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日蓮大聖人御書講義5中0390~0409

0390~0404    一代聖教大意
         はじめに
0390:01~0390:01 第一章 総じて「化法の四教」の名を挙げる
0390:02~0390:14 第二章 三蔵教の大旨を明かす
0390:14~0393:10 第三章 三蔵教の行位と証果を明かす
0393:11~0393:13 第四章 通教の大旨を明かす
0393:13~0394:09 第五章 通教の行位と証果を示す
0394:10~0394:13 第六章 別教の大旨を明かす
0394:13~0395:18 第七章 別教の行位と証果を示す
0396:01~0396:05 第八章 爾前の円教の大旨を明かす
0396:05~0396:10 第九章 爾前の円教の行位と証果を明かす
0396:11~0397:01 第十章 爾前の四時を示す
0397:01~0397:05 第11章 爾前は法華経の方便と示す
0397:05~0397:13 第12章 爾前を依経とする諸宗を破す
0397:14~0398:01 第13章 第五時の法華経を示す
0398:02~0388:13 第14章 法華経の趣意を明かす
0398:14~0399:12 第15章 法華経受持の功徳を明かす
0399:13~0400:01 第16章 大乗有縁の国土を明かす
0400:02~0400:06 第17章 妙法五字の義を示す
0400:06~0401:13 第18章 十界互具の義を説く
0401:14~0402:01 第19章 爾前の授記を挙げる
0402:02~0402:10 第20章 一念三千を明かす
0402:10~0402:18 第21章 伝教大師の故事を挙げる
0403:01~0403:08 第22章 十界互具説と外道とを相対す
0403:09~0403:17 第23章 十界互具説無き爾前の咎明かす
0403:18~0404:09 第24章 開会の妙に法華の卓越性見る
0404:10~0405:07 第25章 法華経への人師の誤解を破す
0406~0409    一念三千理事
0406:01~0406:15 第一章 十二因縁の各項の名義を釈す
0407:01~0407:03 第二章 十二因縁の三世両重を明かす
0407:03~0407:10 第三章 流転・還滅の十二因縁を釈す
0407:11~0407:14 第四章 十如是を釈す
0407:14~0407:18 第五章 三種世間を釈す
0408:01~0408:05 第六章 一念三千の構成を明かす
0408:06~0408:18 第七章 智顗・堪然の釈文を引用す
0409:01~0409:07 第八章 三身を釈す

0390~0404    一代聖教大意top
         はじめにtop

本抄の由来
 本抄は日蓮大聖人が御年37歳の正嘉2年(1258)2月、駿河国・岩本実相寺において御述作されたものである。
 大聖人は建長5年4月の立教開宗の後、鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を拠点として弘法を展開されてきた。この間に疫病・飢饉・大地震等、世の終末を思わせるような異常な災害が連続して起きていた。 大聖人は、このような災難が起きる原因を明らかにし、その対治の法を示そうとされ、一切経閲覧のために岩本実相寺の経蔵に入いったのである。そ入られての結果、2年後の文応元年(1260)7月16日、立正安国論をもって、第1回の国主諌暁をなされたのである。
 この一切経五千余巻の閲覧、検索のなかで、本抄の御述作がなされたと拝される。更に一念三千法門、十如是事等の御筆も執られ、翌正元元年(1259)には守護国家界論を著されている。
 なお、正嘉2年(1258)2月14日に、安房の故郷で大聖人の慈父・妙日が逝去されている。この時、大聖人は岩本実相寺に在って、この悲報を受けられたが、帰郷されることなく、ひたすら一切経の閲覧に打ちこまれた。
 また、岩本実相寺において、当時、近くの天台宗四十九院で修学中であった13歳の日興上人は大聖人に御給仕し、その尊容に接して弟子となられた。
 なお、本抄の御真筆については不明であるが、日目の写本が、保田・妙本寺に伝えられている。
本抄の大意
 本抄は、釈尊一代の聖教の大意を述べ、法華経こそ釈尊出世の本懐であることを明らかにされている。釈尊一代所説の法門は八万法蔵ともいわれ、その数は膨大である。これらの経教を整理統合し、勝劣浅深を立てたのが天台大師の「五時八教」の教判であった。大聖人は、一往、この天台の教判を用いながら論述されている。
 内容は大きく前段と後段に分けられる。釈尊一代50年の説法を、前段では「化法の四教」に約し、前段では「五時の説法」に約し、爾前所説の教法の内容を略述し、法華経の所説と相対して勝劣浅深を明らかにされている。
 第一に「三蔵教」について、六道のうち因果の道理を明かしたものであること、戒定慧の三学を立てるが、その主体は戒にあり、声聞の悟りを開いた教法であることを示されている。その行位と証果について「七賢・七聖位」を示し、見思の惑を断じて灰身滅智して、永く三界六道に生れないことを究極の目的とするため、二乗は永不成仏であることを示されている。更に修行の時節、所断の見思惑を明かし、所説の経論を宗旨と示されている。
 第二に「通教」について、まず大乗経の初門であること、所依の経論と修行の時節を述べられ、結論として蔵通二教とも六道の凡夫に本来、仏性ありと説いておらず、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えであることを明らかにされている。
 第三に「別教」については、別して菩薩のための所説であり、行位と証果として「五十二位」を立てることが示されている。そして、別教では二乗は自利に陥るので二乗不作仏として嫌うことを明らかにされている。
 第四に「円教」については華厳・般若・浄名等の爾前の円と法華の円があることを述べられ、爾前の円でも五十二位を立てるが、互いに具して浅深・勝劣がないところに円教たる所以があることを示されている。法華の円については後に譲られている。
 後段においては、五字について明かされる。初めに華厳・阿含・方等・般若等の爾前四時の説法の内容と、その説時を略述し、これらの経教は法華経へと衆生を導くための誘引方便の経法であり、未顕真実の法門であることを明確にされている。
 次に、爾前四時の教法に依っている宗派として、俱舎・成実・律等の小乗の三宗と、華厳・法相・三論等の大乗の三宗を挙げ、これらが立てている教法を究明して、大乗の三宗が一往は小乗の諸宗よりも勝っているが、いずれの宗の依経も法華経には及ばないと決しておられる。
 次に、第五時の法華経については、まず法華経三部十巻を挙げ、次に法華経の経意を究めるには、釈尊一代の教相を明らかにしなければならないとし、その証文を引いて釈し、釈尊一代の聖教は、帰するところ法華経の意義を示すために説かれたものであると述べられている。
 次に、法華経説法の目的は十界の一切衆生を成仏させるためにあったことを、経文を引いて証されている。そして、法華経の五十展転・随喜の功徳が爾前の歴劫修行の功徳に勝るのは、法華経の行者がその行において浅くとも、その功において深いゆえであること、ゆえに法華経が最も末代の衆生に適っていることを、天台大師・妙楽大師の釈に依って証明されている。また「法華翻経の後記」「慧心の一乗要決」等を引き、釈尊滅後において「日本国」は法華経流布の国土であることを明らかにされている。
 次に、広く法華経の法体を明らかにするために、第一に妙法蓮華経の五字の深義を釈され、第二に十界互具・一念三千の法門を示して皆成仏道の妙理を明かし、第三に相対・絶待の二妙を示して、法華開顕の妙用を明かされている。
 最後に、この経が分からない浄土宗の徒が法華経について「経はいみじけれども末代の機に叶わず」と言っている誤りを破折されている。

0390:01~0390:01 第一章 総じて「化法の四教」の名を挙げるtop
0390
一代聖教大意    正嘉二年二月    三十七歳御作
01   四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。                    ・
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 四教は一には三蔵、二には通教、三には別教、四には円教なり。

四教
 化法の四教のこと。天台大師が釈尊の一代聖教を教判の内容によって四種に分類したもの。(1)蔵教・小乗の教。(2)通教・大乗、小乗に通ずる教。(3)別教・大乗のみを説いた教。(4)円教すべてを包摂する円満な教・法華経をさす。
―――
三蔵教
 ①経・律・論の三蔵に説かれた釈迦一代の教えの総称。 ②天台宗で小乗教の異名。
―――
通教
 声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた大乗初門の教えのこと。天台大師が四教義で立てた化法の四教のひとつ。通教の菩薩には前の三蔵教と同じ果を得る者と、さらに深く進んで後の別教・円教の理を悟るものとがある。
―――
別教
 二乗とは別に菩薩のために説いた教えのこと。天台大師が四教義を立てた化法の四教のひとつ。界外の惑を断ずる教であるゆえに、蔵・通とも異なり、隔歴の三諦を説くゆえに円教とも別なので別教ともいう。
―――
円教
 円融円満で完全無欠な教のこと。中国では諸教の教相判釈に対して、最高の教を円教と定めた。法華経のこと。
―――――――――
 この御文は、まず冒頭に「四教」の名を挙げられたものである。ここでの四教とは「化法の四教」をさしている。
 天台大師は「五時八教」の教判を立てた。すなわち釈尊一代の所説の教法を時代、内容、教化の方法によって分類し、位置づけた教判である。「五時」の教判については後段に明かされているのでここでは略すが、「八教」とは「化法の四教」と「化儀の四教」を併せていったものである。
 化法の四教とは仏が衆生を化導・教化するために説いた一切の教法を、その内容によって四種類に分けたもので、一には「三蔵教」、二には「通教」、三には「別教」、四には「円教」というのである。
 参考までに述べれば、「化儀の四教」の「化儀」とは衆生教化の儀式、すなわち化導の形式、方法等をいい、天台八教大意に「頓漸秘密不定は化の儀式にして、譬えば薬法の如し」とあるように、頓・漸・秘密・不定の四教が立てられている。一に「頓教」とは誘引手段をとらず、直ちに大乗の法を説くこと、二に「漸教」とは小乗の法を説き漸々に誘引していく、三の「秘密教」と四の「不定教」は、つぶさには「秘密不定教」「顕露不定教」といい、「不定」とは、同じく説法でありながら衆生によって理解が異なるような化導の方法をいう。そのうち、衆生が相互に、他に法を聴聞している衆生がいるのを知っている公開の説法を顕露不定教、衆生に自分一人が聞いていると思わせる化導方法をとる説法を秘密不定教という。

0390:02~0390:14 第二章 三蔵教の大旨を明かすtop
02   始に三蔵とは阿含経の意なり.此の経の意は六道より外を明さず但し六道地餓畜修人天の内の因果の道理を明す,
03 但し正報は十界を明すなり地.餓.畜.修.人.天.声聞.縁覚.菩薩.仏なり依報が六にて有れば六界と申すなり,此の教の
04 意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へど
05 も横に十方に並べて仏有りとも云わず、三蔵とは一には経蔵亦云定蔵二には律蔵亦云蔵蔵三には論蔵亦云慧蔵なり但
06 し経律論の定戒慧.戒定慧・慧定戒と云う事あるなり、戒蔵とは五戒.八戒.十善戒巻.二百五十戒・五百戒なり・定蔵
07 とは味禅定名・浄禅.無漏禅なり.慧蔵とは.苦.空.無常.無我の智慧なり、戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ
08 者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、 但し上の定計りを修する人は 戒を持たざれども定の力に依つ
09 て上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断
10 じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚
11 とも成るなり、 故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、 さ
12 れば阿含経を総結する 遺教経には戒を説けるなり、 此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依
13 報に随つて六界を明す経と名くるなり、 又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教
14 とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり、声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり。
-----―
 初めに三蔵教とは阿含経の趣意である。この経の趣意は六道より外のことを明かしていない。ただ六道のうちの因果の道理を明かしている。ただし正報については十界を明かしている。すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏である。依報が六つであるので六界というのである。この教えの趣意は六道より外のことを明かさないので、三界以外の浄土という世界があるわけではない。また三世に仏は次第次第に出現するとはいっても横に十方に同時に諸仏がいるとはいえない。
 三蔵とは一には経蔵(また定蔵という)、二には律蔵(また戒蔵という)、三には論蔵(また慧蔵という)である。ただし経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒ということもある。戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒である。定蔵とは味禅(禅を浄と名づく)浄禅・無漏禅である。慧蔵とは苦・空・無常・無我の智慧である。
 戒定慧の勝劣というのは、ただ上述の戒だけを持つ者は三界の内の欲界の人界・天界に生を受ける凡夫である。ただ上述の定だけを修行する人は、戒を持たないけれども、定の力によって上述の戒を具えるのである。この定のうちにある味禅・浄禅を修行する人は三界のうちの色界・無色界へ生ずる。無漏禅を修行する人は声聞・縁覚となって見思惑を断じ尽くして灰身滅智するのである。慧はまた苦・空・無常・無我と我が色心を観ずるので上述の戒、定を自然に具足して声聞・縁覚となって見思惑を断じ尽くして灰身滅智するのである。慧はまた苦・空・無常・無我と我が色心を観ずるので上述の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚ともなるのである。
 故に戒より定は勝れ、定より慧は勝れるのである。しかしながら、この三蔵教の趣意は戒が本体であるということである。だから阿含経を総じて結んだ遺教経には戒を説いているのである。この教えの趣意は依報には六界、正報には十界を明かしているけれども、依報を中心にして“六界を明す経”と名づけるのである。また正報に十界を明かしているけれども、その縁覚・菩薩・仏も声聞の悟りに過ぎないので、ただ声聞教ともいう。だから仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教えである。

阿含経
 釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
因果の道理
 因と果の関係における理法。因は果を生起する原因、果は因によって起こされた結果。仏法では、森羅万象はことごとく因果律が貫かれるとし、特に因果律を掘り下げて説いている。三蔵教における因果の道理として四諦・十二因縁がある。
―――
正報
 「報」は過去の行為の因果が色法の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。三世間の衆生世間・五陰世間。
―――
十界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
―――

 地獄界のこと。十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――

 餓鬼界のこと。梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――

 畜生界のこと。飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
―――

 修羅界のこと。梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
―――

 人界のこと。平凡な人間の生命状態を指す。平均的な能力・平均的な容姿・平均的な頭脳を与えられる。過度に欲望にのめりこまないことに心がければ、来世も平均的な能力・平均的な容姿・平均的な頭脳が与えられるだろうという。
―――

 天界のこと。 「喜ぶは天」とのように、願いがかなって喜びに満ちている境界、また先天的な福運により恵まれた生活が送れるような境界。ただし天上界の喜びは 「天人の五衰」といって永続しない。先天的な福運などはバケツに汲んだ水と同じで、もし今生に仏法に背けば、たちまちに消滅してみじめな境界となる。
―――
声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
縁覚
 縁覚界のこと。縁覚とは辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
―――
菩薩
 菩薩界のこと。菩薩とは菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――

 仏界のこと。完全・絶対の理を覚った人の境地。十界の最上位。覚者・智者・覚・ほとけという。法華経では如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊との十号を明かしている。
―――
依報
 「報」は過去の行為の因果が色法の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。三世間の国土世間。
―――
三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
生処
 ① 死後生まれ変わる所。 ② 生まれた所。出生地。
―――
三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
―――
次第
 ①順序。前後。②少しずつ状態が変わるさま。③成り行き、事情。
―――
出世
 仏がこの世に出現すること。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
経蔵
 仏教の聖典(仏典・三蔵)の一部であり、釈迦の教説である経をまとめたもの。釈迦の死後、僧伽(仏教僧団)では仏教の成り立ちや戒律、その教説などを保全すべく、500人の阿羅漢(五百羅漢)によって結集が開かれ、その内容が文書化され、三蔵としてまとめられた。その内の1つがこの経蔵である。
―――
定蔵
 経蔵の別名。戒・定・慧の三学のうち定学を説くので定蔵という。定は心を一処に定めて動かさず、散乱のない精神作用およびその状態。
―――
律蔵
 「三蔵」における最初の「蔵」であり、「律」に関する文献が収められた領域のこと。
―――
戒蔵
 律蔵の別名。律蔵は戒・定・慧の三学のうち戒学を説くので戒蔵という。
―――
論蔵
 「三蔵」における最後の「蔵」であり、「論」に関する文献が収められた領域のこと。部派仏教の時代、各部派ごとに各種の「論」が作られた、今日まとまった形で現存している部派仏教時代の「論」は、この南伝上座部仏教のパーリ語テキストと、北伝仏教に伝わる漢訳された説一切有部の『六足論』『発智論』のみである。
―――
慧蔵
 論蔵の別名。論蔵は戒・定・慧の三学のうち慧学を説くので慧蔵という。
―――
経律論
 仏法の経典を経蔵・律蔵・論蔵の三種類に分類したもので、三蔵という。経論は一切の教義を蔵める義、経とは仏の教説を集成した経典、律とは仏の定めた修行上の戒律、論とは経典を注釈したもの。戒定慧の三学から見れば、経は定学・律は戒学・論は慧学を説いている。この三蔵には、小乗・大乗・大小の三種の三蔵がある。また仏教経典に精通した人を三蔵法師という。
―――
五戒
 小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
―――
八戒
 在家の男女が,一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。五戒の不邪淫戒を不淫戒とし,さらに装身・化粧をやめ歌舞を視聴しない,高く立派な寝台に寝ない,非時の食をとらない,の三つを加えたもの。八斎戒。八戒斎。
―――
十善戒
 正法念処経巻二に説かれている十種の善業道。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。十善戒とは、身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で十善道ともいう。即ち受十善戒経には「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破り、上、天上に生じ、梵天王となり、下、世間に生まれて転輪王となり十善を教化す」とある。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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五百戒
 比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
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味禅
 三静慮のひとつ。俗人の禅定、貧煩悩として起こる禅定で、煩悩に対する愛着がある。物事の愛着の念を起こすのと同様に、心を一境に味著する禅定をいう。
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浄禅
 三静慮のひとつ。俗人のなかで善行を修した者の禅定で、有漏世間の諸の禅を定といい、法性・仏性を見極め、心に対する愛着から離れていること。
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無漏禅
 三静慮のひとつ。出家して修する者の禅定で、三乗の証得する最高の智慧を初起するところとなる根本の禅定。有漏の禅定に対する語。出世間禅ともいう。これに観禅・練禅・熏禅・修禅の四種がある。漏は煩悩の異名。衆生は煩悩を常に六根から漏泄し、そのために生死のなかにとどめられ三界に流転するので、煩悩を漏という。無漏は迷いの世界に流転しないことの意。煩悩を離れた清浄無垢の境界を得るための静慮を無漏禅という。
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欲界の人天
 欲界とは三界の一つで、淫欲や貪欲等の欲望に支配された有情の世界のこと。上は天上界の六欲天から、中は人界の四大州、下は地下の八大地獄にわたっている。この欲界における人界と天界をいう。
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色無色界
 三界のうちの色界と無色界のこと。①色界。欲界の外の浄名の世界とされ、物質だけが存在する天上界の一部をいう。これに十八天がある。②無色界。仏質のない精神の世界で、最上の天上界をさす。色界は六欲天より高く、無色界は色界よりさらに高いところにあるとされる。
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見思
 見思惑のこと。三惑の一つで見惑と思惑に分かれる。惑は煩悩の異名、迷妄の心・対境に迷って事理を顚倒することをいう。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。爾前経では、この見思を断ずることによって、涅槃が得られ、三界の生死を免れることができるとした。そして、これを断ずる順序があって、まず見惑を断じ、次に思惑を断ずるとし、見惑を断ずる位を見道といい、思惑を断ずる位を修道といった。声聞・縁覚は見思惑を断じて阿羅漢となり、三界の生死を免れて涅槃を得ることができるとする。更に菩薩は後の二惑を断じていく。また見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗に通ずる故に通惑ともいい、塵沙惑・無明惑を別惑という。
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灰身滅智
 身を灰にし智を滅するの意。 一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すこと。小乗仏教の理想とする涅槃の境地。灰滅。無余灰断。
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色心
 色法と心法のこと。すべての存在を五種に分類した五位のふたつ。「色法」は一切の物質的存在のこと。一定の空間を占有し、自他互いに障害しあう性質と変化し壊れる性質を持つとされる。「心法」は心の働き・精神、及び一切法に内在する性質をいう。
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自然
 自爾・法爾・任運・天然・ありのまま・おのずから等。
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遺教経
 鳩摩羅什訳。1巻。釈尊が入滅に際して,弟子たちに最後の説法をなした情景を描く経典。中国,日本で広く普及した。特に禅宗では仏祖三経の一つとして重視する。
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声聞の悟
 声聞における悟りのこと。
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三蔵とは阿含経の意なり・此の経の意は六道より外を明さず
 経典を化法の四教に配すれば、三蔵経に属する経は「阿含経」であるということである。
 阿含経には、一に増一阿含経51巻、二に中阿含経60巻、三に雑阿含経50巻、四に長阿含経22巻の四阿含経がある。結経は遺教経である。
 阿含とは梵語の「アーガマ」の音写で、教、伝来、法帰、法蔵、蔵等と訳されている。伝承された教えとの意で、釈尊の言行、説法を伝え集大成した経蔵全体を総称した言葉であったが、後に大乗仏教が流布してからは小乗経典の意味で用いられるようになった。
 釈尊が成道して57日後、波羅奈国・鹿野苑で陳如の5人のために説いたといわれる。
 釈尊滅後に4回の経典の結集があったが、その第1回、インドのマカダ国・王舎城の南、畢波羅窟において、阿難等の500人の長老比丘衆が結集したのが阿含経典であるとされている。
 増一阿含は51巻からなり、数によって教えをまとめ、禁律を説いており、一法から十一法まで順に並べている。そこから「増一」と名づけられている。
 中阿含は60巻からなり、四諦や十二因縁などが説かれている。経名の「中」とは、集められた経文が、長くも短くもないところから付けられたものである。
 雑阿含は50巻からなる。他の阿含経典に収められていないものを集めている。経名の「雑」とは、種々の経文がまじっているところから付けられたものである。
 長阿含経は22巻からなり、世界の生成などを説く。経名の「長」とは、長い経文を集めたところから付けられたものである。
 「此の経の意は六道より外を明さず」とあるように、阿含経では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の境界、世界までしか明かしていない。したがって「因果の道理」を明かすといっても、六道の範囲内における善・悪の業因縁によって苦・楽を招くことを述べているのである。すなわち六道を前後の二つに分けて地獄・餓鬼・畜生を「三悪」、修羅・人・天を「三善」とし、五逆罪等の悪業の因縁によるとし、「三善」は五戒を持つなどの善業の因縁によると説くのである。
 ただし過去の業によって正しく現在に果報として得た衆生の生命の主体・身心である「正報」については十界を明かしている。つまり、正報については地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道に、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖を加えて十界の差別があることを説いているのである。しかし「依報」の国土については、六道しか明かしていないために、「此の経の意」は結局、六道の凡夫の世界しか明かしていない教えであるということになる。
 「三界」とは悪思想や煩悩に迷わされる衆生が輪廻する住処を欲界・色界・無色界の三種に分けたものである。
 「欲界」は、食欲と性欲を代表とする種々の欲望に支配される世界である。「色界」は、欲望を離れているが色法に縛られている世界である。「無色界」とは、欲望および物質の支配を離れた純然たる精神の世界である。
 なお、この三界六道のなかの天界には、欲界に六欲天・色界に十八天・無色界に四天があり、総じて二十八天があると説かれている。
 また阿含経では、「仏」についても、過去・現在・未来の「三世」において順次に「仏」は出世してくるとはいうが、横に十方に並べて同時に多くの仏が存在するとは説いていない。つまり一方有仏であり、この十方の世界にただ一仏しか存在しないという立場をとっている。
三蔵と三学の関係について
 三蔵教の「三蔵」とは、一に経蔵、二に律蔵、三に論蔵である。
 一に「経蔵」とは梵語の「修多羅蔵」を訳したもので、釈尊所説の教法を集成したものをいい、二に「律蔵」とは梵語の「毘尼蔵」を訳したもので、修行上の禁戒儀則をいい、罪の軽重や戒の特犯等を裁断するところの法則であり、三に「論蔵」とは梵語の「阿毘曇蔵」を訳したもので、釈尊所説の教法を体系づけて論議し、注釈して集めたものをいう。蔵とは、例えば庫蔵に一切の財宝を収めているようなものである。
 大毘婆沙論に「諸仏、出世するや皆三蔵を説く。謂く素怛䌫・毘㮈耶・阿毘達磨なり」とあるように諸仏は経・律・論の三蔵を必ず説くといわれている。また法華文句の巻九上には「小乗三蔵の学とは仏、波羅奈に在りて最初に五人の為に契経修多羅蔵を説きたもう、仏、阿毘曇蔵を説きたもう。五百の羅漢は初夜に阿毘曇蔵相続解脱経を集む、これを三蔵の学となすなり」と述べている。
 釈尊滅後、阿闍世王の外護のもとに、マカダ国・王舎城の南、畢波羅窟で大迦葉を中心に第一回の仏典の結集が行われた。阿難は大衆に推されて経を誦出し、優波離は律を誦出し、迦葉は論蔵を結集したといわれている。
 この三蔵は「戒・定・慧」の三学にそれぞれ配される。経は「定」に、律は「戒」に、論は「慧」にあたるのである。
 一に「戒」とは禁戒のことで、身・口・意の三業の悪を止め非を防いで善を修することをいい、二に「定」とは心を一所に定めて雑念を払い、安定した境地に立つことをいい、三に「慧」とは煩悩を断じて真理を照らし顕すことをいうのである。
 「但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云う事あるなり」とは、一往は経は成、律は戒、論は慧に配されるが、戒は定をたすけ、定は慧を発し、慧によって仏道を証得するというように、三学は相互に関係しあっており、経のなかにも戒・慧が含まれ、律にも定・慧・論にも戒・定が含まれる。ただし、経蔵が定を中心とし、次に戒、第三に慧を置くのに対し、律蔵は戒を中心とし、定・慧を付随して立て、論蔵は慧を中心に、定・慧を立てるように、力点に違いがあるのである。
 次に、小乗阿含経に説かれている戒・定・慧それぞれの内容が示されている。
 第一に「戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり」と。戒蔵には、在家と出家の別によって異なりがある。これは修行上の厳しい道徳的な生活態度、生き方を示したものである。
 「五戒・八戒」とは在家の男女が持つ戒である。五戒とは一に不殺生・二に不偸盗、・三に不邪淫・四に不妄語・五に不飲酒の五種の戒めである。八戒とは八斎戒ともいい、一に殺生・二に不与取・三に非梵行・四に虚誑語・五に飲諸酒・六に塗飾香鬘舞歌観聴・七に眠坐高広厳麗床座・八に食非時食の八種の戒めである。
 また十善戒とは身・口・意の三業にわたって十悪を防止する戒めであり、十善道ともいい、一に不殺生・二に不偸盗・三に不邪淫・四に不妄語・五に不綺語・六に不悪口・七に不両舌・八に不貪欲・九に不瞋恚・十に不邪見の十種の戒めである。
 出家にも比丘と比丘尼戒があり、比丘の持つべき戒として「二百五十戒」が立てられ、比丘尼の持つべき戒として「五百戒」が立てられた。これを持つことによって、一切の小乗の果徳を得ることができるということから「具足戒」ともいう。さらにこれを細分して三千の威儀、八万の細行としているのである。
 第二に定蔵については「定蔵とは味禅定名・浄禅・無漏禅なり」と示されている。
 定蔵とは世間と出世間にわたって三種の禅定の異なりがある。禅定とは「静慮」といい、思慮を静め心を明らかにして真正の理を究めることをいうのである。
 俱舎論巻28には「三等至」と示している。等至とは心と身が平等で安らかな状態をいい、三種の異なりがある。一に味等至とは煩悩に対する愛着がある貪愛と相応して起こる禅定をいい、二に浄等至とは煩悩を有する有漏の善心と相応して起こる禅定をいい、三に無漏等至とは煩悩を離れた清浄な智である無漏智を得るための禅定をいうのである。
 法華玄義の巻四上には一に世間禅・二に出世間禅・三に出世間上上禅の三種の禅定として示している。一に世間禅とは有漏智、すなわち、いまだ煩悩を断じていない世俗智を発するための禅定をいい、根本味禅と根本浄禅の二種に分け、二に出世間禅とは無漏智、すなわち、煩悩を離れた清浄な智を発するための禅定をいい、三に出世間上上禅とはさらに菩提を得るための禅定をいうのである。
 第三に慧蔵については「苦・空・無常・無我の智慧なり」と示されている。
 ここに挙げられている「苦・空・無常・無我」とは「四念処の法門」といい、慧蔵とはこの四念処の法門を究める智慧を阿含経の慧蔵とするのである。
 「四念処」とは一に身念処で、父母所生の肉身は不浄であると観ずること、二には受念処で、苦楽の感である受を苦であると観ずること、三に心念処で、念々に生滅して常住でない心を無常と観ずること、四に法念処で、身・受・心以外の一切の法を自由自在の性がないので無我と観ずるというのである。身・受・心・法を対象として「苦・空・無常・無我の観を起こさせるのは慧であるから、四処念は「慧」を体とするのである。
 要するに、この世は苦の集まりであり、定まるところのない存在であるとし、その根本原因は煩悩にあると説いた。すなわち身は不浄であり、受は苦であり、心は無常であり、法は無我であると説いたのである。したがって、苦の根源である煩悩を断じ尽くし、灰身滅智して色心二法を消滅することが修行の眼目であると教えたのである。
 釈尊在世当時のインドでは、外道の教えは常・楽・我・浄を正しく見ず、執着するという四顚倒に陥っており、享楽主義・刹那主義の風潮が社会を毒していた。すなわち、世間の実相が常住であるのに、これを常とし、無我であるのに、これを我とし、非楽であるのに、これを楽とし、不浄であるのに、これを浄として執着するという顚倒した見方を把握していた。このような顚倒に対して、釈尊は「四念処の法門」と説いたのである。
 四諦の法門とは、仏の悟った四つの真実をいい、四聖諦とも四真諦ともいう。その四諦の一に「苦諦」とは、三界・六道が苦しみと迷いの世界であることをいい、二に「集諦」とは、苦を集め起こす因は煩悩であることをいい、三に「滅諦」とは、煩悩を滅することが悟りの境地であることをいい、四に「道諦」とは、悟りに達するためには八正道という正しい修行法によらなければならないことをいうのである。
 苦・集の二諦は、迷いの世界の苦を果として集を因とする世間有漏の因果を意味し、生死流転の因果を明かしたものといえる。滅・道の二諦は悟りの世界の滅を果とし道を因とする出世間無漏の因果を表し、生死の苦悩を離れ煩悩を断じて寂滅の悟りを得る因果を説いたともいえる。
 このような世間・出世間の因果については、俱舎論巻22に「故に修行者は加行位の中に最初に苦を観ず。苦はすなわち苦諦なり。次にまた苦は誰を以って因となすかを観ず。すなわち苦の滅を観ず。因はすなわち集諦なり。次にまた苦は誰を以って滅となすかを観ず。すなわち苦の滅を観ず。滅はすなわち滅諦なり。後に苦の滅は誰を以って道を観ず。すなわち滅の道を観ず。道はすなわち道諦なり」とある。
戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり
 次に戒定慧の三学について「戒」よりは「定」が勝れ、「定」よりは「慧」が勝れていることを述べ、三蔵教が三学中、最も劣る「戒学」を主体に説かれた教法であることを示されている。
 その理由を次のように示されている。
 第一に、ただ「戒」ばかりを持ち、「定・慧」を修学しない者は、三学のうちの最下にある欲界のなかの人・天に生を受けるだけの凡夫であり、欲界以上の色天や無色天に生を受けることはできないのである。
 第二に、ただ「定」ばかりを修学する人は、別に「戒」を持たなくとも禅定修行の力によって「上の戒を具する」のである。その「定」のなかで、味禅・浄禅を修学する人は、三界のなかでも欲界の上にある色界・無色界の天に生まれ、無漏禅を修学する人は三界六道を出離し、声聞・縁覚の境界となって見惑・思惑を断じ尽くし、この苦果の色身を焼き尽くして灰となし煩悩の心智を滅して涅槃を証するとされる。
 無漏禅の者について「見思を断じ尽し」と仰せられているのは、一切の迷いを三種に分けた「三惑」のなかの見思惑を断じ尽したということである。見思惑とは三界六道の苦果を招く惑をいい、見惑と思惑の二つに分けられる。見惑は事物の道理に迷う後天的・知的な惑であり、思惑とは俱生惑ともいって、生まれつき具わっている貧・瞋・癡等に起因する本能的迷いをいう。  この見思惑は声聞・縁覚・菩薩が共通して断ずべき惑なので「通惑」ともいう。三惑には見思惑のほかに、塵沙惑と無明惑があり、塵沙惑とは大乗の菩薩が他を救済・化導する時に起きてくる無数の障害をいい、無明惑とは中道法相の悟り、成仏を妨げる一切の煩悩の根本の惑をいう。塵沙・無明の二惑は菩薩のみが断ずる惑なので「別惑」ともいわれている。
 また、文中の「灰身滅智」とは、小乗教においては、一切の煩悩が生ずるよりどころとなる色身を灰にし、心智を滅することによってのみ、二乗の最高の果位で理想の境地である無余涅槃に入るとされている。すなわち、心の煩悩を断じ尽して、身を焼いて灰にしてしまえば、色心ともに断尽して再び三界六道に生を受けないということである。無余涅槃とは余すところ無く色心の両面にわたって煩悩を断じ尽した悟りの境地をいうのであるが、これに対して、心の煩悩を断じ尽しても、苦果の依身を残している境地を有余涅槃というのである。
 第三に、「慧」を修する者は、我が色心すべて苦であり、その苦が集まるのは煩悩によるのであり、煩悩を滅することが悟りであり、そのために八正道を修すべきであると悟って「戒・定」の二学を自然に具足して声聞・縁覚の境界ともなるのである。
 以上のように三学の勝劣を究明してくると、「戒」を修する者は欲界の人天、「定」を修する者は「色無色」で一部は「声聞・縁覚」、「慧」を修する者は自然に「声聞・縁覚」となるのであるから、「戒」よりも「定」が勝り、「定」よりも「慧」が勝ることは明らかである。
 しかるに「此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり」と仰せられているように、小乗阿含の三蔵教は戒を本体としているのである。釈尊一代の仏法において、小乗阿含経は仏教の初歩であり、仏道修行の初門である。したがって、内面的な思索、観念の修行よりも、具体的な日常の実践項目を示した「戒」を主体として説かれたのである。教法も修行も説法の次第も段階を踏んで大乗教へと進むにしたがって、「慧」に重点が置かれていく。なかでも法華経・本門寿量品に至っては成仏の根本となる「仏慧」が本体となるのである。「されば阿含経を総括する遺教経には戒を説けるなり」と。遺教経とは仏が涅槃に臨んで諸弟子のために最後の教誡を説いたもので、小乗の涅槃経といわれている。この経の意は、波羅提木叉を大師とし、五根を制して心を戒め、八大人覚を修して放逸に流れず、更に精進すべきことを説いて、最後に「今より已後、我が諸の弟子展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常に在りて滅びざるなり…汝等比丘、常に当に一心に出道を勤求すべし。一切世間の動・不動の法は皆是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止めよ。復語るを得ること勿れ。時将に過ぎんと欲す。我、滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり」と述べて遺訓としている。
此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す
 この三蔵教の意は正報の主体については十界を明かすのであるが、依報の国土にしたがっていえば六道にとどまっており、諸大乗教のように方便・実報・寂光の国土を説いていない。いくら正報に十界を説いても、依報たる国土が明かされなかったならば、正報の住する国土がなく、その正報は有名無実である。したがって、この三蔵教は所詮、三界六道の界内を出ることはないのである。それを「依報に随って六界を明す経と名くなり」といわれているのである。
 また、縁覚・菩薩・仏が説かれているといっても、三蔵教で説かれている悟りは、灰身滅智して無余涅槃に入ることであり、姿は縁覚・菩薩・仏であっても、その悟りの内容は声聞の悟りを出ていない。そのゆえに、総括して「声聞教」というのであると仰せられている。

0390:14~0393:10 第三章 三蔵教の行位と証果を明かすtop
18                           声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり。
0391
01                  ┌ 一に五 停 心 ┐
02              ┌三 賢┼ 二に別想念処 ┼外凡
03              │   └ 三に総想念処 ┘
04   七聖三 正と言う事なり┤   ┌ 一にナン 法 ┐
05              │   ├ 二に頂  法 ┼内凡 慧
06              └四善根┼ 三に忍  法 ┤
07                  └ 四に世第一法 ┘
08   此の七賢の位は六道の凡夫より賢く生死を厭ひ煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり、例せば外典の許由巣
09   父が如し。
10       ┌ 一に数息 息を数えて散乱を治す
11       ├ 二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す
12   五 停 心┼ 三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す
13       ├ 四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す
14       └ 五に界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う
15       ┌ 一に身 外道は身を浄と言い仏は不浄と説き給う
16   別想念処┼  二に受 外道は三界を楽と言い仏は苦と説き給う
17       ├ 三に心 外道は心を常と言い仏は無常と説き給う
18       └ 四に法 外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う
0392
01  外道は常心楽受我法浄身仏は苦.不浄.無常・無我と説く総想念処とは先の苦・不浄.無常.無我を調練して観ずるな
02 りナン法は智慧の火・煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり故にナン法と云う、頂法は山の頂に登つて四方を見るに雲無き
03 が如し、世間出世間の因果の道理を委く知つて闇き事無きに譬えたるなり、 始め五停心より此の頂法に至るまで退
04 位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ 而れども此の頂法の善根は失せずと習うなり、 忍法は此の位に入る人は永く
05 悪道に堕ちず、世第一法は此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり。
06                      ┌隋信行─鈍根
07             ┌ 一に見 道 二┴隋法行─利根
08             │        ┌信 解─鈍根
09  七聖三 正と言う事なり┼ 二に修 道 三┼見 得─利根
10             │        └身 証─利鈍に亘る
11             └ 三に無学道 二┬慧解脱─鈍根
12                阿羅漢   └倶解脱─利根
13   見・思の煩悩を断ずる者を聖と云う、此の聖人に三道あり,見道とは見巻思の内の見惑を断じ尽くす,此の見惑を
14 尽くす人をば初果の聖者と申す、此の人は欲界の人・天には生るれども永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず、天
15 台云く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、 此の人は未だ思惑を断ぜず貪・瞋・癡・有り、身に貪欲ある故に妻
16 を帯す、而れども他人の妻を犯さず、 瞋恚あれども物を殺さず、鋤を以て地をすけば虫・自然に四寸去る、愚癡な
17 る故に我が身・初果の聖者と知らず、婆娑論に云く「初果の聖者は妻を八十一度・一夜に犯すと」取意天台の解釈に
18 云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、 第四果の聖者・阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、
0393
01 永く見思を断じ尽して 三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、 又此の教の意は三界
02 六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず 又生因なく但灰身滅智と申して身も心も
03 うせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり、此の教の修行の時節
04 は声聞は三生鈍根六十劫利根又一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり、縁覚は四生鈍根百劫利根
05 菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず而も四弘誓願を発し六度万行を修し三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る仏と成
06 る時始めて見思を断尽するなり,見惑とは一には身見亦我見と云う二には辺見亦断見常見と云う三には邪見亦撥無見と云う四に
07 は見取見亦劣謂勝見と云う 五には戒禁取見亦非因計因非道計道見と云うなり見惑は八十八有れども此の五が根本にて有るなり
08 思惑とは一には貪.二には瞋.三には癡.四には慢なり思惑は八十一有れども此の四が根本にて有るなり,此の法門は阿
09 含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり、別して倶舎宗と申す宗有り又諸の大乗に此の法
10 門少少明す事あり・謂く方等部の経・涅槃経等なり但し華厳・般若・法華には此の法門無し。
-----―
 声聞について七賢・七聖の位がある。六道は凡夫である。
                 ┌ 一に五 停 心 ┐
             ┌三 賢┼ 二に別想念処 ┼外凡
    智と言うことである│   └ 三に総想念処 ┘
   七聖        ┤   ┌ 一にナン 法 ┐
             │   ├ 二に頂  法 ┼内凡 慧
             └四善根┼ 三に忍  法 ┤
                 └ 四に世第一法 ┘
 この七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭い煩悩を具えながら煩悩を起こさない賢人である。例えば外典の許由・巣父のよである。
       ┌ 一に数息 息を数えて散乱を治す
       ├ 二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す
   五 停 心┼ 三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す
       ├ 四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す
       └ 五に界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う
       ┌ 一に身 外道は身を浄と言い仏は不浄と説き給う
   別想念処┼ 二に受 外道は三界を楽と言い仏は苦と説き給う
       ├ 三に心 外道は心を常と言い仏は無常と説き給う
       └ 四に法 外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う
 外道は、心は常、受は楽、法は我、身は浄と説き、仏は苦・不浄・無常・無我と説く、総想念処とは前の苦・不浄・無常・無我を修練して総合して観ずることである。
 ナン法は智慧の火をもって煩悩の薪を蒸すと煙の立つようなものである。頂法は山の頂に登って四方を見るときに雲がないようなものである。世間・出世間の因果の道理を詳しく知って暗いことがないのに譬えたものである。初めの五停心からこの頂法の善根は消えないと教わっている。忍法は、この位に入る人は永く悪道に堕ちない。世第一法は、この位に至る賢人である。やがて聖人となるのである。
                      ┌隋信行─鈍根
             ┌ 一に見 道 二┴隋法行─利根
   正ということである │        ┌信 解─鈍根
  七聖三        ┼ 二に修 道 三┼見 得─利根
             │        └身 証─利鈍に亘る
             └ 三に無学道 二┬慧解脱─鈍根
                阿羅漢   └倶解脱─利根
 見惑・思惑の煩悩を断ずる者を聖という。この聖人に三道ある。見道とは見思惑のうちの見惑を断じ尽くすことで、この見惑を断じ尽くす人を初果の聖者という。この人は欲界の人界・天界には生まれるけれども、永く地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣には堕ちない。天台大師は「見惑を破るゆえに四悪趣を離れる」と述べている。この人はいまだ思惑を断じておらず、貪・瞋・癡が残っている。身に貪欲あるゆえに妻をめとる。
 けれども他人の妻を犯さない。瞋恚はあるが生き物を殺さない。鋤をもって地をすけば虫が自然に四寸離れる。しかし愚癡であるゆえに我が身が初果の聖者と知らない。婆娑論には「初果の聖者は妻を八十一回、一夜に犯すと」(取意)説かれている。天台大師の解釈には「初果の聖者が地を耕すときに虫が四寸を離れるのは道共戒の力である」とある。
 第四果の聖者である阿羅漢を無学といい、または不生という。永く見思惑を断じ尽くして、三界六道にこの生が尽きて後、再び三界に生ずることはない。見思の煩悩がないゆえである。また、この教えの趣意は三界六道の外に他の世界を明かさないので、来世に仏に生まれる所があると知らず、身に見思惑以外の煩悩があるとも知らない。また三界に生まれる因がなく、ただ灰身滅智といって身も心も滅し大空のように成ると教わる。法華経でなければ永く仏に成れないというのは二乗のことである。
 この教えの修行の期間については、鈍根の声聞は三生の間、利根の証文は六十劫の間といい、また同じ類のうち最上利根の声聞は一生のうちに阿羅漢の位に登ることがある。鈍根の縁覚は四生の間、利根の縁覚は百劫の間、修行する。菩薩は一向に凡夫であって見思惑を断じない。しかも四弘誓願をおこし六波羅蜜・万行を修し、三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏となる。仏となる時、初めて見思惑を断じ尽くすのである。
 見惑とは、一には身見(また我見という)、二には辺見(また断見常見という)、三には邪見(また撥無見という)、四には見取見(また劣謂勝見という)、五には戒禁取見(また非因計因非道計道見という)である。見惑は八十八あるが、この五つが根本なのである。思惑とは、一には貪、二には瞋、三には癡、四には慢である。思惑は八十一あるがこの四つが根本なのである。この法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論にことごとく明かされている。別して倶舎宗という宗がある。また諸大乗経にこの法門が少々明かされることがある。つまり方等部の経々、涅槃経等である。ただし華厳経・般若経・法華経にはこの法門はない。

七賢
 小乗教における見道以前の声聞の位を七つに分けたもの。七方便位、七加行位ともいう。
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七聖
 小乗教における七賢より上の位を七種に分けたもの。随信行・随法行・信解・見得・見証・時解説羅漢・不時解脱羅漢をいう。
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凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
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三賢
 小乗教で説く声聞の位のこと。五停心観・別相・総相をいう。これに四善根を合わせたものを七賢といい、四善根を内凡とし、三賢を外凡とする。
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五停心
 五停心観のこと。大乗仏教・中国仏教圏における、止行に向けて心を落ち着ける5種の導入部的瞑想方法を総称した言葉。上座部仏教圏における四十業処に相当する。
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別想念処
 声聞の位の三賢の第二。小乗の修行のひとつで、身念処・受念処・心念処・法念処の四念処を一々に観ずる位のこと。
―――
総想念処
 声聞の位の三賢の第三。念とは観のことで、処は念ずる対境をいう。小乗三賢位の第三。身・受・心・法の四念処を不浄・不楽・無常・無我と別々に観じおわった後、この四念処を分けずに総合し、四念処の全体が苦・空・無常・無我と観ずること。
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外凡
 仏道修行のひとつで、いまだ悟りに至らない凡夫の初期の修行の段階。内凡に対する語。①小乗教では五停心観・別相念処・総相念処の三賢の修行の位。②大乗では(1)通教・大品十地中の乾慧智。(2)別教・五十二位の十信。(3)円教・六即中の観行即。
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四善根
 小乗教で説く声聞の位のこと。煗法・頂法・忍法・世第一法をいう。
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善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
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煗法
 四善根位の第一位、七賢位の第四位。煩悩を焼き尽くす無漏慧に近づいて有漏の善根を生ずる位。煗位ともいう。煗は暖かみ、煙のこと。四諦の理を観じて、十六行相を修する位。
―――
頂法
 四善根位の第二位、七賢位の第五位。小乗教における声聞の修行の位のひとつ。退・不退の境目にある不安定な善根の位であるが、そのなかで最高の禅根を積み、退して地獄に堕ちても善根を断つことがないという。
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忍法
 四善根位の第三位、七賢位の第六位。小乗教における声聞の修行の位のひとつ。四諦の理を最もよく認可し定まって動かない善根を生じ、悪道に堕すことがない。
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世第一法
 四善根位の第四位、七賢位の第七位。小乗教における声聞の修行の位のひとつ。有漏法のうち最上の善根を生ずるっ位で、瞬時にして見道の位に入って聖者になるという。
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生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
―――
煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
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外典
 仏経典以外の典籍。内典に対する語。
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許由
 中国古代の三皇五帝時代の人と伝わる、伝説の隠者である。伝説によれば、許由は陽城槐里の人でその人格の廉潔さは世に名高く、当時の堯帝がその噂を聞き彼に帝位を譲ろうと申し出るが、それを聞いた許由は箕山に隠れてしまう。さらに堯帝が高い地位をもって許由に報いようとすると、許由は潁水のほとりにおもむき「汚らわしいことを聞いた」と、その流れで自分の耳をすすいだという。それを見聞きしていたやはり伝説の高士として知られる巣父は、まさに牛にその川の水を飲ませようとしていたが、「牛に汚れた水を飲ませるわけにはいかぬ」と立ち去ったという。
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巣父
 中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者という。 許由とともに隠者の代表とされ、セットで出てくる。 許由が尭からの話を聞き耳を洗った川の下流で、巣父は牛に水を飲ませようとした。 ところが「汚らわしい話を聞いた耳を洗った水を飲ませるわけにはいかない」と、水を飲まずに帰っていった。 位などを求めることなく、高潔を保とうとした。
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数息
 数息観のこと。呼吸を数えて精神の統一・安定を図る方法。座禅の初心者の修行法に用いる。五停心観のひとつ。
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不浄
 不浄観のこと。肉体の不浄を観じて貪欲を離れる観法。五停心観の一つ。具体的には、異性に対する欲望を制するため、死後の肉体が次第に腐蝕して白骨となる姿を心に観想すること。
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貪欲
 貪ること。三毒のひとつ。一切の煩悩の根本の一つ。世間の事物を貪愛し五欲の心に執着する働き。
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慈悲
 一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
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嫉妬
 ねたみ、そねむことと。
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因縁
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
―――
十二因縁
 生命流転の因果関係を12に分けて説いたもの。権大乗教で説く苦しみの因縁である。十二因縁とは、過去の二因 ①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとする説。
―――
愚癡
 ①言ってもかいのないことを言って嘆くこと。泣き言、不平不満など。②仏法の事理を理解することができないこと。三毒のひとつ。闇愚癡昧の義。
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界方便
 界方便観のこと。界分別観・界差別観・分析観・念仏観ともいう。有情を構成する要素である六界を感じて諸法はことごとく仮に六界の和合したものとして修行上の障りを取り払うことをいう。五停心観のひとつ。
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地水火風空識の六界
 「六大」ともいう。宇宙万有の本体である六種の構成要素のこと。物質界の構成要素である地水火風空に精神界の構成要素である識大を加えたもの。
―――
障道
 仏道修行の妨げをなすもの。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――

 四念処の一つ、身念処のこと。わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――

 浄らかなこと。四顚倒のひとつ。
―――
不浄
 汚れていること。
―――

 四念処の一つ、愛念処のこと。感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
―――

 楽しみ、生命の快い状態のこと。四顚倒のひとつ。
―――
苦四念処の一つ、身念処のこと
 梵語ドゥフカ(Duhkha)の訳で、苦しみ、心身を悩ます不快のこと。身と心を区別して、身に感ずる苦と、心に感ずる憂に分ける場合もある。楽に対する語で種々に分類されている。①二苦。老病死など自己の身心から起こる苦と外部から受ける苦の二つ。更に外苦には、悪人・獣などによる害苦と風雨寒熱など自然による災害の二種がある。②三苦。1.風水害・天災など好ましくない対象から感ずる苦、2.好ましい対象が崩れる時に感ずる苦、3.森羅万象が無常に感ずる苦。③四苦。生・老・病・死の四苦。④八苦。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八つの苦しみ。生老病死を一苦とし、五苦とする場合もある。⑤十苦。生苦・老苦・病苦・死苦・愁苦・怨苦・苦受・憂苦・病悩苦・流転大苦。⑥瑜伽論で説く110苦。⑦老・病・死を三種の身苦、貧・瞋・癡を三種の心苦ということもある。⑧苦の迷界は有漏から起こるので有漏の異名として用いられる。⑨三道(煩悩・業・苦)のひとつ。⑩四諦(苦・集・滅・道)のひとつ。⑪涅槃経には上苦・中苦・下苦の三種が説かれている。
―――

 四念処の一つ、身念処のこと。心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。・貪欲とは、執着、欲張り、貪り、等である。・瞋恚とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。・愚痴とは、妄想、怠け、無自覚、等である。私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。
―――

 過去・現在・未来の三世にわたって常に存在し、生滅変化がないこと。四顚倒のひとつ。
―――
無常
 常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
―――

 四念処の一つ、身念処のこと。諸法は無我であると観察する。諸々の法には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。意識の対象を観察する。 私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
―――
一切衆生
 すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
―――

 すべてのものの根源に内在しているそれぞれの個体を統一し、支配する不変の実態のこと。四顚倒のひとつ。
―――
無我
 我の存在を否定すること。我とは常一に主宰するものありとする意で、一切はすべて無常であるから、我の存在することはないと説く。
―――
調練
 訓練を積むこと。熟練・調習。受は苦・身は不浄・心は無常・法は無我を別々に観ずるのではなく、それらを分けずに総合的に習練し、一切の法が苦・不浄・無常・無我と観ずること。これを総相念処という。
―――
智慧の火・煩悩の薪
 智慧を火・煩悩を薪にたとえた語。智慧の火をもって煩悩の薪を熏すと、煙が生ずるようであるということから、四善根の第一を煗法という。
―――
世間
 ①世の中・世俗のこと。②六道の迷界のこと。③三世間・有情世間・器世間などのように差別の意をあらわす。
―――
出世間
 世間を出離・越出すること。生死の苦しみ・煩悩の迷いを脱した涅槃・菩提の境地をいい、この出世間の法を出世間法という。
―――
退位
 位を退くこと。仏法においては退転を意味する。
―――
悪縁
 悪い縁のこと。三悪道・四悪趣に堕ちる縁となるもの。
―――
悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
七聖三
 聖人に三道・さらに分けて七種あることを意味する。
―――
見道
 四諦を見る段階のこと。行位三道の一つ。仏道修行の過程で見惑を断ずる位をいう。
―――
隋信行
 仏の説いた教法を他人から聞いて信じ、それに随って修行するもので、見道の位にある鈍根の者。
―――
鈍根
 鈍い機根の意で、仏法を受容する理解力の鈍いこと。機根が劣っていて、仏道修行する力が乏しいものをいう。
―――
隋法行
 他によらず、自ら正しい教法に随って修行する者で、見道の位にある利根の者。
―――
利根
 利は鋭利、根は信根不疑等の五根、あるいは眼等の五根である。鈍根に対する語。能力の鋭利なものをいう。
―――
修道
 仏道を修行すること。仏語。三道の第2の位。見道で悟った真理を、具体的な事象の上で反復して観察する段階。
―――
信解
 上根の声聞である舎利弗は、方便品第二の十如実相を聞いて信を起こし解了する。今、中根の四大声聞は、先の譬喩品の三車家宅の譬えを聞き、信解品で信解するのである。「信解」の意義については、御義口伝に「、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり」(0725-第一信解品の事-03)とある。
―――
見得
 見至ともいう。修道にある利根の者が自ら法を見て理を得る位をいう。
―――
身証
 滅尽定に入り、身に静寂の楽を得た不還果の位をいう。
―――
無学道
 煩悩を断じて更に学ぶべき何ものもない位のこと。
―――
阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
―――
慧解脱
 智慧の力によって見思惑を断じ尽くしたが、定による解脱を得ていない阿羅漢のこと。
―――
倶解脱
 智慧の力によって煩悩の障礙を断じ尽くし、その上に定による解脱を得た阿羅漢のこと。
―――
初果の聖者
 声聞の悟りの初位。四沙門果の最初の須陀洹果を得た小乗教における聖人の意。欲界・色界・無色界を断じつくした聖人のこと。
―――
四悪趣
 四悪・四趣・四悪道と同意。悪行によって趣くべき四種の苦悩の境涯。地獄・餓鬼・畜生・修羅界のこと。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
貪・瞋・癡
 十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。 
―――
婆沙論
 説一切有部の教説の注釈書。旧訳は北涼の浮陀跋摩・道泰の共訳による「阿毘曇毘婆沙論」60巻、新訳には玄奘三蔵訳の「阿毘達磨大毘婆沙論」200巻がある。
―――
道共の力
 色界四禅に入ることによって止悪の働きを得る戒。
―――
第四果の聖者
 小乗教における声聞の四種の果を四沙門果といい、その第四果のものをいう。
―――
無学
 更に学ぶべきものがないこと。阿羅漢果にあたる。
―――
不生
 生じないことをいうが、仏法には四意がある。①如来の異名。②阿羅漢の異名。③涅槃を不生という。④真言宗の教義で「阿」の義をいう。
―――
生因
 物事を生じさせる原因。
―――
虚空
 空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
―――
法華経
 大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
声聞は三生鈍根
 声聞の四果のうち最高の阿羅漢果を得る者で最も早いものは三生を経るのみとある。すなわち第一に順解脱分・第二に順決択分を生起し、第三生で阿羅漢果を得る。
―――
六十劫利根
 利根の声聞は60劫を経て阿羅漢果を得る。鈍根の声聞より長時間修行するのは、利根の声聞のほうがいささか利生の思いがあり、長期間の修行を厭うことなく耐えられるためである。
―――
一類の最上利根の声聞
 声聞のなかでも最高の利根の者。最上利根とは五根が勝れ、証果の最も勝れた衆生のこと。
―――
縁覚は四生鈍根
 鈍根の縁覚は四回の生死で辟支仏果に至るとの意味。
―――
百劫利根
 利根の縁覚は100劫を経て辟支仏果に至るとの意味。
―――
四弘誓願
 すべての仏・菩薩 が起こす四つの誓願。限りなく多くの衆生 を済度しようという衆生無辺誓願度、計り知れない煩悩を滅しようという煩悩無量誓願断、尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願知、無上の悟りに達したいという仏道無上誓願証をいう。
―――
六度万行
 仏道を得るための菩薩行で、六度とは六波羅蜜ともいい、布施・持戒・忍辱・禅定・精進・智慧をいい、その行が万差であるので、六度万行という。
―――
三僧祇・百大劫
 菩薩が成仏するまでに経過する長い時間。三阿僧祇劫にわたって、六度の行を修め、さらに百劫の間、を感得するための福業を修めて成仏するという。阿僧祇は無数と漢訳する。
―――
三蔵教の仏
 四土のうち、人・天等の凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土である凡聖同居土に住する蔵教の仏のこと。凡夫・二乗・初地末登の菩薩に応じて示現する仏で、劣応身・小釈迦という。
―――
身見
 見惑のなかの五利使のひとつ。自我に執着する考え。
―――
我見
 見惑のなかの五利使のひとつ。身見に同意。自我に執着する考え。
―――
辺見
 見惑のなかの五利使のひとつ。中正を得ないで一辺に偏る考えをいい、生命は死によって消滅するという
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断見常見
 見惑のなかの五利使のひとつ。辺見と同意。中正を得ないで一辺に偏る考えをいい、生命は死によって消滅するという
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邪見
 見惑のなかの五利使のひとつ。因果の道理を無視する考え。
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撥無見
 見惑のなかの五利使のひとつ。邪見と同意。因果の道理を無視する考え。
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見取見
 見惑のなかの五利使のひとつ。三見に固執し、劣っているものを勝れていると見る考え。
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劣謂勝見
 見惑のなかの五利使のひとつ。見取見と同意。三見に固執し、劣っているものを勝れていると見る考え。
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戒禁取見
 見惑のなかの五利使のひとつ。仏法上戒められ、禁じられている邪行に固執する考え。
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非因計因非道計道見
 「因に非ざるを因に計り道に非ざるを道に計る見」と読む。見惑の中の五利使のひとつ。戒禁取見のこと。俱舎論によると、煩悩によって起きるもので、因ではないものを因と考え、道でないことを道であると思う誤った見方。邪な戒律を苦を滅する因としたり、誤った修行を涅槃の道とする僻見をいう。
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見惑は八十八
 正見を妨げる身惑に88種があること。見惑八十八使という。即ち見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88となる。
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思惑は八十一
 三惑の一つである見思惑の思惑に81種があること。修惑八十一品という。即ち修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする。
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婆沙論二百巻
 阿毘達磨大毘婆沙論のこと。略して大毘婆沙論ともいう。迦弐志加王の要請に応じて、付法蔵の第九、脇比丘のもとで五百人の阿羅漢が十二年間をついやしてつくったといわれる。内容は迦多衍尼子の著「阿毘達磨発智論」に対する諸論師の註釈を集めたものであるが、編集規模の大きさから仏典の第四回結集とされる。
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正理論
 インドの仏教論理学者である商羯羅主が著わした仏教論理学の入門書である。玄奘訳。陳那の因明正理門論を基礎としつつ、論理的誤謬をとりあげて「三十三過」として、詳しい説明が簡明になされている。この論が翻訳されて後、中国において基によって『因明入正理論疏』が出てから、大変多くの註釈が著わされた。その後、法相宗が日本に伝わると、本論および因明大疏も伝わり、さらに多くの註釈が加えられた。
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顕宗論
 阿毘達磨顕宗論のこと。インドの衆賢の著・玄奘訳。小乗教の一派である説一切有部の教理を宣揚したもの。説一切有部の正当理論を述べる目的で著されている。
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倶舎論
 「阿毘達磨倶舎論」のこと。30巻。世親著・玄奘訳。阿毘は対・達磨は法、・俱舎は蔵と訳し、対法蔵論と名づけられる。四諦の理を対観し、知識として含蔵する論との意。倶舎宗正依の論。内容は当時の広範な知識が駆使されており、迷いや悟り、その因果、また無我の理が説かれているが、主として大毘婆沙論を釈して批判したもの。九品からなる。漢訳には陳の真諦が訳した阿毘達磨倶舎釈摩訶衍論論22巻と玄奘訳の二種がある。
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倶舎宗
 仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
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 宗派・宗旨。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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方等部の経
 方等部に説法した種々の経典の総称。小乗を弾呵し一切衆生に広く平等に教法を説きしめしたもの。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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 ここでは、三蔵教の教えに随って声聞を修める者の位と悟りの果報を明かされ、声聞行の位階である七賢の位をそれぞれ具体的に図示されるとともに、簡潔な解説を加えられている。
声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり
 六道が凡夫の境界であるのに対し、声聞に七賢七聖の位があるということである。
 三界六道を生死生死と輪廻し、その輪廻の原因である煩悩を克服し悟りを開こうとも考えないのが凡夫である。小乗教の声聞は、そのような六道の境界から一歩進んで空理の悟りに到達するために仏道修行に励むのである。
 だが、この修行にも浅深があり、大きく見道・修道・無学道の三道に分けられる。見道とは四諦の法理をみる段階のことで、それによって見惑を断じていく位である。次の修道とは見道の位を超えて、更に修習して思惑を断ずる位である。最後の無学道とは、修行の結果、煩悩を断じて更に学ぶべきもののない位で、声聞の四果の第四・阿羅漢果にあたる。
 声聞の七賢位は六道の境地を脱却しようとして修行を続けてはいるが、末だ見道に到達していない段階を七つに分けたものである。いわば、後の七聖の位に入る準備段階であり、そこから七方便位ともいう。後の七聖を聖位というのに対して、七賢はあくまで凡位にすぎない。しかし、凡位ではあっても、それ以前の六道の凡夫は上位であることを示すために七賢位とするのである。
 本文において、七賢を図示して三賢の外凡と四善根の内凡とがあることを明かされた後の御文で「此の七賢の位は六道の凡夫より賢く生死を厭ひ煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり、例せば外典の許由巣父が如し」と説かれているとおりである。
 つまり、七賢の位は同じ凡位ではあっても、六道の凡夫よりは賢く、生死の苦を厭うて、より高い境地に至ろうとして声聞の修行を修めようとしている。したがって、末だ見思惑の煩悩を断ずるという七賢の位には入っていないために、内には煩悩を抱いていても、煩悩を発動しないという修行を行っているゆえに賢人なのであり、その意味で、中国の外典に説かれる許由、巣父のような境界であるとされている。
 これに対して七賢位は、後述するように、声聞の修行が進んで見惑や思惑などの煩悩を断じてついには空理を証得する過程を七つの段階に分けたものである。
 以上から、六道の凡夫→七賢位と登っていくことは明らかであるが、この御文は同じ凡位のなかでも六道の凡夫と七賢位との相違を指摘されているのである。
三賢位と四善根について
 七賢の位は前述のとおりの凡位であるが、図示のとおり三賢位が凡外で、四善根が内凡とされている。外凡とは、五停心・別相念処・総相念処の三段階の修行が四諦の法理を見るという悟りの境界からすればまだ“外”にある凡位をいう。これに対して四善根を積んで見道の悟りの“内”なる凡位に至っているのを内凡といい、四諦の法理に接近した位であるとされている。
①三賢位
 初めに七賢位のうち、外凡である三賢位について図示されている。
 三賢位のなかの第一「五停心」とは「五停心観」のことであり、たんに「五観」ともいう。五つの観によって貧・瞋・癡などの五つの惑を停止するのである。
 「一に数息 息を数えて散乱を治す」とは、数息観であり、持息念ともいわれている。梵語では阿那波那といい、阿那とは呼吸のとき、入る息、阿波那とは出す息のことである。すなわち入る息、出る息を整え、心の散乱を冶す観である。
 「二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す」とは、不浄観である。我が色心は、本来、不浄であることを観じて、貪欲を治すのである。
 「三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す」とは、慈悲観である。一切衆生を慈しみ憐れむ慈悲を観ずることによって、嫉妬の心を治すことである。
 「四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す」とは、因縁観である。三界六道における迷いの因果を過去の二因、現在の五果・三因、未来の二果の十二種に分けて立てたのが「十二因縁」で、この十二の因縁が連鎖のように関係しあって、六道の苦界を輪廻していくのである。この三世の因果の道理を観ずることによって理非に迷う愚癡を治すのである。愚癡は因果の道理に迷うところから起きるゆえである。
 十二因縁を三世に配すると次のようになる。
 過去の二因。①「無明」②「行」
 現在の五果。③「識」④「色名」⑤「六入」⑥「触」⑦「受」⑧「愛」⑨「取」⑩「有」
 未来の二果。⑪「生」⑫「老死」
 「五に界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う」とは、界方便観である。地水火風空は物質を構成する要素であり、識は精神を構成する要素で、万物を構成しているこの六大を観じ、諸法はことごとく六大が仮に和合したものであると観じて、修行上の障道を治すことをいうのである。これを「又は念仏と云う」といわれているのは、仏の相、智慧、当体を念ずることによって悪念等の種々の障りを治すことをいい、いわゆる念仏宗をさすのではない。
 以上の五停心観は、すべて行じなければならないというものではない。心に落ち着きがない者は「数息観」を修すべきであり、貪欲の強い者は「不浄観」を修すべきであり、瞋恚の強い者は「慈悲観」を修すべきであり、愚癡の強い者は「因縁観」を修すべきであり、我見の強い者は「界方便観」を修すべきである。だが時にはすべて行じなければならない場合もある。
 三賢の第二は「別相念処」である。第一の五停心観から一歩進んだ位である。「四念処観」ともいう。四念処とは身・受・心・法を観じて四諦の智慧を発することをいい、この身・受・心・法を別々に観ずるを別相念処という。五停心観の次にこの別相念処が設定されている理由について、法華玄義巻四下に「別相念処の位とは、五障を除くを以って観慧は諦当にして能く四諦を観じて、而も正しく苦諦を以って初門となし、四念処観をなして、四顚倒を破す」と述べている。すなわち、身体は不浄であり、感受は不楽であり、心は無常であり、法、すなわちすべての事物は無我であると一々に観じて、外道の常・楽・我・浄の四顚倒の思想を破すという観慧のことである。
 第三に「総相念処」である。第二の別相念処によって四念処の身・受・心・法を別々に観慧して、その修行も進み、次の段階では身・受・心・法を分けずに観じて、四念処の全体が苦・不浄・無常・無我であると観ずるのである。
 文中「調練して観ずるなり」とあるのは、よく修練して観ずることによって、身・受・心・法の四念処の全体が苦・空・無常・無我であると観ずることができるようになる、ということである。例えば、別相念処においては、身を不浄であると観ずるのであるが、総相念処からすれば受・心・法も身とは別のものではなく、したがって同じく不浄であると観ずる。同様に身・受・心・法はすべて苦・無常・無我であると観ずるのである。
②四善根位
 次に七賢位のうち、内凡である四善根というのは、前述のとおり、見道の悟りの“内”なる凡位の修行階位であるから、苦・集・滅・道の四諦の法理を繰り返し繰り返し、煩悩がまとわりついた智慧であっても分析しつつ観察していくのである。したがって、あくまで、有漏の智慧でもって四諦の法理を理論的に分析・観察していくにすぎないのである。無数に繰り返される観察によって次第に修行者の心は高められて、無漏の智慧が起こってくる状態に近づいていくのである。その究極において、ついに修行者に無漏の智慧が生起して初めて「見道」に入り、七聖の位へと進むのである。
 内凡としての四善根と見道以後の七聖位との決定的な違いは、無漏の智慧が生起するかしないかの相違であるといってよい。四善根は四諦をみる見道に限りなく近づいてはいても、あくまで煩悩のある智慧、すなわち有漏の智慧による修行にすぎない。
 さて、四善根の第一、「煗法」とは、煩悩が無漏の智慧に近づくことによって有漏の善根を生ずる位のことである。本文に「煗法は智慧の火・煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり故に煗法と云う」とある。これは、火をもって薪を蒸すと、薪が煙を出すことに譬えているのである。
 第二に「頂法」とは、不退の位を得る以前において、退位の不安定な善根のなかで最上の善根を生ずる位である。この位までは退位であるが、そのなかでも最高位であるところから頂法ということである。この位得て、次の修行に進むことによって不退の位となっていくのである。本文にはこれを譬えて「山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し、世間出世間の因果の道理を委く知つて闇き事無きに譬えたるなり」とある。あたかも山頂に登って四方を見る時に、視界を遮る雲等がないように、世間・出世間の因果の道理を詳しく知って、分からないものがないことに譬えられるといわれている。
 そして「始め五停心より此の頂法に至るまで退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ而れども此の頂法の善根は失せずと習うなり」とある。すなわち、三賢位の初めの「五停心」からこの四善根の第二の「頂法」の位までは「退位」であり、悪縁にたぶらかされれば三悪道・四悪趣に堕すが、この「頂法」の位を得れば、そのときでも、この「頂法の善根」が失われることはないというのである。
 第三に「忍法」とは、決定して動じない善根を生じ、悪趣に堕ちない位である。四諦の理を観ずる智慧と理解度が「頂法」よりも更に増進して、本文に「此の位に入る人は永く悪道に堕ちず」とあるように、もはや退転しないのである。
 第四に「世第一法」とは、有漏法のなかで最高の善根を生ずる位をいうのである。文字どおり世間における第一の法の意である。世間であるからいまだ三惑を断じていず有漏の法であるが、その範囲内では最上の位である。本文に「此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり」とあるのは、この位が賢人として最高の位であり、この位から聖人に入っていくゆえに、こういわれているのである。
 以上が七賢の修行と証果である。
七聖位について
 本文の「見・思の煩悩を断ずる者を聖と云う」とあるように、ここからは、見道に入って聖人になった修行者が、無漏の智慧によって見惑・思惑の煩悩を断じきっていく位に七段階あることを示すのである。
 なお、七聖の図示に「正と言う事なり」とあるが、先の七賢の図で七賢を「聖と言う事なり」とされているのに対する言葉で、四教義巻六に「此の七位、通じて聖と名づく。聖とは正を以って義と為す…凡夫の性を捨てて聖人の性に得入す」と解説しているように、智慧によって見思惑を断じていき、ここから正しき聖人の性に得入するゆえに、正を義とするのである。
 本文に「此の聖人に三道あり」とあるように、この七聖位は三道に分けられる。第一に「見道」とは初めて無漏智を生じて四諦の理を観じて「見惑」を断ずる修行であり、二に「修道」とは見道の後、更に修学して修惑を断ずる修行であり、三に「無学道」とはすでに「見・思」の惑を断じ尽して、学ぶべき理も断ずべき惑もない位である。
 この「見・修・無学」の三道は、声聞の根性の「利根」と「鈍根」の相違によって、七聖の行位に分かれる。
 第一の見道は利根・鈍根の違いによって「随信行」と「随法行」の二つの行位に分かれる。「随信行」とは鈍根の声聞が仏の説いた教法を他人から聞いてこれを信じ、それに随って修行する行位である。「随法行」とは利根の声聞が他によらず自己の智力によって、正しい教法に随って思索し煩悩を断じていく行位である。
 第二の修道は同じく根性の相違によって三つの行位に分かれる。「信解」とは随信行の鈍根の声聞が修道に進んで入る行位である。「見得」とは随法行の利根の声聞が修道に転じて法を観見して理を得る行位である。「身証」とは信解と見得にわたる声聞が無漏智の力によって、見惑・思惑の順次に断じ尽して煩悩の障礙を解脱する行位であり、これはいまだ禅定の力の加わっていない「阿羅漢」の位である。「俱解脱」とは法行の声聞が無漏智と倶に禅定の力によって、煩悩の障礙を断じ尽した「阿羅漢」の位である。
以上が七聖位である。
見道とは見巻思の内の見惑を断じ尽くす、此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す
 次に七聖位の証果について明かされていく。
 まず「見道とは見巻思の内の見惑を断じ尽くす」とあるように、見惑を断じ尽した人を「初果の聖者」というのである。「初果」とは、小乗教の声聞の四果の最初である「須陀洹果」のことをいう。この「須陀洹」は「預流」と訳し、なかまに加わるの義で、凡夫が初めて聖者に流れることから「預流果」というのである。
 この初果の聖者は「見惑」を断じているので四悪趣に堕すことはないが「見惑」を断じておらず、いまだ本能的迷いの起因となる貧・瞋・癡の三毒を生来、身にそなえている。したがって、その身に「貪欲」の心を具しているから妻帯するのである。だが、他人の妻を犯すようなことはない。また「瞋恚」の心を身に具しているから怒りを発することはあるが、殺生をすることはなく、鋤をもって地を耕せば虫のほうから自然に逃げ去るという徳を具えている。しかし「愚癡」の心を身に具しているから自分が初果の聖者であるということを自覚できるのである。「初果の聖者は妻を八十一度・一夜に犯す」とあるのは、初果の聖者が見惑を断じ尽くしてはいるが、思惑を断じておらず、「貪欲」の心を具していることの証文である。また天台大師が梵網経疏で「初果の聖者が地を耕す時、虫が四寸離れるのは道共の力である」と述べているのは、初果の聖者が殺生に及ばないのは「道共の力」、すなわち道共の力によっているといっている。道共戒の力とは、無漏の見道を得る時、自然に非を防ぎ悪を止める働きである戒の力が生ずるのである。つまり、三毒による悪業が道共戒の力で防止されていることを証しているのである。
第四果の聖者・阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり
 「第四果の聖者」とは声聞の最高位である「阿羅漢」のことをさし、その証果を阿羅漢果というのである。阿羅漢とは梵語arhatの音写であり、略して「羅漢」ともいう。意をとって「無学」とも「不生」とも訳すのである。
 この「不生」とは、本文で「永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり」と解説されているように、永く三界六道における見惑・思惑の煩悩を断じ尽くし、解説を得たことによって、この世の生が尽きて後は、再びこの三界六道に生れることができないということである。見思の煩悩は三界六道の生因であるが、その原因である煩悩を断じてしまったからである。
此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり
 三蔵経では三界六道がすべてであるとしているので、どこか他の世界に生れるという考え方がない。三蔵経の意は、三界における六道輪廻の生死から解脱することを目的として説かれた教えである。しかるに、すでに示されているように、依報の住処として三界六道の世界以外に明かされていない。しかも「身に煩悩有りとも知らず」と仰せのように、見惑のみを問題として、凡夫の身に具わる煩悩の思惑については知らない。したがって、ただ身心を滅して虚空のごとくになるということを理想とすることになる。すなわち「但灰身滅智と申して身も心も虚空の如く成るべしと習う」と仰せのように、この教の声聞は現世において身心を滅してしまえば、虚空のような境界になることができると信じて修行するのである。
 このような「無余涅槃」が理想であると信じているかぎり、声聞・縁覚の二乗は永久に成仏することはありえない。したがって、爾前の諸大乗経に「永不成仏」と嫌われ弾呵されたのである。この二乗の成仏を説いたのは、ただ法華経のみである。
此の教の修行の時節は声聞は三生鈍根六十劫利根又一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり、縁覚は四生鈍根百劫利根菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず而も四弘誓願を発し六度万行を修し三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る仏と成る時始めて見思を断尽するなり
 小乗三蔵教における「三乗」それぞれの修業期間に、利根・鈍根等の機根によって長短の異なりがあることを明かされている。分かりやすく図にすると次のようになる。
            ┌鈍根───三生
        ┌声聞─┼利根───六十劫
        │   └最上利根─一生
三乗の修行期間─┼縁覚─┬鈍根───四生
        │   └利根───百劫
        └菩薩─ 一向凡夫・四弘誓願・六度──三阿僧祇百大劫
 この図でも分かるとおり、修行期間は声聞→縁覚→菩薩の順で長くなっている。また機根でいうと、概して鈍根の者は短く、利根の者は長い。「六十劫」とあるのは「三生」の後に更に経る劫であり、「百劫」も「四生」の後の劫であるから、利根の者の修行期間は長いのである。ただ、「最上利根」の者のみは一生で悟りを得ることがあるとする。
 縁覚は声聞より機根が勝れ、菩薩は両者より勝れている。利根が鈍根より機根が勝れるのは当然である。この勝れた機根の者が長い修行期間を要するというのは、利他の心の有無によって異なるのである。すなわち、菩薩は利他の心があり、そのために三界六道にとどまるゆえに修行期間が長いのである。同じく利根の者は鈍根の者より若干、利生の心があるゆえに長いことになる。例えば、声聞の悟りの期間について利根・鈍根の相違が生ずるのを、西谷名目には「利根の声聞は聊か利生の思い有る故、第三生に聖得果に入らず、猶生死に留まり、六十劫の修行を送るなり」と述べている。
 声聞の鈍根の者の修行期間は「三生」である。「三生」とは、生れてから死ぬまでの間を「一生」と数え、三回重ねるということである。俱舎論23によると、第一生に順解脱分、第二に順決択分を生起し、第三生で解脱し阿羅漢果を得るとある。俱舎論18に、順解脱分とは必ず涅槃の果を観ずることができる善根であり、また順決択分とは近く聖道の果を観ずることができる善根、すなわち「煖」などの四善根をいうとある。解脱と涅槃は同義であり、決択とは四諦の相を分別する無漏智の働きをいうのである。これに対して、利根の者は「三生」で証果を得ることはできるが、あえてその後、更に「六十劫」の修行を経て修行の証果を得るという。なお、一部の最も勝れた利根の者は「一生」の間に阿羅漢果の位に登ることがあるという。
 縁覚は、声聞に比べて修行期間が長くなっている。そのなかでも利根・鈍根の相違があり、鈍根の者は「四生」を経て証果を得るという。「四生」とは、第一生に声聞七賢の「三賢」を修行し、第二生に「四善根」を修行し、第三生に縁覚の「七方便」を修行し、第四生に見道に入って「無学」を証するのである。利根の者はここで証果を得られるのであるが、更に五生ないし「百劫」を経て証果を得るという。
 菩薩の場合は声聞・縁覚の二乗と対比して化他が修行の主体であり、三界六道の生死を恐れず、むしろ積極的にその中に入って、化他行を完成させるために修行期間が長い。したがって、「一向凡夫にて見惑を断ぜず」とあるように、ひたすら凡夫として生き、見思の煩悩を伏することはあっても断ずることはできないのである。それは見思の惑を断じてしまえば、この三界六道の世界に生を受けることができなくなるからである。
 菩薩の修行は「四弘誓願」の発誓から始まる。これは四諦の境を対象として発するものである。すなわち、第一に「衆生無辺誓願度」とは三界六道の苦しみと迷いの世界から一切衆生を悟りの彼岸に渡すことを誓願し、第二に「煩悩無辺誓願断」とは貧瞋癡、六根等から起きる煩悩・執着を断とうと誓願し、第三に「仏道無常誓願成」とは苦悩・執着を滅し仏道において無上の悟りに至ろうと誓願し、第四に「法門無尽誓願知」とは悟りの道を究めるために仏の教えをすべて信解しようと誓願するのである。
 これらの誓願を成就させるために「六度万行」を修行する。「六度」とは六波羅蜜のことであり、「六」とは具足・円満の義である。つまり、六度の中に万行、すべての修行が含まれるということである。すなわち一に「布施」とは財施・法施を行ずる、二に「持戒」とは一切の戒を受持する、三に「忍辱」とは苦難・迫害等を耐え忍んでいく、四に「精進」とは努力し実践し抜いていく、五に「禅定」とは心を一所に定めて真理を静思する、六に「智慧」とは諸法に通達する智慧を磨く等である。
 この六度万行を成就するために「三僧祇・百大劫」の長期間にわたる修行をするのである。「三僧祇」とは三阿僧祇劫とも、三大阿僧祇劫ともいい、三つの阿僧祇劫のことをいう。「阿僧祇」とは無数・無尽数、「劫」とは長時・大時と訳す。したがって菩薩の修行は、この長遠の時を三つ重ねるほどの長期にわたるというのである。
 摂大乗論本巻下には、菩薩の修行について、十信の初めから十住・十行と進んで、十回向の終わりの四十位に至る第一の阿僧祇劫を経、次の十地の初地から七地に至るのに第二の阿僧祇劫を経、八地から十地に至るには第三の阿僧祇劫を経るとしている。
 これらの菩薩行を成就した後、百大劫にわたって修行する。諦観の天台四教儀に、菩薩の修行期間について三阿僧祇を説いた後は「更に百劫に住して相好の因を種う。百福を修して一相を成ず」と、多くの福を修しては相好を調え成道していくのである。
見惑とは一には身見亦我見と云う二には辺見亦断見常見と云う三には邪見亦撥無見と云う四には見取見亦劣謂勝見と云う五には戒禁取見亦非因計因非道計道見と云うなり見惑は八十八有れども此の五が根本にて有るなり
 三蔵教の二乗道を修する三乗の人々が断ずべき見・思の二惑について述べられている。
 「見惑」とは、三界の四諦の理に迷う煩悩であって、この惑が起こる要因に五つある。
 一には「身見」、また「我見」ともいい、我が身が五陰の仮に和合したものであることを知らずに、真に「我」という本性があると執着する煩悩、また自分の周りのものはすべて自分の所有であると執着する迷妄である。
 二には「辺見」、これは極端な考えを正しいとする見解のことで、偏った見解を起こす煩悩をいい、これに断見と常見の二つがある。「断見」とは断滅の見ともいい、世間及び自己の断滅を主張して因果の理法を認めないものであり、人は一度死ぬと断滅して再度生れることがないとする誤った見解である。次に「常見」とは、世界は常住不滅であるとするとともに、人は死んでも我が永久不滅であるとする見解である。
 三には「邪見」また「撥無見」ともいい、因果の道理を否定する見解を起こす煩悩をいう。撥無の「撥」は押しのけはねかえして、顧みないことをいい、「無」は無視することをいう。すなわちまったく因果の道理を無視する見解である。
 四には「見取見」、また「劣謂勝見」といい、誤った考え方に執着し、劣っているものを勝れているとする見方、考え方を起こす煩悩をいうのである。
 五には「戒禁取見」、戒禁は戒律禁制の意、すなわち間違った戒律や禁制をもって、それを悟りの道であると思い込む煩悩のことである。それは、因でないものを因とし、道でないものを道とする考えであると俱舎論19に基づいて注記されている。
 以上が「五利使」であるが、「利使」というのは、その性分が鋭利で常に心を駆使する煩悩であるところからである。だが、その道理が明らかになればたちまちに破られるものである。しかも、見惑には三界の四諦を通じて「八十八」の煩悩が分類されているが、その根本になるものは「五利使」なのである。
 次に「思惑」とは三界の事物・事象を感受して起こす煩悩をいい、これに四種ある。
 一には「貪」、世間の事物を貪愛し、色・声・香・味・触等の五欲の境に執着する心の働きである。
 二には「瞋」、自分の心に適わないものに対して怒り、恨んで正しい判断基準のできない状態である。この煩悩は特に欲界のみに起こり、色・無色の二界には起こらない。
 三には「癡」、事理を理解することができない、理非を分別することができないことである。
 四には「漫」、自分を高くし他人を軽視し侮辱する心である。
 なお、五に「疑」を加えて「五鈍使」といわれている。「利使」に比べて遅鈍であるゆえにこういう。しかし常に心を支配することは同じで、容易に難い惑である。思惑には「八十一」の煩悩が分類されているが、貧・瞋・癡・慢の四つが根本の惑となっているのである。
此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり、別して倶舎宗と申す宗有り又諸の大乗に此の法門少少明す事あり・謂く方等部の経・涅槃経等なり但し華厳・般若・法華には此の法門無し
 小乗三蔵教を説いている経論とその宗旨について略述している。今までに説き明かされてきた三蔵教の教法・行位・証果等についての「経」は阿含経であり、「論」としては娑婆論・正理論・顕宗論・俱舎論等がある。そして、この三蔵の教えを宗旨としているのが俱舎論であることを述べられている。また諸大乗経のなかにも、少々は三蔵教の法門を明かしていることがある。例えば、方等部のなかの経典や涅槃経等のなかに説かれている。ただし同じ大乗経典でも華厳経・般若経・法華経には、この法門は全く説かれていないと述べられている。華厳経は別円、般若経は通別円、法華経は純円の教とされるのである。

0393:11~0393:13 第四章 通教の大旨を明かすtop
11   次に通教とは大乗の始なり又戒定慧の三学あり、此の教の意のおきて大旨は六道を出でず少分利根なる菩薩六道より
12 外に推し出すことあり、 声聞・縁覚・菩薩・ 共に一の法門を習い見思を三人共に断じ而も声聞・縁覚・灰身滅智の意
13 に入る者もあり入らざる者もあり、
-----―
 次に通教とは大乗の初めである。また戒定慧の三学がある。この教えの趣旨・大旨は六道を出ていない。しかし少分の利根の菩薩は三界・六道の外に進み出ることもある。この通教では、声聞・縁覚・菩薩はともに一つの法門を修習して、見思惑を三人ともに断じ、しかも声聞・縁覚として灰身滅智の理に入る者もいるし、また、この灰身滅智の理に入らず別教・円教に移る利根の者もいる。

大旨
 おおむね・だいたい・おおよそ。
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 化法の四教中、第二の「通教」について、その大要を明かしている。
 通教は後に「此通教の法門は別して一経に限らず」と述べられているように、三蔵の阿含のように限定された経ではなく、方等・般若部に属する教えの総称であり、これは教えの深さからいえば、別教や実大乗教からすれば初門に属するものであるので「通教の始なり」といわれている。
 通教は声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通して説かれた教法である。この「通教」の「通」という意義は、前の「蔵教」にも通じ後の「別教」にも通じる教えであることを示している。三乗のなかでも前の蔵教と同じ証果を得る二乗および鈍根の菩薩と、さらに深く進んで後の別教、円教の理を証す利根の菩薩に分かれる。
 通教が前後に通ずる教えであるという意義に三種ある。
 一には蔵教における三乗の場合、声聞は四諦を、縁覚は十二因縁を、菩薩は六度というように、それぞれ異なる教法を修学し得道するのであるが、道教における三乗の場合は、ともに同じく四諦・十二因縁・六度等の教法を通じて学び、ともに当体即空の理、すなわち人も物も絶えず変化していくのであり実体はなく空であるとする「体空観」を観見するのである。これは小乗三蔵教の但空の理、さまざまな事象を分析して空であると知る「析空観」に対する法理である。このように三乗がみな通じて同じ教えを修学するために通教というのである。
 二には通教の菩薩に利・鈍の二種があり、鈍根の菩薩は前の蔵教と同じく但空の涅槃を証し、利根の菩薩はこれを聞いて不但空の義、すなわち一切の諸事物・現象は因縁から生ずるから自性がなく空であると観ずるとともに、その不空の面をも観ずるのである。更に後に、四諦の因果を空と断じ、無生無滅のものであるとして無生の四諦の理を観じて、当体即空の説を聞いて別・円二教の中道実相の理に通じ、別教・円教の人となるのである。このように前後に通ずる義があるところから通教というのである。
 三つは本来、別・円の機であるが、一往、通教の説を聞いて当体即空を方便として、別・円の中道の智解に通じて開導するので、通教というのである。
 この通教にもまた、戒定慧の三学があると仰せられている。しかも、この三学は、蔵教の三学の明確な区別とは異なる。三蔵とは経蔵・律蔵・論蔵であるが、本文にも示されているように、経律論にそれぞれ戒定慧があるものの、大網としては経蔵は定蔵、律蔵は戒蔵、論蔵は慧蔵と配される。しかし、通教の場合はこのように色分けされるのではなく、通教に含まれるある経には戒律を説き、ある経には禅定が説かれ、ある経には智慧がとかれているということである。
 この通教は、前の三蔵教と同じく、大旨としては「六道を出でず」といわれているのである。三蔵教でも正報は六界しか明かしていないゆえに、依報にしたがって「六界を明す経と名くるなり」といわれているのであるが、この通教において「大旨は六道を出でず」といわれているのもまた、依報における十界が明確でないゆえである。
 しかし、「少分利根なる菩薩六道より外に推し出すことあり」とあるように、少分の利根の菩薩は六道から外に出て別・円二教の人となるのである。
 大まかにいって、蔵教は析空観で一切を分析して空とする但空の理を説き、通教では諸法をそのまま空とみる体空を説くが、但空のみでなく空でもない部分もみるので不但空でもある。別教は但空や体空を超えた非有非空を説くゆえに中道ではあるが、その中道に執するゆえに但中の理となる。円教はその但中の理を更に超えた円融三諦・一心三観を説くので不但中の理といわれる。
 すなわち、通教では蔵教のように分析的にみるのではなく、諸法の当体がそのまま空であるとみることを説いているのであるが、一切が空であるとするとともに、空でない部分も観ずるのであり、そこから少分の利根の者が空や仮を超えた中観に移っていけば、それは界外の教である別円二教の理を悟っていくのであり、その者は六道の外に出るのである。
 声聞・縁覚・菩薩の三乗が「共に一の法門を習い」とは、蔵教の場合は声聞の四諦、縁覚は十二因縁、菩薩は六波羅蜜というようにそれぞれ修習する法門が異なっていたわけであるが、通教の場合は声聞・縁覚・菩薩の三乗は共通してこれらを修行し見思惑を断ずるのである。そのなかで「声聞・縁覚・灰身滅智の意に入る者」と「入らざる者」があると仰せになっている。この「灰身滅智の意」とは但空の理に入ることであり、「入らざる者」とは「少分利根なる菩薩」である。

0393:13~0394:09 第五章 通教の行位と証果を示すtop
13                 此の教に十地あり。
14     ┌ 一 乾 慧 地─ 三 賢┬賢人
15     ├ 二 性  地─ 四菩薩┘
16     ├ 三 八 人 地┬ 見道位聖人
17     │       ├ 見惑を断ず
18     ├ 四 見  地┴ 初果の聖人
01   十地┼ 五 薄  地┐     0394
02     ├ 六 離 欲 地┼ 思惑を断ず
03     ├ 七 巳 弁 地┴ 阿羅漢──見思を断じ尽す 
04     ├ 八 辟支仏地─ 習気を尽す
05     ├ 九 菩 薩 地─ 誓つて習を扶けて生ずるなり
06     └ 十 仏  地─ 見思を断じ尽す
07 此通教の法門は別して一経に限らず 方等経般若経心経観経阿弥陀経雙観経金剛般若等の経に散在せり、 此通教の
08 修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習うなり、 又一類の疾く成ると云う辺もあり・已上・上の蔵通二教には六
09 道の凡夫・本より仏性ありとも談ぜず始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。
-----―
                 此の教に十地あり。
     ┌ 一 乾 慧 地─ 三 賢┬賢人
     ├ 二 性  地─ 四菩薩┘
     ├ 三 八 人 地┬ 見道位聖人
     │       ├ 見惑を断ず
     ├ 四 見  地┴ 初果の聖人
   十地┼ 五 薄  地┐     0394
     ├ 六 離 欲 地┼ 思惑を断ず
     ├ 七 巳 弁 地┴ 阿羅漢──見思を断じ尽す 
     ├ 八 辟支仏地─ 習気を尽す
     ├ 九 菩 薩 地─ 誓つて習を扶けて生ずるなり
     └ 十 仏  地─ 見思を断じ尽す
 この通教の法門は、とくに一経に限って説かれているのではなく、方等経・般若経・心経観経・阿弥陀経・雙観経・金剛般若等の経々に散在している。
 この通教の修行の期間は動踰塵劫という長い間を経て仏に成ると習っている。また利根の菩薩の一類は速やかに仏になるということもある。
 以上、上述の蔵教・通教の二教には六道の凡夫が本来、仏性があるとも説かない。それゆえに初めて修行する声聞・縁覚・菩薩・仏と、おのおの自分の思いどおりの境界になると説く教えである。

十地
仏道修行の段階を十種にわけたもの。「地」は能生・所依の義で、その位に住し、その位の法をもつことによって、果を生成するものをいう。さまざまな十ちがあるが、別教の十地と通教の十地がある。通教の十地は①乾慧地、三賢 五停心観等によって禅定を得る以前の位 初発心から柔順法忍を得る以前の位 。②性地、四善根 すでに禅定を得た位 柔順法忍 禅定を得る位。③ 八人地、須陀洹向 苦法忍より道比智忍までの十五心 無生法忍 。④見地、須陀洹果 阿鞞跋致地 。⑤薄地、須陀洹果あるいは斯陀含、 阿鞞跋致地より成仏以前 。⑥離欲地、阿那含 離欲によって五神通を得る位 。⑦已作地、阿羅漢 仏陀(無上正等覚者) 。⑧辟支佛地、過去世に辟支仏となる因縁を植えていたため、今世において决定して出家し成道する位。または因縁の法をのみ観察することによって成道する位。⑨菩薩地、乾慧地から離欲地まで、或は歓喜地から法雲地まで、或は初発心時より金剛三昧を得るまでの位。⑩ 仏地、菩薩が一切種智等の諸仏法について、自地においては行、他地においては観の、二つを具足して登る位。無上正等覚を證得する位。別教の十地は①法雲地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、無辺の功徳を具足して無辺の功徳水を出生して虚空を大雲で覆い清浄の衆水を出だすためにいう。平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如の世界。②善想地、力波羅蜜を成就して修惑を断じ、十力を具足し一切処において可度不可度を知り、よく説法する位。一切の修行を完成した大慈大悲の菩薩が、真理の世界から具体的な事実の世界に働きかけ個々差別の衆生を救済する。③不動地、願波羅蜜を成就して修惑を断じ、無相観を作(な)し、任運無功用に相続する位。大慈大悲の心を起す。④遠行地、方便波羅蜜を成就して修惑を断じ、大慈悲心を発し二乗の自度を遠離する位。十十無尽の境地に入る。この位は第二阿僧祇劫の行を終えたとする。⑤現前地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、最勝智慧を発し染浄の差別なきを現前せしめる位。不退転の位で決して後戻りせず、必ず仏になる確信を得る。⑥難勝地、極難勝地ともいい、禅定波羅蜜を成就して修惑を断じ、真俗二智の行相互いに違異なるを和合せしめる位。四諦の法門の外に大乗の法門を学び、利他行に取り組む。⑦焔光地、焔慧地ともいい、精進波羅蜜を成就して修惑を断じ、智慧を熾盛に光らしめる位。個々の物に対する執着心を離れ、その功徳として四方を照らす。⑧発光地、忍辱波羅蜜を成就して修惑を断じ、諦察法忍を得て智慧を顕発する位。精進の結果、その功徳として光を放ち十種の法明門を行う。⑨離垢地、戒波羅蜜を成就して修惑を断じ、毀犯の垢を除き清浄ならしめる位。十の善を行い、心の垢を離れる。⑩歓喜地、菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、聖性を得て見惑を破し、二空の理を証し大いに歓喜する位。仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する。
―――
乾慧地
 通教の十地の第一。三賢 五停心観等によって禅定を得る以前の位 初発心から柔順法忍を得る以前の位 。
―――
性地
 通教の十地の第二。四善根 すでに禅定を得た位 柔順法忍 禅定を得る位。
―――
八人地
 通教の十地の第三。須陀洹向 苦法忍より道比智忍までの十五心 無生法忍 。
―――
見道位聖人
 見道の位に入った聖人のこと。仏道修行における二乗・菩薩の修行の位のひとつ。見道は見惑を断ずる位で、見道以前を凡夫とし、以後を聖人とする。小乗では無漏智を生じて四諦の理を観ずる七聖の随信行・髄法行の位にある聖人をいう。大乗では通教の十地のうち第三・八人地、第四・見地をもって見道位聖人とする。
―――
見地
 通教の十地の第一第四。須陀洹果 阿鞞跋致地 。
―――
薄地
 通教の十地の第五。須陀洹果あるいは斯陀含、 阿鞞跋致地より成仏以前 。
―――
離欲地
 通教の十地の第六。阿那含 離欲によって五神通を得る位 。
―――
已作地
 通教の十地の第七.阿羅漢 仏陀(無上正等覚者) 。
―――
辟支佛地
 通教の十地の第八。過去世に辟支仏となる因縁を植えていたため、今世において决定して出家し成道する位。または因縁の法をのみ観察することによって成道する位。
―――
薄地
 欲界の九品の思惑のうち、前」六品を断じて後三品のみ残している位をいう。通教の十地の第五。
―――
習気
 習慣・気分の意。習慣に従って自然に生じ、無意識に身についている惑のこと。見思惑の本体を断じ尽くしても無意識に癖として残っている惑をいう。
―――
菩薩地
 通教の十地の第九。乾慧地から離欲地まで、或は歓喜地から法雲地まで、或は初発心時より金剛三昧を得るまでの位。
―――
仏地
 菩薩が一切種智等の諸仏法について、自地においては行、他地においては観の、二つを具足して登る位。無上正等覚を證得する位。
―――
方等経
 釈迦一代教法のうち方等部に属する経。
―――
心経の秘鍵
 心経は「般若波羅蜜多心経」のこと。
―――
観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
阿弥陀経
 鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
金剛般若
 金剛経・金剛般若波羅蜜経のこと。鳩摩羅什訳・菩提流支訳・真諦訳・義浄訳などがある。仏が舎衛国給孤独国に住んでいた時、須菩提を対告衆として説かれたとされる経。金剛は石の名で堅・利・明の三義を含み、般若は智慧のこと。衆生の執着を破して空観を教え、一切万物の転変の相を示し、金剛のような堅固な仏の智慧によるべきことを明かしている。
―――
動踰塵劫
 「動もすれば塵劫を踰ゆ」と読む。通教の菩薩の修行の期間が塵劫を踰えていること。通教の菩薩は十地の第七・已弁地で三界見思の惑を断ずるが、断じ尽くすと三界に生ずることができないゆえに、誓って習気を扶持して三界に生じて衆生を化度し、第八地、第九地で修行に励み、塵劫を経て第十地の仏地で余残の習気を断じ尽くし、七宝樹下に天衣を座として成道する。この期間が動もすれば塵劫を踰えることをいう。
―――
仏性
 無始無終に存続している仏になる性分。
―――――――――
 ここは、通教の行位と証果について示されたものである。
十地について
 本文に「此の教に十地あり」とある。この通教には、成道に至る三乗の修行に十種の階梯があるということである。
 この十地とは修行者の修行段階、境地を十種に分けたものである。「地」とは能生、所依の義で、その位に住してその位の法を持つことによって果を生成するものをいうのである。通教の十地は声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通なもので、三乗共の十地といい、当体即空の法理に基づく体空観によって、四諦・十二因縁・六波羅蜜を行じ、見思惑を断じて悟る境地をいうのである。
 第一に「乾慧池」。乾慧とは乾いた、潤いのない智慧のことで、有漏の智慧のことである。つまり、智慧はあるが末だ法性の空理を証得していない位をいうのである。小乗三蔵教の修行では「三賢位」にあたり、菩薩の修行でいえば順忍より前にあたる。
 ちなみに菩薩の順忍とは、菩薩が修行して獲得する「忍」の種類を十種に分けた第二に挙げられるものである。華厳経巻28の「十忍品」に次のようにある。①随順音声忍、②順忍、③無生法忍、④如幻忍、⑤如焔忍、⑥如夢忍、⑦如響忍、⑧如電忍、⑨如化忍、⑩如虚空忍である。
 第二に「住地」。凡夫が三界六道の生死を離れて得る三乗の本性の位をいう。つまり無漏の智慧に相似する智慧を得て見惑を伏し、三乗の種性が定まるゆえに性地というのである。小乗の三蔵教の修行では四善根位にあたり、菩薩の十忍の第二・順忍にあたる。
 第三に「八人地」。人とは忍の義。忍とは忍可のことであり、八人地と同義である。初めて無漏の智慧を発して見惑を断ち、初果に向かう位であり、声聞の見道十五心の須陀洹向と同位である。菩薩の十忍の第三・無生法忍にあたる。十地の図で示されているとおり、この見地から聖人に入る。ここでの聖人は見道位である。
 ところで、見道十五心とは、見道に入ってから生ずる八忍と八智の十六心のうちの前十五心をいう。したがって、八忍と七智の十五心がこれにあたる。最後の第八智=第十六心は修道に入るのである。なお、小乗のある一派は、八忍と八智のすべてを見道に含めるものもある。
 ちなみに八忍と八智の内容について触れておくと、まず八忍は摩訶止観巻六上に「八人とは八忍なり、世第一より転じて無間三昧に入る。故に八人と名づく」とある。ここに「世第一より転じて」とあるように、七賢の位のうち四菩薩の最後の世第一法から、転じて四諦の法理をみることにより見惑を断ち切り、見道に入るのである。ここで修行者は聖者になって修行を続けるのであるが、その見道の修行のなかで、初めに得る八つの境地が八忍である。この八忍は次の八智を生ずる原因となる境地でもある。八忍が苦・集・滅・道の四諦の理法を忍可し確かに知っていくプロセスに八の段階を設けるのに対し、八智は更に進んで、八忍のそれぞれにおいて四諦の理法を忍可することによって生ずる無漏の智慧である。当然、八忍のプロセスに応じて八智対応することになる。
 今、八忍と八智について、それぞれ記してみると次のようになる。初めに八忍であるが、①苦法忍、②苦類忍、③集法忍、④集類忍、⑤滅法忍、⑥滅類忍、⑦道法忍、⑧道類忍である。
 次に「八智」とは①苦法智、②苦類智、③集法智、④集類智、⑤滅法智、⑥滅類智、⑦道法智、⑧道類智である。
 第四地に「見地」。見とは見惑を断じ尽して四諦の理を見る意で、見道第十六心の位である。声聞の初果である須陀洹果、菩薩の阿鞞跋到の位にあたる。このゆえに十地の図で「初果の聖人」といわれているのである。
 第五地に「薄地」。ここから思惑を断じていく。薄地は欲界九品の思惑のうち前六品を断じて後の三品を残すところから薄というのである。欲界九品の思惑とは、三界のうちの欲界において貧・瞋・癡・慢の思惑があるが、そのおのおのに上上品・上中品・上下品・中上品・中中品・中下品・下上品・下中品・下下品の九品あるので、この名称がある。薄地の“薄”とは欲界九品の思惑のうち、前六品を断じて後三品だけを残すだけとなった。煩悩が薄くなる境地をさしている。声聞の斯陀含果であり、菩薩の阿鞞跋到以後の位にあたる。
 第六地に「離欲地」。欲界九品の思惑を断じ尽くして欲界から離れる位である。声聞の阿那含果にあたり、菩薩の五神通を得た位にあたる。
 第七地に「已弁地」。已作地ともいい、三界の見思惑を断じ尽した位である。声聞の最高位・阿羅漢果にあたり、菩薩にとっては仏地を成就した位にあたる。
 第八に「辟支仏地」。縁覚の位にあたり、三界の見思惑を断じたうえに習気を除いて空観に入る位である。十地の図では「習気を尽す」といわれている。習気とは習慣に従って自然に生じ、無意識のうえに身についている惑のことである。見思惑の本体は断じ尽しても無意識の中に癖として残っていく惑をいい、この習気を断ずるのである。摩訶止観巻六上には見惑を薪に、思惑を炭に、習気を灰に譬えている。
 第九地に「菩薩地」。菩薩として六波羅蜜を行ずる位である。空観から仮観に出て、再び三界に生じて衆生を利益するので、乾慧池から離欲地までをさすのである。また菩薩の初発心から成道の直前までをいう。菩薩は衆生を度すことが誓願であるから、習気は断じ尽すことはせず、残しておいて、それによって世間に生ずる。このことを「誓って習を扶けて生ずるなり」といわれているのである。
 第十地に「仏地」。菩薩の最後心で、一切の惑、習気を断じ尽くし入滅する位である。一切種智等の諸仏の法を具備した通教の仏のことである。
 前の蔵教と通教とは等しく三乗とも四諦・十二因縁・六度を修行するのであるが、等しく空観を修するにも、蔵教は諸法を分析して、そこに空を見いだす「析空観」であり、通教は諸法の当体をそのままにして空なりと達観する「体空観」の違いがある。
此通教の法門は別して一経に限らず
 通教の法門は、小乗三蔵界の阿含経のようなまとまった経典があるのではなく、方等部に属する観経・阿弥陀経・双観経等、また般若部に属するところの摩訶般若波羅蜜多経・般若波羅蜜多心経・金剛般若波羅蜜多経等の経典のなかの、三乗が共通して修学すべき教法を通教と称しているのである。
 「此通教の修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習うなり」とは、この通教の菩薩が成仏するための修行の時節について述べられている。「動踰塵劫」は「動もすれば塵劫を踰ゆ」と読み、塵のように無数の劫を踰えるほどの長い時間、修行をした後に成仏すと習うのである。
 どうして、これほどの長時間になるのであろうか。すでに述べられているように、十地の行位でみると、第七地に至って見思の惑は断じ尽くされ、菩薩の場合はこの位で「仏地」を成就することになる。しかし、それでは、三界で苦悩する六道の衆生を救済するという菩薩の行ができなくなってしまう。そこで、菩薩は衆生救済のためにあえて誓って習気を扶け、わざわざ三界に生を受けて利他の行を行い、その後に成仏するのである。
 しかし、一類は「疾く成るという辺もあり」とおおせられている。これは、先に「少分利根なる菩薩」が別円二教に入るとされているが、その者をさすのである。
上の蔵通二教には六道の凡夫・本より仏性ありとも談ぜず始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり
 以上に述べてきた蔵・通の二教についての結論をのべられている。
 蔵・通の二教には一切衆生に本来、仏性を具えていることを説いていない。「仏性」とは仏の性分、本性のことであり、仏界を得るための因として、一切衆生の中心に具している種子のことである。
 蔵・通二教の教法は析空・体空とも空の辺からみた理であって、いまだ中道実相の妙理を談じていない。したがって、六道の凡夫に本来仏性あることを説かないために、初めて修行する者にとって、声聞は声聞、縁覚は縁覚、菩薩は菩薩というように、それぞれ思い思いに修行し、悟りを得ることを教えた教なのである。

0394:10~0394:13 第六章 別教の大旨を明かすtop
10   次に別教又戒定慧の三学を談ず此の教は但菩薩計りにて声聞縁覚を雑えず、 菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八
11 戒.十善戒・二百五十戒・五百戒梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒.護佗の十
12 戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒と
13 は四弘誓願なり定とは 観練熏修の四種の禅定なり慧とは心生十界の法門なり、
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 次に別教もまた戒定慧の三学を説く。この教えは、ただ菩薩に対するものであって声聞・縁覚をまじえない。菩薩戒とは三聚浄戒のことである。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒、梵網経の五十八の戒、瓔珞経の十無尽戒、華厳経の十戒、涅槃経の自行の五支戒、護他の十戒、大智度論の十戒、これらは皆、菩薩の三聚浄戒の中の摂律儀戒である。摂善法戒とは八万四千の法門を修めている。饒益有情戒とは四弘誓願である。定とは観照・鍛錬・熏熟・修治の四種の禅定である。慧とは心生十界の法門である。

菩薩戒
 大乗戒ともいう。大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律である。このうち、日本において菩薩戒の代表とされる大乗『梵網経』に基づく「梵網戒」は、下述するように、南都六宗以来、大きな論争の的になってきたものであり、その後の日本の仏教史の変遷にも極めて大きな影響を与えている。
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三聚浄戒
 大乗戒、菩薩戒、三聚戒ともいう。大乗の戒律の一つで、大乗の菩薩は出家も在家もともにこれを受持する。 (1) 摂律儀戒 (五戒・八戒・十戒・具足戒などの一切の戒律を受持するという戒律) 。(2) 摂善法戒 (一切の善法を修することを戒とするもの) 。(3) 摂衆生戒 (一切の衆生を愛護し利益を与えようとすること) の3つをいう。
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梵網の五十八の戒
 梵網の十重禁戒と四十八軽戒をさす。十重禁戒とは十重禁・十重戒ともいい、大乗の菩薩がこれを犯すと最も重罪とされ、破門・追放となった。一.殺戒…いかなる生き物でも、これを故意に殺傷を禁じる戒。二.盗戒…一銭・一草であっても与えられていない物を盗むを禁じる戒。三.婬戒…いかなる性行為・性交渉を禁じる戒。四.妄語戒…未だ達していない聖者の境地に達した、と虚言を禁じる戒。五.こ酒戒…酒を乞うてはならない・販売を禁じる戒。六.説過戒…仏弟子同士の罪過をあげつらうことを禁じる戒。七.自讃毀他戒…自身の徳を賞讃して、他者を謗ることを禁じる戒。八.故慳戒…財施・法施に限らず、いかなる物でも物惜しみしてはならない九.故瞋戒…殊更に怒りを起こし、それを悔いないことがあってはならない。十.謗三宝戒…如何なる場合でも、三宝を謗ることを禁じる戒。四十八軽戒は十重禁戒に比して軽い戒をいう。01.軽慢師長戒 02.飲酒戒 03.食肉戒 04.食五辛戒 05.不挙教懺戒 06.不敬請法戒 07.不聴経律戒 08.背正向邪戒 09.不瞻病苦戒 10.畜諸殺具戒 11.通国入軍戒 12.傷慈販売戒 13.無根謗人戒 14.放火損焼戒 15.法化違宗戒 16.惜法規利戒 17.依官強乞戒 18.無知為師戒 19.闘謗欺賢戒 20.不能救生戒 21.無慈酬怨戒 22.慢人軽法戒 23.軽新求学戒 24.背大向小戒 25.為主失儀戒 26.待賓乖式戒 27.受別請戒 28.故別請僧戒 29.悪伎損生戒 30.違禁行非戒 31.見厄不救戒 32.畜作非法戒 33.観聴作悪戒 34.賢持守心戒 35.不発大願戒 36.不起十願戒 37.故入難処戒 38.衆坐乖儀戒 39.応講不講戒 40.受戒非儀戒 41.無徳詐師戒 42.非処説戒戒 43.故毀禁戒戒 44.不敬経律戒 45.不化衆生戒 46.説法乖儀戒 47.非法立制戒 48.自壊内法戒。
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梵網経
 梵網経のこと。「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
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瓔珞
 『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
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華厳の十戒
 華厳経に説かれる菩薩の受持すべき十種の戒。不饒益戒・不受戒・不住戒・無悔恨戒・無違諍戒・不損悩戒・無雑穢戒・無貧求戒・無過失戒・無毀犯戒。
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涅槃経の自行の五支戒
 涅槃経に説かれる菩薩の自行の五種の戒。菩薩根本業浄戒・前後眷属余清浄戒・非諸悪覚覚清浄戒・護持正念念清浄戒・回向阿耨多羅三藐三菩提戒。
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護佗の十戒
 涅槃経に説かれる護他の十種の戒。陀と他は同意。護持戒・清浄戒・善戒・不欠戒・不折戒・大乗戒・不退戒・随順戒・畢竟戒・具足戒。
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大論の十戒
 不欠戒・不破戒・不穿戒・不雑戒・随道戒・無著戒・智所讃戒・自在戒・随定戒・具足戒をいう。
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大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
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摂律儀戒
 三聚浄戒のひとつ。五戒,八戒,十戒,具足戒などの一切の戒律を受持するという戒律。
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摂善法戒
 三聚浄戒のひとつ。一切の善法を修することを戒とするもの。
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饒益有情戒
 三聚浄戒のひとつ。一切の衆生を愛護し,利益を与えようとすること。
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 化法の四教中、第三の「別教」について明かされている。
 天台大師の四教義巻一に「この教は、二乗の人と共にせずして説くが故に別教と名づく」と述べているように、別教は声聞・縁覚を除き、別して菩薩だけを対象に説く教をいう。また同書に「前の蔵教・通教に別し、後の円教に別するが故に別教と名づく」とあるように、蔵・通二教と比較すると、蔵・通二教がともに三界六道の因果を説いた「界内の教」であるのに対して、別教は三界六道の苦界に声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖の境界を加えた十界の諸法を説いた「界外の教」であり、また後に説く円教と比較すると、別教で説く空・仮・中の三諦は別々に説かれて円融相即していないので「隔歴の三諦」であり、後の円教で説く「円融の三諦」とは別のものとなる。このように、別教は前の蔵・通二教とも異なり、後の円教とも別なので別教というのである。
別教又戒定慧の三学を談ず
 この別教においても、また三学を説いている。
 初めに戒について、御文に「菩薩戒とは三聚浄戒なり」とあるように、別教の菩薩が修行する戒学というのは「三聚浄戒」である。三つの戒が積聚するゆえに三聚といい、無垢清浄な戒のゆえに浄戒という。第一に「摂律儀戒」、第二に「摂善法戒」、第三に「饒益有情戒」の三種の戒である。
 第一に「摂律儀戒」とは、仏の定めた一切の戒律を守って悪を防ぐことである。この戒には、五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒等の小乗戒および大乗の経論に明かされている梵網菩薩戒経の五十八戒・菩薩本業瓔珞経の大衆学品の十無尽戒・華厳経の十界・涅槃経の自ら行ずる五支戒と他を護る十戒・大智度論の十戒等に至るまで、すべての戒が含まれるのである。
 第二に「摂善法戒」とは身・口・意の三業にわたり進んで一切の善法、すなわち八万四千の道法を修することである。 第三に「饒益有情戒」とは、一切衆生を教化し、利益を施すよう努めること、例えば一切の菩薩が初発心の時に起こすところの四弘誓願、慈・悲・喜・捨等の一切を包含するものである。
 戒は「防非止悪」の義であり、小乗の戒はこれを達成するために具体的な禁止事項として戒が示されている。三聚浄戒では第一の摂律儀戒がこの意味合いを強くもっている。それに対して第二の摂善法戒は、更に進んで自らの善を修するという面が加わり、第三の饒益有情戒においては利他の行が中心であり、大乗戒の特質があらわれている。
 次に定については、本文に「定とは観練熏修の四種の禅定なり」とあり、「観・練・熏・修」の四種の禅定を修学することが挙げられている。
 「観」とは観照の義で、九想・八背捨・八勝処・十一切処を観ずることで、本能、欲望の迷いを観じ、受欲の妄想を除いて仏法の真理に安住することである。
 「練」とは鍛錬の義で、浅い法門から深い法門へ次第に練熟していくことである。
 「熏」とは熏熟の義で、努力を重ねて習慣づけることである。
 「修」とは修治の義で、一つの現象にとらわれない自在の境地に達することである。
 これらは、天台大師が法華玄義巻四上に、戒定慧の三学の中の「定」について、世間禅・出世間禅・上上禅の三種の禅を述べており、その出世間禅に「観・練・熏・修」の四種の禅定があるとしている。定とは静慮の意味で、仏道修行をする者が、よく慮を息め縁を静めて心を散乱しないようにして、法性、仏性を見得し、涅槃の道を悟らせるための修行をいうのである。この禅定によって正しい智慧を生じ、煩悩を断ずることができるのである。
 更に「慧とは心生十界の法門なり」とあるように、慧とは心から十界の諸法が生起するという法門を知り究める智慧のことである。この法門は別教ならびに爾前の円教の極説である。
 蔵・通二教では心生の六界を説いているが、心生の十界にまで至っていなかった。別教に至って「心生の十界」が説かれているのである。
 ただし、別教といえども「心具の十界」については明かしていない。また爾前の円教が説かれている華厳経等にも「心具の十界」は明かされていない。華厳経には「心は工なる画師の如し、種種の五陰を画く。一切世界の中に法として造らざる無し」とあり、十界は心によって造られ、心から十界が生ずるとしているのである。「心具」とは一念の心に十界の諸法が具わっているという意であり、摩訶止観巻五上の「夫れ一心に十法界を具す」というのが、これを端的にあらわしている。この「心具」と「心生」との相違について、摩訶止観に権大乗教の“心は一切の法を生ず”と明かしている法門は「猶是れ思議の境、今の止観の所観に非ざるなり」と断じ、法華円教の「心具の十界」を、不思議の十界互具の法門のうえから展開している。したがって、爾前の諸経でたとえ諸法円融の法を説いているとしても、心から十界が時間的に次第に生起するとしているのであって、十界互具に空観的に隔たりがあるのである。なお、法華円教の不思議境である心具の十界については、後に第十八章で詳説することにする。

0394:13~0395:18 第七章 別教の行位と証果を示すtop
13                                      五十二位を立つ五十二位とは一に
14 十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地等覚一位妙覚二位なり、已上五十二位。
15       ┌十 信┬退位
16       │   └凡夫菩薩の見思を断ぜず
17       ├十 住┬不退位
18   五十二位┼十 行┤
19       ├十回向┴見思塵沙を断ぜる菩薩
01       ├十 地┐    0395
02       ├等 覚┴無明を断ぜる菩薩
03       └妙 覚─無明を断じ尽せる仏なり
04   此の教は大乗なり戒定慧を明す.戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒.金剛宝戒なり、此の教の菩薩は三悪道を
05 恐しとせず二乗道を恐る地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず 二乗の道は仏の種子を断ずればなり、大荘厳論
06 に云く「恒に地獄に処すと雖も 大菩提を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」と、此の教の習は真の
07 悪道とは三無為の火キョウなり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず、故に
08 大般若経に云く「若し菩薩 設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも 菩薩戒に於ては猶犯と名けずと・若し一念二
09 乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、此の文に妙なる五欲とは色.声・香・味・触の五欲なり.色欲とは青黛・珂
10 雪・白歯等声欲とは絲竹管絃.香欲とは沈檀芳薫・味欲とは猪鹿等の味.触欲とはナン膚等なり、此に恒河沙劫に著す
11 れども菩薩戒は破れず一念の二乗の心を起すに 菩薩戒は破ると云える文なり、 太賢の古迹に云く「貪に汚さるる
12 と雖も大心尽きざるをもつて無余の犯無し 起せども無犯と名く」文、 二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり華
13 厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり 定慧此れを略す、梵網経に云く「戒をば謂いて大
14 地と為し定をば謂いて室宅と為す智慧は為灯明なり」文、此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず但一種の
15 菩薩戒を授く、 此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て 衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生
16 に仏に成る者無し、 又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る 微塵を積んで須弥山と成すが如し、華
17 厳.方等.般若.梵網.瓔珞等の経に此の旨分明なり、但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ、妙楽の釈に云く「アマネ
18 く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文
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 別教では五十二位を立てる。五十二位とは一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地・等覚(一位)・妙覚(二位)である。以上五十二位である。
       ┌十 信┬退位
       │   └凡夫・菩薩 いまだ見思惑を断じていない。
       ├十 住┬不退位
   五十二位┼十 行┤
       ├十回向┴見思惑・塵沙惑を断じる菩薩である。
       ├十 地┐    0395
       ├等 覚┴無明惑を断じる菩薩である。
       └妙 覚─無明惑を断じ尽くした仏である。
 この教えは大乗である。別教も戒定慧を明かす。この戒は前の蔵教・通教の二教の戒に似ず尽未来際の戒であり金剛宝戒である。この教の菩薩は三悪道を恐ろしいとしないで、二乗道を恐れる。なぜなら地獄・餓鬼・畜生等の三悪道は仏の種子を断じないが、二乗の道は仏の種子を断じるからである。大荘厳論に「常に地獄に住むといっても大菩提を得る妨げにはならない。もし自利の心を起こすなら、これは大菩提の妨げになる」と説かれている。この教の習いは真の悪道とは三無為の火阬をいう。真の悪人とは二乗をいうのである。だから「悪をつくるとも二乗の戒を持たない」と説く。ゆえに大般若経に「もし菩薩がたとい恒河沙劫に妙なる五欲を受けるとも、菩薩戒においてはなお犯と名づけない。もし一念に二乗の心を起こすなら、すなわち名づけて犯とする」と説かれている。
 この文にある妙なる五欲とは色.声・香・味・触の五欲である。色欲とは青い黛・玉と雪・白い歯等、声欲とは琴や笛、香欲とは沈香や栴檀の芳ばしい薫り、味欲とは猪や鹿等の肉の味、触欲とは柔肌等に対する欲望である。ここに恒河沙劫という長い間、これら五欲に耽っても菩薩戒は破れない。一念でも二乗の心を起こすと菩薩戒は破れるという文である。新羅僧・太賢の梵網経古迹記に「菩薩が貪りに汚されるといっても大菩提心が尽きないかぎり、完全な犯とはならない。貪りを起こしても無犯と名づける」とある。二乗戒に趣くことを菩薩の破戒とはいうのである。華厳経・般若経・方等経、総じて爾前の経々において強いて二乗をきらうのである。定・慧については省略する。
 梵網経に「戒を譬えて大地となし、定を譬えて室宅となす。智慧は灯明である」との文がある。この菩薩戒は人間・畜生・黄門・二形の四種を嫌わないで、ただ一種の菩薩戒を授ける。この教の意趣は五十二位を一々の位について多倶低劫を経て、衆生界を尽くして仏になるのである。一人として一生に仏になる者はいない。また一つの修行だけで仏になることはない。一切の修行を積んで仏となる。微塵を積んで須弥山となるようなものである。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の諸経にこの旨は明らかである。ただし二乗界がこの戒を受けることを嫌う。だから妙楽大師の釈に「法華経以前の諸経を捜し求めてみるに実に二乗作仏の文はどこにもない」と説かれている。

五十二位
 菩薩の修行段階を 52に分けたもの。『瓔珞経』に説かれる。十信,十住,十行,十回向,十地,等覚,妙覚をいう。十回向までは凡夫で,それ以上から菩薩の位に入る。
―――
十信
 菩薩五十二位の最初の位で、十住の下位にあたる。仏の教法に入らんとする者はまず信の心を持つことから十信という。①願心、十方諸仏の浄土に往生せんと願う心。戒に住して自在なるがゆえに、よく十方に遊戯し、その所作がことごとく願に随うこと。②戒心戒を遵守する心。三学の一である。戒学。心、光密に廻すれば無為に安住して失うことがないこと。③廻向心、仏果を得んとして修行に全力を尽す心。覚明保持すれば、よく妙なる力を以って、仏光廻照を観じ、また仏に向かい安住すること。④護法心、仏法を守らんとする心。心進安寧なれば一切仏法を保持して失わず、十方如来と気分交渉すること。⑤不退心、三学の定学と慧学を以って退堕しない心。定光発明すれば明性深く入り、ただ進むのみを知り、退かないこと。⑥定心静かで動揺しない心。三学の一である定学。智明を執持して周囲を遍く寂湛し、つねに心を一境に凝らすこと。⑦慧心、智慧を研く心。三学の一である慧学。心精が現前すれば純真の智慧が自然に発起すること。⑧精進心、煩悩を雑えず、精明に仏界に進趣する心。妙円純真なる精明を以って真浄に進むこと。⑨念心、教法を憶念する心。真信明了にして一切に円通し、あまたの生死を経過するとも、現前の習気を遺失忘失しないこと。⑩信心、教法を信じる心。一切の妄迷を滅尽し、中道を了知し純真なること。
―――
十住
 別教で説く菩薩の修行の位で52段階の第11位から20位までをいう。⑪発心住。真方便を以って十住心を発起し、十信の位の従仮入空観の観法を完成し、真無濡智を発し、心が真諦の理に安住する位。⑫治地住。瑠璃の中に精金が現れるように、心の明浄が前の妙心を以って履修治して地となることをいう。常に空観を修し、心地を清め治める位。⑬修行住。前に地を渉知し、倶に明了なるがゆえに、十方に遊履して留礙なく、万善万行を修する位。⑭生貴住。正しく仏の気分を受けて、彼此冥通して如来種に入る。法無我の理に安住して種性清浄なる位。⑮具足方便住。無量の善根を具えて空観を助ける方便とする。仏と同じく自利・利他の方便力を具備し、相貌において欠くることがない位。⑯正心住。相貌のみならず、心相も仏と同じくする。般若の空智を成就する位。⑰不退住。心身ともに合成して、日々益々増長し退堕することがない。空無性の理を証して空・無相・無願の3つの三昧より心が退かない位。⑱童真住。迷い、謬見を起こさず、菩提心を破らざることが、童子が無欲真正なるに等しくして、仏の十身の霊相を一時的に備える。⑲法王子住。仏の教えに遵い、智解を生じて未来に仏位を受ける位。⑳灌頂住。空・無相の理を観じ、無生智を得る。菩薩が既に仏子となり、仏の事業を為すに堪えうれば、仏は智水をもってその頂に潅ぎ給うこと。インドの国で皇子が成長し国王たらしめる時に海水を頭頂部に潅ぐ如くであることに由来する。
―――
十行
 菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第21番目から第30番目の位をいう。十住の上位にあたり十廻向の下位にあたる。菩薩が十信、十住で自利を満足したといっても、利他の行が未満なので、この十行の位でさらに修行する。十住位の終位に仏子たる印可を得た後に、さらに進んで利他の修行を完全にするために衆生を済度することに努める位。上位から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10の位階がある。㉑真実行、智慧波羅蜜を修行し、諸仏の真実の教えを学び、前の円融の徳相がすべて清浄無漏にして、一真無為の性が本来は恒常なるを観じ、衆生を済度する行。㉒善法行、力波羅蜜を修行し、円融の徳相が十方諸仏の軌則を成じ、十種の身となって一切の衆生を利益する行。㉓尊重行、願波羅蜜を修行し、前の種々現前はすべて般若観照の力であることから、六波羅蜜の中でも特に般若を尊重して一切衆生を度し、無上の菩提を成就させる行。難得行ともいう。㉔無著行、方便波羅蜜を修行し、十方虚空に微塵を満足し、そのすべてに十方界を現じ、一切の執着を離れ、しかも一切の世間に随順する行。㉕善現行、般若波羅蜜を修行し、前の離癡乱をして、よく同類の中に異相を現じ、また一々の異相にそれぞれ同相を現じ、同異円融なるを観じ、一切が無相であることを智慧で観じる行。㉖離癡乱行、禅定波羅蜜を修行し、種々の法門が不同なりといっても、一切合同して差別誤解なきことを観じる行。㉗無尽行、精進波羅蜜を修行し、衆生の機根に合わせてその身を現じ、三世が平等にして十方に通達し利他行が無尽なるを観じる行。㉘無瞋根行、忍辱波羅蜜を修行し、たとえ刀杖で身に危害を加えられようとも耐え忍び、自覚覚他すれば違逆せんとする行。㉙饒益行、戒波羅蜜を修行し、衆生と共に無上の学道を成就して、一切衆生を利益し潤す行。㉚観喜行、布施波羅蜜を修行し、仏子となった菩薩が、仏如来の功徳を以って十方に随順せんとする行。
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十回向
 十菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第31番目から第40番目の位をいう。十行の上位にあたり十地の下位にあたる。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。上位から、入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10の位階がある。㉛入法界無量廻向、法界に等しい無量の仏を見えて、無量の衆生を調伏し、この善根を以って一切の衆生に廻向する菩薩。㉜無縛無著解脱廻向、一切の善根を軽んぜず、相に縛せられず、見に執着しない解脱の心を以って善根を回向する菩薩。㉝真如相廻向、修するところの善根を真如に合わせて廻向を完成する。真如相に如うて真如の如く廻向の行を修する菩薩。㉞等随順一切衆生廻向、無量の善根を修習し、衆生のために無上の福田となり、衆生を清浄ならしめ廻向する菩薩。㉟随順一切堅固善根廻向、入一切平等善根廻向ともいう。一切の施行を説き、清浄の布施を詳説し回向する菩薩。㊱無尽功徳蔵廻向、一切の善根を廻向して、この廻向によって十種の無尽功徳の蔵を得て、一切の仏刹を荘厳する菩薩。㊲至一切処廻向、 善根を修し、その善根の功徳の力を一切処に至らしめ廻向する菩薩。㊳等一切諸仏廻向、三世の諸仏の所作を学し、その通りに衆生を廻向する菩薩。㊴不壊一切廻向、 三宝において不壊の信心を得て、この善根を以って廻向を成する菩薩。㊵救護衆生離衆生相廻向、十廻向の初地・始位。一切衆生を救護しながら、しかも衆生を救護する執着を離れる菩薩。
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十地
 菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第41番目から第50番目の位をいう。十廻向の上位であり等覚より下位にあたる。上位から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位がある。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教化利益する様子が、大地が万物を載せ、これを潤益することに似ているから「地」と名づく。㊶法雲地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、無辺の功徳を具足して無辺の功徳水を出生して虚空を大雲で覆い清浄の衆水を出だすためにいう。平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如の世界。㊷善想地、力波羅蜜を成就して修惑を断じ、十力を具足し一切処において可度不可度を知り、よく説法する位。一切の修行を完成した大慈大悲の菩薩が、真理の世界から具体的な事実の世界に働きかけ個々差別の衆生を救済する。㊸不動地、願波羅蜜を成就して修惑を断じ、無相観を作(な)し、任運無功用に相続する位。大慈大悲の心を起す。㊹遠行地、方便波羅蜜を成就して修惑を断じ、大慈悲心を発し二乗の自度を遠離する位。十十無尽の境地に入る。この位は第二阿僧祇劫の行を終えたとする。㊺現前地、智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、最勝智慧を発し染浄の差別なきを現前せしめる位。不退転の位で決して後戻りせず、必ず仏になる確信を得る。㊻難勝地、極難勝地ともいい、禅定波羅蜜を成就して修惑を断じ、真俗二智の行相互いに違異なるを和合せしめる位。四諦の法門の外に大乗の法門を学び、利他行に取り組む。㊼焔光地、焔慧地ともいい、精進波羅蜜を成就して修惑を断じ、智慧を熾盛に光らしめる位。個々の物に対する執着心を離れ、その功徳として四方を照らす。㊽発光地、忍辱波羅蜜を成就して修惑を断じ、諦察法忍を得て智慧を顕発する位。精進の結果、その功徳として光を放ち十種の法明門を行う。㊾離垢地、戒波羅蜜を成就して修惑を断じ、毀犯の垢を除き清浄ならしめる位。十の善を行い、心の垢を離れる。㊿歓喜地、菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、聖性を得て見惑を破し、二空の理を証し大いに歓喜する位。仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する。
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塵沙
 塵沙惑のこと。三惑の一つ。菩薩が衆生を化導するのに障りとなる惑のこと。化導惑ともいう。菩薩が衆生を教化するためには、塵沙のように無数の惑を断じなければならないゆえにこういう。
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等覚
 菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
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妙覚
 ①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる]。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。
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無明
 迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性に対する言葉である。
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尽未来際の戒
 尽未来際は未来の果て、未来永遠の意。未来永遠に破壊されない戒をいう。金剛宝器戒のこと。
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恒河沙劫
 恒河沙はガンジス河の砂のことで、数え切れないほどの数を示す。数えきれないほどの長遠な時間。
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五欲
 五根が五塵の境に対して起こす欲望である。すなわち色欲・声欲・香欲・味欲・触欲のこと。
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一念
 心に深く思い込むこと、ふと思い出すこと。瞬間の生命をいう。
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色欲
 眼根が色境に執着して起こす欲望のこと。五欲のひとつ。赤・白などの色、長短などの形、男女の形色等に愛着する欲望。
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青黛
 黛は眉をかく墨のこと。青黛には①青い黛。②俳優などの舞台化粧のひとつ。③黛のような色・紺青色。五根の色欲。
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珂雪
 ①真っ白な雪。②潔白 なもの。五根ひとつで声欲。
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白歯
 白く美しい歯。五根ひとつで声欲。
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声欲
 音楽や歌謡など、耳にこころよい音や声を聞きたがる欲望。五根ひとつ。
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絲竹管絃
 音楽の総称。絲は弦楽器、竹は竹笛・尺八等をさす。五根ひとつで声欲。
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香欲
 鼻根が香境に執着して起こす欲望のこと。香りのよいものを好む欲望。五根のひとつ。
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沈檀芳薫
 沈香や旃檀などの香ばしい香り。五根ひとつで香欲。
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味欲
 舌根が味境に執着して起こす欲望のこと。五欲のひとつ。食欲のこと。
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猪鹿等の味
 イノシシやシカの肉の味のこと。五根の一つで味欲。
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触欲
 身根が触境に執着して起こす欲望のこと。五欲のひとつ。肌に快感を起こすものに対する欲望。
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煗膚
 柔らかくて美しい肌。五根の一つで触欲。
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太賢の古迹
 太賢は8世紀に活躍した新羅の法相宗の学僧沙門と号した。青丘とは朝鮮の美称である。生没年や師承など詳しい伝記は不明であり円測の弟子である道証に法相学を学んだという伝承もあるが確かでない。著書に『成唯識論学記』『薬師経古迹記』『起信論内義略探記』『梵網経古迹記』成唯識論学記』『薬師経古迹記』『起信論内義略探記』『梵網経古迹記』などがある。
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二乗戒
 小乗教で説かれた諸経教のこと。小乗戒と同意。
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爾前の経
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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黄門
 中国の宮殿の門のこと。「禁門」ともいう。秦や漢において、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来する。中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)の略。 転じて、日本の中納言の唐名を「黄門侍郎」または「黄門」という。漢における宦官の職名である小黄門や中黄門のこと。仏教用では、性的倒錯、あるいは生殖器に異状がある人を指す。
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二形
 生物における多型現象の一 つで、性別によって個体の形質が異なる現象を指す。性的二型とも書く。
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多倶低劫
 多くの倶低劫の意。「倶低」は「倶胝」とも書き、数の単位。十万、千万あるいは億とする説もある。「倶低劫」は数えきれないほど長遠な時間のこと。多劫のこと。
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衆生界
  衆生の住む世界。また,人間界。現世。 ② 十界のうち仏界を 除く九界。
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一切行
 一切の修行。別教では、菩薩は多倶低劫の間、一切の修行を経て後、仏になることができるとする。
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微塵
 微細な塵のこと。転じて数量の多いこと。
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須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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分明
 明らかに分かるさま。はっきり見極めがつくこと。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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二乗作仏
 「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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 別教における修行の段階と境地について述べられている。
五十二位を立つ
 別教の菩薩は、修行の道程において五十二位の階段を登って仏果に達するとする。「五十二位」とは、すなわち十信の位から始まって十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の最高位に至る次第である。この次第は菩薩本業瓔珞経巻上に説かれている。
五十二位を図で示されたなかで、十信を「退位」とし、十住・十行・十回向を「不退位」とされている。これは五十二位の修行をしていくうえで、十信はまだ退転の要素を残しているので「退位」であり、十住以上になると「不退位」になるということである。
 天台大師は法華玄義巻四上に「不退」について三種を挙げている。「見思破するが故に、位不退を得て真諦三昧成ず。悪業塵沙破するが故に、行不退を得て俗諦三昧成ず。無明破するが故に、念不退を得て中道三昧成ず」と。
 「位不退」とは菩薩の位を失わず、凡夫に戻ることがない不退である。「行不退」とは、菩薩の行を失わない不退であり、「念不退」とは中道正念を失わない不退である。位不退に住する菩薩であっても、行においては常に修するとはいえない。まして常に中道正念に住するのは至難のことである。しかし、まず凡夫に戻ることがない位をもって不退とするのである。行不退は位不退より進んだ位であるが、念不退にまでは至っていない状態である。したがって、五十二位を登る菩薩は、位不退から行不退へと進み、最後の念不退をもって真の不退とするのである。
 天台大師は見思惑を破した菩薩は位不退に住し、塵沙惑を破した菩薩は行不退に、無明惑を破した菩薩が念不退に住すると説いている。三惑を五十二位に配すると、十信はまだ見思惑を断じていない。十住・十行・十回向で塵沙惑を断ずる。十地以上に至って無明惑を断ずるのである。したがって、いまだ見思惑を断じていない十信は不退に住せず「退位」となる。この菩薩はもとの凡夫に戻ることがあるゆえに「凡夫菩薩末だ見思を断ぜず」と仰せられているのである。
 図で「不退位」とされているのは、したがって、天台大師の三種の不退からいうと、位不退・行不退をさしているのである。
 「等覚」とは、五十一位にあたる。菩薩の行証における極位をさし、究極の仏果の燐の位にあたるので燐極ともいう。長い間の菩薩の修行を完成して、まさに妙覚の仏果を得ようとする位である。従義の四教義集解巻下に「妙覚に望むるに猶一等あり、下に比して覚と名づく、故に等覚と名づく」とある。すなわち妙覚からみればまだ差があり、前の五十の位に対すれば覚者といえるところから等覚というのである。
 「妙覚」とは無明を断じ尽くして妙法の極理を覚り極めた仏果の位である。十地や等覚を「無明に断ぜるとし、妙覚を「無明を断じ尽くすとされているのは、別教では十地以上の菩薩が一つの位に一品ずつ、計十二品の無明を断じて仏に成るとされており、十地では十品までの無明を断じ、等覚では第十一品の無明を断じているのに対し、仏は第十二品の無明を断じているとするところから、「断じ尽せる」といわれたのである。
此の教は大乗なり戒定慧を明す
 蔵通二教と相対して別教の三学を明かされている。本抄ではとくに「戒学」について、前の蔵・通二教の戒と相対して、勝れた戒であることを明かされている。
 清浄毘尼方広経に「破れたる瓦器の補修す可からざるが如きは、是れ声聞毘尼なり。金銀の器の破れたるも、還修治す可きが如きは、是れ菩薩毘尼なり」とあり、声聞の修学する戒を、ひとたび破れてしまえば補修できない瓦器に譬え、菩薩の修学する戒を破れても補修できる金器・銀器に譬えている。
 これに対して、別教の菩薩戒は「尽未来際の戒・金剛宝戒」であるといわれている。すなわち永遠性を有し、金剛の宝器のように堅固で壊れることのない戒である。
 梵網経巻下には「金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性の種子なり」とある。
 このように、ここでは三学中の「戒」を取り上げて蔵・通二教と別教を相対して、別教の菩薩戒の優秀性が示されているが、「定・慧」の二法については略されている。
此の教の菩薩は三悪道を恐しとせず二乗道を恐る
 別教の菩薩が二乗道を恐れることについて明かされている。
 菩薩は初めて発心した時、自己の菩提を求め、衆生を教化する誓願を立てる。二乗道の自己的心地とその修行は、この請願に反し、行ずることを妨げるので、これを最も恐れ、むしろ地獄・餓鬼・畜生等の三悪道は必ずしも恐れるに足らないとしている。
 一般的には三悪道に堕ちることを恐れるものであるが、たとえ三悪道に堕ちたとしても、成仏の種子、すなわち仏となるべき可能性を断ち滅するようなことはない。しかるに、二乗道の心地は己の身心を滅して、ついには成仏の種子まで断滅してしまい、「永不成仏」といって永遠に成仏できないのである。
 このことを大荘厳論の文は「恒に地獄に処すと雖も大菩薩を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩薩の障りなり」と戒めているのである。
 更に本文に「此の教の習は真の悪道とは三無為の火キョウなり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず」と述べられているように、別教では、小乗教の二乗が悟りとする「三無為の火阬」こそ真の悪道として恐れよというのである。
 無為とは現象世界のさまざまな変化を離れた不変の真理を意味する言葉で、大毘婆羅論巻76には「若し法にして、性無く、滅無く、因無く、果無くして無為相を得たるものなれば、是れ無為の義なり」とある。すなわち、一切の事象が生じ存続し変化し消滅するという四相を離れた悟りのことをいい、三無為とはこれに三種あるとするもので、択滅無為・非択滅無為・虚空無為の三つをいう。択滅無為とは、さまざまな現象を択んで判断する智慧によって四相から離れ、悟った状態、非択滅無為とは、滅すれば択ぶ必要もなく、本来清浄となること、虚空無為とは虚空のような真理の意で、一切に遍く行き渡る真理をいう。この三無為は灰身滅智に陥る悟りであり、この火の穴に落ちたならば仏種を焼き尽くされて成仏もありえないのである。したがって、たとえ悪業を造作することがあったとしても、二乗の戒だけは持ってはならないと論じているのである。
 次いで大乗の菩薩が二乗の心地を嫌い厭う証文を引いて明らかにされている。
 第一の証文に「大般若経に云く『若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くとも』」と。
 「大般若経」の文は、二乗の心地を起こすとは菩薩戒を犯すものであると戒めている。すなわち「菩薩が恒河沙劫という長い期間にわたり、人心を惑わせる妙なる五欲の虜になったとしても、それでもなお、菩薩戒を犯したことにはならない。万が一にも刹那の一念に二乗特有の自利の心地を起こす時は、菩薩戒の破戒となるのである」と説かれている。
 この文に「妙なる五欲」とは、色・声・香・味・触に対する眼・耳・鼻・舌・身の五官を通して起こる五つの欲望であって、色欲に青黛・珂雪・白歯等、詳しく五欲を挙げられている。これらの欲望に耽ることが恒河沙劫という長い期間であっても、菩薩戒は破れることはないが、一念に二乗の利己心を起こせば、すでに菩薩戒を破ることになる、と戒めている文である。
 第二の証文に「太賢の古迹に云く『貪に汚さるると雖も大心尽きざるをもつて』」と。
 「太賢」は法相宗の玄奘から第四代の弟子・太賢法師で、「古迹」はその著「梵網経古迹記」である。五欲等の貪欲にその心が汚されることがあっても、大菩提心は尽きることはないから、無余の犯とはならない。したがって、たとえ五欲に貪著するようなことがあっても、無犯ということである」と。ここでは「大心尽きざるをもつて」と、大菩提心が尽きないことによって貪欲を許している。この文は直接、二乗の戒を破したものではないが、「大心」が無犯であることを説いて間接的に二乗の戒こそが菩薩の破戒であると破っているのである。
 このように般若経だけでなく、華厳部・般若部・方等部等、総じて爾前四十余年の諸大乗教においては、二乗道を何よりも嫌うのである。
 以上は戒について述べられたものであるが、定学・慧学については、省略されている。
 次の梵網経の文は、戒と定と慧の関係を示したもので、戒が大地にあたるので、特に戒を論じられた理由として挙げられたと拝される。
 そして、以上に示された別教の菩薩戒は、小乗戒のように窮屈なものでなくして、人間であっても、畜生であっても、とくに人間のなかでも男女根のない黄門であろうとも、男女両根を有する二形であろうとも、これらの四種のものを嫌うことなく、ただ一種の菩薩戒を授けるのである。
此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て 衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生に仏に成る者無し、又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る微塵を積んで須弥山と成すが如し、華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり
 別教の菩薩の修行には、すでに述べられたように「五十二位」の段階が設けられている。これらを一段一段、次第に登って仏果を極めるのである。その一々の位を登るのに「多俱低劫」という極めて長い期間を要するのである。「多俱低劫」とは、梵・漢を兼ねた言い方で、多とは漢語、俱低劫とは梵語である。俱低とは数の単位であって、あるいは10万・1000万といい、あるいは億・万億ともいわれている。一般は1000万の意に用いている。多くの俱低劫というから、どれはどの長時かあるかを知るべきである。
 したがって、一人として一生の間に成仏することは不可能であり、また一つの修行を完璧にしたとしても成仏はありえない。一切の修行の功を積んで初めて成仏ができるとしているからである。それは、ちょうど微塵を積んで須弥山とするようなものであるといわれている。
 この別教を説いた経として、華厳経をはじめ、方等部・般若部の諸経、また梵網経・瓔珞経等の諸経が挙げられている。別教は二乗とは別に菩薩のためにのみ説いた教えの意であるから、菩薩の戒を詳しく説いた梵網経、五十二位の菩薩の修業を説いた瓔珞経をとくに挙げられている。
但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ
 最後に別教では、二乗はこの菩薩戒を受けることが出来ないとしていることを述べられ、爾前経には二乗の作仏を明かした文はどこにもない。との妙楽大師の止観輔行伝弘決の文を示されている。
 大乗の菩薩戒は、いかなる者にもこれを授けることを厭わないが、声聞・縁覚の二乗だけは、これを受持することを許していない。したがって、この別教によっては、二乗の授記作仏はありえないのである。

0396:01~0396:05 第八章 爾前の円教の大旨を明かすtop
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01   次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり、爾前の円に五十二位・又戒定慧あ
02 り、爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く「初発心の時便ち正覚を成ずと」又云く「円満修多羅」文、浄
03 名経に云く「無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず」文、 般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」
04 文、観経に云く「韋提希時に応じて 即ち無生法忍を得」文、 梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即
05 ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり」文、 此は皆爾前の円の証文なり、
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 次に円教について述べると、この円教に二種ある。一には爾前の円、二には法華・涅槃の円である。爾前の円に五十二位、また戒定慧がある。爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門がそれであり、華厳経に「初発心の時、直ちに正覚を成ず」と。また「円満修多羅」とある。浄名経に「我がなく、造がなく、受者がないけれども善悪の業は滅しない」、般若経に「初発心から即座に道場に坐す」、観無量寿経に「韋提希は時に応じて、速やかに無生法忍を得る」梵網経に「衆生から仏戒を受けるとは位は妙覚に同じ、即座に諸仏の位に入り、真にこれ諸仏の子である」と述べられているのは皆、爾前の円の証文である。

円教
 円融円満で完全無欠な教のこと。中国では諸教の教相判釈に対して、最高の教を円教と定めた。法華経のこと。
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爾前の円
 爾前諸教に説かれる円教のこと。釈尊が30歳で成道して以来、法華経を説くまでの42年の間、法華経に誘引するために説かれた方便の経。円教は円融円満で完全無欠な教法のことで、天台大師の教判では化法の四教の第四にあたる。爾前諸教においても、凡夫の位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説くことを爾前の円という。
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法華・涅槃の円
 爾前の円に対する語。涅槃経は法華経に包摂し通常は法華の円という。円とは化法の四教の一つで、教法が円融円満であるゆえに名づける。
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法界唯心の法門
 あらゆる存在はただ心が造り出したものであり、決して心を離れて存在するものではなく、心の外には別の法はないと説く華厳宗の教義。唯心法界のこと。
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円満修多羅
 円満経のこと。円満とは十分に満ち足りて、欠けることがないとの意。修多羅は仏の説いた教法を後世に伝える章句のこと。
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浄名経
 維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片的に残っているだけである。漢訳は鳩摩羅什訳、維摩詰所説経3巻など三種がある。主人公の維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に精通していた在家の菩薩。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、教理が展開されている。大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。
―――

 ①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
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道場
 ①仏の常道の場所。②仏道を成するための修行や行教法。③仏道を修行する場所。④仏を供養するところ。⑤寺院のこと。
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韋提希
 「韋提希」とは梵語、ヴァイデーヒー(Vaidehī)の音写で、毘提希とも書く。訳しては思惟、勝妙身。南インド摩竭提国・頻婆沙羅王の夫人で、阿闍世王の母。後に阿闍世王子のクーデターによって父王が幽閉されると、韋提希は深く王の身の上を気遣い、自分の体を洗い清めて、小麦粉に酥蜜を混ぜたものを塗り、胸飾りの1つ1つにブドウの汁を詰めて、密かに王の許に行き、それを食べさせたという。母である韋提希の行動を知った阿闍世は怒って、その剣を首筋に当てて王舎城から追い出し、同じように牢に幽閉させた。
―――
無生法忍
 一切諸法は無生無滅であるという真理を悟って、心が安住する位。また、不退の位に入った菩薩。あるいは十地のうち第七・第八・第九地の位に入った菩薩。
―――
仏戒
 仏のいましめ。
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大覚
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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 化法の四教の第四は「円教」である。これは大別して二つある。一には「爾前の円」、二には「法華・涅槃の円」である。「法華経の円経は後に至って書く可し」とされ、まず爾前の円について述べられる。
 爾前の円と法華・涅槃の円とはどのような相違があるのか。それは爾前の円が「帯権の円」であるのに対し、法華の円は「純円」であるということである。
 法華玄義巻一上に「華厳は兼、三蔵は但、方等は対、般若は帯、此の経は復兼但対帯なし」とある。「華厳は兼」とは華厳部の経は円頓の法を明かしているのであるが、またところどころに行布の次第を述べ、円教に別教を兼ねているので「兼」という。「三蔵は但」とは小乗阿含経はただ経・律・論の三蔵のみを説いて、通・別・円の三教の理を明かさないことをいう。「方等は対」とは方等部の経々は蔵・通・別・円の四教の義に対応して四教の法を説くところから「対」という。「般若は帯」とは般若部に共般若・不共般若があるが、不共般若は菩薩のみに説いて声聞・縁覚の二乗に共通しない別・円の二教をさし、共般若は声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通する通教をさす。般若はこの不共に共を帯びて説くのであり、別・円二教と通教を帯びて説くゆえに「帯」という。したがって、阿含は円のみならず通・別さえも明かしていないから「爾前の円」に含まれず、華厳・方等・般若は円教を説いても、その経のなかに蔵・通・別の三種の教法をも存しているから「権を帯びた円」すなわち「帯権の円」になるのである。それに対して「此の経は復兼但対帯なし」とは法華経が純円一実の教であるとの意である。
爾前に円教を説く声聞
 初めに「爾前の円に五十二位・又戒定慧あり」と。爾前の円教にも五十二位があり、また戒定慧の三学の法門が説かれているのである。爾前の円で説く五十二位と別教の五十二位との違いについて示されるまえに、爾前の円の文証を挙げられている。
 初めの華厳経の「法華唯心の法門」とは、同経巻十の如来林菩薩の偈のなかに「心は工なる画師の如し、種種の五陰を画く、一切衆生の中に法として造らざる無し」等と説いている経文をさすのである。つまり、「心とは、優れた画家が絵筆をもって種々の五陰、すなわちさまざまな人間と事物を絵画に描き得るのと同様に、森羅万象のすべてを造っていくことができるのである」との意味であり、一切諸法はすべて一念心が造るものであるという法門である。
 この文は法華経の一念三千法門に通じるものであり、天台大師も一念三千の説明にこの華厳経の文を用いている。そのゆえに円の証文なのである。ただし、華厳のこの説は、一切の心から生じるという「心生」は説いていても、一切が心に具すという「心具」は説いていない。
 次に華厳経巻八の「初発心の時に便ち正覚を成ず」が挙げられているが、初発心の時の五十二位中、十住の初住位に入った時をさし、この時、すぐに正しい仏の悟りを成ずるという意である。“便”は“即”の意よりやや緩やかではあるが「初発心」と後の「正覚を成ず」で速疾頓成の円理を説いている文証となる。
 更に「円満修多羅」というのも、華厳経の文である。修多羅とは梵語で経と訳し、円満経ということで、これが“円教”と同義であることはいうまでもない。
 次の浄名経の「無我無造にして受者無けれども善悪の業亦亡びず」とは、浄名経とは維摩経の別名で、その巻上仏国品の文である。その意味は「諸法には『我』はなく、『造る』こともなく、果報を受ける『受者』もない。しかし、善悪の業も亡びることはない」というので「無我無造」は円教の平等の義を示している。
 次に「初発心より即ち道場に坐す」が引かれている。「道場」とはここでは仏の成道の場所を意味し、菩薩が初発心の時から道場に坐すと説いたこの文は、円教を説き示したものとなる。
 また観無量寿経の文には韋提希および未来世の一切衆生が西方極楽世界を観ずる時、無法法忍を得るのであろうとある。このように、無生無滅の実相を悟って安住する位である無生法忍を得るということは、一分の中道の理を証得して初住位に至ることを示しているのである。
 最後の梵網経の「衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり」の文も、衆生が仏界を受けることによって、直ちに成仏するという意味で、円教の理を述べた文となっている。
 以上は皆、爾前の円の証文である。

0396:05~0396:10 第九章 爾前の円教の行位と証果を明かすtop
05                                     此の教の意は又五十二位を明す名は
06 別教の五十二位の如し但し義はかはれり、 其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、 凡夫も位を経
07 ずとも仏にも成り又往生するなり、 煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く 一善一戒を以ても 仏に成る少少開会
08 の法門を説く処もあり、 所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す 但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の
09 所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、 観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず 往生すと説くは
10 皆爾前の円教の意なり、法華経の円経は後に至つて書く可し已上四教。
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 この教の趣意は又五十二位を明かす。名は別教の五十二位と同じであるが、ただし義は異なっている。そのゆえは円教では五十二位が互いに具して浅深もなく勝劣もない。凡夫も一々の位を経なくとも仏にも成り、また往生するのである。煩悩も断じないけれども仏に成る障りはなく、一善一戒をもってしても仏に成る。少々、開会の法門を説くところもある。いわゆる浄名経には、凡夫を開いて仏に会入し、煩悩や悪法も皆、開会する。ただし二乗を開会しない。般若経のなかには二乗の所学の法門は開会しているが、二乗の人と悪人は開会していない。観無量寿経等の経々に凡夫がほんの少しの煩悩をも断じないで往生すると説くのは皆、爾前の円教の意である。法華経の円経は後に書くことにする。(以上が化法の四教である) 。

往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
一善一戒
 一善とはわずかなひとつの善。善は法に約して善法という場合と、修行に約して善行・善根・善戒という意味がある。一戒とはわずかなひとつの戒。
―――
開会
 開顕会融・開顕会帰の意。権教を開き顕して実教に会入すること。爾前権教を開して法華経の真実に会入させること。法華経迹門における開会は三乗を開して一仏乗に帰せしめる開三顕一をいう。法華経本門における開会は一切の諸仏を開して唯一の本仏に帰入せしめる開迹顕本である。開会には教法のすべてが一法に帰着するとする法開会と、万人の平等の成道を説いた人開会がある。法開会は一往の理論で、諸経に説かれるが、事相面である人開会は法華経に限られる。開会の法門は諸教になく法華経のみに見られる特質であり、一切の諸法は一つとして捨て去るべきでなく、真実を含有するものとして生かされることになる。
―――
一毫の煩悩
 毛筋ほどのわずかな煩悩のこと。亳とは長く尖っている細毛。
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 ここでは爾前の円教の修行における位とその悟りとが明かされている。まず位であるが、御文に「此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり」とある。すなわち、爾前の円教でも、別教におけると同じく五十二位を立てるが、その意味するところは異なるとされ、その異なりについて「其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る」と述べられている。
 つまり、別教では修行者は見思・塵沙・無明の三惑を次第に克服しつつ漸次に進み登っていき、最後に仏果に到達するとされているので、一つ一つの位は常に前の位が低く後の位が高い、ということで位相互の間には断絶がある。
 ところが、円教の五十二位は一往は下から上へと順番に登っていく修行階梯を表してはいるが、円教であるため一つ一つの位のどこからでも究極の悟りの仏果に至ることができるとされている。したがって、位と位の相互間には別教のような断絶はなく、互いに融通しあっているのである。つまり、御文にもあるように、五十二位の位階が相互に具し合って浅深も勝劣もなく、凡夫も修行の位を登らなくても仏に成つたり浄土へ往生することができるのであり、更には煩悩を断じなくてもそれが菩提の障りとなることはなく、たとえわずかな一善の修行や一戒を持つことによって成仏ができる、とされているのである。
少少開会の法門を説く処もあり
 爾前の円における「開会」について述べられている。「開会」とは真実を開き顕して一つに記入されることである。この開会には大きく分けて二つある。一には教法のすべてが一法に帰着するという「法開会」、二には衆生の成仏を説く「人開会」である。
 御文に「少少」といわれているのは、このうち爾前の円教には法開会と、限られているが人開会が説かれているということである。
 その爾前の諸経文の内容が、次に挙げられている。
 まず、浄名経については「凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず」と。浄名経とは維摩経であり、その巻五の仏道品第八に「是に於いて維摩詰、文殊師利に問う。『何等をか如来の種と為すや』と。文殊師利言く…『要を以って之を言わば、六十二見及び一切の煩悩は皆是れ仏の種なり』と」と開会の法門が説かれている。煩悩が仏種となるということは法開会であるとともに、人として凡夫の開会も説かれていることになる。
 ところが「正使声聞は身を終わるまで仏と法と力と無謂等を聞くとも、永く無上道の意を発すること能わざるなり」等とあり、声聞・縁覚については不作仏としていて、開会していない。このように浄名経では「凡夫」「煩悩」「悪法」を開会するが「二乗」は開会していないのである。
 また般若経については「二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず」と。般若部経典では般若の理を説いて大小二乗無差別を示しているから、二乗が学ぶべき法門を開会していることになる。しかし、大般若波羅蜜多経巻77・初分天帝品第22の1に「僑尺迦、もし声聞独覚の正性離生に入れる者は復、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すること能わず、何を以っての故に、彼は生死の流れに於いて已に限隔を作すが故なり」とあり、二乗の成仏を許していない。
 更に、観経等の経には「凡夫一毫の煩悩をも断ぜず 往生すと説くは皆爾前の円教の意なり」と、観無量寿経等で凡夫が往生すると説いていることを挙げられている。観経等では、凡夫は煩悩を断ずるなどの修行を経ずとも、仏の名を称えるだけで極楽往生できると説いているから、一往、円融の理を示していることになるのである。
 以上で、蔵・通・別・円と「化法の四教」について終わられ、「法華経の円教」については「後に至って書く可し」と、あとに譲られている。それは次に五時を説かれ、法華経の位置を明らかにしたうえで、その内容を論じられているゆえである。

0396:11~0397:01 第十章 爾前の四時を示すtop
11   次に五時,五時とは一には華厳経結経梵網経別円二教を説く,二には阿含結経梵網経但三蔵教の小乗の法門を説く,
12 三には方等経宝積経.観経等の説時を知らざる権大乗経なり結経瓔珞経、但し蔵.通.別.円の四教を皆説く、四には般
13 若経結経仁王経通教.別教.円教の後三教を説く三蔵教を説かず、華厳経は三七日の間の説.阿含経は十二年の説.方等
14 ・般若は三十年の説、已上華厳より般若に至る四十二年なり、 山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず般若
15 経三十年と申す、 寺門の義には方等十六年・般若十四年と申す、秘蔵の大事の義には方等般若は説時三十年・但し
16 方等は前・般若は後と申すなり、 仏は十九出家・三十成道と定むる事は大論に見えたり、一代聖教五十年と申す事
17 は涅槃経に見えたり、 法華経已前・四十二年と申す事は無量義経に見えたり、法華経・八箇年と申す事は涅槃経の
18 五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年なり、 已上十九出家・三十成道・五十年の転法輪・八
0397
01 十入滅と定む可し、
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 次に五時について述べる。五時とは、一には華厳経(結経は梵網経である)別教・円教の二教を説く。二には阿含経(結経は遺教経である)ただ三蔵教の小乗の法門を説く。三には方等経、宝積経や観無量寿経等の説時が不詳である権大乗経(結経は瓔珞経である)ただし蔵教・通教・別教・円教の四教をすべて説く。四には般若経(結経は仁王経である)通教・別教・円教の後三教を説く、三蔵教を説かない。
 華厳経は三週間の間の説、阿含経は十二年の説、方等経と般若経は合わせて三十年の説である。以上、華厳時から般若時に至る期間は四十二年である。しかし延暦寺系の所説には、方等経は説時も定まらないし説処も定まらない。般若経の説時は三十年という。三井寺系の所説には、方等経の説時は十六年、般若部の説時は十四年という。比叡山学僧・証真の秘蔵の大事の所説には、方等経・般若経は説時が合わせて三十年、ただし方等経は前に説かれ、般若経は後に説かれたと述べられている。仏は十九歳の時に出家、三十歳の成道と定めることは大智度論巻三に出ている。釈尊の一代聖教の説時は五十年ということは小乗の涅槃経に出ている。法華経の説時は四十二年ということは無量義経に出ている。法華経の説時は八ヵ年ということは、涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文から期間を考えると八ヵ年になる。以上、釈尊は十九歳の出家、三十歳の成道、五十年の転法輪、八十歳の入滅と定めるべきである。

五時
 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、説法の順序から五種に分類したもの。
―――
結経
 中心となる教えを述べた本経に対し、その結びとなる要旨を述べた経典。
―――
宝積経
 「大宝積経」のこと。大乗仏教の経典の1つ、120巻。各種の経典49部あらなる。西域僧である竺法護によって編纂・翻訳され、唐代の0713年に菩提流志が再翻訳し完成した。内容は菩薩修行の法並びに授記・成仏等に関する記述が多く、密教や般若などの種々の思想が多く含まれている。
―――
仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
山門
 三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
―――
寺門
 三井・園城寺のこと。
―――
一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
転法輪
 法輪を転ずるの意で、仏が教法を説くこと。説法。法華文句巻五上には「仏の心中の化他の法を転じて他心に度入するを転法輪と名づく」とある。
―――
八十入滅
 釈尊が80歳で入滅したこと。入滅は寂滅の意で、涅槃ともいい、仏の死を意味する。
―――――――――
 ここからは五時判によって、釈尊が一代50年にわたって説かれた諸経を整理・分類し、その極説としての「法華経の円経」が仏の極位であることを明らかにされているのである。
 そこでまず、釈尊一代五時の中の前四時の概要が述べられている。
 第一には「華厳時」。釈尊が伽耶城近くの菩提樹下で初めて成道した後、すなわち寂滅道場において3週間、華厳部の諸経を試しみに説いた期間をいう。その所説は、化法の四教のなかにおいて別教と円教の二教を説いている。この華厳時の結経は梵網経である。
 第二には「阿含時」。波羅奈国の鹿野苑などで12年間、衆生を誘引するために長阿含経等の阿含部の小乗教の四阿含を説いた期間をいう。この阿含経の結経は遺教経である。その所説は、化法の四教のなかにおいてはただ小乗の通教のみを説いている。
 第三には「方等時」。方等部の方等経・宝積経・観経等の権大乗教に属する諸経を説き小乗を弾呵して大乗を慕わせた期間をいうのである。説法の期間は不定であって、一説には16年間とも、また8年間ともいわれている。「説時を知らざる」と仰せられているのは説時が定まらないということである。この方等時の結経は瓔珞経である。ただしその所説は蔵・通・別・円の四教を並べてすべて説いている。方等の方とは方広の義、等とは平等の義で、広く四教を説いたのである。なお四教のなかで蔵教は小乗教に属するのであるが、この方等時においては釈尊所説の本旨が大乗教にあるところから、大乗経とするのである。
 第四には「般若経」。鷲峰山、白鷲池など四処十六会で14年間、権大乗に属する般若部の諸経を説き、衆生の機根を淘汰した期間をいう。この般若時の結経は仁王経である。その所説は四教中、三蔵教を除く通・別・円の三教である。
説時について
 一代を五時に分け、おのおのの説時、すなわち説法の期間を述べられている。
 第一時の華厳経は釈尊が成道して、最初の3週間の説である。第二時の阿含経は12年間の説である。第3時の方等部、第4時の般若部は合わせて30年間の説である。したがって、以上の第一時の華厳経から第4時の般若経に至る間の説時は、最初の説法から数えて42年となる。
 この42年の説時について、古来、天台宗のなかにも異説があり「山門の義」と「寺門の義」が挙げられている。我が国の天台宗は伝教大師を祖師として始まるが、第5代座主・智証のころから分派対立が芽生え、第18代座主・慈慧の死後、後任の座主をめぐって対立し、慈覚門徒と智証門徒が激しく争った。そして正歴4年(0993)に智証門徒が比叡山を下って三井寺に入って以後、比叡山延暦寺は「山門」、三井寺は「寺門」と呼ばれて対立したのである。
 比叡山延暦寺系の説では「方等は説時が定まっていない」とし、「般若部は30年の説である」とする説時を立てている。つまり、方等部の説法は弾呵、すなわち小乗にとどまる二乗を叱責し、大乗を慕うようにしたものであり、弾呵をもって教化する場合は、それがいつ、どこであろうと方等部というべきであって、説時・説処を特定する必要はなく、一代50年から阿含部の12年と法華経の8年を除いた30年間を般若部の説時と立てるというものである。
 一方、三井園城寺系の説では「方等部は16年間、般若部は14年間」と立てている。仁王般若経のなかに「如来成道二十九年に般若を説く」という経文を根拠にして般若部経典が釈尊成道後29年目に説法されたとし、爾前経説法の42年から28年を引いた残り14年間を般若の説時、28年から阿含経の12年間を引いて方等部を16年としている。なおほかにも、方等8年間・般若20年という説や、更に本抄で示されている「秘蔵の大事の義」、証真の法華玄義私記の、方等と般若のそれぞれについては説時は明らかではないが合計して30年で、なかで方等が先、般若が後であるとする説等がある。
 なお「仏は十九出家・三十成道と定むる事は大論に見えたり」とあるが、現在の大智度論のなかには、釈尊は19歳で出家したとの文はあるが、30歳で成道したという文はない。ただし、出家してから50年との文はあり、80歳で入滅と勘案すると30歳成道となる。また般泥洹経には、成道してから49年という文があり、釈尊一代の聖教が50年にわたって説かれたということになる。
 また法華経の開経とされる無量義経には「四十余年未顕真実」とある。本抄の「法華経已前・四十二年」は、この文の意をとっていわれたものと考えられる。法華経が「8ヵ年」の説法であるということは、涅槃経の「50年」の文と、無量義経の「42年」の文を引き合わせて引き出されたものである。
 以上によって、釈尊は19歳で出家し、30歳で成道し、以後、50年間の転法輪、すなわち説法教化が行われ、80歳で入滅したと定むべきである、とされている。

0397:01~0397:05 第11章 爾前は法華経の方便と示すtop
01           此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり、 其の故は無量義経に云く「我先に道場
02 菩提樹下に端坐すること六年 阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以てす、 四十余年には未だ真
03 実を顕さず初に四諦を説き阿含経なり次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説く」文。
04   私に云く説の次第に順ずれば華厳.阿含.方等.般若.法華.涅槃なり,法門の浅深の次第を列ぬれば阿含.方等.般
05 若・華厳・涅槃・法華と列ぬべし、されば法華経・涅槃経には爾くの如く見えたり
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 これら四十二年の説教はすべて法華経に導くための方便である。そのゆえは無量義経に「我は、前に道場の菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たのである。○。方便力をもって種々の法を説いたのである。四十余年には未だ真実を顕していない。初めに四諦を説き(阿含経である)、次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説く」とある。
 私見をいえば、説法の順序に従うと華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃である。法門の内容を浅きから深きの順序に並べると阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と並べるべきである。だから法華経・涅槃経には、このとおりに説いている。

汲引の方便
 衆生の機根がまちまちのため、機根を調えて真実の法華経に引き入れるために設けた方便のこと。汲引は水を汲み上げる・引き寄せるの意で、転じて人を引き上げ用いることを意味する。
―――
阿耨多羅三藐三菩提
 梵語anuttara samyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。
―――
方便力
 仏・菩薩が衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働き。
―――
四諦
 四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦のことで、苦諦は世間の果報・集諦は世間苦果の因縁・滅諦は出世間涅槃の果、道諦は出世間の果を得る因をいう。
―――
方等十二部経
 方等部の経々。大乗教の一切を意味する場合もある。
―――
摩訶般若
 摩訶般若波羅蜜経のこと。「大品般若経」ともいう。27巻からなり、羅什の訳。
―――
華厳海空
 華厳経の法門。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るごとく、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの三昧をえると、一切衆生の心行を己心に映すことができるようになるとされる。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす言である。ここでは華厳経そのものを指した語。
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 五時を明かすなか、華厳・阿含・方等・般若の四時まで示されたが、これらは第五時の法華経へ誘引するための方便の教えであることを、無量義経の文を引いて教示されている。
 無量義経では、仏は6年間、菩提樹下に坐した後、悟りを開いたが、衆生の機根が別々であったので、その機根に応じて法を説き、今、40余年に至るまで真実を顕していないことを述べられている。そのなかで、方便として説いた教えとして挙げられているのが「初め四諦を説いて証文を求むる人の為にせし…十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせし…次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし」との文である。
 このなかで四諦・十二因縁の法門とあるのはともに阿含の教えで、四諦は中阿含経に、十二因縁は俱舎論に説かれている。また「方等十二部経」とあるのは、一切の大乗を意味することであるが、ここでは方等部に属する一切の経の意である。十二部経は経典を、説いた形式や内容で十二に分類したもので、方等部経典は多様であるところからこういう。「摩訶般若」は偉大なる仏の智慧で、本来は般若部の教えに限られたものではないが、ここでは般若部の教えを意味している。般若部経典には摩訶般若波羅蜜などがある。「華厳海空」は華厳部の教えのことで、華厳の教えが「海空」すなわち海印三昧の境地を説かれているところからこういう。したがってこの無量義経の文は、四時の説法を挙げ、これらが真実を顕していない方便の教えであることを示したものである。
 なお、この無量義経の文によると、阿含→方等→般若→法華・涅槃の順序に説かれたようであるが、釈尊50年の聖教は、“説の次第”と“法門の浅深の次第”に分類できるのであり、日蓮大聖人は、“私見を述べるならば”と断られて「第一に『説法の次第』、すなわち説法の順序より並べれば、すでに述べたように、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃の順となるが、『法門の浅深の次第』、すなわち教法の浅きより深きに至る順序によって並べれば、阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と列ねられるべきである。したがって、法華経や涅槃経には、このような順序で挙げられているのである」といわれている。

0397:05~0397:13 第12章 爾前を依経とする諸宗を破すtop
05                                      華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵
06 法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経
07 に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜
08 伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて
09 吉蔵大師立て給へり、 華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、 法相宗には
10 解深密経と華厳・般若.法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳.法華・涅槃は同じ程の経なり、但
11 し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、 此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極とし
12 て立てたる宗どもなり、 宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべ
13 きなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。
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 さて華厳宗という宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師が華厳経を所依として立てたものである。倶舎宗・成実宗・律宗は法宝法師・普光法師・道宣律師等の人師が阿含経に基づく俱舎宗・成美論・四分律を所依として立てたものである。法相宗という宗は玄奘三蔵・慈恩法師等が方等部のうちの弥勒上生経・弥勒下生経・弥勒大成仏経・解深密経・瑜伽師地論・成唯識論等の経論を所依として立てたものである。三論宗という宗は般若経・百論・中観論・十二門論・大智度論等の経論を所依として吉蔵大師立てられたものである
 華厳宗という宗は華厳経と法華経・涅槃経は同じく円教として立てる。その他の経教はすべて劣るというのである。法相宗においては解深密経と華厳経・般若経・法華経・涅槃経は同じ程度の経だという。三論宗では般若経と華厳経と法華経・涅槃経は同じ程度の経である。ただし法相宗の依経や種々の小乗経は劣ると立てる。これら諸宗はすべて法華経以前の諸経を所依として立てた宗である。爾前の円を極理として立てた諸宗である。諸宗の人々は、さまざまに争っているけれども、経々に依って勝劣を判じる時は、確かに法華経こそが勝れているのである。人師の釈をもって勝劣を論じてはいけない。

華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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智儼法師
 (0602~0668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。14歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」5巻、「華厳孔目章」4巻などがある。
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法蔵法師
 (0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
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澄観法師
 (0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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成実宗
 4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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宝法師
 中国・唐代の高僧。はじめは玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に梵語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。後、俱舎宗を弘めた。
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光法師
 普光のこと。中国・唐代の僧。玄奘の四大弟子のひとり。大乗光と称した。玄奘の訳経を助け、俱舎論の新訳にその注釈書「俱舎論記」を著し、説一切有部の教学を中心として法宝とともに俱舎論を大成した。般若経をはじめ多くの経典の翻訳に連なった。
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道宣
 (0596~667)唐代の僧。姓は銭。丹徒(浙江  省)の人。智首に律を学び、修南山に住して四分律を研究、南山律宗を開いた。著「四分律行事鈔」「大唐内典録」など。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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玄奘三蔵
 (0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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慈恩法師
 (0632~0862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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上生経
 弥勒三部経のひとつ。未来仏である弥勒に関する経典を一括して弥勒経とよび,中国や日本では弥勒六部経あるいは弥勒三部経を数えることが多い。釈迦仏の弟子たる弥勒の兜率天往生ならびに信者たちの往生を説く、以外の5経は,いずれも遠い将来に補処の菩薩たる弥勒がこの世に下生して仏陀となり教化する物語を説く。隋代以後の中国社会で,弥勒教と称した反乱がしばしば起こるがこれらはに説かれた教徒をよりどころとした。
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下生経
 弥勒三部経のひとつ。大乗仏教の弥勒菩薩に関する代表的な経典である。
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成仏経
 弥勒三部経のひとつ。『弥勒大成仏経』のこと。 一巻。 後秦の鳩摩羅什訳。 弥勒菩薩の国土・成道説法などについて説く。
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解深密経
 法相宗所依の本経である。深密経ともいい5巻28品からなる。大唐の貞観24年(0674)玄奘の訳。阿頼耶識深密を解説したもの。別訳には菩提留支の深密解脱経5巻がある。
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瑜伽論
 法相宗所依の論。瑜伽師地論、ヨーガーチャーラ・ブーミ(Yogācārabhūmi-śāstra)。弥勒説・玄奘訳百巻。瑜伽は相応と訳す。一切の境・行・果・教が互いに相応することをいう。師地は、三乗の行者が聞思等によって次第に瑜伽を修習して境界を深め、それぞれの分に従って諸の有情を教化することをいう。瑜伽論の所行の境界には、第一・五識身相応地から第十七・無余依地までの十七地がある。十七地は以下の通り。1.五識身相応地、2.意地、3.有尋無伺地、4.無尋唯伺地、5.無尋無伺地、6.三摩哂多地、7.非三摩哂多地、8.有心地、9.無心地、10.聞所成地、11.思所成地、12.修所成地、13.声聞地、14.独覚地、15.菩薩地、16.有余依地17.無余依地。
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唯識論
 「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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百論
 提婆によって書かれたとされる仏教論書である。『中論』『十二門論』と並び、三論宗の所依の一つ。龍樹の『中論』を受ける形で、他派の論を百種の偈を以て斥ける構成。
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中論
 竜樹菩薩の著「中間論」のこと。姚秦の羅什三蔵が訳した4巻27品とし「十二門論」「百論」とともに三論宗の所依である。八不にせよ中道実相の理を説いている。嘉祥は疏10巻をはじめ、元康・琳法師・曇影等の疏がある。
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十二門論
 龍樹が著したとされる仏教論書の一つである。『中論』『百論』と共に、三論宗の所依の一つ。空観思想が十二章にわけて論じられる。
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吉蔵大師
 (0549~0623)。中国・隋・唐代の人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。吉蔵が身を肉橋とした話は、法華文句輔正記巻三に吉蔵が天台大師に対して身を肉?として高座に登らせた、とあることによると思われる。?とは、はしごの意。
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 これ以上ないこと、至高、きわみ、最果てを意味する。あるいは、自然科学の分野で polar の訳として、指向性・方向性をもつもの。あるいは正反対のものの偏りを意味する。なお、それぞれの極をあわせて両極ということがある。
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 ここからは、法華経以前の諸経を依りどころとして宗旨を立てている諸宗、すなわち華厳・俱舎・成美・律・法相・三論の六宗について述べられている。
 「華厳宗」は、インド・中国において七祖を数える。つまり、インドの馬鳴・竜樹、中国で杜順・智儼・法蔵・澄観・宗密らが立てているが、本抄ではそのうち智儼・法蔵・澄観を挙げられている。
 次に「俱舎宗・成美宗・律宗」と小乗の三宗をまとめて挙げられている。そのうち法宝・普光は俱舎宗を大成した人師であり、同宣は律宗の祖である。なお本抄では尊叡・僧導等によって興隆した成美宗の人師を挙げられていないが、小乗としてくくられており、皆、阿含経に依って立てられた宗である。
 「法相宗」は、中国では玄奘三蔵ならびにその門下の慈恩寺の窺基法師等が大成したもので六経十一論によって立てているが、本抄で挙げられているもののうち上生経・下生経・成仏経・解深密経が経、瑜伽論・唯識論が論である。
 「三論宗」は本来、竜樹菩薩の中論四巻、十二門論一巻、提婆菩薩の百論二巻の三論によって宗を建てているところからこう呼ばれるが、その後、竜樹造とされる大智度論、および大智度論の基となっている般若経を用いている。そこから般若経と大智度論も所依の経論として挙げられているのである。
華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若.法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳.法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ
 大乗の三宗である華厳・法相・三論の三宗において、どのように諸経を位置づけているかを示されている。小乗の三宗は法華経との勝劣を論ずるまでもないところから略されている。
 これをもう少し詳説すると、華厳宗は五教十宗の教判を立てる。五教十宗の判とは、釈尊一代の経教を教法の浅深によって五種に分け、宗派を教義内容によって十宗に分類したものである。五種の教とは、浅い方から挙げると次のようになる。
   ① 小乗教    灰身滅智の法を説く阿含経の教え。
   ② 大乗始教   大乗初門の教えで相始教、空始教の二種がある。
   ③ 頓教     部分的な言説によらず、種々の位階を経ることなく直ちに究竟の真理を徹見することを説く維摩経等の教え。
   ④ 円教     円融具足の一乗を説く華厳経、法華経の教え。更に華厳経は円融不思議の法門を開示し、その他の教えとは別異なので別教一条と名づけ、法華経より勝れているとする。
 このように立てて、華厳経と法華経と涅槃経は倶に円融の妙理を説く円教であるから勝れ、その他の諸経は小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教に摂して浅劣の教えであるとしているのである。
 次に法相宗は三時の教判を立てる。
   ① 初時有教   鹿野苑における四諦の説法で、外道や凡夫が「我」は実在すると執着するのを、「我」は「空」であると破し、「法」が「有」であると立てる。未了義経で阿含経等に相当する。
   ② 第二時空経  声聞界の衆生に対する説法で、一切法は皆空であるとして小乗教への執着を打ち破る。大乗教のなかでも般若経がこれにあたる。だが、いまだ無了義教である。
   ③ 第三時中道教 声聞・縁覚・菩薩の三乗の衆生に対し、心内の法は「空」ではなく、心外の法は「有」ではない、すなわち非空非有の中道を明かし、有・空二教の偏空を破って、万法唯識三性無性を説く。
 ちなみに唯識三性とは、法相宗の根本教義として存在の三つの見方をいう。遍計所執性、依地起性、円成実性の三性である。初めに、遍計所執性とは種々の因縁によって生じた実体なき存在を実体として誤って認識する心や誤認された存在の姿をさし、次に依地起性とは、あらゆる存在は縁によって起こったものであることであり、円成実性とは、存在の真実の本性で真如をいう。以上が三性であるが、これら三性にはそれ自体の存在性はなく、ことごとく空であるところを三無性というのである。解深密経・華厳経・法華経・涅槃経の第三時の中道教に入れるが、とくに解深密経が勝れるとする。
 三論宗は二蔵・三時・三転の教判を立てるが、二蔵を立てるなかで、阿含を声聞蔵とする以外は般若経・華厳経・法華経・涅槃経等は、皆、菩薩蔵であるとして所依の般若を立つる時・菩薩蔵に於て華厳・法華等を収め般若経に同ずと雖も新古の大般若経を開き見るに全く大般若を以て法華経に同ずの文無し」と破されている。
 以上の、華厳・法相・三論の各宗は爾前の所説を基礎として立てたものであり、私見によって教判を立てたものであると指摘され、したがって、これは信ずるに値しないと破折されている。釈尊の正説を基本として、一代の教法の勝劣を論ずるときは、法華経に勝る教はないということが明らかであると結論されている。

0397:14~0398:01 第13章 第五時の法華経を示すtop
14   五には法華経と申すは開経には無量義経一巻法華経八巻.結経には普賢経一巻上の四教.四時の経論を書き挙ぐる
15 事は此の法華経を知らん為なり、法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり、 爾前の
16 諸経は一経・一経を習うに 又余経を沙汰せざれども苦しからず、 故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには
17 教相を明さざれども義に於て傷むこと無し 若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」文、 法
18 華経に云く「種種の道を示すと雖も 其れ実には仏乗の為なり」文、 種種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の
0398
01 為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。
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 五には、法華経というのは、開経として無量義経一巻・法華経八巻・結経として普賢経一巻がある。これまで化法の四教、爾前の四時の経論を書き挙げたのは、この法華経について知るためである。法華経の習学としては爾前の諸経を比較検討して習わなくては、永く法華経の肝心を得ることはできないのである。爾前の諸経については、その一経一経を習う時には、他の経と比較検討しなくても差しつかえない。ゆえに天台大師の法華玄義巻十に「もし爾前の諸経を弘める際には一代聖教の教相判釈を明らかにしなければ、法華経の文義において損傷することはない。もし法華経を弘める際には一代聖教の教相判釈を明らかにしなければ、法華経の文義において欠けることがある」との文がある。法華経方便品第二に「種々の道を示すといっても、それは実には仏乗のためである」と説かれている。「種種の道」というのは爾前一切の諸経である。「仏乗の為」とは法華経のために一切の経を説くという文である。

開経
 ①一つの経典の序説となる経典。②経文を開きひもとくこと。
―――
普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
―――
教相
 ①仏の教説に解釈を施し、分類して系統的・組織的に秩序づけること。天台の五時八教・法相の三時教・真言の顕密二教など。②経文の元意を己心に観ずる観心に対し、教法を分別し、釈すること。日蓮大聖人の文底秘沈の仏法を根幹としていく立場を観心といい、それに対して、釈尊の経文どおりに読んでいくいき方を教相という。③真言密教では灌頂・修法などの具体的な法を事相というのに対して教義面の理論的解釈を教相という。
―――
仏乗
 一仏乗・一乗と同義。一切衆生を成仏させるための教えのこと。釈尊一代の聖教のすべては、総じては皆成仏道の教法といえるが、別しては法華経に限るのであり、南無妙法蓮華経に限るのである。
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 ここで第五時の法華経について述べられている。それまで化法の四教について述べられたなかでも法華の純円をあとで述べるといわれ、五時においても先に四時を述べられたが、それは法華経が他の経典を知らなくては分からないからであると理由を明かされているところである。
法華経について
 五時教判の第五時の所説は法華経である。法華経は開経である無量義経と本経である法華経と結経である普賢経の三部からなっている。
 法華経は釈尊の8ヵ年にわたる説法である。したがって、釈尊滅後に行われた法華経の結集もかなり長い年月を要し、結集した梵本は膨大な数にのぼったと伝えられる。釈尊滅後、経典の結集は約700年の間に四回行われたといわれ、この膨大な梵本はそのたびに簡略化されたか、あるいは手を加えられて略本の梵本ができ、それがインドに流布した。中国に伝来した法華経は略本を原典としたものといわれ、その略本も一本ではなく、何種類かあったため、それぞれの梵本によって、翻訳された漢訳本にも異なったものができたと考えられている。
 法華経の訳本を挙げると、次の六訳がある。

訳経

巻数 

時代

  訳者

 西暦

法華三昧経

六巻

 魏

  正無畏 

 0255

法華三昧経

六巻

西晋

  竺法護

 0265

薩曇分陀利経 

十巻

西晋

  竺法護

 0286

方等法華経

五巻

東晋

  支道根

 0335

妙法蓮華経

八巻

姚秦 

  鳩摩羅什 

 0406

 添品法華経  七巻  隋

  闍那崛多 

 0601

 以上のうちで、現存する訳本は「正法華経」「妙法蓮華経」「添品法華経」の三本のみであり、こてを「六訳・三存」といっている。初めから三訳のみであったという説もある。
 現存の三本は原典の梵本が異なり、鳩摩羅什は罽賓国王宮所蔵の六千偈白氎本により、崛多等の訳は六千二百偈の貝葉本により、法護訳は迂闐国王宮所蔵の六千五百偈の貝葉本によったと伝えられている。白氎は白綿布の類、貝本は多羅樹の葉のことで、これを経文に記したといわれる。これらの三本のなかでは羅什訳の原典が最も古本であるといわれ、羅什訳の妙法蓮華経八巻二十八品が最も古く流布しており、通常、法華経といえば妙法蓮華経をさすのである。日蓮大聖人も、羅什訳のもののみが釈尊の真意を伝えているとして、撰時抄に「総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人も悞らざるはなし」(0268-13)と述べられている。
 なお、このほかに、西蔵語訳、蒙古語訳、フランス語訳、英訳、和文訳などの訳本がある。
 また、開結の二経については、次のとおりである。
 無量義経には二訳がある。
   無量義経 一巻 天竺 求那跋陀羅訳
   無量義経 一巻 天竺 曇摩伽陀耶舎訳
 観普賢経には三訳がある。
   普賢観経 一巻 天竺 祇多蜜多訳
   観音普賢菩薩経 一巻 亀茲 鳩摩羅什訳
   観音普賢菩薩行法経 一巻 天竺 曇無蜜多訳
上の四教・四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり
 これまで化法の四教ならびに爾前四時の諸経論に説いてきたのは、この法華経について知るためであったと述べられている。そしてその理由として、法華経以前の諸経がどのような教法であるかを習ったうえでなければ、法華経の心は分からないと仰せられている。なぜなら、法華経は一代仏教を摂して本懐を表した経だからである。それに対して、爾前の諸経の場合は一経一経をそれぞれ習うのみで、ほかの経の教法を知らなくとも、少しもさしつかえないのである。
 次にこのことを裏づけるために天台大師の法華玄義巻十の「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」の文、さらに法華経方便品第二の「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」の文を挙げられている。法華経の文は、一切の仏は衆生の方便力をもって種々の道を示すが、それらはすべて仏乗のためであると述べられているところで、直接的には釈尊の説法を差し示しているわけではないが、一切の仏の化導を述べるのは、釈尊も同じであることを示すためであり、その意味からすれば、釈尊が衆生に方便力をもって種々の道を説いたことをあらわしていることになる。したがって、爾前の諸経は法華経という仏乗のために説いたものであるという意味となる。そこから「種々の道」とは「爾前一切の諸経」であるといわれているのである。
 これらの種々の道を示したのが「仏乗の為」であるというのは、法華経に誘因するための方便であったということである。したがって、釈尊は、法華経へ導くための方便・前段階として爾前の諸経を説いたのであるから、爾前の諸経についても知らなければ法華経も真の意味もとらえられないことになるのである。

0398:02~0388:13 第14章 法華経の趣意を明かすtop
02   問う諸経の如きは或は菩薩の為或は人天の 為或は声聞・縁覚の為機に随つて法門もかわり益もかわる此の経は
03 何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人.善人・有智.無智・有戒・無戒.男子・女子.四
04 趣・八部総じて十界の衆生の為なり、所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王善人は韋提希等の人天の人・有智は
05 舎利弗・無智は須利槃特・有戒は声聞.菩薩・無戒は竜・畜なり女人は竜女なり、総じて十界の衆生.円の一法を覚る
06 なり此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す仏意恐れ有り、 此の経に云く「一切の菩薩の
07 阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」文、此の文の菩薩とは九界の衆生・善人.悪人.女人.男子.三蔵教の声聞・
08 縁覚・菩薩・通教の三乗・別教の菩薩・爾前の円教の菩薩・皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり、
09 又此の経に云く「薬王多く 人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに 若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養す
10 ることを得ること能わずんば当に知るべし 是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、 若し是の経典を聞くことを得る
11 こと有らば乃ち能く菩薩の道を行ずるなりと」文、 此の文は顕然に権教の菩薩の 三祇・百劫・動踰塵劫・無量阿
12 僧祇劫の間の六度万行・四弘誓願は此の経に至らざれば 菩薩の行には有らず善根を修したるにも有らずと云う文な
13 り、又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。
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 問う。爾前の諸経の類は、あるいは菩薩のため、あるいは人・天のため、あるいは声聞・縁覚のため、機根にしたがって法門も変わり利益も変わる。この法華経はどのような人のために説かれたのか。
 答う。この経は相伝でなければ知ることができない。所詮、悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四悪趣・八部、総じて十界の衆生のためである。いわゆる悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王、善人は韋提希等の人界・天界の人、有智は舎利弗、無智は須利槃特、有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜生である。女人は竜女である。総じて十界の衆生は純円一実の法を悟るのである。このことを知らない学者が法華経は我ら凡夫のためではないといっているが、仏意に反して恐れるべきである。
 この法華経に「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提はすべてこの経の功力による」と説かれている。この文の菩薩とは九界の衆生・善人・悪人・女人・男子、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、すべてこの法華経の功力でなければ仏に成ることができないという文である。また、この法華経に「薬王よ、多くの在家・出家が菩薩の道を修行していると思っていても、もし、この法華経を見聞し読誦し書持し供養することができなければ、まさに知りなさい。この人はいまだよく菩薩の道を修行していない。もしこの法華経を聞くことができるならば、それはよく菩薩の道を修行しているのである」と説かれている。この文は、明らかに権教の菩薩が三祇・百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫という長い間に修する六度万行・四弘誓願は、この法華経に至らなければ菩薩の修行ではない。善根を修したのでもない、という文である。また菩薩の修行がなければ仏にも成らないことも明白である。


 説法を受ける所化の衆生の機根。
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四趣
 四悪道のこと。悪行によって趣くべき四種の苦悩の境界。地獄・餓鬼・畜生・修羅界のこと。
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八部
 八部衆のこと。仏法を守護する八種類の神々のこと。①天(天界に住む諸神)②竜(竜王・竜神)③夜叉(鬼神の一種)④乾闥婆 (天の音楽の神)⑤阿修羅(鬼神の一種)⑥迦楼羅(金翅鳥のこと。竜を主食とする鳥)⑦緊那羅 (天の音楽の神)⑧摩睺羅伽(蛇神)
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提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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妙荘厳王
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
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阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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須利槃特
 梵語チューダパンタカ(Cūḍapanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典によって諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかって一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たという。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。
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 梵語ナーガ(Nāga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。
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竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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円の一法
 純円一実の法のこと。法華経の円理をさす。円とは円教・完全無欠な教法・究極的な教法。天台大師の教判では化法の四教の第四を円教とする。円教には爾前の円と法華の円とがあるが、三諦・十界・十如・三千の諸法が円融円満に示された法華経のみが真実の円の一法である。
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仏意
 仏の心・本意のこと。
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薬王
 薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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在家
 ①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
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見聞
 見たり、聞いたりすること。
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読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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書持
 経文を書写し受持すること。
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供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
―――
経典
 仏の説法を結集編纂した転籍。経はスートラの漢訳で音写は修多羅。本来はたて糸の意であったが、転じて不変の教え、教えの綱要の意となった。古代中国では聖人・賢人ののべたものを「経」としたが、仏教が伝来してから、仏である釈尊も当然聖人とされ、その説を記したスートラは経と訳されたのである。また、経は諸仏の理にかない、衆生の機根に契うことから契経ともいう。
―――
顕然
 明らかで迷う余地がないこと。
―――――――――
 法華経説法の目的が何であったのかを明らかにするために問いを設けて、爾前の諸経は、経によって、菩薩のため、人天のため、二乗のためというように、衆生の機根にしたがって、法門も異なれば、また利益も変わっている。それに対し、法華経説法の場合はどのような人を目的としたのか、と問わしめておられるのである。答えの初めに「此の経は相伝に有らざれば知り難し」と説かれ、法華経の奥義は相伝に依らなければ知ることはできない、と仰せられている。相伝とは師から弟子へと法門の奥義を伝授する意である。この相伝の道を踏まずして、経文を読み、研究したからといっても、法華経の奥義を極めることは不可能であるということである。そのうえで法華経はだれのために説かれたかについて「総じて十界の衆生の為なり」と仰せられている。爾前の諸経においては、説法の対象は、菩薩や二乗、人天というように限定されているものが多かった。しかし、法華経は一切衆生皆成仏道の教えであるから、一切衆生が対象であることを示されているのである。
 一切衆生が法華経において一つに摂せられることについて、「所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王善人は」と例を挙げられている。文中、悪人の機として挙げられている提婆達多は法華経提婆達多品第十二で天王如来の記別を受け、妙荘厳王は妙荘厳王本事品第二十七に説かれる。妙荘厳王を悪人といわれているのは、その子・浄蔵・浄眼が「邪見の家に生まれたり」と述べ、自らも「邪心」の持ち主であると述べられているゆえである。「阿闍世王」も法華経序品第一で「韋提希の子阿闍世王、若干百千の眷属と俱なりき」と法華経の会座に列なっていることが示されている。
 また有智として舎利弗が挙げられている。舎利弗は釈尊の声聞十大弟子のうち智慧第一と称されたが、法華経方便品の説法を聞き、譬喩品第三において、信をもって解することを得、華光如来の記別を受けている。また無智の代表・須梨槃特は、五百弟子授記品第八で「其の五百の阿羅漢…周陀、莎伽陀等、皆等に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。尽く同じく一号にして、名づけて普明と曰わん」と、成仏の記別を受けている。「周陀、莎伽陀」とは須梨槃特のことである。有戒の者である声聞・菩薩は多くの法華経の会座に現れ、無戒の者である竜・畜も法華経の会座に列なっている。序品には八竜王や緊那羅等の八部衆が参列していることが示されている。女人の代表は竜女である。娑竭羅竜王の八歳の娘である竜女は法華経提婆達多品第十二で即身成仏の現証を示している。十界すべての衆生が法華経の会座に参集し、法華経の「円の一法」すなわち純円の法を覚るのである。
 このように、法華経で一切衆生が等しく「円の一法」を悟って成仏に至るのであり、それが仏意であることを知らない学者等が、法華経は利根の者のための教えであり、凡夫の機にかなわない等と言っているのは、仏意に反するものであり、恐れるべきであると破折されている。
法師品の二文について
 大聖人はそれらに対して、法華経法師品第十二の文を挙げて、一切の菩薩が法華経に会入されることを示されている。最初の「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」の文で、「菩薩」というのは蔵・通・別の菩薩、爾前の円の菩薩に限られるのではなく、九界の衆生、善人、悪人、女人、男子、蔵、通教の二乗もすべて含まれると仰せられている。なぜならこれらの衆生は菩薩界に含まれており、菩薩が成仏できなければ、これらの衆生も成仏できないからである。
 次の「薬王多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養することを得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くことを得ること有らば乃ち能く菩薩の道を行ずるなりと」の文も、同じく法華経法師品第十にあるが、これは“菩薩道”という“法”を会入した文となっている。したがって、爾前の菩薩が行うすべての菩薩道は法華経へこなければ、真の菩薩道とはならないし、逆に法華経へ至れば、よく菩薩道を行じたといえるとしているのである。
 文中、「三祇・百劫」は蔵経の菩薩の修業年限、「動踰塵劫」は通教の菩薩の修業年限であり「無量阿僧祇劫」はすべて菩薩に通じる。菩薩が「四弘誓願」を発し、これらの年限のあいだ「六度万行」を行じても、この法華経を「見聞し読誦し書写し供養する」ことがなければ、真の菩薩行にもならない、また善根を修したことにもならないという意味であると仰せられている。したがって、真の菩薩の行がなければ、真の成仏もないことは明らかである。

0398:14~0399:12 第15章 法華経受持の功徳を明かすtop
14   天台妙楽の末代の凡夫を勧進する文,文句に云く「好堅.地に処して牙已に百囲せり頻伽カイコに在つて声衆鳥に
15 勝れたり」文、 此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり、仏苦に校量を説き給うに権教の多劫の
16 修行・又大聖の功徳よりも此の経の 須臾・結縁の愚人の随喜の功徳百千万億勝れたる事経に見えつれば此の意を大
17 師譬を以て顕し給えり、 好堅樹と申す木は一日に百囲にて高くをう、 頻伽と申す鳥は幼だも諸の大小の鳥の声に
18 勝れたり、 権教の修行の久きに諸の草木の遅く生長するを譬へ、 法華の行の速に仏に成る事を一日に百囲なるに
0399
01 譬へ、権教の大小の聖人をば諸鳥に譬へ法華の凡夫のはかなきをカイコの声の衆鳥に勝るるに譬う、妙楽大師重ねて
02 釈して云く「恐らくば人謬りて解せる者 初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り此の初心を蔑る故に
03 今彼の行浅く 功深きことを示して以て経力を顕す」文、 末代の愚者は法華経は深理にして・いみじけれども我等
04 が下機に叶わずと言つて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。
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 天台大師・妙楽大師が末代の凡夫を勧めて述べた文がある。天台大師の法華文句に「好堅樹は地中にある時、芽は既に百囲の大きさである。迦陵頻伽は殻の中の雛であっても美声は多くの鳥よりも勝れている」とある。
 この文は法華経の五十展転の第五十の功徳を解釈する文である。仏が五十展転の功徳と他の功徳とを比べ量って懇ろに説かれるには、権教の長い期間の修行また大聖の功徳よりも、この法華経にしばらくの間、結縁した愚人の随喜の功徳のほうが百千万億勝れているとあり、このことは法華経随喜功徳品第十八に説かれているので、この趣意を天台大師がたとえをもって解釈されたものである。すなわち好堅樹という木は一日に百囲も高く生長する。迦陵頻伽という鳥は雛でさえも諸の大小の鳥の声に勝れている。権教の修行の長いことを諸の草木の遅く生長するのにたとえ、法華経の修行で速やかに仏になることを好堅樹が一日に百囲も成長するのにたとえ、権教の大小の聖人を諸鳥にたとえ、法華経の初心の凡夫を迦陵頻伽の雛の美声が衆鳥に勝れているのにたとえているのである。
 妙楽大師が重ねて説明して「おそらくは他宗の人師が誤って解釈し、初心の功徳の広大なることを知らないで、功徳を上位の者に譲り、この初心を蔑る。ゆえに初心の凡夫の修行が浅く、 功徳が深きことを示すことによって法華経の功力をあらわす」と述べている。末代の念仏宗の愚者が“法華経は深理であり尊いけれども、我らの下劣の機に合わない”というように、教法を上げ機根を下して法華経から退転する者について述べられた文である。
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05   又妙楽大師末代に此の法の捨てられん事を歎いて云く 「此の円頓を聞きて崇重せざる者は良に近代に大乗を習
06 える者の雑濫するに由るが故なり、 況や像末に情澆く信心寡薄に円頓の教法・蔵に溢れ函に盈れども暫くも思惟せ
07 ず便ち目を瞑ぐに至る・徒に生じ 徒に死す一に何ぞ痛ましきや有る人云く 聞いて行ぜずんば汝に於て何ぞ預らん
08 此れは未だ深く久遠の益を知らず、 善住天子経の如き文殊舎利弗に告ぐ法を聞き謗を生じて 地獄に堕つるは恒沙
09 の仏を供養する者に勝れたり地獄に堕つと雖も 地獄より出でて還つて法を聞くことを得ると、 此れは仏を供し法
10 を聞かざる者を以て校量と為り聞いて謗を生ずる尚遠種と為す況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」と、 又云く
11 「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く思惟修習永く舟航に用いたり随喜見聞恒に主伴と為る、若は取・若は捨・耳に
12 経て縁と成り或は順・或は違・終に斯れに因つて脱すと」文,私に云く若取.若捨.或順.或違の文は肝に銘ずるなり
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 また妙楽大師は末代にこの法華法が捨てられることを嘆いて次のように述べている。「この円頓の教法を聞いて崇重しない者は、まことに近代に大乗教を習う者が乱すことによって起こるのである。まして像法・末法になると人情が薄く信心ある者は少なく、円頓の教法は経蔵にあふれて経函に満ちていても、少しの間も思索しないですぐに目を塞ぐことになる。いたずらに生まれ、いたずらに死ぬ。いかに痛ましいことか。ある人がいうには、法華経を聴聞して修行しなければ、あなたたちはなんの利益があろうかと。これはいまだ深く法華経の久遠の利益を知らない者のいうことである。善住天子経には「『文殊舎利菩薩が舎利弗に告げる。正しい法を聞き誹謗して地獄に堕ちる者は恒河の砂ほど無数の仏を供養する者に勝れている。なぜなら地獄に堕ちるといっても地獄から出て、かえって法を聞くことができる』と。これは仏を供養しながら法を聞かない者と比較して述べたものである。法を聞いて誹謗してさえ法に縁したゆえに下種となる。まして法を聞いて思索し勤習することは、なおさら功徳になる」と。
 また妙楽大師は「法華経の一句も心肝に染めれば、ことごとく彼岸に至る助けとなる。思惟・修習は永く生死海の航海に有用である。随喜・見聞は常に法を説く主や伴となる。法華経を取るにせよ、捨てるにせよ、いずれも耳にきいたことが結縁となり、法華経に順っても背いても、ついにはこの経によって得脱するのである」と述べている。
 私見を述べると、この、もしは取る、もしは捨てる、あるいは順う、あるいは違うの文は法華経の絶大な功力を表したものとして肝に銘ずるところである。

末代
 正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
―――
勧進
 勧め、さそうこと。①人々に勧めて仏道に入らせ、善に向かわせること。②仏寺・仏像の建立・修善などのために、人々に功徳善根を勧めて寄付を募ること。また、それにたずさわる人。
―――
文句
 天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
―――
好堅
 高堅樹とも好堅樹ともいう。仏典に説く想像上の樹。100年間、地中にあり、1日で生じ、高さ300になるという。菩薩が成仏することの例えとされる。
―――
百囲
 非常に大きな周囲のこと。囲は円形の周囲を図る単位。9㌢・15㌢・2.4㍍等といわれ定かではない。
―――
五十展転の第五十の功徳
 法華経を聞いて随喜した人が次々に他人に語り伝え、50人目になってもその功徳があるということ。随喜功徳品には「是の如く第五十人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり」とある。展転とは、ころがる、めぐるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この50番目の人が法を聞いて、随喜する功徳は、400万億阿僧祇の世界の衆生に80年にわたり楽具、珍宝等を供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれていると説いている。化他の功徳を欠く50番目の者さえ功徳が絶大であることを説いている。
―――
校量
 比較してみること。
―――
大聖
 ①仏道の悟りを開いた人の尊称。釈迦・菩薩。特にりっぱな人格を備えている人。最もすぐれた聖人。
―――
須臾
 時の量、斬時、刹那、瞬間。
―――
結縁
 仏法に縁を結ぶこと。成仏・得道の縁を結ぶこと。
―――
随喜の功徳
 随喜は釈尊の本地深遠の常住を聞いて信順すること、「理に順う」といい、仏の三世益物の一切処に遍きを聞いて信順することを「事に順う」という。「己を慶ぶ」とは、迹門の諸法実相の理、および本門の久遠本地の事を聞いて信解し歓喜を生ずつこと。「人を慶ぶ」とは、仏も衆生も無作の三身を所具しているとの観をもって一切衆生に正道を悟らせようとする大慈悲心を発すことをいうのである。観心の立場から論ずるならば、永遠の生命観に立ち、御本尊の絶対なる功力を信じ、歓喜して行学の力強い実践に励むことである。功徳は功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
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下機
 下の機根のこと。仏の説法を聞き、受け入れて発動する生命の性分・資質を三つに分類したなかのひとつ。六根の機根が劣っていて、仏の教説を受容する能力の乏しいもの。三周の説法のうちの因縁説周。
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雑濫
 雑乱。入り乱れるさま。
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像末
 像法と末法のこと。
―――
思惟
 対象を分別し、よく考えること。
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久遠の益
 円頓の法を聞いただけで行じない者には利益がないとの説に対し、その言は久遠の利益を知らない者のいうことで、法華経は聞いただけでも利益があることを教えている。すなわち、法華経を聞くことは聞法下種であり、その法は久遠実成の法であるゆえに久遠下種となる。この久遠下種は順逆ともに必ず仏果をもたらすということ。
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善住天子経
 随の達磨笈多笈多笈多訳、4巻。唐代の菩提流支によって、大宝積経に編入された。文殊と善住意天子の問答からなる。菩薩・二乗・凡夫等の執着を破し、一切法は空であるという大乗の義を明かしている。そして如幻三昧に入ることを勧めている。善住天子は日々、もろもろの天女と快楽にふけっていたが、ある夜、天から声があり、善住は7日のうちに命終し、7回畜生の身を受けた後、地獄に堕ちると言われた。善住は恐れて帝釈天にこのことを伝えた。帝釈天は善住を哀れみ、これを救うのは釈尊以外にないと考え、祇園精舎に行って釈尊に滅罪の法を尋ねたところ、釈尊は善住のみでなく、一切衆生のために仏頂尊勝陀羅尼を説いて、天上に生じさせたという。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――

 謗る・けなす・非難する・悪口をいう・誹謗すること。
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恒沙
 ガンジス河の砂のことである。ガンジス河はヒマラヤ山脈を源とし、東へ流れてベンガル湾に注いでいる大河。インド三大河の一つで、昔から霊験に富んだ河として、人々から尊崇されていた。恒沙とは、ガンジス河の沙のように無数であることを譬える。無量無数のという意となる。
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遠種
 久遠下種のこと。五百塵点劫・久遠下種を意味するが、末法文底下種の仏法では久遠元初の下種となる。
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彼岸
 ①生死輪廻する現世を此岸とし,煩悩を解脱した涅槃の境地をいう。②また彼岸会のこと。
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好堅・地に処して牙已に百囲せり頻伽カイコに在つて声衆鳥に勝れたり
 末代の凡夫が法華経を持つ功徳を、法華文句に説かれている譬喩を通して教え、勧められているところである。
 法華文句のこの文は、法華経随喜功徳品第十八に説かれる五十展転の功徳について釈した箇所である。五十展転は、滅後の衆生が法華経を聞いて随喜し、その他の場所で父母・友人等に語り、それを聞いた人々が随喜し、また出かけて教えを伝え、その他の人もまた随喜して教えを伝え、このようにして五十番目にまで到達した時、その五十番目の人の随喜の功徳に比べるならば、四百万億阿僧祇の世界のものに、ある人が七宝を80年にわたって供養し、更にそのものたちに阿羅漢の悟りを与えた人の功徳は、百分・千分・百千万億分の一にもならないというものである。このように法華経を聞いて随喜する功徳を説いたものである。
 法華文句では、この五十展転の功徳における五十番目の人について「第五十人は是れ初品の初めなり、初めは但一念の理解有り。但一念の慶已慶他有りて末だ事行有らず」と述べている。この人は、単に法を聞いて理解し、歓喜しただけであって、まだ行ずるに至っていない人であり、その功徳でさえ大きいのであるから、最初に聞いた人の功徳、二三四五番目の人の功徳は更に大きく、いわんや、聞いて修行が進んだ人の功徳は計り知れないほど大きいことを説いたものであるとしている。すなわち、五十番目の人を初心の者としてとらえているのである。その初心の行者は、法を受持する一念は弱いが、好堅樹が地にある時、すでに百囲の大きさであることや、迦陵頻伽という鳥は雛でさえも諸の大小の鳥の声に勝れているのと同じように初心であっても法華経を受持する功徳は大きいと称えているのである。
 日蓮大聖人は、この法華文句の意として、「権教の多劫の修行・又大聖の功徳よりも此の経の須臾・結縁の愚人の随喜の功徳百千万億勝れ」と述べられている。それは、五十展転に比せられる80年の布施の功徳について、同品では「須陀洹道、斯陀含道、阿羅漢道を得、諸の有漏を尽し、深禅定に於いて、皆自在を得、八解脱を具せしめん」と述べていることの意をとっておられる。すべてこれらは歴劫修行だからである。この文句を妙楽大師が文句記に釈したのが「恐らくば人謬りて解せる者初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り此の初心を蔑る故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」の文である。法華経の「初心の功徳」が大きいことは明瞭であるが、誤って解釈すると、この功徳を「上位に推」り、初心の行者を侮ることになるので、凡夫の修行が浅くても功徳が深いことを示して法華経の力をあらわしたのである、と述べている。
 大聖人は、この妙楽大師の釈について、これは、法華経は勝れているけれども、我らのような下機にはふさわしくないといって、いたずらに教法を上げ、機根を下し、教と機根が合わないという理由を立てて法華経の修行を自ら退転し、また他をして退転させる念仏者を戒めた文であるとされているのである。
止観輔行伝弘決および文句記の発願の文について
 次いで大聖人が引用されている止観輔行伝弘決の文は、像末に信心薄く、法華経を信ずる者が衰退していることを嘆いたものであるが、そのなかで「有る人云く聞いて行ぜずんば汝に於て何ぞ預らん」と述べ、法華経を聞いただけでは功徳がないと考える者がいることを挙げて、それに対し「此れは未だ深く久遠の益を知らず」、すなわち法華経の久遠の利益を知らない者の言うことであると破した後、善住天子経を挙げて聞法の功徳を説いている。
 善住天子経は四巻の経典であるが、唐代の菩提流支によって大宝積経に善住意天子会として編入された。善住意天子と文殊との問答からなるもので、弘決が引いているのは、善住意等に説く文殊に、舎利弗が、信受しない衆生に法を説いて誹謗の心を起させるのは意味がないのではないかと述べたのに対して、反論した部分である。大宝積経巻105に「是くの如き諸法を聞き已って、誹謗して地獄へ堕ちなん。然るに舎利弗、即ち此の善男子、善女人は、是くの如き甚深の法を聞き已り、地獄に堕つと雖も、地獄より出でて速やかに涅槃を得ん。若し善男子、善女人、復恒沙の数の如来、応供、正遍覚を供養すと雖も、我に取著するを以って是くの如き甚深なる経法を聞かざれば、終に、解脱して速やかに涅槃を証せざるなり」と。すなわち、たとえ法を信受せず、誹謗して地獄に堕ちても、聞法の功徳によって、また地獄を出、涅槃の道に入ることができるが、いくら仏に供養しても法を聞くことがなければ、成仏することは難いと述べているのである。妙楽大師はこれを引いて、誹謗してさえ仏種を植えるのであるから、「聞いて思惟し勤めて修習」するにおいてはいうまでもないと述べられている。
 次の「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く思惟修習永く舟航に用いたり」の文は、妙楽大師が文句記末尾に述べた発願の文である。ここの「若は取・若は捨・耳に経て縁と成り或は順・或は違」の者が得脱すると述べているところが、法華経聞法の功徳を示したものであり、大聖人は「若取・若捨・或順・或違の文は肝に銘ずるなり」と仰せられている。とくに「捨」「違」が、逆縁の者であっても得脱することを示していて重要である。弘決の文、発願の文、ともに末代の愚鈍の凡夫が法華経を聞くことに甚大な功徳を示した文となっており、大聖人はそれを引かれて、法華経が一切衆生を正機として説かれた経であると証とされているのである。

0399:13~0400:01 第16章 大乗有縁の国土を明かすtop
13   法華翻経の後記に云く釈僧肇記「羅什三蔵なり姚興王に対して曰く予昔天竺国に在りし時アマネく五竺に遊びて
14 大乗を尋討し大師須梨耶蘇摩に従つて理味を餐受するに頂を摩でて此の経を属累して言く、仏日西に隠れ遺光東北を
15 照らす茲の典東北諸国に有縁なり汝慎んで伝弘せよ」と文,私に云く天竺よりは此の日本は東北の州なり,慧心の一乗
16 要決に云く「日本一州・円機純熟・朝野遠近・同じく一乗に帰し緇素貴賎悉く成仏を期す・唯一師等あつて若し信受
17 せず権とや為ん実とや為ん権為らば責む可し」浄名に云く 「衆の魔事を覚知して其行に随わず 善力方便を以て意
18 に随つて度すと実為らば憐む可し」 此経に云く「当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて 迷惑して信受せず法を破し
0400
01 て悪道に堕つ」文。
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 法華翻経の後記に(釈尊の末弟子・僧肇の記)「什(羅什三蔵である)姚興王に対してこう述べた。私が昔、天竺国にいた時、広くインドを遊学して大乗教を尋ね究め、大師・須梨耶蘇摩に従って大乗の法理を受けた時に、師は私の頭頂を撫でて、この法華経を相伝していうには、仏の日が西に沈み遺光が東北を照らす。この経典は東北の諸国に有縁である。羅什よ、慎んで法華経を伝え弘めよ、と」とある。私見ではインドから見ると、この日本は東北の国である。慧心の一乗要決に「日本一国は純熟の機根で、朝廷も在野も遠方も近燐も同じく法華一乗に帰依し、僧侶も在家も、貴い人も賎しい者もことごとく成仏を期すべきである。ただ法相宗の一師らがいて、もし法華一乗を信受しないで法華一乗を権としたり、実としたりした時、法華一乗を権とするならば責めるべきである」とある。浄名経に「種々の魔事を覚知して、その行に従わない。善の方便力をもって衆生の意に従って救う。方便を真実と見誤るならば憐むべきことである」とある。この経に「未来世の悪人は仏説の法華一乗を聞いても迷い惑って信受しない。法を破って悪道に堕ちる」とある。

法華翻経の後記
 中国・唐代の僧称の法華伝記巻2諸師序集第6の中に収められている。僧肇の法華翻訳後記のこと。肇公の記ともいう。鳩摩羅什の法華経翻訳の後書きの形をとり、以前に訳出された正法華経などと違い提婆品が加わり、28品となった理由が書かれている。羅什訳の妙法蓮華経が28品であったとする説の典拠となっている。
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僧肇
 0374~0414]中国東晋の僧。長安の人。鳩摩羅什  の門下で、仏典漢訳を助け、理解第一と称された。著「宝蔵論」「肇論」など。
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 鳩摩羅什のこと。(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀?国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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姚興王
 五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。羌の出身で、姚萇の子。諡号は文桓皇帝だが、在位のほとんどは皇帝ではなく天王を名乗った。姚興は前秦の残党勢力を滅ぼし、一時的に西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀を形式上は従えて華北の西部に巨大な勢力を築き上げた。姚興の没後の後秦は、赫連勃勃の独立や皇位をめぐる親族の争いにより実質的に滅んだ。姚興は熱心な仏教徒であり、仏教が中国において国の支援を受けたのは姚興の後秦が初めてである。0401年、後涼で暮らしていた仏僧の鳩摩羅什を常安(長安)に迎え入れた。
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天竺国
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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五竺
 五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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須梨耶蘇摩
 4世紀ごろ西域サシャ国の王子として出家し、大乗仏教を学んだ。羅什三蔵に対して「仏日西山に隠れ遺耀東北を照す茲の典東北の諸国に有縁なり汝慎んで伝弘せよ」と述べたといわれている。
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属累
 仏が教法の流布を弟子に託すこと。付嘱ともいう。教えを付与し、流布させること。法華経には人力品で結要付嘱・嘱累品で摩頂付嘱が説かれている。
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慧心
 (0942~1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
―――
一乗要決
 比叡山横川の恵心院の僧都源信が寛弘3年(1006)に著した書。3巻。法相宗において人の資質や能力に応じて声聞・縁覚・菩薩に固有の3種の悟りの道があるとする法相三乗家の五性格別を破折し、一乗は真実の理、五性は方便の説であると説いたもの。
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朝野
 朝廷と在野。政府と民間人。
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信受
 信じて受けたもつこと。
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善力方便
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用
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当来世
 未来世のこと。「当に来るべき世」の意。三世のひとつ。
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迷惑
 方便権教の邪法に迷い、真実を明らかにできないこと。誠諦の反対で、愚癡の凡夫の迷いをいう。このような僧侶の言葉を聞いた大衆を迷わせるものであることは当然である。
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 「日本国」は法華経が流布すべき国であることを、二文を引いて示されている。
 最初の「法華翻経の後記」は僧肇の著で、鳩摩羅什の法華経翻訳の後書きのかたちをとっている。そのなかに鳩摩羅什がインドにいた時、須梨耶蘇摩が法華経を付属して、この経は東北に縁があると述べたという件があり、それを引いたものである。もう一文は恵心の「一乗要決」からで、「日本一州・円機純熟」との明文がある。
一乗要決の文について
 この一乗要決については、解釈の面で検討をすべきところがあるので、次に該当する箇所を引用しておきたい。
 「日本一宗は円機純一なり。朝野遠近同じく一乗に期し、緇素貴賎悉く成仏を期す・唯一師等。独り信受せず。我末だ之を識らず。為は権か為は実か。若し是れ実ならば以って哀傷すべし。世尊の言の如き、当来の世の悪人は、仏の一乗を説きたもうを聞き迷惑して信受せず。法を破して悪道に堕す。若し是れ権ならば、以って随喜すべし。浄名に言うが如く、衆の悪事を覚知して示して其の行に随い、善方便智を以って意に随って皆能く現す」と。これを御書の御文と対照すると、順序は違っているが、「浄名に云く」とあるものを「此経に云く」とある文も一乗要決に引用されている。したがって、大聖人はこの個所全体を、一乗要決の文意をとりつつ示されたのであろう。
 ただ、一乗要決の文と御書の御文で大きく異なっている点が二つある。一つは「唯一師等にあつて若し信受せず権とや為ん実とや為ん権為らば責む可し」とある御文、および維摩経の「衆の魔事を覚知して其行に随わず善力方便を以て意に随って度す」とある御文である。
 まず第一の文であるが、一乗要決の意は“日本は円機純一の国であるが、信受しない師がいるという。それがうそなのか、真実であるのか。もし真実ならばまことに悲しむべきことである。当来の悪人は法を聞いて悪道に堕すのである。もし、そうであれば、喜ばしいことである”との意になり、これは御書の御文とは逆の意味になる。ただ、御文中、「責むべし」とあるのは、古来、「貴むべし」と読むのであり、他の写本では「貴むべし」としている。大聖人御述作の原本が不祥のため確定しがたいが、「貴むべし」とすると「貴いことである」の意となり、一乗要決に近いものとなり、「責むべし」とすると「法華経を権としたり、実としたりすることがあろうか、もし権とするならば、責めるべきである」との意となる。
 第二の維摩経の文は、原文では「衆の魔事を覚知して、而も其の行に随うことを示し、方便智を善くするを以って、意に随って皆能く現す」となっている。すなわち「示・現」の字が御書では「不・度」になっている。この箇所も書写の誤りか、大聖人の意によるものかは不明であるが、「示」と「不」は、意味が逆になり、解釈が分かれてしまう。原文の意は「衆生を教化するためにさまざまな『魔事』を覚知し、その行に随う」という方便の辺をあらわした文となるが、御書の意では「『魔事』に随わない」ことを意味する。
 両文とも意味は逆となるが、もうひとつの法華経方便品第二文とあわせて、末代悪世において、末法は逆縁の時であるとの文証である。

0400:02~0400:06 第17章 妙法五字の義を示すtop
02   妙法蓮華経・妙は天台玄義に云く「言う所の妙とは妙は不可思議に名くるなり」と、又云く「秘密の奥蔵を発く
03 之を称して妙と為す」と、 又云く「妙とは最勝・修多羅・甘露の門なり 故に妙と言うなり」と、法は玄義に云く
04 「言う所の法とは十界十如・権実の法なり」、 又云く「権実の正軌を示す故に号して法と為す」と、 蓮華は玄義
05 に云く「蓮華とは権実の法に譬うるなり」、 又云く「久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てし不二の円道に会す
06 之を譬うるに華を以てす」文、 経は又云く「声仏事を為す之を称して経と為す」文、 
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 妙法蓮華経の妙について、天台大師の法華玄義の序王に「言う所の妙とは妙は不可思議に名づける」と。また法華玄義の私序王に「秘密の奥蔵を発く。これを称して妙となす」と。また同じ私序王に「妙とは最勝の修多羅、甘露の法門である。故に妙というのである」とある。法について、天台大師の法華玄義の序王に「言う所の法とは十界十如、権実の法である」と、また法華玄義の私序王に「権実の正しい規範を示す。故に号して法となす」とある。蓮華について、天台大師の法華玄義の序王に「蓮華とは権実の法に譬えるのである」と。また法華玄義の私序王に「久遠実成の仏果を指す。これを譬えるのに蓮を用い、権実不二の円妙の道に会入する。これを譬えるのに華を用いる」とある。経について、また同じく私序王に「声は仏事をなす、これを称して経となす」とある。

妙法蓮華経
 ①経典の名前。②法華経に説かれる法理。③所詮の法体。南無妙法蓮華経のこと。三大秘法のこと。
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玄義
 天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――
不可思議
 ①思いはかることもできず、言語でも表現できないこと。②仏の智慧や神通力というのは、それを思い測ったり言葉で言い表したりすることはできない、ということ。③あやしいこと、異様なこと。④転じて数の単位のひとつ
―――
十界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
―――
十如
 方便品に「唯、仏と仏と、。乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」とある。如是とは生命の中道実相の義で、瞬間の生命の働きを、十の範疇によって、ありのままに見たのが十如実相である。この十如是は十界の依報・正報おのおのに必ず具足しているのである。
―――
権実の法
 権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
―――
久遠の本果
 「久遠」とは久遠実成のこと。釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。「本果」は本果妙・成仏したという結果をいう。
―――
不二の円道
 権実不二の円道のこと。法華経において開権顕実の義が明かされ、9界の権と仏界の実とが円融して不二であるということ。
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 天台大師の法華玄義序王、章安大師の玄義私序王の文を引いて、妙法蓮華経の五字を解釈されているところである。妙法蓮華経は法華経の肝心であり、この五字を解釈することによって法華経の法理が明らかとなるゆえである。
 はじめに、「妙」について天台大師の法華玄義の文を挙げられている。法華経の開三顕一、開近顕遠の理は理解しがたく、我が身に仏界が存することは凡夫の思慮の及ぶところではない。そのゆえに「不可思議」というのである。
 また「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」との玄義の私序王の文が挙げられている。「秘密の奥蔵」とは、末だ説かれず仏のみが悟っている極理をいう。爾前40余年にはいまだ説かれなかった権実不二の妙理を今、法華経に至って示すことを「秘密の奥蔵を発く」というのである。
 また同じく玄義私序王の「妙とは最勝・修多羅」とは、この妙法は一切経のなかでも最も勝れているということであり、また「甘露の門」とは、この妙法を不死をもたらす“甘露”にたとえ、衆生をして権実不二の妙理に入らせる教えであるゆえに「門」というのである。
 「法」についての法華玄義の文意は、法華経は十界・十如を明かし、九界の権も仏界の実も不二一体であることを説いた教えであるということである。章安大師は法華玄義の私序王に、権実の正しい規範を示すものであると重ねて述べている。
 「蓮華」についての玄義の文意は、華を権、蓮を実に譬え、草花の蓮華が、華と蓮が同時であることが、権と実が不二であることの譬えとなることである。
 更に章安大師の私序王では「蓮」を「久遠の本果」、「華」を「不二の円道」としている。「不二の円道」とは九界の権と仏界の実とが不二であるということで、九界の一切衆生が仏性を具える九界即仏界の法華経の円融円満の道の意である。「久遠の本果」はいうまでもなく久遠実成である。九界即仏界、すなわち開三顕一を華、開近顕遠を蓮とし、それが不二、すなわち一体であるとしているのである。
 最後に「経」について、玄義私序王の文を挙げられている。ここに「仏事」とは衆生を教化することであり、その衆生教化を仏が声をもってなすところを「経」とするというのがこの文の意である。仏は在世の衆生のために音声をもって説法したのであるが、仏が入滅した後は、その仏の音声が文字に記された経文となったのであり、妙法蓮華経の「経」にはこの意味も含まれていることはいうまでもない。

0400:06~0401:13 第18章 十界互具の義を説くtop
06                                         私に云く法華以前の諸経に
07 小乗は心生ずれば六界・心滅すれば四界なり、 通教以て是くの如し、爾前の別円の二教は心生の十界なり小乗の意
08 は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなりされば 心滅すれば六道の因果は無きなり、 大乗の心は心より十
09 界を生ず、 華厳経に云く「心は工なる画師の如く種種の五陰を造る 一切世界の中に法として造らざること無し」
10 文、造種種五陰とは十界の五陰なり 仏界をも心法をも造ると習う・心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習う
11 なり、 華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観すべし 心は諸の如来を造ると」
12 法華已前の経のおきては 上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修
13 羅の引業.三帰・五戒は人の引業.三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界.無色界の引業・五戒.八戒・十
14 戒.十善戒.二百五十戒.五百戒の上に苦.空・無常.無我の観は声聞.縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六
15 度・四弘の菩提心を発すは 菩薩なり仏界の引業なり、 蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、
16 別円二教には衆生に仏性を論ず 但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、 爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙
17 汰無し此等は皆ソ法なり、 今の妙法とは此等の十界を互に具すと説く時・妙法と申す、 十界互具と申す事は十界
18 の内に一界に余の九界を具し 十界互に具すれば百法界なり、 玄の二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百
0401
01 百法界有り」文、法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す 今は十界の因果互具をおきてたる計りなり、
02 爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし 声聞は仏に成るまじなんど説けば 菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひも
03 かけずなんとある経もあり、 或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い 菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れ
04 て衆生を利益せんと念ふ、 或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の 多倶低劫の修行を見・或は凡夫往生の旨を説け
05 ば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、 人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の
06 見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり。
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 私見を述べると、法華経以前の諸経のうちで小乗経は「迷心が生ずれば六界であり、迷心が滅すれば四聖である」と説く。通教もまた同様である。しかし爾前の別教・円教の大乗の二教は「心から十界が生ずる」と説く。小乗教の趣意は「六道・四生の苦楽は衆生の迷心から生ずる」とえる。だから迷心が滅すれば六道の因果はないのである。大乗教の趣旨は「心から十界を生ずる」と教える。華厳経に「心は巧みな絵師のように種々の五陰を造る。一切の世界の中に法として造らないものはない」と説かれている。種々の五陰を造るということであり、仏界をも心法をも造習う。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕れると習うのである。同じく華厳経に「もし人が三世の一切の諸仏を悟り知ろうと欲すれば、まさにこのように観じるべきである。心がもろもろの如来を造るのであると」とある。
 法華経以前の諸経の掟は、最極の十悪は地獄の果報を引き起こす業因、中程度の十悪は餓鬼の果報を引き起こす業因、軽度の十悪は畜生の果報を引き起こ業因、・五常は修羅の果報を引き起こす業因、三帰・五戒は人の果報を引き起こす業因、三帰・十善は六欲天の果報を引き起こす業因である。有漏の坐禅は色界・無色界の果報を引き起こす業因、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観法は声聞・縁覚の果報を引き起こす業因、五戒・八戒・ないし三聚浄戒の上に六波羅蜜・四弘誓願の菩提心をおこすのは菩薩であり、仏界の果報を引き起こす業因である。蔵教・通教の二教には仏性の定めがない。ただし菩薩の発菩提心を仏性という。別教・円教の二教では衆生の仏性を論じる。ただし別教の趣意は二乗に仏性がないと説く。爾前の円教は別教に同調して二乗に仏性があるとさだめない。これらはすべて麤法である。
 今の妙法とは、これらの十界を互いに具すと説くので妙法というのである。十界互具ということは十界の中に一界に他の九界を具すことで、十界が互いに具すので百法界である。法華玄義巻二に「また一法界に九法界を具すのでれば即ち百法界あることになる」とある。法華経とはほかでもない。十界の因果は爾前の経に明かされているが、今の法華経は十界の因果の互具を定めていることにある。 爾前の経の趣意は、菩薩は仏に成ることができるが、声聞は仏に成ることができないなどと説いたので、菩薩は喜び声聞は嘆き、人・天等は想像だにしないと述べている経もある。そこでは、二乗は見思惑を断じて六道を出ようと思い、菩薩はわざと煩悩を断じないで六道に生まれて衆生を利益しようと思う。あるいは菩薩の即身成仏を見、あるいは菩薩の多倶低劫という長期間の修行を見、あるいは凡夫の往生だけで、それは菩薩・声聞のためではないと見て、他人の不成仏は我が不成仏、他人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思惑を断じることは、我ら凡夫の見思惑を断じることとも知らないで、42年を過ごしたのである。
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07   然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に 菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も
08 経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が 声聞に具する間をもはざる外に 声聞が菩薩と云
09 われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、 仏も又因位に居して 菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚な
10 り、薬草喩品に 声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、 又我等六度をも行ぜざるが六度満足の
11 菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も 六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも
12 受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり 是則ち精進なり 是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名
13 く」文。
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 しかし法華経において十界互具が説かれたことにより、声聞の自調自度の身に、菩薩界を具することになり、六度万行も修せず多倶低劫という長期間も経ない声聞が、多くの菩薩の菩薩が辛うじて修した無量無辺の難行道をも、その声聞に具することになって声聞が菩薩といわれ、人を責める獄卒や物惜しみの貪欲な凡夫もまた菩薩といわれることになった。仏もまた修行の位になって菩薩界に入れられ、妙覚の仏でありながら等覚の菩薩である。法華経薬草喩品第五に声聞について「あなた方の振る舞いは菩薩の道である」と説いている。また我らは六波羅蜜を行じない者が六波羅蜜を満足する菩薩であるとの文は、無了義経に「いまだ六波羅蜜を修行することがないといっても六波羅蜜は自然に具足する」とある。我ら一戒をも受けない者が持戒の者といわれるとの文は、法華経見宝塔品第十一に「これはすなわち勇猛である。これはすなわち精進である。これを戒を持ち頭陀を行じる者と名づける」とある。

心生の十界
 心から十界が生じること。
―――
四生
 四生は、衆生の四種の産生の意と、四たび生を受けるの意とがある。ここでは四種の産生の意で、卵生・湿生・胎生・化生をいう。①卵生は鳥のように卵から生まれ、②湿生は虫のように湿気の多い処から生まれ、③胎生は人間や獣のように母胎から生まれるもの、④化生とは諸天、地獄、中有及び劫初の衆生のように、他に託するところがなく、過去からの自らの業の力によって忽然と生まれるもの。倶舎論巻八に「何が化生なる、謂わく有情の類い生ずるに所託なし、是れを化生と名づく」とある。なお阿毘達磨集異門足論巻九によると、地獄界は化生、餓鬼界は胎生・化生の二生、畜生界・修羅界・人界は卵生・胎生・湿生・化生の四生、天界は化生とされている。
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五陰
 個人を構成するもの、色(形で捉えられる側面。肉体、物質)・受(外界の事象を受け容れていく働き)・想(想念すること)・行(想念に基づいて自ら行動すること)・識(思慮・分別する精神の作用)が仮に和合して衆生となることをいう。
―――
上品の十悪
 三品の十悪のひとつ。衆生の機根や仏法を理解する智解、修行段階などを三段階にわけ上品・中品・下品とする。このうち上品の十悪は十悪のなかでも最も悪業の強いもの。
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引業
 五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)、四生(卵生・胎生・湿生・化生)の果を牽引する業。前世の所業いかんによって、現世の果がもたらされ、現在の所業によって未来の果が決定されること。満業に対することば。人間として生まれるという報いを受けた場合の肉体五官をもつことを総報といい、男女・貴賤・美醜・賢愚等にわかれることを別報といい、総報を引き起こす業を「引業」という。
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中品の十悪
 三品の十悪のひとつ。衆生の機根や仏法を理解する智解、修行段階などを三段階にわけ上品・中品・下品とする。この中品の十悪をいう。
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下品の十悪
 三品の十悪のひとつ。衆生の機根や仏法を理解する智解、修行段階などを三段階にわけ上品・中品・下品とする。このうち下品の十悪は、悪の程度が最も弱いもの。
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五常
 儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
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三帰
 仏法に帰依する最初の門で、仏・法・僧の三宝に帰すること。すなわち南無仏・南無法・南無僧のこと。
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十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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六欲天
 天上界のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界をいう。六天ともいう。またそのうちの最高位・他化自在天を特に指して言う場合もある。他化自在天は、天魔波旬の住処であることから第六天の魔王の住処とされている。
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有漏の坐禅
 無漏禅に対する語。有漏禅、有漏の禅定と同意。三界を九地に分け、六行観によって地上の喜び下地を嫌って、次第に上地に進む坐禅観法のこと。この禅によって欲界を離れ、初禅天に入り、更に二禅・三禅・四禅の色界をきわめ、ついに色界を離れて無色界に入り、空無辺処・識無辺処・無所有処より非想非非想処にのぼる。しかし下地を離れたといっても真の断惑ではなく、三界第九地の惑は更にこれに対比すべき上地がないゆえに伏惑・断惑ともにない。したがって三界六道の生死から離れることができず、たとえ非想非非想処にのぼったとしても、再び三悪道に堕ちてとどまっているものはいない。開目抄には「所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より 返つて三悪道に堕つ 一人として天に留るものなし」(0187-14)とある。結局三界を離れるには無漏道を修する以外になく、有漏禅は仏法に入る一つの序分にすぎない。
―――
四弘
 菩薩の四弘誓願のこと。
―――
沙汰
 ① 物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。また、裁決・裁判。②決定たことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。③便り。知らせ。音信。④話題として取り上げること。うわさにすること。⑤問題となるような事件。その是非が問われるような行為。
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発心
 発菩提心のこと。菩提心を発すこと。衆生が無上菩提を願う心を発し、成仏を願うことをいう。
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麤法
 円融円満でない不完全な法。あらい法。
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十界互具
 地獄から仏界にいたる十界のおのおのに十界を具していること。方便品では、凡下の衆生に仏知見がそなわっていると説き、寿量品では三妙合論して仏界常住を説く。この十界互具・百界は、それぞれに十如是を具し、さらに三世間を具して、一念三千となる。ゆえに開目抄には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189-04)と仰せである。ただし、末法における真実の十界互具については、われわれが唱える題目・御本尊を仏界として、唱え奉るわれら衆生は九界であり、この境智冥合をもって十界互具というのである。
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頓悟成仏
 すみやかに悟りを開いて成仏すること。
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自調自度
 自身が正しい行動を調え、正しい悟りを得ること。
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獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
――― 
慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
―――
因位
 仏果を得るための修行の位のこと。果位に対する語。仏果を得るため菩薩修行に励んでいる時の位。
―――
薬草喩品
 妙法蓮華経薬草喩品第五のこと。法華経迹門正宗分で、三周の説法をするなか、譬説周の述成段であり、釈尊が三草二木の譬えをもって仏の平等の慈悲を説いている。種々雑多な草木の上に雨は差別なく降り注ぐが、ただ受け取る衆生の差別のゆえに、生長の違いがある。ただ、仏の教えは一仏乗のみである。
―――
六波羅蜜
 「波羅蜜」は梵語、パーラミター(Pāramitā)の音写。彼岸と訳す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧波羅蜜の六行があり、その行は万差であるから、六度万行という。菩薩等がこの六法を修して生死の彼岸よりよく涅槃の彼岸に至るということである。爾前経においては菩薩の歴劫修行を説いてきたが、無量義経にいたって「末だ六波羅蜜の修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれている。すなわちこれは、三大秘法の御本尊の功徳をたとえ、即身成仏を説いている。
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勇猛
 心を勇ましく励まして、苦難・難行を乗り越えるさま、勇気を奮い立たせて、智力を尽くすこと。
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精進
 一般的には一生懸命努力すること。心を明らかにして進むこと。仏法においては、勇猛に善法を修行して悪法を断ずること。心をもっぱらにして仏道修行に励む心の働き。またはその行為をいう。大御本尊を絶対と信じ、題目を唱え、間断なく前進していくことが精進である。
―――
頭陀
 梵語(dhūta)。淘汰・修治と訳す。身心を修治し、貪欲等を払いのける修行をいう。
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 ここでは、十界互具を明かしたところに法華経の特質があることを示されているのであるが、初めに「私に云く」とあるように、日蓮大聖人の思索が展開されていくのである。大きく二つに分かれ、初めに、法華経以前の諸経において十界がどのように説かれているかを紹介され、次に、法華経の十界互具の法理の意味するところを説かれている。
小乗は心生ずれば六界・心滅すれば四界なり、通教以て是くの如し、爾前の別円の二教は心生の十界なり
 初めに、爾前の諸経においては十界互具が説かれずに「心生十界」が説かれていると明かされる。そのなかで蔵・通二教は「心生の六界」を明かし、別・円二教は「心生の十界」を明かしている。これに対して法華経は「心具の十界」を明かしたところに特徴があるとされている。
 まず小乗であるが「小乗は心生すれば六界・心滅すれば四界なり」と説かれている。小乗教は、地獄から天界までの六道の諸法は、煩悩のために悪業を繰り返すことによって生起すると教えている。したがって、原因である煩悩が滅すれば空理を悟って、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖のいずれかになると教えているのである。通教も同様である。以上のように、蔵・通二教は「心生の六界」を明かしている。
 後の文で「小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなりされば心滅すれば六道の因果は無きなり」と説かれている。六道・四生における苦や楽の報いはあくまで衆生の心の善悪から生ずるというのが小乗教の法理であるから、その善悪の心それ自体が滅してしまえば六道に生ずる原因やその報いとしての結果もなくなる、ということである。
 これに対して、爾前教のなかにおいても、別教と円教との二教は「心生の十界」を明かしている。大乗教でも別円二教にあたる華厳経は、衆生の心中に仏性があると教え、心から十界を生ずること、すなわち「心生の十界」を説くのである。つまり小乗より一歩進んで、六道のみならず声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖も皆、心から生滅するのである。
 その文証として大聖人は、華厳経巻十の「心は工なる画師の如し、種々の五陰を画く。一切世界の中に法として造らざる無し」を挙げられている。このなかで「種種の五陰」とは、「十界の五陰」であると大聖人はいわれている。すなわち心は十界のすべてを造るという意味である。十界であるから、仏界もこのなかに含まれているのはいうまでもない。したがって「仏界をも心法を造る」と仰せられているのである。三世の諸仏といっても「心」からあらわれているということである。それを明確に示している文として、先の華厳経の次下に「心は諸の如来を造る」を挙げられている。
法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修羅の引業・三帰・五戒は人の引業・三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり仏界の引業なり、蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、別円二教には衆生に仏性を論ず但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し此等は皆麤法なり
 次に、心生十界の教えでは、衆生の心における善悪の煩悩・業がが原因となって、次の生に十界のそれぞれの境界を結果として引くとされているのである。これを「引業」というのであるが、ここではそれが詳しく説かれている。
 まず、十悪業の強弱によって地獄・餓鬼・畜生の三悪道を次の生において結果として引くことを示されている。ちなみに十悪とは、身・口・意の三業によって犯す十種の悪で、身業に殺生・偸盗・邪婬の三悪、口業に妄語・綺語・両舌・悪口、意業に貪欲・瞋恚・愚癡の三悪である。
 この十悪の強弱は上品・中品・下品の三品からなる。上品は最も強く、下品は最も弱い。品とは種類のことである。すなわち、最も強い上品の十悪を犯す者は地獄に堕ち、中品の十悪を犯す者は餓鬼に堕ち、最も軽い下品の十悪を犯す者は畜生の生を引くことになる。
 次に、修羅の果報を引く業は仁義礼智信の五常、人の果報を引く業は三帰・五戒、天界の果報を引く業は三帰のうえに十善を持つのが六欲天で、有漏の坐禅を修するのが色界・無色界の天の果報を引くと仰せられている。ここで十善は先の十悪を行わないことで、有漏の坐禅は、三界を離れようとして次第に上へ進む坐禅法である。ここで五常をたもつ者は修羅の果報を得るとして、善の部類に挙げられているのは、修羅は四悪趣の一つとして悪道にも入るが、三悪道と相対したとき、人・天とともに三悪道としてとらえられるゆえである。更に、多くの戒を持つうえに、苦・空・無常・無我を観ずる業は声聞・縁覚の果報を引き、三聚浄戒のうえに六度の行を修し、四弘誓願の菩提心を発するのは菩薩であって、仏界の果報を引くことになると仰せられている。 以上は心生十界の因果関係であるが、これを説く法華経以前の爾前教はあくまで十界を、このように前世の因業の果報であるから互いに差別されるものとしているのである。
 仏性についてみるならば、蔵通二教の場合は「沙汰なし」すなわち明確な定めがなく、ただ菩薩の発心を仏性というにすぎないと仰せられている。別円の二教の場合は衆生の仏性を論ずるけれども、別教では二乗界には仏性はないとする。爾前の円教も別教の義に引きずられて二乗界の仏性を論じないとしているので、これらの爾前教の教えは「麤法」となると仰せられている。
今の妙法とは此等の十界を互に具すと説く時・妙法と申す
 爾前教が麤法であるのに対し、法華経が妙法といわれる理由は、十界互具を説くからであると仰せられている。十界互具とは、本文にあるように、十界それぞれに他の九界を具しているところであるから、百法界となる。法華玄義巻二には「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」とある。
 「法華経とは別の事無し」と仰せられているのは、すでに述べられたように、十界の因果自体は爾前の諸経のなかに明かされており、法華経ではその十界の因果“互具”が説かれているだけで、特別なことがあるわけではないというのである。しかし、その十界の因果互具が説かれてこそ、十界の因果が明らかになるのであり、十界互具は十界の根幹をなすものである。そのことを以下に示されるのである。
爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経もあり、或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れて衆生を利益せんと念ふ、或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の多倶低劫の修行を見・或は凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり
 爾前諸経では十界がバラバラであり、菩薩の成仏は説かれても、他の衆生にとっては無関係のことにすぎなかったと仰せられている。「菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき」とは、爾前の諸経に多く説くところであり、例えば維摩経には、菩薩が成仏し二乗が不成仏であることを聞いて「一切の声聞…皆応に号泣し」たことが説かれている。
 「二乗は見思を断じて六道を出でんと念い」の御文と「菩薩はわざと煩悩を断ぜずに六道に生まれて衆生を利益せんと念ふ」の御文とは、煩悩を断ずるか否か、六道に生じようとするか否かで、爾前の二乗と菩薩では正反対であることを示されている。二乗は見思惑を断じて空理を悟ることを目指し、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目標としていくのに対し、菩薩は四弘誓願を発して一切衆生の無辺なるを度せんと願って六道に生じるのである。菩薩も煩悩を断ずることを願うが、衆生を救うまでは煩悩を断じないと誓うので「煩悩を断ぜず」といわれているのである。
 次の「菩薩の頓悟成仏を見」と「菩薩の多俱低劫の修業を見」とは、菩薩の修行の期間、成仏について両説が入り混じっていることを示されている。華厳では「頓悟成仏」を説いている。玄義に「菩薩蔵の中に能く開悟する者あり。華厳等の経の所為の衆生の如きは小に由りて来らず。一往に大に入る。故に名づけて頓と為す」とある。しかし同時に五十二位の「多俱低劫」を説いて、同じ華厳部のなかでも入り混じっているのである。また「凡夫の往生」は念仏の極楽往生の説である。
 このように、それぞれ成仏する衆生の種類、仕方が異なるため、他人の成仏が実は自分の成仏のことだと考えられず、他人の成仏は他人のものと思ってしまうことを「不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず」と仰せられているのである。
然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に 声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり、薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり 是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」
 爾前経に比して、法華経を説く十界互具の法理の卓越性が説かれている。
 すなわち、今の法華経において十界互具が説かれるということは次のようなことを意味するのである。声聞は自調自度の身、つまり、自分の煩悩を調え自身を度すことのみを考えて他者の教化など思いも及ばなかった身であったのが、そのような声聞の身にも化他行を第一とする菩薩界を具すことになるから、爾前権経の菩薩のような六度万行を修めず、また、多俱低劫という長時間にわたる菩薩行も修めない声聞であっても、もろもろの菩薩達の計り知れない難行を身に具すことになるのが十界互具の法理である。このように、声聞が菩薩といわれるだけでなく、人を責める地獄の獄卒や貪り惜しんでばかりいる凡夫でも菩薩界を具しているから菩薩といわれるようになり、逆に、仏にも十界を具すのが十界互具の法理であるから、仏も因位としての菩薩界に含められ、五十二位の頂点である妙覚の仏にも、第五十一位の等覚の菩薩を具していることになることは当然であろう。
 以上の点を文証として、法華経の薬草喩品には声聞の行を説いて「汝等が所行は、是れ菩薩の道なり」とあり、また法華経の開経である無量義経の十功徳品には「若し善男子・善女人…末だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し」とあることが紹介されている。
 また一戒も受持したことのない凡夫が持戒の者であるという点について、法華経の見宝塔品第十一の「是れ則ち勇猛なり。是れ則ち精進なり。是れ戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」の文を引かれている。

0401:14~0402:01 第19章 爾前の授記を挙げるtop
14   問うて云く諸経にも悪人が仏に成る華厳経の調達の授記・普超経の闍王の授記・大集経の婆籔天子の授記・又女
15 人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る 阿含経の鴿雀の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳経等
16 なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛の凡夫の往生は 観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の
17 中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、 又設いかわりめはありと
18 も諸経にても成仏はうたがひなし如何、 答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし 此の答に法華経の諸経
0402
01 に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず。
-----―
 問うて言う。爾前の諸経にも悪人が仏に成っている。華厳経で説く提婆達多の授記、普超経に説く阿闍世王の授記、大集経に説く婆籔天子の授記がそれである。なた女性が仏に成るのは、菩薩処胎経に説く帝釈と女人の成仏がそれである。畜生が仏に成るのは、阿含経に説く家鳩と雀の授記である。二乗が仏に成るのは方等陀羅尼経・首楞厳経等に説かれている。菩薩の成仏は華厳経等に説かれている。煩悩を具え縛られた凡夫の往生は観無量寿経の下品下生等である。女性が女の身を男子に改めて往生することは無量経の四十八願の中の三十五の願にある。これらは法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記といかなる違いがあるのか。また、たとえ違いはあっても諸経でも成仏は疑いないと考えるが、どうか。
 答えて言う。私が習い伝える法門はこの答えにあらわれる。この答えにおいて法華経が諸経に超過し、また諸経が成仏を許すか許さないかは分かる。だが秘蔵の法門のゆえにあらわに書かない。

華厳経の調達の授記
 爾前の諸経における悪人成仏の一例を示す。華厳経では提婆達多の未来成仏の記別が授けられている。
―――
調達
 提婆達多のこと。
―――
授記
 仏が弟子等に対して、成仏の記別を授けること。記別とは、未来のことを予記分別することで、未来世の成仏に対する仏の印可である。開目抄(0194)に「劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ劫をしるし所化の弟子なんどを定めさせ給へば」とあり、劫・国・名号が与えられることである。たとえば授記品で、迦葉に対して劫を大荘厳、国を光徳、名号を光明如来と授記されている。
―――
普超経の闍王の授記
 普超経に説かれる阿闍世誑に未来成仏の記別を授けること。
―――
普超経
 文殊師利普超三昧経のこと。普超三昧経・阿闍世王経ともいう。中国・西晋の竺法護訳。13品からなり、体空観が強調されている。
―――
大集経の婆籔天子の授記
 御書全集0401-01には大集経とあるが、同経に「婆籔天子の授記」はない。転写ミスによるものか。「婆籔天子の授記」は大方等陀羅尼経にある。
―――
婆籔天子
 妄語の罪によって地獄に堕ちたといわれる。大方等陀羅尼経には、苦しみに沈む多くの衆生に善心を起こさせ、華聚菩薩の大光明に導かれて、ともに地獄を脱したとある。妄語の罪によって地獄に堕ちた因については、あるとき、在家のバラモンと出家の仙人とが、殺生して肉を食べることの可否を論議した。両者はもと、マガダ国の王であり仙人となった婆籔に可否決定を任せた。在家のバラモンは肉を食することは可であるとするようにと婆籔に裏工作をした。婆籔はその説を支持し出家の仙人の正説を否定した。この妄語の罪によって生きながら地獄に堕ちたが、後に授記を受け婆籔天といわれたとある。
―――
胎経の釈女の成仏
 「胎経」とは菩薩従兜術天降神母胎説広普経のこと。菩薩処胎経・処胎経ともいう。仏が涅槃しようとする時、仏が忉利天に昇って母、摩耶に説いた経等を阿難たちが言ったため、神通をもって母胎に処して説いた経。胎中に参集して、空・六道・女人成仏の法を説き、弥勒菩薩に付嘱して涅槃に入る。胎経その後、仏舎利の配分・造搭のことが説かれ、迦葉が上首となって経典結集することが明かされる。
―――
阿含経の鴿雀の授記
 阿含経の教説にもとづき大智度論に説かれている。あるとき舎利弗が釈尊に随従して修行をしていた時、鷹に追われている鴿を見た。舎利弗はすぐに神通力で鴿の未来を観見したが、八万大劫という長い期間を過ぎてもなお、つねに鴿の身であり、成仏できないでいることを知った。その理由を釈尊に尋ねたところ、釈尊は答えて、この鴿はもろもろの辟支仏が知る未来よりはるか先に、ようやく人身を受け、500生の生死を繰り返した後、機根も調い、仏に値って済度され成仏できると説いたとある。
―――
二乗が仏に成る方等だらに経
 大方等陀羅尼経には二乗成仏の義が明かされている。
―――
首楞厳経
 「首楞厳三昧経」のこと。鳩摩羅什の訳で2巻からなる。霊鷲山において堅意菩薩が三昧法を問うたのに対して、釈尊が首楞厳の名を唱え、広くその義を説き、妙用を示現した。
―――
菩薩の成仏は華厳経
 華厳経には菩薩の成仏が説かれているが、即身成仏ではなく歴劫修行による成仏である。
―――
具縛の凡夫の往生は観経の下品下生
 煩悩を備え四苦・八苦に縛られた凡夫が極楽浄土に往生できると観無量寿経に下品下生として説かれている。
―――
雙観経
 無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
四十八願
 阿弥陀仏が法蔵比丘として修行していたとき、自らの仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏によって示された二百十億の仏国土から選び取って立てた48の誓願。無量寿経巻上に説かれている。
―――
二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
―――
提婆菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後750年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
―――
秘蔵
 ①秘密にして大事にしまっておくこと。②五臓の一つの陀羅尼蔵のこと。
―――――――――
 前章までで、十界互具の法理こそが法華経の特色であり、これによって一切衆生の成仏が可能になったことを明らかにされた。
 そこでそれを受けて、問いの形で、爾前諸経においても悪人・女人・二乗に対して成仏を授記する文があることを指摘して、衆生の成仏は必ずしも法華経だけではなく爾前の諸経でも可能である、という当時の仏教徒の考え方を述べられている。
 この問いに対して「予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず」と答えられている。
予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず
 爾前諸経における成仏の授記と法華経における成仏の授記との間にどのような相違があるのかという問いに対して、この問いに答えることは「予の習い伝うる処の法門」があらわれることであると述べられ、しかも、「此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし」と仰せられ、これにより法華経が諸経に超過する理由が明らかになるとともに、爾前諸経の成仏が真実に可能か否かがはっきりすると言われている。
 しかし、この日蓮大聖人が習い伝うる訪問は“秘蔵”のゆえに、本抄では、あらわに書かないと仰せられている。その理由として拝察されることは、おそらくは本抄が佐渡以前の御書であり、かつ立教開宗後、間もなくその時期であったため、秘蔵の法門を説く段階ではないと考えておられたからであろう。
 すなわち、成仏が可能になるためには成仏の根源の種子が明かされなければならない。成仏の種子はただ法華経本門寿量品の文底に秘沈されており、その意味で、成仏の実義は法華経に限られるのである。
 しかし、それを論ずると、文底下種仏法まで明かさなければならないから、この段階ではまだあらわすべきではないとされたのである。ただその種子たる一念三千について以下に論じ、その点を暗示するにとどめられているのである。

0402:02~0402:10 第20章 一念三千を明かすtop
02   問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後.玄義十巻・文句十巻.覚意三
03 昧.小止観・浄名疏・四念処.次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・
04 百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり、 御年五十七の夏四月の比刑州の玉泉寺と申す処にて御弟子・章安
05 大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり、 上の四帖に猶をしみ給いて但六即・四種三昧等・計の法門にてあ
06 りしに五の巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書き給へり、 此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並
07 に三千を以て指南と為す○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文、 六十巻・三千丁の多くの法門も由無し但
08 此の初の二三行を意得可きなり、 止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界な
09 り一界に三十種の世間を具すれば 百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、 妙楽承け釈
10 して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界にアマねし」文、
-----―
 問うて言う。妙法を一念三千と言うことはどうか。
 答えて言う。天台大師が、この法門を悟られて後、法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・維摩経・四念処・次第禅門など多くの法門を説かれたけれども、この一念三千をとかれなかった。ただ十界・百界・千如の法門だけを説かれた。御年五十七歳の夏・四月の頃、荊州という玉泉寺という所で御弟子の章安大師という人に説き聞かせられた摩訶止観十巻がある。十巻のうち前の四巻になお惜しんで説かれず、ただ六即・四種三昧などばかりの法門であったが、第五の巻から十境・十乗を立てて一念三千の法門を書かれた。これを妙楽大師が末代の人に仏道を勧めて、「第五の巻で観法を明かすとともに一念三千をもって指南とする。○。願わくは天台大師の法門を尋ねて読もうとする者は他に心を奪われてはいけない」といわれている。天台大師の著作六十巻・三千枚の多くの法門も意味がない。ただこの摩訶止観の観の五上の二・三行を心得るべきである。すなわち摩訶止観の巻五上に「それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界である。一法界に三十種の世間を具すれば百法界に三千種の世間を具す。この三千の諸法は一念の心にある」とある。在り」妙楽大師は、この文を承けて「まさに知りなさい。これは身土不二の一念の三千である。故に成道の時、この本然の理にかなって一身一念は法界に遍満する」と解釈している。

一念三千
 仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
―――
玄義十巻
 中国,隋の天台大師の講述をその弟子,章安大師が筆録したもの。10巻。正しい名は『妙法蓮華経玄義』。表題の意味は『法華経』の深遠な内容を総論するということで,智 顗が自己の信念に基づいて発表した仏教思想の綱要書。
―――
文句十巻
 中国,隋の天台大師が講義したものをその弟子の章安大師が記録した書で,法華三大部の一つ。『妙法蓮華経文句』の略称。さらに略して『文句』ともいう。10巻。『法華経』の一句一句を注釈している。
―――
覚意三昧
 天台大師の四種三昧のなかの非行非坐三昧や南岳大師の随自意三昧と同じ。方法・機関を定めないで、六識によって起こす念に対して思考し、正しく認識して悟りを得る三昧のこと。
―――
小止観
 天台大師の述作。俗兄・陳鍼のために、止観修習の要諦を示されたとされる書。摩訶止観は内容が難解であるため、初心者のために坐禅の方法や用心などを説き、摩訶止観の要綱を示している。
―――
浄名疏
 維摩経疏のこと。天台大師の撰述に「維摩経玄疏」「維摩経文疏」があり、天台大師の維摩経疏を構成している。玄疏では維摩経の玄旨を五重玄をもってあらわし、文疏では各品を解釈している。のちに妙楽大師が文疏を圧縮し維摩経略疏を著し、天台学の重要な教典となった。
―――
四念処
 ①天台大師の著。四巻。釈尊の入滅に際して、滅後の行道を示したなかで、四念処によって行道すべしと述べた四念処について明かしたもの。蔵通別円の四教それぞれの四念処観を説き、この修行が天台教学の観法の真髄であることが述べられている。 ②身念処・受念処・心念処・法念処の一つで、小乗の修行の一つ四念処観・四念住ともいう。
―――
次第禅門
 『釈禅波羅蜜次第禅門』のこと。 十巻または十二巻。 天台大師智顗の講述を禅観が筆録し潅頂が再治したもの。 諸種の禅法を実践して、実相の理に証入することを説く。
―――
玉泉寺
 中国・荊州の玉泉山にある寺。天台大師が隋・開皇12年(0592)に自分の故郷である荊州に建立し一音寺と称した。後に玉泉寺と改めている。天台大師はここで開皇13年(0593)4月に法華玄義を説き、翌年には摩訶止観を説いた。
―――
章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
止観十巻
 「止観」とは、摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。10巻826枚からなる。
―――
六即
 天台の立てた六即のこと。理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即である。 理即とは迷いの凡夫であっても、理の上では仏界を具している。だがいまだ仏界を顕現されざる位。いまだ御本尊を受持していない人。名字即とは御本尊を受持し、信心した人。観行即とは信行具足して功徳を得ていく人。相似即とは三障四魔と戦い、これを粉砕していく人。分真即とは折伏に励み、民衆救済に邁進する人。究竟即とは、永遠の生命を感得し成仏の境涯に達した人。究竟即の仏とは、末法今時においては、日蓮大聖人の御事である。
―――
四種三昧
 天台宗で、修行する4種の三昧。常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の称。
―――
十境
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた10種の対境のこと。陰入界境・煩悩境・疾患境・業相境・魔事境・禅定境・諸見境・増上慢境・二乗境・菩提境をいう。
―――
十乗
 十境の一つ一つについて、なされるべき十種の観法で、得道の境界まで乗せ運ぶ方法。①観不思議境②起慈悲観③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥修道品⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛。
―――
三千
 一念三千の三千のこと。観心本尊抄には「「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」(0238-02)とある。
―――
指南
 教え示すこと。導くこと。師範の意味。中国唐代の「指南書」の故事によるものとされている。
―――
異縁
 他事に心を走らせる。他のものに心を奪われること。純一無雑に信受しなければならないとの意。
―――
六十巻・三千丁
 天台大師が述作した書籍の量をいう。
―――
百法界
 十法界の各界に十界が具足すること。十界互具ともいう。
―――
三十種の世間
 十如是(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等)に各三世間(五蘊世間・衆生世間・国土世間)があること。
―――
三千種の世間
 一念三千の相貌をいう。一界に三十種の世間が具わっているので、百界には、すなわち三千種の世間が具わっている。
―――
身土一念の三千
 身土の「身」は正法であり、三世間にあてはめれば五陰世間・衆生世間を意味し「土」は国土世間を意味する。この身と土は別々に存在しているが、ともに衆生の一念に具わっており、身土の一念に三千の諸法がそなわっていることをいう。
―――
成道
 仏道を成ずること。八相作仏のひとつ。成仏・得道と同義。最高の幸福境涯を得ることをさす。
―――
本理
 極理・根本の義で本然の本理のこと。一切法界に遍満し、内在する根源の法。一念三千の法理をいう。
―――――――――
 ここでの問答は直前の問答で明らかとなった「世の習い伝うる処の法門」について、その一端を暗示的に説かれたものと考えることができる。つまり、日蓮大聖人にとって一念三千の法門の有無こそ法華経と爾前諸経との決定的な相違を示す指標であると考えられていたのであり、このことは「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と開目抄に仰せのところである。ここでは、法華経の法体としての妙法が一念三千の法門であることを天台大師・妙楽大師の著作をとおして明らかにされている。初めに、妙法を一念三千というのは何ゆえであるかについて問いを立てられている。答えとして初めに「天台大師・此の法門を覚り給いて後」と、天台大師が法華経に基づいて悟った真理はまさにこの一念三千の法門であったと述べられている。しかし天台大師は、法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処四巻・次第禅門十巻など多くの書物を著して種々の法門を明かしたものの、肝心の一念三千の法門については安易にはとかなかった。ようやく57歳の時、摩訶止観を説き始めたが、この止観でも十巻中・第四巻までは六即や四種三昧などの法門を明かすにとどまり、一念三千の法門は説かなかったのである。第五の巻の「正修止観」において初めて十境・十乗の観法を立てるなかで、一念三千の法門を明らかにしたのである。
止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧ねし」
 摩訶止観巻第五の正修止観の初め二・三行に説かれた一念三千の法門と、これを受けて妙楽大師が注釈した止観輔行伝弘決巻第五の文とを挙げられている。摩訶止観第五の一念三千の法門の内容については「一念三千理事」講義をはじめ、観心本尊抄の講義録などで触れられているのでそれを参照されたい。
 ここでは妙楽大師の文について少々解説を加えておこう。
 初めに「身土一念の三千なり」の“身”とは衆生の身体、つまり正報としての衆生の色心であり、“土”とは衆生の住む依報としての国土である。正報としての衆生の色心と依報としての国土とは、そのまま観念観法を行ずる凡夫の行者の一念に具わる三千であることを示している。 次に「故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧べし」とは、修行者の修行が満たされて成道する時には「此の本理」すなわち、一念に三千を具するという妙なる理法にかなって、行者の一身一念が法界に遍満していく、ということである。つまり、妙楽大師の文は天台大師の一念三千を表す文を受けて、行者が実際に修行によって、一念三千の当体となって成道する時の状態を表現したものいということができる。
 以上はあくまで、中国天台宗の「理の一念三千」の範囲であり、したがって修行も観念観法の止観行が中心となって展開されている。これに対し、日蓮大聖人の「事の一念三千」については先に「秘蔵の故に顕露に書さず」とあったように、ここでは記されていないのである。大聖人の事の一念三千の法門は、とくに佐渡以前においてその全体像が明らかにされてくることはいうまでもない。

0402:10~0402:18 第21章 伝教大師の故事を挙げるtop
10                                                日本の伝教
11 大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、 此の鑰を以て入唐の
12 時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて 天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人た
13 りし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに 十四を開いて一の蔵を開かず、 其
14 時伝教大師云く 師此の一蔵を開き給えと請い給いしに 邃和尚云く「此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世
15 して開き給う可し」と云云 其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに 此の経蔵開けたりしかば経蔵の
16 内より光・室に満ちたりき、 其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、
17 其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、 天台大師の後身と云云、 依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く
18 日本に亘りしなり、天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり。
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 日本の伝教大師が比叡山延暦寺の基を建立した時、根本中堂の地を選ばれた際、地中から八舌の鍵が出てきた。この鍵をもって後に入唐した時天台大師から第七代であり妙楽大師の御弟子である道邃和尚に会い、天台大師の法門を伝へられた時、伝教大師がまことに秀逸の人であったので、道邃和尚は喜んで、天台大師の造られた十五の経蔵を開き見せたところ、十四の蔵を開いて一つの蔵を開かなかった。その時、伝教大師が「師よ、この一蔵を開いてください」と願ったが、道邃和尚は「この一蔵は開くべき鍵がない。天台大師が再びこの世に出現して開かれる」といった。その時、伝教大師は日本から身につけてきた鍵をもって開いたところ、この経蔵は開かれ、経蔵の内から光を放ち室内に満ちた。その光のもとをさがすと、この摩訶止観巻五の一念三千の文から光を放っていたのである。世にも希なことである。その時、道邃和尚はかえって伝教大師を礼拝され、伝教大師のことを天台大師の後身であるといわれたのである。これによって天台大師の経蔵の重要な典籍は残らず日本に渡ったのである。天台大師の御自筆の観音経、章安大師の自筆の摩訶止観は今は比叡山の根本中堂に収められている。

伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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比叡山
 延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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根本中堂
 伝教大師最澄が延暦7年(0788)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされる。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられている。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
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舌八つある鑰
 伝教大師が比叡山の地で掘り出したとされる鍵。出っ張りが八つになっていたといわれてうる。この鍵にまつわる話は、山門秘伝見聞・玄旨壇秘抄に出ている。
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道邃和尚
 中国、唐代の天台宗の僧。生没年未詳。諡は興道尊者。妙楽大師湛然に師事。貞元20年(0804)に龍興寺(浙江省臨海市)に住す。同年より翌21年にわたり、最澄と通訳僧であった義真に天台法門を伝えた。道邃が最澄に出会った時の興味深い逸話が「一代聖教大意」に説かれる。天台山国清寺で入寂した。
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天機秀発
 生まれつきの素質・才能が秀でていること。
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随身
 身につけているもの。身に所持している者。
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礼拝
 一定の動作・作法によって感情・尊敬・祈願・誓いなどの意をあらわすこと。信仰の対象を拝むこと。
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天台大師の後身
 伝教大師のこと。伝教は天台大師の説き明かした円頓止観をもって日本に天台宗を開き法華経を弘通したのでこう呼ばれる。
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観音経
 妙法蓮華経観普賢経行法品第25のこと。
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章安大師の自筆の止観
 摩訶止観は天台大師が講述したものを章安大師が筆録完成したものであるから、「章安大師の自筆の止観」はその原本ということになる。
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 ここでは、日本の伝教大師が唐に留学した時のことを述べられ、摩訶止観巻五の、前引の一念三千の文がいかに重要であるかを強調されている。
 すなわち、伝教大師が比叡山寺を建立した時、根本中堂の場所として選んだ土地の地中から、八つの舌のある鍵を見つけたという。八つの舌のある鑰とは舌状の出っ張りが八つ刻まれた鑰のことである。伝教大師はこの鑰をもって唐に行き、妙楽大師の弟子・道邃和尚に会い、天台大師の法門を伝えてもらった。
 その時、道邃和尚は伝教大師の秀逸を認め、天台大師の残していた十五の経蔵をすべて見せようとした。ところが十四の経蔵までは開いたが、一つだけは開かなかった。道邃和尚は、その一つの経蔵は鑰がなくてだれにも開くことができない。天台大師自身が再度この世に出現して開かれるのである、と説明した。その時、伝教大師が日本から持ってきた八つの舌のある鑰を使うと、その経蔵が開いたという。開くと、経蔵の中では摩訶止観巻五の一念三千の文から放たれた光が満ちあふれていたという。これを見て道邃は伝教大師こそ天台大師の後身であると言い、逆に礼拝した、と。このことによって、天台大師の経蔵の書籍は残らず日本に持ち帰ることができたとされている。その中に含まれていた天台大師直筆の観音経の書写本や章安大師の自筆の摩訶止観は今も延暦寺根本中堂にある、と仰せられている。

0403:01~0403:08 第22章 十界互具説と外道とを相対すtop
0403
01      ┌ 一 自 性─自 力─ 迦毘羅外道 
02      ├ 二 他 性─他 力─ 勒桜僧伽外道 
03   四性計┼ 三 共 性─共 力─ 勒娑婆外道
04      └ 四 無因性─無因力─ 自然外道
05 外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗三には学仏法の外道妙法を知らざる
                                               大乗の外道なり
06   今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生
07 の他の仏界・我が身に具せり、 されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具
08 なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す。
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      ┌ 一 自 性─自 力─ 迦毘羅外道 
      ├ 二 他 性─他 力─ 勒楼僧伽外道
    四性計┼ 三 共 性─共 力─ 勒娑婆外道
      └ 四 無因性─無因力─ 自然外道
 外道には三種の人がいる。一には仏法外の外道、(バラモンの九十五種の外道)。二に附仏法成の外道、(小乗の義を立てる)。三には学仏法の外道(妙法を知らない大乗の外道である。
 今の法華経は自力も単なる自力ではない。十界の一切衆生を具する自己であるゆえに、我が身に自己の仏界も一切衆生の他の仏界も元から具しているのである。だから今、仏になるということは自分で新しく仏に成るのではなく、自己に本来具する自他の仏界を顕現することにほかならない。また法華経は他力も単なる他力ではない。他の仏も我ら凡夫自身に具するゆえに他力ではない。また他の仏も我らと同じように自らに現れるのである。共力と無因は省略する。

四性計
 バラモン教で説く自生計・他生計・共性計・無因性計という四種の因果論のこと。性とは本質のことで、人間と世界の事物・現象の本質のことである。これを説く外道の哲学に四つの立場・流派があるということである。
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自性
 すべての世界の事物現象が一つの根本原理や実体から生成したという考え方である。迦毘羅外道の見解である。すべての事物は自性から展開するのであるから、自性のなかに既に世界の事物・現象をはらんでいることになる。因果論でいえば、自性という原因の中に既に事物・現象という結果を具えている「因中有果」論となる。なお、迦毘羅外道は後にもう少し体系化されて、サーンキャ学派になる。
―――
自力
 自らの力のこと、自らの智解・分別をいう。自性から万有が生じることをいう。
―――
迦毘羅外道
 迦毘羅仙を祖とするサーンキヤ学派(インドの正統六派哲学の一つ。バラモン教の六派哲学のなかでは起源が最も古いといわれる。ウパニシャッドの伝統的一元論に対し二元論を立てた。1つは精神的原理としての純粋精神でプルシャと呼ばれ,他は物質的原理としての根本原質でプラクリティと呼ばれる。)に対する仏教側からの称。 
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他性
 「他」に本質があるという見解である。因果論でいえば、幾つかの因が合わさって初めて一つの結果が生ずると説くのである。例えば、陶器という結果は、必ず土という原因がなければ生じないが、土は必ず陶器になるとはかぎらないという。つまり、因の中に結果を有さない「因中無果」論となる。図示では、漚楼僧伽外道の見解とある。後に体系化されて、ヴァイシェーシカ学派になる。
―――
他力
 他の力用のこと。他力によって悟りに導かれること。他性から万物が生じることをいう。
―――
勒桜僧伽外道
 (Ulūka)インド六派哲学の一つ。勝論学派の開祖といわれ、釈迦出世前800年ごろインドに出現し、因中無果説を説いた。別名を拘留外道ともいう。
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共性
 因の中に果が有る場合もあれば無い場合もある、という「因中亦有果亦無果」論である。あまり起源のよく分からない外道の見解である。尼乾・苦得外道といわれるジャイナ教の思想とされている。
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共力
 同時に合わせ働く力。自性計に基づく自力と、他性計に基づく他力の力。共性計に基づく力で、万法は自性から生じ、他性から生じることを共にみとめることをいう。
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勒娑婆外道
 苦行と訳す。因中亦有果亦無果と説いた。弘決巻十には「算数をもって聖法となす、造れる経はまたは十万偈あり」等とある。別名を裸形外道といい素裸で、灰や棘の中に寝るなど、さまざまの苦行を行った。のちのジャイナ教はこの勒娑婆を始祖とする。釈尊の出家前の子で、仏の弟子となりながら外道に近づいて退転し、現身に大苦を受けた善星比丘も、この勒娑婆の一派といわれる。
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無因性
 一切の事物・現象はなんらかの因が有って生ずるものではない、という見解である。図示では自然外道とある。
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無因力
 無因性の力用のこと。一切法は因縁なく自然に生滅・変化する力用をいう。
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自然外道
 あらゆる存在は因縁によらないで自然に有る、とする説で、万物を創造したという主宰神のような造作する者とか、人間の意志の自由というような観念をすべて否定する。三十種外道の一つといわれる。
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仏法外の外道
 仏法の教えを全く混入していないバラモン外道のこと。
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九十五種の外道
 釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。
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附仏法成の外道
 仏法の教えを混入して教義を立てた外道のこと。一見すると仏法の教義のようであるが、その実、仏法とはかけ離れた教え、またそれを説く者。
―――
学仏法の外道
 仏法の義を取り入れた外道。
―――
妙法を知らざる大乗の外道
 天台大師所立の三種外道のうち学仏法の外道は、本来外道でありながら仏法の教義を混入して大乗の義を立てる。立てるといっても権大乗の意で、妙法を知らないということ。
―――
今の法華経は自力も定めて自力にあらず
 法華経における自力は、自らに自身の仏界を具えている点では自力といえるけれども、外道でいう他から隔絶している自力そのものではなく、我が身に一切衆生の他の仏界も具えているゆえに、単なる自力ではないということ。
―――
今仏になる新仏にはあらず
 法華経においては、凡夫が成仏するということは全く新しい別の存在として仏になるということではなく、凡夫自身に具している仏界を顕現することに他ならないということ。
―――
他力も定めて他力に非ず
 法華経における他力は、他の仏も我ら凡夫自身に具しているゆえに、単なる他力ではない。また他の仏も我ら凡夫と同じように、その自身に一切衆生の仏界を具して顕現するのである。
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 これまでの二章を通して一念三千の法理が妙法であることを説かれてきたが、ここからは更に法華経の妙法たる理由を、外道の教理や爾前諸経の成仏論との比較相対のうえから明かされていくのである。初めに、ここでは、外道の四性計との比較のうえから、十界互具・一念三千の法門の卓越性を明かされている。
四性計について
 四性計は妙楽大師が法華玄義釈籤第六で挙げている。すなわち「今の文に不思議因縁と云う。豈論文の黎耶庵摩羅自他の因縁に同じからんや、文は双べ挙ぐると雖も計は必ず偏に執す。新旧の両訳の如し。亦地論の南北二道の還って性過を成し各計同じからざるか。今の不思議四性の計を離る。豈彼の論各計不同に同じからんや」とある。この釈文は法華玄義巻二下の「摂大乗に十の勝相の義を明し、咸く深極と謂って、地論をして宗を翻ぜしむ。今試みに十妙を以って之に比するに、彼は漏るる所有り、且く理妙を用って依止勝相に比すれば、不思議の因縁を明かして四句に破執す。豈黎耶庵摩羅を留めて依止とせんや」という文を釈したものである。
 その内容は、法華玄義において天台大師は、唯識系の摂大乗論が自ら十の勝れた点を挙げており、それが地論宗に影響を与えたことに触れている。更に、この十の勝相を天台大師自身が立てた迹門の十妙と比較すると、摂大乗論のほうにはまだまだ漏れているところがあるとしている。今、仮に十妙のうち「妙理」をもって、十勝相の第一・依止勝相を比較してみる。境妙の例えば不思議生滅の十二因縁を取り上げ、依止勝相は黎耶庵摩羅の教理を取り上げている。不思議生滅の十二因縁を説いている段で、天台大師は、とくに唯識系の説く黎耶を四句分別をもって破折している。
 これを受けて妙楽大師は「今の不思議四性の計を離る」と釈している。不思議とはいうまでもなく、不思議生滅の十二因縁のことであり、それが四計を離れたものであるとしている。ここに四計とは、本抄で図示されているように、自性・他性・共性・無因性の四性計のことである。性とは本質のことで、人間と世界の事物・現象の本質のことである。これを説く外道の哲学に四つの立場・流派があるということである。
 初めに自性計とは、世界の事物・現象の本質を「自性」に置く思想である。自性とは、すべての世界の事物現象が一つの根本原理や実体から生成したという考え方である。迦毘羅外道の見解である。すべての事物は自性から展開するのであるから、自性のなかに既に世界の事物・現象をはらんでいることになる。因果論でいえば、自性という原因の中に既に事物・現象という結果を具えている「因中有果」論となる。なお、迦毘羅外道は後にもう少し体系化されて、サーンキャ学派になる。
 次に、他性計とは「他」に本質があるという見解である。因果論でいえば、幾つかの因が合わさって初めて一つの結果が生ずると説くのである。例えば、陶器という結果は、必ず土という原因がなければ生じないが、土は必ず陶器になるとはかぎらないという。つまり、因の中に結果を有さない「因中無果」論となる。図示では、漚楼僧伽外道の見解とある。後に体系化されて、ヴァイシェーシカ学派になる。
 三に共性計とは、先の自性計と他性計の折衷論である。すなわち、世界の事物・現象の本質は一つの根本原理の自己展開の側面とさまざまな他なるものの合成によっている側面とを「共」にもっている。という思想である。これを因果論でいえば因の中に果が有る場合もあれば無い場合もある、という「因中亦有果亦無果」論である。この説は図示には勒婆外道となっているが、あまり起源のよく分からない外道の見解である。尼乾・苦得外道といわれるジャイナ教の思想とされている。
 第四に無因性計とは、一切の事物・現象はなんらかの因が有って生ずるものではない、という見解である。図示では自然外道とある。
 仏教の因縁論はこれら四つの代表的な外道の因果論を超越している、ということが法華玄義釈籤第二に釈されているのである。
外道に三人あり
 先に図示をもって四性計に代表される外道の見解を紹介されたが、ここでは、更に外道が仏教との関係の上から三種類に分類されていることを明かされている。三種の外道については次のとおりである。
 一には「仏法外の外道」である。これは文字どおり仏教以外の教えのことで、図示のとおり、「四性計」に属する九十五種の外道、六師外道、六派哲学などがそれにあたる。
 二には「附仏法成の外道」である。“附仏法”つまり仏法に附き帰依しながら、仏法の本質から外れている者のことであり、仏教であると見せかけているが、実は外道の教え、あるいは外道から退して外道に陥った教えを説く流派のことである。摩訶止観巻十上には「二に附仏法の外道とは犢子・方広より起こる。自ら聡明なるをもって、仏の経典を読んで一見を生ず。仏法に附して起こる故にこの名を得」、「犢子は舎利弗毘曇を読んで自ら別義を制していわく、我は、四句の外、第五の不可説蔵のなかに在りと。いかなるか四句なりや…また、方広道人は、自ら聡明なるをもって十喩を読んで自ら義をなしていわく、不生不滅にして幻のごとく化のごとし、空幻を宗となす、と」等とある。ここに明らかなように、犢子は小乗の論書である舎利弗毘曇を読んで「我」は存在すると説いて、我に執着した外道の教義を展開した。これは、小乗教に附した外道である。また、方広道人の“方広”とは大乗経典のことで、大乗の空の思想を読み違えて、幻こそすべて真理であると主張しうた。これは、大乗に附いた外道といえる。ただし、図示では「小乗」となっているから、より有力で典型的な犢子の見解をとくに取り上げられたものであろう。
 三に学仏法の外道とは、“学仏法”つまり仏法を学んでいながら外道となってしまったものである。この外道について同じく止観巻十には「仏の教の門を執して煩悩を生じ、理に入ることを得ざるなり」とある。図示には「妙法を知らざる大乗の外道なり」と記されているように、大乗の教を学びながら、妙法を知らず、外道の教えに執着している者がこれである。
今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す
 ここからは法華経の十界互具の卓越性を、外道の四性計との比較のうえから説かれている。つまり、自性計は自らを因として森羅万象はそこから生ずるとするから、自分が中心となり、他性計は自分以外のさまざまなものが因となって作られるという考えであるから他力が中心となる。共性計はその折衷で、自力と他力を共に認める共力が中心となり、無因性計は万象が因果の法則には従わずに自然に生滅変化しているにすぎないという見解であるから、これを力関係でいえば、とくに自力や他力や共力などの力としては無く自然の力用が働いているにすぎないとする。
 さて、この四力をもって法華経の十界互具を比較されていくのであるが、初めに、自力との比較では「法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず」と仰せである。つまり、法華経の成仏観、凡夫を因、仏を果として、いかにして凡夫が仏になっていくかということ。について判断すれば「自力も定めて自力にあらず」とあるように、決定的に自力によるとするのではない、と仰せである。理由は「十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり」と仰せである。すなわち、自分というものに地獄から仏界までの一切衆生を具えているというが十界互具であるから凡夫の我が身にはもともと、仏界だけでなく十界のずべての生命を具えていることになる。したがって、凡夫が今、仏になったとしても、それは新たに仏というものに成ったのではなく、自分にもともと具えている自・他の仏界を顕したものにすぎないからである。
 では次に、他力、例えば仏・菩薩の力によって仏に成るかといえば「他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり」と仰せられている。すなわち、これも決定的に他力によるものではない、と仰せである。なぜなら、他に見ている仏といえども、我ら凡夫の自分に具わっているのであり、更にはそうした仏自身、我ら衆生と同じように、自らの仏性を顕して仏になった存在だからである。
 以上、自力、他力の二つの尺度によって、法華経の成仏観を示された。残りの共力、無因力の二つの尺度との比較は略すとされているが、それは改めて説くまでもないと考えられたのであろう。あえて自力・他力に示されたのにしたがって残りの二力を判断すれば、法華経の成仏観は「共力も定めて共力に非ず無因力も定めて無因力に非ず」ということになるであろう。先に、自力であれ他力であれ、双方ともに決定的にいえないことが明らかになったのであるから、今度は双方の折衷として自力他力の共力こそが法華経の成仏観であるようだが、これも決定的な共力とは言い切れない、ということであろう。なぜならば、法華経では因縁果報に基づいて成仏するとされているのであるから、自力も他力もまたそれらの共力も、因縁果報の道程で全体像の一部分一部分でしかないからである。
 では、無因力についてはどうか。外道のいうように因果の法則はなく自然の力用が働いているに過ぎないということは、法華経にも固定的に膠着した原因とその結果を認めない点では無因力に通ずるかのように見えるが、凡夫を因として仏を果とする因縁果報論を説くから、決定的に無因力の考え方とはいえないようである。結論していえば、法華経の成仏観は自力・他力・共力・無因力の四力による四句分別で判断すれば、どちらも包むが、同時にそれをも超越している円融円満な法理であることが分かるのである。

0403:09~0403:17 第23章 十界互具説無き爾前の咎明かすtop
09   法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには 必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故な
10 り、 されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず 凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人
11 の身を失いて仏に成ると申す、 此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば 爾前の経の人人は仏の九界の形を
12 現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ 仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、 されば実を以てさぐり給
13 うに法華経已前には但 権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、 煩悩を断じ九界を厭うて
14 仏に成らんと願うは実には 九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し、 人界を離れたる菩薩界も無き
15 故に但法華経の仏の爾前にして 十界の形を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも言われしなり、 実
16 の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなして・すぎし程に法華経に来つて方便にてあり
17 けり、実には見思無明も断ぜざりけり往生もせざりけりなんと覚知するなり、一念三千は別に委く書す可し。
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 法華経以前の諸経は十界互具を明かさないので、仏に成ろうと願う時は必ず九界を厭離する。九界を仏界に具さないゆえである。だから必ず悪を滅し煩悩を断じて仏に成ると説く。九界の凡夫の身を仏界に具すといわないゆえである。だから人・天・悪人の身を滅して仏に成るという。これをば妙楽大師は厭離断九の仏と名づけている。だから爾前の諸経の人々は、仏が九界の姿を現することをただ仏の不思議の神通変現と思い、仏の身に九界がもとからあって九界の姿を現するとはいわない。だから事実をもって探ると、法華経以前にはただあ仮に姿をあらわした仏のみあって実の凡夫が仏に成ったことはないのである。煩悩を断じ九界を厭離して仏になろうと願うけれども、実際には九界を離れた仏はないゆえに、成仏・往生した実の凡夫もいない。人界を離れた菩薩界もいないゆえに、ただ法華経の仏が法華経以前において十界の姿を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道ともいわれたのである。実際の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権教を修行して、それを真実の教と思って過ごしてきたのであるが、法華経に至って初めて、あれは方便の権教であった。実には見思惑・無明惑も断じていなかったし往生もしていなかったと悟り知るのである。一念三千の法門については別に詳しく書くことにする。

厭離断九の仏
 爾前権教に説かれる権仏のこと。厭離は厭い離れようとすること、断九は九界の煩悩を断つことで、九界の煩悩を厭離し断じた仏、方便権教の仏を意味する。爾前権教では九界の煩悩を断じて仏界があらわれるとされた。法華経では生死・煩悩の生命に本然的に兼ねそなわる働きであり、九界即仏界として生命は常住であると説く。
―――
仏の不思議の神変
 仏が九界の姿・形を現ずるのは、仏の不思議な神通変現であるとすること。爾前経における説。「神変」とは神通力をもって種々の変化を示現すること。
―――
権者の仏
 権の姿を現じた仏のこと。仏が衆生救済のために娑婆世界に現れる化身をいう。
―――
所化
 能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
―――
能化
 能化とは能く他を化導・教化する人。すなわち師匠を能化といい、仏を能化という。
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 先に法華経の十界互具による成仏観を外道の四性計との対比のうえで明らかにされたわけであるが、ここでは更に、内道の仏教に入って十界互具を説かない爾前権教の欠陥を明らかにされている。
 すなわち、爾前権教の仏観、その成仏観がいかに実体を伴わない虚偽にすぎないかを明らかにされている。十界互具を説かないということは仏界に九界を具えることを説かないことである。したがって、爾前経において仏になるということは、九界を厭い九界の悪や煩悩を断ち切っていく以外になくなってくる。九界のなかの人界や天界、悪人の身を断滅させることも当然、必要になってくる。その行き着く先は、九界の悪や煩悩、普通の人界の衆生などから超越し、現実離れした抽象的で架空の仏たらざるをえないということである。これを妙楽大師は“厭離断九の仏”と法華文句記巻一下で述べている。“厭離”とは文字どおり、厭い離れることであり“断九”とは九界の煩悩を断つことである。すなわち、爾前諸経においては、九界の煩悩を厭離し断ち切った仏とならざるをえないということである。
 仏は衆生を教化するために、九界のさまざまな姿を現さざるをえないのであるが、これを見る爾前経の人々は仏の不思議な奇跡を起こす神通力のように思って、もともと仏の身にそうした九界が具わっていて、それが現れているのだとは知らなかったのである。
 これを十界互具の真実を説く法華経の立場からいえば、仏が衆生教化のために九界の姿を現すのはむしろ当然のことになる。
 また、爾前権教の仏というのは、ただ「権者の仏」にすぎない。すなわち、仏界に九界を具足しているのが真実の仏であるから、仏界のみの仏というのは、実仏ではありえないことになるのである。したがって、浄土経のように仏の浄土に往生できると説かれていても、そうした仏自体が実仏ではないから、浄土も実存するものではなく、したがってそこへ往生することもありえないのである。
 「法華経の仏の爾前にして十界の形を現して所化とも能化とも」以下の御文は、結論として、法華経の十界互具の立場からいえば、爾前経に出てくるさまざまな人物や境界、所化・能化・悪人・善人・外道、などの人々は、ことごとく法華経の仏が衆生教化から十界の姿を現していたことになる、ということである。
 ところが、現実の善人・悪人・外道・凡夫などは、方便の爾前権教の修業を真実の教えであると思って仏を目指して精励したのであるが、法華経の説法を聞くに至って、すべてが方便であったことが分かり、実際には見思惑も無明惑も断じていなかったし、往生もしていなかったことに気づく、と仰せられている。
 要するに本章では、十界互具を説かない爾前権教の成仏論がいかに虚妄のものであるかを強調されているのである。

0403:18~0404:09 第24章 開会の妙に法華の卓越性見るtop
18   此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の
0404
01 四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、 爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、 絶待妙の意は一代聖
02 教は即ち法華経なりと開会す、 又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり開示悟入の文・或は皆已成仏道等
03 の文、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一の字の下に皆妙の文字あるべしこれ能開の妙なり、此の
04 法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり、 阿含経・開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆
05 生に随順して説く大乗に入るに為本なり」と云云、 華厳経・開会の文は一切世間・天人及び阿修羅は皆謂えり今の
06 釈迦牟尼仏等の文、般若経・開会の文は安楽行品の十八空の文、 観経等の往生安楽・開会の文は「此に於て命終し
07 て即ち安楽世界に往く」等の文、 散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、 一切衆生
08 開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、 外典開会の文は「若し俗間経
09 書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会の文・人天所開会の文しげきゆへにいださず。
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 この法華経には二種の妙がある。天台大師の法華玄義巻二に「この経はただ二妙を論ず」とある。一には相待妙、二には絶待妙である。相待妙の趣意は前の華厳・阿含・法等・般若の四時の一代聖教を爾前経として嫌い、爾前経を当分といい法華経を跨節という。絶待妙の趣意は一代聖教は即、法華経であると開会する。また法華経に二事がある。一には所開・二には能開である。法華経方便品第二の開示悟入の文、あるいは皆已成仏道などの文、法華経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字の一々の文字の下にすべて妙の文字がある。これらは能開の妙である。この法華経の開会を知らないで、法華経を習い談ずる者はただ爾前の経の利益を得るだけである。
 阿含経を開会する文は、法華経方便品第二に「我がこの小乗の九部の法は衆生に順じて説く。これは大乗に入るための準備である」とある。華厳経を開会する文は、法華経寿量品第十六に「一切世間の天人、及び阿修羅は皆、今の釈迦牟尼仏が釈氏の宮を出て後、伽耶城を去ってそこから遠くない菩提樹下の道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている」とある。般若経を開会する文は、法華経安楽行品第十四に十八種の空を説く文である。観無量寿経等の往生安楽を開会する文は法華経薬王品第二十三に「ここにおいて命を終えて直ちに安楽世界に往く」等の文である。散善の開会の文は法華経方便品第二に「もし人が散乱の心で、塔廟の中に入って、ひとたび南無仏と唱えた者は皆すでに仏道を成じた」の文である。一切衆生の開会の文は、法華経譬喩品第三に「今、この三界は皆これ我が所有である。その中の衆生はことごとくこれ我がが子である」とある。外典の開会の文は、法華経法師功徳品第十九に「もし俗間の経書、治世の語言、資生の業などを説くもすべて正法に従う」とある。兜率往生の開会の文、人界・天界の衆生の開会の文は繁多であるゆえに出さないでおく。

二妙
 相待妙と絶待妙のこと。
―――
相待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。法華経と爾前権経を対比して、法華経以外を麤と為す教判。麤とは不完全や粗悪という意味で、法華経からみるとそれ以前の教えは完全ではない事を言う。法華経は随自意の教えで、爾前権経は衆生の機根に合わせた随他意の教えであり、勝れた法華経を選び、爾前権経は捨てねばならないと立てる。
―――
絶待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。麤法を妙法を対比させるのではなく、そのまま麤法は妙法と開会し、爾前権経の教えをすべては妙法から生じた教えであり、全体である法華経が説かれたならば、爾前権経は全て法華経に帰入るすという教判。
―――
当分
 当位の分際のことで、そのままの立場のこと。跨節に対する語。天台宗ではこれを教判として、爾前経を当分、法華経を跨節としている。
―――
跨節
 節を跨ぐことでさらに広く深く一重立ち入った立場をいう。教相判釈の基準のひとつ。爾前は当分・法華は跨節となる。
―――
開会
 開顕会融・開顕会帰の意。権教を開き顕して実教に会入すること。爾前権教を開して法華経の真実に会入させること。法華経迹門における開会は三乗を開して一仏乗に帰せしめる開三顕一をいう。法華経本門における開会は一切の諸仏を開して唯一の本仏に帰入せしめる開迹顕本である。開会には教法のすべてが一法に帰着するとする法開会と、万人の平等の成道を説いた人開会がある。法開会は一往の理論で、諸経に説かれるが、事相面である人開会は法華経に限られる。開会の法門は諸教になく法華経のみに見られる特質であり、一切の諸法は一つとして捨て去るべきでなく、真実を含有するものとして生かされることになる。
―――
所開
 開会されること。あるいは開会されるもののこと。
―――
能開
 開会すること。あるいは開会するもののこと。
―――
開示悟入
 法華経方便品第二の広開三顕一の文。「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」。広開三顕一とは、広く三乗を開いて一乗を顕わすこと。法華経以前には、声聞、縁覚、菩薩の人を分けて説き、これを三乗の法といったが、法華経にいたって、真実の仏の教えはただ一つであるとして、一仏乗の法を説かれたのである。方便品第二より人記品第九までの間に、三乗の法を開会して一乗の法を説かれたものである。御義口伝には「開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり」(0716-第三唯以一大事因縁の事-09)と申されている。
―――
皆已成仏道
 方便品の文「皆已に仏道を成じき」と読む。法華経を信受した衆生のすべて仏道を成就できたことをいう。
―――
一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字
 法華経の構成をいう。訳本や数え方において、多少の増減はある。
―――
九部の法
 仏教の聖典をその形式や内容から9種類に分類したもの。分類方法には12種類に分ける「十二部経」もあるが、九部経の分類法のほうが古いとされている。修多羅・伽陀・本事・本生・未曾有・因縁・譬喩・祇夜・優婆提舎。
―――
阿修羅
 。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「」(0430-)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
―――
十八空
 ①天台大師が法華文句巻9のなかで、安楽行品の一切法空の文より18の空と区分したもの。すなわち「一切の法を観ずるに、空なり、⑴如実相なり。⑵顛倒せず、⑶動せず、⑷退せず、⑸転せず、⑹虚空の如くにして⑺所有の性無し。⑻一切の語言の道断え、⑼生ぜず、⑽出せず、⑾起せず。⑿名無く、⒀相無く、⒁実に所有なし、⒂無量、⒃無辺、⒄無碍、⒅無障なり」である。②大智度論にある18空。⑴內空⑵外空⑶內外空⑷空空⑸大空⑹第一義空⑺有為空⑻無為空⑼畢竟空⑽無始空⑾散空⑿性空⒀自相空⒁一切法空⒂不可得空⒃無法空⒄有法空⒅無法有法空
―――
往生安楽
 安楽世界に往生すること。往生極楽ともいう。浄土宗では阿弥陀仏の名を称えれば、極楽世界に生まれ変わることができると説く。
―――
散善開会
 散善を開会すること。散乱した心で修行して得る小さな善根であっても、法華経を信ずることによって成仏できることをいう。
―――
南無仏
 南無とは帰命のことで、絶待の信をもって仏および経説に帰依することをいう。方便品には「一たび南無仏と称うれば、皆已に仏道を成じき」とある。悪逆の提婆は臨終に「南無」と称えたが「仏」と称することを得ず、地獄に堕ちたといわれている。
―――
外典開会
 法華経を根本に外典の文意を明らかにすること。これを絶待妙という。
―――
外典
 仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
俗間経書治世語言資生
 法華経法師功徳品に「、「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とある。この文意は、深い信仰に達している人は、政治や経済、産業など、実際生活上の事柄についての 指導を行っても、それがおのずから仏さまの説かれた正法に一致するということ。
―――
兜率開会
 兜率往生を法華経の立場から開会することをいう。
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 ここでは、妙法蓮華経の“妙”に相待妙・絶待妙の二種があることを挙げ、とくに、絶待妙の開会の妙用を根拠にして他経に説かれるところも法華経の一分となることを示されている。
 この二妙については天台大師が法華玄義巻二上で明らかにしている。五重玄義を別釈していくなかで、妙法の釈名段を明かすうちの「妙」を釈する段落が説かれている。すなわち「二に妙を明かすに、一には通じて釈し、二には別して釈す。通を又二と為す。一には相対、二には絶対なり。此の経は唯二妙を論じて、更に非絶非待の文無し」とある。
 相待妙は本文に「前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す」と説かれているように、法華経と四時の一代聖教とを比較相対して、四時の一代聖教を爾前・当分とし、法華経を跨節と立てることである。
 これに対して、絶待妙とは本文に「一代聖教は即ち法華経なりと開会す」とあるように、相対によって法華経の妙の絶対性が確立した後、今度は法華経の妙により、相対を絶して、それまで当分として捨てた四時の一代聖教を開いてそのまま法華経であると包摂することである。
 次に「又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり」以下からは、開会することによって、その真義が顕れ活かされてくことを述べられている。そして、法華経方便品第二の一大事因縁・開示悟入の文、同じく「皆已に仏道を成じき」に代表される文を挙げ、それにとどまらず、法華経一部二十八品の69384という文字の一字一字の下に妙の文字があり、この“妙”によって開会してこそ、これらの文々が生きてくることを仰せである。
 その能開の“妙”とは、文底の妙法であり、この妙法を知らずして、ただ文上の意味を読んでいても、なんの功徳もないことを「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」と仰せられている。
阿含経・開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く大乗に入るに為本なり」と云云、 華厳経・開会の文は一切世間・天人及び阿修羅は皆謂えり今の釈迦牟尼仏等の文、般若経・開会の文は安楽行品の十八空の文、観経等の往生安楽・開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等の文、 散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、 外典開会の文は「若し俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会の文・人天所開会の文しげきゆへにいださず
 ここでは、法華経の妙の力用により爾前の諸経も一切法も開会されることを示されている。まず、法華経方便品第二の「我がこの九部の法は、衆生に随順して説く。大乗に入るに為れ本なり。故に以って是の経を説く」が小乗・阿含経を開会した文であると説かれる。
 九部の法とは小乗経典の分類の種類であり、要するに小乗経の教えのことである。その九部の教えについて方便品で、仏がこれらの教えは法華経の大乗に入れるために衆生の機根に随順して説いたものであると、その真義を明かしている。
 次いで、法華経如来寿量品第十六で「一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり、然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」とある文は華厳経を開会した文であると説かれている。つまり、華厳経の教主毘盧遮那仏は始成正覚の仏にすぎないが、その本地は寿量品に明かされる久遠実成の本仏として開会したからである。
 また、安楽行品第十四に説かれる十八空の文は般若経の空を開会した文でああり、薬王品第二十三の「此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆の囲鐃せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」という文は、中に“安楽世界”や“阿弥陀仏”の言葉がみられるように、これによって観無量寿経、阿弥陀経などに説かれる安楽世界への往生を開会しているのである。更に、方便品第二の「若し人散乱の心に、塔廟に入って、一たび南無仏と称うれば、皆已に仏道を成じき」と説かれている文は、中に“散乱の心”とあるように、散乱した心で修行して得られる小さな善根であっても、法華経を信じて南無仏と称えるだけで仏道を成ずることができると説くことにより、浄土門なのでいうような散善修行を開会しているのである。
 更に、今度は衆生の境界をも開会する例としては、譬喩品第三の「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」という文は、一切の衆生を仏が自分の子として開会しているのである。
 また、法師功徳品第十九には「若し俗間の経書、治世の言語、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」とあり、この文は世間一般の典籍、政治のための言葉、経済活動に資する産業や事業などがことごとく法華経の正法に順ずる、という内容であるから、仏教以外の外道の典籍や教えをも開会する文ということができるのである。
 すなわち、これらの諸経に説かれるのも、妙法を根本としたとき、その実義があらわれるというのが、開会ということである。

0404:10~0405:07 第25章 法華経への人師の誤解を破すtop
10   此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見・或は兜率・トウ利なんどにいたる文を
11 見・或は安養に生ずる文を見て 穢土に於て法華経を行ぜば 経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土に
12 して流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し 或は人畜等に生れて 隔生する間・自の苦しみ限り無しなんと云云
13 或は 自力の修行なり難行道なり等云云、 此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして 自ら癡闇に迷うのみに非
14 ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、 兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは 大乗経にも勧めたり西方を勧めたる
15 事は大乗経に多し此等は皆・所開の文なり、 法華経の意は兜率に即して十方仏土中・西方に即して十方仏土中・人
16 天に即して 十方仏土中と云云、 法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人・五眼を具しなんどすれば悪人の
17 きわまりを救い、 女人に即して十界を談ずれば十界皆・女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は
18 迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。
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 この法華経の真意を心得ない人は、経の文面にとらわれ、この経を読んで、法華経提婆品第十二に「人天の中に生ずれば勝妙の楽を受ける」と説く文を見、あるいは勧発品第二十八に「兜率天上の弥勒菩薩のみもとに往かん」「この人は命を終えて、まさに忉利天上に生ずべし」などの文を見、あるいは薬王品第二十三に「ここにおいて命を終えて、直ちに安楽世界の阿弥陀仏の囲鐃する住処に往く」との文を見て誤解を生じ、同じようにそうした他土に往生すると説いた爾前経を信じているのである。そして、穢土において法華経を修行しても、法華経の法理は素晴らしいけれども、修行者は不退の地に至らないの穢土において流転して、弥勒菩薩が再び出世・成仏するという釈尊滅後五十六億七千万歳の暁を長らく期待し、あるいは人間・畜生などに生まれて前生と今生と隔たっているため前生の苦しみを忘れて悪業をつくって自らの苦しみは限りがないなどという。これはおそらくは爾前経と法華経の相違を知らないで自ら愚かな闇に迷うだけでなく一切衆生の仏眼を閉じる人である。兜率往生を勧めていることは小乗経に多い。少しは大乗経にも勧めている。西方極楽往生を勧めていることは大乗経に多い。これらは皆、所開の文である。法華経の真意は兜率天に即して十方の仏土中、西方浄土に即して十方の仏土中、人界・天界に即して十方の仏土中ということである。法華経が悪人に対して十界の悪を説くのは悪人も五眼を具えることによって悪人の極悪を救うのであり、女人に即して十界を説くのは十界皆、女人として成仏することを明かすのである。確かに法華経によって完全真実の菩提心を起こす人は迷いの九界へ悪業の力に引かれることはないのである。
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0405
01   此の意を存じ給いけるやらん法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には雑行・ 難行道には法華経・大
02 日経等をば除かれたる処もあり 委く見よ又慧心の往生要集にも法華経を除きたり、たとい法然上人・慧心・法華経
03 を雑行・難行道として末代の機に叶わずと書き給うとも日蓮は全くもちゆべからず、 一代聖教のおきてに違い三世
04 十方の仏陀の誠言に違する故に・いわうや・そのぎなし、 而るに後の人の消息に法華経を難行道・経はいみじけれ
05 ども末代の機に叶わず謗らばこそ罪にてもあらめ、 浄土に至つて法華経をば覚るべしと云云、 日蓮が心は何にも
06 此の事はひが事と覚ゆるなりかう申すもひが事にや有らん、能く能く智人に習う可し。
07       正嘉二年二月十四日                        日蓮撰
-----―
 この本意を知っていたのだろうか。法然上人も一向に念仏の行者ながら選択集という文には、一代聖教を聖道門と浄土門に分けているが、その雑行・難行道には法華経・大日経等を除かれているところもある。詳しく選択集を見なさい。また慧心の往生要集にも修行の勝劣を分けているがその劣行には法華経を除いている。たとい法然上人・慧心が法華経を雑行・難行道として末代の機根に適さないと書いたとしても、日蓮はその説を全く用いるものではない。法然上人・慧心のその説は一代聖教の掟に相違い三世十方の仏陀の真実の言葉に相違するのである。まして、そのような教義はないからである。しかし後の浄土系の人の消息に、法華経は難行道であり経は勝れているけれども末代の機根に適さないといっているだけである。謗るならばこそ罪であろう。浄土に至って法華経をば悟ればよい、という。日蓮は確かに、このことは誤っているとおもうのである。このように日蓮がいうのも誤っているであろうか。よくよく智人に習うべきである。
       正嘉二年二月十四日                        日蓮撰

兜率
 六欲天の第四天。内院と外院があり、内院は将来仏となるべき弥勒菩薩(みろくぼさつ)が住するとされ、外院は天衆の住む所とされる。
―――
忉利
 忉利天のこと。梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
―――
安養
 阿弥陀仏の浄土の名。極楽世界・極楽国土・安楽世界ともいい、または西方極楽ともいう。阿弥陀経では、そこを娑婆世界より西方十万億の仏度を過ぎて存在すると説いている。浄土宗では、この娑婆世界を穢土といい、理想世界を西方浄土と説き、その浄土にのみ仏はあって、娑婆世界にはないとしている。だが、それらは、たんなる仮定の議論であり、法華本門に至り、仏は娑婆世界に常住すると説かれ、ここに娑婆即寂光の大原理が明かされるのである。
―――
不退の地
 不退転の地。仏道修行の過程ですでに得た功徳を決して失わないこと。
―――
穢土
 けがれた国土のこと。浄土に対する語。煩悩と苦しみの充満する世界をいう。爾前迹門の諸経では、凡夫の住む娑婆世界を穢土とし、十方の国土に諸仏の浄土があり、そこに往生することを説いた。しかし法華経本門では、娑婆即寂光を明かし、この人間世界こそ仏の本国土であると説いた。
―――
流転
 還滅に対する語。輪廻と同意。三界六道の生死を連続すること。迷い・苦・移り変わりゆく生命のさま。一谷入道御書には「無量劫より已来六道に流転して仏にならざりし事は法華経の御ために身を惜み命を捨てざる故ぞかし」(1326-11)とあり、生死流転の迷いの境涯を打開できない原因を指摘されている。
―――
五十六億七千万歳の晨
 弥勒菩薩が再びこの世に生まれて成仏し、衆生を救うとされる、釈尊滅後五十六億七千万歳の時をさす。極楽世界では常に仏にあえるが、穢土では仏にあいがたいことを示している。
―――
隔生
 人がこの世に生まれ変わるとき、前世のことは忘れ去るということ。
―――
自力の修行
 浄土宗が法華経の修行を自力であるとして捉えて述べていること。浄土宗の道綽・善導は聖道・浄土の二門を立てて、法華経は諸大教の聖道門であり自力として嫌い、浄土門を他力の法門として、地力を捨てて、阿弥陀仏を念ずれば阿弥陀仏の本願にかなって往生成仏できるとして他力本願を説く。
―――
難行道
 易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
―――
癡闇
 愚癡闇鈍のこと。真実の道理がわからず、心が暗く愚かで、仏法に対する反応が鈍いこと。
―――
仏眼
 仏が具えている眼のこと。三世十方の一切の事物・事象を正しく見通す眼をいう。五眼のひとつ。
―――
十方仏土中
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。この十方にあるすべての仏のこと。
―――
五眼
 物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五つをいう。①肉眼は人間の肉体に具わった眼。②天眼は昼夜遠近を問わず見ることのできる天人の眼。③慧眼は空理を照見する二乗の眼。④法眼は衆生を救うために一切の事象・法門に通達する菩薩の眼。⑤仏眼とは前の四眼をことごとく具足して、遍く万法の真実を照了する仏の中道の眼。
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法華円実の菩提心
 法華経による完全で真実の菩提心のこと。菩提心は悟りを求めて仏道を求める心のこと。阿耨多羅三藐三菩提菩提心の略。
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業力
 果報を生じる業因の力。善業には善果を、悪業には悪果を生じる力。
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法然上人
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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一向念仏の行者
 一向にもっぱら念仏を修行する者。
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選択
 選択本願念仏集の略。上下二巻よりなる。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻、および「荘厳記」一巻をもって破折されている。
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雑行
 浄土宗の教義で、善導の観無量寿経疏正宗分散善義巻四に典拠をもつ。同書のなかに「行き就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」とある。修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行と名づくとしている。五種の正行とは、浄土宗の教義。極楽浄土に往生するための五種類の正行のこと。五種の雑行に対する語。①読誦正行。専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」ること。②観察正行。専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」ること。③礼拝正行。専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」ること。④称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」ること。⑤讃歎供養正行。専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」ること。この中で称名正行を第一の正行、他の四つをその助行とする。この五種の正行の説をふまえて法然は浄土三部経の修行を正行、それ以外の経教の修行を雑行として排した。なお、五種の雑行とは浄土宗の教義で、極楽浄土に往生することができない五種類の修行のことで、選択本願念仏宗にある。⑥読誦雑行。『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦すること。⑦観察雑行。極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行という。⑧礼拝雑行。弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬すること。⑨称名雑行。弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称すること。⑩讃歎供養雑行。弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行という。
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難行道
 易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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往生要集
 比叡山中、横川の恵心院に隠遁していた慧心が、寛和元年(0985)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる邪義。
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仏陀の誠言
 三世十方の仏の真実の言葉、金言。
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浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
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ひが事
 道理にあわないこと。事実と違っていること。
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智人
 智慧のある人。智慧を得た仏のこと。
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 本抄の最後にあたり、大聖人当時の他宗の人師たちが、法華経の真意を誤解し、爾前経のほうに惹かれて謗法に陥ったことについて具体的に指摘さえるとともに、破折を加えておられる。初めにその誤解を具体的に挙げられている。誤解の根本にあるものは、法華経の開会の妙用について深い意義を理解できずに、法華経の表面的な字義にこだわって浅い解釈を施したところにあると指摘され、次に、これに対する正しい解釈を示されている。最後に、他宗の人師たちのなかで、とくに法然と慧心僧都源信が法華経を雑行・難行道とした誤りを破折して本抄を締めくくられている。
此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見・或は兜率・忉利なんどにいたる文を見・或は安養に生ずる文を見て穢土に於て法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し或は人畜等に生れて隔生する間・自の苦しみ限り無しなんと云云或は自力の修行なり難行道なり等云云
 法華経の真意を理解できない他宗の人師たちが陥った誤解の例を挙げられている。例えば、法華経提婆達多品第十二の「若し人天の中に生ずれば、勝妙の楽を受け」という文、普賢菩薩勧発品第二十八の「是の人命終して、当に忉利天上に生ずべし」との文や、「即ち兜率天上の弥勒菩薩の所に往かん」という文、更には、薬王品第二十三の「此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆の囲鐃せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」などという文を読んで、次のように誤った解釈をしている、と指摘されている。
 すなわち、先に挙げた法華経のそれぞれの文にある“人天に生ずる”とか“忉利天に生ずる”“兜率天上の弥勒菩薩の所に往く”“極楽浄土の阿弥陀仏の所に往く”といった文の表面的なことだけにとらわれて、例えば同じ極楽浄土の阿弥陀仏の所に往生することを説いた浄土三部経が正しいと思い、むしろ、法華経の修行では難行だから厳しいが易行の念仏の修行の方が往生しやすい、というように誤解していく、ということである。
 更に、難行道の法華経をこの娑婆世界で修行すると修行者は初住の不退転の位に登ることができないため、長期間にわたって穢土の娑婆世界に流転することになり、その流転から救われるためには弥勒菩薩が出現する56億7000万歳の時を待たねばならない、と釈してみたりする。
 また、念仏者が往生する極楽世界は地獄・餓鬼・畜生の三悪道が存在しないけれども、法華経を穢土で修行していくと、“隔生即忘”といって、生を隔てると前生の苦しみを忘却するため悪業を作って人間界や畜生界に生まれるので、自ら無限の苦しみを受けねばならない、などと解釈したりする。あるいは、法華経の修行は自力の修行で難行道であると釈したりしている。   これらの誤解の数々を紹介されている。
此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、 兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは大乗経にも勧めたり西方を勧めたる事は大乗経に多し此等は皆・所開の文なり、法華経の意は兜率に即して十方仏土中・西方に即して十方仏土中・人天に即して十方仏土中と云云、法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人・五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆・女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり
 他宗の人師たちが何ゆえに解釈を間違ったかについて、その理由を説かれているところである。すなわち、彼らは「爾前法華の二途を知らずして」とあるように、爾前経と法華経とでは二つの異なる道のように決定的に違う、ということを知らないからであると仰せられている。
 その違いとは、爾前が方便権教・無徳道であり、法華経により開会される教えであるのに対し、法華経こそ真実・得道の教えで能く開会し得る教えである、ということである。この二途に迷っているために他師たちは法華経の信仰をないがしろにして爾前経を依経にしてしまい、自分が愚痴矇昧であるだけでなく、一切衆生が具えることの出来る仏眼までも閉ざしてしまったのである、ときびしく破折されている。
 その“二途”について、例えば、同じように兜率天に生まれることや西方の浄土に生まれることを勧めた経文でも、爾前と法華とでは決定的に異なることを次に示されている。
 兜率天に往生することを勧めた経文は小乗・大乗とくに小乗経典に多く、西方極楽浄土への往生を勧めた経文は阿弥陀経や観無量寿経など大乗経典に多い。しかし、これらの経文が同じようなことを説いている法華経と比べて決定的に異なるのは、法華経によって開会されなければならない。「所開」の文という点にある。
 では法華経の真実は何であるかといえば、一見、爾前と同じく兜率天・西方極楽浄土・人天などへの往生を勧めているようであっても、決して兜率天や西方や人天のそれぞれの方向にのみにこだわらずに、兜率天に即して十方仏土の中を示し、西方に即して十方仏土の中を示し、人天に即して十方仏土の中を示しているのであり、法華経においてはすべての方向に仏土があると説き、どの仏土も互いに相即しあっているのである。つまり、兜率天、西方極楽浄土、人天の住処をそれぞれ開いて十方仏土へと包括していくのであり、ここにも法華経の「能開」の立場が明らかにされているのである。
 更に、国土だけではなく、衆生の境界の開会についても、悪人に対しては地獄より仏に至る十界のそれぞれが具えている悪について説くのである。そうすると、悪人といえども究極の境界である仏界を具すことになるし、仏界や菩薩界にも三悪道・四悪趣の悪を具すことになる。
 いうまでもなく、悪人にも五眼、とくに仏眼を具えていることになるから悪人を救済することができるのである。また、女人に対しては、女人が十界を具していることを説けば自ら十界のどの界も女人を具していることになる。したがって、畜生の竜女が成仏することは他の九界の女人も成仏することになるのである。
 かくして、十界互具の妙理を説く法華の円教によって悟りへの真実の発心を起こした人は、迷いの九界へ向かう悪業の力に引きずられることはない。と法華経を信ずることの絶対性を説かれているのである。

0406~0409    一念三千理事top
0406:01~0406:15 第一章 十二因縁の各項の名義を釈すtop
0406
一念三千理事    正嘉二年    三十七歳御作
01   十二因縁図,問う流転の十二因縁とは何等ぞや答う一には無明巻倶舎に云く「宿惑の位は無明なり」文,無明とは
02 昔愛欲の煩悩起りしを云うなり、 男は父に瞋を成して母に愛を起す、 女は母に瞋を成して父に愛を起すなり倶舎
03 の第九に見えたり、 二には行・倶舎に云く「宿の諸業を行と名く」と文、昔の造業を行とは云うなり業に二有り一
04 には牽引の業なり 我等が正く生を受く可き業を云うなり、 二には円満の業なり余の一切の造業なり所謂足を折り
05 手を切る先業を云うなり是は円満の業なり、 三には識・倶舎に云く「識とは正く生を結する蘊なり」文、 正く母
06 の腹の中に入る時の五蘊なり、五蘊とは色・受・想・行・識なり亦五陰とも云うなり、四には名色・倶舎に云く「六
07 処の前は名色なり」文、五には六処巻倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」文、六処とは眼.耳.
08 鼻・舌・身・意の六根・出来するを云うなり、六には触・倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触
09 と名く」文、 火は熱しとも知らず水は寒しとも知らず刀は人を切る物とも知らざる時なり、 七には受・倶舎に云
10 く「婬愛の前に在るは受なり」文、 寒熱を知つて未だ婬欲を発さざる時なり、 八には愛・倶舎に云く「資具と婬
11 とを貪るは愛なり」文,女人を愛して婬欲等を発すを云うなり、九には取.倶舎に云く「諸の境界を得んが為にアマネ
12 く馳求するを取と名く」文、 今世に有る時・世間を営みて他人の物を貪り取る時を云うなり、十には有・倶舎に云
13 く「有は謂く 正しく能く当有の果を牽く業を造る」文、 未来又此くの如く生を受く可き業を造るを有とは云うな
14 り、十一には生・倶舎に云く「当の有を結するを生と名く」文、未来に正く生を受けて母の腹に入る時を云うなり、
15 十二には老死・倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」文、生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云うなり。
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 十二因縁図について。
 問う。流転の十二因縁とは何であるのか。
 答う。一には無明。倶舎論には「宿惑の位は無明である」とある。無明とは、昔に愛欲の煩悩が起こったことをいうのである。男は父に瞋を成して母に愛を起こし、女は母に瞋を成して父に愛を起こすのである、と倶舎論の巻九に記されている。二には行。倶舎論には「過去の諸業を行と名づける」とある。昔の造業を行というのである。業に二つある。一には牽引の業である。我等が正しく生を受けるべき業をいうのである。二には円満の業である。他の一切の造業である。所謂、足を折ったり、手を切ったりするという先業をいうのである。これは円満の業である。三には識。倶舎論には「識とは正しく生を形づくる蘊である」とある。正しく母の腹の中に入る時の五蘊である。五蘊とは色・受・想・行・識である。また五陰ともいうのである。四には名色。倶舎論には「六処の前は名色である」とある。五には六処。倶舎には「眼等の根を生じてから、三和の前は六処である」とある。六処とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が生ずることをいうのである。六には触。倶舎論には「三受の因が異なることから、未だ了知しないときを触と名づける」とある。火が熱おことも知らず、水が冷たいことも知らず、刀は人を切るものであることも知らない時である。七には受。倶舎には「婬愛の前にあるのは受である」とある。寒さ熱さを知って未だ婬欲を起こさない時である。八に愛。倶舎論には「資財と婬欲とを貪るのは愛である」とある。女人を愛して婬欲等を起こすことをいうのである。九には取。倶舎論には「諸の境界を得るために遍く走り求めることを取と名づかる」とある。今世にあ時、生活を営んで、他人のものを貪り取る時をいうのである。十には有。倶舎論には「有とは、正しくよく未来世の果を引き寄せる業を造る」とある。未来もまたそのように、生をうけるべき業を造るを有というのである。十一には生。倶舎論には「未来世の存在を形づくるのを生と名づける」とある。未来世に正しく生を受けて、母の腹に入る時をいうのである。十二には老死。倶舎論には「未来世の受にいたるまでは老死である」とある。生老死を受けるのを老死・憂悲・苦悩というのである。

十二因縁
 生命流転の因果関係を12に分けて説いたもの。権大乗教で説く苦しみの因縁である。十二因縁とは、過去の二因 ①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとする説。
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流転の十二因縁
 生命流転の因果関係を12に分けて説いたもの。権大乗教で説く苦しみの因縁である。十二因縁とは、過去の二因 ①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとするゆえに生死流転の十二因縁という。生死の苦しみを流転する意味。これに対して還滅の十二因縁とは、根本の無明を打ち破って煩悩を断じていく因縁である。一念三千理事には「問う十二因縁流転の次第如何、答う無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり生は老死憂悲苦悩に縁たり是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり、問う還滅の十二因縁の様如何答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」(0407-03)とある。
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無明
 迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性に対する言葉である。
―――
倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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造業
 業を造ること。一切衆生の所作、振る舞いを業とする。現世に造った善悪の業によって未来に種々の苦楽の果報を招くことになる。
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牽引の業
 五悪趣・四生の果報を引き起こす業のこと。
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円満の業
 差別の果報を満たす業因のこと。満業・別報業ともいう。
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 「了別」の意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。
―――
五蘊
 生命活動を構成する五つの要素。色・受・想・行・識をいう。色蘊(rūpa)人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。受蘊(vedanā) 感受作用。想蘊(saṃjñā)表象作用。行蘊(saṃskāra)意志作用。識蘊(vijñāna) 認識作用。
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名色
 精神的な存在と物質的な存在。認識の対象となるものの総称。
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六処
 十二因縁の第五。六根。名色は成長し、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が整って六処となり、そして母体よりこの世に生まれてくる。生後は触へと成長する。
―――
三和
 認識の三つの要素である根・境・識が和合すること。この場合の根は六根、眼・耳・鼻・舌・身・意のこと。境は六根の対象となるもののことで、色・声・香・味・触・法のこと。識は知覚・認識作用。対境に対して、六根と六識が働いて心内に対境の印象を生ずる。このように根・境・識が相互に作用しあうので、三和という。
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六根
 目・耳・鼻・舌・身・意のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。六根の対境にあたるものが、六境または六塵で、六根が六境と関係して生ずる感覚を六識という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。また生命には意根があるから、こわいとか楽しい等の意識を生ずるのである。
―――

 幼児の時は苦楽の分別がなく物に触れて感ずるのみのこと。
―――
三受
 三つの受のこと。楽受、楽しいとする感情を生じる受。苦受、 苦しいとする感情を生じる受。不苦不楽受、 楽でもなく苦とも感じない類の受。
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 人間の感受作用を意味する仏教用語。人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示した五蘊(般若心経、阿含経などに言及)の一要素であり、説一切有部の五位七十五法のうち大地法(阿毘達磨倶舎論などに言及)、唯識派・法相宗の五位百法のうち有為法 - 心所法 - 遍行心所(成唯識論などに言及)の一要素。また、現実の人生の苦悩の根源を追求しその根源を絶つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化した十二因縁の第7番目の要素でもある。
―――

 四念処の一つ、愛念処のこと。感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
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 成人して物事に貪欲すること。
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 未来世にどのような生を受けるかを定める現在の業因。
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当有の果
 現在の行業が因となって未来世に受けるべき果報としての有。
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 未来世に生を受けること。
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老死
 未来世に老いて死ぬこと。
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 初めに、本抄御述作の由来と大意について記しておきたい。
 本抄は正嘉2年(1258)、聖寿37歳のご著作である。正嘉2年(1258)といえば、日蓮大聖人は駿河国の岩本実相寺において経蔵を閲覧された年であり、本抄も岩本の地で御述作されたものと推察される。
 内容は大きく三つの部分からなっている。すなわち十二因縁図、一念三千理事、三身釈の事、である。まず、冒頭の「十二因縁図」の部分では、十二因縁の各項目の名称とその意義について、流転の十二因縁の次第に従って記し、ついで三世両重の十二因縁を説き、更に十二因縁の流転の次第と還滅の次第を明かされている。次に、「一念三千理事」の部分は、三千の法数を構成する要素である十如是と三種世間について釈され、次いで、十如是、三種世間と十界の関係を明かされ、それが百界三千世間を成就していくことを説き、更に、天台大師智顗の摩訶止観、妙楽大師荊渓湛然の止観輔行伝弘決、法華玄義釈籤、法華文句記、金剛錍の中の文を引用されて一念三千の法理を明らかにされている。最後の「三身釈の事」の部分は、天台大師智顗の釈文を用いられつつ、法身・報身の二身の意義について説かれているが、最後が欠落しており、そこにおそらくそこには応身についての記述があったものと推察しておく。 以上があらましの内容であるが、三つとも仏法において不可欠の法門であるとともに相互に関連していることはいうまでもない。
 なお、題号の「一念三千理事」は、以上の三つのうち、とくに一念三千の法理が中心になるので、これを本抄の題号とされたのであろう。
 また、本抄は、おそらく今後の御著作のための草案、草稿として認められたもので、とくに誰かに与えられたものではない。なお、本抄の御真筆は存在しない。
 さて、冒頭の第一章は、十二因縁図を説かれている部分のなかで、まず十二因縁の各名称とそれぞれの意味について、流転の十二因縁の次第に従って説かれている。すでに周知のところであるが、仏教では、人間は三界を生死生死と車の輪が回転するように流転しつつ、常に生・老・病・死に苦しみ迷っている、とする。そして、その人間の三界六道の苦悩と迷いの流転がどのようになされていくかを究めることにより、解決の方途をさぐり、苦脳や迷いを克服して悟りに至る道を明らかにしたのである。
 その代表的なものが四諦と十二因縁の法門である。
 ちなみに四諦は四つの諦ということで、苦諦・集諦・滅諦・道諦である。苦諦とはこの世は苦であるという真実、集諦は苦を集め起こす原因は煩悩や妄執であるという真実、滅諦とは苦の原因である煩悩・妄執を滅することが悟りであるという真実、道諦は悟りに至るには八正道を実践しなければならないという真実、それぞれを代表している。
 ここで明らかなように、最初の二諦が迷いの世界の果と因を示すのに対し、後の二諦は悟りの世界の果と因を示している。
 次に、十二因縁は四諦における苦諦から集諦へと遡って、苦脳流転のメカニズムを詳細に分析し、ついに究極的な原因として「無明」に到達し、そのプロセスを12の項目に系列化した法門である。
 この分析の順序は、人間の苦悩と迷いをあらわす「老死」から始まり、「老死」の原因を遡って「生」に達し、「生」の原因を遡って「有」に達し、「有」の因を遡及して「取」へ達し、同じように「取」→「愛」、「愛」→「受」、「受」→「触」、「触」→「六処」、「六処」→「名色」、「名色」→「識」、「識」→「行」というように次第して、ついに根本因の「無明」に到達したのである。
 思惟の順序はこのようであっても、苦の生じるプロセスは、根本因としての「無明」から「行」→「識」→「名色」→「六処」→「触」→「受」→「愛」→「取」→「有」→「生」というように次第して最後に「老死」に到達する、という系列になるのである。
 後にも詳説するが「無明」から始まって「老死」に至る12の因果の連鎖は、三界六道を流転する迷いの因果を説いたものであるから「流転の十二因縁」というのである。「因縁」というのは、12の項目の、前の項目が次々に後の項目を成立させる条件になっていくことをさして言っている。
 これに対して、根本因としての「無明」を滅すれば「行」滅し、「行」を滅すると「識」滅し、「識」滅すると「名色」滅し、というように次第に最後の「老死」が滅することにより苦悩と迷いの生き方を脱却するというのが「還滅の十二因縁」である。この場合は、順次に前の項目が後の項目を滅していく条件となっていることをさして「因縁」というのである。
 さて、本章では、流転の十二因縁、すなわち、根本因としての「無明」から始まって「行」、「識」、「名」、「六処」…「老死」というように次第する因縁の系列にしたがって、順次、12項目の一つ一つの名称とその意義について、阿毘達磨俱舎論巻九・世間品の頌の文に引用されつつ、説明されている。
俱舎論の十二因縁について
 本抄で日蓮大聖人は流転の十二因縁の各名称を挙げ、初めに阿毘達磨俱舎論の本頌の文を引用されてその義を示し、それに解説を加えられている。
 世親の阿毘達磨俱舎論はいうまでもなく小乗仏教の論部に属するもので、これを依処として成立した宗が俱舎宗である。阿毘は対、達磨は法、俱舎は蔵とそれぞれ訳すので、対法蔵論と名づけられる。世親ははじめ、説一切有部という小乗仏教の有力な部派の聖典であった大毘婆沙論の要義を講義して、これを八品からなる607の偈頌の形にまとめた。これが本頌といわれるものである。この本頌に更に詳しい釈文を長行として付け、九品三十巻にしたものが俱舎論である。したがって、俱舎論とは本頌とその釈という形式からなっているのである。
 ところで、十二因縁の法門は、俱舎論巻九の分別世品において、まず本頌を説き、次にこれを釈する形で説かれている。今、その偈頌の部分の全文を引用すると次のごとくである。
 「無明等の支は、何れの法を体と為すか。頌に曰く、宿惑の位は無明なり。宿の諸行を行と名づく。識は正しく生を結ぶ蘊なり。六処の前は名色なり。眼等の根を生ずるより、三の和する前は六処なり、三受の因の異に於いて、末だ了知せざるを触と名づく。婬愛の前に在るは受なり。資具と婬とを貪するは愛なり。諸の資具を得んが為に、遍く馳求するを取と名づく。有は謂く正しく能く、当有の果を牽く業を造る。当の有を結ぶを生と名づく。当の受に至るまでは老死なり」と。十二因縁を構成する一つ一つの項目についてその名称と意義が詩の形で説かれているのである。
一には無明巻倶舎に云く「宿惑の位は無明なり」文,無明とは昔愛欲の煩悩起りしを云うなり、男は父に瞋を成して母に愛を起す、女は母に瞋を成して父に愛を起すなり倶舎の第九に見えたり
 流転の十二因縁の第一であり根本因である無明についての釈である。
 まず、前述した俱舎論の本頌である。「宿惑の位は無明なり」という頌の文が引用されている。この頌の文の「宿惑の位」とは、宿世において惑を起こした位ということである。これを受けて大聖人は、無明というのは我々凡夫が昔において愛欲の煩悩を起こしたということであると説かれている。
 その愛欲の煩悩とは具体的に何をさすかについて、次に「男は父に瞋を成して母に愛を起す、女は母に瞋を成して父に愛を起す」と仰せられており、それが俱舎論の第九の巻に説かれていると仰せられている。
 俱舎論第九には次のようにある。すなわち、「是くの如き中有は、生ずる所に至らんが為に、先ず倒心を起こして欲境に馳趣す。彼は、業力の起こす所の眼根に由って、遠方に住すと雖も、能く生処の、父母の交会するを見て、倒心を起こすなり。若し男ならば母を縁じて、男の欲を起こし、若し女ならば、父を縁じて、女の欲を起こし、此に翻じて、二を縁じ、倶に瞋心を起こす」と。
 この文からも明らかなように、中有の状態にある生命が次の生を受けるために父母交会の姿を眼根で見て、男に生まれる予定の者は父なる人に瞋をなすとともに母なる人には愛欲を起こし、女に生まれる予定の者はその逆に、父なる人に愛を起こし、母なる人に瞋りを起こすのである、と説いている。
 つまり、無明とは中有の生命が次の生を受ける直前に起こす愛欲である、ということである。
二には行・倶舎に云く「宿の諸業を行と名く」と文、昔の造業を行とは云うなり業に二有り一には牽引の業なり我等が正く生を受く可き業を云うなり、二には円満の業なり余の一切の造業なり所謂足を折り手を切る先業を云うなり是は円満の業なり
 十二因縁の第二・行の釈である。
 俱舎論の本頌に「宿の諸業を行と名づく」と述べ、宿において身・口・意によってなした善悪ともの種々の業を行と名づくとしている。
 これを受けて大聖人は「昔の造業」すなわち、我々凡夫が過去世において造った身・口・意・善悪の行為のすべてを「行」という、と釈されている。
 更に、その凡夫の行為にも牽引業と円満業の二つの種類があることを示されている。この業の二種については俱舎論巻十七に釈されているが、ここでは簡潔に意を取って、牽引業とは、我々凡夫が三界六道のいずれかの境界を牽引して生を受ける原因となる行為のことであると説かれている。また、円満の業とは、牽引業によって三界六道のいずれかに生を受けた後、男女・貧富・背丈の長短・寿命の長短・身体・手足・顔などの形状の差異を決定する行為のことである。
 円満業の“円満”とは、牽引業によって引かれた次世の境界のうえに、種々のさまざまな具体的な相違を円満に完成していく業、ということでこのようにいうのである。
 なお、俱舎論巻十七では、画家がまず一色をもって対象の輪郭を描くのが牽引業であり、その後に輪郭にしたがって種々さまざまな彩色を施していくのが円満の業である、と譬えをもって説明している。
三には識・倶舎に云く「識とは正く生を結する蘊なり」文、正く母の腹の中に入る時の五蘊なり、五蘊とは色・受・想・行・識なり亦五陰とも云うなり
 十二因縁の第三・識の釈である。
 俱舎論の本頌において「識とは正く生を結する蘊なり」と述べている。“蘊”とは五蘊のことで、色・受・相・行・識の五蘊=五陰、である。ちなみに、色は肉体であり、受は感受作用、相は表象作用、行は形成作用、識は分別・判断作用をいう。色蘊は色法・受・相・行・識の四蘊の心法にあたり、五蘊で色心の二法を表している。したがって、五蘊とは生命が個体を形成するとき、それを構成する色心にわたる五つの要素のことをいう。
 ところで、本頌では十二因縁の第三である識とは、第一・無明と第二・行とが条件となって現在世に生を結ぶとき母胎に託生する蘊である、と述べている。ここで五蘊のなかでとくに識蘊を挙げるのは、五蘊のなかでも主体となるのが「識蘊」だからである。
四には名色・倶舎に云く「六処の前は名色なり」
 十二因縁の第四・名色の釈である。
 六処とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のことである。「名色」とは、現在世に生を結ぶために、個体の構成要素である五蘊が母胎に託生するが、その五蘊が成長して、六つの感覚器官である六根が形成される以前の状態をさしている。
 このことを俱舎論巻九の釈では「結生の識の後と、六処を生ずる前との中間の諸位を、総じて名色と称す」と述べている。
 ここにいう「識」と「六処」の間の中間の諸位とは、いわゆる胎内の五位といわれる。胎内の五位は、五蘊が母胎に託生した後、胎児が母胎の中で成長する過程を五段階に分けたもので、これについて俱舎論巻九の本頌には「最初は羯刺藍なり、次に頞部曇を生じ、此より閉戸を生じ、閉戸より鍵南を生じ、次に鉢羅奢佉なり、後に髪毛爪等、及び、色根形相、漸次に転増す」とある。
 まず羯刺藍とは和合と訳し、精子と卵子が和合することであり、受胎後の七日間をさす。次に、頞部曇は皰と訳し、皰のように育つ段階であり、第二の七日間をさす。閉戸は血肉と訳し、血肉を成ずる階段で、第三の七日間をさす。
更に、鍵南とは凝厚とか堅肉と訳し、肉が厚く固く育つ段階で、第四の七日間をさす。最後に鉢羅奢佉は支節、形位、五支と訳し、手足が形成され、六根が具わるまでをいう。
 この胎内の五位のうち、第一から第四までの前四位、つまり受胎以後、四週間にわたる母胎内の状態を「名色」というのである。「名色」の“名”とは心を“色”は肉体を表わしているともされる。
五には六処巻倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」
 十二因縁の第五・六処とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のことである。「眼等の根を生ずる」とは胎内の五位のうち、最後の第五位で六根が形成される段階をいう。また「三和」とは、六根が六境を対象として六識が生起することをいうのである。六境とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれの対象となる色・声・香・身・触・法の六つをいう。
 六識とは、六根を拠り所に六境の対象に対してそれぞれ、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・知る、という了別作用を行うところの眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識をいう。
 さて、以上から、第五の六処とは、胎内五位の第五位において胎児に六根が生ずる段階であるが、末だ出生するまえであるから六根が対象とすべき外界の六境は存在しない。したがって根・境・識の三和合が起こらない段階をさしている。
六には触・倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触と名く」
 十二因縁の第六・触とは前項で出てきた“三和”と同じ意味である。六根が六境に接触して六識を生ず段階であるから、胎児が母胎を出て初めて外界に触れる時をいい、出生以後2・3歳までの段階をさしている。しかし、この期間は本頌に説かれているように、根・境・識が和合し接触して知覚作用はあるが、まだ苦・楽・不苦不楽の“三受”の原因の異なりを了解するに至っていない段階とされている。“三受”とは三種類の感受、という意味で、楽・苦・不苦不楽の三つをいう。今日的にいえば、楽受とは快感、苦受とは不快感、不苦不楽とは快感でも不快感でもない感受、ということができる。
 つまり、快楽・不快楽、そのどちらでもないもの、という三種の感受はそれぞれ原因は異なっているものであるが、そのことを知らないために、不快感を避けたり、快楽を求めたりするような判断が働かない期間といってよい。
 なお、本文において、大聖人は触の段階を、火が熱いということも水が冷たいということも知らず、刀が人を切る物であることをも知らない時である、と釈されている。したがって、対境のなかで、どれに触れれば楽で、どれに触れれば苦であるかなどについての判断が働かない時期である。幼児が火や刀にも平気で触れるという事実からも以上のことは明らかである。
七には受・倶舎に云く「婬愛の前に在るは受なり」
 十二因縁の第七・受とは先の項にもあったように、楽・苦・不苦不変の感受に於いて、よくその原因となるものの違いを知ることができる期間ですくなくとも3・4歳から14・5歳の期間とされている。しかし本頌に“婬愛の前に在るは受なり”とあるように、まだ婬愛、すなわち男女間の愛欲が起こる前の段階である。つまり、六根が六境の対象を受け入れて六識を生じ、それによって楽・苦などを起こす対象の違いを認識し判断できるようになる。その結果として楽は求め苦は避ける、というように、さまざまな対象物に対する欲望も起こるが、性的な愛欲はまだ起こっていない段階である。
 このことから、大聖人は「寒熱を知って末だ婬欲を発さざる時なり」と釈されている。
八には愛・倶舎に云く「資具と婬とを貪るは愛なり」
十二因縁の第八・愛の釈である。本頌にある“資具”とは生活のための道具や必需品のことで、宝財なども含んでいる。 “婬”とは貪欲の意であるが、とくに性欲をさし、ここから男女の交わりを表す。したがって、第八・愛の段階は道具や財宝、愛欲に執着する時間で17・8歳のころにあたるとされている。
  これを、大聖人は「女人を愛して婬欲等を発すを云うなり」と釈されている。
九には取.倶舎に云く「諸の境界を得んが為に徧く馳求するを取と名く」
 十二因縁の第九・取とは、前項の財宝や愛欲への執着がますます強く盛んになり、また地位や権力を自分のものにしようとして馳求する時期をいう。青年期以後老年に至るまでの期間であるとされている。本頌で“諸の境界”とあるのは五欲の対境のことである。
 五欲とは眼・耳・鼻・舌・身の五官がそれぞれ色・声・香・味・触という五境に執着して起こす欲望のことである。“徧く馳馳求する”とは、四方八方に追い求め、倦むことを知らない状態をさしている。つまり、取とは五欲の対象である五境の享楽を獲得するために、四方八方に厭くことなく追い求め続ける段階ということができる。
 大聖人は今世において世欲の生活を営んでいたときに、五境の貪著心が強盛なため他人の物までも貪り取るのが取であると釈されている。
十は有・倶舎に云く「有は謂く正しく能く当有の果を牽く業を造る」
 十二因縁の第十・有の釈である。本頌で“当有”とは未来の生存をさし、より具体的には来世に受けるべき身体のことである。したがって、有とは来世にどのような生存や身体を受けるのかの果報を招く現在の業因のことをさしている。これを大聖人は「未来又此くの如く生を受く可き業を造る」と釈されている。すなわち、未来においてそれぞれの生の果報を招く因である業を造ることが有であるとされている。
十一には生・倶舎に云く「当の有を結するを生と名く」
 十二因縁の第十一・生とは“当の有”すなわち未来の生存を結び身体を受けることをいうのであり、これは今世における第三・識にあたるといってよい。
 大聖人は、未来に生を受けて母の腹に入る時を生という、と釈されている。
十二には老死・倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」
十二因縁の第十二・老死とは、来世に生を結んでから“当の受に至るまで”すなわち名色・六処・触・受の四段階を含むのが老死である。
 これを大聖人は「生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云うなり」と釈されている。すなわち、未来に生を受けてから、現在世の名色・六処・触・受というような変移を経験し、憂い悲しみ苦悩に苛まれながら老いていき、最後に死に至る。未来生の姿が老死である。

0407:01~0407:03 第二章 十二因縁の三世両重を明かすtop
0407
01   問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、 答う無明と行とは過去の二因なり識と名色と六入と触と受とは現
02 在の五果なり愛と取と有とは 現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、 私の略頌に云く過去の二因無明行現在
03 の五果識名色六入触受現在の三因愛取有未来の両果生老死と,
-----―
 問う。十二因縁を三世、両重の因果に分別すればどうなるいか。  答う。無明と行とは過去の二因である。識と名色と六入と触と受とは現在の五果である。愛と取と有とは現在の三因である。生と老死とは未来の両果である。私の略頌としてまとめていえば、過去の二因(行と無明)現在の五果(識・名色・六入・触・受)現在の三因(愛・取・有)未来の両果(生・老死)となる。

生死海
 生死の苦しみのこと。三界・六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
―――
還滅の十二因縁
 十二因縁の最初の無明を滅することによって、次々に十二因縁の因果の環を打ち破り、煩悩、生死の苦悩を離れて寂滅の涅槃に還帰することをいう。還滅は寂滅に還るの意で、涅槃に趣くこと。一念三千理事には「問う還滅の十二因縁の様如何答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」(0407-06)とある。
―――
中有
 中有は生・本・死・中の四有の一つ。欲界色界の有情が誕生してから次の誕生を迎えるまでの過程を四種に分けた第四で、死の瞬間から次の誕生を迎えるまでの期間をさす。中陰ともいい、人の死後、49日間の称。
―――
無色界
 仏質のない精神の世界で、最上の天上界をさす。色界は六欲天より高く、無色界は色界よりさらに高いところにあるとされる。

―――――――――
 前章で明らかにされた十二因縁の法門は三界六道の迷苦の姿を原因と結果の連鎖として表したものである。これを過去世・現在世・未来世の三世に配分して整理すると三世両重の因果となる。俱舎論や大毘婆沙論などにはその内容が説かれているが、ここでは俱舎論に基づいて述べられているようである。
 十二因縁を三世に配分すると、過去世の二因、現在世の五果、現在世の三因、未来世の二果となる。過去世の二因とは無明と行である。すなわち、過去世に起こした愛欲の煩悩とこれに基づく善悪の諸行為とである。過去世に造った二因によって、識・名色・六入・触・受という現在世の果報が起こるのである。これは、過去世を因として現在世を果とする第一の因果関係になる。
 次に、愛・取・有が現在世における三因となって未来世の生と老死という果報が起こるのである。この場合、愛と取と有は過去世を因として未来世を果とする第二の因果になる。これを先の第一の因果と合わせて三世両重の因果という。すなわち、過去・現在・未来の三世にわたって二つの因果が重なるので、このようにいうのである。また三世両重の因果は一往、過去世の二因からはじまるが、これを遡ると、更に過去の果報へと連なるとともに、未来世の二果もこれで終わるのではなく、これに基づいて更に煩悩や業を生じていくのである。こうして始めも終わりもない回転によって衆生は迷いの三界六道を輪廻して尽きることがない。むしろ、この点を強調せんがために、この両重の因果が説かれたとみるべきであろう。

0407:03~0407:10 第三章 流転・還滅の十二因縁を釈すtop
03                           問う十二因縁流転の次第如何,答う無明は行に縁たり行は
04 識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり 受は愛に縁たり愛は取に縁たり
05 取は有に縁たり有は生に縁たり 生は老死憂悲苦悩に縁たり 是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫
06 とは成るなり、 問う還滅の十二因縁の様如何 答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち
07 名色滅す 名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す 受滅すれば則ち愛滅す愛滅す
08 れば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す 有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、 是れ其の還滅の
09 様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり 私に云く中有の人には十二因縁具に之無し 又天上にも具には之無く又
10 無色界にも具には之無し。
-----―
 問う。十二因縁の流転の次第はどうか。
 答う。無明は行の縁となり、行は識の縁となり、識は名色の縁となり、名色は六入の縁となり、六入は触の縁となり、触は受の縁となり、受は愛の縁となり、愛は取の縁となり、取は有の縁となり、有は生の縁となり、生は老死・憂悲・苦悩の縁となる。これによって生死海を流転するのである。このようにして凡夫となるのである。
 問う。還滅の十二因縁の様子はどうか。
 答う。無明が滅すれば則ち行が滅し、行が滅すれば則ち識が滅し、識が滅すれば則ち名色が滅し、名色が滅すれば則ち六入が滅し、六入が滅すれば則ち触が滅し、触が滅すれば則ち受が滅し、受が滅すれば則ち愛が滅し、愛が滅すれば則ち取が滅し、取が滅すれば則ち有が滅し、有が滅すれば則ち生が滅し、生が滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩が滅していくのである。これが還滅の十二因縁の様である。仏はこのように煩悩を滅していくのである。私見をいえば、中有の人には十二因縁はすべて具えていない。また天上界の人もすべては具えていない。また無色界の人もすべては具えていない。

生死海
 生死の苦しみのこと。三界・六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
―――
還滅の十二因縁
 十二因縁の最初の無明を滅することによって、次々に十二因縁の因果の環を打ち破り、煩悩、生死の苦悩を離れて寂滅の涅槃に還帰することをいう。還滅は寂滅に還るの意で、涅槃に趣くこと。一念三千理事には「問う還滅の十二因縁の様如何答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」(0407-06)とある。
―――
中有
 中有は生・本・死・中の四有の一つ。欲界色界の有情が誕生してから次の誕生を迎えるまでの過程を四種に分けた第四で、死の瞬間から次の誕生を迎えるまでの期間をさす。中陰ともいい、人の死後、49日間の称。
―――
無色界
 仏質のない精神の世界で、最上の天上界をさす。色界は六欲天より高く、無色界は色界よりさらに高いところにあるとされる。
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流転門の十二因縁と還滅門の十二因縁について示されている
 すでに、流転の十二因縁については、第一章で12の各項目と名前と意義とが明かされ、それぞれが次の項の原因となっていることを明かされた。
 本文でも「無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり生は老死憂悲苦悩に縁たり」と仰せのように、無明に始まり行・識・名色と次第して老死に至る連鎖が流転の十二因縁である。このように無明から始まる連鎖によって生死海に流転するのであり、また、この生死海において終わることなき生と死とを繰り返すゆえに凡夫なのである。
 したがって、還滅の十二因縁とは本文に「無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す」と仰せのように、この十二因縁の流転の元である無明を滅することにより行が滅し、行を滅することにより識が滅し、というように次々に滅し、最後に生老憂悲苦悩が滅するのである。ここに“還滅”とは本源の無明に還ってそこから滅していくことにより、生死を離れて涅槃に入ることをさしている。
無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり 生は老死憂悲苦悩に縁たり是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり
 流転の十二因縁の連鎖が説かれているのである。
 十二因縁のそれぞれについて、順次に前のものが後のものを成立させる条件となっているのである。例えば「無明は行に縁たり」とある場合、前のものである“無明”が後のものである“行”を成立させる縁となっていることを表している。
 まず、過去世の愛欲の煩悩が因となって過去世のもろもろの善悪の行を起こし、そのもろもろの行為が因となって現在世に生を結ぶ識を成立させ、この識が因となって名色の心身を成り立たせ、名色が因となって六処が具わり、六処が具備されることにより母胎を出て外界に触れ、外界との接触が因となって対象によって楽・苦・不苦・不楽の感受を識別できるようになり、この感受が激しくなって愛欲が盛んになり、その強盛な愛欲が激しくなると、五境を求めて四方八方に貪り回って他人の物を盗み取るような取着心を生起させ、その取着心が因となって、未来世に生を受けるべき善悪のもろもろの行為を成立させる。そして、このもろもろの行為が因となって来世の生を成立させ、この生によって未来の老死憂悲苦悩の生存が成立するのである。
 「是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり」と述べられているように、無明から条件づけの連鎖が次第して、とどまることなく生死を繰り返していくのが凡夫なのである。
無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり
 還滅の十二因縁の在り方が説かれている。それは流転の十二因縁の連鎖にしたがって順次に、前のものを滅することにより後のものも滅していくという形となっているのである。
 まず、凡夫をして生死流転せしめる根本である無明を滅すると、その無明によって条件づけられて生起するもろもろの行為が滅するのである。行が滅することによって行に条件づけられて生じた識が滅する。識が滅すると、識に条件づけられて生じていた名色が滅する。と、いうようにして最後に未来世の生死憂悲苦悩が滅するのである。
 「仏は還つて煩悩を失つて行く方なり」と説かれているように、仏というのは生死流転の根本である無明の煩悩を滅失することにより次第に条件づけを脱却していく方向をとる、とおおせられている。
私に云く中有の人には十二因縁具に之無し又天上にも具には之無く又無色界にも具には之無し
 「私に云く」とは日蓮大聖人御自身の見解によれば、ということである。
 ただし、これについては俱舎論巻九に次のような文が見えている。すなわち、「此の中際の八は、一切の有情が此の一生の中に、皆具さに有するか不か。皆具に有するには非ず。若し爾らば何が故に、八支有りと説くか。円満なる者に據る。此の中の意の説かく、補徳伽羅あり、一切の位を歴るを、円満なる者と名づけ、諸の中夭、及び、色、無色には非ず。但欲界の補特伽羅に據るなり。大縁起経には『具に有り』と説くが故に」と。
 ここで“中際の八”とは、十二因縁を前際・中際・後際の三際に分けたうち、中際の八因縁のことで、識・名色・六処・触・受・取・有をさしている。更に、この八因縁は現在世に生を受けた有情なら、どの有情であっても皆ことごとく一生のうちに一つ一つ具体的に経過するかどうか、について問うている。答えとして、有情のことごとくが八因縁を具体的に経過するわけではないとしたのに対して、それでは何ゆえに中際の現在世に八因縁あり、と説くのであるかと問うている。その答えとして、それはあくまで円満なる者に限って、八因縁ありとしたのであると述べている。円満なる者とは、三界のうち欲界の補特伽羅のみをさしており、色界や無色界の者ではないとしている。また一生の途中において、夭折してしまう者も円満に八因縁を経過しない、としている。
 要するに、中途で夭折した欲界の補特伽羅と色界、無色界の者は八因縁を具体的には経過していないのである、というのが俱舎論巻九の内容である。
 まず中夭の者、すなわち寿命を全うせずに中途で死亡する者のことである。中夭の者はどの時点で死亡するかの相違はあっても、十二因縁の連鎖を経過しないことは明らかである。例えば、母胎内で死亡する場合は、識・名色・六処の三因縁を経過するだけであり、14・5歳の時に死亡した場合は、過去世の無明・行に始まり、現在世の識・名色・六処・触・受の七因縁の連鎖を経過するだけである。
 また、色界の者は化生なので、生じた時にはすでに六根を最初から具えているとされているので、名色の因縁の頂がないことになる。
 更に無色界の有情は、色無くしてただ心のみあることになるから、六識のうち前五識がなくただ第六意識のみを有していることになり、名色・六処の二因縁を経過することがないことになる。
 以上のように、俱舎論巻九に説かれた内容を取り入れられ、ご自身の釈とされたのである。ただ、本文の「中有の人には十二因縁具さに之無し」となっているが、おそらく後世のひとが中夭を中有と誤認して記したのいであろう。もっとも、中有は死有の後、次の生有までにある中間的な存在であるが、これも諸天と同じ化生であるから、先の色界の者と同じことになって、十二因縁を具体的に経過しないことになる。
 また本文の「天上にも具には之無く」とあるのは、天界の中の色界をさしていたものと考えられる。

0407:11~0407:14 第四章 十如是を釈すtop
11  一念三千理事 十如是とは如是相は身なり玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し 文籤六に云く相は唯色に在 文如是性は心なり玄二に云く性以て内に拠る自分改め
12 ず文籤六に云く性は唯心に在り 文、如是体は身と心となり玄二に云く主質を名けて体となす 文、如是力は身と心となり止に云く力は堪忍を用となす 文如是作は身
13 と心となり止に云く建立を作と名く 文、如是因は心なり止に云く因とは果を招くを因と為す亦名けて業となす 文、如是縁止に云く縁は縁業を助くるに由る 文、如是果止に云く果は
14 剋獲を果と為す 文、如是報止に云く報は酬因を報と曰う 文、如是本末究竟等玄二に云く初めの相を本と為し後ち報を末と為す 文、
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 一念三千理事。  十如是とは、如是相は身である。(法華玄義巻二には「相は外面に拠っている。覧て分けることができる」とある。法華玄義釈籤巻六には「相はただ色にあらわれる」とある)。如是性は心である。(法華玄義巻二には「心は内面に拠っている。自らの性分というものは改まらない」とある。法華玄義釈籤巻六には「性はただ心にあらわれる」とある)。如是体とは身と心である。法華玄義巻二には「主質を名づけて体とする」とある)。如是力とは身と心である。(摩訶止観巻五上には「力は堪忍を働きとする」とある)。如是作とは身と心である。(摩訶止観巻五上には「建立を作と名づける」とある)。如是因とは心である。(摩訶止観巻五上には「因とは果を招くことを因とし、また名づけて業という」とある)。如是縁。(摩訶止観巻五上には「縁とは縁由であり業を助けることによっている」とある)。如是果。(摩訶止観巻五上には「果とは剋獲を果とする」とある)。如是報。(摩訶止観巻五上には「報は酬因を報という」とある)。如是本末究竟等。法華玄義巻二には「初めの相を本とし、後ちの報を末とする」とある) 。

十如是
 方便品に「唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」とある。如是とは生命の中道実相の義で、瞬間の生命の働きを、十の範疇によって、ありのままに見たのが十如実相である。この十如是は十界の依報・正報おのおのに必ず具足しているのである。
―――
如是相
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。あらゆる存在には必ず「相」がありそのことを「如是相」という。
―――

 法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――

 妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
―――
如是性
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相のあるものは必ずそれにふさわしい性質をもっておりこれを「如是性」という。
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如是体
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相があり、性質があるものには必ず主体がありこれを「如是体」という。
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如是力
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。体は必ず、ある潜在能力をもっていてこれを「如是力」という。
―――

 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
如是作
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。力があるものは、必ず外へ向かっていろいろな作用を起こしそれを「如是作」という。
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如是因
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。ふさわしい相と性と体をもった人やものが、その人やものにふさわしい能力(力)を発揮させるためのはたらきかけ(作)をしていくと、それが原因となり、一つの結果が生じる。いわば、相・性・体・力・作の五如是がいろいろな現象を起こす原因となる。これを「如是因」という。
―――
如是縁
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。原因はあっても、それが何らかの機会か条件に恵まれないと、一つの現象が結果として現れない。そのような条件を「如是縁」という。
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如是果
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。果は、いうまでもなく結果です。ある因がある縁に合って、ある状態を実現したことをさす。因が縁に合えば必ずこういう結果が生まれることを「如是果」という。客観的結果=事実。
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如是報
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。因と縁が出合えば、必ずある状態を実現しますが、それはただ実現されたにとどまらず、必ずあとに影響(報い)がある。これが「如是報」です。主観的結果=オリジナルな結果の受けとめ方。
―――
如是本末究竟
 法華経方便品第二に説かれる十如是のひとつ。相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、複雑にからみあっていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だかわからないことが多い。それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんなものも、どんなことがらも、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできない。「相」から「報」まで、すなわち始め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」のとおりになることは同じだ(等しい)、ということ。これを「本末究竟等」という。
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 ここからは本抄を構成する三つの部分のうち「一念三千の理」を明かされる部分に入る。ここではまず、一念三千の法門の構成要素である十如是、三世間、十界互具の各法門のうち、十如是の法門について示されている。
 十如是は法華経方便品第二に説かれる法門である。すなわち「止みなん 舎利弗、須らく復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一稀有難解の法なり。唯、仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」とある。
 如是相から如是本末究竟等にいたる十如是は、仏と仏とのみが究め尽くしている十界諸法の実相であると説かれている。つまり、諸法としての十界は相互に区別があって、十界のいずれの界も実相基ずいての十如是の法則に基づいて顕現してくる、ということを説いているのである。ここから、通常、十如是が十界の通体とすれば十界は十如是の別体とされる。あるいは十界を差別相とすれば十如是は平等相、ともされる。
 また、この十如是の義について中国の天台大師智顗は法華玄義巻二で、その読み方によって異なることを次のように説いている。すなわち「天台大師の云く『義に依って文を読むに、凡そ三転有りと。一に云く、是相如・是性如・乃至是報如なり。二に云く、如是相・如是性・乃至如是報なり。三に云く、相如是・性如是・乃至報如是なり』若し皆如と称するは、如は不異に名づく、即空の義なり。若し如是相・如是性と作すは、空の相性を点ずるに名字施設し、邐迤不同なり、即仮迤の義なり。若し相如是と作すれば、中道実相の是に如す。即空の義なり。分別して解し易からしむ、故に空仮中を明かす。意を得て言を為せば、空即仮中なり。如に約して空を明かさば一空一切空なり。如を点じて相を明かさば一仮一切仮なり、是に就いて中を論ずれば一中一切中なり、一二三に非ずして、而も一二三、不縦不横なるを名づけて実相と為す。唯仏と仏とのみ、此の法を究竟したまえり。是の十法に一切法を摂す」と。
 すなわち、十如是の文を「是相如・是性如…是報如」等と「如」で終わるように読む時は、如とは不異を意味するから、十界諸法相互に区別することはあってもその根底には一如平等にして異なることなき「空」なる理があることを表している。これは空諦である。
 次に、「如是相・如是性…如是報」等と読む時は、十界の諸法の根底は如なる空の理であっても、相・性・体・力・作・因・縁・果・報等の区別があることを表している。これ仮諦の義である。
 更に「相如是・性如是…報如是」と「是」で終わる読み方をすると、仮諦と空諦の二編に偏しない融通無碍の中諦となる。つまり、十界諸法の各界が如として空であるとともに仮として相・性・体・作・報等の区別をもっている全体が中諦の理を表している。
 ただし、この空仮中の三諦はあくまで人々に分かりやすくするために、あえて分別したものであり、元意を言えば空即仮即中となって、三諦は一つの心理の三側面となると述べている。
如是相は身なり玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し
 十如是の第一・如是相についての釈である。
 天台大師智顗は法華玄義巻二に「相は以って外に據る。覧て而も別つ可し、名づけて相と為す」と述べており、相というのは地獄界・餓鬼界…仏界の相というように、誰人が見てもその相違を見分けることができると色法にあらわれた外形、相貌のことである。ゆえに妙楽大師の釈は法華玄義釈籤巻十四に説く十不二門のうち、第一色心不二門を明かす段において説かれている。別しては色法と心法に分別されることを明らかにしているところである。本文中、以下の「籤六」の釈も同様である。
如是性は心なり玄二に云く性以て内に拠る自分改めず文籤六に云く性は唯心に在り
 十如是の第二・如是性についての釈である。
 玄義に「性は以って内に據る。自分改めず、名づけて性と為す」とあり、如是性とは十界各界の内なる性分・心性をいう。また、同玄義の巻二で、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の如是性を釈して「如是性とは、黒は自分の性なり。純ら黒悪を習いて変革すべきこと難し、木に火有り、縁に遇いて即ち発するが如し」とし、内なる成分では変革することが難しいが、縁に遇って発することによって捉えられると説いている。妙楽大師は「性は唯心に在り」と釈し、如是性は外なる如是相が色法であるのに対して内であると説いている。
如是体は身と心となり玄二に云く主質を名けて体となす
 十如是の第三・如是体についての釈である。
 玄義には「主質を名づけて体と為し」とある。主質とは主たる質をいうから、如是相と如是性をともに具えた十界互具の存在そのものが如是体である。ゆえに、本文のように如是体は身と心から成るとされるのである。
如是力は身と心となり止に云く力は堪忍を用となす
 十如是の第四・如是力についての釈である。
 天台大師智顗の摩訶止観巻五には「如是力とは堪任の力用なり。王の力士の千万の技能も、病めるが故になしという。病差ゆれば用あるがごとし。心もまたかくのごとし。具に諸の力もある。煩悩の病の故に運動すること能わず、実のごとくこれを観ずれば一切の力を具すなり」とある。すなわち、如是力とは堪忍、つまり、じっと持ちこたえ得る働きをいう。止観の例では、力士がどれだけの技能をもっていても病を得ているときは力はないが、病が治ればたちまち力が漲ってきて技能を十分に用いていけるようなものである。心もそれと同じで具体的にはさまざまな力をもっていても、煩悩の病があるからそれが十分に機能しないのである。実のごとくこのことを観察できれば煩悩の病を治すことができ、もともとある一切の力を具えることができる、と述べている。
以上のたとえからも、如是力は身と心の双方にわたるのである。
如是作は身と心となり止に云く建立を作と名く
 十如是の第五・如是作についての釈である。
 止観巻五上には「運為建立を作と名づく、もし心を離るればさらに所作なし。故に知んぬ。心に一切の作を具すことを」とある。また、玄義巻二では「構造を作と為し」とある。
 如是作とは、身と心とに具わる力が実際のうえに働き、身・口の二業を運動して末だ善なきところに善の構造を、悪なきところに悪の構造を建立するところをいう。
 この作の働きも「もし心を離るればさらに所作なし。故に知んぬ。心に一切の作を具すことを」とあるように、心が働くことによって力が身・口の二業を運動してさまざまな構造を創るわけであるから、如是作も身と心との双方にわたるのである。
如是因は心なり止に云く因とは果を招くを因と為す亦名けて業となす
 十如是の第六・如是因についての釈である。
 止観巻五には「如是因とは、果を招くを因と為す。また名づけて業と為す。十法界の業は、心より起こる。ただ心あらしむれば諸行具足す。故に如是因と名づく」とある。
 また玄義巻二では「習因を因と為し」とある。習因とは習が習続、因が同類因をさす。習続とは、次の果を招く因となることをいい、その際、果のほうを習果、あるいは等類果という。
 したがって、如是因とは善悪の習因、すなわち善悪の行為のことであり、これが因となって十法界を招くのである。だから止観には「十法界の業は、心より起こる。ただ心あらわしめば諸業具足す」とあるように、十法界の果を招く業が如是因であり、その業は心から起こるのである。
 ゆえに、如是因は心法に入るのである。
如是縁止に云く縁は縁業を助くるに由る
 十如是の第七・如是縁についての釈である。止観巻五上には「如是縁とは、縁は縁由を名づく。業を助くるは皆是れ縁の義なり。無明、愛等はよく業を潤す。すなわち心を縁となすなり」とあり、玄義巻二上には「助因を縁と為し」とある。
如是縁は“因を助ける”とあるように、如是因である習因、同類因の善悪の業を助けて果を成就させる働きをいう。ちょうど、流転の十二因縁において、無明という愛欲煩悩が行を助けて、生・老死という未来の二果を招く縁となっているように、因を助けて果を招く働きをするものが如是縁なのである。縁は心身にわたる。
如是果止に云く果は剋獲を果と為す
 十如是の第八・如是果についての釈である。
 止観巻五上には「如是果とは、剋獲を果と為す。修因は前に習続し、習果は後に剋獲す。故に如是果というなり」とあり、玄義巻二には「習果を果と為し」とある。
 文中「剋獲」とは“かちとる”の意味であり、習因で、善豪を積めば善に習ってますます善をかちとり、悪業を積むと悪に習ってますます悪を獲得していくことを如是果というのである。さきに述べたように、如是因が習因、同類因とすると如是果は習果、等流果となる。ちなみに等流果とは原因から流れ出て原因と等しい結果を受ける、という意味である。
 なお、如是果は如是因と同じく心法に入るのである。
如是報止に云く報は酬因を報と曰う
 十如是の第九・如是報についての釈である。
 止観巻五上には「如是報とは、因に酬ゆるを報という。修因、修果、通じて名づけて因となす。後世の報を牽く、この報は因に酬ゆるなり」とあり、玄義巻二上には「報果を報と為し」とある。
 如是報は因に対する酬いであるが、この場合の因は習因と習果をともに含む。また、後世の報を牽くとあるように来世に苦楽等の身の報いを受けることをいう。
 如是果と如是報との相違は、如是果がたとえば善を行うとそれが習慣となってますます善を行じていくようになっていくことをいうのに対し、如是報はこのように善因・善果を積み重ねることにより、人天等の楽果を受けることをいうのである。
 如是因と如是果とが同類因と等流果の関係になるのに対して、如是因・如是果を因とする如是報の場合は、異熟果の関係になる。
 異熟とは“異なって熟する”の意味で、果の性質が因のそれと異なって熟したり、因に対して果が世を隔て、時を隔てて熟することである。例えば、前になした道徳的な意味の善あるいは悪の行為によって、後に好ましいあるいは好ましからぬ境遇を結果として得ることである。つまり、原因が善または悪という道徳的な意味を持っているのに対し、結果は楽または苦という道徳的には中立の境遇を得るという因果関係をさしている。以上からも、如是報はあくまで苦楽の身や境遇として報われるので、色・心の二法で立て分ければ、色法に入るのである。
如是本末究竟等玄二に云く初めの相を本と為し後ち報を末と為す
 十如是の第十如是本末究竟等についての釈である。
 玄義巻二上には「初相を本と為し、後報を末と為し、帰趣する所の処を究竟等と為す云云。若し如の義を作さば、初後皆実相なるを等と為す。若し性相の義を作さば、初後、相在るを等と為す。若し中の義を作さば、初後皆実相なるを等と為す。今此の等に依らず、三法具足するを究竟等と為す。夫れ究竟とは、中は乃ち究竟す。即ち是れ実相を等と為すなり」と。
 すなわち、如是本末究竟等とは第一の相を本として第九の報を末として、その帰着する所を究竟等とするのである。もし、是相如・是性如…のごとく、如に約す空の義からいえば初めの相から後の報に至るまでことごとく空と等しいところを「等」とし、次に、如是相・如是性…のごとく、性相等に約す仮の義からいうと、「初後、相在る」とあるように、本の相性は末の果報のなかにあり、末の果報は本の相性のなかにあって、しかも相・性・体…果・報の九のそれぞれが等しく自体を失わないところを「等」とするのである。また、もし相如是・性如是…のごとく、是に約す中の義からいうと、初の相から後の報に至るまで皆等しく実相であるところを「等」とするのである。
 このようにして、初めの相から後の報に至るまで、一々に空・仮・中の三諦を具えて一体不二であるところを「究竟等」というのである。九如是の一々が三諦を具足して究竟するところ等しく中であり、実相であるところを「等」とする、と玄義は説いている。

0407:14~0407:18 第五章 三種世間を釈すtop
14                                     三種世間とは五陰世間止に云く十種
15 陰果不同を以ての故に五陰世間と名くるなり 文衆生世間止に云く十界の衆生寧ろ異らざるを得る故に衆生世間と名
                  くるなり文国土世間止に云く十種の所居通じて国土世間と称す 文五陰とは新訳
16 には五蘊と云うなり陰とは聚集の義なり一に色陰・五色是なり・二に受陰・領納是なり・三に想陰・倶舎に云く想は
17 像を取るを体と為すと文・四に行陰・造作是行なり・五に識陰・了別是れ識なり・止の五に婆沙を引いて云く識・先
18 ず了別し・次に受は領納し・相は相貌を取り・行は違従を起し・色は行に由つて感ずと。
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 三種世間とは、五陰世間。(摩訶止観巻五上には「十種の五陰と十八界が不同であることから、五陰世間と名づける」とある。衆生世間。(摩訶止観巻五上には「十界の衆生が異なりがあるので、衆生世間と名づける」とある)。国土世間。(摩訶止観巻五上には「十種の衆生が居住する所を通じて国土世間という」とある。五陰とは新訳には五蘊という。陰とは聚集の義である。一には色陰・五色のことである。二に受陰・受け入れることである。三に想陰(倶舎論には「想は像として形づくることを体とする」とある)。四に行陰・造作は行である。五に識陰・分別了解することを識という。摩訶止観巻五上には十住毘婆沙論を引いて「識がますます領解分別し、次に受は受け入れ、相は相貌を形づくり行は違従を明らかにし、色は行によって感ずるのである」とある。

三種世間
 生きものとしての衆生世間、その生きものの住む場所としての国土世間、この二つを構成する五蘊についていう五陰世間の三つの世間をいう。
―――
五陰世間
 五陰とは、個人を構成するもの、色(形で捉えられる側面。肉体、物質)・受(外界の事象を受け容れていく働き)・想(想念すること)・行(想念に基づいて自ら行動すること)・識(思慮・分別する精神の作用)が仮に和合して衆生となることをいい。五陰世間とは個人個人における五陰の差別をいう。
―――
衆生世間
 衆生とは、訳して有情といい、宇宙間の存在のなかでも意識・精神作用を有するものをさす。しかして、それぞれの衆生は、あるいは地獄界を基調とした地獄の衆生。あるいは人界を基調とした人界の衆生というように、十界の差別の中に存在しており、これを衆生世間という。
―――
国土世間
 国土とは、衆生の住する環境をいうが、これを外界に置くのではなく、衆生の生命と不可分の関係とみる。しかして、同じ国土であっても、住する衆生の境界に従って、あるいは地獄あるいは仏国という違いが生ずることを、国土世間という。
―――
新訳
 像法の前500年は、中国に仏法が流布し、さかんに翻訳が行われている。竺法蘭・鳩摩羅什などである。これらの経典を旧訳といい、像法の後の500年を新訳という。玄奘三蔵・善無畏三蔵に代表される。一般に新訳は訳者の自我が多い経典とされ、真言宗の善無畏が立てた理同事勝などは代表的な例である。
―――
婆沙
 十住毘婆沙論のこと。全17巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。
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 一念三千の法門を構成する要素のうち、ここでは三世間について釈されている。先に十如是が釈され、十法界のどの界も十如是を具えていることが明かされたが、十界十如の生命が現実的に現れてくる面を明かしたのが三世間である。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間をさす。世間の“世”とは還流を、“間”とは間隔を意味する。とくに間隔の意味は、ものともとの間の差別や相違が明らかであることを示しているところから“間”はものの差別や相違を意味することになる。したがって、世間とは事物・現象が時間的に移り変わることを表すとともに、空間的には事物・現象に相違があることを示しているといえよう。
 さて、三種世間の相互の関係であるが、まず、五陰と衆生の関係については摩訶止観巻五上に「衆生世間、すでにこれ仮名にして体の分別すべきものなし、実法を攬って仮に施設するのみ」とも「五陰を攬って通じて衆生と称する」とも説いている。すなわち、衆生とは五陰が仮に和合したものであって、実体としては五陰しかないのである。また、衆生と国土とは依正不二の関係になることはいうまでもない。
 以上のことを前提として、ここでの三種世間の釈を拝すると次のようになる。
 初めに五陰世間とは止観巻五上に「十種の陰界、同じからざることを以っての故に、故に五陰世間と名づく」とある。ここで、十種とは十界のことであり、陰界とは五陰と十八界のことである。つまり、十界それぞれの五陰が互いに不同であるところを五陰世間と名づける、と釈される。
 次に、衆生世間とは同じく「十界の衆生、寧ぞ異ならざることを得んや。故に衆生世間と名づくるなり」とあるように、五陰が仮に和合して種々の業因と結びついて地獄界から仏界の十界各界が仮に生ずるものであり、十界相互に変異と差別があるところから衆生世間というのである。また、五陰が実法で十界の衆生は仮の名にすぎないところから仮名世間というのである。
 更に、国土世間については同じく「十種の所居、通じて国土世間と称す」とある。つまり、国土世間とは、十界の衆生が居住する国土であるが、地獄界・餓鬼界…仏界の衆生のそれぞれの境地に応じて国土も変化、差別するので世間というのである。例えば、止観には「地獄は赤鉄に依って住す。畜生は地水空に依って住す。修羅は海畔海底に依って住す。人は地に依って住す。天は宮殿に依って住す。六度の菩薩は人に同じく地に依って住す。通教の菩薩の惑いまだ尽きざる者は人天に同じく依住す。惑を断じ尽くせる者は方便度に依って住す。別円の菩薩の惑のいまだ尽きざる者は人天方便等の住に同じく、惑を断じ尽くせる者は実報土に依って住す。如来は常寂光土に依って住す…土土同じからざるが故に、国土世間と名づくるなり」とあって、十界各界の住む国土がそれぞれ異なることが具体的に示されている。
五陰とは新訳には五蘊と云うなり陰とは聚集の義なり一に色陰・五色是なり・二に受陰・領納是なり・三に想陰・倶舎に云く想は像を取るを体と為すと文・四に行陰・造作是行なり・五に識陰・了別是れ識なり
 五陰世間の五陰について詳しく訳されているところである。
 まず五陰の陰とは旧訳よるものであり、玄奘に始まる新訳では、蘊と訳している。ことを指摘されている。次に、陰が聚集つまり集まりを意味するとされている。天台大師が史観に「陰とは善法を陰蓋す、此れ因に就いて名を得たるなり。また陰とは是れ積聚、生死重沓す、此れ果に就いて名を得たるなり」というように、善法を陰蓋している凡夫にあっては、生死の苦が積み重なっていくのが五陰であるということである。
 次いで、その五陰の一々について釈されていくのである。なお、五陰のうち、色陰が肉体・物質面を、受陰・想陰・行陰・識陰の四陰が精神面を表していくのである。
 初めに色陰であるが「五色是なり」と釈されている。阿毘達磨俱舎論巻一によると、色陰とは、眼耳鼻舌身の五根と五根の対境としての色声香味触の五境、これに無表色の11の要素の集まりである。釈に五色とあるのは、五根・五境をさしていわれたものとも考えられるし、あるいは五境のなかの色境に、顕色と形色の二種類、用するに「いろ」と「かたち」の二種類があり、このうち、顕色から青・黄・赤・白の四種の色と黒色を加えて五色とされたものと考えられる。
 次に、受陰とは「領納是なり」と釈されている。
 俱舎論巻一では「受蘊は、謂く、領納す。触に随う。即ち楽と及び苦と不苦不楽となり」と述べている。
 つまり、受陰とは、六根が六境に触れることによって、心のなかに苦・楽・不苦不楽の感覚・知覚・印象を受け納める感覚作用である。
 更に、想陰については「想は、取像を体と為す」という俱舎論巻一の文を引用されている。俱舎論巻一の他の所では「相陰は、謂く、能く像を取るを体と為す。即ち、能く青黄長短男女怨親苦楽等の相を執取す」と釈している。
 つまり、ここに釈されているように、六根の対象としての六境のさまざまな姿を心に把握したり、積極的に想起したりする表象作用が想陰である。例として、青黄など色、長短などの形、男・女や怨・親などの人間、苦や楽など様々な姿を心に把握することが挙げられている。
 また、行陰とは「造作是行なり」と釈されている。つまり、作り為し、造り上げる形成作用を行というのである。
 俱舎論巻一には「前及び後の色・受・相・識を除ける余の一切の行を名づけて、行陰と為す。然るに、簿伽梵の契経中に於いて、六思身を行蘊と為すと説けるは、最勝に由れるが故なり。所以は何ん。行は造作に名づく。思は是れ業の性にして、造作の義強し。故に最勝と為す」とある。
 つまり、五陰のうち、これまで釈してきた色陰・受陰・想陰と、後に釈される識陰の四陰を除く一切の作りなす形成作用を名づけて行陰とするのであるが、仏は経典のなかで、六思身、すなわち、六つの心の動機づけの作用を行陰と述べている。これは、作りなす形成作用のなかで、とくに心的行為が最勝であり、あらゆる行為の柱であるから述べたままである、と釈している。
 最後に、識陰は「了別是れ識なり」と釈されている。つまり、了別すること、すなわち六根の対象を一つ一つ了解し識別する働きである。
 俱舎論巻一には「各各、彼彼の境界を了別し、総じて境の相を取るが故に、識蘊と名づく。此れも復差別すれば六識有り。謂く、眼識身に至る」と説かれている。すなわち対境を識別する判断作用であり、別していえば眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識別の働きがそれであるということである。
止の五に婆沙を引いて云く識・先ず了別し・次に受は領納し・相は相貌を取り・行は違従を起し・色は行に由つて感ずと
 前の段では五陰の一つ一つについて、俱舎論で述べていることに従って釈してこられたが、ここでは止観巻五・正修止観に説かれている五陰の意義に即して釈されているのである。すなわち「『数人』の説かく、『五陰は同時なり、識は是れ心王、四陰は是れ教なり』と有門に約して義を明かす。故に王数相扶け、同時にして而して起こる。『論人』は説かく、『識が先に了別し、次に受が領納し、想が相貌を取り、行が違従を起こし、色が行に由って感ず』と。空門に約して義を明かす、故に次第に相生す」とある。
 ここで、数人とは毘曇有門、つまり小乗の説一切有部の人々をさしており、彼らの見解は五陰は同時に生起するという説で、その際、識陰が心王つまり心の主体であり、他の四陰を心数、つまり心の働きであるとする。この説はあくまで有門から五陰の意味を明らかにする立場であるから、心王と心作用は互いに助け合って同時的に生起する、と説くのである。
 これに対して、論人すなわち、成実論の人達は、識はあらかじめ対象を了解して識別し、次に受は対象を受容し、想は対象の相貌を把握し、行は対象に背いたり従ったりする心の動きを起こし、色は行によって感受される、と説くのである。つまり、彼らは空門から五陰の意味を明らかにするので、順序立って次の陰を生ずるのである、と天台大師智顗は釈している。
 日蓮大聖人も、成実論者の見解を是とされたのである。

0408:01~0408:05 第六章 一念三千の構成を明かすtop
0408
01  百界千如三千世間の事、十界互具即百界と成るなり、地獄衆生世間十如是・五陰世間十如是・国土世間十如是地下
                                          赤鉄、餓鬼衆生世間十如是
02 ・五陰世間十如是・国土世間十如是地下・畜生衆生世間十如是・五陰世間十如是・国土世間十如是水陸空修羅衆生世
                                       間十如是・五陰世間十如是国土世
03 間十如是海畔底、人衆生世間十如是、五陰世間十如是・国土世間十如是須弥四州、天衆生世間十如是・五陰世間十如
                                  是・国土世間十如是宮殿声聞衆生世間十如是
04 ・五陰世間十如是・国土世間十如是同居土、縁覚衆生世間十如是・五陰世間十如是・国土世間十如是同居土、菩薩衆
                                    生世間十如是・五陰世間十如是・国土世
05 間十如是同居方便実報、仏衆生世間十如是・五陰世間十如是・国土世間十如是寂光土。
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 百界千如・三千世間の事。
 十界互具すなわち百界となるのである。地獄(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・地下赤鉄)、餓鬼(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・地下)、畜生(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・水陸空)、修羅(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)国土世間(十如是・海畔底)、人(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・須弥四州)、天(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・宮殿)、声聞(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居土)、縁覚(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居土)、菩薩(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居方便実報)、仏(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・寂光土)。

百界
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界とは、衆生の境涯を10段階に分類した十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のいずれにも、それ自身と他の九界が、次に現れる可能性として潜在的にそなわっていること(十界互具)。十界それぞれが十界をそなえているので、百界となる。
―――
千如
 天台教学において万物の真実の姿(諸法実相)を分析的に表現した語。百界に、あらゆる事物(諸法)が共通にそなえている特性である十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)がそれぞれにあるので、千如となる。
―――
三千世間
 天台大師が摩訶止観で一念三千を具す相貌を明かす際、世間に約して三千の数量を示したもの。
―――
十界互具
 地獄から仏界にいたる十界のおのおのに十界を具していること。方便品では、凡下の衆生に仏知見がそなわっていると説き、寿量品では三妙合論して仏界常住を説く。この十界互具・百界は、それぞれに十如是を具し、さらに三世間を具して、一念三千となる。ゆえに開目抄には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189-04)と仰せである。ただし、末法における真実の十界互具については、われわれが唱える題目・御本尊を仏界として、唱え奉るわれら衆生は九界であり、この境智冥合をもって十界互具というのである。
―――
十界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
―――
地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
畜生
 飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
―――
修羅
 梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
―――

 人界のこと。平凡な人間の生命状態を指す。平均的な能力・平均的な容姿・平均的な頭脳を与えられる。過度に欲望にのめりこまないことに心がければ、来世も平均的な能力・平均的な容姿・平均的な頭脳が与えられるだろうという。
―――
須弥
 須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
四洲
 須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。
―――

 天界のこと。 「喜ぶは天」とのように、願いがかなって喜びに満ちている境界、また先天的な福運により恵まれた生活が送れるような境界。ただし天上界の喜びは 「天人の五衰」といって永続しない。先天的な福運などはバケツに汲んだ水と同じで、もし今生に仏法に背けば、たちまちに消滅してみじめな境界となる。
―――
声聞
 声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
同居土
 天台宗の教義で、三界の中にあり、凡夫と聖者がともに住む世界。同居穢土と同居浄土とがある。凡聖同居土。
―――
縁覚
 辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
方便実報
 方便有余土と実報無障礙土のこと。四種の浄土のひとつ。方便有余土は見思惑は断じたが、まだ塵沙・無明惑を余す声聞・縁覚・菩薩の住む国土。実報無障礙土は別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土。
―――

 完全・絶対の理を覚った人の境地・十界の最上位。
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 これまでに、一念三千を構成する要素である十如是、三世間のそれぞれについて、その内容を釈されてきたが、ここでは十界と十如是と三世間とが互いに具し合って三千の法を構成することを明かされるのである。
 初めに「十界互具即百界と成るなり」と仰せのとおり、十界の各界が互いに他の十界を具有しているゆえに百界となるのである。
 更に、この百界の各界に十如是を具するから千如是となり、この千如是に三世間を具えるゆえに三千世間の法が成就するのである。
 本文では、この三千の法数が成就する過程を三世間を中心に釈されている。つまり、十界の各界ごとに、実法世間としての五陰世間を間に挟んで、五陰を構成要素とする仮名世間としての衆生世間の衆生に住む国土世間とを置かれた、という形になっている。
餓鬼
 とくに餓鬼界の国土世間は正法念処経巻十六に「餓鬼の所住、略して二種あり。一には人中に住し、二には餓鬼世界に住するなり。乃至餓鬼世界は閻浮提の下五百由旬に住す」とあるように、比較的に果報の勝れているのは人界に住んだり、更には天界の忉利天に住む場合もあるが、多くの場合は果報が劣っているので、地獄に類する地下五百由旬に住む、とされており、ここでは地下を餓鬼界の国土世間とされている。
修羅
 修羅界の国土世間も、先の餓鬼界と同じで、果報の勝れたものは天上界に住むが劣ったものは大海の畔や底に住む、とされている。
 なお、日寛上人の三重秘伝抄には、摩訶止観の記述によって「修羅は海の畔、海の底に住む」と説かれている。

 人界は須弥山を中心として、東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四洲があり、これを国土世間としている。三重秘伝抄には「人は大地に依って住し」と説かれている。
声聞・縁覚
 二乗である声聞・縁覚の国土は同居士とされる。同居士とは四土の一つで、凡聖同居士ともいい、凡夫と声聞・縁覚などの聖者とが同居するところをいう。
 三重秘伝抄には「二乗は方便土に依って住し」とあるように、二乗は方便土に住む場合もある。方便土とは方便有余土ともいい、見惑・思惑を断ち切って三界の生死を超えた人の住むところである。
菩薩
 三重秘伝抄には「菩薩は実報土に依って住し」とある。実報土とは実報無障礙土ともいい、中道実相の観法を修して無明を断じ実相の真理を実証して報われた菩薩の住む世界で、別教では初地以上、円教では初住以上の菩薩が住む世界である。しかし、菩薩は衆生救済の利他の行の他ために、同居士や方便土にあえて住することになる。ゆえに本文では、菩薩界の国土世間として、同居土、方便土、実報土の三土が挙げられたと考えられる。

 三重秘伝抄には「仏は寂光土に住したもうなり」とある。寂光土とは常寂光土ともいい、常に静と動とが一体の世界で、仏が住する世界である。法身・般若・解脱の三徳と常楽我浄の四徳を具えた仏の国土である。

0408:06~0408:18 第七章 智顗・堪然の釈文を引用すtop
06   止観の五に云く「心縁と合すれば則ち三種世間巻三千の性相皆心より起る」文、弘の五に云く「故に止観に正し
07 く観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為す、 乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行の法
08 門と云う良に以有るなり、 請う尋ねて読まん者心に異縁無かれ」文、又云く「妙境の一念三千を明さずんば如何ぞ
09 一に一切を摂ることを識る可けん、 三千は一念の無明を出でず是の故に唯苦因苦果のみ有り」文、 又云く「一切
10 の諸業十界百界千如三千世間を出でざるなり」文、 籤の二に云く 「仮は即ち衆生実は即ち五陰及び国土即ち三世
11 間なり千の法は皆三なり故に三千有り」文、弘の五に云く「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むることアマネ
12 からず三諦に約せざれば理を摂ること周からず 十如を語らざれば因果備わらず三世間無んば依正尽きず」文、 記
13 の一に云く「若三千に非ざれば摂ることアマネからず若し円心に非ざれば三千を摂せず」文、玄の二に云く「但衆生
14 法は太だ広く仏法は太だ高し 初学に於て難と為し心は則ち易しと為す」文、 弘の五に云く「初に華厳を引くこと
15 は心は工なる画師の如く種種の五陰を造る 一切世界の中に法として造らざること無し、 心の如く仏も亦爾なり仏
16 の如く衆生も然なり 心仏及び衆生是の三差別無し若し人三世一切の仏を求め知らんと欲せば 当に是くの如く観ず
17 べし心は諸の如来を造る」と、金ペイ論に云く「実相は必ず諸法.諸法は必ず十如・十如は必ず十界.十界は必ず身土
18 なり」
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 摩訶止観巻五には「心と縁とが合わざるなら、すなわち三種の世間、三千の性相はみな心より起こる」とある。
 止観輔行伝弘決巻五には「摩訶止観において正しく観法を明かすとともに三千をもって指南としたのである。すなわちこれは終窮究竟の極説である。ゆえに序の中に『己心の中に行ずる法門を説く』とあるのは、まことに意味のあることである。希くは尋ねて読む者は、心に異縁があってはならない」とある。また「妙境の一念三千を明かさなければ、どうして一に一切を摂することを識ることができよう。三千の諸法は一念の無明を出ることはない。このためただ苦因苦果のみがある」とある。また「一切の諸業は十界・百界・千如・三千世間を出ることはない」とある。
 法華玄義釈籤巻二にには「仮はすなわち衆生であり、実はすなわち五陰および国土であり、三世間となる。千如の法はみな三世間があり、ゆえに三千世間となるのである」とある。
 止観輔行伝弘決巻五には「一念の心において十界に約さなければ、遍く事象を収めることはできない。三諦に約さなければ周く理を摂することはできない。十如を語らなければ、因果は備わらない。三世間が無ければ、依報・正報をおさめ尽くすことはできない」とある。
 法華文句記の巻一には「もし三千でなければ、遍く一切をおさめることはできない。もし円心でなければ、三千を収めることはできない」とある。
 法華玄義巻二には「ただ衆生法ははなはだ広く、仏法ははなはだ高い。初学の者においては難しとし、心はすなわち易しとする」とある。
 止観輔行伝弘決巻五には「初めに華厳経を引くならば、心は優れた画家のように、種々の五陰を造る、一切世界の中に法として造らないものはない。心のように仏もまた同じである。仏 のように衆生もまた同じである。心と仏と衆生の、この三つは差別はないのである。もし人が三世一切の仏を求めようと願うならば、まさに、心が諸の如来を造るのであると観ずるべきである」とある。
 金錍論には「実相は必ず諸法とあらわれ、諸法は必ず十如を具え、十如は必ず十界があり、十界は必ず身と国土がある」とある。

指南
 教え示すこと。導くこと。師範の意味。中国唐代の「指南書」の故事によるものとされている。
―――
終窮究竟の極説
 天台大師の摩訶止観の文「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」の文について、妙楽大師が止観輔行伝で述べた語。一念三千の法門は、天台大師が一期30年にわたって説いた法華円教の深旨の中でも最終究極の法門であるとの意。
―――
説己心中所行の法門
 「己心の中に行ずる所の法門を説く」と読む。天台が己心の中で行じた法門とは一念三千である。
―――
妙境
 不可思議境・妙法の対境のこと。
―――
一念の無明
 生命自体に具わった根本の迷いのこと。一念の生命は、無明は根本的な迷いを意味し、ここから一切の煩悩が生起する。
―――
三諦
 空・仮・中の三諦のこと。諦とは審諦・つまびらか・あきらかの意。じゅうぶんに実相を見ることである。仏の悟りの真実の理をいう。空諦は事物の性分、仮諦は事物のあらわれた姿・形、中道は事物の本質。人間生命でいえば、その人の性分・心は 空諦、姿・形は 仮諦、生命は中道である。
―――
依正
 依報と正報のこと。「報」は過去の行為の因果が色心の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。依正の二法はともに過去の業によって報いたものであるから二果果報ともいい、相依相関性を有し、不二の関係にある。三世間でいえば五陰世間・衆生世間が正報、非情の国土世間が依報となる。
―――

 妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
金錍論
 金剛錍論のこと。妙楽の著。華厳の澄観が非情に仏性なしとする説を破折し、仏性は情非情にわたることをあらわした。天台の法門を金錍にたとえている。
―――
身土
 「身」は正法であり、三世間にあてはめれば五陰世間・衆生世間を意味し「土」は国土世間を意味する。
―――――――――
 ここでは、天台大師智顗の法華玄義や摩訶止観の文、妙楽大師湛然の法華文句記、法華玄義釈籤、止観輔行伝弘決、金錍論の文を引用されて、一念三千の持つ意義を明らかにしている。
止観の五に云く「心縁と合すれば則ち三種世間巻三千の性相皆心より起る」
 この文は摩訶止観巻五の正修止観において、止観の対象としての不思議境を明かすところの一節である。前の文を含めて引用してみると次のようになる。「もし便宜に随わば、まさに無明は法性に法って一切の法を生ずというべし、眠法が心に法ればすなわち一切の夢事あるが如し。心と縁と合すれば、すなわち三種の世間、三千の相性、みな心より起こるなり」と。この文の前のところで、心と一切法との正しき関係をめぐって種々論議されてきているが、ここではとくに、この関係を眠りと夢との関係にたとえている。つまり、心を法性とすれば、眠りは無明であり、夢が一切法にたとえられるというのである。この文はこのたとえを受けて述べられている。最初に「もし便宜に随わば」とあるとおり、一往の意味であるとしたうえで、無明つまり凡夫の境涯は法性にのっとつているが、そこから一切法を生じているのである。これを眠りと夢にたとえて、眠りも心の働きであるが、その眠りのなかで見る夢が一切法のようなものだというのである。「心と縁と合すれば」とあるのは、心と縁とが合することにより、三種の世間を現ずるのであり、三千の相性も皆、心から生じるということである。
弘の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為す、乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行の法門と云う良に以有るなり、請う尋ねて読まん者心に異縁無かれ」
 この文は妙楽大師湛燃の止観輔行伝弘決巻五三の一節であり、摩訶止観巻五の正修止観において、一念三千の不可思議境を明かす段に付られた注釈の部分である。その意味は次のようになる。“天台大師智顗は止観の巻五の正修止観を説く段に至って、正しく観法を明かすとともに、三千の法をもって修行を指南としたのである。これは天台大師智顗の究極の極説であり、これ以上の法門はないのである。だから止観の序に章安大師は三千の法をさして、天台智者大師が自分の心の中を内観して体験されたところを説かれた教えである、と記したのはまことに理由のあることである。したがって、尋ね読む者は心に異縁があってはならない”以上のように、この文は妙楽大師湛燃が一念三千の法門を無上にして智顗の極説である、と称えているのである。
又云く「妙境の一念三千を明さずんば如何ぞ一に一切を摂ることを識る可けん、三千は一念の無明を出でず是の故に唯苦因苦果のみ有り」
 この文は弘決巻五の三の一節であり、止観巻五上の「二に真正の菩提心を発するとは、すでに深く不思議を識って、一苦一切苦を知り自ら昔の苦を悲しむ」という文を注釈したものである。この止観の文は、深く不思議境を識ったとき、一苦が一切苦であることを知る、という意味である。
 不思議境とは妙境としての一念三千であることはいうまでもない。これを受けて弘決では「妙境の一念三千を明らかに悟らなかったならば、どのようにして一に一切を摂める、ということを識ることができるであろうか。その場合は、三千の諸法は一念の無明を出ないゆえにただ苦因苦果のみがあるのである」と釈している。弘決のこの文は「無明は祇是れ法性と知るに由ってこの故に非を起こす」とあって、無明即法性と知ることによって、無明である衆生の苦果を抜くという慈悲の“悲”心が起こるのである、と説いている。
 ついでに慈悲の“慈”については弘決では「妙境の一念三千を説かずんば、如何ぞ一に一切を摂することを識るべけん。三千は一念の法性を出でず。是の故に唯楽因楽果有り、法性は祇是れ無明と知るに由って是の故に慈を起こす」と説いている。
又云く「一切の諸業十界百界千如三千世間を出でざるなり」
 この文は弘決巻五の三の一節で、前の文を含めて引用すると次のようになる。すなわち「心造と言うは二意を出でず。一には理に約す。造は即ち是れ具わる。二には事に約す。三世を出でず。三世に又三、一には過を現に造り、過現に当を造る。無始より来、及び現在乃至尽未来際の一切の諸行を造るが如し。十界百界千如三千世間を出でず」と。
 これは止観巻五に引用されていた華厳経の偈「心は工なる画師の種種の五陰を造るがごとし」という文の“心が造る”の部分についての釈である。
 ここで、妙楽大師は“造”についての理具と事造の二つがあると論じているが、本文で引用されているのは事造について述べたものである。つまり、無視以来、過去・現在・未来の三世に造る衆生のあらゆる業は十界百界千如三千世間を出ない、というものである。
籤の二に云く「仮は即ち衆生実は即ち五陰及び国土即ち三世間なり千の法は皆三なり故に三千有り」
 この文は法華玄義釈籤巻二上の一節である。これは法華玄義巻二上の「心を法界に遊ばず」とは、根塵相対して一念の心起こるを観ずるに、十界の中に於いて必ず一界に属す。若し一界に属す。若し一会に属すれば、即ち百界千如を具して、一念の中に於いて悉く皆備足す。此の心の幻師は、一日夜に於いて常に種種の衆生、種種の五陰、種種の国土を造る。所謂、地獄の仮実国土、乃至仏界は仮実国土なり」とある文を妙楽大師湛然が釈したものである。本文に引用されている釈籤の文は、玄義の文のうち、心の幻師が一昼夜に常に種々の衆生、種々の五陰、種々の国土を造っており、心は十界を具えているから、地獄界の仮実国土、餓鬼界の仮実国土、ないし仏界の仮実国土を造っており、心は十界を造っていることになる、という文を釈したものである。すなわち、玄義で説く「地獄の仮実国土」等という“仮”とは衆生であり、“実”とはその衆生を構成する五陰であり、これに国土を加えて三世間になるのであり、更に、千如の法がこの三世間に具足されて三千となる、というのである。
弘の五に云く「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むることアマネからず三諦に約せざれば理を摂ること周からず十如を語らざれば因果備わらず三世間無んば依正尽きず」
 この文は弘決巻五の三の一節である。止観巻五の不可思議境・一念三千を明かす段についての釈文である。意味するところは、一念の心において、十界を立て分けるのは、一切法の差別や区別の事法を収めるのであり、空・仮・中の三諦に依って平等の理を普く摂するのであり、十如是によって十法界の因果が具われことになり、三世間によって依報・正報が包摂される、といいうこといである。要するに、十界・三諦・十如是・三世間の四つの法門によって、依正の森羅万象の区別や差別の事相、共通普遍の真理、因果ことごとくが円満に説明できることを説いているのである。
記の一に云く「若三千に非ざれば摂ることアマネからず若し円心に非ざれば三千を摂せず」
 この文は法華文句記巻一の一節である。三千に一切法を包摂し、その三千が一念の円心に具足するということで、これも、一念三千の法門の極説なることを賛嘆しているのである。
玄の二に云く「但衆生法は太だ広く仏法は太だ高し初学に於て難と為し心は則ち易しと為す」
 この文は法華玄義巻二上において、衆生法・仏法・心法の三法のうち、心法を広く釈する段に出てくるものである。天台大師智顗はここで、初学者には自分の心を観ずる心法を中心としたほうが易しいと述べているのである。その理由として、衆生法は横に十法界にわたるから広過ぎるし、仏界は縦に十法界の頂上の悟りの世界であるから非常に高過ぎる。したがって、この一切法を観察することは初学者には至難である。しかし、仏も衆生もともに包摂しているのが“心”であり、この心を観察することはやさしい、としてこれを勧めているところである。
弘の五に云く「初に華厳を引くことは心は工なる画師の如く種種の五陰を造る一切世界の中に法として造らざること無し、心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心仏及び衆生是の三差別無し若し人三世一切の仏を求め知らんと欲せば 当に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造る」
 この文は弘決巻五の三の一節である。これは止観巻五で不可思議境を明かすところで、智顗が華厳経の「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如し、一切世間の中、心より造らざるは莫し」という経文を引用しているのであるが、弘決の一節は華厳経の経文についての釈である。つまり、上手な画家がさまざまな世界を白い画布の上に描いて造っていくように、心は一切世界の中の種々の五陰を造るのである。したがって、一切世界の中に種々の五陰を造るのである。したがって、一切の世界の中に法として心が造らないものはなしのである。心のごとくに仏も同様であり、仏のごとく衆生も同様である。心・仏・衆生の三は差別がないのである。したがってもし人が三世一切の仏を求め知ろうとするならば、心法がもろもろの如来を造るのであるということを観ずればよいのである。
 これは心が衆生法や仏法、もろもろの如来などの森羅万象を生ずることを強調したものである。
金ペイ論に云く「実相は必ず諸法.諸法は必ず十如・十如は必ず十界.十界は必ず身土なり」
 妙楽大師湛然の金錍論の文である。意味するところは、円融三諦の実相は必ず三千の諸法であり、諸法には必ず十如の因果があり、十如の因果のあるところ必ず十界の差別があり、十界あるところ必ず正報の身体と依報の国土とがある。ということである。つまり、この文は、諸法実相の文が一念三千をあらわすことを述べたものである。
 以上の天台大師智顗、妙楽大師湛然の文は、いずれも一念三千が仏法の極説であることを明らかにしたものである。この文によって一念三千の法門の意義を鮮明にされているのである。

0409:01~0409:07 第八章 三身を釈すtop
0409
01 三身釈の事、 先ず法身とは大師大経を引いて「一切の世諦は 若し如来に於ては即ち是第一義諦なり 衆生顛倒し
02 て仏法に非ずと謂えり」と釈せり、然れば則ち自他・依正・魔界・仏界・染浄因果は異なれども悉く皆諸仏の法身に
03 背く事に非ざれば 善星比丘が不信なりしも楞伽王の信心に同じく 般若蜜外道が意の邪見なりしも須達長者が正見
04 に異らず、 即ち知んぬ此の法身の本は衆生の当体なり、 十方諸仏の行願は実に法身を証するなり、次に報身とは
05 大師の云く「法如如の智如如真実の道に乗じ来つて 妙覚を成ず智如の理に称う理に従つて如と名け 智に従つて来
06 と名く即ち報身如来なり 盧舎那と名け此には浄満と翻ず」と釈せり、 此れは如如法性の智如如真実の道に乗じて
07 妙覚究竟の理智・法界と冥合したる時・理を如と名く智は来なり。
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 三身について解釈する事。
 まず法身とは、大師大師は涅槃経を引いて「一切の世俗諦は、もし如来の眼からみればそのまま第一義諦である。衆生は顛倒して仏法ではないと思っている」と解釈している。
 そうであれば、自他・依正・魔界・仏界・染浄・因果は異なるけれども、ことごとくみな諸仏の法身に背くことはないので、善星比丘が不信であっても、楞伽王の信心と同じであり、また般若蜜外道が意が邪見であっても須達長者の正見と異ならないのである。
 すなわちこの法身の根本は、衆生の当体であり、十方の諸仏の修行と誓願は、実に法身を証得するためであると知るべきである。
 次に報身とは、天台大師は「法如如の智が、如如真実の道に乗じて来て妙覚と成るのである。智は如の理に合うから、理にしたがって如と名づけ、智にしたがって来と名づける。すなわち報身如来である。また盧舎那と名づけ、ここには浄満と訳す」と解釈している。これは如如法性の智が如如真実の道に乗じて、妙覚究竟の理智と法界とが冥合した時に、理を如と名づけ、智は来となるのである。

三身
 法身・報身・応身の三つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。
―――
法身
 仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
大師
 ①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
―――
大経
 大般涅槃経のこと。
―――
世諦
 世間一般の真理・道理のこと。
―――
第一義諦
 世間・世俗を超えた涅槃・真実・中道・実相等の深妙にして絶待の真理のこと。真諦・勝義諦・聖諦ともいう。諸教中第一なるがゆえに第一義といい、真実不虚のゆえに真といい、殊勝の妙義のゆえに勝義といい、聖者の観るところのゆえに勝という。
―――
顛倒の至極
 「顚倒」とは、本来の順序がさかさまになること。
―――
染浄
 染法と浄法のこと。染法は煩悩・業・苦によって汚された無明の法をいい、浄法は清浄な法性の法をいう。
―――
善星比丘
 釈尊が太子だったときの子。闡提比丘ともいう。出家して仏道修行に励み、十二部経を読誦し、第四禅定を得たが、これを真の涅槃の境涯と思って慢心を起こし、苦得外道に近づいて退転した。その上、仏法を否定する邪見を起こし、父である釈尊に悪心を懐いてしばしば殺そうとしたため、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。
―――
楞伽王
 南インド摩羅山頂の楞伽城に住む羅刹の王。名は毘毘沙那という。正法を求めて多くの人の供養をもらって大乗同性経の会座に列なった。過去の大悲所生智相幢如来の世に毘毘沙歌という暴悪な導子がいた。ある時、自分の住む山で仏が背法すると聞き、仲間の羅刹を集めて仏を殺そうと攻め寄せた。すると仏の神通力によって少しの身動きもできなくなってしまい、大いに畏怖の念を起こし、懺悔して仏法に帰依した。この毘毘沙歌こそ今の楞伽王であるという。
―――
般若蜜外道
 諸経典にこの名前は出てこない。釈尊在世中の外道の一派と推測しておく。
―――
邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
―――
須達長者
 釈尊に祇園精舎を供養した舎衛城の富豪。須達は梵名スダッタ(Sudatta)の音写で、善施・善与と訳す。貧しい孤独な人に衣食を給したので、給孤独長者とも呼ばれた。王舎城の竹林精舎で釈尊の説法を聞いて帰依し、舎衛城に精舎の建立を発願した。その後、祇陀太子の協力を得て祇園精舎を建立し、釈尊を招いた。釈尊は20年間、この精舎に留まり説法したといわれる。
―――
報身
 仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
法如如の智
 真理に乗じて究竟の仏果に至る報身如来の智慧をいう。
―――
如如
 ありのままの姿・真実のあり方。
―――
如如真実の道
 真如・真実の仏道のこと。菩薩が真理にかなう智慧をもって仏因から仏果に至る道を示す。
―――
妙覚
 ①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる]。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。
―――
盧舎那
 普通には毘盧遮那が法身をさすのに対して盧遮那は報身をさすのである。
―――
法性
 諸法の天性・悟り・生命・一念・心性・境涯等をいう。
―――
法界
 意識の対象となる一切の事物・事象。有情・非情にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象・界は差別・境界。
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 ここでは、本抄を構成する三つの柱の最後である仏の法・報・応三身について釈されている。ただし、応身についての釈の部分は欠落したと思われ、本文にはない。
 初めに、法身について釈されているのであるが、まず天台大師智顗が法華玄義巻一上に引用した「大経」すなわち涅槃経の文を引用されている。これは、一切の法は本来、仏法であるとの理を証すために引かれたものである。
 その意味するところは、一切の世俗の法もこれを如来の眼から見るとき、そのまま第一義諦の真理なのである。しかし衆生は一切が仏法であるとは思わず、これを顛倒して世法を第一義諦の心理、あるいは迷いの世界と悟りの世界とは別々のものであるとの迷見に執われている、というものいである。
 もとより「自・他・依・正・魔界・仏界・染・浄・因・果」などと区別されるように、一切法は互いに異なっているようであるが、如来の眼からみれば、ことごとく諸仏の法身に背くものではなく同一であるということになる。
 したがって端的な例でいえば、一闡堤・不信の善星比丘と信心深き楞伽王、般若蜜外道の邪見と須達長者の正見とは同一不二で異ならない、ということになる。そして、法身の根本は衆生の当体そのものにほかならないのであり、十方諸仏の行願もただこの法身を証得するためである、と結論されている。
 次に報身について釈され、初めに天台大師智顗の法華文句巻九下の文を引かれている。この文は如来寿量品の題号を釈するうち「如来」の意義について説き明かしたものである。とくに、報身如来についての箇所である。内容は、法性平等の如如の智慧が如如真実の道に乗じ来たって妙覚の極果を成就するゆえに如来というと述べ、次いで如来とは、その智慧が真如法性の理に称うところをさすのであるが、その理のほうについて“如”といい、智慧のほうについて“来”と名づけるとしている。そして、このように智慧をもって法性の理を証得した仏身を報身如来というのであり、報身如来は梵語で盧遮那と呼称されているが、これを意訳して「浄満」といい、さまざまな修行の結果、あらゆる染法を払って清浄となり、「報い」としてその身が万徳に満たされた如来をいう、と釈している。
 この智顗の釈を挙げられたうえで、大聖人は次のように注釈を加えられている。すなわち、如如法性の智が如如真実の道にのっとって修行し、その結果として妙覚究竟の理がともに法界と冥合するものである。このとき、理のほうを“如”と名づけ、智のほうを“来”と名づけるのである。と。
大師大経を引いて「一切の世諦は 若し如来に於ては即ち是第一義諦なり衆生顛倒し非ずと謂えり」と釈せり
 大師とは天台大師智顗のことであり、大経とは大般涅槃経のことである。智顗は法華玄義巻一上の生起を明かす段の文において、涅槃経巻十二・聖行品を取意して引用している。
 聖行品の文は、仏と文殊師利菩薩との問答を通して、世諦・第一義諦それぞれの意義と関係性を明かしたものであるが、その問答を要約して、智顗は引用しているのである。
 文中“一切の世諦”とは現実社会、世間における心理をさす。このような一切の世諦も、一切法即仏法と悟った如来からみれば“第一義諦”という最高にして完全な心理と別のものでない、ということである。このように仏・如来にとっては第一義諦と世諦とは同一不二のものであるが、一切法即仏法と知らない凡夫は、世俗諦と第一義諦とは異なり別のものであるとの顛倒を起こしているのである、ということである。
自他・依正・魔界・仏界・染浄因果は異なれども悉く皆諸仏の法身に背く事に非ざれば
 先に説かれた一切の世諦が第一義諦であるという世法即仏法の原理を、大聖人が更に具体的に釈されているところである。
 この文で“一切の世諦”にあるものは、自と他、依報と正報、魔界と仏界、染法と浄法、因と果など差別、区別をもって顕れている法であり、“第一義諦”にあたるが「諸仏の法身」である。法身は永遠・絶対の真理を身体とする如来・仏のことで、その当体はまさに第一義諦そのものにほかならない。したがって、自・他、依・正などの世諦もことごとく諸仏も法身も同一不二である。また、そこから必然的に自他不二、依正不二、魔界即仏界、染浄不二、因果不二となることはいうまでもない。
此の法身の本は衆生の当体なり
これまで、世諦即第一義諦、世法即仏法、更に自他・迷悟・善悪・信不信・衆生即仏などの同一不二が説かれてきたのを受けて、報身の根本は衆生の当体そのものであり、この法身の真理を悟り究めたのが「十方諸仏」であると結論されている。
 ここで留意しなければならないのは、法身即衆生といっても、それは真理に即してのことであって、その心理を覚知するには行願が満たされなければならないということであり、衆生は現実に苦悩の迷い生死の苦悩に陥っており、どこまでも成仏を目指して正法を信じ修行しなければならないのである。
大師の云く「法如如の智如如真実の道に乗じ来つて覚を成ず智如の理に称う理に従つて如と名け智に従つて来と名く即ち報身如来なり盧舎那と名け此には浄満と翻ず」
 天台大師智顗の法華文句巻九下において報身如来について釈した文である。“如如”とは、ありのままで生滅変化しないものをさし、真如と同じである。“法如如”とは諸法においてどの事象もみな如であることを強調するようにいう。
 さて、法身如来について、智顗は「如とは法如如の境は非因非果にして、有仏無仏、性相常然なり、一切処に遍じて而して異なりあること無きを如と為し、動ぜずして而して至るを来と為す。此れを指して法身如来と為すなり」と説いている
 すなわち、法如如の境は非因非果であり、有仏無仏に関わらず常住している真実そのものであり、その真理を体とするのが法身如来であるというのである。この法身如来を覚知することが正覚であり、この正覚を成じて仏となるのであるが、そこに自ずから覚知する智と覚知される境とあることはいうまでもない。覚知される境が法身、覚知する智が報身である。覚知する智を“法如如の智”といい、覚知される境を“法如如の境”あるいは“如如真実の道”とういう。
 したがって、報身如来の文についても明らかなように、法如如の智が堺としての法如如の真実の道にのっとって、遂に智によって法如如の境を照らし究めて、初めて妙覚を成就するのである。このことから、報身如来の“如来”についても、法如如の智が法如如の理にかなうところを如来というのであるが、真如の理そのものについて“如”と名づけ、修行によって出来する智について“来”と名づける、としている。また“法身”については、梵語ローチャナといい、音訳して盧遮那という。ローチャナとは「光輝」「光明の天界」の意で「浄満」と訳されると仰せである。浄満の“浄”とは種々の修行によって、煩悩や生死の苦悩などの迷いの染法が浄化されることをいい、“満”とは修行を積み重ねた結果、その身に万行の功徳善根の「報い」として万徳を具えていることをいう。つまり、浄満の意味は、仏になるための因としての行を積み、その報いとしての功徳を具えた仏身のことをいうのである。
これは如如法性の智如如真実の道に乗じて妙覚究竟の理智・法界と冥合したる時・理を如と名く智は来なり
 この御文は以上の天台大師智顗の報身如来についての文を受けて要約されたものである。“如如法性の智”とは、智顗の“法如如の智”と同じである。真如法性の智を覚知する智慧のことである。“如如真実の道”とは真如真実の仏道のことである。すなわち、菩薩が真如法性にかなう智慧をもって仏因から仏果に至る道にのっとって修行したとき、遂に仏果として妙覚に到達したのが報身如来である。このとき“妙覚究竟の理智・法界と冥合”するのである。すなわち妙覚の仏の理と智とはともに法界と冥合しているのである。このとき、理とは境としての法界であり、智はその法界を把握する智慧ということができる。更に、この理と智とを“如来”に配すると、境としての理は真如としての“如”であり、理を把握する智は境としての理によって出て来るので“来”となるのである。
 以下本章は以降の文が欠落していると思われるが、応身如来についての天台大師の文は「如実の智を以って如実の道に乗じて三有に来生して正覚を成ずることを示すは、すなわち応身の如来なり」とある。如実の智が如実の道にのっとることは報身如来と同じであるが、その結果、三有つまり三界六道の迷いの世界に生まれて、そこで正覚を成ずることを示すのが応身如来であるとしている。
 また「如如の境と智と合するを以っての故に、即ち能く処処に正覚を成することを示す。水銀は真金に和して能く諸の色の像を塗る。功徳は法身と和して処処に応現して往く。八相成道して妙法輪を転ずるは、即ち応身の如来なり」とあり、応身如来とは三界六道の衆生を救済するために、衆生の機根に応じて現れ、法を説く仏身であることが明かされている。