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日蓮大聖人御書講義311368~1401

         波木井実長について
1368~1369    六郎恒長御消息
  1368:01~1368:08 第一章 選択集を挙げ念仏無間を明かす
  1368:09~1368:12 第二章 法華経と相対し念仏無間を明かす
1369~1373    波木井三郎殿御返事
  1369:01~1370:13 第一章 法華経の行者留難の文証を挙げる
  1370:13~1371:07 第二章 末法の法華経の行者を明かす
  1371:07~1371:17 第三章 過去の法華経の行者の留難の例を示す
  1371:16~1372:02 第四章 国家滅亡の先兆を歎く
  1372:02~1372:15 第五章 妙法の末法流布を明かす
  1372:15~1373:13 第六章仏縁の不思議を明かす
1374~1374    南部六郎殿御書
1375~1375    地引御書
1376~1376    波木井殿御報
1377~1377    大井荘司入道御書
         松野殿について
1378~1380    松野殿御消息
  1378:01~1379:07 第一章 法華経を持つ男女の位を明かす
  1379:08~1379:15 第二章 法華経を持つ者の功徳を説く
  1379:16~1380:13 第三章 法華経行者への供養の功徳
1381~1387    松野殿御返事(十四誹謗抄)
  1381:01~1381:14 第一章 延山の様子と音信への謝意
  1381:05~1381:13 第二章 実相寺の学徒日源について
  1381:14~1382:13 第三章 法華経の修行と十四誹謗
  1382:13~1383:06 第四章 法門の聞き難きを示す
  1383:06~1384:03 第五章 雪山童子の思いを示す
  1384:04~1386:05 第六章 雪山童子と不惜身命の求法
  1386:06~1386:13 第七章 法師の死身弘法を説く
  1386:14~1387:05 第八章 在家の在り方と臨終の様相
1387~1387    松野殿御消息
1388~1388    松野殿御返事
1388~1390    松野殿御返事
  1388:01~1389:10 第一章 三界無安を示し日本の惨状を憂う
  1389:11~1390:03 第二章 法華経の行者の確信を述べる
1390~1390    松野殿御返事
1390~1393    松野殿後家尼御前御返事
  1390:01~1392:05 第一章 盲亀浮木の譬えを示す
  1392:06~1392:18 第二章 南無妙法蓮華経は三国末弘の大法
  1393:01~1393:09 第三章 二十余年の師子王の戦いを示す
  1393:10~1393:18 第四章 御供養の謝意を表す
1390~1393    松野殿後家尼御前御返事2014:04大白蓮華より先生の講義
1394~1394    松野殿女房御返事
1395~1395    松野殿女房御返事(仏身懐胎抄)
1396~1396    松野尼御前御返事
1396~1397    浄眼御消息
  1396:01~1397:05 第一章 法華経の行者と第六天魔王の関係
  1397:06~1397:14 第二章 浄蔵浄眼の例を挙げて激励
1397~1401    刑部左衛門尉女房御返事
  1397:01~1398:14 第一章 不孝の者の無間地獄を説く
  1398:15~1399:15 第二章 親の深愛を述べて孝養を教える
  1399:16~1400:12 第三章 目連の例を挙げて孝不孝を明かす
  1400:13~1401:11 第四章 真実の孝養を述べる
1401~1401    春麦御書

         波木井実長についてtop

 御書全集に収録されている波木井実長およびその一族に与えられたと思われる御述作は、
   六郎恒長御消息
   波木井三郎殿御返事
   南部六郎殿御書
   地引御書
   波木井殿御報
 の5編であるが、これらの御書を講義するにあたり、はじめに次の3点に分けて述べることにする。
   第一 御述作の背景
   第二 波木井実長の謗法
   第三 身延離山について
第一 御述作の背景
 波木井実長は、身延離山の要因を作るという、宗門に暗い影を残した人物であり、日興上人身延離山をめぐる諸説も多いことから、日蓮大聖人の正義、および、日興上人の身延離山の意義については、これを明確に示す必要がある。
 したがって、この真相を究めるため、30有余年に亘って、古文書の調査研究をした日亨上人の著になる「富士日興上人詳伝」「身延離山史」「富士宗学全集」を中心として、本講をすすめていく。
 波木井一族にあたえられたとされる御書は、上記の5編であるが、それらによると実長が初めてお手紙をいただいたのは、文永元年(1276)9月ということになる。宛名は南部六郎恒長殿となっている。大聖人が伊豆の流罪から赦免となり、鎌倉や安房国において弘教を展開された当時で、発信地は安房国と考えられている。つづいて文永10年(1273)8月佐渡一の谷から差し出された波木井三郎殿御返事である。この三郎は六郎三郎とされ、これまで波木井実長とされていたようであるが、今日ではむしろ別人と考えられる。次の南部六郎殿御返事は、年代も著作地も不明である。
 弘安年間には、弘安4年(1281)11月の身延御述作の地引御書があり、ここでは、大聖人の身延での御生活の一端が描かれており、ついで、弘安5年(1282)9月、池上で著された波木井殿御報があり、この書は大聖人が門下に認められた最後のお手紙とされている。
 このうち、文永元年(1264)の六郎恒長御消息について、日亨をはじめとする研究者の間で、次のような説が立てられている。
 一つは、御述作年代が、文永元年(1276)ではなくして、文永6年(1269)であるという説、二つは、宛名の六郎恒長は、六郎実長の間違いではないかという説である。
 はじめの年代については「六」という文字は「元」に似ており読み違えたのではないかとの説である。
 その裏付となっているものは、日興上人と波木井実長の関係である。波木井実長の入信は文永6年(1269)頃に違いないという説である。
 すなわち日亨上人の著になる「富士宗門史」には、つぎのようにある。
 「波木井六郎実長即ち南部六郎入道日円の発信は日辰の祖師伝及び其れに依る精師の家中抄等に依れば、岩本実相寺の縁によりその学徒たりし伯耆房日興上人に実長の嫡子清長が波木井村に教化せられたやに書いてあるが、此の書は無批判に領得せられぬ杜撰のものであるから、更に趣を変えて考定してみると、興師が少年時代蒲原荘四十九院の学童時代に、南部一党が鎌倉往来の通路に近信を結ばれたのが遠因となり、其の青年の清厳なる性格に打たれて後に、日蓮大聖人の門下に入り磨き上げられた人格に憧憬し、更に又生命を賭しての聖人の高風に引かれて、一門中誰彼の区別なく深き法縁の成就したのが文永六年前後のことであろうと思ふ、即ち大聖人の門に入りし近因は廿年前であり、興尊に依って培養せられた道念の遠因即ち素淳な初発心は四十九院時代であったとして差支あるまいと思ふのである」と。
 一部の間では、実長の入信は荏原義宗によるもので、正嘉年間としているが、これに対して日亨上人は日興上人詳伝の中で次のように反論している。「正嘉年中の日円の入信とは、『仏祖統記』に『六牙院日潮』が書き始めたもので、根本史料は分からぬ。まったく日潮の筆の先の戯れか」と。そして、日興上人の弟子分帳によれば実長及び子息一族は皆日興上人によって導からており、原殿御書の「日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候ことは二代三代の末は知らず候、末だ上にも下にも誰か御忘れ候可き」からみると、日円の入信は日興上人の化導によることが明確である。
 結論して波木井実長の入信は文永6年(1269)の頃、日興上人の化導によるもので、大聖人に直接帰依するようになったとは、文永6年(1269)か7年(1270)であろうと推定されている。
 次に、六郎恒長は実長の間違いではなかろうかとの説については、波木井一族のいただいたお手紙の宛名には、「南部六郎」「六郎三郎」「波木井三郎」などがあり、これが同一人物か、別人かについては諸説あるので、詳しくは人物伝のところにゆずることとする。
 波木井実長が大聖人の門下となり、ついで身延に入山され、池上で御入滅になるまでの9年間は、宗門にとっては、歴史的にも実に大きな意義をもつものであった。
 文永8年(1271)9月12日には、極楽寺良観が6月、祈雨に失敗して大聖人を讒奏し、ついに平左衛門による召捕となり、竜の口の難が起きたのである。ひきつづいて佐渡流罪と決まり、佐渡の塚原三昧堂に着かれたのは11月1日であった。
 これらの法難については「種種御振舞御書」「報恩抄」「下山御消息」に詳しい。
 文永11年(1274)3月に赦免、4月には第三回目の国家諌暁、そして5月12日には鎌倉を出て、身延に入山された。
 弘安2年(1279)9月には、富士郡熱原郷の信徒への弾圧、すなわち熱原の法難が起こった。この熱原法難を機に、弘安2年(1279)10月12日に、大聖人の出世の本懐たる一閻浮提総与の大御本尊を御図顕なされたのである。そして民衆救済と正法弘通に戦い抜かれた大聖人は弘安5年(1282)10月13日、池上にて、その激闘の61年の生涯を閉じられたのである。
 一方、この当時の社会情勢をみると、政治・宗教界ともに大いに乱れ、国の内外は混乱の期にあったといえる。
 北条氏が実権を握った鎌倉幕府は、7代目執権時宗のもとに最後の興隆期を迎えていた。しかし、すでに宝治の合戦、さらに北条時輔の乱等と、幕府の中枢をゆるがす大きな内乱があり、社会の下部層すなわち一般民衆にあっても、大飢饉・大地震・台風等の災害の中で人心は乱れ、困窮にあえいでいた。生活の苦しさから、人身売買・奴婢養子等も行われ、盗賊は各地に蜂起し騒然とした空気が流れていた。物価も謄貴し、公家・幕府・領主・名主等は収奪のため民衆の生活は苦しみのどん底にあった。
 幕府としても折にふれては条例、禁止例を定め統制しようとしたが、大きな効果を得ることはできなかった。このような世情にあって、下層部からの幕府に対する不信や反発が当然おこり、社会の動揺は、しだいに大きくなっていった。
 このような状況にあった文永11年(1274)10月、蒙古が900隻の船と3万の兵力をもって日本に攻め寄せてきたのである。大聖人はこの年の4月、平左衛門尉に対する諌言のなかで「今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ」(0323-03)といわれたが、それが現実となってあらわれたのであった。蒙古軍は、北九州の沿岸まで押し寄せたが、大暴風雨のため大きな打撃をうけ後退を余儀なくされた。つづいて弘安2年(1279)蒙古は再び服従を迫ってきたが、時宗は拒否し使者を斬ってしまった。蒙古の世祖フビライは怒り、再度の日本侵攻を断行し、弘安4年(1281)6月には前回の3倍以上の軍勢をひきつれて来冦したのであった。
 この空前の外患を契機に鎌倉幕府は滅亡の一途をたどることになるのである。
(一)波木井実長について
 波木井実長は、甲斐源氏の一門といわれている。この甲斐源氏とは、清和天皇の流れを汲む清和源氏の一族であり、源頼義の子、義光の一門からでたものである。その一門の子孫が、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)にわたり、地方の豪族として大きな勢力をもっていた。そして、とくに甲斐に移ったものを、甲斐源氏と呼んだのである。また、信濃へ移ったものを信濃源氏と呼び、この一族からは木曾義仲等が出ている。
 伝によると、この清和源氏・新羅三郎義光の末裔に南部三郎光行という人物があった。光行は、新羅三郎の後裔遠光の三男というところから、南部三郎光行と呼ばれていた。実長は、この光行の六男あるいは三男というところから、南部六郎三郎とか、南部六郎、波木井三郎と呼ばれていたと一般にいわれている。本化聖典大辞林下なども、この説により「清和源氏、新羅三郎義光の裔。義光の子義清、義清の子清光、清光の子信義、信義の子遠光、遠光の三男光行を南部三郎と称す。頼朝の奥州戦及び大仏供養の随員たり。光行五男あり、次男実光その家を継ぐ。実長はその三男なり。六郎又は六郎三郎と称す。波木井、御牧、飯野三箇荘を領す。波木井に居りしが故に波木井殿とも呼ぶ」と述べている。また、南部姓については実長の父南部三郎光行が頼朝時代に奥州南部を開いた故に南部殿と呼ばれるようになったという説もある。
 甲斐国志にも「波木井六郎実長(波木井村)本系図に拠るに南部光行の四男文永中日蓮を請して身延山を開創せし人なり」とある。
 当時、甲斐の国は、山梨、八代、巨摩、都留の四郡に分けられていた。
 波木井実長は、この四つの郡のうち、巨摩郡、南巨摩の波木井、御牧、飯野の三郷の地頭であった。そして、波木井郷に居を構え、一族が住んでいたので、自然にその地名をとり、波木井実長と呼ばれるようになった。
 このほか、甲斐源氏の流れを汲むなかに、大聖人にゆかりのある者としては、中巨摩郡大井の地頭、大井荘司入道、同じく中巨摩郡中野村の地頭、秋山与一信綱、また東八代郡曾根村にいた曾根等の人々があげられる。
 この波木井一族に与えられた大聖人の五つのお手紙には、南部六郎恒長、南部六郎三郎、南部六郎、波木井殿等と種々の呼び名があるので、ここで、このことについて触れておくことにする。
 先に挙げたように、本化聖典などでは南部六郎と六郎三郎を同一人物としているが、後にあげる日興上人の弟子分帳には、明らかに別人として記されている。六郎三郎は六郎実長の三男だったのではないかと考えられる。南部六郎実長については、後に地名により、波木井と呼ぶようになってからは、波木井実長、また単に波木井殿と呼んでいる。
 南部六郎恒長については、次のような二説がある。すなわち、波木井実長と同一人物であるとする説と、波木井一族の者であって、実長とは別人とする説である。
 前説は、実長が恒長と名乗っていた時があったのか、または「実」を「恒」と誤って写し伝えられたのではないかというもので、いずれも明確な根拠は得られていない。
 後説は、実長の長子であるとする説である。すなわち、日興上人が身延離山に際し、原殿にお手紙を与えられたが、この原殿に相当するのではないかとの説である。しかし、原殿が、実長の長子であるとの確証はないため、この説にしても、決定的なことは不明である。
 しかし、本書に含まれている消息文は、その文意から推察して、おそらく南部六郎恒長と波木井実長とは同一人物ではないかと思われるのである。
 波木井実長は、その性質は、はなはだ剛腹であり、また直截な人であったと日亨上人は述べている。また、当時の時流にもれず、念仏を行じ、波木井実長入道ともいわれていた。
 実長は、波木井郷に居を構えてはいたものの、その身は勤務のため、ほとんど鎌倉に住することが多かったようである。そして鎌倉と身延の波木井郷の間を、何回か往復する折、前述のごとく、その沿道の富士河西の四十九院で、日興上人とたまたま知りあうようになり、何回か話を進めるうち、実長は自ら念仏を捨てて、法華経に帰依し、大聖人門下に加わったのであった。そののち実長は、大聖人より法寂房日円という法号を授けられている。
 やがて、波木井一族は、相次いで日興上人から化導を受けるところとなった。
 日興上人の弟子分帳に次のごとく記されている。
   一 甲斐国南部遇俟志入道者、六郎入道殿の弟子也、仍て日興之を与へ申す。
   一 甲斐国南部六郎入道者、日興第一の弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
   一 甲斐国波木井藤兵衛入道者、日興が弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
   一 甲斐国南部六郎次郎者、日興が弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
   一 甲斐国南部六郎三郎者、日興が弟子也、仍て与へ申すところ件の如し。
   一 甲斐国南部弥六郎者、日興が弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
   一 甲斐国波木井弥次郎入道者、日興が弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
   一 甲斐国波木井弥三郎兵衛入道者、日興が弟子也、仍て与へ申す所件の如し。
 日興上人は、時おり波木井一族を訪ね、数々の指導、教義などの教化をしていった。その結果、一族からは、播磨公、越前公が徒弟となり、出家するにいたり、日興上人にはとくに親しく指導を仰いでいたように思われる。
 日興上人の弟子となった実長は、間もなく、日興上人に導かれて、鎌倉の大聖人のもとへ訪れる機会を得た。そのおり、大聖人の厳然たる姿、その威厳に強くうたれた実長は、ますます大聖人を慕い、信仰を強くしたようである。
(二)) 大聖人の身延入山
 当時、日蓮大聖人の烈々たる弘法、教国の精神は受け入れられず、かえって迫害の嵐は日に日にはげしさを増してきていた。さらに大聖人およびその門下に対する、念仏、真言等の僧たちや、世人の怨嫉も著しく、ついに大聖人は、これらの人々の讒言により佐渡へ流罪されるまでにいたった。
 その後、赦免となり、鎌倉にもどった大聖人は、文永11年(1274)4月84日、三度目の国諌を、平左衛門に対して行なったのである。しかしついにその真意は理解されなかった。大聖人は「本より存知せり国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(0358-03)とあるように、鎌倉を去ることを決意されたのであった。
 この大聖人の意向を知って、各地の有縁の人々からは、ぜひわが地へとの熱心な懇請があった。しかし、大聖人はそれらの声をしりぞけて、波木井の郷、身延の地を選ばれ、文永11年(1274)5月12日、入山されたのである。
 ところで、大聖人は何故、身延の地を選ばれたのであろうか。その第一の理由としては、身延の地が、中央の幕府から遠ざかっており、隠棲の地として恰好な地形にあったことである。
 大聖人の身延在住9年間の御生活を見ると、弘安4年(1281)に認められた八幡宮造営事に「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候……其の上齢既に六十にみちぬ」(1105-01)とあるように、長年にわたる弘教と法難との戦いで、健康だったお体もかなり衰弱されておられたようである。それにもかかわらず、寸暇を惜しんで弟子の養成、法門の講義、御執筆等々、実に精力的な戦いを展開されている。
 御述作になられた御書の数にしても、身延で認められたものは、実に二百数十余編と、今日に伝わる御書の半数以上に及んでいる。
 また、日蓮聖人年譜に「延山蟄居の後御弟子衆の請により法華経の御講釈あり、日興度々聞を集め部帙を成して御義口伝と名づく、亦日興記と号するなり」と、今日、御義口伝として残っているところの法華経講義をされた様子が記されている。あるいは弘安2年(1279)8月の曾谷殿御返事に「今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(1065-06)と述べられている。
 こうした夜を日につぐ令法久住のためへの戦いの日々が、大聖人の身延在住の生活であったのである。したがって世の俗事、雑事から離れ、ひたすら、広布の布石に全力を傾けられるためにも、人里離れた身延の地へ入られたことが考えられるのである。
 九郎太郎殿御返事には「此の身延の沢と申す処は甲斐国・波木井の郷の内の深山なり、西には七面のかれと申す・たけあり・東は天子のたけ・南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり・はこのそこのごとし」(1535-04)とあり、上野殿御返事には「このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず」(1551-04)とある。
 その他諸御書に明らかなごとく、東西南北を険しい山に囲まれ、はげしい河の流れにはさまれているという身延の沢は、まさに令法久住に専念するには格好の所といえた。しかも、いまだ日本国中が謗法の地であれば、さまざまな難が競い起こること必定な折、このような険阻(けんそ)な山中で、有縁の弟子に囲まれての生活であれば、大聖人に直接およぶ迫害もなく、充分な御弟子の育成、講義、あるいは弘教の指揮をとられることができた、と考えられるのである。
 また、第二には、堀日亨上人は波木井実長が日興上人の有縁の者であったからとされている。影の身に添うがごとく、大聖人に常随給仕してきた日興上人の有縁の者であったが故に、大聖人は、日興上人と波木井実長の請(こい)をそのまま受け入れたのであった。
 ここで、富士の裾野にある上野郷・南条家の領地を選ぶことが、なぜできなかったかという疑問が起こる。政治の中心地・鎌倉から、それほどはなれていないし、日興上人の折伏弘教の中心地でもあり、最高の仏法の久住のためにも、最勝の地として選ばれるべきではなかったかという疑問である。
 これについて大聖人は高橋入道殿御返事に次のように述べている。「又申しきかせ候いし後は・かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜にて候いしかば設い各各は・いとはせ給うとも今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいてすぎ候いき、そのゆへはするがの国は守殿の御領ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人人多し、故最明寺殿・極楽寺殿のかたきといきどをらせ給うなればききつけられば各各の御なげきなるべしとおもひし心計りなり、いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申さず候いき」(1461-08)と。
 当時、駿河の国は相模守北条時宗の領地であった。ことに富士周辺には後家尼御前すなわち故最明寺時頼の室で極楽寺重時の娘の身寄りの人達が多く、大聖人を故最明寺殿や極楽寺殿の敵として憤っていたのである。したがって、大聖人が述べられているように、立ち寄ることはおろか、手紙の返事すら出すことを控えられる状態で、大聖人とのわずかの関係さえもそれこそ大さわぎを招き、そのために純粋な信心を貫いている人々の嘆きを増すばかりになることを恐れられたのである。
 したがって「令法久住」という大目的からみても、諸般の状勢からみても、大聖人が身延の山中を選ばれたことが推察されるのである。
 数多くのすぐれた弟子、檀那をさしおいて、わが地に大聖人を請じいれることができた実長の喜びと満足は、身にあふれるばかりであったようである。あわただしく、木を切り、山峡を開いて草庵をつくりあげ、大聖人を案内し、身延における外護の任にあたったのである。
 はじめは、三間四面ほどにすぎない小さな山中の草庵であり、訪れる人もそれほどでもなかったようであった。しかし、次第に弟子等の訪れも多くなり、身延の山奥は活気に満ちあふれる日々となったようである。弘安元年に書かれている兵衛志殿御返事には「人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ候ぬれば」(1099-07)とあり、御隠棲の身とはいいながら、大聖人を中心に未来広宣流布への気迫と活気があふれていた様子がうかがえる。したがってこのような状況では、せまい庵室では、しばしば不自由をきたしたのではないかとも思われる。
 こうした状態をみてか、実長は弘安4年(1281)に一族の者を先頭に、十間四面の坊を築きあげ、御供養をしたのであった。この様子について地引御書には「坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ(中略)次郎殿等の御きうだちをやのをほせと申し我が心にいれてをはします事なれば・われと地をひきはしらをたて、とうひやうえむまの入道・三郎兵衛尉等已下の人人一人もそらくのぎなし、坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ」(1375-01)と述べられている。
 この坊を築いてより、大聖人御入滅になるまでの間は、身延の山地はますます人の往来が激しくなり、大聖人に教えを請う人、折伏弘教の報告にくる人など、たいそう賑ったようであり、波木井実長も、ますます大聖人外護の任に誇りをもったようである。
 しかしながら、実長は、大聖人に対して檀那とはなったものの、正法を求め、大聖人の弟子として仏道を全うしようという姿勢ではなかったように思われる。
第二 波木井実長の謗法
(一)大聖人の身延下山

 身延へ入山された日蓮大聖人は、建治の末頃より、しばしば持病で悩まれた。頑強なお身体も、長年にわたる弘教と法難の連続のために、かなり健康を害されていたようである。このことは、弘安元年(1278)6月、57歳の時に認められた中務左衛門尉殿御返事に「将又日蓮下痢去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日日に度をまし月月に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日日月月に減じて今百分の一となれり」(1179-11)とあり、またその他のお手紙にもあきらかなごとく、内蔵の病気であったと見うけられる。
 弘安4年(1281)から5年にいたっては、病状は一進一退の様子であった。しかし、弘安5年(1282)9月にはいってから、やや健康をとりもどされたため、大聖人は思い切って病気治療に常陸の湯へ趣くことになった。そして9月8日、波木井一族の子息や日興上人をはじめとする多くの弟子達にかこまれて身延を下山なされたのである。
 「みちのほどべち事候はで・いけがみまでつきて候、みちの間・山と申しかわと申しそこばく大事にて候いけるを・きうだちにす護せられまいらせ候いて難もなくこれまで・つきて候事をそれ入り候ながら悦び存し候」(1376-01)。
 かくて大聖人は、日興上人等に護られながら、九年間住みなれた身延の山を離れられたのであった。ところで、湯治のためとはいえこのように、にわかに身延をたたれたのは何故であろうか。また、九年間お住みになられた身延を離れ、池上で御入滅になったのは何故であろうか。現存の資料からは、大聖人の御真意を知ることは充分ではない。しかし、大聖人の仏法の本質的意義から、また御弘通の次第というものから、この資料の不足を補い、御真意を推論することは可能であると思うのである。
 まず第一に大聖人は、御入滅の時を御存知の上で身延を立たれ、池上に向われたものと考えられる。大聖人が弘安5年(1282)弘安五年9月19日の日付をもって認められた波木井殿御報に「やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども所らうのみにて候へば不ぢやうなる事も候はんずらん」(1376-03)また「いづくにて死に候とも」等とあるが、これらの御文をみると、大聖人は再び身延には帰られるかどうかわからないこと、むしろ池上の地で入滅すべしと決定されていると推察できるのである。
 西行法師ですら死日を知り「ねがはくは花の本にて春死なむ、そのきさらぎの望月の頃」と歌にたくしている。いわんや「三世を知るを聖人と云う」(0974-01)との御文もある。数々の御予言を実証された日蓮大聖人が、御自身の入滅の期を覚知されていなかったとは思われない。九年間も住みなれた身延を、にわかに立たれたのは、同年10月13必ず御入滅と御覚悟の上でのことであったと思われるのである。
 次に堀日亨上人の説を中心に述べてみる。
 日蓮大聖人が、地頭波木井実長の懇請により、身延の深山にはいられ、九年の長きにわたる生活を送られたことは、すでに述べた。身延では、人里離れた奥地である故、非常に御不自由な生活であったことが諸御抄より拝されるが、その地形は隠棲の目的からみれば、霊山にも似て少しも劣ることがなかったようであった。しかし地頭の波木井実長は、鎌倉在住の身であり、一応は心を配ったかにみえたが、いかにせん、実長の人となり、またその信心を大聖人は深く見抜かれていたのであった。
 すなわち大聖人は建治3年(1277)に四条金吾に与えられたお手紙の中で「だいがくどの・ゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに」(1151-11)と述べられている。
 建長3年(1251)といえば、大聖人が身延に入山されて、すでに3年もたっている頃である。しかしながら「法門は御信用あるやうに候へども」と述べられているように、大聖人の仏法に対して、絶対的な確信をもっていたわけではなかった。弟子として信心に励むよりも、檀那として外護することに徹していたもといえようか。したがって、大聖人の細々とした信仰上の指導に対しても、素直に受け止めるということではなかったようにみえる。これらのことから、実長自身の信心、その人物を推しはかることができるのである。
 こうしたことから、大聖人は実長が後に必ず謗法を企て、やがては身延が謗法の山とならんことを予知なされたのであろう。そして大聖人は御身を、やがては謗法と化すであろう地に滅することを深く慮われ、湯治の名をかりて、生前にこの地を去られたのではないだろうか。
 しかしながら、9年間、朝夕を過ごされた身延である。しかもいっさいの権力者たちが、大聖人を敵対視するなか、その志充分とはいかないまでも、9年間大聖人の外護の任にあたった波木井実長の志に対し報われんがためか、大聖人は「はかをばみのぶさわにせさせ候べく候」(1376-06)との一言を、敢えて残されたのであった。
 だが御遺言状ともいうべき御書に、御所労のためとはいえ、「はんぎやうをくはへず候」(1376-13)とされたことは、後々のためを思われたものとも推察できるのである。日興上人が後に美作房(みまさかぼう)に与えられたお手紙に「地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言には承り候へども、不法の色も見へず候」とあり、これは、ひとえに大聖人が、波木井実長の本質を見抜かれていたものと考えることができる。
 やがて、大聖人の予見どおり、大聖人滅後、7年後にして波木井実長は、ついに四箇の謗法を企てるにいたるのである。そして日興上人は聖師の志をついで、身延山を離れ、御遺骨等、いっさいを現在の富士のふもとへ移されたのであった。
 以上述べたことから、大聖人が身延を下山なされたその理由は、地頭波木井実長の謗法を、未萌のうちに鑑みられたことにあるといえよう。
 かくして身延をたたれた大聖人一行は、9月18日、武州池上へ立ち寄られた。そして日蓮大聖人は、弘安5年(1282)10月13日「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」(1600-01)との相承(池上相承)を残し、いっさいを日興上人に託されて、辰の刻、安祥として入滅されたのであった。
 大聖人の仏法は三大秘法である。建長5年(1253)4月28日午の刻、清澄寺の持仏堂の南面にして立宗宣言され、本門の題目の弘通がなされた。そして佐渡において文底下種仏法の人法の本尊が明らかにされ(観心本尊抄、開目抄の御執筆)、熱原の法難を機として身延において本門の本尊の建立もなされたのである。
 このような視点から考えると、大聖人の身延入山は世間でいう隠棲とははるかに異っていたのである。数々の御書を弟子檀那に残し、人材の育成をされるなど、広布のための布石をされたのであった。
 いま、御入滅を前にして、文底深秘の法門は唯仏与仏の弟子日興上人に余すところなく伝えられた。ここで大聖人は、未来の広布を展望され、隠棲の地を出られ、釈尊入滅の方規に従って、池上の大工の家を選ばれたと考えられるのである。
 すなわち、大聖人が寂滅の地に池上を選ばれた理由は、その昔、釈迦仏は天竺の霊鷲山で法華経を説いたが、涅槃の時は霊山より艮に当たる俱尸那城跋提河の西、純陀の家で入滅されている。今また、日蓮大聖人も、この例にならって身延山より艮に当たる武蔵の国の池上右衛門の家において入滅されているのである。
 これは、仏の入滅のお姿を示し、御自身が末法の御本仏であることを教えられたものと考えることができよう。
 多摩川の清流のほとり、小高い丘の上からは関東の大平原が展望され、緑の大森林が田野の中に、この丘を囲んでいたのである。壮烈な法戦の御一生を終えられる場所として、跋提河畔の沙羅双樹のもとに劣るものではなかったのである。したがって大聖人の身延を出られ池上での御入滅は、新たな広布への展望に立った戦いの始まりであったのである。仏法の建設を意味する大工の家を選ばれたことも無意義ではない。
 このように考えるなら、日興上人がやがて身延を離山されたのも決して偶然ではなく、一貫した御仏智によるものであったといえよう。
(二) 日興上人の入山
 大聖人滅後の池上における葬儀は、日興上人をはじめ、四条金吾、南条時光、富木入道、池上兄弟等の弟子檀那を中心に、とどこおりなく終了した。そして日興上人は「はかをばみのぶさわに」(1376-06)との御遺命のままに御遺骨をもって、他の老僧とともに、身延へ登ったのである。
 やがて身延定廟後、弘安6年(1283)正月には、百か日忌を終え、諸事をかたづけ終えて、諸老僧は、それぞれの地へ下山していった。ついで日興上人も、富士に残る仕事を整理するため、一時身延を離れることになった。そこで、日興上人は、大聖人の御墓所を守るため、12か月18人をもって、墓所輪番制度を定めた。
 すなわち、西山本門寺にある日興上人御筆、すなわち、当時の正本によれば、
  「定め、次第不同
  墓所守る可き番帳の事。
  正 月   弁阿闍梨     二 月   大国阿闍梨 
  三 月   越前公      四 月   伊予公
        淡路公
  五 月   蓮華闍梨     六 月   越後公
                       下野公
  七 月   伊賀公      八 月   和泉公
        筑前公            治部公
  九 月   白蓮阿闍梨    十 月   但馬公
                       卿 公
  十一月   佐土公      十二月   丹波公
                       寂日房 
  右番帳の次第を守り懈怠(けだい)無く勤仕せしむべきの状件の如し。
  弘安六年正月 日」
 とある。しかしながらこの番帳も、ほとんど実行に移されなかった。
 やがて日興上人は、墓輪番にあたる9月、あらためて諸弟子とともに、身延に晋山したのである。その時の様子については、鎌倉にいた波木井実長が、後に聞きおよんで、日興上人に差し出した手紙(『富士日興上人詳伝』から知ることができる。
 「はるのはじめの御よろこび、かたがた申こめ候ぬ、さてはくをんじにほくぇきょうのひろまらせ、をはしまし候よし、うけ給はり候事めでたくよろこび入て候。さて御わたり候事こしゃう人の御わたり候とこそ思いまいらせ候へ、(中略)又みんぶ(民部)のあざりの御房の御文給はりて候事よろこび入て候。それにつき候てもさて御わたり候うへはせけんしゅっせの事につけ候ても何事もふそくにもあい存せず候、(中略)さてわたらせ給い候ことはひとへにしょう人のわたらせ給ひ候と思ひまいらせ候に候、恐々謹言。
  二月十九日              沙弥日円在り判
  進上、白蓮阿闍梨御房」
 すなわち、身延の山は弘安5年(1282)9月より、10月までの間は、大聖人湯冶のため、家族の何人かが馬もろとも不在となり、火の消えたような寂しさであった。その後大聖人が入滅されて、11月より翌正月までは、五老僧たちの登山で何とか賑っていた。しかし再び日興上人が下山されて以来、身延には院主なく、少数の留守はいても全く寂しさを増すばかりであった。それは、どうみても法華弘通の本山の姿とはいえず、実長もたいそう悲しんでいたところ、院主の晋山弘通と聞き、身延が再び大聖人在世の時と同じく賑わい、あたかも花の咲く思いに、大いに喜びを感じたのであろう。
 また、それまで輪番にあたっていた者も、遠国の者は一人も来山しなかったので、民部日向が、上総国より登るとの状をみて、これにも喜んだことが記してある。しかし輪番が11月にあたる民部日向も、その年はついに予告のみにおわり身延には登らなかったのである。
 また五老僧等の門下は、地頭の波木井実長が日興上人に偏しているのをきらい、さらに日興上人の厳格な精神を少しも理解することができなかった。とくに大聖人の立正安国論の主張、また神社への参詣を厳禁する等について快く思わず、ついに墓輪番すら守らず、身延を少しもかえりみなくなってしまったのである。そしてされに大聖人の一周忌の大法要すら、身延へ来て行なわず、池上において執行するほどにまでなってしまったのである。
 また五老僧は、弟子分帳や、富士一跡門徒存知の事にも明らかなように、大聖人の法門を天台宗なりとし、自らも天台門下なりと称しはじめた。さらに謗法の神社等の参詣を企てるなど、全く大聖人の意にそむく謗法を犯し始めたのであった。
 このように身延を忘れ、大聖人の正意にもそむきはじめた五老僧の行為に対し、深く嘆かれた日興上人は、三回忌も終えた弘安7年(1284)10月18日、美作房日保に、その心境を切々と訴えている。なお当時の様子を伝えるものは、今日の史料ではこれしかない。
 「態と申さしめんと欲し候の処、此の便宣候の間悦び入り候。今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに、身労なのめに候はば何方へも参り合せ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、所労と申し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らざず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候。抑代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事、御沙汰何様なるべく候らん。鎌倉には定めて御さはぐり候らめども、是れは参りて此の度の御世間承らず候に、当今も身の術なきままはたらかず候へば仰せを蒙ることも候はず、万事暗暗と覚え候。  
 此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候いつるに其れも叶わず候。何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候。地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。(中略)争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。(中略)此くの如き子細も如何がと承り度く候。波木井殿も見参に入り進らせかたらひ給い候。如何が御計らい渡らせ給い候べき。委細の旨は越後公に申さしめ候い了んぬ。(中略)老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は、法華経も御知見候へ。地頭と申し某等と申し、努努無き事に候、(中略)越後房の私文には苦しからず候、委細に承り候はば先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり。いかにも御文には尽し難く候て、併ら省略候い畢んぬ。恐恐謹言。
  弘安七年甲申十月十八日        僧 日興 判
  進上 美作公御房御返事」
 右の文のごとく、五老僧が、身延の墓をすてた事への無念さを述べられている。
 また実長より12月11日付をもって日興上人に差し出した状の中には「これていの御坊中事は老僧たちのわたらせ給候うえは実長申すにおよばず候、これならず又御みにあてゝも大事などもいでき候、そうたちのさてわたらせ給候ばとおぼへ候歟」とある。
 この状は日亨上人により弘安7年(1284)のものと考えられており、文中から、五老僧達が身延へ登っていないことが推せられる。しかして翌弘安8年(1285)にいたって、上総の藻原へ下っていた民部阿闍梨日向が、身延に登山してきたのであった。
(三) 民部日向
 日興上人の墓所輪番制も守ることなく遠のいていた民部日向は、ようやく弘安8年(1285)に、身延に登ってきた。時はちょうど大聖人滅後3年にして、他の僧侶の登延のまったく途絶えていた折であったので、院主の日興上人、また地頭波木井実長も大いに歓び、日向を迎え入れたのであった。そしてさらに、日興上人は日向を学頭の要職にまでつけられたのである。
 しかし民部日向は、上総に住することが多く、大聖人に給仕することが非常に少なかったようで、大聖人の本意を深く理解することができていなかった。またその性格は、僧侶にしてはめずらしく闊達であり、論談も巧みで、才気縦横といった人物であったが、残念なことには一面非常に放逸なところがあり、世情に順応する向きがあった。
 この特性は、もっとも謹厳な院主日興上人とは、まったく正反対で、むしろ鎌倉方の軟風を鼓舞し、実長を誘惑して、社参、国禱などの謗法をあえて犯し、登延以後たちまちにして大聖人の精神、日興上人の厳風を乱していったのである。
 その様子は、正応元年(1288)12月に、日興上人より原殿に与えられたお手紙によって明白である。
 日亨上人は原殿御書に顕われている日向の謗法に対して、次のように分類されている。
   一に、非安国論主義の神社参詣等の謗法行為。
   二に、国禱、社参。
   三に、日向の師敵対。
   四に、日興上人への悪批。
   五に、絵曼荼羅を書く。
   六に、絵曼荼羅の開眼に托して日向の放逸ぶり。
 等である。じつに目をおおうばかりの謗法であった。一については民部日向は、実長に対し「守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一遍にて候へども、白蓮阿闍梨・外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべし」と述べて、神天上の法門を、全くはきちがえて読んでいる。しかも、漢籍に優れていた日興上人に対し外典学者と呼ぶなど非難の意図が存分に含まれていた。この日向の言葉を実長は深く信用し「民部阿闍梨の教なり」と、少しも憚(はば)からなかったのである。
 さらに二については、法務上の重大事である11月24日の天台大師講には、例法として論議が行なわれ、学頭は講師を勤め、祈願をなすのであるが、その祈願に日向は「天長地久、御願円満、左右大臣、文部百官、各願成就」と祈り、かって大聖人以来国禱をしたことがなかったその常例を、全く破ってしまったのであった。
 こうした民部日向の謗法行為は「……民部阿闍梨、世間の欲心深くしてへつらひ諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁よと、此の二三年見つめ候」と日興上人が原殿御書の中に述べられていることから、すでに弘安9年(1286)ごろより、顕著になっていったといえる。
 日興上人にしても同書に「かかる不法の学頭をば擯出すべく候」とあえて厳しく述べている。
 しかし日興上人は地頭の波木井実長に対しては、あくまでも実長のあやまちではなく、諂曲した法師、すなわち日向の言葉に惑わされているのであるとし、改心の状をたて、宝前にむかうようにしきりに促したのである。しかしながら、すでに全く日向の軟風に染まった実長は、この日興上人の心が少しもわからず、ついにこの諌言をも聞き入れなかった。そして、逆に、「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」と、うそぶくにいたったのである。
(四) 波木井実長の謗法
 民部阿闍梨日向が学頭になってからは、日向の鎌倉風に全く傾いてしまった地頭波木井実長は、日興上人の再三にわたる告諭(こくゆ)にも耳をかさず、ついに初発心の師弟の深情をも忘れ去り、大聖人の禁じた邪義を執行し、ついに大いなる謗法を犯すにいたったのである。
 このことについては「原殿御書」および「富士一跡門徒存知の事」をひいて詳しく述べられているので、少し長いがここに記しておく。
 原殿御書」にいわく、
  「御札委細拝見仕り候い畢んぬ。抑此の事の根源は、去ぬる十一月の頃、南部弥三郎殿、此の御経を聴かんが為入堂候の処に、此の殿入道の仰せと候いて、念仏無間地獄の由聴き給はしめ奉るべく候。此の国に守護の善神無しと云う事云わるべからずと承り候いし、是こそ存外の次第に覚え候へ。入道殿の御心替らせ給い候かとはつと推せられ候。殊にいたく此の国をば念仏・真言・禅・律の大謗法故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほくらには大鬼神入り替って、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含まれ候い畢んぬ。此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ。国の為、世の為、一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として、大慈悲を以て身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば、弥三郎殿、念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ。
 守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審未だ晴れず候。其の故は鎌倉に御座し御弟子は諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候。身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるの条、日蓮阿闍梨は入滅候。誰に値ってか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、二人の外弟子の相違を定め給うべき事候。師匠は入滅し候と申せども其の遺状候なり。立正安国論是なり。私にても候はず、三代に披露し給い候と申して候いしかども、尚心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ。是れと申すは、此の殿三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いし間、夜半に出で候いて、越後坊を以ていかにこの法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給うべき、御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して、永く留め進らせし事を入道殿聞こし召され候いて、民部阿闍梨に問はせ給い候いける程に、御返事申され候いける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候。法華の自者参詣せば諸神も彼の社檀に来会すべく、尤(もっと)も参詣すべしと申され候いけるに依って、入道殿深く此の旨を御信仰の間、日興参入して問答申すの処に、案の如く少しも違わず民部阿闍梨の教なりと仰せ候いしを、白蓮此の事は、はや天魔の所為なりと存じ候いて少しも恐れ進らせず、いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候はずや。加様にだに候はば、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候はば、其の科日興遁れ難く覚え候。今より以後かかる不法の学頭をば擯出すべく候と申す。(1.神天上安国論の正義を破る)。
 やがて其の次に南部郷の内富士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候。以ての外の僻事に候。総じて此の二十余年の間、持斎の法師影をだに指さはらざりつるに、御信心何様にも弱く成らせ給いたる事の候にこそ候いぬれ、是れと申すは彼の民部阿闍梨、世間の欲心深くしてへつら(諛)ひ諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁よと、此の二三年見つめ候いて、さりながら折折は法門説法の曲りける事を謂れ無き由を申し候いつれども、敢えて用いず候。今年の大師講にも啓白の所願に天長地久、御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就との給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、争でか国恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき。(2.謗施)。
 此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐・南無妙法蓮華経の教主釈尊・久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。いかに聖人御出世の本懐・南無妙法蓮華経の教主の木像をば最前には破し給うべきと、強いて申して候いしを、軽しめたりと思し食しけるやらん。日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に帰依し進らせて候甲斐に重んじ進らせたる高名と存じ候は、聖人や入替らせ給いて候いけん、いやしくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諌め進らせぬる者かなと自讃してこそ存じ候へ。(3.釈迦一体仏造立の過失)。
 総じて此の事は三の子細にて候。一には安国論の正意を破り候いぬ。二には久遠実成の如来の木像最前に破れ候。三には謗法の施始めて施され候いぬ。此の事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、偏に諂曲したる法師の過(とが)にて候へば、思し食し直させ給い候いて、今より已後安国論の如く聖人の御存知・在世二十年の様に信じ進らせ候べしと、改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽めたりとや思し食し候いつらん。我は民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰せの由承り候いし間、さては法華経の御信心逆に成り候いぬ。日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候を捨てて、阿弥陀仏を憑み奉るによって、五逆罪の人と成って無間地獄に堕つべきなりと申す法門にて候はずや。何を以て聖人の信仰し進らせたりとは知るべく候」。
 また富士一跡門徒存知の事」にいわく、
 「一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。
 釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
 次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
 次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加(ほうか)・之有り是三。
 次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処(ところ)なり是四。
 已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり」。
 以上長文ではあるが、右にかかげた原殿御書によれば、「擯出すべく候と申す」までは第一段で(1)神天上安国論の正義であり、五老僧側の微温的な態度を嘆かれている文である。そして三島の社に参詣するという謗法をおかしている。次に「富士の塔」云々は、福士あたりの謗法の者の造搭に応じたこと。さらに、持斎法師の供養をしたことで(2)謗施といえる。また「此れのみならず」より「自讃してこそ存知候え」は(3)釈迦一体仏造立の過失にあたる。すなわち、(1)に一箇の謗、(2)に二箇の謗、(3)に一箇の謗で、合せて四箇の謗法となるのである。
 また「富士一跡門徒存知の事」の御文については、是一の造像は、日興上人が離山されたあと、ついに日円入道が造立し、邪望をとげている。また、是二の社参は、当時の国制、すなわち鎌倉幕府の制度に盲従したものであり、二所とは、箱根と、伊豆山との両権現で、ともに源右大将頼朝の平家討伐等に深い関係のあった神社である。また三島明神は、古来一般に海道筋に建てさせたものである。政治社交的な立場のみからみれば、社参献供は当然と考えられるが、大聖人の安国論主義は、断じてその盲従を許してはいない。
 是三、是四、ともに流行無意義の謗法供養であり、これまた大聖人の厳禁なされたところである。
 これらをあわせて図示すると次のようになる。
          ┌ (一) 安国論の正意破る
   原殿御書 ――┼ (二) 久遠釈尊木像破る
   三の子細   └ (三) 謗法の施始まる
          ┌─┌ 三島の社参   (原殿御書)
          │ └ 二所・三島の社参(門徒存知)
          ├─┌ 富士塔供養の奉加(原殿御書)
   四箇の謗法 ―┤ └ 福士の塔を供養 (門徒存知)
          ├─┌ 持斎法師の供養 (原殿御書)
          │ └ 九品念仏道場建立(門徒存知)
          └─┌ 立像釈迦仏再建 (原殿御書)
            └ 釈迦如来を造立 (門徒存知)
 このように、波木井実長は、ついに四箇の謗法を犯してしまったのである。そして、日興上人に臆するところもなく「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」といいきるにいたった。したがって初発心の師たる日興上人から信心の上で全く離反してしまったのである。
 このことは、実長が職務上鎌倉に在住することが多く、日蓮大聖人からも、日興上人からも、法門を詳しく聞く機会が意外に少なかったという不幸を物語っている。それでも、大聖人在世においては、大聖人や日興上人の指導、また監督の下で、格別の間違いを起すこともなかったが、軟派の民部日向が身延に逗留するにいたって、完全にその風情に染まってしまったのである。
 こうした立像仏問題や、非安国論主義による四箇の謗法問題は、実長の謗法という個人的な、しかも一時的なものに止まるだけではなく、また身延山のみに限らず、永久に門下の重大問題であるといえる。民部阿闍梨日向、波木井実長の謗法はむしろ七百年後の今日のために、起ったものといえよう。今日のわれわれの信心に一大警告を発したものと考え、この教訓を改めて大きく見なおし、大法を末法万年に輝かす貴重な糧としていかなければならないといえるのである。
第三 身延離山について
日興上人の決意

 学頭の民部阿闍梨日向の謗法、日向の軟風に染まった地頭波木井実長の四箇の謗法によって、大聖人が九年間住まわれた聖地も、全く謗法の山となるにいたってしまった。
 ここに、日興上人は大法伝持のため、汚濁した謗法の地を捨て、清浄な勝地へ移る以外にないとの重大な決意をいよいよ強くされたのであった。しかしながら身延山を離れることは、日興上人の心情として、一応は恩師の依地をなげうつことになり、また初発心の人々の契りを断ち、深縁の一門と別れることなど、全て容易でなく、まさに進退きわまる毎日であったろう。
 しかし大法広宣流布の前途を考えたとき猿叫ぶ甲狭の身延山が霊山とはかぎらない。日興上人は思慮をめぐらされ、ついに身延山を去らんとの一大決意をされたのであった。
 かくして正応元年(1288)12月5日、日興上人は一門を引き具し、大聖人御遺付の法宝の御供をして、住みなれた身延の大坊をあとにしたのである。しかし、このことを聞きつけた弟子越前公の諌止にまかせ、一時身延沢の一庵にとどまられたのである。
 当時波木井実長は、鎌倉にいたもようで、この重大さに、驚きあわてていたが、一族の弥六郎清長は、すでにどうにもならぬこととあきらめて、決別の誓状を日興上人に奉っている。
 「もしみのぶさわを御いで候へばとて心がはりをもつかまつり候、おろにもおもひまいらせ候、又おほせの候御ほうもんを一ぶんもたがへまいらせ候はば、ほんぞんならびに御しゃう人の御ゑいのにくまれを清長が身にあつくふかくかぶるべく候。
 しょうをうぐゎんねん十二月五日  源の清長在り判」
 この重大な時に、実長が身延にいなかったため、いっさいの交渉は遅々としてなかなか進まなかった。日興上人としてもこの清長の誓状には、かえって後髪をひかれる思いであったことであろう。この間のことは、ひとえに原殿御書に詳しいので、ここに引用する。
 「日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、二代三代の末は知らず、未だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ。身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども、打ち還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人・本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当りて覚え候へば、本意忘るること無く候。又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入り候。殊更御渡り候へば入道殿不宜に落ちはてさせ給い候はじと覚え候。(中略)同行に憚りていかでか聖人の御義をば隠し候べき。彼の阿闍梨の説法には、定めて一字も問いたる児共の日向を破するはと・の給い候はんずらん。元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか。何よりも御影の此の程の御照覧如何、見参に非ざれば心中を尽し難く候。恐恐勤言。
  一二月一六日               日興 御判
  進上、原殿御報」
 ここに「身延沢を罷り出で候事……詮にて候へ」の日興上人の文について、堀日亨上人は次のように述べている。
 「『身延沢を罷り出で候事・面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども』の文句を、愚人の泣き言なんど思う者あらば罰当たりの悪魔である。師命によって檀信に任せて身延山久遠寺の別当とし院主として、本門弘通の大導師として、宗祖滅後の閻浮提の大法主としての責任はまったく本寺を死守するにとどまり、十八高弟の代表として祖廟に奉仕することにある。しかして御遺状の血脈の次第・日蓮より日興への面目が保たるるのである。ゆえに『面目なさ』の四字に千鈞(せんきん)の重味があり、万億無量の意義が含まれておる」と。
 波木井一門より出家した越前公によって、事の次第を聞いた実長は心中まことにおだやかならず正応2年(1289)正月21日「万事たのみまいらせ候也」と越前公に返事を送っている。
 実長としては、神社参詣等の謗法は、日興上人としては不満ながらも、必ず気長に時を待ってくれるであろうぐらいに、軽く考えていたから、まさか一門相具して身延山を離れることになろうなど、夢にも考えなかったにちがいない。こうした事態から、実長自身も、自分の犯した謗法行為の呼んだ重大な結果に気づいた点もあったが、越前公が、さいわい身延の波木井の坊に引きとどめておいたことを喜び、いっさいをゆだねてしまった。
 実長にしてみれば、もし一行が遠くに去ってしまえば、まず身延の地が閑散としてしまうことを恐れたようである。たとえ、日向等が身延山に残っていたとしても、日向は甲駿地方には縁もうすい。まして、身延の繁盛は大聖人によるものであり、その後は、日興上人によるものであると考えていたから、何としてもわが身のためにも、日興上人にとどまってもらいたかったにちがいない。
 こうして日円実長を教訓しようとの越前公をはさんだ何回かの交渉は、半年近くにおよんだ。日興上人も実長の改悛をまつつもりも」あったようである。しかし具体的にはいるや、実長は一歩もゆずらず、しだいにその不遜な態度を表にあらわし、ついに交渉は決裂してしまう結果となった。そして、実長より日興上人へ、最後の状が出されたのである。
 「一日の便宜の御文委しく承り候ひ了ぬ、さては何事にて候とも御辺の仰をば違へまいらせ候はじと存じて候が、此事にをき候ては叶い難く候、如何様にも怠状申すべく候へども、かねてより怨み進らする子細の候あいだ仰せに従ひてさうけ給り候ぬと申す御事恐れ入り候。まことに仏道成り候ときは障碍の候なれども、此は障碍には成るべからず候、日円は故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧達も候同じ同胞にてこそ渡らせ給ひ候に、無道に師匠の御墓を捨て進せて咎なき日円を御不審候はんは如何で仏意にも相叶はせ給ひ候べき、御経に功を入れ進せ候、師匠の御愍を被り候し事恐くば劣り進せず候、前後の差別ばかりこそ候へ、されば仏道の障に、成るべしとも覚えず候也、委細には見参にも申して候き、又越前殿委く申さるべく候也、恐々謹言。
  六月五日                 日円在り判
   伯耆阿闍梨御房」
 ここに半年におよぶ越前公の苦心もむなしく、日興上人の一行は、身延山をあとに、正応2年(1289)の夏ひとまず富士の河合へ立ち退かれたのである。
 さて日興上人一行は河合へ移られたが、ここは非常にせまく、一時の仮宿にすぎなかった。またこのことを聞きつけ、日興上人に深い縁のある南条時光は、進んで上野の地へ移られることを願い出たのである。そして日興上人は、下条にある時光の持仏堂に、身を寄せることとなった。
 日目・日華等の弟子達、また時光や新田信綱等は、一挙に大坊の経営をはかり、正応3年(1290)10月、いっさいの基礎を固めるにいたったのである。
 その後日興上人は、大石寺の開山として講学に力をそそがれ、自ら若き弟子達の育成にはげまれ、また有縁の地甲駿に、とくに弘通の力をそそがれたのであった。
HP編集者より
 ここで、どうしても触れておかねばならないことは、創価学会と日蓮正宗の関係である。本講義録の編纂が昭和45年(1275)であり、宗門事件勃発以前であるため触れられてはいないが、この問題については「仏智測りがたし」と述べるにとどめておく。

1368~1369    六郎恒長御消息top
1368:01~1368:08 第一章 選択集を挙げ念仏無間を明かすtop
 六郎恒長御消息    文永元年九月    四十三歳御作   与南部六郎恒長    於安房
01   所詮念仏を無間地獄と云う義に二つ有り、 一には念仏者を無間地獄とは日本国・一切念仏衆の元祖法然上人の
02 選択集に浄土三部を除いてより以外・一代聖教・所謂法華経・大日経・大般若経等・一切大小の経を書き上げて捨閉
03 閣抛等云云、 之に付いて上人亀鏡と挙られし処の浄土三部経の其の中に、雙観経・阿弥陀仏の因位・法蔵比丘の四
04 十八願に云く唯五逆と誹謗正法とを除くと云云、 法然上人も乃至十念の中には入れ給ふといえども、 法華経の門
05 を閉じよと書かれ候へば・阿弥陀仏の本願に漏れたる人に非ずや、 其の弟子其の檀那等も亦以て此くの如し、 法
06 華経の文には若し人信ぜずして、 乃至其の人命終して阿鼻獄に入らんと云云、 阿弥陀仏の本願と法華経の文と真
07 実ならば法然上人は無間地獄に堕ちたる人に非ずや、 一切の経の性相に定めて云く 師堕つれば弟子堕つ弟子堕つ
08 れば檀那堕つと云云、譬えば謀叛の者の郎従等の如し、御不審有らば選択を披見あるべし是一。
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 詮ずるところ、念仏を無間地獄という義に二つある。
 第一には、念仏を称える者を無間地獄というのである。日本国の全ての念仏者達の元祖である法然上人は、その著・選択集のなかで、浄土三部経を除いて、それ以外の一代聖教、いわゆる法華経、大日経、大般若経等、いっさいの大乗、小乗の経文を書き上げて、それらを捨てよ、閉じよ、閣け、抛て等といっている。これについては、法念上人が念仏宗の亀鏡として挙げた浄土三部経の一つ・雙観経を見ると、阿弥陀仏が法蔵比丘として因位の修行をしていたときに立てた、四十八願の第十八、念仏往生願に「但し五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものは除く」といっている。法然上人も、乃至十念という阿弥陀の大願の中に自分の主張を立てているが、その実、法華経の門を閉じよなどと選択集に書いた正法誹謗の者であるから、阿弥陀仏の本願に漏れた人になってしまうではないか。
 その弟子も、その檀那も師匠の法然上人と同様に往生できないのである。
 法華経譬喩品第三の文には「若し人が法華経を信じないで謗ずれば、(中略)その人は命が終わってのち、阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。阿弥陀仏の本願の文と、法華経譬喩品の文とが真実であるならば、法然上人は無間地獄に堕ちた人となるではないか。
 一切の経の一般論として、師匠が無間地獄に堕ちれば弟子も無間地獄へ堕ちるとされている。弟子が無間地獄に堕ちれば、檀那も堕ちると定められている。譬えば、謀叛人の郎従達が、同じく謀叛の者となるようなものである。御不審があるなら、選択集をごらん下さい。

念仏
 阿弥陀仏を念じ極楽浄土への往生をめざすこと。念仏とは仏を思念することで、その意味は多岐にわたるが、大きくは称名念仏・法身(実相)念仏・観想念仏に分けられる。①称名念仏とは、諸仏・諸菩薩の名をとなえ念ずること。②法身念仏とは、仏の法身すなわち中道実相の理体を思い念ずること。③観想念仏とは、仏の功徳身相を観念・想像することをいう。
―――
無間地獄
 阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
―――
法然
 1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
―――
選択集
 『選択本願念仏集』の略。法然(源空)の著作。1巻。九条兼実の依頼によって建久9年(1198年)に著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の『観無量寿経疏』の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は16章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏(南無阿弥陀仏ととなえること)こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」(17㌻)、「守護国家論」(36㌻)などでその誤りを破折されている。
―――
一代聖教
 釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
―――
大般若経
 大般若波羅蜜多経の略。中国・唐の玄奘訳。600巻。般若部の諸経典を集大成したもので、あらゆる仏典の中で最大である。巻398には、常啼菩薩が身命を惜しまず、財宝や名誉を顧みず、般若波羅蜜多(智慧の完成)を求めた話が説かれている。
―――
捨閉閣抛
 「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」を意味する。日本浄土宗の開祖・法然(源空)が著した『選択集(選択本願念仏集)』の趣意。同書の中に「弥いよ須く雑を捨て専を修すべし」「随自の後には還て定散の門を閉づ」「且く聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ」「且く諸の雑行を抛て選んで応に正行に帰すべし」などとあり、これらから捨・閉・閣・抛の4字を選び、法然の主張が浄土宗以外のすべての仏教を否定するものであることを示した語。具体的な内容は「立正安国論」(22~23㌻)で引用されている。
―――
亀鏡
 ①亀鑑と同じ。亀の甲は吉凶を占うために用いられ、鏡はものの姿を映すもので、合わせて模範・手本の意味となる。昔、中国では、亀の甲を焼いて、その割れ方によって吉凶を占ったことから、「鏡」は物事を照らして是非をわきまえることから、手本を意味する。仏の経文を指して、このようにいう。②一切の規範の根本は仏説であるから、仏の教え、仏意に反しない人師・論師の教説。
―――
雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
阿弥陀仏の因位・法蔵比丘の四十八願
 無量義経に説かれている。阿弥陀仏が法蔵比丘として因位の修行をしていたとき、世自在王のもとに四十八願を立てた。この四十八願の最要といわれる第十八願には「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと浴し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗することを除く」とある。
―――
五逆
 五逆罪のこと。5種の最も重い罪で、必ず無間地獄の苦の果報を受ける原因となる行為。①父を殺す(殺父)②母を殺す(殺母)③阿羅漢を殺す(殺阿羅漢)④仏の身を傷つけ血を出す(出仏身血)⑤教団を分裂させる(破和合僧)の五つ。
―――
乃至十念
 念仏宗で説く根本義。念仏往生を願って一心に阿弥陀の名号を唱えること。乃至は下至・十念は十声のことと。
―――
阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
檀那
 ①サンスクリットのダーナの音写で、「布施」の意。あるいはダーナパティの音写の略で、「施主」を意味する。在家の有力信者で仏教教団を経済的に支える人。②檀那僧正の略。天台密教の僧・覚運のこと。
―――
性相
 経文の説相のこと。
―――
披見
 文献などを開いて見ること。
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 本抄は、念仏破折の書であって、念仏無間の義を「人」と「法」の両面から与奪の二法をもって論じられている。
 はじめに、人に約し、念仏者の元祖である法然の謗法によって師檀ともに無間地獄に堕ちることを説かれている。すなわち、法然が選択集を著わして、浄土三部経以外の一切の諸経を捨閉閣抛せよと主張したことに対し、一往、与えて浄土三部経を認めたとしても、三部経の中の無量寿経に、阿弥陀如来が仏になるために法蔵比丘として修行中に立てた四十八願中の第十八願に「唯五逆と誹謗正法を除く」としている。したがって法然は自ら法華経を誹謗するが故に自身、阿弥陀の本願に漏れ、誹謗正法の大重罪を犯していることとなり無間地獄に堕ちるのである。
 つぎに、法に約し、念仏の依経とする浄土三部経が方便権教であるが故に、それを根本とするならば無間地獄に堕ちることを説かれている。すなわち、無量義経説法品第二の「四十余年、未顕真実」の文により、法然が依経とする浄土三部経は、方便権教であって真実の教えでないと再往奪って論ぜられている。さらに浄土三部経が不真実の教えであるのに対し、南無妙法蓮華経こそ真実の教えであることを示されている。さらに、末法の日本国の一切衆生が本尊とすべき仏は、阿弥陀仏ではなく、教主釈尊、すなわち久遠元初自受用身、御本仏日蓮大聖人御自身であることをその元意として示されている。
捨閉閣抛
 日本の浄土宗の開祖、法然が選択集において、浄土三部経以外の一切の諸経を捨棄することを唱えた説で、浄土門、易行道、正行を用いて、浄土宗以外は聖道門、難行道、雑行であるから捨てよ、閉じよ、閣け、抛てといって、一切衆生を迷わしたのである。
 この捨閉閣抛の四字は、選択集に、次に述べる如く説かれているが、それについて日蓮大聖人は、立正安国論に、その誤りを厳しく論破されている。
 捨は、選択集の第一、二門章に「道綽禅師、聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」といい、また「およそ、此の集の中に聖道、浄土の二門を立つる意は聖道を捨てて、浄土に入らしめんがためなり」といっている。同集第二、二行章に「善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文」といっている。これらの文にあるように、極楽浄土に往生するのには、諸行を捨てて、念仏の一行のみを専らにすべきであると説いたこと。
 閉は、同集の第十二、付属章に「当に知るべし、随他の前には、暫く定散の門を開くと雖ども、随自の後には、還って定散の門を閉ず、一たび開いて以後、永く閉じざるは、唯これ念仏の一門なり」といい、念仏の一行のみが仏の随自意の教えであるから、それ以外の定散の門は閉じるのであると説いたこと。
 閣は、同集の第十六、慇属章に「夫(そ)れ速(すみや)かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且らく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ」といい、この娑婆世界で悟りを開き、成仏するための修行を説いた聖道門を閣いて、極楽浄土に往生できる念仏の一行のみによらなくてはならないと説いたこと。
 抛は、同集の第十六、慇属章に「浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし」といい、極楽浄土に往生するには、念仏以外の一切の諸行を抛って、専ら念仏に帰することであると説いたこと。
 以上が日蓮大聖人の指摘した捨閉閣抛の出処であるが、これらは、法然が曇鸞、道綽、善導の説を受けついで、更に「準之思之」の四字で拡大解釈し、この捨閉閣抛の説をもって、法華経まで含めたために、誹謗正法の大重罪を犯したのである。このことについて大聖人は、守護国家論に次のように述べられている。
 「問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く『初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし』已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな」(0052-06)
 日寛上人は、安国論愚記に、この捨閉閣抛について次のように釈されている。
 「汎そ捨に三義あり、一には廃捨の義、いわく永く廃して用いず、実にこれ捨るの義なり、正直捨方便のごときこれなり、妙楽いわく『捨はこれ廃の別名』等云云。二には捨置の義、いわくこれを取りて則ち且く彼に置く、これ実に棄つるにあらざるなり、例せば捨置・答のごとし、宗祖『日蓮広略を捨てて肝要を取る』というはこれなり。三には施捨の義をいう。財物等他に施すを捨と名づく。檀捨の如きこれなり。諫述七廿六にも出たり。今法然の捨は、第一廃捨の義なり、ゆえに上の文にいわく『この文を見て、弥(いよい)よ須らく雑を捨て専を修すべし』等云云、弥・捨の両字これを思い見るべし、またいわく『定散は廃の為に説き、念仏は立の為に説く』と云云、彼れ念仏の外の諸行を廃捨するは文に在って分明なり。閉字の意は、すでに塞なりという、法華等の修行の門を閉塞するなり。国家論廿五にいわく『天親、仏性論に云く、若し大乗に憎背せば此れは是れ一闡提の因なり衆生をして此の法を捨てしむるための故に、選択集は法華経を捨てしむる書に非ずや』と文。
『閣抛の二字は仏性論の憎背の二字にあらずや』と文」
 法然は、曇鸞、道綽、善導等の謬釈を引いて、法華経をも含めて、浄土三部経以外は、「捨閉閣抛」せよととなえたことは、弥陀の本誓に背くことになり、また有縁の釈迦に背くこととなる。故に法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば(中略)其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」とあるように、念仏は無間地獄の業因となること明らかである。
阿弥陀仏の因位・法蔵比丘の四十八願に云く唯五逆と誹謗正法とを除くと云云
 法然が選択集を説いて、法華経をはじめとする釈迦一代聖教を、浄土三部経を除いては、聖道門、難行道、雑行として、捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと「捨閉閣抛」の四字をもって一切衆生を迷わし、正法誹謗の限りをつくした。こうした法然の謗法行為は、彼自身、念仏宗の依経としている浄土三部経の中の無量寿経に法蔵比丘の四十八願のうち、念仏の根本義とされている第十八願である念仏往生願の文に「唯五逆と誹謗正法を除く」とある故に、法然自身、阿弥陀仏の本願に漏れ、無間地獄に堕ちるものである。
 「阿弥陀仏の因位」とは、無量寿経に次のように説かれている。
 阿弥陀仏は、因位(菩薩が仏果を得るために六波羅蜜を修行しつつある間の位)の修行において、世自在王仏の下に法蔵比丘として四十八誓願をおこし、十劫以前に成仏した。
 「法蔵比丘の四十八願」は、浄土三部経の一つ、無量寿経に阿弥陀仏の因行誓願として説かれている。
 過去久遠無数劫に錠光如来等の五十三仏が現われた後、五十四番目に世自在王仏が出現し、一切衆生を教化した。その時、一人の国王が、世自在王仏の説法を聴き、随喜し、信心の心を起こし、ついに国王の位を棄てて仏道修行に励み僧侶となり、名を法蔵比丘といった。そして菩薩道を修行し、自分の仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏に、これまで、もろもろの仏たちが、どのようにして、自らの仏国土を荘厳したか教えて下さいと頼んだ。そこで世自在王仏は、二百一十億の諸仏の先例を説いた。法蔵比丘は、これを四劫の間思索し、その中から好い例を選択して、自ら仏のもとへ行って自分の国土を荘厳し、浄化するという四十八種の誓いをたてたのである。それが法蔵比丘の四十八願である。
 かくて法蔵比丘は、不可思議永劫に菩薩道を行じて、十劫以前に成仏し、阿弥陀仏となるのである。その仏国土は、この娑婆世界より西方十万億仏国を過ぎたところにあると説いた。これが念仏宗の理想とする極楽浄土である。このことから念仏宗では、この娑婆世界は穢土であり、西方十万億土の極楽浄土へ往生することを根本義とするのである。
 さて彼らが念仏を称えると、極楽浄土へ往生できるという唯一の依処は、法蔵比丘の四十八願の中の第十八願の念仏往生願である。そこには「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんは正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗するとを除く」と説かれている。日蓮大聖人は、頼基陳状に「彼の導・然両人の仰ぐ所の雙観経の法蔵比丘の四十八願の中に第十八願に云く『設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く』と云云、たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せむ人人は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか」(1154-13)といわれている。
 いかなる悪人といえども念仏を称えれば、西方十万億土の極楽浄土へ往生することができるが、ただ五逆罪を犯したものと正法を誹謗したものは、いかに阿弥陀仏を念じようとも、極楽浄土へ往生することはできないのである。今日における正法とは、正しく日蓮大聖人の三大秘法の御本尊である。したがって、いかに念仏を称えたとしても、三大秘法の御本尊を謗ずるならば絶対に極楽往生はできないということが、この法蔵比丘の四十八願の中の第十八願によっても明確に知ることができるのである。
師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀那堕つ
 仏法における師匠と弟子、檀那の関係を示した文である。
 檀那とは布施の意で、ここでは、僧侶に供養し、支える在家の人のことである。すなわち、師匠と弟子は出家した者であり、檀那は在家の者である。
 師匠である法然が無間地獄に堕ちたのであるから、弟子もその檀那も無間地獄に堕ちることはまちがいないのである。
 わが国の浄土宗の元祖である法然は、その著「選択集」において、念仏宗の依経である浄土の三部経を除いて、その他すべてを捨閉閣抛といっている。しかし、法蔵比丘の四十八願のうち、第十八願の念仏往生願には「唯五逆と、正法を誹謗するとを除く」とある。とすると、法華経についても捨閉閣抛などといい、正法を誹謗した法然は往生することができないのである。
 また法華経譬喩品第三には「若し人信ぜずして、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(『妙法蓮華経並開結』一九八㌻ 創価学会刊)とある。法然は往生できないどころか、無間地獄に堕ちるのは当然である。
 それらは理屈ではなく、法然の死、当時の民衆の姿にはっきり現証となってあらわれている。また中国浄土宗の第三祖善導などはそのよい例証であろう。
 下山御消息に「されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで十四日が間・顚倒狂死し畢んぬ」(0361-06)といって、善導は地獄の相を現じて死んだことを明らかに述べられている。
 立宗の開祖がこのような状態であったから、弟子にいたっても決して例外ではない。
 当世念仏者無間地獄事に「而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は此の文を受けて転教口称とは云えども狂乱往生とは云わず、其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く願くは弟子等命終の時に臨んで心顚倒せず心錯乱せず心失念せず身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し等云云、此の中に錯乱とは狂乱か而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり、而るに善導和尚の十即十生と定め又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発(おこ)る可し、何に況や念仏宗の長者為(た)る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」とある。
 念仏無間地獄抄や当世念仏者無間地獄事には法然の高弟である隆観・聖光・薩生などは、法然の墓所があばかれたときに、罪科が糾弾され、遠国に流罪された。没するに先だち、頸下に悪瘡を生じ狂死したことが述べられている。これこそ、「師堕つれば弟子堕つ」の証拠ではないか。
 西山派の開祖である善慧も、71歳の時、狂乱し苦しみ抜いて死ぬという現証を示している。
 浄土宗の師、弟子ともに無間地獄の相をして死んでいった。大檀那の中にもそれらの弟子と同じ相をして地獄に堕ちていったものがあると、大聖人も仰せである。
 当時、念仏を信仰していた大衆はどうであったろう。生きながらの地獄の様相を示したといっても過言ではない。当時の民衆の苦しみは言語に絶するものであった。わが国未曾有の三災七難である地震、台風、疫病、飢饉、洪水、旱魃が相次いでおこった。当時は科学、医学等が未発達の時代であったから、こうした災害による被害はまことに甚大であった。たとえば、疫病の流行の場合、赤痢、コレラ、疱瘡等の流行が相次ぎ、その蔓延速度はものすごく、部落ごと、村ごとに壊滅的な死亡者を出すことも決してまれではなかった。多数の人が道に倒れ、死せざる人も廃人となる者、発狂する者、その数は大変なものであった。
 これらの姿が、念仏を信仰した結果によるものであることを誰も知らなかった。日蓮大聖人のみが、この原因は、念仏が一国にはびこっている故であることを立正安国論等の諸御書をもって喝破され、解決の道は、念仏を禁じ、捨てる以外にないと教えられたのである。だが、為政者はその言を用いるどころか、かえって迫害し、流罪に処したのである。この処置は民衆の苦しみ、一国の滅亡に拍車をかけるようなものであった。
 これらの現証を通してみて、師が無間地獄に堕ちれば、弟子も檀那も、ともに無間地獄に堕ちることは明らかである。恐ろしい限りである。

1368:09~1368:12 第二章 法華経と相対し念仏無間を明かすtop
09   二には念仏を無間地獄とは法華経の序分・ 無量義経に云く「方便の力を以て四十年には未だ真実を顕さず」云
10 云、 次下の文に云く「無量無辺を過ぐるとも 乃至終に無上菩提を成ずることを得じ」云云、仏初成道の時より白
11 鷺池の辺に至るまで年紀をあげ四十余年と指して 其の中の一切経を挙ぐる中に大部の経四部・ 其の四部の中に次
12 に方等十二部経を説くと云云、 是れ念仏者の御信用候三部経なり、 此れを挙げて真実に非ずと云云、次に法華経
1369
01 に云く「世尊の法は久しくして 後要当に真実を説くべし」 とは念仏等の不真実に対し 南無妙法蓮華経を真実と
02 申す文なり、 次下に云く「仏は自ら大乗に住したまへり 乃至若し小乗を以て化すること乃至一人に於てせば我即
03 ち慳貪に堕す此の事は為て不可なり」云云、 此の文の意は法華経を仏 胸に秘しをさめて 観経念仏等の四十余年
04 の経計りを人人に授けて 法華経を説かずして黙止するならば 我は慳貪の者なり三悪道に堕すべしと云う文なり、
05 仏すら尚唯念仏を行じて一生をすごし法華経に移らざる時は 地獄に堕すべしと云云、 況や末代の凡夫一向に南無
06 阿弥陀仏と申して一生をすごし 法華経に移つて南無妙法蓮華経と唱えざる者三悪道を免るべきや、 第二の巻に云
07 く今此三界等と云云、 此の文は日本国六十六箇国嶋二つの大地は教主釈尊の本領なり 娑婆以て此くの如く全く阿
08 弥陀の領に非ず、 其中衆生悉是吾子と云云、 日本国の四十九億九万四千八百二十八人の男女各父母有りといへど
09 も其の詮を尋ぬれば教主釈尊の御子なり、三千余社の大小の神祇も釈尊の御子息なり全く阿弥陀仏の子に非ざる
10 なり。
11       文永元年甲子九月 日                          日蓮花押
12      南部六郎恒長殿
――――――
 第二には、法の上から、念仏を無間地獄というのである。法華経の序分である無量義経には「方便の力をもって、権(かり)の教えで衆生を教化してきた四十余年の間には、未だ真実をあらわしていない」と説かれている。同じく無量義経の次の文には「したがって、無量無辺という長い間修行したとしても……ついに成仏することはできない」とある。
 釈迦仏が初めて菩提樹の下で成道した時から、白鷺池の辺(ほとり)に至るまでの期間をさして四十余年といい、その間に説かれたところの一切の経教をあげているのである。その中に華厳経、阿含経、方等経、般若経などの四大部がある。その四大部の中で、「次に方等の十二部経を説く」とある。これが念仏者がご信用なされている浄土の三部経である。無量義経では、これを挙げて、真実に非ずと説いているのである。
 次に法華経の方便品第二にいう「世尊の法は久しくして後、かならず、まさに真実の法を説くべし」とは、念仏などを不真実の教えというのに対して、南無妙法蓮華経が真実の教えであると説く文なのである。
 また方便品の次の文には「仏は自ら、大乗の法に住されている……もし小乗の教えをもって一人でも化導することがあったならば、仏は慳貪(けんどん)の罪に堕ちてしまう。これでは、まことに良くない」とある。この文の意は、法華経を仏は胸に秘しおさめていて、観経念仏など四十余年の経ばかりを人々に授けて、真実の教えである法華経を説かずに黙って止めてしまうならば、仏は慳貪の罪の者であり、三悪道に堕ちてしまうという文なのである。
 仏でさえ、ただ念仏だけを行じて一生を過ごし、法華経の説法に移らなかったなら、地獄に堕ちてしまうというのである。ましてや、末代の凡夫で、ただ南無阿弥陀仏と称えてばかりいて一生を過ごし、法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱えないのなら、三悪道を免れるわけがないのである。
 法華経第二の巻の譬喩品には「今、この三界は皆これわが有(う)である」と説かれている。
 この文は、日本国の六十六の国と島二つの大地は、皆、教主釈尊の本領である。したがって娑婆世界とは、このように教主釈尊の本領であって、全く阿弥陀仏の領する国土ではないのである。
 同じ譬喩品の次の文に「その中の衆生は、ことごとく吾が子である」とある。したがって、日本国の四百九十九万四千八百二十八人の男女は、それぞれに父母があるといえども、その究極を尋ねれば、教主釈尊の子なのである。また三千余の社に祀られた神々も、教主釈尊の子息であって、全く阿弥陀仏の子ではないのである。
  文永元年甲子九月 日    日 蓮  花 押
   南部六郎恒長殿

法華経の序分・無量義経
 経文を講ずるときに、総じて序分・正宗分・流通分に分けるのを三段分文という。序分とは、まさに説かんとする教義を開明する準備的部分、正宗分とはその主たる教義開説の部分、流通分とはその主たる教義の宣伝についての用意を明かしたものである。観心本尊抄には「法華経等の十巻に於ても二経有り 各序正流通を具するなり、 無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり」(0248-12)とある。
―――
無上菩提
 最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
―――
初成道の時
 釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて成道した時をさす。
―――
白鷺池の辺
 大般若経が説かれた四処十六会のうち、第十六会の説法の場所。釈尊は方等部の説法のあと法華経を説くまでの間に、三乗の機根を調えるため般若部の経をといたが、①王舎城の鷲峰山で第一会~第六会、②舎衛国の給孤独で第七会~第九会、③他化自在天宮で第十会、②で第十一会~第十四会、①で第十五会、④王舎城竹林精舎の白鷺池で四処十六会となる。
―――
大部の経四部
 釈尊が四十四年間に説いた経を、華厳・阿含・方等・般若の四大部に分別したことをいう。
―――
方等十二部経
 一切の大乗教のこと。方等とは方広平等な大乗経典の意。仏教の経文の形式上の類別を12部にわかつゆえに、十二部経という。
―――
慳貪
 物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らないさま。慳貪には、財物を惜しむ財慳と、正しい教えを説くことを惜しむ法慳がある。慳貪は、死後に餓鬼界に生まれる因となる悪業とされる。
―――
三悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
―――
一向に
 ひたむきに・ひたすらに・心を他に向けず・純粋で混じりけないこと。
―――
今此三界
 法華経譬喩品第3の文。同品に「今此の三界は|皆是れ我が有なり|其の中の衆生は|悉く是れ吾が子なり|而るに今此の処は|諸の患難多し|唯我一人のみ|能く救護を為す」(法華経191~192㌻)とある。釈尊がこの世界の主であることを述べた文。▷
―――
日本国六十六箇国嶋二つ
 日本全国。六十六か国と壱岐・対馬の二島。
―――
四十九億九万四千八百二十八人
 ここでの〝億〟は現在の十万にあたる。したがって、日蓮大聖人御在世当時の日本の総人口としてあげられている人数は、四百九十九万四千八百二十八人ということになる。この数値の出所については明らかでない。
―――
三千余社の大小の神祇
 日本の国の神社の総数。平安中期に藤原忠平等が編修した延喜式五十巻中、第九、第十巻を神名帳といい、そこに、宮中及び全国に鎮座する神が三千一百三十二座と記されている。
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「要当に真実を説くべし」(中略)法華経を説かずして黙止するならば我は慳貪の者なり
 法華経方便品第二の偈文で「世尊法久後 要当説真実」と説かれている。「世尊」とは釈迦仏のこと。「真実」とは、生命の真の実相をいう。
 この場合の「真実」とは、生命の本質を説いた法華経のことである。釈尊は五十年間にわたって沢山の教えを説いた。あるときは戒律を説き、またあるときは禅定も説いている。このように仏がいろいろな方便を講じたのは、衆生の機根を調(ととの)え、最後の法華経を理解させるためであった。最終的には、生命の本質を説き明かした法華経をもって肝心とし、衆生の成仏を説き示したのである。
 もし釈尊が法華経を説かなければ、二乗の成仏はないし、女人も不成仏のままである。五十年間説法をしても、法華経が説かれなければ四十二年間の教えはなんの意味もないことになる。法華経が説かれ生命の実体が明かされたことにより、釈尊の説法は輝き、正像二千年間の衆生を成仏させることができたのである。
 三世十方の諸仏は、各々、みな要 となる出世の本懐たる教えがある。聖人御難事にいわく「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-03)と。釈尊の出世の本懐は法華経二十八品、天台は摩訶止観、大聖人は南無妙法蓮華経の七文字である。
 十九歳で出家し、三十歳で成道した釈尊は、成道後、四十二年間、小乗教、権大乗教等の爾前経を説き、後の八年間で実大乗経を説いた。だが、無量義経説法品第二に「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と述べているとおり、四十余年の間、種々の法を説いてきたが、未だ真実を説かなかったのである。
 すなわち、爾前の経教は生命に対する究明が不徹底であり、真実が説かれていないと釈尊自身述べているのである。故に法華経を説くにあたって、その開経である無量義経で「四十余年、未顕真実」といい、方便品へきて「世尊の法は久しくして後要当(かならずまさ)に真実を説くべし」と説いたのである。
 本抄で、念仏を無間地獄と破折するゆえんも、実に念仏は、四十余年間の方便の説法に執着し、仏の真実の教えをふみにじっていくものだからである。
 爾前の仏は始成正覚の仏であり、衆生もまた始成正覚の仏を理想として、難行苦行の修行を積み重ねてきた。しかし、爾前経では、仏も衆生もともに仏果を得ることはできなかった。阿弥陀仏を本尊とする念仏は、釈尊が自から弾呵した爾前権経の教えである。いくら修行しても成仏などできるはずがない。
 法華経の序品第一に「諸の菩薩の為めに大乗経の無量義と名づけ、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるるを説きたまう」とある。
 釈尊は三十歳で成道して以来、法華経を説くまでの四十余年間、ひたすら衆生の機根が調うことを願って、胸中に護念してきた。それが法華経であり、五字七字の御本尊である。換言すれば「要当説真実」の仏語も、法華経が説かれて初めて「真実」の二字が立証されたことになる。万一、法華経が説かれなければ八万法蔵ことごとく皆虚妄となってしまうだけでなく、釈尊自身慳貪の者となってしまう。
 さて、以上のように、法華経が真実の教えであり、肝心の教えであるというのは一往の義である。再往、末法の法華経とは、南無妙法蓮華経の三大秘法の御本尊のことである。法華経二十八品が肝心というのも、その文底に五字七字の南無妙法蓮華経、御本尊が秘沈されているからである。
 所詮、真実の中の真実とは、南無妙法蓮華経のことであり、これこそ、仏法の肝心、真実の生命観が説かれた日蓮大聖人の仏法のことである。故に三大秘法抄にいわく、「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)と。
 いま、我らの護持する三大秘法の御本尊こそ、この法華経の肝心であり、八万法蔵の究極である。
仏は自ら大乗に住したまへり 
 法華経方便品第二にある文で、仏はすでに妙法蓮華経を証得しており、大乗教の境涯に住していたとの意である。また仏とは人、大乗とは法で、人法一箇を意味している。
 釈尊は、五十年間説法したが、そのうちの四十余年間、華厳経、阿含経、方等経、般若経を説き、最後の八年間で法華経を説いた。これは、法華経が高度なため、法華経を最初から民衆に悟らしめるのが困難と考えたからである。いわば、四十余年間というものは衆生を調機調養するために費やされたものといえる。したがって、仏自身は、説法をはじめた時はすでに妙法蓮華経を悟って、大乗教の境涯に住していたのである。
 転じて「仏自住大乗」とは、仏界は凡夫のこの現身に、すでに厳然と備わっているということを説いているのである。このことについては、日女御前御返事に「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244-06)とあり、また、阿仏房に与えられたお手紙の中にも「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」(1304-06)とある。法華経を持つとは、御本尊を信ずることである。御本尊を信ずることにより、われわれ凡夫の身にも本来内在している仏界が湧現し、現実の生活のうえに、その実証をみることができるのである。仏が大乗に住するならば、大乗を持つ人の肉団の胸中に仏が住することも明らかであろう。
 また、法華文句巻第五下に「一切衆生等しく仏性有りと言えり、仏性同じきが故に等しく是れ子なり」とあるように本然的には、誰人にも仏性が具わっているのであるが、御本尊を信じ、信行学の修行の実践を貫いていくことによってはじめて、その仏性を顕わしていくことができるのである。したがって、法華経を信じない人は、仏界が九界に覆われた状態で迷いのなかにいるといえる。われわれが折伏するのも、実にこの九界の迷いを打ち破り、一切衆生が兼ね備えている仏界を顕現させていくことにほかならない。いまだ御本尊を信じない者に対しては、すでに御本尊を受持した者が積極的に御本尊の話をし縁にふれさせ、信じさせていく以外にない。この使命を自覚し、そこに目的を定めることがまた「大乗に住する」ことにもなる。大乗に住する人が仏なのであって、それが末法の悟りである。
 人それぞれ何らかの目的をもって生きているし、生きようとしている。この目的をどこにおくか、また、その目的に向かって達成のためにどれだけ実践するかで、その人の一生の価値が決まる。一時的な享楽を求めるか、利己的に生きるか、社会のためになんらかの形で自己の力を還元させたいと願って生きるのか。目的観、価値観によって人生観が決定するのである。
 所詮、仏の真の大乗仏法に住する人生こそ価値ある黄金の人生であることを知らねばならない。
今此三界等と云云
 法華経譬喩品第三の文で「今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」とある。「今此三界」とは、我々の住する世界であり、大宇宙である。
 仏法は、この大宇宙を欲界、色界、無色界の三つの角度から完璧に説かれたものである。凡夫は、この三界のうちの一界のそのまたわずかな部分をのぞいているにすぎない。故に、この大宇宙の実相を確実に見ることができずに、迷い、苦しみ、悩みの世界を転々としている。このような迷いのなかにいるわれわれ凡夫が、三界の相を如実に知見し、幸福境涯を得るためには、今此三界を領し、一切を達観した仏の智慧と慈悲による以外ない。
 では三界の主とは誰を指すのか、法華経譬喩品第三の中においては、釈尊は娑婆世界の一切衆生の主であり、師であり、親であることを明かしている。すなわち在世における三界の主は釈尊であった。
 末法の三界の主については、産湯相承事に「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり(中略)三世常恒(じょうごう)に日蓮は今此三界の主なり」(0879-18)、また百六箇抄には「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生(りしょう)なり」(0863-下種の今此三界の主の本迹)と述べられているとおり(※追記参照)、末法の三界の主とは、この宇宙の森羅万象悉く、南無妙法蓮華経と覚知なされた久遠元初の自受用報身如来、すなわち、日蓮大聖人のことである。
 以上のことから、末法に生まれた我々は阿弥陀の子ではないことは明瞭である。しかるに、いまだに阿弥陀に執着し、成仏を願うことなど、まことに愚かといわざるをえない。
 さらに一歩進めて論ずれば、この地球上に住む、あらゆる民族、種族、アメリカ人もロシア人もヨーロッパ人も東洋人も、黒人も白人も、あらゆる人々は皆等しく御本仏・日蓮大聖人の子であるといえよう。
 この宇宙全体が一つの生命体であり、運命共同体なのである。それを具現する根本の要こそ、全人類ひとしく仰ぐべき、主師親三徳具備の御本仏に目を開くことである。ここに平等大慧である日蓮大聖人の仏法によって、世界平和の実現をめざすものの使命があるのである。

1369~1373    波木井三郎殿御返事top
1369:01~1370:13 第一章 法華経の行者留難の文証を挙げるtop
波木井三郎殿御返事    文永十年八月    五十二歳御作   与南部六郎三郎
01   鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・ 大進阿闍梨と申す小僧等之有り之を召して御尊び有る可し御談義有る可し大事の法
02 門等粗ぼ申す、彼等は日本に未だ流布せざる大法少少之を有す随つて御学問注るし申す可きなり。
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 鎌倉に筑後房日朗・弁阿闍梨日昭・大進阿闍梨という弟子達がいる。この者達を召して、尊び、いろいろと話し合いなさい。お尋ねの大事な法門のことについてはあらあらここに申しておきます。彼等は日本にまだ流布されていない法華経本門の大法について、少々知っているから、彼等について学んでいきなさい。
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03   鳥跡飛び来れり不審の晴ること疾風の重雲を巻いて明月に向うが如し、 但し此の法門当世の人上下を論ぜず信
1370
01 心を取り難し其の故は仏法を修行するは現世安穏・ 後生善処等と云云、 而るに日蓮法師法華経の行者と称すと雖
02 も留難多し当に知るべし仏意に叶わざるか等云云、 但し此の邪難先業の由・ 御勘気を蒙るの後始めて驚く可きに
03 非ず、 其の故は法華経の文を見聞するに末法に入つて教の如く法華経を修行する者は留難多かる可きの由・ 経文
04 赫赫たり眼有らん者は之を見るか、 所謂法華経の第四に云く 「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」
05 又五の巻に云く 「一切世間怨多くして信じ難し」 等云云又云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し刀杖瓦礫を加うる
06 有らん」等云云、 又云く「悪世の中の比丘」等云云、 又云く「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在る有らん乃至白
07 衣の与に法を説いて 世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん」等云云、 又云く「常に大衆の中に在つて我
08 等を毀らんと欲する故に国王・大臣・波羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説かん」等云云、 又
09 云く「悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」等云云、 又云く「数数擯出せらる」等云云、大涅槃経に云く「一闡
10 提・ 羅漢の像を作し空閑の処に住し 方等大乗経典を誹謗すること有るを 諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢なり
11 是れ大菩薩なりと謂わん」等云云、 又云く「正法滅して後・ 像法の中に於て当に比丘有るべし持律に似像して少
12 しく経を読誦し 飲食を貪嗜し其の身を長養し乃至袈裟を服すと雖も 猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を
13 伺ふが如し」等云云、 又般泥オン経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有り、乃至」等云云、
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 御手紙の趣は「便りが来て、疑問に思っていたことが晴れたことは、ちょうど疾風が幾重にも重なった雲をはらって明月を仰いだようなものであった。ただし、この法門は、当世の人には、上下を問わず信ずることがむずかしい。そのわけは、仏法を修行する者の功徳は法華経に『現世安穏・後生善処』等と説かれている。ところが、日蓮法師は法華経の行者と自ら称しているけれども、難に遇うことがおびただしい。これは日蓮の教えが、仏の意に叶わないためなのではないかなどと人々は、取り沙汰しているからである」とのことである。但し、こういった邪な非難については、難を受けるのは先業の故であると。もともとそのわけは明白である。幕府の御勘気をうけたとて、今さらあわて驚くべきことではない。
 さらにその理由については、法華経の経文を見ると、末法に入って、仏の教えどおりに法華経を修行する者は数々の難に値うということが、実に明瞭である。眼有るものは、これをよく見るべきである。
 すなわち法華経の第四の巻・法師品第十には「仏の在世すら、なお怨みや嫉みが多い。まして仏の滅後、末法において法華経を弘通する者には、なおさらのことである」と。また、第五の巻の安楽行品第十四には「一切の世間の人々は、怨が多くて、正法を信ずることが難しい」等とある。あるいは勧持品第十三には「末法には多くの、仏法に無智の人があって、法華経の行者に対して、悪口したり、罵ったり、刀や杖で迫害したり、瓦礫を加えたりするであろう」とある。また同品には「末法悪世の中の僧侶は心がひねくれていて、仏法に不正直であり……」とあり、また「別の悪僧達は人里離れた静かな山寺などに袈裟・衣をつけて閑静な座におり、自ら仏法の真の道を行じていると思い込んで、人間を軽んじたり賤しむであろう。金品をむさぼるが故に、在家の人たちのために説法して、世の人たちからは、あたかも六神通を得た羅漢のように恭敬、尊敬されるであろう」とある。また同品のつづきに「その僧達は常に大衆の中にあって、正法を持つ者をそしろうとして、国王や大臣・波羅門・居士および諸の僧侶にむかって、その悪い点をつくりあげて、正法の行者を誹謗するであろう」とある。またその次に「悪鬼がこれらの国王・大臣の身に入って、正法の行者をののしり、そしり、はずかしめるであろう」と。さらに「正法の行者はしばしば所を追われる」等と説かれている。
 大涅槃経には「末法には一闡提の人が悟りを開いた者のような姿をして、閑静な寺に住して、方広平等の大乗経典、すなわち法華経を誹謗する。もろもろの凡夫は、それをみて、これこそ真実の悟りを開いた聖者であり、大菩薩であるとおもうであろう」と説かれている。また「正法時代がすぎおわり、像法時代に入ると、そのときの僧侶は、持律を持つような身なりをして、少しばかりの経を読み誦んじるが、飲食を貪り好み、その身を養うことばかり考える。また袈裟をつけているとはいえ、その心はちょうど猟師が獲物を見つけて目を細めて忍び足で歩くようなものであり、また猫が鼠をうかがっているようなものである」とも説かれている。また、般泥洹経には「いかにも悟りを開いた菩薩のような一闡提がいる」等ともいっている。

筑後房
 (1245~1320)。六老僧の一人。大国阿闍梨日朗の交名。下総国能手(千葉県海上郡能手)に生まれる。父は平賀二郎有国、母は印東祐昭の女といわれている。また弁阿闍梨日昭の甥にあたる。建長6年(1254)10歳の時に大聖人の弟子となる。文永8年(1271)、大聖人が竜口法難に遭われた後、鎌倉の土牢に入れられる。その後鎌倉、池上を中心に活動し、池上で没している。行年78歳。
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弁阿闍梨
 日昭のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子。六老僧の一人。大聖人滅後に、迫害を恐れて天台沙門と名乗り、大聖人と日興上人に違背した。
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大進阿闍梨
 大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。
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鳥跡
 鳥跡「ちょうせき」とも読む。中国の黄帝の時代に蒼頡が鳥の足跡を見て初めて文字をつくることを思いついたという伝説から、文字の意味に用いる。また筆跡のことをいい、転じて書状、手紙、消息のこと。
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現世安穏・後生善処
 法華経薬草喩品第5の文。「現世安隠にして、後に善処に生じ」(法華経244㌻)と読む。如来の説いた法の力を明かしたもので、法を信受する衆生は、現世では安穏なる境涯となり、後世には恵まれたところに生まれるということ。
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御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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悪口罵詈
 人を悪く言い、ののしること。法華経勧持品第13に説かれる、法華経の行者を俗衆増上慢が迫害する様相の一つ。「諸の無智の人の|悪口罵詈等し|及び刀杖を加うる者有らん」(法華経418㌻)と説かれている。
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六通の羅漢
 六神通を習得した阿羅漢のこと。六神通のうち、宿命通までの五通は外道の仙人でも成就できるが、第六通(漏尽通)は阿羅漢位でなければ成就できない。法華経勧持品第13の二十行の偈では、僭聖増上慢が世間から敬われるさまは六通の羅漢のようであると説かれている(法華経418㌻)。
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婆羅門
 インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
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居士
 ①家長のこと。原語であるサンスクリットのグリハパティは「家の主人」を意味する。②出家せず在家のまま仏道修行をする男性のこと。優婆塞(ウパーサカ)の訳語として用いられることがある。
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毀辱
 毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
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数数擯出せらる
 数数見擯出のこと。法華経勧持品第13に説かれる。釈尊滅後に法華経の行者を迫害する様相の一つ。度々、追放され流罪されること。「数数」とは、しばしばという意。同品には「濁世の悪比丘は|仏の方便|宜しきに随って説きたまう所の法を知らず|悪口して嚬蹙し|数数擯出せられ|塔寺を遠離せん」(法華経420㌻)とある。日蓮大聖人は、この経文通りに伊豆と佐渡へ流罪に遭われた。
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方等大乗経典
 方広平等な大乗経典。釈迦一代のもろもろの大乗経典。
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持律に似像して
 法華経勧持品第13の文。持律とは戒律をもとこと、似僧とは形を似せること。一見は聖僧に見えてもその本質は第六天の魔王であるとの意。
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飲食を貪嗜し
 法華経勧持品第13の文。飲食とはむさぼり好むこと、貪嗜とは飲食におぼれること。これらは聖僧にあらざる姿である。
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猶猟師の細めに視て
 法華経勧持品第13の文。猟師が獲物を見つけて、しのびよるさま。信徒を食い物にする僧侶をいう。
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般泥洹経
 大般泥洹経のこと。涅槃経の漢訳の一つ。4~5世紀にかけて中国・東晋で活躍した法顕の訳。6巻。般泥洹とは釈尊の入滅のことで、大般涅槃、涅槃ともいう。北本涅槃経40巻の前10巻の内容に相当する。
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 本抄は波木井六郎三郎(実長の子と思われる)から信心に関する質問の手紙があったのに対して、日蓮大聖人がその御返事として書かれたものである。文永10年(1273)8月3日、大聖人52歳の時、佐渡国一の谷において執筆された。
 ここでは、「法華経の行者の生活、境涯は現世安穏・後生善処等と経文に説かれているが、大聖人にはなぜ留難が度重なっているのか」との質問に対して、法華経・般泥洹経などの文をあげ、また過去の法華経の行者が難に遇った例を引かれている。そして、今こそ正法・像法時代に未だ弘まらなかった文底独一本門の南無妙法蓮華経が一閻浮提に流布する時であり、広宣流布は必定であることを強調されている。
 成仏については「末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ」(1373-06)と信の大事なことを述べられ、純真に仏道修行を励むよう、また不審の点は先輩によく質問するようにと認められ、指導されている。
鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り之を召して御尊び有る可し御談義有る可し大事の法門等粗申す、彼等は日本に未だ流布せざる大法少少之を有す随つて御学問注し申す可きなり
 まず、筑後房等三人の弟子を紹介し、波木井六郎三郎がこれらの僧を尊敬して、大事の法門を学ぶように勧められている。
 当時は、大聖人佐渡流罪中のこととて、門下の中には退転する者、動揺しがちな者が少なくなかった。また純粋に信ずる者も、大聖人の本懐とせられる大事の法門については、まだあまりよく知らない状態であった。この六郎三郎にしても、大聖人の流罪に対して、経文の現世安穏と反するではないかとの不審を抱いて、質問の手紙を出したのであった。そこで大聖人は、この返書を認められ、末法の法華経の行者に大難のある所以を説かれて、六郎三郎の疑念を晴らし、なお、前記の弟子たちを遣わして、指導の徹底をはかられたのである。
 波木井氏は、日興上人の折伏によって入信したのであるが、日興上人が大聖人に随って佐渡におられたので、大聖人は、留守を守る筑後房等を紹介されたのであろう。六郎三郎がこの御手紙のとおりに、これらの僧について、大事の法門を勉強したかどうかは明らかでない。ただ、この短い御文の中にも、仏法を学ぶ者の態度のいかにあるべきかが示されているので、それについて少しく触れよう。
 文に「小僧等之有り之を召して御尊び有る可し御談義有る可し」とあるが、これはいっさいの学問に志す者の大事な心構えでもあろう。ものを習う場合に、教える側が若輩であると、とかくこれを侮りがちであるが、そのような態度でいるかぎり、学問の大成は覚束(おぼつか)ない。仏法の会得においてはなおさらのことである。
 この波木井三郎殿御返事は、佐渡流罪中の述作であるところから、大聖人は特にこのような紹介をなされたものと思われるが、その他の門人に与えられた御書にも、その地に居住する弟子から法門を学ぶように勧められている。富木殿女房尼御前御書には「いよ房は学生になりて候ぞつねに法門きかせ給へ」(0990-01)とあり、また一谷入道御書には「此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給うべし」(1330-14)とある。
 常に向学の一念に燃えて、仏法の研さんに励むよう、日蓮大聖人がいたるところで述べられていることを、われわれは心肝に染めて、実践しなければならない。
 なお、この一節は、次の文とは独立しているので追伸として末尾に書かれるはずのものを、余白の不足のために「鳥跡飛び来れり……」の前に、書き足されたものかも知れない。御正筆が失われているために、断定はできないけれども、そうした考えのあることを付け加えておく。
鳥跡飛び来れり不審の晴ること疾風の重雲を巻いて明月に向うが如し
 日蓮大聖人の御返書には、その冒頭に、弟子檀那等のさしあげた手紙の内容が、簡潔に掲げられていることが多い。この文も、波木井三郎が、佐渡の大聖人からいただいた御手紙を拝読して、重ねて不審の点をおたずねしたときの文面であろう。「流罪の地佐渡からの御手紙がまいり、疑問の点が晴れました」という意味である。
 波木井六郎三郎がこのような表現を用いたのは、流罪の身である大聖人の御手紙ゆえに、かの匈奴(きょうど)に捕えられて異国で苦難の歳月を送った漢の武将蘇武が雁の足に手紙をつけて故郷へ音信を伝えた故事にちなんでのことではなかろうか。また、かねての疑問が晴れたことを、疾風が重雲を巻いて明月に向かうと表わしたところをみると、あるいは、このような漢詩があって、それを用いたとも考えられる。
 いずれにしても、大聖人の御手紙が疾風のような説得力をもって、質問者の疑問の雲を打ち払い、明日に向かうような瞭然たる納得をえせしめた様子が、この文には、如実にあらわれている。
末法に入つて教の如く法華経を修行する者は留難多かる可きの由・経文赫赫たり
 末法にあって、経文に一分もたがうことなく修行する者には、難が多いという文証は、各所に見いだせるのである。
 まず大聖人はこれらについて十一の経文を挙げられて示されている。
  ① 法華経法師品第十に「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と。
  ② 法華経安楽行品第十四に「一切世間に怨多くして信じ難く」と。
  ③ 法華経勧持品第十三に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」と。
  ④ 同品に「悪世の中の比丘は」と。
  ⑤ 同品に「或は阿蘭若に 納衣にして空閑に在って(中略)白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所となること 六通の羅漢の如くならん」と。
  ⑥ 同品に「常に大衆の中に在って 我れ等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 波羅門居士 及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて」と。
  ⑦ 同品に「悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱せん」と。
  ⑧ 同品に「数数擯出せられ」と。
  ⑨ 大般涅槃経巻第九如来性品第四に「一闡提・羅漢の像を作し、空閑の処に住し方等大乗経典を誹謗すること有るを諸の凡夫人、見已つて皆真の阿羅漢なり、是れ大菩薩なりと謂わん」と。
  ⑩ 同じく巻第四如来性品第四に「正法滅して後・像法の中に於て、当に比丘有るべし、持律に似像して、少しく経を読誦し飲食を貪嗜し其の身を長養し乃至袈裟を服すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺ふが如し」と。
  ⑪ 般泥洹経巻第六問菩薩品に「阿羅漢に似たる一闡提有り」と。
 以上のとおり、末法における仏道修行が、いかに障魔と迫害の強いなかで行なわれるかを経証の上から述べられている。
 末法の御本仏である日蓮大聖人がなぜ襲撃にあい、身に傷を受け、流罪され、命にも及ぶ大難を受けられたのか、それはひとえに法華経の行者として法華経の文を身に実践し、折伏行を遂行されたからであった。
 それによって、門下に対しても、留難なくして成仏することはおぼつかなく、人間革命も、宿命打開もありえないことを示されたのであった。
 故に大聖人は流罪という最悪の状況にあっても飢餓や酷寒と闘いながら、御自身の法門の、真実で誤りのないことを大確信をもって指導されたのである。
悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん
 法華経勧持品第十三の文で、末世濁悪の世に法華経を教えのとおりに行ずる者を、いっさいの衆生が、これを怨んで、罵詈し、毀り辱かしめるという意味である。悪鬼とは、われわれの思考・判断を誤らせ、行動の正常を乱し、ひいては不幸のどん底に突き落す本源的なもの、すなわち、生命の本質をゆがめて捉えた、誤れる思想をいう。また、そうした誤れる思想を唱える指導者をさすこともある。御義口伝に、この悪鬼入其身を釈して「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王・大臣・万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」(0749-第十二悪鬼入其身の事)とある。また兄弟抄には、法華経を信ずる者を堕落させる諸宗の開祖・高僧等の名を挙げたのち、「此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1082-04)とある。
 以上は勧持品の文に即した解釈であるが、さらにこれを生命論の上からみれば、悪鬼入其身といっても、別に悪鬼が体内に侵入することではなくて、もともと生命自体に内在する鬼の働きが、悪縁にあって生命本来のリズムを乱し、ついに生命を破滅に追いやることをいうのである。また善縁に触れれば、鬼は生命を守り伸長させる働きとなって顕われるのである。このことを、日女御前御返事には「鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」(1246-12)と説かれている。
 さらにまた日女御前御返事には、三大秘法の本尊の相貌が明示され、十界互具・一念三千の当体には、十界の一界も欠けず網羅され、餓鬼に住する悪鬼も、当然この中に収まり「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」(1243-14)ことが述べられている。
阿羅漢に似たる一闡提有り
 外面は立派な僧侶の姿をしながら、かえって仏法を破壊する一闡提になっている者があるということである。いまこの文の前後が開目抄に引用されているのでそれを記してみよう。「般泥洹経に云く『阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず、一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん羅漢に似たる一闡提有りとは是の諸の衆生方等を誹謗するなり、一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰し広く方等を説くなり衆生に語つて言く我れ汝等と倶に是れ菩薩なり所以は何ん一切皆如来の性有る故に然も彼の衆生一闡提なりと謂わん』等云云」(0224-18)とある。
 仏の予言である三類の強敵の姿を経文に照らしてみるならばこの般泥洹経に明らかである。すなわち外面は賢人、聖人のように装って、そのくせ正法を信ぜず誹謗する者なのである。
 ところで仏と魔とはともにあるといわれる。ふりかえってみるのに、釈尊には提婆達多がいた。すなわち開目抄に「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし」(0230-05)とある。仏と大悪の提婆とは身と影のごとく生々世々に離れることがない。聖徳太子と敵対する守屋は、蓮華の花と菓が同時になるがごときであった。これと同じく、法華経の行者がいるならば、必ず三類の怨敵があるべきであると仰せである。いうまでもなく大聖人の時代、この般泥洹経の阿羅漢に似たる一闡提とは極楽寺良観をはじめとする僧たちである。思えば仏法を行ずるということは魔との戦いであり、広宣流布とは魔を降伏していくことである。
 しかも、この魔の存在は、われわれの生命の中にもある。治病大小権実違目には「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と。人間の心性には本来、善も悪も具わっていて、仏とても例外ではない。己心の魔に仏界が打ち勝ってこそ、悪の生命活動を善のそれへと変えることができるのであり、その人、個人の幸福境涯が開かれるのである。

1370:13~1371:07 第二章 末法の法華経の行者を明かすtop
13                                          予此の明鏡を捧げ持つて
14 日本国に引き向けて之を浮べたるに 一分も陰れ無し或有阿蘭若 ・納衣在空閑とは何人ぞや為世所恭敬如六通羅漢
15 とは又何人ぞや、 諸凡夫見已・皆謂真阿羅漢・是大菩薩とは此れ又誰ぞや、持律少読誦経とは又如何、 是の経文
16 の如く仏・ 仏眼を以て末法の始を照見したまい当世に当つて此等の人人無くんば世尊の謬乱なり、 此の本迹二門
17 と雙林の常住と誰人か之を信用せん 今日蓮仏語の真実を顕さんが為 日本に配当して此の経を読誦するに或有阿蘭
18 若住於空処等と云うは、建長寺、寿福寺.極楽寺・建仁寺、東福寺等の日本国の禅.律、念仏等の寺寺なり、是等の魔
1371
01 寺は比叡山等の法華・天台等の仏寺を破せん為に出来するなり、 納衣持律等とは当世の五・七・九の袈裟を着たる
02 持斎等なり、 為世所恭敬是大菩薩とは道隆・良観・聖一等なり、世と云うは当世の国主等なり、有諸無智人諸凡夫
03 人等とは日本国中の上下万人なり、 日蓮凡夫たる故に仏教を信ぜず 但し此の事に於ては水火の如く手に当てて之
04 を知れり、 但し法華経の行者有らば悪口・罵詈・刀杖・擯出等せらる可し云云、此の経文を以て世間に配当するに
05 一人も之れ無し 誰を以てか法華経の行者と為さん敵人は有りと雖も 法華経の持者は無し、譬えば東有つて西無く
06 天有つて地無きが如し仏語妄説と成るを如何、 予自讃に似たりと雖も 之を勘え出して仏語を扶持す所謂日蓮法師
07 是なり、
――――――
 日蓮が、この経文の明鏡をささげたもって、日本の国に向けて映して見てみると、一分の隠れもなく現われてくる。
 「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在る有らん」とは何人をさすのか。「世の恭敬する所と為ること六通の羅漢の如くならん」とはまた誰をさしているのか。また「諸の凡夫人、見已りて皆真の阿羅漢なり、是大菩薩なりと謂う」とはこれまた誰人のことか。「持律して少しく経を読誦す」とは、またどうか。
 これらの経文のように仏は仏眼をもって、末法の始めを照見されたのであるが、末法の当世となって、もしこれらの人々がいなかったならば、大覚世尊の誤謬迷乱となってしまう。もしそうなら、この法華経本迹二門の大法と、沙羅雙林の涅槃経において説かれた「仏性常住」を、誰人が信用するであろうか。 
 今、日蓮が、仏の言葉の真実を証明するために、日本の国にあてはめて、これらの経文を読誦してみると、「或は阿蘭若に有って、空処に住して」等というのは、鎌倉の建長寺・寿福寺・極楽寺、京都の建仁寺・東福寺などをはじめとする、日本の全ての禅宗、律宗、念仏宗などの寺々のことである。これらの魔の寺は、比叡山などの法華宗、天台宗などの仏寺を破るために出て来たのである。
 「納衣にして」とか「持律する」等とは、当世の、錦襴の五条・七条・九条の袈裟を着た持斎などのことである。
 「世に恭敬せらるることを為ること是れ大菩薩」とは現在の建長寺の道隆、極楽寺の良観、東福寺の聖一などのことをいうのである。「世」というのは、現在の国主、権力者のことをいうのである。「諸の無智の人有り」とか「諸の凡夫人」等とは、当世の日本の国の上下万人のことなのである。
 日蓮は凡夫であるから、仏の教えを信じることができない。但し、ここに述べたことについては、水や火を手にとって、その冷たさ、熱さがわかるように、はっきりと知ることができるのである。
 但し末法に法華経の行者があるならば、「悪口され、ののしられ、刀杖を加えられ、所を追い出されたり」するであろうと説かれている。この経文をもって、現在の日本国の世間に当てはめてみると、一人もこの文に当てはまる人はいない。いったい誰を法華経の行者としたらよいのか。法華経の行者の敵人は先にみたように、あるけれども、真実の法華経を持つ者はいない。
 これは、たとえば、東があって西がなく、天があって地のないようなものである。これでは仏の言葉は妄説となってしまうではないか。
 自讃に似ているけれども、私が、法華経の行者とは誰かを考え出して仏の言葉を扶け顕わそう。それはいわゆる日蓮法師その人が、法華経の行者なのである。 

或有阿蘭若・納衣在空閑
 法華経勧持品第十三の文。「或は阿練若に納衣にして空閑に在って」と読む。僭聖増上慢の者が、静かな山寺などにこもって、人々に邪法を説く姿をあらわしている。阿練若とは訳せば無事閑静処という意味である。納衣とは僧衣のこと。空閑とは人里離れたところ。
―――
為世所恭敬如六通羅漢
 法華経勧持品第十三の文。「世の恭敬する所と為ること六通の羅漢の如くならん」と読む。僭聖増上慢のものが、一般大衆から敬われることは、あたかも六神通をもった羅漢のようであるということ。六神通とは、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通をいう。羅漢とは阿羅漢のこと。小乗の果位で、声聞の四種の聖果の最高位。三界における見惑思惑を断じ尽くし、涅槃真空の理を実証する位とされる。
―――
諸凡夫見已・皆謂真阿羅漢・是大菩薩
 大般涅槃経如来性品第四の六に「諸の凡夫人、見已りて皆真の阿羅漢なり、是大菩薩なりと謂う」と読む。末法には極悪一闡提の人が、聖者のような姿をして大寺に住まい、しかも法華経の行者を謗っている。それを見た世間の人々は、この謗る者がかえって真の聖者であり、大菩薩であると思っているということ。
―――
持律少読誦経
 大般涅槃経如来性品第四の一に「持律に似像して、少しく経を読誦し」とある。外面だけは戒律を持つふりをして、少しばかり経を読むということ。僭聖増上慢の姿をいう。すなわち「正法の時代が過ぎ像法の時になると、僧侶は戒律を持つ装をして、少しばかり経を読むが、飲食に溺れて我が身のことばかり思っているから、尊い袈裟を身に着けていても、その心の醜いことは、猟師が獲物を見ると、目を細視にして忍び足で歩き、また猫が鼠を窺うようである」と。
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世尊の謬乱
 仏の誤謬。迷乱をいう。しかし、そのようなことはありえないということ。
―――
雙林の常住
 涅槃経に仏性常住が明かされていること。釈迦は沙羅双樹林において、涅槃に入る直前に、最後の経文である涅槃経を説いた。
―――
建長寺
 神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。臨済宗建長寺派の本山で、山号は巨福山。開山は宋僧・蘭渓道隆。建長元年(1249年)に北条時頼により建立が開始され、建長5年(1253年)に落成した。禅宗建築が初めて完備され、仏殿に丈六の地蔵尊を祭って将軍家の祈禱所と定められた。道隆の死後、宋僧・無学祖元もまた来朝してここに住み、禅風を高めた。
―――
寿福寺
 神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は亀谷山。北条政子により正治2年(1200年)に創建。開山は栄西。円爾(聖一)、蘭渓道隆などが入山し、初期の禅宗の発展に重要な地位を占めた。日蓮大聖人が発せられた十一通の御状の中に、当寺にあてられた書状がある(175㌻)。
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極楽寺
 神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺ともいう。1259年、北条重時により現在地に移築された。1267年(文永4年)、重時の子・長時が良観房忍性を招いて開山とし、西大寺律宗の東国における拠点となった。当初は七堂伽藍、49の支院をもち、病院なども擁する大規模な寺院であった。文永12年(1275年)3月23日に焼亡。この火災について「王舎城事」には「其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ」(1137㌻)と述べられている。弘安4年(1281年)、北条時宗によって再建され祈願寺とされ、元弘2年(1332年)には勅願寺になる。以後、地震や火災で損壊し、次第に衰退した。
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建仁寺
 京都市東山区小松町にある寺院。臨済宗建仁寺派の本山で、山号は東山。開山は栄西。建仁2年(1202年)に将軍・源頼家が寺地を寄進し、元久2年(1205年)に落成。起工の年号を寺名とした。寺内に真言・止観の二院を構え、禅・天台・真言の兼修の寺とした。文永2年(1265年)に宋僧・道隆が入ってから純粋な禅道場となった。
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東福寺
 京都五山のひとつ。洛東第一の禅寺。臨済宗東福寺派本山。京都市東山区にある。嘉禎2年(1236)関白九条道家が創建し、聖一国師を開山とした。
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比叡山
 滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳(848メートル)といい、そのやや西に四明岳(838メートル)がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。
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納衣持律
 僧衣を着て、外面だけは戒律を持っているように振る舞っている道門増上慢の法師。
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持斎
 斎戒を持つ者。
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為世所恭敬是大菩薩
 一般大衆から大菩薩のごとく敬われる姿をして正法・その行者を迫害する僭聖増上慢のこと。
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道隆
 1213年~1278年。鎌倉時代に南宋から渡来した臨済宗の禅僧。蘭渓ともいう。筑前(福岡県)、京都をへた後、鎌倉の北条時頼の帰依をうけ、建長5年(1253年)に建長寺の開山として迎え入れられた。時頼の出家の戒師も務めている。文永5年(1268年)、「立正安国論」に予言されたとおりに蒙古から国書が到来した際、日蓮大聖人は幕府の為政者や諸宗の僧を諌暁し、道隆に対しても書状(173㌻)を送り、公場対決を迫られた。しかし道隆はこれに応じず、真言律宗の極楽寺良観(忍性)らとともに幕府に働きかけ、同8年(1271年)の竜の口の法難が起こる契機をつくった。権勢を誇った道隆であるが、大聖人は「道隆の振る舞いは日本国の道俗は知ってはいるけれども、幕府を恐れているからこそ尊んでいるとはいえ、内心は皆疎んでいるだろう」と指摘されている。
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良観
 極楽寺良観のこと。1217年~1303年。鎌倉中期の真言律宗(西大寺流律宗)の僧・忍性のこと。良観房ともいう。奈良の西大寺の叡尊に師事した後、戒律を広めるため関東に赴く。文永4年(1267年)、鎌倉の極楽寺に入ったので、極楽寺良観と呼ばれる。幕府権力に取り入って非人組織を掌握し、その労働力を使って公共事業を推進するなど、種々の利権を手にした。一方で祈禱僧としても活動し、幕府の要請を受けて祈雨や蒙古調伏の祈禱を行った。文永8年(1271年)の夏、日蓮大聖人は良観に祈雨の勝負を挑み、打ち破ったが、良観はそれを恨んで一層大聖人に敵対し、幕府要人に大聖人への迫害を働きかけた。それが大聖人に竜の口の法難・佐渡流罪をもたらす大きな要因となった。
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聖一
 円爾弁円のこと。1202年~1280年。鎌倉時代の臨済宗の禅僧。円爾も弁円も法名。宋に渡り、無準師範のもとで修行し、印可を得て帰国。博多の承天寺で活動した後、摂政・九条道家の発願により京都に建立された東福寺の開山として迎え入れられた。教学面では禅宗と密教の兼修を特徴とする。北条時頼に授戒するなど、国政の要人に影響力を持ち、没後、国師号を得て聖一国師と呼ばれた。「開目抄」(228㌻)では、極楽寺良観(忍性)とともに僭聖増上慢の一人として挙げられている。
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有諸無智人諸凡夫人
 もろもろの無智の人。諸々の凡夫・人。俗衆増上慢の姿。
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配当する
 わりあて、わりつけること。
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仏語妄説と成る
 釈尊がよげんしたように、末法に法華経の行者が顕われなければ、経文はすべて偽りとなるということ。
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自讃
 自分で自分をほめること。
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扶持
 たすけささえること。
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 前章では、法華経の行者が難に値うことを11にもおよぶ経文を挙げて論証なされたが、本章ではこれを受け、経文を具体的に講じられ、諸宗の誤りを正し、日蓮大聖人こそ法華経の行者であることを明らかにされたところである。
末法における三類の強敵と法華経の行者の出現について
 法華経の勧持品第十三、ならびに涅槃経を開いて見るならば、そこには法華経の行者を怨む三類の強敵の姿が次のように記されている。
 法華経勧持品第13にいわく「唯だ願わくは慮いを為したまわざれ 仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於いて 我れ等は当に広く説くべし 諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし 悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂いて得たりと為し 我慢の心は充満せん 或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賤する者有らん 利養に貪著するが故に 白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所と為ること 六通の羅漢の如くならん 是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮って 好んで我れ等が過を出さん 而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貪らんが為めの故に 外道の論議を説く 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求めんが為めの故に 分別して是の経を説くと 常に大衆の中に在って 我れ等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん 我れ等は仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れの軽んじて 汝等は皆な是れ仏なりと言う所と為らん 此の如き軽慢の言を 皆な当に忍んで之れを受くべし 濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱せん 我れ等は仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん 我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ 我れ等は来世に於いて 仏の嘱する所を護持せん 世尊は自ら当に知しめすべし 濁世の悪比丘は 仏の方便 宣しきに随って説きたまう所の法を知らず 悪口して嚬蹙し 数数擯出せられ 塔寺を遠離せん」と。
 妙楽大師はこの勧持品の文を記の八の四に「文に三。初の一行は通じて邪人を明かす即ち俗衆なり、次の一行は道門増上慢を明かす。三に七行は僭聖増上慢を明かす。故に此の三の中に初は忍ぶ可し。次は前に過ぎたり、第三最も甚だし。後後の者は転識り難きを以っての故に」と釈している。すなわち三類の強敵のうち第一俗衆増上慢とは「唯だ願わくは慮いを為したまわざれ 仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於いて 我れ等は当に広く説くべし 諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし」に当たるのであり、第二道門増上慢とは「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂いて得たりと為し 我慢の心は充満せん」に当たる。そして第三僭聖増上慢とは「或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて(中略)数数擯出せられ 塔寺を遠離せん」を指すのである。
 またこの三類の強敵の姿について、涅槃経には次のように明かされている。
 すなわち僭聖増上慢については、大般涅槃経如来性品第四の一に「正法滅して後、像法の中に於いて、当に比丘有るべし、持律似像にして、少しく経を読誦し乃至袈裟を服すと雖も猶猟師の如く、細視徐行すること、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱う、我羅漢を得と。諸の病苦多くして、糞穢に眠臥す。外には賢善を現じ、内には貪嫉を懐く。瘂法を受くる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして、沙門の像を現ずるのみ。邪見熾盛にして、正法を誹謗す」と。文中の意は、悪僧が外面はあたかも戒律を守る、りっぱな僧侶と装っているが、その実内面は貪りと嫉妬を強く懐いており、偉そうな顔ばかりしていても説法もできなければ、また法門のことを質問されても答えられない様子は、ちょうどインドの婆羅門の修行で、瘂法を受けて、黙り込んでしまった者のようである。僧侶といっても、ただ僧侶の姿、形を整えているだけであると。
 同じく如来性品第四の六に「善男子、一闡提有りて、羅漢の像を作り、空処に住して、方等大乗経典を誹謗す。諸の凡夫人、見已りて皆真の阿羅漢なり、是大菩薩摩訶薩なりと謂う」と。すなわち、外面は僧侶を装って、閑静な所に身を置いて大乗経典を誹謗している。そしてわずかな通力を得て、世の人をまどわしていると。
 次に道門増上慢については大般涅槃経如来性品第四の六に「是の時に諸の悪比丘有るべし。是の経を抄略し、分って多分を作し、能く正法の色香美味を滅せん。是の諸の悪人、復是の如き経典を読誦すと雖も、如来の深密要義を滅除して、世間の荘厳文飾無義の語を安置す。前を抄して後に著け、後を抄して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著く。当に知るべし、是の如きの諸の悪比丘は、是魔の伴侶なり」と。悪世にはもろもろの悪比丘があって仏教典を勝手に都合のよいように作りかえてしまう、仏教典を少しばかり読誦するとはいえ、かえって如来の深密の要義を滅除してしまうであろうと。
 そして俗衆増上慢については、大般涅槃経如来性品第四の六に「諸の凡夫人、見已りて皆真の阿羅漢なり、是れ大菩薩摩訶薩なりと謂う」とある。末法には極悪一闡提の人が、聖者のような姿をして大寺に住しながら、しかも法華経の行者を謗っている。それを見た世間の人は、この謗る者がかえって聖者であり、大菩薩であると思っていると。
 以上のように仏語には明らかに三類の強敵があると説かれている。ところでこれに当てはまる三類の強敵は実際どこにあるのか。もしあるとすれば誰なのか。
 経文に照らして日蓮大聖人は三類の強敵を本抄で次のように指摘された。「或有阿蘭若住於空処等と云うは、建長寺・寿福寺・極楽寺・建仁寺・東福寺等の日本国の禅・律・念仏等の寺寺なり、是等の魔寺は比叡山等の法華・天台等の仏寺を破せん為に出来するなり、納衣持律等とは当世の五・七・九の袈裟を着たる持斎等なり、為世所恭敬是大菩薩とは道隆・良観・聖一等なり、世と云うは当世の国主等なり、有諸無智人諸凡夫人等とは日本国中の上下万人なり」と。
 釈尊には九横(くおう)の大難があり、提婆達多がいた。いま大聖人は、幕府の厚い庇護のもとにある道隆・良観をはじめ、日本国中の人々から怨まれているのである。三類の強敵があるなら、その三類の強敵による難を受ける仏が必ずいるはずである。それは一体誰なのであろうか。
 開目抄に「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず、聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」(0230-05)とあることからも、末法の仏は出現しているはずである。
 だが開目抄に「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし」(0230-01)とあるように、法華経の行者は、まだないという。しかし法華経勧持品の予言どおりに、三類の強敵が日本国に充満している時、法華経の行者がないわけは絶対にありえない。事実、日蓮大聖人をおいてほかに誰が、予言どおりに悪口罵詈されたのか。刀杖を加えられたのか。官権に訴えられて流罪されたのか。「日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし」(0230-03)のご断定になんの異議があろう。「法華経の行者なし」とは、末法の御本仏としての宣言とよむべきである。
 仏法は三世常住である。時来って化儀の広宣流布の時代を迎えた現在、この勧持品の経文に述べられた三類の強敵が競っていることを銘記しなければならない。

1371:07~1371:17 第三章 過去の法華経の行者の留難の例を示すtop
07      其の上仏・不軽品に自身の過去の現証を引いて云く 爾の時に一りの菩薩有り常不軽と名く等云云、又云
08 く悪口罵詈等せらる、 又云く或は杖木瓦石を以て之を打擲す等云云、 釈尊我が因位の所行を引き載せて末法の始
09 を勧励したもう 不軽菩薩既に法華経の為に杖木を蒙りて忽に妙覚の極位に登らせたまいぬ、 日蓮此の経の故に現
10 身に刀杖を被むり 二度遠流に当る当来の妙果之を疑う可しや、 如来の滅後に四依の大士正像に出世して此の経を
11 弘通したもうの時にすら猶留難多し、 所謂付法蔵第二十の提婆菩薩第二十五の師子尊者等或は命を断たれ 頚を刎
12 らる、 第八の仏駄密多・第十三の竜樹菩薩等は赤き旛を捧げ持ちて七年十二年王の門前に立てり、 竺の道生は蘇
13 山に流され 法祖は害を加えられ法道三蔵は面に火印を捺され、 慧遠法師は呵責せられ天台大師は南北の十師に対
14 当し、 伝教大師は六宗の邪見を破す、 此等は皆王の賢愚に当るに依つて用取有るのみ敢て仏意に叶わざるに非ず
15 正像猶以て 是くの如し何に況や末法に及ぶにおいてをや、 既に法華経の為に御勘気を蒙れば幸の中の幸なり瓦礫
16 を以て金銀に易ゆるとは是なり、
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 その上、仏は法華経の不軽品第二十に、自身の過去の現証を引いて「昔、威音王仏の像法の末の時に、一人の菩薩があって、常不軽といった。全ての人ことごとくに礼拝讃歎して、法を弘めたが、人々は悪口したり、罵ったり、あるいは杖木や瓦石をもって、不軽菩薩を打擲した」等と説かれている。
 これは、釈尊が自身の過去世の因位の修行を引いて、末法の始めの法華経の行者を、すすめ励まされたのである。
 彼の不軽菩薩はすでに法華経のために、杖木などの難をうけて、忽に妙覚の極位に登られたのである。日蓮は今日この法華経のゆえに、現身に刀杖の難をうけ、二度までも遠くへ流罪となった。したがって、未来の成仏は、疑いがないのである。
 仏の滅後において、四依の大士が、正法一千年間、像法一千年間に出現して、この法華経を弘通された時でさえ、なお難が多かったのである。
 いわゆる付法蔵の第二十人目の提婆菩薩、第二十五人目の師子尊者等は外道に殺され、悪王のために頸を刎ねられた。また第八人目の仏駄密多、第十三人目の竜樹菩薩等は、法を弘めるため、赤い旛をささげて、あるいは七年、あるいは十二年の間、王城の門前に立った。また中国の道生は蘇山に流され、法祖は殺され、法道三蔵は徽宗皇帝によって面に火印を捺され、唐代の慧遠法師は武帝に叱責され、天台大師は南三北七の十師と対決し、わが国の伝教大師は南都六宗の邪見を打ち破った。
 これらは、皆その人々の巡り会った国王が賢かったか愚かであったかによって、用いるか否かが決められただけであって、あえてその弘通が、仏意にかなわなかったのではない。
 衆生の機根のよい正法・像法時代においてすら、このような難を受けたのであるから、末法悪世の時代に及んでは難が多いのはいうまでもない。
 すでに法華経のために、御勘気をこうむったことは、それこそ幸いの中の幸いである。瓦礫(がりゃく)をもって金銀にかえるというのは、このことである。

不軽品
 法華経常不軽菩薩品第20のこと。法華経の流通分に区分され、常不軽菩薩の菩薩行を通して、滅後の弘経の方軌(方法)と逆縁の功徳が説かれている。過去世の威音王仏の滅後、像法に常不軽菩薩が経典の読誦に専念せず、増上慢の四衆から迫害を受けながらも彼らに対して「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻、二十四文字の法華経という)と唱えて礼拝した。その功徳によって不軽菩薩は六根清浄を得て成仏した。また不軽を迫害した四衆も一度は地獄に堕ちたが、再び不軽の教化を受けることができた(逆縁の功徳という)。さらに不軽は釈尊の過去世の姿であり、不軽を迫害した増上慢の比丘らは、今法華経の会座の大衆の中にいると明かされている。「我深敬汝等」の二十四字について世親(ヴァスバンドゥ)は『法華論』巻下に「『我は汝を軽んぜず。汝等は皆当に作仏することを得べし』とは、衆生に皆仏性有ることを示現するが故なり」と述べ、一切衆生のすべてに仏性のあることを示したものとしている。
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打擲
 うちたたくこと。
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因位の所行
 成仏を目指しての菩薩の最高の修行。
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勧励
 勧め、はげますこと。激励すること。
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妙覚の極位
 ①仏の覚りの位。大乗の菩薩の五十二位の最高位。円教の修行の六即位では究竟即にあたる。
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二度流罪
 日蓮大聖人は①弘長元年(1261)5月11日~弘長3年(1263)2月22日までの1年10ヵ月間の伊豆の伊東(静岡県伊豆市伊東)への流罪=伊豆流罪②文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月13日までの2年5ヵ月間の佐渡(新潟県佐渡市)への流罪=佐渡流罪。に遭われている。
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妙果
 妙因によって得た成仏の境涯。
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四依の大士
 仏滅後正法時代に正法を護持し弘通した人々のよりどころとなる四種の人格のこと。人の四依・四依の賢聖・四依の聖人・四依の菩薩・四依の論師ともいう。
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付法蔵
 釈尊から付嘱された教え(法蔵)を次々に付嘱し、布教していった正法時代の正統な継承者とされる人たち。『付法蔵因縁伝』では23人とするが、『摩訶止観』では阿難から傍出した末田地を加えて24人ともする。
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提婆菩薩
 付法蔵の第十四(波木井三郎殿ご返事には第二十となっているが、この説処は不明)。仏滅後750年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
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師子尊者
 アーリヤシンハのこと。付法蔵の最後の人(第23)(大聖人は第25としている)。6世紀ごろの中インドの人。罽賓国(カシュミール)で仏法を流布していた時、国王・檀弥羅の仏教弾圧により首を斬られたが、師子尊者の首からは一滴の血も流れず、ただ白い乳のみが流れ出たという。
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仏駄密多
 付法蔵の第八。仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は、大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその非を糺そうとして赤幡をかかげて王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者居士と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。
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竜樹菩薩
 150年~250年ごろ。サンスクリットのナーガールジュナの訳。インドの仏教思想家。新訳経典では竜猛と訳される。『中論』などで大乗仏教の「空」の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。付法蔵の第13とされる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。
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竺の道生
?~434年。中国の東晋・南北朝時代の僧。鳩摩羅什の門下。涅槃経の異訳である般泥洹経6巻を研究し、成仏できないとされていた一闡提の成仏や頓悟を主張したが、保守的な僧侶によって宋の都の建康(南京)から追放され、蘇州の虎丘山に逃れた。日蓮大聖人は仏法を広めて大難を受けた一人として挙げられている。
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法祖
 帛遠のこと。中国西晋時代の河南省の人。幼少の時より儒教に精通していた父について学び、後に大乗を学び長安に精舎を建立し、1000人といわれる弟子に講習した。その後、戦乱に巻き込まれ殺されている。
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法道三蔵
 1086年~1147年。中国・北宋の僧。永道のこと。1119年、徽宗皇帝が仏教を弾圧した際、上書してこれを諫めたが、かえって帝の怒りを買い、顔に焼き印を押され、道州(湖南省)に流されたという(なお、徽宗の仏教弾圧は翌年撤回された)。その後、赦免され、護法の功績により「法道」の名を与えられた。また、「法道三蔵」とも呼ばれる。「三蔵」は三蔵法師の略で、一般には三蔵(経・律・論)に通じた僧侶のことで、訳経僧の称号であるが、宋代では元豊3年(1080年)に試鴻臚卿少卿を「三蔵法師」と改称しており(『釈氏稽古略』巻4)、ここでは後者の意。法道(永道)は、「宝覚大師」という大師号を与えられており、これが試鴻臚卿に対応する(『雲臥紀譚』巻2)ので、「三蔵」と称されたらしい。法道が「火印」(230,357㌻など)を押された話は、仏法を広めて迫害を受けた例として諸御抄で紹介されている。「火印」は、刑罰として顔などに焼き印を押し、罪人であることを知らしめること。ただし、『仏祖統紀』(1269年成立)巻47によると、法道は「黥涅(入れ墨)」を入れられたことになっており、焼き印ではない。
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慧遠法師
 浄影寺の慧遠。523年~592年。中国・南北朝時代から隋の地論宗南道派の僧。法上に地論宗の教学を学び、南道派の教学を大成した。56歳の時、北周の武帝が南朝の斉を破り、廃仏の政策を採った時、慧遠一人が帝の横暴に反論した。晩年は、隋の文帝の庇護のもと浄影寺に住み、経典の注釈に力を注いだ。著書に『十地経論義記』7巻(4巻現存)、『大般涅槃経義記』10巻、『大乗義章』20巻などがある。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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南北の十師
 中国・南北朝時代(440年~589年)にあった仏教における10の学派のことで、長江(揚子江)流域の南地の3師と黄河流域の北地の7師。天台大師智顗が『法華玄義』巻10上で分類した。10師はそれぞれ依って立つ経論を掲げ、それを宣揚する教判を立て、優劣を競っていた。その全体的な傾向を、日蓮大聖人は「撰時抄」で「しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」(261㌻)とされている。天台大師はこれら南三北七の主張を批判し、五時の教判を立て、釈尊一代の教えについて法華経第1、涅槃経第2、華厳経第3であるとし、法華経の正義を宣揚した。南北の諸学派は、釈尊一代の教えを、その説き方によって①頓教(真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)③不定教(漸教・頓教に当てはまらず、しかも仏性・常住を明かす)の三つに分類した。頓教は華厳経、漸教は三蔵教(小乗)の有相教とその後に説かれた大乗の無相教、不定教は勝鬘経・金光明経とされた。南三とは、漸教のうち南地における三つの異なった見解のことで、①虎丘山の笈師の三時教②宗愛(白馬寺曇愛と大昌寺僧宗の二人とする説もある)の四時教③定林寺の僧柔・慧次と道場寺の慧観の五時教。北七とは、①五時教②菩提流支の半満二教③光統(慧光)の四宗(教)④五宗(教)⑤六宗(教)⑥北地の禅師の(有相・無相の)二種大乗(二宗の大乗)⑦北地の禅師の一音教。①および④~⑦は個人名が明かされていない。
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伝教大師
 767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
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六宗
 奈良時代までに日本に伝わった仏教の六つの学派。三論・成実・法相・俱舎・華厳・律の六宗。
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仏意
 仏の心・本意のこと。
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 本章では、まず不軽菩薩が杖木瓦石の難に値うことによって妙覚の極意に達した例を挙げて、それより更に大きい難にあっている大聖人の妙果もまた疑いないことを述べられている。次に、仏滅後、正法を弘めた付法蔵の人々が難にあった例を示し、釈迦仏法に力のあった正法、像法時代でさえも多くの難があったのであるから、釈迦仏法に力の無い今日ではさらに難に値うことは当然である、したがって、これがために法華経の行者が難に値うことは、瓦礫を金銀にかえることであると、難に値うことの意義を明示されている。
不軽菩薩既に法華経の為に杖木を蒙りて忽に妙覚の極位に登らせたまいぬ、日蓮此の経の故に現身に刀杖を被むり二度遠流に当る当来の妙果之を疑う可しや
 ここは威音王仏の像法において、二十四文字の法華経を弘めた不軽菩薩が、増上慢の四衆に杖木等の迫害を受けたことと、日蓮大聖人が末法において南無妙法蓮華経を弘めるために、刀杖の難を受けてきたことを対比し、法華経の行者は三類の強敵に値おうとも、未来は必ず妙法の功徳として、成仏得道できることを述べられているところである。
 さて、御文の「不軽菩薩」とは、法華経常不軽品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。「法華経」とは、この場合「我深敬汝等」の二十四文字の法華経のこと。「妙覚の極位」とは、菩薩が修行する五十二位の最高の位をいう。「日蓮此の経の故に」とは、大聖人が文底深秘の南無妙法蓮華経を流布する故にの意。「現身に刀杖を被むり」とは、大聖人ご自身が受けられた小松原の法難、竜の口の法難等。「二度遠流」とは、弘安元年(1278)弘長元年5月12日の伊豆の配流と、文永8年(1271)10月佐渡の流罪にあわれたこと。「当来の妙果」の当来とは未来、妙果とは仏果のことをさす。ここでは正法を修行することによって未来に成仏することをいわれている。
 今、不軽菩薩と日蓮大聖人の姿を比較してみるならば、不軽菩薩は初随喜の人であった。日蓮大聖人もまた、名字即に位する凡夫僧である。不軽菩薩は二十四文字の法華経を、日蓮大聖人は法華経の肝心・寿量文底の南無妙法蓮華経を、幾多の難を受けながら弘めたのである。すなわち顕仏未来記に「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507-08)と。また聖人知三世事(九七四㌻)に「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974-09)また唱法華題目抄に「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之を強毒す」(0014-09)等と。
 時は異なるが、弘教の方軌は同じである。同じ原理で行動をするゆえ、結果もまた同じといえよう。種々の難にあいながらこの妙法をひろめる人が、現在、未来にわたって最高の幸福境涯を得ることは火を見るよりも明らかである。有形無形の迫害、中傷にあうであろうが、御文の通りの歓喜に満ちた充実した人生を歩むことができよう。信心強盛にいかなる難にも屈せず、むしろ難を求めてまでも、輝かしい未来を目指して妙法の実践に励むべきである。
大聖人の数度の逢難
 日蓮大聖人の逢難の歴史は、立宗宣言をされてから始まったのである。そして四箇の格言による各宗への厳しい破折、立正安国論の奉呈等が因となって、一類、二類、三類と難は呼び起こされたのである。
 四箇の格言は秋元御書に「而るを日蓮一人・阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・持斎等は国賊なりと申す故に……」(1073-01)と示されている。立正安国論においては、当時の乱れた世相を嘆じ、こうした現象はなぜ起こったかについて、根本は誤れる宗教・思想への傾倒、なかんずく念仏の跋扈あることを明かされ、平和な仏国土を築く根源は邪教を禁じて、正法を立てることであると明示された。
 このため激しい迫害の嵐が巻き起こり、大聖人は数々の大難に値われるのである。
 なかでも、大きい難を挙げると、次の通りである。
   ① 文応元年(1260) 8月27日 松葉ヶ谷の草庵襲撃   39歳 
   ② 弘長元年(1261) 5月12日 伊東への配流      40歳  
   ③ 文永元年(1264)11月11日 小松原の法難      43歳  
   ④ 文永 8年(1271) 9月12日 竜の口の法難、佐渡流罪 50歳 
 日蓮大聖人は自ら難を呼び起こし、それをもって天下一同に南無妙法蓮華経を知らしめ、正法帰依への縁を結ばれたのである。
 そして、末法における仏道修行のあり方を如説修行抄に「誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し」(0504-01)と明記されている。
 御義口伝には「悪口とは口業なり加刀杖は身業なり此の身口の二業は意業より起るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は仏勅を念ずるが故に応忍とは云うなり」(0738-第十若説此経時有人悪口罵加刀杖瓦石念仏故応忍の事)とある。この文は、広宣流布を願い仏勅を念ずるが故に難を忍ぶとの意である。
法華経の為に御勘気を蒙れば幸の中の幸なり瓦礫を以て金銀に易ゆるとは是なり
 この御文は法華経の故に、時の権力者に迫害され、あるいは三類の強敵によって、命にも及ぶ難を蒙るということは只事ではないが、難を受けることは仏法上から見ればこれほど〝幸い〟なことはないと強調されたところである。瓦礫にも等しい凡夫の身が、難を乗り越えることによって、現じがたい仏身を湧現できるからである。
 「法華経の為に」とは、権力をも恐れず、三大秘法の御本尊を奉持し、破邪顕正の立ち場に立って、正法の広宣流布に生涯をささげることである。今われわれが信心を根本に理論闘争を展開し、化儀の広宣流布達成を目指して進んでいくことである。
 「御勘氣を蒙れば」とは国家権力によって迫害されることである。
 思えば、大聖人が御勘気を受けた理由は、世間の失によるものでは全くないのである。ひとえに法華経を弘め、誤った宗教を破折したことによって起こってきた難ばかりである。
 「幸の中の幸なり」とは正法のために難を受けることは最大の福運であるということ。それは「瓦礫を以て金銀に易ゆるとは是なり」、「くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし」(0912-01)だからである。瓦礫の身が金剛不壊の仏身となる。つまりこれは、一介の凡夫の身を三大秘法の妙法に帰命することによって、珠玉の仏身にかえ、成仏の境涯を会得できるからである。
 信心をもって「瓦礫を以て金銀に易ゆる」の文を身業読誦するのでなければならない。不惜身命の決意に立ち開目抄に「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(0232-01)と仰せのごとく仏道修行に励むべきである。その信心と実践の修行があってこそ、諸天善神は厳然と加護するのである。

1371:16~1372:02 第四章 国家滅亡の先兆を歎くtop
16                 但し歎くらくは仁王経に云く「聖人去る時・七難必ず起る」等云云、 七難とは
17 所謂大旱魃・大兵乱等是なり、 最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に 星宿及び風雨皆時を
18 以て行われず」等云云、 愛悪人とは誰人ぞや 上に挙ぐる所の諸人なり治罰善人とは誰人ぞや上に挙ぐる所の数数
1372
01 見擯出の者なり、 星宿とは此の二十余年の天変・地夭等是なり、 経文の如くならば日蓮を流罪するは国土滅亡の
02 先兆なり、 其の上御勘気已前に其の由之を勘え出す所謂立正安国論是なり 誰か之を疑わん之を以て歎と為す、
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 但し、歎かわしいことに、仁王経に「聖人が去る時には、七難が必ず起こる」とある。七難とはいわゆる大旱魃、大兵乱などのことである。 
 最勝王経に「国王が悪人を愛し尊敬し、善人を罰するがゆえに、星宿や風雨が時ならぬ変化をするのである」とある。この「愛悪人」の悪人とは誰人であろうか。それは前にあげたところの道隆や良観や聖一のことである。では「治罰善人」の善人とは、誰人であろうか。それは、先に述べたところの、たびたび流罪にあった者、つまり日蓮のことである。「星宿」とは、この二十余年の間に起こった天変・地夭等がこれである。これらの経文(仁王経・最勝王経)の通りであれば、日蓮を流罪することは、日本の国が滅亡する先兆である。その上、御勘気のある以前に、これらの由を考え出していた。いわゆる立正安国論がそれである。誰人も、これを疑うことができないではないか。これが日蓮の歎きとするところである。

仁王経
 中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
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七難
 経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難(人々が疫病に襲われる)②他国侵逼難(他国から侵略される)③自界叛逆難(国内で反乱が起こる)④星宿変怪難(星々の異変)⑤日月薄蝕難(太陽や月が翳ったり蝕したりする)⑥非時風雨難(季節外れの風雨)⑦過時不雨難(季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる(19㌻で引用)。仁王経には①日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)が説かれる(19㌻で引用)。
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最勝王経
 金光明最勝王経のこと。十巻。唐代の義浄訳。この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ一切の諸天善神の加護を受けると説かれている。逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨てるため、三災七難が起こるとも説かれている。
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天変
 天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
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地夭
 地上に起こる異変。
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立正安国論
 文永元年(1260年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼に提出された国主諫暁の書(17㌻)。諫暁とは諫め暁す、すなわち相手の誤りを指摘して正しい道に導くという意。本抄御執筆当時、日本では飢饉・疫病・災害によって多くの民衆が苦悩に喘いでいた。本抄では種々の経典を引用しながら、こうした災難の根本原因は謗法であると明かし、その元凶は、浄土教の教え以外を捨閉閣抛せよと主張する法然(源空)の専修念仏であるとして、これをもっぱら破折されている。そして謗法の教えへの帰依をやめて正法に帰依しなければ、三災七難のうち、残る「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」が起こると予言し警告された。しかし幕府はこの諫言を用いることなく、謗法の諸宗の僧らを重用した。その結果、二難はそれぞれ文永9年(1272年)の二月騒動(北条時輔の乱)、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の蒙古襲来として現実のものとなった。本抄の構成としては、災難を嘆きその根本原因を尋ねる客(=北条時頼を想定)に対して、主人(=日蓮大聖人)が立正安国(正を立て、国を安んず)を説くという10問9答の問答形式で展開されている。なお、「広本」と呼ばれる身延入山後に再治された本には、真言などの諸宗を破折する文が添加されている。
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 前章では、法華経を弘めるために値う難は「幸のなかの幸」と、難に値うことを喜ばれた。本章においては、仁王経、最勝王経の「聖人が去る時には七難が起こる」「国王が善人を治罰すれば、災いが起こる」の仏説を挙げて、今日、大旱魃・大兵乱、天変地夭等が起きているのは、法華経の行者、日蓮大聖人を迫害しているためであることを明かされ、大聖人はそれを歎かれることを述べている。
日蓮を流罪するは国土滅亡の先兆なり
 「日蓮を流罪」とは、弘長元年(1261)5月の伊豆流罪、また文永8年(1271)10月の佐渡流罪のことをさす。もとより、日蓮大聖人の生涯は、種々の大難の連続であった。しかも、二度の流罪は、幕府も、人の讒言によるものと悔いて、赦免にしたように、これらの大難は大聖人を快く思わない人々の邪智と、悪侶たちが大聖人を亡きものにしようとして権力者に取り入ったことより起こったものである。
 しかしながら仁王経には「聖人去る時・七難必ず起る」とあり、また最勝王経には「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行らず」とあるように、末法の御本仏たる日蓮大聖人を、このように迫害し、難にあわせるということは、聖人を去らせることであり、善人を治罰することにあたる。ゆえにこれらを経文に照らしてみるならば、明らかに一国滅亡の因をつくっていくことになるのである。
 その事実の証拠として、文永5年(1268)正月、蒙古より牃状が到来し、また同年2月には、蒙古の使者が九州にきている。その後、文永11年(1274)、弘安4年(1281)と、二度にわたって、蒙古軍が日本国に攻め寄せ、国内は騒然たるものがあった。また、自然現象においても、大飢饉、大地震などの天変地夭が苛烈なまでにうちつづき、ちょうど金光明経等の経文を現実に再現したかのようであった。当時の模様は立正安国論に詳しいので参照されたい。
 ところで、国土の三災七難も、個人の不幸も、その根本原因は正法誹謗にあるというのが、仏法の見方である。つまり正報たる人間生命の濁乱が、依報の破壊を招くのである。当時、悪比丘等は自らの地位を守り、大聖人を亡きものにしようとして国の指導者階級と手を組んでいた。その代表が、極楽寺良観、天台宗滝泉寺の院主代行智等であった。良観はまず時の権力者、執権北条時頼の要請を受けるまでの信用を得た。そして当時、幕府の要路者の中で第一人者であり、権力者であった平左衛門尉を動かし、大聖人迫害の表に立たせたのであった。また行智は、熱原の法難のときに、何の罪もない農民たちをありもしない罪状で告発し、ついに神四郎等熱原三烈士の首を刎(は)ねさせたのである。
 このことについて報恩抄に「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり(権閨)女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は籠(ろう)に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば」(0322-12)と。すなわち彼等が大聖人を亡きものにしようとして、国家の権力者にとり入ったこと。この狂気の振舞いこそ、一切の腐敗、濁乱の真因であり、やがて一国滅亡へと向かっていくのである。
 時代は下って、第二次世界大戦中に、わが国においては、七百年前と同じことが繰り返されたのである。すなわち、神道と国家権力が結託し、日蓮大聖人の教えに背き、創価学会を弾圧した。その結果は、さまざまな経文に予言されたとおり、わが国は敗戦の憂き目をみるに至ったのである。広島・長崎両市の原爆投下による惨状をはじめ、戦中・戦後における物心両面の荒廃を思えば、二度とこの轍を踏んではならないのである。

1372:02~1372:15 第五章 妙法の末法流布を明かすtop
02                                                    但
03 し仏滅後今に二千二百二十二年なり、 正法一千年には竜樹・天親等・仏の御使と為て法を弘む然りと雖も但小・権
04 の二教を弘通して実大乗をば未だ之を弘通せず像法に入つて 五百年に天台大師・ 漢土に出現して南北の邪義を破
05 失して正義を立てたもう、 所謂教門の五時・観門の一念三千是なり、国を挙げて小釈迦と号す、然りと雖も円定・
06 円慧に於ては之を弘宣して円戒は未だ之を弘めず、 仏滅後一千八百年に入りて日本の伝教大師世に出現して 欽明
07 より已来二百余年の間六宗の邪義之を破失す、 其の上天台の未だ弘めたまわざる円頓戒之を弘宣したもう 所謂叡
08 山円頓の大戒是なり、 但し仏滅後二千余年三朝の間・数万の寺々之有り、然りと雖も本門の教主の寺塔・地涌千界
09 の菩薩の別に授与したもう所の 妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず弘むべしと云う経文は 有つて国土には無し時
10 機の未だ至らざる故か、 仏記して云く「我が滅度の後・ 後の五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於いて断絶せしむ
11 ること無けん」等云云、 天台記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、 伝教大師記して云く「正像稍
12 過ぎ已つて 末法太だ近きに有り 法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、 此れ等の経釈は末法の始を指
13 し示すなり、 外道記して云く「我が滅後一百年に当つて仏世に出でたもう」と云云、 儒家に記して云く「一千年
14 の後・仏法漢土に渡る」等云云、 是くの如き凡人の記文すら尚以て符契の如し況や伝教・天台をや何に況や釈迦・
15 多宝の金口の明記をや、 当に知るべし残る所の本門の教主・ 妙法の五字一閻浮提に流布せんこと疑無き者か、
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 但し、仏滅後、今は二千二百二十二年を経た。
 正法一千年には竜樹や天親などが仏の使いとなって、正法を弘めた。しかしながら、ただ小乗と権大乗の二教のみを弘通して、実大乗の法華経については、まだ、これを弘通しなかった。
 像法に入って五百年ごろに、天台大師が漢土に出現して、南三北七の邪義を破折し、正法の実義をたてられた。いわゆる教相門では釈迦一代仏教を華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華涅槃時の五時をたて、観心門では理の一念三千の法門をたてたのがこれである。したがって、国をあげて小釈迦とたたえた。しかしながら、戒定慧の三学中、円教の定と円教の慧のみは弘め宣べたが、円教の戒はいまだ弘めなかった。
 仏の滅後一千八百年に入って、日本に伝教大師が出現した。欽明天皇の時代に仏教が渡来してから二百余年、その間に伝えられた三論・法相・倶舎・成美・華厳・律の六宗の邪義をことごとく破折し、その上、天台大師が弘めえなかった円頓戒を弘められたのである。いわゆる比叡山の円頓の大戒檀がこれである。
 但し仏滅後二千余年の間、インド、中国、日本の三国に仏教が渡り、これらの国々には数万という数えきれないほどの寺々ができている。
 しかしながら、いまだに本門の教主釈尊を本尊とする堂塔や、地涌の菩薩に別に授与されたところの妙法蓮華経の五字は、いまだ誰人によっても弘通されず、末法の始めに弘めよとの経文は有っても、実際に国土には弘まっていない。妙法流布の時と機根が未だ至らない故なのか。
 釈尊が法華経の薬王品に記していうには「我が滅後において、第五の五百年の中に、妙法蓮華経の五字を広宣流布し、この世界の中において、断絶させることは無いであろう」と。天台大師はこの文を釈して法華文句の一に「第五の五百年は、遠く未来にいたるまで妙道にうるおうであろう」といい、伝教大師は、守護国界章に「正法千年、像法千年がようやくすぎ終わって、末法は実に近くにきている。一乗の法たる妙法蓮華経の繁盛する機は、今が正しくその時である」といっている。
 これらの経釈は、末法の始めを指して、本門の大法の弘まるべき時であると示しているものである。
 インドの外道・婆羅門も記していわく「我が滅後、百年にして、仏が世に出現される」と。また中国の儒家に記していうには「一千年後に、仏法が中国に渡ってくる」と。これらのような凡人の記した未来記さえも、符契のように的中しているのである。
 ましてや、伝教や天台などのように、像法時代の仏といわれた人達、さらにまた釈迦・多宝の仏の金言がどうして的中しないわけがあろうか。
 正に知るべきである。残るところの本門の教主釈尊が出現し、妙法蓮華経の五字の大法が、一閻浮提に流布することは、疑いないところなのである。

漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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南北の邪義
 中国・南北朝時代に江南の三師と河北の七師によって立てられた学派の義のこと。これらはいずれも天台によって破折された。
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教門の五時
 教門とは教相門のことで、華厳・阿含・方等・般若・法華時の五時に分類し、法華時を真実最勝としたことをいう。
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観門の一念三千
 観門とは観心門のことで止観を意味する。すなわち理の一念三千は天台教学の極説である。
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円定
 戒・定・慧の三学のうち、法華経の円教に基づく定(瞑想の実践)。天台大師智顗の説いた止観の修行では、「止」が定にあたり、「観」が慧にあたる。
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円慧
 戒・定・慧の三学のうち、法華経の円教に基づく慧(真理を思索すること)。天台大師智顗の説いた止観の修行では、「止」が定にあたり、「観」が慧にあたる。
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円戒
 円頓戒のことで、天台はこれを建立しなかった。伝教は叡山にこれを建立している。法華円頓戒のこと。
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欽明より已来二百余年
 人王第29代・欽明天皇の世に百済国より我が国に仏教が伝来してから、伝教大師の出現の期間までをいう。
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円頓戒
 伝教が比叡山に建立した法華円頓戒のこと。
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三朝
 インド・中国・日本のこと。
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地涌千界の菩薩
 地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち(法華経452㌻以下)。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。これに対して、文殊・弥勒などは、迹仏(始成正覚の釈尊など)あるいは他方の世界の仏から教化された菩薩なので、迹化・他方の菩薩という。
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後の五百歳
 末法の初めの時代のこと。①経典では釈尊滅後の500年をさす。②大集経では釈尊の滅後を500年ずつ五つの時期に区分し(五五百歳)、第5の500年は、仏の教えの中の論争が絶えず正しい教えが見失われてしまう(闘諍堅固・白法隠没)時であると説かれている。日蓮大聖人は、五五百歳のうち、はじめの第1・第2の500年を正法時代、第3・第4の500年を像法時代とする解釈に基づき、第5の500年と①の「後の五百歳」が同一であると考えられ、「後の五百歳」が末法の初めの500年であると考えられた。
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閻浮提
 閻浮、南閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
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法華一乗の機
 一仏乗を説き示した法華経によってのみ成仏することのできる衆生の機根のこと。
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凡人の記文
 インドの婆羅門や中国の儒者などは凡人であるというところから、彼等の未来記を「凡人の記文」という。
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「我が滅後一百年に当つて仏世に出でたもう」
 出典未詳。あるいは、出生した悉達太子の相を占った阿私陀仙人の言葉を指したものか。撰時抄に「阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきし」(1260)と。
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「一千年の後・仏法漢土に渡る」
 中国・周の昭王のとき仏がインドで生誕し、その一千年後に仏法が伝来するということ。開目抄に「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種に震動し雨ふらずして江河・井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり、昭王・大に驚き大史・蘇由・占つて云く『西方に聖人生れたり』昭王問て云く『此の国いかん』答えて云く『事なし一千年の後に彼の聖言・此の国にわたつて衆生を利すべし』」(0225)と。仏が誕生した時に、インドの出来事でありながら、中国の夜空に五色の光が南北に輝きわたって昼のようであったという。周の暦法を司る大史の職にあった蘇由がこの瑞祥を見て、仏の生誕及び一千年後の仏法伝来を占ったとされる。
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符契
 文を記した木片の中央に証印を押して二つに割ったもの。両方が一致することで正しい当事者であることの証明となる。
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多宝
 多宝如来のこと。法華経見宝塔品第11で出現し、釈尊の説いた法華経が真実であることを保証した仏。過去世において、成仏して滅度した後、法華経が説かれる場所には、自らの全身を安置した宝塔が出現することを誓願した。釈尊が法華経を説いている時、見宝塔品で宝塔が地から出現して空中に浮かんだ。宝塔が開くと、多宝如来が座していた。多宝如来は釈尊に席を半分譲り、以後、嘱累品第22まで、釈尊は宝塔の中で多宝如来と並んで座って(二仏並坐)、法華経の説法を行った。
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本門の教主
 法華経本門文上説かれる久遠実成五百塵点劫の釈尊ではなく、文底にあらわれた久遠元初の自受用法身如来・日蓮大聖人のこと。
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 今末法の時を迎えて、正法千年、像法千年に弘通されなかった妙法の五字がいよいよ全世界に流布されるのであると、三時の弘教の次第、仏記、釈文を通して明かされた章である。
円定・円慧に於ては之を弘宣して円戒は未だ之を弘めず
 正法一千年の間に、竜樹・天親は、小乗教、権大乗教の二教を弘通したが、実大乗教は少しも弘めなかった。やがて像法時代に入り、初めの五百年、中国に天台が出現し、南三北七の邪義をことごとく破折して、仏教を統一した。
 天台のたてたその宗要は、教相と観心の二門から成る。すなわち、ここで論ぜられる教相とは、五時八教、三種の教相等によって釈尊の教説に解釈をほどこし、それを分類し、組織的に体系づけ、法華経が最第一であるとした。観心とは、観心本尊抄に「我が己心を観じて十法界を見る」(0240-01)とあるように、自身の生命が十界互具、一念三千の当体であると観ずることである。そして「一心三観・一念三千」の観法によって理の一念三千をわが身に悟るのである。
 天台は、このように法華経を学び、一念三千の観を行じて、円定・円慧の修行をしたものの、円教の戒檀は建立せず、戒のみは小乗教の戒を用いていたのである。
 すなわち天台は、戒定慧の三学のうち、法華の円定・円慧ばかりを弘め、円戒については、最後まで実現することがなかったのである。
 これに対し、日本における伝教は南都六宗の邪義を破折し、円定・円慧を弘めた結果、戒についても当然法華経の戒でなければならないと、円戒の建立を主張した。その説が聞き入れられ、死後の天長4年(0827)に迹門円頓戒檀が比叡山に建立されたのである。
 この故に撰時抄には「されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹・天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(0264-05)と、その業績をたたえられている。
 しかしながら伝教のこの戒檀も、法華経迹門の戒檀であって、神力品において教主釈尊より、地涌千界の菩薩に付嘱された妙法蓮華経の弘通ではなかったのである。
 この妙法五字の流布については、法華経薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して……」とあり、天台の法華文句に「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、伝教の守護国界章に「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」とあるように、末法の時を待たねばならなかったのである。
 そして、いよいよ末法に入って、日蓮大聖人の出現により、初めて本門の妙法蓮華経が流布されたのである。
残る所の本門の教主・妙法蓮華経の五字
 残る所とは、正像未弘を表わし、本門の教主とは、末法能弘の人本尊、妙法の五字とは末法所弘の法本尊を表わすのである。正像未弘とは、竜樹・天親・天台・伝教も未だ弘通せざる大法である。この大法は、外用(げゆう)の辺は、神力品で釈尊より上行菩薩へ譲り給える法華経の肝心、三大秘法の南無妙法蓮華経である。竜樹・天親は、正法時代の導師で、権大乗経を弘通するのがその使命であり、天台・伝教は像法時代の導師で法華経迹門・理の一念三千を弘通するのである。
 法華経文底秘沈の三大秘法が、正法・像法時代に弘通されなかった理由は、力なく、機なく、付嘱なく、時来らざる故である。すなわち、曾谷入道等許御書に「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028-16)と。したがって、経文の如くならば、撰時抄に「後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと」(0265-06)とあるように、上行菩薩が出現して、妙法の五字を弘通すべきである。これを「残る所の」と仰せなのである。
 「本門の教主」とは、すでに述べたように外用は上行菩薩の再誕である。しかし内証の辺の意は久遠元初の自受用報身如来の再誕である。すなわち、百六箇抄に「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」(0854-03)とあるように、外用は上行の再誕であるが、内証は自受用報身の再誕となるのである。
 本地自行の自受用身について日寛上人は末法相応抄第四に「本地自行の自受用身とは、即ち是れ本因妙の教主釈尊なり。本因妙の教主釈尊とは、即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり」とあることからも明らかであろう。
 妙法五字とは、いま末法に日蓮大聖人が流布する三大秘法の南無妙法蓮華経である。いまその一文を挙げると、法華取要抄に「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(0336-02)と、また、報恩抄に「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(0328-13)と。
 すなわち妙法五字とは、その体は事の一念三千の御本尊であり、この御本尊を大聖人は末法の衆生に与えられたのである。観心本尊抄に「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と。
 また観心本尊抄に「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250-10)と。末法今時の理即但妄の凡夫は自受用身即一念三千の仏を識らずに不幸におちいっている。ゆえに大聖人は妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕されて、末代幼稚のわれらの頸にかけてくださったのである。仏の大慈悲を感じ、信心を磨くのみである。

1372:15~1373:13 第六章仏縁の不思議を明かすtop
15                                                    但
16 し日蓮法師に度度之を聞きける人人 猶此の大難に値つての後之を捨つるか、 貴辺は之を聞きたもうこと一両度・
17 一時二時か然りと雖も 未だ捨てたまわず御信心の由之を聞く偏えに今生の事に非じ、 妙楽大師の云く「故に知ん
18 末代一時聞くことを得聞き已つて 信を生ずること宿種なるべし」等云云、 又云く「運像末に居し 此の真文を矚
1373
01 る妙因を植えたるに非ざるよりは実に遇い難しと為す」等云云、 法華経に云く「過去に十万億の仏を供養せん人・
02 人間に生れて此の法華を信ぜん」又涅槃経に云く 「熈連一恒供養の人此の悪世に生れて此の経を信ぜん」 等云云
03 取意、阿闍世王は父を殺害し母を禁固せし悪人なり、 然りと雖も涅槃経の座に来つて法華経を聴聞せしかば現世の
04 悪瘡を治するのみに非ず 四十年の寿命を延引したまい結句は 無根初住の仏記を得たり、 提婆達多は閻浮第一の
05 一闡提の人・ 一代聖教に捨て置かれしかども此の経に値い奉りて天王如来の記ベツを授与せらる彼を以て之を推す
06 るに末代の悪人等の成仏・ 不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ、 而るに貴辺は武士の家の
07 仁昼夜殺生の悪人なり、 家を捨てずして此所に至つて何なる術を以てか 三悪道を脱る可きか、能く能く思案有る
08 可きか、 法華経の心は当位即妙・ 不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり、天台の云く「他経は但
09 善に記して悪に記せず今経は皆記す」等云云、 妙楽の云く「唯円教の意は逆即是順なり 自余の三教は逆順定まる
10 が故に」等云云、 爾前分分の得道有無の事之を記す可しと雖も 名目を知る人に之を申すなり、然りと雖も大体之
11 を教る弟子之れ有り此の輩等を召して粗之を聞くべし、其の時之を記し申す可し、恐恐謹言。
12       文永十年太歳癸酉八月三日               日 蓮 花 押
13     甲斐国南部六郎三郎殿御返事
――――――
 しかしながら、日蓮法師に度々、このような大事な法門を聞いた人々であっても、なおこのたびのような大難に値うと、信心を捨てるものがいる。あなたは、この法門のことを聞いたのは一度か二度であり、しかも一時(とき)か二時というわずかな時間であるのに、いまだに法華経を捨てず、信心を励んでいる由、それを聞いて、ひとえに、今生だけの契りではないと思っている。
 妙楽大師は文句記に「末法において一時だけでも仏法を聞くことができ、そして、信心を起こすということは、過去世において、法華経の下種があった故である」といっている。また弘決に「像法の末に生まれて、仏法の真文をみることのできたのは、ただごとではない。過去に妙因を植えた人でなければ、実に値いがたいのである」と述べている。
 法華経の随喜功徳品第十八に「過去に十万億の仏を供養した人は、人間に生まれてこの法華経を信ずるであろう」とある。また涅槃経にいわく「過去に熈連河と恒河の砂の数ほどの無数の仏を供養した人は、仏滅後の悪世に生まれて、この法華経を信ずるであろう」(取意)と。
 阿闍世王は父を殺し、母を幽閉した悪人である。しかしながら釈尊の涅槃経の会座に来て、法華経を聞いたので、五逆罪を犯した罪で現世に生じていた悪瘡を治すことができたばかりでなく、四十年も寿命を延ばすことができた。そして最後には無根初住の位に入り成仏の記別を得たのである。
 提婆達多は閻浮第一の謗法・一闡提といわれる悪人である。釈尊の一代聖教のなかにも、法華経以前の経教には、捨て置かれたけれども、この法華経に値って天王如来という成仏の記別を授与されたのである。これらをもって推しはかってみると、末法の悪人等の成仏、不成仏は、罪の軽い重いによるのではなく、ただ、この法華経への信心があるか、ないかによって決まるのである。
 ところであなたは武士の家の人であり、昼夜にわたって殺生の世界に身をおく悪人である。家を捨てず、世間を離れないまま、現在に至っては、どのような方法をもって、未来に三悪道をまぬがれることができようか。よくよく思案されるべきである。
 法華経の本意は、「当位即妙・不改本位」といって、罪業を捨てずに、その身のまま成仏することができるのである。天台は文句の七に「法華経以外の他経は、但善人にのみに成仏を許して、悪人に成仏を許していない。法華経は全ての人に平等に成仏を記している」といっている。妙楽も文句記の八に「ただ円教たる法華経の本意は、逆がそのまま順となるということである。それ以外の別教、通教、蔵教すなわち爾前経は逆は逆、順は順と定まってしまっている」といっている。
 爾前経に分々の得道が有るか無いかということも、ここに記さなければならないが、この問題は仏教の名目をよく知っている人に申すことである。
 しかしながら、このことについては、大体教えてある弟子がいる。この人々を呼んで、あらあらお聞きなさい。そのとき、またよく申しあげる。恐恐謹言。
  文永十年太歳癸酉八月三日  日 蓮 花 押
   甲斐国南部六郎三郎殿御返事

宿種
 過去に植えられた仏種。宿縁。
―――
妙因
 仏になる因。仏性を開いて成仏の境涯を得るところの仏因。
―――
熈連一恒
 涅槃経第六四依品にある。熈連とは、拘尸那城の北を流れる川の名。ここでは熈連河の沙の数を意味する。一恒とは一恒河沙の略で、ガンジス川のこと。これもガンジス川の沙の數を意味する。ともに無数を意味するが、熈連より恒河の方が大きい。過去にそのような無数の仏に値って修行した功徳の大きさをあらわす。ゆえに釈迦仏法における仏道修行の段階を示す名となる。したがって熈連一恒とは、その修行のなかの熈連河沙と一恒河沙の位の者をいい、法を聞いて誹謗せず(熈連河沙)、信楽して受持する(一恒河沙)者の意である。これは円教の六即においては一念信解・初随喜の名字即位である。涅槃経に四依に分けて示されている。これを図示すれば、
       ┌― 熈連河沙 聞法不謗
   初依 ―├― 一恒河沙 信楽受持
       ├― 二恒河沙 読  誦
       └― 三恒河沙 浅  説
   二依 ―┌― 四恒河沙 一分広説
       └― 五恒河沙 八分広説
   三依 ―┌― 六恒河沙 十二分広説
       └― 七恒河沙 十四分広説
   四依 ――― 八恒河沙 具足尽義
 なお、日蓮大聖人の仏法にあっては、南無妙法蓮華経と唱える者は、名字即の凡夫であるから、熈連一恒の者といえる。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
無根初住
 無根とは、信根・善根のないこと。初住とは、別教の五十二位中の十住のうち初住、つまり不退転の位をいう。すなわち無根初住とは、信心の機根のない人が仏力・法力により信ずる心を生じ、不退転の位に至ることをいう。
―――
提婆達多
 サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
―――
一闡提
 サンスクリットのイッチャンティカの音写。本来は欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信ぜずかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。
―――
記莂
 仏が弟子の未来の成仏を保証し、その時の仏としての名、国土の名称、劫(時代)の名称などを明らかにすること。
―――

 人のことをいう。
―――
昼夜殺生の悪人
 武士のことをいう。大義名分はどうであろうと、武士は殺害するのが役目であるからこう呼んだ。
―――
三悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
―――
当位即妙・不改本位
 「当位即妙」は「当位、即ち妙なり」と読む。妙楽大師湛然の『法華玄義釈籤』巻4の文。十界の衆生が、そのままの位を動ずることなく、即、妙覚(仏)の位であることをいう。「不改本位」は「本位を改めず」と読む。九界の衆生が各自の本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏することをいう。
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爾前分分の得道
 爾前経のそれぞれに、その経当分の得道があること。
―――――――――
 本章は波木井六郎三郎が、大聖人の佐渡御流罪等にもかかわらず退転なく信心を貫いていることを称えられ、経釈を挙げて妙法を持つ者の宿世の仏縁を説かれている。さらにこの持つところの妙法は、阿闍世、提婆の悪人でさえ成仏できる大法であり、それ故、殺生を司る武士として成仏を願うなら、妙法を持ち、教えを聞いて信心に励むよう結ばれた章である。
末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ
 末法今時における成仏の鍵は妙法への信心にあると断ぜられた文である。末代の悪人とは、末法の衆生の機根をいう。末法の衆生の機根は本未有善である。釈迦仏法で説くような善根はなんら積んでいない。したがって、戒律仏法など修行することもできないし、それによって成仏することもできないのである。
 いわゆる「病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうべし」(1305-04)と仰せのように、重病にあたるのが末代の悪人であり、破戒・謗法の衆生のことをいうのである。
 釈迦仏法における仏道修行においても、爾前経では戒律を主とした滅罪、積善を説いたが、法華経にいたっては「以信得入」を説いている。これは法華経方便品、ならびに信解品の舎利弗の成仏にあるとおりである。
 末法においては、もっぱら三大秘法の御本尊に対する信の一字しかない。三大秘法の御本尊の偉大なお力だけが、末代悪世の重病を治す唯一の仙薬である。釈迦仏法ではまったく効力がないのである。
 末法の修行は受持即観心につきる。三大秘法の御本尊を受持すること、それ自体が観心であり、仏道を成就する根本である。三世諸仏総勘文抄に次のように説かれている。「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得る』と已上、此れを観心と云う」(0569-16)と。仏心も妙法五字の本尊であり、己心も妙法五字の本尊である。己心仏心異なっているが、妙法五字の本尊においては異ならない故に「一なりと観ずれば」とおおせられているのである。「観」とは「信」のことをいうのである。故に末法における観心とは、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることである。
 受持即観心の受持についていえば、一般的には、受持とは法華経法師品に説かれた五種の妙行の一つであるが、正像末における意義はそれぞれに異なる。とくに末法今時においては、受持の一行に他の四種も含まれる。すなわち三大秘法の御本尊を受持することによって成仏が決まるのである。このことについて御義口伝に「此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時上行菩薩・御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親り之れ有り」(0783-02)とあることからもわかろう。
 また、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と。釈尊の因位の万行、果位の万徳の宝を、妙法五字、すなわち三大秘法の御本尊を信じ持つことによって受得できるのである。「受持」とは信力・行力である。信力とは、ただこの御本尊を信じて、この御本尊以外に絶対に成仏できる道はないと強盛に信ずることであり、行力とは、余事を雑えず、ただ南無妙法蓮華経と自行化他にわたって唱えることである。そしてこの信力、行力によってわれら衆生が即身成仏の大利益を得ることができるのは、妙法五字の御本尊の法力と、久遠元初の自受用身たる御本仏日蓮大聖人の仏力によるものである。
 大聖人の仏法においての観心とは、ただ信心口唱をもって観心とするのであって、受持も正しくこれと同意なのである。したがって、信の一字がわれら衆生の元品の無明を断ち切る利剣と仰せなのである。
 元品の無明を断ち切るなら、軽重によらず一切の罪はすべて消滅し、即身成仏できるのである。法華経の結経である普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと欲せば 端座して実相を思え 衆罪は霜露の如く 慧日(えにち)は能く消除す」とあり、御義口伝には「慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」(0786-第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事-02)とある。実相を思うとは、末法では受持すなわち信心口唱である。われらの信力、行力に対して、慧日、すなわち、日蓮大聖人弘通の三大秘法の御本尊の仏力法力は、衆罪を霜露のように消除するのである。
法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり
 大聖人の教えの究極は、この即身成仏ということに尽きる。この即身成仏は凡夫即極、煩悩即菩提、九界即仏界というのと同じで、凡夫と仏は別であるとし、煩悩を断じて仏の悟りを得るとか、九界を脱して仏界を現ずるという爾前経の思想とはまったく異なるものである。凡身のまま、煩悩を持ったまま、九界のまま仏の悟りを得、仏の生命となるのである。このことを、当位即妙・不改本位というのである。このことは、一切の生命は、十界を互具しているという法華経に明かされた生命観によって初めて打ち立てられた法理であり、爾前経における歴劫修行、改転の成仏に較べると、天地雲泥の差がある。
 爾前経では、十界、善悪、男女それぞれ差別があった。そして鈍根の菩薩および二乗は無量百千万億劫の長期にわたって修行しなければならなかった。その結果、悪人は悪を変じ善人となって成仏し、女人は女身を改め男子と変わって成仏したのである。
 すなわち二乗は方等陀羅尼経において授記を受け、悪人成仏については、文殊師利普超三昧経巻下の心本浄品に阿闍世王の授記が説かれたのである。また女人成仏は仏説無量寿経巻上に女身を改めて男子となって成仏したとある。
 これらに対して大聖人は開目抄に「法華已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」(0223-08)と小乗経ならびに法華経以前の諸大乗経における成仏を誤りと指摘されている。
 なぜ誤りかといえば、善人悪人といってもまったく別のものではなく、人間の生命にはもともと善悪両面を具しているのであるから、悪人だけを滅し去ることは所詮できないからである。まして女身が生まれ変わって男身に改めるとは、いいかえると、女である限り絶対に成仏できないということである。結局、成仏といっても改転の成仏であって、先に挙げた成仏はまったく有名無実なのである。
 したがって一代聖教大意に「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く、されば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず」(0403-09)として法華経以前の諸経においては生命の真実を明かしていないので、成仏といっても九界を断じて仏になるという実体のない無常の仏であると述べられている。
 では真の成仏はどこで明かされているかといえば法華経に至ってである。法華経提婆達多品において悪人の提婆達多が天王如来と記せられ、また竜女は蛇身のまま、無垢証如来となった。これこそ善悪不二・邪正一如の大哲理である。そしてこれと同時に、真の平等観ともいうべき十界互具・一念三千が説かれるのである。つまり仏とわれら衆生とは理性の上では隔てがないことである。これは法華経以前においてはまったくその実体が明かされなかったことである。
 余経には六界、八界、十界を明かしたけれども、十界が互具であることは説かれていない。この十界互具が明かされて、初めて一切衆生の即身成仏が可能になるのである。御義口伝に「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり……仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり」(0742-第十三若有能持則持仏身の事)と。十界の衆生はそのままの身で仏になり、悪人は悪人のまま、女人はその身を改めないで成仏する。
 当体義抄に「十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり……天台云く『十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ』云云」(0510-10)と。この文の意は結論からいえば、十界の生命それ自体が妙法蓮華経の当体である。地獄の活動をしている生命そのままが、妙法蓮華経の当体であるし、畜生界の活動をしている生命、修羅界の活動をしている生命それ自体が、妙法蓮華経の当体である。「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」の今経とは法華経である。法華経の正体、本体は十界三千であり、ここに生命の完全な本質が説き明かされているのである。
 ところで理の上ではわれら衆生ことごとく十界三千を具しているが、実際にわが身にこれを証得することはむずかしい。しかしこれを証得することが、仏道修行の目的である。この仏道修行は、正像末によってそれぞれ異なる。釈迦仏法においては次第に位が登って仏になるのであって、法華経本門寿量品によって証得させたのである。天台は「己心を観じて十法界を見る」として観念観法によって、自らが妙法蓮華経の当体であることを証得したのである。いま大聖人の仏法においては、三大秘法の御本尊を持つ者のみがこれを証得することができる。
 すなわち当体義抄に「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり……能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-09)と。この「中」の字を、日寛上人は「正信にあたる」と解釈されたことは心に留むべきである。

1374~1374    南部六郎殿御書top
1374
南部六郎殿御書
01   眠れる師子に手を付けざれば瞋らず流にさをを立てざれば浪立たず謗法を呵嘖せざれば留難なし、 若善比丘見
02 壊法者置不呵嘖の置の字ををそれずんば 今は吉し後を御らんぜよ無間地獄疑無し、 故に南岳大師の四安楽行に云
03 く「若し菩薩有りて 悪人を将護して治罰すること能わず、 其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば
04 此の人は実に菩薩に非ず、 外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、 其の人命終して諸の悪人
05 と倶に地獄に堕ちなん」云云、 十輪経に云く「若し誹謗の者ならば共住すべからず亦親近せざれ、 若し親近し共
06 住せば即ち阿鼻地獄に趣かん」云云、 栴檀の林に入りぬればたをらざるに 其身に薫ず誹謗の者に親近すれば所修
07 の善根悉く滅して 倶に地獄に堕落せん、 故に弘決の四に云く「若し人本悪無けれども悪人に親近すれば後に必ず
08 悪人と成りて悪名天下に遍し」凡そ謗法に内外あり国家の二是なり、 外とは日本六十六ケ国の謗法是なり、 内と
09 は王城九重の謗是なり、 此の内外を禁制せずんば宗廟社禝の神に捨てられて必ず国家亡ぶべし、 如何と云うに宗
10 廟とは国王の神を崇む社とは地の神なり 禝とは五穀の総名五穀の神なり、 此の両の神・ 法味に飢えて国を捨て
11 給う故に国土既に日日衰減せり、 故に弘決に云く「地広くして尽く敬す可からず封じて 社と為す禝とは謂く五穀
12 の総名にして即五穀の神なり」 故に天子の居する所には宗廟を左にし 社禝を右にし四時・五行を布き列ぬ故に国
13 の亡ぶるを以て社禝を失うと為す、 故に山家大師は「国に謗法の声有るによつて万民数を減じ 家に讃教の勤めあ
14 れば七難必ず退散せん」と、故に分分の内外有るべし。
15       五月十六日                    日 蓮 在 御 判
16     南部六郎殿
――――――
 眠っている師子に、こちらから手を付けなければ瞋ることはない。水の流れにさおを立てなければ、浪は立たない。それと同様に、謗法を呵責しなければ難を受けることはない。
 涅槃経の「若し善比丘がいて、正法を壊る者を見ながら、これをそのままに置いて、呵責することがないならば……」との経文の置の字を恐れないならば、今はよいであろうが、後をごらんなさい、無間地獄に堕ちることは疑いない。ゆえに、南岳大師は四安楽行に「若し菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができないで、そのために悪を増長させ、善人を悩乱して正法を敗壊させるならば、その人は実には菩薩ではない。外に向かっては詐りあなどって、常に、次の言葉を用いるであろう。『自分は忍辱の行を行っている』と。その人は、命が尽きて死んだ後、諸の悪人とともに地獄に堕ちるであろう」と。また、大乗大集地蔵十輪経には「若し正法を誹謗する者であるならば、ともに住んではならない。また、親しみ近づいてはならない。もし親近し、ともに住するならば、阿鼻地獄にゆくことになるであろう」といっている。たとえば栴檀の林の中に入ったならば、枝を手折らなくとも、身に木の芳香が薫るのと同じように、正法誹謗の者に親近するならば、仏法を修行して得たところの善根は、ことごとく消えて、誹謗の者とともに地獄に堕ちることになろう。故に、妙楽は弘決の巻四の三に「若し人に本来悪心が無くとも、悪人に親近するならば、のちには、必ず悪人となって、その悪名が天下に広く伝わる」といっている。
 そもそも謗法には内と外の二つがあり、国家はこの二種の謗法を犯している。すなわち、外とは、日本六十六か国全体の謗法である。内とは、国の中心をなすものの犯している謗法のことである。
 この内と外の謗法行為を差し止めなければ、日本国は宗廟と社禝の神に捨てられて必ず国家は亡ぶであろう。なぜかといえば、宗廟は、国王の神を敬うところであり、社とは地の神であり、禝とは五穀の総名で、五穀の神のことである。この宗廟と社禝の二つの神が、法華経の法味に飢えて、国を捨てられたために日本の国土は、日々に衰減しているのである。故に、弘決には「大地は広いためにすべてを敬うことはできないので、ある一定のところを封じて社とし、禝とは五種の穀物の総名であって、すなわち五穀の神を祭って禝というのである。故に、国主の住むところには、宗廟を左にまつり、社禝を右にまつって、春・夏・秋・冬の四時に、木・火・土・金・水の五行が天地間において順調に運行するように祈るのである。故に国の亡びることをもって社禝を失うというのである」と。以上のことについて、山家大師は「国中に謗法の声があるために、三災七難が起こり、万民の数を減じていくのであり、逆に、家に正法を讃めたたえる勤めがあれば、七難は退散するであろう」といっている。故に、家にあっても、各人にあっても、それぞれ謗法の内と外の二つがあるのである。
  五月十六日           日 蓮  在 御 判
   南部六郎殿

留難
 仏道修行を妨げるさまざまな困難。
―――
若善比丘見壊法者置不呵嘖
 涅槃経の文。曾谷殿御返事には「「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子 真の声聞なり」云云、此の文の中に 見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(1056-04)とある。
―――
無間地獄
 阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
―――
南岳大師
 515年~577年。中国・南北朝時代の北斉の僧。慧思のこと。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、『立誓願文』(558年、大蘇山にて)を著した。この『立誓願文』には正法500年、像法1000年、末法1万年の三時説にたち、自身は末法の82年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著『法華経安楽行義』では、法華経安楽行品第14に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。【観音・南岳・聖徳太子】日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(604㌻)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(608㌻)とされている。
―――
四安楽行
 法華経安楽行品第14(法華経423㌻)に説かれる四つの行法。文殊菩薩が浅行初心の行者が濁悪世で安楽に妙法蓮華経を修行する方法を問い、釈尊がこれに対して身・口・意・誓願の4種の安楽行を説き、初心の人がこれによって妙法蓮華経を弘通し修行することを示した。①身安楽行。身を安定にして10種の誘惑を避け、静寂の処にあって修行すること。②口安楽行。仏の滅後にこの経を説く時、他人を軽蔑せず、その過失を暴かず、穏やかな心で口に宣べ説くこと。③意安楽行。末世になって法が滅びようとする時、この経を受持し読誦する者は、他の仏法を学ぶ者に対して嫉妬、そしり、争いの心を抱かないこと。④誓願安楽行。大慈大悲の心で一切衆生を救おうとの誓願を発すること。
―――
将護
 助け護り、かばうこと。
―――
詐侮
 詐は、いつわり・あざむむ。侮は、あなどり・軽んずるの意。
―――
忍辱
 妙法の弘通にあたって、さまざまな侮辱を浴びせられても、微塵も動揺せず、耐え忍んで、法を弘めていくこと。
―――
十輪経
 『大乗大集地蔵十輪経』の略。唐の玄奨訳。地蔵菩薩の功徳を讃歎している。
―――
栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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弘決
 止観輔行伝弘決のこと。妙楽大師湛然による『摩訶止観』の注釈書。10巻(または40巻)。天台大師智顗による止観の法門の正統性を明らかにするとともに、天台宗内の異端や華厳宗・法相宗の主張を批判している。
―――
王城九重の謗
 王城九重とは、昔中国において、王城は門を九重につくったところから宮中、禁中をいい、国王、国主、為政者のこと。ここでは、当時の鎌倉幕府による謗法を指す。
―――
宗廟社禝
 宗廟とは、①」祖先のみたまや。祖先の位牌を置く所。②皇室の祖先を祭るみたまや。伊勢神宮などをいう。社稷とは、中国古来の祭祀の一つ。社は土地の神,稷は穀物の神で,この両者が結合し,周代に政治的な礼の制度に取入れられ,天下の土地を祭る国家的祭祀になった。そのため国家の代名詞としても用いられる。
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五穀
 五つの主要な穀物。時代・地域で異なるが、日本では、米・ムギ・アワ・キビ・豆をさすことが多い。
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法味
 法の味わい。仏法の教えは生命を潤し活力を与えるので、微細で滋味ある食物とみなされた。仏・菩薩や諸天善神は、これを唯一の食物として威光・勢力を増すとされる。万人成仏の法を説く法華経は、最高の法味であるので、牛乳の精製過程の最高段階で究極の食物である醍醐に譬えられ、醍醐味とされる。
―――
四時
 ①春夏秋冬のこと。②朝・昼・夕・夜をいう。
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五行
 中国古代の説で万物を生ずる五元素をいう。木・火・土・金・水。
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山家大師
 伝教大師のこと。767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」(『顕戒論』巻上、237㌻で引用、趣意)と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」(同㌻、通解)と仰せになっている。
―――
七難
 経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難(人々が疫病に襲われる)②他国侵逼難(他国から侵略される)③自界叛逆難(国内で反乱が起こる)④星宿変怪難(星々の異変)⑤日月薄蝕難(太陽や月が翳ったり蝕したりする)⑥非時風雨難(季節外れの風雨)⑦過時不雨難(季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる(19㌻で引用)。仁王経には①日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)が説かれる(19㌻で引用)。日蓮大聖人は「立正安国論」で、三災七難が説かれる経文を引かれ、正法に帰依せず謗法を放置すれば、薬師経の七難のうちの他国侵逼難と自界叛逆難、大集経の三災のうちの兵革、仁王経の七難のうちの悪賊難が起こると予言されている(31㌻)。そして鎌倉幕府が大聖人の警告を無視したため、自界叛逆難が文永9年(1272年)2月の二月騒動として、他国侵逼難が蒙古襲来(文永11年=1274年10月の文永の役、弘安4年=1281年5月の弘安の役)として現実のものとなった。
―――――――――
 本抄は別名を「国家謗法之事」ともいわれ、国家の謗法について述べられたものである。お手紙をいただいた南部六郎とは、波木井六郎実長のことであるが、御述作の年次、場所は、明らかではない。
 まずはじめに謗法を呵責していかなければ、今はよくても必ず無間地獄に堕ちていくことを強く述べられ、正法誹謗の者には、親近すべきでないことを、種々の経文をとりあげて論じられている。
 つぎに、この謗法について、内外の二種類があること、すなわち国家社会全体の謗法と、国家の中心をなす為政者の謗法とがあり、この二つの謗法を断じて禁止しなかったならば、宗廟社禝の神々に捨てられ、国家が滅亡してしまうと述べられている。
 終わりに、伝教大師の文を引かれ、国が謗法であるならば民の数が減り衰え、家に正法を受持する人があれば、その家は栄えると述べ、各自にもこれら内外二種の謗法がある旨を述べられている。
眠れる師子に手を付けざれば瞋らず流にさをを立てざれば浪立たず謗法を呵責せざれば留難なし
 ここは、信心修行を志す者は謗法を呵責すべきことを、教示されるために説かれたところである。
 冒頭の「師子」と「流」は、本抄の「謗法に内外あり」の内と外を譬えて説いたもので、「師子」は内の謗、「流」は外の謗にあたる。すなわち「師子」は為政者、権力者をいい、「流」は社会全体、さらには、宗教界全体ともいえよう。そして、師子の瞋りとは国家権力による弾圧・迫害、流れにたつ浪は、人々の悪口、罵詈、讒奏等をいうのである。
 日蓮大聖人は立宗以来、次々と、私怨または権力による難を受けられ、一日として身の安泰な日はなかった。それは、末法正意の三大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、他の宗派の誤りを破折されたがためである。もしも、既成の諸宗の誤りを知っていても、これを破折されなければ留難はなかったであろう。しかし、大聖人は未曾有の大法を流布するのであるから、難が起こるのはむしろ当然とされていたのである。
 なぜこのような至難の道を選ばれたのか。このことについては本抄の「此の内外を禁制せずんば宗廟社禝の神に捨てられて必ず国家亡ぶべし」の御文から、大聖人の御心のうちをうかがい知るのである。初めて、国家諌暁のため、立正安国論を認め奏上された理由も、本抄と同意であることが、安国論御勘由来(三五㌻)より拝察される。「当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、定めて勅宣御教書を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。日蓮復之を対治するの方、之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり(中略)若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん、但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」(0035-09)と。
 日蓮大聖人は、この「国の為法の為人の為に」とのお心を、立宗以来、終生貫きとおされた。これこそ、末法出現の御本仏としての大確信に立たれてのお振舞いであり、そのお心は、末法の衆生を救い、さらに国土を安泰にされようとの仏の大慈悲心である。
 本抄では、次に涅槃経の「若善比丘見壊法者置不呵責」の文を引いて、謗法呵責が経文によることを述べられている。このように大聖人は経文に照らして、ご自身の説、そして行動が真実であることを証拠づけられているが、これはあくまでも衆生を教化するため、外用の立ち場をとられ、身をもって教導されるためである。しかし、ご内証はあくまでも末法出現の御本仏であり、そのいっさいの振舞いは仏の内証よりおこるのである。
 大聖人は信心修行のきびしさ、そしていかなる難に直面しても、それを避けずに戦いぬいてこそ、妙法を持つものの栄光の人生があることを、その生涯をとおして、末法万年の衆生に示された。
 われわれは、いかなる困難に直面しようが大聖人の弟子であるとの自覚にたち、不退の信心を確立したい。そして、前進のないところに成長なく、戦いのないところに自己の宿命転換も、人間革命もないことを心に期して、勇気をもち、力のかぎり、広宣流布の戦いの中に生ききってゆきたいものである。
 謗法を呵責するとは、折伏をいうのである。折伏は、相手の不幸の根源をたちきり、絶対の幸福境涯を確立させうる唯一の方法である。その行為は、人間生命の根本の哲理から、生命の尊厳を覚知させることであり、相手を主体的に敬い、尊重するものである。
凡そ謗法に内外あり国家の二是なり、外とは日本六十六ケ国の謗法是なり、内とは王城九重の謗是なり(中略)「国に謗法の声有るによつて万民数を減じ家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」と
 国家における謗法について論ずるとき、内と外の二つがある。
 まず内の謗法とは、「王城九重の謗是なり」とあるように、国王や国主など、一国の中心者が正法を誹謗し、迫害することである。また外の謗法とは、「日本六十六ケ国の謗法是なり」とあるように、一国全体の人びとの謗法をいうのである。
 はじめに、内の謗法について述べる。
 王城とは、帝王の居城のことであり、国主すなわち一国の指導者の居住するところである。この一国の指導者が、正法を謗じたとき、国土が乱れ、数々の災難が生じ、一国滅亡への道をたどっていくのである。
 ここで国主とは、国家の主権を持つ者のことであり、一国の中心者のことである。すなわち鎌倉時代においては、北条執権であり、江戸時代は、徳川将軍家である。また明治時代以後太平洋戦争の終戦までは天皇にあたる。そして現代では主権在民の原理より、民衆一人一人が主権者であり、またその代表としての政府・政治家たちがこれにあたる。ともあれ、ともに国家の明日の動向を定め、国民ひとりひとりの幸福と安泰を守りぬくべき立ち場にある最高責任者であり、一国の最高首脳陣であるといえる。
 さらにまた、せまい意味では、一家の中心者、また会社や組織の中心者なども、この原理に外れるものではないといえよう。
 そして、これら一国の指導者によって、その国の運命は決まってゆくのである。洋の東西を問わず、一国の栄枯盛衰が、一人の主権者の手にゆだねられていたことは、幾多の歴史の上に明らかなことである。
 すなわち、その指導的立ち場におかれた一人の主権者の判断によって、一国を、民族全体を、興隆させもしたし、はたまた苦悩のどん底へたたき落としもした。
 現在は、国家の中心的指導者が、ともすれば自分のおかれた責任ある立ち場を真剣にかえりみることなく、まして宗教の善悪正邪をわきまえないことはもとよりのこと、わが身の栄達にのみ窮々とし、権力と見栄にふりまわされている姿は、国家の興亡・盛衰にもかかわることであり、誠に残念なことといわざるを得ない。
 指導者が、民衆を忘れ名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義にとらわれるときは、すでに指導者たるの責任を放棄していることになる。民衆はいつの時代にあっても、常に平和と幸福を願ってやまないものである。この民衆の胸奥からの願望に応えて、血と汗を流しながら、恒久平和建設の大目的に莞爾として進みゆく者こそ、真の指導者ではないだろうか。
 次に外の謗法については、「日本六十六ケ国」とは、すべての国民大衆のことであり、庶民である。また民衆によって形成されるところの社会のことでもある。
 仁王経にいわく「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を刧かし百姓亡喪し臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん」と。
 鬼神乱るとは、人間の思考・判断が乱れることである。このような思想の乱れが、万民を乱し、はたまた国土を混乱におとしいれていくのであるとの文である。すなわち、この個人個人の思考の乱れが、総じて、日本全体を、さらには全世界を謗法の国と化してしまうのである。
 一人一人の誹謗正法の失は、ついには一国を失うことにもなる。しかしながら、個人個人が正法に帰依し、御本尊を拝し奉るならば、個人の覚醒が、一家の覚醒につながり、はたまた社会の、一国の覚醒とつながってゆくことは必定である。
 すなわち「一人の人間の変革――一人の人間の尊厳、主体性の確立――一人の人間の大いなる生命力の涌現――これこそ一切の生活、文化、政治、科学、教育、社会を、大変革してゆく、最も近道の、しかも本源的な革命である」と。
 大切なことは、一人一人の思考の乱れを直すことである。そして一人一人の胸中に偉大なる正法をうちたて、社会を、一国を正していかなくてはならないということである。
 ここに内外の謗はともに一体のものである。内の謗は、外の謗を生み、外の謗は、内の謗の温床である。指導者も、民衆もともに覚醒させていかなくてはならない。
 現代は、民衆も、指導者も、全くその根本指針となるべき哲学、宗教をもたない。それが、どれほど未来に恐るべき事態を招くことか。日蓮大聖人の偉大なる宗教こそ、社会を革命し、一国の宿命の転換をなしとげ、新しい人類文明への方向を決定づける唯一の宗教であることに、今こそ、万人が目を開くべきであろう。

1375~1375    地引御書top
1375
地引御書    弘安四年十一月    六十歳御作   与南部六郎
01   坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ・二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつりて・二十四日
02 の戌亥の時御所にすゑして・ 三十余人をもつて一日経かきまいらせ・ 並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへな
03 し、坊は地ひき山づくりし候いしに 山に二十四日・一日もかた時も雨ふる事なし、 十一月ついたちの日せうばう
04 つくり馬やつくる・ 八日は大坊のはしらだて九日十日ふき候い了んぬ、 しかるに七日は大雨・八日九日十日はく
05 もりて・ しかもあたたかなる事・春の終りのごとし、 十一日より十四日までは大雨ふり大雪下りて今に里にきへ
06 ず、 山は一丈二丈雪こほりてかたき事かねのごとし、 二十三日四日は又そらはれてさむからず人のまいる事洛中
07 かまくらのまちの申酉の時のごとし、さだめて子細あるべきか。
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 坊は十間四面の広さで、孫庇をさしだして造りあげ、二十四日は天台大師の命日にあたり、大師講と延年の舞を心ゆくまで行なった。さらに、同二十四日の戌亥の時(午後九時ころ)に、御本尊の御前に集まって、三十余人の人々によって法華経の一日写経を修した。また、それより以前、申酉(さるとり)の刻(午後五時ころ)には坊落成の供養をわずかの事故もなく終えた。
 坊は、石や木をとり除いて、山を平らにつくることから始まったが、その地ならしの間、山は二十四日間、一日も、片時も、雨が降ることなく好天気であった。十一月一日には、まず小坊を造り、馬屋をつくった。八日には、大坊の柱を立て、九日・十日の両日には屋根を葺き終えた。ところが、その間、七日は大雨、八日・九日・十日は曇って、しかもその暖かなことは、春の終わりのようであった。十一日から十四日までは大雨が降り、大雪となって、そのとき降った雪は未だに里でも消えていない。山では一丈も二丈も積もり、その雪が凍って堅いことは金(かね)のようである。二十三日、二十四日は、また空は晴れて寒くなく、そのためか、参詣者がおおぜいで、そのにぎわいはまるで京都の市内や鎌倉の町の申酉の刻(午後五時ころ)のようである。これらのことは、さぞやいわれのあることであろうか。
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08   次郎殿等の御きうだちをやのをほせと申し我が心にいれてをはします事なれば・われと地をひきはしらをたて、
09 とうひやうえむまの入道・ 三郎兵衛尉等已下の人人一人もそらくのぎなし、 坊はかまくらにては一千貫にても大
10 事とこそ申し候へ。
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 次郎殿等をはじめとする若殿たちは、親のあなたから申しつけられたこととはいえ、心から願っておられたことなので、自分から地ならしをし、柱を立てるなど励まれた。藤兵衛右馬の入道や、三郎兵衛尉等以下の人々も一人もおろそかにする人はいなかった。できあがった坊は、鎌倉では一千貫の大金を出してもできないであろうと人々はいっていた。
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11   ただし一日経は供養しさして候 、其の故は御所念の叶わせ給いて候ならば供養しはて候はん、なにと申して候
12 とも御きねんかなはずば 言のみ有りて実なく華さいてこのみなからんか、 いまも御らんぜよ此の事叶はずば今度
13 法華経にては 仏になるまじきかと存じ候はん、 叶いて候はば二人よりあひまいらせて 供養しはてまいらせ候は
14 ん、神ならはすはねぎからと申す、此の事叶はずば法華経・信じてなにかせん、事事又又申すべく候恐恐。
15       十一月廿五日                               日蓮花押
16     南部六郎殿
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 ただし一日経は途中で供養を中止させた。その故は、あなたが大坊建立にあたって立てられた念願が叶ってから、供養をし終えたいと思ったからである。坊が建立されたといっても、あなたのご祈念が叶わなければ、言葉のみあって、実がなく、華が咲いて果実がならないようなものである。今も見てごらんなさい。あなたの願いが叶わなければ、このたび法華経を信じても成仏できないのではないかと思われることであろう。願いが叶ったならば二人共々、供養し終えよう。
「神ならはすはねぎから」ともいう。この願いが叶わないならば、法華経を信じても何の甲斐もないことである。種々の事について申し上げたが、また機会ある時に申し上げる。恐恐。
  十一月二十五日            日 蓮  花 押
   南部六郎殿

またひさし
 孫庇のこと。母屋の庇の下に、さらに出し添えた小さな庇。
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延年
「延年の舞」の略称。平安中期から鎌倉・室町時代にかけて、寺院で、法会のあとの客の接待の宴で盛んに行なわれた劇的構成の舞で、種々の演芸が含まれた。
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大師請
 天台大師の忌日である11月24日に、大師の報恩のため営まれた儀式。
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一日経
 書写行の一つ。おおぜい集まって一部の経を一日に写し終えることをいう。この始まりについては、南都東大寺の法蔵が、亡き母の追善供養のために、法華経を一日のうちに写したことに始まるという。二中歴(平安末期の三善為康の撰、「掌中歴」と「懐中歴」を類聚した書)にも一行十七字詰・二十七行を一枚として、三十人で一日に書き終わったという一日経の分配、支度等が記されている。
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地ひき
 家屋などの建築の際、地鎮祭のあと、吉日を選んで工匠の長が祭主となって行う儀式。建物の形に縄を張り竹を立て、中央に祭壇を設け祝詞を奏する。じびきまつり。
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洛中
 京都市中のこと。平安初期に嵯峨天皇が平安京を唐の都に擬して、左京を洛陽城、右京を長安城と名づけたことから、左京を洛または洛中と称した。なお左京とは、内裏から南を向いて左側の意で、朱雀大路を境とし東西に分けた東側を指す。一方の右京は湿地で人が住むのに適さず早くから衰微し、左京の洛陽が平安京の代名詞となった。
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御きうだち
 親王・摂家・貴族などの子息。
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神ならはすはねぎから
 「ねぎ」は「きね」と同意で、神主や宮司の下に位する中級の神官のこと。「神はきねが習わし」とも「神はねぎのはからい」等ともいう。神は仕える人次第で、どのようにでもなるとの意。
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 本抄は弘安4年(1281)11月、南部六郎実長に与えられたものである。実長は波木井の郷に住んでいたので、波木井実長ともよばれている。波木井実長は飯野・御牧・波木井の三箇郷の地頭であったが、鎌倉の地に在住することが多かったようである。
 文永11年(1274)、大聖人が身延へ入山なされた時は、三間四面ばかりの草庵であったが、その後地頭の波木井実長は弘安4年(1281)10月から11月にかけて一族の人々をつかわして、十間四面の大坊を建築し御供養したのである。このお手紙は大坊が完成し、無事に落慶式をあげることができた際、檀那である実長に賜わったものである。
 当時、この大坊の建設は、相当の大事業であったと思われる。波木井一族をはじめ、身延周辺の人々が力を合わせて建立に当たった様子が伺われる。大坊は、立派な建物で鎌倉では一千貫文はかかるであろうといわれている。今日の我々には、当時の一千貫文の価値についてはよくわからないが、米の価格で150㌕で一貫文と、文永元年(1264)の丹波国大山荘領家年貢注文物価表にあり、また、貞永元年(1232)の摂津国の物価として、大元秘書裏書にも同じように見られることから、ほぼ推察できると思う。大夫志殿御返事には、小袖は七貫文、直垂と袴は十貫文とあることも参考になろう。波木井実長は地頭といっても、山間の貧地である波木井、御牧、飯野の三郷を領するに過ぎず、経済力もそう大きなものではなかったと思われる。したがって、かねてから念願していた大坊の建立が完成したことは、いかばかりの慶事であったか想像できよう。しかもそれは、大聖人御入滅の1年前の11月の末であったことも見のがすことができない。しかし、この御書の文面からは、このような大坊の落成の法要に、地頭である実長が参加していなかったようである。大聖人は、これをさびしく思われ、実長にたいして、貴方の願いが叶ったなら、2人寄り合って御供養を全うしようと激励なさったものと思われる。
ただし一日経は供養しさして候
 無事大坊も完成し、またちょうど天台大師の命日にもあたるので、種々の慶祝の行事がもたれ、そして、その時に書写行の一つである一日経の供養をしようと、経文を書かせはじめたのである。しかしそれを始められたのは、午後九時頃である。したがって、途中ではあるが、一日経の書写をやめさせたとおっしゃっている。
 ではなにゆえに、大聖人は、途中でやめさせるようなことをやらせたのかという疑問がおこる。
 このことは、まず地頭の波木井実長の信心を考えてみなければならない。実長は、大聖人の法門の真意を知ることができず後に日興上人に叛いた時など、世間に迎合する傾向があり、何とか古いしきたりを重んじ、儀式めいたことを好んでいたと考えられる。
 こうした地頭であるゆえに大聖人は、11月24日は大師講でもあるので、いったんは一日経の書写を行なわせたが、これはあくまで形式的なもので、決して、御本意ではなかったと考えられる。むしろ大聖人は「あなたの願いが叶ったならば、一日経の供養を全うしましょう」と事を未来に寄せて一日経の供養を途中で中止させたのである。
 大聖人の御本意は、受持即観心であり、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることにつきる。観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)とあり、また報恩抄には「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-17)とある。書写等の五種の妙行もすべて受持の一行に含まれるのであるから、一日経等を必要としないことは明らかである。
 また、第二祖日興上人も、「五人所破抄」において一日経を厳禁されている。五人所破抄には「如法・一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや」(1614-16)とある。
 すなわち、如法経や一日経は、正法、像法時代における摂受の修行なのである。したがって、末法においては、書写や読誦等の修行はまったく意味のないことである。
 ただ三大秘法の御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え、折伏行にはげむ実践こそ、末法における唯一の修行なのである。
御きねん(祈念)かなはずば言のみ有りて実なく華さいてこのみなからんか
 御本尊に願ったことが、もし叶わないならば、それは言葉だけで実証のないことになり、また花が咲いても実がならないようなものであると説かれ、さらに次に「いまも御らんぜよ此の事叶はずば今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん」と波木井実長の胸中のわずかなおごり・不信をも見のがさず信心を確立すべきことを指導されたところと拝する。そして、大坊建立という祈念が叶ったことをもって、実長の祈念も未来の成仏も絶対に叶うことを疑ってはならないと説かれている。このことは、我々の信心においても大事なことと思う。
 経王殿御返事には「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(1124-14)とあり、祈禱抄には「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(中略)とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」(1351-18)とある。
 また呵責謗法滅罪抄には「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(1132-10)とある。
 右の御文や、諸御書に明らかなように、御本尊にかけた願いは、必ず叶うという金言である。ただし「御信心をいだし」「強盛に祈り申す」「強盛に申すなり」等と、あるように、御本尊に対する強い祈りがもっとも大切なのである。
叶いて候はば二人よりあひまいらせて供養しはてまいらせ候はん
 大坊が建立し、落成の法要が営まれたとき、檀那である波木井実長はその法要に参加しなかった。
 御書の文面より推察するなら、地ならし等の建立のはじめから二か月以上に亘って、一度も身延を訪れた様子がないように見える。あるいは、病気等によるものか、また、勤務上の多忙のためであったのか。あるいは、実長の信心そのものに原因があったのか。しかし、一族の者に命じて、大坊の建立に力を入れていた実長が信心なき故に不在であったと考えることも不自然であろう。もし、病気であったとするなら、この御書の中に、それを見舞われるお言葉がありそうに思われる。とすると、何か重大な問題をかかえ、鎌倉でそれに忙殺されていたのではなかろうか。「御祈念叶はずば……」「此の事叶はずは……」と仰せられているのは、このような問題と関係があったのかも知れない。大聖人はそれをご心配なさっておられたのではないだろうか。そして、「かならずあなたの御祈念は叶うのだ。御本尊の功徳は絶対なのだ。御祈念が叶うならば、師檀共々に、より合って大坊建立の御供養を全うしよう」と激励なさったものではなかろうかと思われる。それにつけても、大檀那である実長の信心が大事であることを、「神ならはすはねぎから」という俗言を引いて指導なさったのであろう。

1376~1376    波木井殿御報top
1376
波木井殿御報    弘安五年九月    六十一歳御作
01   畏み申し候、みちのほどべち事候はで・いけがみまでつきて候、みちの間・山と申しかわと申しそこばく大事に
02 て候いけるを・ きうだちにす護せられまいらせ候いて難もなくこれまで・つきて候事をそれ入り候ながら悦び存し
03 候、さては・ やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども所らうのみにて候へば 不ぢやうなる事も候はんずら
04 ん。
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 謹んで申しあげます。身延からの道中は、なにごともなく、池上まで着くことができました。途中の山といい河といい、たいへん難儀な道のりでありましたが、御子息たちに守られて、事故なく、ここまで着けたことを、感謝するとともに喜んでおります。やがて帰る時には通らねばならない道でありますが、病身であることゆえ、もしものことがあるかも知れません。
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05   さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを 九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へば
06 いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候。
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 しかしながら、日本国中では居るところもなくて少なからずもて余している身を、身延の地で九年間にわたって帰依されたその志に対しては、言葉ではいいつくせないほど、ありがたく思っております。それだけにどこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております。
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07   又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に・いつまでもうしなふまじく候、 ひたちのゆへひかせ候は
08 んと思い候がもし人にもぞ・とられ候はん、 又そのほかいたはしく・をぼへばゆよりかへり候はんほど・かづさの
09 もばら殿のもとに・あづけをきたてまつるべく候に・ しらぬとねりをつけて候てはをぼつかなくをぼへ候、まかり
10 かへり候はんまで此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候、そのやうを御ぞんぢのために申し候、恐恐謹言。
11       九月十九日                        日 蓮
12     進上 波木井殿御報
13   所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候。
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 またあなたから付けていただいた栗鹿毛の馬は、非常に良い馬なので、いつまでも離したくありません。常陸の湯まで引いて行きたいと思ったものの、もしかしたら他の人にとられるようなことがあるかもしれない、またその他大変であろうとも思われたので常陸の湯から帰ってくるまで、上総の藻原殿のところにおあずけすることにしました。しかし扱いなれない舎人をつけたのでは少々心配なので、常陸の湯から帰って来るまでは、いままでのこの舎人をつけておこうと思っています。この由を知っておいていただくために申し上げました。恐恐謹言。
  九月十九日                 日  蓮
   進上 波木井殿 御報
   病身のゆえに印を加えません。よろしく御了承ください。

いけがみ
―――
そこばく
 ①数量の多いさま②たいそう。ひどく。程度のはなはだしいさま③若干。いくらか。本抄では②の意。
―――
きうだち
 きんだち、貴族や名門の家の子弟。ここでは、北条一門の子息たち。
―――
所らう
 所労とは①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
―――
もてあつかう
 取り扱いに困る。もてあます。
―――
きえ
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
―――
くりかげの御馬
 馬の毛の色が鹿の毛に似た色の馬のこと。
―――
ひたちのゆ
 福島県いわき市湯本町の温泉のこと。この湯の所在地については諸説あるが、日亨上人は『富士日興上人詳伝のなかで「磐城国の湯本の温泉である」と明らかにされている。
―――
かづさのもばら殿
 現在の千葉県茂原市にあたる。その藻原に住していた信者で斎藤兼綱のことを、もばら殿といった。
―――
はんぎゃう
 印鑑・実印。
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 本抄は弘安5年(1282)9月8日に日蓮大聖人が湯冶のためとして身延を下山され、19日に武州池上の家に着かれた折、身延の波木井実長(さねなが)にあてて書かれたものである。
 まず、はじめに波木井実長が、大聖人守護のためにつけられた一族や家族の人たちに守られ、無事到着されたことを喜ばれ感謝されている。
 つぎに、やがて帰山するつもりだが病気が重いことゆえ、はっきりしないと申されている。命数の幾ばくもないことを予知されていたのであろう。また、一応日本国中の人が大聖人に敵対しているなか、九年間も、自分の領内に大聖人を無事にとどめられたことを謝し、たとえどこの地で亡くなるようなことがあったとしても、墓所は身延の沢としたい旨を述べられている。そして、波木井実長がつけられた馬はよい馬なので離しがたいが、常陸へ行って帰るまで、藻原殿に舎人とともにあずけておくので承知しておいて欲しいと申されている。
いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候
 本抄は数多い大聖人のお手紙のうち、最後に認められたものである。ゆえに「いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわに」との一文は御遺言であり、他にもお弟子方それぞれに御遺言があったらしく、池上で御入滅の後は、異議なく御灰骨を身延にお移ししたのであった。
 大聖人が身延の地をえらんで入山された理由については、序講で述べてあるので詳細ははぶくが、当時の諸般の事情がそうせざるをえなかったことにある。したがって波木井実長の信心に対する難点等は、充分御承知の上であったと推察される。
 当時大聖人が、波木井実長に直接教化指導なされたのは、数えるほどしかなく、信心については、大聖人の御生前から不安定なものがあったことは充分うかがえる。では、なぜ身延定廟について本抄でこのように申されたのであろうか。
 ひとつの理由は、本抄の御文のごとく日本国中が敵対しているなか九年間も領内にとどめられたことへの謝意でもあろう。日亨上人は日興上人略伝の解説に「波木井氏の人となり薄信愎悍後必ず謗法を企て終に魔境とならん事を、故に宗祖は之れを予知し玉ひて而も聖尸を永く謗地の枯骨となさん事を深く患ひ遠く慮らせ玉ふに外ならず、是れを以って啻に常陸の温泉と方便を設け生前一度此の謗土を去らせ玉ふ者か、然りといへども9箇年所栖の山何ぞ懸恋の情なからん、故に墓をば身延の沢に立てさすべきとの御一言を残し玉ふは是れ併ら波木井氏九箇年奉養の墾志に報ひ玉ふのみ、故に文に曰く日本国にそこばく、もちあつかいて候身を九年まで御帰依候ぬる志申す計りなく候設ひいづくにて死し候とも墓をば身延の沢に立てさせ候べく候と云々」と述べられている。
 ところで、日蓮大聖人が身延に入山されると、日興上人は、甲斐、駿河の地に一大法戦を展開されている。波木井一族も、波木井の郷を中心に、多くの入信をみるにいたっており、身延へ参詣する御弟子方も多く、大聖人御入滅になる前の二、三年間は、身延の山中は大いに賑わった。
 日興上人の折伏弘教の活動は、ますます盛んとなり、ついに富士地方に熱原の法難を呼び起こしたほどである。このようにはげしい折伏活動と、さらにかわらぬ大聖人への常随給仕を尽くされていた日興上人に対し、日蓮大聖人はやがては付法の法器なりと、ひそかに定められていたことであろう。
 したがって、日蓮大聖人は「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へば」と、実長に対し仰せではあるが、「はか(墓)をばみのぶさわにせさせ候べく」とはあくまでも日興上人が、身延院主として常住なされるという大前提のもとに、安心してこのような御遺言を残されたものと推察せられるのである。すなわち、日蓮大聖人は、波木井の郷の身延に墓所を定めたのではなく、日興上人院主としての身延の地を墓所と定めたのである。
 このことを知らずして、波木井実長は大聖人がわが領地に御墓所を定められたことについて、あたかも自分が大檀那にでもなったような気持ちになっていたようである。
 そして日興上人が付嘱のとおり一宗の総貫主となられた時、波木井実長は、ことのほか喜んでいたにもかかわらず、大聖人の推察どおり日向の軟風に侵され、日興上人との師弟の契(ちぎり)を破り、日興上人身延離山の因となったのである。
 また、大聖人の身延定廟については、広宣流布の展望の中に見た時、次のごとく推察されるのである。
 すなわち、身延は地形からいっても、あくまで隠棲の場所であって、大法弘通の新しい出発点でもなければ、未来の広宣流布の中心に到底なりうる地でもない。したがって、隠棲地に適当であったと同じように、当時の情勢から身延の沢こそ墓所として実に適していたといえるのである。山峡の谷間、めったに人の訪れることのない辺地こそ、権力と戦いつつ大法弘通に、激闘の御生涯をとじられた大聖人にとっては、静かに眠る場所として、ふさわしく思われたのかも知れない。
 また、念仏宗の我が国の開祖法然の墓所をみると、没後、念仏禁止とともに、墓をあばかれて、骨を鴨川に流された例もある。こうしたことから、信者も少なく、国家権力の迫害を受けつづけていた当時としてみれば、人里離れた地に、墓所を定められたことは当然であったともいえるようである。
 ここで、古来より本抄の身延定廟の文をはじめ、「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり」(1579-01)など諸御書の文をあげて、身延を謗ずるのは仏の金言に背くとか、大聖人の遺跡、御墓に参詣しないのは向背の罪などと非難するものがあるので一言ふれておく。
 大聖人の身延における九年間、および日興上人が院主として滞在された七年間は、身延山は聖地であり、霊山にも似た地であった。しかし南条殿御返事に、「此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり……かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(1578-09)と述べられている。
 すでに地頭が謗法を犯し、日興上人が離山された後は、もはや蝉脱虚戯の空山となってしまっているのである。
 日蓮大聖人は富士一跡門徒存知の事に「甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は……」(1602-13)として、四箇の謗法を挙げて波木井との義絶を明らかにし、御廟に相通ぜざる理由をあげている。
 また、日順の五人所破抄には「日興が云く、……身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将(まさ)に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや」(1615-04)と法水の清濁に約し、法身砕身の優劣に約して破折されている。
 以上のように、大聖人の御遺言の意図は、あくまでも、正法現存の上からのことであって、謗法の地と化した身延山には、通用しないのである。

1377~1377    大井荘司入道御書top
1377
大井荘司入道御書    建治二年    五十五歳御作
01   柿三本酢一桶・くぐたち・土筆給い候い畢んぬ、唐土に天台山と云う山に竜門と申して百丈の滝あり、 此の滝
02 の麓に春の初より登らんとして多くの魚集れり、 千万に一も登ることを得れば竜となる、 魚・竜と成らんと願う
03 こと民の昇殿を望むが如く 貧なるものの財を求むるが如し、 仏に成ることも亦此くの如し彼の滝は百丈早き事合
04 張の天より箭を射徹すより早し、 此の滝へ魚登らんとすれば人集りて 羅網をかけ釣をたれ弓を以て射る左右の辺
05 に間なし、空には鵰・鷲・鵄・烏・夜は虎・狼・狐・狸何にとなく集りて食い噬む、仏になるをも是を以て知りぬべ
06 し、有情輪廻生死六道と申して我等が天竺に於て師子と生れ・漢土日本に於て虎狼野干と生れ・天には鵰・鷲・地に
07 は鹿・蛇と生れしこと数をしらず、或は鷹の前の雉・ネコの前の鼠と生れ、生ながら頭をつつき・ししむらをかまれ
08 しこと数をしらず、 一劫が間の身の骨は須弥山よりも高く大地よりも厚かるべし、 惜き身なれども云うに甲斐な
09 く奪われてこそ候いけれ、 然れば今度法華経の為に身を捨て命をも奪われ奉れば 無量無数劫の間の思ひ出なるべ
10 しと思ひ切り給うべし、穴賢穴賢、又又申すべし、恐恐謹言。
11       建治二年丙子日 蓮 花 押
12     大井荘司入道殿
――――――
 串柿三本、酢を一桶、菜のとう、つくしなどをいただきました。
 中国に天台山という山があって、そこに竜門という高さ百丈の滝があります。この滝の麓に、春の初めから、滝を登ろうとして、多くの魚が集まっていました。
 もし千万に一つでもこの滝を登ることができれば、その魚は竜となることができるのです。魚たちが竜になりたいと願うことは、ちょうど、民が宮中への昇殿を望むようなものであり、また貧しい者が財を求めるようなものです。衆生が仏になりたいと願うことも、またこのようなものです。
 かの竜門の滝は、高さ百丈もあって、その落ちる水の早いことは、強弓で上から箭を射おとすよりもさらに早いのです。
 この滝へ、魚が登ろうとすれば、人が集まってきて、網をかけ、釣糸をたれ、弓をもって射るなど、滝の左右にほとんど少しのすきまもありません。
 空には鵰や鷲、鵄、烏がねらっているし、夜になれば虎や狼、狐、狸などがどこからともなく集まってきて、とって食べてしまうのです。仏になるということも、この例をもって知りなさい。
 衆生は生死六道を輪廻するといわれていますが、われわれがインドで師子と生まれ、中国や日本においては虎や狼や野干と生まれ、あるいは天には鵰や鷲と生まれ、地には鹿や蛇と生まれたことは数えきれない。あるいは鷹にねらわれた雉と生まれたり、猫にねらわれたねずみと生まれたりして、生きながら頭をつつかれ、肉をかまれたりしたことも数えきれません。
 こうして一劫の間に生まれては死んだところのわが身の骨は須弥山よりも高く、大地よりも厚いでしょう。実に惜しいわが身ではあるけれども、いうに甲斐もないほどかんたんに生命をうばわれてきました。
 したがって、今度、法華経のために身を捨て、命を奪われるならば、これこそ無量無数劫という長い間の、この上ない思い出となると、思いきりなさい。あなかしこ。あなかしこ。また申し上げましょう。恐恐謹言。
  建治二年丙子      日 蓮  花 押
   大井荘司入道殿

くぐたち
 茎立のこと。「くく」は「茎」の古形。菜のとうをいう。とくにスズナの薹のこと。
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土筆
 つくしのこと。スギナの地下茎から生ずる胞子茎で、食用になる。
―――
天台山
 中国浙江省東部にある山。天台大師智顗が入山した。天台山国清寺は中国天台宗の中心地とされ、日本からも多くの僧が遣唐使として訪れた。
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竜門
 中国、黄河中流の急流。山西省河津と陝西省韓城との境付近にある。魚が登りきると竜になるという。
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昇殿
 平安時代以後、四位・五位以上の人および、六位の蔵人が許されて清涼殿の南面にある殿上の間に登ること。これを許された人を殿上人といい、許されない人を地下という。
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 オオワシのこと。
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有情輪廻生死六道
 「有情」とは衆生のこと。真実の仏法を知らない衆生は、三界「六道」の生命を転々と繰り返し「輪廻」するということ。
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虎狼野干
 「虎」はトラ、「狼」はオオカミ、「野干」は獣のことで、キツネの類。
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一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
須弥山
 須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。
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 本抄は、建治2年(1276)、日蓮大聖人が55歳の時に、甲斐の大井荘司入道に与えられたお手紙である。
 これより2年前の文永11年(1274)、大聖人は、2年余にわたる佐渡御流罪の生活を終え、3月26日鎌倉へお帰りになった。そして、同年4月8日、平左衛門尉に第三回目の国家諌暁をされたが、ついに聞きいれられなかったのである。そのため大聖人は「賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれ」(0323-05)との故事にならい、身延の山中に入山されたのであった。
 翌年の建治元年(1275)4月には、元の使者が再度長門(ながと)に到来、北条時宗はこの使者を斬り捨ててしまった。このことは、当然、蒙古国の怒りを煽(あお)る結果となった。
 幕府では北条実政を筑紫探題におくなどして蒙古の襲来にそなえたが、日本国中が恐怖におびえて騒然としていた時であった。
 こうした情勢にあって大聖人は、大井荘司入道に対し、たいへん短い文ではあるが、中国・天台山の竜門の滝の故事をひき、仏道修行の厳しさ、さらにその厳しさに心をひるがえすことなく、信心を全うしてゆかなければならないことを、切々と強く述べられている。
 竜門の滝を登ろうとする魚は多い。しかし、途中の苦難に負け、落ちていくものの、また何と多いことか。竜門の滝とは、一生成仏への修行の道であり、途中の鵰、鷲、鵄等とは、信心修行の道をはばもうとして立ちふさがる、あらゆる三障四魔、三類の強敵である。
 されば、御本尊を信じ、強い強い信力、行力をもって、こうしたいっさいの魔をことごとく打ち破ってこそ、はじめて個人の人間革命がなされ、一生成仏、永遠の幸福境涯を会得することができるのである。
然れば今度法華経の為に身を捨て命をも奪われ奉れば無量無数劫の間の思ひ出なるべしと思ひ切り給うべし
 われわれは、人間に生まれてきたかぎり、やがて一度は誰でも必ず死に直面しなければならない。いずれは死んでいく身であるならば、法華経のために命を捨てよ、そうするならば、それは未来永劫にわたる思い出となり、一生成仏への福運を積むことになるのであると確信していきなさいと、大聖人は仰せである。
 ここで法華経とは、いうまでもなく三大秘法の御本尊である。
 この御本尊を胸に抱きしめて人生を歩むとき、そこには「竜門の滝」を登る魚のように、ありとあらゆる魔が立ち向かってくることは必定なのである。そしてこのように広宣流布に邁進すればするほど、魔が競い起こることは当然であると覚悟して進まねばならない。
 種種御振舞御書には、「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ、所領をかへりみること・なかれ。無量劫より・このかた・をやこのため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき。譬えばゆをわかして水に入れ、火を切るにとげざるがごとし。各各思い切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり」(0910-12)とある。
 これらの文を拝する時、人間の勝利者として、永遠不滅の絶対的幸福を確立するためには、もっとも大事な身命を惜しまない信心に立って厳しい仏道修行の実践が大切であることを強く感ずるのである。
 大聖人御在世当時における幾多の先覚者は、文字通り身を捨て命を惜しまず、権力による迫害と戦い、広宣流布の基盤を固め、信心を全うしたのである。
 そして今日、創価学会のこの偉大なる発展も、ひとえに、三代にわたる創価学会会長の死身弘法の実践によって築かれたのである。第二次大戦中における牧口初代会長の獄死は、まさに「法華経の為に身を捨て命をも奪われ」た姿である。現在の我々の信心の根本姿勢もここになくてはならないと痛感する。
 今日において「身を捨て命をも奪われ」とは、広宣流布の実現のため、折伏を行じ、さらに妙法を根底とする真に幸福な社会を建設し、人間性の豊かに開花する新しい文化を創造するため、一人一人が惜しみなく力を発揮することである。かくして、この一生を、大聖人がおおせられた「今度法華経の為に身を捨て命をも奪われ奉れば無量無数劫の間の思ひ出なるべし」を胸奥に刻んで莞爾として死んでいくならば、そこには生命の根底からの変革はなされ、死は単なる死ではなく永遠の生への蘇生となるのである。
大井荘司入道について
 大井荘司入道は、波木井実長と同じく甲斐源氏の一門である。甲斐の国中巨摩郡大井鰍沢方面の大邑である大井荘の荘務を司どっていたとみられる。
 大聖人御在世の当時、甲駿の地の弘教活動が活発になり、大井荘司も日興上人より化導を受け、入信したのである。
 一説に、大井荘司入道が日興上人の父、大井橘六と同じであろうとの説もあるが、全く関係はない。これは日興上人が大井鰍沢で生まれているので、単にその父と同じと考えたものと思われる。
 この大井荘からは、小室日伝が出家している。日伝は、はじめ富士義であったが、のちに他の多数と同じく、神天上や、安国論、本迹問題等のため、軟派に染まり、違背してしまったものである。
 日興上人の弟子分帳に、「一、甲斐の国大井入道殿の孫肥前房は寂日房の弟子なり仍て日興之を与え申す、但し今は背き了んぬ」とある。
 大聖人から大井荘司入道に与えられたお手紙は、本抄の一書しかない。これは建治2年(1276)の御述作であるから、大聖人が身延において認められたものである。
 信心を全うするための厳しい仏道修行の道を教示された御書であるが、この大聖人の心もついに解らずに、一族が軟派にまきこまれていったことは、まことに残念なことといわざるをえない。

         松野殿についてtop

一 松野六郎左衛門入道
 日蓮大聖人からの御消息文をいただいた松野氏の関係者は、松野六郎左衛門入道、同妻、その子松野六郎左衛門尉、同妻の四人と考えられている。そこでこの松野一族の四人を中心に、以下刑部左衛門尉女房、妙法尼について略述することとしたい。
 松野氏は富士川の西、駿河国庵原郡松野に住んでいた。松野六郎左衛門入道の入信の時期については明らかではないが、富士宗学全集によると、日興上人の出られた岩本の関係によるか、あるいは南条家の関係によって、日蓮大聖人に縁したと考えられている。文永の初めごろには、子女の上野尼御前が入信していたことは間違いないが、六郎左衛門入道が入信していたかいないかは不明である。
 この松野家の家系については異説があって、はっきりした系図は残されていない。ここでは、日亨上人の著、「南条時光全伝」、「富士日興上人詳伝」の中より、浮かび上がったものを、系図としてまとめた。 
    松野六郎左衛門入道┬┬松野六郎左衛門尉―┐
    夫人(後家尼御前)┘│夫人(松野殿女房)┘
              │
              ├女子(上野尼御前)┐┌七郎太郎
              │南条兵衛七郎―――┴├七郎次郎時光―┐
              │          │ 夫人(妙蓮)┘
              └日持        ├七郎三郎
                         ├七郎四郎
                         ├七郎五郎
                         └女子(蓮阿尼)┐
               新田太郎重房―――┬―新田五郎重綱―┘
               妙法尼(妙光寺尼)┘        │
                     ┌―――――――――――┘ 
                     ├新田五郎次郎頼綱┬―日道
                     │      夫人┘
                     └日目
 この系図を見ると、一族の中より有為な人材を多く輩出していることがわかる。すなわち、六郎左衛門入道の息女には南条兵衛七郎夫人がおり、子息には日持がおり、孫には南条時光、曾孫には日目上人、玄孫に日道がでている。
二 松野家の一族
(1)松野六郎左衛門入道

 松野氏の入信の時期・縁子については明らかでないが、子女に南条時光母尼御前および日持などがおり、これに関連して入信したのであろう。
 松野入道は、駿河国庵原郡松野に住んでいた。生年については明らかではないが、没年については、弘安2年(1279)ごろと考えられている。前掲の系図では、子女の数は3人だけだが、その他かなり子供は多くいたようである。
 六郎左衛門入道が日蓮大聖人よりいただいたお手紙は、  
    ① 松野殿御消息
    ② 松野殿御返事
    ③ 松野殿御消息
    ④ 松野殿御返事
    ⑤ 松野殿御返事
 の五通ではないかと思われるが、子の六郎左衛門尉に与えられたものか、父の入道に与えられたものか区別し難い場合が多い。
 ここでは、これら5の御消息を松野入道に与えられたものとして、それらの御消息をとおして、考えてみたい。
 建治2年(1276)2月17日の御消息に「然るに在家の御身として皆人にくみ候に、而もいまだ見参に入り候はぬに何と思し食して御信用あるやらん、是れ偏に過去の宿植なるべし」(1379-08)とある。これよりすると、このお手紙をいただいたときは、誰かを介して、日蓮大聖人の教えに帰したものの、いまだ大聖人の所へは訪れていないようである。
 さらに、これより10ヵ月後の同年12月9日には「かかる所なれば訪う人も希なるに加様に度度音信せさせ給ふ事不思議の中の不思議なり」(1381-14)とあるが、ここでいう「音信」とは、使者をつかわして、供養の品々とともに手紙を大聖人にさし上げたことを指していっているのであろう。それは次下に「御文に云く云云」としてあるところからも明らかである。
 しかし、大聖人にはお目にかかれなくとも、信心は純粋で、度々御供養をさし上げていたようである。
 建治3年(1277)9月9日の御手紙には「鵞目一貫文・油一升・衣一・筆十管給い候、今に始めぬ御志申し尽しがたく候へば法華経・釈迦仏に任せ奉り候」(1388-01)とあるが、「今に始めぬ御志」とあることからも、そのことが推察されよう。
 大聖人は松野殿にはとくに求道心の大切なことを述べられている。「何に賎しき者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし」(1382-15)「無智の者は此の経を説く者に使われて功徳をうべし」(1383-02)「此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依法不依人此れを思ふべし」(1383-05)と再三にわたって、教示なされている。これは、ともすれば社会的な地位や、年齢等で判断する傾向をいましめられたのではあるまいか。
 また、松野殿は死を間近にしていると感じたのであろうか、「成仏」ということに対して、重大な関心を払っていたようである。それは、二編の御消息に死後の世界について述べられていることから伺い知ることができる。
 「退転なく修行して最後臨終の時を待て御覧ぜよ、妙覚の山に走り登て四方をきっと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以て地とし・金の繩を以て八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり」(1386-17)。
 さらにまた、「先立より申し候、但在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん」(1388-02)と述べられている。この後、一族に見守られながら、安祥として逝ったのであろう。
(2)日時
 一般にいわれているところでは、日持は、建長2年(1250)駿河国庵原郡松野の郷、松野六郎左衛門入道の次男として生まれ、幼名を松千代といい、7歳で出家、駿河国蒲原荘四十九院に上り、日興上人に従って甲斐公と称した。文永7年(1270)21歳で得度し、日持と名のった。のちには蓮華阿闍梨と号した。四十九院での弘教の折りに迫害を受け、追放に愚ったが師友の日興上人と共に苦難をしのんでいる。日蓮大聖人の晩年には六人本弟子の一人として、大聖人滅後の墓輪番のなかに列している。そして兄の六郎左衛門尉が、邸内に蓮華寺を創立したので止住した。正応元年(1288)6月8日には大聖人7回忌法要のため御影を池上に奉安している。永仁3年(1295)、46歳の時、突然、松野の寺を日教に托して弘教の途に立った、そして、奥州をへて北海道からシベリアに渡航し、さらには北京に進み、外蒙古まで足をのばし、そこで没したと伝えられている。

(3)松野殿御家尼御前

 松野殿後家尼御前は、さきに述べた松野六郎左衛門入道の妻と思われる、すなわち、松野六郎左衛門尉、日持、上野尼御前の母である。
 日蓮大聖人よりいただいた御消息には、松野殿後家尼御前御返事がある。
 尼御前は、大聖人に見参する前から度々御供養され、夫が亡くなって後も、以前と同様に、大聖人に御供養申し上げていたのであろう。「松野殿後家尼御前御返事」に「未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやしくこそ候へ」(1393-12)とあることからも明らかである。大聖人はその信心を「釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか」(1393-14)とほめられている。
(4)松野六郎左衛門尉
 六郎左衛門尉は、松野六郎左衛門入道の長男である。六老僧の一人、日持の兄にあたると思われる。入信は、父入道、母後家尼御前と恐らく同時であったと思われる。
 日蓮大聖人よりいただいた御消息には、浄蔵浄眼御消息がある。
 弘安三年の同御消息によれば、子息を亡くしたことで、本気で信心に励むようになったと思われる。このことは、同書に「此の子なき故に母も道心者となり父も後世者に成りて候……」(1397-09)とあることから伺うことができる。子息は、普通の人より凛々しく、心も純粋で、しかも賢かったようである。したがって、子を亡くしたことは、この上ない悲しみであったろう。それ故に、大聖人に赤裸々な姿で仏法を求め、真心から御供養申し上げたことであろうと思われる。
(5)松野殿女房
 松野殿女房は、松野六郎左衛門尉の夫人である。その出身地、父母等については不明である。入信も夫の六郎左衛門尉と同じ頃であると思われる。入信動機も夫と同じで、亡子のために道心を起こしたのであろうことは前述の通りである。
 大聖人よりいただいた御消息には、「松野殿女房御返事」二編がある。
 夫人が御本尊を持ち、立派な信心をつづけていたことは松野殿女房御返事に「法華経は初めは信ずる様なれども後遂る事かたし、譬へば水の風にうごき花の色の露に移るが如し、何として今までは持たせ給うぞ、是れ偏に前生の功力の上・釈迦仏の護給うか、たのもしし・たのもしし」(1395-06)とあることからも、それがわかろう。
 この御消息文の末尾に「委くは甲斐殿申すべし」(1395-08)とある。この甲斐殿とは、松野六郎左衛門尉の弟である日持のことである。松野殿女房からすれば義弟にあたる。松野殿夫妻は、この甲斐殿をとおして、大聖人から教えを請うていたのではないかと思われる。
 また、松野殿女房は、女性らしい細やかさで、日蓮大聖人の生活を思い、種々のものを御供養したことが手紙から伺える。弘安2年(1279)6月20日の御消息には「麦一箱・いゑのいも一籠」(1394-01)と、翌年の御消息には「白米一斗・芋一駄・梨子一籠・名荷・はじかみ・枝大豆・ゑびね」(1395-01)とあり、いかにも女性らしい心づかいのうかがわれる品々である。
 以上が、松野六郎左衛門入道、その妻、松野六郎左衛門尉、その妻の四人についてである。松野一族は日蓮大聖人の晩年に入信した篤信の人々であったようである。だが、大聖人滅後には一族の一人であり、また六老僧の一人である日持が、日昭、日朗、日向、日頂の四老僧とともに、天台沙門を名乗り、本迹一致を唱えて、師である日興上人に違背した。また、眷属である松野一族の中からも退転者が出ている。したがって、真実の法を正しく持ち続けることは、実に大変なことであるということが痛感される。
(6)刑部左衛門尉女房
 お手紙の最後に「尾張刑部左衛門尉女房御返事」とあるから、尾張国に住んでいたと考えられる。御消息も一編だけで、女房についての叙述がないために詳しいことはわからない。松野殿とは親戚関係にあったらしい。
 母の13年忌で日蓮大聖人に銭20貫も御供養している。それから考えると、豪族の夫人であったと思われる。文永3年(1266)の頃の物価を記した、「丹波国大山荘領家年貢注文物価表」によると、当時は、銭1貫文で米180㎏であった。
 したがって、刑部左衛門尉女房は、米20石にもおよぶほどの大金を御供養したわけである。富木殿でさえ、たびたび金銭で御供養しているが、多くは銭1貫文、多くて銭7貫文の御供養であった。
 こうしてみると、女の身でありながら、銭20貫目もの大金を御供養したところから、大変裕福な生活をしていたと考えられる。
 日蓮大聖人から、その返書として供養の受納を報ぜられるとともに、孝養の徳について賞讃され、刑部左衛門尉女房御返事をいただいている。
(7)妙法尼
 妙法尼には、古来から、同名異人説があり、一人は四条金吾の母、一人は駿河岡宮の尼、一人は中興入道の母としている。だが「松野殿御返事」の妙法尼は、いずれであるとも判明しない。ただ、松野一族に関係のある女性であろうと考えられるだけである。
 松野家の系図に示したが、南条時光の姉、蓮阿尼は新田五郎重綱の夫人であるが、その重綱の母に妙法尼という人がいる。松野一族の中から新田家へ嫁いだものかどうかは明らかではないが、たとえそうでなくとも、南条家とは親戚関係にあり、松野家との関係もでてくる。
 大聖人からいただいたお手紙は松野殿御返事一遍である。妙法尼が干飯・古酒を御供養したのに対して、草花や木の皮の香を供養しても功徳があるのだから、まして人が苦労して作った米や酒を供養した女人の成仏は疑いないと説かれている。
三 時代的背景
 松野一族への御消息が書かれた時期は、建治2年(1276)2二月~弘安3年(1280)10月までの約5年間である。
 この5年間を歴史的にみると、建治2年(1276)の前々年である文永11年(1274)には、第一回の蒙古襲来、いわゆる「文永の役」があった。さらに、弘安4年(1281)には第二回の蒙古襲来「弘安の役」があり、両度の外敵侵略を前後としたその間の不穏な時が、この5年間なのである。
 日蓮大聖人は文永11年(1274)2月に佐渡より赦免され、3月、鎌倉に帰られた。そして、4月8日には平左衛門に諫言したが、ついに用いられなかったので、5月12日、鎌倉を出て身延の山に入られたのである。建治2年(1276)はそれから約2年後にあたる。
 この5年の間に大聖人がしたためられた御抄は、現存するだけでも150余編にのぼる。大聖人の身延に滞在された9年間に書かれた御抄は、現存するもので、200余編である。したがって、その3/4をこの間に書かれたことになる。十大部では、報恩抄、四信五品抄、下山御消息、本尊問答抄がこの時期に書かれている。ほかに法華初心成仏抄、種種御振舞御書、三沢抄、三世諸仏総勘文抄、諌暁八幡抄がある。
 50の坂を越えられ、なおかつ常人の及ばぬ活躍は、今を置いて妙法を後世に遺す時はない、との決意に立たれたからであろう。しかも、来るべき広宣流布の時のために、我が身の衰弱と闘われながら、全ての哲理を遺そうと書かれたものと推察される。
 他方、この間にあって、大聖人一門にとって大変な事件が起きた。それが熱原の法難である。
 この法難の原因は、文永11年(1274)年に日興上人が岩本の実相寺を本拠に富士地方の折伏弘教を展開したことによる。日興上人の弘教は、実相寺、四十九院、滝泉寺と天台宗系の寺を中心に行なわれた。この結果、実相寺では甲斐公日持、下野公賢秀、豊前坊、肥後坊、円乗坊、筑前房等が日興上人の弟子分となり、四十九院では、治部公日位、滝泉寺では、下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円らが帰伏した。こうした活発な動きが、実相寺、四十九院、滝泉寺の院主代を驚かせ、日興上人門下の追い出しにかからせる結果となったのである。滝泉寺では、日秀、日弁が坊舎を離れた。だが、当時の寺院は宗派をこえて求道心のある人は包容するのが慣例であり、しかも、それぞれの坊は、師匠から譲り受けたものであったから、院主の不合理な要求には厳しく対決したのである。
 しかし結局、建治三年から四年にかけて、三か寺の日興上人門下は日秀、日弁につづいて、俗僧の肥後坊、豊前房、筑前坊を除いて、全て追い出されてしまった。俗僧達には下男も家族もあるので、必要以上の摩擦は避けざるを得なかったからである。一方、日秀、日弁は陰に回り、弘教を繰り広げた、その結果、熱原市庭寺一帯には、日秀、日弁を敬う者が集まった。その中の主な者が、神四郎、弥四郎、弥五郎、弥六郎であった。
 熱原の百姓、神四郎、弥五郎、弥六郎達は僧侶に代わって、妙法の正義、三時弘教の次第を宣べ、念仏を破折しはじめたのである。滝泉寺の院主代行智は、道理では歯がたたないために、権力でこれを弾圧しようと考えていた。そのため、神四郎と弥五郎の兄の弥藤次入道を抱き込み、さらに、熱原一帯を領する北条家の下方政所の長官・別当代も味方に引き入れ、さらには周辺の大寺の院主代とも結託したのである。加えて、大聖人門下である太田親昌、長崎次郎兵衛を離反させ、大聖人から派遣された三位坊、大進房までも甘言をもって味方にしたのである。こうして、日蓮大聖人門下を弾圧する機会を待っていたのである。
 弘安2年(1279)年4月、浅間神社の祭礼の最中に、行智、弥藤次、別当代の細工で、信者の四郎が半殺しの目にあった。八月には弥四郎は頸(くび)を斬られたのである。
 弘安2年(1279)9月21日、大法難が起きた。この日、日秀自作の田畑へ、神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟以下20人が、日秀の徳に報いようと、稲刈りを手伝っていると、下方政所の役人が来て、20人をしばり、政所へ引っ立てた。罪状は院主分の稲を盗んだ、ということである。20人は取り調べのため、下方政所より問註所に移され、その頭人の平左衛門尉頼綱に厳しい訊問を受けた。というよりも、信仰を止めよ、法華経を捨てよ、との拷問がなされたのである。だが、神四郎、弥五郎、弥六郎等20名は、ますます不動の信心に立ち、権力の圧迫をはねのけた。このため、見せしめとして、神四郎、弥五郎、弥六郎は頸をはねられ、あとの17名は追放された。
 この法難を契機に大聖人は弘安2年(1279)10月12日に、末法の大御本尊を建立なされたのである。
 ともあれ、そんな時代であるから、日蓮大聖人の弟子となることは、生活していく上でも、種々の社会的な圧力を受け、大変なことであった。池上兄弟のように父から勘当されたり、南条時光などは、熱原の法難で迫害を受けた神主を外護したが故に、重い税をかけられ、自分の乗る馬すらなくなってしまうほどの苦しい生活を強いられた。また、四条金吾は主君江馬光時への、同僚の讒言によって、建治2年(1276)に越後へ減俸左遷の問題が起きるなど、それは想像に絶するものであった。
 このような中にあって、いまだ大聖人にもお目にかからないのに、真剣に信心に励み、身延の山中へ供養の品々を届けた松野六郎左衛門尉入道夫妻の信心がいかに純粋なものであったか、頭の下がる思いを禁じえない。駿河地方の松野に住み、南条家と親戚関係にあった松野一族は、これらすべての事件を承知だったはずであるし、世間の悪にもたえず耳にしていたにちがいない。そうした風潮にまどわされずに、ひたすら信心をつづけていった姿は大いに見習わなければなるまい。
 だが、大聖人の弟子方が不幸で大変な生活を送られたままで終わっているのではない。四条金吾は建治4年(1278)、主君江馬光時からの加害は止み、かえって所領を増す結果となったのである。
 南条時光も、後には、左衛門尉に任官し、10数人の子供たちに囲まれて幸せな家庭を築いているのである。
 池上兄弟はついに父を入信させることができ、父の死後、宗仲が家督を継ぎ、弘安5年(1282)、大聖人が池上邸で御入滅されたが、その葬送の時には、宗仲は四条金吾とともに旗をかかげ、弟の宗長は、太刀を奉持して、その列に連なったのである。
 建治2年(1276)~弘安3年(1280)にかけての五年間は日蓮大聖人が身延にあって、弟子の養成と令法久住の原典を遺された時期であったと拝察する。

1378~1380    松野殿御消息top
1378:01~1379:07 第一章 法華経を持つ男女の位を明かすtop
1378
松野殿御消息
01   柑子一篭・種種の物送り給候、 法華経第七巻薬王品に云く衆星の中に月天子最も為第一なり此の法華経も亦復
02 是くの如し、 千万億種の諸の経法の中に於て最も為照明なり云云、 文の意は虚空の星は或は半里或は一里或は八
03 里或は十六里なり、天の満月輪は八百里にてをはします、華厳経六十巻或は八十巻・般若経六百巻・方等経六十巻・
04 涅槃経四十巻三十六巻・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・観経・阿弥陀経等の無量無辺の諸経は星の如し、法華経は月
05 の如しと説かれて候経文なり、此れは竜樹菩薩・無著菩薩・天台大師・善無畏三蔵等の論師・人師の言にもあらず、
06 教主釈尊の金言なり・ 譬へば天子の一言の如し、 又法華経の薬王品に云く能く是の経典を受持すること有らん者
07 も亦復是くの如し 一切衆生の中に於て亦為第一等云云、 文の意は法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候
08 へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり、何に況や日本国
09 の大臣公卿.源平の侍.百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならばキョウ尸迦女.吉祥天女・漢の李夫人.楊貴妃等
10 の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候、 案ずるに経文の如く申さんとすれば をびただしき様なり人も
11 ちゐん事もかたし、 此れを信ぜじと思へば如来の金言を疑ふ失は経文明かに阿鼻地獄の業と見へぬ、 進退わづら
12 ひ有り何がせん、 此の法門を教主釈尊は四十余年が間はムネの内にかくさせ給う、さりとてはとて御年七十二と申
13 せしに南閻浮提の中天竺・王舎城の丑寅・耆闍崛山にして説かせ給いき、 今日本国には仏・御入滅一千四百余年と
14 申せしに来りぬ、夫より今七百余年なり、 先き一千四百余年が間は日本国の人・国王・大臣・乃至万民一人も此の
15 事を知らず。
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 柑子一かご、そのほか種々の物をお送りいただきました。
 法華経第七巻薬王品第二十三にいうには「多くの星の中で、月天子の光が最第一である。この法華経もまたこのようなものである。千万億種類といわれる膨大な経法の中において、最もその光が明らかである」と。
 この文の意味は、天空の星は、あるいは半里、あるいは一里、あるいは八里、あるいは十六里といわれている。天の満月は八百里といわれる。
 一代聖教のうち、華厳経六十巻あるいは八十巻、般若経六百巻、方等経六十巻、涅槃経四十巻あるいは三十六巻、大日経、金剛頂経、蘇悉地経、観経、阿弥陀経などの無量無辺の諸経は、ちょうど星のようなものであり、法華経は月のようなものであると説かれている経文なのである。
 これは、竜樹菩薩、無著菩薩、天台大師、善無畏三蔵などの、論師や人師の言葉ではない。教主釈尊の御金言なのである。たとえば天子の一言のようなものである。
 また、法華経の薬王品にいうには「よくこの経典を受持することのある者も、また、このようであって、すべての衆生の中において、これまた第一である」と。
 文の意味は、法華経を持つ人は、男ならばどんな身分の低い一百姓であっても、三界の主である大梵天王、帝釈天、四大天王、転輪聖王、また中国、日本の国主よりも勝れている。ましてや、日本一国の大臣や公卿、源氏や平家の侍、または百姓などに勝れていることはいうにおよばない。
 女性ならば、憍尸迦女、吉祥天女、あるいは漢の李夫人、楊貴妃などの無量無辺のいっさいの女人に勝れていると説かれているのである。
 考えてみるのに、この経文を信じて、その通りに仏法を説こうとするならば、難が競い起こり、大変なありさまである。人々が信じることもむずかしい。だからといって、この経文を信じまいと思うと、仏の金言を疑うことになる。その失は、法華経の文に明らかに、阿鼻地獄へ堕ちると説かれている。経文のように信じていくか、どうするか、進退きわまってしまう。どのようにすべきであろうか。この法門を、教主釈尊は四十余年間というものは、胸の内にかくして説かれなかった。そのままでは不便と思って、御年七十二歳にいたって、南閻浮提のうちの中インドの王舎城の東北にある耆闍崛山において初めて明かされたのである。 
 今、日本国には、釈迦仏が入滅されて一千四百余年という時に仏法が渡ってきたのである。それより、現在は七百余年たっているが、先きの一千四百余年の間は、日本国の人は、国王・大臣をはじめとして万民にいたるまで一人もこのことを知る者はなかった。
 今日、このように法華経が渡って来たけれども、あるいは念仏を称えたり、あるいは真言に懸命となり、禅宗や持斎などを信じ、あるいは法華経を読む人はあっても、その文底の南無妙法蓮華経を唱える人は日本国に一人もいなかった。
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1379
01   今此の法華経わたらせ給へども或は念仏を申し・或は真言にいとまを入れ・禅宗持斎なんど申し或は法華経を読
02 む人は有りしかども 南無妙法蓮華経と唱うる人は日本国に一人も無し、 日蓮始めて建長五年夏の始より二十余年
03 が間・唯一人・ 当時の人の念仏を申すやうに唱うれば人ごとに是れを笑ひ・結句はのりうち切り流し頚をはねんと
04 せらるること.一日・二日・一月・二月.一年・二年ならざればこらふべしともをぼえ候はねども、此の経の文を見候
05 へば檀王と申せし王は千歳が間・ 阿私仙人に責めつかはれ身を牀となし給ふ、不軽菩薩と申せし僧は多年が間・悪
06 口罵詈せられ刀杖瓦礫を蒙り、 薬王菩薩と申せし菩薩は千二百年が間身をやき七万二千歳ひぢを焼き給ふ、 此れ
07 を見はんべるに何なる責め有りともいかでかさてせき留むべきと思ふ心に今まで退転候はず。
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 日蓮が初めて建長五年夏の始めから二十余年の間、誰一人、当時の人のほとんどが念仏を称えているように、法華経の題目を唱えたところが、人は皆、あざけり笑い、遂には、ののしり、あるいは打ったり、斬ったり、流罪にしたり、頸をはねようとさえした。これは、一日、二日、一か月、二か月あるいは一年、二年などというようなものではなかったので、とても堪えきれるとは思われなかったけれど、法華経の文を見れば、須頭檀王という王は正法を求めるために千歳の間、阿私仙人に責めつかわれ、身を床のごとくして給仕をしたのである。不軽菩薩という僧は、長年の間、あらゆる人達から悪口をいわれ、ののしられ、刀や杖や瓦礫の難を受けた。薬王菩薩という菩薩は、仏を供養するために、千二百年という間、身を焼き、七万二千歳という間、臂を焼いたとある。 
 これらの経文を見るにつけ、どのような難があっても、どのように責められようとも、どうして、法華弘通の志を止めることができようかと思う心で、今にいたるまで退転しなかったのである。

柑子
 ミカンの一種。
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月天子
 阿含経では月を神格化して月天子と呼ぶ。
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華厳経六十巻或は八十巻
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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般若経六百巻
 「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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方等経
 ①大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。大乗②方等部の経典。③十二部経のこと。
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涅槃経四十巻三十六巻
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。
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金剛頂経
 もとは単一の経典ではなく、大日如来が18の会座で説いたとされるものを集めた経典の総称。一般に「金剛頂経」という場合、このうち初会の一部を訳して一経としたものをさす。漢訳には、金剛智が訳した金剛頂瑜伽中略出念誦経4巻と、弟子の不空が訳した金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経3巻がある。金剛界を説いた経とされ、大日経とともに密教の根本聖典とされる。金剛界三十七尊が明かされ、金剛界曼荼羅とその供養法などが説かれている。
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蘇悉地経
 蘇悉地羯羅経の略。中国・唐の善無畏訳。3巻。成立史の上からは、大日経に先行する経典と考えられており、さまざまな密教儀礼や行者の規範を説いている。
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観経
 中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
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阿弥陀経
 中国・後秦の鳩摩羅什訳。1巻。阿弥陀仏がいる極楽世界の様子を述べ、阿弥陀仏を一心に念ずることで極楽世界に生まれることができると説く。浄土三部経の一つ。
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無著菩薩
 「無著」梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
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善無畏三蔵
 (0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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論師
 「論」を著して仏法を宣揚する人。例えば、正法時代の竜樹(ナーガールジュナ)、世親(天親、ヴァスバンドゥ)など。
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人師
 論師に対する言葉。「経」「論」を解釈して人々を導く人のこと。例えば、像法時代の天台大師智顗、妙楽大師湛然などをさす。
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田夫
 農夫・農民。
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三界の主
 迷いの衆生が生死を繰り返す、欲界、色界、無色界の三界の主のこと。① 仏のことをいう。法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とある。[後文割愛。講義の末尾に追記し、割愛した理由を付す]。② 三界の主神で、色界の初禅天の高楼閣に住する大梵天王のこと。③ 三界のうち、欲界の第六天の主、他化自在天のこと。
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大梵天王
 梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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釈提桓因
 帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
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四大天王
 帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する
―――
転輪聖王
 全世界を統治するとされる理想の王のこと。転輪王、輪王ともいう。天から輪宝という武器を授かり、国土を支配するとされる。その徳に応じて授かる輪宝に金・銀・銅・鉄の4種があり、支配する領域の範囲も異なるという。金輪王は四大洲、銀輪王は東西南の3洲、銅輪王は東南の2洲、鉄輪王は南閻浮提のみを治める。
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大臣
 太政官の上官の長。
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公卿
 朝廷や王族に仕える貴族の総称。
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憍尸迦女
 帝釈天の妃。
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吉祥天女
 仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたもの。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。
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漢の李夫人
 中国・前漢代の武帝の寵姫。漢書巻九十七上によれば、楽人の出身であったが、一顧すれば城を傾け、再顧すれば国を傾けるというほどの絶世の美人であり、舞もよくしたので武帝の愛を一身に受けたという。美人の形容である傾城・傾国はここから出たという。
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楊貴妃
 (0719~0756)。玄宗皇帝の寵妃。はじめ玄宗の皇子の寿王瑁の妃であったが、玄宗に見い出され、その寵愛を一身に受けた。一族を高位高官に就かせて権勢を誇ったため、国政は乱れて人々の反感を買い、ついに楊氏打倒を名目として安禄山の乱が起きた。難を逃がれて四川省に向かう途中、殺された。
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阿鼻地獄
 阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
―――
南閻浮提
 閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
―――
中天竺
 天竺とはインドの古称。東天竺・西天竺・南天竺・北天竺・中天竺の五つをいう。
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王舎城の丑寅
 王舎城はサンスクリットのラージャグリハの音写。古代インドのマガダ国の首都。現在のビハール州のラージギルにあたる。丑寅は方位を示し、北東。
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耆闍崛山
 古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
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御入滅一千四百余年
 釈迦の御入滅から日本に仏法公伝するまでの期間。
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禅宗
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
―――
持斎
 仏道修行者が守るきまりである戒と律のこと。持斎とは戒律を持つもの。
―――
建長五年の夏
 立宗宣言をなされた時期をいう。大聖人は建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、日蓮大聖人が32歳の時に清澄寺で、末法の人々が信ずるべき成仏の根本法は南無妙法蓮華経であると宣言されたこと。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることを意味する。この時、念仏宗など諸宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、念仏の強信者であった地頭の東条景信が、危害を加えようとしたが、大聖人はかろうじて難を免れた。その後、大聖人は御入滅まで30年近くにわたり、南無妙法蓮華経を忍難弘通された。
―――
のりうち切り流し頚をはねん
 「のり」は、ののしること。「うち」は打つこと。「切り」切りつけることで文永元年(1264)11月11日の小松原法難、文永8年(1271)9月12日の竜口法難。「流し」は遠流で弘長元年(1261)5月12~弘長3年(1263)2月22日の伊豆流罪、文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)2月14日までの佐渡流罪。「頚をはねん」は斬首、文永8年(1271)9月12日の竜口法難をいう。
―――
こらふべし
 耐え忍ぶこと。
―――
檀王と申せし王は……身を牀となし給ふ
 檀王は須頭檀王のことで、釈尊の過去世における因位の修行をしているときの名。正法を求めるために王位を捨てて、阿私仙人に随い、薪を拾い、水を汲み、身をもって牀座として千歳の間供養して、ついに成仏することができた。このときの仏道修行のことをさす。法華経提婆達多品第十二にある。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。釈尊の過去世における修行の姿の一つ。威音王仏の像法の時代に仏道修行をし、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉、「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻、鳩摩羅什の漢訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という)を唱えながら、出会ったすべての人を礼拝したが、増上慢の人々から迫害された。この修行が成仏の因となったと説かれる。【日蓮大聖人の弘通との対比】不軽菩薩の弘通と大聖人の弘通との対比は、次の御文に示されている。「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(「顕仏未来記」、507㌻)。「過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向って唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり」(「教行証御書」、1276~1277㌻)。以上から、不軽菩薩と大聖人の正法弘通における共通点は、次の点に整理できる。①教。法華経の要法を広める(ただし不軽菩薩の「二十四字の法華経」は法華経一部の要旨であり、広・略・要でいえば略にあたるのに対して、大聖人の「妙法蓮華経の五字」は法華経の所詮の法体であり、真の意味での要にあたる)。②機。逆縁の衆生への化導。衆生の機根が劣悪であり、ただちに法華経を説いて衆生に反発されても縁を結ばせる逆縁の化導を中心に行った。③時。仏の亡くなった後の乱れた世の中に出現し難を耐え忍んで弘通した。④行者の位。不軽菩薩は初随喜の位、大聖人は名字即の位という、いずれも菩薩として初信の位であった。不軽菩薩の実践は、仏の滅後の悪世における法華経弘通の方軌を示しており、大聖人もこの方軌に則って法華経を弘通されている。それ故、不軽品を御自身の弘通の例とされている。
―――
薬王菩薩
 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
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 本抄は、建治2年(1276)2月、松野六郎左衛門入道に与えられたお手紙と思われる。入道が、身延におられる大聖人のもとへ、みかんや、種々の品物を送られたことに対し、末法の法華経の行者に供養するその功徳のすばらしさを述べられたものである。
 まず、法華経が他の一切経に勝れていることを述べられ、その法華経を持つ者も同じように一切の諸人に勝れていることを論じられている。
 しかし、仏法が日本に渡ってより七百余年の間、実に建長5年(1253)4月、日蓮大聖人が初めて南無妙法蓮華経と唱えられるまでは、法華経を読んでも、南無妙法蓮華経と唱える人は、一人もいなかったのである。
 しかるに、日蓮大聖人の烈々たる大慈悲の弘教に対し、幕府はかえって襲撃や、伊豆、佐渡への流罪という迫害をもって報いたのであった。
 大聖人はこれらの難をうけながらも、過去の法華経の行者が、弘法のために、きびしい難に値っていることをあげられ、何なる責め、苦難があろうとも、どうして、法華経の行者としての実践をやめることができようかと、強い確信をもって述べられている。
 お手紙を書かれた当時も、厳寒の身延にあって、大聖人御自身は勿論のこと、各方面の弟子方にとっても、きびしい毎日の連続であった。
 そうした情勢のなかで、いまだ一度もお逢いしたことのない松野六郎左衛門が、大聖人を信じ、しかも供養をされるというその真心に対し、大聖人は、きっと過去世よりの宿習であろうかと、仰せになっておられ、このように法華経の行者を供養する功徳のいかに大きいかを述べられている。
法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ(中略)女人ならば憍尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候
 この文は、法華経薬王品の「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復た是の如く、一切衆生の中に於いて、亦た為れ第一」の文を、法華経を持つ男女の立ち場に分けて述べられたものである。
 ここでいう法華経は、一往は釈尊出世の本懐たる法華経二十八品であるが、元意は三大秘法の大御本尊のことである。その大御本尊を持つ人は、男の人であるならば、どんな身分の低い賤しい人でも、三界の主たる大梵天や、帝釈天、また四大天王、転輪聖王、あるいはまた、漢土、日本の国主等よりも、はるかに勝れているのである。また女の人であるならば、南無妙法蓮華経と唱える人は、世間で才能と福徳などを兼備した身分の高い女人と思われている憍尸迦女、吉祥天女、漢の李夫人、楊貴妃などのような数多くの女性よりも、さらに勝れていると仰せである。
 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える者の位について、四信五品抄にも「此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(0342-06)と述べられている。
 すなわち、ひとたび大御本尊を受持した人は、現在でいうならば大学者などよりも、また大指導者といわれる人々よりも、はるかに勝れているということである。ここに大梵天とは、色界初禅天の主で、娑婆世界を領するといわれる。また帝釈天は欲界第二の忉利天の主であり、四大天王は四州を領し、転輪王は四方を降伏せしめている王である。現代社会においては、梵天・帝釈・転輪聖王とは、一国の元首、また世界各国の指導的立ち場にある人々のことである。したがって、ひとたび南無妙法蓮華経と唱え、御本尊を受持する人は、世間一般に指導者と呼ばれているこれらの人々より、はるかに勝れていると仰せなのである。
 また憍尸迦女とは、帝釈天の妃である。吉祥夫人とは、功徳天女とも呼ばれ、姿、かたちが美しく、人々に福徳を与える天神といわれる。漢の李夫人とは、前漢の武帝の夫人であり、才たけているといわれる。楊貴妃は、中国唐朝の玄宗皇帝の寵妃であり、美貌の持ち主で音楽や歌、舞いなどに秀でていた女人である。いずれも、歴史上において、福徳・美徳・才媛等で名をはせた人々であり、女性の代表的存在であるといえよう。日蓮大聖人は、これらの才能ある人、智慧勝れている人、また美貌の持ち主といえども、法華経の御本尊を持ち、南無妙法蓮華経と唱えた女人の方が、はるかに勝れていると仰せなのである。
 この御文こそ、大聖人の仏法が、民衆を最高位に置く思想であり、人間としての価値を発揮していく、生命の哲学であることを明確に物語るものである。
 過去現在を問わず、男性であるならば、名誉、地位、そして学歴、経済力等を得ることを人生の目的とした者が、ほとんどであるといえよう。しかし、仏法の生命観に照らして見るならば、いずれも真実の幸福を得た者とはいえない。いかなる栄誉も、権力も、また一国の王たりとも、その地位は、いつか、必ず崩れ去ってゆくことは、歴史の興亡流転を見ても、明らかなことである。やがて、はかなく消え去ってしまう、これらの無常の福徳による人生ではなく、最高の哲学による成仏を求める姿こそ、永遠に消えることのない、最大の福徳に満ちた人生である。そして、これこそ、真実の財産であり、名誉であると自覚すべきである。崇峻天皇御書に「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(1173-15)と仰せられている。心とは信心のことである。ゆえに「法華経を持つ人は……日本の国主等にも勝れたり」と大聖人は仰せなのである。
 女性も同じである。美貌や財産によって築かれた生活は、時がたてば、いつしか衰えていくものである。このような、形ばかりの、はかない幸福を求めるのではなく、いつの時代にあっても「無量無辺の一切の女人に勝れたり」といえる境涯は、最高の幸福境涯・成仏することによってのみ、得られるということを知るべきである。
 そして、ただひたすらに大御本尊に向かって題目を唱え奉り、己が境地を開き、人間革命に邁進する男女の姿こそ、最高の人といえるのである。
進退わづらひ有り何がせん
 法華経薬王品に「此の法華経も亦復た是の如く、諸の如来の説きたまう所の経の中に於いて、最も為れ深大なり」また「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復た是の如く、一切衆生の中に於いて、亦た為れ第一なり」等と説かれている。
 だが、この経文のごとく信じて仏法を説いてゆくならば、難がきそうことは必定であり、人々もおそらく信じがたいであろう。しかしまた、法華経を信じまいとするならば、仏の金言を疑うことになり、その不信という失により、明らかに無間地獄に堕ちてしまうことになる。かくのごとき状態にあって、いかにしたものかと考え、迷ってしまうと、大聖人は仰せになっているのである。
 もちろん、日蓮大聖人は、末法におけるただお一人の法華経の行者であり、末法の御本仏である。したがって微塵も迷われることなど、あろうはずはない。
 ここで一往迷っていると大聖人が述べられているのは、示同凡夫の立ち場から、このように申されているのであって、身命に及ぶ数々の難をのりきられた、厳然たる御振舞いから拝するならば、大聖人が「進退わづらひ有り」などと、迷われるわけがないのである。むしろ、大聖人の一生こそ、仏の金言を一つも残さず、全てを身口意の三業で読みきらんとされたものであり、事実、ただお一人の実践であったのである。
 人生においては、時に、進むべきか、退くべきかの、重要な決定がなされるべき瞬間がある。そして、その瞬間に、その人の醜さも、美しさも、虚偽も、誠実もすべて縮図されていくものだ。
 信心の実践もまた同じである。「進退わづらひ有り何がせん」という瞬間こそ、人間革命の、決定的瞬間である。進むに進めず、退くに退けない、人生の究極のあり方が問われる時こそ、実は最大の、成仏への好機なのである。進退を決めるのは、一念にある。仏法が、一念を、最も重視するのは、ここに人生の決め手があるからである。
日蓮始めて建長五年夏の始より二十余年が間・唯一人等云云
 日蓮大聖人が、一切衆生を救済する大仏法・三大秘法の立宗宣言をなされたのは、建長5年(1253)4月28日であった。
 当時の世相は、天変地夭、疫病の流行、飢饉など、物情騒然たるものであり、こうした人心の不安と動揺につけこんで、新興宗教がはびこっていた。
 なかでも、もっとも大きな勢力をもっていたのが念仏宗であった。上下万人のほとんどが、一様に極楽往生をたのんで、口々に念仏を称えていたのである。
 そして次第に、念仏宗の説く厭世的な末法思想が民衆の心を強く支配するようになった。これらの人々は、死後の世界・極楽浄土への憧憬を強く持ち、自殺者までも続出するというほど、念仏への執着には、根強いものがあった。
 こうした状態の中に、日蓮大聖人は立宗宣言をなされて以来、四箇の格言をもって、念仏は無間地獄に堕ちると、徹底的に破折され、ただひとり民衆救済のために、南無妙法蓮華経と唱え続けられたのである。
 したがって、幕府をはじめとして、当時の人々は、大聖人を〝念仏のかたき〟と口々に罵り、迫害、弾圧を加えたのは、当然のことであったろう。
 しかし、日蓮大聖人の民衆救済の一念は、さらに強く、御本仏としての確信に立たれた法華弘通の法戦は、さらに法難の嵐を呼び起こしたのである。
 まさに建長5年(1253)より現在に至るまで20余年の間、大聖人のご生活は、勧持品などの経文に予言されたとおりの数々の難の連続であったといえる。
 すなわち、文応元年(1260)7月16日に立正安国論を献じてより、同8月27日には、松葉ケ谷にある大聖人の草庵が襲撃にあい、翌弘長元年(1261)5月12日には、伊豆へ御流罪となられた。また文永元年(1264)11月11日には、安房の国、東条郷の地頭・東条景信に小松原で要撃され、大聖人は額に傷を受けられ、また左の手を折られるという難にあわれている。
 さらに文永8年(1271)9月12日には、竜の口で頸の座に、そして、さらには、翌10月に鎌倉幕府の命によって、佐渡の国へ流された。このように、大聖人は「数数見擯出」の明文を身をもって読まれたのである。
 またその間、鎌倉をはじめとし、各地の弟子たちの間にも、過料、追放、讒言等、さまざまな形で難が起こり、大聖人に縁する多くの人々が法難を受けたのであった。このように、大聖人の一生は、身命におよぶ難の歴史であった。
 これに対して、過去の法華経の行者はどうであったろうか。
 檀王は、仏道を求めるために、千年の間身を床として阿私仙人に仕え、同じく不軽菩薩は刀や杖や石で打たれ、また長い間悪口罵詈されつづけた。また薬王菩薩は身を焼きひじを焼いて仏に仕え、仏道を求めたのであった。大聖人はこれらの過去の行者たちの難に値った姿をご覧になって、御自身の難をしのばれ、退転なく今日に至ったと仰せである。
 しかし、これは当時の大難を見て疑いを起こす者が多かったので、過去の例を引かれて、そのような疑いを晴らされようとした一往の仰せであった。大聖人にとっては、このような大難はすでに覚悟のうえのことであり、当然のことであったのである。佐渡流罪に当たっても、土木殿御返事には「本よりごして候へば・なげかず候」(0951-04)とあり、寺泊御書には「本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば……」(0951-04)と仰せられている。なぜなら、時は悪世末法であり、弘通の法は過去の法華経とはくらべものにならない最も難信難解の南無妙法蓮華経であった。また弘通の方法は未だかつてない熾烈な折伏であったからである。
 瑞相御書に「此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや等云云(中略)人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、瞋恚の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」(1142-01)とある。
 このように大聖人は、あらゆる大難を大法弘通に伴う必然のものとして覚悟の上で、身命を期して折伏を貫かれたのである。それもただ正法を弘通し一切衆生を救おうという大慈悲のゆえであった。報恩抄には「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と仰せである。この日蓮大聖人の確信と、慈悲心とをよくよく銘記すべきである。

1379:08~1379:15 第二章 法華経を持つ者の功徳を説くtop
08   然るに在家の御身として皆人にくみ候に、 而もいまだ見参に入り候はぬに何と思し食して御信用あるやらん、
09 是れ偏に過去の宿植なるべし、 来生に必ず仏に成らせ給うべき期の来りてもよをすこころなるべし、 其の上経文
10 には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず・ 釈迦仏の御魂の入りかはれる人は・此の経を信ずと見へて候へば・水に
11 月の影の入りぬれば水の清むがごとく・ 御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ候、 法華経
12 の第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て 合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、 是
13 の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、 持経者を歎美せんは其の福復た彼れに過ぎん」等云云、 文の意は一劫が
14 間教主釈尊を供養し奉るよりも 末代の浅智なる法華経の行者の上下万人にあだまれて 餓死すべき比丘等を供養せ
15 ん功徳は勝るべしとの経文なり。
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 しかるに、あなたは在家の身でありながら、人々が皆日蓮をにくんでいるのに、しかも、いまだ一度もお目にかかったこともないのに、なぜこのようにご信用になるのであろう。これは、ひとえに過去に妙法の仏種を植えられた因縁によるものであろう。来世に必ず仏に成られる時がきたので、このように仏法を求める心が起きたのであろう。
 その上、経文には、鬼神が、その身に入る者は、この経を信ずることができない。釈迦仏の御魂が鬼神と入りかわった人は、この法華経を信ずることができると説かれているから、水に月の影が映れば、水が清らかにすむように、あなたの心の水に教主釈尊という月の影が入られたのであろうかと、たのもしく思えるのである。
 法華経第四巻の法師品第十にいうには「仏道を求める人があって、一劫の間、合掌して、仏の前にあって無数の偈をもって讃めたたえるならば、この仏を讃めたことによって無量の功徳を得るであろう。また、この経を持つ人を讃歎するならば、その福はまた、それにも勝るのである」と。
 文の意味は、一劫という長い間、教主釈尊を供養するよりも、末代の智慧の浅い法華経の行者で、上下万人に迫害されて、餓死しようとしている僧などを、供養する功徳の方が、勝るのであるとの経文なのである。

宿植
 前世において善根を植えてきたことをいう。過去世に仏種を植えられていること。末法の衆生は久遠元初に日蓮大聖人の仏法の種子を植えられているのである。
―――
一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語(kalpa)の音写で、劫波ともいう。時、あるいは分別の義で、意訳して分別時分、長時、大時、あるいは単に時と訳す。きわめて長い時限の意で、仏法上は時間を示す単位として用いられる。劫の分類については、経論により多種多説であるが、大別して、小劫・中劫・大劫という。ここでいう「一劫」は一小劫の意で、約千六百万年になる。
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御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふか
 澄みきった水には、月影がよく映るように、松野殿の信心が純粋なので、妙法の当体である三大秘法の御本尊と境智冥合し、仏の生命が湧現されるのであろうと、大聖人は仰せである。
 ここで「教主釈尊の月」とは、三大秘法の御本尊のことである。報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(0328-15)とある本門の教主釈尊とは、南無妙法蓮華経如来即日蓮大聖人のことである。
 「心の水に影が映る」ということは、三大秘法の御本尊を信じ、題目を唱えることによって、御本尊の力を、我が生命の中に湧現させていくことをいうのである。すなわち、御本尊と境智冥合し、清らかな、逞しい、豊かな生命力と、仏の智慧を湧現させていくことができるのである。
 水とは、心の水である。水そのものには変わりない。しかし、信心があれば、清く、信心を失えば濁水となる。
 信心とは魔との対決である。どんなに澄みきった水も、一瞬の心のゆるみによって、魔に負ければ、たちまちにして、濁ってしまうこともある。「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)の御金言の通りである。

1379:16~1380:13 第三章 法華経行者への供養の功徳top
16   一劫と申すは八万里なんど候はん青めの石を・やすりを以て無量劫が間するともつきまじきを、 梵天三銖の衣
17 と申してきはめてほそくうつくしきあまの羽衣を以て 三年に一度下てなづるになでつくしたるを一劫と申す、 此
18 の間無量の財を以て供養しまいらせんよりも 濁世の法華経の行者を 供養したらん功徳はまさるべきと 申す文な
1380
01 り、此の事信じがたき事なれども法華経はこれていにをびただしく、 ことごとしき事どもあまた侍べり、 又信ぜ
02 じと思へば多宝仏は証明を加へ教主釈尊は正直の金言となのらせ給ふ、 諸仏は広長舌を梵天につけ給いぬ、 父の
03 ゆづりに母の状をそゑて賢王の宣旨を下し給うが如し、 三つ是一同なり誰か是れを疑はん、 されば是れを疑いし
04 無垢論師は舌五つに破れ嵩法師は舌ただれ 三階禅師は現身に大蛇となる徳一は舌八つにさけにき、 其れのみなら
05 ず此の法華経並に行者を用ひずして身をそんじ家をうしない国をほろぼす人人・月支・震旦に其の数をしらず、 第
06 一には日天・ 朝に東に出で給うに大光明を放ち天眼を開きて南閻浮提を見給うに 法華経の行者あれば心に歓喜し
07 行者をにくむ国あれば 天眼をいからして其の国をにらみ給い、 始終用いずして国の人にくめば其の故と無くいく
08 さをこり他国より其の国を破るべしと見えて候。
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 一劫というのは、八万里ほどもある青い石を、やすりでもって、長い間、磨っても磨りつくすことのできないものを、梵天の三銖の衣といって、非常にうすく、美しい天の羽衣をもって三年に一度天から下って撫でていって、ついに磨滅しつくしてしまう間を一劫というのである。このように長い間、無量の財宝をもって、仏を供養するよりも、末法濁悪の世の法華経の行者を供養する功徳は、勝れているという文なのである。
 この事は信じがたい事ではあるけれども、法華経にはこのように、はなはだしく、仰々しいことが沢山書かれてある。また信じまいと思えば、多宝如来が真実であるとの証明を加え、教主釈尊は正直の金言であると、自らいわれている。諸仏は広長舌を梵天につけて真実の証明をしている。
 それは父親の譲り状に母の状をそえて賢王の命令書の下ったようなものである。三つの証明が同じであり、これだけそろったものを誰がこれを疑うことができようか。だからこそ、これを疑ったインドの無垢論師は、舌が五つにさけ、中国の嵩法師は、舌がただれ、三階禅師は現身に大蛇となり、わが国の徳一は、舌が八つにさけたのである。
 それのみではなく、この法華経および、法華経の行者を用いないで、身をほろぼし、家を失い、国をも亡ぼした人々は、インド、中国に数えきれないほどである。
 その第一として、日天が朝、東に出て大光明を放って、天眼を開き、世界を見られる時に、法華経の行者がいれば心から歓喜し、法華経の行者を憎む国があれば、天は眼を怒らしてその国をにらみつけ、法華経の行者をいつまでも用いないで、国の人が迫害するならば、おのずからいくさが起こり、他国からその国は必ず破られるであろうと経文に見えている。
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09   昔し徳勝童子と申せしをさなき者は 土の餅を釈迦仏に供養し奉りて阿育大王と生れて閻浮提の主と成りて結句
10 は仏になる、 今の施主の菓子等を以つて法華経を供養しまします、 何かに十羅刹女等も悦び給らん、悉く尽しが
11 たく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
12       二月十七日日 蓮 花 押
13     松野殿御返事
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 昔、徳勝童子という幼い者は、土の餅を釈迦仏に供養して、阿育大王と生まれて閻浮提の主となり、最後には仏になったのである。
 いま、あなたは菓子などをもって法華経に供養された。どれほど十羅刹女も悦ばれるであろう。全ては申しつくしがたいものである。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
  二月十七日            日 蓮  花 押
   松野殿御返事

三銖の衣
 銖は重さの単位をあらわす。24銖で1両。16両が1斤。1斤は普通160匁 で600㌘にあたる。すなわち1両が37.5㌘、1銖は約1.6㌘。したがって3銖は約5㌘となるから、非常に軽い衣となるわけである。きわめて軽いうすぎぬ、綾絹でできた衣のこと。
―――
あまの羽衣
 天人の着る薄く軽い衣。
―――
多宝仏
 多宝如来のこと。法華経見宝塔品第11で出現し、釈尊の説いた法華経が真実であることを保証した仏。過去世において、成仏して滅度した後、法華経が説かれる場所には、自らの全身を安置した宝塔が出現することを誓願した。釈尊が法華経を説いている時、見宝塔品で宝塔が地から出現して空中に浮かんだ。宝塔が開くと、多宝如来が座していた。多宝如来は釈尊に席を半分譲り、以後、嘱累品第22まで、釈尊は宝塔の中で多宝如来と並んで座って(二仏並坐)、法華経の説法を行った。
―――
広長舌
 広長舌相のこと。仏の舌は柔軟で薄く、また額に届くほど長く広いとされる。教えがうそではなく真実であることを表す。仏の三十二相の一つ。広長舌ともいう。古代インドでは言葉の真実を証明するのに舌を出す風習があり、その舌が長ければそれだけ真実も確かであるとされた。法華経では、釈尊による説法に対し、多宝如来が「皆是れ真実なり」(法華経373~374㌻)と保証し、また十方の諸仏が舌相を示して保証した。阿弥陀経では、東西南北上下の六方のそれぞれに、無数の諸仏がおり、その諸仏が皆それぞれの国で三千世界を覆う広長舌を出して、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称賛することが説かれている。しかし、法華経のように十方の世界の仏たちが直接、説法の場に集まって舌相を示したわけではない。
―――
無垢論師
 無垢は、サンスクリットのヴィマラミトラを漢訳した無垢友の略。5,6世紀ごろのインドの論師。部派の説一切有部に属した。世親(ヴァスバンドゥ)の『俱舎論』に論破された衆賢の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし道半ばで狂乱し、舌が五つに裂け、熱血を流して後悔しながら無間地獄に堕ちたという。
―――
嵩法師
 中国北周代の僧、衛元嵩のこと。生没年は不明であるが、天台と同時代に生まれた。還俗して廃仏毀釈を進めるという謗法をしたので、舌が爛れ無間地獄に堕ちたといわれる。顕謗法抄(0445)に「嵩霊法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたり」とある。
―――
三階禅師
 信行のこと。540年~594年。中国・隋の三階教の開祖。信行は当時を末法時代ととらえ、正法時代・像法時代の仏法を第一階・第二階とし、末法に応じた第三階の教えとして、一切衆生を礼拝するなどの独自の教えを説いた。中国では、正法・像法で1500年とされ、信行の同時代が末法とされた。
―――
徳一
 平安時代初期の法相宗の僧。得一、徳溢ともいい、藤原仲麻呂の子。出家して興福寺の修円より法相宗の教義を学び、東大寺に住して法相宗をひろめた。法華の新疏「中辺義鏡」を作って天台法華を謗じ伝教大師を非難したが、伝教は「守護国界章」を編してこれを破折している。なお、法華誹謗の罪により、舌が八つに裂けて死んだと伝えられる。
―――
月支
 中国・日本などで用いられたインドの古称。月氏とも書く。仏教では伝統的に「がっし」と読み習わすが、現代では「げっし」と読む。月氏は、もともとは紀元前後数百年、東アジア・中央アジアで活躍していた遊牧民族の名とされる。この月氏が、後に匈奴に追われ、中央アジアに進出し、ガンダーラ地方を中心にして大月氏国を築いた。特に2世紀のクシャーナ朝のカニシカ王以後、大乗仏教が盛んとなり、この地を経てインドの仏教が中国へ伝えられたことから、中国ではインド全体に対しても月氏と呼んでいた。
―――
震旦
 真旦とも。中国の古い呼び名。古代インド人が中国を指したチーナスターナの音写語。
―――
徳勝童子
 得勝童子とも書く。釈尊が王舎城で乞食行をしていた時、無勝童子と共に、土の餅を供養した童子。その功徳によって、釈尊滅後百年に阿育大王と生まれたと阿育王伝にある。無勝童子は阿育王の后となって生まれた。あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという説もある。徳勝童子が供養し、無勝童子が横で合掌したともいう。
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一劫と申すは八万里なんど候はん青めの石を(中略)濁世の法華経の行者を供養したらん功徳はまさるべき

 法華経法師品の「人有って仏道を求めて 一劫の中に於いて 合掌し我が前に在って 無数の偈を以て讃めば 是の讃仏に由るが故に 無量の功徳を得ん 持経者を歎美せば 其の福は復た彼れに過ぎん」という文をわかりやすく述べ教えられたのである。この経文の中の、一劫という長さについて、ここでは、大きな石の山が、天女のまとう羽衣で、三年に一度なでて、磨滅しきるほどの長さをいうとたとえている。このように極めて長い間、仏に供養するより、末代濁世の法華経の行者を供養する功徳の方が、はるかに勝れているということである。
 なぜ釈迦は、釈迦仏自身に対する一劫の供養よりも、末法の法華経の行者を供養する功徳がまさるといったのだろうか。大聖人は、この文を引用されて何をいわれようとしているのか。これには深い意味がある。それは種脱相対という大聖人の仏法の奥義に関する問題である。
 いうまでもなく、末法の法華経の行者とは、日蓮大聖人である。大聖人を供養する功徳が、釈迦仏を供養する功徳に勝るということは、大聖人と釈迦仏の勝劣を意味するのである。
三つ是一同なり誰か是れを疑はん
 法華経の経文はなかなか信じがたいが、法華経に説かれていることは、みな真実であると述べられているところである。
 すなわち、法華経の真実を証明するものとして、一には、多宝仏の証明、二には、釈尊の証明、三には、諸仏の証明がある。
 第一に多宝仏の証明とは、法華経宝塔品にいわく「爾の時、宝塔の中より大音声を出して、歎めて言わく、善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」の文をさす。
 すなわち、この文は多宝如来が、七宝をもって荘厳した多宝塔の中より、大音声をはなって、釈尊の説法が真実であるといって証明したところである。
 このように、多宝の塔の出現は、法華経迹門の真実であることを証明するためであるとともに、次に法華経本門を説きおこすための契機となるのであるが、それはここでは略す。
 第二に釈尊の証明とは、法華経方便品にいわく「今我れは喜んで畏無し 諸の菩薩の中に於いて 正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」の文をさす。
 文意は、今まで説いた爾前経は方便の教えであり、それらの方便の教えを捨てて、但正直の一仏乗を説くという意である。
 また、釈尊は、さきに法華経の序分である無量義経で「四十余年未顕真実」の一言をもって、これまでの爾前の経教をことごとく打ち破り、法華経において真実を説くとも宣言している。
 第三に諸仏の証明とは、法華経神力品の諸仏の広長舌相のことである。インドでは、言葉の真実であることを証明するために、舌を出すことが風習であった。そして、その舌の長いことが、より真実を意味するのである。
 経文には、それぞれ広長舌相により、仏説が不妄語であることを述べているが、なかでも法華経の広長舌相が最大であるという。すなわち、神力品には、「広長舌を出して、上梵世に至らしめ」、「舌相は梵天に至り」等と、その舌相が天界までおよぶとあり、法華経が諸経の中で、もっとも真実であるということを証明しているのである。
劫について
 劫とは、極めて長い時間をさす単位で刹那・瞬間に対する語である。この劫について、仏法の経典では数多く説かれているが、二種類に大別することができる。
 第一は、数を知ることのできる劫で、大劫・中劫・小劫の三劫や、常住壊空を明かす四劫のことである。
 第二は、我々の概念では想像を絶するような長い時間で、その数を測ることのできない劫とされ、譬喩をもって表現されている。
数を知る劫
 人寿無量歳より100年に1歳を減じ、ついに人寿10歳になる。これを第一減劫と呼ぶ。次に人寿10歳より逆に、100年に1歳ずつ増して、人寿80,000歳となる。また、80,000歳より同じく100年に1歳を減じて、人寿10歳となり、かくして、増減すること18回、最後に人寿10歳より100年に1歳を増して、無量歳となり、このときが、第二十の増劫である。
 第一減劫と第二十増劫は、それぞれ増減だけであるが、その長さは一増減の長さに等しい。この一増減の長さを1小劫と名づけるのである。すなわち1小劫は16,000,000年より2,000歳を減じた数15,998,000にあたる。
 この第一の減劫から第二十の増劫に至るまでの間を中劫という。すなわち1中劫は20小劫にあたり、319,960,000年の長さにあたる。
 またこの4つの中劫が合わさったものが1大劫であり、宇宙の始終の長さである。
 この4つの中劫のことを成劫・住劫・壊劫・空劫の4劫というのである。
 これらを図示すると、次のようになる

    ↑  ↑人寿無量歳 ………………………↑ 第一の減劫(長さは
    │  │               ↓ 一増減劫に等しい) 
    │  │          人寿十歳……………………………
    │  │               ↑ 第二の増減劫
    │  │      人寿八万歳     │(15,998千年)
    │  │               ↓ (一小劫)
    │  │          人寿十歳……………………………
    │  │               ↑
     │ 一中劫     人寿八万歳     │
     │ 二十小劫  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    │ 319,960千年  人寿八万歳     │
    大劫 │               ↓ 
    四中劫│          人寿十歳……………………………
    │  │               ↑ 
    │  │     人寿八万歳     │ 第十九の増減劫
    │  │               ↓ 
    │  │          人寿十歳……………………………
    │  │               ↑ 第二十の増劫(長さ
    │  ↓人寿無量歳 ………………………↓ は一増減劫に等しい    
    ↓………………………… 

 すなわち、一つの世界が成立していくまでの間が成劫であり、成立した世界に衆生等の住んでいる期間を住劫という。住劫はやがて、火・風・水の三災によって破壊されている期間が壊劫であり、消滅し空の状態になった期間を空劫という。そして、空劫が過ぎれば、次の成劫へと移り、住劫・壊劫へと永遠に繰り返され、尽きることがないのである。また過去の一大劫を荘厳劫、現在の一大劫を賢劫、未来の一大劫を星宿劫と説かれている。
 顕謗法抄には「一中劫と申すは此の人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに 人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり」(0447-08)とある。
数を測りしることのできない劫
 大明三蔵法数にある五つの譬えである。
 ①払石劫 八万里もある大きな石を、天女の着る軽くて薄い羽衣で三年に一度、さっとなでて、なくなってしまう長さをいう。
 本抄には「一劫と申すは八万里なんど候はん青めの石を・やすりを以て無量劫が間するともつきまじきを、梵天三銖の衣と申してきはめてほそくうつくしきあまの羽衣を以て 三年に一度下てなづるになでつくしたるを一劫と申す」とある。
 ②芥子劫 一由旬立方もある鉄城の中に、小さな芥子粒を満たし、百年に一度、一粒ずつを取り出し、芥子粒がなくなってしまう長さをいう。
 ③草木劫 大千世界の草木をことごとく約3cmに切り刻み、百年に一度、一つずつを取り出し、とり尽くしてしまう長さをいう。
 ④沙細劫 インドのガンジス河の広さ1600km²の中に細沙を埋め尽くして、百年に一度、一粒ずつを取り出し、細沙がなくなってしまう長さをいう。
 ⑤砕塵劫 大千世界を砕いて微塵とし、百年に一度、一微塵ずつを取り出し、微塵がなくなってしまう長さをいう。
 これらすべて、悠久無限の時間をあらわす劫という概念は、仏法における宇宙観・生命観と重要な関係があり、仏法における悟りの中の根本的な問題の一つは、悠久無限の宇宙的存在として、自己の生命を自覚することにあるからだろう。この生命観が、より根本的に深める段階とし、仏法の浅深の段階があるといえる。
仏法の浅深と劫の概念
① 小乗(権経)の劫の概念

 小乗教の声聞の修行は、鈍根の者は三生、利根の者は六十劫の修行を経て阿羅漢の位に登ると説かれた。
 縁覚の修行は四生百劫を経て無学を証すると説かれた。
 蔵教の菩薩は、七阿僧祇、百大劫の修行を経歴すると説かれた。(開目抄の「身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ」(0232-01)はこれにあたる。)
 別教の菩薩は二十二大阿僧祇、百千万劫を尽くして仏になると説かれた。
 これらが、法華以前の方便教における歴劫修行であるが、劫そのものが長遠時間であり、さらに阿僧祇というのは無数・極数と訳し、俱舎論によれば、十進論で1の後に0が52ついた数をいうから、阿僧祇劫は想像を絶する(ちなみに1051×319,960,000年)長遠な時間である。
②三千塵点劫
 法華経迹門化城喩品第七に説かれている。すなわち三千大千世界を抹して塵とし、千の国土を過ぎて一塵を下して、下し尽くして、さらに、下した国も、下さなかった国も全て合して塵となし、この一塵を一劫として数えるより、なお無量無辺百千万億阿僧祇劫もさかのぼる過去世において、大勝智勝仏の十六番目の王子によって法華経の化導を受けた人々が、今日、インドにおいて、釈迦仏とその弟子となったとされる。
 この三千塵点劫の概念は前の小乗(権経)の劫の概念をはるかに超えている。
 唱法華題目抄には「昔三千塵点劫の当初・大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします、彼の父の王仏にならせ給ひて一代聖教を説き給いき十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子とならせ給いけり、大通智勝仏法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり、其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず当座に悟をえし人は不退の位に入りにき、又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずし三千塵点劫をへたり」(0001-11)とある。
③五百塵点劫
 法華経本門如来寿量品第十六に説かれている。
 すなわち「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。しかし、われは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽きんが如き、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、不や」とあり、これは釈迦仏の本地を顕わし、釈迦仏は五百塵点劫以来の仏であり、常にこの娑婆世界で説法教化し、末だ曾つてやまたことがなく、仏の死は方便であると説き出されている。
 一劫長遠も想像を絶する。まして阿僧祇劫はなおさらである。しかし、三千塵点劫は比べものにならない。さらに、五百塵点劫に至っては、三千塵点劫でさえ小時に過ぎない。このような時間の中では、無数の常住壊空が繰り返されているわけで、地球上の人類の歴史などを遥かに越えた世界であり、釈迦仏法で説かれた究極は、五百塵点劫以来の仏の常住であったのである。
④五百塵点劫当初
 釈迦仏法の究極は、五百塵点劫の成道である。しかし、いまだ有限の世界であり、その先が残されている。
 日蓮大聖人は、さらに掘り下げられ、久遠元初・五百塵点劫当初という究極の概念を打ち立てられたのである。宇宙生命の存在は無始無終である。地球には年齢があり、地球上の人類には歴史がある。しかし、宇宙生命の存在は常に生じ、常に滅しながら、常住して不滅である。本有無作の一念三千の当体として活動し続けてゆく。最も本源的であり、本有常住なるがゆえに、久遠といい、元初というのである。その生命の根本法は南無妙法蓮華経に他ならない。それは有限の時間を越絶した永遠の生命の理法であり、実相である。したがって、南無妙法蓮華経を所持の仏を本仏と申し上げ、久遠元初の無作三身如来と申し上げる。そして、それは末法出現の日蓮大聖人に他ならない。無始無終の永遠の相の下においては、久遠も末法も異なるものではない。南無妙法蓮華経を始源とする生命活動の連続する永遠の今である。
 御義口伝には「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり」(0759-第廿三 久遠の事)とある。

1381~1387    松野殿御返事(十四誹謗抄)top
1381:01~1381:14 第一章 延山の様子と音信への謝意top
1381
松野殿御返事
01   鵞目一結・白米一駄・白小袖一送り給畢ぬ、抑も此の山と申すは南は野山漫漫として百余里に及べり、北は身延
02 山高く峙ちて白根が嶽につづき西には七面と申す山峨峨として白雪絶えず、 人の住家一宇もなし、 適ま問いくる
03 物とては梢を伝ふ マ猴なれば少も留まる事なく 還るさ急ぐ恨みなる哉、 東は富士河漲りて 流沙の浪に異なら
04 ず、かかる所なれば訪う人も希なるに加様に度度音信せさせ給ふ事不思議の中の不思議なり。
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 銭一結、白米一駄、白小袖一枚、以上の品々を送っていただきました。そもそも身延山のこの地は、南側は野山が遠くはてしなく続いて百余里に及んでおり、北側は身延山が高くそびえたって、白根が嶽に続いている。西側には七面という山が嶮しくそびえ立ち、白雪の消えることがない。人の住む家は一軒もない。たまたま訪れるものといえば、梢を伝わってくる猿なので、少しの間もとどまることなく、帰りを急いでいくのは、恨めしい事ではある。
 東側は富士河がみなぎって、流沙のように波立っている。このような所であるから、訪れる人など滅多にいないのに、このように、たびたび御供養の品々を送られたり手紙を書き送られるということは、不思議のなかの不思議である。

鵞目一結
 鵞目は孔(あな)のあいた銭のこと。鎌倉時代の通貨。鵞目、鳥目、青鳧等と呼んでいた。鵞目は、丸い銭の真ん中に四角い穴のあいているのが、鵞鳥の目に似ているところから、このようにいわれた。一結は、銭の中央の穴に紐を通して一連にしたもの。
―――
一駄
 馬に積んだ荷を計算する単位。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
―――
白小袖
白無地の小袖のこと。
―――
漫漫として
 遠くひろびろとしたさま。
―――
白根が嶽
 甲斐国中巨摩郡と南巨摩郡にまたがる山。古くは「甲斐が根」とよばれ、現在は白根山、白根三山あるいは白峰三山と呼ばれている。北岳、間の岳、農鳥岳の三峰よりなり、北岳の標高は(3193㍍)。富士山に次ぐ日本第二の高山である。一年中白雪があるほど高いのでこの名がある。
―――
七面
 七面山。七面の嶽。山梨県南巨摩郡にある。白根山の一翼をなす標高1982㍍一の高山。早川の南にそびえ、春木川を隔てて身延山と向い合っている。頂上部の東面に「なないたがれ」と呼ばれる七つの断崖があるところから七面山という。
―――
一宇
 一つの棟・家屋。
―――
猨猴
 サルのこと。
―――
流沙
 普通は砂漠のことをいうが、川辺の砂地などのような草木の生えていない場所を意味する。
―――
音信
 おとずれ、便り。
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 本抄は、建治2年(1276)12月9日、日蓮大聖人が身延に入られてからの御述作とされているが、御真筆は現存しない。別名は、内容から「十四誹謗抄」と称されている。
 本抄の大要は、松野殿が、題目の功徳の勝劣有無を質問したのに対して答えられた御消息である。まず経釈を引用され、十四誹謗を挙げて、これを戒め、求道心を勧めて、雪山童子が半偈のために身を投げた物語を詳述している。そして僧侶には遊戯雑談の態度は畜生、盗人であると禁め、本迹二門と涅槃経の文により、不自惜身命の弘経を説き、在家には唱題と供養とを説いて、成仏の境涯を明かしている。
大聖人の身延での生活
 日蓮大聖人は、鎌倉幕府にたいして、立正安国論をはじめとし、数々の諌暁を続けられたのであるが、幕府指導者は、これを聞き入れず、かえって、大聖人に迫害を加えるばかりであった。佐渡より帰られてからも大聖人は三度目の国家諌暁を試みられた。だが用いられないため、大聖人は、三度諌めて用いられずば国を去るとの故事にならって、身延に入られたのである。
 それは隠棲の形を取るものであったが、事実上は、文底深秘の三大秘法を、末法万年の未来に伝えるため、広宣流布の布石を全うするための戦いであって、ひたすら重要御抄の執筆と、人材育成に専念なさったのである。
 当時の大聖人の心境については、種種御振舞御書に「本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る」(0923-01)とあり、また下山御消息に「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(0358-04)と心中を吐露されている。光日房御書には「日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし」(0928-05)ともいわれている。大聖人は、再び忍び寄る外敵の恐怖と、年々続く飢饉による窮乏の原因は、一国謗法にある、と断言なされ、謗法を対冶することが一切を救済することであると主張された。
 だが、幕府は依然として用いないために、大聖人は、三度諌めても用いないなら、山林に交わる以外にないと覚悟され、また国主が用いないものを、それ以下の者に説いても無駄であると身延に籠られたのである。
 さて、身延の様子については、本文にも記されている通り、人里離れた不便な地であり、他の諸抄にも、その様子が説明されている。
 種種御振舞御書には「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ・北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候」(0925-06)とある。
 御文に「昼は日をみず夜は月を拝せず」とあるから、光も通さないほど木立が鬱蒼と生い茂っていたのであろう。「夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし」は、いかに人里離れた地であったかということが伺える。
 しかし、このような自然的地理的な悪条件にもかかわらず、各地方の弟子檀那との文通は絶えることなく、真心の御供養を持参して訪れる人もいたようである。そして、次第に身延には、相当数多い弟子檀那が出入りし、指導を受け、講義を聞いたようである。
 また、各方面に配置された弟子達は大聖人の指導の下に、弘教の戦いを展開していたのである。すなわち、上総方面には日向、下総には三位房、大進房、日頂、富木、大田、曾谷氏等、相模には日昭、日朗、四条氏等、そして駿河、甲斐には日興上人を中心とする南条、高橋、松野、大内、石河氏等が活躍していた。
 当時の身延における法華経講義については、日蓮大聖人年譜に「延山蟄居の後御弟子衆の請により法華経の御講釈あり、日興度々聞を集め部帙を成して御義口伝と名づく、亦日興記と号するなり」とあり、五十の坂を越えた大聖人は、弟子に向かって、仏法の深遠な大哲理を説かれたのである。

1381:05~1381:13 第二章 実相寺の学徒日源についてtop
05   実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て 弟子檀那に放され御座て我身だにも置き処なき由承り候に日蓮
06 を訪い衆僧を哀みさせ給う事誠の道心なり聖人なり、 已に彼の人は無雙の学生ぞかし・ 然るに名聞名利を捨てて
07 某が弟子と成りて 我が身には我不愛身命の修行を致し・ 仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し此くの如く供養
08 等まで捧げしめ給う事不思議なり、 末世には狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ給いて候なり、 文の意は末世
09 の僧・比丘尼は名聞名利に著し上には袈裟衣を著たれば形は僧・ 比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて我
10 が出入する檀那の所へ 余の僧尼をよせじと無量の讒言を致す、 余の僧尼を寄せずして檀那を惜まん事譬えば犬が
11 前に人の家に至て物を得て食ふが、 後に犬の来るを見ていがみほへ食合が如くなるべしと云う心なり、 是くの如
12 きの僧尼は皆皆悪道に堕すべきなり、 此学徒日源は学生なれば此の文をや見させ給いけん、 殊の外に僧衆を訪ひ
13 顧み給う事誠に有り難く覚え候。
-----―
 岩本実相寺の学徒日源は、日蓮に帰伏したことによって、所領を奪われ自分の弟子檀那に追放されて、自分の身さえも置く場所がない境遇にあると聞いていたが、それにもかかわらず、日蓮を訪ね、日蓮の弟子たちにたいしても、いろいろと心をくだいて下さっているということは、誠の信心であり、聖人である。
 すでに、日源は、並ぶものがないほどの学者である。にもかかわらず名聞名利を捨てて、日蓮の弟子となり、わが身には「我不愛身命」の修行をして、仏の御恩を報じようと、あなたがたまでも教化し、このように、御本尊へ供養まで捧げるように導いたことは、まことに不思議という以外ない。
 末世においては、犬のような僧や尼は、恒河の砂ほどたくさん出現する、と仏は説かれている。この文の意味は、末世の、僧や尼は名聞名利に執着し、外には、袈裟、衣を着ているので、姿かたちは僧や尼に似ているけれども、内心には、邪見の剣を携え、自分の出入りする檀那のところへは、他の僧尼をよせつけまいとして、いろいろと、ありもしない悪口をならべたてるのである。このように、他の僧尼を寄せつけないようにして、檀那を独占しようとするさまは、譬えていえば、犬が人の家で餌にありついて食べているところへ、あとから他の犬が来るのを見て、いがみ吠え、噛み合いのけんかをするようなものだ、という意味である。このような僧尼は、当然全て悪道に堕ちるのである。この学徒日源は、学者なので、この涅槃経の文を、おそらく読んだのであろう。
 ことのほか、日蓮や、また、弟子達を訪れ、いろいろと心を使われるということは、まことに有りがたいことと思う。

実相寺
 駿河国岩本(静岡県富士市岩本)にある寺。もとは天台宗延暦寺系の古刹。院主の無軌道な乱行が続いたため、もともと実相寺に住んでいた日興上人は、「実相寺大衆愁状」でこれを告訴した(『富士宗学要集』第10巻)。
―――
道心
 仏道を求める心。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
無雙
 並ぶものがなく勝れていること。
―――
我不愛身命
 勧持品で大菩薩が仏滅後の弘法を誓い「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と述べている。不自惜身命と同意。
―――
狗犬の僧尼
 犬のような下劣な僧侶のこと。名聞名利に執着し、心が曲がっている。邪見・謗法の僧尼のこと。
―――
恒沙
 ガンジス河の砂のことである。ガンジス河はヒマラヤ山脈を源とし、東へ流れてベンガル湾に注いでいる大河。インド三大河の一つで、昔から霊験に富んだ河として、人々から尊崇されていた。恒沙とは、ガンジス河の沙のように無数であることを譬える。無量無数のという意となる。
―――
邪見の剣
 正しい法の道理を無視する僧侶。
―――
讒言
 人を陥れようと、事実を曲げ、偽って悪口を言うこと。また、そのことば。法華経勧持品第13では、僭聖増上慢が不当な誹謗・悪口を国王・大臣など在家の権力者に吹き込み弾圧させると説かれる。
―――
悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
―――――――――
 本章は、実相寺の学徒日源が、迫害にも負けず、信心を貫き、大聖人におつかえしていることを称賛された文である。日源は日蓮大聖人の門下となったことで、所領を奪われ、追放されたが屈せず、折伏を続け、大聖人への御供養もすすめた。このことにたいして、大聖人は、名聞名利を捨てて、真実の仏法を求め、我不愛身命の修行をするものであり、実に不思議なことであると、称賛なされている。
 そして、末法には、狗犬のような僧尼が数えられないほどおり、名聞名利に執着している中で、この日源は、そうではない上、わが弟子達にまでいろいろと心遣いをして下さるということは、稀なことであると絶賛されているのである。
実相寺の学徒日源について
 本章で、日源が大聖人門下となったために「所領を捨て弟子檀那に放され御座て我身だにも置き処なき」状態になったとある。当時の岩本実相寺は、駿河国でも有数な天台系の古刹であった。鎌倉幕府とも関係が深く、手厚い保護を受けていた。源頼朝が兵を挙げた時も、この寺へ来て平家調伏の祈禱をしたし、北条時頼もまた、一族繁栄のために祈禱をした。さらには、頼朝の弟である阿野全成もこの寺に関係が深かったのである。したがって、一地方の寺というよりもむしろ幕府を背後にもった大寺院であったといえる。このため、人の出入りも多く、僧も多数集まったのである。
 日源は、御文に「学徒」あるいは「学生」とあるので、おそらく、その頃は平僧の身分であったと思われる。他の記録には、学頭日源とされているが、これは誤りである。
 平僧の立ち場ではあったが「弟子檀那に放され」とあるところから弟子や檀那を持つ身分であったことは明らかである。そのような幕府の影響力の強い実相寺の僧でありながら、日源は、幕府から激しい迫害を受けている日蓮大聖人の弟子となったのである。したがって、日源への迫害も激しく、加えて実相寺大衆は多いだけに、なおさらであったと思われる。
 それも、日源は、静かに大聖人の一門に投じていたわけではない。折伏弘教の闘将、日興上人の門下として、実相寺、さらには四十九院と賀島荘一帯の折伏弘教を展開したのである。
 それは日興上人を中心とした、日持、日源、日位等の苛烈な折伏であった。このため、実相寺の院主、さらに四十九院の院主も気を動転させて、遂には大弾圧を起こさせるほどであった。この結果、日興上人門下は全部追放されたのである。それは弘安元年(1278)のことで本抄御述作より3年後にあたる。
 このことについては、「四十九院申状」に詳しい。
 以上の時代状況の中で真実の仏法を弘教することは、至難ともいうべきことであった。日蓮大聖人は、帰依したばかりの日源にたいして心底から激励されているのが、この章である。
 僧侶であっても末法の僧は、名聞名利に執着している。そのために外見は立派で、袈裟や衣を着飾り、聖僧然としているが、内面は、自分の檀家を他の僧にとられまいとする独占欲が実に強い。正に醜い畜類にも似た者が末法の僧である。だが、日源は違うと大聖人は称えられている。御文に「誠の道心なり聖人なり、已に彼の人は無雙の学生ぞかし」と称賛されているのがそれである。
 また「然るに名聞名利を捨てて某が弟子と成りて我が身には我不愛身命の修行を致し・仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し此くの如く供養等まで捧げしめ給う事不思議なり」と、大聖人は日源を聖僧として理想的な仏道修行をしているとたたえておられる。だが、このことは、一人、日源をたたえられたのではなく、暗に、末法の全僧侶は、かくあるべきである、と示唆なさると共に、在家もまた、そうあるべきであるとされているとも読むべきであろう。

1381:14~1382:13 第三章 法華経の修行と十四誹謗top
14   御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是・ 自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり、但し聖人の唱え
15 させ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、 更に勝劣あるべからず候、 其
1382
01 の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・ 愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、 但し此
02 の経の心に背いて唱へば 其の差別有るべきなり、 此の経の修行に重重のしなあり 其大概を申せば記の五に云く
03 「悪の数を明かすことをば今の文には説・不説と云ふのみ」、 有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに
04 悪果を列ぬ悪の因に十四あり.一にキョウ慢.二に懈怠・三に計我.四に浅識.五に著欲.六に不解・七に不信.八に顰蹙
05 ・九に疑惑・十に誹謗.十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし
06 恐る可し恐る可し、 過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、 彼れを軽んじては仏
07 を軽んずるになるべしとて 礼拝の行をば立てさせ給いしなり、 法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん
08 仏性ありとてかくの如く礼拝し給う 何に況や持てる在家出家の者をや、 此の経の四の巻には「若しは在家にても
09 あれ出家にてもあれ、 法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、 釈迦仏を一劫の間直ちに毀
10 り奉る罪には勝れたり」と見へたり、 或は「若実若不実」とも説かれたり、 之れを以つて之れを思ふに忘れても
11 法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。
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 松野殿からの手紙に「法華経を受持して後、退転することなく、方便品の十如是と寿量品の自我偈を読誦し、題目を唱えています。しかし、その題目も、聖人が唱えられる題目の功徳と、われわれが唱える題目の功徳とでは、どれほどの相違があるのでしょうか」との御質問があった。
 そこで、その質問にお答えするのだが、題目の功徳には、まったく勝劣はない。その理由は、愚者が持っている金も、智者の持っている金も、また、愚者がともす火も、智者がともす火も、何ら差別、相違がないのと同じ道理である。但しこの法華経の心にそむいて題目を唱えた場合には、差別はあるのである。
 法華経の修行にも重々の段階がある。その概略を述べるならば、妙楽大師の法華文句記の五の巻には「悪の数を明らかにすることについて、法華経の譬喩品第三には『説不説』とだけ説かれている。ある人は、この悪の数を分けて、次のように説いている。『さきに謗法の悪因を列挙し、次に悪果を述べてみる。まず悪因には十四の謗法がある。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善である』」とある。
 この十四誹謗は、在家出家の両方にわたるのであるから、謗法の罪を恐れなければならない。
 過去の不軽菩薩は、いっさいの衆生には、みな仏性がある、法華経を持つならば、必ず成仏する、その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽んずることになる、といって一切衆生に向かって礼拝の行を立てたのである。
 不軽菩薩は、法華経を持っていない者でさえも、もしかしたら持つかもしれない、本来仏性があるとして、このように敬い、礼拝したのである。まして、法華経を持っている、在家出家の者においては当然、尊敬しなければならない。
 法華経第四の巻の法師品第十には「もし在家の身であれ、あるいは出家であれ、法華経を持ち、説く者に対して、一言でもそしるならば、その罪報の多いことは、釈迦仏を一劫の間、面と向かってそしった罪よりも重い罪をうける」と、説かれている。
 あるいは普賢菩薩勧発品第二十八に「もし事実にしても、あるいは事実でないにしても、法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い」とも説かれている。これらの経文に照らして考え合わせるならば、かりにも法華経を持つ者を、互いに、そしってはならないのである。その理由は、法華経を持つ者は、必ず、みな仏なのであって、仏をそしれば罪をうけるのは、当然だからである。
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12   加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし、 釈に云く阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し
13 毘盧の身土は凡下の一念を逾えず云云、 十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし、 
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 このように心得て唱える題目の功徳は、仏の唱える功徳と等しいのである。妙楽大師の金錍論に「阿鼻地獄の依報であるその地獄の国土も、正報であるその地獄の衆生も、ともに尊極の聖人である仏の生命の中にあり、また毘盧遮那(びるしゃな)仏の身も、その仏国土も、凡夫であるわれら衆生の一念を越えて存在するものではない。すべて一念の心、生命の中にある」と釈している。十四誹謗の本意は、この文によって、推量していきなさい。

十如是
 法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是(このような)」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
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自我偈
 法華経如来寿量品第16の後半にある偈(韻文)。「自我得仏来」という句から始まるので自我偈と呼ばれる。寿量品の教えの要諦を偈頌(詩)の形式で再度、説いたもの(法華経489~493㌻)。
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十四誹謗
 法華誹謗の十四の分類をいう。妙楽が法華文句記の六で法華経譬喩品第三の中から十四種の誹謗をたてた。譬喩品に「又た舎利弗よ、憍慢懈怠我見を計する者には、此の経を説くこと莫れ。凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ、亦た為めに説くこと勿れ。若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復た顰蹙して疑惑を懐かん。汝は当に此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん」とある。十四誹謗は、大要次のようになる。
   ① 憍慢 増上慢、慢心の意。おごりたかぶって、仏法をあなどること。
   ② 懈怠 仏道修行をなまけたること。
   ③ 計我 我見、自分の勝手な考えで、仏法の教えを判断すること。
   ④ 浅識 仏法の道理がわからないのに、求めようとしないこと。
   ⑤ 著欲 欲望にとらわれて、仏法を求めないこと。
   ⑥ 不解 仏法の教えをわかろうとしないこと。
   ⑦ 不信 仏法を信じないこと。
   ⑧ 顰蹙 顔をしかめ、仏法を非難すること。
   ⑨ 疑惑 仏法の教えを疑って、迷うこと。
   ⑩ 誹謗 仏法をそしり、悪口をいうこと。
   ⑪ 軽善 仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にすること。
   ⑫ 憎善 仏法を信じている人を憎むこと。
   ⑬ 嫉善 仏法の信者を怨嫉すること。和合僧を破るはたらきをすること。
   ⑭ 恨善 仏法を修行する者をうらむこと。
 以上の①驕慢から⑩誹謗までは御本尊を受持することにより、謗法の罪を免れることができる。だが、⑪軽善から⑭恨善までは、正法に帰依していても、善人を軽んじたり、同志を怨嫉等すれば功徳をうけられないので、気をつけなければならない。しかし根本は、御本尊を信ずるか、信じないかによって、いっさいが決定される。ゆえに、念仏無間地獄抄(0097)に「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり」とある。
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在家
 ①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。釈尊の過去世における修行の姿の一つ。威音王仏の像法の時代に仏道修行をし、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉、「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(法華経557㌻、鳩摩羅什の漢訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という)を唱えながら、出会ったすべての人を礼拝したが、増上慢の人々から迫害された。この修行が成仏の因となったと説かれる。【日蓮大聖人の弘通との対比】不軽菩薩の弘通と大聖人の弘通との対比は、次の御文に示されている。「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(「顕仏未来記」、507㌻)。「過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向って唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり」(「教行証御書」、1276~1277㌻)。以上から、不軽菩薩と大聖人の正法弘通における共通点は、次の点に整理できる。①教。法華経の要法を広める(ただし不軽菩薩の「二十四字の法華経」は法華経一部の要旨であり、広・略・要でいえば略にあたるのに対して、大聖人の「妙法蓮華経の五字」は法華経の所詮の法体であり、真の意味での要にあたる)。②機。逆縁の衆生への化導。衆生の機根が劣悪であり、ただちに法華経を説いて衆生に反発されても縁を結ばせる逆縁の化導を中心に行った。③時。仏の亡くなった後の乱れた世の中に出現し難を耐え忍んで弘通した。④行者の位。不軽菩薩は初随喜の位、大聖人は名字即の位という、いずれも菩薩として初信の位であった。不軽菩薩の実践は、仏の滅後の悪世における法華経弘通の方軌を示しており、大聖人もこの方軌に則って法華経を弘通されている。それ故、不軽品を御自身の弘通の例とされている。
―――
仏性
 一切衆生にそなわっている仏の性分、仏界。
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一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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若実若不実
 法華経普賢菩薩勧発品第28の文。「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
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阿鼻の依正は然く極聖の自心に処し
 阿鼻地獄の依報(国土)、正報(衆生)は、極聖すなわち聖位の究極である妙覚(仏)の生命の中にあるとの意。仏界所具の九界を示す。妙楽大師の金剛錍に「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾ず」とある。
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毘盧の身土は凡下の一念を逾ず
 毘盧遮那仏の身とその仏国土のこと。凡夫であるわれら衆生の一念を越えて存在するものではない。すべて一念の心、生命の中にあるということ。
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 松野殿が「聖人の唱える題目と凡夫の唱える題目と、功徳の差別があるのでしょうか」と質問したのに対して答えられたところである。まず、題目の功徳は、いっさい平等であって、さらに差別がない旨を答えられている。ただし「此の経の心」に反して唱えるならば差別があると、信心のあり方の厳しさを教えられている。
 この章では、十四誹謗を挙げられ、在家出家にわたって悪道に堕ちる因としていましめられている。とくに不軽菩薩の修行を挙げられ、実、不実にかかわらず、法華経を持つ者を誹謗する者は、地獄に堕ちることを示され、また、法華経、すなわち御本尊を持った者は、みな仏なのであるから、十四誹謗の終わりの四つ、軽善、憎善、嫉善、恨善等の怨嫉をしてはならないと厳しく指摘されている。
 本章は、ここで終わっているが、「此の経の心」については全抄通じて説かれている。今、ここに要約して見ると次の通りである。
 法華経の修行には重々の段階があるが、この経の心に反する悪因を総括して、十四誹謗を挙げられている。
 さらに細目に入って、
   ⓐ法華経を持つ者を怨嫉してはならない。
   ⓑ身分の賤しい者でも法門を知る者には、尊敬し、問い求めなければならない。
   ⓒ求道のためには、身命を捨てる覚悟で、求めなければならない。
   ⓓ仏法を学び、謗法を責めることを忘れ、遊戯雑談にふけってはならない。
   ⓔ在家の者は、余念のない題目を唱え、正法を護持する僧に供養することが肝心である。
 等の指導をなさっている。このように純真な信心を続けるなら、必ず成仏し、永遠の幸福を積み、真の歓喜を味わうことができると確約され、重ねて、信心が弱くては成仏できないことを注意されている。
 これらの指導を、今日の広宣流布を目指すわれわれの信心活動に引き当てるならば
   ⓐは、信頼を基調とした団結の大事なことを教えなれたもの。
   ⓑは、求道心、向上心。
   ⓒは、自分の一生を広宣流布と信心に捧げる情熱。
   ⓓは、教学、折伏を根本としていくべきであり、漫然と享楽的な時代の風潮に流されてはなたない。
   ⓔは、題目第一で、創価学会、御本尊をお守りしていくことが大事である。
 ということを、教えと拝することができよう。
聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり
 ここで大聖人が答えられている大要は、二つに分けられる。一つは唱題の功徳が平等であること。二つは、経の心に反すれば、差別を生ずるということである。
 そこで、まず唱題の功徳が平等であることについて考えてみる。
 釈尊は四十余年の間、爾前の諸経を説いた。だが爾前経においては、十界の衆生を差別した。ただ男子だけに成仏を許し、女人の成仏を許さず、これを嫌った。二乗の衆生を弾呵した。悪人は成仏できなかった。それが、法華経迹門に至って、初めて女人の成仏、悪人の成仏、二乗の成仏が許されたのである。理論上、全てが平等に、記別を受けることができたのである。さらに、本門に入って、仏自身の振舞いの上に成仏の本因、本果、本国土が完璧に明かされた。ここに、事実の上で、いっさいのものが、ことごとく成仏できる、と立証されたのである。
 したがって、法華経なくしては、釈尊の仏法は非現実的な観念論に終始したことであろう。法華経があってこそ、はじめて、東洋思想の主峰としての仏法となったともいえよう。
 地獄の使いであり、能く仏の種子を断つものであると、忌み嫌われた女性も、悪逆の限りを尽くした悪人提婆も、焦げた種芽であるといわれた二乗も、ことごとく平等に成仏を許されたのが、法華経なのである。まさに、法華経こそが完全無欠の平等論を説いているのである。
 この法華経の大哲理の根本をそのままご図顕したものが御本尊である。御本尊は、理論の上からも、事実の上からも生命の究極の原理であり、当体である。そして平等大慧の御金言のとおり、全ての民衆に、陽光のごとく、慈悲と偉大な仏力とを等しく分け与えるのである。
 だが、ここで、これほど偉大な御本尊に唱題したとしても、仏法の根本精神に背いている限り、何ら偉大な功徳力に浴することができないのである。むしろ、法を曲げることは自分自身を狂わせていくことである。
 では、仏法の根本精神に背いているとはどういうことであろうか。このことについては、この御文のあとに述べられている十四誹謗のうちの、第十一の軽善、次の憎善、嫉善、恨善の四誹謗が、それにあたるのである。われわれは、いつとはなしに、相手を、自分と比較して、軽蔑したり、些細なことで、憎み合ったり、怨んだりするものである。それが昂じて和合僧の団結を破ることになり、ひいては、広宣流布への妨げにもなるのである。したがって、御本尊を信ずる者は、とくに、この誹謗に留意して、断じて、これらの四誹謗を犯してはならない。
阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し毘盧の身土は凡下の一念を逾えず
 妙楽の金錍論に説かれている文で、法華経の極理である十界互具、一念三千について述べたものである。阿鼻の依正とは、無間地獄の依報と正報、すなわち無間地獄の国土と衆生である。これはともに尊極の衆生である仏の生命の中にもある。また毘廬遮那仏の仏身も、その住する仏国土も、われら凡夫の一念の外にあるものではない、というのである。
 いうまでもなく、因果による現象面は千差万別であるのが現実であり、われら衆生にも迷悟の相違があるのは当然である。爾前経では、これらの差別を固定化して考えているのである。しかし、法華経では、いっさいの衆生は、本質的には十界互具、一念三千の当体であると説かれる。十界の衆生、三千の変化相も、同一の妙法から派生した変化であり、差別であって、同一の妙法に帰入すべきものである。ゆえに、地獄といっても、仏の生命に内在しているものであり、仏といっても凡夫の心に具わるものに過ぎない。一念の生命に、全てが具足しているのである。ゆえに、妙法を信じ、自らの生命が妙法の当体であるということを体得し顕現してゆくことが、最も大事なのである。

1382:13~1383:06 第四章 法門の聞き難きを示すtop
13                                        加様に法門を御尋ね候事誠に
14 後世を願はせ給う人か能く是の法を聴く者は 斯の人亦復難しとて此経は正き仏の御使世に出でずんば 仏の御本意
15 の如く説く事難き上、 此の経のいはれを問い尋ねて 不審を明らめ能く信ずる者難かるべしと見えて候、 何に賎
16 者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には 此の経のいはれを問い尋ね給うべし、 然るに悪世の衆生は我慢・
17 偏執・名聞・名利に著して彼れが弟子と成るべきか彼れに物を習はば人にや賎く思はれんずらんと、 不断悪念に住
18 して悪道に堕すべしと見えて候、 法師品には「人有りて八十億劫の間・ 無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳
1383
01 よりも法華経を説かん僧を供養して 後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば・ 我れ大なる利益功徳を得
02 べしと悦ぶべし」と見えたり、 無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし、 何なる鬼畜なりとも法華経の
03 一偈一句をも説かん者をば 「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」 の道理なれば仏の如く互に敬う
04 べし、例せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。
-----―
 このように、あなたが法門を尋ねることは、誠に後世を心から願うからであろう。仏は方便品に「よくこの仏法を聴く、すなわち信受する人は、またごく少数である」といわれている。この法華経は、正しい仏の使いが世に出現しなかったならば、仏の御本意のままに説くことは難しいうえ、さらにこの経のいわれを問い尋ね、疑問を晴らし、心から信ずる者は、非常に稀であるといわれているのである。
 それゆえ、いかに社会的に身分の賤しい者であっても、仏法のことについて、すこしでも自分より勝れて智慧のある人に対しては、この経のいわれを問い尋ねていきなさい。しかし、末法悪世の衆生は、我慢偏執で、名聞名利に執着して、あのような人の弟子となるべきであろうか、もし、あのような人に仏法の教えを習うならば、人から軽蔑されるのではなかろうか、などと思って、常に悪念を断ずることができず、悪道に堕ちるであろうと経文には説かれている。
 法師品第十には「ある人がいて、八十億劫の間、無量の宝物を尽して、仏に御供養申し上げるその功徳よりも、法華経を説く僧侶に供養し、さらに、しばしの間でもこの経の法門を聴聞することがあれば、その人は、自ら、大きな利益、功徳を得ることができると、心から悦びなさい」と説かれている。
 仏法に無智な者は、この経を説く者に仕えることによって、功徳を受けていくことができるのである。どのような悪鬼、畜生であっても、法華経の一偈一句を説く者に対しては「まさに、心から礼を尽くして遠くより出迎え、まさに仏を敬うようにしなさい」との、経の道理であるゆえに、仏法を持った者は、仏に仕えるごとく、互いに尊敬しあうべきである。たとえば、法華経宝塔品の儀式のとき、釈迦多宝が半座を分けて釈迦仏を迎え、二仏が並座したように、たがいに尊敬しあわなければならない。
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05   此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、 依
06 法不依人此れを思ふべし、
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 この三位房は、身分は低い者であるが、少しでも法華経の法門について説く者であるから、仏のように敬って、法門を尋ねなさい。「法によって、人によってはいけない」という涅槃経の文の意味を考えるべきである。

我慢・偏執
 おごり高ぶった心にとらわれ、偏った考えに執着すること。
―――
三位房
 日蓮大聖人の出家の弟子。三位房宛と伝承される「法門申さるべき様の事」(1268㌻)によれば、文永6年(1269年)3月ごろ、三位房は京都で学僧として修学中であったが、同年には公卿らに法門を談義し面目を施したとすることや、実名を尊成(後鳥羽上皇の名「尊成」と同字)に変更したなどを大聖人へ報告し、大聖人から叱責されている。三位房の才智に溺れる危うい傾向性を、このとき大聖人はすでに見抜かれていたものと推測される。その後、三位房は鎌倉を中心に活動し、大聖人の竜の口の法難の時には大聖人の供奉として随行し、大聖人の処刑に殉ずる覚悟を述べていた(「頼基陳状」、1156㌻)。文永9年(1272年)には、日昭・大進阿闍梨とともに重書をいただいており、大聖人の佐渡流罪中は鎌倉にあって日昭らとともに活動していたようである(「辦殿御消息」、1225㌻)。さらに大聖人の身延入山後においても、建治2年(1276年)7月、重要な法門を説き聞かせるからとして、日昭や日朗とともに身延へ参るように指示されている。大聖人の薫陶を受けた三位房は、建治3年(1277年)6月、当時の鎌倉で人気を博していた竜象房を論破するが、体調を崩したことを理由に鎌倉から遠ざかる(「四条金吾殿御返事」、1164㌻)。その後、弘安2年(1279年)までの行動は記録がなく不明で、弘安2年10月の「聖人御難事」(1191㌻)では、名越尼・少輔房・能登房らとともに退転・反逆した者たちの一人として三位房の名が挙げられており、この2年の間に退転したことがうかがえる。さらに同抄では、三位房が不慮の死を遂げたことが記されている。
―――
依法不依人
 涅槃経巻6の文。「法に依って人に依らざれ」と読み下す。仏道修行にあたっては、仏の説いた経文をよりどころにすべきであって、人師・論師の言を用いてはならないとの意。日蓮大聖人も諸御抄で頻繁に引用され(481㌻など)、「報恩抄」には「涅槃経と申す経に云く『法に依って人に依らざれ』等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり」(294㌻)と、あくまでも仏の説いた正しい法によらなければならないことを示されている。
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 本章は、松野殿にたいして、求道心を起こし、法門を問い尋ねることが、いかに大事であるかを強調されたところである。すなわち、法華経の方便品、法師品、普賢品の文を引いて、法門は聞き難いこと。八十億劫の間、仏を供養するよりも、法華経を説く僧を供養し、ほんの少しの間でも法門を聴くほうが、大利益を受けること。いかなる卑しいものであっても、法華経を一偈一句でも説く者に対しては、遠くから出迎えて、心から仏のように敬いなさい。あなたのところに派遣した三位房に法を求める態度で臨みなさい、等のことを細々と指導なされたところである。
此の経は正しき仏の御使世に出でずんば仏の御本意の如く説く事難き云云
 「仏の御本意」とは、末法にあっては、寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経である。したがって、法華経といえども、この立場から読まなければ、真意はわからないし、なんの益もないのである。
 一応、文上の立ち場での法華経の読み方については、像法の正師である天台大師によって、一切は尽くされている。しかし、それをそのまま読んでも、末法においては、無意味である。末法今時では、文底仏法から立ちかえって、これを読まなければならない。
 それをなしうる人は「正しき仏の御使」以外にない。末法の世に、正しく仏の御使いとして付嘱を受けて出現された方こそ、地涌の菩薩の上首、上行菩薩の再誕、御本仏日蓮大聖人にほかならない。
何に賎しき者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし
 賤しき者とは賤しき身分の人をいう。立正安国論には客と主人の問答に次のような一文がある。
 「汝賤身を以て輙く莠言を吐く其の義余り有り其の理謂れ無し。主人の曰く、予少量為りと雖も忝くも大乗を学す蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや」(0026-02)。
 客のいい分は、身分が賤しい者であるからいかに立派なことをいっても信じられないというのである。世間一般の考え方を代表している。これに対し、主人の答えは、青蝿のような小さな虫でも、駿馬(驥の尾にくっついていれば万理を渡ることができる。仏の弟子となって、法華経を学ぶ限り、仏子であり、最高の思想を持つ者であるというものである。
 これと全く同じ意味で、仏法を学ぶ態度は、世間的身分や地位によるのではなく、自分より、少しでも信心の強い人、教学のすぐれた人には、此の仏法の本義を問い求めていかなければならないというご指導である。
 日興上人は遺誡置文に「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」(1618-09)と仰せられている。地位がどうあろうと、職業がなんであろうと、自分より智慧がすぐれている。学問がある人にたいしては、師匠と思って仏法を学んでいくべきであるし、法門をうかがっていくべきであると仰せなのである。
何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば仏の如く互に敬うべし、例せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし
 たとい鬼畜であっても、法華経を一偈一句でも説く者に対しては普賢菩薩勧発品第二十八にある「当起遠迎当如敬仏」の文のように互いに敬わなければならない。それは、宝塔品における釈迦多宝が、尊敬しあい、説法を助けあったようなものである。
 「当起遠迎当如敬仏」とは、三大秘法の御本尊を受持する者は、即仏身を持つ者だからである。ゆえに、仏と同じように敬わなければならないのである。このことは、いかなる時代になろうと、仏法を学び、実践する者の心に刻むべき基礎的な問題である。それは信仰の上での後輩に対する場合も同様である。もし、その人を軽蔑したり、誹謗したりするなら、仏を軽視し誹謗するのと同じ罪を犯したことになる。
 日興遺誡置文には「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(1618-07)と仰せである
 社会的な地位、身分、財産等のいかんを問わず、信心強盛に、広宣流布のために真剣に戦っている人こそ、最も大事にし、敬っていくべきである。この精神を忘れて、外見にとらわれて、信心強情で純粋な人を軽蔑したり、抑圧することは、仏を軽んずることであり、大謗法であることを知らなければならない。
 御文全体が求道心を訴えるとともに、さらには、仏法が人間性を基調とする信頼の世界であるとの原理を説かれているところである。

1383:06~1384:03 第五章 雪山童子の思いを示すtop
06              されば昔独りの人有りて雪山と申す山に住み給き其の名を雪山童子と云う、 蕨をおり
07 菓を拾いて命をつぎ 鹿の皮を著物とこしらへ肌をかくし 閑に道を行じ給いき、 此の雪山童子おもはれけるは倩
08 世間を観ずるに 生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す、 されば憂世の中のあだはかなき事 譬ば電光の如く朝
09 露の日に向ひて消るに似たり、 風の前の灯の消へやすく・ 芭蕉の葉の破やすきに異ならず、 人皆此の無常を遁
10 れず終に一度は黄泉の旅に趣くべし、 然れば冥途の旅を思うに闇闇として・くらければ日月星宿の光もなく、 せ
11 めて灯燭とて・ともす火だにもなし、かかる闇き道に又ともなふ人もなし、娑婆にある時は親類・兄弟・妻子・眷属
12 集りて 父は慈みの志高く母は悲しみの情深く、 夫妻は海老同穴の契りとて大海にあるえびは同じ畜生ながら夫婦
13 ちぎり細かに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如く・ 鴛鴦の衾の下に枕を並べて遊び戯る中なれども・彼
14 の冥途の旅には伴なふ事なし、 冥冥として独り行く誰か来りて是非を訪はんや、 或は老少不定の境なれば老いた
15 るは先立・若きは留まる是れは順次の道理なり歎きの中にも・ せめて思いなぐさむ方も有りぬべし、 老いたるは
16 留まり若きは先立つされば 恨の至つて恨めしきは幼くして親に先立つ子、 嘆きの至つて歎かしきは老いて子を先
17 立つる親なり、是くの如く生死・無常・老少不定の境あだに・はかなき世の中に・但昼夜に今生の貯をのみ思ひ朝夕
18 に現在の業をのみなして、 仏をも敬はず法をも信ぜず無行無智にして 徒らに明し暮して、閻魔の庁庭に引き迎へ
1384
01 られん時は 何を以つてか資糧として三界の長途を行き、 何を以て船筏として生死の曠海を渡りて実報寂光の仏土
02 に至らんやと思ひ、 迷へば夢覚れば寤しかじ夢の憂世を捨てて寤の覚りを求めんにはと思惟し、 彼の山に篭りて
03 観念の牀の上に妄想顛倒の塵を払ひ偏に仏法を求め給う所に。
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 さて、昔、一人の人がいて雪山という山に住んでおり、その名を雪山童子といった。童子は、蕨を採り、木の実を拾って命をつなぎ、鹿の皮をこしらえて着物とし、肌を隠し、静かに仏道を行じていた。この雪山童子が、思っていたことは、よくよく世間を見ると、生死無常の道理であるから、生まれる者は必ず死ぬ。それ故、憂世のなかの空しくはかないことは、譬えば、稲妻のように、また、朝露が太陽に照らされて消えるのに似ている。また、風の前の灯が消えやすく、芭蕉の葉が破れやすいのに異ならない。
 人は皆、この無常を遁れることはできず、ついに一度は死出の旅におもむくのである。そこで、冥途の旅を思えば、道は闇々として暗く、太陽も月も星の光もない。せめて灯燭でもと思っても、ともす火すらない。このような暗闇の道に、また伴う人もないのである。
 娑婆世界にいる時は、親類・兄弟・妻子・眷属が集まって、父は慈みの志が高く、母は悲しみの情が深い。夫妻は海老同穴の契りといって、ちょうど大海にいるえびが、同じ畜生でありながら、夫婦のちぎりも細やかで、一生、同じ処に伴って、離れ去ることがないように、鴛鴦の衾の下に枕を並べて睦じい生活を営んでいたとしても、冥途の旅には一緒に行くことはできない。冥い冥い途を一人で行くのである。だれが来て安否を問うであろうか。
 あるいは老少不定の娑婆であるから、老人が先に死に、若い人が留まるのであれば、それは、順次の道理である。悲歎の中でも、いくらか思いなぐさめることもあるだろう。しかし、老人の方が留まり、若者が先立つこともある。恨みの極みである恨みは、幼くして親に先立つ子であり、軟きの極みである歎きは、老いて子に先立たれた親の心である。
 このように、生死無常、老少不定の所、むなしくはかない世の中に住んでいながら、ただひたすら昼も夜も今生の貯産をためることのみ思い、朝夕、現世の利益だけを求めて、仏も敬わず、法も信じないで、修行もせず、智慧もなく、いたずらに明かし暮らしていては、死んで閻魔の庁庭に引き迎えられるときに、何をもって資糧として三界の長途を行き、何をもって船、筏として苦しみの大海を渡って、実報寂光の仏土にいたることができようか、と雪山童子は考えた。そして、迷えば夢、覚れば寤なのであるから、夢の憂世を捨てて寤の覚りを求めるしかないと考え、雪山にこもって、観念の牀の上に、妄想顛倒の塵を払い、ひたすら成仏の法を求めていたところが、

雪山童子
 釈尊が過去世で修行していた時の名。涅槃経巻14に次のようにある。釈尊が過去世に雪山で菩薩の修行をしていた時、帝釈天が羅刹(鬼)に化身して現れ、過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と童子に向かって半分だけ述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、その身を捨て羅刹に食べさせることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を所々に書き付けてから、高い木に登り身を投げた。羅刹は帝釈天の姿に戻り童子の体を受け止め、その不惜身命の姿勢を褒めて未来に必ず成仏すると説いて姿を消したという。なお、帝釈天が雪山で説いた偈の和訳が「いろは歌」であると伝えられる。
―――
生死無常の理
 森羅万象ことごとく生死の二法を免れない無常のものであり、それが諸法の道理であることをいう。
―――
芭蕉
 芭蕉科の多年草。中国原産。葉は長い楕円形で、大きさは2㍍近くになる。夏と秋に黄白色の花が咲き、茎・根・葉は薬用として用いられる。葉は支脈にそって裂けやすいことから、破れるものの例とされやすい。
―――
黄泉の旅
 黄泉は死後、その魂が行くとされている地下の世界。冥土  。泉下  への旅。よみのくに。よもつくに。
―――
冥途
 死後の世界のこと。「寂日房御書」には「この御本尊こそ、冥途の(恥を隠す)衣装であるから、よくよく信じるべきである」(903㌻、通解)と仰せである。
―――
娑婆
 娑婆世界のこと。娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
―――
眷属
 ①一族、親族のこと。②従者、家来など。③サンスクリットのパリヴァーラの訳。仏や菩薩などに弟子などとして付き従い支える者。
―――
海老同穴
 偕老同穴と同じ。夫婦の仲が睦じく、末永く連れ添うことをいう。海老同穴とはカイロウドウケツ科の美しい海綿の総称。形は円筒形で、美しい篩状または細かい布目状の体壁で覆われ、体内に広い胃腔があり、根の部分を砂中にうめて、深海底に立っている。胃腔の中に雌雄一対のドウケツエビが住んでいる。カイロウドウケツとは、本来はこの胃腔に住むエビを呼んだようである。
―――
鴛鴦の衾
 鴛鴦とはおしどりのこと。衾は寝具。夫婦の睦じい生活をいい、その代表をおしどりの雌雄にたとえて形容したもの。
―――
老少不定
 人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということ。人生の無常をいう仏教語。「不定」は一定しないこと、決まった法則や規則がないこと。「少」は若い意。
―――
無行無智
 仏道修行もなく智慧もないこと。
―――
閻魔の庁庭
 閻魔王がいる庁舎。死者の生前の罪を裁くところ。
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三界の長途
 「三界」は仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。衆生が輪廻生死する永続世界のことをいう。
―――
実報寂光の仏土
 実報は実報無障礙土のこと。住む人の境地を反映して4種類の国土(四土)が立て分けられるが、そのうち、三界六道を離れた国土で、高位の菩薩(別教の初地以上、円教の初住以上)が住むとされる。寂光は承寂光土、仏の住む国土。
―――
妄想顛倒
 真実に迷い、煩悩に左右された姿のこと。妄想とはみだりな正しくない想念、顛倒とは真理を違えてさかさまに見ること。
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 雪山童子が、仏法を求めるに至る心の経過を述べたところである。日蓮大聖人は、松野入道の心境と時代の風潮とを合わせて、ここでは、この雪山童子の例から、小乗の無常観をもって、誘引されている。
 すなわち、どんなにこの世に執着しても、一度は、死なねばならない。人は、生死無常の理を離れることはできない。雪山童子は、世の無常を知り、寂光の世界に安住するために、仏法を求め、修行に入るのである。この雪山童子の修行の姿を通して、人生の姿勢を教示なされている。
 雪山童子が「諸行無常・是生滅法」の偈を聞き、あとの「生滅滅已・寂滅為楽」の半偈を聞くために、身を鬼神に与えたこの物語は涅槃経聖行品第七の四に説かれている。世にいう雪山童子の施身聞偈の物語である。
 雪山童子は半偈のために命を捨てた。これは、釈尊の因位の修行を説いたものであるが、時代を問わず、仏道修行の根本的な精神を示したもので命を惜しまず仏法を求めることが、真に仏道を成ずることであり、永遠の幸福を得る道である、ということを教えている。
 ここで考えなければならないことは、仏道修行も具体的な行動のあり方については時によってちがいがあるということである。日妙聖人御書に「正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん」(1216-09)とあるが、この文からも時に合った修行をしていかなければならないことは明白である。
 いまは末法であり、この日本国には三大秘法の大御本尊が厳然とある。だが、宗教の正邪を知らない人が多い。この時に合った不惜身命の修行とは、一生涯御本尊を離さず、未だこの仏法のわからない人に、御本尊のすばらしさを教えきっていくことにつきる。自行化他にわたる信心活動をしきる人こそ、過去における雪山童子にも劣らない人といえるのである。
無常について
 ここで無常観について述べてみよう。雪山童子は、この世のさまざまな現象を無常と観る。「此の雪山童子おもはれけるは倩世間を観ずるに生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す」とあるのがそれである。
 無常は、常住に対する考え方である。有為世間の相は、ことごとく変化し、生滅する。全ては、生死生死と流転し、定まることがない。生住異滅・遷滅の実体こそ自然の摂理である。生ある者は、必ず死滅する。これが小乗の無常観である。
 こうした無常という考えは、この世の流転の姿を見たもので、さらに敷衍すれば、この世は、変化する故、遷はかないのであるといった厭世観につながる。
 「されば憂世の中のあだはかなき事譬ば電光の如く朝露の日に向ひて消るに似たり、風の前の灯の消へやすく・芭蕉の葉の破やすきに異ならず、人皆此の無常を遁れず終に一度は黄泉の旅に趣くべし」と。
 御文では、松野入道の心境に合わせ、日蓮大聖人は、敢えてここで無常を説いておられる。そして、無常の例として、電光の譬え、風前の灯の譬え、芭蕉の葉の譬えと、自然の現象を通して、説かれている。
 日蓮大聖人が、ここで無常を説かれたのは、一生成仏・未来永劫にわたる常楽我浄の人生を説くための、伏線としてではなかろか。
 無常という考えは、それ自体、真理の一端であって、誤りとはいえない。だがその真理の一部分を捉えて、それをもって全てとするのは間違いである。これを顚倒無常という。
 この世は、確かに、流転の世界である。小乗教では、この世は無常の世界であるゆえに、生老病死の四苦を免れることはできないと説くのである。すなわち、無常の世界にあって、衆生は煩悩汚泥の中に深く沈みあえぐしかない。それ故、苦行を修して煩悩を滅尽し、悟りを得るべきであると説く。だが、この考えは、現実に直面しながら逃避したものである。
 日蓮大聖人は、無常の世界を、ありのままに見て、しかも、そこから逃避したりするのではなく、無常なるものの中から、その本質にある常住、すなわち、本有の実体をみて、変化する無常に左右されない。不動の人生を説かれたのである。それが本有常住の生命観であり、常楽我浄の人生なのである。

1384:04~1386:05 第六章 雪山童子と不惜身命の求法top
04   帝釈遥に天より見下し給いて思し食さるる様は、 魚の子は多けれども魚となるは少なく・菴羅樹の花は多くさ
05 けども菓になるは少なし、 人も又此くの如し菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入る者は少し、 都
06 て凡夫の菩提心は多く 悪縁にたぼらかされ事にふれて移りやすき物なり、 鎧を著たる兵者は多けれども戦に恐れ
07 をなさざるは少なきが如し、 此の人の意を行て試みばやと思いて帝釈・鬼神の形を現じ童子の側に立ち給う、 其
08 の時仏世にましまさざれば 雪山童子普く大乗経を求むるに聞くことあたはず、 時に諸行無常・是生滅法と云う音
09 ほのかに聞ゆ、 童子驚き四方を見給うに人もなし但鬼神近付て立ちたり、 其の形けはしく・をそろしくて頭のか
10 みは炎の如く口の歯は剣の如く 目を瞋らして雪山童子をまほり奉る、 此れを見るにも恐れず偏に仏法を聞かん事
11 を喜び怪しむ事なし、 譬えば母を離れたるこうしほのかに母の音を聞きつるが如し、此事誰か誦しつるぞ・ いま
12 だ残の語あらんとて普ねく尋ね求るに更に人もなければ、 若しも此の語は鬼神の説きつるかと疑へどもよも・ さ
13 もあらじと思ひ彼の身は罪報の鬼神の形なり 此の偈は仏の説き給へる語なり、 かかる賎き鬼神の口より出づべか
14 らずとは思へども、 亦殊に人もなければ若し此の語汝が説きつるかと問へば、 鬼神答て云う我れに物な云いそ食
15 せずして日数を経ぬれば飢え疲れて正念を覚えず、 既にあだごと云いつるならん 我うつける意にて云へば知る事
16 もあらじと答ふ、 童子の云く我れは此の半偈を聞きつる事半なる月を見るが如く半なる玉を得るに似たり、 慥に
17 汝が語なり 願くは残れる偈を説き給へとのたまふ、 鬼神の云く汝は本より悟あれば聞かずとも恨は有るべからず
18 吾は今飢に責められたれば物を云うべき力なし 都て我に向いて物な云いそと云う、 童子猶物を食ては説かんやと
1385
01 問う、鬼神答て食ては説きてんと云う、 童子悦びてさて何物をか食とするぞと問へば、 鬼神の云く汝更に問うべ
02 からず此れを聞きては必ず恐を成さん、 亦汝が求むべき物にもあらずと云へば 童子猶責めて問い給はく其の物を
03 とだにも云はば 心みにも求めんとの給えば 鬼神の云く我れ但人の和らかなる肉を食し 人のあたたかなる血を飲
04 む、 空を飛び普ねく求れども人をば各守り給う仏神ましませば心に任せて殺しがたし、 仏神の捨て給う衆生を殺
05 して食するなりと云う、 其時雪山童子の思い給はく我れ法の為に身を捨て此の偈を聞き畢らんと思いて、 汝が食
06 物ここに有り外に求むべきにあらず、 我が身いまだ死せず其の肉あたたかなり我が身いまだ寒ず 其の血あたたか
07 ならん、 願くは残の偈を説き給へ此の身を汝に与えんと云う、 時に鬼神大に瞋て云く誰か汝が語を実とは憑むべ
08 き、 聞いて後には誰をか証人として糾さんと云う、 雪山童子の云く此の身は終に死すべし徒に死せん命を法の為
09 に投げばきたなく・ けがらはしき身を捨てて後生は必ず覚りを開き仏となり清妙なる身を受くべし、 土器を捨て
10 て宝器に替るが如くなるべし、梵天・帝釈・四大天王・十方の諸仏・菩薩を皆証人とせん我れ更に偽るべからずとの
11 給えり、 其の時鬼神少し和で若し汝が云う処実ならば偈を説かんと云う 其の時雪山童子大に悦んで身に著たる鹿
12 の皮を脱いで 法座に敷頭を地に付け掌を合せ跪き、 但願くは我が為に残の偈を説き給へと云うて 至心に深く敬
13 い給ふ、 さて法座に登り鬼神偈を説いて云く生滅滅已・ 寂滅為楽と此の時雪山童子是れを聞き悦び貴み給う事限
14 なく後世までも忘れじと 度度誦して深く其の心にそめ、 悦ばしき処はこれ仏の説き給へるにも異ならず歎かわ敷
15 き処は我れ一人のみ聞きて人の為に伝へざらん事をと深く思いて石の上・ 壁の面・路の辺の諸木ごとに此の偈を書
16 き付け願くは後に来らん人必ず此の文を見其の義理をさとり 実の道に入れと云い畢つて、 即高き木に登りて鬼神
17 の前に落ち給へり、 いまだ地に至らざるに鬼神俄に帝釈の形と成りて 雪山童子の其身を受取りて平かなる所にす
18 え奉りて恭敬礼拝して云く 我れ暫く如来の聖教を惜みて試に菩薩の心を悩し奉るなり、 願くは此の罪を許して後
1386
01 世には必ず救ひ給へと云ふ、 一切の天人又来りて善哉善哉実に是れ菩薩なりと讃め給ふ、 半偈の為めに身を投げ
02 て十二劫生死の罪を滅し給へり此の事涅槃経に見えたり、 然れば雪山童子の古を思へば 半偈の為に猶命を捨て給
03 ふ、 何に況や此の経の一品一巻を聴聞せん恩徳をや何を以てか此れを報ぜん、 尤も後世を願はんには彼の雪山童
04 子の如くこそ・あらまほしくは候へ、 誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば 我が身命を捨て仏法を得べき便あ
05 らば身命を捨てて仏法を学すべし。
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 帝釈天が、雪山童子をはるかに天界より見おろして思うのには、魚の子は多いけれども、そのなかで成魚となるものは少なく、菴羅樹の花は多く咲くけれども実を結ぶものは少ない。人もまた同じである。成仏を願って仏法を求める人は多いけれども、退転しないで、仏道修行を全うして仏になる人は少ない。全てわれら凡夫の菩提心というものは、多くは悪縁にたぼらかされて何か事あるたびに紛動されやすいものである。りっぱな鎧を着た武士は多いけれども、戦さにのぞんで恐れないで戦う武士は少ないようなものである。そこで帝釈は、この雪山童子の本心を試してみようと思い、鬼神に身を変えて童子のそばに現われたのである。
 そのときは、未だ仏は世に出現していなかったので、雪山童子は、広く大乗経典を求めたのであるが、聞くことはできなかった。ちょうどその時、「諸行は無常であり、これ生滅の法である」という声が、ほのかに聞こえてきた。雪山童子は、驚いてあたりを見たが、声の主と思われる人はなく、ただ鬼神が近くに立っていた。その鬼神の形相は、けわしくおそろしくて、髪は炎のように逆立ち、口の歯は剣のようにするどく、目を瞋らして雪山童子をじっと見ていた。
 雪山童子は、鬼神のそのような形相を見ても、少しも恐れることなく、ただひとえに、仏法を聞くことができるのを喜び、いぶかることもなかった。譬えていえば、母牛をはなれた子牛が、かすかに母親の声を聞きつけたようなものであった。
 「いまの半偈の言葉をいったい、誰が口ずさんだのであろうか。まだ残っている言葉があるに違いない」と、周囲をさがし求めたが、一向にそれらしい人もない。そこで、もしかしたら、この言葉は、鬼神が説いたのかもしれないと思ってみたが、まさかそんなこともあるまいと考えなおした。ばぜなら、彼の身は罪の報いともいうべき悪鬼の姿をしている。ところが、この半偈は、仏の説かれた言葉である。このような賎しい鬼神の口から出るはずはないとは思ったが、そうかといって、他に人もいないので、「もしかしたらこの言葉は、あなたが口ずさんだのではないか」と問うてみた。
 鬼神が答えていうには、「自分に言葉をかけてくれるな。幾日も食べていないので、飢え疲れて正念を失い、もうろうとしている。ことによると、たわごとをいったのだろう。ぼんやりとした意識で言ったので、何をいったか知ることもできない」と答えた。
 雪山童子は「自分がこの半偈を聞いたということは、ちょうど半月を見たようなものであり、また、半分の玉を得たのに似ている。たしかにあなたがいった言葉である。どうか残りの半偈を説いていただきたい」といった。鬼神は「お前はもともと悟っているのだから、聞かなくても恨みはなかろう。自分は、いま、飢えにせめられているから、ものをいう力もない。いっさい自分にむかって、言葉をかけてくれるな」というのである。
 童子はそれでもなお、「では、なにか食べたら、説いてくれるのか」と問うた。鬼神は「食べたら説けるだろう」と答えた。童子はよろこんで「それでは、なにを食べるのか」と問うと、鬼神は「これ以上聞いてはならない。もし、自分の食べたいものを聞いたなら、きっと恐れをなしてしまう。またお前が求められるものではない」と答えた。
 童子は、なおも執拗に問いただし「そのものさえいってくれれば、試みにも求めよう」といえば、鬼神は「私はただ人間のやわらかな肉を食べ、人間のあたたかい血を飲むのである。空を飛び普ねく求めてきたけれども、人を守る仏神がいるので、思うように殺すことができない。だから仏神の捨てた衆生を殺して食べているのだ」という。その時雪山童子は、「私は法のために身を捨てて、この偈を聞き畢ろう」と考えて「あなたの食べ物はここにある。外に求めることはない。わが身はいまだ死んでいないから、その肉はあたたかい。わが身はまだひえていないから、その血もあたたかいであろう。どうか、残りの偈を説いて下さい。この身をあなたに与えよう」といった。それを聞いて、鬼神が大変瞋っていうには「誰かおまえのいうことを真実と信頼できようか。残りの偈を聞いた後にお前が約束を破ったら、誰を証人としてそれを糾明できようか」と。そこで雪山童子は「この身は最後には死すべきものである。無駄に、死んでしまう命を法のために捧げるならば、きたなく、けがらわしい身を捨てて、後生は必ず覚りを開いて仏となり、清妙な身を受けることができよう。このことは土器を捨てて宝器にかえるようなものである。梵天・帝釈・四大天王・十方の諸仏・菩薩を皆証人としよう。その上で私は偽ることはできない」といった。そこで鬼神は少しやわらいだ態度となって「もしおまえのいうことが真実であるならば偈を説こう」といった。そのとき雪山童子は大いに悦んで、自分が着ていた鹿の皮を脱いで、法座に敷き、頭を地に付け、掌を合わせてひざまずいた。そして「どうか、私のために残りの偈を説いていただきたい」といって、心の底から深く敬ったのである。そこで鬼神は法座に登り、偈を説いて「生滅を滅し已って、寂滅を楽と為す」といった。この時雪山童子はこれを聞き、悦び貴ぶこと限りなく、「後世までも決して忘れまい」と何度も誦して深く心にそめた。そして「悦ばしいことは、この言葉は仏の説かれたものと異ならないことである。ただ、嘆かわしいことは、この偈を私一人だけ聞いて、人のために伝えられないことである」と深く思って、石の上、壁の面、路のほとりの諸木ごとに、この偈を書きつけ、「願わくば、ここに後にやってくる人は、必ずこの文を見て、その義理を悟り、真実の道に入ってもらいたい」といい畢って、すぐに高い木に登って、鬼神の前に身を投げたのである。
 まだその身が地に至らないうちに、鬼神はにわかに帝釈の形となって、雪山童子のその身を受けとって、平らなところに据えて、恭敬礼拝していうには「私は如来の聖教を惜しんで、ためしに、菩薩であるあなたの心を悩ましたのである。どうか、この罪を許し、後世には必ず救っていただきたい」といった。そこへいっさいの天人が現われて「善い哉、善い哉、実にこれは菩薩である」と讃めたたえたのである。雪山童子は半偈のために身を投げて、十二劫という長い間生死の罪を滅することができた。このことは涅槃経に説かれている。したがって雪山童子の古を思えば、半偈のためにさえなお命を捨てたのである。ましてやこの法華経の一品一巻を聴聞した恩徳に対しては何をもってこれに報いたらよいのであろうか。もっとも後世のことを願うのならば、彼の雪山童子のように振舞うことが理想である。もし、わが身が貧しくて布施する宝がないならば、そしてわが身命を捨てて仏法を得られる機会があったならば、身命を捨てて仏法を学ぶべきである。

帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(Śakra-devānām-indra)の訳。釈迦提婆因陀羅、略して釋提桓因ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二の忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経の会座では、眷属二万の天子をつれて列なり、法華経の行者の守護を誓っている。
―――
菴羅樹の花
 菴羅は梵語で果樹の名。マンゴーのことで、きわめて美味な果実として引用されている。春、枝に黄色の小花を開く。玄応音義に「この果実、花多くして果子を結ぶこと甚だ少し、果の形は梨に似て底は鈎曲れり」とある。
―――
菩提心
 阿耨多羅三藐三菩提心の略。三菩提心ともいう。仏の覚りを求める心。三菩提はサンスクリットのサンボーディの音写で、「完全な覚り」の意。正覚・正等覚などと訳す。
―――
諸行無常・是生滅法
 涅槃経聖行品の文。「諸行は無常にして、是れ法滅の法なり」と読む。雪山童子が聞いた前の半偈。諸行とは三世にわたる一切の有為の現象のこと。森羅万象は無常であり、生死を流転するという小乗の生命観。
―――
こうし
 仔牛のこと。
―――
罪報の鬼神の形なり
 「罪報」とは、犯した罪の報い・苦果。鬼神は本来過去の罪業によって、このような姿になったのである。
―――
あだごと
 根拠のない言葉・むだぐち・妄語。
―――
うつける意
 意識がはっきりしていないこと。
―――
生滅滅已・寂滅為楽
 涅槃経聖行品の文。「生滅を滅し已って寂滅を楽と為す」と読む。雪山童子が聞いた後の半偈。煩悩を断ずるところに悟りがあるとの意。生滅は生死の煩悩、滅已は煩悩を断ずること、寂滅は涅槃、為楽は悟り、を意味する。
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恭敬礼拝
 つつしみうやまい、礼儀を正して拝むこと。
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 この章では、帝釈が鬼神に身を変えて、雪山童子の求道心を試みていることが、物語として述べられている。
 雪山童子が、半偈を求めるために、鬼神に身を捧げたことには、さまざまな示唆があると思われる。
 一つには、仏法で、最も大切なことは、求道心であるということであろう。法とは、求めるものであって、珙手していて与えられるものではない。もっとも、御本尊は、ありがたいことに、無上宝聚不求自得である。しかし、その偉大な御本尊を根本とし、自己の成長を図っていくことには、やはり旺盛な求道心が必要なのである。求道心のないところに、仏法はない。
 二つには、法を求めるとは、不惜身命の実践がなければならないということである。たんなる知識欲ではない。実践のないところ、仏法は求められない。力強い実践があってこそ、仏法は、生きた原理として胸中に響いてくるのである。
 三つには、相手が誰人であれ、仏道においてすぐれている人には、進んで求道の心を燃やすべきことを教えている。鬼神という例で示されているが、それは、仏法が、法をもとにすべきであることを、端的にあらわそうとしたものであろう。社会的な地位や、肩書がどうであろうと、それは、人間として偉大かどうかということとは別問題である。仏法は、その人間主義に、一切の原点を置いている。
 四つには、仏法の悟りは、特別な世界にあるのではなく、最も身近な生活の中にあることを示していると思われる。鬼神というのは、特異な譬えであろうが、高貴な、理想世界に仏法があるのではなく、この現実の、いわば、泥くさい、社会のなかにある。雪山童子は、雪山という人里離れたところでしずかに道を行じていた。しかし、そこでは、仏法は得られず、むしろ鬼神に身を捨てて、法を求めた時に得られた。仏法の悟りは、静的なものではない。不惜身命という大実践のなかに、湧現するものである。この物語は、このことをよくあらわしている。
半偈の為に猶命を捨て給ふ、何に況や此の経の一品一巻を聴聞せん恩徳をや何を以てか此れを報ぜん
 雪山童子は半偈を聞くために命を捨てた。今、法華経の一品一巻を聞くことができたわが身は、何をもってその恩徳に報いればよいのであろうか、という意味である。
 現在のわれわれにあてはめるならば、折伏を受けて入信し、御本尊を拝むことができた。そして日蓮大聖人の仏法哲学を学び、功徳を受け、宿命転換の法を知ることができた。この恩徳に何をもって報ずることができるだろうか、ということである。日蓮大聖人は、わが身が貧しくて布施すべき宝がないならば身命をこれに捧げ、機会があったら、身命を捨てて仏法を学びなさい、と仰せである。
 現在においてこの法に身命を捨てるとは、広宣流布の大理想に邁進することであり、身命を捨てて仏法を学ぶとは、実践の中にわが身に仏法哲学を学んでいくことである。
 そのなかの行とは、布教折伏である。それは、相手の内に秘められている仏界を呼び醒ますための実践行為である。したがって、時としては、悪心を折って正しい信心に服させる厳愛の行為でもある。また、自分が正しい仏法を知った喜びを他人に話して、他人の不幸の解決を助けることであって、人間性の本源より、迸り出る行為である。これを進めることが、妙法を聞いた恩を報ずることになるのである。

1386:06~1386:13 第七章 法師の死身弘法を説くtop
06   とても此の身は徒に山野の土と成るべし・惜みても何かせん惜むとも惜みとぐべからず・人久しといえども百年
07 には過ず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし、 受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責め
08 ずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は 法師の皮を著たる畜生なり、 法師の名を借りて世を渡り身を養う
09 といへども法師となる義は一もなし・ 法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、 迹門には「我身
10 命を愛せず但だ無上道を惜しむ」ととき・ 本門には「自ら身命を惜まず」ととき・涅槃経には「身は軽く法は重し
11 身を死して法を弘む」と見えたり、 本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり、 此等の禁を背
12 く重罪は目には見えざれども積りて地獄に堕つる事・ 譬ば寒熱の姿形もなく 眼には見えざれども、 冬は寒来り
13 て草木・人畜をせめ夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。
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 どんなことをしてみてもこの身は空しく山野の土となってしまう。惜しんでもどうしようもない。どんなに惜しんでも惜しみ遂げることはできない。人はいくら長く生きたとしても、百年を過ぎることはない。その間のことは但だ一睡の夢である。受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊び戯むれて雑談のみに明かし暮す者は、法師の皮を著た畜生である。法師という名を借りて、世を渡り、身を養っていても、法師としての意義はなに一つない。法師という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである。法華経迹門の勧持品第十三に「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」と説かれ、本門の如来寿量品第十六には「自ら身命を惜まず」と説かれ、涅槃経には「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と説かれている。法華経の本迹両門も、涅槃経もともに身命を捨てて法を弘むべきであると説かれているのである。これらの禁に背く重罪は目には見えないけれども、積って地獄に堕ちることは、譬えば、寒さ熱さは姿形もなく、眼には見えないけれども、冬には寒さがやってきて、草木や人畜をせめ、夏には熱さがやってきて、人畜を熱さで悩ませるようなものである。

一睡の夢
 一炊の夢のこと。盧生という男が、眠っている間に、自分の栄枯盛衰の有様を夢に見たが、目がさめてみると、炊きかけの食事がまだできていないぐらいの短い時間であったという。人生のはかないことを教えた中国の故事。
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遊戯雑談
 あそびたわむれること、享楽すること。
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我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ
 法華経勧持品第13の偈文。迹化他方の菩薩が仏滅後の弘教を誓って述べた言葉。
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自ら身命を惜しまず
 法華経如来寿量品第16の偈文「一心欲見仏 不自惜身命」の部分。仏道修行には必ず大小の難があるが、身命を惜しまない強盛な信心を貫くことによって、絶対的幸福が得られるのである。
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身は軽く法は重し身を死して法を弘む
 御書全集松野殿御返事にあ「涅槃経」とあるが後写と思われる。章安大師の涅槃経疏に出てくる。正法を弘める者の真実の姿で、一身を捨てて正法を弘めることを勧めている文。
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 短い一生を、仏法のために尽くすべきであると、不自惜身命の実践を強調されたところである。とくに現実の法師の堕落ぶりを弾呵し、法師は、自分の使命としての、不自惜身命、死身弘法につとめるべきであると、経文を引かれている。そして、この禁めに背く時には、必ず冥罰があると、自然の摂理を例として、説かれている。
法師の皮を著たる畜生なり
 受けがたき人身を得て、たまたま出家した者で、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊戯雑談のみに明かし暮らしているならば、その人は「法師の皮を著たる畜生」であるというのである。
 法師とは仏法によく通じ、真実の教法によって教え導く僧のことである。また、行を修めて、常に法を説き、世の軌範となり、衆生を導く僧侶のことをいうのである。広く解釈すれば、現代の世間においては多くの人々を導く指導的階層も法師にあたると考えられる。
 御義口伝には法師について、「法とは諸法なり師とは諸法が直ちに師と成るなり森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」(0736-第一法師の事)とある。
 一念三千の生命観から見るとき、いっさいのものは、妙法の当体であり、妙法の働きであるから、法師である。まして、大御本尊を護持し、広宣流布の仏意を実践していく者は、社会の真の指導者であり、法師といえるのである。
 しかし、外見は仏法を行ずる法師の姿をしていても折伏教化を忘れ、遊戯雑談に日を送るようなら、中身は畜生同然であると仰せである。末法には、このような法師が充満しているのである。
 大聖人は「末世には狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ給いて候なり、文の意は末世の僧・比丘尼は名聞名利に著し上には袈裟衣を著たれば形は僧・比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて……」(1381-08)と本抄の初めに指摘されている。
 また、現代の指導者についても「法師の皮を著たる畜生」に相当する者が多いように思われる。
我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ
 法華経勧持品第十三に次のように説かれている。
 「濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん。悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱せん。我れ等は仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし。是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん。我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ」と。当時の大聖人一門はこの経文を、実感として受けとられたに違いない。
 本抄を著された建治2年(1276)といえば、滝泉寺の院主代行智が、日興上人門下に迫害を加え、日秀、日弁、日禅が追放にあったときである。行智は、日秀、日弁、日禅、頼円に向かって、法華経の信仰を止めて、念仏を称えるべきであると、迫ってきたのである。行智は生道心の不徳の僧であるにもかかわらず、北条一門の庶流で、幕府を背景に滝泉寺の院主代になった者である。
 滝泉寺の一帯は、北条家の所領であった。そのため下方政所が領地を統括していた。そこで行智は、代官をも味方に引き入れていたわけである。
 こうした背景のもとに、行智は、日秀等の主だった四人に、再改宗を迫り、もしそれができなければ、寺家を追放すると、圧力をかけたわけである。
 四人のうちの、三河房頼円は、信心弱くして、謝る旨の証文を書き、寺内安堵を願った。頼円は、日頃、大聖人がいわれている教訓を、いざという時に生かしきれなかったわけである。だが少輔房日禅は、退転することなく、このような仏法未熟の悪者と交渉するのは無用であると、早速に坊舎を明け渡して河合へ引き揚げた。日秀と日弁は、前師から譲られた坊にいるのであるから、院主代とは関係がない、といって坊に止まったのである。
 日蓮大聖人は、仏の言葉を借りて、「我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ」と述べている。この経文の鏡には、実際に、命がけで仏道修行して、無上道を守りぬく至信の活動が映し出されている。日興上人を中心とする弟子方は、さまざまな弾圧にあいながら、大聖人の御金言を命がけで実行したのである。このことは、未来永劫に残る信心の鏡なのである。
自ら身命を惜まず
 法華経如来寿量品第十六に「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」とある。日寛上人は依義判文抄に「寿量品に云く『一心に仏を見んと欲して自ら身命を惜しまず、時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出ず』云云。此の文に三大秘法分明なり。所謂初めの二句は本門の題目なり……初めの二句の中に一心欲見仏とは即ち是れ信心なり。不自惜身命とは即ち是れ唱題修行なり。此に自行化他有り、倶に是れ唱題なり」と述べられている。すなわち、この文は、三大秘法の依文であり、同時に大聖人の仏法を実践する根幹は、実に一心欲見仏、不自惜身命の信心唱題にあることを示すものである。
本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり
 この御文の本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべきであるということは、法華経勧持品第十三の「我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ」、法華経如来寿量品第十六の「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」、涅槃経疏の「身は軽く法は重し身を死して法を弘む」とあることをさしている。日興上人は、遺誡置文の中で「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618-06)と仰せになっている。とくに、末法における法華経の弘通には、大難が伴うことは必定であり、身命を惜しまぬ覚悟がなくては、信心を全うすることができないのである。これらの経文は、大聖人にとっては、御身の上のことであり、現実のものであったことを深く感じなければならない。

1386:14~1387:05 第八章 在家の在り方と臨終の様相top
14   然るに在家の御身は但余念なく 南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経
15 文の如くならば随力演説も有るべきか、 世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし、 況や来世の苦をやと思
16 し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、 悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢・ 霊山浄土の悦びこそ実の悦びな
17 れと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、 退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、 妙覚の山に走
18 り登つて四方をきつと見るならば・ あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道を界
1387
01 へり、 天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、 我れ等
02 も其の数に列なりて 遊戯し楽むべき事はや近づけり、 信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべか
03 らず、不審の事をば尚尚承はるべく候、穴賢穴賢。
04       建治二年丙子十二月九日               日 蓮 花 押
05     松野殿御返事
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 出家の身は前述のとおりすべきであるが、在家の身である、あなたは、但余念なく、南無妙法蓮華経と唱えて、僧をも供養することが肝心なのである。それも経文のとおりであるならば、力に応じて折伏もすべきである。世の中がつらく感じられる時も、今生の苦しみでさえこのように悲しい、いわんや来世の苦しみにおいてはそれ以上であると思って、南無妙法蓮華経と唱えなさい。また、うれしい時でも、今生の悦びは夢の中の夢のごときものであり、霊山浄土の悦びこそが、まことの悦びであると思い合わせて、また南無妙法蓮華経と唱えなさい。そして、退転することなく修行して、最後臨終の時を待ってごらんなさい。妙覚の山に走り登って、四方をきっとみるならば、なんとすばらしいことであろうか。法界は皆寂光土で、瑠璃をもって地面とし、金の繩をもって八つの道の境界をつくり、天より四種の花が降ってきて、空に音楽が聞こえてくる。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。われ等もその数の中に列なって、遊戯し楽しむべきことは、もう間近である。信心が弱くてはこのようなめでたい所へは決して行くことができないのである。もし不審のことがあるならば、また承りましょう。あなかしこ、あなかしこ。
  建治二年丙子十二月九日   日 蓮  花 押
   松野殿御返事

随力演説
 各人の力に応じて、衆生を折伏教化するために仏法を説くこと。
―――
霊山浄土
 法華経の説法が行われた霊鷲山のこと。久遠の釈尊が常住して法華経を説き続ける永遠の浄土とされる。日蓮大聖人は、法華経の行者が今ここにいながら往還できる浄土であるとともに、亡くなった後に往く浄土でもあるとされている。
―――
妙覚の山
 妙覚は52位、42位の最高位であることから成仏の山にたとえられたもの。
―――
法界寂光土
 法界とは法界三千のことで、宇宙万有の全てである。寂光土は仏の住する清浄な国土。南無妙法蓮華経と唱える正信の者の住所をいう。
―――
八の道
 清らかで平らかな道で、涅槃にいたる道というのが、もとの意。八正道(はっしょうどう)のこと。八正道のたて方は経によって異同があるが、中阿含経によると次のようになる。
   ① 正見  世間、出世間に対する正しい見解のこと。
   ② 正志  思想の正しいこと。正思惟ともいう。
   ③ 正語  言語の正しいこと。
   ④ 正業  行ないの正しいこと。
   ⑤ 正命  生活法の正しいこと。
   ⑥ 正方便 修行法の正しいこと。正精進ともいう。
   ⑦ 正念  観念の正しいこと。
   ⑧ 正定  いっさいの悪を捨てること。
―――
四種の花
 インドでもっとも尊重された花で、法華経が説かれる際、瑞兆として天から降るという四種の花のこと。四華ともいう。法華経序品第一には「是の時、天は曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上、及び諸の大衆に散じ、普き仏の世界は六種に震動す」とある。曼陀羅華は白蓮華のこと、摩訶曼陀羅華は大白蓮華のことをいう。曼殊沙華は天上華とも、赤華とも訳される。摩訶曼殊沙華は曼殊沙華の大なるものをいう。
―――
常楽我浄
 仏にそなわる徳目で、四徳波羅蜜ともいう。単に四徳とも。涅槃経などでは、苦・空・無常・無我は人々の迷いを破るための教えであり、仏の境地は常・楽・我・浄であると説く。①常とは仏の境地が永遠不変であること。②楽とは無上の安楽のこと。③我とは自立していて他から何の束縛も受けないこと。④浄とは煩悩のけがれのない清浄な境地をいう。
―――
娯楽快楽
 諸仏・菩薩が喜び楽しんでいるさま。いかなる難も打ち破り余念なく南無妙法蓮華経を唱えるとき、最高の楽しみ、成仏の境涯をさす。
―――――――――
 在家の身としての信仰のあり方を示されて本抄を締めくくられている。すなわち、唱題、供養、折伏に邁進すべきであり、それによって永遠の幸福が必ず得られることを強調されている。しかも、その最も根本は信心であり、「信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず」と、強盛なる信心を貫くことを、特にすすめておられるのである。
それも経文の如くならば随力演説も有るべきか
 これは、布教を勧められた御文である。大聖人は、経文のとおりであれば、随力演説していきなさい、弘教をしていきなさい、といわれたところである。
 ここでいう経文とは、法華経随喜功徳品第十八である。随力演説は、五十展転の功徳が説かれている中の言葉である。すなわち、それは次のとおりである。
 「是の経を聞いて随喜し已って、法会従り出でて、余処に至り……若しは城邑・巷陌・聚落・田里にて、其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん(中略)是の如く展転して、第五十に至らん」。
 この経文によれば、随力演説とは、法華経を聞いた歓喜で、自らの力に応じて、聞いた話を他の人に伝え弘めていくことである。
 今日においては、われわれもまた、法華経の文底の法門を聞き得たわけである。したがって、崇高な哲理を聞き、歓喜した以上、これを伝えるべきである。昔は、仏の教えを聞いた衆生が、随力演説したのである。今は、われわれが日蓮大聖人の仏法を聞いて、歓喜し、布教に励むのである。
 われわれは信を根本とし、各人の能力・個性に応じ、これを最大限に発揮して、法を弘むべきである。
 日興上人が遺誡されている、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618-06)の「身命を捨て」の意をよく思索し、その意志を体していくべきである。
 次に、随力演説の演説についてみるなら、それは、妙法を説き演べることである。決して、他の事柄をいうのではない。
 演説には、さまざまな演説がある。人を煽動するための演説もあれば、自己の利益を守るための演説もある。宣伝アピールのための演説もあれば、人を窮地に追いやる演説もある。人を称賛する演説もある。そこで大事なことは、何を演説するか、ということである。
 真実の演説は、人を根底より幸福へ導く内容のものであるといえよう。仏法は、幸福の根源を説き極めているのである。故に、真実の演説の内容は仏法の演説の中にある。それは、あたかも蔵の中に珠玉がちりばめられているようなものである。
今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ
 今生の幸せというものは、夢の中の夢のように、はかないもので、真実の幸福世界、悦びというものは霊山浄土における悦びであるとの御文である。霊山浄土とは仏のいます清浄な国土のこと、すなわち常寂光土のことをいう。末法においては、三大秘法の大御本尊のましますところであり、また大御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱える者の住所をいうのであるが、本抄では、前後の関係から、今世に対する来世の意味に使われている。
 また、今生の悦びとは世間一般の幸せであり、霊山浄土の悦びとは信心を根底とした絶対的な幸福とも考えられる。松野殿に与えられた御書には、大聖人は、来世というもの、成仏ということについて、その時の様子や状態をくわしく述べられている個所が多い。
 こうしたお手紙からすると、松野入道は、死後の世界、臨終というものに強い関心を持っていて、日蓮大聖人におうかがいしたとも考えられる。
 当時は、末法思想が浄土思想と結びついていた。手のほどこしようのない天災は民衆を苦悩のどん底におとしいれた。当時の状況について、文永5年(1268)に書かれた安国論御勘由来の次の一節からもうかがうことができる。
 「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘って大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033-02)。
 死ぬ人が大半以上に及んだとは、痛ましいかぎりである。そういう中で何らなす術を知らない民衆は、宗教にすがり、今生で幸せになれないものを来世に求めたのである。
 あるいは西方の阿弥陀にすがり、あるいは東方の薬師如来を信じていったのである。松野入道も当時に生きたひとりの人間として、死ということ、また死後の世界にかなり深い関心をもっていたと考えられる。日蓮大聖人は、このような松野殿の心境にこたえて、題目を唱えて、生死を超越した永遠の幸福境涯を自得するように、激励なさったものと思われる。
 このように今生よりも未来を重んじて述べられたのは、仏法は永遠にわたる幸福確立にその元意があるからである。
 「今生の悦びは夢の中の夢」とは、一瞬一瞬のはかないすぐ消えてしまうような悦び、すなわち、周囲の変化によって、すぐ崩れてしまう喜び、幸せである。最後は、死によって、全てが崩壊する無常の世界である。
 「霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ」とは、三大秘法の御本尊を信じている者の永遠に崩れない悦びを指すのである。ここで、霊山浄土とは、念仏宗で説く極楽浄土のような彼岸思想ではない。本抄では、一応、例として理想教が描かれているが、本質は、御本尊を受持するとき、いかなる山谷広野であろうと、そこは、即寂光土となるのである。したがって、いかなる環境であっても、妙法を信受するとき、悪条件を克服することができるのである。無常観、厭世観を脱するとは、永遠の生命観に立ち、現実の世界から、逃避するのではなく、その中で、強く逞しい生命力をもって、その環境を逆に支配することにほかならない。それが霊山浄土に入ることであり、自身の宮殿を築くことである。これを成仏の境涯というのである。
 正法を知らない人は、漠然とした人生観のもとに、いつ崩れるかも知れない幸せを求めているに過ぎない。そして、社会的な立ち場を得ると、胸をはって自分の幸せを吹ちょうし、いい気になっているが、その立ち場がぐらつきはじめると、恥も外聞も忘れて、嘆き悲しみ、自分より不幸なものはこの世にいないかのように嘆くのが常である。
 われわれはそれが、三大秘法の御本尊を持つことによって、真実の幸せは他のなにものにも崩されないものであることを知った。そして、この人生がどんなに苦しくとも、それを乗り越えていく偉大な力を知ることができた。更には、自分のことのみにあくせくしていたのが、他人や、社会全体の幸、不幸を考え悩むようになったのである。これこそ偉大な人間革命ではないか。
 所詮、来世といっても、今世の連続であり、来世という果は今世の因によってきまっていくのである。今世において、三大秘法の御本尊に巡り会い、朝夕の勤行に、日夜精進している人は、すでに来世の崩れぬ幸せを約束されているといっても過言ではあるまい。

1387~1387    松野殿御消息top
松野殿御消息
01   昔乃往過去の古へ珊提嵐国と申す国あり彼の国に大王あり無諍念王と申しき、 彼の王に千の王子あり又彼の王
02 の第一の大臣を宝海梵志と申す・ 彼の梵志に子あり法蔵と申す、 彼の無諍念王の千の太子は穢土を捨てて浄土を
03 取り給ふ、 其の故は此の娑婆世界は何なる所と申せば 十方の国土に父母を殺し正法を誹謗し聖人を殺せる者彼の
04 国国より此の娑婆世界へ追い入れられて候、 例せば此の日本国の人大科有る者の獄に入れらるるが如し、 我が力
05 に叶はざれば哀愍せずして捨て給ふ、 宝海梵志一人請け取りて娑婆世界の人の師と成り給ふ、 宝海梵志の願に云
06 く我未来世の穢悪土の中に当に作仏することを得べし、 即ち十方浄土より擯出せる衆生を集めて 我れ当に之れを
07 度すべしと誓ひ給ひき、 無諍念王と申すは阿弥陀仏なり、 其の千の太子は今の観音勢至普賢文殊等なり、其の宝
08 海梵志と申すは今の釈迦如来なり、 此の娑婆世界の一切衆生は十方の諸仏に抜き捨てられしを 釈迦一人計りして
09 扶けさせ給うを唯我一人と申すなり。
10                                 日 蓮 花 押
11     松野殿
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 むかし、釈迦が過去世において因位の修行をしていたときのことであるが、珊提嵐国という国があった。その国に大王がおり、名を無諍念王といった。その王に千人の王子がいた。また、王の第一の大臣を宝海梵志といい、その梵志に子がいて、名を法蔵といった。
 ところで、無諍念王の千人の太子はみな、この娑婆世界を穢土といって嫌って捨て去り、浄土を求めたのである。そのわけは、この娑婆世界はどんなところであるかといえば、十方の国土で、父母を殺し、正法を誹謗し、聖人を殺した者が、それぞれの国々からこの娑婆世界へ追い入れられてきて住むところだからである。たとえば、この日本国の人は、大罪を犯した者が牢獄に入れられているようなものである。それゆえ、自身の力ではおよばないので、千人の太子は憐れみをかけずに、穢土を捨ててしまわれたのである。ところが、宝海梵志一人がこの難事をひきうけて、娑婆世界の人々の導師となられた。宝海梵志の願いにいうには「我は未来世の穢悪土の中において、必ず成仏するであろう。そのときには、十方浄土から追い出された衆生を集めて、必ず、これらの衆生を成仏へと導く」と誓われた。このときの無諍念王とは阿弥陀仏であり、その千人の太子とは今の観音・勢至・普賢・文殊等である。また、宝海梵志というのは、今の釈迦如来である。この娑婆世界のいっさいの衆生は悪心強盛で、十方の諸仏から抜き捨てられたのを、釈迦仏がただ一人だけで、これらの衆生を仏道に導くことを決意し扶けられたのである。このことを法華経譬喩品には「唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説かれているのである。
    松 野 殿          日 蓮  花 押

珊提嵐国
 釈迦仏が因位の修行時代、宝海梵志として、菩提心を起こしたときの世界の名をいう。悲華経巻二大施品第三に「善男子よ、我往昔恒河沙等を過ぐる阿僧祇劫に於て此の仏世界は珊提嵐と名く。是の時、大劫を名けて善持という。彼の劫の中に於て転輪聖王有り、無諍念と名く、四天下に主たり。一大臣有り、名を宝海という」とある。宝海梵志の梵志とは梵天を志す者の意で、婆羅門の別称である。
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穢土
 けがれた国土のこと。煩悩と苦しみが充満する、凡夫が住む娑婆世界。
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浄土
 仏の住む清浄な国土のこと。また、国を浄めるという意に使うこともある。煩悩でけがれている穢土(衆生の住む娑婆世界)に対し、仏の住む国土は五濁の垢に染まらず清らかなので浄土という。浄土については大別して2種の考え方がある。①浄土と現実の娑婆世界とはまったく異なった世界であるとする説。無量寿経などに説かれる。菩薩が修行を経て仏になる時に完成する国土で、阿弥陀経に説かれる阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界、釈迦仏の西方無勝世界、薬師如来の東方浄瑠璃世界などがある。こうした諸仏の浄土が、娑婆世界からみてあらゆる方角(十方)にあるので、十方浄土という。②維摩経に「其の心浄きに随って則ち仏土浄し」と説かれるように、心が清浄になれば住む世界も清浄となり、現実の娑婆世界が即浄土となる(娑婆即寂光)との説。法華経如来寿量品第16に説かれる霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、大乗密厳経の密厳浄土などがこれにあたる。なお爾前経に説かれた種々の浄土観は、衆生の機根を法華経へ導くための方便説であり、釈尊は法華経本門において初めて久遠実成を明かし、本因・本果・本国土を説いて、娑婆世界こそ仏の常住する浄土であると明かした。
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娑婆世界
 娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
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十方の国土
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで全宇宙を意味する。
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聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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哀愍
 哀しみ・あわれむこと。
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度す
 済度すること。人々を迷いから救うこと。
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観音
 観世音菩薩のこと。観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
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勢至
 勢至菩薩のこと。サンスクリットではマハースターマプラプータといい、大きな力を得た菩薩の意で、法華経では「得大勢菩薩」(法華経72㌻)と訳される。観音菩薩とともに阿弥陀仏の脇士として、阿弥陀仏の向かって左に安置され、智慧を象徴する。
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普賢
 普賢菩薩のこと。サンスクリットのサマンタバドラの訳。「あらゆる点で優れている」の意で、仏のもつ優れた特性(特に実践面)を人格化した菩薩。仏像などでは、白象に乗った姿で釈尊の向かって右に配される。法華経では普賢菩薩勧発品第28で登場し、法華経の修行者を守護する誓いを立てる(法華経665㌻以下)。
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文殊
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利はサンスクリットのマンジュシュリーの音写。直訳すると、「うるわしい輝きをもつ者」。仏の智慧を象徴する菩薩で、仏像などでは獅子に乗った姿で釈尊の向かって左に配される。法華経では、弥勒菩薩・薬王菩薩とともに、菩薩の代表として登場する。
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 悲華経の例を引いて、念仏の阿弥陀如来はこの娑婆世界の衆生を救ってくれる仏ではなく、釈迦如来ひとりが、この世界の救済者であることを示されている。この「釈迦」とおおせられているのが末法今時においては、日蓮大聖人御自身の心境であることはいうまでもない。
娑婆世界について
 われわれの住む国土・社会・世間をさして娑婆世界というのである。
 娑婆とは、梵語で堪忍という意味である。われわれの住む人間社会には、種々さまざまな苦悩や苦難がつきものである。それらを堪え忍びながら生きていかねばならないということから娑婆世界というのである。爾前迹門の諸経では、こうした苦悩の世界である娑婆世界を穢土とし、仏・菩薩の住む国土を浄土として区別をしたのである。また、四土といって国土を四つに区分し、娑婆世界を同居穢土、仏の住む国土を寂光土、菩薩の住む国土を実報土、二乗の住む国土を方便土として、それぞれ別世界であると説いたのである。
 そして、西方十万億の国土を過ぎたところに阿弥陀仏の住む極楽浄土があるとしたり、東方に薬師如来の住む浄瑠璃世界があるなどと、経文によっていろいろの理想郷を説いて、仏道修行する者に渇仰の心を起こさせてきたのである。だが法華経本門の寿量品にきて、苦悩の充満する娑婆世界が即仏の住む寂光土としたのである。法華経如来寿量品第十六に「我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」とあるのがそれである。
 つまり、爾前迹門の教えより一変して、娑婆即寂光土の原理が明かされたのである。現代においても、死ねば楽になるだろうとか、天国へ行くのだなどと、死後の世界を理想化して考える風潮は広く見られる。だが、そんなユートピアが他に存在しようはずはない。現在の自分の住むところ、国土、社会を離れて他にどこか安住の地を求めようとすること自体が、結局、逃避の姿なのである。
 われわれの住む国土を、穢土とするも、寂光土とするも、いっさいその人の一念によって決定されるのである。
 すなわち、一念が地獄界であれば、見るもの聞くものすべてが地獄に見え、憂うつであり、灰色の人生などという見方となる。また天界の一念であれば、会う人ごとに誰にでも笑顔で語りかけたくなるような心境になる。見るもの、聞くもの喜びに満ちてくる。つまり国土も天界となるのである。
 一生成仏抄にいわく「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(0384-02)と。
 奥底の一念が、大御本尊の偉大な功力を確信し、妙法を護持できた喜びに満ち溢れているならば、たとえどこに行こうとも、行くところいっさい寂光土となるのである。また、同じ妙法を護持していても、信心がないならば、いつまでも苦しみの娑婆世界から抜け出せないということもできる。喜び輝く生命状態は、唱題に励み、仏道修行に邁進することによって得られるのであり、そのときに娑婆即寂光土となるのである。
 最蓮房御返事にいわく「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し」(1343-13)と。
 ここに、大聖人の仏法の極理があり、信心の究極がある。しかし、仏法を知らない人々は、それは単なる観念論ではないかと考えるかも知れない。そこで娑婆即寂光土について、さらに仏法における生命論のうえから、依正不二との関連において述べてみよう。
 まず依正不二の面から論ずるならば、釈迦仏法では、法華経如来寿量品にいたって、初めて衆生と国土との一体不二が明かされる。すなわち衆生の生命が地獄であれば、国土も地獄である。国土が地獄なら衆生も地獄界の衆生となる。このように、餓鬼界から仏界にいたる各界とも原理は同じである。したがって、衆生が成仏すれば国土も寂光土となる。生命の主体としての衆生を正報といい、客観的な環境を形成する国土を依報という。そして依報によって正報は作られるけれども、正報は主体的に依報を作り変えてゆくのである。依報、正報は必ず同時に存在し、因果俱時の関係にあり、一体不二であるといえる。
 このように個体としての生命と環境との関係を不可分の系としてとらえなければならないという考えは、イギリスの生理学者、ホールデーンによって主張されているが、仏法と興味深い一致点を示している。魚の生命は水を離れて存在できないように、人間の存在状態も、太陽のエネルギーや空気や大地や社会を離れてはありえない。
 このように見るならば、正報と依報の相関関係は明瞭そのものと考えられよう。しかし、唯物論の立ち場は、依報の方を第一原理と立て、正報と依報によって規定される二次的な存在と見る。唯心論の立ち場は正報を優先させ、そこに出発点を求める。しかし、仏法の立ち場は、「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140-06)とあるように正報は依報によって作られ、依報によって影響されるけれども、正報自体のなかに、本質的に内在しているものでなければ、認識もなければ発現もない。ここに正報の独自性、主体性が生まれる。しかもこの正報の独自性、主体性は、環境に縁して自己を変革しながら、その環境を変えてゆくものである。ここに、生命の存在形式があり、人間革命が原点となって環境革命がなされるという思想の基盤がある。それ故に娑婆世界を仏国土に変えるのは、そこに住する衆生が御本尊を受持して成仏する以外に、方法はないのである。
 爾前経では、煩悩を断じて仏となろうとし、娑婆を去って彼岸の仏国土を求めようとした。これは、現実逃避であり、人間性の否定に通ずる思想である。現実の世界に生きる人間である限り、迷いと苦悩から脱することはできない。したがって、これは可能性のない理想を説くものであり、架空の世界を説くもので、方便の教えであった。法華経、とくに大聖人の仏法こそ、不思議な生命の真実を説いたものであって、現実の世界に、理想世界を建設できる原理を明かしたのである。
 現実の世界は、娑婆である限り、苦労や忍耐は避けられない。しかし、妙法を持つなら、それはそのまま人間生命の尊厳を実証する建設の喜びへと変わるものである。広宣流布とは、このような理想社会を実現できる唯一の道である。それはとうとうと流れゆく生命の奔流が、本然的に志向しているものでもあろう。

1388~1388    松野殿御返事top
1388
松野殿御返事
01   鵞目一貫文.油一升・衣一.筆十管給い候、今に始めぬ御志申し尽しがたく候へば法華経・釈迦仏に任せ奉り候。
02   先立より申し候、但在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、
03 妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、 法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、 天よ
04 り四種の花ふり虚空に音楽聞え、 諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・ 我れ等も必ず其の数に列なら
05 ん、法華経はかかる・いみじき御経にて・をはしまいらせ候、委細はいそぎ候間申さず候、恐恐謹言。
06       建治三年丁丑九月九日                日 蓮 花 押
07     松野殿御返事
08   追て申し候目連樹十両計り給はり候べく候
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 鵞目一貫文・油一升・衣を一つ・筆を十本いただきました。いつに変わらぬ厚志は、言葉ではいい尽くしがたいので、法華経・釈迦仏におまかせすることにしました。
 かねてから申し上げていたことですが、在家の身としては、ただ余念なく、日に夜に、朝に夕に南無妙法蓮華経と唱えて、最後臨終の時を見なさい。妙覚の山に走り登って、頂上から四方を御覧なさい。法界は寂光土であり、瑠璃を以って大地とし、黄金の繩で涅槃にいたる八つの道を境とし、天からは曼荼羅華等の四種類の花がふり、虚空に妙なる音楽が聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の四徳の風にそよめいている。我らも、必ずその仏・菩薩の数の内に列なるでしょう。法華経はこのようにすぐれた経なのです。詳しいことは急いでいるので、申さずにおきます。恐恐謹言。
       建治三年丁丑九月九日                日 蓮 花 押
     松野殿御返事
   追申。目連樹を十両ほどいただきたいと思います。

鵞目
 鎌倉時代に使われていた銅貨のこと。当時、流通していた穴の開いた通貨が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
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妙覚の山
 妙覚は菩薩の修行位である五十二位の最高位で、これを山にたとえたもの。
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法界
 「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる
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寂光土
 常寂光土のこと。四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
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八の道
 釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。
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四種の花
 インドにおいて最も珍重された四種の花。曼荼羅華(白花)・摩訶曼荼羅華(大白花)・曼珠沙華(赤花)・摩訶曼珠沙華(大赤花)。
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常楽我浄
 仏にそなわる徳目で、四徳波羅蜜ともいう。単に四徳とも。涅槃経などでは、苦・空・無常・無我は人々の迷いを破るための教えであり、仏の境地は常・楽・我・浄であると説く。①常とは仏の境地が永遠不変であること。②楽とは無上の安楽のこと。③我とは自立していて他から何の束縛も受けないこと。④浄とは煩悩のけがれのない清浄な境地をいう。
―――仏にそなわる徳目で、四徳波羅蜜ともいう。単に四徳とも。涅槃経などでは、苦・空・無常・無我は人々の迷いを破るための教えであり、仏の境地は常・楽・我・浄であると説く。①常とは仏の境地が永遠不変であること。②楽とは無上の安楽のこと。③我とは自立していて他から何の束縛も受けないこと。④浄とは煩悩のけがれのない清浄な境地をいう。
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目連樹
 ムクロジ科の落葉高木。木槵子のこと。本州西部の日本海側、朝鮮半島、中国に分布し、寺院に多く栽植される。高さ十㍍に達する。実は黒色で固く、数珠玉などに用いる。
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 本抄は建治3年(1277)9月9日、身延において認められた、松野六郎左衛門へのお手紙である。御供養の真心に対するお礼、日夜朝夕に題目を唱えるならば、臨終のとき成仏の境涯が得られると述べられ、信心を激励されている。
余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ
 「余年もなく」とは御本尊以外に信心の心を向けないこと、御本尊への「無疑曰信」の信心をいい、少しの疑いも起こさず、御本尊をひたすら信じきっていくことである。その余念のない信心をもって、日に夜に、朝に夕に南無妙法蓮華経と題目を真剣に唱えぬいて、最後の臨終を見なさい。絶対成仏は疑いないとの仰せである。人の死ぬ時というのはこの世の善業・悪業の総決算のときであり、また未来世への第一歩となる。したがって臨終の時が大事なのである。臨終の時の一念が未来の成仏を決定するが故に、普段の信心も臨終の正念のためということもできる。生死一大事血脈抄には「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」(1338-08)と仰せである。
 また臨終正念の現れとして臨終の相が重視される。妙法尼御前御返事には「御消息に云くめうほうれんくゑきやうをよるひるとなへまいらせ、すでにちかくなりて二声かうしやうにとなへ、乃至いきて候し時よりもなをいろもしろくかたちもそむせずと云云。法華経に云く『如是相乃至本末究竟等』云云大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」(1404-01)とある。
 兄弟抄に「なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」(1084-09)と。また、顕立正意抄には「我弟子等の中にも信心薄淡き者は 臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云」(0537-17)と、厳しく戒められている。
 日寛上人の臨終用心抄には「禅宗の三階は現に声を失ひて死す、真言の善無畏は皮黒く、浄土の善導は顚倒狂乱す、他宗の祖師已に其れ此くの如し末弟の輩其の義知る可し、師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し、其の人命終して阿鼻獄に入るとは此れ也云云」とあり、堕地獄の相を現じた邪教の師の姿を示している。
 大聖人の指導のとおり、余念なく日夜に題目を唱え、臨終の時、御本尊の功徳に対する絶対の確信をもって南無妙法蓮華経と唱えながら死ぬことができるならば「妙覚の山に登り四方を御覧ぜよ」とあるように、成仏の境涯に入ることができるのである。

1388~1390    松野殿御返事top
1388:01~1389:10 第一章 三界無安を示し日本の惨状を憂うtop
松野殿御返事
01   種種の物送り給い候畢ぬ山中のすまゐ思遣せ給うて 雪の中ふみ分けて御訪い候事御志定めて法華経十羅刹も知
02 し食し候らんさては涅槃経に云く 「人命の停らざることは山水にも過ぎたり 今日存すと雖も明日保ち難し」摩耶
03 経に云く 「譬えば旃陀羅の羊を駈て屠家に至るが如く人命も亦是くの如く歩歩死地に近く」法華経に云く 「三界
04 は安きこと無し猶火宅の如し衆苦充満して甚だ怖畏すべし」等云云、 此れ等の経文は我等が慈父・大覚世尊・末代
1389
01 の凡夫をいさめ給い、 いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり、 然りと雖も須臾も驚く心なく刹那も道心
02 を発さず、 野辺に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざらんがために、 いとまを入れ衣を重ねんと
03 はげむ、 命終りなば三日の内に水と成りて流れ塵と成りて地にまじはり 煙と成りて天にのぼりあともみえずなる
04 べき身を養はんとて多くの財をたくはふ、 此のことはりは事ふり候ぬ但し当世の体こそ哀れに候へ、 日本国数年
05 の間打ち続きけかちゆきて衣食たへ・ 畜るひをば食いつくし・結句人をくらう者出来して或は死人或は小児或は病
06 人等の肉を裂取て魚鹿等に加へて売りしかば 人是を買いくへり此の国存の外に大悪鬼となれり、 又去年の春より
07 今年の二月中旬まで疫病国に充満す、 十家に五家・百家に五十家皆やみ死し 或は身はやまねども心は大苦に値へ
08 りやむ者よりも怖し、 たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・ 天
09 地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・ 心あらん人人争か世を厭はざらん、 三界無安とは仏説き給て
10 候へども法に過ぎて見え候。
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 いろいろと供養の物をお送りいただき、確かにちょうだいしました。この身延の山中での不自由な生活を気づかわれて、雪の中をふみわけて、訪ねて下さったその志は、定めて法華経、十羅刹も照覧されていることであろう。
 さて、涅槃経には「人の命は無常なもので、この世にとどまらないことは山水の流れ去るよりもはかないものである。今日生きていても、明日の命は保ちがたい」と説かれている。摩耶経には「たとえば屠殺人に追われて屠殺場に赴く羊のように、人の命もまた、このように一歩一歩死地に近づいているのである」と。また、法華経譬喩品第三には「人の住するこの三界は、安泰ではない。ちょうど火災で焼けている家のようで、もろもろの苦悩が充満して、はなはだ怖るべき世界である」等と説かれている。
 これらの経文は、われら衆生の慈父である大覚世尊が末代の凡夫を諌められ、幼な子のような末代の衆生に注意を促された経文である。
 しかしながら、末代の衆生は、これら釈尊の教えを聞いても、少しも目覚める心がなく、また一瞬といえども仏道を求める心を発さない。それのみか、死んで野辺に捨てられたならば、一夜のうちに裸になってしまう身を飾るために、多くの時間や手間をかけて、美衣を重ね着ようと努力する。
 また、命が終われば、三日の内に、その体は水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく消えてしまう身を養おうとして、多くの財を蓄える。このことは、むかしからいい古されて来たことである。しかし、現在のこの有様はあまりにも哀れでならない。
 日本国は、ここ数年の間打ち続いて飢饉が進み、衣食は全くなくなり、畜類を食べ尽くし、ついには人間の肉を食べる者まで現れた。そして死人、小児、または病人の肉を裂き取って、魚や鹿の肉にまぜて売ったので、人々はこれを買って食べたのである。このようにして、日本国は、思いもかけず、大悪鬼の国になってしまったのである。
 また、去年の春から、今年の二月の中旬まで伝染病が国中に充満した。十軒に五軒、また百軒に五十軒まで家族全部が伝染病で死んでしまったり、また、身体は病には罹らなかった者も、心は大苦悩に値っているので病に冒された人々以上に苦しんでいる。たまたま生き残っても、影の形にそうようにいつもそば近くにいた子供もなく、両眼のようにむつまじくつれそっていた夫や妻もなく、天地のように頼りにしていた父母も亡くなっている。これでは、生きていて何のかいがあるであろうか。心ある人々は、どうして、この世の中を厭わないでいられようか。「三界は安きことなし」と仏は経文に説いておられるが今日の世相は度を過ぎてあまりにも悲惨な状態である。

十羅刹
 諸天善神として、正法を持つ人を守る10人の女性の羅刹のこと。
―――
涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
―――
摩耶経
 摩訶摩耶経のこと。中国・南斉の曇景の訳。2巻。釈尊が生母である摩耶夫人の恩を報ずるために忉利天に上って説いたとされる。後半では、釈尊滅後1500年までの法を広める人の出世年代・事跡などが記されている。竜樹の出現する年数について、「開目抄」では「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」(203㌻)とされ、摩耶経の原文「七百歳已。有一比丘名曰龍樹」とは異なる。これは、流罪中の経典に乏しい状況下で執筆されたからであると考えられる。一方、身延で執筆された「報恩抄」では「正く摩耶経には六百年に馬鳴出で七百年に竜樹出でんと説かれて候」(327㌻)と、経文どおりの記述とされている。
―――
旃陀羅
 屠者・殺者のこと。施陀利ともいう。獄卒の輩、屠殺者の種類の総称。インドのカースト制度では最下層の階級。転じて身分がいやしいという一般的な意味にも使われている。
―――
屠家
 屠殺業をなれあいとする家。
―――
三界
 仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
―――
火宅
 煩悩が盛んで苦しみが多い三界を、火災にあった家宅にたとえたもの。
―――
大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
いとけなき子ども
 幼い子供。
―――
さし驚かし
 眠りを覚まして驚かすこと。
―――
須臾
 時間の単位。①一昼夜の30分の1をさす場合と、②最も短い時間の単位(瞬時)をさす場合がある。
―――
刹那
 極小の時間。瞬間。
―――
道心
 仏道を求める心。
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 本抄は建治4年(1278)2月、雪中の身延におられる大聖人が、松野六郎左衛門入道にたいして、与えられたお手紙である。
 はじめに六郎左衛門入道が使いをもって雪の中を、大聖人のもとへ種々の御供養をされたその志を、ほめられている。そして衆生が「三界無安」との仏の教えにもめざめず、仏法を求めようとしないが故に、いたずらに世の中の不幸をまねいている。飢饉疫癘の姿は、経文以上にひどい状態を呈している。これひとえに、法華経誹謗の罪によるものであると仰せられている。
 大聖人は、これらの原因については、すでに文応元年(1260)に立正安国論をもって幕府に諫言したが、幕府は一向に用いることなく、かえって大聖人を迫害し、ますます謗法を重ねていったのである。
 しかし、いかなる迫害にもたえ、南無妙法蓮華経と唱えぬく以上、大聖人は、法華経の行者であることは疑いのないことである。そして経文には、法華経の行者は流罪等の難にあう、また法華経の行者を怨む者は地獄におちると説かれている。
 これらの経文は、すべて大聖人の御振舞い、当時の世相に一致しており、日蓮大聖人が法華経の行者であるとの証文なのである。よって、法華経の行者に供養する松野入道が、未来に成仏することは、絶対にまちがいないことであると、断言なされている。
三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候
 法華経譬喩品第三には「三界は安きこと無し 猶お火宅の如し 衆苦は充満して 甚だ怖畏す可し常に生老病死の憂患有り 是の如き等の火は 熾然として息まず」とある。ここで三界とは、欲界、色界、無色界のことである。欲界とはすなわち欲望の世界で、地獄、餓鬼等の六道がこれに属する。色界とは物質の世界をさし、無色界とは、欲、物質をはなれた精神の世界で共に天界にあるとされている。
 この三界は、いずこも無常であり、不安定な状態で、あたかも火宅の中にいるようなもので、安らかな状態がまったくないと説かれている。
 この経文に述べられているとおり、当時の世相は、うちつづく飢饉のため、食べ物がなくなり、病人や幼児の肉までも、魚や鹿の肉にまぜて売られており、人々はそれを食べるなど、想像を絶するものであった。そのありさまはこの譬喩品の文を、はるかにこえ、悲惨な状態であった。
 それより以前、大聖人が御誕生になった2年後の、元仁元年(1224)ごろからこうした状態がおこり、年年はげしさを増してきたのである。その後相次いで発生した大地震、大火事、また大風、雷雨、ひょう、洪水等により、飢饉疫癘は、ますますはげしさを加えていったのである。当時の状態については、立正安国論に「近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり(中略)弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。臥せる屍を観と為し、並べる尸を橋と作す」(0017-01)とある。まさにこの世の地獄絵図がくりひろげられていたのである。
 このような惨状を前に、時の為政者たちは何ら、なすすべを知らず、いたずらに神仏にとりすがるより策がなかったのである。はたまた哀れな民衆は、神も仏もなきものかと、世をうらみ、人をのろいながら、苦しみの声も枯れ果てて、たおれていったのであった。
 真実の仏法は、このような苦しみあえぐ民衆を救わんがために説かれたのである。それは、この世から目をそむけるのでなく、現実を直視し、それと取り組む大慈悲以外の何ものでもない。仏法の精神は、ここにあるのである。
 しかしながら大聖人の烈々たる民衆救済の叫びに耳をかたむける者とてなく、あたかも「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(0017-12)といった現状であった。しかも、権力者は、悪鬼入其身そのままに、先頭に立って、大聖人を迫害しつづけたのである。よって、国家の災難はますますはげしく、民衆の苦しみは深まる一方であった。
 今日、物質面の発展はめざましいものがあるが、それにひきかえ、精神面、人間本来の生命に根ざすものの問題は全く未解決である。人間の幸、不幸の問題も形式的に表面上だけをとらえて処理されてしまっている。
 地上におこるあらゆる現象は、人間の幸、不幸に直接つながっているのである。故に、その幸、不幸の根本たる人間生命の問題に原点をおいた解決策でなければ、真の解決は得られないのである。
 そのゆえにこそ、人間生命をもっとも尊貴とする仏法以外に、この不安定な世の中を打開する方法はないのである。
 釈尊の爾前経では、この三界を、六道輪廻の迷いの世界であると考えた。そして、三界より他の世界に、もっとすばらしい悟りの境地、すなわち寂光土があると説いたのである。
 しかしながら日蓮大聖人の仏法では、三界の苦といえども、自身の一念の中から生ずるものであり、どこか他の世界に寂光土があるのではないと説くのである。
 したがって、人間の一念をかえていく以外に寂光土は築かれないのである。三界を離れては寂光土はありえないのであり、三界即寂光としていかなくてはならないのである。そして、これこそ、生命の奥底を説く、三大秘法の南無妙法蓮華経による以外にないのである。この南無妙法蓮華経の仏法によってのみ、三界無安という悲惨な現状をうちやぶり、「現世安穏・後生善処」を築きあげることができるのである。

1389:11~1390:03 第二章 法華経の行者の確信を述べるtop
11   然るに予は凡夫にて候へどもかかるべき事を仏兼て説きをかせ給いて候を国王に申しきかせ進らせ候ぬ、 其れ
12 につけて御用は無くして 弥怨をなせしかば力及ばず此の国既に謗法と成りぬ、 法華経の敵に成り候へば三世十方
13 の仏神の敵と成れり、 御心にも推せさせ給い候へ日蓮何なる大科有りとも法華経の行者なるべし、 南無阿弥陀仏
14 と申さば何なる大科有りとも 念仏者にて無しとは申しがたし、 南無妙法蓮華経と我が口にも唱へ候故に罵られ打
15 ちはられ流され命に及びしかども、 勧め申せば法華経の行者ならずや、 法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人
16 と定む、 四の巻には仏を一中劫・罵るよりも末代の法華経の行者を悪む罪・深しと説かれたり、七の巻には行者を
17 軽しめし人人・千劫阿鼻地獄に入ると説き給へり、 五の巻には我が末世末法に入つて法華経の行者有るべし、 其
18 の時其の国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等・集りて国主に讒言して流し失ふべしと説かれたり、 然るにかかる経
1390
01 経文かたがた符合し候畢んぬ未来に仏に成り候はん事疑いなく覚え候、委細は見参の時申すべし。
02       建治四年戊寅二月十三日               日 蓮 花 押
03     松野殿御返事
-----―
 しかるに、日蓮は凡夫ではあるが、このような世の中になることを、仏が予見し、説き置かれたのを国王に申し聞かせたのである。ところが、この進言を用いることはなく、ますます迫害を加えたので、どうすることもできず、この日本国は謗法の国となってしまった。法華経の敵に成ってしまったから、三世十方の仏神の敵となったことになるのである。
 信心の心で推しはかられたい。たとえ、日蓮にどのような大科があったとしても、法華経の行者なのである。南無阿弥陀仏と称えれば、どのような大科があったとしてもその人は念仏者でない、とはいいがたい。南無妙法蓮華経と自らの口にも唱えるゆえに、罵られ、打たれ、流罪に処せられて命にも及ぶ難をうけたけれども、なおひるまずに弘通しつづけているので、なんで法華経の行者でないことがあろうか。法華経には、法華経の行者をうらむ者は、阿鼻地獄に堕ちると定めている。法華経第四の巻の法師品第十には、仏を一中劫の長い間罵る罪よりも、末法の法華経の行者を悪み敵対する罪はなお深いと説かれている。第七の巻の不軽品第二十には、法華経の行者を軽んじた人々は、千劫という長い間阿鼻地獄に入ると説かれている。第五の巻の勧持品十三には、釈迦滅後の末法に入ったなら、法華経の行者が必ず出現する。その時、その国には持戒、破戒等の多くの僧達が集まって、国主に讒言して、法華経の行者を流罪に処して失きものにしようとすると説かれている。
 それにつけても日蓮の身は、このような経文がことごとく符合したのである。したがって、未来に成仏することは疑いないものと確信するのである。くわしいことはお会いした時に申し上げましょう。
  建治四年戊寅二月十三日  日 蓮  花 押
   松野殿御返事

三世十方の仏神
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。あらゆる時代における仏や神。
―――
大科
重罪、大きなあやまち。
―――
一中劫
 二十小劫にあたる。顕謗法抄(0447)には「一中劫と申すは此の人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり」とある。
―――
千劫阿鼻地獄
極めて長い時間の単位。
―――
持戒・破戒
戒を受け持つことと、一度も戒を受けていないこと。
―――
讒言
人を陥れようと、事実を曲げ、偽って悪口を言うこと。また、そのことば。法華経勧持品第13では、僭聖増上慢が不当な誹謗・悪口を国王・大臣など在家の権力者に吹き込み弾圧させると説かれる。
―――
見参
対面、出会いの謙称。お目にかかること。
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日蓮何なる大科有りとも法華経の行者なるべし
 たとえ、いかなる大重罪の罪をきせられても、日蓮大聖人は、末法の御本仏である。その人格、境涯そのものは、世間的な評価で変化するものではないと仰せである。
 しかも、大聖人の受けられた「大科」は、仏法流布によって起きた怨嫉の故である。念仏者等と、暴虐な権力者が共謀して仕立てたものである。
 種種御振舞御書には「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし」(0913)と仰せられている。
 宗教の正邪は、宗教の場で決すべきである。それを、当時の念仏者達は避けて、権力によって弾圧したのである。これが、不当であることはいうまでもない。しかし、これによって、ますます、大聖人が、末法の御本仏であることが経文に照らし明らかとなったのである。大聖人の御本仏の「生命」は、不当な「大科」によって輝きこそすれ、決して、光を失うことはないのである。世間の風評は移ろいやすく、常に変化していく。最高の宗教に生き、信念に生きる人こそ尊い。

1390~1390    松野殿御返事top
松野殿御返事
01   日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや。
02   干飯一斗・古酒一筒.ちまき・あうざし・たかんな方方の物送り給いて候草にさける花.木の皮を香として仏に奉
03 る人・霊鷲山へ参らざるはなし、況や民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけを仏・法華
04 経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや。
05       五月一日日 蓮 花 押
06     妙法尼御返事
――――――
 たとえ、日や月が地に落ち須弥山が崩れることがあったとしても、彼の女人が仏に成られることは疑いないことであります。まことに、たのもしいことであります。たのもしいことであります。
 干飯一斗・古酒一筒.ちまき・あうざし・筍などの品々をお送りいただきました。
 野辺に咲く草の花や、木の皮を香として仏に供養した人で、霊鷲山へ参らない者はありません。まして民の骨をくだいて作ったような白米、また、人の血をしぼったような大事な古酒等を、仏・法華経に御供養なされた女性の成仏得道は、絶対に疑いないのでありあす。
       五月一日日 蓮 花 押
     妙法尼御返事

須弥山
 須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。
―――
干飯
 一度炊いた飯をよく干して乾燥した貯蔵用の飯のことで、水または熱湯にひたせばすぐ食用となる。兵糧として、また旅行の際などに用いた。
―――
古酒
 その年に醸造されたものではかい、経年の入った酒。
―――
ちまき
 もち米を主材料とした餅菓子の一種。笹,ちがや,竹の皮などで巻き,い草で三角形に縛ってつくる。古くから端午の節供の祝いに用いられるが,中国から伝えられたものである。最も普通の御所ちまきは,上新粉を練って適当にちぎり,せいろうで蒸し,これをこねて長い三角形に成形し,笹の葉で包んで再びせいろうに入れて蒸してつくる。
―――
あうざし
 青麦を煎って臼で引いて糸のように撚った菓子。
―――
霊鷲山
 古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
―――――――――
 本抄は表題が「松野殿御返事」となっているが、末尾の宛名が「妙法尼」となっている。おそらくは、内容の意味合いから副書にあたる「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや」の文は、松野殿に与えられ、「干飯一斗」以下の本文は妙法尼に与えられたものと思われる。
 この松野殿が、松野六郎左衛門入道か、息子の松野六郎座衛門尉かは判明しがたい。
 また、妙法尼についても、妙法尼御前御返事をいただいた妙法尼と同一人物かどうか不明である。御供養の品々からも、遠方の人や海辺の人でなく、身延の比較的近くに住んでいた松野一族と見ることの方が妥当のようであるが断定はできない。なお本抄は年号が記載されていないが弘安元年(1278)説が強い。
 5月1日という日付と、ちまき・筍という御供養の品から押して、五月の節句の供物として御供養されたことに対する大聖人の御礼の御手紙と拝することができる。
 短い御文であるが真心からの御供養を喜ばれている大聖人の御心情と、大聖人に御供養する女性の成仏得道の疑いないことを力強く述べられている。この御手紙を拝した時の、妙法尼の感激はいかばかりであったのだろう。今、文面を拝するだけでも当時の感激のほどが偲ばれる
民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけを仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや
 「民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけ」とは、当時の白米やまた、それから作られる酒が、いかに貴重なものであったかを示している。
 中世に入って二毛作などが取り入れられ、一段と進歩したかにみえる農耕法も、一般にはまだ普及の段階には至らず、その収穫の多寡は、全くといってよいほど天候等の自然条件に負っていた。とくに建治から弘安にかけては天災が多く、当時の農民の苦労は「骨をくだき、血をしぼる」ようなものであったろうと思われる。大聖人の、人々の苦労をいつくしまれるお心が、この御文ににじみでている。そうした人々の苦労の結晶ともいうべき貴重な米や酒を、大聖人に御供養申し上げた尼は、成仏疑いないと仰せである。
 当時の大聖人の身延における御生活がいかに厳しいものであったかは諸御書に見られるとおりで、弘安2年(1279)1月3日の「衣もうすく食もとぼし・布衣はにしきの如し・草葉をば甘露と思ふ」(1554-07)の文も、その一端を物語っている。
 そうした御生活に思いを馳せての妙法尼の真心であるから、大聖人のお喜びもことのほかであったと思うのである。「仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや」との御文はそうした尼に対する最高の讃辞である。
 女性史上における黄金時代とされる鎌倉期の女性にあっても、現実はむしろ爾前経の影響が強く、法華経の女人成仏の原理等は、到底理解し得ぬ理想郷であったのではなかろうか。しかし「成仏得道・疑うべしや」との御言葉を賜った妙法尼はまた純粋なる信心をもって新しい視野を開いていったに違いない。

1390~1393    松野殿後家尼御前御返事top
1390:01~1392:05 第一章 盲亀浮木の譬えを示すtop
松野殿後家尼御前御返事
01   法華経第五の巻安楽行品に云く 文殊師利此法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず云
02 云、此の文の心は 我等衆生の三界六道に輪回せし事は 或は天に生れ或は人に生れ或は地獄に生れ或は餓鬼に生れ
03 畜生に生れ無量の国に生をうけて無辺の苦しみをうけて・ たのしみにあひしかども一度も法華経の国には生ぜず、
1391
01 たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず、 となふる事はゆめにもなし人の申すをも聞かず、 仏のた
02 とへを説かせ給うに 一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり、 心は大海の中に八万由旬の底に亀と申
03 す大魚あり、 手足もなくひれもなし・腹のあつき事はくろがねのやけるがごとし、 せなかのこうのさむき事は雪
04 山ににたり、 此の魚の昼夜朝暮のねがひ時時剋剋の口ずさみには・腹をひやしこうをあたためんと思ふ、 赤栴檀
05 と申す木をば聖木と名つく人の中の聖人なり、 余の一切の木をば凡木と申す愚人の如し、 此の栴檀の木は此の魚
06 の腹をひやす木なり、 あはれ此の木にのぼりて腹をば穴に入れてひやし・ こうをば天の日にあてあたためばやと
07 申すなり、 自然のことはりとして千年に一度出る亀なり、 しかれども此の木に値事かたし、大海は広し亀はちい
08 さし浮木はまれなり、 たとひよのうききにはあへども栴檀にはあはず、 あへども亀の腹をえりはめたる様に・が
09 い分に相応したる浮木の穴にあひがたし我が身をち入りなばこうをも・ あたためがたし誰か又とりあぐべき、 又
10 穴せばくして腹を穴に入れえずんば波にあらひ・ をとされて大海にしづみなむ、 たとひ不思議として栴檀の浮木
11 の穴にたまたま行きあへども 我一眼のひがめる故に 浮木西にながるれば 東と見る故にいそいでのらんと思いて
12 およげば弥弥とをざかる、 東に流るを西と見る南北も又此くの如し云云、 浮木には・とをざかれども近づく事は
13 なし、 是の如く無量無辺劫にも一眼の亀の浮木の穴にあひがたき事を仏説き給へり、 此の喩をとりて法華経にあ
14 ひがたきに譬ふ、 設ひあへどもとなへがたき題目の妙法の穴にあひがたき事を心うべきなり、 大海をば生死の苦
15 海なり亀をば我等衆生にたとへたり、 手足のなきをば善根の我等が身にそなはらざるにたとへ、 腹のあつきをば
16 我等が瞋恚の八熱地獄にたとへ・ 背のこうのさむきをば貪欲の八寒地獄にたとへ・千年大海の底にあるをば我等が
17 三悪道に堕ちて浮びがたきにたとへ、 千年に一度浮ぶをば三悪道より無量劫に一度人間に生れて 釈迦仏の出世に
18 あひがたきにたとう、余の松木ひの木の浮木には・ あひやすく栴檀にはあひがたし、 一切経には値いやすく法華
1392
01 経にはあひがたきに譬へたり、 たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり、 設ひ法華経に
02 は値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう、 東を西と見・
03 北を南と見る事をば我れ等衆生かしこがほに智慧有る由をして 勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ、 得益なき法をば得益
04 あると見る・機にかなはざる法をば機に・かなう法と云う、 真言は勝れ法華経は劣り真言は機にかなひ法華経は機
05 に叶はずと見る是なり。
-----―
 法華経第五の巻・安楽行品第十四に「文殊師利よ、この法華経は無量の国の中において、その名さえも聞くことができなかったのである」と説かれている。この経文の意味は、次のようなことである。われら衆生は、三界六道に輪回(りんね)してきた。あるときは天上界に生まれ、あるときは人界に生まれ、あるときは地獄界に生まれ、あるときは餓鬼界に生まれ、あるときは畜生界に生まれる等、無量の国々に生まれて、数えられないほど多くの苦しみを受け、また楽しみにあったけれども、まだ一度も法華経の国には生まれなかった。たまたま法華経の国に生まれたとはいっても、南無妙法蓮華経と唱えることもない。自分自身が題目を唱えることなど夢にもなく、人が唱えるのを聞くことさえない。
 釈尊は、このように衆生が、法華経に値難いことを、一眼の亀が、赤栴檀の浮木の穴に値うのがむずかしいことに譬えられている。
 その意味は、大海の中の八万由旬という深い底に亀という大魚がいた。その亀は手足もなく、鰭もなく、腹の熱いことは鉄を焼いたようで、背中の甲羅の寒いことは雪山にも似ている。この亀が昼夜朝暮に願い、時々刻々に口ぐせのようにいっていることは、この熱い腹を冷やし、寒い甲羅を暖めたいということであった。
 赤栴檀という木は聖木と名づける。人間の中の聖人のようなものである。これに対して他の一切の木を凡木といい、愚人のようなものである。この赤栴檀の木は、この亀の腹を冷やす木であり、亀はなんとかしてこの赤栴檀の木にのぼって腹をその穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいと願っていた。しかし、自然の法理として、千年に一度八万由旬の海底から出る亀なのである。しかしながら、現われたとしても、この木に値うことはむずかしい。大海ははてしなく広く、亀は小さい。しかも浮木は稀である。たとえ他の浮木に値うことはあっても、栴檀の浮木には値わない。値ったとしても、亀の腹の大きさに合わせて彫ったような適当な大きさの穴がある浮木に値うことは困難である。大きすぎて穴に身体が落ち込んでしまったならば背中の甲羅を暖めることはできず、まただれが拾い上げてくれるであろうか。また逆に、穴が狭くて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまうであろう。
 たとえ不思議にも、栴檀の浮木の穴にたまたまめぐり値ったとしても、亀は一眼のひが目であるために、浮木が西に流れるのを東と見誤り、急いで乗ろうと思って泳げば、ますます浮木から遠ざかってしまう。同じように東に流れるのを西と見る、南北もまた同じである。浮木から遠ざかるけれども、近づくことはできない。このように無量無辺劫の長い間かかっても、一眼の亀が栴檀の浮木の穴に値いがたいことを釈尊は説かれている。
 釈尊はこの喩えをもって、法華経に値いがたいことに譬えている。たとえ法華経には値っても、唱えることのむずかしい題目の妙法の穴に値いがたいことを心得なければならない。ここでは大海を生死の苦しみの大海に譬え、亀をわれら衆生に譬えたのである。亀に手足のないのは善根がわれらの身に備わっていないことに譬え、腹の熱いのはわれらの瞋恚の八熱地獄に譬え、背中の甲羅が寒いのは、われらの貧欲の八寒地獄に譬えたのである。亀が千年の間大海の底にいるとは、われらが三悪道に堕ちて長く浮かび上がることができない姿に譬え、千年に一度海面上に浮かぶことは、三悪道から無量劫に一度人間に生まれても、釈迦仏の出世に値いがたいことに譬えている。
 栴檀以外の松や檜の浮木には値いやすいが、栴檀の浮木には値いがたいとは、法華経以外の一切経には値いやすく、法華経には値いがたいことに譬えたのである。たとえ栴檀には値っても、適当な大きさの穴に値いがたいことは、たとえ法華経には値っても、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の五字を唱えることのむずかしいことに譬えたのである。
 一眼の亀が東を西と見、北を南と見るということは、われら衆生が賢明そうな顔をし、智慧ある者のように振舞っても、勝を劣と思い、劣を勝と思うようなものである。成仏の利益のない法を利益ある法と見、衆生の機根に適していない法を適している法であるという。真言は勝れ、法華経は劣るといい、真言は衆生の機根に適し、法華経は機根に適していないと見るのはこれである。

文殊師利
 サンスクリットのマンジュシュリーの音写。直訳すると、「うるわしい輝きをもつ者」。仏の智慧を象徴する菩薩で、仏像などでは獅子に乗った姿で釈尊の向かって左に配される。法華経では、弥勒菩薩・薬王菩薩とともに、菩薩の代表として登場する。
―――
三界
 仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
―――
六道
 十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界。古代インドの世界観で、衆生が生存する6種の領域をいう。凡夫は迷いに満ちたこの六道で生死を繰り返すとされる。これを六道輪廻という。輪廻からの脱却を解脱といい、これは古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。仏教では、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えでは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。そして、むしろ仏道を学び修行することによってこそ解脱できると説かれる。六道のうち地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道といい、これに対し修羅・人・天を三善道という。また、三悪道に修羅を加えて四悪趣という。修羅を除いて五趣という。
―――
八万由旬
 由旬はサンスクリットのヨージャナの音写。由善那とも。インドの距離の単位。1由旬とは帝王が1日に行軍する道のりとされ、およそ10キロメートルほどと考えられている。八万は単に(×80000)というのではなく多数の意味。
―――
赤栴檀
 栴檀は白檀の異称であり、インドに産する香木で、赤、白、紫等があるが、赤栴檀を最高とする。
―――
聖木
 もっとも優れている神聖な樹木。
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無量無辺劫
 果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
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生死の苦海
 生死とは生老病死のこと、苦しみと訳す。また生死生死と旋火輪のように永遠に伝わっていく生命の実体を説く場合もあり、迷いと訳す場合や、生と死を意味することもある。生死の海とは生死の苦海ともいい、生死流転の苦しみがいかに深いものであるかを海にたとえていう。
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善根
 「ぜんごん」とも読む。善の果報を招き生ずる善因のこと。草木の根が、幹や枝を成長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので善根という。
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瞋恚の八熱地獄
 瞋恚とは三毒の一つ、いかり。怒って感情に流され、正しい判断ができない状態で、これが衆生のなかに強盛であるときは、争いや戦争が起こる。ここでは、つねに瞋恚の充満している八熱地獄という意味。八熱地獄とは、等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・大阿鼻地獄をさす。
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貪欲の八寒地獄
 貪欲とは三毒の一つ、むさぼり。これが衆生の中に強盛になると飢渇が生ずる。ここでは、つねに貪欲の充満している八寒地獄という意味。大田殿女房御返事(1013)に「此の大地の下は二の地獄あり一には熱地獄……二には寒地獄・此の地獄に八あり、涅槃経に云く『八種の寒冰地獄あり・所謂阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄』云云、此の八大かん地獄は或はかんにせめられたるこえ或は身のいろ等にて候」と述べられている。
 この八寒地獄は、地獄の中の罪人が、常に寒さにせめられ、苦しまぎれに発する声や、また寒さのため身体の色の変わったのを名づけたものである。すなわちあまりの寒さに堪えかねて、おのずとふるえ出す、その声をとったのが阿波波 ・阿吒吒 ・阿羅羅・ 阿婆婆地獄で、また寒さに責められて身の色が変わることを優鉢羅、波頭摩、拘物頭、芬陀利地獄という。寒さのためそれぞれ青、紅、赤、白の蓮華の如く身が裂けるのである。このほか涅槃経、倶舎論、大智度論等にも、八大地獄が説かれている。
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三悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
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 本抄は弘安2年(1279)3月26日、松野六郎左衛門入道の女房に与えられた御手紙である。後家尼とあるので、この時は既に夫の六郎左衛門入道は亡くなっていると考えられる。その死期については前年の弘安元年(1278)の11月との説もあるが、明らかでない。
 後家尼が大聖人よりいただいた御書としては、本抄だけで、他に二、三、後家尼に賜ったのではないかと思われる御書もあるが決定し難い。
 本抄は後家尼が身延の大聖人に御供養を送ったことに対する御返事であるが、本抄末尾に「未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやしくこそ候へ」1393-)とあるように、このことから、度々大聖人に御供養を奉っているのだが、末だ大聖人にお目にかかっていないのである。恐らく使者を通しての御供養であって尼自身は身延へは登山していないのであろう。しかし、真心からの御供養を大聖人は非常に喜ばれ、「一眼の亀の譬え」をあげて、末法の法華経の行者を供養する功徳の偉大さを御教示されている。
 弘安2年(1279)の3月といえば打ち続く天災で、特に弘安元年(1278)の秋から冬はたとえようもない飢饉に見舞われていたのである。弘安元年10月12日の上野殿御返事には「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ、大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき……八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか」(1552-02)とあるほどで、その凄まじかった有様が想像できる。そうした中にも毅然として令法久住のための指揮を取られる大聖人は正に末法の御本仏の御姿そのものであられた。
 その故にこそ、大聖人は真心から度々の御供養を奉る尼に対して、その志は一眼の亀の浮木に値える如く尊貴なのだと、称賛されるのである。
 内容は、先ず法華経安楽行品の文をあげて法華経は無量の国土において名字をも聞くことが難しいことが述べられている。それは、ちょうど一眼の亀が浮木に値うことの難きに譬えられ、さらには末法の法華経たる日蓮大聖人の三大秘法の仏法に値うことはなお難しい。故に大聖人が末法の御本仏として出現されても日本中の人々は信ずることができず一国こぞって迫害する。しかしそうした難に値えば値うほど、大聖人の御本仏としての確信は強固なものとなることを、「さればなむだ左右の眼にうかび悦び一身にあまれり」(1393-08)と述べられ、以下、そうした大聖人に御供養する真心を称賛されて本抄を終っているが、宿縁深厚にして今三大秘法の御本尊にめぐり会い信仰することのできたわれらも、改めて希有の福運を見つめ、大いなる感謝と報恩の決意をもって題目を声高らかにあげ、広布に邁進していきたいものである。
一眼の亀について
 この章では、法華経安楽行品第十四の文を引用し衆生が正法に巡り会うことの難しさを説くとともに一眼の亀の譬えを引いて、南無妙法蓮華経と唱えることは至難の事であると述べている。
 一眼の亀については、法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とあり、この文を妙楽は釈して法華文句記第十巻下に「経に云く、一眼の亀に譬うるは、事に約すれば、抵是れ値い難きを譬うる耳、若し所乗を作さば、凡そ亀魚の眼は両向之を看る。既に一眼と云うは見る所、正に非ず、生死の海に在りて而して又邪見なり。何ぞ仏法の浮木の実諦の孔に値う可けん」と述べている。これらの経釈は仏に値うこと、仏法に値うことの難しさをいったものであるが、大聖人はこの文で、将に三大秘法の南無妙法蓮華経に値うことが、難事中の難事であることを明かされている。すなわち、一眼の亀は三界六道輪廻の中で、人間として生れ、仏法に値うことが、いかに困難であるか、まして仏法に値いえたとしても、実教である法華経に値うことが、どんなに困難なことであるかを譬えているが、日蓮大聖人は、法華経に値うことよりも、三大秘法の南無妙法蓮華経に値うことの方が難事であり、またもし南無妙法蓮華経に値うことができても、一生涯信心を貫き通すことは、さらに困難であることを明示されている。故に四条金吾殿御返事にも「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-05)といわれているのである。釈迦仏法は三毒強盛な末法の衆生の機根には、成仏得道の仏種とはならず、ただ三大秘法の南無妙法蓮華経のみが真の仏種となるのである。このような難解難入の三大秘法の南無妙法蓮華経に巡り会い、化儀の広宣流布の時に生れ合わせたわれらの福運は、とうてい凡智をもって測り知れない一大福運なのである。
 また、一眼の亀の譬えは、現代の人々が、偏見のため、物事を正視できぬことを、見事に描き出しているといえる。腹が熱く、甲羅が冷えきっているとは、まさしく、多くの人の生活の実相であり、ままならぬ苦悩の姿である。栴檀の香木とは、人生のゆるがぬ幸福である。誰人も、それを内心では求めつつも得られない。たまたまめぐりあえる哲学にせよ、宗教にせよ、いずれも低劣であり、かえって、みずからを不幸におとしいれるものでしかない。生死の大海をさまよいつつも、決して、真実に心にかない、満足の得られる偉大な宗教には遭遇しない。これが、現代人の姿なのである。
 しかし、道は近きにあったのだ。正法に値うことはまれであるとはいえ、それは、自己の偏見のなせるわざである。栴檀の香木は、実は、自己の胸中にある。めぐりめぐって、聖人、哲人の得た結論は、汝の生命にあるものの、確たる把握であった。この偉大な至宝をあらわすものを、日蓮大聖人は、末法万年にわたる大宝塔として確立されたのである。

1392:06~1392:18 第二章 南無妙法蓮華経は三国末弘の大法top
06   されば思いよらせ給へ仏・ 月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに四十三年と申せしに始めて法華
07 経を説かせ給ふ、 八箇年が程・ 一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き、然れども日本国と天竺
08 とは二十万里の山海をへだてて候しかば 法華経の名字をだに聞くことなかりき、 釈尊御入滅ならせ給いて一千二
09 百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ、 いまだ日本国へは渡らず、 仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・
10 欽明天皇と申せし御門の御時・ 百済国より始めて仏法渡る、 又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給
11 いて其れより以来今に七百余年の間・一切経並に法華経は・ひろまらせ給いて、 上一人より下万人に至るまで心あ
12 らむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす、 されば我等も法華経を持つと思う、 しかれ
13 ども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず 信じたるに似て信ぜざるが如し、 譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖
14 木には・あいたれども・いまだ亀の腹を穴に入れざるが如し、 入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん、我が
15 朝七百余年の間 此の法華経弘まらせ給いて 或は読む人或は説く人 或は供養せる人或は持つ人稲麻竹葦よりも多
16 し、然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く 南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし、 一切の経
17 一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし、 未だ栴檀ならざれば腹をひやさず・ 日天ならざれば甲をもあた
18 ためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし華さいて菓なく言のみ有りてしわざなし。
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 以上、述べてきたことを考え合わせなさい。釈尊はインドに出現されて、一代聖教を説かれたが、四十三年にして初めて法華経を説かれた。その後八年の間、いっさいの弟子はみな如意宝珠のような法華経を信受したのである。しかしながら、日本国とインドとは、二十万里もの山や海をへだてているので、法華経の名さえも聞くことがなかった。
 釈尊が入滅されてから一千二百余年に、法華経は中国に渡ったが、まだ日本国には渡らなかった。仏滅後一千五百余年を経て、日本国の第三十代欽明天皇の時代に、百済国から初めてわが国に仏法が渡来した。
 また、聖徳太子が中国から初めて仏法をとりいれられて以来、今日まで七百余年の間、一切経ならびに法華経は弘まっていき、上は天皇から下は庶民にいたるまで、心ある人は法華経を一部八巻、あるいは一巻、あるいは一品を持って父母の孝養としている。それ故に、人々は、われわれも法華経を持っていると思っている。しかしながら、いまだかつて誰も口に南無妙法蓮華経と唱えない。それは、法華経を信じているようでいて実は信じていないようなものである。
 それはあたかも一眼の亀が、値いがたい栴檀の聖木に値ったけれども、まだ、その腹を穴に入れないようなものである。腹を浮木の穴に入れなければ意味がなく、たちまち大海に沈むであろう。わが国に仏法が伝来してから七百余年の間、この法華経は弘まり、あるいは法華経を読む人、あるいは説く人、あるいは供養する人、あるいは持つ人は、稲麻竹葦よりも多い。しかしながら、いまだ阿弥陀仏の名号を称えるように、南無妙法蓮華経と勧める人もなく、唱える人もない。法華経を除くいっさいの経文、一切の諸仏の名を称えるのは、凡木に値うようなものである。栴檀でないから亀の腹を冷やさない。太陽でないから甲羅もあたためない。ただ、目をたのしませ、心を喜ばせるだけで実証はない。それはあたかも、花が咲いても果実がみのらず、言葉のみあって現実の働きがないようなものである。

月氏国
 中国・日本などで用いられたインドの古称。月支とも書く。仏教では伝統的に「がっし」と読み習わすが、現代では「げっし」と読む。月氏は、もともとは紀元前後数百年、東アジア・中央アジアで活躍していた遊牧民族の名とされる。この月氏が、後に匈奴に追われ、中央アジアに進出し、ガンダーラ地方を中心にして大月氏国を築いた。特に2世紀のクシャーナ朝のカニシカ王以後、大乗仏教が盛んとなり、この地を経てインドの仏教が中国へ伝えられたことから、中国ではインド全体に対しても月氏と呼んでいた。
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一代聖教
 釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
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如意宝珠
 意のままに宝物や衣服、食物などを取り出すことができるという宝の珠。
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天竺
 中国および日本で用いられたインドの古称。
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欽明天皇
 510年~571年。継体天皇の嫡子。在位中に百済から仏法が公式に伝えられた。現在では一般に第29代とされるが、明治時代に歴代を正式に定めるまでは神功皇后を歴代に数えるなどし、第30代とするのが一般的だった。
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百済国
 古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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上宮太子
 聖徳太子のこと。574年~622年。飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている(「開目抄」、230㌻)。
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唐土
 日蓮大聖人の時代には、国名としてだけではなく一般的に中国をさすことがある。
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一切経
 仏教にかかわる経典を総称する語。大蔵経ともいう。また一切の経・律・論のほか、中国、韓・朝鮮半島、日本などで成立した経文の解釈・伝記・史録などを編纂・結集したものをいう。
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稲麻竹葦
 稲・麻・竹・葦のことでたくさん集まっているさまをいう。
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釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ
 中国に法華経が伝わったのは、釈尊滅後1200余年であると説かれている。
 ここで問題になることは、釈尊の入滅年をいつとするか、ということである。種々の説があって定かではないが、そのいくつかの説をとりあげると次のとおりである。
 釈尊の生存年時については、一般には、衆聖点記による紀元前0565~0486年と、宇井伯寿氏などの主張する前0465年~0386年説がある。
 古来東洋において定説として用いられてきたものは、周の昭王24年(前1029年)~穆王52年(前0949)説である。大聖人もこの説を採用されているのである。和漢王代記に「第四昭王の御宇二十四年甲寅に当る、五色の光気南北に亘る大史蘇由之を占う、四月八日は仏の御誕生なり」「中間七十九年なり」「第五穆王の五十二年壬申に当る、二月十五日御入滅、十二の虹南北に亘る大史扈多之を占う」(0602-09)とあることからも理解できる。
 次に問題となるのが、仏教がいつ中国に伝来し、中でも法華経はいつごろ漢土に伝えられたかということである。大聖人は法華経伝来を「西晋、正法華経十巻渡る――法護三蔵亘す。妙法華経渡る――七巻或は八巻、羅什三蔵亘す」(0603-13)と記されている。
 釈尊の入滅を紀元前0949とすると、大乗経典が伝わり訳された0265年は、1214後になり、大聖人の仰せの「一千二百余年」に相当する。この事実からも、大聖人は仏滅は前0949年説に一往よられていることが明らかである。最後に、参考のために、中国への仏教伝来についても略述しておく。伝来年時については、これもいくつかの説があり、定かではない。
 この問題について、漢民族は幾多の文献記録をのこしている。古いところでは周代までさかのぼり、新しい方は後漢時代までとなっており、その間数百年のへだたりがある。
 どうしてこのようなへだたりができたかというと、次の二つの理由が考えられる。
 一つは、仏教文化圏となっていた西域諸国と中国との間には、相当早くから政治上、貿易上の交渉があったことはたしかである。すなわち、シルクロードを通しての交易である。このルートを通して、西域諸国の間で行なわれていた仏教が、いつのまにか中国に浸透して来るようになったのであろう。東西を結ぶ媒介役は隊商であったろうが、中国には、かかる隊商による仏教伝播に関する何等の記録も残っていない。中央アジアの探検が科学的に行なわれるようになったのは、ようやく近年のことで、まだまだ未知の分野ばかりである。これを解明することによって、仏教東漸の姿がはっきりしてくることは間違いないと思われる。
 二つめの理由は、中国に伝わった仏教は、中国に古くからあった民族信仰を道教という宗教として発展させた。両者の勢力が伯仲するにつれて、その間に軋轢が生ずるようになった。ここに道仏二教間の優劣の論争が展開されるのである。そこで、仏教側としては、伝来の古いことをもって、その権威を保持しようとし、漢代よりさかのぼって秦代に、さらには、もっと古く周代に、すでに仏教は中国に伝わっていたと主張するようになったからである。
 次に中国の記録している仏教伝来の年代はどうか。
 従来、ほとんど定説のようになっていたものが、永平10年(0067)伝来説である。後漢の明帝が夢に金人をみて使節を大月氏に遣わし、胡僧の迦葉摩謄と竺法蘭とが王使について永平10年洛陽に来て、四十二章経を訳出したことを仏教の公伝としていることである。しかし、この説は、近年諸学者の研究によって歴史事実を伝えるものではなく、仏法伝来の説話にすぎないと考えられるようになった。
 説話にすぎない、とする理由は、第一に、当時は西域との国交が杜絶していたこと、第二に、この説に登場する人物が文献により異動出没があること。胡僧である迦葉摩謄や竺法蘭は、はたして実在したのだろうか、という疑いすら出てくるのである。第三に、訳出された四十二章経は当時のものではなく、後世の抄出であることなどである。
 この説から考えられることは、明帝のときには、すでに仏・法・僧がそろって入ってきていたのではないか、ということである。そしてこれよりさき、すでに早く、仏教はかなり社会性をもって漢土に流行した史実さえ認められるのである。
 その証拠としてあげられるものが楚王英の奉仏である。楚王英は前述の明帝と異母弟の関係にある。彼は首都洛陽をはなれた、彼の封土たる彭城において、永平8年(0065)のころ、仏教を熱心に信仰していた。「後漢書」には楚王の仏教信仰の事実を物語る明帝の詔を掲げている。その永平八年の詔の一節に「英が黄老の微言を誦すとともに浮屠の仁祠を尚び、潔斎三月神と誓をなす云云」とある。当時、神仙黄老の思想が流行をみていたので、外来の仏教もまたこれに近似したものとして信仰されていたことがわかる。
 これらの事実は、この時代に、前世紀以来漢人の視聴を集めてきた西域人の仏教が、西暦一世紀に及んでは後漢の王族の帰依を受け、すでに有力な地位を占めるに至ったことを物語っている。
 現在、学界で、ほぼ定説となっているのは、紀元前二年、前漢の元寿元年をもって、仏教が中国に入った最初としている説である。その根拠は、「魏略」の西戎伝によるもので、前漢哀帝(あいてい)の元寿元年に大月氏王の使節伊存が、博士弟子景廬(けいろ)に浮屠経を口伝したことを伝えている。
 大聖人は、中国への仏教伝来についても、当時定説とされていた永平十年説をとっている。和漢王代記に、「又周の第四の昭王二十四年より後漢の第二光武に至る一千一十五年に当るなり」「後漢光武皇帝永平十年丁卯、一千一十五年に当て摩騰迦竺法蘭の二人の聖人四十二生経十住断結経を以て白馬に負せて漢土に渡す」(0603-08)とあるのもその一例である。
仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門の御時・百済国より始めて仏法渡る
 日本に仏教が伝来した年時についても、種々に説があるが、これは欽明天皇の13年(0552)説によられている。本抄以外にも、仏教伝来に関して述べられているところは少なくない。そのいくつかの御文を次にあげることにする。
 新池殿御消息「仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとどまりて余国にわたらず、正法一千年の末・像法に入って一十五年と申せしに漢土へ渡る、漢土に三百年すぎて百済国に渡る、百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに・人王三十代・欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき」(1436-06-)と。
 衆生身心御書「像法の中に日本国に仏法わたり所謂欽明天皇の六年なり、欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六宗・弘通せり、真言宗は人王44代・元正天皇の御宇にわたる、天台宗は人王第四十五代・聖武天王の御宇にわたる、しかれども・ひろまる事なし」(1539-08)。
 撰時抄「像法に入って四百余年と申しけるに百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる、漢土の梁の末・陳の始にあひあたる、日本には神武天王よりは第三十代・欽明天王の御宇なり、欽明の御子・用明の太子に上宮王子・仏法を弘通し給うのみならず並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ」(0263-03)
 日本に仏教が伝来したのは、「日本書紀」の記すところによれば、欽明13年(0552)に伝えられたことになる。しかし、これには有力な異説があり「上宮聖徳法王帝説」では、欽明天皇の御代戊午(0538)10月としている。また、「元興寺伽藍縁起流記資財帳」にも、欽明天皇御世七年歳次戊午12月としているのである。ところが、これを「日本書紀」の記年によっていくと、戊午は宣化天皇三年になって、欽明朝のことではなくなってしまう。どうして、このような差異が生じたかというと、継体・欽明朝の内乱に原因がある。天皇の即位、崩年が明らかでないばかりか、欽明天皇の即位を認めず、安閑天皇、宣化天皇と即位し、両朝分立の勢力になっていたことなど、歴史的に複雑な背景があるのである。
 また、大聖人は各抄において、欽明天皇を、人王第30代としているが、大日本史などは、人王第29代としており、それが一般に通用している。これは、大日本史においては、神功皇后を摂政として帝王の代数には入れていないが、大聖人は、神功皇后を天皇系図の第15代に入れている史実に従ったものである。それ故に、欽明は30代となるのである。
 仏滅後1500余年とおおせになっていることは、大聖人は当時定説となっていた日本書記の0552年伝来にもとづかれていると考えられる。仏滅を前述の如く、紀元前0949年としているから、0552年ならば「仏滅後一千五百余年」と一致するわけである。これが0538年説によると、1500余年にはならず、仏滅後1487年で符合しなくなるからである。
 なお、衆生身心御書の「像法の中に日本国に仏法わたり所謂欽明天皇の六年なり」とあるが、大聖人が欽明天皇6年(0545)としたのは、いずれの資料にもとづかれたのかは不明である。
南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし
 わが国で法華経が広く信奉されるようになったのは、聖徳太子の時からである。聖徳太子は推古天皇14年(0606)7月、勝鬘経を講じ、ついで法華経を講じた。また22年(0614)正月には、法華経の疏をつくり、4月には、この法華経義疏四巻を終っている。そして、法華経、勝鬘経、維摩経の三経を鎮護国家の法と定めたのである。
 奈良時代に入ってから、第45代聖武天皇が仏教を非常に重んじ、神亀3年(0726)に法華経を書写し、天平6年(0734)11月には、太政官の奏によって得度には法華経一部を暗誦することを条件とし、12年(0740)には、諸国に命じて、国ごとに法華経十部を書写し、七重塔を造立した。翌13年3月には国ごとに国分寺を創建し、法華経十部を写して塔毎に安置した。
 平安時代になって、第50代桓武天皇の代に伝教が出て、法華経を流布し、比叡山延暦寺に迹門の大乗戒檀を建立した。第62代村上天皇は、天暦9年(0955)正月、法華経を書写し、宮中弘徽殿で法華経八講を行なった。その後、法華八講、十講、三十講は、平安時代の貴族の儀式として、毎年恒例の行事となった。また後白河上皇は嘉応元年(1169)6月、仏門に入り、持仏堂で源平の万霊を供養するため、法華経を講じた。
 日本に法華経が伝来して以来、法華経を読誦する人、供養する人、持つ人は数えきれないほどであった。だが、法華経の肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経の題目を自分も唱え、人にも勧める人は日蓮大聖人以外にいなかったのである。
 ゆえに撰時抄に「欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし」(0284-05)といわれ、また同抄に「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」(0266-13)ともいわれている。
 しかも、この南無妙法蓮華経こそ、末法の全民衆を救う唯一つの大白法なのである。報恩抄に「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(0328-16)と申されてから七百年後の今日、いまや題目は全国津々浦々までひろまっているのである。それはまた、この妙法が、全世界を救う確実な証拠といえよう。

1393:01~1393:09 第三章 二十余年の師子王の戦いを示すtop
1393
01   但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、 去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・
02 昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり、 念仏申す人は千万なり、 予は無縁の者なり念仏の方人は
03 有縁なり高貴なり、 然れども師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、 日天東に出でぬれば万星の光
04 は跡形もなし、 法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども 南無妙法蓮華経の声・出来しては師子と犬
05 と日輪と星との光くらべのごとし、 譬えば鷹と雉との・ひとしからざるがごとし、 故に四衆とりどりにそねみ上
06 下同くにくむ讒人国に充満して奸人土に多し 故に劣を取りて勝をにくむ、 譬えば犬は勝れたり師子をば劣れり星
07 をば勝れ日輪をば劣るとそしるが如し・ 然る間邪見の悪名世上に流布し・ややもすれば讒訴し或は罵詈せられ或は
08 刀杖の難をかふる或は度度流罪にあたる、 五の巻の経文にすこしもたがはず、 さればなむだ左右の眼にうかび悦
09 び一身にあまれり。
-----―
 ただ日蓮ひとりのみ、日本国で始めて、南無妙法蓮華経の題目を唱え出した。去る建長五年の夏のころから今に至る二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と題目を唱えたのは、日蓮一人である。これにたいして、念仏を称える人は千万人の多数である。日蓮には、後楯になるような縁者はない。念仏の味方をする人は、後楯があり、高貴な人々である。しかしながら、師子のほえる声には他のいっさいの獣が声をひそめてしまい、虎の影をみただけで犬は恐れる。太陽が東天に昇れば、万星の光は、跡形もなく消えてしまう。そのように、法華経のないところでこそ、念仏は勢威を誇っていたけれども、南無妙法蓮華経が唱え出されると、それはまさに、師子と犬とを比べ、日輪と星との光を比べるようなものである。譬えば、鷹と雉とは等しくないようなものである。故に、四衆がそれぞれ日蓮をねたみ、上下こぞってにくむのである。讒言する者は国に充満し、また、奸人もその地に多い。故に、劣った念仏を取り、勝れた南無妙法蓮華経の題目をにくむのである。譬えば犬が勝れて師子が劣り、星が勝れて太陽が劣ると誹るようなものである。それゆえ、日蓮は邪見のものであるとの悪名は世間に流布し、ややもすれば讒訴され、あるいは罵詈され、あるいは刀杖の難を蒙り、あるいは度々流罪に処された。法華経第五の巻・勧持品の経文に説かれた法華経の行者の姿と、少しも違うことがない。それゆえ、感涙は左右の眼にうかび、悦びが全身にあふれるのである。

建長五年の夏
 立宗宣言をなされた時期をいう。大聖人は建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、日蓮大聖人が32歳の時に清澄寺で、末法の人々が信ずるべき成仏の根本法は南無妙法蓮華経であると宣言されたこと。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることを意味する。この時、念仏宗など諸宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、念仏の強信者であった地頭の東条景信が、危害を加えようとしたが、大聖人はかろうじて難を免れた。その後、大聖人は御入滅まで30年近くにわたり、南無妙法蓮華経を忍難弘通された。
―――
無縁の者
 頼るべき親類縁者のない者。
―――
方人
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
―――
四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
讒人
 事実を曲げ、いつわって他人をあしざまにいう人。
―――
奸人
 心のねじけた人。
―――――――――
念仏申す人は千万なり、予は無縁の者なり念仏の方人は有縁なり高貴なり
 この短い御文からも、日蓮大聖人の弘教のための戦いが、いかに熾烈なものであったか拝察されるのである。
 建長5年(1253)4月28日、立宗を宣せられ、無量義経の「四十余年未だ真実を顕わさず」の文を引いて、他宗諸派の邪義を破する大師子吼をされ四箇の格言を述べて、当時の代表的四宗派の誤りに、真っ向から鉄槌を下されたのである。このため、日蓮大聖人は、強盛な念仏の信者であった地頭の東条左衛門尉景信に襲われ、命を危うくされたのを皮切りにして、松葉ケ谷・伊東・竜の口・佐渡等で身命に及ぶ難に度々遭遇された。これらの難の多くは、鎌倉幕府という当時の最高の権力によるものであった。その間二十余年、大聖人にとって安泰な日は一日としてなかった。あるときは鎌倉に、あるときは難を避けて下総、安房の国に、そして伊東・佐渡の配所にと、移られている。そのご辛苦は今日の我々の想像を越えるものであったことが、御書の各所にしのばれるのである。
 「昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり、念仏申す人は千万なり」
 この御文は、そうしたなかでの、大聖人の日々の戦いのあとを示されているところと拝する。
 いかに強力な他宗派の妨害にも、また、権力による迫害にも一歩も退くことなく、一日一日、一刻一刻全身全魂、妙法の流布のため、令法久住のため、ただおひとりで心をくだかれて、戦われた姿がうかがわれる。いかなる悪条件に立たれても、正法正義を叫び続けられた毅然たる態度、そのご胸中は、御本仏としての大確信に貫かれていたのである。
 「然れども師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし、法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども南無妙法蓮華経の声・出来しては師子と犬と日輪と星との光くらべのごとし」との、本抄の御文にみる烈々たる確信こそは、大聖人が末法救済の御本仏であることを示されているものと拝するのである。
 日蓮大聖人は、政治権力と結び謀議画策する他宗派と厳然と戦われたのである。大聖人迫害のため暗躍し政治権力を動かした者として、禅宗の道隆、律宗の良観、念仏宗の念阿等があげられる。その中でも、ここでは特に念仏宗をあげておられる。
 それは、当時念仏宗が最もひろまり、その邪義邪説が日本中の人々を毒し、生命をむしばんでいた大元凶であったが故であろう。御家尼御前の夫、松野六郎左衛門入道も、生前は念仏宗であった。恐らく、御家尼もこれに執着があったのであろう。そのため、特にここで、念仏宗をあげられ、その邪義を破折されたと思われる。
 当時の社会は、急速な時代の変化のなかで混迷を深くしていた。平安時代末より、貴族階級の没落が起こり朝廷・貴族による支配体制が崩壊し、世の中の治安の乱れに乗じて、武士が台頭し、また群盗が出没するなど、戦乱がたえまなく、社会全体が大混乱を呈していた。こうした社会情勢の大変貌に併せて、天災・飢饉・疫病の蔓延と相つぐ災に、人心の動揺、不安は並々ならぬものがあった。
 こうしたなかで平安末期より「末法到来」の声がおこり、それは当然「世の終わり」というとらえ方になっていった。この末法思想が現実の社会情勢とあまりにも一致したため、人々の危機感はいっそう強まった。これらの不安におののく人々に、生きる方向、人生の根本義を教えるべき宗教界もまた堕落していた。
 当時の仏教界の中心的存在であった天台宗をみても、その腐敗・堕落ぶりは、はなはだしい。伝教大師が、比叡山に迹門の戒壇を建立してのち、幾らもたたぬうちに、第三代慈覚・第五代智証が、天台、伝教の教義に背いて真言密教の邪義を取り入れてしまった。それ以来、全く時代を指導し、人々を救済できる仏法ではなくなってしまっていた。座主の地位をめぐって、政治権力の力に依ってこれを争ったり、座主が源平の争いに巻き込まれて、鎧を身にまとい戦野を駆けるなどした。上層部がこんなありさまであったから、一般の学僧にいたっては、興学の気風など全く失せ、暴徒と化していた。平安時代末から鎌倉時代への時の経過は、血なまぐさい殺戮の繰り返しで、宗教本来の役目は何らはたしていなかった。他の宗派とても大同小異であり、このような仏教界の姿に人々の心は全く離れていったのである。そして、末世、末法の感をますます深め、人々は生きる気力を失っていた。
 こうした世相、人心をたくみにとらえたのが法然を祖とする念仏宗であった。
 念仏宗の特徴は次の三つに要約することができる。第一に信仰の形式を従来の仏教に比較してきわめて簡単なものにしたこと。第二に、当時、すでに空理空論化していた教義を捨て、弥陀称名を第一としたこと。第三にそれまでの既成宗教が近づかなかった一般大衆のなかにもどしどし教勢を拡大したこと、である。
 とくに、学問は一切不要であり、一字も読めなくとも念仏さえ称えれば、西方極楽浄土に往生できるという単純な理論は、一般大衆にたやすく受け入れられ、たちまちのうちに巨大な信仰集団となったのである。大聖人が「念仏申す人は千万なり」とおおせになっているとおりの様相を呈していた。当世念仏者無間地獄事にも次のようにある。「人毎に平形の念珠を以て弥陀の名号を唱え或は毎日三万遍・六万遍・十万遍・四十八万遍・百万遍等唱る間又他の善根も無く念仏堂を造ること稲麻竹葦の如く、結句は法華真言等の智者とおぼしき人人も皆或は帰依を受けんが為に或は往生極楽の為に皆本宗を捨てて念仏者と成り或は本宗にして念仏の法門を仰げるなり」(0104-14)と。当時の人々が、自身の宗々を捨てて、念仏に帰依していった様子を明らかに知ることができる。
 鎌倉武士というと、禅宗に帰依するものが多かったとの見方がされている。たしかに、北条時頼が帰依したこともあって、一部に禅宗の強信者もいたであろうが、武士の多くは念仏に帰依し、念仏を称えて死んでいったといわれる。法然の亡きあと、浄土宗は一遍の時宗など多くの派に分かれてはいったが、念仏が社会にその後長い期間にわたって定着していったことに変わりはない。
 「念仏の方人は有縁なり高貴なり」と述べられているように、法然の門には、右大臣藤原兼実、武将・畠山重忠、熊谷直実等がみられ、上流階級にも深く浸透していた。また、一遍も武士の出身ということから多くの武士・有力者がその門にいた。大友頼泰、足利氏等名門の者の名が今日に伝わり、神奈川県藤沢市の清浄光寺は鎌倉幕府によって建立されたといわれる。
 このように念仏宗は、権力者から庶民まで多くの人々をおさめた大教団となっていったが、この世を煩悩と苦悩の充満している穢土であるとして、念仏を称えて死ぬならば、西方十万億土という遠い彼方に阿弥陀仏の住む極楽浄土があり、そこに往生できるとの教えは、人生に生きる希望を失っていた人々を一層無気力な人生に追いやる結果になったのである。死ぬことが即往生であるとして、死ぬことを理想として自殺をはかる者も多かった。また、自殺まではいかないが、この世をはかなむ人が多く、退廃的、厭世的な風潮が高まっていた。
 このように、民衆の無知につけいって、多くの人々をより不幸の淵においこんでいった念仏宗を、大聖人は、徹底して破折されたのである。もとより念仏宗を弾劾することによって、いかに人々の反感を招き世間を敵にすることになるかは明瞭であり、また政治権力による迫害も当然おこることを承知されて、大聖人はなお、敢然として念仏を破折されているのである。
 しかも、この文に説かれた内容は、大聖人の仏法の本質が、いかなるものであるかを明瞭に示している。すなわち、大聖人の仏法は権力によらず、つねに民衆の側に立ったものであるということである。
 大聖人は、無縁であり、世間的に地位はない。念仏者は、有縁であり、高貴な地位にいる。ここに、鮮やかに、いずれが、権威主義であるか、人間主義であるか、権力による弘教か、人間の原点に立った弘教であるかが、示されている。
 権力に結合し権力に頼ることは、宗教の堕落である。宗教を一つの狭い枠の中に閉じこめてしまうからである。偉大な宗教は、常に人間の側から、わき起こり、時代を変革していく。大聖人がこの文で示された確信は、そのまま、現代における創価学会の根本精神であることを自覚すべきである。
さればなむだ左右の眼にうかび悦び一身にあまれり
 立宗宣言以降、終始三類の強敵と闘われた日蓮大聖人の御振舞いが釈尊の経文に少しも違わず符合することをもって、自ら末法出現の御本仏なりとの確信に立たれているようすが、この御文から強くうかがえる。
 法華経・五の卷を身口意の三業で読まれ、御本仏なりと立証されたことは、仏の御身として、末法万年尽未来際までの全民衆を救済することであり、「なむだ左右の眼にうかび悦び一身にあつまれり」と喜ばれる心は、仏の大慈悲心と拝するのである。
 ここで日蓮大聖人はご自身の数々の受難をもって「五の巻にすこしもたがわず」と喜ばれているが、「五の巻」については御書の各所にみられる。
 開目抄に「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし(中略)当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(中略)経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(0202-12)と述べられているのも本抄と全く同意と拝する。
 なぜ「五の巻」をこのように特筆されたのであろうか。
 五の巻は、法華経一部が八巻よりなっている五番目の経巻で、提婆達多品第十二、勧持品第十三、安楽行品第十四、涌出品第十五が収まっている。
 松野殿御返事に「五の巻には我が末世末法に入って法華経の行者有るべし、其の時其の国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等・集りて国主に讒言して流し失ふべしと説かれたり」(1389-17)と、五の巻の文を引いて説かれている。この文は、第五の巻の中でも勧持品第十三の文によるのである。勧持品は、末法に法華経の行者の出現という大事が予言されているゆえに、第五の巻の中でも最も重要なところといえる。特に勧持品では、二十行の偈文に重々の意がある。これは法華経の虚空会の儀式において、釈尊の勧めにしたがって、八十万億那由佗の多数の菩薩が、仏滅後に出現すべき三類の強敵の姿を説き、この三類の強敵の大難に耐えて法華経を弘通すると誓願を発したことを説いている。
 二十行の偈の冒頭に「仏の滅後の後、恐怖悪世の中に於いて、我れ等は当に広く説くべし」とあるが、これは、正法より像法、像法より末法と、末法に最も適合する予言である。
 寺泊御書に、この文を引かれ「『恐怖悪世中』の経文は末法の始を指すなり」(0954-04)と。すなわち、二十行の偈の文は、釈尊滅後、末法において御本仏が、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通される御振舞いと、三類の強敵出現の姿を説き明かしているところであり、日蓮大聖人は、この文を色読されたのである。
 寺泊御書に「勧持品に云く『諸の無智の人有って悪口罵詈し』等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、『及び刀杖を加うる者』等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる『常に大衆の中に在って我等が過を毀らんと欲す』等云云、『国王大臣婆羅門居士に向って』等云云、『悪口して顰蹙し数数擯出せられん』数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり、法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0953-15)と。
 勧持品二十行の偈の文を身口意の三業で読まれた日蓮大聖人は、迫害を受けて成仏した不軽菩薩の立ち場に立つのであると「不軽菩薩為るべし」といわれ、御本仏としての大確信を、示されている。不軽の立ち場とは、本因の立ち場である。つくられ荘厳された本果に安住するものではない。それこそ泥まみれ、汗まみれで土台から築きあげる建設者の道である。さらに、広宣流布は身命をなげうって遂行するものであることを、大聖人は自ら、身をもって後世の弟子に教示されているのである。
 「去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり(中略)然る間邪見の悪名世上に流布し・ややもすれば讒訴し或は罵詈せられ或は刀杖の難をかふる或は度度流罪にあたる」と本抄でも述べられているが、命をあやうくすること三度・四度と、権力者、邪宗の衆僧等による迫害が続いたのである。しかし、いかに三類の強敵が競い起ころうが「当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」と、むしろ当然のことであり、喜びとされ、莞爾としてこれらの難に立ち向かわれたお姿こそまさに「悦び一身にあまれり」の御姿である。そしてついに法体の広宣流布を成就され、一大目的を遂行されたのである。
 当時は、新しく台頭した武士による支配体制が確立され、権力者に絶対的権利がゆだねられていた。このような社会制度のなかで、事を成就するには命がけで遂行する以外に方法はなかったのである。
 現代は憲法に基本的人権が保障され、信教の自由、言論の自由が認められ、自分の信ずるところの意見を堂々と述べることのできる時代である。こうしたなかでの私達の実践活動は、一生涯、御本尊を根本として真剣に仏道修行に励み、さらには各個人が、社会にあって立派に大成しゆくことが、命がけで戦うことに通じるのである。
 化儀の広宣流布を目指して前進する創価学会に対して、時代は変わっても、必ずや三類の強敵がおそいきたることは、経文に照らして当然といえよう。しかし、いかなることがあろうとも、不退転の信心に住して、堂々と信心を貫き、光輝ある人生を歩みたいものである。

1393:10~1393:18 第四章 御供養の謝意を表すtop
10   ここに衣は身をかくしがたく食は命をささへがたし、 例せば蘇武が胡国にありしに雪を食として命をたもつ、
11 伯夷は首陽山にすみし蕨ををりて身をたすく 父母にあらざれば誰か問うべき 三宝の御助にあらずんば・いかでか
12 一日片時も持つべき未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやし
13 くこそ候へ、 法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて 法華経の行者をば供養すべきよしを
14 説かれて候、 釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか、 竜女と申す女人は法華経にて仏に成り
15 て候へば末代に此の経を持ちまいらせん女人をまほらせ給うべきよし誓わせ給いし、 其の御ゆかりにて候か、 貴
16 し貴し。
17       弘安二年己卯三月二十六日                日蓮花押
18     松野殿後家尼御前御返事
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 ここ身延での生活は、衣服は身を包むに足りず、食糧も乏しくて命を支えることが困難な状態である。例えば蘇武が胡国に捕えられた時に、雪を食べて命を保ち、伯夷が首陽山に隠棲していた時に蕨を採ってやっと身を保ったのと同じ有り様である。この身延の山中に、父母でなければ、誰が訪れる人があろうか。三宝の加護ででもなければ、どうして一日片時も我が命を持つことができようか。未だお会いしたこともないのに、このように度度使いをもってお訪ね下さるのは、いかなることかと不思議に思えてならない。法華経第四の巻の法師品には、釈迦仏が凡夫の身に入り替わられて、法華経の行者を供養することが説かれている。釈迦仏があなたの御身に入られたのか、または、尼御前の過去に積まれた善根があらわれてのことであろうか。 
 竜女という女人は、法華経で成仏されたのであるから、末法にこの法華経を持つ女性を守護することを誓われた。あなたは、そのゆかりの人であろうか。まことに貴いことである。
  弘安二年己卯三月二十六日   日 蓮 花 押
   松野殿後家尼御前御返事

蘇武
 紀元前140年ごろ~前60年。中国・前漢の武将。匈奴に囚われ、19年間の幽閉にも屈せず、漢に忠誠を尽くした名臣として知られている。
―――
伯夷
 中国古代の賢人である兄弟のうちの弟。殷の孤竹国の二人の王子。父王は弟の叔斉に位を譲ろうとしたが、父王の死後、叔斉は兄の伯夷に位を譲ろうとした。
―――
三宝
 「さんぼう」ともいう。仏教を構成する仏法僧の三つの要素のこと。この三宝を大切に敬うことが、仏教を信仰する者の基本となる。①仏宝は、教えを説く仏。②法宝は、仏が説く教え。③僧宝は、教えを信じ実践する人々の集い(教団)。「僧」は僧伽の略で、集いを意味するサンスクリットのサンガの音写。「和合」と意訳され、二つ合わせて「和合僧」ともいう。
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 蘇武が胡国に捕えられたときの例や、首陽山に隠棲した伯夷・叔斉の例をひかれて、身延での厳しい生活の現況を述べられ、後家尼御前の御供養が、どれほど貴重なものであり、その功徳がいかに大きいかを示されているのである。
 本抄は弘安2年(1279)の3月26日のものであるが、弘安元年(1278)の9月19日に上野殿にあてられた御書(1551)には「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし、何を以てか・かうべき、みそも・たえぬ、小児のちをしのぶがごとし。かかるところに・このしほを一駄給びて候御志・大地よりもあつく虚空よりもひろし」と述べられているところから、当時の身延山中における生活は、想像をこえた厳しいものであったことを知るのである。
 米、麦、塩もなく、味噌もないということは、まさに食するものがまったくなかったということになる。また、人間にとって、塩は、単に食物を食するための調味料として必要なだけではなく、身体を保つに最低限必要なもので、これを欠けば健康を害することにもなる。
 わらびを折ったり、雪を食したという蘇武や伯夷の故事よりも更にきびしい御生活のなかで、単に隠棲するだけではなく、日夜朝暮に読経・唱題をされ、お弟子たちの養成、また弘教の指揮をとられるなど、その活動はとどまるところがなかったのである。
 今日残されている御書をみても、この御不自由な食生活、また衣服も足らぬ毎日、紙、筆すらも充分でない身延での御書が最も多いことに、われわれは心していかねばならない。身延に入られてからの大聖人のお身体は、お年のせいもあるが、長年の激闘と耐乏の毎日で、年毎に弱られていたようである。
 その中で、御弟子、信者へ残された数多くのお手紙が、令法久住への烈々たる大情熱と、広布への力強い獅子吼にみなぎっていることは、御本仏としての確固たる境涯を物語る以外のなにものでもない。
 御不自由を忍ばれ、最後まで、広宣流布への情熱を燃やしつづけられ、かつ実践された御本仏日蓮大聖人の弟子として、われらもまた、化儀の広布実現への力強い前進をしていかなくてはならない。

1390~1393    松野殿後家尼御前御返事2014:04大白蓮華より先生の講義top

使命と歓喜で師子王の勇気の舞を!
 日蓮仏法は、師子王の宗教です。
 創価学会は、日蓮大聖人の仏法を、師子の如く弘通する仏意仏勅の教団です。
 「4・2」から「5・3」へ。
 毎年、この時節を迎えるたびに、私の心は高鳴ります。「戸田先生の分身として、我は一人立つなり」と。
 嵐の時も、順風の時も、私にとって「5・3」は、常に清新な決意で、さらなる広布の遠征へ、戸田先生の不二の弟子として、力強く新出発する日にはかなりません。
 私の心の中には、いつも戸田先生がいます。戸田先生の師子王の生命が、常に私に最大の勇気と智慧を与えてくださいます。
 師匠が師子王の如く勇み勝てば、弟子もまた師子王の如く勇み立つ。
 師匠が師子王の如く走れば、弟子もまた師子の如く走る。
 師匠が師子吼すれば、でしもまた師子吼する。
 広布の師弟が、一体となった時に、胸中に師子王の仏の生命が満ちあふれてきます。
 日蓮仏法は、民衆の誰もが師子となり、自他共の幸福と平和を実現する師子の連帯を世界に築き上げる宗教です。自分自身が賢明になり、強くなり、人々に幸福をひろげていく主体者となる。一人一人が師子王となる宗教です。
「学会は仏の集まり」と確信
 まだ戦後の混乱が続く1947年の総会で、戸田先生は、混迷を深める社会にあって、真の楽土を築くのが私たちの使命であると師子吼されました。
 「かかる苦悩の世の中を救うには、仏教の真髄を世に弘むる以外に方法はないと、二人の大哲人が、遠くは3000年の昔、近くは700年の昔に、釈迦と現れ、日蓮大聖人様と現じられて、大声喝破しておられたのであります。
 幸いにも、われわれ学会人は、この御仏のお教えに随順するものの集まりであります」
 先後の創価学会の再建にあたって、戸田先生は一貫して、「創価学会の使命」がいかに重大であるかを訴えられました。
 先生は、「されば、吾人は、仏を感得しうる大果報人であるとともに、世の中に大確信を伝えなくてはならないのであります」「仏の集まりが学会人であると悟らなくてはならないのであります」とも述べられています。
 当時の学会員は人数もわずかであり、また、聖教新聞や大白蓮華もなく、再建の端緒についたばありの学会を、社会的には誰も注目していませんでした。
 しかし、戸田先生は、周りがどんな環境であろうと、人々の幸福を願い、国土、民族、さらには世界の衆生を救い、地球に仏国土を築こうと威風も堂々と宣言されました。
 これが真の師子王の御境涯です。
 釈尊も大聖人も、そして牧口先生も、わが恩師も、ただ「一人」から、壮大な広宣流布を始められたのです。この師子王の「一人立つ信心」を、新時代の「5・3」を前に、私たちは、今、心新たに受け継いでまいりたい。
 今回学ぶ「松野殿後家尼御前御返事」は、大聖人御自身がただお一人、「師子の声」を上げられ激闘を重ねた御心境を、まだ大聖人に直接お会いしたことのない門下に示されたお手紙です。
 大難に敢然と立ち向かう勇猛心も、どこまでも一人を大切にされる慈愛も、いずれも師子王の闘争です。この深き御確信と御精神を拝していきましょう。
松野殿後家尼御前御返事
01   法華経第五の巻安楽行品に云く 文殊師利此法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず云
02 云、此の文の心は 我等衆生の三界六道に輪回せし事は 或は天に生れ或は人に生れ或は地獄に生れ或は餓鬼に生れ
03 畜生に生れ無量の国に生をうけて無辺の苦しみをうけて・ たのしみにあひしかども一度も法華経の国には生ぜず、
1391
01 たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず、 となふる事はゆめにもなし人の申すをも聞かず、 仏のた
02 とへを説かせ給うに 一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり、 
-----―
 法華経第五の巻・安楽行品第十四に「文殊師利よ、この法華経は無量の国の中において、その名さえも聞くことができなかったのである」と説かれている。この経文の意味は、次のようである。われら衆生は、三界六道に輪回してきた。あるときは天上界に生まれ、あるときには人界に生まれ、あるときには地獄界に生まれ、あるときはは餓鬼界に生まれ、あるときは畜生界に生まれる等、無量の国々に生まれて、かぞえられないほど多くの苦しみを受け、また楽しみにあったけれども、まだ一度も法華経の国には生まれなかった。たまたま法華経の国に生れたとはいっても、南無妙法蓮華経と唱えることもない。自分自身が題目を唱えることなど夢にもなく、人が唱えるのを聞くことさえない。
 釈迦は、このように衆生が、法華経に値い難いことを、一眼の亀が、赤栴檀の浮木の穴に値うのがむずかしいことに譬えられている。

法華経に巡り合う喜び
 本抄は、弘安2年(1279)3月26日、松野殿後家尼御前に与えられたお手紙です。松野殿一族については、詳細は明らかではありませんが、駿河国庵原郡松野郷に住む松野六郎左衛門入道は、上野尼の父親、すなわち南条時光の母方の祖母に当たります。
 本抄を頂いた後家尼御前は、この松野六郎左衛門入道の夫人か、あるいは、入道より先に亡くなった子息の夫人なのかはっきりと分かっていません。ただ、御書の文面から、この後家尼御前は、まだ大聖人に直接お会いしたことがないこと、しかし、幾度も御供養を重ね、大聖人をお護りした健気な女性門下であったことが推察されます。
 当時の時代背景を確認すれば、大雨・大風・大雪などの天災が続き、深刻な飢饉や疫病の大流行で多くの人が亡くなり、不安な世情です。また蒙古の再襲来が予想され、混迷の度がますます深まっています。加えて、大聖人一門にとっては、駿河の国では熱原の法難が始まっており、緊迫した状態が続いています。
 そうしたなかで、仏法をひたむきに求める一人の女性に、大聖人は、「法」と「人」の両面から、大確信を与えられます。
 まず「法」の次元では、南無妙法蓮華経こそが万人成仏の根源の法であること。そして「人」の次元では、あらゆる迫害を乗り越え妙法弘通を貫かれてきた大聖人こそが法華経の行者であることを教えられます。そして、この女性門下が今、信心をしていることは、決して偶然ではなく、深い使命をもって生まれてきたことを示されています。
 いわば、大聖人御自身の「戦いと歴史」と「御確信」、そして門下の「使命」を教えられている御書です。
 その大闘争の歴史を明かすにあたって、大聖人は、冒頭、いかに私たちが人間として生まれ、この法華経に巡り合うことが稀なことなのか。そして、法華経に巡り合っても、妙法の題目を唱えることが、いかに稀有であるかを強調されています。
 本抄では、これを示す譬喩として、亀が栴檀の木に巡り合う説話が紹介されています。
永遠に崩れない「心の財」を
 今世で法華経に巡り合い、法華経の題目を持ち、弘めることの重要性を通して、多くの御書で大聖人は、門下の使命がどれほど大きいかを教えられています。例えば「寂日房御書」にもその冒頭で「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり」(0902-01)と仰せです。
 こうした御文を拝するにつれ、「本当にそうだな」「大聖人の仏法に巡り合えたからこそ今の自分がある」「学会の中で信心を教わったから、仏法の実践を貫き通すことができた」。そうした思いをしみじみと感じる方も多いのではないでしょうか。
 御書の中で大聖人が幾度も強調されるのは、いかに私たちの「今世の人生」が重要であるかという点です。仏法が説く「三世の生命」とは、今世なかんずく現在を大切に生きるためにあります。過去世の宿業に縛られた諦めの人生や、現在をないがしろにして未来へ淡いあこがれを持つような人生ではない。
 「今を生きる」ための仏法の実践です。過去からの宿業や軌道を転換し、永遠に崩れざる、広布への大いなる妙法の因果の軌道に入るための「今」であり「現在」なのです。
 大聖人は四条金吾にも、「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(1173-13)と仰せです。
 せっかく人界に生まれてきた以上、この人生の一日一日が本当に大切である。だからこそ、この限りある貴重な一日を、社会のため、仏法のためにも懸命に生き抜いて、周囲から「よかりけり・よかりけり」と信頼される人生を築き、「心の財」を積んでいきなさいと教えられているのです。
 何のための一生なのか。人生、いかに生きるべきか。この問いに答え、「所願満足の一生を送り、しかも、他者の幸福を支え、社会の繁栄と平和建設に貢献していく。これ以上の「心の財」はありません。そして、この「心の財」は永遠です。「身の財」「蔵の財」はこの人生を飾り得るものですが、「心の財」は三世を飾りゆく不滅の財です。
1393
01   但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、 去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・
02 昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり、 念仏申す人は千万なり、 予は無縁の者なり念仏の方人は
03 有縁なり高貴なり、 然れども師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、 日天東に出でぬれば万星の光
04 は跡形もなし、 法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども 南無妙法蓮華経の声・出来しては師子と犬
05 と日輪と星との光くらべのごとし、 譬えば鷹と雉との・ひとしからざるがごとし、 
-----―
 ただ日蓮ひとりのみ、日本国で始めて、南無妙法蓮華経の題目を唱え出した。去る建長五年の夏のころから今に至る二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と唱えたのは、日蓮一人である。これにたいして、念仏を称える人は千万人の多数である。日蓮には、後楯になるような縁者はいない。念仏の味方をする人は、後楯があり、高貴な人々である。しかしながら、師子のほえる声には他のいっさいの獣が声をひそめてしまい、虎の影を見ただけで犬は恐れる。太陽が東天に昇れば、万星の光は、跡形もなく消えてしまう。そのように、法華経のないところでこそ、念仏は勢威を誇っていたけれども南無妙法蓮華経が唱え出されると、それはまさに、師子と犬とを比べ、日輪と星の光を比べるようなものである。譬えば、鷹と雉とは等しくないようなものである。

一切の獣を破る師子の声
 自分自身が師子となって、正義の師子吼を勇気凛々とあげる。自分自身が希望の太陽となって闇を打ち破っていく。
 大聖人御自身の大激闘を、女性門下に伝えられている御文です。
 大聖人が師子吼された「南無妙法蓮華経」こそ、万人成仏の大法です。
 大聖人は、この御文の前に、せっかく栴檀の木を見つけても自ら方向を間違えて栴檀の穴に入ることができない亀の譬えの続きを通して「設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう」(1392-01)と仰せです。 
 たとえ、法華経にあえても、末法の一切衆生にとって、法華経の肝心である南無妙法蓮華経を唱え、自分の胸中にある仏界を自ら湧現するすべを知らなければ、本当の意味で価値を生みません。それどころか、末法の衆生は、ようやく巡り合えた最高の栴檀の木から離れて、他の浮木を自ら選んでしまうのです。
 まさに、法華経の真価が見失われるのが末法という滅後悪世の様相です。人々の生命が貧瞋癡で濁り、一見賢げな智慧がむしろ禍いし、勝を劣と思い、劣を勝と思ってしまう。その結果、法華経を遠ざけてしまう。また、悪知識たる悪僧たちが、こぞって、法華経を否定し、方便権教である爾前教を蔓延させていく。このようにして謗法が一国に充満した法滅の時代に、大聖人が出現されたのです。
妙法こそが万人成仏の要法
 大聖人は、法華経の肝心であり、三世十方の諸仏の成仏の要法である南無妙法蓮華経を取り出して、自ら唱え出されました。それは、悪縁にたぶらかされた日本中の人々を目覚めさせる戦いであり、いいかえれば、目覚めていない日本中の人を相手に、ただお一人で立ち上られたということです。
 そのことが、題目を唱える人は「一人なり」、「念仏申す人は千万なり」としめされています。また、「無縁の者」とは、ここでは経済的な面も含めて支援してくれる者がいない立場であり、「有縁」「高貴」とは、支援者がいる者、身分が高い貴族や武士を示します。従来の仏教者たちが貴族や豪族の出身であったのに対し、大聖人は施陀羅の出身と自ら示されるように、何の社会的な後ろ盾もありません。
 その中で、南無妙法蓮華経の師子吼を堂々と続けて宣言されているのです。
 「師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし」と仰せです。
 私たちがこれまで、幾度も拝し、心に刻んできた一節です。
 仏の大師子吼の前には、一切の獣は声を失います。太陽の仏法の前には、爾前権教の星の光は輝きを失います。
 同様に大聖人は、他の御書でも「此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし」(1489-15)と仰せです。
 この御文を通して牧口先生は、「ここに世界の人類が等しく渇望する所の無上最大の生活法、すなわち成仏の妙法が、誰にもたやすく解るようになった」と教えられました。これほどの宗教革命はありません。
 法華経を誹謗した当時の諸宗の教えは、譬えの通り、まさしく「星の光」です。さまざまな仏を賞讃し、仏の覚りを宣揚しても、それが、末法の衆生の成仏と関わりがなければ何の価値も生みません。
「人間のための宗教」の復権
 本当の仏の覚りとは、自分の中に見いだした宇宙大の尊極の可能性を、同時に万人に見いだすおとです。そして、万人の中にある可能性を引き出すことこそが、真実の仏の行動です。言うならば、民衆の成仏のために戦い続ける人が、本来の仏なのです。
 その仏法の大原則を忘れて、いかに人々が仏を敬っても、むしろ、自分を離れた「偉大な仏」におすがりし、願い事を頼むだけの宗教となってしまう。
 人間の尊極性を説いた仏教が、いつしか、人間を軽んずる宗教となってしまった。そうした謗法の宗教と戦われたのが、大聖人なのです。
 本来、仏教は、すべての人が仏であり、いかなる人間も偉大な存在であることを説き明かした「人間の宗教」です。私たちを離れた所に、宗教の「尊極なる世界」があるのではなく、「法」は自分の中にあることを徹底して説いた宗教です。そして、その極理は法華経の中に示されているのです。また、この尊極の生命を誰人もが現実のわが身に開く方途を示されたのが、大聖人の「人間のための仏法」です。
 まさに、大聖人の仏法は、人間軽視の百獣を打ち破る師子吼であり、人間の可能性を阻む無明の闇を照らす太陽の仏法です。大聖人によって、末法の民衆仏法が確立されたのです。
 「南無妙法蓮華経の声・出来しては師子と犬と日輪と星との光くらべのとし」との仰せに、“この仏法で一閻浮提の一切衆生を救わん”との大聖人の大確信が赫々と伝わってきます。
05                                        故に四衆とりどりにそねみ上
06 下同くにくむ讒人国に充満して奸人土に多し 故に劣を取りて勝をにくむ、 譬えば犬は勝れたり師子をば劣れり星
07 をば勝れ日輪をば劣るとそしるが如し・ 然る間邪見の悪名世上に流布し・ややもすれば讒訴し或は罵詈せられ或は
08 刀杖の難をかふる或は度度流罪にあたる、 五の巻の経文にすこしもたがはず、 さればなむだ左右の眼にうかび悦
09 び一身にあまれり。
-----―
 故に、四衆がそれぞれ日蓮をねたみ、上下こぞってにくむのである。讒言する者は国に充満し、また、奸人もその地に多い。故に劣った念仏を取り、勝れた南無妙法蓮華経の題目をにくむのである。譬えば犬は勝れて師子が劣り、星が勝れて太陽が劣ると誹るようなものである。それゆえ、日蓮は邪見のものであるとの悪名は世間に流布し、ややもすれば讒訴され、あるいは罵詈され、あるいは刀杖の難を蒙り、あるいは度々流罪に処された。法華経第五の巻・勧持品の経文に説かれた法華経の行者の姿と、少しも違うことがない。それゆえ、感涙は左右の眼にうかび、悦びが全身にあふれるのである。

増上慢との勢力との戦い
 あまりにも明快に万人成仏の道を開かれた大聖人に対して、増上慢の勢力が妬み、憎悪し、迫害した経緯が記されています。
  「我が智力叶わざるゆえに」増上慢の輩が大聖人を迫害する唯一の方法は、デマ・讒言です。「讒人国に充満して奸人土に多し故に劣を取りて勝をにくむ」とは、決して誇張された表現ではありません。
 大聖人は、生涯にわたって、真実の言論戦で仏法の正義を示されました。それに対して、迫害者は悪口や暴力を重ね、果ては讒言で権力を動かし、何ら根拠のない弾圧を企ててきました。「邪見の悪名」が流布し、「讒訴」「罵詈」「刀杖の難」「流罪」と、いずれも経文に説かれる通りの大難を受けられました。
 「五の巻の経文」には、法華経の提婆品第12から涌出品第15までが収められています。なかんずく、勧持品第13の「二十行の偈」を身読されたのは大聖人ただお一人です。
 悪世における正法流布は、増上慢の勢力との戦いです。
 しかし、不軽菩薩が最後まで礼拝行を続けた如く、大聖人はそれでも「対話」を貫かれました。仏法破壊の悪に対して厳然と言論戦の力で破折されたのです。ただただ、民衆の幸福を願われての行動でした。それどころか自分を迫害する者をも救っていくことを佐渡の地で宣言されています。
 そしてまた“日本の柱たらん”との誓願に生き抜き、経文を身読し、民衆救済の仏意を蘇らせた大聖人は、歓喜の心で戦われたことを門下に教えられています。「さればなむだ左右の眼にうかび悦び一身にあまれり」です。
 これが迫害につぐ迫害のなかでの大聖人の御境涯です。
 そして、この大聖人の御精神のままに、大難を受けきり、妙法流布に生き抜かれたのが牧口先生であり、戸田先生です。私たちは、広宣流布の勇者の直系の弟子であることに誇りをもって前進していきたい。堂々と「師子の声」を出して戦い、わが人生を勝ち飾っていきたい。
仏法対話は自他の生命の変革
 戸田先生は、「師子の子は打てば打つほど強くなり、たたけばたたくほど猛り立ってくる。そしてしまいには大師子王となって天下に大師子吼するのだ。学会は師子の子だ」とも教えてくださいました。
 仏法対話は、相手の生命の変革を促す実践であり、一人一人の仏性を薫発しゆく聖業であるがゆえに、大変な労作業です。人間の尊厳性を信じきれない、生命の「無明」を破る仏道修行であります。ゆえに、絶対に焦る必要はありません。下種自体に無量の善根があります。最高の功徳があります。どこまでも誠実に、粘り強く続けていくことです。
 根底に「師子王の心」を持ち、絶対の確信に立つ。そのうえで、相手を大きく包み込み、自分らしく、胸を張って、真心から自分の体験や感動を語れば、必ず、相手の仏性が発動します。私たちの仏性が、必ず、相手の仏性を開く仏縁となるのです。「仏種は縁によって起こる」からです。
 戸田先生は、「折伏はおだやかに」とも言われたことが有ります。当然、「おだやか」と「弱さ」は違います。どこまでも悠然と、確信をもって、明快に語ることです。それ自体が、立派な仏法対話です。信仰に生きる自分が輝いている姿を見せるだけでも、相手にとっての確かな下種となります。
 折伏の本質は「慈悲」です。これも戸田先生は仰せです。
 「大聖人の説得力は、単なる説得力ではない。根本が慈悲から発している説得力である。だから偉大なのである。我々には到底、そんなまねはできないが、辛抱強く戦って、理を尽くすことだ」
 そして、この「慈悲」に替わるものが「勇気」です。これが戸田先生の至言でした。
 私たちが、勇気によって、自身の胸中の「師子王の心」を取り出して師子吼すれば、必ず、相手の「師子王の心」を呼び覚ますことができるのです。
10   ここに衣は身をかくしがたく食は命をささへがたし、 例せば蘇武が胡国にありしに雪を食として命をたもつ、
11 伯夷は首陽山にすみし蕨ををりて身をたすく 父母にあらざれば誰か問うべき 三宝の御助にあらずんば・いかでか
12 一日片時も持つべき未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやし
13 くこそ候へ、 法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて 法華経の行者をば供養すべきよしを
14 説かれて候、 釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか、 竜女と申す女人は法華経にて仏に成り
15 て候へば末代に此の経を持ちまいらせん女人をまほらせ給うべきよし誓わせ給いし、 其の御ゆかりにて候か、 貴
16 し貴し。
17       弘安二年己卯三月二十六日                日蓮花押
18     松野殿後家尼御前御返事
-----―
 ここ身延での生活は、衣服は身を包むに足りず、食料も乏しくて命を支えることが困難な状態である。例えば蘇武が胡国に捕えられた時に、雪を食べて命を保ち、伯夷が首陽山に隠棲していた時に蕨を採ってやっと身を保つたのと同じ有り様である。この身延の山中に父母でなければ、誰が訪ねる人があろうか。三宝の加護ででもなければ、どうして一日方時も我が命を持つことができようか。末だお会いしたこともないのに、このように、度度使いをもってお訪ね下さるのは、いかなることかと不思議に思えてなれない。法華経の第四の巻法師品には、釈迦仏が凡夫の身に入り替わられて、法華経の行者を供養することが説かれている。釈迦仏があなたの御身に入られたのか、また、尼御前の過去に積まれた善根がらわれてのことであろうか。 
 竜女という女人は、法華経で成仏されたのであるから、末法にこの法華経を持つ女性を守護することを誓われた。あなたは、そのゆかりの人であろうか。まことに貴いことである、貴いことである。
       弘安二年己卯三月二十六日                日蓮花押
     松野殿後家尼御前御返事

どこまでも一人を大切に
 末法の御本仏としての大闘争と大慈悲を教えられた後、大聖人は、こまやかに尼御前を激励されていきます。
 今、目の前の門下を最大に励ますこと。大聖人の御書は、全編に人間主義が満ちあふれています。
 まず大聖人は、衣服も不足がちで食にも困窮している現状を紹介して、いかに、門下の御供養が大聖人を支えているか、深く感謝されています。
 しかも、たびたび御供養をしている尼御前は、一度も大聖人と直接お会いしたことのない門下です。
 尼御前に限らず、今日、御書に残っていない、そうした門下も数多くいたことと思います。不惜の信仰を貫き通した熱原の三烈士もそうでしょう。信心は距離ではありません。大切なのは「心」せす。
 大聖人は、尼御前の誠実な心を深く御覧になったのです。法華経法師品第10に触れて“まことに不思議なことです。釈迦仏があなたの身に入られたのか。あるいは過去の善根があらわれてのことでしょうか”と仰せです。牧口先生も、御書の中でこの一節に強く線を引かれています。
 さらに大聖人は、尼御前に対して“あなたは竜女ゆかりの女性か”とも賞讃されています。一人の竜女の成仏が末法万代の女性の幸福を約束しました。 同じように大聖人の門下が一人立ち上がることが、後々までの多くの人々の成仏の模範となります。
 大聖人は池上兄弟の夫人たちに、「竜女が跡をつぎ 末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし」(1088-13)と仰せです。
 「未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」(1086-08)です。一人の体験談が、未来までの広宣流布の物語になります。妙法に縁して立ち上がった人は、皆、仏に遣わされ、仏の仕事を果たす、仏の使いです。次元を変えて言えば、皆、久遠以来の地涌の菩薩です。
一人一人が「宿福深厚」
 大聖人は、門下一人一人に、「宿習」「宿縁」を強調されます。法華経でも、さきほどの浮木の譬えを受けて、仏法に巡り合うことは「宿福深厚」のゆえであると説いています。私たちで言えば、自身の仏界に目覚め、広布の陣列の中にいる人は、誰人も、仏と同じ慈悲の生命を持ち、地涌の使命を果たしているのです。
 一人たりとも、尊極な存在でないひとじゃいない。仏法は、人間の尊厳性を一人一人が自分の身に実現していくための教えです。この人間主義の仏法を今、世界に弘めているのが、私たち創価学会の仏勅の使命です。
 最後に冒頭で紹介した戸田先生の総会での御指導の続きを確認します。
 「このようなつまらぬ凡身に仏を感応することができる大果報を喜ぶとともに、人々にもこの喜びをわけて、仏の国土を清めなくてはならない。当然のことでございます。この当然の行為は、すなわち、われわれをして仏の使いからつかわされたものとして、慈悲の袋に救いの源泉をつつんで人々にあたえること、これを折伏というのであります。折伏こそ学会の使命であり、信条であるのであります。
 私には、この恩師の心が今もなお胸中から離れません。「心から痛快だった。楽しかった」と感じてやまない、わが使命の人生を、共々に生き抜いていきましょう!。
    わが同志の方々の
    日々の獅子奮迅の対話に
    深く感謝して 

1394~1394    松野殿女房御返事top
1394
松野殿女房御返事
01   麦一箱・いゑのいも一篭・うり一篭・旁の物六月三日に給候しを今まで御返事申し候はざりし事恐れ入つて候、
02 此の身延の沢と申す処は甲斐の国の飯井野・御牧・波木井の三箇郷の内・波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候、 北
03 には身延の嶽・天をいただき南には鷹取が嶽・ 雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ西には又峨峨として大山
04 つづきて・しらねの嶽にわたれり、マシラのなく音天に響き蝉のさゑづり地にみてり、天竺の霊山此の処に来れり唐
05 土の天台山親りここに見る、 我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、 まかる・まかる昼夜に法華経
06 をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず。
-----―
 麦一箱、里芋一籠、瓜一籠等いろいろの物、六月三日にちょうだいしたにもかかわらず、今日まで御返事も差し上げなかったことは恐縮のいたりである。
 今住んでいるこの身延の沢というところは、甲斐の国の、波木井実長の領地である飯井野・御牧・波木井の三つの郷のうち、波木井の郷の北西の隅にあたっている。北方には身延の嶽が天に達し、南方には鷹取が嶽が雲に続き、東方には天子の嶽が太陽と高さを同じくしており、西方にもまた嶮しく聳え立つ大山が列なっていて、白根の嶽にとつづいている。猿の泣く声は天に響き、蝉のさえずりは大地に満ちている。天竺の霊鷲山がこの身延山に現われたようであり、唐土の天台山をまのあたりに見るようである。日蓮の身は釈迦仏でもなければ、天台大師でもないが、来る日も来る日も、昼夜に釈尊所説の法華経を読み、朝暮に天台大師所説の摩訶止観を談ずるのであるから、この身延の沢は、法華経説法の霊山浄土にも相似ており、天台修行の地・天台山にも異なることのない法華経の説所である。
-----―
07   但し有待の依身なれば著ざれば風・身にしみ・食ざれば命持ちがたし、灯に油をつがず火に薪を加へざるが如し
08 命いかでかつぐべきやらん、 命続がたく・つぐべき力絶えては、或は一日乃至・五日既に法華経読誦の音も絶えぬ
09 べし止観のまどの前には草しげりなん、 かくの如く候にいかにして思い寄らせ給いぬらん、 兎は経行の者を供養
10 せしかば天帝哀みをなして月の中にをかせ給いぬ・今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。
-----―
 しかし、日蓮は凡夫僧の身であるので、衣を着なければ風が身にしみて寒く、また食べなければ命を持ちがたい。それはまさに、灯に油をつがず、火を燃やすに薪を加えないようなもので、どうして命をつなぐことができようか。命が続ぎがたく、しかも続ぐべき力となる食料が絶えてしまっては、あるいは一日から五日と続くと、法華経を読誦する声も絶えてしまうであろう。止観修行の窓の前には雑草が繁り放題となるであろう。このように過ごしている状態を、どのようにしてお気づき下されたのであろうか。あなたの御供養の厚志、まことにありがたい。
 昔、兎が経行をしている者に自分の身体を焼いて供養したので、帝釈天はこれを哀れと思って月の中に兎をおかれたのである。そのために、今、天を仰ぎみるとき、月の中に兎を見るというのである。
-----―
11   されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、 梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合
12 わせてをがませ給ひ地神は御足をいただきて 喜び釈迦仏は霊山より御手をのべて 御頂をなでさせ給うらん、 南
13 無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
14       弘安二年己卯六月二十日                        日蓮花押
15     松野殿女房御返事
-----―
 したがって、女性の身でありながら、このような濁悪の末法に法華経を供養されたことは、必ずや大梵天王も天眼をもって御覧になり、帝釈天は掌を合わせて礼拝し、地神はあなたの御足を敬って喜び、さらに釈迦仏は霊山浄土から御手をさしのべられて、あなたの頂をなでられるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
  弘安二年己卯六月二十日    日 蓮 花 押
   松野殿女房御返事

いゑのいも
 里芋のこと。
―――
飯井野
 山梨県中巨摩郡にあった村。現在の南アルプス市飯野。
―――
御牧
 山梨県中巨摩郡にあった村。現在の南アルプス市御牧。
―――
波木井
 山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。
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峨峨
 山が高く険しいさまを示す語。
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天竺の霊山
 天竺はインド。霊山は霊鷲山の略。釈尊在世中の中インド摩竭堤国の首都・王舎城の丑寅の方角にあった山の名。梵語では耆闍崛山という。釈尊が、出世の本懐である法華経を説いたのがこの山であったので、霊山浄土ともいい、仏国土を意味する。
―――
唐土の天台山
 唐土は中国。天台山は浙江省台州市天台県にある山。名称の由来に諸説あるが、その地の分野が天の三台星に応ずるところから天台山と名づけたといい、また山が高くて登ると天にとどくばかりであるから、天梯山といったのが転じて天台山になったともいわれている。洞栢、仏隴、赤城、瀑布などの諸峰からなり、最高峰は標高1136㍍の華頂峰。道教の仙郷としても知られたが、三国呉の赤烏年間(0238~0251)にすでに仏寺が創建されたという伝承もある。
―――
天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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摩訶止観
 『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。
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有待
 ①他によって存在する相対、差別、無上の世界。とくに、有限ではかない人間という存在をいう。 
 ②初心の行者をいう。初心の行者は供養を待って仏道を成就するゆえである。
 ここでは②の意を転じて凡夫僧の意。すなわち、大聖人ご自身、凡夫僧であり、供養を待って仏道を成就する者であると、へりくだって述べられているのである。
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依身
 衆生の身体をいう。身は心の依りどころであるから依身という。ここでは大聖人の身体をいう。
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経行の者
 経行とは一定場所を歩いて往復すること。体調を整え、心を落ち着けるために行う一種の運動法仏及び仏弟子が、つねにこれをなしていたとある。
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梵王
 梵天のこと。サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。
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天眼
 五眼のひとつ。神々の目。昼夜遠近を問わず見えるという。③
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帝釈
 帝釈天のこと。帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
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地神
 大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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 本抄は松野六郎左衛門入道の息子・六郎左衛門尉の妻に与えられた御書である。
 はじめに、身延まで、御供養を、はるばるとたずさえてきたことに対して謝意を述べ、つづいて、嶮しい山々に囲まれた身延の沢の様子を細々と記されている。そして、大聖人こそ末法の法華経の行者であることを明かされている。したがって大聖人の住するこの深山の隠棲の地を、インドの霊鷲山、また中国の天台山をまのあたりにみるようだと仰せられているのである。
 次に身延における御自身の生活の窮状を述べられ、御供養によって、法華経の行者の生命をつなぐものは、法華経守護の諸天善神の加護を得ること、また教主釈尊の称賛するところであるということを、大唐西域記にある行者と兎の例を引いて教えられている。
我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず
 大聖人は、謙遜されて、一往は「我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども」と申されているが、御本仏としての境涯は、伊豆・伊東および佐渡の流罪、竜の口の頸の座の難等々、すでに経文を身読されて立証されている。
「まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず」との御文であるが、インドの霊山は釈尊が法華経を説法した場所であり、中国の天台山は、天台の止観修行の道場である。それに対して、大聖人は、昼夜に釈尊所説の法華経を読み、朝暮に絶えず天台大師の摩訶止観を講じているのであるから、この身延の沢こそ、霊山浄土にも等しく、天台山と異なるところはないと、仰せである。
 だがこれは一往であって、再往これを見るならば、日蓮大聖人は末法の御本仏である。御義口伝に「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0751-第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事-04)と。御本仏おわしますところ、これは皆、聖地であり、霊山浄土に異ならないのである。御義口伝(0753)にいわく「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云」(0753-第十四時我及衆僧倶出霊鷲山の事-06)と。
 また、大聖人は仏国土について次のようにも述べられている。
 四条金吾殿御消息に「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。神力品に云く『若しは林中に於ても、若しは園中に於ても、若しは山谷曠野に於ても、是の中に乃至般涅槃したもう』とは是か」(1113-09)と。
 すなわち、大聖人が説法され、御振舞いになられたところ、また、仏の境地を開かれた場所ことごとく仏国土であるとの仰せである。したがって、身延の沢にあっても、大聖人すなわち御本尊の在所ならば、インドの霊山、中国の天台山に、勝るとも劣ることのないところであり、仏国土なのである。
兎は経行の者を供養せしかば天帝哀みをなして月の中にをかせ給いぬ・今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり
 これについては、大唐西域記に、大要次のように記されている。
「劫初に烈士池の西の豊かに茂る林野に狐と兎と猨とがおり、仲がよかった。そこに一老夫に身を変じた帝釈がきて、を忘れてこのように遠方まできてしまい、今にも飢え死にそうであると、三獣に食料を請うた。三獣は、林の中にそれぞれ食料を求めて走り入り、狐は鮮鯉を、猿は林樹の華菓を採ってきて、老夫にすすめた。ただ、兎のみがなにも得ずに空手で帰ってきた。老夫より重ねて請われた兎は、狐と猨に樵蘇をあつめることをたのんだ。狐と猨は競いあって、草をひき、木をきって、これを集積し、火をつけた。兎は『わが身は卑劣であり求めても遂げ難いので、この身を一餮にあてん』といって、燃えさかる火中に身を投じた。そのとき、老父は帝釈の身に復して燼を除き骸を収め、その心を感じて、これを月輪に寄せて後世に伝えた、ゆえに月中の兎のごとく見える影はこのことからである」と。
 なお、兎の話は、他に六度集経仏説四姓経、撰集百縁経出世菩薩品等にみられるが、これらには月についてのことは説かれていない。
 この譬えは、生命を捨てて供養した兎の例を引いて、御供養の功徳がいかに大きいかを述べているのである。
 御供養の重要性と、その功徳についての御書は数多い。本抄も、松野殿の女房が真心こめて御供養した品々が、灯に油をつぎ、火に薪を加えたと同じように、末法の御本仏日蓮大聖人が日々法華経を読み、止観を講義されて、令法久住と民衆救済に全魂を打ち込んで戦われる、その偉大な原動力となっていることを述べられ、故に、その功徳がいかに大きいかを教えられているのである。
 供養とは、梵語の訳で供施・供給ともいう。供給奉養の意義がある。仏や法に対して報恩のため、真心をつくして奉ずることを御供養というのである。
 二種供養、三種供養、三業供養、四事供養、四種供養、五種供養、十種供養、事理供養等、古来から供養については多く説かれている。そのなかでも末法において、大事な供養は、二種供養、三業供養、事理供養である。
 二種供養とは、財供養と法供養である。財供養とは、末法の御本仏たる日蓮大聖人御在世中、本抄のように、佐渡や身延などに食物や衣服などを奉ったのがこれにあたる。
 供養とは、仏の所説のごとく正法をひろめ、民衆救済の一助のになうのが、これである。末法の時にかなった法供養とは、折伏である。すなわち、心なき人々の悪口や誹謗の中を忍辱の鎧を着て、折伏行にひたすら励んでいるわれわれこそ、まことの法供養を行なっているといえよう。
 三業供養とは、天台の文句に説かれており、身口意の三業での供養である。
 また事供養、理供養は、一往は雪山童子や薬王菩薩等が生命を投げ出して仏道修行したのが事供養であり、凡夫の観心の法門による供養は理供養としている。すなわち、凡夫が、真心の供養をすることが、身の皮をはぎ、身命をなげうつことに原理において変わりはないということである。
 白米一俵御書に「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596-14)とある。
 だがいかなる供養も、正法を根本にしなくてはならない。御本尊に対する供養にいっさいの供養は含まれるのである。 

1395~1395    松野殿女房御返事(仏身懐胎抄)top
1395
松野殿女房御返事
01   白米一斗.芋一駄.梨子一篭・名荷・はじかみ.枝大豆.ゑびね旁の物給び候ぬ、濁れる水には月住まず枯たる木に
02 は鳥なし、心なき女人の身には仏住み給はず、 法華経を持つ女人は澄める水の如し釈迦仏の月宿らせ給う、 譬へ
03 ば女人の懐み始めたるには吾身には覚えねども、 月漸く重なり日も屡過ぐれば初にはさかと疑ひ 後には一定と思
04 ふ、心ある女人はをのこごをんなをも知るなり 法華経の法門も亦かくの如し、 南無妙法蓮華経と心に信じぬれば
05 心を宿として釈迦仏懐まれ給う、 始はしらねども漸く月重なれば心の仏・ 夢に見え悦こばしき心漸く出来し候べ
06 し、法門多しといへども止め候、 法華経は初は信ずる様なれども後遂る事かたし、 譬へば水の風にうごき花の色
07 の露に移るが如し、 何として今までは持たせ給うぞ是・ 偏へに前生の功力の上・釈迦仏の護り給うか、たのもし
08 し・たのもしし、委くは甲斐殿申すべし。
09       九月一日                      日 蓮 花 押
10     松野殿女房御返事
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 白米一斗、芋一駄、梨子一籠、茗荷、しょうが、枝豆、わさびなどいろいろの物をちょうだいしました。
 濁っている水には月影が映らない。また、枯れた木には鳥は巣を作らない。同じように、信心のない女性の身には仏は住まわれないのです。法華経を持つ女人は澄んだ水のようであり、釈迦仏という月影を映すのです。譬えば、女性が懐妊したばかりでは、始めは、自分自身でも気づかないが、月が次第に重なって、日も次第に経過すると、初めはそうであろうかと疑っていたのが、後には間違いないと思う。また、心得のある女性は胎児が男の子か女の子かも予知するのです。法華経の法門もまたそれと同じようなものです。南無妙法蓮華経を心に深く信じるならば、その心を宿として釈迦仏は宿られるのです。それも、始めは気づかないが、だんだん月が重なれば、心中に宿った仏が夢のように見えるようになり、喜悦の心が次第に出てくるのです。法門は多いが、これで止めておきます。
 法華経は初めは信ずるようであっても、最後まで信心を貫きとおすことは難しい。譬えば、水が風によって動き、花の色は露によって移るようなものです。このように全てが移ろいやすいのにあなたはどのようにして今日まで持ちつづけられたのであろうか。これはひとえに前生において積まれた功徳の上に、釈迦仏があなたを護られているからでありましょうか。まことにたのもしいことです、たのもしいことです。委しくは、甲斐殿に申しておきますのでお聞きなさい。
  九月一日            日 蓮  花 押
   松野殿女房御返事

はじかみ
 一般にはショウガのことをいうが、山椒をさす場合もある。
―――
ゑびね
 わさびのこと。
―――
甲斐殿
 蓮華阿闍梨日持(にちじ)のこと。六老僧の一人である。建長2年(1250)松野六郎左衛門入道の次男として生まれた。幼くして出家し、駿河国蒲原荘四十九院に上がり、ここで日興上人のもとに従って甲斐公と呼び名された。
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 本抄は弘安3(1280)9月1日の御述作で、松野六郎左衛門尉の女房の御供養に対する返礼とともに、信心修行の要諦を指導された御書である。
 法華経にいたり女人成仏が明かされているが、権経・方便の教えに執着し、生命の濁っている者の成仏は叶わない。法華経を純真に信受する者の清らかな生命にこそ、仏は住するのであり、成仏することができると懐妊の譬えをもって説かれている。さらに、信心を堅固に持ち続けることこそ、仏道修行の要中の要であると指導されている。
法華経は初めは信ずる様なれども後遂る事かたし
 法華経とは、末法今時においては三大秘法の御本尊であり、この御本尊を持つことは、初めは信ずるようであるが、最後まで信心を全うすることは難しい。この文は初心を持ち続け、信仰を貫きとおすことが至難であることを説かれ、信心の厳しさを教えられているのである。
 大聖人は人の心が変わりやすく、初心を貫きとおすことがいかに難かしいかを述べられている。
 「譬へば水の風にうごき花の色の露に移るが如し」と人の心が変わりやすいことを水と花の色に譬えられているが、実に定まらないのは人の心の動きであろう。水が風に吹かれてゆれ動く。風が強ければ、水面のざわめきは大きく、また、わずかにそよぐ風にも水面は敏感に応じて、さざ波をたてる。水が、このように、風の強弱に応じて微妙に反応を示すように、人間の心も外界との接触を縁として複雑に変化するものである。
 また、花の色は朝露を重ねるごとに日々変化してゆく。花が朝露を一日、二日ないし数日宿し、やがて色あせて朽ちてゆく風情は、時の流れに人の心が一所にとどまらず変化してゆく姿に似ている。
 まことに、われわれの日常生活における心の状態を直視するならば、一瞬として同じところにとどまることがない。心は縁によって絶えまなく変化している。
 したがって、初心を貫きとおすこと、ましてこの仏法を一生涯信仰しぬくということは、非常にむずかしいことである。つまるところ、初心を貫きとおせるか否かは、それぞれの決意、すなわち信心の厚薄浅深にかかっているといえる。
 ところで、当時は念仏・真言等の邪宗教が根強くあらゆる階層の人々にくいこんでおり、まわりの人々の反対や誹謗はもちろんのこと、仏法の正邪をわきまえない権力者は、自己の持つ権力にまかせ、折あらば大聖人をはじめ弟子方にも弾圧を加えようという険しい世相であった。大聖人の門下の多くは、中・下の階層に属する武士であったと思われる。当時の武士は、主家が信心反対であると、領地を減らされたり、没収されたりして、収入の途を断ち切られ、非常な苦境に立たされたのである。農民や庶民にいたっては権力者の手に生活権等のいっさいを握られており、全く弱い立場にあった。したがって、信心を堅固に貫きとおすには、大変な勇気と決意が必要であった。
 本抄のお認めは、弘安3年(1280)であるから、熱原の法難は一応治まりつつあったが、まだまだ余燼がくすぶっており、大進房、三位房のように信心弱く目先のことに負けて退転した者もいたのである。しかし、いかなる弾圧をも、ものともせずに、南条時光のように命がけで外護の任を立派に果たし、大聖人より「上野賢人殿」との称号を賜わり、後世までも信心の鏡とたたえられた人もいることを思うと、信仰の厚薄は、各個人の胸中の一念によることを強く感ずるのである。
 また、大聖人の高弟としてお側近くに修学し、中核であった五老僧が、大聖人滅後、たちまちに正義に違背し、謗法に堕した姿は、まことに悲しむべきことではあるが、「初めは信ずる様なれども後遂る事かたし」の御文をまさに実証している。
 所詮、法門をどのように理解しようとも、法華経を信ずる一念がなければ、真に信仰を全うすることはできないのである。大聖人より直々に教えを受け、長年にわたって実践し修行をつんでもこの有様である。いかに信心をやりとげることが難しいかを感ずる。入信の動機は各人によって千差万別であり、御本尊受持への決意もまちまちである。それだけに、初心の完遂はなお困難といえる。
 剣道の世界でも華道の世界でも、またいかなる仕事においても中途半端では、その人の力量、成果とはならない。信仰の世界も決して特別なものではない。水の流れのごときたゆみなき自己の練磨が、妙法の大道に生き、人生と社会に勝利の証を示していく根源なのである。

1396~1396    松野尼御前御返事top
1396
松野尼御前御返
01   日本国の人には・にくまれ候ぬ、みちふみわくる人も候はぬに・をもいよらせ給いての御心ざし、石の中の火の
02 ごとし火の中の蓮のごとし、ありがたしありがたし、恐恐。
03       正月二十一日                  日 蓮 在 御 判
04     松の尼御前御返事
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 日蓮は日本国の人に憎まれております。この身延の山中は、道を踏みわけて訪ねてくれる人もいないのに、山中の不便な生活を思いやられてあなたの御志は、石の中の火のように、また、火中の蓮のようなものです。まことにありがたいことと存じます。恐恐。
       正月二十一日                  日 蓮 在 御 判
     松の尼御前御返事

石の中の火のごとし火の中の蓮のごとし
 信じがたいことを意味する。
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 本抄は、年号が記されていないので、いずれの年の正月21日ともわからない。宛名の松野尼御前については、松野六郎左衛門入道の妻か、子息の六郎左衛門尉の妻か、判明しないが、尼御前とあるところから、おそらく六郎座衛門入道の妻、すなわち後家尼であろうと思われる。弘安2年(1279)3月26日松野殿後家尼御前御返事に「未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやしくこそ候へ」(1393-12)とあるように、この時も使いを通じて御供養を奉った後家尼に対し、当時の状況からことのほか大聖人が喜ばれたと拝することができる。
 御文全体は極めて短いものであるが、大聖人の万感の思いが込められている。「日本国の人には・にくまれ候ぬ」とあるように、過去20数年にわたる大聖人に対する世間の迫害は、隠棲の地、身延にあっても少しもやむことはなかった。しかし大聖人の御心境は、妙心尼御前御返事に「日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり」(1480-11)とあるごとく世間の反感・迫害を超越したものであった。
 そのうえ、身延は交通の不便をきわまた地で「みちふみわくる人も候はぬ」といわれるように、人の往来も稀であった。夏でも身延の地は「このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間.山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ」(1551-04)と嶮しい山地であったから厳冬のころは全く人の途絶えたところであろう。弘安元年(1278)11月の兵衛志殿御返事には「このはきゐは法にすぎて・かんじ候、ふるきをきなどもにとひ候へば八十・九十・一百になる者の物語り候は・すべて・いにしへ・これほどさむき事候はず、此のあんじちより四方の山の外・十町・二十町・人かよう事候はねば・しり候はず、きんぺん一町のほどは・ゆき一丈二丈五尺等なり」(1098-08)とあり、本抄は正月であるからさらに雪は深く寒さも厳しかったと思われる。山中深く訪ね入るのはまず至難のことといわねばならない。先の日本国中の反対といい、人も通わぬ深山といい、そうした状況のなか、大聖人に御供養奉った松野尼御前の信心はまことに健気なものというべきである。
 「石の中の火のごとし火の中の蓮のごとし、ありがたしありがたし」とはそうした松野殿尼御前の真心に対する大聖人の讃辞であり、未来の成仏を約束された大慈悲心と拝するのである。

1396~1397    浄眼御消息top
1396:01~1397:05 第一章 法華経の行者と第六天魔王の関係top
浄蔵浄眼御消
01   きごめの俵一・瓜篭一・根芋品品の物給い候畢んぬ、楽徳と名付けける長者に身を入れて我が身も妻も子も夜も
02 昼も責め遣はれける者が、 余りに責められ堪えがたさに隠れて他国に行きて其の国の大王に官仕へける程に・ き
03 りものに成りて関白と成りぬ、 後に其の国を力として我が本の主の国を打ち取りぬ、 其の時本の主・此の関白を
04 見て大に怖れ前に悪く当りぬるを悔ひかへして 官仕へ様様の財を引きける、 前に負けぬる物の事は思ひもよらず
05 今は只命のいきん事をはげむ、法華経も又斯の如く法華経は東方の薬師仏の主・南方・西方・北方・上下の一切の仏
06 の主なり、 釈迦仏等の仏の法華経の文字を敬ひ給ふことは民の王を恐れ星の月を敬ふが如し、 然るに我等衆生は
07 第六天の魔王の相伝の者・地獄・餓鬼・畜生等に押し篭められて気もつかず朝夕獄卒を付けて責むる程に、 兎角し
08 て法華経に懸り付きぬれば 釈迦仏等の十方の仏の御子とせさせ給へば、 梵王・帝釈だにも恐れて寄り付かず何に
1397
01 況や第六天の魔王をや、 魔王は前には主なりしかども今は敬ひ畏れて、 あしうせば法華経・十方の諸仏の御見参
02 にあしうや入らんずらんと恐れ畏て供養をなすなり、 何にしても六道の一切衆生をば法華経へ・つけじと・はげむ
03 なり、 然るに何なる事にや・をはすらん皆人の憎み候日蓮を不便とおぼして、 かく遥遥と山中へ種種の物送りた
04 び候事一度二度ならず、 ただごとにあらず偏へに釈迦仏の入り替らせ給へるか、 又をくれさせ給ひける御君達の
05 御仏にならせ給いて父母を導かんために御心に入り替らせ給へるか。
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 生米一俵、瓜一籠、根芋等の品々をいただきました。
 昔、楽徳という名の長者のもとに身を入れて、自分はもちろんのこと、妻も子も、昼夜にわたって責め遣われていた者があった。あまりに責められ、その苦しさに堪えられずに、秘かに逃げて他国へ行き、その国の大王に宮仕えしているうちに、王から用いられ、王の権臣となって、ついには関白になった。その後、その国の力によって、自分の本の主君の国を打ち破った。そのとき、本の主君・楽徳は、この関白を見て大いに怖れ、前にひどく当たって責めたてたのを後悔して、その関白に仕え、さらにいろいろの財宝までも奉った。そして、前に負けてしまったときのことなどうらみに思うどころか、今は、ただ命が無事であることのみを願うというありさまであった。法華経もまた、これと同じで、法華経は東方の薬師仏の主であり、南方・西方・北方・上下の一切の仏の主である。ゆえに釈迦仏等の一切の仏が法華経の文字を敬うことは、民衆が王を恐れ、星が月を敬うようなものである。
 ところが、われら衆生は第六天の魔王の相伝の者で、魔王のために地獄・餓鬼・畜生等の三悪道の境涯に押し籠められて、息をつく間もなく、日夜、獄卒に責めたてられているのである。だが、何とかして法華経のもとにたどりつけば、釈迦仏等の十方の仏が我が子となさるのであるから、梵王や帝釈でさえも恐れて寄りつかない。まして、第六天の魔王は、全く恐れをなして、手出しはできないのである。魔王は、衆生が法華経を信受する以前は主であったが、法華経を持った今は、われら衆生を敬い畏れて、もし、われらに悪く当たるならば、法華経・十方の諸仏との御見参のおりに、自分の立場が悪くなるであろうと、恐れかしこみて供養するのである。ゆえに、どんなことをしても、六道の一切衆生を法華経につかせまいとして懸命に邪魔をするのである。
 そのような魔王の働きにもかかわらず、どうしたことであろうか、あなたは、人々が皆、憎んでいる日蓮をあわれと思われて、このようにはるばると、身延の山中へ種々の物を送って下さったこと、一度や二度のことではない。とうてい普通のこととは思えない。
 ひとえに、釈迦仏があなたの身に入り替わられたのであろうか。または、亡くなられたご子息が仏になられて、父母を仏道に導くために、あなた方の身に入れ替わられたのであろうか。

きごめ
 玄米のこと。「くろごめ」ともいい、籾殻をとり去ったままの、まだ搗いていない米。
―――
東方の薬師仏
 詳しくは薬師琉璃光如来という。東方の浄瑠璃世界の教主である仏。薬師経に説かれる。菩薩道を行じていた時に12の大願を発し、病苦を取り除くなどの現世利益をもたらそうと誓っている。日本天台宗では比叡山延暦寺の根本中堂の本尊とされる。
―――
第六天の魔王
 欲界の第六天にいる他化自在天のこと。欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。
―――
梵天
 サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。
―――
帝釈
 帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
―――
見参
 対面、出会いの謙称。お目にかかること
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六道
 十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界。古代インドの世界観で、衆生が生存する6種の領域をいう。凡夫は迷いに満ちたこの六道で生死を繰り返すとされる。これを六道輪廻という。輪廻からの脱却を解脱といい、これは古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。仏教では、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えでは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。そして、むしろ仏道を学び修行することによってこそ解脱できると説かれる。六道のうち地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道といい、これに対し修羅・人・天を三善道という。また、三悪道に修羅を加えて四悪趣という。修羅を除いて五趣という。
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御君達
 ①諸王。②親王。③摂家。
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 本抄は、弘安3年(1280)7月7日のお手紙であるが、誰に与えられたか明らかではない。一説によれば松野六郎左衛門尉であるといい、また他の説では新池左衛門尉に与えられたものではないかともいわれている。
 松野六郎左衛門尉に与えられたとするのは、本文中に「甲斐公が語りしは常の人よりも・みめ形も勝れて候し上・心も直くて智慧賢く……」とあり、甲斐公日持が、このお手紙を与えられた人の子息の生前の面影をかたっているところから、日持の兄である松野六郎左衛門尉に与えられたとするのが自然であろうという理由による。本抄によると、松野六郎左衛門尉は、子息の死去したことによって道心をおこし、信心に励むようになったようである。
 はじめに楽徳長者の故事を引いて、法華経の行者には第六天の魔王さえも恐れ畏みて仕えることを述べられている。また人々の反対のなかで信心強盛に励むことは、釈迦仏が身に入り替わられたのか、それとも亡くなった子息があなたの信心を励ましているのであろうかと、心から喜ばれている。
釈迦仏等の仏の法華経の文字を敬ひ給ふことは民の王を恐れ星の月を敬ふが如し
 法華経が諸経の中で最も勝れ、釈尊を初めとして三世十方の諸仏は、すべて法華経によって成仏したことを明らかにした文である。
 ここでいう法華経は、文底下種の南無妙法蓮華経のことであって、釈尊の説いた法華経二十八品のことではない。釈尊の法華経と文底下種の南無妙法蓮華経を比較するならば、天地雲泥の相違がある。本因妙抄に「仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり、彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり、理即・短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり」(0874-01)とある。
 故に「釈迦仏等」が敬った「法華経の文字」は南無妙法蓮華経のことであることは明らかである。その敬う態度は、ちょうど、「民の王を恐れ星の月を敬ふが如し」であると仰せなのである。
然るに我等衆生は第六天の魔王の相伝の者
 「第六天の魔王の相伝」の「相伝」の文字に心を留めたい。相伝とは、師より弟子に法を伝えることである。われら衆生が、第六天の魔王の相伝を受けているとは、みな悉く、魔王の弟子であるということである。
 魔とは、決して、観念的な空想のものではなく、厳然たる生命の一実体である。調和の逆の破壊作用であり、幸福、平和を奪う、狂気の根源である。
 魔の相伝を受けた人は、一切のコースが、破壊へ、不孝へと向かうのである。生命の相伝であるがゆえに、その生命の変革をなさない限り、いずこであれ、生命の方向を動かすことはできない。
 この娑婆世界は、たえず殺戮と坑争に明け暮れてきた。誰人とて、幸福を願い、平和を希求する心に、変わりはあるまい。しかし、人間のエゴの奥深くにうごめく、生命の魔性に、個人も、社会も、全世界も支配されてしまっている。この生命の奥深くに挑戦したのが仏法である。
 魔の相伝を仏の相伝に変えるのが、妙法の人間革命である。この生命の本源の変革以外に、人類の宿命転換の道はあるまい。
 なお、魔が仏を恐れ、仏法を持った人には、むしろこの人のために働くようになることが説かれているが、これは、仏法によって、魔をも、幸福へ動き働かせる、強き人間主体を確立できることを意味する。
 釈尊にとって、提婆達多は、仏の偉大さを証明する以外の存在ではなかった。大聖人にとって、平左衛門尉、極楽寺良観等は、末法の御本仏を証明し、正法を輝かす以外のものではなかった。
 現代においても、法理は同じである。広宣流布という未聞の革命の道は、三界の魔を、より強き仏界によって屈服せしめていく生命変革の偉業であり、本来、不幸に働くものさえ、その偉業を光輝あらしめるために働いていくのである。
梵王・帝釈について
 初禅天の第三に大梵天があり、この大梵天には娑婆世界の主たる大梵天王がいる。大梵天王は色界諸天の総大将である。
 帝釈は、釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいい能天帝と訳す。欲界第二の忉利天の主として須弥山の頂の喜見城に住し、他の三十二天を統領する。梵天・帝釈ともに法華経の会座で法華経の行者の守護を誓っている。
 この梵天、帝釈は、もともとインド・アーリア民族の神で、梵天はブラフマーといい、ヒンズー教の神であり、帝釈はインドラ神という。アーリア民族はヨーロッパ系民族と同じ祖先を持つ民族であり、その民族の神が諸天善神として御本尊の中に認められているのは、日蓮大聖人の仏法が単に日本一国にとどまらず、ヨーロッパをも含めて全世界の人々を救いきっていく世界宗教としての性格を具えている証左といえる。
 釈尊はこの梵天、帝釈を、己心の梵天・帝釈として用いたのであって、どこかの国に存在したり、形としてあるものではない。諸天善神そのものは生命の、ある働きに名づけられたものである。その働きとは、われわれの生活・生命を守る働きである。梵天の梵は清浄、寂静、離欲等の義であり、また婬欲を離れた色界諸天の通名であり、なにものにも染まらない清浄にして潔癖な生命の働きである。五濁悪世の現代にあって、生命を浄化し、さわやかな生命活動を展開していく清浄な生命を梵天ということができるであろう。また帝釈の帝とは主と訳し、釈は有力、あるいは勇決の義で、仏法の正義を守るために、悪の勢力と勇猛果敢に戦う力であり、勇気をもって、不幸に苦しむ民衆を救いきっていく力を帝釈ということができる。
 この働きは、個人個人の生命自体に備わっていると同時に、国土、大宇宙という生命体の具備する生命活動でもある。ゆえに治病抄に「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ」(0997-07)と仰せになっているのである。
 「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ」とは、大御本尊を信受するなら、われわれの己心の梵天・帝釈が活発に働き、そのことにより生活が護られ、事故なく平和な日々を送ることができるということである。このことは、また、大勢の人が、題目を供養すれば、宇宙の梵天・帝釈が働き、国土、民族等いっさいが護られるということにも通ずるのである。逆に大御本尊を信ずるものが少なければ南無妙法蓮華経の題目がないために諸天の力が発揮できず、民衆は不幸な生活を余儀なくされるのである。諸天の力が弱まっていくことは、それだけこんどは悪鬼、魔神の働きが強くなることを意味している。ゆえに国に災難が起こり、民衆が不幸になり、国まで亡びていくのである。このように諸天善神とは、民衆が幸福になり、日々楽しく歓喜をもって生活できるよう守護してくれるのである。

1397:06~1397:14 第二章 浄蔵浄眼の例を挙げて激励top
06   妙荘厳王と申せし王は悪王なりしかども御太子・ 浄蔵浄眼の導かせ給いしかば父母二人共に法華経を御信用有
07 りて仏にならせ給いしぞかし、 是もさにてや・候らんあやしく覚え候、甲斐公が語りしは常の人よりも・みめ形も
08 勝れて候し上・心も直くて智慧賢く、 何事に付けても・ゆゆしかりし人の疾はかなく成りし事の哀れさよと思ひ候
09 しが、 又倩思へば此の子なき故に母も道心者となり父も後世者に成りて候は只とも覚え候はぬに、 又皆人の悪み
10 候・法華経に付かせ給へば偏へに是なき人の 二人の御身に添うて勧め進らせられ候にやと申せしが・さもやと覚え
11 候、 前前は只荒増の事かと思いて候へば是程御志の深く候ひける事は始めて知りて候、 又若しやの事候はばくら
12 き闇に月の出づるが如く妙法蓮華経の五字・月と露れさせ給うべし、 其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏・乃至前
13 に立たせ給ひし御子息の露れさせ給ふべしと思し召せ、委くは又又申すべし、恐恐謹言。
14       七月七日                             日蓮花押
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 妙荘厳王という王は悪王であったが、その太子の浄蔵・浄眼の二人が王を仏道に導かれたので、両親は共に法華経を信じ、ついには成仏されたのである。
 あなた方のことも、浄蔵・浄眼とその父母の例と同じではなかろうかと、不思議に思っております。
 甲斐公が語るには「ご子息は、普通の人よりも、顔も容姿も勝れていた上、心も素直で、智慧も賢く、なに事につけてもすばらしい人であっただけに、早く亡くなられたということが、なんと哀れなことであろうかと思っていた。しかし、また、よくよく考えてみるならば、ご子息が亡くなったがために、母親も仏道を求める人となり、父親も菩提を願う人になったことは、ただごとではない不思議な縁と思っていた。しかも、仏法の中でも、皆の人が憎んでいる法華経に付かれたことは、ひとえに、今は亡きご子息が父母二人の身に添って信心を勧められたのではないだろうか」といっていた。私もまさにそのとおりと思います。
 前々の御供養のおりには、ただひととおりの信心であろうと思っていたが、今回、信心の志が深かったことをはじめて知りました。
 また、あなたにもしもの事があるならば、暗い闇夜に月が出たように、妙法蓮華経の五字が月となってあらわれて、あなたの行く手を照らすでしょう。そしてその月の中には、釈迦仏・十方の諸仏はもとより、亡くなられたご子息もあらわれて、あなたを成仏の道へと導くことと確信していきなさい。くわしくはまた申し上げましょう。恐恐謹言。
  七月七日              日 蓮  花 押

妙荘厳王
 法華経妙荘厳王本事品第27に説かれる王(法華経651㌻以下)。バラモンの教えに執着していたが、先に仏法に帰依していた妻の浄徳夫人と、浄蔵・浄眼という二人の息子に導かれて仏道に入ることができた。
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浄蔵浄眼
 法華経妙荘厳王本事品第27に説かれる二人の王子(法華経651㌻以下)。父は妙荘厳王、母は浄徳夫人。兄弟二人は、母の指導のもと、バラモンの教えに執着している父・妙荘厳王にさまざまな神通力を見せて仏教に導いた。同品によると、無量無辺不可思議阿僧祇劫という遠い過去世で、浄蔵・浄眼の二人は、雲雷音宿王華智仏のもとで出家し菩薩行を修して三昧を得た。後に二人は、この仏から法華経の説法を受け、母・浄徳夫人に仏に詣でることを勧めたが、夫人は、妙荘厳王がバラモンの教えに執着しているので、これを放ち仏教に帰依させることを命じた。二人は種々の神通力を現して父に見せ、これに歓喜した父は仏道を求める心を起こした。そして浄蔵・浄眼の二人とその父母は、そろって雲雷音宿王華智仏にまみえることができ、父はこの仏から娑羅樹王という名の仏になるとの記別を受けた。父はすぐに国を弟に譲り、夫人と二人の子らとともに出家して法華経を修行し成仏した。以上の内容を説いた釈尊は、同品の最後で、妙荘厳王は法華経の会座にいる華徳菩薩であり、浄蔵・浄眼の二人はそれぞれ薬王菩薩、薬上菩薩であると明かした。日蓮大聖人は「浄蔵浄眼御消息」(1397㌻)で、この浄蔵・浄眼の話を通し、松野氏を早世した子息が信心に導いてくれたと述べ激励されている。また「日女御前御返事」(1249㌻)では婦人の信心を励まされている。
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甲斐公
 日持のこと。(1250~)蓮阿闍梨と号す。建長2年(1250)駿河国庵原郡松野(静岡県富士宮市富士川町松野)で松野六郎左衛門入道の次男として生まれる。幼少にして出家し、駿河国蒲原郡(静岡県富士市)四十九院に登り、日興上人に従って四十九院に住しながら大聖人の弟子として甲斐公と称した。文永7年(1270)21歳で得度。四十九院の法難で頻出の厄に遇ったが、師友と共に苦難を凌いでいる。日蓮大聖人の晩年には本弟子六人の一人となったが、大聖人の滅後は墓輪番に応ぜず、天台沙門と名乗るなど、大聖人の本意に背く行動をとった。正応元年(1288)6月8日、大聖人7回忌報恩のために御影を池上に奉安している。永仁3年(1295)、46歳の時、松野の蓮永寺を日教に託してただ一人、海外弘通の途に上った。奥州を歴て蝦夷(北海道)に渡り、樺太・大都(北京)、外蒙古まで歩を記したともいわれているが、明らかではない。蓮華阿闍梨は日持の号。
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道心者
 仏法を信奉する心をもった仁。仏果を求める心をもった人。菩提心者と同意。
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後世者
 亡くなった故人のために、その死後の生命の成仏を祈って題目を唱える人。追善供養をする人。
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妙荘厳王について
 法華経妙荘厳王本事品第二十七には妙荘厳王の夫人である浄徳夫人と浄蔵・浄眼の二子の三人があいよって外道邪見の父・妙荘厳王を正法に帰依させたことが説かれている。内容は概略、次のとおりである。
 過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王といった。その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。
 雲雷音宿王華智仏は妙荘厳王を引導せんとし、衆生を愍念して、法華経を説いた。雲雷音宿王華智仏に師事していた浄蔵・浄眼は、この法華経説法のことを母の浄徳夫人に告げ、供養・礼拝すべきであると説いた。浄徳夫人は夫の妙荘厳王を仏道に導くようにいう。そこで、浄蔵と浄眼は、外道婆羅門に執着している父に対して、邪法を破し、正法に帰依させようとするのだが、王はなかなか受け入れようとしなかった。しかし、なんとしても父の妙荘厳王を正法につかせたいために、浄蔵・浄眼の二人は、さまざまな神変を現じてみせたのである。たとえば、空中に坐って身の上から水を出したり、身の下から火を出したり、あるときは、空中の中に消えてみせ、また忽然として大地に現われる等々。
 こうした神通力に心から感心した妙荘厳王は、いったい、お前達の師は誰なのか、と質問した。そこで、浄蔵・浄眼は、いま七宝菩提樹下の法座の上に坐して広く法華経を説いている雲雷音宿王華智仏が師であり、私達はその弟子であるとこたえた。
 妙荘厳王は、ぜひその師に会いたいといい、ともに行くことになった。
 浄徳夫人そして浄蔵・浄眼の二子とともに、仏のもとに詣でて、法華経を信受した妙荘厳王は婆羅樹王仏という記別を受け、国を弟に譲り、出家して、夫人ならびに二子とともに仏道修行に励んだ。そして法華経の会座においては、王は華徳菩薩、浄徳夫人も荘厳相の菩薩となり、浄蔵・浄眼は薬王・薬上菩薩となって現われたのである。
 天台は、この四人の過去世の因縁を文句巻第十下に概略、次のように説いている。
 むかし、仏道を求める四人の道士がいたが、生活に煩いが多く、修行の妨げにもなるので、相談の結果、一人が炊事や雑用に従事し、他の三人は衣食に煩わされることなく、ひたすら自由に仏道修行に専念して得道した。そして、衣食を調達するなどして仏道修行を助けた一人は、仏につかえた功徳で人天に生じては常に国王として生まれる福運を得た。それが妙荘厳王であり、他の三人が浄徳夫人、浄蔵、浄眼として生まれ、過去世の約束どおり妙荘厳王を正法に入らしめたのである、と。
 日蓮大聖人は、これらの譬えを引かれて種々の点から指導されている。
 日女御前御返事に「妙荘厳王品と申すは殊に女人の御ために用る事なり、妻が夫をすすめたる品なり、末代に及びても女房の男をすすめんは名こそかわりたりとも 功徳は但浄徳夫人のごとし」(1249-02)と、婦人に対して、一家和楽の信心を確立する源泉は、婦人の信心にあることを指導され家庭革命の原理を明かされている。
 また御義口伝に「文句の十に云く妙荘厳とは妙法功徳をもって諸根を荘厳するなりと。御義口伝に云く妙とは妙法の功徳なり、諸根とは六根なり此の妙法の功徳を以て六根を荘厳す可き名なり、所詮妙とは空諦なり荘厳とは仮諦なり王とは中道なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く妙荘厳王なり」(0779-第一妙荘厳王の事)とある。三大秘法の御本尊を受持したわれわれの当体が仏であり、王であるとの仰せである。妙法を受持した人は尊貴無比な当体であり、全て平等であるとの原理が示されている。これこそ真実の人間平等の思想であり、民主主義の原点である。
 つぎに、妙荘厳王は、二人の子供の教化によって邪見をひるがえし正法に帰依するようになるが、そのことについて、御義口伝には「厳王の邪見二人の教化に依り功徳を得て邪を改めて正とせり、止の一に辺邪皆中正と云う是なり、今日本国の一切衆生は邪見にして厳王なり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は二人の如し終に畢竟住一乗して邪見即正なる可し」(0779-第三当品邪見即正の事)とある。いま、世間を見るに、権力をもち財力をもって、正法に反対している政治家や実業家、あるいは学者等は、所詮、妙荘厳王である。妙法を受持したものは浄蔵・浄眼である。子である浄蔵・浄眼には、なんら権力も財力もない。だが、妙法の力によって、種々の神変を現じ、ついに父を正法に帰依させたように、われらも、権力も財力もないが、妙法の力により、団結の力によって、不可能と思われる戦いを成し遂げ、邪見の人々を納得させ、正法に帰依せしめていくのである。大聖人は「終に畢竟住一乗して邪見即正なる可し」と仰せになって、いかに邪見に執着している人々でも、目覚めて、正しい仏法を信ずるようになることは間違いないと予言されている。
 妙荘厳王本事品で説かれる一家庭における妙法流布の姿は、広宣流布という未曾有の革命の縮図といえよう。一人の人間が妙法に目覚め、家庭内での相克をのりこえて、個々の家庭において一家和楽の信心を確立していく。この積み重ねが広宣流布を成就するのである。ゆえに、広宣流布の大偉業も、所詮、一人ひとりの不動の信心の確立にあることを痛感する。
 また、現在において子供が立派になった姿を見て、父親が入信した話をきくことがあるが、これこそまさしく、妙荘厳王と二子、浄蔵・浄眼の原理である。

1397~1401    刑部左衛門尉女房御返事top
1397:01~1398:14 第一章 不孝の者の無間地獄を説くtop
01   今月飛来の雁書に云く此の十月三日母にて候もの 十三年に相当れり銭二十貫文等云云、 夫外典三千余巻に忠
1398
01 孝の二字を骨とし 内典五千余巻には孝養を眼とせり、 不孝の者をば日月も光ををしみ 地神も瞋をなすと見へて
02 候、或経に云く六道の一切衆生仏前に参り集りたりしに 仏彼れ等が身の上の事を一一に問い給いし中に・ 仏地神
03 に汝大地より重きものありやと問い給いしかば 地神敬んで申さく大地より重き物候と申す、 仏の曰くいかに地神
04 偏頗をば申すぞ 此の三千大千世界の建立は皆大地の上にそなわれり、 所謂須弥山の高さは十六万八千由旬横は三
05 百三十六万里なり・大海は縦横八万四千由旬なり、 其の外の一切衆生・草木等は皆大地の上にそなわれり、此れを
06 持てるが大地より重き物有らんやと問い給いしかば、 地神答て云く仏は知食しながら人に知らせんとて 問い給う
07 か、 我地神となること二十九劫なり 其の間大地を頂戴して候に頚も腰も痛むことなし、虚空を東西南北へ馳走す
08 るにも重きこと候はず、 但不孝の者のすみ候所が身にあまりて重く候なり、 頚もいたく腰もおれぬべく膝もたゆ
09 く足もひかれず眼もくれ魂もぬけべく候、 あわれ此の人の住所の大地をば・ なげすてばやと思う心たびたび出来
10 し候へば不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり、 されば教主釈尊の御いとこ提婆達多と申せし人は 閻浮提第一の
11 上臈・王種姓なり、 然れども不孝の人なれば我等彼の下の大地を持つことなくして 大地破れて無間地獄に入り給
12 いき、我れ等が力及ばざる故にて候と、 かくの如く地神こまごまと仏に申し上げ候しかば・ 仏はげにもげにもと
13 合点せさせ給いき、 又仏歎いて云く我が滅後の衆生の不孝ならん事・ 提婆にも過ぎ瞿伽利にも超えたるべし等云
14 云取意、涅槃経に末代悪世に不孝の者は大地微塵よりも多く孝養の者は爪上の土よりもすくなからんと云云。
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 今月とどいた手紙には「この十月三日は亡くなった母の十三年忌にあたるので、銭二十貫文を御供養いたします」等とある。
 外典の三千余巻には忠孝の二字を骨髄としており、内典の五千余巻では孝養を眼目としている。故に不孝の者には、日月も光を惜しみ、地神も瞋りをなすと説かれている。
 ある経にいうには六道の一切衆生が仏前に来集した時、仏は彼らの身の上のことをおのおのに問われた。その中に、仏が地神に「大地より重いものがあるか」と問われたところ、地神がつつしんで「大地よりも重いものがあります」と答えた。これに対して仏は「地神よ、どうして偏頗なことをいうのか。この三千大千世界は皆大地の上に建立されている。いわゆる、須弥山の高さは十六万八千由旬で横は三百三十六万里であり、大海は縦横八万四千由旬である。また、その外の一切衆生も、草木等も、みな大地の上に存在している。これらいっさいのものを持つ大地よりも重いものがあるであろうか」と問われたところが、地神がこたえていうには「仏はよくご存知でありながら、人々にそのことを知らせようとして問われるのであろうか。私は地神となってすでに二十九劫という長い時を経ており、その間ずっと大地をささげたもっていたが、頸も腰も痛んだことはない。また、大地をささげもったまま、虚空を東西南北に馳けまわっても重いことはない。ただ、不幸の者が住んでいるところは支えきれないほど重い。あまりの重さに頸は痛く、腰もおれそうで、膝も力がぬけ、足もひくことができず、眼もくらみ、魂もぬけてしまいそうである。ああ、こんな不孝者の住む大地を投げ捨ててしまおうと思う心が度々おこるので、これら不孝の者の住所は常に大地が揺れているのである。それゆえ教主釈尊の従弟、提婆達多という人は、世界第一の貴族、王族の生まれである。しかしながら不孝の者なので、私たちは提婆の下にあたる大地を支えきれず、ついに大地が破れて無間地獄に堕ちてしまった。これは私たちの力が及ばなかったためである」と。このように、地神はこまごまと仏に申し上げたので、仏はなるほど、なるほどとうなずかれたのである。また、仏が歎いていわれるには「わが滅後の衆生が不孝の者であることは、提婆にも、瞿伽利にも超過するであろう」といわれた。涅槃経には「末代の濁悪の世には、不孝の者が大地微塵よりも多く、孝養の者は、爪の上にのる土よりもすくないであろう」と説かれている。

雁書
 消息文、手紙のこと。漢の「蘇武伝」の、蘇武が胡国に囚われて雁の足に書を結んで故郷へ音信したという故事から出ている。また、雁の飛行するさまを文字に譬えたものであるとの説もある。
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外典三千余巻
 中国の聖典3000巻余りのこと。『漢書』の芸文志では、その時代に伝わっていた書籍の数を「三千一百二十三篇」としている。また、『太平記』巻26では、秦の始皇帝の時代に焚書された書籍を「三千七百六十六巻」としている。
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六道
 十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界。古代インドの世界観で、衆生が生存する6種の領域をいう。凡夫は迷いに満ちたこの六道で生死を繰り返すとされる。これを六道輪廻という。輪廻からの脱却を解脱といい、これは古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。仏教では、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えでは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。そして、むしろ仏道を学び修行することによってこそ解脱できると説かれる。六道のうち地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道といい、これに対し修羅・人・天を三善道という。また、三悪道に修羅を加えて四悪趣という。修羅を除いて五趣という。
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三千大千世界
 古代インドの世界観・宇宙観を用いて説かれた仏教の世界観。須弥山を中心に、太陽・月・四洲を包含するものを小世界として、それが1000集まったものを小千世界、小千世界を1000倍したものを中千世界、中千世界を1000倍したものを大千世界と呼ぶ。小千・中千・大千の3種を総称して三千大千世界という。
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須弥山
 須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。
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由旬
 サンスクリットのヨージャナの音写。由善那とも。インドの距離の単位。1由旬とは帝王が1日に行軍する道のりとされ、およそ10キロメートルほどと考えられている。
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提婆達多
 サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
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閻浮提第一
 世界第一のこと。閻浮提は閻浮、南閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
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無間地獄
 阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
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瞿伽梨
 梵名コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多の弟子であり、釈尊の制止も聞かず、舎利弗や目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
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涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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爪上の土
 ガンジス河の砂に対して、爪の上に乗るほどの土をいう。人間として生を受けることは稀であり、仏法に巡り合うこととむずかしさ、等にたとえる。
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 本抄は年号が記されていないが、弘安3年(1280)10月21日、尾張国高木郡刑部左衛門尉の妻に与えられたといわれている。この刑部左衛門尉については伊藤祐頼ではないかといわれるだけで詳細はわからないが、刑部左衛門尉という身分から、また、その夫人が銭20貫文という御供養をされている点から、相当に大身の武士であったことが想像される。
 本抄は刑部左衛門尉女房から、その母の13年忌の御供養を奉ったことに対し、賜わった御書である。父母の恩の中にも母の恩の殊に重いことを明かされ、内外の経典には報恩の道が説かれているが、真実の報恩は法華経以外になく、大聖人の弟子として母の追善のため真心の御供養をされた夫人の孝養は、最高真実の孝養となることを御指導されている御文である。最後の「日蓮が母存生してをはせしに仰せ候し事をも・あまりにそむきまいらせて候いしかば、今をくれまいらせて候が・あながちにくやしく覚へて候へば(中略)あまりにうれしく思ひまいらせ候間あらあら・かきつけて申し候なり」(1401-04)の御文は大聖人の御心情が率直に吐露され、母を思われる万感の思いが込められている。御身に引き当てての孝養の御指導に如何ばかり夫人は感激をしたことであろう。
 本章は供養の受納を報ぜられ、孝養について説かれるに当たり冒頭に内外典共に孝養を最大事としている事より説き起こされ、地神の話をとおして不孝の罪が重いこと、しかるに末代濁悪の世には不孝者が多く、その住所は無間地獄であることを説かれている。
夫れ外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし内典五千余巻には孝養を眼とせり
 仏教以外の、外道である儒家・道家の典籍三千余巻には、忠孝がその骨髄をなし、仏教の典籍五千余巻には孝養を眼目としていると、内外典共に孝養に最重点が置かれていることを述べている。
 このことは、法蓮抄(にも「孝経と申すに二あり一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり、二には内典今の法華経是なり、内外異なれども其意は是れ同じ」(1046-04)とあるように、内外典共に孝養を大事としていることがわかるが、ここで外典と内典における孝について、その差を考えてみよう。
 この孝経が中国の戦国末から前漢初期に出来上がったものとすると、孝の思想は上代中国において既にあったと考えられる。当時中国の人々の生活の場は大家族制度の中にあった。それゆえ、その内部における団結と秩序の維持のための規律として、外部の社会道徳に優先して家族道徳が説かれ、その中でも家長である父に対する孝が全てに優先して徳の本とされたのも当然と考えられる。家族共同体の秩序の原理である孝が、氏族共同体である国の秩序原理に拡大されたとき、君に対する忠となるわけで、忠孝は、同質の共同体的倫理であったと考えられる。「忠も又孝の家よりいでたり」(0192-01)という言葉はそれを表わしている。
 忠孝がこうした秩序維持のために働く治者被治者間の道徳であったとみる考え方に加え、仁・義・礼・智・信という古代中国の倫理の根本に、仁が置かれていることにも注目しなければなるまい。仁が人の心に宿る人間愛を基調とするものである以上「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始なり、身を立て道を行い名を後世に揚げ父母を顕すは孝の終りなり」という孝経の文に見るごとく、自己の生命を生み育ててくれた父母に対して、ヒューマニズムに根ざした恩愛の念をもつことは当然であろう。それゆえ、孝という思想は早くから市民意識に目ざめた西洋の個人主義的倫理とは異質的なものであったはずである。それゆえ農耕生活を基調とする東洋の、しかも大家族制度という生活共同体の中に、育まれた中国の人々の、生活と人間性から生まれたもので、自ずからその父母を畏敬し報恩するという徳義観に発展し、最高道徳として位置づけられているのである。
 このように、一切の道徳の基本として説かれた孝であったが、あくまでもそれは現実の社会的制度的な徳目で、永遠の生命観に立った人間の救いは何かという、基本的立ち場からの、父母に対する真の孝養は説かれなかったのである。また、狭い家族共同体から生まれた忠孝という徳目の固定化は、さらに社会が発展するにつれて、新たに生ずる社会関係の変化には対応できず、単なる理想として形骸化してゆくものであったのである。共同体間の交流・闘争、そして征服・被征服の歴史がそれである。忠・孝という同質的な徳目も、そこではしばしば相克矛盾するものとなったのである。
 これに対し仏教における孝養の思想を尋ねれば、極めてその基盤の深遠なことに驚くのである。爾前経にも種種、孝養の教えは説かれるが、これはさておき、日蓮大聖人の孝に対する考え方をみるに法蓮抄には、「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり……仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり」(1046-11)とある。六道四生、すなわち、この世の中の一切の衆生は皆、われわれの過去世の父母であるといわれるのである。我々を生み出し、我々を育てたものは実に一切の生あるものであるという洞察がある。現在の肉身の父母のみを父母とする外典の考えを全く超越した父母観である。これは法華経に説かれる永遠の生命観、及び自己を生みだしたものとしての宇宙観、また、自己と環境との一体を説く依正不二の哲学が理解できなければ納得し得ぬ論理であろうが、それは単なる社会倫理の問題でなく人間の生命の根源的あり方の問題である。とするなら、真の孝養とは、それら一切の衆生を成仏させることでなければならない。ここに十界互具一念三千を説く法華経でなければ真の孝養はできないということが明らかになる。
 開目抄には「儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり……仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」(0223-10)とある。所詮外典の孝養は現世だけの道徳に過ぎず、亡くなった先祖はもはやどうすることもできない。これに対し仏教の最高の経典である法華経を持つことによって、根源的な生命観に立って、滅後の先祖も、ひいては先生の父母といわれる一切衆生をも救うことのできることに注目しなければならない。ゆえに法華経を持つことが最高の善であり、これに反対することは不孝となる。また親に従うことは孝であるが、親が法華経に反対して地獄に落ちるなら、これに反対して諌めなければ真の孝ではないということになる。これを兄弟抄には「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085-07)と説かれている。単に、親の意に叶うことをもって第一とする儒教の精神的・物質的奉仕とはだいぶ次元を異にするのである。
 さらに一重深く観心の立ち場から孝養を考えてみよう。「逆則是順」ということで御義口伝に文句の文を引いて述べられている。
 「観解は貪愛の母・無明の父・此れを害する故に逆と称す逆即順なり非道を行じて仏道に通達す」(0710-第三阿闍世王の事-08)と。
 この場合の父母は貪愛無明という煩悩で、この煩悩こそが我々九界の衆生を生みだした父母であるというのである。この父母について大聖人はさらに「権教の愛を成す母・方便真実を明めざる父」(0710-第三阿闍世王の事-07)といわれているが、いずれも人間の真実の幸福を阻害しようという生命のマイナスの働きをいうのであり、法華経誹謗の生命はまさにこれである。この生命を父母に譬えたので、「害す」ということになって逆道のように見えるが、観解の力によって謗法の心を断ち切ることを意味するので順なりというのである。観解とは、末法今時では、御本尊を信じ題目を唱えることである。
 このように内外典において同じく孝養を最も大事としながら、その内容においては天地雲泥の差のあることを理解しなければならない。
不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり
 不孝者の住む大地はあまりにも重すぎて、地神はこれを支えきれずに投げだしてしまおうと度々思い迷うので、不孝者の住所は常に大地が揺れ動いているというのである。
 そして、ついに大地がささえきれずに、無間地獄へ堕ちた不孝者の典型的な例として提婆達多をあげている。
 提婆は破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢の三逆罪を犯した上に、阿闍世太子をそそのかして、太子の父である頻婆婆羅王を殺させ、他人の親不孝をかり立てたのである。その罪によって、王舎城のなかで大地が自然に裂けて、生きながら地獄へ堕ちた。堕ちた地獄は無間地獄であるが、この無間地獄の無間とは間断のないことをいう。すなわち、いささかも安堵の瞬間がないことであり、一瞬一瞬が苦しみの連続であることをいうのである。大聖人は、法蓮抄において「八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり」(1042-07)と説かれている。無間地獄に堕する業因を、五逆罪を犯したものと、正法誹謗の者と、親不幸の者であると仰せである。
 「不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり」は、法蓮抄に説かれたところからみるならば「不孝の者の住所は無間地獄なり」ということができる。
 現代社会において親孝行ということは全く前時代的倫理として扱われ、孝不孝について論ぜられることはまれのようである。家族制度の崩壊・個人主義の流行にともなって、老境の親をもかえりみずひとり往く若者が現代的風潮とされる作今だからである。しかし仏法からみるなら孝養の思想は単なる封建思想ではない。時代と体制を超えた人間のあり方の問題である。しかも真の孝養とは、一切の衆生を成道せしめる法華経を持って、初めて孝子ということになるのであるから、法華経を持たぬ人の圧倒的に多い現代は、不孝者があまりにも多いということになる。法門申さるべき様の事(1266)にも、このことを「されば四十余年の経経をすてて法華経に入らざらん人人は世間の孝不孝はしらず仏法の中には第一の不孝の者なるべし」(1266-03)と述べられている。故に仏法上からいうならば現代人の殆どは不孝の者ということになり、その住所は無間地獄であるといえる。地球上にこれだけ多くの不孝者が住むのであるから、地神はこれをもてあまし、「大地がゆれる」ということになるだろう。
 「大地がゆれる」とは、いわゆる地震は勿論のこと、戦争・公害等の人為による災害で、人々の棲息の基盤が危機に立っていることも含まれるということができよう。
 近年の我が国に於ては経済の高度成長によって、豊かな社会を謳歌する歌声に幻惑されがちであるが、個々の人々の悩みは過去のどの時代より厳しいとともに、公害は地球そのものを汚染破壊し、人間の生命を確実に脅かしている現状である。このような状況は、再び人間に滅亡の深淵をのぞかせ、根本的に生存のあり方を反省させるに至っている。しかし、仏法以外のいずこにも、この根本問題に答えうる英知を発見できないことを痛感するのである。三大秘法の仏法を受持し、一切衆生の父母に孝養する道を見いだすとき、初めて、この地獄の苦悩から脱することができるというべきであろう。
 また、大聖人の仏法では、地獄とは自己の外にあるのではなく、実に自己の生命自体の中にあるのである。観心本尊抄に「無間大城の大火炎等此等は皆我が一念の十界か己身の三千か」(0243-09)とあり、上野殿御家尼御返事には「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり」(1504-09)と説かれている。
 我等の胸中の一念が現実の生活を地獄にもし、仏国土にもすると仰せである。逆にいえば自己の生活も国土も、楽土とするか地獄とするかは自己自身の一念の状態如何にかかっているといえよう。そしてその一念を浄化し、変革する道は三大秘法の御本尊に対する絶対の信心よりほとばしり出る題目以外にないというのが、大聖人の教えの究極である。
 したがって大地が揺れ、社会が不安に満ちているということは、人心が動揺し、思想が混乱しているためであり、さらに、その根源は謗法による不孝者が充満していることにあるのである。この根源悪を除去することが折伏であり、広宣流布であることはいうまでもない。
涅槃経に末代悪世に不孝の者は大地微塵よりも多く孝養の者は爪上の土よりもすくなからんと云云
 これは涅槃経の取意の文である。末世には不孝者のみ多く、孝養のものはきわめて少ないことを、涅槃経の文を用いて説かれているのである。しかし涅槃経では孝・不孝を論じているのでなく、末法に正法を持つ者がいかに少ないかを論じているのである。法門申さるべき様の事に「涅槃経の三十四に云く『人身を受けん事は爪上の土・三悪道に堕ちん事は十方世界の土・四重・五逆・乃至涅槃経を謗ずる事は十方世界の土・四重・五逆乃至涅槃経を信ずる事は爪の上の土』なんどととかれて候、末代には五逆の者と謗法の者は十方世界の土のごとしと・みへぬ」(1266-16)とあるのが涅槃経の原典により近い取意である。おそらくは大聖人は五逆謗法の者を不孝の者と取意されて本抄の如く述べられたのであろう。これは前項で述べたごとく、正法を信じない謗法の者は一切衆生のみならず、自分の親も救うことができない。故に不孝の者であるとの前提に立つからである。

1398:15~1399:15 第二章 親の深愛を述べて孝養を教えるtop
15   今日蓮案じて云く此の経文は殊にさもやとをぼへ候、 父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねど
16 も・母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼへ候、 飛鳥の子をやしなひ地を走る獣の子にせめられ候事・目もあて
17 られず魂もきえぬべくをぼへ候、 其につきても母の御恩忘れがたし、 胎内に九月の間の苦み腹は鼓をはれるが如
18 く頚は針をさげたるが如し、 気は出づるより外に入る事なく色は枯れたる草の如し、 臥ば腹もさけぬべし坐すれ
1399
01 ば五体やすからず、 かくの如くして産も既に近づきて腰はやぶれて・きれぬべく眼はぬけて天に昇るかとをぼゆ、
02 かかる敵をうみ落しなば大地にも・ ふみつけ腹をもさきて捨つべきぞかし、 さはなくして我が苦を忍びて急ぎい
03 だきあげて血をねぶり不浄をすすぎて胸にかきつけ懐きかかへて 三箇年が間慇懃に養ふ、母の乳をのむ事・ 一百
04 八十斛三升五合なり、此乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし、されば乳一升のあたひをカンガへて
05 候へば米に当れば一万一千八百五十斛五升・稲には二万一千七百束に余り・布には三千三百七十段なり、 何に況や
06 一百八十斛三升五合のあたひをや、 他人の物は銭の一文・ 米一合なりとも盗みぬればろうのすもりとなり候ぞか
07 し、而るを親は十人の子をば養へども 子は一人の母を養ふことなし、 あたたかなる夫をば懐きて臥せどもこごへ
08 たる母の足をあたたむる女房はなし、給孤独園の金鳥は子の為に火に入り・キョウ尸迦夫人は夫の為に父を殺す、仏
09 の云く 父母は常に子を念へども子は父母を念はず等云云、 影現王の云く父は子を念ふといえども子は父を念はず
10 等是れなり、 設ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども 後生のゆくへまで問う人はなし母の生てをはせしに
11 は心には思はねども一月に一度・一年に一度は問いしかども・ 死し給いてより後は初七日より二七日乃至第三年ま
12 では人目の事なれば形の如く問い訪ひ候へども・十三年・四千余日が間の程は・かきたえ問う人はなし、 生てをは
13 せし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども 十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし 如何に
14 きかまほしくましますらん 夫外典の孝経には唯今生の孝のみををしへて 後生のゆくへをしらず身の病をいやして
15 心の歎きをやめざるが如し内典五千余巻には人天二乗の道に入れていまだ仏道へ引導する事なし。
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 今日蓮が思案してみるに、この経文は、ことに、その通りであろうと思われる。父母の恩がいかに大きいかは今さら事新しくいうまでもないが、母の恩については、殊に心肝にそめて貴く感じている。飛ぶ鳥が子を養い、地を走る獣でさえも子を育てるのに苦心しているのは、直視するにたえず、あまりの痛ましさに気も遠くなりそうである。これらをみるにつけても、母の恩は忘れがたい。子が胎内にいる九か月の間の苦しみは、腹は鼓をはったようであり、頸は針をさげたようである。呼吸ははく一方で吸いこめず、顔色は悪く、枯れ草のようになる。臥せれば腹が裂けそうに思われ、坐れば身体中が苦しい。このようにして、お産が近づけば、余りの痛さに腰は破れて切れてしまいそうであり、眼はぬけて天に昇るかと思われる。このように苦しい目にあわせる敵を産み落としたならば大地にふみつけ、腹をさいて捨ててもかまわないであろうに、そうはせずに、自分の苦しみを忍んで、急いで抱きあげて、血をぬぐいとり、不浄のものを洗いおとし、胸にかきあげ懐きかかえて三か年の間、心をこめて養うのである。その間に、子が母の乳をのむその量は百八十斛三升五合である。この乳の値はたとえ一合といえども三千大千世界に値するほど貴重なものである。そこで乳一升の値をかんがえてみるならば、米に当てはめれば一万一千八百五十斛五升、稲ならば二万一千七百束よりも多く、布ならば三千三百七十段となる。まして百八十斛三升五合の値はあまりに膨大である。
 他人の物は、たとえ銭一文、米一合であっても盗むならば牢に入れられるのである。ところが親は十人の子を養っても、子は一人の母親を養うことはない。また、嫁してあたたかな夫を懐いて寝るとも、凍えた母親の足をあたためる女房はいない。
 昔、給孤独園の金鳥は子をたすけようとして火の中に入り、憍尸迦夫人は、夫のために父を殺してしまった。仏は「父母は常に子供のことを念っているが、子供は父母のことを念わない」といわれている。また、影現王が「父は子を念っているが子は父のことを念わない」等と説いているのもこのことである。
 たとえまた、今生では父母に孝養を尽くしているようではあっても、後生の行方まで問う人はいない。母が生きている時には心にはそれほど思いやることがなくとも、一月に一度、一年に一度は母のもとを訪れるであろうが、亡くなってからは、初七日から二七日、乃至は三年目までは人目もあることなので形式だけでもとぶらうであろうが、十三年・四千余日にもなると、絶えてとむらう人はない。母にとって、生きている時は、一日片時の別れでも千万日の長い別れのように思われたのが、死んでのちは、一日ならず十三年四千余日の間、いっこうに訪れる人もない。亡き母はどれほど「生きている者はどうしているだろう」と聞きたく思っていらっしゃるであろう。
 外典の孝経にはただ今生の孝養のみを教えて、後生の行方を説いていない。それは、身の病を癒しても、心の苦悩を癒さないようなものである。仏典の五千余巻には、人・天や、声聞・縁覚の二乗の道には入れても、いまだ仏道へ導き入れないのであるから、真の孝養が説かれているとはいえない。

給孤独園の金鳥
「給孤独園」とは祇樹給孤独園精舎の略で、祇園精舎のこと。須達長者が釈尊のために舎衛城の南に建てた説法道場、「金鳥」は雉のことと思われる。金色の羽毛があるので金鳥という。雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれる。これは、大唐西域記第六巻、大智度論第十六巻等に、釈尊が生前に雉王となって、インド拘尸那城の近くの大森林に野火が起こったときに、その羽根を清流に浸して、その火を消し、自分の生命を賭して、火林のなかの眷属を救ったという話があり、この物語が転用されたものであろう。
―――
憍尸迦夫人
 帝釈天を憍尸迦といい、憍尸迦女とは帝釈天の妃・舎脂夫人のことで、阿修羅王の娘である。観仏三昧海経巻第一に、帝釈が婇女と共に歓喜園の池に入って遊戯しているのを見て、舎脂夫人が嫉妬心を起こし、父の阿修羅に訴えた。このため阿修羅は怒り、帝釈と大戦闘を引き起こしたが、 かえって阿修羅は耳鼻手足を失い、驚怖して蓮の孔の中に身を小さくして隠れたとある。
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影現王
 摩伽陀国王、王舎城主、頻婆舎羅王のこと。影勝・顔色端正などと訳す。深く釈尊に帰依し、日々五百輌の供養を数年の間贈る等、仏と仏弟子を供養した。提婆達多はこれをねたみ、阿闍世太子をそそのかし父王である頻婆舎羅王を幽閉した。仏教を信ずる心の深い王はいささかも恐懼せず、かえって阿闍世の大不孝を悲しみ、これを教誨したが、怒った阿闍世は王の食を断ったため死んだ。
―――
孝経
 中国の儒教倫理の根本である孝について説いた書物。孔子とその門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べている。十三経の一つとして論語とともに初学者必修の書として尊重されている。
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 本章は父母の恩の中にも、とりわけ母親の恩の深いことを懐胎・出産・幼児の保育と具体的に述べられている。その母の苦労に対して子は孝養の心さらになく、かえって父母を殺害する者もいる、また父母の死後を葬う者も、年がたつにつれて少なくなり、母の死後13年にもなれば、その法要をする者が殆どない。刑部左衛門尉女房が母の13回忌の供養をされたことを賞でられ、それにつけても外道や爾前経に於いては真の孝養にならない事を教示されている。
外典の孝経には唯今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず
 外典である孝経は父母に対する今生における孝養を説いているのみで、父母の後生への孝養は説いていない。すなわち、三世にわたる生命の本質が説かれていないことを指摘されている。
 孝経は中国の封建社会における家族関係を確立することを目的として説かれたものである。子の親に対する物質的孝養とともに、とくに精神的孝養を重んじ、孝道によって家をととのえることが、治国の根本であると説くのである。
 子の親に対する物質的孝養とは、親に対して、衣食住の施しをすることで、仏教で説く三種の孝養の最も低い下品の孝養にあたる。また精神的孝養とは、親の意にさからわない、親のいうなりに随っていくことをいい、仏教で説く中品の孝養である。
 たしかに、物質的にも精神的にも親に孝をつくすことは大事なことであり、子として当然のことかも知れない。しかし、どんなに親に物を施しても意にさからわずつくしても、それは今世かぎりのことである。しかも、今世においてさえも真の親の救いにはならない。根源的に親の持つ苦悩は救いようがないからである。三世の生命、すなわち永遠の生命を説くことのない外道においては、生命の根源にふれた孝行を説くことができなかったのである。それゆえ、「今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず」というのが孝経の実体である。大聖人は千日尼御前御返事においても「悲母の大恩ことに・ほうじがたし、此れを報ぜんと・をもうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんと・をもへば現在を・やしないて後世をたすけがたし」(1311-15)と説いている。
 現在をやしなうことはできても、後生、来世までは救うことができないとおおせなのである。開目抄にも「儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり」(0223-10)とあり、その聖賢は何故有名無実であるかといえば、同抄に、「過去・未来に亘る永遠の生命観の欠如を「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」(0186-12)と説かれているのによってわかる。来世までをも救うことのできる孝養こそ真の孝養であり、それは、外道である孝経によっては望むことのできないものである。仏教で説く上品の孝養は功徳を回向することで、親を正法に帰依させることである。これこそ永遠の財産だからである。亡くなった親に対しても題目を回向することは、同じ原理である。
内典五千余巻には人天二乗の道に入れていまだ仏道へ引導する事なし
 仏教は外道に対すれば孝養を説いたことになるが、これは内外相対した一応の立場であり、さらに爾前の四十余年の経教には真の成仏の道は明かされていないので、これまた、権実相対して真の孝養の教えでないことを述べられた文である。
 このことは上野殿御返事(1563)にも「内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず・孝が中の不孝なるべし」(1563-09)とある。
 ここで両文にある内典五千余巻についてみると、上野殿御返事の文では釈尊一代五十年の経教の全てをさしており、そのなかで、爾前経が不孝の経ということであるが、本抄の内典五千余巻というのは、法華経を除いた爾前経のみをさしている。しかし文全体の意味は全く同じである。
 さらに「人天二乗の道に入れて」とあって菩薩道の名はあげられていない。それは真の菩薩道は仏法に通ずるものであるから、「仏道に引導する」ということの中に含まれるのである。しかし、爾前の菩薩道にとどまっている限り、それは人天二乗の域を出るものではない。爾前にも成仏ということは説かれているのに「いまだ仏道へ引導する事なし」とあるのは、爾前の成仏は真実の成仏でないからである。
 十法界事に「爾前の諸経に二事を説かず謂く実の円仏無く又久遠実成を説かず故に等覚の菩薩に至るまで近成)を執する思い有り此の一辺に於て天人と同じく……」(0417-12)とある。爾前の諸菩薩は十界互具の円仏を知らず、久遠実成の本仏を知らずに、釈尊の始成正覚の姿をもって仏としているので、天人と同じように迷っているのである。ゆえに爾前の菩薩は、菩薩といっても「人天二乗の道」に含まれてしまうのである。
 次に爾前の成仏は真の成仏でないことは先に挙げた御文でもわかるが、同文の下には「爾前の諸経には……菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり」(0421-08)とあるとおり、爾前経の成仏は真実でないことがわかる。十界互具の原理からいって菩薩にも二乗を具すのであるが、爾前経では二乗は永不成仏と嫌われて成仏を許されないのであるから、菩薩の成仏もあり得ないことになるのである。
 このように爾前経には成仏の教えがなく、したがって真の孝養も説かれていないのである。

1399:16~1400:12 第三章 目連の例を挙げて孝不孝を明かすtop
16    夫目連尊者の父をば吉占師子・母をば青提女と申せしなり、母死して後餓鬼道に堕ちたり、しかれども凡夫の
17 間は知る事なし、証果の二乗となりて 天眼を開きて見しかば母餓鬼道に堕ちたりき、 あらあさましやといふ計り
18 もなし、 餓鬼道に行きて飯をまいらせしかば纔に口に入るかと見えしが飯変じて炎となり・ 口はかなへの如く飯
1400
01 飯は炭をおこせるが如し、 身は灯炬の如くもえあがりしかば神通を現じて水を出だして消す処に・水変じて炎とな
02 り弥火炎のごとくもゑあがる、 目連自力には叶はざる間・仏の御前に走り参り申してありしかば、 十方の聖僧を
03 供養し其の生飯を取りて 纔に母の餓鬼道の苦をば救い給へる計りなり・釈迦仏は御誕生の後・七日と申せしに母の
04 摩耶夫人にをくれまいらせましましき、 凡夫にてわたらせ給へば母の生処を知しめすことなし、 三十の御年に仏
05 にならせ給いて父浄飯王を現身に教化して証果の羅漢となし給ふ、 母の御ためにはトウ利天に昇り給いて摩耶経を
06 説き給いて父母を阿羅漢となしまいらせ給いぬ、 此れ等をば爾前の経経の人人は孝養の二乗・ 孝養の仏とこそ思
07 い候へども、 立ち還つて見候へば不孝の声聞・不孝の仏なり、 目連尊者程の聖人が母を成仏の道に入れ給はず、
08 釈迦仏程の大聖の父母を二乗の道に入れ奉りて 永不成仏の歎きを深くなさせまいらせ給いしをば、 孝養とや申す
09 べき不孝とや云うべき、 而るに浄名居士・目連を毀て云く六師外道が弟子なり等云云、 仏自身を責めて云く我則
10 ち慳貪に堕ちなん此の事は為めて不可なり等云云、 然らば目連は知らざれば科浅くもやあるらん、 仏は法華経を
11 知ろしめしながら生てをはする父に惜み・ 死してまします母に再び値い奉りて説かせ給はざりしかば 大慳貪の人
12 をば・これより外に尋ぬべからず。
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 目連尊者の父を吉占師子、母を青提女といった。母の青提女は死後餓鬼道に堕ちた。しかしながら目連が凡夫の間はそのことを知らなかった。証果を得た二乗となって、天眼を開いて見たところが母は餓鬼道に堕ちていたのである。あまりのことに「ああなんと嘆かわしいことか」ということもできないほどである。
 すぐに餓鬼道に行って飯を差し上げたところ、わずかに口に入れたかとみえたとたんに、飯は変じて炎となり、口は鉄がまのように、飯は炭をおこしたようであった。身は灯炬のように燃えだしたので、目連は神通を現じて、水を放出して消そうとしたところが、水は変じて炎となり、ますます火炎のように、燃えあがった。
 目連は、自分の力ではとうてい及ばないので、仏の前に走っていってこのことを申し上げ、仏の教えにしたがって、十方の聖僧を供養し、その生飯を取って、わずかに母の餓鬼道の苦しみを救われただけであった。
 釈迦仏は、誕生されて七日目に母の摩耶夫人に先き立たれ、あとに残られた。その時釈迦仏は凡夫であられたので母の生まれかわられたところをご存知なかった。三十歳の時、仏になられて、父の浄飯王を現身のまま教化して、証果を得た阿羅漢とされた。母のためには忉利天に昇られて摩耶経を説かれ、父母をともに阿羅漢とされたのである。これらのことをもって、爾前の経々を信ずる人々は、目連を孝養の二乗といい、釈迦仏を孝養の仏と思っているが、本義に立ち還ってみるならば、不孝の声聞であり、不孝の仏である。なぜならば、目連尊者ほどの聖人が母を成仏の道に入れられず、また釈迦仏ほどの大聖が父母を二乗の道に入れ申し上げて永不成仏の歎きを深くされるようにしたのを孝養というべきか、不孝というべきかは、はっきりしているからである。それについて、浄名居士は目連を謗って「六師外道の弟子である」といい、釈迦仏も自らを責めて「われ則ち慳貪の罪に堕ちるであろう。このことは全く良くない」等といっている。そうであるならば、目連は法華経を知らなかったので不孝の罪はまだ浅いといえよう。しかし釈迦仏は法華経を御存知でいながら、生きておられた父には惜しんでこれを説かず、また亡くなられた母に再び会われながら説かなかったので、これほどの大慳貪の人は、ほかに尋ねることができないのである。

目連尊者
 サンスクリットのマウドゥガリヤーヤナの音写。目犍連ともいう。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、神通(超常的な力)第一とされる。法華経授記品第6で、目連は未来に多摩羅跋栴檀香如来に成ると釈尊から保証された(法華経269㌻)。【竹杖外道に殺される】『毘奈耶雑事』巻18によると、目連は舎利弗とともに王舎城(ラージャグリハ)を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。【盂蘭盆経の目連】盂蘭盆経によると、目連は亡き母・青提女が物惜しみの罪で餓鬼道に苦しんでいるのを神通力によって知り、母を助けようとするが力及ばず、仏の教えに従って供養したことで、ようやく救うことができたという。これが盂蘭盆会の起源の一つとされる。
―――
餓鬼道
 餓鬼界のこと。餓鬼の世界。餓鬼が味わう苦悩の境涯。古代インドにおいて餓鬼はもともと「死者」を意味し、常に飢えて食物を欲している死者の世界をさした。「観心本尊抄」には「貪るは餓鬼」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる餓鬼界は、貪るすがたにうかがえると示されている。これに基づいて生命論では、とどまるところを知らぬ激しい欲望にとらわれ、それが満たされず心身ともに苦悩する生命状態を餓鬼界とする。
―――
証果の二乗
 見惑・思惑を断じて三明・六通を得たあらかんのこと。(1)三明、小乗の仏、阿羅漢果の聖者がもつ三つの明智。①に宿住智証明で過去のことに通達する。②に死生智証明で未来のことに通達する。③に漏尽智証明で現在のことに通達する。(2)六通、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。
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天眼
 五眼のひとつ。神々の目。昼夜遠近を問わず見えるという。
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かなへ
 鼎の字をあてる。三本足の鉄の釜。
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灯炬
神通
 神通力のこと。超人的な能力・はたらきをいい、仏・菩薩の有する不可思議な力用をさす。
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生飯
 日常の供膳の飯の上部を取り分けて側におき、鬼神や鳥獣などに供えるもの。三飯、三把、祭飯等とも書き、「さんば」、「さんぱん」ということもある。
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浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
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証果の羅漢
 仏や菩薩が有する6種の神通力を得た阿羅漢のこと。阿羅漢とは、声聞の最高位。
―――
忉利天
 サンスクリットのトラーヤストリンシャの音写。意訳が三十三天。古代インドの世界観で欲界のうちの六欲天の下から2番目。須弥山の頂上に位置し、帝釈天を主とする33の神々(三十三天)が住むとされる。
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浄名居士
 維摩詰・維摩居士のこと。サンスクリットのヴィマラキールティの音写。漢訳語は浄名、無垢称。維摩経に登場する中心人物。釈尊存命中にあった都市ヴァイシャーリーに住む在家の有力信仰者で大富豪でもある菩薩。維摩経によると、無量の諸仏を供養し、大乗仏教の奥義に通達し、仏法流布に貢献した。また非常な雄弁で、巧みな方便でよく衆生を教化した。ある時、維摩詰が病気になり、見舞いに行くことになったが、舎利弗・目連・迦葉らは論破されることを恐れて辞退した。そこで文殊師利が舎利弗らを伴って見舞いに行き、維摩詰と大乗の妙理について法論を行ったという。
―――
六師外道
 釈尊の存命中にガンジス川中流域のインド中心部に勢力のあった6人の仏教以外の思想の指導者のこと。六師は既成のバラモンの権威を否定して自由な思想を展開し、新興の王侯貴族・商人たちの支持と援助を受けた。それぞれが独自の主張をもち、当時の社会で新しい思想の代表とみなされていた。①富蘭那迦葉(プーラナカッサパ)。不生不滅を説き、人間はたとえ何を行っても悪にも善にもならないといい、業と応報の因果を否定する無道徳論者。②末伽梨拘舎梨子(マッカリゴーサーラ)。邪命外道を率いた外道。一切は無因無縁で、すべてはあるがごとくにあり、なるがごとくになると唱え、人間の意志による解脱は不可能であるとして、地水火風空および霊魂などの要素を認める無因論、自然主義的宿命論者。③珊闍耶毘羅胝子(サンジャヤヴェーラッティプッタ)。人知に普遍妥当性を認めず、世に不変の真理はないとし、一方的断定は論争を生じ、解脱の妨げになるという判断中止の思想を主張し、実践修行によって解脱を得ようとした懐疑論者。④阿耆多翅舎欽婆羅(アジタケーサカンバラ)。断滅論を説き、物心二元ともに断滅に帰し、人間は死ぬと無に帰す。したがって過去も未来もなく、善悪の業の果報も受けることがないとして、現世の快楽説と唯物説を主張した感覚論者。順世外道の祖とされる。⑤迦羅鳩駄迦旃延(パクダカッチャーヤナ)。地水火風の四元素と苦・楽・霊魂とが人間構成の七集合要素であるとみなす唯物論的七要素説者。各要素は常住不動で相互に影響作用しないとして、例えば剣で人を切っても生命を奪うことはできない、ただ剣が七要素の間隙を通過するだけであるなどと説く。無因論的感覚論者。⑥尼乾陀若提子(ニガンタナータプッタ)。ジャイナ教の祖。世界・霊魂の相対的常住を認める蓋然説をとり、苦行によって霊魂が物質から分離するとし、これを解脱と呼んでいる苦行論者で、苦行外道という。
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慳貪
 物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らないさま。慳貪には、財物を惜しむ財慳と、正しい教えを説くことを惜しむ法慳がある。慳貪は、死後に餓鬼界に生まれる因となる悪業とされる。
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 本章は目連と釈尊が母を苦から救った例を挙げられ、爾前経を信じる人々はこれを孝養であると思っているが、目連は餓鬼道の苦を抜いたのみで真実の孝養ではない、また、釈尊が父母を阿羅漢にしたのも同じで、一応、孝養に見えるが、かえって不孝者であると説いている。
 そして、真の孝養は父母を成仏させることで、それには法華経によらなければならないことを明かされたのである。したがって刑部左衛門尉女房が法華経をもって亡き母を供養したことは真の孝養であり、その功徳は絶大であると賞賛されたのである。
盂蘭盆行事と回向について
 盂蘭盆の行事は、目連尊者が餓鬼道に堕ちた母を救ったことより起こったものである。目連尊者は釈迦十大弟子の一人で、大目犍連ともいわれ、神通第一とうたわれた。
 しかし、その神通力で、母の青提女が、慳貪の罪によって、五百生のあいだの餓鬼道に堕ちていたことを知り、救おうとするが、自力では救うことができず、釈尊の教えを仰いで聖僧を供養し、やっと救うことができたという。
 しかし目連の供養は、小乗の教えによるもので、母を餓鬼道から救っただけで成仏させたのではなかった。故に本章でも「纔に母の餓鬼道の苦をば救い給へる計りなり」といわれ、盂蘭盆御書には「其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと」(1428-11)とあるとおり、真の成道ではなかったことを示している。
 当時、目連尊者は、二百五十戒を持っていて智慧もあり、神通力もあったが、まだ法華経が説かれる前であったから、法華経で根本的に母を救うことができなかったのである。このことは盂蘭盆御書に「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)とある。
 だが、その後、法華経が説かれ、小乗教の二百五十戒を捨て、法華経に帰命し信ずることにより、多摩羅跋栴檀香仏となったときに、母・青提女も成仏することができたのである。このことは、先祖あるいは亡くなった者への回向の原理であり、真の回向は、法華経でなければならないということである。
 盂蘭盆御書に「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ」(1429-07)とある。
 回向とは仏道修行によって得た功徳を、回し転じて亡くなった人に施すことであり、末法今時の真の回向、追善供養は、三大秘法の御本尊を信受し、唱題し、その功徳を先祖に供養すること以外にないことをよくよく知るべきである。
 したがって、盂蘭盆の供養も、三大秘法の御本尊を根本としなければならないことは、いうまでもない。しかもその功徳は私達の先祖だけでなく、未来の子孫まで流れていくのである。盂蘭盆御書(1430)に「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし」(1430-02)とあるごとく、いま、私達が広宣流布をめざして、仏道修行に励むことは、自己の福運として顕われるばかりでなく、子孫七代、否それ以上までもつづくのであると仰せである。
而るに浄名居士・目連を毀て云く六師外道が弟子なり等云云、仏自身を責めて云く我則ち慳貪に堕ちなん此の事は為めて不可なり等云云
 この文は爾前の諸経では真の孝養にならないことを、維摩経並びに法華経方便品の文を挙げて、示されているのである。
 「而るに浄名居士・目連を毀て云く六師外道が弟子なり等云云」はその出典は明らかでない。あるいは維摩詰所説経巻上弟子品第三に「若し須菩提、仏を見ず法を聞かず、彼の六師外道富蘭那迦葉……等、是れ汝の師にして、其れに因りて出家し、彼の師の堕する所に汝も亦随いて堕すれば乃ち食を取る可し」とある文の須菩提を目連とし、取意してのべられたのであろうか。二乗は利他の心を持たないゆえに、仏弟子ではないと破折された。したがって、二乗の法では、母の成仏は叶わないから、孝養の道とはならないのである。次に「仏自身を責めて云く我則ち慳貪に堕ちなん此の事は為めて不可なり」とは仏が自責される方便品の文で、爾前経では真の成仏の道を説かなかったゆえに慳貪の罪に堕ち、不孝の謗りをまぬかれないのである。さらに、これらの原典に、爾前無得道が、どのように述べられているかを見よう。
 先ず維摩経について見るなら、維摩経は小乗の偏見思想を弾呵して、大乗意識を持たせることに主眼を置いた経文で、その痛烈にして辛辣なまでの弾呵破折は、他経の追随を許さないとされている。在家の大富豪である浄名居士に語らせる形で展開しているが、いずれの声聞に対しても厳しく叱責し、開目抄に「しかれば迦葉尊者の渧泣の音は三千をひびかし須菩提尊者は亡然として手の一鉢をすつ」(0205-07)とあるほどであった。たまたま病の床にある浄名居士に対し、仏は声聞・菩薩たちに其の許を訪うように命じたが、各々はかつて居士より、手痛くその信心を難詰されたことがあるので、これを恐れて訪れようとする者はない。ついに文殊菩薩が居士を訪問して種々の問答を展開するのである。先にあげた「若し須菩提……」の文は須菩提がかつて居士より手痛く弾呵された時の居士の叱責の言葉である。このように各声聞が多く弾呵されていたのである。目連も痛烈に叱責されたが、今、大聖人は須菩提への弾呵の文を目連に宛てて説かれているのである。
 次に「我則ち慳貪に堕せん……」の文は法華経方便品第二の文で、過去の三乗の爾前経を開いて一仏乗を説かれる開三顕一の偈の中の文である。この文の前には「諸仏世に出でたまうには 唯だ此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず 終に小乗を以て 衆生を済度したまわず」と、一乗の法即ち仏乗のみが仏の説かんとした真実の法で、声聞・縁覚・菩薩の三乗は、あくまでも仏の方便の法であったこと、故に小乗においては衆生を救うことができないことを説かれている。ここで問題とする文は今の文に引きつづいて説かれた「仏は自ら大乗に住したまえり……自ら無上道 大乗平等の法を証して 若し小乗を以て 乃至一人をも化せば 我れは則ち慳貪に堕せん 此の事は不可と為す」の中にある。この文でいう小乗とは爾前の諸経を指して小乗教といわれるのであって、権大乗教も含まれる。この文の意は小乗済度は仏の本意でないこと、しかも小乗済度は衆生を地獄に堕とし、成仏の道を塞ぐことになり、真実を説かないから慳貪の罪をまぬかれないと、仏自らをも厳しく責められている文である。
 以上のごとく、爾前経においては目連も仏自身も真の孝養ができなかったことを挙げられて爾前経を破折しておられる。いま、爾前経に比ぶべきもない法華経の、しかも文底独一本門の教主釈尊である日蓮大聖人に、御供養した刑部左衛門尉女房の功徳のほどは、測り知れないものであることを暗に示されているのである。

1400:13~1401:11 第四章 真実の孝養を述べるtop
13   つらつら事の心を案ずるに仏は二百五十戒をも破り十重禁戒をも犯し給う者なり、 仏・法華経を説かせ給はず
14 ば十方の一切衆生を不孝に堕し給ふ大科まぬかれがたし、 故に天台大師此の事を宣べて云く 「過則ち仏に属す」
15 云云、 有人云く是れ十方三世の御本誓に違背し衆生を欺誑すること有るなり等云云、 夫四十余年の大小・顕密の
16 一切経並に真言.華厳・三論.法相・倶舎.成実・律.浄土・禅宗等の仏.菩薩・二乗・梵釈.日月及び元祖等は法華経に
17 随ふ事なくば何なる孝養をなすとも我則堕慳貪の科脱るべからず、 故に仏本願に趣いて法華経を説き給いき、 而
18 るに法華経の御座には父母ましまさざりしかば 親の生れてまします方便土と申す国へ贈り給て候なり、 其の御言
1401
01 に云く 「而かも彼の土に於いて仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」等云云、 此の経文は智者ならん人人
02 は心をとどむべし、 教主釈尊の父母の御ために説かせ給いて候経文なり、 此の法門は唯天台大師と申せし人計り
03 こそ知りてをはし候ひけれ、其の外の諸宗の人人知らざる事なり、日蓮が心中に第一と思ふ法門なり。
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 つくづくとこれらの事の本質を考えてみると、仏は二百五十戒をも破り、十重禁戒をも犯された者であるということになる。仏が、もし法華経を説かれなかったならば、十方世界の一切衆生を不孝に堕とす大科を免れることができないであろう。故に、天台大師はこのことを「その過は則ち仏に属す」と述べている。また、ある人は「これは十方三世の諸仏の本誓に違背して、衆生を欺き誑かすことである」といっている。
 仏が四十余年にわたって説いた大乗教・小乗教、顕教・密教などの一切経、ならびに真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・浄土・禅宗等の仏・菩薩・二乗・梵天帝釈・日天月天および諸宗の元祖等は、法華経に随わなければどのような孝養をしたとしても、「我則ち慳貪に堕せん」という科を脱がれることはできないのである。故に、仏は本来の誓願にしたがって法華経を説かれたのである。
 しかしながら、法華経の会座には父母がおられなかったので、親が生まれかわられている方便土という国へ法華経を贈られたのである。そのときの言葉に「しかも、彼の国において仏の智慧を求めて、この経を聞くことができる」といった。この経文に、智者である人々は心をとどめるべきである。これは教主釈尊が父母のために説かれた経文である。この法門は、ただ、天台大師という人だけが知っておられ、その外の諸宗の人々は知らないことである。そして日蓮が心の中で第一と思う法門である。
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04   父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし、 教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて候、日
05 蓮が母存生してをはせしに仰せ候し事をも・あまりにそむきまいらせて候しかば、 今をくれまいらせて候が・あな
06 がちにくやしく覚へて候へば一代聖教をカンガへて母の孝養を仕らんと存じ候間、 母の御訪い申させ給う人人をば
07 我が身の様に思ひまいらせ候へば、 あまりにうれしく思ひまいらせ候間あらあら・かきつけて申し候なり、 定め
08 て過去聖霊も 忽に六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん、 此の法門を知識に値わせ給いて度度きかせ給う
09 べし、日本国に知る人すくなき法門にて候ぞ、くはしくは又又申すべく候、恐恐謹言
10       十月二十一日                    日 蓮 花 押
11     尾張刑部左衛門尉殿女房御返事
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 父母に孝養しようとする意志のある人々は父母に法華経を贈るべきである。教主釈尊も、父母への孝養のために法華経を贈られている。日蓮は母が生存していたおりは、母のいわれたことにあまりに背いてきたので、今母に先立たれてしまったが、大変に残念に思われてならない。
 そこで一代聖教をかんがえて、母への孝養をしようと思っている。そんな折であるから、母を弔おうとされる人々をみると、自分のことのように思われる。したがってあなたが母の供養を願われたことが、あまりにうれしく思われるので、父母孝養の法門をざっと記したのである。必ずや、亡くなられたあなたの母親の霊も、たちまちに、六道の苦しみと穢れを離れて霊山浄土へ参られるであろう。この法華経の法門を善知識にあって度々聞かれるべきである。日本国に知る人の実に少ない法門なのである。くわしくは、またおりをみて申しあげよう。恐恐謹言。
  十月二十一日          日 蓮  花 押
   尾張刑部左衛門尉殿女房御返事

二百五十戒
 男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
―――
十重禁戒
 大乗の戒の一つで、梵網経巻下に説かれる十種の重大な禁戒をいう。
   ① 快意殺生戒  いたずらに生命あるものを殺害することを禁じた。
   ② 劫盗人物戒他 人の財物を盗むことを禁じた。
   ③ 無慈行欲戒無 慈悲に淫事を行なうことを禁じた。
   ④ 故心妄語戒人 にうそをついて、邪見や不正行為をさせることを禁じた。
   ⑤ 酤酒生罪戒  人に酒を売って転倒の心を起こさせることを禁じた。
   ⑥ 談他過失戒  人の罪過を説くことを禁じた
   ⑦ 自讃毀他戒  自分を讃め他人を謗ることを禁じた。
   ⑧ 慳生毀辱戒  人に教えを施さず、人を罵ることを禁じた。
   ⑨ 瞋不受謝戒  瞋りの心で相手の謝罪を受け入れないことを禁じた。
   ⑩ 毀謗三宝戒  仏宝、法宝、僧宝(信仰する者の集い)の三宝を謗ることを禁じた。
―――
我則堕慳貪
 法華経方便品第二の文。「自ら無上道大乗平等の法を証して、若し小乗を以って化すること乃至一人に於いてもせば、我則ち慳貪に堕せん、此の事は為めて不可なり」とある。
―――
本願
 ①仏・菩薩が過去世に衆生を救うために発した誓願のこと。証得の果に対して、因位の誓願をいう。本弘誓願、本誓ともいう。2種(総願・別願)に分類される。総願はすべての仏・菩薩に共通の誓願で、四弘誓願がこれにあたる。別願はそれぞれの仏・菩薩の固有の誓願で、例えば阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二大願などがこれにあたる。また浄土宗では阿弥陀仏の四十八願のうち第十八願(念仏往生)を特に本願(王本願)と呼んでいる。②寺を建立した願主のこと。
―――
方便土
 四土の一つで方便有余土のこと。見思惑を断じ、三界の生死を離れた人が住する国土のこと。まだ無明惑を断じ尽くしていないがゆえに有余という。二乗・地前の菩薩の住処。
―――
一代聖教
 釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。
―――
霊山浄土
 法華経の説法が行われた霊鷲山のこと。久遠の釈尊が常住して法華経を説き続ける永遠の浄土とされる。日蓮大聖人は、法華経の行者が今ここにいながら往還できる浄土であるとともに、亡くなった後に往く浄土でもあるとされている。
―――
知識
 漢語の「知識」は友人、仲間の意。善知識をさすことが多い。正しく仏道修行へ導き、ともに励む人。
―――――――――
 本章は、仏がその本願であった法華経を説くことによって、慳貪の罪科から脱れることができたこと、さらにその経を亡き父母に贈ることによって、父母への孝養ができたことを説かれている。その法華経こそ日蓮大聖人も、心中最第一と思う法門であると法華経を讃歎され、その法華経によって追善供養された刑部左衛門尉女房の亡き母は必ず成仏することを述べられ、さらに得難い仏法を強く求めるように教示されているのである。
其の御言に云く「而かもの土に於いて仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」等云云、此の経文は智者ならん人人は心をとどむべし
 「而かも彼の土に於いて云云」は、法華経化城喩品の文である。大聖人はこの文を引かれて、釈尊が法華経を説いて亡き父母に贈ったことで、その孝養が全うできたことを証明されている。この文は、法華経のみが、真の孝養の教えであることを示す意義の深い文なので、「智者ならん人人は心をとどむべし」と申されるのである。
 これは一往の権実相対の立ち場で述べられているが、大聖人の内証よりみるならば「是の経」は三大秘法の仏法であって、この三大秘法によらなければ、真の成仏も真の孝養もないのである。天台は、これを知っていたが、説くことができなかった法門である。これこそ「日蓮が心中に第一と思ふ法門」なのである。
 この三大秘法の法門を贈るということは、三大秘法の御本尊に対し南無妙法蓮華経と唱え、その功徳を回向することである。このように題目を唱えることが、自身の成仏を可能にし、ひいては亡き父母の成仏をも決定するのである。

1401~1401    春麦御書top
舂麦御書
01   女房御参詣こそゆめとも・うつつとも・ありがたく候しか、心ざしいちのはせ申す、 当時の御いもふゆのたか
02 うなのごとしあになつのゆきにことならむ。
03   舂麦一俵・芋一篭・笋二丸給い畢んぬ。
04       五月廿八日
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 女房殿の御参詣は、夢とも現とも判じがたいほどありがたく、うれしいことでありました。御志は、実に手あつく、真心のこもったものです。今の時期のお芋ほどめずらしく、冬の筍のようであり、それは、まさに夏の雪にも異ならず珍しいものです。
 舂麦一俵・芋一篭・筍二本いただきました。
       五月廿八日

いちのはせ
 第一の御馳走。
―――
いも
 里芋のこと。
―――
かたうな
 タケノコのこと。
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舂麦
 大麦を臼でつき、平たくしたもの。
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 本抄は、宛名も、年号もないため、女房とは誰人の女房のことであるか不明である「女房の御参詣」とあるが、女房自身に与えられたものと思われるし、女房の参詣についてその夫に対する御礼とも考えられる。「心ざしいちのはせ申す」とあるように、真心こめて大聖人への信心がうかがわれるところから、信心強盛であったにちがいない。
 女房の御参詣を「ゆめとも・うつつとも・ありがたく候いしか」とあり、さらに春麦とか芋とか筍という御供養の品からみても、遠方の人ではないようである。
 年号もはっきりしないが、女房の御参詣ということからも、身延時代であることはまず間違いない。旧暦の5月末に届いたということは、今の6月末か7月初めであるから、里芋の出る時期としてはまことに珍しいことで、ことのほか大聖人のお喜びが推察される。
 当時の大聖人への御供養は、遠く離れた鎌倉からの信者からは、金銭が多く、身延の山での生活を直接支える食物の御供養は、身延周辺ないし駿河にいた信者を中心にするものが多かった。
 いずれにしても、この女房の参詣と供養を、大聖人は、とくに喜ばれ、深くその信心の真心をたたえておられるのである。供養の御心にことよせて、その信心を愛でられていると拝すべきであろう。