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日蓮大聖人御書講義4下0159~0185

         十一通御書について
0169~0169    宿屋入道への御状
0169~0170    北条時宗への御状
  0169:01~0170:02 第一章 安国論の予言符号を示す
  0170:03~0170:09 第二章 正法への帰依を勧める
  0170:09~0170:15 第三章 諸宗との公場対決を迫る
0170~0171    宿屋左衛門光則への御状
0171~0172    平左衛門尉頼綱への御状
  0171:01~0171:04 第一章 再度の諌暁の目的を示す
  0171:05~0171:08 第二章 一乗妙法の信受を勧む
  0171:08~0172:05 第三章 式目を挙げ対決の公許を求む
0172~0173    北条弥源太への御状
0173~0173    建長寺道隆への御状
  0173:01~0173:06 第一章 四箇の格言を示し諸宗を破折
  0173:06~0173:15 第二章 浄諸宗による蒙古調伏は不可能
0174~0174    極楽寺良観への御状
  0174:01~0174:06 第一章 経文通りの僭聖増上慢と断ず
  0176:06~0174:12 第二章 公場での対決を強く迫る
0174~0175    大仏殿別当への御状
0175~0175    寿福寺への御状
0175~0176    浄光明寺への御状
0176~0176    多宝寺への御状
0176~0177    長楽寺への御状
0177~0177    弟子檀那中への御状
0178~0178    問注得意抄
  0178:01~0178:04 第一章 問注の実現を喜ばれる
  0178:04~0178:09 第二章 問注に際する心構えを教示される
  0178:09~0178:11 第三章 師檀相応して大事なることを教える
0179~0179    行敏御返事
0180~0182    行敏訴状御会通
  0180:01~0180:03 第一章 訴人を明記し訴状の目的を示す
  0180:04~0180:07 第二章 諸宗を非とする根拠を示す
  0180:07~0180:11 第三章 法華のみを真実とする根拠を示す
  0180:12~0180:15 第四章 爾前妄語の論難に答える
  0180:15~0181:05 第五章 念仏無間の論難に答える
  0181:05~0181:07 第六章 禅天魔への論難に答える
  0181:07~0181:13 第七章 律宗を誑惑の法と論断する
  0181:13~0181:16 第八章 阿弥陀仏の仏像を焼くとの難を破す
  0181:16~0182:03 第九章 凶徒・兵杖を集めるとの非難に答える
  0182:03~0182:07 第十章 良観等の妄語の讒奏を破す
  0182:07~0182:17 第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す
0183~0184    一昨日御書
  0183:01~0183:08 第一章 立正安国の予言の的中を挙げる
  0183:08~0184:03 第二章 平左衛門尉に国を安ぜよと諌める
0184~0185    強仁状御返事
  0184:01~0184:05 第一章 勘状に対し公場対決を促す
  0184:05~0185:02 第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる
  0185:02~0185:10 第三章 亡国の元凶・真言を破す
  0185:11~0185:17 第四章 死身弘法の心情をのべる

         十一通御書について
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 文永5年(1268)閏正月に蒙古から初めての牒状が幕府に到来し、これを機に、同年8月21日に著された宿屋入道への御状、10月11日の11通の御状、および同じ日に著された弟子檀那中への御状は、同じ背景のもとに著されたものであるので、ここではこれらをまとめて「十一通御書」とし、講義することにする。
  なお「11通の御状」のみを古来、「十一通御書」と呼称されていること付記しておく。
立正安国論で国家諌暁
 日蓮大聖人は文応元年(1260)7月16日、39歳の御時、立正安国論を著され、宿屋入道光則を通じて、時の鎌倉幕府の最高権力者・北条時頼に提出された。第1回の国主諌暁である。
 当時、時頼は第5代執権職を退いて、最明寺に出家しており、第6代執権には北条長時が就いていたが、依然として幕府の権力は時頼が握っていた。大聖人はこの実質的な“国主”である時頼に対し諌暁されたのである。諌暁とは、国の重大事について、指導者の迷いや誤りを聞き、諌め暁すことである。
立正安国論は奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-02)と仰せられているように、正嘉元年(1275)の大地震を契機として執筆・上呈を決意されたものである。
全体が客と主人の10問9答で構成されており、客の最後の言葉は主人の答えも兼ねている。客とは、宗教の正邪を知らず誤った宗教に執着し、迷妄に覆われた一切衆生をさすが、別しては北条時頼を想定されている。主人とは、仏説にのっとり真実を究めた人で、いうまでもなく日蓮大聖人御自身のことである。
 安国論の内容を要約すれば、当時、日本の国を襲っていた天災・飢饉・疫病等は、世の人々が皆、正法に背いて悪法を信じているゆえに、国土を守護すべき善神が去って、悪鬼・魔神が住みついていることに根本原因があることを金光明経等の4経の文を引いて示される。そして、その背正帰邪をもたらした「一凶」は日本の念仏宗の開祖・法然の邪義であると喝破され、この一凶を断じて正法に帰依することが平和楽土実現の道であると論じられている。
 そして、もしこれを早く実行しなければ、七難のなかでまだ起こっていない自界叛逆難と他国侵逼難の二難が必ず起こるであろうと予言され、速やかに正法に帰依するよう強く訴えて結ばれている。
上呈契機に値難始まる
 当時は日本中の人々が熱狂的に念仏を信仰していた時代であるから、大聖人はこの諌暁が重大な迫害をもたらすことを覚悟されていた。
 果たせるかな、日蓮大聖人の諌言は、直ちに念仏者の知るところとなり、彼らは北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾に、安国論上呈から約40日後の文応元年(1260)8月27日の深夜、松葉ケ谷の大聖人の草庵を襲い、大聖人を暗殺しようとしたのである。この時、大聖人は奇跡的に法難を逃れ、下総の壇越・富木常忍のもとに身を寄せられた。
 翌弘長元年(1261)鎌暮へ帰られた大聖人を、幕府は念仏者の訴えによって捕え、5月12日、伊豆の伊東へ流罪したのである。
 弘長3年(1263)2月に伊豆伊東から赦免になられ、その翌文永元年(1264)7月5日、東北の空に凶瑞である大彗星が現れたことから、大聖人は安国論で予言した自界叛逆難・他国侵逼難の二難が現実のものとなることを確信されたのである。
 安国論の上呈から9年後の文永5年(1268)、日本国にとって重大事件が勃発した。蒙古国のフビライ汗から牒状が到来したのである。フビライ汗は南栄を滅ぼして中国本土を領土に組み入れた元の世祖である。
 属国であった高麗の藩阜が蒙古の使者として牒状を携え、九州の太宰府へ上陸、同年閏正月18日、牒状は鎌倉幕府に届けられた。
 牒状は、表向きは友好を求めるというものであったが、実質的には蒙古の威に服して属国となり、貢ぎ物をせよ、と日本に迫ったものであった。
 驚いた幕府は第7代執権・北条政村が連署に退き、18歳北条時宗が第8代執権となって蒙古の襲来に備えた。
 このように、大聖人の予言が見事に的中したという現実を前にしてもなお、幕府は大聖人の諌言を用いず、教えを請おうとしないばかりか、国中の神社・仏閣に対して蒙古調伏の祈禱を命じたのである。
 大聖人は、同年4月5日、幕府の中枢に関係があったと思われる法鑒房へ安国論御勘由来を送られた。
 しかし、これに対する反応もなかったため、同年8月21日、かつて北条時頼に安国論を提出したときに、仲介の労をとった宿屋入道光則へ書状を送り、安国論の予言が的中したことを指摘し、北条時宗と対面するうえからも、宿屋入道に見参したし旨を申し入れられている。
「十一通御書」は11通の陳状
 しかし、またしても、何の反応もないことから、大聖人はその背後に諸宗の策動があることを見抜かれ、文永5年(1268)10月11日、幕府要人と鎌倉の諸大寺へ、計11通の陳状を認め、送られた。これを称して古来から「十一通御書」と呼んでいるのであるが、これは正式の御書名ではなく、11通の陳状と呼ぶべきではなかろうか。
 すなわち「北条時宗への御状」「宿屋左衛門光則への御状」「平左衛門尉頼綱への御状」「北条弥源太への御状」「建長寺道隆への御状」「極楽寺良観への御状」「大仏殿別当への御状」「寿福寺への御状」「浄光明寺への御状」「多宝寺への御状」「長楽寺への御状」の計11通であり、平左衛門尉頼綱の御状にその名前が列記されている。御真筆は現存しない。
 趣旨からして内容的には、ほとんど共通している。まず、蒙古の来牒で立正安国論の他国侵逼難の予言が的中したことを指摘され、大聖人の主張を一刻も早く用いるべきであるにもかかわらず、鎌倉幕府、依然として邪法に執着し、諸宗に蒙古調伏の祈禱を行わせていることを責められ、このうえは諸宗との公場対決によって、仏法の正邪を明確にすべきであると、強く迫られている。
 これら11通の御状が宛てられた11人の人物については、それぞれの章で詳述するが、大きく分けて幕府関係者と、鎌倉仏教界を代表する大寺の高僧とになる。
 もちろん、諫暁書という観点からいえば「十一通御書」を送られた中心は、執権である北条時宗であるが、当時、時宗はまだ18歳で若く、執政経験も浅いため、側面的影響を考慮され、11人になったのであろうか。
 つまり、近侍で有力者だった宿屋光則、侍所の所司として幕府の実権を握ってい平左衛門尉、執権と親族関係にあった北条弥源太、そして幕府に対して影響力をもっており、大聖人に敵対していた極楽寺良観・建長寺道隆など仏教界の7大寺が選ばれたと拝察される。
 ちなみに、他国侵逼難とともに予言されていた自界叛逆難は「十一通御書」御述作4年後の文永9年(1272)2月、執権・時宗の異母兄・北条時輔の謀反の陰謀が発覚し、四条金吾の主君である江馬(名越)光時の弟である名越時章・教時兄弟らとともに誅殺される事件となって現れている。いわゆる「二月騒動」である。
 この「十一通御書」について、日蓮大聖人は後の健治2年(1276)3月に御述作の種種御振舞御書で次のように記されている。
 「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す」(0909-01)
 すなわち、蒙古からの牒状が届き、かって立正安国論で経文で引いて記した予言が的中したのである。ゆえに安国論は白楽天の楽府にも、仏の未来記にも超過している。これほどの不思議はない。賢王や聖主の時代であるなら、日本第一のおほめにもあずかって、軍議や蒙古調伏の相談もあろうと思ったのに、幕府からは何の沙汰もなかったので、11通の書状を書き各所へ送った、という意である。
「十一通御書」に対する反響
 この11通の陳状に対し、どのような対応がなされたかということについては、先の種種御振舞御書の続きで触れられている.
 「国に賢人なんども・あるならば不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、天照太神・正八幡宮の此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず、設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり」(0909-05)
 すなわち、国内に賢人等がいるならば「予言の的中はまことに不思議なことだ、これはただごとではない。天照太神等がこの僧に託宣し、救国の方法を計られたのではないか」と思うべきであるのに、そうではなく、して、ある者はこの書状を持っていった使いを悪口し、ある者は嘲りある者は受け取りもせず、ある者は受け取っても返事さえしなかった。ある者は返事はしたが執権へ取り次ぐこともしなかった、とその対応の仕方を述べられている。
 そして、これはただごとではない。たといこの書状の内容が日蓮の一身上のことであったとしても、国主となって政治をつかさどる立場の人々は、それを執権に取り次いでこそ政道の法にかなう行為といえる。まして今、日蓮が訴えていることは、幕府にとって大事件に関することであり、各人の身にあたって大きな嘆きとなる問題である。それなのに日蓮の忠告を用いないまでも、悪口まで言うとは非道もきわまりない、との意である。つまり、彼らは大聖人の諌言を受けようともせず、それどころか、大聖人を僉議にかけ、流罪・死罪の重罪に処そうと考えたのである。
 もとより大聖人は、こうした厳しい弾圧の動きが出てくるであろうことを覚悟のうえで、「十一通御書」をしたためられたのであった。
 これは、「弟子檀那中への御状」のなかより、そのことが拝察できる。すなわち「日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ 方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐る」(0177-01)と、必ず大聖人一門に厳しい弾圧がくるのであろうと述べられ、その覚悟を促されている。
 幕府要人たちへの諌暁は、文永6年(1269)11月に再び行われたことが、下総の大田金吾へ与えられた金吾殿御返事にうかがわれる。
 「去年方方に申して候いしかども・いなせの返事候はず候、今年十一月の比方方へ申して候へば少少返事あるかたも候、をほかた人の心もやわらぎて・さもやとをぼしたりげに候、又上のけさんにも入りて候やらむ」(0999-04)
 すなわち、再度の諫状に対しては少々の返事はあった。大聖人に対する感情も和らぎ、大聖人の言っていることにも一理があると考えるようになった模様であり、また執権の目にもはいったのであろう。と述べられている。
 とはいえ、このように冷静に受け止める人も出てきた反面、ますます大聖人の憎悪を燃やし、弾圧を画策する働きも強まっており、それが文永8年(2271)竜口の法難、佐渡流罪という形で表れていくのである。

0169~0169    宿屋入道への御状top
0169
十一通御書   文永五年八月    四十七歳御作    於鎌倉
宿屋入道への御状    文永五年八月    四十七歳御作    与宿屋光則    於鎌倉
01   其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候、抑去る正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引
02 いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に 日本守護の諸大善神瞋恚を作して起す所の災なり、 若
03 し此れを対治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由 勘文一通之を撰し正元二年庚申七月十六日御辺に付け奉
04 つて故最明寺入道殿へ之を進覧す、 其の後九箇年を経て 今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、 経文
05 の如くんば 彼の国より此の国を責めん事必定なり、 而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人
06 たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参
07 を遂げて申す可く候、恐恐謹言。
08       文永五年八月二十一日                   日 蓮 花 押
09     宿屋左衛門入道殿
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 その後は、音信も絶えており、不審極まりない。そもそも去る正嘉元年八月二十三日午後九時ごろの大地震について、日蓮は諸経を引いて、これを勘えたが、これは幕府が念仏宗と禅宗等とを御帰依されているので、日本国を守護する諸大善神が瞋って起こした災いである。もしこれを対治しなければ、他国から攻められ亡びるであろうとの勘文一通を撰し、正元二年七月十六日、貴殿を通じて故最明寺入道殿に進覧したのである。
 その後九年を経た今年、大蒙古国から牒状が来たといううわさを聞いた。経文の示すところに依れば、彼の国からこの国に攻め寄せてくることは必定である。
 しかも彼の西戎を調伏する者は、日本国の中では日蓮一人であると、かねてからこれを知り、立正安国論にも勘えておいたのである。
 君のため、国のため、神のため、仏のため、貴殿から北条時宗殿へ内奏してもらいたい。委細のことは、見参のうえで申し上げましょう。恐恐謹言。
       文永五年八月二十一日                   日 蓮 花 押
     宿屋左衛門入道殿

念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
日本守護の諸大善神
 日本国を守護する諸天善神のこと。諸天善神は梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王をはじめとする一切の諸天・諸菩薩の総称。
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瞋恚
 怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
―――
勘文
 勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
―――
最明寺入道
 北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
―――
進覧
 進めて御覧にいれること。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
風聞
 ほのかに聞くこと。うわさ。
―――
西戎
 ①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
―――
内奏
 内密に奏上すること。
―――
見参
 対面・お目にかかること。
―――
宿屋左衛門入道
 略して宿屋入道と呼ばれる。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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 この御状は文永5年(1268)8月21日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉松葉ケ谷の草庵でしたためられ、執権・北条時宗の側近として仕えていた宿屋左衛門入道光則に与えられた書である。
 宿屋左衛門入道光則は、宿屋左衛門入道、宿屋入道、宿屋光則、宿屋禅門とも呼ばれる。光則の韓、法名は最信、生没年は不明である。
 吾妻鏡巻51には、弘長3年(1263)11月、北条時頼の臨終に際して、最後の看病のため出入りを許された7人のなかに宿屋左衛門の名が見られる。
 「十九日、丙申、相州禅室の御病痾・縡すでに危急に及ぶ。よって最明寺北亭に渡御ありて心閑に臨終せしめたまふべきの由思しめし立つ。尾藤太・法名浄心・宿屋左衛門尉・法名最信等に仰せて、群参の人を禁制すべきの由と云々。
 廿日、丁酉、早旦北殿に渡御す。ひとえに御終焉の一念に及ぶ。昨日厳令を含むの両人、固くその旨を守り人々の群参を禁制するの間、すこぶる寂寞たり。御看病のために六七許輩祇候するのほか人なし。いはゆる、武田五郎三郎、南部次郎、長崎次郎左衛門尉、工藤三郎右衛門尉、尾藤太、宿屋左衛門尉、安東左衛門尉等なり」
 日蓮大聖人は文応元年(1260)7月16日、当時、側近であった宿屋入道を通じ、時の実権者・北条時頼へ立正安国論を提出された。
 そして文永5年(1268)閏1月に蒙古国の牒状が鎌倉へ到着した時、大聖人は同年8月21日本書を、10月11日、11通の御状のうちのひとつを宿屋入道に送り、北条時頼の子であり執権となったばかりの北条時宗への取り次ぎを依頼されている。
 宿屋入道は極楽寺良観に帰依し、律と念仏を信仰していたが、後に大聖人の教えを信ずるようになったと伝えられている。
 この宿屋入道の御状で大聖人は、立正安国論で念仏宗と禅宗を重んじているところに災難の原因があり、この誤れる宗を対治しなければ他国から攻められると予言したことに触れ、その通りに蒙古が日本を攻めようとしているが、これを「調伏」できるのは日蓮一人であることを執権に内奏してほしいとしたためられている。
大地震は諸天善神による治罰
 冒頭の「其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候」との仰せは、日蓮大聖人が先に宿屋入道を通して立正安国論を上呈されたが、その後、入道から何の音信もないことから、このようにまず記されたと考えられる。
 続いて、安国論を御述作された由来と、そこで他国侵逼の難を予言しておられたことを述べられている。すなわち、正嘉元年(1275)8月23日の午後9時ごろ、鎌倉を襲った大地震を機縁に、そのような災難がなぜ起こったのか、金光明経など四経をひもといて勘えたところ、それは幕府の権力者たちが「念仏と禅宗等」の邪法に帰依しているゆえであり、そのため日本国守護の諸大善神が瞋って起こした災いであるとの結論を得たと述べられている。
 正嘉元年(1275)の大地震は吾妻鏡巻47によると、この年、度重なる地震の記録が見られるが、なかでも8月23日戌刻の大地震では、神社・仏閣や人家が多く崩壊し、山崩れ、地割れ、湧き水などが続出、大地の裂け目から炎が出たなどが記されている。
 もとより、災難はこの正嘉の地震だけでなく、この前後に疫病や旱魃など、さまざまな災厄が、毎年のように日本に起き、多くの犠牲者が出ていた。そのように次々と災いが起きる原因がどこにあり、どうすれば人々の苦しみをなくすことができるかを究明し訴えられたのが立正安国論だったのである。
 なお、立正安国論では災厄の元凶を法然の念仏宗に絞って論じられているが、法華経を誹謗して立てられた謗法の宗であることが元凶たる所以もある。しかも、幕府内において重んじられていたのは念仏だけではなく禅宗も有力であったので、この御状では「念仏宗と禅宗等を御帰依有るが故」と述べられたと考えられる。
 もし「此れを対治無くんば」、つまりそうした念仏・禅などの謗法の諸宗への信を捨てなければ他国からの侵攻で国が滅びるとの旨を「勘文」、すなわち立正安国論として著し、正元2年(1260)7月16日、宿屋入道を通して「故最明寺入道殿」へ「進覧」したのであると、上呈の経緯について振り返られている。正元2年(1260)は4月に改元され、文応元年になるが、ここでは、「正元」年号を用いられている。
 そして、この立正安国論上呈から9年を経て、文永5年(1268)のこの年、蒙古からの牒状が到来したことを風聞で知ったと、安国論の予言の的中したことを述べられている。特に「風聞」と言われているのは、本来なら宿屋入道から直接大聖人に知らせがあって当然ではないかとの意が込められていると拝される。
蒙古の襲来必定なるを訴う
 経文の通りならば蒙古が侵攻してくることは必定であるが、この蒙古を調伏できる人は、日本国にあっては日蓮一人しかいないと、かねてから知っていたゆえに“国を安ずる書”として立正安国論を著したのであると述べられている。
 「調伏」とは本来、身・口・意の三業を調えて、もろもろの悪を制して伏させることをいったが、転じて、敵が攻めようとしているときに、祈りによって攻めこまれなしようにすること、敵を敗北させることをいうようになった。
 なお「西戎」とは、もともと漢民族が四方の異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と呼んでいたことから来たもので、ここでは日本にとっての西方の異民族という意味で用いられたと拝される。
 最後に「君の為・国の為・神の為・仏の為」に執権・時宗に内奏してほしいと促されている。
 国運を左右する重大事だけに、執権の内奏の労をとるよう促され、詳しいことは対面した時に申し上げるとして、本書を結ばれている。「内奏」は、直接の奏上ではなく、近侍である宿屋入道から内々に大聖人の心を執権・北条時宗に奏上してほしいということである。

0169~0170    北条時宗への御状top
0169:01~0170:02 第一章 安国論の予言符号を示すtop
北条時宗への御状
01   謹んで言上せしめ候、 抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えた
02 ること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、 日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、 然る間重ねて
03 此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば
04 重ねて又四方より責め来る可きなり、 速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、 彼を調伏せられ
0170
01 ん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、 諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、 国
02 家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
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 謹んで申し上げる。そもそも去る正月十八日に、西戎大蒙古国から牒状が到来したという。これは、日蓮が先年、諸経の要文を集めて勘えた立正安国論の予言の通り少しも違わず符合したのである。日蓮は未来の出来事を知るゆえに聖人の一分に当たる。
 そこで重ねて、このことを諌言申し上げるのである。急いで建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めなさい。もし止めなければ、この上にまた四方の国々から責めてくるであろう。速やかに蒙古国の人を調伏して、我が国の安泰を計るべきである。蒙古を調伏することは、日蓮でなければできないのである。
 主君を諌める忠臣がいれば、その国は正しく、親を諌める孝子がいれば、その家は真っすぐになる。国家が安泰であるかないかは政道が正しく行われるか否かにより、仏法の邪正は経文の明鏡によるのである。

言上
 目上の人に申し上げること。
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西戎
 ①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
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蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
普合
 一致すること。
―――
未萠
 まだ起こっていないこと。未来の出来事。
―――
建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
―――
浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
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大仏殿(鎌倉)
 大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
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諌臣
 主君の誤りを諫める家臣。
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争子
 親の悪を諫める子供。
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 この御状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、「11通の御状」の第一として、鎌倉・松葉ケ谷の草庵でしたためられ、宿屋入道を通じて執権・北条時宗に送られた書である。
 北条時宗は、第5代執権・北条時頼の嫡子で、幼児から文武に練達し、将来を嘱望されていた。文永元年(1264)連署、文永2年(1265)相模守となり、文永5年(1268)3月、18歳で第8代執権となった。この年閏正月に蒙古から国書が到来し、この国難に対処するために挙国体制として、時宗が執権に推挙されたと考えられる。
 同8年(1271)再び来牒があり、同9年(1272)2月には一門の名越時章や異母兄の北条時輔の謀反事件が起きている。
 更に文永11年(1274)と弘安4年(1181)の2度にわたって蒙古の襲来があり、時宗の執権時代はまさに多事多難の時期であった。
 一方、時宗は禅宗に帰依し、弘安2年(1279)に中国から無学祖元を迎え、同5年(1282)には円覚寺を創建、後に出家して道果と称した。
 日蓮大聖人に対しては、中興入道消息に佐渡流罪の赦免をめぐり、「御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども・相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて」(1333-14)、また窪尼午前御返事には「かうのとのは人のいゐしに.つけて・くはしくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・をぼしてゆるさせ給いて(1478-03)と記されているように、とかく偏見にとらわれがちであった一門の人々とは違った見解をもっていたことがうかがわれる。また大聖人が竜の口の頸の座直後、大聖人を無罪放免すべきだとの考えをもっていたことが種種御振舞御書に記されている。
 しかし、蒙古軍を迎え撃つ準備・交戦で、鎌倉幕府は力を使い果たし、内には平左衛門尉らが横暴をふるうなかで時宗は弘安7年(1284)4月、34歳の若さで死んだ。
 本御状の内容は、蒙古から牒状が届いたことにより、文応元年(1260)7月16日に時宗の亡き父・北条時頼に提出した立正安国論の予言が「普合」したことを指摘され、この未曾有の国難を防ぐには、速やかに建長寺などの諸大寺への帰依・布施を止めよ、そうでなければ、四方から攻められるであろうと諌められている。
 そして、大聖人の諌言をなおざりにしてはならない旨を訴えられたうえで、具体的には「所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合わせ仏法の邪正を決し給え」と、大聖人と諸宗との公場対決を実現し、時宗が客観的に判断して決断するよう求められている。
他国侵逼難の予言が的中
 冒頭、まず、この年の閏正月18日に蒙古から牒状が到来した事実について、それが立正安国論の予言通りであることを指摘され、このころを踏まえて「日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり」と仰せられている。
 「未萠」とは草木のいまだ萌芽を生じない姿を、事のいまだ起こらないのにたとえたもので、まだ起きていない未来の出来事をいう。未来の出来事を前もって正しく知っている人を聖人というのである。
 三沢抄に「聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」(1488-09)と御教示されている。予言が的中したことは、日蓮大聖人がまぎれもなく「未来の事」を知る聖人であられる証左である。
 なお、「聖人」の呼称は内道・外道ともに共通して用いられているので、ここに聖人について考察しておきたい。
「聖人」について
 儒教では、賢人は500年に一人出て、聖人は1000年に一人出る等といい、知恵優れて万事に通建し、万人が尊敬してやまない理想の人物を聖人と称した。中国古代の帝王とされる唐堯・虞舜等、また孔子・老子等がそれである。
 しかし、これらの聖人は生命の三世観のうえから過去・未来を知らないために、真の聖人ということはできない。ゆえに大聖人は開目抄で「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」(0186-12)と仰せられている。
 大聖人は、撰時抄で「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(0287-08)と、過去・現在・未来を正しく知っているところに、「聖人」たる特質があるが、外典における聖人と、内典における聖人との違いについても明示されている。
 外典の聖人の知る「未萠」とは、現実世界において未来に起きることである。それに対して内典の聖人は、それだけでなく「三世」を知る。
 「三世」とは、「現世」と、この世に生まれる以前の「過去世」、死後の「未来世」である。ところで、このように「未萠」あるいは「三世」を知るのは、いわゆる神通によるのではなく、事象の法則に通達しているということである。科学の世界でも同じことがいえるが、不変の法則を正しく洞察した時に、事象や未来が予見できるのである。
 仏法における聖人つまり「仏」は生命の法理を究めているゆえに、「三世を知る」ことができるのである。
 大聖人は聖人知三世事で「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と定義されたうえで、御自身を「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)と明言されている。「一閻浮提第一の聖人」であられるゆえに「大聖人」と申し上げるのである。
 以上のように「未萠」を知るだけの外典の聖人と、「三世」を知る内典の聖人とには違いがあるが、内典の聖人にとって、外典の聖人の知る範疇である「未萠」を知るのはたやすい。ゆえに、大聖人は蒙古襲来を「未萠」の内から知っておられたことをもって、御自身が「聖人の一分」に当たる証拠とされたのである。この「一分」という表現が御謙遜の意であることはいうまでもない。
未曾有の国難を救う方途
 「然る間重ねて此の由を驚かし奉る」との仰せは、安国論で既に述べ諌めたことがあるが、本御抄によって再び諌暁するであるといわれている。そして、諌暁の要点として「急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ」と、邪法邪師の帰依を禁断することが第一の急務であると諭されている。邪法邪師が国難を招いた元凶にほかならないからである。
 「速やかに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からずなり」との仰せは、蒙古襲来をなくし、国の安泰を守る方途は、日蓮大聖人の主張を用いることであると教えられているのである。
 これは立正安国論においては「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(0030-06)また「四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん」(0030-18)の御文が、それに相当しよう。
 「諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し」は、孔子の孝経の言葉を引用されたもので、主君を諌める臣下が国にあれば、その国は正しい方向に進み、親をよく諌める子がいる家は安泰であるという意である。「争子」は親の悪や不義・不徳をいさめる子をいう。これは、日蓮大聖人の訴えをないがしろにしてはならないと戒めるために述べられたと拝される。
 更に「国家の安危」すなわち国を安泰ならしめるか危機に瀕せしめるかの最大の要因は、為政者が政道にのっとって治めるか、政道に背いて物事に対処するかにあると指摘して、時宗に為政者としての心構えを示されるとともに、大聖人が訴えている仏法上の問題は、あくまで仏説である経文を基準として判ずべきであると仰せられている。
 これは、このあと、諸宗との公場対決を求められるのであるが、念仏等の言い分と大聖人の主張とを時宗が判断するうえでの最も肝要な点を示唆されたと拝される。

0170:03~0170:09 第二章 正法への帰依を勧めるtop
03   夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明
04 なり、 然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、 法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばし
05 めんが為の故に無量の神力を現ずと、 一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、 仁王経に云く「一切の聖
06 人去る時七難必ず起る」と、 彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす、今日
07 本国既に蒙古国に奪われんとす 豈歎かざらんや豈驚かざらんや、 日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る
08 可し、 日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、 三世諸仏の事と
09 は法華経なり、
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この国は神の国である。神は礼にそむくことをうけられない。天神七代・地神五代の神々、その他、諸天善神等は法華経修行の神々である。しかも法華経を食となし、正直をもって力とするのである。法華経神力品第二十一には「諸の仏、救世主は大神通に住して衆生を悦ばしめんがための故に、無量の神力を現じたもう」とある。法華経を捨てて顧みない国においては、諸天善神が怒りをなして守護されないのは当然である。
 仁王経には「一切の聖人が国を捨て去る時、七難が必ず起こる」とある。呉王の夫佐は伍子胥の諫めを捨てて、我が身を亡ぼした。夏の桀王・殷の紂王は忠臣竜篷や比干を殺して王位を失った。今、日本国はすでに蒙古国に奪われようとしている。どうして嘆かずにいられようか。どうして驚かずにいられようか。日蓮が申すことをお用いにならなければ、必ず後悔されるであろう。日蓮は法華経の御使いである。
 法華経法師品第十に「この人は則ち如来の使いであり、如来の所遣として、如来の事を行ずる」とある。三世諸仏の事とは法華経である。

天神七代
 地神五代より前に高天原に出た七代の天神。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
―――
地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
―――
諸天善神
 法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
―――
一乗擁護
 一乗は一仏乗を説く法華経、擁護は仏・菩薩が守ること。
―――
明神
 神のこと。仏教では諸天善神をいう。
―――
法華経
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
正直
 心が定まってまっすぐなこと。仏の本位にかなうこと。
―――
神通
 菩薩行方便境界神通変化経のこと。
―――
一乗棄捨
 一仏乗である法華経を捨てること。
―――
善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
―――
呉王
 夫差のこと。(前0496~0473年)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
―――
伍子胥
 ( ~前0484年)は、春秋時代・呉の政治家、軍人である。諱は員。子胥は字。
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桀紂
 桀は中国・夏王朝の最後の王。名は履癸。史記によれば暴虐で人民を苦しめ、民財を尽くして酒池肉林の楽にふけった。殷の湯王に滅ぼされる。紂は紀元前11世紀ごろの人で殷王朝最後の王。名は受、死後辛と称された。史記によれば専断的で臣下の言を用いず酒池肉林をきわめ、民に重税をかけ苦しめた。周の武王に滅ぼされる。桀、紂とも中国における悪王の代表とされる。
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竜比
 竜は夏の傑王に仕えた竜蓬、比は殷の紂王に仕えた比干のこと。共に主君の暴虐を諫めて容れられず殺された。
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如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
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所遣
 仏が衆生を化導するために派遣した人。
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三世諸仏
 三世とは過去・現在・未来のこと。過去仏は荘厳劫の千仏、現在仏は賢劫の千仏、未来仏は星宿劫の千仏。過現末の一切の仏のこと。
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 国を守護する善神は、衆生が正法である法華経に帰依してこそ、法味によって勢力を増し守護の働きをあらわすのであり。謗法を捨てよとの大聖人の諌言を用いなければ必ず後悔する事態を招くと警告されている。
 「此の国は神国なり」とは、古事記や日本書紀などにみられるように、我が国は神が天地・国家を創造し、統一して支配したという思想があり、天照太神・八幡大菩薩が守護していると考えられていたからである。更にいえば、これらの神を仏法で説く“諸天善神”のなかに包括され、「神国なり」といわれたとも拝される。
 諸天善神は梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩をはじめとする一切の諸天の総称であり、正法である法華経を人々が信仰するとき、その法味を力として民衆と国土を守護し、福をもたらす働きをもつ。
 神道では天照太神や八幡大菩薩を礼拝の対象としているのに対し、仏法では妙法の働きの一分として位置づけているのである。したがって、人々が正法である妙法に背き、妙法を誹謗しているときには、善神は守護の威光勢力を失うことになる。
 「神は非礼を禀けたまわず」と仰せの「非礼」とは正しい道理にのっとらない行為、すなわち邪法帰依、法華経誹謗をさす。「禀けたまわず」は人々が尊敬・礼拝を捧げて祈っても、祈りは叶えられないことを意味する。
 「正直」とは「正しく真っすぐであること」をいい、正しい教え、法華経を仏説通りに信受することである。日本神話で日本を治めたとされる「天神七代・地神五代の神神」そのほか一切の諸天善神は「一乗擁護の神明なり」と、「一乗」である法華経擁護の本来の役割とする神々であるとされている。「神明」は天神地祇のことで、諸天善神をいう。
 「法華経を以て食と為し正直を以て力と為す」とは、諸天善神は法華経の法味を食して威光勢力を増すのであり、しかも人々の生き方、信仰の姿勢が「正直」であってこそ、守護の力を発揮するということである。
 「法華経に云く諸仏救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ず」とは、法華経如来神力品第二十一の文である。
 諸仏救世者は大神通をそなえ、衆生に悦楽を与えるために無量の神力を現じたとの意であるが、ここでは仏の持つ「無量の神力」に諸天善神の働きも包摂されていると引用されたと拝察される。
 なお「神力」とは神通力のことで、“神”は計り知ることができない、との意。“通”は働きが自在で妨げのないこと。“力”は作用、働きをいう。つまり仏の有する不思議な力用をさす。
 大聖人は御義口伝で「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(0753-第二如来秘密神通之力の事-02)と、一切衆生を成仏させる力を「如来秘密神通之力」というと説かれている。
 また、如来神力品の題号を釈されるなかで「妙法蓮華経の五字は神と力となり、神力とは上の寿量品の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る所の題目なり此の十種の神力は在世滅後に亘るなり然りと雖も十種共に滅後に限ると心得可きなり、又云く妙法蓮華経如来と神との力の品と心得可きなり云云、如来とは一切衆生なり寿量品の如し、仍つて釈にも如来とは上に釈し畢ぬと云えり此の神とは山王七社等なり」(0770-第一妙法蓮華経如来神力の事-05)と御教示されている。
 したがって、「一乗棄捨の国」、すなわち法華経を捨て、邪法が充満する国においては、善神が法華経の題目の法味を食することができないため怒りをなし、国を治罰するのは当然のことではないか、といわれている。
一切の聖人去る時七難必ず起る
 「一乗棄捨」によって善神が瞋恚を起こし、このため七難が起きることを、仁王経巻下の「一切の聖人去る時七難必ず起る」の文を示して教えられている。
 ここでは「聖人」も、人々が正法に背くときは去るとの原理から仰せられている。このことは安国論に「善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず」(0017-13)と仰せられている通りである。
 蒙古の来牒によって、「七難」のなかの最後の難である他国侵逼難が現実化し「七難必ず起る」の経文通りになったわけである。
彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し
 続いて、そうした「聖人」の一分の例として忠臣の諌言を国主が用いなかったために亡国を招いた先例を、中国の故事から示されている。「彼の呉王」とは、中国・春秋時代の呉の王だった夫差のことである。
 父王である闔閭は越王・勾践との戦いに敗れ、太子・夫差に復讐を遺言して死んだ。王位を継いだ夫差は二年後に再び越と対戦し、大勝した。勾践は会稽山にこもり、呉に降伏を申し出た。
 その時、呉の重臣・伍子胥が「今、越を滅ぼさなければ、あとで後悔するでしょう。勾践は賢君で、許されて国に帰ったら、必ず反乱を起こすでしょう」と進言したが、夫差はその諫めを聞かず、勾践を許して越へ帰国させた。
 伍子胥はその後も越に備えるよう説いたが、夫差は聞き入れなかっただけでなく、宰相・伯嚭の讒言を用い、伍子胥を自害させてしまったのである。その際、伍子胥は「我が眼をえぐって、呉の東門に懸けよ、越人が呉を滅ぼすさまを見ん」と言って死んだ。
 果たせるかな、それから2年後、国力を回復した越王・勾践は、呉に叛旗を翻した。油断を突かれた呉は戦いに敗れ、夫差は伍子胥の諌言を用いなかったことを後悔しながら自ら命を断ち、呉は滅びたのである。
桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす
 「桀紂」は中国・古代の二人の王、夏の桀王・紂王のことで、ともに悪王の代表とされている。「竜比」とは竜蓬と比干のことで、竜蓬は桀王に、比干は紂王に仕えた忠臣である。
 桀王は夏王朝の最後の王であるが、妃の妹喜におぼれて、その言を聞き入れ、悪政の限りを尽くし、人民を苦しめた。竜蓬が諌めたが用いず、かえって竜蓬の首を刎ねてしまった。やがて諸侯を率いて立った湯王によって滅ぼされ、湯王は殷王朝を開いた。
 また紂王も殷王朝の最後の王である。知力・腕力ともに優れていたが、妃の妲己に溺愛して淫欲にふけり、酒池肉林に興じて重税で農民を苦しめた。比干がこれを諌めたが、紂王は聞き入れようとせずかえって比干の胸を裂いて殺した。紂王はやがて兵を起こした周の武王によって討たれ、殷王朝は滅びた。
 大聖人は妙法比丘尼御返事でも「竜逢・比干なんど申せし賢人は、頚をきられ胸をさかれしかども国の大事なる事をばはばからず申し候いき」(1412-05)とのべられている。
日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」
 大聖人は御自身を「伍子胥」「竜比」に比せられ、「日蓮が申し事御用い無くんば定めて後悔有るべし」と、執権・時宗に大聖人の諌暁を用いるよう促されている。
 しかも大聖人は、単に世法上の賢人・聖人ではない。ここで大聖人は、御自身の立場を経文のうえから「日蓮は法華経の御使なり」と宣言されている。すなわち、法華経法師品第10に「是の人は則ち如来の使なり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」とある経文がそれである。
 「如来の使」とは仏の使者・仏の代理人として振る舞う人をいう。「如来の所遣」も仏に遣わされる人の意で、「如来の使」と同じ意味である。「如来の事を行ずる」とは、仏のなす行為を行ずることで、法華経を衆生に説くことをいう。
 天台大師は法華文句巻8上で、この文について「今日の行人は能く大悲有りて、此の経の中の真如の理を以て衆生のために説き、利益を得せしむ、亦如来の事を行ずと名づくるなり」と釈している。
 ゆえに「如来の事」について、次下で「三世の諸仏とは法華経なり」と述べられているのである。

0170:09~0170:15 第三章 諸宗との公場対決を迫るtop
09         此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予かる可く候、 所詮は万祈を抛つ
10 て諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、 澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り 闇中の錦衣を未だ見ざる
11 は愚人の失なり。
12   三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故
13 に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
14       永五年戊辰十月十一日                    日 蓮 花 押
15     謹上 宿屋入道殿
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 このことを他の方々へ申し送ってあるから、一所に集まって御評議のうえ、御返事にあずかりたい。所詮はこれまでの諸仏諸神への祈禱をなげうって、諸宗の僧たちと日蓮を御前に召し合わせて仏法の正邪を決していただきたい。谷の深い所に松の良材があるのに、これを未だ知らないでいるのは良匠の誤りとなり、闇のために錦糸を見分けられないでいるのは愚人の失である。
 三国において、仏法の分別は国王の殿前で行われた。いわゆる阿闍世王は釈尊の正しさを知り、陳や隋の国主は、天台大師の正しさを知り、桓武天皇は伝教大師の正しさを知った。
 これは日蓮の身勝手の邪見ではない。ただひとえに大忠を懐くゆえであって、自身のために申すのではない。神のため・君のため・国のため・一切衆生のために申し上げるのである。恐恐謹言。
       永五年戊辰十月十一日                    日 蓮 花 押
     謹上 宿屋入道殿

澗底の長松
 谷底に横たわる見事なまでの長松、人に見られようと、見られまいと、その真価は変わらないことをいう。
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良匠
 腕のたつ職人・大工。学者。
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闇中の錦衣
 闇に包まれた錦の着物。人に見られようと、見られまいと、その真価は変わらないことをいう。
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三国
 仏教でいうところの三国は、インド・中国・日本をいう。
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阿闍世
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
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 中国王朝名。南北朝時代の南朝最後の王朝。(0557~0589)陳霸先が梁に代わって建国し、隋に滅ぼされた。2代文帝は内治を整え、4代宣帝は北伐を断行したが、5代後主の時に滅びた。
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 中国の王朝名。(0581~0619)高祖文帝が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以来、南北に分裂していた中国を統合し唐のといいつ国家の基礎を築いた。文帝は諸制度を整備し、律令を定め、官制・兵制を整え、均田・租庸調の制度を全国に弘めた。また地方に州・郡・県を置き、官僚は中央からの派遣とし、官吏の登用は学科試験の制度を定めるなど、中央集権化に努めた。大運河の建設などで生産流通の安定を図り、経済は発展したが、地方豪族の力の回復や、外征の失敗などで衰退した。儒教・仏教・道教を合一する立場から王通などが現れた。文帝は北周武帝の廃仏毀釈政策のあと、仏教思想を宣揚した。寺院建立・訳経事行も活発に行われた。諸宗派の乱立があり、これは天台によって統一された時代でもある。
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桓武
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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宿屋入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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 本段では、諸宗の高僧たちとの公場対決を要求されている。公場対決とは公の場所で、相対し、法門の正邪・勝劣・高低を決することをいう。当時は君主制であったため、公場での対決は必然的にとられた方法である。
 主権在民の現代においては“公場対決”は、民衆のなかで一対一の仏法対話であり、折伏・弘教であるといえよう。
 また広い意味では、正法の信仰者が社会のなかで実証を示し、他の思想が誤っていることを示しゆくことも、それに当たるであろう。
 まず、同じような諫状を「方方へ」送ったので、彼らを一堂に集めて評議し、そのうえで公場での対決を実現するよう、返事を求められている。
 「所詮は万祈を抛って」とは、当時、頻発する天変地変を治めようとして、国の上下を挙げ、諸宗の邪法を用いて行っていた祈禱・祈願をやめよ、ということである。
 その諸宗の邪法たる所以を明らかにするためには「諸宗を御前に召し合わせ」すなわち諸宗の高僧たちと日蓮大聖人とを、執権である時宗の御前で対決させ、邪正を決することであると、公場への法論実現を迫られている。
澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり
 蒙古を調伏し、国を安泰に導くのは、「日蓮に非ざれば叶う可かざるなり」と強く諌める大聖人を無視して、一向に用いようとしない為政者・時宗の誤り、愚かさを指摘した譬えである。
 「澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り」とは、だれにも見えている山だけの木を求めて、澗底にはえている松の良材を見いだせないのは、良匠としては大なる誤りである。との意である。
 また「闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失」とは、暗闇のなかに錦衣を着た人がいても、暗いために見分けることができないでいるのは、愚人の罪であるということである。
 「澗底の長松」「闇中の錦衣」を大聖人自身に「良匠」「愚人」を北条時宗になぞられておられることは論をまたない。時宗にとって厳しい諌言であるが、そのような愚かな人であってはならないとの諌言であられる。
三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり
 ここでは公場対決の先例を示されている。「三国」つまりインド・中国・日本では、仏法の邪正の分別は、「殿前に在り」すなわち国王や皇帝の御前で行われてきたことを指摘され、そうした前例にならうよう勘められている。すなわち「阿闍世」がインド、「陳隋」が中国、「桓武」が日本の例である。
 「阿闍世」とは、釈尊在世時代のインド・マカダ国の阿闍世王で、六師外道に対して釈尊の正しさを知って仏法に帰依したことをさす。六師外道とはバラモン教の中で起きた六派の思想運動で、当時の社会で新しい思想の代表とみなされた。
 沙門果経によると、阿闍世王は各大臣から六師外道の教えを聞いたが、いずれに対しても満足できなかった。その後、耆婆大臣から釈尊に会うことを勧められ、1250人の比丘僧団の前で釈尊と問答の末、釈尊に帰依したとされる。
 阿闍世王は後に釈尊教団の大檀那となり、釈尊滅後は経典結集の事行を支援し仏法を後世に遺すうえで大きく貢献した。
 「陳隋」とは、中国・陳王朝第五代の後主淑宝と、隋王朝第二代の煬帝のことをさす。
 これらの為政者の前で仏法を宣揚したのが天台大師である。天台大師は当時までの中国仏教の代表である南三北七の十師を悉く論破し、「法華経第一」を確立した。このことについては報恩抄には「南北の諸師はちのごとく蜂起しからすのごとく烏合せり、智顗法師をば頭をわるべきか国ををうべきかなんど申せし程に陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて我と列座してきかせ給いき」(0299-09)と述べられている。
 「桓武」とは、日本の第50代桓武天皇のことで、仏教に理解が深かった。伝教大師は延暦21年(0802)1月19日、高尾寺で南都六宗の碩学14人と対論し、彼らを論破して謝表を提出させた。
 このことについては撰時抄には「仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う、彼の学者等・始めは慢幢・山のごとし悪心・毒蛇のやうなりしかども終に王の前にしてせめをとされて六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ」(0263-17)と記されている。
 このように公場対決を求められるのは「敢て日蓮が私曲には非ず」と述べられ、その本意は「只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上」しているのであると述べられて、本書を結ばれている。
 宛名は「謹上 宿屋入道殿」となっているが、この御状が執権・北条時宗宛てであることは内用から明確であり、これは近侍である宿屋入道の手を経て北条時宗の御前へ披露を請うという形式を踏まれたためである。

0170~0171    宿屋左衛門光則への御状top
宿屋左衛門光則への御状
01   先年勘えたるの書 安国論に普合せるに就て言上せしめ候い畢んぬ、 抑正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来
0171
01 すと、 之を以て之を按ずるに日蓮は聖人の一分に当り候か、 然りと雖も未だ御尋に予らず候の間重ねて諌状を捧
02 ぐ、 希くば御帰依の寺僧を停止せられ宜しく法華経に帰せしむべし、 若し然らずんば後悔何ぞ追わん、此の趣を
03 以て 十一所に申せしめ候なり定めて御評議有る可く候か、 偏に貴殿を仰ぎ奉る早く日蓮が本望を遂げしめ給え、
04 十一箇所と申すは平の左衛門尉殿に申せしむる所なり 委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候、 御気
05 色を以て御披露庶幾せしむる所に候、恐恐謹言。
06       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
07     謹上 宿屋入道殿
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 先年考えた書・立正安国論の予言が符合したことから、執権へ言上したのである。
 正月十八日、西戎の大蒙古国より牒状が到来したとのこと。このことから考えるのに、日蓮は聖人の一分に当たっている。しかし、いまだに何の御尋ねもないから、重ねて陳状を奉ったのである。
 願わくは、御帰依の寺僧を停止して、法華経に帰依されるべきである。もしそうでなれば、後悔しても及ばないことになるであろう。この趣きをもって十一ヵ所へ書状を申し送っておいたから、必ず御評議があるだろう。一日も早く日蓮が本望を遂げられるように、ひたすら貴殿を仰ぎ奉るのである。十一ヶ所というのは、平左衛門尉殿の書状にその名を申し上げてある。詳しく申し上げるべきであるが、執権への上書にはっきりとしたためておいたから省略した。
 執権のご機嫌を見計らって、ご披露のほどお願い申し上げる。恐恐謹言。
       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
     謹上 宿屋入道殿

安国論
 立正安国論のこと。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
普合
 一致すること。
―――
西戎
 ①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
十一所
 文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が国諫のため、幕府・要人11人に送られた書。宛先は北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。
―――
平の左衛門尉
 平の左衛門尉頼綱。北条氏の家司で、侍所の所司を兼務していた。北条幕府の政務は評定制度であるが、最後の決は執権がにぎっていた。しかるに平左衛門は、北条氏の家司、すなわち執権の執事であるから、実際上の政治的権力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏よりも、強大となるべきで、加えて侍所の実権をにぎっているため、政兵の大権を自由にしていた。
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庶幾
 ①きわめて近い・似ていること。②こいねがい・希望すること。
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謹上
 謹んで申し上げること。手紙などの書面に用いる文。
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宿屋入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷の草庵で著され、執権・北条時宗の近侍であった宿屋左衛門光則に与えられた書である。
 宿屋左衛門光則については、先の宿屋入道への御状で詳細したので、ここでは省略する。
 このとき、大聖人は北条時宗のへの書状も、宿屋入道を経由して出されたので、当然二通の内容には深い違いがある。
 たとえば本文末尾に「委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候」と述べられているように、時宗への御状に述べられたことは、宿屋入道の目を通ることなので略すと仰せられている。
 内容は9年前の文応元年(1260)に故北条時頼へ提出した立正安国論で予言された通り、文永5年(1268)正月、他国侵逼難である蒙古の牒状が鎌倉に到来した。この事実から時宗への御状でも本御状でも「日蓮は聖人の一分に当り」とされ、捨邪帰正を勧める一方、同趣旨の書状を11ヶ所に送ってあるので、大聖人が本望とする諸宗との対決の早期実現を求められている。
安国論の予言符合を言上
 初めに「先年勘えたる書安国論に普合せるに就て言上せしめ候い畢んぬ」と、蒙古の来牒は、先に上呈した立正安国論の予言が符合したものであり、いよいよ国の存亡にかかわる事態に立ち至ったのは、執権へ諌状を奉ったことを告げられている。
 続いて「抑正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来すと、之を以って、之を按ずるに日蓮は聖人の一分に当り候か」と、安国論における予言が的中したことから、御自身をさして「聖人の一分に当たるであろう」と述べられている。
 「之を以て之を按ずるに」と述べられている「之を以て」は、蒙古からの牒状が到来した事実をさし、「之を按ずるに」は、大聖人が安国論で他国侵逼難を予言されていたことをさす。
 したがって、幕府としては大聖人に教えを求めてくるべきであるにもかかわらず、幕府から今もって何の沙汰もないので、重ねて牒状を奉ったと、再諌の理由を明かされている。
 次に「希くば御帰依の寺僧を停止せられ宜しく法華経に帰せしむべし、若し然らずん後悔何ぞ追わん」と、今までの邪法邪師の帰依を捨て、正法である法華経へ帰依するよう勘め、この進言を用いなければ他国の侵攻という、後悔しても及ばない大事が出来するであろう、と警告されている。
 更に「此の旨を十一所に申せしめ候ばり定めて御評議有る可く候か」と、11ヶ所へ同趣旨の陳状を送ったので、おそらく幕府内で評議が行われるであろうが、その際には、「日蓮が本望」である諸宗との公場対決を早く実現するよう努力してほしいと要請されている。
 11通の諫状の送り先については「十一通個所ともうすは平左衛門尉に申せせしむる所なり」と述べられてここには挙げられていない。
 平左衛門尉頼綱への御状には「此の趣を以て方方へ愚状を進らす、所謂鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿並びに此の状合わせて十一箇所なり」とある。
 宿屋入道の御状には11ヵ所を記されず、平左衛門尉頼綱への御状にそれを明示されたのは、宿屋入道は執権の側近であったが幕府体制全体に対しては発言権が弱かったのに対し、平左衛門尉は北条得宗家の家司であるとともに侍所所司として強く広範な発言力をもっていたので、大聖人と諸宗の僧らと公場対決を推進する立役者となりうると判断されたからであろう。
 そして、もっと詳しく述べたいが、入道に託した北条時宗の御状に主旨は尽くされているので省略した、と断られたうえで、「御気色を以て御披露庶幾せしむる所に候」と結ばれている。すなわち、執権の機嫌のよい時を見計らって「上書」を取り次ぎ、披露するよう要請されている。「庶幾」とは、庶う・希望する、の意である。

0171~0172    平左衛門尉頼綱への御状top
0171:01~0171:04 第一章 再度の諌暁の目的を示すtop
平左衛門尉頼綱への御状
01   蒙古国の牒状 到来に就いて言上せしめ候い畢んぬ、 抑先年日蓮立正安国論に之を勘えたるが如く少しも違わ
02 ず普合せしむ、 然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、 併
03 ながら 貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り 争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、 早く須く退
04 治を加えて謗法の咎を制すべし。
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蒙古国から牒状が到来したことについて執権へ言上したのである。先年、日蓮が立正安国論にこれを勘えたのと少しも違わず符号している。
 それゆえ重ねて訴状をもって日頃の愁いをひらこうと望んだのである。そのため執権に陳状を送り、建長寺などへ破折の書を送ったのである。しかしながら貴殿は天下の棟梁であり、万民の手足である。どうしてこの国の滅亡のことを歎かずにいられようか、用心しないでいられようか。一日も早く謗法に退治を加えてその咎を制すべきである。

蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
言上
 目上の人に申し上げること。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
普合
 一致すること。
―――
愁欝
 思い悲しんでふさぎこむこと。愁は悲しむ、欝は気がふさぐの意。
―――
屋梁
 建物の梁のこと。
―――
謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――――――――
 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉幕府の実力者・平左衛門尉頼綱に与えられた書である。
 頼綱は平盛時の子で、平重盛の子孫にあたるところから、平頼綱・平金吾と呼ばれる。また左衛門尉に任じられていたので、平左衛門尉とも称された。
 執権・北条時宗・貞時の二代に仕え、鎌倉幕府の政治上の実力者として権勢を振るった。北条得宗家の家司、また侍所所司として、軍事・警察・政務を統括していた。頼綱は、律宗の極楽寺良観や律宗の僧と結びつき、日蓮大聖人の諌言を用いず、かえって迫害を加え、大聖人並びに門下を弾圧した。
 大聖人は文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難の直前と、同11年(1284)4月8日の二回にわたって頼綱を諌暁されている。頼綱も大聖人が佐渡流罪を赦免になられた時は態度を改め、蒙古襲来の時期などについて質問している。大聖人は「今年は必ずくる」と答えられ、早く邪法を捨てて正法に帰依する以外、この災難を対治する方法はないと諌められたが、聞き入れなかった。
 弘安2年(1279)9月の熱原の法難の際には、滝泉寺院主代・行智の策謀に応じ、捕えられ送られてきた熱原の農民信徒20人を自邸で拷問にかけ改宗を迫ったが1人も退転する者がなかったため、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を斬首、17人を追放ている。3人は後世、熱原の三烈士と称えられた。
 弘安7年(1284)4月、執権・時宗が病死、嫡子・貞時が14歳で第9代執権に就いた時、権力争いの相手であった評定衆の安達泰盛を讒訴して滅ぼし、幕府の実権を掌握した。いわゆる「霜月騒動」である。その勢いは執権をしのぐほどになった。
 しかし、永仁元年(1293)4月、次男・資宗を執権にしようとの野望が発覚・反逆の罪で資宗ともども斬罪に処された。父・頼綱の企みを密告した長男・宗綱も佐渡へ流罪され、頼綱一族は滅亡した。大聖人が御入滅されて10年6ヵ月後のことである。日興上人は弟子分帳のなかで「これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」と記されている。
 また日寛上人は、撰時抄文段で「今案じて云く、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、これ則ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるは、これ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり」と、因果応報の厳しさを述べられている。
 さて、本書状の内容は、立正安国論の予言が符合したことをまず指摘され、蒙古襲来による国の滅亡を救う道は、謗法の寺僧を退治して、諸天善神の擁護をこうむる以外にないことを教えられている。
重ねて訴状を提出
 冒頭、「蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ畢んぬ」と、蒙古からの牒状が到来したことを機に、執権・北条時宗への諫状を送ったことを告げられている。
 蒙古の牒状到来によって、9年前に上呈した立正安国論での予言が少しも違わず符号したとされ、それゆえ、日頃の愁いを発こうと思って重ねて訴状を提出したと述べられている。「猷鬱」は、愁いで気がふさぐ意で、日本の国が蒙古軍の侵逼を受けることに対する愁いの気持ちを仰せられる。
 本書状で「重ねて訴状を以て猷鬱を発かん」と言われているが、「訴状」とは理非・曲直の断裁を請うために問注所などに提出する文書である。これに対する答弁書が「陳状」である。ただし、ここで仰せの「訴状」とは11通の御状すべてをさして言われたと考えられる。
 「諫旗を公前に飛ばし」とは、諌暁を旗にたとえ、国主に向かって翻すことをいい、幕府に直諫の書を提出したことを意味する。「争戟を私後に立つ」とは、法論を戟をもって戦うことにたとえ、「諫旗」との対句である。ここでは諸宗の僧に対する破折の書を送ったことを意味する。未曾有の国難をまえに座視できない御本仏の烈々たる気迫が伝わってくる。
 そして、「併せながら貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り」と、一方に執権への「諌旗」、他方に諸宗への「争戟」を出されたなかで、その両方につながりをもつ平左衛門尉への期待を述べられている。すなわち、頼綱は政治・軍事の大権を握る幕府の実力者であるとともに、万民の手足となって民のために仕えるべき立場であるとされ、「争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや」と、国が滅亡しようとしていることとについて、あなたが憂えられないはずがないと述べられ「早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」と、国難の元凶である邪法悪法を早急に退治すべきであると、強く謗法禁断を求められている。

0171:05~0171:08 第二章 一乗妙法の信受を勧むtop
05   夫れ以れば 一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり 之を信受するに於ては何ぞ七難来り三災
06 興らんや、 剰え此の事を申す日蓮をば流罪せらる争でか日月星宿罰を加えざらんや、 聖徳太子は守屋の悪を倒し
07 て仏法を興し 秀郷は将門を挫いて名を後代に留む、 然らば法華経の強敵為る御帰依の寺僧を退治して宜く善神の
08 擁護を蒙るべき者なり、
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 さて考えてみるに一乗の妙法蓮華経は諸仏の悟りを開く極理であり、諸天善神の威光を養う法食である。この妙法蓮華経を信受するならば、どうして七難が来り、三災が起こるだろうか。その妙法を信受しないばかりか、この事を申す日蓮を流罪した。どうして日月星宿が罰を加えないことがあろうか。
 聖徳太子は物部守屋を倒して仏法を興し、藤原秀郷は平将門を討って名を後代に伝えた。そうであるならば、法華経の強敵である御帰依の寺僧等を対治して、善神の擁護を蒙るべきである。

一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
―――
正覚の極理
 正覚とは仏の正しい悟りのこと。正覚の極理とは宇宙の究極の真理を正しく悟ることができる妙法蓮華経をさす。
―――
諸天善神の威食
 諸天善神は民衆・国土を守り、福をもたらす働きをいい、妙法蓮華経の妙味を唯一の食として威光勢力を増す。
―――
七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
―――
三災
 ①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
――――
星宿
 星・星座のこと。
―――
聖徳太子
 (0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
守屋
 (~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
―――
秀郷
 平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。
―――
将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――――――――
 他国侵逼による国の滅亡を救う方途は、謗法諸宗の寺僧たちを退治し、成仏の法である妙法蓮華経を信受して、諸天善神の擁護をこうむる以外にないことを強調されている。
 まず日蓮大聖人が信受を勧める「一乗妙法蓮華経」は一切の仏が正しい悟りを開いた極理であり、一切の善神の威光を倍増させる法味があることを教えられている。「一乗」とは一仏乗、すなわち、ただ成仏を教えた法のことで、それが「妙法蓮華経」である。
 妙法蓮華経が「諸仏正覚の極理」であることは、秋元御書に「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)等、諸御書に述べられている通りである。
 また「一乗妙法蓮華経」は「諸天善神の威食」でもある。すなわち妙法こそ諸天善神が威光勢力を増す法味だからである。したがって一乗妙法を信受する時、善神の擁護は厳然であり、どうして三災七難が興りえようか。と諭されている。
 続いて、この法華経の正法を弘める法華経の行者としてのお立場から「剰え此の事を申す日蓮をば流罪さらる争でか日月星宿罰を加えざらんや」と仰せられている。
 「此の事」とは、先文の「一乗妙法蓮華経こそ諸仏正覚の極理であり、諸天善神の威食であるから、法華経の信仰を人々が立てれば三災七難はなくなる」という大聖人の言説をさす。「流罪」と本御状でいわれているのは伊豆流罪のことである。
 大聖人は弘長元年(1261)5月12日から弘長3年(1263)2月22日まで、伊豆国伊東へ流罪された。「日月星宿」は日天・月天・明星天をいい、諸天善神のことである。
 すなわち、災難対治の根本である「一乗妙法蓮華経」を立てよとの大聖人の言を用いないばかりか、その妙法を弘通する日蓮大聖人を理不尽にも迫害し、流罪したのであるから、諸天善神が怒りをなすのは当然で、どうして国に治罰を加えないわけがあろうか。との意である。その「罰」が蒙古の来牒を意味していることはいうまでもない。
 そして「聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し秀郷は将門を挫いて名を後代に留む」と、悪を打ち破って後世に名を留めた先人にならうよう諭されている。
 聖徳太子は飛鳥時代、崇仏派の蘇我氏と力を合わせ、廃仏派の物部守屋と戦って守屋を滅ぼし、三経義疏等を著し、法隆寺・四天王寺を建立するなど、仏法の興隆に尽くした。
 藤原秀郷は平安初期の武将で、天慶3年(0940)平将門の乱に際し、平貞盛に助勢して乱を平定し、その功によって下野守に任じられた。結城氏など東国武士の祖といわれる。
 彼らと同様に頼綱も「法華経の強敵」である諸宗の寺僧を退治し、善神の擁護をこおむって国を安泰に導くべきであると諭されているのである。ここでいう「退治」は、諸宗の寺僧の帰依をやめ、布施・寄進を禁止することを意味する。

0171:08~0172:05 第三章 式目を挙げ対決の公許を求むtop
08             御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、 争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん
09 豈御起請の文を破るに非ずや、此の趣を以て方方へ愚状を進らす、所謂鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽
0172
01 寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿並びに此の状合せ十一箇所なり、各各御評議有つて速かに御報に
02 預るべく候、 若し爾らば卞和が璞磨いて玉と成り 法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ、 全く身の為に之を申さ
03 ず、神の為君の為国の為一切衆生の為に言上せしむるの処なり件の如し、恐恐謹言。
04       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
05     平左衛門尉殿
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 貞永式目を見るに、正しくない行いを為政者が制止すべきことは明らかである。どうして日蓮が国を憂えて訴えていることを用いないのであろうか。これは式目の御祈請文を破ることになるのではないか。この趣をもって諸法へ書面を進上した。鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿、並びにこの状と合わせて十一ヶ所である。各御評議あって、速やかにその結果を御返事に預かりたい。
 もし対決が許されるならば、下和の璞が磨かれて玉となり、法王の髻の中の明珠が顕れるようなものである。それは全く自身のために申すのではなく、神のため、君のため、国のため、一切衆生のために言上するのである。恐恐謹言。
       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
     平左衛門尉殿

御式目
 御成敗式目のこと。鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに、制定された武士政権のための法令のことである。貞永元年(1232)に制定されたため、貞永式目ともいう。ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
―――
非拠
 ①拠るべきでないところへ拠ること。②道理に合わないこと。
―――
愁訴
 嘆き・憂いの心で訴えること。
―――
御起請
 誓約すること。
―――
鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
―――
宿屋入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
―――
建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
大仏殿(鎌倉)
 大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
―――
長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
―――
多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
―――
浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
―――
弥源太
 北条弥源太のこと。北条氏一門であり、幕府の要人・大聖人一門の弟子でもある。御書には大聖人に太刀・刀を供養したとある。。
―――
卞和が璞
 卞和は中国・周代楚の人。卞邑出身の和氏のこと。韓非子和氏篇によると荊山で玉璞を得て厲王に献上した。王が玉人に鑑定させたところ、ただの石というので、王を欺く者として左足を切らせた。厲王の没後即位した武王にも同様に璞を献上したが、またも石と鑑定されて右足を切られた。その後、文王が即位すると楚山の下で璞を抱いて三日三晩泣き明かし、ついに血涙を出した。文王がこれを知り理由を問うて璞を得、磨かせたところはたして宝石であったため、これを和氏の璧と名付けて天下に尊ばれた。
―――
髭中の明珠
 安楽行品説かれている。ある大王が最高の勇気ある者に無上の宝である髭中明珠を与えた。しかして、この明珠は、法華経であると説いたのである。文底の意は、御本尊こそあらゆる宝に超越した明珠である。
―――
平左衛門尉
 日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
―――――――――
 本段では、鎌倉幕府の基本となった貞永式目の精神を指摘して、大聖人の訴えを容れ公場対決を実現するよう迫られている。
御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや
 貞永式目は貞永元年(1232)、将軍頼経の時に、執権・北条泰時が中心となって制定した鎌倉幕府の法典である。御成敗式目、関東武家式目ともいう。
 武士のあいだで行われてきた慣習法や、源頼朝以来の裁決の先例を参考にして作成されており、武家法の確立を目指したものである。内容は所領・罪科・決罰など51ヶ条からなり、当初は幕府支配下の土地の御家人・土民が対象であったが、後に公家や寺社にも適用された。
 この式目を見れば、「非拠」すなわち正しくない行為を制止すべきことを為政者の責務としていることから、亡国の元凶である謗法の諸宗を禁ずべきであると言われているのである。そして、大聖人の「愁訴」、すなわち国を憂えての訴えを、どうして取り上げないのか。取り上げなければ式目の起請文をやぶることになろう、と言われている。
 「御祈請の文」とは式目の末尾にある誓いの文のことである。その末文には「もし一事といえども曲折を存じ違犯せしめば…神罰・冥罰をおのおの罷り蒙るべきなり。よって起請、件の如し。貞永元年七月十日」とあり、その下に執権・連署・そして評定衆11人の署名加判している。
 つまり、大聖人は、頼綱に対し、式目の条文、起請文通り、大聖人の訴え、諌暁を取り上げて、正しく対応するよう求められているのである。そして、同趣旨の諫状を「鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿並びに此の状合せ十一箇所に送ったと述べられている。11ヶ所の宛先名を明かされているのは平左衛門尉が、当事者たちを執権のもとに集め、評定を行い、どうするか決めたうえで推進役となりうる立場にあると見られたからであろう。ゆえに「各各御評議有って速やかに御報に預かるべく候」と、評議のうえ、一日も早く公場対決の公許を計るよう要望されている。
若し爾らば卞和が璞磨いて玉と成り法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ
 もし公場対決が実現すれば、大聖人の言っておられたことの正しさが明らかとなり、日本の国を守るうえで大きな契機となることを、中国の故事ならびに法華経の譬を用いて説諭されている。
 「卞和が璞」とは、韓非子・和氏篇にある故事である。同書によれば卞和は周代の楚の人で、璞を発見し楚の厲王に、献上したが、ただの石と鑑定され、王を欺く者として左足を切断された。その後、武王に献じたが、同じく偽りとされ、右足を切られてしまった。後年、文王が即位し、卞和の璞を磨かせたところ、宝石であることが認められた。
 ここでは日蓮大聖人が卞和に当たり、仏法の正義が天下に明らかになることは“卞和が玉と成る”に当たると拝される。
 「法王髻中の明珠」とは、法華経安楽行品第14に説かれる髻の中に大切にしまってある無上の宝珠のことである。「法王」すなわち転輪聖王が、戦いにおいて最も勲功のあった者にのみ与えるとされたもので、法華経を「髻中の明珠」に喩えられている。
 「法王髻中の明珠此の珠此の時に顕れんのみ」とは、法華経の正法が天下に明らかにされるということで、平左衛門尉が公場対決の実現に尽くすならば、卞和の璞に喩えられ、法王髻中の明珠に比せられる正法の偉大さを天下に明らかにするうえでの機縁を、平左衛門尉が作ったことになると仰せである。
 最後に「全く身の為に之を申さず」と、大聖人個人の保身のための訴状でなく、あくまで「神の為君の為国の為一切衆生の為に言上」しているのであり、それはこれまで述べてきた通りであると、救国救民の大慈大悲を胸中に重ねて明かされ、本書を締めくくられている。

0172~0173    北条弥源太への御状top
北条弥源太への御状
01   去ぬる月 御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ、 抑蒙古国の牒状到来の事・上一人より下万民
02 に至るまで驚動極り無し 然りと雖も何の故なること人未だ之れを知らず、 日蓮兼ねて存知せしむるの間既に一論
03 を造つて之を進覧せり 徴先達つて顕れ則ち災必ず後に来る、 去ぬる正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の刻の大地震是
04 併ながら此の瑞に非ずや、 法華経に云く如是相と天台大師云く 「蜘蛛下りて喜事来り翫鵲鳴いて行人来る」と、
05 易に云く 吉凶動に於て生ずと此等の本文豈替るべけんや、 所詮諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきの
06 由勘文を捧げ候、 日本亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起れり諸宗を召し合せ諸経勝劣を分別
07 せしめ給え、 殊に貴殿は相模の守殿の同姓なり根本滅するに於ては枝葉豈栄えんや、 早く蒙古国を調伏し国土を
08 安穏ならしめ給え、 法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり、天照太神・八幡大菩薩等・此の国を放ち給う故・大
09 蒙古国より牒状来るか、 自今已後各各生取と成り他国の奴と成る可し、 此の趣き方方へ之れを驚かし愚状を進ぜ
10 しめ候なり、恐恐謹言。
11        文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
0173
01     謹上 弥源太入道殿
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 先月、お出でになったが、急いでご帰宅になったので本意なく思っている。そもそも蒙古国の牒状が到来して、上一人より下万民に至るまで、限りなく驚き騒いでいる。しかしその原因を知る人はいない。日蓮はかねてからその原因を存知していたから、先に立正安国論を造って、これを進覧したのである。
 兆しが先に顕れ、災いが必ず後に来るものである。去る正嘉元年八月二十三日、午後九時頃の大地震はこの瑞相ではないか。
 法華経には「如是相」とあり、天台大師は法華玄義に「蜘蛛が下りて巣をかければ喜ばしい事が起こり、鵲が鳴けば来客がある」といい、易経には「吉凶ともに、異変があって生ずる」とあるが、これらの本文にどうして間違いがあるだろうか。
 詮ずるところは諸宗の帰依を止めて、一乗の妙法蓮華経を信受されるべきであるとの勘文を捧げたのである。日本の亡びる根源は浄土宗や真言宗・禅宗・律宗の邪法や悪法から起こるのである。諸宗の者を召し合わせて、諸経と法華経の勝劣を決定していただきたい。
 殊に貴殿は北条時宗執権と同姓である。根本の執権が滅びるなら、枝葉である貴殿がどうして栄えられよう。
 早く蒙古国を調伏して、国土を安穏にしなさい。法華経を謗ずる者は、三世諸仏の大怨敵である。天照太神や八幡大菩薩がこの国を見放されたがゆえに大蒙古国からの牒状が来たのである。今から後は、各各生け捕られ、他国の奴となるであろう。この趣を方々へ申し送って警告し、貴殿へも愚状を差し上げたのである。恐恐謹言。
        文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
     謹上 弥源太入道殿

蒙古国の牒状
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。
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 瑞相・前兆。善悪ともに通じる。
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法華経
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
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如是相
 「是くの如きの相」と読む。姿・振る舞いのこと。住如是のひとつ。
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天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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 中国の占法。『易経』,正確には『周易』に基づいて行われる。陰,陽という相対的な2つの原理の結合交錯の変化によって宇宙の万象は形成,消長するとし,その変化の過程を占う 。
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一乗妙経
 一仏乗を説き明かした妙典。法華経のこと。
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勘文
 勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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相模の守
 相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
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三世諸仏
 三世とは過去・現在・未来のこと。過去仏は荘厳劫の千仏、現在仏は賢劫の千仏、未来仏は星宿劫の千仏。過現末の一切の仏のこと。
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天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
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謹上
 つつしんでたてまつること。
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弥源太入道
 北条弥源太のこと。北条氏一門であり、幕府の要人・大聖人一門の弟子でもある。御書には大聖人に太刀・刀を供養したとある。
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 本書状は、文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉で御述作され、北条弥源太に与えられたものである。
 北条弥源太は、その名のごとく本文にも「貴殿は相模の守殿の同姓なり」と仰せられているが、北条氏の一門の中でどのような位置にあったか、詳しいことは分かっていない。
 また、「去ぬる月御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ」とある御文から、大聖人のもとにお伺いしていたこと、また、後に頂いている御消息でも、何かにつけ大聖人に御報告、御供養して御指導を頂いており、早くから大聖人の門下になっていたと推測される。

身延から二通の御消息文

 弥源太が大聖人から賜った書状は本書が最初であるが、佐渡流罪中に1通、身延に入山されてから2通の御消息文を賜っている。
 まず佐渡流罪中の文永11年(1274)2月21日御述作と推定される御消息には、弥源太が何かの祈禱のために大聖人に太刀・刀を御供養したことについて、「後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし、けはしき山・あしき道.つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ」(1277-02)と、死後未来世の安穏は絶対に得られることを述べられている。末尾には「二十一日」と日付のみあり、年号は記されていないが、文永11年と推定される。
 「九月十七日」と、やはり日付のみ記された御消息には、何かの病に侵されていた弥源太が、病気平癒した旨を御報告したことに対し、「御所労の御平愈の由うれしく候うれしく候」(1229-01)と、回復を喜ばれている。これも同じく文永11年(1274)の御述作とされているが、そうとすると身延入山後4か月ということになる。
 弘安元年(1278)8月11日の御消息には、建長寺道隆が死亡した旨の弥源太の報告に対し、「根露れぬれば枝かれ・源渇けば流尽くると申す事あり」(1230-09)と、道隆一門の末路を予見されている。
蒙古国の牒状到来の事・上一人より下万民に至るまで驚動極り無し然りと雖も何の故なること人未だ之れを知らず
 本書状の内容は、蒙古の牒状によって、国中が驚き騒いでいるが、その災厄の根源がどこにあるかは知らないでいると指摘され、それに対して他国侵逼難は大聖人が先に上呈した立正安国論に予言した通りであり、正嘉の大地震がこの先相であったことを経釈を引いて述べられている。
 続いてこのような災厄をおこし日本を亡国に導く浄土宗など四宗の邪法悪法にあり、公場で諸宗の寺僧と日蓮大聖人とを召し合わせ、正邪・勝劣を分別することこそ急務であると進言されている。特に対決の実現を期すにあたって、北条一門である弥源太の尽力を促されている。
 初めに「去ぬる月御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ」とあるのは、先月尋ねてきてくださったが、急いで帰られてので、まことに本意なく思っている、と弥源太の法門を感謝された挨拶である。
 「蒙古国の牒状到来」によって、国を挙げて騒ぎ驚き、あわてふためくばかりで、この国難を招いた根本原因がどこにあるのかだれも知らずにいる。
 それに対して、大聖人はこうした他国から侵略されるという災厄が起きることを前々から知っておられたので、9年前「一論」すなわち立正安国論を述作し、幕府に進覧しておいたのであると述べられている。
徴先建って顕れ則ち災必ず後に来る
 したがって、立正安国論執筆、上呈の時点で知っておられたことは当然であるが、更に遡ってその執筆を決意された正嘉元年(1257)の時点で既に知っていたのであると仰せられている。つまり、正嘉元年(1257)8月、鎌倉地方を襲った大地震を見て、日本にやがて他国侵逼難が起こるとの微、つまり先相であると見抜いていたとの御文である。
 このように、大きな出来事には必ず先兆があるのであり、賢人・聖人は、ある出来事を見て、それがあとでどのような災厄が襲ってくる先兆であるかを予測することができるといわれるのである。この、物事に先兆があるということについては、仏法でも世法及び外典でも認めているところであるという意味で経釈等を引いて立証されている。まず法華経方便品第二に「如是相」と説かれている。「如是相」は目に見える相を通して未来を知見することができるということである。
 また、天台大師の法華玄義巻6には「世人以らく蜘蛛挂って則ち喜び事来り、カン鵲鳴いて則ち行人来る。小尚微有り、大焉ぞ瑞無からん。近きを以て遠を表するに、亦応に是の如くなるべし」とある。これは「クモが巣をかければ近く喜びが訪れ、カササギが鳴けば客人が来る」という世間一般で言われていたことを挙げて、このよいに世間の小事でさえ前兆があるのだから、仏法の大事に前兆の現れないわけがなく、瑞相という近くに見えるものをもって、仏法の深遠な道理をあらわすのである、という意である。
 また易経でも「吉凶動に於て生ず」と説いている。吉か凶かを問わず、大きな変動の起きる時には、その契機として「動」つまり異変があるという意である。易経は儒学で尊重する五経の一つで鎌倉時代は治世の書とされていたことから用いられたと拝察される。
 「此等の本文」は古代から尊重されてきたものであり、どうして間違いがあろうかと念を押されている。
亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起れり
 そして「所詮は諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきである」と勘文すなわち立正安国論で諌暁したのであると述べられ、日本を亡国に導く根源は「浄土・真言・禅宗・律宗の邪法邪義」であると、具体的に宗名を挙げて、これらの誤れる宗教こそ「亡国の根源」であると指摘されている。
 そして、この大聖人の主張が正しいか否かを判断するために、諸宗の寺僧との公場対決を実現し、彼らが所依とする諸経と法華経との勝劣を明確にすべきであると強調されている。
 「殊に貴殿は相模の守殿の同姓なり根本滅するに於ては枝葉豈栄んや」とは、北条弥源太が北条一門の人であることから、執権・時宗や幕府要人に意見を具申できる立場であることに期待を寄せられたと拝される。「相模の守殿」とは北条時宗をさす。時宗は文永2年(1265)、北条政村のあとを受けて相模守に任じられたので、そう呼ばれていた。
 そして「根本」である執権が滅びれば、「枝葉」である一門の弥源太のも栄えられるわけがないのであるから、よそごとではなく自分の問題として公場対決の実現に尽力し「早く蒙古国を調伏し国土を安穏ならしめ給え」と促されている。「邪法悪法」への帰依をやめることが、そのまま「蒙古国を調伏」することであり、「国土を安穏」にする方途はほかにないからである。
 「法華経を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり」とは、法華経は三世十方の諸仏を出生せしめた能生の根源であるゆえに、法華経を誹謗することは、とりもなおさず、三世の諸仏を誹謗することになり、「三世諸仏の大怨敵」となるのである。
 したがって、更にその所従である天照太神・八幡大菩薩等の善神は、謗法であり、諸仏に敵対している国に怒りをなして「放ち給う」という道理ということになる。この結果、「大蒙古より牒状来るか」と、他国侵逼難を将来され本質を指摘されている。
 そして、このまま捨正帰邪の大謗法を改めずにいたら、やがて皆、蒙古の捕虜となり、異国の奴隷となるであろうと警告され、同趣旨の書状を北条時宗等へもそれぞれ送ったことを告げて、本書状を結ばれている。

0173~0173    建長寺道隆への御状top
0173:01~0173:06 第一章 四箇の格言を示し諸宗を破折top
建長寺道隆への御状
01   夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、 然りと雖も一
02 代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛つて、 他方の仏・菩薩を信ず是豈
03 逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、
04 爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け 宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ、 此の書の所
05 詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に 天下に災難頻りに起り剰え他国より 此の国責めらる可きの由之を
06 勘えたり、 然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ、
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 それ仏閣は軒を並べ、法門は屋根を支えるほどで、仏法の繁栄はインド・中国にも超過し、僧侶の形儀は六神通の羅漢のようである。しかしながら、一代諸経の勝劣浅深については無知で、あたかも禽獣と同じである。三徳の釈迦如来を抛って、他方の仏・菩薩を信じているのは、師敵対の者というべきではないか。念仏は無間地獄の業であり、禅宗は天魔の所為であり、真言は亡国の悪法であり、律宗は国賊の妄説である。そこで日蓮は、去る文応元年の頃、勘えた書を立正安国論と名づけ、これを宿屋入道をとおして北条時頼に奉った。
 この書の詮ずるところは、念仏・真言・禅・律等の悪法を信じているゆえに天下に災難が頻発しているのであり、その上、他国からこの国が責められるであろうと、これを勘がえたのである。しかるに去る正月十八日、蒙古からの牒状がきたとのこと、日蓮が勘えた立正安国論と少しも違わず符号したのである。

身毒
 漢代以降の中国で、インドを呼ぶ称。
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僧宝
 仏の説いた法を学び伝持していく人。三宝のひとつ。
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六通の羅漢
 六神通を得た二乗の阿羅漢。六神通とは①天眼通、世の中のすべてのことを見通す力。②天耳通、あらゆることを悉く聞きうる力。③他心通他人の心の中をすべて読み取る力。④宿命通、自他の過去世に於ける生存の状態を悉く知る力。⑤神足通機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。⑥漏尽通。煩悩を打ち消して悟りの境地に至っていることを知る力。をいう。
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一代諸経
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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三徳
 ①主徳、衆生を守る働き。②師徳、衆生を導き教化する働き。③親徳、衆生を利益する働き。三徳には法報応の三身をいう場合もある。
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釈迦如来
 釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
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逆路伽耶陀
 古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に従わないで法を説いた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義に順わないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯すもののたとえに用いられる。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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無間地獄の業
 無間は梵語アヴィーチィ(avīci)阿鼻・阿鼻旨の意訳。八熱地獄のひとつ。五逆罪と正法誹謗が堕地獄の業因とされる。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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天魔の所為
 天魔とは天子魔のこと。第六天の魔王より起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をもって仏道修行を妨げようとする働きのこと。他化自在天ともいい、仏教そのものを破壊しようとする最も強力な魔。所為とは行い・仕業。為すところの意。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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亡国の悪法
 真言宗は、国を亡ぼす邪法であるとの意。中国の真言宗の始祖は善無畏三蔵、日本における開祖は弘法である。真言宗では法華経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経のみが法身の大日如来の説法で、これに比較すると、釈迦仏は無明の辺域であり、履物取りにも及ばぬといい、また法華経は一切経中の第三の劣であり、戯論である。また、大日経と法華経を比較すると、一念三千は大日経の教えであり、法華経にも説かれているから「理」は同じであるが、大日経には別に印と真言があるから「事」において勝れているという邪義をたてた。これに対して日蓮大聖人は真言亡国と破折されたのである。なぜなら、大日経は釈尊一代の権教であり、無量義経、および法華経方便品第二ではっきり「正直捨方便」と説かれている。しかも中国の真言宗は天台の一念三千の法を盗んで自宗の極理となし、日本の弘法は口をきわめて法華を罵っている。このように本主を突き倒して無縁の主である大日如来を立てるから亡国、亡家、亡人の法となると破折されたのである。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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国賊の妄説
 律宗は、小乗教の二百五十戒等の戒律を根本の教義とし、戒律を守ることを宗是とする。 これらの戒律は末法の衆生の機根には合わないものであり、現実から遊離し、ただ世間誑惑の教えである。このような戒律を説いて清浄を装う律僧は人 心を惑わし、国を亡ぼす国賊である。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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宿屋入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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普合
 一致すること。
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 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、建長寺の開山・道隆に送られた書状である。
 道隆は南栄・西蜀の出身で、来日し臨済宗を弘めた僧である。俗姓は冉氏、名は蘭渓といい、大覚禅師と称された。13歳の時、出家して無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航を志し、寛元4年(1246)に弟子の義翁等を伴って、九州・太宰府に着いた。翌年、入京し、泉涌寺来迎院に入り、更に鎌倉に赴いて、寿福寺・常楽寺に住した。
 建長5年(1253)北条時頼が建長寺を建立すると、迎えられて開山となり、時頼の帰依を受けた。同寺に13年間住して禅宗を弘め、勅命を受けて京都の建仁寺に移ったが、再び鎌倉に戻り、北条時宗が建立した禅興寺の開山となった。後に弟子の讒言によって、二度、甲斐へ流罪となったが、許されて建長寺に戻った。弘安元年(1278)7月、66歳で没した。
 当時、建長寺は幕府の手厚い保護を受け“鎌倉一”との名声と、格式を誇る大寺院であった。その開山という権威をカサに、極楽寺良観とともに日蓮大聖人に敵対し、陰険な迫害を繰り返した。
 道隆の死後、彼の門下が「道隆の骨が仏舎利になった」といって美化し、仏法に無知な人々をたぶらかしているという報告に接した大聖人は、「仏の舎利は火にやけず・水にぬれず・金剛のかなづちにて・うてども摧けず」(1230-04)と説かれたうえで、「一くだきして見よかし・あらやすし・あらやすし」(1230-05)と、痛烈に破されている。
 本書状の内容は、我が国の仏法は形の上では興隆を極めているが、実質は経の勝劣も知らず、三徳具備の釈尊を忘れて他方の仏を崇めていると、その歪みを指摘されている。「四箇の格言」を示され、これらの宗派が災いの元凶であると断じて著された立正安国論の予言が、蒙古国書の到来により的中したことを述べられて仏法の正邪を決するために、速やかに公場で対決するよう求められている。
 為政者に送られた書状の主旨はほとんど同じであるが、論調は異なっている。立場上、為政者へは誓願の形をとられたのに対し、道隆等の寺僧は徹底した破折が加えられているのが特徴といえる。
三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや
 初めに「夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し」と、日本の仏教がインド・中国よりも盛んなさまを述べられている。
 「法門家に拒る」とは、「仏閣軒を並べ」の対句となっており、「仏閣」が仏像を安置した建物であるのに対し、「法門」は仏法そのもの、あるいは経典をいう。「屋」は「屋根」「うつばり」で「軒」に対する語として用いられる。したがって「仏閣軒を並べ」が、横に仏寺が軒を並べつらなっていることであるのに対し「法門屋に拒る」は経典などは建物を支えるほどあるとの意である。この「仏閣」「法門」に続いて「僧宝の形儀」とあって、仏法僧三宝が挙げられているのである。「僧宝の形儀は六通の羅漢の如し」の「六通の羅漢」とは、六神通を得た阿羅漢のことで、六通は如意六通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通をいう。ここでは僧侶の形儀の荘厳なさまにたとえられている。
 しかし、どんなに行儀の外形を立派に飾っても、釈尊が説いた一代50年聖教に勝劣・浅深があることを知らぬ愚かしさは、さながら「禽獣」同然であると喝破されている。まず、これは「法宝」を知らないことの指摘である。
 次に、娑婆世界の我等衆生のために主であり師であり親である有縁の「釈迦如来」を抛って、阿弥陀如来など無縁の「他方の仏・菩薩」を信じていることは、師敵対も甚だしい「逆路伽耶陀」であると仰せられ「仏宝」を誤っていることを破折されている。
 「逆路伽耶陀」は、古代インドで世論に従わないで法を説いた外道の一派をいうが、後代、師の意にそわず、反逆の罪を犯す者にたとえ用いるようになった。法華経安楽行品第14に説かれている。
念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と
 そして、かねてから大聖人が各宗の教義の誤りをとの、いわゆる「四箇の格言」を示され、その立場から立正安国論を執筆し、「念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずるゆえに天下に災難が頻りに起き剰え他国より此の国が責めらるべきの由」と述べたのであると言われている。
 立正安国論は、文面では法然の浄土宗しか挙げて破折されていないが、その元意は、あくまで諸宗の代表として挙げたことがこの御文から拝せられるのである。
 ここで「四箇の格言」をそれぞれ内容に即してみておきたい。
 「念仏は無限地獄の業」とは、一般に仏を念ずることを「念仏」というが、特に阿弥陀仏の名号を称え、念ずること、また更にはこの阿弥陀を念じ「南無阿弥陀仏」と唱えることのみが「正行」であるとする法然の浄土宗のことである。この法然の念仏宗の信仰は無間地獄に堕ちる業因になるということが、「念仏は無間地獄の業」と言われる意である。
 念仏宗は中国浄土教の曇鸞・道綽・善導の、念仏以外は雑行であるから、救われる者は千人の中に一人もいないと主張したのを受けて、日本浄土宗の開祖法然が、法華経などの諸経は末法の機根に合わないとして「捨てよ・閉じよ・閣け・抛て」と否定し、捨てるように人々に勧めて立てられた宗派である。このゆえに大聖人は法華経譬喩品第3の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…其の人命終して阿鼻獄に入らん」との仏説を根拠に、そうした法華経誹謗の邪説に従って念仏宗を信じる者は阿鼻地獄に堕ちるとされたのである。
 「禅宗は天魔の所為」とは、禅宗は仏法を破壊する天魔の所為である、ということである。禅宗は、釈尊が入滅の直前、黙って花を拈って一座の大衆に示した時、迦葉だけがその意味を悟って破顔微笑したといい、こうした、言葉によらないで釈尊から迦葉へ伝えられたとする。ゆえに「教外別伝・不立文字」と主張し、一切経の外に伝えられた最上の法門であるとして、経文は月をさす指であり、禅は月のごとくで、月を知れば法華経の指は不用であるとする。
 このように仏説である経文を捨てる行為は、涅槃経巻7に「若し仏の所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあるように、仏法を破壊する天魔の振る舞い以外のなにものでもないゆえに「天魔の所為」といわれている。
 「真言は亡国の悪法」とは、真言宗を信じ、真言宗が一国に広まると、必ず国が亡びる、ということである。日本の真言宗の開祖・弘法大師空海は、法華経は大日経に比べれば三重の劣、戯論の法であると誇り、釈迦仏を大日如来に比較すると、無明の変域であると悪口し、下している。
 このように、本来の教主である釈尊を倒して理仏にすぎない大日如来を立て、真実を説いた法華経を卑しめ大日経を尊ぶことは、本来の主人を差し置いて無縁の大日如来を立てることであるから、「真言宗は亡国の悪法」であると断じられたのである。
 「律宗は国賊の妄説」とは、律宗を信じ、弘める人は国を破壊に導く国賊であり、律宗は国賊の邪説である、というのである。当時の律宗は、極楽寺良観の師・叡尊が、本来、持律を主とした律宗に、真言の祈禱を加えた真言律宗として再興したもので、良観自身・二百五十戒の戒律を持っていると自己宣伝し、戒律を持つ人は国の宝であると主張していたのである。
 このことから大聖人は、国宝などであるわけがなく、むしろ、国を滅ぼす賊、すなわち「国賊」であると破折されたのである。なお、「四箇の格言」は四宗の邪義それぞれの特徴をピックアップされたものであり、厳密にいえば、四宗いずれも「無間地獄の業」「天魔の所為」「亡国の悪法」「国賊の妄説」であることを銘記したい。

0173:06~0173:15 第二章 浄諸宗による蒙古調伏は不可能top
06                                              諸寺諸山の祈祷
07 威力滅する故か将又悪法の故なるか 鎌倉中の上下万人・道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ 良観聖人をば羅漢の如く
08 之れを尊む、 其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心充満し、未だ得ざるを得た
09 りと謂う」の増上慢の大悪人なり、 何ぞ蒙古国の大兵を 調伏せしむ可けんや、 剰え日本国中の上下万人 悉く
10 生取と成る可く今世には国を亡し 後世には必ず無間に堕せん、 日蓮が申す事を御用い無くんば後悔之れ有る可し
11 此の趣鎌倉殿・宿屋入道殿・平の左衛門の尉殿等へ之を進状せしめ候、 一処に寄り集りて御評議有る可く候、敢て
12 日蓮が私曲の義に非ず 只経論の文に任す処なり、 具には紙面に載せ難し併ながら対決の時を期す、 書は言を尽
13 さず言は心を尽さず、恐恐謹言。
14       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
15     進上 建長寺道隆聖人侍者御中
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 諸寺諸山の祈禱の威力がなくなったゆえであろうか。それとも悪法が弘まったゆえであろうか。鎌倉中の上下万人は、道隆聖人は仏のように仰ぎ、良観聖人を羅漢のように尊んでいる。
 その外、寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心が充満して、未だ悟りを得ないのに得たと謂っている」増上慢の大悪人である。どうしてこれらの人たちが蒙古国の大兵を調伏することができるだろうか。
 調伏できないどころか、日本国中の上下万人は、ことごとく生け捕りとなって、今世では国を亡ぼし、後世には必ず無間地獄に堕ちるのである。
 日蓮が申すことを用いなければ、必ず後悔するであろう。この趣を鎌倉殿・宿屋入道殿・平左衛門尉殿などへ申し上げたから、一所に集まって御評議されたい。これは敢えて日蓮が勝手に言っているのではない。ただ経論の文に説かれているところを根拠にしているのである。
 詳しいことは、書面に載せられないから、公場対決の時を記したい。書面では言を尽くせず、言葉は思うことをつくせない。恐恐謹言。
       文永五年戊辰十月十一日                   日 蓮 花 押
     進上 建長寺道隆聖人侍者御中

良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
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羅漢
 阿羅漢のこと。声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
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多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
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浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
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長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
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増上慢
 仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと。四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。
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蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
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平の左衛門の尉
 平左衛門尉頼綱のこと。北条氏の家司で、侍所の所司を兼務していた。北条幕府の政務は評定制度であるが、最後の決は執権がにぎっていた。しかるに平左衛門は、北条氏の家司、すなわち執権の執事であるから、実際上の政治的権力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏よりも、強大となるべきで、加えて侍所の実権をにぎっているため、政兵の大権を自由にしていた。
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私曲
 身勝手な誤義・我見・邪見。
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建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
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道隆
 鎌倉時代の禅僧(1213~1278)。蘭溪道隆のこと。中国西蜀培江の人。姓は冉氏。諱は蘭渓。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)、紹仁と共に九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に留まり、のちに北条時頼(1227~1263)の帰依を受け、時頼が建長5年(1253)建長寺を建立すると、迎えられて開山一世となった。門下に告げ口されて前後2回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(1278)7月24日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に師敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永5年(1268)10月、立正安国論に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状到来で的中した旨を、十一通の書状に認めて北条時宗をはじめ、時の権力者に諫暁をなされたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永8年(1271)9月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下より出たことから考えても明らかである。
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 蒙古の来牒という他国侵逼難を将来したのは、諸宗の謗法のゆえであるから、諸宗による蒙古の調伏は不可能であると断じ、道隆・良観・五大寺の長老は世間からはどんなに崇められても増上慢の大悪人であるから蒙古調伏の祈りが叶うわけがないと断じられ、逆に今世には国を滅ぼし死後は無間地獄に堕ちるであろうと厳しく破折されて法の勝劣を公場で決することを求めて結ばれている。
諸寺諸山の祈禱威力滅する故か将又悪法の故なるか
 蒙古からの牒状が到来したことから、当時、諸寺諸山で蒙古調伏の祈禱が行われていた。これに対して大聖人は、四宗の諸寺諸山の祈禱の威力が滅失したゆえであろうか。それとも四宗の悪法が国に充満したゆえであろうか、世間から崇められている道隆・良観の増上慢の僧がいかに祈っても、蒙古調伏などできないわけがないし、むしろ亡国を招くであろうと仰せられているのである。
 鎌倉中の人々から「仏の如く」「羅漢の如く」尊敬されている建長寺道隆や極楽寺良観、そのほか寿福寺などの五大寺の長老たちは、いずれもその実体は「増上慢の大悪人」であり、祈りが叶う道理がないと喝破されている。
 「増上慢」とは、真理を究めてもいないのに究めたと錯覚し、慢心を起こして他よりも優れていると思うことをいう。特に法華経および法華経の行者に敵対する増上慢について説いたのが法華経勧持品第13である。
 この勧持品の文から、中国天台宗の妙楽大師は法華文句記巻8の4で、3種に分け「三類の強敵」と名づけたのである。すなわち、俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢の3種である。
 俗衆増上慢とは法華経行者を悪口罵詈したり、刀杖を加えたるする仏法に無知な在俗の人々のことをいう。勧持品の「諸の無智の人、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん」とあるのがこれに当たる。
 次に道門増上慢とは、末だ得ていないのに最高の法理を得たと慢心し、法華経の行者を誹謗する僧をいう。勧持品では「悪世の中の比丘は、邪知にして心諂曲に、末だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん」と説かれている。
 僭聖増上慢とは似非聖者をいう。つまり、世間から厚く尊敬され、聖者のように思われているが、内実は狡猾で名聞名利を求める念が強く、慢心を抱き、自分より優れている人が現れると怨嫉を起こし、権勢の力を利用して法華経の弘通者を除こうとする敵人のことである。
 勧持品では「自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貧著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せられことを為ること、六通の羅漢の如くならん。常に大衆の中に在って、我等を謗らんと欲するが故に、国王大臣、婆羅門居士、及び余の比丘衆に向って、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」と説いている。
 本文に「道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む」とあるのは、僭聖増上慢を説いたこの勧持品の経意に基づいての仰せである。つまり、道隆・良観の二人こそ僭聖増上慢にほかならないと断じられているのである。
 それに対し「其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老」については本文に「『我慢の心充満し、末だ得ざるを得たりと謂う』の僭聖増上慢の大悪人なり」と仰せのように道門増上慢に当たるとされているのである。
 ゆえに、こうした「増上慢の大悪人」が、それぞれの低い法でどんなに祈ろうと、蒙古の調伏など思いも寄らないことであり、逆に蒙古の侵攻で国中の王臣が蒙古の虜囚となって、今世では国を滅ぼし、後世では必ず無間地獄に堕ちるであろうと警告されている。
 最後に、同趣旨の書状を執権・北条時宗、近侍の宿屋入道・家司の平左衛門尉など幕府の為政者へも送ったことを告げ、一所に集まって評議したうえで、公場対決の用意をするよう促されている。
 そして、日蓮大聖人の讒言は「私曲の義」ではなく「只経論の文に任す」あくまで経論を根拠にして言っているのであると仰せられている。
 最後に、詳細は書面に書きあらわせないから、公場対決の時を待ちたいと仰せられ、その理由として「書は言を尽さず言は心を尽さず」と述べられ、本書を締めくくられている。末尾の「道隆聖人侍者御中」とあるなかの「侍者」とは、そば近くに仕える人の意である。侍者を通して住僧へ書状を届ける当時の儀礼に倣われたものである。

0174~0174    極楽寺良観への御状top
0174:01~0174:06 第一章 経文通りの僭聖増上慢と断ずtop
0174
極楽寺良観への御状
01   西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、 日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論
02 の如く 毫末計りも之に相違せず候、 此の事如何、 長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし 早く日蓮房に帰せしめ給
03 え、 若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、 依法不依人とは如来の金言なり、
04 良観聖人の住処を 法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、 阿練若は無事と翻ず争か日
05 蓮を讒奏するの条 住処と相違せり 併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、 僣聖増上慢にして今生は国賊・来世
06 は那落に堕在せんこと必定なり、 聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、
-----―
 西方の戎の大蒙古国から牒状が来たことについて、北条執権、その外へ書状を申し送った。日蓮が去る文応元年の頃、勘え進言した立正安国論の通りに少しも相違なく符合したのである。
 このことをあなたはいかに考えるか。長老忍性よ、速やかに嘲弄の心を翻し、早く日蓮房に帰伏されるがよい。
 もし然らずんば、法華経勧持品第十三に説かれた「人間を軽しめ卑しむ者…俗人のために法を説く」との失を免れることはできないであろう。「法に依って人に依らざれ」とは如来の金言である。
 良観聖人の住処を法華経勧持品第十三には「或は阿練若に有って、法衣を身にまとい、人里離れた所に住む」とある。
 阿練若とは「無事」という意味である。日蓮を讒訴するなどは、この住処と相違していようか。すべての点からいって、あなたは戒定慧の三学を修行するに似た矯賊の聖人である。まさしく僣聖増上慢であり、今世においては国賊であり、来世は地獄に堕ちることは必定である。いささかでもこれまでの非を後悔するならば日蓮に帰伏」すべきである。

西戎
 ①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
簡牒
 公式の文章のこと。簡は竹の札・書きもの・手紙・書簡。牒は札・書きもの。
――――
鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
毫末
 けすじほどのわずかなこと。亳は細い毛。
忍性
 極楽寺良観の諱。
―――
嘲哢
 からかい、あざけること。
―――
白衣
 在家の信者のこと。釈迦在世のインドでは俗人は白衣を着ていた。
―――
―――
依法不依人
 仏法を修する上では、仏の説いた経文を用い、人師・論師の言を用いてはならない、との仏の言葉。
―――
如来
 ①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
―――
阿練若
 梵語(Aranya)阿蘭若・阿蘭那・阿練茹とも書く。訳して無諍声・無声所・遠離処・意楽処・無諍行・閑静・寂静処・空寂・無諍・空家等という。人里離れた静かな山寺のこと。
―――
讒奏
 讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。
―――
三学
 戒定慧を三学という。いかなる経教においても三学がある。戒は戒律、防非止悪。定は禅定、心を静めて悟りを開くこと。慧は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。日蓮大聖人の仏法においては定を本門の本尊、戒を本門の戒壇、慧を本門の題目とし、三学を三大秘法とする。
―――
矯賊
 世の人々をいつわる賊。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
僣聖増上慢
 三類の強敵の第三類。人々からは聖者のように尊敬されるものの、その心は常に世俗のことを思って利欲に執着している、邪な職業宗教者のこと。国家権力をも味方につけ、法華経の行者に難を加えさせるの。法華文句記の八には「第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」とある。
―――
那落
 地獄のこと。また地獄に落ちた人のこと。
―――――――――
 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたため、律宗の良観に送られた書である。
 良観は字で韓を忍性といい、大和国磯城郡の出身。10歳で信貴山に登って修行し、24歳の時、律宗の叡尊に師事して受戒、南都の戒律復興に尽力した。建長4年(1252)関東に下り、弘長元年(1261)に鎌倉に入って律宗を弘めた。
 文永4年(1267)北条長時の弟・業時に招かれ極楽寺開山となり、37年間にわたってここに住んだ。最盛期には、支院四十九・施薬院・福田院・療病院・癩病院・薬湯院・馬病院などがあったという。
 良観は外見上、戒律を持って、癩病患者や・乞食を集めて薬や食を施し、井戸を掘り、川に橋を渡し、道路を造ったりした。また飢饉には貧民に粥を施すなど社会事業に努め、鎌倉の人々の信望を集めた。
 反面、こうした慈善事業の陰で、関米や通行税を取って人々を苦しめ、私腹を肥やしていた。そして、日蓮大聖人に対しては激しく憎んで権力者を動かし迫害を加えた。
 本書状でみられるように仏法の正邪について公場での対決を大聖人から迫られたが応じようとせず、更に、文永8年(1271)、幕府の依頼で祈雨をおこなうことになった際、大聖人から勝負を挑まれ、これに応じて必死に祈ったが敗れた。
 大聖人はその直後、良観に対して「たやすい雨を降らすことさえできない者が、どうして難しい往生成仏ができようか。今こそ日蓮を恨む邪見を捨てて、約束どおり、日蓮の弟子になりなさい。雨を降らす方法と仏に成る道を教えよう」と破折された。
 良観は祈雨に敗れた悔しさから、怨念と敵対心を弥増し、幕府有力者やその夫人、未亡人などへ讒言して大聖人を亡き者にしようと謀った。
 こうして同年9月10日、幕府は大聖人を呼び出して取り調べを行い、9月12日に逮捕、その深夜、竜の口で斬首しようとしたのである。
 しかし、これは夜空に突如現れた光り物のために執行できず、結局、佐渡へ流罪に処したのであった。この背景には良観の策謀があったのである。
 この良観の悪行に対し、大聖人は後年著された頼基陳状で「抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157-09)と、痛烈に指摘されている。
 良観上人は生き草さえも切ってはならないと、戒を厳守しているふりをしながら、法華経を弘める僧を斬首せよなどと言っているのは自語相違ではないか。良観こそ天魔の入った僧である、との意である。
 更に良観は、流罪地の佐渡でも、武蔵守宣時を動かして私の御教書を下させ大聖人を苦しめている。また、大聖人が執権・時宗の決断で佐渡流罪を赦免になり、身延に入山されてからは、大聖人門下に魔手を伸ばし、池上兄弟・四条金吾などの迫害を引き起こしている。まさに法華経勧持品第13に説かれる僭聖増上慢そのままの振る舞いであった。
 本書状の内容は、立正安国論の予言がその通り的中したことを挙げ、日蓮に帰伏しなければ法華経勧持品に説かれる僭聖増上慢にあたることを指摘、現世は国賊・来世は堕地獄必定であると破折されて、いささかでも先非を悔いる心があれば、日蓮に帰伏すべきであると迫られている。本書状は11通の御状のなかでも、とりわけ語気に厳しさが拝される。良観が鎌倉に入ったのは弘長元年(1261)で、大聖人の伊豆流罪には表面的には関係がなかったように見えるが、幕府要人に強く結びついて名聞名利を貪っていた彼の本質からして、裏面において、画策をめぐらしたと考えるのが妥当ではなかろうか。
経説通りの第三の敵人
 初めに蒙古からの「簡牒」が到来したことについて、執権・北条時宗はじめ幕府要人、諸宗諸寺の長老に書状を送ったことを告げられている。
 次いで、9年前の文応元年(1260)に勘え、上呈した立正安国論の他国侵逼難の予言が少しも違わず符号したことを指摘され「此の事如何」と詰問されている。大聖人が未萠を知る聖人であることを率直に認めたらどうかとの意が込められている。
 「西戎」は蒙古の異名で、当時の漢民族が西方の異民族を称して用いた言葉である。この中国の伝統にならって蒙古に関してはこの呼称をつけられたと拝される。
 「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」との御文は、「長老」と「嘲弄」が同じであることから、良観の慢心を揶揄されたものである。「嘲弄」はあざける、という意で、大聖人への「嘲弄の心」を改めて深く帰伏せよと迫られているのである。
 同様の良観に対する揶揄は王舎城事にもみられる。文永12年(1275)3月、良観が住んでいた極楽寺から出火、広大な伽藍が焼け、その飛び火で鎌倉御所も焼失した。大聖人はその時、「良観房」をもじって「両火房」と揶揄されている。幕府権力に取り入り、自らの名聞名利を貪ることに懸命な良観の姿は、大聖人の眼からすれば滑稽至極であり、揶揄の対象だったのであろう。
 本書状で日蓮大聖人は、更に、もし良観房が大聖人に帰伏しなければ、法華経に説かれた三類の強敵の第三・僭聖増上慢の“失”を免れることができないと指摘されている。
 「人間を軽賎する者、白衣の与に法を説く」との文は、法華経勧持品第13で僭聖増上慢について説かれた部分である。
 詳しくは同品に「自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賎する者有らん、利養に貧著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せられることを為ること、六通の羅漢の如くならん」とある。
 すなわち、自分だけが真の道を行じていると慢心し、人間を軽しめ、賤しめる僧が、利養に対する貧著から、財力をもった罪俗の人々のために法を説いて、世間からは六通の羅漢、つまり常人と異なる優れた洞察力、理解力などをもった聖者のように崇められる、との意である。
 「白衣」とは俗人、在家の人をいう。釈尊在世のインドでは、修行僧が壊色といわれる色のついた衣を着たのに対し、在俗の人は鮮白の衣を着たことから、転じて俗人を「白衣」と称した。
 更に「依法不依人とは如来の金言なり」と仰せられているのは、仏法者たるものはあくまでも仏説を根本として判断し振る舞うべきであると、勧持品の文に我が身を照らしてみよと促されているのである。
 また、勧持品第13には僭聖増上慢の住処については「或は阿練若に、納衣にして空閑に在って」と説かれている。「阿練若」は無事、寂静処、無爭声などと訳す。つまり、人里離れた山林・原野を意味し、閑静で比丘が修行するのに好適な場所をいう。「納衣」とは僧が身につける粗末な法衣のことである。良観が広壮な極楽寺に住し、外面はいかにも戒律を守って粗衣粗食に甘んじているかのような格好をしていることを、この文の通りではないかと指摘されているのである。
 この勧持品の文を受けて「争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり」と追及されている。
 これは「相違せり」と読み下しになっているが「争か」の反語に使われているので、正しくは「争か…相違せん」と読まれるべきである。良観が大聖人を讒奏したことがなぜ「阿練若」すなわち「無事」と合致するかといえば、本来ならば良観は自ら公の場に出てきて、堂々と正邪を争うべきであるのに、自分は陰に隠れて権力者を動かそうとするのが「讒奏」だからである。
 そして「併せながら三学に似たる矯賊の聖人なり」と、良観の姿はどこから見ても、そのまま「戒定慧三学を修めている聖人に似せかけた矯賊」であるとの御指摘である。「矯賊」の「矯」とは「いつわる」の意で、外面は善人、聖人のように見せかけながら、実際には悪事を行っている賊ということである。
 ゆえに、良観はまぎれもなく僭聖増上慢であり、その果報は「今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」と警告され、少しでも先非を悔いる良心があるならば、日蓮に帰伏せよと迫られている。

0176:06~0174:12 第二章 公場での対決を強く迫るtop
06                                    此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其
07 の外へ披露せしめ候、 所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、 即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向う
08 は江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、 蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、 日蓮は日本第
09 一の法華経の行者 蒙古国退治の大将為り「於一切衆生中亦為第一」とは是なり、 文言多端理を尽す能わず併なが
10 ら省略せしめ候、恐恐謹言。
11        文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
12     謹上 極楽寺長老良観聖人御所
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 この趣を北条執権をはじめ、建長寺等その外へ披露したのである。所詮、本意を遂げるには公場対決に限る。
 すなわち小乗三蔵の浅近の法をもって、諸経の中の王である法華経に向かうのは、江河と大海と、華山と妙高との勝劣のようなものである。
 蒙古国を調伏する秘法は御存知であろうか。日蓮は日本第一の法華経の行者であり、蒙古国退治の大将である。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三に「この経は諸経の中で第一であるから、この経を持つ人もまた、一切衆生の中に於いて、これまた第一である」とあるのは、このことである。言いたいことは多く理を尽くすことができないので省略する。恐恐謹言。
        文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
     謹上 極楽寺長老良観聖人御所

建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
三蔵浅近の法
 三蔵は経蔵・律蔵・論蔵のこと。小乗教を結集した経典。
―――
江河
 大きな河のこと。②揚子江のこと。③黄河のこと。
―――
華山
 中国の名山。秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(2200㍍)のこと。古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。
―――
妙高
 須弥山の別名。
―――
極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――――――――
 後段は公場対決を迫られ、勝負は明白であるとされたうえで、大聖人御自身こそ蒙古襲来という困難を解決できる唯一人であると宣言されている。
 まず「此の趣を鎌倉殿を始め奉り」と、同趣旨の書状を執権・北条時宗、建長寺・道隆など10個所へも送付したことを告げられ、「所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」と、公場への対決を強く要求されている。
 日蓮大聖人の本意は仏法の正邪・勝劣を明らかにして立正を期すことにあり、そのためには公場での対決が当時の最良の方法とされていたのである。
 良観が信受する「三蔵浅近の法」、すなわち経・律・論の三蔵を説いた小乗教は、一代聖教中、最も低い教えである。
 したがって、「諸経中王」の法華経に対抗することは、あたかも「江川と大海」「華山と妙高」を比べるようなものであり、勝劣は始めから分かり切っていることだと痛撃されている。
 「諸経中王」とは、法華経薬王菩薩本事品第23に「仏は為れ諸経の王なるが如く此の経も亦復是の如し、諸経の中の王なり」とある文に依られている。
 江河は、いずれも河川の意で、特に中国では通例、「江」は揚子江、「河」は黄河をさしたから、大きな川であるが、大海と比較するとなれば、勝劣は明らかであるので、そうした勝劣が明確なものの対比の喩えにしばしばこれが用いられたのである。
 「崋山」は中国の信仰上の名山で、五岳の一つである。西岳とも呼ばれた。標高2000㍍余で、これもそれなりに立派な山であるが、古代インドの世界観で世界の中心にある高山とされた「妙高」つまり須弥山とは比較にならない。
 須弥山は水面上84000由旬で、これは諸説あって定めにくいが一説を基準にすると、太陽に届くほどの高さになる。
 続いて「蒙古国調伏の秘法定めて存知有る可く候か」と、仏法を覚っていると称している良観なら知っているはずだと仰せられている。
 そして結論として「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」と、大聖人こそ、蒙古襲来という未曾有の国難から日本を救う唯一の人であると宣せられている。
 その裏づけとして引用されている「於一切衆生中亦為第一」は、法華経薬王菩薩品第23の文である。すなわち同品に「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是の如し。一切世間の中に於いて、亦為れ第一なり」とある。
 この法華経は、一切経のなかで第一であるから、法華経を持って如説修行する人もまた、一切衆生のなかで第一である、という意である。いわゆる天台大師の法華文句にある「妙法なるが故に身貴し」と同義である。
 最後に「文言多端理を尽す能わず」で、言いたいことは多いが理を尽くすことができないので、これ以上は省略すると述べて、本書を結ばれている。

0174~0175    大仏殿別当への御状top
大仏殿別当への御状
01   去る正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来し候い畢んぬ、 其の状に云く大蒙古国皇帝・日本国王に書を上る大
02 道の行わるる其の義バクたり信を構え睦を修す其の理何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅正月日と、 右此の状の如くん
03 ば返牒に依つて日本国を襲う可きの由分明なり、 日蓮兼ねて勘え申せし立正安国論に少しも相違せず 急かに退治
0175
01 を加え給え、 然れば日蓮を放て之を叶う可からず、 早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔
02 何ぞ追わん委しく之を記すこと能わず、此の趣方方へ申せしめ候、一処に聚集して御調伏有る可く候か。
03       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
04     謹上 大仏殿別当御房
-----―
去る正月十八日、西戎大蒙古国から牒状が到来した。その状に「大蒙古国の皇帝から日本国王に書を送る。国として行われている大道の義は甚だ漠然として明白でないが、信を構え親睦をはかるということは道理として異なってはいない。乃至、至元三年丙寅正月日」とある。
 右のこの状によると、返書の次第によっては、日本国を襲撃してくることが分明である。日蓮が兼ねて勘え申した立正安国論の予言と少しも相違していない。急いで退治を加えるべきである。そうであれば、日蓮をおいて他にないであろう。早く今までの我慢を折って、日蓮に帰伏すべきである。今生を空しく過ごすならば後悔しても及ばない。詳しいことは記さない。
 この趣を方々に申し上げたから、一所に集まって蒙古調伏について評議されるであろう。
       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
     謹上 大仏殿別当

西戎
 ①漢民族が西方の異民族の侵略を称したもの。②蒙古国の侵逼のこと。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
蒙古国皇帝
 フビライのこと。日本の服属を要求して文永11年(1274)・弘安4年(1281)と出兵しったが、失敗に終わっている
―――
我慢
 ①七慢のひとつ。②我を驕って誇り、他を軽んじ従わないこと。③耐え忍ぶこと。
―――
大仏殿別当
 鎌倉・浄土宗の寺院・大仏殿の別当職にいた僧。日蓮大聖人時代の別当が誰であるかは不明。
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 本書状は文永5年(1268)10月11日日蓮大聖人が47歳の御時、蒙古からの牒状が到来したのを機に、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ大仏殿別当に送られた書である。
 大仏殿は暦仁元年(1238)に着工し、寛元元年(1243)に建立された。初めは木彫りの阿弥陀仏だったが、建長4年(1252)金銅の阿弥陀の大仏に作り変えられた。後年、天災等の被害を受け、現在は露座の大仏だけが残っている。
 大聖人御在世当時は浄土宗に属し、鎌倉7大寺の一つとして勢威を振るっていた。当時の別当職がだれであるかは不明である。
 本書状の内容は、同年正月18日に到来した蒙古国からの牒状の文言を挙げ、日本側の返事次第では、蒙古国が攻めてくるのは間違いないとされ、この国難が立正安国論の予言通りであることを指摘されている。したがって、これを退治するのは日蓮以外にないとされ、速やかに日蓮に帰伏しなければ、必ずや後悔することになるであろうと諌められている。
蒙古国から到来した牒状の内容
 初めに、文永5年(1268)閏正月18日に、蒙古国フビライ汗から牒状が到来した事実を挙げ、牒状の内容の一部を示されている。全文は次の通りである。
 「上天の眷命せる大蒙古国の皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君も境土相接すれば尚努めては講信修睦す。況んや我が祖宗は天の明命を受けて、区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ、徳に懐就く者は悉く数うべからず。
 朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鉾鏑を瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その彊域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は、感戴して來朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。
 計るに王の君臣もまたすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること未だ審ならざるを恐る。故に特に使を遣わし、書を持たしめ朕が志を布告す。
 冀くは今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや、兵を用うるに至る、それ孰んぞ好むところならん。王それ之を図れ。不宣。
   至元三年八月 日」
 蒙古が既に広大な版図を有し、高麗等も朝貢してきているのに日本が使いをよこさないのは何事かと述べ「好を結び、相親睦したい」というのである。一見、友好を求めているようであるが、蒙古皇帝の威に服してこいとの尊大さが文面に明らかである。
 とくに末尾の「兵を用うるに至る、それ孰んぞ好むところならん。王それ之を図れ」という一節は、明らかに威嚇である。本書状で大聖人が、我が国の返書の次第によっては、日本を襲撃してくることは明白であると言われているのは、この一節をふまえられたと考えられる。
 そして、このことは既に9年前の文応元年(1260)に立正安国論を故北条時頼に提出し、今のように邪法・悪法をはびこらせていくならば、必ず他国から侵略されるであろうと警告されたが、まさにその通りの予言が少しも違わず的中したのである。
 それゆえにこそ「急かに退治を加え給え、然れば日蓮を放て之を叶う可からず」と、国難を救う方術を知るのは日蓮大聖人御一人を置いて、どこにもいないと断言されているのである。
 蒙古調伏については、他にも安国論御勘由来に「日蓮復之を対治するの方之を知る」(0035-11)また宿屋入道殿の御状に「るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと」(0169-05)の記述がみられる。
 したがって、「早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん」と、大仏殿別当に対し、捨邪帰正を促す一方、聞き流して空しく過ごせば後悔しきれない悪果を招くであろうと諭されている。
 「我慢」とは7慢の一つで、我をおごって誇り、他を軽んじて従わないという意味である。
 最後に、同様の書状を方々に送ってあるので、一所に集まって「御調伏有る可く候か」と、本書を結ばれている。「御調伏有る可く候か」とは蒙古調伏の方術について評議を望まれた文意にも拝されるが、御本意は前文に「日蓮を放て之を叶う可からず」と仰せられているように、大聖人に帰伏すべきか否かについて、その前段階として「公場対決」について「一処に聚集」するよう要請されたと解すのが、他の御状との関連からいっても妥当のように拝される。

0175~0175    寿福寺への御状top
寿福寺への御状
01   風聞の如くんば蒙古国の簡牒・去る正月十八日慥に到来候い畢んぬ、 然れば先年日蓮が勘えし書の立正安国論
02 の如く普合せしむ、恐くは日蓮は未萠を知る者なるか、之を以て之を按ずるに念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に
03 充満して上下の師と為るの故に 此の如き他国侵逼の難起れるなり、 法華不信の失に依つて皆一同に後生は無間地
04 獄に堕す可し早く邪見を翻し 達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し、 然る間方方へ披露せしめ候の処なり、
05 早早一処に集りて御評議有る可く候、委くは対決の時を期す、恐恐謹言。
06       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
07     謹上 寿福寺侍司御中
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風聞によれば、蒙古国からの牒状が去る正月十八日、たしかに到来したということである。しかれば先年、日蓮が勘えた書の立正安国論の通りに符合したのである。おそらくは日蓮は未来の出来事を知る者であろう。
 この立正安国論に説いたことをもって、蒙古の牒状が到来したことを考えてみると、念仏・真言・禅・律等の悪法が天下に充満して、上下万民の師となっているから、このような他国侵逼難が起きているのである。
 法華不信の失によって、皆一同に後生は無間地獄に堕ちるであろう。早く邪見を翻し、達磨の法を捨てて。法華一乗の正法に帰伏すべきである。
 そのゆえに、方々へ申し上げたところである。早く一所に集まって、御評議されるべきである。くわしくは公場対決の時を期したい。恐恐謹言。
       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
     謹上 寿福寺侍司御中

蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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簡牒
 公式の文章のこと。簡は竹の札・書きもの・手紙・書簡。牒は札・書きもの。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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普合
 一致すること。
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未萠
 まだ起こっていないこと。未来の出来事。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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他国侵逼難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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達磨の法
 禅宗のこと。達磨を開祖とするゆえに、こう呼ぶ。
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一乗正法
 一仏乗の正法のこと。一切衆生をことごとく成仏させる法。法華経をさす。
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寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
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 本書状は、文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、臨済宗の寿福寺に送られた書である。
 臨済宗は鎌倉市扇ヶ谷にあり、正治2年(1200)に北条政子の発願によって建立された。正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称する。日本臨済宗の開祖・栄西が開基で、初期の禅宗の発展に重要な役割を果たした。当時の住僧が誰であったかは不明である。
 内容は、蒙古の牒状が文永5年(1268)閏正月18日に到来した事実は9年前に著した立正安国論の予言が符合したことであり、日蓮が未萠を知る聖人である証拠であることを指摘されている。そして、他国侵逼難を招いた元凶は、念仏・真言・禅・律等の悪法が天下に充満しているゆえであり、邪見を翻して速やかに正法に帰依すべきであると促されている。
先年日蓮が勘えし書の立正安国論の如く普合せしむ、恐くは日蓮は未萠を知る者なるか
 まず、蒙古国の「簡牒」が去る正月18日に到来した事実を挙げ、このことは日蓮大聖人が文応元年(1260)に勘え、上呈した立正安国論の予言の符合にほかならず、この予言的中をもって御自身を「未萠を知る者なるか」と仰せられている。
 「簡牒」とは公式の文書のことで、簡状ともいう。「簡」は竹の札の意で、書簡・手紙をいい、「牒」は文書を記す札、公文書などの意である。
 「未萠を知る者なるか」と仰せの「未萠」とは、末だ起こらないこと、すなわち未来の出来事をさす。ゆえに「未萠を知る者」とは未来に起こるべきことを、あらかじめ知り抜いている聖人をいう。
 撰時抄に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(0287-08)とあり、内典の聖人すなわち仏は、三世流転の生命の過去世・未来世をも知ることを特質とする。それに対し、現実世界の未来に起きる事象を知るのが外典の聖人である。仏法の聖人が“未萠”を知ることは当然で、安国論における予言的中は、この“未萠”を正しく知っておられたことの証ななである。
 したがって、兼知未萠の聖人は、聖人知三世事に「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)と明言されている。
之を以て之を按ずるに念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に充満して上下の師と為るの故に此の如き他国侵逼の難起れるなり、法華不信の失に依つて皆一同に後生は無間地獄に堕す可し
 「之を以て之を按ずるに」とある文の、先の「之」は立正安国論に述べられたこと、後の「之」は蒙古の来牒をさす。安国論に述べたことをもって蒙古の牒状が到来した事実を考えてみるのに、という意味である。安国論に述べたように、外寇という国難を招いた根本原因は、「念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に充満して上下の師と為るの故」であると、念仏など諸宗の悪法・邪法が天下に充満し、悪侶が上下万民の依師となっているためであると断じられている。
 すなわち、法華経を信ぜず誹謗していることが因で、その果報として、王臣一同に後生は無間地獄に堕ちるであろうと警告されている。
 これは法華経譬喩品第3に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん…其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれていることであり、大聖人が言われていることは、まぎれもなく仏説に基づいたものである。
早く邪見を翻し 達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し
 それゆえに、早く改心して、受持する「達磨の法」を捨て、「一乗正法」である法華経へ帰依するよう勘誡されている。安国論で「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」(0032-14)と述べられていることと同じ意である。
 「達磨の法」とは、中国禅宗の祖、菩提達磨が説いた邪法のことである。菩提達磨は菩提多羅・達磨多羅ともいい、略して達磨ともいう。伝説化された人物のため、詳細は不明であるが、南インドの香至国王の第三子として生まれたといわれる。
 初め大乗を学び、次いで禅定に励んだ。辺地に仏法が衰えていくのを嘆き、諸国を巡歴し、海路、中国へ入った。梁の武帝に迎えられて金陵に入り禅を説いたが用いられず、北魏の嵩山少林寺で、9年間、壁に向かって座禅を組み、禅観の奥義を悟ったとされる。没年については、梁の大通2年(0528)、大同5年(0536)など異説が多く、年齢は150歳などと誇張してつたえられる。
 一代五時継図に、
    禅宗┬如来禅──楞伽経・金剛般若経等に依る、又は教禅とも云う
      └祖師禅──教外別伝不立文字云云(0664-18)
 とあるように、如来禅と祖師禅に大別できるが、本書で示されている「達磨の法」とは「祖師禅」である。すなわち達磨の流れを汲み、慧能を開祖とする祖師禅は、大梵天王問仏決疑経の文に拠り、仏法の神髄は教理の追及ではなく、ただ座禅修行によって自ら体得できるとし、文字も経典も不要であるとして「教外別伝・不立文字」と立てる。
 大聖人はこの邪義について諸御書で“言葉や文字を離れて仏道修行するというが、沈黙したままで衆生教化や法の弘通ができるわけがない。現実に禅宗の人も禅を他人に教える時には言葉も使う。また悟りを人に伝える時にも文字や言葉を離れるわけはない”と、その自己矛盾を突かれている。
 最後に同趣旨の書状は、幕府要人や諸宗の高僧たちにも披露しておいたので、早く一所に集まって評議するよう促され、詳しいことは公場での対決を待ちたいと締めくくられている。
 末尾の「謹上 寿福寺侍司御中」とある。「侍司」は、相手に直接差し上げることをはばかるという謙遜の意を表す。

0175~0176    浄光明寺への御状top
浄光明寺への御状
01   大蒙古国の皇帝・日本国を奪う可きの由・牒状を渡す、此の事先年立正安国論に勘え申せし如く少しも相違せし
02 めず 内内日本第一の勧賞に行わる可きかと存ぜしめ候の処 剰え御称歎に預らず候、 是れ併ながら鎌倉中著ソの
03 類・律宗・禅宗等が「向国王大臣誹謗説我悪」の故なり、 早く二百五十戒を抛つて日蓮に帰して成仏を期す可し、
0176
01 若し然らずんば堕在無間の根源ならん、 此の趣き方方へ披露せしめ候い畢んぬ、 早く一処に集りて対決を遂げし
02 め給え日蓮・庶幾せしむる処なり、 敢て諸宗を蔑如するに非ざるのみ、法華の大王戒に対して小乗蟁蝱戒・豈相対
03 に及ばんや、笑う可し笑う可し。
04       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
05     謹上 浄光明寺侍者御中
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大蒙古国の皇帝から日本国を奪うとの牒状がきた。このことは、先年立正安国論に勘え申したことと少しも相違していない。内心では日本第一の勧賞にも預かるかと思っていたところ、なんの御称歎にも預からなかった。
 これは、鎌倉中の小乗・権教に執着する者の類、律宗・禅宗等の者が法華経勧持品第十三にある「国王大臣に向かって、誹謗して我が悪を説く」のゆえである。早く二百五十戒を捨てて、日蓮に帰伏して成仏を期するがよい。もしそうでなければ、無間地獄に堕ちるばかりである。
 この趣を方々へ申し上げたから、早く一所に集まって対決していただきたい。日蓮が願うところである。あえて諸宗を蔑如するものではない。法華の大王と小乗の蟁蝱戒とを比べようとするなどは笑うべきことである。笑うべし。
       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
     謹上 浄光明寺侍者御中

蒙古国の皇帝
 フビライのこと。日本の服属を要求して文永11年(1274)・弘安4年(1281)と出兵しったが、失敗に終わっている。
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牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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勧賞
 功を賞して官位または物品を与えること。
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著麤
 麤法に執着すること。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
―――
庶幾
 ①近いこと。②こいねがう・希望すること。
―――
法華の大王戒
 法華経の戒のこと。他経のすべての戒の大王であるという意味。
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小乗蟁蝱戒
 小乗の戒のこと。法華経の戒に対すれば蟁や蝱のような小さな存在であるので、こういう。
―――
浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
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 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、浄光明寺へ送られた書である。
 浄光明寺は建長3年(1251)に北条長時が真阿を開基として建立した。持戒・念仏の寺であったが、その後、真言・禅・律・浄土の四宗建学の道場になったという。鎌倉市扇ヶ谷に現存する。
 当時、行敏が住していたと伝えられ、行敏は文永8年(1271)7月に良観の意を受けて、大聖人へ大聖人を難詰する書状を送り、さらには問注所へ訴状を提出している。
 行敏が当時、律宗の良観の配下にあったことは、本文に「早く二百五十戒を抛つて日蓮に帰して成仏を期す可し、若し然らずんば堕在無間の根源ならん、此の趣き方方へ披露せしめ候い畢んぬ、早く一処に集りて対決を遂げしめ給え日蓮・庶幾せしむる処なり、敢て諸宗を蔑如するに非ざるのみ、法華の大王戒に対して小乗蟁蝱戒」と記されていたことからも推察される。
 内容は、蒙古の牒状到来により立正安国論の予言が的中し、本来ならば日本第一の勧賞に預かっても当然なのに、称嘆のことばさえなかった。それは諸宗の悪侶が陰で画策し、封じたためであると喝破されている。
 続いて、受持する小乗戒を捨てて大聖人に帰伏して成仏を帰すべきであると促され、諸宗諸山の高僧との公場対決を強く求められている。
 なお、行敏に与えられた行敏御返事は文永8年(1271)7月、日蓮大聖人が50歳の御時の御述作である。
 内容は大聖人の、
   ①爾前の一切の諸経は出離生死の法ではない。
   ②大小の戒律は世間を惑わし、しかも悪道へ堕とす。
   ③念仏は無間地獄の業。
   ④禅宗は天魔の教法。
 という所説に対し、行敏がその根拠を問い、対論を申し出たことに対する御返事である。大聖人は私的な問答は拒否すると述べられ、あくまで公場の対決において法の是非を決すべきであると答えられている。
 行敏訴状御会通は、同じく文永8年(1271)に行敏の法論申し入れに対し、訴状の内容一つ一つに会通加え、答えられた書である。
悪侶が画策、大聖人への称嘆封ず
 初めに、蒙古国の皇帝から日本国を奪い取るぞとの国書が到来したが、これによって9年前立正安国論に記した予言が少しの相違もなく符合した旨を述べられている。
 日本の国を憂えて上呈した諌暁の予言が的中したのであるから、大聖人に対し「日本第一の勧賞」があって然るべきであると内々思っていたのに、幕府からは何の沙汰もない。それどころか褒め言葉一つさえなかったと言われている。「勧賞」は功績を賞し、位階などを賜る意である。
 もちろん、大聖人が幕府の勧賞など望まれていなかったことはいうまでもない。「末代の不思議」ともいうべき予言の符合を通し、これまでの大聖人に対する邪見・辺見を改め、なぜ謙虚に教えを請おうとしないのか、賢王・聖主はこの国にいないのか、という覚醒を促す意味を込めての仰せである。
 そして、勧賞も称賛さえもなかったのは、鎌倉中の「著麤の類」、すなわち麤法である小乗・権大乗の諸経に執着する律宗・禅宗等の悪侶達が、大聖人を陥れるため、陰で幕府の権力者達に働きかけたゆえであると喝破されている。「著麤」という言葉は、日本天台宗の開祖、伝教大師が南都六宗の諸師を論難して述べた言葉である。
 こうした策動は、法華経勧持品第13の偈文に「国王大臣・婆羅門居士・及び余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」と説かれる通りであるとされている。
 この経文は、三類の強敵を明かすなか、第三の僭聖増上慢を説いた中にある文であるが、まさに彼らの実態を鏡に映し出すごとくである。
 妙法比丘尼御返事では具体的に「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく」(1416-16)と彼らが権力にすりよって大聖人に弾圧を加えさせようとしたことを指摘されている。
 そして早く小乗の持戒という低い法を捨てて、日蓮に帰依して成仏を期すべきであると促され、もし、そうでなければ無間地獄に堕ちるであろうと述べられている。
 結びに、同じ趣旨の書状を幕府の要人、諸宗諸山の高僧に送ってあるので、早く一所に集まって評議し、大聖人との対決実現へ尽力するよう求め、公場での対決は大聖人たっての願いであると強調されている。「庶幾せしむる」は願う、希望する、との意である。
敢て諸宗を蔑如するに非ざるのみ、法華の大王戒に対して小乗蟁蝱戒・豈相対及ばんや、笑う可し笑う可し
 「法華の大王戒」とは「諸経中王」の法華経の戒のことで、他のすべての戒に対すれば大王にあたることから「法華の大王戒」という。
 「小乗蟁蝱戒」の「蟁」は蚊、「蝱」は虻のことで、小さな取るに足りないものの意から小乗戒に喩えられたものである。すなわち大聖人は、決して諸宗の人々を蔑視するのではないが、根本とする“法”に天智雲泥の相違・勝劣があるのだとされている。
 末尾の「謹上 浄光明寺待者御中」とある「待者」は、師や長老に仕える弟子のことであるが、ここでは待者を経て住職に差し上げるという意を表している。

0176~0176    多宝寺への御状top
多宝寺への御状
01   日蓮・故最明寺殿に奉りたるの書・立正安国論御披見候か未萠を知つて之を勘え申す処なり、既に去る正月蒙古
02 国の簡牒到来す何ぞ驚かざらんや、 此の事不審千万なり縦い日蓮は悪しと雖も 勘うる所の相当るに於ては何ぞ用
03 いざらんや、 早く一所に集りて御評議有る可し、 若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必
04 ず無間大城に堕す可し、 此の旨方方へ之を申せしめしなり敢て日蓮が私曲に非ず 委しく御報に預る可く候、言は
05 心を尽さず書は言を尽さず併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。
06       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
07      謹上 多宝寺侍司御中
-----―
 日蓮が故最明寺殿へ奉った書・立正安国論を御覧になったであろうか。未来の出来事を予知して、これを勘えたのである。
 既に去る正月、蒙古国から牒状が到来した。これに目が覚めないとはどうしたことか。このことは不審千万である。たとえ日蓮が憎いからといっても、勘えたところの事が的中したならば、どうしてこの事を用いないのか。早く一所に集まって、評議されるべきである。
 もし日蓮が申すことを用いなければ、今世には国を亡ぼし、後世は必ず無間大城に堕ちるであろう。
 この旨を方々へ申し上げた、あえて日蓮が私曲で申すのではない。委細に御返事を預かりたい。言葉は心を尽くさないし、書面は言葉を尽くせないから、ここで省略する。恐恐謹言。
       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
      謹上 多宝寺侍司御中

最明寺殿
 北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
未萠
 まだ起こっていないこと。未来の出来事。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
簡牒
 公式の文章のこと。簡は竹の札・書きもの・手紙・書簡。牒は札・書きもの。
―――
無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
―――
私曲
 身勝手な誤義・我見・邪見。
―――
多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
―――――――――
 本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、多宝寺へ送られた書である。
 多宝寺は大聖人御在世当時、鎌倉にあった寺であるが、現存していない。開基や開祖、落成年次、宗旨なども不明である。弘長2年(1262)北条業時が創建し、良観が5年間在住したともされている。
 頼基陳状に、極楽寺の祈雨について述べられるなかで、「多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158-07)と記されており、当時の多宝寺は良観の管下にあったようである。
 この御状の内容は、初めに、日蓮大聖人が文応元年(1260)7月、故北条時頼に上呈した立正安国論を披見したかどうかを問われ、その安国論は9年前、「未萠」すなわち、事の末だあらわれないうちに、他国侵逼難を予知して著した書であると、御自身が“兼知未萠”の聖人であることをほのめかされている。
 その予言通り、今年の正月、蒙古国の「牒状」が到来したのであり、この厳とした事実を前にしては「何ぞ驚からざんや」とどうして目覚めないのかと述べられている。
 「縦い日蓮は悪しと雖も」とは、大聖人を憎いと思う人は別にして、との意である。
 重要なことは「勘うる所の相当る」、つまり予言が的中したという事実が眼前にある以上、日蓮大聖人の言葉、諌暁を用いるべきであると仰せられている。
 未曾有の国難を前に、国の前途を憂える人であるなら、個人的感情はどうであれ、謙虚な心で教えを請うべきであろうとの意である。
 そして、早く一所に集まって評議すべきであると促され、もし大聖人の諌言を用いない時は、今生には国を滅ぼし、後世では無間地獄に堕ちること必定であると断じられている。
 最後に、同じ趣旨の書状を時宗など幕府要人・諸宗諸山の高僧へ送付したが、いずれも「敢て日蓮が私曲に非ず」、つまり身勝手な私見で言っているのではなく、すべて経文に基づいた諌言であると、はっきりした返事を待ちたいと、公場での対決を要求されている。
 「言は心を尽さず書は言を尽さず」との御文は、建長寺道隆への御状にもみられるが、言葉は心を尽くすことができず、また文章も言葉を尽くせないから、ここで省略すると、本書を締めくくられている。
 末尾にある「多宝寺侍司御中」の「侍司」は「侍史」とも書き、傍に侍する人の意、また相手に手紙を直接差し上げることをはばかるという謙虚の意をあらわす。

0176~0177    長楽寺への御状top
長楽寺への御状
01   蒙古国・調伏の事に就いて方方へ披露せしめ候い畢んぬ、既に日蓮・立正安国論に勘えたるが如く普合せしむ、
02 早く邪法邪教を捨て実法実教に帰す可し、 若し御用い無くんば今生には国を亡し身を失い 後生には必ず那落に堕
0177
01 す可し、 速かに一処に集りて談合を遂げ評議せしめ給え日蓮庶幾せしむる所なり、 御報に依つて其の旨を存ず可
02 く候の処なり敢て諸宗を蔑如するに非ず但此の国の安泰を存する計りなり、恐恐謹言。
03       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
04     謹上 長楽寺侍司御中
-----―
 蒙古国調伏のことについて、方々へ申し上げた。既に日蓮が立正安国論で勘えた通りに予言が符合した。早く邪法邪義を捨てて、法華経の実法実教に帰伏すべきである。
 もしこの事を用いないならば、今生には蒙古の襲来で国を亡ぼし身を失い、後生には必ず地獄に堕ちるであろう。速やかに一所に集まって、談合を遂げ評議されたい。それが日蓮が願うところである。御返事によって、その旨をうけたまわりたい。これは、あえて諸宗を蔑如して申すのではなく、ただこの国の安泰を思って申すのである。恐恐謹言。
       文永五年十月十一日                    日 蓮 花 押
     謹上 長楽寺侍司御中

蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
普合
 一致すること。
―――
実教
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
―――
那落
 地獄のこと。また地獄に落ちた人のこと。
―――
庶幾
 ①きわめて近い・似ていること。②こいねがい・希望すること。
―――
長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
―――――――――
 本書状は文永8年(1271)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、浄土宗の長楽寺へ送られた書である。住僧がだれであったかは不明である。
 長楽寺は、日本浄土宗の開祖・法然の孫弟子である智慶の開基とされる。当時は鎌倉7大寺のひとつに数えられていたが、現在は跡形もなくなっている。
 智慶は南無房ともいい、関東の出身で、初め天台宗を学んでいたが、京都の長楽寺隆寛の弟子となり、浄土宗に帰依した。守護国家論に彼が法華経を誹謗した言として「或は絃歌等にも劣ると云う南無房の語」(0048-17)との記述がみられる。
 この御状の内容は、まず蒙古国調伏の方法について、執権をはじめとする「方方へ」書状を送ったことを告げられている。「調伏」とは身・口・意の三業を調えて諸の悪を制し伏させることをいうが、密教では祈禱によって怨敵・障魔を降し伏させることをいい、そこから、敵を祈りによってこちらを攻撃できないようにすることをいう。
 ちなみに調伏について、日蓮大聖人は11通の御状のなかで「彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」(0169-北条時頼への御状-04)「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為」(0174-極楽寺良観への御状-08)と仰せのように、大聖人をおいて調伏できる人はいないと断言されている。
 また調伏の方法は、悪法・邪法に対して「早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(0171-平左衛門尉頼綱への御状-03)すなわち帰依や布施を禁断することであり、あわせて「日蓮に帰すべし」(0175-大仏殿別当への御状-01)、「一乗正法に帰せしむ可し」(0175-寿福寺への御状-04)ることであると仰せられている。
 次に、このたびの他国侵逼難は9年前の文応元年(1260)に上呈した立正安国論の予言がその通りに的中したものであると述べられ、災いの元凶である「邪法邪教」を早く捨てて、「実法実教」である法華経に帰依するよう促されている。そして、もし、この大聖人の諌言を用いない時は、蒙古の侵攻によって今生には国も身も滅ぼし、後生には必ず無間地獄へ堕ちるであろうと、警告を発せられている。「那落」は地獄の意である。
 それゆえに、急ぎ一所に集まり、大聖人の諌言について話し合い、評議したうえで、対決の日を決定すべきことを求め、これは「日蓮庶幾せしむる所」つまり大聖人たっての願いであると仰せられている。
 「御報に依って其の旨を存ず可く候の所なり」とは、この大聖人の意志に対する返事を求められている。文面のうえで「御報」を求めているのは、先の多宝寺への御状と本書のみである。
 「敢て諸宗を蔑如するに非ず但此の国の安泰を存する計りなり」との仰せは、大聖人が諸宗との対決を求めるのは、決して諸宗を侮っているのではなく、ひとえに国の安泰を願うためであると仰せられて、本書を締めくくられている。

0177~0177    弟子檀那中への御状top
弟子檀那中への御状
01   大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定な
02 らん少しも之を驚くこと莫れ 方方への強言申すに及ばず 是併ながら而強毒之の故なり、 日蓮庶幾せしむる所に
03 候、 各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、 今度生死の縛を切つて仏果を遂げ
04 しめ給え、鎌倉殿.宿屋入道.平の左衛門尉・弥源太.建長寺・寿福寺.極楽寺・多宝寺.浄光明寺・大仏殿.長楽寺已上
05 十一箇所仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ 定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せし
06 め給え、恐恐謹言。
07       文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
08     日蓮弟子檀那中
-----―
 大蒙古国から牒状が到来したことについて、十一通の書状をもってそれぞれの方へ申し上げた。定めて日蓮が弟子檀那は、流罪・死罪になることは必定であろう。少しも驚いてはならない。
 方々へ強言を申し送ったことは言うまでもないが、これは而強毒之のゆえである。これは日蓮が望むところである。各々も用心しなさい。少しも妻子眷属のことを憶ってはならない。権威を恐れてはならない。今こそ生死の縛を切って成仏を遂げなさい。
 鎌倉執権殿・宿屋入道・平左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺、以上の十一ヶ所へ十一通の書状を出して諌めたのである。必ずや何かの子細があるだろう。日蓮のところに来て、書状等を披見せられたい。恐恐謹言。
       文永五年戊辰十月十一日                  日 蓮 花 押
     日蓮弟子檀那中

蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
簡牒
 公式の文章のこと。簡は竹の札・書きもの・手紙・書簡。牒は札・書きもの。
―――
十一通の書状
 文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が国諫のため、幕府・要人11人に送られた書。宛先は北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。
―――
流罪
 罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
―――
而強毒之
 「而も強いて之を毒す」と読む。文句の語である。妙法を聞くのを好まない者に対しても強いてこれを説いて毒心を起こさせること。毒心というのは、貧瞋癡の三毒で、なかでも地獄の因である瞋恚をいう。文句の第十には「本と已に善有り、釈迦は小を以て而も之を将護したまう。本と末だ善有らざれば、不軽は大を以て而も強て之を毒す」とあり、釈尊の化導の仕方と、常不軽菩薩の化導の仕方が述べられている。末法の衆生は本末有善であるから、不軽菩薩の立場を取る。而強毒之とは折伏であり、これによって、反対する者も、毒鼓の縁を結んで、必ず御本尊にあえるという原理である。また、戸田二代会長は「倒れて、なおかつ、御利益があることを確信することである」とも述べられている。
―――
庶幾
 ①きわめて近い・似ていること。②こいねがい・希望すること。
―――
眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
―――
生死の縛
 苦しみ・煩悩に縛られること。
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仏果
 成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。
―――
鎌倉殿
 鎌倉幕府・将軍のこと。
―――
宿屋入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
―――
平の左衛門尉
 日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
―――
弥源太
 北条弥源太のこと。北条氏一門であり、幕府の要人・大聖人一門の弟子でもある。御書には大聖人に太刀・刀を供養したとある。
―――
建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
―――
浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
―――
大仏殿(鎌倉)
 大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
―――
長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
―――
諌訴
 諫め状をもって幕府に訴えること。
―――――――――
 本書は文永5年(1268)日蓮大聖人が47歳の御時、11通の御状と同じ10月11日、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、弟子檀那に対して与えられた書である。
 この年の閏正月蒙古からの牒状が到来し、立正安国論の予言が的中したことを機に、日蓮大聖人は執権・北条時宗をはじめ幕府の要人、ならびに諸宗諸大寺の高僧へ十一通御書を送って、公場対決を迫られた。
 それと同時に、本書をしたためられて門下一同に与え、陳状を提出したゆえに、日蓮および弟子檀那に対し流罪・死罪等の弾圧があることは必定であるとし、法難に対する覚悟と心構えを訴えられ、不惜身命の仏道修行こそ成仏の要因であることを教えられている。
 初めに、蒙古国から「簡牒」、すなわち公式文書が到来したことを機に、諌暁のため11通の御状をしたため、「方方へ」送付したことを告げられる。
 したがって、大聖人だけでなく、弟子檀那へも必ず流罪・死罪等の弾圧が加えられるであろうが、少しも驚いたり、あわてたりしてはならない、と覚悟を促されている。
方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり
 「方方へ」送った11通の御状には、すこぶる強い言葉でもって幕府要人や諸宗の高僧たちを諌めたが、それは「而強毒之の故」であることを述べられている。
 「而強毒之」とは「而して強いて之を毒す」と読み、正法を聞こうと望まない衆生にも強いて説き、仏縁を結ばせることをいう。折伏逆化と同義である。出典は天台大師の法華文句巻10上で、同書に「本末だ善有らざれば、不軽は大を以て而して強いて之を毒す」とある。善根を積んでいない衆生は、自ら妙法を求めることをしないが、あえて法を説いて三毒の心を起こさせ縁を結ばせることをいう。
 末法の衆生は本末有善であるから、不軽菩薩の化導と同じく「而強毒之」が正しい教化法である。大聖人は御義口伝で「智者愚者をしなべて南無妙法蓮華経の記を説きて而強毒之するなり」(0735-第一学無学の事-04)と説かれている。
受難の覚悟を促す
 「日蓮庶幾せしむる所に候」とは、正法をもって諌暁したために流罪・死罪等の弾圧にあうのは望むところであるとの仰せである。そして、弟子檀那に対しても「各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ」と、いざという時の覚悟を決めておくよう、言い含められている。
 ここで「用心有る可し」との仰せは、流罪・死罪を避けるための用心ということではなく、妻子眷属を思って生ずる、ひるむ心、流罪・死罪を恐れて臆する心に対する用心である。
 今こそ勇気ある信心を貫いて、苦しみ・煩悩に縛られる「生死の縛」を断ち切り、「仏果」すなわち成仏を遂げるよう促されているのである。
 大聖人は文永7年(1270)11月の金吾度の御返事でも11通の御状の送付に関連して、法華経のために身命を捨てる喜びを、次のように記されている。
 「法華経のゆへに流罪に及びぬ、今死罪に行われぬこそ本意ならず候へ、あわれ・さる事の出来し候へかしと・こそはげみ候いて方方に強言をかきて挙げをき候なり、すでに年五十に及びぬ余命いくばくならず、いたづらに曠野にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり」(0999-11)
 これは「先に伊豆に流罪された、法華経のために命を捧げている自分としては、死罪に行わずにいるのが不本意である。法華経のために死罪に値うようにと折伏・弘法に励み、方方へは強言の諫状を送った。いたずらに曠野に捨てる身なら、一乗法華経のために捨てたい」との文意である。
 この御文からも、日蓮大聖人が「十一通御書」を送付するにあたって、あらかじめ死罪を覚悟されていたことが拝される。
 続いて「十一通御書」を送付された相手を挙げられている。すなわち、鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺、以上11ヶ所へ「諫訴」したといわれる。「諫訴」とは誤りを諌め、正義を訴えることをいう。
 「定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え」との仰せは、諌訴に対し、必ず、何らかのことがあるであろうから、念のために大聖人の所へ来て、11通の書状がどんな内容なのか一つ一つ披見してほしい、との意味である。おそらく下書きが残されていたのであろうし、11通の書状を今日知ることができるのも、残された下書きがあったからである。ともあれ、弟子檀那が「十一通御書」の内容を熟知するか否かで、受難の覚悟も心構えも違うことから、そのための御配慮と拝される。
 このように生命に及ぶ大難を予見されながら、大聖人はあくまでも仏法のため、衆生を救うために幕府や諸大寺に公場対決を迫る強い諌暁をされたのである。

0178~0178    問注得意抄top
0178:01~0178:04 第一章 問注の実現を喜ばれるtop
0178
問注得意抄    文永六年五月    四十八歳御作   与富木入道外二人
01     土木入道殿                             日 蓮
02   今日召し合せ御問注の由承り候、 各各御所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身か、
03 西王母の薗の桃・九千年に三度之を得たる東方朔が心か 一期の幸何事か之に如かん、 御成敗の甲乙は且らく之を
04 置く前立つて欝念を開発せんか、 
-----―
     土木入道殿
 今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承った。おのおのの念願されたごとくであれば、三千年に一度花が咲き菓がなるという優曇華に値える身であろうか。
 九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たのというのと同じ心でもあろうか。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとないことであろう。
 御成敗の甲乙はしばらくこれを置くが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱念を開かれるべきであろう。

土木入道殿
 (1216~1299)富木五郎左衛門尉常忍のこと。因幡国富城庄の本主で、父蓮忍の代から下総国八幡荘若宮に移り、千葉氏に被官したとつたえられている。その後、入道して常忍と称した。建長5年(1253)ないし翌6年に入信して以来、房総方面の門下の中心とした活躍し、鎌倉の四条金吾とも力を合わせて外護の任にあたった。大聖人より日常と法諱をいただいている。大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。
―――
問注
 ①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
―――
所念
 思うところ、考えるところ。
―――
優曇華
 梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
―――
西王母の先相には青鳥
 事文類聚後集に同意の文がある。西王母は西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住むとされた伝説上の女神のこと。
―――
東方朔
 中国,前漢の文学者。平原郡厭次県 (山西省朔県) の人。字,曼倩 。機知とユーモアで武帝から寵愛され,太中大夫給事中に進んだ。のち酔って殿上で小便をしたことから庶人に降等されたが,また中郎に復した
―――
一期の幸
 一期とは生まれてから死ぬまでの期間。一生中の幸せ。
―――
御成敗
 ①政治を行うこと。②処置すること。③裁決すること。④処罰すること。
―――
欝念
 考えや思いが心にわだかまっていること。心が晴れないこと。
―――――――――
 本抄は、文永6年(1269)5月9日、日蓮大聖人が48歳の御時、富木常忍はじめ3人に宛てて鎌倉においてしたためられたお手紙であるとされている。御真筆は中山法華経寺に現存する。
 ただし後述作の年次については、御真筆には「五月九日」とあるだけで、明らかではない。これが古来、文永6年(1269)とされるのは、本抄が、文永6年(1269)に著され同じ中山法華経寺に存していた「法門申さるべき様の事」のなかに含められていて、その後、別の御抄と判明したが、年次のみは同じとして伝えられたことによる。
 別々の書であると分かった以上、本抄が文永6年(1269)の御述作とする確かな根拠はなく、文永8年(1271)・文永3年(1266)とする説もあるが、いずれも確証がなく、ここでは文永6年(1269)説に従うことにする。
 本抄が誰に与えられたかについては、御真筆の初めのほうには「土木入道殿」とあり、文末には「三人御中」とある。したがって、富木常忍はじめ3人に与えられたことは明らかである。
 あとの2人については、大田乗明と四条金吾であるとする説と、大田乗明と曾谷教信とする説があるが確かなことは分からない。
 ただ、大田乗明も問注所の役人で、本抄では、彼らが「同輩」との裁判になっているといわれているので、そうだとすると、問注所の役人同士が争っていることになり、かなり特殊な事情であったといえよう。古来の説にも推測にすぎず、ここでは他の2人については不明ということにしておきたい。
 本抄の内容は、5月9日の当日、富木常忍ら3人が問注所へ行くことになり、それを大聖人に御報告申し上げ、大聖人がそれに対して細々と心構えを教えられている御手紙である。
 最初に、この問注はまことに富木常忍らにとって、千載一遇の機会であり、これほどの喜びはないであろうと仰せられている。
 次に、出仕に際しての心構えについて細かい注意を述べられ、大聖人がこうした注意をあえてするのは、仏経と行者と檀那とが合致してこそ事を成すことができるからである、と述べられている。
今日召し合せ御問注の由承り候、各各御所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身か、西王母の薗の桃・九千年に三度之を得たる東方朔が心か一期の幸何事か之に如かん、御成敗の甲乙は且らく之を置く前立つて欝念を開発せんか
 「今日(5月9日)」、原告・被告双方を召し合わせて問注することになったと聞かれ、富木常忍らの念願からいえば、これはまさに3000年に一度花が咲き実がなるという優曇華にあったようなものであり、また、同じく3000年に一度なる西王母の園の桃を9000年に3度にわたって得たという東方朔のごとくであると喜ばれている。問注の成敗がどう出るかは別として、まずは、鬱念をひらくべきであると励まされている御文である。
 しかし、冒頭の「今日召し合せ御問注の由」とは、随分急な話である。富木常忍が早くに5月9日に問注があることの御報告をしていたのを、大聖人がその当日になって返答の御手紙をしたためられるなどということは考えられないから、当日朝か、前日の夕刻以降の報告であったろう。
 問注は裁判であるから、急に起こるわけがない。先に訴えられていたのを、原告・被告の双方を「召し合せ」ることが急に決まったのであろう。
 そのことを富木常忍から大聖人に急いで御報告申し上げ、それに対して、大聖人はさっそく御手紙をしたためられて、御指南されたのである。あるいは富木常忍から問注のため鎌倉へきた際に報告し、それに対し、急ぎ御指南されたのであろう。
 問注の内容、また富木常忍らが、原告であったのか、被告であったのかということであるが、本抄ではそれについて言及されていないので不明である。優曇華等の譬喩を引かれ、問注についてこれほどの喜びはないと言われ、また「鬱念を開発」せよと励まされているからといって、富木常忍が訴えたほうであるとは限らない。
 大聖人が問注について優曇華の譬喩を引かれていること、また文末に「仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり」と、仏法上の意義を込めて励まされていることから考えると、所領等の世間上の訴えではないであろうと推察され、富木常忍らの折伏に基づく仏法の争いではないかと思われる。とすると、富木常忍のほうから訴えるということは考えられないから、彼らの「同輩」から、何らかの苦情、訴えが提出され、それに対して、富木常忍らも公の場で正邪を決したいと訴えられていたのかもしれない。
 そうすれば、本文中の「訴陳の状」は、敵方が訴訟を出し、常忍らがそれに対し陳状を出されたことになる。法門上の対決にもかかわらず、法論上の教示がなされていないのは、当日のことで内容面に触れる時間的余裕がないこと、また、そうしたことは日頃から教えてあることであるから、対決に臨む姿勢のみを教えられているとも考えられる。
 大聖人門下にとっては、法門に関する訴えがあれば、かえって公に正邪を明らかにする場を得られることになり、これこそ望むところであり、積年のゆえなき誹謗中傷への「鬱念」を晴らす絶好の機会であると喜ぶべきことなのである。そのゆえに、優曇華等の譬喩を通して喜ばれているのである。
 また、文永6年(1269)の御述作であるとの前提に立てば、前年の蒙古の国書到来に寄せて十一通御書を出され、公場対決を呼び掛けられた大聖人からすれば、たとえ門下の争いであっても、公場対決の機会を得られることは、一つの突破口となえることも考えられるからである。
 ただ、この問注の結果については、その後の御手紙を拝しても、触れられていない。また「御成敗の甲乙は且らく之を置く」と仰せられているのは、大聖人にとって、富木常忍から、たとえ問注において、自らの正当性を述べ、「同輩」の非を明らかにしたとしても、平左衛門尉らに少なからず影響を受けていると考えられる問注所の役人は、誤った先入観をもっているであろうから、富木常忍らに好意的な裁定をすると考えるのは楽観に過ぎ、また原告の彼らも自らの非をそのまま認めることはないだろうと、予見されていたのではないかと思われる。
 正論を素直に認めるほど、権力者は純粋でなない。それは前年の十一通御書に対する、平左衛門尉や極楽寺良観らの対応をみて、大聖人が彼らの本質をよく存じたからである。そうであっても、富木常忍らにとっては、積年の鬱屈を晴らすべき機械であるから、精一杯、戦っていくようにとの、温かい励ましの御言葉なのである。

0178:04~0178:09 第二章 問注に際する心構えを教示されるtop
04                 但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り、 今日の御出仕・公庭に
05 望んでの後は設い知音為りと雖も 傍輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読
06 むの尅何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外 一言を出す可からざるか、 設い敵人等悪口を吐くと雖も各
07 各当身の事・一二度までは聞かざるが如くすべし、 三度に及ぶの時・顔貌を変ぜずソ言を出さずソ語を以て申す可
08 し各各は一処の同輩なり 私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、 又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧
09 嘩を出す可からざるか、是くの如き事書札に尽し難し心を以て御斟酌有る可きか、
-----―
 ただし、兼ねてご存じのことであるが、駿馬にも鞭うつということもあるから、今日、御出仕になり、公の場所に出られた後は、たとえ知り合いの者であっても、傍輩に向かって雑言などされてはならない。両方の者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても、奉行人から尋ねられたこと以外は一言でも口を出してはならない。
 たとえ敵方の者が、悪口を吐いたとしても、おのおのが身に当たるようなことがあっても、一・二度までは聞かぬふりをすべきである。
 それが三度におよぶようであったら、顔色を変えず、語気を麤くしたりしないで、やわらかな言葉をもって申すべきである。
 「おのおの方とは一所の同輩であり、私事においては全く遺恨はない」の由を言われるべきである。また、御供の人や雑人等にまでよくよく注意して、喧嘩などしないようにすべきである。
 このような事は、書面では尽くし難いから、心を以って斟酌されたい。

兼日
 きまった期日より前の日。また、それ以前の時。
―――
駿馬にも鞭うつ
 駿馬は鞭影を見て走るほど優れた馬。そうした馬にも一鞭入れる例があることをいう。
―――
公庭
 公の場所。
―――
知音
 よく知り合っている友のこと。
―――
傍輩
 仲間・友人・同じ主君・師匠・家・などに使える同僚。
―――
雑言
 いろいろな悪口やでたらめな言い掛かり
―――
訴陳の状
 訴状と陳状。
―――

 刻・時間。
―――
顔貌
 顔・形。
―――
麤語
 荒々しい粗末な言葉。
―――
遺恨
 いつまでも恨みを残すこと。忘れがたい恨み。
―――
雑人
 身分の低い人。召使い・従者。
―――
書札
 書き物・書き付け・手紙・書状。
―――
斟酌
 ①相手の事情や心情をくみとること。くみとって手加減すること。②あれこれ照らし合わせて取捨すること。③言動を控えめにすること。遠慮すること。
―――――――――
 ここでは、問注所に出仕した際の心構えを教えられている。傍輩に向かっての「雑言」を吐いてはならないと戒められ、また安易に口出しをしないよう仰せられている。
 更に、言葉遣い、態度、話す内容、付き人への心配りにまで言及され、大聖人が言われたことをよく「斟酌」して事にあたるよう教示されている。
但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り
 出仕に際しての心構えに言及するにあたり、富木常忍らに対して「兼日御存知有りと雖も」、兼ねてから知っているであろうが、と前置きされている。
 富木常忍は千葉氏に仕える武士であり、大聖人との手紙のやりとりをみても、常識豊かな人であることが察せられる。
 仮に“他の二人”のなかに、問注所の役人である大田乗明が含まれていないとしても、少なくとも近くにはいるわけであるから、問注についての予備知識もあろう。
 したがって、大聖人が今から言うことは先刻承知のことであるかもしれないが、と前もって断わられているのである。
 そして「駿馬」にさえ「鞭」を打つこともあるのだから、と仰せられている。駿馬は鞭うつ必要はないのだが、それでも一鞭入れる例もあるとの譬えで、富木氏にあえて問注に臨む注意を与える必要はないことだが、敢えて言えば、との意である。
 大聖人にとっては「御成敗の甲乙は且らく之を置く」との御言葉にみられるごとく、問注の結果については、あまり期待はされていなかったのであろう。
 したがって、富木常忍らの問注において大切なことは、あくまでも感情に走って醜い姿を示してはならないということであり、あくまで冷静に、穏やかに人間として立派であるという姿を示すようにということであった。
設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し
 公庭に臨んでの具体的な注意をされている。
 第一点は、たとえ知っている間柄であっても、雑言をしてはならないということである。この「傍輩」が問注の相手方であるか、単に問注所に傍輩がいることであるのかは分からない。後者であれば、大田乗明がこの三人の中に含まれていると想像する根拠となろう。そのいずれにせよ、問注は厳粛な場である。たとえ周りに傍輩がいたとしても、気安さから声をかけたりすることは、厳に戒めなければならない。召し合わせた側の役人も心証も悪くなろう。こうした時は、節度を守り、かつ厳然としていくべきであると教えられているのである。
 第二点は、奉行人が訴陳の状を読む際にも、奉行人から尋ねられたことに限って答えるようにとの御注意である。よしんば敵方の者が悪口を吐いたとしても、そしてそれが自分についてのことであっても、一度、二度は聞こえないふりをしているように、と仰せられている。
 敵方は、ここぞとばかり悪口を尽くして富木常忍らを挑発してくるだろうが、その挑発に乗ってはならないと言われているのである。挑発に乗って言い返したりすることは、裁判の場を乱すことになり、取り調べ官の心証を悪くすることになるからである。
 現在では法廷侮辱罪にあたる行為である。優曇華にあうほどの絶好の機会を得ながら、自分の手でつぶしてしまうことほど愚かなことはない。悠然としていることのほうが、かえって自らの正しさを立証することになると教えられているのである。
 また、自ら意見を述べる場合は、相手にすべて言われてからのほうが有利なことはいうまでもない。挑発に乗り、気負って拙速に意見を述べることは、かえって相手に付け入る隙を与えることになる。
 逆にすべて言わせてから述べることは、相手に言い逃れをさせる余裕を与えないことであり、賢明な方法である。
 第三点は、いよいよ発言するべき時には、顔色を変えず、粗略な言葉でなく、柔らかい言葉で言うべきであると仰せられている。この仰せは、絶待に感情的になってはいけないということである。富木常忍らに正義があることは間違いないのだから、冷静に話すことさえできれば、その正しさは周囲も認めざるをえなくなる。
 たった一つ失敗するとしたら、口をすべらして暴言を吐き、相手に揚げ足を取られたり、役人の心証を悪くするケースである。
 そのゆえに「輭語を以て申すべし」と仰せられているのである。「輭語」というのは、決してふざけた言葉という意味ではない。穏やかななかにも、自らの正義をきちんと、また分かりやすく述べることをいうのである。
 第四点は、相手方に対して「一処の同輩」であり、個人的には全く遺恨はないと、毅然として言うように教えられている。
 これは非常に大切なことである。人間は感情の動物であり、たとえ純粋に信仰の誤りを指摘したものであっても、なにか人間的に非難されたような気になり、仏法上の対論であることを忘れて感情的になりがちである。
 あくまでも、個人的に怨念などもつものでないことを明らかにすると同時に、相手方からも、個人的なことで攻撃させないように、あらかじめクギをさしておくように、との心配りでもあろう。
 これらの御注意を拝すると、大聖人は問答の場についての心得を熟知されていたことが分かる。折伏を実践され、常々、他宗の僧等と戦われる経験からの御指南であろうと拝察される。
 現実に、この御指南通りの振る舞いを大聖人自身がされていたことが、御書に拝される。それは塚原問答である。
 文永9年(1272)1月16日、御流罪の地・佐渡塚原において諸宗の僧俗との問答に臨まれた大聖人は種種御振舞御書によれば、初めは、諸宗の者が口々にののしるままにされた。
 「念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し」(0918-04)であったという。
 大聖人は、暫らく・さはがせて後に「各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと」(0198-06)と言われたのである。数百人・かずをしらず集り、というなかで、大聖人はたった一人で悠々と振る舞われた。
 その威風に、裁く立場の本間六郎左衛門らは「然るべし」と納得して彼らの暴言をやめさせ、問答が始まったのである。
 問答が始まると、大聖人は相手の言うことを、一つ一つ焦点をしぼり、たしかに言ったことを承認させてから、それらを次々に破折された。
 「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず」(0918-08)と。
 まさに本抄で大聖人が言われている通りの進め方である。その結果、問答は「利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」(0918-10)の完勝であった。
 「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものども」(0918-09)であるとの仰せのごとく、鎌倉で常に大聖人は折伏されてきたのである。
 こうした体験に基づいて、大聖人は御指南され、大聖人と同じように望めば勝利疑いないことを教えられているのである。
又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか
 ここでは、富木常忍らの供をする人たちにも心を配るよう指南されている。本人はもとより、周囲の者にも相手の挑発に乗ることを戒めるよう指導せよと仰せられているのである。まことに用意周到である。
 「喧嘩の出す可からざるか」と仰せられているのは、常忍らの供の者たちのあいだで喧嘩沙汰を起こさないようにと言われているとも考えられるが、やはり相手方の供の者と喧嘩してはならないことを言われておると拝することが妥当だと思われる。
 供の者といえども、それぞれの主人の味方をして、感情的になりやすい。裁判の当事者であるということから、節操を忘れて暴言を吐く恐れもないとはいえない。思わぬところから、水が漏れることを大聖人は心配されているのである。
 以上のように、数点にわたって大聖人は心構えを述べられたが、書きたいことは山ほどあるものの、本抄御執筆が問注の当日で、時間がないということを考えると、多く書いても意味がない。また、いくら書いても、実際の場に臨めば、その通りの展開になるとは限らず、予想外のことも起こるだろうから、臨機応変の対応が必要となる。
 したがって、大聖人が仰せられたことの心をよく「斟酌」して対処するよう、と念を押されているのである。

0178:09~0178:11 第三章 師檀相応して大事なることを教えるtop
09                                       此等の矯言を出す事恐を存す
10 と雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり、恐恐謹言。
11       五月九日                         日 蓮 花 押
12     三人御中
――――――
 これらのことをほしいままに言ったようで恐れ入るが、妙法蓮華経と法華経の行者と檀那との三事が相応して、一事を成就するために愚言を述べたのである。恐恐謹言。
       五月九日                         日 蓮 花 押
     三人御中

矯言
 ほしいままに言った語。
―――
仏経
 仏像と経巻のこと。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――――――――
 最後に、これらの諸注意をなぜ述べたかの元意を示されている。このように「矯言を出す」ことは恐れ多いことではあるが、それというのも、「仏経と行者と檀那」が相応して「一事」をなすためであり、よくそのことを考えていきなさいと言われているのである。
 「矯言」とは、御真筆では「嬌言」となっており、驕った言葉という意味がある。あえて注意めいたことを言ったが、というほどの意味であろう。
 大聖人が細々と言われたのは「仏経と行者と檀那の三事相応して一事を成さんが為」であるといわれている。これは仏法を弘めるためには「仏経と行者と檀那」すなわち「よき法」「よき師」「よき檀那」がなければならないと言われているのである。
 法華初心成仏抄にいわく「よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(0550-17)と。「仏経」が法、「行者」が師にあたることはいうまでもない。
 正しい法自体がなければならないのは当然であるが、それのみでは正法は広まらない。その法を行じて弘める人がいなければならないのである。それが「行者」である。
 しかし法と行者のみでも不完全なのである。法とそれを弘める行者を支える「檀那」がなければならない。四条金吾殿御返事では「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」(1148-01)と言われたあと、「設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき」(1148-02)と仰せられて、檀那の大切なことを強調されている。
 今、大聖人が末法に妙法を弘められるにあたり、富木常忍らは大切な檀那である。大聖人の弘教を支え、外敵と戦い守る在家の地涌の菩薩がいなければ、正法は広まらないのである。この「三事」が相応して初めて、「一事」をなすことができるのである。「一事」とは法華初心成仏抄によれば、祈りの成就であり、国土の大難を払うことである。また「大願とは法華弘通なり」(0736-第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事--01)「広宣流布の大願も叶うべき者か」(1337-13)「広宣流布大願をも成就す可きなり」(1357-07)等の仰せから明らかなように、一生成仏・広宣流布が「一事」である。
 もし富木常忍が無謀な行動をとるならば、累が大聖人に及んだり、法を下げることになり、大聖人の広宣流布の戦いを妨げる結果となる。大聖人と富木常忍ら在家の信徒とが、心を合わせ、一体となって広宣流布を推進していくことが不可欠であるため、このように「愚言」を呈しているのである、と常忍等に自覚をうながされている。
 最初に述べた通り、この問注の結果がどうであったか、直後はもとより、富木常忍に与えられた御手紙、他の御抄のいずれをみても、この問注に触れられたものは残っていない。しかし、少なくとも富木常忍らに悪い結果、例えば所領の没収とか入牢、信仰をやめるとの起請文を書くなどとの裁定は行われていないであろうと推定される。
 大聖人がその後、この問注に触れられていないことに最も合理的な推定をするとすれば、問注が急に中止になったことである。大田等、問注所の役人が関係していることから、どちらに転んでも紛糾は避けられないとして、問注直前に中止になったのかもしれない。常忍らに正当性があるのは分かっており、彼らが用意おさおさ怠りないこと、背後に大聖人がおられて、結果如何によっては、公場対決にまで持ち込まれる恐れもあることを観じたとすれば、それも納得がいく。
 いずれにしても、大聖人の教えを守って常忍らが行動した結果、以後の大聖人の弘教活動に支障をきたすことはなかったようである。

0179~0179    行敏御返事top
0179
行敏御返事    文永八年七月    五十歳御作   与浄土僧行敏
行敏初度の難状
01   末だ見参に入らずと雖も 事の次を以て申し承るは常の習に候か、 抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審な
02 り、法華の前に説ける一切の諸経は 皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、 大小の戒律は世間を誑惑して悪道に
03 堕せしむるの法と是二、 念仏は無間地獄の業為と是三、 禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長すと
04 是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、 仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を
05 痛ませられざらんや、是非に付き委く示し賜わる可きなり、恐恐謹言。
06       七月八日                            僧行敏花押
07     日蓮阿闍梨御房
-----―
 末だ見参していないが、事のついでとしてお尋ね申し上げることは、常の習いとしてもらいたい。
 そもそも風聞によれば、貴僧の所立の義は、誠にもって不審である。
 法華経以前に説かれた一切の諸経は、皆妄語であって、出離解脱の法ではないと、これが一である。
 大乗小乗の戒律は、世間を誑かし惑わして悪道に堕としめる法であると、これが二である。
 念仏は無間地獄への業因であると、これが三である。
 禅宗は天魔の所説であり、もしこれを行ずる者は悪見を増長すると、これが四である。
 このことがもし真実ならば、仏法の怨敵である。よって対面をいたして、貴僧の悪見を破ろうと思う。はたまたその義が、貴僧のものでなければ、どうして悪名を被ったのか痛ましい。是非に付き、詳しく回答を賜りたい。恐恐謹言。
       七月八日                            僧行敏花押
     日蓮阿闍梨御房
-----―
聖人御返事
01   条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、 然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せら
02 る可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言。
03       七月十三日                        日 蓮 花 押
04     行敏御房御返事
-----―
 条条の御不審の事につき、私的な問答は決着が難しいと考える。それゆえに、幕府へ上奏され、それを経て仰せ下さる趣にしたがって、是非を糾明せられるべきである。
 このように仰せを蒙り、しかもそうなることを願うところである。恐恐謹言。
       七月十三日                        日 蓮 花 押
     行敏御房御返事

行敏
 大聖人御在世当時の僧。文永8年(1271)7月、大聖人に法論を申し込んだ。対して大聖人は公場対決を望むとの返書を送っている。
―――
見参
 対面・お目にかかること。
―――
妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
―――
出離
 三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。 
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大小の戒律
 大乗・小乗で説く仏道修行のために守るべき生活規範。
―――
誑惑
 たぶらかすこと。
―――
念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
無間地獄の業
 無間は梵語アヴィーチィ(avīci)阿鼻・阿鼻旨の意訳。八熱地獄のひとつ。五逆罪と正法誹謗が堕地獄の業因とされる。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
天魔の説
 禅宗は仏法を破壊する天魔の所為をなすこと。四箇の格言のひとつ。禅宗は「教外別伝・不立文字」として経典に依らないとする教義を立てるが、その言葉自体は大梵天王問仏決疑経に依っており自語相違している。また仏祖不伝として諸の論師を退けるが、禅宗自体、迦葉付嘱以来、西天二十八祖・東天六祖を立て矛盾している。また坐禅によって心を観ずることが悟りの道であるとするが、心の何を所観の対境とするかを定めず、単に心を対境とするというのみでは人の心は移りやすく、必ずしも悟りの対境とはなりえない。こうした矛盾をかかえる宗派は、涅槃経に「仏の所説に順わざる者は魔の眷属である」の文に照らして天魔の所為をなす宗派である。
―――
悪見
 邪悪な見解。成仏を妨げて苦を招く理に迷った考え。身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見など。
―――
阿闍梨
 梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。
―――
上奏
 臣下が上司に口頭で意見を具申すること。
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庶幾
 ①きわめて近い・似ていること。②こいねがい・希望すること。
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 本抄は、日蓮大聖人が御年50歳の文永8年(1271)7月13日、鎌倉・松葉ケ谷の草庵にあってしたためられたものである。7月8日、行敏から、大聖人の弘教を非難する書が送られてきたことに対し、回答された書である。「行敏」の名が付せられた書は、行敏御返事と行敏訴状御会通の2通である。御真筆は駿河・鷲津本興寺に断片が存している。
 本文は、最初に行敏からの「初度の難」、その後大聖人からの「聖人御返事」が挙げられている。行敏の難状に「初度」とあるのは、文字通り最初に、直接、大聖人から送りつけてきた書状という意味であるから、少なくとも二度目があることになる。大聖人が公場での対決を提案されたことから、行敏は、訴状を鎌倉幕府の問注所へ提出したと考えられるが、それが二度目の難状であろう。
 普通、訴状がなあされると、訴えられたほうにそれを示し、訴えられたほうは陳状を提出する。問注所は双方の訴状と陳状によって裁判するのである。したがって、行敏の訴状が幕府の問注所から大聖人のもとに回され、問注所へ陳状を上申するように大聖人に命じてきたものと思われる。その答弁書、もしくはその草案が、本抄の後におさめられている行敏訴状御会通であるとも考えられる。なぜならば、本抄での行敏の質問に対して大聖人は直接答えられず、万事は公場対決が実現してからのこととされているが、行敏訴状御会通では本抄の質問及び、その後恐らく訴状に加えられていたのであろうと誹謗に対して答えられていて本抄と首尾一貫しているからである。
 本抄が執筆された文永8年(1271)7月といえば、大聖人の御生涯のなかで最大の難である竜の口法難・佐渡流罪につながっていくさまざまな事件が重なった。波乱に富んだ時期であったことはいうまでもない。文永5年(1268)以来、大聖人は盛んに諸宗との公場対決を挑まれている。当時、極楽寺良観を中心とする鎌倉仏教界はそれに対抗して、幕府権力に働きかけて、大聖人を陥れようと図っていた。文永8年(1271)6月から7月4日にかけて、極楽寺良観は雨乞いの修法で大失態を演じ、完膚なきまでに大聖人に打ちのめされているから、ますます怨嫉の炎を燃やしていたのは疑いない。その結果、本抄御述作の2ヶ月後の9月、大聖人は「立の口の法難」を受けられるのである。
 良観が祈雨に失敗した直後の7月8日、私信による行敏からの最初の難状がきた。行敏からの難状には、伝え聞くところによるとして、大聖人「所立の義」で、不審のことが4点あると挙げている。
   第一に爾前無得道  法華以前に説かれた一切の諸経はすべて虚妄の言説であって、出離得脱の法ではない。
   第二に律は堕悪道  大小の戒律は、すべて世間の人々を誑惑するもので、全く悪道に堕としめるものである。
   第三に念仏は無間  念仏は無間地獄の業因である。
   第四禅天魔の所説  禅宗は天魔の所説で、これを行ずる者は悪見を増長する。
 行敏は、このような大聖人「所立の義」は、仏法を混乱させ破壊する怨敵の邪見であるから、対面のうえ、この邪見を破折したいというものである。
 この四点は大聖人が諸宗を破折された四箇の格言と似ている。四宗のうち真言亡国が挙げられておらず、最初に爾前無得道が挙げられていることと、律宗について国賊との表現がなく「堕悪道」としている点が異なっているだけである。大聖人は既に文永5年(1268)の十一通御書のうち建長寺道隆への御状のなかで四箇の格言を示されているが、本状で行敏が真言亡国に触れていないのは、行敏がこれを知らなかったか、浄土宗または律・禅・浄土兼学の僧であったと推定されるので真言には触れていないのであろう。
 この難状は行敏が日蓮大聖人に問答を挑んできた、個人的な私信の体をなしているが、当然、行敏の背後には鎌倉仏教界の中心をなしている極楽寺良観・念阿弥陀仏良忠・道阿弥陀仏等が策謀していたことが考えられる。このことは大聖人も見抜かれて、このあとの行敏訴状御会通では、冒頭に「当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く」(0180-01)と、訴状が名目上行敏ではなくこの三人であることを明記されているのである。
 彼らは行敏を使って大聖人に法論を挑み、大聖人を陥れようとした。その場合、自分たちは表面に出ないほうが何かと都合がよい。もし行敏が勝てば、それこそ大々的に宣伝できるし、それをもって大聖人およびその門下を逮捕・処罰することもできるし、もし敗れても、私的な法論であるから、自分たちは何の傷もつかない。良観らはそのために行敏を用いたと考えられる。
 大聖人はもちろん、その奸計を見破られ、行敏の難状に対して7月13日、実に簡潔な、急所を突く返信を送られた。まず、「私の問答は事行き難く候か」と述べ、個人的な私的問答は無意味であると斥け、むしろ、彼らの意図を逆手にとって、「上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か」と、すなわち幕府へ上奏したうえで、幕府の意向にしたがって、ことの是非を糾明されるべきであろうと言われている。あくまでも公的な土俵の上で問答対決しようということである。そして、「此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所」と記され、日蓮としては、公場において対決することが希望である、と仰せである。
 大聖人は、行敏からの「難状」をチャンスととらえ、私的法論をもくろむ彼らの陰謀を破るだけでなく、彼らの方から幕府に対して公場対決を申し立てよと言って、繰り返されているのである。

0180~0182    行敏訴状御会通top
0180:01~0180:03 第一章 訴人を明記し訴状の目的を示すtop
0180
行敏訴状御会通    文永八年    五十歳御作
01   当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟す
02 る状に云く 早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破し正義を興隆せんと欲する事云云、 日蓮云く邪見を摧破し正義
03 を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん、幸甚幸甚。
-----―
 当世日本第一の持戒の僧・良観聖人、並びに法然上人の孫弟子である念阿弥陀仏、道阿弥陀仏等の諸聖人等が、日蓮を訴訟した状に「早く日蓮を召し決せられて、邪見を摧き、仏教の正義を興隆したい」とある。
 日蓮はいう。「邪見を摧いて、正義を興隆するならば、一眼の亀が浮木の穴に入るようなものであり、幸甚である」と。

持戒の僧
 受持即持戒で、正法を固く受持する僧侶。
―――
良観
 (1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――
法然
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
念阿弥陀仏
 (1199~1287)鎌倉時代の僧。浄土宗鎮西派第4祖良忠のこと。 13歳で出家し、出雲の鰐淵寺で天台学、倶舎学を修める。のち寺を出て法相、律、禅を学び、郷里の石見三隅庄へ帰って念仏を修した。嘉禎2 (1236) 年筑後へ下って聖光房弁長 に会い、浄土宗に移っている。
―――
道阿弥陀仏
 念仏宗の僧と思われるが詳細は不明。四信五品抄では、盲目になったと記されている。
―――
一眼の亀
 優曇華の譬えと同じく、衆生が正法に巡り会い、さらにそれを受持することのいかに難しいかを譬えたものである。松野殿後家尼御前御返事に詳しい。大要述べると次のとおりである。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さはまるで雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀の熱い腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところがこの亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に会えても栴檀に会うことは難しい。また栴檀に会えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には会い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き会えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西とみえる。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。このように無量無辺劫かかっても一眼の亀が浮木に会うことは難しいのである。このように、浮木の穴を妙法に譬えられて、衆生が妙法に会い難きことを述べられているのである。
―――――――――
 本抄は、先の「行敏初度の難状」「聖人御返事」の往復書簡で、日蓮大聖人から私的の問答対決ではなく、公の場においてせよと促され、行敏が幕府に提出した「訴状」に対して、大聖人から回答された「陳状」もしくはその草案である。
 ここでは、最初の難状に挙げていた条項、更に訴状の時に加えられたと考えられる条項も取り上げられ、それに会通を加え、その誤りを抉り出し破折するという回答になっている。
 大聖人は、先の行敏からの7月8日付の「初度の難状」に対して、7月13日、私的な問答は無意味であるとして斥け、幕府へ上奏し、公にしたうえで法難の是非、善悪を糾明しようと、返書を送られた。
 したがって、本抄には御執筆の年月日が明記されていないが、文永8年(1271)7月13日以後、行敏が訴状を幕府に上申し、幕府から大聖人に訴状が回され、陳状を提出するよう下命があってから著されたということになる。おそらく7月中に書かれたものと考えられる。
 当時、訴状の慣例によれば、陳状というのは、原告、すなわち訴えた人の訴状を、幕府は被告人、すなわち訴えられた人に回して提出させた。いわば答弁書である。
 高祖年譜、年譜攷異によれば、行敏が幕府へ上申したのが7月22日で、大聖人が回答を執筆されたのは、それから何日か過ぎた後のことである。
 なお、本抄の御真筆は、もと身延に所蔵されていたということであるが、今は焼失したか、存在しない。したがって、本抄の末尾が「所謂守護経に云く・涅槃経に云く」と中途半端な形で終わっていることについても、詳細は分からない、あるいは現存する本抄が陳状の草案であって、そのため略した形になっているのかもしれない。
 さて本文に入り、冒頭に「当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く」と、大聖人を訴えた人々の名を明記されている。不思議なことに、本抄は内容的に先の行敏御返事を受けたものでありながら「行敏」の名が一か所も出てこない。しかも、その内容は「行敏」を全く無視して相手にしておられないかのようである。行敏が訴状の署名人となってはいたが、実質的には良観等の3人が訴人であったからであろうか。それは、幕府が訴状を大聖人に渡して、陳状の提出を求める時に明らかにしたからなのか、あるいは幕府とは別に、知らせた人がいたのかは分からない。いろいろ考えられるが、いずれにせよ、「祈雨」のことで大聖人から散々に打ちのめされていた極楽寺良観は、公の場に出ることについては極端に臆病になっていたのであろう。行敏を使って私の法論をもくろみ、大聖人から公場で明らかにすべきであると一蹴されて、再び行敏の名で訴状を出したが、大聖人は公場で対決するには、行敏がごときではなく、良観が相手であることをはっきりと明言された。それで行敏の名を記さず、直接、良観・念阿・道阿の訴状であると書かれているのではなかろうか。その後、大聖人と彼等との公場対決がなかったことは、はっきりしているところである。良観らは、行敏を表に立てて問注を企んだのであるが、大聖人から相手は良観であることを明言されて、訴状は出したものの、あわてて公場対決の実現を避ける画策をしたということも十分考えられる。
 さて、御会通の内容を要約すると、次のようにまとめられる。
 まず、彼らが訴状に取り上げた条項は、
 第一に、大聖人所立の教法についての非難である。
   1、八万四千の教法は一法のみを是とし、諸法を非とする道理はない。にもかかわらず、日蓮は、法華一部に執着して、法華経以前の諸経は妄語であると諸大乗教を誹謗している。
   2、念仏修行を無間地獄の業である、と誹謗している。
   3、禅宗を天魔波旬の所説である、と誹謗している。
   4、大・小乗経の戒律を世間を誑惑する法である、と誹謗している。
 第二に、大聖人及び門下の行為についての非難である。
   5、諸寺が本尊としている阿弥陀・観音等の仏像を焼却・投棄している。
   6、凶悪の徒を集め、武器を用意している。
 以上の項目であるが、大聖人の回答は釈明するなどという次元のものではもとよりない。第一の経法に関しての論難については、すべて仏説に基づいて、彼らの主張の矛盾点を突き、歴史的事実を示し、かえって難詰する筆勢になっている。また、第二の、大聖人一門の行為に対する非難についても、具体的に誰が、どこで、何をしたか、事実の確証を示さなければ、すべて良観等の大妄語であると反論され、逆に彼らの極悪を経論に基づいて論難されている。
 最後に、インド・中国・日本の三国にわたって、権力者たちの仏法破壊の歴史的事実を挙げ、仏記に照らして「此等の悪人は仏法の怨敵に非ず」と示され、本当の仏敵は「三明六通の羅漢の如き僧侶等」、すなわち生き仏のように振る舞っている高僧等である、と指摘されている。以上が要旨である。
 まず、冒頭の御文は、日蓮大聖人を訴えた者が実質的に良観及び念阿弥陀仏であることを明記し、次に訴状で「日蓮を召し邪見を摧破し正義を興隆したい」とあることについて、まさにそれこそ日蓮も望むところであると述べられている。
 大聖人を訴えた者として良観並びに念阿弥陀仏・道阿弥陀仏の三人の名が挙げられているが、この三人は、当時の鎌倉幕府の権力を後ろ盾として権勢を誇っていた。鎌倉仏教界の中心者たちである。
 したがって、彼らの邪見を摧き正義を興隆することこそ、立正安国論上呈以来、大聖人が望んでおられたことが実現できることになるのである。
 ゆえに、良観らの訴状で述べているのと同じ言葉を用いて「邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん」と仰せられているのである。

0180:04~0180:07 第二章 諸宗を非とする根拠を示すtop
04   彼の状に云く右八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈に然る可けんや云云、 道綽禅師云く当今末法
05 は是れ五濁悪世なり 唯浄土の一門のみ有つて路に通入す可し云云、 善導和尚云く千中無一云云、法然上人云く捨
06 閉閣抛云云、 念阿上人等の云く一を是とし諸を非とす謗法なり云云、 本師三人の聖人の御義に相違す豈に逆路伽
07 耶陀の者に非ずや、 将又忍性良観聖人彼等の立義に与力して此を正義と存せらるるか、 
-----―
 かの訴状には「釈尊は八万四千の教法を説いているが、そのなかで一教を是として諸教を非とする道理はない」とある。
 これについていえば、浄土宗の道綽禅師は安楽修に「当今末法は五濁悪世であり、ただ浄土の一門のみが往生する道に入ることができる」と言っている。善導和尚は往生礼讃偈に「念仏以外の経教を修する者は、千人の中で一人も往生成仏しない」と言っている。法然上人は選択集に「捨閉閣抛」と言っている。
 ところが、念阿上人等が「一教を是として、他の諸教を非とするのは謗法だ」と言っているのは、浄土宗の本師三人の聖人の御義に相違しており、師敵対の者ではないか。また、忍性良観聖人も彼等の立てた義に助勢し、これを正義としているのか。

八万四千の教
 八万聖教、八万威儀、八万四千の法蔵、八万四千の細行とこいう。煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」。二百五十戒を行住坐臥の四威儀におのおのわたし、一千の威儀になり、過去・現在・未来の三世に約して三千の威儀、この三千を殺・盗・淫・妄・綺・悪・両の七支に分配すれば、二万千となり、貧・瞋・癡・等の四にわたせば七十八万四千となる。
―――
道綽
 (0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
―――
五濁
 劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
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浄土の一門
 現実世界を穢土として嫌い、念仏によって死後の極楽浄土に往生を説く法門のこと。
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善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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念阿上人
 (1199~1287)鎌倉時代の僧。浄土宗鎮西派第4祖良忠のこと。 13歳で出家し、出雲の鰐淵寺で天台学、倶舎学を修める。のち寺を出て法相、律、禅を学び、郷里の石見三隅庄へ帰って念仏を修した。嘉禎2 (1236) 年筑後へ下って聖光房弁長 に会い、浄土宗に移っている。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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逆路伽耶陀
 古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に従わないで法を説いた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義に順わないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯すもののたとえに用いられる。
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立義
 堅義とも書く。①立てられた義のこと。法門・教理などをより明らかにするための釈義をいう。②法論の席で、質問者の提出する主題・論議に対して、義を竪ること。
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 この御文からは、良観が訴状のなかで大聖人を非難している各条項に対して、大聖人が逐次答え、反詰されていくのである。
 最初に取り上げられた彼らの論難は「仏の教えは八万四千という膨大なものであるのに、そのなかで一教だけを是とし、諸経を非であるとするのは、間違っている」というものである。
 要するに、仏は衆生の機根にしたがって法を説き、利益したものであるから、仏の説いた教えならば、一教として悪いものはなく、したがって、念仏も、真言も、禅も、律も、一つとして非なるものはない。それであるのに一つだけ正しく、他は間違っているとする日蓮の主張は、仏の心に背くものではないか、と非難しているのである。
 これに対して、大聖人は、彼らが師とたのむ浄土宗の祖自身が、一を是とし諸を非としているではないかと、動かしがたい事実を挙げて痛烈に反詰される。
 まず、中国・浄土教の祖師の一人である道綽の言葉を引かれている。道綽は安楽集に「いま末法は、五濁の悪世であり、この時には、ただ阿弥陀仏の浄土門のみが仏の路に通入する門である」と述べている。
 道綽は、一切経を聖道・浄土の二門に分け、聖道門の経教を「末だ一人として成仏得道する者無し」と誹謗しているのである。
 また、道綽の弟子である善導も、その著、往生礼讃偈のなかで仏法の修行を正行と雑行の二行に分け、称名念仏以外の雑行は「千中無一」すなわち千人の中で一人も往生成仏しないと述べられているのである。更に、日本・浄土宗の開祖・法然はこれら中国・浄土教の祖師を更に広げて、法華経を含む一切経を誹謗した。その著・選択集に、浄土以外の、法華経を含む一切の教えに対し「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と誹謗しているのである。
 中国・日本における浄土教の祖師たちの主張は、いずれも、「一を是」とし、「諸を非」としている。
 そして今、訴人である念阿弥陀仏・道阿弥陀仏らに対して、鋭く矛盾点を突いていかれる。念阿良忠ら念仏の徒にとって、道綽・善導・法然は根本の師として仰ぐべき始祖たちである。
 もし「一を是とし諸を非とするのが謗法」であるというならば、彼らの本師である道綽・善導・法然等三人もその教義も「謗法」であるということになる。したがって、良忠らは自らの師の説を否定する「逆路伽耶陀の者」すなわち師敵対、反逆の者になるではないか、との指摘である。
 大聖人はまた、念阿らとは宗旨を異にする「律宗」の極楽寺良観に対しては、良観も念阿らの立義に同調して、これを正法正義とするのか、と詰問されている。

0180:07~0180:11 第三章 法華のみを真実とする根拠を示すtop
07                                          又云く而るに日蓮偏えに
08 法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す云云、 無量義経に云く四十余年未顕真実・法華経に云く要当説真実と・又云
09 く宣示顕説と・多宝仏証明を加えて云く皆是真実と・十方の諸仏は舌相至梵天と云う云云、 已今当の三説を非毀し
10 て法華経一部を讃歎するは 釈尊の金言なり諸仏の傍例なり敢て日蓮が自義に非ず、 其の上此の難は去る延暦・大
11 同・弘仁の比・南都の徳一大師が伝教大師を難破せし言なり、其の難已に破れて法華宗を建立し畢んぬ。
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 また、訴状に「日蓮は偏に法華一部に執着して、他の諸大乗を誹謗している」とある。
 これについていえば、無量義経には「四十余年には末だ真実を顕さず」とあり、法華経方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説くのである」とある。また、如来神力品第二十一には「皆この経において宣示顕説する」と説かれている。釈尊の法華経の説法に対して多宝仏は、これに証明を加えて「釈迦牟尼世尊の所説のごときは、皆これ真実である」と述べ、十方の諸仏は「舌相梵天に至る」と述べている。
 このように已今当の三説を誹謗して、法華経一部を賛嘆するのは釈尊の金言であり、諸仏の傍証であり、あえて日蓮の自義ではない。
 そのうえ、この非難は去る延暦・大同・弘仁の頃、南都の徳一が伝教大師を論破した言葉であるが、その非難は既に破られて、天台法華宗が建立されたのである。

法華
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
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無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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四十余年未顕真実
 「四十余年には末だ真実を顕さず」と読む。無量行説法品の文である。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。
―――
要当説真実
 方便品に「世尊の法は久しうして後に、要らず当に真実を説くべし」とある。
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宣示顕説
 はっきりと説き示し、説き顕わしたこと。
―――
皆是真実
 他謗仏は、東方宝浄世界に住む仏であるが、法華経の説かれるところに出現して「皆これ真実なり」と証明する文。
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舌相至梵天
 神力品の偈文の冒頭に「諸仏救世者、大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現じたもう。舌相梵天に至り、身より無数の光を放って、仏道を求むる者の為に、此の希有の事を現じたもう」とある文をさす。
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已今当の三説
 法師品に「我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」とある文をさす。
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非毀
 そしること。中傷すること。
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徳一
 (0749~0824)。平安時代初期の法相宗の僧。得一・徳溢とも書く。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。著書に「仏性抄」「中辺義鏡」三巻などがある。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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 良観・念阿らの訴状に「日蓮は偏に法華経一部に執着して、他の諸大乗教を誹謗している」とあることに対しての反論である。
 大聖人は、釈尊自身が法華経のみが真実であると言われたのであり、しかもそれを多宝・分身諸仏も証明されているところであり、「敢て日蓮が自義に非ず」であること、更にこの論難はかって徳一が伝教大師を非難したものだが、既に破られた論議であることを示されている。
 法華経の開経である無量寿経には、釈尊自ら「四十余年には末だ真実を顕さず」と説いている。釈尊は、法華経より前の諸経では、衆生の習性と欲望が不同であり、機根がまちまちなので、方便力をもって種々に法を説いてきたのであり、これら四十余年間の説法には、いまだ真実の教法を顕していない、と方便権教であることを明言している。
 そして法華経にこそ真実を明かすことを方便品第2に「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と説き、同じく法華経如来神力品第21には「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」と説いている。
 以上は釈尊自身が、法華経のみ真実であると述べた文であるが、それを多宝如来、十方分身の諸仏も証明していることが指摘されている。
 法華経見宝塔品第11には、多宝如来が「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊…所説の如きは、皆是れ真実なり」と宣べ、この法華経がすべて真実であることを証明している。
 十方の諸仏も、法華経如来神力品第21に「諸仏救世者…舌相梵天に至り、身より無数の光を放って、仏道を求むる者の為に、此の稀有の事を現じたもう」とあるように、梵天まで届く広く長い舌を出して、法華経が不妄語であることを証明しているのである。
 これらは、釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏の「三仏」が法華経のみが真実であり、他の諸経は方便権教であるとしているので、大聖人御一人が勝手に言っている「自義」ではないかという裏づけである。
 次に、このような法華経だけを正しいとし、他の経を方便だとするのはおかしいという非難に対しては、日本でも伝教大師によって既に破折され決着がついている問題であると示されている。
 平安朝の初期にあたる延暦・大同・弘仁の時代の、南都すなわち奈良時代の仏教界の法相宗の僧・徳一と、比叡山に日本天台法華宗を開いた伝教大師との権実論争がそれである。
 弘仁5年(0814)1月14日、勅旨によって宮中殿上において、伝教大師は奈良仏教界の小乗・権大乗の諸宗の学匠と対論しこれを破折し、法華経を宣揚した。それでもなお、自宗の邪義に固執する者も少なくなく、弘仁7年(0816)法相宗の徳一が仏性抄と名づける一書を著し、三乗真実・一乗方便の邪義を立てて、一乗真実・三乗方便と立てる天台法華を貶して方便教と難じたのである。
 伝教大師は、徳一の疑難に対して、直ちに照権実鏡一巻を著してこれを破折し、法華の真実であることを明らかにした。しかし、徳一がなお対抗してきたので、守護国界章・法華秀句等を著し論破し、法華経の実義を世に示し法華宗を確立したのである。
 大聖人は、持妙法華問答抄において、伝教大師が、徳一の三乗真実・一乗方便の邪義を破折し、法華秀句巻上で、法華の醍醐味も知らず、爾前権教の粗食で満足している現在の麤食者=徳一は、偽りの書物を数巻作って正法を謗り、人を謗っている。どうして地獄に堕ちずにいられようか、と、徳一がこの言葉に責められて舌が八つに裂けて死んでいった、と仰せである。
 既に、こうした疑難が伝教大師によって破折され、歴史的決着を見ているのに、同じ疑難を繰り返すことの愚かさを、大聖人は史実を挙げることによって破折されているのである。

0180:12~0180:15 第四章 爾前妄語の論難に答えるtop
12   又云く所謂法華前説の諸経は皆是れ妄語なりと云云此又日蓮が私の言に非ず、無量義経に云く未だ真実を顕さず
13 未顕真実とは妄語の異名なり法華経第二に云く寧ろ虚妄有りや不なり云云、第六に云く此の良医虚妄の罪を説くや不
14 や云云、涅槃経に云く如来虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知れば云云、天台云く則ち為如来綺語の語
15 云云、 四十余年の経経を妄語と称すること又日蓮が私の言に非ず、
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 また、訴状には「日蓮は、いわゆる法華以前に説かれた諸経は、皆これ妄語である」といっている、とある。
 これについていえば、これもまた、日蓮の私言ではない。無量義経には「四十余年の諸教には、未だ真実を顕していない」とある。
 法華経巻二、譬喩品第三には「むしろ虚妄があるかどうか」とある。法華経巻六、如来寿量品第十六には「よくこの良医の虚妄の罪を説くことがあるだろうか」とある。
 涅槃経には「如来には虚妄の言葉はないけれども、もし衆生が虚妄の説によって、法の利益を得られることを知れば、衆生の機根の宜しきに随って、方便のためにこれを説く」とある。天台大師は「法華経以外の諸教は、すなわち綺語の説である」と言っている。四十余年の経々を綺語と称することは、これらの経釈によったのであり、日蓮の私の言ではない。

妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
綺語
 真実に反して巧みに飾り立てた言葉。十悪のひとつ。
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 ここでの論難は、先の行敏初度の難状における「法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと」(0179-02)にあたる。そして前章の論難と対照をなしている。すなわち、前章の論難は、大聖人が法華経のみを真実とし、他の大乗を誹謗していることを非難したものであるが、ここではその諸経を大聖人が「妄語」であるとされていることを非難している。彼らの論拠は、権大乗といえども、仏説であるから、妄語であるはずがない、というものである。
 しかし、本質的には法華経のみが真実であるという以上、諸経を虚妄であるということは当然のことである。したがって、大聖人は、このこともまた「日蓮が私言ではない」ことを経論の文言を挙げて綿密に述べられている。
 既に、前章の御文にも挙げられているが、無量義経説法品第2に「四十余年には末だ真実を顕さず」と説き、法華経以前の爾前の諸経は真実を顕していないと明言している。この経文に「末だ真実を顕さず」と述べているのは「妄語である」というのと同じであり、釈尊自らが、諸経は虚妄であるとしているのである。
 次に法華経譬喩品第3の文を挙げられている。これは7喩のひとつにあたる「三車火宅の譬」にある文である。三車火宅の譬は、家が火事であることを知らずに、その家の中で遊んでいる子供たちを救い出すために、父である長者が方便として羊車・鹿車・牛車の三車を与えるからと呼びかけて外に誘い出し、出てきた子供たちに三車に勝る大白牛車を与えたというものである。羊車・鹿車・牛車の三車は声聞・縁覚・菩薩の三乗を、大白牛車は一仏乗を、長者は仏を、子どもたちは一切衆生を、火宅は苦悩の娑婆世界を、それぞれ、たとえたものである。
 釈尊は、この譬喩を通して、三車ではなく、最も優れた大白牛車の一仏乗を与えたことについて、舎利弗に「汝が意に於て云何。是の長者、等しく諸子に珍宝の大車を与ること、寧ろ虚妄有りや不や」と問いただし、これに対して、舎利弗は「不なり、世尊」と答えたことが説かれている。三車つまり三乗の法を与えると呼びかけながら大白牛車つまり一仏乗の法を与えたことは、虚妄か否かというのが問いの意味である。もとより一仏乗を与えたことは虚妄ではないが、三車を与えるとしたことは虚妄である。ゆえに爾前経は虚妄ということになるのである。
 また法華経如来寿量品第16の文は、7譬の一つ、「良医病子の譬」ななかのものである。
 聡明で医薬に通じた良医に100人の子供がいた。良医が他国へ行っている留守に子供たちは誤って毒薬を飲んでしまい。地に転げ回って苦しんでいた。そこに父の良医が帰ってきて、直ちに良薬を照合して与えた。本心を失っていない子供はすぐに飲んで治ったが、毒気のため本心を失った子供は良薬を見ても疑って飲もうとしなかった。そこで良医は方便を設けて「是の良薬を、今留めて此に在く、汝取って服すべし」と言い残し、他国に行き、使いをつかわして「父は死んだ」と伝えさせた。本心を失った子供たちは父の死を聞いて嘆き悲しみ、毒気から覚めて本心を取り戻し、残された良薬を飲んで病気を治すことができた。これを聞き、父は喜んで帰ってきて、すべての子供たちを見ることができたという。
 この譬喩を説き終わった釈尊は弟子たちに向かって、「諸の善男子、意に於いて云何。頗し人の、能く此の良医の虚妄の罪を説く有らんや不や」と問い、それに対して弟子たちは「不なり、世尊」と答えたのである。つまり、使いに言わせた「父は死んだ」というのは明らかに虚妄であるが、この問いは、それを罪とするかどうかである。その意味で、仏の常住不滅を明かさない爾前経は妄語であるということの裏づけとされているのである。
 涅槃経にも、また釈尊自ら、爾前は虚妄の説であると説いている。すなわち大般涅槃経巻15に「如来には虚妄の言無しと雖も、若し衆生、虚妄の説に因って、法理を得ると知れば、宣しきに随って方便則ち為に之を説く」とある。宣しきに随って説いた虚妄の法とは、爾前の諸経をさすのである。
 また、「天台云く」として次に引用されているのは、天台大師も、爾前経は、すべて如来の綺語であって一時的なものである、と述べている。
 このように、四十余年の経々を「虚妄」「綺語」というのは、経論に説いているのであって、全く「日蓮が私言」ではないとされているのである。

0180:15~0181:05 第五章 念仏無間の論難に答えるtop
15                                 又云く念仏は無間の業と云云法華経第一に云
0181
01 く我れ則ち慳貪に堕せん 此の事為不可なり云云、 第二に云く其の人命終して阿鼻獄に入らん云云、 大覚世尊但
02 観経念仏等の四十余年の経経を説て 法華経を演説したまわずんば三悪道を脱れ難し云云、 何に況や末代の凡夫一
03 生の間但自らも念仏の一行に留り 他人をも進めずんば豈無間に堕せざらんや、 例せば民と子との王と親とに随わ
04 ざるが如し、何に況や道綽・善導・法然上人等・念仏等を修行する輩・法華経の名字を挙げて念仏に対当して勝劣難
05 易等を論じ未有一人得者・十即十生・百即百生・千中無一等と謂うは無間の大火を招かざらんや、 
-----―
 また、訴状には「日蓮は念仏は無間地獄の業であるといっている」とある。
 これについていえば、法華経巻一、方便品第二には「もし真実の法を説かなかったならば、自分は慳貪の罪に堕ちるであろう。このことは定めて不可である」と説かれている。法華経巻二、譬喩品第三には「もし人が信じないで誹謗するならば、その人は命を終えてから阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。
 大覚世尊がただ観経、念仏等の四十余年の経々だけを説いて、法華経を説法しなければ、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を脱れることは難しいということである。まして、末代の凡夫が、一生の間にただ自らは念仏の一行を固く守って、他人には念仏を勧めなかったとしても、この人は既に仏意に反しているから、無間地獄に堕ちることは必定であろう。例えば、民が王に従わず、子が親に従わないようなものである。
 ましてや道綽・善導・法然上人は念仏等を修行する輩であるが、法華経を名指しで、念仏と相対して勝劣・難易を論じ、道綽のように「正道門を修行しても、末だ一人も成仏を得た者はいない」と説き、善導のように「雑行・雑修を捨てて念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土へ往生するが、法華経などの経教を修行しても、極楽往生できる者は千人の中に一人もいない」と説いているのは、無間地獄の大火を招かないわけがない。

念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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無間の業
 無間地獄に堕ちる業因のこと。無間は梵語アヴィーチィ(avīci)阿鼻・阿鼻旨の意訳。八熱地獄のひとつ。五逆罪と正法誹謗が堕地獄の業因とされる。
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慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
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阿鼻獄
 阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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未有一人得者
 道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。
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十即十生・百即百生・千中無一
善導の往生礼讃の文。雑行・雑修を捨てて念仏を称えれば、10人が10人・100人が100人極楽浄土に往生できるが、法華経によって成仏できるものは1000人のなかに、ひとりもいないとする邪義。
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 この論難は、先の行敏初度の難では「念仏は無間地獄の業為と」(0179-03)にあたる。すなわち、大聖人が「念仏は無間地獄の業である」と言われているところの彼らの論難である。
 これに対しては、仏ですら劣った法を説けば罪に堕すると自らのべていること、法華経を誹謗すれば無間地獄に堕ちると明言していることを、教を引いて示され、法華経を誹謗している念仏修行の者が無間地獄に堕ちるのは当然であると説かれている。
 最初に挙げられているのは法華経方便品第2に「自ら無上道、大乗平等の法を証して、若し小乗を以って、乃至一人をも化せば、我則ち慳貪に堕せん。此の事は為めて不可なり」とある文である。
 ここでいう「小乗」とは「無上道、大乗平等の法」に対するものであるから、法華経以前の爾前の諸経の意であり、また「慳貪」とはものを惜しみ、貪るの意である。つまり、成仏の法である勝れた法華経をもって衆生を教化することを惜しんで、劣る爾前の方便権教で、一人でも教化することがあれば、慳貪の罪に堕ちるということである。これは全く誤りであり、仏がこのような化導をすることは、絶対にありえない、との意である。
 次に法華経譬喩品第3の文を挙げられている。「経を読誦し所持すること、有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。此の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」とある。「阿鼻獄」とは無間地獄である。
 「大覚世尊但観経念仏等の四十余年の経経を説て法華経を演説したまわずんば三悪道を脱れ難し」の御文は、最初の方便品の文を受けて述べられたものである。釈尊であっても、ただ観経や念仏等の「四十余年未顕真実」の経々だけを説いて、真実の法華経を説き明かさなかったならば、もの惜しみの慳貪の罪によって地獄・餓鬼・畜生等の三悪道をまぬかれがたいのである。
 法華文句巻4下には慳貪は餓鬼道に堕ちる因であると説いているが、それを含めて「三悪道」と言われているのであろう。またこの文は、仏自ら悟った無上道、大乗平等の法を説かないでいることだけで、慳貪の罪に堕するのであるから、ましてや、大乗平等の法である法華経を誹謗すれば無間地獄に堕ちるのは当然である。
 ゆえに、この二つの罪を犯している念仏の徒は「末代凡夫一生の間但自らも念仏の一行に留り他人をも進めずんば豈無間に堕せざらんや」と仰せのように、無間地獄に堕ちることは間違いないのである。
 しかも、浄土念仏の祖である中国の道綽・善導、また日本の法然等は、浄土往生のために称名念仏を専ら修行する輩である。彼らは法華経を名指しで、念仏と相対して勝劣・難易を論断しているのである。
 これについては既に第二章で示したが、ここで大聖人が「未有一人得者・十即十生・百即百生・千中無一」といわれていることについて述べておくと、最初の「未有一人得者」は道綽の安楽集巻上の文である。釈尊滅後悪世の末法において、真実に利益のある教えは、聖道・浄土二門のうち、ただ浄土の一門のみがそれにかなうものであり、他の一切の教えでは、末だ一人として得道する者はいないと。
 また次の「十即十生・百即百生・千中無一」は善導の往生礼讃偈の文である。「正行・雑行のうち雑行・雑修を捨てて、正行の称名念仏を修行すれば、10人が10人、100人が100人とも極楽浄土へ往生するが、正行以外の雑行の他の経教を修行しても、千人の中に一人もいないと。
 これは、爾前権教である阿弥陀経を依経とする念仏と比較相対して法華経を劣るとし、また実践が困難な難行道であって、末法の衆生には相応しないと断じられているのである。法華経を説かないだけでも重罪であるのに、法華経を誹謗し、それを衆生に弘めたのであるから、法華経譬喩品第3の文のごとく、無間地獄に堕ち、「展転し、無数劫に至らん」ことは間違いないのである。

0181:05~0181:07 第六章 禅天魔への論難に答えるtop
05                                              又云く禅宗は天
06 魔波旬の説と云云、 此又日蓮が私の言に非ず彼の宗の人人の云く教外別伝と云云、 仏の遺言に云く我が経の外に
07 正法有りといわば天魔の説なり云云、 教外別伝の言豈此の科を脱れんや、
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 これについていえば、これもまた、日蓮の私の言ではない。禅宗の人々は「我が法は教外別伝である」と述べているが、仏の遺言に「我が経の外に正法があると言えば、それは天魔の所説である」とある。教外別伝の言は、どうしてこの科を脱れることができようか。

禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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天魔波旬
 天魔は天子魔のことで四魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)の一つ。第六天の魔王のことであり、波旬は殺者・悪者等と訳し、魔王の名。
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教外別伝
 「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
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 次に、訴状に「禅宗は天魔波旬の所説である」と述べていることに対し、反論されている。ここに挙げられている訴状の内容は、先の行敏初度の難状の「禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長す」(0179-03)にあたる。これもまた、大聖人は繰り返し言われていることであるが、決して「私の言」ではなく仏の言であるとして、経証を引いて道理を示されている。
 禅宗では「教外別伝」などと主張している。すなわち「仏法の神髄は一切経の外にあり、それは釈尊が涅槃の時に経文に依らずに、別に迦葉に付嘱した。その法を伝承しているのが禅宗である。釈尊の真意は経典ではなく、経典によって法を求めても仏法の神髄は得られない。経文によらないで座禅することによって悟りは得られるのである」と主張している。そこから、経典を「月をさす指」と言い、月をさしてしまえば指は必要ないように、経文などは不要であるとしているのである。
 大聖人は、この説に対して、涅槃の直前に説かれ「仏の遺言」ともいうべき涅槃経の戒めを引いて打ち破られている。涅槃経には「若し仏の所説に順わざる者有らば当にしるべしこの人はこれ魔の眷属なり」とある。つまり、自分が説いた経教にしたがわない者があれば、それは魔の眷属であるとの意である。この仏の金言によれば、禅宗の「教外別伝」という主張こそ、魔の所説であることは明らかであり、大聖人が禅宗を天魔と言われるのは、まさしく仏説によっておられるのである。

0181:07~0181:13 第七章 律宗を誑惑の法と論断するtop
07                                    又云く大小の戒律は世間誑惑の法と云
08 云、 日蓮が云く小乗戒は仏世すら猶之を破す其の上月氏国に三寺有り、 所謂一向小乗の寺と一向大乗の寺と大小
09 兼行の寺となり云云、 一向小と一向大とは水火の如し将又道路をも分隔せり、 日本国に去る聖武皇帝と孝謙天皇
10 との御宇に小乗の戒壇を三所に建立せり、 其の後・桓武の御宇に伝教大師之を責め破りたまいぬ、 其の詮は小乗
11 戒は末代の機に当らずと云云、 護命・景深の本師等其の諍論に負くるのみに非ず六宗の碩徳・各退状を捧げ伝教大
12 師に帰依し円頓の戒体を伝受す云云、 其の状今に朽ちず汝自ら開き見よ、 而るを良観上人・当世日本国の小乗は
13 昔の科を存せずという、
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 また、訴状には「日蓮は大乗・小乗の戒律は世間を誑惑する法である、と言っている」とある。
 日蓮が言うには、小乗の戒は釈尊在世のうちから破られたものである。そのうえ、インドの国には三ヵ寺があり、いわゆる一向に小乗戒の寺と、一向に大乗戒の寺と、大乗と小乗の戒を兼ねた寺である。一向小乗と一向大乗とでは、水と火のように違い、道路ですら分け隔てたのである。
 日本国でも、去る聖武皇帝と孝謙天皇との時代に、小乗の戒壇が三ヶ所に建立された。その後、桓武天皇の時代に、伝教大師がこの戒壇を責め、破折された。その理由として、小乗の戒は末代の衆生の機根に当たっていない、と述べている。
 その時、南都の護命と景深の本師寺は、その法論に負けただけでなく、南都六宗の学者は、それぞれ謝り状を捧げて伝教大師に帰依し、法華円頓の戒体を伝受したことが記録されている。
 その状は、いまだに朽ちず現存している。汝自らその状を開いて見なさい。しかるに、良観上人は、当世日本国の小乗の戒には昔の科は存在しないなどと述べている。

大小の戒律
 大乗・小乗で説く仏道修行のために守るべき生活規範。
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誑惑
 たぶらかすこと。
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月氏国
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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聖武天皇
 (0710-0756)第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(0749)7月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(0756)5月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。
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孝謙天皇
 0718~0770。第46代・第48代天皇。在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年(0749~0758)称徳天皇として天平宝字8年(0764~0770)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇」とも称された。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位1629~1643)に至るまで、実に850余年もの間、女帝が立てられることはなかった。
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桓武
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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護命
 (0750~0834)。護命僧都のこと。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学んだ。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著書に「法相研神章」などがある。
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景深
 平安時代初期の東大寺の律僧。伝教大師が比叡山延暦寺に大乗戒壇建立すべきことを嵯峨天皇に上奏したとき、迷方示正論を著して反対した。
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諍論
 正邪・是非を論じあうこと。
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六宗の碩徳
 延暦21年(0802)正月19日、高尾山に桓武天皇列席のもと、南都「六宗の高徳」と伝教大師の対論が行われ、伝教大師の圧倒的な勝利に終わった。「六宗の碩徳」とは善議(三論・空宗)・勝猷(華厳)・奉基(法相)・寵忍(不明)・賢玉(法相)・安福(不明)・勤操(三論)・修円(法相)・慈誥(不明)・玄耀(不明)・歳光(不明)・道証(法相)・光証(不明)・観敏(三論)で「十四人」となる。なおこの法論に破れた六宗・七大寺はいずれも帰伏状を出し、それに連なった僧侶の数は「三百余人」にのぼった。「八人・十二人」については不明。
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退状
 あやまり状。
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円頓の戒体
 伝教大師が提唱した法華経の義から導き出された大乗戒のこと。弘仁10年(0819)3月15日に著された天台法華年分度者小向大式には「凡そ仏戒に二あり。一には大乗大僧戒。十重、四十八軽戒を制して、以って大僧戒と為す(中略)凡そ仏受戒に二あり。一には大乗戒。普賢経に依りて三師証等を請す。釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す。文殊師利菩薩を請して菩薩戒の羯磨阿闍梨と為す。弥勒菩薩を請して菩薩戒の教授阿闍梨と為す。十方一切の諸仏を請して菩薩戒の証師と為す。十方一切の諸菩薩を請して同学等侶と為す。現前ひとりの伝戒の師を請して以って眼前の師と為す。若し伝戒の師無くんば千里の内に請す。若し千里の内に能く戒を授くる者無くんば、至心に懺悔して必ず好相を得、仏像の前に於いて自誓受戒せよ。今、天台の年分学生並びに回心向大の初修行の者には、所説の大乗戒を授けて将に大僧と為さん」と円頓戒について記している。この大乗戒は、南都七大寺が採っていた小乗戒と相容れないものであった。小乗戒とは「小乗律に依り、師には眼前の十師を請して白四羯磨す。清浄持律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」である。この伝教大師の上表は南都七大寺の高相によって拒否されたため、伝教大師の生前には、大乗戒壇の勅許はおりなかった。
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 ここに挙げられている論難は、先の行敏初度の難状の「大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法」(0179-02)にあたる。
 大聖人が「大小の戒律は世間を誑惑して衆生を悪道に堕としめる法である」と言われていることを取り上げて非難したものである。
 「大小の戒律」とは、仏法者が修行のために守るべき生活・行動規範として設けられた小乗の戒と大乗の戒をさしており、小乗の戒には在家信者に五戒、八斉戒などがあり、出家者には比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒などがある。これらは、すべて自らの煩悩を断じ、灰身滅智することを目的としたもので、戒を守ること自体が、いわば目的化する。
 これに対し、大乗の戒とは、梵網経の十重禁戒、四十八軽戒など、諸大乗教に説かれる戒をいうが、内容的にはほとんど同じである。ただ衆生を利益する等の利他の項目が入ってくるところに違いがある。
 根本的にいって小乗教が戒律中心主義であるのに対して、大乗教の場合は勇猛精進して、よく衆生のために尽くす実践修行が表となり、上求菩薩・下化衆生の菩薩行の実践を進めるために必要なものとされている。しかし、大小の戒といっても、まだ権大乗では小乗の戒に通ずるところが多い。
 これに対して、伝教大師が立てたのが法華円頓の戒である。天台法華宗でも、天台大師・妙楽大師などは皆、小乗戒を受持した。それは大乗の精神で小乗戒を借りて用いたのである。それに対して伝教大師は、初めて小乗戒を捨てて法華円頓の大乗戒を設けた。しかし、法華経には円頓戒の法理は説かれてはいるが具体的な戒相は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒、四十八軽戒等を用いて円頓戒の戒相としたのである。
 以上の大小の諸戒は、釈尊在世、滅後の正法・像法時代の仏道修行のために設けられたものである。
 今この「御会通」で「日蓮は大小の戒律を排斥している」との論難に答えられている内容は、小乗戒が劣ること、そして、小乗戒は既に伝教大師によって破折されたものであるということである。大聖人は持戒自体を目的化したり、まして自らを聖人のように思わせるために持戒を売り物にしている良観のような行き方を厳しく排斥されたのである。
 末法の戒に小乗の戒を守ることについて、大聖人は次のように仰せである。
 四信五品抄に「教大師未来を誡めて云く『末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き』云云」(0341-11)と。
 この末法において戒を持っているという者がいたら怪異の者であり、町の中に猛獣の虎が放たれているようなものである、とされている。
 すなわち、末法に「小の戒律」を説き、自ら戒律の僧と称する者は、外見上、形式的に威儀を正し、持律に似た像をしているだけで、仏法に無智な衆生に「真実の仏法者」のごとく思わせるためのものにすぎない。末法においては妙法を受持することが唯一の戒であるとされるのである。
 大聖人は、もともと小乗戒については、釈尊の在世においてすら破折されている、と仰せである。
 下山御消息に「経に云く『汝を供養する者は三悪道に堕つ』等云云、在世の阿羅漢を供養せし人尚三悪道まぬかれがたし」(0349-01)とある。
 ここに引かれている「経に云く」とは維摩詰所説経弟子品第3の文で、「其れ汝に施す者を福田とは名づけず、汝を供養する者は三悪道に堕せん」とあり、これは維摩詰が小乗教に執着する須菩提を責めている文である。
 須菩提は釈尊の十大弟子の一人で阿羅漢果を得て解空第一と称せられた。仏法においては阿羅漢は応供と呼ばれて、衆生からの供養を受けられる位であった。しかし、大乗教が説かれた後は、小乗に執着する声聞に施すことは福運を積むことにならず、かえって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまうであろうと、維摩詰は戒めたのである。
 続いて、同御書に、大聖人は「何に況や滅後の誑惑の小律の法師原をや、小戒の大科をばこれを以て知んぬ可し」(0349-02)と述べ、釈尊在世の阿羅漢でさえも、これに供養した人は三悪道に堕ちるのであるから、まして釈尊滅後の悪世末法において、人々を誑惑する小乗教の律師に対し布施・供養することはもっとも大きな罪となると厳しく警告されている。
 大聖人は諸御書で、大乗の菩薩の戒を「金銀戒」とし、それに対して、小乗・阿含経の二乗の戒を「瓦器戒」と呼ばれ、これにとらわれている者は永劫に成仏できない、と破折されている。
 十法界明因果抄に「二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に譬う破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす、故に瓔珞経に云く『犯すこと有れども失せず未来際を尽くす』文、故に此の戒をば金銀の器に譬う完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり」(0434-06)とある。
 これも大聖人は勝手に言われたのではなく、清浄毘尼方広経に「破れた瓦器の補修す可らざるが如きは、是れ声聞毘尼なり、金銀の器の破れたるは、還って修治す可きが如きは、是れ菩薩毘尼なり」と説かれているのを踏まえられたのである。
 以上のように小乗戒は、釈尊自身、在世のうちから破折されたのであり、釈尊の滅後においても、インドには三種類の寺院があったが、大乗と小乗は相容れないものとされ、修行者の歩く道さえ差別があったとされている。
 このことについて、下山御消息に「初心の人には二法を並べて修行せしむる事をゆるさず月氏の習いには一向小乗の寺の者は王路を行かず一向大乗の僧は左右の路をふむ事なし井の水・河の水同じく飲む事なし何に況や一房に栖みなんや、されば法華経に初心の一向大乗の寺を仏説き給うに『但大乗経典を受持せんことを楽つて、乃至余経の一偈をも受けざれ』又云く『又声聞を求むる比丘比丘尼優婆塞優婆夷に親近せざれ』又云く『亦問訊せざれ』等云云、設い親父たれども一向小乗の寺に住する比丘比丘尼をば一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近せず何に況や其法を修行せんや大小兼行の寺は後心の菩薩なり」(0344-11)と仰せである。
 つまり、初心の者はいまだ縁に紛動されやすいということから、大小の二法を兼ねて修行することが禁じられ、大乗戒と小乗戒は厳しく区別されたというのである。
 伝教大師が顕戒論には玄奘三蔵の大唐西遊記を引いて、インド・西域の諸国に大乗を修学する国・大小を兼学する国、ただ小乗を学する国の三種があるように、仏寺にも一向大乗寺、一向小乗寺、大小兼学寺の三種があって、「初修行の菩薩は、其の小儀の比丘と同じく房舎に居せず、同じく床に坐せず、同じく路を行かざる事を」と述べている。
 また智証の著した受決集巻上にも「西国の三蔵云く『西天には大小二乗に僧同路を行くを得ず。謂く一の大路に於いて分かって三街と為し、中央を以って王の路と為す。即ち大乗の僧之を行く。分かつ所以は、二部寺を異にす。河を分かって飲まず、相見ること亦希なり』とあり、「西天」すなわちインドでは、大乗を修学する僧は王の道である中央の道を歩き、小乗を修行する僧は左右の狭い道を歩き、両者は同じ道を歩くことがなく、同じ河の流れの道を飲むこともなく、互いに姿をみることさえ、まれであったと伝えられる。
 日本では、天平勝宝6年(0754)に聖武天皇の勅によって、大和国の東大寺に戒壇が建立され、唐から来朝した鑑真によって、菩薩戒が授けられたのが最初である。また、天平宝字6年(0762)に下野国の薬師寺、筑紫国の観世音寺にも小乗の戒壇が建立された。
 薬師寺は東海道足柄坂、東山道信濃坂以東の諸国の受戒道場、観世音寺は西海道諸国の受戒道場、東大寺は中国地方の受戒道場とされ、天下三戒壇と称された。いずれも小乗戒である。
 その後、平安の初め、伝教大師は顕戒論を著して、小乗戒は末法の機根に相応しないとして、大乗戒壇の建立を主張した。
 もとより、これには、南都の仏教界の強い反対があって、伝教大師は大乗戒壇の建立をはたせないまま、弘仁13年(0822)没した。ようやく、伝教大師が入滅してから7日後に勅許が出て、翌年に比叡山延暦寺に法華一乗の円頓戒壇が建てられたのである。
 こうした伝教大師の大乗戒壇建立への反対派の中心が、当時、南都の奈良仏教界にあって、すべての僧尼を監督する「僧綱」の官職にあった元興寺の護命や東大寺の景深等六宗の碩徳高僧であった。伝教大師は顕戒論によって、彼らの反対を打ち破っていたが、更に反論を求めてきたので、弘仁12年(0821)3月には顕戒論縁起を作って、これを朝廷に差し出した。
 これに対しては、六宗の高僧等も反論できないうちに弘仁13年(0822)6月、伝教大師が寂し、光定の努力により右大臣藤原冬嗣をはじめ中納言良峰安世尊が奏請した結果、ついに大乗戒壇の建立が勅許されたのである。
 しかし、これより以前、南都奈良の仏教界六宗の高僧たちは、延暦21年(0802)正月19日には桓武天皇が高尾山に行幸された際、奈良仏教界の七大寺の学僧14人と伝教大師を召し合わせて、対論を命じられた。この時、彼ら華厳・三論・法相等の学僧たちはことごとく打ち破られ、口をつぐんで答えることができなかった。
 結局、六宗の碩徳高僧たちはそれぞれ自義の非を認め、法華円宗の真義を賛嘆する「退状」を提出せざるをえなかった。これは、実質的に彼らが伝教大師に帰伏し、法華円頓の戒体を伝授したということである。この謝り状は今もって朽ちていないのであり、自ら開いて見るべきであると大聖人は言われ、これほど明確な歴史的事実があるのに、良観が「今の日本国の小乗の戒には、そうした者の科は、関係ない」などと言っているのは、まことに奇怪という以外にないと破折されている。

0181:13~0181:16 第八章 阿弥陀仏の仏像を焼くとの難を破すtop
13             又云く年来の本尊・弥陀観音等の像を火に入れ水に流す等云云、 此の事慥なる証人を指
14 し出し申す可し若し 証拠無くんば良観上人等自ら本尊を取り出して火に入れ水に流し 科を日蓮に負せんと欲する
15 か委細は之を糾明せん時・其の隠れ無らんか、 但し御尋ね無き間は其の重罪は良観上人等に譲り渡す、 二百五十
16 戒を破失せる因縁此の大妄語に如かず無間大城の人・他処に求ること勿れ、
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 また、訴状には「日蓮は各寺にこれまで安置されてきた本尊である弥陀・観音等の仏像を火に入れて焼却したり、水にながしたりした」とあるが、これについては、たしかな証人を出すべきである。もし証拠がなければ、これらのことは良観上人が自ら本尊を取り出して火に入れ、水に流し、その科を日蓮に負わせようとするのであろう。
 詳しいことは、これを糾明すれば明瞭となることであろう。ただしその上で当局の尋問がないあいだは、この重罪は良観上人に譲り渡す。
 この大妄語ほど、二百五十戒を破り失う因縁となるものではない。無間地獄に堕ちる人は、良観上人等以外にはない。

弥陀
 阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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 これまでは教法に関する非難であったが、ここからは大聖人とその門下の行為に関する非難中傷に関するものである。これは、先の初度の難状には全くなかった項目で、おそらく、良観らが、何とかして大聖人を罪に陥れようとして作り上げた虚像の中傷である。
 訴状では、大聖人が諸寺の本尊である阿弥陀や観音等の仏像を、焼いたり、水に流したりしている、と言っている。
 大聖人は諸宗が法華経を誹謗していることを破折され、法華経を根本とし、また法華経の教主としての釈尊を本尊とすべきであるとされた。したがって阿弥陀仏や観音を本尊とする念仏を厳しく破折されたが、阿弥陀という仏や観音という菩薩自体が災いの元であるということでなく、正しい本尊とすべき釈尊をないがしろにして他仏を崇めている。人々の信仰の歪みが災いの元凶であることを訴えられたのである。阿弥陀等はあくまで他仏として位置づけられるのである。
 文永8年(1271)9月の竜の口法難以後、末法衆生が本尊とすべきは南無妙法蓮華経の漫荼羅御本尊であることを明らかにされるが、この他仏等についての考え方は変わるものではない。それゆえ、それらの焼却・破棄等をされるとは考えられない。大聖人はまず、そこには確かな証人がいるのか、と反論されている。もし証拠がないならば、逆に良観等自身が本尊を取り出して火に入れて流して、罪を大聖人に負わそうとしているのであろう、と言われている。大聖人はかえって良観の謀略であると言われているのである。
 したがって大聖人は“委細のことは対決の時にはっきりする。その時、すべての罪悪は、隠れなく顕れるであろう。しかし、事実と証人とを裏づけとして当局の尋問がないあいだは、その重罪をそっくりそのまま良観等に返上する”つまり、良観らがそうした証拠を明確にして幕府に示すのでない限り、良観らは虚言をもって大聖人を陥れようとしているのだと見るべきだということである。
 そして、この「大妄語」こそ、二百五十戒を破り失う因縁であるとされ、しかも法華経の行者を陥れ、権力を動かして迫害しようとしているのであるから、良観の無間地獄は間違いない、と厳しく破折されている。

0181:16~0182:03 第九章 凶徒・兵杖を集めるとの非難に答えるtop
16                                    又云く凶徒を室中に集むと云云、 法
17 華経に云く或は阿練若に有り等云云、 妙楽云く東春云く輔正記云く 此等の経釈等を以て当世日本国に引き向うる
18 に汝等が挙る所の建長寺.寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿.長楽寺・浄光明寺等の寺寺は妙楽大師の指す所の第三最
0182
01 最甚の悪所なり、東春に云く即ち是れ出家処に一切の悪人を摂す云云、又云く両行は公処に向う等云云、 又云く兵
02 杖等云云、 涅槃経に云く・天台云く・章安云く・妙楽云く 法華経守護の為の弓箭兵杖は 仏法の定れる法なり例
03 せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し、
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また、訴状には「日蓮は凶徒をその住まいに集めている」とある。
 法華経勧持品第十三には「あるいは山林の静かな寺院で、衣を着て」とあるが、これを妙楽大師は法華文句記に、智度法師は東春に、道暹は法華経文句輔正記に、法華経の行者に迫害を加える元凶について示されたものであると述べている。これらの経文や解釈をもって、今の日本国を引き合わせると、汝等があげるところの建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺等の寺々は、妙楽大師のさすところの第三の僭聖増上慢の悪行である。
 東春には「すなわちこれは出家の住所に、一切の悪人を摂して」とある。
 また、僭聖増上慢の僧たちが、公処に向かって法華経を謗り、法華経の行者を誹謗する」とある。
 また、「兵杖を集めている」とあるが、涅槃経に説かれ、天台大師も、章安大師も、妙楽大師も述べているように、法華経守護のために弓箭・兵杖を持つことは、仏法の定まれる法であり、例えば国王を守護するために刀杖等を集めるようなものである。

阿練若
 梵語(Aranya)阿蘭若・阿蘭那・阿練茹とも書く。訳して無諍声・無声所・遠離処・意楽処・無諍行・閑静・寂静処・空寂・無諍・空家等という。人里離れた静かな山寺のこと。
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妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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東春
 妙楽大師の弟子、智度法師の著書「天台法華疏義績」の異名。法華文句の釈書。「東春」は地名で智度法師の住んでいたところ。
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輔正記
 中国・唐代の道暹述、「法華経文句輔正記」のこと。妙楽大師の法華文句記を中心に、法華経の文および法華文句の文とを摘録して字義を釈したもの。
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建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
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寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
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極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
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多宝寺
 現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
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大仏殿(鎌倉)
 大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
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長楽寺
 法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
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浄光明寺
 神奈川県鎌倉市扇ヵ谷にある真言宗の寺院。建長3年(1251)北条長時が建立、真阿の開基。はじめは浄土宗寺院であったが、その後、真言・浄土・禅・律の四宗兼学の道場となった。鎌倉時代を通じて北条氏の菩提寺であった。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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章安
 (0561~0632)。章安大師のこと。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
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 また訴状に「日蓮は兇徒をその住まいに集めている」また、「兵杖等を集めている」等と述べ、不穏な動きがあると非難している。これに対して大聖人は釈明するよりも、むしろこのような讒言をする良観らこそその正体は法華経勧持品第13で説く法華経非農の第三類、僭聖増上慢であるとして打ち破られている。
 法華経勧持品第13の僭聖増上慢の文は「或は阿練若に有り」の一句のみで、あとは「等云云」と略されているが、詳しくは次の通りである。
 「或は阿練若に、納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賎する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世に恭敬せらるることを為ること、六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮って、好んで我等が過を出さん。而も是の如き言を作さん、此の諸の比丘等は、利養を貧るを為っての故に、外道の論議を説く、自ら此の経典を作って、世間の人を誑惑す、名聞を求むるを為っての故に、分別して是の経を説くと。常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王大臣、婆羅門居士、及び余の比丘衆に向って、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。我等仏を敬うが故に、悉く是の諸悪を忍ばん」(以上訓読)
 「あるいは山林の静かな寺院で、衣を着て、静寂なところに在って、自ら真実の道を行じていると思って、人間を軽んじ賤しめている者がいるであろう。財産を貪り自己の利益を求めることに貧著しているがゆえに、在家の人々のために法を説いて、世間から恭敬されることは、六神通を得た聖者のごとくであろう。この人は悪心を懐いて、常に世俗のことばかり心に思い、その名を住んでいる静かな寺院にかりて、好んで私たちの過失を数え上げるであろう。しかもこのような言葉をいう。『この比丘たちは、財産を貪り、自己の利益を求めることに貧著しているがために、外道の論議を説き、自らこの経典を作成して、世間の人をたぶらかし惑わせ、名聞を求めようとするためのゆえに分別してこの経を説くのである』と。このように常に大勢の人々のなかで、私たちを謗ろうとするので、国王・大臣・婆羅門・在家の人々およびその他の比丘たちに向かって、誹謗して我が悪を説いて、『これは邪見の人である。外道の論議を説いている』という」(以上現代語訳)
 この後、「妙楽云く」と仰せられているのは、法華文句記の「この三の中に、第一の俗衆は忍びやすいが、第二の道門はそれ以上に悪く、第三の僭聖は最も甚だしい。なぜなら無智の大衆よりも僧尼・僧尼より聖人と仰がれる者のほうが、邪智であり謗法であることを、ますます知りがたいからである」の文をさすと考えられる。
 同じく「東春云く」とは、後に挙げられているが、妙楽大師の弟子智度法師の東春に「第三に『或は阿練若に有り』より下の三偈は僭聖増上慢で、聖人のように仰がれている出家の住処に、一切の悪人を摂して、法華経の行者を迫害怨嫉することを明かす」とある文であろう。
 「輔正記に云く」とは「悪鬼がその身に入った者というのは見思・塵沙・無明の三惑が最も重い者であり、外の悪鬼に見入られた者である」と思われる。
 これらの経文と釈義を明鏡として、大聖人御在世当時の仏教界を映し出してみると、良観等が誇示する鎌倉仏教界の建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺等の寺々こそ、妙楽大師のいう第三の僭聖増上慢の者の住処である。「東春」にもいう通り、一切の悪人を摂している住処こそ、良観等の寺々にほかならないのである。
 また「東春」に『常に大勢の人々のなかで、私たちを毀ろうとするので、国王・大臣・婆羅門・在家の人々に…向かって訴える』とは、権力、権勢、権威を有する公処等に向かって、真の行者とその法とを謗るのである」と解釈している。これまた、良観等にこそ当てはまるのである。
 これと同趣旨の指摘は開目抄にもあり、そこでは、経釈の明鏡にあてて、次のように明らかにされている。
 「向国王大臣婆羅門居士等云云、東春に云く『公処に向い法を毀り人を謗ず』等云云、夫れ昔像法の末には護命・修円等・奏状をささげて伝教大師を讒奏す、今末法の始には良観・念阿等偽書を注して将軍家にささぐ・あに三類の怨敵にあらずや」(0229-07)と。
 過去において、像法の末には伝教大師を護命・終円等が誹謗中傷した。今、末法の始め、大聖人御在世当時は良観・念阿等こそ、まさしく第三の強敵である。
 「両行は公処に向う」とは、法華経義纉巻5の文をさす。「公処」とは国王・大臣・婆羅門・居士等、社会的権力をもった人々のことで、そうした権力者に訴えることを「公処に向う」と言っているのである。
 大聖人は良観らが公処に向かって訴えていることこそ、僭聖増上慢であることの何よりの証拠である、と言われていると拝される。
 次に「兵杖を集めている」との非難に対して答えられている。
 もとより、大聖人は武器を集められるなどということはなかったが、ここではむしろ経論によって、仏法者が「兵杖」を持つことに関しては、仏法を守るために許されていることであると答えられている。
 まず、涅槃経には「正法を護持せん者は五戒を受持せず、威儀を修せず、刀剣、弓箭、鉾槊を持し、持戒清浄の比丘を守護すべし」とある。
 「正法を護持せん者」とは在家の人のことを明かしており、正法を護る在家は刀杖等の武器を持つべきであると説かれているのである。
 だからといって、仏教は「武力主義」かというのは見当違いである。武力専横の時代という背景を考慮しなければならない。悪人が充満し、謗法の者が武力をもって正法を圧迫してきた時、正法を護るためには、武力による以外にはなかったのである。
 布教のためか侵略のために武力を用いているのではない。正法を護ることが目的であり、そのための、やむをえない手段として所持を許されているのである。
 同じく涅槃経に「刀杖を持すと雖も我是等を説いて持戒と名さん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。すなわち“刀杖は持ってはいるけれども、正法を護るがゆえに、これを持戒と名づける。ただし、刀杖を持すといっても、防御のため、護法のためで、謗法の者の命を断ってはならない”と。
 「天台云く」とは摩訶止観に「夫れ仏法に両説あり一には摂・二には折、安楽行に不称長短という如き是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり。与奪・途を殊にすと雖も俱に利益せしむ」と述べている。
 「章安云く」とは涅槃経疏に「昔は平穏で法が弘まったから、持戒であるべきで、刀杖を持すべきではない。だが今は、険悪の世であるから仏法もかくれてしまっている。この時は刀杖を持すべきで、持戒すべきではない。このように、その時の情勢によって、あるいは持戒、あついは刀杖というように、取捨宣しきを得て一向にすべきせはない」と述べている。
 また、妙楽大師は文句記に「折伏・摂受の両門に一切の教を収める。あるいは摂受、あるいは折伏、というように、その時によって取捨すべき事で、一によって一を難ずるということではない」と述べている。
 以上に挙げられた涅槃経、また天台、章安、妙楽等の釈はいずれも、法華経守護のために弓箭兵杖を持すことを容認しているもので、したがって、大聖人はこれは実に仏法の定めるところであるとされているのである。

0182:03~0182:07 第十章 良観等の妄語の讒奏を破すtop
03                     但し良観上人等弘通する所の法・日蓮が難脱れ難きの間 既に露顕せし
04 む可きか、 故に彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏
05 を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、 頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に 日蓮の身に疵を被り
06 弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、 此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり心有らん人人は驚く
07 可し怖る可し云云、
――――――
 ただし、良観上人の弘通するところの法は、日蓮からの問難を逃れることができず、すでに邪義であることが露見したので、彼らの邪義を隠すために、諸国の守護・地頭・雑人等に「日蓮並びに弟子等は、阿弥陀仏を火に入れたり、水に流したりするから、汝等の大怨敵である」と言いつけているのである。
 そして、この「日蓮の頸を切れ、所領を追い出せ」などという勧めのために日蓮は疵を被り、弟子等は殺害され、その数は数百人に及んだ。これはひとえに良観・念阿・道阿の上人の大妄語から出たことであり、心ある人々はこれこそ驚くべきであり、恐れるべきであろう。

守護
 ①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
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地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
―――
雑人
 平安時代から鎌倉時代において使われた用語で、「身分が低い者」を意味する。だが、用法としては一般庶民を指す場合と主家に隷属して雑事に従事して動産として売買・譲渡の対象とされた賎民を指す場合がある。初期の武士団においては、具足も付けることが許されずに戦場に赴き、騎乗の武将を防護したり、敵の矢面に立ったり、敵陣の柵を破壊するなど、言わば捨石的行為に従事させられた人々を雑人原と称し、後の雑兵の源流となった。
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 ここでは、良観等が大聖人の破折によって自身の法の誤りであることが明らかにされたので、その邪義を隠すために、妄語を述べて権力を動かし、大聖人及びその門下に迫害を加えてきたことを明らかにされている。そしてこのように妄語によって人を陥れる良観らをこそ、心ある人は驚き怖れるべきであると結論されている。
彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く
 良観等は自分の教法が悪法であると露見するのを恐れ、その邪義を隠蔽するための策謀をめぐらした。「諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く」すなわち各地を治めている権力者たち、そして民衆等を扇動して、「日蓮ならびに弟子等は、あなた方の尊敬崇拝してやまない阿弥陀仏を、焼却したり、あるいは水中に投棄しており、あなた方にとって一大怨敵である」と偽りを吹聴して、増悪の心を煽ったのである。そして、「日蓮等の頸を切り、あるいは所領から追放すべきである」等と彼らを煽りたてたのである。良観が鎌倉で活動するようになったのは弘長元年(1261)以後であるから、松葉ケ谷の法難や伊豆流罪にゆいては良観自身は無関係としても、他の諸寺の僧たちは何らかの関係があったと考えられる。
 伊豆流罪よりあとの難としては文永元年(1264)11月11日の小松原の法難がある。これは、大聖人が安房国東条郷松原大路を通行中、地頭の東条景信の率いる念仏者の襲撃を受けたものである。
 この時、大聖人の随行は10人ほど、弟子の一人は即死、2人が負傷を負い、また大聖人自身も頭に傷を受けられ左手を折られた。これが本抄に仰せの「日蓮の身に疵を被り」に当たる。この時、鏡忍房と工藤吉隆が殉死したといわれる。
 この時の様子を、南条兵衛七郎殿御書に「今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり」(1498-04)と綴られている。
 「弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり」が具体的にいかなる難を言われたものかは不明であるが、いずれにせよ、このような大聖人一門に対する迫害・弾圧は、「良観・道阿・念阿等の上人の大妄語」から出たものであると仰せられている。
 表面は「不殺生」等の戒を持っているように見せ、人々から「生き仏」のように尊崇される僧が、裏では権力者に働きかけて法華経の行者に弾圧を加えさせ、人々を扇動して、法華経を信仰する人々を殺させたりしているところに、まさに「魔」の実態があると言わなければならない。大聖人は、心ある人々は、この本質を知って、驚きかつ怖れるべきである、と仰せである。

0182:07~0182:17 第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示すtop
07           毘瑠璃王は七万七千の諸の得道の人を殺す、 月氏国の大族王は卒都婆を滅毀し僧伽藍を廃す
08 ること凡そ一千六百余処乃至大地震動して 無間地獄に堕ちにき、 毘盧釈迦王は釈種九千九百九十万人を生け取り
09 て並べ従えて殺戮す 積屍莽の如く流血池を成す、 弗沙弥多羅王は四兵を興して五天を回らし 僧侶を殺し寺塔を
10 焼く、説賞迦王は仏法を毀壊す、 訖利多王は僧徒を斥逐し仏法を毀壊す、欽明・敏達・用明の三王の詔に曰く炳然
11 として宜く仏法を断ずべし云云、 二臣自ら寺に詣で堂塔を斫倒し仏像を毀破し 火を縦つて之を焼き所焼の仏像を
12 取つて難波の堀江に棄て 三尼を喚び出して其の法服を奪い並びに笞を加う云云、 大唐の武宗は四千六百余処を滅
13 失して僧尼還俗する者計うるに二十六万五百人なり、 去る永保年中には山僧・園城寺を焼き払う云云、 御願は十
14 五所・堂院は九十所.塔婆は四基・鐘楼は六宇.経蔵は二十所・神社は十三所.僧坊は八百余宇.舎宅は三千余等云云、
15 去る治承四年十二月二十二日・太政入道浄海・東大・興福の両寺を焼失して僧尼等を殺す、 此等は仏記に云く此等
16 の悪人は仏法の怨敵には非ず 三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん、所謂守護経に云く・ 涅槃経に
17 云く。                                 日 蓮 花 押
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 毘瑠璃王は七万七千という得道の人を殺害した。インドの大族王は仏舎利塔である卒塔婆を破壊し、伽藍を廃墟にし、その数はおよそ一千六百余にのぼった。最後には、大地が震動して無間地獄に堕ちたのである。
 毘瑠釈迦王は釈迦種族九千九百九十九万人を生け捕り、並べて殺戮した。このため、屍は莽のようであり、流血は池を成したといわれる。
 弗沙弥多羅王は四兵をもってインド中の僧侶を殺し、寺塔を焼いた。説賞迦王は仏法を破壊し訖利多王は僧徒を追い払って、仏法を破壊した。
 欽明・敏達・用明の三帝は「宣く仏法を断ずべきである」との詔を下し、これを受けて物部尾興や中臣鎌子らの二臣は、自ら寺に行って堂塔を倒し、仏像を破壊し、火を放ってこれを焼き、焼けた仏像を難波の堀江に投げ捨てた。更に三尼を喚び出して、その法服を奪って、笞打ちをくわえたという。
 大唐の武宗は四千六百の寺を滅失し二十六万五百人の僧尼を還俗させた。
 去る永保年中には、叡山の僧徒が三井の園城寺を焼き払った。こうして、御願所は十五所、堂院は九十所、塔婆は四基、鐘楼は六宇、経蔵は二十所、神社は十三所、僧坊は八百余宇、舎宅は三千余等が焼き払われた。去る治承四年十二月二十二日には、太政入道の浄海が東大寺・興福寺の両寺を焼き、僧尼等を殺した。
 しかしながら、これらは仏記によると「これらの悪人は仏法の怨敵ではない」のであり、それよりも三明や六神通を得たとする羅漢のような僧侶等が、むしろ我が正法を滅失するであろう、と守護経や涅槃経に説かれているのである。

毘瑠璃王
 波瑠璃王のこと。梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国(舎衛国。現在のウッタルプラデーシュ州北東部)の王。大唐西域記巻六等には「父王波斯匿が位についたとき、釈迦族の種姓が尊高なので、カピラバストゥ(迦毘羅衛城)に妃を求めた。舎衛国は大国であり、波斯匿王が暴悪なので、この要求に応じないわけにはいかず、釈迦族の美しい婢の娘を選んで結婚させた。波瑠璃がある日、迦毘羅衛城に行ったとき、釈尊を迎えるために造り、だれにも踏ませなかった大講堂にふみこんだので、釈迦族の人々は怒って、卑賤の婢が波瑠璃を生んだ事実を話して辱(はず)かしめた。波瑠璃は、即位後は必ず釈迦族を滅ぼすといい、後に父王を放逐し、国王となり、ただちに釈迦族を全滅させた」とある。しかし、その後七日目に、釈尊の予言どおりに焼死して地獄へ堕ちた。
―――
大族王
 大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
―――
卒都婆
 梵語(stūpa)の音写。髪の束・頭部の意。① 仏舎利を安置したり、供養・報恩をしたりするための建造物。インド・中国では土石や塼を積み、日本では木材を組み合わせてつくる。塔。塔婆。そとうば。② 死者の供養のため、墓石の後ろに立てる細長い板。上方左右に五輪塔の形を表す五つの刻みを入れ、表裏に梵字・経文・戒名・没年月日などを記す。板塔婆。そとうば
―――
滅毀
 滅ぼし壊すこと。破壊すること。
―――
僧伽藍
 僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになった。サンガーラーマ( saṁghārāma)の音写で、「僧伽藍摩」「僧伽藍」が略されて「伽藍」と言われた。漢訳の場合は「衆園」「僧園」などと訳された例があるが、通常「伽藍」とのみ呼ばれる。
―――
毘盧釈迦王
 波瑠璃王のこと。梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国(舎衛国。現在のウッタルプラデーシュ州北東部)の王。大唐西域記巻六等には「父王波斯匿が位についたとき、釈迦族の種姓が尊高なので、カピラバストゥ(迦毘羅衛城)に妃を求めた。舎衛国は大国であり、波斯匿王が暴悪なので、この要求に応じないわけにはいかず、釈迦族の美しい婢の娘を選んで結婚させた。波瑠璃がある日、迦毘羅衛城に行ったとき、釈尊を迎えるために造り、だれにも踏ませなかった大講堂にふみこんだので、釈迦族の人々は怒って、卑賤の婢が波瑠璃を生んだ事実を話して辱(はず)かしめた。波瑠璃は、即位後は必ず釈迦族を滅ぼすといい、後に父王を放逐し、国王となり、ただちに釈迦族を全滅させた」とある。しかし、その後七日目に、釈尊の予言どおりに焼死して地獄へ堕ちた。
―――
説賞迦王
 金耳国王、羯邏拏蘇伐刺那国の王のこと。6世紀後半に東インドを領有し、マカダ国を攻略した。マカダ国では伽藍10余箇所・僧侶2000余人が小乗正量部を修学していたが異道も多く、提婆達多の教えに従っていたという。7世紀初めに説賞迦王が出て仏教を誹謗し、伽藍を破壊して仏陀伽耶の菩提樹を切るなど暴虐を尽くしたが、羯若鞠闍国の戒日大王に責め滅ぼされた。
―――
訖利多王
 北インド加湿弥羅国の王。訖利多は種族名。はじめ阿難の弟子・末田底迦阿羅漢が加湿弥羅国に五百の伽藍を建立する時に、異国から連れてきた奴隷であったが、後に勢力を得て自立した。?駄羅国の迦弐志加王に支配されていたが、王の死後、再び王位につき、僧徒を追放して仏法を破壊した。このため、都貨羅国の雪山下王に殺害された。
―――
欽明
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
敏達
 (0538~0585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。
―――
用明
 (~0587)。用明天皇。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
―――

 天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。御言宣、大御言。
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毀破
 ものを壊すこと。
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武宗
 (在位0841~0847)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088)と述べられている。
―――
園城寺
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
―――
御願
 現当二世を祈るために天皇の命によって建てられた寺社
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舎宅
 家や住宅のこと。
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三明六通
 小乗教において最高位の阿羅漢が得る神通力。三明とは、宿住智証明、死生智証明、漏尽智証明のこと。六通とは、六神通のことで、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通のこと。
―――
守護経
 中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。 
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――――――――
 次に、過去の歴史上に仏教を破壊して悪名を残している人々の例を挙げられ、しかしながら、経典によればこれらの人々は「仏法の怨敵」ではない。良観らこそ仏の正法を滅ぼす大悪人であると明かされ、本抄を結ばれている。
 はじめに、インド・西域の事例である。
毘瑠璃王
 釈尊在世当時、インド・舎衛国に毘瑠璃王がいた。彼は仏教を憎んで77000の得道の人を殺害したといわれる。また、生母が賤民であったという自身の出生について、釈迦族から辱められたのを恨んで、釈迦族を殺戮し、その数9999万人にのぼったといわれる。これを「波瑠璃王の殺釈」といい、釈尊が受けた九横の大難の一つにあげられている。
 報恩抄には「第六天の魔王…乃至提婆・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて或は大石をなげて仏の御身より血をいだし或は釈子をころし或は御弟子等を殺す」(0297-08)とある。
月氏国の大族王
 大唐西域記巻4によれば、タクカ国の王で才智があり、勇敢で近隣諸国を征服し、ある時、仏法を学ぼうとして国中に命じて名僧を求めたところ、もと王家の旧僕で徳を積んだ男が推挙されてきた。王はそれがかっての奴隷であったことを知り、仏法を敬う心をなくし、逆に仏法を廃し僧を追放した。後にマカダ国の幼日王に敗れ、カシュミラ国へ行って王位を奪い、更に、健駄羅国を攻めて王族・大臣を殺し、寺院・仏塔を破壊し、国民の大多数を仏教徒であるという理由で殺し、河に沈めるなどしたという。
 撰時抄には「大族王の五天の堂舎を焼き払い十六大国の僧尼を殺せし」(0286-05)と、大族王の仏法破壊の所業を記され、その罪ゆえに「大地振動して無間地獄に堕ち」たと述べられている。
弗沙弥多羅王
 紀元前2世紀ごろ、インドの王で、雑阿含経25によれば、阿育王の末裔で孔雀王朝最後の王とされ、経文な「王はその名徳を世に令こうして、軍神にこれを謀ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て、三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、もろもろの仏塔を破壊し、多くの僧侶を迫害した」とある。バラモン教を復興して、多くの僧侶を殺し、阿育王の建てたインド仏教の中心寺院の鶏頭摩寺を破壊し、仏教を迫害した。乙午前御消息には「弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき」(1221-09)と仰せられている。
説賞迦王
 金耳国の王で、大唐西域記巻8によると、この王は外道を信じて仏法を憎み、僧伽藍を破壊して菩提樹を伐り、その根を掘り返して焼いたという。そして間もなく現罰を受けて死んだとある。
訖利多王
 北インド・カルヤラ国の王で、もともと末田底辺迦阿羅漢がカルヤラ国に500の伽藍を建てる時、異国から連れてきた奴隷であったが、後に自立した。健駄羅国の迦弐志迦王に服従したが、王の死後、再び自立して王位に就き、僧尼を追放し、仏法を破壊した。このためトカラ国の雪下王は、勇士500人とともに、重宝を訖利多王に献上するふりをして、隠し持っていた刀で王を殺した。雪山下王は仏法を再興し、堂塔を建て、僧尼を供養し、再び仏法はカルヤラ国に栄えた。
 報恩抄には「正法を行ずるものを国主あだみ 邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ、例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失いしがごとし、訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし」(0313-09)と仰せである。
中国における仏教破壊
 武宗皇帝は第15代皇帝で、即位後、しばらく念仏を重んじていたが、やがて仏教を憎んで同教を尊崇するようになり、会昌5年(0845)に大規模な仏教弾圧を断行して、多数の寺を破壊し、大量の僧尼を還俗させた。これは「会昌の廃仏」といわれている。武宗が仏教弾圧を行ったのは寺塔の建立と僧尼の免税が国家財政を疲弊させたこと、仏教教団内部の腐敗堕落などが原因であったといわれる。
日本における仏教破壊
 日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の治世で、百済から仏像・経巻等が招来されたとされる。その仏教を信ずるか信じないかで、国内は崇仏派・廃物派、二派に分かれて争いを生じた。
 欽明・敏達・用明の三帝は蘇我氏が私的に信仰することを認めながらも、事あるごとに廃仏派の物部氏らの上奏を容れて、詔を発して「礼拝してはならない」とした。この詔を盾に、物部尾興や忠臣鎌子等は、仏道を倒し、これを焼却し難波の堀江に棄捨するなどしたのでる。
 更に3人の尼の法衣を奪い、笞打ちを加えたという。この「三尼」とは日本書紀巻20によると、敏建天王13年(0584)に高麗の帰化僧・恵便について出家した司馬建の娘・嶋・漢人夜菩の娘・錦織の娘・石の三人である。
 また、11世紀の永保年中に、叡山の僧徒が三井の園城寺を焼き払った事件と、平氏が東大寺を焼失させた事件を挙げられている。
 園城寺は三井寺ともいう。この寺と比叡山延暦寺はともに天台宗であるが、長年にわたって抗争を繰り返した。両者の対立抗争は天元4年(0981)、園城寺の余慶が天台宗の座主に任ぜられたことから、延暦寺の衆徒が反発して讒訴をしたのがはじめという。
 以来、延暦寺を山門、園城寺を寺門と称し、両者に争いが続いたが、特に永保元年(1081)には御願所15所、堂院90、塔婆4基、鐘楼6宇、経蔵20所、神社13所、僧坊800余宇、舎宅3000余が灰塵に帰すという抗争が起きたことである。
 もう一つの平氏の東大寺等の焼失事件は治承4年(1180)12月22日に起きたものである。これは、奈良仏教の大寺院が平氏に従わないのを怒った平清盛の命で、平重衡が軍兵を率いて奈良攻撃を行った際に、寺々に火を放った事件である。このため、東大寺・興福寺等の諸寺が焼かれ、多くの僧尼が殺されたという。
  以上のように仏教破壊の事例を挙げられたうえで、大聖人は、しかしながら仏記にとると、これらは仏法の怨敵ではない。仏法を滅失するのは、三明六通の羅漢のごとき僧侶らである、と述べられている。そしてその「仏記」として守護経と涅槃経が挙げられているのである。経題のみで具体的に文は示されていないので、いかなる内容であるかに触れておきたい。
 守護経巻10の阿闍世王受記品第10には訖哩枳王の二つの夢が説かれている。
 その一つは10匹の猿がいて、そのうち9匹は城中の一切の人民、男女を擾乱し、飲食を侵奪し、器物を破壊した。ところが一匹だけ心に知足を懐いて、樹上に安坐して人を乱すことはしなかった。10匹の猿は、釈迦牟尼仏の10種の弟子であると説き、10種の沙門を挙げて詳述している。そのなかで、「四には仏法の過失を求めて沙門と作る」など9匹の猿は総じて相似の沙門であり、知足の一猿こそ真実の沙門であると説かれている。この9猿とは、今の僭聖増上慢であり、一猿とは、真の法華経の行者である。
 また涅槃経巻7には「仏、迦葉に告げたまわく、我涅槃して七百歳後、是の魔波旬、漸く当に我が正法を乱壊す…乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔王、此の有漏の形を以て無漏の身と作り、我が正法を壊らん」と説かれている。
 これらの二経に言われている「九猿」「聖者に相似せる者」等こそ、良観らにあるといわれているのである。ただし、良観らが仏法破壊の元凶であることについて述べられているのに、これでは少し中途半端で終わっているような気がする。本抄は草案として書かれたものなのか。あるいはなんらかの事情で表に出ないままになったか、いずれにしても、この御会通のままで幕府に提出されたとは考えがたい。また、大聖人と彼らの公場対決が実現しなかったことも事実である。良観が恐れをなしたか、幕府が大聖人に出させるだけ出させて、処置は最初から斬首・津罪と決めていたのか、計り知るよしもないが、確かなことは本書御述作の数十日後、文永8年(1271)9月10日には、幕府は大聖人を呼び出して詰問し、以下竜の口法難・佐渡流罪とつづく大法難に連結していることだけは、確かである。

0183~0184    一昨日御書top
0183:01~0183:08 第一章 立正安国の予言の的中を挙げるtop
0183
一昨日御書    文永八年九月    五十歳御作   与平左衛門尉頼綱
01   一昨日見参に罷入候の条悦び入り候、 抑人の世に在る誰か後世を思わざらん仏の出世は専ら衆生を救わんが為
02 なり、 爰に日蓮比丘と成りしより旁法門を開き 已に諸仏の本意を覚り 早く出離の大要を得たり、其の要は妙法
03 蓮華経是なり、一乗の崇重・三国の繁昌の儀・眼前に流る誰か疑網を貽さんや、 而るに専ら正路に背いて偏に邪途
04 を行ず然る間・聖人国を捨て 善神瞋を成し七難並びに起つて四海閑かならず、 方今世は悉く関東に帰し人は皆士
05 風を貴ぶ、 就中日蓮生を此の土に得て豈吾が国を思わざらんや、 仍つて立正安国論を造つて故最明寺入道殿の御
06 時・宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ、 而るに近年の間・多日の程・犬戎浪を乱し夷敵国を伺う、先年勘え申す
07 所・近日符合せしむる者なり、 彼の太公が殷の国に入りしは西伯の礼に依り張良が秦朝を量りしは 漢王の誠を感
08 ずればなり、 是れ皆時に当つて賞を得・謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり、
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 一昨日、見参したことを喜ばしく思っている。
 そもそもこの世で生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出でられたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要をえたのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。
 しかるに人々は専ら法華経の正しい路に背いて、偏に法華経以外の邪な途を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。
 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。
 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺っている。先年に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。
 かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回らし、千里の外に勝利を決した者である。

出離
 三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。 
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一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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三国
 仏教でいうところの三国は、インド・中国・日本をいう。
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善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
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七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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四海
 四海とは四方の海、天下、国内、四方の外国、世界等さまざまな意で用いられることがある。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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最明寺入道
 北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
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宿屋の入道
 宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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犬戎
 中国古代、西北部にあった異民族の国の名。西戒の一種ともいわれ、昆夷などとも呼ばれる。周代に穆王が西征して討伐を行ったが、完全には果たせず、周末には勢力を盛り返して周をおびやかした。蒙古国の先祖との説もある。
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夷敵
 野蛮な敵、異民族のこと。夷は通常東方の異民族をいう。
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太公
 太公望のこと。周代の斉の始祖。姓は姜、氏は呂。魚釣りの貧しい老人の身なりをして各地を放浪し、世を避けていたが、渭水で釣りをしていたところ、周の西伯に会い、先君太公が久しく待ち望んでいた賢人であると、懇望されて西伯に仕えた。西伯の死後は、西伯の子・発を助けて殷を討ち、天下を平定した。
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西伯
 殷・紂王の暴虐のために人民が苦しむのを見て、革命を起こしたが革命のなかばで死んだ。その子・武王は父の志をついで父の姿を木像に刻んで征途にのぼり、天下を統一し周王朝を成立した。
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張良
 (~前0168)。中国・前漢の建国の功臣。字は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
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漢王
 漢(中国)の王のこと。
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 本抄は、文永8年(1271)9月12日に、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実力者、平左衛門尉頼綱に送られた書状である。
 「一昨日御書」という題名は「一昨日見参に罷入候悦び入り候」と書き出されているところから名付けられたものである。御真筆は現存しない。
 文永8年(1271)9月12日といえば、竜の口法難の当日である。本抄は、この最大の法難に至った経過を物語る、重要な一書となっている。
 平左衛門尉頼綱は、北条得宗家の家司で、幕府の侍所の所司を兼ねておい、幕府の軍事・警察・政務を統括していた実力者だった。大聖人が本抄をしたためらえた2日前の9月10日に、大聖人と対面している。
 その際に、大聖人は毅然として諌暁されたが、平左衛門尉は受け入れる姿勢が全くみられなかったため、改めて本抄を著され、立正安国論を付して平左衛門尉に送られたのである。
本抄の背景 竜の口法難までの経過
 竜の口法難の発端は、文永8年(1271)6月18日から7月4日まで行われた、極楽寺良観による雨乞いの祈禱である。同年5月頃から、全国的に旱魃が続いたため、幕府は良観に祈雨の修法を命じた。良観は、それまでにも、真言の祈禱をもって幕府の有力者に取り入ってきており、祈雨は得意とするところだった。
 良観が、6月18日から一週間、雨乞いの祈禱をすることを聞かれた日蓮大聖人は、これを機に仏法の正邪を万人に知らせようと、良観の弟子周防房と入沢入道の二人を呼んで、次のように祈雨の勝負を申し入れた。
 「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば一向に法華経になるべし」(1157-17)
 良観は喜んで、一週間の内に雨を降らそうと、弟子120余人とともに一心に祈ったが、4・5日過ぎても雨の降る気配は全くなかった。そのやめに、更に多宝寺の弟子数百人を加えて祈ったが、一週間過ぎても一滴の雨も降らなかった。
 大聖人は、6月24日までに3度の使いを遣わされて、「良観が雨のいのりして日蓮に支へられてふらしかね・あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上・逆風ひまなくてありし事・三度まで・つかひをつかわして一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞ」(0912-09)と良観を呵責され、民衆を苦しめることになる祈禱をやめるように伝えさせた。
 良観と弟子たちは泣いて悔しがり、さらに一週間の期間延長を願って、祈雨の修法を続けたが、前よりも旱魃が激しくなっただけで、良観の完全な敗北に終わった。しかし良観は、大聖人との約束を守るどころか、増悪の念をつのらせて、諸宗の高僧らと策略をめぐらし、行敏という念仏の僧に大聖人と法論対決させようとしたのである。
 文永8年(1271)7月8日、行敏は念仏無間・禅天魔などの大聖人の所説を非難し、対面して対決したいとの書状を送ってきた。それに対して大聖人は、私の問答は無意味であるから、公場において対決すべきである、と返答されている。
 そのため、良観らは、行敏に幕府の問注所へ大聖人を訴えさせた。行敏の訴状は、問注所から大聖人のもとへ回され、答弁を求められた。行敏の訴状が、良観・念阿良忠・道阿念空らの謀略であると指摘されたうえで、訴状の誤りを、一つ一つ具体的に破折された。そのため良観は公場の対決に恐れをなし、この訴状はうやむやになってしまったのである。
 そこで良観らは、大聖人を誹謗・中傷する讒言を、幕府の有力者や、その夫人等に対して執拗に行った。その様子を大聖人は「良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416-16)と述べられている。
 良観らの讒言を信じた後家尼御前や夫人たちは、大聖人に対して、感情的に反発して「天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよ」(0322-14)と、大聖人と門下の処分を強く求めるに至ったのである。
 それを無視できなくなった幕府は、文永8年(1271)9月10日に大聖人を召喚し、平左衛門尉頼綱が尋問にあたった。それが本抄で「一昨日見参」とのべられていることにあたる。
 尋問は、大聖人が、故最明寺入道時頼と極楽寺入道重時を無間地獄に堕ちたといい、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えと主張し、道隆や良観の頸をはねよと言ったかどうか、というものだったようである。
 大聖人は「上件の事・一言もたがはず申す」(0911-07)としたためられた。ただし、最明寺殿・極楽寺殿が地獄に堕ちたと言ったということは、そらごとであり、謗法の悪法に帰依して正法を信じなければ地獄に堕ちつという法門は、最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申していたことである。と反論されている。
 そして「上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし」(0911-09)と、良観等と公場対決を求められ、それをせずに一方的に彼等の言い分を用い、大聖人を理不尽に迫害して、流罪・死罪にしようとすることがあれば、必ず自界叛逆難と他国侵逼難が起こって後悔するであろう、と強く諌められた。
 それを聞いた平左衛門尉は「太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911-13)という状態で、平清盛が狂ったように、少しも周りをはばかることなく、怒り狂ったのである。
 本抄で「不快の見参に罷り入ること」と仰せになっているのは、当時の平左衛門尉のそうした状態をさしてのことであろう。
 大聖人は、一日おいた9月12日に、平左衛門尉の反省を促すために、本抄を書きおくられたのであろう。
 本抄が、平左衛門尉の怒りに火に油を注ぐような結果となって、大聖人の処刑を決断されたのであろうか、行き違って読まれなかったのかは、明らかではない。しかし、「御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし」(0911-05)と述べられているように、幕府の内部では、大聖人を処刑することは、既定の方針だったと思われる。
 そして、同じ9月12日の夕方、平左衛門尉が自ら数百人の武装兵を指揮して、大聖人を逮捕し、謀反人のように鎌倉市中を引き回して、連行した。幕府は正式な取り調べも、裁判も行わず、一往は佐渡へと流罪としておきながら、12日の深夜に大聖人を引き出して、鎌倉郊外の竜の口で処刑しようと謀り、失敗したのである。
立正安国論の予言の的中を指摘する
 本抄では、初めに、一昨日の9月10日に平左衛門尉と対面できたことは、喜ばしいことである、とされている。一往は、世間的な挨拶といってよいが、再往は、平左衛門尉と直接、対話することによって、仏法の道理を教え、幕府の衆経政策の誤りを破折し、諌めることができる好機になったということから喜ばれたと拝せられる。
 そして、人として生をこの世に受けた者として、後世の大事を思わないことはないはずであり、仏の出世は民衆を救うことが目的である、と仰せである。衆生の願いは成仏することであり、それに応じて出世した仏の目的も、衆生を成仏させることなのである。
 大聖人自身も、出家されて以来、いろいろな法門を学び、既に諸仏の本覚を悟り、生死を出離して成仏する道をほぼ得ることができた。その要は妙法蓮華経である。 とされている。
 末法の成仏の要法が妙法蓮華経であることは、文永3年(1266)正月に著された法華経題目抄に「只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、 答えて云くしかるべきなり、問うて云く火火といへども手にとらざればやけず水水といへども口にのまざれば水のほしさもやまず、只南無妙法蓮華経と題目計りを唱うとも義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事いかがあるべかるらん、答えて云く師子の筋を琴の絃として一度奏すれば 余の絃悉くきれ梅子のすき声をきけば口につたまりうるをう世間の不思議すら是くの如し況や法華経の不思議をや小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡なを天に生ず三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(0940-02)と述べられている。
 そして、一仏乗の妙法が崇重されて、インド・中国・日本の三国が繁昌したことは眼前に明らかであり、だれがこれを疑うことができようか。ところが、人々は今、法華経の正しい道に背いて、専ら謗法の邪道を行じているために、聖人は国を捨て去り、諸天善神は瞋りをなして、経文に予言された七難が並び起こり、国内が不穏になっているのである。 と指摘されている。
 当時競い起こっていた三災七難は、一国がこぞって正法に背き、邪法に帰依していることによる、と立正安国論の趣旨を簡潔に述べられているのである。
 更に、当時の世が関東に帰し、鎌倉幕府に政治の実権が移っており、人々が皆武士の風を貴んでいると仰せられているのは、幕府の中枢にいる平左衛門尉の、為政者としての責任が重いことを指摘されたものと拝される。
 そして、特に、日蓮は、この日本に生を受けた身として、我が国の安穏を思わずにいられないからこそ、立正安国論を著して、幕府の最高権力者であった故最明寺入道殿へ、側近の宿屋入道を通じて提出したのである、と述べられ、その中で他国侵逼難が起きるであろうと予言された通り、蒙古からの国書が到来したことを重ねて指摘されている。
 蒙古のフビライ汗からの国書は、文永5年(1268)の閏正月18日に、鎌倉に到着している。国書には「冀くは今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ熟んぞ好むところならん。王それ之を図れ」とあり、表面は通好を求めているようだが、実際は朝貢国となり、貢ぎ物を持って蒙古に入朝することを要求したもので、従わなければ兵を用いるぞ、と威嚇しているのである。
 幕府は、蒙古の要求を拒否する方針を決めたが、明確な回答を与えずに、蒙古の国書を伝えた高麗の使者・藩阜を追い返している。
 蒙古からは、その後も、文永6年(1269)、文永8年(1271)と相次いで使者がきたが、幕府は明確な回答を与えなかった。その一方で、西国の御家人に対して、外敵への防備を指令し、特に九州地方の地頭や御家人を異国警固番役に当てて、筑前や肥前の海岸へ要衝を輪番で警固させる体制をとった。いうまでもなく、この蒙古襲来の危機は、日本の国始まって以来の最大の国難であり、幕府が対策に苦慮していた問題だったのである。
 大聖人は、中国の故事を引かれて、蒙古襲来に勝利する道を示唆されている。
 周の文王の師となった太公望呂尚は、文王なきあと、文王の子・武王をその智謀で助けて、暴虐な殷の紂王を倒している。それは、西伯が呂尚を師として礼を尽くした徳によるのである、と仰せられている。
 また、漢の高祖・劉邦の軍師となった張良は、秦王朝を滅ぼして、漢の建国に貢献している。それは、劉邦の誠実に感じたからである、とされている。
 大聖人はこの二人を「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と、史記の高祖紀の意をとって称賛されている。呂尚も張良も、その智謀によって作戦の段階で必勝の策を立て、戦わないうちから千里の外の勝利を決した。といわれているのである。
 大聖人は文永5年(1268)10月の極楽寺良観の御状に、「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」(0174-08)と仰せであり、また「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(0174-01)と述べられている。
 こうした御文の意から、蒙古の襲来に必ず勝利する法は、邪法への帰依を止めて、正法を立て、大聖人に帰することであるが、そのためには、西伯が太公望を、劉邦が張良を厚く遇したように、鎌倉幕府は大聖人を遇すべきであると言われているのである。

0183:08~0184:03 第二章 平左衛門尉に国を安ぜよと諌めるtop
08                                                夫れ未萠を
09 知る者は六正の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、 而るに日蓮忝くも鷲嶺・鶴林の文を開いて鵝王・烏瑟
10 の志を覚り 剰え将来を勘えたるに粗符合することを得たり 先哲に及ばずと雖も 定んで後人には希なる可き者な
11 り、 法を知り国を思うの志尤も賞せらる可きの処・邪法邪教の輩・讒奏讒言するの間久しく大忠を懐いて而も未だ
12 微望を達せず、 剰え不快の見参に罷り入ること偏に難治の次第を愁うる者なり、 伏して惟みれば泰山に昇らずん
13 ば天の高きを知らず深谷に入らずんば地の厚きを知らず、 仍て御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す、 勘え載
14 する所の文は九牛の一毛なり 未だ微志を尽さざるのみ、 抑貴辺は当時天下の棟梁なり 何ぞ国中の良材を損せん
15 や、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず
0184
01 君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
02       文永八年九月十二日                     日 蓮 花 押
03     謹上 平左衛門殿
-----―
 さて、未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である。しかるに日蓮は、かたじけなくも法華経・涅槃経の文を聞いて、仏の本意を覚った。そればかりか日本国の将来を勘がえたところ、それがほぼ符合している。これは先哲に及ばないと雖も、後人には希な者である。
 法を知り、日本国を思う志は、もっとも賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しい間、大忠を懐いていても、末だ小さな望みも達することができないでいるのである。そればかりか、一昨日の不快の見参においては、国を救うことはひとえに難治の次第であると、憂えた次第である。
 伏して思えば、泰山に登らなければ、天の高いことが分からない。深い谷に入らなければ、地の厚いことが分からない。よって、我が志を承知してもらうために、立正安国論一巻を進覧する次第である。この書に勘え載せたところの文は、九牛の一毛であり、末だ微志を尽くしていない。
 そもそも貴殿は、当今の天下の棟梁である。その人がどうして国中の良材を損するのか。早く賢明な考えをめぐらして、異敵の蒙古を退治すべきである。世を安んじ、国を安んずるのが忠であり、孝である。
 これは偏に我が一身のために申すのではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために、申し上げるのである。恐恐謹言。
       文永八年九月十二日                     日 蓮 花 押
     謹上 平左衛門殿

未萠
 まだ起こっていないこと。未来の出来事。
―――
六正の聖臣
 儒家で正しい臣下の標準を六種に分類した六正のうちの最高の臣下を聖臣という。いまだ現れない事柄や存亡の機・得失を予知して、常に主君を安泰にしておく臣下をいう。
―――
鷲嶺
 霊鷲山のことで法華経を意味する。
―――
鶴林
 釈迦入滅を悲しんだ沙羅双樹が枯れて鶴のように白くなったという伝説から、沙羅双樹の林。転じて、釈迦の入滅。
―――
鵝王
 仏の三十二相のひとつに、⑤手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)があり、これは指の間に縵網があることである。このことから仏を鵝王と異称するようになった。涅槃経には「若し菩薩摩呵薩、四摂法を修して衆生を摂取す、是の業縁を以て縵網の指の白鵝王のごとくなるを得」とある。
―――
烏瑟
 仏頂・無見頂・肉髻のこと。仏の三十二相のひとつ。頂骨が隆起し、髻のようなさまをさす。
―――
符合
 一致すること。
―――
讒奏
 讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。
―――
讒言
 告げ口・悪口をいうこと。
―――
泰山
 中国・東省泰安市にある山。高さは1545㍍(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五山のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。
―――
進覧
 進めて御覧にいれること。
―――
九牛の一毛
 多くの牛の毛の中の一本の毛。とるにたりないわずかなもの。
―――
棟梁
 家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
―――
賢慮
 賢明な考えのこと。
―――
平左衛門
 日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
―――――――――
 平左衛門尉が幕府の実力者として、大聖人の言を用いるよう、強く諌められている。
 初めに、未来に起きる出来事を知る者は、儒教で正しい臣下を基準に六種に分類した六正のなかでも、最高の「聖臣」とされている、と指摘されている。
 そして、法華経を弘める者は、諸仏の使者なのであるとされ、大聖人自身が、釈尊が霊鷲山で説いた法華経や、入滅の前に鶴林で説いた涅槃経の文を開いて、仏の真意を覚り、それによって未来を勘えたところ、符合したのである、と仰せになっている。
 大聖人が、世間的にいえば未来を知って国を救う聖臣にあたり、仏法のうえでは仏の使いであり、立正安国論の予言が、経典を根拠として、仏の本意に依ったものであるゆえに的中したことを明かされ、したがって人々、人々は大聖人の言を信じ、用いるべきことを示されているのである。
 更に、未来の予言が的中したことは、先哲には及ばないかもしれないが、後人には希な者もあろううとされ、その意義が大きい事を示されているのである。
 なお、聖人知三世事には、「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり、教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり。後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知る可きや予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず又我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974-01)と述べられている。
 過去・現在・未来の三世を知るのが仏であり、大聖人が立正安国論で、自界叛逆難・他国侵逼の二難を予言され、それが的中したことが、末法の法華経の行者、すなわち仏である証拠である。とされていることからも、予言的中の意義の大きさを知ることができるのである。
 ところが、本来なら、法を知り、国を思って諌暁した大聖人の志を高く評価し、賞すべきであるのに、邪法・邪教の輩の讒言に妨げられて、残念ながらその望みを達することができないでいる、と仰せである。
 「大忠」と仰せられているのは、根本的には、国を思い、民衆を思う大聖人の真心、大慈悲をこのように言われたのであるが、「忠」とは、主君に対して臣下が本分を全うすることをいうもので、大聖人の諌暁が、国のためであるとともに、幕府のためであり、北条家のためであることを表しているとも拝される。
 謗法の輩の讒言によって、大聖人の真心が通じなかったとの仰せは、反面では、幕府の為政者が讒言を信じて、大聖人に対して不当な迫害を加えてきたことが誤りである、と示唆されているのである。
 また、当時、良観ら諸宗の僧尼が、しきりに大聖人を幕府の要人や夫人たちに讒言して、処分を求めていた事実を知っておられ、讒言を用いて謗法を犯さないよう戒められたのであろう。
 そのうえ、一昨日の平左衛門尉との対面で、頼綱が怒り狂うという不快な思いを強く現したことから、大聖人の諫めを用いられることがいかに困難であるかを改めて知り、そのために民衆が更に苦しむことを思うと深く憂えられてならない、と仰せなのである。
 そして、高山に登らなければ天の高さが分からず、深い谷に入らなければ地の厚さが分からないとされ、大聖人の深い志を知ってもらうために立正安国論一巻をこの書に書きのせたことは、我が志のほんの一部にすぎない、と仰せである。
 立正安国論には、文応元年(1260)7月16日に、最明寺入道時頼に提出されており、そえから11年経っているため、おそらくその提出された原本の所在は不明になっていたのであろうか。あるいは平左衛門尉が披見できるところになかったためであろうか、改めて平左衛門尉に安国論を与え、その蒙を啓こうとされたのである。
 すなわち安国論は、時頼に提出されたもののほかに、大聖人の手元に写し、平左衛門尉に進呈されたものと少なくとも3通があったことになるが、現在門下に依って書写されたものほか、原本は不明となっている。
 そして、貴辺は当今天下の棟梁であり、その人がどうして国中の人材を失おうとするのかと戒められ、早く賢慮を回らして、異敵の蒙古を退けるべきであると仰せられ、世を安んじ、国を安んずることを、忠とし、孝とするのであると、平左衛門尉を諌められている。
 平左衛門尉を「天下の棟梁」と呼ばれたのは、幕府の実権を掌握している立場を認められ、為政者としての責任に訴えて、正しい判断を下すことを期待されたものであろう。
 文永5年(1268)10月の平左衛門尉の御状でも、「貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り」(0171-03)と仰せになっている。
 「国中の良材を損せんや」との仰せは、為政者として、国のためになる有為の人材を損なうようなことがあってはならない、との意であり、国を安穏に保つためには、大聖人を「良材」として、その教えを用いるべきである、との御文である。
 大聖人は最後に、このように述べるのは、我が身のため私心によるものではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために申し上げるのである、と述べられ、本抄を結ばれている。
 しかし、大聖人の至誠の讒言は通じることなく、同日夕刻、平左衛門尉は大聖人を捕縛し、竜の口法難へと続いていくのである。

0184~0185    強仁状御返事top
0184:01~0184:05 第一章 勘状に対し公場対決を促すtop
強仁状御返事    建治元年十二月    五十四歳御作   与真言僧強仁
01   強仁上人・十月二十五日の御勘状・同十二月二十六日に到来す、此の事余も年来欝訴する所なり忽に返状を書い
02 て自他の疑冰を釈かんと欲す、 但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し 澗底の長松・匠を
03 知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、 貴坊本意を遂げんと欲せば 公家と関東とに奏聞を経て露点を申
04 し下し是非を糾明せば 上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか、 其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり世・出
05 世の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり、 
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 強仁上人から送られた十月二十五日の論難の書状は、同十二月二十六日に到着した。この法論のことは、日蓮も多年の間、しばしば鬱憤を訴えてきたことであるから、早速に返事を書いて貴殿や世の中の人々の疑問を冰解したいと思う。しかし、田舎で仏法の邪正を決しても、錦を着て闇の中を遊行するようなものであり、長い松でも谷底にあっては良匠に知られないのと同じである。
 併せてまた、こうした個人の法論は、喧嘩の起こる原因ともなる。御坊が法論の本意を遂げようと思われるのであれば、朝廷と幕府とに訴え出て、公の命を申し受けて法の是非を糾明しよう。そうすれば上一人も喜ばれ、下万民も疑いが晴れることだろう。
 そのうえ、教主釈尊は仏法の弘通を国王や王臣に付属された。世間一般の善悪や仏法の邪正を決断することは、必ず公場ですべきである。

強仁
 鎌倉時代の真言宗の僧。詳細不詳。
―――
勘状
 考える所を書に記して、主君に意見すること。
―――
欝訴
 鬱憤を訴えること。憤懣を訴えること。
―――
疑冰
 疑問が解けないこと。疑いを持つこと。
―――
暗中に錦を服し
 闇に包まれた錦の着物。人に見られようと、見られまいと、その真価は変わらないことをいう。
―――
澗底の長松・匠を知らざる
 谷底に横たわる見事なまでの長松、人に見られようと、見られまいと、その真価は変わらないが、師匠に見いだされないこと。
―――
公家
 朝廷に仕えるもののこと。本来は天皇・朝廷をさすが、武家に対して朝廷に仕えた貴族・官人の総称となった。
―――
関東
 鎌倉の北条執権のこと。
―――
奏聞
 奏上のこと。天子や君主に進言すること。
―――
露点
 官文書・公文書のなかで、大衆の目にふれさせることを目的とするもの。
―――
大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
付属
 相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
―――
出世の邪正
 仏法の正邪。
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 本抄は建治元年(1275)12月26日、日蓮大聖人が強仁の問答要求の勘状に対し、身延においてしたためられた返答の書である。御真筆は京都妙顕寺に存する。
 強仁がいかなる人物であったかについての詳細はわからない。本抄に「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し」と真言を破折されているところから、真言僧である可能性が強い。
 御述作年次については、御真筆に「十二月廿六日」とあるだけで、年号の記載がない。一応、本抄は建治元年(1275)説がとられているが、他に弘安2年(1279)とする説もある。
 ただし、建治2年(1276)1月11日に御述作の清澄寺大衆中に「十住心論・秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ、 それのみならずふみの候由も人人申し候いしなり早早に返すべきのよし申させ給へ、今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893-01)とあり、真言師が蜂起していることが述べられ、本抄と時期的に符合することから、ここでは建治元年(1275)御述作とすることにする。
 さて、本文に入り、強仁から10月25日の勘状が12月26日に到着したと仰せられ、末尾には「十二月二十六日」と日付が記されていることから、その日のうちにしたためられた返事であることが分かる。その強仁の勘状に対して「此の事余も年来鬱訴する所なり」と言われ、公場での対決を提案されているところから、強仁の状が仏法の正邪を決しようとの勘状であったことが分かる。しかし、そのような「田舎」で論争しあっても、ちょうど錦の衣を暗闇のなかで見ていては分からず、立派な松も谷底にあっては、見いだせないようなもので、むだになるのではないかと、やんわりと拒否されている。
 「田舎」での問答とあり、強仁の勘状とされる書に「近日、当国来住の由、承り」とあって、これが真書だとすると、大聖人と同じ甲斐に住する僧であったことになる。
 だが、同じ甲斐に住んでいたとするなら、強仁の勘状が大聖人の手元に届くまで、2ヶ月もかかっているのは不自然だ。なんらかの理由で遅れたものか、あるいは、強仁が甲斐在住の僧でなかったのかも知れないが、資料不測の為検証の余地がない。
 いずれにせよ、このような田舎での問答では、どちらが勝つにせよ、公的な判定者がいないことから、正式に決着がつきにくい。したがって、お互いに勝ちを主張し、「喧嘩」のもととなると仰せられている。そして、もし本意を遂げようと思うならば公家と武家に訴えて、是非を明らかにすれば、皆が納得するであろうと、公場対決を訴えておられるのである。
 同様の御文は行敏の御返事においても「私の問答は事行き難く候か、 然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か」(0179-01)とあって、私的な問答を拒否されている。行敏の場合は、背後に良観らが付いていた。強仁の場合は、そうした背後はないようだが、それでも問答はあくまでも公場で行うべきであるとの大聖人のお立場に変わりはない。
 もちろんこのように言われるのは、これを機に、一国謗法を排し、立正安国論を目指されてのことであることはいうまでもない。
 もとより、大聖人からすれば一真言僧の強仁との問答の決着はたやすいに違いない。それは、文永9年(1272)の佐渡・塚原での諸宗の僧俗との問答で明らかである。この時も「真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる」(0918-05)と、真言・台密の僧もきていた。しかし、「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば」(0918-09)であったから、「ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず」(0918-08)の状態であった。強仁とて佐渡での真言師らと大した違いはないとおもわれるから、勝敗はおのずと明らかである。
 しかし、清澄寺大衆中にみられるように、大聖人は真言・天台の資料を集められ、問答に備えられている。これは、公場対決を期しておられたゆえであり、また、問答を行うことにはそれだけ慎重であられたということである。
 「大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり」とは、守護付嘱のことである。付嘱には弘宣付嘱・伝持付嘱・守護付嘱の三義がある。弘宣は総じての付嘱であり、その中で出家の僧に対する伝持の付嘱と、在家に対する守護の付嘱とがある。守護付嘱とは帝王付嘱ともいい、在家に教団を外護し仏法弘通を推進するの使命を付嘱するのである。
 仁王経巻下受持品第7には、「仏波斯匿王に告げたまわく…是の故に諸の国王に付属して比丘、比丘尼、清信男・清信女に付属せず。何を以ての故に、王力無きが故に付属せず」とある。
 出家は王のような力がないゆえに、仏法を守れないことがある。仏法を破壊する者から仏法を守護するためには在家の力が大切である。
 日本の国にさまざまな災いが起きて民衆が苦しんでいる原因は、天皇・幕府をはじめ為政者たちが仏法に迷って悪法を信じているゆえであり、これを正法に目覚めさせ、正法守護の王へと転じさせることによって、一国の安穏を実現したいということが立正安国論以来の大聖人の念願なのである。したがって、仏法の正邪に関して、王臣に見分けられる形で対決が行われなければ無意味であるとされ、この強仁からの挑戦に対しても、大聖人はあくまでも公場の対決にするよう促されているのである。

0184:05~0185:02 第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べるtop
05                        就中当時我が朝の体為る二難を盛んにす 所謂自界叛逆難と他国
06 侵逼難となり、 此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか、 仍つて予
07 正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を開き見るに 此の国の中に前代未起の二難有る可し 所謂自
08 他叛逼の両難なり、是れ併ながら真言・禅門・念仏・持斎等・権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失する故に招き
09 出す所の大災なり、 只今他国より我が国を逼む可き由・兼ねて之を知る故に身命を仏神の宝前に捨棄して刀剣・武
10 家の責を恐れず昼は国主に奏し夜は弟子等に語る、然りと雖も真言・禅門・念仏者・律僧等・種種の誑言を構え重重
0185
01 の讒訴を企つるが故に 叙用せられざるの間・処処に於て刀杖を加えられ 両度まで御勘気を蒙る剰え頭を刎ねんと
02 擬する是の事なり、 
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 ことに今、我が国の現状は二難が盛んである。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。この大難の原因を大蔵経に引き照らして見ると、たしかに国家と仏法とのなかに大いなる禍があるように思われる。
 日蓮は正嘉と文永の二ヵ年に現れた大地震と大彗星に驚き、一切経を調べてみたところ、この国のなかに末だかって起こったことのない二難があると説かれていた。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難の両難である。これは、真言・禅門・念仏・持斎等の権大乗経や小乗経の邪法をもって、法華経という真実の正法を滅ぼすことによって惹き起こされるところの大きな災難である。
 今にも他国から我が国が攻められることを前もって知っていたゆえに、日蓮は我が身命を仏神の宝前に捧げ、刀剣をもって斬られることも、幕府から罰せられることも恐れず、昼は国主に訴え、夜は弟子たちに語り聞かせたのである。ところが真言・禅門・念仏者・律僧等がいろいろと偽りごとを言って、たびたび讒訴をするので、日蓮の諌言が用いられないばかりか、行く先々で刀や杖で打たれたり、切られたり、二度までも御勘気を蒙って流罪に処せられ、そのうえ頭まで刎ねられようとしたのがこのことである。

自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
―――
他国侵逼難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
―――
大蔵経
 経・律・論を総称した仏教経典の総称。
―――
一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
禅門
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
持斎
 斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
権小の邪法
 釈尊50年説法中、前42年の方便権教を法華経と対比すると、すべて邪説であるとうこと。
―――
法華
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
律僧
 律宗を修行した僧侶のこと。
―――
讒訴
 人を陥れるため、事実を曲げて、他人を悪く訴えること。
―――
叙用
 官位を授けて任用すること。
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 ここでは、今、日本国に自界叛逆難と他国侵逼難が起こっているのは、国家と仏法のなかに大きな誤りがあるからだと言われ、このことについては、大聖人は必ずこの大難が日本に起こることを予知され、我が身をも惜しまず訴えてこられたが、真言等の邪僧がたばかって讒言したためにかえって大聖人に次々と迫害が加えられたのであると仰せられている。
就中当時我が朝の体為る二難を盛んにす所謂自界叛逆難と他国侵逼難となり、此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか、仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を開き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり
 ここで「大蔵経に引き向えて之を見るに」「一切経を開き見るに」と言われているのは、立正安国論に引かれている四経の文が、その代表的なものといえよう。これらの四経すなわち金光明経・大集経・薬師経・仁王経の文には、一国の王はじめ為政者が正法に背いているならば、種々の災いが起きると記されている。大聖人は「此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに」と仰せのように、自界叛逆と他国侵逼の二難が起きてくる原因を経文を照らして見ると「定めて国家と仏法との中に大禍有るか」つまり、国家と仏法の両方に大きな誤りがあり、それが原因であることが分かると言われている。仏法自体、正法に背いてしまっており、その正法に背く邪法を国家が信じ供養していることである。
 そして、「仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて」云々と仰せられているが、立正安国論奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-02)とあるように、大聖人が正嘉の大地震を見て同書を考えられたことは明らかである。
 文永の大長星の場合は、立正安国論後述作の後に現れたもので、同じく奥書に「其の後文永元年太歳甲子七月五日 大明星の時弥此の災の根源を知る」(0033-03)とあるように、文永の大長星の出現によってますます御自身の主張の正しかったことを確信されたのである。
 これは皆、「真言・禅門・念仏・持斎」すなわち、四宗の誤りによるとおおせであるが、立正安国論では、念仏のみを「一凶」とされている。この点については、災難の根源はすべての謗法にあることは、安国論に引証されている経文から明らかで、一つの典型として念仏一宗を特に指摘されたのであった。したがって元意は、ここで仰せのように四宗すべてが災難興起の因ということにある。
 そして、安国論では「只今他国より我が国を逼む可き由・兼ねて之を知る」と仰せのごとく、必ずや他国からの侵逼の難があると見通されていたので、それを未然に防ぐため、明確に予言・警告されたのであり、その後も、幾度となく公場対決を訴え、また門下にも、話された。
 しかし、真言・禅門・念仏者・律僧らが、種々の讒言をしたため、この大聖人の訴えは用いられず、そればかりか、民衆からも種々の迫害が加えられたと仰せられている。
 「処処に於て刀杖を加えられ」について、上野殿御返事では、刀の難として文永元年(1264)11月11日の小松原の法難と文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難を挙げられ、杖の難としては特に竜の口法難で少輔房に法華経第5の巻で打たれたことを挙げておられる。
 「両度まで御勘気を蒙る」とは、弘長元年(1261)の伊豆流罪と、文永8年(1271)の佐渡流罪である。また「剰え頭を刎ねんと擬する」が佐渡流罪の直前竜の口の法難であたることはいうまでもない。

0185:02~0185:10 第三章 亡国の元凶・真言を破すtop
02           夫れ以れば月支・漢土の仏法の邪正は且らく之を置く大日本国・亡国と為る可き由来之を勘う
03 るに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師 法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第一
04 の聖人なる 伝教大師の正義を隠没してより已来・叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き 神護七大寺は弘法の僻見に随う
05 其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す、 是くの如き諂曲既に久しく四百余年を経歴し 国漸く衰え王法も亦
06 尽きんとす彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し 無量仏子の頚を刎ねし、 此の漢土の会昌天子の寺
07 院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる此等大悪人為りと雖も 我が朝の大謗法には過ぎず、 故に青天
08 は眼を瞋らして我が国を睨み黄地は憤を含んで動もすれば夭ゲツを発す、 国主聖主に非れば謂れ之を知らず諸臣儒
09 家に非れば事之を勘えず、 剰え此の災夭を消さんが為に真言師を渇仰し大難を郤けんが為に持斎等を供養す、 譬
10 えば火に薪を加え冰に水を増すが如く悪法は弥貴まれ大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす。
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 そもそも考えてみるにインドや中国における仏法の邪正については、しばらく別にして、日本国の亡びる原因を勘えてみると、これは真言宗の元祖である東寺の弘法と天台山第三代の座主・慈覚との両大師が 法華経と大日経との勝劣に迷って、日本第一の聖人である伝教大師の正義を隠して以来、比叡山の諸寺は慈覚の邪義に従い、神護寺や七大寺は弘法の誤った考えに従うようになった。それ以来、国王や臣下らは邪師を仰ぎ、万民がこの誤った考えに帰依した。このように邪義にこびへつらうとうになって、すでに久しく四百余年を経て、国は次第に衰え、王法もまた滅びようとしているのである。
 かのインドの弗沙弥多羅王が八万四千の寺塔を焼き払い、無量の仏子の頚を切ったのも、中国の武宗皇帝が四千六百余所の寺院を滅壊し、全インドの僧尼を還俗させたのも、これは大悪人には違いないが、我が日本国の大謗法には及ばない。
 それゆえに天は眼を瞋らして我が国をにらみ、地は怒って、ややもすれば地夭を起こすのである。国主は聖主でないのでその原因を知らず、もろもろの臣下も儒家ではないので、この原因を勘えない。そればかりか、この災難を消滅させようとして真言師を仰いだり、大難を除くために持斎等を供養している。これは譬えば火に薪を加え、冰に水を増すようなもので、悪法は尊めば尊ぶほど、国の大難はますます起こり、ただ今にもこの日本国は滅亡しようとしているのである。

月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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天台山
 中国浙江省天台県の北部にある山。陳の太建7年(0557)に天台大師が天台山に入って開宗した。天台山の中に「修禅寺」「国清寺」等がある。「天台宗」「天台大師」の名称もこの山によっている。②比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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神護七大寺
 京都市右京区にある神護寺と南都七大寺のこと。
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僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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諂曲
 自分の意思をまげてこびへつらうこと。弱者に対しては驕り高ぶり、強者に対しては、こびへつらう修羅の本性をいう。世間的欲望や恐れから正義を尊ぶ心を捨てて強者や世間の意思に従うこと。
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弗沙弥多羅王
 紀元前2世紀ごろのインドの王。阿育大王の末孫にあたるインドの王であるが、自分の名を上げようとして、悪臣の言を容れて阿育王の立てた八万四千の仏塔を破壊し、僧侶を殺害した。
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会昌天子
 中国・唐の15代皇帝・武宗の治世の年号(0841~0846)この時期に仏教弾圧が行われた。三武一宗の法難の一つ。「会昌の廃仏」といい、以後仏教は衰微の一途をたどっている。
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黄地
 大地のこと。
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夭孽
 あやしい災い。災いのきざし。
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災夭
 天変と地夭のこと。
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真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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 ここでは、日本の亡国の因をつくったのは真言にあることを強調されている。すなわち、インド・中国における仏法の邪正はさておき、日本の亡国をもたらしている原因は、弘法と慈覚が「法華経と大日経との勝劣に迷惑し」た邪義を弘め、日本中の人々がそれを信じ崇めているためであるとおおせられている。弘法は東密の師、慈覚は台密の師である。
 弘法は秘蔵法鑰巻下で「此の如き乗乗、自乗に仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」と法華経を「戯論」と蔑称し、また顕密二教判を立て、法身の大日如来が自受法楽のために内証秘密の境界を示し真実の秘法を説いた密教であるのに対して、法華経はじめ諸経は応身の釈尊が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教にすぎないと下している。
 また、弘法は十住心論のなかで、第八・一道無為心は法華経にあたり、第九・極無自性心は華厳経にあたり、第十・秘密荘厳心が大日経にあたるとし、大日経こそ最も勝れる経で、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。
 慈覚は日本天台宗の第三祖であるが、法華経と大日経を比較すると、理は同一であるが事においては大日経が法華経に勝れているとする善無畏の大日経義釈の説を基に、金剛頂経疏・蘇悉地経略疏のなかで、顕密二教判を立てて、天台宗に真言密教を取り入れた。
 そこで慈覚は、一切経に顕示教と秘密教があり、秘密教に理秘密と亊理俱密があって、法華経は理秘密、真言は亊理俱密で真言が勝れるという説を立てた。
 いずれも、法華経を大日経に劣るとしている点で「法華経と大日経との勝劣に迷惑し」ているのである。
 この慈覚の影響で、天台宗はそれ以後ことごとく密教化したのであり、また弘法の影響を受けて神護寺と南都の七大寺がことごとく弘法の誤った教えに従うようになった、との仰せである。神護寺は真言宗東寺派の別格本山であるから当然であるが、南都七大寺は東大寺が華厳宗、興福寺・法隆寺・薬師寺が法相宗、大安寺が三論宗、元興寺が三論・法相宗であったが、当時は浄土信仰を集め、西大寺が真言律宗と、宗派がそれぞれ異なる。にもかかわらず、七大寺はいずれも、弘法の影響を受けて、真言の教えを取り入れていったのである。
 大聖人は次に、インド・中国の仏教破壊の例を挙げ、弘法・慈覚の謗法は、それよりはるかに仏法上の罪が大きいとされている。
 「彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頚を刎ねし」はインド・マウリア王朝最後の王を殺し、シュンガ王朝最初の王となったプシャミトラの仏教破壊でプシャミトラは多くの僧侶を殺し、鶏頭摩寺等を破壊したとされている。鶏頭摩寺はアショカ王が84000の寺塔を建立すると誓いを立て、その根本とした寺院であるから「八万四千の寺塔を焚焼し」といわれているのである。
 また「此の漢土の会昌天子の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる」は中国・唐代の第15代武宗皇帝の仏教破壊でる。道教を信奉していた武宗は、会昌5年(0845)に廃仏令を出して多数の寺院破壊と僧尼の還俗を強行した。これを「会昌の廃仏」といい、北魏太武帝・北周の武帝・後周の世宗とともに「三武一宗の廃仏」として有名である。
 これらの仏教破壊は仏教にとって大きな難であったが、大聖人はこれほどの「大悪人」でも「我が朝の大謗法には過ぎず」と仰せられている。
 弘法や慈覚は暴虐な行為で仏法破壊をしたわけではない。むしろ、形から見れば、各地に寺を建て、仏法の興隆に尽くしたように見える。にもかかわらず、はるかに大きな罪であるといわれているのは「弗沙弥多羅」「漢土の会昌天子」ともに仏教の教えを知らず権力・暴力で寺を破壊したり僧尼を還俗させたのに対し、弘法・慈覚は邪義を立てて、人々に教え、正法の隠没を招いたからである。行敏訴状御会通では、弗沙弥多羅や武宗の名を挙げて「此等の悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」(0182-15)といわれ、守護経・涅槃経を挙げられている。仏法は外から破壊されるものではなく、内部に生じた邪義こそ仏法破壊の元凶なのである。
 国にこの大謗法があるゆえに、諸天善神はこの国を治罰するのであり、それが近年の天変地異である。ところが、国王はこれが、単なる世法・国法からきた災いでなく、仏法の誤りからきたもので、しかも国主自身、仏法を弁えた「聖主」でないため、これらの災夭のいわれを知らず、また臣下も「儒家」でないから、この原因を考えようとしない、と仰せである。
 なお、「国主聖主に非れば謂れ之を知らず」は、御真筆では「国主世の禍に非ざば謂れ之を知らず」となっている。「世の禍に非ざれば」といわれているのは、この災難が世間の因によって起こったものでなく、謗法という仏法の因によって起こったものであるゆえに、仏法を弁えない「国主」はその因を知ることができない、との意である。また「諸臣儒家に非れば事之を勘えず」と仰せられているのは「儒家」とは、国のこと、天下のことを憂えるのがその特質であるとの視点から、このように言われたと考えられる。
 そして、日本の王臣は、ただ災難の原因を知らないだけでなく、これらを消そうとして、真言師や持斎を供養して加持祈祷を行わせているゆえに、かえって「火に薪を加え氷に水を増す」ように、逆に災いを増大させている、と仰せられている。ここで「持斎」とは斉戒を持つ僧で、普通は律宗の僧をいうが、当時、鎌倉幕府に取り入って最も権勢を振るっていた良観が真言律宗の僧であることから、代表として「持斎等」と言われたと考えられる。
 「大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす」と仰せられているのは、この書状が建治元年(1275)12月の御執筆とすると、ほぼ1年前の文永11年(1274)10月から11月にかけての時期、文永の役があったばかりである。
 しかし、明けて建治元年(1275)の春には、蒙古からの再度襲うとの国書がきていたから、大聖人のお言葉は厳しい警告と受け止められたであろう。

0185:11~0185:17 第四章 死身弘法の心情をのべるtop
11   予粗先ず此の子細を勘うるの間・身命を捨棄し国恩を報ぜんとす、 而るに愚人の習い遠きを尊び近きを蔑るか
12 将又多人を信じて一人を捨つるかの故に 終に空しく年月を送る、 今幸に強仁上人・御勘状を以て日蓮を暁諭す然
13 る可くは此の次でに天聴を驚かし奉つて決せん、 誠に又御勘文の体為非を以て先と為し 若し上人黙止して空しく
14 一生を過せば 定めて師檀共に泥梨の大苦を招かん、 一期の大慢を以て永劫の迷因を殖ること勿れ速速天奏を経て
15 疾疾対面を遂げ邪見を翻えし給え、書は言を尽さず言は心を尽さず悉悉公場を期す、恐恐謹言
16       十二月廿六日                        日 蓮 花 押
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 日蓮は以前から、ほぼその理由を考えていたので、身命を捨ててそのことを説き、国恩を報いようとしてきたのである。しかし、愚人の習いで、遠い者を尊び近い人を蔑るであろうか、日蓮の言うことは用いられず、空しい年月を送ってきたのである。
 今、幸いに強仁上人が御勘状をもって日蓮を諭そうとされている。そうであるならば、この機会に、天皇のお耳を煩わせて、公場で法の勝劣を決しようではないか。また御勘文をみるに、全く間違った考えに基づいている。もし上人が黙止して空しく一生を過ごすならば、定めて師檀ともに地獄の大苦を招くだろう。
 今生の大慢のために、永劫の迷いの因を植えることがあってはならない。はやく天皇に言上し、速やかに対面して、その邪見を翻えさせるがよい。書面では言葉を尽くせず、言葉は心を尽くさない。委細は公場対決の場を期したい。恐恐謹言
       十二月廿六日                         日蓮花押

暁諭
 さとし教えること。 言い聞かせること。
―――
天聴
 天皇がお聞きになること。
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泥梨
 奈落・地獄のこと。
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大慢
 大慢婆羅門のこと。インドの外道の僧で、慢心を起こして外道の三神および釈尊の像を高座の四足としてわが徳四聖に優れたりと称していたが、賢愛論師に法論で敗れ、国王に処刑されるにあたり、賢愛論師は王に請うて彼の罪を減じ、かつこれを慰問したが、大慢はなお諭師をののしり、仏法僧を誹謗したので、ことば終わらざるうちに大地さけて現身に地獄に堕ちた。
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天奏
 天皇に奏状すること。
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 「予粗先ず子細を勘うる」とは、日本の人々がますます真言をはじめとする謗法を貴んでいるために国が滅亡しようとしていることを、大聖人が知っておられることである。大聖人はそのゆえに、一身をもかえりみず「国恩を報ぜん」として諌暁を行われたのである。
 ところが、国主は「愚人」の習いとして、「遠きを導き近きを蔑る」気持ちが正ぜず、また「多人を信じて一人を捨つる」という人情に引かれて、大聖人の諌言を用いようとしなかった。「遠きを尊び近きを蔑る」の「遠き」とは昔の弘法や慈覚の言葉であり、「近き」とは、当然、日蓮大聖人のことである。また「多人」とは、日本のあらゆる人々が弘法や慈覚を崇めていることで、それに対し、「一人」とは当時は大聖人がだれからも信じ崇められていなかったことを言われていることはいうまでもない。教え・主張の内容そのものを吟味し、評価するのではなく、遠いか近いか、多人であるか一人であるかといった枝葉末節で判断するのが「愚人」の習いなのである。「遠き」が尊く「近き」は卑しいとするのが判断基準でないのはもちろんであるが、もし、真に「遠きを貴ぶ」というならば、仏法の源流に戻って仏説たる経文によって判断すべきであろう。ところが彼らは「遠き」を尊でいるといいながら、根本の遠きに戻ることはしない。所詮、自らの都合のいい「遠き」のみを尊んでいるのである。
 いずれにせよ、人々の無理解のために大聖人の諌暁は用いられることなく、大聖人は「空しく年月を送」ってこられたのであるが、そこへ「今幸に強仁上人・御勘状を以て日蓮を暁諭」してきた。まさしく、よい機会である。さっそくこのついでに「天聴を驚かし」天皇の耳を惑わせて、邪正を決しようではないかと、強仁を促されている。
 そしてその強仁の大聖人への「勘状」は「非を以て先と為し」た内容で、もし、公場で対決して強仁が自らの誤りを正すことをしないままで「黙止して空しく一生を過ごせば」「定めて師壇共に泥梨の大苦を招かん」と仰せられている。この「師壇」の「師」とは強仁自身であり、「壇」はその門下を意味し、ともに堕地獄間違いないといわれている。すなわち自らの「大慢」によって未来永劫に迷う因をつくるのは、自分だけでなく、門下も巻き添えにすると仰せられているのである。仏法の指導に当たる者の罪の大きさは、その誤りが自分一人にとどまらないところにあるのである。
 このように、大聖人は公場対決を早く実現して対面を遂げることを促され、本抄を結ばれている。ただ、残念なことに、強仁は結局、怖じ気づいたためであろうか。公場対決は実現しないままになってしまったのである。