾の短気を戒め、忍を強調されているのは、この自己に対する賢明さを意味しているからである。

1170~1174    崇峻天皇御書(三種財宝御書)2009:10・11・12月号大白蓮華より。先生の講義top

人の振る舞いこそが仏法の真髄
 仏法は「人の振る舞い」の中にあります。
 「法」は目に見えない。しかし、「人の振る舞い」を通して見ることとはできる。仏法を行ずる人間の中にこそ、確実に「法の真価」が発揮されているからです。
 ゆえに、リーダーは人間の中に飛び込み、一人一人と語り、喜びも悲しみも共にしながら、手と手をとりあって一緒に前へ前へと進んでいくのです。友に希望と励ましを贈り、苦難に立ち向かう勇気を吹き込み、悪と戦い、皆を守り、尊き、慈しんでいく。そうした現実の人間としての信念の振る舞いを離れて、仏法は存在しません。
 妙法流布のために、誰よりも祈り、誰よりも戦う人こそ、仏法の真の指導者といえます。仏とは、戦う人の異名です。真剣な民衆救済の「人の振る舞い」がある限り、仏法は「生きた宗教」として永遠に輝きを放っていきます。
 反対に「人の振る舞い」の息吹がなくなれば、色あせた「死せる宗教」となってしまいます。
 釈尊も、日蓮大聖人も、民衆救済のために、行動する「人の振る舞い」を厳然と残されました。常に、「民衆の中へ」「人間の中へ」と。万人の仏性を開く対話の連続であられました。
 もちろん、人間の行動自体は千差万別であり、振る舞いにも十界の境涯が現われます。ここでいう「人の振る舞い」とは「万人を敬う」という仏界の生命が発揮された行動にほかなりません。また、現実の九界の世界において、自他ともの幸福を目指し、成長していこうとする一切の所作も、ここで示す「人の振る舞い」といえます。
 とりわけ、一切衆生の仏の生命を開いていく「人を敬う振る舞い」とは、不軽菩薩の振る舞いを指します。それは同時に、民衆救済のために悪と戦い、善を広げる日蓮大聖人のお振る舞いであられます。
 広宣流布に励む「地涌の菩薩」一人一人の行動も、その振る舞いと同じです。
 仏と同じ「人を敬う」行動を貫く一人の人間、その人間に光を当てるのが仏法です。
 今回から拝する「崇峻天皇御書」(三宝財宝御書)は建治3年(1277)9月に著されたお手紙ですが、大聖人は四条金吾に対して、苦境においてこそ「人の振る舞い」が重要であることを示され、賢人として生き抜く意義をおしえられています。
 仏法者として、いかに正しく行動していくのか。苦境を打ち破るために、いかに強く賢く振る舞うべきか、この真髄の生き方が本抄の隨所に綴られています。私たちは広布と人生の勝利の糧として、日蓮大聖人が示された賢人の生き方を深く学んでいきたい。
崇峻天皇御書    建治三年九月    五十六歳御作   与四条金吾
01   白小袖一領.銭一ゆひ・又富木殿の御文のみ・なによりも・かきなしなまひじきひるひじき.やうやうの物うけ取
02 りしなじな御使にたび候いぬ
-----―
 白小袖一枚、銭一結、また富木殿のお手紙にある果物、なによりも柿と梨、また生ひじき、干ひじき等の様々の物を受け取り、品々をお遣いの方から頂戴しました。

「誠意」が、「誠実」が逆境を越えるバネに
 「大難が雨のように降りそそいでくる」御書にこう表現されているように、当時の四条金吾は、まさしく苦境の真っただ中にありました。本抄を頂く3年前に、金吾は主君である江間氏を折伏しました。それをきっかけとして、主君が金吾を遠ざけるようになります。以来、同僚たちから讒言や悪口が相次ぎ、命まで狙われるような状況となります。そして、領地替えの内命が下るなど家臣として不遇が続きましたが、金吾は師匠のこまやかな指導を守り、粘り強く信心を貫いていました。
 ところが、建治3年(1277)6月、桑ヶ谷問答を引き金にして、金吾は冤罪によって所領没収の危機に至ります。主君から“法華経を捨てよ、さもないと所領を没収する”と迫られたのです。
 しかし、金吾は迷うことなく信心を選び取ります。すかさず、その決意を認めた誓状を、師匠と仰ぐ大聖人に送りました。大聖人からも電光石火の如き速さで返信が届きます。その中で、あの有名な「一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(1163-15)との指導を頂くのです。
 とともに、大聖人が一貫して四条金吾に強調された御指導は、「へつらってはいけない」という内容でした。「へつらい」は自分の誇り高き魂の破壊に通じます。まして、臆病になって、魔性にへつらうならば、自分の仏性の湧現を閉ざしてしまいます。
 人間を不幸にする魔の働きに対しては、毅然と立ち向かう、堂々たる人間王者の振る舞の前には、魔性は必ず退きます。それは師子王の前に野干は逃げ去り、太陽の光の前に必ず闇は滅するのと同じです。
 少しもへつらうおとなく、威風堂々と生きよ!ここに人間の尊厳の輝きがあることを大聖人は、繰り返し門下に教えられているのです。
 そして、四条金吾の偉さは、常に師匠を求め、師匠の教えのままに真っ直ぐ進んだ点にありました。「師弟不二」の心で戦ったゆえに、四条金吾は大勝利したのです。「師弟」こそ、広布と人生の勝利の原動力にほかなりません。また、この原理は、永遠に変わらざる仏法の方程式なのです。
 四条金吾が、御指導の通り“法華経に傷をつけてはならない”との深い決意で「師弟の道」を歩み出したその時、事態は大きく変化します。主君・江間氏が重い病気にかかり、医術の心得のった金吾はその看護・治療に当たったのです。まさに、再び主君からの信頼を取り戻す大きなチャンスが訪れたのでした。所領没収の危機からわずか数ヵ月後のことです。
 しかし主君との関係における事態の好転の転機が訪れたとしても、本当の勝負はこれからです。加えて四条金吾を取り巻く環境の厳しさは変わらず続き、直ちに解決したわけではありません。同僚たちとの不和。また、兄弟間の仲違い。さらには、背後に極楽寺良観らの陰謀も打ち続きました。
 いずれにしても事態が大きく動き、好転の兆しがあらわれた時だからこそ、油断は大敵である。慎重に、かつ丁寧に解決に向かって前進していかなければならない。これまで以上に、周囲に気を配り、一人の人間としての賢き「振る舞い」によって勝利を決していくことだ。 このように本抄は、事態をどう捉え、どう立ち向かうべきかを、一人の愛弟子に、こと細かく、具体的に手ほどきしてくださった御書と拝されます。
 お手紙の冒頭では、供養の御礼が綴られています。この文面から、大聖人宛に、四条金吾が真心の様々な御供養、さらには、同志から預かった書簡を送られたことがわかります。山深い身延で、これから冬を迎えられる大聖人の身を案じて、あれやこれやと御供養の品々が増えていったのかもしれません。大聖人は、間違いなく届きましたよと御礼を綴られる中で、「なによりも」とか「やうやうの物」と記され、その真心に感謝せています。こうした一つ一つの表現からも、大聖人と金吾の師弟の心の交流が伝わってきます。
 そして本抄は、四条金吾の近況報告を受けて、様々な観点から、これからの生き方を細々と指導されていきます。
 その中で大聖人は「主君からあなたのことを頼りにされているのは、法華経の加護ではありませんか」と金吾の信仰の勝利を讃えられています。と同時に、金吾が周囲から一層妬まれ、身の危険にさらされることを心配され、心を引き締め、身を慎むよう、また、軽率な行動を取らないよう戒められています。
 本抄には、幾多の同志が支えとしてきた御金言が随所に光っております。
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(1173-15)
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174-14)
 「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174-15)
 いずれも、苦難と戦う四条金吾に、逆境を打開する鍵は、どこまでも賢明な行動と人間性にあることを示されています。金吾だけに限りません。私たちにとっても、自分の振る舞いそのものが、信心の証しであり、また仏法勝負の結論となるのです。
 本抄の一節一節には、なによりも、門下を全魂で励ます日蓮大聖人御自身の深き慈愛が込められています。人間を育てる、人材をつくる。仏法者として、これ以上の「人の振る舞い」はありません。
 創立の父・牧口常三郎先生が、ある青年教育者を激励されたことがあります。その人は、地方の出身で、自分の「なまり」が気になって人前で自分の意見を発表することをためらっていたのです。牧口先生は、こう語られました。
 「発音が悪く、なまりがあっても自分らしく精一杯やることが大事です。人はみな、素晴らしい可能性が備わっている。進んで発表する。それが『利』なのだ。それを発表することが、他の先生方にとっても『利』になり、児童の成長に役立って『善』の行動になっていくのですよ。利・善の価値創造を心がけることが創価教育なんだよ」
 「自分らしく精一杯に行っていく」この人間主義の原理は、そのまま仏法の人間主義の原理と一致します。仏法者の「人の振る舞い」の中に、最高の価値創造があるからです。
 人間性の開花こそ、仏法の本領です。人格と人間性の絶えざる向上 すなわち「人間革命」こそが、大聖人の四条金吾に打ち込まれた仏法の正道である、と私は拝察してきました。
02                さては・なによりも上の御いたはりなげき入つて候、 たとひ上は御信用なき様に
03 候へども・ との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞな
04 り候らん、 大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきを
05 えて・さかうる事に候。
-----―
 さて何よりも、主君・江間氏の御病気のことは、嘆かわしく思っております。
 たとえ主君は法華経を信仰していないようであって、その御恩のおかげで法華経を供養しておられるのであるから、その功徳はひとえに主君の病気平癒のための祈りとなるでしょう。
 大木の下の小さな木や、大河のほとりの草は、直接雨にあたることがなく、直接水を得ることがなくても、自然に露を伝え、水気を得て栄えるのである。あなたと御主君との関係も、このとおりです。
-----―
06   此れもかくのごとし、 阿闍世王は仏の御かたきなれども其の内にありし耆婆大臣・仏に志ありて常に供養あり
07 しかば其の功大王に帰すとこそ見へて候へ、
-----―
 あなたと、御主君との関係も、この通りです。
 阿闍世王は仏のかたきでしたがその身内の耆婆大臣が釈迦仏を信じて常に供養していたので、その功徳が阿闍世王に帰したと説かれています。

「内薫外護」の実践で境涯を開く
 ここで大聖人は「内薫外護」という仏法の肝要となる法門を説かれます。
 内薫外護とは、一切衆生の生命に内在する仏性が内から薫発し、外から自己を守り助け「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」(0557-06)
 御本尊に向かって唱題することは、じつは万物と己心に具わる仏性を呼び現し讃嘆することと同義なのです。つまり自分の仏性を顕現させる唱題の音声に応じて、全宇宙のも諸天善神も動き、私たちの生命を護ってくれる。この法理には、ほかの他力本願的な信仰とは一線を画する。日蓮仏法の特質が端的に現れています。
 内薫とは、内発の力です。仏の生命といっても、それを外に求めては内道の教えである仏法にはなりません。煩悩に迷い、生死の苦しみを味わっている自分の中こそ、仏の常楽我浄の生命が厳然と具わっている。その功徳を現実に呼び現すのが日蓮仏法です。
 すなわち、あらゆる人々が仏の性分を具えているがゆえに、一念を定めて祈ることで仏の生命が「よびよばれて」現れる。自分が仏界を薫発しているからこそ、外に守護が現れるのであります。すべては自身の一念によって決まるのです。
 この「内薫外護」の法理に照らせば、いかなる環境も、一念を変革し、自らの仏性を薫発することで、必ず変えることができる。“自らの人生のドラマの脚本を描くのは、ほかならぬ自分自身である”と確信した瞬間から、恐れるものなど一切なくなります。
 大聖人は引き続き、「かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり」(1171-01)と仰せです。「目には見えない徳が、はっきりと現われた徳となる」 妙法を実践すること自体が勝利の道程を歩むことであり、すべての徳が目に見える形に必ず現れてくることは間違いない。そう深く強く確信し、進むときに、自身の未来は予想だにもしない形で大きく開けます。それが、御本仏の御確信であられ、御断言にほかならないのです。
 事実、その大境涯を、学会員の一人一人は確立しているのです。「人を敬う振る舞い」その王者こそ、わが学会員です。法華経の万人尊敬の思想が、まさしく薫習する如く学会員の生き方の中に染みわたっている。
 困った人を見たら放つておけない。心配な人を見たら励まさずにはいられない。苦しんでいる人を見たら抱きかかえずにはおられない。相手の可能性を信じ、善のかかわりあいを深めていく。「人を敬う振る舞い」において、わが学会員こそ、その体現者、体得者です。
それはとりもなおさず、仏菩薩の生命が薫習している証しです。これに勝る功徳はりえません。そこに薫風が限りなく広がります。学会員こそ、庶民の英雄なのです。偉大なる生命の王者なのです。
02     されば御内の人人には天魔ついて前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをささえんがために 今度
03 の大妄語をば造り出だしたりしを御信心深ければ 十羅刹たすけ奉らんがために此の病はをこれるか、 上は我がか
04 たきとは・をぼさねども一たん・ かれらが申す事を用い給いぬるによりて御しよらうの大事になりて・ながしらせ
05 給うか、
-----―
 それゆえ江間家の御内の人々には、天魔がついて、この内薫外護の原理で江間氏一門が正法の家人となることを知って、あなたが法華経を供養することを防ぎとめるために、今回竜象房等の大妄語をつくりだしたのである。ところが、あなたの御信心が深いので、十羅刹女があなたを護ろうとして、主君の病気をおこしたのであろうか。主君はあなたを自分のかたきとは思われていないけれども、ひとたび彼らのいうことを用いたことによって、御病気が重くなり、長引いておられるのでしょうか。

「大妄語」「讒言」に断じて負けるな
 魔の軍勢は、必ず「妄語」を造り出す。捏造や讒言で人を陥れるのが、魔の常套手段であるとの御文です。
 「人を殺して血もみせない武器がある。それはデマを製造することだ。
 中国の文豪、魯迅の言葉です。根も葉もないデマを撒き散らす。それが魔の本質にほかなりません。
 あの竜の口の法難にも「無尽の讒言」によるものでした。
 讒言とは、事実を曲げて人を中傷することです。そして魔は、常にその讒言を用いて、権力者を使って、正義の人を追い落とそうとする。まさに化他自在天の魔性の働きです。三類の強敵の中で一番恐ろしい僭聖増上慢も、常に、嘘で塗り固めた情報を駆使して権力者を動かし、法華経の行者を迫害しようとする。俗衆増上慢や道門増上慢と異なり、自分は決して表に出てこない。自分が直接手をくださない。それが第六天の魔王の正体です。
 大聖人は、この原点に照らして、今回の四条金吾を取り巻く背景に、この魔性がうごめいていることを喝破されています。すなわち、江間家の人々に天魔がついて、四条金吾を迫害するために、大嘘を作り出したのだと仰せです。
 魔は知らずのうちに、私たちの心を破壊しようと働きます。したがって、魔の正体を見破る智慧があれば、魔の力は半減します。そして最後に魔を破るのは勇気です。即、信心の力です。
 内薫外護の原理に照らせば、四条金吾の内薫、すなわち信心の力が強盛だったので、十羅刹女が動き、主君の病気が起きたのであろうかと仰せです。事実、このことを契機に、金吾の状況が打開されていくことは先に述べた通りです。
 諸天善神の働きがいかなる形で出てくるかは、状況によって千差万別です。今回の事件でいえば、主君の江間氏もまた、一時は魔にたぶらかされたので、江間氏の病気という形で現われた。しかし結果として、江間氏自身にとっても、再び金吾を用いるようになるわけですから、本抄の冒頭に述べた原理のまま、法華経の功力に包まれていくことは間違いありません。そのこと自体、明確に江間氏自身の福徳の果報であるといえましょう。
 しかし江間氏の場合と違って、いわば魔を起こさせる元凶には、明快に現罰が起こることが次に示されています。
05      彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ、 和讒せし人も又其の病にをかされぬ、良観は又一重の大科の者
06 なれば大事に値うて大事を・ひきをこして・いかにもなり候はんずらん、よもただは候はじ。
-----―
 彼らが柱とたのむ竜象房も、すでにたおれてしまった。讒言した人々も、また同じ病におかされてしまった。良観はもう一層仏法上の大罪がある者であるから、大事件にあい、大事をひきおこして、法罰をこうむるこたにもなるであろう。よもやただではうまないでしょう。

勝利してこそ「正義」は証明!
 邪悪の徒には栄えなし。 妙法の因果の理法に照らして、正邪の決着は厳然です。
 金吾のことを快く思わない人々が頼みとする竜象房は既に病に倒れてしまい、金吾を讒言した同僚も同じ病にかかってしまった。
 さらに大聖人は、卑劣な悪事を働いていた良観に対しても「重い大罪がある者なので、ただではすまないでしょう」と仰せになっています。
 極楽寺良観は、大聖人が出現されなかったら、その醜悪な本性が暴露されることなく、“生き仏”のように仰がれる一方であった。可能性があります。しかし、祈雨の対決に敗れ、恥をさらした良観は、いっそう巧みに権力者に取り入り、大聖人の迫害を企てます。
 大聖人が身延に入られてからも、虚栄と保身の良観は、絶えず自身の正体が暴かれる不安におびえて、仏の勢力を恐れて臆病な生き方をされていたことでしょう。仮に虚勢をはっても、心はいつもおびえている。魔性としてうごめいていけばいくほど、生命の奥底では絶えず惨めな自分を意識していたことでしょう。
 「デマゴーグの勝利は一時的だ、けれども破滅は永久だ」という言葉があります。デマの扇動者は永久に後悔の人生となり、心の敗残者となるのです。
 この時期、四条金吾が勝利し、池上兄弟が勝利していきます。それはとりもなおさず、陰謀をめぐらし、大聖人門下の迫害をはかった良観の大敗北です。良観の悪事は散々たる失敗に終わりました。いわば、弟子が魔性に追撃の鉄槌を加えたことになるのです。
 「悪は多けれども一善にかつ事なし」(1463-06)
 「一善」です。師弟が一体となれば、必ず、最後には魔を破ることができます。
 魔性を破れば、必ず新たな時代が開幕します。四条金吾のドラマは、魔の勢力に対して、仏の勢力が「人の振る舞い」で勝利した体験談であったといっても、過言ではないでしょう。
 現代にあっても、時代は人間主義を求めています。「人の振る舞い」が、ますます重要になることは間違いありません。
 戸田先生は、よく「誠意、誠実と」いっても、行動をともなわなければ、何にもならないぞ」と語られていました。大事なのは、「行動」です。そして、何よりも私たちの「人の振る舞い」という行動が、世界中で求められ、期待される時代になりました。
 私たちの舞台が開かれるのも、いよいよこれからです。
 「民衆の世紀」へ、
 「女性の世紀」へ、
 「青年の世紀」へ、
 「子どもの世紀」へ、
 「平和の世紀」へ、
 「文化の世紀」へ、
 「教育の世紀」へ、
 「人道の世紀」へ、
 「生命の世紀」へ、
 21世紀はいよいよこれからが本番です。私たちの「人の振る舞い」が輝きを増す時代が到来しました。
-----―
「一人を大切に」そこに仏法者の振り舞いが
 中国の青年代表団と語らった際、創価学会の発展を尋ねられました。そのとき私は、すかさず申し上げました。
 「それは、一人一人の学会員を大切にしてきたからです!」
 これは私の確信であり、ゆるがぬ哲学です。
 「一人を大切にする」 これこそ、日蓮仏法の根本であります。「一は万が母」です。一人の成仏が万人の成仏の道を開くのです。日蓮大聖人は、一人の竜女の成仏が、末代までの女人成仏の道を踏み開けたと仰せになられましいた。これを「挙一例諸ともいいます。
 一人の学会員の中に、全学会員があります。ゆえに、創価学会全体が元気になります。「一対一の胸襟を開いた語らい」がある限り、学会は永遠に発展します。
 迷える友には確信を、悩める友には希望を。絶望の友には勇気を。悲嘆の友には歓喜を。苦悩の友には智慧を、挫折の友には不退を。不安の友には安心を。逡巡の友には信念を。励ましにつぐ励ましが、「蘇生の母」となり、「共戦の絆」となり、「幸福の一歩となります。
 思えば、恩師・戸田先生は、個人指導の達人でした。
 草創期に、東京・市ヶ谷に置かれていた学会本部の「分室」階段を上がったところにある4・5坪ほどの狭い部屋には、戸田先生の指導を求めてやってくる学会員でいつもいっぱいでした。
 経済苦、病苦、家庭不和、言うに言えない深刻な悩みを抱えて訪ねてきた会員も、先生の「どうした?」との温かい声を聞いて安堵し、ありのままに苦悩を吐露しました。
 堰を切ったように語ってくる友に、恩師は常に「大丈夫!」「この信心をして幸福にならないいわけがない」と励まされました。戸田先生は、絶えず御書を引かれ「これは、大聖人の教えだよ。僕の言葉じゃないよ」と言われながら、激励されました。先生の確信に満ち満ちた言葉に、訪れた人は一人ももれなく蘇生の力を得て、力強い足どりで帰ったものです。この方たちが宿命を乗り越えながら、今度は地域で、戸田先生から遣わされた“幸福大使”となって後輩を励まし、多くの人材を育ててきました。
 一人から二人、三人へ、十人から百人、千人、万人へと広がった善の連帯が幸の人華となって日本列島を包みました。やがて世界にも広がり、今日の創価学会・SGIの堂々たる大陣列を築き上げてきたのです。
 御書を拝すると、大聖人が、相手の性格や置かれた状況を的確に知悉されたうえで御指導されていることが伝わってきます。とりわけ「崇峻天皇御書」の一節一節には、人生の最大の苦境に陥った四条金吾に対する師匠の限りない慈愛が、様々な配慮やアドバイスの一つ一つに、にじみ出ております。
 あたかも、お手紙を綴られている大聖人の目の前に金吾が座っているが如く、一言一言、金吾の反応を直接御覧になりながら、語りかけるように筆を運ばれています。時には細かく身の処し方を、時には鋭く金吾の人間革命の急所となる課題の指摘を。時には不惜身命で戦う金吾への賞嘆を その度ごとに大聖人は金吾の顔を思い浮かべておられたのかもしれません。
 大きくうなずく納得の顔、反省する顔、紅潮する顔、愁眉を開いた安心の顔、決意に引き締まっていく顔、一瞬一瞬、変化する生命と対峙しながら、相手の無明の闇を晴らす、宿命を打開する勇気と希望を湧現させ、魔性を打破する智慧を与えていく。個人指導は、慈愛と確信の真剣勝負です。生命と生命の打ち合いです。金吾を激励され、勝利への突破口を開いた。「崇峻天皇御書」は、私たちにとって、いわば、“信心指導の教科書”と拝することができるでしょう。
07   此れにつけても殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ、一定かたきに・ねらはれさせ給いなん・すぐろくの石は
08 二つ並びぬればかけられず車の輪は二あれば道にかたぶかず、 敵も二人ある者をば・いぶせがり候ぞ、いかにとが
09 ありとも弟ども 且くも身をはなち給うな
-----―
 それにつけても、あなたの身の上が危険に思われる。必ず敵にねらわれるであろう。すごろくの石は二つ並んでいなければならないし、また車の輪は二つあれば道でかたむかない。このように敵も二人結束している者に対しては攻撃をためらうものである。このようなわけであるから、どのような過失があなたの弟達にあったとしても、少しの間であっても側からはなさないようにしなさい。

細心の心配りが指導者の要件
 本抄の前段の部分で、大聖人は「内薫外護」の法理を引き、根本は金吾自身の信心ゆえに事態が解決に向けて大きく変化したことを喜ばれます。勝利を決定づけうるうえで、大事なのは「これから」です。「油断は大敵」です。大聖人は金吾に対して、この段からこまごまと注意を与えられていきます。
 細心の心配りこそ、指導者の要件です。大物ぶって小事をないがしろにするのは、無慈悲なリーダーと断じざるをえない。
 四条金吾に宛てた他の御書でも、「敵と申す者はわすれさせてねらふものなり」(1185-15)と仰せです。魔は心の隙をついてくる。ですから、一言の注意が魔を打ち破る大きな智慧になる。事故を未然に防ぐことができる。沈黙は無責任です。例えば、学会の会合で、終了後に交通事故への注意を促すことも、あるいは、階段で転倒しないように呼びかけることも、慈悲の仏事の声であり、仏法の人間主義の振る舞いです。
 さて、大聖人は四条金吾に「此れにつけても」と仰せられ、話題を今後の対応に向けられます。まず依然として金吾の身には危険が迫っていることを心配なされています。
 無論、金吾も、自分の身が狙われていることを重々承知していたはずです。しかし、金吾の心のどこかに“信心しているから大丈夫だろう”という気持ちが働いていたのかもしれません。そうした心の隙を戒めるために、大聖人はあえて警鐘を鳴らされたと拝せられます。
 続いて「自軍の駒が二つ並んでいると、相手の駒に技をかけられることはない」という当時の双六の例や、「輪が二つあることで傾くことのない」車の話を挙げられて、危機を乗り越えていくうえで、味方をつくることの大切さを教えられている。すなわち、たとえ、いろいろな失敗や欠点があったとしても弟たちを味方にし、常に行動をともにしていけば、敵に狙われることがなくなると指導されます。
 「絶対に独りで行動しないように」と、これほどまでに強調されているのは、いつ襲撃されてもおかしくない緊迫した状況が続いているからです。主君からの信用回復の機会を得て、一つの峰を乗り越えた今が、一番、大切だからこそ、大聖人は、本抄であえて厳しく御指導されています。何よりも門下の身を案じられる師匠の大慈悲が迫ってくる一節です
09                      殿は一定・腹あしき相かをに顕れたり、 いかに大事と思へども腹あ
10 しき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ・ 殿の人にあだまれて・をはさば設い仏には・なり給うとも彼等が悦び
11 と云う、此れよりの歎きと申し口惜しかるべし
-----―
 彼等が何とかしてあなたを陥れようと励んでいるところに、以前よりもあなたが主君に信用されているので、彼等は外面は静まったようであるけれども、胸の内は燃える計りの思いであろう。

信心は自分の「無明」との戦い
 「殿は一定・腹あしき相かおに顕れたり」 「腹あしき」とは、心が荒く立腹しやすい、短気という意味です。実際に金吾の顔が、短気を感じさせる顔つきをしていたかどうか、それは分かりません。苦境の中で表情に余裕がなく、険しい顔を続けていたのかもしれません。いずれにせよ、金吾の人となりの本質を突いた表現と拝されます。
 金吾が一本気の性格で、正義感にあふれた熱血の行動を貫いてきたことは間違いありません。しかし、それが裏目に出る場合もある。そのような金吾に対して、大聖人は「短気な者を諸天が守ることはない」と断言されます。
 もちろん、性格で成仏に差別があるわけではありません。妙法に照らされれば、いかなる性格も輝かせていくことができるし、一人一人の性格を生かしきってこそ、広宣流布は円融円満の大前進を遂げることができるのです。
 ただし、ここで大聖人があえて強い言い方をされているのも、金吾の「無明」を打ち破るためであると拝されます。「無明」は暗い衝動を生み、悪しき習性を作ってしまう。誰人も、自分の人間革命の課題があります。自分の「心の一凶」にどう立ち向かい、成長していくかが大事です。絶えず挑戦し、自身の前進を止めないところに信心の成長があり、境涯の拡大があるのです。
 師匠は弟子の大成を願って、厳しく叱咤される場合があります。それは、弟子が可愛いからです。また、弟子の生命に潜む魔性を破らなければならないからです。
 とりわけ今回は、金吾の気性が災いして事態を悪化させる危険性が高かった。正義感が強いあまり、周囲に対する配慮を忘れてしまえば、摩擦を生んでしまうことが多い。そこから魔の勢力が入り込む隙が生まれる危険性を感じられたゆえに、大聖人は強く御指導されたのだと拝されます。
 金吾が人からあだまれて危害を加えられることがあれば、喜ぶのは敵です。嘆くのは妙法の味方の勢力です。ここで大聖人は、四条金吾の勝利は、金吾一人の次元にとどまらない。門下全体の勝利にも深い関係があることを教えられ、くれぐれも用心して身の安全をはかっていくべきことを教えられています。
11                        彼等が・いかにもせんと・はげみつるに、古よりも上に引き付け
12 られまいらせて・をはすれば・外のすがたはしづまりたる様にあれども内の胸は・もふる計りにや有らん
-----―
 彼等が何とかしてあなたを陥れようと励んでいるところに、以前よりもあなたが主君に信用されているので、彼等は外面は静まったようであるけれども、胸の内は燃える計りの思いであろう。

悪世末法の嫉妬社会に負けるな
 さらに、大聖人の筆は、金吾を取り巻く人々の心理にも及びます。金吾は主君・江間氏から、以前にもまして重用されるようになりました。それは、金吾を陥れようと躍起になっている勢力から見れば、決して許せないことである。したがって、彼らは表面は静かであったとしても、胸の内は燃え上がるばかりでいるだろうと、大聖人は喝破されておられます。金吾が置かれている状況を、大聖人は本当にこまやかにご存知です。悪世末法の娑婆世界にあって、貧瞋癡や慢疑の生命にとらわれ、怒りや争い、嫉妬の炎を燃やす人々が、人を悪口や讒言で陥れとうとする恐ろしさを深く認識しておられました。
 大聖人御自身、悪鬼入其身の嫉妬の悪僧である僣聖増上慢、またそれをとりまく道門増上慢・俗衆増上慢との闘争に勝ち抜いてこられた。嫉妬に照らされた命ほど恐ろしいものはありません。
 特に男の嫉妬は怖い。戸田先生もよく「男の嫉妬は真っ黒け」といっておられました。
 生命の次元から言えば、嫉妬は臆病・不安の裏返しであり、自分の弱さの投影です。若き日に読んだ、哲学者三木清の一文は、今も忘れられません。
 「嫉妬はつねに陰険である」「嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」「自分がないことから嫉妬がおこる」
 仏の一門の前進を阻もうとする本質が嫉妬の生命であると看破すれば、恐れることはありません。大事なことは、私たちの「勇気」です。そして、「智慧」であり、「賢明な振る舞い」です。仏法の「人の振る舞い」こそが、勝利の要諦です。
 この後、再び大聖人は四条金吾に、微に入り細を穿つ注意を続けられます。
 「普段は嫉妬に狂った彼らの目に付かないようにして、以前よりも江間家の一族を敬い、子息たちがご主君のもとに来ているときには、ご主君のお呼びがあっても、しばらくは慎みなさい」
 「もし江間氏一族の子息たちや女房たちから『ご主君のご病気はいかがですか』と問われたならば、相手がどのような人であっても、膝をかがめて手を合わせ、『私の力が及ぶ病気ではありませんが、どのように辞退申し上げても、強いてとの仰せつけですので、ご奉公の身であるゆえ、このように治療いたしております』と答えなさい」
 「髪型も立派にはせず、直垂もぱりっとしたものではなくても、あざやかな小袖や、目立つような物などは着ないで、しばらくは辛抱してごらんなさい」
 おそらくは、四条金吾が自覚はしていても、つい出てしまう悪い癖や、あるいは、自覚すらしていなかった欠点を、大聖人はよく御存じであられるがゆえに、これはど細かい指導をされているのです。
 もちろん、仏法は、一人一人が自由自在に生きるための教えです。伸び伸びと快活に振る舞う力です。ただ「しばらくは」とあるように、大事な時には、最大に心を配り、賢明に、また慎重に振る舞うことも仏法です。
 大事な時に、最も必要な智慧を出し切って、最高の価値創造をしていく、あらゆる事象に柔軟に対応しながらも、根本の自分自身は微動だにしない。それが仏法の中道の智慧です。
01 返す返す 御心への上なれども 末代のありさまを仏の説かせ給いて候には 濁世には聖人も居しがたし大火の中の
02 石の如し、 且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、 賢人も五常は口に説きて身には振舞
03 いがたしと見へて候ぞ、 かうの座をば去れと申すぞかし、 そこばくの人の殿を造り落さんとしつるにをとされず
04 して・ はやかちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すこぎこひでの船こぼれ 又食の後に湯の無きが
05 如し
-----―
 返す返すもこのような事は心得ておられる事ですが、末代の世情を仏は「濁悪の世には聖人あっても、世にあることは難しい。大火の中の石のようなものでしばらく堪えているようであるが、終には焼け砕けて、灰となってしまうのです。賢人も仁・義等の五常を口には説くが、それをわが身に実行することはむずかしい」と説かれています。世のことわざにも、「高い地位についたならば、長居をするな」といわれています。
 たくさんの人々があなたを陥れようとしたのに陥れられず、もはや勝利を収めた身であるあなたが、もし短気をおこし穏やかでなくて、陥れられるようなことがあったならば、世間のいわれるところの精出して漕いできた船が、もう少しで岸につくところを覆るようなものです。また、食事の後に湯のないようなものであり、残念なことです。

困難な現実を勝ち抜く仏法の賢人
 大聖人は、四条金吾宛ての御書の中で、度々、「賢人」の生き方を例にして、四条金吾に、賢き人生を送るように御指導されています。目標や模範があると、人間の境涯は新たな可能性を開いて急速に向上するものです。
 本抄では、その賢人ですら末代悪世に生きることは難しいことを示して、四条金吾が本当に深い決意で立ち上がっていけるように御指導されています。
 大聖人は「一番の上席は去れ」との句も引かれています。
 主君から病の治療を任されたからといって、絶対に調子に乗ってはならないとの厳しい戒めです。
 四条金吾が主君との関係にあって、窮地を脱することができたのも、大聖人を仰せ通りに必死に戦い、強盛な信心で勝ち取った一つの実証にほかならない。しかし、勝った時に負ける因を作り、負けた時に勝つ因を作るのは、人生と社会の常です。「穏便ならずして造り落とさねば」 人間関係のうえで角を立て、事を荒だててしまう愚かさのために敵に陥れられてしまえば、これまでの勝利への流れを作りあげてきた努力が、全部、無駄になってしまう。「一生懸命に漕いできた船があと少しのところで浸水する」「食後に白湯がない」という譬えは、いずれも、最後の最後まで賢人の生き方を貫きなさいとの御指導です。信心を生涯貫き通すにあたって、重要な指針です。「戦い続ける」ことこそが、自分の総仕上げになります。途中で気を緩めてはならない。三世にわたる常楽我浄の境涯を勝ち取るためにこそ、生き生きと朗らかに快活に前進し抜いていくのです。
 さて、金吾が「八風」に侵されずに、一切に勝利し、仏道修行を成就するために大聖人は、ここで再び、金吾の身の安全に関して細心の注意を続けられます。
 「主君から部屋を頂いて、そこにいる間は何事も無いでしょうが、必ず敵は狙うでしょう。また、自分の家の妻戸の脇や持仏堂、家の中の板敷の下や天井裏などは、よくよく用心していきなさい」
 「これからは、以前よりも彼らの謀略は巧みになるでしょう。なんといっても、鎌倉の荏柄の夜回りの人たちほど頼りになる人々はおりません。どんなに気に入らないことがあっても、仲良くまじわっていきなさい」
 大聖人は、屋敷の出入りの時、自分の家の中にあっても、決して注意を怠ってはいけないと仰せです。敵が忍びやすい、板敷の下や天井裏まで、本当に細かい点まで想像されての御指導です。大聖人自身も、これまでの大難との闘争の中で、大小の襲撃を受けられたことがあります。それだけに、細心の注意がどれだけ大切かを身をもって経験なされていたと拝察されます。仏法は、どこまでいっても、現実生活で勝利するための秘法なのです。
 大聖人は、四条金吾に常々、“くれぐれも用心するように”との指導を繰り返されています。
 「かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん」(1133-14)
 「又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」(1169-07)
 「第一・心にふかき・えうじんあるべし」(1176-03)
 そして、後日、金吾が実際に強敵と戦い、無事だったことがありました。その時に大聖人から勝利の因の一つとして「前前の用心といひ」(1192-01)と前々から深く用心したおかげであったと指摘されています。一度だけの注意で事足れりとされていれば、四条金吾の勝利はなかったかもしれません。また、金吾が、師匠の御指導通りに実践していなければ、この時に命を奪われていた事態も否定できません。
 続いて、ここでは「夜廻りの四人」について綴られています。夜廻り警備の役を持った人たちのようですが、この人たちの詳細は不詳です。ただ大聖人の仏法を貫いたために、屋敷を主君に取りあげられてしまったことがうかがえます。大聖人は、金吾に対して、この夜廻りの人たちと仲良くして金吾の屋敷に出入りしてもれば、人目をはばかる敵は襲撃できないだろうとアドバイスされています。
 ところが、同志でもあるこの夜廻りの四人と四条金吾とは、どうも、人間関係がうまくいっていないようでした。この点についてもまた大聖人は、粘り強く四条金吾に指導され続けます。師匠のお心は、どれほどありがたいものか。
 本抄では、この四人に対する金吾の姿勢として、「どんなに気にいらないことがあっても、仲良く交わっていきなさい」と仰せです。
 また、他の同志・兄弟に対して、金吾が取るべき態度について、諸御書では仰せです。
 「過失があるにしても、少々の過失は見逃してあげなさい」
 「この法門の人々とは、どのような不本意なことがあっても、見ず、聞かず、言わずで、仲良くしていきなさい」
 これらは金吾一人に対する御指導と捉えるよりも、大聖人門下の永遠の指針です。“皆が仲良く”“同志を大切に” この原理は学会も同じです。同志の鉄の団結があればこそ、魔を打ち破ることができ、広宣流布を大きく進めることができるのです。魔は常に私たちの分断を図ります。いたずらに、いがみあってしまえば、「鷸蚌の争い」となって、魔を利するだけです。
 大聖人は、別の門下にはこう仰せです。
 「法華経を持つ者は必ず皆仏なり」(1382-11)。したがって、同志を謗ることは仏を謗る罪を得ることになると示されています。
 特にリーダーは、皆を包容する立場だからこそ、境涯を広げていかなければならない。今で言えば、「幹部革命」です。厳しいなかにも四条金吾は、大聖人の尊容を胸中に思い浮かべつつ、前進したことでしょう。
14        殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、 若しさるならば日蓮が祈りの力及びがたし、竜象と殿の兄
15 とは 殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし 天の御計いに殿の御心の如くなるぞかしいかに天の御心に背かんとは
16 をぼするぞ設い千万の財をみちたりとも 上にすてられまいらせ給いては 何の詮かあるべき・已に上にはをやの様
17 に思はれまいらせ水の器に随うが如く こうしの母を思ひ老者の杖をたのむが如く・ 主のとのを思食されたるは法
18 華経の御たすけにあらずや、 あらうらやましやとこそ御内の人人は思はるるらめ・ とくとく此の四人かたらひて
1173
01 日蓮にきかせ給へさるならば強盛に天に申すべし、
-----―
 あなたは短気な性格であるから、こういってもよもや用いないでしょう。もし、そうであるなら、日蓮の祈りの力もおよばなくなります。
 竜象房とあなたの兄は、あなたのためには悪い人であった。そこで天の御計らいによって、あなたの思う通りになったのである。しかるに、どうしてあなたは諸天の御心に背こうなどと思われるのであろうか。たとえ千万の財宝を得たとしても、主君に捨てられてしまえば、何の意味もないではないか。
 すでにあなたは主君から親のように思われ、ちょうど水が器に随い、仔牛が母を慕い、また老人が杖をたよりにするように、主君からあなたのことを信頼されているのは、法華経の偉大な力に守られているからにほかならないではないか。同僚の人々は、定めて羨ましく思っていることであろう。早くこの四人と語りあって味方とし、その由を日蓮に聞かせなさい。そうするならば、日蓮もあなたのために、強盛に諸天の加護を祈りましょう。

「人を敬う振る舞い」を世界が待望
 ここまで様々な御指導を重ねてこられたうえで、大聖人は再び、「あなたは短気な人だからきっと聞き入れないでしょう。私が祈っても、力が及びませんよ」と記されました。
 大聖人は折々に、師匠と弟子との祈りが一致しなければ絶対に叶わないと仰せです。門下であって、金吾ほど命を賭けて大聖人をお守りした人はいないでしょう。しかし、自分に負けて短慮の行動をとることは信心を根幹として師弟不二の行動をとった自分を失って、愚かな人間に戻ることにほかならない。ゆえに、いくら大聖人が祈られても、祈りの力は叶わなくなると仰せなのです。
 「短気ではいけない」との重ねての戒めに、金吾も襟を正したことと思います。特に今度は「夜廻りの四人」と仲良くすべきだとの御指導の直後に再び厳重に言われていることに注目しておきたい。すなわち、「異体同心」そして「師弟不二」こそが仏法の実践の肝要だからです。この一点が欠ければ広宣流布は断絶してしまうと言っても過言ではありません。
 次に、先に指示した「夜廻りの人々と仲良くなる」ということについて、「結果を日蓮に聞かせてください。そうすれば、強盛に諸天に祈りましょう」と綴られています。
 これは個人指導の急所です。指導・激励は、その場限りで終わらない。指導した側も最後まで祈り切る。大聖人自ら、常にそのように振る舞いを重ねておられたことが拝されます。
 学会は「責任ある指導主義」を掲げています。心から励まし、目標を示したうえで、相手と自分が「二人三脚」の思いで挑戦の歩みを開始する。そして、結果が出るまで、指導した側も祈り抜く。この精神で歩んできたから、学会はここまで伸びてきたのです。
 主君・江間氏との信頼関係。同僚たちからの中傷、讒言、襲撃の危機。長兄の敵対、他の兄弟たちとの不仲、一部の同志間の怨嫉。こうしたことの一つ一つを、大聖人が心配され、手を打たれている。家族にもまさる情愛で、金吾を守り、慈しみ、導いておられたことが御文から偲ばれます。
 門下の一人一人を徹底して大切にする。こまごまとした御配慮が、仏法の人間主義です。
 釈尊が衆生の機根に応じて、「法」を自在に説かれたことも、仏典に記されています。
 ある時、愛児を亡くして悲嘆にくれていた母親に釈尊は出会った。この時、釈尊は「あなたが町へ行って、芥子の種をもらってくれば、その子を救う薬をつくろう。ただし死人を出したことのない家からでないといけない」と語った。母親が家々を回るうちに、どの家も身内の死を経験していることに気づく。やがて、人生の無常を打開しようと彼女は釈尊の弟子になった。
 ある時、釈尊はスリハントクが一人で泣いている所に通りかかる。聞くと、十四文字の言葉を覚え切れず、仲間から見放されたという。釈尊は語った。「あなたは自分が愚かだと分かっている。スリハントクよ、その人は、本当は一番賢い人だ。一番愚かなものは、自分が頭が良いと思っている者のことだよ」。釈尊に励まされたスリハントクは、やがて大勢から慕われる模範の指導者になった。
 この「一人を大切に」「人を敬う振る舞い」という、大仏法の人間主義の水脈は今、創価学会の中に脈々と受け継がれています。牧口先生、戸田先生も、どこまでも一人を大切にされました。
 牧口先生は、高齢をいとわず、遠くは大阪、下関、そして九州へと、いくつも列車を乗り継ぎ、硬い座席に揺られながら、繰り返し足を運ばれた。「一人」に会うためであり、「一軒」の家庭を励ますためでした。訪問した家庭では、会員の家族にも会い、悩みの一つ一つに耳を傾け、「信心即生活」の基本を、かんでふくめるように教えていかれた。
 更に、目白の自宅で、毎週一回は個人指導の日をもたれ、訪れる数人から数十人の友の指導・激励に全魂を傾けられました。これは下田で不敬罪等の容疑で逮捕される直前まで続けられ、検事による起訴状には、起訴理由の項目の一つに、この「個人指導」が挙げられています。
 冒頭に紹介したように戸田先生も同じであられた。別次元の話になりますが、この「一人を大切にする」仏法の人間主義の源流を忘れて、濁流と化したのが邪宗門です。
 人間主義こそ、間違いなく21世紀の潮流となります。私がお会いした世界の識者たちは、皆、同じ認識に立っておりました。
 現代文明は、人と人との「善のかかわり」が希薄になっていると指摘されて久しい。あるいは、国家間、民族間、宗教観、文明間で分断が進むか、かろうじて協調が可能かとの岐路にある。この断絶を越えて、万人を敬う「人の振る舞い」を実現する思想を、世界は今、求めています。そして、それを人格のうえで実際に実現しているのが、わが創価学会・SGIのメンバーです。学会員の振る舞いこそ、「現代の菩薩の実践」「生きた仏の行動」として高く評価される時代に入っております。
 「人の振る舞い」とは、いわば、地球文明の新しい人間像を示した行動の哲学です。人間主義の実践者、行動者を世界が待望しています。「一人を大切」にする私たち学会員の振る舞いこそ、新時代の人格のモデル、模範として各国・各地域で賞讃されているのです。
-----―
「心の財第一」こそ人生勝利の要諦
 「心の財第一なり」
 「心の財をつませ給うべし」
 この一節は、日蓮大聖人が、苦境のさなかにいる門下・四条金吾に贈られた勝利への最大の指針です。
 「心」こそ、人生の最高の「財宝」です。それは、「心」の中に、偉大な可能性と無上の尊極性が具わっているからです。
 「心」は、いくらでも広がります。また、いくらでも深められます。そして、いくらでも強くなります。
 文豪・ヴィクトル・ユゴーは述べました。
 「海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内億である」
 人生をよりよく生きるために、内なる心の世界をどう広げゆくか。いかに心を鍛え、「心の財」を積んでいくか。そのために妙法があるのです。
 日蓮大聖人は本抄の後半で「心の財第一」と教えられています。真の人生の勝利のためには、妙法への信心による仏性の内薫こそが、最高の財宝である。このことを絶対に見失ってはならないという重大な御指導をされています。
 本抄をいただく2ヵ月前、四条金吾は主君・江間氏から所領没収という最大の危機に直面しました。金吾は所領を捨てても法華経の信心を貫くとの決意に立ちました。大聖人は、その心を賞讃されるとともに、「いかなる乞食にはなろうとも絶対に法華経に傷をつけてはならない」と仰せになられています。
 実は、この御指導こそ、所領よりも、武士としての立場よりも、信心という「心の財」こそ第一なりとの信仰者の根本規範を教えられているのです。事実、金吾がその通りに戦うと、逆教の中に光明が差し込みました。すなわち、病気になった主君の看病を契機に、主君からの信頼が回復するのです。反対に、金吾を苦しめてきた敵対者たちには罰の結果が出ました。
 本抄では、この勝利の第一歩を踏み出しえたのは「内薫外護」の原理によると明かされ、金吾の信心を讃嘆されています。
 四条金吾が不退転の信心に立ち上がったときに、仏性が薫発したのです。「内薫」の力によって、諸天善神が動き、主君が再び金吾を用いるという「外護」の結果がうまれたのでした。
 しかし、金吾を取り巻く状況は、まだまだ険しい状況にあった。
 勝利を確固たるものにするために、大聖人は本抄で様々な注意を繰り返されます。襲撃に対しての用心を怠らないこと、対人関係では驕らず誠実に振る舞うこと。兄弟や同志とは仲良くして見方をつくっていくこと等々、こまごまと指導されています。金吾の弱点である「短気」の性格を戒め、油断をしたり、周囲との亀裂をつくって、勝利の流れを破壊くることがないように、厳重に注意されたのです。
 揺るぎなき勝利へ至るためには、本格的な宿命転換の挑戦が不可欠です。それは、自信の無明の生命を破る人間関係の実践でも」あります。油断は大敵です。慢心に流され、「戦う心」を失ってしまえば、再び、自身の無明の弱点が現れてしまいます。
 そのために大聖人は念を押され、どこまでも信心こそが最高の財宝であると徹しておしえられます。今回は「心の財第一」の仏法哲理を、あらためって拝していきたいと思います。
03   返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世
04 にか忘れなん、 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・ いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも
05 用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、 日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・を
06 はしまさずらめ、 暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが
07 如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな。 
-----―
 返す返すも忘れられぬ事は、文永8年(1271)9月12日、竜の口で日蓮が首を切られようとした時、あなたが私の供をし、馬の口にとりついて、泣き悲しまれたことである。これはいかなる世にもわすれることはできない。もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたといっしょに地獄に入ろう。
 日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におちるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇の中に月が入って輝くようなものであり、また湯に水を入れさますようなものであり、氷に火をたいてとかしてしまうようなものであり、また太陽に闇を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄即寂光の浄土となるであろう。
 もしこのことを少しでもたがえて取り返しのつかないことになったならば、日蓮をお恨みになってはなりません。

「師弟不二」の原点を忘れるな
 「行き詰まったら原点に戻れ」 初代会長・牧口常三郎先生が示してくださった至言です。
 法華経の根幹は「師弟不二」です。日蓮仏法は「師弟の宗教」です。したがって、私たち信仰者の原点は、師匠との共戦の誓いにあります。常にこの師匠の原点に立ち戻れば、決して行き詰まることはありません。
 この御文では、師弟の原点が確認されています。それは、竜の口の法難で、大聖人が処刑の場へ連行される際に、金吾が馬の轡にとりついて殉教の覚悟を示した出来事です。
 大聖人は、この時の金吾の信心を讃えて、「かりに、もし、あなたが地獄にはいることがあったとするならば、その時は、たとえ釈迦仏が私に『仏になりなさい』といったとしても、あなたとともに地獄に入ろう」とまで仰せられています。
 弟子の赤誠の真心に最大に応えてくださる。まさに「人間の宗教」たる日蓮大聖人の仏法の極致がここにあります。
 妙法への信を貫かれる大聖人と金吾の師弟が共に地獄に行くならば、釈迦仏・法華経も地獄におられることは間違いない。さればもはや地獄ではなく、仏界となっていることを明かされています。地獄即寂光の法理です。
 いかなる場所でも、仏界の輝きを現わすことができる。これが日蓮大聖人の仏法です。その通りに身読されたのが、牧口先生と戸田先生の師弟でした。
 牧口先生は「寒さの絶頂」の獄中で綴られました。
 「心一つで地獄にも楽しみがあります」
 お供した戸田先生は語られました。
 「私は、仮に地獄に堕ちても平気だ、そのときは地獄の衆生を折伏して寂光土とする」
 これが信心の極意です。
 四条金吾が、大聖人とともに戦う心を忘れない限り、この地獄即寂光の原理で、いついかなる場所でも勝利していくことが可能です。しかし、自分の弱い心に負けて、短気を起こし、周囲への配慮を怠ってしまえば、「不二」の道から外れたことになる。それゆえに、大聖人は重ねて戒められているのです。
 「もし少しでも、これまで申し上げてきたことに背かれるならば、どのようなことになっても日蓮を恨んではなりません」
 勝利への要諦は、どこまでも、法を体現し弘通する師匠の「心」と、わが「心」を合致させることです。師匠の指導をないがしろにして、揺れ動く自分の心を基準にすれば、険しい仏道修行を成就することはできないからです。
 「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(1088-15)です。「師弟の心」を忘れてしまえば、わが一生成仏ではありません。
09                 又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給うな、若しさるならば賢人に
10 は・はづれたる事なり
-----―
 また世間が過ごしにくいようなことを嘆いて人に聞かせてはならない。もし、そのようなことをするならば、賢人にはあるべからざることである。  また世間が過ごしにくいようなことを嘆いて人に聞かせてはならない。もし、そのようなことをするならば、賢人にはあるべからざることである。

「嘆き」は「心」の建設を後退させる
 ここで大聖人は、特に「嘆きの心」を厳しく叱咤されています。ついつい、仕方のないことをことごとく嘆いてしまう凡夫の急所を鋭く突かれた一節です。
 「嘆く心」は、誰にもある。いざという時には迷わず殉教の覚悟を貫く金吾でさえも、一途な性格ゆえに、人間関係のもつれには弱く、ついグチが出てしまったのかもしれません。しかし、大聖人が「人に聞かせ給うな」といわれたように、嘆きやグチを他人に聞かせてしまえば、それは賢人ではなく愚人の生き方になってしまいます。
 もし、世間が過ごしにくいなどと嘆いても妻などに聞かせるようなことをすれば、妻子と夫との別れのおしさに、恥を言うつもりはなくても、他人に向かって自分の夫から聞いた話を話し、夫の恥をすべて語るようなものです。これは、ひとえに、妻が悪いのではなく、夫自身の振る舞いがわるかったのです。
 グチは、弱い心を助長し、停滞の因となります。大聖人は四条金吾に、グチを排し、自分の人間革命に正面から向き合うことが、人生勝利の直道であると教えてくださっていると拝されます。
13   人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生
14 きて一日なりとも 名をあげん事こそ大切なれ、 中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも 世間の心
15 ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、
-----―
 人間として生まれてくることは、難しいことであり、爪の上の土のように、わずかな存在である。また、たとえ人間として生まれてきても、その身を持つことは難しく、太陽が昇れば、すぐ消えてしまう草の上の露のようにはかないものである。たとえ、百二十歳まで長生きしても、汚名を残して一生を終わるよりは、生きて一日でも名をあげる事こそ大切である。

真の人生の勝利者たれ
 「爪の上の土」よりも受けがたい人身。
 「草の上の露」よりも持ちがたい人身。
 大聖人は、人間として生まれたこの一生がどれほど、かけがえのないものであるが、さらには、人間として生きているこの一日が、今という一瞬が、どれほど貴重なものであるかを示されています。
 「120まで生きて名を汚して死ぬとりは、生きて1日でも名をあげることが大切である」との仰せは、人生の価値は、何によって決まるのかを教えられています。人生の目的を何に定め、それに向かってどのように前進したのか。 そこから人間として生きる「価値」が生まれます。
 このことを踏まえて大聖人は、四条金吾の根本的な勝利のために、具体的な指標として、「主の御ためにも仏法の御ためにも 世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」とよびかけられています。
 具体的には、主君との信頼関係の再構築、信仰者としての不退の実践、世間からの信用という三つの勝利が必要であると示されています。
 この三つに、仏性の内薫という「仏の宝」が輝いているのです。言い換えれば、人間として生きるすべての局面において、仏性の輝きを放つときこそ、真の勝利であるということです。
 そして、その勝利の証しとして「よかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」と示されています。
 これは、仏法者の勝利の実証の姿として重要な指針です。すなわち、根本的な勝利とは、人々が「よかりけり・よかりけり」と賞讃せずにはいられない。また、一人一人がこうした信頼を勝ち得ることが広宣流布の戦いであるともいえるでしょう。
 周囲から「よかりけり」と賞讃されることは、仏法者としての「人間性の力」以外の何ものでもありません。「心の財」の力があるゆえに、人々から信頼され、模範の存在として高い評価を得る。仏性が人間性の輝きとして現れ、その素晴らしさが、信頼をしていない人々の心をも打っていく「あの人は、どこか違う。輝いているものを持っている」という信用を得ることが、仏法の確かな実証です。
 金吾にとって、主君や、主君の一族、同僚、兄弟、同志といった、自身を取り巻く人間関係は、決して順調とはえなかった。一本気な性格が災いしていた面もあるでしょう。しかし、そうした課題を解決せずに信仰の勝利者には、なれない。
 それゆえに、たえず心を磨き、大いなる人間革命の実証を示して、鎌倉門下の中心者として模範のリーダーに成長してほしい。深い人生を勝ち抜いてほしい。この師匠の慈愛が「鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」との御指導に込められていると拝されます。
15                                   蔵の財よりも身の財すぐれたり身の
16 財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし。
-----―
 蔵にたくわえる財宝よりも、身の財がすぐれており、その身の財よりも、心に積んだ財が第一である。この文を御覧になってから以後は、こころの財を積んでいきなさい。

磨き抜かれた心こそ無上の価値
 本抄の中で、最も有名な一節です。
 「蔵の財」とは、物質的な財産のこと。
 「身の財」とは、健康や身につけた技能。
 「心の財」とは、一面から言えば、「心の豊かさ」のことです。根本的には「信心」であり、信心によって磨かれる「仏性の輝き」です。
 この一節で大聖人が示されているのは、三種の「財」の順序、すなわち明確な価値基準です。
 今、金吾が置かれている状態は、所領没収の危機の中にあります。もちろん、所領などの財産自体が、生活の糧として大事なことは言うまでもありません。
 しかし「蔵の財」「身の財」にもまして、「心の財」を積むことが一切の勝利の根本となります。
 これまで、金吾が信心根本で戦ってきたことは「心の財第一」にあたります。それゆえに、まず第一歩は勝利した。だからこそ大聖人はあえて、今後とも変わらない普遍的な勝利への指針として、ここに明確に示されたのでしょう。
 そして「心の財」を根本とした時に、実は「蔵の財」も、「身の財」もその真実の価値を正しく発揮することができるのです。一言で言えば「心の財を築く」という人生の根本目的が大事です。この根本目的を喪失してしまえば、たとえ「蔵の財」や「身の財」をもっていようとも、それらへの執着が生ずる。それは失うことへの不安ともなり、かえって苦しみの因となる。あくまで大事なのは、「心の財」を積み上げていくことです。ここに正しい人生の目的観があります。
11                                   孔子と申せし賢人は九思一言とてここの
12 たびおもひて一度申す、 周公旦と申せし人は沐する時は三度握り 食する時は三度はき給いき、たしかに・きこし
13 めせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ
-----―
 孔子という賢人は九思一言といって九度思索して後に、一度語ったという。また周の文王の子、公旦という人は、髪を洗っている時、客人があれば、途中でも髪をにぎって迎え、また食事中であれば、食事を中止(口中の食を吐く)しても、客を待たせず、対応した。このことをしっかりとおききなさい。仏法というのは、このことをいうのです。

仏法の根幹は誠実な対応に
 現実を離れたところに仏法はありません。金吾の気性をそれはそれは心配なされた大聖人は「第一秘蔵の物語ありかきまいらせん」と前置きしたうえで、崇峻天皇の故事を紹介されます。人を憎んでいるという感情を、そのままあらわすことへの教訓です。
 大聖人は、その話に続けて。九度思索して一度語るほど発言に慎重であった孔子の話や、沐浴や食事の最中であっても、来客を決して待たせることがなかった周公旦の話を通して、人間にとって、熟慮することや誠実に振る舞うことが重要であることを述べられておます。
 大聖人は「たしかに・きこしめせ」 しっかり聞きなさいと、金吾の胸奥に注ぎ込まれています。金吾が、身を滅ぼしかねないこの欠点を克服して「心の財」を築かなければ、人生の真の勝利を勝ちとることはできない。それゆえに、「仏法と申すは是にて候ぞ」とまで、大聖人は仰せです。
 仏法は人間としての振る舞いに極まります。孔子や周公旦がそれぞれの哲学を行動に現したように、「仏性の薫発」という仏法が明かす究極の「心の財」も、信仰者の振る舞いとして現していかなければ、仏法を実証することも、弘めることもできません。
 ゆえに、本抄では、最後に、仏法における「人の振る舞い」の重要性を述べられていきます。
14   一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈
15 尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ
-----―
 釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったということは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。

「人の振る舞い」が仏法の根本目的
 大聖人は、本抄の結論として、釈尊一代の教えの肝要は法華経に説かれており、その法華経の修行の神髄は、不軽品にとかれる。あらゆる人の仏性を信じ抜き、礼拝し続けた不軽菩薩の振る舞いにあるとのべられます。
 “誰人たりとも、生命の次元から見れば仏にほかならない”との真理を深く信解し、いかなる迫害に遭おうとも万人を礼拝し続けた不軽菩薩の振る舞い、これこそ、法華経の精神の体現者の姿にほかなりません。
 法華経は、釈尊の「出世の本懐」の経典であると言われます。この法華経の精神を体現する不軽菩薩の実践が説かれたということは、釈尊の出世の本懐は、「人の振る舞い」を示すことにこそあったのです。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-脱益の妙法の教主の本)との仰せのごとく、「法」は結局「人の振る舞い」として現わされてこそ、脱益の妙法の教主の本その尊さが知られ、弘められていくのです。
 「心の財」といっても、それは目にみえません。具体的に「人を敬う振る舞い」として現われてこそ、「心の財」は妙法と仏性の力を人々に示し、証明していくことができます。
 「心の財第一」は、人生にあって何が最も大事であるかという価値観を示したものです。そして「人を敬う振る舞い」は、その価値観に基づく仏法者としての行動規範を示したものです。
 万人の尊敬という不軽菩薩の「振る舞い」は、万人の成仏という仏の真意を説く法華経の思想を体現したものです。それゆえに、不軽菩薩の「人を敬う振る舞い」は仏の真意そのものなのです。
 妙法を信じ仏性の顕現という妙法の功徳を身に体現した「人の振る舞い」こそが、妙法の尊さを証明することができる。そして、妙法の功徳を身に現わした「人の振る舞い」は、必ず「人を敬う」という特色をもつものです。
 ここで、釈尊の過去世の姿である不軽菩薩がどうか、人を敬う生き方を貫いてきたかを、経文を通して再確認しておきましょう。
 不軽品の冒頭、釈尊は法華経を誹謗する人は大きな罪報を得ること、法華経ゆえに誹謗される人は六根清浄の功徳を得るという原理を説き、その例として不軽菩薩の実践を紹介しています。
 不軽菩薩が出現した時は、威音王仏の滅後の像法時代、増上慢の比丘が大勢力をもっていた法滅の時代です。この時に、不軽菩薩が比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の増上慢の四衆すべての人を礼拝します。
 「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」
 この時不軽菩薩の唱えた言葉は、法華経の皆成仏道の思想を端的にまとめたものであり、いわゆる「二十四文字の法華経」とも称されます。不軽菩薩の実践は、一貫して、この言葉を発して万人を礼拝するんものでした。
 しかし、四衆は悪口罵詈、杖木瓦石をもって不軽菩薩を迫害し続けます。それを耐え忍ぶことで、不軽菩薩自身は其罪畢已して、自身の宿命を転換します。
 この不軽菩薩は亡くなる時に、虚空からつぶさに法華経を説く仏の言葉を聞き、その功徳で六根清浄の功徳を得て、二百万億那由他歳の寿命を延ばし、さらに法華経を説き続けます。そして成仏して、現在の釈尊となるのです。
 一方、不軽菩薩を迫害した四衆は、その罪によって千劫もの長い間、大苦悩を受けます。が、その罪を終えた時、再び不軽菩薩にめぐりあい、その教化を受けます。
 このように「人を敬う振る舞い」に徹していくことこそ、宿命転換・六根清浄という生命変革をもたらす力です。この法華弘通の振る舞いを生涯貫くことによって、成仏という根本の勝利を成就できるのです。
 それは「万人に仏性あり」との哲学を信解しぬく「信念の実践」です。そして、難をこえて信念を貫くことにより、わが身にその哲学を体現し、成仏を勝ち取る「成仏の修行」でもあります。のみならず迫害者の無明・謗法の生命すらも赫々と照らして、生命内奥にひそむ仏性を揺り動かす「民衆救済の戦い」でもあります。
 要するに、不軽菩薩の「人を敬う振る舞い」とは、「成仏の根本因」です。一個の人間が成仏していくために不可欠な実践なのです。この「人の振る舞い」を説かなければ、万人の成仏も画餅に帰します。ゆえに、「教主釈尊の出世の本懐」であるといわれているのです。
 日蓮大聖人御自身の実践もまた「人を敬う振る舞い」で貫かれました。いかなる悪世であっても、妙法への信を起こし、貫いていく人の心は、必ず仏性が薫発します。その人の人間としての振る舞いは、必ず「人を敬う」という根本的な実践哲学の智慧が脈打っているのです。厳しく悪を責める大聖人の折伏行も、相手を思い、民衆を慈しみ、国土の安穏を願う実践であられる。万人の仏性を尊敬するがゆえの破邪顕正なのです。
 「人を敬う」という哲学を根底にしつつ、そうであるがゆえに悪を責めるのが大聖人の折伏です。そのうえで、本抄の御指導は、末法の悪世においても「人を敬う」行動を表に立てるべき時があることを示されていると拝することができます。
 折伏といっても悪を責めることだけではない。真実を言い切ることも折伏です「人間蔑視」「生命軽視」の不信と不安の渦巻く末法にあって、敢然と「人間尊敬」「生命尊極」の旗を掲げて一人立つ。それも勇敢な折伏です。
 常々、確認しているように、21世紀の世界にあって、人類的諸問題の解決の鍵は「人間」に焦点を結ぶかどうかにあります。このことは、各界の識者たちが、平和の行動者、哲人政治家たちの共通認識です。
 問題は、人間に潜む無明の生命をどう変革するのか。善の連帯をいかに築き広げ、共生と人道の社会を建設するかです。SGIの行動は、そのために、壮大な文明間対話・宗教間対話の道を開拓しました。あらゆる差異を超えて、広々とした人間と人間の交流の世界を築き続けています。この創価の基調の哲学となっているのが、法華経の「人を敬う振る舞い」です。そして、一切は自身の生命の変革から始まるという「心の財」の哲理です。
 創価の人間主義の哲学に、世界は期待しています。
 大聖人の仏法の「人の振る舞い」を現実に行動している学会員の誠実が、世界で信頼されている時代に、いよいよ入っているのです。

1175~1177    四条金吾御書(九思一言事)top
1175:01~1175:09 第一章 信仰の実証を賞讃されるtop
1175
四条金吾御書    建治四年一月    五十七歳御作
01   鷹取のたけ.身延のたけ.なないたがれのたけ・いいだにと申し、木のもと.かやのね・いわの上.土の上いかにた
02 づね候へども・をひて候ところなし、されば海にあらざれば・わかめなし・山にあらざれば・くさびらなし、法華経
03 にあらざれば仏になる道なかりけるか・これは・さてをき候いぬ、なによりも承りて・すずしく候事は・いくばくの
04 御にくまれの人の御出仕に人かずに・めしぐせられさせ給いて、 一日・二日ならず御ひまもなきよし・うれしさ申
05 すばかりなし、 えもんのたいうのをやに立ちあひて 上の御一言にてかへりてゆりたると殿のすねんが間のにくま
06 れ・去年のふゆはかうとききしに・かへりて日日の御出仕の御とも・いかなる事ぞ、 ひとへに天の御計い法華経の
07 御力にあらずや、其の上円教房の来りて候いしが申し候は、えまの四郎殿の御出仕に御ともの・さふらい二十四・五
08 其の中にしうはさてをきたてまつりぬ、 ぬしのせいといひ・かをたましひ・むま下人までも中務のさえもんのじや
09 う第一なり、あはれをとこや・をとこやと・かまくらわらはべは・つじちにて申しあひて候しとかたり候。
-----―
 鷹取の嶽、身延の嶽、七面の嶽、飯谷といい、木の下、萱の根、巌の上、土の上と、どのように尋ねても、生えているところはない。海でなければ海藻はなく、山でなければ茸はないのである。同じように法華経でなければ成仏の道はないのである。これはしばらく置くとしよう。
 何よりもお聞きして爽快であることは、ずいぶん御主君に憎まれていたあなたが、その主君の出仕の人数の内に召し具され、しかも一日二日だけではなく毎日暇もない由、嬉しくて言いあらわせないほどである。
 池上右衛門大夫が親に背いたが、主君の一言で勘当が許されたことと、あなたが数年の間憎まれ、去年の冬は大変だと聞いていたが、今では逆に毎日御主君の出仕にお供しているのは、どうしたことであろうか、ひとえに諸天のお計いであり、法華経の御力ではないだろうか。
 その上、円教房がこちらへ来ていたが、彼がいうには「江馬の四郎殿の御出仕のお供の侍は二十四、五人で、そのうち御主君はさておき、本人の背の高さといい、面魂といい、また乗った馬や従えている下人までも中務左衛門尉が第一である。ああ、彼こそ男だ、男だと、鎌倉の童子が辻でいい合っていた」と語っていた。

鷹取のたけ
 鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。標高1036㍍。七面山の東、身延山の南にある。
―――
身延のたけ
 山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。この身延山と鷹取山のはざまを身延沢という。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
なないたがれのたけ
 七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。山頂付近に1,982.4mの三角点があるが、登山道からやや離れたところにある最高地点の標高は1,989mである。山頂付近が身延町の飛び地となっており、山頂は身延町と早川町の境になる。東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なる。
―――
いいだに
 山梨県南巨摩郡身延町大野にある地名。
―――
くさびら
 ①野菜・青物。②キノコの総称。③獣の肉。
―――
えもんのたいう
 池上右衛門大夫宗仲のこと。建長8年(1256)ごろ、日蓮大聖人に帰依し、弟宗長とともに信仰に励んだ。文永12年(1275)、建治3年(1277)と2度にわたり父・康光に勘当され苦境に立つが信仰を貫き、本章にもある通り勘当も解かれ、弘安元年(1278)には逆に父を帰依させている。
―――
円教房
 日蓮大聖人の弟子の一人と思われるが詳しいことはわからない。
―――
えまの四郎
 江馬入道光時の子、親時のこと。生没年不詳。
―――――――――
 本抄は、別名を「九思一言事」ともいう。建治4年(1278)1月25日、主君・江馬氏の不興もようやくおさまり、四条金吾に明るい春がやってきたことを喜ばれている。
 しかしながら、四条金吾にとって最大の問題である所領問題はまだ解決をみていないし、主君の覚えがよくなるとともに、いっそう気をつけていかなければならないのが同僚のざん言である。そういうときこそ心を引き締めていかねばならないことを、孔子の九思一言等の例を引いて教えられているのである。事実、これによって四条金吾への迫害は終わったのではなく、同僚にはかえってねたまれる結果となり、翌々年の弘安2年(1279)には、何者かに命をねらわれることとなる。
ぬしのせいといひ、かを・たましひ・むま・下人までも、中務のさえもんのじゃう第一なり。あはれをとこやをとこや
 これは四条金吾が晴れて出仕するさまをみて鎌倉の子供達が、その立派なさまを形容したものだが、人々の話題になるほど金吾の威風は堂々と、あたりを圧するものがあったのであろう。
 信仰の実証とは、社会のなかに、何かの面で信仰の力を示していくものでなくてはならない。しかもそれは、たんに地位や名誉だけで事足れりとするのであってはならない。社会に妙法の力を定着させるものとしてそれらは十分に考えられなければならないが、その根本には、信仰をしている者として、一種の人間的魅力がなければならない。自らの人生に対する確かな信念、他を慈しむ心の広さ等がその人の魅力を形づくって、地位や名誉といった環境を輝かせていくものである。
 四条金吾が立派に見えたのは、もちろん背が高く、容貌も堂々としたものがあったのかもしれないが、何よりも、主人の不興をかった苦しさを乗り越えてきたという強い確信、喜びが、毅然とした姿として人々の心をうったのではなかろうか。
 大聖人の仏法は本来、人間革命の宗教である。日々の実践が、鏡をみがくごとく、その人の内面をみがきあげ、やがてその人全体を、さらにはその環境さえも輝かせていく。人々に「何か」を感じさせていける人こそ、人間革命を成し遂げた人であるともいえよう。

1175:10~1176:05 第二章 細心の注意を促されるtop
10   これに・つけてもあまりにあやしく候、孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度はかせ
11 給う、 古の賢人なり今の人のかがみなり、 されば今度はことに身をつつしませ給うべし、よるはいかなる事あり
12 とも一人そとへ出でさせ給うべからず、 たとひ上の御めし有りともまづ下人をこそへ・つかわして、 なひなひ一
13 定を.ききさだめて・はらまきをきて・はちまきし、先後.左右に人をたてて出仕し御所のかたわらに・心よせの・や
14 かたか又我がやかたかに・ぬぎをきて・まいらせ給うべし、 家へかへらんにはさきに人を入れてとのわきはしのし
15 たむまやのしり・たかどの一切くらきところを・みせて入るべし・せうまうには我が家よりも人の家よりもあれ・た
1176
01 からを・をしみてあわてて火をけすところへ・づつとよるべからず、 まして走り出る事なかれ、出仕より主の御と
02 もして御かへりの時はみかどより馬より・をりて、いとまの・さしあうよし・はうくわんに申して・いそぎかへるべ
03 し、上のををせなりとも・よに入りて御ともして御所に・ひさしかるべからず、かへらむには第一・心にふかき・え
04 うじんあるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところなり。
-----―
 こうした評判を聞くにつけても、なおさら不審に思うのである。孔子は九思一言といい、周公旦は客人があれば髪を洗っている時でも、三度も迎え、食事中であっても口中の食を吐いてでも客を待たせず三度も応対した。それが古の賢人であり、今の人の鏡である。それゆえ、今度はとくに自重していきなさい。
 夜はどのようなことがあっても、一人で外へ出てはならない。たとえ主君がお呼びであっても、まず下人を主君の所に遣わして、内々確かに御主君のお呼びであることを聞き定めて後、腹巻を着、鉢巻して、先後左右に人をたてて出仕し、主君の館の近所の、あなたに心を寄せる人の館か、または自身の館に鎧を脱ぎおいて参上しなさい。また、家へ帰る時には、さきに人を家に入れて、戸の側・橋の下・厩のうしろ・高殿など、いっさい暗い所を見させてから入りなさい。火事の場合は、わが家から出火しても人の家から出火しても、財産を惜しみ、あわてて火をけすところへ近づいてはいけない。まして走り出るようなことがあってはならない。
 出仕から主君のお供をして帰る時は、御門の所で馬から降りて、用事がある旨を判官にいって、急いで帰りなさい。主君の仰せであっても、夜半に入ってお供して御所に長くいてはならない。帰る時には、一層、心に深く用心しなさい。帰る機会を必ず敵がねらうからである。
-----―
05   人のさけたばんと申すともあやしみて・あるひは言をいだし・あるひは用いることなかれ、        ・
-----―
 また、人が酒をあげようといっても、怪しんで、あるいは言葉を濁し、ある場合は、はっきり断わりなさい。

孔子
 (前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
―――
九思一言
 九思のすえに一言をいだすということで、物事の是非善悪を充分に考察したうえで話をすること。九思一言という語は孔子の語としては見あたらないが、論語の季氏第十六に「孔子曰わく、『君子は九思あり、視には明を思い、聴には聡を思い、色には温を思い、貌には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきは問を思い、忿りには難を思い、得ることを見ては義を思う』」とある。
―――
周公旦
 周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
―――
浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ
 司馬遷の史記巻三十三にある故事。周公旦が天下の士を求めるために示した態度で人の訪問を受ければ、洗髪の時でも、食事の時でも中断して会い、礼をおろそかにしない、との意。ここでは、周公旦の故事のように、あらゆることに気を使うべきであるといわれたところ。史記には「ここにおいてついに成王を相け、而してその子伯禽をして代わりて封じ魯に就かしむ。周公、伯禽を戒めて曰く『我は文王の子、武王の弟にして、成王の叔父なり。我れ天下においてまた賤しからず。然れども我は一沐に三たび髮を捉り、一飯に三たび哺を吐き、起ちてもって士を待ち、なお天下の賢人を失わんことを恐る。子、魯に之かば、慎みて国をもって人に驕ることなかれ』」とある。
―――――――――
 本章で、四条金吾の信心の実証を心から賞でられながらも、御自身四条金吾の身を案じられて、本章で、金吾に対し、細心の用心を怠らぬよう、微に入り細をうがつ指導がなされている。
 すなわち、まず、孔子、周公旦といった先賢の事例を挙げて用心の鑑であることを説き、次に具体例として、夜間外出の時、帰宅の時の用心、火事の際の用心、出仕の折の用心、酒の招待を受けた時の注意と実に細々と指導がなされたところである。
 指導というものは、原理、原点を教えることに重点があるのは当然であるが、それと共に、現実にどのような行動をとるべきかを現実に即して教えていくことも重要である。大聖人はここで、日々の生活のなかで慎重に行動していくことが、信仰の実践になることを教えられているのである。

1176:05~1176:17 第三章 兄弟等への心遣いを説くtop
05                                            又御をととどもには
06 常はふびんのよしあるべし、 つねにゆせにざうりのあたいなんど心あるべし、 もしやの事のあらむには・かたき
07 はゆるさじ、我がために・いのちをうしなはんずる者ぞかしと・をぼして、とがありとも・せうせうの失をば・しら
08 ぬやうにてあるべし、 又女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくんまでも・あるべからず、 ましていさかう
09 ことなかれ、 涅槃経に云く「罪極て重しと雖も女人に及ぼさず」等云云、文の心はいかなる失ありとも女のとがを
10 をこなはざれ、 此れ賢人なり此れ仏弟子なりと申す文なり、 此の文は阿闍世王・父を殺すのみならず母をあやま
11 たむと・せし時・耆婆・月光の両臣がいさめたる経文なり、我が母心ぐるしくをもひて臨終までも心にかけし・いも
12 うとどもなれば失を・めんじて不便というならば母の心やすみて孝養となるべしと・ふかくおぼすべし、 他人をも
13 不便というぞかし・いわうや・をとをとどもをや、 もしやの事の有るには一所にて・いかにもなるべし、此等こそ
14 とどまりゐてなげかんずれば・をもひでにと・ふかくをぼすべし、 かやう申すは他事はさてをきぬ、雙六は二ある
15 石はかけられず、 鳥の一の羽にてとぶことなし、 将門さだたふがやうなりし・いふしやうも一人は叶わず、され
16 ば舎弟等を子とも郎等とも・うちたのみて・をはせば、 もしや法華経もひろまらせ給いて世にもあらせ給わば一方
17 のかたうどたるべし。
-----―
 また、御舎弟達に対してはいつもよくめんどうを見ていきなさい。つねに湯銭や草履の代金などに気をくばっていきなさい。もしもの事があった時には敵は彼らを許さないであろうから、自分のために命を失おうとする者であると心得て、欠点があっても、少々の欠点は見ても知らないようにしていきなさい。
 また女性にはどのような罪があったとしても、教訓をする必要はない。まして争ってはならない。涅槃経にいうには「その罪が極めて重いといっても女人には及ぼさない」と説いている。経文の心は「どのような罪があっても女人の罪をとがめてはならない。これが賢人の行ないであり、これが仏弟子である」という文である。
 この文は、阿闍世王が父を殺したばかりでなく母まで殺そうとした時に、耆婆と月光の両臣が阿闍世王を諌めた経の文である。
 わが母が心苦しく思って、臨終の時までも心にかけていた妹・弟達であるから、その罪を免じて、かわいそうだと思うならば、さぞかし母の心はやすまり、母への孝養となることであろうと、深く思っていきなさい。他人のことでさえ不便なことだという。ましてや舎弟達のことではないか。もしもの事がある場合には一緒にいて生死を共にする人々である。この人々こそ万一あなたが先立つ時に、後に残って嘆く人々であるから、その時の思い出にと深く慈愛をかけなさい。
 このようにいうのは他の事はさて置き、双六は二つ並んだ石は破られず、鳥は一枚の羽では飛ぶことができない。将門や貞任のような勇将も一人では望みが叶わない。それゆえ舎弟達をわが子とも郎等とも憑んでいれば、もしや法華経も弘まり、あなたも健在であれば立派な法華経の味方になるであろう。

涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
阿闍世王
 梵語でアジャータシャトル(Ajātaśatru)の音写。釈迦在世の中インドのマカダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希。初めは提婆達多を師として釈尊に敵対したが、身に悪瘡がでてからは悔悟して釈迦に信順し、大いに仏教を宣揚した。
―――
耆婆
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)の音写。釈迦在世の名医。阿闍世王の侍医。画期的な外科療法を行なったといわれる。
―――
月光
 阿闍世王の臣下で、耆婆と力を合せて王を諌め、釈迦に帰依させた。
―――
将門
 (~0940)。平安時代中期の武将。領地問題等から、伯父の国香を殺して主導権を握り、下総、常陸、下野を破りその一円を治めた。天慶2年(0839)、下総国猿島に王城を建て自ら新皇と称したが、平貞盛、藤原秀郷に討たれた。
―――
さだたふ
 安倍貞任(1019~1062)のこと。平安時代の奥羽地方の武将。岩手の厨川柵を本拠に安倍一族を率い強大な地盤を持ち朝廷に従わずにいたため、朝廷は源頼義、義家親子に討伐を命じた。これが前九年の役である。貞任は抵抗をやめずいったん義家を破ったが、康平5年(1062)、清原一門に討たれた。
―――――――――
 まさかの時をつねに念頭に置き、兄弟に対する思いやり、婦女子に対する心がけを説かれ、家族の団結を促された段である。
 すなわち、弟達に対しては、つねに深い思いやりをかけて、決して不自由をさせないよう、些細なことまで気を配るよう指導なされている。また、婦女子に対しては、女性の微妙で繊細な心理を配慮し、どんなことがあっても、とがめたりせぬこと、まして争いなど起こさぬことを指摘され、つねに、最悪の事態に対処できるよう、家族の団結を通して万全の構えをするよう指導されたところである。

1176:18~1177:09 第四章災禍の本因を説くtop
18   すでに・きやうのだいり院のごそかまくらの御所・並に御うしろみの御所・一年が内に二度・正月と十二月とに
1177
01 やけ候いぬ、 これ只事にはあらず謗法の真言師等を御師とたのませ給う上 かれら法華経をあだみ候ゆへに天のせ
02 め法華経・十羅刹の御いさめあるなり、 かへりて大ざんげあるならば・たすかるへんも・あらんずらん、いたう天
03 の此の国ををしませ給うゆへに大なる御いさめあるか、 すでに他国が此の国をうちまきて国主・ 国民を失はん上
04 仏神の寺社・百千万がほろびんずるを天眼をもつて見下して・なげかせ給うなり、 又法華経の御名をいういうたる
05 ものどもの唱うるを誹謗正法の者どもが・をどし候を天のにくませ給う故なり。
06   あなかしこ・あなかしこ、今年かしこくして物を御らんぜよ、山海・空市まぬかるところあらば・ゆきて今年は
07 すぎぬべし、阿私陀仙人が仏の生れ給いしを見て、いのちををしみしがごとし・をしみしがごとし、恐恐謹言。
08       正月二十五日                      日蓮花押
09     中務左衛門尉殿
-----―
 すでに京都の内裏、院の御所、鎌倉の御所、ならびに御後見人の御所と一年間に二度、正月と十二月に焼失した。
 これはただごとではない。謗法の真言僧等を導師と憑んだ上、その真言師達が法華経を怨むゆえに諸天の責めと法華経・十羅刹女の戒めがこのようにあるのである。これによってかえって法華経に大懺悔をするならば、助かることもあるであろう。たいそう諸天がこの国を惜しまれているので、こうした大きな戒めがあるのではなかろうか。
 すでに他国がこの日本国を打ち負かして国主や国民をほろぼそうとしている上に、さらに仏神の住む寺社百千万が滅びるのを諸天は天眼で見下され嘆かれているのである。また、法華経の御名をけなげな人達が唱えるのに対して、正法誹謗の者達が威しているのを諸天が憎まれているからである。ああ恐ろしいことだ。今年は深い思慮をもってものごとを見きわめなさい。山海空市に免れる所があるならば、どこへでも行って今年は過ごしなさい。阿私陀仙人が仏の生まれたのを見て寿命を惜しんだようなものである。恐恐謹言。
  正月二十五日              日 蓮  花 押
   中務左衛門尉殿

真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
大ざんげ
 懺は梵語で懺摩(kṣama)の略。過去の罪悪を悔い改めて、仏菩薩、師長等に告白すること。悔は懺摩の義訳。仏説観普賢菩薩行法経にくわしく説かれているが、末法今時にあっては、三大秘法を深く信じ行ずることが真実の懺悔になる。
―――
天眼
 ①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。
―――
阿私陀仙人
 釈迦が生まれたとき、その相を見て、将来仏陀になることを見通した仙人。彼はこのときすでに高齢であったので、釈迦が長じて仏陀になるまで生きていられないことを嘆いた。
―――――――――
今年かしこくして物を御らんぜよ。山海空市まぬかるところあらば、ゆきて今年はすぎぬべし。阿私陀仙人が仏の生れ給いしを見て、いのちををしみしがごとし、をしみしがごとし
 四条金吾には、未だに同僚のねたみが存するであろうから重ねて自重を促されていると共に、社会にあっても混乱が続いている状況であり、それに巻き込まれることのないよう、大法興隆にそなえていくべきことを教えられているのである。
 正しい信仰をたもっているのだから、いずこにあっても恐れることはない、という考え方は観念論である。そのような考え方は一方で殉教という響きの美しい言葉につながるが、他方、玉砕という無責任な考え方にもつながる。自らの信条をどこまでも信ずるならば、それを社会に定着させるまでは、どのような苦しいことがあっても耐えていくという姿勢こそ、真実の責任ある態度といえよう。物情おだやかならぬ社会状況にあって、いたずらな軽挙は、かえって法の名を傷つけてしまうことにもなる。いうならば、社会のさまざまな動きを無視して信仰の名のもとに非常識な行動をとることは、本人の動機はどうあれ、信心利用とさえいえるものである。直情で感情に走りやすい金吾に対して大聖人は、責任ある妙法受持の立場を教えておられる。

1178~1178    陰徳陽報御書top
不幸御書
00  なによりも人には不幸がをそろしき事に候ぞ。とののあにをととはわれと法華経のかたくになりて、とのをはなれ
00 ぬれば、かれこそ不幸のもの、とののみにはとがなし。をうなるいどもこそ、とののはぐくみ給わず一定不幸になら
00 せ給わんずらんとおぼえ候。所領もひろくなりて候わば、我りやうえも下しなんどして、一身すぐるほどはぐくませ
00 給え。さだにも候わば過去の父母定んでまほり給うべし。日蓮がきせいも 
-----―
 どのようなものよりも人にとって不幸がもっとも恐ろしいことである。あなたの兄と弟は、自分から法華経の敵になって、あなたから離れてしまったのであるから、彼等が不幸の者であって、あなたの身には罪はない。女たちに対しては、あなたが世話をしてあげなければ、きっと不幸にあたることであろうと思われる。所領も広くなったならば、自分の糧を与えるなどして、身に過ぎるほどの世話わしてさしあげなさい。そのようにすれば、亡き父母は必ずあなたを守って下さるでしょう。日蓮の祈請も
-----―
1178
陰徳陽報御書
01   いよいよかない候べし、いかにわなくとも・きかぬやうにてをはすべし、此の事をみ候に申すやうに・だに・ふ
02 れまわせ給うならば・なをも所領も・かさなり人のをぼへも・いできたり候べしと・をぼへ候、さきざき申し候いし
03 やうに陰徳あれば陽報ありと申して、 皆人は主にうたへ主もいかんぞをぼせしかども わどのの正直の心に主の後
04 生をたすけたてまつらむとをもう心がうじやうにしてすれんをすすれば・ かかるりしやうにも・あづからせ給うぞ
05 かし・此は物のはしなり大果報は又来るべしとおぼしめせ、 又此の法門の一行いかなる本意なき事ありとも・みず
06 きかず・いわずして・むつばせ給へ、 大人には・いのりなしまいらせ候べし、上に申す事私の事にはあらず外典三
07 千・内典五千の肝心の心をぬきて・かきて候、あなかしこ・あなかしこ・恐恐謹言。
08       卯月二十三日                   日 蓮 在 御 判
09     御返事
-----―
 いよいよ叶うでしょう。どんなに女たちに落ち度などがあったとしても、聞かないふりをしていなさい。この事を見ていると、日蓮の申す通りにさえ振舞っていかれるならば、なお一層所領も増え、人々の信用も出てくるものと思われる。
 前々から申しているように「陰徳があれば陽報がある」といって、同僚等はあなたのことを主君に讒言し、主君もまた本当なのかと思われていたが、あなたが正直な心で主君の後生をお救いしたいと思う真心が強盛であり、数年間も続いたので、このような利生を受けることができたのである。しかしこれは物事のはじまりであって、大果報はまたのちに来ると思っていきなさい。
 またこの法門の人々とは、たとえどのような不本意なことがあっても、見ず、聞かず、言わずして仲よくしていきなさい。おだやかにして、祈っていきなさい。以上申したことは私言ではありません。外典の三千余巻、内典の五千余巻の肝心を取り出して書いたものである。あなかしこあなかしこ。恐恐謹言。
  卯月二十三日           日 蓮  花 押
   御 返 事

りゃうえ
 食料・年貢等のことと思われる。
―――
陰徳あれば陽報あり
 陰徳とは、世間に知られない善行。隠れた徳。陽報とは、目に見える具体的な結果、善報をいう。つまり人知れず善行を行なえば、必ず善き報いを受けることができること。淮南子の人間訓には「夫れ陰徳ある者は必ず陽報あり、陰行ある者は必ず昭名あり」とある。もともと中国における畏天の思想であるが、仏教で説く因果応報に相当すると考えられる。
―――
りしゃう
 利益衆生の略。仏が衆生を利益すること。特に諸天善神の加護をいう場合もある。ここではたんに利益そのものをいう。
―――
大果報
 大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。
―――
大人
 ①成人。②徳のある人。③仏・菩薩。
―――
外典
 仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
内典
 仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
―――――――――
 本抄は、弘安元年(1278)4月23日、身延においてしたためられ、四条金吾に送られたお手紙である。「所領書」で明らかなように、同年10月には所領が加増され、文永11年(1274)以来の苦境も大聖人の指導を根本に乗り越え、妙法の功徳を社会に実証したのである。本抄は、それより約半年前に賜わったものである。
 断片しか残存していないため、前半の内容は不明であるが、ここでは金吾の兄弟達が法華経と大聖人に敵対し、不孝な者となって離れてしまったが、夫人達にはよく世話をしてあげるよう、具体的な事例をあげて指導されている。次に「陰徳あれば陽報あり」との故事を引き、所領加増等の功徳は地道な実践の結果であるとし、成仏という大果報も必ずあると激励されている。最後に、たとえどのような不本意なことがあっても隠忍自重が大切であると結論されている。 
 本抄は全12紙のお手紙であったと思われるが、前9紙が散失しており、残り3枚が、京都妙覚寺に一紙、妙顕寺に2紙現存している。なかでも妙覚寺に現存する第十紙は、通称「不孝御書」と呼ばれるが、『御書全集』には収録されていない。だが御真筆が現存し、文章の継続、内容等により「陰徳陽報御書」の前の部分であるとみなされるので本講義では収録した。
陰徳あれば陽報あり
 この言葉は本来、倫理道徳的なものとして受け取られている。「徳」を行なうことがそのまま「報」に結びつくことは我々の目にみえない。しかし、人の目に見えないところで行なった徳でも必ず蓄積されて、やがては現実に報があらわれてくるであろうと教え、徳を積むことを強調しているのである。
 仏法の視点からみれば、これはたんなる倫理道徳でもなければ陰徳を陽報とするのは、何か他の力がするのでもない。生命内在の法則としてとらえることができるのである。
 陰徳というのは、人の目に見えないところで積む徳ということではない。仏法の鏡に照らして善の行為を行なっていくならば、たとえ人の目に見えるものであれ、見えないところのものであれ、それが因となって、その人自身の生命に蓄積されていく。それは生命内在の因である故に、外に見えることはない。したがって「陰徳」となる。しかしそれは因果俱時の原理からみるならば、すでに「陽報」をはらんでいるのである。凡夫の眼からみるならば陰徳と陽報の間には時間の経過があるにちがいない。しかし、仏法の因果の眼からすれば、陰徳を積んだ瞬間に陽報は生まれているのである。
 世間において、この陰徳が陽報とあらわれるべき原理が、いかに死語と化していることであろうか。陰徳と全く縁のない人物が陽報をほしいままにし、陰徳を積んだ人の恵まれない生涯を、我々は数多く知っている。しかし大聖人の仏法は、生命自体の開拓によって、これをたんなる「教え」でなく、「法則」として確立しているところに意味がある。仏法の確立した生命の法を基盤とし、それにのっとった陰徳であるならば、必ず陽報としてもあらわれてくるのである。そして、こうした陰徳が陽報と結びついていることが、人々を倫理のもつ意味に必然的にめざめさせ、社会の変革をも可能にするのである。

1178~1179    中務左衛門尉殿御返事(二病抄)top
1178:01~1178:03 第一章 病に二種あるを説くtop
中務左衛門尉殿御返事    弘安元年六月    五十七歳御作
01   夫れ人に二病あり、一には身の病所謂地大百一.水大百一.火大百一・風大百一・已上四百四病.此の病は治水.流
02 水・耆婆・偏鵲等の方薬をもつて此れを治す、 二には心の病所謂三毒・乃至八万四千の病なり、仏に有らざれば二
03 天・三仙も治しがたし何に況や神農黄帝の力及ぶべしや、
-----―
 およそ人には二種類の病気がある。その一つは、身体の病気で、いわゆる地大に百一・水大に百一・火大に百一・風大に百一の合わせて四百四病がある。これらの病気は、古代インドの名医といわれた治水とか流水、耆婆や中国古代の名医といわれた扁鵲等の医薬によって治すことができる。
 二つには、心の病気で、いわゆる貪・瞋・癡の三毒や八万四千の煩悩の病である。この心の病は、仏の力でなければ、バラモンの神である二天・三仙でも、なおすことはできない。まして儒教の神農・黄帝の力など及ぶものではないことはいうまでもない。

身の病
 人間に起こる肉体全体あるいは一部の生理状態の変化に伴って生ずる苦痛。肉体的病気、疾病。
―――
地大百一
 仏教では宇宙の構成要素を地・水・火・風の四大を考えそのうち「地」が原因となって起こる病が101種類あると説いている。人体の肉や筋・骨・髄等が侵されて起こる病気がこれにあたる。
―――
水大百一
 仏教では宇宙の構成要素を地・水・火・風の四大を考えそのうち「水」が原因となって起こる病が101種類あると説いている。脳溢血・糖尿病などがこれにあたる。
―――
火大百一
 仏教では宇宙の構成要素を地・水・火・風の四大を考えそのうち「火」が原因となって起こる病が101種類あると説いている。日射病・低体温症などがこれにあたる。
―――
風大百一
 仏教では宇宙の構成要素を地・水・火・風の四大を考えそのうち「風」が原因となって起こる病が101種類あると説いている。喘息・呼吸器疾患・花粉症などがこれにあたる。
―――
治水・流水
 金光明経に説かれている名医。治水は持水とも書く。流水は治水の子。
―――
耆婆
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)の音写。釈迦在世時の名医。阿闍世王の侍医。画期的な外科療法を行なったといわれる。
―――
偏鵲
 正しくは扁鵲。中国古代の名医。史記巻百五に、渤海郡鄭の人、姓は秦、名は越人とある。ただし出身地については種々異論があるとされる。生没年は不明であるが、春秋時代の人といわれる。長桑君に医術を学び、医者となって斉や趙に逗留した。その後諸国をめぐって医業を行なった。これにより扁鵲の名声は天下に聞えた。秦国の太医令李醯(りけい)はこれをねたみ刺客をもって殺した。
―――
方薬
 処方に従って調合した薬。
―――
心の病
 精神的・心理的なバランスが崩れて起こる病。
―――
三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
―――
八万四千の病
 八万四千の煩悩という。大智度論巻第五十九に「根本の四病は、貪・瞋・癡・等分にして、淫欲の病に二万一千を分ち、瞋恚の病に二万一千を分ち、愚癡の病に二万一千を分ち、等分の病に二万一千を分つなり」と八万四千の病を分類している。釈尊は、この八万四千の病を治するために八万四千の法門を説いたのである。「御義口伝」(0775)に「八万四千とは我等が八万四千の塵労なり南無妙法蓮華経と唱え奉る処にて八万四千の法門と顕るるなり」とあるように、妙法の一法によらなければ、この病を治すことはできないのである。
―――
二天
 もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天(Maheśvara)と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
―――
三仙
 インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派(Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じくインド六派哲学の一つ、勝論学派(Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道の開祖であるといわれている。
―――
神農
 中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる王。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。
―――
黄帝
 中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。史記五帝本紀等によると、少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。すでに徳の衰えていた神農の子孫と戦い、これを破って神農氏の子孫に代わって帝位についた。五行説にいう黄竜のような土徳があったので、黄帝と呼ばれた。衣服・貨幣の制をはじめ、医薬の方法を定めた。
―――――――――
 本抄は身と心の病について説かれているので、別名を「二病抄」ともいう。
 「日蓮下痢去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日日に度をまし月月に倍増す」(1179-11)との文でもわかるように、約半年近く、わずらわれていた日蓮大聖人に、四条金吾が自ら調合した薬を送ったことに対する礼状である。
 はじめに病気には身の病と心の病との二種類があることを示され、さらに心の病には重々の浅深があること、そして法華経、涅槃経、妙楽の文を引かれ、この心が原因となって起る病気の根本的治療は正法による以外にないことを説かれている。
 最後に四条金吾より送られた薬により大聖人の病が快癒されたことを非常に喜ばれ、金吾をほめられ、また深く感謝されている。
 なお、本抄のご正筆は京都立本寺に現存している。
夫れ人に二病あり
 「身の病」と「心の病」に大別して述べられているが、「身の病」「心の病」とは、必ずしも肉体の病、精神の病というふうに分けられるものではない。身体の上にあらわれた病でも、心、生命の歪み、濁りが原因となって起った場合は「心の病」となる。逆に精神疾患でも、大脳細胞等の損傷によるものは「身の病」に入るのである。このように、何が原因かという根本を見定めて、そこに治療を加えるために立て分けられた分類法である。
 さらにまた「心の病」とは、必ずしも、いわゆる病気をいうのではない。生命自体の病根を指している。すなわち「三毒乃至八万四千の病なり」とあるように、人間精神の内奥から起った様々な煩悩が人間生命を蝕み、生命力を衰えさせていくことを指している。
  「身の病」自体、いかに医学が発達しても、常に細菌と医療技術のいたちごっこが続き完璧な解決はない。それでも技術の発達は、乳幼児死亡率を押え、人間の平均寿命を年々伸ばしている。まだ「身の病」に対する処方箋の道は開かれているといえる。ただ「身の病」においても、従来、ともすれば、人間の体内に入り込んだ細菌等の「病因」だけを見つめて、それへの対策だけを考えがちであった。しかし、人間の身体は、外界の変化に微妙に対応するものであり、体全体のバランスが崩れておこる「四大順ならざる故に病む」(1009-05)ような場合もある。人間生命を自然等の外界を含めたもっと広い次元でとらえる方向も必要であろう。
  「心の病」は、根本的には貪・瞋・癡という、人間生命の深く潜む煩悩の病を指している。
 この領域になると、医学ではどうすることもできない。生命そのものに取り組み解明した哲学が必要となってくる。その故に大聖人は「仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし」といわれているのである。「身の病」は医学で、「心の病」は仏法で解決していくように教えられているのである。病気に対して、神秘的な呪術を含む治療を排し、合理的な方法として医学と仏法を教えられていることに注目すべきである。

1178:03~1179:05 第二章 心の病の浅深を述べるtop
03                            又心の病に重重の浅深分れたり六道の凡夫の三毒・八万
1179
01 四千の心の病をば小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏此れを治す大乗の華厳・般若・大日経等の経経をそしりて起る
02 三毒八万の病をば小乗をもつて此れを治すれば かへりては増長すれども 平愈全くなし、大乗をもつて此れを治す
03 べし、又諸大乗経の行者の法華経を背きて起る三毒・八万の病をば華厳・般若・大日経・真言三論等をもつて此れを
04 治すれば・いよいよ増長す、 譬へば木石等より出でたる火は水をもつて消しやすし・水より起る火は水をかくれば
05 いよいよ熾盛に炎上りて高くあがる、
-----―
 また、心の病に浅深軽重が種々に分かれている。すなわち、六道を輪廻している凡夫の貪、瞋、癡の三毒を始めとして、八万四千の煩悩による心の病は、小乗である三蔵経によって教えを立てた俱舎宗、成実宗、律宗等の仏でもなおすことができる。しかし、大乗である華厳経、般若経、大日経等の経々をそしって起こるところの三毒八万四千のもろもろの病は、小乗をもってこれをなおそうとすれば、かえって、病気が悪化することはあっても、決して完治はしない。その場合は大乗の教えをもってなおす以外ないのである。
 また、大乗経を信じている者が、法華経に背いて起こるところの三毒八万四千の病は、華厳経、般若経、大日経、真言、三論等の法をもって、なおそうとすれば、なおるどころか、かえって病気は重くなるばかりである。
 譬えていえば、木や石の燃えている火は水で消すことができる。しかし、水から出た火は、水をかければ、かえって火勢が増して、炎が高く燃え上がるようなものである。  

六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
小乗の三蔵
 小乗の経・律・論の三蔵をいう。天台所立の五時八教における化法の四教の中の蔵教のこと。三蔵教とは一に経蔵または定蔵、二に律蔵または戒蔵、三に論蔵または慧蔵のこと。一代聖教大意(0390)に「三蔵とは阿含経の意なり・此の経の意は六道より外を明さず」とある。
―――
倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
成実
 成実宗のこと。訶梨跋摩の成実論を所依とする小乗教である。中国においては鳩摩羅什が漢訳し、門人がひろめたが、天台・嘉祥等には用いられず衰微した。わが国へは、三論宗の僧がこれを伝えたが、宗門として独立するまでにはいたらなかった。成実論には、釈尊が阿含部において説いた苦・集・滅・道の四諦の理が問答形式で述べられている。
―――
律宗
 小乗教の戒律を修行する宗派。中国唐代に南山の道宣が、四分律によって戒律をひろめ、のちにこの南山律を律宗というようになった。わが国へは、鑑真が天平勝宝6年(0754)に来朝し、奈良・東大寺に小乗の戒壇を建て、大いに律宗を弘通した。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を建立し、根本道場とした。その教義は、化教と制教の二つに分かれ、戒の重要性を説いている。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――――――――
心の病に重重の浅深分れたり
 「心の病」について内外、大小、権実相対のうえから、さらにくわしく述べられている。「六道の凡夫の三毒八万四千の心の病」とは、仏法を知らない衆生の心の病である。仏法の原因を知らない人々の生命の痛みを救うには、まず仏法の原理を教えることから始められなければならない。仏法は苦を見つめることから出発した教えであり、人生の無常をどのように見つめ、それをいかに乗り越えるかの仏法の英知を知ることによって、人々の境涯は開けてくる。すなわち仏法を教えることが心の病を治す方法である。これは内外相対の立場である。
 次に大聖人は、大乗を謗じて生ずる三毒八万の病は大乗によってはじめて治し、法華経を謗じて起こる病は法華経によって治す以外にないことを教えられている。
 小乗の教えに従っていても大乗の教えを謗ずることによって起こる心の病とは、人生を苦の集積と考え、その苦を越えるために想像を超えるような難行苦行を自ら積むが、自身の世界に閉じこもり、決して他を利することを考えない人生観である。これは二乗に特有の思想である。大乗の「菩薩」の発想は、こうした利己主義、諦観主義に傾きがちな小乗の人生観、心の病を打ち破るものである。
 しかし、大乗といえども、現実の世界と仏の世界とを別のものと考え、西方十万億土へ理想郷を求めるような考え方は、現実逃避の人生観を形成し、抜きがたい心の病をつくることも疑いない。まして法華経を謗ずるに至っては心の病はますます重くなる。この場合もやはり法華経によらなければ心の病は治らない。衆生の病いの原因がどこにあるかを知り、それにふさわしい教えをもってあたらねばならないことを大聖人は教えておられる。本文では一応権実相対までだが、末法今時、本意はあくまで種脱相対にあり、妙法五字による以外に人々の心の病は治らないことは当然である。

1179:05~1179:11 第三章 疫病を治すは法華経によるtop
05                   今の日本国去今年の疫病は四百四病にあらざれば 華陀偏鵲が治も及ばず小
06 乗権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人人のいのりも叶はず・かへりて増長するか、設い今年は・ とどま
07 るとも年年に止がたからむか、 いかにも最後に大事出来して後定まる事も候はんずらむ、 法華経に云く「若し医
08 道を修して方に順つて病を治せば 更に他の疾を増し或は復死を至さん 而も復増劇せん」涅槃経に云く「爾の時に
09 王舎大城の阿闍世王○偏体に瘡を生じ乃至是くの如き創は心に従て生ず、 四大より起るに非ず、 若し衆生能く治
10 する者有りと言はば 是の処有ること無けん」云云、 妙楽の云く「智人は起を知り・ 蛇は自ら蛇を識る」云云、
11 此の疫病は阿闍世王の瘡の如し彼の仏に非ずんば治し難し
-----―
 今の日本国に、去年から今年にかけて流行している疫病は、身の病の四百四病ではないから、華陀、偏鵲の治療も及ばない。また、小乗、権大乗をもって治すことができるような、八万四千の軽い心の病でもないから、諸宗の人々が祈っても叶うことがなく、かえって重くなるのであろうか。設え今年は止まったとしても、年ごとに、起こってくるであろう。決局、最後は、一大事が起きた後に、はじめて、おさまるようになるのかもしれない。
 法華経譬喩品第三に「若し、医道を学び、そのてだてにしたがって病をなおそうとすれば、さらに他の病を併発したり、或は死に至ることもあり、しかも、また病勢を増すであろう」と。涅槃経に「その時に王舎大城の阿闍世王が、全身に悪瘡ができた。(中略)このような悪瘡は、心から起こったのである。地・水・火・風の四大から起こったのではない。若し人が医術をもって、なおそうとしても、決して、なおる道理がない」云云と。妙楽の法華文句記に「智人は将来起こるべきことを知り、蛇は自ら蛇を知る」云云と。
 今、日本国に流行している疫病は、阿闍世王の悪瘡のようなものである。阿闍世王の悪瘡は、釈迦でなければなおすことができなかった。今、日本国に流行している疫病は、法華経でなければ取り除くことはできない。

華陀
 中国後漢末から魏の初めに活躍した名医。生没年不詳。字を元化、名を旉という。沛国譙県(安徽省亳県)の人。華佗とも書く。諸経に通じ針灸、方薬でよく病を除いたといわれる。また養生術にたけ、百歳になってもなお壮健であったため仙人と思われていた。魏の武帝が侍医に招こうとしたが拒否したために殺されたとある。
―――
増劇
 甚だしく増すこと。
―――
王舎大城
 王舎城のこと。古代インド、摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルにあたる。インド最古の都の一つで、仏教の外護者として著名なシャイシュナーガ朝ビンビサーラ王が建設したと伝えられる。付近には霊鷲山、提婆達多が釈尊を傷つけた所、七葉窟、竹林精舎、祇園精舎などの仏教遺跡が多い。王舎城の故事については法華文句巻第一上、西域記などにある。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
智人は起を知り・蛇は自ら蛇を識る
 天台大師の法華文句を、さらに妙楽大師が釈した文。 「智人は事の起こる由来を知り、蛇は自ら蛇を知っている」ということ。
―――――――――
若し医道を修して方に順って病を治せば、更に他の疾を増し、或は復死を至さん。而も復増劇せん
 くわしくは法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば(中略)若し医道を修して 方に順じて病を冶せば 更に他の疾を増し 或は復た死を致さん 若し自ら病有らば 人の救療すること無く 設い良薬を服すとも 而も復た増劇せん」とある。
「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば」との文からもわかるように経文中の病とは法華誹謗による病であり、「心の病」のなかでも最も重い病気をさしている。法華経を謗じたものは、いかなる医術、薬品を用いてもその病を完治させることができない。医術を用いて治そうとしても、真の原因である法華経誹謗をやめない限り、かえって他の病を導いたり、あるいはさらに悪化して死に追いやることになってしまうのである。
 したがって法華誹謗の病は法華経を信ずる以外に解決法はないということを示すために、この経文を引用されているのである。すなわち当時の日本国の疫病はたんなる流行病ではなく法華誹謗が原因となって起こったものであるから、法華経こそがその解決の方法である、と明かされている。
 もちろんこのことは、医学の治療を拒否するものでは当然ない。ただ、本源的な病因を知らなければ病気を完冶させることができないといわれているのである。もし、謗法という原因を知り、正しい信仰を生活の基本に据えていくならば「方に順って病を治」する技術が、その効果を発揮するのである。
 またこの文はさらに広く考えれば、たんに身体の病気をいうのではなく、生命自体の歪みからくる社会全体の狂いととらえることもできる。社会におけるさまざまな混乱、相克、悲惨は、たんなる制度や機構の不備等だけではなく、人々の生命に巣食う心の病が引き起こしているといえる。この心の病の治療を無視して、制度機構の改革のみに終始しても、本源的な解決は望めない。というより、かえって事態を悪化させることが少なくないのである。

1179:11~1179:18 第四章 病の快癒と御供養の謝意を表すtop
11                                           将又日蓮下痢去年十二
12 月卅日事起り 今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す 定業かと存ずる処に 貴辺の良薬を服してより已来
13 日日月月に減じて今百分の一となれり、 しらず教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか、 地涌の
14 菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり、くはしくは筑後房申すべく候。
-----―
 なおまた、日蓮の下痢も去年の十二月三十日から始まって、今年の六月三日、四日頃までは、一日一日とその度を増し、月々に重くなった。これは定業かと思っていたところに、あなたが下さった良薬をいただいて以後は、日々月々に下痢も減って、今では、百分の一となりました。
 教主釈尊があなたの身に入り替わって、日蓮を助けられたのであろうか。また地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けられたのであろうかと不思議に思っております。くわしいことは、筑後房から申し上げることでしょう。
-----―
15   又追つて申す・きくせんは今月二十五日戌の時来りて候・種種の物かずへつくしがたし、ときどののかたびらの
16 申し給わるべし、又女房の御ををちの御事なげき入つて候よし申し給ふべし、恐恐。
17       六月廿六日                     日 蓮 花 押
18     中務左衛門尉殿御返事
-----―
 また、追って申し上げます。あなたの使いは、今月二十五日の夜八時頃に来ました。種種の御供養の品々は、かぞえきれないほどです。富木殿の帷のことも、よろしく申し上げて下さい。また、奥様の御祖父が亡くなられたとのこと、悲しく思っていることも申し上げてください。恐恐謹言。
  六月二十六日              日 蓮  花 押
   中務左衛門尉殿御返事

定業
 前世から定まっている善悪の業報。決定業。
―――
地涌の菩薩
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。
―――
筑後房
 (1245~1320)。六老僧の一人。大国阿闍梨日朗の交名。下総国能手(千葉県海上郡能手)に生まれる。父は平賀二郎有国、母は印東祐昭の女といわれている。また弁阿闍梨日昭の甥にあたる。建長6年(1254)10歳の時に大聖人の弟子となる。文永8年(1271)、大聖人が竜口法難に遭われた後、鎌倉の土牢に入れられる。その後鎌倉、池上を中心に活動し、池上で没している。行年78歳。
―――
きぐぜん
 脚が高く縁の深い膳。ここでは、御供養の品々をのせる膳から転じて、大聖人のもとに御供養を届ける〝使い〟のこと。
―――
戌の時
 午後7時~9時まで。
―――
かたびら
 夏の着物の一種。片方という意で、古くは衣服にかぎらず、裏のつかないものの総称であった。それが平安中期には、公卿装束の下着である単小袖をいうようになり、小袖が男女の表着となると麻や絹縮みの単衣をかたびらと呼ぶようになった。
―――――――――
しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり
 日蓮大聖人の病を治した四条金吾に対する心からの激励の文である。
 本文でも明らかなように、大聖人は建治3年(1277)の末ごろから下痢を病まれ、一時は日増しに悪化し定業かとまで思われたほどであった。それが金吾の真心からの看護により、健康をとり戻されたのである。金吾は医者としての力の限りを尽くして、大聖人をお護り申し上げたのであろう。
 しかし、ここで大事なことは、ただ薬を用いたから病気が治ったと仰せられてはいないことである。「妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるか」と仰せなのである。すなわち病気を根本から治すものは、病人自身の旺盛な生命力である。生命力が横溢した時に病気は完治するのであって、医学的治療によって完冶するものではない。いわば医薬は補助的役割りをするものともいえよう。
 たとえば薬には本来、毒と薬の両作用が具っている。それを効能書き通り、薬とするか否かは、使う人自身の生命の状態によるのである。薬の効力を余すところなく発揮させるのは、病人自身の旺盛なる生命力に他ならない。また、人生における様々な苦脳を解消するのも、かえってそれを自分自身のバネとしていくことも、その人自身の生命力による。このように仏法は生命力を強めることを第一義としているのである。

1180~1182    四条金吾殿御返事(源遠長流御書)top
1180:01~1180:13 第一章 金吾への信心を賛嘆するtop
1180
四条金吾殿御返事    弘安元年九月    五十七歳御作
01   銭一貫文給いて頼基がまいらせ候とて法華経の御宝前に申し上げて候、定めて遠くは教主釈尊・並に多宝・十方
02 の諸仏・近くは日月の宮殿にわたらせ給うも御照覧候ぬらん、さては人のよに・すぐれんとするをば賢人・聖人と・
03 をぼしき人人も皆そねみ・ねたむ事に候、 いわうや常の人をや、 漢皇の王昭君をば三千のきさき是をそねみ帝釈
04 の九十九億那由佗のきさきはキョウ尸迦をねたむ、前の中書王をば・をのの宮の大臣是をねたむ、北野の天神をば時
05 平のおとど是をざんそうして流し奉る、 此等をもて・をぼしめせ、 入道殿の御内は広かりし内なれども・せばく
06 ならせ給いきうだちは多くわたらせ給う、 内のとしごろの人人・あまたわたらせ給へば池の水すくなくなれば 魚
07 さわがしく秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、 いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに 度度の仰
08 せをかへし・ よりよりの御心にたがはせ給へばいくそばくのざんげんこそ候らんに、 度度の御所領をかへして今
09 又所領給はらせ給うと云云、此れ程の不思議は候はず此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり。
-----―
 銭一貫文いただきましたが、これは頼基からの御供養であると、法華経の御宝前に申し上げました。必ず、遠くは教主釈尊並びに多宝・十方の諸仏、近くは日天月天の宮殿からも御照覧あることでしょう。
 さて、人が世の中に勝れようとすると、賢人、聖人と思われるような人々さえも、皆そねみ、ねたむものである。まして常人はいうまでもない。漢の元帝の后、王昭君を三千人の后がそねみ、帝釈天の九十九億那由佗の后は、憍尸迦をねたんだ。日本では前の中書王を小野の宮の大臣がねたみ、北野の天神を左大臣藤原時平がねたんで天皇に讒奏して筑紫の国に流したのである。
 これらのことをもって考えてごらんなさい。主君・江馬入道殿の御内は、はじめは広かったが、今はせまくなっている。しかも一族の子息たちは多くいらっしゃる。年来の家来も大勢おられるので、ちょうど池の水が少なくなれば魚がさわがしくなり、秋風が立つと小鳥が梢を争うのと同じことであるので、どんなにか御内の人々があなたをそねんでいることであろう。さらにあなたはたびたびの主君の仰せに背き、折々の御心にそわなかったから、どれほど多くの讒言があったであろう。ところが、主君からたびたびいただいた所領を返上して、今また所領を給わったということは、これ程不思議なことはない。全く陰徳あれば陽報ありとはこのことである。
-----―
10   我が主に法華経を信じさせまいらせんと・をぼしめす御心のふかき故か、 阿闍世王は仏の御怨なりしが耆婆大
11 臣の御すすめによつて法華経を御信じありて 代を持ち給う、 妙荘厳王は二子の御すすめによつて 邪見をひるが
12 へし給う、 此れ又しかるべ
-----―
 主君に法華経を信じさせようとされた真心の深いことによるのであろうか。 
 阿闍世王は仏に敵対していたが、耆婆大臣のすすめによって法華経を信ずるようになり、寿命をのばして天下をたもつことができた。妙荘厳王は二人の息子のすすめによって邪見をひるがえされた。あなたの場合も同じである。あなたのすすめによって、主君の江馬氏も今は、心をやわらげられたのであろう。これも、偏にあなたの法華経への御信心が深いからである。

日月の宮殿
 太陽や月が我々を照らしていることを、宮殿と表現された。
―――
王昭君 
 中国、漢の元帝(在位前0048四八年~0033)の官女。姓は王、字は昭君。諱を嬙という。匈奴との親和政策のために呼韓邪単于に嫁し、その地で没した。王昭君の生涯は後に哀話として伝説化された。①「西京雑記」によれば、元帝が画工に命じて宮女の絵姿を描かせ、その絵が気に入ると絵姿の官女を召された。そこで、宮女は賄賂を画工に贈ってよく描いてもらったが、昭君はそれを嫌ったため醜く描かれた。そのため元帝は昭君の美しさを知らずに呼韓邪に与えることにしたが後になってその美しさを知り、大いに悔い画工を殺したという。②「後漢書」によれば、昭君は元帝に何年も愛寵されなかったので、自ら進んで匈奴に嫁したといっている。③「琴操」によれば、「後漢書」と同じ理由で匈奴に嫁し、さらに呼韓邪の子に再嫁するときに服毒自殺を図ったといっている。この他、さまざまな話が伝えられている。
―――
憍尸迦
 梵語でカウシュカ(Kauśika)。①帝釈天の別称。大般涅槃経第三十三迦葉品には「また帝釈と名づけ、また憍尸迦と名づけ」とある。②帝釈天の眷属の一天女のこと。帝釈を憍尸迦といい、その眷属の天女を憍尸迦女といったと思われる。③帝釈天の夫人・舎脂の誤りか。宝暦修補本に「帝釈の九十九億那由他のきさきは舎脂夫人をねたむ」とある。だが正法念処経巻二十五では「時に帝釈は後の舎脂及び諸天衆・天子・天女と遊戯して楽しみを受く」等の文はあるが宝暦本の文は見あたらない。④憍尸迦天王のこと。正法念処経巻二十五に「姓は憍尸迦にて能天主と名く。九十九億那由他の天女あり眷属となす。恭敬し囲遶りて、帝釈を供養す。一女人の丈夫に供給する如くに、諸の天女等は心に嫉妬なく天后に供養す」とあるが内容が異なる。
―――
前の中書王
 醍醐天皇の皇子で兼明親王(0914~0987)のこと。中書王とは、親王で中務省の長官中務卿になった人をいう。具平親王を後の中書王というのに対して、兼明親王を前の中書王という。兼明親王が左大臣の位にあったとき、関白・藤原兼通が、従兄弟で右大臣の藤原頼忠を左大臣とするために、円融天皇に讒言した。勅命により兼明親王は中務卿に任じられ、頼忠が左大臣となった。
―――
をのの宮の大臣
 左大臣藤原頼忠の父、藤原実頼のこと。実頼もわが子の頼忠の昇進を願う気持から前の中書王をねたんだのであろう
―――
北野の天神
 (0845~0903)菅原道真のこと。生年は承和12年(0845)6月25日日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。
―――
きうだち
 公達のことで本来は諸王のことを指したが、後代には臣籍にある諸王の子弟や 、摂家・清華家などの子弟・子女に対する呼称として用いられた。
―――
耆婆大臣
 耆婆とは、梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提(まかだ)国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希(いだいけ)を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
―――
妙荘厳王
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
―――――――――
 本抄の御述作年代については、弘安元年(1278)月と弘安2年(1279)9月との二説がある。弘安2年(1279)説は、末尾の「大進房の死去」とあることによっているが、大進房の死がはたしていつのことかは定めがたく、弘安元年かも知れないので、これだけをもって、弘安2年(1279)御述作とは決められない。
 むしろ、所領の問題について「度度の御所領をかへして、今又所領給はらせ給うと云云」とある文に、手がかりがあるように思われる。これと、次の十月のお手紙の「御所領上より給わらせ給いて候なる事、まこととも覚へず候。夢かとあまりに不思議に覚へ候云云」(1183-01)の文を考え合わせてみると、本抄の文は、まだ内定の段階であったと思われる。10月のお手紙は、それが決定したのであって、そこで初めて大聖人は愁眉(しゅうび)をひらいて、心から悦ばれているのである。次の10月のお手紙が弘安元年(1278)で、それから一年近くも経った時点で、本抄のような文がでてくるとは、あまりにも筋が通らないからである。したがって、一応、ここでは、弘安元年(1278)説をとっておきたい。
 ともあれ、この年建治4年(1278)1月のお手紙でもうかがわれるように、年の始めから、主君・江馬氏の四条金吾に対する怒りは解け、事態は好転してきていたのであろう。しかし、かねてからの所領問題について、ようやく開けてきたのが、この9月の時点であったのではないかと思われる。
 冒頭に、四条金吾が御供養してきた一貫文の銭を「法華経の御宝前」にそなえ「頼基がまいらせ候」と申しあげた、といわれているのも、四条金吾がようやく苦境を脱したことに対する大聖人の限りない喜びがうかがわれる。これまでの四条金吾にとっては、一貫文もの金を御供養することなど、とうていできない苦しい生活であったに違いない。それが、こうして事態は次第にひらけ、堂々と御供養できるまでになったのである。その四条金吾の苦境の打開を大聖人は悦ばれているのである。
定めて遠くは教主釈尊並びに多宝・十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給うも御照覧候いぬらん
 釈迦・多宝・十方の諸仏とは仏界であり、その御照覧がある、とは、成仏という永遠の幸福が与えられるであろうということである。それは、現世的利益をはるかに越えたものであり、生命の本源に与えられる幸せである。故に「遠くは」といわれたのである。
 これに対し〝日月〟とは日天・月天で、十界でいえば天界にあたる。その日月天が、天界の宮殿から照覧しているということは、現世における幸せであり、物質的な豊かさが与えられるということである。故に「近くは」といわれるのである。
さては人のよにすぐれんとするをば賢人・聖人とをぼしき人人も皆そねみねたむ事に候
 人間の心理に対する、まことに厳しく鋭い洞察である。どんなに聖人・賢人と世間から敬われている人にも、嫉妬の心があるというのである。それは生命の哲理からいえば、十界互具であるから、当然のことともいえる。
 しかしながら、真の聖人・賢人は、そうした自分の醜い心を見おろし、より大きい慈愛によって行動していくから、支配されることがない。嫉妬から、人がそのすぐれた才能によって世に認められ、さらには世をリードする立場になることに対して、これを妨害し、抑圧するような行動に出ることはないのである。
 それに対し、一般に、聖人・賢人と思われながら、そうした自身の衝動に抗しきれないで、すぐれた人を妨害したり、抑圧したりする人が多い。それは「賢人・聖人とをぼしき人人」ではあっても、真の賢人・聖人ではないからにほかならない。特に末法においては、いわゆる社会の指導者に限らず、未来、もっとも清浄であるべき宗教の指導者においても、自らの三毒によって生命を汚し、自己の名聞名利にとらわれて、人が自分よりすぐれることを喜ばない状態があらわれてくる。否、末法の末法たるゆえんは、一般民衆や政治家・社会的指導者の問題ではなく、仏法のなかにあらわれる汚濁にこそ、その根源があるともいえよう。ここに、仏法を実践する者の最も心しなければならない最大の課題がある。

1180:13~1181:07 第二章 難信難解を明かすtop
13                根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長しと申して 一切の経は根あさく流ちかく法
14 華経は根ふかく源とをし、 末代・悪世までも・つきず・さかうべしと天台大師あそばし給へり、此の法門につきし
15 人あまた候いしかども・をほやけわたくしの大難・ 度度重なり候いしかば一年・二年こそつき候いしが後後には皆
1191
01 或はをち或はかへり矢をいる、或は身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ。
-----―
 樹は根が深ければ枝ぶりがさかんとなり、川は源が遠ければ流れは長い。この譬えのように、法華経以外のいっさいの経々は、根が浅く、流れは近い。それに対し、法華経は、根は深く源は遠い。故に末法悪世までもつきることなく栄え、流布していくと天台大師はいわれている。
 この法門を信心した人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年二年はついてきたが、後々には、みな、ある人は退転し、ある人は反逆して法華経に敵対してしまった。またある人は身は退転していないようだが、心の中ではすでに疑いをいだき、あるいは信仰の心だけはあっても、身は退転してしまっている。
-----―
02   釈迦仏は浄飯王の嫡子.一閻浮提を知行する事・八万四千二百一十の大王なり.一閻浮提の諸王・頭をかたぶけん
03 上御内に召しつかいし人十万億人なりしかども 十九の御年・ 浄飯王宮を出でさせ給いて檀特山に入りて十二年、
04 其の間御ともの人五人なり、 所謂拘鄰とアビと跋提と十力迦葉と拘利太子となり、 此の五人も六年と申せしに二
05 人は去りぬ残りの三人も後の六年にすて奉りて去んぬ、 但一人残り給うてこそ仏にはならせ給いしか、 法華経は
06 又此れにもすぎて人信じがたかるべし難信難解此れなり、 又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし、 此れをこ
07 らへん行者は我が功徳には・すぐれたる事・一劫とこそ説かれて候へ、
-----―
 釈迦仏は浄飯王の嫡子で一閻浮提を知行すること八万四千二百十の国の大王であった。したがって一閻浮提の諸王が頭を傾けて敬意を表し、召使っていた人は十万億人であった。そのような御身でありながら、御年十九のとき父・浄飯王の宮殿を出られて、檀特山に入って十二年修行したのである。その間の伴の人は、僅か五人であった。所謂拘鄰と頞鞞と跋提と十力迦葉と拘利太子である。この五人も六年目に二人は去り、残りの三人も後の六年に釈尊を捨てて去ってしまった。釈尊は唯だ一人残り修行されて、後に仏に成られたのである。法華経は、またこれにも過ぎて信じ難い経である。経文に「難信難解」とあるのはこのことである。また仏の在世よりも今末法は大難が重なるのである。これを耐えて実践する者は、一劫の間、仏を供養する功徳よりも勝る、と法師品に説かれている。

末代・悪世
 末代は正像末の三時のうちの末法。悪世とは人心が乱れ、悪事の横行する世との意味で、末法は三毒強盛の衆生が充満し、釈尊の教えでは救いきれない悪い世であることをいう。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
檀特山
 梵語のダンダカまたはダンダローカの訳。北インドのガンダーラ地方にある山。
―――
拘鄰
 阿若憍陳如とも書く。中インド・カピラヴァットゥのバラモンの出身。釈迦の修行中は見捨ててこれを去ったが、釈迦成道後、はじめての説法を聞き、仏弟子となった。
―――
拘鄰と頞鞞と……拘利太子となり
 法華文句巻一には、この五比丘は釈迦と共に修行したが、苦行を勤めるうちに二人は去り、残った三人も釈迦が苦行をやめて飲食、酥油、煖水を受ける様を見て、釈迦が堕落したと錯覚して去っていった。釈迦は成道すると初めにこの五人に四諦の法を説いた。五人は順次に法淨眼を得て弟子になったとある。
―――
一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。―――――――――
「根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長し」の有名な文を引いて、法華経は根が深く源が遠いゆえに、必ず末法に広宣流布すること、その信心を貫くには幾多の難が競い、最後までやり通す人は稀であるが、それに耐えて信心を貫いた人は、絶大な功徳があることを示され、四条金吾の信心を励まされている。
根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長し
 法華経は、その教相の上からいえば、仏の五百塵点劫という久遠の過去の成道を明かしている。これほど遠い源にさかのぼって説き明かした経は、ほかにはない。生命論の上からいえば、生命の奥底に英知の光を射しこみ、その深い根源を明らかに示している。これまた、他のいかなる経にもない深い真理を解明したのである。
 明かされた真理が深いということは、いかなる時代、社会にあっても、人々に知恵の源泉を与え、人生を生きるための力になるということである。浅い哲理は、ある限られた状況のもとでしか効用をもたない。深い哲理は永遠性と普遍性をもつ。この深いというのは、現象次元にとらわれるのでなく、あらゆる現象を起こさせている実体に肉薄しているということである。
 しかしながら、釈迦の法華経は、まだ五百塵点劫という有限の過去までしか掘りさげておらず、そこに明かしているものも、生命の実体に対する説明であって、実体そのものではない。日蓮大聖人の仏法においてはじめて、久遠元初という無始永遠の法が明かされ、その実体が確立されたのであり、故に、大聖人の仏法は、末法の濁世にあって、万年の外尽未来まで広宣流布していくのである。
 また、この文を個人の生命活動に約して読めば、根を深くおろし、源を遠くさかのぼるということは、生命の根本的実体である南無妙法蓮華経に立脚するということである。それによって「枝さかえ」とは、自己の能力を存分に発揮し、人生を充実して生きることであり、「流長し」とは、未来にまで尽きない福運を積んでいけることである。
或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ
 信心というものは、身口意の三業を兼ねそなえたものでなければならない。意すなわち心が根本であることはいうまでもないが、心だけでは、真の信心とはいえない。
 種々の難にあったとき、ある人は、表面的に見える形の上では信心から離れていないように見えても、その内心は疑いをおこし信心から離れてしまっている場合がある。逆に心は信心を保っており、信仰を続けたい気持ちはあっても、もはや実践が伴っていない場合もある。
 「身はおちないけれども心はおちている」のは、自身の内心の疑いによることが多く、「心はおちないが身はおちた」というのは、外からの抑圧、迫害に負けた場合が多い。また、もっと厳格にいえば、前者の例として外面は懸命に実践しているようでも、仏法を自身の名聞名利・権勢欲のために利用している場合がある。後者の例としては、臆病や怠惰の心に負けている場合がある。正しく仏法を見極める英知と、自身の弱さをのりこえていく勇気とが、仏法の実践においては大切なのである。
法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし。「難信難解」此れなり
 先に、拘鄰等の例で釈迦仏につくことの難しさを示されたのに対し、法華経につくことは、さらに難しいといわれているのである。すなわち、前者は〝人〟であり、後者は〝法〟である。〝人〟は、弟子が退転しそうになると諌めもするし、弟子の機根に合わせて、わかりやすく教えようともする。また、現実に生きている人間として眼前にいるということは、心強くもあり、納得もしやすい。それに対して〝法〟は、人の機根に合わせることはなく、ただ厳然と存在するのみである。〝法〟の方から働きかけることはなく、もっぱら実践者から〝法〟に働きかけるのみである。
 したがって法華経という〝法〟を実践すること、信じ理解することは釈迦という〝人〟に、つき従うことより、はるかに困難なのである。また、法華経と釈迦とを較べた場合、いわゆる法勝人劣で、法華経の方が勝れているが故に、いっそう難信難解なのである。
 末法においては、御本仏・日蓮大聖人と、南無妙法蓮華経とは「人法一箇」であるから大聖人につくということと、妙法につくということは等しい。だが、大聖人滅後の今日においては、当然のことながら妙法受持という〝法〟が主体になり、人法一箇の故に、そのことのなかに〝人〟も含まれるのである。「此の法門につきし人あまた候いしかども……」といわれているように、仏法の修行の本義はあくまでも〝法〟を中心とするところにあることを忘れてはならない。
 法を中心にするところに、それを持ち実践する人の主体性を重んずる仏法の特質がうかがわれる。〝人〟を中心にする生き方は、実践者を受け身的な立場におく結果になりやすい。法を中心にするということは、至難のことではあるが、それだけに、信じ受持しきることによる功徳は大きいのである。

1181:07~1182:06 第三章 如来の使いであることを明かすtop
07                                  仏滅度後・二千二百三十余年になり候に月
08 氏一千余年が間・仏法を弘通せる人・伝記にのせて・かくれなし、漢土一千年・日本七百年・又目録にのせて候いし
09 かども仏のごとく大難に値える人人少し、 我も聖人・ 我も賢人とは申せども況滅度後の記文に値える人一人も候
10 はず、竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法の大難に値える人人にては候へども此等も仏説には及ぶ事なし、 此れ即代の
11 あがり法華経の時に生れ値はせ給はざる故なり。
-----―
 今は仏滅度後・二千二百三十余年になる。インドで一千余年の間、仏法を弘めた人は、伝記にのってはっきりしている。漢土の一千年・日本の七百年間の弘法者も皆、目録にのっているけれども、釈迦のように大難にあった人は少ない。我も聖人、我も賢人とはいうけれども、「況滅度後」の経文通りに大難にあった人は一人もいない。竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法のために大難にあった人々ではあるがそれでも仏が経文に説いている大難には及ばない。それは時代がはやすぎて、法華経の弘まるべき時に生まれ合わせなかったからである。
-----―
12   今は時すでに後五百歳・末法の始なり、日には五月十五日・月には八月十五夜に似たり、天台・伝教は先に生れ
13 給へり今より後は又のちぐへなり、 大陣すでに破れぬ余党は物のかずならず、 今こそ仏の記しをき給いし後五百
14 歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん、 聖人
15 の出ずるしるしには 一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に すでに合戦も起りて候にすでに聖人や一閻浮
16 提の内に出でさせ給いて候らん、 きりん出でしかば孔子を聖人としる鯉社なつて聖人出で給う事疑なし、 仏には
17 栴檀の木をひて聖人としる、 老子は二五の文を蹈んで聖人としる、 末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべ
18 き、経に云く「能説此経.能持此経の人・則如来の使なり」八巻・一巻・一品.一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の
1182
01 使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。
-----―
 今は時すでに、釈迦が大集で予言した「後五百歳」にあたり末法の始めである。たとえば日でいえば五月十五日の夏至・月では八月十五日の中秋の夜のごとき時である。天台、伝教大師はこの末法の時代よりも先に生まれられた。また、今より後に生まれてくる人も、その時を失したことを後悔するであろう。日蓮が出現して魔軍の大陣は、すでに破れた。その他の余党は、物のかずではない。今こそ釈迦が予言した「後五百歳・末法の初め・况滅度後」の時にあたるのであるから、仏語が虚妄でないならば、一閻浮提のうちに、かならずや聖人が出現していることであろう。
 聖人が出現する前兆としては「一閻浮提第一の合戦が起こるであろう」と経文に説かれているが、すでに合戦も起こっているのであるから、聖人は、すでに一閻浮提の内に出現されているであろう。
 孔子の時代の人々は麒麟が出現したので孔子が聖人であることを知った。また鯉社が鳴って聖人が出現することは疑いないことである。
 仏が出現した時には、栴檀の木が生い、それによって仏が聖人であることを知ることができた。また老子は足の裏に二と五の文を蹈んでいたので聖人と知ることができたのである。
 今末法の法華経の聖人については、何をもって知ることができるのであろうか。法華経法師品第十に「能く此の経を説き、能く此の経を受持する人は仏の使である」と説かれている。すなわち法華経八巻・一巻・一品・一偈を持つ人、ないし題目を唱える人は、如来の使である。また最初から最後まで、生涯、妙法を捨てずに大難を受けても受持し通す人は如来の使である。
-----―
02   日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、 但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来
03 の御使に似たり、 心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり、 過去を
04 尋ぬれば不軽菩薩に似たり、 現在を・とぶらうに加刀杖瓦石にたがう事なし、 未来は当詣道場疑いなからんか、
05 これをやしなはせ給う人人は 豈浄土に同居するの人にあらずや、 事多しと申せどもとどめ候心をもて計らせ給う
06 べし。
-----―
 日蓮の心は、まったく如来の使ではない。それはわが身が凡夫であるゆえである。しかし、この法華経に予言されたように三類の大怨敵に憎まれ、伊豆の伊東と佐渡と二度も流罪の難にあったのであるから、経文に説かれた如来の使に似ている。心は貪瞋癡の三毒が深く、また一身は凡夫であるけれども、口には南無妙法蓮華経と唱えているから仏の使に似ている。
 過去にその例をたずねてみれば、威音王仏の像法の末に出現したという不軽菩薩に似ている。また現在をたずねてみれば、経文に説かれた「刀杖瓦石」の難に少しも違っていない。したがってこのことから未来を推定してみれば、必ず経文の如く「当に道場に詣る」ことは疑いない。したがってこのような日蓮を養って下さる方々は、霊山浄土に共に住む人であることは疑いない。したがってこのような日蓮を養って下さる方々は、霊山浄土に共に住む人であることは疑いない。申しあげたいことはたくさんあるが、ここでは止めておく、あとは心をもって推量して下さい。

月氏一千余年
 インドで仏教が亡びたのは7~8世紀頃のイスラム侵入による。釈迦の出現が紀元前5世紀といわれ、その期間は1200年ということになる。
―――
漢土一千年
 中国に仏法が伝来したのは後漢・明帝の時(0052年)といわれ、滅びたのは蒙古の侵略によってであり、13世紀となる。
―――
日本七百年
 日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の時で6世紀はじめとなる。大聖人の時代は13世紀であるから、その期間は約700年ということになる。
―――
況滅度後
 法師品の文。法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
―――
後五百歳
 薬王品の文。「我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布す」とある。末法のはじめ。
―――
大陣すでに破れぬ
 日蓮大聖人が邪教とかした各宗派を四箇の格言等をもって論破されたことをいう。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
一閻浮提第一の合戦
 一閻浮提とは、今日でいえば全世界のこと。蒙古によるユーラシア大陸の大半の侵略はまさに一閻浮提第一の合戦であり、わが国にも文永の役、弘安の役と、二度にわたって攻め寄せてきた。
―――
きりん
 中国で聖人の出現する前に現われるという伝説上の動物。神獣の一つ。牡を麒、牝を麟といい、牡牝合わせて麒麟という。形は牙麕に似て、顔は龍、尾は牛、蹄は馬に似、毛は黄色、背の毛は五彩をはなち、角は肉でおおわれている。生草を踏まずに走り、草などの生物を食わず棲息するといわれる。
―――
鯉社
 鯉社は里社の意。鯉は里の借字。神祠のこと。聖人が出る前に鳴るという。文選五三巻の李蕭遠の運命論に「里社鳴って聖人出ず」とある。その注には「良曰く里社、神祠なり」とある。
―――
旃檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
老子は二五の文を蹈んで聖人としる
 古くからの中国の伝説では、聖人であるという証拠の一つに、一方の足の裏に二の字、もう一方に五の字が書かれているということが史記老子伝に出ている。
―――
老子は二五の文を蹈んで聖人としる
 中国の史記『老子伝』によると、聖人であるという証拠のひとつに、一方の足の裏に二の字、もう一方の足の裏に五の字が書かれているといわれている。
―――
三類の大怨敵
 法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。 ①俗衆増上慢(法華経を弘める者に対して、悪口罵詈等し刀杖を加える在家者)。②道門増上慢(邪智で心が曲がり、覚りを得たと錯覚している我慢の心の強い出家者)。 ③僣聖増上慢(山林に住み衣を着て、真実の仏道を行じたと思い込み人を軽蔑し、自らは利益のみにとらわれ、しかも在家に法を説き、世間から敬われ、権力に近づき正法を弘める者を迫害する出家者)。
―――
三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
―――
加刀杖瓦石
 法華経法師品第10に「若し此の経を説かん時 人あって悪口し罵り刀杖瓦石を加うとも 仏を念ずるが故に忍ぶべし」とある。
―――
当詣道場
 法華経普賢品第28の文。「当に道場に詣りて」と読む。今いる場所こそ仏道 修行の道場である、との意。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――――――――
 末法において法華経を行ずることは特に困難であり、したがって、それに耐え通したときの功徳は、釈迦の功徳の何千倍に相当するとの前章の文から、法華経の文の如くに実践し、大難にあったのがほかならぬ大聖人であり、末法の〝聖人〟であり〝如来の使〟であることを明示されている段である。
我も聖人、我も賢人とは申せども「況滅度後」の記文に値える人一人も候はず
 法師品には「如来の現在すら、猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」と、滅後末法においては、釈迦が受けた、いわゆる九横の大難よりはるかに大きい難が法華経の実践者に起こることが予言されている。正法・像法二千年間に、自分こそ偉大な心理を究めた聖人・賢人であると名乗った人は多い。だが、これらの人々のなかで、難にあった人はいない。さらに、法華経を根本に、仏法を正しくひろめた竜樹・天台・伝教等の人々も、法師品に説かれているような難にはあっていないのである。
 そうした法師品に「況滅度後」とあるような大難にあったのは、ただひとり、日蓮大聖人のみなのである。このことをもって、大聖人こそ、真の法華経の実践者であり、しかも釈迦の仏法がもはや効力を失った末法という時代における法華経の実践者とは、釈迦よりも更に偉大な仏であるということを意味する。
 いったいに、大難が起こるということが、なぜそのように重要なのか。たんに経文に述べられているから、というのは、充分な説明とはいえない。いろんな考え方ができるが、次のように考えることができる。
 人間は、その生存本能からいっても、自己の利益を求め、権力欲に動かされやすい。仏法は、この目先の利益や権力を求める人間の生き方を、生命の次元から変革しようとする。したがって、この変革が生命の奥深く捉えた真理にのっとり、大きければ大きいほど、それに反発する力も大きい。なぜなら、個々の人間の生き方も、社会・文化の原理も、生存本能から出た利己的なものによって固められているからである。
 難が競い起こるというのは、この真理の深さと、変革の力の大きさの証拠として、意味をもつのである。したがって、たんに、現象的に大難を受けることが〝聖人・賢人〟の資格なのではない。たとえば、法にさからって叛逆者として極刑に処せられた人もいるし、ヨーロッパにおいては異端者、魔女として、大聖人があわれたよりも残酷な迫害を受けた人もある。問題は、その難の大きさ、苦しみの酷烈さにあるのでなく、それらを起こさせた生命変革の哲理と実践の大きさ、偉大さにあることを知らねばならない。
今は時すでに後の五百歳、末法の始めなり。日には五月十五日、月には八月十五夜に似たり云云
 時に事寄せて、日蓮大聖人が末法の偉大な仏であり、大聖人のこの時代が、万年尽未来際へ広宣流布すべき大仏法の出現の時であることを言明された文である。
 歴史の転換期というのは、政治的次元や社会的次元にあっては、幾つもある。フランス革命やロシア革命がそれである。これは当座は華々しいが、その変革は浅く、やがてより大きい変革を必要とするようになる。また、なかには、途中でつぶれて、元へ逆戻りしてしまう場合もある。
 産業革命は、政治革命より深く社会を変え、持続性を持つが、人間の外の世界に起こるもので、内面の世界には、間接的に影響を及ぼすものに過ぎないことは、政治革命と同じである。したがって、それは一時的であり、やがて行き詰まり、さらに新しい変革を必要とするようになる。
 これらに対し、宗教は、人間の内面から、一人一人の考え方や生き方から変革していくものである。そして、その持続性は、過去の宗教をみても、何千年を単位とするといってよい。まして、日蓮大聖人の仏法は、生命の最も奥底に到達し、そこに立脚したものであるが故に、永遠の未来までも持続するのである。
 その偉大な歴史の創始の時代が、まさに末法の始めであった。そこでは牢固たる既存の諸宗教があり、それと結びついたあらゆる体制がある。これに対して真っ向から挑戦し、その壁を打ち崩さなければ、それらによって捉えられ、抑圧された人間性を自由の大気のもとに解放することはできない。否、解放するだけでは足りない。自らの尊厳に目ざめさせ、自らの脚で立ち、歩むことを教えなければならない。ここに、真実の仏法の目標があり、それ故にこそ、そこには未聞の壮烈な戦いが必然として起こってくるのである。
 しかしながら、仏法の行なう〝戦い〟とは権力や武力や財力によるものではない。人間の生命の変革は、一人一人の思想の変革による以外になく、したがって、あくまでも〝戦い〟とは思想による思想の場での〝戦い〟なのである。
大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず
 あらゆる誤れる宗教の〝大陣〟は、日蓮大聖人御自身が、すでに破られたのである。
 この大陣を破ったといわれているのには、さらに幾つもの意義がある。
 一つには当時の宗教界において、主な勢力を示していた浄土宗・真言宗・禅宗・律宗を、いわゆる四箇の格言に代表される破折によって、打ち砕かれたこと。
 一つは、浄土宗なら浄土宗を、その根本の教義から打ち破られたこと。したがって、浄土宗の信徒はまだ多くとも、破られた教義に執着しているのは、もはや亡霊のような存在に過ぎず、その栄華は幻影にすぎない。
 一つは、これらの宗派は、それ以外の、たとえばキリスト教等の仏教以外の宗教にも、その基本的考え方において共通する。したがって、これらの宗派を打ち破ったということは、世界のあらゆる宗教を打ち破ったことになるのである。
 たとえば、浄土宗の、現世の幸せを諦めて死後、よその世界に幸せを求める考え方は、キリスト教のカトリシズムや、イスラム教、道教にも通じている。また、原始的な神秘主義の宗教等は、真言密教に含まれている。さらに、現世での生き方に厳しい戒律を設ける律宗は、キリスト教やイスラム教の各派、中国の儒教等の考え方を含んでいる。またさらに、精神鍛練的な宗教観は、禅宗のそれに代表されている、ということができる。
 ともあれ、日蓮大聖人の戦いによって、あらゆる既存の、人間の生命の正しい把握にもとづかない宗教は、その根底から打ち破られているのであり、したがって、後世の弟子の使命は、その大聖人の理念と実践を正しく学び、応用化して〝余党〟を拾いあげ、正法に目ざめさせていくことにあるといえるのである。
心は三毒ふかく、一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり
 〝如来の使〟であるかどうか、ひいては、末法の仏であるか否かということは、心に三毒がふかく根をおろしており、身は凡夫であろうと、それとは関係のないことであり、ただ、いかなる〝法〟を持っているかによる。南無妙法蓮華経を唱え、人々に弘める人すなわち自行化他にわたって妙法を受持した人が、南無妙法蓮華経の仏であり、末法の仏なのである。「法妙なるが故に人貴し」というのはこれである。
 否、およそ、この現実の世界に、一個の人間として生命体として存在する以上、三毒がその生命からなくなることはありえない。なぜなら、貪欲、瞋恚、愚癡は、生命維持のため生命自体が本然的にもっている特質から出てくるものだからである。そして、人間的存在としてこの世に生を営む以上、凡夫でないということもまた、ありえないのである。
 ひるがえって、別の観点からいえば、大聖人が自ら凡夫であることによって、所詮、一身凡夫たることをまぬかれない一切衆生がいかにして真実永遠の幸せを得、自己を完成するかの、観念論ではない現実的な方法が、明確に教示され得たのである。したがって、大聖人が凡夫の身で出現され、凡夫即極の仏として振舞われたということは、それ自体が、仏法の哲理の深さとその力の偉大さを観念の世界から引きおろし、現実の世界に顕現するための必要不可欠の条件でもあった、といえよう。そして、まさに、それによって、仏法が真に人間のための仏法となり、万年尽未来際にまで、確たる現実性、実証性の根をこの世界におろして流布し、栄えていくことが可能となったのである。

1182:07~1182:11 第四章 金吾の医術を讃えるtop
07   ちごのそらうよくなりたり悦び候ぞ、 又大進阿闍梨の死去の事・末代のぎばいかでか此れにすぐべきと皆人・
08 舌をふり候なり、さにて候いけるやらん、 三位房が事さう四郎が事・此の事は宛も符契符契と申しあひて候、 日
09 蓮が死生をば・まかせまいらせて候、全く他のくすしをば用いまじく候なり。
10       弘安元年戊寅九月十五日                 日蓮花押
11     四条金吾殿
-----―
 稚児の病気もすっかりよくなり、心から悦んでおります。又大進阿闍梨の死去の事、あなたの見立て通りで、末代の耆婆(ぎば)もあなたには及ぶまいと、皆舌をまいて感心している。私もその通りだと思っています。三位房のことや、さう四郎のことも、全く割符を合わせたようだと語り合っています。日蓮の死生を、あなたにおまかせします。全く他の医者は頼まないつもりでおります。
  弘安元年戊寅九月十五日   日 蓮 花 押
   四条金吾殿

大進阿闍梨
 大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。
―――
ぎば
 梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
―――
三位房
 三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学した博学の僧。早くから大聖人の門下となり、宗門内で重きをなし、諸宗破折の中心として活躍した。だが、自己の才知に溺れ大聖人より才覚があると自負するようになった。これが昂じて後年、後輩の日興上人が折伏弘教の指揮にあたった賀島荘熱原に派遣されたが、離反し、竜泉寺院主代行智の甘言に乗り、日興上人に反旗を翻し、大聖人門下迫害の煽動者となった。
―――
さう四郎
 この人物についての資料はなく、不明。御文の前後から大進房、三位房と同様、大聖人の檀那でありながら敵対した人物と考えられる。
―――
符契
 割符のこと。鎌倉時代から遠隔地に金銭を送付するために用いた証書で、為替手形をいう。その形は木片に証文を記載し、証印を木片の中央に押して二つに割ったもの。一片を与えて、後日他の一片と合せて取り引きの証とした。当時、割符は、遠方の荘園から年貢などを運ぶ不便を除くために、現物を貨幣に替え、さらに貨幣に代わる便法として発案されたのである。切符、通銭ともいわれた。
―――――――――
 四条金吾の医術の確かさと、おそらく見識の鋭さをたたえられているところである。
 「ちごの所労」とは、おそらく、身延の大聖人のもとにいた稚児が病気であったのを、四条金吾の薬によって、快癒したのであろう。大進房の死については、大進房が大聖人に敵対したので、やがて非業の死をとげるであろうことを、四条金吾が語っていたのであろうと思われる。それが、その通りになったので、阿闍世王の謗法による病気を見たてた耆婆になぞらえて、皆がをし合ったらしい。
 また、三位房、さう四郎云云とあるのは、三位房については、四条金吾が江馬氏から怒りを買う機縁となった竜象房破折の中心人物で、金吾はその人柄について何かを感じ、それを人に話していたと考えられる。それが、その通りになって、大聖人への敵対となったので、皆が「符契を合わせたようだ」と語り合っていたのであろう。
 こうしたことから、たんに医術だけでなく、すぐれた洞察眼をもっている四条金吾を、大聖人も心から信頼を寄せられ、自分のことも他の医者には頼まない、全て四条金吾に任せるといわれているのである。師からこのように深く信頼されたことに対して、四条金吾が、いかに感激したかは、察するに余りある。

1183~1184    四条金吾殿御返事(所領書)top
1183:01~1183:13 第一章 所領の増加を喜ぶtop
1183
四条金吾殿御返事
01   鵞目一貫文給い候い畢んぬ、御所領・上より給わらせ給いて候なる事まこととも覚へず候・夢かとあまりに不思
02 議に覚へ候、 御返事なんどもいかやうに申すべしとも覚へず候、 其の故はとのの御身は日蓮が法門の御ゆへに日
03 本国・並にかまくら中御内の人人きうだちまでうけず・ ふしぎにをもはれて候へば其の御内にをはせむだにも不思
04 議に候に御恩をかうほらせ給へば・うちかへし・ 又うちかへしせさせ給へばいかばかり同れいどもも・ふしぎとを
05 もひ・上もあまりなりとをぼすらむ、さればこのたびは・いかんが有るべかるらんと・うたがひ思い候つる上・御内
06 の数十人の人人うつたへて候へばさればこそいかにも・かなひがたかるべし、 あまりなる事なりと疑候いつる上・
07 兄弟にもすてられてをはするに・かかる御をん面目申すばかりなし、 かの処は・とのをかの三倍とあそばして候上
08 さどの国のものの・ これに候がよくよく其の処をしりて候が申し候は・三箇郷の内に・いかだと申すは第一の処な
09 り、田畠はすくなく候へども・とくははかりなしと申し候ぞ、二所はみねんぐ千貫・一所は三百貫と云云、 かかる
10 処なりと承はる、なにとなくとも・どうれいといひ・ したしき人人と申しすてはてられて・わらひよろこびつるに
11 とのをかに・ をとりて候処なりとも御下し文は給たく候つるぞかしまして三倍の処なりと候、いかにわろくとも・
12 わろきよし人にも又上へも申させ給うべからず候、 よきところ・ よきところと申し給はば又かさねて給はらせ給
13 うべし、わろき処・徳分なしなむど候はば天にも人にも・すてられ給い候はむずるに候ぞ、御心へあるべし。
-----―
 銭を一貫文受領しました。
 さて、主君から御所領をあらたに給わったとのお知らせ、まこととも思えぬほどである。夢かと本当に不思議に思い、御返事もどのように申しあげようかと思ったほどである。
 その故は、あなたの身は、日蓮の法門を信じたために、日本の国ならびに鎌倉中の人々、江馬氏の身内の人々や公達までから快く思われず、普通では考えられないことと思われていたから、その御内に無事にいるのさえも不可思議である。そのうえ、主君から御恩を蒙ると、その都度、打ち返し、打ち返しされてきたのであるから、どれほど同僚たちも不思議と思い、主君もあまりの事とおぼしめされていたであろう。
 ゆえに、今度こそはどうなるだろうかと私も案じていたところに、江馬家の内の人々数十人が訴えて讒言したので、必ず無事には済むまい、とても所領をうけることはかなわないと思っていたのである。あまりのことであるとどうなるかを疑っていたところ、そのうえ兄弟にまでも捨てられている身なのに、このようなご恩に浴するとは、面目この上ないことである。
 新しい領地は、これまでの殿岡の三倍もあるという上に、佐渡の国の者で、この身延の地に来ていて、よくその土地を知っている者の話によると、三箇郷のうち、いかだというところは第一のところであって、田畑は少ないけれども、その徳分は量りなく多いということである。二か所は年貢が千貫、一か所は三百貫と、このような所と聞いている。
 ともかく今は、同僚にも親しい人々にも捨てられ、嘲笑されているのだから、たとえ殿岡に劣っている所であっても、ご恩を給わりたい時である。いわんや三倍の所であるという。たとえどんなに悪い土地であろうとも、悪いということを、他人やまた主君にいってはならない。良い所、良い所といっていれば、また重ねて給わることもあろう。それを悪い所だ、徳分がないなどといえば、天にも人にも見捨てられてしまうであろう。深く心得るべきである。

鵞目一貫文
 銭一貫文に同じ。銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1000文にあたり、当時の物価で米150㎏に相当した。
―――
所領
 領する所の意味で、土地・領地のこと。
―――
きうだち
 公達のことで本来は諸王のことを指したが、後代には臣籍にある諸王の子弟や 、摂家・清華家などの子弟・子女に対する呼称として用いられた。
―――
同れい
 同僚のこと。
―――
とのをか
 信濃国下伊那郡伊賀良村の殿岡(長野県飯田市大瀬木、三日市場附近)の土地。
―――
三箇郷の内にいかだ
 「いかだ」は前後の文面からみて佐渡の地名のようであるが、詳しくは不明である。井箇田の字をあてているものもある。
―――――――――
 本抄が別名「所領書」といわれているのは、四条金吾が主君から領地替えという過酷な処置にあい、同僚にもねたまれていた迫害の嵐のなかから、建治4年 (1278)1月ごろには主君の出仕の供に加わることができ、さらにこのお手紙の書かれた10月にいたって、所領をたまわるという功徳をうけ、大聖人がそれに対して喜ばれ指導されているところから名づけられたものである。
 金吾は主君の命令を聞かなかったのであるから領地を与えられるということなどは実際にはありえないことであった。ところが三箇郷も与えられたのである。他の御書を拝すると、その後もさらに所領を与えられたようである。
 ところが、本抄の文面からみると、金吾はこのことをあまりうれしくは思っていないようである。というより不満をもって大聖人に報告しているようでさえある。それに対し大聖人が不満をもってはいけない、喜びなさいと教えられているのである。
 四条金吾に与えられた土地は、佐渡の土地のようでもあり、いわば辺ぴな土地だったのであろう。それを金吾は不満に思ったのかもしれない。
 それに対し大聖人は、四条金吾のうけた土地のことを周りの人に確かめておられる。この一事をもっても弟子檀那を思う大聖人の心境を推察することができる。土地をよく知っている人の言によると、徳のはかりしれないよい土地であり、以前の三倍もの土地なのであるから、不満に思ってはいけない、今までの自分の境遇を考えればどれだけすばらしいことであろうかと、金吾の姿勢を正しておられる。
わろき処、徳分なしなむど候はば、天にも人にもすてられ給い候はむずるに候ぞ
 四条金吾が主君の与えてくれたものを、不平不満に思ってはいけないと、姿勢を戒められている。苦しいときには必死であっても、事情が変わると苦しいときのことを忘れて不平不満を口に出したりするようになる。それが自らの福運を消してしまうことになるのである。「よきところよきところ」と感謝の気持ちをもっていれば、必ず境涯は開けてくるといわれている。
 感謝や報恩というと、上下の身分関係に基づいた、体制擁護的な発想と受け取られがちである。しかし、感謝とか報恩というのは、一言にしていえば他者の存在、影響を認め、尊重することである。すなわち、自らの力だけで自分の存在があるのでなく、他者の存在があってこそ、よりよき自分があり、社会もその連帯のなかに成り立っているという考え方が根底にあり、それにもとづいた概念である。現代文明は、人間の独善が誤りであり、すべての存在は相互に助け合い依存していくことを教えている。いわば社会、自然の次元で感謝とか報恩という考え方がなければならないことを教えている。
 仏法の原理は、自らが感謝の念をもち、恩ということを大切にする生き方を貫いていけば、自分に必ず還来するものであると教えている。これは壮大な縁起の体系であるといえよう。
 「よきところよきところ」と思うのは決して現在の状況に甘んじることをいうのではない。自らの置かれている環境を、変革へのバネとしてとらえなおすのである。所領に不満をもつのでなく、よいところであると喜んで前向きに職責に取り組んでいくならば、その環境を我がものとして受け止め、自らをさらに大きい境涯に導くことができるということでもある。

1183:14~1184:08 第二章 成仏への信心を示すtop
14   阿闍世王は賢人なりしが父を.ころせしかば即時に天にも・すてられ大地も.やぶれて入りぬべかりしかども・殺
15 されし父の王・ 一日に五百りやう五百りやう数年が間・仏を供養しまいらせたりし功徳と後に法華経の檀那となる
1184
01 べき功徳によりて天もすてがたし地もわれず・ついに地獄にをちずして仏になり給いき、 とのも又かくのごとし・
02 兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだちにもそばめられ日本国の人にも・にくまれ給いつれども、去ぬる
03 文永八年の九月十二日の子丑の時・日蓮が御勘気をかほりし時・ 馬の口にとりつきて鎌倉を出でてさがみのえちに
04 御ともありしが、 一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか、 仏に
05 ならせ給はん事も・かくのごとし、 いかなる大科ありとも法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこうに
06 て仏にならせ給うべし、 例せば有徳国王の覚徳比丘の命にかはりて釈迦仏とならせ給いしがごとし、 法華経はい
07 のりとはなり候いけるぞ。
-----―
 阿闍世王は賢人であったが、父を殺したのであるから、即座に天に捨てられ、大地がわれて地獄に堕ちるべきところであったが、殺された王が生前に一日五百輌ずつ、数年間にわたって、仏を供養した功徳と、阿闍世王自身、後に法華経外護の檀那となる功徳によって、天も捨てがたく、地もわれず、ついに地獄にも堕ちないで仏になったのである。
 あなたもまたその通りであって、兄弟にも捨てられ、同僚にもにくまれ、公達にも迫害され、日本国中の人にもにくまれたけれども、去る文永八年九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気を蒙った際に、馬の口に取り付いて鎌倉を出て相模の依知まで供してこられたことは、一閻浮提第一の法華経の味方であるから、梵天、帝釈も捨てられなかったのであろう。
 仏になることもこれと同じである。どのような大罪があったとしても、法華経に対して背かれずに、御供の御奉公をされたのであるから、仏になられることは疑いない。
 例えば涅槃経に説かれているところの、有徳王が正法護持の覚徳比丘を命を捨てて護った功徳によって、釈迦仏となられたごとくである。法華経を信ずるのは成仏の祈りとなるものである。

阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
子丑の時
 子の刻は午前零時ごろ、丑の刻は午前2時ごろで、子丑の刻とは午前1時ごろをさす。
―――
御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
―――
さがみのえち
 神奈川県厚木市依知のこと。本間六郎左衛門重連の邸宅があった。日蓮大聖人は文永8年(1271)9月12日、竜口の刑場よりここに写され、本間邸預けの名のもとに、佐渡流罪まで20余日間滞在された。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
大科
 重罪、大きなあやまち。
―――
有徳国王・覚徳比丘
 有徳国王は釈尊の過去世における菩薩修行中の姿。涅槃経に説かれている。昔、拘尸那城に出世した歓喜増益如来の滅後、正法がまさに滅せんとするとき、破戒の悪僧と戦って、正法を護持する覚徳比丘を守った。この戦闘で、王は全身に傷をうけて、死を迎えた。覚徳比丘は「善きかな、善きかな、王、今真にこれ正法を守る者なり、当来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」とほめたたえた。王は正法を聞き終わると、歓喜し逝った。この護法の功徳によって阿閦仏の国に生まれ、その仏の第一の弟子となった。王とともに戦いに参加した将兵や人民もまた、同じく皆阿閦仏の国に生まれた。一方覚徳比丘も阿閦仏の国に出現し、その仏の声聞衆中の第二の弟子となった。釈尊は、その有徳王が今の自分で、覚徳比丘が迦葉仏であると説いている。そして、もし正法が滅尽しようとする時があったら、有徳王のごとく振舞い、身命を捨て正法を擁護しなければならないと説いている。
―――――――――
いかなる大科ありとも、法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこうにて、仏にならせ給うべし
 四条金吾は、大聖人が竜口の頸の座にあったとき殉死の覚悟でお供した純真な信徒である。その信ゆえに、いかなる大科があったとしても仏になることは疑いないといわれている。
 仏になるということは、決して特別な存在になることをいうのではない。仏陀とは覚者、すなわち覚った人をいうのであり、自らの生命の真実の相、宇宙森羅万象を貫く根源の法を悟ったとき、その人は仏である。
 四条金吾が、自分の人生は大聖人の仏法にささげること以外にないと確信し、刑場におもむく大聖人にお供したのは、この生命の究極の姿勢を、自らの内に確立したことである。したがって仏になることは疑いがないのである。
 四条金吾の信心について、殉死の決意がよく取り上げられる。しかし金吾の信心を大聖人がほめられているのは、死をも恐れなかった勇気というよりも「法華経をそむかせ給はず候いし、御ともの御ほうこう」の姿勢である。
 殉死というだけならば、武士の習いとして主君と命を共にするのはよくあることである。そのような行為をいうのでなく、どのようなことがあっても、仏法に背かない、生涯大聖人のお供をしていこうという純真を指しておられるのである。
 四条金吾のような経験を積むことはどのような人にもできるというものではない。しかし金吾と同じ信心の姿勢に立つことはできる。自らの人生を、大聖人の仏法をたもちきる以外にないと定めたとき、その人は「仏」になる決定的な信心を固めたといえるのである。
 「いかなる大科ありとも」とは、仏法の限りない功徳力を示している。決して、「大科」を容認するものではない。仏法をたもつ人は大科を犯すようであってはならない。だが、たとえ過去に、不可抗力で大科を犯したような人であっても、仏法の慈悲と、その人の絶対の信仰の境地が、その罪を滅し、仏への道を開くということである。

1184:08~1184:14 第三章 煩悩即菩提の原理を明かすtop
08   あなかしこ・あなかしこ、いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ、御一門の御房たち又俗人等にも・かか
09 るうれしき事候はず、かう申せば今生のよくとをぼすか、 それも凡夫にて候へば・さも候べき上慾をも・はなれず
10 して仏になり候ける道の候けるぞ、 普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云、 天
11 台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提・生死即涅槃」等云云、 竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれて・いみじ
12 きやうを釈して云く 「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云、 「小薬師は薬を以て病を治す大
13 医は大毒をもつて大重病を治す」等云云。
14        弘安元戊寅年十月 日                  日蓮花押
15     四条金吾殿御返事
-----―
 いよいよ信心を強盛にして今生に成仏を期していきなさい。御一門の出家の御房達や在家の人々のなかにも、これほどうれしいことはない。このように所領のことについていえば、現世の欲望だと思われるかもしれないが、凡夫であるからにはそれが当然であるし、その欲を離れずして仏になる道があるのである。
 普賢経に法華経の大事な心を説いて「煩悩を断ぜず五欲を離れず」とあり、また天台大師の摩訶止観には「煩悩がそのまま菩提となり、生死がそのまま涅槃の境界となる」とある。また竜樹菩薩の大論には法華経が一代諸経に勝れていることを釈して「たとえば大薬師がよく毒を変じて薬とするごときものである」といわれている。その意は、小薬師は薬を以って病を治すが、大医は大毒を以って大重病を治すということである。
  弘安元年戊寅十月 日   日 蓮  花 押
   四条金吾殿御返事

道心
 仏法を信奉する心。仏果を求める心。菩提心と同意。
―――
凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
―――
普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
―――
煩悩を断ぜず五欲を離れず
 仏説観普賢菩薩行法経に、「……煩悩を断ぜず、五欲を離れずして、諸根を浄め、諸罪を滅除することを得」とある。この文について御義口伝(0785)には「此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のまま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり」とある。
―――
煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
―――
五欲
 五根が五塵の境に対して起こす欲望である。すなわち色欲・声欲・香欲・味欲・触欲のこと。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
摩訶止観
 天台三大部の一つ。天台教学の原典。天台大師が隋の開皇14年(0594)、一夏九旬にわたって講説したものを、章安が筆録し一部十巻になした書。内容は五略十広にわたっているが、そのなかに天台教学の極説一念三千が説かれている。
―――
煩悩即菩提
 九界即仏界の哲理。煩悩がなければ悟りはない。人生に悩みがあるがその悩みがなくなったところが菩提ではなく、悩みそのものが菩提である。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、生死即涅槃の同意語。
―――
生死即涅槃
 生死とは迷い、涅槃とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、煩悩即菩提の同意語。
―――
竜樹菩薩
 付法蔵の第十四(一説には第十三)。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――――――――
かう申せば今生のよくとをぼすか。それも凡夫にて候へばさも候べき上、慾をもはなれずして仏になり候ける道の候けるぞ
 「煩悩即菩提」について説かれたものである。
 人間の欲望であり、悩みである煩悩の問題は、人間自身のもつ難問であり、課題である。
 仏教の発祥は、生老病死という人生の苦を見つめるところからきているといわれるが、それはとりもなおさず煩悩がなぜおこり、どうすれば克服できるかという問題である。
 釈迦は爾前経とくに小乗教典では、この世の不幸の原因は煩悩であると説き、煩悩を離れなければならないと強調した。したがって、煩悩を断じ尽くした境涯を悟りとし、このために二百五十戒とか五百戒などの戒律をもうけたのである。
 だが、煩悩を滅し尽くして生を営むことなどできるものではない。もし、そのような境涯を悟りであるとするならば、それは 現実の上での悟りではなくなってしまう。現実を否定し、無視した、むしろ苦行主義であり、究極的には人間否定となり、人間的生の抹殺ともなりかねないのである。
 ゆえに釈迦自身、こうした教えは、真実に非ず、ただ真実の法に入らせるための手段に過ぎなかったと述べているのである。
 釈迦が、小乗経典で、煩悩を滅尽することを強調したと受け取られているのは、当時のバラモンにおいて、特に六師外道のなかの快楽主義等と対比してである。釈迦は修行にあたってきわめてきびしい苦行も実践したが、結局、無益であると悟ったのである。そして牧牛女の供養をうけ、苦行主義のバラモンからは戒律を捨て堕落したと悪口されている。釈迦は、中道の行き方こそ正しいと悟ったのである。
 たしかに、煩悩のおもむくままに生きるとすれば、それは快楽主義であり、刹那主義となるが、一方煩悩を否定した教えを強調していけば、当然、自由な人間性の発揮を阻害し、無気力と偽善とを植えつけてしまう。
 先に述べたように、人間から一切の煩悩を断ってしまうのは、生の否定を意味している。逆にいえば、人間には、さまざまの執着や願望つまり煩悩があるから人間は生きていけるのである。
 生活に、仕事に、家庭に、趣味にと、煩悩をもやし続ければこそ、人は生き続けることができるものである。幸福生活を欲望するのも煩悩である。一生成仏を願うのも煩悩である。社会の繁栄や世界平和を願望するのも、大煩悩であるといえよう。
 要は、煩悩の質の問題である。人間にとってマイナスになる煩悩はコントロールすべきであり、プラスになる煩悩すなわち人間の善なるものは大いに燃やすべきであろう。だが、プラスであろうと、マイナスであろうと、煩悩からはなれることはできない。
 したがって大事なことは、煩悩の是非を考えることではなく、煩悩をいかに方向づけるかである。人間を不幸に導く煩悩を転換して、幸福を実現する方向にもっていくことである。
 自らの煩悩を、マイナスの方向に働かせてしまうか、プラスの方向へ導いていけるかは、自らの生命と世界をあきらかに見つめていく眼である。「令離諸著」という言葉があるが、大聖人は、この「離」を「あきらむ」と読むべきであるといわれている。これが煩悩即菩提の原理であり、大聖人の仏法は煩悩を菩提に変える知恵を教えているのである。
 つまり、煩悩のなかに本質的には菩提が含まれているのである。菩提とは悟りであり、我が生命の本質を見きわめることである。その生命は、煩悩を生み出し、煩悩に支配されている。その生命の実体を見いだそうとすることは、そのまま煩悩を見つめていく作業にほかならない。煩悩を見つめ、明らかにしていく以外に菩提はどこを捜してもない。日々、懊悩し煩悶する我が生命と取り組むとき、煩悩を自在に駆使する英知の当体が開けてくるのである。
 したがって仏法の志向した幸福境涯、悟りの境地とは、欲を離れ道徳を守る温和な人間になるということではなく、それぞれの欠点、欲望をもちながら、それを幸福へと転換していく知恵を身につけていくことである。「慾をもはなれずして仏になり候」とはこのことである。

1185~1186    四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)top
1185:01~1185:12 第一章 御供養への礼を述べるtop
1185
四条金吾殿御返事    弘安元年十月    五十七歳御作
01   今月二十二日.信濃より贈られ候いし物の日記.銭三貫文.白米能米俵一・餅五十枚.酒大筒一・小筒一.串柿五把.
02 柘榴十、 夫れ王は民を食とし民は王を食とす衣は寒温をふせぎ食は身命をたすく、 譬ば油の火を継ぎ水の魚を助
03 くるが如し、 鳥は人の害せん事を恐れて木末に巣くふ、 然れども食のために地にをりてわなにかかる、魚は淵の
04 底に住みて浅き事を悲しみて穴を水の底に掘りて・ すめども餌にばかされて鉤をのむ、 飲食と衣薬とに過ぎたる
05 人の宝や候べき。
06   而るに日蓮は他人にことなる上・山林の栖・就中今年は疫癘飢渇に春夏は過越し秋冬は又前にも過ぎたり、又身
07 に当りて所労大事になりて候つるをかたがたの御薬と申し 小袖・彼のしなじなの御治法にやうやう験し候て 今所
08 労平愈し本よりも・いさぎよくなりて候、 弥勒菩薩の瑜伽論・竜樹菩薩の大論を見候へば定業の者は薬変じて毒と
09 なる法華経は毒変じて薬となると見えて候、 日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば 天魔競ひて食をうばはん
10 とするかと思いて歎かず候いつるに 今度の命たすかり候は 偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候
11 か。
-----―
 今月二十二日、信濃から贈られた御供養の品の目録と銭三貫文、白米一俵、餅五十枚、酒大筒一つ小筒一つ、串柿五把、柘榴十箇、拝受しました。
 さて国王は民に依って立ち、民は国王に依って立つのである。衣は寒さ暑さをふせぎ、食物は命をたすける。たとえば油が燈火をつぎ、水が魚を助けるのと同じ原理である。鳥は人間が害をなすのを恐れて梢に巣を作るが、餌をあさるために地上に下りてわなにかかる。魚は淵の底に住み、底の浅いことを悲しんで穴を水底に掘って住むのだが、餌にばかされて鉤を呑むのである。これからみても、飲食と衣薬に勝る人間の宝はないのである。
 しかも日蓮は他の人より健康が勝れず、さらに山林に住む身である。なかでも今年はことさら春から夏にかけて疫病や飢饉、旱魃が襲い、秋となり冬となってもそれは激しくなるばかりである。また、身にあたって病気が重くなっていたところに、さまざまな薬といい、小袖など、いろいろな治療によってようやく快方に向かって、いまでは病気もなおり、以前より以上に壮健になった。
 彼の弥勒菩薩の瑜伽論や竜樹菩薩の大論をみると、定業の者にとっては薬も変じて毒となるが、法華経は毒変じて薬となるとある。
 日蓮は不肖の身で法華経を弘めようとしているので、天魔が競って衣食を奪おうとしているものと思い、歎きはしなかったが、今度、命が助かったことは、ひとえに釈迦仏が、あなたの身に入り替って加護されたものと思っている。

弥勒菩薩の瑜伽論
 瑜伽師地論という。唐の玄奘三蔵の訳が百巻ある。法相宗でもっとも重要視している所依の論で、略して瑜伽論という。瑜伽を修行する人の十七地を明かしているので、十七地論ともいう。一説には弥勒菩薩が覩史多天より中天竺の阿瑜陀国に降り、無著菩薩のために説いたともいわれている。
―――
竜樹菩薩の大論
 大論は大智度論の略称。また大智度論とは「摩訶般若波羅蜜経釈論」の意である。すなわち大品般若経三十巻九十品の注釈で、後秦の時、鳩摩羅什の訳出で百巻よりなる。「中論」がもっぱら、般若思想を中心としているのに対して、この論は般若経の注釈でありながら、さらに法華経等の思想を包含し、それによって般若の空思想を積極的、肯定的に展開している。
―――
定業
 前世から定まっている善悪の業報。決定業。
―――
天魔
 天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
―――――――――
 この御抄は弘安元年(1278)10月の御作だが、このころ大聖人は病気がちであられた。前年の末から6月まで激しい下痢で悩まれ、金吾の調合した薬で快方に向かったことが「二病抄」にみえるが、それが再び悪化したのか、本抄をみると四条金吾が身延を訪れた際治療を施している。「下痢」とあっても健康人の一時的なそれではなく、伊豆や佐渡の流罪、各地の折伏布教のために、常人の及ばぬ辛労を積み体力も極度に消耗された大聖人は、身延入山後はその無理が影響してか、内臓、特に腸系統を悪くしておられたのではないかと思われる。流罪地にしても、また身延という山奥にしても、栄養状態が恵まれているということは決して考えられず、一種の栄養不良の状態にもなられていたであろう。
 そのような折りの様々な御供養は、なによりも貴重であり、四条金吾の真心に対して飲食や衣薬に過ぎたる宝はないと喜ばれているのである。
定業の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となる
 定業の者とは本来、決定された宿業をもつ者という意味であるが、ここでは宿業によって寿命が定まっている者、あるいは寿命の差し迫っている者という意味で用いられている。不治の病にかかり、寿命が尽きたときには、いかなる良薬、医療の限りを尽くしても快方に向かうことはない。薬を施しても、それは逆に患者の寿命を縮める「毒」にしかならないのである。薬が毒に変化するということよりも、定業の者に対しては薬がすでに役に立たなくなっており、宿業の転換が難しいことを教えている。
 法華経は、この〝定業〟そのものを転換する。したがって、生命を縮める働きをするはずの毒でさえも、毒としての働きはしないで、かえって生命を守る薬の働きをしてしまうというのである。
 さらに「毒変じて薬となる」という「薬」とは身体の病気を治す薬にとどまらず、生命それ自体の病を治す薬である。すなわち、貪・瞋・癡や慢・疑などにより、不幸を感ずる生命は、仏法の眼からみれば病にかかっている生命である。
 だが、この貪瞋癡等の煩悩は、生命を不幸に陥れる「毒」であるが、一方、考えてみれば、欲望がないかぎり生命活動はありえない。というより、生命が活動するのは欲望の存在の故であるともいえよう。したがって「毒」をなくすこともできないのである。
 法華経においては、その煩悩がよって起こる生命の実体を明らかにし、煩悩は本来滅すべきものではないとする。すなわち煩悩即菩提、生死即涅槃の原理により、毒をそのまま薬と変えていくのである。煩悩は毒をもたらすものであるが、と同時に仏界を根本にしていけば正しい生命活動をもたらすエネルギーともなっていく。この原理を「毒変じて薬となる」というのである。

1185:12~1186:02 第二章 道中の安否を気遣うtop
12   是はさてをきぬ、 今度の御返りは神を失いて歎き候いつるに 事故なく鎌倉に御帰り候事悦びいくそばくぞ、
13 余りの覚束なさに鎌倉より来る者ごとに問い候いつれば 或人は湯本にて行き合せ給うと云い 或人はこうづにと或
14 人は鎌倉にと申し候いしにこそ心落居て候へ、 是より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず 大事の御事候は
15 ば御使にて承わり候べし、 返す返す今度の道は・あまりに・おぼつかなく候いつるなり、敵と申す者はわすれさせ
1186
01 てねらふものなり、 是より後に若やの御旅には御馬をおしましませ給ふべからず、よき馬にのらせ給へ、 又供の
02 者ども・せんにあひぬべからんもの又どうまろもちあげぬべからん・御馬にのり給うべし、
-----―
 このことは、ひとまず置く。
 この度の帰りの道中のことは大変心配しておりましたが、無事鎌倉につかれたと聞いて、どんなに喜んだことであろう。あまり心配であったから鎌倉から来る人ごとにたずねたところ、ある人は湯本で行き逢ったといい、またある人は国府津で、ある人は鎌倉の地で逢ったといいましたので、ようやく安心したことである。これから後は、よくよくのことでなければお越しなさらないほうがよい。大事な事があった時はお使によってうかがいましょう。返す返すも今度の帰り道はあまりにも心配でした。
 およそ敵というものは、その存在を忘れさせて狙うものである。今後もし旅に出られる際は、馬を惜しんではなりません。よい馬にお乗りなさい。またお供には万一の場合に備えて役に立つものを連れ、馬は甲冑をつけても堪えられる馬にお乗りなさい。

湯本
 箱根湯本のこと。
―――
こうづ
 神奈川県小田原市国府津のこと。
―――
どうまろ
 胴丸、鎧の一種。桶の側のように胴を円くかこみ、右脇で合わせるように作ったもの。軽装で活動に便利なため近世まで用いられた。
―――――――――
 四条金吾が身延の大聖人を見舞っての帰り、鎌倉へ無事に着いたとわかるまでの大聖人のお心遣いは一方ならないものがあった。
 当時、身延から鎌倉に通ずる道は、箱根路と足柄路とがあったが、いずれも山越えの嶮しい道で、いつ襲われるかわからない危険なところであった。所領問題はかたづいたといえ、いよいよ敵にねらわれている四条金吾である。
 大聖人は頼基の帰路を心配されて、鎌倉から身延へくる人ごとに頼基の安否をたずねられたのである。ある人は湯本であったといい、ある人は国府津でといい、また、鎌倉で逢ったというのでやっと安心されたのである。この思いは、あたかも親がわが子を思うが如くである。
 加えて金吾に、今後は、容易なことでは訪ねてきてはならない、そしてまた大事な場合でも使者をたてなさいといわれている。ここに金吾が自らの生活を大切に守り、立派に職業を全うするよう心を配られている大聖人の測り知れない慈悲を感じ取れる。少しでも部下を配下に置き、権力の誇示を目論む人の多いなかで、自分よりも周りの人を最も大切にする人こそ、真実の指導者のあり方であろう。

1186:02~1186:12 第三章 李広将軍の故事に学ぶtop
08                                           摩訶止観第八に云く弘
03 決第八に云く 「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、 神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて
04 候、法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か。
-----―
 この「心」を御本尊への信心と限定すると、信心強固なところに諸天善神の加護があることを示した文ということができるが、ここでは大聖人は、信心という原点を踏まえつつ 摩訶止観の第八、それを注釈した妙楽の弘決に「必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い」とある。これは神の守護といっても、人の心が強いことに依るということである。法華経はよい剣であるが、その切れ味は使う人によるのである。
-----―
05   されば末法に此の経を・ひろめん人人・舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と此等程の人やは候べき、二乗
06 は見思を断じて六道を出でて候・菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月の如し、 然れども此等の人人には・ゆ
07 づり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり、 されば能く能く心をきたはせ給うにや、 李広将軍と申せし・つはもの
08 は虎に母を食れて虎に似たる石を射しかば其の矢羽ぶくらまでせめぬ、 後に石と見ては立つ事なし、 後には石虎
09 将軍と申しき、 貴辺も又かくのごとく敵は・ねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難も・かねて消え候か、
10 是につけても能く能く御信心あるべし、委く紙には尽しがたし、恐恐謹言。
11       弘安元年戊寅後十月二十二日                     日蓮花押
12     四条左衛門殿御返事
-----―
 それ故、末法にこの法華経を弘める人々としては、舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と、これほど適任の人はいるであろうか。舎利弗と迦葉の二乗は見思の惑を断じて六道を出ている。また観音等の菩薩は四十二品中の四十一品の無明を断じて十四夜の月のようなものである。けれども仏はこれ等の人々には譲られないで、地涌の菩薩に譲られたのである。してみると、これらの地涌の菩薩はよくよく心を鍛えられた菩薩なのであろう。
 昔、中国の李広将軍は虎に母を食い殺されて、虎に似た石を射るとその矢は羽ぶくらまで通った。しかしそれが石と知ってからは、射ても矢はとおらなかったということである。そのことから後世の人々は李広将軍のことを石虎将軍と呼ぶようになった。あなたもまたこの故事のように、敵は狙っているのだろうが、法華経への信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく御本尊を信じていきなさい。委しくは手紙に書き尽くすことができません。恐恐謹言。
  弘安元年戊寅後の十月二十二日  日蓮 花押
   四条左衛門殿御返事

舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―――
妙音
 妙音菩薩のこと。法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。妙音菩薩が法華経の会座に列なるため、この娑婆世界に来至する時、「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」と、種々の神力を有するところから妙音の名がある。ここで華徳菩薩が釈迦牟尼仏に「是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか、是の神力有る」との問いを発すると、仏の告げたまうに、過去の雲雷音王仏 の在世の時、現一切世間という国があり、劫を喜見といった。その時一人の菩薩があり、名を妙音菩薩といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の伎楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の有す一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たのであると。そしてこの妙音菩薩品が説かれたことで、華徳菩薩は法華三昧を得たのである。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
薬王
 薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
四十一品の無明
 41品の無明のこと。別教で説く菩薩の52位のうち、十住・十行・十回向・十地をへて51位の等覚までそれぞれの位にあらわれる無明をさす。四十一品断は、これらの無明を断じ尽くすことで、これを断じなければ、妙覚位には登れないとする。
―――
李広将軍
 中国前漢時代・武帝の将軍。隴西・成紀(甘粛省秦安県)の人。家は代々射術に秀でていた。文帝の14年(前0166)に匈奴征伐に参加、さらに呉楚七国の乱のときに有名をとどろかす。上谷・上郡・北地・雁門等の北辺の太守を歴任して常に匈奴と戦ったので、匈奴からは飛将軍と呼ばれ恐れられた。しかし元狩4年(前0119)策を誤って軍中で自殺した。李広将軍の部下思いは有名で、自分の恩賞はみな部下に分配したという。
―――――――――
摩訶止観第八に云く、弘決第八に云く「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」と云云。神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候
 この「心」を御本尊への信心と限定すると、信心強固なところに諸天善神の加護もあることを示した文ということができるが、ここでは大聖人は、信心という原点を踏まえつつも、さらに広い立場で用いられている。すなわち「心の固き」とは、日常生活において、用心を怠らず、隙をみせずに過ごしていくべきことを教えておられるのである。
 諸天の加護というのは、信心の強盛な人にあることは当然である。しかし、諸天の加護といっても、神秘的な力がどこかから働きかけてくるのではなく、所詮、自己の強い一念によって人生に対処し、生活を築いていくとき、その環境のなかにあらわれてくるものである。したがって、信心といっても、抽象的な、日常生活と切り離されたところにあるものではないのである。というよりも、信心は日常生活のさまざまな努力としてあらわれるものだといえよう。大聖人が教えられているように、馬に乗るにしても、また身延と鎌倉の地を往復するとしても、細心の注意を払うことのなかに、実は信心の本体があると考えることが肝要である。信心というものを特別な形に限定して考え、信心さえ強盛にたもっていれば、国法や世間法は守らなくてもいいというのは、かえって仏法の本質を曲げるものであり、「一切法皆是仏法」で、社会のなかで立派に生き抜いていく人であってこそ、初めて「心の固き」人であるということができよう。
然れども此等の人人にはゆづり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり。されば能く能く心をきたはせ給うにや
 「此等の人々」とは、舎利弗、迦葉、観音、妙音等であり、それらに滅後の弘法の使命は付嘱されず、地涌の菩薩に付嘱された。なぜ、迹化・他方でなくて地涌の菩薩に付嘱されたのか。日寛上人は、その理由として地涌は、釈尊の直弟子であること、常にこの土に住すること、結縁の深いこと等をあげている。
 このなかで注目したいのは、地涌は常にこの土に住する故ということである。妙法の流布は他の国土からきた人々の力を借りて成し遂げる他力本願的なものではない。それぞれの地域にあって、その社会を変革していこうとする人々の自主能道のエネルギーによってなされるものである。この〝土〟〝国土〟とは物質的な〝土〟や、地理的政治的な〝国土〟という文化的土壌、精神的風土と考えるべきである。ともあれ、地涌の菩薩はあくまでも、「地から涌き出でた」菩薩であり、決して「天から降ってきた」存在でもなければ、よそからやってきた者でもないのである。
 世界各地において大聖人の仏法が流布している。おのおのの国のなかから妙法をたもち立ち上がる人々が陸続と出ているその姿は、まさに地涌の義そのものである。広宣流布という事業にあっては、このように、それぞれの地域社会にあって、他からの力を借りるのではなく、自分以外に大聖人の仏法を弘めることはできないという明確な意識をもつことが、地涌の確信であるといえよう。
 迹化や他方ではなく地涌に付嘱があったということは、歴史的事実の描写のようにみえるが、本意はそこにあるのではない。滅後の人々が、我こそ地涌の菩薩であると確信して弘法の戦いを貫くべきことを訴えたものなのである。
 地涌の菩薩だから戦うというのではない。仏法弘宣の戦いをするから地涌の菩薩なのである。法華経の教え、大聖人の指導、これすべて真実であり誤りはない。しかしそれはあくまで地涌の菩薩と任ずる人々が、不断の実践活動を通して妙法の宣揚に務めてこそ、初めて真実とあらわれるのである。

1185~1186    四条金吾殿御返事(石虎将軍御書)2012:07月号大白蓮華より 先生の講義top

 55年前の6月から7月にかけて、私は北海道へ関西へと、激しい転戦の日々にありました。
 当時、泣く子も黙ると言われ、大変な勢力を誇った夕張炭労が、学会員の信教の自由を抑圧する人権侵害の暴挙に出たことから、私は電光石火、北海道の天地に飛びました。そして、わが同志を守り、正義と真実を明らかにするために、先頭に立って戦いました。
 さらに、この直後の7月3日、大阪へ向かった私は、事実無根の選挙違反の容疑で大阪府警に逮捕されたのです。
 この二つの事件。陰険なる権力の魔性との攻防戦につながる戦いは、すでに春から始まっていました。当時、私が生命に刻み、日記にも記したのが、石虎将軍の故事に由来する、日蓮大聖人の“石に立つ矢の例あり”の御指南であります。
 それは、「不可能を可能にする」絶対勝利の信心を戦う決意であるとともに、わが生命に築いた不撓不屈の魂で、あらゆる障魔の嵐に立ち向かう覚悟でした。
 7月3日、北海道から大阪へ向かう途次、羽田空港で短い時間がありました。
 この時、恩師・戸田先生から手渡されたのが、先生が「妙悟空」のペンネームで聖教新聞に執筆され、単行本として完成したばかりの著書『人間革命』でした。
 思えば不思議でした。権力の魔性との戦いに突入する弟子の手にあったのは、師が獄中で地涌の菩薩の使命を自覚される体験を綴られた『人間革命』だったのです。
「絶対の確信」にたつこと
 妙法の広宣流布の大闘争に臨んでは、いかなる苦難の嵐が吹き荒れても、断じて負けない鍛え抜かれた心を持っているのが、地涌の菩薩です。臆病や恐れを打ち破って、どこまでも前進し続けていく。その強靭な生命の脈動に人間革命があります。
 戸田先生は、人間革命とは私たちが「人生の根幹の目的」を知り、「絶対の確信」に立つことであると教えられています。そしてまた、三毒の生命から仏界・菩薩界の生命へ、自身の生命を変革することであるとも教えられました。あらゆる魔性を破り、人間の尊厳なる根源の力を呼び覚ましていく、確固たる自分自身を築きあげていくことです。
 ゆえに、日々、人間革命に挑戦する人は、常に行き詰まりを打破する力を自らの内から現し出すことができるのです。
 誰もが不可能と思うような、分厚い壁を前にしても、怯まず、焦らず、恐れず、そして逃げることなく、自身の最高最大の勇気と智慧の底力を引き出していけるのです。
 その「人間革命」の信心を「四条金吾殿御返事」を拝して学んでいきましょう。
自ら苦境の中で師匠を厳護
 今回、学ぶ御書は、弘安元年(1278)の閏10月22日、身延から鎌倉の四条金吾に送られた御消息です。背景として二つの点を確認しておきます。
 第一は、前年から疫病が流行し、旱魃もあって、食糧事情が厳しい状況にあったこと。さらに大聖人御自身も前年末から体調を崩されていたことです。つまり身延の山中での大聖人の暮らしは、衣食と健康の両面で大変な困難に直面されていたとえます。
 第二は、四条金吾の身辺に起こった劇的な変化です。金吾は前年、桑ヶ谷問答をめぐる極楽寺良観の陰謀に巻き込まれ、金吾を陥れようとする同僚の讒言によって、主君・江間氏の怒りを買い、家臣の地位を失うかもしれない最大の苦境に立たされました。
 しかし、大聖人の御指導通りに主君に誠意を尽くすなかで、主君との関係は好転し、新たに3ヵ所の所領を与えられています。
 ただし反面、敵愾心を燃やす同僚らの嫉妬に火を注ぐ結果となり、それまで以上に、身の危険に取り巻かれる状況でもあったのです。
 そのようななか、身延の大聖人のもとへ、鎌倉の四条金吾から来信がありました。そこには、信濃国にある金吾の所領から届けられる御供養の品々が記されていました。本抄は、金吾の真心の手紙に対する御返事です。
 冒頭には、受領された目録から銭や米俵、餅、酒、串柿、柘榴などの品々が綴られています。そして、衣が寒さを防ぎ、食が身命を助けることに言及され、大切な「命」を支える飲食物や衣類、医薬に勝る「人の宝」はないと仰せです。
 これは、大聖人に飲食を供養し、さらに衣や薬を施した四条金吾への感謝の思いを表現された内容です。門下に対して常に「ありがとう」「あなたのおかげです」と語りかけ、一人一人を大切に敬い、共に広宣流布へ歩んでいく、それが、大聖人のお心です。真心には真心で応える「人の振る舞い」こそ、人間主義の日蓮仏法の実践であると拝せます。
06   而るに日蓮は他人にことなる上・山林の栖・就中今年は疫癘飢渇に春夏は過越し秋冬は又前にも過ぎたり、又身
07 に当りて所労大事になりて候つるをかたがたの御薬と申し 小袖・彼のしなじなの御治法にやうやう験し候て 今所
08 労平愈し本よりも・いさぎよくなりて候、 弥勒菩薩の瑜伽論・竜樹菩薩の大論を見候へば定業の者は薬変じて毒と
09 なる法華経は毒変じて薬となると見えて候、 日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば 天魔競ひて食をうばはん
10 とするかと思いて歎かず候いつるに 今度の命たすかり候は 偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候
11 か。
-----―
 しかも日蓮は他の人より健康が勝れず、さらに山林に住む身である。中にも今年はことさら春から夏にかけて疫病や飢饉、旱魃が襲い、秋となり冬となってもそれは激しくなるばかりである。また、身にあたって病気が重くなっていたところに、さまざまな薬といい、小袖など、いろいろな治療によってようやく快方に向かって、いまは病気もなおり、以前より以上壮健になった。
 彼の弥勒菩薩の瑜伽論や竜樹菩薩の大論をみると、定業の者にとっては薬も変じて毒となるが、法華経は毒変じて薬となるとある。
 日蓮は不肖の身で法華経を弘めようとしているので、天魔が競って衣食を奪おうとしているものと思い、歎きはしなかったが、今度、命が助かったことは、ひとえに、釈迦仏が、あなたの身に入り替って加護されたものと思っている。

悠然と三障四魔を乗り越える
 ここで大聖人は、四条金吾に対して“釈迦仏があなたの身に入って、私の命を助けてくださった”とまで仰せです。
 ここまで述べられている背景として、広宣流布は常に、仏と魔軍との熾烈な戦いが存在していることを知らねばなりません。
 長年にわたる広宣流布の大闘争、なかんずく、2年半に及ぶ佐渡流罪と身延の山中での過酷な暮らしで、お体を痛められたのでしょう。前年の暮れに激しい下痢を伴う疾患が現れます。特に夏を迎えた6月初旬に悪化しましたが、その時、四条金吾から届けられた良薬によって、大聖人の容体は好転しました。「日日月月に減じて今百分の一となれり」(1179-13)と四条金吾に伝えるまでに回復されたのです。
 この数ヵ月、大聖人が本抄を認められる直前に、四条金吾は身延をお訪ねしています。おそらく自らの所領の増加の件などを報告するとともに、本格的な冬の到来を前に、師匠の容体を心配してのことであろうと推察されます。そうした四条金吾の懸命な看病に対して、本抄では、「今、病気も平癒して、以前よりも元気になりましたよ」と、重ねて感謝されています。
 まさに大聖人は、ありのままの凡夫の姿で、病気と向き合いながら、生命を尽くして弟子たちを励まされていきます。そして、お元気になられた御自身の体験を通して、「定業」さえも延ばす法華経の「変毒為薬」の大功力を示されています。
 さらに大聖人は、御自身の病気は、実は天魔との戦いであったことを明かされます。法華経の行者として法華弘通の大闘争を起こされたがゆえに、天魔が競って食を奪い、命を失わせようとしたのだと喝破されたのです。
 戦っているからこそ三障四魔が競い起こった。それは経文通り、仏天の加護も絶対に間違いない。そう捉え、「歎かず候つる」と、悠然と立ち向かっていく姿勢を教えられています。
魔軍と仏の軍勢との戦い
 後年、この天魔が起こした病に立ち向かう信心を南条時光にも指導されます。「法華証明証」の一節です。
 「すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」(1587-04)
 “少しも驚くことなかれ”です。広宣流布に戦ったがゆえに、成仏を阻もうと天魔が病を起こした。だからこそ断じて負けてはならないと、愛弟子に厳命されているのです。
 一方で、青年・時光を襲う鬼神に対しては、
 「又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか」(1587-05)と、激しく訶責を加えられています。
 生老病死は誰人も免れることはできません。信心していても「病」と「死」は必ず訪れます。しかし、「病」を「本有の病」と捉えて、病魔に立ち向かうかどうかは、その人の信心です。大聖人は、泰然自若として振る舞い、三障四魔を乗り越え、勝利されたお姿を、門下に厳然と示してくださいました。
 戸田先生も、御自身の闘病を「我が身に果せられた病魔・死魔は、御本尊によってこれを打ち破るこれができた」と明言されていました。これが、「いかなる病さはりをなすべきや」(1124-07)との師子王の境涯です。
 広宣流布は大宇宙に彌漫する魔軍と、仏の軍勢との戦いです。病魔・死魔を厳然と打ち破るための信心です。それゆえに、法華経の行者をお守りした四条金吾の看病を、「釈迦仏」の働きであると仰せられ、必ず障魔に勝つ原理を教えられていると拝されます。
12   是はさてをきぬ、 今度の御返りは神を失いて歎き候いつるに 事故なく鎌倉に御帰り候事悦びいくそばくぞ、
13 余りの覚束なさに鎌倉より来る者ごとに問い候いつれば 或人は湯本にて行き合せ給うと云い 或人はこうづにと或
14 人は鎌倉にと申し候いしにこそ心落居て候へ、 是より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず 大事の御事候は
15 ば御使にて承わり候べし、 返す返す今度の道は・あまりに・おぼつかなく候いつるなり、敵と申す者はわすれさせ
1186
01 てねらふものなり、 是より後に若やの御旅には御馬をおしましませ給ふべからず、よき馬にのらせ給へ、 又供の
02 者ども・せんにあひぬべからんもの又どうまろもちあげぬべからん・御馬にのり給うべし、
-----―
 このことはひとまずおく。
 この度の帰りの道中のことは大変心配しておりましたが、無事鎌倉につかれたと聞いて、どんなに喜んだことであろう。あまりに心配であったから鎌倉から来る人ごとにたずねたところ、ある人は湯本で行き逢ったといい、又ある人は国府津で、ある人は鎌倉の地で逢ったといいましたので、ようやく安心したところである。これから後は、よくよくのことがなければお越しなさらないほうがよい。大事な事があった時はお使によってうかがいましょう。返す返すも今度の帰り道はあまりにも心配でした。
 およそ敵というものは、その存在を忘れさせて狙うものである。今後もし旅に出られる際は、馬を惜しんではなりません。よい馬にお乗りなさい。またお供には万一の場合に備えて役に立つものを連れ、馬は甲冑をつけても堪えられる馬におのりなさい。

金吾の帰還を心配される
 さて、このお手紙の中で、大聖人は、四条金吾に対して、“先日、身延から鎌倉に帰っていく、あなたの道中の安否に大変心配しましたよ”と明かされています。
 当時、身延と鎌倉の道のりは、馬を駆っても二日ないし三日の工程でした。幾日もの間、大聖人は、魂を失うほど気がかりであられたようです。そこで、鎌倉方面から誰かが身延に到着するたびに、途中で四条金吾に会わなかったかと尋ねられました。そして「箱根の湯下で行き会いました」「国府津で会いました」との話で金吾の足取りが分かり、さらに「鎌倉でお会いしました」という人の報告によって、金吾が無事に帰着した確証を得て、ようやく安堵の笑みを浮かべられたのです。
 なんと、ありがたい師匠ではありませんか。しかも大聖人の心配は、それでは終わりません。今後は、よほどの重大事でなければあなたがわざわざ身延まで来られるには及ばない、要件は使いをよこしてもらえればよいとまで言われています。
 なぜ、ここまで心配されるのか。
 身延からの帰途は、まず富士川に沿って下ったあと、駿河国を東に向かい、箱根の山越えになります。駿河国には北条得宗家の所領があり、大聖人の一門に対し、厳しい目を向ける勢力が多かった。そのうえ、山中を通過する際の危険も多々あります。「無事に」願わずにいられない現実でした。
 確かに、主君の態度は多きく変わったといっても、四条金吾に嫉妬し、怨み、讒言したような人間たちが、“隙あらば”と命を狙っている、瞬時の油断もならない状況は、いまだ変わっていませんでした。
 特に、行きに比べて、大事な仕事を終えた後の帰りというものは、ホッとして、誰しも心が緩みがちになるものです。自分が感じている以上に、体も疲れている。そこへ突然、敵が襲いかかってきたら。四条金吾のような剣術に秀でた剛のものであっても、勝ちきれるかどうか、誰にもわかりません。
油断を排して、勝利の人生を
 「敵と申す者はわすれさせてねらふものなり」とは、重々、心すべき誡めです。
 荒れ狂う激流を越えて、大事をなすには、細心の警戒心を持たねばなりません。
 私たちも会合の終了後、参加者の皆様方に、「交通事故に気をつけてください。家に無事に着くまでが学会活動です」と呼びかけます。強く意識することで、魔を防ぐことができるからです。
 大聖人はさらに、四条金吾に対して、乗る馬についてまで注意されます。今でいえば、車やバイク、自転車をはじめ、さまざまな交通手段です。いや、徒歩を含め、外で動いて活動する以上は、常に油断禁物といえます。
 広宣流布のために尊い使命ある皆さま方は、「これぐらい大丈夫だ」との油断を排し、危険や事故の兆侯を見逃さず、絶対無事故で、万事に勝利していっていただきたいのです。
 もし、万が一、事故にあわれた方がいれば、真心の励ましをお願いしたい。信心を奮い起せば、全部、転重軽受となります。必ず変毒為薬できます。しかし、無事故が一番です。私は、皆さまの無事安穏をいつも妻と共に真剣に祈っています。大切な仏子の皆様方です。それゆえに互いに注意しあい、絶対に魔を寄せ付けない決心で生き抜いていただきたい。
 大聖人は仰せです。「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)と。
 この永遠の御聖訓の通りに、常に信心を怠らず、魔を打ち破り、“一人ももれなく大勝利の人生たれ”と願っています。
05   されば末法に此の経を・ひろめん人人・舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と此等程の人やは候べき、二乗
06 は見思を断じて六道を出でて候・菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月の如し、 然れども此等の人人には・ゆ
07 づり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり、 されば能く能く心をきたはせ給うにや、 李広将軍と申せし・つはもの
08 は虎に母を食れて虎に似たる石を射しかば其の矢羽ぶくらまでせめぬ、 後に石と見ては立つ事なし、 後には石虎
09 将軍と申しき、 貴辺も又かくのごとく敵は・ねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難も・かねて消え候か、
10 是につけても能く能く御信心あるべし、委く紙には尽しがたし、恐恐謹言。
-----―
 それ故、末法にこの法華経を弘める人々としては、舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と、これほど適任の人はいるであろうか。舎利弗と迦葉の二乗は見思の惑を断じて六道を出ている。また観音等の菩薩は四十二品中四十一品の無明を断じて十四夜の月のようでもある。けれども仏はこれ等の人々には譲られないで、地涌の菩薩に譲られたのである。してみると、これらの地涌の菩薩はよくよく心を鍛えられた菩薩なのであろう。
 昔、中国の李広将軍は、虎に母を殺されて、虎に似た石を射るとその矢は羽ぶくまで通った。しかしそれが石としってからは、射ても矢はとおらなかったということである。そのことから後世に人々は李広将軍のことを石虎将軍とよぶようになった。あなたもまたこの故事のように、敵はねらっているだろうが、法華経への信心が強盛であるので大難も事の起こる前にきえたのであろうか。これにつけても、よくよく御本尊を信じていきなさい。くわしくは手紙に書きつくすことはできません。恐恐謹言。

鍛え抜かれた地涌の菩薩への付嘱
 大聖人は、ここで「末法に法華経を弘通する使命を託された人々は誰か」を尋ねられます。「人々」との仰せからも、四条金吾も含んでくださっていると拝されます。
 舎利弗、迦葉は、釈尊の直弟子である二乗の代表です。観世音菩薩・妙音菩薩・文殊菩薩・薬王菩薩は、法華経の会座に集う諸菩薩です。いずれも錚々たる顔触れです。
 しかし、末法弘通の難事を託されたのは、これらの二乗、菩薩でなくして、「地涌の菩薩」でありました。
 大聖人は、大難必定の末法流布に託された地涌の菩薩とは、「よくよく心を鍛えられた菩薩であろう」と言われています。
 大聖人が繰り返し、身に当てて読まれた通り、法華経には「如来現在猶多怨嫉・況滅度後」と説かれ、末法広宣流布の実践に迫害は不可避でした。その難事中の難事を敢行するための条件は何か。それが「心の鍛え」であります。
 日本語の「きたえる」は、もともと熱した金属を繰り返し打つなどして良質のものにする意味です。まさに、四条金吾にあてた他の御書で「きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくとけ候、冰をゆに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり」(1169-03)と仰せられている通りです。
深き「一念」が、不可能を可能に
 最後に大聖人は、鎌倉武士である四条金吾に、中国・前漢時代の名将・李広が「石虎将軍」と呼ばれるに至った故事を引いて激励されています。
 弓矢の名手として名高い李広将軍は、一頭の虎に母親を殺された。ある日、その虎が草むらにうずくまっているものを見つけた。そこで「これこそ親の仇の虎だ」と、仇討ちの一念に燃えて矢を射たところ、見事に命中した。「遂に仕留めた」と駆け寄ってみると、なんと、虎ではなく、形のよく似た石であった。しかし、矢はその硬い石を貫き羽まで突き刺さっていた。その後、矢を射ても石に刺さることはなかったという。
 この故事を通して、大聖人は四条金吾に金剛不壊の強盛な信心に立つことを教えられ、その堅固な信心があればこそ、必ず諸天善神の守護もあると御指南なさっています。
 「敵は狙っているだろうが、法華経の信心が強盛であるので、大難も事の起こる前に消え去ったのであろうか。これにつけても、よくよく御本尊を信じていきなさい」
 この御指導を賜ってから、1年後の弘安2年(1279)10月、四条金吾は実際に命を狙われ、襲いかかってきた強敵と渡り合うという事件が起きます。
 この敵人を撃退し、無事であったとの報告を聞かれた大聖人は安堵され「前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし」(1192-01)と金吾の信心を讃えられています。
 そして、すべての日蓮門下が永遠の指針である、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(1192-15)との御聖訓を残してくださったのです。
 大聖人が弟子の無事を心から喜ばれ、安堵される御心情が拝されます。四条金吾の勝利は、どこまでも師匠の御指導を素直に実践し抜いた「師弟不二の信心」の勝利であり、「人間革命の勝利」であったことは間違いありません。
青年が「21世紀の夜明け」を
 あの7月3日、再び飛行機に向かう私に、文京支部の婦人部の友が必至の顔で呼びかけました。同志に、何か伝言を。
 私は間髪を入れずに答えました。
 「日本の夜明けが来た!そう、わが同志にお伝えください」
 一番大変な時に、恐怖や迷いの無明の闇を払って、絶対安穏の太陽の慈光を輝かせ、偉大な精神の戦いを起こす。いかなる苦境にも、絶えず希望と勇気の炎が胸に燃えている。不滅の人間革命の光が、ここにあります。
 その日から2週間。私は獄中で戦い抜きました。名もなき青年でありましたが、宝剣の如く生命を強く鍛え上げ、「師子王の心を取り出して」立ち上がりました。そして私が出獄した7月17日、大阪・中之島の公会堂で、豪雨を突いて「大阪大会」が開催され、私たちは「正義は必ず勝つ」という負けじ魂を燃え上がらせたのです。
 それは、不幸の根源の無明を破り、人間を苦しめる一切の魔性に打ち勝って、庶民が高らかに勝利の凱歌を上げる、「民衆の時代」の夜明けになったと私は確信しています。
 この方程式は今後も変わりません。21世紀を「民衆勝利の世紀」へ、そして「人間革命の世紀」へ、我ら創価学会の行進は、これからが本番です。
 三毒強盛に濁世乱世に、妙法の利剣を携えて、勇気と智慧と慈悲の戦いを起こすのです。一人一人が人間革命の魂を打ち立て、地涌の誇りも高く、威風堂々と前進していこうではありませんか。

1187~1188    日眼女造立釈迦仏供養事top
1187:01~1187:08 第一章 釈迦と諸仏菩薩との関係top
1187
日眼女造立釈迦仏供養事    弘安二年二月    五十八歳御作
01   御守書てまいらせ候三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。
-----―
 お守りを書いて差し上げます。三界の主教主釈尊一体三寸の木像を造立した檀那日眼女の供養の布施として、前に二貫文、この度一貫文受領いたしました。
-----―
02   法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、 東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸
03 仏・過去の七仏.三世の諸仏.上行菩薩等.文殊師利・舎利弗等.大梵天王・第六天の魔王.釈提桓因王・日天.月天・明
04 星天.北斗七星.二十八宿・五星.七星・八万四千の無量の諸星.阿修羅王・天神.地神・山神・海神.宅神・里神・一切
05 世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は
06 天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、 譬え
07 ば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、 大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、 教
08 主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。
-----―
 法華経の寿量品に「或は己身を説き、或は他身を説く」等と説かれている。この経文は東方無憂世界の善徳仏、中央の大日如来、十方世界の諸仏、過去の七仏、三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利、舎利弗等、大梵天王、第六天の魔王、帝釈、日天、月天、明星天、北斗七星、二十八宿、五星、七星、八万四千の無量の諸星、阿修羅王、天神、地神、山神、海神、宅神、里神、その他一切世間の国々の主となる人は、いずれも教主釈尊の垂迹であるという意味なのである。天照太神、八幡大菩薩もその本地は教主釈尊である。たとえば釈尊を天の月とすれば、諸仏・菩薩等は万水に浮かべた月である。それゆえ釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作ったことになるのである。
 たとえば頭をふれば髪がゆるぎ、心が働けば身体もそれに従い、大風が吹けば草木が揺れ、大地が動けば大海も荒れるように、教主釈尊をうごかせば揺れない草木があるだろうか、さわがない水があるだろうか。

御守
 お守り御本尊のこと。
―――
三界の主
 欲界・色界・無色界の衆生に対しての主・師・親三徳具備の仏のこと。
―――
東方の善徳仏
 東方無憂国の国主。
―――
中央の大日如来
 真言密教では八葉九尊の漫荼羅の中央は蓮華蔵世界に住する大日如来であるとしている。
―――
過去の七仏
 過去七仏は長阿含経にあり、過去荘厳劫の3仏は毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏、現在賢劫の4仏は留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏、・釈迦牟尼仏で、いずれも入滅した仏であるので、過去仏という。
―――
三世の諸仏
 過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
―――
上行菩薩
 法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。
―――
文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
大梵天王
 梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
―――
第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
―――
釈提桓因王
 帝釈天のこと。帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
―――
日天
 日宮殿に住む天人のこと。日天子・大日天・日宮天子・宝光天子などともいう。太陽を神格化したもので帝釈天の内臣とも観音菩薩・大日如来の化身ともされる。密教では十二天の一つで胎蔵界漫荼羅の外金剛部院東方に位置する。日蓮大聖人は諸天善神の一つに数えられており、本尊の中にもしたためられている。
―――
月天
 月天子のこと。本地は大勢至菩薩で、その応身の姿とされ、名月天子ともいわれる。
―――
北斗七星
 北斗星ともいう。大熊座にある七つの星の名。斗は中国の角形の「ます」の意で、北天に七つの星が斗状に並んでいるのでいう。斗口から順に天枢・天璇・天璣・天権・玉衝・開陽・揺光と名づけ、その斗柄は一昼夜に十二方をさし、古代より時刻を測り、季節を定める星として重要な役割をはたした。またこの星を祭れば天変地夭などを未然に防ぐことができるとして、平安朝以降、宮中や民間でこの星に対する信仰が起こった。
―――
五星
 五執・五行・五緯ともいう。①水星(熊星・辰星・司農)②金星(太白・殷星・太正・明星)③火星(赤星・執星・罰星)④木星(歳星・摂星・重華・経星)⑤五星(鎮星・地候)(かっこ内は別名)のこと。
―――
七星
 『仏説北斗七星延命経』による北斗七星のこと。斗口から順に貪狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星である。
―――
阿修羅王
 阿修羅はアスラ(asura)の音写阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
―――
八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――――――――
 本抄は題号からもわかるように、四条金吾夫人である日眼女が、37歳の厄年にあたって釈迦仏像を造立して供養したことに対し、その真心をたたえられたお手紙である。
 いうまでもなく日蓮大聖人の仏法においては、釈迦像を用いない。日寛上人の末法相応抄にも明らかなように、絵像木像の本尊は立てないのである。あくまでも大聖人御自筆の曼荼羅をもって本尊とするのであり、大聖人はすでに流罪地・佐渡において本尊をあらわしはじめておられた。四条金吾・日眼女に与えられた「経王殿御返事」には、経王の病気によせて御本尊を与えられた旨が述べられている。
 「富士一跡門徒存知の事」(1606)にも「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」とある。したがって、釈迦仏像であっても、それを造立したり供養したりすることは、厳密にいえば謗法である。
 日眼女が謗法と知って造立・供養するわけはない。釈迦仏を供養することが偉大な功徳になると信じていたのである。大聖人の書簡をみると、法華経=釈尊をあくまでも立てておられ、大聖人が末法の御本仏であることの御書の言葉は散見されるにすぎないということも、これに関連していよう。大聖人が末法の御本仏であるということは内証の辺であり、大聖人に給仕した五老僧でさえも、この一点がわからなかったが故に、退転したのである。その意味からすれば、未だ修学の浅い在俗の日眼女に、大聖人の内証まではわからなかったとしても無理のないことである。四条金吾も釈迦仏を供養している。
 当時は権実相対の原理が最も強く叫ばれていかなければならない宗教界の姿であったから、大聖人も四箇の格言等を通し権実相対を明らかにすることに全力をあげられた。釈迦仏法と大聖人の仏法を対比する種脱相対は、内証のこととされたのである。
 大聖人が釈迦仏の供養を喜ばれ、その信心を賛嘆されたことについて、末法相応抄では、三つの理由があげられている。
 一つは、大聖人の時代はまだ弘経の初めであったから、本意でないことも許されたこともある。二つは、当時は日本国中が阿弥陀仏を本尊としていたので、阿弥陀像を捨てて釈迦像を造るのをたたえられたのである。釈迦をを立てるということは法華経に帰することであり、法華経に帰するならば末法の御本仏に帰依することに通ずるのである。三には、大聖人の観心からすれば、たとえ釈迦像であったとしても、久遠元初の自受用身であると映ったのである。
 謗法の行為、あるいは供養の精神というものはたんに形式だけの問題ではない。そこに秘められている根本の信心の姿勢である。
 もし、日眼女が、御自筆の御本尊を用いるべきであり、釈迦像を立てるのは謗法であると知っていて供養したとすれば、大謗法である。純粋に供養になると信じていたからこそ、大聖人もめでられたのである。徳勝童子が土の餅を供養して仏にたたえられたのもそれである。口にいくら美辞麗句を弄してもそこに供養の精神がなければ福運を積む源とはならない。たとえ一握りの土魂であっても、そこに清純無比な生命が秘められていれば、大王の富にあかした供養とは比較にならない福運を築くのである。
大風吹けば草木しづかならず、大地うごけば大海さはがし。教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき
 日眼女の供養した釈迦像を賛嘆するためにこのような表現をとられているが、「教主釈尊」とは、大聖人の御内意においては人法一箇の御本尊のことである。自身においては、根本の生命、仏界の生命である。
 「教主釈尊をうごかし奉れば」という表現にも明らかなように、黙って信仰していれば、自然にすべてが変わってくるというものではない。純粋強盛な信心、旺盛な実践修行、不断の研学が相まって、初めて〝草木〟や〝大海〟が動く、すなわち、自らの生命のあらゆる力がいかんなく発揮され、さらには社会、環境を変革していけるのである。教主釈尊は「法」であるといってもよい。法は人間の存在とは無関係に存在している。またそのままでは価値を生じない。その法を「うごかす」こと、すなわち法の原理をあらわしていく努力があってこそ、価値は生じていくのである。
 ここに大聖人の仏法の基本的な姿勢がある。日々の生活を「神の恩寵」によるものであるとする考え方には、自らの存在も、その生活も、見えない超越的存在の二次的なものとして映るであろう。「法」であるととらえる場合には、そこに創意工夫が働き、あくまでも自身が主体者になる。教主釈尊をうごかさなければ、草木や大海も動かないのであるから、困難も試練もある。知恵も実践力も必要である。しかしそれはすべて自らの力を最大限に発揮していくことであり、有限の世界のなかに、自己を無限化していく尊い働きがあることを忘れてはならない。

1187:09~1187:14 第二章 除厄と加護top
09   今の日眼女は三十七のやくと云云、 やくと申すは譬えばさいにはかどますにはすみ人にはつぎふし方には四維
10 の如し、風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし・ 病は肉より起れば治しやすし節より起れば治しがたし、
11 家にはかきなければ盗人いる・人には・とがあれば敵便をうく、 やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく人に
12 科あるがごとし、 よきひやうしを以てまほらすれば盗人をからめとる、 ふしの病をかぬて治すれば命ながし、今
13 教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し国王・尚此の女を敬ひ給ふ何に況や大臣已下をや、 大梵天王・
14 釈提桓因王・日月等・此の女人を守り給ふ況や大小の神祇をや、
-----―
 日眼女は今年三十七の厄年ということである。厄というのは譬えていえばさいの角、升の隅、人の関節、方位の四方のようなものである。風は東・西・南・北の方向から吹けば弱いが、東北・南西・北西・東南といった角から吹けば強い。人の病気も筋肉から起きたものは治療しやすいが、関節から起きたものは治療しがたい。また家に垣がなければ盗人が入り、人に科があれば敵がつけ込むものである。
 人の一生のなかで厄というのは、身体にたとえれば関節のようなものである。家に垣がなく人に科があるようなものだから油断はできないが、強い兵士に守護させればかえって盗人を絡めとることもできる。関節の病も早く治療すればかえって寿命はのびるのである。
 この度、日眼女が教主釈尊を造立されたのは、下女が太子を産んだようなものである。国王さえ太子を産んだ女性を敬愛される。大臣以下が尊敬することはもちろんである。大梵天王・帝釈・日月等の諸天は釈尊を造立した女性を守護されるのである。いわんやその他の大小の神々が守護されることはいうまでもない。

三十七のやく
 37歳の厄年のこと。厄年の本来の字義は役年である。神事の儀式の際に、心身を清め言動を慎しみ、無事役目を果たすよう物忌みに服する期間をいったが、その後期間が年齢に転じ、特定の年齢を厄年というようになったといわれる。厄年は、古くは13、25、37、49、61、73、85、99歳とされていたが、厄年は諸説あり一定ではない。
―――――――――
病は肉より起れば治しやすし、節より起れば治しがたし
 この場合の節とは関節のふしであるが、それは人生における転換期をたとえているのである。つまり厄にあたる。厄については前述したように、人生における肉体的、精神的転換期に当たる。幼少期から青年期、青年期から壮年期、更に老年期へ移る「節」を厄年としたのであろうと考えられる。一年の内でも季節の変わり目は病を得がちである。厄は生涯における一種の「季節の変わり目」と考えられよう。肉体的に変調期であることは、同時に精神的不安定期でもある。こうした時、病気にかかるとなかなか治りにくい。
 だが病気は生命力がついてくると治すことができる。そしてこの転換期を乗り越えれば「ふしの病をかねて治すれば命ながし」とあるように、かえって長生きすることができるのである。
 御本尊は大良薬である。この良薬を服すということは題目を唱えることであり、これによってわれわれ自身のなかにある南無妙法蓮華経という本源的な生命力が躍動してくるのである。「肉より起れば」というのは、外的要因による病気であり「節より起れば」とは、生命内部からの変調である。そのような時期にこそ、生命内奥からのエネルギーを呼び起こす仏法の大良薬が必要といえよう。

1187:14~1188:02 第三章 仏像造立の功徳top
14                              昔優填大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・
15 日月等・ 木像を礼しに参り給いしかば木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云、 影
16 堅王の画像の釈尊を書き奉りしも 又又是くの如し、 法華経に云く「若し人仏の為の故に諸の形像を建立す是くの
1188
01 如き諸人等皆已に仏道を成じき」云云、 文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば 現在には日日・月月の大小の難
02 を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。
-----―
 昔、優填大王が釈迦仏を造立したところ、大梵天王をはじめ日月等の諸天がその木像を礼拝しに来られた。すると木像はそれらの諸天に対して「私を供養するよりも優填大王を供養しなさい」といわれた。また影堅王が画像の釈尊を書いたときも同じであった。
 法華経に「若し人が仏を信敬して画像や木像を造立すれは、それらの人はみな仏道を成就した」と説かれている。この経文は釈尊を造立し奉れば一切の女人は、現在には日々月々の大小の災難を払い、後生には必ず仏になるという意味である。

優填大王
 梵語ウダヤナ(Udayana)の訳。釈迦在世の憍賞弥国の王。なお優陀延王と同じともされるが、増一阿含経巻二十八には五王として「波斯匿王、毘沙王、優填王、悪生王、優陀延王なり」とあり、別人とされている。また四分律には優陀延王を拘睒弥国の王としている。日蓮大聖人の御書には、優陀延王とあるところは多く悪王の例に引かれ、優填王とあるときは、多く造像のことに引かれている。また釈迦滅後、群臣に勅命を下し牛頭栴檀をもって、五尺の尊像を刻ませたという。これがインドにおける仏像造立の初めともいわれている。
―――
影堅王
 インドのマカダ国王、王舎城主、頻婆沙羅王(Bimbisāra)のこと。阿闍世王の父。頻婆沙羅は梵語で、影堅、影勝、形牢等と訳す。深く釈迦に帰依し、竹林精舎を建てる等、仏と仏弟子を供養した。提婆達多はこれをねたみ、阿闍世王をそそのかし父王である頻婆沙羅王を幽閉した。仏を信ずる心の深い王は、阿闍世の大不孝を悲しみ、これを教誨したが、怒った阿闍世はかえって王の食を絶ったため死んだといわれる。
―――――――――
我を供養せんよりは優填大王を供養すべし
 優填大王が釈迦像を造立したとき、梵天や日月が像を拝しにきたが、木像が、自分より優填大王を供養すべきであると述べたという文である。これは仏法を尊崇し仏像を建立した人が、いかにすばらしい福運を受けるかをあらわしている。
 また、木像よりも優填大王のほうが尊いという考えは示唆に富んだものである。それは、できあがったものよりも、それを作り出した人間のほうが尊いということであり、そのことを忘れてはならないということである。
 これは仏像に限らない。例えば組織にせよ、日々の実践活動の成果にせよ、作り出されたものが尊いのではない。もし、作られたものを尊いとすると、やがて作られたものが自己運動を起こし、人間を犠牲とするようになってしまうのである。組織が人の犠牲になるのならよい。しかし人が組織の犠牲になるようなことは断じてあってはならないのである。一握りの権力者のために庶民が犠牲になり、国家のもとに市民が人柱になり、更にはさまざまな思想の正義の美名のもとに幾多の血が流されてきた歴史が繰り返されてはならないのである。国家や機構、あるいは正義のもとに人民があるのでは決してない。思想でさえも、その存在が個人の犠牲を正当づけるものであってはならない。
 組織機構にせよ、国家社会にせよ、また思想にせよ、人がいかによりよく生きてゆくかを追究し、その目的のために作り出されたものであるはずである。その出発点を忘れて、いつのまにか人間が二次的存在になることを強く戒めた文であるととらえたい。

1188:03~1188:10 第四章 法華経と女人成仏top
03   抑女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説
04 かれて候、 天台智者大師の釈に云く「女に記せず」等云云、 釈の心は一切経には女人仏にならずと云云、次下に
05 云く「今経は皆記す」と云云、 今の法華経にこそ竜女仏になれりと云云、 天台智者大師と申せし人は仏滅度の後
06 一千五百年に漢土と申す国に出でさせ給いて 一切経を十五返まで御覧あそばして候いしが 法華経より外の経には
07 女人仏にならずと云云、 妙楽大師と申せし人の釈に云く「一代に絶えたる所なり」等云云、 釈の心は一切経にた
08 えたる法門なり、 法華経と申すは星の中の月ぞかし人の中の王ぞかし山の中の須弥山・水の中の大海の如し、 是
09 れ程いみじき御経に女人仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき、 譬えば盗人・
10 夜打・強盗・乞食・渇体にきらはれたらんと国の大王に讃られたらんと何れかうれしかるべき、
-----―
 釈尊が一代に説かれた五千七千の経々では、いずれも女人は仏にならないとされているが、ひとり法華経だけには女人成仏が説かれている。天台大師は文句の中に、「法華経以外の諸経には、男の成仏を説く経はあっても、女人の成仏は説かれていない」といわれている。すなわち法華経以外の一切経には、女人は成仏できないと説かれているという意味である。その続きには「法華経では男も女も皆成仏する」とある。つまり法華経によってこそ、竜女が成仏できたのである。
 天台大師という人は釈尊滅度ののち千五百年に中国にでて一切経を十五回も読んだのであるが、法華経より外の経では女人は成仏できないといわれている。その流れを汲んだ妙楽大師は、文句記の中に「女人が仏になるということは釈尊一代の説法の中で法華経以外にない」といっている。つまり、他の諸経にはまったくない法門であるという意味である。
 法華経は星の中の月、人の中の王、山の中の須弥山、水の中の大海のように、諸経の中の王である。それほど尊い経に女人が成仏すると説かれているのだから、他の経々で成仏できないといわれても悲観することは全くない。たとえば盗人、夜打、強盗、乞食、渇体などに嫌われたのと、一国の王から讃められたのとどちらが嬉しいことか考えてごらんなさい。

竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
―――
妙楽大師
 (0711~0782)。中国の唐代の人。天台宗の第九祖。天台大師より六世の法孫。中興の祖として、大いに天台の教義を宣揚し、天台仏法を興隆した。伝によれば、0711年、中国の江蘇省に生まれる。諱は湛然。姓は戚氏。荊渓の出身であることから荊渓大師とも称せられる。20歳で左渓玄朗について天台の教観を学ぶ。天宝7年(0748)38歳で宿願を達して出家。研鑚に努めて、理の一念三千の深義を明らかにし、禅、真言、法相など諸宗の学者の謬義を打ち破る。また天台大師の三大部の注釈は、天台大師の幽旨を明快にしたものである。天宝の末、詔書を賜わり、宮中に参ずるようしきりに勧められたが、常に病と称し固辞して参内しなかった。その後の兵乱や飢饉のときも修行を怠らず、常に少欲知足であったという。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師という。後に天台山国清寺にはいり、0782年、唐の徳宗建中3年2月5日、仏隴道場で入寂した。年72歳。著書に天台三大部の注釈「法華玄義釈籖」「法華文句記」「止観輔行伝弘決」等多数ある。
―――
 「一代に絶えたる所なり」等云云
 妙楽の法華文句記巻四下の文。「若し悩乱する者は頭破七分。供養する者は福十号に過ぐ。いわんや已今当説一代に絶えたる所なり」と。釈尊一代の経々の中で最高の法門であるという意味。
―――
須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
夜打
 夜、人家を襲って財宝を盗むこと。盗賊。
―――
渇体
 らい病患者。「かたい」の促音便。
―――――――――
 女人成仏が法華経のみに説かれ、爾前経では許されていないことについては、さまざまな理由が考えられている。当時の出家者を中心とした社会状況、あるいは釈迦個人の家庭、あるいは性向にまで原因を求める考えまであるが、ここでは男女の特質という面から、一つの視点を取り上げたい。
 女性は出産・育児の役割りを担うところから、さまざまな社会体制の変遷はあったにせよ、どうしても現状維持、現実的なものの考え方に閉じこもりやすい。
 しかるに、仏道修行というものは本来、最も革新的な行為である。既成の社会の日常性をいったん超越して、より高次の世界に生きるのが出家であり、現実世界の奥にある永遠常住の世界を求めた。そして悟りを得て、その英知をもとに再び現実社会の変革に取り組んだのである。とくに法華経以前の諸経においては、この現実世界を超越するということが、出家し、特別に仏道修行に専念するという形で実践化することが求められた。したがって現実生活、既成の機構の安穏を好む生命とは対極点にあるといえる。そうしたことから、女性は仏道修行という、世間を出でる行為は不可能であり、また男性のそうした決意を妨げる存在として排斥されたのかもしれない。
 しかし、仏界といえども、すべての人の生命に本来内在しているのだと明かした法華経においては、そのような特別な形や行動をとることは必要なくなり、ここに竜女の即身成仏、あるいは耶輪陀羅女等への授記が説かれたのである。
 竜女の成仏は、竜女が法華経をもって一切衆生を救おうという自覚に立ったからである。この提婆達多品の精神からいえば、女人が成仏を許されなかったのは、女人だからではなく、大乗を開くという姿勢のないことによる。したがって妙法の弘宣という根本の目的観に立ったならば、男女の本質的な差別など本来ないのである。仏性という面から考えれば全く平等であり、これが法華経の基本精神である。その故に、妙法をたもつ女性を大聖人は「一切の男子にこえたりとみえて候」(1134-15)といわれているのである。

1188:10~1188:18 第五章 日本国は女人の国top
10                                             日本国と申すは女
11 人の国と申す国なり、 天照太神と申せし女神のつきいだし給える島なり、 此の日本には 男十九億九万四千八百
12 二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、 此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に 阿弥陀仏を本
13 尊とす現世の祈りも又是くの如し、 設い釈迦仏をつくりかけども 阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には
14 思い候はぬぞ、中中つくりかかぬには・をとり候なり。
-----―
 日本国というのは女人の国ともいえる国である。天照太神という女神が築かれた島である。この日本国には男1,994,828人・女は2,994,830人である。ところがこの男女は皆念仏者である。皆念仏者であるから阿弥陀仏を本尊として、未来の極楽往生を念ずるだけでなく、現世の祈りもまた阿弥陀仏にかけている。たとえ釈迦仏をつくり描いたとしても、いずれも弥陀の西方浄土へ往生するためであって、釈尊を本尊とはしていないのである。それ故、かえって木像を造り、像を画かないよりも劣っている。
-----―
15   今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、 二十九億九万四千
16 八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。
17       弘安二年己卯二月二日                日 蓮 花 押
18     日眼女御返事
-----―
 今、日眼女は現世安穏を祈っておられるようであるけれど、教主釈尊を信仰して造立されたのであるから、未来の成仏も疑いない。したがって日眼女は日本国2,994,830人の女人の中の第一であると思っていきなさい。委しくはまた申し上げましょう。
                          恐恐謹言。
  弘安二年己卯二月二日    日 蓮  花 押
   日眼女御返事

天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
阿弥陀仏
 梵語アミターバ(Amitābha)の音写で、無量光仏、無量寿仏と訳す。娑婆世界には縁のない西方極楽世界の教主。
―――――――――
 大聖人が日眼女の釈迦仏造立をめでられているのは、日本国中が阿弥陀仏を尊崇しているなかにあって、釈迦を立てたということ、すなわち権実相対の上からであることが明らかである。
日本国と申すは女人の国と申す国なり
 日本が女人の国であるということは、武士階級が支配していた鎌倉時代のわが国にあって、きわめて斬新的な発想であったと思われる。もとより、女神である天照太神が日本の祖先神であることは、古事記等を通して、知識人なら誰でも知っていることであったろうが、そこからこのように日本の本質をずばり言い切れる人はいなかったに違いない。この発想がふたたび世に出たのは、近代にはいって女性解放運動のなかでであったことを思うとき、日蓮大聖人の思考の自由闊達さと、物事の本質を捉える鋭さに驚くのである。
今日眼女は今生の祈りのやうなれども、教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば、後生も疑なし
 日眼女が釈迦仏を供養したのは、37の厄を除きたいという今生の祈りである。しかしその行為は、今生にとどまらず後生の絶対的幸福も確立させることは疑いないといわれているのである。
 我々の祈り、願いはすべて今生のものであろう。後生を願って祈ることはほとんどないといってよい。現実の生活に触れて起こるさまざまな煩悩につき動かされた祈りである。そのような祈りであっても、それが妙法という現当二世の法を根本としている故に、成仏という永遠のものに結びついていくのである。現世利益のみを説いて永遠の普遍的理念を説かない宗教は低級であり、現実世界の変革から抽象の議論に逃避する宗教は力なき宗教である。日常の小さな、様々な積み重ねが、そのまま一生成仏という大目的に結びついてこそ、日常の努力が報われ、また大目的も現実のものとなるのである。
 我々の目的は、個人にあっては一生成仏であり、社会的次元にあっては広宣流布である。この終局目的を忘れて「今生の祈り」すなわち眼前の小目的にのみとらわれてはならないと肝に銘ずべきでもあろう。「今生の祈り」またその実践はあくまでも手段である。手段であるからこそ、それを欠かしては目的を達することはできないのである。だが、その手段も目標をしっかりと見定めていって初めて有効な力を発揮することができるのである。

1189~1191    聖人御難事top
         はじめにtop

 本抄は、日蓮大聖人の出世の本懐について述べられた唯一の御書として、数多い御述作のうちでも、特別の重みをもっている。一般の日蓮宗学においては、立宗よりこの年までの27年間に受けた大難について記された書としか見ず、題名も「聖人御難事」とつけられている。便宜上、創価学会においても、この題名を使ってきているが、本抄の元意からいえば「出世本懐抄」というべきところである。
 では、日蓮大聖人が「余は二十七年なり」といわれる出世の本懐とは何か。そもそも、他宗派においては、この「余は二十七年」を難にあうこと27年という意味に読んできたのであるが、その前の「仏は四十余年……に、出世の本懐を遂げ給う」の文から考えて、「余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐ」と読むべきことは、自明の理である。難は、あくまで附随したものに過ぎない。
 したがって、27年の主体を〝大難〟とすることは、本末転倒であり、自明の文の理をおおいかくそうとする欺瞞以外の何ものでもない。ここに、27年目のこの弘安二年という年に、日蓮大聖人が何を遺されたかを見る必要が出てくる。そこで、必然的に出てくるのが、弘安2年(1279)10月12日御建立の大御本尊なのである。
 およそ〝本尊〟が根本として尊敬するものという意味である以上、一つの宗教において、衆生の側の信心の姿勢、ひいては人生の姿勢という問題と等しく重大な要素であることは、いうまでもない。否、信心の姿勢とか生き方とかは、究極するところ、衆生一人一人の決意に任せるほかはないのに対し、一宗の創始者として自分で決定づけうるものは〝本尊〟の実体を確立することである。したがって、創始者の側にしてみれば〝本尊〟の樹立こそ、最大の課題となるわけである。
 しかしながら、大聖人が「出世の本懐」といわれているこの本尊が、いったいいかなるものかという点については、この時になってはじめて明らかになったわけではない。実体についてのイメージは建治2年(1276)の報恩抄にも「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328-15)と明確に述べられているし、事実、すでに佐渡御流罪中から、弟子達のために、個々に本尊をあらわし与えられているのである。
 ちなみに、今の報恩抄の文において「本門の教主釈尊」とあるのは、次に「釈迦・多宝……脇士となるべし」とあることからも知られるように、いわゆる釈迦仏ではなく、久遠元初の釈尊であり、南無妙法蓮華経の仏であることは、断わるまでもあるまい。
 それはともかく、さらにさかのぼって考えれば、そもそも釈迦の仏法がもはや人々を救えなくなったとされるこの末法の世に、新しい仏教を興そうとされた立宗宣言の時に、この本尊のイメージは、すでに明らかであったはずである。否、そればかりではない。もう一つこの立宗への淵源をたどると、16歳の時に、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と祈って、智慧の珠を受け取ったといわれているその時にまで、少なくともその起源は求められるのである。
 それでは、この弘安2年(1279)の時に、出世の本懐を遂げられるというのは、いったい何を意味するか。本尊の姿、形をどう書くかという、いわば大聖人の側の問題でないとすれば、それは衆生の側の問題である。つまり大聖人御自身はすでに仏であるから、本尊をあらわすのは、自分のためではなく、弟子、信者、後世の人々のためである。したがって、出世の本懐とする本尊をあらわすうえで、最大の条件になるのは、大聖人御自身の問題ではなく、それを受けとるべき弟子、信者の、これを受けとめる信心の強さ、深さ、確かさである。
 しかも、この本門戒壇の大御本尊こそ、これまでの個々の信徒のための本尊と異り、末法万年の全人類のためにあらわし、与えられた御本尊なのである。
 こう考えたとき、御本尊の建立が10月12日であるのに、なぜ10月1日の本抄で、すでに出世の本懐を遂げたといわれているのかという疑問が解ける。そして、なぜ、この弘安二年を頂点として起こった熱原法難が大御本尊建立の機縁となったのかということも理解されるはずである。それは、すなわち、これまでの27年間に続いた大難は、すべて大聖人の戦いによって起こり、大聖人が受けられた難であった。いまはじめて、日興上人を中心とする弟子・信者の戦いによって熱原法難が起こり、しかも、熱原の農民信徒がこの難を受け、微塵も退かない信心の強さと深さを示したのである。
 本抄が全体として、御自身のこれまでの大難をあげ、大聖人を迫害した者、難に負けて退転した者は、いずれも惨めな敗北の人生に終わっていることを示して、敢然と難に立ち向かうよう励まされているのも、この故である。在家信者の代表として四条金吾に与えられ、「さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし」と断わられているが、あて名自体は「人人御中」とあるように、弟子一門にされている。これもまた、本抄の内容の重要性が、いわゆる御消息文とは並みはずれていることを物語ってあまりあるといえよう。

1189:01~1189:05 第一章 出世の本懐を宣べるtop
聖人御難事    弘安二年十月    五十八歳御作   与門人等
01   去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家
02 の立て始め給いし日本第二のみくりや 今は日本第一なり、 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面に
03 して午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝
04 教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、 其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、 余は二十七年なり其
05 の間の大難は各各かつしろしめせり。
-----―
 日蓮は、去る建長五年の四月二十八日、安房の国(千葉県)長狭郡のうち東条の郷、今は郡となっているが、そこは右大将源頼朝が創建した天照太神の日本第二の御厨(みくりや)がある。今は日本第一である。この御厨のある東条の郡のなかに清澄寺という寺があり、その寺内の諸仏坊の持仏堂の南面で、正午の時に、この法門を唱えはじめて以来、今弘安二年まで二十七年を経過している。
 釈迦は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の後に、それぞれ出世の本懐を遂げられた。
 その本懐を遂げられるまでの間の大難は、それぞれに言いつくせないほどであり、今まで、しばしば述べてきたとおりである。日蓮は、二十七年である。その間の大難は、すでに各々がよく御存知の通りである。

太歳
 太歳とは、中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに約12年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。
 すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に12等分し、年ごとに木星のあるところの干支を順序に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。
 ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに12支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。
 そこで、歳星と逆方向に進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。
 この12支だけでは12年で一周してしまうので、10干を組み合わせ、60年周期にして年紀を示したものである。この10干12支の方法は、中国殷代につくられた10進法で、10干は一太陰月を上中下の3旬に分け、その一旬10日の毎日につけた記号から始まったといわれる。12支は一年12か月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、12支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。
 干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに一日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また方向を示すために用いられるようになったのは、戦国時代からである。
 10干12支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて10母12子と呼ばれたこともある。
 現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10干を甲・乙・丙・丁……と呼ぶのは陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の5行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように10干に呼び名をつけたものである。
   (木) 甲   木の兄  乙   木の弟
   (火) 丙   火の兄  丁   火の弟
   (土) 戊   土の兄  己   土の弟
   (金) 庚   金の兄  辛   金の弟
   (水) 壬   水の兄  癸   水の弟
―――
安房の国
 現在の千葉県南端部にあたる。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。
―――
長狭郡
 千葉県長狭郡のこと。明治29年に安房郡に吸収合併。現在の鴨川市西部。
―――
天照太神の御くりや
 天照太神を祭る神社の神領、所領のこと。御厨とは本来供物所や台所という意で、供物を収納する建物であったが、しだいに供祭料を出す土地の名に変化した。平安末期より鎌倉時代にたくさんの神宮の御厨がつくられた。当時右大将であった源頼朝(1147~1199)も、安房国に天照太神の御厨をたてた。安房の国には、東条御厨、白浜御厨、丸御厨等といくつかの神領があった。
―――
清澄寺
 くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233)5月12日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253)4月28日に立教開宗を宣せられる。
―――
持仏堂
 日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。
―――
午の時
 時刻。現在の午前11時~午後1時をいう。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
出世の本懐
 仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
―――――――――
 建長5年(1253)4月28日の立宗から27年、弘安2年(1279)にいたって、出世の本懐を遂げるにいたったと述べられている段である。釈迦・天台・伝教の出世の本懐への歳月をあげ「余は二十七年なり」と仰せられているところに、末法御本仏としての自負と、成すべきことをしとげたという限りないお喜びがうかがえる。
 また、立宗宣言をされた場所と日時についても、くわしく、ことわられているのは、それぞれに意義があるからである。
 まず場所については「安房の国、長狭郡、東条の郷、清澄寺の諸仏坊の持仏堂」である。そして、東条の郷ということについて、そこに天照太神の日本第一の御厨があると記されている。天照太神は八幡大菩薩と並んで、日本古来の民族信仰の対象として、最も権威ある地位を占める神である。八幡が衣食等の国土の恵み、物資の生産力を象徴するのに対し、天照太神は民族の祖先神と考えられる。御厨とは神社への供物を確保するために設けられた所領で、この東条郷の日本第一であるということは、天照太神を支える第一の土地がここであるということであろう。
 そこには、もちろん、文化という面では京や鎌倉に較べてはるかに末開の辺地であるが、民族の源流ともいえる天照太神を中心に見た場合は、この安房の東条郷こそ、日本の中心なのだというお気持がこめられているとも考えられる。末法の大白法を弘めるにあたって、この地で第一声を放ったということには、そうした意義があるのだと主張されているかのようである。
 また、清澄寺については、先にも述べたように、大聖人は、この清澄寺の基となった虚空蔵菩薩に祈って〝日本第一の智者〟たるべき〝智慧の珠〟を受けとられたのである。以来十六年間の修学ののち、いよいよ立宗の第一声を放つ場として清澄寺を選ばれたのも、虚空蔵菩薩への報恩感謝のお気持からではなかっただろうか。
 当時、虚空蔵菩薩の像がどこにあったかは不明であるが、もし諸仏坊の持仏堂にあったとすれば、そこで南に向いてということは、菩薩像を背にした形になったであろう。それは、自らに智慧の珠を与えてくれた虚空蔵の代弁として説くという意義をもったかも知れない。もちろん、ここでいう虚空とは宇宙生命であり、宇宙生命に秘められた智慧、すなわち妙法を大聖人は自ら悟り、末法濁悪の闇を照らす光明としてかかげられたのである。
 時を考えると、午の時、すなわち正午ということは、太陽が最も高く輝く時を選ばれたのである。これは、大聖人の仏法が太陽の仏法であるとの象徴と拝せる。また、この時、南面して第一声を放ったということは、太陽に向かっての宣言であったともいえる。
 いずれにせよ、建長5年(1253)4月28日、清澄寺でこの大仏法を申しはじめたというだけでも済むと思われるのに、このように種々の説明が加えられているのは、その一つ一つにやはり深い意味があってのことと考えなければならないだろう。
仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給う
 釈迦は、30歳で成道し、40余年間、諸経を説き、最後の8年間に法華経を説いたとされた。法華経を説くことが釈迦の出世の本懐だったのである。
 中国に出現し法華経哲学を大成した天台大師智顗は、23歳のとき法華経を究め、57歳にして摩訶止観を講じて一念三千の法門を明らかにした。一念三千こそ、法華経によって彼が得た悟りの極理であり、ここに彼の出世の本懐があった。
 日本における法華経哲学の確立者である伝教大師最澄は、延暦23年(0804)に唐に渡って天台仏法の相承を受け、その後、天台法華の戒壇建立のために努力し、没後7年(0829)にして実現をみた。その間25年が経っている。
 仏法上、釈迦を正法時代の仏とするのに対し、天台・伝教は像法時代の仏とされる。これら、正法と像法の仏における出世の本懐を示し、それに対して自らの出世の本懐は27年であると宣言されているのである。ここに、御自身こそ、末法の仏であるとの御確信が明白にうかがわれるのである。

1189:06~1189:12 第二章 仏の大難と況滅度後の値難を比べるtop
06   法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云、釈迦如来の大難はかずを
07 しらず、 其の中に馬の麦をもつて九十日・小指の出仏身血・大石の頂にかかりし 、善生比丘等の八人が身は仏の
08 御弟子・心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短をねらいし、 無量の釈子の波瑠璃王に殺されし・無量の弟子等
09 が悪象にふまれし・阿闍世王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり、況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・
10 伝教いまだ値い給はず・法華経の行者ならずと・いわば・いかでか行者にて・をはせざるべき、又行者といはんとす
11 れば仏のごとく身より血をあやされず、 何に況や仏に過ぎたる大難なし経文むなしきがごとし、 仏説すでに大虚
12 妄となりぬ。
-----―
 法華経の法師品第十に「この経は、如来の在世の時すら怨嫉するものが多い、いわんや如来の滅後は尚更多いのである」と。
 釈迦如来の大難は、数を知らないほどであるが、その中でも、馬の麦を九十日の間食べさせられたり、提婆の投げた大石の破片で小指から出血させられたり、善生比丘など八人が、身は仏の弟子でありながら、内心は外道に与して昼夜ひまなく仏の隙を狙ったり、無量の釈迦族の人々が波瑠璃王のために殺されたり、多くの弟子等が悪象のために踏み殺されたり、阿闍世王が、数々の大難をなしたりした等のことは、滅後のそれに較べればまだ小さい「如来現在猶多怨嫉」の難である。
 「如来の滅後はなおさらである」という大難は竜樹・天親も、天台、伝教も、まだ値われていない。
 これらの人々は法華経の行者でないかというと、どうして行者でないことがありえようか。しかし、行者だといおうとすれば、仏のように身から血を出したこともなければ、ましてや仏に過ぎるほどの大難などはない。そうしてみると経文は全く空しいようである。仏説はすでに大妄語となってしまった。

馬の麦をもって九十日
 釈尊九横の大難の一つ「阿耆多王の馬麦」という。中本起経巻下によると、隋蘭然国に阿耆多というバラモンの小王がいた。阿耆多は釈尊とその弟子を招き供養をほどこそうとしたが、天魔の誘惑に負け、自身快楽にふけって釈尊への供養を忘れてしまった。そのため釈尊の一行は阿耆多の家にも入れず、ある大樹のもとで飢えをしのいだがどうにもならず、馬師より90日の間、馬に与える麦をもらって、それで飢えをしのいだといわれる。この話は、興起行経巻上、大智度論巻九にもある。
―――
小指の出仏身血・大石の頂にかかりし
 釈尊九横の大難の一つ「調達が山を推す」という。提婆達多が釈尊を殺そうとして、耆闍崛山の山上から岩石を落とした。小片が散じて釈尊の足の小指から血を出したことをいう。增一阿含経卷四十七には「爾の時世尊、耆闍崛山の一小山の側に在しき。爾の時提婆達兜、耆闍崛山に到り、手に大石の長さ三十肘、広さ十五肘なるを擎げて世尊に擲ちぬ。是の時、山神金毘羅鬼、恒に彼の山に住し、提婆達兜、石を抱きて仏を打つを見、即時に手を伸べて余処に接著しぬ。爾の時石碎けて、一小片の石、如來の足に著し、即時に出血したまえり」とある。このことは、興起行経巻下にも説かれている。
―――
善生比丘
 釈尊が出家する以前の三子のなかの一人。日寛上人の法華経題目抄文段に「仏に三子あり。第一は善生比丘、即ち是れ第三夫人・釈長者の女・鹿野が子なり。第二は優婆摩耶、即ち是れ第一夫人・水光長者の女・瞿夷の子なり。第三は羅睺羅、即ち是れ第二夫人・移施長者の女・耶輸の子なり」とある。善生比丘は禅定比丘ともいい、出家して仏道修行に励み、十二部経を読誦し、第四禅定を得たが慢心を起こし、苦得外道に近づいて退転した。その上、父である釈尊に悪心を懐いてしばしば殺そうとした。
―――
無量の釈子の波瑠璃王に殺されし
 釈尊九横の大難の一つ「瑠璃の殺釈」という。波瑠璃王は釈尊在世の舎衛国の王。瑠璃王ともいう。父王波斯匿と釈迦族の一人である摩訶男の家中の婢女との間に誕生。波瑠璃が8歳のとき、自身の出生について釈迦族から辱しめを受けた。そのことを恨み、長じて国王となり釈迦族を殺戮した。增一阿含経卷第二十六にある。
―――
無量の弟子等が悪象にふまれし
 波瑠璃王によって、釈迦族が脚を地中に埋められ、暴象に踏み殺されたことをいう。
―――
阿闍世王の大難をなせし
 釈尊九横の大難の一つ「阿闍世王の酔象を放つ」という。提婆達多にそそのかされた阿闍世王は、釈尊を害そうと黒象に醇酒を飲ませて凶暴にし、羅閲城を訪れた釈尊に向けて放った。黒象は狂って釈尊を襲おうとしたが、釈尊がある偈を説くと、おとなしくなったとある。增一阿含経卷第四十七による。
―――
竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――――――――
 釈尊の難と、滅後に法華経を根本に仏法をひろめた人々の難とを較べ「滅度の後の方が難が大きい」と法師品に述べられているにもかかわらず、いまだ、それだけの大難を受けた人はいないことを示されている。そして、これでは、経文はむなしく、仏説は虚妄になってしまうではないか、と指摘されている。
 このことは、次の章で、日蓮大聖人御自身が受けた大難をあげ、大聖人の出現によって仏説は虚妄でなくなったことを明示するための導入部となっているのである。
 仏法は人々を幸福境涯へ導こうとするものである。しかるに、それがなぜ人々の反発を呼びおこすのかというと、人々の生命を変革することによって、根本的な幸福への道を歩ませようとするからである。法華経以前の諸経においては、こうした抜本的な生命変革は志向しないが故に、大きな反発は招かない。十界互具の原理から、九界の生命に固執する妄見を打ち破り、仏界という奥底の本質的な生命を顕わさせることによって、不動の境地を開こうとした法華経だからこそ、それがひきおこす難もまた大きいといえる。
 そして、竜樹・天親・天台・伝教等が、法華経を一応拠りどころとしながらも、その実践が人々の大きな反発を呼びおこさなかったのは、彼らの教えの内容が、この生命変革の本質的哲理と実践にまで至っていなかったことによるのである。それに対し、日蓮大聖人の仏法によってはじめて、奥底の生命の実体が明らかにされ、根底から生命を変革する実践が開始されたが故に、それによって起こる難は「況滅度後」と法師品に予言されている通りの、激しく、深刻なものとなってあらわれたのである。

1189:13~1190:02 第三章 自身の受難を挙げるtop
13   而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪,文永元年甲子十一月十一日頭にきずをか
14 ほり左の手を打ちをらる、 同文永八年辛未 九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切ら
15 れ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を
1190
01 並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、 仏滅後二千二百三十余
02 年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり
-----―
 ところが、日蓮は二十七年間に、弘長元年五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年の十一月十一日には房州の小松原で念仏者東条景信のために、頭に疵を蒙り左の手を打ち折られた。同じく文永八年九月十二日には佐渡の国へ配流され、また竜口の頸の座にも臨んだのである。その外に、弟子を殺されたり、切られたり、追放されたり、罰金刑に処せられたりしたものは数を知らない程である。
 これらの難は、仏の大難には及ぶか、あるいは勝れているかどうか、それは知らないが、竜樹や天親、天台、伝教は日蓮と肩を並べがたいのである。
 もし日蓮が末法に出現しなかったならば、仏は大妄語の人となり、多宝如来や十方の諸仏も、大虚妄の証明をしたことになってしまうであろう。仏滅後二千二百三十余年の間に、一閻浮提の中で、仏の御金言を助けた人は、ただ日蓮一人なのである。

伊豆の国へ流罪
 弘長元年(1261)5月12日、大聖人は念仏者によって幕府に訴えられ、貞永式目第十二条「悪口の咎」にとわれ、伊豆の国(静岡県伊豆市)の伊東に流されたことをいう。
―――
頭にきずをかほり云云
 小松原法難のこと。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていたが、壇越の工藤吉隆の招待を受け、大聖人は華房(はなぶさ)に向かわれた。その途中の東条郷(千葉県鴨川市)の小松原で東条景信に要撃され、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折された。
―――
佐渡の国へ配流、又頭の座に望む
 文永8年(1271)9月12日、大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同深夜、鎌倉の外れ竜口で斬首の刑にあおうとした。しかし夜空に輝く〝光り物〟が現われて、恐れた平左衛門尉らは斬首を果たせず、そのまま依知を経由して大聖人を佐渡に流罪したのである。
―――
多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――――――――
 前章をうけて、日蓮大聖人がこの27年間に受けた難を示され、それらが、まさに法師品に述べられている「况滅度後」の文を実語としたものであることを指摘されている。
 いま、これらの大聖人のあわれた難がいかに大きいものであったかを考えるとき、「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず」と大聖人は言われているけれども、たしかに釈尊のそれよりも大難であったことが理解されよう。
 釈尊自身のあった最大の難というべき出仏身血の例をとってみても、それに対応すると思われる文永元年(1264)の小松原法難に較べれば、はるかに危険度は小さい。一方は足の小指の傷であり、それに対して大聖人は額に傷を受け、腕を骨折されたのである。いわんや、竜口法難のような、頸をはねられようとする大難は釈尊においては見当たらない。
 さらに、伊豆と佐渡との流罪は、わが国の律に定められた笞・杖・徒・流・死の五刑のなかで死罪につぐ重刑であり、国家権力によって加えられた。したがって逃れようのない大難なのである。
 今日においては、流罪といっても、その重みは想像できないが、社会生活の基盤が狭い単位に限られ、いわゆる流れ者ははじき出されるのが当然であり、ときには生命を奪われてもやむを得ないとされたことを考えれば、それがいかに重い刑とされたかがうかがえよう。
 もし、日蓮大聖人が出現され、この27年間の実践がなかったならば、「仏の滅後においては在世より更に大きい難があろう」という法華経の文は、虚妄の言で終わってしまったのである。法華経が真実であることを証明し、法華経をたんなる言葉ではない実体のあるものとしたのが、日蓮大聖人のこの27年間の実践であった。否たんに「况滅度後」の文のみではない。法華経が説いている一切衆生の成仏の原理そのものに実体を与えたのが大聖人の仏法であり、それは、三大秘法の大御本尊の建立によって果たされるのである。

1190:02~1190:07 第四章 罰の姿を明かすtop
02                                過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣
03 万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、 日蓮又かくのごとし、 始めはしるしなきやうなれども今二
04 十七年が間、 法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕つべしと・お
05 そろしく想う間今は各各はげむらむ、 大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわ
06 るるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばち
07 なり、やくびやうは冥罰なり、 大田等は現罰なり別ばちなり、
-----―
 過去および現在の、末法の法華経の行者を軽蔑したり、賎しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない。
 日蓮もまたその通りである。はじめはなんら験しがないようであるけれども、今日までの二十七年の間、法華経守護の梵天・帝釈・日天・月天・四天王等が日蓮をあまりに守護しなければ、法華経の行者を守護すると、仏の前で立てた誓いが虚妄となって、無間地獄に堕ちてしまうと、恐しく思っているから、今ではおのおの励んでいるのであろう。
 大田の親昌や、長崎次郎兵衛の尉時綱や、大進房が落馬して非業の死をとげたのは、法華経を軽毀した罰が現れたのであろうか。
 罰には、総罰・別罰・顕罰・冥罰の四種がある。日本国に大疫病が起り、大飢饉におそわれ、北条一門に同士討ちが起こり、また他国から責められているのは、総罰である。疫病は冥罰である。大田や大進房の落馬などは現罰であり、別罰である。

過去現在の末法の法華経の行者
 ある仏の教えや、その徳がもはや人々を導く力を失った時を末法という。その時に、真実の仏法をかかげ、その仏法の力によって人々を導こうとする実践者が「末法の法華経の行者」である。そのような〝法華経の行者〟は釈尊の場合の末法に限らず、過去のあらゆる仏の滅後にあらわれたので、「過去現在の末法の法華経の行者」といわれたのである。
―――
軽賎
 他人を軽蔑し卑しむこと。
―――
梵釈
 大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
―――
大田の親昌
 伝記は明らかでない。常忍抄(0981)に「かしまの大田次郎兵衛・大進房・又本院主もいかにとや申すぞ」とある「かしま(賀島)の大田」と同一人とすれば、駿河(静岡県)の賀島方面の人ということになる。
―――
長崎次郎兵衛の尉時綱
 伝記は不詳。はじめは日蓮大聖人の信徒であったが退転し、大進房とともに大聖人に叛逆したのであろう。
―――
大進房
 下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
であり、他の御書講義録の語訳においては、全て別人説に拠っている。
―――
総罰
一国全体、または一つの団体・仲間等が総じて受ける罰、たとえば大聖人御在世の他国侵逼
―――
別罰
 個々人が別して受ける罰。
―――
顕罰
 今世で目に見えてはっきりとあらわれた罰のこと。冥罰に対する語。現罰ともいう。
―――
冥罰
 因果関係が一般の人には、はっきりととらえられないが、厳然と受ける罰。顕罰に対する語。
―――
大けかち
 飢えとかわき。旱魃。食料の欠乏。
―――
どしうち
 味方同士が相あらそうこと。
―――
他国よりせめらるる
 蒙古の襲来のこと。文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)の二度を意味する。
―――――――――
 日蓮大聖人が数々の大難にあわれたのは、その根本的な民衆救済の哲理の上からいっても、また、法華経の真実を立証するためにも必然のことであった。それは、起こそうと思って起きたものでもなければ、避けたいと思っても、自己の信念を捨てるのでない限り避けられるものでもなかった。
 だが、そのような必然性によって起こった難であったが、その都度、つねに大聖人を守る働きをする人々があらわれたり、事象が起きたりして、一つ一つが生命の危機に至る性格の難であったにもかかわらず、大聖人は悠然と、これをのりこえてこられたのである。
 そこには、根底に、まず、微動だにしない大聖人の確信があり、その正報の反映として、依報である周囲の状況に、そのような働き、変化があらわれたと考えられる。したがって大事なのは、難にあったからといって動揺しない信心、むしろ、そのときこそ一層強固な信心、確信、勇気をふるい起こすことなのである。それに応じて、必ず環境・周囲のなかに諸天が守護の働きをあらわして、難を加える者には罰があらわれる。この御自身の二十七年間の体験を通じて、いま熱原法難に直面している門下の人々に激励を与えられているのである。
 そこには、大聖人は師であり、本仏だから特別だという考え方は微塵もない。むしろ、御自身の体験を述べることによって、門下の人たちをも御自分と同じ境地に引きあげようとされているのである。この等しい境地に立ったとき、大聖人の生命をそのまま顕わした大御本尊を、門下の人々が末法万年の衆生の代表として受けとめることができるのである。そして、それは、すでに調っていると御覧になられるが故に「余は二十七年なり」と宣言されたのである。
「法華経の罰」について
 真理への正しい認識に立ち、それをもとにして導かれた教えは、それにそむけば生命の危険や害をまねき、それを正しく守れば利益を得、生命を充実させるという効果がある。科学が究めた真理にもとづいて、種々の技術が開発され、現代人類の物質生活を豊かにしているのは、この〝功徳〟の例である。しかし、もっと根底にある真理への無知から、この技術の乱用が害を生み、人類の生存を脅かしているのは〝罰〟の例である。
 仏法は、生命そのものの真理を究め、それにもとづいて人間的成長と幸福実現の法を打ち立てたものである。したがって、これにそむけば、生命活動の上に害をこうむり、これを正しくふまえて実践すれば限りない価値を生み出すことができる。
 「法華経の罰」とは、この原理によるのであって、超越的な、意志をもった神のような存在があって、それが法華経に従う人に利益を与え、背く人に罰を与えているというのではない。功徳・罰というと、とかく誤解されがちであるが、この本質は、正しく理解されなければならない。
 次に、総罰・別罰・顕罰・冥罰の区別についていえば、社会全体が仏法に背いていることによって社会全体が不幸を招くのが総罰である。それは、社会というものが一つの統一的な原理によって成っており、その原理が間違っていれば、社会の中の成員は、個人意志にかかわりなく、それによる結果をこうむるのである。これに対して、個人的な仏法への違背行為から、その個人が受けるのが〝別罰〟である。したがって、総罰と別罰の二つは、個と全体の関係にあるといえる。
 それに対して、顕罰ないし現罰と、冥罰という立て分けは、少しむずかしくなる。冥罰とははっきり形にあらわれないということであるが、たとえば、今は、例として疫病をあげられているように、それ自体は、はっきりした形をもっている。では、どこが〝冥〟かというと、仏法に背いたという原因と、疫病という結果との間のつながりが、凡人の眼には不明瞭であるということである。
 つまり、冥罰とは、生命の法である仏法に背くことにより、その生命活動のリズムに狂いや衰弱を生じ、それが病気等の結果としてあらわれてくる故に〝冥罰〟という。仏法に背いたことが直接的にもたらすのは、生命そのものの異変で、病気は、その生命の異変の結果として出てくる。したがって、必ずしも病気という結果になるとは限らないのであって、生命力の衰弱したところに、たまたま病原菌が侵入したから、病気になったともいえる。もし別の動機が働いていれば、別の結果を生じたであろう。
 これが〝冥罰〟であるが、このことからも分かるように、冥罰こそ法華経の罰の本質的なケースであって、むしろ顕罰の方が例外的なのである。逆に、利益・功徳についていうと〝冥益〟こそ法華経の功徳の本質的なもので、顕益は例外的なケースになるのである。そして、この場合は、仏法の信仰によって生命のリズムがととのい、力が豊かになるのであるが、その生命の力をどのように活用するかは、その人の生活上、社会的分野での努力にかかっていることを知らなければならない。

1190:07~1190:12 第五章 門下の信心を激励するtop
07                               各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすと
08 もをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、 彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師
09 子の吼るなり、 故最明寺殿の日蓮をゆるししと 此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししな
10 り、 今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず、 設い大鬼神のつける人なりと
11 も日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日
12 日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。
-----―
 各各は師子王の心を出して、どのように人が威嚇しても決して恐れる事があってはならない。師子王は百獣に恐れない。師子の子もまた同じである。かれら正法を誹謗する人々は、野干が吼えているようなものであり、日蓮の一門は師子の吼えるのと同じである。
 故最明寺時頼殿が、日蓮の伊豆流罪を赦免したのも、今の執権時宗殿が佐渡流罪を許したのも、日蓮に禍はなく、人の讒言によるものであった、と知ったから許したのである。したがって、今後はなんと人がいっても、よく事情も聞かずに人の讒言を用いられることはないであろう。
 たとえ、大鬼神がついた人であっても、日蓮を梵天・帝釈・日天・月天・四天王また天照太神・八幡大菩薩が守護されているゆえに、罰することができないと、確信していきなさい。月々日々に、信心を奮い起こしていきなさい。少しでもたゆむ心があれば魔がそれをたよりにして、おそってくるであろう。


野干 
 狐の類。翻訳名義集巻二に「梵語悉伽羅、此に野干と云う。狐に似て小なり、形色は青黄、狗の如く群行す。夜鳴は狼の如し」とある。悉伽羅は梵語シュリガーラ(śṛgāla)、すなわちジャッカルの音写である。
―――
最明寺殿
 北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
―――
此の殿
 第八代執権相模守北条時宗(1251~1284)のこと。時頼の子で母は極楽寺重時の娘。幼名を正寿丸といい、相模太郎と称した。文永元年(1264)14歳で連署の重職につき、翌年、相模守となった。文永5年(1268)には18歳で執権となった。執権在任中に、文永の役、弘安の役と二度の蒙古襲来があり、その生涯は蒙古との戦いに終始した。
―――
大鬼神
 鬼神の中でも大変暴悪なものや、神通力などの能力が大きいものをいう。鬼神とは、目に見えない超人的な力を有する働きをもつものに付けられた総称。仏法では夜叉・羅刹などをさす。人の功徳・生命を奪い、蝕む働きをする悪鬼神のこと。
―――――――――
 いかに他宗の人々が邪悪な心をもち、権力をそそのかして脅かし、迫害を加えてこようとも、勇猛心をふるいおこしていくよう励まされている。そして、本質的に、その生命の波動の力が違うから絶対に、この正法を持った人は敗れることはないことを示され、この生命の力の違いによって必ず諸天の加護があるから、正法を持った人を罰することはできないのであると教えられている。
各各師子王の心を取出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし
 〝師子王の心〟とは、自己の生命の中の仏界の生命であり、この仏界に立脚した英知と正義感と勇気である。それは、仏界がいかなる人の生命にも普遍的に内在するように、すべての人に、もともとあるのである。故に「取出して」と表現されているのである。
 たんなる勇気ではない。形の問題でもない。勇気だけならば、蛮勇も勇気である。しかしそれは、ほんとうの〝師子王の心〟ではない。英知と正義感に裏づけられた勇気であり、それゆえにこそ、不屈たりうるのである。また表面の形だけでもない。見たところは静かであっても、強靭な信念をもった人は強い。外見は強そうでも、脆い場合がある。師子王の心とは、内なる強さがまずあって、その上であらわれてくるものなのである。
「師子王」とは、いうまでもなく日蓮大聖人である。大聖人の実践の姿が、なによりも師子王のそれであった。ゆえに、その弟子たる者は「師子の子」でなければならない。師子王が他のいかなる獣をも恐れず、事実、他のいかなる獣をも倒す力をもっているように、師子の子も、他のどんな獣をも恐れない。師子の子の恐れを知らぬ勇気が、師子王から受けついだ、先天的な〝血〟によるように、妙法の師子王の心も、信心という血脈によるものであり、生命自体の内から湧き出てくるものなのである。
 しかし、勇気だけはあっても、実力は必ずしも伴っているとはいえない。師子の子は、親にしたがって学ぶことにより、成長につれて、師子王としての力を養うのである。それと同じく、妙法を受持し、仏界の生命を顕現する大聖人の門下は、師子の子にふさわしく、師子の心をもっている。それは妙法への信心という血脈によって父・仏と同じ生命が受けつがれていくのであるが、その血にふさわしい実力を発揮できるためには、幾多の試練を経なければならない。
 大聖人が、この熱原法難に直面する門下の人々に対して抱かれた気持は、まさに、そうした試練に耐えているわが子を見守る師子王のそれであったと思われる。試練は、ひとり立ちできる成人になるための不可欠の関門でもある。試練をのりこえてこそ、子は父と等しい実力をもつことができるのである。師と弟子の関係でいうならば、師弟不二となるのであり、そのとき、師・父は、その持っている一切を弟子・子に托すことができる。それが、すなわち、大聖人にあっては、本門戒壇の大御本尊、一閻浮提総与の御本尊だったのである。
彼等は野干のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり
 大聖人門下を苦しめようとして悪口し、告げ口をしている他宗の人々は、まさに野干のほえるのに似ていた。彼らは、立正安国論、十一通御書等々の、大聖人からの法論対決の挑戦には逃げ回りながら、陰にかくれて権力者に訴え、讒言してきたのである。現に、この熱原法難を起こした連中も全く同じである。
 それに対して、大聖人は、常に公の場で堂々と自己の正義とするところを叫び、他宗の誤りを理論整然と指摘し、民衆救済の大道を示されたのである。
 一方は保身がその動機であり、そのやり方は陰険・卑劣をきわめた。大聖人は、全く、苦難にあえぐ民衆を救うという責任感、一国の危急を防ぐことこそがその動機であり、正々堂々たる方法と態度を貫かれたのである。〝野干〟と〝師子〟にたとえられたのは、決して主観的な自画自賛ではない、二十七年間の万人周知の現実によって明確に裏づけられているのである。
設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし
 「大鬼神のつける人」とは、強大な権力等をもって正法受持者を弾圧しようとする人である。〝鬼神〟とは、悪にも善にもなりうるもので、本来、自然界や人間の社会機構等にある力をさすと考えてよい。ごく初期の原始的な生活においては、自然界の力が人間の生活を支配する直接的な影響力をもっていたが、発達した文明社会にあっては、社会機構がより大きな支配力をもってくる。この社会機構のもっているあらゆる力のカナメになるのが権力なのである。
 このような強大な権力をもって正法を抑圧しようとしても、大聖人は宇宙本源の妙法を受持した仏であるが故に、さらに大きな力が大聖人を守るために働く。日本一国の権力が大聖人を迫害したのに対し、蒙古軍というさらに強大な力が日本の権力者を窮地に追いやったのは、この原理による。
 また、竜口で、平左衛門尉が、その幕府によって与えられた権力で大聖人をなき者にしようとしたとき、〝光りもの〟が夜空にあらわれて刑の執行を不可能にしてしまったのも、宇宙現象という、一国の権力よりはるかに大きな力が、大聖人を守護したことになるのである。
 しかしながら、これら「梵天・帝釈」等の依報の上にあらわれる守護の働きも、正報である妙法受持者の強い信念と、その信念に立脚した精神の緊張、生活の姿勢の反映にすぎない。正報の側に停滞やゆるみが少しでもあれば、たちまち、魔がたよりを得て、おそいかかってくるのである。したがって「月月日日につより給へ」とおっしゃっているように、不断の信心の向上・強化が大切となってくるのである。
月月日日につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
 信心は、つねに前進し成長しようとするその心の姿勢のなかにあるものである。生命それ自体、たえまない創造と開拓・成長の姿勢によって維持されていくのと同じである。あらゆる生命の中で、人間は特に、つねに自己完成への努力を持続していくことによって、真に人間たりうる存在であることも忘れてはならない。
 ある程度の信心の段階に達したからといって、――もちろん、信心に段階などはありえないから、それ自体、妄想なのであるが――これでもうよいのだと前進の姿勢を放棄してしまえば、そこまで達成した信心も維持さえされず、ゼロに帰してしまうのである。
 同時に、このことは、信心というものが、どこまで求め、前進していっても、ここで終りであるという限界がない、無限なるものであることを物語っている。では、どこまでいっても満たされることのない、空しいものなのかというと、そうではない。求め、進んでいくなかに、無辺無限なる極理が達成されているのである。過程のなかに終極が含まれ、手段のなかに目的が達せられている、この関係を秘妙というのである。

1190:13~1190:17 第六章 迫害に対する覚悟を示すtop
13   我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はおそるる心なし、 一定として平等も城等もいかりて 此の一門
14 をさんざんとなす事も出来せば眼をひさいで観念せよ、当時の人人のつくしへか・さされんずらむ、又ゆく人・又か
15 しこに向える人人を我が身にひきあてよ、 当時までは此の一門に此のなげきなし、 彼等はげんはかくのごとし殺
16 されば又地獄へゆくべし、 我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、 設えば灸治のごとし当時はいた
17 けれども後の薬なればいたくていたからず。
-----―
 我々凡夫の拙なさとして、経論に誡め説かれていることも、自分には縁のない遠い事として、恐れる心がない。定めし、平左衛門尉や秋田城介などが、怒って、我が一門をさんざんに迫害することが起ったときには、眼をふさいで覚悟するがよい。
 今の世の人々の筑紫へ派遣されようとしている人、戦場に行く者、また戦地にあって戦っている人々のことを、我が身に引きあてて考えてみなさい。今までは我が一門には、このような嘆きはなかった。彼等は現在は、このような苦しみにあい、しかも殺されれば、また地獄に堕ちるのである。我等は現在は仏法のために、この大難に値ってはいても、後生は仏になれるのである。
 それはたとえば、灸治のようなもので、その時は熱くて痛いけれども、後には薬となるのであるから、疼くても本当はいたくないのである。

経論
 三蔵のうち経蔵・論蔵をいう。経は仏が説いたところの教法。論は仏みずから問答論議して理を弁じたもの。また仏弟子が仏語を論じ、法相を講じたもの。
―――
平等
 平左衛門尉頼綱のこと。当時、侍所司の職にあり、幕府内の実力をにぎっていた。日蓮大聖人を憎み、竜口法難、佐渡流罪を画した張本人であり、熱原法難においても日蓮宗徒弾圧の陰の立役者であった。
―――
城等
 秋田城介のこと。秋田城介とは官職による名で、ここでは、安達泰盛のことをいう。安達氏は泰盛の祖父景盛が北条幕府創設の功労者で、泰盛は平左衛門とともに並んで、鎌倉幕府の中で大きな権力をもち、事実上の政治は、この二人で動かされていた。しかし弘安8年(1285)、霜月騒動によって滅ぼされた。
―――
つくし
 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいう。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
―――
灸治
 もぐさなどを皮膚の一部に乗せて、火をつけ、温熱効果によって行う治療法。
―――――――――
 本章は、門下一同に法難に対する覚悟を要請された段である。
 すでに述べたように、法難は、日蓮大聖人の身延入山を境に大きく二分することができる。すなわち、身延入山以前の法難は、本抄前半で説かれているように日蓮大聖人が矢面に立たれての難であった。それに対して、「三度国を諌めんに用いずば国を去るべし」との故事に習い、身延に入られ、御自身は令法久住のため、諸御書の執筆、弟子の育成教育に全魂を傾注され、実践の指揮を日興上人に任された当時から、難は、日蓮大聖人から門弟等へと移行してきているのである。
 その最大の法難が本抄を著わされる発端となった熱原法難である。この法難の起きる原因となったのは、日興上人を中心とする熱原一帯の折伏であり、その受難者もまた信徒たちであった。すなわちこれまでのように日蓮大聖人でもなければ、僧分の人たちでもない。在俗の、しかも武士階級でもなんでもない平凡な農民達であったことにその特徴がある。しかも、信仰経歴の浅い人達がこの大難を受けながら敢然と戦い、強大な権力に屈しなかったのである。
 そうした、未曾有の法難を、たんに駿河の一地方の問題として捉えず、一宗の大事と考えられ、四条金吾をはじめ、鎌倉在住の門弟らに、試練に耐え、大難に向かう信心を要請されたのである。
 ともあれ、熱原農民の戦いは、日蓮大聖人の化導が、しっかりと社会に根をおろし、定着した厳然たる証拠を示すものであった。まさしく、民衆仏教の胎動を如実に示したのであるといえよう。そこに、日蓮大聖人の出世の本懐である大御本尊御図顕、すなわち法体の広宣流布成就の機縁となった重大な意義があったのである。
 「御義口伝」に「文句の四に云く(中略)衆生に此の機有て仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-01)と。
我等凡夫のつたなさは経論に有る事も遠き事はおそるる心なし
 「経論に有る事」とは、経典や論に説かれている正法流布者は必ず大難にあうということ。また、正法流布の戦いの至難さを指している。しかし、凡夫のつねとして、経文や論に説かれていることは、自分達とは直接関係のないことであり、遠い世界のことを叙述したものであるとの考えに陥りやすい。したがって、妙法流布の実践がその行く手に険阻な茨の道をはらんだものであることを聞いても、自らの事として受け止めることのできない愚かさを「遠き事はおそるる心なし」と説かれたのである。
 だが、それは決して遠いことではない。仏法の説いていることは普遍の真理であり、したがって、いつ自分の身にふりかかるとも知れない。したがって自分のこととして読んでいくのが仏法を学ぶ根本精神なのである。
 ともあれ、「開目抄」にも「つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(0234-09)と、凡夫の愚かさを指摘されているが、大事に当面したときに、毅然としてこれに立ち向かい、勇敢に挑戦していく人が、真の大信者なのである。
我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん
 蒙古軍を迎えうつため、九州の戦地にいる人々と対比して、未曾有の大難に値う門弟に仏法の原理のうえから、現在の苦難に立ち向かう勇気を鼓舞されたところである。
 仏法のゆえにあう大難は、自己の宿命打開のためであり、このために死に至ろうとも、後生には幸福な境涯が開けているのである。世間の法のため、ということは権力者等の名聞名利のためであり、自己の名利のためであるが、そのために命をなげうっても、得られるものは何もなく、三悪道・四悪趣におちるのである。なぜなら、こうした努力をうながした生命の発動は、所詮、餓鬼・畜生・修羅等のそれにほかならないからである。
 なんのため、すなわちいかなる生命の発動によって自分の生涯を賭け、生命を賭けたかによって、人生の価値は決まることを知らなければならない。

1190:18~1191:02 第七章 法難者への戒めを示すtop
18 彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、 彼等にはただ一えんにおもい切れ・ よからん
1191
01 は不思議わるからんは一定とをもへ、 ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、 さむしといわば八かん地獄ををし
02 へよ、 をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ、
-----―
 かの熱原の信心微弱な者たちには、強く激励して、おどされてはならない。彼らには、ただ一途に決心させなさい、善い結果になるのが不思議であり、悪い結果になるのが当然と考えなさいと。そして空腹にたえられないようだったら餓鬼道の苦しみを教えなさい。寒さにたえられないというなら八寒地獄の苦しみを教えなさい。恐しいというのなら鷹にあった雉、猫にあった鼠を他人事と思ってはならないと教えなさい。

あつわらの愚癡の者
 静岡県熱原地方の農民をさす。ただし、「愚癡の者ども」とは、一般農民を武家にくらべて差別し軽視してこういわれたのではなく、熱原法難にあい、心の動揺が隠せずにいる人びとを指していわれたと思われる。
―――
餓鬼道
 梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。
―――
八かん地獄
 八種類の極寒の地獄のことで、八熱地獄に対する。諸経論によって異説はあるが、涅槃経では、阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄が挙げられている。この八寒地獄は、地獄の中の罪人が寒さに責められ、絶叫をすら絶えた、声にならない苦痛の叫びやまた寒さのための身体の変色を名づけたものである。
―――――――――
 本章は、熱原地方の受難者に対しての激励の言葉を通して法難の真の厳しさへ覚悟を促された段である。
 ここにみられる日蓮大聖人の熱原農民への激励は、秋霜のように厳しい。それは、決して母親の愛情ではなく、厳父のそれである。そこには一人立ちする息子を見守る父親に似たものがうかがわれる。
よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ
 狭い意味では、現在、熱原の人々があっているこの難がどう展開するかについて、よくなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、ということである。広い意味では「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136)といわれているように、この仏法を信仰するうえでの基本的な心がまえをいわれたものと拝せる。
 厳しい状況に直面したとき、それをのりこえるために大切なことは、甘い観測を立て、それを根本にしようとしてはならない、ということである。むしろ、最悪の事態を予測し、それにどう対処するかを考えなければならない。最悪の事態への対処が立てられていれば、予測どおりであっても、予測より楽な場合であっても、悠々と越えていけるのである。
ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ
  陰険で残忍な権力者による迫害のなかにあって、熱原の人々の苦しみ、恐怖は、いかばかりであったろうか。20数人が捕えられ、そのうち神四郎・弥五郎・弥六郎の3人が斬首されるのであるが、その時期については諸説があり、定かでない。一説には、この翌弘安3年(1280)4月8八日ともいわれているが、あるいは、本抄をしたためられた弘安2年(1279)10月説もある。
 それはともかく、残された人々も、住むに家なく、土地もとりあげられ、冬に向かおうとしているこの時期には、寒さ、飢えにさいなまれていたに違いない。もし、空腹に耐えかねて退転しかけている人がいたら、餓鬼道の苦しみを教えよ、というのである。寒さに耐えかねて訴えてくる人には、八寒地獄を、いつ自分も捕われ殺されるかと怯えている人には畜生道を教えよ、といわれている。
 これは、そうした苦しみに負けて退転したならば、今の飢えや寒苦や恐怖よりも、さらに深く逃れがたい地獄・餓鬼・畜生の三悪道におちるということである。これまでの人生も、人々の生命は、これら三悪道を流転してきたのである。今ようやく、正法にめぐりあって、そこから脱出できる糸口をつかんだのである。その逃れようとしているときに、これら三悪道の苦が、ある意味では凝縮しておそってきているわけだ。
 それに負けないで信心を貫き通せば、三悪道の流転から逃れ出られるのである。もし、ここで負けて、信心の糸口を手放してしまえば、再び三悪道の流転の泥沼におちこんでしまう。現在は、その大事な転換の時だということである。
 しかも、これは、熱原の人々だけの問題ではない。全ての正法実践者に通ずる問題であり、さらには人生のあらゆる場合に通ずる原理でもあることを知らなければならない。

1191:02~1191:13 第八章 臆病者の先例を挙げて訓戒するtop
02                                             此れはこまごまと
03 かき候事はかくとしどし・月月・日日に申して候へどもなごへの尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をく
04 びやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ。
-----―
 このようにこまごまと書いたことは、年々、月々、毎日のようにいってきたことであるが、名越の尼や、少輔房、能登房、三位房などのように、臆病で、求道心がなく、その上欲が深く、疑い深い者共は、塗ったうるしに水をかけ、空を刀で切るように、一向、教えたことがなんのためにもなっていないのである。
-----―
05   三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・とのばらのをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・ぐちの人
06 をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、 はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ、なかなか・さんざんと・
07 だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん、 あまりにふしぎさに申さざりしなり、 又かく申せばおこ人ども
08 は死もうの事を仰せ候と申すべし、 鏡のために申す又此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ
09 候ぞ。
10   人のさわげばとて・ひやうじなんと此の一門にせられば此れへかきつけて・たび候へ、恐恐謹言。
11       十月一日                        日蓮花押
12   人人御中
13     さぶらうざへもん殿のもとに・とどめらるべし。
-----―
 三位房のことについては、大変いぶかしい事が前々からあったけれども、それをいうと、三位房のように知恵がある者を、日蓮が嫉んであのようにいうのだと愚かな人は想像すると思ったから、今まで何もいわなかったのであるが、ついに悪心をおこして大難にあい、不幸の死をとげたのである。かえって十分に戒めていたならば、たすかることもあったであろう。だが、あまりのいぶかしさに、いわなかったのである。
 またこのようにいえば、愚かな人々は、死んだ人のことを、勝手にいっているというであろう。しかし、後々の鏡のためにいっておくのである。また、この事は、彼の陣営の人々も、内心には恐れ怖じているであろうと思われる。
 人が騒いでいるからといって武器をもって一門の人々を弾圧しようという動きでもあれば、日蓮のもとに委細を書きつけて送って下さい。恐恐謹言。
 十月一日              日 蓮  花 押
  人人御中
 三郎左衛門尉のもとに止めておいて下さい。

なごへの尼
 名越遠江守朝時の妻とされる。御書中では、大尼御前とも領家の尼ともいわれている。日蓮大聖人の生まれた小湊に隣接する名越領家の大尼で、早くから大聖人に帰依したが、竜口法難の頃から一時、退転していた。だが文永12年(1275)頃、改悛し新尼を介して大聖人に本尊の下付を願い出たが、大聖人は仏法の厳しさを教えられ下付を許されなかったことが御書にみえる。また、その後、建治年間に、ある人が大尼に会ったところ、天台法門を自讃していたので、その人が大尼を責めたと「王舎城事」にある。
―――
せう房
 大聖人の御書には、しばしば出てくるが、少輔房という名は位による通称で、はっきりしたことはわからない。はじめ日蓮大聖人の門下であったが、欲深くて臆病で、伊豆の法難の頃から退転し、ついに大聖人に敵対したらしい。「種種御振舞御書」等には平左衛門に随って、大聖人迫害の先頭に立ち、松葉ケ谷の草庵を襲い、また竜口法難にあたっても、法華経の第五の巻で大聖人の面を打った少輔房のことが書かれているが、これは全く別人であろうと思われる。
―――
のと房
 三位房、少輔房等と共に、はじめ大聖人門下であったのが、のち退転し法罰をうけたと、御書にしばしば述べられているが詳しくは明らかではない。一説によれば、文応元年(1260)8月27日の松葉ケ谷の襲撃に際し、進士太郎と共に敵とたたかって、大聖人をお護りしたとある。その後、退転したものであろう。
―――
三位房
 異説もあるがここでは三位房日行と考えられる。下総(千葉県)の出身で長く叡山に遊学した博学の僧であった。早くから大聖人の門下となり、宗門の長老で、諸宗破折に活躍したが、のちに、自己の才知にうぬぼれるところがあったらしい。後年、後輩の日興上人が指揮していた賀島、熱原一帯の折伏応援に派遣されたものの、竜泉寺院主代行智の甘言に乗って、日興上人に反旗を翻して、迫害者を煽動した。この結果、弘安2年(1279)に変死を遂げている。日蓮大聖人は、文永年間の京都弘通の折に、退転の兆しがみえたので、戒めておられたが、それが10年後の弘安2年(1279)に不幸な結果となってあらわれたのである。賜書には、「御輿振御書」「法門申さるべき様の事」「十章抄」等がある。
―――
おこ人
 嘲笑に値する愚か者。
―――
さぶろうざへもん
 (1230頃~1300)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。左衛門尉という官名の唐の呼び名を金吾といったことから、四条金吾と通称された。北条氏の支族・江間家に仕えた武士で、医術にも通じていた。建長8年(1256)ごろ、池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。文永8年(1271)の竜の口法難の時は、大聖人に殉死の覚悟で供をし、文永9年(1272)には、佐渡の大聖人より人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。
―――――――――
 名越尼、少輔房、能登房らの、せっかく大聖人の弟子となりながら退転していった人々の例をあげ、本抄にこれまで述べられてきたような指導を、なぜくどいほどにいうのかを説明されている。
 とくに、これらの人々を評して「をくびゃう物をぼへず、よくふかくうたがい多き者」といわれているのは、退転した人々に対する悪口のように聞えるかも知れない。だが、大切なことは、信心の退転の原因が、どこにあるかを知り、自らの身にあてて戒めとしていくことである。
 〝臆病〟とは、周囲の人々や、ひいては権力が信心を妨げようとする働きに対して、自己の信念を貫く勇気をなくしてしまうことである。〝物おぼえず〟とは、大聖人が常に指導されていることを自らの生命に刻まず、他人の事のように聞いて、すぐ忘れてしまうことである。〝欲ふかく〟とは、目先の利害に迷うことである。また〝疑い多き〟とは、大聖人の指導を正しく理解しようとせず、疑ってかかることである。
 このことから逆に、信心において大事なことが何であるかが明瞭である。まず、勇気であり、大聖人の教えを正しく理解し、胸に刻んでいくことであり、目先の利害に惑わず、自身の成仏という大目的をみつめていくことである。すなわち、深・行・学をしっかりわが身で実践していくことが、難にあったときに挫けない自己を築き、一生成仏を全うするための鍵であることを知るべきであろう。

1189~1191    聖人御難事(2015・10・11月号大白蓮華より。先生の講義)top

世界を照らす 太陽の仏法
民衆仏法――「人間の宗教」の時代の開幕

 昭和35年(1960)10月2日、私は初の海外指導へ、東京・羽田空港から旅立ちました。
 背広の内ポケットには、戸田先生の写真を納め、恩師の命日にあたる2日を出発の日としたのです。第一歩をアメリカに刻んでより、今年で55年。世界広宣流布への旅は、常に胸中の師匠と対話しながらの共戦の軌跡でした。
 戸田先生は逝去の直前、メキシコに行った夢を見た、と語られました。
 「みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ、広宣流布の旅に……大作、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ」
 この恩師の言葉を、私は生命に刻みました。だからこそ、第3代会長に就任したその年のうちに、直ちに、「世界広布」即「世界平和」へ本格的な挑戦を開始したのです。
恩師の悲願は世界広宣流布
 当時、海外メンバーは北・南米、アジアなどに、わずかに点在していたにすぎません。まだ組織もありませんでした。
 しかし私は、日蓮大聖人の御遺命である「一閻浮提広宣流布」の時が来ていると確信していました。否、絶対にそうしてみせると決意していました。それが恩師の悲願であり、弟子の誓願であったからです。
 以来、五大陸54ヵ国・地域を訪問するとともに、世界中の同志を一人また一人と粘り強く励まし続けてきました。無数の地涌の菩薩よ、この地球の大地より躍り出よ!と祈りに祈ってきました。
 さらに、諸分野を代表する識者や指導者とも、人類共生の流れを開くために、平和・文化・教育の「対話」を重ねてきました。
 そして今や、庶民の草の根の力によって、SGIは192ヵ国・地域に広がり「世界広布新時代」が到来したのです。
 世界広布新時代とは、各国・各地域において、妙法流布に目覚めた人材が、陸続と誕生し、善の連帯が世界規模で広がり、大聖人の仏法の真髄が、いよいよ展開されていくことにほかなりません。
 この民衆仏法の新時代の開幕に際し、「聖人御難事」を2回にわたって拝しておきたい。本抄は、不惜の弟子たちの戦いによって、民衆仏法が確立されたことを示された凱歌の一書と拝されたからです。
01   去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家
02 の立て始め給いし日本第二のみくりや 今は日本第一なり、 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面に
03 して午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝
04 教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、 其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、 余は二十七年なり其
05 の間の大難は各各かつしろしめせり。
-----―
 日蓮は、去る建長五年の四月二十八日、安房の国(千葉県)長狭郡のうち東条の郷、今は郡となっているが、そこは右大将源頼朝が創建した天照太神の日本第二の御厨(みくりや)がある。今は日本第一である。この御厨のある東条の郡のなかに清澄寺という寺があり、その寺内の諸仏坊の持仏堂の南面で、正午の時に、この法門を唱えはじめて以来、今弘安二年まで二十七年を経過している。
 釈迦は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の後に、それぞれ出世の本懐を遂げられた。
 その本懐を遂げられるまでの間の大難は、それぞれに言いつくせないほどであり、今まで、しばしば述べてきたとおりである。日蓮は、二十七年である。その間の大難は、すでに各々がよく御存知の通りである。
――――――
06   法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」
-----―
 法華経の法師品第十に「この経は、如来の在世の時すら怨嫉するものが多い、いわんや如来の滅後は尚更多いのである」と。

使命に目覚めた民衆の叫び
 民衆を支配しようとする傲れる権力が、一番恐れるのは、目覚めた民衆の正義の叫びです。弘安2年(1279)の10月1日の御著作となる「聖人御難事」は、「熱原法難」の渦中で認められました。
 この法難こそ、偉大なる使命に生きる民衆が、権力の魔性と対峙した大闘争なのです。
 有名な「撰時抄」の一節に、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(0283-15)とあります。これは、大聖人が佐渡流罪を赦免となって鎌倉に戻られ、平左衛門尉頼綱に対面された際に言い放された言葉です。
 絶対的な権力者であった平左衛門尉に対して、「処刑し流罪することもできよう。しかし、心の自由を縛ることは絶対にできない。断じて、権力の魔性には屈しない」と師子吼されたのです。
 この「内面の自由」、そして「信教の自由」こそ、永遠にして崩れない人権の根幹です。その意味で、この御金言は、権力に縛られない魂の自由を訴えた、偉大な人権闘争の叫びとして輝いています。
 いかなる絶大な権力をもってしても精神までは崩れない。法華経を捨てよと迫る権力者の恫喝を、敢然と拒否した熱原の農民門下も、そうでした。この御文の心を貫き、戦い抜きました。いわば「熱原の法難」とは、大聖人の師子吼を継承した弟子が、正義の精神闘争によって「魂の勝利」を打ち立てた歴史でもあったのです。
恩師「大事なのは勇気ある信心」
 ここであらためて、「熱原の法難」の経過について確認しておきたい。
 当時、富士方面では、日興上人を中心に、果敢に弘教が展開され、多くの農民たちが妙法に帰依しました。その勢いに危機感を抱いた滝泉寺の院主代・行智は、数年にわたり大聖人門下への迫害を加えてきました。
 その最大の弾圧が、弘安2年(1279)9月21日、農民門下20人が無実の罪で捕縛された事件です。彼らは鎌倉に連行され、平左衛門尉から非道な尋問を受け、退転を迫られました。しかし、皆、迫害に屈せず、南無妙法蓮華経と唱え続けた。権力の不当な迫害と断固、戦ったのです。
 さらにその後、農民たちのリーダー格であった神四郎・弥五郎・弥六郎の三兄弟は壮絶な殉教を遂げます。しかし、捕らえられた農民は一人も退転することなく、妙法の信心を貫き通したのです。
 本抄は、この殉教の前、10月1日に著されたものです。9月21日に農民門下が捕縛されてより、大聖人のもとには鎌倉から、逐一、入っていたことでしょう。
 三烈士をはじめ熱原の農民の多くは、入信間もない人々であったと思われます。大聖人はその苦難を思いやられ、最大の激励を送られました。また、鎌倉などの門下たちにも、決定した信心を教えられています。
 断崖絶壁に立つような危機にあって、熱原の求道の門下たちが、迫害を耐え忍び、妙法流布の使命に生ききったのです。
 かつて、戸田先生は、この熱原の三烈士の殉教の史実を通して、「信心は、年数ではない。勇気である。勇気ある信心の人こそが一番、偉大なのである」と語られました。
 勇気ある信心――それは師と同じ心で戦う弟子によって証明されるのです。
真の弟子を育成された身延期
 本抄の冒頭で「建長五年四月二十八日」に「此の法門申しはじめて」と仰せのように、建長5年(1253)4月28日、大聖人は32歳の時、末法の全民衆を救う根本の法である「南無妙法蓮華経」を説き示し、立宗宣言されました。
 以来、「今に二十七年・弘安二年」まで、大聖人は竜の口の法難をはじめ、数々の大難に遭われながらも、妙法を弘める戦いを貫き通されました。
 一方、こうした幾多の難は、多くの弟子をふるいにかけることになりました。
 「まことの時」に、いかなる信心を貫き通せるか――特に、竜の口の法難の直後、鎌倉の門下に迫害の嵐が吹き荒れた際には、「1000人のうち999人は退転してしまった」と大聖人は仰せです。また、「あるいは身は堕ちなくても心は堕ちた」とも、述懐されています。
 こうした中でも、変わることなく、「勇気ある信心」に徹して、正しき「師弟の道」を歩み抜いた弟子も、少なからず厳然といました。
 大聖人の御生涯において、竜の口法難、佐渡流罪以降は、師匠と同じく大難を覚悟し、大難と戦っていける真の弟子を育成し、和合僧を再構築していく過程であったといえるでしょう。この戦いは、大聖人の身延入山以来、ますます盛んになっています。
 その大聖人の御決意に応え、果敢な弘教を進められたのが、真正の弟子・日興上人でした。熱原の農民門下は、日興上人の振る舞いや日々の言動を通して、たとえ直接お会いする機会はなくとも、大聖人のお心を拝していったのでしょう。
 佐渡以降に、大聖人が門下に強く訴えられたのは、“日蓮のように戦いなさい”という不二の共戦でした。御書には「日蓮が如く」、「予が如く」、「我が如く」と繰り返し仰せになっています。それが、門下に鮮烈な自覚を与えたことは疑う余地がありません。
 まさに「如説修行」を呼び掛けられる大聖人のお姿に呼応して、弟子たちが決然と立ち上がっていったのです。
 一人一人が皆、正しいがゆえに競い起こる三障四魔と戦い抜きました。一方で、正法の興隆を恐れる魔性の勢力は、門下への圧迫を強めていきます。この闘争の中にあって「熱原法難」が起きたのです。
仏の目的は、全民衆の幸福に
 いかなる権力の迫害や弾圧にも屈せず、異体同心の信心の団結で法難に立ち向かう弟子の姿に、大聖人は広宣流布の時の到来を感じられました。それが、本抄で「出世の本懐」に言及された背景であると拝察されます。
 「出世の本懐」とは、「この世に出現した真実の目的」です。法華経方便品で、釈尊は「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」と述べ、諸仏がこの世に出現するのは、ただ一つの理由があるからだと示します。
 続いて、釈尊をはじめ諸仏の出世の本懐とは、法華経を説いて、万人に「仏の智慧」が本来、具わっていることを明かし、人々が仏の境涯を実現する道を確立することであると明かしています。
 あらゆる仏にとって、「出世の本懐」とは、一切衆生を一人も残らず成仏させるという大目的であります。それを成し遂げるのは、「万人成仏の教え」である法華経を説き示す以外にありません。
 この正法を、諸仏の願いを我が願いとして、大難にもひるむことなく不惜身命で教えを広める人こそが、「法華経の行者」です。
 本抄では、釈尊、天台、伝教の数十年にわたる忍難弘通を挙げ、それぞれが「出世の本懐」を遂げたと仰せです。これらの真実の「法華経の行者」は、長期にわたる忍難弘通の末に、成仏の根本法を、各自の時代にふさわしい形で展開していったのです。
 この三国の三師の法華弘通の正統の系譜に連なるのが、ほかならぬ大聖人であられます。「顕仏未来記」の掉尾で、「三国四師」と御宣言のとおりです。
 したがって、大聖人の「出世の本懐」は、この末法において、万人成仏を実現する法を説き、成仏の道を確立されることです。大聖人は、その法とは、法華経の本門寿量品の文底に秘されていた南無妙法蓮華経であると覚知し、説き出されました。
民衆救済の誓願を成就
 若き日に立てられた誓願――全ての人を救うという請願の成就こそ、大聖人の御生涯の根本目的です。それは、万人成仏の根本法である三大秘法の南無妙法蓮華経を明かし、未来永遠にわたる広宣流布の基盤を築かれることにほかなりません。
 本抄で大聖人は「余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」と言われて、この27年間、御自身が、法華経の予言どおり、釈尊が受けた難をもしのぐ大難に遭われたことを強調されています。牧口先生も線を引いて拝されていた御聖訓です。
 この忍難弘通は、「開目抄」で仰せのように、「慈悲のすぐれたる事」の証しです。民衆を救う大慈悲ゆえに、難を呼び起こし、その中で万人成仏の大法を成就するのです。誓願成就のための大難です。
 大聖人は、末法の御本仏として、末法万年尽未来際まで、一閻浮提の一切衆生を救わんとの大慈悲の大願ゆえに、「大難」即「広布」の民衆救済の御生涯を歩まれたのです。
大願を受け継ぐ不惜の弟子の誕生
 当時、この大聖人の大願の純真な信心で受け継ぎ、横暴な権力からの迫害の中で戦っていたのが、熱原の農民門下でした。
 彼らが、大難に負けない信仰を示したことこそ、師弟不二の信心に基づく「死身弘法の実践の模範」です。これは後世万代のために、民衆仏法の凱歌を轟かせた大偉業であったといえるでしょう。
 民衆仏法とは、法華経の万人の成仏に基づき、全ての人々に尊厳性・尊極性・平等性を十全に開花する思想です。その主役を担うのは、人間から離れた超越者ではなく、現実の世界の中で、社会の中で、地域の中で実践を繰り広げる法華経の師弟です。弟子も、師と同じ実践を共有し、目覚めた民衆を一人でも多く誕生させていく。いわば、民衆仏法とは、使命を自覚した民衆自身が主役となり、民衆の勝利を開きゆく「人間の宗教」なのです。 
 無名の庶民である熱原の農民門下は、正法の信仰のゆえに大難を受け三世永遠の魂の自由を勝ち取る戦いをしました。法華経の精髄である三大秘法の南無妙法蓮華経受持し、御本仏と共に戦う偉大な民衆が遂に登場したのです。まさに、民衆仏法の基盤が確立しました。そこにこそ、大聖人の出世の本懐の成就があるのです。不軽菩薩を模範とする民衆、深き使命の地涌の菩薩そのものである民衆の出現こそが、日蓮仏法の魂です。
 まさしく、大聖人一門にとって、この熱原の農民に代表される不惜身命の弟子の湧現は、万年に輝きわたる不滅の礎となったのです。
13   而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪,文永元年甲子十一月十一日頭にきずをか
14 ほり左の手を打ちをらる、 同文永八年辛未 九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切ら
15 れ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を
1190
01 並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、 仏滅後二千二百三十余
02 年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり
-----―
 ところが、日蓮は二十七年間に、弘長元年五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年の十一月十一日には房州の小松原で念仏者東条景信のために、頭に疵を蒙り左の手を打ち折られた。同じく文永八年九月十二日には佐渡の国へ配流され、また竜口の頸の座にも臨んだのである。その外に、弟子を殺されたり、切られたり、追放されたり、罰金刑に処せられたりしたものは数を知らない程である。
 これらの難は、仏の大難には及ぶか、あるいは勝れているかどうか、それは知らないが、竜樹や天親、天台、伝教は日蓮と肩を並べがたいのである。
 もし日蓮が末法に出現しなかったならば、仏は大妄語の人となり、多宝如来や十方の諸仏も、大虚妄の証明をしたことになってしまうであろう。仏滅後二千二百三十余年の間に、一閻浮提の中で、仏の御金言を助けた人は、ただ日蓮一人なのである。

大難こそ「法華経の行者」の証明
 続く御文では、大聖人が立宗以来、27年間にわたって幾多の大難を乗り越え、仏滅後の一閻浮提において、「但日蓮一人」、仏の言葉を証明してきたと断言されています。
 御文に沿って、大聖人が受けられた大難を確認すれば、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難、佐渡流罪が挙げられています。
 法のために大難を受けているのは誰か。「三類の強敵」と戦っている「法華経の行者」は誰なのか。その人こそ、正しき師と仰げ!――これが仏法の教えです。
 「仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」とは、命を賭して大難の中、民衆救済を貫き通したがゆえの宣言であると拝されます。
 その上で特筆すべきは、大聖人は、門下が受けた難も記されています。
 「其の外にも弟子を殺され切られ追出し・くわれう等かずをしらず」です。大聖人が法難を受けられた時だけでなく、折々の門下にも危害や迫害が及びました。門下の人々は、幕府権力の中枢にいた武士や、その勢力と結託した悪僧たち、あるいは主君・家臣や一族、家族からも難を受けていたのです。
 大聖人は、これら「日蓮が一門」が受けた度重なる「大難」も、全て仏の言葉を証明するものであるとの大確信を示されています。
 正しい法を広め、難と戦う人こそが、偉大なのです。正義に生きる人には、「難こそ誉れ」であり、「難こそ正しき法の証明」であるといえるでしょう。
学会が大聖人の精神を継承
 広宣流布の途上において、難が競い起こることは、御聖訓に照らして必定です。
 釈尊も難を受けました。天台も受けました。そして法華経の「猶多怨嫉・況滅度後」との経文を、現実のものとされてきたのが大聖人であり、不二の弟子たちです。
 法華経が真実であることを証明し、末法万年の広宣流布への道を開いたのが、大聖人と門下の如説修行、不惜身命の大闘争でした。
 とりわけ、真正の弟子の育成がどれほど重要な意義を持っていたか。
 その師弟共戦の闘争によって、民衆仏法が継承され、さらに現代における創価学会の出現につながっています。その意義において、大聖人の根本目的を受け継ぎ、全世界に広めてきた創価学会の民衆組織の使命と役割は、いやまして重要です。
創価の連帯の拡大こそ平和の建設
 長年にわたって親交を深めてきたインドの大哲学者ロケッシュ・チャンドラ博士は、学会への限りない信頼と期待を語ってくださっています。
 「牧口先生が創始し、戸田先生が推進した『価値創造の思想』は、池田先生によって世界各地に広まり、地域的規模の広がりを持つようになりました」
 「生命について本質的な価値を創造しているという意味で、創価学会は、現代における比類なき存在なのです!」
 使命を自覚した民衆が立ち上がり、妙法を根本にした生命尊厳の思想が民衆から民衆へと深く浸透していく時、時代社会も底流から変わります。
 我ら創価の連帯の拡大は、平和建設への最も着実なる前進なのです。
 民衆仏法の太陽は今、いよいよ希望の輝きを増して昇っています。
 さあ、人間勝利の黄金時代へ!本格的な弟子の戦いの本舞台が始まりました。
 一人一人が見事に栄光の創立85周年を勝ち飾り、さらなる一閻浮提広宣流布の拡大に向かって、力強く朗らかに、師弟共戦の凱歌の大行進を開始していきましょう!
――――――――
世界を照らす 太陽の仏法
師子王の心――「一人立つ」心に創立の精神

 わが創価学会は、師子の集いです。
 一人一人が師子となれば、いかなる逆境にも勝利することができます。
 一人一人が師子吼すれば、あらゆる魔性を打ち破ることができます。
 師子を妨げるものなど、何もありません。
 そして今、世界のいたるところで、若き師子たちが、その国その地の広宣流布を願い、「一人立つ」行動を開始しています。
 創立の師父・牧口常三郎先生と戸田城聖先生の不惜身命の大闘争を起点として、創価の師弟が築いてきた民衆凱歌の歴史を、青年たちが受け継ぎ、発展させていく時代が到来しました。各国各地で、世界市民のよきリーダーとして、一人一人が師子となって走り、平和社会の建設に前進しています。世界中で、私どもの妙法による人間革命の運動を賞讃する声が高まっています。創価学会は、21世紀の人類の希望と輝いているのです。
 地球を結ぶ師子の王者の連帯を築いた創立85周年――私たちは大勝利した!と共々に宣言しようではありませんか。
羊千匹よりも獅子一匹
 牧口先生は、常々、「羊千匹よりも獅子一匹」と語られていました。創価の魂の源流は、戦時中の法難のただなか、牧口先生と戸田先生が「師子王の心」で戦い抜かれたことです。
 国家神道を精神的支柱として、国民に強要する軍部政府に抗して、両先生は信教の自由と立正安国の正論を貫きました。牧口先生は、1944年(昭和19)11月18日――奇しくも、その14年前に『創価教育学体系』を発刊された同じ日に、獄中で逝去されたのです。
 戸田先生が牧口先生の獄死を知ったのは、約2ヵ月後、年が明けた1月8日のことでした。この時、誓われました。
 「今に見ろ。生きて牢獄を出たら、『巌窟王』の名前を使って、必ず、牧口先生の仇を討ってみせる!」と。
 そして、戦後の焼け野原に一人立たれた恩師は、苦悩にあえぐ民衆の救済と平和の実現への闘争を開始されたのです。それは、一人立つ師子王による死身弘法の戦いでした。
 まさしく、「師子王の心」とは学会の創立の心であり、創価の原点です。私たちは、この「師子王の心」を受け継ぎ、戦い抜いてきました。今月も「聖人御難事」を拝しながら、創価三代の魂ともいうべき「師子王の心」について学んでいきましょう。
07                               各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすと
08 もをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、 彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師
09 子の吼るなり、 
-----―
 各各は師子王の心を出して、どのように人が威嚇しても決して恐れる事があってはならない。師子王は百獣に恐れない。師子の子もまた同じである。かれら正法を誹謗する人々は、野干が吼えているようなものであり、日蓮の一門は師子の吼えるのと同じである。

創価の信心とは「勇気の異名」
 前回は、本抄の前半部分を拝し、「熱原の法難」の中、熱原の三烈士をはじめとする農民門下の不惜の戦いによって、「民衆仏法」の基盤が確立されたことを確認しました。今回学ぶ後半部分は、大難に直面する弟子たちに、具体的な信心の姿勢について教えられています。
 なお、拝読御文の直前で、日蓮大聖人は「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190-02)と断言されています。いつの時代にあっても、「法華経の行者」を迫害する者は、峻厳な因果の理法を免れないことを示されています。
 それと共に「今は各各はげむらむ」と、梵天・帝釈・日天・月天・四天王等の諸天善神も、それぞれが、一層力強く法華経の行者を守護していると仰せです。妙法の賞罰が明確である以上、不当な弾圧に何も恐れる必要はないと言われているのです。
皆が「師子王の心」を持つ
 その上で大聖人は、「各各師子王の心を取り出して」と仰せです。
 牧口先生の御書に傍線を引かれた一節です。
 これこそが、日蓮仏法の真髄です。「各各」とあるように、一人一人、誰人の胸中にも、本来、「師子王の心」が必ずある。それを「取り出す」源泉こそ、師弟不二の信心なのです。
 広宣流布のために、恐れなく道を開いてきた師匠の心が「師子王の心」です。その心と不二になれば、わが生命に「師子王の心」が涌現しないわけがない。
 私自身、戸田先生にお仕えして、深く決意していたことがあります。それは、「師子王」である師をお護りするためには、弟子である自分が「師子王の心」を取り出して、一切の障魔を打ち破ってみせるということです。
 師弟不二の実践に行き詰まりはありません。常に、「師匠ならどうされるだろうか?」と自問しては、「師匠にために!」と力と智慧を振り絞る。その心が自身の師子王の境涯を開き、あらゆる困難や試練を打ち破る勇気の源泉となるのです。
 戸田先生は、「蓮祖の御遺命である広宣流布に勇敢に戦い続けた人が、菩薩であり、仏である」と、よくいわれていました。
 「師子王の心」とは、「不退の心」です。「負けぢ魂」「学会魂」であるといってもよい。難と戦えば仏になれる。そのために「師子王の心」を取り出すのです。信心とは、絶えず前進し続ける「勇気」の異名なのです。
 草創期から、多くの学会員が「いかに人をどすともをづる事なかれ」との仰せの通り、いわれなき学会批判や中傷にも負けずに、戦い続けてきました。歯を食いしばって、微塵も退かなかった。一ミリでも、一歩でも、進んだ人が勝利者です。負けないことが不屈の心の財を積み、その中で自身の人間革命、宿命転換を成し遂げられる。信心の世界は、どこまでも真面目に信心を貫いた人こそが、最後は必ず栄冠を勝ち取るのです。
「師子王の子」もまた「師子王」に
 大聖人は続けて、「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」と仰せです。
 御書には、「師子王」について述べられている箇所が多くあります。大聖人の御本仏としての生命を、分かりやすく教えるために、師子王に譬えられたものです。仏典を見ても、師子王は仏の象徴とされています。
 また大聖人は、諸教の王である法華経を師子王になぞえられています。そして「遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」(1124-09)と仰せの通り、法華経を持った人は、何も恐れず悠然と振る舞う師子王の境涯をひらくことができる。従って、師子吼の題目の前には「いかなる病さはりをなすべきや」(1124-07)なのです。
 本抄で、師子王が百獣を厳然と見下ろすように、師子の子もまた、百獣を恐れてはならないと仰せです。本来、師子吼の前に恐れ逃げるのは野干のほうです。
 障魔と戦う要諦は、一切は自分の心にあるということです。魔が強敵であっても恐れる必要は全くない。ただ、自分の心の中に、「魔に随う心」や「魔を畏れる心」が生じることを恐れてはならない。
 勝利を決していく一切の根幹は、わが心が敗れないことです。「心こそ大切」です。心の勝利者が、人生の勝利者となるのです。
 そしてまた、大聖人は「日蓮が一門」と仰せです。大聖人は立宗以来、二十七年、あらゆる強敵と戦い、大難を乗り越え、すべてに勝利されました。その大聖人と師弟の絆を結んだ一門であるということです。
 「日蓮が一門」とは“皆、私の弟子ではないか。私の弟子であるなら、私が戦ったように戦えば、必ず勝利することができる”という力強いお言葉に思われてなりません。
 広宣流布という偉大な目的を持ち、慈悲と勇気と智慧に満ちた偉大な師匠を範とした弟子が、敗れることなど断じてない。師子王は必ず勝つ。「師子の子」も、自らが「師子王になる」と自覚する。今が、その時と決めることです。決然と立ち上がる時が来た、と励まし合うことです。
09         故最明寺殿の日蓮をゆるししと 此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししな
10 り、 今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず、 設い大鬼神のつける人なりと
11 も日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日
12 日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。
-----―
 故最明寺時頼殿が、日蓮の伊豆流罪を赦免したのも、今の執権時宗殿が佐渡流罪を許したのも、日蓮に禍はなく、人の讒言によるものであった、と知ったから許したのである。したがって、今後はなんと人がいっても、よく事情も聞かずに人の讒言を用いられることはないであろう。
 たとえ、大鬼神がついた人であっても、日蓮を梵天・帝釈・日天・月天・四天王また天照太神・八幡大菩薩が守護されているゆえに、罰することができないと、確信していきなさい。月々日々に、信心を奮い起こしていきなさい。少しでもたゆむ心があれば魔がそれをたよりにして、おそってくるであろう。

諸天善神の守護は「道理」
 大聖人はさらに、かつて最高権力者であった北条時頼が「伊豆流罪」を、今の執権北条時宗が「佐渡流罪」を赦免したことに触れています。この2度の流罪は、大聖人への嫉妬、反感に燃える悪意の輩の讒言によるものでした。その真実に気付いた最高権力者が、重ねて、おろかなことをするはずがないと示されています。
 ここでは、どんな謀略に対しても「師子王の心」で戦い抜くとき、正義は必ず立証されることを、迫害に苦しむ弟子たちに教えられているのです。
 強大な権力をもつ「大鬼神のつける人が弾圧しようとしても、宇宙大の仏法を受持する人を、あらゆる諸天善神が守護することは「道理」なのであると述べられている。慈愛と確信に満ちた一節です。
 この箇所は、戦時中、当局に押収された戸田先生の御書にも、朱線がひかれています。
 諸天の守護も、「信心の強き」によります。惰性やあきらめ、また油断があれば、魔がその隙に乗じて、その人の生命に付け入り、心も身も破られてしまいます。ゆえに大聖人は、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と強調されているのです。
埼玉での御書講義の思い出
 青年部時代、私は恩師・戸田先生の名代として、埼玉の川越地区で本抄の講義をしました。その時、この「月月・日日につより給へ」の一節を通し、広宣流布とは、魔との壮絶な戦いであることを同志と確認しました。
 昨日までどんなに頑張っても、慢心を起こせば、魔に付け入る隙を与えてしまう。魔の狙いは、とにかく精進を忘れさせて、広宣流布の流れを停滞させ、破壊することにある。それに勝つには、日々前進、日々挑戦、日々向上していくしかない――と、私は、共戦の友に強く訴えたのです。
 たゆまざる信心の実践こそ、人生勝利の要諦です。釈尊は、仏になってからも「未曾暫廃」でした。大聖人は「一度も退く心なし」と仰せです。
 では、釈尊や大聖人が、生涯かけて戦い続けた魔性とは何か――。それは人間の根源的無明との戦いでした。魔の本質は、「奪命者」「奪功徳者」です。この魔を打ち破っていく根源こそ、月々日々に「強める」心です。不断の精進行に仏の生命が涌現するのです。
 戦い続ける人、すなわち、常に仏界を開いている人は、魔を寄せつけません。常に前進する人が、必ず偉大な境涯を築き上げることができる。そのための仏法です。
 「月月・日日につより給へ」の信心こそ、三障四魔を破り、宿命転換しゆく絶待勝利の根本です
18 彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、 彼等にはただ一えんにおもい切れ・ よからん
1191
01 は不思議わるからんは一定とをもへ、 ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、 さむしといわば八かん地獄ををし
02 へよ、 をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ、
-----―
 かの熱原の信心微弱な者たちには、強く激励して、おどしてはならない。彼らには、ただ一途に決心させなさい、善い結果になるのが不思議であり、悪い結果になるのが当然と考えなさいと。そして空腹にたえられないようだったら餓鬼道の苦しみを教えなさい。寒さにたえられないというなら八寒地獄の苦しみを教えなさい。恐しいというのなら鷹にあった雉、猫にあった鼠を他人事と思ってはならないと教えなさい。

「覚悟の信心」で立ち向かえ!
 妙法を正しく実践すれば、難が起きます。だが、広布のゆえの大難は、成仏という境涯を勝ち取るためである。「灸治」が、その時は辛くても病気を治すために必要なのと同じように、難を乗り越える信心の実践があってこそ、自分の宿命転換を成し遂げることができるからです。
 功徳は、さまざまな形で表れます。その時に理不尽としか思えない試練でも、後になってみれば、それが幸福の道を開く契機となっている場合もある。絶体絶命の窮地に思えても、強盛なる信心に立てば、それによって真実の大功徳をつむことができる。この甚深の法理を大聖人は教えられているのです。
 牧口先生の殉教も、三世の眼で見るならば、学会の永遠にわたる大発展の因を刻み、世界の広宣流布と、民衆の幸福と平和の連帯への道を開いてくださったのです。
 大聖人は、「ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」と、弟子たちに「覚悟の信心」を促し、励まされています。
 大聖人御自身、立宗宣言以前から、正法を説けば、壮絶な迫害が競い起こることを知悉されていました。しかし「本より存知の旨なり」(0910-13)「これには一定と本よりごして候へば・なげかず候」(0951-03)と、幾多の大難と、迫害の連続を悠然と見下ろしながら、戦い抜かれました。
 「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」とは、大聖人自身の御覚悟であったと拝されます。
 状況がどうであれ、怯まない、自ら決めた道を断じて進む。この強き一念の信心に立つとき、無限の智慧と勇気がわき、一切の勝利が切り開かれていく。悩みや宿命を断固として転換できるのです。
 大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」(0750-第一安楽行品の事)とも仰せです。厳しい試練が襲い来るたびに、「自分が強くなるチャンスだ!」と、喜び勇んで立ち向かっていく――これが学会精神です。仏法の真髄の生き方です。
 苦難が、自分を成長させるのです。宿命を転換し、幸福と勝利の大空へと自身を上昇させる「向かい風」になるのです。
退転者に見られる共通点
 「ひだるしとをもわば」以下では、この迫害で飢えや寒さの苦しみに怯え、また恐れる心に負けて退転してしまえば、三世にわたって地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境涯を流転し続けることになると示されています。
 仏法の本質は、三世の眼で捉えなければ分かりません。永遠性を信ずるがゆえに、今世の一生の営みが深くなる。今の難による苦しみは、仏になるためであり、灸治のように今は痛くても後で薬になるようなものである、と仰せです。
 この御文の後、大聖人は三位房らを例にとり、退転者の傾向を四つの観点で示されています。
 第1は「をくびょう」。普段は立派そうにしていても、いざ現実に迫害が起こると、師匠の教えを忘れ、逃げ出してしまいます。
 第2は「物をぼへず」――師匠の大事なご指導を他人事のように聞いて、すぐに忘れてしまうことです。師匠を真剣に求める信心がないから、「物を覚えない」のです。
 第3は「よくふかく」――世間的な欲望や名声などを求める野心が強いということ。師弟の大願を忘れて目先の利益にとらわれ、道を踏み外すのです。
 そして、第4に「うたがい多き」――師匠の指導を疑ってかかり、正しく理解できない。
 結局、退転者に共通するのは「根本とすべき法が中心」ではない。「その法を教える師が中心」でもない。「自分が中心」だという点です。「自分本位の増上慢であり、結局、恩知らずです。それが退転者の本質です。

御本尊は「法華弘通のはたじるし」

 戦後の学会再建の中で、恩師は叫ばれました。「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚しました。この境地にまかせて、われわれの位で判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」と。
 この広宣流布への自覚が学会の中心思想となって会内に広がり、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」「創価学会常住」の御本尊を奉戴し、戸田先生は「発迹顕本せる学会」となったと語られています。
 御本尊は「法華弘通のはたじるし」です。大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布を遂行し、民衆を幸福にしていくための御本尊です。しかし、700年余りの間、その根本の大願を真に実現しゆく弟子は現れませんでした。
 20世紀になって、初めて牧口先生・戸田先生が日蓮大聖人の御遺命のままに、地涌の菩薩の自覚に立って、広く庶民に慈悲の折伏を展開し、広宣流布の大進軍が開始されたのです。そして、世界192ヵ国・地域へと妙法は広まり、今、大聖人の仏法の功徳は、世界の隅々にまで流れ通っています。
 私たちは、日々、広宣流布を誓願し行動しています。宗祖の一閻浮提への大法弘通、すなわち世界広宣流布を大願成就する団体は、事実のうえで創価学会しか存在しないのです。
「創価の師弟に一生を賭けていけ」
 師弟こそ、信心の究極です。戸田先生は大確信をもって語られていました。
 「創価の師弟に一生を賭けてごらん。後悔は絶対にない。笑顔の勝利で、この人生を必ず飾っていけるよ」と。
 私はただひたすらに「師弟不二」の道を進んできました。これが、一生の誇りです。今、同じように師弟の大道を歩み抜く地涌の同志が、地球上のあらゆる地域で活躍しています。
 ブラジル・北パラナ大学のフラランキ総長は語ってくださいました。
 「師弟の関係は大変に重要であります。師匠が計画し、弟子が実行する。師匠が成功の道を示し、弟子が人生をかけてその道を行く。私たちはまた、『一人の人間革命が、やがて一国の宿命をも転換する』ということを信じています」
 この師弟の大道を、世界各地の地涌の菩薩が進むことこそ、世界広布新時代です。
 新たな「時」が来ました。
 「師子王の仏法」を世界が待っています。
 「創価の師弟」の本舞台の開幕です。
 さあ、一人一人が、いやまして「師子王の心」を取り出し、幸福と勝利の大陣列を、さらに強く、さらに大きく、さらに重層的に、威風も堂々と築き上げていこうではありませんか!。

1192~1193    四条金吾殿御返事(法華経兵法事)top
1192:01~1192:11 第一章 金吾の存命を喜びその理由を明かすtop
1192
四条金吾殿御返事    弘安二年十月    五十八歳御作
01   先度強敵ととりあひについて御文給いき委く見まいらせ候、さても・さても・敵人にねらはれさせ給いしか、前
02 前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に 難なく存命せさせ給い目出たし目出たし、 夫れ運きは
03 まりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、 所詮運ものこり果報もひかゆる故なり、 ことに法
04 華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い・一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に
05 見へて守護し給うは日月天なり争か信をとらざるべき、 ことに・ことに日天の前に摩利支天まします、日天・法華
06 経の行者を守護し給はんに所従の摩利支天尊すて給うべしや、 序品の時・名月天子・普光天子・宝光天子・四大天
07 王・与其眷属・万天子倶と列座し給ふ、 まりし天は三万天子の内なるべし、もし内になくば地獄にこそおはしまさ
08 んずれ、 今度の大事は此の天のまほりに非ずや、 彼の天は剣形を貴辺にあたへ此へ下りぬ、此の日蓮は首題の五
09 字を汝にさづく、 法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず、 まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ
10 給う、 「臨兵闘者皆陣列在前」の文も法華経より出でたり、 「若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法」とは是
11 なり、
-----―
 さきごろ強敵と争いのあったことについてお手紙をいただき、くわしく拝見いたしました。
 それにしても、以前から、あなたは、敵人に狙われていたのでしょう。しかし、普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命されたことは、このうえもなくめでたいことである。
 いったい、福運がなくなってしまえば、兵法も役に立たなくなり、また果報が尽きてしまえば、家来も従わなくなるものである。結局、福運と果報が残っていたからである。
 ことに法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経嘱累品第二十二で誓いをたてている。一切の守護神・諸天善神の中でもわれわれの眼に、はっきりとその姿が見えて守護するのは日天と月天である。それ故どうしてこの諸天善神の守護を信じないでいられようか。
 とくに、日天の前には摩利支天がいる。主君の日天が法華経の行者を守護するのに、家来の摩利支天が法華経の行者を見捨てることがあるだろうか。法華経序品第一の時に「名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王有り、其の眷属万の天子と倶なり」とあるように、諸天善神は、皆列座した。摩利支天は、そこに列座した三万天子の中に入っているはずである。もしその三万天子の中にいなければ、地獄に堕ちているのであろう。
 結局、この度あなたが強敵から逃れられたのは、この摩利支天の守護によるものではないだろうか。摩利支天は、あなたに剣形の大事を与え、守護したのである。この日蓮は、一切の諸天善神が守るべき首題の五字をあなたに授ける。法華経受持の者を守護することは断じて疑いない。摩利支天自身も法華経を持って、一切衆生をたすけるのである。剣形兵法の呪文である「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」の文も結局、法華経の文より出たものである。法華経法師功徳品第十九に、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのはこの意である。

兵法
 古代中国で発達した戦闘 に関する学問で,『孫子』『呉子』『司馬法』などの書がその代表。日本では,近世の初期 に中国の兵法,神道,密教,道教などの思想を取入れて独特の兵法が成立した。
―――
果報
 ①果は過去世の業因による結果。報はその業因に応じた報い。②摩訶止観の正説分の第八章。この章から不説のままで終わっているが、大意章の五略によると、止観の結果として証得される果報が略説されている。
―――
嘱累品
 法華経嘱累品第二十二のこと。はじめに「我れは無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習し、今以て汝等に付嘱す。……汝等は当に受持・読誦し、広く此の法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と一切の菩薩への付嘱を明かした。これを神力品の上行菩薩への別付嘱に対して総付嘱という。諸菩薩は付嘱を受け、「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と誓った。嘱累品で宝塔品より始まった虚空会は終わり、分身の諸仏、地涌の菩薩も本土へ還り多宝の塔も閉じてもとの霊鷲山会に移行した。
―――
摩利支天
 梵語マリーチ(Marīci)の音写で、威光・陽炎と訳す。常に日天に従って自在の神力をもっているという女神である。その像は、左手に扇をもっている。この神に念ずると、災をまぬかれ、身をかくす術が得られるとされ、武士の守護神として尊崇された。
―――
三万天子
 法華経序品第一に連なった帝釈天の眷属2万と、三光天子及び四天王の眷属1万とを合わせていう。
―――
剣形
 敵を降伏させる兵法・剣術。
―――
首題の五字
 妙法蓮華経のこと。
―――
兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り
 「抱朴子」には「兵闘に臨む者は皆陣列して前に行く」とある。本来、道教で、異変、災禍をのがれることができる呪として用いた文であるが、ひろく当時の日本でも武士の間で用いられていた。
―――
若し俗間の経書……
 「俗間の経書」とは哲学、思想のこと。「治世」は政治。「語言」とは文学等のこと。「資生の業」とは産業などをさす。すなわち、世間の一切の原理も皆、正法に順じているということ。
―――――――――
 本抄は、別名を「法華経兵法事」あるいは「剣形書」といわれ、兵法と法華経の信心との関係について指導された書である。
 もとより、ここでいわれている〝兵法〟とは、剣をとっての戦いの法であるが、原理はなにもそうした武力による戦いに限るものではない。人間として、この社会に生きていくうえにおいて、経済、思想、文化の各面にわたって、不正の横暴に対して戦わなければならない場合がある。また、新しい創造のための努力も広い意味では〝戦い〟である。
 〝兵法〟とは、そうしたそれぞれの分野における戦い、努力の具体的方法である。その戦い、努力をいかに効果あらしめるかは、方法論をこえた視野を必要とする。そこに、究極的には、自己の生命の開拓が重要となってくるのであり、それを可能にしたのが法華経なのである。この意味において、本抄に示されている指導は、武士としての四条金吾に限定される性質のものではなく、時代、環境の違いを越えて、あらゆる人間にとって重要性をもっていると考えるべきであろう。
前前の用心といひ、又けなげといひ、又法華経の信心つよき故に
 いつ、どのような事態に直面するとも知れないのが人生である。そうした思いがけない事故にぶつかったとき、無事にのりこえるかどうかは、まさに、この文にあげられている三つの要因を、ふまえているかどうかにかかっているといって過言ではあるまい。
 その一つは、普段からの用心である。つねに心を配って、事故を未然に防ぐことが肝要である。それでもなおかつ防ぎえないことはある。だが、そうした普段の用心がなされた上であれば、起こったとしても、小さくできるし、賢明に対処できるものである。
 もう一つは「けなげ」つまり勇気である。これは、事故が起こってしまった場合の、こちらの心の姿勢である。「けなげ」とは避けられないのに避けようとしたり、逃げようとするのでなく、真っ向から取りくんで、解決しようとすることである。それが結局、災厄を最小にする方法であり、この姿勢を全うした場合には、かえって災いを福と転ずることもできるのである。
 そして、これらの根底にあって大事なのが〝法華経の信心〟であると大聖人は教えられているのである。「前前の用心」において大切な働きをするのは、知恵である。「けなげ」の原動力となるのは、生命の力である。この生命力と知恵を豊かにし、充実させる源泉が法華経の信心すなわち南無妙法蓮華経の御本尊への強い祈りにあることを知らなければならない。
運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず
 百の努力をしても、80の結果しか出ない場合もあれば、百の努力が百の結果を出す場合もある。あるいは、百の努力がマイナス20の結果になってしまうこともある。個人の人生においても、調子のよい時と悪い時とがあり、さらに、人間一人一人の間に、調子よく人生を歩める人と、何をやってもうまくいかない人とがある。それは、人間の理解の範囲を越えたものであり、それを古来、人間は〝運〟〝運命〟と名づけてきた。
 この〝運命〟は、いったい何によって作られ決定されているのかという点について、キリスト教では、神の意志・思召しによるとし、中国では〝天命〟によるとし、仏教では、その人自身の過去の行為の善悪の集積によるとする等の違いがあるが、〝運〟というものを考える点では、東西共通のものがあるといってよい。
 それはともあれ、もし、運がもはや尽きてしまえば、兵法すなわち、いかに努力を尽くしても、期待したような結果は得られない、というのである。この場合の〝運〟とは、その人を幸福に導いていく方の〝運〟であることはいうまでもない。
 また、果報とは、過去の行ないが因となって生ずる果であり、その善悪によってあらわれる報いである。これも、この場合は、善の方のそれをいわれていることは、もとよりである。もし、果報が尽きてしまえば家来もつき従ってこなくなる、との仰せである。この所従とは、封建社会に武士として生きる四条金吾の場合は、家来ということであるが、ひろくいえば、自分の周囲にあって守ってくれる働きをする人々をいうと考えてよい。
 したがって〝兵法〟が、その人自身の知恵、努力であるのに対し〝所従〟はその人をとりまく周囲の人々である。もし運がきわまり、果報が尽きれば、いわゆる正報・依報ともに、自分を守ってくれる働きはできなくなり、すべてがカラ回りし、自分は孤立化して、敗れていくのである。
 この〝運〟を強くし〝果報〟を豊かにしていく源泉が「法華経の信心」である。ということは〝運〟といい〝果報〟といっても、どこで誰かによって作られ、与えられるものではなく、自分の努力によって、これを築いていくのである。ここに、人間の主体性を確かなものとする仏法の、他のいかなる宗教にも見られない特質があるといえよう。
一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは日月天なり。争でか信をとらざるべき
 本来、諸天善神といい悪鬼神といい、人間の環境世界のもっているさまざまな力について立てられた概念である。たとえば、太陽の力が、生命をはぐくみ、この世界を明るく照らし出し、熱を与えてくれる善なる働きを日天としたと考えられる。しかし、その同じ太陽の光と熱が、あまりにも強ければ、視力を奪ったり、渇きのために生命を奪ったりする。こうした生命を奪う働きを鬼神とするのである。
 このようにして、原始時代の人々は、自然界の事象のあらゆる働きについて、神あるいは鬼という概念を立てた。そして、それらのあらゆるものは、人間が文明を形成し、社会生活を営むようになるにつれ、権力者や権力機構の働きと結びつくようになり、ある帝王が太陽神の代弁者のようにみなされたこともあった。こうして、かつては、あらゆる神が具体的なイメージをもっていたのに、時代がくだるにつれて、抽象的になり、漠然としていったのである。そのなかにあって、太陽の力を象徴する日天、月の力を象徴する月天は、その元の実在が明瞭であり、このことを「我等が眼に見えて守護し給う」といわれたのである。
 ともあれ、諸天善神というのは、決して人間が妄想によって生みだしたものではなく、現実に人間の生活を豊かにし、生命を与えている種々の力をいう。そして、その自然的環境、社会的・文化的環境のもっている力は、主体である人間生命の反映にほかならないとの達観から、これらの力を善なる方向へ強め、悪の面のあらわれを制御していくのが仏法の実践なのである。
彼の天は剣形を貴辺にあたへ、此へ下りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく
 摩利支天は〝陽炎〟と訳されるように、太陽の強い光が大地にあたって起こす〝かげろう〟と関係がある。この摩利支天が古来、武士の守護神として崇められたというのは、相対して戦う場合、太陽を背にして相手の目を眩ませるのが有利であったこととつながりがあるようである。
 そして、摩利支天が武士の守護神ということから「剣形を貴辺にあたへ」といわれたのであろう。〝剣形〟とは、剣を扱う術、剣の技術である。それに対し、日蓮大聖人は仏法の極理・法華経の肝心である〝首題の五字〟を四条金吾に与えられた。この〝首題の五字〟を受持している故に、法華経の持者を守護する摩利支天の加護があったのだとの仰せである。
 このことは、信心と生活上の知恵・努力、仕事の上の技術との関係を見事に教示されているのである。信心が根底にあって、生活や仕事の技術は生かされる。この場合は、自分の生命が奪われるか否かという非常の場面であったが故に、御本尊への信心と剣術という直接的な関係であらわれたわけである。しかし、一般的な意味での仕事上の知恵・努力と信心という場合においては、信心はその人の人間的自覚、目的観、責任感としてあらわれ、そこに崇高なものが確立されることによって、生活上の知恵は豊かになり、努力は大きい実を結ぶのである。
 したがって、信心さえあれば、生活上の種々の工夫や努力は自然に与えられるという考え方も、誤りである。あえていうならば、四条金吾のこの場合、〝剣形〟を与えたのは〝摩利支天〟であって大聖人ではないように、仕事上での技術や知恵を与えてくれるのは、先輩であり、生活の知恵や工夫を与えてくれるのも、親であり先輩であり、社会である。ゆえに、これらから謙虚に学ぶことが大切である。ただ、そうして得たものをいかに自分が使っていけるかという場合に、信心を根本とすることの重要性がある。

1192:11~1193:04 第二章 強靭な信心を勧めるtop
11    これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、 我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべ
12 からず。
――――――
 これにつけても、いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運が尽きて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない。
 これにつけても、いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運が尽きて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない。
――――――
13   将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ、はんくわひ・ちやうりやうも
14 よしなし・ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ご
15 とくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、 すぎし存命不思議とおもはせ給へ、 なにの兵法よ
1193
01 りも法華経の兵法をもちひ給うべし、 「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、 兵法剣形の大事も此
02 の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。
03       十月二十三日                     日蓮花押
04     四条金吾殿御返事
-----―
 平将門は、武将として名を高め、兵法の大事をきわめていたが、朝廷への命令には負けてしまった。樊噲や張良のような中国の武将の力も結局かいがなかった。ただ根本は心が大切なのである。
 日蓮があなたのことをいかにい祈ったとしても、あなた自身がこの仏法を信じなければ、濡れた火口に火を打ちかけるようなもので無駄になってしまう。
 したがって、なお一層、自分自身を励まして、強盛な信力を出していきなさい。過日、強敵にあいながら、無事に助かったことは、全く御本尊の不思議な功力と思いなさい。いかなる兵法よりも法華経の兵法を用いていきなさい。法華経薬王品第二十三の「諸の余の怨敵、皆悉く摧滅す」とある金言は決して空しくないであろう。兵法剣形の大事もこの妙法より出たものである。このことを深く信じていきなさい。あえて臆病では何事も叶わないのである。恐恐謹言。
       十月二十三日                     日蓮花押
     四条金吾殿御返事

将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――
王命
 天皇・皇帝等の命令。
―――
はんくわひ
 (~前0189)。中国前漢の豪傑。沛の出身。張良、陳平、周勃とともに漢王の四将の一人。劉邦が微賤のときから仕え、天下統一に貢献したが、大業が成ってのちは、劉邦にうとんぜられた。
―――
ちゃうりゃう
 (~前0186)。漢王朝創業の功臣。字は子房。韓の人。韓が秦に滅ぼされると始皇帝を博狼沙に狙撃したが果すことができず、変名して隠れた。その間、下邳で黄石老人に会い、太公望の兵法を授かったという。劉邦が挙兵するに及び帷幄に参画し、政治的、戦略的手腕を発揮し、遂に項羽を討って平定した。漢の統一後、留侯に封ぜられた。晩年は黄老を好み、また神仙を学んでいる。蕭何、韓信と共に漢創業の「三傑」と称せられた。
―――
ほくち
 火打ち石で火を出したものを移しとるもの。
―――――――――
 人間としての勝利、人生の栄光を根本的に決するのは正しい仏法の信心であり、いよいよ強い信力を出してこれからの人生に臨むよう激励されている。
これにつけても、いよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて、諸天守護なしとうらむる事あるべからず
 諸天の加護ということとの関連において、信心の重要性を指摘されている。すなわち、法華経に諸天善神が護ってくれると説かれているといっても、それは、まず、当人に豊かな福運のあることが前提である。諸天とはすでに述べたように、依報の力の働きであり、依報とは正報の反映に他ならないからである。
 正報のもっている、人生の苦難をのりこえていく力を運命という。この運命が弱まり尽きたとき、もはや依報の力である諸天も、自身を守ってくれる善神としての働きをあらわすことができない。そして、この自己の力をより豊かにしていくための実践が信心なのである。故に「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」といわれているのであり、肝心の自己の運命の開拓、自身のより強靭な確立を忘れて、諸天が守護してくれないと恨んではならないと、厳しく戒められているのである。
将門はつはものの名をとり、兵法の大事をきはめたり。されども王命にはまけぬ。はんくゎひ・ちゃうりゃうもよしなし。ただ心こそ大切なれ
 平安中期、平将門は東国にあって、京の朝廷に反逆し、自ら〝新皇〟と名のって独立王国を造ろうとした。だが、朝廷の命をうけた平貞盛・藤原秀郷の軍に敗れ、追いつめられて滅んだ。樊噲は漢王朝創業にあたって、その卓抜した武力により、張良はその智謀によって、劉邦を助けた功労者である。だが、いずれも、晩年は劉邦からも疎んぜられ、寂しく惨めであった。
 もちろん、これらの人々が悪人であったとか、道義的破綻者であったとかというのではない。むしろ、冷静にみた場合、平将門の叛逆も、当時の虐げられた東国を救おうという情熱から出たものであり、樊噲・張良も、ひたすら劉邦に仕え助けた善人であった。だが、将門の場合は、朝廷を中心とする当時の、より大きい〝法〟を知らなかったことに敗北の因があり、樊噲、張良の場合は、それぞれ戦争についての武力・智謀という力をもっていたが、それだけにとどまっていたことが、人生の敗北の因であったのである。 
 したがって、ここで「心こそ大切なれ」とおっしゃっている〝心〟とは、主君に叛かず従順に仕える心という意味ではなく、もっと大きく、深いものをさしていわれていることが知られる。もし、単に従順さ、忠誠等ととるなら、この文に引かれている樊噲・張良は叛逆者でなければならないはずであり、将門は卑劣な悪人でなければならないはずだが、それは余りにも事実に反することだからである。
 将門が「つはものの名をとり」とは武力の面であり「兵法の大事をきはめたり」とは智謀の面で、智勇ともにすぐれた武士であったと指摘されているのである。しかし「王命」という言葉・概念に象徴される、当時の時代の人心を支配していた、より大きい力に対して浅慮であった。このことから学ばなければならない大切なことは、時代を動かしている最も本源的な思考、理念の力を見極める英知を身につけなければならないということであろう。
 樊噲は武力、張良は智謀をもって劉邦を助けた。劉邦にしてみれば、天下をとるまでの段階においては、きわめて貴重な部下であったが、王朝をつくったあとは、もはや無用であり、かえって邪魔になってしまった。それは、二人が特殊な分野にのみすぐれた、いわば部分的存在であったことによる。このことから、われわれが学びうるのは、権力者というものの身勝手さということはさることながら、自身を全人格的に完成していくことが人生の限りない栄光の鍵であるという点であろう。
いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし
 師と弟子の心の一致を通して、祈りが成就する原理を述べられている。その〝心〟とは妙法への〝信〟という心である。すなわち、いかに師である大聖人が、四条金吾の幸せを祈っても、弟子である金吾の妙法への信心がなければ、その祈りは通じない。大聖人は末法の本仏であるが、仏とは、全知全能の神と異なる。もし、キリスト教的な神であれば、弟子である人間の意志や努力とは無関係に、一方的に神の意志によって一切が決定してしまう。ところが、仏法は、いかに仏が祈ろうと、その人が不信であるならば、祈りは叶わないのである。
 いわゆる仏力、法力がいかに絶大であろうと、衆生の信力、行力に応じてあらわれるのであり、先の諸天善神と人間との関係と同じく、ここにおいても、仏教がいかに人間中心主義であるかが理解されよう。 
 また、仏の祈りといい、弟子の信心といい、それは互いに向き合った関係ではない。仏も「法華経」すなわち〝法〟に祈るのであり、弟子も「法華経」すなわち〝法〟を信ずるのである。この互いが同じく〝法〟を中心とし〝法〟に向かっている姿、その心の姿勢を師弟不二というのである。また、同じことは、仲間同士の全般についてもいえるのであり、これは異体同心という原理になる。
 したがって師弟不二といい、異体同心というのは、誰かの意志に他の者が全面的に服従していくような、互いに向き合った関係でもなければ、一人のために、大部分の人が自己の主張、自由意志、尊厳性を放棄していく関係でもない。互いが、等しく〝法〟を中心としていくところに具現される心の一致であり、そこでは個々の自由意志、個としての主体性が最高に尊重され具現されていくのである。
なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし
 いまさら説明を加えるまでもない御文である。ただあえていえば、この文を、法華経の兵法すなわち信心のみをとり、他の兵法すなわち技術的努力等は捨てるべきであるというふうに読むのは誤りである。「法華経の兵法」は、たとえれば根のようなもので、根は養分をとり、全体を支えるために不可欠の、もっとも大切な部分であるが、あくまでも部分であって全体ではない。そして、根が吸収したものも、茎、幹、葉、実として顕現されてこそ意味をもちうる。「法華経の兵法」も、具体的な工夫・努力としてあらわれ、成果を出してこそ、存在意義をもつのであって、そのためには「なにの兵法」が必要なのである。
 ただ、何よりも、生命の根源からのゆたかな力が湧いていなければ、いかなる努力も空しく終わってしまうがゆえに「なにの兵法よりも法華経の兵法」と強調されていることを知らなければならない。この関係を正しくわきまえ、常に信心を根底とし、生活の上で、各自の仕事において、社会に生きる一個の人間として最大の努力をし知恵を発揮していくことが、大聖人のお心に叶った、真の仏教者の行き方といえよう。

1192~1193    四条金吾殿御返事(法華経兵法事)2008・04月号大白蓮華より。先生の講義top

「法華経の兵法」師から弟子に伝える「絶対勝利の信心」
 55年前の昭和28年(1953)、25歳の私は男子部の第一部隊長として「人材・拡大」の先頭を走り抜きました。
 会員75万世帯という師匠・戸田先生の願業の達成へ、共に戦う「師弟直結」の青年の陣列を、一人また一人と手作りで築き広げた。当初は300人ほどであった第一部隊を、1年で「1000人の正義の人材城」へと拡大しました。
 躍動する後継の青年が集った年末の総会。戸田先生は「じつに諸君の意気さかんなので、私も20代によみがえった。初代会長もおったならば、さぞ喜ばれたと思う」と満面の笑みを浮かべられた。
 そして、一人一人を深く見つめるように、こう言われたのです。
 「ところで、私から君たちに相談したい。広宣流布をどうやってするか、その方法を考えてもらいたい」。
 青年を信じ、青年を尊敬し、青年の成長のためなら、なんでもしてあげたい! そういう先生でした。
 先生は常々、言われました。
 「若い時代とくに大切なものは、自分の心を信ずるということである」
 「青年は自ら信ずるものを持たねばならない。自らの心を信じなければならない」
 自らの心を強く、確かなものにするための信心です。一切は心で決まる。 「心こそ大切なれ」 これが、日蓮大聖人の仏法の結論です。
 仏法は勝負です。
 人生は「法性」と「無明」との戦いです。
 広宣流布は「仏」と「魔」との闘争です。
 すべて、勝負を決するのは心です。心で勝利した人は、絶対に負けない人生を築き上げることができる。
 晴れ晴れと、わが生命と人生を勝ち飾っていく秘術が、「法華経の兵法」です。
 この「絶対勝利の信心の要諦」を教えられている「四条金吾殿御返事」をともに学び、心に刻んでいきましょう。
01   先度強敵ととりあひについて御文給いき委く見まいらせ候、さても・さても・敵人にねらはれさせ給いしか、前
02 前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に 難なく存命せさせ給い目出たし目出たし、
-----―
 さきごろ強敵と争いあったことについてお手紙をいただき、くわしく拝見しました。
 それにしても、以前から、あなたは敵人にねらわれていたでしょう。しかし、普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命されたことは、このうえなくめでたいことである。

「用心」「勇気」「信心」の3要諦
 大聖人が佐渡から御帰還された後、四条金吾は、決意に燃えて、主君の江間氏を折伏しました。
 江間氏は、真言律宗の僧・極楽寺良観の信者でもあったため、金吾は主君から次第にうとまれるようになり、江間家に仕える同僚からも讒言あうなど、迫害が始まりました。
 ついには主君から、江間家を去るか信仰を捨てるかを迫られ、苦境に立たされましたが、金吾は大聖人の御指導、激励をいただき、強盛な信心と、主君への誠実を貫き通しました。
 その結果、建治4年(1278)には江間家の信頼も回復し、かつての3倍の領地を受けるまでになったのです。
 ところが、こうした四条金吾を嫉む勢力が金吾の命を狙った。大聖人がかねてから、このような動きを予見され、さまざまに注意を促してくださったがゆえに、金吾は敵を見事に打ち返し、危機を無事に乗り切ることができた。本抄は、金吾からその報告を受けたことに対する御返事です。
 本抄を頂いた弘安2年(1279)10月といえば、熱原法難の渦中でもありました。大聖人の一門全体が、障魔との戦いの最中にあったともいえます。
 まず「前前の用心」絶対に油断せず、事前の細心の注意、緻密な心配り、そのための努力を怠らないことです。
 さらに「けなげ」事に当たって、毅然と対処する「勇気」であり、その勇気から生まれる「智慧」でもあります。
 さして「法華経の信心のつよき故に」何があっても妙法を信じ抜く強い心。これが根本です。
 細心の注意も、勇気も、この「信心」から生まれます。
 もちろん、信心していれば何とかなる、などという考えは誤りです。
 信心をしているからこそ、絶対に事故を起こすものか!邪悪な勢力に付け入らせてなるものか!という強い一念が大事です。
 大聖人は苦境にあった四条金吾に対して、主君の振る舞い方から、夜の酒宴などの断り方まで、事細かく注意されています。
 四条金吾が主君から所領を受け、勝利の実証を示した後も、金吾に一層の用心を促されています。この点が大事です。
 「敵というものは、その存在を忘れさせて狙うものです」「諸天善神が護るといっても、人の心の強いことによるのです」等と。
 勢いよく前進している時こそ、絶対に油断してはならない。傲りや無責任から心の隙が生まれる。
 「さきざきよりも百千億倍・御用心あるべし」
 厳粛な一節です。信心は、仏と魔との戦いである。隙があれば、一瞬で食い破られてしまう。だからこそ、常に「いよいよ」「ますます」と強めていく信心が肝要になる。その強き心で賢明な行動を貫いていくことが、勝利の要諦です。大聖人は、一貫して門下に、信心を根本とした三障四魔との闘争を強調されている。私たちも、常に「障魔と戦う信心」を絶対に忘れてはならない。これこそが、勝利に不可欠な要件だからです。
02                                                夫れ運きは
03 まりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、 所詮運ものこり果報もひかゆる故なり、 ことに法
04 華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い・一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に
05 見へて守護し給うは日月天なり争か信をとらざるべき、 ことに・ことに日天の前に摩利支天まします、日天・法華
06 経の行者を守護し給はんに所従の摩利支天尊すて給うべしや、 序品の時・名月天子・普光天子・宝光天子・四大天
07 王・与其眷属・万天子倶と列座し給ふ、 まりし天は三万天子の内なるべし、もし内になくば地獄にこそおはしまさ
08 んずれ、 今度の大事は此の天のまほりに非ずや、 彼の天は剣形を貴辺にあたへ此へ下りぬ、此の日蓮は首題の五
09 字を汝にさづく、 法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず、 まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ
10 給う、 「臨兵闘者皆陣列在前」の文も法華経より出でたり、 「若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法」とは是
11 なり、これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、 我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべ
12 からず。
-----―
 いったい、福運がなくなってしまえば、兵法も役に立たなくなり、また果報が尽きてしまえば、家来も従わなくなるのである。結局、福運と果報が残っていたからである。
 ことに法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経属累品第二十二で誓いをたてている。一切の守護神・諸天善神の中でもわれわれの眼に、はっきりとその姿が見えて守護するのは日天と月天である。それ故どうしてこの諸天善神の守護を信じないでいられようか。
 とくに、日天の前には摩利支天がいる。主君の日天が法華経の行者を守護するのに、家来の摩利支天尊が法華経の行者を見捨てることがあるだろうか。法華経序品第一の時に「名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王有り、其の眷属万の天子と倶なり」とあるように、諸天善神は、皆列座した。摩利支天は、そこに列座した三万天子の中に入っているはずである。もしその三万天子の中にいなければ地獄に堕ちているであろう。
 結局、この度あなたが強敵からのがれられたのは、この摩利支天の守護によるものではなかろうか。摩利支天はあなたに剣形の大事を与え、守護したのである。この日蓮は、一切の諸天善神の守るべき首題の五字をあなたに授ける。法華経受持の者を守護することは断じて疑いない。摩利支天自身も法華経を持って一切衆生をたすけるのである。剣形兵法の呪文である「兵闘に臨む者は皆陣列して前に在り」の文も結局、法華経より出たものである。法華経法師功徳品第十九に、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあるのはこの意である。
 これにつけても、いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運が尽きて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない。

諸天善神をも動かす信心
 四条金吾が存命できたのは、運と果報が残っていたからであるとされています。「運」とは“めぐりあわせ”です。「果報」とは、その人の持つ福徳の報いとしての幸運です。
 仏法の透徹した眼でみれば「運」といっても決して偶然ではありません。それは、その人が積んだ福徳がもたらすものにほかならないのです。運を良くし、果報を豊かにしていく主体は、どこまでも自分自身です。
 ここで大聖人は、四条金吾を危機から救った運と果報の源泉は「法華経の信心」にあることを教えるために諸天善神の守護について述べられています。
 法華経には、諸天善神が法華経の行者を守護すると誓ったことが記されています。大聖人はここで、その諸天善神の中でも、娑婆世界を守護するための働きを、私たちにも、分かる形で明らかに現しているのは日天子と月天子であられるとされています。
 その上で、より具体的に、四条金吾が敵と剣で渡り合ったとき、日天子の眷属である摩利支天の守護があつたのであろうと仰せです。
 摩利支天は、光線や陽炎などを信格化したもので、太陽の前にあって、誰からもその正体を見られず、縛られず、害されることもないとされ、当時の武士の間で守り神として尊ばれていたようです。
 大聖人は、この摩利支天も、法華経に列座した三光天子の眷属の一人であり、法華経を信ずる人を守る諸天善神であるとされています。
 そして、金吾が敵を撃退できた時の具体的な「剣形」は摩利支天が与えたものであり、その摩利支天の働きがもたらした根本は、大聖人が金吾に授けた妙法蓮華経の五字の力にほかならないと明かされています。
 諸天善神の守護の働きは「内薫外護」の原理で現れます。すなわち、私たちが法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えることは、内なる仏性の力が私たちの生命に現れ出てくることを意味します。これが「内薫」です。すると、それに応じて、一切衆生の仏性が外から守護の働きを起すのです。この「外護」が諸天善神の働きにほかならない。
 ゆえに、法華経の肝要である南無妙法蓮華経を信じ持つ人を、諸天善神が守護することは疑いないと断言されているのです。
妙法が一切の智慧の源泉
 大聖人は更に「法華経の信心」が、世間における全ての価値創造の力の源泉になることを示されるために、「世法即仏法」の原理を教えられています。
 その例として、当時、武士が身を守るために、呪文のように口にしたという「臨兵闘者皆陣列在前」の言葉を挙げられています。これは、もとは道家の言葉とされていますが、鎌倉時代にあっては、武士たちに広く用いられていました。
 それも「法華経から出た」と大聖人は仰せになり、その根拠として、法師功徳品第19の経文を挙げられています。
 「若し俗間の経書、冶世の言語、資生の言語、資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん」
 仏の滅後に正法を受持し、説く人には「六根清浄」の功徳がある。すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が清浄になり、豊かな価値創造の働きを起す功徳があることを明かしたのが、この品です。
 妙法は人間の生命において、無明などの妨げを乗り越えて、最高の価値創造の働きを起していく力です。そのことを示すのが、六根清浄の功徳です。
 ここで引かれている経文は、「意根清浄」の功徳の一つに当たります。
 法華経の受持によって「意根」すなわち「心」の働きが清浄になれば、その人が世間法のいかなることを説いても、仏法に適った正しい言葉になっている、ということを説かれています。
 当時の武士によって唱えられていた「臨兵闘者皆陣列在前」の言葉も、妙法を信ずる人が唱えるときには「その人を守る」という本来の価値を厳として発揮するのです。根本が妙法の働きだからです。
 人々が、幸福に、安全に、豊かになるために考え、形成されてきた最良の智慧や文化は、その本質において妙法と矛盾しません。
 大聖人は「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(0254―16)と記されました。
 「法華を識る」妙法を信ずるならば、「世法を得可きか」仕事や生活といった社会の全般にわたって正しく智慧を発揮し、正しく生きていける。また、そうなっていかなければならないという意義です。
 「信心しているから何とかなる」ではない。「信心しているからこそ」仕事であれ、勉強であれ、近隣友好であれ、子育てであれ、智慧を豊かに、真剣に全力を傾けて、取り組んでいくことが大事なのです。
13   将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ、はんくわひ・ちやうりやうも
14 よしなし・ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ご
15 とくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、 すぎし存命不思議とおもはせ給へ、 なにの兵法よ
1193
01 りも法華経の兵法をもちひ給うべし、 「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、 兵法剣形の大事も此
02 の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。
-----―
 平将門は、武将としての名を高め兵法の大事をきわめていたが、朝廷の命令には負けてしまった。樊噲や張良のような中国の武将の力も決局かいがなかった。ただ根本は心が大切なのである。
 日蓮がいかにあなたのことを祈ったとしても、あなた自身がこの仏法を信じなければ、濡れた火口に火を打ちかけるようなもので無駄になってしまう。
 したがって、なお一層、自分自身を励まして、強盛な信力を出していきなさい。過日、強敵にあいながら、無事に助かったことは、全く御本尊の不思議な功力と思いなさい。いかなる兵法よりも法華経の信心を用いていきなさい。法華経薬王品第二十三の「諸の余の怨敵、皆悉く摧滅す」とある金言は決して空しくないであろう。兵法剣形の大事もこの妙法より出たのである。このことを深く信じていきなさい。あえて臆病では何事も叶わないのである。恐恐謹言。

「心こそ大切れ」とは仏法の真髄
 平将門は平安時代の武将で、武術に勝れ、関東全域を制覇しました。しかし、その勢力に危機感を懐いた王廷の命令により滅ぼされてしまった。
 中国の武将・樊噲は剛勇に長け、張良は知謀に優れ、ともに漢の高祖・劉邦を助けて漢王朝の建国に大きな功績を残しました。とくに劉邦が、圧倒的な勢力を誇る楚の項羽と会見した際、暗殺の危機にあった劉邦を、二人の機転と毅然たる振る舞いで救ったという「鴻門の会」の故事は、よく知られている。戸田先生が、逝去の直前まで読み、思索された『十八史略』にも二人の活躍が記されていました。
 しかし、彼らのように、いかに兵法に長けていたとしても、劉邦と同じく大義のために戦う心がなかったならば、漢の建国という大事は為しえなかったであろう。それどころか、彼らの兵法も何の意味もないものに終わってしまったであろう。
 いかに権力・武術・財産・名声を誇ろうとも、それが直ちに勝利を意味するとは言えない。いわんや、それだけでは絶対に幸福は決まらない。
 「ただ心こそ大切なれ」これが大聖人の究極の結論であられる。
 幸福を決するのは、学歴でもなければ、地位や肩書でもない。役職や年齢でもない。
 「心」がどうかで、一切は決まるのです。
 「心」には無明に覆われた心と、無明を打ち払って妙法の当体として輝く心とがあります。
 無明に覆われた心は悪から悪へ、不幸から不幸へと流転して止みません。生死の苦悩は、いよいよ深まっていかざるをえません。
 それに対して、妙法の当体として輝く心は、悪から善へと変革する力を持ち、善から善へと確かな軌道を上昇する心です。
 どちらも同じ一人の心です。無明と法性は体一です。であるがゆえに、一念無明の迷心の当体が、法性真如の宝珠として輝くのです。無明を法性へと転じ、毒を変じて薬と為すことができる。ゆえに妙法なのです。
 無明の束縛を破った心は、大空のように広大であり、しかも、大空を翔ける王たる鷲の如き自由自在です。
 さらにまた、大宇宙の中央に屹立する巨大な宝塔のように尊極で、絶対の安心感で満ちた自受法楽の当体です。
 そして、あらゆる悪と不孝を見下ろして、悠々と乗り越えて行ける仏の智慧に満ちています。
 心には不可思議な力がある。心の一つで、一切が変わっていきます。その心の力を現す修行が、自行化他にわたる唱題です。
 大聖人は「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う」(0564-05)と仰せになりました。
 この心の力を発揮していくことが、人生と生命の勝利の要諦である。これこそが「法華経の兵法」にほかならないのです。
「師弟一体」の心が一切の根本
 この「心」の究極の真実の姿を実現なされた大聖人御自身の御生命を、その広大な御境涯のままに顕されたのが御本尊です。したがって、御本尊を信じ、一心に題目を唱えてゆくならば、あたかも明鏡に向かうが如く、わが心の大宇宙、すなわち仏界の大生命が明らかに映し出される、大聖人の師子王の御生命が、我が身に躍動するのです。
 日寛上人は仰せです。
 「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」
 「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり、我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり」
 大聖人は断言なされた。「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(1244-11)
 「心こそ大切」の「心」とは「信心」です。「正しき信心の心」こそ無上の財です。そこに宇宙全体の財宝も納まっているのです。
 本抄でも「心」の在り方として、重要な一点を強調されています。
 されは「いかに日蓮が祈っても、あなたが不信ならば、濡れた火口に火をつけようとするものです」すなわち「師と同じ祈り、同じ心で立ち上がれ!」との仰せと拝されます。
 また四条金吾への別の御書にも「だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし」(1151-14)とも誡められている。
 さらに、身延から佐渡の門下・千日尼に宛てられたお手紙で、大聖人は遠く山海を隔てた地で求道の志を重ねる尼御前を讃えられました。
 「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」(1316-16)「心こそ大切に候へ」(1316―18)
 身は遠く離れていても、心は届いていますよ!深くつながっていますよ!その心こそ大切なのですよ!と、強く励まされています。
 「心こそ大切」の「心」とは「師弟不二の心」なのです。
 大聖人は仰せです。
 「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(0957-09)
 妙法流布に戦う信心の「心」。
 師のために戦う弟子の「心」。
 正義を叫び抜く師子の「心」。
 この「心」こそが、三世の幸福」と「平和」を勝ち取る最高の武器となり、兵法となる。
 これを大聖人は「法華経の兵法」と仰せになったのです。
法華経の兵法 絶対勝利の信心
 もともと兵法とは、戦闘の戦術や武術のことです。広げて考えれば、人生全般において、よりよい結果を得ていくため、すなわち、価値創造の勝利の人生を送るための方法ともいえましょう。
 「法華経の兵法」とは、どこまでも御本尊根本に、大確信の祈りで、あふれてくる智慧と勇気、宿命を破り、絶対勝利する信心のことです。
 いかなる時も、宇宙根源の法である妙法に基づく時、絶対に行き詰まることはありません。一切の敵を必ず打ち破ることのできる絶対無敵の功力があるのです。
 「諸余の怨敵は、皆悉な摧滅せり」。この薬王品の経文は、法華経を受持し、弘通する福徳がいかに偉大であるかを示した一節です。
 すなわち、妙法を受持し、弘通する功徳によって、成仏を妨げるあらゆる魔軍を打ち破ることができる これが「法華経の兵法」の力である。
 ゆえに戦いに勝ち、生命を守るための「兵法剣形」の真髄も、実は「法華経の兵法」にあるのです。
 私たちが健康になり、生きがいに満ち、地域・社会で信頼の実証を勝ち開いていく。そのあらゆる努力、工夫、挑戦の根本こそが「法華経の兵法」すなわち「強盛なる信心」なのです。
 大聖人はお手紙の末尾に「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず」と仰せです。
 “臆病は心の眼を閉ざす”とは、アメリカ・エマソンの卓見です。
 臆病は真実を見えなくする。小さな困難も巨石に見える、活路の扉も、分厚い壁に見えてしまう。大事なのは「勇気」です。
 このエマソンが面白いことを言いました。
 「勇気とは、ただ各人が自由に自分の素質に適った事を為す時の、その正当な若しくは健全な状態を指すのである」「自分の為すべきことを即座に成すのである」
 仏法的にいえば、勇気とは“自分の最も健全な素質”と言える仏性に基づく心でもあり、無明を打ち破って即座に法性を現していくための「戦う心」です。
 自身が妙法の当体であると信じて、今いる場所で、現実の課題に挑戦する。そこにこそ「勇気」があるのです。そこに「法華経の兵法」は発揮されるのです。そこに「勝利と栄光と不滅の歴史」は築かれていくのです。
 私も、戸田先生のもとで、一人の青年として、現実の困難と戦い抜きました。行き詰まっては祈り、祈っては挑戦し、来る日も来る日も、ただ「先生のために、断じて勝つ!」「広宣流布のために、必ず勝ってみせる!」阿修羅のごとく立ち向かっていった。そして勝ち抜いていった。
 「師のために!」「広布のために!」この一念を定めたときに、青年の本当の力が出るのです。あえて私の体験から言えば、これが「法華経の兵法」です。
 私は、戸田先生の構想を実現するために、あらゆる激戦の最前線に立ち「絶対勝利の信心」の極意を体得しました。戸田先生にお仕えした11年間、私は、この「法華経の兵法」の勝利の実証を厳然と示し、師匠に喜んでいただきました。今、この必勝の実践哲学を、わが本門の弟子たちに託す時が来ました。
 そして55年前、戸田先生が叫んだように、私も池田門下の青年たちに呼びかけたい。
 「さあ諸君!どうやって広宣流布をするのか!」
 「目下の課題は何か。どこで、どう戦い、勝利するのか!」」(0564-05)と仰せになりました。
 この心の力を発揮していくことが、人生と生命の勝利の要諦である。これこそが「法華経の兵法」にほかならないのです。

1193~1194    四条金吾殿御返事top
1193:01~1193:09 第一章 過去を願慮し金吾の信心を賞嘆すtop
四条金吾殿御返事    弘安三年十月    五十九歳御作
01   殿岡より米送り給び候、今年七月・盂蘭盆供の僧膳にして候、自恣の僧・霊山の聴衆・仏陀・神明も納受随喜し
02 給うらん、尽きせぬ志・連連の御訪い言を以て尽くしがたし。
03   何となくとも殿の事は後生菩提疑なし、何事よりも文永八年の御勘気の時・既に相模の国・竜の口にて頚切られ
04 んとせし時にも 殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし事 実にならば腹きらんとの気色なりしをば・い
05 つの世にか思い忘るべき、 それのみならず佐渡の島に放たれ北海の雪の下に埋もれ 北山の嶺の山下風に命助かる
06 べしともをぼへず、 年来の同朋にも捨てられ故郷へ帰らん事は 大海の底のちびきの石の思ひしてさすがに凡夫な
07 れば古郷の人人も恋しきに 在俗の官仕隙なき身に此の経を信ずる事こそ稀有なるに 山河を凌ぎ蒼海を経て遥に尋
08 ね来り給いし志・ 香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき、 又我が身はこれ程に浮び難か
09 りしが・ いかなりける事にてや同十一年の春の比・赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ、
-----―
 殿岡より米を送っていただきました。そのお米を今年七月の盂蘭盆供養の僧膳に用いました。自恣の僧も、霊山の聴衆も、仏陀も神明もさぞかしこれを納受し随喜しておられることでしょう。あなたの尽きない志、また、たびたびの御訪問、言葉をもってあらわし尽しがたいことです。
 なにはともあれ、あなたの後生菩提は間違いない。何よりも、文永八年のあの御勘気の時、相模の国(神奈川県)の竜口で頚をすでに切られようとした時に、あなたは馬の口にとりすがり、はだしで供をし、泣き悲しまれた。そして私が頸を切られることが、まこととなってしまったならば、自分も腹を切ろうとの様子であったことを、何時いかなる世に思い忘れることができようか。
 そればかりではない。佐渡の島に流され、北海の孤島の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山颪に命が助かるとも思われなかった。年来の同朋にも捨てられ、故郷へ帰ることはあたかも大海の底にある千引の大石が海面に浮ばないように、帰れそうにとうていなく、さすがに凡夫であるから、故郷の人びとが恋しくてたまらない心境であった。そのときに、あなたは在俗の官仕でひまのない身で、法華経を信ずることさえ稀であるのに、山河の険難を凌ぎ、蒼き大海を経て、はるばる尋ねて来られた。その志は、香城で骨を砕き、雪嶺に身を投げた人びとの志にも、どうして劣るわけがあろうか。
 また、日蓮の身は、そのように浮びがたかったのに、どういうわけか、文永十一年の春頃、赦免になって鎌倉に帰ることができたのである。

殿岡
 長野県飯田市上殿岡・下殿岡のこと。四条金吾が江馬氏より賜わった領地がここにあった。
―――
盂蘭盆
 俗にいう「お盆」のこと。梵語、ウランバナ(Ullambana)の音写。「救倒懸」と訳すが、「倒懸」とはさかさづりの苦しみの意で、餓鬼道の苦痛をあらわす。もとは夏安居の終りの日・7月15日に十方の聖僧に供養された。
―――
自恣の僧
 盂蘭盆会に集まった僧のこと。自恣とは一般的には気まま、心のままということであるが、印度では長雨の日が四か月も続き、その間の90日を安居といって外出せず、僧は寺内で修行する。したがって、盂蘭盆は、僧たちにとっては、修行から解放され餓鬼供養のため信徒からの供物を受ける行事となるわけである。
―――
霊山の聴衆
 法華経説法の会座に集まった人々。
―――
神明
 神のこと。ここでは諸天善神をさす。
―――
後生菩提
 来世の成仏・未来世の健康境涯。
―――
文永八年の御勘気
 竜の口の法難のこと。「かんき」は主君・目上の人から咎めを受けること。
―――
竜口
 現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
―――
足歩赤足
 履物をはかない。素足のこと。
―――
蒼海
 大海のこと。
―――
香城に骨を砕き
 常啼菩薩は香城で般若波羅蜜を修行し、修行を終えて、供養のため、わが身の骨を砕いたという。大般若波羅蜜多経初分常啼菩薩品に説かれている。
―――
雪嶺に身を投げ
 雪山童子は、鬼神から法を聞くために、雪山で自分の身体を投げて、鬼神に与えようとした。涅槃経聖行品にある。
―――――――――
 四条金吾が殿岡でとれた米を大聖人に御供養したのであろう。それを弘安3年(1280)7月の盂蘭盆のときに、僧たちに御馳走した旨、述べられている。
 前半では、四条金吾が竜口法難の際に示した信心をたたえ、その後、佐渡御流罪中も、身延御入山後も、変わらず大聖人のもとに訪ねてきた誠意を賛嘆されている。とくに後半では、御自身の御本仏としての境地を明らかにされ、その大聖人のもとに参詣することがいかにすばらしいかを述べられている。
 なお、本抄は、弘安3年(1280)10月の日付となっており、現存する限り、この前に四条金吾がいただいたお手紙から一年ぶりのことである。おそらく四条金吾が米を御供養したのは、年頭のことと思われるが、それを7月のお盆に用いたことが書かれているのであるから、ずいぶん、間があることになる。8月から9月にかけて、上野殿等に書かれたお手紙も何通かあるが、いずれも短く、おそらく、かなり、身体をいためられ、衰弱されていたとも考えられる。
何となくとも殿の事は後生菩提疑なし
 今世にはいろいろなことがあったとしても来世の成仏は、絶対に間違いない、との仰せである。言葉をかえていえば、未来も必ず妙法のもとに生まれてくることは確実であるということであり、さらにいえば、成仏を定業として確立しているということでもある。
 もとより〝業〟には善悪あるが、これに定業と不定業とがある。定業とは、すでに確定して動かし得ない状態になっている業であり、不定業とは、不確定で、一応の傾向性としてはあるが、努力次第で変わりうる業をいう。たとえば、前世の行ないによって、今世に三十歳で死ななければならないと定まっており、どんなことをしても、それを免れることはできない、というのが定業である。それに対して、健康を大事にし、用心深く生きれば、70、80までも生きられるというのが不定業である。
 成仏ということについても、大聖人の仏法の極理は、御本尊への信心が仏界の生命であるから、今世で御本尊に題目を唱えている限り、その瞬間瞬間が、成仏である。しかし、唱題を終われば、九界の中に帰ってしまうので、それは刹那の成道である。そして、一生を通してみた場合、畜生界の境涯の方が長くあらわれ、深く根づいていれば、来世は畜生界を基調とする生命活動になる。
 それでは仏界を刹那成道に終わらせないで、わが生命の基調として確立するには、どうすればよいか。ここに定業を生み出す原理に着目する必要がある。すなわち、定業を形成するのは、一つは自己の生命をそこに賭け、生命とひきかえに行なったこと、一つは、習慣として、生涯、変わらず実践したことである。つまり、一つは、生存本能という生の根源のものまでなげうつことによって生命の奥底に一挙に築いたものであり、一つは「習い性となる」というように、長い年月の反復によって徐々に生命の奥底まで浸み込ませたものである。
 仏界も、この信心のために、自分の生命を投げ出した場合、一瞬にして、わが生命に定業として確立されるのである。大聖人が「石を金にかえるなるべし」といわれているのがそれである。四条金吾の、竜口法難のときに示した、自分も死んで大聖人のお伴をするとの決意は、まさに、この例に当たる。故に大聖人は、幾多の御書で、このことを挙げ、四条金吾を賞讃されているのである。
 いま一つの、習慣的実践によって生命に染めつけていく方は、われわれがなぜ、毎日勤行し、実践するのかということと関連している。人間だれしも、自分の生命とひきかえにしなければならないような事態にめぐりあうとは限らない。否、むしろ、そうした場合にぶつかる人は稀でさえある。とすれば、成仏を定業化できる人は、限られた稀な人ということになる。大部分の人にとって、いや、全ての人にとって開かれた道が、この習慣的実践なのである。四条金吾は、竜口のあとも、生命をかける危険を冒して、佐渡に、身延に大聖人を訪ね、法を求め、外護の任を果たしたのである。故に、大聖人は「後生菩提疑なし」と断言されているのである。

1193:09~1194:10 第二章 御本尊の確信を述べ信心を勧むtop
09                                          倩事の情を案ずるに今は
10 我身に過あらじ、 或は命に及ばんとし弘長には伊豆の国・文永には佐渡の島・ 諌暁再三に及べば留難重畳せり、
11 仏法中怨の誡責をも身には・はや免れぬらん。
-----―
 つらつらその辺の事情を考えてみるのに、今はわが身に過ちはないであろう。あるときは生命に及ぶ難をうけ、弘長年間には伊豆の国に、文永年間には佐渡の島に流された。諌暁を再三にわたって行なったので留難が重なったのである。だがそのことによって私は「仏法中の怨」の責めを、わが身にあっては早くも免れたであろう。
-----―
1194
01   然るに今山林に世を遁れ道を進まんと思いしに人人の語・ 様様なりしかども旁存ずる旨ありしに依りて当国・
02 当山に入りて已に七年の春秋を送る、 又身の智分をば且らく置きぬ法華経の方人として 難を忍び疵を蒙る事は漢
03 土の天台大師にも越え日域の伝教大師にも勝れたり、 是は時の然らしむる故なり、 我が身法華経の行者ならば霊
04 山の教主.釈迦・宝浄世界の多宝如来.十方分身の諸仏・本化の大士.迹化の大菩薩・梵・釈・竜神.十羅刹女も定めて
05 此の砌におはしますらん、 水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず 麗水の山には金
06 あり、 今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、 多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳
07 は虚空にも余りぬべし、 然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、 弥はげむべ
08 し・はげむべし。
09       十月八日                        日蓮花押
10     四条中務三郎左衛門殿御返事
-----―
 しかしながら、今山林に世を遁れて、仏法の道をさらに励もうと思っていたところ、人びとの意見は、さまざまであった。けれども、あれやこれやと考えるところがあって、甲斐の国身延の山に入って、すでに七年の歳月を送ったのである。
 また、わが身の智慧がいかほどかということは、しばらく置くが、法華経の味方として難を忍び、疵をうけたことは、漢土の天台大師にも越え、日本の伝教大師にも勝れている。これは末法という時がそうさせたからである。
 わが身が法華経の行者であるならば、霊鷲山の教主釈尊・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大菩薩・迹化の大菩薩・梵天・帝釈・竜神・十羅刹女も、必ずこの場におられるであろう。水があれば魚は住む。林があれば鳥は集まって来る。蓬莱山には珠玉が多くあり、摩黎山には栴檀の木が生ずる。また麗水の山には黄金がある。今この所も同様である。仏菩薩の住まわれる功徳の聚まる場所である。
 多くの月日のあいだ、日夜読誦している所の法華経の功徳は大空にも余っているであろう。それを、あなたは毎年たびたび参詣しておられるので、無始以来の罪障もきっと今生一生のうちに消滅するであろう。いよいよ信仰に励みなさい。
  十月八日              日 蓮  花 押
   四条中務三郎左衛門殿御返事

仏法中怨
 「仏法の中の怨」と読む。涅槃経巻第三長寿品の文。仏法を破壊する者を見て、その罪過を糾弾しないでいる仏弟子は、仏法の中にあって仏法を破る敵であるということ。
―――
天台大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
日域
 日本のこと。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
宝浄世界の多宝如来
 宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
―――
十方分身の諸仏
 中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
―――
本化の大士
 迹化の菩薩に対する語。法華経本門にいたって出現した菩薩で、釈尊の久遠の弟子である地涌の菩薩をいう。一重立ち入って言えば本化の本とは久遠元初の独一本門のことであり、久遠元初以来の日蓮大聖人の本眷属をいう。
―――
迹化の大菩薩
 本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等の八十万億那由佗の菩薩がこれにあたる。勧持品で仏滅後の弘通を誓い出たが、涌出品で釈尊は本化地涌の菩薩を召し出し、神力品で付嘱した(別付嘱)。しかし迹化の菩薩は嘱累品において付嘱を受け(総付嘱)正像2000年にのみ出現して権大乗や法華経迹門を弘通した。
―――

 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――

 帝釈天のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラの訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
竜神
 八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)の2番目。金翅鳥、修羅、竜神とともに、地動を起こすといわれる。
―――
十羅刹女
 鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
―――
蓬莱山
 中国の古代に説かれた三神山の一つ。中国の東方の渤海上にあって、鳥獣草木は皆白く、宮殿は皆黄金と宝石でつくられているという。遠くから見ると雲のようで近づくことはできないが、そこに住む仙人は不老長寿の秘薬を持ち、山は不老不死の霊山とされている。
―――
摩黎山
 梵名マラヤ(Malaya)の音写で摩羅耶山といい、無垢と訳す。正法念処経に「摩羅耶山。栴檀多くあり、その山は広長五百由旬。高さ三由旬」とある。南インドのサレム州の西ガッツ山脈の南部がその地であるといわれている。
―――
旃檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
麗水の山
 麗水は中国の河名。その水源にある山をいう。韓非子の内儲説上篇に「荊南の地、麗水の中に金を生ず。人多く竊みて金を采る」とある。中国浙江省の麗水をさすと思われる。
―――――――――
 御自身の成仏の境地を述べられ、そのような日蓮大聖人のもとに参詣してくれる四条金吾は、必ず無始以来の罪障をこの一生において消滅するであろうと讃え、激励されている段である。
今は我が身に過あらじ。(中略)仏法中怨の誡責をも身にははや免れぬらん
 大聖人は、立宗以来、佐渡流罪後までの一国謗法への折伏実践によって、わが身の全ての過ちを消滅した、といわれている。このことは、身延入山後の大聖人の御境地は、全く仏としてのそれであることを物語っている。
 発迹顕本の意味と意義については「聖人御難事」の講義で述べたので参照していただきたいが、本抄で述べられている内容は、この点を明瞭に裏づけるものである。
 すなわち〝我が身の過ち〟とは、凡夫としての一切の罪障であり、その根源をなすものが、過去の謗法による〝仏法中怨〟の罪である。およそ、あらゆる罪障の中で、もっとも重く深いのが謗法の罪であることは、五逆罪でさえ無間地獄にあること一中劫なのに、謗法の場合は、懺悔しても一千劫、そうでなければ展転して無数劫とされていることからも明白である。
 その過去の罪障を、謗法訶責の実践により、しかもそのために流罪・死罪にあうことによって、もはやその根源から消し去ったとの仰せなのである。ということは、凡夫としての身は終わったことを意味する。そして凡夫としての身とは、垂迹・上行としての振舞いということでもある。
 上行菩薩の再誕ということと、凡夫ということとでは、あまりにも違いがあるように見えるかも知れない。だが、上行菩薩――総じて地涌の菩薩とは、末法に妙法を流布するための付嘱の儀式を目的に法華経の会座に出現したものであり、それは、妙法を濁世にひろめる生命の姿と働きを象徴する。現実には、末法濁世に人間として生を受け、出現するのであるから、その現実の姿は、罪障深き凡夫なのである。
 したがって、この濁世に、あらゆる難をしのんで妙法をひろめるその生命の働きが上行再誕、地涌の再誕であり、この濁世に生きていく人間としての姿は、罪業深重の凡夫ということになる。故に、この二つは、内面的・主体的な生命自体の働きと、外面的に形成された姿という関係であって、互いに矛盾するものでなく、一体のものである。したがって凡夫としての一切の罪を終えたということは、上行菩薩の再誕としての垂迹を払い、本地である久遠元初の無作三身という仏の境地に立つということになる。
 しかしながら、身延入山後の大聖人が成仏の境地だからといって、何の苦しみもない境涯かというと、そうではない。四条金吾はじめ弟子たちの苦難は、大聖人にとっては当人以上の心労であったであろうし、御自身も、しばしば病気をされている。しかし、これらは、仏界所具の九界の原理なのであり、それはまた、われわれにおいても、成仏とはいかなるものかを教えてくれるのである。
然るに今山林に世を遁れ、道を進まんと思いしに、人人の語様様なりしかども、旁存ずる旨ありしに
 「存ずる旨ありしに依りて」と仰せのように、大聖人が身延に入られたのは、いろいろと深いお考えがあったと拝される。もとより、その全てを浅い知恵によって測ることはできないが、幾つかの点をあげて考えてみたい。
 第一は、なんといっても、御自身の仏としての生命を、恒久的な形として遺し、後世の人々がこれを縁として仏界を顕現できるようにすること、すなわち、御本尊の建立である。なぜなら、大聖人在世の人々は、人本尊である大聖人に会うことによって、仏界の生命にふれることができるが、いつかは大聖人のこの世における姿は消滅する。その仏の生命の根源である南無妙法蓮華経の法は、無始無終に実在するがそれを捉えることは不可能である。したがって人法一箇の当体として、後世の衆生の信仰の対象とすべき御本尊をあらわさなければならない。これが、世俗の地をのがれ身延に入られた第一の目的であろう。
 第二は、令法久住のため、大聖人の仏法の奥義を弟子にきちんと教育し、人材の育成と教義の体系的確立をしておくことである。現代でも、学問と教育の場は世俗の権力の介入を排除することが求められるように、このための場を、人里はなれた身延の閑寂の地に求められたことは、充分納得のゆくところである。
 第三は、現実社会での弘法・実践を、日興上人を中心とする弟子に任せ、大聖人なきあとの盤石の体制を確立するためである。もし大聖人が御自身、鎌倉に身をおいておられたならば、弟子に任せるといっても、弟子たちの方にしても大聖人に頼っていくことを避けられなかったであろう。大聖人としても、すぐ身の周りに弟子の受難等が起こった場合、じっとしてはいられなかったに違いない。多少、危うさはあったにしても、思いきって弟子に托し、弟子に自立の心をもたせるために、交通不便な僻地に身を引かれたのであろう。
 もちろん、これらは、大聖人の御深慮の、ほんの一部分にすぎないかもしれない。おそらく、もっともっと大きなお考えがあったと思われるが、それは、読者がそれぞれに思索し、研究していただきたい。
又、身の智分をば且く置きぬ。法華経の方人として難を忍び、疵を蒙る事は漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝れたり。是は時の然らしむる故なり
 「身の智分」とは〝智慧〟ということであり、法華経への知的理解である。それは、生命全体の働きからいっても、ごく表層の一部分にすぎず、六波羅蜜の中でいっても、最後の般若波羅密一つである。この〝智慧〟ということについては、天台智顗のほうが勝れているであろうとの仰せである。
 この御文は、「開目抄」の「日蓮が法華経の智解は、天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(0202-08)、また報恩抄の「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし(中略)是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳」(0329-03)等の御文とも一致する。
 妙法の弘通のために受けた難が大きいということは〝智分〟〝智解〟という一部分の問題ではなく、その生命の全体と本質の問題である。したがって、弘法のために天台・伝教にはるかに勝る難を受けたということは、その本質的・全体的生命において、はるかに深く法華経を体得しているということであり、とりもなおさず人法一箇の仏であるということなのである。六波羅蜜の上でいえば、法をひろめることは、布施であり、難にあったことは忍辱であり、なおかつそれを越えて実践したことは精進である。また、受持即持戒であるから、妙法を受持された大聖人は、持戒においても天台・伝教に勝る。すなわち、六波羅蜜のうち、智慧以外の五波羅蜜の全てにおいて、大聖人は天台・伝教よりはるかに勝れておられるわけである。しかも、智慧についても、大聖人は謙遜し一歩ゆずってこられているにすぎない。
 「是は時の然らしむ故なり」と。〝時〟とは、末法という時である。天台・伝教は、釈迦の仏法がまだ力を持っている像法の正師であるから、釈迦仏法の範疇の中の理論的展開であり、実践にすぎない。それに対して、釈迦の仏法がもはや衆生を救う力をもたない末法に出現した大聖人は、釈迦仏法の範疇をはるかに超えた、末法の本仏であり、久遠元初の無作三身如来なのである。
我が身法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵釈・竜神・十羅刹女も、定めて此の砌におはしますらん
 御本尊の相貌そのものである。「我が身法華経の行者」とは〝法華経〟は南無妙法蓮華経の法であり、それを行ずる人とは、この法をそのまま体現した仏、法即人の当体である。したがって「我が身法華経の行者」の一句は御本尊の中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」に当たる。以下の仏・菩薩は、御本尊にしたためられている通りである。
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(1124)といわれるように、御本尊は、この大聖人の〝法華経の行者〟すなわち妙法の当体としての生命をそのまま写したものである。そして、そこに釈迦・多宝・十方の諸仏はじめ、あらゆる菩薩、神々の力が全てそなわっている。と同じく、妙法を信じた全ての人の生命も、妙法の当体となり、あらゆる仏菩薩、諸天等の力を具え、自在の働きをあらわしていくことができるのである。
 さらに、この段では、この大聖人の生命に即して、大聖人のおられるこの所が、仏・菩薩・諸天・竜神の集う所であり、功徳に満ちみちていると断言されている。いわゆる「法妙なれば人貴し」から「人貴ければ所尊し」の原理を述べられているのである。ここでは大聖人のもとに参詣することがいかに大きい功徳を招くかを教えるために仰せられているのであるが、それをそのまま大聖人なきあとに約していえば、大聖人の御生命を写した御本尊のまします所がそれであり、我ら学会員の家庭ないしは世界SGIのすべての会館に至るまで1124「無始の罪障も定めて……消滅すべきか」の所なのである。
 また、自身、妙法を信じ、自行化他に励む人は、即「法華経の行者」であり、その居る所は、世界のいずこであれ、釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・天・竜等の集う寂光土であり、生命の力と英知のみなぎった、幸福世界となることを確信すべきであろう。

1195~1197    四条金吾許御文(八幡抄)top
1195:01~1195:04 第一章 供養への感謝を述べるtop
1195
四条金吾許御文(八幡抄)    弘安三年十二月    五十九歳御作   与四条金吾女房
01   白小袖一つ.緜十両・慥に給候い畢んぬ、歳もかたぶき候・又処は山の中.風はげしく庵室はかごの目の如し、う
02 ちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ身のひゆる事は石の如し、 食物は冰の如くに候へば此の御小袖給候て頓
03 て身をあたたまらんと・をもへども・明年の一日と・かかれて候へば迦葉尊者の鶏足山にこもりて慈尊の出世・五十
04 六億七千万歳をまたるるも・かくや・ひさしかるらん。
-----―
 白小袖一枚、綿十両たしかにいただきました。
 今年も暮近くなりました。また、私が居る所は山の中で風がはげしく、庵室はまるで籠の目のように風が吹きぬけていく。敷いているのは草の葉であり、着ているものは紙衣、身体は冷えて石のようであり、食物は、氷のようにつめたいので、この小袖をいただいてすぐにも着て、身体をあたためようと思ったが、明年の一日に着るようにと書いてあったので、迦葉尊者が雞足山にはいって弥勒菩薩の出現を、五十六億七千万歳の間待たれたのも、このように待ちどおしい心ではなかったかと思われます。

白小袖
 小さい袖の衣服。袖が筒状であったので、小袖といい、もとは下着であったが、のちに表着として用いられた。
―――
庵室
 草で葺いた木造の仮住まいのこと。
―――
かみぎぬ
 紙でつくった衣服で、紙子ともいう。こしの強い厚手の和紙を菎蒻糊ではりあわせ、これをよくもんで柔かにし、柿渋を塗って仕上げたもの。軽く、暖かく、安価にできたので、防寒用に一般に使われた。
―――
迦葉尊者
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
雞足山
 中インドのマカダ国にある山。梵語ではククタパーダ(Kukkuṭapāda)といい、尊足山、また狼足山と訳す。現在のガヤとビハールとの中間にあり、仏陀伽耶の北東32㌔、クルキハールの地にあたる。
―――
慈尊
 弥勒菩薩のこと。弥勒は梵語マイトレーヤ(Maitreya)の音写で、慈氏と訳す。したがって弥勒を尊んで呼び慈尊と称した。インドのバラモンの家に生れ、のちに釈尊の弟子となって釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、天人のために説法しているが、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと、菩薩処胎経に説かれている。
―――――――――
 本抄は、弘安3年(1280)12月16日に書かれ、四条金吾頼基の女房日眼女に、与えられたお手紙である。別名を「八幡抄」ともいう。表題の「四条金吾許御文」の「許」とは〝……のもとに〟とか〝……のそばに〟という意味である。これは日眼女の心遣いで白小袖、綿を御供養したので、「四条金吾女房」を宛名にされているが、内容は日眼女だけを対告衆とするものではないので「四条金吾許御文」と名づけられたのである。
 本抄は「諌暁八幡抄」「立正安国論」「智妙房御返事」にも述べられている神天上の法門について書かれてあり、弘安3年(1280)11月14日に鎌倉八幡宮が炎上したのは、一国謗法の故に八幡がいない証拠であると述べられている。
 はじめに頼基夫妻の真心の御供養にたいして御礼を述べられ、さらに頼基が主君の前で法門を談じたことに対する引出物として、「大事の法門一つ」と仰せられて、八幡大菩薩の本地について述べられている。即ち、大隅の国(鹿児島県)の石体の銘を証文としてあげ、また、応神天皇の事跡と釈迦仏との関係性を示し、八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来ではなく釈迦仏であることを指摘されている。さらに、八幡大菩薩が、正法を守護する誓言をしているにもかかわらず、鎌倉八幡の宝殿を焼いて天にのぼったのは、不正直の人の多いことを憎んでのことであって、法華経の行者を見れば必ず守護するのであると述べられている。
 第一章において、身延の山中は寒風はげしく、着る物や食物、その上お住いにも御不自由のなか、令法久住のため弟子の育成や、多くの御書を御述作になるというきびしい毎日を過ごされていた大聖人のもとに、新年の晴着として白小袖一枚、綿十両を送ってきた頼基夫妻の信心に、大聖人はどれほどおよろこびであったろうかと思われる。「明年の一日とかかれて候へば、迦葉尊者の雞足山にこもりて、慈尊の出世五十六億七千万歳をまたるるもかくやひさしかるらん」と、その晴着を着ることのできる元旦を、子供のように待ちどおしい思いでお待ちになっている様子が目に浮かんでくるようである。

1195:05~1195:11 第二章 八幡大菩薩の本地を明かすtop
05   これは.さてをき候ぬ、しゐぢの四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ.よに・すずしく覚え
06 候へ、此の御引出物に大事の法門一つかき付けてまいらせ候、 八幡大菩薩をば世間の智者・愚者・大体は阿弥陀仏
07 の化身と申し候ぞ、 其れもゆへなきにあらず・中古の義に或は八幡の御託宣とて阿弥陀仏と申しける事 少少候、
08 此れはをのをの心の念仏者にて候故に あかき石を金と思いくひせをうさぎと見るが如し、 其れ実には釈迦仏にて
09 おはしまし候ぞ、 其の故は大隅の国に石体の銘と申す事あり、 一つの石われて二つになる、一つの石には八幡と
10 申す二字あり、 一つの石の銘には「昔霊鷲山に於て妙法蓮華経を説き今正宮の中に在りて大菩薩と示現す」云云、
11 是れ釈迦仏と申す第一の証文なり、
-----―
 それはさておいて、椎地四郎が話してくれましたが、あなたが御主君の前で御法門を談じられたそうで、非常に嬉しく思います。
 その御褒美として、大事な法門を一つ書き送りましょう。
 八幡大菩薩を世間の智者も愚者も、おおかたの人が阿弥陀仏の化身といっている。それも理由のないことではない。中古の義に、あるいは八幡神の御託宣として、阿弥陀仏であるといっている文献が少々ある。
 これは、自分達の心が、念仏者なので、あかい石を金と思い、切り株を兎と見るようなものである。
 ところが、真実は、八幡大菩薩の実体は、釈迦仏なのである。その理由は大隅の国に石体の銘といわれる事跡がある。
 一つの石がわれて二つになり、一つの石に八幡の二字が記されており、一方の石の銘には「昔、霊鷲山に於て妙法蓮華経を説き、今、正宮の中に在りて大菩薩と示現す」云云、とある。
 この銘文こそ、八幡大菩薩の本地は釈迦仏であるという第一の証文である。

しゐぢの四郎
 弘長元年(1261)4月284日にしたためられた椎地四郎殿御書(1449)に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」とあるので、四条金吾と特に親しい間柄にあったと思われるが、行実は明確に知られてない。
―――
御引出物
 もと、馬を庭に引き出して贈り物にしたところからこういう。祝宴のときなどに、主人から招待客におくる贈り物。引き物。
―――
八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
化身
 仏や菩薩が衆生を救うために様々に身を変化して、出現した身影のこと。
―――
八幡の御託宣
 八幡大菩薩のお告げ。
―――
くひぜをうさぎと見る
 くひぜとは、木を切った残りの株のこと。韓非子巻の十九・五蠹編に「宋人に田を耕す者有り、田中に株有り、兎走りて株に触れ、頸を折りて死す。因りて其耒を釈てて株を守り復た兎を得んと冀へり。兎は復た得可からずして、身は宋国の笑と為れり」と記されている。ここでは、この故事をふまえているが、少し変えて、切り株を兎と見誤るという意味に用いられている。
―――
大隅の国
 現在の鹿児島県東部。大隅半島一帯。
―――――――――
 金吾が主君・江馬氏の前で法門を語ったことについて非常におよろこびになっている。
 その褒美として、八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏ではなく、釈迦仏であることを説かれ、その理由として石体の銘、応神天皇の事跡をあげられている。この章においては、石体の銘文を証拠として、当時の阿弥陀信仰に対して破折がなされているのである。
 八幡信仰は、農耕とくに稲作民の生活の基本的行事として、徐々にその形態をととのえ、我が国における最も普及した信仰の一つとして一般庶民の間にひろまっていったと考えられる。奈良、平安朝以来、応神天皇を八幡大菩薩とする信仰が成立し、やがて清和源氏の氏神となり、武家政権の確立と共に、八幡は幕府政権の支えとなった。
 八幡を大菩薩と称することにもみられるように、古来、日本における人々の神祇にたいする観念は、神仏習合思想的なものが多かったようである。
 そのような中にあって、鎌倉新仏教各派のうち、とくに念仏宗が勢力を得るにいたって、阿弥陀を八幡大菩薩の変化身であるとする考えが広まっていた。
 これに関して、大聖人は「此れはをのをの心の念仏者にて候故に、あかき石を金と思い、くひぜをうさぎと見るが如し」と仰せになり、弥陀一仏のみを崇拝の対象とするあまり、全てをそこに結びつけていく考え方こそ、まさに物笑いであると打ち破られているのである。
 このことは、ただ、念仏宗に対する破折というだけでなく、われわれの生活の中にあっても、自分の考え方や生活環境のみに固執するあまり、真実のものを見極めることができず、大きな誤りを犯すことの愚かさを指摘されているのではなかろうか。客観的な裏づけにより、真実を真実とみることこそ、仏法を学ぶ者の正しい生き方であることを知らなければならない。

1195:11~1196:13 第三章 釈迦如来と八幡大菩薩の一致を述べるtop
11                 此れよりも・ことに・まさしき事候、此の八幡大菩薩は日本国・人王第十四代・
12 仲哀天皇は父なり、第十五代・神功皇后は母なり、 第十六代・応神天皇は今の八幡大菩薩是なり、父の仲哀天皇は
13 天照太神の仰せにて新羅国を責めんが為に 渡り給いしが新羅の大王に調伏せられ給いて 仲哀天皇は・はかたにて
14 崩御ありしかば、 きさきの神功皇后は此の太子を御懐妊ありながら・わたらせ給いしが、王の敵を・うたんとて数
15 万騎のせいをあい具して新羅国へ渡り給いしに、 浪の上・船の内にて王子御誕生の気いでき見え給う、 其の時神
1196
01 功皇后ははらの内の王子にかたり給ふ、 汝は王子か女子か王子ならばたしかに聞き給へ、 我は君の父・仲哀天皇
02 の敵を打たんが為に新羅国へ渡るなり、 我が身は女の身なれば汝を大将とたのむべし、 君・日本国の主となり給
03 うべきならば今度生れ給はずして軍の間・ 腹の内にて数万騎の大将となりて父の敵を打たせ給へ、 是を用ひ給は
04 ずして只今生れ給うほどならば海へ入れ奉らんずるなり、 我を恨みに思い給うなと有りければ、 王子・本の如く
05 胎内にをさまり給いけり、 其の時石のをびを以て胎をひやし 新羅国へ渡り給いて新羅国を打ちしたがへて還つて
06 豊前の国うさの宮につき給い・ここにて王子・誕生あり、 懐胎の後・三年六月三日と申す甲寅の年四月八日に生れ
07 させ給う是を応神天皇と号し奉る、 御年八十と申す壬申の年・二月十五日にかくれさせ給ふ、男山の主・我が朝の
08 守護神・正体めづらしからずして霊験新たにおはします・今の八幡大菩薩是なり。
-----―
 このことよりも、さらに確かな事がある。この八幡大菩薩は日本国人王第十四代の仲哀天皇を父とし、第十五代の神功皇后を母とする、第十六代応神天皇が今の八幡大菩薩である。
 父の仲哀天皇は天照太神の命をうけて、新羅国を攻めるために渡られたのであるが、新羅の大王に打ち破られて、仲哀天皇は博多で崩御された。そこで后の神功皇后は此の太子を御懐妊の身であったが、王の仇を討つために数万騎の軍勢をひきつれて新羅国へ渡られた、その海上の船中で、王子誕生の気配が見えたのである。その時神功皇后は、胎内にある王子に語られた。「あなたは皇子か女子か、皇子ならば、しっかり聞きなさい。私はあなたの父仲哀天皇の敵をうつために新羅国へ渡ろうとしているのである。我が身は女の身であるから、あなたを大将とたのみたい。あなたが日本国の主君となる人ならば、今は生れないで、軍の間、我が胎内にあって数万騎の大将となり、父の仇を打ちなさい。このことばを用いないで、只今生れでてくるならば、海へなげ入れてしまうであろう。私を恨みに思わないでもらいたい」といわれると、皇子はもとのように胎内におさまったのである。
 その時石の帯で胎をひやしながら新羅国へ渡り新羅国を打ちしたがえ還ってこられ豊前の国宇佐の宮につき、ここで皇子が誕生したのである。
 懐胎されて後三年六月と三日目、甲寅の年四月八日の御誕生である。これを応神天皇と申しあげる。御年八十の時、壬申の年二月十五日の崩御である。男山の主神であり、日本国の守護神として、その正体は特別かわったものではないが霊験あらたかである。今の八幡大菩薩がこれである。
-----―
09   又釈迦如来は住劫.第九の減・人寿百歳の時・浄飯王を父とし摩耶夫人を母として中天竺.伽毘羅衛国らんびに薗
10 と申す処にて甲寅の年四月八日に生れさせ給いぬ、 八十年を経て東天竺・倶尸那城・跛提河の辺にて二月十五日壬
11 申にかくれさせ給いぬ、 今の八幡大菩薩も又是くの如し、 月氏と日本と父母は・かわれども四月八日と甲寅と二
12 月十五日と壬申とはかわる事なし、 仏滅度の後・二千二百二十余年が間・月氏・漢土・ 日本・一閻浮提の内に聖
13 人・賢人と生るる人をば皆釈迦如来の化身とこそ申せども・かかる不思議は未だ見聞せず。
-----―
 また釈迦如来は住劫第九の減、人寿百歳の時、浄飯王を父とし摩耶夫人を母として、中天竺の伽毘羅衛国、蘭毘尼園という所で甲寅の年四月八日に誕生された。そして八十年を経てから、東天竺の倶尸那城のある跛提河のほとりで、二月十五日壬申に入滅された。今の八幡大菩薩もまた同じである。月氏と日本と国はかわり、父母は異なっていても、四月八日と甲寅と二月十五日と壬申とはかわらない。
 釈迦滅後二千二百二十余年の間、インド・中国・日本ないし世界中に聖人・賢人と生まれた人は、皆釈迦如来の化身であるといっているが、このような不思議は未だかつて見聞したことがない。

仲哀天皇
 日本武尊の第二子。母は両道入姫命。名は足仲彦尊という。日本書紀によると、仲哀天皇は九州の熊襲を討とうとしたが、天照太神が妃・神功皇后について、新羅を討つよう命があった。天皇は西の海を見て、そのような国はないといったので神の怒りにふれて亡くなったとされている。
―――
神功皇后
 名は気長足姫尊、また息長帯比売命ともいう。仲哀天皇崩御ののち皇后は喪を秘し男装してまず熊襲を平定し、のちみずから新羅におもむき征服したとされる。凱旋の途中、皇子を生み皇太子とした、これがのちの応神天皇であるという。現在では、実在説と非実在説とがある。
―――
応神天皇
 名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。
―――
天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
新羅国
 古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。
―――
調伏
 仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
―――
男山
 宇佐八幡宮の祭神を清和天皇の貞観元年(0859)に今の京都府八幡市の男山に勧請し、神殿を宇佐八幡に準じて造営した。以来、天皇の御幸、皇族の行啓が行なわれ、日本神道の中心神社とされた。
―――
霊験
 神仏を祈ることによって現れる不思議の現象。
―――
住劫・第九の減
 住劫の中の9番目の減劫のこと。住劫とは世界の成立から消滅までを成住壊空の四劫に分けたな住をいう。成立した世界が安定継続している時期。この住劫は20小劫からなり、人の寿命が無量歳から100年に一切を減じて10歳になるまでを第一減劫といい、次に10歳から100年ごとに一切増加しては八万歳になるのを第二増劫、以下第二減劫、第三増劫となり、第二十小劫は増劫のみとなり、この期間を一中劫という。このうち釈迦仏が出現したのは、第九減劫の人寿100歳の時とされている。
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
摩耶夫人
 善覚長者の長女で浄飯王の后」となる。釈尊を産んで7日後に死亡している。
―――
伽毘羅衛国
 梵語カピラバストゥ(Kapilavastu)の音写。釈迦誕生の国。現在のネパール国タライ地方とされている。
―――
らんびに薗
 梵語ルンビニ(Lumbini)の音写。釈迦誕生の地。現在のネパール国タライ地方にルンビニー園という摩耶夫人水浴の池があり、釈迦生誕の地とされている。
―――
倶尸那城
 梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。
―――
跛提河
 華厳経が説かれた場所のこと。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――――――――
 前章の石体の銘による釈迦と八幡との関係の解明につづいて、ここでは、八幡の本体である応神天皇の生没年月日と釈迦のそれとの一致をもって、八幡が釈迦の垂迹であることの証拠とされている。
 この記述については、古事記や日本書紀の記述とも、相違する点が幾つかある。第一に仲哀天皇が新羅征伐に行ったとされているが、記紀では、行っていない。第二に、応神天皇が神功皇后の胎内にあった期間を3年6ヵ月3日とされているが、日本書紀は16ヵ月としている。第三は、応神天皇の誕生・没年について、日本書紀では庚辰の年12月誕生、甲午あるいは庚午の年2月25日崩御となっている。
 これらの記事については、同じ記紀であっても写本によってかなりの違いがあったようで、必ずしも大聖人の思い違いとはいえない。おそらく「若宮八幡日記」の説によられたとされる。
 いずれにせよ、ここは、浄土宗が勢力を得ていた当時にあって、古来の歴史を自分たちの都合のよいように勝手に曲げていたのを正そうとされたのである。今日、これらを歴史的事実として論ずることは不可能であるが、わが国においては、聖徳太子の頃から法華経が尊重されてきたのであるから、同じく八幡を仏教の上から意義づけるとすれば、阿弥陀ではなく釈迦がその本地とされたであろうことは、充分に納得できる。
 元来、阿弥陀は他方である西方極楽浄土の仏であり、この娑婆世界を穢土として、ここから厭離することを勧めているのであるから、この世界に八幡として垂迹したと主張すること自体、自宗の根本教義に矛盾することなのである。

1196:04~1197:04 第四章 神天上の法門を説くtop
14   かかる不思議の候上・八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、 日本国に
15 しては正直の頂に・ やどらんと誓い給ふ、 而るに去ぬる十一月十四日の子の時に 御宝殿をやいて天にのぼらせ
16 給いぬる故をかんがへ候に・ 此の神は正直の人の頂に・やどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故
17 に栖なくして天にのぼり給いけるなり、 日本国の第一の不思議には釈迦如来の国に生れて 此の仏をすてて一切衆
18 生・皆一同に阿弥陀仏につけり、 有縁の釈迦をば・すて奉り無縁の阿弥陀仏を・あをぎたてまつりぬ、其の上親父
1197
01 釈迦仏の入滅の日をば 阿弥陀仏につけ又誕生の日をば薬師になしぬ、 八幡大菩薩をば崇るやうなれども又本地を
02 阿弥陀仏になしぬ、 本地垂迹を捨つる上に此の事を申す人をば・ かたきとする故に力及ばせ給はずして此の神は
03 天にのぼり給いぬるか、 但し月は影を水にうかぶる濁れる水には栖ことなし、 木の上・草の葉なれども澄める露
04 には移る事なれば・かならず国主ならずとも正直の人のかうべには・やどり給うなるべし。
-----―
 このような不思議がある上、八幡大菩薩のお誓いは、インドでは釈尊として法華経を説いて「正直に方便を捨てて」と宣言され、日本国においては八幡として「自分は正直の人の頭に宿ろう」と誓われた。このことから、去る弘安三年十一月十四日子の時、鎌倉八幡宮の宝殿を焼いて天にのぼられた理由を考えてみるに、この八幡神は正直の人の頭にやどると誓ったのに、正直の人の頂がないので居る所がないため、栖をなくして天にのぼられたのである。
 日本国第一の不思議なことは、釈迦如来の治める国に生れながらこの仏をすてて一切の衆生が皆一同に阿弥陀仏についていることである。縁の深い釈迦仏をすてて、無縁の阿弥陀仏を崇めているのである。そのうえ父である釈迦仏の入滅の日を阿弥陀仏の日とし、また釈迦仏の誕生の日を薬師如来の日としている。八幡大菩薩を崇めているようだが、またその本地を阿弥陀仏としてしまった。
 このように本地垂迹をすてた上、このことを正す人を敵とする故に、八幡も力が及ばないで天にのぼられたのであろう。
 ただし月はその影を水にうかべるが、濁った水には影をうつさない。木の上や草の葉であっても澄んだ露には移るのであるから、かならず国主でなくても正直の人の頭にはやどられるのである。

子の時
 午後11時頃から午前1時までのこと。
―――
薬師
 薬師とは梵語( Bhaiṣajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
―――
本地垂迹
 本地と垂迹の併称。本地とは仏菩薩の本身をいい、垂迹とは本地から迹を垂れることで、仏が衆生を利益するために機根に応じ種々に身を変化して出現すること。
―――――――――
 弘安3年(1280)11月14日、鎌倉八幡宮が炎上した。この事件の本質を、仏法の原理に照らし、一国が正法を信ぜず、仏法を曲げているがゆえであると、厳しく指摘された段である。仏法でいう〝正直〟とは、正しい仏法を正しいとして信じ、誤った教えは誤っているとして捨てることである。
 一般に正直とは、自己の心を偽わらないという意味に用いられているが、この自己の心もそれ自体としては真実ではある。だが、自己の心が誤りを犯す場合も少なくない。誤りを犯している心に対しては正直であっても、真実に対しては不正直となる。仏法の〝正直〟は、こうした誤りの多い自己の心に対してでなく、仏の教えに対して正確であり、まっすぐであることをいうのである。そして、これこそが、いかなる時代にあっても、社会が変ろうと、誤りのない正直ということができる。この正直な生き方をする人、まっすぐで正しい心をもった人の上に諸天善神の力は、守護の働きをあらわすというのが「正直の頭に神やどる」という考え方である。
 とくに社会が濁り、歪んでいる場合には「正直者がバカをみる」というように、正直な人間が損をすることが珍しくない。〝神〟という観点からいえば、神は不正直な人間の味方をしているとさえみえるであろう。だが、この場合、まず、自分は何に対して正直であるのかということが検討されなければならない。すなわち、真の正義とは何か、人間の追究し根本とすべき価値は何かが問い直されなければならない。
 だが、その上でなおかつ不正直な人間が守られているような場合もある。それは、大なる疑問ではあるが、その人の生命の奥底にある良心に問うてみた場合には、不正直の人は、必ずそこに深い訶責があり、空しさ、寂しさがあるものである。この生命の本源的なところで、真に満足感を味わっていける人が真の勝利者であり、一生という長い期間を見た場合には、いわゆる〝神〟の加護も、必ず、その人の上にあらわれてくることを確信すべきであろう。
 それと同時に、われわれ人間は、そうした正直な人間が、遠い未来の結果をあてにしたり、心の奥でのみ一人満足しなければならないような社会でなく、いま現実に、真の正直な人こそ人間としての幸福を味わい、守られていく社会にしていかなければならない。
かならず国主ならずとも正直の人のかうべにはやどり給うなるべし
 もともと八幡は、日本国の国主・天皇を百代にいたるまで守ると誓ったといわれている。だが、八幡は、国主であっても、正直でない場合には守らないし、逆に、国主でなくとも、真に正直な人は守るのである。
 それは「正直の頂にやどらん」という八幡の誓いからもいえることであるが、より本質的には、八幡というものが詮ずるところ、正報の反映としての依報の働きであるという仏法の明らかにした法理から、必然的に帰結することでもある。すなわち、正報である人間の生命の姿勢が正直か不正直かということとは無関係に、ただ国主という社会的地位によって、八幡が自分の意思をもって選び、宿るのではない。八幡とは依報の働きであるということは、自らの意志は持たないということであって、その働きを決定するのは、正報である人間の生命の姿勢以外の何ものでもないということなのである。
 いま本抄で大聖人が「此の神は天にのぼり給いぬるか」等、あたかも自らの意志をもつ存在であるかのように表現されているのも、あくまで当時の人々の機情に合わせた譬喩的表現であるというべきであろう。

1197:05~1197:18 第五章 八幡大菩薩の住処を明かすtop
05   然れば百王の頂に.やどらんと誓い給いしかども.人王八十一代・安徳天皇.二代隠岐の法皇・三代阿波.四代佐渡
06 五代東一条等の五人の国王の頂には・ すみ給はず、諂曲の人の頂なる故なり、 頼朝と義時とは臣下なれども其の
07 頂には・やどり給ふ正直なる故か、 此れを以て思うに法華経の人人は正直の法につき給ふ故に釈迦仏・猶是をまほ
08 り給ふ、況や垂迹の八幡大菩薩争か是をまほり給はざるべき、 浄き水なれども濁りぬれば月やどる事なし、 糞水
09 なれども.すめば影を惜み給はず、濁水は清けれども月やどらず.糞水は・きたなけれども・すめば影を・をしまず、
10 濁水は智者・学匠の持戒なるが法華経に背くが如し、 糞水は愚人の無戒なるが貪欲ふかく瞋恚・強盛なれども法華
11 経計りを無二無三に信じまいらせて有るが如し、涅槃経と申す経には法華経の得道の者を列ねて候にコウロウ蝮蠍と
12 申して糞虫を挙げさせ給ふ、 竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給うにコン虫と申して糞虫を仏になす等云云、又涅
13 槃経に法華経にして 仏になるまじき人をあげられて候には 「一闡提の人の阿羅漢の如く、 大菩薩の如き」等云
14 云、 此等は濁水は浄けれども月の影を移す事なしと見えて候、 されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり
15 給うとも、 法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき、 我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、
16 八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり、疑い給う事なかれ・疑い給う事なかれ、恐恐謹言。
17       十二月十六日                         日蓮花押
18     四条金吾殿女房御返事
-----―
 したがって、八幡大菩薩は百王の頂にやどると誓ったけれども、人王八十一代安徳天皇・八十二代後鳥羽天皇・八十三代土御門天皇・八十四代順徳天皇・八十五代東一条天皇等の五人の天皇の頂にはすまれなかった。諂曲の人の頂である故である。
 源頼朝と北条義時は臣下であっても、その頂にはやどった。正直の人であったがためである。
 これらのことをもって思うに、法華経を信ずる人々は、正直の法についているので、釈迦仏さえもこれを守って下さる。いわんや釈迦如来の垂迹である八幡大菩薩がどうして正直の人を守らないはずがあろうか。
 浄い水でも、濁れば月がうつらない。糞水でも澄めば月は影をうつすのである。濁った水は清くても月は宿らないし、糞水は汚いが澄めば月影はおしまず宿るのである。ちょうど、濁水は智者や学匠の、戒を持っている人が法華経に背いているようなものである。これに対し糞水は、愚人で戒律をもたない人が、貪欲ふかくいかりの心が強くても、法華経だけを唯一と信じているようなものである。
 涅槃経という経文には、法華経によって成仏したものを列記して、蜣蜋の虫、まむし、さそりといってきたない虫を挙げている。竜樹菩薩は法華経の不思議の力をあらわすのに、昆虫といって糞虫でも仏にすることができる等といっている。また涅槃経には法華経によっても仏になれない人をあげるのに「一闡提の人で、阿羅漢のように、また大菩薩のように立派そうに見える者」といっている。
 これらは、濁った水は清くても月の影をうつさないのと同じことである。
 故に八幡大菩薩は、不正直をきらって天にのぼられたのであるが、法華経の行者を見ては、どうしてその影を映すことをおしまれようか。
 我が一門は深くこの真理を信じていきなさい。八幡大菩薩は、ここ日蓮の一門のいる所にいらっしゃるのである。疑ってはいけない。恐恐謹言。
  十二月十六日           日 蓮  花 押
   四条金吾殿女房御返事

安徳天皇
 (1178~1185)。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁。母は平清盛の息女徳子である。治承4年(1180)3歳で第81代の天皇に即位。源氏に追われる平氏に擁されて西海に落ち寿永4年(1185)壇ノ浦で入水。文治3年(1187年)安徳天皇とおくり名された。大聖人は平家は真言によって源氏調伏の祈りを行なったためわが身を滅ぼしたと真言亡国の例に引用されている。
―――
隠岐の法皇
 後鳥羽天皇(1180~1239)のこと。高倉天皇の第4皇子。鎌倉幕府を倒そうと企て、承久3年(1221)倒幕の命を下したが、逆に幕府の軍勢にやぶられて隠岐に流された。この戦を承久の乱という。このとき、上皇は真言僧に北条氏調伏の祈禱をさせている。
―――
阿波
 土御門天皇(1196~1231)のこと。後鳥羽天皇の第一皇子。母は承明門院源在子。承元4年(1210)16歳で皇弟・順徳天皇に皇位を譲り、土御門院と称した。承久の乱後、土佐に流されが、後に阿波に移された。
―――
佐渡
 順徳天皇(1197~1242)のこと。後鳥羽天皇の第三皇子。母は藤原範季の娘、修明門院重子。後鳥羽院とともに、承久の乱を企てたが敗北、佐渡へ流された。以後21年間配所に在し、仁治3年(1242)没した。
―――
東一条
 仲恭天皇(1218~1234)のこと。順徳天皇の第4皇子。母は太政大臣藤原良経の女、立子。誕生後一か月で皇太子となり、承久3年(1221)4月、後鳥羽上皇の討幕計画の一環として父・順徳天皇の譲位により即位。この時わずかに4歳であった。乱の平定後、幕府からの強要により在位わずか70余日で後堀河天皇に譲位。その後、九条院に住み、九条廃帝などと呼ばれる。なお東一条天皇と呼ばれるのは、母の立子が東一条院に住んでいたためであり、仲恭天皇の諡号は、明治3年(1870)に贈られたものである。
―――
諂曲
 自分の意思をまげてこびへつらうこと。弱者に対しては驕り高ぶり、強者に対しては、こびへつらう修羅の本性をいう。世間的欲望や恐れから正義を尊ぶ心を捨てて強者や世間の意思に従うこと。
―――
頼朝
 (1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
―――
糞水
 糞の混じった汚い水。末法の三毒強盛の凡夫をいう。
―――
濁水
 濁った水のことで、謗法の人をいう。
―――
持戒
 「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――
無戒
 「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
―――
瞋恚
 怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
―――
無二無三
 二もなく三もないという意味で、唯一を意味する。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
蜣蜋蝮蠍
 蜣蜋は糞虫、黄金虫のこと。好んで人畜の糞を転がして丸くし、卵をその中に産む。この故に糞虫という。蝮はまむし、蠍はさそりのこと。
――――――――
 さらに幾つかの観点から八幡大菩薩がいかなる人を守るかということについて示し、正しい仏法への信心をすすめられている。
 最初の例は、源氏と平家の戦いから、平家に擁立された安徳天皇が、敗北して壇の浦に入水したことである。「百代の王を守る」という八幡の誓いどおりであるならば、八十一代である安徳天皇は八幡大菩薩に守られなければならないはずである。ところがあのような無残な敗北に終わったのは、八幡の加護がなかったといわざるを得ない。そして、むしろ、それに敵対した源氏――天皇と較べれば臣下である源頼朝にこそ八幡の加護があらわれている。
 これは、同じく八幡の誓いであっても「百代の王を守る」という点よりも「正直の頂にやどる」という方が強いことを物語っている。同じことは、承久の乱で、後鳥羽、土御門、順徳さらに仲恭と4人の天皇と、臣下であり武家である北条義時とが争ったケースについてもいえる。4人の天皇は82代から85代であるから、当然、八幡が誓った百代までの内に入っているにもかかわらず、あっけなく破れ、隠岐、土佐、佐渡と辺地へ流されてしまったのである。
 「法華経兵法事」に、将門の例をあげて、知勇兼備の将門も〝王命〟には負けたと仰せであるが、いま本抄に述べられていることを考え合わせると、「法華経兵法事」の仰せも、決して大聖人が天皇の権威を絶対化されて言われたのではないことがわかる。
 ところで、では、本抄でいわれる正直とは何か、ということを考えてみなければならない。前章でも少しふれたが、正直には、自分に対して正直であるという場合と、一つの真理、法に対して正直であるという場合とがある。そして、真理・法には、次元の浅い視野の狭いものから、次元が深く視野の広いものへ、無限に段階がある。したがって、最も深く広大な真理・法に対して正直である人が、究極的には勝利を得るのである。
 いま、源頼朝と平氏および安徳天皇、北条義時と後鳥羽院等の場合、天皇方は真言師に祈禱をさせたことが破北の因であったと、大聖人も諸御書で指摘されている。これは、仏法の信仰における〝不正直〟は、他のいかなる要因よりも深く、強い、という真理を示されているのである。つまり、彼らの拠りどころとした真言の法は、仏法を著しく歪曲した不正直の法であり、故に、それに祈る人もまた不正直になるわけである。
 ただし、天皇方や平氏も、正直の法である法華経を尊重しなかったわけではない。また一方の頼朝や義時が、法華経に特に信を置き、他の宗派と無関係であったということもできない。ごく常識的にみれば、安逸になれた天皇たちや平家の戦力・戦闘意欲と、それに対し、日ごろ厳しく鍛えた武士団を結集した源氏や北条氏とでは、最初から勝負は決まっていたともいえよう。
 それにもかかわらず、大聖人は、なぜこれを八幡の加護という問題の例としてあげられたのか。それは、一つは、八幡の力といっても、その主体者の生命の発動力とは別に存在するものではないということであり、一つは、正直ということが、単に正しい宗教を信ずることだけでなく、正しい信仰を基底としてそこから出てくる生き方や考え方、行動の仕方が正しく道理にのっとっていることであるという事実を示しているのである。
濁水は智者・学匠の持戒なるが法華経に背くが如し。糞水は愚人の無戒なるが、貪欲ふかく瞋恚強盛なれども、法華経計りを無二無三に信じまいらせて有るが如し
 「浄き水なれども濁りぬれば月やどることなし」とあるように、この濁水とは、もともとは清らかな水である。その水の中に泥が粒子となって混じっているのが〝濁水〟である。もともと生命自体は清らかであっても、法華経に背き、不信・謗法という泥が入り〝濁水〟となれば、仏界の生命の〝月〟は、ここに影を映さないとの仰せである。
 それに対して〝糞水〟とは〝糞尿〟であって、それ自体、汚い水である。これは、三毒強盛の生命をいう。だが、この糞水のような凡夫の生命も、澄めば、仏界の生命の〝月〟を映すことができる。すなわち、凡夫の生命そのままで、成仏するというのである。
 この譬喩は、三毒というものが生命それ自体の本質から出ているのに対し、妙法への不信は、生命自体からではなく、外から入りこんできたものであることを示している。また成仏ということが、生命それ自体の清濁によるのでなく、不信・謗法という異物が混入しているかどうかによることをもあらわしている。
 この文について考え違いしてならないことは、智者・学匠は成仏しがたく、三毒強盛の凡夫は成仏しやすいということをいわれているのではないということである。智者・学匠の、もともと清らかな生命に、法華不信の泥が混じらなければ、これほどすばらしいことはない。凡夫の〝糞水〟に泥が混じれば、これほど無残なことはない。しかも、貪・瞋・癡の三毒は、仏法への不信・謗法の泥ときわめて結びつきやすいのである。
 ここは、ただ、仏界の月影を宿すか否かのポイントがどこにあるかを明示し、たとえ、三毒強盛の凡夫であっても、妙法を一途に信ずれば、仏界の月影を映し、即身成仏することができるという原理を教えられているのである。仏界の生命が本で、八幡の力はその迹であるから、八幡大菩薩の力がどのような人にあらわれるかということも、当然、明らかであろう。
 そして「我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし。八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり」と結ばれているように、一国謗法の故に八幡宮は焼け、権力者の上からは八幡は去っているけれども、妙法を信じ実践する人の上には、厳然として常住し加護していると信ずべきである。このことは、さらに掘りさげていえば、八幡といっても、よそにあるものではなく、妙法を信じた場合、その生命の反映として、おのずとあらわれてくる力にほかならないということなのである。

1198~1198    四条金吾殿御返事(八日御書)top
1198
四条金吾殿御返事    弘安五年正月    六十一歳御作
01   満月のごとくなるもちゐ二十・かんろのごとくなる・せいす一つつ・給候い畢んぬ、春のはじめの御悦びは月の
02 みつるがごとく・しをのさすがごとく・草のかこむが如く・雨のふるが如しと思し食すべし。
03   抑八日は各各の御父・釈迦仏の生れさせ給い候し日なり、 彼の日に三十二のふしぎあり・一には一切の草木に
04 花さき・みなる・二には大地より一切の宝わきいづ・三には一切のでんぱたに雨ふらずして水わきいづ・四には夜変
05 じてひるの如し・ 五には三千世界に歎きのこゑなし、 是くの如く吉瑞の相のみにて候し、是より已来今にいたる
06 まで二千二百三十余年が間・吉事には八日をつかひ給い候なり。
07   然るに日本国.皆釈迦仏を捨てさせ給いて候に・いかなる過去の善根にてや.法華経と釈迦仏とを御信心ありて・
08 各各あつまらせ給いて八日をくやう申させ給うのみならず・ 山中の日蓮に華かうを・をくらせ候やらん、 たうと
09 し・たうとし、恐恐。
10       正月七日                        日蓮花押
11     人人御返事
-----―
 満月のようなお供え餅二十、甘露のような清酒一筒いただきました。
 春のはじめの御悦びは、月が満ちるごとく、潮がさすごとく、草木が茂るごとく、雨が降るごとくめでたいものであると考えていきなさい。
 そもそも、八日は、人々にとって御父である釈迦仏が御誕生なされた日である。その四月八日には三十二の不思議な現象があった。一には、一切の草木に花が咲き果がなった。二には、大地から一切の宝が湧き出た。三には、一切の田畠に雨が降らないで自然に水が湧き、四には、夜が昼のごとく明るくなり、五には、三千世界どこにも嘆きの声はなかった。その他いずれもこのような吉瑞の相ばかりであった。それ以来今日に至るまで二千二百三十余年の間、吉事には八日が使われたのである。
 ところが今の日本国の人びとは皆釈迦仏を捨てているのに、あなたがたは、どういう過去の善根によって、法華経と釈迦仏とを信仰され、皆が集まって八日を供養されるばかりでなく、山中にいる日蓮にまで香華を供養されたのであろうか。まことに尊いことである。恐恐。
  正月七日            日 蓮  花 押
   人人御返事

かんろ
 梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。
―――
彼の日に三十二のふしぎあり
 釈迦が生まれる時に起こった三十二種の瑞相、仏説太子瑞応本起経に、三十二種をあげている。
   ① 地が大きく揺れ動き、地面の帰伏が平らになる。
   ② 大地より自然と香がわく。
   ③ 自然界の草木の中の枯木がみな華葉を生じる。
   ④ 苑園が自然と甘菓を生じる。
   ⑤ 陸地に大きな蓮華が咲く。
   ⑥ 地中にうずまった茂が芽を出す。
   ⑦ 茂が宝物のごとく開き現じる。
   ⑧ たんすの中の衣が外に出て、着物掛に掛る。
   ⑨ 一切の川は、ゆるやかに流れ、清く澄んでいる。
   ⑩ 風はやみ雲は消えて晴天となる。
   ⑪ 天上よりたくさんの香が雨ってくる。
   ⑫ 明月が殿堂の上に懸かる。
   ⑬ 宮中の灯は昼の如く明るく、火をともさない。
   ⑭ 日月星辰は皆輝きとどまっている。
   ⑮ 星が下りて、釈尊のまわりを守り照らす。
   ⑯ 梵天・帝釈の諸天善神が宮上をおおう。
   ⑰ 八方の善神が釈尊に宝を献上しに来る。
   ⑱ 天の百味の食が在前する。
   ⑲ 宝の甕の口が、すべて甘露をつくる。
   ⑳ 天神が七宝をつんだ車をひいてくる。
   ㉑ 五百の白象の子が殿前に列なる。
   ㉒ 雪山の五百の白師子の子が城門の前に列なる。
   ㉓ 天の諸の婇女が妓女の肩の上に現ずる。
   ㉔ 諸の竜王女が宮の廻りをめぐる。
   ㉕ 天の一切の玉女が孔雀の尾を取って宮上に現ずる。
   ㉖ 天の諸の婇女が金瓶を持って香汁を盛り、空中に列座して侍す。
   ㉗ 天より音楽がかなでられる。
   ㉘ 地獄の苦しみはそのときとまる。
   ㉙ 毒虫は隠れ伏して、吉鳥がはばたき鳴く。
   ㉚ 漁・猟師の餌物を取る心が一時慈悲心に変わる。
   ㉛ 境内の妊婦は男子を生み、聾・盲・瘖その他一切の疾病は皆悉く治癒する。
   ㉜ 樹木が人と現じて、低く、礼をする。
―――
吉事
 縁起がよいこと。
―――
善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――――――――
 大聖人が入滅される年の正月にしたためられたお手紙で、あて名は「人人御返事」となっている。おそらく、鎌倉在住の信者の人たちが一月八日に集まって、正月の祝いをする旨を四条金吾が大聖人に申しあげたのであろう。これは四条金吾の、正月の御供養に対する礼状であると共に、その集まりに対するメッセージのような性格をもっていたのかも知れない。
春のはじめの御悦びは月のみつるがごとく、しをのさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと思食すべし
 年の初めにあたって、人間は、全てが蘇り、新しい生命の息吹きをもって躍動するとしてきた。そして、この蘇生のとき、新しい出発のときにあたって、それを心からの悦びをもって始めるということは、その一年の生活を豊かにし幸せにする根源と考えたのであろう。
 現実的にいえば、その一年の良否を決するのは、ある意味で最後の仕上げであるといえるが、少なくとも、心がまえと、一年に臨む生命の力の躍動という点でいえば、年の初めが重要であるといえよう。年の初めを、真に悦びをもってスタートすることができれば、月が日を追って大きくなり満月になっていくように、潮がさして満潮になっていくように、草が次第に繁殖して囲んだ空地を埋め尽くすように、また雨が降って、それによって万物が生気を得て栄えるように、その年頭の悦びの一念がその後の全てに生気と福運をもたらしていくと教えられているのである。
 こういった考え方に対し、合理主義者は、観念にすぎないとして、しばしば排斥しがちであるが、あらゆる民族、あらゆる文化を問わず共通にうけつがれてきた人間の知恵であり、今日では、深層心理学等によって、その有効性が認められていることでもある。永遠の時の流れの中に区切りを設け、気分を一新し、生気を蘇らせる節とすることは、いかなる時代になったとしても、変わらず受けつがれていくことであろう。
抑八日は各各の御父釈迦仏の生れさせ給い候し日なり
 インドの釈迦仏を「各各の御父」といわれているのは、浄土宗が隆昌を誇り、日本中の人々が阿弥陀如来を父のように崇めて釈迦を忘れている時代であったが故に、権実相対の立場から、釈迦を立てられたと考えられる。
 また、再応考えれば、もとより末法の御本仏は日蓮大聖人であり、我らは大聖人をこそ主師親の三徳を具備した救済主と尊び、本仏と知る弟子であれば、2月16日の大聖人の御生誕日こそ祝うのはまた当然のことである。