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日蓮大聖人御書講義5下0410~0437

0410~0411    十如是事
  0410:01~0410:06 第一章 衆生即本覚の如来の旨明かす
  0410:06~0410:15 第二章 三諦に約し衆生即如来明かす
  0410;15~0411:04 第三章 一生成仏の法理を明かす
  0411:05~0411:11 第四章 上中下の機根の相違を明かす
  0411:12~0411:18 第五章 妙法即衆生の身体なるを説く
0412~0416    一念三千法門
  0412:01~0412:07 第一章 一心三観・一念三千を示す
  0412:07~0412:15 第二章 十如是三転読誦の意義を明かす
  0413;01~0413:06 第三章 仏と凡夫の無二無別を説く
  0413:06~0413:14 第四章 衆生は能生、仏は所生
  0413:15~0414:05 第五章 一心三観成就の境界示す
  0414:05~0414:12 第六章 観念観法も妙法五字に納まる
  0414:12~0415:01 第七章 唱題に観念も具わる義を示す
  0415:01~0415:05 第八章 禅宗等の観心偏重を破す
  0415:05~0415:08 第九章 内証と外用の成仏を説く
  0415:08~0416:01 第十章 娑婆世界の衆生は耳根得道
  0416:01~0416:07 第11章 一生成仏を示す
  0416:07~0416:17 第12章 妙法受持口唱を勧む
0417~0423    十法界事
  0417:01~0417:01 第一章 本抄題号の出処を示す
  0417:01~0417:04 第二章 問答の対立点を明らかにする
  0417:05~0417:07 第三章 心生による出離を難ず
  0417:07~0417:12 第四章 爾前当分の益有るを以て答える
  0417:12~0417:12 第五章 互具と実成の二説への反論
  0418:01~0418:11 第六章 断常二見の小乗・大乗を破す
  0418:11~0418:18 第七章 経釈を挙げて難詰を裏付ける
  0418:18~0420:05 第八章 再び爾前の三乗の得益を説く
  0420:06~0420:08 第九章 本門観心により一切経を判ず
  0420:08~0421:15 第十章 爾前の得益方便なるを明かす
  0420:16~0421:13 第11章 迹門により爾前の益を判ず
  0421:13~0422:01 第12章 迹門・始覚の十界互具を破す
  0422;02~0422:09 第13章 爾前迹門の断惑の非実を説く
  0422:09~0422:15 第14章 第三の答えの誤謬を糺す
  0422:15~0423:05 第15章 迹門の未顕真実なるを明かす
  0423:05~0423:14 第16章 法華本門の超勝性を示して結ぶ
0424~0426    爾前二乗菩薩不作仏事
  0424:01~0424:12 第一章 楞伽経を引用して答える
  0424:13~0425:01 第二章 爾前の菩薩不作仏を明かす
  0425;02~0426:14 第三章 菩薩の成仏なき文証を挙ぐ
0427~0437    十法界明因果抄
  0427:01~0427:03 第一章 十法界の名目を挙げる
  0427:04~0427:08 第二章 地獄界の因縁を明かす
  0427:09~0428:17 第三章 謗法こそ堕地獄の業因と明かす
  0428:18~0429:12 第四章 阿難の故事を引いて謗法を戒める
  0429:13~0430:03 第五章 餓鬼道の因縁を明かす
  0430:04~0430:05 第六章 畜生界の因縁を明かす
  0430:06~0430:08 第七章 修羅界の因縁を明かす
  0430:09~0430:09 第八章 人界の因縁を明かす
  0430:10~0430:11 第九章 天界の因縁を明かす
  0430:12~0431:12 第十章 人間に種々の差別ある文証を挙げる
  0431:12~0432:13 第11章 六道に生じ王となる因縁を明かす
  0432:14~0433:06 第12章 声聞界の因縁を明かす
  0433;07~0433:09 第13章 縁覚界の因縁を明かす
  0433:10~0433:18 第14章 菩薩界の因縁を明かす
  0434:01~0434:14 第15章 菩薩から二乗を除く理由を明かす
  0434:15~0435:01 第16章 仏界の因縁を明かす
  0435:01~0435:13 第17章 七逆と二乗に菩薩戒を許さぬ理由
  0435:13~0436:15 第18章 法華経の相待妙の戒を示す
  0436:15~0437:15 第19章 法華経の絶待妙の戒を明かす

0410~0411    十如是事top
0410:01~0410:06 第一章 衆生即本覚の如来の旨明かすtop
0410
十如是事    正嘉二年    三十七歳御作
01   我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相.如是性・如是体・如是力.如是作・如
02 是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応
03 身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、 次に如是性とは我が心性を云うなり 是を報身如来とも又は般若
04 とも又は空諦とも云うなり、 三に如是体とは我が此の身体なり 是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも
05 云うなり、 されば此の三如是を三身如来とは云うなり 此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひ
06 へだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、 かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり
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 我が身が、三身即一の本覚の如来であることを法華経に説いて「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」とある。初めに如是相とは、我が身の色形に顕れている相貌をいうのである。これを応身如来とも、または解脱とも、または仮諦ともいうのである。次に如是性とは、我が心性をいうのである。これを報身如来とも、または般若とも、または空諦ともいうのである。三に如是体とは、我がこの身体である。これを法身如来とも、または中道とも法性とも寂滅ともいうのである。それゆえ、この三如是を三身如来ともいうのである。この三如是が三身如来であられるのに、よその事と思って隔てていたが、もはや我が身の上のことである。このように覚知するのを法華経を悟った人というのである。

三身即一
 三身即一身のこと。法身・報身・応身の三身が即一仏身にそなわっていること。法身とは、仏の永遠不滅の本体。報身とは、仏の持つ智慧の働き。応身とは、衆生に慈悲を施す力用のこと。爾前の円教や迹門においても、三身円満具足を説くといえども、始成正覚の仏身であって、今世のみである。本門においてのみ久遠の本地を明かし、常住の三身即一身を説くのである。
―――
三身
 法身・報身・応身の三つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。
―――
本覚
 始成に対する語。①本来備わっている悟り、一切衆生は煩悩に満ちた迷いの身心を有し、生死を繰り返しているが、その本体は本来清浄で一切の妄想離れた覚体であること。②現象界の諸相や凡夫がそのままの姿で仏であると覚ること。③本仏の正覚、本地の覚り。㋑法華経文上では五百塵点劫の釈尊の悟りをさす。㋺久遠元初の自受用身の悟りのこと。総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0561-16)等とある。④天台家においては、本覚法門と始覚法門があり、両派は古くから対立している。
―――
今経
 法華経のこと。
―――
如是相
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。あらゆる存在には必ず「相」がありそのことを「如是相」という。
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如是性
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相のあるものは必ずそれにふさわしい性質をもっておりこれを「如是性」という。
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如是体
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相があり、性質があるものには必ず主体がありこれを「如是体」という。
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如是力
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。体は必ず、ある潜在能力をもっていてこれを「如是力」という。
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如是作
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。力があるものは、必ず外へ向かっていろいろな作用を起こしそれを「如是作」という。
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如是因
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。ふさわしい相と性と体をもった人やものが、その人やものにふさわしい能力(力)を発揮させるためのはたらきかけ(作)をしていくと、それが原因となり、一つの結果が生じる。いわば、相・性・体・力・作の五如是がいろいろな現象を起こす原因となる。これを「如是因」という。
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如是縁
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。原因はあっても、それが何らかの機会か条件に恵まれないと、一つの現象が結果として現れない。そのような条件を「如是縁」という。
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如是果
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。果は、いうまでもなく結果です。ある因がある縁に合って、ある状態を実現したことをさす。因が縁に合えば必ずこういう結果が生まれることを「如是果」という。客観的結果=事実。
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如是報
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。因と縁が出合えば、必ずある状態を実現しますが、それはただ実現されたにとどまらず、必ずあとに影響(報い)がある。これが「如是報」です。主観的結果=オリジナルな結果の受けとめ方。
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如是本末究竟
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、複雑にからみあっていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だかわからないことが多い。それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんなものも、どんなことがらも、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできない。「相」から「報」まで、すなわち始め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」のとおりになることは同じだ(等しい)、ということ。これを「本末究竟等」という。
―――
応身如来
 仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
解脱
 梵語で(Vinukti)。煩悩の束縛から脱して、憂いのないやわらかな境涯に到達するという意味。
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仮諦
 あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。
―――
報身如来
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
空諦
 あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。
―――
法身如来
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
中道
 苦楽の二受や有無の二辺、断常の二見などの両極端に執着しない不偏にして中正の道をいう。①快楽主義と苦行主義の二つの生き方を捨てること。②竜樹の中道論では空こそ生滅・有無等の両辺を超越した諸法のありのままの姿であり、これを中道としている。③天台は空仮中の三諦・円融に基づく中道を説いた。④日蓮大聖人は一生成仏抄のなかで、次のように述べられている。「有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり」(0384-08)と。非有非無の中道の理の本体を妙法蓮華経とするのである。
―――
法性
 諸法の天性・悟り・生命・一念・心性・境涯等をいう。
―――
寂滅
 ニルヴァーナ(nirvāṇa)の音写。涅槃 と訳す。①煩悩の境地を離れ、悟りの境地に入ること。②消滅すること。死ぬこと。
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 初めに、本抄御述作の由来と大意について述べておきたい。
 本抄は一代聖教大意、一念三千理事などの御述作と同じく正嘉2年(1258)聖寿37歳の時に認められている。正嘉2年(1258)は、日蓮大聖人が駿河国の岩本実相寺において大蔵教を閲覧されていた時期であるところから、その岩本の地で御執筆されたものと拝察される。
 内容の大意は、まず、法華経方便品の十如是の法門に基づいて、我ら衆生の存在がもともと三身即一身の本覚の如来であるという法理を明らかにされた後、この法門を深く信じて観心修行を続けるならば、行ずる者の機根に上・中・下の相違があっても、必ず一生の間に成仏することができると説かれる。最後に、妙法蓮華経の法体がとくに勝れている理由として、この法体が衆生の心性の八葉の白蓮華をさしていることを挙げられ、南無妙法蓮華経を一遍唱えることは法華経一部を「如実に」読誦したことになると説き進められ、このことを堅く信じる人を如説修行の人というと仰せられて、本抄を締めくくられている。
 さて、冒頭の第一章は、我ら衆生の身が三身即一身の本覚の如来であることを裏づける経文として法華経方便品の十如是の文を挙げられ、十如是のうち初めの三如是は衆生の身が本覚の三身如来であることを明かしたものであると御教示されている。
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事
 文中、「三身即一」の三身とは、いうまでもなく仏の法身・報身・応身であり、この三身が仏の一身の三側面であり別々のものではない、ということが三身即一の意味である。三身の一々については、御書講義録第五巻中の「一念三千理事」第八章のなかで、天台大師智顗の法華文句巻九下の釈によって説明しているので、ここでは同じ智顗の摩訶止観六下の文を引用する。「境に就いて法身と為し、智に就いて報身と為し、起用を応身と為す。法身を得るを以って故に常恒に不変なり。法身清浄にして広大なること法界の如く、究竟して虚空の如く、未来際を尽くすなり」とある。
 すなわち、仏とは境と智とが冥合して成就するのであるが、そのとき、境にあたるものが法性真如の真理で、これが法身にあたる。そして、この境を体得した智が報身であり、応身とは仏が衆生に慈悲を施す力用を起こすことを側面といい、この仏の三つの側面が一仏身に具わっていることを三身即一身というのである。
 次に、本覚の如来とは本来悟っている如来をいう。法華経は、我ら衆生の身が本来、三身即一身の如来であることを説いたのである。
初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり
 法華経が我ら衆生の身こそ本来本覚の如来であることを明かしたものであることを述べられるうえで、この段は十如是の如是相・如是性・如是体という初めの三如是に基づいて明らかにされているところである。
 まず、如是相であるが、これは我ら衆生の身体のうち、色形に顕われている姿をいうのであり、この如是相は仏の三身如来においては、衆生救済のために具体的な姿を見せて応ずる応身如来にあたり、如来の法身・般若・解脱の三徳に配分していえば、解脱の徳にあたる。ちなみに如来の三徳とは、仏が体得している真理を法身といい、真理を悟る智慧を般若といい、仏が生死の苦界から脱却している状態を解脱という。つまり、法身、般若の二徳が仏の生命の真理とそれを覚知している智慧をさしているのに対し、解脱は衆生が陥っている生死の苦界を脱却している具体的な状態をとらえて述べたものである。ここから、如是相が解脱にあたることは明らかであるとともに、三諦のうちの仮諦にあたることは改めて述べるまでもなかろう。
 次に、如是性とは我ら衆生の身体のうち、本然的に具えている心の不変の本性をいう。この如是性は如来の三身のなかでは法性真如の真理を覚知する智慧である報身如来にあたる。また、如来の三徳のなかでは般若の徳、三諦のなかでは空諦のそれぞれにあたる。
 更に、如是体は我ら衆生の色心を含む身体そのものをいい、これは如来の三身のなかでは法身如来であり、三徳のなかでは法身の徳であり、三諦のなかでは中道にあたり、法性とも寂滅ともいうのである。法性とは真如のことで、仏が体得している真理そのものをさしており、仏の悟りを意味する寂滅と同義となる。
此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり
 「此の三如是」とは、如是相、如是性、如是体の三如是のことである。通常、衆生は自身の三如是が即法・報・応の三身如来であるということを知らず、三身如来を自分とは無関係な別の事柄であるように思っていたのであるが、実際は無関係どころか我が身のうえのことであると覚知したとき、法華経を証得したことになるのである。と仰せられている。ここで「知りぬる」ということは、末法においては御本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱える信心修行によって可能であることはいうまでもない。

0410:06~0410:15 第二章 三諦に約し衆生即如来明かすtop
06                                               此の三如是を
07 本として 是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、 此の十如是が百界にも千如にも三千世間
08 にも成りたるなり、 かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれども すべて只一つの三諦の法にて三諦よ
09 り外には法門なき事なり、 其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり 三千と云うは中諦なり空と仮と
10 中とを三諦と云う事なれば 百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども 唯一つの三諦にてある事な
11 り、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは 唯一つの三諦にて始と終と我が 一身の中の理にて唯一物に
12 て不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、 是を如是本末究竟等とは申したるなり、 始
13 の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは 我が身の中の三諦にてあるなり、 此の三諦を三身如
14 来とも云へば我が心身より外には 善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば 我が身が頓て三身即一の本覚
15 の如来にてはありける事なり、
-----―
 この三如是を本体として、これより他の七つの如是は出てきて十如是となっているのである。この十如是がもとになって、百界にも千如にも三千世間にもなっているのである。このようにして、多くの法門となって八万法蔵といわれるものであるけれども、すべてはただ一つの三諦の法におさまり、三諦より外には法門はないのである。
 そのゆえは、百界というのは仮諦であり、千如というのは空諦であり、三千というのは中諦である。空諦と仮諦と中諦を三諦というのであるから、百界・千如・三千世間までの多くの法門となるといっても、ただ一つの三諦であって、初めの三如是と終わりの七如是とは我が一身の中の理であってただ一つのものであり不可思議であるので、本と末とは究竟のところ等しいと説かれたのである。これを如是本末究竟等というのである。初めの三如是を本とし、終わりの七如是を末として、十の如是であるのは、我が身の中の三諦のことである。
 この三諦を三身如来ともいうのであるから、我が心身の外には善悪にわたっていささかの法もないので、我が身がそのまま三身即一身の本覚の如来となるのである。
 この三如是を本体として、これより他の七つの如是は出てきて十如是となっているのである。この十如是がもとになって、百界にも千如にも三千世間にもなっているのである。このようにして、多くの法門となって八万法蔵といわれるものであるけれども、すべてはただ一つの三諦の法におさまり、三諦より外には法門はないのである。
 そのゆえは、百界というのは仮諦であり、千如というのは空諦であり、三千というのは中諦である。空諦と仮諦と中諦を三諦というのであるから、百界・千如・三千世間までの多くの法門となるといっても、ただ一つの三諦であって、初めの三如是と終わりの七如是とは我が一身の中の理であってただ一つのものであり不可思議であるので、本と末とは究竟のところ等しいと説かれたのである。これを如是本末究竟等というのである。初めの三如是を本とし、終わりの七如是を末として、十の如是であるのは、我が身の中の三諦のことである。
 この三諦を三身如来ともいうのであるから、我が心身の外には善悪にわたっていささかの法もないので、我が身がそのまま三身即一身の本覚の如来となるのである。

十如是
 法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
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百界
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。
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千如
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如となる。
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三千世間
 天台大師が摩訶止観で一念三千を具す相貌を明かす際、世間に約して三千の数量を示したもの。
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八万法蔵
 煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」
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三諦
 仏が覚った究極の真理を三つの側面から捉えたもの。諦とは、明らかな真実・真理のこと。天台大師智顗は『法華玄義』『摩訶止観』で、空諦・仮諦・中諦の三つを挙げている。①空諦は、あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。②仮諦は、あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。③中諦は、中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。天台大師は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。蔵・通・別・円の四教に即していえば、蔵・通の二教は中道を明かさないので三諦が成立せず、別教と円教には三諦が説かれる。別教の三諦は、「但空・但仮・但中」として互いに隔たりがあり、融和することがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を観じて塵沙惑を破し、さらに中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。これに対し、円教の三諦は、三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。この円融三諦の法門は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張をはらみながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無礙の世界観を開くものである。この三諦を一心に観ずることを一心三観といい、天台大師は一心三観の中核として一念三千の観法を立てた。
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 この章では、初めの三如是が根本となって後の七如是が展開して十如是になることを明かされたあと、十如是がもとになって百界、千如、三千世間が成立し、更には八万法蔵といわれるような多くの法門へと展開する、と仰せられている。
 しかし、百界、千如是、三千世間、更には八万法蔵も、結局、空・仮・中の三諦の法に収まるのであり、八万法蔵の法門の根本となっている十如是も三諦に収まることを示される。そして、十如是が三諦に収まるということは、我ら衆生の身体がそのまま三身即一の本覚の如来であるということにほかならないと結論されている。
百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり
 百界・千如・三千世間の法門が三諦の法理に収まるということを具体的に明かされているところである
 まず百界であるが、「界」とは、差別の相を捉えて十種に立て分けたものであるから、三諦のなかでは仮諦であり、千如の「如」とは不異の義であり、差別の相をもって存在している諸法の共通性を捉えたものであるところから空諦であり、三千は百界の仮諦と千如の空諦とを三世間に統合して構成したものであるので中諦となるのである。
始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは一つの三諦にて始と終と我が身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり
 十如是の始めの三如是と後の七如是とに分けることができる。本抄にも「此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」と説かれているが、この場合は、始めの三如是である相・性・体を根本として後の七如是が出てくるということで、前の三如是を根本とすれば後の七如是は枝末にあたるし、また、前の三如是を体とすれば後の七如是は用とする場合もある。
 さて、始めの三如是と終わりの七如是がともに三諦に収まり、しかも、この十如是が我ら衆生の一身の法理であるところを「如是本末究竟等」と説かれたのである、と述べられている。ただ、この本末究竟等の真理は我々凡夫には不可思議な境地であり、このことは十如是を明かすにあたって「唯仏与仏乃能究尽」と断られているとおりである。
此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり
 前の御文で示されたように、この三諦がそのまま三身如来であり、しかも十界三千は我々凡夫の一念の生命に収まり、我々の生命の外には善につけ悪につけ「かみすぢ計り」も法はないのであるから、衆生の一人一人の一身はそのまま三身即一身の本覚の如来である、と結論されているのである。「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき」とは、善でいえば仏界、悪でいえば地獄等であるが、これらもすべて我々の一念の心中に具わっているのであって、一念の生命を超えて外部にあるものではないということである。

0410;15~0411:04 第三章 一生成仏の法理を明かすtop
15                是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、 是を我が身の上と知りぬ
0411
01 るを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、 かう解り明かに観ずれば此の身頓て 今生の中に本覚の如来を顕
02 はして即身成仏とはいはるるなり、 譬えば春夏・田を作りうへつれば 秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し
03 春より秋をまつ程は久しき様なれども 一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて 仏を顕はす程は久しき様なれど
04 も一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
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 このことをよそに思うのを、衆生とも迷いとも凡夫ともいうのである。このことを我が身の上のことと知るのを、如来とも覚りとも聖人とも智者ともいうのである。このように了解し、明らかに観念ずれば、この身がそのまま今生の中に本覚の如来を顕して、即身成仏といわれるのである。譬えば、春夏に田を耕して種を植えるならば、秋冬には刈り取って蔵に収めて、心のままに用いることができるようなものである。春から秋を待つ間は長いようではあるが、一年の内に待ち望んでいたとおりになるように、この覚りに入って仏を顕すまでは長いようではあるが、一生の内に顕して、我が身が三身即一の仏となるのである。

即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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 前章で、我ら衆生の一身が三身即一身の本覚の如来であるということが真理であると明かされたうえで、この真理を悟ることによって衆生はこの一生の間で成仏することができると仰せられている。三身即一身の本覚の如来を自己と関係のないよそごとのように思っている場合を、迷い・衆生・凡夫というのに対し、その本覚の如来を自らの一身のことであると知る場合を、如来・覚・聖人・智者というのであって、その覚と不覚、悟りと迷いに、仏・如来・聖人・智者と衆生・凡夫の違いがあらわれてくるのである。
 以上のことを理解してこれを明らかに観念していくならば、この我が一身が今生の一生において三身即一身の本覚の如来を顕現して即身に成仏することができると仰せられ、この一生のうちに成仏することを稲作の経過にたとえられている。稲作は春夏の頃に稲の田を作り耕して種子を植えつければ、秋冬にこれを刈り取って蔵に収めて思いのままに使えるようになる。春から秋までというのは少し長いようであるが、待つといっても結局は一年の間の期間にすぎない。これと同じく、凡夫である我が身が三身即一身の本覚の如来であることを覚知して仏の境地を顕現するに至るまでは長期間かかるようであるが、所詮は今生の一生のうちに仏の境地を顕現して我が身が三身即一身の本覚の仏となることができると仰せられている。

0411:05~0411:11 第四章 上中下の機根の相違を明かすtop
05   此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、 上根の人は聞く所にて覚を極め
06 て顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、 下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一
07 生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて 諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く 只今までみつる所の
08 生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて 本覚のうつつの覚にかへりて 法界をみれば皆寂光の極楽にて
09 日来賎と思ひし 我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、 秋のいねには早と中と晩との三のいね有
10 れども一年が内に収むるが如く、 此れも上中下の差別ある人なれども 同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思
11 い合せてあるべき事なり。
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 仏道に入る人にも上中下の三根の異なりはあっても、同じく一生のうちに顕すことができるのである。上根の人は聞いたその場で覚りを極めて顕すのである。中根の人は、もしは一日、もしは一月、もしは一年のうちに顕すことができる。下根の人は。仏法の理解に進展がなく、行き詰まったままであり、しかも、一生のうちに限られたことなので、臨終の時に至って、諸の見ていた夢も覚めて寤になるように、今まで見ていたところの生死・妄想の間違った考えや偏見は跡形もなくなって、本覚の寤の覚りにかえって法界を見るならば、みな寂光の極楽であって、日ごろ賎しいと思っていた我が身が、三身即一身の本覚の如来となるのである。秋の稲には、早稲と中稲と晩稲との三つの稲があって、いずれも、一年のうちに収穫することができるように、これも、上中下の差別があっても、同じく一生のうちに諸仏如来と一体不二であると思い合わせることができるのである。

上中下の三根
 上根・中根・下根の三根のこと。機根は仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の生命の性分・資質をいう。機根の鋭利・遅根によって上・中・下の三つに分けたもの。
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上根
 仏の説法を聞き、受け入れて発動する生命の性分・資質を三つに分類したなかのひとつ。六根が鋭敏で煩悩に左右されにくく、法を聞いてすぐ理解できる機根のもの。三周の説法のうちの法説周。
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中根
 中根の法華経迹門で声聞の弟子が、つぎつぎと成仏を許されて授記を受けるが、それらの声聞は上根・中根・下根の三種に区別されている。まず舎利弗等が方便品の説法を聞いて得道する。これを法説周という。次に譬喩品等の譬えを聞いて須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・大目犍連等が得道する。これを譬説周という。さらに、大通智勝仏以来の因縁を聞いて富楼那等が得道する。これを因縁周という。
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下根
 仏の説法を聞き、受け入れて発動する生命の性分・資質を三つに分類したなかのひとつ。六根の機根が劣っていて、仏の教説を受容する能力の乏しいもの。三周の説法のうちの因縁説周。
―――
法界
 四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
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寂光の極楽
 承寂光土のこと。四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
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 法華経によって仏道修行をする人々にも上・中・下の三根の相違はあるが、しかし、必ず一生のうちに我が身が本覚の如来でることを覚知し、仏の境地を顕現することができると明かされているところである。
 さて、三種の機根の相違であるが、まず、上根の衆生は「聞く所にて覚を極めて顕はす」とあるように、法門を聞くやいなや、その場で直ちに覚りを極めて仏の境地をあらわす人々であり、中根の衆生は法門を聞いて修業を始め、早ければ一日、あるいは一月、一年というふうに今世、生きている途中で自らが本覚の如来であることを覚知して仏の境地を顕現できる機根であると説かれている。
 最後に下根の人々は本覚の如来を覚知する時が先へ先へと延びていくが、所詮は一生の間に成仏することは決まっているので、臨終の時において初めて夢から覚める時のように生死妄想の邪見が消え失せて、本覚の覚りに還って我が身が三身即一身の本覚の如来身であることを覚知することができる、と仰せられている。この三根の相違について、再び稲に譬えを借りられ、秋に刈り取るにも早稲・中稲・晩稲の三種の相違があることにたとえられて、しかし、いずれもその年のうちに収穫できることを通して、どんなに機根の相違があっても、一生のうちに諸仏如来と一体不二であると覚知することができることを強調されている。

0411:12~0411:18 第五章 妙法即衆生の身体なるを説くtop
12   妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは 何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白
13 蓮華にてありける事なり、 されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば 経の名にてはあらずして・は
14 や我が身の体にてありけると知りぬれば 我が身頓て法華経にて法華経は 我が身の体をよび顕し給いける仏の御言
15 にてこそありければやがて 我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり、 かく覚ぬれば無始より已来今まで思
16 いならわしし・ひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く・あとかたもなく成りぬる事なり、 是を信じて一遍も
17 南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり、 十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部
18 を如法によみ奉るにてあるべきなり、かく信ずるを如説修行の人とは申すなり、南無妙法蓮華経。
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 妙法蓮華経の体がまことに素晴らしいことは、どのような体のことであろうかと尋ね出してみれば、我が心性が八葉の白蓮華であることである。それゆえ、我が身の体性を妙法蓮華経というのであるから、妙法蓮華経とは、経の名ではなくて、もはや我が身の本体であると知るならば、我が身がそのまま法華経であって。法華経は我が身の本体を呼び顕してくださった仏の御言葉であるので、我が身がすなわち三身即一の本覚の如来となるのである。このように覚るならば。無始より已来今日まで思い習わしてきた間違った考えの妄想は、昨日の夢を追い払うように、跡形もなくなるのである。このことを信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えるならば、法華経を覚って、法華経一部を如法に読誦することになるのである。十遍は十部を、百遍は百部を、千遍は千部を如法に通読することになるのである。このように信ずる人を如説修行の人というのである。南無妙法蓮華経。

心性
 不変の心の本性、衆生の生命に本然的にそなわる心の本体。如来蔵心・自性清浄心をいう。
―――
八葉の白蓮華
 八枚の花弁の蓮華のこと。衆生の心性が八葉の白蓮華であることに二義がある。①衆生の生命それ自体が妙法であるということ。②衆生の生命それ自体が妙法であることを、衆生の肉体のなかに見出すこと。
―――
如法
 法に如うということ。仏の説いた教法通りに実践修行すること。決められた法式通りすること。
―――
一部
 一経の全部をいう。
―――
如説修行
 「説の如く修行す」と読み下す。仏が説いた教え通りに修行すること。法華経如来神力品第21に「汝等は、如来滅して後に於いて、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし」(法華経572㌻)と説かれている。
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 ここでは本抄の結論として、妙法蓮華経の法体が勝れている所以については、我ら衆生の心性にある八葉の白蓮華を顕したものであるからである、と仰せられている。「八葉の白蓮華」とは我ら衆生の胸間にある肉団心であり、肉団心とはその形が八弁の肉葉からなり、具体的には心臓と肺臓のかたちのことである、という。この場合の白蓮華は、衆生の不変の身体の象徴としての意味であることはいうまでもなかろう。
 妙法蓮華経の法体が衆生の心性として八葉の白蓮華のことを顕しているゆえに、妙法蓮華経とは、単に経の名ではなく、我ら衆生の身体であると悟れば、わが身がそのまま法華経となる。そして、法華経という経典は我ら衆生の不変の身体を呼び顕してくださった仏の金言であるから、法華経を信じて妙法蓮華経と唱える行為によって、我らは我が身が三身即一身の本覚の如来であることを覚知することができるのである。
 このことを深く覚れば、無始以来今日まで我々が思い習わしてきた邪見妄想は、昨日見た夢のように、跡形もなくなってしまうのであり、以上の法理を信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えるならば、法華経の経意を覚って法華経一部を「如法に」、すなわち仏の説いた教えのとおりに読誦したことと同じ結果になると仰せられている。更に、十遍題目を唱えれば法華経十部、百遍題目を唱えれば法華経百部、千遍ならば千部、読誦したことと同じになるのであり、このように信じて法華経を行ずる人を「如説修行の人」という、と結論されている。
我が心性の八葉の白蓮華について
 日寛上人の当体蓮華の文段には、八葉の蓮華は当体蓮華の二義の一つとして説かれている。すなわち「当体蓮華に即ち二義あり。一には十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づくる、故に当体蓮華というなり。この義は入文の相に分明なり。二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、これを当体蓮華という。故に伝教大師は牛頭決七十二に云く『当体蓮華とは、一切衆生の胸の間に八葉の蓮華有り。之を名づけて当体蓮華と為す』等云云。…問う、胸間の蓮華、その色は如何。答う、これ白蓮華なり。大日経第一十九に、胸間の蓮華を説く文に云く『内心の妙白蓮は八葉正円満なり』等云云。録外二十三三に云く『当体蓮華とは、一切衆生の胸内に八分の肉団あり。白くして清し。凡そ生を受くる者は皆悉く此の八葉の蓮華、胸の内に収まれり』等云云」と。この文によると、当体蓮華とは、一つには十界三千の妙法の当体、すなわち我ら衆生の生命自体が蓮華であるということであり、いま一つは、我ら衆生の胸の間の“八葉の蓮華”をさして当体蓮華というのである。後の場合は、我ら衆生の生命が妙法蓮華経の当体であることを衆生の肉体の中に見いだしたということである。
 要するに、胸間の八葉の白蓮華というのは、我ら衆生自身が妙法蓮華経の当体であることを強く意識せしめるために説かれたものといえるのである。

0412~0416    一念三千法門top
0412:01~0412:07 第一章 一心三観・一念三千を示すtop
0412
一念三千法門    正嘉二年    三十七歳御作
01   法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観・一念三千と云う事あり、薬王菩薩・漢土に出世して天台大
02 師と云われ此の法門を覚り給いしかども先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等
03 の多くの法門を説きしかども 此の一念三千の法門をば談じ給はず百界千如の法門計りなり、 御年五十七の夏四月
04 の比・荊州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、 上四帖に猶秘し給いて但六即・
05 四種三昧等計りなり、 五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云是より二百年後
06 に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て 一身一念法界に遍し」と云
07 云、 此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、 文の心は百界千如三千世間云云、
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 法華経が余経に勝れているということは、どの点か。この経に一心三観・一念三千という法門がある。薬王菩薩が漢土に出現して天台大師と云いわれ、この法門を悟られたけれども、まず法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説いたが、この一念三千の法門は説かれなかった。百界千如の法門だけを説かれた。天台大師が御年五十七歳の夏四月のころ、荊州玉泉寺という所において、御弟子の章安大師に教えられた摩訶止観という書物が十巻ある。前の四巻にはなお秘されて、ただ六即・四種三昧等だけであった。五の巻に至って十境・十乗・一念三千の法門を立て「それ一心に十法界を具す等」と説かれた。これから二百年後に、妙楽大師が解釈して「まさに知りなさい。身土一念の三千である。故に成道の時、この本理にかなって、一身一念は法界に遍満する」といっている。この一念三千・一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是から起こったものである。文の意は百界・千如・三千世間ということである。

法華経
 大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。 後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284-08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266-11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546-11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910-17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
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余経
 法華経以外の経。
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一心三観
 一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
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一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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薬王菩薩
 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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天台大師
 538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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玄義十巻
 法華玄義のこと。天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
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文句十巻
 法華文句のこと。天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。10巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈法によって明らかにしている。
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覚意三昧
 天台大師の四種三昧のなかの非行非坐三昧や南岳大師の随自意三昧と同じ。方法・機関を定めないで、六識によって起こす念に対して思考し、正しく認識して悟りを得る三昧のこと。
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小止観
 天台大師の述作。俗兄・陳鍼のために、止観修習の要諦を示されたとされる書。摩訶止観は内容が難解であるため、初心者のために坐禅の方法や用心などを説き、摩訶止観の要綱を示している。
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浄名疏
 維摩経疏のこと。天台大師の撰述に「維摩経玄疏」「維摩経文疏」があり、天台大師の維摩経疏を構成している。玄疏では維摩経の玄旨を五重玄をもってあらわし、文疏では各品を解釈している。のちに妙楽大師が文疏を圧縮し維摩経略疏を著し、天台学の重要な教典となった。
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四念処
 ①天台大師の著。四巻。釈尊の入滅に際して、滅後の行道を示したなかで、四念処によって行道すべしと述べた四念処について明かしたもの。蔵通別円の四教それぞれの四念処観を説き、この修行が天台教学の観法の真髄であることが述べられている。 ②身念処・受念処・心念処・法念処の一つで、小乗の修行の一つ四念処観・四念住ともいう。
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次第禅門
 『釈禅波羅蜜次第禅門』のこと。 十巻または十二巻。 天台大師智顗の講述を禅観が筆録し潅頂が再治したもの。 諸種の禅法を実践して、実相の理に証入することを説く。
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百界千如の法門
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。さらに、この百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如となる
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荊州玉泉寺
 中国・荊州の玉泉山にある寺。天台大師が隋・開皇12年(0592)に自分の故郷である荊州に建立し一音寺と称した。後に玉泉寺と改めている。天台大師はここで開皇13年(0593)4月に法華玄義を説き、翌年には摩訶止観を説いた。
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章安大師
 561年~632年。中国・隋の僧。灌頂のこと。天台大師智顗の弟子。天台大師の講義をもとに『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』などを筆記・編纂した。主著に『涅槃経玄義』『涅槃経疏』がある。▷
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止観
 摩訶止観のこと。『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。
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上四帖
 摩訶止観10巻のうち1~4巻までをいう。
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六即
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたもの。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。①理即。生命の本性(理)としては仏の境地をそなえているが、それが迷いと苦悩に覆われている段階。②名字即。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。③観行即。「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。④相似即は、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる段階。⑤分真即は、真理の一部分を体現している段階。⑥究竟即は、完全なる覚りに到達している段階。
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四種三昧
 天台大師智顗が『摩訶止観』で説いた4種の三昧(精神集中の修行)。常坐・常行・半行半坐・非行非坐の三昧のこと。①常坐は座って行うもの。文殊師利問経に基づく。②常行は本尊のまわりを歩きながら行うもの。般舟三昧経に基づく。③半行半坐は座ったり歩いたりを繰り返すもの。方等陀羅尼経に基づく。④非行非坐は随自意三昧とも呼ばれ、形式にとらわれないもの。請観音経に基づく。
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十境
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた10種の対境のこと。陰入界境・煩悩境・疾患境・業相境・魔事境・禅定境・諸見境・増上慢境・二乗境・菩提境をいう。
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十乗
 十境の一つ一つについて、なされるべき十種の観法で、得道の境界まで乗せ運ぶ方法。①観不思議境②起慈悲観③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥修道品⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛。
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妙楽大師
 711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる
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身土一念の三千
 身土の「身」は正法であり、三世間にあてはめれば五陰世間・衆生世間を意味し「土」は国土世間を意味する。この身と土は別々に存在しているが、ともに衆生の一念に具わっており、身土の一念に三千の諸法がそなわっていることをいう。
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成道
 仏道を成ずること。八相作仏のひとつ。成仏・得道と同義。最高の幸福境涯を得ることをさす。
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此の本理
 本理とはとは極理と同義で、根本の真理・本然の法理のこと。一切法界に遍満し、また内在する根源の法をいう。
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法界
 「ほうかい」「ほっかい」と読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。▷
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十如是
 法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是(このような)」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
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百界千如三千世間
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。さらに、この百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如となる。この千如に三世間(衆生世間・五蘊世間・国土世間)が合して三千世間となる。
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 本抄は正嘉2年(1258)日蓮大聖人が37歳の御時の御述作とされる。同年に著された一代聖教大意に「一念三千は別に委く書す可し」(0403-17)と記されていることから、「一念三千理事」「十如是事」とともに著された書と推察される。御真筆は現存していない。 
 本抄御執筆の背景には、当時、比叡山天台宗の学者等が、止観の観心修行は法華経の本迹二門に勝るとして、法華経を捨てて専ら止観のみを行ずる、と主張していたことが挙げられる。
 また、その同じ流れから達磨の禅は止観にも勝るとする邪義が世に流布していたので、大聖人は、天台大師の正意を踏まえて、観心偏重の誤りを指摘し、破折されたと考えられる。
 天台の法門を重んじられている印象を与えるのは、当時は立宗後6年で、化導の初期であったことを、あらかじめ考慮に入れておく必要がある。
 内容は、法華経が余経に勝れているのは、法華経に一心三観・一念三千の法門が明かされているゆえであると述べられている。続いて、一念三千法門は法華経方便品の十如是から起こると出処を示され、この十如是を三転読誦することは、我が身が三徳究竟の体、三身即一身の本覚の如来とあらわれるとの意義があることを説かれている。
 また十界互具は仮諦、千如は空諦、三千は中諦であることを明かし、十如に約して仏と凡夫に差別はなく、衆生と仏の本末の関係を通して、仏は我ら衆生の所生の子であることを述べられている。
 更に「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり」と括られ、唱題行が成仏への要であることを御教示されている。そして、観念観法の修行に偏する天台宗・禅宗の邪見を破折され、「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」と、聞法の大切さを強調されている。また、一切衆生とは有情のみならず非情の草木も含むとされ、如説修行の人は必ず一生成仏できると、妙法の功徳力の大きさを述べられている。最後に十如是の三転読誦の意義を重説され、本抄を結ばれている。
 最初に、釈尊一代聖教のなかで、法華経が他の経教と比べて勝れている理由は、法華経に「一心三観・一念三千」という大事な法門が説かれているゆえであると御教示されているので、「一心三観」と「一念三千」について略述しておきたい。
一心三観と空仮中の三諦
 「一心三観」とは中国の天台大師智顗が立てた観心修行の法門のことである。
 「一心」とは所観の境である衆生自身の心をさし、「三観」は能観の智をいい、衆生の日常に起こす一念の心のなかに、空・仮・中の三諦が円融相即して具わっていると観ずることをいう。
 「観」とは心を定めて、対境を広く明らかに観ることで、邪念妄想を離れて心を一所に集中することを「止」というのに対し、定心をもって諸法を観照することをいう。
 別教では、空・仮・中の三諦を順次に観じていくことから次第三観、または隔歴三観といい、あるいは空・仮・中の三諦を並べて観ずるゆえに縦横並列の三観ともいう。
 これに対して一心三観は、修業の初めから三諦を観ずるゆえに不次第三観、円融三観といい、横に空・仮・中を並べて観ずるのではないゆえに不縦不横三観という。また三観即一観、一観即三観のゆえに三一相即三観ともいう。つまり、所観の境について、一境に三諦が円融するゆえに、能観である三観についても、一観を修すれば三観を同時に修したことになる。
 ゆえに、一念のうちに空観、仮観、中観の三観を同時的に把握することをもって一心三観、もしくは円頓止観といい、天台大師はこれを止観の正行としたのである。
 そこで空・仮・中の三諦ということであるは、“諦”はつまびらか、あきらか、明らめる、という意味で、空諦・仮諦・中諦の三諦は真理の三つの側面をいう。つまり空・仮・中の三つの立場から、物事のありのままの姿を明らかにとらえていこうとする仏法の見方、真理観を示したものである。
 空諦とは、あらゆる存在の性分のことで、有りといえば無く、無いといえば有る、有とも無とも固定することのできない、有無の二道以外の冥伏した状態で、しかも縁に触れて現れ、他と識別しうる不思議な実在をいうのである。
 例えば、心のなかに怒りがある。今は怒っていなくても、縁に触れて怒りが発する。怒っていないときに、怒りの心はどこへいっているのか。これを冥伏という。
 仮諦とは、一切の存在するものは、いろいろな要素が、いろいろな因と縁によって仮に和合し、形づくられているとする皮相の面をいう。例えば、咲いている花の「見」のみを見れば仮である。たちまちに散って朽ちてしまう仮和合の姿である。
 中諦とは、この空と仮の二面をあらわしながら、厳然と存在している体をいう。法華玄義巻二上に「主質を名づけて体と為す」とある。
 例えば、幼児期のAと青年期のAとでは、肉体的にも精神的にも大きく変化している。しかし、幼児期のAも青年期のA、他のいかなる人でもなく、同一人物のAであり、Aという体は一貫しているわけである。これが中諦である。
 もとより、この三諦は決して切り離して考えるべきものではない。あくまで一つの実在を、ありのままにとらえるための三つの見方である。言い換えれば、三諦のそれぞれが、一諦のなかに他の二諦を具え、三諦が常に即仮であり、即空であり、即中の関係にある。これを円融三諦という。“円融”とは互いに妨げることなく融合し、一体となっていることをいう。
 摩訶止観巻三上には「円頓止観の相とは、止を以って諦を縁ずるときは則ち一諦にして而も三諦なり。諦を以って止に繋ぐるときは則ち一止にして而も三止なり。譬えば三相は一念の心在り、一念の心と雖も而も三相あるが如し。止諦も亦是くの如し。所止の法は一なりと雖も而も三、能止の心は三なりと雖も而も一なり。観を以って境を観ずるときは、即ち一境にして而も三境なり。境を以って観を発するときは、則ち一観にして而も三観なり…観は三にして即ち一、発は一にして則ち三、思義す可からず、権ならず、実ならず、優ならず、劣ならず、前ならず、後ならず、並ならず、別ならず、大ならず、小ならず、故に中論に云く『因縁所生の法は、即空、即仮、即中なり』と」説かれている。
一念三千の法門
 一念三千は天台大師が初めて提唱した法門である。といっても“一念三千”という明確な概念として表現したのが最初という意味であって、表現される以前の悟達の境地そのものは、釈尊にも、竜樹菩薩・天親菩薩も把握されていたものである。
 一念三千とは、衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足することで、一念とは瞬間、極微の生命をいい、三千とは現象世界のすべてをいう。すなわち、衆生の生命に現象世界のすべてが具することをいうのである。
 三千という法数は、十界互具・十如是・三世間によって構成されている。
 十界は生命自体の十種類の境界の変化相であり、この十界のおのおのに十界が互いに具わっているとする十界互具、十界の身心の活動に十種の側面があるとする十如是、以上を相乗して百界千如という。
 更に千如是にそれぞれ三世間が具わっているので、三千世間となる。三世間とは五陰世間・衆生世間・国土世間をいい、色心・依正のかかわりあいから三つの差別を立てたものである。
 百界千如に三世間を具足することによって、初めて有情・非情にわたる生命の事実存在が明らかになる。
 釈尊は法華経方便品第二において十如実相に約して生命の実相を説き、更に本門寿量品に至って、本因・本果・本国土の三妙を合論して、釈尊がいつ修行し、いつ、どこで仏になったかを明らかにした。それゆえ、釈尊の仏法でいえば、迹門方便品に説かれた一念三千を「理の一念三千」と呼び、本門寿量品に明かされた一念三千を「事の一念三千」という。
 天台大師はこの一念三千の理法を体得し悟るための観心修行を摩訶止観で説き明かしたのである。摩訶止観は、弟子の章安大師灌頂がその序で「己心の中に行ずる所の法門を説く」と記しているように、一念三千は、天台大師が自己の内心に修行し、証得した法門であるということである。
 それに対して日蓮大聖人が、本迹二門の事・理の一念三千をともに理として斥け、真の事の一念三千の当体として御本尊を顕されたことは、草木成仏口決に「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(1339-13)と示されているとおりである。そして、この御本尊を受持することをもって「受持即観心」とされたのである。
 したがって、天台大師の立てた一念三千は法華経の法理を集約し体系化したものであるとともに、末法に出現する日蓮大聖人の下種仏法の法体は、すなわち御本尊の理論的基盤に相当するということができる。
 なお、天台大師の仏法における一念三千と一心三観の関係をいえば、一念三千の法という究極の真理を覚知する智慧の開発法が一心三観であるといえよう。
天台大師は薬王菩薩の化身
 本文の「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ」との仰せは、天台大師は釈尊在世の法華経の会座に列なっていた薬王菩薩の化身とされていたからであり、このことは当体義抄にも「天台大師は薬王の化身なり」(0519-01)と述べられている。化身とは仏・菩薩が衆生を救うためにあらわす変化身をいう。
 天台大師は法華経薬王菩薩本事品第二十三によって法華三昧を感得し、開悟したことから、薬王菩薩の化身とされていたのである。
 「玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門」といわれているのは、天台大師が陳の太建元年(0569)に金陵の瓦官寺で法華経を講説してから、摩訶止観を説くに至るまでのおもな著作である。これらのいずれにも一念三千の法門は明かされず「百界千如の法門計り」説かれたのである。
 とりわけ法華玄義と法華文句は、摩訶止観と併せて天台の三大部と称される。両書とも法華経の教相面を論じたものである。
 ちなみに、法華玄義は一代聖教を法華経中心に名体宗用教の五重玄に約してその意味を解明し、なかんずく妙法蓮華経の五字を経題の深意を釈した書である。
 法華文句は法華経の文々句々を、因縁・約教・本迹・観心の四つの観点から解釈したものである。
 天台大師が一念三千の名目を初めて明かしたのは摩訶止観巻五においてであり、止観が天台大師の出世の本懐とされる所以はここにある。
 摩訶止観は、本文に述べられているように、天台大師が「御年五十七」の時、故郷の荊州玉泉寺で講説したものを弟子の章安大師が筆録した書である。序分に「隋開皇十四年四月二十六日、荊州玉泉寺に於いて一夏に敷揚し二時に慈霔す」と記されている。
止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云
 摩訶止観一部の構成は十巻からなり、正説十章に分かれる。
 正説分は大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰の十章で、これを十広ともいう。しかし、正観章に十境を立てるなか、第八の増上慢境以下は欠文のまま終わっている。
 十広の最初の大意章は、発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五段からなっており、止観の大網を略説したものである。これを五略という。
 この五略を広げると十章全体になるので、止観のことを「五略十広」と、古来から呼びならわされてきた。
 五略と十広の関係については、五略の発大心には、四諦・四弘誓願・六即などの教説によって、止観の究極である一心三観を目指し、正しい菩提心を起こすべきことを説いており、十広の第二・釈名章から第五・偏円章にあたる。
 修大行には、身口意の三業にわたる止観実践の法である四種三昧を説いており、第六・方便章、第七・正観章にあたる。
 裂大網には、果報を証得すれば必ず化他の能力が具わり、法界の衆生の疑網を裂除すべきことを示されており、第九・起教章にあたる。
 帰大処には、自他の修行を満足して、能化・所化ともに法身・般若・解脱の三徳秘要蔵の大涅槃界に帰入することを説いており、第十・旨帰章にあたる。
 十広のなかでも、第六・方便章と第七・正観章は止観の修行の方軌を示したものであるが、方便章は実際の修行に入るための準備や用意を二十五項にわたって明かし、これを二十五方便という。これを土台にして第七・正観章で観心の修行が示されたのである。
 したがって、摩訶止観のなかでも「上四帖」、すなわち前四巻、章でいえば第六章までは、なお一念三千の名目を秘し、ただ「六即」の行位、「四種三昧」の行法などを説いたのである。
 ゆえに、大聖人が観心本尊抄に引いて示されているように、妙楽大師は止観輔行伝弘決巻五に「若し正観に望めば全く未だ行を論ぜず亦二十五法に歴て事に約して解を生ず方に能く正修の方便と為すに堪えたり是のに前の六をば皆解に属す」(0238-12)と述べたのである。
 「上四帖」に説かれたのは正しく止観を修するための準備的修行であって、玄義・文句と同じく教相に属する。巻五七章の「正観」に至って、初めて「十境・十乗・一念三千の法門」を明かしたのである。このことは一念三千が、仏の修行の究極において、己心のなかに悟る極理であることを示している。
十境と十乗
 「十境・十乗」とは、観心すべき十種の対境と、十種の観法のことである。
 「十境」とは、止観の修行者がいま現に直面しているか、以後の修行の進展の過程で直面するであろう十種の対境をさす。
 すなわち、①陰界入境②煩悩境③病患境④業相境⑤魔事境⑥禅定境⑦諸見境⑧増上慢境⑨二乗境⑩菩薩境のことである。このなかの陰界入境で一念三千の名数が明かされている。
 「十乗」は「十境」の一つ一つについて、なされるべき十種の観法で、得道の境界まで乗せ運ぶ方法といえよう。
 すなわち、①観不思議境②起慈悲観③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥修道品⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛の十種である。
 上根の者は①観不思議境だけで得道できるが、中根の者は⑦対治助開から①観不思議境までの観法によって得道でき、下根の者は⑩無法愛から①観不思議境まで全部、修行しなければ得道できないとされている。
 ①観不思議境とは、衆生の一念がそのまま本来、三千の諸法を具えた不可思議な妙境であると観ずることである。
 この①観不思議境こそ、摩訶止観全十巻の肝心であり、十種の観法の根本となる。
 「夫れ一心に具す等と云云」といわれているのは、摩訶止観巻五上の文で、日蓮大聖人はこの文を、法本尊開顕の書である観心本尊抄の冒頭に「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり 一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」(0238-02)と、引用されている。その理由は、大聖人が末法に建立される観心の本尊は、この一念三千を事のうえに顕されたものであるゆえである。
 妙楽大師は中国・唐代の人で天台大師から五世の法孫であり、天台大師の玄義・文句・止観の注釈書を著すなど天台の法門を宣揚し、後世、天台宗中興の祖といわれた。
 妙楽大師は前掲の摩訶止観の文を、止観輔行伝弘決巻五で釈して「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時、此の本理に称って一身一念法界に遍し」と記している。
 「身」は主体として自己の、「土」はその身が存在する国土のことである。また「一身」は所証の境、「一念」は能証の智であり、「法界」は十法界、「遍し」は遍満する意である
 衆生の瞬間の心のなかに十法界の全体・三千世間が本来具わっているゆえに、成道の時、つまり我が身が一念三千であると悟った時には、この一念三千の妙理にかなって、自分の一身一念は宇宙法界に遍満し、自在の境地を証得するという意である。
 大聖人の文底下種の立場からいえば、「一念」は衆生の信心、「本理」は久遠元初の本地難思境智冥合の妙法即御本尊、「法界に遍し」自受用身をいう。つまり、南無妙法蓮華経の御本尊を信受することによって、この妙法の本理にかない、信心の一念は法界に遍満して能証の智となり、少しの煩悩も断ずることなく、名字凡身のままで自受用身を成就することができるというのである。
 御講聞書には「身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり一念とは此の衆生の念念の作業なり、故成道時称2此本理1とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり法界とは五大なり、所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前蓮華化生なれば称此本理の成道なり、本理に称うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり、法華経の本理に叶うとは此の経を持ち奉るを云うなり、若有能持則持仏身とは是なり」(0809-一本因本果の事-02)と説かれている。
 この天台大師所立の観法である「一念三千・一心三観の法門」は、法華経方便品第二の十如是がその出処である。「所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」の文がそれである。
 この止観巻五の文の意味は「百界千如三千世間」ということで、一心に三千を具することを明かしたのである。

0412:07~0412:15 第二章 十如是三転読誦の意義を明かすtop
07                                                   さて
08 一心三観と申すは余宗は如是とあそばす 是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、 されば当
09 宗には天台の所釈の如く 三遍読に功徳まさる、 第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義な
10 るが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は 我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是
11 相・是れ我が身の色形顕れたる相なり 是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是
12 を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、 第三に相如是と云うは中道と申して 仏の法身の形
13 なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり 又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、 此の三を法報応の
14 三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す 此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて
15 三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。
-----―
 さて一心三観ということは余宗は「如是」とする。これは誤っており二つの義が欠けている。天台大師・南岳大師の御義を知らないゆえである。だから当宗では天台大師の解釈にしたがって、三遍読むのであり、そこに功徳が勝るのである。第一に「是相如」と相・性・体・力以下の十を如という。如と云うのは空の義であるゆえに、十法界は皆、空諦である。これを読み観ずる時は、我が身即、報身如来である。八万四千また般若ともいう。第二に「如是相」、これは我が身の色形に顕われた相である。これは皆、仮である。相・性・体・力以下の十なので十法界は皆、仮諦といって仮の義である。これを読み観ずる時は、わが身即、応身如来である。また解脱ともいう。第三に「相如是」というは中道といって仏の法身の形である。これを読み観ずる時は、我が身即、法身如来である。または中道とも法性とも涅槃とも寂滅ともいう。この三つを法・報・応の三身とも空・仮・中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳ともいう。この三身如来は全く外にない。我が身即三徳の究竟の体であり三身即一身の本覚の仏である。これを知るのを如来とも聖人とも悟りともいい、知らないのを凡夫とも衆生とも迷いともいう。

如是
 「是くの如し」と読む。万物のありのままの姿。
―――
僻事
 道理にあわないこと。事実と違っていること。
―――
南岳
 515年~577年。中国・南北朝時代の北斉の僧。慧思のこと。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、『立誓願文』(558年、大蘇山にて)を著した。この『立誓願文』には正法500年、像法1000年、末法1万年の三時説にたち、自身は末法の82年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著『法華経安楽行義』では、法華経安楽行品第14に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。天台大師【観音・南岳・聖徳太子】日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(604㌻)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(608㌻)とされている。
―――
是相如
 「是の相は如なり」と読む。一切諸法の相が皆、如であること。玄義巻二上には「十如是」の空仮中の三諦の義で読むことが説かれ、「是相如」と読み空諦の義をあらわすとしている。
―――

 同じ・等しい・如し・ありのまま・そのまま。
―――
空の義
 一切の存在はそれ自体の本性がなく、固定的に実存するものではないという意味。
―――
十法界
 十界のこと。衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したもの。六道の中では、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」とし、この三悪道に比べれば相対的にはよいことから、修羅・人・天は「三善道」とされる。また三悪道に修羅を加えて、「四悪趣」ともいう。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。小乗の教えに基づき覚りを目指す声聞・縁覚は「二乗」と呼ばれる。これに菩薩を加えて「三乗」と呼ばれる。法華経以外の経典では、十界はそれぞれ固定化された世界・境涯としてとらえられていた。しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命にそなわる10種の境涯であることを示した。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべてそなわっており、縁によって次にどの界の境涯をも現せることが明らかになった。このように十界の各界が互いに十界をそなえていることを十界互具という。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
空諦
 三諦のひとつ。あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。
―――
報身如来
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
八万四千
 大数、多数のこと。
―――
般若
 仏にそなわる3種の徳相のひとつ、真理を覚る智慧。
―――
如是相
 法華経方便品第二・十如是の第一。表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。
―――
色形
 色と形のこと。外面にあらわれた姿・形。
―――

 事物・事象の形像・姿・状態。
―――

 実体のないこと。虚・権・方便。
―――
仮諦
 三諦のひとつ。あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。
―――
応身如来
 仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
解脱
 仏にそなわる3種の徳相のひとつ、生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。
―――
相如是
 「相は是の如し」と読む。姿・振る舞いがそのまま実相にかなうこと。法華経方便品第二の第二の十如是の二番目を空仮中の三諦の義で読むと「相如是」と読み、中諦の義をあらわしている。
―――
中道
 三諦のひとつ。中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。
―――
仏の法身の形
 仏身に具わる法報応の三身のうちの法身の体をいう。法身とは真理もしくは法性そのもの。常住不変の法それ自体・法仏・法身仏・自性身・法性身ともいう。
―――
法身如来
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
法性
 万物を貫く根本の法そのもの、仏の覚りの本質。真理であり、万物のあるべき姿を示すものなので、法性真如ともいう。
―――
涅槃
 サンスクリットのニルヴァーナの俗語形の音写。泥洹ともいう。覚りを得て輪廻の苦悩から解放された、完全な平安で自在な境地のこと。この境地に至ることを解脱という。小乗の教えに基づく二乗たちは、覚りを得て、死後二度とこの世界に生まれて来ないことを涅槃(無余涅槃)と考え、その境地を目指した。
―――
寂滅
 寂滅は覚りの境地。道場は覚りを得る場所。釈尊が今世ではじめて覚りを開いた、伽耶城(ガヤー)の菩提樹の下のこと。
―――
法報応の三身
 仏としての本質的な3種の特性。①法身(仏が覚った真実・真理)②報身(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に表した姿、慈悲の側面)の三つをいう。
―――
空仮中の三諦
 仏が覚った究極の真理を三つの側面から捉えたもの。諦とは、明らかな真実・真理のこと。天台大師智顗は『法華玄義』『摩訶止観』で、空諦・仮諦・中諦の三つを挙げている。①空諦は、あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。②仮諦は、あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。③中諦は、中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。天台大師は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。蔵・通・別・円の四教に即していえば、蔵・通の二教は中道を明かさないので三諦が成立せず、別教と円教には三諦が説かれる。別教の三諦は、「但空・但仮・但中」として互いに隔たりがあり、融和することがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を観じて塵沙惑を破し、さらに中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。これに対し、円教の三諦は、三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。この円融三諦の法門は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張をはらみながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無礙の世界観を開くものである。この三諦を一心に観ずることを一心三観といい、天台大師は一心三観の中核として一念三千の観法を立てた。
―――
法身・般若・解脱の三徳
 仏にそなわる3種の徳相のこと。①法身とは仏が証得した真理、②般若とは真理を覚る智慧、③解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。
―――
三身如来
 法身・報身・応身という仏の三つの側面を一身にそなえ、本来的に覚りをそなえている仏のこと。
―――
三徳究竟の体
 法身・般若・解脱の三徳を具えた尊極の当体。
―――
三身即一身
 仏の三つの側面である法身(法そのもの)、報身(智慧と功徳)、応身(慈悲)の三身が、一身にそなわっていること。
―――
本覚の仏
 本覚とは、始覚に対する語。久遠よりの覚りのこと。本覚の仏は、本来そのままの姿で覚っている仏である。
―――
如来
 仏の尊称である十号の一つ。サンスクリットのタターガタの漢訳で、「真如(真実)から来た」という意味。もとは修行を完成した者の意で諸宗教で用いられていたが、仏教では釈尊や諸仏の呼び名とされた。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――

 物事の道理を明かに感知すること。迷いを離れ、真理・実相を証得すること。仏界を意味する。
―――
凡夫
 普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者。
―――
衆生
 サンスクリットのサットヴァの訳。衆とも有情とも訳す。薩埵と音写する。広義には一切の有情(感情・意識をもつもの)をいう。狭義には、無明や煩悩をもって迷いの世界に住む人をさす。
―――

 物事の真理・真実を如実に覚知せず、貧・瞋・癡等の煩悩に執着すること。またその状態をいう。
―――――――――
 一心三観ということについて、同じく十如是を読むにも三通りの読み方があり、「天台の処釈」に基づいて、空・仮・中の三諦、法・報・応の三身、法身・般若・解脱の三徳の義がそこにあらわれていることを述べられている。
 「余宗は如是とあそばす」とは、諸宗では十如是の文を、単に「如是」という義にしか読んでいないということである。
 「如是」とは「是くの如き」と読み、ありのままの事物・事象のすがたということであるから、中諦を意味する。したがって、空諦・仮諦の「二義」が欠落しているので、法華経の本意に合致しない「僻事」であると指摘され、それは、法華経を悟り究めた天台大師、ならびに天台大師の師である南岳大師慧思所立の義を知らずにいるためであると仰せられている。
 「天台南岳の御義」と仰せられているのは、法華玄義巻二上の「今経には十法を用いて一切法を摂す。所謂、諸法の如是相…本末究竟等なり。南岳師、此の文を読みて皆如という。故に読んで十如と為すなり。天台大師の云く、義に依って文を読むに、凡そ三転ありと。一に云く、是相如、是性如、乃至是報如なり。二に云く、如是相、如是性、乃至如是報なり。三に云く、相如是、性如是、乃至報如是なり。若し皆如とするは、如は不異に名づく。即ち空の義なり。若し如是相、如是相と作すは、空の相性を点ずるに名字施設し邐迤不同なり、即ち仮の義なり、若し相如是と作すは、中道実相の是に如す、即ち中の義なり。分別して解し易からしむ、故に空仮中を明かす。意を得て言を為せば、空即仮中なり。如に約して空を明かさば、一空一切空なり。如を点じて相を明かさば、一仮一切仮なり。是に就いて中を論ずれば、一中一切中なり。一二三に非ずして、而も一二三、不縦不横なるを名づけて実相と為す。唯仏と仏とのみ、此の法を究竟したまえり。是の十法に一切法を摂す」の文を踏まえられたと考えられる。
 ここで日蓮大聖人は「天台の所釈」つまり天台宗の立義に基づき、先の法華玄義の文を示されている。「三遍読に功徳まさる」という意義を、三諦と三身と三徳の関係に即して述べられている。
 すなわち「相性体力以下の十を如と云ふ」とは、第一に是相如=是の相は如なり、是性如=是の性は如なり、是体如と、「如」に帰してよむのである。如は「如を不異に名く即ち空の義」(0810-一如是我聞の事-02)であるゆえに、十法界はみな空諦に配される。「是を読み観ずる時は我が身即・報身如来」とあらわれるのである。報身如来とは智慧を体とする仏身のことである。
 また「八万四千」ともいい、三徳に約せば「般若」ともいうと仰せであるが、ここでいう「八万四千」は塵労、すなわち煩悩のことで、八万四千の煩悩が即八万四千の菩提となることを意味する。「般若」は智慧の意である。
 第二に、如是相=是くの如き相、如是性=是くの如き性、如是体と、「相」「性」「体」等に立て分けて読む。そのように立て分けられる面は仮に和合したものであるから、仮諦に配されることになる。「是を読み観ずる時は我が身即・応身如来」とあらわれるのである。具体的な姿を現じた仏身のことである。三徳に約せば「解脱」ともいうのである。
 第三に、相如是=相は是くの如し、性如是=性は是くの如し、体如是と「如是」に力点を置いて読む。「如是」は中諦に配され「是を読み観ずる時は我が身即法身如来」とあらわれるのである。
 「中道と申して仏の法身の形なり」と述べられているように、法身の体そのものは「中道」であり、空諦でも仮諦でもなく、そのいずれにも偏らず、しかも両者を具足する体である。これを「中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す」と説かれている。いずれも真理もしくは悟りの体そのものの意である。
 以上のように、空・仮・中の三諦は法・報・応の三身に対応しており、この関係については、総勘文抄に「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり」(0573-07)と御教示されている。
 三諦、三身、三徳の関係を図示すれば次のようになる。

 三諦 

 三身 

 三徳 

 空諦 

 報身 

 般若 

 仮諦

 応身

 解脱

 中諦

 法身

 法身

 しかも、この三身如来は我ら凡夫の生命を離れたどこかにあるのではなく、我が身のうえのことである、と仰せである。
 十如是事には「三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり」(0410-05)と述べられている。
 また「我が身即三徳究竟の体」、すなわち凡夫の我が身がそのまま法身・般若・解脱の三徳を具えた究極の当体であり、「三身即一身の本覚の仏」であると教えられている。
 爾前の諸経においては、仏身も仏土も、凡夫の生命を離れた別の世界にあると説かれてきたのであるから、驚天動地の法門とうことができよう。
 「三身即一身」とは法・報・応の三身が一仏身に具わっていることをいい、「本覚」とはもともとの悟りの意である。
 すなわち、自らの生命がもともと「三身即一身の本覚の仏」であると悟り知っている人を「如来とも聖人とも悟りとも云う」のであり、これを知らずに目を外に向け、何かに頼ろうとして定まらずにいる存在を「凡夫とも衆生とも迷いとも申す」のである。
 これと同じ趣旨の御文は、十法界事に「をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり」(0410-14)をはじめ、諸御書に数え切れないほどある。
 したがって、衆生といい、仏といっても、凡夫の我が身が三身即一身の本覚の如来であると悟っているか、知らないで迷っているかの相違にある。“悟り”は仏の智慧を得ることであり、“迷い”は仏の智慧から離れ、間違った考えにとらわれることでもある。
 一生成仏抄に「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」(0384-03)と、凡夫の心を鏡にたとえて御教示されている。
 すなわち、迷いにとらわれている凡夫の心は「磨かざる鏡」、つまり曇った鏡であり、曇った鏡も磨けば法性の悟りの生命となるのである。
 ここで大事なことは、曇った鏡と、磨いて輝くようになった鏡とは、別のものではなく、その体は同じだということである。
 ただ凡夫の生命も、仏の生命も、生命自体は同じであるといっても、凡夫としての迷いの状態と、仏としての悟りの境地の間には、天地の相違があることもたしかである。
 その悟りの境地へ変えていく方途について、大聖人は同抄で「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(0384-05)と、日夜朝暮に怠らぬ唱題を勧められているのである。

0413;01~0413:06 第三章 仏と凡夫の無二無別を説くtop
01   十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、 此の千如是に衆生世
02 間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、 百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て
03 空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、 法門多しと雖も但三諦なり此の三諦
04 を三身如来とも三徳究竟とも申すなり 始の三如是は本覚の如来なり、 終の七如是と一体にして無二無別なれば本
05 末究竟等とは申すなり、 本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理
06 即の凡夫なる我等と 差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、
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 十界の衆生がおのおの互いに十界を具足する。合すれば百界である。百界におのおの十如是を具すれば千如である。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千世間である。百界と顕れた姿形は皆、すべて仮の義だから仮諦の一義である。千如是はすべて空の義だから空諦の一義である。三千世間は総じて法身の義だから中道の一義である。法門が多いといっても、ただ三諦に収まる。この三諦を三身如来とも三徳究竟ともいうのである。
 初めの三如是は本覚の如来である。終わりの七如是と一体であって無二無別だから本末究竟等とはいうのである。本ということは仏性、末ということは未顕の仏、九界の名である。究竟等というのは妙覚究竟の如来と理即の凡夫である我等と差別がないことを究竟等とも平等大慧の法華経ともいうのである。

各互に十界を具足す
 十界互具を意味する。
―――
十如
 法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是(このような)」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
―――
衆生世間
 一念三千の法門を構成する三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)の一つ。衆生には十界のそれぞれに特徴があり違っているので、衆生世間という。
―――
国土世間
 一念三千の法門を構成する三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)の一つ。国土は、衆生が住む世界、その世界を構成する山川草木など非情のすべてをさす。ここでいう世間は、差異の意。国土は十界それぞれに特徴があり違っているので、国土世間という。
―――
五陰世間
 一念三千の法門を構成する三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)の一つ。五陰は五蘊ともいい、一つの生命を構成する心身の五つの要素(色・受・想・行・識)をさす。ここでいう世間は、差異の意。五陰は十界の衆生それぞれに特徴があり違っているので、五陰世間という。
―――
色相
 色身の相貌。外形にあらわれた姿。
―――
始の三如是
 十如是のなかの初め、如是相・如是体・如是力のこと。
―――
終の七如是
 十如是のなかの如是力以下をいう。如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等をいう。
―――
本末究竟等
 本と末は一貫して等しいこと。
―――
仏性
 一切衆生にそなわっている仏の性分、仏界。
―――
妙覚究竟の如来
 最高の悟りの仏、52位の最高位である妙覚、六即の最高位である究竟即の果報を具足した仏を指す。これらはいずれも元品の無明を断じ、一切の仏果を得た最高位である。
―――
理即の凡夫
 生命の本性(理)としては仏の境地をそなえているが、仏法を知らず、その仏の境地が迷いと苦悩に覆われている普通の人。六即のうちの最初の段階。
―――
差別
 区別・けじめ。
―――
平等大慧の法華経
 「平等大慧」とは、諸仏の実智のこと。諸法平等の理を悟り、一切衆生を平等に利益する仏の智慧をいう。法華経は平等大慧の大法であるが、末法今時においては三大秘法の南無妙法蓮華経である。
―――――――――
 百界・千如・三千世間が空・仮・中の三諦に約されることを示されるとともに、十如是の本末究竟等の法理から、妙覚究竟の仏と我ら凡夫は一体にして無二無別であることを説かれている。
 まず生命に具わる三千の相貌について述べられる。本文の「十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり」が十界互具である。「十界互具」とは十界のおのおのに十界の変化相を具えることを意味している。この「互具」によって、九界の迷いの凡夫の生命に仏の生命が内在し、その仏界を顕現できる可能性が示されたのである。
 また百界は一界一界におのおの「十如」を具えているゆえに「千如」となる。地獄界から仏界までの十界が、十如是という平等の真理に即してあらわれるのである。
 この千如是に五陰・衆生・国土の三世間が具わるゆえに三千世間となり、現象世界のすべてが我が一念に欠けることなく具するのである。
 言い換えれば、十如には必ず十界の差別相があり、更にその十界の差別相をもってあらわれる生命には、必ず身土が具わっている。“身”が五陰・衆生の二世間であり、“土”が国土世間となることはいうまでもない。天台大師は摩訶止観巻五上で「此の三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん。介爾も心有らば、即ち三千を具す」と釈している。
 この一念三千を三諦に配すると、百界とあらわれた差別の色相は、すべて因縁和合の義であるから、三諦のなかの仮諦の一義である。千如はすべて「如を不異に名く即ち空の義」であるから、三諦のなかの空諦の一義である。また三千世間はすべて諸法の本体・法身の義であるから、三諦のなかの中諦の一義になる。仏法は八万法蔵といわれるほど法門の数は多いが、所詮は「但三諦」に尽きるのである。ちなみに、総勘文抄では、一代聖教を三諦に配され、法華経を中諦、華厳経を空諦、阿含・方等・般若の諸経を仮諦として、「一代の総の三諦なり」と御教示されている。この三諦を仏身に約せば「三身如来」、果徳に約せば「三徳究竟」ともいうと仰せである。
 次に、十如是を「始の三如是」と「終の七如是」に分け仏と衆生に差別がないことを「究竟等」の義として明かされている。
 「始の三如是」とは、相・性・体の三如是のことでる。「終の七如是」とは、残りの力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の七如是をいう。十如是事では「此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」(0410-06)と述べられている。
 三如是が“体”であるとすれば、七如是は“用”という関係になる。“用”とは働き、作用の意である。そして「始の三如是」と「終の七如是」とは「一体にして無二無別」であるから、「本末究竟等とは申す」と仰せである。「究竟」とは、物事の究まったところ、事理の極意などの意とされる。如是相から如是報に至る九如是が一つに帰趣するところ、一貫して等しいことを「究竟等」というのである。
 日寛上人は、三重秘伝抄で「初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究って中道実相なるを本末究竟等と云うなり」と御教示されている。天台大師も「本末究竟等」について、法華玄義巻二で「初めの相を本となし、後の報を末となし、帰趣する所の処を究竟等となす」と述べている。
 すなわち、如是相から如是報まで一貫して統一した姿を示す一念の働きにほかならないのである。例えば如是相が地獄界で、如是性が餓鬼界、如是体が仏界であるなどということはありえないのである。
本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり
 「仏性」とは仏の生命のことである。「未顕の仏」とは、仏性を末だ顕現していない仏という意味で、九界の衆生のことである。「妙覚究竟の如来」とは仏のことである。妙覚とは仏の覚りの位をいい、一切の煩悩や無明に侵されない無上の悟りの境地をいう。「理即の凡夫」とは、理の上では仏性を具えている九界の衆生のことである。つまり、この御文は仏と九界の衆生とのあいだに大きな違いがあることはまぎれもない事実であるが、その本来の体を究めていくと、九界の衆生も仏と同じ妙法の当体であり、その意味ではそこに差別がないことを示しているのである。
 「平等大慧」とは、あらゆる九界の衆生を仏と等しい境界に引き上げようとする仏の智慧をいう。この一切衆生の成仏のため仏の悟った智慧を明かしたのが「法華経」なのである。しかし、これは仏の慈悲によって説かれた法理であり、九界の衆生が直ちに仏と同じであると考えるのは誤りである。
 末法今時にあっては「平等大慧の法華経」とは、いうまでもなく三大秘法の南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人御図顕の本門戒壇の大御本尊にほかならない。この御本尊に南無し奉っていく時、御本尊の功徳力によって、我々九界の衆生にも仏性が顕現してくるのである。

0413:06~0413:14 第四章 衆生は能生、仏は所生top
06                                      始の三如是は本覚の如来なり本覚の
07 如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば 我等は妙覚の父母なり 仏は我等が所生の子なり、 止の一に云く「止は則
08 仏の母・観は即仏の父なり」と云云、 譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ 我が蔵に宝のある事を知
09 らずかつへ死しこごへ死す、 或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、 然るに或は
10 教えられて食し或はくくめられて食するが如し、 弘の一の止観の二字は 正しく聞体を示す聞かざる者は本末究竟
11 等も徒らか、 子なれども親にまさる事多し重華はかたくなはしき父を敬いて 賢人の名を得たり、 沛公は帝王と
12 成つて後も其の父を拝す其の敬われし 父をば全く王といはず敬いし子をば王と仰ぐが如し、 其れ仏は子なれども
13 賢くましまして悟り出し給へり、 凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず 委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふ
14 むなんど悪口す大なる僻事なり。
-----―
初めの三如是は本覚の如来である。本覚の如来を悟り出したのが妙覚の仏だから我等は妙覚の父母である。仏は我等の所生の子である。摩訶止観の巻一に「止は則ち仏の母、観は即ち仏の父である」といっている。譬えば、人が十人いるとして、各自が蔵々に宝を積んでいるのに、我が蔵に宝があることを知らず、飢え死にして凍え死ぬ。あるいは一人、このなかに賢い人がいて、蔵の中の食物に気づくようなものである。他の九人はついに知らない。しかし、あるいは教えられて食べ、あるいは口の中に含められて食べるようなものである。妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一に「止観の二字は正しく聞体を示す。聞かない者は本末究竟等も徒らであろう」とある。子であるけれども親に勝ることは多い。重華は偏屈な父を敬って賢人の名を得た。沛公は帝王となって後もその父を拝礼した。その敬われた父を全く王といはず、敬った子を王と仰ぐようなものである。いったい仏は子であるが、賢くあられるので悟り出された。凡夫は親であるが、愚かであって未だ悟らない。詳しい道理を知らない人は、毘盧遮那仏の頂上を踏むなどと悪口するが、これは大なる誤りである。

妙覚の仏
 妙覚も仏もともに元品の無明を断じ、一切の仏果を具えた最高の位。成仏の境涯のこと。
―――
我等は妙覚の父母なり
 我ら衆生は、もともと一念三千の当体であり仏であるが、それを悟っていないゆえに凡夫である。我ら凡夫は本覚の仏であると悟れば妙覚の仏となる。したがって我ら衆生は妙覚の仏を生み出す親になるのである。
―――
所生の子
 生み出された子供のこと。凡夫から生み出された仏をさす。
―――
聞体
 所聞の法体のこと。
―――
重華
 舜王のこと。古代中国の伝説上の帝王。名は重華。虞舜ともいう。五帝の一人。堯王とともに堯舜と併称され、ともに儒教では理想的な帝王とされた。『史記』によると、頑迷な父をはじめ家族は悪徳で乱れていたが、舜は孝行して導いた。これを知った堯王から認められ、帝位を譲り受け国号を虞とし、善政を行った。舜王には商均という子がいたが、洪水を治め功労があった配下の禹に帝位を譲り没した。禹は夏王朝の祖とされる。
―――
賢人
 智慧ある聡明な人。日蓮大聖人は、先人の正しい教えに基づき行動し人々を教え導く人、他の人が気づいていないことに気づいて、無理解や非難や迫害を恐れず、正しいことを述べ、警告を発し、救おうとする人を賢人とみなされている。中国の季札・弘演・比干・竜逢、孔子・周公旦、日本の菅原道真らが賢人とされている。仏教の中では、仏法の覚りを分々に得ている聖人に対して、聖人に近づいているもののまだ凡夫である人をいうことがある。三賢、七賢などの位が立てられる。
―――
沛公
 劉邦のこと。紀元前247年~前195年。前漢の初代皇帝。廟号は高祖。沛県の出身のため沛公と呼ばれる。項羽とともに秦を滅ぼしたが、その後の覇権を項羽と激しく争い、紀元前202年、垓下の戦いに勝利し天下を統一。漢を建国した。
―――
帝王
 君主・元首・皇帝。
―――
愚癡
 ①愚かであること。因果の道理をはじめ、仏法の教えを理解できないこと。貪欲・瞋恚とともに三毒の一つとされ、最も根本的な煩悩と位置づけられる。無明と同一視される。②一般語として、言ってもかいのないことを言って嘆くこと。泣きごと、不平不満などを言って、ふがいなさを話すこと。愚痴とも書く。
―――
毘盧の頂上をふむ
 禅宗の教え。法身如来の頂上を踏み越えること。
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 初めの三如是は本覚の如来である。終わりの七如是と一体であって無二無別だから本末究竟等とはいうのである。本ということは仏性、末ということは未顕の仏・九界の名である。究竟等ということは、妙覚究竟の如来と理即の凡夫である我等と差別がないことを究竟等とも平等大慧ともいうのである。
 前章に関連し、衆生と仏の関係について、衆生は能生の父母、仏は所生の子であるとの義を示されている。しかし、衆生はいまだ己心の妙法を悟らずにいることから“聞法”の大切さを教えられている。
 「始の三如是は本覚の如来なり」と仰せのように、三如是をそのまま体とする仏が本覚の如来である。それは一切衆生に共通普遍の生命の姿でもある。また三如是は本門の三身如来と対応している。
 一切衆生は、総じて理の上でいえば本覚の如来である。十如実相の法理によって、衆生の当体は十界互具の妙法蓮華経であり、心中の仏性は理性として本覚の如来を示している。ゆえに総勘文抄で「此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり」(0568-13)と述べられているのである。六即位でいえば理即の凡夫をさす。
 その衆生のなかにあって、我が身が本覚の如来であると開覚したのが「妙覚の仏」である。仏を“尊極の衆生”と呼ぶ所以である。
 本来、我ら衆生は本覚の如来であるが、その自らの生命の正しい姿を知らないでいるのが九界の凡夫であり、自らの生命を正しく悟っているのが仏である。それゆえに、仏とは衆生が自身の生命の正しい姿に目覚めた時のことをさしているのである。
 この観点に立てば、仏にとって我ら衆生は能生の父母であり、また仏は我ら衆生の所生の子ということになる。衆生と仏を「本末究竟等」の「本末」に配すれば「本」は衆生、「末」は仏になる。
 本文ではその裏づけとして、天台大師は「止は則仏の母・観は即仏の父なり」の釈を引用されている。天台家では、止観行で定心に住し、智慧によって一切諸法の妙理を体得することから、止観は成仏のための父母とされているのである。
 ところが法華経譬喩品第三には「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とあり、仏が父、衆生が子とされている。この文意について、日蓮大聖人は総勘文抄で「仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり」(0565-04)と述べられている。
 これは、仏を父、衆生を子とするのはそれ自体、衆生を化導するために、真実の悟りの法を知る智慧の仏を“父”に、愚かな生き方をしている愚癡の衆生を“子”にたとえたのであるとされ、方便であることを明かされている。そこで大聖人は、迷いの九界の衆生と、悟っている仏との違いを、たとえをもって示されるのである。
 本文の「人十人」とは十界の衆生を意味する。「面面に蔵蔵に宝をつみ」とは、十界の衆生のそれぞれの生命に秘められている仏性をたとえられている。仏性という尊極無比の宝が自身の生命に内在することを知らない九界の衆生は「かつへ死しこごへ死す」と仰せのように、生死流転するのである。
 「一人此の中にかしこき人ありて」とは妙覚の仏を仰せられている。それは、自分の蔵の中に宝のあることを知って、自ら取り出したようなものであり、他の「九人は終に知らず」と、九界の衆生との違いを教えられている。
 しかし、その「九人」も、仏法を聴聞し、信受すれば成仏が可能となるのであり、それはあたかも食べ方を教わって食べ、あるいは口に含められて食べるようなものであるとたとえられている。
 妙楽大師が止観輔行伝弘決巻一で「止観の二字は正しく聞体を示す」と聞法の重要性を強調しているように「聞かざる者」つまり不信の人には、「本」の衆生と「末」の仏と究竟して等しいと説く法華経の「本末究竟等」の勝れた法理も空しく、いたずらごとでしかないと戒められているのである。「聞体」は聴聞した法体のことで、ここでは摩訶止観の理の一念三千を意味するが、元意は三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。なお、“聞”とは単に耳で聞くだけでなく“信”の義をもつことを銘記したい。
 次に、仏は衆生の子であるといっても、子が親に勝れる例は多くあることだと、中国古代の「重華」と「沛公」を例示されている。「重華」は中国古代の伝説上の皇帝・虞舜のことで、重華は字である。舜は幼くして母を失い。盲目の父と継母との間に象という弟がいた。父は異母弟の象を偏愛して舜を虐待したが、よく父母に仕え、孝養を尽くしたとされる。開目抄にも「重華はかたくなはしき父をうやまひ」(0186-03)と仰せである。30で堯王の信任を受けて登用され、後に摂政となり、堯帝の没後61歳で舜王となった。その際も天子の旗を立てて、父の元へ参じて札を尽くしたといわれる。在位18年、その間、よく善政を敷き、民も服し、事績も大いに上がったという。儒家では、堯・舜の二王を理想的君主とし、以後、長く政治の手本とした。
 「沛公」は、前漢王朝を開いた高祖・劉邦のことである。垓下の戦いで項羽を破り天下を統一、B.C0202年、皇位に就いて都を長安に定め、漢朝を創業した。在位12年、善政を施し自からは5日に1度、父の大公を拝したといわれる。
 いずれも敬われた父は王位に就かず、敬った子のほうが王と仰がれたわけである。
 同様に、仏は子であっても、賢くして本覚の如来であることを悟ったゆえに勝れているのであり、凡夫は親であっても、理非に迷い、いまだ本覚の如来であることを悟らずにいるため劣るのである。
 それゆえに、仏の説法を聴聞して悟れば、仏と等しい境界が開けるのであるから、“聞法”が大事であるといわれているのである。
委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す大なる僻事なり
 我ら衆生は仏の父母、仏は我ら衆生の子であるなどといえば、仏法の法理に暗い人は、安直に「毘盧の頂上をふむ」ものだなど、大聖人に悪口を浴びせるが、それは「大なる僻事」すなわち見当違いも甚だしい誤りであると破折されている。「毘盧の頂上をふむ」とは、もと禅宗が言った言葉である。「毘盧」は微盧遮那の略で法身仏をいう。ここでは当時の無知の徒が「仏の頂上を踏むようなけしからん言動」という意味で用いられたものと思われる。
 出典は、中国栄代の禅宗の一派、雲門宗の雪竇重顕の書・壁巌録巻十で、同書に「斎宗帝…国師に問うて云く、如何なるか是れ十身調御。師云く、壇越、毘盧の頂を踏みゆけ」とある。「仏の十号を会得するとは仏の頂を踏み越えていくこと、すなわち仏の身相にさえ執着してはならない。そうすれば我が身が仏である」との意という。仏をないがしろにする禅宗の増上慢の邪義である。
 日蓮大聖人は蓮盛抄でこの邪義を取り上げ、厳しく破折されている。「毘盧とは何者ぞや若し周遍法界の法身ならば山川・大地も皆是れ毘盧の身土なり是れ理性の毘盧なり、此の身土に於ては狗・野干の類も之を踏む禅宗の規模に非ず・若し実に仏の頂を踏まんか梵天も其の頂を見ずと云えり薄地争でか之を踏む可きや、夫れ仏は一切衆生に於いて主師親の徳有り若し恩徳広き慈父を踏まんは不孝逆罪の大愚人・悪人なり」(0152-09)と。

0413:15~0414:05 第五章 一心三観成就の境界示すtop
15   一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり委く申すに及ばず候、 此の三観を心得すまし成就し
16 たる処を華厳経に三界唯一心と云云、 天台は諸水入海とのぶ 仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなき
17 を平等大慧と云うなり、平等と書いては・おしなべて・と読む、此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無
18 し法華経に遇わざれば争か成仏す可きや、 余経には六界八界より十界を明せどもさらに具を明かさず、 法華経は
0414
01 念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば 我が身本覚の如来なること悟り出され 無明の雲晴れて法性の月明かに
02 妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、 此を即身成仏
03 とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、 此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、 され
04 ば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、 此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか
05 弥陀薬師等の浄土とは云わん、 是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふ
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 一心三観について次第の三観、不次第の三観ということがある。詳しくいうに及ばない。この三観を心得て成就したところを華厳経に「三界唯一心」と説いている。天台大師は「諸水入海」と述べている。仏と我らとすべて一切衆生は理性において同一であって隔てがないのを平等大慧というのである。平等と書いては、おしなべてと読む。この一心三観・一念三千の法門は諸経に全くない。法華経にあわなければ、どうして成仏することができようか。他の諸経には六界・八界から十界を明かしているが、具足の義を明かしていない。法華経では念々に一心三観・一念三千の意義を観ずると、我が身は本覚の如来であることが悟り出され、無明の雲が晴れて法性の月は明らかに、妄想の夢が醒めて本覚の月輪は清らかに、父母の所生の肉身・煩悩具縛の身が即、本有常住の如来となることができる。これを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃ともいう。このとき法界を照らし見れば、ことごとく中道の一理で、仏も衆生も一如である。だから天台大師の摩訶止観巻一に「一色一香、中道にあらざることなし」と解釈している。このとき十方世界は皆、寂光浄土であるから、いずれの所を阿弥陀・薬師等の浄土といえようか。これをもって法華経方便品第二に「是の法は法位に住して世間の相は常住である」と説かれている。

次第の三観
 別教で立てる三観。空仮中の三観を個別に分別し、次第に観ずること。
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不次第の三観
 円融三観・一心三観のこと。一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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三界唯一心
 三界はすべて一心のはたらきにほかならないこと。三界唯心ともいう。
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諸水入海
 「諸水海に入る」と読む。すべての河川の水はすべて海に入り、一様に塩辛い味になることから、爾前諸教を諸水に、法華経を海に譬え、一代聖教はすべて法華経に摂し尽くされることを示したもの。
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理性一
 理性においては一体であること。理性とは普遍的な真理のこと。一切の事物・事象の中に本来そなわっている本性で、永遠に変わることのない根本的な法則・真理をいう。
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成仏
 仏になること。成道、作仏、成正覚ともいう。
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六界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道のこと。迷いの境涯。
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八界
 十界のうち、菩薩・仏界の二界を除いたもの。どの二つかは諸説あって定まらない。
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無明の雲
 無明を雲にたとえたもの。無明とは一切の煩悩の根本となる無明惑のこと。成仏を妨げる根本の迷いをいう。
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法性の月
 法性を月にたとえたもの。法性とは一切諸法が本然に具えている真実不変の性分のこと。真如・実相・仏性のこと。
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妄想の夢
 妄想を夢に譬えたもの。妄想とは道理に合わない想いや考え方。妄心・妄念ともいう。
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本覚の月輪
 本覚を月輪に譬えたもの。本覚は本来的に具わっている覚りのこと。
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煩悩具縛の身
 煩悩を具えた生老病死などの四苦・八苦に縛られる凡夫の境涯のこと。煩悩とは衆生の身心を煩わし悩ませる種々の精神作用の総称。
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本有常住の如来
 本有は、本来ありのままあに存在するもの。また、その存在のこと。本来固有なこと。修正または修成に対する語。常住は、過去・現在・未来にわたって常に存在し生滅変化がないこと。如来は仏のことで十号のひとつ。真如にしたがって到来し、真如から現れ出た者のこと。如去ともいう。一切諸法の根本を悟り、三世の因果に通達した者。本来固有で生滅変化することなく、三世にわたって常に存在する仏を本有常住の如来という。
―――
即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
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煩悩即菩提
 煩悩に覆われている凡夫であっても、妙法を信じ実践することで、その生命に仏の覚りの智慧(菩提)が発揮できること。生死即涅槃とともに、即身成仏を別の角度から示したもの。▷
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生死即涅槃
 生死の苦しみを味わっているその身に涅槃(覚りの平安な境地)が開かれること。「生死」は煩悩・迷いによって苦悩する境涯であり、九界の衆生の境涯である。「涅槃」は仏の覚りの平安な境地である。法華経では九界の衆生に仏知見がそなわっていることを説いて十界互具を明かし、法華経を信じ実践することで、その仏知見をこの身に開き現し、この一生でただちに成仏できることを説く。即身成仏と同義で、得られる果報の境涯の観点から述べた言葉。因の観点から述べたのが、煩悩即菩提である。
一色一香中道に非ざること無し
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十方世界
 「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
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寂光浄土
 寂光土・浄寂光土・仏の住する国土・四土の一つ・仏国土。
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弥陀
 阿弥陀如来のこと。浄土経典に説かれ、西方の極楽世界を主宰する仏。阿弥陀はサンスクリットの原語であるアミターユスまたはアミターバの音写で、アミターユスは「無量寿」、アミターバは「無量光」と訳される。無量寿経によれば、阿弥陀仏の修行時代の名を法蔵菩薩といい、長期の修行の果てに48の衆生救済の誓願を成就し仏に成ったという。そして臨終に際して阿弥陀の名をとなえる者のところへ阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土に導き入れるという。浄土教では阿弥陀仏の誓願に基づいて、念仏によってその浄土である極楽へ往生しようとした。
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薬師
 薬師如来のこと。詳しくは薬師琉璃光如来という。東方の浄瑠璃世界の教主である仏。薬師経に説かれる。菩薩道を行じていた時に12の大願を発し、病苦を取り除くなどの現世利益をもたらそうと誓っている。日本天台宗では比叡山延暦寺の根本中堂の本尊とされる。
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浄土
 仏の住む清浄な国土のこと。また、国を浄めるという意に使うこともある。煩悩でけがれている穢土(衆生の住む娑婆世界)に対し、仏の住む国土は五濁の垢に染まらず清らかなので浄土という。浄土については大別して2種の考え方がある。①浄土と現実の娑婆世界とはまったく異なった世界であるとする説。無量寿経などに説かれる。菩薩が修行を経て仏になる時に完成する国土で、阿弥陀経に説かれる阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界、釈迦仏の西方無勝世界、薬師如来の東方浄瑠璃世界などがある。こうした諸仏の浄土が、娑婆世界からみてあらゆる方角(十方)にあるので、十方浄土という。②維摩経に「其の心浄きに随って則ち仏土浄し」と説かれるように、心が清浄になれば住む世界も清浄となり、現実の娑婆世界が即浄土となる(娑婆即寂光)との説。法華経如来寿量品第16に説かれる霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、大乗密厳経の密厳浄土などがこれにあたる。なお爾前経に説かれた種々の浄土観は、衆生の機根を法華経へ導くための方便説であり、釈尊は法華経本門において初めて久遠実成を明かし、本因・本果・本国土を説いて、娑婆世界こそ仏の常住する浄土であると明かした。
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 一心三観を成就した悟りの境界について、経釈を挙げて示され、悟りの時は仏も衆生も不二であり、所住の十方世界はことごとく寂光浄土であることを説かれている。
一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり
 「一心三観」はすでに述べたように、天台大師が摩訶止観巻五等に明らかにした観心修行の法門である。三観は空観・仮観・中観をいう。これに対するのが「一境三諦」で、一つの対象に空・仮・中の三諦が円満に具足していることをいい、これを自己の一心に観ずることが一心三観である。 さて、本文の「次第三観」とは、別教で立てる三種の観法のことで、空・仮・中の三諦を別個に分別し、次第に観ずることをいう。隔歴三観・別相三観ともいう。
 摩訶止観巻三上に「観に三種あり、従仮入空・従空入仮・中道第一義」とある。すなわち、空観とは、絶えず変化する無常の諸法は“仮”の相であるゆえに本体はなく“空”であると悟って「仮従り空に入る」ことをいう。仮観とは“空”からかえって現実の現象世界を照らし晴らし“仮”を活用する境地を開いて「空従り仮に入る」ことをいう。中観とは、それまでの空・仮二観を修めて後に得られる不偏中正の境地をいう。空・仮を法摂しつつ、しかもいずれにも偏しない最高の観法であるゆえに「中道第一義」というのである。
 別教では、所観の対境を、空諦→仮諦→中諦と証していく過程に応じて、能観の主体も空観→仮観→中観と、三種を順次に次第に修行していくことから、「次第の三観」というのである。
 「次第の三観」とは、理解、説明のために時間的段階を追って説かれたのであり、天台大師の摩訶止観の本意は、次下に「不次第の三観」を詳説していることでも明らかなように、衆生の一念に、一時に空・仮・中の三諦の理を観相する円融三観を示すことにある。
 円融三諦については第一章で既述したとおりであり、この三観を円教では初めから直ちに修するゆえに「不次第の三観」というのであり、円融の一心三観ともいう。
 この円融三観を会得し、究めたところの悟りの境地を、華厳経では「三界唯一心」と説き、天台大師は「諸水入界」と述べていると仰せである。 「三界唯一心」とは「三界は唯一心なり」と読む。三界のあらゆる事物は、ただ一心のあらわれであり、心を離れては存在しないとする説で、三界唯心ともいう。この文は、華厳経巻二十五の「三界は虚妄にして但是れ心の作なり」の文や、巻十の「心は工なる画師の如し、種種の五陰を画く。一切世間の中に法として造らざる無きなり」の文、また巻五十四の「菩薩摩呵薩は三界の唯心、三世の唯心を知る」等の文の意を取られたものとされる。ここで華厳経という権大乗教の経文を用いられるのは、法華経の開会の立場からなされていることはいうまでもない。
 「諸水入海」は法華玄義巻三下の文である。天台大師は大智度論巻二十三の文を引用して「釈論に云く『諸水、海に入れば、同一の鹹味なり』」と述べられている。
 すなわち、河川等の諸水も大海に入ると、すべて塩辛い味の水になってしまうとの意で、爾前権教を諸水に、法華経を大海にたとえ、釈尊一代の聖教はすべて法華経に摂し尽くしてしまうことをいったものである。ここでは悟りの境地に入れば、九界の衆生も仏も全く差別がないという意で用いられている。
 このように「仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云う」と仰せである。「理性」とは、仏と我らと一切衆生の本性に、もともと具わっている仏性をさし、この“三”は理性のうえでは全く隔てなく、差別がないのである。御義口伝に「理とは実相の一理なり」(0721-第一譬喩品の事-10)と説かれている。
 「平等大慧」は、一切衆生を平等に利益する仏の智慧をいう。法華経見宝塔品第十一に「能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法蓮華経を以って、大衆の為に説きたもう」とある。
 本文に「平等と書いては・おしなべて・と読む」と述べられているように、法華経は一切衆生をすべて一様に即身成仏へ導く教えであるということである。
 このように法華経は、一切衆生に分別を設けないゆえに「無分別法」ともいい、いかなる衆生にも成仏できる道が開かれたことから「皆成仏道」というのである。
 この「一心三観・一念三千の法門」は、法華経以外の諸経には全く説き明かされていないのであるから、成仏は法華経に遇わなければ不可能ということになる。
 諸経には地獄などの六界、また声聞・縁覚を加えた八界、さらに菩薩界・仏界を加えて十界が説かれているものの、十界が格別の世界として説かれていて、いまだ「具」つまり衆生の一念に具足することが明かされていないから、成仏の法門は「たえて之無し」なのである。
 それに対し法華経は十界互具・一念三千を明かしているゆえに「一心三観・一念三千の謂れ観ずれば」、すなわち妙法を信受することによって、凡夫である我が身がそのまま「本覚の如来」とあらわれるのである。「謂」とは真の意、元意ということで、「一心三観・一念三千の謂」は文底下種の南無妙法蓮華経を意味する。
 立正観抄に「一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり」(0531-18)と仰せのように、一心三観は法華経によって立てられた観心修行であり、その修行の結果、到達する悟りとは、妙法を悟ることにほかならないのである。ゆえに、この妙法を成就した悟りの境地について次下に明かされるのである。
無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す
 まず、迷いの「無明」を雲に、悟りの「法性」を月にたとえられている。「無明」とは、自己の胸中に仏性が具わっていることを悟られないでいる状態をいい、「法性」とは、一切のものがもともと具えている真実不変の性分、すなわち仏性のことで、また仏性を悟った境地をいう。
 総勘文抄に「本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり」(0564-07)と説かれている。
 一言でいえば、「無明」は迷い、「法性」は悟りであるといえる。この迷いと悟りは、諸経では全く別なものとされてきたが、法華経では無明・法性といってもその体は不二であると明かされている。このことを日蓮大聖人は、当体義抄で「迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり」(0510-07)と仰せられている。つまり、迷い・悟りといっても、決して別々に離れてあるのではなく、一念の変化であり、本体は一つなのである。言い換えれば、「無明」「法性」という体があるわけではなく、いわば両者は表と裏の関係にあるのであり、これらの当体が妙法なのである。 では、なぜ迷いの「無明」、悟りの「法性」という違いがあらわれるかといえば、それは善・悪の縁によるのである。末法今時では御本尊に日々唱題に縁していることが悟りの「法性」を開く直道である。
 また、迷いに執着する「妄想の夢」を無明に、「醒て」を法性に、「本覚の月輪いさぎよく」を妙法の当体とあらわれた境地にたとえられている。当体義抄でも「譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり」(0510-10)と述べられている。
 我々は夢を見ているとき、実際の出来事のように幸・不幸を感じている。しかし、夢から覚めて、これを思い返してみれば、自分自身の一心の作用であったことが分かる。つまり、幸・不幸の差別はあったとしても、我が一心に作る夢であることに変わりはないのである。
 そして、父母から生まれた煩悩具縛の肉身そのままで「本有常住の如来となる」と仰せである。「父母所生の肉身」を煩悩・悪業の根源として忌み嫌い排斥する宗教が少なくないなかで、凡夫がそのまま尊極の仏であるととかれたことは、まさに大きい意義をもつといえよう。
 このように無明を法性に転じ、凡夫の肉身そのままで仏であると悟ることを「即身成仏」とも「煩悩即菩提」「生死即涅槃」ともいうのであると御教示されている。
 「煩悩即菩提」とは、煩悩と菩提は本来、相反するものとされるが、煩悩を断尽することなく、妙法の力でそのまま菩提へと開いていくことをいう。煩悩とは貧瞋癡などから起こる迷い、菩提とは悟りの智慧をいう。
 「生死即涅槃」とは、生死がそのまま涅槃となることをいう。生死は迷いの境界であり、涅槃は悟りの境地である。
 このように仏の悟りの境地から法界全体をみれば、あらゆる存在は「中道の一理」すなわち中道法性の当体とあらわれるのであるから、仏も衆生も一体不二であると仰せになっているのである。
天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり
 その裏づけとして、天台大師の所釈を引用されているところである。この釈は摩訶止観巻一上の文で、万物・万象はすべて中道法性の当体であるとの意である。
 「一色一香」の「一」とは、そのもの全体の意で、一・二・三とあるなかの「一」ではない。唯一無二の実相を「一」といっているのである。草木成仏口決に「二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり」(1339-04)と説かれているのはこの意である。「色」は形にあらわれたもの、「香」は香りあるものの意で、ともに物質存在をさす。「一色一香」とは法界全体、森羅万象をいう。「中道」とは中道法性をいい、円融自在の妙理をいう。ゆえに、あらゆるものは、中道実相、十界三千の生命の当体のあらわれであることを述べたものである。草木成仏の依文とされる。「此の時」すなわち成道の時は、依正不二で、十方世界ことごとく「寂光浄土」、つまり、仏国土であると仰せられている。
 諸経では、凡夫の住む娑婆世界を煩悩と苦しみが充満する穢土であるとし、仏の住む浄土は十方の彼方にあるとした。しかし、法華経本門寿量品第十六に至って、この娑婆世界に仏は久遠以来、常住してきたことが明かされ、今まできらわれていた娑婆世界が、そのまま本有の寂光浄土とあらわれたのである。ゆえに開目抄に「今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり方の浄土は垂迹の穢土となる」(0214-03)と述べられている。
 この寿量品の説法により、その国土を寂光土とするか、穢土とするかは、すべてそこに住する人の一念で決まるのであり、正報である衆生の開悟によって、依報の世界が即浄土と変革されることが明かされたのである。したがって、諸法で十方の彼方にあるとされてきた阿弥陀仏の極楽浄土、薬師如来の浄瑠璃世界などは架空の方便土にすぎない。ゆえに本文で「何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん」と、厳しく指摘されているのである。
法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふ
 このように仏の悟りの境地から一切世界をみれば、すべて常住不変の仏土である文証として、法華経方便品第二の文を示されている。これは九界の権と仏界の実との理が一つであることをたたえた文である。九界も仏界も、本来、その本体は真如の法位におさまっており、差別ある相そのまま常住不変であって、これらの現象のほかに実相はないとの意である。
 「是の法」とは、一乗のことである。「法位に住して」とは無明と法性と一如の位、すなわち真如の法位に住することをいう。「世間の相」とは現実世界の無常にして差別ある姿をいう。「世間」は差別の義である。「常住なり」とは、生滅無常の差別の相も、本有常住の妙法の体であることをいう。
 天台大師は、法華文句巻四下で、この文を釈して「是法住法位の一行は理一を頌するなり、衆生と正覚は一如にして二無く、悉く如を出でず、皆如法を位と為すなり。世間相常住なりとは、出世の正覚は如を以って位と為し、亦如を以って相と為す。位相常住なり。世間の衆生も亦如を以って位と為し、亦如を以って相と為す。豈常住ならざらん。世間の相既に常住なり。豈理一に非ずや。又世間を釈せば、即ち是れ陰・界・入なり。常住とは、すなわち正因なり。然るに此の正因は六法に即せず。縁了は六法を離れず正因常の故に縁了も亦常なり、故に世間の相常住なりと言う」と述べている。
 また妙楽大師はこの釈を受けて、法華文句記巻五中で、衆生と正覚はいずれもその本体は真如の法を出ないが、染浄の二法によって衆生となり、正覚とあらわれているのであると述べている。
 さらに日蓮大聖人は御義口伝で「此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり」(0787-01)と説かれている。すなわち、衆生の己心にある仏性は永遠不変であり、常住であるから、衆生は本来、仏であり、万法は本覚の当体である、との意である。

0414:05~0414:12 第六章 観念観法も妙法五字に納まるtop
05                                                 さては経
06 をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば 一念三千の観念も一心三観の観法も 妙法蓮華経の五
07 字に納れり、 妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、 天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥
08 蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、 さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身
09 と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、 天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を
10 示す故に号して法と為す、 久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、 不二の円道に会す之を譬うるに華を以て
11 す、 声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、 又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十
12 如・権実の法なり」と云云
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 それでは、経を読まなくとも心地の観念ばかりで成仏できるかと思えば、一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まっている。妙法蓮華経の五字はまた我らの一心に納まっている。天台大師の法華玄義本序に「この妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもうところである」と解釈している。さてこの妙法蓮華経を唱えるとき、心中の本覚の仏が顕れる。我らが身と心を蔵にたとえ、妙の一字を印にたとえている。天台大師の法華玄義私序王にの「秘密の奥蔵を発く。これを称して妙となす。権実の正軌を示すゆえに号して法となす。久遠の本果をさす。これをたとえるに蓮をもってする。不二の円道に会す。これをたとえるに華をもってする。声は仏事をなす。これを称して経となす」と解釈している。「妙とは不可思議の法を讃えるのである。また妙とは十界・十如・権実の法である」という。

心地
 ①観じ念ずること。対象を心に想い浮かべて観察し思念すること。心を対象とする観念を観心という。天台大師智顗は『摩訶止観』で観心を説き、一念三千の法門を明かした。日蓮大聖人は、末法においては、成仏の法である一念三千の法門は、成仏のための因行果徳のすべてが納まった妙法蓮華経という題目の五字を受持することにあるという受持即観心を説かれた。②日常の語としては、覚悟すること。あきらめること。
―――
一念三千の観念
 瞬間の心・生命に三千の諸法が具足することを観照すること。
―――
一心三観の観法
 一瞬の心の中に空仮中の三諦が円融相即して具わっていることを観ずること。
―――
観法
 法すなわち事物・事象に対して心を静めて集中し、智慧を発現させてその対象を観察すること。
―――
妙法蓮華経の五字
 ①法華経の経題。②法華経の観心・南無妙法蓮華経。
―――
本地
 本来の境地。垂迹に対する語。仏・菩薩が、この本来の境地から、人々を救済するために仮に現した姿を垂迹という。
―――

 印相のこと。仏・菩薩・神々などを象徴するもので、特定の手・指の組み方(手印)や刀剣などの諸仏が所持する器具で表すもの(契印)がある。密教では、印と真言によって、仏・菩薩などの力が行者に備わり、祈禱が成就すると説く。
―――
久遠の本果
 「久遠」とは久遠実成のこと。釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。「本果」は本果妙・成仏したという結果をいう。
―――
不二の円道
 権実不二の円道のこと。法華経において開権顕実の義が明かされ、9界の権と仏界の実とが円融して不二であるということ。
―――
褒美
 ほめること。しるしとして品物・金品を与えること。
―――
権実の法
 権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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 これまで天台大師の法門をふまえ、観心修行による成仏について述べられてきたが、本段では天台家の一念三千の観心・一心三観も、所詮は妙法蓮華経の五字に納まるとされ、その意義を天台大師の釈を用いて明かされている。
 当時の天台宗・禅宗のあいだで、経を読誦しなくても観念観法の修行のみで成仏できるとしていた邪義を破されながら、日蓮大聖人独自の立場から末法適時の正義を示されるのである。
 すなわち、天台大師が法華経によって立てた一念三千の観念・一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まるのであり、妙法蓮華経の題目を唱えることであると仰せられている。
 それは、一心三観は、所詮、妙法を悟るための修行の方法にすぎないからであり、文永11年(1274)ご述作の立正観抄に「妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり」(0531-01)と述べられていることでも明らかである。「観門」は実践的修行方法のことである。換言すれば、天台大師は自身の内証の妙法を秘して、外用として一心三観・一念三千を説いたということができよう。
 しかも、この妙法蓮華経の五字は「我等が一心に納りて」と仰せのように、我ら衆生の生命の当体である。観念観法の究極の悟りである妙法蓮華経は、もともと衆生の一心に納まっているのであるから、妙法蓮華経の五時の題目を唱えることによって、我が身が妙法の当体であると覚知し成仏することができるのである。
妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵
 天台大師自身、妙法蓮華経について、法華玄義本序で「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり…三世の如来の証得する所なり」と釈している。
 この文について、元意の辺でいえば「本地甚深」とは久遠元初をさす。すなわち、妙法蓮華経は人法一箇の久遠元初の自受用身が胸奥に秘めておられる大法であり、三世の諸仏が等しく成仏得道した能生の根源である、との意である。
 日寛上人はこの文について、題目抄文段で三大秘法を含むと、次のように述べられている。
 「本地」とは本門の戒壇である。本尊の住するところの地なるゆえに本地というのである。「甚深」の二字は本門の本尊である。そのゆえは天台大師の言葉に「実相とは甚深に名づく」とあり、その実相とは「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」で、一念三千を意味する。しかるゆえに「甚深」とは一念三千即本門の本尊となるのである。
 「奥蔵」の二字は本門の題目である。すなわち題目に万法を含蔵するゆえである。したがって三世の諸仏の所証の大法・一切衆生の眼目は、実に三大秘法にほかならないのである。
 更に、日蓮大聖人は、御講聞書で「此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり五字を蔵と定む」(0844-妙法蓮華経五字の蔵の事-01)と説かれ、また、妙法信受の我ら衆生の身に約し「末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり」(0831-貧人見此珠其心大歓喜の事-12)と仰せになっている。
 この妙法蓮華経の当体である御本尊を信受し、題目を唱えるとき、我ら衆生の生命に内在する「本覚の仏」があらわれると仰せである。
 ゆえに、我ら衆生の身と心を「蔵」に、妙の一字を「印」にたとえられている。我ら衆生の「身と心」は本覚の仏を蔵する尊極の当体であり、その蔵を開くカギこそ「妙の一字」にほかならないということである。
天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う
 次に、それを裏づける「天台の所釈」を引用されている。この釈は、章安大師の法華玄義私記縁起私序王の文である。章安大師が天台大師の序王に倣って一経の玄意を述べるなかで、妙法蓮華経の五字を釈したものである。
 「秘密の奥蔵」とは仏の悟りの極理をさし、仏がいまだ説いたこともなく、しかも仏のほかにだれも知らないゆえに「秘密」という。この秘密の奥蔵を開く鍵を「妙」としている。御義口伝には、この釈の文を示したあと、「妙の一字を以て鑰と心得可きなり」(0741-第十如却関鑰開大城門の事-07)と説かれている。「鑰」とは「鍵」のことである。
 「権実の正軌を示す故に号して法と為す」とは、法華経は十界互具を説き、権と実の関係を正しく明らかにした規範であるゆえに、「法」としているとの意である。
 「久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす」とは、「蓮」はハスの実を意味することから久遠の本果をさし、釈尊が久遠の昔に証得した仏果、すなわち五百塵点劫第一番成道のことを「蓮」によってあらわしている。
 「不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす」とは、因位の衆生に権実不二の円妙の道を示すことで、この権実不二の理を「華」によってあらわしている。「華」はハスの花を意味することから、果実に対して因果の義がある。
 「円道」の「道」は因位の修行をあらわしている。妙楽大師は法華玄義釈籤巻一で「円に会するに華に譬う…位猶因に在り。故に名づけて道と為す」と釈している。
 「声仏事を為す之を称して経と為す」とは、声をもって法を説き衆生を教化することが仏の所作、振る舞いであるということである。この文を受けて妙楽大師は、法華玄義釈籤巻一で「声仏事を為すとは且く仏世に拠るも、義、滅後に通ず。故に名づけて経と為す」と釈し、仏の音声が滅後に経として書き留められ、仏事をなすとしている。大聖人は御義口伝で「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり」(0708-09)と説かれている。したがって、仏の内証に即していえば、一切衆生の言語・音声はすべて経であり、なかんずく正法を説く言語・音声が仏の振る舞いであるということである。
又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云
 この釈は法華玄義の序分である法華私記縁起のなかの文で、「妙とは不可思議の法を褒美するなり」は、譚玄本序の「言う所の妙とは、不思議の法を褒美するなり。また妙とは十法界十如の法なり、此の法即ち妙、此の妙即ち法、二無く別無し、故に妙と言うなり」の文をさしている。続く「又妙とは十界・十如・権実の法なり」とは、序王冒頭の「言う所の妙とは、妙は不可思議を名づくるなり。言う所の法とは、十界十如権実の法なり」の文をさしている。
 ともに「妙」について、言語や思慮で計ることのできない「不可思議の法」と称嘆した義釈であることから、一括して示されたと拝される。
 また「法」については「十界十如権実の法」すなわち、十界各界に十如が具わり、迷いの九界を「権」、悟りの仏界を「実」として一切法を明かしているのが妙法の「法」の意であると解釈しているのである。

0414:12~0415:01 第七章 唱題に観念も具わる義を示すtop
12               経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、 されど
13 も天台止の二に而於説黙と云へり、 説とは経・黙とは観念なり、 又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみ
14 に非ず亦能く理に契うの要なるをや」と云云、 天台大師と申すは薬王菩薩なり 此の大師の説而観而と釈し給ふ元
15 より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり 四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむ
16 ねとし一向観心を面とす、法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の
17 直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、 されば天台玄の一に「衆善の
18 小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは 残らず引導し給うを申すなり、 仮使釈尊一人・本懐と宣べ給う
0415
01 とも等覚以下は仰いで 此の経を信ず可し況や諸仏出世の本懐なり、
-----―
 経の題目を唱えることと観念と一体であることは納得できないと愚癡の人は思うであろう。しかし天台大師は摩訶止観巻二に黙について説いている。すなわち説とは経、黙とは観念である。また四教義巻一に「ただ功をむなしくして捨てるものでないだけでなく、よく理にかなうための要なのである」と言っている。天台大師という人は薬王菩薩の化身である。この大師が説而観而と釈している。もとより天台大師の法華文句巻一に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈がある。四種の解釈を知らなくて、一種類の解釈を見た人は一向に本迹をむねとし、一向に観心を面とする。法華経迹門に法説・譬喩説・因縁説ということがある。法説の段に至って、諸仏の出世の本懐は一切衆生成仏の直道と定める。我のみならず一切衆生の直至道場の因縁であると定めたのは題目である。だから天台大師の法華玄義巻一に「衆善の小行を開会して広大の一仏乗に帰す」とある。広大というのは残らず引導し給うことをいうのである。たとい釈尊一人だけが出世の本懐であると述べられるとも、等覚以下は仰いで、この経を信ずべきである。まして法華経はあらゆる諸仏の出世の本懐なのである。

題目
 ①経論の題名。②法華経の題名である妙法蓮華経のこと。③日蓮大聖人は経典の題名がその経典の肝心であると仰せになり、南無妙法蓮華経があらゆる経の肝心であり、一切の教えが含まれているとされている。
―――
四教義
 天台大師の述作。天台宗の大綱はこの1巻に尽きるといわれる。八教大意を中心として各相を詳説し、五時の教判,化義の四教を略説している。
―――
唐捐
 むなしく捨てる、いたずらに捨てること。
―――
説而観而
 経文を読誦すること。己心を観ずること。
―――
因縁
 ①原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。②四縁(因縁・次第縁・縁縁・増上縁)の一つ。果を生む直接的原因のこと。狭義の因の意。③説法教化の縁由。なお、法華経迹門の化城喩品第7における過去世からの釈尊と声聞の弟子たちのつながりを明かし因縁を示した教説において、正法を信解し未来における成仏の保証を与えられた人々を因縁周という。④経典をその形式・内容に基づき12種類に分類した十二部経の一つ。ニダーナの訳。縁起ともいう。説法教化の縁由を示すもの。⑤因縁釈のこと。天台大師智顗が『法華文句』で法華経の文々句々を解釈するために用いた4種の解釈法(四種の釈)の一つ。世界・為人・対治・第一義の四悉檀で仏と衆生との関係、説法の因縁を釈したもの。
―――
因縁・約教・本迹・観心
 天台大師智顗が『法華文句』で用いた経典解釈の4種の方法。因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈のこと。①因縁釈は衆生の機根とそれに応える仏の化導との関係から解釈し、②約教釈は蔵・通・別・円の四教の観点から解釈し、③本迹釈は法華経の本門と迹門という観点から解釈し、④観心釈は実践面から解釈する。
―――
本迹
 本門と迹門のこと。法華経28品を前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を比較相対して、本門の教えが迹門の教えよりも優れていることを示したもの。本迹とは本地(仏・菩薩などの本来の境地)と垂迹(衆生を教え導くために仮に現した姿)という意味。法華経の後半14品は釈尊が本地を顕した法門なので本門といい、前半14品はまだ本地が顕れていないので迹門という。法華経の前半14品では、権教と同様、釈尊がインドの伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で今世で初めて覚りを得た(始成正覚)という立場で説かれている。それに対して後半14品では、釈尊は五百塵点劫という長遠の過去に成仏していた(久遠実成)という釈尊の真実の境地(本果)が明かされた。また、成仏のために菩薩道を行じたという因(本因)が示され、成仏を目指す菩薩としての寿命も今もなお尽きず今後も長く続くことが明かされた。これによって、菩薩をはじめとする九界と仏界、すなわち十界すべての常住が明かされた。さらに迷いの衆生が住む娑婆世界が久遠の仏が常住する国土であること(本国土)が明かされた。このように本因・本果・本国土が明かされることによって、十界の依正の常住が示され、一念三千が事実の上で確立した。それ故、本門の一念三千は、「事の一念三千」と位置づけられる。これに対して、迹門に説かれる一念三千は、方便品の十如実相の文などによって理論上は確立しているが、それは事実の上ではなく、あくまで理論上にとどまっているので、「理の一念三千」と位置づけられる。このように、本門では釈尊の真実の境地(本地)、覚りの真実の全体が明かされて、現実に成仏する道が確立したのに対して、迹門ではまだ方便の教えが残り、成仏のための教えも理論上にとどまる。それ故、本門の教えは迹門よりも優れている。
―――
観心
 ①自身の心を観ずる仏道修行。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、天台大師智顗の『摩訶止観』に説かれた一念三千を成仏のための観心の修行とみなされ、その根幹を凡夫が自身の心を観じて十界がそなわることを見ることであると明かされた。その上で、一念三千を直ちに表現した曼荼羅を本尊として信じ受持することが末法の衆生にとって観心に相当し、これによって成仏できることを明かされた。この法門を受持即観心という。②教理の面である教相に対して、仏道修行の面をいう。また経典の表に現れている文上の教理の面に対して、そこに指し示されている文底の覚りの真実の面をいう。③天台大師が『法華文句』で経典の文々句々を解釈するに当たり用いた四種釈の一つである観心釈のこと。観心釈とは、仏道修行者の身に即して実践的な面から行う解釈のこと。
―――
法・譬・因縁
 法華経迹門の正宗分八品の法説周・譬説周・因縁周の三説法のこと。
―――
法説の段
 三周の説法のうちの法説周のこと。ここでは諸仏の出世の本懐、一切衆生の成仏の直道が明かされ、舎利弗が記別を受けている。
―――
出世の本懐
 ある人がこの世に出現した真実究極の目的。【法華経に説かれる仏の出世の本懐】法華経迹門の方便品第2で、釈尊は「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」(法華経120㌻)と述べ、諸仏がこの世に出現するのはただ一つの理由があるとする。続いて「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」(法華経121㌻)と述べ、「開示悟入の四仏知見」を明かしている。すなわち、釈尊をはじめ諸仏の出世の本懐とは、法華経を説いて万人に仏知見(仏の智慧)が本来そなわっていると明かすこと、また、それを開いて仏の境涯を実現する道を確立することであるとする。また同品に「我は本誓願を立てて|一切の衆をして|我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき|我が昔の願いし所の如きは|今者已に満足しぬ」(法華経130~131㌻)とあり、釈尊にとって自身と等しい仏の大境涯に人々を到達させることが菩薩であった過去世からの願いであり、その根本の誓願が万人成仏の法華経を説くことによって果たせたと述べられている。本門寿量品では、この根本の誓願の成就によって、この世でなすべき仕事を終えた釈尊は涅槃に入る。しかし、それもまた方便であり、誓願を立てた菩薩としての寿命も、成道して得た仏としての寿命も実は尽きておらず、永遠にこの娑婆世界に常住していると明かしている。すなわち、菩薩としての誓願、仏としての大願、いずれも一切衆生の成仏であるが、それを実現しようとする、永遠の仏の力・はたらきがこの世界に常に存在することを示しているのである。【天台大師・伝教大師の出世の本懐】日蓮大聖人は、法華経の教えをふまえて、難を勝ち越えて法華経に基づく信仰を宣揚した天台大師智顗と伝教大師最澄について、像法時代の中国で活躍した天台大師にとっては『摩訶止観』を講述して成仏のための実践である一念三千という観心の法門を説いたこと、像法時代の末に日本で活躍した伝教大師にとっては法華円頓戒壇を建立し法華経に基づく戒法の確立を図ったことを、それぞれの出世の本懐と位置づけられている。【日蓮大聖人の出世の本懐】大聖人の出世の本懐は、釈尊の教えが功力を失う末法において、万人成仏を実現する道を確立することである。すなわち末法の人々が学び実践して成仏するための法を説き示すことである。大聖人は、その法とは法華経本門の文底に秘されていた仏種である南無妙法蓮華経であると説き示された。大聖人は若き日に、仏法の肝要を知る智者となって、すべての人を苦悩から根本的に救うという誓願を立てられる。この誓願の成就が、御生涯をかけて目指された根本目的であると拝される。大聖人は、万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経を説き、本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目という三大秘法を明かし、未来永遠にわたる広宣流布の基盤を確立された。大聖人は、弘安2年(1279年)10月1日に「聖人御難事」(1189㌻)を著され、「出世の本懐」に言及されている。同書は、駿河国(静岡県中部)の富士地方の農民信徒が、政治的権力による不当な弾圧で命を奪われる危機にあっても、妙法の信仰を貫いた「熱原の法難」を機にしたためられたものである。社会的には地位も権力もない農民信徒の不惜身命の姿に、民衆が大難に耐える強盛な信心を確立したことを感じられ、大聖人は同抄を著された。この熱原の法難において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して、不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことにより、世界の人々を救うための日蓮大聖人の仏法が現実のものとなった。このことにより、生涯をかけた根本目的、「出世の本懐」を達成されたのである。
―――
直道
 一生成仏への正しい道。平和楽土建設への根本的解決の道。
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直至道場
 譬喩品に「此の宝乗に乗じて、直ちに仏道に至らしむ」とある。宝乗とは御本尊、御本尊を信じて、即身成仏することをいう。御本尊を信じ、唱題したときに、すでにいかなる難があろうと、仏界に照らされた悠々たる人生行路のこと。
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因縁
 ①原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。②四縁(因縁・次第縁・縁縁・増上縁)の一つ。果を生む直接的原因のこと。狭義の因の意。③説法教化の縁由。なお、法華経迹門の化城喩品第7における過去世からの釈尊と声聞の弟子たちのつながりを明かし因縁を示した教説において、正法を信解し未来における成仏の保証を与えられた人々を因縁周という。④経典をその形式・内容に基づき12種類に分類した十二部経の一つ。ニダーナの訳。縁起ともいう。説法教化の縁由を示すもの。⑤因縁釈のこと。天台大師智顗が『法華文句』で法華経の文々句々を解釈するために用いた4種の解釈法(四種の釈)の一つ。世界・為人・対治・第一義の四悉檀で仏と衆生との関係、説法の因縁を釈したもの。
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引導
 導くこと。案内すること。
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等覚
 ①仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。②菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。
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 妙法蓮華経の題目を口唱することが止観の観念と同じになることを、同じく天台大師の所釈を引用して述べられている。
 まず、経の題目を読誦することと観念することが同一である。といえば、「愚癡の人」にはなかなか得心しがたいであろうが、それが天台大師の本来の正説であることを示されている。
 いうまでもなく「観念」は一念の心に三千の諸法が円満に具わっていることを観ずる天台家の修行である。
 唱題と観念と「一なる事」となるのは、先に述べたように「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納」っているからにほかならない。法理を学び尽くして己心を観ずる観念の修行と、法理も分からないだけで題目を口唱することが同じ結果を生むということに対しては、納得しがたいという批判があったのである。
 そこで天台大師の摩訶止観巻二上の「而於説黙」の文を示されているが、同書に「而於説黙」の文は見当たらない。ただ同書に、修行の方法について四種三昧のうちの常坐三昧を説くなかで、「身の開遮」「口の説黙」「意の止観」が論じられているので、その文意をとられたものと拝される。
 「口の説黙」の修行については、「内外の障りがせまってきて、正念の心を奪われ、払い除くことができないときには、もっぱら一仏の名字を称える」としている。
 また本文に「説とは経・黙とは観念なり」と述べられているように、「説」は仏の名号や経文を読誦することであり、「黙」は己心を観念することである。
 このことから、天台大師の本意は、法華経から離れて、ただ己心において証得しようとする観法でないことは明らかである。
 もとより一心三観・一念三千は、法華経によって三昧に入り、悟りを開発した観法であるから、基盤になっている法華経を離れて観念観法などあろうはずがないのである。
 日蓮大聖人の文底下種仏法に即していえば、「説」は南無妙法蓮華経の題目を唱えて弘通することであり、「黙」は南無妙法蓮華経の当体である御本尊を信受することにあたる。まさしく「説」「黙」は同一である。
 また天台大師は維摩経の題号を蔵・通・別・円の四経に分けて注釈し、一代聖教の大網を論じた大本四教義巻一でも「聴説受持」について、修行の功をムダにしないばかりでなく、これが法理を悟る肝要であると釈している。「唐捐」は空しく捨てる、いたずらに棄てる意である。
 天台大師は薬王菩薩の化身とされている正師であり、その天台大師自らが「説而観而」と釈しているのであるから、異論をはさむ余地は全くないわけである。「説而観而」は「而於説黙」と同義であり、天台家の修行において読誦と観念は同時に具わっていることを示している。
元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり
 天台大師は、法華文句で法華経の経文やその語句を解釈するとき、因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈という四種の釈を用いている。これを四釈・四種釈ともいう。
 法華文句巻一上に「今、文を帖するに四と為す。一には列数、二には所以、三には引証、四には示相なり。列数とは、一に因縁、二に約教、三に本迹、四に観心なり。始め如是より而退に終わるまで、皆四意を以って文を消す」とある。
 因縁釈とは、法華経の文々句々の語句の起こってきた由来、あるいはそれらが説かれたときの仏と衆生の関係を説いて釈する方法である。約教釈とは、化法の四教に基づいて、浅いものから深いものへと、四種に釈する方法である。本迹釈とは、本地と垂迹の二義に基づき、迹の現実の姿から、その奥にある永遠なる本地を明らかにする解釈法である。観心釈とは一々の文々句々を観心の対境とし、それによって自己の心の広大で、高いことを観じさせていく方法である。
 このように、元来、天台はこれら四種をすべて踏まえて解釈したのであるが、後世の人のなかに、そのいずれか一つにとらわれて偏った考え方をするようになったことを指摘されている。
 すなわち、天台の「観心」は決して法華経の文から離れたものではなかったのであり、その法華経の肝要が題目であるゆえに、題目を唱えることが法華経の法理を観ずることになると仰せられているのである。
法華経に法・譬・因縁と云う事あり
 また法華経には、上根・中根・下根の機の声聞にそれぞれ領解できるよう法説・譬説・因縁説の三説に分けて説かれたが、その要は法説に納まっており、ゆえに説法の段で「諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道」と定められたことを述べられている。
 法説周は、釈尊が法華経方便品第二で十如実相の法門を説き、開三顕一を明かして上根の舎利弗を得道させたことをいう。譬説周は、譬喩品第三の三車火宅の譬などの譬喩によって、中根の迦葉など四大声聞を領解させたことをいう。
 因縁周は、化城喩品第七で三千塵点劫以来の師弟の宿世の因縁を説き、下根の阿難・富楼那などの声聞を得道させたことをいう。
 このなかの「法説の段」である方便品第二において、釈尊は法華経を「諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定」めているのである。
 方便品では十如実相に約して略して、一念三千・一仏乗の義を説いて、更に広開三顕一を詳説する。すなわち、「諸仏世尊は、唯一大事因縁を以っての故に、世に出現したもう」と、衆生をして仏知見を開示悟入させることが根本目的であると明かすのである。しかも、この化導の方式は、五仏道同、すなわち総諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏が、同じ説法の筋道をとるとしいる。この十如実相・一念三千の当体が「妙法蓮華経」であるゆえに、釈尊一人のみならず、三世十方の諸仏が「一切衆生・直至道場の因縁なり」と判断したのが、妙法蓮華経の「題目」であると述べられている。秋元御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と説かれている。
 「直至道場」とは即身成仏する意である。法華経譬喩品第三に「此の宝乗に乗じて、直ちに道場に至らしむ」とある。「宝乗」とは大白牛車のことで、妙法をあらわしている。「乗じて」とは妙法を信受することで、「直至」は直ちに至ること、「道場」は菩提・仏果の意である。
 そのことを天台大師は、法華玄義巻一上で「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と釈している。「衆善の小行」とは爾前経で説かれた一切の善行のことで、「広大の一乗」とは一仏乗を説いた法華経の題目のことである。「広大と申すは残らず引導し給うを申すなり」と説かれているように、法華経の題目は「小善の小行」をすべて開会し、一切衆生を残らず成仏させたのである。
 この法華経について、たとえ釈尊一人が出世の本懐であると宣言したとしても、まだ悟っていない等覚以下の九界の衆生は仰いで「此の経」を信ずべきであり、まして釈尊一仏だけでなく、三世十方の諸仏が本懐としているのであるから、なおのことであると、妙法の題目に対する信心の決定を促されている。

0415:01~0415:05 第八章 禅宗等の観心偏重を破すtop
01                                 禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種
02 の一面なり、 一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば 題目に十如是を置くべき処に題目に妙
03 法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、 又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば 又捨られたる円覚経等
04 の文を引かるる上は 実経の文に於て御綺に及ぶべからず候、 智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱
05 ふとも此の理に会う可し、
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 禅宗は観心を本懐と仰ぐというけれども、それは、四種一面である。一念三千・一心三観等の観心だけが法華経の肝心であるならば題目に十如是を置くべきところに、題目に妙法蓮華経と置かれたうえは、観心に偏ってはならないことは、論ずるまでもない。また今の世の禅宗は教外別伝というかと思えば、また捨てられて円覚経等の文を引かれるうえは、実経のである法華経の文において干渉されるに及ばない。智者は読誦に観念をも並べて修行すべきである。愚者は題目ばかりを唱えても、この妙法蓮華経の理にかなうのである。

禅宗
 座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(601年~674年)の後、弟子の神秀(?~706年)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(651年~739年)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
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四種の一面
 因縁・約教・本迹・観心の四種釈のうち、観心釈にのみとらわれること。
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肝心
 最も大事な部分・事柄・箇所。
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当世
 当時の世。今の世。いまどき。
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教外別伝
 禅宗の主張。大梵天王問仏決疑経に基づいて、釈尊の真意は言葉や文字による教えではなく心から心へ摩訶迦葉に伝承されたとする。
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円覚経
 大方広円覚修多羅了義経のこと。大方広円覚経ともいう。北インド罽賓国の仏陀多羅訳。文殊・普賢・弥勒・円覚・賢善首等十二菩薩のために、仏が大円覚の妙理と、その実修観法を説いたものである。唐の円覚経大疏3巻をはじめ注釈書が多く、華厳宗・禅宗に影響を与え、特に禅宗では首楞厳経・維摩経とともに重要視されている。
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実経
 仏が自らの覚りをそのまま説いた真実の教え、経典のこと。権教(権経)に対する語。天台宗の教判では、法華経のみを実経と位置づける。
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御綺
 ①美しく飾り・彩ること。②干渉・口出しすること。③弄ぶ・触る・いじること。④争う・逆らうこと。
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智者
 ①物事の道理をわきまえた、智慧のある人。②天台大師智顗の通称。彼が「天台智者大師」と呼ばれたことによる。
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読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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愚者
 事の道理を弁えない愚かな者。
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 観心のみに偏重する禅宗の邪見を破折されたうえで、仏は妙法蓮華経の法華経を肝心として題目に定められたのであるから、末法の凡夫は妙法蓮華経の題目を口唱するだけで、一念三千の妙理を会得できることを述べられている。
 禅宗の徒が「観心を本懐と仰」いでいることに対して、日蓮大聖人は、それは天台大師の「四種の一面」、すなわち法華文句巻一上に説かれる因縁・約教・本迹・観心の四釈のなかの観心釈の一面のみに偏った邪見であると指摘されている。
 禅宗の邪義は、仏の悟りは文字を立てず、別に伝えられたものであり経典は月をさす指のようなものであると、経文をないがしろにする。そして、ただ坐禅観法を修することによって我が身が即仏となり、直ちに本性を観見し成仏できるとする邪義を構えていたのである。
 一方では、当時の天台宗の末学達も、天台大師の正当な観法の本意が分からないために、禅宗の邪義に誑惑されて、観心偏重となり、禅宗のほうが止観に勝るという謬見に陥り、根本である法華経を捨てて観心修も行をもっぱらにしていたのである。大聖人は、こうした禅宗や天台宗の末学等の観心偏重の修行を、立正観抄で「大謗法・大邪見・天魔の所為」(0527-07)と断破されている。
 天台大師の止観行は、禅宗のように坐禅観法だけに偏することなく、経典に説かれるすべての法理と修行を総合的に体系化したものであり、しかも、その体系化の根本原理をなすのが法華経によって立てられた諸法実相・三諦円融の法理であった。
 それゆえに、止観行は教相の徹底的な追求のうえに成立したものであり、「教相相資」を基本的な性格としており、教観二門を車の両輪、鳥の両翼にたとえていたのである。
 ゆえに、摩訶止観巻五上では、教相に偏する者を「誦文の法師」、観心に偏する者を「闇証の禅師」と厳しく批判しているのである。
 ちなみに、「誦文の法師」は、経文をただうるおぼえにして口に唱えているだけの人をいい「闇証の禅師」は、逆に経典の教旨に暗く、自己の心を基準に坐禅思惟し、我見で仏の心を証得したと思い込んでいる人をいう。
 したがって、日蓮大聖人は蓮盛抄で、こうした禅宗の徒を「愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや」(0152-06)「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(0152-08)と呵責されているのである。
 さて、観心偏重の者は、一念三千・一心三観の“観心”のみが法華経の肝心であるように信じ込んでいるが、もしそうであるならば、法華経の冒頭にある「題目」には、一念三千の依文である「十如是」が置かれていなければならないはずだと指摘されている。
 しかし、経文の「題目」に「十如是」を置かず「妙法蓮華経」と置かれているうえは、そのこと自体、法華経の肝心は妙法蓮華経であるということを示しているのであって、ここで詳しく論ずるまでもないことであろうと、軽く斥けられている。
 しかも禅宗では、一方では「教外別伝」と称し、仏の本意は一切経の外にあり、直説、心から心へと伝えられたものであると経典を否定しながら、その一方では「円覚経」等の経文を引用しているのである。自語相違も甚だしいといわなければならない。「円覚経」は大方広円修多羅了義経の略で、中国・唐代の仏陀多羅の訳出とされる。唐代の頃から偽経説があり、原典も存在しないことから、現在では中国で作られた偽経とみなされている。唐代の僧・宗密が宣揚し、注釈したことから流布し、禅宗においては首楞厳経、楞伽経とともに重視されてきた。大聖人は、このように経文そのものを否定している禅宗であるから「実経」である法華経の文についてとやかく干渉できる立場でない、と一蹴されているのである。「御綺」とは、関わり合うこと干渉することの意である。
智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し
 「智者」の経文を読誦と観念の行を並べて修すべきであるが「愚者」すなわち末法の衆生は妙法蓮華経の題目の口唱でけで、「此の理」すなわち一念三千の妙理を会得できると仰せである。この御文には、当時の天台宗の一部が貴族階級の専有物と化し、民衆から遊離していたところへの指摘が含まれている。その最大の原因は、やはり観念観法の修行法が困難であったことであろう。
 観念観法の修行は必然的に禅定を中心とした脱社会的な方法をとらざるをえず、しかも思索をこらして究極の法である一念三千の法門に迫ることは、まさしく上根上機の前者でなければならない修行であった。
 だが、末法には上根の智者は存在せず、三毒強盛・下根の衆生ばかりであるから、観念観法の修行には耐えられず、成仏できる人は皆無ということになるのである。
 ここで「智者は読誦に観念をも並ぶべし」と、条件付きで観念修行を肯定されているが、一宗弘通の初めという時代状況のなかで、与えてこのように言われたと拝される。
 しかし、末法には上根の智者はありえないことを考慮に入れると、むしろ観念の行を否定された御文ということができよう。また智者が存在したとしても、読誦に並べて観念を修すべきであると断られており、むしろ観念のみの修行を戒められているのである。
 末法の衆生は、「題目計りを唱ふ」ことによって仏智を得て法華経の極理を会得し、成仏を遂げることができるのである。このように、どのような人であれ、成仏できるよう道を開かれたところに、妙法の偉大さがある。ゆえに、末法では心を内観視する天台家の修行と異なり、ただ御本尊を受持して「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経」(1022-13)と唱えることが観心となる。いわゆる「受持即観心」である。

0415:05~0415:08 第九章 内証と外用の成仏を説くtop
05              此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を
06 教え給ふ仏の御詞なり、 無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし 身今此の経に値ひ奉つて三身即一の
07 本覚の如来を唱うるに顕れて 現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、 死すれば光を放つ是れ外用の成仏と申す
08 来世得作仏とは是なり、
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 この妙法蓮華経とは我らの心性、総じては一切衆生の心性、八葉の白蓮華の名であり、これを教えられた仏の御言葉である。無始より以来、我が身中の心性に迷って生死を流転してきた身が、今この経にあって三身即一の本覚の如来の名である妙法蓮華経と唱えることによって、本覚の如来と顕れて、現世にその内証成仏するのを即身成仏というのである。死ねば光を放つ。これを外用の成仏という。法華経方便品第二の「来世に作仏することを得ん」とはこのことである。

心性
 心の本来のあり方、特質。
―――
八葉の白蓮華
 八枚の花弁の蓮華のこと。衆生の心性が八葉の白蓮華であることに二義がある。①衆生の生命それ自体が妙法であるということ。②衆生の生命それ自体が妙法であることを、衆生の肉体のなかに見出すこと。
―――
無始より以来
 久遠の昔から。無始とは始まりがない意で、はるかな久遠の昔。
―――
生死
 ①繰り返し迷いの境涯に生まれては死ぬこと。また、その苦しみ。②生命の二つの側面としての、生きることと死ぬこと。
―――
流転
 還滅に対する語。輪廻と同意。三界六道の生死を連続すること。迷い・苦・移り変わりゆく生命のさま。一谷入道御書には「無量劫より已来六道に流転して仏にならざりし事は法華経の御ために身を惜み命を捨てざる故ぞかし」(1326-11)とあり、生死流転の迷いの境涯を打開できない原因を指摘されている。
―――
三身即一
 仏の三つの側面である法身(法そのもの)、報身(智慧と功徳)、応身(慈悲)の三身が、一身にそなわっていること。
―――
現世
 過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
―――
内証成仏
 衆生が心のうちに真理を悟り成仏すること。即身成仏。
―――」
死すれば光を放つ
 死んだときに,その身・顔から光が出ること。死相がよいこと。
―――
外用の成仏
 外面の姿に成仏の相が現れること,死相がよいことで、成仏の証拠となる。
―――
来世得作仏
 方便品第2の文、「我涅槃を説くと雖も、是れ亦真の滅に非ず。諸法は本より来、常に自の寂滅の相なり。仏子道を行じ已って、未来に作仏することを得ん」とある。来世において成仏することを意味する文。
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 法華経の題目である妙法蓮華経とは我ら衆生の心性であり、それは法華経を受持して妙法を唱えるところにあるとされ、「内証成仏」と「外用の成仏」の相について略説されている。
 まず「この妙法蓮華経とは我等が心性」であると仰せである。「我等」という表現は弟子門下をも含むが、別しては日蓮大聖人の御事である。つまり妙法蓮華経とは別して大聖人御一人の生命にほかならない。「心性」は生命に本然的に具わる心の本体をいう。
 「総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり」とは、総じて我ら九界の衆生の心性・八葉の白蓮華を妙法蓮華経というのであるとのおおせである。
 「八葉の白蓮華」は“胸間の八葉の蓮華”の意で、それは白蓮華であるところから、その名がある。当体蓮華ともいう。
 それは我々の生命がそのまま妙法蓮華経即当体蓮華であるということを、二つの肺臓に包まれて心臓があり、その形が八枚の花弁の蓮華によく似ているところから表現されたものである。
 蓮華の白蓮華は泥中から生じながら泥に汚染されることなく清浄無垢であり、また華と実が同時に成長し、因果倶時をあらわすところから、妙法蓮華経にたとえられたのである。日寛上人は当体義抄文段で、法華伝記のなかから、比丘尼妙法が法華経を読誦した功徳によって、胸間の八葉の蓮華を顕現した例を示し「像法既に爾なり、今唱題を励まば、豈顕現せざらんや。故に知んぬ。胸間の八葉の蓮華は正にこれ白蓮華なることを」と述べられている。
 このように、我が身が本覚の如来とあらわれることを「現世に其内証成仏するを即身成仏と申す」とおおせられているが、これは内証の境地を意味している。総勘文抄には「己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり」(0565-09)と説かれている。
 それに対して、死んで外面の姿に現れる成仏の相を「外用の成仏と申す」と御教示されている。「死すれば光を放つ」とは死相のよいことを意味する。
 御義口伝に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは十界同時の光指なり諸法実相の光明なるが故なり」(0741-第八南西北方四惟上下の事-03)と説かれている。すなわち、南無妙法蓮華経と唱えるとき、十界がその当体を改めることなしに、妙法の当体として輝きわたる。臨終においても同様で、人間の姿のままで安祥とした相を現ずるのである。
 また心地観経には「未来の果を知らんと欲せば但現在の因を観よ」とある。今世の総決算である臨終における「外用の成仏」の相には、未来世の仏果の証があらわれるのである。
 このことを裏づける経証として、法華経方便品第二の「仏子道を行じ已って、来世に作仏することを得ん」の文を引用されている。

0415:08~0416:01 第十章 娑婆世界の衆生は耳根得道top
08             略挙経題・玄収一部とて一遍は一部云云、妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふ
09 れし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す一念も随喜する時 即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り 必ず之に依て
10 成仏す、妙楽大師の云く「若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違終いに斯れに因つて脱す」と云云、
11 日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり 法華経に若有聞法者等と説れたるは是か、 既に聞く者と説れた
12 り観念計りにて 成仏すべくば若有観法者と説かるべし、 只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一
13 念より事起り十界の衆生は出来たりけり、 此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり 此の娑婆世界は耳根得道の国
14 なり以前に申す如く当知身土と云云、 一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に 是を耳に触るる
15 一切衆生は功徳を得る衆生なり,一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか、有情非情,抑草木は何ぞ金ペイ論
16 に云く「一草一木.一礫一塵・各一仏性・各一因果.具足縁了」等と云云、法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜
17 叉・乾闥婆.阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩ゴ羅伽.人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一
18 念も随喜せん者は 我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と云云、 非人とは総じて人界の外一切有情界とて心
0416
01 あるものなり況や人界をや、
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 妙楽大師の法華文句記の「略して経題を挙げるに玄に一部を収める」といって、一遍の題目は法華経一部を収めるという。妙法蓮華経と唱える時、心性の如来が顕れる。耳にふれた類は、無量阿僧祇劫の罪を滅する。一念も随喜する時、即身成仏する。たとい信じなくても下種と成り熟益と成って、必ずこれによって成仏する。妙楽大師は「もしは取、もしは捨、耳に経て縁と成る。あるいは順、あるいは違、ついにこの妙法によって得脱する」という。日蓮にいわせれば、「もしは取、もしは捨、あるいは順、あるいは違」の文は肝に銘ずることばである。法華経方便品第二に「若し法を聞くことがある者はひとりとして成仏しないことはない」と説かれたのはこれか。ここに「聞く者」と説かれている。観念ばかりで成仏するならば「もし法を観ることある者は」と説かれるはずである。
 ただ天台大師の説明に「十如是というのは十界である。この十界は一念より事起こり、十界の衆生は出て来たのである」という。この十如是というのは妙法蓮華経である。この娑婆世界は耳根得道の国である。以前に述べたように「当に知るべし身土一念の三千である。とある。一切衆生の身に百界・千如・三千世間を納める理由を明かすゆえに、妙法蓮華経を耳に触れる一切衆生は功徳を得る衆生である。一切衆生というのは草木・瓦礫も一切衆生の内であるか。有情・非情そもそも草木は何か。金錍論に「一草一木・一礫一塵におのおの一仏性があり、おのおの一因果があって、縁・了を具足する」等とある。法華経法師品第十の初めに「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽、人と非人と、及び比丘・比丘尼…妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜する者には我は皆、阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と説かれている。非人とは総じて人界の外の一切の有情界といって心があるものである。また人界においてはなおさらである。

略挙経題・玄収一部
 妙楽大師の法華文句記の文。「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と読む。法華経の題目を一遍唱えることは法華経一部を読むことになるとの意。
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心性の如来
 生命に本来具わっている仏界をいう。
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無量阿僧祇劫
 「無量」は量ることができない、無限の意。「無量阿僧祇劫」は、大乗の別教では菩薩が修行を完成させるまでに経る極めて長い期間とされる。
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一念も随喜する時
 一念随喜をあらわしている。これは法華経信仰の最初の位。一念は瞬間の生命のこと。随喜は随順慶喜の義で、信順して歓喜すること。すなわち衆生の瞬間の生命のなかに、仏法に信順して得た歓喜を涌現させていくことをいう。
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 成仏の種子のこと。衆生の心田に植えられる仏になる種を草木にたとえていったもの。仏種。
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 過去に下種された仏の種子が徐々に成長し、機根が調っていくこと。
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 仏種が成長しおわって仏の境地を得ること。
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若有聞法者
 法華経方便品第二の文。「若し法を聞くこと有らん者は、一りとして成仏せずということ無けん」と読む。
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料簡
 思いめぐらし考えること。思索すること。
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娑婆世界
 娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。
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耳根得道の国
 仏法を聞くことによって、衆生が成仏得道する国のこと。娑婆世界をいう。耳根は六根のひとつで声境を対境として感覚を生ずる期間。
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当知身土
 妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の三の文。「当に知るべし身土の一念三千なり」とある。
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草木
 科学界では生命、仏法界では非情に分類されるこの。
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瓦礫
 瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
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有情
 サンスクリットのサットヴァの訳。人間や動物のように感情や意識を持ち、生命活動を能動的に行えるものをいう。鳩摩羅什らの旧訳では「衆生」と訳された。玄奘らの新訳では「有情」と訳される。
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非情
 草木・山河・大地のように感情を能動的に表すことができず、活動も受動的なものをいう。
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金錍論
 妙楽大師湛然の著作。『金剛錍』のこと。1巻。涅槃経をもとに、非情にも仏性があることを説く。この思想は草木成仏の根拠として日本仏教にも大きな影響を与えた。
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法師品
 法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
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諸天
 諸天善神のこと。正法を受持する人とその国土を守護する種々の神々。「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は正しい生き方をする人を支え守るものをいう。一定の実体をもつ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々の働きをいう。例えば、周囲の人が味方になったり、さまざまな環境が自分を守るように作用するといった形で現れる。法華経には、古代インドの神話に登場する神々である梵天・帝釈・四天王などが法華経の説法の場に集ったと説かれ、陀羅尼品第26ではその代表である毘沙門天・持国天、さらに鬼神である十羅刹女が、法華経を受持する者を守護することを誓っている(法華経644㌻以下)。以上の神々だけでなく、諸天善神には、仏教が広まった各地域の信仰における固有の神々、例えば日本の八幡大菩薩や天照太神などが含まれる。
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竜王
 竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
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夜叉
 サンスクリットのヤクシャの音写。薬叉とも。樹神など古代インドの民間信仰の神に由来し、猛悪な鬼神とされる。
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乾闥婆
 仏法護持の八部衆の一。帝釈に仕え、香だけを食し、伎楽を奏する神。法華経では観音三十三身の一つに数える。
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阿修羅
 ①サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。② 修羅界。
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迦楼羅
 ①想像上の大鳥。翼は金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う。天竜八部衆の一。密教では仏法を守護し衆生を救うために梵天が化したとする。②伎楽面の一。鳥の形をして、口の先に小さな玉をくわえる。
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緊那羅
 元来はインド神話上の半神。『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』のインドの二大叙事詩に多く現れ,類似の Kiṃpuruṣaとともに出るが,両者の関係は明確ではない。
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摩睺羅伽
 仏教を守護する護法善神の一尊。天竜八部衆や二十八部衆に数えられる。サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味する。もと古代インドの神であったが、後に仏教に取り入れられた。身体は人間であるが首は大蛇、または頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれ、龍種の一つとされる。八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされる。ナーガがコブラを神格化したものであるのに対してこのマホーラガはニシキヘビの様なより一般的な蛇を神格化したものである。胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられている。
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比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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阿耨多羅三藐三菩提
 サンスクリットのアヌッタラサンミャクサンボーディの音写。無上正遍知、無上正等正覚、無上正等覚などと訳す。最高の正しい覚りの意。仏の完全な覚りのこと。
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一切有情界
 一切衆生界と同意。あらゆる生類・一闡堤を含めて一切有情に仏性があることを意味する。
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人界
 人間の世界。人間らしい平穏な境涯。十界の中で、六道、三善道の一つとされる。「観心本尊抄」には「平かなるは人」(241㌻)とあり、人界の特徴が端的に示されている。これに基づいて生命論では、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていて、自己のコントロールが可能となり、人間らしい言動が出来る状態とする。また、人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もあるが、善縁によって仏道(聖道)を成ずることができる器である。それ故、「聖道正器」とされる。人界に生まれる因は、三帰(三宝に帰依すること)や五戒を持つといった、人間にふさわしい行動であると考えられている。
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 我ら衆生の心性である本覚の如来が唱題の声に呼ばれてあらわれ、また唱題の声に触れた衆生も、触れたことがそのまま仏種となることを経釈を引いて述べられ「娑婆世界は耳根得道の国」であると、声に発し、耳に触れることの重要性について説かれている。
 初めに妙楽大師の法華文句記巻八に「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」の文を示されている。
 妙法蓮華経の経題の五字を挙げれば、そこに法華経一部八巻二十八品のすべてが収まっているとの意である。
 日蓮大聖人も妙法尼御前御返事で、「日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候」(1402-11)と述べられている。
 したがって、妙法蓮華経と一遍唱えるならば、法華経一部に説かれた一切の法理を我が身に行じていくことに通じるので、「一遍は一部」といわれているのである。
 ちなみに、四信五品抄では「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(0342-04)と、妙法蓮華経は法華経一経の肝心・肝要であると示されている。つまり仏の悟りそのものにほかならないのである。この妙法蓮華経の当体である御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えるとき、我ら衆生の生命に内在する「心性の如来」が、その唱題の声に呼ばれてあらわれると仰せである。
 法華初心成仏抄には「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈.閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれてれ給う処を仏とは云うなり」(0557-04)と説かれている。
 また、唱題の声を「耳にふれし類」すなわちこの唱題の声を聞く人々は、過去遠々劫以来の罪業が消滅すると、妙法の功徳力を示されている。
一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す
 一念随喜の信心と逆縁による成仏について述べたれた御文である。
 一念は瞬間・一瞬の生命、随喜は随順慶喜の義で、信順して歓喜する意である。妙法を聞いて瞬時でも歓喜することを一念随喜という。
 法華経法師品第十には「薬王、汝是の大衆の中の…仏道を求むる者を見るや。是の如き等類、威く仏の前に於いて、妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」と。法華経を聞いて一念も随喜するならば阿耨多羅三藐三菩提、すなわち悟りを得ることができると説かれている。
 妙楽大師はこの文について、法華文句記巻八で「この経の一句一偈を聞いて随喜す一念に乗じて必ず成仏すべきこと経力による」と釈している。
 更に日蓮大聖人は、持妙法華問答抄で「命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり、若し是れ二念三念を期すと云はば平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず」(0466-14)と仰せである。
 続いて、妙法を信じようとせず反対する人でも、それが仏縁となって、後に成仏できると逆縁の功徳を示されている。法を聞いたこと自体、その人の心田に仏に成る種が植えられたことであり、下された仏種は必ず生長していくのである。
 末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を衆生に教える。すなわち折伏することが下種となる。ゆえに法華初心成仏抄には「地獄には堕つるとも仏になる法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(0552-11)と明言されている。妙法を聞いて、仮に誹謗して一度は地獄に堕ちても、将来、必ず妙法によって成仏できるということである。妙楽大師が法華文句記巻十で「人の地に倒れて還って地に従って起つが如し」と釈している文がそのことをさしている。妙法の功徳が広大であるゆえに、信ずる順縁の人は当然のことながら、誹謗する逆縁の人まで救われるのである。
 この聞法による下種と関連して、妙楽大師の法華文句記巻十の「若しは取、若しは捨、耳に経て縁と成る。或いは順、或いは違、終に斯れに因って脱す」の文を示されている。
 文中の「取」は信、「捨」は不信で、いずれであれ、法音が耳を経て結縁するのである。また「順」は信順する人で順縁、「違」は違背する人で逆縁をいい、法華経を聞いて誹謗を生じたとしても、なおそれが種となり、ついにはこの下種が調熟して、未来に得脱するという意である。日蓮大聖人は妙楽大師が説くこの「若取若捨或順或違」の文を「肝に銘ずる詞」と仰せられている。同趣旨の文は一代聖教大意にも「私に云く若取.若捨.或順.或違の文は肝に銘ずるなり」(0399*-12)とある。
 これは大聖人の仏法が折伏逆化で弘通していく寿量文底下種の南無妙法蓮華経であるゆえと拝される。御義口伝に「題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(075-第三我実成仏已来無量無辺等の事-03)と説かれている。
 大聖人の仏法は下種益であり、一生のうちに種熟脱が具わる。すなわち、直達正観・受持即観心の妙理によって、妙法五字の下種という成仏の本因を受け、直ちに仏の境地を得るのである。
 順・逆二縁の成仏については、法華初心成仏抄でも「信ぜん人は仏になるべし 謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」(0552-15)と明示されている。したがって、釈尊が法華経方便品第二において「若し法を聞くこと有らん者は、一りとして成仏せずということ無けん」と説かれたのも、成仏得道は聞法によるということを教えるためであると仰せられている。方便品の文には、明らかに「法を聞くこと有らん者」とある。それにもかかわらず、天台宗や禅宗のように、観念の修行ばかりで成仏できるというのであれば、経文には「若し法を観ること有らん者は」と、「観る」に力点を置いて説かれなければならないはずであると指摘されている。
只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり 
 十如是と十界の関係を示し、十界の衆生も一念からあらわれることから、十如是とは妙法蓮華経のことであると教えられている。
 「天台の御料簡に」とは、天台大師の教えによれば、との意である。「十如是と云うは十界なり」とは、十如是は十界それぞれに平等に具わる真理であり、十如には必ず十界の差別相があるということである。
 この十界は一念から生じ、一念の迷悟の違いによって形成される十種の境界であることから、「一念より事起こり十界の衆生は出来たりけり」といわれている。つまり、十界が、現象として顕現した面では違いがあっても、顕現する仕方においては平等であるということである。
 方便品の「諸法実相十如是」の文で諸法の十界の依正、実相とは妙法蓮華経の異名であり、実相の内容が十如是をもって示されることから、「十如是と云は妙法蓮華経にて有けり」と仰せられている。
 御講聞書には「されば十如是と云うは十界なり、界即十如是なり、十如是は即ち法華経異名なり」(0815-08)とあり、また御義口伝では「十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり所謂南無妙法蓮華経の受持なり」(0791-04)と、十如是の意義を述べられている。
此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、 一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に 是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり
 娑婆世界は、耳で妙法を聞くことによって成仏得道できる国土であることを述べられている。「耳根」とは六根の一つで、聴覚器官や聴覚能力をいう。「根」は力があり、強い作用をもつものの意である。法華玄義巻六下に「此の土は耳根利なるが故に、偏に声塵を用う」とある。「声塵」は耳根となる対境をいう。
 「耳根」が鋭いということについては、さまざまな例証がある。例えば人間の五官のなかで、耳は誕生以前から死に至るまで機能しているとされる。胎内にいる子供はほぼ六ヵ月で、聴く器官と神経ができあがり、また臨終の時でも、周囲の音が聞こえている場合が多いといわれる。ただ聞こえていることを周囲に知らせる力がないだけのことだという。
 しかも、声や音は、いわば直接、生命の深みに響き、影響を与えていく。その意味で「耳」は世界と宇宙に開かれた“生命の窓”ということができよう。したがって、至高の音声である妙法の題目を唱え、響かせていくことがいかに尊貴なことであるかを知ることができるのである。
 古来から「耳根」が重要視されてきた一例を挙げれば、「聖人」の「聖」の字も、意味の中心は「耳」にある。「天の声を聞き分ける」のが、その本義である。また「聡明」の「聡」という字も、耳が中心である。「耳が良く通じている」、つまり“聞き上手”というのが原義である。すなわち、宇宙の森羅万象の「声」をよく聴く力と徳を「聡」といい、その人を「聖」というわけである。
 ちなみに、「娑婆世界は耳根得道」であるが、娑婆世界以外の他の国土はどうなのかというと、必ずしも耳根得道ではないとされる。天台大師の法華玄義巻八上に「天衣身に触るるを以って即ち道を得。此れ偏に触を用って経と為すなり…衆香土の如きは香を以って仏事と為す。此れ偏に香を用って経と為す」とある。つまり、手障りや香りなどが“経”となり、衆生を成仏させていうということが説かれているのである。
 次下の「以前に申す如く当知身土と云云」は、先に挙げられた妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時、此の本理に称うて一身一念法界に遍し」の文のことで、一念三千の法理を示した天台大師の摩訶止観の文を受けた釈である。
 既述したように、「身」は衆生の一身、「土」はその身が存在する場所・国土で、本来、不二であることから身土不二という。つまり、正報である身も依報である身も依報の国土、我ら衆生の一念に即三千とあらわれるのである。また「一身」とは所証の境、「一念」とは能証の智であり、「法界」とは十法界、「遍し」とは遍満の意である。ゆえに、成仏の時は本地難思境智の妙法にかなって、一身も一念も、ともに法界に遍満するのである、との意である。
 この釈にみられるように、一切衆生の身に十界互具・百界千如・三千世間をおさめるという意義を明かしたのが妙法蓮華経であるゆえに、この妙法蓮華経の題目を「耳に触るる一切衆生」は、順縁・逆縁の別なく、必ず成仏の功徳を得られたのである。
如是我聞について
 ここで「耳根」に関連して「聞」ということについて考察しておきたい。
 「聞」はただ単に「耳で聞く」という意味だけでなく、そこには深意が込められている。あらゆる経典の冒頭に「如是我聞」の一句が置かれているが、「如是我聞」とは、もともとは経典は釈尊の説法を聞いた弟子達が、釈尊の滅後、その聞法したところをそのとおりに記したものであることを示している。すなわち、釈尊の説法を聞いた弟子が釈尊から聞いた説法の内容を思い出しては、お互いに確認しあって、これをまとめていったのである。
 このような由来をもつ「如是我聞」について、天台大師は法華文句巻一上で「如是とは所聞の法体を挙ぐ。我聞とは能持の人なり」と釈している。すなわち「如是」とは、聞いた所の法の体をさしている、ということである。
 日蓮大聖人はこの文について、御義口伝で「所聞の聞は名字即なり法体とは南無妙法蓮華経なり能持とは能の字之を思う可し」(0709-03)と指南されている。すなわち「聞」とは名字即の「聞」である。初めて妙法を聞いて信じた位が名字即である。
 同じく法華文句巻一上に「如是とは信順の辞なり」とあるように、如是は信伏・随従を意味する。仏説を聞いて信じ、その仏説にしたがっていくことをいうのである。
 次に、「聞く」行為の主体である「我」については、同じく法華文句巻一上に「大論に云く、耳根壊せずして声は可聞の処に在り。作心して聞かんと欲すれば、衆縁和合す。故に我聞と言う」とある。求道の心を起こして聞くことである。つまり、仏の説法を信受していくと決意して聞いていけば、衆縁の感覚が同時に作用し和合して、自分の人格のなかに取り込まれていくことを「我聞」というのである。
 また同書の次下で、「我聞」というより「耳聞」というべきではないか、なぜ「我聞」というのか、との問いを設け、それに対して天台大師は「我は是れ耳の主、耳を挙げて衆縁を摂す」と答えている。すなわち、「我」は「耳」の主人であり、「我」のなかに耳根を含めた六根のすべてを包摂するゆえに「我聞」というのである。たんに耳から聞くというのではなく、「我」という全人格をかたむけ、衆縁を統一して聞くという意味である。
 更に「我」について、大智度論に説かれる見我・慢我・名字を挙げ、我見にとらわれた見我、思い上がった慢の我を排し、ありのままの名字我でなければならないとしている。これは、仏の説法と自分のあいだに、いかなる不純物も介在させず、生命と生命の触れ合いのなかで、仏法究極の真理を体得していく、それが「我聞」の真の「我」であることを示している。
 日蓮大聖人は、御講聞書で「我聞と云うは、我は阿難なり、聞は耳の主と釈せり、聞とは名字即なり」(0810-一如是我聞の事-07)と、「我」を人に約されている。
 阿難は釈尊十大弟子の一人で、釈尊の侍者として二十数年間、常随給仕し、教説の記憶において最も勝れていたとされる。それゆえ多聞第一と称され、釈尊滅後第一回の仏典決集に際し、誦出者として中心的役割を果たしたのである。常に常随給仕した阿難にみられるように、「聞」とは仏に身心ともに随順して「侍える」ということでもある。そのとき「仏法の大海の水、阿難の心に流入」するのである。
 それゆえに本文で、法華経法師品第十の「是の諸の化人、法を聞いて信受し、随順して逆わじ」の文を引用され、更に「法華経を聞かずんば、仏智を去ること甚だ遠し」の文を示して、「聞法」を強調される一方、「不聞」を戒められているのである。「法華経不聞」については御義口伝に「不聞とは謗法なり成仏の智を遠ざかるべきなり」(0738-第九不聞法華経去仏智甚遠の事-01)と釈されていく。
 また大聖人は、法華経見宝塔品第十一の「仏前に七宝の塔あり」の文について、御義口伝で「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり、又云く頭上の七穴なり」(0739-第二有七宝の事-02)と説かれている。
 ここで「七宝」を仏道修行のうえで不可欠の要件である七宝財とされている。その最初に「聞」が置かれているところに大事な意味がある。「頭上の七穴」は我々の身体に約して述べたものである。二つの耳、二つの目、二つの鼻孔、一つの口をいう。七穴は人間が生きるうえで重要な役割を果たしているのであるから、まさしく「宝」である。七穴はまた天台大師が先に述べている「衆縁」のうち眼根・耳根・鼻根・舌根にあたるといえよう。
 このように仏道修行の要諦は「耳根得道」の信心にあるのである。
 一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか一切衆生のなかには、有情のみならず、非情の草木瓦石も含むことを御教示されている。「衆生」とは広義には一切の有情をいい、狭義では煩悩をもって迷いの世界に住む人をいうが、ここでは木石などの非情も仏性を具えていることから「一切衆生」のうちに入るとされている。
 草木も衆生に含まれることについて、妙楽大師の金錍論の「乃ち謂えらく、一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あって、縁了を具足す」の文を引証されている。非情の存在にも因果があり、三因仏性が具わっているとしている文で、仏性が情・非情にわたることを明かした文である。
 有情・非情の“情”というのは、感情や意識の働きをいい、広くいえば神経系統の働きといえる。それをもつ生類の総称が“有情”であり、木石の類などは“非情”ということになる。“有情”である我々の身体の中でも、爪や髪には神経が通っていないから、切っても痛みを感じないので“非情”といえる。有情と非情の部分とは微妙につながっており、このことを草木成仏口決で「一身所具の有情非情なり」(1339-11)と言われている。
 また依正に約せば正報は有情、依報は非情となり、三世間に約せば、五陰世間の衆生世間は有情、国土世間は非情となる。このゆえに四条金吾釈迦仏供養事には「第三の国土世間と申すは草木世間なり」(1145-01)とあり、観心本尊抄には「百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る」(0239-08)と説かれている。すなわち、一念三千とは、有情である五陰・衆生、非情である国土とともに、一念に具するという法門であるからである。
 続いて、法華経法師品第十の「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と、及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者、辟支仏を求むる者、仏道を求むる者を見るや。是の如き等類、威く仏前に於いて、妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」の文を示され、「一切衆生の内」には「非人」といわれる有情も含まれることを示される。「非人」については、本文で「非人とは総じて人界の外一切有情界とて心あるものなり」と説かれているように、人間界以外の一切の有情、つまり人にあらざる衆生のことである。鬼類や天竜八部をいう。天竜八部とは天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽をいう。経文に示されている「比丘」は男子の僧、「比丘尼」は女子の尼、「優婆塞」は在家の男子、「有婆夷」は在家の女子のことで、仏門の四種の弟子をいう。四衆とも呼ぶ。
 この法師品の文に明らかなように、「妙法蓮華経の一偈一句を聞」くことによって、「非人」でさえ成仏得道できるのであるから、ましてや「人界」の成仏はいうまでもないと、妙法の聞法の功徳がまさしく一切衆生に及ぶことを示されているのである。

0416:01~0416:07 第11章 一生成仏を示すtop
01               法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、 譬えば春夏
02 田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、 法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、 玄
03 の一に云く「上中下根皆記莂を与う」と云云、 観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、 況や教外
04 別伝の坐禅をや、 法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに 若し是の法華経を見聞し読誦し
05 書持し供養すること得ること能わずんば 当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、 若し是の経典を聞く
06 こと得ること有らば乃ち能善菩薩の道を行ずるなり」と云云、 観心計りにて成仏すべくんば 争か見聞読誦と云わ
07 んや、此の経は専ら聞を以て本と為す
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 法華経の行者は如説修行するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春・夏に田を作るのに早稲・晩稲の違いがあっても一年のうちには必ず稲を収穫するようなものである。法華経の行者も上根・中根・下根があっても必ず一生のうちに証得する。法華玄義巻一に「上根・中根・下根に皆、記別を与える」とある。しかし観心ばかりで成仏しようと思う人は、一方が欠けている人である。まして教外別伝の坐禅においてはなおさらである。法華経師品第十に「薬王、多くの人がいて、在家・出家が菩薩の道を行ずる際に、もしこの法華経を見聞し読誦し書持し供養することができなければ、まさに知りなさい。この人は未だよく菩薩の道を行じていない。もしこの経典を聞くことができるならば、すなわちよく菩薩の道を行ずるのである」と説かれている。観心ばかりで成仏するならば、どうして「見聞・読誦」というであろうか。この法華経はもっぱら聞をもって根本とするのである。

法華経の行者
 法華経をその教説の通りに実践する人。日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」(284㌻など)「如説修行の行者」(501㌻)などと言われている。法華経には、釈尊滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対して、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)とあり、また勧持品第13には悪世末法に俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害が連続する御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、284㌻)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266㌻)と述べられている。
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如説修行
 「説の如く修行す」と読み下す。仏が説いた教え通りに修行すること。法華経如来神力品第21に「汝等は、如来滅して後に於いて、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし」(法華経572㌻)と説かれている。
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早晩
 早く成熟するものと、遅く成熟するもの。
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上中下根
 上根・中根・下根の三根のこと。機根は仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の生命の性分・資質をいう。機根の鋭利・遅根によって上・中・下の三つに分けたもの。
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証得
 正しい智慧によって真実の理についての証悟を得ること。仏道を成すること。
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坐禅
 端坐して禅の修行をすること。
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 法華経を受持し、如説修行する人は、必ず一生成仏できることを断言されるとともに、重ねて法華経は聞法をもって根本とする旨を強調されている。
 まず「法華経の行者」は如説修行すれば、一生のあいだに一人残らず成仏できると仰せになっている。いわゆる「一生成仏」である。「法華経の行者」とは、別しては日蓮大聖人の御事であるが、総じていえば、御本尊を受持し、妙法弘通に励む門下一同のことである。本段では門下に約して述べられている。「一生成仏」とは凡夫が凡身を改めず、一生のうちに成仏の境地に至ることをいい、爾前権経の歴劫修行による成仏に対比していう。「一生成仏」と「即身成仏」は、ともに法華経に説かれる成仏の姿で、日蓮大聖人の仏法においては同じことを意味しているが、一生成仏は修行の期間に約し、即身成仏はその姿に約していったものである。
 ここでは「一生成仏」を稲の収穫にたとえられている。春から夏にかけての田づくりに、早稲・晩稲の違いはあっても、どちらも一年のうちに必ず収穫されるのと同じ原理であるとされている。
 一生成仏を成就するためには「如説修行せば」と断わられているように、仏の教説のとおりに修行することが不可欠である。法華経如来神力品第二十一に「是の故に汝等如来の滅後において、応当に一心に受持、読、誦、解説、書写し、説の如く修行すべし」と説かれている。
 ただ釈尊在世や、釈尊滅後の正法・像法・末法の三時によって、如説修行の内容に差異があることを知らなければならない。末法今時においては、御本仏・日蓮大聖人の教えのごとく三大秘法総在の御本尊を信受し、自行化他、すなわち勤行・唱題と折伏を行ずることが如説修行となる。そして、稲の収穫に「早晩」があるように、「法華の行者」にも上根・中根・下根の三種の機根の人がいるが、いずれも「一生の中に証得す」ると、成仏を断言されている。上・中・下の三種に分けたものである。引用の「上中下根皆記莂を与う」は、天台大師の法華玄義巻一の文である。同趣旨の文は、十如是事にもあり、「此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて」(0411-05)と述べられている。すなわち、上根の人は仏の教えを聞いて即座に悟りをきわめて成仏する。中根の人は一日、一月、一年と経つうちに成仏する。下根の人は臨終の時になって、夢から覚めるように生死の迷いがなくなり、我が身が本来、仏であったことを悟るのである。
観心計りにて成仏すべくんば争か見聞読誦と云わんや、此の経は専ら聞を以て本と為す
 当世の天台宗が止観は法華経に勝るとしたり、あるいは達磨の禅は止観に勝っているとして、観心修行のみで成仏できるとする邪見の徒の誤りを糺されている。
 当時、比叡山の学僧達のあいだでは、観心修行は法華経に勝っているゆえに、法華経を捨ててもっぱら観心のみを行ずるという主張が盛んに行われていた。彼らは、観心の行は、法華経の本迹の教門を捨てて、本門や迹門に分けられる以前の仏の悟りそのものを、直接に観ずる修行であると主張したのである。したがって、大聖人は彼らを「一方かけたる人」と断破されているのである。なぜかといえば、天台大師自らが立てた「教観双美」、すなわち法華経の教相の修行と観心の修行とを、ともに行うべきであるという本義から逸脱しているからである。
 摩訶止観一部十巻は法華経を根本として説かれたものであり、また摩訶止観に説かれた一心三観の修行は、法華経の肝心であり、究極の悟りである妙法を感得するためのものである。ゆえに、観心修行の根拠であり目的である法華経を捨てて、ただ観心の行ばかりを正しいとする。“観心偏重”は師の教えに背く大謗法の行き方といわなければならない。
 ましてや、「教外別伝・不立文字」と称し、法華経を否定する達磨の坐禅に至っては論外というべきなのである。「況や教外別伝の坐禅をや」の御文には「禅に三種あり所謂如来禅と教禅と祖師禅となり」(0487-11)と分かれていても、ともに正直捨方便と捨てられた無得道・妄語の天魔禅に変わりはないものであるから、なおのこと用いるべきではない、という破折の意が含まれている。
 それゆえ、立正観抄で「故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり」(0527-08)と厳しく戒められているのである。
 続いて、法華経法師品第十の「薬王、多く人有って、在家、出家の、菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し、読誦し、書写し、供養すること得ること能わずんば、当に知るべし。是の人は、末だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ること有らん者は、乃ち能く菩薩の道を行ずるなり」という文を示されている。この文中においても、「是の法華経を見聞し、読誦し」「是の経典を聞くこと得ること有らん者は」等とあって、法華経を信受する聞法そのものが菩薩道を行ずることであり、つまり成仏の行であるとしているのである。もし観心ばかりの修行で成仏するのであったならば、経文に「見聞し、読誦し」等とは決して説かれるはずがないと仰せになっている。ゆえに、法華経は「専ら聞を以て本と為す」と結論されているのである。

0416:07~0416:17 第12章 妙法受持口唱を勧むtop
07                   凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大
08 慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す 故に即身成仏と申し一生に証得するが故に 一生妙
09 覚と云ふ、義を知らざる人なれども 唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ 我即歓喜諸仏亦然云云、百千合せたる薬も口に
10 のまざれば病愈えず 蔵に宝を持ども 開く事をしらずしてかつへ懐に薬を持ても飲まん事をしらずして 死するが
11 如し、 如意宝珠と云う玉は五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し、 観心を並べて読めば申すに及ばず観念せず
12 と雖も始に申しつるごとく 所謂諸法如是相如云云と読む時は如は空の義なれば 我が身の先業にうくる所の相性体
13 力・其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、 所謂諸法如是相云云とよめば是れ
14 仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云 其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり、 所謂
15 諸法如是と読む時は 是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、 其に随いたる無明皆退いて即身法
16 身の如来と心を開く、 此の十如是・三転によまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一
17 に定まれども三なり。
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 およそこの法華経は悪人・女人・二乗・闡提を差別しない。ゆえに皆成仏道ともいい、平等大慧ともいう。善悪不二・邪正一如と聞くところに、直ちに内証成仏する。ゆえに即身成仏といって一生に証得するゆえに一生妙覚という。その意義を知らない人であっても妙法蓮華経と唱えれば、ただ仏と仏とが喜ばれる。法華経見宝塔品第十一に「我すなわち歓喜する。諸仏もまたそうである」とあるとおりである。百千の種類を合わせた良薬も口に飲まなければ病は愈えない。蔵に宝を持っていても開くことを知らないで飢え、懐に薬を持っていても飲むことを知らないで死ぬようなものである。如意宝珠という玉は法華経五百弟子受記品第八に説かれているが、この法華経の功徳もまた、これと同じようなものである。
 観心と並べて読誦すればいうに及ばないが、観念をしなくとも、初めに述べたように所謂諸法如・是相如と読む時は、如は空の義だから我が身の先業に受けるところの相・性・体・力、それに具すところの八十八使の見惑・八十一品の思惑、その空は報身如来である。所謂諸法・如是相と読む。これは仮の義だから我がこの身の先業によって受けた相・性・体・力など、その具した塵沙の惑は悉くそのまま応身如来である。所謂諸法如是・相如是と読む時は、これは中道の義に順じて業によって受けるところの相・性など、それに随った無明惑はすべて退いて、その身そのまま法身如来と心を開くのである。この十如是を三回、転じて読むことは三身即一身・一身即三身の義である。三身に分かれるけれども一身である。一身に定まるけれども三身である。

二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
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闡提
 一闡堤のこと。サンスクリットのイッチャンティカの音写。本来は欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信ぜずかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。
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皆成仏道
 すべての衆生が仏道を成就して成仏すること。法華経は、あらゆる衆生に本来的に仏性がそなわっていることを明かし、万人成仏の道を開いた。
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善悪不二
 三世諸仏諸仏総勘文抄に「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」(0563-10)とある。
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邪正一如
 衆生の生命は性悪・性善ともにそなわっており、善悪は一如であること。爾前の諸教では成仏できなかた二乗・悪人・女人が十界互具・一念三千を説く法華経に至って成仏を許され、平等大慧の法が確立したことを示している。
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一生妙覚
 一生入妙覚の略。天台大師の所説で、一生の間に妙覚という仏の位に入ること。一生成仏と同義。
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我即歓喜諸仏亦然
 宝塔品の文「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり」とある。法華経を受持するのは難しいが、釈尊も諸仏も歓喜するという意味。御本尊受持の功徳の説明である。
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如意宝珠
 意のままに宝物や衣服、食物などを取り出すことができるという宝の珠。
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先業
 前世・過去世につくった業因のこと。善悪に通じて用いるが、悪業について用いられることが多い。
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八十八使の見惑
 正見を妨げる見惑に88種類あること。使とは駆使の義で、煩悩のこと。小乗俱舎では見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88と立てる。
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八十一品の思惑
 三惑の一つである見思惑の思惑に81種あること。思惑とは俱生惑ともいい、人間が生を受けると同時に伴う煩悩で、貧・瞋・癡・慢の四種が根本である。
―――
 三惑の一つである見思惑の思惑に81種あること。思惑とは俱生惑ともいい、人間が生を受けると同時に伴う煩悩で、貧・瞋・癡・慢の四種が根本である。小乗俱舎では修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品と立てる。
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塵沙の惑
 塵沙惑のこと。菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。
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即身
 その身を改めず、そのままでとの意味。
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 サンスクリットのカルマンの漢訳語。カルマンの語根には「行う」「作り出す」という意味があり、そこから生まれたカルマンは「行い」「振る舞い」という意味となる。古代インドのバラモン教では、この「行い」として、世襲的聖職者階級であるバラモンによる祭式の執行が安楽の境涯を保証するものとして強調された。これに対して仏教では「行い」を本来の日常の振る舞いという意味に戻して、人間としての行いこそが苦楽の果報の原因であり、善なる行い(善業)を励んで行う人が安楽の境涯を得られることを説いた。①心身の種々の行為のこと。仏教では、業を大きく身体的行為(身業)と発言(口業・語業)と感情・思考にかかわる精神的行為(意業)の三つに分け、身口意の三業と呼ぶ。その他にも種々の分析がなされ、多様な分類が示されている。例えば、過去世(宿世)の業を宿業といい、現世の業を現業という。他者が認識できるか否かという観点から、他に示すことのできる表業と他に示すことのできない無表業の二つを分ける。また善悪の観点から、善心に基づく善業、悪心に基づく悪業、善悪いずれでもない無記業の三業に分ける。②業因のこと。古代インドでは、①の種々の行為の影響がその行為者に潜在的な勢力として残るとし、それが、あたかも種が条件が整えば芽を出し花を咲かせ果実を結ぶように、やがて順次に果報として結実し、同じ主体によって享受されて消滅するとする。なお、後の仏教の唯識学派では、業の潜在的影響力(習気)が果報を生み出すもととなることから「業種子」と呼び、それが阿頼耶識(蔵識)に蓄えられているとする。この業をめぐる因果は、善悪の業(行為)を因としてその果報として苦楽の境涯を得るという、善因楽果・悪因苦果を説く因果応報の思想として整理された。また、先に述べた、自らの行為(業)の果報を自らが享受するという原則を「自業自得」という。ただし、元来は善因楽果・悪因苦果の両面にわたるものであるが、現在一般的には、自身の悪い行いの報いとして苦悩に巡り合うという悪因苦果の意味でもっぱら用いられている。業の因果の思想は、三世の生命観に基づく苦楽の境涯に順次生まれて経巡るという輪廻の思想とあいまって発達し、業に関する輪廻(業報輪廻)からの解放・脱出(解脱)の方途が諸哲学・宗教で図られた。仏教ではその伝統を踏まえつつ、独自の縁起の思想となって、種々の精緻な理論が発達し、その中で業について種々の分類が行われた。例えば、次の生における十界の生命境涯を決定する性質から、次の生における十界の生命境涯を決定づける業因(引業)と、その生命境涯における細かな差異を決定する業因(満業)に分ける。また果報を受けることが定まっているかどうかで定業(決定業)と不定業の二業が説かれる。定業とはその業の善悪が明確であって未来に受けるべき苦楽の果報が定まっている業因をいい、不定業とは定まっていない業因をいう。また、果報を受ける時期によって現世の業を3種に分けた、順現受業(現世に果報を受ける現世の業因)、順次受業(次の世に果報を受ける現世の業因)、順後受業(次の次の世以後に果報を受ける現世の業因)の三時業などがある。業の思想は、初期の仏教では個人の行為に関するものが発達したが、やがて社会・共同体の次元に拡大して考えられるようになり、社会・共同体を構成する人々が共有する業(共業)を考えるようになった。これに対して、個人に固有の業は不共業と呼ばれる。③②のうち特に苦の果報をもたらす悪業のこと。煩悩(惑、癡惑)から悪業が生まれ苦悩の果報へ至るという煩悩・業・苦の三道が説かれる。仏教の業の因果の思想は、本来、苦悩の原因を探り、その解決を目指すものである。したがって、因果の道理を深く洞察することが苦悩の根本的解決をもたらすとされる。このように仏教の業思想は、決定論的宿命論ではなく、むしろ宿命転換のための理論である。ところが、部派仏教の時代にはすでに、精緻な分析から煩瑣で硬直的な思想が生まれ、変えられない運命を説く決定論のように理解される傾向が生じるに至った。その結果、江戸時代の一部宗派における差別戒名などが象徴するように、本来人間を苦悩から解放するための仏教の業の思想が、かえって種々の差別を固定化した面もあった。さらに僧侶が自身の宗教的権威と世俗的利益を確保するために業思想を悪用してきた歴史に対して深刻な反省が迫られている。無明③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
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三転によまるる事
 方便品の「所謂諸法。如是相。如是性……如是本末究竟等」と、三回繰り返して読んでいる部分には「十如是」が示されている。「如是」とは“真実でありのまま”の義。三転は①空転。御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の智慧をそなえていること。②仮転。御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の現実の振る舞いをあらわしている。③中転。御本尊に向かう自分自身が、そのままで仏の悟りの身の当体と見る読み方。
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一身即三身
 法華文句に「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり、通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり、力は幹用自在、即ち応身なり、仏、三世に於て等しく三身あり、諸教の中に於て之を秘して伝えず」とある。一身即三身・三身即一身とあるのも、究極は、一身とは久遠元初自受用法身如来即日蓮大聖人であり、三身とは無作の三身である。日蓮大聖人こそ無作三身当体蓮華の仏であられる。
―――――――――
 法華経は十界の衆生がことごとく成仏できる教法であるが、いかに勝れた教法であっても信受しなければ無益であると、受持口唱を勧められ、最後に再度、十如是を三転読誦する意義を重説されている。
 法華経が爾前の諸経と異なるところは、諸経が不成仏の人としてきらっていた悪人・女人・二乗・一闡堤等が、皆ことごとく成仏できると説いたところにある。それゆえに、法華経を「皆成仏道」とも、「平等大慧」ともいうのであると仰せられている。ともに一切衆生の成仏を可能にした法華経の法門をあらわしているが、「皆成仏道」はいかなる衆生にも成仏できる道が開かれたことをさし、「平等大慧」は衆生を成仏に導く仏の智慧をさしている。
 したがって、「善悪一如・邪正一如」と一念三千を説く法華経を信受することによって、速やかに凡夫がその身を改めず内証成仏するゆえに「即身成仏」といい、だれびとも一生のうちに我が身即本覚の如来と開覚することができることから「一生妙覚」というのであると御教示されている。ちなみに「善悪不二」は、善と悪は衆生の心に具わっている二つの働きであり、本来、その体は不二であることをいう。善悪一如と同意である。「邪正一如」も、衆生の生命は性悪・性善をともに具えているという意で、一如は無差別・平等・一体のことをいう。邪正不二ともいう。
一生妙覚について
 「一生妙覚」は一生入妙覚の略で、一生のうちに妙覚という仏の位に入ることをいい、一生成仏と同義である。
 法華経では一切衆生が速やかに仏身を成ずる即身成仏の法理を明かしているが、法華経と天台大師の教えのなかには、現身に妙覚位を成就した衆生はいない。釈尊の仏法に結縁した衆生は、文上脱益の法華経本門寿量品を通して文底下種仏法において初めて可能となるのである。
 総勘文抄に「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く『末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん』已上、天台の判に云く『次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや』」(0566-15)とされているのは、その意である。
 そして、たとえ一生成仏、一生妙覚を知らない人であっても、南無妙法蓮華経の当体である御本尊を信じ、妙法を口唱すれば、釈尊も、また三世十方の諸仏も歓喜すると述べられている。日寛上人も観心本尊抄文段で「初心の行者その義を知らざれども、但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に『己心と仏心と一なり』と観ずるに当るなり。故に『観心』というなり」と説かれている。
我即歓喜諸仏亦然云云
 法華経見宝塔品第十一の文で、同品に「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり」とある。
 この文について、大聖人は御義口伝で文底下種法門の立場から生命に約して釈されている。すなわち「我とは心王なり諸仏とは心数なり法華経を持ち奉る時は心王心数同時に歓喜するなり、又云く我とは凡夫なり諸仏とは三世諸仏なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱えて歓喜する是なり」(0743-第十五我則歓喜諸仏亦然の事-01)と。
 「我即歓喜」の我とは心王、つまり生命それ自体、「諸仏亦然」の諸仏とは心数、つまり生命もろもろの働きをいう。「法華経」とは三大秘法の南無妙法蓮華経のことであり、妙法を受持して行学に励むとき、心王も心数も同時に歓喜するのである。また我とは凡夫、すなわち「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(0766-第十三常不値仏不聞法不見僧の事-03)と仰せのように、別して御本仏・日蓮大聖人御自身をさされている。諸仏とは三世十方の諸仏をいい、大聖人ならびに弟子門下が南無妙法蓮華経と唱えて歓喜すれば、諸仏もまた歓喜する、と仰せである。
 また同じく御義口伝には「歓喜とは法界同時の歓喜なり、此の歓喜の内には三世諸仏の歓喜納まるなり」(0735-第三身心遍歓喜の事-01)「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(0788-03)と述べられている。
 次に、妙法蓮華経がいかに勝れた大法であっても、受持口唱しなければ無益であることを「百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず」等と、譬喩をもって教えられている。
 また、法華経五百弟子授記品第八に説かれている「如意宝珠と云う珠」についても、衆生が宝珠を所有していることを知らなければ、“宝の持ち腐れ”で、宝珠も一向に役立たないように、妙法の功徳も信受してあらわれるのであると、実践修行の重要性を強調されている。
 「如意宝珠」とは、意のままに無量の宝を取り出すことのできる宝珠のことで、一切衆生に具わる仏性・仏界をたとえている。同品では衣裏珠の譬のなかで「無価の宝珠」として説かれている。
 すなわち、ある貧しい人が親友の家へ行き、もてなしを受けて酒に酔い、眠ってしまった。親友は急ぎの公用のため出かけなければならなくなり、価が計り知れない宝珠を、熟睡する彼の着物の裏に縫い込んでいった。
 貧しい人はそれとも知らず、国々を流浪し、貧窮した姿で再び親友を訪れた。親友はその姿を見て驚き、宝珠のことを尋ねた。貧しい人が着物の裏を調べてみると宝珠があり、豊かな生活ができるようになった、というものである。法華経の七譬の一つである。
 日蓮大聖人は御義口伝で「此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一乗妙法の智宝を信受するなり信心を以て衣裏にかくと云うなり」(0734-第一衣裏の事)と述べられている。「無価の宝珠」とは仏界、妙法のことであり、「衣裏」とは我ら衆生の生命の奥底を意味する。「一乗妙法の智宝」とは御本尊のことで。「衣裏に繫く」とは信心を起こすことをいうのである。
 そして、この法華経を修行するのに「観心を並べて読めば申すに及ばず」と、読誦・唱題と並べて行ずる観心修行を肯定されているが、これは上根に約して与えての義であり、下根の末法衆生についていえば「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納」っていることから「観念せずと雖も」と観念の行を不要とされているのである。所詮、末法の修行には、御本尊を受持・唱題することが即観心であることを前提とされたうえで、十如是を三転して読誦する意義を重ねて述べられているのである。
三転読誦の意義
 本抄で三転読誦の意義については、天台大師が摩訶止観巻四上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断破することができると説いたことを踏まえ、文底下種法門の立場から、凡夫の生命変革の実際に即して御教示されたものと拝される。
 三転読誦は、まず「所謂諸法、是相如、是性如、是体如」という意味を込め、「如」に力点を置いて読むのである。
 「如」は空の義であるから、我が身の先業によって受けるところの相・性・体・力…等、それに具わる「八十八使の見惑」「八十一品の思惑」が、空観によって破され、その身を改めず報身如来、つまり智慧を本体とする仏身と顕れるのである。
 「八十八使の見惑」は物事の道理に迷う妄見、惑いのことで、俱舎論巻十九では八十八種に細分している。「使」は煩悩の意。「惑」も煩悩の異名である。「八十一品の思惑」は事物・事象を感受して起こす惑いのことで、俱舎論二十三では八十一種に細別している。見惑と思惑は、一切の惑を三種に立て分けた三惑の一つ・見思惑をいう。
 第二に「所謂諸法、如是相、如是性、如是体」等という意味を込め、「相」「性」「体」等に力点を置いて読む。
 「相」「性」「体」等は仮諦の義であるから、我が身の先業によって受けるところの相・性・体・力…等、それに具わる「塵沙の惑」がことごとく仮観によって破され、その身のままで応身如来、つまり慈悲の働きを現ずる仏身と顕れるのである。「塵沙惑」は菩薩が衆生を化導する際に障りとなる惑のことで、塵沙は無量無数の意である。
 第三に「所謂諸法、相如是、性如是、体如是」等という意味を込め、「如是」に力点を置いて読むのである。
 「如是」は中道の義であるから、我が身の先業によって受けるところの相・性・体・力…等、それに随っている「無明」惑が中観によって破され、凡夫の身そのまま法身如来、つまり法そのものを体とする仏身と顕れるのである。
 この即身成仏について、本文で「心を開く」と述べられているように、爾前の諸経が「仏に成る」と、凡夫の身からかけ離れた特別の覚者になっていくこととしていたのに対し、大聖人の仏法では「仏とひらく」つまりもともと凡夫の身に具わっている仏の生命を、我が身のうちから開いていくのである。したがって、日蓮大聖人の仏法において、十如是を三転読誦するのは、御本尊の無量無辺の功徳力によって、御本尊に具わる法・報・応の三身に感応し、三惑の我が身が法・報・応の三身如来と顕われていくので、その御本尊の偉大な御徳、法理を賛嘆し、感謝しつつ読誦するのである。
 なお勤行の際、「如是相、如是性、如是体」と三転して読誦するなかに、以上の意義が含まれているのであるから「是相如、是性如、是体如」等と読む必要がないことを付記しておきたい。
三身即一身・一身即三身
 日蓮大聖人は、十如是を三転読誦することが、そのまま「三身即一身・一身即三身の義」をあらわすと仰せである。すなわち法・報・応の三身が一仏身に具わり、一仏身はまた三身とあらわれる。いわゆる三身相即していることから「三に分るけれども一なり一に定まれども三なり」と説かれている。つまり、法身なくして報身はなく、報身なくして応身はもちろんない。応身のない法身は存在に意味がなく、仏の一身に三身が混然一体となって収まっているのである。
 また、応身があるということは、とりもなおさず報身があるからであり、報身は法身の存在を前提としていくのであるから、一つのものが存在するということは、他のものも同時に存在していることでもある。このように仏身は円融円満なのである。
 天台大師は法華経如来寿量品第十六の「如来秘密」の文を釈し、「秘密」について「一身即三身・三身即一身」の意を含むとしている。すなわち、法華文句巻九下で「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す」と述べている。
 「三身即一身」は不横、すなわち横に並んでいないという意である。三身がそのまま一身に存するということである。爾前の大・小乗経においては、横に並ぶように法身・報身・応身が一身ずつ別々に存しているのである。例えば、華厳経の教主はただ法身だけであり、阿含経の教主は応身だけである。そのほか、爾前の大乗経においては、法身、あるいは報身が中心であって、応身は垂迹の形になっている。
 「一身即三身」は不縦、すなわち縦に前後して現れないことをいう。爾前経の立て方では、法身を根本とし、そこから報身、応身が現れるとするのに対し、法身なら法身という一つの仏格を挙げると、そのままそこに他の二身が具わっている、縦ならざる不思議な当体をいうのである。

0417~0423    十法界事top
0417:01~0417:01 第一章 本抄題号の出処を示すtop
0417
十法界事    正元元年    三十八歳御作
01   二乗三界を出でざれば即ち十法界の数量を失う云云、                         ・
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 天台宗では、二乗が三界を出離しなければ、二乗界はないので、十法界の数量を欠くといっている。

二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
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三界
 仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
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十法界
 十界のこと。衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したもの。六道の中では、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」とし、この三悪道に比べれば相対的にはよいことから、修羅・人・天は「三善道」とされる。また三悪道に修羅を加えて、「四悪趣」ともいう。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。小乗の教えに基づき覚りを目指す声聞・縁覚は「二乗」と呼ばれる。これに菩薩を加えて「三乗」と呼ばれる。法華経以外の経典では、十界はそれぞれ固定化された世界・境涯としてとらえられていた。しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命にそなわる10種の境涯であることを示した。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべてそなわっており、縁によって次にどの界の境涯をも現せることが明らかになった。このように十界の各界が互いに十界をそなえていることを十界互具という。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
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 初めに本抄御述作の由来と背景について簡単に触れておきたい。
 日蓮大聖人が本抄を御述作されたのは、正元元年(1259)、聖寿38歳とされている。前年の正嘉2年(1258)には駿河国の岩本実相寺で大蔵経を閲覧され、翌年の文応元年(1260)には第1回の国主諌暁として立正安国論を上呈されている。また、本抄御述作と同じ年には守護国家論を著されている。
 大聖人は正嘉元年(1257)の鎌倉の大地震による人々の苦しみを機縁に、当時各地を襲っていた飢饉疫癘、天変地夭などの災難をめぐって、それがなぜ起こるかという原因を明らかに示し、これらの災厄をなくすにはいかにすべきかを権力者に建言するため、裏づけとなる仏教経典を参照するために岩本実相寺に入られ、大蔵経を閲覧されたのである。その成果のなかから著されたのが守護国家論であり、鎌倉幕府の為政者、別しては前執権・北条時頼に公に上呈されたのが立正安国論であった。
 本抄は、日蓮大聖人が同じ時期に、災難の興起と国家という大きなテーマとは別に、大聖人独自の仏法の立場と理念をとくに中国・日本の天台宗の教義との対比との関連のうえから明らかにされようとした一代聖教大意、一念三千法門などの系列に入る御抄である。それゆえにまた、これら一連の御著作と同様、本抄も特定の弟子檀那に宛てられたものではなく、これらの種々の御著作のために準備された資料という感が深い。なお、本抄の御真筆は現存していない。
 さて冒頭の文は、声聞乗と縁覚乗がもし三界六道を出離することができなければ二乗界そのものがなくなってしまう。そうすると十法界が八法界になってしまって「十」という数量が成立しなくなる、という意味である。文の最後に「云云」とあるから、この文自体が引用文であることが明らかである。どこから引用された文であるかは不明であるが、内容からいって天台宗の立義であることは明らかである。
 この引用文を受けて、本抄は以下、4つの問いと3つの答えで構成されている。
 しかし、本抄の場合は他の諸御抄とは少し趣を異にして、問うたり難じたりする側が日蓮大聖人の立場を表しているのに対し、天台仏法の立場が答える側になって問うていることを留意しておく必要があろう。また、最後の4番目の問いに対して答えがないのは、問いのなかに日蓮大聖人の仏法の立場を明確にする内容が含まれていて一つの結論に到達しており、天台宗側に立った答えをもはや必要としなかったということができよう。
 今、それら問答の展開をあらかじめ概略しておくと次のようになる。
 まず、前述のように冒頭で天台宗の立義である“二乗が三界を出離しなければ十法界の数量がなくなってしまう”という趣旨の文が提起されている。この文を受けて、問いの側すなわち大聖人の仏法の立場から、二乗や菩薩が三界を出離するというけれども、法華経迹門の十界互具の法門や本門の久遠実成、更には文底観心の妙法を知らなければ二乗や菩薩は見思惑すら断ずることができず、したがって三界六道を出離することはできない、と厳しく迫っている。これに対して答者は、法華経以前の爾前経においても衆生の機根に応じて当分の利益を許すという天台宗の観点に立って、二乗や菩薩の六道出離を認めるのである。
 要するに大聖人の立場は、法華経の本門、なかんずく文底観心を根底にしてこそ真実の出離や得道があるとする極めて厳格な見地に立つのに対し、天台宗側は法華経が最高の法門を説いていることは認めても、爾前経でも分々の利益は与えられるとの観点に立って、二乗や菩薩が三界六道を出離することができるとするのである。
 大筋においては以上のような対立点と相違点とが4問3答を通して浮き彫りにされていくのである。

0417:01~0417:04 第二章 問答の対立点を明らかにするtop
01                            問う十界互具を知らざらん者六道流転の分段の生死を出
02 離して変易の土に生ず可きや、 答う二乗は既に見思を断じ三界の生因無し 底に由つてか界内の土に生る事を得ん
03 是の故に二乗永く六道に生ぜず、 故に玄の第二に云く「夫れ変易に生るに則ち三種有り三蔵の二乗・通教の三乗・
04 別教の三十心」已上此の如き等の人は皆通惑を断じ変易の土に生ずることを得て界内分段の不浄の国土に生ぜず。
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 問う。十界互具を知らない者が、六道流転の分段の生死を出離して変易の国土に生れることができようか。
 答う。二乗は既に見思惑を断じ、三界六道に生まれる因がない。だから、どうして三界六道の世界に生れることができようか。このゆえに二乗は永く六道に生まれない。ゆえに法華玄義の第二の巻に「そもそも変易の土に生まれる者に三種ある。三蔵教の二乗・通教の三乗・別教の三十心の菩薩」とある。これらの人は皆、通惑を断じ変易の国土に生まれることができて、三界六道、分段の不浄の国土に生まれないのである。

十界互具
 衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したもの。六道の中では、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」とし、この三悪道に比べれば相対的にはよいことから、修羅・人・天は「三善道」とされる。また三悪道に修羅を加えて、「四悪趣」ともいう。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。小乗の教えに基づき覚りを目指す声聞・縁覚は「二乗」と呼ばれる。これに菩薩を加えて「三乗」と呼ばれる。法華経以外の経典では、十界はそれぞれ固定化された世界・境涯としてとらえられていた。しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命にそなわる10種の境涯であることを示した。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべてそなわっており、縁によって次にどの界の境涯をも現せることが明らかになった。このように十界の各界が互いに十界をそなえていることを十界互具という。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
六道流転
 六道輪廻のこと。仏法を知らない衆生は、迷いと苦悩の種々の悪循環を繰り返し、六道を輪廻して出ることがないこと。
―――
分段の生死
 凡夫の苦しみと迷いに満ちた生死。六道に輪廻する凡夫の寿命が、おのおのの過去世の業の報いによって分かれ、その形態に段階的な違いがあるので分段という。
―――
出離
 三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。 
―――
変易の土
 変易の生死を証得した聖者の住む国土のこと。見思惑を断じ、寿命、形相に分々段々の差異がある凡身を変え易め、三界六道の流転を脱した阿羅漢・辟支仏・菩薩の住む方便土・実報土をいう。そして二乗・菩薩などの生死を変易の生死という。分段の身を変え易め、煩悩の迷いを滅し、悟りの智慧を開き改めていくゆえに変易という。
―――
見思
 見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。
―――
出離
 三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。 
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生因
 物事を生じさせる原因。
―――
界内の土
 六道輪廻の苦悩の世界のこと。三界・六道に支配された世界を指し、小乗教ではこの界内の惑を断ずることによって阿羅漢果を得るとする。
―――
三蔵の二乗
 三蔵教における声聞・縁覚のこと。三蔵とは仏教経典を三つに分類した経蔵・律蔵・論蔵のことで、経蔵とは釈尊の所説の教法・律蔵とは修行上の禁戒儀則・論蔵とは釈尊所説の法を論議注釈集成したものをいったが、のちに小乗教を三蔵教というようになった。
―――
通教の三乗
 通教に説かれる三乗のこと。通教では三乗いずれも体空間を修して見思惑を断じ尽くすとされる。
―――
別教の三十心
 別教で立てる菩薩の五十二位のうち、十住・十行・十回向の三十位のこと。内凡ともいい十信の外凡に比べて一分の理を悟るとはいえ、十地・等覚・妙覚という聖者の位に入らない段階をいう。
―――
通惑
 見思惑のこと。声聞・縁覚・菩薩が通じて断ずべき惑であるからこう呼ぶ。
―――
分段の不浄の国土
 三界六道に輪廻する迷いの凡夫が住する汚れた世界のこと。
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 冒頭の引用文を受けて、まず問者は、十界互具を知らない者がどうして六道流転の分段の生死を出離して変易の土に生ずることができるであろうか、と疑義を提出している。この問者すなわち日蓮大聖人の立場は、十界互具の法門を知らずしては三界六道を出離することはできない、ということである。
 これに対して答者は、天台宗の立場に立って十界互具という法華経の法門を知らなくとも、爾前経で二乗は見思惑を断じて三界六道を出離することが可能であるとする。そして、その裏づけとして天台大師の法華玄義巻二の文を引用している。
 法華玄義巻二の文の内容は次のとおりである。すなわち“分段の生死”を出離して変易の土に生れる者には三種類ある。すなわち、三蔵教の二乗、通教の三乗、別教の三十心の三つである、と。
 答者はこの文から、これらの三種類の人達はことごとく三乗に共通の惑である見思惑を断じ尽くして分段の生死を超え出て変易の土に生れるのであって、三界六道の分段“不浄”の国土には生じないと述べている。したがって、法華経の十界互具を知らなくとも、爾前経においても二乗・菩薩は六界を出離しうるというのが答者の立場である。
分段の生死・変易の生死
 合わせて二種の生死ともいう。まず、分段の生死とは迷いの世界である六道を生死生死と輪廻することをいう。“分段”とは分限段別のこと。分限とは前世の業因の違いによって、六道のそれぞれの境界によって肉体の大小や寿命の長短などに一定の限界があるということ、段別とは六道のなかで、例えば地獄界と餓鬼界、畜乗界というように、受ける身の形が互いに別々で異なることをいう。
 要するに、三界六道を輪廻する衆生は、それぞれの境界を果報として受けるのでそこに身体の大小・寿命、形などに限界と相違がありながら生死生死と輪廻する、これを分段の生死というのである。
 なお、三界六道を生死生死と輪廻する原因となるには見惑・思惑の二惑である。見惑とは物事の道理に迷う煩悩で我見・辺見などをいい、思惑とは貧・瞋・癡などによる迷いである。二乗や菩薩は、以上の見惑の二惑を断滅し三界六道の分段の生死を離脱するとされ、二乗・菩薩の聖者の生死の変易の生死をいう。
 変易の生死とは、見惑の二惑を断滅して三界六道の分段の生死を離脱しても、なお塵沙惑、無明惑の二惑が残されているために招く生死のことで、阿羅漢、辟支仏、大力菩薩などの聖者が受ける生死である。“変易”とは転変改易、因移果易を表すとされ、二乗、菩薩はそれぞれ塵沙惑、無明惑を克服しつつ究極の仏果に到達するまでしつづけるのであるが、そのあいだに、因は移り果が改まっていき、前の境地が死に、後よりの高い境地が生じていく。このようないわば心理的・精神的な成長過程の変易の生死をいうのである。また、菩薩が一定の願力によって自由自在に変化の身を受けることをも変易の生死という。例えば、菩薩は衆生を救済するために、自在にその身を変化させ衆生と同じ立場に身を置くことができるとされているのがそれである。
 分段の生死の場合、一度、六道の境地のどれかに生れてしまえば、身体の形、大小、寿命などことごとく一定の分限を受けて変化させることができないが、変易の生死では瞬間瞬間、その身や境地を自在に変化させることができるとされる。したがって、分段の生死と変易の生死では“生死”の言葉の使い方に大きな相違がある。分段の場合はまさに、一定の寿命期間としての「生」があり、その生の間の業力によって次なる境地において一定の寿命期間の「生」を受けていくのであって、あくまでも受動的な生死であるが、変易の場合はそのような分段の生死流転を超えて、自らの修行実践によって、より高い境地に主体的に生まれていくことができる生死をいうのである。

0417;05~0417:07 第三章 心生による出離を難ずtop
05   難じて云く小乗の教は但是れ心生の六道を談じて 是れ心具の六界を談ずるに非ず、是の故に二乗は六界を顕さ
06 ず心具を談ぜず云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ず可きや、故に寿量品に云える一切世間・天・人・阿修羅とは
07 爾前迹門・両教の二乗・三教の菩薩・並に五時の円人を皆天人・修羅と云う豈に未断見思の人と云うに非ずや
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 難詰して問う。小乗教は、ただ心から生ずる六道を説いているのであって、心を具する六界を顕さないし、心に六界が具すことを明らかにしない。したがって、どうしてただ六界にある見思惑を断じて六道を出離することができようか。ゆえに法華経如来寿量品第十六にいう「一切世間の天・人・阿修羅」とは爾前経・法華経迹門の両教の二乗、蔵通別の三教の菩薩、ならびに五時中の法華経迹門の円人を天・人・修羅と表現したのである。したがって、これらの人々は全く未だ見思惑を断じていない人というべきである。

小乗の教
 小乗経のこと。乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
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心生の六道
 心から生ずる六道のこと。蔵教および通教では心に生ずる見思惑によって六道に生ずるという。すなわち蔵・通二教は三界六道の因果を説くのみであって、惑業の造作によって諸法が生ずるとする。
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心具の六界
 心具とは、一念の心に三千の諸法がそなわっていること。衆生の一心にそなわる六界のことをいう。
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寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
一切世間・天・人・阿修羅
 法華経寿量品第16の文。「一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」とある。
―――
爾前迹門・両教の二乗
 爾前経と迹門における声聞・縁覚をいう。爾前とは爾前経のこと。爾の前の意。法華経以前の経をいう。迹門は垂迹仏が説いた法門で「迹」は影・「門」は法門のこと。
―――
三教の菩薩
 蔵教・通教・別教における菩薩。
―――
五時の円人
 法華経迹門における完全円満な教えを信奉する人。ただし彼等は法華経本門の事の一念三千・久遠実成を知らない菩薩といえる。
―――
未断見思の人
 いまだ見思惑を断じていない人。
―――――――――
 第一問答において答者は、二乗・菩薩がたとえ法華経の十界互具の法門を知らなくとも、爾前経の当分の利益によって六道を出離し変易の土に生ずることが可能であると述べた。
 ここはそれに対する難詰である。難詰の内容は大きく二つに分かれる。一つは「難じて云く小乗の教は但是れ心生の六道を談じて是れ心具の六界を談ずるに非ず、是の故に二乗は六界を顕さず心具を談ぜず云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ず可きや」という前半部分である。小乗教は「心生六道」を論じているにすぎず、「心具の六道」を論じていない。したがって二乗は六界を顕すことはないし、六界の見惑を断じて六道を離脱することもできない、と難じている。
 次に「故に寿量品に云える一切世間・天・人・阿修羅とは爾前迹門・両教の二乗・三教の菩薩・並に五時の円人を皆天人・修羅と云う豈に未断見思の人と云うに非ずや」の後半部分では、法華経本門寿量品で始成正覚にとらわれている衆生として挙げられている人・天・阿修羅とは爾前経と法華経迹門の二乗・蔵・通・別の三教の菩薩、更には五時の法華経迹門の円人などもすべて含めて“一切世間・天・人・阿修羅”といっているのであって、これらすべては、末だ見思惑を断じていない人々であるとしている。
 すなわち、この難詰において、前半では法華経の十界互具を知らない二乗は真実には見思惑を断じたことにはならず、六道を離脱しえないと難じたのであるが、後半では更に一歩進めて本門の久遠実成を知らない衆生は法華経迹門の円人までも含んでことごとく見思惑を断じていないのであると難じたのである。
心生六道と心具六界
 初めに、心生の六道とは文字通り心から生ずる六道のことである。
 摩訶止観には「小乗にも亦、心は一切の法を生ずと説くは、六道の因果、三界の輪環を謂うなり」とある。つまり、蔵教や通教では凡夫の心に生ずる見思惑の煩悩が業を引き起こして業因となり、その果報として三界六道のいずれかの境界を輪廻すると説いている。したがって、六道輪廻を離脱するにはその原因である見思惑を心に起こさない、言い換えれば見思惑を断ずればよいことになる。
 これを徹底すると灰身滅智となる。灰身滅智とは身を灰にし智を滅する意味で、一切の煩悩・業・苦が生ずる拠りどころである色心の両面を滅することである。これが小乗仏教の最終目的である無余涅槃、すなわち再び三界六道に生じない悟りである。
 したがって、心生の六道を説く小乗教では、二乗は六道から出離した立場で六界を顕すことはないので、もはや六界の見惑を断じて六道を出ることはありえない。
 これに対して、心具六界とは文字通り心に六界を具すことであり、法華経において十界互具が明かされて初めて成立する法門である。
 言い換えると、六道の各界を輪廻する原因はあくまでも見思惑の煩悩に染まった衆生の心にあるとする小乗の立場では、六道を離脱するためには見思惑に染まった心を断滅すればよいということになる。そして、その六道を離脱したとされるのが爾前経で二乗という境地である。
 しかしながら、もともと二乗の心に六界を具えていないとする立場で、どのようにして六界の見思惑を断じて六道を出離することができるであろうか、と言っているのである。
 このように、浅い法門の立場では見思を断じたとされても、より深い法門の立場では見思未断になることを、寿量品の「一切世間天人及阿修羅」と挙げて始成正覚にとらわれている人々を示しているが、このなかには爾前迹門のすべての人々が含まれているのであり、爾前迹門の段階では見思惑を断じた人も、この本門の立場では未断見思の人とされることを示されているのである。

0417:07~0417:12 第四章 爾前当分の益有るを以て答えるtop
07                                                   答う
08 十界互具とは法華の淵底・此の宗の沖微なり 四十余年の諸経の中には之を秘して伝えず、 但し四十余年の諸の経
09 教の中に無数の凡夫・見思を断じて無漏の果を得・能く二種の涅槃の無為を証し 塵数の菩薩・通別の惑を断じ頓に
10 二種の生死の縛を超ゆ、 無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説くと雖も 而も猶爾前・三乗の益を
11 許す、 法華の中に於て正直捨方便と説くと雖も尚見諸菩薩授記作仏と説く 此くの如き等の文爾前の説に於て当分
12 の益を許すに非ずや、
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 答う。十界互具とは法華の奥底であり、天台宗の奥義である。法華経以前の四十余年の諸経の中には、これを秘して伝えなかった。ただし四十余年の種々の経教のなかに、無数の凡夫が見思惑を断じて無漏の果を得て、よく二種の涅槃の無為を証得し、多数の菩薩が見・思の通惑・塵沙・無明の別惑を断じ、速やかに二種の生死の縛を超えたのである。無量義経説法品第二の中に、法華経以前の四十余年の諸経を挙げて「未だ真実を顕さず」と説くが、しかもなお爾前経において三乗の得益を許している。法華経方便品第二の中において「正直に方便を捨てて」と説くが、なお法華経譬喩品第三に「諸の菩薩の授記作仏を見しかども」と説く。このような文々は、爾前経の説において当分の利益を許しているのではないか。

法華の淵底
 法華経の最も大事な教え、十界互具の法門。淵底は深い底の意で、奥深い教義のことをいう。
―――
此の宗の沖微
 法華の宗の究極。十界互具をいう。
―――
四十余年の諸経
 爾前諸教のこと。四十余年は釈尊50年の説法のうち、法華経を説く以前の42年間をいう。
―――
無数の凡夫
 数えきれないほどの多くの衆生。
―――
無漏の果
 無漏果・阿羅漢果のこと。
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二種の涅槃
 有余涅槃と無余涅槃のこと。①有余涅槃、煩悩は断尽したがまだ肉体が残っている状態。②無漏涅槃、更にその肉体をも無に帰して、永遠の真理と一体となること。灰身滅智のこと。
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無為
 因縁によって造作されることなく、生住異滅の相を離れた常住不変の真理。
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塵数
 塵の数。きわめて多数。
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通別の惑
 通教と別教の惑のこと。①通惑、三惑のなかで界内見思の惑、声聞・縁覚・菩薩の三乗を通じて断ずべき惑。②別惑、三惑のなかで界外化障塵沙の惑と中道障無明の惑のこと。
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二種の生死
 分段の生死と変易の生死のこと。
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無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
―――
未顕真実
 無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。
―――
三乗の益
 声聞・縁覚・菩薩の得る利益のこと。三乗は生死の苦海に迷う衆生を乗せて悟りの境地に運ぶ乗り物の意。
―――
正直捨方便
 法華経方便品第2の文(法華経144㌻)。「正直に方便を捨てて」と読む。釈尊が法華経以前に説いた教えはすべて方便であるとして、執着をもたずきっぱりと捨てること。この文は「但だ無上道を説く」と続き、最高の教えである法華経を説くと述べられている。
―――
見諸菩薩授記作仏
 法華経譬喩品第三の文。「我昔、仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等は斯の事に預らず。甚だ自ら、如来の無量の知見を失えることを感傷しき」とある。
―――
当分の益
 跨節に対する語。ある限られた立場でとらえた部分的な立場、利益のこと。
―――――――――
 前の難詰に対し、法華経以前の爾前経においても三乗・当分の利益が与えられているではないかと答えているところである。答者は十界互具の法門が法華経の究極、法華円宗の深奥であって爾前諸経には説かれていないことを認めつつも、その爾前四十余年の諸経において六道を出離して声聞・縁覚・菩薩という三乗の境地に達する利益があるのではないかと種々の例証を挙げている。
 その例証の文として最初に爾前諸経、次に無量義経、最後に法華経のなかからそれぞれ挙げられている。
 まず、四十余年の爾前諸経で、無数の凡夫が見思惑を断じて無漏の果報を獲得したり、また二乗が二種の涅槃の無為の悟りを証得したり、更に無数の菩薩達が通惑、別惑を断じて一挙に分段・変易の二種の生死の束縛を超えてしまったというような三乗の利益が説かれていることを例証としている。
 次に、無量義経では、四十余年の爾前諸経を「未顕真実」と打ち破ってはいるが、それでもなお爾前経に三乗の利益があることを許しており、実教の法華経においても爾前経を方便として捨てるべきことを説いたうえで、譬喩品第三にある「見諸菩薩授記作仏」の文をあげている。これは、舎利弗がかつて爾前経で、もろもろの菩薩達が仏から成仏の記別を受けて作仏するのを見たという述壊ことばであって、このように答者は経文上の事例を通して、たしかに十界互具は爾前経では明かされていないが、しかし、そこにおいても、衆生が六道を離脱して二乗や菩薩になっていくことができる一往・当分の領域での利益ではないかと反論しているのである。

0417:12~0417:12 第五章 互具と実成の二説への反論top
12            但し爾前の諸経に二事を説かず 謂く実の円仏無く又久遠実成を説かず故に等覚の菩薩に至
13 るまで近成を執する思い有り 此の一辺に於て天人と同じく 能迷の門を挙げ生死煩悩・一時に断壊することを証せ
14 ず故に唯未顕真実と説けり、 六界の互具を明さざるが故に出ず可からずとは此の難甚だ不可なり、 六界互具せば
15 即ち十界互具す可し何となれば権果の心生とは六凡の差別なり心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや。
-----―
 ただし爾前の諸経には二つの事を説いていない。すなわち真実の十界円融の仏がなく、また久遠実成を説いていないのである。ゆえに等覚の菩薩までも始成正覚に執着する思いがある。この一点において、二乗・菩薩も天人と同じく六道の迷いの門を入っているとし、生死・煩悩を一時に断破することができないのであり、ゆえに、ただ「未顕真実」と説いたのである。六界の互具を明かさないゆえに、三界六道を出離できないとは、この難詰は全く不可である。もし六界が互具するならば、おのずと十界が互具することになる。なぜかというと、爾前権教の果位の心生とは六道の凡夫のなかでの差別をあらわしており、心生の六界を観ずるときには、それぞれを滅する心生の四聖の高低があらわれるからである。

二事
 実の円仏と久遠実成の仏のこと。
―――
実の円仏
 実経に説かれる円融円満・十界互具の仏。
―――
久遠実成
 インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第16で説かれる。同品には「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478㌻)、「我は仏を得て自り来|経たる所の諸の劫数は|無量百千万|億載阿僧祇なり」(法華経489㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。
―――
等覚の菩薩
 仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。
―――
近成
 始成と同義。久成に対する語。インド応誕の釈尊が30歳ではじめて成道したとする始成正覚のこと。
―――
能迷の門
 迷妄の教えである爾前の法門。
―――
六界互具
 地獄・餓鬼。畜生・修羅・人・天界の各界が互いに他の界を具すること。
―――
六凡の差別
 輪廻する迷いの衆生に六道があること。
―――
四聖の高下
 声聞・縁覚・菩薩・仏界という聖賢の境界の高低。声聞界が低く仏界が高い。
―――――――――
 答者の反論の後半である。前半は爾前経にも三乗の当分の利益を許していることを種々の事例を挙げて反証したが、ここでは更に論を進め、十界互具と久遠実成という法華経の二法門を知らなければ見思惑を断じて六道を出離することができないとした問者の難詰に対して、爾前経当分の利益においても三乗は六道を出離することが可能であるから、十界互具・久遠実成の法華経の二つの法門と六道の出離とは無関係であると反論している。
 初めに、問者の難詰を受けて爾前経には「実の円仏」と「久遠実成」という二事は説かれていないことを答者も明確に認めている。ここで、実の円仏とは法華経に説かれる十界円融の仏、すなわち十界互具一念三千の仏のことであり、久遠実成はいうまでもなく法華経寿量品に明かされた、釈尊の五百塵点劫という久遠の昔において既に仏であったという説である。しかし、以上の二事を諸経が説いていないからといって、そのことを衆生が三界六道を出離して二乗・菩薩の三乗の利益を得ることは無関係であると反論している。
 「故に等覚の菩薩に至るまで近成を執する思い有り此の一辺に於て天人と同じく能迷の門を挙げ」とある文は、先に問者が寿量品の“一切世間・天・人・阿修羅”のなかに爾前迹門の二乗・蔵・通・別の三教の菩薩、五時の法華迹門の円人も含まれるのであり、いずれも法華本門の久遠実成を知らないために見思惑を断じていない人々であると断定していたことを受けている。つまり、近成への執着という一辺において、これらの人々は迷妄の教えである爾前・迹門の法門にとらわれているということであり、生死煩悩を一時に破壊することができないとしているのである。このことから「未顕真実」と説かれたのである。したがって「六界の互具を明さざるが故に出ず可からず」というのは不適切である。爾前経に六界の互具を明かさなくても六道を出離しうる利益はあるはずだというのである。
六界の互具を明さざるが故に出ず可からずとは此の難甚だ不可なり、六界互具せば即ち十界互具す可し何となれば権果の心生とは六凡の差別なり心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや
 この文は問者が心具六道を論じなければ三界六道を出離することができないと難詰したのに対し「此の難甚だ不可なり」として反論を加えているところである。
 反論の趣旨は、法華経に説かれる十界互具の法門を持ち出すまでもなく、爾前経に説く心生六界で十分に三界六道を出離して二乗・菩薩・仏果の四聖の境地を開くことが可能であるというところにある。
 「権果の心生とは六凡の差別なり心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや」とは、爾前権教の場合、見思惑に執われた凡夫の心から六道輪廻の果が生ずるのであり、そこには当然のことながら下は地獄界から上は天界までの六道の区別が存在するのである。そして、六道輪廻の果を受けないためには現在の自身の心を観察して滅していく段階の浅深に応じて、声聞・縁覚・菩薩・仏の低きから高きへの四聖の境地が生じてくるのである。これは心生四聖といってよい。つまり、心生六界においても心生四聖をその奥に潜在されているので、結局、爾前経においても十界を説いていることになるから、十界互具を知らなくとも三界六道を出離して二乗・菩薩の三乗の果や仏果を得ることが可能であると反論しているのである。

0418:01~0418:11 第六章 断常二見の小乗・大乗を破すtop
0418
01   第三重の難に云く所立の義誠に道理有るに似たり委く一代聖教の前後をカンガうるに法華本門並に観心の智慧を
02 起さざれば円仏と成らず、 故に実の凡夫にして権果だも得ず所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ、如来出
03 世して四顛倒を破せんが為に 苦・空等を説く此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり、 是の故に外道の我見を破し
04 て無我に住するは火を捨てて以て 水に随うが如し堅く無我を執して見思を断じ 六道を出ずると謂えり、 此れ迷
05 の根本なり故に色心倶滅の見に住す 大集等の経経に断常の二見と説くは是れなり、 例せば有漏外道の自らは得道
06 すと念えども 無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し、 仏教に値わずして三界を出ずるといわば是の処有る
07 こと無し小乗の二乗も亦復是くの如し、 鹿苑施小の時外道の我を離れて無我の見に住す 此の情を改めずして四十
08 余年草庵に止宿するの思い暫くも離るる時無し、 又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も 而も心具の十界を
09 論ぜず、 又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく 三惑を断尽して変易の生を離れ
10 寂光に生るべしと、 然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば 即ち常見と為す九界の色心の常
11 住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや、
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 第三の難詰として言う。今、立てる義はまことに道理があるようにみえる。詳しく一代聖教の前後を考察すると、法華経本門並びに観心の智慧を起こさなければ円仏とならない。ゆえに実の凡夫であって権果さえも得られない。だから、あの外道が五天竺に出でて四顛倒を立てていたのに対し、如来が出世して四顛倒を破すために苦・空・無常・無我を説いた。これは外道の迷情を破すためである。このゆえに外道の我見を破して無我に住することは、火を捨てて水に従うようなものである。堅く無我に執着して見思惑を断じ六道を出離すると思っている。これは迷いの根本である。故に色心を倶に滅するという見解に陥る。大集経等の経々に断常の二見と説くのはこのことである。例えば、有漏外道が自ら得道したと思っても、無漏智から見ると未だ三界を出離していないようなものである。仏教にあわないで三界を出離するというのは、根拠のないことである。小乗教の二乗もまた同じようなものである。この二乗は、釈尊が鹿野苑で小乗教を説いた時、外道の我を離れて無我の見解を得た。この迷情を改めないで四十余年間、小乗の草庵に泊まるとの思いは、しばらくも離れる時はなかった。また大乗教の菩薩において心生の十界を説くが、しかも心具の十界を論じない。また、ある時は九界の身心を断尽して仏界の一理に進む。この故に自ら、三惑を断尽して変易の生を離れた寂光に生まれるだろう、と思っているのである。しかし九界を滅すると考えれば、これは断見である。進んで仏界に昇ると考えれば、これは常見となる。九界の色心の常住を滅すると思うのは、九法界に迷い惑うものである。

所立の義
 天台宗で立てるところの義釈。
―――
道理
 ①物事のことわり、道徳、道義。②諸法が存在し変化するうえで拠り所となる法則。③理証のこと。
―――
一代聖教の前後
 一代とは釈尊が成道してから入涅槃するまでの50年間をいい、聖教とは仏が説いた教え、前後とは説かれた順序の意で、天台大師は華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の義を立てた。
―――
法華本門並に観心
 法華経本門および観心の大教のこと。①法華本門、仏の本地をあらわした法門のこと。②観心、末法下種の法門・南無妙法蓮華経。
―――
智慧
 ①物事・事象の是非。②智と慧、悟りを導く基となるものが慧で、外に向かって働くもの、発現するものが智。③聡い、賢いこと。
―――
権果
 権教で説く果位。
―――
外道
 ①仏教以外のインドの諸思想。これには、古代からの伝統宗教であるいわゆるバラモン教の思想や、釈尊と同時代に興隆していたジャイナ教などの新興の諸思想を含む。②仏教以外の教えや信徒のこと、後に仏教内の異端に対する貶称として用いられた。
―――
五天竺
 天竺とはインドの古称。東天竺・西天竺・南天竺・北天竺・中天竺の五つをいう。
――――
四顛倒
 真の仏の智慧からみれば誤っている四つの考え。無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思う凡夫のまちがった考え。また、涅槃の実相に対して、常を無常、楽を苦、我を無我、浄を不浄と誤り解すること。四倒。
―――
我見
 自分だけの偏った見方や狭い考え。我執。
―――
無我
 我の存在を否定すること。我とは常一に主宰するものありとする意で、一切はすべて無常であるから、我の存在することはないと説く。
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色心倶滅の見
 色心を俱に滅して涅槃を得ようとする小乗の考え方、灰身滅智のこと。
―――
大集
 大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。60巻。大乗の諸経を集めて一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を500年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後2000年以降を末法とする根拠とされた。
―――
断常の二見
 断見と常見のこと。①断見、衆生は死ねば身心ともに断絶するとして、生命は今生だけのものとする考え。②常見、世界が不変常住であるとともに、人の実体としての自我も過去・現在・未来にわたって常住であるとする考え方。
―――
有漏外道
 外道のうちで仏法を容れていない外道のこと。
―――
得道
 仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
―――
無漏智
 煩悩を断じて証得した四聖の清浄な智慧、わけても完全な無漏智は仏の智慧である。
―――
鹿苑施小
 釈尊が鹿野苑で小乗教を説いて衆生を教化したこと。
―――

 すべてのものの根源に内在しているそれぞれの個体を統一し、支配する不変の実態のこと。四顚倒のひとつ。
―――
大乗の菩薩
 大乗の諸経を修行する菩薩。
―――
心生の十界
 心から十界が生じること。
―――
心具の十界
 生命に備わっている十界のこと。
―――
九界
 十界のうち、仏界を除く地獄界から菩薩界までの九つのこと。
―――
仏界
 仏の世界。仏が体現した、慈悲と智慧にあふれる尊極の境涯。仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法に目覚めた人のこと。具体的にはインドで生まれた釈尊(釈迦仏)が挙げられる。諸経には阿弥陀仏などの種々の仏が説かれるが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から譬喩的に示した架空の仏である。諸経に説かれる仏の世界も仏に相応して違いがある。すなわち、諸経の仏とその世界は、それぞれの経にとって目指すべき理想であるといえる。法華経本門では釈尊の本地が久遠の仏であるという久遠実成が明かされ、その永遠の国土が娑婆世界と一体であるという娑婆即寂光が明かされた。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、この仏と仏の世界が凡夫の己心に本来そなわっていることを明かし、南無妙法蓮華経を受持することによってそれを開き現すことができると説かれている。仏界と信心との深い関係について同抄では、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241㌻)と述べられている。法華経は万人が成仏できることを説く教えであるが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界がそなわっているからである。また同抄では、人界に仏界がそなわっている現実の証拠として、釈尊が凡夫から仏となったこと、不軽菩薩がすべての人に仏界を見て礼拝したこと、堯や舜という古代の伝説的な帝王が万人に対して偏頗なく慈愛を注いだことを挙げられている(242㌻)。
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三惑
 天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②塵沙惑とは、菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
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変易の生
 声聞・縁覚・菩薩という賢聖が受ける生存状態。
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寂光
 常寂光土のこと。仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
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断見
 常見に対する語。外道の生命観である。心身ともにこの一生を限りとして断絶し、再びうまれないという思想。
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常見
 断見に対する語。心身ともに不住不滅であると説くが、鳥は、いつも鳥、人は必ず人に生まれると説いて、真の因果を説かぬ思想。
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九法界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩界のこと。
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迷惑
 迷い惑うこと。
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 先の答えを受けて、問者が第三番目の難詰をしていく。
 ここでは初めに、釈尊が説いた一代聖教の前後次第を検討してみるのに、「法華本門並に観心の智慧」が説かれないような爾前・迹門の教えによつたり、またこの智慧を起こさなかったならば、「円仏」すなわち、十界円融・一念三千の仏になることができないことは明らかである。したがって小乗・大乗を問わず、爾前権教の諸経では、どんなに修行しても、いつまでも凡夫のままであって権教に説く果位ですら実際には得られない、と根本的に爾前経を破折されている。
 次いで、小乗・権大乗教が説かれた意義を示されることによって、答者が爾前経においても一往・当分の利益があって四聖の境地に至ることができるという考えを、迷いと断定している。
 初めに、小乗の二乗は釈尊の「無我」の教えに執着したのであるが、小乗教自体、当時のインドの外道が説いた常・楽・我・浄の四顛倒の見解を破るために説かれたものであった。釈尊はそこにおいて、外道の我見を破るための方便として、外道とは逆に空・苦・無我・不浄を説いたにすぎないのに、小乗の二乗はこの無我の教えに執着して、かえって迷いを生じたのである。その結果、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に堕したものである。大集経で説く断常の二見という観点からすると、無我の境地を実体視し常住のものとする点では常見であり、自身の色心をともに完全に滅することを願う点では断見、ということになる。
 次いで、権大乗では心生十界を論ずるのが心具十界を論ぜず、また、九界の色心を断尽して仏界の一理のみに進むことにより、見思・塵沙・無明の三惑を断じて変易の生を離れて常寂光土に生れると説く。しかし、この権大乗の考えでは、九界の色心を滅するということで断見であり、仏界の一理のみに向かうということは仏界のみの常住を信じていることになるから常見にあたる。
 これを本来の法華経の十界円融、十界本有常住の大聖人の立場からとらえるとき、九界の色心は常住であるにもかかわらず、権大乗のように九界の色心を滅尽すると考えることは、九界に迷っていることになるわけである。
心生十界と心具十界
 心生十界とは文字通り心から十界が生ずるということである。先の心生六道の見思惑が執われた心から六界が生ずることであり、次に見思惑を滅していく浅深の度合いに応じて、その果報として次の世に二乗・菩薩・仏の四聖の境地を得ることができるとするのである。したがって、心生六道を説く立場にあっては、報いとしての六道を現実には生きているのであって、四聖の境地についてはあくまで「理」にすぎないのである。
 心生十界は別教と爾前の円教が説く法門で、まさに心に地獄から仏界に至る十界の境地を生じて仏果を得ていくとするのである。この法門を典型的に示す経文は華厳経巻十の「心は工なる画師の如し、種種の五陰を画く。一切世界の中に法として造らざる無し」という文である。上手な絵描が画布の上に種々の五陰からなる世界を描き出すように、心は一切世界の法を造るということである。一切の世界はまた十界を出ないゆえに、結局、心は十界を造り、十界は心から生ずるのである。これに対して、心具十界は心にともに十界が具わっているという法華経の法門である。この心具十界の法門が説かれてこそ真実の六道出離、成道が決定するのである。
九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す
 権大乗教の心生十界の法門は断常の二見に堕すだけである、と破折されているところである。
 心生十界は心から十界を生ずると説くのであるが、十界の互具を説かないゆえに成仏するためには仏界の一理のみを生ずることを目指さなければならないことになる。逆に言えば、心から生ずる九界についてはこれを滅することをいうのである。
 同じことを一代聖教大意では「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには 必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」(0403-09)と説かれている。つまり、権大乗では十界互具を説かないゆえに「厭離断九の仏」となるのである。すなわち、九界を厭い離れて人天悪人の身を失い仏界の一理のみに到達するのが権大乗の仏である。ここで、九界を滅する点が断見となり、仏界のみを常住とみているのが常見となる、と問者は難詰しているのである。
九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや
 十界の境地がことごとく本来、衆生の心に常住しているという法華経の十界本有常住の立場からいえば、九界の色心も当然常住ということになる。しかるに、権大乗では九界を滅しようと目指すのであるから、法華経の立場から見ればまさに九法界に迷っていることになるのであり、問者はこの矛盾を破折されているのである。

0418:11~0418:18 第七章 経釈を挙げて難詰を裏付けるtop
11                         又妙楽大師の云く「但し心を観ずと言わば 則ち理に称わず」
12 文、此の釈の意は小乗の観心は小乗の理に称わざるのみ、 又天台の文句第九に云く「七方便並に究竟の滅に非ず」
13 已上、此の釈は是れ爾前の前三教の菩薩も実には不成仏と云えるなり、 但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許
14 し正直捨方便と説くと雖も 而も見諸菩薩授記作仏と云うは、 天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時
15 過去の世に於て法華結縁の輩有り 爾前の中に於て且らく法華の為に 三乗当分の得道を許す 所謂種熟脱の中の熟
16 益の位なり是は尚迹門の説なり、 本門観心の時は 是れ実義に非ず一往許すのみ、 其の実義を論ずれば如来久遠
17 の本に迷い一念三千を知らざれば 永く六道の流転を出ず可からず、故に釈に云く「円乗の外を名けて外道と為す」
18 文、又「諸善男子・楽於小法・徳薄垢重者」と説く若し爾れば経釈共に道理必然なり、
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 また妙楽大師は止観輔行伝弘決巻五に「ただし心を観ずるというのは、実理にかなっていない」と言っている。この釈の意は、小乗の観心は心具を観じないから小乗の理にさえかなわないということである。また天台大師の法華文句の第九に「七方便はいずれも究竟の寂滅ではない」とある。この釈は、爾前の蔵・通・別の三教の菩薩も実際には不成仏というものである。ただし、無量義経説法品第二に「未だ真実を顕さず」と説きながら三乗の得道を許し、方便品第二に「正直に方便を捨てて」と説きながら、法華経譬喩品第三に「諸の菩薩の授記作仏を見しかども」というのは、次の意味においてである。すなわち天台宗において三種の教相がある。その第二の化導の始終の時、過去・三千塵点劫の大通智勝仏の世において、法華結縁の衆生がいた。その衆生に対し、爾前経のなかにおいて、しばらく法華経に導くために三乗の当分の得道を許したのであって、いわゆる種・熟・脱の三益の中の熟益の位であり、これはなお迹門の説である。法華経本門の観心の時は、これは実義ではなくなる。一往、三乗の当分の得道を許しただけである。その実義を論ずると、爾前迹門では如来の久遠実成の本地に迷い、一念三千を知らないので永く六道の流転を出離することはできないのである。ゆえに天台家の釈に「円乗の外を名けて外道となす」とある。また法華経如来寿量品第十六に「諸の善男子よ…小法を楽う徳が薄く垢の重い者」と説く。もし、そうであれば経文と釈ともに爾前経では六道の流転を出離できないという道理は必然である。

妙楽大師
 711年~782年。中国・唐の僧。湛然のこと。中国天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐)であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道邃・行満がいる。
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小乗の観心
 小乗教で説く観心のこと。小乗教では六道は心から生起するのが、これにあたる。
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小乗の理
 小乗教で説く真理。四諦法門・十二因縁がこれにあたる。
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七方便
 七種の方便のこと。①小乗教の声聞の修行位中、七賢位のこと。②法華玄義釈纎に説かれる天台所立の三種の七方便のこと。
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究竟
 究め尽すこと。永遠の不変の真理またはそれを究めること。
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爾前の前三教
 法華経以前に説かれた諸経教のこと。蔵教・通教・別教をいう。
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不成仏
 成仏できないこと。
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天台宗
 法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。
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三種の教相
 天台大師が釈尊一代の聖教の中で、法華経が諸教中最第一であることを、①根性の融不融の相②化導の始終不始終の相③師弟の遠近不遠近の相をもって、明らかにしたこと。
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化導の始終
 仏が衆生を成仏へと教え導く過程の始まりと終わりのこと。
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法華結縁の輩
 大通結縁の者のこと。法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。これを大通覆講という。そのうち第十六王子が釈尊の過去世の姿であり、この第十六王子と衆生との結縁を大通結縁といい、それは三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。ここでは第二類の人々をさしている。
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三乗当分の得道
 爾前の諸経に説かれる声聞・縁覚・菩薩の得道は、過去に法華経によって下種・調熟された衆生が得道したものに過ぎないということ。
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種熟脱
 下種・調熟・得脱のこと。仏が衆生を覚りへと導く三つの段階。各段階で仏が与える利益に応じて、それぞれ下種益・熟益・脱益と呼ばれ、合わせて三益という。
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迹門の説
 法華経迹門の教説のこと。
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実義
 真実義のこと。仏の本意をいう。
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一往
 ひととおり、そのままの見方。
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久遠の本
 久遠の昔に得道した本果のこと。久遠実成の本地をいう。
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一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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 人師が経論を注釈したもの。
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円乗
 円融円満な教法・円教・法華経のこと。
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諸善男子・楽於小法・徳薄垢重者
 法華経如来寿量品第16の文。「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し。但方便を以って、衆生を教化して仏道に入らしめんとして、是の如き説を作す。諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり」とある。
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経釈
 経と釈。「経」とは仏教所説の書。「釈」とは経文を人師が解釈したもの。
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 第三の問いの続きである。ここでは妙楽大師、伝教大師などの釈や寿量品の経文によって爾前に説かれる三乗の得道は実義がないことを裏づけているところである。初めに「但心を観ずとは則ち理に称はず」という文は、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の文である。この意味においても心を観察することを行うが、心に諸法を具しているということを説いていないのが小乗教であるから、こうした観心は小乗の理にすら合致しない、ということである。つまり、小乗の二乗は三界六道を出離することができないという依文である。次に「七方便並に究竟の滅に非ず」というのは天台大師の法華文句巻九の文であるが“七方便”とは蔵教の二乗、通教の三乗、別教の三十心の菩薩、円教の十信をさす。“究極の滅に非ず”とは、七方便の衆生はいずれも究極の悟りに到達していないという意味であり、とくに爾前の円教の菩薩でさえ実際には成仏していないことを裏づけているのである。更に、答者が先の答えのなかで、無量義経に「未顕真実」と説いていても三乗の得道を許しているとしたり、法華経方便品第二に「正直者方便」と説いてあっても譬喩品第三に「見諸菩薩受記作仏」とあるところから、菩薩の得道を方便爾前経でも許していると反論したことに対して、天台宗の三種の教相中、第二の化導の始終に基づいていると、これらは下種益・熟益・脱益の三益のうち熟益の位にすぎない。したがって、これらは法華経の迹門に説かれていると述べられている。
 これを法華経本門観心の立場からみる時、爾前も法華迹門も如来の久遠実成の本地に迷い、法華本門の事の一念三千を知らないために永久に六道の流転を出離することができないと破折されている。この破折を裏づける文証として「円教の外を名けて外道と為す」という釈と、寿量品の「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては」という経文を挙げておられる。とくに寿量品の“小法を楽える徳薄垢重の者”とは法華本門観心の実義を知らずに小乗や権大乗などの“小法”にとらわれている衆生をさし、これを徳薄く見思惑などの煩悩の垢の重い衆生とされている。以上から爾前では三乗の成仏得道はありえないと強調されているのである。

0418:18~0420:05 第八章 再び爾前の三乗の得益を説くtop
18                                        答う執難有りと雖も其の義不
0419
01 可なり、所以は如来の説教は機に備りて 虚からず是を以て頓等の四教・蔵等の四教八機の為に設くる所にして 得
02 益無きに非ず、 故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く、 誠に知んぬ「終に無上菩提を成ずる
03 ことを得ず」と説くと雖も・而も三法・四果の益無きに非ず、 但是れ速疾頓成と 歴劫迂回との異なるのみ、 是
04 れ一向に得道無きに非ざるなり、 是の故に或は三明六通も有り 或は普現色身の菩薩も有り縦い一心三観を修して
05 以て同体の三惑を断ぜずとも 既に析智を以て見思を断ず何ぞ二十五有を出でざらん、 是の故に解釈に云く「若し
06 衆生に遇うて小乗を修せしめば 我則ち慳貪に堕せん此の事不可なりとして祇二十五有を出す」已上、 当に知るべ
07 し此の事不可と説くと雖も 而も出界有り但是れ不思議の空を観ぜざるが故に 不思議の空智を顕さずと雖も何ぞ小
08 分の空解を起さざらん、 若し空智を以て見思を断ぜずと云わば開善の無声聞の義に同ずるに非ずや、 況や今の経
09 は正直捨権・純円一実の説なり 諸の爾前の声聞の得益を挙げて 「諸漏已に尽きて復煩悩無し」と説き又「実に阿
10 羅漢を得・此の法を信ぜず 是の処有ること無し」と云い又 「三百由旬を過ぎて一城を化作す」と説く、 若し諸
11 の声聞全く凡夫に同ぜば五百由旬一歩も行く可からず。
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 答う。執着による難詰があっても、その義は不可である。理由は如来の説教は機根に応じて説かれたものであり、虚偽ではないからである。これをもって頓・漸・秘密・不定の化儀の四教、蔵・通・別・円の化法の四教は、こうした八種の機根のために説いたものであって、得益がないわけではない。ゆえに無量義経説法品第三には「このゆえに衆生の得道は差別がある」と説いているのであるまことに無量義経説法品第二に「ついに無上菩提を成ずることを得ない」と説くといっても、しかも三法・四果の利益がないわけではなく、ただ、これは速疾頓成と歴劫迂回との違いがあるのみであって、爾前経に一向に得道がないというのではないことが分かる。このゆえに三明・六通もあり、あるいは普く色身を現す菩薩もいる。たとえ一心三観を修行して本体が同一であると三惑を断じなくても、既に析空観の智慧をもって見思惑を断じているのであり、どうして三界二十五有を出離しないことがあろうか。このゆえに、天台大師の法華文句に「もし衆生にあって小乗を修させると我は慳貪の罪に堕ちる。このことは不可であるとしても、ただ二十五有を出離する」とある。まさに知りなさい。このことは不可と説くが、しかも三界からの出離はある。ただこれは不思議の空を観じないゆえに不思議の空智を顕さないが、どうして小分の空解を起こさないことがあろうか。もし空智をもって見思を断じないというのなら、中国・開善寺の智蔵の説く実の声聞はいないとの義に同じになるではないか。
 まして今の法華経は正直に権を捨てて純ら一実の円教を説く経である。だが、爾前の諸経の声聞の得益を挙げて、法華経方便品第二に「諸の漏がすでに尽きて、もはや煩悩がない」と説き、また同品に「実に阿羅漢を得て、この法を信じない。これは道理のあることではない」といい、また化城喩品第七に「三百由旬を過ぎて一城を方便力で作った」と説いている。もし多くの声聞たちが全く凡夫に同じならば、五百由旬を一歩も行かなかったことになり「三百由旬を過ぎて」と説くはずがない。
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12   又云く「自ら所得の功徳に於て滅度の想を生じて当に涅槃に入るべし、 我余国に於て作仏して更に異名有らん
13 是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」已上、 此
14 の文既に証果の羅漢・法華の座に来らずして 無余涅槃に入り方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり、 若し
15 爾らば既に方便土に生じて何んぞ見思を断ぜざらん 是の故に天台妙楽も「彼土得聞」と釈す、 又爾前の菩薩に於
16 て「始めて我が身を見・我が所説を聞いて即ち皆信受し・如来慧に入りにき」と説く、 故に知んぬ爾前の諸の菩薩
17 三惑を断除して仏慧に入ることを、故に解釈に云く「初後の仏慧円頓の義斉し」已上。
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 また同品に、釈尊滅度の後の声聞は「自ら得たところの功徳において滅度の思いを生じて、まさに涅槃に入るであろう。我は滅度の後、他の国において作仏して、更に異なった名になるであろう。この人は滅度の思いを生じて涅槃に入っても、しかも彼の土において仏の智慧を求めて、この法華経を聞くことを得るであろう」とある。この文は、既に証果の阿羅漢が法華の会座に来ないで無余涅槃に入り、方便土に生じて法華経の説法を聞くと述べたものである。もし、そうであるならば既に方便土に生じているから、見思惑を断じているはずである。このゆえに天台大師は法華文句に、妙楽大師も法華文句記に「彼の方便土で法華経を聞く」と釈している。また爾前の菩薩について、法華経従地涌出品第十五に「初めて我が身を見、我が所説を聞いて、すべて信受し如来の智慧に入った」と説いている。ゆえに爾前の諸の菩薩が三惑を断除して仏の智慧に入ったことが分かるのである。ゆえに天台大師の法華玄義に「初めの華厳の仏慧と後の法華の仏慧と、円頓の義は等しい」とある。
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18   或は云く「故に始終を挙ぐるに意・仏慧に在り」と若し此等の説相経釈共に非義ならば正直捨権の説・唯以一大
0420
01 事の文・妙法華経・皆是真実の証誠皆以て無益なり皆是真実の言は豈一部八巻に亘るに非ずや、釈迦・多宝・十方分
02 身の舌相・至梵天の神力・三世諸仏の誠諦不虚の証誠・空く泡沫に同ぜん、 但し小乗の断常の二見に至つては且く
03 大乗に対して小乗を以て 外道に同ず小益無きに非ざるなり、 又七方便並に究竟の滅に非ざるの釈・或は復但し心
04 を観ずと言わば則ち理に称わずとは又 是れ円実の大益に対して七方便の益を下して 並に非究竟滅・即不称理と釈
05 するなり。
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 あるいは妙楽大師の法華玄義釈籤に「故に初めの華厳と、終わりの法華を挙げているが、本意は仏の智慧にある」とある。もし、これらの所説の意義、経文や疏釈ともに誤っているならば、法華経方便品第二の「正直に方便を捨てる」との説、また「唯一大事の因縁を以って」との文、見宝塔品第十一の「妙法華経・皆是れ真実である」との真実の証、これらはすべて無益となる。「皆是れ真実である」の言葉は、一部八巻二十八品にわたるのである。もし、それらが虚偽ならば釈迦仏・多宝如来・十方分身の諸仏が真実を証明するために舌を梵天に至らせる相を示した神通力、また三世の諸仏が説いた真理・虚偽でない真実の証は、むなしく泡沫と同じになってしまう。ただし小乗の断常の二見に至っては、しばらく大乗に対して小乗をもって外道に同じにするのであって、小乗に小益がないことはない。また法華文句巻九の「七方便はおずれも究竟の寂滅ではない」との釈、あるいは止観輔行伝弘決の「ただし小乗でも心を観ずるが、実理にかなっていない」との釈は、また法華真実の円教の大益に対して七方便の利益を下して、「究竟の寂滅ではない」「実理にかなっていない」と解釈したものである。

機機
 説法を受ける所化の衆生の機根。
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頓等の四教
 化儀の四教のこと。天台大師智顗が釈尊一代の教えを説き方によって四つに分類した教判。①頓教(覚りの真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)③秘密教(仏は同一の説法を行うが、それを聞く衆生は互いにその存在を知らず、説法の理解に相違がある)④不定教(衆生は同一の場所で同一の内容の教えを聞き、互いにその存在を認識するが、教えの理解に相違がある)の四つ。
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蔵等の四教
 化法の四教のこと。釈尊の一代の教えをその内容によって4種(蔵教・通教・別教・円教)に分類した天台宗の教判。①三蔵教。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。②通教。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。③別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。④円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。妙楽大師湛然は『止観輔行伝弘決』で、以上の四教のうち、蔵・通・別の三教には仏果の名はあるが、実際には仏果に至る人はいない(有教無人)と説く。また四教を五時に配すると、『法華玄義』では、第1の華厳時は円教に別教を兼ねて説くので兼、第2の阿含時はただ三蔵教のみを説くので但、第3の方等時は蔵通別円の四教を対比させて説くので対、第4の般若時は円教に通別をさしはさんで帯びて説くので帯、第5の法華涅槃時は純円とする。爾前の円が兼・対・帯であるのに対して法華の円は円独妙であるから、法華経を八教(化法の四教と化儀の四教)を超えて優れた超八醍醐の教えという。
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八教
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。
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得益
 利益・功徳のこと。
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是の故に衆生の得道差別あり
 無量義経説法品第2の文。「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。 種種に法を説くこと方便力を以ってす。 四十余年には未だ真実を顕さず。 是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得 ず」とある。
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終に無上菩提を成ずることを得ず
 無量義経十功徳品第3の文。「是れ衆生あって是の経を聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失えるなり。 無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ず ることを得ず。 所以は何ん、 菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故 に」とある。
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無上菩提
 最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
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三法・四果の益
 三法と四果の利益を得ること。①三法、四諦・十二因縁・六波羅蜜。②四果、斯陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果。
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速疾頓成
 爾前の諸経にも即身成仏に通ずる説法があることをさす。いわゆる爾前の円教といわれるものである。一代聖教大意には「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』 文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、 梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても 仏に成る少少開会の法門を説く処もあり」(0399-02)とあるが、いまだ二乗作仏、悪人成仏、女人成仏が明かされず、十界のさべつも生ずるがゆえに、しんじつの二乗作仏とあいえないのである
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歴劫迂回
 長い道程を経ること。速疾頓成・即身成仏に対する語。爾前の諸経では菩薩や二乗は、数えきれないほどの長遠の期間にわたっての修行を経て得道するとされている。初発心から得道まで、二乗の菩薩は三阿僧祇劫、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多俱低劫など長時の修行を要すると説かれる。
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三明六通
 三明と六神通のこと。(1)仏、阿羅漢がそなえている3種の神通力のこと。特に仏の場合は三達ともいう。①宿住智証明(自他の過去世における生死の相に通達する智慧)②死生智証明(自他の未来世における生死の相に通達する智慧)③漏尽智証明(現世に通達し、一切の煩悩を断滅する智慧)をいう。三明を六神通に配せば、それぞれ宿命通、天眼通、漏尽通にあたる。(2)六通ともいう。仏や菩薩などがそなえるとされた6種の超人的な能力。①神足通(神境通、如意神通とも)。自身の変現が自在で、どこにでも行ける能力。②天眼通。遠近大小にかかわらず何でも見える能力。③天耳通。何でも聞こえる能力。④他心通。他人の考えが分かる能力。⑤宿命通。衆生の過去世の生涯がわかる能力。⑥漏尽通。一切の煩悩を断じ尽くすことができる能力。
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普現色身の菩薩
 普く色心をあらわす菩薩のこと。衆生を救済するために、すべてにわたって種々の姿に身を示しあらわして説法することをいう。
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一心三観
 一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
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同体の三惑
 三惑が本来同一であること。円教でも煩悩を見思・塵沙・無明惑に分けるが、その実体は別々ではなく、一心に具わっている惑の働きであるということ。
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析智
 小乗教の析空観の智慧のこと。すべての事物・事象を分析して空を観ずる智。
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二十五有
 三界六道を二十五種に分けたもの。三界とは、欲界・色界・無色界。欲界では四趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)、四洲(東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越、六欲天(四王天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天)の十四有。色界では初禅天中の大梵天と四禅(初禅天・二禅天・三禅天・四禅天)の五有。無色界では四処(空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処)、無想天・那含天の六有で以上合して二十五をいう。
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解釈
 経典の文を理解する、あるいはその義理を説明すること。またその内容。
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慳貪
 物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らないさま。慳貪には、財物を惜しむ財慳と、正しい教えを説くことを惜しむ法慳がある。慳貪は、死後に餓鬼界に生まれる因となる悪業とされる。
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出界
 三界・六道の苦悩、迷いの境地から脱け出すこと。
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不思議の空
 円融の三諦のうちの空諦のこと。法華経の空観は諸教の隔歴の三諦と異なり、空即仮・空即中の関係にあり、不思議であることにこういう。
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不思議の空智
 円融三観の空観によって生ずる智慧のこと。五陰のなかに実の我なしと観じ、三惑を断じて得る智慧をいう。
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小分の空解
 少しだけの空解。空解は一切法を空と理解すること。また空に執着して物事を理解すること。
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開善の無声聞
 「開前」は智蔵法師のこと。中国・梁代・江蘇省の開善寺に住んでいたので、この名前がある。「無声聞」とは智蔵の説で、法華経の会座には仮に声聞の姿をした菩薩であっても、本当に声聞道にある声聞は参加していなかったとの説をとっている。
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正直捨権・純円一実
 法華経の説をいう。「正直捨権」正直に権を捨つと読み、正直捨方便と同義。「純円」は純粋無二・円融円満、「一実」は一仏乗・新実義をいみする。
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諸漏
 多くの煩悩のことをいう。漏には二義がある。①流、煩悩が眼・耳等の六根から常に流れ出すことで、生死・苦しみの世界を流転させられる意。②住、衆生を欲界・色界・無色界の三界に留住させるの意。
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実に阿羅漢を得・此の法を信ぜず是の処有ること無し
 法華経方便品第二の文。「是の諸の比丘、比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり。是れ最後身なり。究竟の涅槃なりと謂いて、便ち復阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此の輩は、」皆是れ増上慢の人なり。所以は何ん。若し比丘の実に阿羅漢を得たる有って、若し此の法を信ぜずといわば、是の処有ること無けん」とある。
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阿羅漢
 サンスクリットのアルハトの主格アルハンの音写で、羅漢と略す。応供と訳し、「尊敬・供養に値する人」を意味する。仏の別名の一つ。後に声聞の修行の階位の第4とされ、その最高の覚りの境地をさすようになった。
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三百由旬を過ぎて一城を化作す
 法華経化城喩品第7の文。「譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて、人なき怖畏の処あるが如し(中略)方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作し、衆人に告げて言わく、汝等怖るる事勿れ。退き還ること得ること莫れ。今此の大城、中に於て止って、意の所作に随うべし。若し是の城に入りなば、快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば、亦去ることを得べし。是の時に疲極の衆、心大に歓喜して、未曾有なりと歎ず」とある。
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由旬
 サンスクリットのヨージャナの音写。由善那とも。インドの距離の単位。1由旬とは帝王が1日に行軍する道のりとされ、およそ10キロメートルほどと考えられている。
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化作
 ①方便力・神通力によって事物を作り出すこと。②仏や菩薩が人々を化導するために姿を変えて現れること。
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滅度
 ①入滅・寂滅と同意。仏が涅槃にはいること。釈尊の入滅。②生死の苦しみを滅し涅槃・仏界を証得すること。③一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地。
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作仏
 仏に作ること。成仏・得仏・成道・得道のこと。
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異名
 本名以外の呼び方、別名。
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証果の羅漢
 六神通を得た阿羅漢のこと。すなわち、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのであり、阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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無余涅槃
 色心の煩悩をすべて断じ尽くすことによって得られる二乗の最高の悟りの境地。
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方便土
 四土の一つで方便有余土のこと。見思惑を断じ、三界の生死を離れた人が住する国土のこと。まだ無明惑を断じ尽くしていないがゆえに有余という。二乗・地前の菩薩の住処。
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爾前の菩薩
 爾前とは爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経で、これらの諸教に説かれた菩薩。
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始めて我が身を見・我が所説を聞いて即ち皆信受し・如来慧に入りにき
 法華経従地涌出品第15にある文。「如来は安楽にして少病少悩なり。諸の衆生等は、化度すべきこと易し。疲労あること無し。所以は何ん。是の諸の衆生は世世より已来、常に我が化を受けたり。亦、過去の諸仏に於いて、供養尊重して、諸の善根を種えたり。此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りき。先より修習して、小乗を学せる者をば除く。是の如き人も、我、今亦是の経を聞いて、仏慧に入ることを得せしむ」とある。
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如来慧
 仏の十号のひとつ。如来の智慧。
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仏慧
 仏智と同意。一切の事理に通じた仏の智慧のこと。最高・無上の智慧をいう。一切種智のこと。
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説相
 経文や論・釈等の所説や内容。言説や文章にどう述べられているかという事。
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唯以一大事
 方便品に「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。舎利弗云何なるをか諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく」とある。仏の出世の目的は、開示悟入の一大事のためであるということ。文底の立場からいえば、一大事とは南無妙法蓮華経のことである。
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妙法華経皆是真実
 法華経見宝塔品第十一に「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」とある。この文は、釈尊の説いた法華経が真実であることを宝塔の中から多宝如来が讃歎し、証明していった言葉。
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証誠
 ある事柄が真実であることを証明すること。またその証をいう。
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無益
 仏の教え・教法にしたがい行動しても恩恵・救済・利益・功徳がないこと。
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一部八巻
 法華経一部は8巻で構成されているということ。
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釈迦・多宝・十方分身の舌相
 法華経如来神力品第21には「爾の時に世尊…広長舌を出して…上梵世に至らしめ」とある。
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至梵天の神力
 法華経如来神力品第21には「一切の衆の前に於いて、大神力を現じたもう。広長舌を出して、上梵世に至らしめ、一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧く十方世界を照したもう」とある。
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誠諦不虚の証誠
 法華経の文々句々は皆真実であると証明したことをさす。
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泡沫
 泡のようにはかないこと。
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小益
 爾前当分の利益、小さな利益。
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円実の大益
 法華円教の真実の大きな利益。
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七方便の益
 蔵教の声聞・縁覚、通教の声聞・縁覚・菩薩、別教三十心の菩薩、円教の十信の菩薩の徳益をいう。
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 三番目の難詰に対して、再度、爾前権経に当分、一往における三乗の得益、得道があることを種々の経論を引いて反論しようとしているところである。
 この段は内容から「執難有りと雖も其の義不可なり、所以は如来の説教は機に備りて虚からず是を以て頓等の四教・蔵等の四教八機の為に設くる所にして得益無きに非ず、故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く、誠に知んぬ「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も・而も三法・四果の益無きに非ず、但是れ速疾頓成と歴劫迂回との異なるのみ、是一向に得道無きに非ざるなり」の前段と「是の故に或は三明六通も有り」以下の後段に分けられる。
 前段では、如来の説教は衆生のさまざまに異なる機根にしたがってなされるのであるから、それぞれの機根に応じて得益があったのであって、衆生の得益・得道の在り方に「速疾頓成」と「歴劫迂回」の相違があるにすぎないとして、爾前においては全く得益、得道がないとする問者の難詰に反論している。
 後半部分は種々の経文や論釈を引いて、爾前権経や法華経においても二乗や菩薩に得益、得道があると主張している。
縦い一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜずとも既に析智を以て見思を断ず何ぞ二十五有を出でざらん
 法華円教の一心三観の行を修行しなくても、爾前において二乗は見思惑を断じて三界六道二十五有を出離することができたと述べられているところである。
 問者の立場は十界互具を知らなければ三乗も真の得益はないということであるが、これは法華円教の行、すなわち空・仮・中の三観が一心に円融円満に具わることを観察していく行を修めていくことにより、もともと一心に具わっている見思・塵沙・無明の三惑を一挙に断尽しなければならないということである。
 つまり、爾前経にいうように、見思惑を断ずれば六道を出離して二乗となり、次に菩薩として塵沙惑を断じ、無明惑を断じて仏に成るようなやり方では、法華円教の立場からいえば真実には断惑とならず三乗の得益、得道もありえないということになる。
 それに対し、答者は一心三観の行により同体の三惑を断尽しなくとも、析智によって見思惑を断じて二十五有を出離し得るとしているのである。
但是れ不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕さずと雖も何ぞ小分の空解を起さざらん、若し空智を以て見思を断ぜずと云わば開善の無声聞の義に同ずるに非ずや
 ここで不思議の空とは円融三諦のなかの空諦のことで、この法華経の空観は爾前経の隔歴の三諦と異なって空即仮、空即中の関係にあって不可思議であるゆえに不思議の空というのである。したがって不思議の空智とは不思議の空を観察する智慧のことである。
 小乗の声聞の析空智が一心三観の“不思議の空”を観ずるものではないからといって、全く空を理解する智慧を起こさないわけではないとして、二乗声聞は三界六道を出離しているというのである。そして、問者のいうように、小さな小乗の空智でもっては見思惑を断ずることができないとするならば、開善の無声聞の義と同じことになるではないか、と反論している。
 開善というのは、中国梁代、鐘山開善寺に住した智蔵法師のことで、智蔵の無声聞の義というのは、法華経の会座に列なった声聞は真に声聞道を修める声聞ではなく、菩薩が仮に声聞の姿をしているにすぎないという説である。
 つまり、法華経の一心三観を修行しなければ二乗・声聞は六道を出離でえきないとする問者の立場は、法華経には声聞・二乗がないとする“無声聞の義”と同じことになり、天台大師の義に違背るではないか、と反論しているのである。
 ちなみに、天台大師は法華文句巻四上において、智蔵の無声聞の義と中国・南北朝の光宅寺法雲の有声聞の義の双方を破折している。有声聞の義とは法華経の会座に声聞有りとする説であるが、これに対し天台大師は、法華経では二乗作仏の授記を受ける前にも授記を受けるべき声聞がいたゆえに声聞とはいえないし、授記が授けられた後にはただ一仏乗のみで、もはや声聞はいないので有声聞とはいえない、として双方の説を破っている。
況や今の経は正直捨権・純円一実の~の証誠・空く泡沫に同ぜん
 この段は、方便品、化城喩品、涌出品のどの経文を天台、妙楽の釈を引用しつつ正直捨権、順縁一実の法華経においても爾前の声聞の得益、菩薩の得道を認めていることを論じているところである。それらの引用文についての一つ一つの検討は、次の四番目の難詰のなかで展開されるので、そこで行うことにしたい。
但し小乗の断常の二見に至つては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず小益無きに非ざるなり
 問者は第三の難詰のなかで、小乗は無我の境地に執着して見思惑の起こりの根本である身を灰にして心を滅するという修行をして六道を離脱したとするのであり、これは外道と同じく断常の二見に堕したものであると破折した。すなわち、無我の境地こそ常住であるとする点で常見、身心について灰身滅智する点で断見となるのである。
 この問者の破折に対して、答者は大乗経などの経典で、小乗を外道と同じく断常の二見に陥ったものとしているのは、どこまでも大乗に相対し比較して言ったものであって、小乗には全く得益がないということを意味するわけではないと会通している。
又七方便並に究竟の滅に非ざるの釈・或は復但し心を観ずと言わば則ち理に称わずとは又是れ円実の大益に対して七方便の益を下して並に非究竟滅・即不称理と釈するなり
 ここもやはり問者が第三の難詰のなかで、天台大師の法華文句巻九の「七方便並びに究竟の滅に非ず」という文や、妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決巻五の「但し心を観ずと言わば則ち理に称わず」という文を引用して、それぞれ爾前に三乗の得益、得道のない証拠であり、小乗なりの悟りの理すらないと破ったのを受けて、答者がこれらの釈分はいずれも「円実の大益」すなわち法華円教の真実の大きな利益に比べての論であって、決して爾前の三乗そのものに得益がないことを意味しているのではないと会通しているといころである。

0420:06~0420:08 第九章 本門観心により一切経を判ずtop
06   第四重の難に云く法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取つて掌中に捧ぐるが如し、 所以は
07 何ん 迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此れ
08 は是れ如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり、
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 第四の難詰として言う。法華経本門の観心の意をもって一代聖教を考察してみると、マンゴーを取って掌中に捧げるように明白である。その所以は、迹門の大教が起これば爾前の大教が亡じ、本門の大教が起これば迹門・爾前の大教が亡じ、観心の大教が起これば本門・迹門・爾前の大教はともに亡ずるのであって、これは如来の所説の聖教は、浅き従り深きに至って、次第に衆生の迷いを転ずるのであるからである。

菴羅果
 ウルシ科マンゴー属の果樹、またその果実。菴羅、菴摩羅ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている。
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迹門の大教
 法華経迹門の教法のこと。爾前の諸経に対比して勝れているので大教という。
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爾前の大教
 法華経以前の教法のこと。外道の諸経に対比して勝れているので大教という。
―――
本門の大教
 法華経本門の教法のこと。法華経迹門に対比して勝れているので大教という。
―――
観心の大教
 南無妙法蓮華経のこと。釈迦の法華経に対比して勝れているので大教という。
―――
本迹
 法華経の本門と迹門のこと。本門は仏の本地をあらわした法門で、迹門は垂迹仏の説いた法門をいう。
―――
従浅至深
 衆生の機根を調えながら、低い教えから高い教え、浅い経から深い経へ導くことをいう。
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 ここからは問者、すなわち大聖人による四番目の難詰である。この難詰は本抄の最後まで及び、答者の答えはない。最初に、法華経本門の観心の意によって一代聖教を判じておられる。すでに第三の問いの冒頭で「委く一代聖教の前後をカンガうるに法華本門並に観心の智慧」とあり、同じく「本門観心の時」などと表現されていたが、ここでその内容が一代聖教を判じていく基本となる究極の法門であることが明確となる。法華本門の観心とは法華経の本門寿量品文底下種の観心、三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。だが、日蓮大聖人は正元元年(1259)の時点においてはその独一本門を“三大秘法”として表されず“法華本門の観心”と説かれたのである。したがって、元意は三大秘法として拝すべきである。その法華本門の観心の意に基づいて一代聖教を“按ずる”すなわち、調べると、ちょうど掌の上にマンゴーの果実を取って眺めるように、一目瞭然となると説かれている。
 すなわち、法華迹門の大教が起こると爾前の大教が亡び、本門の大教が起こると迹門・爾前が亡び、観心の大教が起これば本門・迹門・爾前の教ことごとく亡ぶ、ということ、言い換えれば、本文に「如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり」とあるように、爾前の大教→法華迹門の大教→法華本門の大教→観心の大教、というように浅深次第して、最後に“観心の大教”のみが唯一の大教として残るのである。
迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず
 いわゆる四重の興廃と呼ばれる法門である。四重とは釈尊一代の教説を爾前経・法華迹門・法華本門・観心の四重に配立することで、この配立によって勝劣興廃を判断していくのである。
 本抄のこれまでの論述をもとに四重の興廃をたどってみると、爾前の大教には十界互具、実の円仏を説かないので、これを説いた法華迹門の大教が興ると自ずから爾前の大教は廃亡せざるをえない。次に法華迹門の大教には末だ久遠実成の本地を説かないので、これを説いた法華経本門が興ると爾前・法華経迹門の大教は興廃せざるを得ない。更に法華経本門といえども久遠元初の本法・南無妙法蓮華経を説いていないので、久遠元初の本法そのものである観心の大教が興ると、爾前・迹門・本門のことごとくが興亡せざるをえないのである。結局、観心の大教即末法下種の観心・南無妙法蓮華経をもって肝要とするのである。なお立正観抄にも四重の興廃が説かれている。「迹の大教起れば爾前の大教亡じ本の大教興れば迹の大教亡じ観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時」(0259-02)と。ここでは観心の大教を妙法不思議の一法と表現されている。

0420:08~0421:15 第十章 爾前の得益方便なるを明かすtop
08                              然れども如来の説は一人の為にせず 此の大道を説
09 きて迷情除かざれば生死出で難し、 若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳・漸は則ち三味・秘密と不定とは前
10 四味に亘る蔵は則ち阿含方等に亘る 通は是れ方等・般若・円・別は是れ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く、此くの
11 如く八機各各不同なれば教説も亦異なり 四教の教主亦是れ不同なれば 当教の機根余仏を知らず、故に解釈に云く
12 「各各仏独り其の前に在すと見る」已上。
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 しかし、如来の説法は一人のために説かれたものではない。この観心の大道を説いて迷情を除かなければ生死流転から出離することはできない。
 爾前のなかに八教がある。化儀の四教のうち頓教は華厳経、漸教は三味、秘密教と不定教とは前四味にわたっている。化法の四教のうち蔵教は阿含経・方等経にわたる。通教は是れ方等経と般若経、円教・別教は前四味のなかの鹿苑の説を除く。このように八教の機根が、おのおの不同なので、仏の教説もまた異なり、四教の教主もまた不同なので、その教に当たる機根の衆生は他の余仏を知らない。ゆえに天台大師は摩訶止観に「おのおの衆生にはそれぞれの教主の仏が、独りその前におわすと見る」と釈している。
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13   人天の五戒.十善・二乗の四諦.十二・菩薩の六度.三祇・百劫.或は動逾塵劫.或は無量阿僧祇劫.円教の菩薩の初
14 発心時・便成正覚・明かに知んぬ 機根別なるが故に説教亦別なり、 教別なるが故に行も亦別なり行別なるが故に
15 得果も別なり此れ即ち各別の得益にして不同なり。
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 人・天は五戒・十善、二乗は四諦・十二因縁、菩薩の六度を修し、蔵教の菩薩は三僧祇・百大劫、あるいは通教の菩薩は動逾塵劫、あるいは別教の菩薩は無量阿僧祇劫の永い間修し、円教の菩薩は初発心の時、便ち正覚を成ずると明らかに知ったのである。すなわち衆生の機根が別であるゆえに仏の説教もまた別なのであり、教が別であるゆえに行もまた別である。行が別であるゆえに得果も別である。これは衆生の機根に応じた諸経の各別の得益であって不同である。

迷情
 迷いの情念・執念・一念。
―――
生死
 ①繰り返し迷いの境涯に生まれては死ぬこと。また、その苦しみ。②生命の二つの側面としての、生きることと死ぬこと。
―――
八教
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。
―――

 天台大師が立てた化儀の四教の第一。覚りの真実を直ちに説く。
―――
華厳
 華厳時の教法のこと。。釈尊が伽耶城(ガヤー)近くの菩提樹の下で成道した後、21日間、華厳経を説いた擬宜(試みに説いた)の期間。
―――

 天台大師が立てた化儀の四教の第二。順を追って高度な教えに導いていくこと。
三味
 サマーディ(Samādhi)の音写、訳して定・調査定・等持・等念という。心を一処に定めて動かぬこと。無量義経の無量義処三昧、法華経の法華三昧など、釈尊の教えの中には多数の三昧が説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、一心に御本尊に向かって題目を唱えることが三枚である。
―――
秘密
 天台大師が立てた化儀の四教の第三。仏は同一の説法を行うが、それを聞く衆生は互いにその存在を知らず、説法の理解に相違があること。
―――
不定
 天台大師が立てた化儀の四教の第四。衆生は同一の場所で同一の内容の教えを聞き、互いにその存在を認識するが、教えの理解に相違があること。
―――
前四味
 五味のうち、最高の味である醍醐味を除いたもの。天台教学では、四味は爾前経に当てられる。
―――

 三蔵教。略して蔵教ともいう。経律論の三蔵をそなえ、三界内の生死・因果のみを明かし、諸法を構成要素に分析して空とする析空観を観法とし、諸法の空をみて不空を知らない但空の理を説く。主として声聞・縁覚を対象とし、傍に菩薩を対象とするが、その究極は声聞の覚りにすぎないので、声聞教という。小乗教と位置づけられる。
―――
阿含
 阿含時の教法のこと。華厳時で教えを理解できなかった者がいたので、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで12年間、衆生を仏法に誘引するため長阿含経などの四阿含を説いた期間。大乗に対して小乗と位置づけられる。
―――
方等
 方等時の教法のこと。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。
―――

 通教。大乗の初門となる教えで、前の三蔵教と後の別教・円教とに通ずるので通教という。また、三乗に通じる教えなので通教という。界内の理を明かし、諸法の体に即してそのまま空とする体空観を用い、空の中に自ら不空が存在するという不但空の理を説く。声聞・縁覚・菩薩がともに学ぶが、菩薩を主たる対象とする。
―――
般若
 般若時の教法のこと。鷲峰山(霊鷲山)・白露池など四処十六会で14年間(一説には22年間)、摩訶般若などの一切皆空の教えを説き、衆生の機根を菩薩として高めた期間
―――

 円教。三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に説かれるので円教という。界外の理を明かし、万法の円融相即を説き、一即一切、一切即一であり、三諦についていえば三諦それぞれが不但で即空・即仮・即中という円融の三諦を説く。一行即一切行、一位即一切位と説き、初心の行位に万行・万位の功徳を包摂するので、一切衆生を対象として救済する利益を有する。
―――

 別教。前の蔵・通二教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。
―――
鹿苑の説
 釈尊が鹿野苑で説いた阿含経の教説のこと。
―――
四教の教主
 蔵通別円の四教を説く仏のこと。①蔵教の教主、菩提樹の下で生草を座とし、三十二相八十種好を具した丈六の劣応身の仏で、凡聖同居に住する。②通教の教主、七宝菩提樹の下に天衣を座とし、鈍根の者は丈六劣応身の仏と見、利根の者は勝応身の仏と見る帯劣勝応身で方便有余土に住する。③別教の教主、蓮華蔵世界の七宝菩提樹下の大宝華王座に坐し、万徳円満の報身で実報無障礙土に住する。④円教の教主、虚空を座とし、三身相即の清浄法身で常寂光土に住する。
―――
当教の機根
 蔵通別円の四教のそれぞれに当たり適う機根の衆生をいう。
―――
五戒
 古代インドで仏教者として万人が守るべきものとされた行動規範。在家の持つべき5種の戒。①不殺生戒(生き物を殺すことを禁ず)②不偸盗戒(他人の物を盗むことを禁ず)③不邪婬戒(自分の妻・夫以外との淫を禁ず)④不妄語戒(うそをつくことを禁ず)⑤不飲酒戒(酒を飲むことを禁ず)の五つをいう。これは、ジャイナ教の出家者が守るべき五つの戒(マハーヴラタ)と通じあう。マハーヴラタは、アヒンサー(不殺生・非暴力)、サティヤ(不妄語)、アステヤ(不偸盗)、ブラフマーチャーリヤ(不婬)、アパリグラハ(無所有)である。
―――
十善
 十善戒のこと。身・口・意の三業にわたって十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。①不殺生②不偸盗③不邪婬④不妄語⑤不両舌(二枚舌を使わない)⑥不悪口⑦不綺語(偽り飾る言葉を言わない)⑧不貪欲⑨不瞋恚⑩不邪見。十善を行ずる果報は、天上に生じて梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となると経典に説かれている。
―――
四諦
 仏教の最も基本となる四つの真理。①苦諦(迷いのこの世は一切が苦しみであること)②集諦(苦しみが生じる原因は執着であること)③滅諦(その執着を滅することで、苦しみを克服し覚りを得ること)④道諦(苦しみを克服し覚りを得るためには、八つの修行の道があること)。
―――
十二
 十二因縁のこと。生命流転の因果関係を12に分けて説いたもの。権大乗教で説く苦しみの因縁である。十二因縁とは、過去の二因 ①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとする説。
―――
六度
 六波羅蜜のこと。大乗の菩薩が実践し獲得すべき6つの徳目。六度ともいう。波羅蜜はサンスクリットのパーラミターの音写で、完成・究極の意。「度」と漢訳される。①布施(財施や法を説くこと)②持戒(戒律を守る)③忍辱(苦難を耐え忍ぶ)④精進(たゆまず修行に励む)⑤禅定(瞑想の実践)⑥智慧(般若)。前の五つそれぞれを完成させ、智慧の完成を目指す。
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三祇・百劫
 三阿僧祇と百大劫のこと。蔵教(小乗教)では、菩薩が修行を完成させるまでに、三阿僧祇劫・百大劫という極めて長い期間を経たとする。阿僧祇とはサンスクリットのアサンキヤの音写で、「数えられないほど大きな数」の意。劫はサンスクリットのカルパの音写で、極めて長大な時間を示す単位。大劫とは全宇宙が生成し消滅するまでの期間といわれるが、諸説ある。
―――
動逾塵劫
 通教の菩薩が修行を完成させるまでに経る期間。「動(やや)もすれば塵劫を逾ゆ」と読む。「塵劫」とは塵点劫の略で、微塵のように多くの期間。この塵劫を動もすれば越えるほどの長い期間を動逾塵劫という。
―――
無量阿僧祇劫
「無量」は量ることができない、無限の意。「無量阿僧祇劫」は、大乗の別教では菩薩が修行を完成させるまでに経る極めて長い期間とされる。
―――
円教
 円満な教え、完全な教えのこと。法華経などで説かれる、すべての衆生が成仏できるという教えのこと。
―――
初発心時・便成正覚
 円教の菩薩が初めて悟りを求める心を起こした時、即座に正しい悟りを成就すること。
―――

 ①造作。過去世で行った一切の行為。十二因縁の第二。福行・非福行・不動行がある。②業の意。現在の果をもたらした過去における身口意の三業の因。③還流義で、一切の有為法のこと。諸行無常など。④悟りを得るための修行、教行証の行など。⑤行くこと、四威儀の行など。
―――
得果
 結果を得ること。修行を因として仏界を証得すること。
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 第四の難詰の続きである。
 先の第三の問答において、法華本門・観心の法門を知らずしては六道出離も真実の得益・得道もありえないとする問者に対して「所以は如来の説教は機に備りて虚からず是を以て頓等の四教・蔵等の四教八機の為に設くる所にして得益無きに非ず」と答者が反論した。つまり、仏・如来というのは教法を聞く衆生の機根に応じて説法するのであるから、さまざまな機根に応じた教えによって得益の浅深上下はあるものの、得益が全くないとはいえない、というのである。
 この答えに対して、問者は、法華本門の観心以外に真の得道はないことを根本としたうえで、しかし、衆生の機根の違いに応じて四教八教が説かれたことを認めている。
 教法が別々であるから、その教法に基づいて立てられる行も別々であり、行が別々であれば、その行によって得られる得益も当然、さまざまである、と。

0420:16~0421:13 第11章 迹門により爾前の益を判ずtop
16   然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説き給う 爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆
17 同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し 一界に十界を具し十界に百界を具せり、 是の時爾前の諸経を思惟するに諸
18 経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず 三界の人天の如きは成仏の望絶えて 二乗菩薩の断惑即ち是れ自
0421
01 身の断惑なりと知らず、 三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も 互に界界を隔つ而も皆是れ一体なり、
02 昔の経は二乗は 但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず 菩薩も亦是くの如し自界の三
03 惑を断尽せんと欲すと雖も 六界・二乗の三惑を断ずることを知らず、真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即
04 一衆生なり、 若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず 是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を
05 改め十界互具を明す故に即ち円仏と成るなり、 爾前当分の益を嫌うこと無きが故に 「三界の諸漏已に尽き三百由
06 旬を過ぎて始めて我身を見る」と説けり 又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず 故に六界を出でずと雖も迹門は
07 二乗作仏が本懐なり故に 「彼の土に於いて是の経を聞くことを得」と説く、 既に「彼の土に聞くことを得」と云
08 う故に知んぬ爾前の諸経には方便土無し 故に実には実報並に常寂光も無し、 菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を
09 仮立す然れども 菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、 衆生無辺誓願度も満せず二乗
10 の沈空尽滅は 即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出ず可からず、 尚下劣の方便土を
11 明さず況や勝れたる実報寂光を明さんや、 実に見思を断ぜば何ぞ方便を明さざらん 菩薩実に実報・寂光に至らば
12 何ぞ方便土に至ること無らん、 但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も 而も上の二土無きが故に同居
13 の中に於て影現の実報寂光を仮立す、 然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し 
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 しかし今、法華経方便品第二に「衆生をして仏知見を開かせようと欲する」と説かれたのである。そのとき、八教の機根ならびに四悪趣の衆生がすべて同じく釈迦如来となり、お互いに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具している。このとき、爾前の諸経を思惟すると、諸経の諸仏は自界に二乗を具さじ、二乗もまた菩薩界を具さない。三界の人・天のような者は成仏の望みが絶えて、二乗や菩薩の断惑がそのまま自身の断惑であると知らない。三乗や四乗の智慧は四悪趣を離脱するに似ているが、爾前経ではお互いに界を隔てているゆえに真に四悪趣を離脱していない。しかし法華経ではお互いに界々を具えて一体である。爾前の昔の経では二乗はただ自界の見思惑を断除すると思って六界の見思惑を断ずることを知らない。菩薩もまた同じである。自界の三惑を断尽しようと欲するが、六界・二乗の三惑を断ずることを知らない。真実に三惑を断ずることを証明するときは、一衆生即十衆生・十衆生即一衆生である。もし六界の見思惑を断じなかったから、二乗の見思惑を断ずることができない。
 このように法華経本門では説くが、法華経迹門はただ九界が各別であると迷情を改め、十界互具の理を明かすゆえに十界円融の仏と成るのである。迹門では爾前経の当分の利益を嫌うことがないゆえに「諸の漏がすでに尽き」「三百由旬を過ぎて」「初めて我が身を見る」と説いたのである。また爾前経で滅に入った二乗は実には見思惑を断じていない。ゆえに六界を出離しないが、迹門は二乗作仏が本懐であるゆえに「他の国において仏の智慧を求めて、この法華経を聞くことを得る」と説いたのである。既に法華経で初めて「他の国において聞くことを得る」というゆえに、爾前の諸経には方便土はないと知るのである。
 ゆえに爾前経に実には実報土並びに常寂光土もない。菩薩の成仏を明かすゆえに実報土・常寂光土を仮に立てたのである。しかし、菩薩に二乗を具すから、二乗が成仏しなければ、菩薩も成仏することはできない。衆生無辺誓願度も満足しない。二乗が空理に沈み身智を滅することは、そのまま菩薩が空理に沈み、身智を滅し尽くすことである。凡夫が六道を出離しなければ、二乗も六道を出離し方便土に生れない。劣った方便土をさえ明かさないのであるから、まして勝れた実報土・寂光土を明かすことはない。真実に見思惑を断ずれば、どうして方便土を明かさないことがあろうか。菩薩が爾前経で実に実報土・寂光土に至るならばどうして二乗が方便土に至らないことがあろうか。ただ菩薩が無明を断つというゆえに仮に実報土・寂光土を立てるが、しかも上の二土が実にはないゆえに、凡聖同居の中において、影の姿として現れた実報土・寂光土を仮に立てただけである。だから、二乗が「三百由旬を過ぎ」たといっても、実には三界を出離していないのである。

法華方便品
 妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
衆生をして仏知見を開かしめんと欲す
 法華経方便品第二の文。「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に、世に出現したもうと為す」とある。
―――
悪趣
 趣とは境界の意で、十悪・五逆・謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。地獄とは苦しみ、餓鬼は食物はじめいっさいの物について、求めて得られない状態、畜生は弱い者には威張るが、強い者には媚びて恐々としている状態、修羅は争いに明け、争いに暮れる状態である。日寛上人の分段には「これはこれ四悪趣なり、『生死の河に堕ち』とは上の六凡をもって通じて生死となし四聖をもって用いて涅槃となすなり、性抄に『分明ならざるに似たり』と云云」とある。
―――
釈迦如来
 釈尊のこと。シャーキャ族の聖人(釈迦牟尼)。人々から尊敬される人物の意で、仏教の創始者ゴータマ・ブッダをさす。釈尊は古代インドに王子として生まれ、シッダールタと呼ばれた(生誕の地ルンビニーは現在のネパールに位置している)。若き日、生・老・病・死という免れられない人間の苦しみを目の当たりにし、今は青春の真っ只中で健康に生きていても、生・老・病・死は免れがたいことを知り、その根源の苦悩の解決法を探究しようとして出家した。シッダールタは、万人が羨む、満たされた王子としての境遇にあった。しかし、人々が求める贅沢さもしょせん、はかなく空しいと知り、楽しむことはなかったと回想している。そこで、釈尊は人間が生きる意味を明らかにする正しい思想・哲学を求めた。しかし、伝統的な教えにも、また同時代の革新的な教えにも満足できず、瞑想修行によって、種々の苦悩の根本原因とその解決について探究した。その結果、一人一人の生命、宇宙を貫く永遠普遍の「法」に目覚めた。それ故、サンスクリットで目覚めた人という意味の「ブッダ」と呼ばれる。後に中国では漢字で「仏」「仏陀」などと表記した。釈尊は、人々が自己の本来的な尊厳性への無知から、自己中心的な目先の欲望にとらわれ、他の人を不幸に陥れてでも幸せになろうとするエゴイズムに覆われていると喝破した。そして、内なる永遠普遍の法に目覚めて根源的な無知(無明)から解放された、自己本来の清浄な生命に立ち返る生き方こそ、人間が人間らしく生きるために必要な最も尊く優れたものであると教えた。また釈尊は、自己の尊厳性を自覚することによって他者の尊厳性を知り、尊敬することを教えた。これが「慈悲」の基本精神である。釈尊は、ある大王に対して、だれにとっても自分以上に愛しいものはない、自己を愛する者は他人を害してはならないと教えている。仏教の説く「慈悲」とは、他の人も自身と同じように大切な存在であると知って他の人を大切にすることであり、万人に双方向性をもつものである。【諸経典に説かれる釈尊】釈尊の言行は弟子たちによって後世に伝えられ、それぞれが重視する観点から種々の経典が編纂されていった。それらに示される釈尊像は、その経典制作者たちがとらえた理想を体現する仏であり、しばしば神格化され超越的な姿と力をもつものとして描かれている。その釈尊像は、それぞれの経典の教えを反映するものであり、「観心本尊抄」に基づいて経典の教説の分類に対応させて仏身を6種に立て分けられる。すなわち、蔵・通・別・円の四教においてそれぞれの仏身が説かれ、円教である法華経では迹門・本門の仏身が示されている。本門においては、文底の教えを立て分け、文底下種の法を説く仏身を立て分ける。それぞれの仏身はそれぞれの教えにおける成仏観を反映したものとなっている。
―――
五眼
 
物事を見る眼を肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の5種類に立て分けたもの。仏は五眼すべてをそなえてあらゆる人々を救済する。①肉眼は普通の人間の目。②天眼は神々の目。昼夜遠近を問わず見えるという。③慧眼は二乗の目。空の法理に基づいて物事を判断できるという。④法眼は菩薩の目。衆生を救済するための智慧を発揮するという。⑤仏眼は仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」(204㌻)と述べられている。
―――
一界に十界を具し十界に百界を具せり
 十界互具をあらわしている。
―――
思惟
 対象を分別し、よく考えること。
―――
自界
 自分のいる世界。
―――
断惑
 もろもろの惑を断ち切って滅除すること。爾前の諸経では、諸惑は苦の根源であるゆえに、これを断じないかぎり得ることができないと説き、一分の惑を断じた者以上を聖者と呼び、その前を凡夫とする。法華経では、煩悩即菩提の妙理のゆえに、惑を断ずることなく、煩悩を菩提に開くことができるのである。
―――
四乗
 四種の乗法のこと。①声聞・縁覚・菩薩・仏乗のこと。②一乗・三乗・小乗・人天乗のこと。③大乗・中乗・小乗・人天乗のこと。
―――
而も皆是れ一体なり
 爾前の諸経では十界は別々であるが、法華経の真実義からみれば、十界は互具して一体である。
―――
一衆生即十衆生・十衆生即一衆生
 一界の衆生はそのまま十界の衆生であり、十界の衆生はそのまま一界の衆生であるということ。十界互具をあらわしている。
―――
二乗作仏
 法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。法華経以外の大乗経では、二乗は自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはないとされていた。このことを日蓮大聖人は「開目抄」(191㌻以下)で、華厳経・維摩経などの爾前経を引かれ、詳しく論じられている。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧の境涯)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することを具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された。さらに法華経迹門では、この二乗作仏、また提婆達多品第12で説かれる女人成仏・悪人成仏によって、あらゆる衆生の成仏が保証され、十界互具・一念三千の法門が理の上で完成した。
―――
本懐
 もとより心に懐く究極の目的。
―――
方便土
 四土の一つで方便有余土のこと。見思惑を断じ、三界の生死を離れた人が住する国土のこと。まだ無明惑を断じ尽くしていないがゆえに有余という。二乗・地前の菩薩の住処。
―――
実報
 実報土のこと。詳しくは実報無障礙土という。住む人の境地を反映して4種類の国土(四土)が立て分けられるが、そのうち、三界六道を離れた国土で、高位の菩薩(別教の初地以上、円教の初住以上)が住むとされる。
―――
常寂光
 常寂光土のこと。四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
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仮立
 衆生教化のために方便として仮に説くこと。
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衆生無辺誓願度
 衆生をかぎりなく苦悩から救っていこうとの誓願。あらゆる菩薩が、仏道修行を始めるに当たって立てる4種の広大な誓願「四弘誓願」の第1。釈尊の衆生無辺誓願度は、万人成仏を明かした法華経を説くことによって成就した。
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沈空尽滅
 空理に沈んで身智を滅尽すること。小乗教の悟りで灰身滅智のこと。
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断無明
 ①無明を断じ尽くすこと。②無明惑を断じ尽くすこと。
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同居
 ①同居穢土、娑婆世界、すなわちわれわれが住む現実世界のこと。迷いの凡夫(六道)とそれを救済する仏・菩薩などの聖人(四聖)が同居する、煩悩と苦にまみれた世界。四土の一つである凡聖同居土における穢土。日蓮大聖人は「辦殿尼御前御書」で「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(1224㌻)と仰せである。②同居浄土、西方極楽世界のように清浄にそうごんされた中で人天と三乗・仏が同居する国土。
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影現の実報寂光
 仮に影の姿として現れた実報度と寂光土のこと。影現とは影の姿として現れた真実の姿でないものの意。爾前の諸経では、二乗の成仏は説かれないが、菩薩の成仏は明かされる。ゆえに菩薩が空理を証得した果報の土で、ある実報無障礙土。さらに諸仏如来の所居である常寂光土を立てる。しかし菩薩の心にも二乗が具わっているゆえに、二乗が成仏しなければ菩薩も成仏できないから、所居である実報土も常寂光土も凡聖同居のなかに仮立した影の姿としての現れるにすぎない。
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 第四の問いの続きである。ここでは大きく四つに分けられる。
 一つは「然るに今法華方便品に『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』と説き給う爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり」という御文であり、ここでは法華経迹門の十界互具の法門が開く利益を明らかにしている。
 次に「是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず三界の人天の如きは成仏の望絶えて二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず、三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も互に界界を隔つ而も皆是れ一体なり、昔の経は二乗は但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず、真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず」とある御文は、法華迹門の利益から見るとき爾前当分の三乗の益が不十分なものであると破っている。
 更に「是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明す故に即ち円仏と成るなり、爾前当分の益を嫌うこと無きが故に『三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我身を見る』と説けり」とある御文は、爾前当分の益は不十分であるにもかかわらず、法華経迹門が爾前に当分の益のあることを認めていることを説いている。
 ここは、第三の答えのなかで答者が爾前経にも当分の得益や得道があることを主張する際、法華経序品第一の「諸漏已に尽くし復煩悩無く」の文や、化城喩品第七の「三百由旬を過ぎ、一城を化作し」の文、更に従地涌出品第十五の「此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆、信受して如来の慧に入りにき」との文を裏づけとしていたのを受けて、問者が反論を加えているところである。 問者は、爾前経で二乗や菩薩の得益・得道が説かれていてもそれらはどこまでも虚妄であるとする根拠として、法華経の二つの法門、すなわち久遠実成・十界互具を知らないということを指摘した。それに対して、答者は法華経の経文のなかに爾前当分の得益を認める文証があるではないかと反論しているのであるが、これに対して問者の解釈を述べたのがこの御文である。
 更に「又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏が本懐なり故に『彼の土に於いて是の経を聞くことを得』と説く、既に『彼の土に聞くことを得』云う故に知んぬ爾前の諸経には方便土無し故に実には実報並に常寂光も無し、菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出ず可からず、尚下劣の方便土を明さず況や勝れたる実報寂光を明さんや、実に見思を断ぜば何ぞ方便を明さざらん菩薩実に実報・寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無らん、但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す、然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し」とある御文は、法華迹門の十界互具の立場から、再度、爾前当分の二乗の得益と菩薩の得道についてその虚妄性を指摘して、爾前無得道の説を強調している。
今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説き給う爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり
 爾前権教は種々の機根の相違に応じて説かれて分々の得益を許したのであるが、法華経は仏の説法の目的がすべて衆生の仏知見を聞かしめて釈迦如来となしたのである。つまり、法華経の得益はあらゆる機根を融合して、すべての衆生に共通して存在する仏知見を聞き、釈迦如来すなわち仏にするというところにあり、これが問者即大聖人の強調される「一切衆生皆成仏道」の究極の得益なのである。この得益に比べれば、爾前権教の当分の得益などは虚妄となるのである。
 さて、あらゆる機根の衆生がことごとく釈迦如来になる、ということは「互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり」となるのである。互いに五眼を具すということは、十界の各界の衆生がそれぞれ五眼を具すということであり、これは各一界に仏界を含む十界を具すことであり、十界互具して百界になるということである。
是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず三界の人天の如きは成仏の望絶えて二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず、三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も互に界界を隔つ而も皆是れ一体なり、昔の経は二乗は但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず、真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず
 この法華経の十界互具の法門の立場から、ひるがえって爾前諸経の当分の得益を吟味するとどうなるか。まず「諸経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず」とあるように、爾前経における諸仏というのは“自界”すなわち仏界に二乗界を具えていないし、またその二乗界にも菩薩界を具えていないのである。したがって、三界の人界や天界の衆生は成仏することは絶望といってよいのである。なぜなら「二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず」とあるように、爾前の人天は十界互具を知らないゆえに、二乗が見思惑を断じ菩薩が塵沙惑・無明惑を断じて成仏したといっても、凡夫にとっては他人事であり、それが自身の内なる二乗界や菩薩界のことは知らないからである。
 更に三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も」と続く御文は、爾前経においては二乗・菩薩の三乗、これに仏界を加えて四乗の智慧が共通して地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の境地を離脱したようにみえるが、十界互具を知った智慧ではないから、二乗界・菩薩界・仏界の界々の智慧には区別と隔たりがある。これに対し、十界互具を知った立場からは皆ことごとく一体となるのである。
 次に「昔の経は二乗は但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず」とあるのは、まず、爾前経においては十界互具を知らないから、二乗界が断じたとする見思惑はただ自界に具わっている見思惑を断尽しただけにすぎず、本来断ずべき三界六道のすべての輪廻の因である見思惑を断尽することを知らないのである。これは第二の難詰のなかで「二乗は六界を顕さず心具を談ぜず云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ず可きや」と難じた問者の考えを裏づけるものといってよい。
 また「菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず」の御文はこれまでの展開を受けて、爾前経において菩薩が三惑を断ずることを欲菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず」しても、十界互具を知らないから菩薩界自身に六界や二乗の三惑を具えていることを知らないので、真実の断惑にはならないということである。
 最後に「真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず」との御文は、法華経の真実、すなわち十界互具により成仏を証したときは、地獄の衆生という一衆生の成仏はそのまま十界の衆生すべての成仏を意味することになると仰せられている。
 この原理からいえば、六道の衆生の見思惑を断ずることができなければ、その六道を具えている二乗の見思惑をも断ずることができないことになる。
迹門は但九界の情を改め十界互具を明す故に即ち円仏と成るなり、爾前当分の益を嫌うこと無きが故に 「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我身を見る」と説けり
 迹門の十界互具の限界を示されるとともに、その限界性が爾前当分の得益を認める側面をともなっていることを明かされている。
 「迹門は但九界の情を改め」とは、地獄界より菩薩界に至るまでの九界の相互の間に隔絶があり差別があるという迷いの情を改めて円融の理を明かしたのが迹門の十界互具の法門であるということである。言い換えれば、十界の迷いの情を改めずにそのまま十界互具の当体であると捉えるには、本門の久遠実成の開顕を待たなければならなかったのである。この意味で迹門の十界互具は「理」であり、本門の久遠開顕により開かれた十界互具が「事」である。
 したがって、迹門の十界互具の法門を知って円仏となるのは、あくまで十界差別の執着を改めることができたときである。ここから、法華経迹門においては十界相互の間の差別観、隔絶観を改めさせるための準備、方便としての爾前当分の益、得道を一往認めているのであると会通しておられる。これは第三の答えのなかで、法華経にも爾前当分の得益を許す文証があるとする反論に答えたものといえよう。
既に「彼の土に聞くことを得」と云う故に知んぬ爾前の諸経には方便土無し故に実には実報並に常寂光も無し、菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出ず可からず、尚下劣の方便土を明さず況や勝れたる実報寂光を明さんや、実に見思を断ぜば何ぞ方便を明さざらん菩薩実に実報・寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無らん、但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す、然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し
 答者が第三の答えのなかで、法華経にも爾前当分の得益を認めている文証があるとして出していた化城喩品第七の経文は「我が滅度の後、復弟子有って、是の経を聞かず、菩薩の所行を知らず、覚らず。自ら所得の功徳に於いて、滅度の想を生じて、当に涅槃に入るべし。我余国に於いて、作仏して更に異名有らん。是の人滅度の想を生じて、涅槃に入ると雖も、而も彼の土に於いて、仏の智慧を求め、是の経を聞くことを得ん」というものである。この経文について、答者は「此の文既に証果の羅漢・法華の座に来らずして無余涅槃に入り方便土に生じて法華を説くと見えたり」と釈し、既に阿羅漢の果を得た声聞が法華経の会座にくるまえの爾前経において、無余涅槃という解脱の境地に入って方便土に生まれ、そこで仏が法華経を説くのを聞こうということであると説明している。そしてこの経文を、二乗・声聞が既に見思惑を断じて三界六道を出離した文証であるとしたのである。
 ここで問者は答者の主張に対して、「迹門は二乗作仏が本懐なり」と述べ、迹門の説かれた目的はどこまでも二乗に成仏の益を与えるところにあるゆえに、化城喩品第七で「彼の土に於いて…是の経を聞くことを得」と説いたのである、と釈している。すなわち、二乗の住む方便土は法華経迹門において初めて明らかにされたのであり、それは言い換えれば爾前の諸経には二乗の住む方便土も、菩薩の住む実報土も、仏の住する常寂光土もなかったということであると強調している。
 爾前諸経では菩薩の成仏・得道を方便として明かすために仮に実報土や寂光土の存在を立てたのであり、十界互具の立場からいえば、菩薩界に具わっている二乗が作仏しなければ菩薩は成仏できないのであるから、爾前諸経の菩薩の成仏といっても、ことごとく虚妄にすぎない。
「衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり」とあるように、爾前諸経では、菩薩の四弘誓願の第一である衆生無辺誓願度も成就できないということであり、したがって煩悩無数誓願断、法門無尽誓願知、仏道無上誓願成の他の三誓願も成就できないということである。また二乗が空無に沈み灰身滅智するということは、その二乗を具している菩薩も沈空尽滅することになる。
 更に「但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す、然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し」という御文の意味は次のとおりである。
 “但断無明”とは、爾前諸経において方便として菩薩が無明惑を断ずるということを説いているということである。しかし爾前諸経には、前述のとおり菩薩の住む実報土も、仏の住む寂光土も実際には存在しないので、凡聖同居士の中に、実報・寂光の二つの土を仮に影の姿として立てたものであって幻にすぎないのである。したがって、法華迹門・化城喩品第七において「三百由旬を過ぎて一城を化作す」とある文の“三百由旬を過ぎて”というのは、爾前における二乗の三界出離の益をあらわしているとする答者に対して、実際には三界を出離していないと断じられているのである。

0421:13~0422:01 第12章 迹門・始覚の十界互具を破すtop
13                                           迹門には但是れ始覚の
14 十界互具を説きて 未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、 若し爾
15 らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、 当に知るべし四教の四仏 則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の
16 故に無始の本仏を知らず、 故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し 但し是の法は法位に住す
17 と説くことは未来常住にして 是れ過去常に非ざるなり、 本有の十界互具を顕さざれば 本有の大乗菩薩界無きな
18 り、 故に知んぬ迹門の二乗は 未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざ
0422
01 れば有名無実なり。
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 迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏も今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。また無始の色心常住の義もない。「この法は法位に住する」と説いているのも、これは、未来に向けての常住であって、これは過去からの常住ではない。本有の十界互具を顕さないから、本有の大乗の菩薩界もない。ゆえに迹門の二乗は未だ見思惑を断じていない。迹門の菩薩は未だ無明惑を断じていず、六道の凡夫は本有の六界に住さないので、名のみあって実がないことが分かるのである。

始覚
 始成正覚といい、永遠の生命に立脚しないこと。仏がこの世で始めて仏になったとする見方、また、そのような仏の境涯、これに対して永遠の生命に立つことを本覚という。
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本覚本有
 「本覚」は始成に対する語。①本来備わっている悟り、一切衆生は煩悩に満ちた迷いの身心を有し、生死を繰り返しているが、その本体は本来清浄で一切の妄想離れた覚体であること。②現象界の諸相や凡夫がそのままの姿で仏であると覚ること。③本仏の正覚、本地の覚り。㋑法華経文上では五百塵点劫の釈尊の悟りをさす。㋺久遠元初の自受用身の悟りのこと。総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0561-16)等とある。④天台家においては、本覚法門と始覚法門があり、両派は古くから対立している。「本有」は①本来、ありのままに存在するもの、またその存在。②もともとそなわっていること。③四有のひとつ、生まれてから死ぬまでの存在。④本来固有なこと、修生または修成に対する語。
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所化の大衆
 所化は化導を受ける人。弟子のこと。能化に対する語で、「化」は化導・教化の義。「所」は受ける立場。弟子を意味する。
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能化の円仏
 「能化」は能く他を化導・教化する人。すなわち師匠を能化といい、仏を能化という。「円仏」は円教の仏のこと。権仏に対する語。法華経で説かれた円融円満の仏。法華円教の仏のこと。
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本無今有
 「本無くして今有り」と読み下す。「観心本尊抄」(248㌻)にある。「本無」とは、無量義経や法華経迹門(迹門熟益三段)では、釈尊の真実の境地(本地)である久遠実成を明かさず始成正覚の立場であるので、真実の一念三千が顕れていないこと。「今有」とは、それでも二乗作仏を明かし、一応は十界互具・百界千如を明かしていること。
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四教の四仏
 「四教」は化法の四教を意味し、蔵通別円教のこと。①蔵教の教主、本菩提樹下で生草を座として、三十二相八十種好を具えた丈六の劣応身、凡聖同居土に住する。②通教の教主、七宝菩提樹下に天衣を座とし、鈍根の者は丈六の劣応身の仏と見、利根の者は勝応身の仏と見る帯劣勝応身で、方便有余土に住する。③別教の教主、蓮華蔵世界の七宝菩提樹下の大宝華王座に坐し、万徳円満の報身で実報無障礙土に住する。④円教の教主、虚空を座とし、三身相即の清浄法身で常寂光土に住する。
―――
無始の本仏
 「無始」とははじめがないこと。時間的に無限であることをいう。「無始の本仏」は「無始の古仏」ともいい、法華経本門・久遠実成の釈尊であるが、末法寿量文底から配すれば、三身相即・久遠元初・自受用報身如来・日蓮大聖人である。
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無始無終
 始めもなく終わりもないこと。三世にわたる常住不滅をいう。
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色心常住
 身と心が過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅であるということ。
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是の法は法位に住す
 法華経方便品第二の文。
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未来常住
 未来における永遠性を示す。未来とはいまだ実現していない時間区分のこと。また、死後の世界をさす。
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過去常
 過去常住のこと。寿量品に「一切世間の天人及び阿修羅は皆、今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりとおもえり」とある。この文は初め寂滅道場より、終わりは法華経・安楽行品にいたるまで、一切の大菩薩たちの、考えているところを指摘したものである。ついで「然るに善男子、我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫なり」とある。これは広開近顕遠の文である。すなわち、寿量品にいたって釈尊の成道は久遠五百塵点劫でありと示すとき、爾前経から法華経迹門にいたるまで、一様に説いてきたところの「久遠実成」は、ただの一言で大虚妄なりと打ち破られ、過去常が明らかにされたわけである。
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無明
 サンスクリットのアヴィドヤーの訳で、真理に明らかでないことを意味する。仏教では生命の根源的な無知・迷い・癡さであり、一切の煩悩を生む根本とされる。また三惑の一つである無明惑をさす。
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有名無実
 名ばかりあって、実のないこと。法華経已前の諸教において説かれた成仏のこと。
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 第四の問いの続きである。前章で法華迹門の教説の限界を指摘されたうえで、法華本門の立場から迹門の十界互具の始覚性を更に深く明らかにされている。そして、迹門における二乗は末だ見思惑を断じていないし、菩薩も末だ無明惑を断じていないとし、これらは全くの有名無実であることを破られている。
始覚の十界互具と本覚本有の十界互具
 始覚とは文字通り“始めて覚る”ことであり、“本覚”に対する言葉である。始めて覚る、というのは衆生が始めて菩提心を発し、次いで仏道修行をしながら次第に煩悩を克服し、遂には無始以来無明を打ち破って成仏することをいう。この始覚の在り方を釈尊にあてはめると、釈尊が19歳で出家し、30歳の時に菩提樹の下で正覚を成じた「始成正覚」にあたるのである。ところで法華経迹門の仏はこうした始成正覚の立場であり、十界互具もそのうえで説かれた十界互具であるから、あくまで「理」にすぎないのである。これに対して、釈尊は本門寿量品で過去五百塵点劫というはるかな久遠成道し、それ以来常に説法教化しているという本地を明かし、この久遠常住の生命に即し示された十界互具が「本覚本有の十界互具」である。
 以上の本覚の立場から迹門の教説を捉えると、「所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり」と仰せのとおり、迹門においては化導する側の能化の十界円融の円仏も、また化導される所化の大衆も、ともに始覚となる。また、本覚の十界互具の立場から迹門の十界互具を捉えると、本地が無いのに今始めて存在し有るということであるから「本無今有」となるのである。
四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し
 迹門の教説の限界を指摘しているところである。
 四教とは蔵・通・別・円の化法の四教のことであるが、四仏とは四教のそれぞれを説いた教主としての仏のことである。つまり、蔵教の教主は劣応身、通教の教主は帯劣勝応身、別教の教主は他受用身、円教の教主は三身相即の清浄法身の仏、となる。文中、四教の四仏が皆ことごとく円仏となる、というのは蔵教、通教、別教と次第に説き進みつつ、自らの仏身を変化させてきた教主が最後に円教を説いて円融円満の仏となるということである。しかし、この場合の円仏はあくまで無始久遠以来の本覚の仏を知らない迹門の立場の説にすぎないと破られている。
 「無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し」とあるのは、能説の仏・教主が始覚である迹門においては、無始以来の色心常住の義が欠けていて具わっていないということである。つまり、単に仏界だけでなく、あらゆる衆生や森羅万象の色心が無限の過去から常住しつづけてきたという永遠不変の義が迹門には明かされていないのである。なお、これに関連して諸宗問答抄には「我等・一切衆生・螻蟻ミンモウ等に至るまでみな無始無終の色心なり」(0382-06)と説かれている。
「但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり」
 迹門には、無始・色心常住の義がないというと、その反論として挙げられるのが、方便品第二の「是の法は法位に住して、世間の相常住なり」の文である。この文について会通を加えておられるところである。“是の法”とは一乗の法のことであり“法位に住して”とは一乗の法が真如という位に安定していることをさしている。次に“世間の相常住なり”とは、十界諸法の相互の間の世間の相はなくならずにそのまま常住しているという意味である。
 ここで常住の意義をめぐって、これが法華経本門如来寿量品第十六で明かされる久遠以来の常住という“過去常”を表しているのではなく、あくまで理における“本来常住”を表しているにすぎないと釈し、真実の常住は法華本門でしか説かれていないと述べられている。
本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり
 本有の十界互具とは本門寿量品において久遠実成が開顕されることによって明らかになった十界互具のことである。すなわち、如来寿量品第十六で「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり」と仏界の常住、「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶末だ尽きず。復上の数に倍せり」と、この生命に具足する九界の常住が明かされたのである。
 この立場からみれば、迹門では二乗は作仏を許されたといっても、本有の十界互具を顕していないゆえにいまだ見思惑を断じていないことになるし、迹門の菩薩も本有常住の大乗菩薩界を顕していないゆえに末だ無明を断じていないことになり、更に六道の凡夫も本来常住の六界に安住していないので名のみ有って実無き存在であると破られている。したがって、本有の六界を知らない凡夫は六道を出離することができない、という冒頭以来の命題がここで明確に裏づけられている。

0422;02~0422:09 第13章 爾前迹門の断惑の非実を説くtop

02   故に涌出品に至つて 爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫・半日の如しと謂えり」と説く是れ則ち寿量品の久
03 遠円仏の非長非短・不二の義に迷うが故なり、 爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起るが如し 未だ久遠
04 を知らざるを以て惑者の本と為すなり、 故に四十一品断の弥勒・本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の
05 衆を知らず、 既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば何ぞ等覚の菩薩を知らざらん、 設
06 い等覚の菩薩を知らざるも 争でか当機・結縁の衆を知らざらん 乃ち不識一人の文は最も未断三惑の故か、 是を
07 以て本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人・修羅に摂し「貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒」
08 と説き、 釈の文には「我坐道場・不得一法」と云う 蔵通両仏の見思断も 別円二仏の無明断も並に皆見思無明を
09 断ぜず故に随他意と云う、 所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず
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 ゆえに法華経従地涌出品第十五に至って、爾前迹門において無明惑を断じたとする菩薩をして「地涌の菩薩が仏を賛嘆した五十小劫の永い間を半日のようであると謂わせた」と説くのである。これは爾前迹門の菩薩が寿量品の久遠の円仏の長に非ず短に非ず、長短不二の義に迷っているゆえである。爾前迹門の断惑とは外道の有漏断が修行から退くと再びすぐに起こるようなものである。未だ久遠の円仏を知らないことをもって惑者の本とするのである。ゆえに四十一品の無明を断じた等覚位の弥勒菩薩でさえ、本門において行を立てる発起・影響・当機・結縁の地涌千界の一人も知らなかったのである。弥勒等の菩薩が既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得ていれば、発起・影響の等覚の菩薩を知らないはずがない。たとえ等覚の菩薩を知らなくても、どうして当機・結縁の菩薩衆を知らないことがあろうか。「すなわち一人も識らず」との文は、まぎれもなく弥勒等の菩薩が未だ三惑を断じていないゆえである。ここから本門に至っては爾前迹門に対して随他意の法門と釈を与え、また爾前迹門の菩薩を天・人・修羅のなかに収め、本門寿量品第十六に「五欲に貪著し」「妄見の網の中に入った」「凡夫が顛倒するをもって」と説き、法華文句のには「『昔、我は道場に坐して観念したが、一法の真実をも得られなかった』という」と説かれたのである。蔵教・通教の両仏が見思惑を断じたということも、別教・円教の二仏が無明惑を断じたということも、いずれも実際には見思惑・無明惑を断じていない。ゆえに随他意というのであり、所化の衆生三惑を断じていると思っているのも、全く真実の断惑ではないのである。

涌出品
 法華経従地涌出品第15のこと。釈尊滅後の末法に法華経の弘通を担う地涌の菩薩が出現することを説いて釈尊が久遠実成という本地を明かす序となっており(略開近顕遠)、如来寿量品第16の直前にあって重要な役割を果たす品である。法師品第10から釈尊が滅後の法華経弘通を勧めたことを受けて、迹化・他方の菩薩は、その誓願を立てた。しかし釈尊は菩薩たちに対し、「止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ」(法華経451~452㌻)とこれを制止した。その時、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩をリーダーとする地涌の菩薩が大地から涌出する。その様を目の当たりにした弥勒菩薩は、いまだかつてこのような菩薩を見たことがないとして、地涌の菩薩の正体について釈尊に尋ねた。これに対し釈尊は「爾して乃ち之を教化して|初めて道心を発さしむ……我は久遠従り来|是等の衆を教化せり」(法華経467㌻)と答えたのである。これを聞いて、会座の聴衆は大きな疑問を起こし、弥勒菩薩が代表して釈尊に尋ねる。すなわち、始成正覚の立場を確認した上で、成道から40余年しかならない釈尊が、どうしてこれだけ多くの菩薩を教化することができたのか。しかもこの菩薩の一人一人が実に立派であり、釈尊がこれをわが弟子だと言うのは、譬えていえば、25歳の青年が100歳の老人を指してわが弟子であると言うほどの矛盾がある。どうか未来のために疑いを除いていただきたい、と。これを「動執生疑」という。この疑いにまさしく答えたのが、続く如来寿量品である。以上の内容は「開目抄」(211㌻以下)で詳細に述べられている。
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寿量品
 如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
久遠円仏
 久遠本仏ともいう。「久遠」は五百塵点劫、「円仏」は円融円満の仏。仏の生命は、法報応の三身即一身で、32相80種好等の尊形を超出したものである。すなわち寿量品に説かれた自受用身如来のこと。ただし、本義は文底に秘沈されており、文上で説かれているのは、あくまでも応仏昇進の自受用身である。
―――
非長非短・不二の義
 法華経本門の仏の寿命は長短の概念を超越したものであるが、衆生の機根に応じて長くも短くも自在に示すことができるということ。
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有漏断
 三界六道の果報を招く修行法を行じて、煩悩を断ずること。三界を九地に分け、有漏の六行観を修し煩悩を断じて、次第に上地に進むことをいうが、有漏の法であるから、三界の煩悩を断じ尽くすことはできない。
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惑者の本
 心に迷いをもつものの根本。爾前の教えに執着し、三惑を離れることができないこと。
―――
四十一品断
 41品の無明を断じ尽くすこと。別教で説く菩薩の52位のうち、十住・十行・十回向・十地をへて51位の等覚までそれぞれの位にあらわれる無明をさす。四十一品断は、これらの無明を断じ尽くすことで、これを断じなければ、妙覚位には登れないとする。
―――
弥勒
 サンスクリットのマイトレーヤの音写。慈氏と訳し、慈愛に満ちた者を意味する。未来に釈尊に次いで仏としての位を継ぐとされる菩薩。釈尊に先立って入滅し、現在は菩薩として、都率天の内院で神々と人々に法を説いているとされる。そして釈尊滅後56億7000万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。このように次の生で仏となって釈尊の処(地位)を補うので「一生補処の菩薩」とも弥勒仏とも称する。紀元前後から、この世の救世主として弥勒菩薩の下生を願い信ずる弥勒信仰が盛んになり、インド・中国・日本を通じて行われた。古来、インドの瑜伽行派の学者である弥勒と混同されてきたのも、この弥勒信仰に起因している。
―――
本門立行
 法華経本門で立てられた修行のこと。
―――
発起・影響・当機・結縁
 説会の四衆のこと。機根に応じたランク分け。①発起衆は質問する人。②当機衆は仏法理論を聞いてその場で理解できる人。③結縁衆は聞いた時は理解できないが、結縁を結んで未来に悟る人。④影響衆は仏の傍にいて説法を助ける人。
―――
地涌千界
 無数の地涌の菩薩のこと。千界は千世界のこと。法華経如来神力品第21には「千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地従り涌出せる者」(法華経567㌻)とあり、地涌の菩薩は1000の世界をすりつぶしてできる微塵ほどに数が多いと説かれている。
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法性
 万物を貫く根本の法そのもの、仏の覚りの本質。真理であり、万物のあるべき姿を示すものなので、法性真如ともいう。
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不識一人
 法華経従地涌出品第15の文「是の如き諸の菩薩は、神通大智力あり。四方の地震裂して、皆中より涌出せり。世尊我昔より来、未だ曾て是の事を見ず。願わくは其の所従の、国土の名号を説きたまえ。我常に諸国に遊べども、未だ曾て是の事を見ず。我此の衆の中に於いて、乃し一人をも識らず。忽然に地より出でたり、願わくは其の因縁を説きたまえ」とある。
―――
未断三惑
 末だに煩悩を断ずることもなく、迷いの境地にあること。三惑は見思惑・塵沙惑・無明惑をいう。
―――
随他意
 真実の覚りに導くために、衆生の機根や好みに従って法を説くこと。またその方便の教えをいう。随自意に対する語。
―――
貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒
 法華経如来寿量品第16の文。「若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん」とある。
―――――――――
 ここでは、爾前迹門の惑を断じたとされる二乗・菩薩も、法華本門の立場からいえば未断惑の凡夫にすぎないことを明かしている。大きく二つの断落に分けられる。すなわち、一つは「故に涌出品に至つて爾前迹門の断無明の菩薩を『五十小劫・半日の如しと謂えり』と説く是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短・不二の義に迷うが故なり、爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起るが如し未だ久遠を知らざるを以て惑者の本と為すなり、故に四十一品断の弥勒・本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず、既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば何ぞ等覚の菩薩を知らざらん、設い等覚の菩薩を知らざるも争でか当機・結縁の衆を知らざらん乃ち不識一人の文は最も未断三惑の故か」という御文であり、ここでは地涌の菩薩が仏を五十小劫の間、賛嘆したのを爾前迹門の菩薩は半日の如しと思ったこと、地涌の菩薩について爾前迹門の菩薩は一人も知らなかったことを挙げて、未断惑であることを示される。次いで「是を以て本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人・修羅に摂し『貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒』と説き、釈の文には『我坐道場・不得一法』と云う蔵通両仏の見思断も別円二仏の無明断も並に皆見思無明を断ぜず故に随他意と云う、所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず」という御文では、本門の立場から爾前迹門を捉えると「随他意」であり、能化・所化ともに未断惑であると結論されている。
「五十小劫・半日の如しと謂えり」
 法華経涌出品第十五の文である。前後の文を引用すると次のとおりである。すなわち「是の諸の菩薩摩呵薩、地より涌出して、諸の菩薩の種種の讃法を以って、仏を讃めたてまつる。是の如くする時の間に、五十小劫を経たり。是の時に釈迦牟尼仏、黙然として坐したまえり、及び諸の四衆も、亦皆、黙然たること五十小劫、仏の人力の故に、諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ」と。
 その意味するところは、地涌の菩薩が五十小劫もの間、釈尊を賛嘆しつづけたが、その場にいた会座の大衆は仏の神力によって半日のようにしか思えなかったということである。
 天台大師の法華文句巻九上では「解する者は短に即して而して長なれば、五十小劫と謂う。惑う者は長に即して而して短なれば、半日の如しと謂う」と釈している。これを更に釈して妙楽大師の法華文句記巻九には「菩薩已に無明を破す。之を称して解と為す…末だ久本を知らざるを以って惑者と為す」としている。
 つまり、仏の神力によって会座の大衆に五十小劫という長期間を半日のごとく思わせたのであるが、この時、久遠の本地を解する者は半日の短期間を五十小劫の長時間と思い、これに迷う惑者は実際は五十小劫の長期間なのに神力によって半日の短期間としか感じなかった、ということである。
 ここで解者とは、久遠の本地を知って無明惑を断じている地涌の菩薩であるのに対し、惑者とは久遠の本地を知らず末だ無明惑を断じていない爾前迹門の菩薩大衆をさしていることはいうまでもない。
 本文では爾前迹門においては無明惑を断じたとされてきた菩薩も、久遠の本地を知らず無迷惑を断じていないことを裏づける文証として挙げられている。
寿量品の久遠円仏の非長非短・不二の義に迷うが故なり
 如来寿量品第十六で開顕された久遠実成の円仏の寿命は「非長非短」、つまり長期間とか短期間とかの長短では捉えることができないのである。 「不二」とは久遠の仏の寿命が長短不二であるということで、久遠仏の寿命は長とか短という概念を超えており、しかも衆生の機根に応じて長くも短くも自在に示すことのできることが「不二」ということである。
 ここでは、爾前迹門の菩薩が五十小劫を半日と思ったその根源は、寿量品の久遠円仏の生命への無知にあることを示されている。
不識一人の文は最も未断三惑の故か
 「不識一人」とは法華経従地涌出品第十五の「我此の衆の中に於いて、乃し一人をも識らず」 とあるところの文である。これは弥勒菩薩が地涌の菩薩群のなかの誰一人も知らない、と述べているくだりである。弥勒は、十住・十行・十回向・十地・等覚の四十一位の一位一位に無明を断じたという四十一品断の菩薩であるが、その弥勒が地涌千界の本化の菩薩達の四衆のうち、どの衆をも知らなかったというのである。この涌出品の経文こそ弥勒に代表される爾前迹門の菩薩大衆が、見思・塵沙・無明の三惑を末だ断じていないことを表す文証であると示されている。
本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人・修羅に摂し「貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒」と説き、釈の文には「我坐道場・不得一法」と云う蔵通両仏の見思断も別円二仏の無明断も並に皆見思無明を断ぜず故に随他意と云う、所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず
 法華経本門からみるとき、爾前迹門は随他意の法門にすぎないと結論されている。
 随他意とは随自意に対する用語で「他の意に随う」ということで、仏が真実の法門へと誘引する方便として衆生の機根や意向に随って説かれた教えのことである。
 したがって真実の法門である久遠本地もまだ明かしていない爾前迹門において、当分の利益を得たり得道したとされていても、寿量品からみれば末だ見思惑すら断じていないものとして「天人、及び阿修羅」のなかに含まれるのであると仰せられている。したがって、爾前迹門の当分の益を受けた三乗も、寿量品では「五欲に貧著し、憶想妄見の網の中」の衆生、つまり色・声・香・味・触の五欲の煩悩に執着し、網のごとく入り乱れた妄想の見解に囚われた衆生と同じことになる。
 更に天台大師の法華文句巻九下の「我、道場に坐して一法を得ず」の釈を引用されているが、この釈の意味は、かつて釈尊が菩提樹下に坐して到達した悟りには一法の真実の悟りも得られないということである。
 すなわち、本門寿量品の久遠の本地から捉え直したとき、菩提樹下の悟りは真実の悟りではなく、したがって爾前迹門の始成正覚の仏は末だ真の悟りを得た仏ではないということである。
 蔵教通教の仏は見思惑をさえ断じていないし、別教円教の仏も無明惑を断じていないのであって、そうした立場で説かれた教えは随他意の方便にすぎないのである。仏ですら三惑を断じていないのであるから、いわんや所化の衆生が三惑を断じたといっても真実の断惑でないことはいうまでもないと結論されている。

0422:09~0422:15 第14章 第三の答えの誤謬を糺すtop

09                                      答の文に開善の無声聞の義に同ず
10 とは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか、 天台は有無共に破し給うなり、 開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は
11 法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り、 天台は「爾前には則ち有り今経には則ち無し 所化の執情には則ち
12 有り長者の見には 則ち無し」此くの如きの破文 皆是れ爾前迹門相対の釈にて 有無共に今の難には非ざるなり、
13 「但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず」との釈は 円益に対し当分の益を下して
14 「並非究竟滅・即不称理」と云うなりと云うは金ペイ論には「偏に清浄の真如を指す 尚小の真を失えり仏性安んぞ
15 在らん」と云う釈をば云何が会す可き、 但し此の尚失小真の釈は常には出だす可からず 最も秘蔵す可し、
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 第三の答えの文において、開善寺の智蔵が爾前には声聞はいないと説いた義と同じであるといって非難しているが、それでは汝もまた光宅寺の法雲が法華の会座に声聞がいたという義に同ずるのか。天台大師は有・無両説ともに破しているのである。開善寺智蔵は爾前において無声聞と判断し、光宅寺法雲は法華において有声聞と判断する。故に有・無ともに疑難がある。天台大師は「爾前経には声聞はいる。法華経にはいない。教化される衆生の迷情よると、声聞はいる。長者の見識によると、いない」という。このような破折の文は皆、爾前経と法華経迹門との相対の上からの解釈であって、有・無ともに法華経本門から望むと、爾前経では二乗は三界を出離できないとの主張は疑難ないのである。
 天台大師の法華文句巻九の「ただし七方便はいずれも究竟の寂滅ではない」、また妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「ただし小乗でも心を観ずるが、実理にかなっていない」との釈について、法華経の円益に対し爾前経の当分の利益を下して「いずれも究竟の寂滅ではない」「すなわち実理にかなっていない」というのであるとするが、それでは妙楽大師の金錍論に「ひたすら清浄の真如のみに執着するなら、なお小乗の真如をも失ってしまう。仏性はどこにあるのか」とある釈を、どのように会釈すべきか。ただし、この「なお小乗の真如をも失ってしまう」との釈文は平常には出していけない。この釈文は最も秘蔵すべきである。

光宅の有声聞
 「光宅」は法雲法師のこと。(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺法雲と呼ばれる。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となり、普通6年(0525)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。 法華経の説法の座に声聞有と立てた。
―――
天台は有無共に破し給う
 天台大師は、開善寺の智儼が立てた無声聞説と法雲の立てた有声聞説をともに破し、法華経では得記の前には授記を受けるべき声聞がおり、無声聞とはいえない。授記の後には一乗の法のみあるゆえに有声聞とはいえないとしている。
―――
所化の執情
 教化される側の執着する迷いの心。
―――
破文
 破折の文のこと。
―――
相対
 ①他者との関係によって、存在すること。②比較検討して勝劣を立てること。
―――
有無共に今の難には非ざるなり
 法華経の会座に声聞が存在する・しない、の両説はあくまで爾前と法華経迹門の比較であって、本門から見れば、この両説は、爾前経では爾前は得道しない、との命題を覆すものではないということ。
―――
円益
 円教の利益のこと。
―――
当分の益
 跨節に対する語。ある限られた立場でとらえた部分的な立場、利益のこと。
―――
金錍論
 妙楽大師湛然の著作。『金剛錍』のこと。1巻。涅槃経をもとに、非情にも仏性があることを説く。この思想は草木成仏の根拠として日本仏教にも大きな影響を与えた。
―――
清浄の真如
 清らかで真実にして不変であること。
―――――――――
 ここでは、先の第三の答えのなかで問者が爾前当分の益、得道は全く認められないと難詰したのに対し、その主張は開善の無声聞の義と同じであると反論している。また「七方便並びに究竟の滅に非ず」との天台大師の釈や、「但し心を観ずといはば理に称はず」との妙楽大師の釈を引用して、問者が爾前三教の菩薩や小乗当分の益を否定したのに対して、答者がそうではないと反論している。ここではそれら第三の答えの誤りを糺されているところである。
開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか、天台は有無共に破し給うなり、開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り、天台は「爾前には則ち有り今経には則ち無し所化の執情には則ち有り長者の見には則ち無し」此くの如きの破文皆是れ爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難には非ざるなり
 まず初めに、開善の無声聞の義に同ず、とする答者の言い分を指摘されている。
 開善とは中国梁代の開善寺の智蔵のことである。智蔵のいう「無声聞の義」とは、法華経の会座には多くの声聞が登場しているが、彼らは仮にこの声聞の姿をした菩薩であって声聞ではない、とする解釈である。すなわち、爾前諸経において二乗は既に一歩進んで菩薩になっているのだから法華経の会座に入ってきたときはもはや声聞道を行ずる声聞はいない、というのである。
 「有声聞の義」とは、中国・南北朝の光宅寺・法雲の立てた説で、法華経説法の座には声聞が存在するという解釈である。これはあくまで法華経の会座のみに限って声聞道を行ずる声聞がいるという考え方である。
 これらに対して天台大師は本文に「有無共に破し給うなり、開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り」とあるとおり、双方の説をともに難点があると打ち破ったのである。
 では天台大師自身はどのように考えていたかというと、「爾前には則ち有り今経には則ち無し所化の執情には則ち有り長者の見には則ち無し」という法華文句巻四からの取意引用の文がそれを示している。つまり、爾前経には声聞道を修行している声聞であるけれども、今経の法華経には声聞道を修行している声聞はない、しかし法華経の会座においては衆生の執着にとらわれた機根からみれば声聞は有るといってよいが、長者すなわち仏の真実の智慧からみれば声聞はいないというべきである、というのが天台大師の考え方である。
 以上から本文に「爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難には非ざるなり」とおおせのように、答者が問者の難詰を開善の無声聞の説と同じだとした非難は全く妥当を欠くと結論されている。なぜなら、法華経の会座に声聞が存在するかしないのかの論議はあくまで爾前と迹門とを相対した解釈にすぎず、法華本門の立場から爾前に当分の利益、得道はないとする問者の難詰への反論にはあたらないと斥けられている。
「但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず」との釈は円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅・即不称理」と云うなりと云うは金ペイ論には「偏に清浄の真如を指す尚小の真を失えり仏性安んぞ在らん」と云う釈をば云何が会す可き、但し此の尚失小真の釈は常には出だす可からず最も秘蔵す可し
 先の第三の難詰で、問者が天台大師の法華文句巻九の「七方便並びに究竟の滅に非ず」という文を引用されて“七方便”すなわち蔵教の二乗、通教の三乗、別教の三十心の菩薩、円教の十信の菩薩はいずれも“究極の滅に非ず”すなわち究極の悟りに到達していないということから、爾前経には当分の利益や得道すらないと主張されたのであった。また、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「但し心を観ずと云わば理に称わず」という釈は、小乗においても心を観察するけれども心に諸法を具しているということを観察しないから小乗の悟りの真理にすら合致しない、という意味であり、この釈文について、小乗当分の益すらない。ひいては爾前権経における三乗の当分の利益や得道はない、とする問者の主張の根拠とされたのであった。
 これに対して答者は、上の二つの引用文について、法華経の円教の大きな利益と比較して爾前当分の利益が小さいことをさして、“究極の滅に非ず”とか“理に称わず”と表現しているのであって、問者のいうように爾前当分の利益がないことを述べたものではないと反論しているのであるが、ここでは、この答者への再反論が説かれている。その再反論の内容は、妙楽大師の金錍論の「偏に清浄の真如を指す尚小の真を失えり仏性安んぞ在らん」という釈に基づいている。
 いま、この釈の前後の文を含めて引用すると「性の中に於いて体遍を点示し、傍ら偏に清浄真如を指すことを遮す。尚、小の真を失えり。仏性安んぞ在らん」となる。
 意味するところは、万法は本性の体においては“体遍”すなわち善・悪・真・妄・無明・法性・染・浄が遍く一体となっているゆえに、もっぱら清浄真如のみに到達しようとする修行を斥けるのである。もし清浄真如のみを目当てに修行するなら、小乗でいう空の真理すら得ることができないのであるから、ましてや大乗仏教の仏性には合わない、と断じている。つまり、小乗の観法といえども清浄真如のみを対境とするわけではなく、染・浄・真・妄が一体である本性を対境とするのであって、法華経の諸法実相、十界互具一念三千の円融円満の法理なくしては小乗の利益すらない、という意味である。この釈文を出されて答者に「云何が会す可き」と迫っておられる。

0422:15~0423:05 第15章 迹門の未顕真実なるを明かすtop

15                                                   但し
16 「妙法蓮華経皆是真実」の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に 爾前得道の義有りと云うは此れは是れ迹門
17 を爾前に対して真実と説くか、 而も未だ久遠実成を顕さず 是れ則ち彼の未顕真実の分域なり所以に無量義経に大
18 荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを 仏の答えたもうに未顕真実の言を以てす、 又涌出品の中に弥勒疑つて
0423
01 云く「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上 仏答えて云く「一
02 切世間の天人及び阿修羅は皆 今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして 三菩提を得たりと
03 謂えり我実に成仏してより以来」已上、 我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや是の故に記の九に云く
04 「昔七方便より誠諦に至るまでは 七方便の権と言うは 且く昔の権に寄す若し果門に対すれば権実倶に是れ随他意
05 なり」已上、 此の釈は明かに知んぬ迹門をも尚随他意と云うなり、
-----―
 ただし、法華経見宝塔品第十一の「妙法蓮華経・皆是れ真実なり」の文をもって、迹門において爾前の得道をゆるすゆえに爾前得道の義があると言っているが、これは迹門を爾前経に対して真実と説いたのである。しかも、迹門では未だ久遠実成を顕していないから、迹門は未顕真実と同じ分際なのである。ゆえに無量義経で大荘厳菩薩などの菩薩が四十余年の得益を挙げたのに対して、仏が答えられたときに、未だ真実を顕さずとの言葉をもってされたのである。また法華経従地涌出品第十五のなかに、弥勒菩薩が疑って「如来が悉多太子であったとき、釈迦族の居城を出でて、伽耶城を去ってから遠くない、…四十余年が過ぎた」と問う。仏が答えて如来寿量品第十六に「一切世間の天・人及び阿修羅は皆、今の釈迦牟尼仏が釈迦族の居城を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている。しかるに善男子よ、我は実に成仏してより以来、無量無辺百千万億那由陀劫である」という。「我実に成仏して」とは寿量品以前を「未だ真実を顕さず」ということと同じではないか。このゆえに法華文句記の巻九に「昔の七方便より真実の悟りに至るまでの修行の果を七方便の権というのは、しばらく爾前権教に寄せたものであり、もし果位本門に対すれば已説の権・実はともに随他意である」とある。この釈は、迹門をもなお随他意と言っていることが明らかである。

釈の宮
 釈氏の宮ともいう。迦毘羅衛国の王城、釈迦族の居城、釈尊の生地。ヒマラヤ山麓・ネパール国・タライ地方にあったとされる。
―――
伽耶城
 中インド・摩竭提国のこと。インド北東部ビハール州ガヤにあたある。この近くで釈尊が悟りを開いたという仏陀伽耶がある。
阿修羅
 ①サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。②修羅界のこと。
―――
釈迦牟尼仏
 たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
釈氏の宮
 釈の宮ともいう。迦毘羅衛国の王城、釈迦族の居城、釈尊の生地。ヒマラヤ山麓・ネパール国・タライ地方にあったとされる。
―――
三菩提
 阿耨多羅三藐三菩提菩提のこと。サンスクリットのアヌッタラサンミャクサンボーディの音写。無上正遍知、無上正等正覚、無上正等覚などと訳す。最高の正しい覚りの意。仏の完全な覚りのこと。
―――
我実成仏
 法華経如来寿量品第16の文。「我実に成仏してより」と読む。
―――
誠諦
 誠とは真実、諦とは明らかにすることで、悟りのこと。究めるという意味があり、仏が自ら深く究め明らかにした真理。
―――
果門
 仏の果位に関する法門、本門と同義。
―――
随他意
 真実の覚りに導くために、衆生の機根や好みに従って法を説くこと。またその方便の教えをいう。随自意に対する語。
―――――――――
 第四の問いの続きである。
 ここでは初めに、第三の答えで答者が法華経の見宝塔品第十一に説かれる“妙法蓮華経皆是真実”の文をもって、迹門においても爾前の得道を許す依文として捉えていることに対して反論されている。すなわち、皆是真実の“真実”は迹門の教説が爾前に対しては真実であることを説いたものであって、後の本門に説かれる久遠実成の法門から見れば未顕真実の領域にすぎないと断じられている。ここから、無量義経の説法品第二において、大荘厳菩薩が代表となって八万の菩薩衆のなかで、爾前四十余年の得益を挙げつつ無量義経の菩薩修行の得益とのどちらが速く無上菩提を得ることができるかといと、仏に疑問を提起したとき、仏は「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき、種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には末だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と四十余年には末だ真実を顕していないのであるから、爾前においては当分の得益もないと答えられたことを挙げられている。
 更に、法華経従地涌出品第十五で発せられた弥勒菩薩の疑問に答えた如来寿量品第十六の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」という釈尊の久遠実成を明かした文を引用され、「我実に」とあることから、法華経寿量品以前の法門は未顕真実になると断じられている。
 最後に、妙楽大師の法華文句記巻九の釈文を引用されて、迹門の法門は随他意であることが明白であるとされている。
九に云く「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言うは且く昔の権に寄す若し果門に対すれば権実倶に是れ随他意なり」已上、此の釈は明かに知んぬ迹門をも尚随他意と云うなり
 妙楽大師の法華文句記巻九の文を引用されて、法華経迹門が随他意の法門であることを説かれているところである。
 文句記巻九の釈中の「昔七方便より誠諦に至るまで」というのは、天台大師の法華文句巻九下の「昔の七方便は随他意語にして誠実を告ぐに非ず。今は随自意語にして之を示すに要を以ってす。故に誠諦と言うなり」とある個所をさしている。
 法華文句の文は法華経寿量品に説かれている「誠諦」という言葉を釈したものであり、誠も諦もともに、まこと、真実の意味であり、そこから「誠諦」というのは「真実で誤りがなく永遠に変わらない真理」を表す。天台大師はこの誠諦の言葉を釈して「昔の七方便は仏が衆生の機根や好みに随って説法した随他意語の教えにより修行しているにすぎず、その意味で仏の『誠実』、真実でまことの教えではない。だが今、寿量品で久遠実成を説く仏の言葉は随自意語であるから誠諦という」と釈している。
 この法華文句の釈に対して、妙楽大師は文句記において次のように更に釈している。
 すなわち、法華文句の七方便を爾前権教のこととするのは一往の義であって、もしこれを「果門」からみるならば、爾前権教だけでなく実教の迹門もともに随他意である、と。この釈文のなかで「権実俱に是れ随他意」の“実”とは本文に「此の釈は明かに知んぬ迹門をも尚随他意と云うなり」とあるとおり、実教・法華経のなかの迹門の法門をさすことはいうまでもない。

0423:05~0423:14 第16章 法華本門の超勝性を示して結ぶtop

05                                寿量品の皆実不虚を天台釈して云く「円頓の衆
06 生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上、記の九に云く「故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり」已上、迹
07 門既に虚なること論に及ぶ可からず 但し皆是真実とは若し本門に望むれば迹は是れ虚なりと雖も 一座の内に於て
08 虚実を論ず故に本迹両門倶に真実と言うなり、 例せば迹門法説の時の譬説因縁の二周も 此の一座に於て聞知せざ
09 ること無し故に名けて顕と為すが如し、 記の九に云く「若し方便教は二門倶に虚なり 因門開し竟りて果門に望む
10 れば則ち一実一虚なり本門顕れ竟れば 則ち二種倶に実なり」已上、此の釈の意は本門未だ顕れざる以前は本門に対
11 すれば尚迹門を以て名けて虚と為す 若し本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち 本門の仏果なるが故に天月水月本
12 有の法と成りて 本迹倶に三世常住と顕るるなり、 一切衆生の始覚を名けて迹門の円因と言い一切衆生の本覚を名
13 けて本門の円果と為す 修一円因感一円果とは是なり、 是くの如く法門を談ずるの時迹門・爾前は若し本門顕れず
14 んば六道を出でず何ぞ九界を出でんや。
-----―
 如来寿量品第十六の「皆実にして虚しからず」の文を、天台大師は法華文句に「円頓の衆生に約すれば迹本二門において、本円は一実、迹円は一虚である」と釈した。妙楽大師の法華文句記の巻九に「故に迹門の実は本門においてはなお虚であることが分かる」とある。迹門は既に虚であることは論ずるに及ばない。
 ただし見宝塔品第十一の「皆是れ真実である」とは、もし本門に望むれば迹であり虚であるが、法華経一座の内において虚実を論ずるゆえに本迹は両門ともに一往真実といったのである。例えば、迹門の法説周の時の譬説・因縁の二周も、この一座において法を聞き知らないことはない。故に顕と名づけるようなものである。法華文句記の巻九に「もし、方便教は因門・果門の二門ともに虚である。法華経の因門を開し終わって果門に望むれば、一実・一虚である。本門が顕れ終われば因果の二門ともに実である」とある。この釈の意は本門が未だ顕れない以前は、本門に対すれば、なお迹門を虚と名づける。もし本門が顕れ終われば、迹門の仏因は本門の仏果なる故に、天月・水月は本有の法となって、本迹ともに三世常住と顕れるのである。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因といい、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果となす。妙楽大師が法華玄義釈籤に「一の円因を修して一の円因を感ずる」と釈したのは、これである。このように法門を談義するとき、迹門・爾前教は、もし本門が顕れなければ、六道を出離することはできない。どうして九界を出離できようか。

皆実不虚
 仏の滅不滅は変化相であり、本質相は本有常住で不滅であるが、衆生を救うために滅度するとのであって説くのであって、それは真実で偽りではないということ。
―――
円頓
 すべて欠けることなくそなえていて、速やかに成仏させること。天台教学では、万人成仏・即身成仏を実現する法華経の教えをさす。法華経の肝心である題目の南無妙法蓮華経は、法華経のすべてを欠けることなく納め、万人の即身成仏を実現する円頓の法である。
―――
一実一虚一面
 一面においては真実であるが、他面からみれば虚であるということ。
―――
法説
 法説周のこと。上根の声聞の舎利弗に対して、諸法実相の法理を説いて得道させたこと。
―――
譬説因縁の二周
 譬説周と因縁周の二周のこと。①譬説周、中根の声聞に対して、三乗即一乗の譬喩を説いて得道させること。②因縁周、下根の声聞を大通智勝仏以来の化導の始終を説いて得道へ導くこと。
―――

 ①実に対する語。外部にあきらさまに顕れること。②顕色、見ることによって識別できる形式・色。③密にたいする顕。
―――
二門
 因門と果門のこと。
―――
因門
 因行の法門のこと。仏果を得るための因行に対する法門。
―――
果門
 因位についての法門のこと。
―――
迹門の仏因
 法華経迹門で明かされた仏果を得るための修行。
―――
本門の仏果
 法華経本門に説かれる成仏の果法。
―――
天月水月
 法華経本門を天月、迹門を水に映った影の(地月)にたとえる。
―――
本有の法
 本来ありのままに存在する法。もともと備わっている法。
―――
三世常住
 過去・現在・未来にわたって永遠不変に存在すること。
―――
迹門の円因
 法華経迹門に明かされる円融円満の仏因で始覚と名づける。
―――
本門の円果
 法華経本門に説かれる円融円満の仏果。
―――――――――
 第四の問いの続きであるが、ここでは法華経本門こそ真実であり勝れていることを説いて本抄全体の結論とされている。
 初めに、寿量品に説かれている「皆実不虚」という経文を天台大師が注釈した法華文句巻九下の「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」という釈文と、更にこれを注釈した妙楽大師の法華文句記巻九下の「故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり」という釈文を挙げておられる。これらの釈文を通して、法華経迹門の法門が実ではなく虚であると断じられている。
 次に、法華経見宝塔品第十一の「皆是れ真実なり」という経文に言及され、先の文で迹門が虚であると断じられたのであるが、同じ迹門の見宝塔品で「皆是れ真実なり」とある“真実”をどのように解釈すべきかについて論及されている。本文に「若し本門に望むれば迹は是れ虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず故に本迹俱に真実と言うなり」とあるように、本門と対比したときは迹門は虚であるが、これは“一座”すなわち法華経の会座のなかでの虚と実とを論じたもので、いずれ迹門の虚は本門如来寿量品第十六の説法によって真実と開かれるゆえに、見宝塔品で“真実”と断定されたのである、と釈されている。
 更にこのことを裏づける文証として法華文句記巻九の「若し方便教は二門俱に虚なり。因門開し竟りて果門に望むれば、則ち一実一虚なり。本門顕れ竟れば二種俱に実なり」という釈を引用され、本門がまだ顕れないときは本門に相対して迹門を虚とするのであるが、本門の久遠実成が顕れ終わってしまうと、迹門の仏因すなわち諸法実相が本門の久遠仏の生命である本有の実相として開かれるので、天月も池月も共に本有常住となるということであると説明されている。
 更に、一切衆生の始覚を迹門の円因とし一切衆生の本覚を本門の円果というのであり、始覚と本覚とが因果の関係になるのであって、円因は円果に摂せられて生きていくことから、爾前迹門の教えを聞いて修行しても、法華本門が顕れなかったならば六道を出離することができないのであり、いわんや九界を脱することは不可能であると結論され、本抄を結ばれている。
記の九に云く「若し方便教は二門倶に虚なり因門開し竟りて果門に望むれば則ち一実一虚なり本門顕れ竟れば則ち二種倶に実なり」
 妙楽大師の法華文句記の巻九の文である。文中“方便教”とは爾前四十余年の権教、あるいは七方便の修行者に対する教えをさしている。“二門”とは法華経の迹門と本門のことで、ここでは迹門で説かれる諸法実相の境地をさし、開三顕一してこの実相の境地に入り利益を受けることを実因、あるいは迹門の仏因という。それに対し本門に説かれる久遠実成の本果を実果、あるいは本門の仏果という。
 この釈の意味するところは、次のとおりである。
 爾前四十余年の方便権教には迹門の実因・本因も本門の実果・本果も説かれておらず、そこに説かれた因門・果門の二門はともに虚である。法華経迹門では諸法実相・開三顕一の実因を開いたとしても、法華本門の久遠実成の実果・本果に相対するときは虚となり、果門は実、因門は虚で一実一虚となる。法華本門の実果が顕れ終わると、迹門の実因と本門の実果とが具わって二種ともに実となるのである。
本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり
 法華経本門において久遠実成の本果が顕れてしまえば、迹門の仏因である諸法実相はそのまま本門の仏果である久遠の仏陀の内なる悟りとしての本有の実相として開かれるゆえに、因即果となって久遠実成本果の天月と始成正覚の池月とが本有の法となって本門・迹門ともに三世常住と顕現される、ということである。
一切衆生の始覚を名けて迹門の円因と言い一切衆生の本覚を名けて本門の円果と為す
 一切衆生の始覚を説いたのが法華経迹門の法門である。迹門・方便品第二において一切衆生の仏知見を開くという、いわゆる開示悟入・四仏知見を説いて九界の衆生に具されている十界を開いて仏界を顕現し、成仏することが明らかとなったが、これは九界の衆生が自らに仏界が具わっていることを始めて覚って成仏することなので“始覚”という。したがって迹門の場合は、九界の衆生が自らに十界が円満に具されているところから“迹門の円因”というのである。これに対して、本門如来寿量品第十六において仏の久遠実成が説かれて、久遠の仏の内なる生命に本有常住の十界が具されていることが明かされた結果、九界の衆生はもともと久遠の仏に具する九界であったと覚る。ここを“一切衆生の本覚”というのである。ここから“本門の円果”というのである。

0424~0426    爾前二乗菩薩不作仏事top
0424:01~0424:12 第一章 楞伽経を引用して答えるtop

0424
爾前二乗菩薩不作仏事    正元元年    三十八歳御作
01   問うて云く二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許す可きや、 答えて云く楞伽経第二に云く「大慧何者か無性乗な
02 る、 謂く一闡提なり・大慧・一闡提とは涅槃の性無し何を以ての故に解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず、
03 大慧・一闡提とは二種あり何等をか二と為す 一には一切の善根を梵焼す 二には一切衆生を憐愍して一切衆生界を
04 尽さんとの願を作す大慧・云何が一切の善根を梵焼する謂く菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、 彼の修多羅・
05 毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の故に涅槃を得ず、 大慧・衆生を憐愍して衆生界を尽さんと
06 の願を作す者是を菩薩と為す、 大慧・菩薩は方便して願を作す若し諸の衆生の涅槃に入らざる者あらば我も亦涅槃
07 に入らずと是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず、 大慧・是を二種の一闡提無涅槃性と名く 是の義を以ての故に決定
08 して一闡提の行を取る、 大慧菩薩・仏に白して言く世尊・此の二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる、
09 仏・大慧に告げたまわく 菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず何を以ての故に能善く一切諸法・本来涅槃なりと
10 知るを以て是の故に涅槃に入らず 一切の善根を捨つる闡提には非ず、 何を以ての故に大慧彼れ一切の善根を捨つ
11 る闡提は若し諸仏・善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じて便ち涅槃を証す」等と云云、 此の
12 経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。
-----―
 問うて言う。二乗は永く成仏できないというの教えでも菩薩の成仏を許すかどうか。
 答えて言う。楞伽経第二に「大慧菩薩よ、どういう者が無性乗なのか。それは一闡提である。大慧よ、一闡提とは涅槃の性がない。どうしてかといえば、解脱を求めるなかにおいて信心を生じないので、涅槃に入らないのである。大慧よ、一闡提とは二種ある。何を二とするのか。一には一切の善根を焼き尽くす。二には一切衆生を憐れんで、一切の衆生界をことごとく救いたいとの願いを発する。大慧よ、どのようなことが、一切の善根を焼き尽くすことになるのか。それは、菩薩蔵を謗って次のように言うことである。『菩薩蔵の修多羅・毘尼・解脱の説にしたがってはいけない。諸の善根を捨てるから』と。このゆえに涅槃を得ることができない。大慧よ、衆生を憐れんで、ことごとく救いたいとの願いを発する者を菩薩という。大慧よ、菩薩は方便によって願いをおこす。『もし、もろもろの衆生で涅槃に入らない者がいれば、自分もまた涅槃に入らない』と。この願いを発するために、菩薩や摩訶薩は涅槃に入らない。大慧よ、これを二種の一闡提・無涅槃性と名づける。この義のために決定して一闡提の行いをするのである。大慧菩薩は仏に尋ねて言った。世尊よ、この二種の一闡提のうち、どちらの一闡提が常に涅槃に入らないのか。仏は大慧に答えて言った。菩薩や摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らない。なぜかならば、一切諸法は本来涅槃であると知るから、このゆえに涅槃に入らないのである。一切の善根を捨てる闡提ではない。なぜかならば、大慧よ、一切の善根を捨てる闡提は、もしも諸仏や善知識等に値うならば菩提心を発し、諸の善根を生じて涅槃を証得するからである」とある。この経文に「もし諸の衆生が涅槃に入らなければ、自分もまた涅槃に入らない」とある。

二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
―――
永不成仏
 声聞・縁覚の二乗は、無余涅槃に入って仏種を断ずるゆえに、未来永劫、成仏できないものであると、爾前の諸教に説かれている。法華経にきてはじめて十界互具が明かされて成仏できた。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
楞伽経
 漢訳には4種ある。釈尊が楞伽島(スリランカ)で説いたという設定の大乗経典。唯識説や仏性説が説かれている。初期の禅宗で重視された。
―――
大慧
 楞伽山頂に参集した大比丘衆・大菩薩衆の上首。楞伽経の対告衆。摩訶摩底。
―――
無性乗
 三乗になるべき種子をもたない衆生のこと。法相宗で説く五性のひとつ。永遠に迷いの世界に沈んで苦から免れることがなく、ただわずかに人天界に生ずべき種子を有するものをさす。一闡堤にあたるとされる。
―――
一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
―――
涅槃
 サンスクリットのニルヴァーナの俗語形の音写。泥洹ともいう。覚りを得て輪廻の苦悩から解放された、完全な平安で自在な境地のこと。この境地に至ることを解脱という。小乗の教えに基づく二乗たちは、覚りを得て、死後二度とこの世界に生まれて来ないことを涅槃(無余涅槃)と考え、その境地を目指した。
―――
善根
 「ぜんごん」とも読む。善の果報を招き生ずる善因のこと。草木の根が、幹や枝を成長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので善根という。
―――
一切衆生
 すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
―――
衆生界
  衆生の住む世界。また,人間界。現世。 ② 十界のうち仏界を 除く九界。
―――
修多羅
 梵語シュタラsūtra)の音写。線・① 経文。経典。契経  。②十二分経の一。散文で教理を説いたもの。契経。③ 袈裟  の装飾として垂らす、白赤4筋の組みひも。
―――
毘尼
 三蔵のなかの律蔵のこと。仏が制定したとされ、出家者が守るべき生活規範のこと。所犯の悪を懺悔し、仏に随順し、七諍を滅し、煩悩を断じ、所作・見事を捨てるの五義を含む。
―――
摩訶薩
 摩訶薩埵のことで菩薩を意味する。無常菩提を求める大乗の修行者をさす。
―――
世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
―――
善知識
 よい友人・知人の意。「知識」とはサンスクリットのミトラの訳で、漢語として友人・知人を意味する。仏法を教え仏道に導いてくれる人のことであり、師匠や、仏道修行を励ましてくれる先輩・同志などをいう。善友ともいう。悪知識に対する語。
―――
菩提心
 仏の最高の覚りを得ようと求め、仏道修行を貫くことを誓う心。
―――――――――
 本抄がどのような由来と背景に基づいて著されたものであるか、現在のところ全く不明である。ただ、従来、正元元年(1259)、御年38歳の御述作とされている「十法界事」や、著作年代が不明ながら「二乗作仏事」とほぼ同じ系列に属する御書であることから、これらと相前後して認められたと考えられる。これらの御書では、共通して爾前経では二乗も菩薩も作仏することができないのに対し、法華経のみが万人を成仏・得道せしめる経であることを種々の角度から論じられている。
 また、本抄は法門に関する覚書として認められた趣があるところから、特定の人に宛てられたものではないとも拝される。本抄の御真筆は現存しない。
 本抄の内容は大きく二つの問答からなっている。初めの問答は、二乗不作仏の経教で菩薩の成仏は許されているか、との問いに対し、爾前権教の教えでは二乗作仏は許さないし菩薩の作仏も許されていない、と釈されている。第二の問答では、二乗の作仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す正しい証文はあるのか、という問いに対して、涅槃経、一乗要決、慈恩の心経玄賛、慈覚大師の速証仏位集からの引用文をもってこたえられている。
 さて本抄の冒頭は、二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許すべきか、との問いに対して、楞伽経第二の一節を引用され答えているところである。
楞伽経第二に云く「大慧何者か無性乗なる、謂く一闡提なり・大慧・一闡提とは涅槃の性無し何を以ての故に解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず、大慧・一闡提とは二種あり何等をか二と為す一には一切の善根を梵焼す二には一切衆生を憐愍して一切衆生界を尽さんとの願を作す大慧・云何が一切の善根を梵焼する謂く菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、彼の修多羅・毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の故に涅槃を得ず、大慧・衆生を憐愍して衆生界を尽さんとの願を作す者是を菩薩と為す、大慧・菩薩は方便して願を作す若し諸の衆生の涅槃に入らざる者あらば我も亦涅槃に入らずと是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず、大慧・是を二種の一闡提無涅槃性と名く是の義を以ての故に決定して一闡提の行を取る、大慧菩薩・仏に白して言く世尊・此の二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる、仏・大慧に告げたまわく菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず何を以ての故に能善く一切諸法・本来涅槃なりと知るを以て是の故に涅槃に入らず一切の善根を捨つる闡提には非ず、何を以ての故に大慧彼れ一切の善根を捨つる闡提は若し諸仏・善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じて便ち涅槃を証す」等と云云
 入楞伽経巻二の文である。二乗は永久に成仏することができないと説いた法華経以前の大乗経典において、果たして菩薩の作仏はありうるであろうかと問うたのに対して、答えとして引かれた経文の一節である。この一節の内容を簡単に紹介すればつぎのようになる。
 仏が大慧菩薩を相手に五種乗性の一つ一つについて説明していくところであるが、引用の個所は五種の一つ「無性乗」について説いていくくだりである。
 五種乗性とは五種ともいい、悟りに達する五つの種類の人々のことである。すなわち、衆生には先天的に如来になるはずの者、辟支仏になるはずの者、声聞になるはずの者、そのいずれとも決まっていない者、絶対に救われない者の五種類の素質があるとするものである。なお、如来乗性の分類では菩薩乗性ともいい、不定乗性のうち菩薩性を交えた者とともに仏果を得て成仏できるとされる者のことである。
 まず、無性乗性は絶対に救われない者のことであるから一闡提にあたると説いている。次に、一闡堤というのは「涅槃の性無し」とあるように、悟りの本性をもっていない者のことである。この場合の一闡堤は声聞・縁覚の二乗をさしており、彼らは「解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず」すなわち、解脱の穴に堕ちてしまって仏への信心が生じないとともに、涅槃の悟りにも入ることができない二乗のことをさしている。次いで、その一闡堤に二種類あると説き進める。一つは今の二乗であり、もう一つは菩薩である。最初の二乗は「一切の善根を梵焼す」とあるように、一切の善根を焼き尽くしてしまった一闡堤である。なぜな ら「菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、彼の修多羅・毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の涅槃を得ず」とあるように、彼ら二乗は菩薩蔵のことを誹謗して“彼の大乗教は仏の修多羅や毘尼や解脱の説に随順していないので諸の善根を捨てているのである”とののしっており、そのゆえに一切の善根を自ら焼き尽くして涅槃の悟りを得ることができるのであると説いている。
 もう一つの菩薩が一闡提であるというのは次のとおりである。菩薩は一切衆生を憐れむゆえに方便として、一切の衆生界を救い切るまでは涅槃に入るまいと誓願を起こすのである。前述のように、一闡堤とは涅槃・悟りの本性をもっていない者のことであるとすると、菩薩も涅槃も入らないから一闡堤となるのである。以上が二乗・菩薩の二種類の「一闡提無涅槃性」である。
 次に大慧菩薩が二乗・菩薩の一闡堤無涅槃のうち、どちらの一闡堤が常に涅槃に入らないかと問うたのに対し、菩薩の一闡堤は常に涅槃に入らないと仏は答えている。その理由は菩薩は一切の諸法が本来涅槃の本性であると知っているゆえに自分は涅槃に入らないのであって、二乗のように一切の善根を自ら捨ててしまった一闡堤とは異なると強調している。更に、その理由として一切の善根を捨てた一闡堤の場合はもし諸仏・善知識に会うことができなければ菩提心を起こし、もろもろの善根を生じて涅槃の悟りを証得する可能性があるからであるとしている。
 以上が引用された入楞伽経巻二の文の概要であるが、問いが二乗永不成仏を説いた大乗経典において菩薩の作仏を許すことができるということであったので、二乗も菩薩も双方とも一闡提であると説く入楞伽経巻二を引用されたと思われる。

0424:13~0425:01 第二章 爾前の菩薩不作仏を明かすtop

13   前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか、 華厳経に云く
14 「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云、 一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し 其の中の衆生無辺誓願度
15 の願之を満せざれば 無上菩提誓願証の願又成じ難し、 之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願
0425
01 又成じ難きか。
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 法華経以前の四味の諸経には、二乗の成仏を許されていない。このことから考えると、四味の諸経である四教の菩薩も成仏できないのである。華厳経には「衆生界がことごとく成仏しなければ、自分の願いもまたかなわない」とある。一切の菩薩は必ず四弘誓願を発するのである。そのなかの衆生無辺誓願度の願いが満たされなければ、無上菩提誓願証の願いもまた成就し難いのである。このことから考えると、四十余年の経文は二乗に限るならば菩薩の願いもまた成就しがたいのである。

前四味
 五味のうち、最高の味である醍醐味を除いたもの。天台教学では、四味は爾前経に当てられる。▷
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二乗作仏
 法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。法華経以外の大乗経では、二乗は自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはないとされていた。このことを日蓮大聖人は「開目抄」(191㌻以下)で、華厳経・維摩経などの爾前経を引かれ、詳しく論じられている。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧の境涯)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することを具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された。さらに法華経迹門では、この二乗作仏、また提婆達多品第12で説かれる女人成仏・悪人成仏によって、あらゆる衆生の成仏が保証され、十界互具・一念三千の法門が理の上で完成した。▷
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四教
 (1)天台大師智顗による教判。「化法の四教」と「化儀の四教」がある。一般に四教というと化法の四教(蔵通別円)をさす場合が多く、「開目抄」(197㌻)で言及される「四教の果」「四教の因」もこちらの意。 化法の四教けほうのしきょう/化儀の四教けぎのしきょう(2)華厳宗の法蔵の弟子・慧苑が立てた教判。①迷真異執教(外道凡夫の教え)②真一分半教(二乗の教え)③真一作満教(初心の菩薩の教え④真具分満教(如来蔵を識る者の教え)。
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華厳経
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
―――
四弘誓願
 「しぐぜいがん」とも読む。あらゆる菩薩が初めて発心した時に起こす4種の誓願。①衆生無辺誓願度(一切衆生をすべて覚りの彼岸に渡すと誓うこと)②煩悩無量誓願断(一切の煩悩を断つと誓うこと)③法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ると誓うこと)④仏道無上誓願成(仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと)。
―――
衆生無辺誓願度
 衆生をかぎりなく苦悩から救っていこうとの誓願。あらゆる菩薩が、仏道修行を始めるに当たって立てる4種の広大な誓願「四弘誓願」の第1。釈尊の衆生無辺誓願度は、万人成仏を明かした法華経を説くことによって成就した。
―――
無上菩提誓願証
 仏道無上誓願成もこと。(仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと)四弘誓願の第四。
―――
四十余年の文
 四十余年未顕真実のこと。無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。

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 先の入楞伽経の引用文を受けて、ここでは爾前の四味の諸経においては、二乗が不作仏であることは当然として、菩薩の作仏も難いと述べられている。
 まず、はじめに入楞伽経の経文のなかの「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」という菩薩の誓願の文を取り上げられている。この文は、衆生のうち、一部の衆生でも涅槃に入らない人々がいれば菩薩としての自分も涅槃に入らない、すなわち作仏しないという誓いであって、ここに菩薩の不作仏が説かれているとの指摘である。次いで、華厳経の「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」と経文を引用され、この文を釈されている。すなわち、一切の菩薩は必ず四弘誓願を発して菩薩の修行を始めるのである。だが、最初の衆生無辺誓願度、つまり無辺ともいうべき一切衆生を生死の苦しみの彼岸から悟りの彼岸へ度し、救うという願いを第一に立てる。したがって、救うべき衆生界が尽きてしまわないかぎり、四弘誓願の第一・衆生無辺誓願度という願いが満足しないので、結局第四の無上菩提誓願証、すなわち作仏の願いも成就しがたいと仰せられている。
 結論として「四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか」と説かれている。「四十余年」の爾前経の文が、二乗に限って永不成仏としていても、二乗が永不成仏であるかぎり、菩薩が立てた衆生無辺誓願度は成就しないからである。二乗を除く衆生の救済が成立しても、二乗のみは救済されず、一切衆生のすべてをことごとく救済しきるという願いが、永久に叶えられなくなるからである。

0425:02~0426:14 第三章 菩薩の成仏なき文証を挙ぐtop

02   問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、 答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是
03 れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の
04 如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、 将又菩薩の作仏
05 も之を許さざる者なり、 之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、 一
06 乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く 仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も 必ず一切皆悉く之有らず是の故に名
07 けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の
08 中の第一の信心具足と名くと、三十六本第三十,一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず,若し猶堅く少分の一切な
09 りと執せば唯経に違するのみに非ず 亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許
10 すべし理亦一切の成仏を許すべし○」
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 問うて言う。二乗の成仏がなければ菩薩の成仏もないという正しい証文はあるのか。
 答えて言う。涅槃経の巻三十六に「仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける」とある。三十六巻本では巻三十二である。この文のとおりならば、先の四味の諸菩薩はみな一闡提の人である。二乗作仏を許さないから、二乗が作仏しないだけでなく、更にまた菩薩の成仏も許さないものである。このことから考えると、四十余年の文に二乗作仏を許さないならば、菩薩の成仏もまたないのである。一乗要決のなかに「涅槃経三十六には『仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける』とある。三十六巻本では巻三十二である。第三十一の巻には『一切衆生および一闡提に悉く仏性が有ると信ずることを、菩薩の行法である十法のなかの第一の信心具足と名づける』とある。三十六巻本では巻三十である。『一切衆生に悉く仏性がある』と明かすことは、一部分ではない。もしそれでも一切を一部分と執着するならば、ただ経文に違背するだけではなく、また信不具となる。どうして願って一闡提となるであろうか。これによって、全部に仏性が有ると許すべきである。法理からまた一切の成仏を許さなければならない。 ○」 。
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11   慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、 宝公の云
12 く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、金ペイの註に
13 云く「境は謂く四諦なり 百界三千の生死は即ち苦なり 此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名
14 く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを 煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性
15 を証するは即ち仏道無上誓願成なり、 惑即菩提にして般若に非ざること無ければ 即ち法門無尽誓願知なり、惑智
16 無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す 一即一切なりとは斯の言徴有り」文、 慈覚大師の速証仏位集に
17 云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・
18 知法作仏なり 然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、 利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道
0426
01 を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、 今此の妙経は十界皆
02 成仏道なること分明なり 彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し 十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成
03 仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一
04 切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、 衆生界尽きざるが故に 未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十
05 界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。
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 慈恩の心経玄賛に「菩薩は大慈悲の方からいえば、常に一闡提となるが、大智慧の方からいえば、まさに成仏できる。宝公は『大慈悲の方からいえば、一闡提となるというのは、爾前経の所説である。前説をもって後説を非難してはならない。諸師の解釈は概略これと同じである』とある。金錍論の註には『境は四諦である。百界三千の生死は即ち苦である。この生死は即ちこれ涅槃であると通達するのを衆生無辺誓願度と名づける。百界三千に三惑を具えている。この煩悩は即ちこれ菩提であると通達するのを煩悩無辺誓願断と名づける。生死は即ち涅槃であるとして、円教の仏性を証得するのは、即ち仏道無上誓願成である。惑は即ち菩提であって般若であるから、即ち法門無尽誓願知である。惑と智慧とは無二であるから、衆生と仏とは体は同じであり、苦も集もただ心のあらわれであるから四弘誓願も一心に摂するのである。一即一切とはこの言は徴がある』と。慈覚大師の速証仏位集に「第一にただ法華経の力用は仏の下化衆生の願いを満足させるものであるゆえに、仏は世に出て法華経を説くためである。いわゆる諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏である。ところが、因行も果徳も円満であるので、後の三つの願いは満足するが、衆生を利益したいとの一願ははなはだ満足しがたいのである。かの華厳経の力用では、十界はみな仏道を成ずることはできない。阿含経・方等経・般若経もまた同じである。後に涅槃経で説かれた五味でも、みな仏道を成じさせたいとの仏の本懐を満足することはできなかった。いまこの法華経は、十界みな仏道を成ずることができることは、明らかである。かの提婆達多が無間地獄に堕ちたにもかかわらず、天王如来の記別を受け、竜女は成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅王もすべて成仏の記別を受け、人界・天界・二乗・三教の菩薩も円妙の仏道に入ることができた。法華経には『自分が昔願ったところは、今は已に満足した。一切衆生を教化して、みな仏道に入れることができた』とある。衆生界は尽きないから、いまだ仏道に入らない衆生があるといっても、十界みな成仏することは、ただ法華経の力用である。ゆえに衆生を利益したいという本懐は満足したのである」とある。
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06   又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に 世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き
07 聞法・観行・皆当に作仏すべし、 抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、 天親菩薩の
08 仏性論縁起分の第一に云く 如来五種の過失を除き 五種の功徳を生ずるが為の故に 一切衆生悉有仏性と説きたも
09 う已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、
10 五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に
11 大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、 我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、 一切の法
12 無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け 一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け 意唯己を存
13 して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。
14                                     日 蓮 花押
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 また「第一に法華経の大意を明かすならば、諸仏はただ一大事の因縁のために世に出現し、一切衆生に悉く仏性があると説き、法を聞き、修行すれば、みな必ず成仏することができる。ところで、仏はどのような因縁のために、十界の衆生のすべてに三因仏性が有ると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論も縁起分の第一に「如来は五種の過失を除いて、五種の功徳を生ずるために、一切衆生に悉く仏性が有ると説かれたのである」とある。その五種の過失とは、一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗る・五には我執を起こすである。五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大慈悲である。生ずることはないと疑うために、大菩提心を発すことができないのを下劣心と名づけ、自分には仏性が有るから、能く菩提心を発すことができるというのを高慢と名づけ、一切の法は無我であるのに、有我であると執着するのを虚妄執と名づけ、一切諸法の清浄の智慧や功徳を違い謗るのを謗真法と名づけ、意にはただ自分の事のみあって一切衆生を憐れむことを願わないのを起我執と名づける。この五つを翻して、必ず仏性があると知って菩提心を発すのである」とある。
                                     日 蓮 花押

涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
―――
信不具足
 衆生に仏性があることは信ずるが、必ずしもすべて仏性があるとは信じないことを、信が具足しないとしていること。信じいてはいるが、まだ不信を残して」いること。
―――
一乗要決
 比叡山横川の恵心院の僧都源信が寛弘3年(1006)に著した書。3巻。法相宗において人の資質や能力に応じて声聞・縁覚・菩薩に固有の3種の悟りの道があるとする法相三乗家の五性格別を破折し、一乗は真実の理、五性は方便の説であると説いたもの。
―――
十法
 天台大師が立てた十種の観法と十重の観法のこと。
―――
一切衆生悉有仏性
 「一切衆生に悉く仏性有り」と読む。九界の衆生はことごとく仏性をそなえるとの意。天台の教判である五時で法華涅槃時とされ、法華経と同じく第5時に属する涅槃経巻27に「一切衆生悉く仏性有り。如来は常住にして、変易有ること無し」とある。
―――
慈恩
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
―――
心経玄賛
 般若心経の注釈書。中国・唐代の慈恩著。性相学の立場から中間般若空を釈したもので、大乗の二大教学である中観・瑜伽の教学を明らかにし、更に瑜伽の立場から中観の教学を判釈している。法相宗の般若空観を説いた唯一の書とされる。
―――
大悲
 仏・菩薩が衆生の苦しみを除こうとする心。
―――
大智
 すべての智慧のこと。全ての事理に通じた広大な智慧・仏・菩薩の智慧をいう。
―――
宝公
 (0418~0514)中国・南北朝時代の僧、宝誌・誌公といい、広済大師・妙覚大師・真密禅師と諡された。姓は朱氏。道林寺の僧倹について禅を学んだ。予言や分身など怪異な力を発揮し、人を惑わす者として斎の武帝に捕らえられたが許されて東宮後堂に登った。健康の竜光寺・罽賓寺・興皇寺・浄名寺などに止住し、梁の武帝からも優遇された。その死後、埋没された鐘山独竜の丘に開善寺が建立された。著書に「大乗讃」「十二時頌」等がある。
―――
大悲闡提
 一切衆生を救うために、自らの成仏の期間がこない一闡堤となること。一切衆生を救済した後に成仏するという誓願のために、衆生済度の願いが尽きることはなく、そのために永久に成仏することができない。
―――
前説
 法華経以前に説かれた爾前経のこと。
―――
後説
 法華経以後に説かれた涅槃経等のこと。
―――
釈意
 解釈の本意。人の心。解釈の意義。
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 境界のこと。主観的智慧に対して認識・価値判断の対象となるべき客観世界のこと。
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四諦
 仏教の最も基本となる四つの真理。①苦諦(迷いのこの世は一切が苦しみであること)②集諦(苦しみが生じる原因は執着であること)③滅諦(その執着を滅することで、苦しみを克服し覚りを得ること)④道諦(苦しみを克服し覚りを得るためには、八つの修行の道があること)。
―――
百界
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。
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三千
 一念三千の諸法が具足すること。天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
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三惑
 天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』など多くの論釈に説かれている。①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②塵沙惑とは、菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする。天台大師は『摩訶止観』巻4上で、三惑は即空・即仮・即中の円融三観によって断ずることができると説いている。すなわち空観によって見思惑を破し、仮観によって塵沙惑を破し、中観によって無明惑を破す。しかし、円融三観は空・仮・中のおのおのが時間的にも空間的にも円融相即して差別がないから、三惑は同時に断破される。
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煩悩無辺誓願断
 四弘誓願のひとつ。一切の煩悩を断つと誓うこと。
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生死即涅槃
 生死の苦しみを味わっているその身に涅槃(覚りの平安な境地)が開かれること。「生死」は煩悩・迷いによって苦悩する境涯であり、九界の衆生の境涯である。「涅槃」は仏の覚りの平安な境地である。法華経では九界の衆生に仏知見がそなわっていることを説いて十界互具を明かし、法華経を信じ実践することで、その仏知見をこの身に開き現し、この一生でただちに成仏できることを説く。即身成仏と同義で、得られる果報の境涯の観点から述べた言葉。因の観点から述べたのが、煩悩即菩提である。
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仏道無上誓願成
 四弘誓願のひとつ。仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと
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惑即菩提
 三惑の体がそのまま菩提の体であり、両者は一体不二であること。煩悩即菩提・生死即涅槃のこと。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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法門無尽誓願知
 四弘誓願のひとつ。仏の教えをすべて学び知ると誓うこと
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惑智無二
 惑と智とは別々のものではなく、一体不二のものであるということ。惑は九界の迷い、智は仏の悟りをいう。
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仏体同じ
 衆生と仏とはその体は同じであること。迷いの衆生も悟りを得た仏も、ただ一心のあらわれであり、この二つは別の体ではなく、不二・同体であること。正仏不二・生物一如と同じ。
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苦集唯心
 世間の因果による苦も集も衆生の一心から起こることにほかならないこと。
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四弘融摂
 一切の菩薩が初発心の時に起こす四弘誓願が一心に融和・融合していること。
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一即一切
 「一」に一切が離れず具わっていること。一切は残らず全部の意。即は不離の義。法華経の円融円満をさす。
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慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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速証仏位集
 慈覚大師の著とされるが、現存せず、内容も不明。
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諸仏の因位
 一切の菩薩が仏果を得るために菩薩道を行じたときの位。六波羅蜜等を修行している間の位をいう。
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四弘の願
 四弘誓願のこと。「しぐぜいがん」とも読む。あらゆる菩薩が初めて発心した時に起こす4種の誓願。①衆生無辺誓願度(一切衆生をすべて覚りの彼岸に渡すと誓うこと)②煩悩無量誓願断(一切の煩悩を断つと誓うこと)③法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ると誓うこと)④仏道無上誓願成(仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと)。
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利生断惑
 衆生を利益し、惑障を断ずること。衆生の三惑を断じて成仏させることが仏の利生となる。
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知法作仏
 法を知り、仏となること。仏法を知り成仏することをいう。
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因円果満
 仏道を成ずるための因の修行も仏果の功徳も円満であること。成仏するための修行・菩薩行が円融円満であってこそ、一切の功徳を円満に具えた仏果を得ることができる。
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利生
 仏が衆生を利益を与えること。
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阿含
 天台宗の教判である五時(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)の第2。釈尊が華厳経を説いた後の12年間、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑などで説いた時期をさす。阿含経が説かれたので阿含時といい、この時期の最初の説法が鹿野苑で行われたので鹿苑時ともいう。
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方等
 方等時。続いて16年間(一説には8年間)、阿弥陀経・維摩経などの諸大乗経典を説き、小乗に執着する声聞を糾弾して大乗を慕わせた期間。
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般若
 「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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五味
 もとは涅槃経にある教説で、釈尊の種々の教えを牛乳が精製される時に生じる5段階の味に譬え、位置づけたもの。①乳味(牛乳そのもの)②酪味(発酵乳、ヨーグルトの類)③生蘇味(サワークリームの類)④熟蘇味(発酵バターの類)⑤醍醐味(バターオイルの類)の五つをいう。乳味が一番低い教えにあたり、醍醐味が最高の教えにあたる。天台教学では、経典を釈尊が説いた順に整理して五つに分類し、5番目の時期、すなわち釈尊の真意を説いた法華経・涅槃経を説いた時期を最高の味である醍醐味に譬え、それ以前の華厳・阿含・方等・般若という四つの時期の教えをそれぞれ乳・酪・生蘇・熟蘇の四味に譬えた。
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達多
 提婆達多のこと。サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
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無間
 無間地獄・阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
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天王仏
 天王如来のこと。法華経において提婆達多が記莂を受けた時の如来号。法華経提婆品において「提婆達多、却ってのち、無量劫を過ぎてまさに成仏することを得べし、号をば天王如来、応供・正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、といわん、世界を天道と名づけん」とある。
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竜女
 海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で8歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第12には、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我は大乗の教を闡いて|苦の衆生を度脱せん」(法華経407㌻)と述べ、釈尊に宝珠を奉ってその身がたちまちに成仏する姿を示したと説かれている。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。
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十羅刹女
 法華経陀羅尼品第26では、10人の羅刹女が、法華経を受持する者を守ることを誓っている。羅刹はサンスクリットのラークシャサの音写で、人の血肉を食うとされる悪鬼だが、毘沙門天王の配下として北方を守護するともいわれる。羅刹女はラークシャサの女性形ラークシャシーの訳で、女性の羅刹のこと。
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阿修羅
 サンスクリットのアスラの音写。修羅と略す。古代インドの鬼神の一種。古くは善神だったが帝釈天らに敵対する悪神とされるようになった。後に、仏教で守護神に組み込まれた。
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 ①人間のこと。②十界のうちの人界。人界。③法に対する語。「人法」と併称される。この場合、「人」とは、教えを説く仏・菩薩、あるいは教えを修学する人のこと。対して「法」とは、説かれた教え、あるいは修学される教法のことをいう。
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 天界のこと。天(神々)の世界。神々の生命境涯。天はサンスクリットのデーヴァの音写で、古代インドの神話に登場する神々を意味する。前世に積んだ善根の果報として、安楽な天の世界に生まれることができる。しかし、やがてその果報が尽きると、天界から離れて六道を輪廻しなければならない。そのため、天界の喜びには永続性がない。天界は大きく三つに分かれ、欲天・色天・無色天に分かれる。欲天は六つに分かれ、六欲天という。最下層は世界の中心にある須弥山の中腹に位置し、その四方に毘沙門天(多聞天)など四天王が住むことから、四大王衆天という。その上の第2層は須弥山の頂上に位置し、帝釈天(インドラ)を主とする神々が住み、これは三十三天と呼ばれる。これら2天は地上に神々が住むことから、地居天とされ、これより上の空居天と区別される。第3層には死者の王である夜摩(ヤマ、閻魔ともいう)が住み、夜摩天という。第4層は兜率天といい、次に地上に生まれて仏と成る者が滞在する場所とされ、娑婆世界では弥勒菩薩が待機しているとされる。第5層は楽変化天といい、神通力で欲望の世界を自ら作り楽しむ。欲天の最上に位置する第六天の王が他化自在天で、他者を自在に操り第六天の魔王と呼ばれる。色天は17あるいは18に分かれるとされ、その下層の諸層には、梵天(ブラフマー)が住む。色天の最上層は色究竟天と呼ばれる。無色天は純粋に精神のみの世界で、空間に位置を占めることはない。体得した三昧の種類に応じた果報によって4層に分かれる。非想非非想天は、三界の頂点であり、有頂天ともいう。なお、物質的世界の頂点である色究竟天を有頂天という場合もある。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「喜ぶは天」(241㌻)と仰せになり、喜びに満ちていることが人界にそなわる天界を示すものとされている。これに基づいて生命論では、欲求がみたされて喜びに満ちている生命状態を天界とする。十界のうち、六道の一つ。また修羅・人とともに三善道とされる。
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三教の菩薩
 蔵教・通教・別教における菩薩。
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円妙
 三諦が相即円融円満にして不可思議なこと。
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本懐
 もとより心に懐く究極の目的。
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聞法
 仏の法をきくこと。
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観行
 法を聞いて歓喜し、教えのままに修行すること。仏の説法そのままに修行に励むこと。
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十界の衆生
 地獄界から仏界までの各界の衆生のこと。あらゆる境界の衆生。
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三因仏性
 天台大師智顗が仏性(成仏の因として人々の生命に元来そなわっている性質)を三つの側面に分析したもの。①正因仏性(人々の生命に元来、そなわっている仏の境地、すなわち仏界。仏の境涯を開くための直接的な因)②了因仏性(自らの生命にそなわる仏界・法性・真如を覚知し開き顕す智慧)③縁因仏性(了因を助け、正因を開発していく縁となるすべての善行)。
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天親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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五種の過失
 天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云はく「如来五種の過失を除き、五種の功徳を生ずるが為の故に、一切衆生悉有仏性と説きたまふ。謂はく、五種の過失とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗じ、五には我執を起こす」とある。
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五種の功徳
 天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云はく「如来五種の過失を除き、五種の功徳を生ずるが為の故に、一切衆生悉有仏性と説きたまふ。謂はく、(中略)五種の功徳とは、一に正勤、二には恭敬、三には般若、四には闍那、五には大悲なり」とある。
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闍那
 仏性論にある五種の功徳の第四。
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 先の第一の問答で、二乗の作仏がなければ菩薩の成仏もないことが明らかにされたが、この第二の問答ではそれを受けて、二乗の成仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す経文上の文証を問うている。
 そしてその答えとして、涅槃経巻三十六、一乗要決、慈恩の心経玄賛、伝教大師の註金剛錍論、慈覚大師の速証仏位集からの引用文が挙げられている。
涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり
 初めに涅槃経巻三十六迦葉菩薩品第十二の文が引用されている。
 ここでは恒河の七種の衆生を説くなか、第二の暫出還没入を説いた文である。仏性が衆生に存在することを信じてはいても、必ず一切の衆生のことごとくに仏性があると信じてはいないことをさして「信不具足」としている。この経文を受けて、四味の人であると断じられている。
 涅槃経の引用文のなかの「信不具足」は「断善根」とともに梵語・一闡堤の釈であるが、この経文が菩薩の不作仏の依文とされるのは、爾前経では二乗は成仏できない衆生としており、菩薩も二乗に対し仏性のない存在であるとみるので、「信不具足」にあたるからである。四十余年未顕真実の爾前教においては二乗作仏を許さないかぎり菩薩の成仏もない、と断じられてる。
一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと、三十六本第三十、一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず、若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許すべし理亦一切の成仏を許すべし○」
 次の、慧心僧都源信の著・一乗要決巻の中の文は、先の涅槃経巻三十六の文を挙げて、一切衆生と一闡堤ことごとく仏性があると信じることを菩薩の十法のなかの第一信心具足と名づける、という同巻三十一の「信心具足」に違背する菩薩ということになると指摘している。
 ちなみに菩薩の十法とは、菩薩の修行すべき十種の法のことで、①信心具足・②浄戒具足・③親近善知識・④楽寂静・⑤精進・⑥念具足・⑦軟語・⑧護法・⑨供給同学・⑩具足智慧の十である。その第一の信心具足とは、一切衆生と一闡堤ことごとく仏性があると信じる、ということである。この涅槃経巻三十一の経文を受けて、源信は“一切衆生にことごとく仏性があるということは「小分」、つまり一部分の衆生のみに仏性がある、ということを示すのではない。もし、一部の衆生の一切に仏性があるということに固執すると、仏の経に違背するだけではなく、信心不具の一闡堤になってしまう。しかしどのような理由で願って一闡堤になっていくのであろうか、そんな人はいないであろう。ゆえに一切衆生がことごとく仏性を有するということは「少分」ではなく「全分の有性」、つまりすべての衆生に仏性があるということとして理解すべきであるし、「理」においては一切が成仏できると理解すべきである”と述べている。
慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文
 慈恩は中国・唐時代の法相宗の僧で窺基という。慈恩寺に住んだので慈恩大師と呼ばれ、法相宗の事実上の開祖でもある。その慈恩の心経玄賛の一節が引用されている。心経玄賛は正確には般若波羅蜜多心経幽賛ともいい、唯識法相の立場から般若心経を注釈した書である。
 引用文の内容は、菩薩の衆生救済という「大悲」の立場から捉えるならば、菩薩は常に一闡堤となる。なぜなら、菩薩は衆生無辺誓願度の誓いを立てているように、一切衆生をことごとく救済した後に自ら成仏するという誓願があるため、どこまでいっても衆生救済の願いが尽きてしまうことがないので菩薩は成仏できないことになり、結果的には、成仏できないということにおいては信不具足や断善根と同じ一闡堤となるのである。これを「大悲闡堤」という。これに対して、「大智」の立場からとらえるならば、つまり衆生救済という化他の側面ではなく、自行の修行によって到達した智慧においては作仏することができるとしている。
金ペイの註に云く「境は謂く四諦なり百界三千の生死は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり、惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す 一即一切なりとは斯の言徴有り」文
 伝教大師の註金剛錍論巻四からの引用である。内容は次のとおりである。
 修行の拠り所としての境は苦・集・滅・道の四諦である。まず、百界三千の衆生の生死を「苦」とする。そして、この衆生の生死をそのまま涅槃と通達することを「衆生無辺誓願度」と名づけ、次に、百界三千の衆生が生死の苦を受ける原因は三惑の煩悩を具えていることにあるが、この三惑の煩悩をそのまま菩提と通達することを「煩悩無辺誓願断」とするのである。次いで、生死即涅槃と通達して法華円教の仏性を証得することが「仏道無上誓願成」となり、また、三惑の煩悩即菩提であるゆえに一切が般若の智慧に非ざることなしと知ることが「法門無尽誓願知」である。惑も智も別のものではなく一体であり、衆生も仏も一体であり、苦も集もただ一心のあらわれであるから、四弘誓願も“融摂”、つまり一念にことごとく円融・相即して一即一切となる。
 以上が引用された註金剛錍論の内容であるが、二乗を永不成仏とする爾前経の立場では、衆生無辺誓願度は達成できないから、菩薩の成仏もありえないことを示すために引かれたのである。
慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云
 慈覚の速証仏位集は現存せず、内容も全く不明であるが、四弘誓願についての慈恩の文を受けて、最初の利生の請願を満たしているのは法華経のみであることを示すために引かれている。
 内容は次のとおりである。
 第一に今経・法華経の力用は仏の「下化衆生の願」を満足させる教えであるゆえに仏は世間に出て説法するのである。
 法華経の力用とは、諸仏の因位における四弘誓願・利生断惑、自らの知法作仏にある。
 しかし、因円果満であるから、四弘誓願のうち 第一の衆生無辺誓願度がかなってこそ、後の三つの願い、すなわち煩悩無辺誓願断、法門無尽誓願知、仏道無上誓願成は満たされていくのである。だが、利生すなわち衆生を利益するという衆生無辺誓願度の願いはなかなか満足させがたいのである。華厳の力では十界の衆生が皆、仏道を成じて成仏させることはできない。次いで阿含・方等・般若も同様である。この“前番の五味”に対して、涅槃経における“後番の五味”もまた、すべての衆生を皆、成道させるという仏の本懐に合致したものではなかった。
 今、法華経によってこそ、十界の衆生が皆成仏することは明らかである。その証拠に、かの無間地獄に堕ちていた提婆達多に天王如来の記別を授け、竜女は成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、すべての阿修羅が成仏の記別を受け、人界の衆生・天界の衆生・二乗・蔵・通・別三教の菩薩、皆ことごとく法華円教の妙理の仏道に入ることができたのである。このことを法華経方便品第二では「我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」と説かれたのである。
 したがって、無辺の衆生が存在して尽きることがないゆえに末だ仏道に入ることができない衆生がいたとしても、法華経の力によって十界の衆生ことごとくが成仏することができるのである。ここに利生、つまり衆生無辺誓願度の請願はその本懐を遂げることができるのである。
 この文証は、十界衆生皆成仏道の法華経の力によって菩薩の成仏も可能になったことを述べ、二乗作仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す文証を求める問いに、別の角度から答えようとしたのである。
又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け意唯己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と
 慈覚の速証仏位集の続きである。内容は次のとおりである。
 第一に法華経の大意を明かすと、諸仏は唯一大事の因縁のゆえに世に出現するのである。そこにおいては一切衆生にことごとく仏性があることを説き示し、仏の教えを聞いてそのとおりに観行して仏道修行するならば皆、成仏することができるのである。ところで、一体、仏はどのような因縁をもって十界の衆生ことごとく三因仏性があると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論縁起分の第一には次のようにある。すなわち、如来は衆生から五種の過失を除いて、衆生に五種の功徳を生じさせようとして、そのために一切衆生にことごとく仏性があり、と説かれたのである。では、その五種の過失は何かといえば、一に下劣心、二に高慢心、三に虚妄執、四に真法を謗ず、五に我執を起こす、という五つである。逆に、五種の功徳とは何かといえば、一に正勤、二に恭敬、三に般若、四に闍那、五に大悲の五つである。下劣心とは仏性が生ずることはありえないと疑うゆえに大菩提心を起こさないことであり、高慢心とは自分に仏性があるからよく菩提心を起こすことができたと慢心することであり、虚妄執とは一切法が無我であるというのが真理であるにもかかわらず、そのなかで虚妄なる我に執着することであり、真法を謗ずるとは一切諸法の清浄なる智慧と功徳を謗ることをいい、最後に我執を起こすとはただ我のみに執着して一切衆生を憐れむことを望まない無慈悲な心をさしている。
 以上の五種の過失をくつがえして、必ず仏性が有るとの仏の説法を聞いて知り、悟りを得ようとの菩提心を起こして修行していく過程で、仏性が開かれていくとき、五種の功徳が生じて五種の過失を除き、ついには菩提、悟りを証得して成仏することができるのである。
 この文証は、一切衆生が必ず成仏可能であると説いた法華経のみが二乗も菩薩も成仏できる経であることを示すために引かれたのである。

0427~0437    十法界明因果抄top
0427:01~0427:03 第一章 十法界の名目を挙げるtop

0427
十法界明因果抄    文応元年五月    三十九歳御作   沙門 日蓮撰
01   八十華厳経六十九に云く「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」と、法華経第六に云く「地獄声・畜生声・
02 餓鬼声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声人道・天声天道・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声」と已上十法界名目なり。
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 沙門の日蓮が撰した。
 八十華厳経の六十九に「普賢道に入ることができて、十法界を了知することができる」とあり、法華経巻六法師功徳品第十には「地獄の声・畜生の声・餓鬼の声・阿修羅の声・比丘の声・比丘尼の声(比丘・比丘尼は人道である)天の声(天道である)声聞の声・辟支仏の声・菩薩の声・仏の声とある。以上は十法界の名目である。

八十華厳経
 華厳経の漢訳には三種があり、唐の実叉難陀訳の大方広仏華厳経は(新訳)80巻からなっていることをいう。
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普賢道
 普賢菩薩の悟り、普賢菩薩所有の行願を実践し具足して一切無辺の法界に了達すること。
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十法界
 衆生の十種の境界のことで、十界のこと。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界のこと。
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 本抄は、文応元年(1260)4月21日、日蓮大聖人が38歳の御時に鎌倉で御述作された御書である。
 大聖人は、正嘉元年(1275)8月の鎌倉大地震を機に、翌年の春に駿河国の岩本実相寺で大蔵経を閲覧され、立正安国論を撰述されて文応元年(1260)7月16日に北条時頼に提出されている。
 この4月の時点で立正安国論は草案を完成されていたと想像されるが、本抄では、十法界の名目と、各界の因果を詳細に明かされ、とくに仏界については、爾前教と法華経の戒の違いを説き、法華経こそが即身成仏の教えであることを論じられており、立正安国論では“正法”が何であるかについては明示されていないが、法華経に“正法”があることを門下に示すために著されたとも拝される。
 初めに、華厳経・法華経の文を引いて、十法界の名目が明かされている。
 十法界とは、十界ともいい、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種類の衆生の境界をいう。爾前経では、善悪の業によって、死後、来世に生じる世界として十界があると説かれたが、法華経では一人の生命が瞬間瞬間に顕す境界の違いであるとされている。摩訶止観では、この十界のおのおのの因果が混乱せずに境界が定まっているので十法界というとも、十界おのおのは皆、法華に属しているので十法界という、とも述べている。
 最初に引かれている八十華厳経とは、中国・唐代の実叉難陀訳の大方広仏華厳経八十巻のことで、中国・東晋代の仏駄跋陀羅訳の華厳経六十巻を六十華厳経・旧訳華厳経と呼ぶのに対して、八十華厳経・新訳華厳経といわれる。
 「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」との文は、円融相即の法門を悟った者は、地獄界から仏界までの十法界とその因果を悟り知ることができる、という意である。この文を引かれているのは「十法界」という名目を明かされんがためであろう。
 次に、法華経の巻六・法師功徳品第十九の文を引かれているが、この文は法華経を受持・読・誦・解説・書写することによって六根清浄の功徳が得られることを明かした一節で「若し善男子・善女人此の経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん、千二百の耳の功徳を得ん。是の清浄の耳っを以って、三千大千世界の、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る。其の中の内外の種種の所有る語言、音声・象声・馬声・牛声・車声・啼哭声・愁歎声・螺声・鼓声・鐘声・鈴声・笑声・語声・男声・女声・童子声・童女声・法声・非法声・苦声・楽声・凡夫声・聖人声・喜声・不喜声・天声・龍声・夜叉声・乾闥婆声・阿修羅声・迦楼羅声・緊那羅声・摩睺羅伽声・火声・水声・風声・ 地獄声・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声・天声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声を聞かん。要を以て之を言わば、三千大千世界の中の、一切の内外の有らゆる諸の声、未だ天耳を得ずと雖も、父母所生の清浄の常の耳を以って、皆悉く聞き知らん。是の如く種種の音声を分別すとも、而も耳根を壊らじ」と耳根の功徳を説いた文の一部である。
 大聖人は、引用された文のなかで「比丘声・比丘尼声」に「人道」と注釈され、人界であることを示されている。比丘は男の出家、比丘尼は女の出家のことで、四衆の一つのなかで、人界とされたものと拝される。
 ここに挙げられたさまざまな声のうち、この十種の声を十法界の名目を示した文証とされているのは、十界のそれぞれについては爾前の諸経にもところどころに説かれているが、十界の名をすべて挙げた経文は他にみられないからであろう。
 十界については日寛上人が三重秘伝抄に「八大地獄に各々十六の別処あり、故に一百三十六、通じて地獄と号するなり。餓鬼は正法念経に三十六種を明かし、正理論に三種九種を明かす。畜生は魚に六千四百種、鳥に四千五百種、獣に二千四百種、合わせて一万三千三百種、通じて畜生界と名づくるなり。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず。人は即ち四大州なり。天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天となり。二乗は身子・目連の如し。菩薩は本化・迹化の如し。仏界は釈迦・多宝の如し云々」と述べられている。これは、それぞれ定まった色心・境界・国土を有すると説かれた爾前経の立場で十界観を挙げられたものである。
 それに対して、法華経では一切衆生がことごとく成仏すると説き、天台大師はその法理を基礎に十界のおのおのが他の十界を具えているという十界互具・一念三千の法門を立てたのである。

0427:04~0427:08 第二章 地獄界の因縁を明かすtop

03   第一に地獄界とは観仏三昧経に云く「五逆罪を造り因果を撥無し 大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食する
04 の者此の中に堕す」と阿鼻地獄なり、正法念経に云く「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者此の中に堕す」とくと大叫喚地
                                                獄なり、正法
05 念経に云く「昔酒を以て人に与えて酔わしめ已つて調戯して之を翫び彼をして 羞恥せしむるの者此の中に堕す」と
06 叫喚地獄なり、 正法念経に云く「殺生巻偸盗巻邪婬の者此の中に堕す」と衆合地獄なり、 涅槃経に云く「殺に三種
                                                   有り謂
07 く下中上なり○下とは蟻子乃至一切の畜生乃至下殺の因縁を以て地獄に堕し乃至具に下の苦を受く」文。
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 第一に地獄界とは、観仏三昧経に「五逆罪を犯し、因果の道理を無視し、大乗教を誹謗し、四重禁を犯し、人の布施を無にする者はこの中に堕ちる」とある。これは阿鼻地獄である。正法念経に「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者はこの中に堕ちる」とある。これは大叫喚地獄である。また正法念経に「昔、酒を人にすすめて、酔わせてから、からかいなぶって翫び、その人を辱めた者はこの中に堕ちる」とある。これは叫喚地獄である。また正法念経には「殺生・偸盗・邪婬の者はこの中に堕ちる」とある。これは衆合地獄である。涅槃経に「殺生には三種がある。下中上である。○。下とは蟻の子ないし一切の畜生である。乃至、下殺の因縁をもって地獄に堕ち、乃至、具に下の苦を受ける」とある。

地獄界
 地獄の世界。苦しみに縛られた最低の境涯。古代インドでは、大きな悪の行いをした者は死後、地の下にあって苦悩が深く大きな世界に生まれるとされた。その世界をサンスクリットでナラカといい、音写して奈落と呼び、意訳して地獄という。経典には八熱地獄や八寒地獄など数多くの地獄が説かれている。「観心本尊抄」には「瞋るは地獄」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる地獄界は、瞋るすがたにうかがえることが示されている。この「瞋り」は、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周囲に対して抱く、やりばのない恨みの心をいう。これに基づいて生命論では、生きていること自体が苦しい、あらゆることが不幸に感じる生命状態を地獄界とする。
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観仏三昧経
 「仏説観仏三昧海経」のこと、観仏経ともいう。十巻。東晋の仏駄跋陀羅訳。十二章(品)に分けて、仏の相好の功徳を観想する相状や利益を説く。仏祖統記には、釈尊が成道6年に王宮にむかえ一族500人が出家して仏の化儀を荘厳し、その後6年をへて成道12年にあたって、ふたたび迦毘羅国にかえり、父王のために観仏三昧経を説いたとある。
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五逆罪
 5種の最も重い罪で、必ず無間地獄の苦の果報を受ける原因となる行為。①父を殺す(殺父)②母を殺す(殺母)③阿羅漢を殺す(殺阿羅漢)④仏の身を傷つけ血を出す(出仏身血)⑤教団を分裂させる(破和合僧)の五つ。
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四重禁
 四重禁戒のこと。四波羅夷戒とも。教団追放となる四重罪(殺生・偸盗・邪婬・妄語)を犯さないよう禁止し戒めること。
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信施
 信者が仏・法・僧の三宝に供養したもの。
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阿鼻地獄
 阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
―――
正法念経
 『正法念処経』のこと。70巻。東魏の瞿曇般若流支訳。六道生死の因果を観じ、これを厭離すべきことを説く。
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大叫喚地獄
 八大地獄の第五。叫喚地獄の下にあり、五戒を破った者が落ちるとされ、呵責の激しさに大声で泣き叫ぶという。
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叫喚地獄
 八大地獄の第四。生前、殺生・偸盗・邪淫・飲酒おんじゆをした亡者が送られて、熱湯や猛火に責められ、号泣・叫喚するという地獄。
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衆合地獄
 八大地獄の第三。殺生・偸盗・邪淫を犯した者の落ちる所。牛頭)・馬頭)に追い立てられて罪人が山に入ると、山や大石が両側から迫って押しつぶされるなどの苦を受けるという。石割り地獄。
―――
涅槃経
 大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
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 以下、十界のそれぞれの因果が詳しく明かされていくのであるが、ここはまず地獄界に堕ちる因縁を明かされている。
 地獄とは、罪業の因によって受ける極苦の世界、また境界をいい、地獄の地とは最低という意味であり、獄とは繫縛不自在ということで、苦悩に縛られた不自由な状態・境界を意味している。地獄の種類について、爾前の諸経では八大地獄・八寒地獄・十六小地獄・百三十六地獄などが説かれている。
 観仏三昧経に挙げられている無間地獄の業因は①五逆罪を犯す②因果の道理を否定する③大乗教を誹謗する④四重禁を犯す⑤信施を無にする、の五つである。
 五逆罪とは、五種の最も重い罪のことで、これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受けるので無間業とも五無間ともいう。五逆罪にも、小乗の五逆・大乗の五逆・提婆の五逆等の所説があるが、普通は父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より地を出す、破和合僧の五逆とされている。
 因果を墢無するとは、因果応報の道理を否定することをいう。撥無とは、排斥して信じないこと、仏法は、あらゆる現象は過去・現在・未来の三世にわたる因果律に貫かれていると説いているので、因果の道理を否定して信じないということは、仏法を否定することになるので地獄の業因となるのである。大乗大集地蔵十輪経巻七にも「因果を撥無すれば善根を断滅す」と説かれている。
 大乗教を誹謗することが堕地獄の業因となることは、次章で詳しく述べられている。
 四重禁とは、四重禁戒とも四波羅夷戒ともいい、比丘の受持すべき具足戒の一つで、殺生・偸盗・邪淫・妄語の四重戒を犯すことを禁じたものである。
 殺生とは、生きものを殺すことで、仏教では最も重い罪業の一つとされている。華厳経巻三十五には「殺生の罪は能く衆生をして地獄・畜生・餓鬼に堕せしむ、若し人中に生ずれば二種の果報を得、一には短命、二には多病なり」とある。
 偸盗とは、人の物を盗むこと、または盗人・盗賊のこと、邪淫とは、不正な男女関係を結ぶことをいう。妄語とは、偽りの言葉を言うこと、妄言ともいう。いずれも、十悪業の一つとされている。
 虚しく信施を食するとは、在家の信者が仏・法・僧の三宝に捧げた布施を、僧侶が法のためではなく、自己の欲望を満たすために用いることをいう。
 なお、顕謗法抄には、「業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり、今の世には仏ましまさず・しかれば出仏身血あるべからず、和合僧なければ破和合僧なし、阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし、但殺父・殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしく・あるゆへに 此の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五逆罪これあり木画の仏像・堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等をきりやき智人殺しなんどするもの多し、此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか又謗法の者この地獄に堕つべし」(0447-11)とあり、真言見聞には「阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり」(0142-05)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の者が地獄に堕ちるとあり、それは大叫喚地獄である、とされている。この五つは、五戒ともいい、小乗教では在家の男女が持つべき五種の戒が説かれている。この五戒を破る者は、大叫喚地獄の苦悩を受ける、とされているのである。
 なお、顕謗法抄には「殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄に堕つべし、当世の諸人は設い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず、設い日は・ありとも月は・あるべからず設い月は・ありとも年は・あるべからず設い年は・ありとも一期生・妄語せざる者はあるべからず、若ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか」(0445-10)と述べられている。
 次に、正法念経には、酒を人に勧めて酔わせ、なぶってその人を辱めた者は地獄に堕ちるとされ、その地獄は叫喚地獄である、とされている。顕謗法抄には「殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄に堕つべし、当世の諸人は設い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず、設い日は・ありとも月は・あるべからず設い月は・ありとも年は・あるべからず設い年は・ありとも一期生・妄語せざる者はあるべからず、若ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか」(0445-03)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫の者が地獄に堕ちるとされ、その地獄は衆合地獄である、とされている。
 顕謗法抄には「殺生・偸盗の罪の上に邪婬とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし」(0444-12)と述べられている。
 次に、涅槃経には、殺生に上・中・下の三種があり、蟻などをはじめ一切の畜生を殺すのは下殺であり、 顕謗法抄には、等活地獄の業因を「ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊モウ等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし」(0443-09)と明かされており、涅槃経の文は等活地獄の業因を明かした文としてひかれたのであろう。
 本抄では、八大地獄の幾つかを挙げて、そこに堕ちる因を明かされている。八大地獄とは、 等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・大阿鼻地獄の八つで等活から黒縄、衆合へと 順に苦悩が深くなると説かれている。殺生の罪を犯した者が等活地獄に、殺生と偸盗を犯した者が黒縄地獄に、殺生・偸盗・邪淫を犯した者が衆合地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒を犯した者が叫喚地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語を犯した者が大叫喚地獄に、五戒を犯したうえに邪見の者が焦熱地獄に五戒を犯し邪見をもったうえに浄戒の比丘尼を犯した者は大焦熱地獄に、五逆罪と謗法の者が無間地獄に堕ちる、とされている。犯した罪業が重いものであるほど、それを業因として受ける苦悩も重く深くなっていくのが、因果の道理であることを示しているといえよう。
 主師親御書には「地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬なり、其の中の罪人は互に常に害心をいだけりもしたまたま相見れば猟師が鹿にあへるが如し各各鉄の爪を以て互につかみさく血肉皆尽きて唯残つて骨のみあり或は獄卒棒を以て頭よりあなうらに至るまで皆打ちくだく身も破れくだけて猶沙の如し、焦熱なんど申すは譬えんかたなき苦なり鉄城四方に回つて門を閉じたれば力士も開きがたく猛火高くのぼつて金翅のつばさもかけるべからず」(0388-15)と述べられている。ただし、このように苦悩を受ける特定の場所があって、罪業を造った者がそこに堕ちるという説き方は一つの譬喩であって、その本義はあくまでも身心に受ける苦悩の状態・境界を表しているのである。

0427;09~0428:17 第三章 謗法こそ堕地獄の業因と明かすtop

08   問うて云く十悪五逆等を造りて 地獄に堕するは世間の道俗皆之を知れり謗法に依つて地獄に堕するは未だ其の
09 相貌を知らざる如何、 答えて云く堅慧菩薩の造・勒那摩提の訳・究竟一乗宝性論に云く「楽て小法を行じて 法及
10 び法師を謗じ○如来の教を識らずして説くこと・修多羅に背いて是真実義と言う」文、 此の文の如くんば小乗を信
11 じて真実義と云い大乗を知らざるは是れ謗法なり、 天親菩薩の説・真諦三蔵の訳・仏性論に云く「若し大乗に憎背
12 するは此は是一闡提の因なり 衆生をして此の法を捨てしむるを為ての故に」文、 此の文の如くんば大小流布の世
13 に一向に小乗を弘め自身も大乗に背き人に於ても 大乗を捨てしむる是を謗法と云うなり、 天台大師の梵網経の疏
14 に云く「謗は是れ乖背の名・スベて是れ解・理に称わず言実に当らず異解して説く者を皆名けて謗と為すなり己が宗
15 に背くが故に罪を得」文、 法華経の譬喩品に云く「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断
0428
01 ぜん 乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、 此の文の意は小乗の三賢已前・大乗の十信已前・末代の凡夫の十
02 悪.五逆・不孝父母.女人等を嫌わず此等法華経の名字を聞いて或は題名を唱え一字.一句・四句.一品・一巻・八巻等
03 を受持し読誦し乃至亦上の如く行ぜん人を 随喜し讃歎する人は法華経よりの外、 一代の聖教を深く習い義理に達
04 し堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者より勝れて 往生成仏を遂ぐ可しと説くを信ぜずして 還つて法華経は地
05 住已上の菩薩の為・或は上根・上智の凡夫の為にして愚人・悪人・女人・末代の凡夫等の為には非ずと言わん者は即
06 ち一切衆生の成仏の種を断じて 阿鼻獄に入る可しと説ける文なり、 涅槃経に云く「仏の正法に於て永く護惜建立
07 の心無し」文、 此の文の意は此の大涅槃経の大法世間に滅尽せんを惜まざる者は 即ち是れ誹謗の者なり、天台大
08 師法華経の怨敵を定めて云く 「聞く事を喜ばざる者を怨と為す」文、 謗法は多種なり大小流布の国に生れて一向
09 に小乗の法を学して身を治め大乗に遷らざるは是れ謗法なり、 亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も諸経
10 と法華経と等同の思を作し 人をして等同の義を学ばしめ 法華経に遷らざるは是れ謗法なり、 亦偶円機有る人の
11 法華経を学ぶをも 我が法に付けて世利を貪るが為に汝が機は法華経に当らざる由を称して 此の経を捨て権経に遷
12 らしむるは是れ大謗法なり、 此くの如き等は皆地獄の業なり人間に生ずること 過去の五戒は強く三悪道の業因は
13 弱きが故に人間に生ずるなり、 亦当世の人も五逆を作る者は少く 十悪は盛に之を犯す亦偶後世を願う人の 十悪
14 を犯さずして善人の如くなるも 自然に愚癡の失に依つて身口は善く意は悪しき師を信ず、 但我のみ此の邪法を信
15 ずるに非ず国を知行する人・人民を聳て我が邪法に同ぜしめ 妻子・眷属・所従の人を以て亦聳め従え我が行を行ぜ
16 しむ、故に正法を行ぜしむる人に於て 結縁を作さず亦民・所従等に於ても随喜の心を至さしめず、 故に自他共に
17 謗法の者と成りて修善・止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと末法に於て多分之れ有るか。
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 問うて言う。十悪や五逆罪等を犯して地獄は堕ちることは、世間の道俗も皆知っているが、謗法によって地獄へ堕ちるということは、未だその相貌を知らないがどうか。
 答えて言う。堅慧菩薩の造で勒那摩提の訳の究竟一乗宝性論には「願って小乗の法を修行して、大乗の法及び法師を謗り、○、如来の教えを識らないで、法を説くことは修多羅に背き、しかもこれが真実義であると言う」とある。この文のとおりならば、小乗教を信じて真実義でありと言い、大乗教を知らないことは、これ謗法である。天親菩薩が説き、真諦三蔵が訳した仏性論には「大乗教を憎み背くとは、これ一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせてしまうからである」とある。この文のとおりであるならば、大乗教と小乗教の流布の世に、ただ小乗教を弘め、自身も大乗教に背き、人にも大乗教を捨てさせることを謗法というのである。天台大師の梵網経の疏には「謗はこれ乖背の名である。解釈が道理にかなわず、言うことが真実ではなく、異なった解解をして説く者を、皆名づけて謗というのである。自分の宗に背くために罪を得るのである」とある。法華経の譬喩品第三には「若し人が法華経を信じないで毀謗するならば、一切世間の仏になる種を断つことになる。…その人は命終えて阿鼻地獄に入るであろう」とある。この文の意は“小乗教の三賢以前の者、大乗教の十信以前の者、末代の凡夫の十悪や五逆罪を犯した者、父母に対して不孝の者、女人等を嫌うことなく、これらの者が法華経の名字を聞いて、あるいは題名を唱え、一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦し、…また上のように修行する人を随喜し讃歎する人は、法華経よりの外の一代の聖教を深く習って、その義理に通達し、堅く大乗・小乗の戒律を持つ大菩薩のよな者よりも勝れて、往生成仏を遂げることができる”と説くのを信じないで、かえって法華経は十地・十住以上の菩薩のためや、上根・上智の凡夫のための経であり、愚人・悪人・女人・末代の凡夫等のための経ではないとう者は、一切衆生の成仏の種を断って、阿鼻地獄に入るのであると説かれた文である。
 涅槃経には「仏の正法を永く護惜建立する心がない」とある。この文の意は、この大涅槃経でいう大法が世間に滅し尽くそうとしているのを惜しまない者は、すなわちこれ誹謗の者である。天台大師は法華経の怨敵を定めて「法を聞く事を喜ばない者を怨というのである」と言われている。謗法は多種がある。大乗教・小乗教が流布している国に生まれて、ひたすら小乗の法ばかりを学び、身を治め、大乗教に遷らないのは、謗法である。また華厳経・方等経・般若経等の諸大乗経を習学する人も、諸経と法華経は等同であると思い、人にも等同であるとの義を学ばせ、法華経に遷らないのは謗法である。また、たまたま円教を受け入れる機根の者が法華経を学ぶのを、自分の法に引きつけて世法の利益を貪るために、汝の機根は法華経に適しないといって、法華経を捨てさせて権経に遷らせるのは、これ大謗法である。これらのことは、皆地獄へ堕ちる業因である。人間に生まれることは、過去に持った五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いから人間に生まれるのである。人間に生れることは、過去に持った五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いから人間に生れるのである。また、今の世の人も、五逆罪を犯す者は少なく、十悪は盛んにこれを犯している。たまたま、後世を願う人が十悪を犯さないで、善人のようであっても、自然に愚癡の失によって、身と口は善いが、意は悪い師を信じている。ただ自分のこのみの邪法を信ずるだけではなく、国を治める人が、人民をすすめて邪法に同意させ、また、その妻子や眷属、所従の人にすすめ従わせて、自分と同じ邪法を修行させようとして、正法を修行させようとする人とは縁を結ばず、また民や所従等にも正師に対して随喜の心を起こさせない。このため、自他ともに謗法の者となって、善を修し、悪を止めているようにみえ人も、自然に阿鼻地獄に堕ちる業因を招くことは、末法においては多分にあることなのである。

十悪
 身の3種、口の4種、意の3種、合計10種の悪業をいう。十不善業ともいう。①殺生②偸盗③邪婬④妄語(うそをつく)⑤綺語(お世辞をいう)⑥悪口⑦両舌(二枚舌を使う)⑧貪欲⑨瞋恚(怒り)⑩愚癡(癡か)または邪見。
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謗法
 誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
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堅慧菩薩
 堅慧はサンスクリットのサーラマティの訳。釈尊滅後700年ごろのインドの学者で、『大乗法界無差別論』『宝性論』などを著わし、大乗を宣揚したとされる。
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勒那摩提
 北魏代の訳経僧.中インドの人.三蔵の経文およそ1億偈をそらんじ、禅観に明るかった。北魏時代の0508年、洛陽に達し、北魏宣武帝の勅を奉じ、洛陽殿内などにおいて菩提流支、仏陀扇多と共に『十地経論』を訳したほか『宝積経論』『法華経論』『究竟一乗宝性論』4巻などを訳した.訳経数は『歴代三宝紀』や『続高僧伝』によれば『十地経論』など6部24巻であるが,『開元釈教録』は『十地経論』などを数に入れず,3部9巻とする.のち,『十地経論』を所依として地論宗(地論学派)が成立したが,勒那摩提・菩提流支の意見の違いから,勒那摩提の説を祖述する慧光の南道派と菩提流支の門人道寵の法系である北道派が対峙した.南道派では慧光が『十地経論』を普及させ,その弟子浄影寺慧遠が地論宗を大成した。
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究竟一乗宝性論
 インド大乗仏教の中で如来蔵思想を組織的に説いた論書である。『宝性論』と略称される。原名の「ラトナゴートラ」(ratnagotra)は「宝石の鉱山、鉱石」(宝性=仏性)、「ヴィバーガ」(vibhāga)は「分別・分析」、「マハーヤーノーッタラタントラ」(マハーヤーナ・ウッタラ・タントラ、mahāyāna-uttara-tantra)は「大乗の優れた(究極の)教説」、「シャーストラ」(śāstra)は「論」であり、総じて「宝性の分別を通じた大乗の究極の教えについての論」、漢字要約すると『宝性分別大乗究竟要義論』となる。
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修多羅
 梵語シュタラ(sūtra)の音写。線・① 経文。経典。契経  。②十二分経の一。散文で教理を説いたもの。契経。③ 袈裟  の装飾として垂らす、白赤4筋の組みひも。
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小乗
 乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した
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大乗
 一般に大乗仏教という。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。
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天親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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真諦三蔵
 (0499~0569)パラマールタ(Paramārtha)は、西インド生まれで中国に渡来した訳経僧、真諦三蔵。鳩摩羅什、玄奘、不空金剛とともに四大訳経家と呼ばれている。旧字体表記では、眞諦。また、『続高僧伝』の本伝では、音訳表記によって、拘那羅陀や波羅末陀と書かれており、意訳で真諦、あるいは親依という、と記されているが、一般には真諦という呼称で通用している。
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仏性論
 世親著。中国,陳の真諦訳。4巻。仏性の意味を論究した書で,縁起,破執,顕体,弁相の4分 16品から成る。初めに如来が「一切衆生悉有仏性」と説いたことを述べ,次に外道,部派仏教の見解を論難して,三因,三性,如来蔵などを説く。サンスクリットのイッチャンティカの音写。本来は欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信ぜずかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。
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天台大師
 (0538~0597)。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。
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梵網経の疏
 梵網経は、「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下二巻のことで、下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。鳩摩羅什の訳があり、大乗菩薩戒の聖典とされてきた。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。疏とは経文の深理をわかりやすく釈したもの。
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譬喩品
 妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
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三賢
 小乗教で説く声聞の位のこと。五停心観・別相・総相をいう。これに四善根を合わせたものを七賢といい、四善根を内凡とし、三賢を外凡とする。
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十信
 菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの最初の10の位。菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡と位置づけられる。円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。①信心(清浄な信を起こす位)②念心(念持して忘れることのない位)③精進心(ただひたすらに善業を修する位)④定心(心を一つの処に定めて動じない位)⑤慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)⑥戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)⑦回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)⑧護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)⑨捨心(空理に住して執着のない位)⑩願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。
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一代の聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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往生成仏
 浄土宗の説。死後、衆生の住む娑婆世界を去って、仏国土に往き、すぐれた果報の生を得ること。
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地住
 別教で説く菩薩の修行の位である52位のうち、10地と10住のこと。(1)十地。①歓喜地(極喜地、喜地、初地ともいう。一分の中道の理を証得して心に歓喜を生ずる位)②離垢地(無垢地ともいう。衆生の煩悩の垢の中に入ってしかもそこから離れる位。破戒と慳嫉の2種の垢を離れるので離垢地という)③明地(発光地ともいう。心遅苦の無明、すなわち聞思修忘失の無明惑を断じ、智慧の光明を発する位)④焔地(焔慧地、焼然地ともいう。煩悩の薪を焼く智慧の焔が増上する位)⑤難勝地(極難勝地ともいう。断じ難い無明惑に勝つ位)⑥現前地(清浄な真如と最勝智があらわれる位)⑦遠行地(遠く世間と二乗の道を出過する位)⑧不動(中道の理に安定して住して動ずることがない位)⑨善慧地(善巧の慧観によって十方一切にわたって説法教化する位)⑩法雲地(説法が雲のように無量無辺の法雨を降らし真理をもって一切を覆う位)。(2)十住。①発心住(十信を成就し広く智慧を求める位)②治地住(常に空観を修して心を清浄に持つ位)③修行住(もろもろの善法や万行を修する位)④生貴住(諸法は因縁の和合によって存するので、諸法の常住不変な体はないとの法理を理解し、本性が清浄である位)⑤方便具足住(無量の善根を修して空観を助ける方便とする位)⑥正心住(空観の智慧を成就する位)⑦不退住(究竟の空理を顕して退かない位)⑧童真住(邪見を起こさずに菩提心を破らない位)⑨法王子住(仏の教えを深く理解して未来に仏の位を受ける位)⑩灌頂住(空・無相を観じて無生智を得る位)。
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上根
 煩悩に左右されにくく、法を聞いてすぐに理解できる機根の者のこと。
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上智
 最上の智慧のこと。すぐれた智慧。その智慧を持った人。
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護惜建立
 正法を護り、惜しみ、これを建立して令法久住せしめること。
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華厳
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
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方等
 ①大乗経典をさす。方等は広大な教えの意。大乗②方等部③十二部経。
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般若
 「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。
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円機
 円教の機根のこと。円教である法華経を受持できる衆生の機根のこと。
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権経
 仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いた権の教え、経典のこと。実教(実経)に対する語。権は一時的・便宜的なものの意。
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五戒
 古代インドで仏教者として万人が守るべきものとされた行動規範。在家の持つべき5種の戒。①不殺生戒(生き物を殺すことを禁ず)②不偸盗戒(他人の物を盗むことを禁ず)③不邪婬戒(自分の妻・夫以外との淫を禁ず)④不妄語戒(うそをつくことを禁ず)⑤不飲酒戒(酒を飲むことを禁ず)の五つをいう。これは、ジャイナ教の出家者が守るべき五つの戒(マハーヴラタ)と通じあう。マハーヴラタは、アヒンサー(不殺生・非暴力)、サティヤ(不妄語)、アステヤ(不偸盗)、ブラフマーチャーリヤ(不婬)、アパリグラハ(無所有)である。
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三悪道
 悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
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後世
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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修善
 善行を修めること。
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止悪
 悪を止めること。
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末法
 仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』では、仏の教え(教)だけが存在して、それを学び修行すること(行)や覚りを得ること(証)がない時期とされる。日蓮大聖人の時代には、釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説が用いられていた。したがって、『周書異記』にあるように釈尊の入滅を、周の穆王52年(紀元前949年)として正像2000年説を用いると、永承7年(1052年)が末法の到来となる(ただし釈尊の入滅の年代については諸説がある)。それによると大聖人の出世は釈尊滅後およそ2200年にあたるから、末法の始めの500年中に御出現なさったこととなる。末法の年代について『中観論疏』などには釈尊滅後2000年以後1万年としている。大聖人は、末法万年の外・尽未来際とされている。弘長2年(1262年)御述作の「教機時国抄」に「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し……又当世は末法に入って二百一十余年なり」(439㌻)と述べられている。大集経では、「闘諍堅固」(僧は戒律を守らず、争いばかり起こして邪見がはびこり、釈尊の仏法がその功力をなくす時代)で、「白法隠没」(釈尊の仏法が見失われる時代)であるとされる。
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 無間地獄に堕ちる業因の内容について、経文と道理を挙げて詳しく明かされている。
 初めに、十悪や五逆罪を犯せば地獄に堕ちることは世間の僧俗ともに知っているが、謗法によって地獄に堕ちるということは、一般にその様相を知らないがどうなのか、との問いを設けられている。
 日蓮大聖人は、爾前権教に依る諸宗の立てる邪義は正法を誹謗するものであり、堕地獄の業因であると責められたが、世間の僧俗は諸宗の信仰が無間地獄に堕ちる業因であることを知らず、かえって激しく反発し、大聖人に怨嫉した。それに対して大聖人は、文理を挙げて謗法とはどういうものであるかを明かされているのである。
 初めに、堅慧作、勒那摩提釈の究竟一乗宝性論にある「願って小乗の法を修行して、大乗の法や法師を誹謗し、仏の教えに権と実があることを知らずに、その説くところは経の意に背きながら、しかもそれが真実だと言う」との文を引かれている。
 つまり、この文によれば、小乗を信じて仏の真実義であるといい、大乗を知らない者は謗法であり、と断じられている。大乗の法があるのに、小乗の法に執着して、小乗こそ正しいと思って、大乗を知らないことが、すでに謗法になる、ということである。
 次に、天親作、真諦訳の仏性論にある「大乗教を憎み背くことは、一闡堤の因である。それは衆生に大乗を捨てさせるからである」との文を引かれている。そして、この文によれば、大乗と小乗がともに流布している世において、ただ小乗だけを弘めて自身も大乗に背き、人にも大乗を捨てさせることを謗法というのである、とされている。
 一闡堤とは、略して闡堤ともいい、断善根・信不具足・極悪・大貪と訳し、仏の正法を信ぜず、誹謗し、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者をいい、自身が大悪に背くだけでなく、人をも背かせることが謗法になるのである。
 次に、天台大師の梵網経の疏にある「謗とは乖背という義で、解釈が道理にかなわず、言う言葉が事実にあたらず、異なった解釈をして人に説く者を皆、謗というのである。我が宗の正義に背くので謗法の罪となるのである」との文を引かれている。乖も背もそむくという意味であり、実教に背き、正法に背く言葉や教義を述べることが謗法となる、ということである。
 次に、法華経の譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の文を引かれ、その意を詳しく述べられている。
 「若し人信ぜずして」とは、何を信じないことをさすかという点について、法華経が小乗教の位でいえば三賢以善、大乗教の位では十信以前、末法の凡夫で十悪や五逆罪を犯した者、父母に不幸の者、女人等のだれ人であれ、法華経の名字を聞いて、題目を唱えるか、あるいは法華経の一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦したり、また他人がそのように実践するのを見て喜び、ほめたたえる者は往生・成仏をとげるであろうと説かれても、それを信じないことであると仰せになっている。
 要するに法華経が一切衆生の成仏の経であることを信じないで、高位の菩薩や上根の凡夫のための経であるなどということが「此の経を信ぜず」にあたるのであり、そのような人は阿鼻獄に入るであろうという経文であると仰せられているのである。
 このようにいわれるのは背景に念仏宗の邪義があったと考えられる。当時、浄土宗などは「法華経は凡夫の機に合わないので、末法には念仏による以外に往生の法はない」「法華経は道理が深く衆生の愚鈍な智慧では理解が困難であり、一人も成仏する者はいない」等といって法華経を誹謗していたので、その邪義を破折されたのである。念仏地獄抄には「念仏者云く我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計りなり毀謗する事はなし何の科に地獄に堕つ可きか、法華宗云く信ぜざる条は承伏なるか、次に毀謗と云うは即不信なり信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云、然ば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争か入阿鼻獄の句を遁れんや」(0097-04)と仰せになっている。
 次に、涅槃経の「仏の正法を永く護惜建立する心の無い者」との文を引かれて大涅槃経でいう大法が世に滅び尽きようとするのを見て、惜しもうとしない者は誹謗の者である、との意であることを示されている。護惜建立の心とは、正法を護り愛惜するとともに、正法を打ち立てて興隆せしめようとする心をいう。正法を誹謗することだけが謗法になるのではなく、正法が滅びようとするときに、それを惜しみ護ろうとする心がないことも謗法になるのである、という厳しい仰せなのである。
 次に、天台大師の言葉として「法華経を聞くのを喜ばない者が、法華経の怨敵である」と定めた文を引かれている。正法を聞くことを喜ばないことも、正法に対する怨敵であり、謗法になるという意なのである。なお、この言葉は天台大師には見当たらず、妙楽大師の言葉と思われる。開目抄には「妙楽云く『障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く』等云云」(0201-09)とある。
謗法は多種なり
 更にその謗法の諸相を挙げられている。
 まず、大乗・小乗がともに弘まっている国に生まれ、小乗のみを学んで自身の身を修め、大乗に移らないのは謗法である、とされている。低い教えの小乗教に執着し、より高い大乗の法を求めようとしないことが謗法になる、ということである。これは、大聖人当時でいえば、律宗等がこれにあてはまると考えられる。
 また、華厳・方等・般若等の諸大乗教を学ぶ人でも、諸経と法華経に説かれている教義・法理は等しいか同じだと思い、人にも同等だと教え、法華経に移ろうとしないのは謗法である、とされている。法華経を他の諸大乗教と同等と考えて、法華経を信じようとしないことが謗法になる、ということである。華厳宗や真言宗が、華厳経や密教に説かれる法理は法華経と同じ一念三千・久遠実成である、等と説いているのがこれにあたるといえよう。
 更に、たまたま法華経を信ずる機根の人が法華経を学ぼうとするのを、名聞名利を貪るために自分の宗旨に付けようとして、汝の機根は法華経には適しないと言って法華経を捨てさせ、権教に移らせる事は大謗法である、とされている。これは、浄土宗の邪義をさしている。こうした謗法の行為は、皆、地獄に堕ちる業因となるのである。
 結論として、人間に生れるということは、過去の世に五戒を持った果報が強く、三悪道の業因が弱いからであり、当世の人々も五逆罪を犯すものは少ないが、十悪は盛んに犯している。さらに、たまたま後生を願う人がいて十悪を犯さずに善人のようであっても、愚癡の失によって、身業と口業は善いが、意業において邪法邪師の悪師を信じている。しかもただ自分が邪法を信じるだけでなく、国を治める人や人民を勧めて邪法を信じさせ、妻子・眷属・従者にも勧めて邪法を行じさせ、国主等に正法を弘める正師と縁を結ばせず、また民衆や所従等にも正法を随喜する心を起こさせない。そのために、自他ともに謗法の者となってしまい、善根を修め悪行を止めたような人であっても自然に無間地獄の業を招くことが末法には多分にあるであろう、と仰せになっている。
 末法には、世間的には善人のように見えても、邪法邪義の邪師を信じ、人にも勧めるということによって自他ともに無間地獄に堕ちる者が多いのが実情であると指摘しているのである。
 言い換えると、五逆罪は理解しやすいから犯す人も少ないが、謗法は分かりにくいために、知らずに無間地獄の業因をつくっている場合が多いのであり、謗法こそ恐れなくてはならない、との大聖人のお心と拝されるのである。

0428:18~0429:12 第四章 阿難の故事を引いて謗法を戒めるtop

18   阿難尊者は浄飯王の甥・斛飯王の太子・提婆達多の舎弟・釈迦如来の従子なり、如来に仕え奉つて二十年覚意三
0429
01 味を得て一代聖教を覚れり、 仏入滅の後・阿闍世王・阿難を帰依し奉る、仏の滅後四十年の此阿難尊者・一の竹林
02 の中に至るに一りの比丘有り 一の法句の偈を誦して云く「若し人生じて百歳なりとも 水の潦涸を見ずんば生じて
03 一日にして之を覩見することを得るに如かず」已上、 阿難此の偈を聞き比丘に語つて云く此れ仏説に非ず汝修行す
04 可らず爾時に比丘 阿難に問うて云く仏説は如何、 阿難答えて云く若人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば
05 生じて一日にして之を解了することを得んには如かず已上 此の文仏説なり、汝が唱うる所の偈は此の文を謬りたる
06 なり、爾の時に比丘此の偈を得て本師の比丘に語る、 本師の云く我汝に教うる所の偈は真の仏説なり 阿難が唱う
07 る所の偈は仏説に非ず 阿難年老衰して言錯謬多し信ず可らず、 此の比丘亦阿難の偈を捨てて本の謬りたる偈を唱
08 う阿難又竹林に入りて之を聞くに 我が教うる所の偈に非ず重ねて之を語るに比丘信用せざりき等云云、 仏の滅後
09 四十年にさえ既に謬り出来せり 何に況んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、 仏法天竺より唐土に至り唐土より
10 日本に至る論師・三蔵・人師等伝来せり定めて謬り無き法は万が一なるか、 何に況や当世の学者・偏執を先と為し
11 て我慢を挿み 火を水と諍い之を糾さず 偶仏の教の如く教を宣ぶる学者をも之を信用せず 故に謗法ならざる者は
12 万が一なるか。
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 阿難尊者は浄飯王の甥、斛飯王の太子、提婆達多の舎弟、釈迦如来の従弟である。如来に仕えて二十年、覚意三味を得て、一代聖教を覚ったのである。仏の入滅の後、阿闍世王は阿難に帰依したのである。仏の滅後四十年の頃、阿難尊者が、一つの竹林の中にさしかかったとき、一人の比丘がいて一つの法句の偈を誦していた。それは「若し人が生れて百歳となっても、水の溜まったり、涸れたりするのを見なければ、生まれて一日でこれを見ることができないことは及ばない」というものであった。阿難はこの偈を聞いて比丘に語って言った。「これは仏説ではないから、汝は修行すべきではない」と。その時に比丘は阿難に問うて「それでは仏説はどうか」と言った。阿難は答えて言った。「『も人が生まれて百歳となっても、生滅の法を解了しなければ、生まれて一日でこれを解了することをできたことには及ばない』というのが仏説であり、あなたが唱えるところの偈は、この文を間違えたのである」と。そのときに比丘は、この偈をもって本 師の比丘に語った。本師は言った「自分が汝に教えた偈が真の仏説である。阿難が唱唱えるところの偈は、仏説ではない。阿難は、齢をとり老衰して言葉に誤りが多い。信じてはならない」と。この比丘はまた、阿難に教えられた偈を捨てて、もとの間違った偈を唱えた。阿難がまた竹林に入って聞くと、自分が教えた偈ではなかった。重ねてこれを語ったけれども、比丘は信用しなかったという。 
 仏の滅後四十年でさえ、すでに誤りが出てきていた。まして今は、仏の滅後すでに二千余年が過ぎている。仏法はインドから中国に渡り、中国から日本に渡った。論師や三蔵・人師等が伝来したのだから、定めて誤りのない法は万が一であろう。まして当世の学者は、偏執を先として我慢をさしはさみ、火を水を争ってこれを糾すこともない。たまたま仏の教えのとおりに教法を説く学者がいても、これを信用しない。ゆえに謗法とならない者は万が一であろう。

阿難
 サンスクリットのアーナンダの音写。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、釈尊の従弟にあたる。釈尊の侍者として、多くの説法を聞き、多聞第一とされる。付法蔵の第2。法華経授学無学人記品第9で、未来世に山海慧自在通王如来に成ると釈尊から保証された。▷
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
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斛飯王
 斛飯はサンスクリットのドローノーダナの訳。釈尊の叔父。提婆達多と阿難の父とされる。
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提婆達多
 サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
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覚意三昧
 天台大師の四種三昧のなかの非行非坐三昧や南岳大師の随自意三昧と同じ。方法・機関を定めないで、六識によって起こす念に対して思考し、正しく認識して悟りを得る三昧のこと。
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阿闍世王
 釈尊在世から滅後にかけてのインドの大国・マガダ国の王。阿闍世はサンスクリットのアジャータシャトルの音写。未生怨と訳す。本来の意味は「敵対する者が生じない(無敵)」との意だが、中国・日本では「生まれる前からの敵」という解釈が広がった。釈尊に敵対していた提婆達多にそそのかされ、釈尊に帰依し外護していた父を幽閉して死亡させ、自ら王位についた。その後も、提婆達多にそそのかされて、象に酒を飲ませてけしかけさせ、釈尊や弟子たちを殺そうとしたが失敗した。後に父を殺した罪に悩み、全身に大悪瘡(悪いできもの)ができた。その際、大臣・耆婆の勧めによって釈尊のもとに赴き、その説法を聴聞し、釈尊が月愛三昧に入って放った光が阿闍世に届くと、彼をむしばんでいた大悪瘡はたちどころに癒えたという。釈尊入滅後、第1回の仏典結集を外護したと伝えられる。
―――
比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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天竺
 中国および日本で用いられたインドの古称。
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唐土
 日蓮大聖人の時代には、国名としてだけではなく一般的に中国をさすことがある。
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論師
 「論」を著して仏法を宣揚する人。例えば、正法時代の竜樹(ナーガールジュナ)、世親(天親、ヴァスバンドゥ)など。▷
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三蔵
 仏教聖典を三つに分類した経蔵(スートラ、修多羅)、律蔵(ヴィナヤ、毘尼)、論蔵(アビダルマ、阿毘曇)のこと。①経蔵とは釈尊が説いた教法を集成したもの。②律蔵とは修行上の禁戒儀則。③論蔵とは釈尊が説いた法を体系づけて論議、注釈したものを集めたもの。釈尊滅後、阿闍世王の外護のもとに、マガダ国王舎城(ラージャグリハ)の南、畢波羅(ピッパラ)窟で摩訶迦葉を中心に第1回仏典結集が行われ、阿難は人々に推されて経を誦出し、優婆離は律を誦出したという。論蔵は弟子たちが仏の教法を理論的に体系化したもので、各部派において盛んに研究された。
―――
人師
 論師に対する言葉。「経」「論」を解釈して人々を導く人のこと。例えば、像法時代の天台大師智顗、妙楽大師湛然などをさす。

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 釈尊の十大弟子の一人、阿難の故事を引かれ、仏説が正しく伝えられることがいかに難しく、したがって謗法に陥りやすいかを示されている。
 阿難は、釈尊の父である浄飯王の甥で、迦毘羅城主の斛飯王の太子であり、提婆達多の弟で、釈尊の従弟にあたっており、出家の後は釈尊の常随の弟子となって20年間仕え、釈尊一代の教説を記憶することに勝れ、多聞第一と呼ばれた。
 その阿難が、釈尊滅後40年の頃に、ある竹林の中で一人の比丘に出会ったところ、その比丘は「若し人が生れて百歳となっても、水の溜まったり、涸れたりするのを見なければ、生まれて一日でこれを見ることができないことは及ばない」という仏の句を唱えていた。阿難がそれは仏説でないことを指摘して、真の仏説は「も人が生まれて百歳となっても、生滅の 法を解了しなければ、生まれて一日でこれを解了することができたことには及ばない」というのであり、それを誤り伝えたものであろう、と教えた。
 しかし、比丘が自分の師にそのことを語ると、師にあたる人は、阿難の教えた句こそ仏説ではなく、阿難はもはや老衰して言うことに誤りが多いので信用してはならないと批判したので、比丘は再び元の句を唱えるようになり、阿難が重ねて正しい句を教えても信じようとしなかったという。
 諸法は生じかつ滅すると知ること、すなわちこの世は無常と見ることは、小乗教の一つの悟りである。それが、水が溜まったり涸れたりすることを見るという。全く意味のない言葉に誤って伝えられたものであろう。しかも、それが伝わるうちに仏説として通用していて、阿難の正しい指摘さえ用いられないようになっていたのである。
 大聖人は、釈尊の滅後わずか40年で、すでにそした誤りが出来しているのだから、いわんや仏滅後2000年を過ぎた末法の現在において、仏法がインド・中国・日本と渡来する間に、正しく伝えられることはいかに至難であるかを述べられている。仏の教えが時代を経、インドから中国・日本へと翻訳されて流伝していくあいだに、そうした伝承を記録した梵本の原典の誤りがあり、更に伝写するうえでの誤り、翻訳する際の誤り、解釈の誤りなどのほか、故意の削除や添加、偽経の製作など、仏意を損なう人師による誤謬が入り込んだことは容易に察せられるところである。同様の趣旨の御文は、守護国家論にもあり「如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり文殊・迦葉・阿難・経を結集して已後・四依の菩薩重ねて出世し論を造り経の意を申ぶ末の論師に至つて漸く誤り出来す亦訳者に於ても梵漢未達の者・権教宿習の人有つて実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり、之に就て亦唐土の人師・過去の権教の宿習の故に権の経論心に叶う間・実経の義を用いず或は少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ、設い後に道理と念うと雖も或は名利に依り或は檀那の帰依に依つて権宗を捨てて実宗に入らず、世間の道俗亦無智の故に理非を弁えず但・人に依つて法に依らず設い悪法たりと雖も多人の邪義に随つて一人の実説に依らず、而るに衆生の機多くは流転に随う設い出離を求むとも亦多分は権経に依る、但恨むらくは悪業の身・善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ、然りと雖も今の世の一切の凡夫設い今生を損すと雖も上に出す所の涅槃経第九の文に依つて且らく法華・涅槃を信ぜよ其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し況や仏法の深義に於てをや、如来の滅後二千余年の間・仏法に邪義を副え来り万に一も正義無きか一代の聖教多分は誤り有るか、所以に心地観経の法爾無漏の種子・正法華経の属累の経末・婆沙論の一十六字・摂論の識の八九・法華論と妙法華経との相違・涅槃論の法華煩悩所汚の文・法相宗の定性無性の不成仏・摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣・此等は皆訳者人師の誤りなり、此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか」(0045-04)と、具体的に述べられている。
 更に大聖人は、まして、末法の諸宗の学者は、自宗の邪義への執着が強く、自らをおごって他を卑しむ心があり、火を水と主張してその誤りを認めようとしない。たとえ、仏説の通りに法を説く学者がいたとしても信心しようとしない。これでは、謗法でない者は万人に一人であろう、と仰せである。
 常に謙虚に、また正しい判断力をもって法を求め、真実の法の前には誤りを率直に改める姿勢こそ、仏道修行には欠かせないものである。求道の心を失った偏執、我慢の心が強い者は、誤りにとらわれ、正法に背いて誹謗するのである。

0429:13~0430:03 第五章 餓鬼道の因縁を明かすtop

13   第二に餓鬼道とは正法念経に云く「昔財を貪りて屠殺せるの者此の報を受く」と、亦云く「丈夫自ら美食をクラ
14 い妻子に与えず或は婦人自ら食して夫子に与えざるは此の報を受く」と、亦云く「名利を貪るが為に不浄説法する者
15 此の報を受く」と、 亦云く「昔酒をウルに水を加うる者 此の報を受く」と、亦云く「若し人労して少物を得たる
16 を誑惑して 之を取り用いける者此の報を受く」と、 亦云く「昔行路人の病苦ありて 疲極せるに其の売を欺き取
17 り直を与うること薄少なりし者此の報を受く」と、又云く「昔刑獄を典主・人の飲食を取りし者此の報を受く」と、
18 亦云く「昔陰凉樹を伐り及び衆僧の園林を伐りし者 此の報を受く」と文、 法華経に云く「若し人信ぜずして此の
0430
01 経を毀謗せば○常に地獄に処すること 園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」文、 慳貪・偸盗等
02 の罪に依つて餓鬼道に堕することは 世人知り易し、 慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に
03 其の義を信ずるに依つて餓鬼道に堕することは智者に非ざれば之を知らず能く能く恐る可きか。
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 第二に餓鬼道とは、正法念経に「昔、財を貪って、生きものを屠殺した者がこの報いを受ける」とある。また「男が自ら美食を食べて妻や子に与えなかったり、あるいは妻自ら食べて夫や子に与えない者は、この報いを受ける」とある。また「名利を貪るために、不浄な説法をする者が、この報いを受ける」とある。また「昔、酒を売るときに水を加えて売ったものは、この報いを受ける」とある。また「若し人労して少く物を得たるを誑惑して之を取り用いる者この報を受ける」とある。また「昔、路行く人が、病苦のために苦しんでいるのに、その売り者を欺き取り、わずかの代価しか与えない者は、この報いを受ける」とある。また「昔、監獄の主で、人の飲食を取った者は、この報いを受ける」とある。また「昔、陰凉樹を伐り、および衆僧の園林を伐った者は、この報いを受ける」とある。法華経に「若し人が信じないで毀謗するならば、○、常に地獄に身を置くことは、ちょうど園観に遊ぶようなもので、他の悪道にいることは、自分の家宅のようである」とある。慳貪・偸盗等の罪によって餓鬼道に堕ちることは、世間の人は知ることはやさしいが、慳貪等の罪のないもろもろの善人でも謗法の罪によって、また謗法の人に親しく交わって、知らずしらずにその義を信ずるようになって餓鬼道に堕ちることは、智者でなければこれを知ることができない。よくよく恐れなければならない。

餓鬼道
 餓鬼界のこと。餓鬼の世界。餓鬼が味わう苦悩の境涯。古代インドにおいて餓鬼はもともと「死者」を意味し、常に飢えて食物を欲している死者の世界をさした。「観心本尊抄」には「貪るは餓鬼」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる餓鬼界は、貪るすがたにうかがえると示されている。これに基づいて生命論では、とどまるところを知らぬ激しい欲望にとらわれ、それが満たされず心身ともに苦悩する生命状態を餓鬼界とする。
―――
慳貪
 物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らないさま。慳貪には、財物を惜しむ財慳と、正しい教えを説くことを惜しむ法慳がある。慳貪は、死後に餓鬼界に生まれる因となる悪業とされる。
―――
偸盗
 人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。
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 餓鬼道の報いを得る因縁を経文を引いて明かされている。
 餓鬼道とは、観心本尊抄に「貪るは餓鬼」(0241-08)と述べられており、欲望に支配されたむさぼりの生命状態をいう。
 正法念処経では、前世に欲が深くて、生きものを殺した者や、夫が自分だけ美食をして、妻や子に与えなかったり、妻が自分だけ食べて夫や子に与えなかった者が、餓鬼の報いを受けるとされている。
 更に、名聞名利を得るために、不浄の心で説法した者や、前世に酒を水で薄めて売った者や、他人が苦労して得た少しの物をだまし取った者や、前世で道端で病気で苦しんでいる者の売り物をだまし取ったり、わずかな料金しか与えなかった者や、前世に監獄の役人をしていて囚人の飲食物をかすめ取った者や、前世に道行く人に涼しい日陰を与えるために道路の脇に植えられた木を切ってしまったり、衆僧の住む園林を伐り倒した者等が餓鬼界の報いを得るのである、と説かれている。要するに、自分の利益のみを図って、他人を苦しめたり犠牲にした業の報いが、餓鬼界の苦悩を招くということである。
 更に法華経譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること、己が舍宅の如く」の文を引かれて、慳貪でいる人も、正法誹謗の罪は、何が正法であるかは仏法に通じた智者でなければ知ることができないので犯しやすい。だから、謗法を恐れなければならない、と仰せである。
 なお、主師親御書に「餓鬼道と申すは其の住処に二あり一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり、二には人天の中にもまじはれり其の相種種なり或は腹は大海の如くのんどは鍼の如くなれば明けても暮れても食すともあくべからず、まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず或は己が頭をくだきて脳を食するもあり或は一夜に五人の子を生んで夜の内に食するもあり、万菓林に結べり取らんとすれば悉く剣の林となり万水大海に流入りぬ飲んとすれば猛火となる如何にしてか此の苦をまぬがるべき」(0389-01)と述べられており、欲望に支配され、貪りながら満たされることのない、餓鬼界の苦しみの境界が表現されている。

0430:04~0430:05 第六章 畜生界の因縁を明かすtop

04   第三に畜生道とは愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて 之を償わざる者此の報を受くるなり、 法華経に云
05 く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕すべし」文已上三悪道なり。
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 第三に畜生道とは、愚癡で自らを恥じないで、人から布施を受けてもこれを償わない者は、この報いを受けるのである。法華経に「若し人が法華経を信じないで毀謗するならば、○、まさに畜生に堕ちるのである」とある。以上は三悪道である。

畜生道
 畜生界のこと。畜生の世界。鳥や獣などの動物が味わう苦悩の境涯。古代インドにおいて畜生は、鳥や獣、虫や魚など動物全般をさす。また、自分が生きるために他を殺害する弱肉強食の世界。十界の一つであり、三悪道・四悪趣・六道に含まれる。「観心本尊抄」には「癡は畜生」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる畜生界は、因果の道理をわきまえない愚かな姿にうかがえると示されている。これに基づいて生命論では、人間らしい理性がはたらかず、因果の道理がわからず、正邪・善悪の判断に迷ったあげく、目先の利益にとらわれて重要なものを損失し苦悩する生命状態を畜生界とする。
―――――――――
 畜生道の報いを受ける因縁が明かされている。畜生界とは、今人本尊抄に「癡は畜生」(0241-09)と述べられており、理性がなく、倫理や道徳をわきまえず、本能的な欲望のままに行動するおろかな生命状態をいう。本来癡は畜生、畜生とは、飼い畜われて生きるものの意で、動物を総称した言葉であり、そこから、本能の衝動に振り回された境界という意味で用いられる。
 畜生道とは、愚癡で恥を知らず、信心の施しを受けてもその償いをしない者がその報いを受ける、とされている。「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者」といわれているのは、正法を真摯に学ぼうとせず、信徒から施しを受けながら、人々を正法に導こうとしないでいる諸宗の僧を、念頭に置かれての仰せと拝される。更に法華経の譬喩品第三には「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば…当に畜生に堕つべし」と説かれており、謗法は、畜生界の業因であることが明かされている。
 なお、主師親御書には「畜生道と申すは其の住所に二あり根本は大海に住す枝末は人天に雑れり短き物は長き物にのまれ小き物は大なる物に食はれ互に相食んでしばらくもやすむ事なし、或は鳥獣と生れ或は牛馬と成つても重き物をおほせられ西へ行かんと思へば東へやられ東へ行かんとすれば西へやらる山野に多くある水と草をのみ思いて余は知るところなし」(0389-06)と畜生の境界が述べられている。聖愚問答抄には「小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う」(0474-14)と述べられ、弱肉強食の畜生界では弱者が痛みつけられ殺される残害の苦しみを受けることが明かされている。人間であっても、強い者を恐れ、自分より弱い者には威張っている卑怯な生き方は、畜生の因になるのである。

0430:06~0430:08 第七章 修羅界の因縁を明かすtop

06   第四に修羅道とは止観の一に云く「若し其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し 耐えざれば人を下し他を軽
07 しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて下視が如し而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を
08 行ずるなり」文。
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 第四に修羅道とは、摩訶止観巻一に「もしその心がいつも他人に勝ることを願って耐えられないので、人を見下し、他を軽んじて己を貴ぶことは、たとえば鵄が高く飛んで見下ろすようなものである。それでいて外面には、仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起こし、阿修羅の道を行うのである」とある。

修羅道
 修羅界のこと。修羅(阿修羅)の世界。修羅の生命境涯。阿修羅はサンスクリットのアスラの音写。古代インドの神話に登場する神で、海辺あるいは海中に住むとされる。須弥山の周辺の天に住む神々の王である雷神インドラ(帝釈天)と覇を競ったとされる。修羅の特徴として、自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっていることが挙げられる。他人と自分を比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじる。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬する心を起こすことができない。また、本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって諂う。自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい謙虚なそぶりすら見せることもあるが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちている。「観心本尊抄」では「諂曲なるは修羅」(241㌻)とされ、人界所具の修羅界は諂曲なさまからうかがえるとされる。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことである。これに基づいて生命論では、勝他の念が強く諂曲である生命状態を修羅界とする。十界のうち、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に修羅を加えて、四悪趣とされる。また六道の中では、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に比べれば相対的にはよいので、人・天とともに三善道とされる。
―――
止観
 ①摩訶止観のこと。『止観』と略される。10巻。天台大師智顗が講述し、弟子の章安大師灌頂が記した。『法華玄義』『法華文句』とともに天台三大部とされる。本書で天台大師は、仏教の実践修行を「止観」として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の「摩訶」がつけられている。「止」とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。天台大師は特に、止観の対象を凡夫自身の心に定め(この観法を観心という)、普通の人々が成仏を実現するための実践とし、その仕方を一念三千の法門として明かした。②止観という瞑想修行のこと。「止」とは心を外界や迷いに動かされずに静止させることで、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。
―――
仁・義・礼・智・信
 五常のこと。儒教の根本的な徳目。①仁は、分け隔てない親愛の情。②義は、道理にかなって正しいこと。③礼は、社会秩序を維持するための生活規範のこと。④智は、物事を識別する能力・智慧。⑤信は、偽らない誠のことで、誠実さ。
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下品
 ある者を上・中・下に分類した下のこと。
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 修羅道の報いを受ける因縁が明かされている。観心本尊抄には「諂曲なるは修羅」(0241-08)と仰せであり、諂い曲がった心を修羅界とされている。強い自我意識にとらわれているために物事を正しく見ることができず、また己を高くするために他と争いに陥る生命状態をいう。
 ここで大聖人は、摩訶止観巻一の「その心が常に他に勝つことばかりを願い、耐え忍ぶことができず、他人を軽蔑して己のみ尊しとする様子は、ちょうど、鵄が空高く飛んで下を見下ろすようである。それでいて、外面は五常を唱え、低い善心をもって修羅の道を行くのが修羅界である」との文を引かれている。
 この摩訶止観の文のように、自我意識が強く、他人に勝りたいという一念に執着して、他人より劣ることに耐えられない生命の状態で、他人を軽んじ、己を高くしようという境界が修羅界といえる。
 なお、五常とは、儒教で説かれた、人が常に守るべき五つの道をいい、一般には、仁・義・礼・智・信の五をいう。表面には、この五常等の道徳を唱え、実践しているようにみせながら、それでも自己を飾り他に勝るための手段にすぎないという、偽善的、独善的な境界が修羅界なのである。一代聖教大意には、「五常は修羅の引業」(0400-12)と述べられている。
 なお、天台大師は、仁王経疏巻上一のなかで不殺生を仁、不偸盗を智、不邪淫を義、不飲酒を礼、不妄語を信と、五戒を五常に配している。また、祈祷抄には「人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず」(1345-09)と仰せである。仏法の戒を持たず、善行を修することがなければ、死後に修羅界に生ずる、といわれているのである。

0430:09~0430:09 第八章 人界の因縁を明かすtop

09   第五に人道とは報恩経に云く「三帰五戒は人に生る」文。                       ・
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 第五に人道とは、報恩経に「三宝に帰依し、五戒を持つ者は人に生まれる」とある。

人道
 十界のうちの人間界のこと。人間としてごく普通の平穏な心・生命状態・境涯のこと。
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報恩経
 『大方便仏報恩経』のこと。 7巻。 訳者不詳。 出家して親を捨てるのは忘恩であるという非難に対して、一切の衆生を棄てないという大慈心をおこすことこそ真の報恩であると説いたもの。
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 人界とは、人間界ともいい、人間としてしごく普通の平穏な生命の状態、境界をいう。親兄弟、友人等のことを心配したり、思いやる、人間らしい状態である。観心本尊抄には「平かなるは人なり」(0241-08)と仰せになっている。
 本抄では、報恩経の「仏・法・僧の三宝に帰依し、五戒を持つ者は人間に生れる」との文を引かれ、人間に生れてくるのは、過去世に三宝に帰依し五戒を持つなどの仏法に縁した善根によるとの因縁が明かされている。一代聖教大意には「三帰・五戒は人の引業」(0400-13)と述べれれている。
 三帰とは、三帰依・三帰戒ともいい、仏・法・僧の三法に帰依することで、五戒とは、小乗教で説く在家の男女が持つべき五種の戒をいう。
 三帰は、初めて仏法に帰依するとき、あるいは五戒・八戒を授けられる前などにまず受ける戒律で、毘尼母経巻一には「三帰の次に五戒を受けて初めて優婆塞となる」とある。

0430:10~0430:11 第九章 天界の因縁を明かすtop

10   第六に天道とは二有り、欲天には十善を持ちて生れ色無色天には 下地はソ苦障・上地は静妙離の六行観を以て
11 生ずるなり。
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 第六に天道とは、二つある。六欲天には十善を持つ者が生まれ、色無色天には、下地を麤・苦・障と観じてこれを嫌い、上地を静・妙・離と観じてこれを欣求する六行観の観法を修することをもって生まれるのである。

天道
 天界のこと。天(神々)の世界。神々の生命境涯。天はサンスクリットのデーヴァの音写で、古代インドの神話に登場する神々を意味する。前世に積んだ善根の果報として、安楽な天の世界に生まれることができる。しかし、やがてその果報が尽きると、天界から離れて六道を輪廻しなければならない。そのため、天界の喜びには永続性がない。天界は大きく三つに分かれ、欲天・色天・無色天に分かれる。欲天は六つに分かれ、六欲天という。最下層は世界の中心にある須弥山の中腹に位置し、その四方に毘沙門天(多聞天)など四天王が住むことから、四大王衆天という。その上の第2層は須弥山の頂上に位置し、帝釈天(インドラ)を主とする神々が住み、これは三十三天と呼ばれる。これら2天は地上に神々が住むことから、地居天とされ、これより上の空居天と区別される。第3層には死者の王である夜摩(ヤマ、閻魔ともいう)が住み、夜摩天という。第4層は兜率天といい、次に地上に生まれて仏と成る者が滞在する場所とされ、娑婆世界では弥勒菩薩が待機しているとされる。第5層は楽変化天といい、神通力で欲望の世界を自ら作り楽しむ。欲天の最上に位置する第六天の王が他化自在天で、他者を自在に操り第六天の魔王と呼ばれる。色天は17あるいは18に分かれるとされ、その下層の諸層には、梵天(ブラフマー)が住む。色天の最上層は色究竟天と呼ばれる。無色天は純粋に精神のみの世界で、空間に位置を占めることはない。体得した三昧の種類に応じた果報によって4層に分かれる。非想非非想天は、三界の頂点であり、有頂天ともいう。なお、物質的世界の頂点である色究竟天を有頂天という場合もある。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「喜ぶは天」(241㌻)と仰せになり、喜びに満ちていることが人界にそなわる天界を示すものとされている。これに基づいて生命論では、欲求がみたされて喜びに満ちている生命状態を天界とする。十界のうち、六道の一つ。また修羅・人とともに三善道とされる。
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欲天
 六欲天のこと。欲界に属する6層からなる天のこと。①四王天。須弥山の第4層級の四面に住む持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の四天王とその眷属のすみかで、日月や星々をも含む。②忉利天。須弥山の頂上にある。帝釈天を中央にして、四方にそれぞれ八天があるので、合計して三十三天ともいう。③夜摩天。忉利天より8万由旬の上空にある。善分天または時分天と訳す。ここの天衆は、時に従って快楽を受けるのでこの名がある。④都率天(兜率天)。喜足天と訳す。五つの欲求が満足するのでこの名がある。都率天の内院には、補処(次に出現して仏の地位を受け継ぐ者)の菩薩として弥勒が説法をしているとされ、外院には天衆が住む。⑤化楽天。楽変化天ともいう。自らの欲望によってつくり出した対象を楽しむところからこの名がつけられた。⑥他化自在天。欲界の頂天にある。他者が欲望によってつくり出した対象を自在に変化させ、自らが楽を受けるのでこの名がある。魔王の宮殿があるので第六天、魔天ともいう。
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十善
 十善界のこと。身・口・意の三業にわたって十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。①不殺生②不偸盗③不邪婬④不妄語⑤不両舌(二枚舌を使わない)⑥不悪口⑦不綺語(偽り飾る言葉を言わない)⑧不貪欲⑨不瞋恚⑩不邪見。十善を行ずる果報は、天上に生じて梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となると経典に説かれている。
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色無色天
 三界のうちの色界と無色界のこと。①色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。②無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
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 天界とは、天上界ともいい、快楽に満ちた境界、喜びの生命状態をいう。観心本尊抄には「喜ぶは天」(0241-03)と述べられている。
 天界には二十八天があるとされ、日寛上人の三重秘伝抄に「天は即ち欲界の六天と色界の十八天無色界の四天となり」と述べられている。
 欲界とは、食欲・性欲の二欲に代表される種々の欲望が渦巻く世界のことで、そのなかの天界を六欲天という。色界とは、物質だけの世界で、欲望からは脱しているがいまだ色法に制約された境界で、十八天とされている。無色界とは、欲望と色法の制約を超越した純然たる精神の世界んことで、四空処があるとされている。
 本抄では、天界を欲界と色界・無色界に二分され、欲界の六欲天には十善戒を守った者が生まれ、色・無色界へは、境界の低い下地は麤・苦・障・と観じて嫌い、上地は静・妙・離であると観じて、次第に境界の高い上地へと進む座禅観法である六行観によって生じる、と述べられている。
 十善とは十戒ともいい、十悪を防止する戒律をいい、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貧欲・不瞋恚・不邪見の十である。十善を持つことによって六欲天に生れることができる、とされている。なお、王位のことを「十善の位」というが、過去世に十善戒を持った功徳によって、今世に帝王と生まれる、とされたことによる。
 六行観には、有漏智によって、諸の思惑を断ずる外道の修行法であり、それによって色・無色界に生じる、とされている。一大聖教大意に「三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業」(0400-13)と述べられている。

0430:12~0431:12 第十章 人間に種々の差別ある文証を挙げるtop

12   問うて云く六道の生因は是くの如し抑同時に五戒を持ちて人界の生を受くるに何ぞ生盲・聾.オンア・ギ陋.レン
13 ビャク.背傴・窮.多病.瞋恚等.無量の差別有りや、答えて云く大論に云く「若は衆生の眼を破り若は衆生の眼を屈り
14 若は正見の眼を破り罪福無しと言わん 是の人死して地獄に堕し罪畢つて人と為り生れて従り盲なり、若は復仏塔の
15 中の火珠及び諸の灯明を盗む・是くの如き等の 種種の先世の業・因縁をもて眼を失うなり○聾とは是れ 先世の因
16 縁・師父の教訓を受けず行ぜず 而も反つて瞋恚す是の罪を以ての故に聾となる、 復次に衆生の耳を截り若は衆生
17 の耳を破り若は仏塔.僧塔諸の善人・福田の中のケン椎.鈴・貝及び鼓を盗む故に此の罪を得るなり、先世に他の舌を
18 截り或は其の口を塞ぎ 或は悪薬を与えて語ることを得ざらしめ、 或は師の教・父母の教勅を聞き其の語を断つ○
0431
01 世に生れて人と為り 唖にして言うこと能わず ○先世に他の坐禅を破り坐禅の舎を破り諸の咒術を以て人を咒して
02 瞋らし闘諍し婬欲せしむ 今世に諸の結使厚重なること 婆羅門の其の稲田を失い 其の婦復死して即時に狂発し裸
03 形にして走りしが如くならん、 先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食及び父母所親の食を奪えば仏世に値うと雖も猶故飢
04 渇す罪の重きを以ての故なり、 ○先世に好んで鞭杖・拷掠・閉繋を行じ種種に悩すが故に今世の病を得るなり○先
05 世に他の身を破り 其の頭を截り其の手足を斬り種種の身分を破り 或は仏像を壊り仏像の鼻及び諸の賢聖の形像を
06 毀り或は父母の形像を破る是の罪を以ての故に 形を受くる多く具足せず、 復次に不善法の報・身を受くること醜
07 陋なり」文、 法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○若し人と為ることを得ては諸根闇鈍にして盲
08 ・聾・背傴ならん○卯口の気常に臭く鬼魅に著せられん貧窮下賎にして人に使われ多病瘠痩にして依怙する所無く○
09 若は他の叛逆し抄劫し竊盗せん是くの如き等の罪横に其の殃に羅らん」文。
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 問う。六道へ生まれる因はほぼ分かったが、同じように五戒を持って人界の生を受けながら、どうして生盲・聾・オンア・ギル・レンビャク・背傴・貧窮・多病・瞋恚等の無量の差別があるのか。
 答う。大論に「もし衆生の眼を破り、もし衆生の眼を挫り、もし正見の眼を破っても罪福がないという人は、この人は死んで地獄に堕ち、罪を畢えて人と生まれては、うまれながらの盲となる。もしまた仏塔の中の火珠および諸の灯明を盗むとも、種々の先世の業・因縁をもって眼を失うのである。○、聾とは、この先世の因縁は、師匠や父の教訓を受けず、行わないで、しかもかえって瞋恚する。この罪によって聾となる、また次に、衆生の耳を切り、もしくは耳を破り、もしくは仏塔や僧塔等、諸の善人にとっての福田の中の犍椎・鈴・貝および鼓を盗むことによって、この罪を受けるのである。先世に他人の舌を切り、あるいはその口を塞ぎ、あるいは悪薬を与えて語れなくさせる。あるいは師匠の教え、父母の教勅を聞いて、中途で遮る。○、世に生まれて人となるが、唖になって物を言うことができない。○、先世に他人の坐禅を破り、坐禅の舎を破り、諸の呪術をもって人を呪して瞋らせ、闘諍させ、婬欲させた者は、今世に諸の煩悩が強盛であって、ちょうどバラモンがその稲田を失い、また妻を亡くして即時に狂発し、裸のまま走り出したようになるであろう。先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食物および父母親族の食物を奪えば、仏の在世に生まれ値うことができたとしても、なお飢渇の苦を受けるのである。罪の重いためである。○、先世に好んで、鞭や杖で人を打ち、拷掠し、拘束したりして種々に悩ませるために、今世に病となるのである。先世に他人の身を傷つけ、その頭を切り、その手足を切り、種々に身体を傷つけ、あるいは仏像を壊し、鼻および諸の賢人・聖人の形像を毀し、あるいは父母の形像を壊す。この罪によって、不具の身となるのである。また次に不善の法を修行した報いは、醜い身体となるのである」とある。法華経には「もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、○、もし人と生まれることがあっても、諸根は諸根であり、盲目・聾・背傴となあるであろう。○、口の息は常に臭く、鬼魅にとりつかれるであろう。貧乏で賎にく、人に使われ、多くの病のために痩せて、頼るところもない。○、もしくは他人に反逆し、略奪し、竊盗する、このような罪のために不慮の災いにあうであろう」とある。
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10   又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て 其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の
11 人は現世に白癩の病を得ん若し之を軽笑すること有らん者は 当に世世に牙歯疎欠・醜き脣・平める鼻・手脚繚戻し
12 眼目角昧に身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文、
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 また法華経巻八勧発品第二十八に云「もしまた、この経典を受持する者をみて、その過失や悪を出したならば、たとえそれが事実であっても、事実でなくても、その人は現世で白癩の病を得るであろう。もしこれを軽笑する者は、まさにいつの世でも牙歯はすいて欠け、醜い唇、平らい鼻、手足はもつれて曲がり、眼目は眇となり、身体は臭く汚く、悪瘡ができて、膿や血がたまり、腹水病や短気などの諸の悪重病となるであろう」とある。

大論
 大智度論のこと。摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)に対する詳しい注釈書。竜樹作とされ、鳩摩羅什の漢訳がある。100巻。法華経などの諸大乗経に基づいて、大乗の菩薩思想や六波羅蜜行などの意義を解明しており、後のあらゆる大乗思想の展開の母胎となった。
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婆羅門
 バラモンのこと。古代インドの身分制度における最上位の階層。サンスクリットのブラーフマナの音写。もとは祭事を司る司祭者の家柄であるが、後の時代には他の職業に就く者も少なくなかった。日蓮大聖人の時代の日本には「婆羅門」は存在しないので、御書中の使用例によっては、社会的に尊貴とされた人々、貴族などをさすと思われるものもある。
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阿羅漢
 サンスクリットのアルハトの主格アルハンの音写で、羅漢と略す。応供と訳し、「尊敬・供養に値する人」を意味する。仏の別名の一つ。後に声聞の修行の階位の第4とされ、その最高の覚りの境地をさすようになった。
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辟支仏
 縁覚のこと。サンスクリットのプラティエーカブッダの訳。辟支仏と音写する。独覚とも訳す。①声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を目指す者のこと。声聞と合わせて二乗という。
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悪瘡
 悪性のできもの、はれもの。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。
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膿血
 膿と血がたまること。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。
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水腹
 腹部に濁水が充満する病気。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。
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短気
 息が詰まり、呼吸が困難になること。ゼンソク。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。
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 前章までに地獄界から天界までの六道に生れる因縁について述べられたが、ここでは同じ人間に生まれながら、なぜ、種々の肉体的、精神的な差別があるのかを、大智度論や法華経の文証を挙げて明かされている。
 初めに大智度論の文を引かれている。大智度論は、竜樹の造と伝えられ、摩訶般若波羅蜜経の注釈書であるが、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れており、後の一切の大乗思想の母胎となった書である。
 引用された大智度論の文は、仏法の因果の理法のうえから、いかなる過去の業が、いかなる報いを生ずるかを明かしたものである。
 人々の眼を破ったり、えぐったり、正法を持った正見の人の眼を誹謗して破っても罪にならないという者は、死んで地獄に堕ち、地獄の罪を終わって人と生まれても盲目となる、と説かれている。人の肉体の眼や、正法を持つ心の眼を破ったために自身の眼を失うのである、という因果が明かされている。
 また、仏塔の中の火焔型の珠や、種々の燈明を盗むなどの前世の因縁によって眼を失うのである。とも説かれている。仏に供える明かりを奪うという業因によって自身の眼の光明を失う、という因果が明かされているといえよう。
 耳がきこえないことの因縁は、前世に師や親の教訓を受けようとせず、聞いても行わず、かえって言われたことを怒ったり怨んだりすることによる、と説かれている。また、人の耳を切ったり、破ったり、仏塔や僧坊など善人が功徳を受ける場所で時を知らせる道具である鈴・貝・鼓を盗む者がこの罪にあたる、と説かれている。
 善言に耳を塞いだり、人の耳を害したり、寺院等で耳から時を知らせることを阻むなどの業因によって、聴力を失うという結果を招くとされている。
 前世に他人の舌を切ったり、口を塞いだり、毒を与えて口を聞けないようにしたり、師の教えや親の戒めを聞いて途中で遮る者は、今世に口をきくことができない、と説かれている。
 前世に、坐禅の修行者を妨げ、坐禅の道場を破ったり、呪術で人を祈り、怒らせたり争わせたり淫欲を起こさせた者は、今世に煩悩が深く厚く、ちょうどある婆羅門が持っていた田畑を失い、妻が死んで即時に発狂して、裸体で走り出したようなものである、と説かれている。
 前世で、仏や仏弟子、父母親戚の食物を奪った場合には、たとえ仏の在世に生れ合わせたとしても、飢えや渇きの苦しみを受け、前世に杖や鞭で人を拷問したり、監禁して苦しめた場合には、今世で病苦で悩む、と説かれている。人を飢えさせればやがて自分が飢え、人の肉体を苦しめれば未来に我が身が苦しむとされているのである。
 前世に、他人の身体を害し、頭を切ったり、手足を切ったり、人の身を傷つけた者や、また仏像を破壊したり、仏像の鼻や聖人・賢人の像や父母の肖像を壊した者は、その罪によって障害のある身となって生れる、と説かれている。更に、悪法を行じた報いとして、身体が醜く生れる、とある。悪法は正常な生命の法則に背くので、その報いが我が身体に出るといえる。以上が、大智度論からの引用である。
 次に、法華経の譬喩品第三と普賢菩薩勧発品第二十八の文が引かれている。
 譬喩品第三では「法華経を信ぜずに誹謗する者は…たとえ人に生れることができたとしても、眼・耳・鼻・舌・身の五根が完全でなく、目が見えず、耳が聞こえず、障害の有る身として生まれるだろう…口から吐く息が常に臭く、鬼神等に悩まされ、貧しく賤しい身となって人に使われ、多病で身体は痩せ細り、頼りにする所がなく…人からは背かれ、脅かされて、盗まれるだろう。このような誤った罪により、そうした災難にあうであろう」と説かれている。それらの不幸な状態は、すべて法華経を信ぜずに誹謗した結果である、と述べられている。
 また不賢菩薩勧発品第二十八では「法華経を受持する者を見て、その過去の過ちを言い出す者は、たとえそれが事実であっても、そうではなくても、その人は現世に癩病にかかるだろう。もしも軽蔑し笑う者は、いつの世でも歯が隙き欠け、唇は醜く、鼻は平らで、手や足は曲がって伸びず、眼はすがめになり、身体は臭く汚れ、悪いでき物や膿や血が溜まり、腹には水が溜まり、短気である、などのさまざまな重病にかかる」と説かれている。勧発品では、法華経を受持する者を見て、誹謗し軽んずる者は、我が身にその報いを受ける、という因果を明かしているのである。
 大智度論では、一般的な因果を説いており、それに対して法華経では、法華経および法華経信受の人を誹謗する、謗法の行為による因果が説かれているといえよう。
 佐渡御書に「高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり」(0960-02)と述べられているように、普通の因果よりも、法華経誹謗のほうが罪業が重く、したがって同種の苦報であっても、消滅することは容易ではないのである。

0431:12~0432:13 第11章 六道に生じ王となる因縁を明かすtop

12                                    問うて云く何なる業を修する者が六道
13 に生じて其の中の王と成るや、 答えて云く大乗の菩薩戒を持して之を破る者は色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四
14 輪王・禽獣王・閻魔王等と成るなり、 心地観経に云く「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔曾つて三の浄戒を持し戒
15 徳薫修して招き感ずる所 人天の妙果・王の身を獲中○品に菩薩戒を受持すれば 福徳自在の転輪王として心の所作
16 に随つて尽く皆成じ無量の人天悉く遵奉す、 下の上品に持すれば大鬼王として 一切の非人咸く率伏す戒品を受持
17 して欠犯すと雖も 戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得 下の中品に持すれば禽獣の王として一切の飛走皆帰
18 伏す清浄の戒に於て欠犯有るも戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得、 下の下品に持すればエン魔王として地
0432
01 獄の中に処して常に自在なり 禁戒を毀り悪道に生ずと雖も 戒の勝るるに由るが故に王と為る事を得○若し如来の
02 戒を受けざる事有れば終に野干の身をも得ること能わず 何に況んや能く人天の中の最勝の快楽を感じて 王位に居
03 せん」文、 安然和尚の広釈に云く「菩薩の大戒は持して法王と成り犯して世王と成る 而も戒の失せざること譬え
04 ば金銀を器と成すに用ゆるに貴く 器を破りて用いざるも 而も宝は失せざるが如し」亦云く「無量寿観に云く劫初
05 より已来 八万の王有つて其の父を殺害すと 此則ち菩薩戒を受けて国王と作ると雖も 今殺の戒を犯して皆地獄に
06 堕れども犯戒の力も王と作るなり」 大仏頂経に云く「発心の菩薩罪を犯せども 暫く天神地祇と作る」と、 大随
07 求に云く「天帝命尽きて忽ち驢の腹に入れども 随求の力に由つて還つて天上に生ず」と、尊勝に云く「善住天子・
08 死後七返畜生の身に堕すべきを 尊勝の力に由つて還つて天の報を得たり」と、 昔国王有り千車をもて水を運び仏
09 塔の焼くるを救う自らキョウ心を起して阿修羅王と作る、昔梁の武帝五百の袈裟を須弥山の五百の羅漢に施す、誌公
10 云く「往五百に施すに一りの衆を欠けり 罪を犯して暫く人王と作る即ち武帝是なり、 昔国王有つて民を治むるこ
11 と等からず今天王と作れども大鬼王と為る、 即ち東南西の三天王是なり拘留孫の末に菩薩と成りて 発誓し現に北
12 方毘沙門と作る是なり」云云、 此等の文を以て之を思うに小乗戒を持して破る者は 六道の民と作り大乗戒を破す
13 る者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり。
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 問うて言う。どのような業因をつくる者が六道に生まれてその中の王となるのか。
 答えて言う。大乗の菩薩戒を持って、これを破る者は、色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等となるのである。心地観経に「諸王が受けるところの諸の福楽は、かつて三の浄戒を持ち戒徳を積もって招き感ずるもので、人界天界の妙果として王の身をうけるのである。○、中品に菩薩戒を受持すれば、福徳が自在の転輪聖王として、心の思うままにすべてみな成就し、無量の人界・天界の衆生から尊ばれる。下の上品に菩薩戒を持つならば、大鬼王として一切の非人がすべて従うのである。これは戒品を受持して、後に破り犯したとしても、持った戒が勝れていたので王となることができたのである。下の中品の菩薩戒を持つならば、禽獣の王として、一切の鳥獣がみな帰伏するのである。清浄の戒において、後に破り犯すことがあっても、持った戒が勝れていたので王となることができたのである。下の下品に菩薩戒を持つならば閻魔王として、地獄の中にあって常に自在である。禁戒を破り、悪道に生まれたとしても、戒が勝れていたので王となることができたのである。○、もし如来の戒を受けないことがあれば、ついに野干の身をも得ることができない。まして人界・天界の中の最勝の快楽を感ずる王位につくことができようか」とある。安然和尚の広釈には「菩薩の大戒は、持った者は法王となり、犯した者は世王となる。持戒の功徳がなくならないことは、たとえば金銀をもって器とし、用いれば尊く、器が壊れて用いなくなっても、やはり宝の価値はなくならないようなものである」とある。また「無量寿観に『この世の初めから今までに八万の王がいて、その父を殺害した』とある。これは菩薩戒を受けて国王となったが。いま殺生の戒を犯してみな地獄に堕ちたけれども、戒を犯したの力でも王となるのである。大仏頂経には『菩薩心を発した菩薩は罪を犯しても、当分は天神地祇となる」とある。大随求陀羅尼経に『天の帝釈は、命が尽きて後忽ちに驢馬の腹に入ったが、随求陀羅尼の力によって、かえってまた天上界に生まれた』とある。尊勝陀羅尼経に『善住天子は、死後七返にわたり、畜生の身に堕ちるところを、尊勝陀羅尼の力によって、かえって天界に居られる報いを得たのである』とある。昔、国王がおり、千車をもって水を運び、仏塔の焼けるのを救ったが、自ら憍慢の心を起こしたために、阿修羅王となった。昔、梁の武帝は五百の袈裟を須弥山にいる五百人の羅漢に施した。誌公という者は『昔、五百人に施したが、一人の衆を欠かしてしまい、その罪を犯したことにより、しばらく人王となったのである。すなわち武帝である。昔、国王がいて、民を治めるのが平等でなかったので、今、天王となったけれども、大鬼王となった。すなわち東南西の三天王である。また拘留孫仏の末に菩薩となって誓願を発し、現在北方の毘沙門天王となっている』と言っている」とある。これらの文をもって思うには、小乗戒を持って、それを破る者は六道の民となり、大乗戒を持ち、それを破る者は六道の王となり、持ち続けた者は仏となるのである。

色界の梵王
 大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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欲界の魔王
 第六天の魔王のこと。欲界の第六天にいる他化自在天で、欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。
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帝釈
 帝釈天のこと。帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。▷
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四輪王
 転輪聖王のこと。インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
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禽獣王
 鳥や獣等、禽獣類の王のこと。
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閻魔王
 閻魔はサンスクリットのヤマの音写で、炎魔・燗魔などとも書く。もとは古代インドの伝説において死者の世界を統べる王である神。閻魔はインド神話の思想を反映しながら仏法に取り入れられ、やがて中国の思想と結びついて十王思想が形成された。もともと天界の神で、欲天の第3である夜摩天に住むとされる。しかし、餓鬼界・地獄界の主とされ、死んで地獄に堕ちた人間の生前の善悪を審判・懲罰して、不善を防止するとされるようになった。
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心地観経
 大乗本生心地観経の略。中国・唐の般若訳。8巻。四恩(父母の恩、一切衆生の恩、国主の恩、三宝の恩)を説く経典として有名。なお、「開目抄」で本経の文として引用されている「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(231㌻)という内容の文は、現在までに伝わる心地観経にはない。しかし、その文は道世の『諸経要集』巻14にも見られ、そこでは経典名を明かさず「経に曰く」とあるだけである。それ故、日寛上人は『開目抄愚記』で、「古来相伝して『心地観経』というなり」(文段集202㌻)と注記している。ちなみに、その『諸経要集』巻14には「不施劫盗中来。故経曰。欲知過去因。当看現在果。欲知未来果」と記されている。
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安然和尚
 (0841~0915)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
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法王
 仏を王の位において表現する言。
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世王
 世俗の王、国王。
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無量寿観
 観無量寿経のこと。中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
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大仏頂経
 10巻。中国唐代の般刺蜜帝訳。正しくは大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経といい、略して首楞厳経・大仏頂経という。摩登迦女の呪力に害されている阿難を仏が神通力で救うことから始まり、禅定の力と白傘蓋陀羅尼の功徳力を説いている。このほか首楞厳経は鳩摩羅什訳の首楞厳三昧経の略をいうが、この二つは別のものである。
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天神地祇
 天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
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大随求
 普遍光明清浄熾盛如意宝印心無能勝大明王大随求陀羅尼経のこと。中国・唐代の不空訳。九種の陀羅尼が説かれ、その聴聞・受持・読誦の功徳などが明かされている。なかでも最初の陀羅尼は大随求陀羅尼と呼ばれ、これを受持・読誦すれば無量の功徳があるとしている。
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尊勝
 尊勝陀羅尼経のこと。尊勝仏頂の功徳を説いた陀羅尼のこと。善住天子の畜生界に生まれる業因をあわれんだ釈尊がこの陀羅尼の功徳を説き、誦して天上界に生じさせたとある。そして、この陀羅尼を誦することによって一切の罪業が除かれ、解脱ができると説かれている。除災・延命の陀羅尼とされている。
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善住天子
 三十三天の善法堂天に住む天子。尊勝陀羅尼経によれば善住天子は日々、もろもろの天女と快楽にふけっていたが、ある夜、天から声があり、善住は7日のうちに命終し、7回畜生の身を受けた後、地獄に堕ちると言われた。善住は恐れて帝釈天にこのことを伝えた。帝釈天は善住を哀れみ、これを救うのは釈尊以外にないと考え、祇園精舎に行って釈尊に滅罪の法を尋ねたところ、釈尊は善住のみでなく、一切衆生のために仏頂尊勝陀羅尼を説いて、天上に生じさせたという。
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阿修羅王
 阿修羅はアスラ(asura)の音写阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
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梁の武帝
 中国南北朝時代の梁の帝王。仏法の帰依が厚かった。その願いは提婆達多は地獄におちても最後は成仏したが、欝頭羅弗は天界に生じたが、のちに仏法にそむきて地獄におちた。だから、自分は提婆となって地獄へおちても、欝頭羅弗となることあしない、ということだった。
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須弥山
 須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。
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誌公
  宝誌のこと。(0418~0514)。中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。
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拘留孫
 過去七仏の第四仏。賢劫の時に出現する千仏の第一仏。
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毘沙門
 毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
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小乗戒
 小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師に現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
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六道
 十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界。古代インドの世界観で、衆生が生存する6種の領域をいう。凡夫は迷いに満ちたこの六道で生死を繰り返すとされる。これを六道輪廻という。輪廻からの脱却を解脱といい、これは古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。仏教では、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えでは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。そして、むしろ仏道を学び修行することによってこそ解脱できると説かれる。六道のうち地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道といい、これに対し修羅・人・天を三善道という。また、三悪道に修羅を加えて四悪趣という。修羅を除いて五趣という。
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大乗戒
 大乗の菩薩が受持すべき戒。三聚浄戒・十重禁戒・四十八軽戒などがある。精進して衆生のために尽くす利他の実践修行を勧めるものが主となっている。
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 六道のなかの王となる業因を明かされている。
 初めに、いかなる業を修した者が六道に生れて王になるのかとの問いを設け、大乗の菩薩戒を持って、後に破った者が、色界の梵王や、欲界の魔王・帝釈天王・転輪聖王・禽獣の王・閻魔王となるのである、と答えられている。すなわち、大乗の菩薩戒を持つ功徳が大きいため、一度持って、後に破ったとしても、最初持った功徳によって、天界・人界・畜生界・地獄界の六道に生れてその王となることができえる、というのである。
 なお、大乗の菩薩界とは、大乗の菩薩が受持すべき戒のことで、十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒等をさす。小乗の戒が具体的な禁止事項であるのに対して、大乗の菩薩戒は精進して利他の実践に励むよう勧めるものが主となっている。したがって、菩薩戒を持つとは、利他の実践に励むという意味ともなる。
 次に、心地観経の文が挙げられて、諸の王が受ける福徳や楽しみは、過去に摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の三聚浄戒を持った戒徳によって招いた人界・天界の果報により王の身を得たのである、とされている。
 更に、中程度の菩薩戒を受持すれば、福徳自在の天輪聖王となって、すべてが思うままになり、多くの人界・天界の衆生が従い守る、とされている。文中「中品」「下の上品」等と言われているのは、機根を分類したもので、菩薩戒の持ち方を分けられている。また、下の上品に菩薩戒を持てば、鬼神の王となって、人でない衆生である天・竜・夜叉などがすべて従い伏すという。これは、戒律を受持して、後にそれを破り犯したけれども、戒の功徳が勝っていたために王となることができたのである、とされている。天輪生王とは、武力を用いずに正法をもって全世界を統治するとされる理想の王をいう。鬼神の王とは、目に見えない超人的な働きを持つ夜叉や羅刹の王をさす。
 下の中品に戒を受持すれば、鳥や獣の王となって、一切の空を飛ぶ鳥や地上を走る獣が帰伏するのであり、これも清浄の戒を破ったが、戒が勝れていたために王となることができたのである、とされている。
 下の下品に戒を持って、閻魔王として地獄の中にあって自在の王となったのは、禁戒を破って悪道に生まれたけれども、戒の功徳が勝っているために王となれたのである、とされている。閻魔王とは、衆生の罪を監視し、悪を退治し、罪の恐ろしさを教える死後の世界の王とされたが、そこから転じて、地獄界の主として、地獄に堕ちた人間の生前の善悪を審判し、懲罰するとされるようになった。
 そして、もし、仏から戒を受けることがなければ、とうてい狐の身を受けることもできず、まして、人間や天界に生れて最勝の快楽を感じられる王位に居ることができようか、といわれている。
 そのように、六界の各界の王位は、いずれも大乗の菩薩戒を持ち、利他の実践をしたのであり、後にその戒を破ったために仏にはなれなかったが、実践の功徳の異なりによって、六道のそれぞれの王となったのである、と説かれている。
 更に平安中期の天台宗の学僧・安然が、菩薩戒の授戒の儀式を解釈した広釈の文を引かれている。それによると、菩薩戒を持つ者は法王となり、破った者は世間の王となる。しかも、一度受けた戒の功徳が失われないことは、たとえば金や銀で作られた器を用いれば貴重であり、それが壊れて器の用をしなくなったとしても、やはり宝であることに変わりはないようなものである、とされている。
 また、観無量寿経の「劫初より已来八万の王有って其の父を殺害す」との文を引いて、これは菩薩戒をうけたために世の国王となり、父を殺すという殺生戒を犯して地獄に堕ちたが、破った菩薩戒の力でも王となるのである、と述べられている。
 次に大仏頂経の、菩提心を起こした菩薩は、罪を犯したとしても、暫くは天地の神となるのである、との文を引かれている。また、随求陀羅尼経の、天の帝釈の寿命が尽きて、驢馬の腹に宿ったけれども、随求陀羅尼の力によって天界にうまれることができた、との文を引かれている。随求陀羅尼とは、衆生の願いに随ってすべてを成就させる陀羅尼の意で、随求陀羅尼経に説かれる。この陀羅尼を受持し読誦すれば無量の功徳があると信じられ、古くからインド・中国・日本で尊重されている。
 また、尊勝陀羅尼経の、善住天子は、死後、七回は畜生の身に堕ちて生まれるべきところを、尊勝陀羅尼の力によって天界の報いを得ることができた、との文を引かれている。尊勝陀羅尼経には、三十三天の善法堂天に住む善住天子が日夜歓楽に耽っていたところ、天からの声で、七日後に死んで七回畜生の身を受けた後、地獄に堕ちるといわれ、帝釈天にそのことを伝えた。帝釈が哀れんで釈尊に滅罪の法を尋ねたところ、釈尊は善住天子だけではなく、一切衆生のために仏頂尊勝陀羅尼を説いて、天界に生れさせた、と説かれている。
 この二例は、大乗の法を受持した功徳によって、畜生界や地獄界に堕ちることを免れ、天界に生じることができたとされているのであろう。
 また、昔、一人の王が、一千台の車で水を運ばせ、仏塔が焼けるのを防いだが、それで憍慢となったために阿修羅王となったとある。更に、梁の武帝は、過去に五百の袈裟を五百人の阿羅漢に布施をしたとされる。誌公は「過去世に五百の阿羅漢に袈裟を布施したが、一人分足りなかった。しかし、その功徳 で、罪を犯したけれども王に生れた。それが武帝である。過去世の国王で、民を治めるのに平等でなかったために、今世で大鬼王となった。それが東南西の世界を護る持国・増長・広目の三天王である。また、拘留孫仏の末に菩薩となって誓願を立てたのが、北方を護る毘沙門天である」と述べた、とされている。
 こうした文から考えられることは、小乗の戒を持って、後にそれを破った者は六道の民と生まれ、大乗の戒を持って後に破った者は六道の王となり、大乗の戒を持ち通した者は仏となる、ということである、と結論されている。

0432:14~0433:06 第12章 声聞界の因縁を明かすtop

14   第七に声聞道とは 此の界の因果をば阿含・小乗・十二年の経に分明に之を明せり、諸大乗経に於ても大に対せ
15 んが為に亦之をば明せり、声聞に於て四種有り一には優婆塞・俗男なり五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し自
16 調自度の心強くして 敢て化他の意無く 見思を断尽して阿羅漢と成る此くの如くする時・自然に髪を剃るに自ら落
17 つ、二には優婆夷.俗女なり五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し.三には比丘僧なり二百五十戒具足戒なり
18 を持して苦・空・無常・無我の観を修し見思を断じて阿羅漢と成る此くの如くするの時・髪を剃らざれども生ぜず、
0433
01 四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、 一代諸経に列座せる舎利弗目連等の如き 声聞是なり永く六道に生
02 ぜず亦仏菩薩とも成らず 灰身滅智し決定して仏に成らざるなり、 小乗戒の手本たる尽形寿の戒は一度依身を壊れ
03 ば永く戒の功徳無し、 上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば 人天に生じて民と為る之を破れば三悪道に堕し
04 て罪人と成るなり、 安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生して 果を感じ業尽きて悪に堕す譬えば楊葉の秋
05 至れば金に似れども 秋去れば地に落つるが如し、 二乗の小戒は持する時は果拙く破る時は永く捨つ譬えば瓦器の
06 完くして用うるに卑しく若し破れば永く失するが如し」文。
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 第七に声聞道とは、この界の因果については、十二年間に説かれた阿含経という小乗経に詳しく明かされている。諸大乗経においても、大乗と比較するためにまた明かされている。声聞においては四種がある。一には優婆塞で、在俗の男である。五戒を持って、苦・空・無常・無我の観念を修め、自調自度の心が強くて敢えて化他の意がなく、見思惑を断じ尽くして阿羅漢となる。このようにする時、髪を剃るのに自然と自ら落ちるのである。二には、優婆夷で在俗の女である。五戒を持って、髪を剃るのに自ら落ちることは、在欲男と同じである。三には比丘で、僧である。二百五十戒を持って苦・空・無常・無我の観念を修め、見思惑を断じて阿羅漢となる。このようにする時、髪を剃らなくても生えてこない。四には比丘尼である。五百戒を持つのである。あとは比丘と同じである。一代諸経の会座に列なった舎利弗や目連等のような声聞がこれである。永く六道に生まれず、また仏や菩薩ともならない。灰身滅智して、必ず決まって仏にはならないのである。小乗戒の手本である尽形寿の戒は、一度身体が滅べば、永く戒の功徳はなくなるのである。上品を持つならば二乗となり、中品下品を持つならば人界・天界に生まれて民となり、これを破れば三悪道に堕ちて罪人となるのである。安然和尚の広釈に「三善道は世間の戒である。因によって生まれて果を感じ、業が尽きて悪道に堕ちる。たとえばす楊の葉は、秋が来れば金に似ているけれども、秋が去れば地に落ちるようなものである。二乗の小乗戒は、持つときはす果は拙く、破るときは永く功徳はなくなってしまう。たとえば瓦の器は、完全であっても用いるのに卑しく、もし壊れれば永久に役に立たないようなものである」とある。

声聞道
 声聞界のこと。声聞の世界。声聞が到達する部分的な覚りの境涯。声聞はサンスクリットのシュラーヴァカの訳で、仏の声を聞く者との意。仏の教えを聞いて、六道輪廻する因となる煩悩を断滅して、死後は二度と生まれて来ないことを目指す。大乗の立場からは、これを「灰身滅智」とし、成仏できないと批判した。また四土の説では、声聞の修行の4段階(須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢)のうち、最初の三つの声聞は煩悩を十分に断じていないので凡聖同居土に生まれるとされるが、声聞の最高位である阿羅漢や縁覚のように方便の教えを修行して煩悩の一部を断じた小乗の聖者は、方便有余土に生まれるとされる。「観心本尊抄」には「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる声聞界と縁覚界の二乗は、無常という仏教の覚りの一分を覚知することにうかがえると示されている。これに基づき生命論では、自分と世界を客観視し、現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていく境涯とする。
―――
阿含
 阿含経のこと。阿含はサンスクリットのアーガマの音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部(ニカーヤ)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。
―――
優婆塞
 ウパーサカの音写。仏教を信ずる在家の男性のこと。近事男、清信士などと訳す。また居士と訳される場合もある。四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の一つ。
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苦・空・無常・無我
 仏教の最も基本的な四つの法理。①一切皆苦(迷いの境涯の中ではすべて苦しみである)②一切皆空(あらゆるものに固定的な実体はない)③諸行無常(生成したあらゆるものは永遠ではなく移り変わっていく)④諸法無我(あらゆる事物事象には固定的な実体がない)。
―――
自調自度
 自分だけが煩悩を調え、自分だけが悟りを得るという意味で、二乗は菩薩のごとく衆生を救わんとする弘願がないことをいう。
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化他
 他の人を教化すること。自ら実践する自行に対する語。仏道修行の両輪の一つ。
―――
見思
 三惑のひとつ。見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。
―――
優婆夷
 サンスクリットのウパーシカーの音写。仏教を信ずる在家の女性のこと。近事女、清信女などと訳す。四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の一つ。
―――
二百五十戒
 男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
―――
具足戒
 小乗戒のなかの比丘が守るべき二百五十戒・比丘尼が守るべき五百戒等をいう。
―――
比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
―――
五百戒
 比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
―――
舎利弗
 サンスクリットのシャーリプトラの音写。身子、鵞鷺子などと訳す。釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一とされる。法華経譬喩品第3では、未来に華光如来に成ると釈尊から保証された。声聞の代表。【釈尊への帰依】釈尊の弟子となる前、舎利弗は目連(マウドゥガリヤーヤナ)とともに外道のサンジャヤに師事していたが、釈尊の弟子アッサジに出会い、そこで聞いた釈尊の教えに感銘を受け、釈尊に帰依した。その際、サンジャヤの弟子250人も、ともに釈尊に帰依したと伝えられる。乞眼の婆羅門。【釈尊からの𠮟責】『止観輔行伝弘決』巻2には『十誦律』をふまえて、次のような話が記されている。ある在家の有力信徒から釈尊の弟子たちが食事の供養を受けた時、舎利弗ら長老などがおいしいものをたっぷり食べ、初心者たちは不十分な食事しかできなかった。これを羅睺羅(ラーフラ)から聞いた釈尊は、舎利弗に対して不浄な食事をしたと叱責した。舎利弗は食べた物を吐き出し、今後二度と食事の供養を受けないと誓った。日蓮大聖人は「開目抄」(205㌻)で、この話を、法華経が説かれる以前には二乗が不成仏として糾弾されてきたことの傍証とされている。
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目連
 サンスクリットのマウドゥガリヤーヤナの音写。目犍連ともいう。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、神通(超常的な力)第一とされる。法華経授記品第6で、目連は未来に多摩羅跋栴檀香如来に成ると釈尊から保証された(法華経269㌻)。【竹杖外道に殺される】『毘奈耶雑事』巻18によると、目連は舎利弗とともに王舎城(ラージャグリハ)を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。【盂蘭盆経の目連】盂蘭盆経によると、目連は亡き母・青提女が物惜しみの罪で餓鬼道に苦しんでいるのを神通力によって知り、母を助けようとするが力及ばず、仏の教えに従って供養したことで、ようやく救うことができたという。これが盂蘭盆会の起源の一つとされる。
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灰身滅智
 身を焼いて灰にし、心の智慧を滅失すること。小乗の教えでは、煩悩を断じ尽くして心身を無に帰することによって、二乗の最高の果位で理想の境地である無余涅槃に入るとされたが、大乗は、それでは心身ともに滅失してしまい、成仏が得られないと批判した。
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尽形寿の戒
 小乗教の戒体が、一生の寿命を終えるとともに失われること。尽形寿は肉体・寿命の尽きること、一生涯をいう。
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依身
 肉体・体。心識の依処となる肉体。
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二乗
 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。
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人天
 人界と天界のこと、またその衆生。
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三善
 三善道のこと。三善趣ともいう。六道のなかの修羅・人・天の三趣のこと。三悪道に対する語。悪は苦悩をさし、善は楽しみ、幸せを意味する。自身の業因によって趣く所のゆえに〝趣〟という。修羅は善悪両方に通ずる。
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 声聞界の因縁が明かされている。
 声聞とは、声を聞く者の意で、仏の声教を聞いて開悟する弟子をいう。四諦の法門について、四沙門の悟りを得て、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする人をさしている。
 声聞界の因果については、釈尊が12年間に説いた阿含部の小乗経にとかれている。阿含部の経は、阿羅漢果を求める衆生に対して、四諦・十二因縁の理を説いており、自己の解説のみを目的とする声聞・縁覚の道を明かしている。
 また、大乗経にも、小乗と比較するために声聞について説かれている場合もある。
 声聞にも優婆塞・優婆夷・比丘・比丘尼の四種があるとされている。本来、声聞とは、声を聞く者の意で、仏の声教を聞いて悟る出家の弟子をいう。ここでは在家の優婆塞・優婆夷で声聞の悟りを求める者も含められているが、最後には髪を剃るとあるので、総じては出家の弟子といえるであろう。
 優婆塞とは、在家の男子で、三宝を信じ、仏道に励む者をいう。小乗教の優婆塞は在家の持つべき五種の戒を持ち、一切の現象を苦・空・無常・無我と観じ、自らの振る舞いを調えて自己の悟りのみを得ようとする心が強くて、他を教化・化導しようとする心が全くなく、見惑・思惑の煩悩を断じ尽くすことにより小乗の最高の悟りの境地である阿羅漢になる、とされている。そのときには髪を剃ろうとすると髪は自然に落ちてしまうという。
 優婆夷とは、在家の女性をいい、ここでは五戒を持って修行し、声聞の悟りを得て髪を剃ると自然に落ちることは優婆夷と同じである、とされている。
 比丘とは僧の意で、出家して具足戒を受けた男子をいう。小乗の比丘は、二百五十戒を持ち一切の現象を苦・空・無常・無我と観じ、見惑・思惑を断じて阿羅漢となる、とされている。そのときには、髪を剃らなくても生えることはないという。
 比丘尼とは、出家して具足戒を受けた女性のことで、尼ともいう。小乗の比丘尼が持つべき戒は五百戒と定められ、その他は比丘と同じであるとされている。
 具体的にいえば、釈尊が一代の諸経に出てくる、舎利弗や目連などの弟子たちが声聞界である。
 声聞の極意である阿羅漢果は、煩悩をすべて断じ尽くした無余涅槃という境地であり、煩悩の拠りどころとなる肉体も、苦しみの果も、余すところなく無くなった状態をさし、灰身滅智ともいう。そのために、再び六道に生れることはなく、また仏や菩薩に成ることもできない。それは、色身を焼いて灰とし、心智を滅するので、絶対に成仏できないのである。
 一代聖教大意には「阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり」(0392-18)と述べられている。
 次に、小乗教の尽形寿戒を挙げられ、小乗戒の功徳は一生の寿命が終わるとともに失せることが示されている。
 そして、上品の戒を持つ者は声聞・縁覚の二乗となり、中品・下品の戒を持てば人界・天界に生れて民となり、戒を破った者は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて罪人となる、とされている。また安然の広釈の「修羅・人・天の三善道は、世俗の者が五戒や十善戒を持った結果であり、戒を持った因業によってそれぞれの果報を感じて生れるが、その功徳が尽きてしまえば悪道に堕ちることは、たとえば柳の葉は秋がくれば金に似ているが、秋が去れば地に落ちるようなものである。二乗の持つ小乗の戒律は、持ってもその功徳は拙い証果であり、破れば戒の徳はなくなってしまう。たとえば、瓦の器は、完全であっても使ってあまり価値がなく、壊れてしまえば何の価値もないようなものである」との文を引かれている。
 小乗の戒律を持ち、煩悩を断じ尽くす修業をやり通したとしても、その証果は阿羅漢果にすぎず、成仏できないばかりか、一生のうちにその功徳は失われる。はかないものなのである。
 なお、一代聖教大意には「三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり、此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり」(0390-11)と述べられている。

0433;07~0433:09 第13章 縁覚界の因縁を明かすtop

07   第八に縁覚道とは二有り 一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じ
08 て永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断
09 じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。
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 第八に縁覚道とは、二つある。一には部行独覚であり、仏の在世にあって、声聞と同じように小乗の法を習い、小乗の戒を持ち、見思惑を断じて永不成仏の者となるのである。二には鱗喩独覚であり、無仏の世にあって、飛花落葉を見て、苦・空・無常・無我の理を観念し、見思惑を断じて永不成仏の身となるのである。戒もまた声聞とおなじである。この声聞と縁覚を二乗というのである。

縁覚道
 縁覚界のこと。縁覚の世界。縁覚が到達する部分的な覚りの境涯。縁覚は、六道輪廻する因となる煩悩を断滅して、死後は二度と生まれて来ないことを目指す。大乗の立場からは、これは「灰身滅智」とされ、成仏できないと批判された。また四土の説では、声聞の阿羅漢や縁覚のように、方便の教えを修行して煩悩の一部を断じた小乗の聖者は、方便有余土に生まれるとされる。「観心本尊抄」には「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(241㌻)とあり、われわれ人界にそなわる声聞界と縁覚界の二乗は、無常という仏教の覚りの一分を覚知することにうかがえると示されている。これに基づき生命論では、縁覚界は、自分と世界を客観視し、現実世界にあるものはすべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていく境涯とされる。
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部行独覚
 声聞の時に第三果を得たひとのうち、仏の教えを離れて独りで第四果を悟るもののこと。
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鱗喩独覚
 無仏の世に自然の現象を見て苦・空・無常・無我を感じ、見思惑を断ずる者のこと。独覚のひとつ。鱗喩喩独覚ともいう。
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 縁覚界の因縁が明かされている
 縁覚とは、事象を縁として自ら悟り、自利を求め、利他の心がない者をいう。三界六道の迷いの因果を分けた十二因縁を観じ、迷いを断って法理を悟り、あるいは飛花落葉などの外縁によって悟るので独覚ともいう。
 縁覚には、部行独覚と鱗喩独覚の二種がある、とされている。部行独覚とは、声聞の修行によって第三果を得た者のうち、仏の教えを離れて独りで第四果を悟るものをいい、独勝ともいう。部行とは、その部類がともに修業することをさす。
 ここでは、仏の在世に、その部類が寄り合って、声聞と同じように小乗の法を習い、小乗の戒を持って、見惑・思惑を断じ、阿羅漢果を得て永く成仏できなくなった者をいう、とされている。
 鱗喩独覚とは、鱗角独覚とも書き、鱗角喩独覚ともいって、麒麟の角が一本であるように、独りで修業し、独りで悟るところからこう呼ばれる。無仏の世で、自然の現象を見て、苦・空・無常・無我を観じ、見惑・思惑を断ずる者をいう。
 ここでは、無仏の世で、飛花落葉などの自然現象を見て、苦・空・無常・無我の理を観じて、見惑・思惑を断じ、阿羅漢果を得て、永く成仏できなくなった者をいう、とされている。
 大聖人は、「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(0241-12)と仰せになっており、人が世間の現象に無常を観ずる働きを具えていることが、二乗を具している証拠である、とされている。

0433:10~0433:18 第14章 菩薩界の因縁を明かすtop

10   第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て 自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念
11 う者有り、 仏此の人の為に 諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、 此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒
12 所謂八万四千の法門を習い尽さんと願す、 二には饒益有情戒・一切衆生を度しての後に 自ら成仏せんと欲する是
13 なり、三には摂律儀戒 一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、 華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子
14 に告げて言く 十重の波羅提木叉有り若し菩薩戒を受けて 此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず我も亦
15 是くの如く誦す 一切の菩薩は已に学し一切の菩薩は当に学し一切の菩薩は今学す」文、 菩薩と言うは二乗を除い
16 て一切の有情なり、 小乗の如きは戒に随つて異るなり、 菩薩戒は爾らず一切の有心に必ず十重禁等を授く一戒を
17 持するを一分の菩薩と云い 具に十分を受くるを具足の菩薩と名く、 故に瓔珞経に云く「一分の戒を受くること有
18 れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。
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 第九に菩薩界とは、六道の凡夫のなかにおいて、自身を軽んじ、他人を重んじ、悪をもって己に向け、善をもって他に与えようと思う者がある。仏はこの人のために、もろもろの大乗経において菩薩戒を説かれたのである。この菩薩戒において三つある。一には摂善法戒である。いわゆる八万四千の法門を習い尽くそうと願うのである。二には饒益有情戒である。一切衆生を救済して後に、自らも成仏しようと願うのである。三には摂律儀戒である。一切の諸戒をことごとく持とうと願うのである。華厳経の心を分かりやすく説かれた梵網経に「仏がもろもろの仏子に告げて言うには、十重の禁戒がある。もし菩薩戒を受けて、この戒を誦えない者は菩薩ではなく仏の種子ではない。自分も同じように誦えたのである。一切の菩薩はすでに学び、一切の菩薩はいま学んでいる」とある。菩薩というのは二乗を除いた一切の有情のことである。小乗戒は、戒にしたがって異なりがあるが、菩薩戒はそうではない。一切の有情の心に必ず十重禁等を授けるのである。一戒を持つのを一分の菩薩といい、漏れなく戒を受けるの具足の菩薩と名づけるのである。ゆえに瓔珞経に「一分の戒を受けるならば一分の菩薩と名づけ、ないし二分・三分・四分・十分であるのを具足の受戒という」とある。

菩薩界
 菩薩の世界。菩薩が得る部分的な覚りの境涯。菩薩はサンスクリットのボーディサットヴァの訳で、「仏の覚りを得ようと不断の努力をする衆生」の意。もとは釈尊の過去世の修行時代の姿をさし、さらに釈尊と同様に成仏の道を歩む者も菩薩といわれるようになった。仏の無上の覚りを求めていく「求道」とともに、衆生を救おうという慈悲を起こして救済の誓願を立て、自らが仏道修行の途上で得た利益を他者に対しても分かち与えていく「利他」を実践する(上求菩提・下化衆生)という、自行・化他の修行をする。一切の菩薩は初発心の時に①衆生無辺誓願度(一切衆生を覚りの彼岸に渡すことを誓う)②煩悩無量誓願断(一切の煩悩を断とうと誓う)③法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ろうと誓う)④仏道無上誓願成(仏道において無上の覚りに至ろうと誓う)の四弘誓願を起こして、菩薩としての在り方(菩薩道)および修行(菩薩行)の目的と方向を明らかにする。そして、四弘誓願に従って菩薩戒を持ち、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)などの修行を積んで仏果を体得する。別教では初発心から解脱までを五十二位などに分類して菩薩の階位を定めている。煩悩のうち見思惑を断じたが、塵沙・無明の二惑を断じていない菩薩は方便有余土に住み、別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩は、実報無障礙土に住むとされる。爾前の諸経では、このような長期間にわたる各段階の修行(歴劫修行)が必要とされたが、法華経に至って即身成仏が明かされた。「観心本尊抄」には「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(241㌻)とあり、他人を顧みることのない悪人でさえ自分の妻子を慈愛するように、人界の生命には本来、菩薩界がそなわっていて、それは他者を慈しむ心にうかがえると示されている。生命論では慈悲を生き方の根本とし、「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯とする。
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菩薩戒
 大乗戒ともいう。大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律である。このうち、日本において菩薩戒の代表とされる大乗『梵網経』に基づく「梵網戒」は、下述するように、南都六宗以来、大きな論争の的になってきたものであり、その後の日本の仏教史の変遷にも極めて大きな影響を与えている。
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摂善法戒
 三聚浄戒のひとつ。一切の善法を修することを戒とするもの。
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饒益有情戒
 三聚浄戒のひとつ。一切の衆生を愛護し,利益を与えようとすること。
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摂律儀戒
 三聚浄戒のひとつ。五戒,八戒,十戒,具足戒などの一切の戒律を受持するという戒律。
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十重の波羅提木
 十重禁戒のこと。出家の受持すべき戒律。
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十重禁
 十重禁戒のこと。梵網経に説かれる大乗戒のうち10種の重大な戒律。十重の罪を禁じ戒めるもの。十重禁、十波羅夷、十波羅提木叉ともいう。①不殺戒(生きものを殺すことを禁じた戒)②不盗戒(人の財物を盗むことを禁じた戒)③不淫戒(淫事を行うことを禁じた戒)④不妄語戒(人にうそをついて邪見を起こさせることを禁じた戒)⑤不酤酒戒(人に酒を売って顛倒の心を起こさせることを禁じた戒)⑥不説四衆過罪戒(出家・在家の菩薩や比丘・比丘尼の罪過を説くことを禁じた戒)⑦不自讃毀他戒(自分のことを褒め他人を謗ることを禁じた戒)⑧不慳惜加毀戒(物惜しみをして布施をせず人を罵ることを禁じた戒)⑨不瞋心不受悔戒(怒りの心をもち人が謝っても受け入れようとしないことを禁じた戒)⑩不謗三宝戒(仏法僧の三宝を謗ることを禁じた戒)。梵網経には、大乗の菩薩がこれらの戒を犯すと、修行で得た一切の菩薩の位を失い三悪道に堕ちると説かれている。
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瓔珞経
 『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
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 菩薩界の因縁が明かされている。菩薩とは、菩提薩埵の略で、無上菩提を求める人をいう。利他を根本とした大乗の衆生をさす。大聖人は観心本尊抄で「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(0241-12)と仰せになり、菩薩の特徴は利他であり慈愛であること、しかも誰人の生命にも、本来そなわっていることを明かされている。本抄では、六道の凡夫のなかにおいて、自分自身を軽んじて他人を大切にし、悪すなわち苦しみは自分が引き受け、善すなわち楽しみは他人に与えようとする境界の者をいう、とされている。そのように、菩薩界の本質は、利他であり、もろもろの有情を救うために尽くすところにある。
 釈尊は権大乗経で、大乗の菩薩戒として、摂善法戒・饒益有情戒・摂律儀戒の三つを説いている。これを、三聚浄戒ともいう。
 摂善法戒とは、「所謂八万四千の法門を習い尽さんと願す」と仰せのように、自分のために一切の善法を修する戒をいう。饒益有情戒とは、「一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり」と仰せのように、一切衆生に利益を与えていく戒をいう。摂律儀戒とは、「一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり」と仰せのように、二百五十戒等の小乗戒、十重・四十八軽戒の大乗戒の一切の戒を摂めそなえていることをいう。一代聖教大意には「菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒とは四弘誓願なり」(0394-10)と述べられている。
 なお、四弘誓願とは、菩薩が初発心の時に立てる四種の誓願のことで、一切衆生をすべて悟りの彼岸に渡すと誓い、一切の煩悩を断つと誓い、仏の教えをすべて学び取ると誓い、仏道において無上の悟りを得ると誓うこと、とされている。
 次に、華厳経の結経とされる鳩摩羅什訳の梵網経盧遮那仏説菩提心地戒品第十にある文が引かれている。
 すなわち「仏は『十重の波羅提木叉すなわち十重禁戒、不殺戒・不盗戒・不淫戒・不妄語戒・不酤酒戒・ 不説過罪戒・不自讚毀他戒・不自讃毀他戒・不瞋戒・不謗三宝戒を受けてこの戒を誦し持たない者は、菩薩でもなく、仏の種子ではない。また、我もこれを持つのであり、一切の菩薩は、過去にも、未来にも、現在にも学ぶのである』と説かれたという文である。
 十重禁戒は、大乗の菩薩の五十八戒のなかで重大な禁戒であり、他に、軽罪を犯すことを戒めた四十八軽戒というのがある。
 そして、菩薩というのは、「二乗を除いた」一切の有情である、とされている。有情とは、感情や意識をもつすべての生類の総称で、衆生ともいう。九界の衆生のうち、声聞・縁覚の二乗を除いた一切の衆生であるとされているのは、その本質は等しく成仏を願い求めているという点からすれば菩提薩埵・無上菩提を求めるものにあたる、という意味であろう。
 小乗では、さまざまな戒が説かれ、それによって人界や天界など異なっているが、菩薩戒はそうではなく、一切衆生に必ず十重禁戒を授けるのであり、一戒を持つのを一分の菩薩といい、全部を持つのを具足の菩薩というのである、と述べられている。
 瓔珞経には、菩薩の五十二位や十無尽戒が説かれているが、その文を引かれて、一分の戒を受ければ一分の菩薩といい、二分・三分・四分と種々の段階の異なりがあって、十分の戒を受けるのを具足の受戒という、とある。菩薩戒を受け、利他の実践に励む者は、分々の菩薩といえるのである。なお大聖人は御義口伝に「菩薩とは仏果を得る下地なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり」(0783-第十三若親近法師速得菩薩道の事)と仰せになっている。

0434:01~0434:14 第15章 菩薩から二乗を除く理由を明かすtop

0434
01   問うて云く二乗を除くの文如何、 答えて云く梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云く「若し仏戒を受くる者は
02 国王.王子.百官.宰相.比丘.比丘尼.十八梵天.六欲天子.庶民.黄門.婬男.婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神.畜生・乃
03 至変化人にもあれ但法師の語を解するは尽く戒を受得すれば 皆第一清浄の者と名く」文、 此の中に於て二乗無き
04 なり、 方等部の結経たる瓔珞経にも亦二乗無し、 問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如
05 何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、 故に戒の功徳も亦浅深あり、 問うて
06 云く異なる様如何、 答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず 故に化導の心無し亦仏菩薩と成らん
07 と思わず但灰身滅智の思を成すなり、 譬えば木を焼き灰と為しての後に 一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に
08 譬う破れて後用うること無きが故なり、 菩薩は爾らず饒益有情戒を発して 此の戒を持するが故に機を見て五逆十
09 悪を造り同く犯せども 此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす、 故に瓔珞経に云く「犯すこと有れども失せず未
10 来際を尽くす」文、 故に此の戒をば金銀の器に譬う完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり、 問う
11 て云く此の戒を持する人は 幾劫を経てか成仏するや、 答えて云く瓔珞経に云く「未だ住前に上らざる○若は一劫
12 二劫三劫乃至十劫を経て 初住の位の中に入ることを得」文、 文の意は凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と
13 云う、然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は 六道に沈輪し十劫を経て不退の位に入り 永く六道の苦を受けざるを不
14 退の菩薩と云う未だ仏に成らず還つて六道に入れども苦無きなり。
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 問うて言う。菩薩から二乗を除くという文はあるのか。
 答えて言う。梵網経に菩薩戒を受ける者を列ねて「もし仏の戒を受ける者は、国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生、その他の変化人であっても、ただ法師の言葉すべて戒を受けることができるならば、みな第一清浄の者と名づける」とある。このなかにおいて二乗は挙げられていない。方等部の結経である瓔珞経にもまた二乗は挙げられていない。
 問うて言う。二乗の持つところの不殺生戒と菩薩が持つところの不殺生戒と差別はどうか。
 答えて言う。持つところの戒は同じであっても、持ち方や心念が永く異なるのである。ゆえに戒を持つ功徳にもまた浅深がある。
 問うて言う。どのように異なるのか。
 答えて言う。二乗の持つ不殺生戒は、永く六道に還ろうと思わないから、化導の心がなく、また仏や菩薩にもなろうと思わず、ただ灰身滅智の思いだけである。たとえば木を焼いて灰となった後には一塵もないようなものである。ゆえにこ戒を瓦の器にたとえるのである。壊れた後には用いることはないからである。菩薩はそうではない。饒益有情戒を持つことを発して、この戒を持つので、衆生の機をみて五逆・十悪を犯した者と同じように犯したとしても、この戒は破れず、かえってますます戒体をますのである。ゆえに瓔珞経に「犯すことがあったとしても、失なわれない。未来永劫に尽きない」とある。ゆえにこの戒を金銀の器にたとえる。完全なものとして持っているときも、壊した場合も、永く価値は失われないからである。
 問うて言う。この戒を持する人は、どれほどの劫を経たら成仏するのか。 
 答えて言う。瓔珞経に「未だ初住の位に上がらない前、○、もしくは一劫・二劫・三劫そして十劫を経て、初住の位のなかに入ることができるのである」とある。文の意は、凡夫の身において、この戒を持つのを十信の位の菩薩というのである。しかしながら、一劫・二劫そして十劫の間は六道の境界に深く沈んでおり、十劫を経て不退の位に入り、永く六道の苦悩を受けないのを、不退の菩薩という。いまだ仏にならず、かえって六道に入るのであるが、苦悩はないのである。

百官
 諸々の多くの役人。
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宰相
 ①中国の官制。天子を補佐し国政を行うもの。②参議の唐名。奈良時代に設けられた令外の官で、大納言・中納言に次ぐ重職。③総理大臣・首相のこと。
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十八梵天
 色界の十八天のこと。色界にある十八種類の天人の住所。
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六欲天子
 欲界の六欲天に住する諸の天子のこと。四天王等をいう。
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黄門
 中国の宮殿の門のこと。「禁門」ともいう。秦や漢において、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来する。中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)の略。 転じて、日本の中納言の唐名を「黄門侍郎」または「黄門」という。漢における宦官の職名である小黄門や中黄門のこと。仏教用では、性的倒錯、あるいは生殖器に異状がある人を指す。
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奴婢
 家に隷属して召し使われる人。
―――
八部
 八部衆のこと。仏法を守護する8種類の諸天や鬼神。法華経譬喩品第3(法華経160㌻)などにある。天竜八部ともいう。天(神々)・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の8種。
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鬼神
 超人的な働きをするもの。仏道修行者を守護する働き(善鬼神)や、生命をむしばむ働き(悪鬼神)に大別される。法華経では悪鬼とするとともに法華経を受持する者を守護するとも説かれる。法華経勧持品第13には「悪鬼は其の身に入って|我を罵詈毀辱せん」(法華経419㌻)とあり、「立正安国論」では「魔来り鬼来り災起り難起る」(17㌻)とある。また『摩訶止観』巻8に「病の起こる因縁を明かすに六有り……四に鬼神、便りを得」(1009㌻で引用)とある。さらに鬼神は、人の思考の乱れを引き起こし国家社会を混乱させる働きがあり、そこから鬼神を思想の乱れを起こすものの意に用いることがある。仁王経巻下に「国土乱るる時は、先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱る」(19㌻で引用)とある。
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金剛神
 金剛杵を持って仏法を守る神のこと。金剛手・金剛力士。
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変化人
 仏・菩薩が人間の姿をとって現れたもの。
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信位
 十信の位のこと。別教の菩薩の修行の位である五十二位のうち、第一位~十位まで。
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 菩薩のなかから二乗は除くとした権大乗経の文証と道理を明かされている。
 梵網経で菩薩戒を受ける者を挙げた文に「天界・人界の衆生や鬼神、畜生など法師の教えが分かる者はすべて菩薩戒を受けることができて、第一清浄の者という」とあるなかで二乗が挙げられていない、とされている。また、瓔珞経にも、菩薩戒を受けた者のなかに二乗が挙げられていないことを明かされている。
 二乗が菩薩戒を受けないということは、二乗は小乗の戒を持って二乗の低い悟りに入り、成仏を願わないからである。例えば大集経巻十三では「二種の人有って、必ず死するも治せず、畢竟恩を知り恩を報ずる能わず、一に声聞、二に縁覚なり。善男子、譬えば人有って深坑に墜堕せんに、是の人は自利利他する能わざる如く、声聞縁覚も亦復是くの如し。解説の坑に堕ちて自利及以び利他する能わざるなり」と説いている。
 そのことを、次に、二乗の持つ不殺生戒と、菩薩の持つ不殺生戒の違いを示されている。
 初めに、不殺生戒という名は同じであっても、その持ち方と心の在り方が二乗と菩薩とでは根本的に異なっているので、戒を持つ功徳にも浅深がある、と指摘されている。
 二乗は六道の境界から離れて、二度と還らないことが目的なので、六道の衆生を化導して救おうという利他の心が少しもない。また仏や菩薩になろうとも思わず、ただ六道の煩悩を断って無余涅槃の悟りに入り、再び三界に生れないために、一切の苦や煩悩が生ずる拠りどころである色心を滅したいと思うばかりなのである。
 それは、木を焼いて灰にしてしまえば何も残らないようなものであり、そこから、二乗の戒は瓦器すなわち素焼きの土器と同じで、一度割れたら用いることができない。と破折されている。瓦器戒のたとえは、清浄毘尼方広経に説かれており、一度壊れると補修できない瓦器を声聞に、破れても補修できる金器・銀器を菩薩に譬えて、二乗を呵責したのである。
 それに対して菩薩は、一切衆生を利益していく摂衆生戒を持っているので、衆生を化導するために五逆罪や十悪を犯すことがあっても、菩薩の戒は破れることはなく、かえって戒の働きは全うされる、とされている。
 そのことは、瓔珞経には「たとえ犯すことがあっても、戒の働きは失われず、未来際までも 功徳は尽きない」と説いている。すなわち金や銀で作られた器は、壊れたとしても価値が失われないように、菩薩の戒は、持っても破れても、その功徳が永く失われることはない、とされているのである。
 次に、菩薩戒を持った者は、どれほどの劫を経れば成仏できるのか、という問いを設けられている。爾前経においては、菩薩は長い劫の間修行を経て成仏するとされていることによる。
 それに対して、瓔珞経の「まだ初住の位に上るまえの、一劫・二劫・三劫、ないし十劫を経て、初住の位のなかに入ることができる」との文を引かれている。つまり、凡夫の身で菩薩の戒を持つ者は、菩薩の五十二位のなかで、初めの十信の位を菩薩といい、一劫から十劫までの間は六道の世界に沈んで輪廻するが、十劫を経て十住位の最初の発心住に入ると、一分の中道実相の理を証得し、正念にとどまって六道の苦を受けることがなく、やがて必ず成仏の境界に至るので不退の菩薩という、と仰せである。
 そして、この不退の菩薩は、まだ仏ではないが、還って六道に生れたとしても六道の苦を受けることはない、とされている。
 以上は、権大乗教の新説によられたものであることはいうまでもない。

0434:15~0435:01 第16章 仏界の因縁を明かすtop

15   第十に仏界とは菩薩の位に於て四弘誓願を発すを以て戒と為す三僧祇の間六度万行を修し見思・塵沙・無明の三
16 惑を断尽して仏と成る、 故に心地観経に云く「三僧企耶大劫の中に具に 百千の諸の苦行を修し功徳円満にして法
17 界に遍く十地究竟して三身を証す」文、 因位に於て諸の戒を持ち 仏果の位に至つて仏身を荘厳す三十二相・八十
18 種好は即ち是の戒の功徳の感ずる所なり、 但し仏果の位に至れば戒体失す 譬えば華の果と成つて華の形無きが如
0435
01 し、 故に天台の梵網経の疏に云く「仏果に至つて乃ち廃す」文、
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 第十に仏界とは、菩薩の位において四弘誓願を発すことをもって戒とし、三僧祇劫の間、六度万行を修行し、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を断じ尽くして仏と成るのである。ゆえに心地観経に「三僧企耶大劫の間、百千の諸の苦行を修した功徳は円満にして法界に遍く、十地の位に究竟に達して三身を証得する」とある。因位において、もろもろの戒を持ち、仏果の位に至って仏身を荘厳する。三十二相・八十種好はこの戒の功徳を感ずるところである。ただし仏果の位に至れば戒体は失われる。たとえば華の果となれば、華の形がなくなるようなものである。ゆえに天台大師の梵網経の疏に「仏果に至るとは廃するのである」とある。

仏界
 仏の世界。仏が体現した、慈悲と智慧にあふれる尊極の境涯。仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法に目覚めた人のこと。具体的にはインドで生まれた釈尊(釈迦仏)が挙げられる。諸経には阿弥陀仏などの種々の仏が説かれるが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から譬喩的に示した架空の仏である。諸経に説かれる仏の世界も仏に相応して違いがある。すなわち、諸経の仏とその世界は、それぞれの経にとって目指すべき理想であるといえる。法華経本門では釈尊の本地が久遠の仏であるという久遠実成が明かされ、その永遠の国土が娑婆世界と一体であるという娑婆即寂光が明かされた。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、この仏と仏の世界が凡夫の己心に本来そなわっていることを明かし、南無妙法蓮華経を受持することによってそれを開き現すことができると説かれている。仏界と信心との深い関係について同抄では、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241㌻)と述べられている。法華経は万人が成仏できることを説く教えであるが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界がそなわっているからである。また同抄では、人界に仏界がそなわっている現実の証拠として、釈尊が凡夫から仏となったこと、不軽菩薩がすべての人に仏界を見て礼拝したこと、堯や舜という古代の伝説的な帝王が万人に対して偏頗なく慈愛を注いだことを挙げられている(242㌻)。
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四弘誓願
 「しぐぜいがん」とも読む。あらゆる菩薩が初めて発心した時に起こす4種の誓願。①衆生無辺誓願度(一切衆生をすべて覚りの彼岸に渡すと誓うこと)②煩悩無量誓願断(一切の煩悩を断つと誓うこと)③法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ると誓うこと)④仏道無上誓願成(仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと)。
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三僧祇
 三阿僧祇劫のこと。菩薩が仏果を得るまでに修行する長時を三つに分けたもの。すなわち菩薩の階位五十位のうち、十信、十住、十行、十廻向の四十位を第一阿僧祇劫とし、十地のうち初地から七地に至るまでを第二阿僧祇劫、八地から十地に至るまでを第三阿僧祇劫としている。三大阿僧祇劫、三祇ともいう。
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六度万行
 仏道を得るための菩薩行で、六度とは六波羅蜜ともいい、布施・持戒・忍辱・禅定・精進・智慧をいい、その行が万差であるので、六度万行という。
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塵沙
 塵沙惑のこと。菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。
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無明
 無明惑のこと。仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。三僧企三
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三僧企耶大劫
 三阿僧祇劫のこと。菩薩が仏果を得るまでに修行する長時を三つに分けたもの。すなわち菩薩の階位五十位のうち、十信、十住、十行、十廻向の四十位を第一阿僧祇劫とし、十地のうち初地から七地に至るまでを第二阿僧祇劫、八地から十地に至るまでを第三阿僧祇劫としている。三大阿僧祇劫、三祇ともいう。
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法界
 「ほっかい」とも読む。衆生の境涯、すなわち衆生が住んで感じている世界全体のこと。法界は自身が則っている法に応じて決まるが、その法に地獄界から仏界までの10種の違いがあるので、十法界となる。例えば、地獄の因果の法に則れば、身も国土も地獄を現す地獄界となる。仏の因果の法に則れば、身も国土も仏を現す仏界となる。
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三身
 仏としての本質的な3種の特性。①法身(仏が覚った真実・真理)②報身(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に表した姿、慈悲の側面)の三つをいう。
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三十二相
 仏や転輪聖王などがそなえている32の優れた身体的特質のこと。「相」は八十種好に対し大きな特徴をさす。名称および順序は経論によって異説もあるが、『大智度論』巻4の説を以下に挙げる。①足下安平立相。足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地に着いてすき間なく密着している。②足下二輪相。足裏に自然にできた2輪の肉紋があり、それは千輻(1000本の矢)が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること。③長指相。指が繊細で長いこと。④足踉広平相。足の踉が広く平らかであること。⑤手足指縵網相。手足の指の間に縵網があり、指を張ればあらわれ張らなければあらわれないこと。⑥手足柔軟相。手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である。⑦足跌高満相。足の甲が高いこと。地を踏んだ足跡は広くもなく狭くもなく、足裏の色は赤蓮華、指の間の縵網と足の周辺の色は真の珊瑚のようで、指の爪は浄い赤銅、甲は真金、甲の上の毛は毘瑠璃のように青い。その足のおごそかですばらしい様は種々の宝で荘厳しているようである。⑧伊泥延膊相(伊泥延はサンスクリットのアイネーヤの音写で鹿の一種)。膝、股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること。⑨正立手摩膝相。立てば手で膝をさわることができること。⑩陰蔵相。陰部がよく調えられた象や馬のそれのように隠れて見えないこと。⑪身広長等相。インド産の無花果の木のように身体のタテとヨコの長さが等しいこと。⑫毛上向相。身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと。⑬一一孔一毛生相。一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青琉璃色で乱れず、右になびいて上に向かう。⑭金色相。皮膚が金色をしていること。⑮丈光相。四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと。⑯細薄皮相。皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである。⑰七処隆満相。両手・両足・両肩・頭の頂上の七処がすべて端正に隆起して色が浄いこと。⑱両腋下隆満相。両腋の下(わきの下)が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、またわきの下が深すぎることもない。⑲上身如師子相。上半身が獅子のように堂々と威厳があること。⑳大直身相。一切の人の中で身体が最も大きく、また整っていること。㉑肩円好相。肩がふくよかに隆満していること。㉒四十歯相。歯が40本あること。㉓歯斉相。諸の歯は等しく粗末なものはなく小さいものもなく出すぎることもなく入りすぎることもなく歯の間にすき間がないこと。㉔牙白相。牙があって白く光ること。㉕師子頬相。百獣の王の獅子のように、頬が平らかで広いこと。㉖味中得上味相。食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること。㉗大舌相。広長舌相とも。舌が大きく口より出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること。しかも口の中では口中を満たすことはない。㉘梵声相。梵天王の5種の声のように声が深く遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく誰からもきらわれないこと。㉙真青眼相。好い青蓮華のように眼が真の青色であること。㉚牛眼睫相。牛王のように睫が長好で乱れないこと。㉛頂髻相。頭の頂上が隆起し、挙が頂上にのっているようであること。㉜白毛相。眉間白毫相ともいう。眉間のちょうどよい位置に白毛が生じ、白く浄く、右に旋って長さが5尺あること。ここから放つ光を毫光という。
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八十種好
 仏や菩薩がそなえている80の優れた身体的特質のこと。「好」は三十二相に対し細かな特徴をさす。80種の内容については種々の説があり、なかには三十二相と重複するものもあるが、例えば、頂を見ることがない、耳たぶが垂れ下がっているなど。
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 十界のなかで尊極の境界である仏界の因縁が明かされている。
 仏界とは、仏の境界のことで、宇宙・生命の実相を悟った境地をいう。九界の衆生も、本来、仏界を具えている。成仏とは、衆生の生命に内在している仏界を正法によって開き顕すことである。
 大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-15)と仰せになっている。また日寛上人は、「妙楽云く『仏界の心強きを名づけて仏界と為し、悪業深重なるを名づけて地獄と為す』云云。既に法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べられている。
 ただしここでは、爾前経の義によって、菩薩戒を持った結果としての仏果が示されている。
 菩薩の位において、一切衆生を救い、一切の煩悩を断ち、仏の法を究め、無上の悟りを得ようと四弘誓願を発すのを戒として、三阿僧祇劫、あるいは百大劫という長い間、六波羅蜜の修業を行じて、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を断じ尽くした結果、仏と成るのである、とされている。これを、歴劫修行とも、歴劫迂回ともいい、小乗の菩薩は三僧祇劫、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多俱低劫等と、さまざまに修行の時節を定め、そうした長い期間、六波羅蜜等の菩薩道を行じて仏果を得るとされているのである。
 心地観経では、菩薩が三僧祇劫の間、数々の苦行を行じて、その功徳が満ちて、十地の位の第十地に登って、法身・報身・応身の三身、すなわち仏身を証得するのであるとされ、因位、すなわち菩薩が仏果を得るための修行の位において諸戒を持った功徳が、仏となった時には仏身を荘厳して、三十二相八十種好となるのである、とされている。
 三十二相八十種好とは、仏の相好ともいい、仏の身に具わる勝れた特質、特性を具体的に表したもので、衆生の好むところに随って相好を示し、その勝れていることによって仏への渇仰の心を起こさせて化導したのである。大智度論には、三十二相は、菩薩が三大阿僧祇劫の後、更に百大劫の間修行した福業によって得られたと説いており、一つ一つの相についてそれぞれ百福を起こした結果である。百福を修行して一相を得る、と説いている。
 また、仏果を得たときには、戒の働きをする本体は失われるのであり、それはちよぅど、花が咲いて果実が実れば花の形は失われるようなものである、とされる。そのことを天台大師は梵網経の疏に、仏果に至れば戒体は廃される、と述べている。
 以上は爾前経の所説であり、法華経の開経である無量義経では、こうした爾前教の歴劫修行では永く成仏はできないと断破して、法華経において、四仏知見を説いて衆生の心に仏界が本来、具わっていることを示し、この自身の仏性を悟ることによって即身成仏することを明確にしている。
 このゆえに前述のように「法華経を信ずる心強き」によって成仏できるのであり、末法では、大聖人が「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と明かされているように、三大秘法の御本尊を受持することによって、即身成仏できるのである。

0435:01~0435:13 第17章 七逆と二乗に菩薩戒を許さぬ理由top

01                                問うて云く梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造
02 れると並に決定性の二乗とを許すや、 答えて云く梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は 師問い言うべし汝
03 現身に七逆の罪を作らざるやと、 菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文、 此の文の
04 如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず、 大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に 妙の五欲を受くるとも菩薩
05 戒に於ては猶犯と名けず 若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、 大荘厳論に云く「恒に地獄に処す
06 と雖も 大菩提を障ず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」文、 此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を
07 授け二乗に於ては制止を加うる者なり、二乗戒を嫌うは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌う
08 に非ず彼の戒は菩薩も持す可し但二乗の心念を嫌うなり、 夫れ以みれば持戒は父母・師僧・国王・主君の一切衆生
09 三宝の恩を報ぜんが為なり、 父母は養育の恩深し一切衆生は互に相助くる恩重し 国王は正法を以て世を治むれば
10 自他安穏なり、此に依つて善を修すれば恩重し主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う、設
11 い爾らずと雖も一身を顧る等の恩是重し 師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し 仏恩は言うに及ばず是
12 くの如く無量の恩分之有り、 而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も 二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎた
13 り一念も菩薩の心を起すは 一切諸仏の後心の功徳を起せるなり、已上四十余年の間の大小乗の戒なり、
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 問うて言う。梵網経等の大乗戒は、現身に七逆罪を犯したのと、ならびに決定性の二乗ともに戒を受けることを許すかどうか。
 答えて言う。梵網経に「もし戒を受けたいと願う時は、師は問いかけるべきである。汝は現身に七逆の罪を作ったことはないのか、と。菩薩の法師は、七逆罪を犯した人のためには現身に戒を受けることはできない」とある。この文によるならば、七逆罪を犯した人は現身に受戒は許されていない。大般若経には「もし菩薩はたとえ恒河沙劫の間、妙なる五欲を受けたとしても、菩薩戒においてはなお、犯とは名づけない。もし一念に二乗の心を起こすならば、すなわち犯と名づける」とある。大荘厳論に「常に地獄に居るといっても、大菩提の障りとならないが、もし自利を利益する心のみを起こすならば、これは大菩提の障りとなる」とある。これらの文によるならば、六道の凡夫においては菩薩戒を授け、二乗においては制止を加えるのである。二乗の戒を嫌うのは、二乗が持つところの五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うのではない。それらの戒は菩薩も持つからである。ただ二乗の心根を嫌うのである。
 よくよく考えてみると、戒を持つのは父母・師僧・国王・主君の一切衆生・三宝の恩を報じようとするためである。父母は養育の恩が深い。一切衆生は互いに助ける恩が重い。国王は、正法をもって世を治めれば、自他ともに安穏である。これによって民は善を修めることができるのである。だからその恩は重い。主君もまた、その恩を受けて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養うことができる。たとえそうでなくても、一身を顧る等の恩は重い。師はまた、邪道を閉じて正道に赴かせる等の恩が重い。仏の恩は言うまでもないことである。このようにに無量の恩を受けているのである。しかるに二乗はこれらの報恩がみな欠けている。ゆえに一念でも二乗の心を起こすことは、十悪や五逆罪を犯すよりも過ぎたことになり、一念も菩薩の心を起こすことは、一切諸仏の後心の功徳を起こしたことになるのである。以上は四十余年の間の大乗教・小乗教のである。 

七逆
 五逆罪に、和尚(師僧)を殺す、聖人を殺す(あるいは阿闍梨〈師範となる僧〉を殺す)の二つを加えたもの。▷...
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決定性の二乗
 法相宗では、衆生がそなえている仏法を理解し信ずる資質を5種類に分ける「五性」を説いた。そのうちの三つは、声聞・縁覚・菩薩の境地を得ることが定まっているので「決定性」と呼ばれた。すなわち決定性の二乗とは、二乗になることが決まっている者。
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大般若経
 大般若波羅蜜多経の略。中国・唐の玄奘訳。600巻。般若部の諸経典を集大成したもので、あらゆる仏典の中で最大である。巻398には、常啼菩薩が身命を惜しまず、財宝や名誉を顧みず、般若波羅蜜多(智慧の完成)を求めた話が説かれている。▷
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恒河沙劫
 恒河(ガンジス川)の砂のほどの無数の劫であることに譬えられる。法華経従地涌出品第15では地涌の菩薩のことを「我が娑婆世界に自ずから六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り」(法華経452㌻)としている。
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五欲
 五根が五塵の境に対して起こす欲望である。すなわち色欲・声欲・香欲・味欲・触欲のこと。
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大荘厳論
 大般若波羅蜜多経のこと。中国・唐の玄奘訳。600巻。般若部の諸経典を集大成したもので、あらゆる仏典の中で最大である。巻398には、常啼菩薩が身命を惜しまず、財宝や名誉を顧みず、般若波羅蜜多(智慧の完成)を求めた話が説かれている。
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大菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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六凡
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のこと。仏教以外の外道は、この六道を輪廻するのみである。無智の凡夫の境涯であるので、六凡という。
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八戒
 在家の男女が,一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。五戒の不邪淫戒を不淫戒とし,さらに装身・化粧をやめ歌舞を視聴しない,高く立派な寝台に寝ない,非時の食をとらない,の三つを加えたもの。八斎戒。八戒斎。
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十戒
 小乗教の在家戒としての十戒は明確ではない。大乗教の在家戒である十善戒としては、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見がある。
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十善戒
 身・口・意の三業にわたって十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。①不殺生②不偸盗③不邪婬④不妄語⑤不両舌(二枚舌を使わない)⑥不悪口⑦不綺語(偽り飾る言葉を言わない)⑧不貪欲⑨不瞋恚⑩不邪見。十善を行ずる果報は、天上に生じて梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となると経典に説かれている。
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三宝
 「さんぼう」ともいう。仏教を構成する仏法僧の三つの要素のこと。この三宝を大切に敬うことが、仏教を信仰する者の基本となる。①仏宝は、教えを説く仏。②法宝は、仏が説く教え。③僧宝は、教えを信じ実践する人々の集い(教団)。「僧」は僧伽の略で、集いを意味するサンスクリットのサンガの音写。「和合」と意訳され、二つ合わせて「和合僧」ともいう。
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後心
 後から起こる心。仏道に入って後、修行の進んだ状態。また、そのものをいう。
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四十余年
 釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
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 爾前経の義によると、七逆罪を犯した者と決定性の二乗は大乗菩薩戒を受けることができないことが明かされている。
 七逆とは、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪に、殺和尚・殺阿闍梨を加えた七つの大罪をいう。
 決定性の二乗とは、法相宗で説く五性のなかで、声聞・縁覚になることが決定していて永久に仏に成れないとされた種性をさし、定性声聞・定性縁覚ともいう。
 七逆の者については梵網経に、得度して戒を受けるときには、戒を授ける戒師が、汝は現世では七逆罪を犯したことはないかと問うべきであり、菩薩の法師は現世に七逆罪を犯した者には戒を受けさせてはならない、と説かれている。したがって、七逆罪を犯した者は、大乗の菩薩戒を受けることは許されなかった。
 二乗についても、経論を引かれて、菩薩戒を受けられないことを明かされている。
 大般若経に、菩薩がたとえ恒河の沙の数ほどの劫の間、妙なる五欲を受けたとしても、菩薩戒を破ったとはいわないが、もしその一念に二乗の心を起こせば、それは戒を破ったことになる、と説かれている。
 「二乗の心」とは、利他の実践を忘れて、自己の解脱に執着する一念をいう。自利のみを願い、利他の心を失えば、成仏はできないので、菩薩にとっては破戒となるのである。
 馬鳴の著とされる大荘厳論には、常に地獄の境界にいても菩薩の障りにならないが、自利の心を起こせば菩薩の障りである、と説かれている。「自利の心」とは、自己の解説のみを願う心であり、二乗の心と同意である。菩薩が自利の心を起こした場合には、成仏の障りとなるのである。
 この二文によれば、六道の凡夫には菩薩戒を授けるが、二乗は制止して授けないということである。菩薩が、「二乗の心」「自利の心」を起こした場合には、二乗は境界となり、成仏はできない。その意から、二乗には、菩薩戒を授けても意味がないので受戒しないのである、とされているのであろう。
 また、このように二乗を嫌うのは、二乗が持っている戒を嫌うのではなく、二乗の心念を嫌うのであり、二乗は自己の解説のみを願って、父母等の恩を報じようとしないからである、と述べられている。
 戒を持ち、仏道修行に励むのは、その功徳をもって、父母・師匠・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ずるためである。なぜなら、父母には養育された大恩があり、一切衆生には互いに相助け合う恩があり、国王には正法によって世を安穏に治め、民はそのもとで善根を修することができるという恩がある。主君は、その恩によって父母・妻子・一族・家来・牛馬等を養うことができるし、そうでなくても一身に受ける恩は重い。師匠には、誤った道をふさいで、正道に導いてくれる恩がある。仏の恩はいうまでもない。
 このように、一個の人間は、周囲から無量の恩を受けることによって、生存し生活することもできれば、人間らしく成長することもできるのである。したがって、その恩を知って、恩に報いようとするのが、人間として当然の行為といえる。ところが、二乗は自利のみを願って、報恩の念が全く欠けているのである。
 したがって、一念に二乗の心を起こすことは、十悪や五逆を犯すよりも、成仏の道を閉ざすことになり、一念に菩薩の心を起こすことは、一切の諸仏の修行の進んだ功徳を起こすことになるのである。
 以上は、爾前経の大小の戒の義によるのである。
 なお、こうした二乗の不知恩ということについて、開目抄にも「仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし、其の上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀・持整して味・浄・無漏の三静慮・阿含経をきわめ三界の見思を尽せり知恩報恩の人の手本なるべし、然るを不知恩の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる」(0192-02)と仰せになっている。
 しかしながら二乗の不成仏は二乗だけのことにとどまらない。十界互具という観点からすれば、菩薩の生命にも、「二乗の心」「自利の心」があり、二乗の境界が具わっているので、二乗が成仏できないとすれば、二乗の境界を具えている菩薩も成仏できないことになるのであり、更には、九界の衆生も皆、成仏できないことになえる。
 ゆえに、二乗を永不成仏と説く爾前経では、菩薩をはじめ九界の衆生は、たとえ菩薩戒を持とうとも、だれも成仏はできないのである。
 このことを日寛上人は、「菩薩に二乗を具うれば所具の二乗、仏に作らざる則は能具の菩薩、豈、作仏せんや。故に十法界抄に『然るに菩薩に二乗を具うる故に二乗の沈空尽滅するは、即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり』云云。菩薩既に爾り、凡夫も亦然なり、故に九界も同じく作仏せざるなり」と述べられている。

0435:13~0436:15 第18章 法華経の相待妙の戒を示すtop

13                                                 法華経の
14 戒と言うは二有り、 一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり、 先ず相待妙の戒とは四十余年の大小乗の戒と法
15 華経の戒と相対して 爾前をソ戒と云い法華経を妙戒と云うて諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の
16 二乗戒と嫌うなり、 法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対してソ妙を論ずるを
17 相対妙の戒と云うなり。
18  問うて云く梵網経に云く「衆生・仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る位大覚に同じ已に実に是諸仏の子なり」文。
0436
01 華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、 大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、 此等の文の如
02 くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く 速疾頓成の戒有り何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、 答えて云く此
03 れに於て二義有り一義に云く 四十余年の間に於て歴劫修行の戒と 速疾頓成の戒と有り法華経に於ては但一つの速
04 疾頓成の戒のみ有り、 其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては 法華経の戒に劣ると雖も 四十余年の
05 間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、 故に上に出す所の衆生仏戒を受れば 即ち諸仏の位に入る等の文は
06 法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、 但し無量義経に四十余年の経を挙げて 歴劫修行等と云えるは四十余
07 年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり 速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、 一義に云く四十余年の間の戒は 一向に
08 歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、 但し上に出す所の四十余年の諸経の 速疾頓成の戒に於ては凡夫
09 地より速疾頓成するに非ず 凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経最後に於て凡夫地より即身成仏す、 故に最後
10 に従えて速疾頓成とは説くなり、 委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、 故に無量義経には総て四十余年の経を
11 挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して 宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、 大荘厳菩薩の此の義を承けて領解し
12 て云く「無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過れども終に 無上菩提を成ずることを得ず、 何を以ての故に菩提の大直
13 道を知らざるが故に 険逕を行くに留難多きが故に、 乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間
14 に無量義経・法華経の如く 速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、 二義
15 の中に後の義を作る者は存知の義なり、 相待妙の戒是なり、
-----―
 法華経の戒というのは、二つある。一には相待妙の戒、二には絶待妙の戒である。まず相待妙の戒とは、四十余年の間の大乗教・小乗教の戒と法華経の戒とを相対して、爾前経の戒を麤戒といい、法華経の戒を妙戒といって、諸経の戒を未顕真実の戒、歴劫修行の戒、決定性の二乗の戒と嫌い、法華経の戒は真実の戒、速疾頓成の戒、二乗の成仏を嫌わない戒等と相対して麤と妙を論ずるのを相対妙の戒というのである。
 問うて言う。梵網経には「衆生が仏戒を受けるならば、諸仏の位に入る。位は大覚と同じであり、すでに全くこれ、諸仏の子である」とある。華厳経には「初めて菩提心を発した時に、即座に正覚を成じたのである」とある。大品般若経には「初めて菩提心を発した時に、即座に道場に座した」とある。これらの文によるならば、四十余年の大乗戒において、法華経とおなじような速疾頓成の戒がある。どうしてただ歴劫修行の戒があるというのか。
 答えて言う。これにおいて二義がある。一義には、四十余年の間においては歴劫修行の戒と速疾頓成の戒とがあるが、法華経においてはただ一つの速頓成の戒のみがある。そのなかにおいて、四十余年の間の歴劫修行の戒においては法華経の戒に劣るけれども、四十余年の間の速疾頓成の戒においては法華経の戒と同じである。ゆえに前に記したところの「衆生が仏戒を受けなければ。即座に諸仏の位に入る」等の文は、法華経の「須臾も之を聞かば、即ち究竟することを得ん」の文と同じである。ただし無量義経に四十余年の経を挙げて、歴劫修行である等と言っているのは四十余年のうちの歴劫修行の戒だけを嫌っているのであって、速疾頓成の戒は嫌わないのである。一義には、四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒であり、法華経の戒は速疾頓成の戒である。ただし前に記したところの四十余年の諸経の速疾頓成の戒においては、凡夫の位から速疾頓成するのではなく、凡夫の位から無量の行を成じて、無量劫を経て最後に凡夫の位から即身成仏するのである。ゆえに最後のところによって速疾頓成と説いたのである。詳しくこれを論ずるならば、歴劫修行に収まるのである。ゆえに無量義経には、すべての四十余年の経を挙げて、仏は無量義経の速疾頓成に対して「菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」と嫌われたのである。大荘厳菩薩がこの義をうけて領解して言うには「法華経を聞かなければ無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過ぎたとしても、ついに無上菩提を成ずることができない。なぜかといえば、菩提の大直道を知らないからであり、険しい道を行くには留難が多いからである。法華経を聞けば、大直道を行って留難がないからである」と。もし四十余年の間に無量義経や法華経のような速疾頓成の戒があるとするならば、仏はみだりに四十余年の実義を隠された失があることになる。二義のなかに後の義を立てるというのは世間でも知っている義である。以上が相待妙の戒である。

相待妙
 法華経以外の諸経と法華経とを比較相対して、他の諸経は粗悪、法華経は妙であるとすること。対立し、相対するものに優劣をつけて一方を否定して一方を肯定する。絶待妙に対する語。
―――
絶待妙
 比較・相対を絶してすべてを妙としてとらえること。一切の事象を一段高い視点から統一的に把握する。相待妙に対する語。
―――
未顕真実
 四十余年未顕真実のこと。無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。
―――
歴劫修行
 成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語(法華経33㌻)。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
―――
速疾頓成
 爾前の諸経にも即身成仏に通ずる説法があることをさす。いわゆる爾前の円教といわれるものである。一代聖教大意には「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』 文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、 梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても 仏に成る少少開会の法門を説く処もあり」(0399-02)とあるが、いまだ二乗作仏、悪人成仏、女人成仏が明かされず、十界のさべつも生ずるがゆえに、しんじつの二乗作仏とあいえないのである
―――
仏戒
 仏のいましめ。
―――
大覚
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
大品経
 大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
―――
須臾聞之・即得究竟
 法華経法師品第10の文。「是の人、歓喜して法を説かんに、須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」とある。
―――
無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述(法華経75,76㌻)があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。
―――
即身成仏
 衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
―――
大荘厳菩薩
 釈尊が王舎城耆闍崛山で無量義経を説いたとき、その座に連っていた八万の菩薩の一人、釈尊に対して速やかに無上菩提を成ずるには、何等の法門を修行すべきかと尋ねている。
―――
無量無辺・不可思議阿僧祇劫
 果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
―――
無上菩提
 最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
―――
大直道
 無上の菩提・最高の悟り・成仏の境地のこと。
―――――――――
 法華経の戒にも相対妙の戒と絶待妙の戒があるとされ、初めに相対妙の戒が明かされている。
 相対妙とは、他と相対して、他が麤であるのに対して、こちらが妙であると比較して論じていく教判をいう。天台大師が法華玄義で、法華経以外の諸経と法華経とを比較相対して、他の諸経は麤であり、法華経は妙であることを、相対妙としたことによっている。相対妙の戒とは、法華経の戒と、爾前大小乗の戒とを相対して、爾前の戒を麤戒といい、法華経の戒を妙戒として、劣る諸戒を捨てて、法華経の妙戒を選ぶことをいう。爾前経の戒は歴劫修行の戒であり、一切衆生が皆成仏できる麤として嫌うのである。それに対して法華経の戒は、二乗にも成仏を許す戒であり、速疾頓成・即身成仏の戒であるとして、爾前の戒と相対して妙戒とするのである。
 この仰せに対して、梵網経や華厳経等の大乗の諸経にも、法華経と同じ速疾頓成の戒が説かれているのに、なぜ歴劫修行の戒というのか、という問いを設けられている。
 梵網経には、衆生が仏戒を受ければ、すなわち諸仏の位に入り、大覚の位と同じである、と説かれている。華厳経には、初発心の時に正覚を成ずる、と説かれている。また、大品経には、初発心の時に道場に座す、とある。これらの経文は、衆生が初めて発心し戒を受けたときに、直ちに仏の悟りを得られると説いているので、速疾頓成の戒ではないか、という疑問である。
 速疾頓成とは、速やかに成仏することをいう。速疾は迂回に対する語ですみやかなこと、頓成は漸成に対する語で直ちに成仏することをいう。歴劫修行とは、爾前の諸経の菩薩や二乗が、無量劫にわたって修行することをいう。
 この疑問に答えられて、爾前経を歴劫修行とするのに二義がある、とされている。
 一つの義では、爾前経の戒には歴劫修行の戒と速疾頓成の戒とがあるのに対して、法華経には速疾頓成の戒しかなく、歴劫修行の戒は法華経の戒に劣るが、爾前経で説かれる速疾頓成の戒は法華経と同じである。
 したがって、梵網経などの文は、法華経法師品の「須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」と速疾頓成を説いた文と同意であるとする。
 ゆえに無量義経で「四十余年には末だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と説き、また「方等十二部経、摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし」と述べられているのは、爾前の諸経のなかの歴劫修行の戒だけを嫌っているのであって、爾前経に説かれた即身成仏の義まで嫌っているのではない、ということである。
 もう一つの義では、爾前経で説かれたのは、すべて歴劫修行の戒であって、法華経の戒だけが速疾頓成の戒である、とするものである。
 すなわち、爾前の諸経に説かれる速疾頓成の戒とは、凡夫の位から速やかに成仏するのではなく、凡夫の位から無量劫の間の修行を経て、最後に凡夫の位から即身成仏するのであり、厳密にいえば歴劫修行に含まれることになるのである。ゆえに、無量義経では四十余年の爾前経を、無量義経の速疾頓成に対して、すべて歴劫修行の法であるとして嫌い捨てたのである、とする。
 しかも無量義経では、その後に、大荘厳菩薩が、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に」と述べ、それに対して釈尊は、「我是の経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。所以は何ん、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば能く一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に」と説いている。すなわち、無量劫の間、歴劫修行に励んだとしても即身成仏できないことが重ねて説かれ、無量義経(ここでは法華経と読むべきである)のみが速疾頓成であることを明かしているのである。もしも爾前の諸経に速疾頓成が説かれているとしたら、それを釈尊自身が覆いかくしたことになるが、そのようなことはありえないのである。したがって、爾前の諸経には、真の速疾頓成は説かれていないことが明らかである。
 以上の二つの義のうち、後の義が一般的であり、以上が相対妙の戒である。

0436:15~0437:15 第19章 法華経の絶待妙の戒を明かすtop

15                             次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、 爾
16 前の戒即ち法華経の戒なり其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の
17 歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて 互に和会して一同と成る、 所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩
18 の金銀戒を具し 菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す余は以て知んぬ可し、 三悪道の人は現身に於て戒
0437
01 無し過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器菩薩の金銀戒を持ち 退して三悪道に堕す、 然りと雖も其
02 の功徳未だ失せず之有り三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す 故に三悪道にも亦十界を具す、 故に爾前の
03 十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、 故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、 安然和尚の広釈に云く「法
04 華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、 爾前経の如く師に随つて、 戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持
05 戒なり、 爾前の経には十界互具を明さず故に菩薩無量劫を経て 修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一
06 界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、 故に一界の功徳も亦成ぜず、 爾前の人・法華経に至りぬれ
07 ば余界の功徳を一界に具す、 故に爾前の経即ち法華経なり法華経即ち爾前の経なり、 法華経は爾前の経を離れず
08 爾前の経は法華経を離れず是を妙法と言う、 此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経
09 を読誦し法華経を読む人なり、 故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、 阿含経即ち法華
10 経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の
11 経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文
12 なり、 梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、 一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒
13 の功徳に仏果を具せず 三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、 法華経に於ては二乗七逆の者
14 を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。
15       正元二年庚申四月二十一日                   日 蓮 花押
-----―
 次に絶待妙の戒とは、法華経においては別の戒があるわけではない。爾前経の戒がそのまま法華経の戒である。そのゆえは、爾前経に説く人界・天界の楊葉戒、小乗教である阿含経に説く二乗の瓦器戒、華厳経・方等経・般若経・観無量寿経等に説く歴劫修行の菩薩の金銀戒、これらの戒の行者は法華経に至っては、互いに和会して一つになるのである。ゆえに人界・天界の楊葉戒の人は、二乗の瓦器戒、菩薩の金銀戒を具え、菩薩の金銀戒に人界・天界の楊葉戒、二乗の瓦器戒を具える。あとは推して知るがよい。三悪道の人は現身においては戒は持っていない。過去において人界・天界に生まれたとき、人界・天界の楊葉戒、二乗の瓦器戒、菩薩の金銀戒を持ち、後に破って三悪道に堕ちたけれども、持った時のその功徳は末だ失わずに有るので、三悪道の人は法華経に入るときに、過去の戒を呼び起こすために、三悪道にもまた十界を具えている。ゆえの爾前の十界の人が法華経にくればみな持戒の人である。法華経には「これを持戒と名づける」とある。安然和尚の広釈には「法華経には『能く法華経を説くこを持戒と名づける』とある」と釈している。爾前経のように、師に従って戒を持つのではなく、ただこの経を信ずるのが、すなわち持戒である。爾前の経には十界互具を明かしていない。ゆえに菩薩が無量劫を経て修行しても二乗や人界・天界等の余の戒の功徳はなく、ただ一界の功徳を成ずるだけであり、一界の功徳だけでは成仏は遂げられないから、結局一界の功徳もまた成ずることはできない。爾前の人が法華経に至るならば、余界の功徳を一界に具えるから、爾前の経はすなわち法華経であり、法華経はすなわち爾前の経である。法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れない。これを妙法という。この覚り起こった後の行者は、阿含経などの小乗経を読んでも、すなわち一切の大乗経を読誦し、法華経を読んだ人となる。ゆえに法華経には「声聞の法を決定すれば、これ諸経の王である」とある。阿含経はすなわち法華経であるとう文である。また「一仏乗であるものを分別して三乗と説いた」とある。華厳経・方等経・般若経はすなわち法華経であるという文である。また「もし俗間の経書・治世の語言・資生の業などを説くもすべて正法に従う」とある。一切の外道・老子・孔子等の教えはすなわち法華経という文である。梵網経等の権大乗経の戒と法華経の戒とには多くの差別がある。一には権大乗経の戒二乗の者と七逆を犯した者には受戒を許していない。二には戒を持つ功徳に仏果を具えていない。三には歴劫修行の戒である。このように多くの失がある。法華経においては、二乗の者と七逆の者にも受戒を許し、そのうえ博地の凡夫が一生のうちに仏位に入り、妙覚位に至って、仏因仏果の功徳を具えることができるのである
      正元二年庚申四月二十一日                   日 蓮 花押

爾前
 爾前経のこと。法華経より前に説かれた経典のこと。「爾」とは「それ、その」という指示語。「爾前」で「それ(法華経)に至る前」を意味する。
―――
楊葉戒
 五戒・十善戒等人界・天界の衆生の持つ戒。
―――
瓦器戒
 瓦器のように壊れやすい戒。小乗の二乗が受持する戒のこと。
―――
観経
 観無量寿経のこと。中国・南北朝時代の宋の畺良耶舎訳。観経と略す。1巻。阿弥陀仏と極楽世界を対象とする16種類の観想法を説いている。
―――
金銀戒
 権大乗教の菩薩が受持する戒をいう。菩薩の戒を受持すれば、たとえ戒を破ってもその功徳が消滅ないことを金銀にたとえている。
―――
十界互具
 法華経に示された万人成仏の原理。十界互具とは、地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
―――
外道
 ①仏教以外のインドの諸思想。これには、古代からの伝統宗教であるいわゆるバラモン教の思想や、釈尊と同時代に興隆していたジャイナ教などの新興の諸思想を含む。②仏教以外の教えや信徒のこと、後に仏教内の異端に対する貶称として用いられた。
―――
老子
 中国・周の思想家。姓は李、名は耳、字(通称)は耼。道家の祖とされる。孔子と同時代の人で周に仕え、『老子(道徳経)』を著したとされる。宇宙の万物を造り出し秩序を与える「道」が、人間の作為を超えた無為自然であると説き、それを政治・処世における規範とした。
―――
孔子
 紀元前551年~前479年(生没年には異説がある)。中国・春秋時代の思想家。姓は孔、名は丘、字は仲尼。儒教の祖。社会秩序を回復するために、「仁」という社会的な道徳を強調した。『論語』は、孔子の言行を弟子が編纂したものである。魯国で生まれたが、受け入れられず、諸国を遍歴した。
―――
博地の凡夫
 最も劣った凡夫のこと。
―――
妙覚
 ①仏の優れた覚りの境地。②菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。等覚位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(334㌻)と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで登って得脱したとされる。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に帰り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。
―――――――――
 法華経は絶待妙の戒を明かされている。絶待妙とは、一切の比較相対して妙であることをいう。麤に対して妙というのではなく、麤とか妙とかいう絶対的な考え方を超えたところを絶待妙という。
 天台大師が、法華玄義において、法華経の法理から一切の教法を判釈すると、大乗と小乗、権教と実教の差別がなくなり、ことごとく大乗であり、真実の教えであると明かすことを絶待妙としたことによる。
 絶待妙の立場でいえば、法華経には爾前経と異なる別の戒は説かれていず、爾前経の戒がそのまま法華経の戒となる。それは、爾前経に説かれる、人界・天界の衆生が持つ五戒や十善戒、小乗の阿含経に説かれる二乗の瓦器戒、権大乗の諸経に説かれる歴劫修行の菩薩の持つ金銀戒等を持った行者が、法華経に至って相通じて一つになるからである、とされている。
 そのため、人界・天界の五戒・十戒を持った人は、二乗の瓦器戒や菩薩の金銀戒を持ったのと同じ功徳を具えることになり、菩薩の金銀戒を持った人は人・天・二乗を具えることになるのである。
 地獄・餓鬼・畜生の三悪道の衆生は、現在持っている戒はない。過去世において人界・天界に生まれたときに、人・天・二乗・菩薩の戒を持っていたが、退転して戒を破ったために三悪道に堕ちたのである。しかし、その持戒の功徳がまだ失われずに残っているので、法華経にあって過去の戒を呼びおこすのである。とされている。したがって、三悪道の衆生も、十界を具えているので、爾前経の十界の人が法華経へくれば、皆、持戒の人になるのである。
 法華経の宝塔品には「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたもう所なり。是れ則ち勇猛なり。是れ則ち精進なり。是れ戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」とある。すなわち、法華経を持つ者を戒を持つ者という、との意である。
 安然の普通授菩薩戒広釈には「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名づく」とあり、法華経を説くことが戒を持つことになる、としている。この文のように、法華経では、爾前経のように師に随って戒を受けるのではなく、ただ法華経を信ずることが戒を持つことになるのである。
 爾前の諸経では、二乗作仏を説かず、十界互具を明かしていないので、菩薩が無量劫の間、修行したとしても、菩薩戒の功徳を受けるだけで、他の二乗や人界・天界の功徳は受けられず、成仏もできないことになり、結局は、真の菩薩戒の功徳も受けられないことになる。爾前経の人が、法華経にくれば、一界に十界の功徳を具えるので、爾前経はすなわち法華経であり、法華経はすなわち爾前教となるのである。そのように、法華経は爾前経を離れず、爾前経は法華経を離れないのを妙法というのである、とされている。
 このように、法華経が諸経に勝れているのは、一切の諸法は一つとして捨て去るものはなく、すべてが唯一の真実の分々の存在であるとする、開会の法門にある。爾前の諸経に説かれる法門も、妙法の一分であるとするのを絶待妙というのである。この開会の法門を悟れば、阿含部の小乗教を読誦したとしても、それはそのまま大乗経を読み、法華経を読むことになる。そして、法華経の法師品第十に、「若し是の深経の、声聞の法を決了する。是れ諸経の王なるを聞き、聞き已りて諦かに思惟せん」とある文を引かれて、阿含経が即法華経であるとする文証とされている。
 また、譬喩品第三の、「諸仏方便力の故に、一仏乗に於いて、分別して三と説きたもう」の文を引かれて、華厳・方等・般若部の諸経が即法華経であるという文証とされている。権大乗の諸経も、一仏乗の法を分別して三乗の法として説いたものであるので、法華経の一分となるのである。更に、法師功徳品第十九の、「若し俗間の経書、治世の言語、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」の文を引かれて、一切の外道や、儒教の老子・孔子の教説は、即法華経であるという文証である、とされている。ただしこれらは、いずれも法華経の立場で開会したうえであるといえることであって、外道や小乗・権大乗の諸経が、そのまま法華経になるわけではなく、「法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり、譬えば如意宝珠の如し金銀等の財を備えたり、念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず、譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし、譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も一つの如意宝珠をばかうべからず、設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず」(1275-10)と仰せになっているように、開会した爾前教といって、法華経に劣ることは当然なのである。
  次に、梵網経等に説かれる権大乗の戒と法華経の戒とには多くの差別があるとされ、権大乗の戒には、一つは二乗や七逆罪の者には受戒が許されず、二つには成仏の功徳が具わらず、三つにはあくまで歴劫修行の戒である、という欠陥があることをまとめて挙げられている。そして、それに対して法華経の戒は、二乗や七逆の者にも許し、そのうえに、最も機根の劣った凡夫でさえも、一生のうちに仏の位に至り、妙覚の悟りを得て、仏の因行と果徳の功徳を具えることができる、と述べられている。 
  法華経には、円頓戒の法理は説かれているが、具体的な戒の在り方は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒、四十八軽戒を用いて円頓戒の戒相として、更に、法華経の一乗戒、三如来室衣座の戒、四安楽行の戒などを用いた。
 なお、日蓮大聖人は、四信五品抄において、「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」(0341-12)との伝教大師の末法燈明記の言葉を引かれて、末法は小乗・権大乗の戒は無益であると仰せられ、「受持即観心」といって妙法を受持することを戒とすることを教行証御書で「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1283-10)と明かされている。すなわち、末法においては、三大秘法総在の本門の本尊を受持することが持戒であり、これを金剛宝器戒というのである。この妙法受持のなかに一切の戒はすべて含まれるのであり、いかなる凡夫も「一生の中に仏位に入り妙覚に至って因果の功徳を具する」ことができるのである。これを観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せられているのである。