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日蓮大聖人御書講義271264~1283
三位房について
1264~1264 御輿振御書
1265~1273 法門申さるべき洋の事(各宗教義事)
1265:01~1265:10第一章釈尊は一切衆生の慈父なるを示す
1265:11~1266:04第二章浄土三部経は方便の経なるを示す
1266:04~1266:13第三章不孝者の住処は阿鼻地獄なるを説示
1266:13~1267:07第四章不孝者は五逆謗法なるを説く
1267:08~1267:12第五章爾前の諸経流布の疑難を破す
1267:13~1267:15第六章台家の称名念仏への非難を正す
1267:16~1268:02第七章日蓮は念仏を称えぬ理由を明示
1268:03~1268:13第八章京風に媚びる三位房を厳誡
1268:14~1268:18第九章諸宗の祈禱の効験なきを示す
1269:01~1269:06第十章諸宗の謗法の所以を明かす
1269:07~1269:14第11章権実雑乱で衰亡する叡山を責む
1269:15~1270:09第12章諸宗は無得道・堕地獄の経釈を示す
1270:10~1271:03第13章真言の宗名削除の証文を示す
1271:04~1271:12第14章叡山の謗法が正法の滅失を招く
1271:13~1272:03第15章念仏・禅に下った台密の非難を糺す
1272:04~1272:11第16章一国謗法が蒙古による国難招く
1272:11~1273:05第17章正直の者と安国の方途を示す
1265~1273 法門申さるべき様の事 1977:09月号大白蓮華より。先生の講義
1273~1276 十章抄
1273:01~1273:06第一章止観に対する曲解を破す
1273:06~1274:06第二章止観の正意と大意とを明かす
1274:06~1274:12第三章真実の円の行を明かす
1274:12~1275:08第四章叡山の念仏行を破し謗法の因を明かす
1275:09~1276:02第五章能開・所開をもって念仏を破す
1276:03~1276:07第六章訴訟について報告される
1276~1283 教行証御書
1276:01~1277:04第一章三時の教・行・証を明かす
1277:05~1278:04第二章妙法が末法万年に流布するを示す
1278:05~1278:14第三章爾前経に得道ありとの義を破す
1278:15~1279:02第四章真言宗の邪義を責める
1279:03~1273:09第五章念仏の邪義を責める
1279:09~1280:01第六章現証を示して諸宗の謗法を明かす
1280:02~1281:04第七章法華経の得益の大なるを示す
1281:05~1281:10第八章自法愛染との非難を破す
1281:11~1282:09第九章律宗の良観の邪義を破す
1282:09~1282:16第十章末法の金剛宝器戒を明かす
1282:17~1283:05第11章末法に教行証具備の正法流布を示す
1283:06~1283:12第12章問答の心構えを教えて結す
三位房についてtop
三位房は、御書によっては三位公、三位殿、三位阿闍梨、三位などと呼ばれる。下総国(千葉県)の出身といわれ、早くから大聖人の門下に入ったと伝えられる。弁阿闍梨日昭、日興上人、大進阿闍梨などとともに門下の中で重きをなしたといわれ、日興上人の駿河弘教の補佐や諸宗問答の重責を命ぜられて活躍した。しかし、才智におぼれ、ともすると大聖人の指導に背くことがあり、たびたび訓戒を受けていた。熱原法難のころ退転し、不慮の死を遂げたと伝えられる。以下、御書の御文をもとに、その生涯を略説する。
三位房の出生、及び入門
三位房の生い立ち、家柄などについては、信頼できる文献、資料が少なく、更に俗説などが加わって種々の説があり、明らかではない。
一説には、皇后宮大進清原真人行清の末裔で下総国葛飾郡に住む大野右衛門大夫清原政清の子息であり、曾谷二郎兵衛尉教信の弟といわれ、また兄が大進阿闍梨であるといわれる。
また一説には、土岐左衛門尉光行の子で、富木常忍の弟であり、曾谷教信の義弟となって出家したと伝えられる。
これらはいずれも確証がなく、とくに清原政清と曾谷教信、土岐光行と富木常忍の関係には不審な点が多く、また三位房についても、後述のように、三位房日進との混同もみられる。
しかし、富木常忍に与えられた四菩薩造立抄には、常忍から三位房が死去した報を聞かれ「日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ」(0989-14)と仰せられていることから、富木常忍と三位房とは、なんらかのつながりがあるように思われるのである。
生年及び大聖人との出会いの時期についても明らかなことは分からない。しかし、文永9年(1272)の弁殿御消息には「辧殿・大進阿闍梨御房・三位殿」(1224-04)と仰せられ、建治2年(1276)の弁殿御消息には「ちくご(筑後)房・三位・そつ等をば……」(1225-15)と仰せられ、同年の光日房御書には「これよりそれへわたり候三位房・佐度公等に……」(0931-12)と仰せられている。弁殿とは日昭、筑後房とは日朗、佐度公とは日向のことである。
大聖人が弟子の名を記されるにあたっては、やはり、入門順とか、年齢順とかによって書かれると思われるが、これらの御文で見ると、三位房は日昭、日朗の後輩であり、しかも日向よりは先輩に当たると考えることができる。
ところで、日朗、日向の生年、入門の時期をみると、日朗は寛元3年(1245)の生まれで、建長6年(1254)に入門と伝えられ、日向は建長5年(1253)の生まれで、文永元年(1264)に入門したと伝えられる。ともに10歳前後で入門していることになる。
三位房もまた、10歳前後で入門したとするならば、宝治年間から建長年間の初めにかけて生まれ、建長年間の後期から弘長年間にかけて入門したと考えることができる。そうすると文永5、6年(1268、9)の叡山遊学は20歳前後となり、建治3年(1277)の桑ヶ谷問答の時は三十歳前後となるわけである。
これらは、もとより推測の域を出るものではない。しかし明らかにすべき資料も見いだせないため、一つの推論として述べておく。
叡山遊学と三位房
三位房は、入門以来、大聖人のもとにあって修学に励んでいたが、その後、比叡山延暦寺に遊学した。遊学の時期は明らかではないが、文永6年(1269)の御述作とされる「法門申さるべき様の事」に「のぼりていくばくもなきに……」(1268-10)と仰せられていることから、文永五年の終わりか、文永6年の初めと思われる。
比叡山に登って間もなく、京都の公家に招かれ持仏堂で説法をした。遊学して間もない期間にそういうことがあったということは、三位房の学才がいかに優れていたかを物語るものといえよう。しかし、その半面、公家に招かれて説法したことを喜ぶような、名聞を尊ぶ心があり、そうした虚栄心を大聖人は厳しく叱責されている。
すなわち、このときの御手紙、法門申さるべき様の事には「御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・かへすがへす不思議にをぼへ候、そのゆへは僧となりぬ其の上一閻浮提にありがたき法門なるべし……其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし、長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上・面目なんど申すは・旁せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか、総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな」(1268-01)と仰せられて慢心と権勢に媚びた姿勢を厳しく叱責され、日蓮大聖人の弟子として一閻浮提第一の大法を受持した僧たる自覚をもって修学に励むよう戒められている。
その後、文永8年(1271)の十章抄によると「この文を止観よみあげさせ給いて後ふみのざの人にひろめてわたらせ給うべし」(1276-01)と仰せになっているように、三位房は、叡山の学僧の中にあって、摩訶止観を講読する講座に出席しており、しかも止観を講読した後、同席の学僧に、末法における止観行について説くことのできる立場にあったことがうかがわれるのである。
そして次下に「止観よみあげさせ給はばすみやかに御わたり候へ」(1276-01)と、摩訶止観の購読の終了後は、直ちに鎌倉に帰るよう促されていることから、三位房は、十章抄を賜ってからしばらくの後、3年余りの叡山遊学を終えて鎌倉の大聖人のもとに帰ったと思われるのである。
なお、三位房の叡山遊学の時期については、古来より、文永元年(1264)にはすでに遊学していたとの説があった。これは、従来、文永元年(1264)の御述作とされた御輿振御書が、叡山遊学中の三位房に賜った御消息といわれていたからである。しかし、御興振御書については、御述作年代に永2年(1265)、文永6年(1269)年などの諸説があり、いただいた人としても三位房以外の当時叡山に遊学していた弟子、当時在京の檀信徒などの説があった。それらの説を踏まえれば、御興振御書との関連で、三位房が文永元年にはすでに叡山に遊学していたとすることはできない。
大聖人佐渡御流罪中の三位房
文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人の御一代において、最も重要な意義をもつ竜の口法難が起きた。平左衛門尉頼綱が松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を捕らえて竜の口で斬罪に処せんとしたのである。下山御消息に「去る文永八年九月十二日に都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」(0356-17)と述べられているごとく、この事件は、最初から大聖人を亡きものにしようとする企てであった。
この最大の法難に「三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば同罪に行はれて頚を・はねらるべきにてありしは身命を惜むものにて候かと申されしかば」(頼基陳状・1156-09)と述べられているように、大聖人の供奉の一人として、自らも頚を刎られる覚悟で竜の口の刑場にお供をしたのである。
そして大聖人が佐渡御流罪中は、鎌倉にあって門下の中心の一人として、信徒の教化・指導にあたっていたと思われる。文永9年(1272)7月26日に御述作された弁殿御消息には、末尾に「辧殿・大進阿闍梨御房・三位殿」(1224-04)と宛名されている。しかもその時、「他人の御聴聞なからん已前に御存知有るべし、総じては・これよりぐして・いたらん人にはよりて法門御聴聞有るべし」(1223-02)と、門下の中心である三位房などが、他の門下の人々より後れをとるようなことがあってはならないと、佐渡の大聖人から直接に法門について伺った人々から、求道心をもってよく聴くようにしなさい、との慈愛あふれる御指導をされている。
日蓮大聖人身延入山以後の三位房
日蓮大聖人は、佐渡流罪を赦免されて文永11年(1274)3月26日、2年6か月ぶりに無事に鎌倉に戻られた。そして4月8日には、平左衛門尉頼綱と対面され、三度目の諌暁をされた。しかし、幕府がついに用いないので「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(下山御消息・0358-04)と仰せのように、5月12日に鎌倉を出られて、17日に身延へ入山された。
三位房もまた、供奉の一人として身延に入山し、その後は、大聖人のもとにあって修学に励むとともに、大聖人の命を受け、各地に教化・弘教に赴いていた。
文永12年(1275)3月には鎌倉にあって、諸宗問答の風評があったため、その準備に励んでいたようである。
翌建治2年(1276)3月には、大聖人の故郷である安房にあって光日房などの教化に努めている。光日房御書には「これよりそれへわたり候三位房・佐度公等にたびごとに・このふみを・よませてきこしめすべし」(0931-12)と述べられている。
同7月には鎌倉にあって、日朗らとともに弘教に励んでいる。その折、大聖人は日昭に弁殿御消息を送られ、そのなかで「ちくご(筑後)房・三位・そつ等をば・いとまあらば・いそぎ来るべし・大事の法門申すべし・とかたらせ給え」(1225-15)と仰せられている。
この年の年末、今度は駿河国(静岡県)松野に住む松野六郎左衛門のもとに遣わされている。12月九9日付の松野殿御返事には「此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし」(1383-05)と述べられている。若年ながらも三位房の指導者としての力量を認められ、大きな信頼を寄せられていたのである。
更に翌建治3年(1277)3月には、富士の南方・賀島にも派遣されている。六郎次郎殿御返事には「明日三位房をつかはすべく候、その時委細申すべく候」(1464-02)と述べられている。この御消息を与えられた六郎次郎と六郎兵衛については、詳細は明らかではないが、富士郡賀島にいた高橋六郎次郎と、同じく賀島にいた太田次郎兵衛であろうといわれている。
当時、駿河国賀島周辺では、日興上人の指揮のもとに折伏・弘教が進められていた。とくに熱原の滝泉寺の僧や多くの農民信徒が改宗するに及んで、滝泉寺の院主代行智をはじめ、正法流布を快く思わない僧侶らが、正法に改宗した僧侶や信徒に対して種々の迫害を加え始めていた。
こうした状況のなかにあって、三位房は、日興上人の駿河弘教の手助けとして派遣されたとも考えられる。
同年六月には再び鎌倉に赴いている。この時には、後になって桑ヶ谷問答と呼ばれる法論対決を行い、天台僧・竜象房をたちどころに論破するという活躍をしている。
このようにみてくると、この時期、三位房は大聖人の意を受けて、あるときは安房へ、鎌倉へ、松野へ、賀島へと縦横無尽の活躍をしている。大聖人がどれほど三位房の力量を認められ、重用されていたかがうかがわれるのである。
諸宗問答と三位房
建治元年(1275)から2年にかけて、鎌倉で、真言の僧侶と大聖人の門下との間で法論対決が行われるという世評がしきりに広まっていたようである。建治2年1月に御述作の清澄寺大衆中には「是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す……今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893-02)と述べられ、同年七月の報恩抄送状には「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに……」(0330-05)と述べられている。
大聖人は、公場対決によって、仏法の邪正が決せられれば、まさに日本国一同が正法に帰するであろうと大いに期待され「十方にわかて経論等を尋ねしゆへに国国の寺寺へ人をあまたつかはして」(0330-06)と述べられているように、各地に門弟を遣わして諸経論を集められるなど、法論に備えられていたようである。
このような状況のとき、文永12年(1275)3月、三位房は鎌倉にあって、法論において予想される論難、教義上の争点などを考え、それに対する破折の要点を準備し、それらをまとめて、身延の大聖人に御指南を仰いだのである。
それに対して、大聖人は教行証御書を認められ、質問の一つ一つに答えられながら、諸宗破折の仕方、問答法論の際の心構えなど、具体的に御教示されている。なかでも、法論に入った場合は「兼兼申せしが如く日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(1282-02)と、勇気と確信をもって、堂々と法論すべきであることを教えられている。相手に社会的地位、名声があったとしても、臆することなく、あくまでも毅然とした姿勢を貫くべきであると仰せられている。
とくに、三位房は、法門申さるべき様の事からもうかがわれるように、世俗の権力、社会的な地位・名声に対して弱い性格を持っていたため、断じて臆病であってはならないと、強く激励されたものと思われるのである。
そのうえ、公場における態度や言葉遣いについては、「和らかに又強く両眼を細めに見・顔貌に色を調へて閑に言上すべし」(1280-01)、また「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅猨しき事なるべし」(1283-09)と、悪口雑言したり、自慢気な態度をとるのではなく、どこまでも慎み深く相手に向かうべきことを指導されている。
最後に宛名は「三位阿闍梨御房」と記されており、三位房が自信をもって法論に臨めるよう、阿闍梨号を授けられたとも拝察される。
しかし、この真言師との法論は、実現しないまま消滅してしまったようである。
なお、教行証御書には系年に異説があり、建治3年(1277)か弘安元年(1278)の御述作との説もある。この説によれば桑ヶ谷問答で力量を証明した三位房に対し、このころ起こってきた公場対決の可能性に備え、三位房を選ばれ、法論にあたっての御指示を与えたものとも考えられる。
桑ヶ谷問答と三位房
建治3年(1277)6月9日、鎌倉の桑ヶ谷において、三位房と天台僧の竜象房の法論が行われた。
竜象房は、もと比叡山延暦寺の堂搭内に住んでいた天台宗の僧であった。しかし、真言密教の修法として人肉を食し、そのために延暦寺の衆徒によって住房を焼かれ、所を追われたのである。天台座主記の建治元年4月27日の項に「山内の衆徒群り下りて東光寺に集会し、公友ならびに犬神人を差し遣わし、竜象上人の住房を焼き払い、中山の住房は犬神人等これを破取す」とある。また頼基陳情には「彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪鬼・国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に自然に逃失し行方を知らざる処にたまたま鎌倉の中に又人の肉を食の間・情ある人恐怖せしめて候」(1159-02)と述べられている。
この御文によると、竜象房は、叡山を逃れ鎌倉に入ってからも、人目を忍んで人肉を食し、心ある人々に恐れられていたようである。
しかし、極楽寺良観の後援を得て、鎌倉大仏殿の西にある桑ヶ谷に住して、日夜人々に説法していた。竜象房は「現当の為仏法に御不審存ぜむ人は来りて問答申す可き」(頼基陳状・1153-06)と公言してはばからず、次第に鎌倉の人々から尊ばれ、ついには釈尊の再来であるとまで仰がれていたという。
このころ三位房は、鎌倉・駿河を中心に弘教していたが、竜象房の噂を聞くと、今こそ竜象房の邪義と慢心と悪行を明らかにし、もって正法を宣揚せんものと、竜象房に法論を挑んだのである。
三位房は、建治3年6月9日、四条金吾を訪ねて「問答に及ぶ人なしと風聞し候、彼へ行き向いて問答を遂げ一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思い候、聞き給はぬか」(1153-07)と誘ったが、このとき、金吾は公用のため同行できず、後から行くことになり、三位房は単身桑ヶ谷の竜象房の法座に出かけていった。
竜象房は、このときも説法のなかで「此の見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらる可く」(1153-11)と公言した。そこで三位房が立って、道筋を立てて仏法の道理を質問したのである。しばらく問答が続いたが、所詮、勝敗は明らかであった。竜象房は、初めは言を左右に言い逃れしていたが、三位房の理論整然とした指摘に次第に顔色を変え、ついには一言も返答ができなくなった。三位房によって徹底的に破折されてしまったのである。
聴聞していた一座の人々は、歓喜し、掌を合わせて、帰ろうとする三位房を「今暫く御法門候へかし」(1157-01)と押し留めるほどであった。
この法論の話は、たちまち鎌倉中に広まった。敗れた竜象房は悔しがり、良観に泣きついて大聖人の門下を鎌倉から追い出そうと謀った。このため桑ヶ谷問答に同席していた四条金吾は、同僚などからの種々の圧迫や主君からの迫害を受け、厳しい状況に立たされることになった。
問答から十四日余りの後、四条金吾の主君・江間入道は、四条金吾に対して下し文を出し、法華経の信仰を捨てる起請文を書くように命じ、もし起請文の提出を拒むならば、所領を没収する旨申し渡したのである。桑ヶ谷問答のとき、四条金吾などが徒党を組み、武装して法座に乱入したとの理由からであった。
金吾は直ちに事の経緯と、起請文は書かないとの固い決意を述べた誓状をしたため、主君からの下し文とともに身延の大聖人のもとに送り、指導を仰いだ。
金吾からの報に接した大聖人は、金吾の健気な決意、強盛な信心を感じられ、直ちに主君の下し文に対する陳状の案文(頼基陳状)を認(したた)められ、激励の御手紙とともに金吾に送られたのである。
この四条金吾殿御返事には「陳状は申して候へども又それに僧は候へども・あまりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に・いまだ所労きらきらしく候はず候へば・同事に此の御房をまいらせ候」(1164-04)と述べられている。この御文を拝すると、三位房は桑ヵ谷問答の直後、大聖人に事後の報告のためか、身延に帰ったが、その後、病にかかり、病状ははかばかしくなかったようである。
不慮の死を遂げた三位房
三位房のその後の行動については、明らかではない。それまでは各地に転教するなどの活躍をし、御書のなかにも頻繁にその名が見えていたが、建治3年(1277)7月以降は、諸御書にも名が出てこないのである。
そして約1年2か月あまり後の弘安元年(1278)9月15日に御述作されたといわれる四条金吾殿御返事には、大進阿闍梨の死去のことを述べられた後に「三位房が事さう四郎が事・此の事は宛も符契符契と申しあひて候」(1182-08)と述べられているのである。
三位房の身に何か変事が起きたようである。大聖人にとっては、以前から何かを感じておられ、御心配であったようである。三位房がともすると慢心となり、名聞名利に陥りやすく、社会的権威に弱い面があることを御心配されていたのではないかと思われる。そのことが表面化したので、皆が「符契を合わせたようだ」と語り合っていたのであろう。
その内容は明らかではないが、おそらく大聖人に対する師敵対となって表れたのではないかといわれている。
日興上人の駿河弘教の応援のために熱原方面に派遣されていたが、滝泉寺院主代行智らの誘惑や甘言に乗せられてしまい、退転離反の心を起こしたといわれるのである。あるいは他に予測せぬ出来事が起きたのであろうか。いずれにしても、事態は急旋回したようである。
その後、弘安2年(1279)5月に富木常忍に与えられた四菩薩造立抄には「日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ」(0989-14)と述べられている。大聖人は、三位房が死去したことを聞かれ、不憫でならないと、かつての愛弟子の死を悼み、大慈悲の御心で追善回向されているのである。
この三位房の死去の一報は富木常忍からもたらされたようであり、したがって、当時、三位房は富木常忍の身辺におり、そこで死去したと考えられるのである。おそらく、身に重大事が起きたために、故郷の下総に帰っていたのであろう。
弘安2年10月の聖人御難事には、三位房の死去に触れて「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・とのばらのをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・ぐちの人をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ、なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん、あまりにふしぎさに申さざりしなり、又かく申せばおこ人どもは死もうの事を仰せ候と申すべし、鏡のために申す又此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ候ぞ」(1191-05)と述べられている。
大聖人の弟子のなかにあって、才智にあふれ、弁舌に優れており、将来の大成を期待されていたが、生来の虚栄心、慢心に溺れる性格であったためか、ついに悪心を起こして大難にあい、不慮の死を遂げてしまったのである。まことに残念といわなくてはならない。
三位房日進らとの同異について
三位房については、古来、三位房日行と日進とがおり、しばしば混同がみられ、ために一人説、二人説と分かれ、また大進阿闍梨とも同異の説があった。
三位房日進というのは、後年、日向の後を継いだとして身延山三世を称した人物である。誕生は、日進の自筆の書と伝える玄義見聞集によると、文永8年(1271)といわれている。そうであれば、建治3年(1277)の桑ヶ谷問答の時は、六歳余ということになる。
日進は、初め日心と称し、後に日真、更に日進と改めたという。三位公大進阿闍梨とも称した。ゆえに後世、三位房日行と混同されたと考えられるのである。
更に大進阿闍梨との同異についても、弘安元年(1278)9月15日に認められたとされる四条金吾殿御返事には「又大進阿闍梨の死去の事……三位房が事……」(1182-02)と明確に区別されておられる。しかも、大進阿闍梨は、この御文によれば、弘安元年9月頃に死去しているのである。それに対して三位房は、四菩薩造立抄によれば、弘安2年5月頃に死去している。四条金吾殿御返事には系年に異説があり、もしも弘安2年(1279)としても、なおかつ両者が同一人物とは考えられない。この説もまた、前述の日進との関連で生じた誤説であろう。
以上で三位房の生涯を略説した。
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| 1264 御輿振御書 文永元年三月 四十三歳御作 与三位公日行 01 御文並びに御輿振の日記給び候いぬ悦び入つて候、中堂炎上の事・其の義に候か山門破滅の期・其の節に候か、 02 此等も其の故無きに非ず天竺には祇園精舎・ケイ頭摩寺・漢土には天台山・正像二千年の内に以て滅尽せり、今末法 03 に当つて日本国計りに叡山有り三千界の中の但此の処のみ有るか、 定めて悪魔一跡に嫉を留むるか、 小乗権教の 04 輩も之を妬むか、随つて禅僧・律僧・念仏者・王臣に之を訴へ三千人の大衆は我が山・破滅の根源とも知らず師檀共 05 に破国・破仏の因縁に迷えり、 但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳・於閻浮提・広宣流布の文か、又伝教大 06 師の「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り 法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり」の釈なり、滅するは生ぜん 07 が為下るは登らんが為なり、 山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか、 事事紙面に尽し難し 早早見参を期す、 08 謹言。 09 三月一日 日 蓮 花 押 10 御返事 -----― 御文並びに御輿振の日記を頂戴し、うれしく拝見しました。根本中堂が炎上したことは、比叡山の仏法の終わったことをあらわしているのであろう。そして山門の滅亡の時がきているのかもしれない。これらのことは理由がないわけではない。インドには祇園精舎や鶏頭摩寺、中国には天台山が正法、像法二千年の間にいずれも滅尽した。今末法に当たって、日本国だけに比叡山があり、三千大千世界の中にただこのところのみとなっている。必ず悪魔がこの一処に嫉みを留めるであろう。小乗教や権教の輩もこれを妬むであろう。したがって、禅僧、律僧、念仏者は王臣にこのことを訴え、三千人の大衆は、自分の山の破滅の根源とも知らず、僧侶も檀那もともに、破国、破仏法の因縁となる邪法に迷っている。今は、ただ、たのむところは、妙法蓮華経第七の巻の「後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」の文である。また伝教大師の「正法・像法時代が次第に過ぎ去って、末法の時が非常に近づいている。法華一乗の法によって衆生に利益があるというのは、今がまさしくその時である」の釈である。滅するのは生じるため、下るのは登るためである。山門が繁昌するためにこのような留難が起きるのであろう。申し上げたいことは紙面に書き尽くしがたい。早々にお会いしたい。 三月一日 日 蓮 花 押 御 返 事 |
御輿振の日記
比叡山延暦寺の僧徒が日吉神社の神輿を担いで朝廷に強訴した事件を日記にしたものと思われる。
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中堂炎上の事
中堂は比叡山延暦寺境内の根本中堂のこと。文永元年(1264)3月23日、叡山と園城寺の抗争のなかで、四天王寺の別当を園城寺に仰せつけられたのを不服とした比叡山の僧徒が蜂起して山内に火を放った事件を指すものと思われる。但しこのとき根本中堂は焼失していない。
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山門
三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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祇園精舎
古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者(須達長者)によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
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雞頭摩寺
雞園寺、鶏林精舎、鶏寺、鶏園ともいう。中インド・魔訶陀国華氏城の東南にあった寺。阿育大王の建立といわれる。大唐西域記巻八に「故城の東南に屈屈吒阿濫摩僧伽藍あり、無憂王の建つる所なり。無憂王は初め仏法を信じてより式遵崇建して善種を修殖し、千僧を召集して凡聖の両衆に四事の供養をなし、什物を周給したり。頹毀すること已に久しきも基址はなお在り」とある。後に弗沙密多羅王が現れ、この寺を破壊し、僧を殺し、ただ仏図のみを留めたと伝えられている。阿育大王が目犍連子帝須を上首に迎えて第三回の仏典結集を行ったとされる阿育僧伽藍は、この寺をさすといわれる。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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天台山
中国浙江省台州市天台県にある山。洞栢、仏隴、赤城、瀑布などの諸峰からなり、最高峰は標高1136㍍の華頂峰。台は星の名で、その地が天の三台星に応ずるゆえに天台山と名づけたともいい、山が高くて登ると天に届くばかりであるから天梯山といったのが転じて天台山になったとの説もある。古くから神仙道の霊場として開かれ、晋代には多くの高僧が止住していた。陳の太建7年(0575)9月、天台大師は38歳の時に初めて入山し、仏隴峰に修禅寺を建て、ここで11年間の隠遁生活を送っている。また摩訶止観を荊州玉泉寺で講説の後、隋の開皇15年(0595)に天台山に帰って著作に専念したが、晋王の請いによって下山する途中、石城寺で入寂した。以後も、国清寺など多くの仏寺が建立され、代々の天台宗座主が住み、中国天台宗の根本道場となった。日本の留学僧も、多くこの地を訪れている。
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正像二千年
仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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三千界
三千大千世界のこと。三千世界ともいう。古代インド人の描いた宇宙。須弥山を中心として、そのまわりに四大洲があり、さらにそのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界の単位で小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
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悪魔
魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。
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小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権教
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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禅僧
禅宗の僧侶のこと。
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律僧
律宗を修行した僧侶のこと。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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三千人の大衆
比叡山延暦寺の3000人の僧侶のこと。
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後五百歳・於閻浮提・広宣流布
法華経薬王菩薩本事品第23には「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」とある。
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後五百歳
薬王品の文。「我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布す」とある。末法のはじめ。
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閻浮提
一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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広宣流布
仏法を広く宣べ流布すること。
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伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり
伝教大師の守護国界章巻上の中の文。
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法華一乗の機
一仏乗を説き示した法華経によってのみ成仏することのできる衆生の機根のこと。
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本抄は、文永元年(1264)3月1日、日蓮大聖人が43歳の御時、鎌倉から京都遊学中の三位房日行に送られた御消息として伝えられてきたが、叡山焼失の歴史的事実の考察等から文永2年(1265)文永2年の御述作と考えられている。また与えられた人も三位房とは確定できず、在家の信徒とも考えられる。御真筆は末尾の一紙のみ高知の要法寺に現存する。
本抄の御述作は、弘長元年(1261)5月12日に始まる大聖人の伊豆流罪が、同3年(1263)2月22日に赦免となって、鎌倉へ帰られた後にあたっている。
当時の状況を知るためには、まず初めに大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国論をもって、幕府最高権力者たる北条時頼に提示し、諌暁されたことを忘れてはならない。この結果が、その翌月には松葉ヶ谷の草庵の襲撃事件となり、一年後に伊豆流罪となったのである。
これと対応するかのように、弘長から文永の初めにかけて、鎌倉を中心とした状況は、世情不安をつのるようなことが続いていた。伊豆御流罪の直前の弘長元年(1261)3月に、幕府の政所と問注所が全燃、同11月には大聖人の伊豆流罪を息子である執権・長時とともに策した北条重時が64歳で狂死、同3年(1263)11月には北条時頼が37歳で死去している。この時頼の死に対しては、御書のなかに、死後の政道悪化を憂慮されている一節がみられる。また翌文永元年(1264)8月には重時の長男・執権武蔵守長時が頓死している。また当時は、各地で飢饉・疫病・地震・大火などが続発していたのである。
このような状況の鎌倉におられた大聖人のもとに、折しも、東西呼応するかのごとく西の京都から〝叡山炎上〟という物騒な事件の消息を伝える「御文並びに御輿振の日記」が送られてきたのである。
この「御輿振の日記」とは、平安時代の末期ごろから比叡山の守護神を祀る日吉神社の神輿をかつぎ、朝廷に自分達の要求を通すため延暦寺の僧徒が強訴した事件を記録したものである。
比叡山延暦寺は法華経を根本に伝教大師最澄によって開創され、朝廷の帰依を得て鎮護国家の根本道場として、仏教界の中心をなし、その権威を誇っていたのである。だが、慈覚・智証が出るに及んで真言の邪法に毒され、次第に本師・伝教大師の立教精神を失い、権力に執着し、権威主義に堕して形骸化を早めていったのである。そして、延暦寺の山門派(慈覚門徒)と園城寺の寺門派(智証門徒)の分裂と対立が激化し、事あるごとに叡山の僧徒は要求を通すために神興振りによって示威運動を起してきたのである。これには朝廷側も神慮を恐れ、その要求を入れざるをえなかったといわれ、また神輿を振って練り歩く僧兵の乱暴は京の人々を恐怖させていた。
大聖人御在世の時にも山門・寺門両派の争いがあった。文応元年(1260)1月、朝廷が園城寺に三摩耶戒檀を勅許したのに対し、延暦寺側がこれに反対して朝廷に強訴したために、勅許は停止されたのである。ところが三年後の弘長3年(1263)に至って、朝廷は聖徳太子が建立したといわれる四天王寺の別当職を、園城寺に付したのである。これにまた山門派は反対し、文永元年(1264)1月、訴えを起こした、だが、この要求はいれられず、ついに同年三月、山門の大衆は叡山に自ら放火して講堂はじめ諸堂を焼き払うという暴挙に出たのである。そして、神輿をかついで京に乱入し、院の武士等と殺傷事件を繰り返したという。
更に、本抄以後の事件になるが、同年の五月には山門の僧徒が園城寺に押し寄せて、堂搭伽藍の多くを焼き尽くしてしまったのである。全く叡山の僧徒は仏の慈悲を行ずる仏法者とは程遠く、破壊をほしいままにする暴徒集団と化していたといえよう。今日、この「日記」そのものは現存していないが、以上のような叡山の僧徒による神輿振り、そして焼失事件に至る事情について、記述されたものと思われる。
本抄の内容は、手紙と御神輿の日記による貴重な報告に対して礼を述べられ、叡山の諸堂が焼失した事件について、叡山の仏法の破滅と同時に末法流布の仏法の出現を象徴するものであると仰せられている。すなわち、叡山の法華迹門・熟脱の仏法の破滅に対して、大聖人の末法本門下種の大法出現を象徴するものとされているのである。
叡山は日本天台宗の祖である伝教大師の魂魄を留めた霊場であり、叡山の僧徒にとっては、原点となる大切な道場にほかならない。彼らは、こともあろうに、ここを自らの手で放火し、焼き払ってしまったということである。
したがって、この「炎上」は、現象的にみれば、建物が消失して灰になったというだけにすぎないが、本質的には重要な意味を示唆している。すなわち「山門破滅の期・其の節に候か」と述べられ、叡山仏法の破滅を象徴しているとの仰せである。山門破滅には両意が考えられる。一往の意は、慈覚・智証以来、真言の邪義に毒された叡山仏法の破滅であり、再往の意は、本師・伝教大師の立てた法華迹門の法門が、像法過時の熟益仏法のゆえに破滅したということである。
なぜ、叡山が濁乱し、破滅の様相を呈したのかは、理由がないわけではないと仰せられ、まず釈尊の仏法が滅後正法・像法の二千年間に滅び尽くしたことを示されている。
インドには釈尊の在世中、須達長者と祇陀太子によって建立寄進され釈尊が多年にわたり説法・化導を行った有名な「祇園精舎」があった。また釈尊の滅後には、インドのアショーカ王によって建立された「鶏頭摩寺」があった。ここは第三回の仏典結集が行われた所でもある。次に像法時代になると、中国の「天台山」がある。天台大師智顗はここを根本として仏教の統一を図り、以後、中国仏教の一大中心地となったのである。だが、インド・中国に興隆した釈尊の仏法も、有縁の衆生を化導し終えて、正像二千年の間に教法の力が失われ、形骸化して滅びていったのである。
これに対して、今、末法の時にあたって、日本国の叡山だけが世界中で唯一の道場のようであるが、この叡山もまた法の源流は中国の天台山に求めていた。したがって、中国の天台山が滅びるとともに、その法は涸渇し、形骸化して、ただ堂搭を誇っていたにすぎないのである。しかも、本師の伝教大師に背いて、真言の邪義に毒された叡山は、魔のすみか以外のなにものでもなくなっていたのである。
したがって「定めて悪魔一跡に嫉を留むるか」とは、真実の仏法が栄えるのを好まない悪魔が、必ずこの叡山のうちに嫉みを留めているのであろうと仰せられている。また「小乗権教の輩も之を妬むか」とは、劣れる小乗権教に執着している邪智の勢力も、外から叡山を強く妬んでいるということである。
このような、内外の嫉妬心の現れとして、小権の法に執着している禅・律・念仏の諸僧らが、事あるごとに叡山の非を国権に訴えたのであり、この外圧のなかで叡山三千の大衆自身、仏法者の本心を忘失し、自らの破滅の根源とも知らず、御輿振りで権威をたのんで暴力沙汰に及び、果ては狂乱して自ら叡山の堂搭を焼き払うに至ったのである。全く叡山は、師檀ともに破仏・破国の因縁に迷い、自滅していったのである。
しかも、この姿は、大集経に正像二千年を過ぎて、末法に入ると「我が法中に於いて闘諍言訟し白法穏没し損滅して堅固なり」と説かれているとおりの姿でもある。
それでは、末法に入ると仏も法もない時代になるのであろうか。白法が隠没して絶えてしまうのでは、あまりにも仏は無慈悲であり、偏頗あるとのそしりを免れないといえよう。それに対し、法華経薬王品第二十三には「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮題に広宣流布して」と説かれているのである。
それゆえにこそ、伝教大師も、真実の法華経が流布する末法を慕って守護国界章上に「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり」と述べたのである。
この末法に出現する正法とは、撰時抄に「彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内……広宣流布せさせ給うべきなり」(0258-14)と仰せの南無妙法蓮華経にほかならない。
「滅するは生ぜんが為下るは登らんが為なり」とは、像法時の天台大師の法門の滅亡は、末法の大仏法興隆のためであるとの意である。「山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか」との御文は、大白法が興隆することが伝教大師の願いであり、真実の意味で「山門の繁昌」をもたらすとの仰せから、こういわれたと拝すべきであろう。
1265~1273 法門申さるべき洋の事(各宗教義事)top
1265:01~1265:10第一章釈尊は一切衆生の慈父なるを示すtop
| 1265 法門申さるべき様の事 文永六年 四十八歳御作 与三位公日行 01 法門申さるべきやう、 選択をば・うちをきて先ず法華経の第二の巻の今此三界の文を開いて釈尊は我等が親父 02 なり等定め了るべし、 何の仏か我等が父母にてはをはします、 外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ 03 忠は又孝の家より出ずとこそ申し候なれ、 されば外典は内典の初門・此の心は内典にたがわず候か、人に尊卑・上 04 下はありといえども 親を孝するにはすぎずと定められたるか、 釈尊は我等が父母なり一代の聖教は父母の子を教 05 えたる教経なるべし、 其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土日本にはわづ 06 かに五千・七千余巻なり、此等の経経の次第・勝劣等は私には弁えがたう候、而るに論師・大師・先徳には末代の人 07 の智慧こへがたければ彼の人人の料簡を用ゆべきかのところに、 華厳宗の五教四教・法相三論の三時二蔵・或は三 08 転法輪・世尊法久後要当説真実の文は又法華経より出て候・金口の明説なり、 仏説すでに大に分れて二途なり、譬 09 へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、 はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、 孝不孝の根本は 10 前判後判の用不用より事をこれり、かう立て申すならば人人さもやと・をぼしめしたらん時申すべし。 -----― 法門を論ずべきことについて。選択集については一応置いておき、まず法華経の第二の巻の「今此の三界は……」の文を挙げて、釈尊は我等が親父である等を定めてしまうべきである。どのような仏が我等の父母であろうか。外典三千余巻にも忠孝の二字を究極としている。忠はまた孝の家から出たと説いている。それゆえ外典は内典の初門であり、その説く心は内典と違っていないのである。人に尊卑、上下はあったとしても、親に孝行することに勝るものはない、と定められている。釈尊は我等の父母である。一代の聖教は父母が子に教えた教経なのである。そのなかに天上・竜宮・インドなどには無量無辺の御経があるけれども、中国・日本にはわずかに五千・七千余巻があるだけである。これらの経々の次第・勝劣等は、我々が勝手にわきまえうるものではない。そして、論師・大師・先徳には、末代の人の智慧は超えることができないので、それらの人々の判釈を用いるべきであろうが、華厳宗の五教、四教の判釈、法相宗・三論宗の三時教、二蔵、あるいは三転法輪の判釈などがあるが、それに対し、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」の文もまた法華経から出たのであり、仏の金口の明説である。仏説はすでに大きく分かれて二つとなっているのである。たとえば世間でいう父母の譲状の前判・後判のようなものである。あるいは世間の前判・後判は如来の金言を学んだものかもしれない。孝・不孝の根本的な違いは、前判・後判のどちらを用い、どちらを用いないかによって起こるのである。 このように筋道を立てて述べるならば、人々もたしかにそうだと思うであろう。そのようになったとき、次のように述べなさい。 |
選択
選択本願念仏集の略。日本浄土宗の開祖・法然(源空)の著。一巻。前摂政関白九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に撰述したものといわれる。題号は選択本願の行である念仏について諸家の要文を集めた書との意。主として浄土三部経や善導の観経疏の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は、十六章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、雑行と正行に分け、念仏のみが浄土門、正行であるとし、浄土三部経以外の一代仏教を捨閉閣抛せよという義を立てている。そして、阿弥陀仏の名号を称えることによって仏の本願にかない極楽往生できるとしている。
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今此三界
譬喩品の文「『今此の三界は』皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸々の患難多し、唯我れ一人のみ能く救護を為す」とある。
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外典三千余巻
「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
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内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
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一代の聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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天上
天上界のこと。十法界のひとつで三界二十八天に細別される。三界とは欲界・色界・無色界をいい、欲界に四天王、忉利天・耶摩天・兜率天・化楽天・他化自在天の六欲天、色界に初禅の三天、二禅の三天、三禅の三天、四禅の九天の十八天、さらに無色界に空処、識処、無所有処、非想非非処の四色天があり、全部で三界二十八天となる。
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竜宮
①水底、または水上にあるとされる竜王の住む宮殿のこと。長阿含経巻19に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。②竜族の王城のこと。竜樹が仏法の奥義を知ろうとして苦悩していた時、大竜菩薩は竜樹を大海の竜宮に案内し、大乗経典を取り出し与えたという。竜樹菩薩伝に「大竜は菩薩の、その是の如くなるを見、惜んで之を愍み、即ち之を接して海に入り、宮殿の中に於て、七宝の蔵を開き、七宝の華函を発き、諸の方等深奥の経典、無量の妙法を以て之に授け」とある。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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五千・七千余巻
仏教経典は5048巻、または7338巻あるといわれている法華経題目抄には「像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり」(0942-16)とある。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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末代
正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
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華厳宗
華厳経を所経とする宗派。南都六宗の一つ。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には聖武天皇天平8年(0736)7月20日、唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅学生の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とした。
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五教
華厳宗の教判で、釈尊一代の教説を形式・内容等によって五種に分類し、華厳経が最高の経典としている邪義。これには二種がある。①華厳宗第三祖・法蔵の説。小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教とし円教のうち華厳経を円融不思議の法門を開示するものとし、三乗を同じて説いた法華経より勝れたとするもの。②華厳宗第五祖・宗密の説。人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教・一乗顕性教とし、華厳経を一乗顕性教と立てる。
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四教
華厳宗の教判。法蔵の弟子・慧苑の著「続華厳經略疏刊定記」による。①迷真異執教(外道凡夫の教え)②真一分半教(二乗の教え)③真一作満教(初心の菩薩の教え)④真具分満教(如来蔵を識る者の教え)。
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法相
法相宗のこと。南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの6経11論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉4年(0653)道昭が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。
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三論
三論宗のこと。南都六宗の一つ。竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0625)1月1日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代に興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。
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三時
三時教判のこと。法相宗の教判。解深密経に基づき、釈尊一代の教えを三つに分類する。①初時有教。法のみ有である(不変で固有の実体をもつ)と説く教えで、阿含経など小乗の教えがこれにあたる。②第二時空教。一切諸法はみな空であると説く教えで、般若経などがこれにあたる。③第三時中道教。非有非空(有に非ず空に非ず)を明かす教えで、華厳経・法華経・解深密経などがこれにあたる。
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二蔵
二種類の法蔵のこと。声聞蔵と菩薩蔵をいう。蔵は教法・経典という財宝を保有する蔵を意味する。①声聞蔵は声聞・縁覚の二乗のために説かれた四渧・十二因縁等。②菩薩蔵は菩薩のために説かれた六波羅蜜経。
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三転法輪
三種類の法輪のこと。①第一法輪 四聖諦・十二支縁起の思想。②第二法輪 般若思想と空の哲学。滅諦に相当する。③第三転法輪では有無を正しく区別した法輪。
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世尊法久後要当説真実
「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」と読む。法華経方便品第二の文。仏は長い間、方便の教えを説き、後に真実の教えを説くとの意。仏が教えを説くのは、一切衆生を成仏させることにあり、法華経には四十余年の方便権教と異なり、釈尊の真実の悟り、一仏乗の法が説かれていることをいう。
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金口
仏の口、またその所説のこと。
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前判後判
譲与者から受取人に与えた譲状が同一物件につき二通ある場合、前(先)の譲状を前判(先判)といい、後の譲状を後判という。判とは、判形、すなわち花押のこと。御成敗式目第二十六条には「一、所領を子息に讓り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 右、父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せ畢んぬ。よって先判の讓につきて安堵の御下文を給はると雖も、その親これを悔い還し、他子に讓るに於ては、後判の讓に任せて御成敗あるべし」とある。ここでは、42年間の爾前権教の説法を先判とし、のち、「四十余年、未顕真実」「正直捨方便、但説無上道」「世尊法久後、要当説真実」として法華経を説いたことを後判としている。
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本抄は御執筆年次が明記されていないが、文永6年(1269)日蓮大聖人が48歳の御時、鎌倉でしたためられ、京都に遊学中の三位房日行に与えられた書とされている。
御執筆年次については、文永5年(1268)から文永8年(1271)の間、あるいは文永3年(1266)説などの諸説があるが、本文に「異国・我が朝をほろぼさんとす」とあり、これは文永5年(1268)閏正月18日に蒙古の国書が到来したことを意味しているから、それ以後と考えられ、文永6年(1269)と拝していくことにする。
題号は書き出しに即して後代に付されたものであり、別名を各宗教義事とも称される。御真筆は千葉県市川市の中山法華経寺に現存する。
三位房は三位公・三位殿ともいわれ、生没年は不明であるが、下総国(千葉県)の出身で、早くから日蓮大聖人の門下に入った。門下のなかでも俊才と目され、日興上人の富士弘教の補佐や、諸宗との問答の主任を命じられるなど、活躍が目立った。
頼基陳情には、建治3年(1277)6月9日、鎌倉桑ヶ谷で説法していた天台僧・竜象房と問答し、完膚なきまでに論破した様子が述べられている。居合わせた聴衆は大いに歓喜し、三位房に説法を請うほどだったという。
しかし才智におぼれ、慢心を起こす傾向があり、ともすると大聖人の御指導に背くこともあって、たびたび訓戒を受けていた。熱原法難のころ退転し、不慮の死をとげたと推定される。
弘安2年(1279)10月1日御述作の聖人御難事に「三位房が事は(中略)はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ」(1191-05)とある。
また弘安2年(1279)5月17日の四菩薩造立抄の文末でも、大聖人は三位房の死去に触れられ「法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ」(0989-14)と仰せられている。
三位房については資料がほとんど残っていないため、不詳の点が多く、2人の三位房がいたとして聖人御難事に出てくる三位房と別人とする説もあり、本抄は三位房日進が賜ったとする説もあるが、日進は当時まだ幼年だったので誤りである。
本抄は「法門申さるべきやう」と冒頭に記されているように、三位房の質問に応じ、法門の申し述べ方、法論の進め方などを御指南される一方、三位房が叡山に遊学中の身であるところから、叡山の僧徒との間に種々法論が交わされるであろうことを予測して、大聖人自ら設問され、それに答えられるという、いわゆる自問自答形式を用いて御教示されたようにも拝される。
本抄を著された前年、すなわち文5年(1268)閏正月には、蒙古から牃状をもって使者が到着し、日本は国じゅう騒然としていた。
この牃状は表面的には親交を結びたいという穏やかな文面であるが、真意は蒙古の属国となり、貢ぎ物をせよ、そうでなければ武力を用いることになろうと、日本に迫ってきたものであった。
この国書は閏正月18日、太宰府を経て鎌倉幕府に届けられた。幕府は2月7日、京都の朝廷へ奏上した。朝廷では連日、会議を重ね、19日には「返牃あるべからず」と議決したのである。
そのため、幕府は西国の御家人に対し、きたるべき蒙古の襲来に備えるよう指令を発し、朝廷も全国の各寺・諸社に対し勅を下して、蒙古調伏の祈禱を命じた。
文永6年(1269)3月7日、蒙古の使者は再び対馬まで来て返書を迫り、島民2人を捕らえて立ち去った。
9月17日には再度の使者が先に捕らえていった島民2人とともに対馬に着き、やがて太宰府に到着した。
朝廷では、今度は返書を送ることを決めたが、幕府はこれを握りつぶし、無礼だという理由だけ申し渡して、使者は送り返された。
相次ぐ牃状の到来、そして蒙古の襲来必至という未曾有の国難をまえにして、民衆の不安と動揺は筆舌に尽くせぬものがあった。
なお、日蓮大聖人は蒙古の使者到来の報に接し、文応元年(1260)に上呈した立正安国論の他国侵逼難の予言が事実となって現れてきたことを指摘され、文永5年(1268)年10月11日には、北条時宗など十一か所にあえて書状を認め、公場対決を迫られている。いわゆる十一通御書がそれである。
本抄の内容は、当時、三位房が京都のある公家の持仏堂で法門について講説し、面目をほどこしたと報告したことに対して、大聖人門下としての姿勢の在り方等を厳しく御指導されている。
前半では「選択をばいろへずして先ずかうたつべし」と結ばれているように、法論にあたっては、あくまでも依法不依人の立場から、仏説に準じて、釈尊こそ一切衆生有縁の主師親であり、一代聖教の実語は法華経一経に限り、釈尊の真意を説いた法華経を信受することが仏法中の孝であることを明かして、念仏を破折するよう御教示されている。
後半では、真言の邪義を取り入れて権実雑乱に陥っている比叡山天台宗を徹底的に破折されている。念仏・禅等の諸宗を認め、それらを取り入れて大謗法に陥っている比叡山は、やがて日本一国の滅亡を招くと憂えられ、外冦による国難を救い得るのは日蓮大聖人御一人のみであると、立正安国の急務なることを強調されている。
釈尊は我等が親父なり
まず当時、最も隆盛を誇っていた浄土宗の破折の方法について述べられている。
最初に、選択集の内容についての破折はひとまずさしおき、釈尊が一切衆生の慈父である経文を示して、あらかじめ相手に認めさせるべきことを教えられている。
すなわち、法華経巻第二譬喩品第三の「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」の文を示されている。
この経文は、大聖人が「経に今此の三界は皆是我有なりと説き給うは主君の義なり其の中の衆生悉く是れ吾子と云うは父子の義なり而るに今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為すと説き給うは師匠の義なり」(0097-09)と説かれるように、釈尊こそ娑婆世界の一切衆生にとって、主であり、師であり、親であると示した文である。
つまり、この娑婆世界の衆生にとって有縁の仏は釈尊であって、西方十万億土の極楽世界の阿弥陀如来は、娑婆世界の衆生にとっては無縁の仏であるということである。
主徳とは、自らの眷属を守護し、外敵から守る働きをいう。師徳とは、衆生を導き、教化していく働きであり、正法を教えていく智慧の働きをさす。親徳とは、悪を除き、もろもろの苦患を救う慈愛の働きをいう。釈尊は一切衆生の苦悩を取り除いて救う父母の徳を具えているのである。
それゆえに娑婆世界の衆生のためには教主釈尊以外に主師親三徳具備の仏はいないことを「何の仏か我等が父母にてはをはします」と断じられている。
また、この主師親の三徳のなかにおいても、特に〝親徳〟を中心にされ、その親である釈尊を捨てて阿弥陀如来に心を寄せる浄土宗は不孝の教えであり、孝を重んずる外典(中国の儒教)の教えにさえ背くことを指摘されているのである。
なお、釈尊を主師親の仏と立てられたのは、日蓮大聖人御一代の化導の始めでもあり、当時、大流行していた阿弥陀信仰を対破するため、権実相対の立場から、しばらく仏教の開祖たる釈尊を立て、釈尊に帰依すべきことを説かれたのであって、大聖人の御本意でないことを考慮に入れて拝していきたい。
また文永六年は竜の口法難以前であり、大聖人御自身、まだ発迹顕本されておらず、三沢抄に「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)と仰せのように、釈尊が法華経を説くまでにはその真意を明示せず、方便権教を説かれたと同様、大聖人の法門も佐渡以前にはその御真意、法門の全貌を明かされなかったのである。
末法の一切衆生にとって真の主師親三徳を具備した日蓮大聖人御自身であられることは開目抄等で宣言されるところである。
内・外典ともに孝が根本
「外典三千余巻」の書も、究極するところは忠孝を説くにあり、その忠もまた孝の家から出ているとしている。
孝を重視する外典の心は、内典の意と異なるものではなく、この意味から儒教・道教等の外典は、内典である仏教に入るための初門といえるのである。
ゆえに開目抄で「孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ」(0187-01)と教示されて、儒教等は仏教を流布するための準備であったと位置づけられている。
したがって、内外典ともに、たとえ人に尊卑、位に上下の別があっても、親に孝行することが最も尊く、大切であると定めているのである。ここでは外典と対比して、仏法の大事は孝であることを力説されている。
孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり
釈尊が一切衆生の父母であるならば、釈尊一代の聖教は、父母が我が子に教えた経典となるわけである。
その経典は、天上界や竜宮、インドに無量無辺といわれるほど存在するとされる。
「天上界の御経」とは、例えば釈尊が母のために忉利天に昇って説いたとされる経典がそれにあたろう。「竜宮」とは、竜樹菩薩が竜宮へ行って見た経巻が多数だったということをいわれている。インドにおいてはなおのことである。
しかし、中国・日本に渡来したのはそのうちのわずか「五千・七千余巻」にすぎない。これらの経教の説時の次第、内容の勝劣については、容易に把握することはできないから、過去に論師・大師・先徳と称された人々の所論を用いるべきであろうかと、その代表的な判釈を挙げられている。
華厳宗の賢首は一代聖教を小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教の「五教」に立て分け、その弟子の慧遠は、迷真異執教(凡夫のため)・真一分半教(二乗のため)・真一分満教(菩薩のため)・真具分満教(仏のため)の「四教」に分類している。
法相宗では、有教・空教・中道教の「三時」に分け、三論宗は声聞蔵・菩薩蔵の「二蔵」に分けている。あるいは「三転法輪」、すなわち根本法輪・枝末法輪・摂末帰本法輪というように立て分けている。
ところが、釈尊は法華経方便品で「世尊は法久しくして後 要ず当に真実を説きたまうべし」と述べ、法華経こそ真実を説いた経であると明言しているのである。
つまり、釈尊は50年の説法の究極として、最後に法華経を説き、その開経である無量義経のなかで「衆生の性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と説かれ、法華経に来至して「世尊法久後要当説真実」、また「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」と宣言されたのである。
大聖人はこのことを譬えて「闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し」(0358-12)と述べられている。
このように仏説によれば、釈尊一代五十年の説法は大きく分けて二通りになるわけである。一には四十余年間に説いた法華経以外の諸経、いわゆる爾前経である。二には最後の八年間に説いた法華経である。
このいずれを用いるかについて本抄では「譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし」と、大聖人御在世当時の世間の慣習に基づいて仰せられている。
譲与者から受け取り人に対する譲り状が同一物件につき二通りある場合、前の譲り状を「前判」、後の譲り状を「後判」という。遺言状など受け取り人が妻子・縁者である場合は、後判が有効となるのが通例である。
いうまでもなく、爾前経が前判、法華経が後判となる。しかるに爾前経を依経としている諸宗は前判を用いて後判を無視しているのであるから、一切衆生の父母である釈尊の意思を踏みにじっていることになる。後判である法華経を用いることが慈父釈尊への真の孝行であることを示されている。
以上のように、筋道を立てて述べてくれば、聴衆もなるほどと合点してくるであろうから、そのときは次のように申し述べよ、と引き続き次章で破折の仕方を教えられている。
1265:11~1266:04第二章浄土三部経は方便の経なるを示すtop
| 11 抑浄土の三部経等の諸宗の依経は 当分四十余年の内なり、 世尊は我等が慈父として未顕真実ぞと定めさせ給 12 ふ御心は・かの四十余年の経経に付けとをぼしめし候か、 又説真実の言にうつれとをぼしめし候か、 心あらん人 13 人・御賢察候べきかと・しばらくあぢわひてよも仏程の親父の一切衆生を 一子とをぼしめすが真実なる事をすてて 14 未顕真実の不実なる事に付けとは・ をぼしめさじ、 さて法華経にうつり候はんは四十余年の経経をすてて遷り候 15 べきか、 はた又かの経経並びに南無阿弥陀仏等をば・すてずして遷り候べきかと・おぼしきところに凡夫の私の・ 1266 01 はからいぜひにつけてをそれあるべし、 仏と申す親父の仰を仰ぐべしと・まつところに仏定めて云く 「正直捨方 02 便」等云云、 方便と申すは無量義経に未顕真実と申す上に以方便力と申す方便なり、 以方便力の方便の内に浄土 03 三部経等の四十余年の一切経は一字一点も漏るべからざるか、 されば四十余年の経経をすてて 法華経に入らざら 04 ん人人は世間の孝不孝はしらず 仏法の中には第一の不孝の者なるべし、 -----― そもそも浄土の三部経等の諸宗の依経は、当分の四十余年の間の経である。世尊は我等の慈父として、「未だ真実を顕さず」と定められたが、その御心は、その四十余年の経経に付かせようとの御意か、また「真実を説きたもうべし」の言に移らせようとの御意か、志のある人々は御賢察すべきであると言って、しばらく様子をみて、よもや仏ほどの親父が一切衆生を一子と思われているのに、「真実」である事を捨てて、「未だ真実を顕さず」の不実である事に付かせようと思われるはずがない、と述べなさい。さて法華経に移るのには、四十余年の経経を捨てて移るべきか、あるいは、それらの経経並びに南無阿弥陀仏等を捨てないで移るべきかと考える時、凡夫の勝手な考えは是非いずれにしても恐れ多いことである。仏という親父の仰せを仰ぐべきであると求めると、仏は「正直に方便を捨てて」と定められている。「方便」というのは、無量義経に「未だ真実を顕さず」と説かれたうえで「方便力を以て」と説かれている「方便」である。「方便力を以て」の「方便」の内に浄土三部経等の四十余年の一切経は、一字一点も漏れるはずはない。されば、四十余年の経経を捨てて法華経に入らない人々は、世間的な孝不孝は知らないが、仏法の中では第一の不孝の者である。 |
浄土の三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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当分
当位の分際のこと。その分、そのままの意で、ある限られた立場、また限定された視野でとらえた場合のこと。教相判釈の基準の一つ。跨節を跨ぐことで、更に深く一重立ち入った立場。
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四十余年の経経
釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。
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未顕真実
法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
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南無阿弥陀仏
阿弥陀仏に南無すること。観無量寿経にある。善導は観経疏巻一で「南無と言うは即ち是れ帰命なり、亦是れ発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ行なり。斯の義を以っての故に必ず往生を得」と釈し、南無阿弥陀仏の六字を称え心に念ずれば極楽世界に往生できるとしている。
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正直捨方便
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
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無量義経
一巻。中国・蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は「無量義とは、一法従り生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。また、これまでに説いた経教は、まだ真実を明かさない方便の教えであることを次のように述べている。「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と。
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以方便力
無量義経説法品第2の文。「方便の力を以って」と読む。釈尊は成道の後、衆生の機根が法華経を信受できる状態ではなかったので、その得た悟りを直ちに人々に説くことはせず、方便力をもって、衆生の別々の機根に合わせて爾前権教を説き調えていった。そのゆえに、40余年の教えはいまだ真実を顕していないという意味。
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一代聖教には大別して方便と真実の二種があることを明らかにしたうえで、浄土三部経は「四十余年」の方便の内に属する経典であるから正直に捨てて「説真実」の法華経につくべきであると主張するよう述べられている。
浄土宗の依経である三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)をはじめ、諸宗が依経とする経教は、釈尊が一時的、部分的に説かれた「当分」の経であり、すべて「四十余年」の内に属するのである。
その爾前の経教を、慈父である釈尊が未顕真実であると定めたのは、爾前経につかせようとするためか、それとも説真実の法華経に遷らせようと思われてのことか、と述べて、「心あらん人人・御賢察候べきかと・しばらくあぢわひて」と、相手に考えさせるよう諭されている。〝間〟をとることの大切さを教えられたのであろう。
話し言葉も一本調子では聴衆との共感性を高めることは不可能であり、聞いていて楽しくなる新鮮さと、変化に富んだ〝間〟がどうしても必要になってくるからである。
そのうえで「衆生は悉く是れ吾が子なり」とされる慈父・釈尊が、真実の経である法華経を捨てて、未顕真実の爾前の諸経につかせようと思われるはずがないと、理論整然と説くよう御指導されている。
そこで次に、法華経へ帰入するためには、方便権教を捨てるのか、それとも捨てずに、つまり併用するかたちで遷るのか、慈父・釈尊の教示を仰ぐならば、釈尊は法華経方便品で「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」と定められている。すなわち、方便の仮の教え(権教)を正直に捨てて、ただ無上道、極説の法である法華経を説くと明言しているわけである。
この法華経で説く「方便」は、無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず」の上の句に「方便力を以てす」とある「方便」と同一の意であり、したがって、四十余年にわたって説いてきた浄土三部経等の経教が、すべて含まれるのである。
ゆえに、法華経を用いず権教を用いた場合、仮に法華経を直接謗るような言動がなくても、それは仏の心に背いているのであり、仏法のなかでは第一の不孝者になると断じられている。
1266:04~1266:13第三章不孝者の住処は阿鼻地獄なるを説示top
| 04 故に第二譬喩品に云く「今此三界乃至雖 05 復教詔而不信受」等云云、 四十余年の経経をすてずして法華経に並べて行ぜん人人は 主師親の三人のをほせを用 06 いざる人人なり。 -----― ゆえに、法華経第二の巻譬喩品第三には「今此の三界は……復た教詔すと雖も信受せず」と説かれている。四十余年の経経を捨てないで、法華経と並べて修行する人々は、主師親の三人の仰せを用いない人々である。 -----― 07 教と申すは師親のをしへ詔と申すは主上の詔勅なるべし、仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり、されば四十余 08 年の経経につきて法華経へうつらず、 又うつれる人人も彼の経経をすてて・ うつらざるは三徳備えたる親父の仰 09 を用いざる人・天地の中に住むべき者にはあらず、 この不孝の人の住処を経の次下に定めて云く 「若人不信乃至 10 其人命終入阿鼻獄」等云云、 設い法華経をそしらずとも・うつり付ざらん人人・不孝の失疑なかるべし、不孝の者 11 は又悪道疑なし 故に仏は入阿鼻獄と定め給いぬ、 何に況や爾前の経経に執心を固なして法華経へ遷らざるのみな 12 らず、 善導が千中無一・法然が捨閉閣抛とかけるは・あに阿鼻地獄を脱るべしや、其の所化並びに檀那は又申すに 13 及ばず、 -----― 「教」というのは師匠と親の教えであり、「詔」というのは主上の詔勅である。仏は閻浮提第一の賢王であり、聖師であり、賢父である。したがって、四十余年の経々に付いて、法華経に移らない人、また移った人々も爾前の経々を捨てて移らないのは、三徳を備えている親父の仰せを用いない人であり、天地の間に住むべき者ではない。この不孝の人の住処を法華経譬喩品第三の次下に「若し人は信ぜずして……其の人は命終して阿鼻獄に入らん」と定められている。たとえ法華経を謗らなくても、移り付かない人々は、不孝の失となることは疑いないのである。不孝の者はまた悪道に堕ちることは疑いない。ゆえに、仏は「阿鼻獄に入らん」と定められたのである。まして爾前の経々に執着する心を固くして、法華経へ移らないだけでなく、善導のように「千中無一」といい、法然のように「捨閉閣抛」というならば、どうして阿鼻地獄を免れることができようか。その所化並びに檀那もまたいうまでもない。 |
今此三界乃至雖復教詔而不信受
法華経巻二譬喩品第三の文。「今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり 而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す 復た教詔すと雖も 信受せず 諸の欲染に於いて 貧著深きが故に 為めに三乗を説き……」とある。このなかで「今此三界皆是我有」が主の徳、「其中衆生悉是吾子」が親の徳、「唯我一人能為救護」が師の徳をあらわしている。
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主上の詔勅
主上とは天皇を敬っていう語。古くは「しゅしょう」と読む。詔勅は天皇の意志を伝える文書。詔も勅も、同じく「みことのり」と読むが、臨時・大事の場合は詔書、尋常・小事の場合は勅旨を用いる。
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閻浮
一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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三徳
①主徳、衆生を守る働き。②師徳、衆生を導き教化する働き。③親徳、衆生を利益する働き。三徳には法報応の三身をいう場合もある。
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若人不信乃至其人命終入阿鼻獄
法華経譬喩品第三の文。「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん(中略)其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」とある。
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悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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阿鼻地獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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所化
能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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前章に続き、法華経譬喩品の文から、方便権教を捨てて法華経に帰依しない者は、主師親三徳具備の仏の仰せに背く不孝者であり、その住処は阿鼻地獄であることを説示されている。
その経証として、再度、譬喩品の「今此三界乃至雖復教詔而不信受」の文を示されている。
この経文に明示されているように、釈尊は一切衆生にとって主であり、師であり、親であるから、釈尊の教えに従わないことは「主師親の三人のをほせを用いざる人人」で、まさしく不孝・不忠の徒輩となるのである。
「今此三界」等の文に続く「復た教詔すと雖も 信受せず」の文に示されている「教」とは、師や親として教えることである。「詔」とは主上(天皇)の詔勅を意味するから、「教詔」の二字は釈尊が「閻浮第一の賢王・聖師・賢父」であることをあらわしているのである。
その釈尊が「捨てよ」と命じられた四十余年の経教を信じて法華経に遷らない人、あるいは法華経に遷っても、方便の経教に少分でも執着する人は、主師親三徳具備の慈父たる釈尊の仰せを用いない不孝者であり、「天地の中に住むべき者にはあらず」と厳しく指弾されている。
その人の堕すべき住処については、やはり譬喩品に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん(中略)其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」と説かれている。
阿鼻獄とは阿鼻地獄のことで、無間地獄ともいう。阿鼻は梵語で、無間と訳す。八大地獄の一つであり、五逆罪をつくる人、正法誹謗の者が堕ちるとされ、間断ない苦しみの境界をいう。
たとえ法華経を誹謗していなくても、仏の教えどおりに法華経を信受しなければ不孝の失(とが)は免れず、かかる人は入阿鼻獄疑いなし、との仏の断言なのである。
まして爾前権教に固く執着して法華経に帰入しないのみか「法華経等の修行によって成仏する者は千人に一人もいない」と言った中国浄土宗の善導、あるいは、浄土三部経以外の諸経は聖道門・難行道・雑行とし、「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と主張した日本浄土宗の開祖・法然など、法華経誹謗の徒は入阿鼻獄は必定であり、その弟子檀那もまた同様の結果を招かざるをえないのである。
1266:13~1267:07第四章不孝者は五逆謗法なるを説くtop
| 13 雖復教詔而不信受と申すは孝に二つあり・世間の孝の孝不孝は外典の人人これをしりぬべし、 内典の孝 14 不孝は設い論師等なりとも 実教を弁えざる権教の論師の 流を受けたる末の論師なんどは 後生しりがたき事なる 15 べし、何に況や末末の人人をや。 -----― 「復た教詔すと雖も信受せず」というのは、孝に二つある。世間的な孝不孝は外典の人々もこれを知っているであろう。しかし、内典の孝不孝はたとえ論師等であっても、実教を理解しない権教の流れを受けた末の論師などは、死後は苦しみの境界に堕ちるのである。ましてそれより更に末の人々はいうまでもない。 -----― 16 涅槃経の三十四に云く「人身を受けん事は爪上の土.三悪道に堕ちん事は十方世界の土・四重・五逆.乃至涅槃経 17 を謗ずる事は十方世界の土・四重・五逆乃至涅槃経を信ずる事は爪の上の土」なんどととかれて候、 末代には五逆 18 の者と謗法の者は十方世界の土のごとしと・みへぬ、 されども当時五逆罪つくる者は爪の上の土・つくらざる者は 1267 01 十方世界の土と説かれ候へば・ 経文そらごとなるやうにみへ候をくはしくかんがへみ候へば・不孝の者を五逆罪の 02 者とは申し候か、又相似の五逆と申す事も候、 さるならば前王の正法・実法を弘めさせ給えと候を今の王の権法・ 03 相似の法を尊んで 天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして、 権法・邪法の寺の国国に多くいできたれ 04 るは、 愚者の眼には仏法繁盛とみへて仏天智者の御眼には古き正法の寺寺やうやくうせ候へば・ 一には不孝なる 05 べし賢なる父母の氏寺をすつるゆへ・二には謗法なるべし、 若ししからば日本国・当世は国一同に不孝謗法の国な 06 るべし、 此の国は釈迦如来の御所領・仏の左右臣下たる大梵天王・第六天の魔王にたはせ給いて大海の死骸をとど 07 めざるがごとく・宝山の曲林をいとうがごとく・此の国の謗法をかへんとおぼすかと勘え申すなりと申せ。 -----― 涅槃経第三十四に「人身を受けることは爪の上の土のように少なく、三悪道に堕ちることは十方世界の土のように多い。四重禁や五逆罪を犯し、また涅槃経を誹謗することは十方世界の土のように多く、四重禁や五逆罪を犯さず、涅槃経を信ずることは爪の上の土のように少ない」などと説かれている。末代には五逆罪の者と謗法の者は、十方世界の土のように多いということである。しかしながら今日、五逆罪を犯す者は爪の上の土のように少なく、犯さない者は十方世界の土のように多いといわれるので、この経文は虚言のようにみえるが、詳しく考えてみると、不孝の者を五逆罪の者と言われたのであろうか。また相似の五逆罪ということもある。そうであるならば、前王が正法・実法を弘めよと言われたのを、今の王が権法・相似の法を尊んで、天子本命の道場である正法の御寺への帰依は薄くして、権法・邪法の寺が国中に多く造られることは、愚者の眼には仏法が繁盛しているようにみえるが、仏天・智者の御眼には古き正法の寺々が次第に失われているのであるから、一には賢い父母の氏寺を捨てるゆえに不孝である。二には謗法である。もしそうであるならば、日本国の今の世は、国全体が不孝と謗法の国である。この国は釈迦如来の御所領であり、仏の左右の臣下である大梵天王・第六天の魔王に賜って、大海が死骸を留めておかないように、宝の山が曲がった木を嫌うように、この国の謗法を変えようとの御意向であるかと考えていると言いなさい。 |
実教
真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
―――
権教
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
四重
四衆のうち、比丘の極重罪のことで、十悪業のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語の四つをいう。また四重禁戒といって、一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不邪淫戒、四に不妄語戒で、これを犯せば教団を放逐される。出家としての最重罪である。
―――
五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
相似の五逆
五逆罪に似た重罪で、五逆罪に順ずる罪。①殺母同類業。②殺父同類業。③殺阿羅漢同類業。④破僧同類業。⑤出血同類業。
―――
大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
―――
第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
―――――――――
譬喩品の「教詔すと雖も信受せず」の文のように、仏の教えを信受しない人が仏法上の不孝にあたることを述べられている。そして、涅槃経の文を引き、仏法の不孝とは五逆謗法にあることを示し、末法にはこの不孝の者が充満している。当世の国難は一国挙げての不孝謗法に起因していることを説かれている。
当世末法の姿について、涅槃経巻三十四の「人身を受けん事は爪上の土・三悪道に堕ちん事は十方世界の土・四重・五逆・乃至涅槃経を謗ずる事は十方世界の土・四重・五逆乃至涅槃経を信ずる事は爪の上の土」(取意)の文を示されている。
この経文は迦葉菩薩品の要点をとられたものであるが、十方の土に相対して、爪の上の土が大変に少ないことを、人身が得がたいこと、正法の信受しがたいことの譬えとしたものである。
ここでは末法には五逆罪を犯す者と、正法を謗る者は、十方世界の土のように多いという意味で用いられている。
ところが当世を見渡すと、五逆罪を犯す者は爪上の土のように少なく、逆に犯していない者のほうが十方の土のように多い。涅槃経の未来記とは全く正反対の様相で、経文が虚事のようにもみえる。
しかし、経意をよく考えてみると、慈父である釈尊の教えに従わない不孝の者をさして、五逆罪を犯し正法を謗る者とされていることが分かる。また「相似の五逆」ということもあると仰せである。
「相似の五逆」とは、五逆罪によく似た五種の逆罪で、同類の五逆ともいい、殺父同類業・殺母同類業・殺阿羅漢同類業・破僧同類業・出血同類業がそれである。相似の五逆は順を逐ってその罪が重くなる。
仏像や率塔婆(そとば)を焼くことが出血同類業であり、これは仏身に相似した信仰の対象物に対する破壊罪である。堂塔などを焼いたりして信仰の場を奪うことは、そこに住む僧を離散させることになり、破僧同類業である。智人を殺すなどは殺阿羅漢同類業。僧・尼を殺せば殺父同類業・殺母同類業に準ずる罪を犯すことになる。これらの罪は五逆罪と同じく阿鼻獄に堕ちるとされている。
「前王の正法・実法を弘めさせ」とは、第五十代桓武天皇(前王)の時代に、伝教大師が当時の南都(奈良)六宗の邪義を対破した結果、六宗の高僧らが天皇に謝表を提出し、比叡山に法華円頓の大乗戒壇の勅許もあって、法華経(迹門)の弘宣が実現したことをいわれている。
伝教大師滅後、弘法の真言密教が広まり、天台宗では伝教大師の後継である義真・円澄のあと、第三代慈覚の時代から密教を取り入れ、更に第五代智証も理同事勝の邪義を継承するにいたった。
とくに慈覚が第五十四代仁明天皇に対して、鎮護国家の法を、これまでの法華経等の三部経を捨て、真言の三部経とする旨の奏聞をして以来、国を挙げて「権法・相似の法を尊」ぶようになり、「天子本命の道場たる正法の御寺」比叡山延暦寺は、もはや天台法華宗とは名ばかりで、実質的には天台密教(台密)と化してしまったのである。
このように慈覚らは天台宗を堕落させてしまっただけでなく、日本全体に真言の邪義を弘める素地をつくったのであるから、このうえない大罪を犯したといえよう。そのため「権法・邪法の寺の国国に多くいできたれる」という仏法の乱脈を招来したのである。
仏法に無知な人の目には、それが仏法繁栄のように映るかもしれないが、仏天や智者の目からみれば、「古き正法の寺寺」すなわち法華経を中心とした寺々が失われていくことであるから、真の意味では決して仏法繁盛とはいえず、「賢なる父母の氏寺をすつるゆへ」に「一には不孝なるべし」であり、「二には謗法なるべし」と糾弾され、当世は不孝と謗法の国であると結示されている。それは涅槃経の未来記に符合する末法の様相そのものにほかならない。
そしてこの日本国は、釈尊の主徳を示す「今此の三界は皆是れ我が有なり」という経文の意から明らかなように「釈迦如来の御所領」であるから、仏の臣下である大梵天王・第六天の魔王に仰せつけて、この国の不孝・謗法を責め、それを改めさせようとして、他国侵逼難等の難が起こっているのだと考えると主張するよう、三位房に命じられている。
1267:08~1267:12第五章爾前の諸経流布の疑難を破すtop
| 08 この上捨てられて候・四十余年の経経の今に候はいかになんど俗の難せば返詰して申すべし、 塔をくむあしし 09 ろは塔くみあげては切りすつるなりなんど申すべし、 此の譬は玄義の第二の文に 「今の大教若し起れば方便の教 10 絶す」と申す釈の心なり、 妙と申すは絶という事・絶と申す事は此の経起れば 已前の経経を断止ると申す事なる 11 べし、 正直捨方便の捨の文字の心・又嘉祥の日出ぬるに星かくるの心なるべし、 但し爾前の経経は塔のあししろ 12 なれば切りすつるとも・又塔をすりせん時は用ゆべし又切りすつべし、三世の諸仏の説法の儀式かくのごとし。 -----― このうえ「捨てられた四十余年の経経が、今も広まっているのはどういうわけか」などと俗が問難してきた場合には、反駁して言いなさい。「塔を組むための足代は、塔が組み上がったならば、切り捨てるのである」と。この譬えは、法華玄義巻二の文に「法華の大教がもし起これば、方便の教は絶える」という釈の意である。妙というのは絶ということである。絶ということは、この法華経が起これば、法華経以前の経々を断ち止めるということである。「正直に方便を捨てて」の捨の文字の意である。また嘉祥の「日が出たならば星は隠れる」の意である。ただし爾前の経々は塔の足代であるから、切り捨てるけれども、また塔を修理するときは用いるのである。そしてまた切り捨てるのである。三世の諸仏の説法の儀式もこのようなものである。 |
あししろ
足場のこと。建築工事のさいに、高い所に登れるように、材木やパイプを組み立てて造る足がかりのこと。建物の完成まではなくてはならぬ役目を持っているが、建物が完成すれば、解体される。ここでは、念仏等の爾前経を指して足代と破折されている。
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玄義
法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
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嘉祥
(0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
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日出ぬるに星かくる
天台大師の法華玄義巻1上に「日は星月を映奪して現ぜざら令むるが故なり。法華は迹を払い、方便を除くが故なり」とある。また伝教大師の天台法華宗伝法偈に「今日出て星収まり、巧をみて陋を知る」とある。日を法華経、星を爾前権教に譬えている。なお嘉祥の言葉とする典拠については不明である。
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法華経以前に説かれた四十余年の方便権教を捨てよ、との主張に対して「なにゆえ不用の諸経が当世に流布し、広まっているのか」と疑難してくるかもしれない。その場合の答え方を示されたところである。
まず「塔を建てるときの足代は、塔を建て終われば切り捨てるものである」と、反駁の仕方を教えられている。
足代とは、建築工事のとき、高い所に登るため、材木を組み立てて作る足場のことである。塔が完成した後は足代は当然、撤去される。法華経を塔に、爾前の諸経を足代に譬えたものである。
この譬えの裏付けとして、天台大師の法華玄義巻二上の文を示されている。詳しくは「問う、何の意ぞ、絶を以って妙と釈す。答う、秖妙を喚ぶに絶と為す。絶は是れ妙の異名、世人の絶能と称するが如くなるのみ。又妙は是れ能絶、麤は是れ所絶。此の妙に麤を絶するの功有り、故に絶を挙げて以って妙と名づく。迹中の如き、先の方便の教を施せば、大教起こることを得ず。今大教若し起これば、方便の教絶す。所絶を将って以って妙と名づくる耳」とある。
「今の大教」とは法華経である。法華玄義に釈されているように、妙とは絶ということであり、絶とは法華経が起これば爾前の諸教は「断止(たちとどむ)る」、すなわち、すべて断絶されるべきであるという意味である。
日蓮大聖人も十法界事で「法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに(中略)迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず」(0420-06)と、釈尊一代の教説を四重に配立して、勝劣興廃(四重の興廃)を判釈されている。
また「絶」ということは法華経方便品の「正直捨方便」の「捨」の文字の意味であり、また、謗法を悔いて天台大師に帰伏した三論宗の嘉祥(吉蔵)が「日出ぬるに星かくる」と言った「隠」の字の意味も、「妙とは絶」ということと同義であると大聖人は仰せられている。
ただし、爾前の諸経は足代であるから、法華経という塔を建て終われば切り捨てるものの、塔を修理するときは、また足代を組み直さなければならない。しかし、工事が完成すれば、また切り捨てるのである。このことは「三世の諸仏の説法の儀式」であると述べられているが、法華経方便品に説かれる五仏道同の儀式をいわれたものであろう。
すなわち、総諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏、つまり一切の仏は衆生を成仏させることを唯一の目的にして、全く同じく化導の方法を用いることで、その方法は、まず方便権教を説いて衆生の機根を調え、熟させ、最後に一仏乗の究極の法である実教・法華経を説いて、仏の出世の本懐を遂げるというものである。
1267:13~1267:15第六章台家の称名念仏への非難を正すtop
| 13 又俗の難に云く慈覚大師の常行堂等の難これをば答うべし、 内典の人・外典をよむ得道のためにはあらず才学 14 のためか、 山寺の小児の倶舎の頌をよむ得道のためか、 伝教・慈覚は八宗を極め給へり一切経をよみ給う、これ 15 みな法華経を詮と心へ給はん梯磴なるべし。 ―――――― また俗が「慈覚大師は常行堂を建て、そこで念仏を称えたではないか」と難問したら、このように答えなさい。「内典の人が外典を読む。これは得道のためではない。学問のためである。比叡山や園城寺の小児が倶舎論の頌を読む。これは得道のためか。伝教大師や慈覚大師は八宗を究められ、一切経を読まれた。これはみな法華経が究極の教えと心得るための階段なのである」と。 |
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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常行堂
四種三昧の一つである常行三昧を修する堂。常行三昧堂ともいう。常行三昧とは、般舟三昧経に基づいて90日の間、弥陀の名号を称えながら、弥陀を念ずる行法をいう。本抄にいう常行堂は、延暦寺第三代座主・慈覚が唐から帰朝して後、延暦寺に建立したものをさす。金色の阿弥陀仏を本尊としている。
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俱舎の頌
『阿毘逹磨倶舍論本頌』のこと。1巻。8品。世親造、玄奘訳。唐・永徽2年(0651)の著作。玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』全200巻の要義を偈頌(げじゅ)の形をもって述べたもの。
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伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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八宗
奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わせて八宗という。
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梯磴
ハシゴのこと。
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「天台法華宗の慈覚は叡山の常行堂で爾前経の念仏を称えたではないか」と論難してきた場合の反論の仕方を教えられている。
「慈覚大師の常行堂」とは、慈覚が唐から帰朝後、叡山に常行(三昧)堂を建立し、念仏を称える常行三昧を行じたことをさしている。
この慈覚の称名念仏は、仏道修行する者が儒家の教えなど外典の書を読み、「山寺」すなわち天台宗の叡山と園城寺の小僧等が、竜樹の大毘婆娑論の要義を偈頌のかたちで構成した「俱舎の頌」を読誦しても、それらは学問のためであって、成仏得道のためでないのと同じである、と教えられている。
また伝教大師等が天台・真言などの八宗を究め、一切経を習学したことも、それらを「梯磴」として、法華経こそ一大聖教の肝要であることを明らかにするためであり、同様に天台法華宗では正修止観を行ずるための助行・助縁として開会のうえの念仏を用いたのだと申し述べるよう仰せられている。
常行三昧とは、天台所立の四種(四修)三昧の一つで、摩訶止観巻2上に「此の法は般舟三昧経に出づ、翻じて仏立と為す」とあり、般舟三昧経に基づいて90日間、弥陀の名号を称えながら仏を念ずる行法である。同書に「歩歩、声声、念念、唯阿弥陀仏に在り」とある。
この行法は、初心の行者のために一段階として立てられたのであったが、これを法然は利用して、念仏をもっぱら修する浄土教を立てたのである。
しかも、天台宗で称える阿弥陀の名号は、法華経によって開会し、法華経の体内に帰入せしめたうえでの阿弥陀であることも忘れてはならない。
十章抄で「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり(中略)諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり」(1273-09)と説かれるように、爾前経を用いても法華の義のうえから読むのであり、正意は法華経にある。つまり、法華経の義の一分の説明として爾前の経文を読むのであるから、爾前経を読んでも法華経を読んだことになるとの意である。
ただし、同抄で「開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり」(1275-13)と、体内の実(法華経)には及ばずと断られているように、開会の後も、法華経と、法華経によって開会された念仏とは、厳然と勝劣がある。
1267:16~1268:02第七章日蓮は念仏を称えぬ理由を明示top
| 16 又俗の難に云く何にさらば御房は念仏をば申し給はぬ、 答えて云く伝教大師は二百五十戒をすて給いぬ・時に 17 あたりて 法華円頓の戒にまぎれしゆへなり、 当世は諸宗の行多けれども時にあたりて念仏をもてなして法華経を 18 謗ずるゆえに金石迷いやすければ唱え候はず、 例せば仏十二年が間・常楽我浄の名をいみ給いき、 外典にも寒食 1268 01 のまつりに火をいみ・あかき物をいむ、 不孝の国と申す国をば孝養の人はとをらず、此等の義なるべし、 いくた 02 びも選択をばいろへずして先ずかうたつべし。 -----― 俗人が、それならばどうして御房は念仏を唱えないのかと言ってきたときは、こう答えなさい。伝教大師は二百五十戒を捨てられた。その当時において法華円頓戒と紛らわしかったからである。当世は諸宗の行は多いけれども、今の時は念仏を大事にして法華経を誹謗しているゆえに、金と石と迷いやすいので唱えないのである。例えば、仏が阿含経を説いた十二年の間は常楽我浄を説くのを忌避されたのと同じである。外典にも寒食の祭りには火を忌み、赤きものを忌む。不孝の国といわれる国を孝養の人は通らないというのも、これらの意義によるのである。何度も選択集をもてあそばずに、まずこのようにしなさい。 |
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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法華円頓の戒
天台宗で奉じる大乗戒。古くは円戒。『法華経』の精神により,『梵網経』などから採用した戒。最澄により大成,実行された。この戒を授ける場所 (一乗戒壇) の開設が日本天台宗の樹立となった。しかし,この戒壇設立は,伝統的な二百五十戒 (部派仏教の戒律) を捨て比叡山が南都の支配から独立することを意味したため,南都僧綱の拒絶にあって最澄生存中に戒壇設立の勅許は得られなかった。
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常楽我浄
四徳。また四徳波羅蜜という。仏の境地や大乗の涅槃にそなわる四つの徳をいう。常徳は仏の境地、涅槃が永遠に不変不改であること。楽徳は無上の安楽であること。我徳は自我の生命が自由自在で他からなんの束縛を受けないこと。浄徳は煩悩のけがれをうけないこと。
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寒食のまつり
中国において、昔、冬至から百五日目は風雨が激しいとして火を断ち、煮炊きしないで食事をした風習のこと。また、その日のこと。
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前章に関連して「伝教大師・慈覚大師が法華経修行の手段・助行として念仏を称えているのに、同じ法華経を依経とする日蓮大聖人は、どうして念仏を称えないのか」と、論難された際の応答について御指南されている。
その答えとして、伝教大師の法華円頓の大乗戒設立にあたって、大乗戒とまぎらわしくなることを考慮し、小乗の二百五十戒を捨てた先例を示されている。
これまで仏教界では、中国の天台大師・妙楽大師をはじめ大乗の僧は、皆、小乗戒を受持していた。それは大乗の精神で小乗戒を借りて用いたのである。
日本においても同様で、鑑真和尚が来朝して東大寺に建立した小乗戒壇で授戒が行われていたのである。
それに対して伝教大師は、初めて小乗戒を捨て、法華円頓の大乗戒を設立した。ただし法華経には円頓戒の教理は説かれていないので、梵網経の十重禁戒・四十八軽戒等を用いて円頓戒の戒相としたのである。
伝教大師は、小乗の二百五十戒等をそのままにしておくと、「法華円頓の戒にまぎれしゆへ」に捨てられたのである。
そして梵網経等に依って、菩薩の行儀を正す大乗独自の戒を立て、比叡山に法華円頓の戒壇を建立したのである。
このことを日蓮大聖人は、曽谷入道殿許御書で「伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下(おと)す、此の大戒は霊山八年を除いて一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を叡山に建立す、然る間八宗共に偏執を倒し一国を挙げて弟子と為る」(1034-10)と述べられている。
続いて所問に順じ、日蓮大聖人が念仏を称えない理由を鮮明にされている。大聖人御在世は、諸宗のなかでも特に念仏が国中に大流行していた。
そこで大聖人はその紛らわしさを払拭し、法華勝、念仏劣を明確に立て分けるために念仏を唱えないのだといわれている。
その、紛らわしさを防止した類例として、釈尊が小乗阿含経を説いた12年間、常楽我常の四徳の名を示さなかったことや、古代中国において寒食の祭りに火を禁じ、赤いものをきらったこと、あるいは孝行の人が不孝の国を嫌って通行しなかったことを挙げられている。
仏十二年が間・常楽我浄の名をいみ給いき
釈尊在世当時のインドは、享楽主義・刹那主義の風潮が社会を毒しており、それは外道の教えである四顚倒の思想に起因していた。
四顚倒とは外道でいう常楽我浄で、正しく実相を見つめないで、顚倒した判断、逆立ちした見解をもつことをいう。
バラモン教などは、世間の実相が非常であるにもかかわらず、これを常とし、非我であるのに、これを我とし、非楽であるのに、これを楽とし、非浄であるのに、これを浄とするという顚倒した見方で把握していた。
釈尊はこの四顚倒を破折するために、小乗阿含経で、現実の世界と一切の諸法は苦・空・無常・無我であると四念処の法門を説いたのである。
十法界事に「彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ、如来出世して四顛倒を破せんが為に 苦・空等を説く此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり」(0418-02)とある。
しかし、小乗教徒はこの苦・空・無常・無我の教えに固執しすぎたために、今度は厭世的で虚無的な見解に陥り、ついには灰身滅智することを究極の目的とするまでになってしまった。釈尊の真意から大きく逸脱してしまったわけである。
それに対し、法華経では、真の意味での常楽我浄を説くのである。
法華経で説く常楽我浄とは、仏の境地や大乗の涅槃に具わる四つの徳で、成仏の境界をいう。ともあれ、釈尊は外道が四顚倒の教説を立てていたので、小乗阿含経では〝名同〟の紛らわしさを避けるため、常楽我浄の名をあえて示さなかったことを「名をいみ給いき」といわれているのである。
「寒食のまつり」というのは、中国の昔のならわしで、冬至のあとの百五日目は火を禁じて冷食したことをいう。
締めくくりとして「いくたびも選択をばいろへずして」と、選択集には直接触れずに、これまで教示してきた、より根本的な観点から念仏を破折するよう教示されている。
1268:03~1268:13第八章京風に媚びる三位房を厳誡top
| 03 又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・ かへすがへす不思議にをぼへ候、そのゆへは僧と 04 なりぬ其の上一閻浮提にありがたき法門なるべし、 設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき、まして梵天・ 05 帝釈等は我等が親父・ 釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候、 毘沙門等は四 06 天下の主此等が門まほり・ 又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし、 其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも 07 及ばず・ 但嶋の長なるべし、 長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上・ 面目なんど申すは・旁 08 せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか、 総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば 始はわすれぬやうにて後には 09 天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。 -----― また、御持仏堂で法門を説いたことが面目などと書かれていることは、どう考えても不審なことである。そのゆえは、僧となった身であり、そのうえこの仏法は一閻浮提第一の法である。たとえ等覚位の菩薩であっても、なにを気にすることがあろうか。まして梵天や帝釈等は私達の親父である釈尊の領地を預かって、正法の僧を養う者とされているのである。毘沙門天王等は四天下の主で、これら梵天・帝釈の門番である。また、四洲の王等は毘沙門天王の家来である。そのうえ日本秋津嶋は四洲の転輪王の家来にも及ばない。ただ、島の長である。その長などに仕える者達に「召された」「上」などと書くうえ「面目」などというのは、あれやこれや突き詰めて考えてみると日蓮を卑しんで書いているのであろうか。総じて日蓮の弟子は京に上ると、初めは忘れないようであるが後には天魔がついて正気を失ってしまう。少輔房のようなものである。貴御房もそのような姿になって天の治罰を蒙らないようにしなさい。 -----― 10 のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、 定めてことばつき音なんども京なめりになりたるら 11 ん、ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず・ 田舎法師にもあらず京法師にもにず・ 12 せう房がやうになりぬとをぼゆ、 言をば但いなかことばにてあるべし・なかなか・あしきやうにて有るなり、尊成 13 とかけるは隠岐の法皇の御実名かかたがた不思議なるべし。 -----― 京に上っていくらも経っていないのに実名を変えたということであるが、気違いじみている。きっと言葉つきや発音なども京なまりになったことであろう。鼠が蝙蝠になったように鳥でもなく鼠でもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていない、少輔房のようになってしまったと思われる。言葉はただ田舎言葉でいるがよい。どっちつかずなのはかえって見苦しいものである。名前を尊成と書いてあるが、これは隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の御実名であり、あれこれと、けしからぬことである。 |
持仏堂
日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。持仏堂
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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等覚
菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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毘沙門
毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
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四天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
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四州
須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。
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天魔
天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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せう房
大聖人の御書にしばしば出てくるが、少輔房という名は位による通称で、ここでいわれているのが誰か、はっきりしたことは分からない。はじめ日蓮大聖人の門下であったが、伊豆の法難の頃から退転し、ついに大聖人に敵対したらしい。種種御振舞御書等には、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉に従って、先頭に立って松葉ケ谷の草庵を襲い、法華経の第五の巻で大聖人の面を打った少輔房のことが書かれているが、これは全く別人であろうと思われる。
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尊成
三位房が京都遊学中に改めた名。第82代後鳥羽天皇の諱も同じ字で「たかひら」と読んだ。
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隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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叡山遊学のため京都へのぼった三位房が、ある公家の持仏堂で説法し、面目をほどこしたと、得意げに日蓮大聖人にご報告したことに対して、厳しく訓戒された段である。
公家に召され、法門を講じたことを大変名誉だとする三位房の文面に接し、大聖人は「かへすがへす不思議にをぼへ候」と、大聖人門下としての見識と誇り、自覚のなさを、ことのほか残念がられている。
なぜなら、三位房は社会的な名誉や地位を超越した僧の身であり、しかも一閻浮提で最高最勝の大法である妙法を受持している立場ではないか、と諭されている。
大聖人は三位房の胸中に巣くう名聞の心を、面目をほどこしたという一言のなかに感じとられたのであろう。常日頃から弟子の生命の傾向性を知り抜いておられたからこそ、三位房の一言をお見逃しになられなかったと拝される。
大聖人はこの具体的事実を通して、京風に媚びる三位房の虚栄と慢心に支配された醜い根性を打ち破ろうとされたわけである。
それゆえに大聖人門下の立場について「設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき」と、仏の位と等しい等覚の大菩薩さえ問題にしないほど高い位であるとされ、妙法受持の位がいかに尊貴であるかを教示されている。
四信五品抄でも妙法を持つ人の位を「此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり」(0342-06)と仰せになっている。
等覚の菩薩より上なのであるから、「まして梵天・帝釈等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候」と、釈尊から、正法を弘める僧を供養するために、その所領を預かり、守っている梵天・帝釈等の諸天は、大聖人門下からみると、ずっと低い。
「我等が親父・釈迦如来」とは、一往、附文の辺では文上脱益の釈尊であるが、再往、元意の辺では文底下種の釈尊、すなわち久遠元初の自受用報身如来・日蓮大聖人の御事である。
また四天下の主とされる毘沙門天・持国天・広目天・増長天の四大天王は、その梵・釈の門衛にすぎないとされ、まして「四州の王等」は「毘沙門天が所従」であって、更に低い。
一国の王、権力者、貴族などは、釈尊の眷属の眷属、そのまた眷属に属する立場なのである。
「其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし」と、日本はこの四州の一部分にすぎない島国であるから、その国主といっても四州の王の所従にも及ばないとされている。
この御文に、日蓮大聖人が一閻浮提、全世界の民衆救済という広大無辺な御本仏の御境界から、どのように日本の権力者をみておられたかが拝される。
「但嶋の長」については「わづかの小島のぬし」(0911-01)との仰せもみられるが、その「長」に仕える公家をさして、「上」とか「召された」とか「面目をほどこした」等と手紙に書いてきたことは、心根がすでに世俗的な権威に媚び、へつらう畜生界に堕した姿にほかならない。一閻浮提第一の法門を受持している僧としての誇りを全く失ってしまっているのである。
御本仏の弟子とし、妙法を受持することこそ、最高の栄誉であることを大聖人は当体義抄に「正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なり」(0511-03)と仰せられている。
それを忘却して社会的名誉を第一とする三位房の姿勢を、大聖人は「旁せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか」と厳しく叱責されているのである。
言をば但いなかことばにてあるべし
「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう」と、弟子達が上洛すると、いつしか、虚栄と虚飾の渦巻く華麗な王朝文化に酔いしれ、習学、あるいは弘教の初志を忘失して堕落する傾向があると述べられ、その典型として少輔房の例を挙げられている。
当時、京都と鎌倉は西国と東国を代表する中心地であり、政治的にはそれぞれ公武二大勢力の拠点であった。もっとも承久の乱以後は、武士が朝廷に代わって実質的な支配権を握り、時代の流れは鎌倉側に傾いてはいた。
しかし、文化的には先進地域はなお西国にあり、朝廷の権威が失墜したとはいっても、西国には貴族社会を背景にした伝統を誇る文化が盛んで、東国武士達の京都へ抱く憧憬の念はひとしおだったようである。
それは自分達の生活を卑しみ、教養のなさを恥じる劣等感となってあらわれていた。「日蓮が弟子は京にのぼりぬれば」といわれる御言葉の背景には、こうした時流が伏在していたのである。
したがって、上洛当初はともかく、月日の経過とともに、ともすると雅な雰囲気をもつ京風に感化され、流行を追ったり、言葉使いまで京言葉になって、そも自分の教養が深まったかのような錯覚に陥り、弘法の使命と責任を忘失する愚かさを「後には天魔つきて物にくるう」と指摘されているのである。
そして少輔房がその先例であると言われている。
少輔房については詳しいことは不明であるが、一説によれば伊豆の法難のころから退転し、やがて横死した人物とされる。この人も本抄によれば、京へ上って修学したのであろう。
「天のにくまれかほるな」とは、妙法の軌道からはずれた生き方は、悲運の人生を招くゆえに、三位房の行く末を案じられての仰せである。
また「のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし」との仰せから、三位房が上洛して間もなく、実名を隠岐の法皇の名である尊成と変えていたことが知られる。
三位房の〝改名〟は、京で生活するうちに、東国の田舎者だと笑われたくないという一心からだったのであろう。
公家に説法して称賛を浴び、得意げになって夢心地になり、「ことばつき音なんども京なめりにな」るなど、表面ばかりとりつくろうことに腐心し、自らを失っていく三位房の心理の奥底をみてとられて、「ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず」と、妙法に生きる確信も信念もない醜い姿勢を叱責されている。
もともと京の人間であるように思われたくて、言葉づかいまで〝京言葉〟になったであろう三位房に対し、大聖人は更に「言をば但いなかことばにてあるべし」と厳しく指摘されている。
これは、東国の日蓮大聖人の弟子であるとの誇りと自覚を持て、ということとあわせ、虚栄の心を排し、どこまでも自分らしく、主体性をもって発言せよ、との御教示と拝せられる。
しかし、大聖人は、決して京の人が京言葉を遣うことを否定されているわけではない。地方人たちは地方人らしく、誇りをもっていけということとも拝せられる。
地域性、土俗性のなかに普遍の妙法を輝かせていくところに、大聖人の仏法の広宣流布の行き方があるともいえるのである。
1268:14~1268:18第九章諸宗の祈禱の効験なきを示すtop
| 14 かつ.しられて候やうに当世の高僧・真言・天台等の人人の御いのりは叶うまじきよし、前前に申し候上.今年鎌 15 倉の真言師等は去年より変成男子の法をこなはる、 隆弁なんどは自歎する事かぎりなし、 七八百余人の真言師・ 16 東寺・天台の大法・秘法尽して行ぜしが・ついにむなしくなりぬ、禅宗・律僧等又一同に行いしかどもかなはず、日 17 蓮が叶うまじと申すとて 不思議なりなんどをどし候いしかども皆むなしくなりぬ、 小事たる今生の御いのりの叶 18 はぬを用つてしるべし・大事たる後生叶うべしや。 -----― また、よく知られているように、当世の高僧といわれる真言宗や天台宗等の人々の御祈禱は叶わないということをまえまえからいっているのに、そのほかに今年は鎌倉の真言師等は去年から変成男子の法を行っている。隆弁などは自賛すること甚だしい。七、八百余人の真言師が東寺の密教や天台宗に伝わる密教の大法・秘法を尽くして行じたけれども、結局、むなしかった。禅宗や律宗の僧等もまた一緒に行じたけれども叶わない。日蓮が叶うはずがないというのはけしからぬなどと威したけれども、皆、験はなかった。小事である今生の御祈りが叶わないことをもって、大事である後生の祈りが叶うはずがないと知るべきである。 |
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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変成男子
提婆品に「当時の衆会、皆竜女の、忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る」とある。この変成男子は爾前経に説かれる改転の成仏ではなく即身成仏を示すものである。
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隆弁
(1208~1253)。鎌倉時代の天台宗寺門派の僧。四条大納言藤原隆房の子。13歳で出家し、天台教学と密教を学んだ。宝治元年(1247)に鶴岡八幡宮の別当となり、文永4年(1267)園城寺の長吏となった。北条得宗家と強く結びつき、「鎌倉の政僧」の異名を持った。
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東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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律僧
律宗を修行した僧侶のこと。
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今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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叡山に遊学中の三位房に、当世の叡山の実態を熟知させようとの御意向であろうか、本章からは、おもに真言の邪義に汚染された天台宗比叡山の謗法を破折する方法について述べられている。その前提として、諸宗による祈禱の効験が全くなかった例証を挙げ、まして大事たる後生の成仏はなおのこと不可能なることを示されている。
真言宗も天台宗も、もはやなんの力もないばかりか、かえって害しかないことは、かねてから大聖人の厳しく指摘してこられたことである。
このように真言・天台等の祈禱が無力であり、効験のないことは明白であるのに、当時の鎌倉の真言師等は「変成男子の法」と称する呪法を行じていたようである。
変成男子とは、法華経提婆品に「当時の衆会は、皆な竜女の忽然の間に、変じて男子と成って」とあることから、胎内の女子を男子として出生させる功徳があるとして行われた修法をいう。
平家物語巻三によると、治承2年(1278)正月、第80代高倉天皇の中宮である建礼門院が懐妊の折、皇子の誕生を願って高僧等に大法・妙法を修させ、なかでも天台宗の座主・覚快法親王が変成男子の法を修したと記されている。
「隆弁なんどは自歎する事かぎりなし」と仰せの隆弁とは、天台宗寺門派の僧のことで、宝治元年(1247)に鎌倉の鶴岡八幡宮別当に補され、将軍や執権のために祈禱を行ったとされる。
この隆弁がだれのために「七八百余人の真言師」とともに「東寺・天台の大法・秘法尽して」祈禱したかは定かではない。しかしその結果は「むなしくなりぬ」と仰せであるから失敗に帰したのであろう。
加えて、禅宗・律僧等も一緒になって祈禱したが、やはりなんの効験も現れなかった。
彼らは、日蓮大聖人は「叶うまじ」と予告していたことを怒り、大聖人を威(おど)したが、結局、大聖人のいわれたとおり、祈禱の効果は現れなかったのである。
小事である今世の祈りさえ叶わないのであるから、まして大事たる後生の祈りが叶うわけがないと、真言、天台の仏法によっては、成仏得道は不可能であると喝破されている。
1269:01~1269:06第十章諸宗の謗法の所以を明かすtop
| 1269 01 真言宗の漢土に弘まる始は天台の一念三千を盗み取つて 真言の教相と定めて理の本とし・枝葉たる印真言を宗 02 と立て宗として天台宗を立て下す条・謗法の根源たるか、又華厳・法相・三論も天台宗・日本になかりし時は謗法と 03 も・しられざりしが・伝教大師円宗を勘えいだし給いて後謗法の宗とも・しられたりしなり、 当世真言等の七宗の 04 者しかしながら謗法なれば 大事のいのり叶うべしとも・をぼへず、 天台宗の人人は我が宗は正なれども邪なる他 05 宗と同ずれば我が宗の正をも・ しらぬ者なるべし、 譬へば東に迷う者は対当の西に迷い東西に迷うゆへに十方に 06 迷うなるべし。 -----― 真言宗が中国に広まったきっかけは、天台大師の一念三千の法門を盗み取って真言宗の教相と定めて法理の根本とし、枝葉である印と真言を宗要と立てて宗派とし、天台宗を下したことにあり、このことが謗法の根源となっている。また、華厳宗・法相宗・三論宗も天台宗が日本になかったときは、謗法であるとは知られていなかったが、伝教大師が法華宗を考え出されて後、謗法の宗派であることが知られたのである。当世の真言宗等の七宗の者はことごとく謗法であるので大事な祈りが叶うとは思われない。天台宗の人々は自宗が正義であっても邪義である他宗と同じているので、自宗の正しい教義をも知らない者となっている。たとえば東に迷う者は相対する西に迷い、東西に迷うために十方に迷うようなものである。 |
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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教相
①仏の教説に解釈を施し、分類して系統的・組織的に秩序づけること。天台の五時八教・法相の三時教・真言の顕密二教など。②経文の元意を己心に観ずる観心に対し、教法を分別し、釈すること。日蓮大聖人の文底秘沈の仏法を根幹としていく立場を観心といい、それに対して、釈尊の経文どおりに読んでいくいき方を教相という。③真言密教では灌頂・修法などの具体的な法を事相というのに対して教義面の理論的解釈を教相という。
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印真言
印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
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円宗
円教である法華経を依経とする宗派。
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七宗
俱舎・成美・律・法相・三論・華厳の六宗に真言を加えた宗をいう。
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十方
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
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真言宗をはじめ、華厳、法相、三論などの諸宗が謗法であるゆえに祈禱が無力・無益であることを説かれている。
まず真言宗は天台宗から一念三千を盗んで天台法華宗を下した謗法の宗であることを指摘されている。
真言宗の中国での流布は、東インドの善無畏が入唐したことによって始まる。善無畏は天台大師滅後百十九年にあたる開元4年(0716)、時の玄宗皇帝に国師として迎えられ、中国に初めて密教を伝え、大日経七巻など種々の密教経典を訳出した。同時代の金剛智・不空とともに三三蔵と呼ばれる。
善無畏が大日経を訳出したころ、中国の仏教界では天台宗の一念三千がすでに確立されていた。そのため善無畏は、天台宗の学僧だった一行をそそのかし、利用して、大日経疏を書かせたのである。
そのとき善無畏が一行に吹き込んだ内容について、大聖人は撰時抄に次のように記されている。
「漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」(0276-02)と。
そして、このように大日経にも一念三千を説いているから、法華経と大日経は〝理〟のうえでは同じだが、印と真言をもつ大日経は〝事〟のうえで勝れている、といって一行を欺いたのである。
いうまでもなく、二乗作仏・久遠実成が説かれていない大日経等には、一念三千の法理など、もともと存在しない。
そのことを大聖人は、開目抄で「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて」(0215-18)と述べられている。
善無畏は、印と真言が大日経にあるから、大日経のほうが勝れているとしたが、印とは、仏・菩薩の悟りの内容を表示する手つきや器具のことで、真言とは、仏・菩薩の誓いや徳を示す秘密語であり、いわば呪である。たしかに大日経には印・真言が数多く説かれているが、印や真言は仏法においては枝葉にすぎない。盗んだ天台の一念三千を教理の根本とし、文字どおり枝葉である印・真言を宗要と立てて一宗を建立したのが真言宗なのである。
日本の真言宗の開祖・弘法は、教法としても大日経が最も勝れ、法華経は華厳経より劣るときめつけ、天台の一念三千は、大日真言から盗んだものであるという邪悪な説を立てたのである。
また南都六宗の代表ともいうべき華厳・法相・三論の各宗も、奈良朝時代までは「謗法の宗」であるということが知られていなかったが、伝教大師が出現したことによって、謗法であることが明らかになったと述べられている。
このように真言等の七宗は、みな謗法であるから大事な祈りが叶わないのである。
そして「天台宗の人人」も、本来、天台宗は正義であったが、邪義である他宗、とくに真言宗と同化していたので、自宗の本来の正義が分からなくなってしまっているのである。
天台宗が第三代慈覚以降、理同事勝の邪義に誑惑され、密教を取り入れてしまったことを「東に迷う者は対当の西に迷い東西に迷うゆへに十方に迷う」とたとえられているのである。
1269:07~1269:14第11章権実雑乱で衰亡する叡山を責むtop
| 07 外道の法と申すは本内道より出でて候、而れども外道の法をもつて内道の敵となるなり、 諸宗は法華経よりい 08 で天台宗を才学として 而も天台宗を失うなるべし、 天台宗の人人は我が宗は実義とも知らざるゆへに我が宗のほ 09 ろび我が身のかろくなるをば・ しらずして他宗を助けて我が宗を失うなるべし、 法華宗の人が法華経の題目南無 10 妙法蓮華経とはとなえずして 南無阿弥陀仏と常に唱えば法華経を失う者なるべし、 例せば外道は三宝を立つ其の 11 中に仏宝と申すは 南無摩醯修羅天と唱えしかば仏弟子は翻邪の三帰と申して南無釈迦牟尼仏と申せしなり、 此れ 12 をもつて内外のしるしとす、 南無阿弥陀仏とは浄土宗の依経の題目なり、 心には法華経の行者と存すとも南無阿 13 弥陀仏と申さば傍輩は念仏者としりぬ、 法華経をすてたる人とをもうべし、 叡山の三千人は此の旨を弁えずして 14 王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとするゆへに・自然に三宝に申す事叶わず等と申し給うべし。 -----― 外道の法というのは、もとは仏法から出ているのである。しかしながら外道の法をもって仏法の敵となったのである。諸宗は法華経から出て天台宗を学して、しかも天台宗を失おうとしている。天台宗の人々は自宗が真実の義であるとも知らないがゆえに、自宗が滅び我が身が軽くなるのを知らずに他宗を助けて自宗を失おうとしている。法華宗の人が法華経の題目・南無妙法蓮華経と唱えないで南無阿弥陀仏と常に唱えるならば、法華経を滅ぼす者となろう。例えば外道は三宝を立て、そのなかの仏宝については南無摩醯修羅天と唱えたので、仏弟子は邪義を翻した三宝の帰依といって南無釈迦牟尼仏と唱え、これをもって内道と外道とを区別するしるしとしたのである。南無阿弥陀仏とは浄土宗の依経の題目である。心のなかでは法華経の行者であると思っていても、南無阿弥陀仏と称えれば周囲の人は念仏者とみて、法華経を捨てた人と思うであろう。比叡山の三千人の大衆はこの旨を弁えずに王法にも捨てられ、比叡山をも滅ぼそうとするがゆえに、おのずから三宝に祈ることは叶わないのである等と申すがよい。 |
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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内道
仏教のことをいう。
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三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
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法華宗
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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摩醯修羅天
梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。大自在天と訳す。もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。
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翻邪の三帰
邪信を翻して、仏・法・僧の三宝に帰依すること。初めて仏門に入る時に授けられる最も基本的な戒をいう。
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浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範。
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天台宗の僧達が、天台宗から派生した諸宗を助けて自宗の衰亡を招いていることと、自身も念仏を称え正義に背いてしまっている実態を指摘されている。
「外道の法と申すは本内道より出でて候」とは涅槃経の「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等の文をうけての仰せである。これは歴史的前後関係でみれば、バラモン外道のほうが先に存在しているので、不合理な言葉に聞こえるが、仏法の考え方では、バラモン外道もその本来の教えは、仏法の一分の理に合致していたとするのである。
しかしながら、とくに仏教出現後、外道の師達はその本来の精神から外れ、自らの利益や権威に固執して仏教に敵対し、邪見の道に入っていったのである。
それと同じく、諸宗は法華経から出て、天台宗を学しながら、しかも天台宗を滅失しようとしている。
つまり、諸宗所依の経教は、法華経の極理を理解させるための準備として、妙法の一部分、一部分を衆生に説き示したものであるから「諸宗は法華経より出で」ているわけだが、所依の経それ自体が独立し、完結したものとして内容が説かれているわけではない。
また現実に真言宗の祖・善無畏は、すでに「理同事勝」の邪義を立てた経緯にみたように、天台法華の一念三千を盗んだのであるから、天台宗から出たといえる。日本の念仏宗も、法然は叡山で学んだのであり、文字通り天台宗から出ているのである。それを「天台宗を才学として而も天台宗を失うなるべし」と仰せられている。
一方、天台宗の人々は、法華経が最勝の教法であることを忘れて他宗に加担し、自宗が滅びゆくことも、他宗から軽視されていることも気づかずにいるのである。
当時、諸宗の徒が自身の宗を讃えるのはともかく、天台宗の学僧のなかにさえ、真言や念仏、あるいは禅宗などをほめる者がいたことに対し、大聖人はとくに厳しく責めておられるのである。
法華宗の人が法華経の題目南無妙法蓮華経とはとなえずして南無阿弥陀仏と常に唱えば法華経を失う者なるべし
法華宗の者が念仏を唱えることは謗法であり、「法華経を失う者」であると、叡山の称名念仏を破折されている。
「南無」とは命を帰することであり、この下に何をつけるかで、何を信仰の根本とするかを表明するのである。バラモン外道では摩醯首羅天を天尊とし、これに帰命するという意味で「南無摩醯首羅天」と唱えた。
摩醯首羅天とは、色界の頂上に住み、三千世界を支配するとされる天のことで、大自在天と訳す。古代インドでは湿婆と呼ばれ、ヒンズー教の最高神とされた。妙楽大師の弘決巻十に「三目八臂にして白牛に騎り、白払を執る。大威力ありて能く世界を傾覆す。世を挙げて之を尊び、以って化の本と為す」とある。開目抄に「二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す」(0187-08)とある。
これに対し、仏教徒は、それを翻邪の三帰といって捨て南無釈迦牟尼仏と唱えたのである。
このように、何に「南無」するかは信仰の根本問題であるがゆえに、法華経を根本とする以上は、南無阿弥陀仏とは称えるべきではないのである。南無阿弥陀仏と称えていること自体、周囲の人は等しく法華経を捨てた念仏者と思うであろうと仰せられ、権実雑乱を指摘されている。
伝教大師が叡山に開宗したころは、「天子本命の道場」として、桓武帝などの帰依があったにもかかわらず、叡山三千人の僧徒は、自らの正義を失って、かえって真言宗の家来のようになってしまったため「王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとする」姿になっているのである。
したがって、三宝に祈っても効験がないのは当然であると、責めていくよう教えられている。
1269:15~1270:09第12章諸宗は無得道・堕地獄の経釈を示すtop
| 15 人不審して云く天台・妙楽・伝教等の御釈に我がやうに法華経並びに一切経を心えざらん者は悪道に堕つべしと 16 申す釈やあると申さば、 玄の三・籤の三・及び已今当等をいだし給うべし、伝教大師六宗の学者・日本国の十四人 17 を呵して云く「顕戒論の下に云く昔斉朝の光統を聞き今は本朝の六統を見る、 実なるかな法華の何況や」等云云、 18 華厳・真言・法相・三論の四宗を呵して云く「依憑集に云く新来の真言家は即ち筆受の相承を泯ぼし、旧到の華厳家 1270 01 は則ち影響の軌模を隠す。 沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れ称心の酔を覆う、 著有の法相宗は僕陽の帰依を非し 02 青竜の判経を撥う」等云云、 天台・妙楽・伝教等は真言等の七宗の人人は設い戒定はまつたくとも謗法のゆへに悪 03 道脱るべからずと定められたり、 何に況や禅宗・浄土宗等は勿論なるべし、 されば止観は偏に達磨をこそはして 04 候めれ、 而るに当世の天台宗の人人は諸宗に得道をゆるすのみならず 諸宗の行をうばい取つて我が行とする事い 05 かん、 当世の人人ことに真言宗を不審せんか立て申すべきやう、 日本国は八宗あり真言宗大に分れて二流あり所 06 謂東寺・天台なるべし、法相・三論・華厳・東寺の真言等は大乗宗・設い定慧は大乗なれども東大寺の小乗戒を持つ 07 ゆへに戒は小乗なるべし、 退大取小の者・小乗宗なるべし、 叡山の真言宗は天台円頓の戒をうく全真言宗の戒な 08 し、されば天台宗の円頓戒にをちたる真言宗なり等申すべし、 而るに座主等の高僧名を天台宗にかりて 一向真言 09 宗によて法華経をさぐるゆへに・叡山皆謗法になりて御いのりにしるしなきか。 -----― 人が訝しがって、天台大師・妙楽大師・伝教大師等の御釈に自分のように法華経並びに一切経を心得ない者は悪道に堕ちるであろうという釈はあるかといったならば、法華玄義の巻三や法華玄義釈籤の巻三および法華経法師品第十の已今当の文等をだしなさい。伝教大師は南都六宗の学者や日本国の十四人を責めて顕戒論の下巻に「昔は斉朝時代の光統を聞き、今は日本の六統を見る。法華経に『況や滅度の後をや』とあるとおりである」等といい、華厳・真言・法相・三論の四宗を責めて依憑集に「新しく伝来した真言宗は一行禅師の大日経疏が天台宗の立場から大日経を解釈したものであることを無視し、旧くから到来していた華厳宗は自宗の義が天台の影響を受け手本としていることを隠している。空理に沈む三論宗は吉蔵が天台僧の法盛に論破呵責されて改心し天台大師に心酔していたことを覆い隠し、有に執着する法相宗は濮陽の報城寺に住した智周が天台宗に帰依したことを隠し、青竜寺の良賁が仁王経奉持品第七を天台大師の説に従って正宗分とした判断を排している」等といっている。天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、真言等の七宗の人々はたとえ戒律と禅定はまともであっても謗法のゆえに悪道は免れることはできない、と定められている。まして、禅宗や浄土宗等が悪道を免れないのはもちろんである。それゆえ摩訶止観には、ひとえに達磨を破折しているのである。しかしながら、当世の天台宗の人々は諸宗に得道を許すだけでなく、諸宗の修行を奪い取って自宗の行としていることはどうしたことか。 当世の人々はとくに真言宗を不審に思うであろう。そのときは次のように言いなさい。日本国には八宗があり、真言宗は大きく分かれて二つの流派がある。いわゆる東寺の流れの真言宗(東密)と天台宗の流れの真言宗(台密)である。法相宗・三論宗・華厳宗・東寺の真言宗等は大乗の宗で禅定と智慧は大乗であるけれども、東大寺の小乗戒を持つゆえに戒律は小乗であり、結局退大取小の者で小乗の宗なのである。比叡山の真言宗は天台宗の円頓の戒を受け、全く真言宗の戒はない。それゆえ天台宗の円頓戒に帰伏した真言宗であるということができる。しかしながら、座主等の高僧は名を天台宗に借りて、もっぱら真言宗によって法華経を下すゆえに、比叡山はみな謗法になって御祈りに験がないのか。 |
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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玄
法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
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籤
妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
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六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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顕戒論
伝教大師の著。伝教が弘仁10年(0820)大乗戒壇建立と仏教統一を請うたのに対し、南都六宗が激しく反対した。それに対して、伝教大師がその迷妄を破折するために本論をつくり天奏した書である。
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斉朝の光統
(0478~0537)中国・南北朝斉魏の時代・北斉の地論宗、四分律宗の僧で、慧光。13歳で仏陀扇多について出家し、若くして道覆律師の「四分律疏」の疏をつくり律をひろめ、四分律宗の祖と称せられた。0508年、中天竺の僧、勒那摩提が洛陽にきて「十地論」を講じ、菩提流支とともに翻訳した。諍って二種の訳ができた。慧光はこの二訳を会通して一本となし、地論宗を盛んにさせたので、地論宗南道派の祖とも称される。また因縁宗・仮名宗・不信宗・顕実宗の四宗を立て、教判として江北の地に広く用いられた。洛陽で国僧都に任用され光統とよばれた。また菩提達磨と法論して、これを誹謗したと伝えられる。著書には華厳・維摩・十地等の経疏のほか僧制18条、大乗律儀等がある。
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六統
伝教大師が上奏した大乗戒壇の請願文に反対して奏文を提出した南都の僧統6人。元興寺の護命・施平、興福寺の長慧・修円、唐招提寺の豊安、西大寺の泰演。
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何況
「何に況や」と読む。ここでは法華経法師品第十の「而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」文意をとって言ったもの。
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依憑集
伝教大師が弘仁4年(0813)に著した書。本文は13章からなる。内容は天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・華厳・三論・法相宗などが仏法の正義からはずれていることを破している。
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新来の真言家は則ち筆受の相承を泯じ
伝教大師がその著・依馮集で弘法の真言を破折した文。筆授の相承とは、中国・唐代の真言宗の一阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行は嵩山の普寂について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏」は、まったく天台宗の立場で大日経を釈したものであるが、弘法の東密は大日経を学ぶうえでこれを唯一絶対の権威としながらも、天台法華を大日の三部より劣ると下している。これは善無畏・一行の真言の相承を破ったものであるという意味。なお「泯す」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。
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旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す
依馮集の文。華厳宗の法蔵三蔵の五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教)は、天台の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に範をとり、それに影響されたのである。このことを「華厳宗の沙門恵苑判じて云わく法蔵師の所立の義は天台の義に影響す」と判じた明文があるにもかかわらず、日本の華厳宗はこれを隠して天台宗を下している非を指摘した文である。「旧到の」とは、華厳宗が真言宗などより古くから伝えられていたところから、このようにいったもの。
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沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れ称心の酔を覆う
依馮集の文。空の法理にとらわれた三論宗は、祖である嘉祥が講義中に、天台宗の沙弥である17歳の法盛に論詰され、まったく閉口したことを示す。称心は章安大師の住所。嘉祥が章安大師の講義を聞いて、体も心も酔うようになったという。このことを隠しているとの意。
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著有の法相宗は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う
依馮集の文。濮揚は智周の住所。智周は初め天台に帰依し菩薩戒本疏を著したが、有に執着する日本の法相宗は天台の義によらないのでかくいった。また中国青竜寺の良賁が仁王経の註釈をするとき、従来の法相宗の師の分文に従わず、天台大師の仁王経疏によって分文したことを忘れている。
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戒定
戒定慧の三学のうちの戒と定。4「戒」は戒律、防非止悪。「定」は禅定、心を静めて悟りを開くこと。
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悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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達磨
禅宗の初祖。菩提多羅のこと。のちに般若多羅より法を受け、菩提達磨の名を授けられた。般若多羅は、かれの滅後67年に震旦に行って弘法せよと、達磨に游化を許したので、梁の普通元年、中国に入り、武帝に謁見したが受け入れられず、崇山少林寺に寓して壁に向かって坐禅したので、人々は彼を壁観婆羅門と呼んだ。大通2年に死去。唐の代宗は円覚大師とおくり名した。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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大乗宗
大乗教を依経とする宗派。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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定慧
戒定慧の三学のうちの定と慧。「定」は禅定、心を静めて悟りを開くこと。「慧」は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。
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東大寺
聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
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小乗戒
小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師に現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
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退大取小
大乗から退転し、小乗に陥ること。
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小乗宗
小乗教を依経とする宗派。
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座主
大寺の管長のこと。
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天台大師・妙楽大師等が「自分のように法華経並びに一切経を心える」ということは、一切経のなかで法華経こそ最高究極の法であると心得ることなのである。
答えとして挙げられている「玄の三」とは、天台大師の法華玄義巻三のことで「人此の理を見ず、是を因縁の事相と謂って軽慢すること止まざれば、舌口中に爛れん」とある文をさす。「此の理」とは法華経の会三帰一の法理をさし、「因縁の事相」は二乗授記をいう。
「籤の三」とは、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三のことで、前掲の玄義の注釈である。
すなわち「法華宗極の旨を了せず、声聞に記する事相のみにして華厳般若の融通無礙なるに 如かずと謂う、此くの如く説く者を諫暁すれども止まず、舌の爛れんこと何ぞ疑わん」とある文をさしている。
この文意は、法華経最極の趣旨を理解せずに、誹謗して般若経等の「一切法空」の法門が優れているという者は、必ずや舌がただれる、ということで、悪道に堕ちること必定であることが明記されている。
また法華経法師品第十には「已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあり、更に同品には「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり」とある。
続いて伝教大師が南都六宗を弾訶した文を挙げられている。
弘仁11年(0820)述作の顕戒論巻下に「昔、斉朝の光統を聞き、今は本朝の六統を見る、実なる哉、法華に何況することをや」とある。
中国斉朝時代の光統の四分律宗・地論宗は天台仏法への対抗勢力の中心となったが、日本においては六統が伝教大師の法華経の興隆・大乗戒壇建立を妨げる魔の牙城となっているとの意である。
顕戒論は、伝教大師が弘仁10年(0819)に上奏した大乗戒壇建立を請う上表文に対してなされた六宗の僧達の反論を破すために著作されたもので、五篇五十八条からなる。そのなかで六人の僧統の論難を完膚なきまでに打破し、愚迷の論を挙げて破折している。
また、弘仁4年(0813)に著した依憑天台集では、華厳・真言・法相・三論などの諸宗が天台の義を規範とし依憑としていることを明かし、天台宗の優越性が示されている。
「新来の真言家は即ち筆受の相承を泯ぼし」とは元天台僧であった一行の著した大日経疏は、天台法華宗の立場で真言の大日経を解釈して、大日経と法華経の理は同じとしたものであり、日本の真言宗が大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立てることは、この筆授を無視し、背いていることになる。もとより大日経疏も誤りだが、弘法大師空海はそれに輪をかけて誤りを広げたわけである。
「旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す」とは、華厳宗の法蔵三蔵が立てた小・始・終・頓・円の五教は、天台大師の五時教判に範をとり、それに影響されたものであるが、日本の華厳家はそのことを隠して天台法華宗を下しているとの意である。
「沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れ称心の酔を覆う」とは、中国三論宗の祖・吉蔵が、講義中に天台の沙弥の法盛に論破され、その後、吉蔵自身、天台宗は諸宗の明鏡であるとして、天台大師に心酔した。
しかし、日本の三論宗の徒はそれを覆い隠し、自宗を三国一の宗としているということである。
「沈空」とは、三論宗が般若の空理に沈み、執着していることをいう。
「著有の法相宗は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う」とは、法相宗は万法は唯心識より生ずるとして万有の現象を種々に分別し、それに執着するので「著有」というが、文意は中国・濮陽の地に住んでいた法相宗第三祖・智周が、天台の五重玄義に依って「菩薩戒本疏」を著した事実をさしていわれたものである。
また青竜寺の良賁が、法相宗では従来、仁王経奉持品第七を流通分としていたのに、天台所説の義に基づいて正宗分としたことを仁王経疏に明かしている。
このように法相宗の先師達は、天台の正義に屈服していたにもかかわらず、後代の法相宗の学者はこれに背いていると指摘しているのである。
天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、南都六宗に真言を加えた七宗の諸人について、たとえ戒を持ち禅定をまともに修していても、正法である法華経に背き謗法を犯しているのであるから、法華経譬喩品の仏説どおり悪道に堕すことは免れられないと断定しているのである。
ましてや禅宗・浄土宗等の者が悪道を免れないのは当然であり、それゆえに天台大師は摩訶止観で「偏に達磨をこそはして」いるのである。「達磨」とは中国禅宗の初祖・菩提達磨をいう。
これは、摩訶止観巻五上で「闇證の禅師・誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」と述べたことをいわれている。
「闇證」は、仏教典の教旨に暗く、坐禅修行をもっぱらにするとの意で、禅宗の徒が教外別伝・不立文字と立て、自己の心を基準に坐禅思惟し、仏の心を証得したと思い込んでいることをいう。
「誦文の法師」とは、逆に経文をただ、うろおぼえし口に唱えているだけの人々をいう。
このように、天台大師や伝教大師は、各宗を厳しく破折しているにもかかわらず、当世の天台宗の人々は、諸宗にも得道ありといって認めているだけでなく、諸宗の修行である称名念仏などを自宗の修行としていることはなんとしたことかと、その堕落ぶりを嘆かれているのである。
真言宗大に分かれて二流あり
続いて真言宗についての破折のしかたを教えられている。
日蓮大聖人御在世時代には、南都六宗に天台・真言両宗を加えて八宗が存在していた。そのうち真言宗は大別すると二流に分かれていた。いわゆる東寺の真言と叡山の真言とである。
「東寺」は、桓武天皇が平安京鎮護のために羅城門の左右に東西両寺を建てたのに始まるとされ、後に弘法が東寺を賜ってから真言密教の根本道場となったもので、この弘法の流れを「東密」という。
弘法は法華経を釈迦応身仏の説いた顕教であるとし、大日法身の説いた密教に比べてはるかに劣ると、あからさまに下したのである。
「天台」の真言は、日本天台宗の立てた密教である。最初、伝教大師は法華経を根本に、絶待妙の立場から密教を取り入れたが、第三代座主の慈覚、第五代座主の智証は、法華経と大日経は円理において同じであるが、事相においては大日経のほうが勝れていると主張したことから、これを「台密」という。
東寺の真言は、法相・三論・華厳の諸宗とともに大乗の宗であるが、仏道修行者が必ず修学しなければならない戒・定・慧の三学のうち、定と慧は大乗であるけれども、戒については、奈良・東大寺の小乗戒壇に依った。ゆえに、退大取小の者であって、小乗の宗であると決定されている。退大取小とは、大乗から退き小乗を取ることである。
叡山の真言は、慈覚・智証が真言の邪義を取り入れたものの、戒だけは自宗の法華円頓の大戒を受けていた。その点、小乗戒とは異なるわけで、叡山には「全真言宗の戒なし」ということができる。それゆえに天台宗の円頓戒に帰伏した真言宗であると、申し述べるよう教えられている。
ところが、慈覚をはじめとした叡山の座主・高僧達は、名を天台宗に借りながら、理同事勝と唱えて真言密教を尊び、法華経を下して、比叡山延暦寺はことごとく謗法と化しているため、どんなに祈禱しても効果が現れないのだと仰せになっている。
なお、天台宗は、法華円頓の大乗戒壇が、仮に正しく伝えられてきたとしても、もともと法華経迹門の戒壇であるから、過去の暦のように末法今の時機には全く適さず、用いればかえって有害となるのである。
観心本尊得意抄に「設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや」(0972-09)と述べられている。
1270:10~1271:03第13章真言の宗名削除の証文を示すtop
| 10 問うて云く天台法華宗にたいして真言宗の名をけづらるる証文如何、答えて云く学生式に云く伝教大師作なり「 天台 11 法華宗年分学生式一首年分度者の人柏原先帝天台法華宗伝法者に加えらる凡そ法華宗天台の年分は弘仁九年より叡山 に住せし 12 めて一十二年山門を出さず両業を修学せしめん、凡そ止観業の者○凡そ遮那業の者」等云云、顕戒論縁起の上に云く 13 「新法華宗を加えんことを請う表一首、沙門最澄○華厳宗に二人天台法華宗に二人」等云云、又云く「天台の業二人 14 人一人大毘盧遮那経を読ましめ一人摩訶止観を読ましむ」此等は天台宗の内に真言宗をば入れて候こそ候めれ、嘉祥 元年六月十五 15 日の格に云く「右入唐廻て請益す伝灯法師位円仁の表にイワく、伏して天台宗の本朝に伝わることを尋ぬれば○延暦 16 廿四年○廿五年特天台の年分度者二人を賜う一人は真言の業を習わし一人は止観の業を学す ○然れば則ち天台宗の 17 止観と真言との両業は 是れ桓武天皇の崇建する所」等云云、 叡山にをいては天台宗にたいしては真言宗の名をけ 18 づり・天台宗を骨とし真言をば肉となせるか。 ―――――― 問うて言う。天台法華宗に対して真言宗の名を削除されている証文はどのようなものがあるか。答えて言う。学生式(伝教大師の著作)に「天台法華宗年分学生式、一首、年分度者の人(柏原先帝、天台法華宗を伝法者に加えられる)、およそ法華宗天台の年分度者は弘仁九年から比叡山に住まわせて十二年間、山門を出さずに両業を修学させます。およそ止観業の者……およそ遮那業の者……」等とあり、顕戒論縁起の上巻には「新法華宗を加えられることを要請する表、一首、沙門最澄……華厳宗に二人、天台法華宗に二人」等、また「天台の業に二人(一人には大毘盧遮那経を読ませ、一人には摩訶止観を読ませる)」と記されている。これらは天台宗の内に真言宗を入れておられるのである。嘉祥元年六月十五日の官符には「右、入唐して教えを請うてきた伝灯法師位・円仁の表には、謹んで天台宗が日本に伝わったのを尋ぬてみると……延暦二十四年であり……二十五年にはとくに天台宗に対して年分度者二人を賜っている。そのうち一人は真言の業を習学させ、一人は止観の業を習学した……それゆえ、すなわち天台宗の止観と真言の両業は桓武天皇が崇め定められたところのものである」等と記されている。比叡山においては天台宗に対しては真言宗の宗名を削り、天台宗を骨として真言宗を肉としたものであろうか。 ―――――― 1271 01 而るに末代に及びて天台・真言・両宗中あしうなりて骨と肉と分け座主は一向に真言となる骨なき者のごとし・ 02 大衆は多分・天台宗なり肉なきもののごとし、 仏法に諍いあるゆへに世間の相論も出来して 叡山静ならず朝下に 03 わづらい多し、此等の大事を内内は存すべし、此の法門はいまだをしえざりき・よくよく存知すべし。 ―――――― しかしながら、末代になって天台と真言の両宗が仲が悪くなって、骨と肉とが分かれたようになった。天台座主はもっぱら真言宗となり、骨のない者のようであり、大衆は多くが天台宗であり、肉のない者のようである。仏法において争いがあるために世間の争いも起こってきて、比叡山は静穏でなく都に煩(わずら)いごとが多いのである。これらの大事を心中におさめておきなさい。この法門はいまだ教えなかったことである。よくよく知っておきなさい。 |
学生式
最澄が比叡山の僧侶のために,0818年から0819にかけて著した天台宗の修行規定。南都仏教に対して,天台宗の独立を明らかにし,大乗戒の必要を説いたもの。「天台法華宗年分学生式(六条式)」「勧奨天台宗年分学生式(八条式)」「天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)」の総称。
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柏原先帝
(0757~0806)。第50代桓武天皇。光仁天皇の第一皇子。東北蝦夷を討ち、都を長岡京から平安京に遷して律令制の再建に努めるとともに、伝教大師最澄の天台宗を鎮護国家の法として重んじた。山城国の柏原陵に葬られたところから、柏原天皇とも呼ばれた。
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止観業
天台法華宗の学生が修すべき行業の一つ。摩訶 止観を読み、四種三昧を修し、法華経・金光明経・仁王経・守護国界主陀羅尼経などの護国の経典を読み講ずる修行をいう。
―――
遮那業
天台法華宗の学生が修すべき行業の一つ。大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)を読み、大日経・仏母大孔雀明王経・不空羂索神変真言経・仏頂尊勝陀羅尼経などの護国の真言を長く念じる修行をいう。
―――
顕戒論縁起
伝教大師の著。伝教が弘仁10年(0820)大乗戒壇建立と仏教統一を請うたのに対し、南都六宗が激しく反対した。それに対して、伝教大師がその迷妄を破折するために本論をつくり天奏した書である。
―――
沙門
梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
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最澄
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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摩訶止観
天台三大部の一つ。天台教学の原典。天台大師が隋の開皇14年(0594)、一夏九旬にわたって講説したものを、章安が筆録し一部十巻になした書。内容は五略十広にわたっているが、そのなかに天台教学の極説一念三千が説かれている。
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格
律令制において、律令の不備の補足や部分的改正のために臨時に発せられた法令のこと。詔勅・太政官符の形で出された。
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伝灯法師位
朝廷から僧に授ける位階の一つ。天平宝字4年(0760)に制定された。大法師位・伝灯法師位・伝灯満位・伝灯住位・伝灯入位・修行法師位・修行満位・修行住位・修行入位の九階の第二。
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円仁
(0794~0864)。慈覚のこと。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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大衆
①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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相論
互いに論争すること。
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本章では、天台法華宗を立てた伝教大師が真言宗をどのように位置づけていたかを示され、天台宗の僧達が本師伝教大師の精神から外れてしまっていることを指摘されている。
伝教大師が著した山家学生式は、天台法華宗の学生が学ぶべき修行規定と、受けるべき大乗戒を明らかにしたもので、大乗戒壇の建立によって南都旧仏教から独立を宣言した重要な書である。
弘仁9年(0818)5月13日の天台法華宗年分学生式(六条式)、同年8月27日勧奨天台宗年分学生式(八条式)、翌年(0819)3月15日の天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)の三部からなり、いずれも第52代嵯峨天皇に上奏された。
引証の文は、天台法華宗年分学生式(六条式)から要点をとって書き記されたものである。
ここでは、天台法華宗の学生は大乗の類であるから、大乗戒を受けるべきであるとし、毎年2人の年分度者、すなわち年々、一定数に限り得度する者は、叡山内で12年間、止観業(法華)・遮那業(真言)を修学することを定め、更にその能力に応じて任用されることを請うている。
つまり天台法華宗の学生に、止観・真言両業を分けて勤学させていたことが分かる。
また同じく弘仁12年(0821)に著した顕戒論縁起上巻には、新たに天台法華宗を加えることを朝廷に請うた上表文のなかで、各宗の年分度者数を定めて「華厳宗に二人天台法華宗に二人」と記している。
また同書には「天台の業に二人」とあり、真言を「天台法華宗」「天台の業」のなかに位置づけている。
これらの文に依っても、伝教大師は真言を天台法華宗の内の一部として扱い、一宗として認めていなかったことが明白である。
この基本方針は慈覚大師円仁の考え方にも受け継がれており、嘉祥元年(0848)6月15日の格で、慈覚が朝廷に上奏した文に「伏して天台宗の本朝に伝わることを尋ぬれば……延暦廿四年……廿五年特天台の年分度者二人を賜う。一人は真言の業を習わし、一人は止観の業を学す……然れば則ち天台宗の止観と真言との両業は是れ桓武天皇の崇め建つる所」とある。
このことからも天台宗比叡山では、真言を〝宗〟として認めていなかったことが明らかである。天台法華宗は天台大師の止観を〝骨〟とし、根本として、真言は止観を理解させるための〝肉〟とし、助縁としてきたのである。
しかしながら後世になると、弘法大師空海の立てた真言宗が大きい力をもつようになり、それに影響されて、天台宗のなかでの真言密教も勢いを増大し、とくに叡山の「座主は一向に真言」と化したのである。
この張本人は慈覚であったが、先の引用文にみられるように、慈覚の心のなかには、まだ真言を一宗として認める気持ちはなかった。しかし、それが真言を天台宗の一分とするためであったにせよ、理同事勝の邪義に迷って法華経より真言密教を上位に置いた誤りは責任重大である。
ゆえに大聖人は撰時抄で「されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず」(0279-18)として、「師子の身の中の虫の師子を食う」(0280-04)ものであると断じられている。
一方、叡山の大衆の多くは天台宗を呼称しているから、これは〝骨〟ばかりで「肉なきもののごとし」と訶責されている。
このように仏法の内部に生じた諍いの反映として、世間にも諍いが生じ深刻化していったのである。まさに「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)である。
1271:04~1271:12第14章叡山の謗法が正法の滅失を招くtop
| 04 又念仏宗は法華経を背いて浄土の三部経につくゆへに阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる、 真言師大日をせ 05 んとをもうゆへに釈迦如来をあなづる、 戒にをいては大小殊なれども釈尊を本とす余仏は証明なるべし、 諸宗殊 06 なりとも釈迦を仰ぐべきか、 師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし 内道の内に事いできた 07 りて仏道を失うべし仏の遺言なり、 仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、 此 08 等は又外道のごとし、 又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べ 09 し、 仏法の滅不滅は叡山にあるべし、 叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす、叡山の正法 10 の失するゆえに大天魔・ 日本国に出来して法然大日等が身に入り、 此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住 11 み、かへりて叡山三千人に入るゆえに 師檀中不和にして御祈祷しるしなし、 御祈請しるしなければ三千の大衆等 12 檀那にすてはてられぬ。 -----― また、念仏宗は法華経に背いて浄土の三部経に依るゆえに阿弥陀仏を正として釈尊を侮っている。真言師は大日如来を中心と思うがゆえに釈迦如来を侮っている。(仏教は)戒律においては大乗と小乗と異なっても、釈尊を根本とするのであり、他の仏はその証明役であるはずである。諸宗は異なっても釈尊を仰ぐべきではないか。師子の身中の虫が師子を蝕むというとおり、仏教を外道は破りがたい、仏教の内部に事が起こってきて仏道を滅ぼすであろう、というのは仏の遺言である。仏道の内部にあっては、小乗教をもって大乗教を滅ぼし、権大乗教をもって実大乗教を滅ぼすであろう。これらは、まだ外道のようなものである。また、小乗や権大乗よりも実大乗や法華経の人々が、かえって法華経を滅ぼそうとすることが重大事であろう。仏法が滅びるか滅びないかは比叡山にあるといえよう。比叡山の仏法が滅失したがゆえに異国が我が国を滅ぼそうとしているのである。比叡山の正法が失われたがゆえに大天魔が日本に出来して法然や大日能忍等の身に入り、これらの身を橋渡しとして王臣等の御身に移り住み、更に比叡山の三千人の大衆の身に入るがゆえに師と檀那の仲が不和になって御祈禱に効験がないのである。御祈禱に効験がないので、三千人の大衆等は檀那に完全に見捨てられてしまったのである。 |
浄土の三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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大日
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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実大乗
権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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大日
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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師子(ライオン)の身中の虫が師子を食らうように、仏法を破る者は仏弟子であり、謗法と化した叡山はまさしく師子身中の虫となって、正法を滅失させていると指摘され、それが蒙古の来牒という国難を招来し、また祈禱の効験もないことを述べられている。
念仏宗は阿弥陀仏を、真言宗は大日如来をそれぞれ本尊として崇め、主師親三徳具備の釈尊を侮っているが、およそ、仏教というからには、戒に大小の差はあったとしても、釈尊を根本とするのが当然であり、余仏はその証明役にすぎないはずである。ゆえに釈尊をないがしろにして阿弥陀等を中心にしているのは、本末転倒といわなければならないのである。
師子の中の虫・師子をくらう
師子身中の虫とは、師子の身中に宿り、体内を食み、死に至らしめる虫のことで、仏法を内部から破壊する者を譬える。
師子は百獣の王で、無敵とされるが、仏法も同様で、外道によっては破られない。だが、師子も身中の虫に食い破られるように、仏弟子と称する者によって内から破られるということである。これは、釈尊が後世のために厳しく戒めていたことなのである。
この戒めの経文としては守護経と蓮華面経があり、日蓮大聖人は撰時抄でも引用されている。
すなわち、「守護経に云く『彼の釈迦牟尼如来所有の教法は一切の天魔外道悪人五通の神仙皆乃至少分をも破壊せず而るに此の名相の諸の悪沙門皆悉く毀滅して余り有ること無からしむ須弥山を仮使三千界の中の草木を尽して薪と為し長時に焚焼すとも一毫も損すること無し若し劫火起りて火内従り生じ須臾も焼滅せんには灰燼をも余す無きが如し』等云云、蓮華面経に云く『仏阿難に告わく譬えば師子の命終せんに若しは空若しは地若しは水若しは陸所有の衆生敢て師子の身の宍を食わず唯師子自ら諸の虫を生じて自ら師子の宍を食うが如し 阿難我が之の仏法は余の能く壊るに非ず是れ我法の中の諸の悪比丘我が三大阿僧祇劫積行勤苦し集むる所の仏法を破らん』等云云」(0285-16)の文である。
文意は、釈尊の教法は仏法外の敵には破ることはできない。しかし、名前だけ出家したという僧の姿をした悪人がことごとく仏法を破滅して、何も残らなくするであろうということである。
蓮華面経巻上は「譬えば師子の命絶し身死せんに、若しは空、若しは地、若しは水、若しは陸所有の衆生敢えて師子の身の肉を食わず、唯師子自ら諸の虫を生じて、還って自ら師子の肉を噉うが如し。阿難、我が之の仏法は余の能く壊るに非ず是れ我が法の中の諸の悪比丘猶毒を刺す如く、我が三大阿僧祇劫の積行勤苦し集むる所の仏法を破らん」という文である。
死んだ師子でさえ、ほかの動物は寄り付かないほど、師子は力もあり権威もあるとされる。しかし自らの身中に発生する種々の虫によって食い尽くされてしまうという。仏法もまた同様で、外部からは破られないが、仏法中の悪僧が、仏が三大阿僧祇劫にもわたって行を積み、勤苦して集めたところの仏法を破るであろう、という意味である。
同抄で、伝教大師が南都六宗を〝六匹の虫〟とされたことに対し、大聖人は真言・禅・念仏宗の元祖を〝三虫〟とし、また天台宗の慈覚・安然・慧心を〝三匹〟として、仏法の内から仏法を破った師子身中の虫であると破折されている。
また、末法の大法である日蓮大聖人の仏法のなかから生ずる師子身中の虫については、日興遺誡置文に「偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事」(1617-08)と述べられている。
大聖人は、同じく仏法のなかに生じた師子身中の虫といっても、大乗仏法にとっての小乗教や、法華宗にとっての権教は、厳密にいえば身の外であり、さほど恐れるに足りない、と仰せられている。今、叡山の天台宗についていえば、叡山の僧のなかから、法華経より大日経が勝れると主張する者が出てきたことこそ、天台仏法を内部から食い破る師子身中の虫であると仰せられている。
「又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし」との仰せを心して拝すべきである。
そして「仏法の滅不滅」は法華経を依経としてきた「叡山にあるべし」とされ、全山謗法と化して、実質的に正法が失われたために、蒙古の来牒という未曾有の国難を招来したのだと仰せられている。
日蓮大聖人が一往、文面で過去の仏法である比叡山天台宗を立てられたことについて、日享上人は安国論御勘由来の解題で「此の如く叡山を尊重せられる等の事は仏教国史の常説であるが、其の裏面には権教の題目(弥陀念仏)の流布するは実経の題目(法華経の題目)の流布する先序である」といわれている。
また、叡山の正法が滅失したために、第六天の魔王が便りを得て、念仏の法然や禅宗の大日房能忍等の身に入り、宗教に無知な上下万民を誑惑したことによって、天変地夭が相次いでいるのであり、そして、法然・大日房等を橋渡しとして、大天魔が王臣並びに叡山三千人の大衆の身に入っているから、師壇の仲が不和となり、どんなに祈禱しても効験なく、祈禱の結果が現れないから、結局、叡山三千人の大衆は、朝廷をはじめとした壇家から完全に見捨てられてしまったと仰せである。
1271:13~1272:03第15章念仏・禅に下った台密の非難を糺すtop
| 13 又王臣等・天台.真言の学者に問うて云く念仏・禅宗等の極理は天台.真言とは一つかととはせ給へば、名は天台 14 真言にかりて其の心も弁えぬ高僧・天魔にぬかれて答えて云く、 禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法 15 華経の肝心なりなんど答え申すなり、 而るを念仏者・禅宗等のやつばらには 天魔乗りうつりて当世の天台真言の 16 僧よりも智慧かしこきゆえに全くしからず、 禅は・はるかに天台真言に超えたる極理なり、 或は云く「諸教は理 17 深我等衆生は解微なり、機教相違せり得道あるべからず」なんど申すゆへに、 天台・真言等の学者・王臣等・檀那 18 皆奪いとられて 御帰依なければ現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ・ 仏神にいかりをなし檀那をすそし年年に災 1272 01 を起し或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい 或は生身の弥勒菩薩をほろぼす、 進んでは教主釈 02 尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か、 この大罪は経論にいまだとかれず、 又此の大 03 罪は叡山三千人の失にあらず公家武家の失となるべし。 -----― また、王臣等が天台真言の学者に「念仏宗や禅宗等の極理は天台・真言と同一か」と質問すると、名前は天台真言を名乗っていながらその本義もわきまえていない高僧が天魔に魂を抜かれて「禅宗の極理は天台真言の極理であり、弥陀念仏は法華経の肝心である」などと答えて言うのである。しかしながら、念仏者や禅宗等の輩には天魔が乗り移って当世の天台真言の僧よりも智慧が賢いがゆえに「全くそうではない。禅宗は天台真言にはるかに勝れた極理である」とか、あるいは「諸教は法理が甚深で、我ら衆生はほんのわずかしか理解できない。機根と教えとが相違しており、得道することはできない」などと言うので、天台真言等の学者は王臣等の檀那を皆奪い取られて御帰依がないので現身に餓鬼道に堕ちて友の肉を食い、仏や神に怒りをぶつけ、檀那を呪い、年々に災を起こし、あるいは自分達の生身の本尊たる大講堂の教主釈尊を焼き払い、あるいは生身の弥勒菩薩を滅ぼしているのである。進んでは教主釈尊の怨敵となり、退いては未来の弥勒菩薩の出世を妨げようと狂っているのか。この大罪は経論に未だ説かれていない。また、この罪は比叡山三千人の過失でなく、公家や武家の過失となろう。 |
機
説法を受ける所化の衆生の機根。
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餓鬼道
餓鬼は梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇に苦しめられる境界。大智度論巻三十に「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。また正法念処経巻十六には、餓鬼の住所として「一には人中に住し二には餓鬼世界に住するなり。是の人中の鬼は、若し人夜行かば、則ち見る者有り。餓鬼世界は閻浮提の地下五百由旬に住す」とあり、さらに業の果報によって三十六種の餓鬼のあることが述べられている。
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生身
①衆生の肉親をいう。②二身のひとつ。生身仏・父母生身ともいう。
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大講堂
比叡山延暦寺の堂塔の一つ。天長5年(0828)義真が東塔の地に創建。文永元年(1264)3月、延暦寺僧徒によって火を放たれ、戒壇院などとともに消失した。
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弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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歴史と権威を誇る天台宗・真言宗が、新興宗教である念仏や禅宗に浸食された根源がどこにあるかを示される段である。
すなわち天台真言(台密)の僧達は「念仏・禅宗等が説く極理は、天台真言の極理と同一か」との質問に対し、「禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法華経の肝心なり」等と答える。
ところが念仏・禅宗等の徒輩は、天魔が乗り移って台密の僧よりも悪智慧に長けているから「自宗の極理は天台真言と同じである」などとは決していわない。
禅宗の徒は「禅は天台真言よりはるかに勝れた極理である」と主張する。
念仏者は、中国浄土宗の道綽が著した安楽集に基づいて、法華経等の諸経は「道理が深くて衆生の愚鈍な智慧では理解が困難であり、衆生の機根と教法が相違しているため、一人も成仏する者がいないから、法華経等の聖道門を捨てて、浄土門の阿弥陀仏を信じよ」と強弁したのである。
そのため天台真言の叡山は権威を失墜し、帰依していた王臣等の檀那を、皆、念仏・禅宗等に奪い取られてしまったのである。
布施する檀那が皆無となったため「現身に餓鬼道に堕ち」る羽目になり、「友の肉をはみ」といわれるように、慈覚門下〈山門派=延暦寺〉と智証門下(寺門派=園城寺)が争乱を繰り返すこととなったのである。
園城寺は今の滋賀県大津市の西北にあり、地名を三井というところから三井寺ともいう。第五代座主・智証がこの寺を本拠にしてから比叡山と長年にわたって勢力争いが続き、互いに兵戦や焼き打ちをたびたび繰り返してきた。
大聖人御在世当時も、正嘉2年(1258)4月の抗争に続き、文応元年(0260)1月4日には、園城寺に三摩耶戒壇が勅許されたが、延暦寺の僧徒が朝廷に強訴したため、勅許が停止される事件が起きている。
延暦寺の山僧が朝廷に強訴するときには、叡山の鎮守である日吉神社の神輿をかつぎ、京都へ繰り返すなど横暴を極めた。日吉神社は第71代後三条天皇が行幸して以来、皇族等の参詣も盛んに行われてきたので、叡山の僧徒はその権威をかさにきて強訴の手段に悪用したのである。自分達の要求が入れられないときは朝廷や貴族を「呪咀」した。これが「旦那をすそ(呪詛)し」である。
「仏神にいかりをなし……大講堂の教主釈尊をやきはらい」とは、延暦寺の強訴により戒壇勅許を停止した代償として、朝廷は文永元年(一二六四年)三月、天王寺(延暦寺の末寺)の別当職を園城寺に付したが、これにまたも反発した延暦寺の僧徒は、強訴のため、教主釈尊を本尊として祀ってあった延暦寺大講堂に自ら火を放つという愚行に出た事実をさしている。
「生身の弥勒菩薩をほろぼす」とは、園城寺中院の金堂に弥勒菩薩が本尊として安置されていたが、文永元年(1264)5月、延暦寺の衆徒が園城寺を襲い、諸堂とともに焼き払ったことをいう。
こうした叡山の非法の狂態をさして「進んでは教主釈尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か」と仰せられているのである。
「当来弥勒の出世」とは、弥勒は未来に釈尊の仏位を継ぐとされたことから、このようにいわれたのである。
弥勒菩薩は釈尊の弟子となったが、釈尊に先立って入滅し、天界の都率天に生じて、現在は弥勒の浄土である都率の内院で天人のために法を説いているとされる。そして人寿八万歳・釈尊滅後五十六億七千万年の時、再びこの世に下生して竜華樹の下で成仏し、三会にわたって法を説き、釈尊の説法に漏れた衆生を済度するという。
ここでは、弥勒菩薩を焼き払ったことは、未来世における衆生救済のための出世を妨げるつもりか、との意である。
「此の大罪は経論にいまだとかれず」とは、「教主釈尊をやきはらい」「弥勒菩薩をほろぼす」という罪は、五逆罪のなかに「出仏身血」とは説かれていても、仏の焼滅までは言及されていないということと拝される。
またこの大罪は、叡山三千人の過失ばかりでなく、狂態を生じさせる機縁をつくった朝廷や武家すなわち鎌倉幕府にとっても罰となってあらわれてくるであろうと断じられている。
1272:04~1272:11第16章一国謗法が蒙古による国難招くtop
| 04 日本一州・上下万人・一人もなく謗法なれば大梵天王・帝桓並びに天照大神等・隣国の聖人に仰せつけられて謗 05 法をためさんとせらるるか、 例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶけたてまつり結句は山王・大仏殿をやきは 06 らいしかば天照大神・正八幡・ 山王等よりきせさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて 07 国土安穏なりき、 今一国挙りて仏神の敵となれり、 我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起る 08 とみへたり、例せば震旦・高麗等は天竺についでは仏国なるべし、 彼の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼ 09 されぬ、 日本国は彼の二国の弟子なり 二国のほろぼされんにあに此の国安穏なるべしや、国をたすけ家ををもは 10 ん人人はいそぎ禅・念がともがらを経文のごとくいましめらるべきか、 経文のごとくならば仏神・日本国にましま 11 さず、 かれを請しまいらせんと術はおぼろげならでは叶いがたし、 -----― 日本全国の上下万人が一人も漏れなく謗法なので、大梵天王や帝釈天並びに天照大神等が隣国の聖人に命じられて、謗法を改め正そうとなされているのであろうか。例えば、日本国の民であった平清盛入道が王法を傾け、更には日吉神社や大仏殿を焼き払ったので、天照大神や正八幡大菩薩や山王権現等が加勢されて源頼義の子孫の頼朝に命じて平家を滅ぼされ、国土は安穏となった。今、一国こぞって仏神の敵となってしまい、我が国にこの国を治めるべき人がいないがゆえに大蒙古国は起こってきたものと思われる。例えば、中国や高麗等はインドに次いで仏教が栄えた国である。彼の国々は禅宗や念仏宗になって蒙古に滅ぼされてしまった。日本国は彼の二国の弟子である。二国が滅ぼされているのに、どうしてこの国が安穏であることがあろうか。国を助け家を思う人々は急いで禅宗や念仏宗の輩を経文にあるように禁ずるべきであろう。経文のとおりであるならば、仏神は日本国にいらっしゃらない。その仏神をお招きしようとしても、その方法は通り一遍ではかないがたい。 |
帝桓
帝釈天のこと。梵語シャクローデーヴァーナームインドラハ(Śakro Ⅾevānām Indraḥ)、音写して釈提桓因因陀羅、略して釈提桓因。諸天の中の王の意で、ヴェーダ神話上の最高神で雷神であった。漢訳して帝釈天。帝桓はインドラハの漢訳(=帝)とシャクローの音写(=釈)とを合わせた語。
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天照大神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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清盛入道
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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山王
山王権現のこと。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓に鎮座する日吉神社をいう。比叡山の地主神であり、延暦寺が創建されると神仏習合思想の影響を受けて法華経守護の神とされ、山王と称して崇敬された。天台宗の隆盛にともなって平安時代から栄え、平安末期には延暦寺の僧が日吉の神輿をかついで京へ押しかけていた。治承4年(01180)12月11日、平清盛から遣わされた平清房によって攻められ、延暦寺の堂舎とともに焼き払われた。
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大仏殿
大仏を安置している殿堂のことで、ここでは東大寺大仏殿をいう。天平勝宝4年(0752)に大仏開眼供養が行なわれたが、治承4年(1180)12月28日、平清盛から遣わされた平重衡によって焼かれた。なお、東大寺の鎮守として大仏殿の近傍に祀られていた東大寺八幡宮も、その時に焼亡した。
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源の頼義
(0988~1075)。平安時代中期の武将。頼信の長子。長元3年 (1030)平忠常の乱平定のため父とともに上総に下り,勇名をはせ平直方の婿となった。相模守,常陸介を歴任。永承6年(1051) 年安倍氏の謀反鎮定のため陸奥守となって赴任し,安倍頼時を帰服させた。
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頼朝
(1147~1199)。源頼朝のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流が鎌倉幕府の支配者となった。
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大蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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震旦
中国の歴史的呼称。梵語チーナスターナ(Cīna₋sthāna)の音写。真旦・真丹とも書く。チーナは秦の音写。スターナは地域・場所の意。秦(中国)人の住んでいる地域との意。古代インドで中国をさした呼称。おもに仏典のなかで用いられた。
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高麗(
朝鮮半島の王朝(0918~1392)。開城の豪族・王建が後高句麗の弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗と称した。さらに0935年に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の侵略を受けて属国となり、1392年に李成桂が政権を掌握、李氏朝鮮を興し高麗は滅びた。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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念仏や禅のために謗法の国となってしまったがゆえに、日本は蒙古に攻められようとしているのであると述べられ、その先例として、仏神を焼いて滅亡した平清盛や、中国・朝鮮に念仏・禅宗が流布して蒙古に侵略されたことを挙げ、救国の方途は、これらの謗法を禁じて正法に帰依する以外にないことを強調されている。
日本一国が正法に背き、悪法に帰しているために、この謗法を改め、正すべく大梵天王・帝釈天などの諸天善神が隣国の聖人(蒙古)に仰せつけて、日本を責めさせているのだといわれ、亡家亡国の先例として初めに平清盛を挙げられている。
平清盛は平氏一門の棟梁として活躍し、保元・平治の乱に勝利したあと、源義朝を討って実権を握り、勢威を振るった。
仁安2年(1167)には太政大臣となり、承安元年(1171)には娘・徳子を第80代高倉天皇の中宮とし、権力の伸張を図った。一門の公卿十六人、殿上人三十余人を数え、「平氏にあらざれば人にあらず」との繁栄を誇ったのである。
一時、病気で辞任し、出家(入道)して福原(今の神戸市兵庫区)に隠棲したが、治承元年(1177)に平家討伐の策謀を知ると、急遽帰京し、反平家勢力の一掃に力を注いだ。
また徳子に皇子が誕生するや、治承3年(1179)に後白河法皇を幽閉。翌年正月、高倉天皇の崩御とともに、3歳の皇子を第81代安徳天皇として立てるなど、権勢をほしいままにしたのである。「王法をかたぶけたてまつり」とはこのことをいわれている。その後、源平の戦いが激しくなったさなか、熱病を患って死んだ。
「山王・大仏殿をやきはらい」とは、清盛が、源氏に加担したことを理由に叡山・南都の衆徒の鎮圧を重衡に命じた際、重衡が勢いにまかせて「山王・大仏殿」を焼き討ちしたことをいう。
こうした平清盛の仏法破壊の暴挙に対して、天照大神・正八幡等が源頼義の子孫の頼朝の挙兵に加勢して平氏を滅ぼし、ひとまず国土の安穏をもたらしたのだと仰せである。
頼朝が開いた鎌倉幕府も、次第に念仏・禅を保護するようになって、日本は一国挙げて仏神の敵となったため、天変地夭による乱れが甚だしく、立正安国論に「善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず」(0017-13)と仰せのように、種々の災難が起こり、更に蒙古の襲来で苦しむようになったのである。
更に、念仏や禅宗の邪教に陥ったため国が滅びた前例として中国、高麗を挙げられている。
仏教はインドから中国・高麗に伝えられ、そこから日本に伝わってきたのであるから、日本は中国・高麗二国の弟子の立場といえる。
その中国・高麗で念仏・禅宗が広まって、蒙古に滅ぼされたのであるから、どうして同じく念仏や禅に侵された日本が安穏でいられようかと警告され、「いそぎ禅・念がともがらを経文のごとくいましめらるべきか」と国を救う道は、災いを招いた原因である念仏や禅などの謗法を禁ずることであると示されている。
「経文のごとく」と仰せの「経文」とは、立正安国論に引用されている涅槃経大衆所問品などの諸品と仁王経受持品をさしている。
その結論として「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(0030-06)と述べられている。本文の「いましめらるべきか」とはこの意である。
続いて「経文のごとくならば仏神・日本国にましまさず」と仰せである。その「経文」もやはり立正安国論で引用されている金光明経・大集経等である。
その内容は「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-12)と仰せのように、正法に背く国には諸天善神は住まず、これを捨て去るということである。
仏菩薩を含む諸天善神が「なぜ謗法の国を捨離するか」について、日寛上人は報恩抄文段で「多くの所以あり」とされながら、大別して三意あるとしている。
すなわち「一には仏前の誓約(法華経の行者の守護)に依る故なり……二には(妙法の)法味を嘗めざるに依る故なり……三には住処(正直の人の頂)なきに依る故なり」と示されている。
それゆえに捨離した仏神を呼び戻すためには並大抵の方法では叶いがたいとされ、その方途はただ一つ、正直の法たる法華経とその信受による以外にないことを明かされるのである。
1272:11~1273:05第17章正直の者と安国の方途を示すtop
| 11 先ず世間の上下万人云く八幡大菩薩は正直の 12 頂にやどり給い別のすみかなし等云云、 世間に正直の人なければ大菩薩のすみかましまさず、 又仏法の中に法華 13 経計りこそ正直の御経にては・おはしませ、法華経の行者なければ大菩薩の御すみか・おはせざるか。 ―――――― まず世間の上下万人は「八幡大菩薩は正直者の頭に宿られ、そのほかに住まわれることはない」等と言う。世間に正直の人がいないときは八幡大菩薩の住まわれるところはないのである。また、仏法のなかで法華経のみが正直の御経であられる。法華経の行者がいないときは八幡大菩薩の住まわれるところがないことになろうか。 ―――――― 14 但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世・正直の者にては候へ、其の故は故最明寺入道に向つて禅宗は天魔 15 のそいなるべしのちに勘文もつてこれをつげしらしむ、 日本国の皆人・無間地獄に堕つべし、 これほど有る事を 16 正直に申すものは先代にもありがたくこそ、 これをもつて推察あるべし・それより外の小事曲ぐべしや、 又聖人 17 は言をかざらずと申す、 又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか、 日蓮は聖人の一分にあたれり、此の法門の 18 ゆへに二十余所をわれ結句流罪に及び身に多くのきずをかをほり 弟子をあまた殺させたり、 比干にもこえ伍しそ 1273 01 にもをとらず、 提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頚をはねられしにもをとるべきか、 もししからば 02 八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、 日蓮を此の国に用いずば・いかん 03 がすべきと・ なげかれ候なりと申せ、 又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術 04 なし、 禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請 05 し入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。 ―――――― ただし、日本国には日蓮一人だけが世間・出世間において正直の者である。そのわけは故最明寺入道に向かって「禅宗は天魔の所為である」といい、後に立正安国論をもってこれを告げ知らせたのである。「日本国の人は皆、無間地獄に堕ちるであろう」と。これほどのことを正直に言う者は前代にもいなかったであろう。これをもって推察なさい。それ以外の小事を曲げて言うことがあろうか。また、聖人は言葉を飾らないという。また、未だ現れていない後の事を知るのを聖人というか。日蓮は聖人の一分に当たっている。この法門を説くがゆえに二十余所を追われ、しまいには流罪になり、身に多くの傷を受け、弟子を多く殺させてしまった。比干にも超え、伍子胥にも劣らない。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が檀弥利王に頚をはねられたのにも劣るであろうか。もしそうであれば、八幡大菩薩は日蓮の頭を離れて、いずれの人の頭に住まわれることがあろう。日蓮をこの国が用いないならば、どうしたらよいであろうかと嘆かれておられると言いなさい。また日蓮房は「仏や菩薩並びに諸大善神を呼び返すのに、別の方法はない。禅宗や念仏宗の寺々を一つも残らずなくし、その僧らを戒め、比叡山の講堂を造って霊鷲山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れ奉るのでなければ諸神も帰られないであろうし、諸仏もこの国を助けられることは難しい」と申していると言いなさい。 |
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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最明寺入道
北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家したので、最明寺殿、最明寺入道殿と呼ばれた。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子。母は安達景盛の娘。宝治元年(1247)外舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅法を受け、建長5年(1253)建長寺を建立。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。日蓮大聖人は文応元年(1260)7月16日、宿屋入道を通じて立正安国論を時頼に上程された。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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比干
中国古代の殷王朝の人。殷の紂王の叔父といわれる。殷の三仁の一人。史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を寵愛して酒色に耽り、悪政をしいていたので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれ滅びた。
―――
伍しそ
(~前0485)。伍子胥。中国・春秋時代の呉の重臣。名は員初め楚に仕えたが、父と兄が楚の平王に殺されたため、楚を去って呉王・闔閭に仕えた。そして楚を破り、平王の墓をあばいて屍に鞭打ったという。後、闔閭の子の夫差に仕え、呉が越を破ったとき後難を危惧して越王勾践を殺すよう夫差を諌めたが聞き入れられず、かえって讒言によって自害させられた。後に伍子胥の言のとおり、呉は越王勾践によって滅ぼされた。
―――
提婆菩薩
迦那提婆のこと。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。三世紀ころの南インドの伝灯者で、付法蔵第十四祖。提婆菩薩伝によると、バラモン出身で竜樹菩薩の弟子となった。昔、大自在天の請いによって一眼を供養したため片目となったという。各国を遊化して広く法を求め、南インドで外道の論師を破折したとき、外道の凶悪な弟子が怨んで提婆を殺害した。提婆はその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
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師子尊者
師子比丘ともいう。六世紀ころの中インドの人で、付法蔵の最後の伝灯者。付法蔵因縁伝巻六によると、師子尊者は罽賓国で法を説き弘めたが、国王檀弥利王は邪見の心が盛んで敬信せず、塔寺を壊し、衆僧を殺害した。そして利剣をもって師子尊者を殺害し、付法を断絶させた。景徳伝灯録巻二によると、王が師子尊者を切ったとき、王の右臂もまた地に落ち、七日にして死んだという。
―――
檀弥利王
檀弥羅王のこと。付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
―――
霊山
霊鷲山のこと。中インド摩竭提国の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところが霊鷲山である。
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諸天善神を呼び戻すためには、正直の頭がなければならない。その正直の頭は、法華経の行者である大聖人御自身以外にないことを述べられている。
善神が正直の人の頭を住処とすることについては、諫暁八幡抄にも「八幡の御誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』等云云」(0587-12)とある。
八幡大菩薩は八幡宮の祭神・応神天皇をいう。日本を守る神として崇められてきたが、仏法のうえでは一個の実体をさすのではなく、妙法を持(たも)つ者を守護する働き、作用をいうのである。
一般的に「正直」とは、うそ・偽り・ごまかしがないさまをいうが、仏法でいう「正直」については、諫暁八幡抄で「正直に二あり一には世間の正直……二には出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論釈は妄語、法華経・天台宗は正直の経釈なり」(0587-15)とされ、本文でも「仏法の中に法華経計(ばか)りこそ正直の御経にては・おはしませ」と仰せになっているように、「正直の御経」である法華経のみを信受、行ずることが真の正直となる。
この法華経の行者が存在しなければ、八幡大菩薩も自らの住処を失うことになるのである。
そして、日蓮大聖人こそ日本におけるただ一人の法華経の行者、正直者であることを断言されるとともに、他国侵逼難の予言がすでに的中していることから「いまだ顕れざる後をしる」聖人にあたっている。と述べられている。
忍難弘通の事跡を挙げられているのは、大聖人が諸宗を災いの根源であると訴えたのは我が身のためではない、あくまで仏法のため、国のためにいったのであると示されているのである。ゆえに、その真実の正直者である大聖人の頂に八幡大菩薩などの善神が住むことは間違いないのであり、大聖人を用いて仏神の守護を招来することこそ安国救民実現の方途であるということである。
大聖人は、当時の鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に向かって、彼が栄僧道隆について禅法を受け、建長寺を建立していたので「禅は天魔の所為である」と破折され、更に文応元年(1260)七7月には「勘文」すなわち立正安国論を上呈し、背正帰悪のゆえに国中に三災七難が現出しているのであると直言し、諫められた。
国主への諫暁は「忠言耳に逆らう」道理から、身命にかかわる弾圧を覚悟しなくては到底できないことであり、こうした重大事を単刀直入に、正直に言いきった人は前代未聞であり、このことから推察しても「それより外の小事曲ぐべしや」といわれ、「日本国には日蓮一人計りこそ」世間・出世間を通じて「正直の者」であると断言されているのである。
日蓮は聖人の一分にあたれり
聖人であることの条件として「聖人は言をかざらずと申す、又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか」と仰せられ、仏法の正義を言葉を飾らず訴えられたゆえ、また、蒙古襲来を正しく予知されていたゆえに、御自身が「聖人の一分」にあたることは間違いないといわれている。
聖人とは、世間・出世間ともに通ずる言葉で、智慧と徳が優れた者のうち、賢人より優れた人をいう。聖とは本来、耳の穴がよく通って、普通の人には聞こえない声までよく聞くことができるという意味があるといわれる。
世間でいう場合は「せいじん」と読み、儒教では、中国上古の帝王とされる唐堯や虞舜等、また孔子・老子など、世間の人の師表となる智徳の優れた理想的な指導者をさしていっている。
しかし、これらの聖人は過去・未来にわたる永遠の生命観を知らないために真の聖人ということはできない。それに対し、仏法においては仏を聖人といい、この場合は「しょうにん」と読む。
御書にも「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(0287-08)、「委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と記されているように、とくに仏法では、過去・現在・未来の三世を、つぶさに正しく知っているところにその本質があるとされている。
「三世を知る」ということは、いわゆる通力ではない。事象の法則に通達しているということである。仏法は生命の正しい法理を見極めたものであるから、仏法に通達した聖人は「三世を知る」ことができるのである。
したがって、仏法でいう聖人とは、一切の法門を究め尽くし、智慧が広大無辺で、慈悲心の深大な人格、すなわち仏を意味する。
本文の「いまだ顕れざる後をしるを聖人と申す」とは、文永5年(1268)正月、同翌6年9月の蒙古来牒によって、8年前に提出された立正安国論での他国侵逼難の予言が的中したことをさしていわれたものである。
文永5年(1268)4月8日御述作の安国論御勘由来にも「勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し」(0035-02)と述べられ、また同年十月十一日の北条時宗への御状には「正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり」(0169-01)と仰せられている。
「此の法門のゆえに……」とは、仏法の正邪を明確にされ、禅宗などの邪法を邪法と言い切って破折されたがゆえに、ということである。また、日本の国を襲う災いを予知されたゆえに、人々を救おうとの大慈悲から諫暁されたことをさしておられるとも拝せられる。
「二十余所をわれ」とは、文永6年(1269)以前であるから、立教開宗直後における安房・清澄寺の追放、松葉ヶ谷の夜討ちをはじめとして、折伏・弘教の先々で所を追われたことをいわれたと推される。
「流罪に及び」とは、本抄は文永6年(1269)御述作とすると、伊豆への流罪をさす。弘長元年(1261)5月12日、大聖人は念仏者によって幕府に訴えられ、伊豆国(静岡県の伊豆半島)伊東へ流された。
「身に多くのきずをかをほり弟子をあまた殺させたり」とは小松原の法難のことである。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていた大聖人は、壇越の工藤吉隆の招待を受け、華房の蓮華寺から工藤邸へ向かわれる途中の東条郷の小松原で東条景信の襲撃を受け、門下の鏡忍房はその場で討ち死に、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負って死んだ。大聖人御自身も、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折されたのである。
こうした諸難は「睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233-05)と仰せのように、救国救民のため、時の権力者等に対し、謗法を訶責された結果、呼び起こされた難なのである。
そして中国古代の忠臣とされ、国王を諌めたために殺された比干・伍子胥、仏法流布のために難にあいながらも身命を惜しまなかったインドの提婆菩薩・師子尊者の例を挙げ、正法流布には受難は不可避であることを述べられ、大聖人の値難がこれら先人と比べ、はるかに超えていることを示唆され、真実の正直者であり法華経の行者であるとの証とされているのである。
それゆえに、聖人であり法華経の行者である日蓮大聖人の「頂をはなれ」て、八幡大菩薩の住処はどこにもないということができる。諫暁八幡抄の「今八幡大菩薩は……法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし」(0588-11)と仰せの御文と同意である。
したがって、大聖人の教えを用いてこそ、日本国を守護するという八幡大菩薩の働きも盛んとなり、安国の実現も可能となるのであるから、もし大聖人を用いないようなことがあれば、八幡大菩薩はこの国をどのようにして守ったらよいのか嘆かれているであろうと、申し述べるよう命じられている。
そして「仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は……禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ」ることであり「叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつ」ることであると訴えるよう教えられている。ただし、これは寺々を破壊するということではなく、布施を断つ意であり、謗法の心を訶責する意にほかならない。
撰時抄でも、平左衛門尉に向かって諫暁した言葉のなかに「一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(0287-13)とあるが、この御文を承け、日寛上人は撰時抄愚記で、立正安国論に「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(0030-17)とあるから、「頚をゆひのはまにて切らずば……」というのは矛盾しないかとの批判に対して、「『則ち其の施を止む』とは、これ為人悉壇に約す。『頸を刎ぬべし』とはこれ対治悉壇に約す。本経の文に両辺あり。故に各一意に拠るなり」と釈されている。
「叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れ」とあるのは、一往、権実相対の立場から法華経を依経とする天台宗を宣揚されたものであり、日蓮大聖人の御内証の辺は「立正」、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊の建立および流布にあることはいうまでもない。
したがって「霊山の釈迦牟尼仏の御魂」とは、究極するところ久遠元初の自受用身、すなわち法華経寿量文底の事の一念三千の御本尊を意味しておられるのである。
ゆえに「霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は」とは、前掲の「日蓮を此の国に用いずば」の御文の意に帰着するのであり、南無妙法蓮華経の御本尊を根本とすべきであるということである。
「諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ」の結文には、日蓮大聖人を差し置いて日本の安国は絶対にありえないという御本仏の大慈悲と大確信が横溢し、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」(0232-05)と仰せられた御聖訓が彷彿としてくるのである。
1265~1273 法門申さるべき様の事 1977:09月号大白蓮華より。先生の講義top
脈打つ“閻浮第一”の大確信
この御書は、比叡遊学のため京都に上った三位房日行に与えられたとされるお手紙です。ある公家の持仏堂において説法したことが“面目”をほどこしたと日蓮大聖人にほどこしたとに対し、厳しく叱責されたところです。
この御文を拝して、日蓮大聖人の、仏法に対するご確信、また大仏法を奉ずる者の内証の深さ、高さ、かつまた大聖人の仏法がいかに気宇壮大な哲理であるかを改めて痛感するのであります。
| 03 又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・ かへすがへす不思議にをぼへ候、そのゆへは僧と 04 なりぬ其の上一閻浮提にありがたき法門なるべし、 -----― また、御持仏堂て法門を説いたことが面目などと書かれていることは、どう考えても不審なことである。そのゆえは、僧となった身であり、そのうえこの仏法は一閻浮提第一の法である。 |
公家に召されて仏法を講じたのが大変な名誉であるとの三位房の文面に接して、大聖人は非常に残念がっていらっしゃいます。
三位房については、資料もほとんど残っていないため、不明な点が多く、この御抄の対告衆と「聖人御難事」等に出てくる人物とが同一人物かどうかについても異説もありますが一往、ここでは同一人物として話をすすめます。
彼は京都遊学を許され、また桑ヶ谷問答に活躍するなど学才に秀で、問答に巧みな、それだけ実力もあり、門下で重きをなしていた人物であった。ところが、一面、名聞名利の心が強く、臆病で、求道心が弱く、虚栄の心に支配されやすい人物であった。
聖人御難事には「をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者」(1191-03)と、その根底を見抜かれ、どんなに仏法を教えても「ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ」(1191-04)とあります。
法門への理解がいかに深く弁舌さわやかであろうとも、名聞の念厚く臆病で慢心が強ければ、成仏の道を踏みはずしてしまう。この重大な一点を三位房の例は後世の私どもに教えています。
大聖人は更に、あなたは僧となったうえ、一閻浮提で最も偉大な法門を受持している立場ではないか、と諭されている。
ここで注目すべきは「一閻浮提にあいがたき法門」との御文です。大聖人の仏法は、全世界随一、偉大な哲理と実践の宗教であることの大確信が躍如としております。
京風に媚びる三位房へ厳愛の叱咤
三位房は、おそらく公家の前で説法して称賛されたことを大聖人に報告してほめてもあいたかったにちがいない。しかし案に相違して、大聖人から厳しい叱責を受けたのであった。三位房の中にある名聞の心を大聖人は感じられていたと十分考えたれます。
大聖人はいつも、あらゆる弟子の傾向性を知り、なんとか本物の人物に仕上げたいという一念に徹えられていた。故に、その三位房の一言を逃すことはしなかった。面目をほどこしたという一言の中に、三位房の根底を、御本仏は見てとられたにちがいありません。大聖人は具体的事実から三位房の全体に流れる根性を打ち破られようとなされたのでありましょう。
こうした大聖人の振る舞いのなかに、事に即して弟子を薫陶するとともに、更に広く深く仏法を展開していく姿がうかがえるのであります。大聖人の仏法が、事の仏法であるといわれる所以が、ここにある。身近な行動・生活・振る舞い、そこに人間を見、仏法を展開していく大聖人の正道の生き方を、我らは決して見外してはならない。
なお僧とありますが、この御文の教示は、広く折伏弘教に励む仏法指導者を意味されていると拝すべきことは、御文の趣旨からいって当然であります。
大聖人の仏法は人類を救う永遠の宗教
| 04 設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき、まして梵天・ 05 帝釈等は我等が親父・ 釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候、 毘沙門等は四 06 天下の主此等が門まほり・ 又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし、 其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも 07 及ばず・ 但嶋の長なるべし、 -----― また、御持仏堂て法門を説いたことが面目などと書かれていることは、どう考えても不審なことである。そのゆえは、僧となった身であり、そのうえこの仏法は一閻浮提第一の法である。たとえ等覚位の菩薩であっても、なにを気にすることがあろうか。まして、梵天・帝釈等は我達の親父である釈尊の領地を預かっていて、正法の僧を養う者とされているのである。毘沙門天王等は四天下の主で、これら梵天・帝釈の門番である。また四州の王等は毘沙門天の家来である。そのうえ日本秋津嶋は四州の天輪王の家来にも及ばない。ただ嶋の長である。 |
この段は、日蓮大聖人の仏法が世界人類を救うべき、永遠の宗教であることを明かされたとこれであります。
すでに、私どもが拝する大御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」と申し上げるように、御本仏日蓮大聖人の大慈悲と南無妙法蓮華経の法力は、全世界の民を、未来永劫にわたって、うるおしていくのであります。
たかだか、一国の民族を救済して事終わるような偏狭な仏法ではない。まして、一国の国教化を策して、権威や権力に安住するような宗教ではない。かつて、日蓮大聖人を国粋主義者に祭り上げたい、大聖人の仏法を、狭く矮小化したものにすぎなかったのであります。
たとえば、日本に軍国主義が勃興しつつあったころ、ある他宗派から出した講義録では、この段の文中「但嶋の長なるべし、長なんどにつかへん者どもに」の部分と「上なんどかく上」の部分が抜けている。おそらく、当局から削除を要請されたものであろう。
削除された部分が、いかに当時の日本の国家主義的見地から都合悪い言葉であったかは明らかであります。この削除の事実自体、大聖人の仏法を狭く矮小化した好例であるとともに、逆に、大聖人の仏法の世界性を象徴しているといえるでありましょう。
先師の精神を万代に
それにつけても、鮮やかに思い出されるのは、初代会長・牧口先生の激烈な戦いであります。牧口先生は軍国権力の狂乱の嵐のなかで、敢然と、日蓮大聖人の仏法の正義を貫かれ、正義に殉じられたのであります。
この初代会長の壮烈無比な死身弘法の精神こそ、我が創価学会の永遠の魂であり、その精神を万代にまで継承していく責務が私たちにはあると、つねづね思っております。
この段の御文を率直に拝読したならば、日蓮大聖人のご境涯の宇宙大の広さと崇高さに感嘆しない者がありましょうか。
京都の公家の持仏堂で説法したことを名誉にも誇りとも思っている。三位房の偏狭さと権威へのへつらいを、日蓮大聖人は、宇宙大のスケールから、じゅんじゅんと、その非を説かれているのであります。
三位房がもった仏法は「一閻浮提にありがたき法門」である。すなわち、全世界随一の仏法であると述べられ、この妙法をもつ者の位がいかに尊貴であるかを教示されていくのであります。
「設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき」一閻浮提の仏法を受持した者は、仏の境涯と等しき等覚の大菩薩といえども問題にならないほど、高い位であるとの仰せであります。なぜなら、妙法は、三世十方の諸仏を成道させた根源の法だからであります。
人間仏法を高らかに宣言
次に「まして梵天・帝釈等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候、毘沙門等は四天下の主此等が門まほり・又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし」とは、極めて重要な意義をはらんだ御文であります。
まず「我等が親父・釈迦如来」とは、一往は文上の釈尊でありますが、再往は久遠元初の自受用報身如来を指すことは申すまでもありません。
一往の辺からいえば、梵天・帝釈や毘沙門等の四天王の諸天善神は、釈迦如来から、正法を弘める僧を供養するために、その所領を預かっているのだと仰せであります。ここに重大な意義がある。
すなわち、妙法を受持し、弘通する人間を供養するためにこそ、梵天・帝釈・四天王の諸天が存在しているとの仰せであります。
そこには、人間を超越する神もなければ、人間から隔絶した絶対者もいない。まさに、人間仏法の宣言と拝してよいでありましょう。一国の王・権力者・貴族などは、この梵天・帝釈の眷属の眷属、またその眷属にすぎないということであります。
地球を生命至上の世界に
再往の辺でいえば、全世界、地球全体が、本来、妙法の脈打つ寂光土であり、久遠元初の仏の常住の浄土でるということです。
「仏界は是れ尊極の衆生なり」とあるように、衆生の生命に真実の尊き輝きを発揮すること自体が即仏になるのであります。したがって、仏の世界とは、現代的にいえば生命を至上とする世界ということであります。
そこにおいて、梵天・帝釈・四天王等は、すべて宇宙・自然・社会の秩序を守る働きにほかならない。すなわち、これらの善神は、妙法の脈打つ常住の寂光土を守護する働きなのであります。
それ故、これらの善神が「正法の僧をやしなう」とは、宇宙のさまざまな働きが妙法を受持し弘通する人の生命を守るように働くということであります。
しかも、その働きを起こさせるのは、法をたもつ一人一人の生命力であります。故に、どこまでも人間が主役であることはいうまでもない。
ここに、私は、日蓮大聖人の仏法において真実の人間自立の哲理が説かれているのを見るのであります。
また「其の上日本秋津嶋四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし」とは、常に一閻浮提、全世界の民衆救済という広大な立場にあふれた日蓮大聖人が、どのように日本国の権力者を見られていたかを明らかにされた御文です。なんと雄大な視点でしょうか。私どもは、この大聖人の御境涯を寸時も忘れずに、いつも大きく、ダイナミックに朗らかに、人生を闊歩していきたいものであります。
信の面目は御本仏の称賛
| 07 長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上・ 面目なんど申すは・旁 08 せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか、 -----― その長などに仕える者達に「召された」「上」などと書くうえ「面目」などというのは、あれやこれやと付き詰めて考えてみると、日蓮を卑しんで書いているのであろうか。 |
三位房が「上」に召されて「面目」をほどこしたと手紙に書いてきた。日蓮大聖人は、公家等の社会的身分をもった人間をありがたがり、その前で仏法を講ずることを名誉と思っている三位房の姿勢を、厳しく叱られているのであります。それは貴族文化へ抱くあこがれは、相当のものだったようです。それは京都への劣等感といってもよく、自分たちの生活をいやしみ、教養のなさを恥じ、ただひたすら憧憬をもって京都をながめていたようです。
三位房の「京へのぼる」という行為には、こういう時代背景があったのです。当時の、今でいえばインテリに属する知識階級の精神の屈折した傾向を、日蓮大聖人は厳しく見抜き、指導されているのです。
ちなみに「関東武家式目」は武家社会の初の成文法として画期的な意義をもつものですが、その制定のとき、北条泰時が「式目」と一緒に京都に送った手紙に興味深い一節があります。
「京辺には定めて物も知らぬ夷どもの書集めたる文とて笑はるる方も候はんずらん、憚り覚え候へ共」
これは、京都のあたりでは、貞永式目が何も知らない教養のない東国どもが書き集めた文章であろうと笑う人々もおられるであろう。それで気恥かしさも感じるのですが、という意味であります。時の権力者・泰時でさえ、京風へこのような一種の遠慮を抱いていたのですから、一般の人々の考え方も想像につくというものであります。
王朝文化の虚栄と軽佻を断破
京都の宮廷文化を経験した女性の目には、百貨幅輳の商業・港湾都市にもなった政都鎌倉も「袋の中に物を入れたるやうに住びたる、あな物詫びし」と映ったようです。
このような雰囲気を持つ京都に行くと、ともすると、それだけで何か、さも自分の教養が深まったかのような錯覚に陥りやすいことを、大聖人は指摘されているところであります。なんとなく華やかな虚栄と虚飾の渦巻く王朝文化に、軽薄に酔いしれる人間の浅はかさを心配されているわけです。
京風に流されてしまった典型として少輔房の例を挙げておられる。少輔房については、どういう人物か不明な点も多いのですが、やはり、三位房と同じく大聖人門下で、上京し軟風におかされ、一説によれば、伊豆の法難のころから退転し、ついに仏法違背の徒となり、やがて横死した人物のようです。
「天のにくまれかほるな」と、厳しくも温かく弟子の行く末を思ってお述べです。「天のにくまれ」とは、まさしく何をやっても、うまくいかない悲運な人生となることです。仏法の軌道からはずれた生き方、それは、自分自身の生命を破壊することにもなるのです。わが人生の運行はリズムを失い、胸中の天座の星は光を失い、暗雲のなかに遠征をよぎなくされるのであります。
京法師に勝る田舎法師
| 10 のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、 定めてことばつき音なんども京なめりになりたるら 11 ん、ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず・ 田舎法師にもあらず京法師にもにず・ 12 せう房がやうになりぬとをぼゆ、 -----― 京に上っていくらも経たないのに、実名を変えたということであるが、気違いじみている。きっと言葉つきや発音なども京なまりになったことであろう。鼠が蝙蝠になったように鳥でもなく鼠もなき、田舎法師でもなく京法師にも似ていない、少輔房のようになったと思われる。 |
「ネズミがコウモリになったように、ネズミとも、鳥ともつかずに」とは、まことに厳しい叱責のお言葉です。三位房の心には京へのぼり、京で生活するうちに、東国の田舎者だと笑われたくないという一心が動いていたのでしょう。大聖人は、三位房のその報告のうちにある、こうした傾向性を鋭く見破られた。公家に説法して称賛を浴び、得意気になって夢心地になり、表面ばかり変えることに腐心し、自らを失っていく三位房を大聖人は心からあわれみ、大慈悲をもって叱られているのです。
三位房が京にのぼって実名を隠岐の法皇の名である尊成と変えたのも、田舎出身を恥じ、それを隠す意図からだったのでしょう。その一瞬の真理の奥底を見てとられ、ズバリその心中にくさびを打たれているのです。
日蓮大聖人がこの御書をご述作の文永6年(1269)は、その前年に蒙古の牒状が到来し、国中が騒然とするなかで、鎌倉に弘教の足跡を力強くしるした年です。いわゆる十一通御書をもって公場対決を迫られるなど、一段と厳しく立正安国の正義を訴えられていた時です。それだけに三位房の軟弱さを、余計心配されたのでありましょう。
時代の動向も知らず、ただ一身に京都の貴族の称賛を求めて得意然としている三位房に、大聖人は、今はいかなる時か、今こそ我が門下なら民衆救済のために立って戦え、との思いを込めておられると拝したい。
三位房、あなたは一閻浮提第一の法門をもっているではないか。苦悩の人々を救いゆく究極の使命を失うな。真実の門下ならば、今こそ誇りと襟度をもって立ち上がりなさい。という大聖人の厳しくも温かい烈々たる思いが、私には響いていてならないのです。流行や華美に走り、仏法の革命的精神を喪失したならば、仏法者としての自らを放棄したにもひとしいのです。
ネズミがコウモリになったように、ネズミとも鳥ともつかず、あっちへ泳ぎ、こっちへつき、といった、確信のない不安定な人生ほど、醜いものはない。とにかく信念の道を生き抜き、だれがなんといおうと、状況がどう変わろうと、我らは我らの道を進もうという確固の姿勢が、最終的にその人の人生を飾るのです。
さて日蓮大聖人ご自身は、伝道の場を鎌倉に定め、時代精神を呼吸しながら、民衆の真っ只中で弘教を進められました。南都北嶺の仏教には一願だにもなかった。なぜか。大聖人の胸中には、常に苦悩する民衆の姿があったのでしょう。だからこそ大聖人は、民衆仏法の巨大な一石を、当時の日本の社会的中心地・鎌倉の地に投じられたのです。
このことは、ほぼ同時代の法然が地方の豪族・栄西は神官、親鸞、道元が貴族の出身であったのに対し、大聖人の平凡な庶民の出であったことと無関係でありません。
“現代の三位房”とはなるな
ご自身で「民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり」(1407-10)といわれ「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり」(0958-09)と宣言されているこうに、大聖人は末法の民衆仏法の、樹立と流布に、まさしく東国の辺地から立ち、時代精神の沸騰する鎌倉でこそ、力強い弘教を展開されたのでありました。
それはまさしく「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(0766-第十三常不値仏不聞法不見僧の事-03)との仏法の究極をひっさげつつ、自身の悟達の境地と確信のままに、現実に苦悩する民衆救済のために戦われた偉大な法師の姿だったのであります。まことに気骨あふれた、末法の大法流布という大感情と大確信に立った崇高なるお姿がそこにある。まさしく庶民とともに歩む偉大なる世界をも包む大法師のお姿ではないでしょうか。
民衆救済を忘れ、権威化し、あるいは貴族化した宗教は、やがて衰滅せざるをえないことは、歴史が鋭く証言しております。日蓮大聖人の仏法は、どこまでも民衆の苦悩を解決するため、民衆の中に生きていく仏法です。どこまでも民衆の苦悩を解決するため、民衆の中に生きていく仏法です。故に、今日においても、もしいたずらに権威の座に安住して、いつしか庶民を睥睨するようなことがあったならば、三位房ならずとも、いつのまにか“現代の三位房”とならざるを得ないと恐れますし、大聖人のお叱りを受ける結果となるでありましょう。
“地域主義”の原理を明かす
| 11 言をば但いなかことばにてあるべし・なかなか・あしきやうにて有るなり、尊成 13 とかけるは隠岐の法皇の御実名かかたがた不思議なるべし。 -----― 言葉はただ田舎言葉でいるがよい。どっちづかずなのは見苦しいものである。名前を尊成と書いてあるが、これは隠岐の法皇の御実名であり、あれこれと、けしからぬことである。 |
田舎者と笑われたくない、もともとの京の人間のように思われたい。そのために使う言葉も“京言葉”になったであろう三位房に対して大聖人は「言をば但いなかことばにてあるべし」と厳しく指摘されついるわけであります。それは、東国の日蓮大聖人の弟子であると誇りをもっていけということとともに、虚栄の心を排し、どこまでも自分らしく、主体性をもって発言せよ、とのご教示なのであります。ここに一個の人間の言葉遣いからも、鋭くその生命の傾向性を見抜き、かつ細心の配慮を巡らせながら、仏道修行の根本姿勢を明示されている大聖人の慈愛あふれるお姿を改めて痛感せざるをえない。
しかし、日蓮大聖人は、三位房の言葉遣いを指摘されてはいうものの、それは決して、当時の京の言葉を否定されているのではない。絢爛にして華麗な都の貴族社会に心を奪われたであろう、精神の退廃を戒めておられるのであります。ともかく、我々の広宣流布の運動とは、三位房のごとく、決して虚栄を追うような世界ではない。どこまでも、この現実の大地に深く根を張り、現実の荒波と悦く対決しながら進んでいく生々しい宿命転換の戦いこそが、広宣流布であることを、強く申し上げておきたい。
さて、三位房に対する日蓮大聖人のご指摘を通して、もう一点、重要な原理を学ぶことができる。それは“いなか言葉”という土俗性、すなわち庶民感情が息吹く地域をいかに大切にされ、また、その生活実感がただよう庶民の心をどれほどか慈しまれたかという、あくまで地域主義に根差した人間仏法の大精神であります。
私はこの意味からも、今日、私どもの進めている地域主義を根本とした創価運動の正しさを、ともどもに確認しておきたいのであります。
日蓮大聖人の御書をよむたびに、私はいつも庶民の哀歓の情に迫り、心のヒダまで知悉されている日蓮大聖人の、深き人間性に驚きを覚えるのであります。一人の老夫人が子供を亡くしたことに対するお手紙の中に込められているものは、自らが子供を亡くしたかのような気持ちが縷々と語られている。まさに大聖人は「人間の中に」「生命の中に」徹底して生きられたのであった。民衆をこよなく愛され、人間が可能な限りの生きる力を発揮することに真実の喜びを見いだされたのであります。
ある時は、乱世に生きる武士の人生観に対し、生と死の問題を鋭くとらえられ、人情味豊かに語りかける姿も、まざまざとまぶたに描かれてくる。またある時は、四条金吾や南条時光に対して、あまりにも凡夫のままの、人情の機微に触れられた数々の激励をされている。
普遍性と土俗性の融合が肝要
「いなかことばにてあるべし」との一言の中にも、この現実の大地に生き、自然と人間の中に呼吸する究めて土着的なものを愛され御本仏の心情というものが鮮やかにうかがえるのであります。この土俗性の中に普遍の妙法を輝かせたところに、大聖人の仏法の優れて偉大な特質があることを、決して身落としてはならない。抽象的、観念的な言葉を弄することは容易である。しかして、現に生きる一人一人の人間の存在の中に、宇宙をも包むであろう妙法の力を説いていかれた大聖人のお振る舞いは、まさしく、宗教革命のなんたるかを示すに十分でありましょう。
真の地域主義とは、一口にいえば、普遍性と土俗性の融合の行き方であるといってよい。土俗性、すなわち庶民の実生活感に密着した習慣や風俗等を誘発しつつ、そのなかに、人類・世界と通ずる普遍性の響きを通わせていく。そこに、人間が真に人間らしく生きていくための価値は昇華されていくのであり、我々の志向する地域主義も、その一点に結実するのであります。
御書にいわく「虚空の遠きと・まつげの近きと人みなみる事なきなり」(1546-06)の「虚空の遠き」とは、哲理の普遍性であり「まつげの近き」とは、足元であり、まさしく我らが生を営んでいる地域そのものの土俗性と拝せましょう。私は、卑近な譬喩を用いて述べられたこの御金言に、創価の運動の目指す地域主義の方軌が、見事に要約されていることに、驚きを禁じえません。
ともかく、大聖人門下の中でも重きをなしていた三位房でさえ、権威・権勢にあこがれ、仏法の本義から外れていったということは、いかに大聖人の仏法を正しく実践することが難かしいかを端的に示しているといえよう。真実の人間の在り方を示されたのが大聖人の仏法であります。
我が創価学会の行動は、大聖人の仏法を“人間のための仏法”と位置づけた。それは、日蓮大聖人の御精神に直結していることは疑いない。
そして今日、人間仏法の大河の時代を到来せしめた評価は、なによりも、世界を舞台にして活躍する地涌の勇者の姿が証明しているでありましょう。
ともに創価学会は、かつての権威、権勢の宗教を、人間の宗教へと変える重大なる歴史的壮挙を成し遂げてきたのであります。私どもは、この厳粛なる事実に大いなる誇りをもちたいものであります。
1273~1276 十章抄top
1273:01~1273:06第一章止観に対する曲解を破すtop
| 十章抄 文永八年五月 五十歳御作 与三位公日行 01 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、 法相・三 02 論も又又かくのごとし、 天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依 03 つて涅槃尚をとるとさだむ、 爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・ 04 この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為イ等の釈にばかされて起る義なり、 止観と申すも円頓止 05 観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、 又二の巻の四修三昧は 多分は念仏と見へて候なり、 源濁れば流清から 06 ずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば 但念仏者のごとくにて候なり、 -----― 華厳宗という宗では、華厳経の円と法華経の円とは同一であるが、法華経の円は華厳経の円の枝末であるといっている。法相、三論の二宗もまた同様である。天台宗が彼等の義に同じであるとするならば、別宗を立てる必要があるだろうか。例えば、法華経、涅槃経は同じ円教であるが、先後の関係によって、後のほうの涅槃経は劣ると定められている。(もし)爾前の円も法華の円も同一であるとすれば、(法華経と涅槃経の例で)先後によって法華経の円が劣ることになる、というのであろうか。所詮、この邪義は此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の解釈に迷って起こったものである。摩訶止観といっても、円頓止観の証文には華厳経の経文を引いている。また、二の巻の四修三昧は、多くは念仏の修行のこととみえる。源濁れば流れ清からずといって、爾前の円と法華の円が同じであると考えている者が止観を講じ、人に読ませているから、(聞くものはみな)念仏者のようになってしまうのである。 |
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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円
まどかのことで完璧な教え。法華経のこと。
―――
法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
―――
天台宗
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
涅槃
涅槃経の事。釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
円頓止観
天台大師の説いた三種止観のひとつ。法華経を根本にした観法で、修行の段階や能力の差にかかわらず、直地に順一実相を対象として、実相の他に別の法なしと体得する止観のこと。妄念を止め、心を特定の対象に注ぐことを「止」といい、止によって智慧を起こし対象を観ることを「観」という。摩訶止観に体系化して説かれている。
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四修三昧
四種三昧のこと。常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧をいう。三昧とは梵語サマーディ(Samādhi)の音写で「定」等と訳し、心を一所に定めて動じないこと。四種三昧は、種々の経典に説かれた修行法を実修形態のうえから四種に分類し、統合化したもの。後世、伝教大師が立てた止観、遮那の二業のうち止観業はこの四種三昧を中心としたものである。①常坐三昧は一行三昧ともいう。文殊説般若経と文殊問般若経に基づき九十日間、もっぱら坐禅のみを行ずること。②常行三昧は仏立三昧ともいう。般舟三昧経に基づき九十日間、阿弥陀仏を本尊とする道場の周りを巡り、口に阿弥陀仏の名を称念すること。③半行半坐三昧は大方等陀羅尼経に基づく七日間の方等三昧、法華経に基づく三週間の法華三昧をいい、ともに懺悔滅罪を主として行と坐を兼ね修するもの。④非行非坐三昧は覚意三昧、随自意三昧ともいい、方法、期間を問わない。約諸経観と約三性観の二種がある。
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爾前の円
爾前諸教に説かれる円教のこと。釈尊が30歳で成道して以来、法華経を説くまでの42年の間、法華経に誘引するために説かれた方便の経。円教は円融円満で完全無欠な教法のことで、天台大師の教判では化法の四教の第四にあたる。爾前諸教においても、凡夫の位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説くことを爾前の円という。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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はじめに、本抄全体の背景と大意について述べておきたい。
本抄は、文永8年(1271)5月、比叡山留学中の三位房日行にあて、したためられた御消息である。御述作の意図については、本文全体から拝されるとおり、天台大師の摩訶止観を購読し学問するにあたっての心構えと取り組み方とを三位房日行に教えようとされたことが明白である。当時、日行は比叡山にあって、叡山の学生達と摩訶止観の講読会を催していたようで、日行が叡山の学風に流されることを心配された日蓮大聖人は、大聖人門下としての止観の読み方について注意を与えて正道を踏み外さぬように配慮されたのであろう。同時に、本抄の終わりで「この文を止観よみあげさせ給いて後ふみのざの人にひろめてわたらせ給うべし」と仰せのように、単に三位房日行への注意としてだけではなく、末法における正しい止観のとらえ方を〝ふみのざの人〟、すなわち同学の人々にも知らしめようとされたと推察される。
なお、御真筆は中山法華経寺に現存している。
次に、本抄の大意を簡潔に述べておくと、まず、摩訶止観に対する当時の比叡山の学徒達の誤った見解を記述される。
その見解とは、爾前の円と法華の円とが同一であるとするもので、当時の叡山は、これによって止観のなかに説かれた念仏行を正行として修行していたのであった。それについて大聖人は、止観のなかには、爾前の諸経が引用され、念仏その他の諸行の修行が述べられているが、その正意は法華経にあることを示され、法華の円が爾前の円に勝れていることを強調されている。
次に、十章からなる摩訶止観全体の構成とその主要な内容を明らかにして、止観の中心である一念三千の観法は、第七章・正観章の十境・十乗の観法にあることを示される。
更に、法華経の本門・迹門の関係を明かされつつ、一念三千の法門は法華本門に限ることを示され、法華経の正しい修行はあくまで一念三千の観法と南無妙法蓮華経を唱えることであると強調されている。
以上のごとく止観の正しいとらえ方を述べられた後、再び、叡山の学徒達が止観を曲解して立てた念仏行の邪義をさまざまな観点から破折された後、以上のような大聖人の主張を講読会の人々に伝えるよう命じられている。
そして、最後に、鎌倉において生じた訴訟問題について述べられている。
以上が十章抄の大意であるが、本抄の大部分は、末法今時における摩訶止観の正しいとらえ方を御教示されることに費やされている。ここから、本抄の題号も摩訶止観の構成である「十章」からとられているのである。
さて、本章は、当時の日本天台宗・比叡山の学生達が陥っていた摩訶止観への誤った理解を挙げ、教学の思想面と念仏行の修行実践面との二つの観点から述べられて破折されている。
本文中に「止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり」とある。ここにあるように、摩訶止観には、華厳経をはじめ般若経、維摩経などの法華経以外の爾前の諸経が引用されていたり、また、第二巻で四種三昧を説示するところで、爾前諸経に説く各種の三昧行や阿弥陀仏を念想する行などが含まれている。
しかし、これらの爾前諸経の経文や修行は、どこまでも法華経の開会のうえに立てられたものであって安易にそれらの経文や修行を善とし、肯定して説いたわけではないのである。にもかかわらず、叡山の学徒達は止観に爾前諸経の経文が引用されていることから、爾前経と法華経とを一体視して爾前経でもよいとし、また同じ理由から、爾前経の修行、とくに念仏行に専心するに至ったのである。
以上が、教学思想面と修行実践面からの止観に対する叡山の誤れる見解であるが、この邪見の由来する根本に「爾前経の円と法華経の円とは一つ」とする邪義がある。
本章の冒頭は、この邪義を述べることから始められている。
まず、華厳宗は「華厳経の円と法華経の円とは同一であるが、しかし法華経の円は華厳経の円の枝末である」から華厳経のほうが勝れているとする邪義を立てている。また、同じ論法で、法相宗や三論宗も、爾前の円と法華経の円とを同一としたうえで、自らのほうが勝れているとの邪義を立てている。
これらの諸宗の邪義に対して、破折すべき立場にある比叡山・天台宗が破折するどころか、逆に諸宗の邪義に賛同して、法華経の円と爾前経の円と同一としていたことは、法華経を中心とする宗旨を別に立てる必要がないことになる。またこれにとどまらず、法華と爾前の円とが同一ならば、法華の円のほうが劣るという邪論まで展開したのである。その理由として、法華経と涅槃経とは同じ円教であるが、五時の次第(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)からいえば、先に説かれた法華経のほうが勝れ、後に説かれた涅槃経が劣ることになる、この考えを延長すると、先に説かれた爾前経のほうが勝れ、後に説かれた法華経が劣ることになるのである。
以上のような幼稚な理論がはびこっていたのが、日蓮大聖人御在世当時の仏教界の実情であったといえよう。
このような邪見をもとにして摩訶止観を講読するから、誤って把握することとなったのである。
そのことを「源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり」と厳しく破折されている。
すなわち、当時の叡山学徒が止観を自ら読んだり人に読んで聞かせたりすると、全く念仏者と同じような姿になってしまい、摩訶止観の真意に背く結果になってしまうと仰せである。
爾前経の円と法華経の円について
中国の天台大師は、釈尊の一代聖教を分類するにあたり五時八教説を立てた。
五時は、仏の説法の順序次第に即して分類したもので、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時である。
また、五時の説法の内容面から化法の四教(蔵・通・別・円)を分類し、同じく説法の形式面から化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)を分類して、合して八教としている。
さて、爾前の円と法華の円との問題は、五時と化法の四教との関係から生じてくる。五時のそれぞれに説法の内容としての化法の四教が説かれているとするからである。
すなわち、華厳時には別教と円教を兼ねて説き、阿含時は但蔵教のみを説き、方等時には蔵・通・別・円の四教を対比して説き、般若時には別円二教に通教を帯びて説き、法華涅槃時には純粋の円教のみを説く、としている。
これから明らかなように、円教は華厳時、方等時、般若時、法華涅槃時の四時にそれぞれ説かれていることになる。言い換えれば、円教は、阿含部を除く爾前経と、そして、法華経とに説かれていることになる。
その結果、爾前の円と法華の円とは同一なのか異なっているのかという問題が生じてくるのは当然の理であろう。
ところで、円教というのは、煩悩と菩提、生死と涅槃、衆生と仏、などを対比させ隔別のものとはせず、煩悩即菩提、生死即涅槃、衆生即仏、九界即仏界、三諦円融などの教理に明らかなごとく円融円満を明かすのである。成仏論としては円教はだれびとも例外なく成仏が可能であるという、万人成仏の理論的根拠を与えることとなる。それゆえ、円教は仏の教説内容としては最高究竟の説法であり、仏教のどの宗派にとっても自らの宗旨の依処である経典に円教を含むか否かが重大な問題となるのである。そこからまた、本章で大聖人が破折されたように、諸宗派や比叡山天台宗のような邪義が生じてくるのである。
さて、中国天台宗の妙楽大師は、その法華玄義釈籤巻2において、この爾前の円と法華の円との関係につき見事な解決を与えている。
妙楽大師はまず、化法の四教、化儀の四教、すなわち八教に約せば、爾前経の円と法華経の円とはともに円融相即を説くゆえに同一とするのである。これは、教に約した場合には爾前の円に与えて法華の円と同一であるとする。これは、教に約した場合には爾前の円に与えて法華の円と同一であるとするので、〝約教与釈〟ともいう。
これに対し、五部に約すと、法華部にのみ純粋の円教が説かれているが、爾前においては兼、対、帯というように別教や通教と並んで説かれているので純粋の円教ではない。
それゆえに、法華経の円が勝れ、爾前の円は劣るのである。これは、部(時)に約す場合には、爾前の円を奪って法華の円より劣るとするので〝約部奪釈〟ともいう。
当然、妙楽大師は、法華の円が勝れているとする立場であることはいうまでもない。
更に、日蓮大聖人は、一代聖教大意において次のように仰せられている。
「次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり……爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く『円満修多羅』文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文……此は皆爾前の円の証文なり……凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり」(0396-01)と。
ここに仰せのように、爾前の円を表わす具体的な経文を挙げられた後、爾前の円教の内容について、凡夫も五十二位などの数多くの修行の階位を経ずして成仏・往生することを説いたり、煩悩を断じなくとも仏と成ることが可能であるとする教えであるとされている。この点ではたしかに法華経の円――煩悩即菩提、生死即涅槃、九界即仏界など――にほぼ同一であるが、しかし、爾前の円の場合はどこまでも言葉だけであって、実際には二乗や悪人、女人などの成仏を許さなかったのである。ここにおいて、爾前の円は単に理のみにとどまって、実際にはだれびとも成仏できないということになるのである。つまり、爾前の円は言葉と実際との間に大きな矛盾を有していることになる。
これに対し、法華経の円は、十界互具の理が明かされ、具体的に二乗や悪人、女人に成仏が許されていて、矛盾と限界を有さない真実の円融円満の完璧な教えといえよう。
以上のごとく、爾前の円と法華の円とは、勝劣が明らかにもかかわらず、大聖人当時の、爾前諸経を依処とする仏教諸宗は、自分達に都合のいい〝約教与釈〟に基づいて、爾前の円と法華の円とを同一として、自らの宗旨を正当化したばかりでなく、逆に、法華経を爾前に劣るとした。爾前諸経を依処とする宗派ならある意味で当然であろうが、比叡山天台宗までが、諸宗派に同調していたのである。
此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤
まず「此妙彼妙」とは、天台大師の法華玄義巻二上で、妙法の二字を解釈するなかの〝妙〟の字について明かす段の相待妙を説く文の一節である。すなわち「此の妙と彼の妙は、妙の義殊なること無し。但方便を帯すると、方便を帯せざるとを以って異と為る耳」と。ここに〝此の妙〟とは法華経の妙であり、〝彼の妙〟とは華厳・法等・般若の妙をさしている。〝妙〟それ自体の意義は異ならないが、しかし、彼の妙には、乳、生蘇、熟蘇の味を方便として帯びているのに対し、この妙は全く方便はなく、純粋な醍醐味である、という点が異なっていると述べている。
次に「円実不異」とは、妙楽大師の法華文句記巻一上で「問う諸経の中の円と此と何の別あって必ず開して方に是仏慧と云うべけん。答う円実異ならず。但未だ開顕せざる初心の人、円は偏を隔つと謂う、須く開顕の諸法実相を聞くべし。若し已に実に入れば、但増進を論ず、権人此に至って一向に開すべし」とある文をさしている。
ここで、妙楽大師は、諸経の中の円と此の法華経の円とはどこに別異があるのかとの問いを設けて、その答えとして、まず、ともに円の真実であることに異なりはないとしている。
更に「円頓義斉」とは、天台大師の法華玄義巻十下で、別教を明かすなかの文で、この前後を引用すると、次のとおりである。
「初め成道の時純ら円頓を説く、解せざる者は大機末だ濃かならざるが為に、三蔵、方等、般若を以って洮汰淳熟す。根利障り除き、円頓を聞くに堪えれば即ち法華を説き、仏知見を開きて法界に入るを得ること華厳と斉し。法性論の中入の者是なり。故に下の文に云く『始め我が身を見て如来の慧に入る。今、是の経を聞きて仏慧に入る』と。初後の仏慧、円頓の義斉し、故に般若の後に次いで華厳海空を説くは、法華と斉し」。
ここでは、仏が成道の時に説いた華厳経の円頓の仏慧も、後に機根を調機調養し終わって説いた法華経の円頓の仏慧も、ともにその義は斉し、としている。
また「前三為麤」とは法華玄義釈籤巻二に「今の文の諸義、凡そ一一の科、皆先に四教に約して、以って麤妙を約す、則ち前三を麤と為し、後一を妙と為す」とある。
以上、大聖人が挙げられた四つの文は、いずれも天台及び諸宗の輩が爾前の円と法華の円とを同一視する根拠とした天台大師、妙楽大師の釈である。これらの釈は、全体を把握したうえで読めば誤ることはないのであるが、当時の比叡山天台宗や諸宗は、皮相的で断片的に読んだために曲解した、と仰せになっている。
止観と申すも円頓止観の証文には……四修三昧は多分は念仏と見へて候なり
天台大師の摩訶止観のなかにも、たしかに爾前経の経文が引用されていたり、念仏の行を修することが説かれていたりするとの例を挙げられているところである。
まず、円頓止観の証文として華厳経の文が引用されているというのは、第五巻第七章「正しく止観を修す」のことである。
ここで、円頓止観というのは、天台大師が師である南岳大師から相承した漸次、不定、円頓の三つの止観の一つである。
そして、これら三種の止観は、天台大師の法門の観心門を構成するもので、法華円教の実践行として体系的に立てられている。
「止」(梵語シャマタ〈Śamatha〉、音写して奢摩他)は一般に散乱する想念を止息することであり、「観」(梵語ビパシャナ〔vipaśyanā〕、音写して毘鉢舎那)とは理法を観照することである。天台大師は、この止観の名のもとに、仏教全体の実践修行の在り方を統一したのである。三種止観のうち、漸次止観は、初め浅きより後深きへと漸次に進めていく止観行で、釈禅波羅蜜次第法門十巻に説かれている。次に、不定止観とは、前後の次第が定まっておらず、便宜にしたがってあるときは漸、あるときは頓と、その実践の在り方が不規則な止観行をさす。これは、六妙法門に説かれているものである。
以上の漸次、不定の二種止観ともに、法華円教に基づく実践行なのであるが、天台大師自身が最も円教的な実践行として説いたのが、円頓止観である。これが、摩訶止観第五巻第七章「正修止観」に説かれる十境十乗の観法である。その詳細な解説は次章に譲るが、円頓止観については摩訶止観巻一上で「円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造るにすなわち中にして、真実ならざることなし。縁を法界に繫け、念を法界に一うす、一色一香も中道にあらざることなし。己界および仏界、衆生界もまたしかなり」と説いている。すなわち、最初から念を法界に繫け、念を法界と一にして、実相を縁ずるのであり、そこには、初めも後も二なく別なきがゆえに、円頓止観というのである。
この円頓止観を正しく修する方法である十境十乗の観法を明かすなかで、天台大師は華厳経の文を引用している。
その文とは、華厳経の巻十夜摩天宮菩薩説偈品第十六の偈文である。
すなわち「心は工なる画師の如し。種々の五陰を画く。一切世界中、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り。心仏及衆生、是の三差別無し」というものである。
天台大師は、この文を用いて、一念三千を説明したのであるが、華厳経の文を引用しているといっても、あくまで法華経の諸法実相の理に基づいているのであって、華厳経の意図そのものに即して引用したものでないことは明らかである。後で大聖人が「法華経の開会の上に建立せる文なり」と仰せられているのは、このことである。しかし、当時の諸宗派は、これを爾前の円と法華の円とが一つであるとするための証拠としたのである。
次に、摩訶止観に説く四種三昧であるが、これは第二巻で明かされる。すなわち、摩訶止観を五略十広と立て分けるうちの、五略の第二修大行のところで説いているのである。
四種三昧とは「行法衆多なるも略してその四をいう」と摩訶止観に述べているように、古来、仏教の修行法には百八三昧といわれ、多くの三昧があるが、天台大師はとくに円教の三昧として代表的なものを選んで、四種にまとめたのである。
その四種とは、常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧である。
まず、常坐三昧とは、文殊説般若経と文殊問般若経によって立てられたものである。
その方法として、天台大師は、身・口・意の三業を説き、それぞれに関して詳細に記述しているが、ここでは、とくに身業を中心として紹介しておく。
常坐三昧の〝常坐〟とは、九十日間、静かな室に縄牀を設け、一仏に向かって結跏正座し、経行、食事、便利のほかはひたすら坐儀に従う。このようにただひたすら坐ることを身体の行義とする三昧なので、常坐三昧といい、また一行三昧ともいう。
次に、常行三昧とは、般舟三昧経によって設けられたものである。これは、まず、道場を荘厳し、阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出せず、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏の周りを行道する。その際、同時に口に阿弥陀仏の名を称え、意に阿弥陀仏を念じて、歩々、声々、念々、阿弥陀仏を離れない修行をするのである。その結果、定中において十方諸仏が現前するのを見ることができるということから、この常行三昧を仏立三昧ともいうのである。
また、半行半坐三昧とは、これに、方等三昧と法華三昧とがある。まず、方等三昧とは、大方等陀羅尼経の説により、閑静の処に道場を定め、香泥を室の内外に塗り、七日間を期し、ある時は端坐して実相を思惟し、ある時は旋繞して陀羅尼を誦すものである。法華三昧とは、法華経の説により、礼仏、懺悔、旋繞、誦経、端坐、思惟等を次第に修していくものである。いずれの三昧も、座と行とが適度に折り込まれているので、半行半坐といい、その依処となる経典名に準じて、方等法華三昧ともいうのである。
更に、非行非坐三昧とは、これまでの三つの三昧に属さない諸経の説によって立てられたもので、とくに大品般若経の覚意三昧、そして南岳大師慧思の随自意三昧などがこれに属している。この三昧は、行住坐臥等の一切の身儀や環境に応じて自由に実相真理を証悟することを目的とするもので、まさに随自意三昧である。より具体的にいえば、善・悪・無記の三種の日常心を随時随処に止観の対境とする行法といえるであろう。
以上が四種三昧の概略の説明である。
さて、本文で「四修三昧は多分は念仏と見へて候なり」と仰せなのは、四種ともに通じて、仏を本尊として安置し、その前で端坐して思惟したり、その周りを行道したりして、仏を観念することが多いからである。とくに、常行三昧は、徹底して阿弥陀仏を身、口、意にわたって、称え念ずることから、このように仰せられたのである。
しかし、天台大師は、どこまでも、後に説く第五巻第七章の正修止観、十境十乗観法の方便助行として四種三昧を明かしたのである。
したがって、法華経の実相の理を観得することが目的なのであって、阿弥陀仏を観念する念仏行はあくまでその手段にすぎない。ところが、大聖人御在世当時の日本天台宗では、この摩訶止観の本来の意を曲解して、阿弥陀念仏を肯定し勧める文としてとらえたのである。そのことを大聖人は「源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり」と破折されているのである。
1273:06~1274:06第二章止観の正意と大意とを明かすtop
| 06 但止 07 観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、 これは且くこれをを 08 く、 故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、 爾前 09 の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、 「境 10 は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・ 方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず 1274 01 法華経なり「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。 -----― ただし、止観の観法は法華経の迹門に依ったとする説、本門に依ったとする説、本迹二門にわたるという三つの説が古来からあったが、このことはしばらくおく。「故に知る止観一部の文は法華の開権顕実の妙観である」と解釈されているように、止観一部のすべては、法華経の開会の上に建立されたのである。爾前の経々を引き、また外典を用いているが、爾前や外典の意で引いているのではない。文は借りても義は削り捨てているのである。「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」とあるように、文殊問経、方等経、請観音経等の諸経を引いて四種三味を立てるが、意は必ず法華経なのである。「諸文を散引して一代の文体を該てはいるが正意は唯二経に帰す」とあるのはこのことである。 -----― 02 止観に十章あり大意.釈名.体相・摂法.偏円・方便.正観・果報.起教.旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して 03 大意より方便までの六重は先四巻に限る、 これは妙解迹門の心をのべたり、 今妙解に依つて以て正行を立つと申 04 すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一 念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらな 05 を許されず何に況や爾前に分たへたる事なり、 一念三千の出処は略開三の十如実相なれども 義分は本門に限る・ 06 爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、 但真実の依文判義は本門に限るべし、 -----― 摩訶止観に十章ある。大意、釈名、体相、摂法、偏円、方便、正観、果報、起教、旨帰である。「前の六重は修多羅に依る」とあり、大意から方便までの六重は解了の部で、前四巻に限る。この解了、すなわち妙解は迹門の心を述べている。今、「妙解に依って以て正行を立つ」とある第七の正観章は、十境・十乗の観法の説明であり、本門の心を述べたものである。一念三千の法門はこの章から始まる。一念三千の法門は迹門にさえ許されていない。ましてや爾前の諸経には絶えてない法門である。一念三千の出処は略開三顕一の十如実相の文であるが、その義は本門に依っている。爾前の諸経は迹門の義に依って判ずべきであり、迹門の文は本門の義に依って判ずべきである。真実の依文判義はただ本門に限るのである。 |
開会
開顕会融・開顕会帰の意。権教を開き顕して実教に会入すること。爾前権教を開して法華経の真実に会入させること。法華経迹門における開会は三乗を開して一仏乗に帰せしめる開三顕一をいう。法華経本門における開会は一切の諸仏を開して唯一の本仏に帰入せしめる開迹顕本である。開会には教法のすべてが一法に帰着するとする法開会と、万人の平等の成道を説いた人開会がある。法開会は一往の理論で、諸経に説かれるが、事相面である人開会は法華経に限られる。開会の法門は諸教になく法華経のみに見られる特質であり、一切の諸法は一つとして捨て去るべきでなく、真実を含有するものとして生かされることになる。
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外典
仏経典以外の典籍。内典に対する語。
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文殊問
文殊師利問経のこと。二巻。中国・梁代の僧伽婆羅訳。文殊師利菩薩の発問にしたがって、仏が答えている。仏は涅槃に入らず、仏身は不生不滅であることを明かし、一切の仏は般若の修行によって仏になったことを説いている。また、菩薩の大乗戒を示し、仏滅後の小乗二十部の分派を明かしている。天台大師所立の四種三昧のうち常坐三昧の依経とされる。
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方等
大方等陀羅尼経のこと。四巻。中国・北涼代の法衆訳。方等陀羅尼経、檀特陀羅尼経ともいう。文殊師利菩薩の講問によって諸種の摩訶袒持陀羅尼の因縁、功徳、修行法等を説いたもの。四種三昧のうち半行半坐三昧の依経とされる。
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請観音
請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経をいう。一巻。 中国・東晋代の竺難提の訳。種々の疫病を消滅する法を説いており、三宝と観世音菩薩の名号を称え、更に十方諸仏救護衆生神咒を誦持する者は疫病を免れるとし、また、破悪業消伏毒害陀羅尼を説き、懺悔する者の滅罪法を示している。四種三昧のうち非行非坐三昧の依経とされる。
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四種
四種三昧のこと。天台宗で、修行する4種の三昧。常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の称。
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止観に十章あり
止観は摩訶止観のこと。十章は、摩訶止観・正宗分・十章のこと。摩訶止観の構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなる。正説分は大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正修・果報・起教・旨帰からなり、十広ともいう。正修章に十境を立てるなか、第八の増上慢以下は欠文のまま終わっている。
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修多羅
①梵語スートラ(Sūtra)の音写で素多覧とも書く。経文・経典のこと。仏の説いた教法を後世に伝える章句のことで、経と同意。十二部経の一つ。②七条袈裟に用いる組紐のこと。ここでは①の意。
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略開三の十如実相
略開三顕一が明かされている法華経方便品第2の十如実相のこと。
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依義判文
「義によって文を判ず」と読む。文は文章・経文、義は思想・法理。経文を解釈する場合は、文にとらわれるのではなく、より高い経典に説き示された義によって解釈しなければならないことをいう。
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依文判義
一般に経文を解釈する場合は、より高い経典に説き示された義によって解釈しなければならないが、仏法の理が完全に説き尽くされた了義憍の場合は、文によってその義を判じていくことを依文判義という。
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本章は、先に止観に対する曲解を破されたのに続き、その正意と大意を示されて、正しい止観のとらえ方を御教示されているところである。
まず最初に、摩訶止観に関して叡山天台で古来から論議されてきた三つの説を挙げられる。すなわち、摩訶止観が法華経の迹門に依って立てられたとする説、法華経本門に依って立てられたとする説、更には本迹二門に依って立てられたとする説、の三つである。
しかし、大聖人は、三説については触れられずに、ただ妙楽大師の止観輔行伝弘決巻三の「故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成ず」との文を引かれている。
すなわち、摩訶止観の一部全体が、法華円教の一仏乗によって、爾前権教の諸乗の教えを開顕会入(かいけんえにゅう)して立てられたものであるとの意である。
これを受けて大聖人は、摩訶止観一部は、法華経の開会のうえに立てられたと結論されている。したがって、たとえ摩訶止観に、爾前の経々や外典を引用していても、それは爾前・外典の義を用いているのではなく、ただ文を借りたに過ぎないのである。これは、単に教学思想面だけではなく、実践修行面でも同様であることを述べられている。
まず、止観輔行伝弘決巻二の「境は昔に依ると雖も智は必ず円に依る」という文を引用されている。
この文は、止観に説かれる観心の対境は、法華経以前に説法された爾前経の十二因縁や四諦などに依っているけれども、観ずる智慧は必ず法華経の仏智に依っている、との意である。
この文を受けて、大聖人は止観の巻二で四種三昧を明かす文中、文殊問般若経(常坐三昧)、方等経(半行半坐三昧)、請観音経(非行非坐三昧)等の諸経が引用され、それら諸経の実践修行を立てていても、あくまで、天台大師の心は法華経にあったことを述べられている。
このように、摩訶止観において、爾前経の経文と修行とが引用されている正意を明かされて、先に、当時の学徒達の曲解を破折された根本的な理由を示されたのである。
次いで、十章から成る摩訶止観の大意を示されている。すなわち、第一章から第六章までの「先四巻」「前六重」は「修多羅(経典)に依る」といって、「妙解迹門の心」を説いたものである。どこまでも、教学思想を解了するための理論的な部分で、法華経迹門に依ったものなのである。
そして、この妙解を土台にして、第五巻第七章の「正観・十境・十乗の観法」の妙行、すなわち、実践修行が立てられたのであり、これは法華経本門の心に依っていると述べられている。
しかも、天台大師の最重要法門である一念三千は、ただ、第七章の「正観(正修止観)」においてのみ明かされたのであり、ゆえに、一念三千は法華経迹門から出てきた法門ではなく、ましてや爾前権教の教えからは絶対に立てられない法門であると断じられている。更に、たしかに、天台大師は、一念三千法門を法華経迹門・方便品の略開三顕一の十如実相から立てたのであるが、その義は全く本門に依っているとされる。ここから、大聖人は、爾前経の経文はより次元の高い法華経迹門の義に依って判じ(依義判文)、迹門の経文は更に次元の高い法華経本門の義に依って判じなければならない(依義判文)。経文自体がそのまま義を表しているのは本門である(依文判義)と結論されている。
法華経の開会について
「開会」とは、法華経の重要な教義の一つであって、開顕会入(開顕会帰)の略称である。また「開顕」と略することもある。
端的にいえば、権を開いて実に会入することであり、釈尊が方便として四十余年の間に説いた声聞・縁覚・菩薩の三乗の権を開いて、釈尊出世の本懐である法華経一仏乗の真実に会入せしめることをいうのである。この開会には、法開会・人開会、迹門・本門の開会、相対種・就類種の開会などがあるが、ここでは省略して、本抄全体にとって重要な相待妙・絶待妙について触れておく。これは、天台大師が法華玄義巻二で妙法蓮華経の「妙」の字について述べているなかの一つであるが、大聖人の仏法を正しく理解するうえでも不可欠の法門である。相待妙とは、法華経とそれ以外の諸経とを対立させて比較相対して、法華経のみが真実の一仏乗の法であると立て、法華経以外の諸経を麤法として否定し捨てることである。これに対し、絶待妙は、一切の諸経を開いて法華経のなかへ会入し、法華経の妙法と諸経の麤法との相対・対立を越えて一切経を統一し包含することである。このように、法華経の〝妙〟には諸経に対して否定的な相待妙と肯定的な絶待妙との二義が存するのであり、どちらか一方だけでは、妙の義が成立しない。
この二妙の義を前提とするとき、爾前の円と法華の円とを同一とする曲解は、絶待妙の浅薄な理解に基づき、相待妙の立場を忘却・無視したことによるのである。また、止観に爾前の諸経を引用したり、爾前の修行を方便として修することを説いていても、それはどこまでも、相待妙で一度は爾前経の法と修行を否定した後に、今度は絶待妙のうえから開会して用いているのであって〝妙〟の二義は厳然と踏まえられているのである。
このことを妙楽大師は「一部の文共に円乗開権の妙観を成す」とも「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」とも述べたのである。
その意味で、本章は、大聖人が、当時の比叡山天台宗をはじめ諸宗が法華経の「開会」の法門を浅くとらえて、自らに都合のよい絶待妙の立場のみに終始していたのに対して、本来の〝妙〟の意義を徹底して説かれ本義に帰させようとされたとも言い得るのではなかろうか。なお、開会については、更に第五章の講義をも参照していただきたい。
止観に十章あり大意・釈名・体相……旨帰なり
摩訶止観は十章からなり、第一大意、第二釈名、第三体相、第四摂法、第五偏円、第六方便、第七正観、第八果報、第九起教、第十旨帰の順で展開する。
第一章の「大意」は、全十章の大意を概説し全体の内容を五項目にまとめて概略している。これを五略といい、発大心、修大行、感大果、裂大網、帰大処の五項目である。この五略を広げると十章全体になるので、止観のことを「五略十広」と古来、呼びならわされてきた。
五略と十広の関係であるが、第一章から第五章までが発心に、第六章と第七章とが修行に、第八章が感果に、第九章が裂網に、第十章が帰処に、それぞれ対応する。
発大心とは、四弘誓願を発して大菩薩へ向かおうとする決意であり、これは、第一章から第五章までに説かれる〝止観〟についての理論的な説明を完全に理解することにより起こすことができる。
次いで、第六章「方便」で、実際の修行に入るまえの準備段階が説かれ、第七章「正観」ではまさしく実際の修行が示されて、この二章によって修行するのである。
第八章「果報」は、発心して修行した結果として獲得される感果を明らかにしており、第九章「起教」は、得られた感果によって現れてくる衆生教化と救済の能力のことで、衆生のとらわれている煩悩や邪見の網を裂いていくので裂網にあたるのである。
最後に、第十章「旨帰」は、能化も所化もともに大涅槃の境地に帰入することを明らかにするもので、帰処にあたるのである。
以上、止観の内容である五略十広を概説したが、更に一章ごとに、その大意を簡潔に述べておこう。
まず、第一「大意」は前述のとおり、五略をもって止観全体の大意をまとめている。第二「釈名」は、止観の名義を明かし、第三「体相」は、止も観もともに同一法性、同一実相の寂照二面であることを述べる。第四「摂法」は、一切の諸法はことごとく実相であることから、実相を体とする止観は一切法を摂することを明かすのである。第五「偏円」は、止観にも種々のものがあるが、爾前の止観は偏理の止観であるのに対し、法華経の止観は円頓止観であることを述べるのである。第六「方便」は正修止観の準備である二十五の方便行を示し、第七「正観」は、正しく一念三千を示し、その修行の方法として十境十乗の観法を立てるのである。第八章「果報」第九章「起教」第十章「旨帰」の三章は説かれていないが、前述したように、五略の第三・感大果、第四・裂大網、第五・帰大処、として第一章の「大意」のなかですでに説かれていたものとするのである。これが止観の全体の内容である。
前六重は修多羅……十境・十乗の観法本門の心なり
「前六重」とは、止観十章のうち、第一章「大意」から「方便」までの前六章のことであり、巻数でいえば第一巻から第四巻までの「先四巻」にあたる。
止観の第七章「正観」の冒頭で「第七に、正修止観とは、前の六重は修多羅に依って、以って妙解を開き、今は妙解に依って、以って正行を立つ」と述べている。ここに、摩訶止観自体が、前の六章・四巻と後の四章・六巻とを立て分けているのが明らかである。
つまり、前六章、四巻は、どこまでも修多羅に依拠して、止観そのものに関する妙解を示したのであり、止観についての理論的説明の領域を出ていない。それで、日蓮大聖人は本迹相対の立場から、前六章、前四巻は法華経迹門の心を述べたものであると仰せられている。これに対し、後の第七章は、前六章の妙解に基づいて修行そのものを立てたものであり、法華経本門の心を明かしたものとされている。
ところで、なにゆえに、正観章が法華経本門の心から出たものと大聖人は決定されたのか、ということになるが、そのことは、この文以下の「一念三千と申すことは……」に始まり、依義判文、依文判義という立て分けが展開される文で明らかにされる。
そのまえに十境・十乗の観法について、一念三千との関連で説明しておこう。
まず、第六章「方便」で、十境十乗の観法を修めるまえの予備条件として二十五方便の用意をととのえた行者は、次に、正行である十境十乗の観法を実践することになる。その修行法が第七章「正観」に説かれるのである。観法である以上、当然、能観と所観について分けて説かれる。能観が十乗で、所観の境が十境である。
まず、能観の十乗観法であるが、
①観不思議境
②起慈悲心
③巧安止観
④破法遍
⑤識通塞
⑥道品調適
⑦対治助開
⑧知次位
⑨能安忍
⑩無法愛
の十である。
次に所観の境、すなわち、何を十乗能観の観法の対境とするか、という規定であるが、これに十境がある。
①陰入界境
②煩悩境
③病患境
④業相境
⑤魔事境
⑥禅定境
⑦諸見境
⑧増上慢境
⑨二乗境
⑩菩薩境
である。
この十境の一つ一つについて、十乗の観法を適用することになるので、〝百法我乗〟ともいうのである。しかし、天台大師は、これに、機根の上・中・下に応じて、さまざまな段階を設けている。
とりあえず、まず、機根の高低を問わず、初めに、所観の対境として①陰入界境を選び、これに対し、十乗の観法を一つ一つ行っていくのである。陰入界とは、五陰・十二入・十八界の略で、行者自身の色心とその知覚・認識活動の総体をさしているが、行者自身の日常において現前している最も身近な現実のものを観法の対境とする、ということである。そのなかでも、とくに五陰という色心を選び、更に五陰のなかでも識陰を観法の対境として、十乗観法を次々と修していくのである。
さて、
①観不思議境であるが、これは一心三観を修して、陰入界境中の日常起滅の現前刹那の一念に三千・三諦の諸法が具足していることを観ずるものである。この一念に三千を具足することを観ずる観不思議境こそ円頓止観の修行の根本であり、円教の観法であることはいうまでもない。
上根の行者はこの観法で止観の目的を成就するが、中・下根のための九乗観法を説明すると、
②起慈悲心は、第一観不思議境の観法を修すると、一念三千の不思議境を識って、自ら不思議境を証得するとともに一切衆生にも同じ利益を与えようと四弘誓願を発し、慈悲の心を生ずるのである。
③巧安止観は、②の慈悲心が生じた以上、それに相応する行を実践する。その行は止観により、心を法性に安んぜしめることなので巧安止観という。
④破法遍は、③の行によってもまだ満足すべき成果が得られない場合、それは心に偏執が残っている証拠であるから、これを対冶する観法である。
⑤識通塞は、④を修しても、まだ止観の目的を達することができないとき適用する観法で、塞を破し、通を助長する道を識る観法である。つまり、解と行とにわたって、向上する場合と停滞する場合とをよく吟味検討して、修行を前進させるのが識通塞の目的である。
⑥道品調適は、④⑤に加えて、更に三十七道品(四念処・四正勤・四如意定・五根・五力・七覚支・八正道)の大乗禅法を行者の根性に応じて、適当な道品を適用して止観行を助ける観法である。
⑦対治助開は、とくに機根が鈍で障りが重い者にはしばらく助道を用いて障りを対冶する方法である。助道の中心は六波羅蜜である。
⑧知次位は、これまでの七つの観法を修行してきた行者自身が現在の自分の行位を正しく知って、増上慢と卑下慢の二種の慢心を防ぐためのものである。天台大師はここで六即位を説き、行者自身が六即位を基準として自らの行位を知れば二種の慢心を対冶しうるとした。
⑨能安忍は、これまでの八つの観法を行じて、障りを転じて智慧が開かれてくるとき、内外強軟の誘惑、とくに名利の誘惑を拒否し、能く安忍節制する観法である。
⑩無法愛は、以上の九つの観法を修して十信位を成就し、六根清浄となっているにもかかわらず、依然として初住の位に進むことができない行者があるとすると、それは法に対する愛着が生ずるがためである。それで、この法愛を断ずる観法を修することによって、十住の初住位に入ることができるのである。
以上から明らかなとおり、十乗観法は無法愛の観法を最後に、どんな下根・鈍根の行者でも初住位に入ることができる仕組みになっているのである。
これまでの十乗観法の説明は、あくまで、十境中の第一、陰入界境の、現前刹那の一念を対境として、いかなる鈍根の初心の行者でも初住位に入ることができるまでの観法の順序次第を述べたのである。
しかし、第一陰入界境に、前述した十乗の観法を適用して観心の行が進んでいくにつれて、さまざまな煩悩、業、病患、魔などが生起してくる。「正観」章の冒頭で「行解すでに勤むれば、三障四魔紛然として競い起り」とあるのはこのことである。
現前刹那の一念を対境として修していく観心の最中に、もし煩悩が生起してくるならば、直ちにその煩悩を対境として新たに十乗の観法を適用して、目標である一念三千の不思議境を証得するまで少しも止観行を怠らないようにしなければならない。同様にして、観心中に肉体の疾病が生ずると、その病患そのものを止観の対境としてこれと対決するのである。更に、宿世の業相が生起すれば、それを対境とする。そして、業相境を対境とする止観行が進展してくると現れてくるのが魔事で、これを対境として十乗観法を適用して対冶する。
この魔事を対境とする止観行中に生起して障害となるのが過去に修めた禅定に対する執着心で、これと対決するのが禅定境であり、諸見境とは、禅定中に現れてくる独断的な邪見を止観の対境とすることであり、以下、増上慢境、二乗境、菩薩境については、「正観」章に説かれていないが、他の記述からその内容は分かる。
増上慢境とは、諸見境を観じて邪見を脱したとき、自己の証得したものが最高究極に達したと錯覚しやすい。そのとき、この増上慢を新しく対境として十乗観法を行っていくのである。二乗境は、二乗根性の自利心が生じたとき、菩薩境は、空見に陥った小乗菩薩心が生じたとき、それぞれ、これを対境として十乗観法を修するのである。
以上の第二・煩悩境以下の九境は、必ずしも順序どおりに生起するとは限らず、前後が交互して現れうるし、また、九つすべてが現れるとは限らず、行者の機根や宿習によってさまざまである。ただ行者に発得してきた場合だけ対境として修めるので、〝発徳の対境〟ともいう。これに対し、第一の陰入界境は、すべての行者に現前していて、必ずこれを最初の観境として取り上げるので〝現前の対境〟ともいうのである。
以上が十境・十乗の観法の概略であるが、すでに述べたように、一念三千というのは、陰入界境、特に現前の刹那一念を対境として、十乗観法の第一・観不思議境を適用することによって、現前刹那の一念に三千諸法を具足するという思議しがたき世界を観ずるということである。上根はこの段階で証得し止観を成就する。中根や下根は他の九乗観法を用い、あるいは他の九境を対境として止観を成就するのであるが、いずれにしても、その目的はひとえに、一念三千の不思議境を観得することにある。
ここに、十境・十乗観法と一念三千との関係がある。天台大師は、前述したように、陰入界、なかんずく、凡夫の日常現前起滅の一念(六識の心)を対境として十乗観法の第一、観不思議境の観法を適用することを明かすなかで一念三千の法を説いた。本文に「一念三千此れよりはじまる」との仰せは、まさに一念三千の法門が、妙行である十境・十乗の観法の目標、目的を明かすところで初めて説かれたことを示されている。
これはまた、妙楽大師が止観輔行伝弘決のなかで「故に止観の正しく観法を明かすに至って並びに三千を以って指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に『説己心中所行法門』と云う是れ以所有るなり」と述べている点でもある。
しかし、大聖人が「十境・十乗の観法本門の心なり」と仰せられた理由は、次の文における「依義判文」「依文判義」の立て分けによって、より明確に示されるに至るのである。
一念三千の出処は……真実の依文判義は本門に限るべし
十境・十乗の観法が何ゆえに〝本門の心〟であるかを結論的にいえば、この観法の目的である一念三千の法門は法華経本門の義によって立てられたものであるがゆえに、そのための正観の行も本門の心になるとの仰せなのである。
この点について大聖人は「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」と述べられている。
一念三千の出処が略開三の十如実相である、という意味は、天台大師の一念三千が、法華経方便品の十如実相に基づいて立てられた法門であるということである。〝略開三〟というのは、略開三顕一のことで、法華経方便品の諸法実相・十如是の説法をさす。
釈尊は方便品で、舎利弗を対告衆にして、諸法がそのまま実相であるという仏の悟りを説いたのであるが、そのとき、その実相の内容を十如是によって示した。
十如是とは、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等、である。つまり、諸法は必ず相、性、体……本末究竟等の十の範疇をもって顕現する、ということが真実の相であると説いたのである。
諸法とは森羅万象であるが、十界に収まる。とすると、諸法実相・十如是とは、地獄界、餓鬼界……仏界、の十界のどの界も、平等に十如是をもって顕現するということであり、十界が、現象として顕現した面では相互に差異があっても、顕現する仕方、形式の面においては平等であるという真理がここに明らかにされたことになるのである。その結果、二乗も含めて一切衆生が、仏と同じく十如是の法則に基づいて顕現しているのであって成仏の可能性をもっていることが明らかになったのである。そのことによってまた、これまでの三乗を開いて一仏乗を明かすことが仏の本意であるという開三顕一の法門がほぼ明かされたことにもなった。ここから〝略開三の十如実相〟といわれるのである。
ちなみに、「広開三顕一」は、方便品の一大事因縁・開示悟入の説法がそれにあたる。そこでは、はっきりと、釈尊が自らの出世の目的は衆生をして仏の知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らしめるところにあることが宣言されたのである。
さて、十界の一切衆生が仏知見すなわち仏界を具えているということは十界がそれぞれに十界を具えているということである。ここから十界互具、百界千如の法理を天台大師は立てたのである。
天台大師は、百界千如については法華玄義等に明かしたが、一念三千だけは摩訶止観第五巻第七章「正観」の十乗観法中、第一観不思議境を明かすところに説いたのである。
その際、三世間は大智度論巻七十の「世間に三種あり、一には五衆世間、二には衆生世間、三には国土世間なり」という文を根拠にしたことは天台大師の他の著作などから明白である。
したがって、天台大師は、一念三千の出処を法華経迹門方便品の十如実相に置いたのであるが、三世間とくに国土世間が明かされている経文は本門寿量品である。そのことを「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」と仰せられたのである。
そのことを開目抄では次のように説かれている。
「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(0197-10)と。
法華経迹門では、仏の久遠の本地が明かされていないので、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、その姿はちょうど、天月ではなく、水中の月を見るようなものであり、根なし草が波の上に浮かんでいるようなものである、と仰せられている。
本門に入り、発迹顕本により始成正覚が破られた結果、それまで説かれてきた四教の仏果が否定されたため、これを目標とする修行、すなわち四教の因も否定されたことになり、それまで説かれてきた十界の因果が否定されて、本門の十界の因果が説き顕されたのである。
その「本門の十界の因果」とは、次の御文にもあるとおり、〝本因本果の法門〟であって、九界が無始の仏界に具し、仏界も無始の九界(因)に具わるということであり、ここに〝真の十界互具・百界千如・一念三千〟が成立する、と仰せられている。
なお、日寛上人の三重秘伝抄には、次のように説かれている。
「『始成正覚を破る』等とは、経に云く『我実に成仏してより已来無量無辺』等と云云。是れ則ち爾前迹門の始成正覚を一言に大虚妄なりと破る文なり。天台云く云云。宗祖云く云云。『四教の果を破れば四教の因破る』等とは、広くは玄文第七巻の如きなり。此の中に十界の因果とは是れ十界各具の因果に非ず。因は是れ九界、果は是れ仏界の故に十界の因果と云うなり。並びに釈尊の因行を挙げて通じて九界を収むるなり。『是れ則ち本因本果の法門』とは此れに深秘の相伝あり、所謂文上と文底となり。今は且く文上に約して此の文を消するなり。本因は即ち是れ無始の九界なり。故に経に云く『我本菩薩の道を行ぜし時、成ずる所の寿命今猶未だ尽きず』等と云云。天台云く『初住に登る時、已に常寿を得』等と云云。既に是れ本因常住なり、故に無始の九界と云う。本因猶常住なり、何に況んや本果をや。故に経に云く『我実に成仏して已来甚大久遠にして寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして滅せず』と云云。既に是れ本果常住なり、故に無始の仏界と云う。本有常住・名体俱実の一念三千なり、故に真の十界互具・百界千如・一念三千と云うなり云云」と。
ここでは、法華経の本門寿量品の文上に約して解釈されている文底の究極の一念三千とは下種の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。
それはまた、同じ開目抄で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられていることにも明白である。
更に、治病大小権実違目には「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候」(0998-15)と仰せられている。ここでは、天台大師、伝教大師の一念三千を、迹門の理の一念三千とされ、日蓮大聖人の一念三千を、本門の事の一念三千とされている。もっとも、ここでの〝本門〟とは文底独一本門のことであり、〝事〟もまた、迹門を理、本門文上を事、としたうえで、迹本二門を通じて理とし、文底独一本門を事とされた究極の〝事〟であることはいうまでもない。
三大秘法抄には、天台大師と日蓮大聖人の一念三千の出処の違いが明確に説かれている。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く『諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見』等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く『然我実成仏已来・無量無辺』等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」(1023-08)と。
ここで、底下の凡夫の理性所具の一念三千が天台大師の一念三千であるのに対し、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千とは大聖人の事の一念三千であることは明らかであろう。大覚世尊が久遠実成の当初に証得した一念三千とは久遠元初の南無妙法蓮華経にほかならないのである。
「爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり」の御文は、爾前経の経文の意味するところは、爾前より次元の高い法華経の迹門に説かれた義意によって判じてこそ明らかになるのであり、また、法華経の迹門の経文も、より次元の高い本門の義意により明らかにされるのである。
しかし「真実の依文判義は本門に限る」とは、本門の経文は、より次元の高い経がないので、ただ本門の経文そのものによって、その真実の義意を判ずる以外にないと仰せられている。
ただし、ここでの本門が文底独一本門を意味することはいうまでもなく、文上の本門は文底独一本門の義によって判ぜられるほかないことはこれまでの説明からも明白であろう。
したがって、文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが他の義を借りずに、そのまま真実・究極の義を示す「依文判義」なのである。
1274:06~1274:12第三章真実の円の行を明かすtop
| 06 されば円の行まちま 07 ちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。 -----― さて、円教の修行もまちまちである。華厳経には沙を数え大海を観察するのも円教の修行であると説かれている。ましてや、爾前の諸経を読み、阿弥陀等の諸仏の名号を唱えることはもちろん、円教の修行である。 -----― 08 但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、 心に存 09 すべき事は一念三千の観法なり、 これは智者の行解なり・ 日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととな 10 へさすべし、 名は必ず体にいたる徳あり、 法華経に十七種の名ありこれ通名なり・別名は三世の諸仏皆南無妙法 11 蓮華経とつけさせ給いしなり、 阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき・口ずさみは必ず南無妙法蓮華 12 経なり、 ―――――― ただし、これらは時に応じての修行であって、真実の円教の修行として、常に口に唱えるべきことは南無妙法蓮華経であり、心に観ずべきは一念三千の観法である。しかしこれは智者の行解であり、日本国の在家の者は、ただ一向に南無妙法蓮華経と唱えるべきである。名は必ず体にいたる徳がある。法華経に十七種の名がある。これは通名で、別名は三世の諸仏が皆、南無妙法蓮華経とつけられている。阿弥陀如来や、釈迦如来等の諸仏も因位の時の修行は必ず、心には一念三千を観じ、口に唱えたのは南無妙法蓮華経である。 |
沙をかずへ
華厳経において善財童子が、五十三人の善知識を訪ね、菩薩行を修したなかの第十三、輸那国の釈天主童子の菩薩行のこと。華厳経巻四十八に「爾の時、善財童子、天竜の大衆眷属のために囲遶せられて輸那国に至り、周遍して釈天主童子を推求せり(中略)善男子、若し無量百由旬に等しき大沙聚有るも、我悉く分別して其数を算知せん云云」とある。
―――
大海をみる
華厳経において善財童子が、五十三人の善知識を訪ね、菩薩行を修したなかの第三、海門国の海雲比丘の菩薩行のこと。華厳経巻四十八に「南海に海門という名の国有り、彼に比丘有り名を海雲という(中略)善男子、我此の海門国に住すること十有二年、大海を境界として大海を観察せり云云」とある。
―――
弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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前章で、摩訶止観の大意を示され、爾前の円と法華経の円に関する教学上の曲解を正されたのに続き、本章では、修行面に関して真実の円の行を示されるところである。
法華経の円教は、開会の原理によって、一切経を開き会入し、もろもろの修行も会入するので〝円の行〟といえば、たしかにさまざまな修行が存在することになる。この点からいえば、爾前の経文を読誦したり、阿弥陀仏の名号を唱えるのは当然、円の行に入るのである。
しかし、これらの爾前の経の読誦や弥陀等の名号を唱えるのは、あくまで、〝時時の行〟、すなわち、方便や時宜に応じての修行にすぎないとして、常に修行すべき真実の円の行を示されている。
まず、智者の行解としては、常に南無妙法蓮華経を口ずさみ、心には一念三千を観法すべきであると述べられ、しかし、日本国の在家の者はひたすら南無妙法蓮華経と唱えるべきであると仰せられている。
なぜなら、妙法蓮華経は法華経の名であるが「名は必ず体にいたる徳」があるからである。つまり、妙法蓮華経の名に、法華経全体の功徳が収まっているのである。世親は法華論で、法華経の名として十七種類の名を挙げているが、これらはことごとく通名すなわち一般的名称にすぎず、真実の別名は、三世の諸仏により名づけられた南無妙法蓮華経である。したがって、三世の諸仏は仏に成る因位の行のときに、止観を行じて一念三千を観法し、口に南無妙法蓮華経と唱えたのであり、題目を唱えることこそが円の行なのである。
智者・日本国の在家の者
法華の円の行として、智者の修行と在家の者の修行とを分けて述べられている。このような立て分けは他の諸御書にも説かれている。例えば、持妙法華問答抄では「一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり」(0464-06)と御示しである。また、唱法華題目抄では「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」(0012-07)と述べられている。
以上のごとく、大聖人は、智者=上根・上機、愚者=下根・下機、と区別されて法華の円の行に機根の上下に応じて二つの行があるように述べられている。しかし、本抄の後の御文からも明らかなごとく、日蓮大聖人の元意は、上根・上機とは正像の時代の衆生のことをさしておられるのであり、末法の衆生は、下根・下機・愚者であるから、ただただ南無妙法蓮華経を信じ唱題することが法華の円の行であると示されるところにあるのである。
そのことは、報恩抄に「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-16)と説かれていることや、上野殿御返事で「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)と述べられていることからも明らかといえよう。
名は必ず体……三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり
この御文は、なにゆえに南無妙法蓮華経と唱えるだけでよいのかということは、多くの人の抱く疑問である。
この疑問への答えとして「名は必ず体にいたる徳あり」と述べられている。寂日房御書では「一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり」(0903-01)と仰せである。すなわち、一切の物に関して「名」が最も大切であるのは、「名」のなかにその物の特色や特徴、徳用などが収められているからである。法華経についていえば、妙法蓮華経の五字からなる題号のなかに、法華経二十八品のすべての功徳が収まっているのである。
もっとも、天親(世親)の法華論では、序品七成就の章で、法華経について十七種類の名を挙げている。今、それらを列挙してみると、
① 無量義経
② 最勝修多羅
③ 方広経
④ 菩薩法
⑤ 仏所護念
⑥ 切諸仏秘密法
⑦ 切諸仏之蔵
⑧ 切諸仏秘密処
⑨ 生一切諸仏経
⑩ 切諸仏之道場
⑪ 切諸仏所転法輪
⑫ 切諸仏堅固舎利
⑬ 切諸仏大巧方便教
⑭ 一乗経
⑮ 一義住
⑯ 妙法蓮華経
⑰ 最上法門
の十七種となる。しかし、これらすべての名は、必ずしも法華経のみに冠せられる名ではなく、他の諸経に冠せられても通用する名なので「これ通名なり」と仰せである。だが、⑯の妙法蓮華経の名は、法華経独特の名ではなかろか、との疑問は残る。たしかに、天台大師は法華玄義十巻において、妙法蓮華経の五字が法華経全体の意を顕すという観点から、五字の題号を五重玄(釈名、弁体、明宗、論用、判教)にしたがって論じている。しかしながら、日蓮大聖人がその妙法蓮華経の五字の題号を〝通名〟とされたのは、釈尊の説いた文上の法華経は末法の下根・下機の衆生には相応しないからである。
末法の衆生を成仏に導く法華経の特別な名は「南無妙法蓮華経」であり、その実体は法華経本門寿量品の文底に秘沈され、末法の御本仏・日蓮大聖人が久遠元初以来御所持されてきた法体であられる。そして、この南無妙法蓮華経こそ三世の諸仏が成仏する因となった法体でもあるので「三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり」と仰せられているのである。
末法の下根下機の衆生はただただ南無妙法蓮華経を受持し、唱題することにより、成仏することができるのである。
1274:12~1275:08第四章叡山の念仏行を破し謗法の因を明かすtop
| 12 此等をしらざる天台・真言等の念仏者・口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ在家の者は一向に 13 念うやう天台・真言等は念仏にてありけり、 又善導・法然が一門はすなわち天台真言の人人も実に自宗が叶いがた 14 ければ念仏を申すなり、 わづらわしく・かれを学せんよりは法華経をよまんよりは 一向に念仏を申して浄土にし 15 て法華経をもさとるべしと申す、 此の義・日本国に充満せし故に天台・真言の学者・在家の人人にすてられて六十 16 余州の山寺はうせはてぬるなり。 -----― これらのことを知らない、天台・真言等の念仏者は、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と称えるので、在家の人達は天台・真言等も念仏者だったのだと思っている。また、善導や法然の一門は「天台・真言の人々も自宗では成仏がかなわないから念仏を称えるのである。わずらわしく彼を学んだり、法華経を読誦したりするよりは、一向に念仏を称えて浄土に往生し、法華経を悟るべきである」などと言っている。このような思想が日本国中に充満したために、天台・真言の学者は在家の人々に捨てられ、六十余州の山寺は滅びてしまったのである。 -----― 17 九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり、 日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛なりし 18 より・これはじまれり、あわれなるかなや、外道は常楽我浄と立てしかば仏世にいでまさせ給いては苦・空・無常・ 1275 01 無我ととかせ給いき、 二乗は空観に著して大乗にすすまざりしかば 仏誡めて云く五逆は仏のたね・塵労の疇は如 02 来の種・二乗の善法は永不成と嫌わせ給いき、 常楽我浄の義こそ外道は・あしかりしかども名はよかりしぞかし、 03 而れども仏名をいみ給いき、 悪だに仏の種となる・ましてぜんはとこそ・をぼうれども仏二乗に向いては悪をば許 04 して善をば・いましめ給いき。 -----― 九十六種の外道は仏慧比丘の威儀から起こり、日本国の謗法は「爾前の円と法華の円は同じである」という邪義が勢いを得たことによるのである。まことに哀れむべきことである。外道は常楽我浄と立てたが、仏が出世されて苦・空・無常・無我であると説かれた。二乗はこの空観に執着し、大乗に進むことができなかったので、仏は戒めて「五逆罪も成仏の因になり、無数の煩悩もまた如来の種子になるが、二乗の修行する善法は永不成仏である」と嫌われたのである。外道が立てた常楽我浄の義は誤っていたが、常楽我常という名自体は間違っていなかった。しかし、仏は外道の顚倒名を嫌ったのである。悪すら成仏の種となるのである、まして善はもちろんであると思えるが、仏は二乗に対して悪は許しても、善は許さなかった。 -----― 05 当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり、設いぜんたりとも義分あたれりと・いうとも先ず名をいむべし、 其 06 の故は仏法は国に随うべし、天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あり・わかれたり、震旦亦復是くの如し、 07 日本国は一向大乗の国・ 大乗の中の一乗の国なり、 華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず何に況や小乗の 08 三宗をや、 而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは源方等部より事をこれり法相・三論・華厳の見を出ずべからず、 -----― 当世の念仏は法華経をこの国から失う念仏である。たとえ善であっても、また、その義分が間違いでなかったとしても、まず名を嫌うべきである。 なぜかならば、仏法はその国によるからである。天竺には一向小乗の国、一向大乗の国、大小兼学の国があり、それぞれ分かれていた。震旦もまた同じである。日本国は一向大乗の国であり、大乗のなかでも法華一乗の国である。華厳、法相、三論等の諸大乗ですら相応しない国である。ましてや小乗の三宗など相応するはずがない。しかるに当世に流行している念仏宗と禅宗とはもとは方等部から出ており、法相、三論、華厳の所見を出るものではない。 |
天台・真言
日本天台宗所伝の密教のこと。弘法が東寺で弘伝した密教を東密というのに対して、台密という。
―――
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
―――
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
六十余州の山寺
北海道・沖縄を除く日本全国の寺院。通常・山寺は天台宗山門派をいう。
―――
九十六種の外道
インドのバラモン外道に96派の外道があったことをいう。ただし経本によっては95派であるとする説もある。
―――
仏慧比丘
倶留孫仏の滅後に出た比丘で、その振る舞いから苦行外道が起こる因となった僧。止観輔行伝弘決巻十の一には央掘摩羅経巻四を引いて「過去の時仏あり倶留孫と名づく。彼の仏出でし時外道あること無く唯一仏乗なり。仏涅槃の後一比丘あって阿蘭若に住す。名を仏慧という。人あって其の無価の宝衣を施し、為に猟師に刧奪さる。此の比丘を将て去り山中に至り、身を壊り裸形となし首を懸け樹に繋ぐ。婆羅門にあって見て歎じていわく、先に袈裟を著、しかるに今裸形なり。必ずや袈裟は解脱の服に非ざらんことを知る。此れに因り、これに効いて自ら懸りて裸形となり以って真道となす。此の比丘自ら解きて身を得、赤石を以って身に塗り、樹皮で自ら障い、草を結んで以って蚊虻を払う。見る者復いわく、かくの如き衣を著、かくの如き払を捉る、これ解脱の道ならんと。すなわち便にこれを効う。出家外道婆羅門は此れに因りて起こる。比丘暮に至り水に入って瘡を洗う。衣を以て頭を覆い牧牛人の弊衣を取りて身に纏う。見る者復効う。一日三洗する被髪苦行外道は此れに因りて生ず。此の比丘己の身の瘡を洗い復蠅蜂に唼われ、白土を瘡に塗る。見る者復効う。塗身外道はこれより起こる。此の比丘火を然し身を炙る。見る者復効う。五熱炙身外道は此れに因りて起こる。身を炙るに転痛みを堪忍する能わず。巌に投じて自害す。見る者復効う。投巌外道これより起こる。乃至九十五種皆この諸の婆羅門は、此の比丘に効い今に至りて未だ絶えず」とある。
―――
外道は常楽我浄
釈尊在世当時のインドは、享楽主義・刹那主義の風潮が社会を毒しており、それは外道の教えである四顚倒の思想に起因していた。四顚倒は正しく実相を見つめない顚倒した判断・見解で、世間の実相が非常であるにもかかわらず常、非楽を楽、非我を我、非常を常としていた。釈尊はこれを憂いて小乗教で苦・空・無常・無我の四念処の法門をといたのであるが、大乗教においてこれを破って、常楽我浄の四つの徳を説いている。すなわち①常とは仏の境地が永遠不変であること。②楽とは無上の安楽のこと。③我とは自立していて他から何の束縛も受けないこと。④浄とは煩悩のけがれのない清浄な境地をいう。
―――
苦・空・無常・無我
小乗教の四念処の法門をいう。大乗仏教の「常・楽・我・浄」に対する。
―――
二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
空観
あらゆる事物・事象(諸法)には、固定的な不変の実体がなく、その本性は空であると観ずること。
―――
五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
塵労の疇
疇は類・部類のことで、煩悩のことをいう。
―――
永不成
永久に成仏できないこと。爾前の諸教では、二乗は身心を滅尽して完全な空無に帰することを目的として修行するため、自己に本来具わる仏性をも滅尽することになり、焦種・敗種に譬えられて永久に成仏できないと仏から弾呵された。
―――
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
一向小乗
阿含経は専ら小乗教を説いた教えであるとの意。一向は純粋でまじりけのないこと。
―――
一向大乗
大乗教のみが流布していること。
―――
大小兼学の国
大乗教と小乗教を兼ねて修学する国。一向小乗・一向大乗のみを学ぶ国ではなく、小乗を学び、かつ大乗を学ぶ国。
―――
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
一乗の国
妙法蓮華経の一仏乗のみが広まる国。
―――
小乗の三宗
世親の俱舎論を依経とする俱舎宗。訶梨跋摩の成美論による成美宗、小乗の諸経典で説かれる戒律の修行を目的とする律宗をいう。
―――
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
方等部
五時の第三、方等時に説法した経典の総称。小乗を弾呵し、一切衆生に広く平等に教法を説き示したもの。勝鬘経、解深密経、金光明経、維摩経、浄土の三部経、大日の三部経、禅宗が依経とする楞伽経、首楞厳経等がこれにあたる。
―――――――――
法華経の円の行の根本は止観と南無妙法蓮華経の唱題にあるが、比叡山の学僧達は、常に南無阿弥陀仏と称えて、本来の法華経の円行から逸脱していることを破折されている。とともに、古代インドにおいて、仏慧比丘の振る舞いから九十六派の外道が派生したように、その謗法の原因がひとえに、爾前の円と法華の円とが同一であるとする邪義に由来することを指摘されている。更に、日本国が大乗中の大乗である法華経、一仏乗の流布する国であるにもかかわらず、それを破っているのが念仏であると断ぜられている。
善導・法然が一門……さとるべしと申す
比叡山の天台真言(台密)の学僧達が、一様に念仏行として、南無阿弥陀仏と称えたために、一般在家の人達は、比叡山の天台真言の学僧達が皆、念仏者であると思い込んでいた、と述べられ、天台真言宗が念仏の邪教の興隆の一因になったことを指摘されている。そして、善導・法然の浄土宗の一門は、比叡山の天台真言の学僧達が南無阿弥陀仏ばかり称えていることから自信と勢いを得て、結局、浄土宗の義が、日本国に充満してしまったのであり、逆に、叡山台密の学僧達は、在家の人々から見捨てられて、六十余州にも及んで栄えていた天台宗の寺々が滅びてしまった、と仰せられている。
九十六種の外道……あわれなるかなや
この御文は、日本国に念仏の謗法がはびこるに至った原因が、ちょうど、古代インドの九十六種のバラモン外道が仏慧比丘に由来しているように、爾前の円と法華の円とを同一とした誤りにあることを述べられている。
九十六種のバラモン外道と仏慧比丘の話はもともと鴦掘摩羅経巻四に出ているが、妙楽大師はこれを止観輔行伝弘決巻十の一に引用している。簡単に、その話を述べると、昔、倶留孫仏の時には外道が一人もいなかった。ただ一仏乗のみであった。しかし、この仏が涅槃した後に仏慧という名の比丘がいた。この比丘が、ある時、人から無価の宝衣を布施されて、これを着ていた。しかし、悪い猟師によって剥ぎ取られたうえ、裸のままで山中の樹の上に縛られた。この姿を見た一人のバラモンは、以前には宝衣を着て修行していたのに、今は裸形で修行している、きっと袈裟は解脱の因ではなく、裸形こそ真実の行法にちがいないと誤解してここに裸形外道が始まった。次に、仏慧比丘は自分で縛めをほどいて、樹からおりて、裸を隠すために体に赤石を塗り、樹皮を着るとともに、草を束ねて、それで蚊や虻を追い払っていた。
これを見た別のバラモンは、樹皮を着て、手に払子を持つのが真の解脱道にちがいない、と誤認して模倣し、これが出家外道の起源となった。このようにして、同じ比丘がその姿や振る舞いを次々と変えていくのを見たそれぞれのバラモンが順次、塗身外道、五熱炙身外道、投巌外道等となり、かくして、九十六種の外道が起こった、というのである。
そして、この誤認、曲解による外道の発生と、爾前の円と法華の円とが同一であるとの曲解から起こった念仏等の謗法の盛行とは軌を一にしていると仰せられているのである。
当世の念仏は法華経……先ず名をいむべし
この御文は、日蓮大聖人が叡山台密の念仏行を破折される理由について明かされたところである。
この御文のまえで、釈尊が外道と二乗を破折した由来を説かれている。
インドにおいて、外道がこの世は常住、楽、我、清浄であると説いていたのを、仏が出て、逆に、この世は苦、空、無常、無我であると説いて破折した。しかし、今度は二乗が釈尊の説いた空に執着して、大乗の教え――涅槃の境地に常・楽・我・浄の四徳があるという教え――に進むことができなかったので、仏は、五逆の罪や塵労の疇ですら成仏の種となるが、二乗の善法だけは永久に成仏できないと、二乗を弾呵し、排斥したのである。
さて、外道の唱えた常・楽・我・浄は、その名称だけみれば、後に大乗仏教において立てられた涅槃の四徳と同一であるが、しかし、内容が間違っていたので、仏は外道を破すために、常・楽・我・浄の名そのものを嫌ったのである。また、二乗は、仏法を求めて修行に励んでおり、五逆や煩悩の悪法に比べれば善法に入る。したがって、一切が成仏の原因となる大乗仏教の立場では、五逆、煩悩の悪法すら仏の種になるのであるから、二乗の善法は当然、成仏の因となってよいのであるが、仏はどこまでも二乗の執着を破るために、あえて善を嫌ったのである。
以上のように、よき名であっても、善法であっても、よりよき名のために、より大きな善法のために、その名と善法を忌み嫌ったというのが、仏の衆生教化のあり方であった。
この先例にのっとり、日蓮大聖人は、当時の念仏を破折され、名さえ嫌われたのである。
念仏は「設いぜんたりとも義分あたれりと・いうとも先ず名をいむべし」と仰せられている。すなわち、当時の比叡山の念仏行は、与えていえば善の部分があったり、その義において間違っていなくとも、その名が法然系の念仏に力を与え法華経の正法を破る結果になっているために、破折し排斥するのであると、比叡山の念仏をも破折する理由を明かされている。更に、仏教と国土との関連からいっても、日本国は大乗中の大乗である法華経の流布する国であるのに、まぎらわしい念仏が盛んになっていけば、日本国から法華経を滅失させてしまうことになるとの理由からも念仏を破折すると仰せである。
1275:09~1276:02第五章能開・所開をもって念仏を破すtop
| 09 南無阿弥陀仏は爾前にかぎる、 法華経にをいては往生の行にあらず開会の後・仏因となるべし、 南無妙法蓮華経 10 は四十余年にわたらず但法華八箇年にかぎる、 南無阿弥陀仏に開会せられず法華経は能開・念仏は所開なり、 法 11 華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも 南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり、 譬えば如意宝珠 12 の如し金銀等の財を備えたり、 念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず、 譬へば金銀等の如意宝珠をか 13 ねざるがごとし、 譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も一つの如意宝珠をばかうべからず、 設い開会をさ 14 とれる念仏なりとも 猶体内の権なり体内の実に及ばず、 何に況や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはす 15 らめ、 設いさる人ありとも弟子・眷属・所従なんどは・いかんがあるべかるらん、愚者は智者の念仏を申し給うを 16 みては念仏者とぞ見候らん、 法華経の行者とはよも候はじ、 又南無妙法蓮華経と申す人をば・いかなる愚者も法 17 華経の行者とぞ申し候はんずらん、 当世に父母を殺す人よりも謀反ををこす人よりも天台・ 真言の学者と云はれ 18 て善公が礼讃をうたひ然公が念仏をさえづる人人は・をそろしく候なり。 -----― 南無阿弥陀仏と称える行は爾前に限る行であり、法華経においては往生の行ではない。法華経によって開会されて後、初めて仏因となることができる。南無妙法蓮華経と唱える行は四十余年の爾前には関係がない。ただ法華八年に限る。南無阿弥陀仏によって開会される法ではない。法華経は一切のものを開会する能開であり、念仏は開会される所開である。法華経の行者は一期の間、南無阿弥陀仏と称えなくても、南無阿弥陀仏、並びに十方の諸仏の功徳を備えているのである。たとえば、如意宝珠が金銀等の財を備えているようなものである。念仏は一期生の間称えても、法華経の功徳を具備することはできない。たとえば金銀等が如意宝珠を具えていないようなものである。たとえば、三千大千世界に金銀等の財を積み上げても一つの如意宝珠にすら替えることができないのと同じである。たとい、法華経で開会された念仏であっても、なお体内の権であり、体内の実には及ばない。ましてや、当世、法華経で開会された念仏を心得ている智者は少ない。たとい心得ている人がいたとしても、その弟子、眷属、所従等はどうであろうか。愚者は、智者が念仏を称えるのを見て、念仏者とみるであろう。法華経の行者とはよもや思うまい。それに対し、南無妙法蓮華経と唱える人を、いかなる愚者でも、法華経の行者だというであろう。当世において、父母を殺す人よりも、また謀反を起こす人よりも天台・真言の学者といわれて、善導の往生礼讃を読んだり、法然の称名念仏を囀る人々こそ恐れるべきである。 -----― 1276 01 この文を止観 よみあげさせ給いて 後ふみのざの人にひろめてわたらせ給うべし、 止観よみあげさせ給はばすみ 02 やかに御わたり候へ。 -----― この文を、摩訶止観を読み合った後に、同席の人に被露しなさい。止観を読んだら、速やかにお帰りなさい。 |
四十余年
釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
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法華八箇年
法華経は、釈尊一代50年説法中、最も勝れた経典であり、成道して42年後、無量義経のあと、8年にわたって説かれた。
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法華経は能開
能開は能く開会する立場のこと。法華経は一切経を開会することができるのでこのようにいう。
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念仏は所開
所開は開会されるもののこと。爾前の諸経は法華経によって開会されるゆえに、爾前の諸経は所開・法華経は能開になる。
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一期
一生。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物等、種々無量の宝を取り出すことのできるという宝珠。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭魚の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。しかして兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈して「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747)と仰せであり、すなわち末法の如意宝珠とは御本尊のことと明かされる。
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三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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体内の権
仏の証得した実相・真如の内にある権教のこと。
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体内の実
仏の悟りの体内にある実教のこと。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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善公
善導のこと。
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礼讃
往生礼讃のこと。中国浄土教の祖・善導の著。一巻。「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈」の略。西方浄土への往生の行法を定め、日常六時に行うべき勤行の作法を述べたもの。浄土宗の教義に基づき、大無量寿経や竜樹、天親などの礼讃偈を毎日、日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、午時の六時に唱えて、阿弥陀仏を礼拝し、極楽往生を願う行儀作法が説かれている。
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然公
法然のこと。
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先に、叡山天台の念仏行が爾前の円と法華の円とを同一とする邪義に起因していることと、日本国が法華一仏乗の弘通する国であるという国土論から、これを破折されたのであるが、ここでは、更に一重立ち入って、法華経の開会の原理によって、法華経によって開会した立場であっても、それが無智の大衆に及ぼす影響を指摘して、念仏を称えることの非を明かされている。また、三位房に対し、止観の講読会が終了した後で、出席した人々に本抄の内容を発表し、大聖人の元意を伝えるよう命じられている。
法華経は能開・念仏は所開なり
仏の悟りの全体を明かしたのが法華経であるのに対し、阿弥陀経等の爾前経は、部分的真理を説いているにすぎない。したがって、法華経がよく開会する主体であるのに対して、念仏、つまり、阿弥陀仏のことを説く阿弥陀経や無量寿経などはどこまでも開会される客体である。
そして、この能開と所開の関係は絶対に不変であると仰せられている。すなわち、南無妙法蓮華経は絶対に「南無阿弥陀仏に開会」されることはないのである。
それはちょうど、如意宝珠と金銀等の財の関係にたとえることができると仰せられている。
南無阿弥陀仏の念仏及び諸経に説く十方の諸仏の功徳が金銀等の財に相当し、南無妙法蓮華経の法華経の功徳が如意宝珠にたとえられている。如意宝珠は、意の如く思いのままにあらゆる宝を取り出せる珠であるから、当然、この珠の中に金銀等の財を兼ね備えていることになる。しかし、逆に、金銀等の財は如意宝珠を兼ねることができない。したがって如意宝珠一つあればよいのである。
同様に、法華経の行者は、生涯、南無阿弥陀仏と称えなくとも、南無妙法蓮華経と唱えるならば、それだけで南無阿弥陀仏及び十方諸仏の功徳を備えていることになるのである。
同じことを唱法華題目抄には「今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし」(0013-12)と仰せられている。
設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず
当時の天台真言宗の学者達は「開会の後・仏因となるべし」ということから、法華経によって開会された念仏と悟って唱えるならば問題はない、と考えていた。この見解が当時の諸宗を支配していたことは如説修行抄の次の一節からも明らかである。
「当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云、予が云く然らず」(0502-10)と。
これは開会の原理への曲解から生じた謬見であった。
日蓮大聖人はそのような謬見を正し、開会の原理の本当の意味を明らかにされている。
すなわち、たとえ、法華経によって開会された念仏であっても、やはり、体内における権にほかならず、体内の実には及ばない、と断言されている。
すなわち、体内に会入されても、やはり権と実の間の価値順序が存するということである。当時の諸宗の誤りは、ひとえにこの点を理解できなかったことに由来するのである。
諸宗問答抄には、次のように仰せである。
「開会の後も麤教とて嫌い捨てし悪法をば名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて交ゆべからずと見えて候・弘決に云く『相待絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや』云云、文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし円に著する尚悪し況や復余の法をやと云う文なり、円と云うは満足の義なり余と云うは闕減の義なり、円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと嫌ふ、況や復十界平等に成仏せざるの悪法の闕(かけ)たるを以て執著をなして朝夕・受持・読誦・解説・書写せんをや、設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも爾前の円は法華の一味となる事無し、法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり」(0377-17)と。
部品は全体のなかに正しく組み込まれて初めて生きる。しかし、組み込まれて後も部品はどこまでも部品である。それと同じく爾前の諸経が麤法であること自体は開会の後もなんら変わらないのである。
ただ妙法たる法華経からの位置づけ、意味づけが変わるのである。
妙法と比較相待して、爾前の諸経は麤法であると否定、排斥するのが体外(相待妙)であるのに対し、麤法である爾前諸経を、妙法の卓越性、絶対性を証明する不可欠の契機として開会し、位置づけるのが体内(絶待妙)なのである。したがって、前述したように、法華経の妙法が開会する側(能開)であって、爾前諸経はあくまで開会される側(所開)であることは変わらないとともに、爾前諸経が麤法(部分観)たることも不変なのである。
それゆえに「設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも爾前の円は法華の一味となる事無し、法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり」と仰せられているのである。
法華経、妙法が実、爾前諸経、麤法が権、との勝劣は変わらないが、法華経・妙法からの位置づけは変わるので、この相違を体内の権(絶待妙)、体外の権(相待妙)、と立て分けるのである。
ところが、叡山天台の学僧達や諸宗の人々は、この絶待妙の開会の本義を取り違えて、開会されてしまえば、爾前の諸経はそのまま法華経であるととらえていたのである。
結局、ことごとく南無妙法蓮華経に収まってしまうのであり、念仏や真言、禅を修行する意味はないのである。
ましてや、天台真言等の学僧のなかには、自分は開会の立場で念仏を称えているのだといっている人々がいるが、仮に万が一、正しく開会の意義を心得ていたとしても、周りの人々には大きな誤解を起こさせ、法華誹謗の法然等の念仏に陥らせることになるので、これこそ、無間地獄へ引きずり込む悪知識になってしまうことを恐れなければならないと仰せられているのである。
1276:03~1276:07第六章訴訟について報告されるtop
| 03 沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば事切れん事かたしと存じて候いしが 人ごとに問注は法門にはにず 04 いみじうしたりと申し候なるときに事切るべしともをぼへ候はず、 少弼殿より平三郎左衛門のもとに・ わたりて 05 候とぞうけ給わり候、この事のび候わば問注はよきと御心得候へ、 又いつにても・よも切れぬ事は候はじ、又切れ 06 ずば日蓮が道理とこそ人人は・をもい候はんずらめ、 くるしく候はず候、当時はことに天台・真言等の人人の多く 07 来て候なり、事多き故に留め候い了んぬ。 -----― 訴訟のことは、もとより、日蓮の申し立てる道理が強ければ、落着はむずかしいと思っていたが、人々が「問注は法門には似ず、よく訴訟沙汰にした」といっているようでは、よけいに落着するとは思われない。(訴訟は)少弼殿より平三郎左衛門の所に回っていると聞き及んでいる。このたびの訴訟は時日が延びたら良いほへ向かっていると思いなさい。また、いつかは落着する時がくるし、落着しないときは、日蓮の申し立てが道理であると人々は思うから、延びても心配はない。 作今、とくに天台・真言の人々が多く訪ねてきている。何かと多忙であるから、これで筆を置く。 |
問注
「問うて注す」の意。原告と被告とを取り調べて、両者の言い分を注すこと。また、訴訟の対決、裁判をいう。
―――
少弼殿
北条業時(1241~1287)のこと。重時の子。少弼とは弾正少弼のことで、律令制で定められた警察業務を司る弾正台の次官で、大弼の下位者。業時は正元元年(1259)に従五位下、弾正少弼に補任され、弘安6年(1283)に連署となるが、晩年は出家し、鑒忍と称した。
―――
平三郎左衛門
平左衛門尉頼綱(~1293)のこと。平盛時の子。執権北条氏の内管領(家司)。北条時宗、貞時の2代に仕え、鎌倉幕府の政治上の実力者として権勢をふるった。
―――――――――
本章は、追申にあたり、鎌倉での訴訟の働きにつき報告されたところである。
本抄全体の内容とは直接関係なく、また、ここでの訴訟がいかなる事件のものであるかについては不明である。
1276~1283 教行証御書top
1276:01~1277:04第一章三時の教・行・証を明かすtop
| 教行証御書 文永十二年三月 五十四歳御作 与三位房日進 於身延 01 夫れ正像二千年に小乗権大乗を持依して其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り、 然りと雖も彼れ彼れの 02 経経を修行せし人人は 自依の経経にして益を得ると思へども法華経を以て其の意を探れば一分の益なし、 所以は 03 何ん仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否に依り 円機純熟の者は在世にして仏に成れり、 根機微劣の 04 者は正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し、 され 05 ば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、 像法には教行のみ有つて証無し、 今末法に入りては教のみ有つて行証無 06 く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、 此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に 初めて本門の肝心寿量 07 品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す 「是の好き良薬を今留めて此に在く 汝取つて服す可し差えじと憂る勿れ」 08 とは是なり、 乃往過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・ 不軽菩薩出現して教主説き置き給い 1277 01 し二十四字を一切衆生に向つて唱えしめしがごとし、 彼の二十四字を聞きし者は 一人も無く亦不軽大士に値つて 02 益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、 今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随 03 喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、 得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全 04 体是れ同じかるべし。 ―――――― 正像二千年の間には小乗経や権大乗経を持って、一心に修行すれば一往その証果があった。しかし、それらの経教を修行した人々は自分の持った経によって証果を得たと思っているが、法華経からみるならば、一分の利益もないことが分かる。 その理由は、釈尊の在世に法華経に結縁した人が、その機根の熟否によって、そのうちの円機純熟の者は、釈尊の在世に仏になったが、根機微劣の者は、正法時代に退転して、権大乗経である浄名経、思益経、観無量寿経、仁王経、般若経等を修行して証果を得たのである。それは釈尊在世に爾前経で得脱した衆生と同じである。したがって、正法一千年間は、教法と行法と証果の三つが兼備していたが、像法時代には、教法と行法はあるが証果はなくなり、今、末法に入っては教法のみがあって行法と証果がなくなってしまったのである。つまり、末法に入っては、釈尊在世の結縁の者は一人もなくなり、権教や実教によって成仏する機根は一人もなくなったのである。 この末法濁悪の時には五逆罪と謗法の者ばかりで、それらの衆生のためには、初めて本門の肝心たる如来寿量品の南無妙法蓮華経をもって成仏の下種とするのである。如来寿量品第十六に「是の良き良薬を、今留めて此に在く、汝取つて服すべし。差えじと憂うること勿れ」と説かれているのは、このことである。 それは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれているように、乃往、過去の世に威音王仏が出現し、その仏の滅後の像法の世に仏・法・僧の三宝を尊ぶ者が一人もいなかった。その時、不軽菩薩が世に出て、威音王仏が説かれた「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」の二十四文字を一切衆生に向かって唱えたようなものである。かの二十四文字を聞いた者は、一人も漏れなく不軽菩薩に会って成仏したのである。これは、前に聞いた二十四文字の法華経が成仏の種となったからである。今の末法もまた同じである。不軽菩薩は像法、日蓮は末法である。不軽菩薩は初随喜の行者、日蓮は名字の凡夫である。不軽菩薩は二十四文字の下種、日蓮は南無妙法蓮華経の五字の下種である。得道の時節は、像法と末法と異なるが、成仏の原理においては同じである。 |
正像二千年
仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
―――
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
―――
功
福利を招く効能。
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益
利益のこと。仏の教え・正法に従い行動することによって恩恵・救済。功徳のこと。
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法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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結縁
仏法に縁を結ぶこと。成仏・得道の縁を結ぶこと。
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機
説法を受ける所化の衆生の機根。
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円機
円教の機根のこと。円教である法華経を受持できる衆生の機根のこと。
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浄名
維摩経のこと。聖徳太子が法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。
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思益
正式には「思益梵天所問経」という。方等部に属し、羅什訳の4巻である。迦蘭陀竹林で東方の思益梵天等を集めて説かれた。授記の意義、六波羅蜜の授記などを説いている。二乗を弾呵し菩薩の行法が明かされている。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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仁王
仁王経のこと。鳩摩羅什訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」二巻八品と、不空訳の「仁王護国般若波羅蜜多経」二巻がある。五時八教のうち般若部の結経であり、わが国では法華経、金光明経と合わせて護国三部経と称され、鎮護国家の経とされた。内容は、正法が滅して思想が乱れる時に正法誹謗の悪業によって起こる七難を示し、この難を逃れる行法として五忍を説いている。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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証果
仏の悟りのこと。
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教行証
教行証とは教法と行法と証法のことで、三法ともいう。教とは仏の説いた教法をいい、行とは教法によって立てられた修行法をいい、証とは教・行によって証得される果徳をいう。
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権実の二機
釈尊の仏法に結縁して利益を得る衆生のこと。権機と実機をいう。権機は権教に相応した機根の人をいい、実機は実教に相応した人をいう。
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逆謗
五逆罪と誹謗正法のこと。
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本門
仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
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寿量品
如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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下種
「種を下ろす」と読み下す。仏が衆生を成仏に導くさまを植物の種まき・育成・収穫に譬えた、種熟脱の三益のうち最初の種。成仏の根本法である仏種を説いて、人々に信じさせること。仏が衆生に仏種を下ろすという利益を「下種益」という。釈尊が生涯にわたって説き残した膨大な諸経典には、仏種が明かされていない。唯一、法華経本門の如来寿量品第16で「我本行菩薩道(私は久遠の昔から菩薩道を実践してきた)」(法華経482㌻)と述べて、釈尊自身が凡夫であった時に菩薩道を実践したことが、自身の成仏の根本原因であったと示しているだけである。日蓮大聖人は、寿量品の文の底意として示された仏種を覚知し拾い出して、それが南無妙法蓮華経であると説き示され、南無妙法蓮華経を説き広めて末法の人々に下種する道を開かれた。それ故、大聖人は下種の教主であり、末法の御本仏として尊崇される。
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威音王仏
不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。
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三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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二十四字
不軽菩薩の説いた二十四文字の法華経のこと。「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏(我深く汝等を敬う 敢えて軽慢せず 所以は何ん 汝等皆菩薩の道を行じて 当に作仏することを得べし)」とある。
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不軽大士
不軽菩薩のこと。大士は大菩提心を起こした人で菩薩のこと。
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聞法
仏の法をきくこと。
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初随喜の行者
滅後の法華経修行の位を五つに分けたうちの第一で、法を聞いて歓喜の心を起こす初信の位のこと。法華経分別功徳品第十七の「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」の文に基づいて、天台大師が法華文句巻十上に述べている。 悪口を言わないで随喜の心を起こす人のこと。
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名字
①呼び名・名称・題名。②天台大師が摩訶止観巻1で立てた六即位の第二。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
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得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
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本抄の御述作は、「三月二十一日」とあるのみで、年代は明らかでない。文永12年(1275)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等の諸説がある。
本抄は三位房の質問に答えられて、諸宗との問答の際の心構え、破折の仕方などが詳細に述べられており、しかも「但し公場ならば然るべし私に問注すべからず」「公場にして理運の法門申し候へばとて……」等の御文から、公場対決に備えて三位房を指導されたものと考えられる。そして、文永12年(1275)から建治2年(1276)ごろにかけて真言宗等と公場対決が行われるとの風評があったことから、文永12年(1275)と推定されている。
弘安元年説の根拠としては、弘安元年(1278)3月21日の諸人御返事には「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り……将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(1284-02)と述べられており、当時、日蓮大聖人の門下と真言・禅等の諸宗との公場対決の動きがあったことがうかがえる。諸人御返事の弘安元年(1278)3月21日という日付と、公場対決が近いという背景が符合することから、この時に三位房に与えられたのが本抄であろうと推定されているのである。
ただし、このように、日付と背景は符合しているが、弘安元年三月には、鎌倉から急使が駈け付けており、公場対決が眼前に迫っていたように思える。それに対して教行証御書の内容は、それほど緊迫した記述のようには感じられない。したがって、これだけでは弘安元年の御述作とは断定できないように思える。
一方、建治三年説は、建治3年(1277)6月9日に三位房日行が鎌倉・桑ヶ谷で天台僧の竜象房を破折した桑ヶ谷問答が行われており、本抄はその準備のために三位房が大聖人に質問したことに対する御返事ではないかという説である。
また本抄は「与三位房書」「報日進書」とも呼ばれており、三位房日進へ与えられた書とする説も古くからある。しかしながら、三位房日進とは、日興上人が身延を離山された後、波木井家の菩提寺にすぎなくなった身延に住していた日向の跡を継ぎ、身延山第三世と称した人物で、文永8年(1271)に生まれたとされており、当時はまだ幼年だった。日進が三位房大進阿闍梨と称したところから、後世に三位房日行としばしば混同されたようである。
さて、本抄の内容を概説すると、前半では、正法・像法・末法の三時における教・行・証について述べられ、正法には教・行・証がともにそなわり、像法には教・行はあっても証はなく、末法には教のみあって行・証はないことが明かされている。これは小乗教についてみた場合である。大乗教についてみた場合には、像法時代が教行証をそなえ、末法には教行のみで証がなくなる、と顕仏未来記に述べられている。
そして、末法には法華経本門寿量品文底の南無妙法蓮華経をもって下種し、救うべきことが述べられている。
後半では、真言・念仏・律等の諸宗と法論をするにあたっての破折の方法や要点、態度や心構えなどが教示されている。三位房からの質問に答えて真言・念仏の教義の誤りを指摘され、次に律宗の良観を破折されている。
最後に、法華経本門の肝心・妙法蓮華経の功徳の広大なことを明かされ、この大法が末法に広宣流布することを予言されている。そして、三位房が大聖人に代わって法論するよう指示されている。
本抄の初めに、正像末の三時における教・行・証について述べられている。
正像二千年の間では、小乗教・権大乗教によって修行しても利益がある。しかし、それはそれらの経々自体に利益があるのではなく、釈尊在世に法華経に結縁した衆生が、正法・像法時代に生まれて、小乗・権大乗を縁にして証果を得るのである。
すなわち、小乗や権大乗教は在世の法華経の下種を思い出し顕現させるための縁にすぎないのである。しかるに、その正意を知らないで、正法・像法時の小乗や権大乗自体に利益があると思い込んで宗派を立てて法華経に敵対しているのが真言、念仏等の諸宗であり、これらは一分の利益もないのみならず、法華経に敵対しているゆえに大謗法となってしまっているのである。
教行証について
教行証とは教法と行法と証法のことで、三法ともいう。十地経論巻三に「経に曰く、又、大願を発す。所謂一切の諸仏の説きたもう所の法輪を皆悉く受持するが故に、一切の仏の菩提を摂受するが故に、一切の諸仏の教化したもう所の法を皆悉く守護するが故に、広大なること法界の如く、究竟なること虚空の如く、未来際を尽くし、一切の劫数、一切の仏の成道の数を尽くして、正法を摂護して休息あること無けん。論に曰く、第二の大願に三種の法あり。『一切の諸仏の説きたもう所の法輪を皆悉く受持す』とは、所謂修多羅等を書写し、供養し、読誦し、受持し、他の為に演説するが故なり。『一切の仏の菩提を摂受す』とは、所謂法を証するなり。三種の仏の菩提の法を証す、此の証法を摂受して教化し転受するが故なり。『一切の諸仏の教化したもう所の法を皆悉く守護す』とは、所謂行法を修するなり。修行の時に於いて諸の障難あるを摂護し救済するが故なり」とあり、法華玄義巻五には「乗に三種あり、教・行・証を謂う」とある。
すなわち、教とは仏の説いた教法をいい、行とは教法によって立てられた修行法をいい、証とは教・行によって証得される果徳をいうのである。つまり、いかなる教法を受持して、いかなる修行に励めば、いかなる証果・悟りを得ることができるかを示したものといえよう。
法華玄義巻二下には「或は教行証、融ぜざる者を麤と為し、教融じて行証未だ融ぜざるも亦た麤なり、俱に融ずる者は則ち妙なり」とあり、教行証の具わる法こそ妙法であると判じている。
また、仏の教法は衆生の機根に相応して説かれたものなので、ある機根の衆生には行証を具えていても、別の機根の衆生には行証を伴うとはかぎらないのである。
慈恩の大乗法苑義林章巻六には「仏滅度の後、法に三時有り。謂く正・像・末なり。教・行・証の三を具するを名づけて正法となす。但だ教・行あるを名づけて像法となす。教のみあって余無きを名づけて末法となす」とあり、良賁の仁王経疏巻三下には「教あり行あり得果証あるを名づけて正法となし、教あり行あり果徳なきを名づけて像法となし、唯其の教のみありて行なく証なきを名づけて末法となす」とあって、教行証が具わるかどうかによって、正・像・末の三時を定義しているのである。
しかし、それらは小乗教に約した説であり、権大乗教についていえば、像法にも証果があり、末法に入ると教行のみとなって証はなくなるのである。
大聖人は、本抄および顕仏未来記において、正法・像法における小乗・権大乗の諸経を修行して得られる利益は、釈尊在世に法華経に結縁した衆生が、正法においては小乗の教行を縁とし、像法にあっては権大乗の教法を縁として証果を得たものであることを明かされている。
そして「今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」と仰せになって、末法には釈尊の仏法はすべて教のみあって行証はなくなり、法華経本門寿量品文底の南無妙法蓮華経のみが、末法の衆生を救いうる正法であることを示されている。
釈尊滅後、正像二千年の間は、釈尊在世に法華経によって下種された者が、小乗・権大乗を縁として、熟益・脱益を得ることができたのであるが、末法には釈尊在世に結縁した衆生はいなくなり、小乗・権大乗はもとより、実教たる法華経によっても利益を得ることはできないのである。
すなわち、末法は釈尊の仏法に結縁のない本未有善の衆生が生まれる時なのである。したがって、不軽菩薩が逆縁をもって衆生を救ったように日蓮大聖人が出現されて、妙法蓮華経を下種されるのである。この下種の妙法を素直に修行するものは仏因仏果を同時に得るので、即身成仏の大利益を得られるのである。また誹謗し信じない者も、妙法を聞く縁によって仏種が植えられて、未来に必ず成仏できる。これを逆縁とも毒鼓の縁ともいう。このように、末法下種の妙法には、教・行・証がともに具わるのである。
日蓮大聖人の仏法における教・行・証について、日寛上人は当体義抄文段に「相伝に云く、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。所謂開目抄には、一代諸経の浅深・勝劣を判ずる故なり。此に五段の教相あり……観心本尊抄は行の重とは、これ則ち彼の抄に受持即観心の義を明かす故なり……当抄は証の重とは、下の文に云く『然るに日蓮が一門は(乃至)当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり』等云云」と述べられ、開目抄、観心本尊抄、当体義抄に、大聖人の仏法における教・行・証が明かされていることを示されている。
開目抄では、一代聖教の勝劣・浅深を五重に相対して、末法に弘通すべき教法が「但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめた」(0189-02)秘法であり、文底下種事行の一念三千であることが明かされているので「教の重」となる。
観心本尊抄では、末法の修行について「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と述べられ、御本尊を信受し唱題する受持即観心の一行に限ることを明かされているので「行の重」となる。
当体義抄では、末法の証果について「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり……本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-10)と述べられ、御本尊を信じて大聖人の教えのままに励む人は、当体蓮華を証得して即身成仏できることが明かされているので「証の重」となる。
すなわち、大聖人の仏法においては、教とは寿量文底下種の南無妙法蓮華経であり、行とは御本尊を受持して自行化他の信行に励むことであり、証とは即身成仏の大利益をいうのである。
そして、大聖人が末法に出現されて教行証の具わった妙法をもって一切衆生に下種されるとの文証として、法華経如来寿量品第十六の「是好良薬、今留在此。汝可取服。勿憂不差」の文が挙げられている。
この経文の深義について、御義口伝には「是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり取は法華経を受持する時の儀式なり、服するとは唱え奉る事なり」(0756-第十是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事)と述べられており、観心本尊抄には「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(0251-09)と仰せである。
釈尊が法華経寿量品の文底に秘沈された下種の妙法を、日蓮大聖人が取り出されて南無妙法蓮華経の御本尊として顕され、日本国に留め置かれたのであり、末法の一切衆生はそれを信受して題目を唱えれば、いかなる苦悩も解決しないことはないとの意なのである。
乃往過去の威音王仏の像法に……是れ同じかるべし
次に大聖人は、末法が下種益であることを、威音王仏の像法の時に出現して二十四文字の法華経を弘通した不軽菩薩の例を引いて明かされている。
顕仏未来記にも「此の時に当つて……此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507-13)と同じ趣旨が述べられている。なお、この御文で「此の時」とは末法、「此の人」とは法華経の行者をさす。
不軽菩薩とは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩の略称で、釈尊の過去世の姿とされている。
威音王仏の像法の末に、悪口罵詈、杖木瓦石等の迫害を加えた衆生に対して「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱えて礼拝を行じたので、不軽菩薩といわれた。迫害を加えた四衆は地獄に堕ちたが、逆縁によって再び不軽菩薩すなわち釈迦仏のもとに生まれてその教化にあい、成仏できたと説かれている。
釈尊はこの常不軽菩薩の修行をとおして、折伏の方軌と逆縁の功徳を説いているのである。大聖人は寺泊御書に「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0953-18)と仰せになって、不軽菩薩を末法における御自身の弘教の方軌の例証とされている。
本抄では、不軽菩薩が二十四文字の法華経を衆生に聞かせることによって下種を下し(聞法下種)、誹謗した衆生も救ったように、末法の現在も下種益であることを示されている。
大聖人が不軽菩薩をその先例として用いられるのは、①ともに法華経の行者であること、 ②ともに弘教の方軌が折伏であること、③ともに所化の衆生が逆縁の機であること、が挙げられる。
①については、不軽菩薩は二十四文字の法華経を弘めて悪口罵詈、杖木瓦石の難にあっているのに対して、日蓮大聖人は妙法五字を弘めて、悪口罵詈、杖木瓦石の難はもとより、法華経勧持品で説かれた刀杖の難(小松原法難・竜の口法難)と数数見擯出の難(伊豆・佐渡の流罪)を受けられている。そのため大聖人は聖人知三世事に「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974-09)と述べられているのである。
②については、開目抄に「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235-10)と述べられている。
③については、教機時国抄に「謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し」(0438-12)と述べられ、御義口伝には「不軽菩薩を軽賎するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賎せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766-第十三常不値仏不聞法不見僧の事)と述べられている。
本抄では、不軽菩薩は威音王仏の像法に出現し、大聖人は釈迦仏の末法に御出現であり、不軽菩薩は初随喜の行者で、大聖人は名字の凡夫であり、不軽菩薩は二十四文字の法華経を弘め、大聖人は妙法五字を弘教された等の違いがあっても、その弘教の方軌と下種益という点は同じであると述べられている。
ただし、不軽菩薩は釈尊の過去世の修行の姿であり、日蓮大聖人は久遠元初の自受用身即末法の御本仏である点が、根本的に異なっているのである。
1277:05~1278:04第二章妙法が末法万年に流布するを示すtop
| 05 問うて云く上に挙ぐる所の正像末法の教行証各別なり・ 何ぞ妙楽大師は「末法の初冥利無きにあらず且く大教 06 の流行すべき時に拠る」 と釈し給うや如何、 答えて云く得意に云く正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁 07 の熟せる故に、 今末法には初めて下種す冥益なるべし已に小乗・権大乗・爾前・迹門の教行証に似るべくもなし現 08 に証果の者之無し、妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。 ----― 問うていうには、上に挙げたところの正像末の三時における教法と行法と証果との関係はそれぞれ別である。妙楽大師は法華文句記で「末法の初、冥利無きに非ず。且く大教の流行すべき時に拠る」と釈されているのはどういうわけであろうか。 答えていうには、正法や像法の時代に成仏した人々は、いずれも釈尊在世に成仏の因縁を結んで、それが調養したから顕益となったのである。今、末法に入って、初めて下種をするのであるから、冥益となるのである。この法華経本門の教行証は小乗、権大乗等の爾前・迹門の教行証とは全く異なるのである。それゆえ今の世に証果の者がいないのである。まさに、妙楽大師の釈によるなら、冥益であるからこそ人々はこれを知らないのであり、成仏の人を見ないのである。 -----― 09 問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや、 答えて云く法華経第七薬王品に云く「此の経は則ち為閻浮 10 提の人の病の良薬なり 若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」等云云、 妙楽 11 大師云く「然も後の五百は 且く一往に従う末法の初冥利無きにあらず 且く大教の流行す可き時に拠るが故に五百 12 と云う」等云云。 -----― 問うていうには、末法に限って冥益であるという経文があるのであろうか。 答えていうには、法華経巻七の薬王菩薩本事品第二十三には「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」と説かれている。また、妙楽大師も法華文句記で「然も、後の五百は且く一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。且く大教の流行す可き時に拠るが故に五百と云う」と釈しているのである。 -----― 13 問うて云く汝が引く所の経文釈は末法の初五百に限ると聞きたり 権大乗経等の修行の時節は尚末法万年と云へ 14 り如何、 答えて曰く前釈已に且従一往と云へり再往は末法万年の流行なるべし、 天台大師上の経文を釈して云く 15 「但当時大利益を獲るのみに非ず 後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、 是れ末法万年を指せる経釈に非ずや、 16 法華経第六分別功徳品に云く 「悪世末法の時能く是の経を持てる者」と安楽行品に云く 末法の中に於て是の経を 17 説かんと欲す等云云此等は皆末法万年と云う経文なり、 彼れ彼れの経経の説は四十余年未顕真実なり 或は結集者 18 の意に拠るか依用し難し、 拙いかな諸宗の学者法華経の下種を忘れ 三五塵点の昔を知らず純円の妙経を捨てて亦 1278 01 生死の苦海に沈まん事よ、 円機純熟の国に生を受けて徒に無間大城に還らんこと不便とも申す許り無し、 崑崙山 02 に入りし者の一の玉をも取らずして貧国に帰り・ 栴檀林に入つて瞻蔔を蹈まずして 瓦礫の本国に帰る者に異なら 03 ず、 第三の巻に云く「飢国より来りて忽ち大王の膳に遇うが如し」第六に云く 「我が此の土は安穏○我が浄土は 04 毀れず」等云云。 -----― 問うていうには、汝が引用する所の経文・教釈では、法華経の広まるのは「末法の初め五百年に限る」とされているが、権大乗経等の修行の時でさえ、末法万年という者があるが、法華経の利益が末法の初めに限るというのはどういうことなのであろうか。 答えていうには、妙楽大師も前の釈で「且く一往に従う」と言っているが、再往は末法万年の流行なのである。それゆえ、天台大師も上の経文を釈して法華文句に「但当時大利益を獲るのみにあらず、後の五百歳遠く妙道に沾わん」と言っている。これは末法万年をさす経・釈ではないか。法華経巻六の分別功徳品第十七には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」とあり、また、法華経巻五の安楽行品第十四には「末法の中に於いて、是の経を説かんと欲す」と説かれている。これらは、法華経が末法万年に広まるという経文である。前に挙げた浄名経・思益経・観無量寿経・仁王経・般若経等の経教の説は「四十余年・未顕真実」なのであって、それらの経教に「末法万年」とあっても、それは経典の結集者の意で記されたのであって、依用すべきではない。 拙(つたな)いかな、諸宗の学者、三千塵点劫・五百塵点劫の結縁を知らずして法華経の下種を忘れ、純円の妙経を捨てて、また生死の苦海に沈まんことを。円機純熟の日本国に生を受けて、いたずらに無間大城に還るであろうことは、かわいそうでならない。それはあたかも崑崙山に入って一つの宝玉も取らずに貧国に帰り、栴檀の林に入りながら香気の高い瞻蔔を踏破せずに、瓦礫の本国に帰る者と同じである。法華経受持の喜びを法華経巻三の授記品第六には「飢えたる国より来って、忽ちに大王の膳に遇うようなものである」と説かれ、また第六の巻の如来寿量品第十六には「我が此の土は安穏にして……我が浄土は毀れず」と説かれている。 |
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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冥利
冥伏している利益。
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流行
流布すること。広く世の中に行きわたること。
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顕益
はっきりと顕れる利益のこと。
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冥益
気づかないうちに受ける利益のこと。
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爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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迹門
本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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薬王品
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。
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閻浮提
一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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末法万年
末法は三時のひとつ。仏の教えはあっても、三毒強盛の衆生が充満し証果がなくなり、釈尊の教えでは救済できない時代。年限についての万年は、中観論疏巻1末等による。
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一往
ひととおり、そのままの見方。
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再往
一重、立ち入った観察・見極め方。
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天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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後の五百歳
法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。
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分別功徳品
妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。
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安楽行品
法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
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四十余年未顕真実
「四十余年には末だ真実を顕さず」と読む。無量行説法品の文である。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。
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結集者
仏典結集に携わった人々。釈尊滅後諸弟子が集まり、釈尊の教法を合誦、個々の異同をただして、経律を収集したこと。四回行われている。①釈尊入滅の年に阿闍世王の外護のもと摩竭提国王舎城付近の畢婆羅屈で行われた。摩訶迦葉を中心に、阿難は経蔵・憂波離は律蔵・迦葉は論蔵を誦し、500人の弟子によってなされた。②仏滅後100年ごろ、毘舎城で耶舎陀を中心に700人の賢聖が集まって三蔵の結集が行われた。③仏滅後200年ごろ、阿育王の外護のもとに、華氏城鶏園寺、目犍連帝須を中心に1000人の賢聖を集め、仏教教義の混濁を正すことを目的として行われた。このとき、経律論の完成がなされた。④仏滅後300年ごろ、迦弐志迦王の外護のもとに500人の阿羅漢が迦弐志迦城において世友を上首として行われた。このとき経律論の三蔵の釈論が完成している。ただしこれらの結集の年代等については、異説もある。
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三五塵点の昔
法華経に説かれる三千塵点劫と五百塵点劫の昔の下種のこと。三千塵点劫とは、法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」とある文を意味する語。釈尊在世から三千塵点劫という膨大な時間をさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって法華経を説いた。その仏の滅後、仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。また五百塵点劫とは、法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊は五百塵点劫という遠い昔に成道し、法華経を下種したことをさす。
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生死の苦海
生死とは生老病死のこと、苦しみと訳す。また生死生死と旋火輪のように永遠に伝わっていく生命の実体を説く場合もあり、迷いと訳す場合や、生と死を意味することもある。生死の海とは生死の苦海ともいい、生死流転の苦しみがいかに深いものであるかを海にたとえていう。
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無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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崑崙山
古くから神秘的な山として伝えられ、黄河の源、あるいは西王母の住居などといわれる。玉石を多く産出する山とされる。
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栴檀
インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
瞻蔔
梵語チャンパカ(champaca)の音写。「せんふく」「せんぶく」「せんぶ」とも読む。インドに産する香花樹の名。黃花樹、金色花樹ともいう。樹は高大で、葉の長さは約20㌢もあり、花は金色でその香気は遠くまで薫るという。樹皮、葉および花から薬料、香料を採取する。
―――
瓦礫
瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
―――
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――――――――
前章で明らかにされたように、正・像・末の三時において教・行・証は移り変わり、末法には教のみあって行・証はないとしたのに対して、妙楽大師の法華文句記には、末法には大教が流行して妙理があるといっているのは、どういうことか、との疑問を出している。
この疑問に対して、正法・像法時代に釈尊の仏法によって利益を得たのは、釈尊在世に法華経に結縁した人々であり、熟・脱の利益なので顕益だったが、末法では初めて下種されるので、その利益は妙益であると答えられている。
種・熟・脱の三益のうち、熟益・脱益が顕益とは、熟益・脱益は過去に植えられた仏種が養育されて熟し(熟益)、ついに成仏の境界に至る(脱益)のであるから、その利益は明らかに顕れるのである。
それに対して、下種とは仏になる種子を衆生の心田に植えるので、その利益が直ちに現れることがないのは当然であろう。しかし、大聖人の仏法に顕益がないわけではなく、初信の時、生死に関する時、他宗と正邪を争う勝負の時などは、顕益が現れるのである。
しかも、当体義抄に「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(0513-05)と述べられ、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せのように、御本尊を受持して信行に励むことによって、即身成仏の大利益を得ることができる。
問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや……
次に、この冥益の仏法は末法に限るとの経文はあるのか、との問いを設けて、法華経の薬王菩薩本事品第二十三の文と、妙楽大師の法華文句記の文を挙げられている。
薬王品には、引用された文の前に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ。宿王華よ。汝は当に神通の力を以て、是の経を守護すべし。所以は何ん」とある。すなわち、第五の五百歳である末法の始めに、法華経が広宣流布して、一閻浮提の人々の良薬となるであろうと釈尊が明言しているのである。
薬王品の「後の五百歳」とは、大集経に説かれている五箇の五百歳、すなわち正法時代の解脱堅固・禅定堅固の各五百歳と、像法時代の読誦多聞堅固・多造搭寺堅固の各五百歳と、「我が法の中において闘諍言訟し白法隠没せん」と説かれた末法の始めの五百歳のうち、第五の五百歳をさしているのである。
しかし、大集経では第五の五百歳は白法隠没と説いているのに、薬王品ではその時に広宣流布するとしているのは、釈尊の自語相違ではないかとの疑いが生まれる。
それに対して日寛上人は、薬王品談義の中で「彼の経の意は権教当分の白法・末法に入て隠没することを明かすなり、今経は南無妙法蓮華経の大白法広宣流布することを明かすなり」と述べられている。
妙楽大師の法華文句記の文についても、日寛上人は「文の意は大集経の五箇の五百歳は爾前権教に付いて盛衰 を記したまえる一往にして、末法にて実大妙法の利益は滅尽するにあらず、故に後五百歳中広宣流布と説き、後五百歳遠沾妙と釈せらると云う。妙楽の指南に冥利とは只在世の顕益に対するのみ」と述べられている。
このように、大聖人は薬王品や文句記の文を、末法に南無妙法蓮華経が広宣流布するとの文証とされているのである。
そのことは撰時抄に「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258-14)と明示されているとおりで、末法には釈尊の仏法の権教当分の白法が隠没して、南無妙法蓮華経の大白法が全世界に広宣流布することは疑いないのである。
問うて云く汝が引く所の経文釈は……
次に、薬王品や文句記の文に「後の五百歳の中に」「後の五百」とあることから、妙法の利益は末法の初の五百年に限るということではないのかという疑問を設けられている。
この点については、文句記に「且く一往に従う」とあるように、一往は後五百歳、再往は末法万年に流布するということである、と述べられているのである。
日寛上人は、薬王品談義で「経及び疏の文は且く妙楽大師の流行しはじまる時を指したまえり、実には来際を尽して流布すべしと云う意なり、若ししからずば無令断絶の文は如何に消ししや、宗祖云く万年の外未来までも流布すべし云云、末法妙法流布の時なる事分明なり」と述べられている。
大聖人が報恩抄に「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)と仰せのように、「後五百歳広宣流布」とは、末法の初めから、末法万年、尽未来際に至るまで南無妙法蓮華経の大法が流布するとの意なのである。
そして、天台大師が薬王品の文を釈して「当時大利益を獲るのみに非ず後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べた文を挙げられて、妙法が末法万年に流布するとの文証であるとされているのである。
「後五百歳遠沾妙道」の文がなぜ末法流布を明かす文になるのか。日寛上人は依義判文抄で次のように述べられている。
「応に知るべし、後五百歳は末法の初め、遠沾は是れ流布の義なり、妙は是れ能嘆の辞、道は即ち所歎の三大秘法なり。問う、何ぞ道の字を以て即ち三大秘法と為すや。答う、天台常に道と言うは、即三義有り。一に虚通の義、即ち本門の本尊なり……二に所践の義、即ち本門の戒檀なり……三に能通の義、即ち本門の題目なり」。
更に大聖人は、法華経分別功徳品第十七と安楽行品第十四の文を、末法万年をあらわす経文であるとされている。
分別功徳品には「悪世末法の時 能く是の経を持たば 即ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足す」とあり、安楽行品には「如来の滅後に末法の中に於いて、是の経を説かんと欲せば、応に安楽行に住すべし」とある。
ここで説かれている「末法」とは、ともに末法万年の意であるとの仰せである。それは「後五百歳」等と限定されていないからであろう。前述のように、あくまでも末法流布の始まるのが後五百歳であって、その後は万年にわたって広まりゆくのが大聖人の文底下種の仏法なのである。
そして、爾前の諸経は四十余年の未顕真実の経々にすぎない。したがってそれらの経に末法万年に流布する等と説かれていたとしても、それは経典結集者が書き加えたものであって、信用することはできないと仰せである。
拙いかな諸宗の学者法華経の下種を忘れ……
以上の結びとして大聖人は、諸宗の学者等が、末法の正法流布の時にありながら、信ぜずに誹謗して無間地獄に堕ちることを憐れまれている。
ここで、当時の諸宗の学者等を「法華経の下種を忘れ三五塵点の昔を知らず」とされているのは、権実相対の立場から、釈尊の法華経に示された妙法との結縁の深さを挙げられて、それに背いて爾前権教に執着している誤りを破折されたものと拝される。
したがって、「純円の妙経を捨てて」と述べられている妙経とは、一往は法華経をさし、再往は本抄で「本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経」と仰せの文底下種の法華経を意味しているといえよう。
「円機純熟の国」と述べられているのも、一往は法華経有縁の国である日本国をさし、再往は日寛上人が依義判文抄に「日本国は、本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」と述べられているように、御本仏日蓮大聖人が御出現になった末法広布の本国たる日本国をさしているといえる。
御本仏御出現の時に生まれ合わせながら、信ぜずに誹謗して生死の苦海に沈み、無間地獄に堕ちた大聖人御在世当時の諸宗の僧侶ほど、哀れで悲しい者はいないだろう。とくに「諸宗の学者」と仰せられているのは、三位房が対論する相手が僧だからであろう。
大聖人はそうした人々を、名玉の産地とされる崑崙山へ入りながら一つの玉も取らずに元の貧しい国へ帰るようなものであり、栴檀の林に入りながら香りの高い花の匂いもかがずに瓦礫の本国へ帰る者と同じである、と述べられている。それは、妙法の話を聞きながら信じようとせずに、苦悩に沈んでいる人々にあてはまる。
そして、その後に法華経授記品第六の「飢えたる国従り来って 忽ちに大王の膳に遇わん」の文と、同如来寿量品第十六の「我が此の土安穏」「我が浄土は毀れざる」の文を引かれ、法華経を信ずる利益の大なることを示されている。
授記品の文は、目犍連・須菩提などの声聞が仏に授記を請うた偈の一節にあたり、法華経を聞いて未来成仏の授記を得ることを、飢えた国からきた者が大王の豪華な食膳を与えられたようなものであるとしているのである。この場合の飢えた国とは、爾前経において二乗は永く成仏できないとされてきたことをさしている。
大聖人はこの文を「所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王饍たり」(0829-04)と釈されている。すなわち、末法においては、過去に謗法をしてきた者が御本尊を信受することにより、飢えた者が大王の膳にあったように満ち足りて、所願満足となり成仏できるのである。
また、寿量品の文は、仏が法華経を説く国土は常に安穏であり、毀れることはないとの意で、仏の常寿とともに国土の常住を説いている。
末法においては、当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(0512-10)と述べられているように、御本尊を受持して信行に励む者の住処こそ「安穏」であり「不毀」となるのである。
1278:05~1278:14第三章爾前経に得道ありとの義を破すtop
| 05 状に云く難問に云く爾前当分の得道等云云、涅槃経第三に「善男子応当修習」の文を立つ可し之を受けて弘決第 06 三に「所謂久遠必無大者」と会して 「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」と云つて一分の 07 益之無き事を治定して、 其の後滅後の弘経に於ても亦復是くの如く 正像の得益証果の人は在世の結縁に依るなる 08 べし等云云、 又彼が何度も爾前の得道を云はば無量義経に四十余年の経経を仏・我れと未顕真実と説き給へば・我 09 等が如き名字の凡夫は仏説に依りてこそ成仏を期すべく候へ・ 人師の言語は無用なり、 涅槃経には依法不依人と 10 説かれて大に制せられて候へばなんど立てて 未顕真実と打ち捨て打ち捨て 正直捨方便・世尊法久後なんどの経釈 11 をば秘して左右無く出すべからず。 -----― 御房から寄せられた状に「法華経以前にも当分の成仏がある」と難問してくる者があるということについては、涅槃経第三の「善男子、応当(まさ)に仏・法及び僧を修習して常想を作すべし」の文を出して答えるがよい。これについては、止観輔行弘決巻三に「久遠に必ず大無くんば、即ち小乗の行法をして成ぜざらしめん」といい、また、「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」といって、一分の利益もないことを定め、また、釈尊滅後の弘経においても同じで、正像年間に証果を得た人は釈尊在世に結縁があった人々なのであると釈している。 また、相手が何度も「爾前の得道」をいうならば、無量義経で釈尊が四十余年の経教を、仏自ら未顕真実と説かれているのを挙げ、我らのような名字の凡夫は仏説によって成仏を期すべきであって、人師の言葉は不要なのである。涅槃経には「法に依って人に依らざれ」と説かれているではないかといって、法華経以前の経は「未顕真実」と打ち捨てるがよい。法華経の「正直に方便を捨て」、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説き給うべし」等の経釈は秘しておいて、やすやすと出してはならない。 -----― 12 又難問に云く得道の所詮は爾前も法華経もこれ同じ、 其の故は観経の往生或は其の外・例の如し等云云と立つ 13 可し、 又未顕真実其の外但似仮名字等云云と、 又同時の経ありと云はば法師品の已今当の説をもつて会す可きな 14 り、玄義の三籤の三の文を出す可し、経釈能く能く料簡して秘す可し。 -----― また、「得道の究極の問題は爾前も法華経も同一である。それは観経で西方浄土に往生した者も、彼の土で成仏をするからである」等の難問に対しては、そんなことは、どこでも言っていることだと立てて、「未だ真実を顕さず」や法華経方便品第二の「但仮の名字を以って、衆生を引導したもう」の文を出すがよい。もし、観経等を法華経と同じ時に説かれた経であるというならば、法華経法師品第十の「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」の文を引いて答えるがよい。 また、法華玄義巻三の「若しは破、若しは立、皆是れ法華の意なり」、法華玄義釈籤巻三の「今以って仏教を採って法華の意を申ぶ、遍く破し遍く立ちて、教の指帰を明かす」との文を出すがよい。ただし、経釈をよくよく心得て、妄りに出してはならない。 |
当分
当位の分斉のことで、跨節に対する語。天台宗で用いた教相判釈の一つ。当分とは、その分、そのままの意で、ある限られた立場、また限定された視野でとらえた場合の意。これに対し、跨節は節を跨ぐことで、一歩深い立場のこと。天台法門においては、当分は爾前の施権、跨節は法華の開権の義を意味する。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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善男子応当修習
涅槃経巻三の文をさす。仏・法・僧の三宝の常住一体を修習することが因となって、声聞、縁覚、菩薩が得道できるとの意。法華経如来寿量品第十六では三宝一体であり本有常住であると説く。
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弘決
所謂久遠必無大者
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久遠の初業
久遠に受けた妙法蓮華経の下種のこと。
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無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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四十余年の経経
釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。
―――
人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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依法不依人
仏法を修する上では、仏の説いた経文を用い、人師・論師の言を用いてはならない、との仏の言葉。
―――
正直捨方便
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
世尊法久後
方便品の文。「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説くべし」と読む。
―――
往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
但似仮名字
法華経方便品第2の文。仏が成仏以来、40余年の間に説いた経教に成仏の言葉はあっても、それは名字のみであって実ではないということ。
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法師品の已今当の説
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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玄義
法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――
籤
妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
―――
料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
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次に大聖人は、三位房からの質問に答えて、諸宗の邪義や批判を破折されている。
その最初に、爾前の諸経にも当分の得道があるとの説に対し、爾前経で得益があった人はすべて過去に法華経を下種されて結縁していたからであると明かされている。なお、「難問に云く」とは、他宗からの問難によればの意で、当時多くあった批判を挙げられたものである。
爾前経にも当分の得道があるという問難に対しては、爾前経巻三の「善男子、応当に仏・法及び僧を修習して、常想を作すべし。是の三法には異想有ること無く、無常相無く、変異想無かれ。若し三法に於いて異想を修せば、当に知るべし、是の輩の清浄の三帰、則ち依処無く、所有の禁戒皆具足せず、終に声聞・縁覚・菩提の果を証すること能わず。若し能く不可思議に於いて常想を修せば、則ち帰処有り。善男子、譬えば樹に因りて則ち樹影有るが如し」の文を挙げて反論せよと仰せである。
この涅槃経の文は、仏法僧は一体にして本有常住であるとする常想によって証果が得られるとの意である。すなわち、法華経寿量品に説かれる仏法僧の常住を修習することが因となって、爾前の諸経における声聞、縁覚、菩薩の得道が可能になるとの意である。
大聖人は常忍抄にこの文の意について「此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり過去に寿量品を聞きし者の事なり」(0981-03)と述べられている。
この文を挙げることによって、爾前経の得道といっても法華経本門寿量品の法門の影にすぎない、と破折せよとの意と拝される。
更に、妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決に、この涅槃経の文を釈して「所謂、久遠に必ず大無くんば、即ち小乗の行法をして成ぜざらしめん、本無きを以っての故に諸行成ぜず、樹の根無くんば華果を成ぜざるが如し」とあり、久遠に妙法蓮華経が説かれていなければ今日の小乗経において成道はできないことは、本がなければ諸の修行をしても成仏できず、木に根が無ければ花も実もならないようなものである。としているのである。
弘決にはまた「今日の声聞、禁戒を具するは良に久遠の初業に常を聞くに由る。若し昔聞かずんば、小尚具せず、况や復大をや。若し全く未だ曾って大乗の常を聞かずんば、既に小果無し。誰か禁戒の具・不具を論ぜん。実の為に権を施して覆相して具を論ず。かの久遠の初業に常を聞くに及んでこの世に顕わに論じて機を得てまさに具す」と釈されている。
この文は、久遠に妙法蓮華経を聞いたことによって今日の得道があるので、その妙法蓮華経を説くために小乗経や権大乗経を施してきたのであり、久遠に妙法蓮華経を聞いていなければ、現在、爾前経によって成仏することはできない、との意である。
大聖人はその意をとって「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」とされ、この文が爾前の諸経には「一分の益之無き事を治定」していると教えられているのである。
更に、滅後の弘教においても同じで、正法・像法の間に利益を受け、証果を得た人は、釈尊在世に法華経に結縁したことによるのである、と述べられている。
すなわち、釈尊の仏法で得益した人は、在世では久遠に法華経を聞いて下種された人であり、正法・像法では在世に法華経に結縁した人に限るのである。したがって、爾前経は得益の縁になったにすぎず、爾前経で成道したとするのは誤りなのである。
彼が何度も爾前の得道を云はば
それでもなお爾前経にも得道があると言い張るならば、無量義経の「四十余年、未顕真実」の文をもって、仏説に従うべしと強く破折するように述べられている。
法華経の開経である無量義経には「諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」と、法華経以前の四十余年間に説いた諸経は未だ真実を顕していない方便の教えであることを明かしている。
仏自身が未顕真実といっている以上、我ら凡夫は仏説を根本として成仏を期すのだから、他のいかなる人師が爾前得道といおうとも無用で、真実ですることはできないと破折せよとの意であろう。
涅槃経には「法に依って人に依らざれ」と厳しく戒めてあり、あくまでも仏の教説に依るべきであって、人師の説などに依ってはならないというのが仏法実践の基本なのである。したがって、いかなる人が爾前経に得道があるといっても、未顕真実であると打ち捨てていけ、と仰せである。
大聖人はまた「涅槃経に仏最後の御遺言として『法に依つて人に依らざれ』と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(1115-03)とも「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」(0462-03)とも仰せになっている。大聖人は一貫して、仏法という以上は、あくまでも仏説を基本とすべしと厳格に主張されて、人師の己義邪見による邪義を破折されているのである。
また、無量義経の未顕真実の文で破折すれば十分であって、法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とあり、また「世尊は法久しくして後 要ず当に真実を説きたまうべし」と明かされている経文やその釈等は秘して出してはならない、と戒められている。法華経の文を出すまでもない、ということであろう。
得道の所詮は爾前も法華経もこれ同じ
その後更に、爾前経も法華経も成仏するということは同じである、という問難に対する破折がされている。
念仏宗では、観経で西方の極楽浄土に往生した者はそこでやがて成仏するとして、「所詮は同じ」と主張したものであろう。
それに対しては、前の「四十余年、未顕真実」の文のほかに、法華経の方便品第二の「十方仏土の中には 唯だ一乗の法のみ有り 二無く亦た三無し 仏の方便の説を除く 但だ仮の名字を以て 衆生を引導したまう」の文を立てて破折すべきである、と仰せである。
つまり、観経は未顕真実の経であり、また仏の方便の説である仮の文字であって、成仏の法である法華経へ導くための権経であるから、観経で成仏することなどありえない、とその邪義を破るよう教えられているのである。
また、観無量寿経は法華経と同時に説かれた経である、という主張に対しては、法華経の法師品第十にある「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」との文を挙げて破折せよ、と仰せである。
観無量寿経の一部が法華経と同じ霊鷲山で説かれたというので、法華経と同時の経であると主張したもののようである。しかし、已に説いた爾前の経と、今説いている無量義経と、当に説こうとしている涅槃経等の一切経のなかで、法華経が最も難信難解であり、第一であるとあるのだから、観無量寿経が同時の経だとしても、観経が劣り法華経が勝れていることに変わりはないのである。
また、観無量寿経には阿闍梨太子とあり、法華経では阿闍世王となっているので、観経は法華経より前に説かれた「已説」の経であることが明らかであり、同時という説は誤りなのである。
また、法華玄義巻三下の「若しは破、若しは立、皆是れ法華の意なり」の文や、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三下の「今採って仏教を以って、法華の意を申ぶ、遍く破し遍く立ちて、教の指帰を明かす」の文を出すようにとの仰せである。
この文は、諸の経教をあるいは破り、時には用いるのも、みな法華経の意によらなければならない、との意である。
したがって、法華経以外の経にどう説かれていようとも、それはあくまでも法華経へ導くための方便であり、法華経の意によって用いるべきなのであって、法華経と同じなどと立てるのは、大きな誤りであることを示されているのである。
1278:15~1279:02第四章真言宗の邪義を責めるtop
| 15 一状に云く真言宗云云等、 答う彼が立つる所の如き弘法大師の戯論無明の辺域何れの経文に依るやと云つて・ 16 彼の依経を引かば云うべし・ 大日如来は三世の諸仏の中には何れぞやと云つて・善無畏三蔵・金剛智等の偽りをば 17 汝は知れるやと云つて・ 其の後一行筆受の相承を立つ可し、 大日経には一念三千跡を削れり漢土にして偽りしな 18 り、就中僻見有り毘廬の頂上を蹈む証文は三世の諸仏の所説に之有りや、 其の後・彼云く等云云、 立つ可し大慢 1279 01 婆羅門が高座の足等云云、 彼れ此れ是くの如き次第何なる経文論文に之を出すやと等云云、 其の外常に教へし如 02 く問答対 ―――――― 真言宗に対してどのように答えるかとのことであるが、それには彼の宗の所立の弘法大師が法華経を「戯論」と言い、釈尊を「無明の辺域」というのは、どの経文に依るのかと聞くがよい。もし、その経文を引くなら、「大日如来は三世の諸仏のなかのいずれの仏か」を尋ね、「善無畏三蔵、金剛智等の偽りを汝は知っているのか」と言って、その後に善無畏が一行を欺いて、大日経の疏を筆受させた時のはかりごとを言うがよい。大日経には一念三千の法門は跡形もないのに、善無畏が中国に来て、大日経に一念三千の法門があると偽ったのである。 そのなかでもとくに僻見の甚だしいものは、毘盧遮那仏の頂上を踏むというものである。はたして三世の諸仏の説法に、仏の頂を踏んでよいというものがあるのか。その後に彼らはこういうことを言っていると立てて、昔、インドの大慢婆羅門がバラモンの三神と釈尊とを高座の足にして、四聖は我が足にも及ばないと言ったことを言うがよい。彼といい、此れといい、汝が言っていることは、いずれの経文、論文に出ているのかと責めるがよい。 その他は常に教えているように、問答対論をするがよい。たとえいかなる宗の者であっても、真言宗の法門を言うならば、真言の僻見を責めるがよいであろう。 |
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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戯論
児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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無明の辺域
真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
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大日如来
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
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善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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一行
(0683~0727)中国唐代の天台宗の僧であったが、真言宗の善無畏にたぼらかされて、真言の邪義を広めるのに力を尽くした。一行は中国の魏州の人で、唐の高宗、広通元年に生まれ、嵩山で剃髪した。普寂に禅を学び、さらに天台山国清寺で天台学を学んだ。開元4年(0726)、善無畏を助けて大日経を訳し、また善無畏にだまされて「大日経疏」20巻をあらわした。これは天台の教えを盗み、また誹謗した邪説である。開元15年(0727)45歳没。
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筆受の相承
中国の真言宗の一行が善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいい、善無畏が天台宗の意によって釈したものであるのに、弘法は法華経を三重の劣と下した。これは善無畏・一行の真言の相承をも破ったものである。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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僻見
偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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毘廬の頂上を蹈む
禅宗の教え。法身如来の頂上を踏み越えること。
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大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
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次に大聖人は、真言宗を破折する要点を教えられている。
第一に、日本真言宗の祖・弘法大師空海が法華経を戯論といい、釈尊を無明の辺域としたのは何の経文によるのかと責めよ、と仰せである。
「戯論」とは、児戯に類した無益な論議、言論の意で、弘法が十住心論のなかで、「此くの如くの乗乗、自乗に仏の名を得れども、後に望めば戯論と作る」といって、真言に対すれば法華経等は戯論にすぎないといって下したことをさす。
「無明の辺域」とは、いまだ無明惑を断ち切らない、真実の悟りからは遠く隔たりのある境界の意で、弘法が秘蔵宝鑰巻下で「諸の顕教に於いては是れ究竟の理智法身なれども、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……是くの如くの一心は無明の辺域にして、明の分位に非ず」といって、法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理法身であるが、真言門に対すれば初門にすぎず、明の分位である果門に対すれば無名の辺域であると下していることをさす。
そのように弘法の言い分の根拠は何の経にあるのかと責めよと仰せになっているのは、そうした文証などはどこにもなく、全く弘法の我見、邪見にすぎないからである。
そのことを撰時抄には「弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云く『此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す』又云く『無明の辺域にして明の分位に非ず』……此等の釈の心如何、答えて云く予此の釈にをどろいて一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅蜜経に対すれば盗人・守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず……法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ」(0277-01)と破されている。
また真言天台勝劣事では「弘法大師釈摩訶衍論を証拠と為て法華を無明の辺域戯論の法と云う事是れ以ての外の事なり、釈摩訶衍論は竜樹菩薩の造なり、是は釈迦如来の御弟子なり争か弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押下して戯論の法等と云う可きや、而も論に其の明文無く随つて彼の論の法門は別教の法門なり権教の法門なり是円教に及ばず又実教に非ず何にしてか法華を下す可き、其の上彼の論に幾の経をか引くらんされども法華経を引く事は都て之無し権論の故なり……用ゆべからず用ゆべからず」(0138-06)と釈摩訶衍論を論拠としてきたときの破折の仕方も述べられている。
そのように、弘法の立義は全く根拠のないもので、それこそ正法誹謗の戯論であり暴論なのである。したがって、第一にそれを責めよとされたのであろう。
第二に、もし依経を出してきたなら、大日如来は三世の諸仏のうちでどこに位置する仏なのか、と責めよと仰せである。
「彼の依経を引かば」とは、前の戯論や無明の辺域の文証という意味ではなく、真言宗が大日如来の所説であるとして真言の三部経などを引いた場合にはとの意で「三世の諸仏の中には何れぞや」とは、その大日如来はいつ出世した仏なのかを問い詰めよ、との仰せである。
そのことについて真言見聞には更に詳しく「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり……若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして他方・疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや……凡そ法華経は無量千万億の已説・今説・当説に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う」(0149-01)等と述べられている。
すなわち、真言の依経が大日如来の所説だと主張するなら、その大日如来はだれを父母としていつ成道したのか、法を説いて衆生に利生を与えたのは釈尊より前なのか後なのか、もしもこの娑婆世界の仏だというならば世に一仏のみとする仏教の通判に反することになり、もしも他土の仏だというなら此土の娑婆世界の教主である有縁の釈尊をないがしろにして無縁の大日如来を崇めるのは不忠不孝の者となるではないか、等と責めるべきなのである。
大日如来といっても、釈尊が方便に説いた法身仏であり権仏にすぎない。にもかかわらず大日如来を尊極の仏と立てて法華経を誹謗し、教主釈尊をないがしろにしているところに真言宗の根本の誤りがあり、そのために大聖人は真言亡国と定められているのである。早勝問答には「亡国の証拠如何、答う法華を誹謗する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり」(0167-02)と述べられている。
第三に、中国・真言宗の祖・善無畏と金剛智がどのように人々を偽ったか知っているかと問うて、善無畏が一行をだまして大日経疏で真言が法華経に勝れるとの誤りを筆受させたことを申し立てて責めるべきである、と仰せである。
善無畏や金剛智の偽りとは、インドから中国に真言を伝えた時、大日経にもともと一念三千の法があると立て、偽って弘めたことをいう。
善無畏が天台宗の一行禅師をだまして大日経疏を書かせたいきさつと内容は撰時抄に次のように詳しく述べられている。
「大唐の玄宗皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす……善無畏三蔵をもはく此の経文をあらわにいゐ出す程ならば華厳法相にもをこつかれ天台宗にもわらはれなん大事として月支よりは持ち来りぬさてもだせば本意にあらずとやをもひけん、天台宗の中に一行禅師という僻人一人ありこれをかたらひて漢土の法門をかたらせけり……天台宗の立てられけるやうを申しければ善無畏をもはく天台宗は天竺にして聞きしにも・なをうちすぐれてかさむべきやうもなかりければ善無畏・一行をうちぬひて云く……天台宗は神妙の宗なり今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなり……天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう汝かきなんやといゐければ一行が云くやすう候、但しいかやうにかき候べきぞ……爾の時に善無畏三蔵大に巧(たくら)んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし……さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし……天台宗は意密計りなれば……といゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり」(0275-05)。
善無畏は法華経と大日経とはインドにおいては同一の経であり、一念三千の理のみを説いたのが法華経であり、一念三千の意密に印と真言を加えた三密相応の法を説いたのが大日経であると偽って、法華経と大日経は一念三千の理は同じだが、印と真言の事において大日経が勝れるという趣旨で一行に大日経疏を書かせたのである。善無畏の口述を受けて一行が筆記したので、これを「一行筆受の相承」といった。
善無畏がそのように一行を偽ったのも、中国にきて天台大師が法華経によって立てた一念三千の法門を知り、それを凌駕することはとうていできないので、その理を盗んで大日経にもあるとこじつけ、大日経等に印と真言が強調されていることをもって法華経に勝れていると立てたのである。
また、金剛智は金剛頂経等を中国に伝えて翻訳したが誤りが多く、善無畏と同じく真言第一と立てて法華経を下したのである。
そして「大日経には一念三千跡を削れり漢土にして偽りしなり」と仰せのように、理同事勝の邪義は中国へ善無畏や金剛智が渡って一念三千の法門を知ってから偽ってこじつけたもので、もともと大日経に一念三千の法門など説かれてはいないのである。
第四に、最も甚だしい僻見は、真言宗で灌頂の儀式の際に壇上に曼荼羅を敷いて仏の頂を踏むことであり、三世の仏の所説のどこにそのようなことがあるのかと責めよ、と仰せである。
「毘廬の頂上を蹈む」とは、もともと禅宗がいった言葉で、毘廬とは毘廬遮那仏の略で法身仏をいい、その頂上を踏み越えること。中国・宋代の禅宗の一派・雲門宗の雪竇重顕の書・壁巌録に「如何なるか是れ十身調御。師云く、檀越、毘廬の頂上を踏み行け」とある。仏の十身を会得することは仏の頂を踏み越えていくことで、仏の身相に執着してはならない、我が身が仏であるとの意という。
それに対して大聖人は蓮盛抄で「毘盧とは何者ぞや若し周遍法界の法身ならば山川・大地も皆是れ毘盧の身土なり是れ理性の毘盧なり、此の身土に於ては狗野干の類も之を蹋む禅宗の規模に非ず・若し実に仏の頂を蹋まんか梵天も其の頂を見ずと云えり……夫れ仏は一切衆生に於いて主師親の徳有り若し恩徳広き慈父を蹋まんは不孝逆罪の大愚人・悪人なり、孔子の典籍尚以て此の輩を捨つ況んや如来の正法をや豈此の邪類・邪法を讃めて無量の重罪を獲んや云云、在世の迦葉は頭頂礼敬と云う滅後の闇禅は頂上を蹋むと云う恐る可し」(0152-10)と厳しく破折されている。
主師親の三徳を具えた仏を足で踏むなどということは、不孝・悪逆の大謗法であり、大重罪なのである。
真言宗では僧が一定の地位に進むときに頭の頂に水を注ぐ灌頂の儀式を行うが、その際に檀上に諸仏・菩薩の図を描いた曼荼羅を敷く。したがって仏を踏んで灌頂の儀式を行うことから、それを「毘廬の頂上を蹈む」といわれたものであろう。ゆえに、禅宗に対するのと同じ破折がそのままあてはまるであろう。そのような不遜な儀式が経文に説かれているわけはないのである。
それでもとやかくいうようならば、インドの大慢婆羅門と同じだと責め、いかなる経文にあるのかと問い詰めよと述べられている。
「大慢婆羅門が高座の足」とは、大唐西域記によれば、大慢とは南インド摩臘婆国のバラモンで、生まれながらに学問に秀でて内外典を究め、過去・現在・未来の賢人・聖人よりも優れていると慢じて、バラモン教の大自在天・婆籔天・那羅延天の三天と釈尊の像を刻んで台の四足とし、自分はその上に座って説法したという。毘廬の頂を踏むなどというのも、この大慢婆羅門と同じ増上慢であり逆罪なのである。
大聖人は撰時抄に「彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学・顕密二道胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、されば王臣頭をかたぶけ万人師範と仰ぐあまりの慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて潅頂する時敷まんだらとするがごとし、禅宗の法師等が云く此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、而るを賢愛論師と申せし小僧あり彼をただすべきよし申せし……大慢を驢にのせて五竺に面をさらし給いければいよいよ悪心盛になりて現身に無間地獄に堕ちぬ、今の世の真言と禅宗等とは此れにかわれりや」(0278-14)と大慢の故事を例として、真言と禅の邪見を破折されている。
最後に、その外には常日ごろ教えているとおりに問答対論をすべきであり、また相手が何宗であっても真言の法門を主張したなら、真言の誤りを責めよ、と仰せである。
1279:03~1273:09第五章念仏の邪義を責めるtop
| 03 次に念仏の曇鸞法師の難行.易行.道綽が聖道・浄土.善導が雑行・正行.法然が捨閉閣抛の文、此等の本経・本論 04 を尋ぬべし、 経に於て権実の二経有ること例の如し、 論に於ても又通別の二論有り、黒白の二論有ること深く習 05 うべし、 彼の依経の浄土三部経の中に是くの如き等の所説ありや、 又人毎に念仏阿弥陀等之を讃す又前の如し、 06 所詮和漢両国の念仏宗・ 法華経を雑行なんど捨閉閣抛する本経本論を尋ぬべし、 若し慥なる経文なくんば是くの 07 如く権経より実経を謗ずるの過罪、 法華経の譬喩品の如くば 阿鼻大城に堕落して 展転無数劫を経歴し給はんず 08 らん、 彼の宗の僻謬を本として此の三世諸仏の皆是真実の証文を捨つる其の罪実と諸人に評判せさすべし、 心有 09 らん人誰か実否を決せざらんや、 而して後に彼の宗の人師を強に破すべし、 -----― 次に念仏宗の曇鸞法師が立てた難行道・易行道、道綽の立てた聖道門・浄土門、また、善導の雑行・正行、法然の捨閉閣抛等の義については、いったい、どの経によってその義を立てたのか、その本経、本論を尋ねるがよい。経において権経と実経との区別はあるが、論においてもまた、通申論、別申論の二つがあり、黒論と白論の二論があることを深く知らねばならない。 彼らの依経となっている浄土三部経のなかに、彼らが唱えているような法門があるのであろうか。また、人ごとに念仏を称え、阿弥陀仏を念じているが、その依文についても同様である。結論していうならば、日本、中国の二国の念仏宗で法華経を雑行などと言い、捨閉閣抛せよといっているが、経文や論文があるのかを尋ねるがよい。もし、確かな経文がなければ、このように権教の立場から実教である法華経を誹謗する罪は、法華経譬喩品のとおりであるならば、阿鼻大城に堕ちて、無数劫の間、苦しまなければならないだろう。 念仏宗の誤りを根本にして、三世の諸仏が「皆是れ真実なり」と証明された法華経を捨てるのは、その罪は実に恐ろしいものだと人々に言うがよい。思慮ある人ならば、その是非をわきまえないわけがないであろう。このようにした後に、彼の宗の人師を強く破折するがよい。 |
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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曇鸞法師
(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。
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難行
難行道のこと。易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
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易行
易行道のこと。難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。
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道綽
(0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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聖道
聖道・浄土の二門のうちの聖道門。自力によってこの現実世界で成仏することができるとする法門。
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浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
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善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
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雑行
浄土宗の教義で、善導の観無量寿経疏正宗分散善義巻四に典拠をもつ。同書のなかに「行き就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」とある。修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行と名づくとしている。五種の正行とは、浄土宗の教義。極楽浄土に往生するための五種類の正行のこと。五種の雑行に対する語。①読誦正行。専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」ること。②観察正行。専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」ること。③礼拝正行。専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」ること。④称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」ること。⑤讃歎供養正行。専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」ること。この中で称名正行を第一の正行、他の四つをその助行とする。この五種の正行の説をふまえて法然は浄土三部経の修行を正行、それ以外の経教の修行を雑行として排した。なお、五種の雑行とは浄土宗の教義で、極楽浄土に往生することができない五種類の修行のことで、選択本願念仏宗にある。⑥読誦雑行。『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦すること。⑦観察雑行。極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行という。⑧礼拝雑行。弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬すること。⑨称名雑行。弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称すること。⑩讃歎供養雑行。弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行という。
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正行
①正しい教えによって立てた正しい行為・修行。②南無妙法蓮華経の題目を唱えること。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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権実の二経
権教と実教の二教のこと。権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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通別の二論
通論と別論のこと。菩薩の論蔵を二種に分類したもの。通論とは通じて大乗・小乗の諸教を解釈したもの。別論は別して一経または一品にしぼって論訳したものをいう。
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黒白の二論
黒論と白論。黒論は仏説に依らない論、白論は仏説に依る論。
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浄土三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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阿弥陀
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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譬喩品
妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
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僻謬
偏り誤っていること。
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次に、念仏の邪義を破折する要点を示されている。
はじめに、念仏の教義の基本となっている、曇鸞の立てた難行道・易行道や、道綽が立てた聖道門・浄土門の別や、善導の雑行・正行の立て分け、法然が主張した捨閉閣抛等について、その本経本論を尋ねよ、と仰せである。つまり、どこにその根拠となる経文があり、いずれの論釈に出典があるのかと責めよ、という意である。それらの立義はすべて経論になんの根拠もない我見による邪義にすぎないからである。
曇鸞は中国浄土宗の祖とされ、その著・往生論註のなかで、竜樹が立てたという雑行道と易行道のうちの易行道を強調し、浄土へ往生する本因は阿弥陀仏の本願によるとする他力本願思想を説き、それがその後の浄土思想のもととなった。
道綽は中国浄土宗の第二祖で、曇鸞の碑文を見て浄土教に帰依したといい、その著・安楽集のなかで、曇鸞の教説を受けて釈尊一代の聖教を聖道門・浄土門に分け、自力で難行道を行って此の土で成仏を期する教えを聖道門として退け、末法には他力の易行道で阿弥陀仏の名字を称えて往生する教えである浄土門がかなっていると主張した。
善導は道綽の弟子で中国浄土宗の第三祖とされ、その著・観無量寿経疏のなかで、浄土往生の修行に正行と雑行があり、正行とは阿弥陀仏を対象とする修行をいい、五種の正行(読誦・観察・礼拝・称名・賛歎供養)があるとし、雑行は正行以外の一切の仏道修行をいい、雑行を捨てて正行に帰せよと述べている。
日本浄土宗の祖・法然はそうした曇鸞・道綽・善導の教説を用いて選択集を著し、浄土宗の依経である観経などの浄土三部経以外の一切の諸経を捨閉閣抛、すなわち「聖道を捨て……定散の門を閉じ……聖道門を閣き……諸雑行を抛ち」と主張したのである。
それに対して大聖人は立正安国論に「之に就いて之を見るに曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』の誡文に迷う者なり」(0023-04)とその誤りを破折されている。
竜樹や曇鸞・道綽・善導は法華経以前の四十余年の経々について難行道・易行道と立て分けたにすぎないにもかかわらず、法然は、法華経を難行道・聖道門・雑行のなかに含め、末法には時機に相応しない教えであるとして否定したことに根本的な誤りがある。
守護国家論には「選択集の第一篇に云く……道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す……此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな」(0052-08)と述べられている。
そのように、法然の捨閉閣抛の主張は、経論に背いている邪義であるばかりではなく、曇鸞等の中国浄土宗の先師の立義にも我見を加えたもので、故意に法華経を否定して末法に時機不相応な念仏を弘めようとしたものなのである。
次に大聖人は、仏の説いた経典にも権教と実教の立て分けがあり、経文の意を論議した論にも、通じて諸経を論釈した通論(通申論)と、別して一経・一品に限って論釈した別論(別申論)の二つがあり、また仏説に依らない黒論と、仏説に依った白論の二つがあることを深くわきまえるべきであると仰せである。
その意は、たとえ経典に文証があったとしても、それが権経のものであるなら方便のために説かれた未顕真実の教えであり、まして実教である法華経に背いたものは用いてはならない、ということであろう。また、論師・人師の著した論を根拠にするにしても、それが通論か別論かによって意味は異なってくるし、ましてそれが仏説に依った白論なら用いるべきであるが、仏説に依らない黒論であったら用いてはならないのである。
そのように、たとえ経典や論釈に出典があったとしても、そのまま用いていいわけではなく、その経や論の内容や位置づけを明確にしたうえで、その用否を決めなければならない。それを知らずに経論を用いたならば、邪見に陥ってしまうのである。ゆえに、そうした経論の差異を「深く習うべし」と仰せられているのである。
そして、念仏の依経である浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)のなかに説かれているのかと責めよ、と仰せである。もちろん一言半句たりともあるはずがない。
また、多くの人々に阿弥陀仏の名を称えさせることについても、それはいかなる経論にあるのか、更に中国と日本の念仏宗で法華経を雑行などと下して捨閉閣抛せよと否定しているが、その主張の根拠となる経論はあるのかと追及せよ、と仰せである。
そして、確かな経文もないのに、念仏の人師が権経に依って実経である法華経を否定して誹謗した過ちの罪は、法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とあるように、無間地獄に堕ちて無数劫を経るであろう、と断じられている。正法を誹謗することは悪のなかの大悪であり、その罪はいかなる悪業にもまさる極重罪にあたるので、その受ける業苦も大きいのである。
呵責謗法滅罪抄には「五逆罪と申すは一逆を造る猶・一劫・無間の果を感ず……親を殺す者此程の無間地獄に堕ちて隙もなく大苦を受くるなり、法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにも訾る程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候」(1125-05)と述べられ、五逆罪よりもはるかに謗法の罪が重いことを明かされている。
そのうえで大聖人は、法論の場において、そうした中国・日本の浄土宗の人師の僻見・謬説を根本として、多宝如来をはじめ三世の諸仏が「釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と定めた法華経を捨てるその罪がいかに大きいかを、列座の諸人に判断させるべきである、と仰せである。そうすれば、心ある人はどちらが正しいかを決めることができるであろう。――その後に浄土宗の人師を強く破折すべきである、と仰せになっている。
つまり、他宗と法論対決をする場合、相手とその邪義を打ち破るだけではなく、その座にいる人々にもどちらが正しいかを判断ができるようにもっていくべきであると、その心構えを教えられているのである。
1279:09~1280:01第六章現証を示して諸宗の謗法を明かすtop
| 09 一経の株を見て 万経の勝劣を知ら 10 ざる事未練なる者かな、 其の上我と見明らめずとも 釈尊並びに多宝分身の諸仏の定判し給へる経文・法華経許り 11 皆是真実なるを不真実・未顕真実を已顕真実と僻める眼は牛羊の所見にも劣れる者なるべし、 法師品の已今当・無 12 量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし、 諸経の勝劣は成仏の有無なり、 慈覚智 13 証の理同事勝の眼・善導法然の余行非機の目・禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり、 牛 14 羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず、 依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、 悪鬼入其 15 身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん。 -----― 一経に執着して、万経の勝劣を知らないことは未熟者ではないか。そのうえ、自分で一切経を読まないでも、釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏が定められた法華経に「法華経ばかりが真実」と説かれているのを、「真実でない」と言ったり、「四十余年には未だ真実を顕さない」と説かれているのを、「既に真実を顕した」とする僻見は、牛羊にも劣る見方である。法華経法師品第十に「已に説き、今説き、当に説かん」と説き、無量義経に、歴劫修行の教えは未顕真実の教えであると記されているのは、釈尊五十余年の諸経の勝劣を明示されたものである。 慈覚、智証の理同事勝の眼、善導、法然の余行非機の目、禅宗の教外別伝の所見は東西を取り違えた見方であり、南北をわきまえない妄見である。それは牛羊にも劣り、こうもりと違わないものである。涅槃経の「法に依って人に依らざれ」、法華経譬喩品第三の「此の経を毀謗せば、即ち一切、世間の仏種を断ぜん」の経文をどうして恐れないのであろうか。悪鬼が其の身に入って、無明の悪酒に酔っているからであろう。 -----― 16 一切は現証には如かず善無畏.一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様.実に正法の行者是くの如くに有るべく 17 候や、観仏相海経等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何が候や、 一行禅師の筆受の妄語・善無畏のたばかり・弘法の 18 戯論・慈覚の理同事勝・曇鸞道綽が余行非機・是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、 1280 01 それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞやと・和らかに又強く両眼を細めに見・顔貌に色を調へて閑に言上すべし。 -----― 一切は現証にすぎるものはない。善無畏の頓死、一行の横死、弘法、慈覚の死去のありさまなどは、まことに、正法の行者の姿とは思えない。観仏相海経等の諸経並びに、竜樹の論文に臨終の時に成仏の可否が分かるとあるではないか。一行禅師が筆受した大日経疏の妄語、善無畏のたばかり、弘法の法華経は戯論だという説、慈覚の「理同事勝」、曇鸞・道綽の「余行非機」等の所説は、権経権宗の誤れる仏法の習いであろう。これらの人々の死に方はそれほどにうらやましくもないと、穏やかに、また強く、両眼を細くして、顔色をととのえて言うべきである。 |
株
木の切り株。「くいぜ」と読むが、古くは「くいせ」とも言った。木の切り口を見れば年輪等、一部の内容は知られるが、だからといって樹の全体像を知ることはできない。それと同様に、一経(浄土三部経)を見ただけで万経(一切経)を見切ったような錯覚に陥っている念仏者は、まさしく〝未練なる者〟、未熟者であると喝破されている。
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多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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分身の諸仏
本仏から身を分けて、衆生を教化するために種々の世界で法を説く仏のこと。分身は分体・散体ともいう。
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歴劫修行
爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。
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慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
(0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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理同事勝
真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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余行非機
法然の選択集にある語。末法では念仏以外の諸教は衆生の機根に合わないとする説。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
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蝙蝠鳥
こうもりのこと。鳥のように飛び、獣の姿でもあることから、古来、どちらにも属さなかったり、形勢によって立場を変える者をこの名で呼ぶ。
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毀謗此経
法華経譬喩品第3の文。「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん」とある。
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悪鬼入其身
勧持品に「濁劫悪世の中には、多くの諸の恐怖あらん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」とある。六道の一つである餓鬼道の衆生を鬼といい、天竜等の八部衆を神というが、この鬼神、天神、夜叉鬼等の類いを悪鬼という。人に対しては病気を惹き起こし、また思想の乱れを起こす。国家社会に対しては、天変地変や思想の乱れ等を惹き起こす働きをする。ここでは、法然・弘法等の邪宗の僧が、国家権力に取り入って、法華経の行者を迫害することをさす。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1083-04)とある。
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無明の悪酒
無明とは一切の煩悩の根本となる無明惑のこと。成仏を妨げる根本の無明を、人を酔わせる悪酒にたとえたもの。
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現証
三証のひとつ。現実の証拠のこと。
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善無畏・一行が横難横死
王難は不慮の災難。思いがけない災難。横死は天寿を全うすることができず、不慮の災害等で死ぬこと。非業の死・不慮の死ともいう。「善無畏の横死」は善無畏が頓死して地獄に堕ちた時に閻魔王に責められたことをいう。大日経疏巻5に「阿闍梨の言く、少かりし時、嘗て重病に因りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王を覩たり…因りて放されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に縛持せられし処に、猶お蒼痕あり、旬月にして癒たりき」とある。また、「一行の王難」は中国・唐代に、玄宗皇帝が一行に寵愛している楊貴妃の像を描かせた。その時、あやまって筆を落とした時、臍のあたりに黒い点が落ちてしまった。玄宗は楊貴妃の臍のところに一つのホクロがあることから、一行を怪しんで火羅国に流したという。
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弘法・慈覚が死去の有様
弘法は即身成仏といって、室にはいったまま入定したという。しかし入定したままの弘法の姿を見た人はいない。また、慈覚大師は頭と首が別々にされたとある。
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観仏相海経
現存の大蔵経中には、この経名は見当たらない。あるいは観仏三昧海経をさすのであろうか。十法界明因果抄には「観仏三昧経に云く『五逆罪を造り因果を撥無し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す』と阿鼻地獄なり」(0427)と述べられている。
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竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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虚妄
空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
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次に、法華経と諸経の勝劣に迷う諸宗の人師の愚かさを厳しく指摘され、法華経を誹謗した諸宗の人師の死相が悪かった現証を挙げて破折するように教えられている。
一経の株を見て万経の勝劣を知らざる事
そのはじめに、一経に執着して万経の勝劣を知らないのは未熟な者であり、釈尊や多宝如来等の定判を用いれば法華経のみが真実であり、最勝であることは疑いないではないかと責めよ、と仰せである。
「法華経許り皆是真実」とは、法華経見宝搭品第十一で、多宝如来が「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と証明したことをさす。
「未顕真実」とは、法華経の開経である無量義経に「四十余年には未だ真実を顕さず」とあることをさす。
そのように経文に明らかであるにもかかわらず、法華経を真実でないと下したり、反対に未顕真実の経を真実であるとしている歪んだ眼を「牛羊の所見にも劣れる者なるべし」と指摘されている。
「法師品の已今当・無量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし」とは、法華経法師品第十に「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり……我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあり、また無量義経の「四十余年未顕真実」の文の次に「是の故に衆生は得道差別して、疾無上菩提を成ずることを得ず……方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども……衆生の解は異なる。解は異なるが故に、得法・得果・得道も亦た異なる」とあることをさし、それらの経文こそ釈尊一代五十年の諸経の勝劣を明らかにしたものである。との意である。
法師品の已今当について、法華文句には、已説とは爾前の四十余年の諸経をいい、今説とは無量義経をいい、当説とは涅槃経をいうとしている。これを「已今当の三説」といい、この三説に超過した法華経を「三説超過」という。
法華初心成仏抄に「法華より外の経には全く已今当の文なきなり已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云う今説とは無量義経を云う当説とは涅槃経を云う此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり」(544-04)と述べられているように、已今当の三説こそ、釈尊が一代五十年の説いた諸経の勝劣を明かしたものなのである。
また無量義経の歴劫修行の文は、四十余年の爾前の諸経は、女人・二乗・悪人等は成仏できないと差別を設け、しかもその修行は歴劫修行であり、したがって一切衆生の即身成仏を説いた法華経に劣るのである。
「諸経の勝劣は成仏の有無なり」とは、諸経の勝劣は、衆生が成仏できるかどうかという問題と結びついているということである。
このように一切衆生を説いた法華経こそ最も勝れるのであるが、ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)と明かされているように、末法にあっては南無教法蓮華経こそが唯一の衆生の成仏の法なのである。
そのように、法華経の勝劣は明らかであるのにもかかわらず、理同事勝、余行非機、教外別伝などの義を立てた諸宗の人師は「牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず」と厳しく破折されている。正邪を正しく判断できないことから牛や羊にも劣るとされ、蝙蝠と同類であるとされている。
理同事勝とは、法華経と大日経を比較すると、説かれている一念三千の理は同じだが、印と真言の事相が法華経には欠けているので大日経が勝れているというもので、比叡山延暦寺の座主でありながら、天台法華宗に真言を取り入れて天台真言宗としてしまった慈覚や智証が立てた邪義である。
余行非機とは、法然の選択集にある「諸行非機」から出た言葉で、善導や法然が念仏以外の修行は衆生の機根に合わないと主張した邪義をさす。
教外別伝とは、仏の本意は教説を用いないで伝えられ、文字や言語によって明らかになるものではないとする禅宗の教義をいう。
そして、涅槃経巻六に「法に依って人に依らざれ」と説かれ、法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」と示されている文をどうして恐れないのか、と責められている。
依法不依人の仏の戒めに背いた我見・邪見によって法華経を諸経に劣ると下しているのは、仏種を断じて堕地獄の業因となる正法誹謗の重罪にあたるのであり、それを恐れることなく行っているのは、法華経勧持品第十三に「悪鬼は其の身に入って」とあるような姿であり、また無明の酒に酔いしれているというしかないのである。
大聖人は御講聞書にも「本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり……失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり」(842-一不可失本心の事-01)と仰せであり、正法に背いて邪法に執着することを、悪酒に酔って本心を失っている姿にたとえられている。
一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死
大聖人は更に、一切は現証にすぎるものはないとされ、諸宗の人師の臨終の姿が悪かった例を挙げられ、こんなことは正法の行者にはありえないことで、それこそ正法誹謗の現証であると教えられているのである。
中国に初めて真言密教を伝えた善無畏は、一時頓死して閻魔王の責めにあったが、法華経の「今此三界」の文を唱えて蘇生したといわれ、またその死相が悪くて堕地獄の相だったことが弟子の記録にも明らかである。
善無畏の死相については報恩抄に「善無畏三蔵は……天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄七すぢつけられて閻魔王宮にいたりぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れかへされ給いぬ……結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・ほめしかども無間大城に堕ちにき、問うて云く何をもってか・これをしる、答えて云く彼の伝を見るに云く『今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり』等云云、彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(315-12)と詳しく述べられている。
善無畏にだまされて大日経は法華経に勝るという大日経疏を書いた天台僧の一行は、後に玄宗皇帝の籠姫・楊貴妃の姿を描いた際、あやまって筆を落とした時、臍のあたりに黒の点を付けてしまった。玄宗は、楊貴妃の臍のところに一つの黒子があることから、一行を怪しんで火羅国に流した、といわれている。それを「一行の横難」とされたものであろう。
日本真言宗の祖・弘法は、その死後に弟子達が入定と称してその遺骸を人の目に触れさせなかったと伝えられており、それはよほど死相が悪かったためと思われる。
比叡山延暦寺の第三代座主でありながら天台宗を密教化した慈覚については、慈覚大師事に「慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか」(1019-12)と述べられているように、出羽国で首を切られて頭と体が別に葬られたと伝えられている。慈覚の死は横死だったのである。
法華経を誹謗して真言が勝るとの義を立てた人師が、そろってその死相が悪かったということは、真言最勝の義が仏説に背く邪義であることを示す現証である。
そして、観仏相海経や竜樹菩薩に論文にどうあるか、と仰せになっている。観仏相海経とは観仏三昧海経のことと思われ、巻六に「法を非法と説き、非法を法と説いて、諸の徒衆を教えて皆邪見を行ぜしむ。禁戒を持ち威儀欠けずと雖も、謬解を以っての故に命終の後、箭頃(や)を射る如く阿鼻獄に堕ちて、八十億劫に恒に苦悩を受く」という文があることをさしていると考えられる。
「竜樹菩薩の論文」については、妙法尼御前御返事に「大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云」(1404-03)とある。大論とは竜樹造とされる大智度論をいう。
そうした経釈によれば、前に挙げた諸宗の人師の死相は、地獄に堕ちた姿であることは明瞭なのである。
一行は善無畏にだまされて大日経疏で述べた真言最勝の義のため、弘法は法華経を戯論とした邪義のため、慈覚は理同事勝と立てて法華経を下したため、曇鸞・道綽は余行非機といって法華経を衆生の機根に合わないと謗じたため、すなわち方便権経によって法華経を誹謗したがゆえに無間地獄に堕ちた証拠として、無残な死相を現じたのである。
大聖人は、諸経の勝劣に迷う者に対する破折の在り方を示され、最後に「それほどうらやましい死にざまではないではないか」と、穏やかに、しかも強く、両眼を細くして、顔色を整えて静かに言い切るべきである、と教えられている。
厳しい罰の現証を指摘するのだからこそ、感情に走ったり、声を大きくして言うのではなく、静かに強く言い切ることが大切となるのである。こちらが感情的になれば相手も感情的になって、いかに正しい道理でも聞くことができないからであろう。そうした人情の機微をふまえて折伏の在り方を教えてくださっているのである。
1280:02~1281:04第七章法華経の得益の大なるを示すtop
| 02 状に云く彼此の経経得益の数を挙ぐ等云云、 是れ不足に候と先ず陳ぶべし、其の後汝等が宗宗の依経に三仏の 03 証誠之有りや未だ聞かず、 よも多宝分身は御来り候はじ、此の仏は法華経に来り給いし間・一仏二言はやはか御坐 04 候べきと・ 次に六難九易何なる経の文に之有りや、 若し仏滅後の人人の偽経は知らず、釈尊の実説五十年の説法 05 の内には一字一句も有るべからず候なんど立つ可し、 五百塵点の顕本之有りや・三千塵点の結縁説法ありや・一念 06 信解・ 五十展転の功徳何なる経文に説き給へるや、 彼の余経には一二三乃至十功徳すら之無し五十展転まではよ 07 も説き給い候はじ、 余経には一二の塵数を挙げず何に況や五百三千をや、二乗の成不成・竜畜・下賎の即身成仏今 08 の経に限れり、 華厳・般若等の諸大乗経に之有りや、 二乗作仏は始めて今経に在り、よも天台大師程の明哲の弘 09 法慈覚の如き無文無義の偽りはおはし給はじと我等は覚え候、 又悪人の提婆・天道国の成道・法華経に並びて何な 10 る経にか之有りや、 然りと雖も万の難を閣いて何なる経にか十法界の開会等草木成仏之有りや、 天台妙楽の無非 11 中道・惑耳驚心の釈は慈覚智証の理同事勝の異見に之を類す可く候や、 已に天台等は三国伝灯の人師・普賢開発の 12 聖師・天真発明の権者なり、 豈経論になき事を偽り釈し給はんや、 彼れ彼れの経経に何なる一大事か之有るや、 13 此の経には二十の大事あり 就中五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、 我等が如き凡 14 夫無始已来生死の苦底に沈輪して 仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・ 無作本覚の三身と成し 実に一念三 15 千の極理を説くなんど・浅深を立つべし、 但し公場ならば然るべし私に問註すべからず、 慥に此の法門は汝等が 16 如き者は 人毎に座毎に日毎に談ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙るべきなり、 日蓮己証なりと常に申せし是なり、 17 大日経に之有りや、 浄土三部経の成仏已来凡歴十劫之に類す可きや、 なんど前後の文乱れず一一に会す可し、其 18 の後又云うべし、 諸人は推量も候へ是くの如くいみじき御経にて候へばこそ 多宝遠来して証誠を加え分身来集し 1281 01 て三仏の御舌を梵天に付け不虚妄とはノノしらせ給いしか、 地涌千界出現して濁悪末代の当世に別付属の妙法蓮華 02 経を 一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき仏の勅使なれば・ 八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか 03 等云云、 又彼の邪宗の者どもの習いとして強に証文を尋ぬる事之有り、 涌出品並びに文句の九・記の九の前三後 04 三の釈を出すべし、但日蓮が門家の大事之に如かず。 ―――――― また、手紙に、諸経の利益の数を挙げた場合、どう対応するかとのお尋ねであるが、これにはまず「それらでは不足である」と答えるがよい。その後に、「汝らの宗の依経に、釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏の証明があるのか」と聞くがよい。「ある」とはいまだ聞いたことがない。よもや、多宝仏、十方分身の諸仏が証明に来ることはあるまい。これらの仏は法華経の会座に来られた時、「法華経は皆是れ真実なり」と証明されたのであるから、同じ仏に二言があるわけがないと言うがよい。 次に法華経には六難九易が説かれているが、他の経にこのようなことが説かれているであろうか。仏の滅後の人々が造った偽経にはあるかもしれないが、釈尊の五十年の説法の内には一字一句もないと言うがよい。 また、法華経には釈尊が五百塵点劫に成仏したことが説かれているが、諸経に説かれているであろうか。また、三千塵点劫に法華経を説法して成仏の因縁を結んだことが説かれているであろうか。また、一念信解・五十展転の功徳が説かれているであろうか。他経には、一、二、三も十功徳も説かれていないのだから、五十展転まで説かれているなどということはまさかあるまい。また、諸経には一、二塵数の過去さえ挙げていない。いかにいわんや、五百塵点劫、三千塵点劫の過去が説かれているわけがない。 二乗の成仏と不成仏、下賤(とされた女人)でしかも畜生の身である竜女の即身成仏は、ただ法華経に限られるのである。華厳経、般若経等の諸大乗経にこれが説かれているであろうか。二乗作仏は初めて法華経で説かれたのである。このことは天台大師も言われているのであるが、天台大師ほどの明晰な学匠が、弘法、慈覚のように、経文も義もない偽りを言われるわけがないであろう。 また、悪人の提婆達多の天道国での成仏は法華経以外にはどの経で説かれているであろうか。 しかし、これらの難はさしおき、はたしていかなる経に十法界の開会や草木成仏が説かれているであろうか。天台大師の「一色一香も中道に非ざること無し」、妙楽大師の「無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」の釈は、慈覚、智証の理同事勝の邪見とこれを同じとすることができようか。天台大師等はインド・中国・日本の三国の仏法伝灯の人師であり、大蘇山普賢道場で開悟した聖師であり、天真独朗の菩薩である。どうして経論にないことを己義を構えて釈されることがあろうか。 だいたい法華経以外の経教に一つでも大事な法門が説かれているであろうか。法華経には二十の大事がある。とくにそのなかでも、五百塵点劫の本地を顕した寿量品に、いかなる法門が説かれていると人々は思っているだろうか。我らのような、無始已来、生死の苦海に沈んで、仏道の彼岸に到ることができようとは夢にも思わなかった凡夫を、無作本覚の法報応の三身如来となし、一念三千の極理を説かれたのが法華経であると述べて、諸経との浅深を明確にしなさい。 ただし、これは公場対決でなすべきであって、私的な問答をしてはならない。この法門は汝らがごとき者が相手や場所を選ばず、毎日のように談ずるならば、必ず三世の諸仏の御罰を蒙るであろう。日蓮が己証の法門と常に言っているのはこのことである。 大日経にこのような法門があろうか、浄土の三部経の一つである無量寿経に「成仏より已来、凡そ十劫を歴たり」と説かれているのと比較になるであろうか、と理論整然と、相手の言い分に答えるがよい。 その後にまた、「皆さん、考えてもごらんなさい。このような貴い御経であるからこそ、多宝仏ははるか宝浄世界から来至して『皆是真実』と証明を加え、十方分身の諸仏も集まって、広長舌を梵天につけて虚妄でないことを明かされたのでないか。また、地涌千界の菩薩が出現して末法濁悪の今の世に、妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に弘通する仏の御使いとして如来神力品で別付嘱を受けたのである。それゆえ、八十万億那由他の諸大菩薩の末法弘通の申し入れに対しても、『止みね善男子』と拒まれたのである」と言うがよい。 また、このように言えば、彼の邪宗の者達の習いとして必ず証拠の経文を尋ねるであろう。その時には法華経従地涌出品と法華文句の第三の巻と法華文句記の第三の巻にある前三後三の釈を出すがよい。日蓮が門家の大事、これにすぎるものはない。 |
三仏の証誠
釈迦・多宝・十方の諸仏によって法華経こそ真実を明かした教えであること。また一切衆生皆成仏道の究竟の妙理であることが証明されたことをいう。
―――
やはか
よもや……ない。「争でか」「如何でか」ともいう。
―――
六難九易
宝塔品にある。一般にむずかしいとされるものを九つあげ、法華経を受持することのむずかしさを六つあげ、対比して、法華経受持の難しさをしめしている。宝塔品には「諸余の経典、数恒沙の如し、此等を説くと雖も、未だ難しと為すに足らず。若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為ず。若し足の指を以って大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦未だ難しとせず。若し有頂に立って衆の為に無量の余経を演説せんも、亦未だ難しと為ず。若し仏の滅後に、悪世の中に於いて能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす。仮使人有って、手に虚空を把って以て遊行すとも、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ちて、若しは人をしても書かしめん、是れ則ち難しとす。若し大地を以って足の甲の上に置いて梵天に昇らんも、亦未だ難しと為ず。仏の滅度の後に、悪世の中に於いて、暫くも此の経を読まん、是れ則ち難しとす。仮使劫焼に乾ける草を担い負って中に入って焼けざらんも亦未だ難しと為ず。我が滅度の後に、若し此の経を持ちて一人の為にも説かん、是れ則ち難しとす。若し八万四千の法蔵、十二部経を持ちて、人の為に演説して、諸の聴かん者をして六神通を得せしめん、能く是の如くすと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、此の経を聴受して其の義趣を問わん、是れ則ち難しとす。若し人法を説いて、千万億、無量無数、恒沙の衆生をして阿羅漢を得、六神通を具せしめん、是の益有りと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せん、是れ則ち難しとす」とある。項目別には以下の通り。(イ)「六難」は、①広説此経難(悪世の中で法華経を説くこと)②所持此経難(法華経を書き、あるいは人に書かせること)③暫読此経難(悪世の中で、しばらくの間でも法華経を読むこと)④少説此経難(ひとりのためにも法華経を説くこと)⑤聴受此経難(法華経を聴受して、その義趣を質問すること)⑥受持此経難(法華経を受持すること)(ロ)「九易」は、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説くこと②須弥擲置易(須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を演説すること)⑤把空遊行易(手に虚空・大空を把って遊行すること)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること)⑦大火不焼易(枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること)。
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五百塵点の顕本
法華経如来寿量品第16に「譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。」とある。五百塵点劫の顕本とは、釈尊五百塵点劫成道の本地を顕したことをいう。
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三千塵点の結縁
法華経化城喩品第7に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が16王子に法華経を説き、その16王子がのちにそれぞれに法華経を説き衆生を化導した。その第16番目の王子が釈尊の過去世の姿であり、この王子と衆生との結縁を大通結縁という。
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一念信解
分別品に説かれている四信五品の中の現在の四信の第一である。ほけきょうの修行の位であり、一番最初の初信の功徳である。分別品にはこの一念信解の功徳が説かれている。すなわち、八十万億那由佗劫において、仏道のために五波羅蜜という布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五つを修行する功徳を、この一念信解の功徳に比べるに、百千万億分の一にもおよばないという。末法において一念信解とは信心であり、信心に一切の功徳は収まるのである。
―――
五十展転の功徳
折伏の功徳が記されている法華経随喜功徳品第十八の冒頭にある。仏の滅後(釈尊の死後)、法華経を聞いて随喜して人に伝え、伝え聞いた人がさらに他の人に伝え、やがて50番目に伝え聞いた人が随喜する功徳をいう。具体的には、「亦随喜転教 如是展転 至第五十」の記述である。加えて、「是の如く第五十の人に展転して法華経を聞いて随喜せん功徳・尚無量無辺阿僧秖なり・何に況や・最初会中に於いて聞いて随喜せん者をや」と続く。すなわち、伝え聞いた50番目の人の功徳も大きいが、まして最初に聞いた人の功徳は比較にならないほど大きいとの意味である。
―――
一二三乃至十功徳
法華経分別功徳品第18に説かれる50展転の功徳の第一~第十まで。すなわち「身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。(1)利根にして(2)智慧あらん。(3)百千万世に、終に瘖瘂ならず。(4)口の気臭からず。(5)舌常に病無く、(6)口にも亦病無けん。(7)歯は垢(8)黒ならず、(9)黄ならず(10)」とある。
―――
二乗の成不成
二乗が成仏することと成仏しないこと。二乗の成仏は法華経迹門で初めて説かれる。爾前の諸経では、一念三千の法門が説かれ、初めて成仏の記莂が与えられた。
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竜畜・下賎の即身成仏
下賤の身とされた畜生類である竜女が法華経提婆達多品第12で法華経会座において大衆の前で即身成仏したこと。
―――
提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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天道国
提婆達多が仏となる国名。
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十法界の開会
十法界は十界のこと。開会は真実を開き顕して一つに合わせること。十界のすべての衆生が妙法蓮華経の当体であり、仏性を具えていることを明かしたこと。
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草木成仏
草木や土砂等の非情の物質が成仏することをいう。また、依正についていえば、依報の成仏である。日寛上人は、諸御書を案ずるに、草木成仏に二意あるとして、一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏があるとしている。まず不改本位の成仏とは、草木の全体がそのまま本有無作の一念三千即自受用身の覚体である。草木成仏弘決には「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339-06)、三世諸仏総勘文抄教相廃立のは「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574-14)御義口伝には「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784-第二量の字の事-02)とある。このように、無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず花咲き実の成る智慧は本覚の報身であり、有情を養育するは本覚の応身であり、これを不改本覚の成仏という。木画二像の成仏とは、四条金吾釈迦仏供養事には「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145-01)木画二像開眼之事には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469-08)観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)とある。御義口伝で「草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり」(0723-第五而自廻転の事-03)と仰せられているのは「法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを」(0723-第五而自廻転の事-01)ということについてである。すなわち、依報・正報ともに変わっていくということは、正報の成仏により、非情の草木等の依報も成仏するのである。一枚の紙が御本尊に変わることを木画二像の成仏である。
―――
無非中道
摩訶止観の語。いかなる存在も真理である中道ならざるものはないこと。
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惑耳驚心
妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一の二の文。世人は、色香を無情といい、しかも中道の理をそなえることを認めるが、無情(非情)たる色香にも仏性があるというと、信じられずにただ耳を惑わし、心を驚かすばかりであるとの意。この世人とは、妙楽大師が華厳宗の澄観を破折して言ったもの。
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三国伝灯
インド・中国・日本の三国に仏法が流伝したこと。
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普賢開発の聖師
天台大師のこと。天台大師が大蘇山で普賢三昧の解悟をしたことからこういう。
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天真発明の権者
天台大師のこと。生来の資質が開き顕され、聡明であること。
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二十の大事
法華経が爾前の諸経に対し二十の勝れた特色があることを明かしたもの。妙楽大師の法華文句記巻四下にある十双歎のこと。
「今義に依り文に附するに略して十双有り以って異相を弁ず。
一、 二乗に近記を与え(方便品乃至人記品)、如来の遠本を開く(如来寿量品)。
二、 随喜は第五十の人を歎じ(随喜功徳品)、聞益は一生補処に至る(分別功徳品)。
三、 釈迦は五逆の調達を指して本師と為し(提婆達多品)、文殊は八歳の竜女を以って所化と為す(提婆達多品)。
四、 凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う(法師品)。経名を守護するに功量るべからず(法師品)。
五、 品を聞いて受持するは永く女質を辞し(陀羅尼品)、若し聞いて読誦するは老いず死なず(薬王品)。
六、 五種法師は現に相似を獲(法師功徳品)、四安楽行は夢に銅輪に入る(安楽行品)。
七、 若し悩乱する者は頭七分に破れ(陀羅尼品)、供養することある者は福十号に過ぎたり(法師品)。
八、 況や已今当の説は一代に絶えたる所(法師品)、其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す(薬王品)。
九、 地より涌出せるをば、阿逸多一人をも識らず(従地涌出品)、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず(妙音菩薩品)。
十、 況んや迹化には三千の塵点を挙げ(化城喩品)、本成には五百の微塵に喩えたり(如来寿量品)。
本迹の事の希なる諸経に説かず。斯くの如き等の文、経に準ずるに仍あり」とある。ただし、八項のなかの七喩について、大聖人は三種教相で十喩と改めている。
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沈輪
沈み、輪廻すること。
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仏道の彼岸
悟りの境地のこと。煩悩・業・苦に支配された迷いの境地を彼岸とし、解脱・涅槃の境地を意味する。
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衆生界
衆生の住む世界。また,人間界。現世。 ② 十界のうち仏界を 除く九界。
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無作本覚の三身
本来覚っている三身如来のこと。無始無終の仏身をいう。
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公場
公の場所。正式の席上。古来・仏法の正邪・勝劣・浅深を判ずる場所。国王・大臣が列席するなかで諸宗の学僧が法論を展開した。
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問註
①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
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成仏已来凡歴十劫
無量寿経巻上にある文。阿弥陀仏が成仏して已来、十劫を経ているということ。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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地涌千界
法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。
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別付属
法華経如来神力品第21における地涌の菩薩への付嘱のこと。
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八十万億那由佗の諸大菩薩
勧持品で、八十万億那由佗の不退の菩薩が八十万億那由佗の菩薩が仏に末法弘通の告勅を願い、いかなる難をも忍ぶと誓って、20行の偈を述べたものである。
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止善男子
「止みね善男子」と読む。涌出品の文。他方から来た過八万恒河沙大菩薩が滅後の弘教を請うが、釈尊は「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止したことを指す。
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前三後三の釈
法華経従地涌出品第十五で、釈尊が他方の菩薩の弘経の申し出を断り、本化の菩薩を呼び出した理由につき、天台大師の法華文句巻九上で三項目ずつ挙げている。これを前三義・後三義の六釈という。前三義は遮詮門で他方の菩薩の弘経を静止した理由、後三義は表詮門で地涌の菩薩を召し出した理由を明かしたもの。六釈を表示すると次のとおり。
前三の一、汝等各各に自ら己が任有り、若し此の土に住せば彼の利益を廃せん。
前三の二、他方は此土結縁の事浅し、宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん。
前三の三、若し之を許さば則ち下を召すことを得ず、下若し来らずんば迹を破することを得ず、遠を顕すことを得ず。
後三の一、是れ我が弟子なり、応に我が法を弘むべし。
後三の二、縁深広なるを以って能く此の土に遍して益し、分身の土に遍して益し、他方の土に遍して益す。
後三の三、開近顕遠することを得。
天台大師の前三後三の釈について、妙楽大師は法華文句記巻九で更に詳しく釈している。
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本章では爾前経にも得道があるとする諸宗の言い分をいかに破折するかを述べられている。
状に云く彼此の経経得益……やはか御坐候べきと
爾前経にも得道があるとの諸宗の主張に対しては、諸経の利益は不足である、と答えるよう教えられている。諸経にさまざまな利益があると説かれていたとしても、法華経の利益に比べれば全く問題にならないからである。
そして次に、法華経で説かれる利益の諸経に勝る点を一つ一つ挙げて諸宗を破折すべきである、と述べられている。
まず、諸宗の依経には釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の証明があるかと責めよ、と仰せである。
法華経には、方便品第二で釈尊自身が「要ず当に真実を説きたまうべし」と述べ、見宝塔品第十一で多宝如来が「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は……妙法華経を以って、大衆の為めに説きたまう……説きたまう所の如きは 皆な是れ真実なり」と証明しており、更に如来神力品第二十一に「諸仏救世者は……衆生を悦ばしめんが為めの故に 無量の神力を現じたまう 舌相は梵天に至り 身より無数(むしゅ)の光を放って 仏道を求める者の為めに 此の希有の事を現じたまう」と十方分身の諸仏が証明を加えているのである。
このような三仏の証明は、法華経にのみあることで、余経にそのような例はない。
開目抄に「大覚世尊・初成道の時・諸仏十方に現じて釈尊を慰諭し給う上・諸の大菩薩を遣しき、般若経の御時は釈尊・長舌を三千にをほひ千仏・十方に現じ給い・金光明経には四方の四仏現せり、阿弥陀経には六方の諸仏・舌を三千にををう、大集経には十方の諸仏・菩薩・大宝坊にあつまれり、此等を法華経に引き合せて・かんがうるに黄石と黄金と白雲と白山と白冰と銀鏡と黒色と青色とをば……邪眼の者は・みたがへつべし」(0194-13)と述べられているように、諸経にも仏・菩薩の一分の証明はあるが、法華経の三仏の証明に比べれば、その規模は比べものにならないのである。
したがって、三仏の証明の有無をもって、法華経と諸経の勝劣は明らかとなる。
次に六難九易何なる経の文……なんど立つ可し
第二に、法華経には仏滅後にこの経を受持することの難しさを、六難と九易とを対比することによって明かされているが、他のいかなる経にそのようなことが説かれているかと責めよ、と仰せである。
六難九易とは、六つの難しいことと九つの易しいことで、法華経の見宝塔品第十一に「諸余の経典は 数恒沙の如し 此れ等を説くと雖も 未だ難しと為すに足らず若し須弥を接って 他方の 無数の仏土に擲げ置かんも 亦た未だ難しと為さず……若し仏の滅度して 悪世の中に於いて 能く此の経を説かば 是れは則ち難しと為す」等と説かれており、九易といっても普通では大難事であるが、法華経受持に比べればはるかに容易なことであるとされているのである。
そのように法華経を受持することが難しいとされているのは、法師品第十に「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり……我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあるように、法華経が一切経のなかで最第一であるために、最も難信難解であり、受持することが難事となるのである。
大聖人は、後世に作られた偽経は別にして、釈尊五十年の説法のなかで、六難九易のようなことは法華経にしか明かされていないではないか、と諸宗を破折するよう教えられているのである。
五百塵点の顕本之有りや……況や五百三千をや
第三に、法華経に説かれている五百塵点劫の顕本や、三千塵点劫の結縁、一念信解の功徳、五十展転の功徳などは、他のどの経文に説いているかと責めよ、と仰せである。
五百塵点劫の顕本とは、法華経の如来寿量品第十六に、釈尊の五百塵点劫成道という久遠の本地が顕されていることをいい、「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」、「我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れ自従り来、我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」等と説かれている。
爾前の諸経が、釈尊はインドに生まれて修行し、はじめて正覚を成じたと説いているのに対して、法華経で久遠の本地が顕されたことにより、爾前経の始成正覚の法門が打ち破られて、久遠からの本因本果の法門が明確にされたのである。
開目抄に「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」(0197-15)と述べられているように、釈尊の久遠の本地を顕したことこそ、法華経が他の一切経に勝る点なのである。
三千塵点の結縁とは、法華経化城喩品第七に、釈尊在世の声聞が三千塵点劫の昔に大通智勝仏の第十六王子から法華経を聞いて結縁したと明かされていることをいい、「時に十六王子は 出家し沙弥と作って……無量億の衆の為めに 仏の無上慧を説く 各各法座に坐して 是の大乗経を説き……彼の仏の滅度の後是の諸の法を聞きし者は 在在の諸仏の土に 常に師と倶に生ず」等と説かれている。
そのように、三千塵点劫という長遠の昔からの釈尊との結縁を説いている経も法華経以外にはない。そのために天台大師は、化城喩品で化導の始まりを明かしたことを三種の教相の第二の「化導の始終不始終の相」と立てて、法華経が諸経のなかで第一であると判じているのである。
一念信解とは、法華経の分別功徳品第十七に、寿量品で説かれた仏の寿命の長遠であることを聞いて、一念に信解を生じた功徳が無量であると明かしたことをいい、「其れ衆生有って、仏の寿命の長遠なること是の如くなるを聞き、乃至能く一念の信解を生ぜば、得る所の功徳は、限量有ること無けん。若し善男子・善女人有って、阿耨多羅三藐三菩提の為めの故に、八十万億那由他劫に於いて、五波羅蜜を行ぜん……是の功徳を以て、前の功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばず、乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり」等と説かれている。
一念信解とは、法華経の信心修行の位のうち最初の初信の位をいう。法華経に対して一念に信解を起こしただけでその功徳は無量であり、爾前経の修行である布施・戒・忍辱・精進・静慮の五波羅蜜を八十万億那由他劫もの間行じた功徳の百千万億倍であるとされている。これは、法華経がいかに諸経に勝れているかを示している。
なお、末法における一念信解とは、四信五品抄に「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分(けぶん)と為すなり」(0340-09)と述べられているように、南無妙法蓮華経を信じて行学に励むことである。
五十展転の功徳とは、法華経の随喜功徳品第十八に、仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の功徳をいい、「如来の滅後に、若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、及び余の智者の、若しは長若しは幼は、是の経を聞いて随喜し已って……其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん。余の人は聞き已って、亦た随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん……一切の楽具を以て、四百万億阿僧祇の世界の六趣の衆生に施し、又た阿羅漢果を得せしめん。得る所の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かず、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり……是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況や最初、会中に於いて聞いて随喜せん者をや。其の福は復た勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶることを得可からず」と説かれている。
そのように、法華経を人から人へと伝え聞いた五十番目の人の随喜した功徳さえ無量なのであるから、最初に聞いた人の功徳はどれほど大きいか分からないのである。聞いて随喜しただけでそれほど大きい功徳があるということは、法華経があらゆる経に勝れていることを示している。
それに対して、余経には五十展転の功徳どころか、一、二転の功徳さえも説かれてはいないし、五百塵点劫、三千塵点劫どころか、釈尊は今世に始めて成仏したという始成正覚を説いているにすぎない。したがって、これらの法門の有無をみただけで、法華経と諸経の勝劣は明らかなのである。
二乗の成不成・竜畜……釈し給はんや
第四に、二乗の成仏、畜生の竜女の即身成仏を説いているのは法華経に限られており、華厳・般若などの諸大乗経にも説かれてはいないと責めよ、と仰せである。
法華経の方便品第二から授学無学人記品第九に至る八品には声聞・縁覚の二乗の成仏が説かれ、提婆達多品第十二では畜生である竜女の成仏が説かれている。これは華厳経や般若経等の諸大乗経にも説かれることはなく、法華経にきて初めて明かされたものなので、諸経と法華経の勝劣の大きな理由の一つとなるのである。
天台大師は法華玄義巻六に「譬えば、良医の能く毒を変じて薬と為すが如く、二乗の根敗反た復すること能わず。之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは、即ち是れ毒を変じて薬と為す。故に論に云く余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり」と述べており、爾前の諸経で永不成仏と定められていた二乗に法華経で成仏の記を授けたのは、毒を変じて薬としたようなものであり、法華最勝を示しているとしている。
また、開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」(0223-07)と述べられている。
二乗作仏や竜女の成仏をもって法華最勝とした天台大師の義は、弘法や慈覚が立てた経典に文も義もない勝手な邪義とは異なり、仏説によった有文有義なのである。天台大師は「若し深く所以ありて、復修多羅と合する者は、録して之を用う。無文無義は信受す可からず」とも「文証無き者は悉く是れ邪謂」とも述べているように、あくまでも法華経の文理をもって余経に勝れているとしたのである。
第五に、悪人の提婆達多が天王如来として成仏することが他経に説かれているかと責めよ、と仰せである。
法華経の提婆達多品第十二には「提婆達多は却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号づけて天王如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と曰わん。世界を天道と名づけん」と説かれている。
この提婆達多が未来に成仏を許されたことの意義を、開目抄には「提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり」(0223-05)と述べられている。
そのように悪逆の提婆達多の成仏が説かれたことは、順縁・逆縁ともに成仏させうる法華経の力の大きさを示すものとなっている。
第六に、今まで挙げてきた難問を差し置いて、十法界の開会や草木成仏がいかなる経にあるかと責めよ、と仰せである。
十法界の開会とは、十界の一切衆生が妙法蓮華経の当体であることを明かされたことをいう。すなわち、十界すべてが仏界を具えている十界互具が明らかになったことであり、天台大師は十界互具を基盤にして一念三千の法門を展開したのである。
観心本尊抄には十界互具の文証として「法華経第一方便品に云く『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く『是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり』等云云此の経文は仏界所具の九界なり」(0240-05)等と述べられている。
十界互具によって、九界の迷いの凡夫の生命にも仏界が具わっており、だれびとたりとも成仏できることが明かされたのであって、たとえ爾前の諸経において衆生の成仏が説かれていたとしても、十界互具が明らかにならなければ、真の成仏の義は具わらず、有名無実となるのである。
草木成仏とは、草木や国土等の非情が成仏することで、天台大師が立てた一念三千の法門にその義が明かされている。それも法華経にその実義があるのである。
天台大師は摩訶止観に「一色一香も中道に非ざること無し」と説き、妙楽大師は止観輔行伝弘決で「然るに亦共に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と述べており、法華経にその実義があるからこそ草木成仏の深義をそのように釈したのであり、経論に依らずに勝手に立てた弘法や慈覚等の邪義と異なるのである。
彼れ彼れの経経に何なる……大事之に如かず
第七に、法華経には二十の大事があるが、諸経にはどのような大事が説かれているかと責めよ、と仰せであり、なかでも釈尊の五百塵点劫の昔の本地を顕した寿量品にはいかなる法門が説かれていると思うのか、我ら凡夫を無作本覚の三身如来とする一念三千の極理が説かれているのであり、このような法門は余経に明かされているか、と、このように浅深・勝劣を明確に立てるべきである、と述べられている。
二十の大事とは、十双歎ともいい、法華経と諸経を比較相対し、法華経に十種の勝れた特色があることを讃えた法門のことで、妙楽大師の法華文句記に説かれており、その第二十に法華経の本門寿量品の五百塵点劫成道を挙げている。
法華取要抄には「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り、其の中最要二有り……教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり……此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり……有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く……寿量品に云く『我も亦為(こ)れ世の父・狂子を治する為の故に』等云云」(0332-10)と述べられている。
寿量品において釈尊の久遠の本地が明かされたことにより、所化の衆生も久遠以来の釈尊結縁の衆生であることが明かされ、凡夫の身が釈尊と同じく本覚の三身如来と或ることが可能になるのである。
しかし大聖人は、この諸経と法華経との勝劣の法門は、公場対決の場でなければ、論じてはならないと厳しく戒められている。公場においてでなく、軽々しく論ずるならば三世の諸仏の罰を受けるだろうとされ、これは大聖人の内証の法門だからであると述べられている。
三沢抄にも「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489-07)と述べられているように、その内容が諸宗に知られて、対決を避けるようなことがあってはならないとの御配慮であろう。
更に大聖人は、法華経に説かれるこのような法門が大日経に説かれているか、また五百塵点劫や三千塵点劫の昔の結縁を明かした法門と、浄土の三部経のなかの無量寿経巻上に「阿難また問いたてまつる。『其の仏成道より已来、いくばく時を経とやせん』。仏の言く、『成仏してより已来、凡そ十劫を歴たり……』」と説かれていることが比べものになるかどうかと責めよ、と仰せである。
無量寿経では法蔵比丘が四十八願を立てて歴劫修行の後に正覚を成じて阿弥陀如来となってから今まで、およそ十劫を過ぎていると説いているが、題目弥陀名号勝劣事に「三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ」(0115-15)と述べられている。御文の「三の巻」とは法華経化城喩品である。法華経化城喩品第七の意によれば、阿弥陀如来も大通智勝仏の十六王子の一人であり、法華経によって成道したのである。
そのように筋道を立てて一つ一つ破折していくよう教えられたうえで、その後に言い切るべきことは、このように法華経が素晴らしい経だからこそ多宝如来や十方分身の諸仏が来集して真実との証明を加えたのであり、また、その弘教の使命も八十万億那由他の菩薩を断って、地涌千界にのみ別付嘱されたのである、と仰せである。
法華経の従地涌出品第十五に、八恒河沙の他方の菩薩が、仏の滅後の弘通を誓願したのに対して「爾の時、仏は諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、『止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り……是の諸人等は、能く我が滅後に於いて、護持し読誦し、広く此の経を説かん』」と制止して地涌の菩薩を呼び出し、如来神力品第二十一において法華経の肝要を地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱しているのである。
涌出品では過八恒沙の他方の菩薩の申し出を断って本化地涌を召し出したのであるが、ここで断られたのは他方の菩薩だけでなく、すでに勧持品第十三で申し出た八十万億那由他の迹化の菩薩も含まれている。それゆえ、今、御文で「八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか」と述べられたのである。
大聖人は更に、そのようにいえば邪宗の者どもが必ずその文証を尋ねるだろうから、そのときには法華経の従地涌出品第十五の文や法華文句や法華文句記に述べられている迹化他方の菩薩を止めた理由の三義と本化の菩薩を召し出した理由の三義の釈を出すべきである、と仰せである。
前三後三の釈とは、娑婆世界における他方の菩薩の弘通の願いを制止し、地涌の菩薩を召し出す理由をそれぞれ三つずつ挙げたもので、天台大師が法華文句巻九で立てたものである。
それによると、他方の菩薩の弘法を制止する理由は、①他方の菩薩はそれぞれの土において自己の任務がある、②他方の菩薩は娑婆世界との結縁が浅い、③他方の菩薩に弘法を許せば地涌の菩薩を召し出すことができず、迹を破して久遠を顕すことができなくなる、の三つで、これを前三義としている。
地涌の菩薩を召し出す理由は、①地涌の菩薩は久遠の仏の本眷属である、②地涌の菩薩は娑婆世界に結縁深厚である、③地涌の菩薩を召し出すことによって開近顕遠することができる、の三つで、これを後三義としている。
なお、日寛上人は三重秘伝抄に、天台大師のこの立て方では迹化の菩薩と他方の菩薩の立て分けが未だ明確ではないとされ、他方と本化についての前三後三、迹化と本化についての前三後三の十二釈が明かされている。
なお、御文で「但日蓮が門家の大事之に如かず」と仰せになっているのは、この本化地涌の菩薩として末法に妙法を弘通していくのが「日蓮が門家」だからであるという意味からであろう。
1281:05~1281:10第八章自法愛染との非難を破すtop
| 05 又諸宗の人・大論の自法愛染の文を問難とせば、大論の立所を尋ねて後・執権謗実の過罪をば竜樹は存知無く候 06 いけるか、「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」と仰せられ・譬如大薬師と此の経計り成仏の種子と定めて・又悔い返 07 して「自法愛染・不免堕悪道」と仰せられ候べきか、 さで有らば仏語には「正直捨方便・不受余経一偈」なんど法 08 華経の実語には大に違背せり、 よもさにては候はじ、若し末法の当世・時剋相応せる法華経を謗じたる弘法・曇鸞 09 なんどを付法蔵の論師・釈尊の御記文にわたらせ給う菩薩なれば 鑒知してや記せられたる論文なるらん、 覚束無 10 しなんどあざむくべし、 御辺や不免堕悪道の末学なるらん痛敷候、未来無数劫の人数にてや有るらんと立つ可し。 -----― また、もし諸宗の人々が大智度論の「自法愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」の文を挙げて問難してきた場合には、まず大智度論がどういう文脈でこれを述べているかを反問して、後に「竜樹は権教に執着して実教を謗る罪を知らなかったのであるか」と言うがよい。竜樹は「余経は秘密に非ず、法華是れ秘密」と仰せられ、大智度論の百の巻に「譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」と法華経だけを成仏の種子であると定められているのに、また、それを悔いて「自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と仰せられたのであろうか。もしそうであるならば、仏の言葉に「正直に方便を捨て」、「余経の一偈をも受けざれ」等の法華経の真実の言葉に大いに違背していることになる。よもやそのようなことはあるまい。 「竜樹は付法蔵の論師であり、釈尊からその出現を予言された菩薩であるから、末法の今の世で、時刻の相応した法華経を誹謗している弘法や曇鸞などをあらかじめ察知して記しおかれた文であるかもしてない」と嘲弄してやるがよい。 「貴辺こそ、『悪道に堕すことを免れざる』末学となるであろう、なんともかわいそうでならない。未来無数劫の間、地獄を出られない人であろう」と逆に言ってやるがよい。 |
大論
大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。
―――
自法愛染
自分の持つ教法に愛着すること。愛染は自分のものに執着することをいう。
―――
執権謗実
爾前権教に執着して実教を謗ること。
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譬如大薬師
大智度論巻100に「譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」とある。
―――
自法愛染・不免堕悪道
大智度論巻1に「自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」とある。
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不受余経一偈
法華経譬喩品第3の文。「余経の一偈をも受けざれ」と読む。真実の大乗経典である法華経のみを信じて、それ以外の一切の経典の一偈・一句をも信受してはならないということ。
―――
付法蔵の論師
釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者。
―――
論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――
鑒知
真偽・勝劣などを照らし見分けること。
―――――――――
次に、竜樹造とされる大智度論に、自らの信ずる法に執着して他の信ずる法を排斥すると地獄の苦を免れないとある文によって、法華経の立場から諸宗諸経を破折することを非難された場合の反論の仕方を教えられている。
「大論の自法愛染の文」とは、大智度論巻一に「復次に、一切の諸の外道の出家は心に念えり、『我が法は微妙第一清浄なり』と。是くの如き人は自ら所行の法を歎じ、他人の法を呰毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕して、種種無量の苦を受く。偈に説くが如し。『自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず』と」とあることをいい、「一切の諸の外道の出家」が自らの法を賛美して、他人の法をけなし罵ることを戒めたものである。
法華経との勝劣のうえから、文証・理証・現証を挙げて厳しく破折された当時の諸宗が、苦しまぎれに自法愛染の文を持ち出して大聖人を批判したのであろう。
それに対して大聖人は、まず大智度論で竜樹が何に対して「自法愛染」と説いたかを明らかにしなければならないとされ、権教に執着して実教である法華経を誹謗する罪を竜樹が知らないわけがない、と仰せである。
その証拠として、同じ大智度論に「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」と述べており、秘密とは人に容易に知られない内容の深い法門の意で、法華経が秘密とされるのは爾前経で永不成仏とされていた二乗が成仏の記別を受けたことをさしている。
また、同じく大智度論に「譬如大薬師」すなわち「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而して法華等の諸経は阿羅漢の決を受けて作仏することを説き、大菩薩は能く受持して用う。譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」とあり、法華経を大薬師に譬えて、爾前では救われない重症の二乗の毒を変じて薬とする最高の教えであることを示している。
それらの文から、竜樹は法華経だけが二乗の成仏を説いた一切衆生の成仏得道の種子であると定めていたことは明らかである。したがって、勝れた法華経の立場から劣る諸経を破折することを、竜樹が自法愛染であり悪道に堕ちるなどというはずがない。
もしもそうした破折を自法愛染とするならば、それは法華経の方便品第二に「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とあり、譬喩品第三に「但だ楽って 大乗経典を受持し 乃至 余経の一偈をも受けずば」と説かれている仏の金言に背くことになるのである。
竜樹は、むしろ、法華経を誹謗して戯論と下した弘法や、法華経を難行道であるとして排斥した曇鸞などが未来に出現することを予知して、そうした自法愛染の者は、悪道に堕ちると戒めたと考えられるのである。
したがって、正法によって破折する人を「自法愛染」の文をもって非難する者に対して、汝らこそ竜樹のいうように未来無数劫の間、地獄の苦を免れないであろうと責めよ、と仰せられている。
法華経以外の諸経に執着して法華経を信ぜず誹謗する者こそ「自法愛染・不免堕悪道」の者なのである。
1281:11~1282:09第九章律宗の良観の邪義を破すtop
| 11 又律宗の良観が云く法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く、 忍性年来歎いて云く当世日蓮法師と云える者世に在 12 り斎戒は堕獄す云云、 所詮何なる経論に之有りや是一、又云く当世日本国上下誰か念仏せざらん念仏は無間の業と 13 云云、是れ何なる経文ぞや慥なる証文を日蓮房に対して之を聞かん是二、 総じて是体の爾前得道の有無の法門六箇 14 条云云、然るに推知するに極楽寺良観が已前の如く日蓮に相値うて宗論有る可きの由ノノシる事之有らば目安を上げ 15 て極楽寺に対して申すべし、 某の師にて候者は 去る文永八年に御勘気を蒙り佐州へ遷され給うて後・同じき文永 16 十一年正月の比御免許を蒙り鎌倉に帰る、 其の後平金吾に対して様様の次第申し含ませ給いて 甲斐の国の深山に 17 閉篭らせ給いて後は、 何なる主上・女院の御意たりと云えども 山の内を出で諸宗の学者に法門あるべからざる由 18 仰せ候、 随つて其の弟子に若輩のものにて候へども師の日蓮の法門・ 九牛が一毛をも学び及ばず候といへども法 1282 01 華経に付いて不審有りと仰せらるる人 わたらせ給はば存じ候なんど云つて、 其の後は随問而答の法門申す可し、 02 又前六箇条一一の難門・兼兼申せしが如く 日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず、 彼れ彼れの経経と法華経と 03 勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、 04 まして権宗の者どもをや、 法華経と申す大梵王の位にて民とも下し 鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を 05 得て宗論すべし。 -----― また、律宗の良観がかつて法光寺殿(北条時宗)に「忍性、近頃嘆くことは、日蓮法師というものが世にあり、『戒律を持つ者は地獄に堕ちる』と言っていることです。これは、いったいいかなる経論にあるのか。これ第一の不審であります。また、当世、日本国の上下万人でだれが念仏をしない者があるでありましょうか。そうであるのに、『念仏は無間地獄の業因』と言っている。これはどの経文にあるのか、確かな文証を日蓮房にただしたい。これ第二の不審であります」等と、法華経以前の諸経によって得道ができるか否かの法門六か条について訴状を送ったことがある。 もし、極楽寺良観が今でも日蓮に会って法論をするというのであるならば、幕府へ訴状を差し出して良観に言うがよい。「某の師匠である日蓮大聖人は、去る文永八年に幕府の御咎めを蒙って佐渡へ流され、その後、同じ文永十一年正月の頃、御赦免を蒙り鎌倉に帰ってこられた。その後、平左衛門尉頼綱に対して、さまざまなことを申し含められて、甲斐の国の深山である身延山に閉じこもられてからは、『たとえ天子や皇后の御召しであっても、山中を出て、諸宗の学者と法論をすることはしない』と仰せられている。日蓮聖人の若輩の弟子ではあり、師の日蓮聖人の法門を九牛の一毛も学んではいないが、法華経について不審があると言われる人がおられるならば、及ばずながらお答えしよう」と言って、その後は問いにしたがって法門を申すがよい。 また、かの六か条の難問については、かねがね申したとおりである。日蓮が弟子等は臆病であってはならない。彼らの依経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずるときは、爾前迹門の釈尊であっても物の数ではない。いわんやそれ以下の等覚の菩薩などいうまでもない。ましてや、権宗の者どもにおいておやである。法華経という大梵王の位にいるのであるから、彼らを民とも下し、鬼畜などと下しても、あえて誤りではないと信じて宗論をするがよい。 -----― 06 又彼の律宗の者どもが破戒なる事・山川の頽るるよりも尚無戒なり、 成仏までは思もよらず人天の生を受くべ 07 しや、 妙楽大師云く「若し一戒を持てば人中に生ずることを得若し一戒を破れば還て三途に堕す」と、 其の外斎 08 法経・正法念経等の制法・阿含経等の大小乗経の斎法斎戒・ 今程の律宗忍性が一党誰か一戒をも持てる還堕三途は 09 疑無し、 若しは無間地獄にや落ちんずらん不便なんど立てて・宝塔品の持戒行者と是をノノしるべし、 -----― また、かの律宗の者どもの戒律を破ることは、山川の崩れることよりもなお甚だしい。成仏など思いもよらず、人天に生まれることもできない。妙楽大師は「若し一戒を持てば人中に生ずることを得、若し一戒を破れば還って三途に堕す」と言われている。 「今の律宗の良観の一門で、斎法経、正法念経等に定められている戒律や、阿含経等の大小乗経の斎法、斎戒の一戒をも持っている者があるか。『還って三途に堕す』は疑いないのである。あるいは無間地獄に堕ちるかもしれない。不憫なことである」と言って、法華経見宝塔品第十一の「此の経は持ち難し。若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたまう所なり。是れは則ち勇猛なり。是れは則ち精進なり。是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」との経文を挙げて、彼らを難ずべきである。 |
律宗
戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする宗派。中国では、四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣が開いた南山宗がある。日本では南山宗を学んだ鑑真が天平勝宝6年(0754)に来朝し、奈良の東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。さらに下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本の僧尼は、この三か所のいずれかで受戒することになった。律宗は平安時代には次第に衰微し、鎌倉時代に一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
良観
(1217~1303)。鎌倉時代の律宗の僧。良観は法号で、名を忍性という。建保5年(1217)、大和国(奈良県)に生まれた。十歳で信貴山にのぼり、修行。24歳で奈良西大寺の叡尊の弟子となり、具足戒を受けた。のちに関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。また文永8年(1271)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こした。大聖人に終始敵対し、大聖人門下にも種々の迫害を加えた。
―――
法光寺殿
(1251~1284)。鎌倉幕府第八代執権・北条時宗のこと。法光寺は出家時の法号。第5代執権・時頼の嫡子。相模守であったことから守殿とも呼ばれた。母は北条重時の娘。幼名は正寿。相模太郎と称した。文永元年(1264)に連署となり、翌年、相模守となる。文5年(1268)3月に執権となった。たび重なる蒙古の牒状、二度の元寇という国家の危機の中で、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、中国・宋から無学祖元を招聘して円覚寺を創建した。弘安7年(1284)4月4日、病床にあった時宗は無学祖元の手で落髪し、法光寺道杲の法号を授けられ、同日に逝去した。
―――
訴状
訴えの趣旨を記載した文章。
―――
斎戒
祭祀を前に心身を清め,禁忌を犯さないようにすること。心のけがれを清めることを斎といい,身のあやまちを禁じることを戒という。
―――
念仏は無間の業
念仏を信ずる者は地獄のなかで最も恐ろしい無間地獄に堕ちるとの意。業とは、身口意の所作のすべてをいい、善業・悪業がある。ここでは、悪業をさし、無間地獄に堕ちるべき業因、すなわち、念仏を信ずることをいう。念仏は一般に浄土宗といわれ、日本における開祖は法然で、依経とするのは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経である。この娑婆世界を穢土と嫌い、信仰の目的は来世に極楽浄土に生まれることであると説く。そして釈尊の一切経を聖道門と浄土門、また難行道と易行道に分け、法華経は聖道門の難行道であるから「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」といい、浄土宗のみ浄土門の易行道で、成仏の宗であるという邪義を立て、法華経を誹謗した。この故に大聖人は、法華経譬喩品第三の「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人は命終して阿鼻獄に入らん」の文をもって念仏無間と破折されたのである。
―――
爾前得道の有無の法門六箇条
文永8年(1271)7月、浄土宗の行敏が日蓮大聖人に法論を申し入れた時、その訴状の中に記されている六か条。①八万四千の教乃至一を是とし諸を非とする理豈に然るべけんや。②法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す。③法華前説の諸経は皆是れ妄語なり。④念仏は無間の業。⑤禅宗は天魔波旬。⑥大小の戒律は世間誑惑の法。
―――
宗論
①経を総括して法義を立てて、宗旨とすること。②宗派間の論議のこと。勝劣・真偽を決定する法論。
―――
目安
①目当て・標準。②箇条書きの文書・形式。
―――
御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
―――
佐州
新潟県佐渡島のこと。北陸道七国のひとつ。
―――
平金吾
(~1293)。平左衛門尉頼綱のこと。金吾は左衛門尉の唐名。執権北条時宗・貞時の二代に仕え、北条得宗家の家司(執事)、また侍所の所司(次官)として軍事・警察・政務を統轄し、鎌倉幕府の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛など諸宗の僧と結びつき、文永8年(1271)9月12日、軍勢をつれて日蓮大聖人を松葉ヶ谷の草庵に襲い、夜半、竜の口で頸を斬ろうとしたが果たせず、佐渡に流罪した。文永11年(1274)4月8日、佐渡から帰られた大聖人と対面し、蒙古の来襲の時期を尋ねているが、大聖人の諌暁を用いることはなかった。弘安2年(1279)には捕えられて鎌倉へ連行されてきた熱原の農民信徒に拷問を加え、3人を斬殺、他を追放処分にしている。弘安7年(1284)貞時が執権となった時、内管領となり、翌年、評定衆の秋田城介の安達泰盛を滅ぼし(霜月騒動)、権力を独占した。しかし永仁元年(1293)4月、長男・宗綱の訴えにより、貞時によって次男の資宗と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡流罪となった。
―――
甲斐の国の深山
山梨県南巨摩郡身延町波木井。大聖人はこの地で文永11年(1274)~弘安5年(1282)までお住まいになられている。
―――
主上
天皇の尊称。
―――
女院
天皇の生母・准母・三后・内親王などで、朝廷から「院」または「門院」の称号を受けた女性。待遇は上皇に準じた。孝明天皇の生母を最後に、女院の称は廃絶した。
―――
御意
相手を敬っていう語。おぼしめし。お考え。
―――
九牛が一毛
「九牛」の「九」は具体的な数字ではなく、数が多いという意味。多くの牛の中のたった一本の毛という意から、たくさんある中のきわめてわずかな部分のことをいう。また、取るに足りないこと。司馬遷が友人の任安に宛てた手紙に「たとい僕、法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡うが若し(私が罪によって殺されたとしても、それは九牛が一毛を失った程度のこと)」とあるのに基づく。
―――
随問而答
相手の疑問・質問に対して答えること。問答形式のひとつ。相手の問いに答えて法を明らかにしていくこと。
―――
爾前迹門の釈尊
法華経本門以前に説かれた始成正覚の釈尊のこと。
―――
等覚の菩薩
仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。
―――
大梵王
大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
―――
三途
死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。
―――
斎法経
どの経をさすかは不明。
―――
正法念経
『正法念処経』のこと。70巻。東魏の瞿曇般若流支訳。六道生死の因果を観じ、これを厭離すべきことを説く。
―――
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
宝塔品の持戒行者
法華経見宝塔品大11に説かれる持戒の行者。法華経を受持する人のこと。
―――
宝塔品
妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
―――――――――
次に、極楽寺良観が執権北条時宗へあてて出した日蓮大聖人を誹謗する訴状の内容を挙げられて、良観と対決する場合の心がけを教えられている。
良観は真言律宗を創めた奈良・西大寺の叡尊の弟子で、建長4年(1252)に関東へ下り、弘長元年(1261)には鎌倉へ入って律宗を弘めた。
北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、北条長時は極楽寺の開山に招いている。良観は幕府の権力者と結んで大きな勢力をもち、貧民救済のための医療施設を設けるなど社会事業に力を注いだが、その反面で一貫して日蓮大聖人に怨嫉し、とくに文永8年(1271)の祈雨の勝負に破れたときは、大聖人を幕府に讒言して竜の口法難、佐渡流罪の原因をつくった。
「法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く」とは、妙法比丘尼御返事に「戒を持ちながら悪心をいだく極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ」(1416-16)と述べられているように、竜の口法難のまえに執権北条時宗へ提出した訴状の内容と思われる。
その内容は「斎戒は堕極す云云、所詮何なる経論に之有りや……念仏は無間の業と云云、是れ何なる経文ぞや慥なる証文を日蓮房に対して之を聞かん」というものであった。もとより大聖人は、常に経文の証拠を挙げて破折しておられたのであり、良観もそれを知っていたが、大聖人があたかも経文になんの根拠もなくて諸宗を誹謗しているような印象を与えようと讒訴したものであろう。
その反面で良観は、本抄の最後に「彼の良観が・日蓮遠国へ下向と聞く時は諸人に向つて急ぎ急ぎ鎌倉へ上れかし為に宗論を遂げて諸人の不審を晴さんなんど自讃毀他する由其の聞え候……又日蓮鎌倉に罷上る時は門戸を閉じて内へ入るべからずと之を制法し或は風気なんど虚病して罷り過ぎぬ」と述べられているように、卑劣な虚勢を張りながらも、大聖人と対決することを臆病なまでに避け続けていたのである。
また「爾前得道の有無の法門六箇条」とは、文永8年(1271)7月に、浄土宗の僧・行敏が日蓮大聖人に対して法論対決を申し入れた訴状について、そのなかの問難を一つ一つ破折された行敏訴状御会通のなかで「八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈に然る可けんや」(0180-04)「法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す」(0180-08)「法華前説の諸経は皆是れ妄語なりと」(0180-12)「念仏は無間の業と」(0180-15)「禅宗は天魔波旬の説と」(0181-05)「大小の戒律は世間誑惑の法と」(0181-07)と、行敏が大聖人の主張として挙げた内容が述べられているが、それをさしたものとも考えられる。それらの破折は、行敏訴状御会通に詳しく述べられている。
然るに推知するに……意を得て宗論すべし
大聖人は、極楽寺良観が大聖人と対決して法論をしたいなどと言い触らしているのなら、幕府へ訴状を提出して公場で対決し、次のように述べよ、と仰せになっている。
私の師である日蓮大聖人は、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰り、平左衛門尉を諌めて用いられなかったため、国を去って甲斐国身延の山中に引退しており、その後はだれの命令があっても山を出ることはないので、その弟子にあたる私は若輩であり師の法門も十分に学んではいないが、法華経について不審があると言われる人がいればお答えしようと言い切って、その後は相手の問いに応じて答えていけ、と仰せである。
そして「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と仰せられ、「彼れ彼れの経経と法華経と勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや」との大確信をもって臨むよう教示されている。
諸経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずる場合の法華経の行者の立場は、たとえ相手が爾前経や迹門の教主釈尊でさえも物の数ではなく、ましてそれ以下の等覚の菩薩などは問題ではなく、そうなれば権教権宗の者どもなどは全く相手にはならない、との仰せである。
これは別しては久遠元初の自受用身の再誕であり末法出現の御本仏であられる日蓮大聖人の御立場であるが、総じていえば、四信五品抄に「汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将(は)た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(0342-06)と仰せのように、大聖人門下の立場であり、確信でなければならない。
ゆえに「法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得」て法論すべきであると仰せられている。
これは諸宗を信ずる者を直しに卑しんで鬼畜とみるという意味ではなく、法華経を信ずる者の位を娑婆世界の主である大梵天王とするなら、爾前権教による諸宗の者は民であり鬼畜にあたると下しても言い過ぎではないとの意であり、更に邪宗邪義によって人々を不幸にする良観等の輩はまさに鬼畜といってもいいであろう。邪宗邪義と対決するときには、そのような大確信に立って堂々と破折することが大切であるとの御教示である。
又彼の律宗の者どもが破戒……是を訇しるべし
更に大聖人は、戒律を守ると称している律宗の者達は、実は破戒であり無戒であって、そのために地獄に堕ちるだろう、と現証のうえから律宗を破折されている。
そもそも末法に小乗の戒律を守ることは全く無益であるばかりでなく、とうてい不可能なのである。そのため伝教大師は末法燈明記のなかで「「設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可けん」と述べて、市の中に虎がいるわけがないように、末法に持戒の者などいるはずがないと明かしているのである。
良観をはじめとする当時の律宗の僧などが、戒律を守るといいながら戒を破っている状態は、山や川が崩れるよりも甚だしく、成仏することなど思いもよらないばかりか、人界・天界に生まれることさえも難しいであろう、と破されている。
その実態については聖愚問答抄で「極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり……我深く良観上人の如く及ばぬ身にもわろき道を作り深き河には橋をわたさんと思へるなり、其の時居士・示して云く汝が道心貴きに似て愚かなり、今談ずる処の法は浅ましき小乗の法なり……上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(0475-13)と偽善ぶりを鋭く指摘されている。
一戒を持てば人界に生じることができるが、一戒でも破ればかえって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるとした妙楽大師の言によれば、破戒を重ねる良観の一党の律僧が三悪道に、あるいは無間地獄に堕ちることは疑いないのである。
そのように律僧を責めたうえで、法華経見宝塔品第11の「此の経は持ち難し。若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたまう所なり。是れは則ち勇猛なり。是れは則ち精進なり。是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」とある文を挙げて、法華経の受持こそ真の持戒であると強く言い切るよう教えられている。
そして、受持即持戒の義について、次の章に詳しく述べられている。
1282:09~1282:16第十章末法の金剛宝器戒を明かすtop
| 09 其の後良有 10 つて此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて 五字と為せり、 此の五字の内 11 に豈万戒の功徳を納めざらんや、 但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず 是を金剛宝器 12 戒とや申しけんなんど立つ可し、 三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成ら 13 せ給ふ、 此れを「諸教の中に於て之を秘して伝へず」とは天台大師は書き給へり、 今末法当世の有智・無智・在 14 家・出家・上下・ 万人此の妙法蓮華経を持つて説の如く修行せんに豈仏果を得ざらんや、さてこそ決定無有疑とは 15 滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり、 三仏の定判に漏れたる権宗の人人は決定して無間なるべし、 是く 16 の如くいみじき戒なれば爾前・迹門の諸戒は今一分の功徳なし、功徳無からんに一日の斎戒も無用なり。 -----― その後しばらくして、「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろう。この万行万善の妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒という」などと言うがよい。三世の諸仏はこの妙戒を持って法身・報身・応身ともに無始無終の仏になられたのである。このことを天台大師は「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と書かれたのである。 末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあろうか。そうであるからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「是の人は仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」と定められているのである。釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏とこの三仏の定判に漏れた権宗の人々は間違いなく無間地獄であろう。 このように金剛宝器戒は貴い戒であるから、爾前・迹門の戒は、今一分の功徳もないのである。功徳がないのであるから、一日の斎戒も無用なのである。 |
金剛宝器戒
金剛の宝器のように、堅固で壊れることのない戒のこと。金剛宝戒、金剛不壊戒ともいう。法華経の円頓戒をいうが、広くは大乗戒をもいった。梵網経巻下に「金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性の種子なり」とあり、伝教大師の一心金剛戒体秘決巻上には「一切衆生の無始の心中に皆性徳本有の金剛宝戒あり、性徳本有の戒の中に本来無作の三身あり……是の性徳本有無作の三身を性徳本有の金剛宝戒と名づけ、円頓の戒体と為す」とある。末法今時では南無妙法蓮華経の御本尊を信受して無作三身如来の戒体をあらわすことが金剛宝器戒であり、これに一切の戒および功徳が含まれる。
―――
無始無終の仏
始めもなく終わりもない三世にわたる常住不滅の仏。久遠元初の自受用法身如来。
―――
有智
仏法に通達し解了している者。
―――
無智
仏法を理解していない在家の人。
―――
在家
①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
―――
出家
世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
―――
決定無有疑
神力品総結の文「我が滅度の後に於いて、斯の経を受持すべし、是の人仏道に於いて、決定して疑あることなけん」とある。御本尊を受持するならば、仏になること疑いないとの御文である。
―――――――――
律僧の持つ戒の無力さを指摘したうえで、真実の戒は法華経本門の肝心である妙法蓮華経の五字を持つことであり、これこそ金剛宝器戒であると主張せよ、と仰せになっている。
「法華経の本門の肝心・妙法蓮華経」とは、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経、その究極は日蓮大聖人御図顕の御本尊である。
それは、観心本尊抄の「末法の初は……寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250-09)、「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)、「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)等の御文の意に明らかである。
「三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり」と仰せになっているのは、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)の御文と同趣旨である。
釈尊はもとより、三世十方の諸仏のあらゆる善行、功徳は、ことごとく寿量文底の南無妙法蓮華経、すなわち御本尊に含まれているのであり、三世十方のあらゆる仏は、この妙法受持という戒によって仏になったのである。言い換えれば、三世十方の諸仏のそなえている功徳とは、この妙法から生じたものなのである。
日寛上人は観心本尊抄文段に「当抄に明かす所の観心の本尊とは……これ即ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり……これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」と述べられている。
したがって、末法の現在は、御本尊を受持し、帰命することによって自身の仏界を涌現して成仏することができるので、御本尊を持つことが非を防ぎ悪を止める戒にあたり、それを受持即持戒という。
大聖人が四信五品抄に「末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340-09)と述べられているように、御本尊を受持することこそが末法の戒なのである。
そして「此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけん」と述べられているように、ひとたび御本尊を受持すれば、その戒体は破れることがないので金剛宝器戒というのである。
金剛宝器戒とは、金剛石でできた宝器のように、堅固で壊れることのない戒の意で、金剛宝戒、金剛不壊戒ともいい、法華経の円頓戒をさしていう。伝教大師の一心金剛戒体秘決巻上に「一切衆生の無始の心中に皆性徳本有の金剛宝戒あり、性徳本有の戒の中に本来無作の三身あり……是の性徳本有無作の三身を性徳本有の金剛宝戒と名づけ、円頓の戒体と為す」とある。
末法では、南無妙法蓮華経の御本尊を受持して無作三身如来の戒体を顕すことをいい、これに一切の戒と功徳が含まれるのである。しかもその戒は絶対に破れることはなく、ひとたび御本尊を持てば、たとえ一時は信心を退転したとしても最後には必ず成仏の境涯に至ることができるので、金剛宝器戒というのである。
大聖人は、三世の諸仏は皆、この戒を持つこと、すなわち南無妙法蓮華経を受持することによって法身・報身・応身の三身常住の仏になったのであり、そのことを天台大師が法華文句で「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と記しているのである、と述べられている。
法華文句の文は、寿量品の「如来秘密・神通之力」の文を釈した一節であり、詳しくは「秘密とは、一身即ち三身なるを名づけて秘と為し、三身即ち一身なるを名づけて密と為す。又昔、説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自知するを名づけて密と為す。神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法身なり。通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり。仏は三世に於いて等しく三身有り、諸教の中に於いて之を秘して伝えたまわず」とある。
爾前の諸経で説かれる仏は、法身・報身・応身の三身が各別とされているが、法華経にいたって初めて一身即三身・三身即一身の三身具足の義が明かされた。しかし法華経迹門までの釈尊は三身即一身の仏といっても初成正覚の仏であって常住の三身ではなかったが、如来寿量品第十六において五百塵点劫の久遠における成道が明かされ、その久遠の昔から三身を円満に備えた仏であるという本地が明かされた。
しかし、寿量品の仏は、久遠元初の自受用身と比べると、五百塵点劫という時に垂迹化他した第一番成道の仏身であり、三世常住といっても無始無終にわたる常住の仏ではない。寿量文底下種の義では、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人こそ、三世諸仏の能生の仏であり、真の無始無終・三身常住の仏なのである。
それについて日寛上人は、文底秘沈抄に「外用の浅近に據れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に據れば本地自受用の再誕日蓮なり……佐州已後は蓮祖即ち是れ久遠元初の自受用身なり……血脈抄に云く『釈尊久遠名字即の御身の修行を末法今時の日蓮が名字即の身に移す』云云。又云く『今の修行は久遠名字の振る舞いに介爾計りも相違無し』云云、是れ行位全同を以て自受用身即ち是れ蓮祖なることを顕すなり。故に血脈抄に云く『久遠元初の唯我独尊とは日蓮是れなり』云云、三位日順の詮要抄に云く『久遠元初の自受用身とは、蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべく候』云云」と述べられている。
三世の諸仏も、久遠元初の自受用身所持の法体である南無妙法蓮華経を持って三身常住の仏となることができたのである。
したがって、末法の一切衆生がこの妙法蓮華経を持って信行に励めば、当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-10)と仰せのように、仏果を得られないわけはないのである。
法華経の如来神力品第二十一の最後に「我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人は仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」とあるのは、別しては末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人のことをさしたものであり、総じては大聖人門下の成仏を疑いないと定めたものなのである。
法華経は釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏が真実と定めた経であり、それに漏れた権経権宗を信ずる人々は、仏の金言に背いているのであるから、無間地獄の苦悩を受けることは疑いない。
このように、末法には御本尊を受持するという金剛宝器戒以外の爾前経や法華経迹門までのあらゆる戒律は、非を防ぎ悪を止める戒としての働きも一分の功徳もないので、釈尊の仏法での戒律は無益という意味で〝末法は無戒〟というのである。したがって、そうした戒律を守ることは全く意味がないので無用となる。
1282:17~1283:05第11章末法に教行証具備の正法流布を示すtop
| 17 但此の本門の戒を弘まらせ給はんには必ず前代未聞の大瑞あるべし、所謂正嘉の地動・文永の長星是なるべし、 18 抑当世の人人何の宗宗にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、 仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず、 日本人王・ 1283 01 三十代・欽明天皇の御宇に仏法渡つて 今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して 月氏・漢土・一閻浮提の内 02 の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ、 又已前の重末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法 03 の如し等云云、 已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切 04 衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし、 在世四十二年並びに法華経の迹門 十四品に之を秘して 05 説かせ給はざりし大法本門正宗に至つて説き顕し給うのみ。 -----― この本門の戒が弘まる時には、必ず前代未聞の大瑞があるのである。いわゆる、正嘉の大地震、文永の大彗星がこれである。いったい、今の世の人々で、またいずれの宗で本門の本尊・本門の戒壇等を弘通しているだろうか。仏滅後、二千二百二十余年に一人もいなかったのである。 日本国王の第三十代の欽明天皇の治世に初めて仏法が百済から渡来して七百余年、前代未聞の大法がこの国に流布して、インド・中国をはじめ、一閻浮提の一切衆生が仏に成ることができるとはなんとありがたいことではないか。 また、前に述べた教行証でいえば、末法には正法時代と同じく、この三つがそろうのである。 すでに地涌の大菩薩である上行菩薩が世に出られている。結要付嘱された大法もまた弘められるにちがいない。日本・中国、そしてすべての国々の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆である優曇華にあったようなものである。この大法は釈尊在世の四十二年、並びに法華経の迹門十四品においてこれを秘して説かれなかったのを、本門正宗分に至って初めて説き顕されたのである。 |
本門の戒
法華本門に説かれる戒。文底独一本門の戒。
―――
正嘉の地動
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
―――
文永の長星
「史料綜覧」によると、文永元年(1264)6月26日に東北の上空に彗星が出現し、7月4日に再び現れ、8月に入っても光は衰えなかった。このため、彗星を攘う祈?が連日のように行われたという。「安国論御勘由来」には「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
―――
本門の本尊
日蓮大聖人が建立された宗旨である三大秘法の文底独一本門・事の一念三千の大御本尊のこと。
―――
戒壇
受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。
―――
欽明天皇
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
御宇
ひとりの天子の時代。
―――
已前の重
前に述べた件と重なるが、等の意。
―――
上行
上行菩薩のこと。四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。
―――
結要の大法
法華経如来神力品第二十一で釈尊から上行菩薩等の四菩薩を上首とする地涌の菩薩に結要付嘱された法体のこと。結要付嘱とは「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」の文にあたる。結要とは法の要点をまとめ、その肝要を選ぶことをいう。
―――
金輪聖王
金の輪宝をもって四方を支配する転輪聖王のこと。金輪聖王ともいう。四輪王の一人。金輪王は、人寿八万歳の時に出現し、須弥山を中心とする東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四洲、すなわち全世界を併合し領有するという。また金輪王の出現にあたっては、その先兆として必ず優曇華が咲くといわれる。
―――
優曇華
梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
―――
迹門十四品
垂迹仏が説いた法門の意で法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
――――――――
この章では、三世諸仏の成仏の根本となった「法華経本門の肝心・妙法蓮華経」の大法が今まさに一閻浮提に流布することが示されている。
その大瑞が正嘉の大地震と文永の大彗星であると仰せである。
正嘉の地動とは、正嘉元年(1257)8月23日に鎌倉地方を襲った大地震のことで、吾妻鏡の正嘉元年8月23日の条に「二十三日、乙巳、晴。戌刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩す。人屋顚倒す。築地皆悉く破損す。所々地裂け水涌き出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し」と記されており、それ以後も9月4日に至まで余震が続いたとされている。
そのために受けた生命・財産にかかわる被害がどれほど大きなものだったかは記録がないので不明だが、聖愚問答抄には「正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに或は幼き子をふりすて或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中さこそ悲しかるらめ 行くもかなしみ留るもかなしむ」(0474-06)と述べられている。
また、安国論御勘由来に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す,同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033-02)と述べられていることからも、その惨状の一分がうかがえるのである。
文永の長星とは大彗星のことで、文永元年(1264)6月26日、東北の空に彗星が現れ、7月四4日に再び輝き始めて、8月に入っても光が衰えなかったため、日本国中で大騒ぎとなり、彗星を攘う祈禱が盛んに修せられたという。当時、彗星の出現は凶瑞とされたからである。
大聖人はこの二つの現象を、末法に正法が興隆する瑞相とされており、観心本尊抄にも「正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか」(0254-14)と述べられている。
日本に仏教が伝来してから七百余年、前代未聞の大法とは、「本門の本尊戒檀等」と述べられているように、日蓮大聖人が御建立になった本門の本尊・本門の戒檀・本門の題目の三大秘法をさしている。
法華取要抄に「如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(0336-02)と述べられているように、三大秘法こそ正像未弘の大法であり、末法万年に流布して一閻浮提の一切衆生を成仏せしめることができる唯一の正法なのである。
そして、本抄の最初に釈尊の仏法は末法に至っては教はあっても行証はないとされているが、「末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法の如し」と仰せのように、日蓮大聖人の文底下種の南無妙法蓮華経には、教・行・証がともに備わっていることは釈尊の仏法における正法時代と同様であるとされている。
大聖人の仏法における教とは文底下種事行の一念三千であり、行とは御本尊を信受し唱題する受持即観心の行であり、証とは御本尊への信行に励む人が当体蓮華を証得して即身成仏できることである。すなわち、末法の正法たる御本尊と、御本尊を受持して信行に励む信心のなかに教・行・証が備わっているのである。
更に大聖人は「已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし」と仰せになり、地涌の菩薩の上首・上行菩薩がすでに出現している以上は、上行菩薩が釈尊から末法に弘通すべく結要付嘱を受けた大法が広まらないわけがないとされている。
上行菩薩の再誕とは、日蓮大聖人の外用の姿であり、「結要の大法」とは大聖人が所持された三大秘法の南無妙法蓮華経をさす。結要とは結要付嘱のことで、法華経如来神力品第二十一で釈尊が滅後末法のために法華経の肝要である四句の要法を上行菩薩の等の地涌の菩薩に付嘱したことをいう。
前にも挙げたが、観心本尊抄に「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体」(0247-15)と述べられていることから、結要の大法とは、妙法蓮華経の五字であり、その法体は日蓮大聖人御図顕の御本尊であることが明らかである。
本抄では「在世四十二年並びに法華経の迹門十四品に之を秘して説かせ給はざりし大法本門正宗に至つて説き顕し給うのみ」と仰せである。
ただし、観心本尊抄に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と述べられているように、末法に流布する法は寿量品の文底に秘沈された下種益の南無妙法蓮華経であって、在世の脱益のための一品二半そのものではないのである。
そして、大聖人が末法の日本に御出現になり、正像未弘の御本尊を御建立になったということは、日本・中国そして世界の一切衆生が、優曇華に値ったようだと仰せになっている。優曇華は三千年に一度しか咲かないとされる想像上の花であいがたいことのたとえに用いられる。
日興上人の遺誡置文には「於戲仏法に値うこと希にして喩を曇華の蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰に我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇い奉ることを得、随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」(1617-01)と述べられており、あいがたき妙法を信受することができた我々は、ひとえに広宣流布を願って信行に励むべきことを示されている。
1283:06~1283:12第12章問答の心構えを教えて結すtop
| 06 良観房が義に云く彼の良観が・ 日蓮遠国へ下向と聞く時は諸人に向つて急ぎ急ぎ鎌倉へ上れかし為に宗論を遂 07 げて諸人の不審を晴さんなんど自讃毀他する由 其の聞え候、 此等も戒法にてや有らん強に尋ぬ可し、 又日蓮鎌 08 倉に罷上る時は 門戸を閉じて内へ入るべからずと之を制法し或は風気なんど虚病して罷り過ぎぬ、 某は日蓮に非 09 ず其の弟子にて候まま少し言のなまり法門の才覚は乱れがはしくとも・ 律宗国賊替るべからずと云うべし、 公場 10 にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅マシしき事なるべし、弥身口意 11 を調え謹んで主人に向うべし主人に向うべし。 12 三月二十一日 日 蓮 花 押 13 三位阿闍梨御房へ之を遣はす -----― 良観は、日蓮が遠国の佐渡に行ったと聞くと、人々に向かって、「日蓮が早く鎌倉に上ってくればよい。日蓮と法論して人々の疑いを晴らしてみせよう」などと自讃毀他していたということである。「これも律宗の戒法であるのか」と、厳しく尋ねるがよい。 また、日蓮が佐渡から鎌倉に上る時は、門戸を閉じ、「入ってはならない」などと出入りを禁じたり、あるいは風邪であるなどと仮病を使ったのである。 某は日蓮聖人ではない。その弟子であるから少し言葉にも訛りがあり、法門の才覚も浅いが、律宗が国賊である義は少しも変わらない、と言うがよい。 また、たとえ公場で道理にかなった法門を申したからといって、悪口したり、粗暴な言葉を吐いたり、自慢気な様子は人に見せてはならない。それはあさましいことである。態度にも、言葉にも、よく注意をはらって、謹んで相手に向かわなければならない。 三月二十一日 日 蓮 花 押 三位阿闍梨御房にこれを送る |
自讃毀他
自らをほめたたえ、他人を謗ること。
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風気
風邪気味。
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律宗国賊
四箇の格言の一つ。日蓮大聖人は「律宗は国賊の妄説」(173㌻)、「律宗・持斎等は国賊なり」(1073㌻)などと仰せである。持戒を装って「生き仏」「国宝」と崇められていた良観(忍性)などの律宗の僧を大聖人が破折されたもの。戒律の復興をうたいながら一方で幕府権力に取り入って非人支配や公共事業の利権を掌握して私腹を肥やすその欺瞞性を、「国宝」どころか「国賊」であると糾弾されている。
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理運の法門
道理に叶っている法門のこと。
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身口意
身業・口業・意業のみっつ。身・口・意による三種の所作のことで、生命体の一切の振る舞いをさす。業は未来にもたらされる果の原因となる。
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阿闍梨
梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。
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極楽寺良観の偽善ぶりを指摘するとともに、三位房に対して公場で対決する心構えを教えられて、本抄を結ばれている。
極楽寺良観は大聖人に敵対しながら、面と向かって対決することは避け続けていたのである。
なお、公場対決とは、公の場で相対して正邪・善悪・勝劣を決定することをいい、古来から仏法の勝劣・浅深を決するため、国王や大臣などが列席する場での法論対決が行われた。
日蓮大聖人は、鎌倉政府が政治の実権を握っていた当時の社会体制のなかで、事実上の国主の立場にあった北条時頼や時宗に対して、禅・念仏・真言・律等の諸宗への帰依をやめて、正法正義に帰依することこそ国を安んじ民を安んずる唯一の道であることを、立正安国論、北条時宗への御状等をもって諌められるとともに、極楽寺良観など他宗の僧達と公場で対決させるよう求められている。
すなわち、文永5年(1268)正月に蒙古から日本の服属を求め、来貢しなければ武力で討つという国書が到来したのを機に、大聖人は立正安国論で警告された「他国侵逼難」が現実のものになったことを指摘した書状を幕府の要人に送り、幕府の反省を促された。
それに対して幕府はなんらの反応も示さなかったため、大聖人は極楽寺良観や建長寺道隆等が陰で画策しているものと察せられ、このうえは公場において対決し、正邪を決する以外にないとして、同年10月11日に執権北条時宗をはじめ、宿屋左衛門光則、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺にあてて十一通の諌状を送られた。
北条時宗の御状には「速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり……所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え」(0169-04)と、公場での対決によって仏法の正邪を決することを求められたのである。
良観への御状では「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し……所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」(0174-02)と良観の行状を厳しく破折され、公場での対決によって法の正邪を決しようと強く求められたが、良観はついに応じようとしなかった。
また文永8年(1271)6月18日から7月4日まで、鎌倉地方が旱魃だったために良観が雨を祈ったが、その折に大聖人は「此体は小事なれども此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばや」(1157-16)と思われて、良観の所へ使いをやり「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし……是を以て勝負とせむ」(1157-17)と申し入れたのである。
良観は7日のうちに雨を降らそうとしたが「弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す……力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158-05)というありさまで、ついに一滴の雨も降らすことができなかった。
勝負に破れた以上、約束どおりに良観は大聖人の弟子となるべきにもかかわらず、更に憎悪と怨嫉の炎を燃やし、大聖人を幕府の権力者等に讒言して竜の口法難の原因をつくったのである。
大聖人はそのことを「然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にも・まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か」(1158-15)と指摘されている。
そのような卑劣な良観であるから、大聖人が鎌倉に不在の折には、法論をやって大聖人を打ち負かしてやりたいと言い触らし、大聖人が鎌倉におられるときには門戸を閉じて面会を断ったり、仮病を使って対決を避け続けたのも当然だったといえよう。自己宣伝に努めているのは自讃毀他にあたり、自らを讃めたたえて他を毀ることは十重禁戒の一つとされており、良観の行為はその戒律に背いていることになるのである。
大聖人は、そうした卑劣な行為をすることも戒法にあるのかと強く責めよと仰せられているのである。
更に三位房へ、良観に対しては、自分は日蓮大聖人の弟子なので言葉のなまりもあり、仏法習学の力も十分ではないが、律国賊であることは明瞭である、と言い切るよう仰せになっている。
律国賊とは、四箇の格言の一つで、律宗を信じ、弘める者は国を破滅に導く賊となることをいう。
最後に、公場において良観等と対決する場合の心構えとして、いかに道理にかなった法門を立てているといっても、不作法な言葉や空威張りの強そうな言葉をはいたり、偉そうに自慢するような姿を人に見せてはならない、あさましいことである、と戒められている。そして、身口意の三業をととのえ、すっきりとして相手に対するべきであるとさとされて、本抄を結ばれている。
こうした御教示は、現代にあっても、折伏弘教にあたって心すべきことであろう。
なお、建治2年(1276)正月に著された清澄寺大衆中のなかで、大聖人は「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893-04)と述べられて、経巻や論釈の借用を依頼されており、そのころ真言師が蜂起して公場対決が実現し、仏法の師邪を明らかになるような状況があったとうかがえる。
同年7月の報恩抄送状にも「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに十方にわかて経論等を尋ねしゆへに」(0330-05)と述べられており、当時は世間に宗論があるとのうわさが流れていたために、大聖人が弟子達を諸方に派遣して法論の資料となる経論を集めさせ、準備されていたことが分かる。だが、それもうわさにとどまって実現しなかった。
弘安元年(1278)春にも再び公場対決が実現するような動きがあったため、鎌倉に住む門下がご報告したのに対し、大聖人は「日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか、将又五五百歳の仏記宛かも符契の如し、所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り……将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(1284-01-諸人御返事)と喜ばれている。しかし、それも実現することはなかった。
なお、弘安2年(1279)秋に起きた熱原法難の際にも、大聖人は幕府へ提出する滝泉寺申状を自ら執筆され、そのなかでも公場対決によって法の正邪・優劣を決するよう訴えられている。
このように、大聖人は一貫して公場対決の実現を望まれ、破邪顕正のうえで広宣流布の実現を図られたのである。しかし、良観や道隆など諸宗の僧は、大聖人と法論対決をすれば破北することは必至だったので、対決を避け続け、幕府も大聖人の諌言を用いずにその機会を作ろうとしなかったために、ついに公場対決が実現することはなかったのである。