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日蓮大聖人御書講義291304~1336
阿仏房について
1304~1305 阿仏房御書(宝塔御書)
1304:01~1304:02第一章供養への謝意を述べる
1304:03~1304:05第二章宝塔の意義を明かす
1304:05~1304:13第三章宝塔の本義を明示する
1304:13~1305:04第四章信心の姿勢を教える
1304~1305 阿仏房御書(宝塔御書)2011:10月号大白蓮華より。先生の講義
1305~1306 妙法曼荼羅供養書
1305:01~1305:03第一章妙法漫荼羅の力用を教える
1305:04~1305:09第二章大曼荼羅末弘の所以を説く
1305:10~1306:06第三章末法衆生の謗法を破折する
1306:07~1306:13第四章大良薬の妙薬を明示する
1306:13~1306:18第五章妙法の偉大な功力を明かす
1307~1308 阿仏房尼御前御返事(畷堅固御書)
1307:01~1307:05第一章謗法の罪報を教える
1307:05~1308:03第二章謗法呵責を説く
1308:04~1308:17第三章一層の信心を励ます
1307~1308 阿仏房尼御前御返事(畷堅固御書)2013:02月号大白蓮華より。先生の講義
1309~1315 千日尼御前御返事(真実報恩経事)
1309:01~1309:03第一章消息の趣旨を挙げる
1309:04~1309:07第二章文上の法華経の教主を明かす
1309:07~1310:03第三章仏法流布の次第を示す
1310:03~1310:18第四章法華経の最勝を述べる
1311:01~1311:12第五章女人成仏を挙げて法華最勝を示す
1311:13~1312:03第六章題目流布の意義を説く
1312:02~1313:01第七章念仏破折による受難を明かす
1313:02~1313:09第八章法華誹謗の現罰を述べる
1313:10~1314:03第九章供養の志を称える
1314:03~1314:07第十章千日尼の信心を讃嘆する
1314:08~1314:10第11章法華経十巻を送る
1314:10~1314:17第12章門下の無事を喜ぶ
1314:18~1315:07第13章一谷入道死去の所感を述べる
1309~1315 千日尼御前御返事(真実報恩経事)2010:12月号大白蓮華より。先生の講義
1315~1317 千日尼御前御返事(雷門鼓御書)
1315:01~1315:02第一章供養の功徳を説く
1315:02~1316:02第二章法華経の偉大さを明かす
1316:03~1316:13第三章法華経供養の功徳を明かす
1316:14~1317:03第四章千日尼の信心を賞讃する
1315~1317 千日尼御前御返事(雷門鼓御書)2007:09月号大白蓮華より。先生の講義
1317~1317 阿仏房御返事
1318~1322 千日尼御返事(孝子財御書)
1318:01~1319:01第一章法華経読誦の真意を説く
1319:01~1319:12第二章皆成仏の法を明かす
1319:13~1320:04第三章阿仏房の成仏を教示する
1320:04~1320:13第四章千日尼の信心を励ます
1320:14~1320:18第五章悪子の例を教示する
1320:18~1322:03第六章子が財となる例を教示する
1322:03~1322:10第七章子の信心継承を喜ぶ
1318:01~1318:05第八章追伸
1323~1323 国府入道殿御返事
1324~1325 国府尼御前御返事(佐渡給仕御書)
1324:01~1324:09第一章供養の功徳を説く
1324:10~1325:04第二章大難を挙げて本仏の慈悲を示す
1325:05~1325:13第三章尼御前の信心を励ます/A>
1326~1330 一谷入道御書
1326:01~1326:07第一章二度の受難を回想する
1326:08~1326:13第二章法華弘通の真意を述べる
1326:13~1327:08第三章諸宗弘通の誤りを説く
1327:09~1327:17第四章法華誹謗の重罪を教える
1327:17~1328:08第五章念仏信仰を破折する
1328:08~1328:14第六章念仏信仰の重罪を教示する
1328:15~1329:05第七章一谷入道の外護を称える
1329:06~1329:15第八章法華経授与の経緯を述べる
1329:16~1330:06第九章再度の蒙古襲来を予告する
1330:07~1330:15第十章末法御本仏の内証を示す
1330:11~1230:18第11章種々指南して決する
1331~1335 中興入道消息
1331:01~1331:14第一章日本の仏教流伝を概説する
1331:14~1332:06第二章念仏の台頭を示す
1332:07~1332:18第三章大聖人の弘通と受難を説く
1332:18~1333:15第四章逢難と中興入道の援助を述べる
1333:16~1334:15第五章大聖人の忠と謗法者の怨嫉を示す
1334:16~1335:08第六章遺族の信心を励ます
1331~1335 中興入道消息 2011:06月号大白蓮華より。先生の講義
1335~1335 是日尼御書
1336~1336 遠藤左衛門尉御書
阿仏房についてtop
本書に収められた13編の御抄はすべて佐渡に在住する人々に与えられたものである。佐渡の人々と日蓮大聖人との関係は、いうまでもなく、大聖人の佐渡御流罪中に始まる。因習の深い、しかも念仏信仰の強い。こうした地で、流人の大聖人を師と仰ぎ、妙法の信心に踏みきることは、それだけでも並み大抵のことではない。
佐渡の信仰者達は、大聖人の佐渡御在世中にはひそかに種々御供養申し上げるなどしてお護りし、赦免ののち、身延に入山されてからは、はるばる甲州・身延にまで幾度となく、御供養の品を背負ってお訪ねしている。
そこには、素朴ではあるが、一途な大聖人への真心と、強靭な信仰心がうかがわれる。事実、これらの人々への御消息である本書の諸御抄には、最大の苦難のときに帰依し支えた佐渡の信仰者に対す温かい人間的思いやりと信頼感が、地下水脈のように流れている。
一、日蓮大聖人佐渡での御生活
塚原三味堂での御生活
文永8年(1271)10月、鎌倉幕府は日蓮大聖人を佐渡へ配流した。佐渡といえば、神亀元年(0724)に伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐とともに流罪の地と定められた所である。「佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり」(1052-03)とあるように厳しい自然環境の中に、いままで多くの罪人が流されたが、そのほとんどが佐渡の地で生涯を閉じている。
流刑は笞・杖・徒・流・死の五刑中、死罪に次ぎ、しかも遠流は多くの場合、死罪に代わるものであった。日蓮大聖人は、この佐渡で2年5か月にわたって流人として過ごされたのである。
10月10日、依智を出発。その夜は武蔵国久目河(東京都東村山市久米川町)に泊まり、児玉(埼玉県児玉郡児玉町)を経て、10月21日、寺泊(新潟県)に到着。日本海は荒れもようで、波の静まるのを待ち、10月28日、佐渡に到着。配所の塚原三昧堂に入られたのは、11月1日であった。
塚原の地は、守護代・本間六郎左衛門の館の後方にあり、死人の捨て場のようなところであった。そこにあった三昧堂は、一間四面の小さな堂で、本来、人の住む建物ではなく、長年修理もされていなかったらしく極度に荒廃していた。その様子について次のように記されている。
「そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」(1413-17)
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし」(0916-04)
こうしたところで、日蓮大聖人は「法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり」(1413-18)、「雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をささえたり」(1325-12)、「昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」(1052-08)と、着るものも、食べるものも乏しい、寒さと飢えによる苦しみを一身に受けられながらの毎日を過ごされたのである。
しかも佐渡の念仏者は、大聖人を亡きものにしようと、常に機会をうかがい「彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき」(1325-01)、「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよう人あるをまどわさんと」(1313-13)とあるように、島の念仏者が大聖人に近づく者がないように常に監視していた。
阿仏房・国府入道の外護
こうした流人の身として、絶えず生命の危険にさらされた生活のなかにあって、一人二人と大聖人の教えに帰依する者がでてきた。阿仏房夫妻、国府入道夫妻等であった。「阿仏房にひつをしおわせ、夜中に度度御わたりありし事」(1313-14)、「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人人なり」(1325-05)と、大聖人は、後年、感謝の意をこめてしたためられている。
大聖人を佐渡で亡きものにしようと企んだ幕府権力者達の意を受けて、大聖人の住居の近くを歩いただけでも信仰者達を牢につなぎ厳しい取り調べをした時であった。ましてや、日蓮大聖人に食物を運んでいることがわかれば、どのような咎めを受けるかわからなかった。おそらく生命にもかかわったであろう。「或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる」(0920-11)、「或は所ををい、或はくわれうをひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給いぬ」(1314-01)とあることからも、その厳しさがうかがわれる。
しかし、これほどの危険を冒しても、阿仏房夫妻、国府入道夫妻は、昼は監視の目が厳しいので、夜中に人目につかないように、食物をはじめ、不足しがちの紙、硯、墨など種々御供養申し上げたのである。
こうした真心と勇気ある行為に対して、大聖人は「いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか」(1313-1)「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給いてや日蓮を御とぶらい給うか。不思議なり不思議なり」(1304-15)とまで賞められている。
一谷入道・中興入道夫妻等の外護
その後、文永9年(1272)4月、大聖人は、塚原の地から石田郷一谷にある一谷入道の館に移された。
一谷に移されて、状況は塚原の地より恵まれてきたようであるが、流罪の生活に変わりはなく、まして念仏者等の憎悪の念は、文永9年(1271)の1月の塚原問答に破れたことから、いよいよ増していた。「預りたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありし」(1328-18)という状態であった。
しかも「預りよりあづかる食は少し。付ける弟子は多くありしに、僅の飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入て食しに」(1329-01)とあるように、一段と食糧に事欠くようになっていた。それは大聖人に支給される食糧はきわめて少ないうえに、「是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少からず」(1132-07)と、大聖人に給仕する弟子の数が多くなっていたからである。
こうした一谷の生活の中にあっても、実際に大聖人を預った一谷入道夫妻も内心、大聖人に帰依し、外護の任を果たすようになっていった。
一谷入道は「久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり」(1329-06)とあるような念仏者であった。しかし「宿の入道と云ひ、妻と云ひ、つかう者と云ひ、始はおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内内不便と思ふ心付きぬ……宅主内内心あって、外にはをそるる様なれども内には不便げにありし事」(1329-01)とあるように、初めは大聖人に接するのに恐れを抱いていたようではあるが、徐々に一族皆好意をもつようになり、食糧の面でも優遇するようになっていった。しかも「入道の堂のらうにて、いのちをたびたびたすけられたりし事」(1315-03千)といわれている点からみても、たびたび大聖人を危機から護っていたようである。
また中興(佐渡郡金井町中興)に住む中興入道の父・次郎入道も大聖人に帰依し「島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたうもにくまず。其の已下の者どもたいし彼等の人人の下人にてありしかば、内内あやまつ事もなく、唯上の御計いのままにてありし程に」(1333-10)と中興入道消息にもあるように、人望も厚く、身分のある人ではあったが、大聖人を恨む人々が鎌倉よりも多いなかにあって、大聖人に帰依し、「この御房は何かいわれのある人に違いあるまい」と子の中興入道や家族の者に厳命するなど大いに外護の任を果たしていた。
子の中興入道もまた「故入道殿のあとをつぎ、国主も御用いなき法華経を御用いあるのみならず、法華経の行者をやしなはせ給いて」(1334-17)と父の跡を継ぎ、大聖人の生活を支えるために種々の御供養を差し上げたのである。
こうした人々に対しても「何の世にかわすれん。我を生みておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思いしか。何なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや」(1329-04)と、自分の父母よりも大事に思い、その真心に応えられたのである。
さらに、この4月には鎌倉から四条金吾が、5月には日妙尼が幼子を連れて、はるばる御供養の品々を携えて佐渡まで大聖人を訪ねて来たし、遠近の弟子・檀那からは、種々の消息・御供養が届くようになり、生活も塚原の時と比べると徐々にではあるが安定してきた。
しかし、念仏者の唯阿弥陀仏、持斎の生喩房、良観の弟子・道観などが相変わらず大聖人を亡き者にしようと画策し、武蔵守宣時に早く処置するようにと訴え、宣時はそれに応えて、三度も私製の御教書を出すなど、弟子檀那を近づけないようにと大聖人の身辺の厳しい取り締まりは続いていた。
重書の執筆
日蓮大聖人は、このような佐渡の地で、日蓮仏法の骨格ともいえる重要な法門についての御抄を次々と著された。竜口法難以後、久遠の本地を顕された大聖人にとって、末法救済の大法を明確に遺すことが、単に門下のためのみならず、万年の未来までの全民衆のために、なさねばならない仕事であったからである。
文永9年(1272)の「開目抄」「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「佐渡御書」、文永10年(1273)の「観心本尊抄」「諸法実相抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」等々30数編にのぼっている。特に、文永九年二月に塚原で著された人本尊開顕の書「開目抄」と、文永10年4月に一谷で著された法本尊開顕の書「観心本尊抄」は、日蓮大聖人の奥義を明かす二大柱石とされている。
しかもこうした重要な御抄が、「佐渡の国は紙候はぬ上」(0916-07)とあるように、ともすれば筆紙の窮乏の中でしたためられたのであり、「観心本尊抄」の御真筆を拝しても、紙は一様ではなく、全17紙中、前半は和紙、後半は雁皮紙が使われ、さらに表と裏にしたためられているなど、いかに物資の不足した大変な状況の中で執筆されていたかがうかがわれる。
佐渡流罪赦免
こうした佐渡での生活も、文永11年(1274)2月、幕府の流罪赦免によって終わりを告げた。赦免状は2月14日に発せられ、佐渡へは3月8日に到着した。
赦免の理由は「科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆりて候いて」(1333-14)とあるように、無実の罪であることはすでに明らかであったし、自界叛逆、他国侵逼等の予言が的中していた。それでもなお北条一門をはじめ、諸大名はこぞって反対したが、執権・北条時宗の裁量によって赦免決定がなされたようである。
文永11年(1274)3月13日、真浦港を出発、信濃路を経て鎌倉へ向かった。阿仏房・国府入道・中興入道・一谷入道等の佐渡の人々にとっては、大聖人が流罪を許されて鎌倉へ帰られることは、喜ばしいことではあったが、半面、二年五か月にわたって親しく給仕してきた大聖人と別れることはとても辛いことであったであろう。
大聖人にとっても、同様であった。「そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりしぞかし」(1325-06)と、その心境を述べられている。
一方、佐渡の念仏者は、大聖人を阿弥陀仏の敵として、生きて鎌倉へは帰すまいと企んでいた。種種御振舞御書には「念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度あり」(0920-13)とある。
しかし「何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(0920-15)と、予期せぬ順風に恵まれて対岸へ渡ることができ、そのため、念仏者は全く危害を加えることができなかったようである。
かくして「去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り」(0322-01)とあるように、二年半ぶりで無事鎌倉へ帰られたのである。
二 身延入山後の佐渡の人々
身延入山
文永11年(1274)3月26日に日蓮大聖人は、鎌倉に着かれた。そして4月、三度目の国主諌暁をされたあと「上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(0358-04)とあるように、鎌倉を去る決意をされ、波木井郷・身延の地を選ばれて、5月17日入山された。
身延の地は「北には身延の嶽・天をいただき南には鷹取が嶽・雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ西には又峨峨として大山つづきて・しらねの嶽にわたれり、猨のなく音天に響き蝉のさゑづり地にみてり」(1394-02)、また「このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず」(1551-04)等とあるように、周囲を険しい山に囲まれ、激しい河の流れにはさまれた奥深い所であった。
しかし、大聖人が草庵に落ち着かれたことを知ると、各地から弟子檀那が大聖人を慕って身延の地を訪れた。そして、大聖人はこの深山で、法門の講義、弟子の育成、令法久住への戦いを展開されたのである。
こうして大聖人のもとを訪れる弟子檀那の中に、遠く佐渡に住む阿仏房や国府入道の姿も見られた。
阿仏房・国府入道の身延参詣
当時、佐渡から身延まで、どのような経路で行ったかは定かではないが、阿仏房は、およそ20日ほどの日数を経て身延へ着いている。その間、海を渡り、山を登り、谷を越し、文字通り険難の道であった。また当時は、山賊や海賊がしばしばあらわれ、宿泊すべき宿も少なく、食糧も持ち歩かなければならなかったであろう。
そのうえ、文永11年(1274)10月には、蒙古の大軍が壱岐・対馬を侵略し、嵐による壊滅後、翌建治元年(1275)9月には、幕府に再度入貢をすすめにきた蒙古の使者を鎌倉で斬首している。また建治3年(1277)の秋頃より、翌弘安元年(1278)の春にかけて疫病が大いに流行している。
このように内外が騒然とした中での長旅は、常に生命の危険にさらされることを十分覚悟の上でなければできない難事であった。
しかし、阿仏房はこうした幾多の障害を乗り越え、貯えた銭や、千日尼が女性らしい細やかさで調えた心尽くしの干飯、また山中では得難いと思われる海苔・わかめなどの品々を携え、身延へ向かったのである。
弘安元年(1278)7月、阿仏房は高齢をおして、大聖人のもとへ3回目の参詣をした。大聖人は、この老いた夫を快く送り出した妻の信心を称嘆された千日尼御前御返事の中で「人は見る眼の前には心ざし有りとも、さしはなれぬれば、心はわすれずともさでこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間、此の山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかはす、いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく、大海よりもふかき御心ざしぞかし」(1314-04)と喜ばれている。
また、この年は前述の通り疫病の流行した時でもあった。大聖人は、はるばる訪ねた阿仏房の姿を見つけ、心せくままに、佐渡の人達の状況を、まず問うておられる。
同御返事には「七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと、まづといて候いつれば、いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんがせんとてかへられ候いつるとかたり候いし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめにて悦ぶがごとし」(1314-12)と。
心にかかっていた佐渡の懐かしい人々が、疫病の流行にもかかわらず、元気で信心に励んでいる様子を喜ばれ、安堵されているお気持が切々と伝わってくる御文である。この時は、国府入道も途中まで、阿仏房と同道したが、稲の刈り入れのため、やむなく引き返した。しかし、それ以前にも、数回、御供養の品を携え、身延に参詣している。
こうして大聖人のもとを訪れた人々は、是日尼御書に「又今年来りてなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ」(1335-01)とあるごとく、大聖人やお弟子達の身の回りの世話をしつつ、10日、1月と過ごしたようである。
しかし大聖人が心にかけられたのは、現実に眼前にやってきた夫達以上に、このように夫を送り出し、留守を守っている夫人達のことである。
千日尼御前御返事には「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年年に夫を御使として御訪いあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん……御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」(1316-14)と。また国府尼御前御書には「又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかはされて候。ゆめかまぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ」(1315-07)と。
夫をはるか遠く旅立たせ、日々無事を祈りながら留守を守っていた夫人達にとって、たとえ身は遠い佐渡の地にあったとしても、その心はすでに師のもとにあるとの大聖人のお言葉に、どれ程感激したことであろうか。
更に大聖人は、こうした夫人達に「弥信心をはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らむ者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是れなり……此の度大願を立て、後生を願はせ給へ」(1308-04)と信心を励まされている。
とくに千日尼は、夫の身延参詣のたびに、御供養の品に添えて、法門について種々おうかがいの手紙を託している。そして大聖人からは「尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあにをとるべきや」(1308-11)と賞められている。
また国府入道夫妻に対しては「子息なき人なれば御としのすへには、これへとをぼしめすべし」(1323-08)と、老後のことにまで温かな配慮をされている。
やがて、阿仏房は、弘安2年(1279)3月21日、佐渡でその生涯を終えた。純真な信心を全うした阿仏房に対し、大聖人は千日尼御返事の中で「故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑うとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(1319-13)とおおせられている。
その年の7月、阿仏房の子・藤九郎は、遺骨を大聖人のもとへ納めるべく、身延を訪れた。その後、父の跡を継ぎ、法華経の行者として、佐渡・北陸方面の弘教に励んだ。
このように、佐渡に住む人々は大聖人のもとからは、海・山をはるかに隔てた地にありながら、大聖人を心から慕い、大聖人に直結した信心を貫いていったのである。
藤九郎は、父亡き後、母の千日尼と共に信仰を貫き、弘教に励んだ。後に出家して、自らの邸を寺とし、現在の妙宣寺の基となしたといわれる。さらにこの佐渡・北陸方面の法燈は、藤九郎の孫、そして阿仏房の曾孫である日満に続く。
日満は幼くして富士に登り、日興上人を師として出家得度し修行に励んだ。弱年にもかかわらず、日興上人の厚い信頼を受け、北陸道の大導師と期待されている。そして興師の御遷化後、佐渡へ帰還し、妙宣寺を中心に弘教に励んだ。
他の多くの地域では、大聖人亡きあと、五老僧の流れに染まっていったのに対し、佐渡が、日興上人に直結して、正法の伝燈を守り抜いたことは特筆すべきであろう。
1304~1305 阿仏房御書(宝塔御書)top
1304:01~1304:02第一章供養への謝意を述べるtop
| 1304 阿仏房御書 或文永九年三月十三日 五十一歳御作 与阿仏房 01 御文委く披見いたし候い了んぬ、抑宝塔の御供養の物.銭一貫文・白米・しなじなをくり物たしかに.うけとり候 02 い了んぬ、此の趣御本尊・法華経にも・ねんごろに申し上げ候・御心やすくおぼしめし候へ。 -----― お手紙をくわしく拝見いたしました。さて、宝塔への御供養の品として、銭一貫文と白米、それに種々のおくり物を、確かに受け取りました。あなたのこのお志を、御本尊・法華経にも丁重に申し上げました。ご安心ください。 |
宝塔
法華経見宝塔品第十一に説かれる多宝の塔のこと。ただし、ここでは、日蓮大聖人が建立された御本尊の意と考えられる。
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御供養
供養は、供給奉養の義。供施、供給、略して供ともいう。報恩謝徳のため、真心こめて仏法僧の三宝などに捧げること。方法や対象によって種々に分かれる。
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銭一貫文
銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1,000文にあたり、文永3年(1266)頃で米150㎏に相当したことが「丹波国大山荘領家年貢注文物価表」に見られる。
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法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546㌻)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、910㌻)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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本抄の系年については、文永9年(1272)説と建治2年(1276)説とがある。
阿仏房が御本尊への御供養として、お金、米、その他種々の品をお届けしたことに対し、その真心を御本尊に報告申し上げた旨、述べられたところである。
短い御文の中に「宝塔」「御本尊」「法華経」と、三つの名が出てくるが、これらは別々のものではなく「御本尊」という一つのものをさして言われたと考えるべきである。すなわち、法華経に説かれる宝塔を借りて一幅の曼荼羅として顕されたのが、御本尊である。したがって、法華経の顕そうとしたのが「宝塔」であり、宝塔が顕そうとしたのが「御本尊」であって、究極するところ「法華経」「宝塔」「御本尊」と並列されても「御本尊」に帰着するのである。
なお「此の趣御本尊法華経にもねんごろに申し上げ候」と仰せられているのは、あくまでも御本尊を根本としていくべき信仰の姿勢を自ら示された御文と拝せられる。すでに開目抄に明らかにされたように、大聖人御自身が師主親三徳具備の御本仏であり、無作三身の仏であられるが、どこまでも御本尊を根本にし、御本尊に仕える立場を示されているのである。
「御心やすくおぼしめし候へ」の一句のなかに「あなたの真心は、そのまま御本尊・法華経に通じておりますよ」との、温かい心遣いが拝せられる。
1304:03~1304:05第二章宝塔の意義を明かすtop
| 03 一御文に云く多宝如来・涌現の宝塔・何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔を・ことわるに 04 天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、 証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・ 05 開塔は本門・是れ即ち境智の二法なりしげきゆへに・これををく、 -----― あなたのお手紙に「多宝如来ならびに地から涌現した宝塔は何を表しているのでしょうか」という質問がありました。この法門は非常に重要である。この宝塔の意義を解釈するのに、天台大師が法華文句の巻八に釈せられているのには、証前起後の二重の宝塔がある。証前は迹門、起後は本門である。あるいはまた閉塔は迹門、開塔は本門である。これは即ち境智の二法をあらわしているのである。これらは煩雑になるので、ここではこれ以上ふれないでおく。 |
多宝如来
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。
伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。
大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。
その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。
その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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文句の八に釈し給いし時
法華文句巻八下に「塔出を両と為す。一に音声を発して以て前を証し、塔を開て以て後を起す」とある。
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証前は迹門、起後は本門
証前は、宝塔が大地から涌出し、多宝仏が迹門の三周の説法の真実であることを証明したこと。起後は、宝塔を開くために十方分身の諸仏を集め、その無数の分身仏によって、釈尊の教化の非常に広く久しいことをあらわし、如来寿量品第十六を説く遠序となっていることを意味する。
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境智の二法
境は覚知する対象としての客観視した世界、智は覚知する客観的智慧。釈迦多宝の二仏を境智に配すれば、多宝は境・釈迦は智となる。
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阿仏房が法華経見宝塔品にあらわれる多宝如来ならびに多宝の塔は、いったい何をあらわすのかを質問したのに答えられるところである。
最初に「此の法門ゆゆしき大事なり」と断わっておられるように、宝塔涌現のもつ意義は、きわめて大きく深い。それは、単に見宝塔品であらわれ、消えるのでなく、その後の法華経の虚空会の儀式の間じゅう、その荘厳比類なきドラマの中心となったことからもうかがわれよう。
したがって、宝塔には、何重にも掘り下げなければならない深い意味があるが、大聖人は、一往、天台大師が法華文句で述べている義を概略、紹介し、再往、文底深秘の立場からのその根本義を示されるのである。
本章は、まず、天台家における立義を紹介されたところである。大聖人としては、天台の複雑で難解な釈義を阿仏房に教えるお気持ちはないので、ざっとその論点だけを並べ、「しげきゆへにこれををく」といわれ、説明は略されている。
ただし、仏法の哲理の一端を学ぶうえからは、これらの釈義は非常に重要な内容を秘めているので、やや詳しく考察を進めることとしたい。
法華経の儀式の流れから見た場合、多宝の塔の出現がもつ意味は、いかなるものであろうか。方便品第二から授学無学人記品第九までの、いわゆる三周の説法を通して、釈尊の在世の弟子である声聞は、ことごとく領解し未来の授記が定められた。法師品第十では、薬王菩薩を対告衆として滅後の受持・弘通の方軌と功徳を説き、これ以下の滅後未来のための説法の始めとなっている。
この法師品の次にくるのが、見宝塔品第十一である。
高さ五百由旬、縦広二百五十由旬という宝塔が地より涌出して空中に住在し、その中から大音声が聞こえる。「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と。
その後、宝塔ならびに右の声についての大楽説菩薩の質問に釈尊が答えて、塔中に多宝如来のいること、この仏は釈尊が十方の世界において法華経を説く時に、必ず涌出して証明することが述べられる。
そして、釈尊は、十方世界から自身の分身の仏をこの座に集めようといい、そのために三変土田するのである。分身諸仏の来集ののち、釈尊は、右の指をもって宝塔の戸を開き内に入って多宝如来と並んで坐る。
さらに、大衆の請うままに、宝塔および釈迦多宝の二仏と同じく、一座の大衆を空中に置き、いわゆる虚空会の儀式に移るのである。
いま、本文に紹介されている天台大師の釈を、上記の法華経の展開からみると、その意味は明らかである。
まず、はじめ、宝塔の戸が閉まったままで内から「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」との声が聞こえる。これは、方便品の十如実相の法説から始まった、迹門の声聞授記の説法に対する証明である。したがって「証前は迹門」であり、かつ「閉塔は迹門」である。
十方分身の来集後、戸が開かれ、釈尊が内に入って二仏並坐し、この形で以下の儀式・説法が進められていく。これは、この虚空会の儀式における究極の説法というべき本門寿量品の久遠実成が明かされる遠序である。
釈尊に十方の分身仏がいること自体、すでに、始成正覚を暗に破って久遠の成道を示唆しているのである。故に「起後は本門」であり「開塔は本門」なのである。さらに、起後について在世と滅後があり、宝塔品の起後とは、まさしく滅後のためであり、なかんずく日蓮大聖人が三大秘法の本尊を建立するための遠序であるゆえに起後は本門なのである。
さらに、この宝塔および二仏があらわしているのは、境智の二法である。
境智の二法については、仏法の重要な法門であるから、この点について述べられている曾谷殿御返事(1055)によって考えてみよう。
そこでは、境を淵に、智を水にたとえた天台の釈を引き、次のように示されている。「されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」と。
淵とは、大地のくぼみであり、そこに流れるべき水の形、方向を客観的に定める働きをしている。同様に〝万法〟の体といわれている法の体なるものも、例えば小乗の但空、大乗の不但空、中道、諸法実相などそれぞれに独特の定まった深みをもっている。
この〝法の体〟の淵の中で、その淵に合致して水が流れるように、主観的智慧が発現していくことを「自体顕照」といい、境智冥合というのである。
宝塔についてこれを論ずれば、閉じた塔は、九界の衆生とくに声聞衆の本然的に具している仏性を象徴している。すなわち、まだ顕在化していない仏界である。言い換えれば、単に「境」の辺をあらわすのである。法華経の内容からいっても、声聞達は、生命の内に本来仏性を具していることを示され、未来に成仏しうる可能性を説かれたにすぎないから、そこにある仏性は、まだ「境」の辺にとどまるのである。
宝塔の戸が開かれ、釈迦と多宝の二仏が並坐したとき、それは自らの智慧をもって自らの本有の仏性を覚知し、多宝の境と釈尊の智とが冥合した事実上の成仏の姿を象徴しているのである。これをもう少しわかりやすくいえば「本来、仏である」「本来、妙法の当体である」ということは、〝境〟の辺であり、これは一切万物について平等である。その、わが身が本来、仏であり妙法の当体であることを覚知し、事実の上で仏としての振る舞いになってこそ、つまり、境智冥合してこそ、事実上の成仏である。この覚知のために、仏道修行が必要とされるのである。
さて、これを日蓮大聖人の仏法の信仰実践に約していえば、この本来、わが身に具わっている仏性――さらにいえば、本来の妙法の当体としての生命を顕してくださったのが、三大秘法の御本尊である。故に、御本尊が〝境〟になり、この御本尊を信受して唱題することが〝智〟になり、そこに「境智冥合」が現出するのである。
1304:05~1304:13第三章宝塔の本義を明示するtop
| 05 所詮・三周の声聞・法華経に来て己心の宝塔を見 06 ると云う事なり、 今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、 末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝 07 塔なきなり、 若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・ となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝 08 如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。 -----― 宝塔出現の意味は、所詮、三周の声聞が法華経に来て己心の宝塔を覚知するということである。今、日蓮の弟子檀那もまた同様である。末法に入って法華経を持 つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。そうであるならば、貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と唱える者は、そのままわが身が宝塔であり、わが身がまた多宝如来である。妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経である。 -----― 09 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、 此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さ 10 ながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞.信・戒・定・進・捨.慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来 11 の宝塔を供養し給うかとおもへば・ さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、 か 12 く信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、 ここさながら宝塔の住処なり、 経に云く「法華経を説くこと有らん処 13 は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、 -----― 今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大である。この五大は題目の五字である。それゆえに阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である。こう信解するよりほかの才覚は無益である。聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔である。あなたは多宝如来の宝塔を供養しておられるのかと思えばそうではない。わが身を供養しておられるのである。わが身がまた三身即一身の本覚の如来なのである。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。このところがそのまま宝塔の住処である。法華経見宝塔品第十一に「法華経を説く処には、わがこの宝塔がその前に涌現する」と説かれているのはこのことである。 |
三周の声聞
法華経迹門で成仏を許され授記を受ける声聞の弟子のこと。三周とは釈尊の説いた三周りの説法のことで、法説周、譬喩周、因縁周をいう。釈尊は声聞に機根の違い、悟りの先後があるゆえに三周りの説法をし授記した。法説周は上根の舎利弗、譬喩周は中根の迦葉等の四大声聞、因縁周は下根の富楼那、阿難等の声聞のことをいう。
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地水火風空の五大
一切の万物・万象を構成している五要素のこと。五大種の略。五輪ともいう。宇宙に広く遍満し、万物を生み出すところのもの。
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阿仏房
(~1279)。阿仏房日得のこと。阿仏房は号、日得は法名。一説には、俗名を遠藤為盛といい、もと順徳上皇の北面の武士で、承久3年(1221)、上皇が佐渡に流された時、共に佐渡に来て定住した人と伝えられている。しかし、現存の阿仏房関係の御消息の中には、順徳上皇に対する記述はなく、むしろ「千日尼御前御返事」(1314)の「尼が父の十三年は来る八月十一日……」の文、「千日尼御返事」(1322)の「故阿仏聖霊は日本国北海の島のいびすのみなりしかども……」の文等をみると、古くから佐渡に住していた人ではないかと思われる。日蓮大聖人佐渡流罪の直後、大聖人の姿に接して入信し、以来、文永11年(1274)大聖人が流罪赦免となって鎌倉に帰るまでの二年余り、妻の千日尼と共に大聖人に給仕し、大聖人の身延入山後も、高齢の身で数回にわたり供養の品々を携え身延を訪ねている。弘安2年(1279)3月21日に死去した。
―――
聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝
仏道修行に不可欠の条件。七財・七聖財という。①聞・聞法、よく仏法の教えを聞くこと。②信・信受、正法を信受すること。③戒・持戒、仏の戒律を守ること。④定・禅定、心を安定させること。⑤進・精進、精進すること。⑥捨・喜捨、煩悩に対する執着を捨てること。⑦慚・漸愧、自己に対して反省して恥じる心を持つこと。
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三身即一
三身即一身のこと。法身・報身・応身の三身が即一仏身にそなわっていること。法身とは、仏の永遠不滅の本体。報身とは、仏の持つ智慧の働き。応身とは、衆生に慈悲を施す力用のこと。爾前の円教や迹門においても、三身円満具足を説くといえども、始成正覚の仏身であって、今世のみである。本門においてのみ久遠の本地を明かし、常住の三身即一身を説くのである。
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本覚の如来
本覚とは、始覚に対する語。久遠よりの覚りのこと。如来とは、仏の十号の一つ。一切諸法の根本を覚り、三世の因果に通達した者をいう。始覚の如来が、修行の結果、迷いを次第次第に破り、覚りに達し、仏になった存在であるのに対し、本覚の如来は、本来そのままの姿で覚っている仏である。
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経に云く「法華経を説く……」
法華経見宝塔品第十一に「法華経を説く処有らば、我が塔廟は是の経を聴かんが為めの故に、其の前に涌現して、為めに証明と作って、讃めて善き哉と言わん」の文の取意。多宝仏が菩薩道を行じていた時に立てた誓願をさす。
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宝塔とは何かということを、日蓮大聖人の仏法の立場から、端的に明示される段である。
法華経の儀式自体に即していえば、見宝塔とは、三周の声聞が己心に覚った仏性をいうのである、と。この品の題号が、単に宝塔品でなく、見宝塔品であるところに、この深い意味が秘められている。
法華経を、表面的に読む人は、多宝の塔があらわれたという記述を見て、荒唐無稽な想像の産物であると思いがちである。確かに高さ五百由旬、縦横各二百五十由旬といえば、およそ地球の半分から三分の一ぐらいのものということになるから、そのような巨大な宝塔が実際にあらわれたなどとは、とうてい考えられない。
もし、これを歴史的事実として記したものとするならば、虚妄という以外にあるまい。だが、法華経は、歴史的な事実の記録として読むものではない。釈尊が、そして釈尊に化導された弟子達が、自らの生命の内に悟った仏性をあらわさんがために記されたものなのである。
たとえていえば、ゲーテの「ファウスト」は、神や天使や悪魔が登場し、老人が若返ったり、時間・空間を自在に行き来したりする。歴史的事実としてそのようなことはありえない。だが、だからといって、この作品は無価値だとするだろうか。また、ウソの塊だなどといって排斥するであろうか。
歴史的事実としてはありえないことであっても、そこにあらわされている人間の心理や人生・宇宙・永遠なるものについてのある深い思索を、人はそこに読む。そして、自らの人生のなかに、そこから豊かな糧を得るであろう。
同様に、法華経は、釈尊という偉大な人格の得た悟りをあらわしたものであり、その深遠な悟りを人々にできるだけ正しく伝えるために、こういう一見荒唐ともいえる設定をせざるをえなかったのである。大事なことは、そこに歴史的事実を求めるのでなく、仏法哲学の悟達という、生命の次元での真実を読みとろうとする、読む人の姿勢である。そこに、信を根本とした身口意の三業による読み方が大事であるゆえんがある。
所詮三周の声聞、法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり
法華経迹門の三周の説法によって、声聞の弟子達が、自身の内に仏性があることを覚った。その己心の仏性を覚知したことを、宝塔を見たと表現されているのである。宝塔の正体はここにある、との大聖人の、実に鋭い教えである。
これほど法華経を明快に読み切り、教えられた方が、他にあったであろうか。二十世紀の無神論的合理主義者も、この日蓮大聖人の喝破に対しては、心から納得せざるをえないであろう。
しかも、これは、世情に順ずるための大聖人の無理矢理の解釈などではない。十三世紀の日本にあっては、このように近代的で合理的な解明の方が、抵抗を受けたであろうことは容易に推測される。あくまで法華経の本義はここにあると達観し、確信されていたが故にこそ、そのように云い切っておられるのである。
末法に入って、法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり
釈尊の仏法においては、宝塔とは、三周の声聞が己心に見た仏性を意味した。とくに、この声聞の覚知した仏性は、まだ生命内奥に潜在しているにすぎず、したがって、宝塔に約していえば〝閉塔〟にほかならない。その後の〝開塔〟も、釈尊という一仏の己心の生命の表象なのである。
これに対して、日蓮大聖人の仏法においては「法華経を持つ男女のすがた」が、そのまま宝塔である。それは、己心の奥にあるのでなく、男とし女として顕在している、この凡夫の生命の全体が、すでに宝塔そのものなのである、ということである。
ここに、釈尊の仏法と、日蓮大聖人の仏法との、天地のごとき相違が示されていることを知らなくてはならない。釈迦仏法は、釈尊自身にとっては別にして、衆生にとっては、「理」の域を出ない。日蓮大聖人は、一切衆生にとって、ただちに「事」として行じ、「事」として証される直達正観・事行の大仏法を確立して下さったのである。
「法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」とは、法華経すなわち三大秘法の妙法を受持すること以外に、わが身を宝塔とする道はない、ということである。
次の「若し然れば貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり」は、この三大秘法の妙法を受持した人は、皆等しく宝塔であり多宝如来である、との意である。
宝塔=生命の尊厳論
多宝の塔が表しているものは、すでに述べたように、仏性すなわち仏界の生命である。宝塔、つまり宝をもって飾られているということは、この仏性、仏界の生命の荘厳さ、尊さ、素晴らしさを、このように表現したのである。
さて、一般的に「生命の尊厳」という言葉で呼ばれる問題について、仏法の哲理を明らかにするためにも、また、人間としての生き方を考えるためにも、明らかにしておかなければならないことがある。
尊厳とは、他の何ものにも替えられない絶対的価値をもっているということである。その場合、そうした絶対的価値をもっていると考えられているものと、そのような価値を感ずるものとがある。というより、この主体と客体との関係性において尊厳性という概念ははじめて成り立つ。
例えば、ある人にとって、一本の万年筆が、生涯忘れえない思い出と結びついているとする。その人にとって、その万年筆は、他の何ものとも取り替えられない〝尊厳性〟を持っているのである。同じ時に同じ工場で作られた、全く同型の万年筆は何百、何千本とあっても、この一本と取り替えることはできないであろう。
関係のない人にとっては、その万年筆は、それが売られている定価何千円かの価値でしかなくとも、当人にとっては、何万円、否、ときには何千万円積まれようとも、手放せないものなのである。このように〝尊厳〟とは、それを〝尊厳〟と認める人があってこそ成り立つものである。
生命の尊厳という概念も、根本的には、ここに基盤をもっている。生きとし生けるものは、すべて、自己の生命を愛しむ。ひとたび失えば、取り戻すことができないし、まして他の生命を替わりに持ってくることもできないことを知っているからである。
生命の尊厳ということからよくいわれる、だから、他の生命を奪ってはならない、すなわち殺生を犯してはならないというのは、単純に生命は尊いものだからというのではなく、その生き物が何よりも愛しんでいるのが生命であるゆえに、それを無理矢理に奪うことは大きい罪になるのである。
しかしながら、もう一歩掘り下げて考えれば、自らの生命の尊さをどれほど深く認識し、また、その尊さにふさわしい生き方をしているかによって、その生の尊さには千差万別があるといわなければならない。
玉も磨かなければ光のない石ころと同じであり、鏡も磨かなければ、ただの銅板となるのである。
この生命を磨き、その本来の尊さを顕現させる作業が、仏法の教える生命変革、人間革命であり、すなわち仏道修行にほかならない。宝塔の儀式において、塔中に並坐した二仏とは、この生命の本来の尊さを多宝如来があらわし、そしてそれを磨き顕し、覚知する生命を釈迦仏が表象しているのである。こうして顕れた生命の尊厳なる姿をあらわしているのが、多宝の塔そのものなのである。
そして、いま本文に示されているように、この自らの尊厳性を顕現する道は「法華経を持つ」ことであり「南無妙法蓮華経ととなう」ことである。そこには、男か女かということによる差別もなければ、貴賎上下という社会的立場の相違も、まったく問題ではない。いかなる人も等しく、この三大秘法の妙法を受持・信仰する一事によって、何ものにも替えられない自らの尊厳性をあらわすことができるのである。
この一文のなかに、日蓮大聖人の人間観がいかに時代的偏狭さを超越した、普遍性・平等生に貫かれているかを、如実に拝することができる。
なお、「我が身宝塔」と「我が身多宝如来」とのニュアンスの違いについていえば、宝塔の方が事実の姿の上にあらわれた尊厳性、すなわち、その人の特質、才能、福徳として捉えられるのに対し、多宝如来は、その生命自体のもつ尊厳性を意味していると考えてよいであろう。
妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり
法華経の儀式で多宝の塔という、常識では考えられないようなものが現れた。この宝塔は何を表すのかといえば、結局、妙法蓮華経以外の何ものでもないのだ、とのご断言である。
妙法蓮華経とは「法華経の題目」であるが、この「題目」とは、単なる経の題名ではない。経の題名と言った場合、本体は経そのもの――いま法華経でいえば、二十八品からなる全体――にあって、経題は、あくまでそれにつけられた名前であると考えがちである。
だが、日蓮大聖人が「法華経の題目」という名称を用いて呼ばれるとき、この関係は逆転していることを知らなければならない。言い換えると「妙法蓮華経」という題目が本体であって、二十八品からなる本文は、その説明であるということである。
この点については、曾谷入道殿御返事(1057-05)に「一経の内の肝心は題目におさまれり」また「其の経の中の法門は其の経の題目の中にあり」と言われ、次のように述べられている。
「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く『蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す』と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候、されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は猨をはなれて肝をたづねし・はかなき亀なり、山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猨猴なり、はかなしはかなし」(1059-08)と。
その他類文を挙げれば際限がないが、ともあれ、妙法蓮華経という法華経の題目こそ法華経の本体であり、これを日蓮大聖人は三大秘法の仏法として更に明確にあらわされたのである。「宝塔又南無妙法蓮華経なり」とは三大秘法の御本尊が宝塔の体であるとの意である。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり
宝塔が一方で「末法に入って、法華経を持つ男女のすがた」であるといい、一方で「法華経の題目・妙法蓮華経」であると言われるのは、一見、矛盾した仰せのようである。
だが、ここに明かされるように「法華経を持つ男女」が、その生命の体は「題目の五字」であるから、宝塔は同時に「法華経を持つ男女のすがた」でもあり「法華経の題目」でもあるのである。
御義口伝「唯以一大事因縁の事」(0715-第三唯以一大事因縁の事-07)にいわく、「我等が頭は妙なり、喉は法なり、胸は蓮なり、胎は華なり、足は経なり。此の五尺の身、妙法蓮華経の五字なり」と。
三世諸仏総勘文教相廃立(0568-01)にいわく、「五行とは地水火風空なり(中略)是れ則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり」また「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と。
「阿仏上人の一身は……」と仰せのなかに、法華経に説かれている荘厳無比の宝塔といっても、他の何ものでもない、あなた自身の生命をあらわしているのだよ、とのお気持ちが如実に拝せられる。
仏法は抽象的な何かでもなければ、遠い昔のインドの出来事を記したものでもない。今、こうして現実に生きている人間の生命を明かしたものとする日蓮大聖人の達観が、この一文にうかがわれるのである。
宇宙万物を構成している地水火風空は、そのまま、我々人間の身体・生命の構成要素でもある。そして、この地水火風空の五大とは南無妙法蓮華経の題目にほかならず、その法華経の題目が即ち宝塔の表象する当体であるから、五大からなっている我々の生命自体が宝塔なのである。
「然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり」と断言されているように、仏法の覚りとは、これ以外にない。すなわち「阿仏房さながら宝塔」とは、わが身が宝塔であり尊極無比の仏性の当体であると覚知することである。このことがわからず、迷うのを凡夫といい、覚知することを成仏というのである。
また「宝塔さながら阿仏房」とは、経文に説かれていることといっても、所詮は、わが身一人の生命の説明であると知ることであろう。
そして「此れより外の才覚無益なり」とは、仏法とは、このことを覚ることにあるのであって、それ以外のことは、すべて枝葉末節であるとの仰せである。
聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり
法華経の見宝塔品には、この宝塔の荘厳華麗な様相を次のように記している。
「爾の時、仏前に七宝の塔有りて、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬にして、地従り涌出して、空中に住して、種種の宝物もて之れを荘校せり。五千の欄楯あって、龕室千万なり。無数の幢幡、以て厳飾と為し、宝の瓔珞(を垂れ、宝鈴万億にして、其の上に懸けたり。四面に皆な多摩羅跋栴檀の香を出して、世界に充遍せり、其の諸の幡蓋は、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝を以て合成し、高く四天王宮に至る」
ここに記述されている七つの宝によって飾られている故に、七宝の塔あるいは宝塔というのであるが、すでに明らかにされてきたように、宝塔といっても、結論すれば「法華経を持つ男女のすがた」の表徴にほかならない。
では「法華経を持つ男女」のこの生命を荘厳する七宝とは何か。その内容を、日蓮大聖人は、聞・信・戒・定・進・捨・慚であると示されたのである。
これは、すなわち、妙法を持ち実践するうえで我々人間の生命がなす働きであり、仏法実践の内容そのものといえる。つまり、妙法を聞き、妙法を信じ、妙法の戒を持ち、妙法を根本に禅定し、精進し、執着等を捨棄し、自らを反省していくことが、わが生命を飾る宝となるとの意である。
①まず「聞」とは、聞き分け、理解することであって、これによって我々は仏の教え、仏法の偉大さを知ることができる。聞き分けることのできない生物、言葉を知らない他の生き物は、仏法の深遠さを知ることもできず、これを真摯に求めようという心を起こすこともできないであろう。
②「信」とは、聞いた哲理を自分の能力ではまだ理解しきれないけれども、それが正しいことを疑わず、自らの内に受容することである。法華文句巻一上の「信は則ち所聞の理会し」というのが、これである。
③「戒」は防非止悪の義で、教えられた正しい法を、迷いや疑いの心をしりぞけて実践していくことである。
④「定」は、妙法に自らの心を定め、不動の信念を自身の内に確立することである。
⑤「進」は精進の意で、無雑を精、無間を進というように、たゆまず実践しぬいていくことである。
⑥「捨」は捨棄といい、仏法のためには自らの執着・煩悩等を捨てることである。「南無」とは帰命であり、帰命とは己れを法のために捨てるということにほかならない。
⑦「慚」とは、慚じることで、仏の教えに照らし、自らの良心に照らして、自らの未熟を反省する心である。世間体等を気にする〝恥〟とは根本的に異なることを知らなければならない。
この「聞・信・戒・定・進・捨・慚」は、仏道修行にとって不可欠の条件であるとともに、妙法を根本にこの七つを励むことによって、これら七つの所作の積み重ねが、わが生命を飾る七宝となるのである。
さらに、敷衍して論ずるならば、聞・信・戒・定・進・捨・慚は、一般的な意味でも、人間の人間らしさ、人間としての尊厳性をあらわす特質であり、機能ということができる。
①「聞」とは、言葉を繰り理解できるところに人間の一つの特質があるということを考え合わせれば、人間の尊厳を支えるいかに重要な要素であるかが理解できる。
②「信」とは、人間と人間との心の連帯、生命の協和をもたらすのは〝信〟以外にない。また、未聞の世界へ心を跳躍させる原動力も〝信〟あればこそである。
③「戒」とは、自己抑制、自己制御ということである。人間は理性の発達により、他の動物の場合なら本能的に働いている制御力が、人間の場合はきかなくなってしまっている。そこに〝戒〟ということの人間にとってもつ意義の大であるゆえんがある。
④「定」とは、人間は、ただ縁にふれて揺れ動く心のみでなく、不動の信念、生涯を貫く理想をもつことが大事である。また、それなくして、一生を有意義なものにすることは不可能であろう。
⑤「進」とは、その目標、理想をめざして、常に自らを励まし、進ませていくことである。前進、成長を止めたとき、人間は人間として最も大切なものを失っているのである。
⑥「捨」とは、自らの生を愛しむのが生存本能であるが、理想のため、あるいは他の救済のため、その生存本能の縛をさえ断ち切って、煩悩を捨て、また自分の命をも投げ出していくことである。
⑦「慚」とは、自らの良心、また自らが拠り所と定めた哲理によって、自らを裁き、自らを慚じることである。
このように、人間としての尊厳性を支える要件として、この七つは、仏道修行ということを離れても、広く示唆を与える言葉ということができよう。
我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ。ここさながら宝塔の住処なり。経に云く「法華経を説くこと有らん処は、我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり
「三身即一の本覚の如来」とは、久遠元初の無作三身如来をいう。すなわち、法華経寿量文底にあらわれる、最も根源の仏を意味する。決局、自らの生命を「三身即一の本覚の如来」であると信じて、南無妙法蓮華経と唱えるとき、その場がそのまま「宝塔の住処」であるとの仰せである。
「ここさながら宝塔の住所」とは、我々の住み、生活しているこの家庭、社会が、法華経の会座そのものであり、仏国土となるということである。ここに示されているのは、依正不二の原理であり、また「宝塔の住処」といわれているように、功徳に満ちあふれた幸福境涯になるということでもある。
「法華経を説くこと有らん処は、我が此の宝塔其の前に涌現す」との見宝塔品の文は、法華経自身、この宝塔が、法華経の会座に歴史的事実として現れたものではなく、法華経の信受・実践をする人の生命の中には、いつでも、どこでも現出する普遍的法理であることを言明しているのである。
1304:13~1305:04第四章信心の姿勢を教えるtop
| 13 あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・ まいらせ候 14 ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。 -----― あまりにありがたいことなので、宝塔を書き顕して差し上げます。わが子でなければ譲ってはならない。信心強盛の者でなければ見せてはならない。日蓮の出世の本懐とはこの宝塔の本尊をいうのである。 -----― 15 阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし、 浄行菩薩うまれかわり給いてや・ 日蓮を御とふらい給うか 1305 01 不思議なり不思議なり、此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ、 別の故はある 02 べからず・あるべからず、宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。 03 文永九年壬申三月十三日 日蓮花押 04 阿仏房上人所へ -----― 阿仏房、あなたはまさしく北国の導師ともいうべきであろう。浄行菩薩が生まれ変わって日蓮を訪ねられたのであろうか。まことに不思議なことである。あなたの厚いお志の由来を日蓮は知らないが、上行菩薩のご出現の力にお任せするのである。別の理由があるわけではないであろう。宝塔を夫婦でひそかに拝みなさい。くわしいことはまた申し上げよう。恐恐謹言。 文永九年壬申三月十三日 日 蓮 花 押 阿仏房上人所へ |
出世の本懐
仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
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導師
衆生を正しく仏道に導く者のこと。
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浄行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
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上行菩薩
前記に同じ四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。
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恐恐謹言
恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。
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法華経の宝塔を、日蓮大聖人は御本尊として顕されたことを述べられ、また、この御本尊こそ大聖人の出世の本懐であるがゆえに、いい加減な姿勢であってはならないことを諭されている。
あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり
本抄が佐渡御流罪中の文永9年(1272)3月御述作か、身延入山後の建治2年(1276)かは、定かでないが、一応、文永九年の説をとっておく。佐渡御流罪中も、とくに信心強盛の人に対しては、御本尊を顕して授与されたようである。
「あまりにありがたく候へば」といわれているように、阿仏房夫妻の信心を、よほど賞でられたのであろう。御本尊を顕し、阿仏房夫妻に授けられたのである。そして、結文にあるように「夫婦でひそかに拝みなさい」といわれ、「よくよく信心強盛の者でなくては見せてはならない」、また、自分達が亡くなったあとは「わが子でなければ譲ってはならない」と、具体的に受持の仕方を教えられている。
これは、御自身が「出世の本懐とはこれなり」と言い切っておられるように、大聖人の仏法の究極であり、大聖人にとって、これにまさる大事はないからである。
御本尊が大聖人にとっていかに大事なものであったかということは、翌文永10年(1273)8月、四条金吾にあてて御本尊について述べられた御文にも、如実に拝することができる。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云く『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給う。経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(1134)と。
このように最も大事な御本尊を、入信して日も浅い阿仏房夫妻に授与されたのは、阿仏房の信心の強盛さと人柄の誠実さを見込まれ、その奥底に「浄行菩薩はうまれかわり給いてや日蓮を御とふらい給うか。不思議なり不思議なり」と仰せのように、仏法上の深い因縁を感じられた故であろう。
大聖人が竜口の法難に引き続いて佐渡に流罪になり、大聖人を憎みつづけてきた念仏はじめ各宗の僧達は勝利を叫び、一方、大聖人の門下でも、以前からの信仰者の中に、疑いを起こし退転する者が出ていた頃のことである。こうしたなかで、大聖人のもとに信伏し、大聖人に対する憎しみの渦巻く地で、数々の御供養をし、大聖人をお護りしたということは、まさに不思議としかいいようのない深い因縁を感じないではいられない。
また、そうした状況のなかで信伏した人だからこそ、大聖人は、阿仏房夫妻が将来にわたって退転することはないと見抜かれ、「北国の導師」とまで讃えて、御本尊を授与されたのである。また、事実、この阿仏房の不屈の信心は、生涯変わらなかったばかりでなく、大聖人御入滅後も、佐渡の正法の信仰者は五老僧に惑わされることなく、日興上人の正統の信仰を伝えたのである。
1304~1305 阿仏房御書(宝塔御書)2011:10月号大白蓮華より。先生の講義top
見よ!我らが胸中に宝搭は燦たり
民衆ほど尊きものはありません。
民衆ほど、賢きものはありません。
現代の底流には、「民衆の時代」へ向かう確かな方向性があります。しかし、一方で、人間を手段化し、人間性を踏みにじる濁流もまた激しくなっている。
だからこそ、一人の「屹立した人間」を創ることが、帰路の時代にあって一切の根幹となるのです。
社会を浄化し、人間尊厳の思潮を創造し、生命尊厳の価値を確立する。そのための「一人」を育てることが、21世紀の最大の責務であると、私は確信します。
「民衆の時代」といっても、その突破口を開くのは、まず「一人」です。「一人」が自身の内なる「宝」に目覚めたその瞬間に、民衆凱歌の旭日が昇るのです。
すべては一人の人間革命から
新しき時代を創りゆく、真実の「国の宝」、「社会の宝」とは、一体何か。
南アフリカのマンデラ元大統領は、27年半に及ぶ獄中闘争を耐え抜いて、非道な人間差別の壁を破り、民衆勝利の夜明けを開きました。その元大統領が、人生の信念として語っていました。
「何よりも貴重な財産は、どんな純度の高いダイアモンドにも増して誠実で強靭な民衆なのだ」
本当にその通りです。「誠実で強靭な民衆」が誕生すれば、社会は善の方向へ間違いなく変わります。一人一人の民衆こそが最高の「宝」です。ゆえに、その一切の起点となる、一人の人間の真の蘇生が大事なのです。
一人の人間が「わが身」の真実の可能性を知った時に、一人の偉大な人間革命が始まります。自身の尊極にして偉大な可能性を目覚めた人は、他者の存在の尊さに気づきます。
自他共の尊極性を心から認め合えば、人類は境涯を高めることができます。自他を覆う無明を打ち破れば、人類は相克と葛藤の宿命を転換することができます。
わが身の尊極なる「宝搭」であると目覚めた一人が立ち上がれば、この地球上に、平和と幸福の大搭を打ち立てていくことができる。そのための日蓮大聖人の仏法です。
「わが身」の本来の姿への目覚め。この仏法の極理を教えられた御書が「阿仏房御書」です。
日蓮大聖人の阿仏房に示された、「偉大なる自身の目覚め」の軌跡を、辿っていきましょう。
| 01 御文委く披見いたし候い了んぬ、抑宝塔の御供養の物.銭一貫文・白米・しなじなをくり物たしかに.うけとり候 02 い了んぬ、此の趣御本尊・法華経にも・ねんごろに申し上げ候・御心やすくおぼしめし候へ。 -----― お手紙をくわしく拝見いたしました。さて、宝塔への御供養の品として、銭一貫文と白米、それに種々のおくり物を、確かに受け取りました。あなたのこの志を、御本尊・法華経に丁重に申し上げました。御安心ください。 ----- 03 一御文に云く多宝如来・涌現の宝塔・何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔を・ことわるに 04 天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、 証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・ 05 開塔は本門・是れ即ち境智の二法なりしげきゆへに・これををく、所詮・三周の声聞・法華経に来て己心の宝塔を見 06 ると云う事なり、 -----― あなたのお手紙に「多宝如来ならびに地から涌現した宝塔は何を表しているのでしょうか」という質問がありました。この法門は非常に重要である。この宝塔の意義を解釈するのに、天台大師が法華文句の巻八に釈せられているのには証前起後の二重の宝塔がある。証前は迹門、起後は本門である。あるいはまた閉塔は迹門、開塔は本門である。これは即ち境智の二法をあらわしている。これらは煩雑になるので、ここではこれ以上はふれないでおく。 宝塔品の意味は、所詮、三周の声聞が法華経に来て己心の宝塔を覚知ということである。 |
宝搭湧現が示す壮大なドラマ
「阿仏房御書」は、大聖人の佐渡流罪中の御執筆とも、身延入山後の後述作とも言われていました。近年では内容から、身延期の御書と考えられているようです。
本抄の冒頭からは、銭一貫文、白米などの真心の御供養とともに、阿仏房から大聖人へ仏法の法門をお訪ねする書状があったことがうかがえます。その質問とは「法華経に説かれている多宝如来や宝搭の湧現は、一体、何事を表しているのか」という内容です。
この阿仏房の質問の意味を明確にするために、あらためて法華経見宝搭品第11で説かれる宝搭湧現の場面を確認しておきましょう。
宝搭品は、突然、人々の眼前に宝搭が出現することから始まります。
巨大な宝搭が大地より湧現し、空中に浮かんで静止する。そしてその中から大音声が聞こえてくるのです。
「素晴らしい。素晴らしい。釈迦牟尼世尊は、よくぞ法華経を人々のために説いてくださった。その通りです。その通りです。あなたが説かれたことは、すべて真実です」と。
この音声を発したのが多宝如来です。多宝如来とは、過去の東方・宝浄国の仏であり、法華経を説くところに宝搭を湧現させて法華経の真実を証明することを誓った仏です。
しかしこの時点では、まだ宝搭の扉は閉じられていて、誰も多宝如来の姿を見ていません。
見宝搭品では、このあと、十方世界の分身の諸仏が集合するという三変土田があり、扉が釈尊によって開かれ、釈迦・多宝の二仏が並んで座るといった、前代未聞のことが次々と起こり、いよいよ「虚空会の儀式」が始まります。その壮大な儀式も、すべては、この宝搭の湧現から繰り広げられたのです。
そもそも、この宝搭のスケール自体、私たちの想像を絶するものです。高さが五百由旬、縦横が二百五十由旬という巨大なものでした。小さく見積もっても地球の直径の三分の一に及ぶ規模です。
しかもこの搭は、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰、という七宝で飾られています。
まばゆいばかりに輝く巨大な搭が、目の前に浮かんでくる。なんと荘厳・壮麗な光景でしょうか。法華経で説かれているこの宝塔とは、一体何か。阿仏房は大聖人にお聞きせずには、いられなかったのでしょう。「多宝如来や大地から湧現した宝搭は、どのような意味があるのでしょうか」と。
「見宝搭」とは己心の宝搭を見る
この宝塔は何を意味しているのか、古来さまざまに論じられてきました。
日蓮大聖人は端的に「宝搭とは我等が一身のことである」と仰せです。そして、この宝塔は、御本尊のことでもあります。宝搭湧現のもつ意味は、きわめて大きく深いために、大聖人は「この法門ゆゆしき大事なり」と断られているのです。
大聖人はまず、天台大師の『法華文句』の釈を踏まえて、宝搭の意義を示されています。すなわち、この宝塔湧現には「証前」と「起後」の二つの意義があること、あるいは「閉搭」「開搭」の意義があることが説かれている。しかし、大聖人は「しげきゆへに・これををく」として、それ以上は展開されていません。その直後に「所詮」と続くように、大聖人御自身の結論を示すことを眼目とされたからだと拝されます。そして大聖人は、見宝搭湧現の本質を、端的に「所詮・三周の声聞・法華経に来て己心の宝搭を見ると云う事なり」と仰せです。
「三周の声聞」とは、法華経迹門で未来の成仏を約束された釈尊の弟子たちをいいます。大聖人は、この声聞たちが、法華経を聞いて「己心の宝搭」を見たことが宝搭出現の意義であると述べられています。すなわち、自分の外に巨大な宝搭が出現したと思っていたが、実は、それは、自分の中に湧現していた。こう覚知するということです。
これは、天動説をひっくり返して地動説を唱えた「コペルニクス革命」のような一大転回ではないでしょうか。たとえば天台の『法華文句』では、宝搭は仏の「法身」であり、その宝搭を会座の衆生がいまだ「己心も宝搭を見た」とまでとは言っていません。
「見宝搭」の「見」とは「あらわれる」ことです。自身の己心に宝搭が湧現する。わが生命の宇宙に堂々たる、絢爛たる宝搭が立つのです。そして、その搭を「見る」のです。
要するに、「見宝搭」とは、宝搭が、己心すなわち自己自身の生命の本来の姿を表していることを知ることです。
それでは、末法の私たちは、法華経を聞いて、いかなる宝搭を己心に見るのか、その壮大な胸中のドラマがいよいよ始まります。
| 06 今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、 末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝 07 塔なきなり、 若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・ となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝 08 如来なり、 -----― 今、日蓮の弟子檀那もまた同様である。末法に入って法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。そうであるならば、貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と唱える者は、そのままわが身が宝塔であり、わが身がまた多宝如来である。妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。 |
末法に法華経を持つ人は宝搭
「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし」と仰せです。釈尊在世の声聞と同じく、末法の今、日蓮大聖人の門下もまた「己心の宝搭」を見ているのだと仰せです。
続く御文は、大変に有名です。
「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」
牧口先生も、この個所を中心に、随所に朱線を引いて研鑽されていました。
阿仏房はもちろん、一緒にお手紙を読んでいたであろう夫人の千日尼も、どんなに驚き、感動したことでしょうか。大聖人が言われる「己心の宝搭」とは、経文の上だけの話ではなく、まさに自分たちのことを指していたからです。夫婦として互いに顔を見合わせ、笑みを浮かべたかもしれません。
「貴賤上下」とは、もともとは人々を差別する言葉です。身分の貴い人と賤しい人、地位の高い人と低い人という意味です。しかし、仏法は「貴賤上下をえらばず」です。社会的立場の違いなどに全く左右されません。
「御義口伝」に「己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり」(0797―、一宝搭品―09)と仰せのように、宝搭はわが身、その中の宝搭如来はわが心であるとも拝することができます。
ここに最高の人間尊厳の思想があります。万人の生命の尊厳を知らず、他人を差別する人は、実は自分の尊厳を傷つけている。反対に、万人を大切にすることは、自分の宝搭を最も輝かせているのです。
現実の「すがた」で正義を証明
大聖人は、ここで「法華経を持つ男女の・すがた」といわれております。「すがた」とは、外に現われた姿形・行動です。抽象的・理念的なものではなく、目に見える具体的・現実的な「すがた」であり、今、ここで、懸命に生を営んでいる一人一人の人間そのものであります。
大聖人は、この生きた人間の外に宝搭はないのだと断言されているのです。まさしく、御本尊を持ち、題目を唱え、仏法を弘めゆく人の「すがた」は、妙法の当体として、瞬間瞬間、輝いていく、喜怒哀楽を露わな凡夫がそのままで「尊極の宝搭」と現われるのです。
苦悩に満ちた現実の中で、心ない悪口にも負けず、自身の宿命転換のために、そして人々の幸福のために、尊き金の汗を流しながら戦い抜いている。学会員の「すがた」こそ、まさしく宝搭にほかなりません。
大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える者は、「我が身」が「宝搭」であり、また、「我が身」が「多宝如来」ですよと仰せです。
「多宝如来」といわれているのは、法華経の証明者であるということです。証明者とは、決して傍観者ではありません。法華経が説かれるところには必ず飛び込んでくることを誓っている。法華経が最高真実の教えであり、仏に成る道であると証明してきたのです。
私は、敬愛する多宝会、宝寿会、錦宝会の皆様方の英姿を想起せずにはいられません。
戸田先生は、円熟の人生の友を、よく「多宝の証明の方々」「多宝の尊き同志」を讃えておられました。
20年、30年、50年と純真に信仰を貫き、私と共に広布と人生の波瀾万丈の山を乗り越えながら、「この仏法はすごい」「学会は正しい」と叫び、身をもって証明してこられた皆様方です。たとえ無明であっても、仏法上、そして人間として最高に尊貴な大英雄です。
その確信の一言の重さは、人生そのものの重さです。生きる姿そのものが妙法の証明です。今回の東日本大震災の苦難のなかで、「何もかも はぎ取られたる 我なれど ただ一つ残る 胸のともし火」と詠み、「又立ち上がる」と誓った多宝会の母がいました。私は、その歌を涙で伺いました。
あの地にもこの地にも「負けてたまっか」と不屈の魂を燃やす父母がいらっしゃる。その信念の姿を、同志も、また地域の方々も信頼し慕っています。まさに仰ぎ見る大宝搭であり、多宝如来ではありませんか。
日本中、世界中におられる多宝の方々のご健康、ご長寿を、私も妻も、祈っております。
| 08 妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。 ・ -----― 妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経である。 -----― 09 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、 此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さ 10 ながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞.信・戒・定・進・捨.慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、 -----― 今、阿仏上人の一身は、地・水・火・風・空の五大である。この五大は題目の五字である。それゆえに阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である。こう信解するよりほかの才覚は無益である。聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔である。あなたは多宝如来の宝塔を供養しておられるのかと思えばそうではない。我が身を供養しておられるのである。わが身また三身即一身の本覚の如来なのである。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。このところがそのまま宝塔の住処である。法華経見宝塔品第十一に「法華経を説く処には、わがこの宝塔がその前に涌現する」と説かれているのはこのことである。 |
御本尊は万人を照らす明鏡
ここから、大聖人は“阿仏房、あなた自身が妙法蓮華経の宝搭なのです”“あなたも七宝の輝きを放っているのです”“あなた自身が仏なのです”と繰り返し、阿仏房自身が宝搭であることの意味を展開されていきます。
まず大聖人は「法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」と仰せです。法華経で説かれる宝搭とは、南無妙法蓮華経以外の何ものでもないのです。法華経の題目こそ宝搭であり、それを大聖人は御本尊として顕されたのです。
御義口伝に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり」(0769-第三又如浄明鏡の事-02)と仰せです。
鏡がなければ、自分の顔をみることができません。そして「己心の宝搭」は、それを見る明鏡がなければ誰もみることはできない。そこに、大聖人が御本尊を顕された理由もあります。
日蓮大聖人は、御本仏として御自身の生命を御本尊として御図顕されました。私たちが、この御本尊を明鏡として、南無妙法蓮華経の題目を唱えた時に、自身に内在する仏の生命が力強く湧現します。私たち一人一人が胸中に宝搭を打ち立てる。まさにそのための御本尊です。
自分自身が妙法蓮華経の宝搭
続けて、大聖人は“阿仏房の一身は地水火風空の五大であり、この五大とは題目の五字である”とおおせです。
要するに、わが身がそのまま妙法蓮華経の当体である。宝搭とは、どこまでも南無妙法蓮華経と唱える私たちの自身のことにほかならない。これが「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」という仰せです。この御金言の趣旨は、仏法の結論そのものといえます。それゆえに、「此れより外の才覚無益なり」これだけ知っていればいいのですよ、と教えられたのです。
これが御本仏の眼です。末法の凡夫、普通の庶民の生命にこそ「尊極の宝搭」の働きを見るのです。
このように人間の尊厳を見る眼を、人類が持ち得たならば歴史は変わります。
焦点は、一個の人間生命の尊厳に気づくことです。一人の存在がどれほど尊いか、目を開くことです。
19世紀のアメリカの思想家ソローは、政治制度が次第に民主主義へと向かって前進してきた意義を「個人に対する真の尊敬に向かって進歩」と洞察していました。
一個の人間、一人一人の生命が本来具えている尊厳性にふさわしく、社会の中で厳然と尊重される。大切にされる。力を発揮できる。そうなってこそ、真の人類の進歩だということでしょう。
ソローは、理想の人間社会の到来を、未来に見つめていました。「国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるのでは、真に自由な文明国は決してあらわれないであろう。
宝搭品は、一個の生命は、国家どころか、地球大、いな宇宙大の重みと輝きをもっていることを教えられています。万人がその尊極なる生命の当体なのです。万人がその可能性に目覚めていくことこそ「見宝搭」の本当の意義といえましょう。
「七宝」とは、わが身の実践
続けて大聖人は「聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり」と仰せです。
すなわち、この宝搭が、凡夫のそのものであるならば、経文で宝搭を飾る金・銀・瑠璃など七宝に代わり、法華経を持った男女の生命を荘厳する七宝とは何か。それは「聞・信・戒・定・進・捨・慚」という、わが身を荘厳する仏道修行の七つの要件であると示されています。
つまり、妙法を聞き、妙法を信じ、妙法の戒を持ち、妙法を根本に心を定め精進し、信心を第一として“わがまま”を捨て、反省すべきは率直に反省して、日々、たゆまず前進することが、わが生命を飾る宝になります。
これらはすべて「信心」の二字に納まっていると指導されています。あらためて振り返ってみれば、私たちの日々の学会活動の中に、全部、具わっていることに気づくでしょう。
七宝といっても、我が生命を飾るのは宝石ではありません。自分自身の心と実践が、自身の生命を飾り、己心の宝搭を飾っていくのです。
| 13 あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・ まいらせ候 14 ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。多宝如来 11 の宝塔を供養し給うかとおもへば・ さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、 か 12 く信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、 ここさながら宝塔の住処なり、 経に云く「法華経を説くこと有らん処 13 は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、 -----― あまりにもありがたいことなので、御本尊を書き顕して差し上げます。わが子でなければ譲ってはならない。信心強盛な者でなければ見せてはならない。日蓮の出世の本懐とはこの宝塔の本尊をいうのである。 あなたは多宝如来の宝塔を供養しておられるのかと思えばそうではない。我が身を供養しておられるのである。わが身また三身即一身の本覚の如来なのである。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。このところがそのまま宝塔の住処である。法華経見宝塔品第十一に「法華経を説く処には、わがこの宝塔がその前に涌現する」と説かれているのはこのことである。 -----― 15 阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし、 浄行菩薩うまれかわり給いてや・ 日蓮を御とふらい給うか 1305 01 不思議なり不思議なり、此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ、 別の故はある 02 べからず・あるべからず、宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。 -----― 阿仏房、あなたはまさしく北国の導師ともいうべきであろう。浄行菩薩が生まれ変わって日蓮を訪ねられたのであろうか。まことに不思議なことである。あなたの厚いお志の由来を日蓮は知らないが、上行菩薩のご出現の力にお任せするのである。別の理由があるわけでないであろう。宝塔を夫婦ひそかに拝みなさい。くわしいことはまた申し上げよう。恐恐謹言。 |
「いま」「ここに」宝搭が立つ
さらに、大聖人は、“阿仏房が、多宝如来の供養をしておられるかと思えば、そうではなく、我が身を供養しておられるのである”と仰せです。
宝搭、すなわち御本尊に対して供養することは、そのままわが身にたいして供養することになる。「三身即一の本覚の如来」とは、円融円満の仏です。私たち自身が、本来、完全無欠の仏であるとの大宣言です。
一人一人の生命を荘厳するための御本尊です。私たちを輝かせるための御本尊です。ここに、日蓮大聖人の仏法が「人間のための宗教」であるゆえんがあります。
そしてまた、わが身が三身即一身の本覚の如来になり、宝搭になるゆえに、自身のいるところが宝搭の住処となります。そのことを「ここさながら宝搭の住処なり」と仰せられているのです。それは、宝搭の他のどこに求めてもならないということでもあります。
御本尊を強盛な信心で拝するところ、それがいずこであろうと、また、いつであろうと、そこが虚空会となり、霊山となり、宝搭が立つのです。
不二の弟子の活躍を待望
法華経の宝搭を、日蓮大聖人は御本尊として御図顕されました。すなわち「宝搭をかきらはし・まいらせ候ぞ」とは、日蓮大聖人が宝搭、つまり南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕し、万人が現実に成仏できる道を確立されたことです。
これを「出世の本懐」仏が世に出現した究極の本意・目的であると仰せです。
大聖人は、阿仏房の不退の信心と不惜の実践を賞讃され「北国の導師」とまで呼ばれています。「導師」とは、今で言えば、広布の尊きリーダーです。
わが身が宝搭であると目覚めた人は、当然、他者の胸中にも宝搭があることを知ります。今度は、人々の宝搭を開く存在に変わる。阿仏房を起点として、佐渡および北国の人々が宝搭と輝いていくのです。真正の弟子ゆえに、広布のリーダーとして、大聖人と不二の共戦に立ってほしいとの念願を込めて、入魂の激励をされていると拝されます。
それゆえに「浄行菩薩うまれかわり給いてや」とも仰せです。事実、身の危険をかえりみず大聖人をお守りした阿仏房に、まさに不思議としかいいようがない、仏法上に深い絆を感じられてのお言葉とも拝されます。大聖人は、その阿仏房の深き志に感謝され、「上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ」とまで仰せです。
そして最後に大聖人は、「宝搭をば夫婦ひそかにをがませ給へ」と、夫婦して、御本尊を大事に外護し、唱題に励むよう促されています。「ひそかに」とあるのは、大聖人の赦免後も、何か厳しい状況にあったとも考えられます。だからこそ、御本尊を何とりも大事にして、「をがませ給えへ」と御本尊根本に、信心を教えられていると拝されます。
人間賛歌、生命賛歌の時代へ
ちょうど20年前(1991)第2次宗門事件の渦中、学会の「魂の独立」に結実していく戦いも日々であて、私どもは幾度となく、この「宝搭御書」を拝し合いました。ドイツで、イギリスで、日本で。
「わが身が宝搭」この仏法の人間尊厳と生命尊厳の哲理に基づく、宇宙的ヒユーマニズムの精神が、壮大なる人間賛歌・生命賛歌の地球を響かせていく時代が来たと、私は確信しております。
七宝に輝く宝搭とは、本来自分自身の屹立した姿そのものです。わが身が荘厳なる宝搭です。
大聖人は「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(0797-12)と教えてくださっています。
わが身に宝搭を見て、わが友の宝搭を見る。そして宝搭がまた宝搭の立林で、わが地域を荘厳していくのです。地球を荘厳していくのです。
広宣流布の「宝の搭」を、わが地域に立てることです。私はこれだけやったと「永遠の金字搭」を残すことです。
「わが搭は、ここに立つ」と人生を飾ることです。
わが胸中に宝搭を湧現させ、さらには、その宝搭を広げていく、宝搭を荘厳する七宝の輝きとは、一人一人の人間革命の姿そのものです。
戦っている人は必ず輝きます。
「大願」をもって生きている姿そのものが、宝石の如く「不滅の光」を放っていくのです。
皆さま一人一人が、この地球上に宝搭の林立を築いていく使命を持った広宣流布の勇者です。英雄です。
私たちの宝搭とスクラムを世界が待っています。人類が求めています。いよいよ「時」が到来したのです。
1305~1306 妙法曼荼羅供養書top
1305:01~1305:03第一章妙法漫荼羅の力用を教えるtop
| 妙法曼陀羅供養事 文永十年 五十二歳御作 与千日尼 01 妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、 此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成 02 仏の印文なり、 冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生 03 死海の船なり成仏得道の導師なり。 -----― 妙法蓮華経の御本尊を供養いたしました。この曼陀羅は、文字は五字七字であるけれども、三世諸仏の御師であり、一切の女人の成仏を約束する印文である。冥途ではともしびとなり、死出の山では良馬となる。天にあっては、日月のようであり、地にあっては須弥山のようなものである。生死の苦海を渡る船である。成仏得道に導く師である。 |
御本尊
本尊とは根本として尊敬する対象のこと。
―――
曼陀羅
梵語マンダラ(Maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
―――
冥途
冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。
―――
死出の山
冥途にある山。高く険しい山で獄卒に追われて登るが剣のごとくとがった岩でできており、獄卒に鉄棒で打たれるという。
―――
須弥山
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼・蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでいるとする。
―――
生死海
生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
―――
成仏得道
成仏と得道。成仏は仏になること。仏界を開くこと。成道・作仏・成正覚と同意。得道は仏道を会得すること。仏果・涅槃に趣く道を得ること。いずれも仏法の悟りの境涯を得る意で、並べて用いることがある。
―――
導師
衆生を正しく仏道に導く者のこと。
―――――――――
本抄の御述作は「御書全集」で本抄は、文永10年(1973)於佐渡・52歳御作・与千日尼となってはいるが、いつ著されたか、また誰に与えられたかは明確ではない。女性に与えられていることは確かであるが、千日尼、日妙聖人、妙法尼等、さまざまな説がある。しかしここでは大方の説に従い、文永10年(1273)の作で、千日尼に与えられたものとしておく。
これは妙法蓮華経の御本尊の供養にともない、御本尊の意義についてしたためられたお手紙である。そこから本抄の名があるのであるが、大聖人が佐渡において御本尊を図顕されてから、まだ日の浅いころであろうと考えられる。
更に御本尊の依処である法華経が、末法の衆生の病を癒やす唯一の経であることを教えられている。そしてその妙法を末法に弘める使命を帯びているのは上行等の地涌の菩薩であるといわれ、御本尊を持つ人は、地涌の菩薩と共にあると締めくくられている。
此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世の諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり
此の曼陀羅は、文字は五字あるいは七字である。しかし、この文字が法華経の肝心であり、そのなかに一念三千の原理を含むのである。三世の諸仏もこの南無妙法蓮華経を悟って仏になることができたのであり、その意味で「御師」である。また、女人成仏は法華経にのみ説かれた法門であり、「女人の成仏の印文」であることも疑いない。
森羅万象の根源の法については、釈尊や天台大師もその存在は示唆しているが、それ自体を説くことはなかった。法華経においても四句の要法等として説かれ、天台大師も一念三千として説明はしたが、内鑑冷然・外適時宜で、それ自体を明かすことはなかったのである。その根源の法が南無妙法蓮華経であることを明かしたのは大聖人であり、建長5年(1253)、その題目を建立した後、文永8年(1271)10月頃から御本尊として顕されたのである。その故に「仏滅後二千二百二十余年の間、の内には未だひろまらせ給はず」といわれているのである。
五字七字が三世の諸仏の師であるというのは簡単すぎるように思える。しかし逆にいえば、根本の原理だからこそ、五字七字というように簡潔だともいえるのである。そして、簡潔であるがゆえに、万人が実践し、成仏することが可能なのである。
この南無妙法蓮華経を一幅の御本尊と顕されたことによって、仏法は一切衆生のものとなったともいえる。難解な法門に迂遠きわまる修行で迫るというのでは、大衆は仏法から遠ざかるばかりであろう。五字七字のなかに一切をおさめ、それを御本尊と顕して、これを対境とする唱題によって冥合をはかっていく大聖人の仏法こそ真実の民衆仏法といえよう。
1305:04~1305:09第二章大曼荼羅末弘の所以を説くtop
| 04 此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず、病によりて薬あり軽 05 病には凡薬をほどこし 重病には仙薬をあたうべし、 仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は人の煩悩と罪業 06 の病軽かりしかば・ 智者と申す医師たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき、所謂倶舎宗・成実 07 宗・律宗.法相宗・三論宗.真言宗・華厳宗.天台宗.浄土宗.禅宗等なり、彼の宗宗に一一に薬あり、所謂.華厳の六相 08 十玄・三論の八不中道.法相の唯識観・律宗の二百五十戒・浄土宗の弥陀の名号・禅宗の見性成仏.真言宗の五輪観・ 09 天台宗の一念三千等なり。 -----― この大曼陀羅は、仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内にはいまだ広まっていない。 病気によって応分の薬がある。軽病には凡薬をほどこし、重病には仙薬を投与すべきである。仏滅後から今日までの二千二百二十余年の間は、人の煩悩と罪業との病が軽かったので、智者という医師達が続いて出現されて病に応じて薬を与えられたのである。 いわゆる倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・天台宗・浄土宗・禅宗等である。これらの宗々にそれぞれ薬がある。いわゆる華厳宗の六相十玄、三論宗の八不中道、法相宗の唯識観、律宗の二百五十戒、浄土宗の阿弥陀仏の名号、禅宗の見性成仏、真言宗の五輪観、天台宗の一念三千等である。 |
仏滅後二千二百二十余年の間
釈尊の入滅から、日蓮大聖人が本抄を御述作なされた文永10年(1273)の間をいう。正確には、仏滅後2,222年である。すなわち文永十年は大集経に説かれる第五の五百歳にあたり、すでに「我が法中に於て、闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」の悪世末法に入っていることを意味する。
―――
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
煩悩
貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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罪業
罪悪の業。苦しみを招く因となる悪の行為。福業・善業・浄業に対する語。涅槃経巻二十に「一切衆生の所作の罪業に凡そ二種あり、一つには軽、二つには重なり、若し心口の作は則ち名づけて軽と為し、身口意の作は則ち名づけて重と為す」とある。罪業の中でも謗法は最も重い罪業で、無間地獄に堕ちる因となる。
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智者
物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
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倶舎宗
仏滅後九百年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
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成実宗
四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
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律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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法相宗
南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依として、諸法の性相を分別し体系化することを目的とする大乗の学問宗。唯識宗・応理円実宗・有相宗などともいい、開祖の名をとって慈恩宗ともいう。インドの弥勒、無著、世親らの唯識哲学に淵源をもつ。唐代の玄奘が成唯識論をインドから持ち帰って翻訳し、弟子の窺基が法相唯識の義を宣揚してから盛んになった。日本では、白雉4年(0563)に道昭が入唐して玄奘の教えを受け、帰国して後法興寺に住して弘めた。以後、元興寺・興福寺の両寺を中心に法相の学問研究が進められた。
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三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆菩薩の百論の三つの論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵法師によって大成された。空の立場から仏教を解釈し、八不をもって一切の偏見を打破することが中道の真理を顕す道であるという八不中道を唱えた。日本へは推古天皇33年(0625)に高句麗の慧灌によって伝えられた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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真言宗
三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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天台宗
法華経を依経として、中国・隋代に天台大師智顗が開いた宗派。法華宗・天台法華宗・天台法華円宗ともいう。教相には五時八教を立て、観心には円融の三諦を唱え、一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期すことを説く。中国では、北斉代の慧文が、竜樹の大智度論と中論によって一心三観の理を説き、これが慧思を経て天台に伝えられた。天台は南三北七の教義を破し、法華文句、法華玄義、摩訶止観の法華三大部を著し天台宗の教義を大成した。天台の没後、章安から智威、慧威、玄朗、妙楽と伝承され、妙楽は法華三大部の注釈書を著して天台の宗義を宣揚した。日本天台宗の開祖・伝教大師最澄は、入唐して妙楽の弟子の道邃と行満から相承を受け、延暦24年(0805)に帰国後、比叡山延暦寺に日本天台宗を開創した。
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浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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華厳の六相十玄
六相も十玄もともに華厳宗の立てる法界観に関する法門。❶六相、すべての存在がそなえているという6種の姿のことで,総相,別相,同相,異相,成相 ,壊相をいう。華厳宗ではすべての存在がこれらをそなえ,部分的にも全体的にも完全に調和し合っている (六相円融) という。❷十玄、奥深く微妙な縁起のことで、諸事象が相互に密接に関連する相を10の面から説明したもの。智儼の創唱と法蔵の配列がある。①智儼の説、同時具足相應門・一多相容不同門・諸法相即自在門・因陀羅微細境界門・微細相容安立門・秘密隱顯俱成門・諸藏純雜具德門・十世隔法異成門・唯心迴轉善成門・託事顯法生解門。②法蔵の説、同時具足相應門・因陀羅網境界門・秘密隱顯俱成門・微細相容安立門・十世隔法具法門・諸藏純雜具德門・一多相容不同門・諸法相即自在門・唯心迴轉善成門・託事顯法生解門。
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三論の八不中道
三論宗の根本教義で竜樹の中論より「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」の八不を立てたもの。あらゆるものを縁起の理によって説明する論法。現象は断絶とか連結とかではとらえられない不思議の実在であり、ここに真理に合する中道の実践があるとする。これは、縁起を空と説く中道の立場から、外道の邪見ならびにそれに準ずる仏教内部の邪見を破したものである。三論宗では、八不は破邪、中道を顕正とする。
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法相の唯識観
法相宗では唯識の教義を根本とする。唯識は「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。
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律宗の二百五十戒
小乗の戒律を修行する律宗は二百五十戒等を受持することを宗義とする。二百五十戒は男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
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浄土宗の弥陀の名号
南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。
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禅宗の見性成仏
見性成仏は禅宗の根本精神を簡潔に表明した句。自分に本来そなわっている「仏となりうる性質」を発見して、悟りを開き、仏となること。ただちに迷いや疑いを去って、自己の本来の姿を悟り実現すること。
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真言宗の五輪観
五輪を観ずる観法のこと。真言密教の行者が一切の依報・正法が五大(地・水・火・風・空)で構成されていることを覚知し、自身の五処(頂・面・胸・腹・膝)に五大の種子(阿・鎫・ラン・唅・欠)の五字を配し、我が身即五智如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)であると観ずる法をいう。五輪成身ともいう。
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天台宗の一念三千
一念三千の法門は天台宗の根本教義である。一念三千とは、衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足することをいう。一念とは、瞬間・極微の生命をいい、三千とは現象世界のすべてをいう。すなわち、衆生の生命に現象世界のすべてが欠けることなく収まること。天台は、法華経方便品第二に説かれる十如是の文、法華経如来寿量品第十六に説かれる三世間の義等を明鏡として一念三千を創唱し、これを摩訶止観に説き明かした。摩訶止観巻五上に「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す」とある。一念三千は、衆生の一念に宇宙の無限の差別相が具足して欠けることがないと説く、卓越した生命哲理である。その上で日蓮大聖人は、この天台大師の一念三千を理としてしりぞけ、事の一念三千の当体としての御本尊を具現化し、この御本尊の受持を即、観心とされている。
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大聖人建立の三大秘法の御本尊が、仏滅後、今日にいたるまで未曾有の大良薬であることを示唆されている。そして、これまで現れたあらゆる仏教が、衆生の病を癒やす薬として、何を立てたかを示されている。
仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は、人の煩悩と罪業の病軽かりしかば、智者と申す医師たちつづき出でさせ給いて、病に随って薬をあたえ給いき
釈尊滅後、正法時代、像法時代の衆生は生命も穢れていず罪業も浅かったので、小乗や権大乗、法華経迹門によって化導することができたといわれている。
末法の衆生は三毒強盛であるといわれるが、正像時代の人々よりも末法の機根が悪いというのは本当であろうか。貪・瞋・癡の三毒は現代よりも昔のほうが強かったようにみえる。知能程度は変わっているとは思えないが人を殺すことを何とも思っていなかったり、殺し合いがゲームにさえされた時代をみると、貪や瞋は激しかったように思われるし、科学知識が進んだ現代からみれば、昔は癡かであったことも確かなように思える。それでなおかつ末法の衆生が三毒強盛であるというのはどういうことか。
確かに、一部の野蛮な風習を残しているとはいえ、全体的に死刑や拷問等、生命を傷つける行為に対しては自粛され、生命尊重がうたわれるようになってきた。しかし依然として争いは続けられ、貪瞋癡が盛んであることにちがいはない。いつの時代にも、三毒は強盛であるが、時を経るにしたがって、巧妙にして陰険になっていることも事実である。
あからさまに人を傷つけることは少なくなったかもしれない。しかし表面をとりつくろいながら、裏で残酷きわまりない方法で殺戮を繰り返しているのが末法という時代ではないだろうか。
欲望も、自分のまわりの小さな範囲に対するささやかな欲望から、国家や世界という大きな欲望に移り変わっており、戦争も世界的規模で行なわれるという悲惨をさえ経験した。科学知識が進み、利巧になっているかのようにみえながら、かえって幸福からは遠ざかっているのが実情ではないだろうか。なにより、宗教という、人生にとって最も大切な何かを教えようとする哲学に懐疑的になり、ある場合には盲目的に嫌悪する風潮は「癡」以外のなにものでもあるまい。
人間の犯している罪業もまた、巨大化の一途をたどっている。人間同士の殺戮にとどまらず人間同士のエゴのために一切を犠牲にしさる行為もとどまるところを知らない。略奪、虚偽も規模と陰険さを増しながら激しくなっている。まさしく末法の衆生の、煩悩と罪業の病は重いのである。
病気の軽い患者には薬も強いものはいらない。しかし重病人には強いききめの薬が必要となる。同じく、機根のよい衆生は小乗や権大乗等で悟りを得ることができるが、機根の劣る衆生に対しては、最も力ある教えでなければ救済することはできないのである。
機根がととのっている衆生は、単に真理を示し、また簡単な譬喩や因縁を説くだけで納得し修行する。しかし機根のととのわない衆生には、最初から直ちに絶対最高の法体を教え、その偉大な力用を現していかなければならない。教義の解明や方法論はそのあとになる。
正像時代の衆生は、宗教そのものに対する懐疑などはなかったであろう。そこでは具体的な修行法、つまり戒律や、あるいは経典を読誦したり書写したりすることを教えるだけでよかったし、また仏の偉大さ、極楽浄土の荘厳を讃嘆するだけで仏道に入っていったであろう。
しかし、末法の衆生は宗教そのものに対する懐疑がある。そうした衆生に対しては、まずそうした強固な懐疑の殻を打破し、生死の苦しみを根本から解決する方法を現実に指し示す必要がある。日蓮大聖人の仏法でなければ末法の衆生は救えないという理由はそこにあるのである。
1305:10~1306:06第三章末法衆生の謗法を破折するtop
| 10 今の世は既に末法にのぞみて諸宗の機にあらざる上、日本国一同に一闡提大謗法の者となる、 又物に譬うれば 11 父母を殺す罪・謀叛ををこせる科・出仏身血等の重罪等にも過ぎたり、 三千大千世界の一切衆生の人の眼をぬける 1306 01 罪よりも深く・十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも超えたる大罪を・ 一人して作れる程の衆生・日本国に充満せ 02 り、されば天は日日に眼をいからして日本国をにらめ、 地神は忿りを作して時時に身をふるうなり、 然るに我が 03 朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ・必ず往生すべし・成仏をとげんと思へり、 赫赫たる日輪をも目無き者は 04 見ず知らず、譬えばたいこの如くなる地震をも・ねぶれる者の心には・おぼえず、 日本国の一切衆生も是くの如し 05 女人よりも男子の科はををく・ 男子よりも尼のとがは重し・尼よりも僧の科はををく・破戒の僧よりも持戒の法師 06 のとがは重し、持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし、此等は癩病の中の白癩病・白癩病の中の大白癩病なり。 -----― 今の世は、すでに末法に入って、諸宗の凡薬で治る衆生の機根ではないうえ、日本国の衆生は一同に一闡提人・大謗法の者となった。また日本国の衆生の罪科は、たとえてみれば、父母を殺す罪、謀叛を起こす科、仏身より血を出す等の重罪等にも過ぎて重いのである。 三千大千世界の一切衆生の眼を抜いた罪よりも更に深く、十方世界の堂塔を焼き払ったよりも超えた大罪を、一人で作ったほどの衆生が、日本国に充満している。 それゆえ、天は日々に眼を怒らして日本国を睨み、地神は忿りをなして常に身を震わせるのである。 しかしながら、わが日本国の一切衆生は、皆が皆、わが身には科がないと思い、必ず往生するにちがいない、成仏を遂げるであろう思っている。 赫々たる日輪をも目の無い者は見ないし知らない。譬えば、太鼓を叩くような大きな響きの地震でも、眠っている者には覚えがないように、日本国の一切衆生もこのようなものである。 女人よりも男子の科は重く、男子よりも尼の科は重い。尼よりも僧の科は重く、破戒の僧よりも持戒の法師の科は重い。持戒の僧の科よりも智者の科は重いであろう。これらの者は、癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病の者である。 |
機
説法を受ける所化の衆生の機根。
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一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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大謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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出仏身血
悪心を起こし、仏の身体を傷つけて血を出すこと。五逆罪の一つ。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされる。
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三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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一切衆生
すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
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十方世界
「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
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地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
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成仏
仏になること。成道、作仏、成正覚ともいう。
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尼
普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。
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僧
出家して仏門に入り、具足戒を受けた男子。本来は仏道修行の集団を意味したが、中国や日本では、修行者個人をさすようになった。
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破戒の僧
受持した戒律を破る僧。
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持戒の法師
戒律を守り犯さない法師。仏法に通じて修行に励み、衆生に教えを説いていく僧。
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白癩病
癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
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末法の日本国の衆生が、いかに大謗法の極重罪を犯しているかを厳しく指摘されたところである。とくに仏法を学び、人々を正しい道へ指導すべき立場の者の謗法の罪が重いとの戒めは、仏教界の指導者に対する痛烈な破折であり警告である。
日本国一同に一闡提大謗法の者となる。又物に譬うれば父母を殺す罪、謀叛ををこせる科、出仏身血等の重罪等にも過ぎたり
謗法の罪と五逆罪を比較し、謗法の罪の重さをいわれている御文である。「謀叛」とは五逆罪の一つ、破和合僧にもあたるであろう。五逆罪は重罪である。なぜなら、自らがこの世に生を受け、人間として生きるうえで、最も大きい恩を受けたものに対する損傷を意味するからである。この五逆罪を犯した者は阿鼻獄に堕すること疑いない。その五逆罪より謗法の罪が重いとはどういうことであろうか。
これは仏法における罪の考え方に起因すると思われる。五逆罪は確かに重罪である。しかしそれは仏法そのものへの敵対行為とは限らない。殺父・殺母・殺阿羅漢はもとより、破和合僧や出仏身血に至っても、謗法の心より起こった場合は謗法に含まれるが、そうでない場合もあるであろう。偶発的なこともあるであろうし、人に教唆されて犯す場合もありうる。それに比べて謗法は、法そのものを謗る行為である。ゆえに、その罪は極めて大きいとするのである。法は一切の仏・菩薩等を出生する種子であるから最も尊貴であるとするのが仏教であり、したがって、これを誹謗する罪は無間に大きいといえよう。
また、一般論からみて、法律上の大前提として、犯意なき行為は犯罪を構成しないという。五逆罪に犯意がないことはありえないが、尊極無上の法そのものに対する敵意がない場合は、謗法よりは軽いと考えられるのである。もちろん、謗法に淵源をもって五逆罪が行なわれた場合は、逆謗の二罪が相乗されて大罰を受けるのは当然である。ここでは謗法の心をもたない五逆罪を論じておられるのはいうまでもない。
五逆罪をたとえ犯しても、正法に目覚め、仏道修行を積めば、その罪は、容易に消すことができる。しかし、謗法行為は、この究極の正法への信という仏種を自ら断ずる行為である。謗法が五逆罪よりも重いとされるのは、「即断一切・世間仏種」で、成仏の道を自ら閉ざすという意味において、当然のことなのである。
ただし、より深くみれば、正法誹謗は逆縁を形成していくとされ、いったんは無間地獄に堕ちても、将来必ず救われていくのである。
我が朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ、必ず往生すべし、成仏をとげんと思へり
ここにいわれていることは、そのまま現代の日本人の大部分の宗教観にも、あてはまるのではないだろうか。大聖人の時代もそうであったろうが、宗教について真っ向から否定する人は少ない。大体、誰もが一応、必要だと答える。しかも自ら宗教を大切にしていると考えているのである。クリスマスを祝い、正月には神社に行き、また、寺院からお守りを買う。それによって、宗教を大事にしているのだから利益があるはずだと考えるのである。これは宗教の何たるかを全く知らない考え方である。むしろ、宗教を大事にしているという人が宗教の本筋から外れている場合も少なくない。
しかも、自分は宗教を大事にしていると思っている人ほど、宗教の教義を厳密に批判すると、宗教に対する冒瀆だと嫌うのである。したがって、そのような人々に宗教に対する無知を知らしめる折伏こそ、広宣流布を進めていくうえで最も肝要なことであろう。
女人よりも男子の科はをもく、男子よりも尼のとがは重し。尼よりも僧の科はをもく、破戒の僧よりも……智者の科はをもかるべし
当時の社会にあって、女性より男性の与える影響は極めて大きかったし、出家者のそれは在家よりなお大きかったのは事実である。僧侶は当時の社会で知識階層を構成していた。
社会的な地位のない人が仏法を批判しても、人々はあまり影響されることもない。それよりも人々から尊敬される立場にある人が批判すると、そういうものかと信ずる人が多くなるのは当然である。まして仏教を究めていると思われている僧侶が正しい法に批判的な態度をとり、人々を欺いたりする罪は極めて大きい。なかんずく、僧侶のなかでも人格高潔とされ、人々から生き仏のように崇められている人が、人々をだまして正法を誹謗したとすれば、これにまさる罪はない。
提婆達多は生きながら阿鼻地獄に堕ちたと説かれるのは、釈尊のいとこであり、阿闍世王をはじめ、さまざまな人々の尊敬を集めるほどの立場にいて釈尊に敵対した故である。極楽寺良観が三類の強敵の最たるものとされるのも、人々から持戒の僧と尊敬され、なおかつ陰険な策謀をめぐらして大聖人に敵対した故である。
社会的に、また宗教の世界において重要な位置にある人が正法を感情的に批判することは、それだけで人々が盲目的に従いがちであるのみならず、仏法の教義や社会的知識に乏しい人がやみくもに批判するのに比べて、その誤りが容易に発見できないところに罪の大きさがある。
例えば、宗教は先祖伝来のものだから離れたくないとか、ただ嫌いだというのではなく、仏教は釈尊の説いたものだから何でも同じだと、もっともらしい言い方をした場合は、人々もそれに同調しやすい。まして、真言宗などのように一念三千の法門が大日経にもあると、その義を盗みとって糊塗しても、普通の人は気づかなかったのである。したがって、そういう誹謗ほど、罪が重いのである。
御本尊を持っている者が、もし退転して誹謗するようであれば、信仰していない人が批判するよりも、なお大きな罪となることは疑いない。対社会にあっても、また信仰している人に対しても、その与える影響は大きく、また邪智も進んでいるとみなければならない。それだけ罪も大きいのである。退転して批判することは、最も恐るべきであり、戒めなければならないことでもある。
1306:07~1306:13第四章大良薬の妙薬を明示するtop
| 07 末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか治す可きとかんがへ候へば・ 大日如来の智拳の印並びに 08 大日の真言・阿弥陀如来の四十八願・ 薬師如来の十二大願・衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず、 つやつや 09 病・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし、此等の末法の時のために教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ 10 給うて一の仙薬をとどめ給へり・所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩タ・普賢・文 11 殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず、 何に況や迦葉・舎利弗等をや、上行菩薩等と申して四人の大菩薩まし 12 ます、 此の菩薩は釈迦如来・五百塵点劫よりこのかた御弟子とならせ給いて一念も仏を・わすれず・まします大菩 13 薩を召し出して授けさせ給へり、 -----― 末代の一切衆生は、どのような大医、どのような良薬で、大重病を治すことができるであろうかと考えてみるのに、大日如来の智拳の印ならびに大日如来の真言、阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二大願、とくにその中の衆病悉除の誓いも、この重病を治す薬の働きをすることができない。一向に病が消滅しないうえ、ますます病は倍増するであろう。 このような末法の時のために、教主釈尊は多宝如来や十方分身の諸仏を集められて、一つの仙薬をとどめおかれた。 いわゆる、妙法蓮華経の五つの文字である。この文字を法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等の菩薩にも依託されなかった。まして迦葉・舎利弗等の二乗についてはいうまでもない。 上行菩薩等と申して四人の大菩薩がおられる。この四菩薩は、釈迦如来の五百塵点劫の大昔以来、御弟子となられて、一念も仏を忘れないで来られた大菩薩であって、仏は、こうした大菩薩を召し出して、この五文字を授けられたのである。 |
大日如来の智拳の印
金剛界の大日如来が結ぶ印のこと。無明を滅して仏智に入ることのできる拳印とされるゆえに智拳の印という。印相は、両手で金剛拳を結び、次に左手の親指を伸ばして右手の中に入れたもの。右手は仏界、左手は衆生をあらわすとされることから、理智不二、生仏一如、迷悟一体をあらわすという。
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大日の真言
真言宗の立てる大日経等の真言。真言は咒・神呪・密言のこと。真実の言葉・真実の意。仏や菩薩の本誓を表す秘密の言葉。
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阿弥陀如来の四十八願
阿弥陀仏が過去世に法蔵比丘という因位にあった時に立てた四十八種の誓願。無量寿経巻上に説かれる。浄土宗では第十八の念仏往生願をとくに重視し、専修念仏の根拠としている。
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薬師如来の十二大願
薬師如来がかつて浄瑠璃世界で菩薩道を行じていた際、来世に菩提を得て仏になった時に成就しようと願って立てた十二の誓願。薬師本願功徳経に説かれる。衆生の進むべき道を正しく示す、衆生の必要とする物を不足させない、衆病を治して身心ともに安楽にし、無上の菩提を得させる、等の諸願からなっている。
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衆病悉除の誓
薬師如来の十二大願の第七願のこと。薬師本願功徳経には「第七の大願とは……若し諸の有情に衆病逼切して救い無く……我が名号一たび其の耳に経れば、衆病悉く除こり身心安楽にして、家属資具悉く皆豊足し、乃至無上菩提を証得せん」とある。
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末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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多宝如来
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方分身の諸仏
中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
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法慧
法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
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法慧
法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
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功徳林
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
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金剛薩埵
真言八祖の第二祖。大日経の対告衆。
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普賢
普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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文殊
文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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薬王
薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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観音
観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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上行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
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四人の大菩薩
①華厳経の四菩薩(法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵)。②胎蔵界の四菩薩(文殊、普賢、弥勒、観音)。③法華迹門の四菩薩(文殊、普賢、薬王、観音)。④法華経本門の釈尊(上行、無辺行、浄行、安立行)。
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釈迦如来
釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
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五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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最も悪業深重の末法の一切衆生のためには、法華経の究極である妙法しかないこと、それは、地涌の菩薩に授けられたことを述べられている。
大日如来の智拳の印並びに……薬師如来の十二大願、衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず。つやつや病消滅せざる上、いよいよ倍増すべし
真言宗、浄土宗、天台宗の代表的な教義を破り、末法には功徳がないどころか、かえって病気を倍増させるであろうといわれている。
権大乗の教えは正法時代の後半五百年、法華経迹門は像法時代の人々を救済する働きがあったという。その教えが末法に入ると功徳がなくなり、加えてますます病を重くさせるとはどういうことであろうか。
それは、一つには正法誹謗の故である。真言宗は理同事勝とけなし、浄土宗は理深解微、千中無一等と批判した。天台宗は法華経を依経としながら、真言宗に同じて謗法と化したのである。良薬があっても毒を混じれば毒薬となってしまう。病気が治るどころか、病気を重くするのは当然である。法華経譬喩品第三には、「斯の如き経典を、誹謗すること有らん……此の人の罪報を、汝今復た聴け……若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復た死を致さん。若し自ら病有らば、人の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復た増劇せん」とある。
また、第二には正法の修行を妨げる故である。末法の衆生は生命の真実相をそのまま説き明かした南無妙法蓮華経を受持することによって仏界を顕す機根の衆生である。その人々に現実逃避の極楽往生を教えたり観念観法を勧めても、かえって欺瞞性や現実遊離を感じて、仏法そのものから離れてしまうこともあろう。観念観法等が現代社会では非現実的な修行であることも当然である。去年の暦を今年使用するならば、かえって混乱を生むであろう。医学の発達しない時代にはある意味で有効であった占い師も、医学が発達している現在では、人々がこれに拠りかかるとすれば、病気の解消にとって邪魔な存在にさえなってくるであろう。
このように考えれば、末法においては、大聖人の仏法のみが時にかなった教えであり、他の教えは妙法を覆い隠す存在と化してしまうことがわかるのである。
今の世は、すでに末法に入って、諸宗の凡薬で治る衆生の機根ではないうえ、日本国の衆生は一同に一闡提人・大謗法の者となった。また日本国の衆生の罪科は、たとえてみれば、父母を殺す罪、謀叛を起こす科、仏身より血を出す等の重罪等にも過ぎて重いのである。
三千大千世界の一切衆生の眼を抜いた罪よりも更に深く、十方世界の堂塔を焼き払ったよりも超えた大罪を、一人で作ったほどの衆生が、日本国に充満している。
それゆえ、天は日々に眼を怒らして日本国を睨み、地神は忿りをなして常に身を震わせるのである。
しかしながら、わが日本国の一切衆生は、皆が皆、わが身には科がないと思い、必ず往生するにちがいない、成仏を遂げるであろう思っている。
赫々たる日輪をも目の無い者は見ないし知らない。譬えば、太鼓を叩くような大きな響きの地震でも、眠っている者には覚えがないように、日本国の一切衆生もこのようなものである。
女人よりも男子の科は重く、男子よりも尼の科は重い。尼よりも僧の科は重く、破戒の僧よりも持戒の法師の科は重い。持戒の僧の科よりも智者の科は重いであろう。これらの者は、癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病の者である。
1306:13~1306:18第五章妙法の偉大な功力を明かすtop
| 13 されば此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立そひて・此 14 の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至此の女人・ 道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ、譬へば・かげ 15 と身と水と魚と声とひびきと月と光との如し、 此の四大菩薩 南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人をはなるるな 16 らば・釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気を此の菩薩の身に蒙らせ給うべし、 提婆よりも罪深く瞿迦利よりも大 17 妄語のものたるべしと・をぼしめすべし、あら悦ばしや・あら悦ばしや、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 18 日蓮花押 -----― それゆえ、この五文字の良薬を持つ女人等を、これら上行等の四人の大菩薩は、前後、左右に立ち添って、この女人に立たれたならば、これら四大菩薩も立たれるのである。乃至、この女人が道を行く時には、これら四大菩薩も道を行かれる。譬えば、影と身と、水と魚と、声と響きと、月と光とのようなものである。 これら四大菩薩は、南無妙法蓮華経と唱える女人を離れるならば、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気をわが身に受けられるのである。その罪は、提婆達多のそれよりも深く、瞿迦利よりも大妄語のものとなるとお考えになりなさい。なんと悦ばしいことであろうか。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経 日蓮花押 |
提婆
提婆達多のこと。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
瞿迦利
梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写で、倶迦利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身で提婆達多を師と仰ぎ、舎利弗や目連等を誹謗して地獄に落ちたといわれる。
―――――――――
末法の大良薬である御本尊の功力の大きさを、四菩薩の守護というわかりやすい例で述べられている。
此の良薬を持たん女人等をば、此の四人の大菩薩、前後左右に立そひて、此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ
法華経を持つ衆生を、四菩薩が前後左右に堅固に守護してくれるので、絶対に恐れることはないのであり、もしも守護を怠れば四菩薩さえも、仏が譴責するといわれているのである。妙法信仰の功徳は絶大であると教えられている。
一往、ここでは上行等の四菩薩を、法華経の行者を守護する菩薩として表現されているが、再往は大聖人御自身が外用は上行の再誕であり、大聖人が法華経の行者たる千日尼を絶対に守るとの文である。
しかし、このことを前提としたうえで、もう一歩「守護」というものの本義を考えておきたい。法華経を持つ人は、すでにその人自体、地涌の菩薩である。したがって「此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ」とは、此の女人、つまり千日尼自身が地涌の菩薩として立つということにほかならない。仏法の守護というのは、力なき人を諸天善神等が支えて守るというのではない。地涌の菩薩とし、大聖人の本眷属として力強く立ったとき、この人を主人として、諸天等がつき従い、守る働きをするのである。
「守護」ということの意義は、ここにある。信仰する人が力のない弱い存在で、それを神や仏が愍みをたれて守護するというのではない。あくまで妙法を持つ人が諸天善神等の働きを使いこなして、十分に力を発揮できるようにするのである。諸仏・諸菩薩・諸天善神が主人なのではなく、法華経を持つ人が主人なのである。
諸天善神といっても決して、何か特別な、いかにも諸天善神であるという姿をして現れるものではない。それは衆生に理解しやすいように表現されたものであり、大日天や大月天等にしても、それらのもつ「衆生の生命を守る働き」をそう名づけたのである。したがって、それをどう受け入れ、生命を守る働きとして使いこなしていくかは、その人自身の生命力によるのである。
生命力の衰退した人は、いくら良い条件に囲まれていても、それを栄養素として受け入れることができず、結果として「守護」がないことになってしまう。法華経の行者は、御本尊を信ずることによって、御本仏の生命をわが身に湧現させ、一切を諸天の働きとしてくのである。「魔及び魔民有りと雖も、皆な仏法を護らん」とあるのもその意である。
大聖人は、法華経の行者が、諸菩薩に守護される弱い存在であることをいおうとしておられるのではなく、千日尼に、諸菩薩や諸天善神を従えて「遊行して畏れ無きこと師子王の如く」(1124-09)堂々とした確信に立つべきことを教えられていると拝しておきたい。
1307~1308 阿仏房尼御前御返事(畷堅固御書)top
1307:01~1307:05第一章謗法の罪報を教えるtop
| 1307 阿仏房尼御前御返事 建治元年九月三日 五十四歳御作 与千日尼 01 御文に云く謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なりや云云、夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり、 然 02 りといへども信ずる者は 成仏をとぐ謗ずる者は無間大城に堕つ、 「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切 03 世間の仏種を断ぜん、 乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり、 謗法の者にも浅深・軽重の異あり、法 04 華経を持ち信ずれども誠に色心相応の信者・ 能持此経の行者はまれなり、 此等の人は介爾ばかりの謗法はあれど 05 も深重の罪を受くる事はなし、 信心はつよく謗法はよはき故なり、 大水を以て小火をけすが如し、 -----― あなたのお手紙には「謗法の浅い深い、軽い重いに応じて罪報はどのようになるのでしょうか」とある。そもそも法華経の本意は、一切衆生が皆成仏できる道を説いた御経である。そうではあるといっても、この経を信ずる者は成仏を遂げ、謗る者は無間大城に堕ちるのである。法華経の譬喩品に「若し人が、信じないでこの経を毀謗すれば、この人は即ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」とあるのはこのことである。 謗法の者にも浅深、軽重の異なりがある。法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである。これらの人々はごくわずかばかりの謗法はあっても深重の罪を受けることはない。信ずる心は強く謗法は弱いゆえである。譬えば大水で小火を消すようなものである。 |
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
罪報
犯した罪による報いのこと。罪業を因として現在および未来に受ける苦果。
―――
一切衆生皆成仏道
法華経方便品第二には「我が昔の願いし所の如きは、今者已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆な仏道に入らしむ」とある。すべての衆生を成仏させることが仏の究極の願いであり、なかんずく、一代聖教の眼目たる法華経の主旨は、すべての衆生が成仏できる方途を示すことにある。
―――
成仏
仏になること。成道、作仏、成正覚ともいう。
―――
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
―――
仏種
仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性とも、とることができる。
―――
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
色心相応の信者
仏道修行者のあるべき姿を示している。色とは、身体であり、その行動・実践を意味し、心とは、信ずる心ないし智解をいう。すなわち、正法への信心や智解をそのまま実践に移す信者をいう。
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能持此経の行者
能持此経とは「能く此の経をたもつ」と読み、法華経分別功徳品第十七の文。「能持是経」また「能奉持此経とある。いかなる難があっても退することなく、強盛な信心で正法を持ち続ける者をいう。
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謗法の浅いか深いか、また軽いか重いかによって、罪報の大小はどのようになるのかとの千日尼の質問に答えられたものである。
謗法とは「若し人は信ぜずして、此の経を毀謗せば……」と、法華経譬喩品の文を引かれているように、仏法を信ぜず「此の経」すなわち正法を謗ることである。このように、直接的に、自分が身口意の三業で正法を謗る行為を〝謗法〟と称するのが、根本的な意味である。
そのうえで、こうした謗法を根本に立てられた宗派の信仰をすることをも〝謗法〟と呼ぶ。
謗法の罪の大きさについては、譬喩品に「其の人は命終して、阿鼻獄に入らん」のあと、「一劫を具足して、劫尽きなば更に生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん」と述べられ、明確に示されている。
これは、同じく無間地獄に堕ちる罪とされている五逆罪の場合と対比してみると、いかに重大な罪とされているかが明瞭になる。顕謗法抄に「此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり」(0447-04)とあり、これは五逆罪の場合である。それに対して、誹謗正法の場合は無数劫に及ぶのであり、不軽軽毀の衆の例でいえば、懺悔したけれども千劫・阿鼻地獄に堕ちたのである。
この千劫とは、千中劫の意で、これらによっても、いかに謗法が重い罪とされたかがわかる。おそらく、千日尼も、謗法の罪が重いという話を聞いて、相当に気にしていたのであろう。夫・阿仏房とともに、老いてから正法に帰依した身であるから、それ以前の長年の念仏信仰の謗法の罪障という問題を気に病んでいたとも考えられる。
したがって、ここで示されている大聖人のお答えも、そうした千日尼の心配を十分見抜いてなされていることがうかがえる。
まず、法華経は根本的に「一切衆生皆成仏道の御経」であって、「信ずる者は成仏をとぐ」のである。それは過去の罪障がどうあれ現在の信心の強さが鍵であるということであるから、千日尼の気にしている点を一挙に打ち破った御指導といえる。
その反対に、法華経を謗ずれば無間地獄に堕ちる大罪を受けなければならない。ただしこの謗法行為にも、浅深・軽重は千差万別であって、「色心相応の信者、能持此の行者」にとっては、少々の謗法はあっても、その深重の罪を受けることはない、と仰せである。「色心相応の信者、能持此経の行者」であれば、少々にせよ謗法などないように思われがちであるが、その意味は、一つは過去に積んだ謗法の罪という意で仰せられたと考えられる。また、もう一つは、正法を強盛に実践している現在にも、人間の心は動くものであり、しかも社会的な条件などから一瞬、不信に陥り謗法を犯すこともありうるからである。
いずれにせよ、一人の人間の中に、一方では妙法の信によって成仏へ向かう力があり、同時に誹謗正法によって無間地獄へ向かう力もある。大切なことは、成仏へ向かう信の力を強めることであり、無間へ向かう謗法を最小にすることである。信心の方が強く、謗法の方が弱ければ、小さな火を大水によって容易に消せるように、謗法による罪も、無間地獄に堕ちるほどの大きなものとして受けることはないとの仰せである。
以上のように、この段では、まず自らの謗法という問題について、その原理を示されているのである。一切衆生皆成仏道
法華経方便品第二には「我が昔の願いし所の如きは、今者已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆な仏道に入らしむ」とある。すべての衆生を成仏させることが仏の究極の願いであり、なかんずく、一代聖教の眼目たる法華経の主旨は、すべての衆生が成仏できる方途を示すことにある。
1307:05~1308:03第二章謗法呵責を説くtop
| 05 涅槃経に云く 06 「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、 是の人は仏法中の怨なり、 若し 07 能く駆遣し呵責し挙処せば 是れ我が弟子真の声聞なり」云云、 此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値 08 うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。 -----― 涅槃経にいうには「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中の怨である」の誡めをまぬかれるために、謗法を責めるのである。 -----― 09 但し謗法に至つて浅深あるべし、 偽り愚かにしてせめざる時もあるべし、真言・天台宗等は法華誹謗の者いた 10 う呵責すべし、 然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし、 然る間まづまづ・さしをく事ある 11 なり立正安国論の如し、 いふと・いはざるとの重罪免れ難し、 云つて罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置 12 いていましめざる事・ 眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲なり、 章安の云く「慈無くして詐り親むは即ち是れ彼が怨 13 なり」等云云、重罪消滅しがたし弥利益の心尤も然る可きなり、 軽罪の者をば・せむる時もあるべし・又せめずし 14 てをくも候べし、 自然になをる辺あるべし・せめて自他の罪を脱れて・さてゆるすべし、 其の故は一向謗法にな 15 れば・まされる大重罪を受くるなり、彼が為に悪を除けば即ち是れ彼が親なりとは是なり。 -----― ただし、謗法について浅深があるのである。愚かをよそおって責めない時もあろう。真言・天台宗などは法華経誹謗の者であるからきびしく呵責すべきである。しかしながら大智慧の者でなければ日蓮の弘通の法門と彼らの法門とを分別しがたい。したがって、しばらくは彼らの呵責は差し置くことがある。譬えば立正安国論がそうである。 言っても言わなくても重罪はまぬかれがたい。言って罪をまぬかれるのを見ながら聞きながら、そのままにして置いて禁めないことは、眼耳の二徳がたちまちに破れて大無慈悲の振る舞いとなるのである。章安大師のいうには「慈がなくて詐り親しむことは、即ち彼のためには怨の振る舞いである」と。重罪は消滅しがたい。いよいよ他を利益しようとする心を盛んにすることが最も大切である。 軽罪の者を責める時もある。また、責めないでそのままにしておくこともある。自然に直る人もある。謗法を責めて自分も相手も罪をまぬかれて、それからゆるす場合もある。その理由は、一向に謗法に染まってしまうならば、より重い大重罪を受けるからである。章安大師の涅槃経疏の「彼のために悪を除けば、即ち是れは彼のための親である」とあるのは、このことである。 -----― 1308 01 日蓮が弟子檀那の中にも多く此くの如き事共候、さだめて尼御前も・きこしめして候らん、一谷の入道の事・日 02 蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ・ 後生は・いかんとすべき、 然れども法華経十巻渡して候いしな 03 り。 -----― 日蓮の弟子檀那の中にも、多くこのような事柄がある。きっと尼御前も聞いておられることであろう。一谷入道は、日蓮の檀那であると内々にはそうなっているけれども、外に対しては念仏者として振る舞っている。後生はどう救いようもない。しかしながら、法華経十巻を渡したのである。 |
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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善比丘
比丘とは出家した男子・僧侶のこと。よい僧侶をいう。
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呵責
呵り責めること。相手の罪過を口で厳しく責めること。
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駆遣
追い払うこと。駆は追う、遣は追う・はなつ等の意。仏教では、破仏法・正法誹謗の者を追放することをいう。
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挙処
罪を挙げて処断すること。
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真の声聞
自行のみの小乗教の声聞をさすのではなくて、真に仏の教えを正しく聞き、利他の実践をする人の意。
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仏法中怨
「仏法の中の怨」と読む。涅槃経巻第三長寿品の文。仏法を破壊する者を見て、その罪過を糾弾しないでいる仏弟子は、仏法の中にあって仏法を破る敵であるということ。
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真言・天台宗
真言に染まった天台宗。とくに台密は延暦寺第3代座主・慈覚、第5代座主・智証以降は日本天台宗所伝の密教をいう。
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立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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眼耳の二徳
眼と耳のすぐれた働きのこと。正しく物事を判断する能力。
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一谷の入道
(~1278)。佐渡国雑太郡石田郷一谷(新潟県佐渡市畑野)の人。身分のある土豪であったと思われる。文永9年(1272)4月、佐渡流罪中の日蓮大聖人は塚原三昧堂から一谷に移られ、赦免されるまで、この入道の屋敷に住まれた。一谷の入道は念仏の信者だったが、大聖人の姿に心を動かされ、念仏を改めることはなかったが心では帰伏し、大聖人を危難から守ったようである。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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法華経十巻
「妙法蓮華経」八巻二十八品に、開経である「無量義経」一巻と結経である「観普賢菩薩行法経」一巻を加えた三部十巻のこと。
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前の段では、自らの行のうえで、正法への信に対するものとして、謗法の軽重を明かされたが、この段では、化他の行の上での謗法呵責の精神を述べられている。
すなわち、前段が自らの成仏のための条件として信心を勧め、謗法を論じたのに対して、この段の問題は、仏弟子としての化他の実践である。これにも、相反する二つの方向があり、一方は謗法を呵責することで、これは仏弟子たる条件になる。他方は、置不呵責で、軽罪ならばそのまま見過ごす辺もあるが、重大な謗法を呵責しないでおくならば仏法の中の怨(あだ)となってしまうのである。
したがって、いずれをとるべきかは、相手の謗法自体の浅深と、相手の機根によって判断することが必要となるのである。
此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種種の大難に値うといへども「仏法中怨」のいましめを免れんために申すなり
謗法を犯す者を見ながらそのままにし、呵責・駆遣・挙処しなければ、その人は仏法の中の怨である。謗法者を駆遣・呵責・挙処する人こそ、真の仏弟子である。――この涅槃経の厳しい戒めに従って、謗法呵責の実践を貫いてきたのであると、大聖人の根本精神を明確にされている。
末法は折伏を基本にするのであり、謗法を呵責すべきことは当然である。というより、五濁乱漫の末法が故に、人々は皆謗法に堕している。したがって、末法に正法を行じようとするならば、謗法呵責なしではすませられないのである。
事実、大聖人は、立宗の当初から「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」のいわゆる四箇の格言をもって、既存の誤れる仏教各派を徹底的に破折しながら、正法を説かれた。そして大聖人の一生は、終始、謗法への厳しい呵責の戦いであったといっても過言ではない。それは、この御文にいわれているように、仏説に違背しないためであり、また根本的には、一切衆生のために堕地獄の元凶である謗法を打ち破ることによって、人々を幸せへ導こうとする大慈悲の故であった。
日蓮大聖人が、たび重なる大難にあわれたのは、この謗法呵責の故だったのである。
但し謗法に至って浅深あるべし。偽り愚かにして、せめざる時もあるべし
大綱として論ずれば、あくまで謗法を呵責すべきであるが、細目に入っていえば、だからといって、いつ、いかなる場合も、どういう相手に対しても、常に厳しく破折しなければならないかというと、そうではない。同じく謗法といっても、浅い場合も、深い場合もある。また、知らないさまを装って破折しない場合もある。
その大聖人御自身の例として、真言・天台宗等を、立正安国論などの初期の段階では、特に顕著に破折しなかったことを述べられている。これは、真言・天台宗が謗法として浅いからではなく、きわめて深いけれども、人々にとって、大聖人の弘通されている法門と、この真言・天台宗との相違を分別することが困難であったからである。
その理由は、真言・天台宗においても一念三千法門等を立てており、一往、文上法華の義は重んじている。日蓮大聖人の仏法がこれとどう違うかがわかるためには、文上と文底の義、すなわち種脱相対までこなければならない。
大聖人の仏法自体は、当然、最初から文底独一本門であるが、その哲学的解明は、浅きから深きへ、順を追わざるを得ず、したがって、種脱相対は竜口の発迹顕本以後となった。このゆえに、初期の段階では、権実相対に力点を置かれ、とくに立正安国論では、権教の代表として念仏破折を主柱とされたのである。
いふといはざるとの重罪免れ難し。云って罪のまぬがるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲なり
立正安国論で真言・天台の呵責を差し置いたのは、言っても人々に理解ができず、したがって改心もできないことが明らかであったからである。言っても、言わなくても、重罪を受けることに変わりはない。だが、言えば相手も納得ができ、謗法の罪をまぬかれるとわかっていながら、呵責しないとすれば、自分自身の眼耳の二徳を破ることになり、相手に対しても大無慈悲となる、との仰せである。
「眼耳の二徳忽に破れ」とは、その前の「見ながら聞きながら」と関連している。眼で謗法を見、耳で謗法を聞いて、そこから謗法を呵責すれば、仏弟子としての尊い行ないの上に、眼と耳の徳を増すことになる。ところが、見ながら聞きながら、謗法を呵責しなかったとすれば、その眼と耳の徳を破ることになってしまうのである。すなわち、眼と耳に限らず、仏弟子としての尊い実践のうえに、その目的観・使命感のもとに五体を駆使し、また、一部の思想・知識を使ったとき、その五体、思想・知識のすべても生きてくるのである。
重罪消滅しがたし。弥利益の心、尤も然る可きなり
過去の謗法の重罪は、容易に消滅するものではない。したがって、罪障を消滅させるためには、相手を折伏し、利益することを心がけていきなさいとの御指導である。
すなわち、慈悲の心をもって折伏することが未来に向かって、より大きい功徳・福運を積ませ、幸福の未来を築かせることになるということである。過去に罪を犯しているならば、因果の理法で、その報いは、いつか必ず受けなければならない。報いを受けてはじめてその罪業は消えるのである。しかし縁がなければいつまでも消滅できない。その「縁」となるのが折伏である。
軽罪の者をば、せむる時もあるべし。又せめずしてをくも候べし
相手の謗法の罪が軽いものである場合にも、責める時もあれば、責めないで相手が自然に気づくのを待つ時もあると、いろいろなケースがあることを述べられている。
軽いものでも、それがやがて重いものへ発展する恐れを秘めている場合は、きちんと破折するのが慈悲であるとも言われている。
要は、いろいろな場合があるので一律にすべきでなく、また、表面の現象にとらわれるのでなく、その内面を見抜いていくことが大切だということである。
1308:04~1308:17第三章一層の信心を励ますtop
| 04 弥信心をはげみ給うべし、 仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華 05 経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり、法華経に云く「恐畏 06 の世に於て能く須臾も説く」云云、 悪世末法の時・三毒強盛の悪人等・集りて候時・正法を暫時も信じ持ちたらん 07 者をば天人供養あるべしと云う経文なり。 -----― いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼が必ず憎むであろう。憎むなら憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とはこういう人をいうのである。法華経の見宝塔品には「恐畏の世に於いて、よくわずかの間でも説く」とある。これは悪世末法の時、三毒強盛の悪人達が集まっている時に、正法をわずかの間でも信じ持つ者を天人が供養するであろうという経文である。 -----― 08 此の度大願を立て後生を願はせ給へ・少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし、 譬ば海上を船に 09 のるに船おろそかにあらざれども・あか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、 なはて堅固なれども蟻の穴 10 あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、 謗法不信のあかをとり・信心のなはてを・かたむべきなり、浅き 11 罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、 重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし、 尼御前の御身 12 として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事・まことに・ありがたき女人にておはすなり、 竜女にあにをとるべ 13 きや、 「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」とは是なり、「 其の義趣を問うは是れ則ち難しと為す」と云 14 つて法華経の義理を問う人は・かたしと説かれて候、 相構えて相構えて力あらん程は謗法をばせめさせ給うべし、 15 日蓮が義を助け給う事・不思議に覚え候ぞ不思議に覚え候ぞ、穴賢穴賢。 16 九月三日 日蓮花押 17 阿仏房尼御前御返事 -----― 此の度、大願を立て後生を願っていきなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城に堕ちることは疑いないであろう。譬えば海上を船に乗って行くのに、船は粗悪でなくても、水が入ったならば必ず船は沈み、船中の人々は一時に死ぬのである。また、畷は堅固であっても、蟻の穴があれば必ず最後には湛えた水が溜らないようなものである。したがって、謗法不信の水を取り除き、信心の畷を固めるべきである。 浅い罪であるならばこちらからゆるして功徳を得させるべきである。重い過失であるならば信心を励まして、その重罪を消滅させるべきである。 尼御前のお立場で謗法の罪の浅深・軽重の意味を問われた事は、実に希有な女性であられる。竜女にどうして劣るであろうか。法華経提婆品に「我れ大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」と説かれてあるのはこのことである。また「その義趣を問うことは、是れ則ち難しいことである」といって、法華経の義理を問う人はなかなか現れがたいと説かれている。心して、力のあるかぎりは、謗法を責めていきなさい。日蓮の義を助けられることは、実に不思議に感じられてなりません。穴賢穴賢。 九月三日 日 蓮 花 押 阿仏房尼御前御返事 |
釈迦仏
釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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章安
(0561~0632)。章安大師のこと。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
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法華経に云く「恐畏の世に……」
法華経見宝塔品第十一に「恐畏の世に於いて、能く須臾も説かば、一切の天人は、皆な応に供養すべし」とある。六難九易を示した後に、恐畏の世、すなわち三毒強盛な悪人の充満する末法の世に正法を説く人の受ける功徳の素晴らしさを述べている。
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須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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悪世末法の時
分別功徳品には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者は」とあり、第五の五百歳、闘諍堅固・白法隠没の悪世において、地涌の菩薩が出現することを明かしている。
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三毒強盛
善根を毒する煩悩である貧・瞋・癡の三毒が、強く盛んなこと。
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正法
正しい法。邪法に対する語。
―――
天人
天界および人界の衆生。
―――
なはて
田のあぜ、土手のこと。
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功徳
功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
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竜女
竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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「我大乗の教を闡いて、苦の衆生を度脱せん」
法華経提婆達多品第十二にある。正覚を成じた竜女が、大乗経である法華経を説いて、苦悩する衆生を救済することを誓った文。
―――
度脱
生死の迷い・苦しみを乗り越えて、悟りの境地に至らせること。度は渡と同義で、迷いの彼岸から悟りの彼岸へ渡すこと。脱は彼岸の世界から脱すること。
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「其の義趣を問うは、是れ則ち難しと為す」
法華経見宝塔品第十一の文。六難の一つ。義趣とは、文の義の帰着するところ、結論として帰り趣くところの意。すなわち釈尊滅後において、法華経を持ち、経文の意義・趣旨について問いを発することはきわめて困難であることを述べている。
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この段では、総じて信心実践の根本の心構えとして「如説修行」が大事であることを述べられ、この如説修行をする人を、現世においては必ず諸天が供養・加護することを示されている。
そして、後生の成仏のためには、自身に微塵も謗法があってはならないこと、女人の身でありながら他のために謗法を責め、正法を教えていくのは竜女に劣らない尊いことであると励まされている。
これまでは、謗法についての道理と、一般的な原理を述べてこられたのに対し、ここでは、具体的・実践的に阿仏房尼に信心のあり方と自覚を促し励まされているところである。
とくに、自らの信心に関しては「少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑いなかるべし」と厳しい姿勢を強調されているのに対し、他に対しては「浅き罪ならば、我よりゆるして」と寛容さを教えられている点も、大事であろう。
仏法の道理を人に語らむ者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是れなり
「仏法の道理」とは、謗法不信こそ無間地獄の業因であるということであり、したがって「仏法の道理を語る」とは、折伏を行ずることである。折伏すれば、人々から憎まれるのは道理であり、それを恐れてはならない。ただ、法華経・釈迦仏等の金言に身をまかせて、その教えのままに実践すること、すなわち「如説修行」が仏法の実践の根本精神であることを強調されている。
ここに自ら仰せられている通りに、法華経をそのまま実践されたのが日蓮大聖人であった。そして、大聖人はそれによって、御自身が末法の御本仏であることを立証されたのである。いま、末法の大白法を信受する者にとって根本としなければならないのは、末法御本仏である日蓮大聖人の教えである。したがって大聖人の書き遺された御書をその通りに実践していくことが、末法今時における如説修行であることを知らなければならない。
いずれにせよ、如説に修行すれば、それは衆生の元品の無明を打ち破ることになるから、迷妄の執着心から生ずる抵抗、反発にあうことも必定である。そこに、いわゆる怨嫉、迫害等の苦難に直面するのである。
だが、このように正法を、仏の教えのままに行ずる人に対しては、世間の人々がどんなに迫害を加えるにせよ、天人の供養があり、加護がある。
法華経に云く「恐畏の世に於て、能く須臾も説く」云云
法華経見宝塔品第十一の末尾にある文である。そこには、仏滅後の受持・読誦を奨めてその功徳が説かれている。
「此の経は持ち難し。若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたまう所なり。是れは則ち勇猛なり。是れは則ち精進なり。是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく。則ち為れ疾く、無上の仏道を得ん。能く来世に於いて、此の経を読み持たば、是れ真の仏子、淳善の地に住す。仏の滅度の後に、能く其の義を解せば、是れ諸の天人、世間の眼なり。恐畏の世に於いて、能く須臾も説かば、一切の天人は、皆な応に供養すべし」
いま本文で引用されたのは、この中の一行のみであるが、引用の次に述べられている「悪世末法の時……供養あるべしと云う経文なり」の大聖人の文は、その前後の全体的な意味をまとめていわれたものである。
悪世末法の時代は、三毒強盛の悪人の生まれてくる時であり、故に五濁悪世というのである。そして、この三毒強盛の人々に、その生命濁乱の根本である謗法を責めるのであるから、激しい反対と迫害を惹き起こすことになるのは当然である。したがって「恐畏の世」と法華経は記しているのである。
ともあれ、どんなに世間の謗法に執着する人々から憎まれたとしても、折伏する人に対しては必ず諸天の加護と供養があるのであって、最後は必ず勝利の姿を示していけることを確信すべきである。
此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑いなかるべし云云
まず「大願」とは成仏である。御義口伝(0736)には「大願とは法華弘通なり」とある。広宣流布の実践のなかに成仏の道があることはいうまでもない。
次に「少しも……」の文は、自分に微塵も謗法があってはならないことを、重ねて強調されているのである。なぜなら、どんなに懸命に信心に励み、功徳を積んでいるようであっても、自身のわずかな謗法から、せっかくの功徳も漏れていくし、また、そうしたわずかの謗法の穴から魔につけこまれて、わが身を滅ぼす結果になってしまうからである。
船に水が入れば、船は沈み、乗っている人は皆、死んでしまう。これは、自身の謗法を通じて魔に支配されていくことを譬えていわれたものである。
水田のあぜに穴があれば、それが小さなものであっても、少しずつ水が漏れ、水を一杯にはっても、いつの間にか無くなって乾ききるということになる。これは、信心に励んで得た功徳が、謗法という穴から漏れてしまうことを譬えられている。自分の信心には、微塵も謗法がないよう、厳しく見つめていくことが大切であろう。
浅き罪ならば、我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば、信心をはげまして消滅さすべし
他の人の謗法に対する態度をいわれているところである。
すでに述べられているように「少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑いなかるべし」であるから、他人の謗法に関しては、自分に関するより寛容であることを教えられているといっても、無慈悲であってよいというのではない。当人を正しい信心に目覚めさせることが目的であるから、傍から一つ一つ細かく、厳しくいうことによって、かえって信心の自覚を抑えてしまうのではならない。この観点から、浅い罪の場合には、一々厳しくいわないで、むしろ前向きに信心の功徳を増大せる方向性を示されているのである
もし、重大な過ちであったり、また、前にもあったように、重罪につながる誤りがある場合は、厳しく信心を励まして、その謗法の罪を消滅させるべきである、というのである。
そこには、一貫して、相手を成仏へと導き、立ち上がらせようとする忍耐強い慈悲がなくてはならない。この御文に示されている根本精神は、まさしくそこにあることを知るべきであろう。
尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事、まことにありがたき女人にておはすなり云云
謗法の浅深軽重という問題は、阿仏房尼すなわち千日尼にとって、自身の問題であるとともに、佐渡における大聖人門下の中心者として、後輩の指導のため、また折伏弘教の推進のために、絶えず、ぶつかっていた問題でもあったのであろう。
老齢の女性の身で、このように法のために戦っている千日尼を、大聖人は心から讃え、また「法華経の義理を問う人はかたし」と、このような大事な問題について指導を求めてきた尼の求道心の旺盛さを讃嘆されている。
しかもなお「相構えて相構えて、力あらん程は謗法をばせめさせ給うべし」と、更に一層の実践に励むよう促されている。仏道修行は、生涯の最後の瞬間に至るまで、最大限の精進をすべきものである。この一文にこめられた大聖人の御指導をこそ、厳しくわが身にあてて拝していきたいものである。
1307~1308 阿仏房尼御前御返事(畷堅固御書)2013:02月号大白蓮華より。先生の講義top
わが生命は無限大 いよいよの大信力を
カリフォルニアの空が澄みわたる1990年2月、アメリカの思想家ノーマン・カズンズ氏と語り合いました。
「人間最大の悲劇とは何か、それは、死そのものではない。肉体は生きていても、自分の内面で大切な何かが死んでいく。この“生きながらの死”こそ悲劇なのです」
人々の心に巣食う「無力感」や「シニシズム」の打破を訴えられてきた氏ならではの言葉が今も忘れられません。
「自分の内面の大切な何か」とは、本来、自分自身の生命に具わる偉大な力への確信といえるのではないでしょうか。
氏は、さらに、未来を担う青年に訴えるように語られました。
「人間として生まれてきたからには、だれにも共通した、尊い“使命”があります。それは、人間を信じ、信頼しあうことではないでしょうか。たとえ、どうしようもない悲劇に直面し、煩悶の中に人生の意味を見失ったとしても“人間を信ずる”という、人間本来の在り方は、絶対に忘れてほしくない。
“いのち”という、かけがえのない贈り物、それを、どこまでも肯定し、大切にしていく。他の人の人生を、感情を、絶対に否定しない。無上のものとして認め合っていく。
人間としての最も尊い、その信頼の心だけは放棄してはならない」と。
人間への「尊敬」と「信頼」
日蓮仏法の本質は、人間への「尊敬」と「信頼」であり、生命の無限の可能性と尊厳性への「信」といえます。この強盛なる信仰があるからこそ、「自分が変われば世界が変わる」という人間革命の希望の大道を、朗らかに進むことができるのです。
すべての人が尊極の「仏」の当体であり、自他共の幸福を勝ち開く「力」と「智慧」を具えている。この生命の豊かなる可能性に目を閉ざし、疑い、否定するところに、現代社会を覆う、人々の人間不信や無力感の根源があるのではないでしょうか。 日蓮仏法で「謗法」の教えを責めるのも、それが、人間の可能性を信じ切れない「不信」という根源悪との戦いになるからです。今回は「阿仏房尼御返事」を拝して、人間の尊厳性を信じ抜く実践を学んでいきます。
| 01 御文に云く謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なりや云云、夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり、 然 02 りといへども信ずる者は 成仏をとぐ謗ずる者は無間大城に堕つ、 「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切 03 世間の仏種を断ぜん、 乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり、 謗法の者にも浅深・軽重の異あり、法 04 華経を持ち信ずれども誠に色心相応の信者・ 能持此経の行者はまれなり、 此等の人は介爾ばかりの謗法はあれど 05 も深重の罪を受くる事はなし、 信心はつよく謗法はよはき故なり、 大水を以て小火をけすが如し -----― あなたのお手紙には「謗法の浅い深い、軽い重いに応じて罪報はどのようになるのでしょうか」とある。そもそも法華経の本意は、一切衆生が皆成仏できる道を説いた御経である。そうではあるといっても、この経を信ずる者は成仏を遂げ、謗る者は無間大城に堕ちるのである。法華経譬喩品に「若し人、が信じないでこの経を毀謗すれば、この人は即ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」とあるのはこのことである。 謗法の者にも浅深・軽重の異なりがある。法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである。これらの人々はごくわずかばかりの謗法はあっても深重の罪を受けることはない。信ずる心は強く謗法は弱いゆえである。譬えば大水で小火を消すようなものである。 |
「万人成仏」が法華経の元意
本抄は建治元年(1275)9月、日蓮大聖人が、身延の地から、佐渡の女性門下・阿仏房尼に送られたお手紙です。
赦免になった大聖人が佐渡を離れてから約1年半、当時、佐渡の門下が抱えていた疑問の一つが「謗法」をどのように捉えるか、ということだったようです。
謗法とは「法に背くという事」です。具体的には「万人成仏」という仏の根本の願いを明かした正法である法華経を謗り、貶め、否定することといえます。
阿仏房夫妻をはじめ佐渡の門下の多くは、長年、念仏を信仰していたようです。念仏は法華経誹謗の教えです。それゆえに、大聖人にお会いして法華経に帰依したといっても、結局、自分は成仏できないのではないか、という不安を覚えていたのかもしれません。
また、当時の習慣からなかなか抜け切れない面や、あるいは、入信まもない人々ばかりで意見の分かれることがあったり、具体的な課題のある人にどう対処すべきか、悩むこともあったりしたのでしょう。謗法の浅い深い、あるいは軽い重いに従って、その罪の報いはどう考えればいいのか。千日尼は、自分だけではなく、佐渡の同志の気持ちを代表してお尋ねしたと思われます。
これに対して大聖人は、まず大前提として、法華経の元意は、「一切衆生が皆、成仏できる道」を説かれたところにあると教えられています。
いかなる人も必ず成仏できるとは、すべての人が仏性という尊極の生命を具え、無限の可能性を有しているということです。さらにかみ砕いていえば、今現在、どんなに苦悩の底にあろうが、その苦境を破って、必ず幸福になる力が、自分自身の生命にあるということです。
この前提を忘れて謗法について論じても、それは単なる観念論になりかねません。
法華経にこそ、万人の成仏が説き明かされている。迷いや疑いの暗雲を払い、この根本の真実を素直に信じることです。そうすれば「成仏をとぐ」ことは間違いない。反対に、この一点を疑い、誹謗するならば「無間大城に堕つ」と仰せなのです。
要するに、自他共の人間の尊厳性を信じ切れるか否か。すべては、この本質から出発しているのです。
妙法は宿業の鉄鎖を断ち切る利剣
如説修行の行者であられる大聖人を、命懸けでお護り申し上げてきた阿仏房夫妻です。御本仏の眼には、この方々こそ「色心相応の信者」「能持此経の行者」と映っていたと拝されます。
大聖人は断言されています。そうした戦う行者には、わずかばかりの謗法があったとしても、深い重い罪を受けることは断じてない、と。「信心はつよく謗法はよはき故」です。
御本尊を信じ抜く根本の一念が、弓の名人がピタリと的を射抜くように、寸毫のぶれもなく定まっているならば、何も恐れることはないのです。
謗法者の充満する悪世末法にあって、悪縁に紛動されることもない。動揺することもありません。「大水」をもって「小火」を消すことができる。
この原理は、私たちも変わりません。
一度、妙法の信心を始めた以上、過去の謗法がどうであれ、いつまでもその業に引きずられることはない。いかなる宿業の鉄鎖をも断ち切る最強の利剣が妙法だからです。
「自分は駄目だ」と、不幸に呻吟しながら自分の人生に絶望してきた多くの庶民がいました。その苦悩の民衆の中に飛び込み、「もう宿命に泣くことはないのだ!」と励まし、共に立ち上がってきたのが創価学会です。
どれほど多くの庶民が、希望と確信を持ち、笑顔を取り戻したことか、それは、まさに自身の無限の可能性を信じられない「無明」の闇を破り、己心の仏界への強靭なる「信」を蘇らせるものです。
厳密にいえば、誰でも信心を始める前は、知らず知らずのうちに、法華経への誹謗や不信の業を積んでいるのかもしれません。そうした呪縛を打ち破り、大空を自在に飛翔するように自由なのです。
| 05 涅槃経に云く 06 「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、 是の人は仏法中の怨なり、 若し 07 能く駆遣し呵責し挙処せば 是れ我が弟子真の声聞なり」云云、 此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値 08 うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。 -----― 涅槃経には「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中での怨である」の誡まぬかれるために謗法を責めるのである。 |
謗法呵責の精神を師子吼
涅槃経の経文です。大聖人は諸御抄に引かれて、謗法呵責の精神を教えられています。
呵責 呵り責めることです。
駈遣 追い払うことです。
挙処 罪を挙げて処断することです。
大聖人は、この経文を身に当てて、「仏法の中の怨」になってはならないと、いかなる大難も覚悟のうえで、謗法の悪と戦い、師子吼されてきたのです。
冒頭からの論旨を踏まえていえば、生命の無限の可能性を閉ざし、人間を無力感に縛り付ける謗法との戦いこそ、折伏精神です。
大聖人は、この御精神のままに、民衆の幸福の実現のために、人々を不孝へ誘う魔性と断固として戦い続けられました。人間の善性を破壊する「悪」に対しては、断固として戦い。その魔性を打ち破っていく。それは、いつの時代にあっても変わってはならない、民衆の宗教の根本精神です。
そのうえで謗法呵責の具体的実践は、教条的であってはならない。本抄では、さらに謗法呵責の姿勢について重要な観点を、千日尼に教えられています。
まず、謗法には「浅深」があり、それに対して謗法を呵責する場合にも、柔軟で多様な対応があることが具体的に示されています。
例えば、真言宗、また密教化した天台宗は、法華経を大日経に劣ると誹謗するから、本来ならば厳しく呵責すべきだが、当時にあたっては、よほどの智者でなければ、大聖人の法門と彼らの法門は見分け難い。そのため、初期の御著作である「立正安国論」で真言・天台の破折をしなかったように、しばらく直接の呵責を指し置くことがある。
謗法が軽罪で責める場合でも、責めないでおく場合がある。自然に謗法を改める人もあれば、相手の謗法を責めて、自分も相手も共に罪を免えてから許す場合もある、等々。
大聖人が教えられる仏法の智慧は決して杓子定規ではありません。そこで大切なのは、謗法呵責といっても、その根本が「慈悲」からの行為なのかどうかです。
「云って罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置いていましめざる事」
道理を尽くして言えば相手も納得でき、罪も免られることを、自らの「眼」と「耳」で分かっているにもかかわらず、そのまま放置して誡めない。それは「眼耳の二徳」を自ら破壊してしまうのであり、他の人に対しては「大無慈悲」になると、厳しく仰せです。
言い換えれば、謗法を呵責するのは、瞋恚や敵対心などではなく、相手を絶対に不幸にさせてなるものかという慈悲からなのです。
続いて「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」「彼が為に悪を除けば即ち是れ彼が親なり」との章安の釈を引かれています。牧口先生以来、創価学会の師弟は、この精神で人々を不幸に陥れる謗法の悪と戦ってきました。
また、それゆえに私たちは、人間を軽賎し、抑圧する日蓮宗の悪を打ち破ってきたのです。
真の謗法厳誡とは、人々を苦しめる魔性を打ち破る実践です。大悪の闇を打ち破るからこそ、大善の光が輝くのです。
どこまでも「人間」を重視
したがって謗法意呵責といっても、かたくなに形式にとらわれたり、机上の論理を当てはめるようなものではない。
17世紀フランスの哲学者パスカルは、内なる魂の在り方を重視する立場から、当時の教会権威が作り上げた「良心例学」事にあてての良心の在り方を、あらかじめ判例として決めておくこと、を厳しく批判されました。“この判例についていえば、善か悪かに思いなやんだり、良心の呵責を受けずに済む”といいう形式主義の偽善を糾弾したのです。この点については、ハーバード大学で第1回の講演でも触れた通り、「人間のための宗教」の大事な規範です。
本抄で大聖人は、わが弟子檀那の中でも、外面の姿だけで信仰の如何を決めつけることはできないとされ、とくに佐渡の一谷入道について言及されています。
一谷入道は、内心では大聖人に帰依しているようでも、周囲に対しては念仏者として振る舞っていました。そのため大聖人は、一谷入道の後生を心配されていたのです。
本抄の直前の5月に一谷入道の妻に送られたお手紙を拝すると、一谷入道に法華経を常に読み聞かせ、妙法へ正しく導くために、あえて家族に譲るという形にして法華経十巻を届けられたことが述べられています。
大聖人は、形式的、外面的に、「これが謗法である」「あの行為が謗法である」などと決めつけ、一方的に断罪するようなことを、なされていません。そうではなく、その人の心根において、法華経の「生命尊厳」「人間尊厳」の精神に違背しているのか、正しく信じているかどうか。この内実が問われなければならなないのです。 奥底の一念は、一見、明らかな姿形としては見えてきません。しかし微妙な一念が生涯にわたる信心を大きく左右するのです。であればこそ、どこまでも純一無垢な信心の根本の一念が大切なのです。それさえ定まっていれば、成仏は疑いないのです。
| 04 弥信心をはげみ給うべし、 仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華 05 経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり、法華経に云く「恐畏 06 の世に於て能く須臾も説く」云云、 悪世末法の時・三毒強盛の悪人等・集りて候時・正法を暫時も信じ持ちたらん 07 者をば天人供養あるべしと云う経文なり。 -----― いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼必ず憎むでろう。憎むから憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とはこういう人をいうのである。法華経の見宝塔品には云「恐畏の世に於いて、よくわずかの間でも説く」とある。これは悪世末法の時、三毒強盛の悪人達が集まっている時に、正法を暫間でも信じ持つ者を天人が供養するであろうという経文である。 |
「如説修行」「師弟不二」の人に
「なおいっそう信心に励んでいきなさい」
命懸けで大聖人をお守りした千日尼に対して、それでも「弥」という思いで、弛みなき前進をと呼びかけられています。
私には、広布のため、不惜の闘争を数え切れないほど続けてこられた多宝会、宝寿会、錦宝会の尊き方々が、大聖人から賞讃される千日尼の姿と重なってなりません。
一方で、仏法とは魔との戦いであるがゆえに、信心に油断があってはならないということを教えられていると拝されます。阿仏房・千日尼夫妻らは、大聖人が鎌倉に御帰還された後も、佐渡の地で信心を貫き、勇敢に広布の旗を掲げました。そこに、俗衆増上慢・道門増上慢などの三類の強敵が出現し、門下の人々が理不尽な非難仲傷の礫を浴びたでえあろうことは想像に難くありません。
その悔し涙を全部、大聖人はご存じであられた。「よしにくばばにくめ」くよくよなんかせず、からりと割り切っていきなさいと言われています。牧口先生も、この御文には力強く線を引かれていました。
大聖人御自身が身に当てて読まれた経文には「人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」(0959-18)とあり、転重軽受は明らかです。まして悪口した人々さえも「毒鼓の縁」で最後は救っていく。広大無辺の大慈悲の仏法です。
何の心配もないのです。何も恐れる必要はないのです。「鉄は炎打てば剣となる」(0958-14)ように、一切の苦難は、自身の生命を金剛不壊に鍛え上げ、宿命の鉄鎖を断ち切って人生を自由に遊戯しゆく力を開発する原動力となるのです。
そのためにこそ、「金言に身をまかす」ことです。この御文にも牧口先生は線を引かれていました。大切なことは、どこまでも経文の通り、御書の通りに信じて生き抜くことです。戸田先生も、御書を拝するたびに、「その通りだ。その通りだ。本当にありがたい」と語られていた。
心から御金言に身をまかせるその人が「如説修行の人」です。ほかならぬ大聖人御自身が、その模範を示してくださいました。その上で大聖人は、師匠と同じく、千日尼もまた「如説修行の人」として生き抜きなさいと教えられているのです。
師弟不二です。師弟共戦です。
見宝塔品の末尾に「恐畏の世に於いて、能く須臾も説かば、一切の天人は、皆な応に供養すべし」とあります。
時をいえば「悪世末法」であり、社会をいえば「三毒強盛の悪人」が充満している世の中において正法を受持し、勇気を奮って人々に語っていく。信心の発露として、たとえ一言一句であっても、自ら進んで人々に語っていく。なんと尊く崇高な菩薩の行動でありましょうか。その人を絶対に諸天善神が護り、供養するというお約束です。
「よしにくばまにくめ」私たちはこの一節を拝し、晴れ渡る青空のように、どこまでも心広々と進むのです。
私は若き日、戸田先生にお会いした直後、詠みました。
希望に燃えて 怒濤に向い/たとい貧しき 身なりとも/人が笑おうが あざけようが/じっとこらえて 今に見ろ
まずは働け 若さの限り/なかには 侮る者もあろう/されどニッコリ 心は燃えて/強く正しく わが途進め
苦難の道を 悠々と/明かるく微笑み 大空仰ぎゃ/見ゆるい未来の 希望峰/ぼくはすすむぞ また今日も
この心に多くの青年たちが続いてくれていることが、私の喜びです。
| 08 此の度大願を立て後生を願はせ給へ・少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし、 譬ば海上を船に 09 のるに船おろそかにあらざれども・あか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、 なはて堅固なれども蟻の穴 10 あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、 謗法不信のあかをとり・信心のなはてを・かたむべきなり、浅き 11 罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、 重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし、 -----― 此の度、大願を立て後生を願っていきなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城に堕ちることは疑いないであろう。譬えばば海上を船に乗っていくのに、船は粗悪でなくても、水が入ったならば必ず船は沈み、船中の人々は一時に死ぬのである。また、畷は堅固であっても、蟻の穴があけば、必ず最後には湛えた水が溜まらないようなものである。したがって謗法不信の水を抜き取り、信心の畷を固めるべきである。 浅い罪であるならばこちらからゆるして功徳を得させるべきである。重い過失であるならば信心を励ましてその重罪を消滅させるべきである。 |
「信心のなはて」を強固に
「大願を立てよ」当時の大聖人門下にとっては、何よりも一生成仏の大願でありました。皆が今生における信心を全うして、仏道を成就することを勧められたのです。
しかし、当時に、諸御抄には、大願とは、我が身一人の成仏に限らず、他者をも救っていく法華弘通の願いであることが示されています。「御義口伝」に「大願とは法華弘通なり」(0736-第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事-01)と仰せの通りです。
後生善処のために、大聖人は「謗法不信の失」を誡められています。それは無明に覆われた生命の闇にほかならないからです。
この闇を晴らし、己心の中に仏界の太陽を昇らせる根源の力は「信」の一字しかありません。
海上を走る船も、どこかに穴が開いて浸水したら、沈没してしまう。また、次の「なはて」の譬えは、本抄の別名「畷堅固御書」の由来となる一節です。畷、すなわち水田を区切る「あぜ道」が堅固であっても、蟻の穴があれば、そこから田の水が漏れ出て、水が枯渇して、稲も枯れてしまうでしょう。船の穴、あぜ道の穴、この些細な穴から、一見、堅牢な船や田も崩れてしまう。
「不信」という穴も、目には見えません。だから怖い。だからこそ油断禁物です。何があっても一生涯、信心を貫いていくことです。そのために、学会から離れない。師弟の道を外さない。とともに、大切な和合僧の団結を護り抜いていくことです。
「謗法不信のあかをとり・信心のなはてを・かたむべきなり」
進まざるを退転といいます。
ゆえに停滞や惰性を破って「、月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)との御文の通り、今日より明日へと、前進し続けていくことです。
仏法とは、生命の無限の可能性を閉ざす、根本の迷いである「無明」との間断なき戦いです。この内なる戦いを忘れた時、「冥きより冥きに入る」(0560-06)が如く、苦悩の闇に堕してしまう。
私たちが謗法不信を誡める本質は、まさに、ここにあるのです。
| 11 尼御前の御身 12 として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事・まことに・ありがたき女人にておはすなり、 竜女にあにをとるべ 13 きや、 「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」とは是なり、「 其の義趣を問うは是れ則ち難しと為す」と云 14 つて法華経の義理を問う人は・かたしと説かれて候、 相構えて相構えて力あらん程は謗法をばせめさせ給うべし、 15 日蓮が義を助け給う事・不思議に覚え候ぞ不思議に覚え候ぞ、 -----― 尼御前のお立場で謗法の罪の浅深、軽重の意味を問われた事は、実に希有な女性であられる。竜女にどうして劣るであろうか。法華経提婆品に「我れ大乗の教を闡いて苦の衆生を度せん」と説かれているのはこのことである。また「その義趣を問うことは、是れ則ち難しいことである」といって、法華経の義理を問う人はなれがたいと説かれている。心して力あるかぎりは、謗法を責めていきなさい。日蓮が義を助けられることは、実に不思議に感じられてなりません、不思議に感じられてなりません。 |
一人の「求道」が創価の前進に
最後に、千日尼が、「謗法の罪の浅深軽重の意義」を質問したことを、あらためて賞讃されて「女人成仏」の道を開いた竜女に劣らないであろうと言われています。
引用の提婆品の教文からは、千日尼が単に個人的な関心から質問したというよりも、佐渡の同志が正しい信心を全うしてほしいという願いからであったと窺われます。
そして、「同志の皆の心に引っかかっていた問題を取り上げて、よくぞ聞いてくださいましたね」との、師匠の深い信頼と賞讃のお心が伝わってくるようです。
思えば、わが恩師・戸田先生は、よく質問会を行ってくださいました。
「いい質問です」「大事な質問をしてくれて、うれしい」と讃えられました。
幹部には、折々に「何でも、聞きに来なさい」と指導された。真剣な質問に対してはどんなにお忙しい時でも、先生はうれしそうに、丁寧に答えてくださった。
問えば必ず前進が始まります。疑問が晴れれば、そこにはみずみずしい確信が生まれます。心からの納得は、喜びと自信を生みます。私たち創価の和合僧は、これからも求道と納得の対話で意気揚々と進むのです。
汝自身の生命を信じよ
本抄の結びに「相構えて相構えて力あらん程は謗法をばせめさせ給うべし、日蓮が義を助け給う事・不思議に覚え候ぞ不思議に覚え候ぞ」と仰せです。
“共に戦ってくれて、ありがとう”と、弟子に対する慈愛のこもる表現です。
師が弟子と共に、謗法の社会の闇を正義の光明を照らしていく、これほどの歓喜はありません。これはどの不思議はありません。
「御義口伝」の有名な一節に、
「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(0788-03)とあります。
謗法不信の闇を払い、自身の生命の真実を知った瞬間、胸中には赫々たる希望の太陽が昇るのです。それこそ「歓喜の中の大歓喜」でありましょう。
人間の内なる生命こそが最大の宝です。
にもかかわらず、人々は自分の外にばかり宝を探している。なぜか?人間を信じる力が弱くなっているからです。自分自身を信じられないからです。その結果が現代の混迷なのではないでしょうか。
汝自身の生命を信じよ!そこに最大の力が具わっているのです。
『論語』に、印象深い師弟の対話が記されています。
一人の弟子が、師である孔子の教える道を学ぶことをうれしく思いながらも「自分には力がたりないのです」と口にした。
確かに、力が足りなければ、進めるだけ進んで中途で終わることがあるかもしれない。しかし、一番の問題はそこではない。
孔子は声を強めて弟子に言った。
「今お前は自分から見きりをつけている」
「今女は画れり」。やってみないで、どうして自分は駄目だと諦めてしまうのか、それではいけない、と。
戸田先生は、「青年は自分を信じよ」と呼びかけられました。誰でも自分の生命に無限の可能性がある。すべてに勝ゆく。絶対勝利の妙法の当体は、わが生命に他ならない。なればこそ、創価の青年は、強盛の大信力を奮い起こして、わが生命に具わる仏の無限の力、師子王の力を取り出して、断固として楽しく愉快に生き抜いてもらいたい。
55年前(1958)の2月、私は戸田先生から遺言の如く「300万世帯」の拡大の目標を託されました。そして私と共に立ち上がらんとする若き力の脈動を感じ、恩師の口癖であった「後生畏るべし」との言葉を、日記に書き留めました。
今、私は再び「後生畏るべし」と、頼もしき青年部の諸君の大躍進を見つめています。
若き君たちよ、貴女たちよ、青年の大いなる「熱」と「力」を発揮し、我が生命の本源の光を放ちながら、我が使命の舞台で、自由自在に、幸福勝利へ乱舞してくれたまえ。
1309~1315 千日尼御前御返事(真実報恩経事)top
1309:01~1309:03第一章消息の趣旨を挙げるtop
| 1309 千日尼御前御返事 弘安元年七月二十八日 五十七歳御作 与阿仏房尼 01 弘安元年太歳戊寅七月六日・佐渡の国より千日尼と申す人、 同じく日本国甲州・波木井郷の身延山と申す深山 02 へ同じき夫の阿仏房を使として送り給う御文に云く、 女人の罪障は・いかがと存じ候へども 御法門に法華経は女 03 人の成仏を・さきとするぞと候いしを万事は・たのみ・まいらせ候いて等云云。 -----― 弘安元年七月六日、佐渡国から千日尼という人が、同じ日本国の甲州波木井郷の身延山という深山へ、夫の阿仏房を使いとして送られた。その御手紙には、女人の罪障は深いので成仏はどんなものであろうかと思っていたけれども、日蓮大聖人の御法門に法華経は女人の成仏を第一とすると説かれているので、すべてはそれを頼みとしている等とある。 |
千日尼
阿仏房日得の妻。古来より、順徳上皇に仕えた右衛門の佐の局の侍女といわれるが、定かではない。日蓮大聖人の佐渡流罪中、夫の阿仏房と共に大聖人の弟子となり、塚原三昧堂等に大聖人を訪ね、幾度となく御供養を行なっている。大聖人の赦免後は、夫を数回、大聖人のいる身延まで送り出した。
―――
阿仏房
(~1279)。阿仏房日得のこと。佐渡の住人。日蓮大聖人御在世当時の信徒。俗名を遠藤為盛といい、もと順徳上皇の北面の武士で、承久3年(1221)、上皇が佐渡に流された時、共に佐渡に来て定住した人と伝えられている。しかし、現存の阿仏房関係の御消息の中には、順徳上皇に対する記述はなく、むしろ本抄の(1314)の「尼が父の十三年は来る八月十一日……」の文、「千日尼御返事」(1322)の「故阿仏聖霊は日本国北海の島のいびすのみなりしかども……」の文等をみると、古くから佐渡に住していた人ではないかと思われる。日蓮大聖人佐渡流罪の直後、大聖人の姿に接して入信し、以来、文永11年(1274)大聖人が流罪赦免となって鎌倉に帰るまでの2年余り、妻の千日尼と共に大聖人に給仕し、大聖人の身延入山後も、高齢の身で数回にわたり供養の品々を携え身延を訪ねている。弘安2年(1279)3月21日に死去した。
―――
佐渡の国
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
―――
甲州・波木井郷の身延山
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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女人の罪障
女人の身にそなわっている罪障のこと。罪障とは、菩提心や仏道修行の障害となるもの。爾前権教では、五障等が説かれ、女人は成仏することができないとされた。五障とは①梵天王、②帝釈、③魔王、④転輪聖王、⑤仏身、になれないという五つの障りで、法華経提婆達多品第十二の舎利弗の疑問の中にある。だが、舎利弗の疑いに対して、八歳の竜女が忽然の間に即身成仏の現証を示し、妙法蓮華経の正しさを証明するのである。
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この御書は、弘安元年(1278)の7月に、阿仏房が三度目に大聖人を訪れた折り、佐渡で留守を守る妻の千日尼にあててしたためられたものである。千日尼が夫に託した便りに対する御返事である。
本抄のあらましは、まず千日尼の便りの中に述べられていた「女人成仏」の法門について展開された後、尼の父の追善供養について触れ、また、疫病が蔓延しているにもかかわらず皆無事であることを喜ばれ、更に一谷入道の死去をめぐって感懐を述べられている。
本抄の大半は女人成仏の法門を述べられている。以下、流れにそって概略すると、法華経は一切経に勝れた経であり、その最勝の法華経に、初めて女人成仏が明かされている。その女人成仏を説いた法華経の題目を、悲母の恩を報ずるために日本国の一切の女人に唱えさせようとしたところ、皆念仏等を頼んで大聖人を大怨敵と思い、こぞって迫害をし、伊豆・佐渡に流罪した。そのように法華経の行者を迫害する故に、疫病等の難が起こっている。佐渡の国においても、まわりの人が皆、大聖人をあだむ中、千日尼は大聖人のもとへ食糧を運び、かつその故に所を追われ、家屋敷をとられるなどの難を受けながらも信心を貫いた。更に身延入山後も数度にわたって夫の阿仏房に御供養の品を託し、大聖人にお届けしているが、その志は大地よりも厚く、大海よりも深く、成仏は間違いないと述べられている。
以上、本抄の全体について概説したが、第一章は、千日尼の便りの文を挙げて、このお手紙の主題を示されたところである。
「女人の罪障はいかがと存じ候へども、御法門に法華経は女人の成仏をさきとするぞと候いしを、万事はたのみまいらせ候いて等云云」と。この千日尼の手紙にある女人成仏の法門は、法華経の肝要である。
法華経の一念三千・皆成仏道の原理は悪人成仏、女人成仏の具体的事例によって裏づけられるからである。こうした肝要な法門を自身の信仰の契機に置いていること、また、かつて「女人の罪障」という問題に深刻に悩んでいたということ等を考えてみると、千日尼は教養のある、人生への姿勢も非常に真摯な人であったことがうかがわれる。そうした千日尼の機根に応じて、大聖人も長文の御返事をもってそれに答えられたと推察されるのである。
1309:04~1309:07第二章文上の法華経の教主を明かすtop
| 04 夫れ法華経と申し候.御経は誰れ仏の説き給いて候ぞとをもひ候へば.此の日本国より西・漢土より又西・流沙・ 05 葱嶺と申すよりは又はるか西・ 月氏と申す国に浄飯王と申しける大王の太子・十九の年・位をすてさせ給いて檀ど 06 く山と申す山に入り御出家・三十にして仏とならせ給い・ 身は金色と変じ神は三世をかがみさせ給う、 すぎにし 07 事・来るべき事・かがみにかけさせ給いておはせし仏の・五十余年が間・一代・一切の経経を説きおかせ給う、 -----― そもそも法華経という御経は、どの仏が説かれたものかと思ったところ、この日本国より西方、漢土より更に西方、流沙・葱嶺という所より更に遥か西方、月氏という国に浄飯王といった大王の太子が説かれた経文である。太子は、十九歳の時に位を捨てられて檀特山という山に入り出家され、三十歳で仏となられた。その身は金色と変わり、その心は三世を映し出された。過ぎた事、これから起こるべき事等を鏡にかけて映し出された仏が、五十余年の間、一代一切の経々を説き置かれたのである。 |
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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流沙
砂漠のこと。ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠等、主に中国西方の砂漠をさすことが多い。この地方は東西交通の要路にあたる。
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葱嶺
インド北方・パミール高原のこと。世界の屋根といわれ、西域交通路の要所として、多くの隊商や僧侶がここを通った。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
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浄飯王
梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
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檀どく山
梵語ダンダカまたはダンダローカの音写。北インドのガンダーラ地方にあったといわれる山。壇徳、壇特、壇陀柯などとも書き、陰山と訳す。六度集経巻二等によると、釈迦が前世に菩薩の修行中、須大拏太子として布施行を行なった地とされている。
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神
①心の働きを司るもの。霊魂・精霊。②精神・気力。③心識・神識・霊妙な働き。④素質・天分。
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ここは文上の法華経の教主を示したところである。日本の西にある漢土を越えて、その西のゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を越え、パミールの嶺を超えたその西の月氏の国に出現した浄飯王の太子が、修行の結果、仏となって説いたものであると。
このように、千日尼が現実に生活する日本の国から始めて、次第に釈尊応誕の地を尋ね、一国の太子として生まれてから仏になるまでの姿をたどって述べられているところに、すでに日蓮大聖人の、仏法に対する根本的姿勢を拝することができる。すなわち、こうしてたどっていくと、確かにインドまでのその距離は、自分の足で歩くことしか知らなかった当時の人々にとっては、気の遠くなるほどに遥かなものと映ったであろう。しかし、その距離がいかに遠いものであったとしても、インドという国が、自分達の住むこの大地と海とに連なった世界であることも、また実感として迫ってくるにちがいない。また、浄飯王の太子としての出生から生涯をたどることは、釈尊という偉大な教主の存在も、現実の人間生命の内に開拓されたものであることが明らかとなる。仏の住した世界も自身の国土に連なり、仏自身もまた人間としての存在の延長線上に位置づけられる。
娑婆世界から懸絶した西方十万億土の阿弥陀仏への信仰が流布した当時にあって、こうした視点のうえから仏法を位置づけ、その極理に迫っていったところに、大聖人の仏教観の、きわめて地についた現実性があったといっても過言ではないであろう。
ともあれ人間世界の出来事の中に、仏法をとらえて離さないことが、仏法への正視眼を失わない大切な姿勢であることを確認しておきたい。
1309:07~1310:03第三章仏法流布の次第を示すtop
| 07 此の 08 一切の経経・仏の滅後一千年が間・月氏国に・やうやくひろまり候いしかども・いまだ漢土・日本国等へは来り候は 09 ず、仏滅度後・一千十五年と申せしに漢土へ仏法渡りはじめて候いしかども又いまだ法華経はわたり給はず。 -----― この一切の経々は、仏の滅後一千年の間、月氏国にようやく弘まったけれども、いまだに漢土・日本国等へは渡って来なかった。 仏滅後一千十五年目といわれる年に、漢土へ仏法が渡りはじめたけれども、まだ法華経は渡らなかったのである。 -----― 10 仏法・漢土にわたりて二百余年に及んで月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり、 彼の国の内に鳩摩羅えん 11 三蔵と申せし人の御弟子に鳩摩羅什と申せし人・彼の国より月氏に入り・ 須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経 12 をさづかり給いき、 其の経を授けし時の御語に云く 此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云、此の御語を持ちて 13 月氏より東方・漢土へはわたし給いしなり。 -----― 仏法が漢土に渡って二百余年に及んで、月氏と漢土との中間に亀玆国という国があった。この国の内に鳩摩羅炎三蔵という人の子息・鳩摩羅什という人が、この国より月氏に入り、須利耶蘇磨三蔵という人からこの法華経を授けられた。その授けられた時の須利耶蘇磨三蔵の御言葉に、この法華経は東北の国に縁が深い、とのことであった。鳩摩羅什は、この御言葉を持して法華経を月氏より東方の漢土へ渡されたのである。 -----― 14 漢土には仏法わたりて二百余年・後秦王の御宇に渡りて候いき、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇治十 15 三年・壬申十月十三日辛酉の日・此れより西・百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす、此れは漢土に仏 1310 01 法わたりて四百年・仏滅後一千四百余年なり、 其の中にも法華経はましまししかども人王第三十二代・用明天皇の 02 太子・聖徳太子と申せし人.漢土へ使を・つかわして法華経を・とりよせ.まいらせて日本国に弘通し給いき、それよ 03 り・このかた七百余年なり、 -----― その法華経は漢土には、仏法が渡ってから二百余年後の、後秦王の時代に渡ったのである。 日本国には、人王第三十代欽明天皇の御代、同天皇の統治十三年十月十三日、この国より西の百済国という国から聖明王が日本国に仏法を渡したのである。これは漢土に仏法が渡って四百年後であり、仏滅後一千四百余年である。その時渡された経典の中にも法華経はあったけれども、人王第三十二代用明天皇の太子で聖徳太子という人が、漢土へ使いを遣わして法華経を取り寄せられて日本国に弘通されたのである。それから今まで七百余年たっている。 |
亀玆国
中央アジア東トルキスタンの古国。亀玆は「きゅうじ」と読み、丘玆、屈玆とも書く。現在では庫車と記される。西域北道の代表国として南道の于闐と共に重要視され、仏教文化の中心地で、とくに小乗派の発達は著しかった。南北朝から唐代にかけて外国僧で「白」または「帛」という姓をもつ者は亀玆国の出身とされ、訳経その他中国仏教の発達に資した功績は大きい。鳩摩羅什もその一人である。
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鳩摩羅えん三蔵
鳩摩羅炎のこと。梵語クマーラーヤナ(Kumārāyana)の音写。四世紀頃のインドの人。鳩摩羅什の父。代代宰相の家柄で生まれつき聡明であったが、その地位を捨てて出家した。インドを去って亀玆国に入って、国師となった。王の妹・耆婆に望まれて、これをめとり、生まれた子が鳩摩羅什である。
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鳩摩羅什
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀玆国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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須梨耶蘇摩三蔵
4世紀頃西域沙車国の王子として生まれる。鳩摩羅什の師。法華翻経後記には、大乗諸教に通じ、法華経を鳩摩羅什に授けて、東方有縁の国に流布せよと命じたとある。
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此の法華経は東北の国に縁ふかし
鳩摩羅什の高弟僧肇の作と伝えられる法華翻経後記に「この経は東北に縁有り汝謹んで伝弘せよ」とある文。須梨耶蘇摩三蔵が鳩摩羅什に法華経を授けるとき語った言葉。
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後秦王
中国・五胡16国の後秦の第2代皇帝・姚興(0366~0416)のこと。姚萇の長子。0403年に後涼を滅ぼした時、後涼にいた鳩摩羅什を国師として国都長安に迎え、仏教翻訳を要請し、「妙法蓮華経」をはじめ多くの経典を訳出させた。また盛んに寺院を建立するなど仏教を国中に弘めた。さらに教育の普及、政治の刷新に努め、五胡16国における名王の一人に数えられる。
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欽明天皇
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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百済国
古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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聖明王
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
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用明天皇
(~0587)。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
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聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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仏教なかんずく法華経の、インドから中国・日本への流布の次第を述べた段である。
須利耶蘇摩が鳩摩羅什に「此の法華経は東北の国に縁深し」といって、中国へ伝えることをすすめたというのは、不思議な話であるが、鳩摩羅什自身が弟子に語ったことである。
しかも、鳩摩羅什の訳した法華経は、中国から更に東北の国、日本に伝わって多数の人々の尊崇を受け、末法の御本仏日蓮大聖人の出現につながっていく。大聖人は法華経の身読をもって、末法の御本仏であることを証明されたのである。
法華経は、釈迦仏法穏没後、すなわち後の五百歳に出現すべき真実の仏とその法を予告した経典である。「東北の国」と名ざした須利耶蘇摩の予感が後世見事に実証されたことに、仏法の不思議を思わずにはいられない。
1310:03~1310:18第四章法華経の最勝を述べるtop
| 03 仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候上.月氏・漢土・日本の山山・河河・海海.里 04 里.遠くへだたり人人・心心・国国・各各・別別にして語かわり.しなことなれば、いかでか仏法の御心をば我等凡夫 05 は弁え候べき、 ただ経経の文字を引き合せてこそ知るべきに・ 一切経はやうやうに候へども法華経と申す御経は 06 八巻まします・流通に普賢経・序文の無量義経・各一巻已上・此の御経を開き見まいらせ候へば明かなる鏡をもつて 07 我が面を見るが・ごとし、 日出でて草木の色を弁えるににたり、 序品の無量義経を見みまいらせ候へば「四十余 08 年未だ真実を顕わさず」と申す経文あり、 法華経の第一の巻・方便品の始めに 「世尊の法は久しき後に要らず当 09 に真実を説きたもうべし」と申す経文あり、 第四の巻の宝塔品には「妙法華経・皆是真実」と申す明文あり、 第 10 七の巻には「舌相梵天に至る」と申す経文赫赫たり、 其の外は此の経より外のさきのちならべる経経をば 星に譬 11 へ・江河に譬へ.小王に譬へ・小山に譬へたり、法華経をば月に譬へ・日に譬へ.大海・大山・大王等に譬へ給へり、 -----― 仏の滅後すでに二千二百三十余年になっているうえに、月氏、漢土、日本と、山々、河々、海々によって遠く隔てられている。そこに住む人々や、それぞれの心も国柄も、各々異なり、言葉も変わっており、風俗も違うのであるから、どうして我等のような凡夫が、仏法の真意を理解することができるであろうか。 ただ経々の文字を比較し検討してこそ知るべきであるのに、一切経はいろいろあるが、法華経という御経は一部八巻からできている。その中に流通分の普賢経、序分の無量義経、それぞれ一巻がある。この御経を拝見すれば明鏡で自分の顔を映し出すように、太陽が出て草木の色がはっきりするように、仏法の真意が明らかになるのである。 序分の無量義経を拝見すると「四十余年には未だ真実を顕さない」という経文がある。法華経第一巻方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説かれるであろう」という経文がある。法華経第四巻見宝塔品第十一には「妙法華経……皆是れ真実である」という明文がある。第七巻神力品第二十一では「舌相梵天に至る」という経文が明白である。 そのほか、法華経の前後に説かれた経々を星に譬え、江河に譬え、小王に譬え、小山に譬えている。法華経は月に譬え、太陽に譬え、大海、大山、大王等に譬えられている。 -----― 12 此の語は私の言には有らず皆如来の金言なり・十方の諸仏の御評定の御言なり、一切の菩薩・二乗・梵天・帝釈・今 13 の天に懸りて明鏡のごとくにまします、 日月も見給いき聞き給いき其の日月の御語も此の経にのせられて候、 月 14 氏・漢土・日本国のふるき神たちも皆其の座につらなり給いし神神なり、天照太神・八幡大菩薩・熊野・すずか等の 15 日本国の神神もあらそひ給うべからず、 此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・ 空飛ぶ 16 者の王たり鷲のごとし、 南無阿弥陀仏経等はきじのごとし兎のごとし・鷲につかまれては涙をながし・師子にせめ 17 られては腸わたをたつ、念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし、法華経の行者に値いぬれば・いろを失い魂 18 をけすなり。 -----― これらの言葉は、私の言葉ではなく、すべて如来の金言である。十方の諸仏の御評定の言葉である。一切の菩薩、二乗、梵天、帝釈、明鏡のごとく天にかかっている日月も、見聞きされている。その日月の御言葉も法華経にのせられている。インド、中国、日本の古来からの神々も、みなその座につらなった神々なのである。天照太神、八幡大菩薩、熊野、鈴鹿などの神々も、その真偽を争われることはない。 この法華経は一切経に勝れているのである。地を走る者の王であり、師子王のごとくである。空飛ぶ者の王であり、鷲のごとくである。南無阿弥陀仏経などは、雉のごとく兎のごとくである。鷲につかまっては涙を流し、師子に責められては腸を断つのである。念仏者、律僧、禅僧、真言師等は、また同じようなものである。法華経の行者に値えば顔色をなくし、魂を消すのである。 |
凡夫
梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
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一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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流通に普賢経
普賢経は法華経の結経とされ、流通分にあたるところからこういう。流通分とは、すでに説かれた教えの中心部分を将来弘通させる意図をもって経の終わりに説かれたものをいう。普賢経は仏説観普賢菩薩行法経の略称で、一巻、中国・劉宋代(0420~0479)の曇無蜜多訳。法華経の最後の品である普賢菩薩勧発品第二十八を受けて、普賢菩薩を観ずる方法とその功徳を説き、経の受持・読誦そして流布を勧めている。
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序分の無量義経
無量義経は法華経の開経とされ、序分にあたるところからこういう。序分とは後に説かれる教えの中心部分の序論となるもの。無量義経は中国・蕭斉代(0479~0502)の曇摩伽陀耶舎訳。一巻。徳行品、説法品、十功徳品の三品からなる。説所は法華経と同じ霊鷲山である。最初の徳行品第一では比丘衆を代表して、大荘厳菩薩が偈をもって仏を讃嘆しており、この偈頌の中に仏の身について非有非無非因非縁などの有名な三十四個の非が説かれている。次の説法品第二では、仏が大荘厳菩薩らに対して無量義を説き「無量義とは、一法従り生ず」としているが、一法が何であるかは明確には示されていない。しかしこの無量義の法門を修行すれば無上正覚を成ずると説いている。この一法は法華経に入って初めて説かれるのであり、故に無量義経は法華経の開経であり序分となる。また「四十余年未顕真実」と述べ、これまで説いてきた諸経はすべて方便であったことを明らかにしている。十功徳品第三では、この経を修行すれば、十種の不思議な功徳力があることを説き、大荘厳菩薩および八万の菩薩に付嘱し、諸菩薩は弘経を誓って終わっている。
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方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
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宝塔品
妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
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妙法華経・皆是真実
法華経見宝塔品第十一に「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」とある。この文は、釈尊の説いた法華経が真実であることを宝塔の中から多宝如来が讃歎し、証明していった言葉。
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菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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熊野
和歌山県東牟婁郡にある熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社の三社をさす。熊野三社ともいう。主神には、本宮は家都御子神、新宮は熊野速玉神、那智は熊野夫須美神他をそれぞれ祭る。代々の天皇の尊崇はもとより、民間の信仰も厚かった。
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すずか
伊勢国(三重県)の郡名。鈴鹿山脈の麓、鈴鹿川の流域で伊勢湾に臨む地域。古代より、大和から伊勢に通ずる交通の要衡で、伊勢の国府・国分寺などが置かれた。古墳が多く、日本武尊にまつわる伝説の地としても知られ、歴史の古い神社や旧跡などが多い。
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南無阿弥陀仏経
阿弥陀経のこと。鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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律僧
律宗を修行した(している)僧侶のこと。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
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釈尊の一代聖教の中で法華経が最も勝れた経であることを述べたところである。
まず、仏滅後二千余年の歳月を経て、しかも地理の上でも遠く山河を隔て、人情も文化も異なっているゆえ、仏法の元意を知るには経文によって判ずべきことを述べられ、その経文のなかでも、法華経によってみるならば、鏡に自分の顔を映し出すように明らかであることを示されている。
確かに仏法流布の歴史は長く、それを受容し血肉とした国土は数多い。しかも、その受容のあり方を見れば、平和な文化交流の中で、主体的に受け入れられてきている。主体的にということは、仏法伝播以前に何らかの思想、文化を持った社会が、仏法を自主的に受け入れてきたということである。そしてその国土・文化の多様さ、人心の多様さは、それぞれに独特の様相を与えてきたかの観がある。あらゆる角度から仏法に光をあて、それなりの角度から仏法を領解してきたといってよいであろう。
こうした歴史の事実の中に、仏法思想の深さを知ることができる。なぜなら、思想は、人間存在のより本源に迫れば迫るほど、より多様な世界をその中に包摂するからである。例えば偉大な小説は、時代を越え、国土を超えて幅広く人々の心を打つものである。
仏法は、その流布した社会、文化を決まった型にはめるのでなく、それぞれの伝統のなかに取り入れられ、生き生きと躍動していったのである。それだけに、その本来の義を正しく知るには、経文の原点に戻る必要があるのである。
此の御経を開き見まいらせ候へば、明かなる鏡をもって我が面を見るがごとし。日出でて草木の色を弁えるににたり
法華経を鏡と日とに譬え、諸経をわが面と草木に譬えている。
法華経以外の諸経は、随他意の教えといわれ、諸の問題を取り上げ、それに応じた解答がなされ、個々の状況に即した考え方が示されている。それに対して法華経は、随自意の教えといわれ、諸の問題に解答を与える、その仏の智慧、悟り自体を説き示している。
たとえていえば、大人が子供に向かって、様々な禁止をなし、命令を与え、激励をし、子供の理解に合わせて物事を教える。その場合の大人の口をついて出た種々の言葉は、仏教における法華経以外の経文にあたる。大人が子供に向かってする禁止なり命令なりの言葉には、その背景に、大人の判断なり、意志なりが働いている。その判断をしている大人の智慧や意図自体を示したのが法華経にあたる。
したがって、法華経をもって諸経の文々句々を判断した場合に、その一つ一つの言葉の真実の意味がわかる。諸々の経典によって、相矛盾するように見える事柄も、統一してその全体像を見ることができる。それはちょうど、手探りで自身の顔貌を見極めようとしていた時に鏡を手に入れたようなものであり、闇の中で見えなかった木々が太陽が昇って、豊かな彩りを現したようなものであると述べられているのである。
次に、無量義経をはじめとして、経文の文証を引用して法華経こそが仏法の元意を明かした真実の経であることを示されている。
無量義経の「四十余年未顕真実」の文、および方便品の「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」の文は、前四十二年の諸経と後八年の法華経とを厳しく分ける言葉として有名である。
前に述べたように爾前経の文々句々も、それぞれ、何らかの真実を含み、生命の働きをとらえていることは事実であろう。しかし、それらは未だ部分観にすぎず、ゆえに未顕真実と断破されたのである。この四十余年の経々が説かれた意味を、釈尊一代の衆生教化という視点から見れば、法華経に入らしめるため、機根を調熟させるために仮に説かれた方便の教えである。
宝塔品の多宝如来の証明と神力品の十方諸仏の舌相とは、法華経が真実であることの証明が、他の経文におけるよりも、より壮大な儀式をもってなされていることを示しているのである。
さらに、本章では、法華経と爾前経とを種々の譬えをもって相対し、法華経の最勝を示されている。
日月と星、大海と江河、大山と小山、大王と小王等の相対は経文に説かれたところであり、その勝劣は、あらゆる仏・菩薩・諸天善神が等しく認めるところであると述べられている。宇宙・自然・社会の、あらゆる事象に譬えをかりて勝劣を示し、一国土、一世界でなく、十方の諸仏・菩薩がこれを証明したと述べられているところに、法華経が最勝であることへの強い主張が込められている。それはまた、法華経が、生命の因果、宇宙、自然の法則、社会の諸現象を貫く真実の経であることを示しているのである。
此の経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり、師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり、鷲のごとし
この文以下は法華経の最勝を結論し、さらに、法華経を持つ人と念仏等の権教を持つ人との勝劣を論じたところである。ここで一切経とは、仏教典に限らず、あらゆる宗教・思想をさすといってよいであろう。どのような思想・宗教の流布した国土にあっても、法華経は、師子王の如く、鷲の如く、王者として輝いていくということである。
また、この経を持った人も、地走る者の中にあっては師子王のごとく、空飛ぶ者の中にあっては鷲のごとく、最勝の人生を歩んでいくことができることは、「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」との原理に照らしても明らかであろう。
師子王と鷲の譬えは、現実の戦いの上で勝っていくことを示されているとも考えられる。「仏法は勝負」といわれるが、その生死のうえにおける勝負において、常に勝利し、王者としての人生を歩めるのが法華経の行者なのである。
1311:01~1311:12第五章女人成仏を挙げて法華最勝を示すtop
| 1311 01 かかるいみじき法華経と申す御経は・いかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡 02 夫・皆仏になり給うやうを・とかれて候へどもいまだ其のしるしなし、 設えば始めたる客人が相貌うるわしくして 03 心も・いさぎよく.よく口もきいて候へば・いう事疑なけれども.さきも見ぬ人なれば・いまだ・あらわれたる事なけ 04 れば語のみにては信じがたきぞかし、 其の時語にまかせて大なる事・度度あひ候へば・さては後の事も・たのもし 05 なんど申すぞかし、 一切信じて信ぜられざりしを第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり、 譬へばくろき 06 物を白くなす事・漆を雪となし・不浄を清浄になす事・濁水に如意珠を入れたるがごとし、 竜女と申せし小蛇を現 07 身に仏になしてましましき、 此の時こそ一切の男子の仏になる事をば疑う者は候はざりしか、 されば此の経は女 08 人成仏を手本としてとかれたりと申す、 されば日本国に法華経の正義を弘通し始めましませし 叡山の根本伝教大 09 師の此の事を釈し給うには 「能化所化倶に歴劫無し妙法経力即身成仏す」等、 漢土の天台智者大師・法華経の正 10 義をよみはじめ給いしには「他経は但男に記して女に記せず 乃至今経は皆記す」等云云、 此れは一代聖教の中に 11 は法華経第一・法華経の中には女人成仏第一なりと・ことわらせ給うにや、 されば日本の一切の女人は法華経より 12 外の一切経には女人成仏せずと嫌うとも・法華経にだにも女人成仏ゆるされなば・なにかくるしかるべき。 -----― このような尊い法華経という御経は、どのような法門であるかといえば、第一巻の方便品第二のはじめから菩薩、二乗、凡夫等が皆仏になると説かれているが、まだ成仏した証拠はない。たとえば、初めてあう客人の姿がうるわしく、心も清らかで、話す言葉に疑うところがないとしても、これまで見知らない人であるから、まだ話の内容が実際に証明されなければ言葉だけでは信じにくいようなものである。その時、言葉通りに大事なことがたびたび証明されれば、それでは後のことも信頼できるというようなものである。 一切の人が法華経を信じながらも信じ切れないでいたのを、第五巻の提婆達多品第十二に即身成仏という法華経第一の肝心が説かれたのである。譬えば、黒い物を白くすること、漆を雪とし、不浄の身を清浄にすること、濁水に如意宝珠を入れたようなものである。竜女という小蛇を現身に仏になされたのである。この時こそ、一切の男子の成仏できることを疑う者はいなかったのである。ゆえにこの法華経は女人成仏を手本として、一切衆生の成仏が説かれたというのである。 それゆえ、日本に法華経の正義を弘通し始められた比叡山の根本・伝教大師は、法華秀句巻下に「能化・所化倶に歴劫無し、妙法経力を以て即身成仏す」等と釈している。これよりさき漢土の天台智者大師は、初めて法華経の正義を宣揚されて、法華文句巻七に「他経は但男に記して女に記せず。乃至今経は皆記す」等といわれている。これは一代聖教の中では法華経第一、法華経の中では女人成仏が第一である、と解釈されたものではなかろうか。ゆえに日本の一切の女人は、法華経より外の一切経には女人は成仏しないと嫌うとも、法華経にさえ女人成仏が許されているなら、どうして苦しむことがあろう。 |
即身成仏
衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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如意珠
如意宝珠のこと。意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
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女人成仏
法華経以前の諸経では、女人は「地獄の使い」「永く成仏の期なし」等と不成仏が説かれ、また権大乗教には一応成仏も説かれているけれども、改転の成仏であり、即身成仏ではなかった。法華経提婆達多品第十二に至って、初めて女人成仏が説かれた。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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能化・所化
能化とは能く他を化導・教化する人。所化とは化導・教化を受ける人。すなわち師匠を能化といい、弟子を所化という。仏を能化といい、総じて一切衆生を所化ともいう。
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歴劫
歴劫修行の略。爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。
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法華経が主張する皆成仏道も、女人成仏という具体的事実によって初めて証明されるのであり、その意味からすれば、女人成仏こそが一切経に勝れた法華経の要であることを示して、本抄の冒頭に述べられた「法華経は女人の成仏をさきとするぞ」ということを更に深められたところである。
法華経の一念三千の法門は、方便品の十如実相の文に始まる。それ以後、譬喩品・信解品・薬草喩品・授記品・化城喩品・五百弟子受記品・授学無学人記品に至る七品は、法説・喩説・因縁の三周の声聞のそれぞれの領解と、述成・授記とが記されている。しかし、これらの品々では、理論的に成仏の可能性と、未来に成仏するという約束はなされているが、まだ、実際に成仏したことは示されていないのである。
その具体的事実は、法師品、見宝塔品を過ぎ提婆達多品に至って、その後半の竜女の即身成仏が初めてのことである。その前半においては提婆の悪人成仏が明かされるが、それも、天王如来としての未来成仏の授記にすぎない。それに対して竜女の成仏については次のように記されている。
「当時の衆会は、皆な竜女の忽然の間に、変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方の無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為めに、妙法を演説するを見る」と。この事実によって、法華経の哲理が証明され、未来成仏の授記が確かなものとして裏づけられたのである。本文の「此の時こそ一切の男子の仏になる事をば疑う者は候はざりしか」とは、この事を意味しているのである。
伝教・天台の釈は、これまで述べられた、女人成仏が法華経の眼目であることを証明するために引用された文である。
伝教の「能化・所化倶に歴劫無し、妙法経力即身成仏す」との釈で、能化とは竜女であり、所化とは竜女の即身成仏を見て歓喜した衆生をさしている。
天台の釈は詳しくは次の通りである。法華文句巻七上で、法華経と他教との記別の相違を述べて云く「他経には但だ菩薩に記して二乗に記せず。但だ善に記して悪に記せず。但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず。今の経は皆記す」と。この中で、今の主題の部分を取り出して示されているのである。
いずれにしても、天台・伝教の釈も、法華経が女人成仏を説くことによって、一切経に勝れた経となり得たことを指し示していることは間違いないといえよう。故に「此れは一代聖教の中には法華経第一、法華経の中には女人成仏第一なりと、ことわらせ給うにや」と述べられたのである。
結論としては、他の経において女人の不成仏が説かれたとしても、諸経の王である法華経に女人成仏が説かれているならば、何ら思いわずらうこともないと、千日尼の信心を励まされているのである。まさしく法華経は、抜き難い男女の差別を超克した、唯一の経であるといえるであろう。
1311:13~1312:03第六章題目流布の意義を説くtop
| 13 しかるに日蓮は・うけがたくして人身をうけ・値いがたくして仏法に値い奉る、一切の仏法の中に法華経に値い 14 まいらせて候、其の恩徳ををもへば父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり、 父母の恩の中に慈父をば天に譬へ悲 15 母をば大地に譬へたり・いづれも・わけがたし、其の中にも悲母の大恩ことに・ほうじがたし、此れを報ぜんと・を 16 もうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんと・をもへば現在を・やしないて後世をたすけがたし、身をやしない 17 魂をたすけず・内典の仏法に入りて五千・七千余巻の小乗・大乗は女人成仏かたければ悲母の恩報じがたし・小乗は 18 女人成仏・一向に許されず、 大乗経は或は成仏・或は往生を許たるやうなれども仏の仮言にて実事なし、但法華経 1312 01 計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へと見候いしかば・ 悲母の恩を報ぜんために此の経の題目 02 を一切の女人に唱えさせんと願す、 -----― ところで、日蓮は受け難い人身を受け、値い難い仏法に値うことができた。一切の仏法のなかでも法華経に値うことができたのである。その恩徳を考えてみれば、父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩である。 父母の恩のなかでも慈父を天に譬え、悲母を大地に譬えている。どちらも優劣を分けがたい大恩である。そのなかでも悲母の大恩はことに報じがたい。この恩を報じようと思うのに、外典の三墳、五典、孝経等によって報じようと思えば、現在を養うだけで後生を救うことはできない。身を養っても魂を救うことはできないのである。 内典の仏法に入っても、五千、七千余巻の小乗経、大乗経では女人成仏ができないので、悲母の恩は報じがたい。小乗経では女人成仏は全く許されていない。大乗経はあるいは成仏、あるは往生を許しているようであるけれども、仏の仮の言葉であって成仏の実義がない。ただ法華経ばかりが女人成仏を明かし、悲母の恩を報ずる真実の報恩経であると考えたので、悲母の恩を報ずるために、法華経の題目を一切の女人に唱えさせようとの願を立てたのである。 |
恩徳
恩と徳のこと。めぐみ・なさけ。❶恩(四恩)①心地観経・父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩②報恩抄・父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩。 ❷徳(三徳)主師親。
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外典の三墳・五典・孝経
外典とは仏典以外のあらゆる典籍をいう。中国の儒家・道家の書の中に三墳・五典・孝経等がある。三墳・五典とは中国古代の伝説上の天子である三皇・五帝の書。尚書の序には、伏羲・神農・黄帝の書を三墳といい、少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜の書を五典といい、三墳の墳とは大道を意味し、五典の典とは常道を意味するとある。いずれも現存しない。内容も不明である。孝経とは十三経の一つ。孔子が門弟の曽子に説いた内容を、曽子の門人が記録した書といわれる。儒教の根本である「孝」について説かれており、論語とともに尊重されている。
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内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
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五千・七千余巻
仏教経典は5048巻、または7338巻あるといわれている法華経題目抄には「像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり」(0942-16)とある。
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小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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報恩経
『大方便仏報恩経』のこと。 7巻。 訳者不詳。 出家して親を捨てるのは忘恩であるという非難に対して、一切の衆生を棄てないという大慈心をおこすことこそ真の報恩であると説いたもの。
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日蓮大聖人が、父母、国主、一切衆生の恩、なかんずく悲母の恩を報ずるために、法華経の題目を一切の女人に唱えさせようと発願したことを示されたところである。
恩とは自己の存在が、他の人間関係に支えられてもたらされたものであることの自覚から発する思想である。この「恩」の思想は、かつて、封建的人間関係を支える基盤として利用されたため、好ましくない感情を抱かれる場合があるが、仏教で説くのは、全く立場を異にする。むしろ人間存在の自立の基盤を鋭くとらえた、極めて合理的な考え方といえよう。
人間が生物的存在であり、社会的動物であり、智慧をもって人生社会を生きぬいていく限り、父母、社会、師匠等の恩恵なくして、その生を完全ならしめることはできない。そうしたものに支えられた自身の生への充足感、喜びが、報恩という形にあらわされるのである。故にこれは、真に主体的な人間像を前提として、はじめて可能となる事柄である。より完成された人間像を追究する仏法の実践において、報恩の念が当然のこととされるのも、このゆえである。
大聖人は人身を受け、仏法、なかんずく法華経に値い得たその恩を、本抄においては、とくに人間としての生を与えてくれた悲母に帰しておられるのである。そして、その報恩のために、女人成仏を可能とする法華経の題目を一切の女人に唱えさせようとの発願に立たれたのである。
すべての人間は母の胎内より生ずるゆえに、女人成仏のための実践は、そのまま、一切衆生の恩に報いる実践となっているのである。
1312:02~1313:01第七章念仏破折による受難を明かすtop
| 02 其れに日本国の一切の女人は漢土の善導・日本の慧心・永観・法然等にすかさ 03 れて詮とすべきに・ 南無妙法蓮華経をば一国の一切の女人・一人も唱うることなし、 但南無阿弥陀仏と一日に一 04 返・十返・百千万億反.乃至三万・十万反・一生が間.昼夜十二時に又他事なし、道心堅固なる女人も又悪人なる女人 05 も弥陀念仏を本とせり、 わづかに法華経をこととするやうなる女人も月まつまでのてずさび・ をもわしき男のひ 06 まに心ならず心ざしなき男にあうがごとし。 -----― それを日本国の一切の女人は、漢土の善導、日本の慧心・永観・法然等に惑わされて、肝心とすべき南無妙法蓮華経を、一国の一切の女人は、一人も唱えることはない。ただ南無阿弥陀仏と一日に一遍、十遍、百千万億遍、乃至三万、十万遍、一生の間、昼夜十二時の間にわたって、念仏のみを称えて他事をかえりみない。道心堅固な女人も、また悪人である女人も弥陀念仏を根本としている。わずかに法華経を信ずるように見える女人も月を待つまでの手遊び、好ましく思う男と逢えない間に、心ならずも心に思わぬ男に逢うようなものである。 -----― 07 されば日本国の一切の女人・法華経の御心に叶うは一人もなし、 我が悲母に詮とすべき法華経をば唱えずして 08 弥陀に心をかけば・法華経は本ならねば・たすけ給うべからず、 弥陀念仏は女人たすくるの法にあらず必ず地獄に 09 堕ち給うべし、 いかんがせんと・なげきし程に我が悲母をたすけんがために・弥陀念仏は無間地獄の業なり・五逆 10 には・ あらざれども五逆にすぎたり、 父母を殺す人は其の肉身をば・やぶれども父母を後生に無間地獄には入れ 11 ず、 今日本国の女人は必ず法華経にて仏になるべきを・たぼらかして一向に南無阿弥陀仏になしぬ、 悪ならざれ 12 ばすかされぬ、 仏になる種ならざれば仏にはならず・弥陀念仏の小善をもつて法華経の大善を失う・小善の念仏は 13 大悪の五逆にすぎたり、 譬へば承平の将門は関東八箇国をうたへ・天喜の貞任は奥州をうちとどめし・民を王へ通 14 せざりしかば朝敵となりてついにほろぼされぬ、此等は五逆にすぎたる謀反なり。 -----― それゆえ、日本国の一切の女人は、法華経の御心に叶う者は一人もいない。わが悲母の孝養のために第一とすべき法華経を唱えないで、阿弥陀仏を心にかけているので、法華経を根本としないのであるから、阿弥陀仏が助けてくださることはない。弥陀念仏は女人を助ける法ではない。必ず地獄に堕ちてしまわれるだろう。どうしたらよいのかと嘆いていた。しかしわが悲母を救うために弥陀念仏によるならば無間地獄の業である。五逆罪ではないけれども五逆罪にすぎた大罪なのである。父母を殺す者は、その肉体を破るけれども、父母を後生に無間地獄に堕とすことはない。今、日本国の女人は必ず法華経によって仏になることができるのに、念仏者達がたぶらかして一向に南無阿弥陀仏と称えるようにしてしまった。念仏ははっきりとした悪事ではないから惑わされたのである。だが仏になる種ではないから仏になることはできない。弥陀念仏の小善をもって法華経の大善を失う。小善の念仏は法華の大善を失うゆえに、大悪の五逆罪にもすぎた悪業なのである。譬えば、承平年間に平将門は関東八か国を討ち平らげ、天喜年間に安倍貞任は奥州を討ち取ったが、民と王との間を隔てたので、朝敵となってついに滅ぼされたのである。これらは五逆罪にもすぎた謀反である。 -----― 15 今日本国の仏法も又かくのごとし色かわれる謀反なり、法華経は大王.大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗.禅 16 宗・ 律僧等は彼れ彼れの小経によて法華経の大怨敵となりぬるを・日本の一切の女人等は我が心のをろかなるをば 17 知らずして我をたすくる日蓮を・かたきと・をもひて大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり、 18 たすけんとする日蓮かへりて大怨敵と・をもわるるゆへに・ 女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上・ 1313 01 又佐渡の国へながされぬ -----― 今、日本国の仏法もまた同じである。形のかわった謀反である。法華経は大王、大日経、観無量寿経、真言宗、浄土宗、禅宗、律僧等は、それぞれの小経によって法華経の大怨敵となっている。そうであるのに、日本の一切の女人は自分の心の愚かなることを知らないで、自分を救おうとしている日蓮を敵と思い、大怨敵である念仏者、禅、律、真言師等を善知識とあやまっている。救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、一切の女人はこぞって国主に讒言をして伊豆の国に流したうえ、また佐渡にも流したのであった。 |
善導
(0613~0681)。中国浄土宗の第三祖。終南大師、光明大師などとも呼ばれた。道綽(0562~0645)のもとで観無量寿経を学んだ。正雑二行の判を立てて専修念仏を説き、30年間、称名念仏を勧めた。浄土往生を証するといって寺前の柳の木で自殺を図り、果たせず、地面に落ち、14日間苦悶して死んだと伝えられている。日本の法然は善導の観経疏を学び、日本浄土宗を開いている。主な著書に「観経疏」四巻、「往生礼讃」一巻等がある。
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慧心
(0942~1017)。日本天台宗の僧。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。俗姓は卜部氏。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度授戒し、源信と名乗った。横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称される。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についてのわが国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し法華経の一乗思想を強調している。
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永観
(1033~1111)。平安末期、三論宗の僧。京都の人。11歳の時、禅林寺深観について出家。密教を学び、密教灌頂を受けた。次いで東大寺で具足戒を受け、三論宗を学び、華厳・法相をもきわめた。著書には「往生十因」十巻、「弥陀経要記」一巻、「往生講式」一巻などがある。
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法然
(1133~1212)。平安末期、日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県)の人で、幼名を勢至丸といった。15歳で比叡山に登り、天台の教観を学ぶ。18歳で京都黒谷に移り、慈眼房叡空に師事して浄土教を修め、法然房源空と改名した。大蔵経を閲覧し、善導の「観経散善義」、源信の「往生要集」を読んで悟ったとし、一向専修念仏の浄土宗を創始した。とくに「選択集」を著して、念仏が浄土往生の根本義であると説き、浄土三部経以外の諸経を捨てよ閉じよ閣け抛てととなえた。門徒の僧が、官女を出家させた一件が後鳥羽上皇の怒りにふれ、建永2年(1207)2月に念仏を禁じられて讃岐(香川県)に流された。同年12月赦免され、摂津(大阪府)に居住するが、入洛は建暦元年(1211)まで許されなかった。翌年、80歳で没す。著書には「選択集」二巻、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
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道心
仏法を信奉する心。仏果を求める心。菩提心と同意。
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阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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業
①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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弥陀念仏の小善
小善は小善根のこと。小さな善き果報を招く善行。阿弥陀経は権大乗であるから外道や小乗に対しては、全魂の教えであるが、実大乗教たる法華経に対すれば、はるかに小さいので小善という。
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法華経の大善
大善は大善根のこと。大きな善き果報を受けえる善行。法華経は一切の人々を成仏させる教えである大善根である。
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承平の将門
平将門(~0940)のこと。平安時代に叛乱を起こした武将。下総(千葉県と茨城県の南部)に勢力をもっていたが、父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権をとった。後に常陸(茨城県)国府を焼き打ちし、下野・上野両国府を得、自ら新皇と称した。このため朝廷は藤原忠文を征夷大将軍に任じ、将門の乱の鎮圧に向かわせたが、平貞盛が藤原秀郷の助けを得て先に将門を討った。
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関東八箇国
江戸時代以前の関東地方の行政分布。相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸。
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天喜の貞任
安倍貞任(1019~1062)のこと。平安後期の陸奥の豪族。父・頼時から岩手郡を譲られ支配した。前9年の役には厨川柵(岩手県盛岡市付近)により、天喜5年(1057)朝廷側の源頼義・義家の軍を破ったが、出羽の貴族・清原氏が朝廷軍を援助したため、康平5年(1062)朝廷の軍に滅ぼされた。
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奥州
東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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観無量寿経
観経ともいう。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。浄土三部経の一つ。わが子阿闍世王の悪逆を憂え嘆く韋提希夫人の求めに応じて、釈尊が神力によって十方の浄土を示現し、夫人が極楽浄土を選んだので、阿弥陀仏と極楽浄土とを十六観に分けて説いたもの。
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真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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律僧
律宗を修行した僧侶のこと。
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善知識
善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
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日本国の一切の女人が、念仏をはじめとする権教を信じて無間地獄へ堕ちる因を作っているのを救おうとして、日蓮大聖人が各宗派を厳しく破折したところ、女人達はこぞって国主に讒言し、伊豆・佐渡に流罪にしたことを述べられたところである。
女人が国主に讒言して大聖人を流罪したということは、ただ本抄が千日尼という女人に与えられ、女人の成仏を問題としてしたためられたものである故にこのように仰せられたというだけのものではない。事実、権力者の女房達が夫に対して大聖人の流罪を働きかけたのである。
報恩抄に云く「身もをしまず力にまかせてせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に……但須臾に頚をめせ、弟子等をば又頚を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給いしかば、そのまま行われけり」(0322-12)と。
「種種御振舞御書」に云く「念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911-03)と。
大聖人の流罪は、念仏者等が権力者を動かして起こした、すなわち典型的な僭聖増上慢によるものであるが、その陰に女性がいたということも否定できない事実なのである。
詮とすべき法華経をば唱えずして弥陀に心をかけば、法華経は本ならねば、たすけ給うべからず
法華経においても化城喩品に大通仏の十六王子の一人としての阿弥陀、薬王品に釈尊分身の阿弥陀が説かれるが、これらは久遠元初自受用報身如来の垂迹仏であり、妙法蓮華経を本地とする仏である。ところが、今の阿弥陀信仰は根本の妙法蓮華経を差し置いて、阿弥陀に専心している。法華経を根本とした阿弥陀信仰でないゆえに、阿弥陀仏でさえも手を差しのべて往生・成仏を助けないのであると破折されたのである。
これは、法華経を根本とした弥陀信仰であれば容認するかのようであるが、あくまでも一往与えて、阿弥陀を認めたうえでの法門であって、奪っていえば「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)との御文の通りであることはいうまでもない。本文は、阿弥陀信仰の風潮を破るためのものであることを知らなければならない。
ただし、阿弥陀等の諸仏を本尊として頼むのでなく、ただ余事なく南無妙法蓮華経と唱えれば、「此の経は持ち難し、若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり」との経文通り、釈迦仏をはじめ、阿弥陀仏等一切諸仏が歓喜し、守護することになるのである。根本と枝葉とを弁えることが、仏道修行においては最も大切なことである。
悪ならざればすかされぬ。仏になる種ならざれば仏にはならず。弥陀念仏の小善をもって法華経の大善を失う。小善の念仏は大悪の五逆罪にすぎたり
弥陀念仏を悪でなく、小善であるとされているのは、一つは外道や小乗に相対しての〝善〟であり、一つは一般通途の意識の辺をもって述べられているのである。
強盗・殺人等は、はっきり悪とわかるのに対して、弥陀念仏は、一応、仏教であり、社会的通念としては善とされていた。つまり、内外の相対の上からいうならば内道にあたり、それなりの思想を持ち、生命へのより強い影響力をもっている。ただし、念仏は極楽往生は説いても、即身成仏という人間変革の道は説かず、それをかえって閉ざしてしまうのである。
この小善の弥陀念仏が大悪の五逆罪にも過ぎた悪であるとされるのは、一切衆生の心をとらえて成仏の法である法華経の大善に背かせ、人々から仏種を奪い地獄へ堕とす働きをしているからである。
例えば子供の頃からその精神的・肉体的鍛錬を行なわず、甘やかし、欲求するもののことごとくを与えるというようなことをしてきて、成人して後、厳しい現実の社会へ放り出すようなものである。子供の欲求を満足させる行為は、その時点その時点でみれば善と映るかもしれないが、人間としての完成、自立、創造性といった観点からすれば、大きくマイナスの働きをしているようなものである。
仏種を開発するか、その仏種を覆い隠してしまうかという視点からすれば、念仏等はまさしく大悪中の大悪といえるのである。父母を殺す悪人は、その肉体を破るのみであるが、誤った思想は人間精神を犯し、さらに根源の生命をも犯して、その人を無間地獄へと堕としてしまう。ゆえに、極悪の業となることを知らねばならない。
1313:02~1313:09第八章法華誹謗の現罰を述べるtop
| 02 ここに日蓮願つて云く日蓮は全くアヤマリなし.設い僻事なりとも日本国の一切の女人を扶けんと願せる志は.す 03 てがたかるべし、何に況や法華経のままに申す、而るを一切の女人等・信ぜずば・さでこそ有るべきに・かへりて日 04 蓮をうたする、日蓮が僻事か釈迦.多宝・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵・釈.四天等いかに計らい給うぞ、日蓮僻事な 05 らば其の義を示し給へ、 ことには日月天は眼前の境界なり、 又仏前にしてきかせ給える上・法華経の行者をあだ 06 まんものをば「頭破れて七分と作らん」等と誓わせ給いて候へば・ いかんが候べきと・日蓮強盛にせめまいらせ候 07 ゆへに天此の国を罰すゆへに此の疫病出現せり、 他国より此の国を天をほせつけて責めらるべきに・ 両方の人あ 08 また死ぬべきに・天の御計らいとして・ まづ民を滅ぼして人の手足を切るがごとくして大事の合戦なくして・此の 09 国の王臣等をせめかたぶけて法華経の御敵を滅ぼして正法を弘通せんとなり。 -----― かくて日蓮は願いを立てた。すなわち「日蓮には全く誤りはない。たとえ間違いがあったとしても、日本国の一切の女人を救おうと願った志を無視することはできないであろう。まして法華経に説かれてある通りにいっているのである。しかるに一切の女人等は、信じないのなら、信じないままでいるべきなのに、かえって日蓮を迫害させようとする。日蓮が間違っているのか。釈迦、多宝、十方の諸仏、菩薩、二乗、梵天、帝釈、四天王等は、どのように取り計らおうとされるのか。日蓮が間違っているならば、その義を示されよ。ことに日天、月天は眼前に輝いている。また仏前で仏勅を聞かれたうえに、法華経の行者を怨もうとする者を『頭破れて七分とならん』等と誓われたのであるから、どうしてこのままでよいものであろうか」と、日蓮が強盛に責めたので、天はこの国を罰するゆえに、この疫病が現れたのである。 天が仰せつけて、他国よりこの国を責めさせるはずであったが、それでは、両方の国の人々が多く死ぬであろうから、天の御計らいとして、まず民を滅ぼして、人の手足を切るようにして、大きな合戦によらないで、この国の王臣らを責め立てて、法華経の敵を滅ぼし、正法を弘通しようとするのである。 |
四天
四天王、四大天王の略。帝釈天の外将で、須弥山の中腹にある四王天の主である。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
―――
日月天
日天子、月天子のこと。日天子は日宮殿に住む天人のこと。月天子は月を宮殿とする天人。日天、月天ともそれぞれ太陽、月を神格化したもので、法華経の会座にも列なり、法華経守護の諸天善神とされる。
―――
眼前の境界
境界は精神・感覚などが働く対象となる存在の意で、日月天の存在は、眼前に輝くものとして視覚にあきらかであるということ。
―――
頭破れて七分と作らん
法華経陀羅尼品第26の文。正法を説く者を悩まし乱せば、その者の頭は七つに割れるという意味で、一往、十羅刹女の誓いであるが、通じて法華経の行者を守護する諸天善神の誓文として用いられている。
―――――――――
日本国の人々、とくに一切の女人を救おうとする大聖人を迫害する故に、罰として疫病が流行していることを述べて、仏法の原理のうえから社会の混乱の様相と大聖人の存在との因果関係を明らかにされたところである。
仏法の原理は、宇宙・自然・人間生命を貫く妙法に人々が違背するがゆえに、人々の生命力が減退し、貪瞋癡の三毒強盛となり、濁っていくところから、さまざまな社会的混乱が引き起こされていくことを教えている。「御義口伝」に文句を引いて云く「瞋恚増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり」(0718-03)と。
この、一国あげて妙法に違背しているという事実は、大聖人の折伏によってはじめて明らかにされた。しかも人々は、各宗派への執着から大聖人に対して誹謗をなし、妙法への敵対心をより鮮明にし、強めてしまったのである。それだけの波動を巻き起こすほど、大聖人の実践が大きな衝撃を人々の生命に与えたということである。
結局、当時の人々の生命に巣食っていた法華誹謗の心、邪智、生命の歪み等のすべてが、日蓮大聖人という一人の人間存在を機軸として、一挙にあらわれてきたといってよいであろう。
そうした姿は、ただ、民衆個人個人にのみ見られただけでなく、鎌倉幕府という公的存在もまた、大聖人を伊豆流罪とし、佐渡流罪としたのである。ゆえに疫病、飢饉、兵革等は、大聖人を一国こぞって迫害した結果として、諸天が責めるのであると断言されたのである。
ここにおいて、立正安国論では、一般論として、災害の根本原因を「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」(0017-12)と、正法誹謗に帰しておられたものを、本抄では別して日蓮大聖人に帰して論じておられるのである。これも、ひとえに開目抄において明かされた末法御本仏としての立場からの宣言といえるのである。
1313:10~1314:03第九章供養の志を称えるtop
| 10 而るに日蓮・佐渡の国へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計らいに随いて日蓮をあだむ・万民は其の 11 命に随う、念仏者.禅・律・真言師等は鎌倉よりも・いかにもして此れへ.わたらぬやう計ると申しつかわし・極楽寺 12 の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・ あだみなんと・せしかば・いかにも命た 13 すかるべきやうは.なかりしに・天の御計らいは・さてをきぬ、地頭・地頭・念仏者.念仏者等・日蓮が庵室に昼夜に 14 立ちそいてかよう人もあるを・まどわさんと・せめしに・阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度・御わたりありし事 15 いつの世にか・わすらむ、只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか。 -----― しかるに日蓮が佐渡の国へ流されてみると、かの国の守護等は、執権の計らいにしたがって日蓮をあだんだ。万民はその命に従った。念仏者、禅、律、真言師等は、鎌倉からも、どのようにもして、鎌倉に帰らないように計るよう申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵前司殿に願って、私製の御教書を申し受けて、弟子に持たせて日蓮を迫害しようとしたから、どうしても命が助かるはずはなかったが、天の御計らいは別として、地頭という地頭、念仏者という念仏者等は、日蓮の庵室に昼夜に見張りを立て、通う人を妨げようとしたのに、阿仏房に櫃を背負わせて、夜中に度々お訪ねのあったことを、いつの世に忘れられようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。 -----― 16 漢土に沛公と申せし人・ 王の相有りとて秦の始皇の勅宣を下して云く沛公打ちて・まいらせん者には不次の賞 17 を行うべし、沛公は里の中には隠れがたくして山に入りて七日・二七日なんど有るなり、其の時命すでに・をわりぬ 18 べかりしに沛公の妻女呂公と申せし人こそ 山中を尋ねて時時命をたすけしが彼は妻なればなさけすてがたし、 此 1314 01 れは後世ををぼせずば・なにしにか・かくは・おはすべき、又其の故に或は所ををい或はくわれうをひき或は宅を・ 02 とられなんどせしに・ついに・とをらせ給いぬ、 法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬと 03 わ・みへて候へ、されば十万億供養の女人なり、 -----― 昔、漢土に沛公という人は、王となる相があるというので、秦の始皇帝は勅宣を下していうには「沛公を打ったものには最大の賞を与える」と。沛公は人里にも隠れ難くなって、山中に入って七日、十四日におよんだ。その時すでに命が終わろうとしていたのを、沛公の妻・呂公という人が、時々山中を尋ねて命を助けたのであるが、それは妻であるから情を捨てがたかったのである。この尼御前は後世を思わなければ、どうしてこれほどの真心をつくされよう。またそのために所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは家宅を取られるなどしたのに、ついに信心を貫き通された。法華経法師品第十には過去に十万億の仏を供養した人こそ、今生で信心を退転しないとある。それ故尼御前は十万億の仏を供養した女人である。 |
守護
①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
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極楽寺の良観房
(1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
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武蔵の前司殿
武蔵国の前の国司のこと。ここでは、北条宣時をさす。武蔵守であった宣時は、既に文永10年(1273)7月にその職から去っていた。
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私の御教書
御教書とは、平安時代に三位以上の公卿が出した公式文書のこと。のち、中世では、幕府、将軍の文書も執権・管領がこの様式で出すようになった。北条宣時は、連署で御教書を出す権限はなかった。
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地頭
鎌倉幕府の職名。全国の荘園・公領に置かれた。土地の管理権・警察権・徴税権を有していた。
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庵室
草で葺いた木造の仮住まいのこと。
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ひつ
ご飯を入れる木製の器。
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沛公
前漢の創始者・劉邦(前0256.7~前0195)のこと。沛郡(江蘇省沛県)の生まれであったためこう呼ばれる。秦の始皇帝崩御の翌年(前0209)、楚の懐王を擁し項羽等と連合して兵を挙げ、秦を倒した。項羽は自ら西楚王と称して悪政を重ね、遂に懐王を殺した。劉邦は三郡を与えられたのみであったが、徳政を布き民心を得て垓下の戦いで項羽を破り天下を統一した。前0202年、皇位につき都を長安に定めて、前漢二百年の基礎をひらいた。
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秦の始皇
(紀元前259~210)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246~221)。姓は嬴、氏は趙、諱は政。現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した
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沛公打ちて……
史記高祖本紀第八に「秦の始皇帝は、常に『東南に天子の気がある』といい、東遊してこれを抑圧しようとした。沛公は自分を攻めるのではないかと疑い、逃亡して山沢の岩石のあいだにかくれた。沛公の妻呂公は人々とともに沛公をさがし求め、いつも見つけ出すことができた。沛公が怪しんでその理由を問うと呂后は『あなたのいらっしゃる所には、その上方に常に雲気があります。ですから、いつもあなたを見つけることができるのです』と答えた」とある。
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呂公
紀元前241~ 紀元前180)。漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏+句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。
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くわれう
過料・罰金。比較的軽い罪に対して、それを補うために科せられるもの。
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佐渡において大聖人に対して画策された、権力の迫害の模様を述べ、その中で阿仏房夫妻の勇気ある供養と不退の信心を讃嘆された段である。
「武蔵の前司殿の私の御教書」については、「法華行者逢難事」にその全文が引用されているが、そこには次のようにある。
「佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後彼僧に相い随わん輩に於ては炳誡を加えしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を注進せらる可きの由の所に候なり、仍て執達件の如し。
文永十年十二月七日 沙門観恵上る
依智六郎左衛門尉等云云」(0966-17)
また「種種御振舞御書」には「武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる」(0920-09)と。
こうした中を阿仏房夫妻は、人目をしのんで食事を運び、そのために、所を追われ、罰金に科せられ、屋敷を取り上げられるまでの難を受けながら、信心を貫いた。今生の姿だけを中心に考えたならば、これほどまでにして信心を貫かなければならない理由はないともいえよう。このような人生への姿勢は、世俗の浮沈を超越した、本源的な生命の次元にまで迫ったところから出てくるものなのである。ゆえに、千日尼の、その深い信心を、大聖人は過去に十万億の仏を供養した女人であると讃嘆されたのである。
1314:03~1314:07第十章千日尼の信心を讃嘆するtop
| 03 其の上・人は見る眼の前には心ざし有りとも・さしはなれぬれば・心 04 はわすれずとも・ さでこそ候に去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間・此の山中に候に佐渡 05 の国より三度まで夫をつかはす、 いくらほどの御心ざしぞ 大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし、 06 釈迦如来は我が薩埵王子たりし時うへたる虎に身をかいし功徳・ 尸毘王とありし時・鳩のために身をかへし功徳を 07 ば我が末の代かくのごとく法華経を信ぜん人に・ゆづらむとこそ多宝・十方の仏の御前にては申させ給いしか。 -----― そのうえ、人は眼の前にいる間は志があっても、離れてしまえば、心では忘れていなくとも、遠くなってしまうものであるのに、去る文永十一年より今年弘安元年までに既に五か年の間、この身延の山中にあったのに、佐渡の国より三度までも夫を遣わされた。なんと深い志であろうか。大地よりもあつく、大海よりも深い御志である。 釈迦如来は、自分が薩埵王子であった時、飢えた虎に身を与えた功徳、尸毘王であった時、鳩の代わりに自分の身を鷹に与えた功徳を、末法にこのように法華経を信ずる人に譲ろうと、多宝如来、十方の仏の前で説かれている。 |
薩埵王子
梵語では、サットヴァ(Sattva)という。釈尊が過去世で菩薩行を修行した時の名。摩訶羅陀王の第三子で、摩訶薩埵王子という。金光明経巻四に次のようにある。薩埵王子が二人の兄と竹林で遊んでいた時、子を産んで飢え苦しんでいる虎を見つけた。二人の兄は去ったが、薩埵王子は自分の身を与えて虎を助けたという。慈悲の精神を説いたもの。
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尸毘王
梵語ではシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊が過去世に菩薩として檀波羅蜜を修行していた時の名。菩薩本生鬘論巻一によると、帝釈天と毘首天子は、鷹と鳩に化身して、尸毘王が真に菩薩として精進し、仏道を求めているかどうかを試そうとした。尸毘王は、鷹に追われて王のふところに逃れてきた鳩を救い、飢えた鷹に股の肉を与えたという。
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大聖人の佐渡滞在中ばかりでなく、身延入山後も変わらない、千日尼の深い志を賞でられ、成仏の間違いないことを述べられている。
この本文で述べられているように、文永11年(1274)から弘安元年(1278)までの5年間に、阿仏房は三度までも身延の山中に大聖人を訪ねているのである。一説に90歳ともいわれる高齢の身をもって、今日では想像も及ばない困難な旅を敢行した阿仏房と、遠く離れ、年月を経てもなおかつ変わらぬ姿勢で大聖人を求めて老いた夫を送り出した千日尼の姿に、限りなく深い信仰心を感じないではいられない。「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」との原理に照らせば、この強盛の信心が既に仏界そのものであるともいえるのである。
「釈迦如来は」以下は、観心本尊抄の次の文と同じ意味を持つと考えられる。
すなわち観心本尊抄に云く「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と。
1314:08~1314:10第11章法華経十巻を送るtop
| 08 其の上御消息に云く尼が父の十三年は来る八月十一日又云くぜに一貫もん等云云、 あまりの御心ざしの切に候 09 へば・ありえて御はしますに随いて法華経十巻をくりまいらせ候、 日蓮がこいしく・をはせん時は学乗房によませ 10 て御ちやうもんあるべし、 此の御経を・しるしとして後生には御たづねあるべし、 -----― そのうえお手紙には、尼の父の十三年忌は来たる八月十一日であること、またその追善供養として銭一貫文を供養される等とある。あまりに深い御志であるので、幸いにも手もとにある法華経十巻をお送りする。日蓮を恋しく思われる時には、学乗房にこの法華経を読ませて、聴聞なさい。後生にはこの御経を証拠として、日蓮を訪問なさるがよい。 |
ぜに一貫もん
銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭千文にあたり、文永3年頃で米150㎏に相当したことが「丹波国大山荘領家年貢注文物価表」に見られる。
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法華経十巻
「妙法蓮華経」八巻二十八品に、開経である「無量義経」一巻と結経である「仏説観普賢菩薩行法経」一巻を加えた三部十巻のこと。
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学乗房
(~1301)。日蓮大聖人御在世当時の弟子。日静のことと思われる。佐渡一谷の人。初め真言宗徒であったが、後に大聖人に帰依し、実相寺を開いて佐渡の弘法に努めたという。
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千日尼の亡父の13年忌の供養に対して、法華経を送り、死後、霊山浄土への手形ともするよう述べられたところである。
1314:10~1314:17第12章門下の無事を喜ぶtop
| 10 抑去年今年のありさまは・いか 11 にか・ならせ給いぬらむと・ をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候いつれども・いまだいぶかしく候いつるに 12 七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて・尼ごぜんは・いかに・こう入道殿はいかにと・まづといて候いつれば・ 13 いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが・わせは・すでに・ちかづきぬ・こわなし・いかんがせんとて・か 14 へられ候いつると・かたり候いし時こそ盲目の者の眼のあきたる・ 死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢 15 の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし、 あわれあわれふしぎなる事かな、 此れもかまくらも此の方の者は此の病に 16 て死ぬる人は・すくなく候、同じ船にて候へば・いづれもたすかるべしとも・をぼへず候いつるに・ふねやぶれて・ 17 たすけぶねに値えるか、又竜神のたすけにて事なく岸へつけるかと・こそ不思議がり候へ。 -----― さて、一昨年、去年、今年の疫病のありさまを見ては、どうなられたであろうかと心配のあまり、法華経に無病息災をねんごろに祈ってはいたが、まだ気がかりであったところ、七月二十七日の申の時に、阿仏房が来られたのを見て「尼御前はどうされたか、国府入道殿はどうか」とまず問うたところ、「まだ病気にかかっておりません。国府入道は同道して参りましたが、早稲の刈り入れが近づき、手伝う子もないので、やむなく途中から帰られました」と語るのを聞いた時には、盲目の者の眼が開き、死んだ父母の閻魔宮から訪れてきた夢を見て、夢の中で悦んでいるような気持ちであった。いかにも不思議なことである。ここ身延でも鎌倉でも、日蓮門下はこの疫病で死ぬ者が少ない。同じ船に乗り合わせているようなものであるから、みな助かるとは思われないのに、難破して助け船にあったのであろうか。また竜神の助けによって無事に岸に着けたのか、と不思議に思っている。 |
こう入道
日蓮大聖人御在世当時の信徒。佐渡国国府の住人。国府は、国司の役所およびその所在地のこと。佐渡の国府は現在の真野町にあたる地にあった。国府入道は大聖人流罪の折りに弟子となり、夫婦そろって種々の御供養をし、外護の任にあたった。また大聖人身延入山後も、はるばる身延を訪れては御供養をするなど、純粋な信心を貫いた。
―――
閻魔宮
閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。
―――
竜神
竜は種々の神秘的な力を持つとされ、竜神と呼ばれる。八部衆、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の一つ。
―――――――――
疫病の蔓延する世相の中で、阿仏房尼等の無事であることを喜び、また大聖人の一門は病む人の少ないことを喜ばれている。
あわれあわれふしぎなる事かな、此れもかまくらも此の方の者は此の病に<て死ぬる人は・すくなく候
疫病等は総罰である。社会全体がこうむる罰であるゆえに、いかなる人も、その影響を免れ得ないのが総罰の特質である。別罰のように個々の人の善悪の行為によって、その人のみに現れるものとは違うのである。本文の船の譬えはこのことを意味しているのである。総罰を受けている社会の一員であることは、ちょうど難破した船に乗り合わせたようなものであると。
ところが、その総罰としての疫病が、日本全土を覆っているなかで、大聖人門下の罹病率が、門下以外の一般の人々のそれと比べて少ない事実を示して、仏法の力を教えられているのである。仏法は観念ではなく、現実社会、現実生活の中で具体的証拠を示していくのである。
ひるがえってその仏法の証明のためにも、どのような社会の激変に遭遇しても逞しく生き抜き、勝利の人生を送っていくことが大事であるといえるであろう。
1314:18~1315:07第13章一谷入道死去の所感を述べるtop
| 10 抑去年今年のありさまは・いか 11 にか・ならせ給いぬらむと・ をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候いつれども・いまだいぶかしく候いつるに 12 七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて・尼ごぜんは・いかに・こう入道殿はいかにと・まづといて候いつれば・ 13 いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが・わせは・すでに・ちかづきぬ・こわなし・いかんがせんとて・か 14 へられ候いつると・かたり候いし時こそ盲目の者の眼のあきたる・ 死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢 15 の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし、 あわれあわれふしぎなる事かな、 此れもかまくらも此の方の者は此の病に 16 て死ぬる人は・すくなく候、同じ船にて候へば・いづれもたすかるべしとも・をぼへず候いつるに・ふねやぶれて・ 17 たすけぶねに値えるか、又竜神のたすけにて事なく岸へつけるかと・こそ不思議がり候へ。 -----― さて、一昨年、去年、今年の疫病のありさまを見ては、どうなられたであろうかと心配のあまり、法華経に無病息災をねんごろに祈ってはいたが、まだ気がかりであったところ、七月二十七日の申の時に、阿仏房が来られたのを見て「尼御前はどうされたか、国府入道殿はどうか」とまず問うたところ、「まだ病気にかかっておりません。国府入道は同道して参りましたが、早稲の刈り入れが近づき、手伝う子もないので、やむなく途中から帰られました」と語るのを聞いた時には、盲目の者の眼が開き、死んだ父母の閻魔宮から訪れてきた夢を見て、夢の中で悦んでいるような気持ちであった。いかにも不思議なことである。ここ身延でも鎌倉でも、日蓮門下はこの疫病で死ぬ者が少ない。同じ船に乗り合わせているようなものであるから、みな助かるとは思われないのに、難破して助け船にあったのであろうか。また竜神の助けによって無事に岸に着けたのか、と不思議に思っている。 |
こう入道
日蓮大聖人御在世当時の信徒。佐渡国国府の住人。国府は、国司の役所およびその所在地のこと。佐渡の国府は現在の真野町にあたる地にあった。国府入道は大聖人流罪の折りに弟子となり、夫婦そろって種々の御供養をし、外護の任にあたった。また大聖人身延入山後も、はるばる身延を訪れては御供養をするなど、純粋な信心を貫いた。
―――
閻魔宮
閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。
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竜神
竜は種々の神秘的な力を持つとされ、竜神と呼ばれる。八部衆、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の一つ。
―――――――――
疫病の蔓延する世相の中で、阿仏房尼等の無事であることを喜び、また大聖人の一門は病む人の少ないことを喜ばれている。
あわれあわれふしぎなる事かな、此れもかまくらも此の方の者は此の病に<て死ぬる人は・すくなく候
疫病等は総罰である。社会全体がこうむる罰であるゆえに、いかなる人も、その影響を免れ得ないのが総罰の特質である。別罰のように個々の人の善悪の行為によって、その人のみに現れるものとは違うのである。本文の船の譬えはこのことを意味しているのである。総罰を受けている社会の一員であることは、ちょうど難破した船に乗り合わせたようなものであると。
ところが、その総罰としての疫病が、日本全土を覆っているなかで、大聖人門下の罹病率が、門下以外の一般の人々のそれと比べて少ない事実を示して、仏法の力を教えられているのである。仏法は観念ではなく、現実社会、現実生活の中で具体的証拠を示していくのである。
ひるがえってその仏法の証明のためにも、どのような社会の激変に遭遇しても逞しく生き抜き、勝利の人生を送っていくことが大事であるといえるであろう。
1309~1315 千日尼御前御返事(真実報恩経事)2010:12月号大白蓮華より。先生の講義top
「女人成仏の誓願」現実への大闘争
「悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願す」(1312-01)
これから学ぶ「千日尼御前御返事」の核心となる一節です。日蓮大聖人の誓願の根幹が明かされます。
題目の力をあらわす「まっすぐな信」
「悲母の恩を報ぜんがために」何と簡潔に、そして深く、仏法の人間主義を表現した言葉でしょうか。我が生命を生み出し、守り、育んでくれた母の恩に報ずることは、仏法の肝要です。
仏法は、母の慈悲をすべての人に広げていくための教えである。と言っても過言ではない。
釈尊は言われた。
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるもに対して、無量の心を起すべし。また全世界に対して無量の慈しみを起すべし。
あえていえば「母の慈悲」は、人間に、そして生きとし生けるものに、自分に与えられている「仏の心」であるといってよい。独り子を思う「母の慈悲」は万人を思う「仏の心」に直結する。それゆえに、人間は誰もが「母の慈悲」に触れることによって、「仏の心」を直接に体験することができる。「母の慈悲」は、すべての人間に開かれた大いなる精神的恩恵なのです。
ところが、この悲母が苦しみ、泣くのが、現実の人間の世界でもある。慈悲とは対極にある。利害と打算と争いの心によって支配されているのが、人間の世界だからです。ゆえに、悲母の恩を深く感じ取られてきた幼なき日の大聖人は、悲母を苦悩から根本的に救うために、仏法の探究を志されたのです。大聖人は「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」(0192-05)と出家の根本目的を語られています。
そして、仏法を精緻に探究された結果、法華経の題目が、成仏の種子というべき深法であることを発見し、究められた。それゆえ、すべての女性の成仏のために「法華経の題目を一切の女人に唱えさせたい」との誓願を立てられたのです。
もちろん、法華経の題目は、一切衆生に弘通されるべき大法です。女性に限定されるべきものではありません。
法華経は、一切衆生の成仏を強調してやまない経典です。しかし、即身成仏の実証を示すのは、竜女の成仏が最初です。女人成仏をもって、即身成仏が示されているのです。それは、女性こそが妙法の力を我が身に具現化するために必要な「まっすぐな信心」をあらわす力を持っていることを示しているのです。
「母の慈悲」に象徴されるように、生命を深く慈しむ資質をそなえた女性の心は、ひとたび目覚めれば、慈悲即智慧・智慧即慈悲というべき仏の生命に、より自然に、そしてより率直に開かれる。その資質が成仏の種子である法華経の題目への「まっすぐな信心」を可能にするのです。
本抄は、弘安元年(1278)7月28日に認められ、遠路はるばる佐渡の地から身延を訪れていた阿仏房に託して、その妻である千日尼に与えられたお手紙です。まさに千日尼は、この「まっすぐな信心」の女性の代表でした
阿仏房は、千日尼から大聖人への手紙を託されていました。本抄の冒頭には、その手紙の一節が引用されています。そこには、「女人の罪障は深いので成仏は叶うものであろうかと思っていましたが、日蓮大聖人の御法門に法華経は女人の成仏を第一とすると説かれていますので、すべてはそれを頼みとしています」とあります。
千日尼が綴っているように、大聖人の女人成仏の教えが、どれだけ、当時の女性にとって希望の法理となったことか。
大聖人は本抄で、この千日尼の希望を確かなものとするために、竜女の即身成仏こそ法華経の第一の肝心であることを明かされていきます。そして、とりわけ女人成仏の実現こそが大聖人の誓願の根本であることを明かし、そのための大聖人の大闘争の軌跡を示していかれるのです。
千日尼が、この一書を携えて、佐渡の同志たちに喜々として女人成仏という希望を伝えていったことは、間違いないでしょう。
今回は、この「千日尼御前御返事」を拝して、「女人成仏の誓願」実現への大闘争の意義を深く学んでいきたいと思います。
| 15 此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・ 空飛ぶ 16 者の王たり鷲のごとし、 南無阿弥陀仏経等はきじのごとし兎のごとし・鷲につかまれては涙をながし・師子にせめ 17 られては腸わたをたつ、念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし、法華経の行者に値いぬれば・いろを失い魂 18 をけすなり。 -----― この法華経は一切経に勝れているのである。地走る者の王であり、師子王のごとくである。空飛ぶ者の王であり鷲のごとくである。南無阿弥陀仏経などは、雉のごとくであり兎のごとくである。鷲につかまれては涙をながし、師子に責められては腸を断つのである。念仏者・律僧・禅僧・真言師等は、また同じようなものである。法華経の行者に値え顔色をなくし、魂を消すのである。 -----― 1311 01 かかるいみじき法華経と申す御経は・いかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡 02 夫・皆仏になり給うやうを・とかれて候へどもいまだ其のしるしなし、 設えば始めたる客人が相貌うるわしくして 03 心も・いさぎよく.よく口もきいて候へば・いう事疑なけれども.さきも見ぬ人なれば・いまだ・あらわれたる事なけ 04 れば語のみにては信じがたきぞかし、 其の時語にまかせて大なる事・度度あひ候へば・さては後の事も・たのもし 05 なんど申すぞかし、 一切信じて信ぜられざりしを第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり、 譬へばくろき 06 物を白くなす事・漆を雪となし・不浄を清浄になす事・濁水に如意珠を入れたるがごとし、 竜女と申せし小蛇を現 07 身に仏になしてましましき、 此の時こそ一切の男子の仏になる事をば疑う者は候はざりしか、 されば此の経は女 08 人成仏を手本としてとかれたりと申す、 -----― このような尊い法華経とう御経は、どのような法門であるかといえば、第一巻の方便品第二のはじめから菩薩・二乗・凡夫等が皆仏になれると説かれているが、まだ成仏した証拠はない。たとえば、初めてあう客人の姿がうるわしく、心も清らかで、話す言葉に疑うところがないとしても、これまで見知らない人であるから、また話の内容が実際に証明されれば、それだけでは後のことも信頼できるというようなものである。 一切の人が法華経を信じながらも信じきれないでいたのを、第五巻の提婆達多品第十二に即身成仏という法華申経第一の肝心が説かれたのである。譬えば、黒い物を白くすること、漆を雪とし、不浄の身を清浄にすること、濁水に如意宝珠を入れたようなものである。竜女という小蛇を現身に仏になされたのである。こと時こそ、一切の男子の成仏できることを疑う者はいなかったのである。ゆえにこの法華経は女人成仏を手本として、一切衆生の成仏が説かれたというのである。 |
「師子王のごとし」「鷲のごとし」
大聖人は、一切経と比べて法華経だけが、仏の真実の教えが説かれた経であることを強調されています。法華経は、地走る者の王である師子王のごとき経典であり、空飛ぶ者の王である鷲のごとき経典であると仰せです。
法華経が“諸経の王”といわれる理由は、いうまでもなく一念三千・十界互具の法理に基づき、万人の成仏を強調している点にあります。爾前経では九界を断滅してはじめて成仏すると説きますが、それと異なり法華経では、十界互具を明かし、菩薩・二乗・凡夫等、九界のいかなる衆生であろうと、その身を改めることなく自身の仏界を開くことができると説きます。
法華経法師品では、この極理の現証として竜女の「即身成仏」が説かれます。万人の成仏が強調され、一念三千の法理が明らかにされても、現実のこととしてはなかなか容易に信じがたい。特に、仏の滅後の悪世に生きる人々には難信難解です。大聖人は、法華経提婆品で竜女の即身成仏の現証が示されたことにより、皆に成仏の確信を与えたと仰せです。
すなわち、女人成仏の法門が示されたことで、一切衆生の成仏も実現できることが明確になりました。ゆえに、本抄では「されば此の経は女人成仏の手本としてとかれたりと申す」と仰せです。
爾前経でも女人成仏を認めているものがありますが、それは、「改転の成仏」といわれるように、女性が男性に生まれかわってから成仏するというものです。また、別世界である浄土に往くことはできないとされています。
これに対して大聖人は、法華経の竜女の成仏を「妙法経力即身成仏」すなわち、法華経の力による即身成仏であるとした伝教大師の解釈を踏まえられています。
御書に「法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」(1373-08)と仰せです。法華経を信受して仏道修行を始めたばかりの凡夫の位のままで、妙覚という最高の仏の位に直ちに至るのです。凡夫の現実の身に仏界の働きを現していく即身成仏こそ、法華経が明かした真実の成仏のあり方です。
提婆品でも、竜女が即身成仏の実証として、「私は大乗の教えを説き弘めて、苦悩の衆生を救っていきます」と、生き生きと誓いを述べます。
法華経の竜女の姿とは対照的に、他の仏教経典では、当時のインド社会の考え方を反映して、ことさら女人の罪障を強調し、女性から希望と誇りを奪っていったのです。民衆の間に、このような爾前経が広まり、法華経が軽視されていった大聖人の御在世当時は、仏教が女性を苦しめる宗教と化していたと言っても過言ではない。この宗教の悪弊を打ち破り、悲母の幸福のため、人間の変革のための宗教を確立することを目指して、大聖人は竜女の即身成仏を大きく取り上げられたのです。
「一切の女性に唱えさせたい」という大聖人の誓願は、女性の自立と人間革命を促す宗教革命の誓いであるともいえます。
大聖人は「殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・キョウ曇弥・耶輸陀羅女の如くに・やすやすと仏になるべしと」(0554-11)と仰せです。
ここで「やすやすと」とあります。法華経の女人成仏は、何も恐れるものはありません。
大聖人が別の機会に千日尼に送られたお手紙にも「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし」(1316-07)とあります。自身の尊極の生命を湧現するという究極の哲学に目覚めた女性は、最高に尊貴な人生を送れることは絶対に間違いありません。
大聖人は一人一人の女性門下に希望を与え続けてくださいました。
「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき」(0976-05)
「此の法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候」(1134-14)
「二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし」(1188-15)、
本抄にも、大聖人は、千日尼の手紙の言葉に答えるように、「されば日本の一切の女人は法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌うとも・法華経にだいも女人成仏ゆるされなば・なにかくるしかるべき」と厳然と仰せです。
女人成仏が実現うることで万人の成仏が開かれます。法華経に女人成仏の現証が示されたことは、万人の成仏が実現できるとの希望を確実にする決定打といってよい。女人成仏を説く法華経によって初めて真の民衆仏法が開かれたといえるのです。
| 13 しかるに日蓮は・うけがたくして人身をうけ・値いがたくして仏法に値い奉る、一切の仏法の中に法華経に値い 14 まいらせて候、其の恩徳ををもへば父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり、 父母の恩の中に慈父をば天に譬へ悲 15 母をば大地に譬へたり・いづれも・わけがたし、其の中にも悲母の大恩ことに・ほうじがたし、此れを報ぜんと・を 16 もうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんと・をもへば現在を・やしないて後世をたすけがたし、身をやしない 17 魂をたすけず・内典の仏法に入りて五千・七千余巻の小乗・大乗は女人成仏かたければ悲母の恩報じがたし・小乗は 18 女人成仏・一向に許されず、 大乗経は或は成仏・或は往生を許たるやうなれども仏の仮言にて実事なし、但法華経 1312 01 計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へと見候いしかば・ 悲母の恩を報ぜんために此の経の題目 02 を一切の女人に唱えさせんと願す、 -----― ところで、日蓮は受け難い人身を受け、値い難い仏法に値うことができた。一切の仏法のなかでも法華経に値うことができたのである。その恩徳を考えれば、父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩である。 父母の恩のなかでも慈父を天に譬え、悲母を大地に譬えている。どちらも優劣を分けがたい大恩である。その中でも悲母の大恩は報じがたい。この恩を報じようと思うのに、外典の三墳・五典・孝経等によって報じようと思えば、現在を養うだけで後世を救うことはできない。身を養っても魂をすくうことはできないのである。 内典の仏法に入っても、五千・七千余巻の小乗経・大乗経では女人成仏ができないので、悲母の恩は報じがたい。小乗経では女人成仏は全く許されていない。大乗経はあるいは成仏、あるは往生を許しているようであるけれども、仏の仮の言葉であって、成仏の実義がない。ただ法華経ばかりが女人成仏を明かし、悲母の恩を報ずる真実の報恩経であると考えたので、悲母の恩を報ずるために、法華経の題目を一切の女人に唱えさせようとの願を立てたのである。 |
「師子王のごとし」「鷲のごとし」
大聖人は、一切経と比べて法華経だけが、仏の真実の教えが説かれた経であることを強調されています。法華経は、地走る者の王である師子王のごとき経典であり、空飛ぶ者の王である鷲のごとき経典であると仰せです。
法華経が“諸経の王”といわれる理由は、いうまでもなく一念三千・十界互具の法理に基づき、万人の成仏を強調している点にあります。爾前経では九界を断滅してはじめて成仏すると説きますが、それと異なり法華経では、十界互具を明かし、菩薩・二乗・凡夫等、九界のいかなる衆生であろうと、その身を改めることなく自身の仏界を開くことができると説きます。
法華経法師品では、この極理の現証として竜女の「即身成仏」が説かれます。万人の成仏が強調され、一念三千の法理が明らかにされても、現実のこととしてはなかなか容易に信じがたい。特に、仏の滅後の悪世に生きる人々には難信難解です。大聖人は、法華経提婆品で竜女の即身成仏の現証が示されたことにより、皆に成仏の確信を与えたと仰せです。
すなわち、女人成仏の法門が示されたことで、一切衆生の成仏も実現できることが明確になりました。ゆえに、本抄では「されば此の経は女人成仏の手本としてとかれたりと申す」と仰せです。
爾前経でも女人成仏を認めているものがありますが、それは、「改転の成仏」といわれるように、女性が男性に生まれかわってから成仏するというものです。また、別世界である浄土に往くことはできないとされています。
これに対して大聖人は、法華経の竜女の成仏を「妙法経力即身成仏」すなわち、法華経の力による即身成仏であるとした伝教大師の解釈を踏まえられています。
御書に「法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」(1373-08)と仰せです。法華経を信受して仏道修行を始めたばかりの凡夫の位のままで、妙覚という最高の仏の位に直ちに至るのです。凡夫の現実の身に仏界の働きを現していく即身成仏こそ、法華経が明かした真実の成仏のあり方です。
提婆品でも、竜女が即身成仏の実証として、「私は大乗の教えを説き弘めて、苦悩の衆生を救っていきます」と、生き生きと誓いを述べます。
法華経の竜女の姿とは対照的に、他の仏教経典では、当時のインド社会の考え方を反映して、ことさら女人の罪障を強調し、女性から希望と誇りを奪っていったのです。民衆の間に、このような爾前経が広まり、法華経が軽視されていった大聖人の御在世当時は、仏教が女性を苦しめる宗教と化していたと言っても過言ではない。この宗教の悪弊を打ち破り、悲母の幸福のため、人間の変革のための宗教を確立することを目指して、大聖人は竜女の即身成仏を大きく取り上げられたのです。
「一切の女性に唱えさせたい」という大聖人の誓願は、女性の自立と人間革命を促す宗教革命の誓いであるともいえます。
大聖人は「殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・キョウ曇弥・耶輸陀羅女の如くに・やすやすと仏になるべしと」(0554-11)と仰せです。
ここで「やすやすと」とあります。法華経の女人成仏は、何も恐れるものはありません。
大聖人が別の機会に千日尼に送られたお手紙にも「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし」(1316-07)とあります。自身の尊極の生命を湧現するという究極の哲学に目覚めた女性は、最高に尊貴な人生を送れることは絶対に間違いありません。
大聖人は一人一人の女性門下に希望を与え続けてくださいました。
「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき」(0976-05)
「此の法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候」(1134-14)
「二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし」(1188-15)、
本抄にも、大聖人は、千日尼の手紙の言葉に答えるように、「されば日本の一切の女人は法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌うとも・法華経にだいも女人成仏ゆるされなば・なにかくるしかるべき」と厳然と仰せです。
女人成仏が実現うることで万人の成仏が開かれます。法華経に女人成仏の現証が示されたことは、万人の成仏が実現できるとの希望を確実にする決定打といってよい。女人成仏を説く法華経によって初めて真の民衆仏法が開かれたといえるのです。
| 15 今日本国の仏法も又かくのごとし色かわれる謀反なり、法華経は大王.大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗.禅 16 宗・ 律僧等は彼れ彼れの小経によて法華経の大怨敵となりぬるを・日本の一切の女人等は我が心のをろかなるをば 17 知らずして我をたすくる日蓮を・かたきと・をもひて大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり、 18 たすけんとする日蓮かへりて大怨敵と・をもわるるゆへに・ 女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上・ 1313 01 又佐渡の国へながされぬ -----― 今、日本国の仏法もまた同じである。形のかわった謀反である。法華経は大王・大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は、それぞれの小経によって法華経の大怨敵となっている。そうであるのに、日本の一切の女人は自分の心の愚かなることを知らないで、自分を救おうとしている日蓮を敵と思い大怨敵である念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまっている。救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、一切の女人はこぞって国主に讒言をして伊豆の国に流したうえ、また佐渡にも流したのであった。 |
いかなる大難にも誓願を貫く
法華経弘通に立ち上がられた日蓮大聖人に対して、経文通り僣聖増上慢が出来し、流罪等の迫害を加えてきます。問題なのは、この僭聖増上慢の悪僧の影響によって、女人成仏に立ち上がった大聖人を陥れようとする女性たちがいた。ということです。
女人成仏のために戦う大聖人を、日本国の女性たちが怨嫉する。不条理な話ですが、こうした転倒の構図を造ってしまうところに謗法の恐ろしさがあります。
当時は念仏の信仰が広がっていましたが、念仏者たちは法華経に敵対し、法華経への謗法を重ねていました。そこで大聖人は、日本中の母たちを救うために“阿弥陀仏には「仏になる種」がないゆえに成仏はかなわない”と強く破折されていきます。
しかし念仏者たちにたぶらかされた女性たちは、大聖人の文証・理証・現証に基づいた破折が自分たちへの単なる悪口としか聞こえなかった。それゆえに、大聖人こそ仏の大怨敵であると思うようになってしまったのです。
大聖人は、伊豆流罪にせよ、佐渡流罪にせよ、その背後に女性の讒言があったと指摘されていきます。とりわけ佐渡流罪の時には、極楽寺良観らが陰謀をめぐらし、執権・時宗の母である尼御前をそそのかす。そして女性たちが権力を動かし、大聖人への迫害が企てられるようになったのです。
まさに謗法の悪僧たちは、女性の一途な信仰心を利用して、正義の人への弾圧を企てる。この姿こそ法華経の敵、すなわち民衆仏法の敵であり、一切の女性の敵であるといわざるをえません。それとともに、権威に利用され、一切の女性の成仏のために尽くされている大聖人にかえって怨をなす女性たちについても、大聖人は「我が心のをろかなるをばしらず」と厳しく喝破されています。
謗法によって目が曇り正法を信じられない心の愚かさほど恐ろしいものはありません。人々はこの無明を打ち破り、最終的には自分を迫害する人をも救っていきたい。その大いなる慈悲の折伏戦に立ち上がられたのが日蓮大聖人です。したがって、大聖人の女人成仏実現の闘争は、いかなる嵐があろうとも、止むことはありませんでした。
元来、法華経は男女が平等に尊極な存在であることをうたいあげた経典です。法師品には、善男子・善女人が、仏に代わって法を説くことが説かれている。また、不軽菩薩が敬った相手も四衆です。このことは、出家在家を問わず一切の女性も、仏性を持っており、讃えられるべきことを雄弁に物語っています。
しかし、仏教の歴史の中で、長く、この尊き真理は忘れられ、結果的に女性たちを苦しめてきた。それゆえに、大聖人が徹して女人成仏の実現のために戦い抜かれた意味はあまりにも大きかった。
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」(1360-08)との御文にも示されている通り、民衆救済に戦う地涌の使命と実践は、全き男女平等の人間観・世界観に立脚しているのです。
今日、創価学会の実践もまた、この日蓮大聖人の誓願のままに戦う精神闘争にほかなりません。仏教本来の万人尊敬の精神を継承する民衆運動の展開は、後世の歴史に燦然と輝くことは間違いありません。
| 10 而るに日蓮・佐渡の国へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計らいに随いて日蓮をあだむ・万民は其の 11 命に随う、念仏者.禅・律・真言師等は鎌倉よりも・いかにもして此れへ.わたらぬやう計ると申しつかわし・極楽寺 12 の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・ あだみなんと・せしかば・いかにも命た 13 すかるべきやうは.なかりしに・天の御計らいは・さてをきぬ、地頭・地頭・念仏者.念仏者等・日蓮が庵室に昼夜に 14 立ちそいてかよう人もあるを・まどわさんと・せめしに・阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度・御わたりありし事 15 いつの世にか・わすらむ、只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか。 -----― しかるに日蓮が佐渡の国へ流されてみると、かの国の守護等は執権の計らいにしたがって日蓮をあだんだ。万民はその命に従った。念仏者・禅・律・真言師等は、鎌倉からも、どのようにしても、鎌倉に帰らないように計るよう申しつかわし、極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の願って、私製の御教書を申し受けて、弟子に持たせて日蓮を、迫害しようとしたから、どうしても命が助かるはずはなかったが、天の御計らいは別として、地頭という地頭・念仏者という念仏者等は、日蓮の庵室を昼夜見張を立て、通う人を妨げようとしたのに、阿仏房に櫃を背負わせて、夜中に度々お訪ねになったことを、いつお世に忘れようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。 |
女性門下の尊き戦いに感謝
大聖人はあらためて、佐渡流罪の地で、千日尼が不惜身命の信心で、大聖人の身を守ったことに対して感謝を述べられています。あまりにも不思議なことに、悲母が佐渡の国に生まれかわって現れたようだとも仰せです。
大聖人は千日尼のことを“過去に十万億の仏に供養した女人であろうか”と賞讃されています。そして、遠く佐渡の地から、変わらぬ真心を尽くす千日尼の信心を“何と深い志であろうか”と讃えられています。
正法をまっすぐに実践する女性門下たちは、法華経の行者を守り支える強き働きを発揮します。女性ならではの、こまやかさや機転、心配りや、同志を大切にする心を、大聖人は本当に尊重され、また、感謝されています。まさに、女性門下の「法」を守る信心のなかに、悲母の慈悲と智慧が発揮されるといえましょう。
一方で「法」をゆがめ、愚かさから大聖人を迫害する女性たちがいる。一方で「法」を素直に持ち、広宣流布の戦いに参画する女性たちが続々と誕生しています。そのこと自体、悪世にあって貧瞋癡の三毒に支配されている人々を救い、万人の境涯を高めていく広布の活動が着実に前進している何よりの証しともいえます。末法広宣流布は、一人また一人と粘り強く、本来、誰もが持つ地涌の使命を呼び覚ます闘争でもあります。大聖人とともに戦う女性門下は、末代悪世の女人成仏の草分けであり、言い換えれば女性解放の先駆者であったともいえます。
大聖人の門下にはさまざまな方たしがいました。若くして夫に先立たれた女性、最愛のわが子を亡くした女性、自分の病気、夫の病気で悩む女性、子供がいない女性、姑の看護をする女性、夫の信仰が不安定で悩む女性、等々、皆、健気に広宣流布に戦い、各自の宿命と戦うなかで、仏法の女人成仏を実証媒する偉大な闘争を繰り広げています。
宿命に泣く女性から、使命に立ち上がる女性へ、一切の女人の幸福を願う大聖人のお心をまっすぐに受け止めて、幸と使命の大道を歩む弟子たち、この師弟の世界がある限り、一切の女性の幸福が拡大如あれゆくことは必定です。
門下の無事に心から安堵
さて本抄の最後には、どこまでも門下の身を案じる大聖人の御心情が綴られています。当時、日本中に疫病が流行し、実に多くの人が亡くなっていきました。それでなくとも、再び蒙古襲来におびえる、世情の不安定な時代です。大聖人は、流罪の折に命懸けで守ってくれた、遠く離れた佐渡の地の門下のことが心配で仕方なかった。疫病のゆえもあったでしようか。佐渡の人々との交流も途絶えがちになっていたようです。前年の建治3年佐渡の門下に与えられた御書は残っていません。大聖人は、門下の無事を祈られつつも、気がかりな思いが募る一方だったに違いありません。そこへ、突然、身延の庵室を阿仏房が訪れた。
大聖人が開口一番、皆さんは無事でしょうか、阿仏房が、ええ、幸いなことに疫病にかかっていませんと、安否を会話がなされたことが記されています。
大聖人は、皆が無事であることを喜ばれ「盲目の者の眼のあきたる・死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし」(1314-14)とまで仰せになっています。
師匠は、いかなる時も絶えず、弟子一人一人の安全と健康が気がかりであり、常に弟子の成長を祈り続けています。佐渡の門下の人々もまた、そうした大聖人のお心と直結したからこそ、佐渡の広布は発達したと確信します。
この温かくこまやかな配慮にあふれたお手紙をいただいた千日尼は、門下を思う大聖人の御心情に、どれほど感激したことでしょうか。また、大聖人は、このお手紙を読む「佐渡の悲母」というべき千日尼の笑顔を懐かしく思いうかべながら、こうした阿仏房とのやりとりを綴られたのでしょう。
日蓮大聖人の仏法が現代に蘇った今日、日本の各地に、千日尼の如く「同志を守る悲母」「青年を育む賢母」そして「広布の母」として慕われている方々が大勢いらっしゃいます。最高に尊貴な方々です。私はいつも、そうした母たちに合掌する思いで感謝の念を捧げています。「広布の母」は、また、多くの女性の幸福を築いた「地域の母」であり、末代の女人成仏の道を開いた「人間主義の母」ともいうべき存在です。
世界中の母たちの慈愛が人々を照らし、また母たちの平和を願う心を人々が大切にする時代が来れば、現代文明の質それ自体が大きく変わります。
「創価の母」の連帯を、世界中の人が讃える時代になりました。池田華陽会のスクラムも、はつらつと続いています。「生命尊厳の世紀」「女性の世紀」「平和の世紀」の盤石な基盤ができあがったと、私は恩師に報告ができます。
「悲母の恩を報ぜんために」この大聖人の女人成仏の誓願を胸に、私たちも立ち上がりました。世界中の母と子が平和で幸福な社会を築く。ここに創価の三代の師弟の誓願があります。また、この誓願実現の闘争を皆に託したいのです。
1315~1317 千日尼御前御返事(雷門鼓御書)top
1315:01~1315:02第一章供養の功徳を説くtop
| 千日尼御前御返事 弘安元年十月十九日 五十七歳御作 与阿仏房尼 01 青鳧一貫文・干飯一斗・種種の物給い候い了んぬ、仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生れたり、仏に 02 漿を・まひらせし老女は辟支仏と生れたり、 -----― 銭一貫文、干飯一斗、種々の御供養の品を確かにいただきました。昔、釈迦仏に土の餅を供養した徳勝童子は、阿育大王と生まれた。釈迦仏に米のとぎ汁を差し上げた老女は、辟支仏と生まれたのである。 |
青鳧
銭のこと。青鳧は青蚨に同じで、かげろうの意。捜神記等によれば、かげろうの母子の血を取って、それぞれ銭に塗ると、その片方の錢を使えば、残った方を慕って銭が飛び帰るという言い伝えがある。転じて銅銭、穴あき銭のことを青鳧といった。なお諸説がある。
―――
干飯
一度炊いた飯をよく干して乾燥した貯蔵用の飯のことで、水または熱湯にひたせばすぐ食用となる。兵糧として、また旅行の際などに用いた。
―――
徳勝童子
得勝童子とも書く。釈尊が王舎城で乞食行をしていた時、無勝童子と共に、土の餅を供養した童子。その功徳によって、釈尊滅後百年に阿育大王と生まれたと阿育王伝にある。無勝童子は阿育王の后となって生まれた。あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという説もある。徳勝童子が供養し、無勝童子が横で合掌したともいう。
―――
阿育大王
阿輸迦とも書き、梵語アショーカ(Aśoka)の音写。無憂と訳す。インド・マウリア朝第三代の王。インドを統一した最初の王である。在位は前0268年~前0232年頃とされる。幼時より凶暴で、戦を好んだが、カリンガ地方を征服した際、殺戮の跡を眼のあたりにして仏教を深く信じ行ずるようになった。武力による統治をやめ、仏教の慈悲の精神をもとにした普遍的な「法」による統治こそ最上であるとした。また五年ごとに大会を設けて教法の義理を論議させ、諸僧を遠くシリア、エジプトなど広範囲に派遣して布教させるなど大いに仏教を保護した。更に、八万四千(数多くの意)の塔を造り、仏舎利を分布し、第三次仏典結集を行なったとも伝えられる。
―――
漿
米のとぎ汁のこと。「おもゆ」ともいう。ここでは九横の大難の一つである婆羅門城の漿のことを述べている。釈尊が阿難を伴って婆羅門城で乞食を行じたとき、老女が臭い米汁を供養した。この功徳によって老女は、辟支仏と生まれたという。釈尊から見れば難であるが、老女は真心から供養した故にこの果報を得たのである。
―――
辟支仏
梵語プラティエーカ・ブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。辟支迦羅とも書き、独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。十二因縁の理を観じ、また、飛花落葉等の外縁によって自ら覚った者をいう。
―――――――――
本抄御執筆の弘安元年(1278)10月といえば、その頃の他の御抄からみて、大聖人の御病気がかなり重かった時節であると考えられる。そのときに千日尼が夫の阿仏房を使いとして見舞いがてら種々の御供養を差し上げたのであろう。佐渡から訪れることさえ容易ではないのに、たびたび、しかも御供養を携えて身延へ赴くのは大変な難儀であったに違いない。その御供養の真心を、遠く佐渡の地で大聖人の身を案じているであろう千日尼に対してほめたたえられているのである。
供養の功徳を教えるのに、ここでは土の餅を供養した徳勝童子と、臭い米のとぎ汁を差し出した老女の例を挙げておられる。もちろん、千日尼の供養が粗末なものであったということではない。物資が欠乏しているであろう佐渡の地から、これだけの供養をすることは容易でなかったはずである。
しかし、なによりも尊いのは、佐渡の地からたびたび供養した、その真心である。土の餅や米のとぎ汁でさえ、仏に奉る一念を込めて差し出せば計り知れない福運となった。まして遠隔の地から真心の供養をする阿仏房夫妻の福運は底知れぬものがある。そのことをいわれているのである。
仏法の流布は、布教に専念する僧侶と、それを支える施主との強い連帯がなくしては、できるものではない。というところから経典等には供養の精神を訴える因縁が多く説かれた。大聖人御在世にあっても、やはり在家の人達の支援によって布教ができたのである。
供養の功徳に限らず、さまざまな教訓が因縁の形で説かれているのは仏法の大きな特徴である。一人一人の生命に内在する因果を説くのが仏法であり、そうした説き方は、真理を直ちに説くことや、譬喩をもって表すことから一歩進んで、具体的にその人のとるべき行動を教えるうえで説得力をもっているからである。法華経迹門において二乗に記別を与える際に、法説周、譬喩周、因縁周の順に説法が行なわれていったのも、この道理からであろう。
1315:02~1316:02第二章法華経の偉大さを明かすtop
| 02 法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・ 03 東南方無憂徳仏.南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏.東北方三乗行仏・上方広 04 衆徳仏.下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏.未来・星宿劫の千仏・乃至華厳 05 経・法華経.涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏.尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法 06 華経の妙の一字より出生し給へり、 故に法華経の結経たる普賢経に云く 「仏三種の身は方等より生ず」等云云、 07 方等とは月氏の語・漢土には大乗と翻ず・大乗と申すは法華経の名なり、 阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華 08 厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、 法華経に対すれば小乗経なり、法華経に勝れたる経なき故に一大 1316 01 乗経なり、 例せば南閻浮提・ 八万四千の国国の王王は其の国国にては大王と云う・転輪聖王に対すれば小王と申 02 す、 乃至六欲・四禅の王王は大小に渡る、色界の頂の大梵天王独り 大王にして小の文字をつくる事なきが如し、 -----― 法華経は十方三世の諸仏の師匠である。十方の仏というのは、東方の善徳仏、東南方の無憂徳仏、南方の栴檀徳仏、西南方の宝施仏、西方の無量明仏、西北方の華徳仏、北方の相徳仏、東北方の三乗行仏、上方の広衆徳仏、下方の明徳仏である。 三世の仏というのは、過去荘厳劫の千仏、現在賢劫の千仏、未来星宿劫の千仏、乃至、華厳経、法華経、涅槃経等の大乗経・小乗経、権経・実経、顕経・密経の諸経に列なっておられる一切の諸仏、また十方世界の微塵を尽くしたほど多くの菩薩等も皆ことごとく法華経の妙の一字から出生されたのである。 ゆえに法華経の結経である普賢経には「仏の三種の身は方等から生まれる」等とある。方等とはインドの言葉であり、中国では大乗と訳している。大乗というのは法華経の名である。阿含経は外道の経に対すれば大乗経である。華厳経、般若経、大日経等は阿含経に対すれば大乗経であり、法華経に対すれば小乗経である。法華経より勝れた経典がないゆえに、法華経は唯一つの大乗経である。 例えば、南閻浮提にある八万四千の国々のそれぞれの王は、その国々においては大王という。しかし転輪聖王に対すれば小王という。乃至、六欲天、四禅天のそれぞれの王は所対によって大王ともなり、小王ともなるが、色界の頂上に住する大梵天王独り大王であって小の文字を付けることがないようなものである。 |
善徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。東方無憂世界の仏。①法華経の結経である観普賢菩薩行法経には、無量の分身を従え、宝樹の下の師子座の上で結跏趺坐すると説かれている。②十住毘婆沙論には、東方無憂世界の仏として、その徳は淳善であり、ただ安楽のみあるとする。
―――
無憂徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。東南方月明世界の仏。十住毘婆沙論には、この仏の徳によって諸の天人の憂いがなくなるとある。
―――
栴檀徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。南方歓喜世界の仏。①観普賢菩薩行法経には、この仏に無量の分身があって皆大乗を説き、諸の衆生の罪悪を除くとある。②十住毘婆沙論には、旃檀の香ばしくて清涼であるように、仏の名が遠くから聞こえることは香の流布するように、衆生の三毒の火熱を滅除して清涼ならしめるとある。
―――
宝施仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。西南方衆相世界の仏。十住毘婆沙論には、諸の無漏の根・力・覚・道等の宝をもって常に衆生に施すとある。
―――
無量明仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。西方善解世界の仏。十住毘婆沙論には、この仏の身光・智慧が明らかであって無量無辺であるとある。
―――
華徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。西北方衆音世界の仏。十住毘婆沙論には、身は妙華のようであり、福は無量であるとある。
―――
相徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。北方不動世界の仏。十住毘婆沙論には、福徳が幢相の如く高くあらわれているとある。
―――
三乗行仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。東北方安穏世界の仏。十住毘婆沙論には、常に声聞行・縁覚行・諸の菩薩行を説くとある。また上中下の精進を説くのでこう名づけるとある。
―――
広衆徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。上方衆月世界の仏。十住毘婆沙論には、その仏の弟子の福徳がこうだいであるのでこう名づけるとある。
―――
明徳仏
十方の仏の一つ。観仏三昧海経にその名が見られる。下方広大世界の仏。十住毘婆沙論には、身明・智慧明・宝樹光明の三種の徳をもって常に世の中を照らすとある。
―――
過去荘厳劫
過去の住劫のこと。三劫の一つ。三劫三千仏縁起等には、大劫の中に成・住・壊・空の四劫があり、その住劫の時に、過去に千仏が出現したと説かれている。千仏によって荘厳されるゆえに荘厳劫という。
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現在賢劫
現在の住劫のこと。三劫の一つ。善劫ともいう。千仏など多くの聖賢が出現して衆生を救うゆえにこのようにいう。三弥勒経疏には、「賢劫というのは五濁の盛んな世界に、千仏が出世して衆生を化導するが故に賢劫という」とある。
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未来星宿劫
未来の住劫のこと。三劫の一つ。仏祖統紀巻三十には「仏の出現があたかも天空の星座のように多いので星宿劫と名づける」とある。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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大小
大乗教と小乗教のこと。「乗」とはのせる、の義で小乗教は俱舎宗・成美宗・律宗など。阿含の四経をよりどころとして、小乗の戒律を立てる教えで、少ない範囲の人を、わずかな期間救おうというものである。大乗教とは華厳・方等・般若・法華をいい、小乗教より教えが高慢であり、多くの民衆を長い期間にわたって救おうというものである。大乗と小乗は相対的なものであり、文底下種の南無妙法蓮華経に対すれば諸教はみな小乗となる。
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権実
権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
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十方世界
「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
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微塵
微細な塵のこと。転じて数量の多いこと。
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結経
中心となる教えを述べた本経に対し、その結びとなる要旨を述べた経典。
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三種の身
法身・報身・応身を三種つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。
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方等
方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経にあたり、ここでは、法華経をさす。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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大乗経
仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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南閻浮提
須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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転輪聖王
武力を用いず、正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。身に七宝および三十二相をそなえているという。即位する時、天から輪宝を感得し、その輪宝を転じて四方を調伏することからこの名がある。感得する輪宝には金銀銅鉄の四種があり、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州をそれぞれ領するとされる。
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六欲
欲界には六重の天がある。すなわち四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天で、このうち四王天は須弥山の中腹にあり、忉利天は須弥山山頂にあるという。これを地居天また三十三天と名づけ、兜率天以上は空中にあるので、空居天と名づける。なお、欲界とは、下は地獄界から上は天上界の六欲天までのすべてを含み、食欲、性欲などの欲望の世界である。
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四禅
四禅定のこと。欲界を離れて色界の四禅天に生ずる初禅・二禅・三禅・四禅の四種類の禅定のこと。
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色界
欲界の外の浄名の世界とされ、物質だけが存在する天上界の一部をいう。これに十八天がある。
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大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahābrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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先の徳勝童子や老女が供養した対象は釈迦仏であった。いま、千日尼が供養しているのは法華経である。法華経の方が、仏よりもはるかに偉大であることを述べて、千日尼の供養の功徳が大きいことを示される段である。
ここで十方三世の諸仏を挙げておられるが、十住毘婆沙論等によって述べられたものであり、これですべてというわけでない。ここに挙げられている十方の仏は各々の世界を代表した仏であり、三世の仏も、各々の大劫に千仏も出現したことを示しているのである。つまり、空間的にはすべての世界に、時間的には永劫に仏が存在するという考え方になるのである。十方とは三次元的にすべての方向を含んでいる。すなわち全宇宙を指向していると考えてよいであろう。三世の考え方についても、それぞれの大劫のみをいうのではなく永遠を示していると考えてよい。
これらの三世十方に仏がいると説くのは、仏の教化の対象である衆生もまた同様に三世十方にわたって存在するという前提に立っていることはいうまでもない。三千大千世界という発想とともに、こうした宇宙観は実に雄大であるといえよう。しかもそれは単に広さ、大きさをいうだけではない。三世十方の仏土の存在を前提とする宇宙観は「地動説的宇宙観」とでもいうべき考え方を包摂しているということに驚きを禁じえないのである。ほとんどの宗教は、宇宙の広大さに触れることはあっても、地球、この大地というものを中心に宇宙は存在するとする天動説的発想においては一応共通している。地球のなかでも自らの存在するところが中心であるという考え方に立ち易い。もちろん仏法でも、若干、閻浮提を中心とした考え方となっているが、しかし、三世十方のすべての世界に仏が存在し、それぞれ有縁の衆生を済度すると説く普遍性は、世界宗教の名にふさわしい広さをもっているのである。
これら十方三世の仏土を貫く原理として「法華経」を挙げておられるのである。法華経=妙法蓮華経の教えは当体義抄に「因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(0513-04)とあるように、思議することのできない、最も深遠な哲理であり、これは地球に限らず、全宇宙に通ずる哲学である。この哲理を悟った人を「仏」というのである。
唯一絶対の神や仏がそのまま宇宙の創始者であり、原理そのものであるというのではない。因果俱時・不思議の一法は宇宙の存在とともに、もともとあり、それを悟った人、つまり「覚者」が仏なのである。この考え方は非常に合理的なものといえよう。ニュートンが万有引力の法則を創り出したのでもなければ、アインシュタインが相対性原理を発明したのでもない。万有引力の法則や相対性原理は、宇宙の常住の法と同じく普遍の法である。ニュートンやアインシュタインは、いわば「覚者」の一分である。
つまり仏は究極にして普遍である、因果俱時・不思議の一法たる法華経の哲理を悟ったのである。その故に「尊極の衆生」でもあるのである。キリスト教の神が人間とは全く異質の究極的存在を象徴しているのに対し、仏教の仏は人間の中の最高なるもの、すなわち最高人格を教えているのである。まことに「仏法と申すは道理」(1169-05)なのである。
阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、法華経に対すれば小乗経なり。法華経に勝れたる経なき故に一大乗経なり
大乗、小乗というのは、凡夫から仏となる道を説く教法を、乗り物にたとえて、その大小・優劣・高低等を判定するのである。小乗の阿含は仏法のうちでは最も低い教えであり、灰身滅智を究竟とする二乗の悟りを説いた経典である。二乗は利他の心を欠くゆえに権大乗の経典からは打ち破られており、厳密にいえば、阿含の教えに成仏の原理はない。しかし、阿含を縁として悟りを得る衆生のいる時代もあり、外道に対すれば大乗となる。外道は生命に内在する因果の法について、明らかに見つめていない。その故に自己変革の道も明らかではない。それに比べ、小乗教であっても、生命の因果を正しく説いている故に、相対すれば大乗となるのである。
さらに権大乗の教えは阿含に比べれば、一切衆生を対象として、利他を主として多くの衆生の救済を説き、菩薩道を教える故に大乗であるが、真実の一切衆生皆成仏道の法華経に比べれば小乗となるのである。
法華経の教理の特徴は、一切衆生皆成仏道にある。小乗では二乗の救済にとどまり、権大乗では逆に二乗不作仏と厳しく弾呵した。法華経では、仏と衆生は本来平等であり、永不成仏の二乗や悪人・女人も成仏するとして、皆成仏道の原理を示したのである。一切衆生を救済するためには、平等無差別の基盤をなす生命の根源に迫らなければならない。一部の人々を救うだけであれば、その人達に都合のよいように原理を組み立てればよい。しかし、救済の範囲を広げようとすればするほど、その原理は高度にならなければならないのである。
宗教の価値は、どれだけの人々を救済できるかにある。一部の階層、一つの時代、一定の地域のみを対象とする宗教は世界宗教としての命脈をたもち難い。法華経が一切衆生を済度することを説いているのは、その意味で最も寛容な経典であるといってよい。だが、そのためにこそ、根本原理は厳密で、高度でなくてはならない。それが「法華折伏・破権門理」である。
1316:03~1316:13第三章法華経供養の功徳を明かすtop
| 03 仏は子なり法華経は父母なり、 譬えば一人の父母に千子有りて一人の父母を讃歎すれば千子悦びをなす、 一人の 04 父母を供養すれば千子を供養するになりぬ。 -----― 仏は子である。法華経は父母である。譬えば、一人の父母に千人の子がいて、一人の父母を讃嘆すれば千人の子が悦ぶ。一人の父母を供養すれば、千人の子を供養することになる。 -----― 05 又法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、 十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故 06 なり、譬えば一の師子に百子あり・ 彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆 07 頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、 法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生 08 等の百獣に恐るる事なし、 譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、 小火 09 を衆草につきぬれば 衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、 妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆ 10 るのみならず衆罪かへりて功徳となる 毒薬変じて甘露となる是なり、 譬えば黒漆に白物を入れぬれば 白色とな 11 る、 女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物の如し 人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の 12 身重き事千引の石の如し 善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども 臨終に色変じて白色となる又軽き 13 事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し。 -----― また法華経を供養する人の功徳は、十方の仏、菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである。譬えば、一匹の師子に百匹の子がいる。その百匹の子が諸の禽獣に犯されようとするとき、一匹の師子王が吼えれば、百匹の子は力を得て、諸の禽獣は皆頭が七分にわれるのである。法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂なのである。 法華経の師子王を持つ女人は、一切の地獄、餓鬼、畜生等の百獣に恐れることはない。譬えば、女人の一生の間の罪障は諸の乾草のようなものである。法華経の妙の一字は小火のようなものである。小火を多くの草につけるならば、多くの草が焼け亡びてしまうだけでなく、大木、大石も皆焼け失せてしまう。妙の一字の智火はこのようなものである。 諸罪が消えるばかりでなく、多くの罪がかえって功徳となるのである。毒薬が変じて甘露となるとはこの事である。譬えば、漆におしろいを入れるならば、白色となる。女人の罪障は漆のようなものである。南無妙法蓮華経の文字はおしろいのようなものである。 人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは、千引の石のようなものである。善人はたとえ七尺八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛のようであり、やわらかなことは兜羅緜のようである。 |
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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白物
化粧品の一種。
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地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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千引の石
千引の岩とも書く。綱で千人がかりで引くほどの大きな岩のこと。古事記上に「爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞えて……」とある。非常に重たいもののたとえとして用いられる。
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兜羅緜
兜羅とは、梵語トゥーラ(Tūla)の音写で、綿花の意。綿糸にウサギの毛をまぜて織った織物。後には毛をまじえずに織った。ねずみ色、藤色、薄柿色などのものが多い。非常に柔らかいもののたとえとして用いられるようになった。往生要集に「微妙にして柔軟きこと、兜羅綿の如し」とある。
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法華経は一切の仏の能生の根源であるがゆえに、法華経を供養する功徳は、十方のあらゆる仏を供養する功徳に等しいことを述べられている。
妙の一字の智火以て此くの如し。諸罪消ゆるのみならず、衆罪かへりて功徳となる。毒薬変じて甘露となる是なり
法華経の変毒為薬の功徳を述べられている。法華経の結経である普賢経に「衆罪は霜露の如く、慧日は能く消除す」と、過去遠々劫からの罪障を消滅する功徳を説いている。あらゆる罪業のなかで最も重く深いものは法華誹謗である。その他の罪はこれに較べれば物の数ではない。その法華誹謗の罪を消すのは、法華経を信ずる以外にない。いわんやその他の衆罪は太陽の光にあたった霜露のように、たちまちに消すことができるのである。
法華経を信ずることによって、諸罪はたちまち消えるのみならず、かえって無量の福徳へと転ずる。「衆罪かへりて功徳となる」とはこのことである。もちろん罪がそのまま功徳となるのではない。罪障を消滅しようとして、妙法に対する信行に励むことによって、その妙法の信行が、偉大な福徳を生じていくのである。
例えば、信心が惰性に陥り、生命力が衰えて病気になったとする。それ自体は罰である。しかし病気を発心の原因として妙法を信ずる一念に立てば、その罪を消滅することができるばかりか、御本尊への信仰がますます強靭になり、最初は病気を治すのが目的であったのが、もっと大きな福運を積むことにもなる。これが変毒為薬である。
病弱な人が、病気である故に健康に留意し、病気の発生を未然に防いでいることもある。またなんらかの病気にかかった人が、その病気によって、強い抵抗力を身につけることもあろう。病気を全く知らない人が、健康に自身をもつあまり無謀なことをして死んでしまうこともある。どのような些細な日常生活においても、大なり小なり変毒為薬に通じる現象はあるものである。
そのときに大切なのは、そうした「毒」あるいは「衆罪」を「薬」「功徳」に変えていこうとする姿勢である。衆罪を悲しみ、毒を恨んでいる間は、ますます苦しむばかりである。自ら受けた宿命をどう捉え、それにどう取り組むかという人生の態度が、変毒為薬を成し遂げられるかどうかの一つの鍵となる。これが仏法を信仰する人の場合、信力、行力が大事とされるゆえんである。
もちろん、いくら信力、行力が強盛であっても、治療法が間違っていたり、薬が誤っていれば病気は治らない。生命力を衰えさせる宗教を信じても変毒為薬はできない。一往、釈尊の教法でいえば法華経が生命力を涌現させる哲理であり、再往、末法今時においては日蓮大聖人の三大秘法の御本尊以外に真の良薬はない。これが仏力、法力である。
しかし、この仏力、法力と、信ずる衆生の信行の力とがあいまってこそ、変毒為薬が可能になることを知らなければならないであろう。
臨終について
阿仏房はすでに高齢に達し妻の千日尼も老境に達していたであろうところから、臨終のことに触れられ、法華経への信仰を更に進めるように教えられている。
仏法においては三世にわたる生命の因果を説いている。生命は今世限りで終わるものではなく、中有を経て来世に引き継がれるものとした。人生がゼロから始まるとすれば、生まれながらの差のあることは、不合理という以外にない。また生前の行為が死とともに終わるのであれば、いかなる欲望を押える必要もなくなるであろう。仏法ではそれらの業はそのまま来世に引き継がれ、断絶はないとする。したがって臨終の姿は来たるべき生の暗示でもある。苦悶に沈みつつ臨終を迎えた生命は地獄に堕ちることが疑いないとされ、安らかな臨終は仏の住む国土に生ずる相であると考えたのである。
もちろん、それを客観的、科学的に証明することはできない。ただ三世を一貫する因果の考え方から演繹して臨終を捉え、また一般に生命現象を捉えることが、仏法の思惟の対象が生命であるからには最も理にかなっていると確信されるのである。
しかし、ともあれ、人間の一生において幸不幸の最終決定は臨終の瞬間になされることは、まぎれもない事実である。若い時はいかに栄耀栄華を誇ろうが、人生の最終章において、空しさと、無念さに包まれて死んでいくとすれば、これほどの不幸もないであろう。人生の途中であれば、やり直しもきく。しかし、やり直しのきかないゴールにきてから悔い、あがき、苦しむことほど悲惨なことはないであろう。
臨終の際にあって、恐怖に脅え、苦しみに体を硬直させて死んでいく姿は、まさに堕地獄以外の何物でもない。その人の生命は底知れぬ暗黒の淵に沈む重さを感ぜずにはいられないはずである。「臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し」と表現されているのは、そうした生命状態をいわれたものと考えられる。
それに対し法華経を持つ人が「臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅緜の如し」とあるのは、平安な臨終の生命である。
人生の願業を成し遂げ、懸命に我が人生を進み、後悔なく人生を終える姿、また次の人生へ向かう生命は、明澄な平安さと、上方に浮かんでいくような軽さを覚えるにちがいない。臨終を正念で終える人生は、最高の幸福な境涯であるといっても過言ではあるまい。
1316:14~1317:03第四章千日尼の信心を賞讃するtop
| 14 佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として 法華経を志しましますによりて年年 15 に夫を御使として御訪いあり 定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・ 其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万 16 由旬なれども 大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども 打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にを 17 はせども心は此の国に来れり、 仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、 御面を見て 18 はなにかせん心こそ大切に候へ、 いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、 南無妙法蓮華 1317 01 経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。 02 弘安元年後十月十九日 日 蓮 花 押 03 千日尼御前御返事 -----― 佐渡の国からこの国までは、山海を隔てて千里に及ぶのに、女人の御身として法華経を信仰していらっしゃるゆえに、年々に夫をお使いとしてお訪ね下さっている。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏が、そのお心をよくご存知であろう。譬えば、天月は四万由旬も離れているけれども、大地の池には即座に影が浮かび、雷門の鼓は千万里の遠くにあっても、打てば即座に聞こえる。あなたは佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来られている。 仏に成る道もこのようなものである。我等は穢土に住してはいるが、心は霊山浄土に住んでいるのである。お顔を見たからといってなにになろう。心こそ大切である。いつかいつか、釈迦仏のいらっしゃる霊山浄土に参りお会いしよう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。 弘安元年後十月十九日 日 蓮 花 押 千日尼御前御返事 |
法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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雷門の鼓
雷門にあった太鼓のこと。雷門は、中国浙江省紹興県にあった会稽城の門のこと。周囲二丈八尺あり、この鼓をたたくと、遠く洛陽まで聞こえたという。
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雷門の鼓
雷門にあった太鼓のこと。雷門は、中国浙江省紹興県にあった会稽城の門のこと。周囲二丈八尺あり、この鼓をたたくと、遠く洛陽まで聞こえたという。
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穢土
けがれた国土のこと。浄土に対する語。煩悩と苦しみの充満する世界をいう。爾前迹門の諸経では、凡夫の住む娑婆世界を穢土とし、十方の国土に諸仏の浄土があり、そこに往生することを説いた。しかし法華経本門では、娑婆即寂光を明かし、この人間世界こそ仏の本国土であると説いた。
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霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、「御義口伝」(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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後十月
当時、太陰太陽暦が使用され、太陽暦より一年の日数が少ないため、そのずれを埋めるため、適時、閏月が設けられた。「後十月」はその閏月である。
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千日尼の厚い信心、老いた夫・阿仏房をはるばる佐渡から身延へ送り出した真心を心から讃えられている。千日尼自身の姿こそ見えないが、心は来られているのと同じだとのお言葉に、千日尼の感激はいかばかりであったろうかと思われる。
我等は穢土に候へども心は霊山に住べし
信心の真心こそ大切であることを教えられているところである。人間の幸不幸は、環境に左右されることはもちろんだが、より根本的には、その人の主体的な姿勢、境涯によることはいうまでもない。いくら豪華な家に住み、人々から尊敬されるような地位を得ていても、どうしようもない内面の苦しみ、葛藤、また病気等に悩む人がいる。逆に、世間からは貧しくみえても健康で人生に希望を抱きつつ生きる人もいる。このどちらが人間として真に幸福かは、あえていうまでもなかろう。
もちろん、幸福や不幸は心の問題だと安易にいうのではない。現実の生活を変革できないで精神の平安のみを訴えても、それは単なる逃避にすぎないであろう。
ただ、与えられた環境にどう取り組むかによって、人生が大きく変わってくることも事実である。大切なことは客観的条件ではなく、そこに取り組んでいく生き方である。それは、言い換えれば「価値創造」の問題でもある。環境の変革に努力するのは当然として、その環境のなかにあってどのように価値を創造していくかの智恵をもつことが、幸福を獲得する大きな要素になるのである。
大聖人が鎌倉に帰られてからは、阿仏房夫妻は大聖人のおそばにいることのできない寂しさをかみしめていたことであろう。阿仏房はまだ大聖人にお会いしているが、千日尼はそれこそ大聖人に二度と会えない状況であった。その心を察せられて、穢土と考えるのでなく、共に浄土に住んでいるのだと知っていきなさいと教えられているのである。「御面を見てはなにかせん」の言葉のなかに、大聖人にお会いしたいであろう千日尼の胸中を推察されて、会わなくても心が通い合っているのだという大聖人の温かい心が込められているのである。
阿仏房も千日尼も、老境に入った人である。その阿仏房になおかつ、北国の導師たれと激励されて、阿仏房夫妻に希望を与え、建設の息吹きに満ちた人生を全うすることを願われているのである。
穢土を穢土とみている間は、それに対する恨みや諦めが先に立って建設はなされない。それを霊山浄土であると確信することから建設がなされるのである。まさに境涯を高めるということは、価値創造し、人生を切り開くためのエネルギーでもあるといえよう。
1315~1317 千日尼御前御返事(雷門鼓御書)2007:09月号大白蓮華より。先生の講義top
「心こそ大切」師弟不二の心の絆をどこまでも強く
講義にあたって
「逆境に在つては當に斯く叫ばねばならぬ、『希望!希望!希望!』と。
フランスの文豪ユゴーは、亡命の地から、圧政に苦しむ民衆に向かって呼びかけました。いかなる逆境にあっても、希望がある限り、破れることは断じてありません。希望ある限り、人間は前進し続けることが可能なのです。
日蓮大聖人の仏法は「希望の宗教」です。
あらゆる苦難を乗り越え、いかなる障魔も打ち砕いていく無限の力が、わが胸中にあることを洞察した「大哲学」でります。そして、その無限の力を一人の人間が現していく「実践の実証」を明らかにされています。それゆえに、万人の胸中に「希望」を絶えず生み出しゆける力強い宗教なのです。
この希望の哲学と実践と実証が余すところなく示されているのが「御書」にほかなりません。
御書は、私たちに、無限の勇気と希望を湧き上があせてくれる光源です。大聖人が命に及ぶ大闘争の中で、門下のため、全人類のために、綴り残してくださった「希望の経典」です。
恩師・戸田先生は言われました。
「大聖人は、大病大難をうけられながら、我々に、自分の運命をそこから切り開いていけ!と、教えてくださっているのです。ありがたいことだ。わたしもその命がけの教育を、大聖人から受けてきました」
蓮祖の魂がほとばしるこの御書を、私たちは一行でも二行でも身をもって拝読してまいりたい。「御書根本」「実践の教学」こそ創価学会の伝統です。
栄光の創立80周年へ向けて、今再び、御本仏の大生命を律動を拝する思いで、毎月一編、御消息を中心に御書を学んでいきましょう。第1回は、千日尼御前御返事を拝します。
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「心こそ大切なれ」仏法の師弟における最強の絆は「心」です。妙法流布を志した師弟の心と心は、いかなる距離も乗り越え、天に月が現れれば直ちに池に影を浮かべるように瞬時に通じ合っていきます。
この「千日尼御前御返事」は、遠く離れた師と弟子による心と心の交流のドラマを凝縮した、一幅の名画のようなお手紙です。
本抄は弘安元年(1278)閏10月19日、大聖人が57歳の御時、身延の地から、はるか山海を隔てた佐渡の地に住む千日尼へ送られました。
千日尼は、夫・阿仏房とともに、流罪中の大聖人に帰依し、命をかけて大聖人をお守りした純真な門下です。
大聖人が身延に入山された後も、尊き使命を託されて佐渡の広宣流布の中心者として夫婦として活躍しました。夫の阿仏房は、亡くなるまでの数年の間にすくなくとも3回、高齢を押し、長く危険な道を踏み越えて、大聖人のもとへ訪れております。
この弘安元年(1278)の夏にも、阿仏房は大聖人を求める求道の旅をしました。その年の初冬、千日尼からの真心の御供養が大聖人のもとに届きます。その御返事として認められた本抄では、毎年のように阿仏房を送り出してきた千日尼の変わらぬ真心を賞讃されました。
“あなたは獅子王の経典を持つ女性ですから、何も恐れる必要はありません。あなたの真心は、釈迦仏・多宝如来・三世十方の諸仏が、必ずご存じのことでしょう”と最大の激励をなされております。
心から師を求める信心、そして弟子を根底から励ます師の慈愛、この師弟一体の妙なる心が響きわたる御消息文が本抄です。
| 05 又法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、 十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故 06 なり、譬えば一の師子に百子あり・ 彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆 07 頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、 法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生 08 等の百獣に恐るる事なし、 -----― また法華経を供養する人の功徳は、十方の仏・菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである。譬えば、一匹の師子に百匹の子がいる。その百匹の子が諸の禽獣に犯されようとするとき、一匹の師子王が吼えれば百匹の子は力を得て、諸の禽獣は皆頭が七分にわれるのである。法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂なのである。 法華経の師子王を持つ女人は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐れることはない。 |
法華経供養に無限の功徳
法華経を供養する功徳は無限です。その功徳力によって、いかなる障魔も打ち下すことができる。そして、その確信が人生の根幹にあれば、これほど強いものはありません。
法華経は三世十方の諸仏の成仏の根源です。無限の過去から無限の未来にわたり、この宇宙には無数の仏が出現するとされます。その全ての仏は、例外なく、法華経を師として成仏するのです。それゆえに、法華経を供養するということは、あらゆる仏を供養したことに等しいのです。その功徳が無限でないわけではありません。
本抄の前半では、仏典に説かれる十方の仏の名を一つ一つ挙げています。またさらに、過去荘厳劫、現在賢劫、未来星宿劫にそれぞれ千仏が出現するとの仏典の説も示されております。十方という壮大な空間、過去・現在・未来にわたる長遠な時間、そして無数の仏・菩薩の存在。なぜ、このような壮大な宇宙観を大聖人が展開されているのでしようか。
当時の世界観から言えば、辺土のわずかな小島に過ぎない日本、そのまた北辺の離島である佐渡に住む、無名にして、年老いた一人の庶民の女性が千日尼でした。しかし、広宣流布の師匠を護り抜かんとする、その心は、どれほど偉大であるか。どれほど崇高に輝きわたっているか。大聖人は、この千日尼の宇宙大の福徳を讃えてられるのではないでしょうか。
法華経に供養することは、同時に十方の仏・菩薩が、あなたを守ります。何の心配もいりません。永遠にして宇宙大の境涯を悠々と満喫していけるのです!と。
「妙の一字」の功徳 妙の三義
御文では、「十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり」と仰せです。「妙の一字」とは、妙法の「妙」の字であり、南無妙法蓮華経の「妙」の字です。
法華経28品にはさまざまな法理が説かれていますが、結局のところ、全ては、この「妙」を体得した人が仏になるのです。ゆえに、法華経があらゆる仏の師なのです。
大聖人が末法の衆生のためにあらわされ、弘められた三大秘法の南無妙法蓮華経は、まさに万人に、この「妙」の力を会得させる大法なのです。
大聖人は「法華経題目抄」で、「開の義」「具足円満の義」「蘇生の義」の、いわゆる「妙の三義」を説かれています。
① 妙と申す事は開と云う事なり」(0943-13)法華経は諸経の蔵を開く鍵であり、この法華経によってこそ諸経が秘めた財を生かすことができる。
② 妙とは具の義なり具とは円満の義なり」(0944-06)芥子粒のように小さい如意宝珠から一切の宝が現われるように、また、太陽の光によってあらゆる草花が開花するように、法華経の一つの文字にはあらゆる法と功徳が具わっている。
③ 妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(0947-02)それまで成仏できないとされてきた、いかなる衆生も蘇生させ、必ず成仏させることができる。
妙法は万法を具した根源的にして円満な法であり、すべてのものの本来の価値を開く力がある、ゆえにいかに往き詰まった境遇にある人をも蘇生させ、成仏させていく力がある、のです。
私たちは南無妙法蓮華経の題目を自行化他にわたって唱えることで、この「妙の一字」の力を自身の胸中に具体的に現すことができます。なんと素晴らしい仏法でしょうか。
この「妙の一字」を体得するために、自分自身の仏道修行があります。広宣流布の活動も、その一点にあります。
戸田先生は詠まれました。
正法の
広布の時ぞ
きたりける
妙の一字に
命まかせて
広宣流布へ不惜身命の覚悟で進むとき、私たちは「妙の一字」の功徳を、全生命で受けきっていくことができるのです。
「法華経の師子王を持つ女人」
本抄は短いお手紙ですが、その中で「譬えば」という表現が5回も繰り返されます。仏法の法理を、少しでもわかりやすくとの深い御慈愛を拝することができます。
「譬えば一の師子に百子あり」と始まる譬喩では、法華経供養の無限の功徳はどのように現れるかを教えられています。ここでは、「妙の一字」の無限の力をもつ法華経を「師子王」に譬えられています。また、法華経を持ち、供養する人を「師子の子」に譬えられています。そして、地獄・餓鬼・畜生等の不幸の生命を「禽獣」に譬えられています。
いかなる禽獣が襲いかかろうとも、師子王が吼えれば、百匹の子は勇気を奮い起こし、禽獣を打ち破ることができる。同じように、法華経を供養する人は「妙の一字」の無限の力を得て、地獄・餓鬼・畜生等の不幸の生命を打ち破っていけるのです。
法華経は「師子王の経典」です。それゆえに大聖人は千日尼に対して「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐れることはない」と激励されているのです。
ここで「女人」と仰せです。男性中心の武家社会にあった当時の女性は、一般に弱い立場にあった。
佐渡の信仰の中心者であった千日尼には、病気や老いや家族の問題などで苦しむ女性たちの声が届いていたこともあるでしょう。それを大聖人に御相談申しあげたとも推察されます。
あるいは大聖人は、千日尼の何らかの心の揺らぎを察知したのかもしれません。いずれにしても、師子王の経典である法華経を持つ女性は何も恐れる必要はないと、千日尼を包み込むように励まされているのです。
また、この励ましは、むしろ女性の信仰の強さを端的に表現されている一節として拝することもできます。すなわち、いざという時、自分にこだわりがちな男性よりも、女性のほうが師の教えの通りに妙法の無限の力を発揮できるのではないでしょうか。その信の力が「何も恐れず、何も迷わず」との信仰の真髄の境地をもたらすのです。この境地を得た女性は、もはや、いかなる魔性にも食い破られることはありません。
信心深き女性には、正邪を瞬時に見抜く智慧があります。三毒を押し流す根本の勇気を持っています。万物を育む慈悲の一念が具わっています。その智慧と勇気と慈悲が一体となった決定したこころが、妙法を悟った師の姿に触発されて現われてくるのです。その女性の生命は、いかなる魔の蠢動にも紛動されることは断じてありません。
戸田先生は「広宣流布の実現が、なるもならぬも、女性の働きで決まるんだよ」と、常に語っておられた。
「歓喜の中の大歓喜」を知った女性にとって、妨げるものは何もありません。そのように蘇った女性の姿は、今度は、多くの友の心を触発していける最大の力になるのです。
| 08 譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火 09 を衆草につきぬれば 衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、 妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆ 10 るのみならず衆罪かへりて功徳となる 毒薬変じて甘露となる是なり、 譬えば黒漆に白物を入れぬれば 白色とな 11 る、 女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物の如し 人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の 12 身重き事千引の石の如し 善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども 臨終に色変じて白色となる又軽き 13 事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し。 -----― 譬えば女人の一生の間の罪障は諸の乾草のようなものである。法華経の妙の一字は小火のようなものである。小火を多くの草につけるならば、多くの草が焼け亡びてしまうだけでなく、大木・大石も皆焼け失せてしまう。妙の一字の智火はこのようなものである。 諸罪が消えるばかりでなく、多くの罪がかえって功徳となるのである。毒薬が変じて甘露となるとはこの事である。譬えば、漆におしろいを入れるならば、白色となる。女人の罪障は漆のようなものでる。南無妙法蓮華経の文字はおしろいのようなものである。 人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは千引の石のようなものである。善人はたとえ七尺・八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛のようであり、やわらかなことは兜羅緜のようである。 |
一切を変毒為薬する妙法の力用
千日尼への励ましが続きます。妙法には、一切の罪、一切の不幸を「変毒為薬」する力があることをやはり譬えをもって示されています。
ここでは、一人の人が一生に犯す罪を「枯れ草」の多さに譬えられています。また、その多くの罪を一挙に消すことのできる「妙の一字」の力を「小さな火」に譬えています。わずかの一字でも、一生の間の多くの罪を全部消滅していける偉大な力有があることを示されているのです。それはど偉大な力用があることを示されているのです。だから安心して人生をわたっていけるのです。
ここで、多くの草で譬えられている一生の罪とは、日常の悩みや苦しみを指すものと拝することができます。日々、悩みと戦い、過ちなく生きていくために、題目を唱えて祈りきっていく、その確たる生き方があれば、いかなる苦境に陥っても、また、どんな難問に直面しても、あたかも、小さな火が次から次へと枯れ草を燃やし尽くしていくように、一切の悩みや不安や過ちが燃え尽きていくのです。
しかも、多くの枯れ草が燃えれば、大木や大石まで焼く尽くすことができりと仰せです。すなわち、日常の悩みを自行化他の唱題の火で解決していく信心の挑戦をやめなければ、いつしか根深い宿業も燃え尽き、不幸の根源である元品の無明も砕け散っていくのです。そこに、宿命転換・一生成仏という功徳の大輪の花が咲き薫ることは間違いありません。
本抄で「諸罪消ゆるのみならず衆罪かえりて功徳となる。毒薬変じて甘露となる是なり」と仰せのとおりです。
竜樹は、法華経の「妙の一字」の力について「変毒為薬」の徳であると釈しています。三道を三徳へと転ずることができる。すなわち、凡夫がその姿のままで成仏できる「即身成仏」の法門です。
更に、一人の宿命転換は、全人類の宿命転換の道を開きます。創価の婦人部、女子部こそは、その革命的なトップランナーです。
アメリカ・ルネサンスの旗手ホイットマンは、民主主義の発展を論ずるなかで、女性の活躍に大いに期待を寄せたひとりでした。「とにかく、まず人間として、いろんな分野において偉大なのだ」
さらに彼は「実に偉大も偉大、まったく、女性自身が考えるよりはるかに為大であるのが、女性の世界なのだ」と謳っております。
いわんや「法華経の師子王」を持った女性の活躍が、どれほど大きく世界を変えていくのか、創価の女性のスクラムは、その重大な使命を果たしゆく、世界の宝の存在なのです。
臨終正念こそが成仏の証
「譬え」は更に続きます。黒い漆に白物を入れては、黒い漆が白い色になるように、妙法は、いかなる罪障も消していける力を持ちます。その証として、地獄に堕ちる者と対比する形で、妙法を持った善人の臨終の相に触れられています。
ここに「臨終の相」について述べられている有名な御文があります。一言、「臨終」について大切な点を確認しておきたい。
それは、本抄で「白色となる」「体が鵞鳥の羽毛のように軽い」等と、臨終時の相に言及されていますが、臨終において大切なのは、あくまでも「臨終正念」という心の次元であるということです。
例えば、肌の色といっても、もともと個人差もあり、成仏したかどうかとの絶対的な基準には決してなりうるものではない。
ゆえに表相の姿に一喜一憂することはありません。
同志の唱題に包まれて、次の新しい生へと出発していく清々しい表情、何ともいえない穏やかさのなかに、明るく、光がさしたような優しい表情、見ている人の心を鼓舞するような、崇高な使命の勝鬨を感じさせる表情、そうした表情に表れた「内面の輝き」を「白色」と仰せられていると拝されます。
若くして旅立たれる方もいます。不慮の事故で亡くなられる場合もある。長い闘病生活の末に亡くなられる方もいる。
しかし、いかなる場合であれ、何も嘆くことはありません。大切なのはどこまでも「心」です。「信心」を最後まで貫いたかどうかです。御書にも涅槃経を引かれて「悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る能わず」(0065-16)と説かれております。悪象等とは、今でいえば交通事故などです。経緯はさまざまでも、妙法に深く縁をし、使命を果たしきった方の臨終は、必ず荘厳な「内面の輝き」に包まれている。絶対に心配ない。不思議な因果の姿です。どこまでも「心こそ大切」なのです。
| 14 佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として 法華経を志しましますによりて年年 15 に夫を御使として御訪いあり 定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・ 其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万 16 由旬なれども 大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども 打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にを 17 はせども心は此の国に来れり、 仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、 御面を見て 18 はなにかせん心こそ大切に候へ、 いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、 -----― 佐渡の国からこの国までは、山海を隔てて千里に及ぶのに、女人の御身として法華経を信仰していらっしゃるゆえに、年々に夫をお使いとして訪ねてくださっている。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏が、そのお心をよくご存知であろう。譬えば、天月は四万由旬離れているけれども、大地の池には即座に影が浮かび、雷門の鼓は千万里の遠くにあっても打てば即座に聞こえる。あなたは佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来られている。 仏に成る道もこのようなものである。我等は穢土に住いてはいるが、心は霊山浄土に住んでいるのである。お顔をみたからとってなににあろう。心こそ大切である。いつかいつか、釈迦仏のいらっしゃる霊山浄土に参りお会いしましょう。 |
信心の一念は距離を越える
「御身は佐後の国にをはせども心は此の国に来れり」“あなたの身は、山海を遠く隔てた一歩も外にはでられなくても、あなたの心は、間違いなく私のところに来ていますよ”と仰せです。
千日尼には、“もう一生涯、大聖人にはお会いすることはできない”という、どこか寂しい気持ちが心の底にあったのでしょう。あるいは、それを大聖人が見抜かれたのかもしれません。しかし、仏法に感傷はない。信心の「一念」は瞬時に距離を越えます。“心は私と一緒にたたかっているではないか”との励ましが、千日尼にどれはどの勇気と希望を与えたかは想像にかたくありません。
「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」“私たちの住む娑婆世界は、穢土すなわち汚れた国土であっても、正法を持った私たちの心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるのです”と仰せです。
仏に成ったからといって、悩みがなくなるわけではありません。穢土を避けることもできません。しかし、ありのままの人間でありながら、その胸中に崩れざる絶対的な「幸福境涯」を築くならば、不幸に泣くことは断じてありません。
「心は霊山に住べし」とは、いかなる環境や悩みにも振り回されない尊極な仏の生命を、私たちの胸中にも湧現することができると教えられているのです。
「御面を見てはなにかせん」とおおせのように、信心は、会えるか会えないかというような形式では決まりません。「心こそ大切なれ」です。そして、その「心」は必ず行動に現れる。千日尼の真心の場合は、毎年のように、夫を大聖人のもとへ送り出すという行動として現われたのです。そこに千日尼の変わらぬ志が現われているのです。「そのお心こそが成仏の道ですよ」「私には、あなたの真心が十分わかりますよ」との呼びかけが「心こそ大切に候へ」との仰せに結晶しているのです。
仏法の師弟の絆は三世永遠
大聖人の最後は「いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん」と仰せです。必ず一生成仏を遂げて、霊山浄土で師にあうことができるとの御断言です。仏法の師弟の絆は三世永遠なのです。
阿仏房・千日尼夫妻は「師を求め抜く心」を示してくれました。その「心」は、子にも継承され、子息の藤九郎守綱は、阿仏房の跡を継いで法華経の行者となり、大聖人のもとへ訪れます。大聖人御在世の師弟不二の信心の模範です。
かつて私は、学生部の皆さんとの懇談のなかで、「師弟不二」についての質問に対して、こうお答えしたことがあります。
「自分の中に、師をたもって自立するとうことです。私の中に戸田先生がいる。口でいうべきではなく、心の問題です。『不二』というのは、自分の心の中にあるからです」
私は、いついかなる時も、どこにいても、常に戸田先生と対話しながら戦っています。
「不二」は、自分の中にあるのです。不二の師弟は、距離を超え時間を超えます。「師弟の心」は、永遠に共戦の歴史を綴っていきます。
この「心こそ大切」の大哲学を掲げて、広宣流布の連続闘争に前進していきましょう。
1317~1317 阿仏房御返事top
| 阿仏房御返事 01 御状の旨.委細承り候い了んぬ、大覚世尊説いて曰く「生老病死.生住異滅」等云云、既に生を受けて齢六旬に及 02 ぶ老又疑い無し只残る所は病死の二句なるのみ、 然るに正月より今月六月一日に至り 連連此の病息むこと無し死 03 ぬる事疑い無き者か、 経に云く「生滅滅已・寂滅為楽」云云、 今は毒身を棄てて後に金身を受ければ豈歎くべけ 04 んや。 05 建治三年丁丑六月三日 日 蓮 花 押 06 阿仏房 -----― お手紙の旨をくわしく承りました。大覚世尊は「生老病死.生住異滅」等と説かれている。日蓮も既に生を受けて六十歳になる。老いていることもまた疑いない。ただ残るところは病と死の二句のみである。 ところが正月から今月、六月一日にいたるまで、ずっとこの病が癒えることがない。死ぬことも疑いないといえよう。涅槃経には「生滅滅已・寂滅為楽」とある。今は三毒におおわれた凡身を捨棄して、後生には金剛不壊の仏身を受けるのであるから、どうして嘆くことがあろうか。 建治三年丁丑六月三日 日 蓮 花 押 阿仏房 |
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
生老病死
四苦八苦のうちの四苦。世間における生・老・病・死の苦悩のこと。①生苦は、母の胎内に宿る初めより出胎に至るまでに受ける種種の苦痛②老苦は、年老いて、身・心共に勢力が衰えていく苦悩③病苦は、四大不調のために身・心に受ける苦悩④死苦は、病疾・水疾・火疾など中夭、あるいは寿命尽きて死するときの苦痛。
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生住異滅
四有為相・四相ともいう。一切の現象は生じ=生、存続し=住、変化し=異、消滅する=滅。人間の一生にあてはめた「一期四相」および瞬間の事象における消滅の過程をあらわす。「刹那四相」などのとらえ方がある。大乗・小乗などの別によって諸説がある。
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六旬
①60日。②60年。60回。句(旬)は10を指す単位。(一か月30日を10単位で上旬・中旬・下旬というようなもの)。
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生滅滅已・寂滅為楽
涅槃経聖行品の文。「生滅を滅し已って寂滅を楽と為す」と読む。雪山童子が聞いた後の半偈。煩悩を断ずるところに悟りがあるとの意。生滅は生死の煩悩、滅已は煩悩を断ずること、寂滅は涅槃、為楽は悟り、を意味する。
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毒身
貧・瞋・癡の三毒に支配されている凡夫の身のこと。
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金身
金剛不壊の仏身のこと。金剛石のように堅固で、いかなる煩悩や迷いにも犯されない身をいう。
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本抄は短い御消息文であるが、日蓮大聖人の健康を心配する阿仏房と、病床にあっても弟子檀那への心配りを忘れない大聖人との、美しい交流がうかがわれるお手紙である。
「御状の旨委細承り候い了んぬ」とあるところから、阿仏房の便りに対する返書であろう。それも、文中、大聖人の病気に触れられているところから、大聖人の病を伝え聞いた阿仏房が、お見舞いの手紙をだしたものと推察される。本抄の系年については種々の説があるが、他の御書に触れられたものがあるので、それによって推定できる。
「日蓮下痢去年十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す」(1179-11)(弘安元年6月作)
「去年の十二月の卅日より・はらのけの候しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候」(1099-03)(弘安元年11月作)
この御文からすると、弘安元年(1278)の作とするのが妥当のように思われる本抄に「齢六旬に及ぶ」とあるのは、弘安元年だと57歳であるが、既数をいわれたものであろう。
ところで前掲の二つの御文からもわかるように、本抄を認められた6月3日は、大聖人の御病状はかなり重かったと思われる。本抄が短いことからも、大変ななかで執筆されたらしいことが察せられる。
このお手紙を受け取った阿仏房・千日尼夫妻も、大聖人の身の上を心配して、阿仏房がすぐさま高齢の身で身延を訪ねている。
「弘安元年太歳戊寅七月六日・佐渡の国より千日尼と申す人、同じく日本国甲州・波木井郷の身延山と申す深山へ同じき夫の阿仏房を使として送り給う」(1309-01)
日付から考えると、おそらく、6月3日にお手紙を受け取り、とるものもとりあえず佐渡を発ったのであろう。大聖人と阿仏房夫妻との間に通う心の交流の厚さが偲ばれるのである。
経に云く「生滅滅已・寂滅為楽」云云、今は毒身を棄てて後に金身を受ければ豈歎くべけんや
雪山童子がこの半偈のために身を投げたという涅槃経の有名な経文を引用されている。内容は諸行を無常ととらえ、無常の生滅を滅しおわって涅槃の境地を得られるとするものである。
あらゆる存在は常住ではない。したがって、それらを実有と考えて執着すると、真実を見失うことになってしまう。有為転変の「生滅」を滅してこそ永遠に平安な境地が得られるとするのがこの考え方である。確かに、無常のものを常住と執着するところから不幸が起こるのも一面の真理である。富や地位・権力、また愛・若さ、そうしたものをいつまでも保ちたいと考え、執着することによって、さまざまな葛藤が起こる。諸行を無常と悟ることから、人間としての生き方が始められなければならない。しかしこの生き方は、なお小乗的諦観の域を出ない。その意味ではさらに「生滅」という事実を明らかにしてみる必要があろう。
まさしく「生滅」おなかに生きるのが我々の人生である。「生滅」の事実は、滅することのできるものではない。小乗教がその究極で心身都滅の無余涅槃に入ろうとしたことは、人間として生きようとしながら人間であることを自ら否定せざるをえない結果に陥ったことを示している。その場合、「生滅滅已」とは、この現実からの脱却をいうのであろう。
これに対して「寂滅」、すなわち涅槃は、本来、現実から離れたところにあるのではない。日々の生活のなかに、煩悩にまみれた人生のなかに、真実の悟りもあるとするのが法華経の考え方である。普賢経に「五濁を離れず」とあるのがそれである。
生滅を断滅して寂滅があるのではない。生滅を生滅と明らかに見つめながら、それを常楽と変えていくのである。それが真実の「寂滅為楽」であろう。
大聖人はここで引用されているのは、今生の色心を否定するという意味ではない。胃腸を悪くされ、体力も衰えてやがては、迫りくる死を覚悟しなければならない状況であったと思われるが、永遠の生命を覚知されている故に、生命を今生限りのものと感える「生滅」の考え方を滅しおわっておられたのである。「毒身」とは今生の生命、「金身」とは絶対の幸福に立つ永遠の生命である。肉体的には苦の連続であったかもしれない。しかし、仏界に生きる喜びの故に「寂滅為楽」であった。事実、このほぼ一年間にわたったと思われる大病を克服され、翌弘安2年(1279)に一閻浮提総与の大御本尊を顕して出世の本懐を遂げられて人生の最終章を飾られたのである。
こうした指導をされたのは、阿仏房も高齢であり、御自身の境涯を披瀝しながら、阿仏房にもこの信心に立つことを教えようとされたものであろう。(阿仏房は弘安2年(1279)に亡くなっている)。
1318~1322 千日尼御返事(孝子財御書)top
1318:01~1319:01第一章法華経読誦の真意を説くtop
| 千日尼御返事 弘安三年七月二日 五十九歳御作 与阿仏房尼 02 こう入道殿の尼ごぜん 03 の事なげき入つて候、(以降・追伸第八章) -----― 国府入道殿の尼御前のこと、嘆き入っています。また、恋しく恋しく思っていると伝えてください。 -----― 06 鵞目一貫五百文のりわかめほしいしなじなの物給び候い了んぬ、法華経の御宝前に申し上げて候、 法華経に云 07 く「若し法を聞く者有らば 一として成仏せざること無し」云云、 文字は十字にて候へども法華経を一句よみまい 08 らせ候へば・ 釈迦如来の一代聖教をのこりなく読むにて候なるぞ、 故に妙楽大師の云く「若し法華を弘むるは凡 09 そ一義を消するも皆一代を混じて 其の始末を窮めよ」等云云、 始と申すは華厳経・末と申すは涅槃経華厳経と申 10 すは仏・最初成道の時・法慧・功徳林等の大菩薩・解脱月菩薩と申す菩薩の請に趣いて仏前にてとかれて候、其の経 11 は天竺・竜宮城・兜率天等は知らず日本国にわたりて候は六十巻・八十巻・四十巻候、末と申すは大涅槃経・此れも 12 月氏・竜宮等は知らず我が朝には四十巻.三十六巻・六巻・二巻等なり、此れより外の阿含経.方等経・般若経等は五 13 千・七千余巻なり、此れ等の経経は見ず・ きかず候へども但法華経の一字・一句よみ候へば彼れ彼れの経経を一字 14 も.をとさず・よむにて候なるぞ、譬へば月氏日本と申すは二字・二字に五天竺.十六の大国・五百の中国・十千の小 15 国.無量の粟散国の大地.大山・草木・人畜等をさまれるがごとし、譬へば鏡はわづかに一寸,二寸・三寸・四寸.五寸 16 と候へども・一尺五尺の人をもうかべ・一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつすがごとし。 -----― 銭一貫五百文、海苔、わかめ、干飯、品々の御供養の物を確かにいただきました。法華経の御宝前に申し上げました。 法華経方便品第二に「若し法を聞く者があるならば、一人として成仏しないものはないとある。文字は十字であるが、法華経は一句読んだだけでも、釈迦如来の一代聖教を残りなく読むことになるのである。ゆえに妙楽大師は法華玄義釈籖第三に「若し法華経を弘めるには、およそ一義を解釈するにも、皆、一代聖教を引き合わせて、その始末を窮めなければならない」と述べている。 ここで始というのは華厳経、末というのは涅槃経である。華厳経というのは釈迦が最初に成道した時、法慧・功徳林等の大菩薩が解脱月菩薩という菩薩の請いに応じて、仏前において説かれた経である。その経はインド、竜宮城、兜率天等でどうであるかは知らないが、日本に伝わったのは、六十巻、八十巻、四十巻の三種類である。 末というのは大涅槃経である。これもインド、竜宮等はともかく、わが国には、四十巻、三十六巻、六巻、二巻等の種類がある。これよりほかの阿含経、方等経、般若経等は五千・七千余巻である。これらの経々は見なくても、聞かなくても、ただ法華経の一字一句を読むならば、それらの経々を一字も落とさず読むことになるのである。 譬えば、月氏・日本というのは二字である。この二字のなかに、五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等がおさまっているようなものである。また譬えば、鏡はわずか一寸・二寸・三寸・四寸・五寸であっても、一尺・五尺の人をも映し、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をも映すようなものである。 -----― 1319 01 されば此の経文をよみて見候へば此の経をきく人は一人もかけず仏になると申す文なり、 ・ -----― それゆえ、この方便品の経文を読んでみると、この法華経を聞く人は、一人も欠けることなく仏になるという文なのである。 |
こう入道殿の尼ごぜん
日蓮大聖人御在世当時の信徒。佐渡国・国府入道の妻。大聖人が佐渡流罪中に弟子となり、夫婦そろって種々のご供養をし、外護の任を果たした。大聖人身延入山後も、その夫を何度か身延まで送り出している。
―――
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。普段は銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目は、当時流通していた通貨に、鵞鳥の目のような穴があいていたところから、こう呼ばれた。
―――
ほしい
干飯のこと。一度炊いて乾燥させた飯のこと。貯蔵用の食糧で、水または熱湯にひたせばすぐ食用となる。兵糧、旅行の際などに用いた。
―――
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
法慧
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十住の法門を説いた。
―――
功徳林
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
―――
解脱月菩薩
華厳経の会座に金剛蔵菩薩を上首として来集した諸菩薩の一人。金剛蔵菩薩はこの会座で十地の名を説き、それを詳説しなかったので、解脱月菩薩が大衆を代表して更に説法を請うたとある。金剛蔵菩薩はこの請法に応じて十地品を説いた。
―――
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
竜宮城
竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
―――
兜率天
梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。六欲天の第四天。兜率天とも書く。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天界の衆生の欲楽する処とされる。
―――
六十巻・八十巻・四十巻・二巻
大乗の華厳経には漢訳が四種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。④天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
四十巻・三十六巻・六巻・二巻
涅槃経には漢訳が四種ある。①北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。②栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。③中国・東晋代の法顕訳6巻。北品の前10巻に相当する。④唐代・若那跋陀羅訳2巻。北本の後分で小乗教。⑤釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。
―――
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
方等経
①大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。大乗②方等部の経典。③十二部経のこと。
―――
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国
インドを構成している国のことで、東・西・南・北・中天竺を中心に、さらに細分化されていた。大国とは土地が広く人口の多い国。大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000~10,000人の国を中国、700~3,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。
―――――――――
このお手紙は、弘安3年(1280)の夏、身延山中で著され、佐渡の千日尼に与えられたものである。
夫の阿仏房を一年前の春に亡くし、寂しく日を送っているであろう千日尼へのやさしい心遣いが、お手紙の行間に感じられる。更に、大聖人の法華経の行者としての確信が、全編に脈打ち、法華経の功徳の絶大なることが語られる。
また、本抄は、別名「孝子財御書」ともいわれるが、親を不幸にする子、親を幸せにする子の例を挙げられながら、千日尼の息子、藤九郎守綱の純真一途な信仰を賞でられ、こういう立派な子をもった千日尼の福運を讃え「子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし」と繰り返し激励の言葉を寄せられている。
本抄の冒頭には「こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入って候」とお述べであるが、この人に対する伝は不明である。文面から察するに、国府入道殿の尼御前は、千日尼とは懇意であったのだろう。その人に関する何か不幸な出来事があって、それを大聖人が知られ、まず気がかりなこととして書きとめられたと思われる。
千日尼は身延でお金にも食料にも、不自由をきたしておられるであろう大聖人の生活を案じ、「鵞目一貫五百文・のり・わかめ・ほしい」等を息子の藤九郎を使いとして、御供養申し上げた。千日尼の変わらぬ真心に対し、それらの品々を御宝前に供え、報告しましたと述べられている。
続いて本論に入り、法華経こそ釈迦の本懐であり、一代聖教の骨髄である点を明かされていく。
法華経に云く「若し法を聞く者有らば一として成仏せざること無し」云云。文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候ども、釈迦如来の一代聖教をのこりなく読むにて候なるぞ
法華経は一代聖教の最高峰に立つ経典である。法華経を一句読めば一代聖教を読んだことになる、というのは、釈尊の一代聖教の精髄が、法華経の一字一句に、ことごとく凝縮されているからである。
本抄には法華経に対する烈々たる確信と、この経のもつ、すべての人を成仏せしめるという大功徳が説かれている。ただし、ここでいわれる「法華経」が、単に釈尊の説いた二十八品の法華経でなく、大聖人が観心の立場より読まれるところの法華経であることはいうまでもない。
さて本文の「若し法を聞く者有らば一として成仏せざること無し」は法華経方便品の文である。「法」とは宇宙森羅万象を貫く妙法であり、観心より拝するならば三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。
釈尊は方便品でこの句を説いて「開三顕一」――声聞・縁覚・菩薩になるための三乗の権の教えを開き、一仏乗の法を顕すのである。
しかし、迹門方便品では、いまだ成仏の方途を理の面で明かしたにとどまる。一切衆生が妙法によって成仏するというが、それは具体的な事実によって示されたものではないので、この方便品の文のみでは観念にすぎない。
成仏の根本法は、本門寿量品の文底に秘沈して説かれた妙法である。この文底秘沈の大法を、末法に一幅の大曼荼羅として御図顕になり、御建立になったのが、日蓮大聖人である。
故に「若し法を聞く者有らば」の「法」とは、大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経であることは明らかであり、また同様に「法華経を一句よみ」とある法華経も、釈尊の文上の法華経ではなく、三大秘法の妙法に照らされ、蘇生させられたところの法華経である。
次に、この文は、法華経を読む功徳、聞法の功徳を顕したものであるが、我々の実践にあてはめて拝するならば「法華経を一句よみまいらせ」るという「読」ということ、また「若し法を聞く者有らば」とある「聞」という意味は、ただ観念的に読み、聞くということでは毛頭ない。「読」とは身口意の三業で読むということであり、「聞」とは生命に刻むということである。
「御義口伝」では如是我聞の「聞」を名字即の位に配されている。名字即とは「一切法皆是仏法と通達し解了する」位である。言い換えれば一切の現象はすべて妙法であると覚知することである。唱題と実践によって御本尊の仏界の生命をいつも躍動させていくのが名字即の人であり、この名字即の位において究竟即に至るのが大聖人の仏法の真髄である。
故に妙楽大師の云く「若し法華を弘むるは、凡そ一義を消するも、皆一代を混じて其の始末を窮めよ」等云云
さきの方便品の文が聞法の功徳を明かしたのに対し、この妙楽の法華玄義釈籤の文は、法華経を弘通する者の精神を説いたものである。
この二つの文を見比べると、大聖人は、方便品の文を引かれ、法華経の一句を読むならば一代聖教を残らず読んだことになると明かされているのに対し、法華玄義釈籤の文では、一つの義を解釈するにも一代聖教をきわめてからにせよ、と述べているので、ニュアンスの相違が感じられるようである。
しかし、ここで大聖人が教えられていることは、法華経の一句一偈には一代聖教の精神がすべて包含されているという点である。妙楽が「一義を消するも、皆一代を混じて其の始末を窮めよ」と述べた意味も、法華経の一つの文、一つの句の義には一代聖教の真髄が収まっているからにほかならない。つまり、法華経の一義に含まれる内容は、一代聖教にわたる壮大なるものであるという点においては、この二つの文は同じことを述べているわけである。
ただ、こういうふうに拝してもなお「一代を混じて其の始末を窮めよ」という法華玄義釈籤の文は、もう少し説明が必要であろう。妙楽が、法華経を弘める者は、一つの義を解釈するにも一代聖教をよく見きわめてからにせよ、と述べたのは、妙楽自身、衰退しつつあった中国天台宗を再興したということ、そして当時の中国仏教界の風潮から、どうしても仏教の理論化、体系化ということを要請されていたという背景を見逃してはならない。また、妙楽の代になって華厳との法論や、唯識派との論争が起こり、中国天台宗が他を凌駕するためには、精密で完璧な仏教思想の構築が不可欠であった。こういう時代相のなかで、法華経を弘める者の仏教的な素養というものが要求されたのではないだろうか。
天台も、妙楽も、そして日本の伝教も、ともに弘めたのは迹面本裏の法華経である。そしていずれも法華経哲理のもつ深さ、一切経にすぐれる卓越性を理論的に証明した。彼らは仏教の時代区分からいえば、像法時代の人人である。日蓮大聖人は、彼ら像法の導師によって構築された法華経の哲学体系を観心の立場から明確に位置づけられつつ、御自身、末法の御本仏として一切衆生救済の根本の当体である大御本尊を顕されたのである。
妙楽の法華玄義釈籤の文は、こうした仏教史的な背景を勘案して考えるならば、領解できるであろう。そして、ここでは、大聖人は、法華経の一義の広大さを意味する文として法華玄義釈籤の文を用いられている点を斟酌しなければならない。
末法において大聖人の仏法を実践する我々は万法帰一の当体である御本尊に南無することによって、おのずから「一代を混じて其の始末を窮め」たことになるのである。
譬へば月氏・日本と申すは二字、二字に五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし
この例は、法華経が生命の全体像をつぶさに説いた経であるということを示す文である。
月氏という国名には、その領土が含まれ、そこに住む人々や動物が含まれ、周辺の属国が含まれる。文字は二字だが、それが意味する内容は、きわめて豊富である。
この文につづく「鏡はわづ(僅)かに一寸・二寸・三寸・四寸・五寸と候へども、一尺・五尺の人をもうかべ、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつすがごとし」とあるのも、月氏、日本の例と同様で、小さな鏡の中に万像を浮かべることが可能なことを述べられている。
これらの例は、いうまでもなく月氏、日本、また鏡が法華経を意味し、それに包含されるさまざまの事物事象が諸経であることを表している。
法華経は八巻二十八品である。それに対して諸経は何千巻という途方もない数にのぼる。量の面からいえば圧倒的に諸経の方が勝る。しかし、経の内容に立ち入ってみるならば、諸経の内容は、すべて法華経の中に尽くされてしまうのである。つまり諸経は、生命という根源の本体の部分部分を説明したものであり、法華経は、生命の全体を説き明かした経なのである。
蒙古使御書にいわく、「所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、然りといへども、盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず」(1473-06)と。
この文の「己心の法」とは生命のことである。法華経以外の経教は皆、生命の「片端片端」を説いた教えであるが故に、部分観の教えという限界を乗り越えることはできないのである。
ここで部分と全体ということに関連していえば、現代社会において、部分をあたかも全体であると錯覚している事態が余りにも多い。
例えば、科学万能主義がそれである。科学が人間に便宜を提供し、人間の生活を楽にしてきたことは否定できない。しかし我々が科学の進歩と応用の段階で払ってきた犠牲は、決して小さくない。それは、公害病に苦しむ人々、交通災害、更に人類全体が、いつ勃発するかもしれぬ終極の戦争の予感等、一見、幸せそうな笑顔の底に隠された不安な心理はおおうべくもあるまい。これも、科学に対する全体観からの位置づけがなされないまま、科学万能主義を促進してきた人間の誤算によるものといえる。更にいえば部分である科学を全体と見誤った結果であるといえよう。
部分は全体に直結し、全体のなかに位置づけられてはじめて価値を生ずるのである。
諸経の教えに拘泥して、法華経を信ずることのできない執着の人は、あたかも部分だけをみて、全体であると錯覚している人のようなものである。
1319:01~1319:12第二章皆成仏の法を明かすtop
| 01 九界・六道の一切衆 02 生・各各・心心かわれり、譬へば二人・三人・乃至百千人候へども一尺の面の内しちににたる人一人もなし、心のに 03 ざるゆへに面もにず、まして二人・十人・六道・九界の衆生の心いかんが・かわりて候らむ、されば花をあいし・月 04 をあいし・すきをこのみ・にがきをこのみ・ちいさきをあいし・大なるをあいし・いろいろなり、善をこのみ悪をこ 05 のみ・しなじななり、かくのごとく・いろいろに候へども・ 法華経に入りぬれば唯一人の身一人の心なり、譬へば 06 衆河の大海に入りて同一鹹味なるがごとく・ 衆鳥の須弥山に近ずきて一色なるがごとし、 提婆が三逆も羅ゴ羅が 07 二百五十戒も同じく仏になりぬ、 妙荘厳王の邪見も舎利弗が正見も同じく授記をかをほれり、 此れ即ち無一不成 08 仏のゆへぞかし、四十余年の内の阿弥陀経等には舎利弗が七日の百万反・ 大善根を・とかれしかども未顕真実とき 09 らわれしかば・ 七日ゆをわかして大海になげたるがごとし、 ゐ提希が観経をよみて無生忍を得しかども正直捨方 10 便とすてられしかば・法華経を信ぜずば返つて本の女人なり、 大善を用うる事なし・法華経に値わざればなにかせ 11 ん、大悪をも歎く事無かれ・ 一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん、 此等は皆無一不成仏の経文のむなしからざ 12 るゆへぞかし。 -----― 九界、六道の一切衆生はおのおの心が異なっている。譬えば二人、三人乃至百人、千人いても、一尺の顔が真に似ている 人は一人もいない。心が似ていないから顔も似ないのである。まして二人、十人、六道、九界の衆生の心はいかに異なっていることであろう。それゆえ、花を愛し、月を愛し、酸いものを好み、苦いものを好み、小さいものを愛し、大きいものを愛し、いろいろである。善を好み、悪を好み、さまざまである。 このようにいろいろではあるが、法華経に入ってしまうと、ただ一人の身、一人の心である。譬えば、多くの川の水も大海に入れば同一鹹味となり、多くの色とりどりの鳥も須弥山に近づけば同じ金色となるようなものである。三逆罪を犯した提婆達多も、二百五十戒を守った羅睺羅も同じく仏になった。妙荘厳王のような邪見の者と、舎利弗のような正見の者とが、同じく成仏の記別を受けたのである。これすなわち「一人として成仏しないことはない」のゆえである。 四十余年のうちの阿弥陀経等には、舎利弗が、七日間に弥陀の名号を百万遍称えたのを大善根であると説かれたけれども、その阿弥陀経の教えが、無量義経説法品第二で「四十余年の間は、未だ真実を顕していない」ときらわれたので、あたかも七日間湯を沸かして、大海に投げ入れたような無意味なことになってしまった。また、韋提希夫人は観無量寿経を読んで無生忍の位を得たけれども、法華経方便品第二で「正直に方便を捨てる」と、観無量寿経が捨てられたので、法華経を信じなければ、もとの女人にかえってしまうのである。 大善を修めても、法華経に値わなければなんの役にも立たない。大悪を犯しても、嘆いてばかりいることはない。一乗の法華経を修行すれば、提婆達多の跡を継ぐこともできるであろう。これらは皆、「一人として成仏しないことはない」との経文が虚妄でないからである。 |
九界
十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。
―――
六道
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
衆河の大海に入りて同一鹹味なるがごとく
大智度論巻三十五に「衆川万流は、各各色を異にし、味を異にするも、大海に入れば、同じく一味一名と為るが如し」とある。
―――
衆鳥の須弥山に近ずきて一色なるがごとし
大智度論巻三十五に「五色は須弥山に近づけば、自ら其の色を失して、皆な同じく金色なるが如し」とある。
―――
須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
三逆
提婆達多は五逆罪のうち三つまで犯したとされる。大智度論巻十四に説かれる。①和合僧を破って五百人の釈尊の弟子を誘惑した。②大石を落として釈尊の足から出血させた。③蓮華色比丘尼が提婆達多を呵責したので尼を殺した。
―――
羅睺羅
梵語ラーフラ(Rāhula)の音写。障月、執日と訳す。釈尊の出家以前の子。母は耶輸陀羅女(Yaśodharā)である。釈尊の十大弟子の一人。密行第一とされる。舎利弗について修行し、よく二百五十戒を持ち密行を行なった。法華経授学無学人記品第九において、蹈七宝華如来の記別を受けた。
―――
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
―――
妙荘厳王
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。初めバラモンを信じていたが、後、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修行した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。
―――
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
授記
仏が弟子等に対して、成仏の記別を授けること。記別とは、未来のことを予記分別することで、未来世の成仏に対する仏の印可である。開目抄(0194)に「劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ劫をしるし所化の弟子なんどを定めさせ給へば」とあり、劫・国・名号が与えられることである。たとえば授記品で、迦葉に対して劫を大荘厳、国を光徳、名号を光明如来と授記されている。
―――
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
阿弥陀経等には舎利弗が七日の百万反大善根ととかれ……
阿弥陀経に「舎利弗もし善男子善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日一心乱れずば、其の人いのち終わる時に臨みて……阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを得ん」とある。また浄土論巻中にこの文を釈して「此の経に依らば、少善根は是れ空しき発願、広善根は是れ七日の念仏。若し能く七日念仏し、百万遍を満たば即ち往生を得」とある。これらの経釈の取意と思われる。
―――
未顕真実
法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
―――
ゐ提希
梵語ではヴァイデーヒー(Vaidehī)といい、思惟・思勝・勝妙身等と訳す。釈尊在世の中インド・マカダ国頻婆娑羅王の夫人。阿闍世王の母。阿闍世王が提婆達多の甘言にのり、頻婆娑羅王を餓死させようと幽閉した時、自らの身体に蜜を塗り夫を養った。さらに自らも幽閉されるに至って、霊鷲山に向かい、釈尊の説法を請い、釈尊はそのために観無量寿経を説いたといわれる。
―――
観経
観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。浄土三部経の一つ。わが子阿闍世王の悪逆を憂え嘆く韋提希夫人の求めに応じて、釈尊が神力によって十方の浄土を示現し、夫人が極楽浄土を選んだので、阿弥陀仏と極楽浄土とを十六観に分けて説いたもの。
―――
無生忍
無生法忍のこと。一切諸法は無生無滅であるという心理を悟って、心が安住する位。中道の妙理の一部分を証得する位とされる。不退の境界に入った菩薩、二乗をいう。
―――
正直捨方便
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
一乗
一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
―――――――――
法華経があらゆる衆生を平等に成仏させる法であることを具体例を示して明かされている。
爾前経を修行し、それによって種々の善根を積んでも、法華経にあい、成仏するのでなければ、真実の価値はないのである。それは、たとえていえば、どんなに財産を築いても、病気になってしまえば、せっかくの財を価値的に使いこなせないようなものである。
仏法の根本目的は衆生を成仏せしめることにある。成仏とは、自己の人間としての最高の完成・確立を意味する。ところが成仏の法が明かされるのは法華経であり、この法華経を行じなければ成仏はかなわないのである。
このように、諸経によって積んだ善根は、法華経にあって初めて価値を生ずるということを述べられている点を、大聖人に巡り会うまで、阿仏房、千日尼が久しく念仏を信仰してきたという事情を含めて考えると、まことに機にかない、人にかなった指導と拝せられる。
九界・六道の一切衆生各各心心かわれり……かくのごとくいろいろに候へども、法華経に入りぬれば唯一人の身、一人の心なり
九界六道の衆生の姿は千差であり、また、その心は万別である。身も心も同一であるというような人は、この世界には存在していない。それぞれが心の中で思い描く願望や善悪の感情というものは、それこそ想像を絶する複雑かつ微妙なものであろう。
この多様な九界六道の一切衆生が、「法華経に入りぬれば唯一人の身、一人の心なり」とは、身心ともに同じく仏になるということである。「一人の身」とはこれまで異体であった人々が同体になる、ということでは毛頭ない。また「一人の心」であるからといって、物の考え方が画一的になるということでもない。
人それぞれが、現実世界でみせる種々の差別は差別のままで、法華経に入ったならば、如来の身、如来の心となっていくということである。すなわち、法華経が説かれるまでは、九界の衆生は、己心の妙法を知らず、わが生命の仏界を覚知することができなかった。ゆえに、その心は如来の心ではなく九界六道の迷いの心、小我にとらわれた心であった。その身は無常の世界を流転する身であった。
法華経という成仏の法を信ずることによってのみ、胸中の仏界が開かれ、万人が如来の身、如来の心を顕現していくことができるのである。
ゆえに法華経を信じて「一人の身」「一人の心」となるというのは、仏界という大我に立脚して真の人間らしさを回復していくことであり、人間革命の大道を邁進しゆくことである。
更に、この御文は、九界即仏界の原理を表している。九界六道の迷いの衆生が、法華経を信ずることにより、何らその身その心を改めることなく、仏界の悟りの境地に立って、確信にあふれた人生を送っていくことができる。この九界即仏界の法門こそ法華経の極理であり、今時末法において、日蓮大聖人御図顕の御本尊に帰命することによって、一切衆生が即身成仏することが可能となったのである。
1319:13~1320:04第三章阿仏房の成仏を教示するtop
| 13 されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・ をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候 14 へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと 日蓮は見まいらせて候、 若し此の事そらごとにて候 15 わば日蓮が・ひがめにては候はず、釈迦如来の世尊法久後・要当説真実の御舌も・多宝仏の妙法華経・皆是真実の舌 16 相も四百万億那由佗の国土にあさのごとく・いねのごとく・星のごとく・竹のごとく・ぞくぞくと・すきまもなく列 17 なつてをはしましし諸仏如来の一仏も・かけ給はず、 広長舌を大梵王宮に指し付けて・をはせし御舌どものくぢら 18 の死にてくされたるがごとく・いわしのよりあつまりて・ くされたるがごとく・皆一時にくちくされて十方世界の 1320 01 諸仏・如来・大妄語の罪にをとされて・寂光の浄土の金るり大地はたと・われて提婆がごとく・無間大城にかつぱと 02 入り・法蓮香比丘尼がごとく身より大妄語の猛火ぱと・いでて・実報華王の花のその・一時に灰燼の地となるべし、 03 いかでか・さる事は候べき、 故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に堕ち給うべし、ただ・をいて 04 物を見よ・ただをいて物を見よ、 仏のまことそら事は此れにて見奉るべし、 -----― それゆえ、亡くなられた阿仏房の聖霊は、今どこにおられるであろうかと人は疑っても、法華経の明鏡をもって、その影を浮かべてみると、霊鷲山の山の中、多宝仏の宝塔の内に、東向きに坐っておられると日蓮は見ているのである。 もしこのことが事実でないならば、日蓮の見間違いではない。釈迦如来の「仏は久しく法を説いてから後、要ず当に真実を説くであろう」といわれた御舌と、多宝仏の「妙法蓮華経は皆これ真実である」と証明した御舌と、四百万億那由他の国土に麻の如く、稲の如く、星の如く、竹の如く、ぞくぞくとすきまもなく列なっておられた諸仏・如来の、一仏も欠けることなく、広長舌を大梵天王の宮殿につけ、法華経の真実を証明した御舌と、それらのすべての舌が、鯨が死んで腐ったように、鰯が寄り集まって腐ったように、みな一時に朽ち腐って、十方世界の諸仏・如来は大妄語の罪に堕ちて、寂光の浄土の金や瑠璃の大地は、はたと割れて、提婆達多のように無間地獄にどっと堕ち、法蓮香比丘尼のように、身から大妄語の報いの猛火がパッと激しく出て、実報土である蓮華蔵世界の花園も一時に灰燼の地となってしまうであろう。どうしてそのようなことがあろうか。 亡くなられた阿仏房一人を寂光の浄土に入れなければ、諸仏は大苦に堕ちるにちがいない。よくよく物事の道理を考えなさい。仏の教えが真実であるか、虚妄であるかはこれによって判断していくべきである。 |
聖霊
使者の霊魂、なきたま、みたま。
―――
霊鷲山
中インド摩竭提国(ベンガル地方)の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
世尊法久後要当説真実
「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」と読む。法華経方便品第二の文。仏は長い間、方便の教えを説き、後に真実の教えを説くとの意。仏が教えを説くのは、一切衆生を成仏させることにあり、法華経には四十余年の方便権教と異なり、釈尊の真実の悟り、一仏乗の法が説かれていることをいう。
―――
妙法華経皆是真実
法華経見宝塔品第十一の「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」の文。多宝如来が釈尊の説いた法華経はすべて真実であると証明した言葉。
―――
那由他
梵語ナユタ(Nayuta)の音写。那由多、那由佗とも音写し、兆または溝と訳す。インドにおける数の単位の一つ。具体的数量は経論によって諸説があり、定かではない。
―――
広長舌
神力品に説かれる。法華経を付嘱するためにあらわした十種の神力の第一で広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
―――
大梵王宮
大品天王の住む宮殿。色界の初禅天の中、大梵天にある。
―――
十方世界
「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
―――
寂光の浄土
寂光土・浄寂光土・仏の住する国土・四土の一つ・仏国土。
―――
金るり大地
常寂光土の大地は、黄金・瑠璃によって荘厳されている故にこういう。
―――
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
―――
法蓮香比丘尼
宝蓮香比丘尼とも書く。大仏頂首楞厳経巻八によると、大妄語の罪によって、身体の節々から猛火が出、生きながらにして無間地獄に堕ちたという。
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実報華王
「実報」とは実報土のこと。六道の同居土、二乗の方便土、仏界の寂光土に対し、別教の十地以上、円教の十住以上の、中道を証し、無明を断じた大菩薩の住所である。薬王とは蓮華法蔵世界の王、瑠璃遮報身仏のこと。
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第一章、第二章においては、「無一不成仏」の経たる法華経について述べられてきたのであるが、本章では、この法華経の信心を貫いた故阿仏房が必ず成仏していることを大確信をもって説かれている。
霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候
古来、インドで東を尊い方角としたことは、霊鷲山の講堂のむきについて、「西域記」に「東方を上となす。其の居室は則ち東にその戸をひらき、旦日則ち東に向い以て拝す」とあるところからもうかがわれる。
日寛上人も、当流行事抄で「月氏の如き君父東面の故に右は南にして陽、左は北にして陰なり(中略)宝塔西に向く故に釈尊は右の上座に居し多宝は左の下座に居するなり、大衆は東に向く故に上行・無辺行は右の上座に居し浄行・安立行は左の下座に居す・是れ霊山の儀式を移す故なり」と述べられている。
この霊山で釈尊は東面して法華経を講じていたのである。そこに見宝品では法華経を証明するために多宝如来が東方宝浄世界より涌現するのである。したがって多宝の塔は、東に在って、西にむかって位置したことになる。釈尊も塔の中に入り多宝如来と半坐を分かって並坐するのであるから、釈迦・多宝の二仏は東から西向きに坐っていることがわかる。
そこで阿仏房が、宝塔の内に入って東向きになるというのは、釈迦・多宝に対座した姿で宝塔内に在るということである。
日蓮大聖人は、阿仏房の純真強盛な信心を賞でられて、阿仏房御書には「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり」(1304-09)等と、宝塔の義に寄せて激励されている。
今この「千日尼御返事」では、法華経の明鏡に照らして、故阿仏房が、まさしく、宝塔の内に在住していることを見られ、千日尼にそのことを教えられているわけである。
宝塔とは御本尊である。故阿仏房が宝塔のうちに東向きに在すというのは、御本尊という仏界の懐に抱かれて九界即仏界を現じ、成仏しているということである。
この宝塔に入るとの点については、「日女御前御返事」にも「日蓮が弟子檀那等、正直捨方便、不受余経一偈と無二に信ずる故によって、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」(1244-13)とあり、御本尊との境智冥合の信心によって御本尊の中へ我ら九界の衆生が帰一し、またその仏界の生命力をもって現実に今を逞しく生きゆくことができるのである。頼るべき夫に先立たれ、心寂しい思いの毎日を送る千日尼にとって、夫の阿仏房が御本尊のなかで成仏しているということを大聖人に教えられ、どれほど心強く思ったことであろうか。そして御本尊を拝するにつけ、夫阿仏房と生命の会話を交わしていたであろう。
この一節に接して、千日尼の信心はまた更に深みを増していったことは想像に難くない。
故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に堕ち給うべし
日蓮大聖人のお弟子を思いやる心の深さがしのばれる御文である。と同時に、仏法は、一人の人間を成仏せしめ、救いきっていくところに、真の面目があることを明示された御文と拝せる。
亡くなった阿仏房が成仏していないというなら諸仏も地獄に堕ちて大苦にあう、とは何と心強いお言葉であろうか。この文を通し、人間を第一義とする仏法の精神を更に深く銘記すべきであろう。
仏は仏であるというだけで絶対的に尊いのではない。衆生を救済するための仏であり、妙法の信仰者を成仏の境地に導き入れるための仏である。この使命を全うしない仏ならば、地獄に堕ちると仰せである。
妙法の信仰の正しさに対する絶対の確信をいわれているとともに、現実に人々を救い、仏界へ導くところに仏の使命があることを断言されているのである。したがって、これを我々の身にあてて拝せば、折伏の実践なくして成仏の道はありえない、ということでもある。
1320:04~1320:13第四章千日尼の信心を励ますtop
| 04 さてはをとこははしらのごとし女は 05 なかわのごとし、をとこは足のごとし・女人は身のごとし、 をとこは羽のごとし・女はみのごとし、羽とみと・べ 06 ちべちに・なりなば・なにを・もつてか・とぶべき、はしらたうれなばなかは地に堕ちなん、いへにをとこなければ 07 人のたましゐなきがごとし、くうじを・たれにか・いゐあわせん、よき物をば・たれにか・やしなうべき、一日二日 08 たがいしを・だにも・をぼつかなく・をもいしに、こぞの三月の二十一日に・わかれにしが・こぞもまちくらせどま 09 みゆる事なし、今年もすでに七つきになりぬ、 たとい・われこそ来らずとも・いかにをとづれはなかるらん、ちり 10 し花も又さきぬ・おちし菓も又なりぬ、春の風も.かわらず・秋のけしきも.こぞのごとし、いかに・この一事のみ・ 11 かわりゆきて本のごとく・なかるらむ、 月は入りて又いでぬ・雲はきへて又来る、この人人の出でてかへらぬ事こ 12 そ天も・うらめしく地もなげかしく候へ、さこそをぼすらめ・いそぎ・いそぎ法華経をらうれうと・たのみまいらせ 13 給いて、りやうぜん浄土へ・まいらせ給いて・みまいらせさせ給うべし。 -----― さて、男は柱のようなものであり、女は桁のようなものである。男は足のようなものであり、女は身のようなものである。男は羽のようなものであり、女は身のようなものである。羽と身とが別々になったらどうして飛ぶことができようか。柱が倒れたならば、桁は地に落ちてしまう。家に男がいなければ、人に魂がないようなものである。 公事を誰と相談するのか。美味な食物があっても誰に食べさせるのか。一日二日離れていてさえ心細く思うのに、去年の三月二十一日に死に別れて、去年一年待ち暮らしていたけれども会うことはなかった。今年もすでに七月になった。たとえ自身で来なくても、どうして音信がないのであろう。 散った花もまた咲いた。落ちた果もまた成った。春の風も変わらず吹き、秋の景色も去年と同じである。どうしてこの一事だけが変わってしまって、もとのようにならないのであろう。月は入ってもまた出てくる。雲は消えてもまた来る。この人ばかりが旅立ったまま帰らぬことを、天もうらめしく、地もなげかわしいと思っておられることであろう。急ぎ急ぎ、法華経を旅の粮とたのんで、霊山浄土へ参って阿仏房にお会いしなさい。 |
なかわ
「けた」のこと。家屋の柱の上に渡して屋根を受けている材木のこと。
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くうじ
公の事柄、仕事のこと。私事に対する語。
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らうれう
「ろうりょう」と読む。食物、食糧のこと。粮は糧に同じく「かて」の意。旅行、行軍の時に用いた食糧。
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りゃうぜん浄土
仏の住する清浄な国土。仏国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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夫に先立たれて悲しみにくれる千日尼の胸中を察してつづられたところである。
想像を絶する大難にあわれ、国家権力に命を奪われようとしても泰然とされている剛毅の半面、一人の不安な生活を送る女性の心情を、かくも人間味豊かに、鋭くとられておられることは驚くばかりである。
大聖人は、生涯を民衆の中に飛び込み、民衆と共に送られ、民衆を救うために身命を賭けられた。そしてそのつど、人々の心を具さに見とられ、適切な指南を与えてこられたのである。
民衆仏法というのは、民衆の胸中深く生きる仏法である。一人の人の心をとらえて離さない慈愛の言々句々、この大聖人の言動の中に、民衆仏法の真髄があり、大聖人の遺命に生きる者の原点があることを忘れてはならないであろう。
いそぎいそぎ法華経をらうれうとたのみまいらせ給いて、りゃうぜん浄土へまいらせ給いて、みまいらせさせ給うべし
寂しく暮らしているであろう千日尼の気持ちを推察しつつ、千日尼の信心を勧められているところである。
故阿仏房の成仏は、法華経の法理に照らして、すでに一点の疑義もない。すでに亡くなっている阿仏房に会いたいと思っても、阿仏房がこの世に出てくることはない。
阿仏房は間違いなく成仏して浄土にいるのだから、千日尼が妙法の信心を貫いて死んでのち、同じく浄土へ赴いて、阿仏房に会いなさい、とすすめられているのである。
この文は、すでに老いの身となった千日尼のことを考えて説かれたという面もあろうが、今ひとつ、法華経の哲理を強く強く信じて、唱題に励むことを指導されたお言葉と拝せる。
このことは一般的にも人生の基本というものを考えるうえで大切な点である。
どんなに愛し合い、尊敬する人とも、いつかは死別しなければならない。その時に、ただ悲嘆にくれ、絶望に沈んでいるのではならない。故人の志を継ぎ、故人の歩んだ道を同じく進むことによって、必ず、永遠の生の中に、同じ境涯に生まれ合い、相まみえることができるのである。
1320:14~1320:18第五章悪子の例を教示するtop
| 14 抑子はかたきと申す経文もあり「世人子の為に衆の罪を造る」の文なり、 鵰・鷲と申すとりは・ をやは慈悲 15 をもつて養へば子は・かへりて食とす・梟鳥と申すとりは生れては必ず母をくらう、畜生かくのごとし、 人の中に 16 も・はるり王は心もゆかぬ父の位を奪い取る、 阿闍世王は父を殺せり、安禄山は養母をころし・安慶緒と申す人は 17 父の安禄山を殺す・ 安慶緒は又史師明に殺されぬ・ 史師明は史朝義と申す子に又ころされぬ、此れは敵と申すも 18 ことわりなり、善星比丘と申すは教主釈尊の御子なり、 苦得外道をかたらいて度度父の仏を殺し奉らんとす、 -----― そもそも子は敵という経文もある。心地観経に「世の人、子のために多くの罪をつくる」という文がそれである。鵰や鷲という鳥は、親が慈悲をもって養うと、子はかえって親を食とする。梟鳥という鳥は、生まれると必ず母を食う。畜生ですらこのようなものである。 人の中にも、波瑠璃王は無法にも父の位を奪い、阿闍世王は父を殺した。安禄山は養母を殺し、安慶緒という人は父の安禄山を殺し、安慶緒は史師明に殺された。史師明は史朝義という子にまた殺された。これでは子は敵というのも道理である。善星比丘という者は教主釈尊の御子である。しかし苦得外道と一味になって、たびたび父である仏を殺そうとした。 |
梟鳥
梟鳥禽、フクロウのこと。俗に成長すると母を食うといわれるので、母食鳥とも不孝鳥ともいう。
―――
はるり王
毘瑠璃王、琉璃王等とも書く。悪生王などと訳す。釈尊在世の舎衛国の王。毘奈耶雑事巻七等によると、父王波斯匿王と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱しめを受けた。後、長行大王と謀って父王波斯匿王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。しかし、それから七日後、釈尊の予言通り焼死して無間地獄に堕ちたという。
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阿闍世王
梵語でアジャータシャトゥル(Ajātaśatru)といい、未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マカダ国の王。父は頻婆娑羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マカダ国をインド第一の強国にするなどしたが、半面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行なった。後、身体に悪瘡ができたことによって、仏教に帰依し、仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなどした。
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安禄山
(0705~0575)。中国・唐代の節度使。安史の乱を起こした。父はソグド系、母は突厥系の出身といわれ、六種の言語を話し唐朝に仕えた。玄宗皇帝、楊貴妃に信任され、三地方の節度使を兼任し、大きな軍事力を握った。また楊貴妃の養子ともなった。その後宰相楊国忠と勢力争いを起こし、天宝14年(0755)挙兵。洛陽、長安を落とし、自ら大燕皇帝と名乗ったが、後継者争いから子の安慶緒に殺された。
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安慶緒
(~0759)。安禄山の子。父の安禄山が唐朝に背き、大燕皇帝と称した時、大燕国の晉王となった。後、父が段夫人の子・安慶恩を愛し太子にしようとしたので、部下に命じて父を殺害したが、安慶緒もまた部下の史思明に殺されている。
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史師明
(~0761)。史思明とも書く。安史の乱の指導者の一人。安禄山と同郷の出身で、天宝14年(0755)安禄山が乱を起こすと、その武将として大いに活躍した。しかし安禄山が安慶緒に殺されると、一時は唐に下って、帰義王・范陽節度使となるが、再度反乱を起こし、乾元2年(0759)安慶緒を殺し、大燕皇帝と称した。本文中に「子の史師明」とあるが、部下であるのをこういわれたと思われる。
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史朝義
(~0763)。史思明の子。安史の乱に際し、父が大燕皇帝となると懐王となった。しかし、父が末子・史朝清を溺愛し史朝義を除こうとしたので父を殺した。上元2年(0761)即位して顕聖と年号を立てたが、唐軍に敗れ、李懐仙に追われて自殺した。
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善星比丘
釈尊の出家以前の子といわれる。涅槃経巻三十三によると、出家して仏道修行に励み、十二部経を受持し読誦し四禅を得たが、苦得外道に親近し悪見を起こした。そのうえ、釈尊に悪心を懐いたため、生きながら地獄に堕ちたという。
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教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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苦得外道
苦行によって得道すると説く外道。釈尊在世の六師外道のひとつ。尼乾外道に同じ。この派をジャイナ教と呼ぶ。教祖はマハーヴィーラといわれ、ジナとも呼ばれる。教理はヴェーダを否定するが、カースト制度を認め、苦行を勧める。禁欲によって物質界から解脱し、常満精神を得ようとして裸で修行したため裸形外道とも呼ばれた。後に寛容主義の白衣派と、厳格主義の空衣派に分裂する。
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これまでは夫・阿仏房をなくした千日尼を慰めながら、その信心を励まされてきたのであるが、子息の藤九郎が故父の跡を継いで立派に法華経の大信者となっていることを喜ばれ、そのような息子をもった千日尼の福運を示されるのである。
ここでは、まず悪子の例を挙げられている。すなわち、次章で善き子の例を教示し、子息・藤九郎の信心を賞でられるための伏線とされたわけである。
抑子はかたきと申す経文もあり。「世人子の為に衆の罪を造る」の文なり
子は宝というが、逆に、子は親にとって仇である場合もある。親にとって宝であるような孝子をもつことは、それだけになおありがたいことなのである。
ここにあげられているのは、心地観経報恩品の文で「世人は子の為に諸の罪を造り、三塗に堕在して長く苦を受く。男女は聖に非ざれば神通無く、輪廻を見ざれば報ず可きこと難し。哀れなる哉世人に聖力無く、慈母を抜済すること能わず」とある。
世の中の親は、子供を養うために、さまざまな罪を重ね、その罪によって三悪道におち、長い苦しみを受けることになる。そして、子は、自分への愛のために罪をつくり悪道に堕ちた親を救わなければならないのであるが、仏法をもっていなければ、それもできない、というのが心地観経の後半の文意である。
これらの男女は、仏法を究めないので、亡き親が苦しみを輪廻している状態を見ることもできず、親に心を伝えることもできず、したがって親の恩に報いることもできない。哀れなことに、世の人々は、仏法の力を持たないので、自分を育ててくれた慈母を救うこともできない、という意味である。
ここで、世の中の親にとって、子供は敵であるといわれるのは、子が故意に親を憎んで仇になる場合でなく、子への愛の故に、親は悪を犯し、結果として、子が親のために仇になってしまう場合である。この心地観経の文は現代の親と子のあり方を考えるうえでも大きな教訓を学びとることができるのではないだろうか。
一般に「愛」というものは、見返りの期待や理屈をぬきにした次元の行為である。それゆえに真実の愛は、それ自体、崇高でさえある。親が子に示す愛情というものは、そうした中でも、とりわけ、うるわしく感動的である。手のかかる子ほど可愛い、というのも、親の愛の純粋さを物語っていよう。
しかし、そうした純粋な愛も、対象以外の、周囲の人々に対しては、きわめて排他的になり、利己的になる危険性をはらんでいる。他をかえりみぬ愛というものは、必ず親子もろともに不幸におとしいれてしまうものである。
親にとって、子供は、わが子である前に、社会の中に、その一員として生きていくべき存在であり、かつ、仏の生命が内在した一人の人間である。ならば親が子に示す最上の愛は、子の仏性を光り輝くものとさせ、周囲の人々からも愛され、強調しあっていける人間に育てることである。自身を確立し、社会の平和と人々の幸福のために共に手をたずさえて生きていく親子こそ真実の親と子の姿といえよう。
1320:18~1322:03第六章子が財となる例を教示するtop
| 18 又 1321 01 子は財と申す経文も・はんべり・ 所以に経文に云く「其の男女追つて福を修すれば大光明有つて地獄を照し其の父 02 母に信心を顕さしむ」等と申す、設い仏説ならずとも眼の前に見えて候。 -----― また子は財という経文もある。心地観経には「その男女が追って福を修するによって、大光明があって地獄を照らし、その父母に信心を発させる」と述べている。たとえ仏の説ではなくても、事実は眼の前にある。 -----― 03 天竺に安足国王と申せし大王は.あまりに馬をこのみて・かいしほどに・後には.かいなれて鈍馬を竜馬となすの 04 みならず・牛を馬ともなす・結句は人を馬と・なしてのり給いき、其の国の人あまりに・なげきしかば知らぬ国の人 05 を馬となす、他国の商人の・ゆきたりしかば薬をかいて・馬となして御まやうにつなぎ・つけぬ、なにと・なけれど 06 も・我が国はこいしき上・妻子ことにこいしく・しのびがたかりしかども・ゆるす事なかりしかば・かへる事なし、 07 又かへり・たりとも・このすがたにては由なかるべし、ただ朝夕には・なげきのみにして・ありし程に・一人ありし 08 子・父のまちどきすぎしかば・人にや殺されたるらむ又病にや沈むらむ・子の身として・いかでか父をたづねざるべ 09 きと・いでたちければ.母なげくらく男も他国より・かへらず・一人の子も.すてて・ゆきなば我いかんがせんと・な 10 げきしかども・子ちちのあまりに・ こいしかりしかば安足国へ尋ねゆきぬ、ある小屋に・やどりて候しかば家の主 11 申すやう・あらふびんやわどのは・をさなき物なり而もみめかたち人にすぐれたり、 我に一人の子ありしが他国に 12 ゆきてしにやしけん・又いかにてやあるらむ、 我が子の事ををもへば・わどのをみてめも・あてられず、いかにと 13 申せば此の国は大なるなげき有り、 此の国の大王あまり馬をこのませ給いて不思議の草を用い給へり、 一葉せば 14 き草をくわすれば人・馬となる、 葉の広き草をくわすれば馬・人となる、近くも他国の商人の有りしを・この草を 15 くわせて馬となして第一の御まやに秘蔵して・つながれたりと申す、 此の男これをきいて・さては我が父は馬と成 16 りて・けりとをもひて・返つて問う其の馬は毛は・いかにと・といければ・家の主答えて云く栗毛なる馬の肩白く・ 17 ぶちたりと申す、 此の物此の事を・ききて・とかうはからいて王宮に近づき葉の広き草をぬすみとりて・我が父の 18 馬になりたりしに食せしかば本のごとく人となりぬ、 其の国の大王・不思議なる・おもひをなして孝養の者なりと 1322 01 て父を子に・あづけ給へり、其れよりついに人を馬となす事は・とどめられぬ。 -----― インドの安足国王という大王は、非常に馬を好んで飼っているうち、後には飼いなれて、鈍馬を竜馬となすだけでなく、牛を馬ともなした。遂には人を馬に変えて乗った。その国の人があまりに嘆いたので、知らぬ国の人を馬に変えた。他国の商人がその国へ行くと、薬を飲ませて馬にし、厩につないでしまった。 馬にされた商人は、ふつうでも故国は恋しいうえ、妻子は特に恋しく、忍びがたかったけれども、王が許さなかったので帰ることもできなかった。また帰ったとしても、この姿ではどうする術もなかったであろう。ただ朝夕に嘆いているばかりであった。 その頃、一人いた子は父が帰るべき時が過ぎても帰らないので、人に殺されたのであろうか、また病にかかって動けないのであろうか、子の身として、なんとしても父の消息を明らかにしないでいられようかと旅立った。母は「夫も他国へ行って帰らず、一人の子も私を捨てて行ってしまうならば、私は、どうしたらよいのであろうか」と嘆いたけれども、子は父恋しさのあまり、安足国へ尋ねて行った。 ある小さな家に泊まっていたところ、家の主人がいうには、「ああ、かわいそうに、あなたはまだ年も幼い。しかも顔かたちは人にすぐれている。私にも一人の子がいたが、他国に行って、死んでしまったのか、またどうしていることか、わが子のことを思えば、あなたを見るにしのびない。なぜかというと、この国には大きな嘆かわしいことがある。この国の大王は馬を好まれるあまり、不思議な草を用いられる。葉の狭い草を食べさせると人が馬となる。葉の広い草を食べさせると馬が人となる。この間も、他国の商人がいたのだが、この草を食べさせて馬と変えて、第一の厩に秘蔵してつながれている」という。 その子はこれを聞いて、さてはわが父は馬となっていたのだと思って、改めて「その馬の毛並みはなんでしょうか」と問うと、家の主人は「栗毛の馬で肩が白くまだらになっている」と答えた。このことを聞いて、いろいろ工夫して王宮に近づき、葉の広い草を盗みとって、馬となっている我が父に食べさせると、もとのように人となった。 その国の大王は、このことを聞いて不思議に思い、孝養の者であるとして父を子にかえし、それからはついに人を馬にすることを止められた。 -----― 02 子ならずば・いかでか尋ねゆくべき、目連尊者は母の餓鬼の苦をすくひ浄蔵浄眼は父の邪見をひるがいす、 此 03 れよき子の親の財となるゆへぞかし、 -----― 子でなければどうして尋ねて行くであろうか。目連尊者は餓鬼道に堕ちた母の苦を救い、浄蔵・浄眼は父の邪見を改めさせた。これは、善い子が親の財となった例である。 |
経文に云く「其の男女追って……」
心地観経巻三の「其の男女は勝福を追うを以て、大金光有って地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟して発意せしめん」の文。追善供養の功徳を説く。
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安足国
前0248~前0228まで西アジア地方にあったアルサク朝パルティア王国のこと。安足は始祖・アルサケース(Arsakes)の音写。安息とも書く。インド・中国とローマの東西貿易の中継地として大いに栄えたが、三世紀初めササン朝ペルシャによって滅ぼされた。
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竜馬
非常に勝れた馬のこと。駿馬、名馬をいう。
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目連尊者
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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浄蔵・浄眼
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる妙荘厳王の二子。母を浄徳夫人という。二人は出家し菩薩行を修して三昧を得た。後に仏から法華経の説法を受け、母の浄徳夫人に仏所に詣でることを勧めたが、母はまず父をバラモンから放ち、仏門に帰依させることを命じた。二人は種々の神変をあらわして父に見せ、仏法を信解する心を起こさせた。父はそののち国を弟に譲り、夫人と諸の眷属と共に出家して成道に至っている。この妙荘厳王は法華経の会座にいる華徳菩薩であり、浄蔵・浄眼は薬王・薬上菩薩である。
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子が財となる場合の例を挙げられたところである。
その一つは、はじめに引かれている心地観経の文のように、残された子が、仏法を行じて功徳を積むことである。その場合は、なくなった父母が、たとい地獄におちていたとしても、子の福徳が大光明となって、父母を苦しみから救うことができる。
また、安足国で馬にされた父を救った子の話があらわしているものは、父を思う子の真心である。子として親を思う真心が、父を元の人間に戻したばかりでなく、安足国王の心をまで変えたのである。これは家に一人の善き子があれば、その家庭の危機を救うのみでなく、社会をも改革していく、ということをあらわしているのである。
又子は財と申す経文もはんべり。所以に経文に云く「其の男女追って福を修するを以て大光明有って地獄を照し、其の父母に信心を発さしむ」等云々。設い仏説ならずとも眼の前に見えて候
引用されている経典は心地観経で、先の「世人子の為に衆の罪を造る……」につづく文である。
親は子のために、あえて罪を犯し、それが原因となって三悪道に堕ちたとしても、子供が仏道修行を重ね、福運を積むならば、大光明をもって地獄を照らし、そこに呻吟する父母を救うことになり、ひいては仏法への信心を起こさせることとなる。それこそ真実の孝行である。
仏法の教える親に対する報恩は、親の死後をも救うものである。
一般に親孝行にも、いろいろな形がある。親のいうことをよく聞くことも親孝行なら、親に物を与えたり、旅行の楽しみを与えたりすることも親孝行の部類に入る。だが、これらはいずれも今世限りの一時的な孝行である。
本当の親孝行とは、親を正しい仏法への信心にめざめさせ、自らを福運ある人間と変革させてあげることである。これ以外に死後、未来永遠に残る報恩の道はないからである。
「設い仏説ならずとも眼の前に見えて候」といわれているのは、千日尼の息子の藤九郎守綱のことである。守綱は父阿仏房の死後、その志を継いで大聖人の弟子となり、法華経に厚い信仰の誠を示してきた。この藤九郎の信仰の姿こそ、孝行の手本であるとの賞讃の言葉である。
1322:03~1322:10第七章子の信心継承を喜ぶtop
| 03 而るに故阿仏聖霊は日本国・ 北海の島のいびすのみなりしかども後生をを 04 それて出家して後生を願いしが・ 此の人日蓮に値いて法華経を持ち去年の春仏になりぬ、 尸陀山の野干は仏法に 05 値いて生をいとひ死を願いて帝釈と生れたり、 阿仏上人は濁世の身を厭いて仏になり給いぬ、 其の子藤九郎守綱 06 は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて・ 去年は七月二日・父の舎利を頚に懸け、一千里の山海を経て甲州・ 07 波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、 今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す、 子 08 にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 09 七月二日 日蓮花押 10 故阿仏房尼御前御返事 -----― しかるに亡くなった阿仏房は、日本国北海の島の夷の身であったけれども、後生を恐れて出家し、後生を願っていたが、流人の日蓮に値って法華経を持ち、去年の春仏になった。尸陀山の野干は仏法に値って、生をきらい、死を願って帝釈と生まれた。阿仏上人は濁世の身をきらって仏となられた。 その子の藤九郎守綱は、この跡を継いで一向に法華経の行者となり、去年は七月二日に父の遺骨を首にかけ、一千里の山海を越えて、甲州波木井の身延山に登って、法華経の道場にこれを納め、今年はまた七月一日に身延山に登って、慈父の墓に詣でた。子にすぎた財はない。子にすぎた財はない。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 七月二日 日 蓮 花 押 故阿仏房尼御前御返事 |
いびす
①古代のアイヌ人。②都から遠く離れた辺地の未開民族。③荒々しい武士。④外国・未開の地、そこに住む人々。
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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尸陀山の野干
尸陀山は、インドの毘摩大国にあった山。未曾有因縁経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて涸井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて野干を敬い説法を請うたといわれる。
野干とは、中国では狐に似た正体不明の獣、日本では狐の別称とされた。原意は中国・日本に棲息しないジャッカルのこと。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(Śakra-devānām-indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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藤九郎守綱
阿仏房の子息。生没年は不明。父と同じく大聖人の弟子となり、佐渡・北陸地方の弘教に努めた。後に出家して後阿仏房と称し、自邸を改め阿仏房妙宣寺としたという。
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法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
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舎利
梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
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甲州・波木井身延山
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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阿仏房の強盛な信心が、子息の藤九郎守綱に受け継がれていることを述べられ、まさに「子にすぎたる財なし」であると、故阿仏房、そして千日尼のために心から喜ばれている。
本章は、お手紙の結びになる文で、短いけれども、この一家の希望に溢れた姿が感じられるところである。
阿仏上人は濁世の身を厭いて仏になり給いぬ
「濁世の身を厭いて」とは、小乗教的、念仏思想的な表現である。
それは、亡き阿仏房も千日尼も、もと念仏の信者であった。大聖人に会い、念仏を捨て、法華経に帰依したといっても、もう余命いくばくもない人に対して、成仏ということを、このように言い表される以外になかったのであろう。
だが「濁世の身を厭いて仏になり給いぬ」の文を、今一重、大聖人の観心より拝するならば、「濁世の身」とは九界の身、迷いの衆生である。この迷いの九界を開き、仏界を顕現したということである。
ともあれ、大聖人が弟子にお手紙をしたためられる際にも、弟子の信心や生活、また、それぞれの理解度に応じて書かれるなど、最大に心を配られていたことが拝せられるのである。
1318:01~1318:05第八章追伸top
| 1318 01 追伸、絹の染袈裟一つまいらせ候、豊後房に申し候べし・既に法門・日本国にひろまりて候、 北陸道をば豊後房な 02 びくべきに学生ならでは叶うべからず・ 九月十五日已前に・いそぎいそぎまいるべし、 03 又こいしこいしと申しつたへさせ給へ、 かずの聖教をば日記のごとくたんば房にいそ 04 ぎいそぎつかわすべし、 山伏房をばこれより申すにしたがいてこれへは・わたすべし、 山伏の現にあだまれ 05 候事悦び入つて候。 -----― 追伸、 絹の染袈裟一つを差し上げます。豊後房にお話しください。すでに法華経の法門は日本国に弘まった。北陸道をば豊後房が弘めていくべきであるが、学問がなければかなうことではない。九月十五日以前に急ぎ急ぎ身延へ参りなさい。 多くの聖教を、送っていただいた日記のように、丹波房に持たせ急ぎ急ぎ遣わしてください。 山伏房をこちらから申した通りの方法で、この身延へよこしてください。山伏房をふびんに思って扱ってくださったこと、悦びいっています。 |
絹の染袈裟
染めた絹の袈裟のこと。袈裟は僧侶が左脇から右脇下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条・七条・九条の三種がある。法衣・功徳衣・無垢衣・忍辱鎧ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せたたのが衣としたのが由来とされる。以来仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するよになった。袈裟の色は青・赤・黄・白・黒を避けて、他の雑色を用いることが決まりとなっており、普通似黒・似赤・似青を用いる。インドでは乾陀色、中国では木蘭色、日本では香色という。
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豊後房
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の弟子。佐渡で阿仏房らの指導にあたっていたと思われる。
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北陸道
若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡をいう。
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学生
仏道を修行する者のこと。修学僧・学僧。教え導く指導者に対して、学びきわめる弟子をいう。
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聖教
釈尊の説いた経教のこと。
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たんば房
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の弟子。丹波公日秀のことかと思われる。丹波公は大聖人の葬送の列にも列なり、墓所輪番の一人でもある。上総国(千葉県)の茂原妙光寺に住んだ。
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山伏房
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の弟子。阿仏房の保護を受けていたと思われる。
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追申である。文面の豊後房、丹波房、山伏房については詳しいことは不明であるが、おそらく阿仏房、千日尼らとともに、佐渡の地を仏法流布のため駆け巡った御門下の人々であろう。
かずの聖教をば日記のごとくたんば房にいそぎいそぎつかわすべし
大聖人の佐渡での御生活は文永8年(1271)11月から同11年(1274)3月までの2年5か月におよぶ。
佐渡では、「開目抄」、「観心本尊抄」等々の重書をはじめ、お弟子を激励されるために数々のお手紙を著されているが、その際に必要とされた経典や資料を送るよう、佐渡から鎌倉の弟子へのお手紙の中で、しばしば求められている。
例えば「佐渡御書」の追申に「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし」(0961-10)とある。
身延に入られ、令法久住のために、御書を述作され、またお弟子を訓育されるにあたって、多くの経典等を必要とされたにちがいない。このお手紙を著された弘安3年(1280)は大聖人59歳である。そこには生涯衰えを知らぬ求道の情熱がうかがわれるのである。
1323~1323 国府入道殿御返事top
| 1323 国府入道殿御返事 文永十二年 五十四歳御作 01 あまのりのかみぶくろ二つ・わかめ十でう・こものかみぶくろ一つ・たこひとかしら。 02 人の御心は定めなきものなればうつる心さだめなし、 さどの国に候いし時・御信用ありしだにもふしぎにをぼ 03 へ候いしに、 これまで入道殿をつかわされし御心ざし・又国も・へだたり年月もかさなり候へば・たゆむ御心もや 04 とうたがい候に・いよいよ・いろをあらわしこうをつませ給う事・但一生二生の事にはあらざるか、 此の法華経は 05 信じがたければ 仏人の子となり父母となり女となりなんどしてこそ信ぜさせ給うなれ、 しかるに御子もをはせず 06 但をやばかりなり、 其中衆生悉是吾子の経文のごとくならば教主釈尊は入道殿尼御前の慈父ぞかし、 日蓮は又御 07 子にてあるべかりけるが、 しばらく日本国の人をたすけんと中国に候か、 宿善たうとく候、又蒙古国の日本にみ 08 だれ入る時は・これへ御わたりあるべし、 又子息なき人なれば御としのすへには・これへと・をぼしめすべし、い 09 づくも定めなし、仏になる事こそつゐのすみかにては候いしと・をもひ切らせ給うべし、恐恐。 10 卯月十二日 日蓮花押 11 こう入道殿御返事 ―――――― あまのりの入った紙袋二つ、わかめ十帖、小藻の入った紙袋一つ、たこ一かしら確かに受け取りました。 人の心は定めないものであり、移り変わる心はとらえようがない。佐渡の国にあった時、日蓮の法門を信用されたことでさえ、不思議に思っていたところ、この身延の地まで、夫の入道殿を遣わされたあなたの御志はまことに不思議である。また、国も遠く隔たり、年月も重なっているので、信仰にゆるむ心も生ずるかと案じていたが、ますます強盛な信心の姿をあらわし、功徳を積まれていることは、ただ一生、二生だけの浅い因縁ではないのであろう。 この法華経は信じ難いので、仏は、人の子となり、父母となり妻となるなどして、衆生に信じさせようとされるのである。 ところであなた方には子もなく、親ばかりである。法華経譬喩品第三の「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」の経文の通りであるならば、教主釈尊は入道殿と尼御前の慈父である。日蓮は、また、あなたがたの子であるはずであるが、しばらく、日本国の人をたすけようと、国の中央にいるのである。あなた方が前世に積んだ善業は尊い。 また、蒙古国が日本に乱れ入る時には、この身延へ避難しておいでなさい。また、御子息もないことであるから、年をとった末には、こちらへ移ることをお考えなさい。 いずれの地も定めないものである。ただ仏になる事こそ、最終の住み家であると、心を決めておきなさい。恐恐謹言。 四月十二日 日 蓮 花 押 こうの入道殿御返事 |
たこ
蛸のことではない。干した章魚、きのこの一種である霊芝、たけのこ、などの諸説がある。章魚は室町時代に精進料理として用いられた記録がある。
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いろ
色彩・人情・様子。内面の気持、外面の表情や行動。
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こう
功徳・手柄・功績。
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其中衆生悉是吾子
法華経譬喩品第3に「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とある。
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教主釈尊
一切衆生の教主である仏のこと。教主とは教法の主尊であり、教法能説の仏をいう。一般にはインド応誕の釈尊をさす。
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入道殿
本抄の対告衆の国府入道のこと。国府入道は佐渡国の国府の住人で、大聖人が佐渡に流罪されていた折りに弟子となり、外護を務め、夫婦ともに純粋な信心を貫いた。なお、国府は国司の役所および所在地、入道は在家のままで剃髪した人のこと。
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中国
ここでは、一国の中心部という意味を転じて、辺境の島国である佐渡に対して甲斐国身延は本土内にあるので、中国という語を用いられたものと思われる。
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宿善
過去世に積んだ善根のこと。善根とは善を生ずるもとになるもののこと。善根をつむことによって善い果報を受けることができる。宿縁のことともいえる。
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本抄の御述作は、文永12年(1275)の4月12日と推定されている。
国府入道、また、国府尼の宛名のお手紙は本抄と、「国府尼御前御書」の二通のみで、どのような人であったかを知る手がかりはほとんどない。ただ、佐渡の国府の所在地に住んでいたので「国府入道」と呼ばれたこと、佐渡御流罪中の大聖人を、夫婦で御供養して外護し、更に大聖人が身延に入られてからも、夫の入道がはるばる大聖人を訪ねていることから、非常に純真、強盛な信心の人であったことが知られる。
このお手紙は「国府入道殿御返事」と記されているが、内容的には、夫の国府入道を寄越したことについて、妻の尼御前に充て書かれたものである。老齢の夫妻に対する温かいお心遣いに溢れた一編である。
冒頭「人の御心は定めなきものなれば、うつる心さだめなし」と、人間の心が移ろい易いのは世の常であることを述べられ、そのなかで変わらない入道夫妻の信心の姿を讃えられている。否、変わらないというより、大聖人が鎌倉へ帰り、身延へ入られて後も、いよいよ強盛の信心に励んでいることを、心から称嘆されているのである。
佐渡御流罪中、夫妻がどのように大聖人のためにつくしたかについては、「国府尼御前御書」に詳しい。ともあれ、佐渡流罪中、尽くしてくれたことだけでも不思議に思っていたのに、大聖人と離れても求道心が薄れることがないばかりか、はるばる佐渡から身延にまで訪ねてくるとは、よほど過去に深い因縁があったのであろうと仰せである。
「此の法華経は信じがたければ、仏、人の子となり父母となりめとなりなんどしてこそ信ぜさせ給うなれ」以下の文で教えられていることは、国府入道夫妻がこの妙法を信受できたのも御仏意によるのであるということであり、決して偶然ではないということである。
また、仏法は自然に弘まるものでなく、必ず人によって弘められるという原理でもある。その場合、仏法を弘め、仏法を教える人は「仏、人の子となり……」とあるように、その本地は仏である。「是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」ともいわれているが、これも元意は同じである。
更にまた、法を教える人は「子となり父母となりめとなり」とあるように、現実に、そうした関係である場合は当然として、そうでないとしても、そのような親しみをこめ、相手の苦しみをわが苦しみとしていく慈悲の心がなくてはならないことを教えているともいえる。
したがってまた、法を教わる人は、法を教えてくれる人に対して「仏、人の子となり」の原理からいえば、その人がいかなる関係の人であれ、仏の使いであり、否、仏自身であるとして尊び、敬うべきであろう。
入道夫妻にとって、慈父が教主釈尊であるといわれ、そして、子のない夫婦に対し「日蓮は又御子にてあるべかりけるが」と、御自分が子になってあげようといわれているのは、なんと人間的な温かみにあふれた激励であろうか。
このことは、末尾の「蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし。又子息なき人なれば御としのすへには、これへとをぼしめすべし」の御文ともつながっている。子のない夫妻の、老後に対する不安を温かく思いやっての、実に人情の機微にふれたお言葉である。
しかし、ただ、それだけに終始しているとすれば、安易な同情と受け取られるかも知れない。最後の「いづくも定めなし。仏になる事こそつゐのすみかにては候へとをもひ切らせ給うべし」の一文は、信心に対する深い自覚を教え、人間誰しもがまぬかれない仏道修行の厳しさを、明確に示されている。
仮に、大聖人のもとへ頼って来たとしても、それもまた、定めない住み家にすぎない。自分自身が、真剣に信心に励み、成仏すること以外に、本当の永住の家はない、との仰せである。
事実、大聖人をわが地に迎えた身延の地頭・波木井実長は、大聖人御入滅後は、正しい信心から外れてしまった。大聖人の身近にいれば絶対、間違いがないというものではない。所詮、仏法は、各々の己心の中に開き、覚り、築くものであるから、時空の遠近は、無関係なのである。その、各人が対決しなければならないのが成仏であるという厳しい理を「をもひ切らせ給うべし」の一言に含められているといえよう。
1324~1325 国府尼御前御返事(佐渡給仕御書)top
1324:01~1324:09第一章供養の功徳を説くtop
| 1324 国府尼御前御書 建治元年 五十四歳御作 01 阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文、同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ。 ・ -----― 阿仏御房の尼御前から、銭三百文いただきました。同心の二人であるから、この手紙を二人で人に読ませて、お聞きなさい。 -----― 02 単衣一領・佐渡の国より甲斐の国・ 波木井の郷の内の深山まで送り給候い了んぬ、 法華経第四法師品に云く 03 「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て 合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、 是の讃仏に由るが故に 04 無量の功徳を得ん、 持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、 文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して 05 一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれ 06 て候、まことしからぬ事にては候へども・仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、 其の上妙楽大師と申す人・此の 07 経文を重ねて・ やわらげて云く「若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云、 釈 08 の心は末代の法華経の行者を供養するは 十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも 其の功徳すぎたり、 09 又濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。 -----― 単衣一領、佐渡の国から、甲斐の国・波木井郷の内の深山まで送っていただきました。 法華経第四の巻の法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とある。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末法悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬ事ではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。そのうえ、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人は、その福は仏の十号に過ぎるであろう」と述べている。 この釈の心は、末法の法華経の行者を供養することは、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているということである。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるということである。 |
単衣
本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであるが、後に小袖の上に着るようになった、夏の一重の衣服のこと。
―――
甲斐の国・波木井の郷
山梨県南巨摩郡身延町のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
偈
仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ(Śloka)、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤー(Aryā)などがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。
―――
持経者
経典を受持・護持する者。正法を信じ、身口意の三業にわたって精進する者のこと。末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する者をさす。
―――
三業相応
三業とは身口意で行なう業のこと。相応とはあいかなうこと。身口意の三業が一致していること。すなわち、心で思い、言葉で述べ、身で行なうことが一致していることをいう。
―――
一中劫
20小劫のこと。
―――
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
十号
仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正徧知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。
―――
濁世
濁って乱れきった社会・世の中。五濁悪世・濁劫悪世のこと。
―――
留難
留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。
―――――――――
本抄は、建治元年(1275)6月16日に身延でしたためられ、佐渡に住む国府尼御前に与えられたお手紙である。御真蹟は7紙で佐渡の妙宣寺に現存する。
国府入道が国府尼御前から単衣を一領、阿仏房の尼御前から銭三百文をことづかって身延の大聖人の所へ訪ねてきた。日蓮大聖人はこうした真心の御供養に対して、佐渡滞在中お世話になったことのお礼を兼ねて、心をこめた謝意と激励の言葉を述べられている。ただ、文永12年(1275)4月の作と推定される国府入道殿御返事(1323)にも、入道が身延を訪ねた様子が記されているところから、本書を文永11年(1274)の作とする説もある。
最初の段は、末法の法華経の行者に供養する功徳がいかに大きいかということを法華経法師品第十の文を引いて述べられている。
ここに、末法の法華経の行者すなわち日蓮大聖人が、釈尊以上の仏であり、末法の御本仏であるということを暗に示されている。つまり功徳の大小というのは、その所対によって決まる。例えば小乗経の仏より大乗経の仏の方が勝れている。したがって小乗教の仏に供養するよりも大乗経の仏に供養する功徳の方が大きい。権仏より実仏が勝れる。よって実仏に供養する功徳は権仏に供養するよりも大きいわけである。したがって、功徳の大小を示されていることは、その供養の対象の仏としての位の高低、力の勝劣を示されていることになるのである。
釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたり
法師品の文を受けて、日蓮大聖人の立場から、その内容を更にわかりやすく示された御文である。
法師品のこの文に述べられていることは「讃仏」であり「持経者を歎美」することである。にもかかわらず、大聖人が「供養」と置き換えられているのは、本来、法師品の原文のこの段が、持経者への供養を勧めたところだからである。
すなわち、この偈の冒頭に「若し仏道に住して、自然智を成就せんと欲せば、常に当に勤めて、法華を受持せん者を供養すべし」と。そして「応に天華の香、及び天宝の衣服、天上の妙宝聚を以て、説法者を供養すべし」また「上饌の衆の甘味、及び種種の衣服もて、是の仏子に供養して、須臾も聞くことを得んと冀え」と述べられている。
その中においていわれている「讃仏」とは口業による供養であり、そこには当然、意業の供養も含まれているわけで、したがって、「三業相応して……ねんごろに供養し奉るよりも」と大聖人が仰せられているのは、法華経の原文の心を忠実に受けておられることが理解できよう。
また、引用の法師品の文においては、単に「持経者を歎美せん」とあるのを「末代悪世の世に法華経の行者を供養せん」とされているのも、法師品の中のすぐ前のところに「吾が滅後の悪世に、能く是の経を持たば、当に合掌し礼敬して、世尊を供養するが如くすべし」とあるのを見れば当然であろう。
このように釈迦仏を直接に供養する功徳よりも、一介の凡夫にすぎない末法の法華経の行者を供養する功徳がはるかに大きいとは、普通には、とうてい信じがたいところであろうと世情を容認しつつ、しかし「仏の金言にて候へば疑うべきにあらず」と、信をとるべきことを勧められている。
そのあとに妙楽大師の釈を引かれているのは、経文こそ仏説であるから信用するには十分なのであるが、さらに念を押して、この釈を示されているのである。
なお、ここでは「仏の金言にて候へば」と単純に信をとるべき理由を挙げられているだけであるが、その奥には、末法の法華経の行者とはすなわち本地内証は久遠元初の自受用報身如来であるという仏法の極説の深い理由づけがあることはいうまでもない。
対告衆の国府尼、千日尼といった老齢の婦人達を考慮されて、そうした複雑な論議は避けられたとも考えられるが、それ以上に、信心の根本精神は、仏の金言であれば、素直に信じなければならないことを教えるために、このように述べられたと拝すべきであろう。
1324:10~1325:04第二章大難を挙げて本仏の慈悲を示すtop
| 10 夫れ日蓮は日本第一のゑせものなり、 其の故は天神七代は・さておきぬ、地神五代も又はかりがたし、人王始 11 まりて神武より今に至るまで九十代・ 欽明天王より七百余年が間・世間につけ仏法によりても日蓮ほど・あまねく 12 人にあだまれたるものは候はじ、 守屋が寺塔をやき清盛入道が東大寺興福寺を失せし・ 彼等が一類は彼がにくま 13 ず、将門貞たうが朝敵と成りし・伝教大師の七寺にあだまれし・彼等もいまだ日本一州の比丘・比丘尼・優婆塞・優 14 婆夷の四衆には.にくまれず、日蓮は父母・兄弟・師匠・同法・上一人.下万民・一人ももれず・父母のかたきのごと 15 く・謀反強盗にも・すぐれて人ごとに・あだをなすなり、されば或時は数百人にのられ・或時は数千人に取りこめら 16 れて刀杖の大難にあう、所を・をはれ国を出さる・結句は国主より御勘気二度・一度は伊豆の国・今度は佐渡の嶋な 1325 01 り、されば身命をつぐべきかつてもなし・形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の嶋に・はなたれしかば彼の国 02 の道俗は相州の男女よりも・あだをなしき、 野中に捨てられて雪にはだへをまじえ・くさをつみて命をささえたり 03 き、 彼の蘇夫が胡国に十九年・雪を食うて世をわたりし、 李呂が北海に六ケ年がんくつにせめられし・我は身に 04 て・しられぬ、これは・ひとえに我が身には失なし日本国を・たすけんと・をもひしゆへなり。 -----― 日蓮は日本第一のまやかし者である。そのわけは、天神七代はさておき、地神五代も、また知りがたいが、人王が始まって、神武天皇から今上帝に至るまで九十代、欽明天皇の時代に仏教が伝来してから七百余年の間、一般世間のことにつけ、仏法のことにつけても、日蓮ほどすべての人に敵視された者はいないからである。 物部守屋が寺塔を焼き、平清盛入道が東大寺・興福寺を焼失させたが、彼等の一族は彼等を憎まなかった。 平将門や安倍貞任は朝敵となり、伝教大師は南都七大寺に憎まれたが、彼等も未だ、日本全土の出家の男女・在家の男女の四衆には憎まれなかった。 日蓮に対しては父母・兄弟・師匠・朋友をはじめ、上一人から下万民に至るまで一人ももれず、父母の仇のごとく、謀反人や強盗よりもひどく、人ごとに迫害を加えるのである。 それゆえ、ある時は数百人に悪口をいわれ、ある時は数千人に取り囲まれて、刀で斬られ杖で打たれるなどの大難にあった。住居を追われ、国を出された。その挙句、国の執権から御勘気を二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島へ流罪となった。 命をつなぐ食糧もなく、身体をおおうべき粗末な衣も持たず、北方の海の島に流罪されてみると、佐渡の国の出家や在家の者は、相模の男女よりも迫害を加えた。 野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで命をささえたのである。 かの蘇武が、捕えられた胡国の地で十九年間、雪を食として世を過ごし、李陵が北海の岩窟に六年間閉じこめられたその苦しみを、今、わが身にあてて知ることができた。 このことは、ひとえに、わが身の誤りではなく、日本国の人々を助けようと思ったが故の難である。 |
ゑせもの
にせ者。取るにたりない者、卑しい者、バカ。
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天神七代
日本神話の神々で、地神五代より前に高天原に出現して日本国を治めたという七代の天神。国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の独化身三代と、夫婦で一代である泥土煮尊と沙土煮尊、大戸之道尊と大苫辺尊、面足尊と惶根尊、伊弉諾尊と伊弉冉尊の耦生神四代のこと。
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地神五代
天神七代のあと、神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の地神。天照大神、天忍穂耳尊、天津彦彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊をさす。
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神武
第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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欽明
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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守屋
(~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
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清盛入道
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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東大寺
聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
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興福寺
法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。
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将門
(~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
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貞たう
安倍貞任(1019~1062)。平安後期の陸奥の豪族。強力な地盤を背景に、朝廷に従わず、独立の風を強めたため、朝廷は源頼義、義家の親子に討伐を命じ、ここに前9年の役が起こった。貞任は父の頼時の死後、抵抗をやめず、天喜5年(1057)いったん義家を破ったが、康平5年(1062)、出羽の清原光頼、武則兄弟と同盟した朝廷軍に大敗し、本拠厨川柵(岩手県盛岡市付近)に逃れたが敗死した。
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七寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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比丘
ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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比丘尼
ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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優婆塞
在家の男子をいう。
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優婆夷
在家の女子をいう。
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四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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同法
同胞・仲間。同じ師匠について仏道修行する者。
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刀杖の大難
①勧持品第13に出てくる三類の強敵の第一類、俗衆増上慢が起こす難。②文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。(小松原法難)。
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御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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かつて
かて・糧・食料。
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藤の衣
粗末な衣類のこと。藤や葛などのツルから繊維をとって織った布で、貧しい人々が着るものとされていた。
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相州
相模国(神奈川県)の別称。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。
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蘇夫
(前0140頃~前0060)。蘇武のこと。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らは某沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折りには、髪は真っ白になっていたという。帰朝御も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、漢中興の補佐に列せられるほど、名臣として尊敬された。
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胡国
中国人は中華思想の上から、周辺の諸民族を胡、夷などと呼んで卑しんだが、胡はとくに西方の民族をさしていった語。秦・漢以前には、匈奴をさす。
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李呂(
(~前0074)。中国・前漢の武将。李広の孫。字は少卿。漢書によると、幼少の頃から弓術に長じ、謙譲で、部下を愛したので評判も良く、若くして登用された。武帝に願って五千の歩兵を率い、匈奴軍を撃破していったが、ある時、匈奴王・単于の指揮する三万の騎兵に遭遇し、包囲され、奮闘のかいなく、ついに李陵は匈奴に降った。武帝は李陵が漢に叛逆したと誤解して、李陵の一族を皆殺しにしてしまった。後、過ちを悔いた武帝は、使者を派遣して李陵を呼び戻そうとしたが、李陵はそれを断わり、単于の娘をめとり、匈奴の地に二十余年暮らして病没した。
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前章の、法華経の行者を供養すれば無量の善根を積み、反対に留難をなせば頭七分に破るとの文を受けて、日蓮大聖人が日本の歴史始まって以来、かつて前例を見ないほど国中の人々から憎まれ、迫害されてきたことを述べられている。
しかも「これはひとえに我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり」と仰せのように、大聖人の慈悲に対する逆恨みから起こったものである。
事実、もし大聖人が三災七難に苦しむ日本民衆を救おうとして、国諌の書「立正安国論」を著しこれを上呈するなどということをされなかったならば、松葉谷の焼き打ち、伊豆流罪という難は起きなかったであろう。南無妙法蓮華経という奇妙な題目を唱える新しい僧が現れた、といったぐらいの認識しか、人々はもたなかったにちがいない。
また、邪法邪師の根源としての良観房に対する破折、他国侵逼難より一国を救うため各宗各寺に法論対決を挑まれた十一通御書の出来事等がなければ、やはり竜口の法難や佐渡流罪もなかったはずである。まさに「日本国をたすけんとおもひしゆへ」の苦難の連続の一生であられたのである。
「開目抄」に「日蓮が法華経の智解は、天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(0202-08)と。日蓮大聖人において、苦難と慈悲とは表裏の関係にあった。それはまた、大聖人の大慈悲に対して、逆恨みし、迫害をもって応えた日本民衆の生命の汚れと歪みとのいかに深いかを証するものでもあった。
1325:05~1325:13第三章尼御前の信心を励ますtop
| 05 しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めを・をそれて夜中に食ををくり、 或る時は国のせめを 06 も・はばからず身にも・かわらんと・せし人人なり、さればつらかりし国なれどもそりたるかみをうしろへひかれ・ 07 すすむあしもかへりしぞかし、いかなる過去のえんにてや・ありけんと・おぼつかなかりしに・又いつしか・これま 08 で・さしも大事なるわが夫を御つかいにて・つかはされて候 、ゆめかまぼろしか尼ごぜんの御すがたをば・みまい 09 らせ候はねども心をば・これに・とどめをぼへ候へ、日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月 10 ををがませ給え、 いつとなく日月にかげをうかぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん、南 11 無妙法蓮華経。 12 六月十六日 日蓮花押 13 さどの国のこうの尼御前 -----― ところが尼御前および入道殿は、日蓮が佐渡の国に居た時は、人目をはばかって夜中に食物を送り、ある時は国の役人が咎めをも恐れず、日蓮の身代わりにもなろうとした人々である。それゆえ、辛かった佐渡の国ではあったが、そった髪を後へ引かれ、進む足も戻りそうになるほど名残り惜しいものであった。 どのような過去の因縁によるものかと、不思議に思っていたところ、また、いつの間にかこの身延まで、これほど大切な我が夫を、御使いとして遣わされた。 夢か、幻か。尼御前の御姿は見ることはできないが、心はここにおられると思われる。 日蓮を恋しく思われるならば、常に朝に出る日、夕に出る月を拝みなさい。何時であっても、日月に影を浮かべている身なのである。 また、後生には、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 六月十六日 日 蓮 花 押 さどの国のこうの尼御前 |
後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、「御義口伝」(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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日本国中が「父母のかた訖のごとく、謀叛強盗にもすぐれて」憎んだ日蓮大聖人を、国府入道夫妻は、種々御供養し、身をもって守ろうとさえしたのである。これに対し、心からの礼を述べられているところである。
普通ならば、流罪の地に未練愛着など、ありえようはずがない。それを「そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりしぞかし」と言われているところに、国府入道夫妻に対する大聖人の愛情の深さが示されている。
しかも、そうした大聖人の心に応ずるかのように、国府入道は、身延に入山された大聖人を慕って、はるばる佐渡から訪ねてきたのである。国府入道が来たということは、単に国府入道一人の問題ではない。途中、どんな危険があるとも知れない長路の旅に、大事な夫を送り出した妻の尼御前も、姿こそないが、心はすでに一緒に来られているのだと仰せである。尼御前の思いもまさにそうであったにちがいない。
そして更に、今度は逆に、大聖人自身、日月に影を浮かべて、どんなに遠く離れていても、大聖人を思う尼御前を訪ねているのであり、そこには、間を隔つ何ものもないことを示されている。
「いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」とは、さらに深く拝すれば、単に情緒的な意味でいわれたのでなく、宇宙法界に遍満する久遠本仏としての境地を仰せられているのである。
「又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」とは、妙法の信心を貫き通すならば、必ず成仏を遂げることができる、ゆえに尼御前も成仏得道を遂げて、霊山浄土へいらっしゃい、そこでお会いしましょうと、一方では尼御前の信心を励まし、一方では、いま直接に大聖人にお会いできない尼御前の心を慰めながら、御自身の仏法への絶対の確信を教えられているのである。
ともあれ、この段は、妙法への確信と御本仏としての境地を根底に示しつつ、入道夫妻に寄せる、人間味あふれる愛情を吐露された、感銘深い一節である。
1326~1330 一谷入道御書top
1326:01~1326:07第一章二度の受難を回想するtop
| 1326 一谷入道御書 建治元年五月八日 五十四歳御作 与一谷入道日学女房 01 去る弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気を蒙つて.伊豆の国.伊東の郷と云う処に流罪せられたりき、兵衛の介 02 頼朝のながされてありし処なり、 さありしかども程無く同三年太歳癸亥二月二十二日に召し返されぬ、又文永八年 03 太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが.忽に頚を刎らるべきにて.ありけるが.子細ありけるかの故に.しばらく 04 のびて北国佐渡の嶋を知行する武蔵の前司預りて・其の内の者どもの沙汰として彼の嶋に行き付いてありしが・ 彼 05 の島の者ども因果の理をも弁へぬ・あらゑびすなれば・あらくあたりし事は申す計りなし、 然れども一分も恨むる 06 心なし、其の故は日本国の主として少しも道理を知りぬべき 相模殿だにも国をたすけんと云う者を 子細も聞ほど 07 かず理不尽に死罪にあてがう事なれば・況や其の末の者どもの事はよきも・たのまれず・あしきも・にくからず。 -----― 去る弘長元年五月十二日に御勘気をこうむって、伊豆の国・伊東の郷というところへ流罪された。そこは兵衛介頼朝が流されていたところである。しかし、ほどなく、同三年二月二十二日に赦され鎌倉に返された。 又文永八年九月十二日、再び御勘気をこうむり、すぐに頚をはねられるべきところを、何の事情があったのか、しばらく延びて、北国・佐渡の嶋を知行する武蔵前司・北条宣時に預けられ、その家来達の計らいとして、佐渡の国へ流された。 かの島の者達は、因果の理もわきまえぬ粗暴な人々であったので、日蓮に荒々しくしたことは、申すまでもない。しかしながら、少しも恨む心はない。 その故は日本国の主人として、少しは道理を知っているはずの執権・北条時宗殿でさえも、法華経をもって国を救おうとする者を、詳しく事情をよく聞きもせず、理不尽にも死罪に処するところであるから、ましてや、その下々の者達のことは、善い人でも頼りにできず、悪くされても憎くはないのである。 |
伊豆の国伊東……
現在の静岡県伊東市。大聖人は弘長元年(1261)5月12日から同3年(1263)2月22日までの約2年間、この地に流罪された。執権・北条長時が、念仏の強信者であった父の極楽寺入道重時の意を受けて、貞永式目第十二条の「悪口の咎の事」の条文・「闘殺の基、悪口より起る」を濫用して罪状を仕立て上げたものと思われる。妙法比丘尼御返事(1413)には「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」とある。
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兵衛の介頼朝
源頼朝のこと。兵衛の介とは、律令制で左右兵衛府の次官。正しくは兵衛佐と書く。頼朝は13歳の時に右兵衛佐に補せられたのでこう呼ばれた。平治の乱(1159)に敗れた頼朝は、翌年伊豆に流され、治承4年(1180)に平氏追討の兵を挙げるまでこの地にあった。
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武蔵の前司
武蔵国の前の国司のことで、ここでは北条宣時(1238~1323)をさす。宣時は文永4年(1267)6月に武蔵守に任じられ、同10年(1273)までその職にあった。その間、竜口の法難に際して、大聖人の身柄の保護監督にあたる「預り役」となっており、佐渡での大聖人の配所は宣時の知行地である。後に連署にまでに進んだ幕府内の実力者であったが、武蔵守当時、三度にわたって私製の御教書を発して大聖人の外護を禁ずるなど、佐渡在住中の大聖人を迫害しつづけた。
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あらゑびす
荒々しい人、粗暴な田舎者の意で、都人(中央政権)が、辺地に住んでいるものをこう呼んだ。鎌倉時代には関東(鎌倉幕府)を指している場合が多い。
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相模殿
相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
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本抄は、建治元年(1275)5月8日、身延において一谷入道女房に宛ててしたためられたお手紙である。本抄の題名が「一谷入道御書」とあるのは、一谷入道女房に与えられているものの、その夫・一谷入道への御指南が込められているため、後人が名づけたようである。御真蹟は断簡で十紙が現存し、上総(千葉県)の鷲山寺他三か所に散蔵されている。「一谷入道百姓女房御書」「沢入道殿女房御返事」とも別称する。
ここは、日蓮大聖人が妙法弘通の故に、こうむった二つの大難を回想風に述べられているところである。一つは、弘長元年(1261)5月12日の伊豆の伊東への流罪であり、いま一つは、竜口の法難から佐渡流罪に及ぶ大難である。これらの二つの大難は、開目抄上に「既に二十余年が間、此の法門を申すに、日日月月年年に難かさなる。少少の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ」(0200-17)と仰せの、二度の王難であることはいうまでもない。つまり、ともに、ただ俗衆・道門増上慢によるものだけではない。僭聖増上慢、すなわち国家権力による難である点が共通している。更に、注意すべきは、弘長元年の大難が純然たる流罪であるのに対し、文永8年(1271)の大難は、結果的には流罪になったが、もともと死罪になるべき性質のものであったことである。
本文に「又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頚を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて……彼の嶋に行き付いてありしが……」と述べられているのも、元来、死罪であったのが、結果的に佐渡流罪になったことをほのめかされている。
「子細ありけるかの故」に、死罪がしばらく延びた、と簡潔に大聖人は語られているが、その〝子細〟とはおそらく、幕府側の事情をいわれているのであろう。報恩抄にも「相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん。其の夜はのびて依智というところへつきぬ」(0322-17)とあるところからも、幕府側に何らかの不都合事が生じたと考えられる。「種種御振舞御書」に「昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり」(0915-15)とある。しかし、幕府側の事情による死罪延期も、竜口の刑場で大聖人を斬れなかったという事実を前提としていわれているのであって、もし、竜口で処刑が執行されていたならば、延期も何もなかったところである。ここに重大な事実があったことは、「種種御振舞御書」をはじめ、諸御抄に明らかである。
竜口の刑場で〝光り物〟が現れて、その結果、事なきを得たという事実である。これは、御本仏・日蓮大聖人の御一念によって、宇宙森羅万法が、大聖人を守護すべく作動したのであった。
さて同時に、このとき、日蓮大聖人御自身が発迹顕本されたという、まぎれもない事実である。この発迹顕本については、開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢぬらむ」(0223-16)と、仰せられているところからも明らかである。すなわち、末法の御本仏・日蓮大聖人が、いよいよ久遠元初自受用報身如来の再誕として、御本仏の本地を顕されたということである。しかし、一谷入道女房の機根を考慮されてか、そのことは触れられずに「子細ありけるかの故に」と幕府側の事情に事寄せて、簡潔にすまされているのである。
彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし
いかに、佐渡の住民が、物事の因果の道理に暗く、まして仏法に無知のゆえに、大聖人に辛く当ったかを述懐されている。本抄の後にも「文永九年の夏の比、佐渡の国石田の郷一谷と云いし処に有りしに、預りたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに……」(1328-17)とあるのと同じ意であろう。当時の佐渡の状況について、大聖人は諸御書に記されていて、まことに酷烈な扱いのもとに置かれたことを知ることができる。
例えば、富木入道殿御返事には「此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや」(0955-01)
また、呵責謗法滅罪抄には「此の佐渡の国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(1132-01)
このような状況であったが、大聖人は「一分も恨むる心なし」と、澄みきった境涯で過ごされたのである。
その理由として、日本国の主たる北条幕府が、大聖人を、理不尽にも死罪に処そうとしたことを挙げられている。主人たる幕府が、物事の因果の理を弁えないのであるから、その末に当たる佐渡の住民が理不尽に大聖人を憎悪し、冷酷に扱っても当たり前であると仰せられている。
すなわち、「一分も恨むる心なし」という御境涯は、その根底に、当時の社会や人間に対する高次元からの深い洞察によって支えられていたことを学ぶことができるのである。
ここに、日蓮大聖人が単に、精神論として、あるいは仏法者としての建て前から、「恨むる心なし」といわれているのではないことを知らねばならない。御本仏の高い立場と、深い仏法哲理に基づく智慧の上から、現実の日本国の姿を見おろされ、その上で「恨むる心なし」と達観されているのである。結局、仏法で得られる境涯とは、現実の社会、人間を洞察する智慧の深さと不可解の関係にあることを、この大聖人の述懐は教えているといえよう。
仏法の目的を畢竟するに、仏の智慧と慈悲を獲得することにつきる。智慧が豊かであるとは、大所高所から物事を悠々と見おろし、瑣末な現象にとらわれる小さな了見を超越しているということであろう。そして、その智慧の豊かさは、境涯の深さによりもたらされ、更には、人間の醜さと哀しさとをも大きく包容する慈悲の一念の強さとなって現れるのである。故に、この両者は不可分の関係にあり、真に智慧が豊かであることは同時に、民衆救済の慈悲の念が強いということであり、逆に慈悲深い人は、即智慧の豊かな人をいうのである。
御本仏・日蓮大聖人の「一分も恨むる心なし」との広大な御境涯の奥に、智慧の輝きという仏法の重要な教えを学び取っておきたいのである。
1326:08~1326:14第二章法華弘通の真意を述べるtop
| 08 此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い 儲けしなり、 09 弘演と云いし者は 主衛の懿公の肝を取りて我が腹を割いて納めて死にき、 予譲と云いし者は主の知伯が恥をすす 10 がんが・ために劒を呑んで死せしぞかし、是は但わづかの世間の恩を報ぜんが・ためぞかし。 -----― この法門を申し始めてから、命を法華経に差し上げ、名を十方世界の諸仏の住所である浄土に流そうと覚悟していた。 弘演という者は、主君・衛国の懿公の肝を取って、自分の腹をさいて、その中に肝を入れて死んだ。予譲という者は、主君の智伯の恥をそそぐために、剣に伏して死んだのである。これらは、ただ少しばかりの世間の恩を報ずるためなのである。 -----― 11 況や無量劫より已来六道に流転して仏にならざりし事は法華経の御ために身を惜み命を捨てざる故ぞかし、 さ 12 れば喜見菩薩と申せし菩薩は千二百歳の間・身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、 七万二千歳の間・臂を焼いて法華 12 経を供養し奉る其の人は薬王菩薩ぞかし、 不軽菩薩は法華経の御ために多劫の間・罵詈毀辱・杖木瓦石にせめられ 13 き、今の釈迦仏にあらずや、 されば仏になる道は時により品品に替つて行ずべきにや、 -----― ましてや、無量劫からこのかた、六道に深く沈んで仏にならないことは、法華経の御ために身を惜しみ、命を捨てなかった故である。 それゆえ、喜見菩薩は、千二百歳の間、わが身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳の間、臂を焼いて法華経を供養申し上げた。その人は、今の薬王菩薩なのである。不軽菩薩は法華経の御ために、多劫の間、罵られたり、はずかしめられたり、杖木で打たれたり、瓦石を投げられたりして責め苦にあった。その人こそ、今の釈迦仏ではないか。 それゆえ、仏になる道は、その時によってさまざまにかわって修行すべきなのであろう。 |
十方世界の諸仏の浄土
十方は東西南北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維に上下の二方を加えたもの。十方ですべての空間を包含し、したがって、十方世界とは全宇宙を意味する。浄土は仏の住する清浄な国土。仏国土のことをいう。
―――
弘演
中国の春秋時代、衛の懿公に仕えた忠臣で公演とも書く。弘演が使者としての役目を終えて帰国したところ、衛は狄に攻め滅ぼされており、主君の懿公は殺され、その遺体の内臓が散乱しているのを見て、主の名誉を守るため自分の腹をさいて、懿公の臓物を収めて死んだという。内臓をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。紀元前0660年頃の話。魏志・陳矯伝にある。
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衛の懿公
衛国は、中国・周王朝の初期(前1100年頃)に河南省地方に建国された、周諸侯国の一つ。懿公は、前六六八年に即位したが、当時、衛は周辺の強国の圧迫を受けて国勢はふるわず、また、懿公自身も淫楽奢侈にふけっていたので人心を失い、即位後九年にして狄に攻められた時に殺された。その際、臣下の弘演のとった行動は、忠臣の鑑として有名。
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予譲
中国・戦国時代、晉の智伯に仕えた忠臣。はじめ、范氏、中行氏の臣下であったが、用いられなかった。後、智伯に仕えて重用された。智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放した。その後、予譲は体に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰すなどして姿を変え、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受け、仇を報いたしるしに、この衣を刺した後、自殺したという。ここで「剣をのみて」とあるのは、自刃したことをいう。史記八十六・予譲伝にある。
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智伯
(~前0353)。中国・春秋末期の晉の卿。智は氏で、諱は瑶。智氏は晋の名族で、代々智伯と称した。春秋末にいたって、晉王室の力は弱く、六卿の勢力が強大になった。智伯は韓・魏・趙の三氏と共に范・中行の両氏を討ち、その領地を併有して最も大きな勢力を得た。そして、更に晉王室の土地をも併合しようとしたが、かえって韓・魏・趙のために滅ぼされた。史記三十九・晋世家にある。
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無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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六道
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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喜見菩薩
一切衆生憙見菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれ、薬王菩薩の前身とされる。同品によると、日月浄明徳仏のもとで法華経を習い、仏と法華経の恩に報いるため、体に香油を塗って身を焼き、その火は千二百歳の間燃え続け、八十億恒河沙の世界を照らした。更に、日月浄明徳仏の滅後、八万四千の塔を造り、その前で七万二千歳の間臂を焼き、燈として供養したという。
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日月浄明徳仏
薬王菩薩本事品で説かれる仏。汚れなき月と太陽の光に照らされる徳ある者、の意。無量恒河沙劫という遥か昔にいたとされる仏。その寿命は四万二千劫とされる。薬王菩薩が過去世に一切衆生喜見菩薩として、菩薩幢を修行していた時の師である。
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薬王菩薩
衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
罵詈毀辱
①毀罵、誹謗し謗ること。②毀辱、毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
―――
杖木瓦石
不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
―――――――――
ここは、冒頭で述べられた、伊東の流罪と佐渡流罪の二つの大難も、日蓮大聖人にとっては、あらかじめ覚悟の上であったことを述懐されているところである。
「 此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり」といわれているように、日蓮大聖人は立宗宣言されて、妙法弘通を開始されてからというもの、不惜身命の激闘を敢行されてきたのである。
したがって、命を法華経に奉ろうとの覚悟に立たれた日蓮大聖人は、流罪・死罪に値うことを承知の上で、妙法弘通、民衆救済の活動に入られたのである。何故に、大聖人はそこまで不惜身命の固い決意に立たれたのであろうか。それは、二つの理由が本抄からうかがえるのである。一つは、報恩のためであり、いま一つは、自身の成仏のためである。報恩については、この章ではわずかに弘演と予譲という外道の人々の例を挙げられて、暗に、大聖人の不惜身命の決意が、報恩思想にあることを示されている。ここでは、直接にはいわれていないが、後に国恩、仏恩を報ずるために不惜身命の激闘に入られたことをはっきり述べられている。
いま一つは、無量劫より六道輪廻して仏になりえなかった理由を、法華経に身を惜しみ命を捨てなかった点に求められ、そこから、仏になるために、法華経に命を捨てるという不惜身命の決意に立たれたことを述べられている。ここでは、後者が主として説かれている。もっとも、以上の二つの理由は、ともに対告衆の一谷入道女房の機根をかんがえられたうえで、示同凡夫の立場から、述べられていることはいうまでもない。
仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきや
これは、成仏のための道、言い換えれば、仏道修行のあり方が、時により種々に変化していくものであり、固定的、形式的なものではないことを明かされている。
佐渡御書にも「仏法は摂受・折伏時によるべし。譬えば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は、時によりて法を行ず」(0957-02)と仰せの通りである。
確かに仏法の説く〝法〟は不変であり、時代、社会の変遷を超越している。いわば、法は超歴史的であり、その意味で、いかなる時代、社会にあっても、変わらない真理性と普遍性とを内包している。だが、真理としての法自身は、その時代、社会の民衆を実際に救い得て初めて、その価値を生ずるのである。事実の上で、この民衆を救済するという観点に立ったとき、そこに、法体を修行し、弘通するうえでの方法論や化儀における融通性や柔軟性が要求されてくるのは必然の道理である。なぜなら、時代、社会は結局、人間により形成され、人間が築き上げていくものだからである。
人間それ自身、生命それ自体の真理は万古不易であっても、人間の営む生活、風俗、習慣、文明の進歩度等は可変であり、事実、変化していくことは、これまでの歴史をみても疑問をはさむ余地は全くない。
ここに、不変で超歴史的な〝法〟をいかにして、変化しつづける歴史、社会に展開するかという重大問題が生ずるのである。日蓮大聖人は、こうした問題を問い直されたのである。すなわち、仏法の目的を、現実の民衆救済、一切衆生の成仏という唯一無二の一大事に置かれているのであり、ここに、大聖人の仏法を事の仏法と名づける理由もある。
本抄においても、仏になる道として、喜見菩薩や薬王菩薩、不軽菩薩の先例を挙げられ、さまざまに変わって修行すべきであると説きすすめられ、日蓮大聖人が、末法の日本国という時代、社会にかなった成仏の道として、いかなる方途を歩まれたかを次第に明かされていくのである。
1326:13~1327:08第三章諸宗弘通の誤りを説くtop
| 13 今の世には法華経は・さ 14 る事にて・おはすれども時によりて事ことなるなれば・山林に交わりて読誦すとも将又・里に住して演説すとも・持 15 戒にして行ずとも臂を焼いて供養すとも仏には・ なるべからず、 日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について 1327 01 不思議あり・人是を知らず、譬えば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土 02 宗・律宗等の人人は我も法を得たり我も生死を離れたる人とは思へども・ 立始めし本師等・依経の心をも弁えず、 03 但我が心の思い付いて有りしままに 其の経を取り立てんと思へる墓無き心計りにて・ 法華経に背けば又仏意にも 04 叶わざる事をば知らずして弘め行く程に・国主・万民是を信じぬ又他国へ渡り又年久しく成りぬ、 末学の者共・本 05 師の誤をば知らずして 弘め習ひし人人をも 智者とは思へり、 源濁りぬれば流浄からず 身曲りぬれば影直から 06 ず、 真言の元祖・善無畏等は既に地獄に堕ちぬべかりしが・或は改悔して地獄を免れたる者もあり、 或は唯依経 07 を弘めて法華経の讃歎をも・せざれば・生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり、 而るを末末の者・此の事を知 08 らずして諸人一同に信をなしぬ、譬えば破たる船に乗つて大海に浮び酒に酔る者の火の中に臥せるが如し。 -----― 今の時代には、法華経が最高であることは当然であるが、修行のあり方が時によって異なるものであるから、山林に入って読誦しても、あるいはまた、人里に住んで演説しても、戒を持って修行しても、臂を焼いて供養しても、仏になることはできない。 日本国は仏法が盛んなようであるが、仏法について不思議なことがある。人はこれを知らずにいる。譬えば、虫が飛んで火に入り、鳥が蛇の口に入るようなものである。 真言師、華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗などの人々は、我も法を悟ることができた、我も生死の苦しみから度脱したとは思っている。だが、その宗を立てた本師達は、依経の意を知らず、ただ、自分の心の思いついたままに、その経をとりたてようと思う浅はかな心ばかりで、法華経に背いているので、また、仏の本意にも叶わないのである。それも知らずに、自宗を弘めていくうちに、国主も万民も、これを信ずるようになったのである。また、他国へ渡り、また年月も久しくなった。末々の学者達は、こうした本師の誤りを知らずに、師のように弘め、修行する人々を智者であると思っている。 源が濁っていれば、その流れは清くはない。身体が曲がればその影も真っすぐではない。 真言の元祖・善無畏達は、すでに地獄に堕ちるべきところであったが、あるいは改悔して、地獄をまぬかれた者もおり、あるいは、ただ依経だけを弘めて、法華経を讃嘆もそしりもしなかったので、生死の苦は離れられないが、悪道に堕ちなかった者もあった。 ところが末々の者は、こうしたことを知らないで、多数の人々が一同にその教えを信じている。譬えば、破損した船に乗って大海に浮かび、酒に酔った者が火の中で寝ているようなものである。 |
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――」
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
―――
三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
―――
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
本師
①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
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依経
各宗派がよりどころとする経のこと。一代聖教大意には「華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397-05)とある。
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善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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すでに地獄に堕ちぬべかりしが……地獄を脱れたる
密教僧の善無畏が地獄に堕ちた時、釈尊を讃嘆する法華経の一節を唱えて地獄を脱することができたという。善無畏抄(1233)に説かれる。「此の如くいみじき人なれども、一時に頓死して有りき。蘇生りて語って云く、我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け、鉄の杖を以て散散にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許り忘れざりき。題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ。息続いで高声に唱えて云く「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難、唯我一人能為救護」等云云。七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す。閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき」
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悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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ここは、前章の「されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや」の一節を受けて、〝今の世〟、末法という時代と日本国という条件下では、いかなる道が成仏の道であるかを知らなければならないことを指摘され、日蓮大聖人が発見された、仏法についての不思議を説かれている。
日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是(これ)を知らず
日蓮大聖人当時の日本国は、八宗・十宗と多くの宗派が乱立し、一見すれば、仏法が盛んであるようではあるけれども、そこに人々の知らない一つの不思議が存在しているといわれている。その不思議さこそ、大聖人が一切経を読破して発見された重大な事実なのである。それは、結論からいえば、ほとんどの宗派が、釈尊出世の本懐たる法華経に背くことによって、仏法を説いた師たる釈尊に敵対しているという、厳然たる事実であった。すなわち、仏法のなかにも釈尊の出世の本懐たる法華経即正法と、この法華経に背き、釈尊に師敵対する邪法との二つがあるということである。
この正法(法華経)と謗法の諸宗との関係について、少々考えておきたい。大聖人は、謗法、邪法の存在を発見されたことを明かされるときに、たびたび「不思議」という言葉を使われている。
例えば、弘安元年(1278)の「妙法比丘尼御返事」にも「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、いづれもいづれも・心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入って……」(1407-15)とあるのをみても明らかであろう。
つまり、仏法のなかに正法と謗法とがあるとの発見は、元来、大聖人の悟達を根底に築かれたものである。宇宙と生命を貫く唯一無二の真理をもって、一切経及び諸宗の教義を検討された結果、そこに、この真理に叶った法華経を依経とする正法と、この真理に背く謗法とが存在することを発見されたのである。
もとより、その発見は経文をはじめ、天台、伝教等の正師の釈文によって客観的に証明されている。しかし、何よりもまず、日蓮大聖人の悟達があって、その後に、この悟りを文底に秘していた法華経が一切経の中から選び出され、法華経に背く教えは、この悟りに叶わない邪教としてしりぞけられたのである。釈尊、天台、伝教等の経ないし釈文は、大聖人の不思議の教判の正しさを示す文証なのである。大聖人の悟りと一切経の読破との間に横たわる関係は、このように考えられるであろう。
源にごりぬればながれきよからず、身まがればかげなをからず
大聖人は、八宗・十宗を検討されるにあたって、その最も根本から問い直されたことを明かされているのである。すなわち、各宗派がよって立つところの元祖の説を源とし、身体にあてはめてとらえられ、それを破折されることにより、各宗派の謗法を明らかにされているのである。元祖がすでに依経の心をわきまえないのであるから、末流の学者が謗法に陥るのは当然である。
生死を離れ、成仏することを目的に、仏法を修行しても、時期に適さない経典をよりどころにしたならば、「虫の火に入り鳥の蛇の口に入る」ような自滅に陥ることもあり、日本のほとんどの宗派の元祖が、その類いであるとの断言となってくるのである。
なぜなら、宗教、ひいては広く人間の思想というものは、何を根本として立てているかが肝要であるからである。
日蓮大聖人が、八宗・十宗の教義を検討されたとき、おそらく、いかに外見は深遠そうで、傾倒するに値する姿をしていても、その骨格をなす元祖の理論構造は至極単純なものであることを見抜かれたにちがいない。そして、長い歴史を有する各宗派の途中の人師や論師の説に惑わされずに、直ちに元祖とそのよって立つ経典を検討されたのである。
この方法は、まさに御本仏日蓮大聖人の、人間理性及び思想に対する洞察から生まれたものであるというべきである。
1327:09~1327:17第四章法華誹謗の重罪を教えるtop
| 09 日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり、 世間の人人何に申すとも信ずる事はあるべか 10 らず、 還つて流罪・死罪せらるべしとは兼て知つてありしかども・今の日本国は法華経に背き釈迦仏を捨つる故に 11 後生は必ず無間大城に堕ちん事はさてをきぬ・ 今生にも必ず大難に値うべし、 所謂他国より責め来つて上一人よ 12 り下万民に至るまで一同の歎きあるべし、 譬えば千人の兄弟が 一人の親を殺したらんに 此の罪を千に分ては受 13 くべからず、 一一に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし、此の国も又又是くの如し、 娑婆世界は五百塵点劫 14 より已来・教主釈尊の御所領なり、大地.虚空・山海・草木.一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、 15 譬えば成劫の始め一人の梵王下つて六道の衆生をば生て候ぞかし、 梵王の一切衆生の親たるが如く・ 釈迦仏も又 16 一切衆生の親なり、 又此の国の一切衆生のためには 教主釈尊は明師にて・ おはするぞかし、父母を知るも師の 17 恩なり黒白を弁うも釈尊の恩なり、 -----― 日蓮は、このありさまを見たゆえに、たちまちに菩提心をおこして、この法門を申し始めたのである。 しかし、世間の人々は、どのようにいっても日蓮の法門を信ずることはないであろう。かえって死罪、流罪となるであろうとは、かねて承知していた。今の日本国は、法華経に背き、釈迦仏を捨てたゆえに、後生には阿鼻地獄に堕ちることはいうまでもないこととして、今生にも必ず大難にあうであろう。 つまり、他国から攻めて来て、上一人から下万民にいたるまで、一同に嘆くことが起こるであろう。 譬えば、千人の兄弟が一人の親を殺した場合、この罪を千人に分けて受けるということではない。一人一人皆、無間地獄に堕ちて同じように一劫の間苦しむであろう。この日本国も、またこれと同じようなものである。 娑婆世界は、五百塵点劫以来、教主釈尊の御所領である。大地・虚空・山海・草木も、ごくわずかでも、他の仏のものではない。また一切衆生は、みな釈尊の御子である。譬えば、成劫の始め、一人の大梵天王が天から下ってきて、六道の衆生を生んだという。ゆえに大梵天王が一切衆生の親であるように、釈迦仏も、また一切衆生の親である。 またこの国の一切衆生のためには、教主釈尊は、明師でいらっしゃる。父母を知ることができるのも師の恩のおかげである。物の黒白を弁えるのも、釈尊の恩のおかげである。 |
菩提心
悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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阿鼻大城
無間地獄のこと。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で無間と訳す。この地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて、凡力では脱出できない堅固な所であるところから、城にたとえて「大城」といった。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
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今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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一劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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娑婆世界
娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
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五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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成劫
四劫の一つ。一世界の成立する期間。倶舎論巻十二では空間に器世間が成立し、そこに有情が誕生して有情世間を形成していく期間を成劫といい、その時間的長さは二十劫であるとしている。
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梵王
大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。
―――――――――
ここは、仏法の正邪をわきまえることが、いかに大事か、邪法の邪法たるゆえんはどこにあるかを示されているところである。
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり
すぐ後の章で展開される阿弥陀仏批判、すなわち浄土宗批判にとって、不可欠の前提をなす文である。
一往、文上の法華経により、この娑婆世界は一切教主釈尊の所有であり、釈尊こそ主・師・親の三徳を具備した仏であることを述べられている。
法華経の譬喩品第三には、有名な「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とあり、教主釈尊が娑婆世界の一切衆生の主師親の三徳を具備していることを明かしている。
さらに寿量品第十六では「娑婆世界説法教化」と、本国土妙を明かすことにより、遠く五百塵点劫已来、釈尊が娑婆世界の一切衆生を教化しつづけてきたことを明かしている。
再往、文底観心の立場から論ずるならば、主師親の三徳具備の教主釈尊は久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人のことであり、此の娑婆世界は、根源の一法である南無妙法蓮華経に貫かれ、かつその法則にのっとって、生滅変化を繰り返している常寂光土であるということである。
1327:17~1328:08第五章念仏信仰を破折するtop
| 17 而るを天魔の身に入つて候・善導・法然なんどが申すに付いて・国土に阿弥陀 18 堂を造り・或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り・或は宅宅人人ごと 1328 01 に阿弥陀仏を書造り.或は人ごとに口口に或は高声に唱へ・或は一万遍・或は六万遍なんど唱うるに.少しも智慧ある 02 者は・いよいよ・これをすすむ、 譬へば火に・かれたる草をくわへ・水に風を合せたるに似たり、 此の国の人人 03 は一人もなく教主釈尊の御弟子・御民ぞかし、而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず・かかず・念仏も申さず・あ 04 る者は悪人なれども 釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕れず、 一向に阿弥陀仏を念ずる人人は既に釈尊仏を捨て奉る色 05 顕然なり、 彼の人人の墓無き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし、 父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏 06 をば・いとをしき妻の様にもてなし、 現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て・乳母の如くなる法華経をば口にも 07 誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや、此の不孝の人人・一人・二人・百人・千人ならず一国・二国ならず上一人よ 08 り下万民に至るまで日本国皆こぞりて一人もなく三逆罪の者なり、 -----― ところが、天魔が身に入った善導・法然などがいうことにしたがって、国土に阿弥陀堂を造り、あるいは一郡・一郷・一村などに阿弥陀堂を造り、あるいは百姓万民の家ごとに阿弥陀堂を造り、あるいは家々人々ごとに、阿弥陀仏を書き造り、あるいは人ごとに口々に、あるいは高声に念仏を唱へ、あるいは一万遍、あるいは六万遍など唱えているところに、少しばかり智慧ある人は、ますます念仏をすすめている。譬えば、火の中に枯れ草を加え、水を風に吹かせ、より波立たせることに似ている。 この国の人々は、一人の例外もなく、教主釈尊の御弟子・御民である。したがって、阿弥陀等の他の仏を一仏も造らず、書かず、念仏もいわずにいる者は、悪人ではあっても、釈迦仏を捨てるという姿はまだ顕れない。 ひたすらに阿弥陀仏を念ずる人々は、すでに釈尊仏を捨てた姿が、明らかに顕れている。かの人々のように、はかない念仏をとなえる者こそ悪人なのである。 父母でもなく、主君・師匠でもない他の仏を、いとおしい妻のように大切に扱い、現に国主、父母、明師である釈迦仏を捨て、乳母のような法華経を、口に誦えることもしない。これがどうして、不孝の者でないことがあろうか。 この不孝の人々が、一人二人、百人千人ではない。一国二国ではない。上一人から下万民にいたるまで、日本国の人々は、皆こぞって一人残らず、三逆罪の者である。 |
天魔
天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、最も恐ろしい魔とされる。
―――
善導
(0613~0681)。中国浄土宗の第三祖。終南大師、光明大師などとも呼ばれた。道綽(0562~0645)のもとで観無量寿経を学んだ。正雑二行の判を立てて専修念仏を説き、30年間、称名念仏を勧めた。浄土往生を証するといって寺前の柳の木で自殺を図り、果たせず、地面に落ち、14日間苦悶して死んだと伝えられている。日本の法然は善導の観経疏を学び、日本浄土宗を開いている。主な著書に「観経疏」四巻、「往生礼讃」一巻等がある。
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法然
(1133年~1212)。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県)の人で、幼名を勢至丸といった。15歳で比叡山に登り、天台の教観を学ぶ。18歳で京都黒谷に移り、慈眼房叡空に師事して浄土宗を修め、法然房源空と改名した。大蔵経を閲覧し、善導の「観経散善義」、源信の「往生要集」を読んで悟ったとし、一向専修念仏の浄土宗を創始した。とくに「選択集」を著して、念仏が浄土往生の根本義であると説き、浄土三部経以外の諸経を捨てよ閉じよ閣(さしお)け抛てととなえた。門徒の僧が、官女を出家させた一件が後鳥羽上皇の怒りにふれ、建永2年(1207)2月に念仏を禁じられて讃岐(香川県)に流された。同年12月赦免され、摂津(大阪府)に居住するが、入洛は建暦元年(1211)まで許されなかった。翌年、80歳で没す。著書には「選択集」二巻、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
―――
百姓
天下の万民のこと。さまざまな姓を有する多くの人民の意。近世以降、農業に従事する者の称となり、「ひゃくしょう」というようになった。
―――
三逆罪
略して三逆ともいう。五逆罪のうち、提婆達多が犯した破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三罪をいう。ただしここでは、通途の三逆罪ではなく、背主・捨父・背師という、主師親の三徳をそなえた釈尊に反逆する罪を、三逆罪と称されたと思われる。
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この章は、他土の仏たる阿弥陀仏の信仰が、いかに日本国の一切衆生を、教主釈尊に対する親不孝と、師敵対におとしいれたかを、わかりやすく述べられている。
「上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり」とは、じつに厳しい指摘である。
普通、三逆罪とは、五逆罪のうち、提婆達多が犯した破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢をさして用いられるが、他土の阿弥陀仏を信じて主師親三徳具備の教主釈尊に反逆するという大罪を、三逆罪に匹敵するものとして、このように表現されたのであろう。
1328:08~1328:14第六章念仏信仰の重罪を教示するtop
| 08 されば日月は色を変じて此れをにらめ・ 大地 09 も瞋りてをどりあがり・大彗星天にはびこり・大火・国に充満すれども僻事ありとも・おもはず、我等は念仏にひま 10 なし其の上念仏堂を造り 阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃するなり、 是は賢き様にて墓無し、譬えば若き夫妻等が 11 夫は女を愛し女は夫をいとおしむ程に・ 父母のゆくへをしらず、 父母は衣薄けれども我はねや熱し、父母は食せ 12 ざれども我は腹に飽きぬ、是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず、 況や母に背く妻・父にさかへる夫・逆重 13 罪にあらずや、 阿弥陀仏は十万億のあなたに有つて此の娑婆世界には一分も縁なし、 なにと云うとも故もなきな 14 り、馬に牛を合せ犬に猨をかたらひたるが如し。 -----― それゆえ、日月は色を変えてこれをにらみ、大地も怒っておどりあがり、大彗星は天に一杯に広がり、大火が国に充満しても、自身に間違いがあるとも思わず、「我らは、ひまなく念仏を称えている。そのうえ、念仏堂を造り、阿弥陀仏を受持し奉っている」などと自賛しているのである。 これは賢いようであって、実ははかないことである。譬えば、若い夫妻達がいて、夫は妻を愛し、妻は夫をいとおしんで、父母を忘れ、父母は薄い衣でふるえているけれども、自分たちの床は温かく、父母は食べていないけれども、自分達は食に飽きているようなものである。 これは第一の不孝であるが、彼等はそれを誤りであるとも知らない。まして母に背く妻や、父に逆らう夫は、重い逆罪を犯しているのではないか。 阿弥陀仏は十万億の彼方にいて、この娑婆世界には、わずかの縁もない。なんと言い立てようと、その根拠もないのである。馬に牛をかけ合わせ、犬に猨をめあわすようなものである。 |
大せいせい
ほうき星のこと。中国、日本では古来から妖星とされ、彗星の出現は凶兆とみなされた。とくに兵乱の凶瑞とされる。ここでは、文永元年(1264)に出現した大長星をさすか。これは同年の6月26日に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて8月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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念仏信仰に溺れ教主釈尊に師敵対しているが故に、日本国に、三災七難が競い起こっているにもかかわらず、その原因に気づかないで、念仏信仰にますますうちこんでいる人々の愚かさを衝かれている。
日蓮大聖人はここで、人間の生命が、生命の根本軌道から逸脱した宗教に染め抜かれた場合に、その誤りからなかなか脱出できない恐ろしさを述べておられるのである。これは念仏信仰の場合のみに限ることではなく、あらゆる経文についてもあてはまる。私達の折伏行は、誤った宗教に順応しきっている惰性の生命を、根底から革新し、覚醒をもたらす行為であり、宗教の本義を知った者の生命蘇生の尊き活動なのである。
1328:15~1329:05第七章一谷入道の外護を称えるtop
| 15 但日蓮一人計り此の事を知りぬ、命を惜みて云はずば国恩を報ぜぬ上・教主釈尊の御敵となるべし、 是を恐れ 16 ずして有のままに申すならば死罪となるべし、 設ひ死罪は免るとも流罪は疑なかるべしとは兼て知つて・ ありし 17 かども・仏の恩重きが故に人を・はばからず申しぬ、 案にたがはず両度まで流されて候いし中に・文永九年の夏の 18 比・ 佐渡の国・石田の郷一谷と云いし処に有りしに・ 預りたる名主等は公と云ひ私と云ひ・父母の敵よりも宿世 1329 01 の敵よりも悪げにありしに・宿の入道と云ひ・妻と云ひ・つかう者と云ひ・始はおぢをそれしかども先世の事にやあ 02 りけん、 内内・不便と思ふ心付きぬ、預りより・あづかる食は少し付ける弟子は多くありしに・僅の飯の二口三口 03 ありしを或はおしきに分け或は手に入て食しに・宅主・内内・心あつて外には・をそるる様なれども・内には不便げ 04 にありし事・何の世にかわすれん、 我を生みておはせし父母よりも当時は大事とこそ思いしか、何なる恩をも・は 05 げむべし・まして約束せし事たがうべしや。 -----― ただ日蓮一人だけが、この事を知っているのである。その日蓮が自分の生命を惜しんでいわないならば、国恩を報じないうえに、教主釈尊の御敵となるであろう。 これを恐れずに、ありのままにいうならば、必ず死罪となるであろう。たとい死罪はまぬかれても、流罪は疑いないことと、かねて知っていたが、仏の御恩が重い故に、人を憚ることなくいったのである。 案にたがわず、二度まで流罪された中で、文永九年の夏の頃、佐渡の国・石田郷の一谷という所にいたときに、預った名主達は、公にも、私事にも、父母の敵よりも、宿世の敵よりも、憎げに取り扱ったのに、宿の入道といい、その妻といい、使用人といい、初めはおじ恐れていたが、前世からの縁であろうか、内々に不便と思う心が生じてきた。 預りの名主から渡される食は少ない。付き添っている弟子は多かったので、わずかの飯の二口三口ばかりのものを、あるいは折敷に分け、あるいは、手のひらに入れて食べていたところ、家の主人が、内々に心を配り、外には恐れる様子であったが、内には不便の気持ちをもっていたことは、いつの世に忘れることがあろうか。 私を生んで下さった父母よりも、この時に当たっては、大切な人と思ったのである。 どのようにしても、この恩には報いなければならない。まして、約束した事をたがえてよいものであろうか。 |
国恩
国主・国王から受ける恩恵のこと。国主の恩ともいう。仏法では四恩の一つに挙げている。その国の風土に養われ、国主の保護を受けて、わが身、わが一族の生命の安全を得る恩。四恩抄(0937)に「天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり」とある。現代の民主主義国家では、民衆によって構成された社会、組織から受ける種々の恩恵をいう。
―――
石田の郷一谷
佐渡国雑太郡にあった郷村。現在の新潟県佐渡郡畑野町。本抄の対告衆・一谷入道の屋敷があったところで、大聖人は佐渡流罪中、9年(1274)4月に塚原三昧堂から入道の屋敷に移られ、文永11年(1274)3月に赦免になるまでの約2年間この地に住まわれた。
―――
名主
平安時代中期から中世を通じての名田の所有者。時代や地域によってその身分や隷属する農民の規模などが異なる。
―――
宿世
前世・過去世。
―――
宿の入道
本抄の対告衆・一谷入道のこと。佐渡流罪中の日蓮大聖人が一谷入道の屋敷を宿所とされた故に、こう呼ばれたもの。
―――
先生
前生のこと。前世・過去世のこと。
―――
おしき
へぎ製の角盆で、四方に折りまわした縁がついている。また、角盆の四隅を切り落とした隅切盆もある。食器や仏神への供物をのせる。
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本章の前半では、日蓮大聖人が不惜身命の折伏・弘教に邁進されたいきさつが語られ、後半では、そのためにあった佐渡流罪の苦難の中での一谷入道とその女房の献身的な働きに感謝されている。
但日蓮一人計り此の事を知りぬ
「此の事」とは、前々章以来の叙述を受けて、他土の阿弥陀仏を信ずることがいかに謗法の大罪であり、日本の上下万民の不幸の根源になっているかということであり、その事実を日蓮大聖人但一人だけが知ることができた、との意味である。
第四章で述べられた「日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり」という文における「此の事」とは、浄土宗をはじめとする謗法の諸宗一般が日本国の不幸の根源であることをさしている。そして、それは同時に「仏法について不思議あり。人是を知らず」の文の「不思議」と同じ内容なのである。
本抄のこれまでの流れに即して、もう一度、順序立ててふりかえってみると、まず「日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず」といわれて、成仏を目的とする仏法でも、信心修行すればするほど、無間地獄に堕ちていく謗法・邪法の存在を「不思議」といわれ、そのことを日本国の誰人も知らないと述懐されている。
次に「日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり」とあり、さきに「不思議」といわれた内容を、「此の事」つまり具体的な事実であると述べられ、仏法を行じながら逆に地獄に堕ちていく不幸な現実を見て、大聖人は慈悲の念から菩提心を発して、この事実を人々に指摘していったのであると、その理由を明かされている。
そして「但日蓮一人計り此の事を知りぬ」と述べられ、「此の事」の内容を浄土宗のみにしぼり、かつ、「人是を知らず」といわれていたのを、より強く「但日蓮一人計り此の事を知りぬ」と断言されている。
この流れをみても、日蓮大聖人が、いかに理論整然と、対告衆の一谷入道女房にわかりやすく諄々と説いていかれているかを知ることができるであろう。
日蓮大聖人の元意は、日本国の最も多くの人々が信仰し、一谷入道夫妻も熱心に信じてきた浄土宗の破折にあることはいうまでもないが、それを、対告衆の心に静かに、説得力をもって納得させていく細かい配慮を読みとっていきたいものである。
命を惜みて云はずば国恩を報ぜぬ上……仏の恩重きが故に人をはばからず申しぬ
日蓮大聖人が不惜身命の折伏に踏み切られた理由を、報恩観のうえから述べられている重要な文である。これについては、第二章の講義でも少し触れたところである。
大聖人が日本国で但一人、深い悟達の上から知ることのできた、謗法・邪法の存在とそのもたらす害毒の恐ろしさとを、国恩・仏恩を報ずるという報恩観から、勇を鼓して言い切っていかれたいきさつが説かれている。
冒頭で述べられた流罪・死罪の二つの大難は、大聖人にとっては、すでに立宗宣言され、諸宗折伏に立ち上がられた時に、覚悟のうえであったことがこの文から明確である。
諸宗を破折すれば、流罪・死罪の大難を招くことは、大聖人にとって「兼て知って」おられたことであった。だが、国恩・仏恩を報ずるという高次元の立場から、あえてわが身をかえりみずに、折伏に踏みきったことを述懐されているのである。
開目抄にも、同じ述懐が語られている。
「日本国に此れをしれる者は、但日蓮一人なり。これを一言も申出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに、いはずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競起るべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし」(0200-09)と。
いずれにしても、大聖人が深い悟達の上から発見された謗法・邪法の存在と、そのもたらす弊害を、人々にはっきりと言うか否かが、立宗宣言当時も、大聖人をとらえた大きな分岐点であったことがわかる。しかし、大聖人は、この岐れ目に立って、国恩・仏恩を報ずるということ、並びに一切衆生を堕地獄から救おうという、極めて高い宗教的、倫理的良心を支えに、結局は、命を惜しまず、言い切っていくこと、つまり折伏行を敢行する道を歩まれたのである。
大聖人は、示同凡夫の立場における、言うべきか言わざるべきかの迷いと葛藤の様子を述べられながら、いかにして、言い切る方向に踏み出されていかれたかを、一谷入道女房のために、教えて下さっているのである。
そのように拝するとき、この個所は、物事の決断ともいうもののあり方を示唆されているとも読むことができるのではないだろうか。決局、決断とは、自らにとって、いかに辛く苦しくとも、正義の方向へ、自身を促していくことであろう。楽な方向への決断というものは元来ないのである。それは、惰性であり、安易な妥協でしかない。
我々がAかBかの選択の岐路に立たされたとき、いかに辛く苦しくとも、人間としてあるべき道と、楽ではあるが人間らしい正義感や誠実さを犠牲にする道とに分かれるものである。
そのとき、辛くても苦しい道を歩み出すための決断の条件としては、広布推進という高い目的観、地涌の菩薩としての使命感、更には報恩観という高度の精神的次元に自らの立場を置くことにより、自らを促すことができるのである。
1329:06~1329:15第八章法華経授与の経緯を述べるtop
| 06 然れども入道の心は後世を深く思いてある者なれば久しく念仏を申しつもりぬ、 其の上阿弥陀堂を造り田畠も 07 其の仏の物なり、 地頭も又をそろしなんど思いて直ちに法華経にはならず、 是は彼の身には第一の道理ぞかし、 08 然れども又無間大城は疑無し、 設ひ是より法華経を遣したりとも世間も・ をそろしければ 念仏すつべからずな 09 んど思はば、火に水を合せたるが如し、 謗法の大水・法華経を信ずる小火を・けさん事疑なかるべし、 入道・地 10 獄に堕つるならば還つて日蓮が失になるべし、 如何んがせん如何んがせんと思いわづらひて 今まで法華経を渡し 11 奉らず、 渡し進せんが為にまうけまいらせて有りつる法華経をば・鎌倉の焼亡に取り失ひ参せて候由申す、 旁入 12 道の法華経の縁はなかりけり、 約束申しける我が心も不思議なり、 又我とは・すすまざりしを鎌倉の尼の還りの 13 用途に歎きし故に口入有りし事なげかし、 本銭に利分を添えて返さんとすれば・ 又弟子が云く御約束違ひなんど 14 申す、旁進退極りて候へども人の思わん様は狂惑の様なるべし、 力及ばずして法華経を一部十巻・渡し奉る、 入 15 道よりもうばにて・ありし者は内内心よせなりしかば是を持ち給へ。 -----― しかしながら、入道は心に、後世を深く思っている人であるから、長い間、念仏を称え続けてきた。そのうえ、阿弥陀堂を造り、田畠も、その仏のものとして供養している。また地頭に対しても、恐ろしいなどという思いを抱いて、直ちに法華経の信者にはならなかった。 これは、彼の身としては、第一の道理である。しかしながら、また、無間大城に堕ちることは疑いない。 たとえ、こちらから法華経を差し上げたとしても、世間が恐ろしいので、念仏を捨てることはできないなどと思うならば、火に水を合わせたようなものである。謗法の大水が、法華経を信ずる小さな火を消してしまうことは、疑いのないことである。 入道が地獄に堕ちるならば、かえって日蓮の罪になってしまうであろう。どうすればよいのか、どうすればよいのかと思い悩んで、今まで、法華経をお渡ししなかった。 お渡ししようと思って用意しておいた法華経は、鎌倉の火事の時に、失ってしまったと知らせがあった。いずれにせよ入道は、法華経の縁がなかったのである。約束した私の心も不思議である。 また自分からは気の進まなかったのを、鎌倉の尼が帰りの路用に困っていたので、用立ててもらうよう口添えをしたことを後悔している。 本銭に利息をつけて返して、それですまそうとすれば、また弟子が「それでは御約束が違います」などという。あれやこれや、進退極まったが、人は、私が偽りをいったと思うであろう。やむをえず、法華経一部十巻をお渡しすることにした。入道よりも、祖母の方が、内々心を法華経に寄せていたようなので、この経を所持されるがよい。 |
後世
未来世のこと。後生ともいう。
―――
地頭
鎌倉時代の職名。全国の荘園・公領に置かれた。土地の管理権・警察権・徴税権を有していた。ここでは佐渡国新穂の地頭・本間六郎左衛門重連をさす。
―――
鎌倉の焼亡
この当時、鎌倉で起きた大火事をさすのか、大聖人より法華経の管理を命ぜられていた弟子が火災にあったものか、詳細は不明。
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鎌倉の尼
姓名・生没年ともに不明。日妙聖人とする説もある。鎌倉から佐渡流罪中の大聖人を訪れている。
―――
用途
要する費用。ここでは旅費の意。
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誑惑
たぶらかすこと。
―――
口入
他人の世話、口添えすること。とくに、金銭の貸借、不動産の売買などの仲立ちをすること。
―――
一部十巻
法華経八巻に、開経の無量義経と結経の観普賢経の各一巻を加えて、法華経一部十巻といった。
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本章は、佐渡において多大の恩を受けた、一谷入道夫妻への深い配慮をされながら、譲渡すると約束された法華経を渡すべきかいなかを、真剣に思案されたことを述べられており、一人の人を心から大切にされる大聖人の姿勢をうかがうことのできる個所である。
一谷入道家の置かれた立場や状況、更にはその心境までも、深く洞察される大聖人の心遣いに、感動をもよおさないものがあろうか。
最初に、長年の念仏者であったという経歴や、地頭の機嫌を損じたくないという一谷入道の置かれた立場に思いをはせられ、「直ちに法華経にはならず。是は彼の身には第一の道理ぞかし」と、念仏を捨てきれぬ入道の立場を是認されながらも、「然れども又無間大城は疑無し」と、厳しい仏法の因果律のうえから、入道の堕地獄を断言されている。
だからといって、今、法華経をあげて、入道に読誦するよう勧めても、入道自身、世間の批判を恐れて念仏を捨てないならば、それは、謗法の大水が、法華経を信ずる小火を消してしまうようなもので、入道を地獄に堕としてしまう。そうなれば法華経を与えた大聖人の失となると述べられている。
どうすべきか、思案されている間に、渡すべき肝心の法華経が鎌倉の火事の時に失われてしまい、「入道の法華経の縁はなかりけり」といったんは思い切ろうとされているが、大聖人はすでに佐渡で、法華経を譲渡するとの約束を入道との間にかわされていたので、最後は遂に法華経へ内々に関心を寄せる祖母に譲る名目で、法華経を譲渡されたのである。
一度、約束したことを、最後まで貫こうとされた大聖人のお姿を、我々の鑑とし、教訓とすべきではなかろうか。不惜身命の壮烈な折伏を遂行された師子王の如き大聖人に対して、どんな些細な約束をも守りきられ、一人の信仰者を思うことに心をくだかれたもう一人の大聖人を見るような文章である。
この、一見、背反するような二つの側面が、御本仏・日蓮大聖人の生命の中に包み込まれているところに、大聖人の御境涯の豊かさと雄大さをみるべきであろう。
1329:16~1330:06第九章再度の蒙古襲来を予告するtop
| 16 日蓮が申す事は愚なる者の申す事なれば用ひず、されども去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせ 17 せ有りしに対馬の者かためて有りしに・宗総馬尉逃ければ百姓等は男をば或は殺し或は生取にし・女をば或は取り集 18 めて手をとをして船に結い付け・或は生け取にす・一人も助かる者なし、壹岐によせても又是くの如し、 船おしよ 1330 01 せて有りけるには奉行入道・豊前前司は逃げて落ちぬ、 松浦党は数百人打たれ或は生け取にせられしかば・ 寄せ 02 たりける浦浦の百姓ども壹岐対馬の如し、 又今度は如何が有るらん彼の国の百千万億の兵・ 日本国を引回らして 03 寄せて有るならば如何に成るべきぞ、 北の手は先ず佐渡の島に付いて地頭・ 守護をば須臾に打ち殺し百姓等は北 04 山へにげん程に 或は殺され或は生け取られ或は山にして死ぬべし、 抑是れ程の事は如何として起るべきぞと推す 05 べし、前に申しつるが如く此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり、 是は梵王・帝釈・日月・四天の彼の蒙古国の 06 大王の身に入らせ給いて責め給うなり。 -----― 日蓮のいう事は、愚かな者のいうことであるから、世間は用いようとしない。 しかし、去る文永十一年十月に、蒙古国から筑紫に攻め寄せてきた時に、対馬の者は、かたく守っていたが、宗の惣馬尉が逃げたので、蒙古軍は百姓達の男を、あるいは殺し、あるいは生け取りにし、女を、あるいは一所に集めて手に縄を通して船にゆわいつけ、あるいは生け取りにした。一人も助かった者はいない。 壱岐に攻め寄せてきた時も、またこれと同様であった。蒙古の船が筑紫へ押し寄せてきた時には、奉行の入道・豊前の前司は逃げ落ちてしまった。 松浦党は、数百人も打たれ、あるいは生け取りにされたので、攻め寄せられた浦々の百姓達は、壱岐・対馬のようであった。 また、今度は、どうなるのであろうか。蒙古の百千万億の兵が、日本国を取り巻いて押し寄せてくるならば、どうなっていくのであろうか。 北方の軍勢は、まず佐渡の島に押し寄せて、地頭・守護をたちまちに打ち殺し、百姓達は、北山へ逃げるうちに、あるいは殺され、あるいは生け取られ、あるいは山で死ぬであろう。 そもそも、これほどの事が、どうして起こるのかを考えてみるべきである。前にいったように、この国の者は、一人として三逆罪を犯していない者はいないのである。 これは、梵王・帝釈・日月・四天が、かの蒙古国の大王の身に入られて、この国を責められているのである。 |
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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筑紫
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
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対馬
日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。対馬の大半を占める主島の対馬島のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国や対州、また『日本書紀』において対馬島と記述されていた。旧字体では對馬。
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宗惣馬尉
宗助国(1207~1274)のこと。鎌倉時代の武将。宗氏は一説によると、平知盛の子孫といわれ、中世中期以降、対馬を支配した一族。助国は宗氏三代目の当主である。なお、惣馬の尉とは、対馬を惣る尉の意で対馬国の守護代のこと。
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壹岐
壱岐島の旧字体。西海道12ヵ国のひとつ。九州・博多湾と対馬との中間にある島。現在は長崎県に属する。対馬とともに古くから日本と大陸を結ぶ交通の要衝であった。蒙古襲来における現証となった地。
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奉行入道豊前前司
少弐資能(1198~1281)のこと。少弐資能は筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護で、鎮西奉行の職も兼ねていた。文永の役では、子の経資、景資らと共に蒙古軍と戦った。後、家督を経資に譲り、入道して覚恵と称した。その後の第二回の蒙古襲来にも老齢でありながら戦闘に参加して負傷し、それがもとで死んだ。
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松浦党
「まつうらとう」とも読む。中世、肥前国(佐賀・長崎県)の松浦四郡に割拠した小豪族の集団。その本姓はさまざまだが、党に属する者は必ず源氏を名乗り、松浦源氏と称した同族組織である。鎌倉時代、元寇によって多大な被害を受けた。
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守護
①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
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須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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梵王
大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――――――――
本章に描かれた蒙古襲来・文永の役における、壱岐・対馬の被害状況は、歴史学的にも、貴重な文献となっている。
蒙古襲来は、日本歴史上、未曾有の大事件であったにもかかわらず、その日本側の記録となると、驚くほど少ない。川添昭二著「日蓮」によると、とくに文永の役の壱岐・対馬の生々しい被害状況に関する日本側の史料は、「八幡愚童訓」と、本章の記述ぐらいのものだそうである。その「八幡愚童訓」も、鎌倉末期の成立とされているから、建治元年(1275)という鎌倉中期に、しかも、文永の役と同時代人である日蓮大聖人によって書かれた本抄の史料的価値の高さがわかろうというものである。
今日からみても、第一級の記録を遺されていたといっても、結果的にそのようになったのであって、大聖人の目的は、あくまで、日本国上下万民の謗法がもたらす弊害の悲惨さを克明に見届け、二度と同じ事態を招かぬように、日本国の人々に警告されるところにあったといえよう。
それ故に、壱岐・対馬の被害状況を記された後に「又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ」と憂慮されると共に、暗に、再び来るであろう警告を発せられているのである。つまり、もし、謗法を止めなかったなら、次に、蒙古が襲来してくれば、壱岐・対馬の悲惨はそのまま日本国全土の姿になるといわれているのをみても、大聖人の関心事がどこにあったかは明白であろう。
「抑是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし……是は梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり」の文は、結局、蒙古襲来の危機が、日本国の人々の謗法・邪法に起因すると明かされているところである。日本国の人々はすべて三逆罪の者であるが故に、梵天・帝釈等の諸天が蒙古国の大王の身に入って、日本国を責めるという、いわゆる梵天治罰の原理を明かされているのである。
1330:07~1330:15第十章末法御本仏の内証を示すtop
| 07 日蓮は愚なれども釈迦仏の御使・法華経の行者なりとなのり候を・用いざらんだにも不思議なるべし、其の失に 08 依つて国破れなんとす、況や或は国国を追ひ・或は引はり・或は打擲し・或は流罪し・或は弟子を殺し・或は所領を 09 取る、現の父母の使を・かくせん人人よかるべしや、日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・ 10 是を背ん事よ、念仏を申さん人人は無間地獄に堕ちん事決定なるべし、たのもし・たのもし。 -----― 日蓮は愚かであるが、釈迦仏の御使い、法華経の行者なりと名乗っているのを、用いないことでさえ、不思議なことである。その過ちによって、国が破れようとしているのである。 まして、あるいは国々を追い払い、あるいは引き回し、あるいは打ちすえ、あるいは流罪に処し、あるいは弟子を殺し、あるいは、その所領を取り上げたりする。 まのあたりにいる父母の使いを、このようにした人々に、良いことがあろうか。日蓮は日本国の人々の父母である。主君である。明師である。これに背いて、よいわけがない。 念仏を称える人々は、無間地獄に堕ちる事は、決定的である。仏法の厳然たる法理は、まことに頼もしいことである。 |
釈迦仏の御使
日蓮大聖人は、釈尊が法華経如来神力品第21において滅後の弘通を付嘱した地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であるということ。これは釈迦仏法の継承者としての大聖人の御立場を述べられたものであり、外用の辺である。内証の辺では久遠元初の自受用法身如来であらせられる。
―――
法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
―――
国国を追ひ
日蓮大聖人の受けられた諸難のうち、居住地を追われた難。具体的には、建長5年(1253)4月28日の立宗宣言の直後、東条景信によって安房国を追われたこと。また、文応元年(1260)8月27七日、念仏者等の暴徒に松葉谷(まつばがやつ)の草庵を襲撃され、相模国を追われたことなどをさすものと思われる。
―――
引はり
引き回す、引っ立てる等の意。弘長元年(1261)5月の伊豆流罪、及び文永8年(1271)9月12日の竜口の法難の際、捕縛されて市中引き回しになったことをさす。
―――
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
――
流罪し
伊豆、佐渡の二度の流罪をさす。
―――
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
―――
弟子を殺し
小松原の法難において、弟子の鏡忍房と工藤吉隆が東条景信の兵の手にかかって討ち死にしたことをさすものと考えられる。
―――
所領を取る
四条金吾が、桑ヶ谷問答に事寄せて主君から領地を没収されたことはその一例である。
―――――――――
本章は、日蓮大聖人こそ主師親三徳具備の仏たることを明かされ、その大聖人を、用いないばかりか、逆に流罪・死罪に処した日本国の人々、とくに、浄土宗の人々が、仏法の因果律によって、無間地獄に堕ちる事は、決定的であると述べられている。
日蓮大聖人が「釈迦仏の御使」「法華経の行者」であることは、法華経を読んだ者なら、当然納得できることである。それ故にこそ、大聖人は一往の外用の辺で、これを仰せられたのである。したがって、それすら用いないのは不思議であるといわれているのである。
日蓮は日本国の人人の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背ん事よ
ここは、先の外用の辺の仰せに対して、内証の立場を明らかにされたところである。
第四章で、教主釈尊が日本国の一切衆生の主師親であると述べられたことの元意が、この一文により明らかとなる。すなわち大聖人こそが日本国の一切衆生の主師親三徳を具えた末法の御本仏であることを示すために、その伏線として教主釈尊が主師親三徳具備の仏であることを示されたのである。
1330:11~1230:18第11章種々指南して決するtop
| 11 抑蒙古国より責めん時は如何がせさせ給うべき、 此の法華経をいただき頚にかけさせ給いて北山へ登らせ給う 12 とも・年比念仏者を養ひ念仏を申して、 釈迦仏・法華経の御敵とならせ給いて有りし事は久しし、又若し命ともな 13 るならば法華経ばし恨みさせ給うなよ、 又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき、 おこがましき事とはおぼすと 14 も其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ、 又是はさてをきぬ、 此の法華経をば学乗房に常に開かさせ 15 給うべし、 人如何に云うとも念仏者・真言師・持斎なんどにばし開かさせ給うべからず、又日蓮が弟子となのると 16 も日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず、恐恐謹言。 17 五月八日 日蓮花押 18 一谷入道女房 -----― そもそも、蒙古国から攻めてきた時には、どのようにされるのであろうか。 この法華経を頭にいただき、頚にかけられて、北山へ登られようとも、あなたは数年の間、念仏者を供養し、念仏を称えて、釈迦仏・法華経の御敵となられてきた事は、久しい期間になる。 また、もし命を失うことになったとしても、決して法華経を恨んではなりません。また、閻魔王宮に行ったとき、何と仰せになるであろうか。おこがましいこととはお思いになろうとも、その時には「日蓮の檀那である」と仰せになることであろう。 また、この事はさておくとして、この法華経を、学乗房に常に開かせ、お聞きになられるがよい。人がどのようにいおうとも、念仏者・真言師・持斎などには、決して開かせてはなりません。 また、日蓮の弟子と名乗るとも、日蓮の判を持たない者を、信用されてはなりません。恐恐謹言。 五月八日 日 蓮 花 押 一谷入道女房 |
閻魔王宮
閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦広六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。
―――
学乗房
(~1301)。日蓮大聖人御在世当時の弟子。日静のことと思われる。佐渡一谷の人。初め真言宗徒であったが、後に大聖人に帰依し、実相寺を開いて佐渡の弘法に努めたという。
―――
持斎
斎は戒法の一つで、八斎戒を持つことを持斉という。ここでは律宗・禅宗等の僧をさす。
―――
判
印鑑・実印。
―――――――――
この手紙を終えるにあたり、蒙古国が攻めてきた場合や、それにより命を失った場合などこまごまとした注意を、一谷入道女房にされているところである。
三世の生命観の上から、現世のみならず、来世の身の処し方までも、こまごまと女房に教示されているのである。日蓮大聖人の慈悲の深さと広大さが、しみじみとうかがわれる最終章である。
1331~1335 中興入道消息top
1331:01~1331:14第一章日本の仏教流伝を概説するtop
| 1331 中興入道消息 弘安二年十一月三十日 五十八歳御作 与中興入道女房 01 鵞目一貫文送り給い候い了んぬ・妙法蓮華経の御宝前に申し上げ候い了んぬ、 抑日本国と申す国は須弥山より 02 は南・一閻浮提の内・縦広七千由旬なり、其の内に八万四千の国あり、所謂五天竺・十六の大国・五百の中国・十千 03 の小国・無量の粟散国・微塵の島島あり、 此等の国国は皆大海の中にあり・たとへば池にこのはのちれるが如し、 04 此の日本国は大海の中の小島なり・しほみてば見へず・ ひればすこしみゆるかの程にて候いしを・神のつき出させ 05 給いて後・人王のはじめ神武天皇と申せし大王をはしましき、 それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とは・まし 06 まさず・ただ人と神とばかりなり、 仏法をはしまさねば地獄もしらず・浄土もねがはず、父母兄弟のわかれありし 07 かども.いかんが・なるらん、ただ露のきゆるやうに日月のかくれさせ給うやうに.うちをもいて・ありけるが・然る 08 に人王第三十代・欽明天皇と申す大王の御宇に・此の国より戌亥の角に当りて百済国と申す国あり、 彼の国よりせ 09 いめい王と申せし王・ 金銅の釈迦仏と・此の仏の説かせ給へる一切経と申すふみと・此をよむ僧をわたしてありし 10 かば・仏と申す物も・いきたる物にもあらず、 経と申す物も外典の文にもにず、僧と申す物も物はいへども道理も 11 きこへず・形も男女にもにざりしかば・かたがた・あやしみ・をどろきて左右の大臣・大王の御前にしてとかう僉議 12 ありしかども・多分はもちうまじきにてありしかば、 仏はすてられ僧はいましめられて候いしほどに・用明天王の 13 御子・聖徳太子と申せし人びだつの二年二月十五日・ 東に向いて南無釈迦牟尼仏と唱えて御舎利を御手より出し給 14 いて・同六年に法華経を読誦し給ふ、 -----― 鵞目一貫文お送りいただきました。あなたの御供養の御志を妙法蓮華経の御宝前に申し上げました。 さて、この日本という国は、須弥山の南方、一閻浮提の中にある。一閻浮提はその広さが縦横七千由旬であり、その中には八万四千の国がある。それらは、いわゆる五天竺、十六の大国、五百の中国、十千の小国、更には、無量の粟散国や微塵の島々がある。これらの国々は皆、大海の中にあって、その様をたとえていえば、池に木の葉が散って水面に浮かんでいるようなものである。 この日本国は、大海の中の小島である。それも、潮が満ちてくれば見えなくなり、潮がひいた時に、ようやく少し姿が見えるといった程度の小さな島であったのを伊弉諾尊、伊弉冉尊の二神が築き出された国土である。その後、人王の初めに神武天皇と申し上げる大王がおられた。この王より以降三十数代にわたる王の間には、仏と経と僧との三宝はなく、ただ人と神ばかりの世の中であった。 仏法がなかったので、人々は地獄も知らず、浄土を願うこともなかった。父母兄弟等との死別に際しても、死後どうなっていくものともわからず、露が消えるのとおなじように、また太陽や月が隠れると同じように、考えていたのであろう。 ところが、人王第三十代・欽明天皇という大王の御治世に、日本の北西の方角に百済国という国があるが、その百済国の聖明王という王が金銅の釈迦仏像と、この仏が説かれた一切経という経典と、この経を読誦する僧とを送ってきた。 だが、仏といっても生きているものではないし、経というものも外典の書物とは趣を異にしている。僧というものも、物はいうがその道理は理解できず、姿や服装も男とも女ともつかず異様であった。こうしたことから人々はいぶかり、驚いて、左右の大臣が天皇の御前において、あれやこれやと論議したが、「仏は尊崇すべきではない」との意見が大勢を占めた。その結果、仏像は捨てられ、僧は拘禁されたのであった。 そのような折りに、用明天王の皇子で聖徳太子と申し上げる方が、敏達天皇二年の二月十五日に東方に向かって「南無釈迦牟尼仏」と唱え、御手を開いて握っていた仏舎利をお出しになった。そして同六年には、法華経を読誦されたのである。 |
須弥山
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼・蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでいるとする。
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一閻浮提の内縦広七千由旬
一閻浮提は古代インドの世界観である四大州の一つで、単に閻浮提とも南閻浮提ともいい、また瞻部州ともいう。須弥山を中心とする九山八海のうち最も外側の鹹海中に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があると考えられていた。閻浮提はジャンブドヴィーパ(Jambu-dvīpa)の音写で、閻浮は樹木の名、提は州と訳され、この州に閻浮という大樹があるのでこう名づけられたという。また、四大州の中でも特に仏法有縁の地とされる。地形は縦広七千由旬で、北部が広く南部は狭い。由旬は距離の単位で、一由旬は中国の四十里にあたるという。他に十六里、十七里等の諸説がある。
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八万四千の国
世界中の国。八万四千は数ではなく、多数を意味する。
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五天竺
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国
インドを構成している国のことで、東・西・南・北・中天竺を中心に、さらに細分化されていた。大国とは土地が広く人口の多い国。大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000~10,000人の国を中国、700~3,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。
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神武天皇
第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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欽明天皇
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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百済国
古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。「くだら」と呼びならわされているが、正しくは「ひゃくさい」という。史料に初めて登場するのは、0345年、近肖古王の時代からで、以後、馬韓諸国の中心勢力として高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受け、日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。仏教を中心に数多くの文物を日本に渡し、飛鳥文化の形成は百済の力によるところが大きい。七世紀後半、唐・新羅の連合軍の攻撃を受け、日本の援軍も白村江の戦いで敗れたため、0660年に滅んだ。
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せいめい王
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
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用明天王
(~0587)。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
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聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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びだつの二年二月十五日
聖徳太子伝暦には、「二年癸巳春二月。育まれて後僅に朞二月有り。始めて十五日の平旦に、合掌して東に向き、南無仏と称して再拜し給う。人の教えに因らず」とある。
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南無釈迦牟尼仏
釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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御舎利
釈迦の遺骨。仏の骨。仏舎利。
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本抄は、弘安2年(1279)11月30日の御述作で、弘安2年(1279)10月、出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊御図顕の直後ということがうかがわれる内容である。
この御消息をいただいた佐渡の中興入道、およびその女房は、難しい学問を修めた人々ではないが、常識の豊かな人達であったと思われる。
日本の歴史の上から、仏教の渡来、およびそれがどのように大謗法の国へと推移していったかを述べられ、御本仏として末法に出現した御自身の立場を、歴史の上から明らかにされるとともに、そのような大聖人を助けた中興入道の仏法上の偉大な福運を讃嘆しておられる抄である。
最初の段では、日本の国の誕生から、仏教の渡来と受容にいたる歴史を述べている。
人王のはじめ神武天皇と申せし大王をはしましき。それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とはましまさず。ただ人と神とばかりなり
神武天皇の実在に関しては疑義が多い。日蓮大聖人は、古事記、日本書紀など、当時の日本で信じられていた考え方に拠られたまでであって、歴史的論議は、ここでは問題外である。
ただ、仏教渡来以前のわが国古代宗教においては「人と神とばかりなり」といわれていることに注目したい。
元来が神とは宇宙・自然の万象に秘められた計り知れない力を象徴化したものである。それが、やがて権力者が自己の権威を裏づけるために利用するところとなり、自らを神と称するにいたったのである。
一般の人にとって、神は、自然力の象徴であるにせよ、権力のそれであるにせよ、いずれにしても、人間の外の世界にあって、人間を支配する存在である。原始・古代宗教は、人々にそうした外在的な神の前にひれ伏しこれを祭って崇め、犠牲をもって、その機嫌をとることを教えたのである。
いうなれば、神は恐るべき力をもって人々の上に君臨する存在であり、人は、そのもとで奴隷的に仕える以外になかったのである。この図式は、日本ばかりでなく、世界のあらゆる民族の原始・古代宗教に共通しているといえよう。
それに対して、仏教は、人々自体が深遠の法を究めることによって、旧来の神よりも更に尊く偉大な、自らの内に可能性として存在する力を開発した仏=仏陀になれることを教える。
仏とは、まず、それを自ら実証してみせた存在であり、経は、仏がその悟りに到る道について説いたものである。僧は、この仏の理想と経法を自ら実践しつつ、広く世に伝える人々である。
仏教がこの現実社会に存在するといえるのは、この仏・法・僧があってこそである。このいずれが欠けても、仏教は、生きて存在しているとはいえず、したがって、人々にとって、救いとなりえない。そして、まさに仏教の救いとは、人々が、尊厳なる仏へと自己変革することであり、ここに、人間の神に対する奴隷的服従を教えた原始・古代宗教と仏教との根本的相違があることを知らねばならない。
仏法をはしまさねば地獄もしらず、浄土もねがはず。父母兄弟のわかれありしかども、いかんがなるらん。ただ露のきゆるやうに、日月のかくれさせ給うやうに、うちをもいてありけるか
ここは、日本に仏教が渡来する以前の、古代人の死に対する想念が簡潔に述べられているところである。
万葉集巻二の挽歌の一節にも「ぬばたまの夜渡る月も隠らく惜しも」とあるように、仏教思想に触れる以前の古代人は、死を、ただ露の消え、日月の隠れるくらいに思っていたのであった。
また、死者の行く世界としては、黄泉の国があると考えていた。黄泉とは、黄は土の色、泉はいずみで、地下にある泉のこと。あるいは語源上からは闇黒の意味であるとの説もあり、死者が行き、生活する暗い穢れた所を意味した。古代人は、生きとし生けるものの住む現実世界とは別に、地下にこうした世界があり、死ねばそうした地下の世界へ行くと考えたわけである。
したがって、古代日本人は、死について、せいぜい一つの世界から別の世界へ移り住むこととし、あるいは、土の中からあらわれた人間が、再び土の中へ戻っていくのだといった素朴な考え方をしていたようである。
そこには、生きているときに善業を積めば死んで浄土へ行き、悪業を行なえば死後に地獄へ行くといった、因果論や業思想はなかった。仏教渡来後の日本人の死に対する観念とは、大きな隔たりがあったわけである。
1331:14~1332:06第二章念仏の台頭を示すtop
| 14 それよりこのかた七百余年・王は六十余代に及ぶまで・やうやく仏法ひろま 15 り候いて.日本六十六箇国・二つの島にいたらぬ国もなし、国国・郡郡・郷郷.里里・村村に堂塔と申し寺寺と申し仏 16 法の住所すでに十七万一千三十七所なり、 日月の如くあきらかなる智者・代代に仏法をひろめ衆星のごとく・かが 1332 01 やく・けんじん国国に充満せり、かの人人は自行には或は真言を行じ・或は般若・或は仁王・或は阿弥陀仏の名号・ 02 或は観音・或は地蔵・或は三千仏・或は法華経読誦しをるとは申せども・無智の道俗をすすむるには・ただ南無阿弥 03 陀仏と申すべし、譬えば女人の幼子をまうけたるに或はほり・或はかわ・或はひとりなるには・母よ母よと申せば・ 04 ききつけぬれば・かならず他事をすてて・たすくる習なり、 阿弥陀仏も又是くの如し我等は幼子なり・阿弥陀仏は 05 母なり・地獄のあな・餓鬼のほりなんどにをち入りぬれば・南無阿弥陀仏と申せば音と響との如く必ず来りて・すく 06 ひ給うなりと・一切の智人ども教へ給いしかば・我が日本国かく申しならはして年ひさしくなり候。 -----― それ以来現在に至る七百余年、天皇も六十数代に及ぶ間に、仏法は次第次第に弘まっていき、日本六十六か国、二つの島に至るまで仏法のいきわたらぬ所はないまでになった。国々郡々郷々里々村々と、あらゆる所に堂や塔、寺院が建立され、仏法の住所は、すでに十七万一千三十七か所にのぼっている。更に、日月のように明らかな智者が何代にもわたって現れて仏法を弘め、きら星のように輝く賢人が数多く出現して諸国に満ちあふれている。 これらの智者、賢人達は、自行としては、ある者は真言を行じ、あるいは般若経、仁王経を行じ、あるいは阿弥陀仏の名号を称え、あるいは観世音菩薩、地蔵菩薩、三千仏などを信仰し、または、法華経を読誦しているのである。だが化他行として仏法の道理に暗い道俗に修行を勧める時には「ただひたすらに南無阿弥陀仏と称えなさい。譬えば女人に子供ができて、その子が堀や河に落ちておぼれかかっている時、または独りで寂しい時に、『お母さん、お母さん』と泣き叫ぶ声を聞きつけたならば、必ず他事を捨て置いて子を助けるのが常である。阿弥陀仏もこれと全く同じである。我ら衆生は幼児であり、阿弥陀仏は母である。我らが地獄の穴や餓鬼道の堀などに落ち込んで苦しんでいる時、南無阿弥陀仏と称えれば、ちょうど、音に響きが伴うように、阿弥陀仏が必ず来て我らをお救いくださるのだ」と、あらゆる智者、賢人達が教えたので、日本国ではそう言い習わし、念仏が弘まって年久しくなったのである。 |
日本六十六箇国二つの島
日本全国のこと。北海道を除く日本全国を六十六か国に分割したことにより、六十六州ともいう。壱岐と対馬は六十六か国の中には含まれず、二島と称した。
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十七万一千三十七所(日本の寺院の数)
中興入道消息にも「仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり」(1331)との御記述が見える。これに対し、諫暁八幡抄には「一万一千三十七の寺寺」(0582)と述べられ、「秋元御書」・「曾谷二郎入道殿御返事」・「弥源太入道殿御返事」も同様である。日蓮大聖人がどのような書を典拠として171,037所とされたのかは不明である。
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自行
①自分自身が法の利益を受けるため修行すること。②仏の教えそのものを説いた随自意の教法。
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真言
真言宗の三密のなかの語密をいう。真言陀羅尼ともいい、仏の真実のことばをいい、呪文のようなものである。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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仁王
仁王経のこと。鳩摩羅什訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」二巻八品と、不空訳の「仁王護国般若波羅蜜多経」二巻がある。五時八教のうち般若部の結経であり、わが国では法華経、金光明経と合わせて護国三部経と称され、鎮護国家の経とされた。内容は、正法が滅して思想が乱れる時に正法誹謗の悪業によって起こる七難を示し、この難を逃れる行法として五忍を説いている。
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阿弥陀仏の名号
阿弥陀仏の名を称えること。称名念仏。
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観音
観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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地蔵
地蔵菩薩のこと。もともとはインド神話にある地天に起源をもつが、仏教では、釈尊滅後から弥勒菩薩が成道するまでの無仏の時代に衆生を済度する菩薩とされる。地蔵信仰は、中国では唐代に最も盛んになり、日本でも平安期に入って貴族の信仰を集めた。鎌倉時代以後、民間信仰に取り入れられて庶民の間に浸透し、民衆のさまざまな願望を反映して延命地蔵や子安地蔵など各種の地蔵が生まれた。また、地蔵信仰は大衆化されて地神とも結びつき、左手に宝珠、右手に錫杖を持った姿の地蔵が全国各地に建てられるようになった。
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三千仏
過去・現在・未来の三大劫に出現する三千の仏。過去荘厳劫の千仏、現在賢劫の千仏、未来星宿劫の千仏を合わせて三千仏といい、三千三劫仏名経にその名称が記されている。日本では延喜18年(0918)以来、罪障を懺悔するために諸仏の名号を称える仏名会で、この三千三劫仏名経を誦するようになった。
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道俗
出家と在家のこと。
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日本に仏教が渡って来てから700余年間、仏教が興隆したさまと、そのなかから、どのように念仏信仰が流布していったかを示されている。この弥陀念仏は、本来、比叡山では一心三観・一念三千を成ずるための助行として行なわれていた。いわゆる四種三昧の一つの常行三昧がそれである。
ところで、叡山の恵心僧都源信は「往乗要集」を著して、天台の観念観法を捨てて、阿弥陀仏の色相を観ずる事観を教え、さらにこの色相事観を行ずることさえ難しい末代の凡夫に対して、一心に阿弥陀仏の名号を称える称名念仏を勧めたのである。また、三論宗の永観は「往生拾因」を著して、念仏一行の唯願・唯行を称え、真言宗の覚鑁は、「孝養集」に浄土往生を説くなど、諸宗の学僧にも称名念仏を勧めるものが現れ、末法に近づくにつれて、次第に専修念仏の興る気運が醸成されていった。
しかし、御文に述べられているように、従来、一般に、諸宗においては、僧達の自行としては各宗の依処とする経典の習学・修行を行ない、初信の者に対して、自宗の真実に導くための方便として、称名念仏を用いていたわけである。
こうした誘引の一手段にすぎなかった念仏を、それ自体唯一の正行と立て、念仏一門として独立させたのが法然である。法然は、自身がもともと天台宗・比叡山で学びながら、叡山の天台哲学、理論的な学問ではとうてい民衆の間に入ってはいけないと考え、そこで、いわゆる念仏を称えて、これさえ称えていれば救われると民衆に教えたのである。事実、この単純な教えと実践法は民衆に受け入れられ、念仏信仰という形で、はじめて仏教は貴族・有識階級の独占物から庶民一般のものとなったといえる。
だが方法論としては有効であったけれども、この娑婆世界の教主を説いた法華経をはじめとする一切経、一切の仏菩薩を難行道として排除し、極楽浄土という他方の世界の教主である阿弥陀の名のみを称えれば救われるという、その主張は、正法誹謗の邪義という以外になく、その念仏信仰の隆盛は、一国総罰の苦悩を惹起していったのである。
1332:07~1332:18第三章大聖人の弘通と受難を説くtop
| 07 然るに日蓮は中国.都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候いしかば.日本 08 国・七百余年に一人も・いまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱え候のみならず、 皆人の父母のごとく日月 09 の如く主君の如くわたりに船の如く 渇して水のごとくうえて飯の如く思いて候・ 南無阿弥陀仏を無間地獄の業な 10 りと申し候ゆへに・食に石をたひたる様に・がんせきに馬のはねたるやうに・渡りに・大風の吹き来たるやうに・じ 11 ゆらくに大火のつきたるやうに・俄にかたきのよせたるやうに・とわりのきさきになるやうに・をどろき・そねみ・ 12 ねたみ候ゆへに・ 去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで 二十七年が間・退転なく申しつより候 13 事月のみつるがごとく・しほのさすがごとく・はじめは日蓮只一人・唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳を 14 ふさぎ.眼をいからかし.口をひそめ・手をにぎり.はをかみ・父母・兄弟・師匠ぜんうも.かたきとなる、後には所の 15 地頭・領家かたきとなる・後には一国さはぎ・後には万民をどろくほどに、 或は人の口まねをして南無妙法蓮華経 16 ととなへ・或は悪口のためにとなへ・或は信ずるに似て唱へ・或はそしるに似て唱へなんどする程に、 すでに日本 17 国十分が一分は一向南無妙法蓮華経・のこりの九分は或は両方・或はうたがひ・或は一向念仏者なる者は・父母のか 18 たき主君のかたき・宿世のかたきのやうにののしる、 村主・郷主・国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり、 -----― ところで日蓮は、中央の都の者でもなければ、辺境の将軍等の子息でもない。都から遠く離れた国の、一庶民の子である。そんな賤しい身分の日蓮が、日本国七百年以上もの間ただの一人も唱え奉ることのなかった南無妙法蓮華経の題目を唱えるばかりではなく、一切の人々が父母のように慕い、日月のように崇め、主君のように敬い、渡りに船を得たように頼り、渇きに水を得たように喜び、飢えて食物を得たように思っている南無阿弥陀仏の称名を、「無間地獄に堕ちる業となるものだ」と破したのである。 それゆえ、食物に石を混ぜて炊いたように、岩石につまずいて馬が跳びはねたように、渡航中に大風が吹いてきたように、集落に大火事が起こったように、急に敵軍が攻め寄せてきたように、遊女が貴人の妻となったように、人々は日蓮の言説に驚き、うらみ、憎んだのである。 だが、去る建長五年四月二十八日の立宗以来、今日の弘安二年十一月に至る二十七年間というもの、退転なく、年を経るごとにより強盛に南無妙法蓮華経の弘通に努めてきたことは、月が夜毎に満月に近くなっていくごとく、潮が次第に満ちていくごとくであった。はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていたが、見る人、会う人、聞く人いずれも耳をふさぎ、眼をいからし、口をゆがめ、手を握りしめ、歯がみするなどして、父母、兄弟、師匠、善友等、近しい人達までもが敵対した。 後には、生国の地頭や領家も日蓮に敵対し、ついには一国をあげて騒ぎ、万民が驚動するありさまとなった。そうしたなかで、人の口まねをして南無妙法蓮華経と唱える者がいたり、あるいは悪口のために唱えたり、信ずるに似て唱え、あるいは誹謗に似て唱える者がいたりして、すでに日本国の民衆の十分の一は、一向に南無妙法蓮華経と唱えるようになったのである。残りの九分のうちには、あるいは念仏と題目の両方を行じ、あるいはどちらにつくべきか迷い、あるいは一途に念仏を行ずる者は、日蓮をまるで父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきでもあるかのようにして罵る。村主、郷主、国主等は、日蓮を謀叛人のように怨んでいるのである。 |
中国
国の中央部。
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辺国
①中心から離れた国。②不便で開けていない国。③仏教の中心(発祥地)から遠く離れた日本のこと。
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遠国
律令制では、諸国を都からの距離によって近国・中国・遠国の三種類に分けていた。このうち遠国には、関東以北、越後(新潟県)以北、安芸(広島県の西部)・石見(島根県の西部)以南の各国、および土佐国(高知県)が含まれた。日蓮大聖人御誕生の地である安房国(千葉県の南部)も遠国の一つにあたる。
―――
じゆらく
村里と都のこと。
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所の地頭・領家
地頭は鎌倉時代の官職で、源頼朝が源義経の追捕を名目として設けたもの。全国の荘園や公領に置かれ、その他の管理・警察・徴税等の権限を有していた。ここでは日蓮大聖人の生地・安房国長狭郡内の地頭の東条景信をさす。領家とは中世の荘園領主のことで、長狭郡の領主は名越氏であった。
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前章に述べられたように、日本中に流布した念仏信仰に対して、日蓮大聖人が、ただ一人、念仏は無間地獄の業であると断言し敢然と挑戦したがゆえに、いかに大きな波紋を起こしたかをいわれている。
念仏と無間地獄
日蓮大聖人は、立宗の当初から叫ばれた四箇の格言においても、念仏は無間の業なりと責めておられる。考えてみれば、法華経には誹謗正法は無間地獄の業因であるとされており、法華経を含めた一切経を、捨てよ、閉じよ、閣け、抛てとすすめた法然の念仏が、無間地獄の業であることは疑う余地がない。
しかし、もう一歩進んで考えると、正法を誹謗するものは、すべて無間の業であって、とくに念仏について大聖人が無間なりと叫ばれたのは何故かという問題が出てくる。
この点を考察してみるのに、やはりそれは念仏の利益として強調され、また人々も念仏信仰にかけた期待と関係があったのではないかと思われる。すなわち、念仏は「厭離穢土・欣求浄土」の言葉にも象徴されるように、死後、極楽浄土へ行けることを、念仏信仰の最大の利益として宣伝した。そして、人々もまた、来世的世相の中にあって、今世の救いを諦め、念仏による来世極楽往生を希望の拠りどころとしたのである。
ところが、法華経の原理に照らしてみるならば、念仏信仰はまさしく正法誹謗であり、死んで無間地獄に堕ちることが明らかである。とすれば、人々が死後、往生するところとして期待している極楽浄土は、実は無間地獄にほかならない。
この人々の、仏法哲理に対する無知による誤りを鋭く端的に指摘して、日蓮大聖人は、とくに念仏を無間の業なりと喝破されたと考えられるのである。
もとより、四箇の格言が示すように、大聖人がその鋭い折破の鉾先を向けられたのは、念仏ばかりでない。この抄で念仏について特にいわれているのは、最も広く流布していた故であり、本抄の対告衆である中興入道、同女房の住んでいた佐渡が念仏の特に盛んな国土であり、おそらく、中興入道夫妻の以前の信仰していたのも念仏であったためであろう。
人々の心の中に深く根を張っていた、念仏をはじめ既存の信仰を、大聖人はただ一人で真っ向から破折し、挑戦されたのである。しかも、大聖人の立場は「遠国の者、民が子」である。まさしく、果敢この上ない、革命の戦いである。その正義に惹かれて帰依する人もあったとはいえ、国中挙げて、とくに既存の権威と深く結びついている権力者が、日蓮大聖人を憎み、弾圧しようとしたことは理の当然でもあった。
1332:18~1333:15第四章逢難と中興入道の援助を述べるtop
| 18 かく 1333 01 の如く申す程に大海の浮木の風に随いて定めなきが如く・ 軽毛の虚空にのぼりて上下するが如く・日本国ををはれ 02 あるく程に、或時はうたれ・或時はいましめられ・或時は疵をかほふり・或時は遠流・或時は弟子をころされ・或時 03 はうちをはれなんどする程に、 去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて 北国佐渡の島にうつされて候 04 いしなり、世間には一分のとがも・なかりし身なれども・ 故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を地獄に堕ちたりと申す 05 法師なれば謀叛の者にも・すぎたりとて・相州・鎌倉・竜口と申す処にて頚を切らんとし候いしが・科は大科なれど 06 も法華経の行者なれば左右なくうしなひなば・いかんがとや・ をもはれけん、又遠国の島にすてをきたるならば・ 07 いかにもなれかし。 -----― このように南無妙法蓮華経を唱えるうちに、大海の浮木が風の吹くにまかせてどこへともなく流されていくように、軽い毛が空中に舞い上がって上下するように、日蓮も日本国中を追われ歩くうちに、ある時は打たれ、ある時は捕縛され、ある時は傷をつけられ、ある時は島流し、ある時は弟子を殺され、ある時は追放されるなど、度重なる難を受けてきたが、去る文永八年九月十二日には御勘気を蒙り、北国の佐渡ヶ島に配流されたのである。 もちろん、日蓮は世間の上では一点の罪科のない身ではあるが、故最明寺入道殿や極楽寺入道殿を地獄に堕ちたというほどの法師であるから、謀叛の者にもすぎた罪人であるとして、相模国鎌倉の竜口という刑場において日蓮を斬首しようとしたのであった。しかし、罪は大きいが、法華経の行者であるから、この法師を、軽々しく殺しては、どんな災いがあるかも知れぬと思われたのであろうか。また、直接手を下さずとも、遠国の島に放置しておけばなんとかなるであろう。 -----― 08 上ににくまれたる上.万民も父母のかたきのやうに・おもひたれば・道にても・又国にても.若しはころすか若し 09 はかつえしぬるかに・ならんずらんと・あてがはれて有りしに、法華経・十羅刹の御めぐみにやありけん、 或は天 10 とがなきよしを御らんずるにや・ありけん、島にて・ あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人あり 11 き、彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人と・ をもはれたりし人の・此の御房は・ゆへあ 12 る人にやと申しけるかのゆへに・子息等もいたうもにくまず、 其の已下の者ども・たいし彼等の人人の下人にてあ 13 りしかば内内あやまつ事もなく唯上の御計いのままにて・ありし程に、 水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・ 14 又はるることはりなれば、科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸 15 大名はゆるすべからざるよし申されけれども・ 相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて・のぼりぬ、 -----― 幕府に憎まれているうえ、日本国中の人々も、父母のかたきのように思っているのであるから、佐渡への道中にでも、佐渡の国においてでも、殺されるか餓死するかであろう、と佐渡流罪の判決を下されたのである。ところが、法華経・十羅刹女の御加護によるものであろうか、あるいは、天が日蓮に全く罪科のないことを御覧になっていたからであろうか。佐渡ヶ島には日蓮を憎む者は多かったのだけれども、中興の次郎入道という老人があった。 この人は、年配者であるうえに、心は賢く、身は壮健で、佐渡の人々からも尊敬を集めている人であった。この次郎入道が「日蓮という僧は、何かいわれのある人にちがいあるまい」といったからであろうか、彼の子息等も日蓮をひどく憎むということはなかった。それ以下の者達も、大体は、中興一族に仕える人々の下人であったから、主君の意向が浸透して、内々に日蓮に害に加えるということもなく、ただ幕府の指示の通りにしていた。 そうするうちに、水は濁っても再び澄み、月は雲に隠れてもまた晴れるのが自然の道理であるように、日蓮に罪科のないことがもはや明白となり、自界叛逆難、他国侵逼難など、かねてから言っていたことも外れなかったからであろうか、北条氏一門や御家人の有力者達は「日蓮の罪を許すべきではない」と強硬に主張したにもかかわらず、相模守殿の御裁決によって、ついに流罪を解かれて鎌倉にのぼったのであった。 |
文永八年九月十二日には御かんきをかほりて
竜の口の法難のこと。「かんき」は主君・目上の人から咎めを受けること。
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故最明寺入道殿・極楽寺入道殿
最明寺入道は鎌倉幕府第五代執権・北条時頼(1227~1263)のこと。禅宗に傾倒し、最明寺を建立し、そこで出家し住したところからこう呼ばれる。極楽寺入道は北条重時(1198~1261)のこと。連署の職を辞した後、出家して極楽寺に別邸を構え、そこに住したのでこう呼ばれる。
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相州・鎌倉・竜口
現在の神奈川県藤沢市片瀬。鎌倉時代に幕府の刑場があった場所。大聖人は文永8年(1271)9月12日、この地で首を刎ねられようとした。竜の口法難の地。
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十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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中興の次郎入道
佐渡の中興(新潟県佐渡市金井町中興)に住み、初めは念仏者であったが大聖人の流罪中に信徒となり、外護の任にあたっている。
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御一門諸大名
御一門とは執権・北条氏一族のこと。大名は、もと大規模な名田の所有者をさしたが、鎌倉時代では、武家のうち幕府に臣従して強大化した守護・地頭をいう。
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相模守殿
相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
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数々の受難と、とくに佐渡御流罪中に中興入道の父が大聖人を守る働きをしたことを述べられ、また、北条時宗の決断で赦免になった経緯に触れられている。
遠国の島にすてをきたるならば、いかにもなれかし。……若しはころすか、若しはかつえしぬるかにならんずらん
日蓮大聖人が生涯において二度、流罪になられたことの意味、とくに流罪というものがもっていた意味合いを、現代の人々は正しく知ることが難しい。それは、社会的背景が全く違うからである。
伝統的な共同体社会がほとんど崩壊している今日の都市では、人間的連帯が失われた半面、面識のない人でも比較的容易に受け入れられる。こうした状況の中では「流罪」ということ自体、刑罰として意味をなさないであろう。
だが、かつての、社会自体が緊密な共同体であった頃は、面識のない人間が受け入れられることは容易でないし、なかんずく為政者によって〝罪人〟として回されてきた人とあっては、ほとんど絶対的に受容されなかったであろう。そして、商品流通経済の未発達な社会では、そうした共同体の中に組み入れられなければ、生きていくことができなかったのである。
事実、念仏信仰の強い佐渡の民衆のなかには、念仏は無間の業なりと責めた大聖人を阿弥陀如来の敵と叫び、御生命をつけねらう者がいた。しかも流罪人であるから、それに対して法的保護は与えられなかったのである。
したがって、現代的状況では刑罰として成り立たないようにさえ思われる「流罪」が、律令制度のもとにおいては「死罪」に次ぎ、あるいは「死罪」に代わる重い刑とされたのである。すなわち、律令制度において定められた五刑のうち、流罪は、笞・杖・徒の上にあり、なかんずく、日蓮大聖人の伊豆、佐渡の二度にわたる流罪は、流刑中最も重い遠流であった。
仏教の因果応報の理を恐れた当時の権力者は、とくに身分の高い人や、仏教者に対しては直接に手を下す「死刑」を避けて、間接的に死を与えるため、多くの場合「流刑」に処したのである。
こうした背景を知るならば、日蓮大聖人が生涯に二度も、遠流の刑を受けられたことがいかに大変なことであったかが、うかがわれるのである。
また、それとともに、伊豆流罪を北条時頼が赦免し、さらに本文に仰せのように、佐渡流罪を北条時宗が赦免の決断を下したことの重要性も推測できるのではないか。面子を重んずる幕府要人の間に、そうした赦免は幕府の権威を失墜させるものであるとして、強い反対があったにちがいないからである。
1333:16~1334:15第五章大聖人の忠と謗法者の怨嫉を示すtop
| 16 ただし日蓮は日本国には第一の忠の者なり 肩をならぶる人は先代にもあるべからず・ 後代にもあるべしとも覚え 17 ず。 -----― ただし、日蓮は日本国にあっては第一の忠の者である。日蓮に肩を並べる人は、先代にもないであろう。後代にもあらわれるとも思われない。 -----― 18 其の故は去ぬる正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆ 1334 01 へ.いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに.真言・禅宗・念仏・律等 02 の権小の人人をもつて法華経をかろしめ・たてまつる故に・ 梵天・帝釈の御とがめにて西なる国に仰せ付けて日本 03 国をせむべしとかんがへて、 故最明寺入道殿にまいらせ候いき、此の事を諸道の者・をこつきわらひし程に・九箇 04 年すぎて去ぬる文永五年に 大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状わたりぬ、 此の事のあふ故に念仏者・真言 05 師等あだみて失はんとせしなり、 例せば漢土に玄宗皇帝と申せし御門の御后に上陽人と申せし美人あり、 天下第 06 一の美人にてありしかば 楊貴妃と申すきさきの御らんじて・ 此の人王へまいるならば我がをぼへをとりなんとて 07 宣旨なりと申しかすめて、 父母・兄弟をば或はながし・或は殺し・上陽人をばろうに入れて四十年まで・せめたり 08 しなり、 此れもそれににて候、 日蓮が勘文あらわれて大蒙古国を調伏し日本国かつならば此の法師は日本第一の 09 僧となりなん、 我等が威徳をとろうべしと思うかのゆへに讒言をなすをばしろしめさずして、 彼等がことばを用 10 いて国を亡さんとせらるるなり、 例せば二世王は趙高が讒言によりて李斯を失ひかへりて 趙高が為に身をほろぼ 11 され、延喜の御門はしへいのをとどの讒言によりて 菅丞相を失いて 地獄におち給いぬ、 此れも又かくの如し、 12 法華経のかたきたる真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等が申す事を御用いありて日蓮をあだみ給うゆへに、 日蓮 13 はいやしけれども所持の法華経を釈迦.多宝・十方の諸仏.梵天・帝釈・日月.四天・竜神・天照太神.八幡大菩薩・人 14 の眼をおしむがごとく・諸天の帝釈をうやまうがごとく・ 母の子を愛するがごとく・まほりおもんじ給うゆへに、 15 法華経の行者をあだむ人を罰し給う事・父母のかたきよりも朝敵よりも重く大科に行ひ給うなり。 -----― そのわけは、去る正嘉年間の大地震や文永元年の大長星の時、内道外道それぞれの智人達が、こうした変事の起きるわけを占ったが、何故こうしたことが起きるのか、これから先、どのようなことになっていくのか、ということがわからなかった。そのとき日蓮は、一切経蔵に入り、仏の所説の上から変事の原因と未来を考察したところ、「今の世の人々が、真言・禅・念仏・律等の権大乗教、小乗教の僧を尊重し、法華経を軽んじ奉っているが故に、梵天・帝釈の御咎めとして、西方の国に命じて日本国を攻めさせるであろう」との結論を得た。そこで、この旨を記して、故最明寺入道殿に進上したのである。 諸宗諸道の者達は、はじめこれを嘲笑し、無視していたのだが、安国論提出から九か年を経過して、去る文永五年に大蒙古国から、日本国を襲うであろうとの牒状が届いた この予言が的中した故に、念仏者や真言師等は日蓮を憎み、殺害しようと企てたのである。それは、例えば中国に、玄宗皇帝という御門の後宮に上陽人という美人がいた。この人は天下第一の美人であったので、楊貴妃という皇帝の后が上陽人の美しさを見て「この人が王のそば近くに仕えたならば、きっと私への寵愛を奪われてしまうに違いない」と考えた。そこで楊貴妃は、皇帝の宣旨であるといつわってにせの命令書を発して上陽人の父母兄弟を流罪、殺害するなどして、上陽人自身を四十年の長きにわたって牢に閉じ込めて苦しめたのである。 日蓮に対する仕打ちも、今挙げた例に似ている。諸宗の僧達は「日蓮の勘文が世に知られ幕府に用いられて、大蒙古国を調伏し、日本国が勝つことにでもなれば、この法師は日本第一の僧として遇されるにちがいない。そうなれば、我々の権威は地に堕ちて、尊敬を受けることもなくなってしまう」と恐れたが故に日蓮を讒言したのである。だが、執権は彼等の動機を見抜くことができずにその言葉を信用してしまい、日本の国を滅ぼそうとされているのである。 これは例を挙げれば、秦の二世王が、趙高の讒言を用いて李斯を死なせ、かえって趙高によって身を滅ぼされてしまったようなものである。また日本でも、延喜の御門は、左大臣藤原時平の讒言を用いて丞相菅原道真を失い、その過ちの故に地獄に堕ちられた。 今の執権の場合もこれと全く同様である。法華経のかたきである真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等のいうことを御信用になって、日蓮をあだまれているのである。日蓮自身は身分の賤しい者であっても、持つところの法華経は、釈迦・多宝・十方の諸仏、梵天・帝釈・日月・四天・竜神、天照太神・八幡大菩薩等の諸仏・諸天善神が、あたかも人が眼を最も大切にするように、諸天が帝釈を敬うように、母がわが子を愛するようにして守護し、重んじられる経である。したがって、法華経の行者を憎み迫害を加える者に対しては、諸仏・諸天が父母のかたきよりも、朝敵よりも重い罪を科して、厳しく処罰されるのである。 |
正嘉年中の大地震
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
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文永元年の大長星
文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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一切経蔵
①三蔵の一つで経典のこと。②経典を納める書庫。
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権小
釈尊50年説法中、前42年の方便権教の大乗教と小乗教。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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諸道の者
諸道といった場合、広く学芸一般をいうが、ここでは特に仏家・儒家・陰陽師・明法博士をさす。
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牒状
まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
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玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第六代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した。しかし後年、楊貴妃に溺れ、政情が混乱し、ついには安史の乱の勃発を招いた。晩年は譲位した粛宗との関係がうまくいかず、不遇のうちに世を去った。
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上陽人
上陽宮の官女の称。唐代の玄宗の時、楊貴妃が皇帝の寵愛を独占しようとして、後宮中の美官女を上陽宮という宮殿に移し棲まわせた。そのため官女は空しく年老いたという。したがって上陽人は総称であるが、ここでは人名として用いられている。
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楊貴妃
(0719~0756)。玄宗皇帝の寵妃。はじめ玄宗の皇子の寿王瑁の妃であったが、玄宗に見い出され、その寵愛を一身に受けた。一族を高位高官に就かせて権勢を誇ったため、国政は乱れて人々の反感を買い、ついに楊氏打倒を名目として安禄山の乱が起きた。難を逃がれて四川省に向かう途中、殺された。
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勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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讒言
告げ口・悪口をいうこと。
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二世王
(~前0207)。中国・秦の第二代皇帝(在位前0210~0207)。名は胡亥。始皇帝の末子であったが、宦官の趙高の策謀によって対立者を倒して即位した。即位後は政治を趙高の手に委ねたが、趙高は讒言を用いて始皇帝以来の功臣や宗族等を次々と殺した。そして、始皇帝の強引な政治に不満を抱いていた群雄が各地に乱立し、秦の形勢が不利となるや、二世王もまた趙高に殺された。
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趙高
(~前0207)。中国・秦代の宦官。始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ、権力を握った。旧臣を退けて酷政を行なったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利とみるや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。
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李斯
(~前0208)。中国・秦代の丞相。荀子に学び、法家の思想をもって始皇帝に仕えた。郡県制の実施、文字・度量衡の統一、また領土拡大のため匈奴、南越の征伐を立案し、種種の功績があった。だが、思想統一のために焚書坑儒を強行するなどその施策は強引であった。始皇帝の死後、趙高の讒言を用いた二世王の怒りにふれ、刑死した。
―――
延喜の御門
第六十代・醍醐天皇(0885~0930)のこと。天皇在位中(0897~0930)昌泰、延喜、延長と三度改元したが、延喜年間が民心、政情とも最も安定していたので尊称してこう呼ぶようになった。第五十九代・宇多天皇の第一皇子で、寛平9年(0897)に13歳で即位した。父帝の遺誡にしたがって藤原時平を左大臣に、菅原道真を右大臣にそれぞれ任じた。宇多天皇は、藤原氏の専横を抑えるために菅原道真を登用し、醍醐天皇も、はじめ、この方針を継いで道真を重んじた。だが、これを嫉み恐れをいだいた藤原氏一門が、時平を中心に結束して道真排斥に動き、天皇は時平らの讒言を用いて、道真を右大臣から大宰権帥に左遷した。
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しへいのをとど
(0871~0909)。藤原時平のこと。平安初期の政治家。関白・藤原基経の長子で、醍醐天皇に仕えて左大臣となった。藤原氏一門の勢力を守るため菅原道真を讒言し、大宰権帥に左遷した。延喜2年(0902)の荘園整理令の発令、班田収授法の励行、奢侈の禁止など律令制の保持に貢献し、政治家としては有能であったが、他の権勢家から恨みを買うことも多かった。
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菅丞相
菅原道真(0845~0903)のこと。丞相とは執政の大臣の異称。平安初期の政治家・文人・学者。権勢を誇る藤原氏を抑えるため、宇多、醍醐天皇に信任された。寛平6年(0894)に上奏して奈良時代から続いてきた遣唐使を廃止し、醍醐天皇即位の翌々年に右大臣に任ぜられた。しかし、延喜元年(0901)、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、翌々年この地で没した。文章家としてもすぐれ、「菅家文草」十二巻、「菅家後集」一巻などの漢詩集があり、「類聚国史」二百巻の編著は有名。彼が学問的にすぐれ、また晩年が不遇であったことから天神として祀られ、各地で信仰されるようになった。
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竜神
八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)の2番目。金翅鳥、修羅、竜神とともに、地動を起こすといわれる。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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国というものを中心にみた場合、日蓮大聖人は自分こそ、空前絶後の最大の忠を尽くした者であると述べられている。この大忠の大聖人を、謗法の法師達が嫉み、亡き者にすることにより、国を滅ぼそうとしているのであると、厳しく指摘されている。
日蓮は日本国には第一の忠の者なり
「忠」とは、もともと特定の個人に隷属し服従することではない。この概念は封建制度のもとでは、従属的人間関係を正当化するために利用され、こうした印象が強く残っているが、ここで日蓮大聖人が用いられているような、この語の本来的意義は、全く別のものであることを知らなければならない。「忠」の本義は、真心を尽くすことである。とくに、自ら生を受け、生を営む依処としての共同体社会全体の平和と繁栄のために、自分のできる最善を尽くすことである。
大聖人は、三災七難が競い起こり、日本中が苦悩のどん底に陥ったとき、その災いの起こる原因を仏法哲理に照らして究め、根本的解決の法を提示されたのであった。そして、大聖人の主張の正しさを裏づけるように、かねて警告されていた自界叛逆・他国侵逼の難が現実のものとなった。
このことをもって、日本国のために、第一の忠を尽くしたのが自分であると、大聖人は断言されているのである。そこには、真の忠とは、特定の個人としての主君・為政者に対してなすものではなく、社会の人々全体のためになすものであること、また、盲目的に服従することでなくて、真理を根本に、たとい憎まれようと厳然と諌めることである、等々の信念が貫かれている。
日蓮はいやしけれども、所持の法華経を……まほりおもんじ給うゆへに云々
すでに述べられているように、大聖人は「遠国の者、民が子」である。大聖人を守ろうとする権力者も、有識者もいるわけではない。仏法上からいっても、あくまで凡夫である。だが、その持つところの法が、一切の仏の師であり、諸天の力の源である妙法であるが故に、この妙法を守るために、一切諸仏、諸天が大聖人を守っているのだと、仰せである。
「法妙なるが故に人貴し」の原理が、これであり、さらに深く、ここにいわれている元意を拝するならば、法即人、人法体一の御本仏としての境地を示されているのである。
1334:16~1335:08第六章遺族の信心を励ますtop
| 16 然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にて.をはするなり・御前は又よめなり・いみじく心かしこかりし人の子と.よ 17 めとにをはすればや、 故入道殿のあとをつぎ国主も御用いなき 法華経を御用いあるのみならず・ 法華経の行者 18 をやしなはせ給いて・ としどしに千里の道をおくりむかへ・ 去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばを 1335 01 たてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・ をはしませば、 北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大 02 海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん、 況や・ 03 かのそとばに随喜をなし 手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、 過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月 04 の如く浄土をてらし・ 孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて 後生には父母とともに霊山浄土にまい 05 り給はん事・水すめば月うつり・つづみをうてば・ひびきのあるがごとしと・をぼしめし候へ等云云、此れより後後 06 の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ。 07 弘安二年己卯十一月卅日 身延山 日蓮花押 08 中興入道殿女房是 -----― ところであなたは、亡き次郎入道殿の御子息であられ、御前はまたその嫁である。非常に賢明であったお方の御子息と嫁であられるからであろうか、故入道殿の御志を継いで、国主も用いられていない法華経を信仰されるのみならず、法華経の行者である日蓮を養われて、毎年毎年千里の道を行き来して御供養を届けられる。 幼くして亡くなられた娘御前の十三年忌には、一丈六尺のそとばを建立し、その表面に南無妙法蓮華経の七文字を書き顕して追善供養された。北風が吹けば、その南の海の魚類はその風にあたって大海の苦悩を離れ、東風が来れば西の山の鳥や鹿は、その風を身に触れて畜生道をまぬかれて、都率の内院に生まれるであろう。畜生ですらこのようであるから、まして、この窣堵波の建立を喜び、手を触れ眼に見る人々の功徳がどれほど偉大であることか。 亡き父母もこのそとばの功徳によって、天の日月のように浄土への道を明るく照らされているであろう。また、孝養の人たるあなた自身並びに妻子は、現世には百二十年までも長生きして、後生には父母と共に霊山浄土に行かれるであろうことは、水が澄めば月は明らかに映り、鼓を打てば響きが伴うように、間違いのないことだと確信しなさい。これより後々の窣堵波にも法華経の題目を書き顕しなさい。 弘安二年己卯十一月卅日 身延山 日 蓮 花 押 中興入道殿女房 |
故次郎入道
中興次郎入道のこと。佐渡の中興(新潟県佐渡市金井町中興)に住み、初めは念仏者であったが大聖人の流罪中に信徒となり、外護の任にあたっている。
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丈六のそとば
丈六は一丈六尺。窣堵波はストゥーパ(Stūpa)の音写で、率都婆、率塔婆などとも書き、単に塔ともいう。本来は古代インドで土饅頭型に盛り上げられた墓をさす。後に、仏・阿羅漢などの記念碑として、その徳を仰ぎ尊ぶために遺骨、遺髪、所持品などを埋めた上に煉瓦で構築するようになった。中国、日本では、ストゥーパから発達した高層型の塔が、金堂と並んで伽藍の重要な構築物として建てられた。後世、死者の追善供養のため、塔の形の切り込みをつけた細長い板に梵字・戒名・経文などを記して墓の側に立てる板塔婆を、窣堵波と呼ぶようになった。
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いろくづ
うろこ、また、うろこをもった生き物のことで魚族のこと。「北風吹けば……畜生道をまぬかれて」は、最勝仏頂陀羅尼浄除業障呪経と無垢浄光大陀羅尼経の文の取意。窣堵波供養の功徳を述べた文。
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畜生道
三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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都率の内院
六欲天の第四天。兜率天ともいう。兜率は梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。内院と外院の二つに分かれ、内院は弥勒菩薩の住処、外院は天の衆生の欲楽処とされる。
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随喜
「事理に随順し、己を慶び、人を慶ぶなり」と釈し、釈尊の本地深遠の常住を聞いて信順すること、「理に順う」といい、仏の三世益物の一切処に遍きを聞いて信順することを「事に順う」という。「己を慶ぶ」とは、迹門の諸法実相の理、および本門の久遠本地の事を聞いて信解し歓喜を生ずつこと。「人を慶ぶ」とは、仏も衆生も無作の三身を所具しているとの観をもって一切衆生に正道を悟らせようとする大慈悲心を発すことをいうのである。観心の立場から論ずるならば、永遠の生命観に立ち、御本尊の絶対なる功力を信じ、歓喜して行学の力強い実践に励むことである。
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現世
過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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佐渡御流罪中の日蓮大聖人を助けた故中興次郎入道の志をついで、まじめな信心に励んでいる中興入道夫妻を心から讃え、激励されている。
冒頭に「鵞目一貫文送り給い候い了んぬ」とあり、また、この段に「法華経の行者をやしなはせ給いて、としどしに千里の道をおくりむかへ」と記されているように、事あるごとに御供養をし、入道も、はるばる身延まで行き来していたのであろう。よほどの純真にして強盛な信心なくしては、できないことである。
また、夫妻が、幼くして亡くした娘の13年忌の回向のために、題目を記した窣堵波を立てたことに関して、その法界万物へ回向される功徳の大きさを教え、喜ばれている。
いわゆる窣堵波が、単に亡くなった当人の霊のためのみでなく、現実のこの世のあらゆる生命に功徳を及ぼし、今は亡きすべての人々への回向となるものであり、なかんずく、窣堵波を建て供養した人自身にとって偉大な福運となっていくのだということである。仏法は、どこまでも、自己のみの幸せを願うのでなく、自己を取り巻く一切の存在の幸せを願い、かつ具現していくことがその根本精神である。この御文から、あらためてこの仏法の広大な慈悲の精神を知らなくてはならない。
1331~1335 中興入道消息 2011:06月号大白蓮華より。先生の講義top
人間の「善の絆」の拡大が広宣流布
今、時代は大きな変革期を迎えました。これまでの社会の価値観が問われ、新たな展望と挑戦が求められています。
いずれにしても大事なことは「何を根本にすべきか」です。
それに対する答えは明快です。
人間を守り、命を育む。今日より明日へ、よりよい人生を切り開く。
そのために、希望と勇気を人々に贈るのが、宗教の本来の役割です。
日蓮大聖人の仏法は、苦悩渦巻く現実社会のなかで、いかなる困難にも立ち向かう力を湧きたたせます。何ものにも崩れない「心の財」を築き上げるための宗教です。
人間それ自体に内在する、最も清らかで、最も力強い仏界という生命を一切の根幹とする。この日蓮仏法の価値観が、今、世界に注目されています。
そして、人々を励まし、いかなる人も自身の中に逆境を乗り越える力があることを示してきた。わが学会の人間革命の大民衆運動が、希望の光を放っています。
民衆に活力を贈るのが宗教本来の使命
かつて、偉大な歴史学者のトインビー博士は、小説『人間革命』の英語版に寄せて「創価学会は驚異的な戦後の復興を遂げた。それは経済分野における人間国民の物質的成功に匹敵する精神的偉業であった」と評されました。
さらに「創価学会の戦後の興隆は、単に創価学会が創設された国だけの関心事ではない」として、創価の世界への前進に多大な期待を寄せられていました。博士は「民衆に活力を与える」という宗教本来の使命を創価学会が果たしていることに着目された。それが現代の人類社会に必要な宗教の姿であることが洞察されていたものです。
どのような時代であっても、幸福勝利の人生を切り開いていける人間の智慧と力を開発していく、混乱に陥った人間社会を根底から変革していく道があります。
その最大のカギである「心の復興」を真に成し遂げる希望の哲学と実践が、大聖人の思想と行動に明確に示されているのです。
日蓮大聖人は、人々が人間の可能性を見失い、社会が混乱していく末法という時代にあって、民衆の善性の開発のために、身命を賭して戦い抜かれました。
今回拝する「中興入道消息」は、その大聖人の大闘争の軌跡が端的に記されている御書です。
| 07 然るに日蓮は中国.都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候いしかば.日本 08 国・七百余年に一人も・いまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱え候のみならず、 皆人の父母のごとく日月 09 の如く主君の如くわたりに船の如く 渇して水のごとくうえて飯の如く思いて候・ 南無阿弥陀仏を無間地獄の業な 10 りと申し候ゆへに・食に石をたひたる様に・がんせきに馬のはねたるやうに・渡りに・大風の吹き来たるやうに・じ 11 ゆらくに大火のつきたるやうに・俄にかたきのよせたるやうに・とわりのきさきになるやうに・をどろき・そねみ・ 12 ねたみ候ゆへに・ 去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで 二十七年が間・退転なく申しつより候 13 事月のみつるがごとく・しほのさすがごとく・はじめは日蓮只一人・唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳を 14 ふさぎ.眼をいからかし.口をひそめ・手をにぎり.はをかみ・父母・兄弟・師匠ぜんうも.かたきとなる、 -----― ところで日蓮は、中央の都の者でもなければ、辺境の将軍等の子息でもない。都から遠く離れた国の、一庶民の子である。そんな賤しい身分の日蓮が、日本国七百余年もの間ただの一人も唱え奉ることのなかった南無妙法蓮華経の題目を唱えるばかりでなく、一切の人々が父母のように慕い、日月のように崇め、主君のように敬い、渡りに船を得たように頼り、渇きに水を得たように喜び、飢えて食物を得たように思っている南無阿弥陀仏の称名を「無間地獄に堕ちるものだ」と破したのである。 それゆえ、食物に石を混ぜて炊いたように、岩石につまずいて馬が跳びはねたように、渡航中に大風が吹いてきたように、集落に大火事が起こったように、急に敵軍が攻め寄せてきたように、遊女が貴人の妻となったように、人々は日蓮の言説に驚き、うらみ、憎んだのである。 だが建長五年四月二十八日の立宗より以来、今日の弘安二年十一月に至る二十七年間というもの、退転なく、年を経るごとにより強盛に南無妙法蓮華経の弘通に努めてきたことは、月が夜毎に満月に近くなっているごとく、潮が次第に満ちていくごとくであった。はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていたが、見る人、会う人、聞く人いずれも耳をふさぎ、眼をいからし、口をゆがめ、手を握りしめ、歯がみするなどして、父母・兄弟・師匠・善友等、近しい人達までもが敵対した。 |
「民の子」による宗教革命
「中興入道消息」は、弘安2年(1279)11月30日、日蓮大聖人が身延の地から、佐渡の門下である中興入道夫妻に送られたお手紙です。
大聖人にとって、中興入道の父・中興次郎入道は、佐渡流罪中に大変にお世話になった恩人です。その子息が立派に信心を貫き、活躍している姿を、大聖人は、いかばかり喜ばれたことでしょう。
本抄は、この夫妻の信心を賞讃される一方で、夫妻に対してあらためて大聖人御自身の闘争の深き意義を綴られています。
大聖人は、御自身の戦いの意味を浮き彫りにするために、当時の史書等に基づいて、日本の仏教の伝来から説き起こされていきます。
仏教が伝来する以前の日本では、人々は、地獄も浄土もわからず、父母兄弟の別れがあってもどうすることもできず、ただ、露が消え、日月が隠れるようなものだと思っていた。
すなわち、当時の日本の人々は、三世の生命の因果を説く仏法を知らなかった。そのために、生死の問題に、なすすべをもたなかったのです。
しかし、その価値を見出す智者がいました。それが聖徳太子です。仏教を受け入れるかどうか、とまどいと反発の中で、一国の太子である聖徳太子が率先して、仏教の根本をなす釈迦仏に帰命し、法華経を読誦しました。これを端緒として、日本国中に仏教が広まることになった。このように大聖人は師敵されています。
実に、一人の人間の精神的な飛翔こそが、新しい思想の潮流を開く源流になるのです。
そして、日本に仏教が伝来して700年。末法の初めに当たる大聖人の時代においては、仏教は確かに日本中に広がっていた。しかし、種々の宗派に分かれ、民衆の間を念仏の教えが席巻して、仏教の根本となす釈尊と法華経がほとんど見失っていました。
その時に、仏教の根本精神を復興するために日蓮大聖人が出現されたのです。
本抄の御文の中で大聖人は、御自身のことを、都から遠く離れた辺地に生まれた「民が子」であると託宣されています。
末法の根本的な変革は、社会を支えている民衆一人一人の変革しかありません。
「民が子」との宣言は、自らその変革の先頭に立ち、手本となって、民衆に真に活力を与え、仏法の根本精神を復興しようとする大聖人のお心が込められていると拝せます。
しかし、何の権威や権力によらない「民が子」であるがゆえに、権力に追従する者たちや、偽の権威を暴かれた者たちから非難されます。大聖人の民衆救済のお心が人々から理解されず、無知と無関心による無視・嫉妬と打算による反発、そして悪意と傲慢による迫害の嵐が襲ってきたのです。
大聖人は、建長5年(1253)4月28日に南無妙法蓮華経と唱え出して以来、本抄御執筆の弘安2年(1279)11月までの27年間の闘争を振り代えられ、南無妙法蓮華経の仏法が大きく広まり、日本国の10分の1が題目を唱えたと示されています。
しかし、その一方で、大聖人に対する迫害も尋常ではなく、特に日本中の念仏者から敵のように憎まれ、権力からの弾圧は、竜の口の法難・佐渡流罪へと熾烈を極めたことも綴られています。
日本国の10分の1の人々に題目が広まったと仰せになっているのは、順縁・逆縁の両縁による題目流布を言われていると拝されます。
大聖人の強き信念と不退転の実践と人格の輝きによって信順する順縁の人も、反発する逆縁の人も、生命的に触発され、妙法に結縁していったのです。
法は人によって広まる
本抄では、「二十七年が間・退転なく申しつより候」と、一歩も退かずに戦い抜いてこられたことを中興入道夫妻に教えられています。この一節は、牧口先生も御書に線を引かれ、深く拝されていました。
大聖人も諸抄で、しばしば、御自身の闘争の軌跡を留められています。それは、大聖人が仏法上、いかなる存在のなかを教えられるためのものです。一つ一つの戦いの意義を明確にすることで、大聖人を正しき師と仰いで、弟子として共に戦う誉れと、広宣流布に邁進する信心を教えるためであったと拝されます。それは「法華経の行者」といての誇りと勇気です。
大聖人は法華経に明かされた仏法の根本精神をそのまま受け止められ、そして、法華経に説かれるとおりにどこまでも実践された「法華経の行者」であられたということです。
如説修行を貫くことによって、法華経に説かれた成仏の根本法を自らの御生命に体現されたのです。
仏法はどこまでも「法」が根本ですが、「法」といっても人間の実践を離れて、どこかに抽象的に存在するわけではありません。「法」は常にそれを実践する「人」に体得、体現されて初めて、現実に生々脈動する力を持ち、その尊極なる妙用で人生と社会を潤すことができるのです。「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-03)と仰せです。
妙法弘通にあたって大聖人は、妙法を言葉や理論のみで“教えた”のではなく、妙法を確信し体現する御自身の姿、お振る舞いを通して“示された”のです。大聖人自身の戦いの姿を離れて、仏法はありません。
したがって私たちが仏法を会得するためには、「日蓮がごとく」という実践が重要となります。
どこまでも、妙法をわが身に体現し、生き抜かれた師匠の姿を通し、今度は、師匠の戦いの通りに自ら戦い、自身に体していく以外にないのです。すなわち師弟の脈動の中にこそ、仏法の真実の継承があるのです。
| 09 法華経・十羅刹の御めぐみにやありけん、 或は天 10 とがなきよしを御らんずるにや・ありけん、島にて・ あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人あり 11 き、彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人と・ をもはれたりし人の・此の御房は・ゆへあ 12 る人にやと申しけるかのゆへに・子息等もいたうもにくまず、 其の已下の者ども・たいし彼等の人人の下人にてあ 13 りしかば内内あやまつ事もなく唯上の御計いのままにて・ありし程に、 水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・ 14 又はるることはりなれば、科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸 15 大名はゆるすべからざるよし申されけれども・ 相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて・のぼりぬ、 -----― ところが法華経・十羅刹の御加護によるものであろうか、佐渡の島では憎むものは多かったけれども、中興の次郎入道という老人があった。 この人は、年配者であるうえに、心は賢く、身は壮健で、佐渡の人々からも尊敬を集めている人であった。この次郎入道が「日蓮という僧は、何かいわれのある人にちがいあるまい」といったからであろうか。彼の子息等も日蓮をひどく憎むということはなかった。それ以下の者達も、大体は中興一族に仕える人々の下人であったから、主君の意向が浸透して、内々に日蓮が害に加えるということもなく、ただ幕府の指示通りにしていた。 そうするうちに、水は濁っても再び澄み、月は雲に隠れてもまた晴れるのが自然の道理であるように、日蓮に罪科のないことはもはや明白となり、自界叛逆難・他国侵逼難など、かねて言っていたことも外れなかったからであろうか。北条氏一門や御家人の有力者達は「日蓮の罪を許すきではない」と強硬に主張したにもかかわらず、北条時宗の御裁決によって、ついに流罪を解かれて鎌倉にのぼったのであった。 |
「人間性の交流」が環境を変える
当時の権力者は、大きな変革をもたらす大聖人を恐れ、亡き者にしようとしました。
幕府権力者の佐渡流罪の狙いは、事実上は死罪です。憎む者たちに殺されるか、あるいは餓死するであろうと企んで、こともあろうに大聖人を流罪にしたのです。
ところがその佐渡の地に中興入道の父・中興次郎入道がいた。念仏が広まり、大聖人を憎み、敵対する者が多い佐渡の地で、厳然と大聖人をお守りしたのです。
中興次郎入道は、いわば地域の長老格の存在であり、身も裕福で心根も立派で、人々からも尊敬を集めていました。島中の人々が大聖人を憎む中で、この中興次郎入道が大聖人を「ゆへある人にや」何かいわれのある方に違いない、と言った。このことで環境が一変します。一族に仕える者たちもこの発言に従い、大聖人に危害を加えることができなかったようです。まさに、諸天善神の働きにほかなりません。
ここで注目しておきたいのは、中興次郎入道の人間性です。
中興次郎入道が年配者であり、人々から人格者として尊敬されていたがゆえに、周囲に影響力があったということはたしかです。しかし、より大事なことは、中興次郎入道が、まっすぐなまなざしで、日蓮大聖人の人格徒徳に共鳴したというのです。
世間の風評は、当然、中興次郎入道も耳にしていたはずです。おそらくは、直接お会いして、大聖人の御人格にふれ、その結論として、これだけの人物が迫害されているのには、何かわけがあるに違いないと判断したものと思われます。
いわば、民衆のために戦われる大聖人の心の深さを直感的に理解できたのでしょう。人々から信頼される人格者であるがゆえに、大聖人の大誠実や正義を貫かれる大信念をそのまま受け止められたに違いない。
内なる善が他の善を呼び起こす
この佐渡の地では、中興次郎入道のみならず、阿仏房・千日尼夫妻、国府入道夫妻をはじめ、多くの人たちが大聖人の真実のお姿にふれて味方になり、あるいは大聖人に帰依します。真実の人格に勝る力はありません。かつての伊豆流罪においても、直接、大聖人にお会いした人々が味方になりました。
内薫外護の原理のままに、大聖人御自身の内なる善が振る舞いとなって現れ、それによって周囲の善の心を呼び起こしているのです。周囲から信頼を得ると言っても、それは決して信念を捨てて妥協的に生きることではありません。
権威主義で人間を苦しめ、不幸にする思想・宗教に対しては、烈々たる言論の力で正し抜いていく、平和のため、また、苦しむ人々のためには強調し、互いの善性を開発しつつ協力し合っていく。真の破折と寛容は、表裏一体です。悪を放置する寛容は無慈悲です。人間に対する尊敬の念を忘れた破折は独善です。どこまでも「法」のため、「人」のために行動されたのが日蓮大聖人です。その真実の行き方に、必ず共鳴する賢者が出現するということです。
また、このことは、人格・人間性の伝播の力を物語っています。広宣流布とは、有情と信頼の絆が拡大うることが、広布の拡大です。
私たちの実践でいえば、どこまでも真心を尽くし、誠実に身近な家族、友人、知人の一人一人を大切にすることです「一人を徹して大切にする」それが万人成仏の法華経の実践であり、教主釈尊が説いた実践の肝要です。
人と人との「信頼」と「尊敬」による連帯の広がりが、広宣流布の姿なのです。
| 16 然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にて.をはするなり・御前は又よめなり・いみじく心かしこかりし人の子と.よ 17 めとにをはすればや、 故入道殿のあとをつぎ国主も御用いなき 法華経を御用いあるのみならず・ 法華経の行者 18 をやしなはせ給いて・ としどしに千里の道をおくりむかへ・ 去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばを 1335 01 たてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・ をはしませば、 北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大 02 海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん、 況や・ 03 かのそとばに随喜をなし 手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、 過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月 04 の如く浄土をてらし・ 孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて 後生には父母とともに霊山浄土にまい 05 り給はん事・水すめば月うつり・つづみをうてば・ひびきのあるがごとしと・をぼしめし候へ等云云、此れより後後 06 の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ。 -----― ところであなたは、亡き次郎入道殿の御子息であられる。御前は又その嫁である。非常に賢明であった方の御子息と嫁であられるであろうか。故入道殿の御志を継いで、国主も用いていない法華経を信仰されるのみならず、法華経の行者である日蓮を養われて、毎年毎年千里の道を行き来して御供養を届けられている。 幼くして亡くなられた娘御前の十三年忌には、一丈六尺の卒塔婆を建立し、その表面に南無妙法蓮華経の七文字を書き顕わして追善供養された。北風が吹けば、その南の海の魚類はその風にあたって大海の苦悩を離れ、東風が来れば西の山の鳥や鹿は、その風を身に触れて畜生道をまぬかれて、都率の内院に生まれるであろう。畜生ですらこのようであるから、まして、この卒塔婆の建立を喜び、手を触れて眼に見る人々の功徳がどれほど偉大であることか。 亡き父母もこの卒塔婆の功徳によって、天の日月のように、浄土への道を明るく照らされているであろう。また、孝養の人にあたるあなた自身並びに妻子は現世には百二十年までも長生きして、後生には父母と共に霊山浄土に行かれるであろうことは、水が澄めば月が映り、鼓を打てば響きが伴うように間違いのないことだと確信しなさい。これより後々の卒塔婆にも法華経の題目を書き顕しなさい。 |
万人の成仏を約束する題目の功徳
父の志を継承し、妙法を受持している中興入道夫妻に対し、現当二世にわたる題目の功徳を教えられている段です。
大聖人は夫妻に対して、大変に賢明な父君の子息と嫁であれば、二人もまた立派であろうと賞讃されています。とりわけ、国主も用いていない法華経の信仰を継承し、さらには遠く佐渡からたびたび身延の大聖人のもとを訪れお守りしていることに深く感謝されています。
そして、夫妻が、亡き娘の13回忌に際して、一丈六尺の卒塔婆に南無妙法蓮華経の七文字を記したことに触れられています。また、この卒塔婆とは、今の簡易な卒塔婆とは異なり、木や石で作られた柱や搭のようなものであったと考えらえます。
いずれにしても、ここで大聖人が強調されているのは、題目の功徳である。そのことは、本抄の結びにも「此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」と指導されていることからも明確です。この題目の功徳は、大きく周囲に広がり、当然、故人への追善となり、さらには題目で供養した人は「寿を百二十年持ちて」と仰せです。
命を百二十まで持つとは、実際に百二十まできるかどうかは別として、人間として生まれたこの人生を最大に満喫できるということに拝されます。生きて生きて生き抜くための信仰です。生ある限り、妙法を持ち続け、最高に善き人生を送る。これ以上に大満足の一生はありません。
もた、この妙法の功徳によって、亡くなった父母とも霊山でまた会えると断言されています。
大聖人は、ほかの御書でも妙法の家族は永遠に必ず一緒であると仰せです。
「母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき」(0934-07)。
「又若しやの事候はばくらき闇に月の出づるが如く妙法蓮華経の五字・月と露れさせ給うべし、其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏・乃至前に立たせ給ひし御子息の露れさせ給ふべしと思し召せ」(1397-11)。
「同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや」(1570-07)。
私たちが地涌の使命に立ち上がり、広宣流布に生き抜けば、今生にあっては仏界の生命を湧現して恐れなく、亡くなった後も霊山に住することができます。そこは、妙法の家族や同士が集う、永遠の生命の故郷であり、久遠の妙法の同士の世界です。
ただし、霊山といっても、それは、西方極楽浄土のような別世界に行くわけではありません。いわば、私たちの生命は、永劫に続く大宇宙の仏界と一体となって、広大無辺の大境涯を味わうことができるのです。そして再び、この仏界の境地を内に秘めて、現実世界へ、苦悩する人々を救うために、願って師匠と共に、同士と共に生まれてくることができるのです。
今世の幸福はもちろん、三世永遠に崩れない安穏の境涯を得るための仏法です。そのために大事なことは、私たちが今、妙法を根本に生き生きと、自他供の幸福、社会の安穏と平和を実現しようと歓喜と躍動の前進を続けることです。自身の生命に仏界の境地を確立することです。その人のいるところは、生死を超えていつでもどこでも寂光土なのです。「水すめば月うつり・つづみをうてば・ひびきのあるがごとし」と仰せです。信心の一念によって、必ず大境涯に包まれることは間違いないとの大確信に中興入道夫妻は深い感動を覚えたことでしょう。それと同時に、あらためて父の志を継いで、これまで以上に、大聖人を支え、師弟の道を歩んでいこうと決意を深めたに違いありません。
この佐渡の地では、後々まで大聖人、そして、日興上人の教えを守った多くの門下が輩出されます。その信心の源流を築いたのが、大聖人と共に師弟の道を歩んだ門下たちであることはいうまでもない。
「人を敬う」実践で「人間性の連帯」を
今回の御書からは、このように、佐渡の中興に住む親子と大聖人との「心の絆」がさらに強まっていく様子を拝することができます。同じように、大聖人は、各地にあっても、多くの門下や様々な人々と「善の絆」を数多く結んでおられる。
この「善の絆」とは法華経を根幹とした絆であり、それを結びひろげることは、自他の仏性を信じ、どこまでも人を敬っていく、仏法の究極の実践です。
末法の民衆救済には、この「善の絆」「師弟の絆」が不可欠です。「人を敬う」実践の中で、この「善の連帯」「人間性の連帯」が広がれば、各人の善性が大きく触発されていきます。この触発の連鎖が民衆全体の境涯を高め、社会を変革し、国土の安穏を実現し、究極は人類の宿命を転換していきます。
人間性を高めていく道程を、牧口先生は「依地的生」から「独立的生」へ、そして「貢献的生」へと論じられています。
何かに頼る生き方から、自立した生き方へ、そして、自他供の幸福の実現へ、他者に貢献していく生き方へ、一人一人が成長していくことを願われました。
同じように宗教の実践も、「依存の宗教」から「自立の宗教」へ、そして「貢献の宗教」へと発展すべきではないでしょうか。人類が今、人間の善性を開発する「善の絆」をもたらす宗教をもとめていることは間違いありません。
戸田先生は、物質文明の行き詰まりの時代にあて、ますます根本の幸福をもたらすものは宗教であるとよく語っておられました。それは、観念論でも、迷信でも、修養でもなく、生きた宗教であらなければならない。生活にとけこみ、生活ににじむ宗教が必要であると訴えていました。まさしく、人間自身を変える宗教、人間革命の宗教こそが時代の要請であると喝破されていたのです。
人間の精神を強くするのか、弱くするのか。内なる善を強めていくのか、内なる悪を強めるのか。賢くするのか愚かにするのか。「善き生」を支えるための「人間のための宗教」が待望されています。慈悲や勇気、智慧に満ちた人々の連帯を築く「人間尊厳の宗教」こそ、21世紀に価値を生み出す宗教です。
今こそ、人類の間に「善の連帯」を構築していかなければ、エゴとの分断が広がり、世界は混沌の闇に包まれてしまう。
人間には根源的な力がある!
人々のために立ち上がる!
希望の未来を信じ、開きゆく力がある!
人間の尊極なる力を引き出す法華経の精髄である日蓮仏法を、いよいよ世界が求めています。全ては、私たち学会員の振る舞いの中にあります「人間宗」人類のための宗教への私たちの確かな一歩を、世界の識者が見つめ、期待する時代になったのです。いよいよ、これからです。
1335~1335 是日尼御書top
| 是日尼御書 01 さどの国より此の甲州まで入道の来りたりしかば・あらふしぎとをもひしに・又今年来りなつみ水くみたきぎこ 02 りだん王の阿志仙人につかへしが・ごとくして一月に及びぬる不思議さよ、 ふでをもちてつくしがたし、 これひ 03 とへに又尼ぎみの御功徳なるべし、 又御本尊一ふくかきてまいらせ候、霊山浄土にては・かならずゆきあひ・たて 04 まつるべし、恐恐謹言。 05 卯月十二日 日蓮 06 尼是日 -----― 佐渡の国からこの甲州の身延まで、夫の入道が来たので、実に不思議だとおもっていたところ、また今年も来て、菜を摘み、水を汲み、薪を取りして、須頭檀王が阿私仙人に仕えたようにして、一ヵ月にも及んでいるのは、何と不思議なおとであろうか。筆で書き尽くすことは難しい。これはひとえに、また、尼君の御功徳となるであろう。 また、御本尊を一幅書いて差し上げます。霊山浄土では、必ず行き逢いましょう。恐恐謹言。 卯月十二日 日蓮 尼是日 |
さどの国
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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甲州
現在の山梨県。この南巨摩郡身延町に標高1148㍍がある。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結ばれている。
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入道
仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
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なつみ
食用になる山菜を摘むこと。法華経提婆達多品第12には「王、仙の言を聞いて、歓喜踊躍し、即ち仙人に随って、所須を供給し、果を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至身を以て状座と作せしに、身心倦きこと無かりき。時に奉事すること千歳を経て、法の為の故に、精勤し給侍して、乏しき所なからしめき」とある。
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だん王
須頭檀王のこと。釈尊が過去世に菩薩として修行した時の姿の一つ。正法を求めるために王位を捨て、1000年の間、阿私仙人に従って仏道修行をした。阿私仙人とは提婆達多の過去世の姿とされる。「日妙聖人御書」に「昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に千歳が間・阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給いて今の釈尊となり給う」(1215㌻)とある。
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阿志仙人
阿私は梵語。提婆品には釈尊が過去無数劫の昔、国王と生まれ、大衆のために王位を捨てて無上の法を求め、「誰か能く我が為に、大乗を説かん者なる。われ当に身を終わるまでに、供給し走供すべし」と誓った。その時阿私仙人がきて「我大乗をたもてり、妙法蓮華経と名づけたてまつる。もし我に適わずんば、当のために宣説すべし」といった。王はこの言葉を聞いて、歓喜して阿私仙人にしたがい、果を採り水を汲み、薪を拾い、身をもって牀座として、千歳の間一切を供養して、衆生のために妙法を求めて修行し。ついに成仏することができた。その時の王はすなわち釈尊であり、仙人は今の提婆達多である。この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから三逆罪をつくり、現身に地獄に堕ちたが、妙法の功力によって、天王如来の記別を受けたのである。
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尼
普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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本抄は、弘安元年(1278)一説によると文永12年(1275)4月12日、日蓮大聖人が身延でしたためられ、佐渡の国是日尼に送られた御消息である。現存するのは断簡2紙のみで、全体の内容は不明である。
佐渡の国からはるばる身延の大聖人のもとに来て、菜を摘み、水を汲み、薪を取り、こまごまと大聖人の身の回りのお世話をする是日尼の夫君、入道殿の真心に対して、心から讃嘆の言葉を述べられているところである。
大聖人のもとには、家事全般を御弟子が交替で行っていたのであろう。はるばる佐渡から来た入道は、自分のできる最大の奉仕をしようという気持ちで、こうした細々とした仕事を心をこめてしたにちがいない。
そうした入道に対し「ふでをもちてつくしがたし」と、真心を賞でておられる。
「これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし」全部、妻である是日尼にも功徳として帰っていくであろうということである。
「又御本尊一ふくかきまいらせ候、霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし」この御本尊を受持していけば、霊山浄土で必ずお会いできる。すなわち必ず成仏できるとの仰せである。それは御本尊こそ成仏のための根本の鍵であることを指南された御文でもある。
1336~1336 遠藤左衛門尉御書top
| 1336 遠藤左衛門尉御書 01 日蓮此の度赦免を被むり鎌倉へ登るにて候、如我昔所願今者已満足此の年に当るか、 遠藤殿御育み無くんば命 02 永らう可しや・亦赦免にも預かる可しや、 日蓮一代の行功は偏に左衛門殿等遊し候処なり、 御経に「天諸童子以 03 て給使を為し刀杖も加えず毒も害すること能はず」 と候得ば有難き御経なるかな、 然ば左衛門殿は梵天釈天の御 04 使にてましますか、霊山えの契約に此の判を参せ候、 一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、 其 05 の時御迎えに罷り出ず可く候、猶又鎌倉より申し進す可く候なり。 06 文永十一甲戌三月十二日 -----― 日蓮は今度赦免をうけ、鎌倉へ登ることになりました。わたしにとって、方便品第二の「我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ」とは、この年にあたるといえようか。遠藤殿の守護がなければ、はたして私の命は永らえられたであろうか。また、赦免を受けることができたであろうか。日蓮一代の行功は、ひとえに左衛門殿等のおかげである。法華経安楽行品第十四に「天の諸の童子、以って給使を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能はず」とあるが、なんとありがたい経文であることか。 それゆえ、左衛門殿はきっと梵天・帝釈天のお使いであろうか。霊山浄土への契約に、この判形を差し上げます。ひとつは未来世へ持っていきなさい。霊山で「日蓮・日蓮」と呼びなさい。その時はお迎えに出ていきましょう。 なおまた、鎌倉からお便り申しあげましょう。 文永十一甲戌三月十二日 |
赦免
罪や過失を許すこと。
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如我昔所願今者已満足
法華経方便品第2に「舎利弗当に知るべし。我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき、我が昔の所願の如き、今者已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ。若し我衆生に遇えば、尽く教うるに仏道を以ってす」とある。
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遠藤殿
遠藤左衛門尉のこと。佐渡の住人。流人の身であった日蓮大聖人に数々のご供養をしているが、詳細は不明。
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行功
仏道修行によって積んだ功徳のこと。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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釈天
帝釈天のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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霊山えの契約
霊山浄土へ生まれることができるという約束。
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判
印鑑・実印。
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霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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佐渡へ赦免状が着いたのは、3月8日、日蓮大聖人の佐渡出発は3月13日である。いよいよ明日出発という時に、大聖人が、世話になった遠藤左衛門尉に対し、これまでの佐渡流罪中、世話になったことの御礼と、御本仏としての御確信に裏づけられた大慈の言葉をのべられている御書である。
日蓮此の度赦免を被むり鎌倉へ登るにて候、如我昔所願今者已満足此の年に当るか
この一文には、非常に晴れやかなお気持が伺われる。とくに「如我昔所願今者已満足」といわれているその背景には、今度こそ鎌倉幕府が目覚めたであろう、いわゆる大聖人の流罪を赦したということは、当然大聖人の正義がいよいよ受け入れられる時が来たという希望を抱かれていたことがうかがわれる。
遠藤殿御育み無くんば命永らう可しや
これまで佐渡流罪の間、社会的環境の点でも自然的条件の上からも、非常に厳しい状況の中で、大聖人が命を永らえることができたのは、遠藤殿のおかげであると、心から礼をいわれたところである。
日蓮一代の行功は偏に左衛門殿等遊し候処なり
「日蓮一代の行功」とは、ここでは、大聖人が佐渡流罪中に「観心本尊抄」「開目抄」またその他、御本仏としての確信と法門が述べられた数々の重要な御書等の執筆である。そうしたことができたのは、ひとえに遠藤殿等のおかげであると仰せである。
御経に「天諸童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害すること能はず」と候得ば有難き御経なるかな、然ば左衛門殿は梵天釈天の御使にてましますか
諸天善神が法華経の行者を守るとの法華経安楽行品の文を引いて、遠藤左衛門尉等がこの経文通りの働きをしたことを述べられている。このことからも遠藤左衛門尉は、大聖人のために、食事のお世話をはじめ、さまざまな身の回りのお世話をし、あるいはまた、大聖人が念仏者達に刀杖で狙われたのに際しては懸命にお護りしたことが推察される。
この経文を引用されていることの背景には、一つには遠藤左衛門尉が、経文に記されている通りの働きをしたということを示して、仏法上の自覚を喚起して激励される意味と、もう一つ奥には、大聖人が真実の法華経の行者であることを通して、仏法が決して観念的なものではないことを教えられたと拝することができよう。
霊山えの契約に此の判を参せ候、一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候
佐渡を離れるにあたって、おそらく形見として花押あるいは判を遠藤左衛門尉に渡されたのであろう。それはまた、佐渡流罪という最大の苦境にあった大聖人を真心こめて供養し、外護申し上げたことへの謝意とその証の印でもある。ゆえに、未来、必ず仏土に迎えるとのお約束でもある。
「一流は未来に持せ給え」とは、死後に持って行きなさいということであるが、それは、今生において、日蓮大聖人の結縁を何よりも大事にし、その教えを守りぬいていきなさい、生涯護持していきなさいということでもある。そうすれば、死んで必ず霊山に行ける。すなわち成仏できる、ということである。
ここは、この大聖人の判を霊山浄土に入るための通行証にたとえて仰せられているところである。そして、もし玄関口で番人にとどめられるようなことがあれば、そこから大声で「日蓮・日蓮」と呼びなさい。そうすれば、すぐ飛んで行って、あなたを迎えてあげよう、と。
「流罪中、あなたは、あれだけお世話をしてくれたのだから、それだけの資格がある。また日蓮には、あなたのために返さねばならない恩がある」とのお心と拝せる。慈愛に満ちた仰せではないか。
いうまでもなく、これを更に考えてみれば、大聖人自身が必ず霊山にいるということであり、しかも、たとえば番人がむずかしい顔をしても、一言、通してくれる本仏であるとの大確信を秘められているのである。
霊山において大聖人が迎えに出てあげるということは、ドラマ的な表現であるが、また、生命論的にいえば、遠藤左衛門尉自身の生命の中に、大聖人の無作三身の仏の命が厳然としていることである。それは、日寛上人が当体義抄文段で述べられている「我れ等妙法信受けの力用に依って蓮祖大聖人と顕るるなり」ということに相通ずると拝することができよう。