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立正安国論講義0017~0035奥書 御勘由来 別状
0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かす
0017:01~0017:09 第一章 災難の由来を問う
0017:10~0017:14 第二章 災難の根本原因を明かす
0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引
0017:15~0018:01 第一章 災難由来の経証を問う
0018:02~0018:12 第二章 経証の一 金光明経
0018:13~0019:03 第三章 経証の二 大集経
0019:04~0019:08 第四章 経証の三 仁王経
0019:09~0019:10 第五章 経証の四 薬師経
0019:11~0020:04 第六章 再び仁王経を挙ぐ
0020:05~0020:10 第七章 再び大集経を挙ぐ
0020:11~0020:13 第八章 四経の明文により災由を結す
0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す
0204:01~0020:16 第一章 仏法興隆をもって問難す
0020:17~0021:01 第二章 世人法の正邪を知らざるを喩す
0021:01~0021:05 第三章 仁王経等により悪侶を証す
0021:06~0021:11 第四章 法華経を引き悪侶を証す
0021:12~0021:16 第五章 涅槃経を引き悪侶を証す
0021:17~0024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かす
0021:17~0022:01 第一章 正法誹謗の人・法を問う
0022:02~0023:03 第二章 法然の邪義撰択集を示す
0023:04~0023:09 第三章 法然の謗法を断ず
0023:09~0024:04 第四章 選択集の謗法を結す
0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示す
0024:05~0024:15 第一章 法然の邪義に執着するを示す
0024:16~0025:05 第二章 現証を以って法然の邪義を破す
0025:05~0025:15 第三章 中国における亡国の現証を挙ぐ
0025:16~0025:18 第四章 日本における亡国の現証を挙ぐ
0026:01~0026:12 第六段 念仏禁止の勘状を奏否を明かす
0026:01~0026:03 第一章 法然の謗法を弁護す
0026:04~0026:05 第二章 仏法の衰微を歎ず
0026:06~0026:08 第三章 謗法訶責の精神を説く
0026:09~0026:12 第四章 法然等、上奏により流罪されるを示す
0026:13~0030:07 第七段 布施を止めて謗法断絶を明かす
0026:13~0026:18 第一章 災難対治の方術を問う
0027:01~0027:03 第二章 国家安穏天下泰平の原理を説く
0027:04~0027:12 第三章 涅槃経を引き謗法訶責を説く
0027:13~0028:03 第四章 仙予国王の謗法断絶を示す
0028:04~0028:05 第五章 守護付属の文を挙ぐ
0028:06~0028:11 第六章 正法護持の方軌を示す
0028:12~0029:11 第七章 有徳王・覚徳比丘の先例
0029:12~0029:13 第八章 念仏無間の文を挙ぐ
0029:14~0029:17 第九章 経証により謗法治罰を結す
0029:18~0030:07 第十章 国中の謗法を断ずべきを結す
0030:08~0030:18 第八段 謗法に布施を止めるの意を説く
0030:08~0030:09 第一章 経文の如く斬罪に処すべきかを問う
0030:10~0030:15 第二章 僧尼殺害の罪を挙げて問う
0030:16~0030:18 第三章 謗法に布施を止める意を説く
0031:01~0032:17 第九段 正法に帰し立正安国を論ず
0031:01~0031:06 第一章 正法正師に帰すを期す
0031:07~0032:06 第二章 重ねて謗法対治を促がす
0032:07~0032:09 第三章 仁王経をもって謗る法の果報を示す
0032:10~0032:12 第四章 念仏無間地獄の経文を挙ぐ
0032:13~0032:17 第五章 結して立正安国を論ず
0032:18~0033:04 第十段 領解して謗法対治を誓う
0033:01~0033:07 安国論奥書
0033:01~0035:16 安国論御勘由来
0035:01~0035:01 安国論別状
0035:01~0035:01 2015:04月号大白蓮華より 先生の講義
0017:01~0017:14 第一段 災難由来の根本原因を明かすtop
0017:01~0017:09 第一章 災難の由来を問うtop
| 0017 立正安国論 文応元年七月 三十九歳御作 与北条時頼書 於鎌倉 01 旅客来りて嘆いて曰く 近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に 02 斃れ 骸骨路に充てり死を招くの 輩既に大半に超え 悲まざるの族敢て一人も無し、 然る間或は利剣即是の文を 03 専にして 西土教主の名を唱え 或は衆病悉除の願を持ちて 東方如来の経を誦し、 或は病即消滅 不老不死の詞 04 を仰いで法華真実の妙文を崇め 或は七難即滅七福即生の句を信じて 百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因 05 て五瓶の水を灑ぎ有るは 坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、 若くは七鬼神の号を書して 千門に押し若くは 06 五大力の形を図して万戸に懸け 若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て 若くは万民百姓を哀んで国主・国 07 宰の徳政を行う、 然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ 乞客目に溢れ死人眼に満てり、 臥せる屍 08 を観と為し並べる尸を橋と作す、 観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ 三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此 09 の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや -----― 旅人がやって来て嘆いていう。 ここ数年今日まで、天異が天下の至るところで起こり、飢饉や疫病が地上に席捲している。牛や馬が町や村の小道で行き倒れ、骸骨が大きな道路に満ちている。亡くなった人はもはや半数を超えるというありさまで、悲しまない者は実に誰一人としていない。 そのため、「利剣即是」との文をひたすら信じて西方の極楽世界で教えを説いている阿弥陀仏の名を口にしたり、「衆病悉除」との誓願を信じて東方の浄瑠璃世界の薬師如来の経を唱えたり、「病即消滅・不老不死との文を信仰して真実の経である法華経の素晴らしい経文を尊崇したり、「七難即滅・七福即生」との一句を信じて百人の講師による延べ百回の仁王経の講義を行ったり、秘密教である真言の教えによって五色の瓶の水を頭に注ぐ儀式を行ったり、座って精神を集中する修行を完璧に行い空観を修めて心を晴れわたった満月のように清らかにしたり、また七鬼神の名を書いて家々の門に貼ったり、五大力の姿を描いて家々の戸に懸けたり、天地の神々を拝して四角祭や四境祭を催したり、国民・民衆に慈悲の心を懸けて一国の主や地方官が善政を行ったりしている。 しかし、ただ憂慮を深くするだけであって、ますます飢饉・疫病に責められ、物乞いをする人はいたるところで目につき、死人を見ないことがない。遺体が積み重なって物見台になるほどであり、遺骸が並んで橋になるくらいである。よくよく考えてみると、日と月の二つも壁のように欠けることなく照り輝き、五つの惑星も珠を連ねたように美しく輝いている。また仏法僧の三宝もこの世に厳然とあり、八幡大菩薩の守護が終わる百代目の天皇にまで至っていないのに、今の世の中は早々と衰えてしまい、仏の教えはどうして廃れたのか。これはどのようなとがめにより、これはどのような誤りに由来するのか。 |
旅客
①旅人②客人③仏法に無知な人。
―――
近年より近日
近頃の意味。「立正安国論」には「近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ 骸骨路に充てり死を招くの 輩既に大半に超え 悲まざるの族敢て一人も無し」(0017)とある。
―――
飢饉
農作物が実らないで、食料が欠乏すること。
―――
疫癘
疫病 伝染病、流行り病、ウイルス性感染症のこと。
―――
或は利剣即是の文を専にし
中国唐代の浄土宗の祖・善導の著『般舟讃』中の語。なかで、三千仏名経の「罪の縄は心を縛って九百劫を経るとも解け難く脱し難し。唯仏名猛利の剣に在るのみ」の文をとって、煩悩・業・苦を断ち切る利剣は西方安養浄土の弥陀の名号を称えることであると説いた文をさす。
―――
西方教主
阿弥陀如来のこと。阿弥陀経など浄土三部経で、阿弥陀は西方十万億土の教主であると説くので、西土教主とよんだ。その国土を極楽、安養、安楽世界ともいう。浄土宗の開祖たちは、この世、娑婆世界は穢土であるから幸福は西方極楽浄土へ往生する以外にないといい、念仏を称えて死ねば阿弥陀が観音、勢至の二菩薩を従えてその人を迎えに来て、極楽へ往生させてくれると説いた。これは、法華経で「我常在此・娑婆世界・説法教化」(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)と説いた釈尊の教えに反する思想。また、現実への諦めと無気力化開祖の善導自身が深く娑婆世界を厭い、柳の枝から自殺をはかった後、苦しんで死んだという。
―――
衆病悉除の願
天台宗の祈祷。本願薬師経の第七願に「願わくは我来世に菩提を得ん時、もし、もろもろの有情、衆病逼切にして救い無く帰する所無く、医無く薬無く、親無く家無く、貧窮多からんに、我が名号ひとたび其の耳に経んに、衆病悉く除き、身心安楽ならん」とあるのをいう。薬師如来が立てた十二願の一つで、薬師如来の名号を聞けば衆病ことごとく除くというもの。
―――
東方如来
薬師如来のこと。その国土が東方浄瑠璃世界であるので、こうよぶ。
―――
病即消滅不老不死の詞
『薬王菩薩本事品第二十三』に「此の経は則ち為れ、閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞きくことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」とある経文。天台法華宗の者は病魔の退散を祈った。この文の「此の経」とは、すぐすぐ前に「我が滅度の後、後のの中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、くはんだ等に、其の便を得せしむること無かれ」とあるように、末法出現の大白法をさしている。
―――
法華真実の妙文を崇め
天台宗でも法華経を真実とし、これを崇めるが、天台流の文上仏法では災難を対治し、成仏得道できる法ではない。
―――
七難即滅七福即生の句
『仁王般若経受持品』に「其の国土の中に七つの難とすべき有り、一切の国王是の難の故に般若波羅蜜を講読為せば、七難即ち滅して七福即ち生ぜん、万姓安楽、帝王歓喜せん」とある経文。経によって若干相違がある
仁王経の七難
一、日月失度の難、
二、星宿失度の難、
三、諸火梵焼の難、
四、時節返逆の難、
五、大風数起の難、
六、天地亢陽の難、
七、四方賊来の難
七福
一、悪竜鬼を鎮める徳、
二、人の所求を遂げる徳、
三、輪王意殊の徳、
四、竜甘雨を降らす徳、
五、光天地を照らす徳、
六、能く一切諸々の仏法等を出生する徳、
七、能く一切の国王無上の法等を出生する徳
―――
百座百講の儀
『仁王般若経護国品』に「大王、昔日王有り、釈提桓因頂生王と為り、天に来り上り其の国を滅せんと欲す、時に帝釈天王即ち七仏の法用の如く、百高座を敷いて百法師を請じ、般若波羅蜜を講ずるに、頂生即ち退す」とある経文に依り、国難を退ける修法として、中国では天台大師が太極殿で修したのに始まり、我が国でも宮中で仁王会として行われていました。
平安時代中期から制度化したといわれる。臨時の仁王会は、桓武天皇が延暦13年(0794)新宮に百法師を請じて修したのが初めとみられる。その後、大同3年(0808)には疾疫流行のため修されたと記録がある。ここにいうのも、もとより疾疫対治の臨時の仁王会のことである。なお、仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持してこの道を行ずれば、万民安楽、国土安穏になると説いた経で、古来、法華経、金光明経等とともに、護国の経典として尊崇された。
―――
秘密真言の教
真言宗の教え。秘密とは、真言宗で顕密の二義を立て、法華経等を劣れる顕露教とし、真言三部経を優れたる秘密教としたのである。
―――
五瓶の水を灑ぎ
真言の祈祷に用いる方法で、『大日経疏』に「五宝五穀五薬を加持し、其の中に安置し(乃至)応に潅頂の瓶を欲して取り、浄水を以て貯うべし」とあるように、五つの瓶に、それぞれ五宝と五穀と五薬を入れ、浄水を注いで真言の修法を行うこと。
真言宗で災を払うために行う修法の一種。壇の上に白・青・赤・黄・黒の五瓶を置き、それぞれに金・銀・瑠璃・真珠・水晶の五宝、米・麦・粟・黍・豆の五穀、人参・茯苓・赤箭・石菖蒲・天門冬の五薬、沈香・白檀・丁子・鬱金・薫陸の五香を入れ、これに水をそそぎ、花をさして行う。
―――
坐禅入定の儀
禅宗の修行。坐禅は、禅、禅郡からきたもので、禅那とは梵語、訳して静慮という。端坐して沈思黙念することにより、無心の境にはいり、心性を究明しようとする。 禅そのものは、日本へも早くから伝えられていたが、禅宗は、鎌倉時代に栄西、道元らによってひろめられた。
北条時頼は禅に心を寄せ、宝治元年(1247)、道元が鎌倉を訪れたときに受戒した。
文応元年(1260)に中国から南宋の兀菴普寧がきたのを厚く崇め、建長寺に住せしめている。
入定とは禅定に入るの意で、心を一所に定め、身口意の三業の働きを止めることをいう。
―――
空観の月
禅宗では「修多羅の教は月を標する指の如し」と言い、「叢林に謂う所、直ちに人心を指して、性の仏と成るを見る」と言い、偽経の『大梵天王問仏決疑経拈華品第二』にある「時に於いて長老摩訶迦葉、仏の華を拈って衆に仏事を示すを見て、即ち今廓然とす、破顔微笑して仏即ち告げて言う是れなり、我に正法眼藏涅槃妙心有り、実相無相微妙法門、不立文字、教外別伝、総持任持、凡夫成仏、第一義諦、今方に摩訶迦葉に付属す、言已って黙然たり」という文に依って、釈尊は入滅の時、迦葉尊者に対して、華を拈り、経典の外にある別して肝心の教えを、心を以て伝えたと称して、人心こそ月の本体と見て、空観(諸法は空であると観ずること)を修行するのであります。座禅によってわが心性の月をすませば、無一物の空に達する、こと。
禅宗では戒・定・慧の三学のうち、とくに定の面のみを強調して、仏教の真髄は煩雑な教理の追究ではなく、坐禅修道で直接に自証体得できるとする。すなわち、経典は月をさす指であり、その月とは心であるとする。そして、坐禅観法を修して仏の教えを身に修し、心に観じたならば、一切法はことどとく空であって、心の外に一法もないとする。 このように、禅宗は、経文を軽んじ、「教外別伝・不立文字、直指人心・見性成仏等」と説く。 宗祖大聖人は、これを仏法を破壊する天魔の所為と云われた。 仏は涅槃経に「願って心の師とは作るとも、心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる者あらば、当に知るべし、是れ魔の眷属なり」と戒めている。
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七鬼神
『却温黄神呪経』に「仏賢者阿難に告ぐ、汝当に之を聴受すべし、七鬼神有り、常に毒気を吐き以て万姓を害す、(乃至)夢多難鬼・阿迦尼鬼・尼迦尸鬼・阿迦那鬼・波羅尼鬼・阿毘羅鬼・婆提利鬼の七善鬼。」とあり、七鬼神の名を書いて各家の入り口に張り、熱病等の害を逃れようとしたのです。悪鬼が近寄らず、災いにおかされないと信じられた。
―――
五大力
『仁王経受持品第七』に「若し一切の聖人去る時、七難必ず起こる。大王、若し未来世に諸の国王有って、三宝を護持せば我五大力菩薩を使わして往いて其の国を護らん。一は金剛吼菩薩、手に千宝相輪を持ち往いて彼の国を護らん。二は龍王吼菩薩、手に金輪燈を持ち彼の国を護らん。三は無畏十力吼菩薩、手に金剛杵を持ち彼の国を護らん。四は雷電吼菩薩、手に千宝羅網を持ち彼の国を護らん。五は無量力吼菩薩、手に五千剣輪を持ち彼の国を護らん。五大士五千大神王、汝の国に於いて国中に大いに利益を作さん。当に像形を立てて之を供養すべし」とあり、この経文に依ったのです。 迷信化されて、家の四隅に五大力菩薩を書いた札を貼って、盗難などの災厄よけにする風習があった。
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天神地祇
天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
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四角四堺の祭祀
都の艮と巽と坤と乾の四隅に疫神を祭り、悪鬼を退ける神道の祭り、陰陽道の攘災儀式の一つ。都の東北、東南、西南、西北の四隅に疫神や薬神を祭り、鬼・悪霊などの侵入を防ぐのを四角祭という。それに対して、国の四堺で祭るのが四堺祭である。平安時代以後は、天皇に病気が起こったときなど盛んに行われた。鎌倉時代においては、幕府の四隅で祭るのを四角祭、鎌倉の町の四堺にあたる小袋坂、小壷、六浦、片瀬で祭るのを四堺祭といった。
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万民百姓
万民も百姓も、ともに諸民あるいは国民大衆、民衆等の意である。
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国主国宰
国主は天下の主で、国宰は国の守、地方長官である。
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徳政
人民に恩徳を施す政治で、免税や恩赦や物を施すこと
天皇や執権、宰相、国守等が、自らの財を貧民に施したり、あるいは富豪にすすめて慈善を行わせること。たとえば正元元年(1259)の大飢饉にさいして、2月10日、幕府は山野河海の領有法を定め、陸奥国の地頭に命じて、窮民を救済させた等の記録がある。 その他、徳政の顕著な例としては、元寇の諸国御家人の窮乏を救うために発せられた永仁5年(1297)の徳政令がある。これは没落していく御家人を救うためのもので、一般民衆にまでは及ばなかった。
―――
肝胆を摧く
心を摧くこと。誠情を尽くすことをあらわす。肝胆とは、肝とは肝臓、胆とは胆腑である。すなわち五臓六腑の初めを、それぞれとったのである。ゆえに五臓六腑を、もみ摧く義であり、転じて、心をくだき、心配し、誠心を尽くすことを意味する。
―――
乞客
乞食のこと。
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二離璧を合はせ
二離とは太陽と月。離は「明らか」「並ぶ」「連ぬ」の意があり、易の卦で火、明とされる。ここから日月にあてられるようになった。すなわち、日月が光明らかに、平常どおり運行し、照らしでいるということである。
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五緯珠を連ぬ
五緯とは木火土金水の五つの惑星。この五星が珠をつらぬいたように美しく耀いていること。緯とは、天体のなかにあって、動くことをいい、他の恒星は、相互の位置が固定しているので経という。
―――
三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
三宝世に在し
三宝とは三つの宝の意で、仏と、その教えの法、及びその法を修行し伝持する僧伽、この三つがそろってはじめて仏教が成り立つので、これを世の宝に喩えていったもの。
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百王未だ窮まらざるに
『豊受皇太神御鎮座本紀』に神の託宣として「百王の鎮護孔だ照かなり」(続群1上ー46)とあり、百代の皇孫まで守護されるということが記されており、『立正安国論』が著されたのは、第90代亀山天皇の時ですから「百王未だ窮まらざるに」と仰せられた。
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其の法何ぞ廃れたる
世の中が乱れ、国法が行われず、まさに廃れんとしているありさまを述べられたのであろう。
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立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、その最高峰にそびえる書である。それは、末法の全民衆救済の指南書であり、かつまた未来を映し出して曇りなき明鏡である。時代の変遷にかかわらず、未来永劫にわたる、国家の根本の書である。否、いかなる国家、民族にも通ずる、全世界、全人類に真実の幸福をもたらす偉大なる亀鏡である。
そしてまた、立正安国とは王仏冥合論の別名であり、そこに脈打つ民衆救済の大精神は、実に日蓮大聖人の御一生の総体であり、これをおいてほかに、末法の法華経即日蓮大聖人の大仏法を信ずる行動はないのである。
まことに、この一書こそ、苦悩に沈む民衆を救い、全人類の闇を照らす巨星といえよう。
過去、幾度か、歴史に名を残す哲学者、宗教家、思想家等は、自己の畢生の書を世に問うた。しかし、その書によって、幾人の人間の幸福が、また全人類にどれほどの平和がもたらされたであろうか。相次ぐ混乱と動乱にゆさぶられている世界の現状は、まさにおれらの書に対する厳しい審判といえるのではないだろうか。
しかし、ここに、ともすれば不安と絶望に流転されゆく人類の未来に、偉大なる光明を与え、希望と勇気をみなぎらせ、現実に、この地上から悲惨の二字を抹殺する力強き、生きた書こそ、この立正安国論なりと叫んでやまぬものである。
立正安国論は、日蓮大聖人が御年三十九歳(満三十八歳)の文応元年(1260)七月十六日、幕府の役人の宿屋左衛門入道光則を通じて、時の権力者・北条時頼にあてた、第一回の国家諫暁の書である。そして、その形式は「旅客来りて嘆いて曰く」の冒頭で始まり、旅客と主人の十問九答の問答からなっている。
ここに旅客とは、宗教の是非、曲直も知らず、誤れる宗教に執し、迷妄におおわれた一切衆生であり、別しては、時の国家権力たる北条時頼である。主人とは、一往、愚かな客に対して法華の正法を説き示す人であるが、再往は、実に日蓮大聖人が、日本国の、否、全世界の、一切衆生の主君であらせられることをあらわしているのである。すなわち撰時抄にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0256-11)と。
国家諫暁は、たえず、時の最高権力者に対してなされるものだ。したがって、時には天皇に対してなされ、時には幕府に対してなされてきた。鎌倉幕府が滅び、京都に幕府が移った時に日目上人が天奏を行われたのも、その原理からである。されば、立正安国論の国家の対象たる客人の内容も、時とともに異なるのは当然である。
この民主主義の時代にあっては、民衆に主権がある。さらには、権力者といえども、民衆より送り出された指導者であることも明瞭である。
すなわちこの立正安国論は、現今においては、苦悩に沈み、絶望の淵に立たされた、日本の、全世界の人々に対してしたためられたものであり、別しては、日本の指導者、世界の指導者が、旅客にあたると拝すべきであろう。
されば現今の心ある指導者よ、この果てしなき不幸を絶滅せんと心をくだく指導者よ、静かに日蓮大聖人の言々句々を排せ。大聖人の燃ゆるがごとき、民衆救済の情熱よりほどばしり出る正義の言を聞け。されば、活路を切り開くことができることは絶対なりと、心より訴えるものである。
旅客の最初の質問は、現在の世の中にはありとあらゆる災難が競い起こって、万人が嘆きのどん底にあえいでいるが、これは、いったい何の禍によるのか、なんの誤りによるのであるかとうい質問である。大聖人が、災難の由ってくる根本原因について説かれるための質問である。
当時の三災七難
日蓮大聖人が、この立正安国論を著された当時の世相は、物情騒然たるものであった。大集経にいわく「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固・次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固・次の五百年には我法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」等云々。
末法の初めは西暦1052年(永承7年)とされている。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形式化した釈尊の仏法は、このころから不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の世相を呈するようになった。わが国では、当時摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある時代で、仏教の退廃は目をおおわしめるものがあり、天台宗ですら、慈覚・智証のために謗法と化し、叡山の僧は僧兵と化して東大寺、興福寺の僧兵とともに争い合う醜状を呈した。「中右記」長治元年の条に「近日叡山の衆徒乱る、東西の塔僧合戦す、あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法の破滅已にこの時なるべきか」と嘆いている。1059年、あまり放火が多いので、諸門を警護、1082年、動乱の世を象徴するかのように富士山が噴火、1156年、保元の乱、1159年、平治の乱。これは天皇家、摂関家の間で同族が争い合う姿であった。武家においても、保元の乱後、源氏の棟梁源義朝が、父・為義をはじめ同族の多くを斬らねばならないといった悲劇も生じた。仏教の慈悲の精神が約340年の間(嵯峨天皇の時代から)廃止されていた死刑も、末法にはいって信西入道によって復活した。このような時代の民衆は、あきらめと頽廃的な気分にひたり、それに乗じて浄土宗が広まり、自殺者を大量に出している。
仏法の頽廃、政治の乱脈と、仏法も王法もともに尽き、人々の生命力は極度に弱まり始めたころから、旱魃、飢饉、大火、地震、疫病の流行等、人々はいまだかって見たこともない幾多の災厄に遭遇したのである。
1177年には、4月から延暦寺の衆徒の強訴が起こって半年以上も都を騒がし、4月28日には宵の口の午後8時ごろ、富小路の、ある病人の家から出火し、おりからの大風にあおられて、火は大内裏におよび、都の1/3を失った。都はじまって以来の大火であった。
右大臣藤原兼実は、その感想を「玉葉」に次のように書いている。
「五条より南におこった火が八省司におよんだことは未曾有のことだ。このように延燃するのはただごとではあるまい。火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことに乱世のいたりだ。人力のおよぶところではない」
鎌倉初期の代表的な文学作品の一つといわれる鴨長明の「方丈記」には、この1177年の大火をはじめ、1180年(治承4年)の旋風、1182・83()年間の全国的な大飢饉、1285年の大地震等天変地夭がきわめてリアルに叙述されている。
「築地のつら、道のほとり、飢え死ぬるもののたぐひ、数も不知、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満て、変わりゆくありさまは、目もあてられぬること多かり…京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける、いはむや、その前後に死するもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの路地などを加へていはば、際限あるべからず。いかにいはやむ、七道諸国をや」
「また、同じころかよと、おびただしく大地震のふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとろには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し、地の動き、家のやぶるる音、雷にもことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く、羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲に乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか」
この方丈記等からも、時末法にはいり、人心乱れ、災厄が嵐のごとく、起きてきたことが伺われる。だがこれらの難も、これからの三災七難にすぎなかった。さらに、その後「悪世末法」の経文どおり、阿修羅のごとく、血みどろの葛藤が繰り広げられ、また災いは災いを呼び、三災七難は激烈をきわめ、大聖人が立正安国論を著される直前は、まさにその頂点に達したのである。
平安末期よりも、鎌倉時代にはいって、いかに人心が乱れてきたかは、放火の件数と内容も明らかである。延久3年(1071)から後白河天皇の保元元年の前年(1155)を平安末期とし、保元元年(1156)より分治元年の前年、(1184)までを過度期、文治元年(1185)より建長元年(1249)までを鎌倉前期とすると、鎌倉前期は平安末期よりも、放火事件は2倍にはね上がっている。また同じ放火であっても、平安末期には、怨恨に起因するものが多かったが、それ以降は、むしろ強盗略奪を目的とするものが多くなっている。また、平安末期、過度期においては、公卿や皇族の御所に対する放火が目立つが、鎌倉前期においては、寺院、一般庶民の家の放火が多い。承久3年(1221)の月次記にも「近日放火往々不絶」とある。その後寬喜年間(1229~31)のころになると、一般住宅への強盗放火は甚だしく、刀傷殺害をともなう悪質な犯罪が横行した。いかに民衆の生活が逼迫していたか、これらでも想像できよう。寺院においては、尊勝寺、延勝寺、最勝光院、蓮華蔵院、法成寺等、院政の花やかであったとき営まれた寺院が凋落し、盗人の暴行に任せるのみであった。これらの寺院の末路こそ釈迦仏法隠没を象徴したものであった。
目をおおう惨状
大聖人が文永5年(1268)にしたためられた立正安国論御勘由来には「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す・同二年八月一日大風・同三年大飢饉・正元元年大疫病同二年四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033)とある。
死ぬ人が大半以上におよんだことは、痛ましいかぎりではないか。死が影のごとく身に添い、あたりは屍臭がただよう。餓鬼・疫癘・殺?のとりまく世界の人々の姿こそ、まさしく三悪道・四悪趣の姿ではないか。
特に飢饉の惨状は、目をおおうものがある。領主の過酷な搾取をうけて泥と草に埋まっていた農民や、流亡のはてに都市の片隅に食を拾う貧民は、弱い者からつぎつぎに餓死に追いやられた。
百練抄、歴代編年集成等によると、正元元年に、全国的な大飢饉と大疫病が襲ったときに、京都に死人を食う14・5の小尼があらわれ、内野から朱雀大路を南に行きつつ、累々と横たわる、死人の上に乗ってその肉をむしり食い、目もあてられぬ様を出現したとのことである。いうまでもなく飢饉のために発狂したのであった。
疫病の暴威に対しても、なんらなすすべを知らなかった。そのころの医学では、赤痢などはなおす方法が見あたらず、ましてやそれ以上のコレラ、疫痢、ほうそう等にたっては、その猛威の衰えを待つばかりである。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど生物の生命力が弱っていたかわかる。ゆえに、「天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ」とは短い言葉であるが、いかに民衆が困苦の極みにあったのかがよくわかるのである。医療の方法もなく、貧民救済の手だてもない。骸骨は道いっぱいに横たわり、死ぬ者も民衆の大半を越え、苦難と絶望にうちひしがれ、身近き者の死を悲しまないものはなかった。まことに悲惨の極地である。
時の指導者は、これに対して方法を講じないわけではない。全力をつくしたと思うが、いっこうに効果がないのである。念仏の輩は西方の阿弥陀仏にすがり、天台真言の徒輩は東方の薬師如来を信じたが東西の二仏共に効なく、また法華の妙文を唱えたり、仁王経を誦したりするも、釈尊の経力はまったくあらわれず、真言の者は、真言の儀式によって世を救わんとし、禅宗の連中は坐禅入定によっておのれを救わんとするも、教観ともに力なく、七鬼神および五大力の偶像を千戸万戸に貼るという遇像の権威まったく地に落ち、なんの救いにもならない。陰陽道は天神地祇を祀り、国主国宰は徳政を行うといえども、二階から目薬というほどの慰めも人々に与えることはできない。このように指導者は肝胆を砕き、頭を痛めるけれども、いよいよ飢饉、疫病は増長し、死人と乞食がふえる一方である。重なり合った屍は物見台のようであり、並んでいる屍は橋のように見える。いかに悲惨なことであろうか。この時の民衆の心を察すれば、神も仏も人も頼みにならないといった、あたかも太平洋戦争後の日本人が味わった心境のごときものか、あるいはそれ以上のものであったのか、まことに察するにあまりある。
されば旅客は長嘆息していわく「天に日月あり、星道も乱れなし、世には三宝もいます。かつまた八幡大菩薩の百代の王を守護すとの託宣もいまだ八十九代で百代を過ぎぬのに、なぜかくもこの世の中は衰え切ってしまったのか。なぜ王法もまた滅尽したのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りからこんな状態になったのであろうか」と。人々は、その誤りの根源を知らず、ただ嘆くのみであったろう。最高指導者たる北条時頼が、これをしらなかったということは、実に甚だしきものである。「前車の覆えるは後車の誡め」である。現代の指導者も深く心すべきであろう。
大法興廃の瑞相
しかして、一方では、当時の人々は、このような苛烈な三災七難をうけ、真実に民衆を幸福にしきる大思想、大宗教を求めたのも必然であった。一方では貴族化し、廃退した既成仏教への不信と疑惑をいだきつつ、他方では、真に民衆に根ざした力ある宗教を人々は心の底より欲していたのだ。だが、無智のゆえ、あえぎ、あせり、念仏のごとき低級なる宗教を氾濫させてしまったことも事実である。
されば、この三災七難の姿こそ、大仏法興隆の前相であり、大善の前の大悪であった。顕仏未来記にいわく「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508-11)と。
文中「聖人生れたまわんか」とは、末法の御本仏、日蓮大聖人の御誕生である。「大法興廃の大瑞」とは、興るは大聖人の仏法、廃は釈迦仏法を意味し、当時の三災七難は、釈迦仏法では、もはや民衆を救うことができないという実証であり、大聖人の仏法興隆を示す御文である。まことに、日蓮大聖人のご出現、大白法たる大御本尊の顕現は、時のしからしむるのみとしかいいようがない。
世界史上の三災七難
世界史のうえからは、また13世紀から15世紀にかけて、あらゆる面で大変動期であり、日蓮大聖人の大仏法出現と時を一にするのは、まことに不思議というべきである。なぜならば日蓮大聖人の大仏法こそ一閻浮提広宣流布、すなわち、全世界の民衆を救うべき大宗教なるがゆえである。
そもそも仏法は、キリスト教、イスラム教とともに、世界の三大宗教といわれ、また世界的宗教ともいわれる。世界的宗教とは国境、民族を越え、全世界に流布し、信奉され、全人類を救済しうる宗教である。
それに反して、ある民族、ある国家においてのみ信奉され、普遍性を持たない宗教が民族的宗教であり、その典型が、ユダヤ教、インド教、そして日本の神社神道でなどである。
しかして、東洋仏法の心髄、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の仏教であり、全人類を救済すべき、最高唯一の世界的宗教なることは、すべての点からみて明白である。
観心本尊抄にいわく「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と。三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022-15)と。
聖人知三世事にいわく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)と。
一閻浮提とは、全世界という意味である。日蓮大聖人の大仏法は、正しく国境、民族を越えて全世界に広宣流布し、全人類を救済せんとの一大宣言であられる。
不思議にも、この世界的宗教の出現と時をおなじくして、世界は活発な文化交流時代に入り、しかも一大変動期を迎えたのである。すなわち、日蓮大聖人が立宗宣言された建長5年は西暦1253年、13世紀の半ばにあたり、大陸においては蒙古軍や十字軍の遠征等があり、海洋においても羅針盤の普及によって東西交流の一大発展期を迎えていた。
13世紀後半、1279年(弘安2年)に本門戒壇の大御本尊が建立され、法体の広宣流布は成し遂げられた。この13世紀を通じて、日本において、東洋において、西欧において、世界的に三災七難が競い起こった。そして、化儀の広宣流布に立ち上がった現在においても、まさに三災七難は、世界的規模においてまきおこっている。「三世各別あるべからず」と。700年前も、現今も、ともに、世界の三災七難が証明となって、日本の広宣流布を推進させ、日本の三災七難が証明となって、全世界へ広宣流布を前進させるものといえよう。
歴史は人間を変え、しかして人間を進める。人間の意志は、必ず歴史を発展させずにはおかない。世界広布の大思想は、実にわれらの強き一念で決定しゆくとの大確信に立って更に勇ましく前進しようではないか、
西欧社会の黎明は、15世紀のルネサンスに始まるといえよう。しかしながら、日本の黎明、東洋の黎明は、それより2世紀も早い、13世紀に、すでに輝かしい第一歩を踏み出していた。これこそ、人間の自由・平等・尊敬をたたえた仏法民主主義、日蓮大聖人の大生命哲学の誕生である。
大聖人仏法の世界的意義
ここで、世界史上より見た三災七難の様相をとらえ、かつ世界的大変動を論じ、日蓮大聖人の仏法の世界史的意義を明らかにしたい。
国際海洋学研究委員会の会長を務めたことのあるペターソンの研究によると、歴史時代に入ってから、北欧における苛烈な気候は、13世紀から15世紀にかけておこっているという。アイルランドの古記録によれば、14世紀冬、狼の群れがノルウェーからデンマークへ、海の氷の上を渡って移動したとあり、そのころバルト海は隅から隅まで氷が張りつめていたことが伺われる。南欧でも、寒波がしばしば襲って来て、作物がとれず、飢饉が起こったと記述されている。
また、前述のごとく13世紀という世紀は、欧亜世界の歴史のうえで、かってない恐るべきエネルギーが荒れ狂った時代であった。すなわち蒙古族の勃興、蒙古の欧州遠征、元の建国がそれである。13世紀の初頭、東北アジアの草原でモンゴルを統一したテムジンは、1206年(元久3年、建永元年)、チンギス汗と称して、不敗の騎馬軍団をもって四方へ侵入、モンゴル兵の行くところ、都市も城も破懐つくされ、人々は殺戮しつくされた。
かくして、大空の中の一点の黒雲は、みるみるうちに欧亜全大陸をおおう暴風となり、チンギス汗からオゴダイ汗、グユグ汗、モンゲ汗、フビライ汗までのわずかの4・5代間に、アジア、ヨーロッパにまたがる空前絶後の大帝国が建設された。
すなわち、西遼に代わったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、その西のトルコ系中央アジアの大国ボラズムを倒し、南ロシア方面を征し、西夏、金、南栄を滅ぼした。さらにアジアにおいては高麗を征服させ、雲南、安南、チャンパ、ビルマ、ジャワ、シャム、スマトラ、インド、チベット、カシミール等が次々と征服された。他方ヨーロッパ遠征軍は、アルメニヤ、ペルシャ、シリアを占領し、ロシアにいたってはモスクワ、キブチャク、キエフを征し、さらにポーランドを破り、モラヴィア、ボヘミヤを経てオーストラリアに攻め込んだ。オーストラリアの首都、音楽の都ウイーンには、現在も700年前の蒙古に備えて築いた城壁が残っているほどである。さらにハンガリーに侵入し、ドナウ左岸等を荒廃せしめた。
かくして、シリア以東のイランイラク地方を平定して、イル汗国、シベリア、南ロシア方面にはキプチャン汗国、外モンゴル西部にはオゴタイ汗国、中央アジアにはチャガタイ汗国、という四汗国がつくられた。ヨーロッパ諸民族は、これを黄禍として、恐怖におののき、なすところを知らぬありさまであった。
フビライ汗の時は高麗を屈服させ、さらに日本の攻略も試しみた。いわゆる文永の役および弘安の役である。この民族の大移動もまた、あの13世紀から始まる苛烈な気候を受けたからであるともいわれる。
大聖人の御一生と蒙古軍
日蓮大聖人が御誕生の1222年(承久4年)には、蒙古軍がインドに迫っていた、インドは大聖人御誕生の16年前、1206年(元久3年)にはすでにイスラム教によって武力制圧され、仏教は全く尽滅していたのである。さらに、大聖人が16歳で出家された1237年(嘉禎3年)には、蒙古軍は長駆、ロシアのモスクワやキエフを攻略しており、大聖人が立正安国論を呈出された1260年(文応元年)は、欧亜にまたがる大帝国を築いたフビライが即位した年でもあった。しかし、当時、日本一国あげて、蒙古襲来等は、だれ一人として、夢にも思わなかったことであった。
日蓮大聖人は蒙古の世界侵略をもって、一応、一閻浮提の闘諍と申され撰時抄には、次のごとく仰せである。
「今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ華洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、高麗六百余国も新羅百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし闘諍堅固の仏語地に堕ちず、あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(0264-14)
西欧の三災七難とキリスト教の堕落
また14世紀から15世紀にかけても、英仏百年戦争、チムール帝国の制覇、オスマントルコのヨ―ロツパ侵入等があり、気候の苛烈化と、それにともなう人類社会の変動は、まことに激しいものがあった。その社会の動乱はさらに、飢餓をもたらし、疫病を蔓延だせた。
特に14世紀のペストの蔓延は、言語に絶する悲惨なものであった。アジアに発生したこの疫病は、東方通路を経て1346年南ロシアに侵入し、ヨーロッパ各地で暴威をふるい、1356年に終息した。死亡率はきわめて高く、ヨーロッパの総人口の三分の一は死亡したといわれる。
ここで見落としてはならないのは、キリスト教会の乱脈である。キリスト教では、すでに末法にはいった1054年(天喜2年)には、ギリシャ、ローマの二教会がまったく分離し、同じ年の7月4日には、超新星の大爆発があって、恐るべき大異変に人々は不安のどん底に陥っていた。さらに1095年のフランスのクレムリン宗教会議以来、十字軍の遠征が、およそ200年にわたって行われた。日蓮大聖人御誕生の前年、1221年(承久4年)に十字軍は第五次を終了し、1248年に第六次が起こされ、ついに1270年の第七回をもって終わるのである。このころから、法王権が急速に衰え、法王庁内部でも分裂などがあり、教会は、腐敗堕落し、その乱脈ぶりは、目にあまるものがあった。しかしイスラム文化との接触によって、世界交流の道がひらかれるという結果を招いたのである。
ペストが大流行した背後には、実にこのような宗教界の腐敗と、それにともなう社会の記風の乱れがあった。当時の教会がいかに堕落していたかは、オランダのエラスムスの「痴愚神礼賛」、イタリアのボッカチオの「デカメロン」、イギリスのチヨーサーが書いた「カンタベリー物語」等に、するどく指摘されているところである。
これ自体、キリスト教がいかに無力であるかの証明である。これ以後、キリスト教は、衰退する一方であり、「アビニョンの幽囚」等の事件とともに、その命脈は断ち切れてしまったといえよう。事実、その後、キリスト教がかつてのような隆盛を示したことが一度もなかったではないか。
一方では、13世紀ごろから、新しきヒューマンニズムの胎動があった。やがてこれは文芸復興となり、中世の幕を閉じることになる。実に不思議なことである。真に、自由、平等、尊敬を、きびしき生命哲学をもって説き明かしたのは、仏法である。東洋に、そのなかでも日本に、今まさに真のヒューマンニズムに根ざした、日蓮大聖人の仏法が興隆するときに、西欧でもまたヒューマンニズムの胎動があったことは、偶然の一致か、さもなくば、時のしからしむるか。時とは不思議なものである。人間生命の奥底の流れが時をつくるのか。また国土のリズム、否、大宇宙のそれ自体が時を形成しているのか。
交通・通信の発達と仏法の伝播
世界広布にあたって、重要な要素は、交通、通信の発達である。現在化儀の広宣流布の時を迎えて、全世界の交通、通信の発達は目覚ましいものがあり、全世界は恰も庭先のごとくになり、通信衛星によって、世界の出来事が、テレビ中継されるまでになったのである。しかして、700年前の法体の広宣流布の時、すでに世界広布の萌芽が芽ばえていたことも、また忘れてはならない。
すなわち東西両洋にわたる陸路の交通は、早くから活発であった。漢の時代以前に、すでに中国と西域諸国を結ぶ、天山北道、天山南道が開拓され、仏教東漸と共に、中国とインドや西域諸国との交流は、いよいよ頻繁になった。漢の時代には、ローマとの交流も行われ、いわゆるシルク・ロードも開かれていった。唐の時代は、法華経を根底とする思想が流布し、中国が世界の中心の観を呈するほど隆盛をきわめ、遠くヨーロッパからも、唐の文化を摂取する動きは活発をきわめた。
特に日蓮大聖人の御在世時代にはいると、蒙古軍のヨーロッパ遠征、さらには四汗国の建設等が、東西交流をいよいよ激しくした。蒙古族は欧亜にまたがる大国家をたてたが、全領土を元朝のもとに統一したのではなかった。フビライ汗のころは、中国本土、満州、モンゴルを直轄地、朝鮮、チベット、安南を直属地とし、キプチャク、イル、チャガタイ、オゴタイの四つの汗国は支配地固有の文化を重んずる統治方式をとった。たとえばキプチャク汗国は、南ロシアのトルコ、スラブ民族のうえにたてられたスラブ化、イスラム化し、ヨーロッパ諸国とも交流した。イラン、イラク方面のルイ汗国は東ローマ帝国やローマ教皇とも親しみ、のちにイスラム教に傾き、これらの四汗国はやがて元朝から離反する傾向を示した。
西洋ではかってマケドニアのアレキサンダー大王が、ペルシャ、エジプト、中央アジアから、インドのまで進出し、ヘレニズム文化を生み出した。その後、日蓮大聖人の御在世時代に行われた、十字軍の七次ににわたる遠征は、地中海を中心として、東洋と西洋との交流を生じ、優勢なイスラム文化を摂取したヨーロッパ民族は、やがてルネサンスの黎明を築くことになった。
特に特筆すべきは、日蓮大聖人の御在世時代から、海洋における交通がきわめて活発化したことである。インド、中国の海洋における活躍は、3世紀から10世紀にかけて、かなり名高かった。11・2世紀頃はアラブ人が活躍し、おそくとも1116年には、アラビア人によって磁石による羅針盤が発明されたともいわれる。また1137年に石に彫刻された地図が残っているし、1155年には地図は実際に印刷されていた。これらの発明は、海上交通に大威力を加え、12世紀後半から、中国はインド洋に他方、やがて東洋の航海学を学んだ西洋の海洋制覇がようやく始まるのである。
1275年すなわち建治元年マルコ・ポーロはローマ法王の書簡をもって、今の開平に到着し、1295年にマルコ・ポーロは中国から航路ヨーロッパに帰った。マルコ・ポーロの「東方見聞録」は初めて日本をヨーロッパに紹介したもので、コロンブスも黄金の国日本というイメージに奮起して、日本をめざして海洋に進出し、アメリカ大陸を発見したものであるという。その後、スペイン人、ポルトガル人等の世界的海洋進出が顕著になった。1405年に中国の鄭和62隻の船と27000人の乗組員の艦隊をもって、ジャワ、シャム、セイロン、インド、ホルムズ等を訪問したことも有名である。これらの海洋における世界交流は、日蓮大聖人の御在世中に始められたことは、誠に意義深いというべきである。
日本に全人類救済の大宗教誕生
次に宗教における闘諍について、キリスト教、イスラム教等については、すでに述べてごとくであるが、仏教はもはや日蓮大聖人の時代に、インド、中国において滅失していたのである。すなわち、インドにおいて、仏教はアソカ大王、カニシカ王、さらにハルシャ王等によって興隆し、平和文化国家を築く基盤となってきたのであるが、ついに8世紀には、イスラム教徒が「コーランか剣か」を合い言葉にインドに侵入し、12世紀には仏教興隆の中心地であったマカダ国も滅ぼされ、1206年、日蓮大聖人出現の16年前に、インドにイスラム帝国が築かれるにいたり、仏教はまったくインドから姿を消したのである。かくしてインドの地は、唯一神アラーを奉ずる低級なイスラム教と、カースト制度をしくインド教に蹂躙され、今日のごとき禍根をいまだに残しているのである。日蓮大聖人は顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508-04)と仰せである。
釈尊の「白法隠没」の金言に違わず、いわゆる釈迦仏法は、末法において全く減尽し去ったのである。しかして、末法の救世主、御本仏、日蓮大聖哲の大仏法が、いよいよ出現するのである。同じく顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)と。そして、法華経の行者、すなわち末法の御本仏は、ただお一人、日本に出現されたのである。
ゆえに、顕仏未来記にまたいわく「五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや…仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり…而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」(0508-01)と。
とまれ私は、この全世界の大変動、ならびに世界交流の姿こそ、大白法興隆の瑞相であり、日蓮大聖人の大仏法が、はじめから、一閻浮提に流布し、全人類を救済すべき生命をもって誕生した大宗教である証拠なりと確信するものである。「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」の未来記をよくよく思い合わすべきである。
安国とは一往は日本、再往は全世界
されば、立正安国といえども、ただ単に日本一国にとどまるものではない。立正安国を仏法と王法に配するならば、立正とは仏法であり、安国とは王法になる。さらに立正の正とは、三大秘法と訳し、安国とは、一往は日本国、再往は一閻浮提である。
日寬上人の安国論文段にいわく。「日我いわく『安国とは一閻浮提に通ずべし、しかも本門弘通の最初は日本国なるべし、本門日輪の行度これを思え』」と。
この御文によれば、立正安国とは、世界の広宣流布であり、そのためには、まず弘通の順序として、日本の、すなわち、世界の真実の平和達成のためには、まず、日本の広宣流布を達成せねばならないとの仰せである。
さらに立正安国論の最後に「三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」とある。
これについて日寬上人は、同じく安国論文段に「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」と仰せである。
すなわち、大聖人のお心は、日本だけの立正安国ではなく、全世界の立正安国である。また、現在すなわち鎌倉時代の当時の立正安国ではなく、700年後の今日、さらに未来永劫にわたって変わらざる立正安国の方程式なりと仰せである。
また、諸法実相抄に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360-09)と。
これまた、大聖人御在世当時の活動、弘通の方程式が、そのまま未来永劫に伝えられていく、との意である。われわれの今日の実践活動が、大聖人の仰せそのままであるとともに、今日の姿が、そのまま未来に、全世界に行き渡っていくことは、いよいよ明瞭である。
これらの御文に照らすならば、まさしく創価学会の今日の活動は、大聖人の御精神にかない、大宇宙のリズムに合致した、新時代の潮流であり、現今の不幸を絶滅し、この地上に絶対の平和楽土を出現する無限の力である。世界的、否、宇宙大の生命をもった日蓮大聖人の仏法は、ここに21世紀を迎えようとしている今日において、われわれの手によって、その開花が見事に成就されようとしているのである。
当時の宗教界
当時の宗教事情は、平安末期から急速に深まりゆく世相の変化に、人々は生きる気力を失い、ただ法然の始めた阿弥陀仏の称名にはかない来世の浄土を期待していた。とりわけ、生きる希望を失った没落貴族たちは、ひとえにこの浄土宗に、巨万の富を与え、むなしい祈りをささげていた。また常の習いであるが、天変地夭の激しくなるにつれ、迷信が横行し、真言の加持祈祷が流行した。
また、当時の仏教界の中心であった天台宗の腐敗、堕落も甚だしかった。伝教大師の時、桓武天皇の前で、南都六宗を打ち破り、比叡山に迹門の戒壇を建立し、輝かしい業績を残したのである。だが、第三代、第五代の慈覚、智証が、本師伝教の精神に背き、真言を取り入れ、いたずらに謗法を重ねて以来、天台宗は国家権力と結びつき、堕落してしまった。もはや叡山は、本当の意味での仏教界の中心ではなくなった。まさに腐敗と混乱の世相の反映であり、泥沼のごとき政争の場であった。
院政期にはいると、座主の地位をめぐる門閥の争いは、激しさを増していった。そして座主の地位をめぐる争いは、直接、政治の動きと結びついた。たとえば、明雲は平氏の力を背景にして座主の地位を得たが、その後、政治の動揺にともなって座主を追われ、また復帰した。寿永2年(1183)には、彼は頼朝調伏のための法住寺に参籠中、義仲の軍にからめとられたうえ、首を斬られたことは、大聖人の御書に詳しい。典型的な真言亡国の還著於本人の現証である。
上層部がこのような状態である。いわんや、一般にいたっては、興学の記風などさらになく、堂衆や寺領の兵士とともにただ暴徒と化していたのである。
特に延暦寺の僧兵と法相宗の興福寺の僧兵との争いは激烈であった。彼らは、互いに寺院を放火しあい、また殺害しあった。時には、彼らの希望が叶えられないと、寺の鎮守神の神輿や神木を奉じて大挙入京し、朝廷や法皇に威嚇をもって直訴した。その度に、たえず血なまぐさい殺戮が繰り返された。
永久元年(1113)の永久の強訴の時に、衆徒の鎮圧を祈願した、石清水八幡宮の宣命には、当時の僧兵の実態がえがかれている。
「ここに頃年以来、神人は濫悪を先となし僧侶は貪婪を本となして、あるいは公私の田地を横領し、あるいは上下の財物を掠め取る。京畿を論ぜず、辺境をいとわず、党を結び群を成して、城をおおい郭に溢れる。ただ人民を滅亡するのみに非ず、兼ねて同侶同伴も鎮に合戦を成す。学をなげうって刀兵を横え、袈裟を脱ぎて甲冑を被る。梵宇を焼失し房舎を破壊す。弓矢を携えて左右の友とし、矢石を以て朝夕の玩びとす。勉学の室、これがために戦場と変じ、修行の場所、それによりて軍陣と成りたり」
まことに大集経の「闘諍言訟・白法隠没」そのままの様相ではないか。
僧侶の堕落
また、僧侶一般についても、あまりにも堕落していた。大宝律令の定めるところによると、僧侶は農民にとっていちばん苦しい課役を免除されていた。そのうえ僧侶になるには身分的制約もなかった。したがって、農民のなかには、僧侶になりたがる者が多かった。律令制がきびしいころは、一定の修行を積んで、国家の公認を得た者に限って出家が許され、国家の公認を得ない者は、私度僧といわれ、厳重にとりしまられた。だが、平安末期よりその体制はくずれ、俄坊主がふえてきた。その質の低下は、恐ろしいほどであった。0914年、三善清行が天皇に奉った「意見封事十二箇条」には「諸寺の年分度者および臨時の度者は、年間、二、三百人もありますが、その半分以上は邪濫の輩です。また諸国の百姓は課役を逃れ、租・調をのがれるために、自分で髪を剃りおとし、法服をまとっている者がこのごろ多くて、天下の三分の二は皆禿首の者です」また「かれらはみな家に妻子をたくわえ、口には生臭いものを食らい、形は沙門に似て心は屠殺人のごとし」と当時の僧侶の実態が述べられている。
しかも寺院には貴族から寄進された多くの所領があり、貴族から絶えず祈祷の依頼があり、豊かな布施が集まった。寺院内での生活は楽であり、花やかであった。彼らは、生活のために僧侶となり、いきおい寺院に集まっていた。生活の利害関係にのみ鋭敏となり、やがて利害と利害の衝突は、激しい葛藤を生み、もはや僧侶は餓鬼界であり、修羅界であり、時には阿鼻叫喚で明け暮れた。
涅槃経に「持律に似像して少し経を読誦し飲食を貪嗜して、其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貧嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と末法の比丘の姿を予言したが、まさに寸分の狂いもなく符合していることに驚嘆せざるをえない。m
僧侶と国家権力のいまわしい結びつきも、いよいよ盛んになってきた。それは災難を除くために為政者が、ただ僧侶の祈祷にたよるしかなかったために、とくに僧侶を重んじたことにも原因がある。また僧侶のほうも、民衆の無智につけこみ、外面では聖人のごとくふるまい、名声を得、また、巧みに権力者に取り入った。たとえば、禅宗の開祖として、禅宗の人々からもてはやされている栄西は、みずから大師の称号を得ようとして、賄賂まで使って運動し、結局は権僧正にしかなれなかったのである。慈円の「愚管抄」藤原定家の日記等にそのことが述べられている。
さらには、念仏者の念阿、禅宗の道隆、律宗の良観等が政治権力を動かしわが世の春を謳歌していた。この時、大聖人が、唯一最高の正法を唱え、邪宗教の根源を明かし、四箇の格言を宣言されるや、彼らは、権力者と結託し権力を動かし、日蓮大聖人を迫害したのである。特に極楽寺良観などは、その最たるものであった。松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆の流罪を行った極楽寺入道重時の背後にもやはり良観の讒言があり、また、大聖人を竜の口の刑場に行かしめたのも、良観が平左衛門尉を動かしたからであった。
念仏への徹底破折
日蓮大聖人は本抄において、念仏宗を特に破折された。それは、当時、念仏者が最もひろまっていたからであり、しかもその害毒が最も人々の生命をむしばんでいたからである。昔から鎌倉武士は心身の鍛錬と実践を重んじたので、禅の気風とマッチし、禅宗が鎌倉武士におおいに支持されたかのように説かれているが、これは誤りである。たしかに建長寺道隆と北条時頼との結びつきもあって、時頼以来、武士のなかには参禅する者が、かなりあったことも事実である。だが、全体としては鎌倉武士もまた、ほとんど念仏を信じたのであり、鎌倉幕府滅亡のときも、たくさんの武士が、最後に念仏を唱えて死んでいったと伝えられている。
大聖人は、浄土宗破折に焦点をしぼられ、これにいっさいの邪宗破折を含められたのであった。安国論をうかつに通読すれば、法然という悪僧が選択集を作って世間の人々を迷わしめ、今や念仏の哀音が一国に流布して、まさに亡国の兆があらわれたという点から、念仏を徹定的に破折されていると拝されるが、第一段において明らかにされているごとく、あらゆる宗教、あらゆる神々、あらゆる政治や道徳などが、すべて邪法の基としているがゆえに、災難が起こるのであるとして、これらの邪法を禁止して、正法を立ててこそ初めて国家は安泰になるのであると説かれている。
時代要求の大白法
以上を結論すれば、当時の宗教界は、まさしく未曾有の混乱期にあったといえよう。人々の心は、次第に腐敗し形式化した既成の貴族仏教から離れ、民衆のなかに根ざした力ある宗教をもとめつつあった。だが、民衆の宗教に対する無智につけこみ、幾多の邪宗教、迷信が横行した。とりわけ、大聖人の立正安国論に「此の一凶」と指摘されたところの念仏宗が、疫病のごとく蔓延した。この未曾有の宗教の混乱こそ、民衆の既成の権威に対する動執生疑であり、新しき偉大なる宗教を求める人々の心の反映なのである。
法華経には大正法が樹立され、流布する時は、このような宗教界の混乱期であると予言している。法華経第七薬王品にいわく「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と。すなわち白法隠没する末法において、大正法が広宣流布するのである。と。同安楽行品にいわく「後の末世の法滅せんと欲せん時」と。これらの類文は数多くあり、枚挙にいとまがない。これは経文ばかりでない。天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べ、妙楽大師も「末法の初め冥利無きにあらず」と断じ、伝教大師もまた「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と叫んでいる。
このように、釈尊、天台、妙楽、伝教の先哲が、ことごとく、絶対の確信をもって、第五の五百歳闘諍堅固の時代に、大白法が流布することを述べているのである。
されば、日蓮大聖人の出現は、偶然ではなく、民衆の渇仰であり、時代の要求であり、歴史の必然なのである。
しかして、それから七百年たった今日もまた、大聖人の時代よりもはるかに混乱せる宗教界の現状である。現在、日本における宗教法人の数は仏教のほかに、神道、キリスト教、その他の諸宗教を含めて約18万宗教人口は約160,000,000(平成19年文科省によれば220,000,000)といわれている。一人で二つ以上の宗教をもっている人がいかに多いかを物語っている。
また、念仏、禅、真言の既成宗教は、形骸化し、宗教としての残骸をとどめているに過ぎない。僧侶とは名ばかりで、信心もなければ、修行もない。一切衆生を救うべき慈悲とか、智慧などまったくない。ただ私利私欲にふけり、ただ葬式と法事と、墓場の番人をやりながら細々と生計を立てている状態である。まことに、700年前の世相と符合しているではないか。
戦後、迷信やいかがわしい宗教が氾濫した。もともと人間の心のなかには、意識するとしないにかかわらず、物質的、精神的悩みを解決したいという本然的な願い、欲求がある。これは人間の幸福を求める自然の心の発露である。これが、あるときは人間の弱点ともなり、また、あるときは人間のたゆまざる努力と研鑽となってあらわれるのである。人々が、迷信や邪教にとびつくのも、悩みを解決したい、幸福になりたいという素朴な感情からである。だが、いかんせん、宗教に対する無智は宗教の正邪、善悪も分かたず、邪宗教にとびつき、生命をむしばまれ、以前よりも不幸に落ち込んでいくのである。
かくして、既成宗教の廃退と新興宗教の簇生という現象は、700年前と今日と、不思議にも一致しているかくれなき事実である。700年前には、混乱と濁世のなかから蓮華の汚泥より生ずるごとく、大聖人の大仏法の出現があった。今日もまた、混乱の極みに達した現代の宗教界を覚醒すべく、宗教革命ののろしを、わが創価学会があげたのである。
是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや
この旅客の質問こそ、当時の心ある指導者のいつわらざる心情であり、この解決こそ、立正安国論の骨髄をなすものである。そしてまた、今日においても多くの人が、否厳密にいえば、あらゆる人がなげかける疑問なのである。
病気を癒すのに、その原因、本体を解明し、そこから正しい処方に従って治療を施さねばならないことは誰でも知っているし、実践していることである。
しかるに、社会、国家をおかす災厄に対しては、往々に、避けることのできないのも、除去することのできないものとして、抜本的対策が立てられない場合が多い。むしろ、ほとんどの場合、災害に襲われたあとで、その場をつくろうのがせいいっぱいという姿ではないだろうか。
いやしくも、一つの社会、一つの国家の幸福と平和について責任を持った指導者であるならば、それを脅かし破壊する災害に対して根本的に究明すべきであろう。
いわんや、民衆の苦しみをわが苦悩とし、社会の全体をわが身と自覚することのできぬ、私利私欲、党利党略の徒は、指導者たる資格がないと知るべきである。
防災技術と災害
ある人は、当時の災害が、あれほど猛威をふるった原因として、科学技術の未発達をあげている。私もまったくそれには異論はない。たとえば旱魃の被害においては、かつての農業技術が、水量豊かなる大河川を灌漑に利用するにいたらず、耕地は大部分が谷川や溜池による劣弱な田畑でしかなかった。したがって、ひとたび早天が続けば稲はたちどころに枯れ、大飢饉となり、人々に甚大な被害を与えた。また、そのうえ、当時、交通が不便で輸送力がなく、豊作の地から飢饉の地に食量を円滑に運ぶことができなかった。これが人々に決定的な打撃を与えたのである。
飢饉の場合は、たしかに交通が発達し、灌漑設備もあり、貯蔵力もある今日、その被害を、きわめて小さくすることはできる。ただし、それすら、もし悪政で、戦争に予算の大部分が費やされ、災害対策に本腰をいれなければ、きわめて大きい被害をもたらすことを忘れるべきではない。
のちに述べるがごとく、20世紀の今日でも、インド、ソ連、中国においてすら相当数の飢饉による餓死者が出ているという惨事が起きている。今日のベトナムでも焦土作戦により飢饉が深まっている。あまりにも悲惨な現実をみるにつけ、かつては太平洋戦争中、われわれはいかに飢餓に苦しんだかという事実を思い起こすにつけ、断じてその惨禍を遠くに考えてはならないと思うのである。さらに、現代における世界的な食料不足は、戦争や人口問題と関連して、きわめて深刻であり、飢餓は去ったというよりも、むしろますます広がりゆく感すらする。地震の場合は、むしろ今日のほうが危険である。大正12年9月の関東大震災では、全壊家屋12万8千戸あまり、半壊家屋12万6千戸あまりに達し、圧死や焼死した人、9万9千名あまり、傷者10万3千以上、行方不明4万8千名あまりに達するという、空前のものであった。
(ちなみに1995:1:17日阪神・淡路大震災の被害は死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名避難人数30万名以上、住家被害 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟、 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 )(東日本大震災は2014年(平成26年)1月10日時点で、震災による死者・行方不明者は18,524人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万9,284戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においては、避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、2013年12月12日時点の避難者等の数は27万4,088人となっており、さらに福島原発事故における被害は算定されていない)
ある気象台長のA博士は、次のように語っている。
「大正の関東大震災は、正午ごろ起こった大地震で、あれだけの大事件となったのである。もし、あの大地震が夜中に起こったとしたら、災害は当然倍加したであろう。大地震となると必ず停電と断水が起こる、真っ暗のなかで逃げ惑うのは、文化生活になれた現在のほうが一層危険である… こう考えてくると、震災に対する対策はできていないのである。徳川時代よりも、また近くは大正時代よりも、現在では一段と恐ろしいものになってきている」
また、飢饉に役立つダムもひとたびそれが決壊すれば、大洪水をもたらす危険がある。昭和34年にはフランスのマルパッセ・ダムが、昭和37年にも韓国最大の灌漑用ダムの一つが決壊している。もし、大地震によって決壊すれば、まさに決定的な打撃を与えることであろう。また、東京のように密集し低地の多い地域に、再び関東大震災のような大地震が起き、それが津波となったら、その悲劇はいかばかりであろうか。
風災害に対しても、いまだにその対策の見通しは、決して明るいものではない。特に、東京湾、伊勢湾、大阪湾、有明海および周防灘で頻発する高潮の被害は、絶大である。
昭和34年9月26日の夜、紀伊半島から上陸した伊勢湾台風は、中部日本に大風水害をもたらし、とりわけ、中京地区の海岸低地に驚くべき高潮が起こり、有史以来最大の水害となり、死者、行くえ不明を合わせて5098名の犠牲者を出した。
それでは、疫病についてはどうか。たしかに、今日、医学の発達により、伝染病による死亡率はぐんぐん減っている。これは大きな成果であり、賞讃すべきことである。だが、病気それ自体はいっこうに減っていないのである。それそころか、薬品に対する細菌の耐性ができ、また多くの薬品投与のために、からだ自体が薬負けしてしまうという新しい事実に直面した。また農薬による奇病、さらに工場の煤煙による病気も増えている。1952年ロンドンでは、12月4日から9日まで続いたスモックで4000名の死者を出し、1962年12月3日から7日までも750名の死者を出している。死因の大半は気管、心臓障害によるもので、工場の煙突や暖房用の家庭の石炭に含まれる亜硫酸ガスが冬の平均の10倍以上になって、この惨事を巻き起こしたのだった。また、工場から流される汚物によって、多くの原因不明の病気が起こっていることも事実である。サリドマイドの悲劇はいうに及ばす、今日でも、なお、薬品の中には、しばしばかえって有害もものすらあることも残念ながら事実である。
しかもこのような、薬品の検査等の医療機関の問題は、現在山積し、未解決のままになっている。なお、原水爆の出現による放射能障害は、文明病の最たるものであり、これにより人類は滅亡すらしかねない。さらに、ガン、また遺伝子病、神経系統の病気等にいたっては、現代医学ではいまだまったく無力に等しい。されば、現代の医学者をして、原因不明で治癒できぬ病気があまりにも多いことを嘆かしめ、また「医学は、今のところ、毛一本生えさせることもできず、にきびのあとをきれいにすることすらできない」とまでいわしめているのである。
さらに現代医学が、今や大きな壁にぶつかっていることは、見逃すことが出来ない事実のようだ。生命を、部分である器官の総合とし、生命全体を考えることなく、また病気を普遍化させるだけで、個人の特殊性を無視して治療にあたるといった態度が、むしろ医学を停滞させ、どうしようもない泥沼に堕ち込ませてしまうのではないかということも心配される。所詮、生命に対する正しい認識なき医学は、偏狭なる、むしろ有害な術に堕すことは必然である。
科学技術の限界
以上のように、今日もなお災害亡くならず、否、むしろ新しき災害に直面しているともいえよう。ましてや、戦争等の劣悪な政治のために災害対策を軽視すれば、災害はその虚をついて暴威をふるうことであろう。しかも、その危機にいつもさらされているのが、地球上の現状である。
また、大宇宙の運行からみれば、これらの防災技術は、まことに微々たる力でしかない。今日、物理学等の科学の偉大なる進歩によって、幾多の発見がなされてきた。このままいけば、一切わかるように思う人がいるかもしれない。だが、科学者はそのような甘い考えは決してもっていない。科学の発達によって知ったことは、ますます宇宙の不思議がひろまるばかりであることだ。
されば、これからますます科学技術が発達し、人間の英知と努力で、災害を克服していくだろう。それは、われわれの悲願であり、願望である。だが、それによってわかることは、いつも新しい災害にぶつかるという厳粛な事実である。しかも、災害はいつも意表をついて起き、のちになってさまざまな対策が論じられ、しばらくして、忙しさにまぎれて、忘れ去られてしまう悪循環にある。
A博士は次のようにも述べている。「私たちは科学の進歩につれて、災害は克服できるかの如き錯覚を持つ。しかしこれは大きな間違いである。防災科学の進歩によって、ふるい型の災害は漸次軽減されていく。かつて人間の住まなかった河海縁辺の低地にも、その土地の利用価値の故に、工場や家を建てたりするから、昔なかったような水害が発生する。新しい技術革新の風潮にのって、現れた構築物が、思いもうけぬ地震にあって、脆い実態をさらけ出す。…災害はいつの世になってもなくならず、繰り返し起こる。しかも人間は絶えず災害を克服しようと努力する。したがって、既存のかたの災害は軽減できるが、せちがらい社会にはまた新しい型の異常災害がおこる。そして、時としては、新しい型の災害が、最も猛威をふるうのである」
また、今日の科学技術は、必ずしも平和のために使われず、往々にして、いや、大部分が、戦争のために使われてきたし、また使用されつつあるかなしむべき現実ではないか。しかも、戦争それ自体が大いなる災害ではないか。されば、「是れ何なる禍により是れ何なる誤りに由るや」700年前の疑問は、時代移り、今日に至るも、依然としてあらゆる人々の疑問なのである。
結論からいえば、この解決は、真実に、正しき生命観、社会観、世界観、宇宙観を説ききった日蓮大聖人の大生命哲学による以外に絶対にないということだ。私は、ここでなにも科学技術の発達を軽視しているわけでは絶対にない。いや、人類に対する貢献は絶賛すべきである。だが、科学技術だけで災害を克服できるというのは、科学を知らない人の発言である。私は、この科学技術を真に生かすためにも、また科学技術を越えた問題については、さらにこれから、一念三千の生命哲学、依正不二の理論等で解明することにして、本章では、科学技術だけで災害はなくならないと述べるにとどめておく。
悪政と災害
次に、災害を防ぐためには、政治を正し、災害対策に万全を期すことが大事であることを述べる人がいる。これも、私のもっともとするところであり、否、それだからこそ、私は、政治は大衆福祉をめざすものでなければならぬと主張しているのでる。
災害と政治の関係をさらにみていくならば、次のことは、歴史のうえからはっきりいえることである。それは悪政の時に、最も災難が猛威をふるうということである。すなわち、指導者が民衆を忘れ、自己保身にやっきとなり、互いに政争に明け暮れ、修羅闘諍を事としているときに、災害が最も大きくあらわれるという厳然たる事実である。または、独裁的な指導者の気ままな感情や、人間生命を蔑視する偏狭な、そして冷酷なる思想が、悪政をもたらし、そのはてに大災害に見舞われるという冷厳なる実相である。
大聖人の時代
たとえば文永10年(1273)ごろから、諸国に飢饉が起こり、さらに建治3年(1277)の春以来、全国的に疫病が蔓延し、弘安元年(1278)に至るも猛威をふるっていた時代がある。
このころの悲惨なようすを、日蓮大聖人の御書には、次のように描写されている。
「日本国数年の間打ち続きけかちゆきて衣食たへ・畜るひをば食いつくし・結句人をくらう者出来して或は死人或は小児或は病人等の肉を裂取て魚鹿等に加へて売りしかば人是を買いくへり此の国存の外に大悪鬼となれり、又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す、十家に五家・百家に五十家皆やみ死し或は身はやまねども心は大苦に値へりやむ者よりも怖し、たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・天地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・心あらん人人争か世を厭はざらん、三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候」(1389-04)
「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす、民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬とエン猴とのあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばらくは・やみてみえしかども・鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ候」(1552-02)
この文にあらわれたるがごとく、その時の三災七難は、まことに苛烈であった。だが、それとともに、当時の政情がいかに不安なものであったかを見落としてはならない。この二つの御文のうち、あとのほうに「自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす」とあるが、このわずかな文のなかに、当時の政情が伺えるとともに、災害の根源があますところなく説かれている。「自界叛逆」とは、国のなかでの戦争であり、「他界きそひて」とは、他国との戦争である。
文永9年(1277)2月、執権時宗の異母兄の時輔が、自分の正妻の子でないゆえをもつて、家督を時宗にとられたのをうらみ、ひそかに謀叛を企てたのが発覚し、合戦となったのである。時宗は、すぐさま、大蔵頼秀らを遣わし、名越時章らを倒し、ついでに北条義時にと合戦させ、これを滅ぼした。この事件は、人々の心に深刻な動揺を与えた。執権とその兄が争い合う醜い姿が、そのまま世相の鏡に映し出されたのである。この時の世情は、御書に次のように出ている。
「相州鎌倉より北国佐渡の国.其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに.へだて山は峨峨.海は涛涛・風雨.時にしたがふ事なし、山賊.海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし.犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217-10) まことに「自界叛逆して盗賊国に充満し」の世情いかばかりであったろうか。今日においても、「自界叛逆」が民の心を疲弊させ、社会悪をもたらしていくことは、一貫して変わらぬ方程式である。
さらに「他界きそいて合戦に心をつひやす」とは、蒙古軍の攻撃に備えて、幕府が大わらわとなり、九州に大軍を派遣することでいっぱいであり、内政に力を注ぐ余力すらなかったことを示すものである。今日もまた同様である。それは平和産業を犠牲にし、軍需産業に総力をあげた、あの日本の国の味わった苦い体験にせよ、またスターリン治下のソビエトにおける極端な軍需産業のための、数次にわたる5ヵ年計画にもせよ、如実にそのことを示しているではないか。
かくして悪政のために、災害が猛然と日本全国に覆い、民衆を塗炭の苦しみにおいやったことは、当時の明らかなる現象である。
だが、あぜこのような劣悪なる政治にならざるをえなかったか。それを解決すべき道はなかったか。所詮、貪・瞋・癡の三毒に染められた人々の醜い権力争い、自らの保身にやっきとなり、大勢の民衆を忘れる愚かな姿ではなかったか。われわれは、その政治腐敗の現象のみにとらわれてはならない。その底流こそ大事であり、その源こそ窮めねばならないではないか。
室町中期・後期
また、室町の中期、将軍足利義政の時代にはいって、悪政につぐ悪政、暴政つぐ暴政に呼応し、災害は続出し、いたるところで痛ましい惨事が繰り広げられた。
長禄3年(1459)は、年のはじめから天候が異様であり、3月の田植え準備期にはまったく雨が降らず、そのうえ太陽が二つ見えたり、妖星が月を侵すといった異変があり、人心は動揺した。9月には大暴風雨が襲来、賀茂川が大氾濫し、京中の溺死者はおびただしい数となった。そのため京都への米の輸送がとまり、米値が暴騰し餓死者が続出、一揆も盛んに起き始めた。長禄4年(1460)春から初夏にかけては日照りが続き、田植え時に水不足、5月末から一転してひどい長雨、異常低温、夏でも冬着を装う状態、近江では琵琶湖の氾濫のため水田が冠水、さらに悪疫が生じた。さらに秋となり大風、また天をも暗くする猛烈な蝗の群れに、稲が非常な痛手を受ける。
やがて寬正2年(1461)正月から食料不足が全国的となり、2月に入り頂点に達した。正月から2月の終わりまで、京都の餓死者は82,000に達したという。また、一連の飢餓による死人の数は、庶民の2/3におよぶとすら記述されている。ために、賀茂川が死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭はあたりに満ちたという。そのうえ、悪疫が流行し、飢饉とあいまって、毎日、300から6・700と次々死んでいったという。
京中はもとより国中が飢餓にせめられ、苦悩のどん底にあえいでいる時、幕府では大黒柱の畠山家で義就・政長の争いがあり、将軍の義政は、今参の局という貪欲で嫉妬ぶかい側室にふりまわされ、そのなすがままになり、あるいは、土木工事等で民衆をいためつけ、また、公家・武家の貴人たちと、花やかな行列を連ねては、花を見、遊楽にふけったのである。もはや、これでは政治家として失格者であるのみならず、人間としての失格者ではないか。
すでに足利将軍の権威が地に落ちた天文9年(1540)にも大きな飢饉があった。天文年間といえば、義請が12代将軍を継承したが、のちに権臣に逐われるといった時勢であり、世はまったく乱れ、この動乱のさなかの天文8年(1539)9年には、風水害のための飢饉がおこり、おびただしい死者が出ている。民衆の塗炭の苦しみは想像にあまりある。
江戸末期
さらに江戸末期にいても、幕末の三大飢饉といわれる、天明の飢饉(1782~87)、天保の飢饉(1833~39)慶応・明治初期の飢饉(1866~69)も、江戸幕府の体制が崩壊し、指導者の横暴が過酷をきわめたときに起きたのである。西村真琴、吉川一郎編の「日本凶荒史孝」には、天明の飢饉については「弘前・八戸・盛岡の諸領最も凄惨を極め、餓苦し耐へずして人相食むに至る。超えて四年、この歳七八部の作、ところにより豊作の聞ありしも麦収を待つに能わず餓死するもの多く、去年九月より六月まで、津軽一郡のみにて八万七千余と数えられ流亡の民また少からず」等とあり、天保の飢饉については「東北諸国は天保初年より頻りに餓死し、この後も猶やまず、ために餓莩流民極めて多く、四年より十年に至る七ヵ年、津軽一郡のみの死者三万五千六百余、他郷に流離するもの四万七千余人を数えたり」とあり、慶応・明治初期の飢饉についても「慶応二年、この夏陰涼・秋風水の災ありて諸国登らず、これより先、安政六年我が五国通商以降国内の需給円滑ならず。加ふるに維新の変革を前にして天下じょう乱、ために穀路は閉ぢ、商旅通ぜず、去秋より諸物の価謄貴す。幕府仍ち酒造の量を減じ、或は外米の輸入を許可し以てその調整を計りたるも高騰、この秋に至って殆んど底止するころを知らず。庶民大いに飢窮す」等と、いずれも、その苛烈なる災害状況を伝えている。
飢饉だけでなく、大地震も猛威をふるった。嘉永7年(1854)関東大震災に匹敵する大地震が、東海道、東山道、南海道に渡って起こり、倒壊流失家屋は83,000戸、焼失家屋も300戸ほどあり、死者が10,000名にも達した。その余震がさめやらぬ翌10月5日、再び関東大震災に比するほどの大地震が、伊勢湾から九州東部かけて起こり、特に土佐、阿波、紀伊の三国がひどかった。さらに安政2年10月2日にも大地震があり、江戸市中の死者は7000人に達したという。これを世に安政の三大地震という。弘化4年(1847)3月24日の夜、善光寺で阿弥陀如来の御開帳があり、諸国から信者が多数集まってにぎわっていたときに、突如として大地震が起こり、出火が各所にあり、死者が12,000という惨状を呈した。
このほか、災害の例は数を知らず、コレラの大流行、火山の重なる大爆発、およそ明和、安永、天明、寛政以後、明治の初年に至るまで天下に起こった天変災厄は、わが国有史以来、恐らく絶無であろう。百数十か所にわたる百姓一揆、幕末の惨劇、黒船到来等による国内の騒乱、さらに戦乱、政変等もはや書き尽くすぬべもないほどである。
軍閥時代の中国とスターリン治下のソ連
さらに、世界的には、20世紀にはいった今日においても、想像もおよばないような大災害に見舞われている事実がある。
たとえば中国、清朝滅亡後、軍閥が専横をふるい、互いに争い合っていた。そのため天災に対する対策は、まったく立てることができず、天災の被害は連年、まことに目をおおうような惨状であった。
またスターリン治下のソ連においては、農業の集団化が強制的に行われ、それには多大の犠牲がともなった。1929年から32年に、少なくとも500万の農民がクラークという烙印を押され、財産は全部とられ、丸裸にされたうえ、食っていくすべも奪われた。この時に、約100万の農民が死んでいった。つづいて1933年の飢饉の犠牲者もまた実に多かった。どれくらい多くの農民が死んでいったか、300万から1000万まで、いろいろ計算されているが、いずれにせよ、おびただしい数である。さればもはや、人間として認められるのではない、あたかも虫けらのごとき扱いをうけたのである。
風水害でも、旱魃でも、震災でも、人間が住んでいれば起こることなのである。砂漠や大洋の真ん中の、人の住んでいないところで、ひどい暴風雨があったとしても、災害は決して起きない。すなわち、災害は人間社会があればこそ問題になるのである。さらに、今日においては、人がわざわざ作っているむきも多い。いずれにしても、人間社会のあり方が、いかに災害に大きく響くかは当然の事である。
天災も所詮、人災である。もし指導者が偉大であり、民衆が有智の団結をしていくならば、いかなる天災も、人間の叡智が解決することができるのである。
現代の最大の災害
しかして、戸田先生が「今日においては三災七難が逆次に出ている」といわれたごとく、七難のうちでは他国侵逼難、自界叛逆難、三災のうちでは兵革の災いが先んじ、そのなかに他の難が起こっている観がある。
すなわち、今世紀に経験した最大の戦争は、第二次世界大戦であった。この大戦で、もっともひどい被害を蒙ったのは、一般市民であった。第一次世界大戦では、一般市民の死者は、50万であったのに対し、第二次大戦では実に2000万人から3000万人と推定されている。空襲、集団虐殺、パルチザン戦、流浪などによる死者がその内容である。軍人の死者は、前大戦の1000万に対して、今回は1600万人である。しかもこのなかには、日中戦争における中国と日本の死者は含まれていない。
さらに終戦後の惨状も言語に絶するものであった。ソ連も、イギリスも、ドイツ、フランスでも、その他直接戦場となった国々は焦土と化し、幾多の悲惨な現実が展開された。
実にこの戦争で、日本国および日本国民がはらった儀牲は測り知れなかった。この戦争による死亡は軍民合わせて約300万、当時日本の全世帯のうち五世帯にほぼ一人の割り合いで、国民は肉親を失ったのである。これは空前のことであり、37年前の日露戦争の死亡者とは、ケタはずれの犠牲であった。
戦後の苦悩も言語に絶するものがあった。経済的な危機、食べる物も着る物も、住まいもなく、路頭をさまよう人々の群、思想の対立の激化、血で血を洗う闘争の激化等々、これらをただ単に過去の悪夢であると片付けておいてよいのだろうか。
太平洋戦争の無残な姿は、人々の心の奥底に、終生忘れがたい傷跡を残しているはずである。
しかるに今日、われわれは、なんと泰平な生活にあることであろうか。「もはや戦後ではない」という言葉が、いまや常識化し、われわれの周辺には戦争の恐怖を叫ぶあの当時の悲痛な願いは、うたたかのように消え去っている。しかし、表面の繁栄をよそに、冷静にみつめていくならば、そこには依然として戦争の惨禍が潜んでいるのである。昭和20年8月6・9日の二日にわたって投下された人類初の原爆の悲劇は、いまなお原爆症患者の姿にははっきりとでていることとを忘れてはならない。
「今ここでペンを走らせているこの机も、その横にならぶ本も、父のものであったのだ。『お父ちゃんどうして死んだの』と聞く弟、父はどうして死んだのだろう、僕達をのこして。 原爆“原爆”この爆弾こそ父の命を奪った悪魔なのだ。ノーモア広島、ノーモア広島、原爆で死なれた人達は私達の犠牲になったともいえるであろう。この犠牲者たちは遠い犠牲であり、私達はこの遠い犠牲者たちに身守られて平和の進路を歩むべきである。
これは、あの当時、9歳の小学生が、昭和22年に書いた手記である。この叫びを無にしてよいものか。
「もう戦争はいやだ。もう戦争はいやだ。これは原爆体験者の悲痛な、心のそこからの叫びである。筆舌には及び難い平和欲求への真の絶叫である。たとえいかなる場合でも、あんな残酷な体験は、もう決して世界のいずれの人にさせないようにして欲しい。これを世界に向かって訴えたい。No More Hiroshimaという標語は、今日、国際情勢の上で、最も高く掲げられるべきものである。太田河畔平和塔の辺りに低く淋しくただよっているべきではない」
この原爆被害者たちの悲痛な訴えを、今日心の底から受け止め、絶対に戦争なき平和な世界を出現するために、一身をなげだしている人が何人いるであろうか。
しかもまた、目を世界に転ずれば、まだ戦火は続いているのである。泥沼のごときベトナム戦争の悲劇は、あまりにも悲惨であり、かつ残酷である。その他のアジア、中南米等は、絶えず、米ソ、米中の対立の場として、今後このような危機を迎えるかわからない。人類の身辺は、身に影のそうがごとく戦争の危機がとりまいているのである。
世界的な飢饉
さらに人類の生活にとって、最も大事なのは、衣食住である。衣類や住宅の欠乏も著しいものがある。特に恐るべきは、世界的な食料不足である。戦後20年といわれる今日において、このような不祥事は、まことに遺憾のきわみではないか。
1960年11月、イギリスの生物学者で文明評論家のジュリアン・ハックスリー氏は、多くの研究者の署名を集めて声明書を発表し「世界人口の三分のニは栄養失調である」と警告した。また1961年5月、イギリス王立統計協会で行われたP・V・スカトメ氏の報告は、FPOのセン事務局長もほとんど誤差のない数字であると認めているが、それによれば、現在、32億の3分の1から2分の1、つまり10億から15億の人が、完全に飢餓と栄養不良に悩んでいると訴えた。1963年には、FPOは「世界30億の人口のうち、17億が飢餓線上にあえいでいる」とし、しかも「インドでは餓死する子供が問題だが、アメリカでは栄養過多による死亡がめだち、美容のための無栄養食に関心が集まる」と、食料不足と同時に、食料のアンバランスのひどさを追求している。
前述のスカトメ博士は、FAOの調査部長でもあるが、彼によれば「現在、世界人口の五億近くは飢餓状態にあり、他の十億人は動物性蛋白質の不足による栄養不良状態なり、とくに日本と中国本土を除く極東地域では、人口の約四分の一が飢餓状態といえる」という。かくして、FAOは1963年以来7年間にわたり、両世界に「飢餓撲滅運動」をすすめることになった。
1963年の夏、ワシントンにおける「世界食糧会議」の席上、今はなきケネディ元大統領が、世界人口の半数以上が飢餓線上でおののいている事実を認め、次の30年を期して、世界から飢餓撲滅の戦いを起こすべきことを提案したが、ベトナム戦争の暴挙によって、まったく望みは薄くなっている。現在は恐らく世界32億の人口のうち、18億が飢餓線上にあえいでいると思われる。しかも、人口は35年後の2000年には倍の60億を超すであろうと予想され(ちなみに2000年には61億人2009年68億人となった。)したがって、世界の食糧生産を1980年までに約2倍に、2000年までに3倍にしなければならないという重大な課題に直面している。
ただし、これはまったく望みのないことではない。人類が戦争を起こさず、そして世界民族主義の立場に立って、地球の人類が同じ運命共同体の一員としての自覚において相互扶助の実をあげるならば、必ず食糧問題は解決されうるのである。ちなみに、アメリカのR・ブリテン博士は現在世界で耕作している農地の総面積は、可能耕作地のわずか五分の一であり、残り五分の四は未開発のまま放置されていると主張している。ゆえに世界各国が、いさぎよく人類の福祉のため、門戸を開放し、世界的食料不足を解決するような機運を盛り上げたいものである。戦争や病気の解決とともに、ともに、飢餓の救済こそ、まさに全人類の悲願と言うべきであろう。
政治をとるのも人である。戦争を起こすも起こさないも人である。人類を飢餓から救うのも人である。今こそ、その「人間」」それ自体を解明し、これを善導する大思想、大哲学が樹立されなければならない。
なぜかならば、いかに平和を愛する人といえども、善良なる指導者の心も、時としては鬼畜のごとき心に変ずる。されば、人間生命に内在するこのような悪心を解決すべき、力強き思想がなくてはならないのは、当然であろう。
そしてこの政治をとるべき「人間」をつくり、一念三千の哲理により、国土も、否大宇宙をも、変えていくことを説ききっているのが仏法である。一人の人間に人間革命させるのも、社会の生命を浄化し、正しき社会観、人間観をもった人々が、協力しあい、励まし合う姿を築くのも、さらには、宇宙のリズムを正し、国土に、恵みと、うるおいをもたらすのも、日蓮大聖人の仏法以外になきことを、ここに断言するものである。されば、今日の指導者こそ、日蓮大聖人の仏法に理解を求めて「是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや」と問うべきである。
0017:10~0017:14 第二章 災難の根本原因を明かすtop
| 10 主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆に憤ピす 客来つて共に嘆く屡談話を致さん、 夫れ出家して道に入る者は 11 法に依つて仏を期するなり 而るに今神術も協わず仏威も験しなし、 具に当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発 12 す、 然れば則ち円覆を仰いで恨を呑み方載に俯して慮を深くす、 倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに 世皆正 13 に背き人悉く悪に帰す、 故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、 是れを以て魔来り鬼来り 14 災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。 -----― 主人がいう。 私は一人このことを憂慮して胸中で憤ってもどかしい思いをしていた。あなたが来て私と同様に嘆いている。対話をしようではないか。 そもそも、出家して仏道修行を行うのは、仏の教えによって成仏を求めるものである。ところが、今、神の使う手立ても期待を裏切り、仏の威力にもはっきりした結果が現れない。 今の時代のありさまを、さまざまと目の当たりにすると、愚かにも死後どうなるのかと疑いを起こすばかりである。そうであるから、丸い天を仰いでわだかまった気持ちを押し殺し、俯いて四方に広がる大地を見つめて憂慮を深めるのである。 微力ながら、じっくり考え、少しばかり経文を見てみたところ、世の中は皆正しい教えに背き、人々はことごとく悪に帰依している。それ故、善神は国を捨ててそこを去り、聖人は辞去して戻らない、その結果、魔や鬼が来て災難が起こっているのである。言わないわけにはいかない。恐れずにはいられない。 |
憤悱
憤はいきどおること、心に満ちること。悱は口に言いたいが出せないありさま。
―――
神術も協わず
天神地祇を拝し四角四堺の祭りを行っても、いっこうに効き目がないさま。
―――
仏威も験しなし
阿弥陀仏の号を唱え、薬師如来に祈り、任王講を修し、真言宗の修法で災難対治を加持祈禱をし、さらには座禅を組んで現実から逃避しようとしても、既成の各宗派による祈りは、いっこうに効果がないこと。
―――
後世
後輩、後進の意。先輩、先進に対する語。
―――
円覆・方載
円覆とは天をいい方載は地を意味する。古代中国では、大地は四角の平面、天はそれを覆う球面と考えた。礼記の孔子間居には「孔子いわく、天は私に覆う無く地は私に載ること無し」とあり、准南子には「天道を円という」「天は覆うを以って徳とし、地は載するを以って楽とす」等とある。
―――
微管
細い管。狭い見解のこと。
―――
世皆正に背き人悉く悪に帰す
正とは正法、正しい仏法。悪とは悪法、低級な宗教・思想。宗教の正邪は宗教の五網によって相対、判定されるものであり、末法においては、正とは日蓮大聖人の三大秘法、悪とはそれ以外の一切の宗教。大聖人が「安国論」上呈の頃の世情は、世の中が皆、大聖人に敵対し、正しい仏法にそむいて、悪法に帰依するがゆえに、災難が起こっているのだとの警告である。日寛上人は「今この八字(世皆背正人悉帰悪)の肝要なり、別しては背正帰悪の四字は肝心なり、邪正相対は題号の下のごとし、正とは三箇の秘法の事なりこれ元意なり」とある。
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善神
梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
聖人
聖とは、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通の人の聞き得ない天の声をよく聞きうる人の意。世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」(1240)とあり、「聖人知三世事」には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」と申されている。
―――
魔
魔とは梵語で(Māra)、奪命・奪功徳・障礙・攪乱・破壊等という。正法を持つ者の信心を妨害したり、幸福な生活を破壊し、人命を奪い、病気を起こさせる等の働きをなす。四魔のなかの死魔・病魔等がそれで、他に権力者や父母の姿をかりて信心を妨げる天子魔がある。いずれも仏身や菩薩身や天界の姿を現じながら、仏と反対の働きをする。魔は天界に住むとも、仏と同所に住むともいわれる。所詮は澄みきった鏡に映して魔を魔と見破っていくことが肝要である。「最蓮房御返事」に「予日本の体を見るに 第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に「悪鬼入其身」とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり」(1340)、「持病大小権実違目」に「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997)とあるように、正法への信心が強ければ、魔といえども、正法護持者を守護する善神の働きに変えることができるのである。
―――
鬼
六道の一つである餓鬼道に住し、人に対しては病気を起こしたり、思考の乱れを引き起こしたりする。国家や国土に対しては、天災地変や思想の混乱等を起こす働きをなす。この鬼とともに天竜等の八部を神といい、鬼神・竜神・天神・夜叉神等の類がある。
―――
災起り難起る
災とは、もともと火難・水難の義を合した字で、難とは、それによって人間が悩み、苦しみ、憂えることを意味する。一応、語義的にはこのように分けることができよう。日寛上人は「まさに知るべし、災難の由来具に三意を含む、『一には背正帰悪のゆえに、二には神聖去辞のゆえに、三には魔鬼来り乱るゆえ』と云云」とあげておられる。
―――
言わずんばある可からず(安国論)
このように、民衆が塗炭の苦しみに追いやられている災難の根本原因が、一国謗法にあるということは、実に大切なことであるから、言わないで黙っているわけにはいかない。また、邪宗邪義の正体を人々は知らないから平気でいるが、これこそ不幸・災厄の根源なりと、もっとも恐れなければならないとの意。この一句では、あらゆる艱難を覚悟のうえで、折伏・国諫を断行される元意を示しておられるといえよう。
―――――――――
この章は、人生の不幸三障七難の根源を示されたところであり、立正安国論の最も中核をなす部分である。なかんずく「世皆正に背き…」の一節は、最も重要であり、この真の意味を知るならば、宗教の正邪を分別し真実最高の宗教をもとめねばならないことが明瞭となるのである。ここで、正とは三大秘法を示すことは当然である。しかして、災難の来由は具に三意を含んでいる。すなわち、一には背正帰悪のゆえであり、二には神聖去り辞す故であり、三には魔鬼来り乱る故である。
夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり
僧侶となる目的は、仏法を方程式道理に修行して仏の境涯を悟ることである。との意である。仏の境涯とは永遠の生命を認識して、宇宙大の自己を見いだし、宇宙即我、我即宇宙の心境に立ち、永遠に破壊せられざる幸福境に住むことである。われわれが、日蓮大聖人の仏法を信ずるのも、その究極は成仏することにある。
ここに「夫れ出家して道に入る者」とあるが、一往は、髪を剃り、世俗の事を捨てた僧侶であるが、再往は、在家の信者であっても「死身弘法」の強盛なる信心の人は、この言葉に含まれると考えてよい。大聖人の仏法は、一部の特別の人のための仏法ではない。全民衆を救済しきる大仏法である。したがって、御書の中の夫れ出家して道に入るところに「日蓮が弟子檀那等」と申されているのである。「檀那」とは在家の信者である。誰人たりとも夫れ出家して道に入るかぎりは大御本尊の前には平等であり、大切なのは強盛な信心の確立があるか否かである。出家の者であっても、信心が弱ければ大聖人のお心に叶う、夫れ出家して道に入ることはできない。逆に、在家であっても、信心が強ければ、大聖人のお心に叶い、成仏できる人といえるのである。
十一通御書の弟子檀那中への御状にいわく、
「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず 是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177-01)云云と。
この御状は、文永5年(1268)10月、蒙古襲来が確実となった国じゅう驚愕の事態にあって、大聖人が幕府をはじめ諸寺に国諫あそばされた時の、御門下へのお手紙である。日本にとっても未曾有の国難であり、それを強諫することは、大聖人門下にとっても未曾有の迫害、弾圧を覚悟のうえであったのである。
ここで申されている妻子眷属を憶わず権威を恐れぬ覚悟は、すでに真の出家である。しかるに、姿は出家でありながら、妻子眷属を養い、生計のために汲々とし、権威に媚びへつらう僧侶のごときは、真の出家ではない。それこそ、姿ばかり仏の眷属に似せた、天魔波旬の輩ではなかろうか。
わが創価学会門下における初代牧口会長、二代戸田会長のあの毅然と戦い抜かれた姿、これこそ、大聖人の精神を、そのまま身に実践された尊き信心の鑑である。
さらに、今日、われら同志が、身は在俗であっても、日夜、法を求め、死身弘法の活躍をしている。これまた、外面は出家でなくとも、その根本精神は、真の「出家」ではないか。
もとより、大聖人の指導も、また私が創価学会員・同志に対して願うことも、一人一人が福運に満ちた一家和楽の生活を確立されることである。普段の信心、学会活動においても、和気あいあいと、喜びにあふれ、悠々たる戦いであってほしいと思っている。
だが、その奥底には、この御状にあるような、勇気と確信と、偉大な覚悟がなくては真の仏道修行を全うすることはできない。しかして、いざという時には不自惜身命で護法のために戦う人こそ、大聖人のお誉めを戴くことができるのである。すなわち、成仏という最高にして絶対の幸福境涯を会得することができるのだ。
実に、仏法を信じ、仏法を学んで、これを修行する究極の目的は、この「仏を期する」こと、絶対的幸福境涯を会得することにある。ある人は、あらゆる条件に恵まれ、幸福生活を楽しみながら、究極目標へ到達する場合もあろう。また、ある人は、あらゆる苦難を耐えながら、途中の中小目的はいっさい目もくれず、ただ成仏という究極目標へ進まねばならない人もある。しかし、いずれの場合も、その心の奥底には、真の出家としての強い強い信心と、いかなる困難をも乗り越えて進む大勇猛精進があって、初めて一生成仏を遂げることができるのである。
人生の目的と幸福論
およそ、人生の目的は何かとの疑問は、洋の東西を問わず、常に哲学者、または真剣に人生と取り組む人々の頭をなやませてきた問題である。哲学の根本問題であるといっても過言ではない。
古代インドのウパ二シャド哲学は、ブラフマンとアートマンとの合一を説いた。中国の儒教哲学は仁をもって理想とし、道教は人間性本来のあり方を無為となし、その自然の姿に徹することを説いた。
西洋において、古代ギリシャのソクラテスは知を愛することを哲学の本質とした。プラトン等は国家社会の中に融合し、その発展に貢献することを理想とした。キリスト教は、唯一絶対、全知全能の神を想定し、その忠実なる僕となって、死後、天国に迎えられることを教えた。このキリスト教的人生観を弱者の哲学なりと弾劾し「神は死んだ」と叫んで、ゾロアスター教的な超人哲学を唱えたのが、ドイツのニーチェである。
また、同じくキリスト教的人生観への反逆を試しみたマルクス・レーニンの思想は、人間生命の本質を物質の存在様式とみなし、プロレタリア独裁社会に貢献することと、物質的要求の充足を人生の目的とした。
これらの思想は、いずれも人間生命の本質を解明しない、脆弱な砂地に建てたビルディングのようなものである。たちまちに傾き崩れてしまう。なかには、最初から蜃気楼のような思想も少なくない。
これらの思想が、はたしてどれだけの人を救ったか。その人の主観にも生きる喜びと希望と勇気を与え、客観的に見ても幸福だといいきれるものを、一人の人間に対してすら、与えたであろうか。むしろ、誤れる思想、低級なる哲学は、これを信じて縋ってきた人々を、不幸におとしいれてきた。過去のあらゆる思想、宗教革命の途上、流された民衆の血が、これを厳然と証明しているではないか。
われわれは、この教訓により、最高の思想、最も深い哲学、誤りのない理念をもって、人類の幸福と平和と繁栄を築かねばならない。
今「人生の目的は何か」との問いに明確に答えられる人が、何人いるであろうか。否、現実の人生は何か、いかなるものかということさえ、明確でないのが現状である。ドイツの詩人ゲーテはいう「たとえ、どんなものであろうと、人生はよいものだ」と。しかるに、その大の親友であったシラーは「苦痛が人生である」と、まるで逆のことをいっているのである。
いわんや、人生の目的という問題になると、各人各様の目的、希望、理想はあっても、万人の納得し、終極の目標として取ることのできる解答は、いまだかって明かされていない。
「人生は絶え間ない前進でなければならぬ。既にあった事の単なる繰り返しであってはならぬ。最後の瞬間まで、毎日毎日が一つの創作であるべきだ」とドイツの哲人ヒルティはいった。
この言葉は、たしかに一面の真理をいいきったものとして、首肯させる哲理を含んでいる。だが、創作といい、前進といっても、それは、行きつく目的のない航海に等しい。限りある人間にとっては、尊い人生の日日を、いかに価値あらしめるかが問題である。そのためには、目的が明らかにされねばなるまい。
ある人は「金もちになりたい」というかもしれない。ある人は「科学者になりたい」と。また、ある人は「政治家になりたい」というであろう。またスポーツマン、音楽家、美術家、医師、教育者、ジャーナリスト、俳優、歌手等々、人によって、さまざまな目的観はあるであろう。あるいは「つつましい家庭を持ち、平凡であっても平穏に暮らせたらよい」という人もあろう。
しかしながら、これらの目的は、いずれも人生の究極の目的というわけにはいかない。議員になりたいという人が、その目的を達して議員になったとき、それでわが人生、満てりと断言できるであろうか。おそらく、当選したその日から、次の選挙に勝つための活動を開始するにちがいない。今度は大臣になりたいという欲望が出てくるかもしれない。
人間の欲望は限りなく発達する。一つの目的が達せられれば、必ずより大きい、新しい目的が生まれてくる。その欲望の充足に向かって、また新しい苦悩を繰り返していかなえればならないのである。もとより、それは悪いことではない。それは、その人にとって、人間形成の貴重な糧であり、また、それがあってこそ、人間の文化の限りなき前進が存するからだ。
しかし、人生の目的として論ずるには、これらの目的はいずれも中小目的であって、究極の目的ではありえないことが明らかである。かつ、人間一般に普遍できる哲学とはいえない。
しからば、人間すべてに共通して論ずることのできる目的であり、しかも究極的な目的は何かと考えたときに、その答えを一言にして教えられているのが「成仏」すなわち、仏になることである。これを現代語に訳すと絶対的幸福ということである。
一般の幸福論
人生の目的は、幸福になること、幸福の確立である。しかして、人生の目的は、幸福であることを示した哲学は少なくない、ウバニシャッド哲学の梵我一如も、儒教哲学の仁、道教の無為、ソクラテスの愛知も、それによって、ゆるぎなき人生の幸福境涯が樹立されると考えたがゆえに、提唱されたものである。
ソクラテス、プラトンにおいては、国家をはなれて幸福は考えられなかった。したがって彼らが、国家との調和を保ち、国家に順応し、その発展に貢献することを理想としていたのは当然であった。ソクラテスが、逃げることを友人たちから勧められたにもかかわらず、国家の命であるといって悠々と毒杯を仰いで死んでいったのも、その意味からである。
やがてアレクサンダー大王の遠征等にともなって、ポリス的な色彩はなくなり、一方では個人主義的な風潮が、他方では世界主義的な風潮が生まれた。
個人主義的な哲学を代表するのは、エピキュロスの快楽主義である。彼は、快楽が、あらゆる生者の目的であると考え、さらに他人の生活に迷惑をかけないという社会的責任を考えるうえから、いわゆる、賢者の生活を示したのであった。
その主義は、個人の救済と、人生にける処世術にあった。他方、世界主義的な風潮としての思想は、ゼノンに代表されるストア哲学である。彼らは、禁欲を重んじ、そこに精神の自由があり、幸福があると考えたのであった。
また、近代に至り、資本主義の発達によって、経済学が発達し、経済的な観点から幸福内容を考えるようになった。“最大多数の最大幸福”との言葉に示されているごとく、ベンサムや、ジョン・スチュアート・ミル等は、個人の幸福と人類の幸福は一致するという思想を展開している。
またニーチェ等の思想では、人間の幸福とは、積極的には、人と生まれたことの楽しさ、生き甲斐であり、いいかえれば、あらゆる有限な人類が希求する、生命力の調和ある充実の状態であると考えたのである。ニーチェが、「超人とは超克されるべきなにものかである」と述べ、たえず自己脱皮し、人間形成することを目的としたのも、ここにあった。
これらの哲学は、いずれも観念的には理解できても、あらゆる人が、自己の人生に実現しうる具体性をもったものでない。所詮、人間としての理想を描くことはできても、あくまで倫理的、道徳的抽象論にとどまらざるをえなかったのである。したがって、その理想に向かって努力していくこと自体が、善であるとしたのにすぎなかった。
一方、マルクスを代表する唯物論の立場に立つ人々は、社会的条件下に束縛されている人間にとっては、“窮乏からの自由”こそ最大の幸福内容であるとした。彼らが人生の目的を物質的欲求の充足としたのも、その底流には、かかる幸福感があったからである。さらに、すべての不幸の原因は、社会的、階級的な矛盾から生じているのであり、この克服こそ幸福への最大要件であるとして、プロレタリア革命と共産主義社会の建設を唱えた、そして、人生の目的をプロレタリア独裁社会に貢献することであると説いた。
しかしながら、これも一方に片寄った物の見方であり、一切の社会的要件が仮に解決したからといって、必ずしも、すべての人が幸福生活を実現しうるとは、断定できない。また、その社会改革が達成されるまでは、人は不幸でいなければならないという矛盾もある。しかも、理想現実のためには、犠牲もやむをえないという理論が展開され、スターリン治下のソ連で、あの一千万以上もの、不幸なる犠牲者を生じたのであった。もちろん、われわれは、社会的発展の意義を無視するわけではないが、同じく理想の幻影を追っているにすぎぬのではないか。このように、今日までの幸福論は、幸福の実体なく、有名無実であり、根無し草のごとくはかない、ここに、仏法の色心不二の生命哲学によらねば、絶対に真実の幸福を実現なきことを強く叫んでやまない。
仏法で説く幸福論
一般に人々が求める幸福といっても、その意味するところは、実に千差万別である。卑近な例から考えてみよう。空腹の極にあった人が、おいしい食事によって満腹した場合、それを食べることと食事後の満腹感に幸福を感ずるであろう。しかし、この幸福は二時間・三時間たつと消えてしまい、五時間もたてば、再び空腹に陥ってしまう。
家が欲しいとか、宝石が欲しいとかの欲望も、それを満たされた当座の幸福感はいかに大きくとも、月日の経過とともに薄れてしまうのである。しかも、いったん火災にあって家が焼けてしまったとか、宝石が盗まれてしまったとなると、逆に大きい不幸を感じないでいられなくなる。
したがって、これらの幸福は、きわめて相対的である。相対的であるがゆえに、はかなく消えていくものである。そこに、絶対的の幸福を樹立しようとする宗教の根本目的がある。だが、真実の仏法が説くところと、仏教に名を借りて、勝手につくられた諸仏教、あるいはキリスト教等の諸宗教の説くところとは、本質的な相違がある。
すなわち、前者は人間生命の奥底の真理に立ち、そこに確立された絶対的幸福が、具体的生活のすべての場面を通じて実証されるという、哲学性、合理性、実証的科学性に立っている。これに対して、後者は、哲学的な合理性の裏づけを否定して、むしろ非合理性を主張する。そして、修行の結果として会得されるという彼らの悟りの境涯は、なんら現実世界における実証性をもたない。また、たとえあっても、きわめて生活とは関係のない一般性もない。特殊で非常識な、いわゆる奇跡と称するものにすぎない。それでは、仏法の生命哲学とは、いかなるものか。また、孝・不幸をどのように説いているのか、また、絶対的幸福とは等々についてみてみよう。これらを最もわかりやすく説いているのが十界論である。十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。
観心本尊抄にいわく、
「数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(0241-07)云云と。
これ、地獄といい餓鬼といい、あるいは仏というも、われら人間生命の種々相にほかならぬとの偉大な哲理を述べておられるのである。
地獄とは、詳しくは顕謗法抄に八大地獄が説かれているように、苦悩、煩悶する境涯である。「瞋は地獄」と申されているのは、瞋りは修羅闘諍にも通ずるが、その結果、生活を破壊して苦悩に陥るゆえである。日常の肉体的、精神的苦悩から、端的な例をいえば、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人や、今日の戦乱に明け暮れるベトナム民衆に至るまで、すべて地獄界といえよう。
餓鬼とは、貧欲によって支配された状態で、満足することを知らないこと。
畜生とは、十法界明因果抄に「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受く」(0430-04)とあるように、愚かで目先の利益にとらわれるあまり、遠大な根本を忘れること、またこれを慙じようとせぬことといえよう。
修羅とは、常に他人よりも勝ろうとし、自分一人が偉いように思うこと、止観にいわく「若し其の心、念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて、下視が如し、而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」と。この勝他の念にゆえに、いわゆる修羅闘諍というように、争いの姿となって現われる。「諂曲なるは修羅」とは、心がひねくれていることで、他人の好意を好意ととれず、冷酷で悪賢い生命を意味する。
以上の地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道という。
次に、人界とは、いわゆる平らかな状態で、人間としてごく普通の平穏な生命の境涯である。今日、この状態が、どういう立ち場の人にとっても、むしろ稀で、多くは三悪道、四悪道に陥っている事実は、まことに悲しむべきことである。
天界とは、欲しい物が手にはいったとか、自分の願いがかなったとかの満足感によって喜びを感ずる状態である。だが、その喜びは一時的であり、狭い分野におけるものであるから「五衰を受く」と説かれているごとく、時の経過とともに薄らぎ、他の条件の変化と共にあえなく崩れ去ってしまうものである。
四悪道に人天の二道を加えて六道といい、大部分の人間の生活は、この六道を繰り返しているにすぎない。これを六道輪廻という。それに対して、努力と精進、研究によって得られる、より深く、より高く、より長い幸福境涯がある。それが声聞・縁覚・菩薩・仏で、三悪道や四悪道に対して四聖という。
声聞とは、書物を読み、先輩の築いた業績を学び取って、知識を豊かにしたときに感ずる喜び、力の充足感である。縁覚とは、みずから思索し、試行錯誤し、あるいはある自然の現象を見て、求めていた真理の一端を得たときに感ずる喜びである。アインシュタインの相対性理論、ニュートンの万有引力説、ガリレオの振子理論、湯川博士の中間子理論、朝永博士のくりこみ理論等、合理精神の典型ともいうべき自然科学における偉大な発見が、多くは非論理的な一瞬の悟りによってなされていることは、きわめて興味深いものがある。だが、そこに至るまでに、着実な基礎の積み重ねと、深い思索とがあったことは論をまたない。芸術家の創作活動も、縁覚界の代表例である。
菩薩とは、自己の徳性を発揮して、社会のために尽くす働きである。仏経典に出てくる勇勢菩薩は勇気、文殊菩薩は智慧、弥勒は慈悲をそれぞれ徳性とする働きの象徴化である。
さて、最後の仏界とは、生命の永遠性を悟り、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立って、一切を見て誤りなく、無限の生命力をもって人生を生きていくことである。それは、永遠の生命観に立つがゆえに、時間的に変化を受けることなく、宇宙即我の境涯のゆえに空間的に左右されることもない。絶対の幸福境涯である。この自我の確立を基盤として、誤りなく現実の諸問題に対処し、いかなる難関も、強い生命力をもって乗り越え、打ち破っていくことができるのである。
人生の究極目的は、この仏界の生命の涌現、すなわち一生成仏にある。その方法は、道徳的な精神修養でもなければ、人間らしい欲望を無理に抑圧する戒律をたもつことでもない。ただ仏界の生命の当体である、三大秘法の大御本尊に境智冥合することによって、われわれの生命の内奥より涌然とあらわれるのである。すなわち、日蓮大聖人が、出世の本懐として、弘安2年(1279)10月12日に御図顕あそばされた、一閻浮提総与の大御本尊に帰命し、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱えきっていくことに尽きるのである。
現世利益について
よく創価学会のことを、現世利益を説くから低俗であり、仏法本来の精神からはずれているかのようにいう者がいるが、これは大いなる誤りである。
現世利益とは、いいかえれば現実生活における幸福である。しかして、人間生活を詳細に分析してみるならば、その内容はすべて、幸福生活を求めて向上しようとするたゆまざる価値創造であることは明瞭である。大きくは、人類がここまで発展してきたのも、幸福をもとめ営々として築いてきた、何千年来の人々の努力と汗の結晶にほかならない。
すなわち、「現世利益」を求めるのは、人間のあまりにも自然な心得である。これを否定し、認めぬことは、人間の本性を否定し、滅却するものであり、必ず矛盾にぶつかり、混乱を生じていくのである。
古来、幾多の思想家、哲学者が、人間生活における幸福の問題と真剣に取り組み、この解明にいかに心をくだいてきたことか。もし、幸福を追求することを低俗だと軽蔑して、生活に関係なき空理空論をもてあそぶとすれば、それは観念論も甚だしい。のみならず、これらの古今の哲人、思想家をことごとく低俗なりと否定し去らなければならないであろう。
いわんや仏法は最高の生活法である。単なる空想の哲学でもなければ、未来に事寄せて、現実をあきらめさせるような弱弱しい哲学ではない。事実、人々の心中に力強い生命力をわきたたせ、現実生活を打開する、たくましき実践力、生活力を奮い起す大宗教である。
仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを否定している教えであるがごとく、人人に鼓吹してきた。だが、これこそ、彼らの宗教がいかに無力であるかを証明するものではないか。
むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益は、大利益からみればわずかな部分にすぎない。
だが、現実の祈りの叶わぬような力なき宗教で、どうして未来永遠の幸福が得られようか。一丈の堀を越えられぬものが、なんで十丈、二十丈の堀を越えられようか。
いたずらに精神界のみをとくのが宗教であり、現実の生活をよじれたものとして、そこからの逃避や、超越を説いて、宗教を美化して、それがあたかも深遠で高邁な教えであるかのごとく装うのは、民衆を欺瞞するも甚だしいといわなければならない。
もし、創価学会を、現世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているのかと聞きたい。もし、かかる人間が存在するとすれば精神障害者か、二重人格の偽善者でると断ぜざるを得ない。
ましてや、知識人ぶり、したり顔をして、庶民の素朴な感情を愚弄するのは、あまりにも傲慢ではないか。やがて世の中の人々から見放され、忘れ去られる存在になることは絶対である。
現世の幸福は永遠の幸福の実証
現世利益は、なにも創価学会の発明でもなければ、新説でもない。仏法の最高哲理では当然のこととして説かれている。遠くは釈尊も法華経において、近くは日蓮大聖人もまた、大確信をもって諸御書に現世の利益を断言しておられる。
法華経の第五の薬草喩品にいわく「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に以って楽を受け、亦法を聞くことを得」と。
いうまでもなく、この世において、仏法を正しく信ずることによって、現実の生活が幸福になり、安定しきった平和な生活を営むことができる。また、未来においても、幸福境涯で生まれてきて、生死ともに、三世にわたる永遠の生命のうえから、変わらない幸福生活を送ることができるという文証である。また、日蓮大聖人の御書を拝しても、現世における大功徳を、厳然と説かれているのである。
撰時抄にいわく、
「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ、」(0291-05)と。
この文は、明らかに、法華経の経文を引いて、現世の大功徳を説き明かされた文である。われわれ、大御本尊を拝する者は、その指導どうりに正しく信心しきっていったならば、現実の生活のうえに功徳がでないわけがないとの御断言であり、そうでなければ、仏法はすべて虚妄であるとの、きびしき仰せなのである。
その現実の証拠を無視しての仏法はありえないし、それを肯定し、断言しないような、力弱き宗教ではないのである。「現世に云をく言の違わざるを見て、未来を推せよ」(0957-17)と仰せられているごとく、仏法は道理であり、因果の法則のきびしき哲理である。「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と。
このたくましい生活指導の大原理こそ、日蓮大聖人の仏法であり、そこに偉大なる人間革命・宿命打開の道が示されているのである。創価学会は、この仏法の原理を正しく実践しているにほかならない。今日、五百数十万世帯、一千数百万の人々が、御本尊の大功徳をあらゆる分野にわたって、現実の生活のうえに立証していることは、実に偉大なことではないか。
歓喜に燃えて、功徳を感じている学会員の姿を見よ。病床にふしていた者が、元気に職場に復帰し、家庭不和に悩んだ一家が、だんらんの笑い声の絶えない家庭に改革され、和楽の生活を送っている事実を、誰が否定できようか。これ大御本尊の功徳といわずして何であろうか。
かつまた大聖人は「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と仰せられている。されば、この現実の証拠を見て、大御本尊様を信じた人々は、必ずや、大聖人が成仏の境涯として説かれた、永遠にして不滅の幸福境涯を会得できることを強く強く確信すべきである。
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
この御文は、個人の不幸も、国土の三障七難もその根本原因は、邪宗邪義にあるとの仰せである。これは世間の人の予想だにもしなかった驚天動地のことであり、この師子吼ひとたび響いて、惰眠をむさぼっていた当時の宗教界はさぞやあわてふためいたことであろう。また邪宗邪義に迷わされたひとびとの驚愕もひとかたならぬものであったろう。さればそれはたちまちにして嫉妬、激怒に変わり、三類の強敵のアラシとなってあらわれたのである。この彼らの周章狼狽自体、おのれの本質がものの見事に見破られたことを示すものではないか。
開目抄にいわく「此れを知れる者は但日蓮一人なり」と。誰もが無関心であり、誰もが無智であった宗教の正邪・善悪の分別こそ、幸・不幸の決定線であり、これを大聖人ひとり知られたのである。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄とをもたらくのは、ご自身以外にないのであると。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄をもたらすのは御自身以外にないのであると。またいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-01)
この巌のごとき民衆救済の大確信、全民衆を苦悩の底より救い出さんとの大慈悲「智者に我義やぶられずば用いじとなり」との大信念、これこそ、大聖人の立正安国論の精神であり、創価学会に一貫して流れている根本精神である。日本の国に、真に自己のエゴイズムを捨て、苦に没在せる民衆の幸福のために、また世界の平和のために一人立つ指導者がいるであろうか。もし、真実に、その心であり、日本の前途、世界の前途を憂うるならば、この日蓮大聖人の思想に耳を傾けるべきである。検討もせずして批判するのは指導者の名に恥ずるではないか。
生活とは生命幸福の発露
人間生活を虚心にながめてみれば、それがことごとく幸福を求めての生活であることは前述のとおりである。それでは、その幸・不幸が宗教のいかんによって決まるとはいかなるわけか。
それには、人間の生活そのものの検討がなされねばならない。結論からいえば、生活とは、生命活動のあらわれたる現実である。すなわち、瞬間瞬間の生命活動の発露である。
しかして、この生命の奥底を支配するものが思想であり、哲学であり、宗教なのである。先に人間の生命活動を、十種類の範疇をもって説き明かした。いうまでもなく、十界論である。地獄は苦悩・煩悩の生命活動、餓鬼界はむさぼりの生命活動、畜生界は、動物等にみられるような弱肉強食であり、本能のままの生命活動、修羅界は勝他の念による闘諍の生命活動、人界は平らかな、あたりまえの生命活動、天界は喜び、声聞界は理論・真理を追究していくときなどの生命活動、縁覚界は名音楽などを聞いてうっとりし、あるいはまたピアニストがピアノを弾くことに専心し、それに徹して、一分の悟りを開く生命活動、菩薩界は、人を利益していこうとするところの慈愛の生命活動である。そして十番目の仏界とは、言葉をもって説明しがたいが、あえていえば、なにものにもくずされない絶対の幸福境、すなわち大宇宙のリズムと合致し、なんら障害のない自在の生命活動である。
そして、この地獄界から仏界までの生命活動は、誰人といえどもこれを有している。怒る生命活動の欠けた人もいなければ、喜びの生命活動のまったくない人もいない。苦しむことをしらない人もない。それは万人共通の、本然の生命活動である。しかも、これらの生命活動は、ことごとく縁にふれてあらわれてくることも、すでに明らかにしたごとくである。
人間生活への思想・宗教の影響
邪悪な思想、低級な哲学、したがって、誤れる人生観、社会観をもとにした生活をすれば、自己の生命は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、また修羅界を加えた四悪道のみ旺盛になり、貧・瞋・癡の充満するところとなる。それは、さらに生命にもはやぬぐいさりがたい濁りを生じ、一定の癖をもつようになる。濁り、癖を持った生命は、もはや宇宙のリズムと調和せず、生命力は極度に弱まり、宇宙の種々の事態に応じえず、生きることすら苦しくなり、不幸の巷を流転してゆくのである。また、生命の濁りは偏狭な人格を形成し、それらの偏狭な人格の人のみ多くなれば、衆生社会が濁り、そこに誕生する偏狭なる指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。これ、人間の生命活動の動機ともなり、また、生命の内奥の世界を揺り動かし、支配し、リードしていくべき思想が、邪悪であり、低級であり、奸智に奸たけたものであり、また偏狭であるものにほかならない。
なかんずく、宗教の影響は甚大である。もしも誤れる宗教であれば、しらずしらずのうちに人の生命をむしばんでいく、信仰という力関係によって、思想にあらわれた、あるいは本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられるからである。
われわれは、現実の低級宗教の害毒にむしばまれた人々の生活の無気力な姿、あるいはなにかにとりつかれたような気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、また悲惨の二字そのものの地獄界の姿、残忍きわまりなき修羅葛藤の姿を眼前にし、あまりのも宗教が生活に影響するところの絶大さを知って慄然とするのである。ともに、日蓮大聖人の指摘に寸分の狂いもないことを知り驚嘆し、その指導原理の万古不変なるを確信するものである。
誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいか。西欧におけるキリスト教の例、ソビエト共産主義、ナチスの人種論、インド、中近東、東南アジアの宗教、最後に日本の宗教について概観してみたい。
西欧におけるキリスト教の影響
西欧におけるキリスト教の歴史をみても、いかに思想、宗教の影響が大きいかがわかる。キリスト教は西暦0313年、ローマ皇帝によって公認され0392年に国教となって以来、不動の地位を築き、欧州世界に君臨するようになる。そして、やがて中世においては、教会の権限は絶対化され、国主すら法王にぬかずくにいたる。いっさいの学問は神あり、学の下僕であり、すべて神学で説明され、神学に合わない理論は、神への反逆であり、異端とされた。もはや、キリスト教は西欧人の心であり、唯一絶対の思想であった。法王がイスラム教徒に奪われた聖地の奪還を指令するや、人々は熱教的に十字軍に従軍し、遠征におもむいた。さらに、ルネサンス期を迎え、キリスト教の権威から脱皮しようとする人々があらわれ始めたときに、どれはどの既成の権威、宗教的ドグマがそれらの人々の心に重くのしかかっていたことか。
教会の権威を脅かすと目された化学者たちは「無神論者」とか「魔術師」「マホメット教徒」とののしられ、迫害された。ジョルダーノ・ブルーノは焚刑に処せられ、68歳の老齢のガリレオ・ガリレイは、審問所に引きずりだされ、焚刑か、さもなくば地動説を捨てよと二者択一を迫られた。何と思想、哲学、宗教の誤りは、恐ろしいことか。
やがて、教会の腐敗・堕落に対し、幾多の宗教改革が試しみられ、特にドイツのマルチン・ルター、スイスのジョン・カルヴァンの影響は大きく、多くの新教団が誕生するにいたる。以来、新旧の対立は凄惨をきわめた。フランスにては、1572年の聖パイソロミューの虐殺で、約5万人のユグノー教徒が惨殺された。また1618年から48年にかけて、ドイツを舞台として、大宗教戦争といわれる30年戦争が行われた。これはドイツの新旧教徒の争いに、デンマーク、スウエーデン、フランス等が参戦し、全ヨーロッパ的な長期の戦争となったものである。この戦乱によって、ドイツは殺戮と疫病の巷と化し、当時のドイツ人口は1800万から、実に半数以下の700万に激減してしまったといわれる。
こうしてキリスト教の権威は失墜し、人々の心はしだいにキリスト教から離れていった。だが、いったん人人の心をとらえた思想が、そう簡単に抜けきれるものではない。18世紀の終わりにいたってすら、ジエンナーの種痘の発見がキリスト教徒によって「摩法」「無神論」と告発され「天そのもの 神の意志にすら戦いを挑むもの」「神の掟はその施術を禁ずるものである」と激しい迫害を受けた。もって、思想の及ぼす影響の深さを知るべきである。
今やキリスト教は衰亡の一途を辿っている。だが、今なお西洋人の心を陰に陽に、キリスト教的な物の考え方が支配していることも見のがせない。
こうしたキリスト教の歴史を見るにつけ、その底流に、恐るべき人間性の無視、抑圧があることを知るのである。キリスト教界は、表面では、あるときヒユーマニズムを唱え、あるときは、平和を唱え、時流にのって、その都度、美しき言葉を吹聴する。だが、いったい、彼らのいう”ヒユーマニズム”が、彼らの手によって一度でも叶えられたか。残念ながら、否、当然のことながら、彼らは、結果的に、戦争を助長し、人間性を抑圧してきたのである。あれだけ、キリスト教が深く流布していながら、なぜ欧米諸国は、植民地主義をもって、アジア、アフリカを苦しめてきたか。所詮、キリスト教によるヒユーマニズムは、きわめて根の浅い観念的なものである。その根底は、原罪説等に見られるように、人間性に対する罪悪視であり、偏狭なる生命観である。
共産主義思想とスターリン治下のソ連
一方「神なき宗教」といわれる共産主義もまた、それが行動化され、実銭化されたときに、多くの犠牲を生んだのであった。それはスターリン治下のソビエト社会に、最も殺伐とした形であらわれた。農業集団化にともなう、何百万、否、一千万以上の農民の大量虐殺、餓死については前章で述べたとおりである。スターリンは、独裁者の地に位つくとトロッキーやジノヴィエフ等の「左翼反対派」をけおとし、さらにはブハーリンやルイコフを片づけた。1928年から1932年にかけての第一次五カ年計画においては、多くの「反対派」党員の静粛があり、また、農民、旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よるべのない、無辜の民衆の犠牲があった。この時ゲーペーウーの名は死神の異名として恐れられ、流罪地シベリアは、絶望の地の果てと恐れられていた。
1933年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の成果を誇らしげに語った。翌1934年1月から2月にかけて、第17回党大会を開いた。この大会は「勝利者たちの大会」と名づけられた。だがこれは“勝利者”ならぬ“犠牲者”の大会だったのである。
その年の12月にキ―ロフが暗殺されて以来、ソ連社会には「エジョフシチナ」の名で呼ばれる大量粛清のアラシが吹きすさぶのである。すなわち、スターリンによって内務人民委員に任命されたエジョフにより、まず、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ等の、かつてレーニンの側近だった人々が大粛清された。次いで、スターリンから不興をかったスターリン主義者の人たちが、つぎつぎと粛清されていった。第17回党大会の代表1965名のうち、1180名が「反革命の罪科」の名のもとに逮捕された。この大会で中央委員に選ばれた139名の中央委員とその候補のうち、その70%の98名が逮捕、銃殺された。かくして、党大会の80%が刑務所、強制労働収容所、処刑室に姿を隠していった。ましてや、平党員の何%が行くえ不明になり、生命を失ったかは、測り知れない。また数千の非党員も犠牲となった。
また幾10万の市民が家庭と職場から連れ出され、強制労働所にほうりこまれた。しかも、その選び方はあまりにもばかげていた。時には、警官が街の一角を軒並みに歩き、気まぐれにドアのベルを鳴らしては、あちらで一人、こちらで一人というように、まったく罪のない人たちを車に乗せて運び去った。その目的は、労働力をふやすこと、燐人を恐怖におとしいれること以外に何もなかったという。軍の粛清も仮借なく行われた。1837年、ポーランドの戦争の英雄、赤軍建設の功労者であった参謀総長トハチェフスキー元帥以下8将軍が銃殺に処せられた。この時の粛清で、5名の元帥のうち3名、15名の軍司令官のうち13名、85名の軍団司令官のうち57名、195名の師団司令官のうち110名、406名の旅団司令官のうち220名が抹殺された。それよりも低い地位にある将校も5000名が反逆者として死んだのである。そのほか行政機関等の粛清もきわめて激しいものであった。
また非ロシア諸民族に対する静粛も悲惨であった。1938年にはウクライナ共産党の第一書記になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者のほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の多民族の粛清も行われた。そして、「エジョフチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。
第二次世界大戦が始まり、ソ連国民は、まる4年間、ドイツ戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争に勝つことができたが、その後にまちうけていたものは、またスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、ぺリヤの秘密警官は、おびただしい血の粛清をやってのけた。「ぺリヤ警察はいつでも未明に訪れ、ドアをノックし、不幸な人を有無をいわさず連行していった。それっきり、その人の消息はようとしてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らなければならなかった」
これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない、低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。あのような強制的な生活の画一化、虫けらのごとく粛清するあの悪魔の如き振舞い、これらに一貫して流れるものは、人間の個性の無視であり、人間の自由の略奪であり、人間の尊厳の無視である。すなわち「人間」そのものを、唯物論的見地から見立てた、哀れなる結末ではなかったか。さらに、スターリンが、第二次世界大戦後、第三次世界大戦を予想して、重工業に力を入れ、国民に極度の耐乏生活を押しつけるなど、その底には、戦争は宿命的に避けられないという、レーニン以来のテーゼがあったこともいがめない事実である。ここにも、偏狭なる思想、低級なる理念が、いかに不幸をもたらすかが、如実にあらわれているではないか。
誤れる人種観・民族観=ナチ・ドイツ
また、第二次世界大戦中、ナチ・ドイツは、ユダヤ人の殲滅をめざして、六百万人ものユダヤ人を殺害した。なぜこのような暴挙にでたのか。
ヨーロッパ諸民族のユダヤ人民に対する憎悪は、中世初期からの根深い伝統をもっている。その煽動者が「ユダヤ人はキリストを十字架にかけた悪魔だ」とするキリスト教会であった。
ナチは、一方では共産主義の浸透を恐れる資本家の心を反共産主義で捉え、一方で、この反ユダヤ主義を唱えて、ゲルマン民族を至高とする民族感情を味方にしたのである。
1933年4月、ナチ政権はユダヤ人商店に対するボイコットを出した。第一次世界大戦後の経済苦にあえぐドイツ国民は、たちまちこの作戦にのせられ、生活苦の根源はユダヤ人にあると思い込み、憎悪の念をかりたてられた。ユダヤ人商店襲撃が全国的な国民運動として繰り広げられた。
ここまで、反ユダヤ感情がたかまったことが、ナチのユダヤ人殲滅を正当化し、推進する大きい力となったといえる。1942年1月、いわゆるヴァーンゼー会議がゲシュタボ長官ハイドリヒのもとに開かれた。そして、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパで強制労働に酷使したうえで絶滅させるという計画が立てられたのである。
しかし、実際には、老人、子供、夫人の多くは強制労働に耐えられないので、すぐに殺された。アウシュヴィルツ、マイダネック、ヘルムノ、ベルゼック、ソビボール、トレブリヤンカ等の収容所がこのために設けられた。所長以下、少数の役人はナチ親衛隊で占められていたが、下級役人は政治犯や刑事犯が転用された。特に刑事犯が役人になったところでは残虐を極めたという。
そうでなくても、本来、収容所の目的が、体力を弱らせ、病気にかからせ、絶滅することにあったのだから、その悲惨はいうまでもない。有名なガス室や死体焼きかまど、大量銃殺溝等々、すべて人間が人間を殺すために考え出された道具立てである。なんという残虐、なんとう冷酷、なんという狂気、そして、なんという人間性無視の悲劇であろうか。
それは、偏狭なる人類観、民族主義が当時のドイツ国内のさまざまな不平不満と結びつき、さらに、それに指導者の征服欲、名誉欲、利害等が結合し、暴発的な感情となり、人々を狂信的な、ユダヤ民族殲滅の暴挙へとかりたてたのである。だが、この誤れる人種観、民族観が、直接的には結びつかずとも、キリスト教の「ユダヤ人は“陰険な、堕落した”民族であり、神を否定し、キリストを殺害したために、神に呪われている民族である」との思想に、淵源がなかったと誰が断定できようか。そうでなくとも、ナチにローマ教会が妥協したことは周知の事実である。そこにキリスト教の二重人格性が顕著にあらわれているのではないか。これまた、人間性を無視した偏狭なる思想が、権力と結びつき、戦闘化したときに、いかなる悲惨な現実が展開されるのか、そのよき証拠である。
東南アジアに見る宗教の害毒
また、アジアにおける思想、宗教の影響性の一例として、インドとパキスタンの根深い対立がある。すでに1947年、両国が分離独立に際しては、650万のイスラム教徒が、インドからパキスタンに逃れ、逆に50万の非イスラム教徒がパキスタンからインドへ行ったという。この時、パンジャブ州を中心に両教徒の無差別殺戮が行われ、その犠牲者は、イスラム教徒だけでも、なんと50万に達したとわれている。
彼らは、宗教に力がないために、それに政治の利害がからみ、力で訴えて解決しようと試みるのである。
この両国間の対立を根本的に解消できることは容易ではない。またインドの内部におけるカースト制度は、現在、4000種にわたる階級があり、それがどれほどインドの近代化を妨げてきたことか。しかも、今日法律でカースト制が禁じられているのもかかわらず、きわめて固定化した形で存在している。これまた、ヒンズー教が、どれだけ民衆の中に浸透しているかを示すものであろう。
また、小乗仏教国とわれる東南アジアの国々の民衆が、西欧の植民地の支配のもとに呻吟してきた無気力、惰弱、消極的風潮のなかに、宗教の害毒が、強く、はっきりとにじみ出ているのである。もともと小乗教では、この人生を、苦・空・無常・無我であると立て、煩悩すなわち人間の欲望を断じ尽くした境地を悟りとした。このために、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒等の戒律を持たせようとした。ここに小乗教が戒律主義であるといわれるゆえんがある。
だが、いったい、煩悩を断じ尽くすなどということができようか。また、それができたとしても、そんな人間は、もはや木石となんら変わらぬではないか。現実を否定し、無視し、他の世界に幸福を求めゆく思想である。釈尊も、こうした教えは真実ではないと、のちに、自らこれらを否定している。小乗の教えは釈尊当時のインドの民衆の、享楽主義的風潮を打ち破るために、またバラモンの教えを破るための仮説にすぎない。このような、低級の教えを根本にすれば、当然、自由な人間性を疎外し、建設するたくましき生命力をむしばみ、無気力と偽善とを植えつけてしまうのである。
思想とはまことに恐ろしきものである。一人の人間の人生を徹底的にきめてしまうことはもちろんである。だがそれが、いったん社会に流布し、全体の中に浸透したときに、思想は、最もその威力を発揮する。巨万の富を積もうが、その人一代限りで滅び去ってしまう場合もある。その興亡盛衰が、いかにきびしいかは、歴史が如実にこれを示しているではないか。
だが、いったん社会の奥深く打ち込まれた思想は、その後何百年、いや何千年と生き残る。そして、その社会の歴史に一貫した宿命をもたらす。そうなれば、もはや、その社会に生きる人は、その思想自身では、信奉していると思わなくとも、しらずしらずのうちに、その思想の影響を受けているのである。ひとたび、自覚して、これを打ち破らんとすれば、平穏な世界は再び変じて、いかに憎悪と怨嫉と迫害のきびしいかを知らされるのである。
太平洋戦争における神道
わが国においては、低級な、邪悪なる思想、宗教がいかに国の前途を誤らせたかを顕著に示す例として、あの太平洋戦争における神道があげられよう。明治以来の神道思想は、天皇の神格化とともに、神州不滅の国家主義思想を形成し、戦争遂行の原動力となっていたのである。しかるに、神道そのものには、なんの指導理念もなく、いたずらに国民を精神主義にかたむけるばかりであった。一億の民に挙げて神社参詣することを強調した。国家権力によって、押しつけられたこと自体、すでに宗教に力のない証拠である。盲信とも、迷信ともいうべきであろう。その結果は、あの戦争中の神がかり的な神風思想となり、竹ヤリ主義の日本神道となり、シンガポール神社や朝鮮神宮等に見られる多民族への強調という愚劣な政策となって現われ、多くの破綻を生じたのである。また、思想の力は、あの客観的には、まったく勝ち目のない戦争を、最後まで皇軍必勝を信じさせたのである。だが、結果は、未曾有の大敗戦であった。終戦直後、幾多の軍閥関係が、皇居前広場で自決した。民間の極右翼の集団自決もあった。その信念の破綻から、悲しくも、みずからを死に追いやったのである。まことに恐ろしさは、言語に絶うるものがあるではないか。一片の思想が、かくも根強い国民感情を形成し、あの未曾有の大戦乱を巻き起こし、その破滅は、また多くの犠牲者をともなった。だが、このように思想に威力があるにもかかわらず、人々は、思想自体の高・低・浅・深・正・不正に対しては、あまりにも無関心であり、無感覚である。いわば思想の魔力というべきか。
われわれは、これまで、西欧のキリスト教、ソ連の共産主義、インドのヒンズー教、東南アジアの小乗仏教、そして日本の神道等をみてきたが、これらの例をもってしても、思想宗教の高低、宗教の正邪を、あくまでも政治権力に左右されず、真剣に検討すべきであろう。われわれが、まず、宗教革命に立ち上がったのも、そのためであり、それ以外には断じてない。
現代の日本における邪宗教
しかるに、現代の日本の宗教界には、キリスト教よりも、小乗教よりも、ヒンズー教よりも、神道よりも、恐るべき狂気の宗教が横行しているのである。特に宗教の根本とすべき本尊を誤れば、その人の生活は根底より破壊され、不幸の巷を流転するしかないのである。われわれは、身のまわりにキツネつきとか、あるいはヘビのようにのたうちまわる、むざんな姿を見たり、聞いたりする。狐狸を拝むものは狐狸の姿を現じ、蛇竜を拝めば、またその姿を身に現ずる。まことに不思議であり、かつ恐るべきことである。これ、われわれの生命の中に、本然的にそれらの生命の働きが備わっており、縁にふれてあらわれてくるという、仏法の方程式が正しいことを示しているではないか。
このように、拝む対象の影響力は、われわれの身に重大な変化を起こす。現在、信仰の対象たる本尊は、きわめて多種であり、狐狸・男女の陰部・水火・太陽・山岳の自然者等、驚くべき数にのぼる。仏教中、釈尊を立てる宗教においても、小乗教の釈尊から寿量顕本の釈尊まで種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立象、または日蓮大菩薩と呼称して大聖人の像を、あるいはにせ曼荼羅を拝むなど、みな思い思いに勝手な本尊を立てている。だが、これらの本尊が、いかに誤りの甚だしいか、文・理・現の三証からみても、五重の相対、三重秘伝等の宗教批判の原理に照らしても、また一念三千の法理のうえからも明白となるところである。これらの本尊をもとにした邪宗教は、人間の生命に深く食い入って、本質的にその生命をむしばむ悪鬼となり、悪魔となることは絶対である。妙楽大師は、正境に縁すれば利益多しと述べ、大聖人も御書のなかで幾多の正しき本尊の功力を強調されているが、その反対を考えれば、邪宗教の害毒、まさに恐るべきではないか。これを大聖人は「魔来り鬼来り災起り難起る」といわれたのである。
魔も鬼も、その意味は、ともに人の善心を破壊し、生命を濁らせ、不幸にする働きであり、根本的には、邪宗、邪義、邪智より起こるものである。「魔来り鬼来り」とは正報であり「災起り難起る」とは依報であり、この文は依正不二を示している。正法とは、自己の生命活動そのものであり、依報とは、環境のいっさいである。所詮、人間生命の濁りが、個人の生活を破壊し、さらに、社会全体をも混乱におとしいれ、国土にも災難をもたらすのである。
謗法の人の死後
さらに永遠の生命観に立てば、もし邪宗教を信奉するならば、その人の生命の本質が破懐されるがゆえに、未来永劫に不幸の連続であり、生きては、苦悩にうちひしがれ、死しては無間の焔にむせぶのである。これ経文に明らかであり、大聖人の御書に歴然としているところである。
法華経譬喩品には、邪宗教に迷い、正法に背いた人が、死後どのようになるかが説かれている。「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或はまた顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に、この人の罪報を説くを聴くべし、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、それ、斯の如く経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。この人の罪報を汝今復聴け。その人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん。地獄より出でては、当に畜生に堕つべし
若し狗野干とならば、其の形はコツ痩し、梨黮疥癩にして、人に触焼せられ、亦復、人の、悪み賤しむ所と為らん、常に飢渇に因しんで、骨肉枯渇せん、生きては楚毒を受け、死しては瓦石を被らん、仏種を断ずる故に、斯の罪報を受けん、若しは馲駝と作り、或は驢の中に生まれて、身は常に重きを負い、諸の杖捶を加えられん、但だ水草を念うて、余は知る所無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。
或は野干と作って、聚落に来入せば、身体疥癩して、又、一日無からんに、諸の童子の、打擲する所と為り、諸の苦痛を受け、或る時は死を至さん、此に於いて死に已って、更に蟒身を受けん、其の形は長大に、五百由旬ならん、聾騃無足にして、蜿転腹行し、諸の子虫の、接食する所と 為りて、昼夜に苦を受くるに、休息有ること無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是のごとし。
若し人と為ることを得ば、諸根は暗鈍にして、矬陋レン壁、盲聾背傴ならん、言説する所、有らんに、人、信受せじ、口の気、常に臭く、鬼魅に著せられん、貧窮下賤にして、人の使う所と為り、多病痟痩にして、依怙する所無く、人に親附すと雖も、人の意には在かじ、若し得る所有れば、尋いで復、忘失せん、若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復、死を至らん、若し自ら病有らば、一の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復、増劇せん、若しは他の反逆し、抄劫し窃盗せん、是の如き等の罪は、横に其の殃に羅らん、斯の如き罪人は、永く仏、衆聖、之、王の、説法教化したまうを、見たてまつらじ、斯の如き罪人は、常に難処に生まれ、狂聾心乱して、永く法を聞かじ、無数劫の、恒河沙の如きに於いて、生まれては輒ち聾唖にして、諸根は具せざらん、常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道、在ること、己が舎宅の如く、駝驢猪狗、是れ其の行処とならん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し、
若し人と為ることを得れば、聾盲瘖唖にして、貧窮諸衰、以て自から荘厳し、水腫乾痟、疥癩癰疽、是の如き等の病、以って衣服と為さん、身は常に臭処にして、姤穢不浄に、深く我見に著して、瞋恚を増益し、淫欲は熾盛にして、禽獣を択ばじ、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し」
この経文は観念でもなければ、虚構でもない。現実生活の実相なのである。日蓮大聖人は、法華経について「六万九千三百八十四文字悉く仏なり」と仰せられ、一言一句ことごとく真実であり、生命のきびしい実相を説き窮めていることを示されている。これほど恐ろしき邪宗教に、人はなぜかくも無感覚でいるのか。
聖愚問答抄にいわく「悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生.老・病・死・愛別離苦.怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は 狼眼に同し」(0474-12)
この文は、明らかにわれわれが過去遠々劫より今日よりいかに不幸にさいなまれ、苦悩の巷を流転してきたか、そして、今日、われわれの生命のなかには、いかに多くの不幸なる宿命がひそんでいるかを示されたものである。ここに「無明の酒」とは邪宗教である。このように邪宗教は、一人の人間の一生のみならず、測り知れないほど長きにわたって、生命の奥底を支配する。
この地上に展開される地獄絵巻図
しかも、ここに示された姿はけっして、この地上とは別の幻想の世界にあるのではなく、20世紀の今日ですらこの地上に出現したし、また出現しているのである。大焦熱地獄とは、まさに広島、長崎の原爆の悲劇それではないか。一瞬にして火の海と化し、猛火に焼かれゆく人々の苦悩を、地獄と呼ばずして、何といおうか。また、紅蓮地獄とは、八寒地獄の一つであり、この地獄に落ちたものは、極寒のために皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅蓮の蓮華の花に似ているところから、このように名づけられた。だが、これまた現実にあったのである。
第二次世界大戦中、ソ連西部はナチ・ドイツの侵略を受けたが、オデッサの町でも徹底的な反ナチ主義者に対する弾圧が行われた。ナチの親衛隊は、町の広場に鉄の檻をすえ、捕えたパルチザンを裸にして入れて、絶えず水を浴びせた。極寒のために男たちの肉はむけ落ち、赤い花が咲いたようになったという。まさに、紅蓮地獄そのものではないか。
その他、同じくナチがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所、ワルシャワのゲットーの悲惨な姿、また、日本軍がマニラをはじめ各地で行った捕虜虐殺、アメリカ軍とても、そうした行為がなかったわけではないし、いわんや原爆等によって、非戦闘員数十万を焼き殺したではないか。戦争は常に、かかる地獄絵図を描き、人々を、餓鬼界、畜生界、修羅界の狂乱にかりたてるものであろうか。
戦争はすなわち兵革の災、自界叛逆、他国侵逼である。その原因は「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ところにあるとの御断言であられる。
真の宗教による宿命打界
もとより、戦争だけが、地獄、餓鬼、畜生界出現の根源ではない。むしろ、戦争そのものは、三悪道の生命に支配された人間の一念のあらわれである。ゆえに、その根を断つためには、正法による宿命打開、生命浄化以外にないことが明らかではないか。
「宿命のこの暗黒な、底気味悪いが、しかし本質的な周律が生命の中に脈うっている。詩人は魅惑されて、学者は拱手して、哲人は絶望してこれをみている。身体の宿命、しかも最も不思議のもの」
ドイツの医学者ハンスムフは、宿命についてかく叫んでいる。しからば、この宿命は打開されえぬものであろうか。多くの哲学、宗教は、宿命は定まれるものとなして、それを諦めさせようとする。そのなかでも、現在の多くの邪宗教は、因縁話で無知な人を鎖でつなぎ、奴隷のようにし、生命力を奪い、生ける屍とさせゆくのである。
だが、人生の実相は、宿命との対決であり、事実、宿命打破へ、宿命打破へと人々の努力は向けられているのである。にもかかわらず、宿命にしばられ、宿命に流され、宿命に泣く人のなんと多きことか。それでも人々の努力は続けられる。単なる宿命説は、人間の本性を無視するものであり、力なき哲学であり、敗北の哲学である。ここに、邪宗教に迷い宿命打破の偉大なる宗教を見失えば、人々は再びまた、未来永劫にわたり、三悪道、四悪道、六道の暗黒の世界をさまようのみである。
“目に見えぬ敵”
邪宗教はかくも恐ろしいものである。ある人いわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。まことに邪宗教こそ“目に見えぬ敵”であり、最も恐れなければならないのは、邪宗、邪義、邪智である。富木殿御書にいわく「智者は怨家・蛇・火毒・因陀羅・霹靂・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」(0969-06)
この邪宗教の害毒を知ればこそ、われわれは、人に伝えぬわけにはゆかないのである。もし、人が不幸になるのを知って、ただ拱手して見ていたとすれば、その人は卑怯であり非人道であろう。開目抄にいわく「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云」(0237-01)と。まことに「言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」である。
諸天善神と神天上
人はよく「神は実在するかしないか」といった議論をする。だが「神は実在する」という人も、「神は実在しない」という人も、神そのものについては、きわめて、漠然とした、あいまいな考えしかもちあわせていない。一般に、人々が「神」を口にするとき、人類の未開時代にもった、アミニズムとシヤーマニズムの心霊概念を別にすれば、大きく三種類に分けられる。
三種類の「神」
第一類の神は天地創造の神である。たとえば、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のゴット、イスラム教のアラー、天理教の天理王命、金光教の天地金之神がこれに属する。およそ天地創造説が、幼稚な想像にすぎないように、この劇の主役たる神も、また想像の産物にすぎない。近代科学の発達にともなって、その幻影はことごとく打ち消されてしまった。
これと共に、そのような神の神話的な面を否定しながら、思弁哲学という別の面で、神を想定した人々がいる。キリスト教神学の神秘主義が発展し、デカルト、スピノザ、さらにヘーゲルに至る観念論哲学である。彼らは、この世のあらゆる現象が、絶対的な神の意志によって動かされているとすることによって、自己の思弁の体系化を試みたのである。
20世紀後半にはいった今日、唯物論哲学で教育されたソ連の青年科学者たちの間でも、自然界のあらゆる現象の奥に、人智の及ばない不思議の法があるとして、これを神と呼ぶ新しき宗教が芽ばえ始めているという。
これらはすでに天地創造の神とは、まったく異なった神への発展であるが、その思惟方法は軌を一にしているのではないだろうか。彼らが表現できえないで、ただ概念的に想定しているその神とは、仏法の教えを求めて初めて明らかとなる。すなわち、南無妙法蓮華経の一法こそ、その本体であると断定できるのである。
第二類の神は、氏族の先祖を神格化した氏神、あるいは、生前、功績のあった人を尊敬し、死後も名を残そうとした神社の御神体等の類である。前者の例として、日本の天神七代、地神五代をはじめ、バラモン教の梵天・帝釈、ゾロアスター教のアフラ・マツダ等、アジアその他各地の神々がある。天照大神は天皇家あるいは大和民族の先祖神であり、大国主命は出雲氏族の先祖神という。後者の例では八幡神社には応神天皇が祀られ、また乃木大将や東条元帥、明治天皇も神として祀られていることは、周知のとおりである。
先祖や功労者を神とする宗教は、彼らを敬う民衆の心情を、為政者の営利にさとい連中が利用して、宗教にデッチ上げたものにすぎない。祖先に感謝し、功労者に敬意をいだくのは正しい。これは道徳の範疇である。だが、道徳上の尊敬と、宗教的な救済とはまったく異なる。祀られている先祖や功労者は、土地の開拓者として、あるいは、ある分野のことに関しては才能ある人として、偉大であったかもしれない。だが、人生の苦悩を解決したわけでもなく、永遠の生命を覚知して成仏したわけでもない。迷いの衆生にあることに変わりはない。その意味で、自身ですら救えなかった彼らが、死んで衆生を救う力が出てくるなどという不合理は、ありえないことである。
第三の神は仏教に説かれている神である。信仰の対象ではなく、末法の世に正法を受持し弘法に励む者を守るという誓願を立てた諸天善神である。この神の働きは、実在の概念よりも、むしろ作用の概念をもってみるべきもので、日蓮大聖人の生命哲学をもったときに、その人を不幸から守り、あるいは迫害者から守る働きとして現われてくるのである。
諫暁八幡抄にいわく「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書き置れたり」(0578-11)と。
また、治病大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と。
すなわち、諸天善神は、悪鬼神と表裏の関係にあって、十界互具の生命自体に、本来備わっている。宇宙全体を生命体とすれば、宇宙に諸天善神がある。世界を一つの生命体とすれば、世界の諸天善神の働きがある。戸田前会長が、一国謗法により敗戦の日本に信教の自由を打ち立てて、妙法流布の体制を整えたマッカーサーを梵天に相当すると教えられたのは、この諸天の謂である。
天照大神、八幡等は、同様の原理にして、日本という一国の国土における諸天善神をいう。さらに、一人の人間革命についても、同じ原理による諸天の働きがあることはいうまでもない。しかして、一個の人間の諸天の働きが、一国、世界、宇宙の諸天をも動かす原動力となるのである。一国の繁栄も、世界の平和も、宇宙の平静も、強盛なる信心に立ったわれら妙法護持者の祈りによって、すべてが決定されていくことを知らなければあらない。
諸天善神について
以上、神について三種類あることを示したが、さらにこのうち第三の諸天善神について述べてみよう。
法華経序品では「爾の時に釈提桓因其の眷属二万の天子と倶なり、復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、爾の眷属の天子と倶なり。自在天子、大自在天子、その眷属三万の天子と倶なり、娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、その眷属二千人の天子と倶なり」と、天界の衆生が、法華経の会座につどうありさまが説かれている。天界の衆生ばかりでない。菩薩界の衆生も、声聞衆も、その他の雑衆としてあげられる衆生も、つどいきたり、それはまことにおびただしい数にのぼる。
この序品の儀式は、いったい何を意味するであろうか。戸田前会長はこれについて次のように述べられ尸ている。
「さて、この耆闍崛山に集まった第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるか、若干百千とあるので、推測にまかせるいがいはない。
これだけの大多数の人間が、どうして集まれたかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。(中略)
ことに雑衆中、帝釈天とか、自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾闥婆とか、迦楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか(中略)
ひるがえって、仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。
当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を譬をかりて説明したものである。たとえば蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説く時は当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実が同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
この序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。
しからば序品の当体蓮華葉いかん。何万の声聞、何万の菩薩、何万の雑衆は、ことごとく釈迦己心の声聞であり、釈迦己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈迦の命であり、釈迦の心である。さればこそ、十界の衆生はことごとく釈迦の内証に住むというとも、なんの間違いもないのである」
ここに示されたごとく、序品の儀式は、ことごとく一念三千の生命哲理をあらわしたものである。
ここに、梵天とか、帝釈といった諸天善神は、なにも、あの絵にかかれたようなものが、どこかにいるのかではなく、生命の、本質に備わる働きにほかならないことが、さらに明瞭となろう。
仏の生命にせよ、われわれの生命にせよ、ことごとく、これらの働きに備わっている。さらに、国土も、否、大宇宙それ自体が一個の偉大なる生命体である。そして、これらの働きは、大宇宙に遍満しているのである。では諸天善神とは、いかなる働きをさすか、それは、宇宙の働きのなかで、われわれの生活を守護する「働き」をいうのである。
しかして、先に引用の治病抄の「元品の法性は梵天・帝釈と顕われ」の文のごとく、大御本尊によって、仏界が顕現したときに、われわれの生命のなかに、梵天・帝釈の生命の働きが活発となり、また、それに呼応して、大宇宙が、われわれに梵天、帝釈として働き出し、いかなる災難、いかなる圧迫にもおかされない、悠々自適の生活をしていくことができるのである。宇宙のさまざまな事物や現象、すなわち天体の動き、太陽の光り、星辰のまたたきであれ、雨や風であれ、山川草木であれ、動物であれ、人間であれ、すべてがわれわれの幸福実現へと動き働くのである。
逆に、「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」の文のごとく、われわれが、邪宗教に迷い、心中に悪鬼、魔鬼の働きをなし、幾多の災難をもたらし、苦にさいなまれる人生となる。すなわち、世の中のあらゆる現象が、われわれの生活を不幸不幸へと導くのである。
この関係について、日蓮大聖人は、法華初心成仏抄に次のように述べられている。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」(0557-06)
「籠の中の鳥」とは、わが心中の仏界であり、その梵天・帝釈の生命活動であり、「空飛ぶ鳥」とは、大宇宙の仏界であり、その梵天・帝釈の働きである。かくして、妙法を護持した一念にめざめ、またそこよりほとばしり出でるたくましき智慧の力により、宇宙の現象を、望ましい方向へと変化させていくことができるのである。さらに、法華経の授記品に「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とあるごとく、魔の働きをも、変毒為薬し、諸天の働きになしゆくことができるのである。されば、悪魔のごとき人類を脅かす原爆水爆の原子核分裂や、原子融合の反応作用すら、われわれの一念で、人類のために、役立てることができるのである。
このように諸天善神は、正しき人を守り、国土を守り、さらに邪なる人を罰する“生命の働き”であるが、さらに、これらの働きをする人も諸天善神である。日蓮大聖人が、伊豆の伊東へ流罪されたときに、大聖人を守り抜いた船守弥三郎夫妻に対し、船守弥三郎許御書に「法華経第四に云く『及清信士女供養於法師』と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」(1445-09)と述べられている。
また、一国の、はたまた世界の正しき指導者は梵天・帝釈等といえるであろう。なぜかならば、その使命は、国を安穏に保ち、民衆を守ることだからである。だが、現代の世界の指導者は、梵天・帝釈のよき指導者の姿を現じているだろうか、残念なことに、兄弟抄に「此の世界は第六天の魔王の所領なり」(1081-15)とあるごとく、多くの場合魔の姿を呈しているのである。ヒトラーしかり、スターリンしかり、また現在、世界を戦争にかりたてる指導者もしかりである。
仏法における天照大神と八幡大菩薩の意味
次に、第二の神すなわち氏神信仰の神である天照大神、八幡大菩薩が、大聖人の仏法において、正法護持の守護神として用いられているが、その関係についてはどうか。
それは、先にも述べたごとく、神道では天照大神も八幡大菩薩も拝む対象となっているのに対して、仏法では拝む対象ではなく、妙法の働きとして、考えられているので、同じ名であっても、内容は全く違う。具体的にいえば、天照大神は、前述のごとく、もともと天皇家あるいは大和民族の先祖神である。だが、大聖人の仏法においては、もはや遠い過去の先祖神ではなく、日本民族を隆々と発展させ、日本の国土を守る“生命の働き”として説かれているのである。
天照大神は日神ともいう。産湯相承事には「富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり」(0879-09)とある。また諫暁八幡抄には「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」(0588-18)とある。まことに日本国とは不思議な国である。御本仏出現の国であり、太陽のごとき赫々たる大白法 三大秘法流布の国であり、全世界へ大仏法が流布する発祥の国である、日本国には、日本民族にそれだけの下地があったといえる。この日本の国土、民族の底流にある、仏法を流布せしめる力、国土を繁栄させ、隆々と民族を発展せしめる力、これを天照大神と名づけたのである。されば天照大神とは、妙法の働きであり、それ以外のなにものでもない。妙法が邪宗・邪義・邪智のためにおおわれたならば、天照大神の働きがなくなるのも当然であろう。百六箇抄に「脱益守護神の本迹 守護する所の法華は本・守番し奉る処の神等は迹なり、本因妙の影を万水に浮べたる事は治定と云云。」(0857-07)と。
また、八幡大菩薩とは神道においてはいにしえの日本の功労者、人王第15代の応神天皇を祀り、のちに、これを八幡神の化身として、このような称号を与えたものである。だが、大聖人の仏法においては、八幡大菩薩という特定の人をさすのではなく、八幡大菩薩という方程式、あるいは生命の働きをだしているにほかならない。
本尊三箇相伝にいわく「八幡大菩薩の体即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり、幡とは篇は巾篇是れ則衣装の類なり、作リは米と云う字を上に書き下に田と云う字を書く、是れ則米穀の類なり、されば衣食二つ併ら八幡の御徳なり」
この文を私に解釈することは恐れ多いが、少し思索したところを述べてみれば、「法華八軸」とは、妙法蓮華経である。そしてこの妙法蓮華経の力によって、衣食に困ることなく、平和に暮らしてゆけるのである。しかして、こうした働きをする人、すなわち民衆に不自由なき生活を送らせることのできる指導者もまた、八幡大菩薩の立場である。
ところが、今や日本国の指導者にそのような心の持ち主は、ほとんど皆無になってしまった。正法に背いたがゆえである。かかる姿が、日本の敗戦を招いたのであった。
神天上の現証
「神天上」とは、この御文にあるごとく、人々がことごとく正法に背き、悪法に帰依したがゆえに、守護の諸天善神は正法の法味に飢えて神威を失い、その国土を捨てて、天界に帰ってしまうがゆえに、その国、またその民衆の中に、悪鬼、魔神の生命がはいりこみ、数々の災難が起こってくるということである。
「神天上」については、これほど明確な大聖人の御文があるにもかかわらず、大聖人滅後、この正義を伝えたのは、日興上人お一人であった。他の五老僧は悉く正法に背いて伊勢神宮の参詣という大謗法を犯したのである。
「富士一跡門徒存知の事」にいわく、
「一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神・其の国土に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。」(1602-02)と。
この一事をもってしても、日蓮大聖人の正義、立正安国論の大精神を、純粋に守り、今日に伝えてきたのは、第二祖日興上人のみであることは明らかである。
正法の法味とは、いうまでもなく妙法蓮華経である。諸天善神が法味をなめなければ、勢力がなくなり、その国土を去るとは、もともと諸天善神は妙法の働きである。その妙法が謗法によっておおわれてしまえば、その働きがなくなったからである。この「神天上」を現代的にいえば、もはや、国土に、そうした諸天の働きをする立場の人、すなわち民衆を守り、国土を安穏にすべき、よき指導者がいなくなったことをも意味する。
神天上は、事実として明瞭である。太平洋戦争がなによりも雄弁にこれを物語っている。天皇を現人神と称し、国を神国日本と称え、国を挙げて天照大神への信仰をなさしめ、無謀な戦争をしたのである。国民は、最後まであの蒙古襲来の時のように、神風が吹くことを信じ込まされた。しかし、ついに神風は吹かず、国破れて、神道のいう神のいないことが立正されたのである。
あの時国土の荒廃は何を意味するであろうか。また、当時の民衆の無知と貧困、かつ栄養不足のためにやせ衰え、路頭にさまよった姿は、一体何を示すのであろうか。さらに横暴なる軍部の指導者、またこれに仰合したジャーナリズム、学者等の、あの卑劣な姿は一体。なにであろう。
まさしく国土にも、民衆の心に、指導者の生命の中にも清浄なる生命の流れは途絶え、福運のまったくなくなったことを如実に示しているではないか。
また、終戦後の連合軍の矢継ぎ早の指令によって、神道の破滅は自白のもとに晒された、これこそ、仏法上からみれば、諸天善神が国を捨離し、他国の梵天・帝釈の治罰を被った姿にほかならないのである。一国謗法の総罰であった。
創価学会の前進と諸天の加護
だが、この一国滅亡のなかに、広布の胎動があったのである。妙法の清浄なる法水はこの正法の滅せんとする時、戦後の焼け野原に一人立った地涌の棟梁こそ恩師戸田前会長であった。
日本の再建は創価学会の再建と軌を同じくしていた。以来、創価学会は発展を続け妙法の功徳に浴する人は、五百数十万世帯(S41年)を数えるに至っている。それとともに、日本の興隆もまた著しいものがあった。指導者の無能にもかかわらず、また国論がいまだに四分五裂の険しい対立と葛藤をくりかえしているにかかわらず、今日までの飛躍的な大発展は、まさに奇跡にも等しい。これこそ、民衆の中に、閉ざされていた強靱なる生命力が発現しつつある姿にほかならない。これを仏法から論ずるならば、学会員が増えて妙法の音声に天照大神、八幡大菩薩の諸天も呼び覚まされ、活動を開始した現証といえよう。
さらにまた、今日まで、米ソ・米中の谷間にありながら、日本民族が厳然とまもられてきたという事実、また二大陣営の核装備により、文字どおり火薬庫と化した世界にあって、これまでに、キューバ危機をはじめ、一触即発の危機が何回となくあった。さらに、フランス、中国の核武装、米仏、中ソの対立、民族主義の台頭等々、混乱と戦争の危機が増大するなかにあって、不思議と避けられてきたことは、まことに幸運であり、梵天・帝釈等の諸天の加護としかいいようがない。
御書にいわく「日蓮がひかうれば今までは安穏にありつれ」(0919-17)と。蒙古の大軍の襲来に際して、日本民族が不思議にも守られたのは、御本仏、日蓮大聖人がひかえておられたがゆえであるとの御文である。同じく、今日まで日本が守られ、世界もまた大三次大戦を免れてきたのは、日蓮大聖人の仏法を奉持して、民衆救済に立ち上がった創価学会が厳然とひかえておればこそと叫んでやまない。
だが、そのあとに「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-18)と仰せである。すなわち、現在に約せば、もし創価学会の主張を用いようとせず、広宣流布を阻止するならば、日本も世界も諸天の働きなく、魔王魔民の充満するところとなり、滅亡の一途を辿るであろうとの御金言である。
ゆえに、われわれは、瞬時たりとも、広宣流布の歩みをとどめることなく、日々、月々、年々に、信心を増し、真一文字に世界平和への大道を進みきる決意である。
0017:15~0020:13 第二段 災難由来の経証を引くtop
0017:15~0018:01 第一章 災難由来の経証を問うtop
| 15 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む、 今蘭室に入つて初めて芳詞を承るに神聖去り 0018 01 災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん -----― 旅人がいう。 この国の災難は、私独りが嘆くだけでなく、多くの人々が皆悲しんでいる。今、蘭室に入るように、あなたのところに来てお話を初めてお聞きしたが、善神・聖人が辞去して災難が次々と起こるということは、どの経に出ているのか。その根拠が聞きたい。 |
蘭室
蘭香の室の意。高徳の人、善人または佳人のいる所。香りの高い蘭のある室にいると、やがてその香りがからだんしみてくることから、高徳の貴人、善人とともにいると、いつのまにか、その徳の感化を受けるという譬えからでてきた語。王融の漢詩の中の一文。
―――
芳詞
芳しい詞。立派なお話という意味で、相手に対する尊敬の気持ちを込めた語。
―――
神聖
善神と聖人を並べて略した語。
―――――――――
天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む
この一節は、自分一個の悩みではなく、一国の民衆が苦悩に沈んでいる現実を、なんとか打開しなければならないという指導者の切実な叫びではなかろうか。これ、一身一家のことのみ考える利益打算を捨て、国家の前途を憂え、民衆の苦悩を、わが苦悩とし、その解決のために全魂を傾け、心血を注ぐべき、指導者の要諦を示されたものである。
戸田前会長は「一国の王法の理想は、庶民がその所を得て、一人ももるるとことなく、その業を楽しむのが理想である」と、政治の目的を明確に示されている。
だが、現実は、あまりにも、その理想からかけはなれている。
今日に至るまで、日本でも、世界でも、政治史をいろどるものは、多くの場合、残忍、冷酷という愚かなほど、一部の人々のために大多数の民衆の犠牲が払われてきた、幾多のいまわしき事実であり、指導者の多くは、私利私欲に明け暮れ、おのれの野心のために民衆を踏み台にしてきた。あるときは、残忍にも、虫けらのごとく、人間を扱ってきたのである。また、おのれの権勢欲、名誉欲、征服欲のために、人々を戦争にかり立て、多くの尊い人命を失わせてしまった
そこに一貫して流れるものは「人間性」の否定であり、無視であった。
たとえば、三千余年来つづいている、インドのカースト制のごときは、ヒンズー教を根本理念としてつくりあげた社会体制であるが、その底辺に奴隷があり、さらにその下には不可触賎民があり、その扱いは、人間ではなく、家畜以下であった。あの、民主主義政治が行われたとして、高く評価されている、古代ギリシァの繁栄も、その底には、不幸なる、奴隷の存在があった。西欧中世の封建時代においては、領主の繁栄の下には、悲惨な生活を強いられた農奴があった。また近世にはいって、絶対主義の国々においても、民衆は自由を奪われ、圧政のもとに苦しんだ。
また、16世紀から今日に至るまで、西欧列強の植民地支配もまた、イギリスのインドや南ア連邦におけるがごとく、ベルギーのコンゴ、オランダのインドネシア、フランスのインドシナ等に見られるごとく、あまりにも悲惨な、残忍な歴史がつづられた。さらに、第二次大戦においては、イタリア、ドイツのファシズム、ナチズムは、人間性無視の端的な例である。とりわけ、ナチは偏狭であり、迷信としかいいようのない人種論に立脚して、ユダヤ民族の絶滅をはかり、600万にもおよぶユダヤ人の冷酷無残な大量殺戮を行った。これこそ、スターリンの大量粛清とともに、人間性否定の典型であり、狂気であり、悪魔であるといわざるをえない、わが軍部にもこの振舞いがあった。これがわずか20数年前に起きたことを思うときに、ひとたびは驚きあきれ、ひとたびは激怒となり、さらに、今後絶対にこのようなことがあってはならない、否、断じてあらしめてはならないとの叫びが、胸奥よりほどばしり出るではないか。
また、太平洋戦争中の、あの横暴なる日本軍部の独裁は、大半の民衆に犠牲を強い、ために、人々は、生活苦にあえぎ、生きた心地すらしなかったのである。さらに、戦争によって、多くの人命がむなしく露と消え、悲嘆に暮れた民衆の声は、いまだに瞬時たりとも耳朶からはなれない。
第二次大戦で疲弊しきったロシアの国土について、あるジャーナリストは、次のように語っている。
「物質面での損害がどれほど多かろうとも、人間の努力で復興できる。爆破された建物の廃墟、壁にきざみこまれた弾痕、大地を染めた血潮のあとも、いつかはかたづけられ、また新しい建物がたち、新しい樹木が生長し、新しい草花が咲きほこるようになる。だが、人間の魂に刻みこまれた戦争の傷あとは、永遠に癒えないだろう。いや、人間だけでなく、小川のせせらぎ、芦のささやきにいたるまで、ロシアの風土のすべてが、戦争からうけた汚職を嘆き、戦争を呪ってやまないだろう」
これは、そのまま日本にあてはまる言葉である。あれから20年、日本の国内の様相は一変した。まるで、20年前に、あのようないまわしい戦争などなかったかのように、いったん人々の生命に刻み込まれた、戦争への憎悪、嫌悪の感情は、永久に消えるわけがない。心から平和への欲求、切実なる戦争絶滅への願い、これを、はかなく無に帰せしめてなるものか、創価学会が立ち上がったのも、まさしく日本のくずれざる繁栄、そして、世界の恒久の平和のため以外のなにものでもない。
だが、道は険しく、けっして平坦ではない。たしかにわが国は、悲惨な原爆の体験を経て、敗戦の苦悩のなかに、民主主義国家として、自由と平和をめざして再出発したことは事実である。だが、政界は、民主主義の名のもとに、時流れを巧みに泳ぐ、無思想、無節操の政治家が軍部に代わって占領したにすぎぬではないか。醜い政権の争奪戦、党利党略の派閥抗争、政治のための政治に堕し、民衆不在の権力政治となって、その腐敗は、極に達している。この自界叛逆の姿が、やがて他国侵逼を呼び、かってない悲惨な現実が展開されないと誰が断定せきようか。
真の平和願う民衆
目を世界に転ずれば、そこには、なお阿鼻叫喚の苦悩、餓鬼道のうめき、阿修羅の弩号がある。特に、二大陣営の谷間にある、東南アジア、中近東の懊悩、呻吟は、筆舌に尽くしがたい。インドネシア、ギリシァ等の政情不安もさることながら、特にベトナムの果てしなき、血を血で洗う戦いは、あまりにも悲惨であり、あまりにも残酷である。
だが、この悲惨な現実が、いつ日本に起きないともかぎらぬ。事実、資本主義と共産主義諸国の対立の波は、この日本の国土にはたひたと押し寄せている。一方では、アメリカと結ぶ保守や、それを利用する反動の動き、また一方では、中国・ソ連と結ぶ暴力革命の共産勢力と、わが国も、いつのまにか、再び歴史の試練の前に立たされている。
だが、民衆の心の奥底は、戦争なき平和を願っているのである。今こそ、すべてのものに優先して、人間の生存権、人間性の尊重に立脚しなくてはならぬ。されば、おのれの私利私欲にふけるのをやめ、民衆の幸福を第一義に考えるべきである。ここに、仏法の慈悲の精神が、政治に反映させねばならぬゆえんがあるのである。
仏法は、誰一人を苦しめない。またあらゆる人に、真に喜びと楽しみと希望を与えていくことが、その根本精神である。これを「慈悲」というのである。
仏法でいう「慈悲」とは、世間の人が「愛」と混同して考えているような観念的なものではない。そのようなものでひとを救えるわけがないし、仏が一生かけて説くはずがない。それは事実のうえに衆生の苦を救い、楽を与えることであり、人々の心に巣くう悪を断ち、根底より救い切る厳愛の行為である。「慈悲」は愛よりも、はるかに深く強い。
「愛」は、常に「憎」と相対する概念であり、「慈悲」は絶対性をもつ最高の生命の発露である。無理に修行して得るものでもなく、行動のなかに、心の働きのなかに、無意識に自然ににじみ出てくるものである。「愛」の理想を説きながら、激しい憎悪の葛藤を現実生活で行っている二重人格は、キリスト教徒によく見られるところであり、これとは、根本的に異なるものである。「親の子を思う、慈悲に似たり」とあるように、親の子を思う情すら、遠く慈悲におよばないのである。一切衆生を救う、崇高な仏の振舞いこそ慈悲であり、いっさいの根本に「慈悲」の大精神を置いてこそ、民衆を幸福にしきることができるのである。民衆の苦悩を解決し、福祉生活を与えるのが、政治の目的である。ゆえに、政治に最も必要なのは慈悲である。と断言してはばかりないのである。
御書にいわく「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0578-08)と。仏の慈悲の広大を伺い知るとともに、政治の要諦はまさにこの一言に尽きるのである。されば現今の劣悪なる政治を打開する方途はこれしかないことを心に銘記すべきである。災難をとどめる根本方程式
さて客が、主人に天下の災い、国じゅうの災難が何によって起きたのかと、その原因をたずねたところ、その答えは、以外にも、善神・聖人が国を捨て去ったから、国じゅうの災難が並び起ったということであった。この答えは、仏法の知らざる人にとって、驚愕であったのである。そして、これは、今日においても、なかなか理解せれがたい仏法上の方程式である。国じゅうが邪法であるがゆえに、諸天善神、聖人は国を捨て、所を去り、かわりに魔王・悪鬼が来て国じゅうに災いが起こることは、大聖人の絶対なる確信であらせられる。日蓮門下と称しながら、この大聖人の一大確信を、単に大聖人の一思想のごとく取り扱う邪宗の輩がいるが、大いなる誤りである。大聖人の真意も知らず、一念三千の仏法哲理も知らず、浅智をもって大聖人の仏法を推し測るのは、増上慢も甚だしいといわざるをえない。大聖人の民衆救済の根本大原理はこれであって、これを信じない者は、日蓮門下とは絶対にいいえないのである。されば、大聖人も、文証・現証を引いて、強くこれを述べられているのであって、客をして「何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」と問わしめたのも、ゆえあるかなと思われるのである。
大聖人の唱えられた、この原理は、きびしき一念三千の生命哲理によられた社会観、宇宙観であり、絶対の真理であることを確信する。ただ、神といい、魔といい、鬼といい、現代に理解されないのは、それがあまりにも迷信化され、仏法本来の生命哲理が歪曲されたために、奇異に感ずるにほかならない。しかし、真実の仏法哲理にめざめるならば、その理論がいかに深く、かつ広いか、またいかに事実と符合しているかを知り、かつは、近代科学の最先端も、その範疇を少しも出ないことに気づき、驚嘆の叫びをあげるであろう。
をまた、旅客が、主人の意外な答えを聞き、謙虚にその根拠を問うた。その質問の態度こそ、まことに人間として、なかんずく指導者の姿ではないか。
われわれが折伏に行き、不幸の根本を指摘し、大御本尊の偉大なる力を説くや、「そんなばかな…」と耳を貸さない人、激怒し激しい憎悪を、顔面に、行動にあらわす人もいる。また創価学会の主張を、認識もせずして評価する愚かな人々も多い。
だが、これは、あまりにも偏狭であり、感情論であり、みずからの既成智識にしばられた哀れな姿である。大聖人の偉大な確信、そして、われわれが幾多の実証のうえから確信しているところを、ただ一方的に否定し去るのは人間として恥ずべきである。いわんや知識人、または指導者として、人から尊敬されている人のとるべき態度ではない。真に偉大な人、心ある人であれば、未知の世界にはたえず感虚であるべきである。
まして、人類が、恒久平和か、滅亡かの岐路に立たされているときに、あらたなる方途を見いださんと努力するのが、為政者として当然であろう。ここに、われらの主張を、否定し去る前に、偏見を捨て、感情に流されず、心を澄まして、真なりや否やを検討すべきではないか。
また、ここに旅客は、明かなる経文上の証拠を求めている。そして、それに対する主人の答えにおいても、またこれから出てくる主客の問答においても、大聖人は、ことごとく経文上の証拠、すなわち証文を示して答えられている。これに対し、法然の選択集にしろ、親鸞の歎異抄にしろ、まったく経文によらず、自分勝手な議論を立て、あるいは、師匠のいったことだからといって、盲信しているにすぎない。ここに、正邪の別はきわめて明瞭ではないか。日寬上人はその著「依義判文抄」に「文証無きは悉く是れ邪義なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり」と述べられている。
三証・五重相対・四重興廃・三重秘伝等、すべて仏法は証拠主義である。文証もないような宗教が、どうして正しいといえるか、正邪を論ずる前に、宗教としての資格をすでに失っているといわざるを得ない。
だが、驚いたことに、念仏宗、真言宗、禅宗等、既成仏教として、一般には相当伝統があると考えられている宗教が、ことごとく、経文によらず、まことしやかに、のちになってつくるあげたものなのでる。こういえば、奇異に感ずるかもしれないが、事実はあくまでも事実である。ただ、日蓮大聖人のみが、厳格に、経文によって義を立てておられるのである。
さらに、今日、日蓮宗と称し、南無妙法蓮華経と唱え数々の宗派が乱立しているが、それがことごとく、大聖人の御書によらず、その教えに反し、師敵対の謗法を重ねている。ただ創価学会のみが、厳格に、御書を拝読し、その根本精神を寸分も狂いなく実践しているのである。
ちなみに、日蓮宗のなかで、今日、真に立正安国論の精神を、この日本の国に実現しようとはかっている教団が、ただの一つでもあろうか。みな、おのれの利益のために狂奔しているのみではないか。この一事をもってしても、日蓮大聖人の、否、遠くは三千年来の仏法の正統が、今いずこにあるかは明白である。
唱法華題目抄に「日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず」(0008-08)とあるごとく、あまりにも仏法に似て非なる邪宗教が、横行していることを嘆かざるをえない。もはや大乗仏法の真髄は、インドにもない。中国にも、東南アジアの国々にも、むろんのことながらまったくない。ただわが創価学会のみが脈々と受け継いでいるのである。
立正安国論の理想
立正安国とは、根本の思想、哲学、宗教を正すことによって、国家・社会を安泰にし、ひいては世界平和と人類の繁栄を実現するための理念である。
偉大なる宗教は、個人にあっても、家庭にあっても、国家であっても、また世界の人類にとっても、必ずや、すばらしい発展と繁栄と平和の実現を約束するものである。
偉大なる宗教の国家社会への影響
したがって、これが国家・社会を単位とした場合でも、まったく同じことが成立するわけである。私が、小説「人間革命」の執筆にあたって、第一巻の序文に「ともあれ、一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。これがこの物語の主題である」と述べたゆえんも、ここにある。すなわち、国家・社会にあっても、偉大なる宗教は、必ずや国家・社会を立派に革命し、正しく一国の宿命の転換をも成し遂げうることを叫んでやまない。
これ正しく立正安国の精神であり、立正安国の理念である。前に偉大なる宗教の、各個人に及ぼす影響について申し述べたことが、実はそのまま、国家・社会にも、あてはまるのである。
立正安国論には、念仏のごとき釈尊の仏説に反した非科学的な迷信邪教が、一国に弘まったとき、必ず一国に三災七難が起こり、民衆が苦しまざるをえないことが説かれている。また、偉大なる仏国土、すなわち平和で幸福な国家・社会を築くには、民衆各個人が、偉大なる宗教を信ずべきことを説ききっているのである。
すなわち本抄にいわく「汝早く信仰の寸信を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可し崇む可し」と。
およそ人間として、幸福と平和を望まぬ者はいない。しかも個人の幸福と繁栄のみを願う者は、また利己主義者であり、共に論ずるに足らない、真に大仏法を奉ずる者は、特に、国家・社会ひいては全人類、全世界の幸福と平和を熱願して、その達成をめざして前進を続けているのである。
さて、日蓮大聖人は、如説修行抄に「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-06)と仰せである。これ同じく立正安国の理念を申されたと拝すべきである。
偉大なる宗教は、国家・社会を革命して宿命の転換をも成し遂げ、優れた思想、哲学、人生観をもつことによって人衆は向上し、しかも社会全体に叡智がみなぎってくることは、誰人も否定しえまい。特に、国家・社会における指導者層のいかんによって、民衆の幸・不幸が大きく左右されることは、大聖人が立正安国論に引用された経文に、国王とか賢王という名が多く出てくることで明らかである。
しかし、宗教の正邪によって、三災七難、天変地夭の興起が左右されるということは、なかなか首肯し得ない人も多いに違いない。これは、いわゆる福運論、諸天善神論、依正不二論、詮ずるところは生命哲学論になっていく。立正安国論や如説修行抄に仰せられるような天変地夭・三災七難が起こっても、正法が国にあり、また人間革命され、社会革命された万全の国家・社会の見事なる体制が完成されていれば、されらは、ことごとく人災として、克服しうることは明らかであろう。
しかし、社会体制の完備のみでは、もちろん邪宗謗法が満ちているような国家にあっては、社会体制の完備もありえないが、一国に謗法邪教がみなぎっていれば、不可抗力的な三災七難、天変地夭を免れるわけにはいかないということである。それは一面からいえば、いかに科学技術が発達しようと、数々の災害が絶えないどころか、かえって激増しているような最近の社会情勢、あるいは原水爆や核ミサイル等の人類史始まって以来、この上といえるぐらいの恐怖感を考えれば、おのずから明白となることである。
各個人にあっても、福運の有無や諸天善神の加護や治罰が論ぜざれるごとく、宇宙生命の一部たる地球、世界にあっても、同じく福運の問題、諸天善神の問題が論ぜられなければならない。そして、やがて、科学が進歩すればするほど、科学的にも解明しうる時はまさに近いことを確信してやまない。謗法邪教と三災七難の問題は、次の依正不二論において、本源的に論じなければならない。
七難と依正不二
立正安国論においては、正法が隠没し、邪宗邪義がはびこるならば、三災七難が必ず起こることを金光明経等の四経の文を引かれて述べられている。すなわち、邪宗邪義により人間の生命が悪に染まるならば、社会が乱れ、さらには国土にも、天文現象にも異変を生じ、人々を奈落の底に追いやると説かれている。また本書の題号のごとく正法を立てるならば、三災七難をとどめ、一国は栄え、ここに絶対にくずれない仏国土が現出することが明かされている。
そのなかに一貫して見いだされるものは、善にせよ悪にせよ、社会環境に影響を与え、環境を変えていくのは、ほかならぬわれら自身であるということである。これこそ仏法の根本であり、この原理を依正不二と明かされている。
依正とは依報と正報のことである。まず正報とは、果報の主体の意であり、簡単にいえば、自己自身の生命である。依報とは、正報の所依の意であり、わかりやすくいえば、自己をとりまくいっさいの環境である。
この依正が而二不二の関係にあるというのが依正不二である。今日まで、幾多の思想、哲学が、環境が先か、人間の心が先かを論じ、対立してきた。だが、仏法で説く依正不二論の立場からいえば、それらは、ともにある面を強調した部分観であり、ことごとく依正不二の生命観に摂せられるのである。
瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140-06)と。
ここに明らかに「正報なくば依報なし」および「正報をば依報をもって此れをつくる」という二つの立 場から、依正の密接不可分な関係が述べられている。
環境と自己の微妙な関係
環境と自己とがいかに微妙に関係しているかは、科学の発達によってますます明らかにされつつある。たとえば、生命の起原に関しても、最近の学説では、地球の進化過程において、地球それ自体から生命が発生したという説が有力である。それはまず間違いないことであろう。今日、生物が存在しているということは動かしがたい事実である。しかも、地球成立当初の高温状態においてそのような生物が存在したとは考えられない。また、他の天体から生命体が降りてくるという仮定もなりたたないことは、もはや証明ずみである。このことを考慮すれば、地球の歴史のある段階に生物が誕生したと考えるほかないのである。このことにより、他の天体でも、条件さえ整えば、生命の発生も当然ありうることが明らかとなり、仏法の正しさが証明されつつあることは注目すべきである。
また、今日において、生物が、その環境と密接不可分な関係を保って存在していることも厳然たる事実である。たとえば、われわれ人間をとりまく環境を考えても、空気、水、米、肉などいっさいがひとつの調和を保ちながら、われわれと不可分な関係を保持している。
空気ひとつを取り上げても、われわれが生存していくためには、空気中の酸素および炭酸ガスの分圧は一定でなければならない。これが極度に変われば、われわれは死ぬしかない。
そこまでいかなくとも、ある限度において、正体そのものが、それらの分圧に応じて変動する。すなわち、酸素の分圧に応じて、ヘモグロビンの含量は変わる。したがって、高地などにおいては、血液も、赤血球の製造元である骨髄も、その構造に変化をきたすのである。
その他、食物にしても、水にしても、太陽光線にしても、また気温や湿度等、いっさいが見事なる調和を保ちながら、われわれと不可分な環境となっている。また潮の干潮と血液の循環とが関係があり、あるいは夜がくると自然に眠くなり、昼は活気づくのが普通である、ほんのわずかな環境の変化も、われわれ生命体に重大な変化をもたらすのである。
また、物理学においても、すでに17世紀において、ニュートンにより万有引力の法則が発見され、さらに近代においては、ファラデー、マクスウェル、アインシュタイン等により、「場」の理論が展開されるにおよび、この宇宙のいっさいのものが、互いに微妙に関係しあっていることが認められている。単にそれは目に見える物体間のみならず、空間においても、さまざまな現象が、互いに影響しあっているという発見こそ、物理学の面において、依正不二の原理を証明しているとはいえまいか。
また、社会学の立場から考えてみても、われわれをとりまく社会が、いかなるものかによって、どんなにわれわれが影響を受けるか測り知れないものがある。したがって、環境は重要であり、これを無視して、個人の幸福は考えられないし、さればこそより良き環境を選び、また良き環境にしようとするのは、人間の当然の心であり、行動であり、姿である。
自己の一念が環境を変える
だが、これらは「正報をば依報をもって此れを作る」という立場、すなわち環境が自己を形成していくことに着目した考え方であり、外界を対象として研究する科学の世界であり、制度、機構等を問題にする、政治、経済等の世界である。
はたして、環境がわれわれを一切がんじがらめにしばりつけて、すべてを決定してしまうのであろうか。もし、そうでなければ、悪い環境に生まれた人は、それを宿命としてただあきらめる以外にないではないか。また、環境を変えようとする一切の努力は、ことごとく無意味なものとなろう。また、はたして人の幸・不幸は、環境がすべてを決定してしまうのであろうか。人間の内奥の世界を説かずして、問題にせずして、どうして、真実の幸福が樹立できようか。
されば、仏法においては、環境が自己を形成することを認めつつも、また「正報なくば依報なし」と説いて、生命の奥底を説き、そこからいかに強き自己を築くべきか、また環境を変え、環境を支配する自己を形成すべきかを説いているのである。むしろ、幸・不幸という観点からすれば、この面が、はるかに重要であり、かつ根本的、本源的である。なぜかならば人間革命なき、環境の整備は砂上の楼閣であり、かつまた人間生命に内在する喜びや悲しみを抜きにして、幸福を語ることはできないからである。この人間の生命の内奥の世界を仏法では十界論で説き明かしている。
しかして、この十種の生命活動は、環境と不可分であり、環境にその影響が微妙に波及していくのである。
まずその人自身にとっては、たとえば地獄の苦しみに沈んでいるとき、どこへ行こうとあらゆる世界が地獄である。映画館に行こうと、どんなに美しい光景が眼前に展開されようと、生命それ自体に変化がない限り、その世界は暗黒である。
また、修羅の境涯の人にとっては、すべての世界がいらだたしく、また「修羅は身の丈八万由旬」とあるごとく、他の存在が小さな、とるに足りないものに見えてくる。尊厳なる人間の生命をも奪い去ること、平然としてやってのけるのである。
天界の人にとっては、どこへ行っても楽しい、嬉しい境涯であり、天にものぼらんおもいであろう。
すべて、これらの生命活動は、生命それ自体の変化であり、意識して変えられるものではないのである。されば、ここに、われわれの生命のなかに仏界を湧現するにはどうすべきか。意識して変えようとする、修行でだめならば、なにをもって顕現すべきなのか。これこそ重要のなかの最重要問題なのである。
全宇宙が十界互具の当体
さらに、自分自身が十界の生命活動をしている当体であるとともに、他の人も同じく十界を具備し、刻々と縁にふれ、それぞれの境涯をあらわしながら、生活している当体である。したがって、自分自身の生命活動が微妙に他の人々に影響していくのである。たとえば、一家のなかに病気で苦しんでいる人がいれば、その家全体はなんとなく暗い。おのれの修羅界の生命活動は、他人の人々の修羅界をも呼び起こす場合もある。いま自分が喜んでいるとすると、その喜びは顔面にあらわれ、また、からだ全体が浮き浮きとなり、行動にも張りがあり、それらがことごとく他の人々にさまざまな影響を与えよう。
仏法においては、自己の生命、さらに衆生全体の生命が十界互具の当体であると説くとともに、宇宙の森羅万象、否、大宇宙それ自体が、十界互具の当体でると説き明かしている。したがって、自己の生命の変化が、微妙に国土にも影響を及ぼしていくのである。国土というのも実に不思議といわざるをえない。たえず生育発展を続け、内には偉大なる力を備え、たとえほんのわずかな量の物質でも、それが破懐されるときには多大なエネルギーを発散する。さらに、天体の運行、地球の自転、公転等、厳然とそこに法が存在するのである。十界互具の生命体たるわれわれが誕生したのも、ほかならぬこの国土からではないか。
この国土にも十界がある。と説き明かしたところに仏法の偉大さがある。だが、これは難信難解のことである。なかんずく、国土それ自体に仏界の働きがあり、それが顕現されるならば、不滅の楽土となることは、難信難解中の難信難解である。
観心本尊抄にいわく「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず 法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば 木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く『国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力』等と云云、釈籤第六に云く『相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り』等云云、金ペイ論に云く『乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す』等云云」(0239-08)
たしかに住居でも、そこに住む人によって明るくもなれば暗くもなる。一国においても、そこに住む民衆の心がすさみ、疲弊しきっていれば、国土も荒廃する。国土もまた人間の心の反映であり、また価値創造のあらわれである。
環境と生命の関係
ある科学者は、生命の起源をさらに推し進めて次のような論を展開している。
まず最初に、生物でもなく環境でもない。ただ存在としかいいえないものが存在した。それは、生物、無生物の区別以前の混沌である。しかもこの混沌は、単なる混沌ではなく、一つの方向をもっている。それが、すなわち生命への方向である。換言すれば、最初の混沌は、単なる無生的なものではなく、それ自身は無生物であるにしても、生命への萌芽を内に蔵しているのである。それが時とともに生物としての自己をあらわしてくるのである。
しかし、生物が生物として自己をあらわしてくるとは、他面、環境が環境としてその性格を明らかにすることでもある。この意味において生物が生物となる時、環境は環境となる。あるいは原子存在そのものが生物と環境に分化するといえよう。したがって、生物と環境が相互に適合するということは当然なのである。生物と環境を別々に考えるから、両者の適合に驚き目を見張ることも起こるのであるが、われわれのように考えるならば、それが当然なのであり、むしろ生物と環境とが適合せぬことが不思議なのである。否、適合しなくては、生物も環境もないのである。この点、ドイツの生理学者ユクスキュールが生物と環境の関係を、切り抜かれた紙が、その空白にぴったり合うのにたとえられたのは、まことにもっともといわなければならない。
生物は環境を原因として、自己を形成するのであり、他方、環境はその生物に応じて、しだいに生物的環境となるのである。生物そのものというものがないのと同じように、環境そのものというのも存在しない、人間はともすれば、一定不変の環境を考え、そこへすべての生物は置かれていると考える。しかし、人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そして、人間各自にとって、環境はそれぞれ異なるように、すべての生物には各自の環境がある。
一言にしていえば環境は無数である。生物を離れて環境自体というものはどこにもない。生物が生物としてしだいに自己を生み出してゆくように、そして、それによってさまざまな生物がそれぞれの自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた、しだいに生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応する、さまざまな環境として自己を示しているのである。
彼はさらにこの論を進めて、生命を誕生せしめた環境は、いわば生命を、あるいは生命の方向を内に蔵する環境であり、結局、それは単なる無生の物質でもなければ、単なる環境でもなく、また明らかな生物でもない。環境と生物の両者末分の混沌であるという。さらに彼は結論していわく「宇宙そのものが生命の世界である」「結局、一切が生命なのである」と。
ここに、科学の方向が、いかに依正不二に近づいているかを知るとともに、着目すべきは、環境は無数であるということである。魚には魚の、鳥には鳥の、人間には人間の環境があるということである。
されば、同じ人間であっても、その人によって環境がみな違うのは当然であろう。また一人について論じても時々刻々と環境は移り変わっているのである。
これは、仏法の眼を開いて見れば当然すぎるぐらいの当然のことである。日寬上人が三重秘伝抄に「地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下・五百由旬に住し、畜生は水陸空に住し、修羅は海の畔、海の底に住し、人は大地に依って住し、天は宮殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に住したもうなり」と述べられているのも、正報と依報との密接不可分な関係を示したものである。
されば一社会に、貧・瞋・癡の三毒が充満し、人々の心が三悪道・四悪趣の境涯に陥っていれば、その環境もまた、すさみきり、人々を不幸へつきおとす働きが充満してくるのである。疫病が起こり、飢餓が人々を圧迫し、嵐は猛威をふるい、大地が動き、洪水も起こる。まさしく国土もまた三悪、四悪の姿となるのである。これまでの歴史をみても、人間の心が乱れたときに、必ずといってよいくらい、大災害が起きているのは、この原理の正しいことを裏書きしているのではないか。
妙法根底に楽土建設
仏法では、いかにして、一人の人間の宿命を転換し、ここに仏界を涌現せしめるか、また、さらには、いかにしたら民族自体の宿命を変え、ここにくずれなき仏国土を築くことができるか、その方途を説き明かしている。
すなわち、末法の今日においては、日蓮大聖人御建立の大御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱える以外にないことを教えられている。
南無妙法蓮華経にはとうていわれわれ凡愚には説ききれるものではないが、しいていえば、大宇宙の本源力であり、あらゆるものを変化せしめていく根本である。しかして、大御本尊はこの宇宙大の力の凝結であり、われらが、大御本尊に向かい、唱題するときに、われわれもまた一念に宇宙大の自己を見いだすことができるのである。すなわち、大宇宙のリズムに合致し、滞りなく、強い生命力が発現し、永久に生き詰ることなく、この一生を幸福に満ち満ちて前進していけるのである。同じく信心強き者の一念の結果は、民族を興隆させ、楽土を築き、世界平和をもたらすことができるのである。
これは、ただ単に理論だけでわかるわけがない。科学がいかにさまざまなことを発見したとはいえ、ある科学者の述べるごとく「真理を生み出す何億という鼓動のうちのまったく小さな一つの脈搏」に過ぎない。科学の言葉で説明するには、仏法の世界にはあまりにも広くかつ深すぎる。もはやここにいたっては体験し、実証する以外にないのである。
それでは、科学が発展していけば、最後には、仏法のすべてに到達するか、答えは否である。科学者が、科学の発達によって悟ったものは何か。それは、科学が進歩すれば、未知の世界がだんだんなくなるというのではなく、否、未知の世界が、ますます広がるばかりであるという厳粛なる事実である。科学は、あくまでも外界の物理化学現象の分析と綜合の学問であり、それは、われわれの窮めていく世界のほんの一部分である。
しかしながら、科学が、仏法の説くところにしだいに合致してきていることも事実である。これをもって、仏法の原理がいよいよ正しいことを確信されたい。
世間の人々は、邪宗教によって、三災七難が起きたり、正法によって国土安穏になるということを聞けば、奇異に感ずるのは、その人のそれまでの常識とかけはなれたものであるからにほかならない。およそ常識というものは、往々にして、誤った認識である場合が多い。いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、なかなか新しい事実を、新しい目でみることができなくなってしまうものだ。
竜の口法難に見る不思議
仏法の眼開けて見れば、われわれの一念により、社会を変え、民族を変え、また国土をも変えていくことは絶対の事実である。
されば、妙法を信ずれば諸天の加護がることも当然といえよう。諸天善神については、第一段第二章において詳論したところであるが、その本質は、大宇宙のそれ自体が、われわれに幸福をもたらす働きとして、作用してくるのである。
種種御振舞御書には、大聖人が、竜の口に行かれる途中、若宮小路において八幡大菩薩を叱りとばす場面が描写されている。さらに竜の口の刑場のようすは、次のように述べられている。
「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0914-01)
この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球とも説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。
火球は、あたりを明るく照らし出す、その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がすることである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのために森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。
竜の口の現象も、あるいは「物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ」とあるからこの火球がそれであったのかもしれない。それならば、隕石が空中で燃えて火球になったもので、奇跡でもなんでもないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に説明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対して加護せよと叱咤したあと、しかも首を切られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったという動かすことのできない事実、これは科学では説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。
さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく種種御振舞御書に「いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」(0915-12)と。
これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理化学的な面での説明であって、現象それ自体の説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、竜の口における現象とを合わせて考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。
われわれは、依正不二の原理を説き明かし、そこから世の不幸の根源を示し、その解決を明示した立正安国論こそ、必ずや、日本一国はおろか、全世界の幸福を招来する力強き一書なることを、強く確信してやまぬものである。
戸田前会長いわく「世上の識者の中には、立正安国論は、単なる日蓮大聖人の片寄った考え方であると見るむきがあるが、これは誠に浅はかな僻見であって、同論こそ厳格なる科学的理論と現象との一致を見た前人末踏の書であり、宇宙観、社会観よりして、寸分狂いなき正しき哲理なのである。また安国論をたんなる観念的な哲学論であると考える向きもあるが、もちろんこれもまた真実を認識しえない僻見にすぎない。立正安国論こそ、国家安穏、天下泰平の一国治術の大法則である」と。
0018:02~0018:12 第二章 経証の一 金光明経top
| 02 主人の曰く其の文繁多にして其の証弘博なり。 ・ -----― 主人がいう。 根拠となる経文は極めて多く、証拠は幅広くある。 -----― 03 金光明経に云く 「其の国土に於て此の経有りと雖も 未だ甞て流布せしめず 捨離の心を生じて聴聞せん事を 04 楽わず 亦供養し尊重し讃歎せず 四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し 乃至供養すること能わず、 遂に我れ 05 等及び余の眷属無量の諸天をして 此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ 甘露の味に背き 正法の流を失い威光 06 及以び勢力有ること無からしむ、 悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて 涅槃の路に乖かん、 世尊我等四 07 王並びに諸の眷属及び薬叉等 斯くの如き事を見て 其の国土を捨てて擁護の心無けん、 但だ我等のみ是の王を捨 08 棄するに非ず 必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、 既に捨離し已りなば 其の国当に 09 種種の災禍有つて 国位を喪失すべし、 一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて 互に相讒諂し枉げて辜 10 無きに及ばん、 疫病流行し彗星数ば出で 両日並び現じ薄蝕恒無く 黒白の二虹不祥の相を表わし 星流れ地動き 11 井の内に声を発し 暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、 多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し 12 人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。 -----― 金光明経にはこうある。 「国王がその国土に、この経があるとはいえ、いまだかって流布させたことがなく、関心を持たず聞くことを願わず、経典を供養したり尊重したり讃嘆したりすることもない。仏法を信じる出家・在家の男女や経典記憶し実践する人を見ても、同様にその人々を尊重したり供養したりといったことなどがない。 そのような場合、私たち四天王およびその従者である無数の神々は、この深遠な妙法を聞くことができず、不死の妙薬の味わいから遠ざけられ、正法の流れから外れてしまい、威光・勢力がなくなることになる。 それによって、地獄界などの劣悪な境涯の衆生の数が増え善道である人界・天界の衆生の数が減り、輪廻の生死の苦しみという川に落ちて、平安な涅槃という道から外れてしまうだろう。 釈尊、私たち四天王とその従者たち、および古代インドの神話の鬼神である夜叉らは、このような事態を見て、その国土を捨ててしまい、守護しようとする心が無くなるだろう。ただ私たちだけがこの王を捨て去るのではなく、国土を守護する無数の大善神たちすべてが捨て去るということが起こる。 そして捨て去った以上は、その国には種々の災害があって国王は地位を失うに違いない。民衆は誰一人善良な心が無く、ただ拘束・殺害・対立紛争ばかりがあって、互いに自分に都合のよいように物事を語り、悪事をしない人に罪をかぶせるだろう。 疫病が流行し、彗星が何度も出て、二つの太陽が並んで現れ、日食・月食が不規則に起こり、黒い虹や白い虹が不吉な前兆として出現し、星が流れ地が動き、井戸の中から音がし、時季はずれの暴風・悪風が発生し、常に飢饉に遭って苗も成長せず実も成らず、外部の敵対者の侵略が多くあって、国内の人民は様々な苦悩を受け、その土地には望ましい場所がなくなるだろう」以上。 |
繁多
繁く多いこと。非常にたくさんあるとの意。淮南子の原道訓に「好憎繁多・禍い乃ち相い随う」等の用例がある。
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其の証弘博なり
弘も博も「ひろい」の意。災難の起こる原因を明かした経文、証拠は広大にして、一切経典中、いたるところにり、あらゆる角度から論じられてあることをいう。すべて挙げるわけではないから、この安国論では、そのごく一部の代表として、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経を引用されているのである。日寛上人の文段には「文証広大にして、通じて諸経に普し。ゆえに弘博というなり」とある。
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金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。
① 金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中
② 金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武
③ 金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年
④ 合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年
⑤ 金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年
このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
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其の国土に於て
経文には、この文の前に「爾の時に四天王俱に合掌して仏に白して言く、世尊若し人王有り」とある。すなわち、この文は四天王の言葉で、国王について説かれているところである。国王とは民主主義の現在においては、国民であり、其の国土は日本国であり、一閻浮提、全世界である。
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未だ甞て流布せしめず
「国王が此の経を流布させなかったら」という意。大聖人御在世事は、鎌倉幕府が大聖人の諌暁を用いなかったばかりか、却って仇をなして迫害した。以後700年間、日本の国土は、邪法に迷って正法を流布せしめず、民衆に塗炭の苦しみをなめさせてついに亡国を招いた。今、この正法を世界に広宣流布しなければ、世界の民衆を苦悩の底から救い出すことはできないのである。日寛上人の分段には「かくのごとく点ずべし……末だ国王、この経を流布せしめずなり」と申されている。
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捨離の心を生じて
捨離とは、捨てて離れること。正しい仏法を捨てて、正しい仏法から離れること。この文は国王が捨離の心を生じたと解釈すべきである。第二次世界大戦中の創価学会弾圧などがこれにあたる。日寛上人の分段には「蒙の意にいわく『この文国王に約するなり、ゆえに本経に若有人王於其国土等というなり、しかるに承の註にこの文をもって諸天に約するははなはだ非なり』と云云。今いわく註の意は経の前後を取り略してその意を示す。しかるに梵帝四王心に捨離を生じ及び持者においてまた保護せずとは、これ恐らくは『捨其国土無擁護心』の文を消すか、いまだ必ずしも『生捨離心』等の文を釈するというべからず、これすなわち甘露の上味に背き正法流通を失うゆえに梵帝四王心に捨離を生ず等というゆえなり、これを思え、所詮・今文は国王に約してこれを釈すべきなり」と。
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聴聞せん事を楽わず
仏の説法を聞くことをよく思わない。日蓮大聖人の正義を求めようとしないこと。広宣流布への創価学会の主張を聞こうともしないこと。
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供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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四部の衆
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のこと。比丘は梵語で(bhikșu)仏門に帰依して具足戒を受けた男子、僧である。乞士、慧命。比丘尼は(bhikșuņi) 出家して具足戒を受けた女子、尼僧、除女、熏女と訳す。優婆塞は(upāsaka)俗家であって仏法を信行する男子、清信子、近事男。優婆夷は(upāsika)仏門に入った在家の女子。俗家にあって仏法僧に近事し、諸の善法に親近して修習し、過去の罪業を離れて清く、しかもよく仏道に入る信を立て、破戒を離れる女性をいう。清信女、近事女。いずれも正法を保つ人々。
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持教の人
仏経をたもつ人。正しい仏法を信じ、身口意の三業に精進する人。末法において、別しては御本仏・日蓮大聖人、総じては日蓮大聖人の三大秘法を保つ正法信者。
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我れ等及び余の眷属
我れ等とは、帝釈天王を中心として、世界の東西南北を守る天界の王、すなわち四天王である。東を持国天王、南を増長天王、西を広目天王、北は毘沙門天王が守るとする。帝釈は釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいい、欲界第二の忉利天の主で須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。四天王は帝釈の外将で、天処のはじめである六欲第一の四天王に住す。天台大師の法華文句記巻三には「四大天王とは帝釈の外将で、四つの宝山に住す。高さは須弥の半分、広さは二十四万里、東の黄金山には持国天王、南の瑠璃山には増長天王、西の白銀山には広目天王、北の水精山には毘沙門天王がいる」とある。余の眷属とは、それ以外の諸天の眷属である天界の衆生をいう。
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此の甚深の妙法
三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。(安国論の意では一往金光明経)諸天善神はこの妙法の法味をなめて勢力を得る。金光明経を一往にせよなぜ妙法と名づけたかについて、日寛上人の分段には「問う、この経はこれ方等の摂なり、何んぞ妙法と名づくるを得んや。答う、諸法相所対不同なり、もし外道に望まば阿含小乗なこれ妙法なり、ゆえにいわく舎利子の所説は妙中の妙なりと、いわんやまた方等大乗をや、まさに知るべし、今はこれ大小相対なるのみ」と説かれている。
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甘露の味
①梵語の阿密哩多で不死・天酒の意。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。
②中国古来の伝説で、王者が仁政を行えば、天がその祥瑞として降らすという甘味の液。
維摩経では「天の食を甘露味となす、之を食すれば長寿、遂に号けて不死の食となす」光明文句には「甘露は是れ諸天不死の薬、食う者は命長く、尊を受持して覚知する永遠の生命である。「食う」とは題目を唱えること、「命長く」とは、若々しい生命活動を保つこと、「身安く」とは現世の功徳・利益であり、「力大に」とは心身ともに健全なること、「体に光あり」とは血色がよく膚に光が増すこと、また世間の人々から尊敬されること等といえる。
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悪趣
趣とは境界の意で、十悪・五逆・謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。地獄とは苦しみ、餓鬼は食物はじめいっさいの物について、求めて得られない状態、畜生は弱い者には威張るが、強い者には媚びて恐々としている状態、修羅は争いに明け、争いに暮れる状態である。日寛上人の分段には「これはこれ四悪趣なり、『生死の河に堕ち』とは上の六凡をもって通じて生死となし四聖をもって用いて涅槃となすなり、性抄に『分明ならざるに似たり』と云云」とある。
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人天を損減し
人界および天界の楽しみを損い減ずること。人界・天界の因縁については十法界明因果抄に「第五に人道とは報恩経に云く『三帰五戒は人に生る』文。第六に天道とは二有り、欲天には十善を持ちて生れ色無色天には下地は麤・上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり。」(0430)とある。このように、善根あって得た果報であるが、謗法の罪によってその果報を損減し、四悪趣の苦を味わなければならなくなる。
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生死の河
煩悩に支配された迷いの生活、地獄から天界までの六道を輪廻する生活である。生死とは生老病死、人生の根本的な苦しみをいう。煩悩を火にたとえるのに対し、生死を大海、河等、水にたとえる。
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涅槃の路
涅槃とは梵語(nirvāna)で、滅、滅度、滅寂、解脱、円寂等と訳す。衆苦を断じて、いっさいの煩悩の火を滅ぼし、不生不滅の法性を証験した成仏の境地をいう。それは自由・清浄・平和・永遠等を備えた幸福境で、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備した理想的境涯である。この境地を会得するのに、小乗教は、煩悩を断じ灰身滅智せよと教えたが、日蓮大聖人の仏法では、御本尊を受持し、信ずることによって、そのまま即座に生死即涅槃となるのである。ここでは、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖をもって、用いて涅槃となしている。
―――
薬叉
梵語(yaksa)で夜叉とも書く。本来は形貌醜怪で猛悪なインドの鬼神であるが、仏教においては、天・竜・乾闥婆・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽とともに八部衆とし、また毘沙門天の眷属として法華経の行者を守護する、また仏国土なら、その北方を守護する役目がある。
―――
斯くの如き事を見て
日寛上人の分段には「性抄にいわく『即正法の流れを失うの事なり』と云云、この義いまだ美からず、今いわくただこれいまだかつて流布せしめず等の事なり、已下神聖の正引なり」とある。
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擁護の心無けん
日寛上人の分段には「持経者においてまた両向あり、開目抄の意は『謗法の世をば守護神捨て去るゆえに正法の行者に験し無し』等云云、八幡抄の意は『その国を捨去すといえども正法の行者あれば即その頂に宿る』等云云、これ共業別感に由るゆえなり」とある。
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当に種種の災禍有って国位を喪失すべし
日寛上人の分段には「当の字、国位を冠すべし、性抄は但災禍に冠るなり」とある。
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繋縛・殺害・瞋諍
繋縛とは、身を縛ることで罪人を逮捕すること。殺害とは殺人、瞋諍とは喧嘩、争い。
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讒諂
讒は讒言で、事実を曲げ、いつわって他人を悪くいうこと。諂は諂腴でへつらうこと。すなわち、他人を讒言して罪におとしいれ、自分は主君、上役におべっかいを使って、よくおもわれようとすること。
―――
枉げて辜無きに及ばん
法を曲げて、罪をない者までおとしいえるようになるであろうとの意。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経に五種の懺悔の法を説いたなかに「第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、是れを第三の懺悔を修すと名づく」とある。これについて御義口伝には「末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く『若し此の法に依れば即ち天下泰平』と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」(0786)とある。大聖人が種々の大難を受けられたこと、戦時中の軍部政権による牧口初代会長、戸田二代会長、第三代池田会長があわれた大阪事件はこれにあたる。
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彗星
ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
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両日並び現じ
太陽が二つ、三つと同時に並んで出ること。もちろん、一つだけが実物で、他は幻の太陽である。これは、大気中の氷の結晶などの浮遊物によって生じる暈が正体で、その交差するところが輝いて、太陽が並び出たかのように見えるのである。陰陽道では、両日が並び現ずることを、国に二王が並び立ち、世の中が乱れる瑞相であるとした。報恩抄には「仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれ」(0319)とある。
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薄蝕恒無く
薄とは、太陽や月が出ていながら、その光を失うこと。触は、月蝕・日蝕である。太陽や月が光を失う例については、もやがかかったり、塵埃が光をさえぎったりする等が考えられる。日蝕については、太陽と地球の間に月が位置してそのため太陽が欠けたように見える現象。月蝕は太陽と月の間に地球が入り、月面が地球の影で隠れること。仏法ではこれらを天変地異の瑞相としている。
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黒白の二虹
七色の虹と異なり、黒ないし白色の虹。黒虹は急激な気候の異変によって生じる悪気流によるもの。白虹は、霧雨のように細かい雨滴が光にあたってできる。幻日環の時に現れる光弧とも考えられる。昔の中国では、白虹は革命や戦乱の前兆として恐れられていた。
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井の内に声を発し
地震の時などに、井戸水や温泉の涌水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したりして、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が空気を振動させることによって生じるものである。井の内に声を発するとは、そのような地殻変動に関係するものと思われる。日寛上人の分段には「蒙の一義にいわく『地動に由り水声を発す』云云、『この義・美からず』と云云」とある。
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正法を捨てて邪法に帰すると諸天および聖人が、その国を捨て去り、災難がおこるという証文として、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経の文を引かれたのである。
経証として爾前を引く理由
さて、この四経は、ともに法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」である。大聖人は諸御書で、無量義経の「四十余年末だ真実を顕わさず」、方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等の幾多の経文を引かれて、爾前経を破折しておられる。
では、いったいなにゆえに爾前経を破折しておきながら、しかもここに爾前の経々を引かれたのか。
これについては大聖人が観心本尊得意抄に次のように明確に仰せられているごとくである。
「一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く『権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し』云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0972-11)
すなわち、成仏得道の経は、法華経に限るが、それ以外のことについては、その他の経文に明らかにされている。されば、その実体を法華経なりとすれば、いっさいの経々はことごとく生かされてくるのと仰せです。
さらに日寬上人は、安国論文段に、爾前の経を引証した理由は略して四あると仰せられている。
第一には法華経は大網であり、爾前は法華経のための網目であるから、大綱のために網目を用いるのである。
第二には文が爾前の経に出ているが、しかも義は法華にあるからである。
第三には爾前の劣る経ですらこの通りであるから、まして勝れた法華経においてはなおさらのことである。
第四には爾前の文を借りて法華の義を顕すのであり、開会の上であらゆる経文を用いるのである。
第一の「爾前はこれ法華経の網目なるゆえ」という理由について、前にあげたごとく観心本尊得意抄に「所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」(0973-01)とあり、妙楽大師の釈籖十には「唯大網を存して網目に事らず」とあり、同じく文句記の九の末には「円教の行理の骨目自ら成ず皮膚毛彩は衆典に出在せり」とある。
第二の「文は爾前に在り義は法華に在りのゆえ」という理由については同じく観心本尊抄得意抄に「其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0973-02)とあり、「種々の道を示すと雖もそれ実に仏乗の為なり」とある。また文句記三の上には「ゆえに外・小・権・迹を内・大・実・本に望むるに並びに名のみ有りて実無きなり、ゆえに仏・迦葉を斥けて汝昔し但涅槃の名を聞いていまだその義を聞かず」とある。
第三の「爾前の劣を以って法華の勝を況するゆえ」という理由については、四条金吾釈迦仏供養事「当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや」(1146-01)とある。
また撰時抄にも「彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い多宝仏は真実なりと御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し…」(0265-02)とあるがごとくである。
第四の「爾前の文を借りて法華の義を顕わすゆえ」という理由については、十章抄には「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(1273-08)とある。さらに成論の二如来、阿含の四処起塔等、これを思い合わすべきである。すなわち開会の後に文を借り義を顕すのである。
南無妙法蓮華経こそ一切経の観心
また、同じ原理が日寬上人の三重秘伝抄に説かれている。すなわち天台大師が、一念三千を証明するために、華厳経の「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざることなし」の文を引いていることについて、次のように述べられている。
「問う昔の経経の中に一念三千を明かさずんば天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや。
答う彼の記小久成を明かさず何ぞ一念三千を明かさんや、若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云、又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活の法門なり』云々、彼の経は当分は有名無実なる故に死の法門と云う。楽天曰く『龍門原の上に土・骨を埋めて名を埋めず』と、和泉式部云く『諸共に苔の下には朽ちずして埋もれる名を見るぞ悲しき』云云、若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」
すなわち、華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり「死の法門」であるが、ひとたび、法華経の立場で用いれば、十界互具、一念三千の説明として生かされ「活の法門」となるのであるが、これは大集経等の場合についても同じであり、それ自体としては、名のみで実体もなく、けっして民衆の幸福を築く力ある経文ではなく「死の法門」である。だが、ひとたびそれを法華経の立場で用いれば、たちまち生命をふきかえし「活の法門」となるのである。
以上のことに関連して、さらに大聖人は、なぜ釈尊の法華経にはもはや力がなくなったといわれながら、その法華経の経文を用いられている。
まず、法華経に力がないことを示された御文は、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)、高橋入道殿御返事「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし」(1458-13)等、枚挙にいとまがない。
だが、これもまた同じ原理であり、成仏得道の教えとしては、もはや法華経にも力がなくなってしまった。しかし、法華経の実体を、寿量文底下種の南無妙法蓮華経としたときに、ことごとく生かされることを知らなくてはならない。
日蓮大聖人の仏法から立ち返ってみるならば、法華経二十八品ことごとく南無妙法蓮華経を明かさんとして説かれたものであり、南無妙法蓮華経こそ、一切経の根本であり、法華経の肝要なのである。
曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)云云と。
三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)云々と。
したがって、法華経が、いかに釈迦仏法中、最高であったとしても、南無妙法蓮華経を根本としなければ、それは名のみあって実体なく「死の法門」にすぎないのである。今日、法華経が、釈尊一代五十年のなかで、最高の経文であることは、仏の金言に明らかであり、少しく仏法を知った人であれば、誰でもわかることである。だが、いったい、なぜ法華経が最高なのかについては、まったく知る人がいない。ただ文々句々に執し、それであたかも法華経を知ったかのような錯覚をしているのである。
一代聖教大意には「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(0404-03)と。また開目抄には「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり」(0195-10)と。
ここに、法華経にせよ、また釈尊一代の経々にせよ、ことごとく三大秘法の南無妙法蓮華経によって、初めて、生かされて「活の法門」となり、意味をもってくるのである。
ゆえに、「其の国土に於いて此の経有りと雖も」とは、一応、文上から読むならば、ある国土に金光明経があって、この金光明経を流布もしない。しかも捨離する心を生ずるならば…等と読まれるのであるが、これではまったく意味がない。これは、仏法上経相とって、日蓮大聖人の読み方、すなわち観心の読み方ではない。大聖人の仏法においては、経文を文字に表わされたままに読み理解するのを経相の文上ともいい、大聖人の御真意を観心とも文底ともいうのである。立正安国論は大聖人の大確信であり、法華経の真髄であるから、金光明経とはいえ、観心文底において拝すべきなのである。
其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず
されば、この御文を、日寬上人の文段によって、観心文底より拝すれば、次のようになる。「其の国土に於いて」の国土とは、日本国であり、「此の経有り」とは、本門の本尊、妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。三大秘法とは、本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであり、三大秘法の南無妙法蓮華経とは、弘安2年(1279)10月12日の御図顕の一閻浮提総与の大曼荼羅のことである。
「未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の「未だ甞て流布せしめず」とは、いまだ一閻浮提に広宣流布せしめないことである。顕仏未来記の「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)云云の文を思い合わすべきである。
為政者が、この大御本尊を、いまだかって日本に流布せしめずして、またこのわれらが主師親と仰ぐべき本尊を、ただ、受持しないばかりでなく、捨離の心を生じて、この本尊を求めようとせず、この本尊のことを聞こうともしない。また、この本尊を身に供養せず、意に尊重せず、口に讃嘆しようともしない。また、文底受持の行者、すなわちこの大御本尊を持つ人を、尊重したり、供養したり、讃嘆したりすることは考えもおよばない。それであるから、「遂に我等及び余の眷属…」等と、梵天、帝釈、四天王、およびもろもろの諸天善神をして、この深秘の妙法、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経を聞くことができると嘆かせるのである。
さらに、日寬上人は、文段に次のごとく述べられている。
「ゆえに三箇の妙法の法味に飢えて三箇の秘法の水流に渇く、ゆえに『威光勢力あることなし』と云云。学者まさに知るべし、日本国中みなすでに毒薬邪法の飲食なり、諸天何んぞこれを受けんや、ただ我が文底甚秘の大法のみ無上の甘露正法なりしもこれを供養せずんば諸天の威光如何ん、すべからずこの意を了すべし、あえて懈ることなかれ」
日蓮大聖人は、建長5年(1253)4月28日の立宗宣言以来、罵倒と迫害の連続であった。特に文応元年(1260)7月に、この立正安国論を著わし幕府を諌言されるや、それはまさに怒濤となって押し寄せてきた、立正安国論の根本精神は三災七難の不幸の根源は、邪宗教にあり、もし、これに対してなお帰依を続けるならば、他国侵逼・自界叛逆の二難が必ず起こる、ということであった。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」等の肺腑をえぐる全民衆救済の烈劣たる叫びに対して、悪酒に酔いしれる幕府の権力者たちは、松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆・伊東への流罪をもって遇したのである。
はたして、文応元年(1260)より満7年、文永5年(1268)正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言の的中が疑いなき事実となった。だが、幕府は、なお悪夢からさめず、諸社寺に蒙古降伏の加持祈祷をさせるなど、謗法を重ねていった。この国家存亡の危急に対して、日蓮大聖人は十一通の御書を認めて、幕府の迷妄をさますように、また時の邪宗教に対しては、公場対決をきびしく迫られたのであった。
しかるに、幕府はこの至誠あふれる国諫を聞き入れないのみか、幕府の上﨟、尼御前たちに取り入った極楽寺良観、建長寺道隆等の邪僧の言葉に迷い、ますます激しい弾圧と迫害とを、大聖人およびその御一門に加えていったのである。
かくして文永8年(1271)9月12日、幕府の軍事警察権を一手ににぎって、絶対の権力をふるっていた平左衛門頼綱は、無謀にも大聖人を竜の口の刑場で、頸を刎ねんとしたのである。だが、所詮、いかなる大難も、その本仏の御境涯をこわすことはできなかった。その夜の不思議な現象に、頸斬り役人どもは恐れおののき、ついに処刑を断念してしまったのである。しかし、大聖人は念仏者等の陰謀のため、佐渡へと流罪され、そこで不自由な3ヵ年の生活を送られた。この間、時宗の兄、時輔の陰謀などがあって、自界叛逆の様相は、ますます深刻となってきた。文永11年(1274)、佐渡から鎌倉へ帰られた大聖人は、幕府を諌め、「今年は必ず蒙古の責めに会う」と断言、これも聞き入れられなかったので、故事にならい「三度諫めても用いなければ国を去る」と宣言され、身延の山へこもられたのであった。
だが、大聖人は、ここで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)との御文のごとく、ひたすら末法万年尽未来際までも利益する大御本尊の建立の準備をされていった。ついに熱原法難の機に立宗より27年、弘安2年(1279)10月12日、「余は27年なり」と申されて、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのである。
太平洋戦争は以北の遠因
以上のように、大聖人の御一生をみるに、大正法が打ち立てられたのもかかわらず、この大法を日本の指導者を流布せしめなかった。まさしく、当時の日本国の実情は「末だ甞て流布せしめず」の感を深くするではないか。また、当時の権力者の横暴なふるまいは甞て流布、まさに「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず」等の文にあたり、したがって諸天善神は国を捨て去り、日本の国は、福運をまったくなくしてしまったのである。他国侵逼難は、大聖人がおおせられればこそ、当時は、免れることができたが、ここに、すでに太平洋戦争の未曾有の敗戦の遠因がったのである。
戸田前会長はこのことについて、次のごとく述べられている。
「日蓮大聖人は御本仏にていませばせば、断じて未来を予言し、お言葉どうりに自界叛逆論があり、他国侵逼難が実現したのである。時の上下の人々が、この予言書を誠実な気持ちをもって信じて、大聖人の教えを一国に流布したならば、あの時代からいかに日本が栄たであろうか」、だが、それに反して、「大聖人世を去られて六百有余年、あれほど懇篤に未来の真の仏法、大良薬を奨められてあったにもかかわらず、まことに爪上の土の如く、極く少数の人のみに信じられて、大多数の人々はこれを信じなったがゆえに、実に700年近い昔の予言が的中して、アメリカ軍による日本国土の占領とう他国侵逼難があらわれたのである。
およそ原因には二とおりある。近因と遠因である。近因とは、ある事件が起こった直接の条件、作用であり、遠因とは、それらの条件作用を必然とならしめる根本の因である。
太平洋戦争を語るとき、そこには当然、軍部閣僚の無能が話されなければならないであろう。当時の軍部首脳部の民衆から遊離した政治感覚、派閥争いに終始したその官僚性、および科学に対する驚くべき無智は、日本の敗戦に直接つながるものとして、きびしく、批判されるべきであろう。しかし、われわれはここに一大亡国の姿を現じた根本原因は、実は“見えざる敵”にあったことを、肝に命ずべきである。すなわち、700年近くにわたった、正法に対する敵対の総決算であり、大聖人の諫言を用いなかったがゆえの破滅であることを断ずるものである。
根は深く、源は遠かった。大聖人滅後600数十年、この間において、真実に民衆救済の大白法が、この日本の国にありながら、隠没され、人々から少しも顧みなかった。ただ邪宗教のみが跋扈し、乱脈を続け、また世欲的な権力と結びついて、人々に害毒を流しつづけてきた。
阿鼻叫喚地獄の様相を呈しながら、悲惨な終焉を告げた鎌倉幕府の後にきたものは、室町時代であった。この時代においては、応仁の乱等社会の乱れに乗じて念仏がひろまり、特に蓮如を中心とする一派が、文化の発達しない地方への進出をはかり、かなりの信者を得て、ついに大阪に本願寺城を築き一向一揆の基となった。
戦国時代にはいると、石山本願寺、比叡山、高野山などの諸宗の本山は、宗教よりも武力をもつ集団として、戦乱によって徹底的に蹂躙されたのである。
最も悲惨をきわめたのは、比叡山であった。織田信長により、山上の全寺塔は焼き払われ、僧徒1600人が、焼き殺された。また本願寺も、信長、秀吉に攻められて、徹底的な打撃をうけた。まさに、この時代の宗教界は、修羅闘諍にふけり、利益にからんだ醜い権力との結託に狂奔し、その結果、戦乱の渦中に巻き込まれ、悲惨な姿を繰り広げた。そこには、仏法の精神はまったくなく、あるものは、ただ三悪道・四悪道のみであった。
やがて徳川幕府が成立し、ようやく世の中も落ち着きをみせた。宗教界も、形式的には発展を示した。たとえば、天台宗の僧、天海が上野に寬永寺を建て、また浄土宗が家康の保護で芝の増上寺を建てる等である。
だが、徳川幕府の封建制度下にあった仏教の内容は、堕落の一言に尽きるのでる。幕府は、キリシタン禁令を徹底させるため「宗門改め制度」を設け、それに仏教を利用し、庶民統制の組織をとったのである。これによって檀家制度が確立し、人々は出生、結婚、旅行、職人の雇い入れ、埋葬などすべて檀那寺の承認を得なければならなくなった。また、本寺、末寺、の関係を決めて、本山の統制力を強化し、その上に寺社奉行を置いて、封建的な秩序を保とうとした。当然、改宗なども強い制限を受けた。かくして、既成宗教は、幕府の御用機関となって骨抜きにされ、幕府の保護、檀家からの布施、寺領からの収入によって、安逸に流れ堕落していった。いわば、仏教は封建政策の道具と化したのである。
この檀那制度の影響がいかに根強いかは、今日われわれが折伏にいったときに、痛感するところである。その寺がいかなる宗派で、いかなる教えを説くかなどは、まったく知らず、疑問ももたず、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になると思っている。
明治以降、日本は政治上では形ばかりの近代化を遂げた。こうした民主に巣くう、封建制、事大主義、因習は、根強く残っていることを知らねばならない。
神道と国家権力の結託
やがて、王政復古により、立憲君主制を政治的な理想とする明治維新の世となった。明治政権は、天皇主権の必要上、国民に天皇を信ぜしめるために、神道を用いた。天皇の神格化を最良の方法として考えたのである。この維新の政策は、政治的な改革であるとともに、禅、念仏、真言などの諸宗に再び決定的な打撃を与えたのである。
明治2年「神仏判然令」が布告され、封建時代に優位に立っていた仏教は、神道とその所を入れ替えたのである。この神仏分離の政策は全国津々浦々に急速に、しかも徹底的に実施されていった。これまで押えつけられていた神官たちは、この時とばかりに仏像仏具、経巻などを壊し、焼き捨てるという運動を開始した。いわゆる排仏毀釈運動である。
四国の土佐では400ヵ寺が廃止され、裏日本の富山では「一宗一寺の他はことごとく廃寺すべし」という「廃寺令」が出された。兵隊に大砲を引かせて巡回させて威圧し、廃寺を迫った。また明治4年には、社寺の領地を境内地のほかは全部返上させ、それにかわるものとして、禄米を支給し、さらに金禄に改められた。このことによって、寺院はその経済の大半を占めていた収入源を失って、衰亡へと大きく傾いていった。
こうして、既成仏教を徹底的にたたいた神道は、国家の特別保護のもとに、一躍、国家的地位を得ることになった。
天皇は絶対的権威として君臨し、神社は宗教ではなく国家の“宗祀”であると称えられ、神官は官吏としての待遇をうけた。伊勢神宮の祭主には皇族を、大宮司には勅任官をと、直接国家が司るようになった。さらに全国の神社は、それぞれ官幣大・中・小社、国幣大・中・小社、諸社としての社各の制度をうけて、いっさいの費用は官公庁から支給されるということになった。
仏教もまた、弾圧を恐れて、神道との融和をはかろうとした。当時の仏教界は、ようやく排仏毀釈運動の打撃から立ち直ったものの、なんら神道を糾弾する勇気も情熱もなかった。
やがて、田中智学を中心とする国柱会の日蓮主義が、完全に神道宣揚の結果を導くことになった。智学は、法華経の絶対性と天皇の神格化という当時の情勢を、なんとか結びつけようとしたのである。ここに、天皇の神格化を、法華経の絶対性から支援しようとした日蓮主義の妄説が生じ、神道のまえにあえなく屈服していった。
また、この間の事情には、この機に乗じて政府が宗教団体を制定し(1939)いっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱たる神道のもとに、強制的に結合させる力も大きかった。
ここに、宗教界は、こぞって政府と神道の掲げる報国運動へと埋没していったのである。
神道は、もともと、原始の自然宗教であり、上代の民の生活態度のなかに芽ばえたものが、大和朝廷の正統化という要望とあいまって、成長してきたものである。したがって、教理は、なんら哲学的な根拠もなければ、理念らしきものも、見当たらない。一般的には、祭祀を中心にするものにすぎなかったのである。
この神道をもって、天皇絶対権の裏づけとし、政治力をもって国教化の方向をとったことは、大きな誤りといわざるをえない。もし、未開の古代社会の復元を本気で夢みたとするならば、時代錯誤も甚だしい。いかなる非合理な祭政一致や国教化は、所詮成功するはずがなかった。その破綻は、太平洋戦争の進行とともに馬脚をあらわしたといえよう。
日蓮大聖人滅後の広布の戦い
ひるがえって、大聖人滅後の日蓮正宗の歴史をみるならば、第二祖日興上人は申し状を捧げて鎌倉幕府をいさめ、第三祖日目上人も、42度の天奏を遂げられる等、惜身の布教活動はなされたものの、広宣流布の大願成就には到底至っていない。
明治・大正・昭和に入っても、創価学会の出現以前は、広宣流布など思いもよらなかった。
昭和における創価学会の最大の難関は、軍部の弾圧である。旧憲法には「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」とあった。これは形ばかりの信教の自由であり、特に「治安秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於テ」の但し書きは、いかようにも拡大解釈できたのである。事実上、国家神道を拝することを国民に義務化していた指導者にとって、神道否定の宗教の存在が許されるわけがなかった。よって、戦時中、さまざまな宗教に対する国家の干渉、宗教統合を権力によって行おうとする動きが見られたのである。その結果、神道を真っ向から否定した創価学会に対しては、猛然と国家権力をもって弾圧し、牧口初代会長、戸田二代会長をはじめ21名の幹部を投獄し、牧口会長を獄中にて没せしめたのである。
大聖人の時代より700年、いまだ広宣流布せず、その歴史は、時に断圧の歴史であり、またそのなかで、ただひたすら時を待ち、創価学会の出現を待ち続けた正法は、そして当時の日本の姿は其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず」の御文のごとくであり、「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の文のごとくであった。されば、諸天善神は勢力を失い、日本国から去り、「既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」のままに、一大亡国の姿を現じたのである。
まったく、3000年前に説かれた経文に、寸分も違いのないことに驚くとともに、仏法が永久不変の宇宙の絶対の真理を説き明かしているのを事実をもって知らされるのである。
されば恐るべきは邪宗教であり、悪思想である。邪宗教が根底となり、しかもそれが政治権力と結託するところに、亡国の姿を現ずるのである。
日蓮大聖人は、その根本原因を、ここに経文の明証をもって喝破されたのである。
神国王御書にいわく「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521-07)と。
この亡国の実相を思い起こすにつけ、二度と同じ愚を繰り返してはならぬと痛感するのである。
なるほど、亡国という事実は、まことになげかわしい現実であった。だが、その根本原因にめざめなければ、またいつなんどき、このようないまわしき災難に見舞われないとも限らぬ。人々は、その原因を論ずるに、政治の劣悪、社会の体制を口にする。だが、それよりも、さらに根本的なものは、人間に出発し、人間に起因する問題である。すなわち、ありとあらゆる政治悪、社会悪をもたらすものは、所詮人間生命の濁りである。貧・瞋・癡の三毒強盛の生命こそ、常に変わらぬ、あらゆる腐敗、あらゆる悪の根源なのである。では、その衆生の生命の濁りは、どこに起因しているのであろうか。それこそ邪智、邪宗、悪思想に縁したがゆえなのである。まさに邪宗教こそ、個人の幸福を奪うのみならず、人類を滅亡に導く元凶であり、われわれ人類の敵であることに、世の人は気づかなければならない。
貧弱な土壌からは、豊かな実りは生じない。創価学会がまず第一に、邪宗教の生命を断ち、悪酒に酔いしれる民衆を覚醒させるべく、宗教革命からの戦いを開始したのは、実にそのためである。そのうえに立って、新しき建設がなされるのである。すなわち政治であり、教育であり、経済であり、あらゆる文化の花が咲き誇るのである。これ第三文明である。第三文明の建設については、第十段で論じよう。されば、創価学会が今日、宗教革命に、力強く勇気と情熱をもって、邁進しているこの峻厳なる事実こそ、全日本の人人に、全世界の民衆に、全人類の歴史に、勇気と前進の光明とを与えてゆく、唯一の力なりと確信してやまない。
遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ
この金光明経の文は、諸天善神と約すべきである。すなわち日寬上人の文段には「即これ諸天・甘露食味に向わず正法の水流を得ず、すでに飲食に飢渇す。ゆえに威光勢力あることなきなり。向背得失これを思い見るべし」とある。また、一説には「悪王・悪比丘が甘露の味に背き正法の流れを失い威光及以び勢力有ること無からしむ」と読むとあり、また一説には「甘露の味に背き流れを失い」を悪王悪比丘に約し、「威光及以び勢力有ること無からしむ」を諸天善神に約すと読むとある。だが、日寬上人は、文段に、この両説ともに適切ではなく、不可であり、ともに諸天善神に約すのが正しいと述べられている。すなわち、その理由として、金光明経の次上の文には「甘露味をもって我に充足す。このゆえ我等この王を擁護す」また下の文には「無上の甘露の法味を服することを得、大威徳勢力光明を獲」等とあり、いわんや所引の文相が諸天善神に約して解釈することが、もっとも穏便であると、述べられている。
また日寬上人は「甚深の妙法」も「甘露の味」も「正法」も共に三大秘法のことであると、文段に次のように示されている。
「初めに甚深妙法とは、もし迹門の意に約せば即これ諸法実相の妙法なり、経にいわく『甚深微妙の法我れ今已に俱得す』と云云、天台いわく『実相を甚深と名づく』等云云。もし本門の意に約せは本因本果の妙法なり、経にいわく『如来一切甚深之事』等云云。天台いわく『因果是深事』と文、宗祖いわく『妙法蓮華経の五字は迹門にすら尚之を許されず况や爾前に分絶えたる事なり寿量品に至って本因本果の蓮華の二字を説き顕わし上行菩薩に付属し給う』と云云。もし、文底の意に拠らば即三箇の秘法を含むなり、天台わく『此の妙法蓮華経とは本地甚深の奥義なり』云云。本地の二字は戒壇を顕わすなり、いわく本尊所住の地なり、ゆえに本地という。あに戒壇にあらずや。甚深の二字は本尊を顕わすなり、天台いわく『実相を甚深と名づく』と云云、妙楽いわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云。あに一念三千の本尊にあらずや。奥義の二字は題目を顕すなり、天台いわく『包蘊を蔵となす』と云云、いわく題目の一行には万行を包蘊す。ゆえに一行一切行というなり、あに題目にあらずや。今・甚深の妙法とは即これ本地甚深の奥義なり、ゆえに三箇の秘法を含むべきなり、文略して意周し、これを思い見るべし。
次に甘露とは、妙楽いわく『甘露門とは実相常住、天の甘露のごとしこれ不死の薬なり』と文、一連にこれを釈すといえども二門の意を含む、初に『甘露門とは実相常住』とはこれ迹門の諸法実相を名づけて甘露となす、ゆえに実相常住というなり、『天の甘露のごとしこれ不死の薬』とはこれ本門の是好良薬を名づけて甘露となす、ゆえに不老の薬というなり、すでに寿量品に是好良薬と説き薬王品中に至りて『若人有病得聞是経・病即消滅不老不死』と演ぶるゆえなり、もし文底の意に約せば即三箇の秘法を含む。
涅槃経北本の第八初にいわく『あるいは甘露を服し寿命長存を得るあり』と文。甘露の両字は本尊を顕わすなり、妙楽いわく『実相常住天の甘露のごとし』と云云、またいわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云、ゆえに知る事の一念三千の本門の本尊なり。服の一字は題目を顕わすなり、天台大師文の九に釈していわく『日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜まず唱うるなり』等云云。『寿命得長尊』とは持戒の功能を顕わすなり、義例隨釈第一十紙に破戒罪を明かしていわく『法身を亡ぼし恵命を失う』等云云、ゆえに知んぬ、持戒の福は寿命長存することを得るなり、あに戒壇にあらずや。まさに知るべし、仏法を行ぜんとせばまさにこの戒壇の地に住すべし、自然と本門の本尊を信じ、自然と本門の題目を唱う、ゆえに自然と是名持戒の行者なり、例せば家語に『善人と居る・芝・蘭の室に入るがごとし、久しくその香を聞かざれども即これと化す』等というがごとし、恵心の歌にいわく『山里に住めばをのずと持戒なり・実なりけり依身より依処』と云云。
三には正法とは『三種の邪正題号の下のごとし』と云云、但・正の字において三箇の秘法を含むなり、いわく正とは妙なり妙即妙法蓮華経、妙法蓮華経は即本門の本尊なり、本尊妙なるゆえに信また妙なり、信妙なるがゆえに行また妙なり、妙即正なり、ゆえに正字即題目なり玄二四十一にいわく『境妙なるをもってのゆえに智また随って妙なり、智・行を導くゆえに行妙という』と云云。およそ正とは一の止る所、ゆえに一止に从う。一は即本門の本尊、止は即止住、本尊止住の処豈戒壇にあらずや、具には題号の下のごとし」
不老不死について
さて、ここに甘露を不死薬とし、妙法は不死薬と説かれているが、これは具体的にはいかなる意味であろうか。
如説修行抄にいわく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-07)
この文のなかで「人法共に不老不死」の文を日寬上人は文段に「寿量品の説相これを思え、常住此不滅常住此説法と云云、御書七に云く日蓮が慈悲曠大は人なり、南無妙法蓮華経は万年の外・未来とは法なり、三世常住の利益なれば不老不死なり」と説かれている。
すなわち、日蓮大聖人の仏法こそ、末法万年尽未来際に至るまでの衆生を救いきっているがゆえに、不老不死なりと仰せらるるのである。爾前経は無量義経で「四十余年未顕真実」と打ち破っているがゆえに、爾前経は老であり、死である。また、いかに法華経が一代聖教中最もすぐれているとはいえ、末法においては、力がなくなるから、老であり、死である。ただ、文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ不老不死なのである。まさに大御本尊こそ不老不死ではないか。
しかして、この大御本尊を信じ、唱題する人は、不死薬を服しているがゆえに、やはり不老であり、不死なのである。その生命のなかに仏界が顕現して、諸天の働きが充満してくるのである。
不老とは、たえず若々しき生命の躍動にみなぎり、一生涯、向上していく人生こそ、不老ではないか。初代牧口会長は、70を越えた老齢でありながら「僕たち青年は…」と口癖のようにいわれ、最後まで死身弘法の姿であった。戸田前会長もまた「青年時代に持った理想を、一生涯貫いていく人が、世の中で最も偉大な人である」と申されていた。
思うに、青年とは限りなき発展、限りなき未来、たくましき建設をはらんだ旺盛なる生命活動である。なにものをも恐れず、なにものにも左右されず、大目的に向かって、全生命よりほどはしり出ずる血潮をたぎらせて進みゆく、清純な、力強き生命活動である。この大御本尊をたもった人のみが永久に青年であり、不滅の若さを誇りうるものである。これ、不老ではないか。
不死とは、永遠の生命の覚知である。未来永劫にわたる絶対の幸福境を、ただ今の一瞬に開くのである。すなわち成仏の境涯を会得することである。これについて戸田前会長は「成仏の境涯をいえば、いつもいつも、生まれてきて、力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰もこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、可哀想というよりほかにない」と述べられている。この幸福境は、他のいかなるものにもこわすことができないから不老であり、また、不死の苦縛にしばられず、永遠の幸福に生きるのであるから、不死である。
また、衆生世界についても同様のことがいえる。衆生社会といえどもさまざまなものであろう。いまこれを民族を例にとり考えてみょう。再び戸田前会長の論文を引用する。
「古代エジプト人は、かの偉大なピラミットを残して衰退し、興隆をきわめたバビロン王朝にしても、ペルシャにしても、インドにしても、ゲルマン民族にしても、幾多の衰亡興隆を重ね、幾多の変遷を重ねて今日にいたっている。しかして、今日、地球上に成長発展している民族は、数えるほどしかないのである。これは、ある一種の有力な民族が中心となり、各種の民族を包含して、一民族を形成するときには、その民族が若さをもち、あるいは若さをとり戻して、隆々と発展していくのである。
中国の歴史をみても、中央の文化を形成している民族が古くなると、北方その他より、新進の民族が中央に進出して、諸民族を糾合して、新しい民族の若さを取り戻していくのである。今日、地球上において、最も繁栄をきわめているのはどこか? と問えば、誰しもアメリカ合衆国をさす。実にアメリカ国民は、建国以来、三世紀内のうちに、長足の進歩をきたし、世界の政治、経済、文化等、諸問題を中心として、発展向上しているのである。
ここにおいて、私は、衰亡の一途をたどっている民族と、興隆をきわめている民族とを比較してみて、民族それ自体の力というものを発見するのである」
しかして、われわれ日本民族が、今後隆々と発展し、真に平和国家として、文化国家として、世界、人類に貢献してゆけるか否か、私は、もし、日本の人々が、真に、三千年来、悠久たる大河のごとく、東洋民族の心の奥底をながれてきた大乗仏法の真髄にめざめるならば、日本民族の発展は絶対に間違いないことを断言しておきたい。
まさに、大聖人の仏法こそ不死薬であり、民族自体の生命を、最も強く、清らかにしていく本源であり、かつ、絶対に他から破懐されない福運を備える源泉であると確信するゆえに他の民族もまったく同じことでる。
また、国土も同様である。妙法を根底にすれば、国土も常寂光土となり、五穀は豊かに実り、草木は繁茂し、美しき景観となり、雨、風、気温等もリズム正しく、そこに住む衆生に、力と若さと潤いを与えていく国土となる。
立正安国論にいわく、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(0032-14)と。
「仏国其れ衰んや」とは不老せあり、「宝土何ぞ壊れんや」とは不死である。すなわち、妙法広布の楽土こそ、実に不老不死なのである。この原理を、地球全体に及ぼすならば、いかに人類の前途は、明るく、光輝に満ち満ちたものであろうか。楽土日本の現出も、世界の恒久平和も、共に、不死薬たる妙法の力による以外にないのである。
逆に、邪法が盛んになり、妙法をおおいかくすならば、われわれの生命のなかの諸天の働きも、衆生、社会の生命の諸天の働きも、国土を守護する諸天の働きも、ことごとくなくなり、あとに残るものは、残虐非道な暗黒の世界である。されば、日本国に、全世界に一日も早く、この大白法を流布し、全民衆を潤してあげたい気持でいっぱいである。
悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん
悪趣とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅界等の不幸なる生命活動であり、その四悪趣のみが増大し、人間界、あるいは天上界の、平らかな、または喜びの生命活動は、ますます民衆のなかから損減していく、また民衆は、生死すなわち苦悩煩悶の六道の生活におちこみ、涅槃の路、すなわち声聞、縁覚、菩薩、仏等の四聖、真実の幸福生活から、ますます遠ざかっていくということである。
誰しも十界の生命活動が内在していることは先に述べたとおりである。それは、信心をしていようと信心していなかろうと、変わらざる原理である。だが、邪宗教に迷う人は、三悪道、四悪趣の生命活動のみ旺盛となり、自分では自分をどう御することもできないのである。不自由、束縛の世界である。たまたま喜びがあっても、それは次の挫折により、あるいは破滅により、ますます、苦悩を増長するのみである。あたかも、地獄や、餓鬼や、畜生や、修羅が、その人の生命の本質のことごとくになり、他の生命活動、人、天、声聞、縁覚等の生命活動も、ことごとくその三悪道、四悪趣に帰していくのである。
すなわちその世界が、その人の本拠であり、住所になってしまうのである。逆に、信心した人は大御本尊の仏界に照らされて、わが生命のなかに、清浄無染の力強い仏界の大生命が顕現するがゆえに、それが本拠となり、あらゆる九界の生命活動が、ことごとく帰していくのである。
されば、いかに苦悩があろうが、それらは、ことごとく次の喜び、次の発展、次の輝かしき勝利の源泉となっていくのである。信心なき人の苦悩は、苦悩のための苦悩である。信心した人の苦悩は、煩悩即菩提・生死即涅槃の煩悩であり、生死であるがゆえに、幸福のための苦悩である。されば、常に歓喜と、希望と、確信の、しみじみとした幸福感を満喫しつつ、生まれてきた目的に対して、充分なる価値活動をなし、他も利益し、自在無礙の生活をしていくことができるのである。これ真の自由であり、真の解放である。
こうした生命の変化は、生命それ自体の変化であり、意識して変わるものではない。克已等の道徳、精神修養によって変えられると思うのは間違いである。どんなにおこるまいと意識して平静を保とうとしても、どんなに嫉妬すまいと努力しても、そこにはおのずと限界がある。もとより、苦悩、怒り、嫉妬等は、人間本然の生命活動であり、それをなくすことはできない。また、いかに抑えても抑えきれるものではない。たちまちにして、それらの生命活動がムラムラと起き、百年の修行も一瞬にして崩壊し去るのである。克已は苦しく、人間性を抑圧し、しかもあらゆる人々の幸福の源泉にならないことは、明々白々であり、かつての儒教哲学の挫折が、これをなによりも、よく示しているではないか。
されば、地獄、餓鬼、畜生、修羅等の境涯におちこむや、いかにあがき、もがいても、どうすることもできない。邪宗教の害毒により、さらに生死の河に溺れ、苦悩し、煩悶しつづけるのである。これを救い切るのは、いうまでもなく、生死を即涅槃と転換せしめる力強き大宗教でなければならぬ。
一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん
いっさいの民衆は善心というものはなく、みな利己主義に陥って、他人のことなど考えるいとまなく、獸類のような集団生活が民衆のなかに起こる。罪人は多くなって、これを縛るのに忙しく、また巷には私刑があり、残忍な殺害があり、また、激怒と激怒がぶつかり、修羅闘諍を事とし、あるいは、互いに諂い合い、罪なき人を罪におとしいれるようになるとの意味である。まことに暗黒の恐怖の世界である。
だが、この経文は、まったく大聖人の時代の世相に符合しているのである。承久の乱で朝廷方を破って、幕府権力を盤石にしたと思われた北条幕府も、内部には深刻な波乱を秘めていた。1224年、義時は謎の死を遂げている。それでも義時・泰時の代は、まだ平穏無事であった。泰時の死後、後継者問題をめぐって不穏な空気がただよってきた。泰時の跡をうけた経時は寛元4年(1246)23歳で若死、その原因についても、種々な風説がある。
経時の死とともに事態は急展開し、以後2ヶ月間、鎌倉は、激しい政争と実力行使に明け暮れた。ついに経時の弟、弱冠20歳の時頼が権力を獲得、彼は、幕府の実権を奪おうとしていた、叔父・光時らの名越氏一族、後藤・千葉らの評定衆、問注所執事三善氏らの重臣の陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆へ流し、その弟の時幸を自殺させたほか、関係者多数を処分した。さらに翌宝治元年(1247)には、北条氏と肩を並べる豪族・評定衆三浦光村を、あらゆる挑発・謀略を尽くして激闘に持ち込み、三浦泰村以下の一族五百余人を、ついにことごとく頼朝の墓所の法華堂に自殺させた。いわゆる「宝治の合戦」である。ついで下総の千葉秀胤も責め殺された。こうして北条氏は、次々と豪族を倒し、比較的安定な時期を迎えた。
だが、こうした政争に明け暮れている間に、民衆は苦しい生活におちこみ、非人、乞食などが群をなして各地の河原・坂・宿にたむろしていった。しかも、立正安国の提出後に起きた災害は、極度に民衆を疲弊させ、ついに幕府は、人身売買の禁令をとかざるをえない現状となった。没落した農民は、つぎつぎと乞食の群に身を投じていった。さらにその後も天変地夭は相次いで起り、農民の不安と動揺はひとかたならぬものがあった。特に建長年間を中心に起った大飢饉や大疫病は、民衆を悲惨のどん底へ追いやった。さらに北条氏内部では、文永9年(1272)の2月、騒動等があり、また二度にわたる蒙古襲来に、人心は言語に絶するほど動揺し、錯乱した。まさに人々の生活は、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の巷を」さまようのみであった。ただあるのは、繫縛であり、殺害であり闘争であった。
平左衛門尉頼綱の恐怖政治
しかも、幕府の指導者たちの横暴は甚だしく、罪なき人を罪におとしいれた。真に民衆救済のために立ちあがった大聖人を、松葉ヶ谷で焼き打ちをはかり、伊豆の伊東へ流し、小松原で殺害しようとし、竜の口で頸を斬らんとして、佐渡へ流罪し、また、大聖人の弟子を、あるいは牢に入れ、あるいは所領を没収し、また流罪、死罪にしてしまったのであった。ついには、熱原の法難では、平左衛門尉が、諸宗の悪侶たちとたくらんで、ありもしない罪をつくりあげ、農民20数人を逮捕し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を刎ねてしまった。
大聖人滅後、平左衛門尉は、ますます、絶大な権力で専横をふるい、弘安8年(1283)11月、政敵安達泰盛を討滅した。その時、安盛と嫡子の宗景は殺され、ついで上野・武蔵一帯の有力御家人500余人が、泰盛の与党として討たれた。しかも、この合戦で、刑部卿相範・三浦対馬前司・伴野出羽入道・足利上総三郎等は、泰盛与党でないのに殺されている。この合戦は、地方にまで及び、全国的な騒動となり、特に九州では、激しい合戦となった。泰盛の子盛宗は博多で討たれ、小弐景資も、筑前の岩門城で兄の少弐経資に攻められ、同族相食む合戦ののち、多数の御家人たちとともに滅んだ。
以後8年間、頼綱による冷酷で疑い深い大殺戮が続けられ、鎌倉は恐怖の巷と化した。あたかも、彼はフランス革命後のロベスピエールのごとく、ファシズム時代の警視総監のごとく、スターリンあるいはエジョフのごとく、ベリヤのごとく、密国、弾劾、暗殺に狂奔した。その悪政のすえ、大地震が起き、鎌倉の山がくずれ、家々は倒れて死者は23,024名におよんだという。
その頼綱もやがて滅ぼされ、頼綱時代の不正な裁判への不満が高まった。さらに凡下、借上といった高利貸が幅をきかせるようになり、逆に御家人の貧窮はひどく、訴訟問題が雲霞のごとく起き、ついには血を血で洗う合戦まで起きる始末であった。「沙石集」には、「上代は君も臣も仁義あり、芳心あり、末代は、父子、兄弟、親類、骨肉、あだを結び、楯をつき、問注対決し、境を論じ、処分を諍ふこと年に随ひて世に多く聞ゆ」と、弘安のころからの世相を語っている。代官はあくどい支配や横暴を重ね、悪等が横行し、海賊、山賊が充満し強盗・殺人があたりまえのごとくなった。
乾元元年(1302)12月、鎌倉に大地震、死者500名に達し、嘉元3年(1305)3月、京都に大地震、同月22日に貞時の邸宅が焼亡、翌日、連署の北条時村が突如襲撃をうけて殺された。こうして王の福運尽きた姿が、厳然とあらわれ、北条高時のごとく凡庸な執権が誕生し、また長崎高綱のごとく横暴な人物が、賄賂などを公然とやりとりし、専横の限りを尽くした悪政を重ね、ついに正中の変、元弘の乱を経て、元弘3年(1333)鎌倉幕府は、阿鼻叫喚のうちに、150年の幕を閉じた。足利尊氏は、六波羅蜜題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉攻めを行ない、これに最後のとどめをさした。まもなく九州探題も滅びた。その最後の様は、あまりにも悲惨であった。
昭和28年(1953)の夏、鎌倉の材木座の松林に囲まれた空地で、人類学者鈴木尚博士の指導のもとに、東京大学人類学教室の人々が、三回にわたって古い人骨の出る遺跡を発屈した。発掘された人骨が少なくとも910体あり、ほとんどが男子、しかも刀剣、刺創、打僕創がある青壮男子のものであったという。博士の報告による発掘資料によれば、鎌倉陥落の惨状がいかにすさまじいものであったかがわかる。「太平記」がこの合戦の死者を「鎌倉中を考うるに、総て六千余人なり」と記しているように、戦死者、焼死者の屍は無慮数千、荒廃の街に累々と横たわっていたという。
これらの姿を見るにつけ、まさに、ただ「繋縛・殺害・瞋諍」の暗黒世界であり、「互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」の暴政の連続であった。
正法にそむいた日本の国には、事実、一度も「繋縛・殺害・瞋諍」なき平和な、明るい社会は誕生しなかた。その昔、平安時代に、天台仏法が栄え、その精神が浸透し、死刑が廃止されていた一時期があった。日蓮大聖人の大仏法は、それとすら比較にならないほどの高い生命の尊厳と絶対平和思想に立脚している大哲理である。だが、ついに数百年にわたり、その大法はいたずらに無視されてきた。
日は東より出ず
しかし、あれから700年たった今日、いままさに日蓮大聖人の仏法が全世界広布を実現せんとしている。「繋縛・殺害・瞋諍」の終止符を打つのは、今日をおいてほかにない。日本はすでに、太平洋戦争の悲惨な経験をした。原爆の悲劇をいやというほど感じた、民衆の心に再び芽ばえたものは、人間の本然の欲求である。平和と幸福への願いである。
だが、戦時中、牧口初代会長、戸田前会長を投獄したごとく、さらに戦後あの昭和32年(1960)大阪府警の横暴のごとく、あるいは幾多の非難と罵声を創価学会にあびせた言論界のごとく、またかって選挙の度ごとに、罪なき善人を戸別訪問のとかで逮捕した、官憲のごとく、再び創価学会に「枉げて辜無きに及ばん」ようなことがあれば、日本国は福運をなくし、「繋縛・殺害・瞋諍」のさらに悲惨な世界を出現するであろう。私は、それをはっきりと断言できる。またそうさせたくはない。さらに、他国をみれば、依然として、そこには、幾多のいたましい世界がある。たとえば、チベットがそれである。そこには「繋縛・殺害・瞋諍」しかないではないか。日本の歴史が、過去、いまわしい歴史であったと同様、世界もまた、今日まで、否、今日もなお、悲惨な歴史をつづっている。これに終止符を打つのは、絶対に、日本しかないし、その原理は、日蓮大聖人の仏法しかないことを、私は心から叫びたい。
ジョージ・サートンいわく「結局、洪大な思想は偏狭な思想より永く生き残るであろう。また正義は不正よりも永く生きのこるであろう」と。日本の指導者にいいたい。自己保身に汲々とするのではなく、滔々と流れゆく世界の歴史を刮目してみよ。もはや、核兵器の誕生は、武力による解決がいかに非なるかを教えている。人類の求めるものは、幸福であり、平和ではないか。
諫暁八幡抄にいわく「日は東より出づ」(0589-01)と。今まさに太陽のごとき光明をもった、大正法が、この日本の国に昇りつつあるのだ。
インドの詩聖タゴールは「私は、目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽がのぼったのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界をふたたび照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。
星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん
これまた、なんと日蓮大聖人の時代の世相と一致していることか。まず「疫病流行」については、建長5年(1253)、正元元年(1259)、文応元年(1260)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等に、それぞれ大疫病が流行し、飢饉とあいまって、おびただし数の人が死んだことは、すでにしばしばふれたところである。
彗星の出現
「彗星数ば弟て」も、まったくそのとおりである。大聖人の時代には数多く出現しており、特に文永年間の初めのころが多かった。
このうち、特に文永元年(1264)7月5日の大彗星は、空前の大きさのものであった。これについて日蓮大聖人は、安国論御由来に次のごとく述べられている。
「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す」(0034-18)
また撰時抄には、正嘉の大地震および文永の大彗星が、いかなる意味をもつのかを、次のごとく説かれている。
「問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、 問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。」(0284-10)
大聖人は、ここに明らかに、文永の大彗星こそ、他国侵逼難、自界叛逆難の前兆と確信されたのである。やがて、文永9年(1272)の2月には、北条時宗と兄時輔と合戦があり、さらに文永11(1274)年および弘安4年(1281)には蒙古が来襲したのであった。しかもその間、文永10年(1273)の正月16日と同9月5日に彗星が出現している。
また、鎌倉幕府が衰退し、国じゅう、修羅闘争がさかまくころも、しきりと彗星が現われている。
両日の出現
「両日並び現じ」もまた、厳然たる事実である。大聖人の時代においては、文永年間だけで、文永5年(1268)5月8日、8年(1271)8月11日及び13日、11年(1274)1月23日と3回も出現している。
この文永11年(1274)1月23日は、大聖人が佐渡流罪中であり、日本史記と、この時の模様を法華取要抄に書かれた御書と一致している。
「去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難.二十九難.無量の難、金光明経.大集経・守護経.薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難皆之有り但し無き所は二三四五の日出る大難なり、而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の中間は三寸計り等云云、此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両つの月を見す」等、薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄蝕恒無し」大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」仁王経に云く「日月度を失い時節返逆し或は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、此の日月等の難は七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、問うて曰く此等の大中小の諸難は何に因つて之を起すや、答えて曰く「最勝王経に曰く非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、 大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、又云く「諸の悪比丘多く名利を求め 国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し眼有らん我が門弟は之を見よ、当に知るべし此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、問うて曰く弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、○今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり、我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、日と日と競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり、是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0336-14)
歴史上、二つの太陽が出現したという例は、少なくない。二つの太陽だけではなく、三つ、五つ、まれには七つ等と、出現する場合もある。また太陽ばかりでなく、月も二つ三つ等と出現するのである。むろん一つが本物で、あとは幻日といわれるものである。
近年では、大正15年(1926)8月16日の夕方のこと、和歌山市の西空白雲の中に火の玉現われ、天に二日の奇観を呈したという。昭和4年(1929)1月31日の朝、本地方では太陽と並んで二つの光が現れ、あたかも三つの太陽を望むようであつたという。また昭和33年(1958)にも、長野県で二つの太陽が現われ、その写真が新聞に掲載されている。
こうした現象は、外国にもあり、ソビエトの科学界説者ヴ・ア・メゼンツェフは、次のように述べている。
「たとえば、1928年の春、スモレンスタ州のベールイ市で、珍しい暈が、実際に観測されたことがあった。朝の8時から9時頃、太陽の両側に、太陽の右と左、あざやかな虹の色に色どられた二つの太陽が見えたのである。1947年11月28日、ポルタヴァ市で、複雑な暈が月のまわりに見えた。月は光輪の真ん中にあった。光輪の上には、右と左に、にせの月が、これは幻月と呼ばれているが、見えていた。左の幻月はとくに明るく光り、尾をもっていた」
これらの現象は、いったいどうして起るのか、自然科学的な立場では、次のように説明されている。
まず、太陽や月にかかる暈と関係がある。暈は太陽または月の周囲に生ずる淡い光輪であり、最も普通には内暈と外暈とができる。こういう輪の中心に、コンパスの片足をすえ、ぐるつと輪をえがくと、内暈はコンパスの開き22度、外暈は46度ぐらいになる。この外に、日を貫いて地平線とほぼ平行になっているように見える白い光孤が現れる。これを幻日環という。この環と光輪の交差した場所にしばしば、強い光の斑点「幻日」や「幻月」ができるのである。
暈は、太陽が、地上から約6~8キロメートルの高さに浮かんでいる。白く光る煙のような巻層雲におおわれたときに、空に現われるものである。この雲は、ごく細かい氷の結晶からできている。この結晶の形はさまざまであるが、いちばん多いのは、柱形か板形をしたものが六方体をしたものである。この氷の結晶は、気流のなかをのぼったり降りたりしながら、太陽と同じように反射させたり、プリズムと同じように屈折させたりするのである。そのなかにある結晶から反射させた光線が、われわれの目に落ちてくる。それが暈となって見えるのである。また、地平線と平行して現われる光孤はどうして起こるか。これもまた同じ原理で、太陽の光りが、まっすぐに立った形で大気中を浮遊している。氷の六方晶体の側面に反射したときに起る現象である。
こうした結晶の反射によって、あたかも鏡のなかで電球の映像を見るごとく、太陽が実際ある場所とは違ったところに見えるわけである。
このように経文に説かれている現象が、自然科学的な立場から説明される。だが、もとより、二つあるいはそれ以上の太陽が現われた、という事実をこれで全面的に説明できたと考えるのは誤りである。あくまでも、分析と総合という科学の目からみた説明であり、その事実のある面を説いたに過ぎない。
仏法はこうした宇宙現象を、単なる孤立した現象としてのみとらえるのではなく、それと人間生命との関係性を説き、さらに大宇宙の十界を論じ、われわれの十界の生命との微妙な関係をあますところなく説いた。ここに仏法の偉大さがあり、全宇宙まで通じうる人間生命の尊さ、大きさ、力強さが説かれているのである。
これについては、すでに第二段第一章において詳しく述べたとおりである。ここでは、あくまでも経文の原理が、架空のものではなく、厳然たる事実である。
薄蝕恒無く
「薄蝕恒無く」とは、しばしば太陽や月が光を失い、日食や月食が並び起ることをいう。太陽や月が光を失うのは、もやがかかったり、塵挨が光をさえぎったり、また火山灰が成層圏中で薄い層をなして、光線を妨げたりする場合である。
最年のではあるが、ペレー・サンタマリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に、太陽の光がさえぎられたり、ビショップ・リングなどが現われ、日照量が20%近く減少し、いずれも東北地方に凶作をもたらしている。また昭和37年(1962)6月12日には焼岳が爆発して降灰させ、同6月29日には、北海道の十勝岳大噴火をし、多量の降灰を長時間にわたって降らせた。
同年8月24日には三宅島が22年ぶりに大爆発し、噴煙は5000㍍に達し、同島北岸の観測所では降灰が1㌢に達した。翌38年(1963)3月17日には、バリ島のアグング火山が大爆発した。このためインドネシアでは、1500人もの人が、溶岩と熱い灰をかぶって死んだ。この火山灰が高く成層圏までのぼり、日射に影響を与えている。同年8月以降、アイスランド南西海岸近くでの地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があり、このときの噴煙もかなり高度に達しており、高緯度地方の日射にかなり影響を与えたと考えられている。これらの一連の爆発が原因となり、昭和38年(1963)1月以来、数万年に一度といわれるような異常気象を示し、各地に被害を及ぼしている。
日食・月食
次に日食や月食についてであるが、まず日食は太陽と地球の間に月が位置し、そのために太陽が欠けることによって起る。正嘉元年から文応元年までの間に日食があったと記録されているのは、正嘉元年(1257)5月1日と文応元年(1260)3月1日の二度である。ただし限られた文献から見いだしたものであり、これより他にもあったと思われる。文永年間には元年(1257)7月1日、2年1月1日、3年5月1日、3年11月1日、4年5月1日、5年10月1日、7年3月1日、8年8月1日、9年8月日、10年1月1日と数多く来ている。「恒無く」の経文通り、異常なほどの発生数である。文永年間は、先にも太陽が二つ、三つ出現したとの例が頻発しており、また彗星も大彗星と呼ばれるような巨大なものが出現しており、あるいは、飢饉、疫病等が流行している。また、阿蘇山も2年(1258)、6年、8年と相次いで噴火しており、これによって異常な天候をもたらしたことも充分考えられる。
また、月食は太陽と月の間に地球がはいり、月面が地球の陰に隠れることに起こる。正嘉元年(1257)4月16日、同10月16日、翌10月16日、正元元年(1259)4月15日などが記録されている。
黒白の二虹
次に「黒白の二虹不祥の相を表わし」とあるが、これはいかなるものであろうか。まず黒虹であるが、これは普通の虹ではなく、急激な気候の変化による悪気流によるようなものではないだろうか。その実例は不明である。ただ日本気象史料に「黒気」としばしばでてくるのが、あるいはこれにあたるのではあるまいか。
白虹については、宝治二年(1249)閏12月16日(京都)、建長3年(1251)10月16日(京都)、建長(1254)6年8月10日(鎌倉)、弘長3年(1264)1月2日(京都)、弘安7年(1284)4月4日(鎌倉)、弘安9年(1286)1月30日(鎌倉)、などがあるが、この記録は京都、鎌倉のみの記録で、国内の総数では、記録が不詳のため把握ることができない。
こうした“日を貫く”とか“暈がともに出る”といった記述をみるとき、白虹というのは、いわゆる霧雨のような小さい雨滴に、太陽光線が反射してできる、いわゆる「白にじ」ではなくして、先に述べたあの「幻日環」ではなかろうか。さらにそれを証拠できるものとして、天徳3年(0960)12月9日に京都に白虹が出現したとの記録があるが、それとともに、太陽が三つ出たとの記録もある。幻日環は、暈の一つで太陽を貫いて地平線に平行してできる光孤である。それと太陽をとりまく暈と交わったところに、しばしば幻日が現われることは、前述のとおりである。
あるいは、さまざまな文献に「白気」というのがこれをいうのであろうか。「白気」とは、何であるか不明であるが、この中には悪気流のようなものではあるまいか。天保14年(1843)2月6日に江戸に「白気」があらわれたとあり、続徳川実紀、玉来雑記、続泰平年表では皆「白気」と記述しているのに対し、武江年表には「六日夜より、毎夜西南方の方へ白虹顕る」とあり、同じ現象を「白気」「白虹」と表現している。
これから判断すれば、いわゆる一般の「白にじ」も白虹であり、「幻日環」も白虹であり、ときには「白気」と表現される、何か悪気流のようなものの白虹であるとして、あまり区分なく用いられたとも考えられる。
星流れ=流星
「星流れ」はいうまでもなく流星である。建長年間から文永年間に至る間に、この記述は極めておおいため、これを略す。
地動き井の内に声を発し
次に「地動き」とは、地震や地すべりのことである。これは正嘉の大地震等しばしば述べたところである。「井の内に声を発し」とは、地殻の変動に関係する現象と思われる。地震が起きると、井戸水や温泉の湧水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したり、または、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が、空気を振動させることによって生ずるものである。「暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」とは、第一段第一章において論じたごとくであり、まさにこの金光明経の文は、まったく、寸分も狂わず、大聖人の時代に現れているのである。ただ一回の流星とか、一回の彗星とか、そんなものではない。経文に説かれた、あらゆる悪相が、ことごとく並び起っているのである。経文は、けっして遠くの世界にあることを説いているのではない。現実のなかに、それはことごとくあることを確信すべきである。
仏法の予言
不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは2000年間の隔たりがある。その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔たりがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の思想に、厳然と現れている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか、仏にあらずんば、誰人が、2000年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。
およそ、科学の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。
その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義などの予言は、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである。
大集経に説かれている五五百歳
釈尊は、3ヶ月後の涅槃を知り、また付法蔵に予言したことも、ことごとく的中し、大集経の五箇の五百歳も、また、安国論に引用されている四経の明文に説かれた予言も、さらには、法華経勧持品、その他涅槃経に説かれた、御本仏出現の際の末法の世相も、寸分も狂いなく事実となって現われている。
まず、大集経の五箇の五百歳についていえば、釈尊は、自分の滅後を次のように五百年ごとに区切っている。
第一の五百歳──解 脱 堅 固─┬─正法千年
第二の五百歳──禅 定 堅 固─┘
第三の五百歳──読誦多聞堅固─┬─像法千年
第四の五百歳──多造塔寺堅固─┘
第五の五百歳──闘 諍 堅 固───末法の初め
この大集経の予言と、インド、中国、日本の三国における仏法流布の歴史とを照合すると、ぴったりとあてはまっているのである。
①正法前五百年(解脱堅固)
解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗経を修し、戒律をたもって解脱を求めた時代である。滅後正法千年は付法蔵二十四人が正法を弘通したが、摩訶迦葉から不法蔵第十の富那奢までは小乗経をひろめたのである。迦葉二十年、阿難二十年、商那和修二十年、優波崛多二十年、提多迦二十年の最初百年は、まったく小乗経のみをひろめ、弥遮迦、仏駄密多、脇比丘、富那奢等は、大乗経の法門は少しは含めたが、大部分は小乗経を表として弘通した。この解脱堅固の時には、四回の仏典結集があり、阿闍世王、阿育王、迦膩色迦王の守護のもと仏法が興隆した。
②正法後五百年(禅定堅固)
この時代は権大乗がひろめられ、衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行を行なった。付法蔵第十一の馬鳴から二十四の師子尊者に至るまで大乗をひろめたが、特に諸小乗を破し、大乗を宣揚した論師に、馬鳴、竜樹、無著、天親などがいる。馬鳴は仏滅後600年ごろに出て、大乗起信論を著わし、滅後700年ごろに出た、竜樹は大智度論百巻、中論四巻、十二門論一巻等を著わした。その弟子提婆も百論二巻を著わしている。滅後900年ごろに出た無著・天親の兄弟は、無著は摂大乗論三巻、瑜伽師地論百巻等を、天親は千部の論師として摂大乗論釈、唯識三十論頌など小乗五百部、大乗五百部を著わして、大乗の教えをおおいに称揚したのである。
③像法前五百年(読誦多聞堅固)
この時代で、まず特質すべきことは、後漢の明帝の永平10年(0067)に仏教が中国へ渡来したことである。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名を示すとおり、経典の本訳事業や講説、解釈などが盛んに行われた。バルチアの太子であった安世高、月氏国の支婁迦識や唐僧鎧、支謙など、本訳にたずさわる人がふえてきた。敦煌出身の竺法護は、優秀な助力者とともに正法華経等154部309巻の経典を訳した。
このようにして盛んになってきた経典翻訳は、鳩摩羅什にいたって頂点に達した。羅什はそれまでの誤訳、抄訳の多かったものとは比べものにならない完全な訳を数多く行ない、なかでも珠玉のごとき名訳といわれているのが妙法蓮華経である。羅什以後、法顕、仏陀跋堕羅、曇無識、真諦、玄奘などが出ている。
この時代のおわりころ、538年、荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華の奥義を悟り、瓦官寺に8年間住して、大智度論などを講義した。その後、有名な文句、玄義、止観を講述して、理の一念三千の法門を立てた。読誦多聞堅固は、このように多数の翻訳と天台大師の現代に代表されるが、その他、仏図澄、道安、羅什などにより、おおいに仏教講義が行われた。
④像法後五百年(多造塔寺堅固)
唐代にはいり、玄奘がインドから経典を持ち帰り漢訳した。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土にひろまり、多くの寺塔が建立された。そのため、この像法時代は形だけは正法時代と似ていたようだが、内容的には仏法は堕落していった。やがて唐朝は衰亡していった。北宋の時代にはいって、太宗は詔勅を出して廃寺を修治し、仏像の造立を許し、阿育大王の造塔にならって八万四千の塔を造立した。しかし、仏法の中心は日本に移り、この時代の特徴は、むしろ日本において顕著にあらわれている。
552年、すなわち仏滅後1500年ごろ、人王30代の欽明天皇の代、百済の聖明王の使者により経論、釈迦像、僧尼等が献上された。仏教伝来以来、本格的に信奉されるようになったのは、聖徳太子の時からである。太子は勝鬘経、維摩経、法華経の義疏を顕わし、この三経を鎮護国家の法と定めて、篤敬三宝を根底とする十七条憲法を制定した。このころから造寺造仏が盛んになっている。崇峻天皇から推古天皇時代にかけて建立された飛鳥寺、太子建立の七大寺といわれる四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、峰丘寺、池俊寺、葛木寺などが有名である。
その後、奈良時代にはいり、聖武天皇は仏教を重んじて諸国に国分寺、国分尼寺を建て鎮護国家の道場とし、総国分寺として東大寺を建立した。またこの時代に、苦労して来日した鑒真小乗の戒壇を建立している。平安の桓武天皇の代には、伝教大師が南都六宗を公場対決で破って、812年に叡山に迹門の戒壇を建立した。
⑤末法始五百年(闘諍堅固)
これについては、第一段第一章に詳論したとおりである。宗教界の乱脈、民衆の無智につけこむ迷信の横行、人心の極度の動揺、血なまぐさい殺戮につぐ殺戮の歴史、はては親兄弟同士が互いに戦い、殺し合う、三悪道、四悪道の巷、三障七難が荒れ狂い、呆然としてなすすべを知らぬ民衆 これが、末法の初めの五百年の世相であった。
末法の御本仏出現
しかしながら、この乱れきった時代にこそ、その衆生の闇を晴らすべく、末法の御本仏が出現し、太陽のごとき大正法が流布することも、法華経の厳然たる未来記である。勧持品の三類の強敵といい、あるいは神力品の別付属、薬王品の広宣流布の金言にせよ、ことごとく、大聖人の出現と大正法の流布への絶対の確信がこめられている。されば、像法出現の天台にせよ、妙楽にせよ、伝教にせよ、末法を恋い慕い、大正法にめぐり会えることを心から願求しているのである。もしも大聖人の出現がなければ、釈尊の未来記はことごとく虚妄となり、天台、伝教の言もむなしいものとなろう。
大聖人は、仏の金言を証明しているのは、自分以外に絶対はきことを諸御書に経文を引き、釈を示し論をあげて、宣言されている。
「疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く『況んや滅度の後をや』又云く『諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん』又云く『数数擯出せられん』又云く『一切世間怨多くして信じ難し』又云く『杖木瓦石をもつて之を打擲す』又云く『悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん』等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(0507-10)
「而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、 同文永八年辛未 九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189-13)
これは、日蓮大聖人こそ、経文どおり出現した末法の御本仏であることを断言された、明らかな御文である。しかして、大聖人はいたるところで「一閻浮提第一の聖人」といわれ、下山抄には「教主釈尊より大事なる行者日蓮」と仰せられ、また、法華経その他で、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養するよりも、末法の法華経の行者である日蓮大聖人を、継母が継子をほめるがごとく、戯論の一言でも、ほめ、供養する功徳が百千万億倍すぐれているとまでいわれているのである。
大聖人御在世中における予言的中
されば、日蓮大聖人の御予言は、在世中においても、滅後においても悉く的中しているのである。撰時抄にいわく「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287-08)と。聖人とは、将来に起るべきことを知り、それをどう対処すべきかの方途を知られた方であり、さらに、過去、現在、未来の三世を通暁して誤りなく、遠き未来を見通される方をいう。
しかして、さらに「余に三度のかうみようあり」と述べられ、幕府に対し、三度にわたって国諫をなし自界叛逆と他国侵逼の二難の予言が的中したことをあげられている。すなわち、日蓮大聖人こそ未萠を知り、三世を知られた聖人であることは明白なのである。
三度の高名とは、まず第一に、文応元年(1260)7月16日に立正安国論を北条時頼に奉った時に、宿屋入道に対し、自界叛逆と他国侵逼の二難を明言された。種種御振舞御書にいわく「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909-01)と。
仏の未来記とは、いうまでもなく正像末の三時にわたる予言である。安国論はその「仏の未来記にもをとらず」と確言されているのである。また安国論奥書にいわく「此の書は徴有る文なり」(0033-06)と。
第二に、文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難の際、平左衛門尉に向かって界叛逆と他国侵逼の二難のあることを断言された。その時「遠流・死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911-11)と厳然と戒められたのである。
その予言のどうりに、佐渡御流罪後、100日目の文永9年(1272)2月11日に北条時輔を誅殺するという内乱が起き、同じく3年後、文永11年(1274)10月と、さらに7年後の弘安4年(1281)7月には、元の大軍が襲来し、大戦乱となったのである。
特に自界叛逆について佐渡御書にいわく「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く『自界叛逆難』と是なり、仁王経に云く『聖人去る時七難必ず起らん』云云、金光明経に云く『三十三天各瞋恨を生ずるは 其の国王悪を縦にし治せざるに由る』等云云、 日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと 是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」(0957-13)と。
今年とは文永9年(1272)であり、いわゆる二月騒動である。日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217-12)と。この合戦もまた同じ事件である。
第三に文永11年(1274)4月8日平左衛門尉頼綱に面会のおり、頼綱が蒙古がいつ攻めてくるのかと大聖人に尋ねたのに対して、今年こそ攻めてくると断言され、そのとおり的中し、その年の11月に蒙古軍が押し寄せてきたのである。
撰時抄にいわく「去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、 予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき」(0287)と。
滅後における予言の的中
さらに日蓮大聖人の滅後においても、その予言はことごとく的中している。第四段第三章に詳論することにするが、大聖人をさんざんに迫害した平左衛門尉は、大聖人滅後12年にして一族が滅亡したのである。そのいきさつについてはここでは略すが、あれほど栄耀繁栄をほしいままにした平左衛門尉の末路はあまるにも悲惨であった。
日寬上人は平左衛門尉が首を斬られたのは、日蓮大聖人の顔を打ったゆえである。最愛の次男が首を斬られたのは、大聖人の御頸を刎ねんとしたゆえである。長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえであると仰せである。
大聖人は、すでに建治三年(1277)の下山御消息に「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にフミたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363-01)と仰せられていたのだった。
その頃の平左衛門尉の表面は権力絶大であり、華やかであった。だがその時の大聖人は、平左衛門尉の本質が、ただ滅亡に向かう生命の本質であることを見破っておられたのである。また、文永9年(1272)2月、鎌倉において、北条一門の同仕打ちがあったが、これを大聖人は華報とされ「実果の成ぜん時いかがなげかわしからんずらめ」と心配された。だが、大聖人滅後52年にして、元弘3年(1280)5月22日、北条一門はことごとく滅亡し、鎌倉幕府はここに倒壊し去ったのである。
さらに大聖人は末法の御本仏として広宣流布の未来記を厳然とのべられている。
日蓮大聖人の御本仏としての御確信
しからば、その末法の御本仏の未来記いかん。顕仏未来記にいわく「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-10)と。
すなわち、大聖人の仏法は、日本に広宣流布し、のみならず、日本より起こった、この仏法が、必ず西へ西へと滔々と流れてゆくことを予言されているのである。この顕仏未来記は、大聖人が佐渡の地において認められた御書である。この予言をばいかに大聖人が、絶対の確信をもって述べられているかは、佐渡流罪の大聖人の御生活と対比してみるときに、いよいよ厳然としてくるのである。
佐渡での大聖人の御生活は、われわれ凡夫の立場でいえば、さながら地獄のどん底であり、苦悩の極致であった。佐渡は厳寒の地で、一度流されれば、生きては帰れないといわれていた。流罪のなかでも最も重刑である流罪であり、まさしく死罪も当然であった。江戸時代に松尾芭蕉が「荒海や佐渡に横たう天の川」と俳句にうたったのも、実に、佐渡に流された囚人を遠く慮って歌ったものであるという。ましてや、700年前のこと、おそらく当時、佐渡の国といえば、京、鎌倉に住む人には、遠い遠い未知の世界のようにすら思えたのではあるまいか。冬の寒さは、ひととおりのものではない。住まいといえば、死人を捨てるような場所に、寂しく立っている一間四面の堂にすぎなかった。それも天井は板間が合わず、また、すきま風がびゅうびゅう吹き込んでくるような、大変なあばら家であった。
食べる物とてなく、着る物も満足でない。また火の気のないところで、北国の厳寒をすごされる大聖人の御境涯は、想像にあまりあるではないか。また、監視もきびしく、御弟子方が大聖人のもとにゆくことも至難のことであった。
「同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず 心細かるべきすまゐなり、 彼の李陵が胡国に入りてがんくつにせめられし法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて 江南にはなたれしも只今とおぼゆ」(0916-04)
また「かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし」(0917-10)
さらに、念仏の僧たちは、大聖人の命を虎視たんたんとうかがい、あらゆる挙に出ようとしていた。大聖人の命は、危険にさらされ、もはや、いつ殺されるかもしれぬ状態であった。一方、迫害の魔の手は、鎌倉にいる弟子たちにものびていった。所領を没収される者、子に危害を及ばされる者、牢に入れられる者等が続出した。あまりのつらさに、ひるむ者も出始めた。
だが日蓮大聖人は、一歩も退かなかった。もとより、大聖人には、世間的な罪など一度もなかった。ただ全民衆の幸福のために、一身を投げ打たんとして立たれた正義の戦であった。難があればあるほど、偉大な御本仏としての大確信の上に立たれ、弟子を励まされた。大聖人の御行動は、まさしく師子王の姿そのものであった。文永9年(1272)正月、有名な塚原問答が行われた。集う邪宗の僧は数百人、「越後.越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば…」(0918-03)とあるように、北陸地方、奥州地方一帯の僧が、大聖人との問答に駆けつけてきた。しかし、大聖人の獅子吼ひとたび響いて、百獸おののき、邪宗の僧百千万ありとも、大聖人の一刀のもとに屈服してしまったのである。
また、このような御境遇になんと多くの御書を執筆なされたことか。生死一大事血脈抄、草木成仏口決、祈禱抄、諸法実相抄、如説修行抄、顕仏未来記、佐渡御書、当体義抄等、38種もの現存せる重要な御述作があり、なかんずく日蓮大聖人の骨髄たる人本尊開顕の書たる開目抄、および法本尊開顕の書たる観心本尊抄は、これらの御述作の赫々たるものである。
「佐渡の国は紙候はぬ上…」(0961-07)とあるように、紙や墨、筆さえ充分にない佐渡流罪中のわずか二年数か月に、これほど多くの、かつ重要な御書を著された。その御境涯は、まさに光輝に満ち満ち、とうていわれわれの想像におよばぬところである。
その内容もまた、巌のごとき御本仏の御境涯、広宣流布の絶対の御確信に満ちている。開目抄にいわく「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-05)またいわく「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(0237-11)
これが、極寒の真冬に、雪中にしるされた御文であると誰が想像できようか。まさになにものをも恐れず、ただ全民衆の幸福のためを思う一念に徹せられたお姿ではないか。
如説修行抄にいわく「天下万民・諸乗一仏乗と成つて 妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-06)
諸法実相抄にいわく「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)
おそらく、当時の大聖人の御境涯を知らない人が、これらの御文を読めば、広宣流布は順調に進み、あたかも旭日のごとき勢いを想像するにちがいない。日本人の大半の人が、大聖人に帰依したのではないかと思う人もあるであろう。だが、事実は、まったく違い、まさしく絶対絶命の境涯にあったのである。このさなかに「大地を的とするなるべし」とまで、絶対の確信をもって叫ばれている広宣流布の予言は、ただごとではない。これひとえに、大聖人の今日あるを知っての言々句々であったことを痛感するのである。
顕仏未来記の「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)との未来記も、700年前の日本国の現状を考え、かつは日本国の広宣流布すら思いもよらぬ、当時の情勢をかんがみ、御本仏にあらずんば、絶対に叫べぬ御予言である。
世界広布の大宣言
さらに観心本尊抄にいわく「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-09)と、一閻浮提とは、現代語に訳せば全世界を意味する。なんと偉大な御確信であろうか。大海原をもってしても、たとえることのできない雄大さ、広さではないか。
また、大聖人が佐渡から帰られ、身延に籠られてからの御生活もまた大変なものであった。あの身延の深山の中に籠られた御境涯を知り、また、当時の、幕府の横暴、迫害のいまだ苛烈をきわめている時に、どうして広宣流布を断定できようか。だが大聖人は、建治2年(1276)に著された報恩抄において「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)と、大正法が、末法万年尽未来際までも流布し、全民衆を苦悩の底より救いきることを、かくまでも大確信をもって叫ばれているのである。横には、全世界を包含し、縦には、この地上から永久に悲惨の二字を抹殺せんとの、この叫びこそ、大宇宙に響き渡る呼号であり、三世諸仏の皆是真実と証明するところである。だが、当時の人々には、この御本仏の心境をいささかも理解できるはずがなかった。
大聖人が広宣流布を予言されてから、すでに700年、もしも、創価学会の出現がなく、永遠に時が過ぎ去ってくならば、ついに日蓮大聖人の予言は虚妄となるところとなったであろう。
御在世中においては、「余に三度の高名あり」と申されて、大聖人のいわれたことは、ことごとく虚妄でないことを身をもって示された。だが、後入滅後の未来の広宣流布の予言は、むなしく崩れ去るところであった。もししからば、釈尊最高の法華経の予言も、三世諸仏の証明も、天台の出現も、伝教の出現も、なんの意味もなくなるところであった。
しかるに、この予言を虚妄にすることなく、日本の広宣流布のために、さらに世界広布の実現のために創価学会は立ち上がったのである。すなわち、創価学会の今日の姿こそ、大聖人の予言が絶対に正しかったことを示す証拠ではないか。
されば、創価学会の出現は偶然ではなく、またその行動は、御本仏の未来記をあらわすものであり、大宇宙に合致したものであり、時代の要求であり、全民衆の心から渇仰するところである。私はいいたい。創価学会の行くところ、歓喜に満ち満ち、創価学会の行くところ、新しき建設があり、新しき文化が栄え、幸福と繁栄と平和が築かれること、明鏡に照らして断言するものである。
0018:13~0019:03 第三章 経証の二 大集経top
| 13 大集経に云く 「仏法実に隠没せば鬚髪爪皆長く諸法も亦忘失せん、 当の時虚空の中に大なる声あつて地を震 14 い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん.城壁破れ落ち下り屋宇悉くヤブれ圻け樹林の根.枝・葉・華葉・菓・ 15 薬尽きん唯浄居天を除いて 欲界の一切処の七味・三精気損減して 余り有ること無けん、解脱の諸の善論当の時一 16 切尽きん、 所生の華菓の味い希少にして亦美からず、 諸有の井泉池・一切尽く枯涸し 土地悉く鹹鹵しテキ裂し 17 て丘澗と成らん、諸山皆ショウ燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨ら 18 し皆昏闇に日月も明を現ぜず 四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ、 十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於け 0019 01 る之を観ることショウ鹿の如くならん、衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん、是く 02 の如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し 天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国 03 を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。 -----― 大集経にはこうある。 「難看王の時代に、仏法が本当に消え失せてしまったので、出家者の髭・髪・爪は皆長く伸び、様々な教えもまた忘れ去られてしまった。 その時、大空から起こった大きな音が大地を震わせ、動かないものは何もなく、まるで水車が回転するようである。城壁は破れ落ち、家々はことごとく壊れてバラバラになり、木々の根・枝・花びら・果実・薬効成分がなくなった。 ただ浄居天だけを除いて、欲界のあらゆるところの七味・三精気はすっかりなくなってしまった。解脱のための様々な良い教えは、その時に一切なくなった。 生じる花・果実の味わいは乏しくまたおいしくない。あらゆる井戸・泉・池は、すべて枯れ果てて、土地はことごとく塩をふき、大きくひび割れて丘や谷になった。山々は皆ぼうぼうと燃え神々や竜は雨を降らさない。穀物の苗も皆枯れ、生えたものは皆だめになって他の草も全く生えない。空から土が降ってきて真っ暗闇となり、日や月も明るさを失った。四方が皆旱魃となり様々な不吉な前兆が何度も現れる。 十種のよくない行いや貪り・瞋り・癡かさがますます増大して、衆生は、自らを生んだ父母に対し、田畑を荒らすノロジカや鹿のように恩知らずの態度をとる。衆生の数は減り、その寿命・体力・威徳・安楽も減り、人界・天界の安楽な状態から遠ざかり、皆悪道に堕ちた。 このような悪い行いの悪王・悪僧が、釈尊の正法を破壊し、天界・人界に生まれる衆生を減らすだろう。衆生に同情を寄せるはずの神々や王たちは、この混乱した国を棄ててみな別の所に向かってしまうだろう」以上。 |
大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。
①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳
②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳
③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳
④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳
⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳
⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳
大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
―――
鬚髪爪長く
鬚・髪・爪のこと。風俗の乱れ、礼儀が廃ることを意味し、末法の世相としている。
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諸法
①社会で広く行われている世間法・国法。②あらゆる宗教の教法。③仏教に説かれる一切の経典法。
―――
大なる声あつて地を震い
日寛上人の分段には「註にいわく『天雷地に徹してその輪転ずることなお水車のごとし』と云云。建にいわく『昔・天狗流星というもの響き亘りてありけり』と云云。弘の五の中三に『天狗流行し地数ば振動す』と文、建の意この文によるか、この義大旨に応うなり」とある。
―――
水上輪
水車の事
―――
根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん
この「薬」という字は、根、枝、葉、華葉、菓のすべてを受けている。根からとる薬としてはインドジャボク、リンドウ。茎からはキナ、キハダ。葉からはハシリドコロ、ジキタリス、華葉は華中の葉すなわち花びらで、枝葉の葉ではない。花からはシロムショウケギク、菓からはサンショウ、トウガラシ等。現代の化学薬品が出現する以前は、薬草が唯一の頼りであったから、その存在は最も貴重であった。中国の伝統では、神農民が一日に百草をなめて薬草を教えたとし、日本の神話では少彦名命が薬草を教えたとする等、いずれも薬草が尊重された事実を物語っている。仏法が隠没すれば、こうした薬草も尽きるのである。日寛上人の分段には「葉はこれ華中の葉なり、枝葉の葉に同じからず、薬字・根枝葉等を収むるなり、いわく根の薬・枝の薬等なり」とある。
―――
浄居天
天上界のうち、欲界に属する六欲天と無色界に属する最上の四天とを除いた十七天が、いわゆる色界の十七天である。この色界十七天のうち、最後の五天、すなわち無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天の五天を浄居天という。これは小乗の四果のなかでも阿那含、阿羅漢の住処とされているので、五那含天と呼ばれる。日寛上人の分段には「これ色界十七天の最後の五天なり、三果四果の聖者の所居なり、性抄の意・空居天を指すに似たり、いまだ分明ならず」とある。
―――
欲界の一切処
仏教では十界の住処を六道の住する三界、声聞、縁覚の住する方便土、菩薩の住する実報土、仏の住する寂光土に分ける。三界は悪思想のため迷いの煩悩に禍いされて、いわゆる六道輪廻を繰り返している境涯で、さらに欲界・色界・無色界に分かれる。欲界とは欲望の世界で、下は地獄界から上は天上界の六欲までを含む。色界とは、欲界の浄名の色法、すなわち物質だけが存在する天上界の一部で、十七天から成っている。無色界とは、物質のない精神の世界で、天界の最上である四天より成る。欲界は、さらに、それぞれの境涯によって住処を異にし、「地獄は地の下五百由旬畜生は水陸空、修羅はうみのほとり、海の底、人は四大州、天は、四天王は須弥山の中腹、由乾山の峰」等々となる。この欲界のすべてを「欲界の一切処」という。
なお以上の住処を図示しておく。
┌地獄┐
├餓鬼┤
┌欲界─┬────┼畜生┤
三界─┤ └六欲天┐├修羅┼六道┐
├色界──十七天┤└人界┤ │
無色界─四 天┴─天上┘ │
┌声聞┐ ├十界
方便土─────────┴縁覚┴二乗┤
実報土──────────菩薩───┤
寂光土──────────仏界───┘
―――
七味
甘・辛・酢・苦・鹹・渋・淡の七種の味
―――
三精気
地精気・法精気・衆生精気のこと。地精気とは大地の生命力、五穀・草木等を繁茂させる力。法精気とは世間法・国法・仏法の持っている力、総じて道理に合致した力。民衆を幸福・繁栄あるいは不幸・衰退に導く力をいう。とくに法精気とは仏法のことである。衆生精気とは人間・社会の生命力で、民族が興隆したり、衰退したりする現象の奥にある、根源たる民族自体の力をいう。これらの三精気を盛んならしめる本源は妙法である。日寛上人の分段には「地精気・衆生精気・法精気、これを三精気という、蒙にいわく『法精気は仏事の事なり』と」とある。
―――
解脱の諸の善論
解脱とは梵語で(Vinukti)。煩悩の束縛から脱して、憂いのないやわらかな境涯に到達するという意味。「解脱の諸の善根」とは、妙法しかないが、総じて世間・出世間の一切の善論をいう。日寛上人の分段には「これに三意あり、『一には通じて仏法を指す、二には但・世間の論を指す、三には世出の論を指す』と云云」とある。
―――
希少にして亦美からず
日寛上人の分段には「華菓希少にして味美からず、文に配して見るべし」とある。
―――
鹹鹵
鹹は「塩辛い」「塩気」、鹵は「塩気を含んだ土」「塩」「不毛の地」等の意味がある。鹹滷とは塩分が強くて作物のできないことをいう。日寛上人の分段には「註にいわく『また沙滷いわく确薄之地』と云云」とある。
―――
歒裂
割れて裂け目ができること、大聖人の御真筆は「歒」となっているが、経文には「剖」とある。
―――
丘澗
丘は小高い丘、澗は山と山にはさまれた川、丘澗とは大地に高下ができることを意味する。日寛上人の分段には「丘はオカ澗はホラ、ただこれ高下なり」とある。
―――
天竜雨を降さず
天も竜も、共に天界の衆生で、天は天神等の諸神王衆、竜は龍神で竜王およびその部衆。四天王の眷属であり雨を司るとされていた。大聖人は諸御書で「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」とのべられており、また種種御振舞御書には「一乗法華経をとける仏をば真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は正覚房が舎利講の式にあり、かかる僻事を申す人の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば竜王は法華経のかたきなり、梵釈・四王にせめられなん子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく・いかなる子細のあるべきぞとをこつきし程に、日蓮云く善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども大風吹きてありけるとみゆ、弘法は三七日すぎて雨をふらしたり、此等は雨ふらさぬがごとし、三七・二十一日にふらぬ雨やあるべき 設いふりたりとも・なんの不思議かあるべき」(0922)、下山御消息に「又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり 雨種種なり或は天雨或は竜雨或は修羅雨或はソ雨或は甘雨或は雷雨等あり、今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし、両火房真の人ならば忽に邪見をもひるがへし跡をも山林にかくすべきに其の義なくして面を弟子檀那等にさらす上剰讒言を企て日蓮が頚をきらせまいらせんと申し上あづかる人の国まで状を申し下して種をたたんとする大悪人なり、而るを無智の檀那等は恃怙して現世には国をやぶり後生には無間地獄に堕ちなん事の不便さよ、起世経に云く『諸の衆生有りて放逸を為し清浄の行を汚す故に天・雨を下さず』又云く『不如法あり慳貪・嫉妬・邪見・顛倒なる故に天則ち雨を下さず』又経律異相に云く『五事有て雨無し一二三之を略す四には雨師婬乱五には国王理をもつて治めず雨師瞋る故に雨ふらず』云云」とある。
―――
苗稼
稲の苗の事。総じては草木の苗一切を意味する。稼は植え付けること。または種を意味する。
―――
昏闇
昏とは太陽が姿を隠して暗くなること。闇は乾いた大地から舞い上がった土が空を覆い、地上が暗くなること。
―――
亢旱
日照りで水分が少なくなり、干からびてしまうこと。亢は高ぶる、窮しまるの意、旱は日照りで雨がふらないこと。
―――
十不善業
十種の悪の業因で身の三悪、口の四悪、意の三悪がある。身の三悪は殺生・偸盗・邪婬、口の四悪は妄語・綺語・悪口・両舌、意の三業は貪欲・瞋恚・愚癡。この十悪業によって受ける果報は以下の通り。殺生の報い=短命・多病。偸盗の報い=貧困・破産。邪淫の報い=不貞・子供の不良。妄語の報い=誹謗・詐欺にあう。綺語の報い=言語不明瞭。悪口の報い=悪事が耳に・いい争いが絶えない。両舌の報い=家族や仲間に欺かれる。貪欲の報い=満足を得られず・欲に翻弄される。瞋恚の報い=周囲の事で悩み、命を奪われる。愚痴=性格が捻くれる。
―――
貪瞋癡
十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡
―――
獐鹿
鹿の一種で、他のものに追われて身に危険が迫ったとき、自分だけが助かることを望んで、父母や仲間のことを少しも顧みないで逃げる。このことから、父母のことを顧みない不幸者を獐鹿という。日寛上人の分段には「一義にいわく『僻目にして人を見、睨に似たり、ゆえに譬う』と云云、一義にいわく『獐鹿は鹿の中にも父母を思わず只独り跳行く者なり』、止の一にいわく『獐鹿の独り跳るがごとし』と云云とある。
―――
衆生及び寿命・色力・威楽減じ
衆生が滅するとは、人口が減少し、民族・国家・社会が衰亡の道をたどることである。寿命減じとは短命になること、色力とは体力をいう。威は威光、楽は楽しみ。威楽減じとは文化が退廃すること、文明の衰退といえよう。
―――
人天の楽を遠離し
人界、天界の健全な楽しみで満足できなくなり、異常な刺激を求めて、地獄、餓鬼、畜生、修羅の悪業の因を重ね、悪道におちていくとの意。
―――
王の衆生を悲愍する者
その国の民衆が苦しみあえぐのを見て、哀れに思い、その苦を抜いてやろうという善王。正法が隠没した邪智邪法の国においては、このようなすぐれた指導者がいなくなつたり、あるいは日陰者の位置においやられて、邪智、利欲の者が社会、国家を牛耳るようになる。
―――
濁悪
五濁悪世の略。劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
―――――――――
大集経においては、仏法が隠没すればいかなるとがが起こるかが説かれている。
仏法の乱れが、実に一切の乱れ、不幸の根源であるがゆえに、まず「仏法実に隠没せば」との文が最初にきているのである。
仏法実に隠没せば
今日、日本および東洋をみるに、寺も多く僧侶の数も少なくない。宗派は多数あって、一見、仏法はまだ盛んであるかのように見える。しかし、これは、単に仏教の形骸が残っているにすぎない。僧侶は葬儀と法事にのみ必要なものであって、墓番といってもさしつかえないほど、仏法は有名無実の存在である。社会的にもなんら貢献するところがない。みずから確固たる思想もないがゆえに民衆を指導し、救済する等ということは思いもよらない。一種の乞食であり、社会的には、社会の反対給付のない居候同然であり、さらにいえば寄生虫のごとき存在である。
乞食といえば、本来は釈尊の時代に、乞食の行といって威厳のある行であった。民衆をして布施の志を起こさしめて、善根を植えしむるのであった。されば乞食の行をするときには衣を整え、威風堂々と師子王の歩みをなして家々を訪れ、あえて礼をとらず一鉢を差し出すのである。訪れた家では、その鉢へ食物を入れるのである。もし家人が振り向かないときは、錫杖を鳴らして気づかせるのである。食物の布施を受けても礼をいうこともなく、くるりときびすをめぐらして、威風堂々と帰るのである。
そして、川辺に至って、手を洗い口をすすぎ木の下に帰って、飢饉の時にわが子の肉を食うがごとき思いをなして、量の多少、味の良し悪しを絶対に考えることなく、感謝して食するのである。かかる気持ちがあったとしても、乞食の行は釈迦時代の遺物があって、今日の仏法の修行ではない。しかし、この修行ですらできない悪侶の充満しているのが、今日の仏教界の状態である。自分の利益のみをむさぼるように追い求め、自己保身にやっきとなっているのである。ただ形式的に経を読み、寺があり、僧侶がいるというにすぎない。その経すら末法の民衆を指導し救済するものではなくて、むしろ邪道に堕するものである。いわんや最近では、観光化し、見世物化・営業化した寺院も少なくない。これ「仏法隠没」といわずして何であろうか。
さらに、既成仏教の頽廃は、今日のごとき、いかがわしき邪宗教の氾濫を惹起したのであった。彼らは互いに利害のために手を結び、創価学会の折伏を必死になって食い止めようとしている。だが所詮、彼らの策動は、あたかも大風の前の塵のごとくはかなきものであり、あがけばあがくほど、還著於本人の方程式どおり、自分自身を死地に追いやるのは必定である。
まことに仏法の真髄は創価学会にしかない。その活動をはばむようなものがあれば、それこそ仏法を破滅させる魔の姿であり、もし、かつてのごとくあえて国家権力をもって、阻止しようものならば、終戦後のように「仏法実に隠没せば」の経文が、たちまちに眼前に展開され、民衆の苦悩の深淵のなかへと進ませる結果となろう。やがて、再び国は滅び、悲惨の極地に至ることも、経文に照らし、大聖人の御文に照らし、あまりにも明らかである。
鬚髪爪皆長く
これは、風俗の極度の紊乱を意味する。およそ色法と心法とは不二である。風俗の乱れは、実に人々の心の乱れである。人間が身だしなみを整えることは、自然の姿である。だが心が阿修羅のごとく、餓鬼道のごとく、また地獄の苦悩に沈むとき、それ相応の姿となる。まさに鬚髪爪皆長くという姿は、古来、法滅の相としているゆえんである。
日寬上人の文段には、これは、三毒の増長をたとえるものであるとして次のように仰せである。
「問うていうには、この鬚髪爪の三つの表示はいかなる意か。答えていうには、一義には、これは三惑増長を表わす。すなわち髪とは見思惑。鬚とは塵沙惑。爪とは無明惑。真言ではこれを三妄執という。すなわち麤妄執、細妄微、微妄執である。今いわく、もし当分にあたっては、恐らくは、鬚髪爪皆長くとは三毒増長を顕すか。すなわち髪は貪を表わす。見て愛を生ずるゆえである。爪は瞋を表わす。堅利なるゆえである。鬚は癡をあらわす。要覧上には次のようにある。『その好形を毀ち鬚髪を剃徐する。過去の諸仏は即ち発願していうには、今落髪ゆえ、願わくは一切衆生の煩悩を断徐せんと、今この鬚髪を彼の煩悩にたとえる』等云云。いま下の経文にいうには、貧瞋癡倍増して等と云云。これ思うべきである」と。
かくのごとく、一義には髪は見思、鬚は塵沙、爪は無明の三惑をあらわすといい、また一義には、髪は貪り、爪は瞋り、鬚は癡の三毒をあらわすともいう。本来、髪や鬚や爪は、おしゃれのポイントであり、これらを極端に飾りたてることは、仏弟子にあらざる妄執である。逆に、これらをだらしなく伸ばすことも、また風俗の乱れ、心の乱れにほかならない。ゆえに、鬚髪爪をもって、三惑、三毒にたとえられたのである。
今日の風俗の乱れは、まことに目にあまるものがある。目的観の喪失、既存の体制、既存の道徳に対する不信と疑惑は、人々に深刻な精神的動揺と混乱をもたらしてしまった。多くの人は、あせり、あがき、そしてやがてその心を紛らわさんがために、刹那主義に流れ、ほんのわずかな時間の亨楽にふけるのである。あらゆる人間の作品は、人間の心の所作である。されば今日の文学にせよ、絵画にせよ、音楽にもせよ、そうした民衆の心を強く反映しているのである。文学も、今後数百年にわたって、民衆の心の中に流れゆくような生命をもった作品は皆無に等しく、いたずらに民衆のあせり、あがき、頽廃的な風潮に迎合し、それをむしろ助長するがごときである。いわんや一般の言論界の悪幣はいうまでもない。絵画は、神経質な、また錯綜し、混乱した人間感情のあらわれのごとく、音楽もまた、民衆に喜びと希望と潤いを次への建設の力を与えるものではなく、ただ、本能的興奮や焦燥と頽廃のリズムにひたり、または亡国の哀音をかなでている。
御書にいわく「音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなり」(0088-17)と。
諸法も亦忘失せん
これは、思想の乱れ、道義の頻発、国法の乱脈である。すなわち、民衆の心を善導すべき確固たる思想もなく、また、民衆の道義は、もはや地に落ち、心は極度に疲弊し、不安と焦燥と頽廃のムードが一国にみなぎっている。そして、国法においては、戦争否定の平和憲法は、いたずらにふみにじられ、また、幾多の悪法の樹立を試しみる、陰険な策謀等々、善法を骨抜きにし、悪法を横行させんとする動きがあるではないか。これ、民衆の幸福を奪い、民主主義を略奪する以外なにものでもない。
ここに、真に正しき思想を民衆の心に植えつけ、人間革命を教え、善法を擁護し、悪法を挫くのでなければ、いかなる世相が現出するであろう。けっして過去の悪夢を忘れるべきでなく、また悲惨な諸外国の民衆の苦悩を遠くに思うべきではない。
当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん.城壁破れ落ち下り屋宇悉くヤブれ圻け樹林の根.枝・葉・華葉・菓・薬尽きん
この文について日寬上人は次のように述べられている。
「註にいわく『天雷地に徹してその輪転ずることなお水草のごとし』と云云、健にいわく『昔・天狗流星というもの響き亘りてありけり』と云云、弘の五の中三に『天狗流行し地数ば振動す』と文、健抄の意はこの文に依るか、この義大旨に応うなり」
すなわち、ここに「天狗流星」、「天狗流行」とあるが、これは、あるいは隕石ではあるまいか、先に火球として示したのがこれであるとも考えられるのである。
ロシアの昔話では、火球を「空をかけるゴルイヌイチという火をはく巨大な竜」として語られている。一例あげると、1091年の年代記には「…空から巨大な竜が落ちてきた。人は皆ふるえあがって驚いてしまった。その時、大地にぶつかる大きな音がとどろきわたり、多くの人々の耳をつんざいた」と書かれてあるとのことである。
中国では、これを天狗と考えたのではあるまいか。
したがって「天雷地に徹し」とは、火球が落ちたことを意味するのであろう。また「虚空の中には大なる声あって」とは、前述のごとく火球が消えるときに、爆発が、砲撃のような強烈な打撃音が起こり、雷鳴を想わせるような轟きが聞こえるが、このことではあるまいか。この時、地震のように、大きく大地がゆれ動くことは事実である。
先に1908年にシベリア北部の森林に火球が落ちた例をあげたが、その時に森林は、広い地域にわたってなぎ倒され、破懐されてしまった。落下地点の近くにいた人々は、爆風ではねとばされたのである。また大地は、全世界にわたって地震のように感じられたほど、大きくゆれ動かされた。爆発の音は1km以上離れたところでも聞くことができたとのことである。
遠き古代においては、きわめて巨大な隕石が盛んに落ちたとも考えられる。中国等においても、その隕石が発屈されている。
だが、今日では、この一節はむしろ地震のことであると考えてよかろう。なぜならば、今日に至るも、否、今日さらに地震はきわめて恐ろしいものである。
この場合「虚空の中に大きな声あって」とは、しばしば遠雷のような地鳴りがすることは、各地で体験されているが、このことと考えてよかろう。
最近では、昭和40年(1965)から長野県・松代町で起こっている一連の地震に際して、無気味な地鳴りが絶え間なく響き、住民を不安におとしれたことが報道されている。この立正安国論を勘え始められる動機の一つとなった、正嘉元年(1257)8月23日の大地震について、吾妻鏡は、次のように記している。「二十三二日、乙已、晴、戌刻、大地震、有音…」と。また、翌2年12月16日の地震については「天晴、寅を雷鳴」と勘違いして、このように記されたものとも考えられるのである。「地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん」とは、きわめて大きな地震である。関東大震災のごときものか。あるいは、さらにその倍も、三倍も激しいものであろうか。いずれにせよ凄惨な光景である。
地震があると、眼前にすさまじい光景が展開される。石の山に変わった家、山くずれ、土砂で埋められた河底、大地の深い亀裂、あらゆるものを灰にしてしまう火事、被害者の死骸等々と。また津波の被害も大きく1755年にリスボンでは、30mあまりの高さの津波が岸を襲い、60000人の人を水に沈め、何百という建物を崩壊し去ったのであった。
また、地震や風水害等の天変でなくとも、最悪の人災たる戦争により「城壁破れ落ち下り屋宇悉くヤブれ圻け樹林の根.枝・葉.華葉・菓・薬尽きん」という惨憺たる様相となる。第二次世界大戦における、あの目もあてられぬような、破懐し尽くされ、焦土と化した欧亜の世界、また、原爆直下の広島、長崎の、地獄絵図、これらのかつての事実は、まさしく文のとおりではないか。
唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん
これは、一切の民衆が楽しむべき生活がなくなるということである。今日、物価は上昇の一途を辿っているにもかかわらず、一般の人々の所得の上昇は、それに追いつけず、相変わらず、苦しい生活を続けているのは、まことに嘆かわしい。日本はまだしも、インドや東南アジアの国々の一般民衆の生活にいたっては、乞食同然である。また、太平洋戦争中の極度に追い詰められた生活は、この文のとおりであった。それに比較すれば、現在はまだ、無事平安ともいえよう。だがもし「仏法実に隠没せば」再び、われわれは、楽しみも、潤いもない、殺伐たる時代へと没入し、あるいは飢餓の死線をさまようことにもなりかねない。まことに恐ろしいことではないか。
「唯浄居天を除いて」の浄居天とは、大集経に説かれているが、法華経の立場からいえば「大火所焼時、我此土安穏」の仏国土と考えるべきである。
「三精気」とは、衆生精気、地精気、法精気のことである。まず衆生精気とは、人間、社会それ自体の生命力であり、一国の興亡、民衆の盛衰を決する、根本の生命力である。その生命力が極度に衰えてしまうというのである。これ、方便品に「五濁」とあるなかの衆生濁にあたるものである。この衆生社会全体の生命力の損耗は、実に一人一人の人間生命の濁りによるものである。私利私欲にふけり、また我慢執着の念にかられ、そこにおのずと醜い闘争が繰り広げられるであろう。政治は乱れ、生活は破懐され、社会全体は停頓し、民族は興隆の息吹がなく、やがて亡国の憂き目にあうのである。
地精気とは、国土それ自体の生命力である。もしも、国土それ自体の生命力が、真に旺盛で、リズムに適ったものであれば、五穀は豊かに実り、木々の緑は、人々に新鮮な空気と希望と潤いを与え、水は清く、美しい、草花は、芳香をただよわせ、あたりはさながら楽園となるのである。 総勘文抄にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(0574-14)と。まことに、真の仏国土であれば、国土それ自体が慈悲の姿を現ずるのである。国土もまた十界の当体である。天台大師は「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・想・性・体・力」等と述べているのである。しかして、この国土自体の生命力を真にたくましく清浄に、かつリズム正しくする本源は妙法以外にないのでる。されば、もし「仏法実に隠没」するならば、国土それ自体の生命力は衰え、地獄・餓鬼・畜生・修羅の「相・性・体・力・作」等を現じ、リズムはこわれて、疲弊し、大地は激震し、河川は氾濫し、大海は怒り狂い、風雨は常なく、時に大暴風雨を、時に大旱魃をもたらすのである。
法精気とは、世間法、国法、より本源的には仏法の力である。世間法、国法については「諸法も亦亡失せん」のところで述べたとおりである。思想の混乱、道義の頽廃、国法の弱体化、または濫用等と、所詮これらは人間生命に巣くう偏見、邪見の産物であり、すなわち人間生命の濁りにほかならない。
しかして、その底流はこれを善導すべきはずの仏法が頽廃したがゆえなのである。仏法に、民衆を救済する力なく、国法は乱れ、世間法は乱脈のきわみに達する。これ、今日の姿であり、法精気を奪われた姿ではないか。所詮、真実の仏法が隠没されたがゆえの結果である。
解脱の諸の善論当の時一切尽きん
これは、民衆を指導するよき指導原理がなくなるということで、政治にもせよ、文化にもせよ、経済にもせよ、ことごとく行き詰りの感ある日本の現状は、これをよく示してあるではないか。ここに解脱とは、苦縛を離れた悟りの境涯のことであるが、これは決して小乗経の、灰身滅智し、煩悩を離れた無余涅槃の境地をいうのではなく、煩悩即菩提であり、すなわち、われわれの立場でいえば、現実生活のなかに築く、真実の幸福境涯である。
されば、解脱の善論とは、別して妙法しかないことは明瞭であるが、ここでは総じて民衆を幸福に導く、一切の指導原理をさすと考えるべきであろう。
所生の華菓の味い希少にして亦美からず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵しテキ裂して丘澗と成らん、諸山皆ショウ燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず
これは大旱魃のことである。昔は、この被害が、民衆に決定的な打撃を与えた。だが、今日では、雨が降ったとき大きな貯水池で水をためておくため、一応、昔のように日照りによって大飢饉が起こるようなことはまずなくなっている。しかし、水に対しては飲料水としてだけではなく、工業用や発電用として、ますます需要が高まってきている。今や、水はいくらあっても足りない状態になっていることも事実である。国土それ自体は、時としては考えられないような異常なことが起こりうる。もしも、この文のごとく、大地が引き裂かれ、割れ目ができたり、さらに激しい起伏が生じるという、いまだかってないような破懐的大旱魃がおこるならば、工場の機能はまったく麻痺し、人々は水を求めて餓鬼道のごとくになるに違いない。
さらに、それが貯水池の水も役立たないほど、相当長期にわたるならば、草木が皆枯死し、大飢饉がおこるという可能性もけっしてないわけではない。ましてや、悪政のために内政が極端におろそかになり、はては戦乱に巻き込まれるようになれば、おそらく、大旱魃は、その時とばかりに猛威をふるうであろう。いまだ日本には、このような大旱魃は起きていないが、もし真の仏法が弘まらなかったり、これを弘めるものを軽蔑し、愚弄し、これをはばむならば、必ずやこの大苦難を受けなくてはならぬのは当然である。
土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ
「土を雨らし」とは、大地が乾ききるため、土が風に舞い上げられ、降ってくることである。砂漠地帯のサンドストーム、中国の蒙古風などは広く知られている例である。また、火山の爆発で上空に吹き上げられた灰が降ってくる場合もある。重い土は早くおりてくるので、「土を雨らし」という状態になる。
土や灰が降や泥雨がふるという記述は多い。なお、竜巻などで巻き上げられたものが、降ってくるせいか、穀物が降ってきたり、魚が降ってきたり、毛がふってきたりする場合もある。たまには隕石と思われるような大きな石がふることも記録されている。
空中に舞い上がった土や火山灰は、こうして一方では「土を雨らし」という現象を引き起こすが、他方、非常に軽い細かい粒子の場合、長く空中にとどまり、日光をさえぎって冷害を引き起こすことが少なくない。この場合、太陽は赤く見えたという記述がある。これ「日月明を現ぜず」である。稀に青い太陽が見られる。
満州でこれを発見したある科学者は、その光景を次のように伝えている。
「朝から南西の強い風が吹き、大気は流れ来る黄色い砂のために空気自身の色が黄色になったと思われるように濁って来た。戸外に出て見れば、一面の黄色のほかほとんど景色は何も見えず、ただ近いところにある樹が灰色にぼんやり見える気味わるさである。昼ごろあたりは、室のなかも赤味を帯びて来たように思えるので窓から外を眺めると、確かに大気の濁りは黄色の上に朱のような赤味を加え、空を見上げると、これまた一面に赤味がかった褐色になっている。驚いたことには、中天に青空とも思える青い色をしたわずかの部分があり、その中央に太陽は蒼ざめて、めらめらと弱く輝いている不気味さである。ちょうど赤褐色の雲の中にわずかにその青空があり、青い太陽が見えるというようで、私はすぐにこれは夕焼けの色を反対にしたようだと思った」
土が降ったり、日月が明らかでないというのが悪瑞相であるとは、まことにもって当然至極の道理である。すなわち、なにもなくて土が降ったり、日月が光りを失ったりはしない。その現象は、実に氷山の一角であり、その背景となるものは、火山の大爆発やあるいは異常な乾燥である。さらにその奥を考えれば、国土のリズム、宇宙のリズムに異常をきたしている証拠であり、災害は災害を呼び、一時にさまざまな悪現象が並び起こる前兆といえる。さらに、国土の変化は、人間の生命状態の変化に、微妙にかつ甚大な影響を与える。したがって、戦争等の人間の破懐的な営みの瑞相でもありうる。されば、仏法においてこれらをさして「諸悪瑞」といわれたのは、まことにゆえあることではないか。これらのことがわかってきたのは、科学が発達したからである。すなわち、科学の進歩が、仏法を証明するということは、厳然とここにあらわれてくるではないか。
十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん
まことに殺伐たる社会である。十不善業の道といい、貪・瞋・癡といい、今日、それがますます倍増している感が深い。人々は思い思いに身は、殺伐と、邪淫と強盗にふける。口には、互いにウソをつきあい、飾り立てた虚偽をいいあい、また激しい憎悪を込めてののしりあい、また、二枚舌を使って人をたぶらかしあう。心は貪欲に満ち満ち、怒りと憎悪がみなぎり、また無気力と無智と怠惰の充満せる状態となるという。まことに経文そのままではないか。今日の人々の姿を映し出してあまりなきものである。
このような一人一人の人間の身も口も心も、まったくすさみっきり、くさりきってしまったがゆえに、それが昂じてくると、常識では意外とおもうようなことが、まるで当然であるかのごとく平然と行われるのである。
はては、肉親同士が、あたかも他人のごとくこれを見捨てて願みなくなる。否、時としては他人以上に、激しい憎悪と嫉妬と怒りで、醜い闘争に身をついやすことさえある。はては、親を殺すなどということはあってはならないことなのに、感情にまかせて親を殺したり、また利害のうえからこれを危めたりすることは、残念ながら事実であり、ときおり、そのいまわしいニュースが報告される。これ、三世にわたって正しき真の仏法が、隠没した結果である。
この、あまりにも非人間的な社会が現前しているのに、世の識者はこれをいかなる思想で、方途で解決できると確信しているのか。
あるいは、いかなる実践を現実にやっているのか。世の頽廃を嘆くのは易しい。だが、いったい、だれが、これを打開するのか。
仏法は、一人一人の人間の生命を奥底より変革する。それは道理でもなければ修養でもない。貪・瞋・癡にむしばまれた生命の奥底にひそむ、最も力強い、清浄無垢な大生命力を泉水のごとくこんこんと湧現させるものである。この、いかんなき人間性の発揚をなさしめる大正法の確立がない限り、社会の濁りを是正する道は絶対になきことを、確信してやまない。
衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん
これは人口が減少し、一切衆生の寿命が減り、生命力が弱まり、その肉体も衰え、楽しみも、希望も、勇気もなく、健全な生活は失われ、神経衰弱症のごとき人々となる。やがて、三悪道、四悪道に堕ちこみ、長くそこから抜ききれず、闇から闇へと流浪していくことをいう。生命力の減退は、個人にとっても、民族にとっても恐るべきであるが、今日の日本民族がこの道を歩みつつあることは、嘆かわしいことである。精神病患者はもとより、潜在的な精神病にかかっている人は、恐るべき多数にのぼっていることが確認されている。みな無気力となり、若き生命の躍動も、やがて、社会悪に巻き込まれ、刹那主義におちこみ、快楽を追って、肉体と精神を損耗しつつあるのが現実なのである。
ひるがえって、わが創価学会員の生命力溢れ、若々しく希望に輝き、美しい清らかな目をもち、勇気りんぜんと活動している姿を見よ。これこそ、新しき時代を築く力であり、全民衆が心の底から待ちこがれていた。たくましき、清純なる息吹きであろうか。やがてこの息吹きが、日本をおおい、全世界をおおって、平和な時代が築かれていくことも必然である。否、それを築くのは、その息吹を知る人の使命である。
是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん
正法毀謗の罪によって不善業の業を積み、しかして、生命の弱りきった悪王や悪い僧侶が正法を謗り、その流布を止めているから、諸天善神も、善王も、その国を捨ててしまうのである。
「不善業の悪王」とは、まさに今日の指導者であり、なかんずく政治権力者でないか。貪・瞋・癡の三毒のままに、私利私欲にふけり、派閥抗争に明け暮れ、不生を事とし、陰険であり、善人を迫害しようとする姿は、歴然としている。しかして、かかる指導者を誕生させたのは、いったい何が原因か、それは民衆の生命に巣くう封建性である。そこに、黒々とした民衆の生命の濁りを見いだすのである。これ邪宗教、悪思想の害毒以外なにものでもない。過去幾多の人間性を無視した邪宗教、悪思想が横行してきた。無気力と廃退と狂気の温床こそ、実に、民衆の生命にくいいる邪宗教であると断ずるものである。
また過去においても、神道におかされた指導者の頭脳は狂乱の態を示し、太平洋戦争の無残な惨状をもたらしたのではないか。無気力な民衆、それを食いちらす狂気のごとき邪宗、邪義、邪智、さらに、そこから生まれる指導者、この三拍子がそろえば、まさに地獄の火焰は、猛威をふるうであろう。亡国の姿を現ずるは必定である。されば「不善業の悪王」は「不善業の悪比丘」とともに、いたずらに、民衆の幸福への方途を説ききった大正法を穏没し、諸天善神は、ことごとく濁悪の国を捨て去り、魔来たり、鬼来たり、災起こり、難起こり、ついに国が滅びると仰せられたのである。
ここに「正法」とは、いうまでもなく、弘安2年(1279)10月12日御図顕の大御本尊であり、今日においては、それを奉じて立つ創価学会をはばむ行為は仏教典に照らして、明らかに「正法隠没」の行為であることは絶対であり、それがいかに悲惨な結果にもたらすかを、あえて智者に忠告するものである。
0019:04~0019:08 第四章 経証の三 仁王経top
| 04 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を刧かし百姓亡喪し臣・君・ 05 太子・王子.百官共に是非を生ぜん、天地怪異し二十八宿・星道.日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、 06 亦云く 「我今五眼をもつて明に三世を見るに 一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えるに由つて帝王主と為る 07 ことを得たり、 是を為つて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して 大利益を作さん、若し王の福尽きん 08 時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。 -----― 仁王経にはこうある。 「国土が乱れるような時にはまず鬼神が乱れる。鬼神が乱れるので万民が乱れる。 外敵が襲来して国内を侵略し、多くの国民が亡くなり、大臣たちは太子を主君とし、王子や役人たちは共に激しく争いをするだろう。 天地に異変があり、二十八宿や星の軌道、日や月は、適切な時に運行せず、大きさや明るさが異常で、外敵の出現がしばしば起こるだろう」 またこうある。 「釈尊が今、五眼ではっきりと三世を見てみると、すべての国王は皆、過去世で五百の仏に仕えた功徳によって皇帝・王・主君となることができたのである。そうであるから、すべての聖人・阿羅漢はその国土の中に生まれ来て人々に大きな利益を与えるのである。 もし王の福が尽きる時には、すべての聖人が、皆それゆえにその国を捨て去るだろう。もしすべての聖人が去る時には、七難が必ず起こる」以上。 |
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
鬼神
鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
―――
万民乱る
一家では親子・兄弟・夫婦が憎みあい、いがみ合う。職場では仲間同士・使用者と労働者の対立。国家では権力を持つ特権階級と国民の遊離等、憎みあうさま。
―――
百姓
百姓とは各種産業に従事する一般市民をいうが、転じて農民を指すようになった。安国論に「衰亡し」とあるのは、国内の乱れ、また他国の他国侵逼のため、多くの民衆が殺されたり、家を焼かれたり土地を荒れされること。流浪の民になることをいう。
―――
是非を生ぜん
是とは道理正しいこと。非は道理が通らないこと。「生ぜん」は意見が合わず、争いが起こること。
―――
天地怪異
天地が平常と異なった怪しい現象を起こすこと。日蝕・月蝕・地震・暴風・豪雨・大雪・早(または遅い)霜等。法蓮抄に「自他の叛逆・我が朝に法華経を失う故」(1052)「当に知るべし 是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて 立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る、彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る、去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時蒙古国は何比かよせ候べきと問うに、答えて云く経文は月日をささず但し天眼のいかり頻りなり今年をばすぐべからずと申したりき、是等は如何にして知るべしと人疑うべし予不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ天神身より光を出して此の国をおどす、いかに諌むれども用いざれば結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし」(1053)と述べられている。
―――
二十八宿
日月や五星の位置および運動をあらわすために、黄道および赤道付近の周天に、その標準として立てられた28の星宿。五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。各星宿の標準としてとった星を距星というが、各距星の間隔は等しくない。古代中国においては、この二十八宿に関連して部位を示すために、東西南北の四宮・四陸にわけ、これを四獣に配し、さらに二十八宿に配した。この関連性を爾雅・左伝・国語・史記などによって示すと、次のようになる。
東宮――東陸――蒼竜――角 亢 氐 房 心 尾 箕
北宮――北陸――玄武――斗 牛 女 虚 危 室 壁
西宮――西陸――白虎――奎 婁 胃 昴 畢 觜 参
南宮――南陸――朱雀――井 鬼 柳 星 張 翼 軫
―――
星道・日月時を失い土を失い
日や月や星の運行が、不規則に早く(または遅く)なつたり、軌道が正規の位置からはずれることをいう。「時を失い」とは運行の速度がみだれること。「度を失い」とは軌道がはずれること。
―――
五眼
物を見る五種の目、肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼のこと。
肉眼=普通の人間の目。
天眼=天界所具の目。遠近・明暗を問わず物事を見ることができる。
慧眼=声聞・縁覚の二乗の目。修行によって空無相の理を達観できる智慧の目(深い知識や体験に基づいて物事を判断できる目)。
法眼=菩薩の目。仮名の法に達して誤らず一切衆生を度すために、法門を照了する智慧の目。仏法の法理の上からいっさいの事物を判断する力である。
仏眼=仏の目。三世十方にわたり、いっさいの事物を見通す目。仏はこの五眼のすべてを有する。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432)とある。
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羅漢
阿羅漢のこと。声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん
日寛上人の分段には「『而も来生することを為して』これ蒙の点なり恐らくは穏かならざるか。今いわく『而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん』と云云。普門品の『而為説法』のごとし」とある。
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七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。
仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難
薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難
金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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仁王経では、あらゆる混乱の根本原因は、思想の乱れからくるものであると断じている。
国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る
「鬼神乱る」とは、人間の思想が邪宗、邪義、邪智によって破壊され、混乱し、異常をきたすことを意味する。いいかえれば、人間生命の濁りであり、五濁に約せば煩悩濁、見濁であるといえよう。
御義口伝には、次のごとく法華文句を引いて五濁を説明している。「劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す」(0717-第四五濁の事)と。
まず、この文の意味についていえば、「劫濁」とは、何か一つの実体があるものではない。劫とは、短時を意味する刹那に対して、長い時の流れをいうのである。すなわち、劫濁とは、時代の濁りであり、他の四濁が盛んである時代をいうのである。「衆生濁」とは、やはり、とくに別の実体があるのではない。我見、慢心が盛んになることによって、衆生社会の上に、それに対する果報を受けている状態である。「煩悩濁」とは、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使に追い使われている状態であり、「見濁」は、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使がその実体である。また、命濁は、色心を連持、すなわち、色心の上に、濁りがあり、生命力を損耗していくところである。
しかして、文句には、また次のように説かれている。いわく「煩悩、見を根本と為し此の二濁に従いて衆生を成ず。衆生に従いて連持の命あり、この四つの時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」と。
しかして、文句には、また、次のようにも説かれている。いわく「煩悩、見を根本とし為し此の二濁に従いて衆生を成ず、衆生に従いて連持の命であり、此の四の時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」と。
すなわち、煩悩濁、見濁が根本となり、この二濁によって、衆生濁が形成されている。この衆生の生命活動の流転の上に命濁が形成され、この四濁が盛んに起こり、互いに薫発し合い、時代を経るにしたがって、劫濁が形成される、ということである。ここに明らかに煩悩濁、見濁が根本となってあらゆる混乱があることが示されている。
したがって、この「鬼神乱る」にあたる煩悩濁、見濁がいかなるものかを知る必要がある。
煩悩濁も見濁ともに個人についてみた濁りである。煩悩濁の体である五鈍使も、見濁の体である五利使も、ともに見惑の十使をわけたものである。見惑とはいいうまでもなく、思想の誤りであり、思考の乱れである。しかして、そのなかでも貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使は本能的な思考の乱れであり、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使は、才智ある邪見、鋭利的な思想の乱れである。
自分の利益ばかりをむさぼるように求めて、他人をかえりみないのは「貧」であり、事態を冷静に判断できず、すでに感情に走り、生活を破懐するのは「瞋」である。目先のことのみにとらわれて、無気力と怠惰に流され、一生を台無しにするのは「癡」である。少々のことを鼻にかけ、自分をよく見せようとし、あるいは正しいものを受け入れないのは「慢」である。猜疑心旺盛で、自暴自棄になるのは「疑」である。
身見とは、己れの身に愛着し、我見に執着することである。辺見とは、断見ともいい、生命の永遠常住を認めない考え方である。見取見とは、自己の見解に執着し、増上慢を起こして、劣っているものを勝れていると謂う考え方である。戒取見とは、因でないものを因と謂い、道理でないものを道理と謂う考え方である。邪見とは、因果律、三界の因果の理法を認めない考え方である。現在あるさまざまな思想が、多くこの五利使の範疇にあることは、明瞭である。因果律を認めず奇跡を信ずるキリスト教、生命の常住を認めず生命は物質の存在様式と立てるマルクス主義、さらに法華経を下す、念仏宗、真言宗、まるで幼稚この上ない因縁話で、無智の人をあやつる、最近の新興宗教等々、それらによって引き起こされた偏見は、ことごとく五利使である。
指導者の思考の誤りとその悲劇
かくして、五利使の邪見にせよ、五鈍使の本能的なものにせよ、思想の乱れが、根本となって衆生濁が形成されるのである。これが「万民乱る」である。すなわち、万民乱るとは、衆生濁ことである。一般民衆の思考の乱れはさておき、指導者の頭の中が、鬼神によって乱され、狂乱し、偏見、邪見でうずまいていれば、一国の前途は完全に誤り、どんなに不幸な社会にしてしまうか、それは、考えただけでも恐ろしいことである。衆生濁の最悪の世界は戦争であり、虐殺し合う世界である。
太平洋戦争当時の軍部の頭の中は、どうであったか、まさしく、人間の征服欲、物欲、名誉欲、権勢欲等の貪欲であり、阿修羅のごとき激怒の感情であり、驚くべき無智であり、高慢であり、猜疑心ではなかったか。そしてまた、神道のごとき低級思想に冒され、頑迷で偏狭な、狂気に等しい物の考え方になっていたのではないか。これ彼らの頭の中が、まさに悪鬼が乱れ狂う状態であったとえるであろう。これが国を破滅に導き、あの惨状をもたらした根本原因でもあった。
また、スターリンの頭の中にもヒトラーの頭の中も、煩悩濁、見濁に冒されていたために、恐るべき大量殺戮をやってのけたではないか。まことに気違いでないかぎり、あのようなことができるわけがない。さながら頭作七部の態であり、狂乱し、錯乱した頭脳と絶大なる権力とが結びついたあげくの粛清であり、残虐であることは明らかである。
しかして、今日のアジアにおける戦乱、とくにベトナム戦争の根底をえぐるに、そこにも、人間生命に内在する煩悩濁や見濁りがうずまいていることはいうまでもない。
日本を救う唯一の平和勢力
日本は、現在、一往戦争なき、平和な社会である。だが煩悩濁、見濁は相変わらず黒々と日本の人々と国土をおおつているのである。政治も、教育も、その他の社会の営みがことごとく行き詰っているのは、まことに残念ながら事実である。
政治一つを取り上げてみても、いかに濁りきっているかがわかるのである。悪徳政治家たちは、既成の権威にしがみつき、私利私欲にふけり、腐敗は慢性化し、派閥抗争に明け暮れ、民衆を忘れている姿は、嘆かわしいというより、怒りがこみあげてくるではないか。政治家とは、野心家とか、腹芸のうまい人の代名詞のごとく思われているのが実情ではないのか。
さらに、一般民衆の姿も、あまりにも無気力であり、あるいは刹那的であり、焦燥と不安と動揺がうずまいているではないか。これ万民乱る姿であり、衆生濁といわずして何であろうか。
しかして今日、戦乱からわが国土を守り、日本を支えている力は、ほかならぬ創価学会なのである。今日のきびしき世界情勢は、日本をけっしてその外に置くことを許されない。世界の対立の波は、日本に押し寄せていることは、きわめて明瞭である。これ、再び、日本がかつての二の舞をふんではならぬことを、実態があまりにもよく教えてくれている。
そして、これを打開する道も、再び破滅へ導く恐ろしさも、ともに、ここに掲げられた経文が明確に示しているではないか。もしも、創価学会がなく、このまま日本の国が、ますます濁乱していくならば、私は、必ずや日本が悲惨な憂き目を見るに至ることをあえて断言しておきたい。それが仏法のきびしき方程式なのである。逆に日本の国の人々が、真に幸福と平和の方途を説ききった、大仏法を根本に、団結し、世界における唯一の平和勢力として、智慧と勇気とをもって臨むならば、必ずや、日本を永久に戦争の惨禍から守り、世界の民衆の幸福に貢献していけることを、心の底から叫んでやまぬのである。
賊来つて国を刧かし百姓亡喪し
これは、かつての日本の国が経験した、いまわしき事実である。日本が他国から破られるのも「所詮万民乱る」ところよりくる結果である。歴史上国が滅びるのは、外部よりもむしろ内部からもたらされることは、明らかである。政治の腐敗、教育界、思想界の混迷、民族の生命の弱体化、これらが、むしろ国を滅ぼす本源である。今、日本は、まさしく「万民乱る」状態である。かつて停滞せるアジアが、植民地として大国に荒らされたのは生々しい事実である。今日のアジアの惨状も、実体はここにある。されば、このままでは、いつ、ベトナムの惨劇が日本に襲いかかるかわからぬではないか。この事実に、世の人々は一日も早く気づくべきである。特に若き清純なる青年が、これに眼を開かなくてはならないと思う。
臣・君・太子・王子.百官共に是非を生ぜん
これ、国内の実情ではないか。現在は主権在民の時代であり、臣・君・太子・王子.百官の別はない。これはさまざまな社会とすべきである。大きくは国家と考えてよい。また、経済界、教育界、政治界等々と、とることもできる。また小さくは、一家、会社、地域社会等と考えてもよいであろう。「是非を生ぜん」とは、人々がそれぞれ、おのれの保身のために汲々として、相争うことである。互いに意見を交換し合い、建設し合うための討論でなくては、まったく対立し、憎悪し、激怒に燃えて戦うことをいうのである。
一国を考えてみれば、右翼と左翼の激突があるのであろう。この両翼の対立は深刻であり、時としては、血なまぐさい殺戮すら行われる。これ「是非を生ぜん」ではないか。日本はまだよいとしても、アジア、中近東等においては、右翼と左翼との対立が、まことに、たえず流血の惨事を引き起こしている。これまた、人々の生命にひそむ見濁であり、煩悩濁であり、鬼神乱るる結果にほかならないのである。
天地怪異し二十八宿・星道・日月時を失い度を失い
すなわちこれは天変である。昨今、とみに学者の間で、異常気象が叫ばれている。以下、和田英夫氏等の共著「異常気象」によってのべてみたい。特に、最近で、異常性を示したのは、昭和38年1月の気候である。これはわが国のみならず、世界全体にわたってあらわれ、地球上の気圧の分布なども、例年とはまるで違ってしまった。そのために、地球の自転速度が不連続的に変化した。文字どおり“地軸をゆるがした異常”を示した、とのことである。
たとえば、平年の気圧は1016.3hPaが普通なのに、昭和38年の気圧は東京では、平均1004.2hPaで、平年より12.1hPaも低い。まさに何万年に一回という現象だという。さらに、太陽の黒点の変化も激しい、気象台長であった故藤原咲平博士は1949年に「天明のときの凶作は太陽黒点数の極大がすぎた、つぎの極小のときに始まり、次の極大に達してから止めを打っている。近々そのような時期に入るから警戒を要する」という主旨の論文を発表した。
ところで、1957年に観測された太陽黒点数は、史上最大値で、1964年は、その後に起こった極小値である。その値は180年前の天明4年(1784)とまったく同じであるという。さらに太陽黒点数の月々の変化の模様がまるで天明4年ごろときわめて似ているところから、最近の太陽活動は、天明時代に似ており、まったく異常であるというのである。しかも、太陽の黒点数の極小期に冷害が起きやすいという統計的な事実は無視できないところである。また、事実さまざまな異常現象が起きた。函館では気圧が低いため、海面が上昇し、海水が逆流したために、雨が降らないのに、突如としてマンホールから下水が湧き出た。およそ雪など見たこともない「種子島」にも、38年1月25日の夜から雪が降り、また阿蘇山にも大雪が降り、最深積雪は1mを越えた。そのころ、アラスカでは雨が降っていた。まるで北と南の気候が入れ替ったような騒ぎだった。さらに38年(1963)1月は、北陸地方を中心にして豪雪があり、そのため40日間も交通が阻害された。また、この年の異常気象は、日本だけに起こったものではなかった。
このころヨーロッパに寒波が吹きよせ、吹雪が荒れ狂い、自動車や飛行機の衝突、凍死などの事故が続出し、フランス、イギリス等で大量の死者が出た。ニューヨークでも猛吹雪があり、ハーレムで火事があったが、消防手のヘルメットから氷柱が下がり、ホースから出る水が空中で凍った。ロンドンでも100年来の寒さ続きとなった。ドナウ河が結氷して半月も船の運航が止まった。新聞には、こうした記事が毎日のように報道されたのである。また、前述のごとく火山の爆発も相次いで起こり、昭和37年の6月に焼岳爆発、十勝岳の爆発、8月には三宅島の大爆発、世界的にもバリ島のアグング火山が38年3月に大爆発、38年8月以降アイスランドの南西海岸付近で、地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があった等々である。
このように、太陽黒点が異常に変化したり、地球の自転速度が不規則に変化することが現実にあるのである。そして、こうした変化が人間社会に、絶大な影響をもたらすのである。まことに宇宙のちょっとした変化であても、大きな被害が生ずる。ましてや、この経文にあるごとく「二十八宿・星道・日月度を失い」という現象が、激しく起こるようなことがあれば、その人間に及ぼす影響はどんなに大きいか、測り知れないものがあろう。ある場合には、人類の滅亡もありうるのではないか。いまだこの現象は、あらわれず、宇宙の運行に異常をきたしていないが、経文に照らして、もし、末法の仏法たる三大秘法の大御本尊が流布しないならば、すなわち、創価学会がなければ、宇宙のリズムがこわれ、星道は乱れ、日月はその運行を狂わせることになることは明瞭である。
多くの賊起こること有らん
宇宙のリズムに異常があれば、人間社会が乱れて、一国の中において、たえず争いがあり、特に国を滅亡に導くような人間が、数多くあらわれ、乱れ狂うのである。
あの、昭和6年、9年、10年と続けて起こった、日本気象史上おそるべき災厄の年を思い起さずにはおられない。特に昭和9年はひどく、この年から翌年にかけて、北日本を襲った冷害により、東北六県は目も当てられぬ大凶作に見舞われ、西日本にも異常な旱魃が起きた。さらに、史上最大といわれる室戸台風は、死者2700名、家屋の全懐39000戸におよぶ猛威をふるった。このころ、大量の人身売買が行われた。時あたかも昭和初期の金融恐慌が吹きまくって、社会不安を呼び、やがて2・26事件を経て太平洋戦争へと向かっていったのである。
今日においても、まさしく国を破滅に追いやるような賊人が、決して少なくない。国籍は日本にありながら外国にこびへつらい外国のゆうなりになって、侵略を許し、いたずらに国内の内部分裂をはかる徒輩は、まさにこれにあたろう。さらに、テロ行為や、暴力をもって人心を攪乱するのも、これにあたる。さらに、日本を戦争にかりたてようとする徒輩もこれである。国土の生命力、衆生社会の生命力が弱まるところ、必ず、内部分裂しそれを利用して、ますます人心を動揺させ、おのれの利益追求に没頭する奸物が出ることは、いつの時代でも、いずれの社界でも、いずれの国でも同様である。これ、あたかも人間の生命力が弱まるところに蔓延する病原菌のごときものである。先にも述べたように、もし今後において日本の国が再び滅びるようなことがあれば、それは内部からもたらされるものである。所詮、日本の民衆が、真に、民主主義と平和と幸福を掲げて、強く有智の団結を人材の宝庫とし、他国に「日本を攻撃したら自分たちの損になる」という思想を徹底的にうえつけることが大切である。しかも、主体性のある、真に力強き外交を行い、行き詰る世界をリードしていく以外に、日本の安泰も、世界の平和も絶対にありえにと信ずる。
指導者の福運
また、同じく次に引用の仁王経の文は、指導者の福運論である。四条金吾殿御返事にいわく「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず」(1192-02)と。いかなる智慧者であろうと、いかに才能ある人であろうと、いかなる権力をもつ人であろうと、ひとたび福運を失えば、敗北の人生を辿るしかない。
よく、人は「あの人は運がいい」とか「運が悪い」という。だが、彼らの運・不運は、あくまでも、偶然に支配されたものであり、浮き草のようなものである。この経文に「我今五眼をもって明に三世を見るに一切の国王は…」とあるがごとくである。
もし三世の生命を認めないとすれば、運・不運、幸・不幸の根本原因は、まったく不明のままになってしまうのである。ある人は、運・不運は問題でない。人は、努力しだいで、幸・不幸が決まるのだという。むろん努力は大切である。努力のない人生は無意味である。だが、努力だけでは幸福が築けると思うのは、錯覚である。人人は、それぞれの立場で、なんとか現状を打開あるいは発展させようと努力しているのではないか。だが、その努力が、成就しないところに悲劇があるのである。
もし、いっさいが努力であるという人に言いたい。それでは、現在、不幸な人々は、みな努力しなかったからなのか。否むしろ、不幸であればあるほど、それこそ必死になって努力しているではないか。また、どんなに努力といっても、病弱であり、いかにもがき、あせってもどうにもならぬ人がいるが、これに対しては、いかに幸福への道を切り開いていけるのか。もし指導者にして、かくも真剣に、かつまじめにがんばっている人を、おのれの地位から、努力なき人と断ずるのは、民衆を侮蔑し、さげすむのも甚だしいではないか。
或人は、環境決定論を唱え、環境がいっさいを決定するかのごとき説をなす。だが、これも大いなる誤りである。むろん環境の影響を無視したり、軽視したりするわけではない。だが、同じような環境に育つ二人の人間が、時としては、まったく違った運命になっているのは、どう説明するのか。さらに、環境が影響をおよぼす陰惨な家庭に育ったりしなければならないのはなぜか。さらに、生まれつき不具の人、生まれつき病弱な人は、なぜそうなったのか、それでも、あるていどまで生物学的に、それにいたるまでの過程は説明できるかもしれない。それでは、なぜそのような経過をたどらなければならなかったのか。ある人は、両親にその責任を負わせるかもしれない。では、なぜそのような両親のところに生まれなければならなかったのか。また、なぜ両親の責任を自分が負わなければならないのか。このように生命の物理化学的な現象のみを取り扱う科学では、解決できぬ問題があまりにも多くひそんでいるのである。また環境でいっさいが決定するという、主体性なき哲学では、それを解決できぬことは、明瞭である。所詮、三世の生命観およびそれに立脚した福運論にして、初めてこれらの疑問に対する解答を与えることができるのである。
釈尊は十不善業の業報を次のように説いている。この世で多病また短命である人は「殺」の報いである。貧窮で失財の人は、盗みの報いであり、眷属不良で婦が貞実でない人は、邪淫の報い、身に誹謗を受けた人に誑惑されるのは妄語の報い、親類に離れ、親友にも捨てられるのは両舌の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは悪口の報い、人に信じられないで、言語が明らかでないのは綺語の報い、多欲で足りることを知らずに、いつも不足を嘆くのは、貧りの報い、人のためすきをうかがわれ、あるいは殺されたりすることは瞋りの報い、邪見の家に生まれて心諂曲なのは、愚痴の報いである。
妙法の福運こそ最高
また、日蓮大聖人は佐渡御書に「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず 善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」(0960-03)と、般泥オン経の文を引かれている。
逆に、この世に福運ある身として生まれてきたのも、過去の行業によるものであり、かくのごとく、国王としての福運を得るのも、過去世に五百の仏に仕えたがゆえであると説くのである。
だが、日蓮大聖人は、このような因果の理法は、「是は常の因果の定れる法なり」(0960-05)と仰せになり、きわめて当然のこととされているのである。たしかに、この因果の理法は、誤りではなく、絶対の事実である。釈尊の仏法哲学から、この考え、思惟を抜きとったら意味はない。だが、このような低き因果の理法をもって、全体とするならば、運命はすでに抜きさしならぬよう定められており、ただ、この世で悪いことをしないように心がけ、あとは来世の幸福を願うという、あきらめと消極的態度をつくりあげてしまうではないか。世の不幸な人を見て、それを救いきることができぬではないか。悪しき社会、悪しき国、悪しき世界を改革することができないのではないか。日蓮大聖人は、この低き因果の理法を打ち破って、いかなる大王よりもいかなる大智慧者よりも、いかなる富裕な人よりも、百千万億倍すぐれたる大福運を、この瞬間に開くことを教えられたのである。
観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と。
すなわち、釈尊のごとく、過去に能施太子として、また儒道菩薩として、あるいは尸毘王、薩埵王子等と生まれ、三大阿僧祇、百大劫、動喩塵劫、無量阿僧祇劫、あるいは三千塵点劫等の長きにわたる修行を積まずとも、大御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、あらゆる福運が具備されるのである。幸福というものは、なにか遠くにある特別な世界ではない。また、現在というものが、過去の因によって、がんじがらめに身動きできないようにしばりつけられているものでもない。生命の奥底にある「因果俱時不思議の一法」たる妙法は、あらゆるものの根源であり、真に自由自在にして、かつあらゆるものを変えきってくことができるのである。妙法を信じ、妙法をおのおの一身に顕現していくことが、過去のいっさいの宿命を打破し、未来永劫の大福運を、この一瞬に開いていく本源であることを訴えたい。撰時抄にいわく「伝教大師云く「讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云」(0291-02)と。
安明とは、須弥山である。大御本尊を信ずる一念のなかに須弥山のごとき大福運がそなわるのである。したがって、信心からの生活というものは、いっさいが価値創造であり、いっさいが変毒為薬であり、転重軽受である。宇宙の大リズムに適い、誰がこれを破懐しようとしても、金剛石のごとく、絶対に破懐することができないのである。
信心に関係なくとも、たしかに、福運のある人はいる。昔でいえば、国王となるのは福運である。また、現在でも、社会から、才能、力を認められ、指導者となるのも、その源流は福運である。だが、それは小さな福運であり、それにおごり、正法を破懐しようとする行為に出るや、指導者としての福運をなくすのみならず、いっさいの福運を根絶してしまう。むしろ、その福運が尽きたときは、いかなる人よりも悲惨であり、また、蜃気楼のようにはかなきものである。やがて「謗る者は罪を無間に開く」の文のごとく、挫折し、破滅し、ついには無間の焔にむせぶのである。
妙法によって開かれた福運こそ、最高の福運であり、わが生命の最高の宝である。いかなる財産も、いかなる地位も、名誉もすべて化城であり、くずれ去るものである。されば信心した人こそ、世界を一手におさめる大王より尊貴であり、日輪のごとくなる智者よりも偉大である。十字御書にいわく「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492-08)と。松野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり、何に況や日本国の大臣公卿.源平の侍.百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならば憍尸迦女.吉祥天女・漢の李夫人.楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候」(1378-07)と。
是を為つて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん
これは、真実に、妙法を根底にした指導者の福運である。この場合「国王」とは一国の指導者であり、「聖人羅漢」正法をもって一切衆生を救う人である。
若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん
国内に邪法、邪義のみ充満し王の福運尽きたときは、聖人は去り、かわって悪人どもが跋扈し、あらゆる七難が競い起こってくるのである。あの、太平洋戦争の、神道の力が日本民衆を支配し、真の仏法たる創価学会は隠没の危機に瀕したのであった。これによって、王の福運は尽き果て、一国を指導すべき人材は影をひそめ、未曾有の亡国の姿を現じてしまった。日蓮大聖人の時には、末法の御本仏がおられればこそ、防ぎ得てきたところの七難の中の最後の難たる他国侵逼難が起こったということは、この他国侵逼難は前の六難ことごとく摂せられているものであって「七難必ず起らん」とは偉大な御予言である。
0019:09~0019:10 第五章 経証の四 薬師経top
| 09 薬師経に云く「若し刹帝利・潅頂王等の災難起らん時所謂人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変 10 怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。 -----― 薬師経にはこうある。 「もしクシャトリアに属し灌頂を受けて正式に王位に就いた王たちに災難が起こるような時には、次のような災難が起こるであろう。いわゆる人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難である。」以上。 |
薬師経
欲界・色界二界の中間、大法坊等で説かれた方等時の説法のひとつ。訳に四種あり。
①東晋の畠戸梨密多羅三蔵訳の「仏説灌頂抜過生死得度経」一巻
②隋の達磨笈󠄀多訳「仏説薬師如来本願経」一巻
③唐の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」一巻
④唐の義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」二巻
通常、薬師経は③をさす。仏が維耶離音楽樹下に遊んだ時、文殊師利が昔の諸仏の名字、国土の清浄荘厳の事を請問した。この請いに応じて説かれたのが本経である。
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刹帝利
古代インドの四つの階級の一つで、王族・武士階級を意味する。クシャトリアともいう。四姓はカースト制度の原型で、祭祀を司るバラモン、王族たるクシャトリア、商人階級のバイシャ、奴隷階級のシュードラである。のちにこれはますます細分化し、2000種以上に分かれた。このカーストの枠外に不可触賤民のアンタッチャブル、サンスクリットではアチュートと呼ばれる最下層民を生ずるに至っている。カーストとはポルトガル語の「種」で、本来はサンスクリットでバナルといった。バナルは「色」を意味し、この階級制度が、征服民族たる白人系のアーリァと、被征服民族たる黒人系のドラビダ、その他、黄褐色人種との差別が生まれたことを示している。西紀前2000年ごろ、農業を土台として、当時はすでに高度の文明を築いていたインドに、遊牧民族のアーリア人がインダス川上流のパンジャブ地方から侵入してきた。アーリア人は馬によって原住民との戦闘に勝利を収め、征服し、新しい社会を形成した。ここで生まれた階級制度は、かれらバラモン教によって正当化され、出生に伴う地位、職業、特権は宿命として世襲された。当時、バラモン教は支配階級アーリア人にとっては、絶対的国教的宗教であるとともに当時社会の基本たる憲法的存在であった。ゆえに釈尊の生命の尊厳、自由、平等を基調とする教えは、カースト制およびそれを裏づけるバラモン教への大社会革命、思想革命であったといえる。しかし、仏法が隠没してバラモン教がヒンズー教として復活してのちは、インド民衆は、今日もカースト制度のために、いちじるしく発展を阻害されている。
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灌頂王
大国の王をいう。古代インドでは、大国の王が位に登るとき、小国の王や群臣たちが四大海の水を汲んできて、その頂に注いだことから、このように呼ぶ。
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人衆疾疫の難
伝染病が流行して、多くの人が死ぬ難をいう。近代医学が発達する以前は、伝染病の発生に対してなす術もなく。多くの人命が失われた。今日、これらの多くは予防・治療が可能となったが、しかし、病原菌の薬品に対する抵抗力のぞうだいによって、さらにまた新しい細菌の猛威等、無視しがたいものがある。
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他国侵逼の難
他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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自界叛逆の難
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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星宿変怪の難
彗星が現れたり、流星があったり、星の運行に異変が起こることは、社会、国家の凶事の起こる瑞相とされた。古来、東洋とくに中国において、列子天瑞篇に、「人間の精神は天の『気』、肉体は『気』から構成される」とした。いわく「精神は天の分、骨髄は地の分なり。天に属するは清んで散じ、地に属するは濁って聚まる」と。この故に、人間社会の異変は天の星宿、日月の変怪なって現れるとされてきたのである。仁王経の「星宿変改難」と同意である。
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日月薄蝕の難
黒点・暈・日蝕・月蝕などのこと。日月に関する異変は、国に凶事の起こる瑞相と考えられた。現在では太陽の黒点の変化が磁気嵐を起こし、太陽の光が薄れ、冷害をもたらすことは、周知の事実となった。仁王経に「日月度を失い・時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり」とあるのと同意である。
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非時風雨の難
季節外れの暴風があったり、梅雨期でないのに長雨が続いたりする等の気候異変。これが農作物を吹き倒したり、腐らせたりなどして、成熟を阻害し、飢饉の原因になることはいうまでもない。仁王経の第四・五の難がこれにあたる。すなわち「大水百姓を漂没し・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹礰し・六月に氷霜雹を雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃として・百草亢旱し・五穀登らず・土地赫燃と万姓滅尽せん」とある。金光明経にも「暴風悪風時節に依らず、 常に飢饉に遭うて苗実成らず」とある。
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過時不雨の難
雨季に入ってもなお雨が降らないこと。大集経には「諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵し歒裂して丘潤と成らん、諸山皆燋熱して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ」とあり、仁王経には「、天地国土亢陽し炎火洞然として百草亢旱し、五穀実らず、土地赫燃して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり」とある。
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ここに「刹帝利・灌頂王」とは、指導者階級を意味する。この指導者に謗法があるときには、いわゆる七難が起きるとの経文である。
世に、指導者の誤りほど恐ろしいことはない。指導者の誤りは、国内を騒乱させ、民衆を不幸のどん底におとしいれてしまう。また、国を滅亡に導き、あるいは、民族をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道を辿らせることにもなるのである。
したがって、個人の幸福を説く仏法が、単に個人にとどまらず、指導者と仏法の関係をとくに強調するのは当然のことである。仏教が、まるで、個人の救済のみを問題とし、しかも、現世とは、遠く離れた、未来のことのみを説いていると考える人々、またそう思わせる僧侶が多いが、仏法の何たるかをも知らぬ輩である。
社会の幸福、また一国、今日ではとくに全世界の幸福なくして、どうして個人の幸福が得られようか。もしも個人の幸福を説き、社会の繁栄を説かないとすれば、それこそ矛盾であり、欺瞞であるとしかいいようがない。立正安国論に示された四経の文は、それぞれ皆、指導者こそ、正法を持たねばならないことを教えている。
すなわち、立正安国の方程式は、創価学会の精神であり、即それは日蓮大聖人の大精神であるとともに、仏法3000年来の変わらざる哲理である。
新時代の指導者論
この段で、指導者の責務と使命の重大なることが説かれている。私は多くの機会に、新時代の指導者のあり方について述べてきたのであるが、ここに要約してその一端を申し述べたい。
新しき日本の指導者に望む第一点は、偉大なる思想、哲学、宗教をたもち、確固たる指導理念を確立すべきことである。いかなる指導者も、その理念いかんによって、指導者としての資格が定まることを知らねばならぬ。現在における指導者が、もし世界各国の指導者と、世界の未来等を論じ合った時、果たして彼らを説得し、彼らに指針を与える。いかなる理念を持っているであろう。
恩師戸田会長が、ある時、もし東西の歴史上にあらわれた聖人賢人、たとえばソクラテス、キリスト、マホメット、釈尊、孔子、日蓮大聖人、マルクス等が、一同に会して談合したとするならは、必ずや日蓮大聖哲の偉大なる卓見に、一人残らず、その場で賛成し、大聖人に信伏随従を誓ったに相違ないと、いわれたことがあった。
世界各国の指導者と卒直に話し合う機会があれば、彼らはそれぞれ、マルクス・レーニン主義、プラグマティズム、実存主義、プロテスタンィズム、カトリック教、イスラム教、各種のナショナリズム、儒教的道徳主義、分析哲学、科学万能主義あらゆるイデオロギーをもって、甲論乙駁してくるであろう。しかして、日本の指導者として、彼らのイデオロギーを越える、民衆救済の大思想を持っていなければ、いたずらに彼らの一方通行的な説得に追いまくられるのみではないか。
現在、日本の国内にも、すでにイデオロギー的な対決ムードがあふれているが、旧来の資本主義や共産主義等が新時代の指導者たりえないことは、もはや明白である。より高い次元より、これらを指導し統一しうる指導理念こそ、東洋仏法の真髄たる色心不二の大生命哲学以外には絶対ないことを強く訴えて止まない。
偉大なる指導理念と、卓越した識見、確固たる信念をもった優れた指導者が、堂々と民衆に同意を求め、その意思を結集して前進する時代がきたといえよう。さらに、同じく世界各国のあらゆる指導階層に対しても、卓越した説得力、指導力を発揮しうる指導者が、数多く出現しなければならない。
新時代の指導者の資格の第二点としては、あくまでも民衆の真実の見方として、民衆に真に幸福を与えきっていける指導者でなければならぬ。誤れる指導者が、いかに民衆を不幸にし社会を滅ぼすのであるか、古今の歴史のよく物語るところである。
中国古代において、周の代も終わり秦の世も末になった頃、項羽と劉邦という二人の英傑があらわれ、互いに覇をきそった。力量は項羽の方が格段に優れ、正に百戦百勝の感があったが、最後に劉邦が垓下の戦いで大勝利をおさめ、ついに天下は劉邦のものとなった。劉邦が中国に平和と秩序をもたらしたゆえんは、正しく民衆を思う一念であり、民衆の信望が劉邦に名をなさしめたのであった。
あくまでも、民衆の指導者は、民衆の中に生き、民衆のために尽くして、民衆の中で死んでいく決意がなければならぬ。それでこそ、民衆は心から信頼し納得するのである。所詮、新しき時代の指導者は、大衆福祉を実現しきっていける人でなければならぬ。
第三に、指導者は、組織における卓越した統率力を持ち、すべての人が充分に働けるように、調和できる人でなければならぬ。これらの新しい指導者は、個人プレーで独裁的に物事を処理していく英雄型であってはならない。それが職場であるにせよ、国家であるにせよ、一つの社会の中で、全体の人々が存分に力を発揮できるように、リードしていける人こそ、真に優れた指導者といえよう。
また、人間性豊かな、包容力のある指導者として、常に後輩の中に人材を求め、優れた後輩を数多く育成してゆく熱意がなくてはならぬ。いかなる人をも活かしきっていくという決意をもって、後輩を自分以上の人材に成長させていく賢明な人こそ、真の指導者といえよう。
指導者は必ず優秀な後継者を育成するものであり、反対に独裁者は後輩を犠牲にして、後継者を育てるような雅量を持ち合わさないものである。決して、独裁者となってはならぬ。
第四に指導者は、名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義であっては、断じてならない。世の指導者といわれる人たちの中に、いかに利己の人のみ多きことか、まことに残念の窮みである。いささかも毀誉褒貶にとらわれず、自己の成長とともに、民衆を救済しきっていく自覚と責任の持ち主こそ、真の指導者である。
また有名人と指導者とを混同してはならない。有名人必ずしも指導者たりえないものである。有名人、あるいは指導者層の中に、みずからの家庭的悩みすら解決しえない人が多いが、まことに嘆かわしい限りである。どうして民衆を幸福になしうる指導者の資格があるであろう。
今や、新時代は、新しき指導者の輩出を要求している。願わくは、世のため、社会のため、民衆のために、偉大なる多くの指導者の出現を、心から願って止まない。
0019:11~0020:04 第六章 再び仁王経を挙ぐtop
| 11 仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、 其の南閻浮提に十 12 六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、 云 13 何なるを難と為す日月度を失い・時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無・或 14 は日輪一重.二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星.鬼星.火星・水星・風星. 15 チョウ星.南斗.北斗.五鎮の大星.一切の国主星・三公星.百官星.是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、 16 大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火.竜火.天火・山神火・人火.樹木火.賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為 17 すなり、大水百姓をヒョウ没し.時節返逆して・冬雨ふり.夏雪ふり.冬時に雷電霹礰し.六月に氷霜雹を雨らし.赤水. 18 黒水・青水を雨らし 土山石山を雨らし沙礫石を雨らす 江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の 0020 01 難と為すなり、大風.万姓を吹殺し国土.山河・樹木.一時に滅没し、非時の大風.黒風.赤風・青風.天風・地風・火風 02 水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃として・百草亢旱し・五穀登らず・ 03 土地赫燃と万姓滅尽せん 是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、 四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊 04 水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」 -----― 仁王経にはこうある。 「大王よ。釈尊が今教えを説いているこの世界には百億の須弥山と百億の日と月があり、その一々の須弥山のふもとにそれぞれ四つの大陸がある。そのうち南の閻浮提には十六の大国・五百の中国・一万の小国がある。その国土の中に七つの恐ろしい災難がある。あらゆる国王は、この災難のために…どのようなことが災難であるのか、 日や月が不規則に運行し、季節が逆行し、あるいは赤い日が出、黒い日が出、二・三・四・五の日が出、あるいは日食が起こって光が無く、あるいは太陽に一重・二・三・四・五重の輪が現れる。これを第一の難とする。 二十八宿が不規則に運行し、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刀星・南斗・北斗・五つの惑星・あらゆる国主星・三公星・百官星、このようなあらゆる星も同様に異変を示すのを第二の難とする。 大火が国土を焼き、万民を焼き尽くす。あるいは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火がある。このような異変を第三の難とする。 大水が民衆を漂流・沈没させ、季節が逆行し、冬に雨が降り、夏に雪が降る。冬の季節に稲妻が走り雷がなり、真夏の六月に氷・霜・雹が降る。赤い水・黒い水・青い水が降り、土や石が山のように降り、砂・礫・石が降る。大河が逆流し、山を浮かべて石を流す。このような異変の時を第四の難とする。 激しい風が万民を吹き殺し、国土の山河・樹木はたちまちなくなってしまう。季節外れの激しい風、黒い風・赤い風・青い風・天風・地風・火風・水風が吹く。このような異変を第五の難とする。 天地・国土をひどい日照りが襲い火炎が燃え上がり、あらゆる草が枯れはてて五穀は実らない。土地が真っ赤に燃えて万民が滅び去ってしまう。このような異変の時を第六の難とする。 四方の外敵が来たって国の内外を侵す。敵対者はさらに火賊・水賊・風賊・鬼賊を起こす。民衆は無秩序となり、戦乱の時代となる。このような異変を第七の難とする」 |
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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国王(仁王経の)
舎衛国の王、波斯匿王(Prasenajit)のこと。和悦または月光と訳す。梵授王の子として、釈尊と同じ日に生まれた。釈尊を日光と尊称し、それに対して王を月光と称したといわれる。政治的にも優れた手腕を発揮したが、早くから釈尊に帰依し、釈尊のいる所に来ると、王は車を降り、蓋をしりぞけ、剣を解き、靴を脱ぎ、拱手してまっすぐに進み、五体を地に投じ、足元に稽首し、長跪した。手をもってみずから饌をなし、噪水を行い、手をもってみずから斟酌したと法句譬喩経に述べられている。蓋・剣・履・王冠・柄に珠のちりばめてある払子は国王の五威儀・五好・五威容と呼ばれ、即位式のとき初めて王が身につけるものである。なお舎衛国は東インドにあった国で、王をはじめ一国あげて仏法に帰依し、有名な祇園精舎は太子祇陀と須達長者によって建てられたものである。この仏都においても釈尊の説法に際して、仏を見、説法を聞いたのは1/3、仏を見たが説法は聞かなかったものは1/3、仏も見ず説法を聞かない無縁の人が1/3いたという。
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百億の須弥・百億の日月
須弥とは須弥山のことで安明と訳す。古代インドの世界観で、世界の中央の高さが水面上八万四千由旬、水面下八万四千由旬の高山がそびえているとし、これを須弥山と称した。この須弥山を中心に、八重の輪状に金山があり、各山の間に七重の香水の海がある。一番外側の鉄囲山と第七重の持地山の間には大鹹水海で、この大鹹水海には東西南北に四州・四つの大陸がある。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。人類が棲息しているのは閻浮提である。日月も、須弥山を中心に運行している。「百億の須弥・百億の日月」とは、このような世界が百億個あるということである。最近の天文学で宇宙に無数の恒星があり、人類が生存しうる惑星が無数にあると推測している。
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四大天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
―――
南閻浮提
須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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十六の大国・五百の中国・十千の小国
大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000~10,000人の国を中国、700~3,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。
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日月度を失い
日寛上人の分段には「仁王吉蔵疏にいわく『常道に依らざるを度を失うと名づく』と。建にいわく『日月行土の道は百八十あり』と云云。その日の行度を失うときあるいは高くあるいは低くあるいは遅くあるいは早し等なり。所詮常に異なるなり、二十八宿またしかなり、ゆえにあるいは非処に出ず等となり」と
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赤日
太陽の色が赤く変ずることで、空に舞い上がった火山灰等が日光をさえぎるために起きる現象であろう。日本後期には「大同三年三月丙戌、日赤く光なし」。三代実録の貞観14年9月16日癸未の項にも「日光なし、月、元氐に宿る」とある。気象に大きな影響を与えるため、大災害の起こる前兆とされている。
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黒日
太陽が黒色に変わることで、部分的な日蝕ではなく、皆既日食かそのほかの現象によるものと考えられる。気象に大きな影響を与えるため、大災害の起こる前兆とされている。
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二三四五の日出で
ひとつは本当の太陽で残りは幻日であろう。天暦2年6月7日に二つの太陽、昌泰4年2月1日に三つの太陽が出たとの記録がある。異常気象によるもので大災害の前兆といわれている。
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日輪一重・二三四五重輪
太陽の周囲に環状の暈ができること。光環ともいい、大気中に微細な氷の結晶や水滴が多量に浮遊したとき、光が屈折して起こる現象ともいわれている。
―――
二十八宿
日月や五星の位置および運動をあらわすために、黄道および赤道付近の周天に、その標準として立てられた28の星宿。五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。各星宿の標準としてとった星を距星というが、各距星の間隔は等しくない。古代中国においては、この二十八宿に関連して部位を示すために、東西南北の四宮・四陸にわけ、これを四獣に配し、さらに二十八宿に配した。この関連性を爾雅・左伝・国語・史記などによって示すと、次のようになる。
東宮――東陸――蒼竜――角 亢 氐 房 心 尾 箕
北宮――北陸――玄武――斗 牛 女 虚 危 室 壁
西宮――西陸――白虎――奎 婁 胃 昴 畢 觜 参
南宮――南陸――朱雀――井 鬼 柳 星 張 翼 軫
―――
金星
五星のひとつ。太白星または天師星ともいう。太陽から二番目に近い惑星。直径は1,212㌖。ヨーロッパでは美と愛の女神の名をとってヴィーナスとも呼ばれる。宵の明星、明けの明星のこと。
―――
彗星
ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
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輪星
輪状のかさをもった星で日月五星が輪星の中央を破ると国土が分散し、右を回れば国土安穏、左へいけば、よくないことがあるとされるが、現在の天文学では太陽惑星の中に、肉眼で見えるこのような星は存在していない。
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鬼星
二十八宿の一つで南方に位置する星。光の衰えるのが不作の兆しといわれている。蟹座の中の星
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火星
五星のひとつ。熒惑星という。太陽から四番目に近い惑星。太陽から248,000,000㌖離れたところにあり、直径は3,388㌖。この星の変化により残虐な行為や疫病・飢饉・兵乱が相次いで起こると言われている。英語では軍人になぞえてマースと呼ぶ。
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水星
五星のひとつ。辰星という。太陽から最も近い惑星。楕円形の星で最小46,000,000㌖。最大69,800,000㌖。北水の精であり水に関する妖災が起こるといわれていた。肉眼では日の出、日没のじかんだけに見ることができる。英語では、ローマ神話中の使者の神としてマーキュリーという。
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風星
二十八宿では昴・箕ともいわれているが、詳らかではない。八風をつかさどり、井に宿れば、風雨の変があるといわれる。
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刁星
刁とは、昔の中国で、陣営において用いられた銅製の器具。形は漏斗に似て、昼は飲食を焚き、夜は警備用のドラとして用いた。刁星とはこの星座の図形が似ているためと思われる。
―――
南斗
二十八宿のなかで北宮に位置する斗のこと。六星からなる星座。古来の中国では、南斗の光が盛んであれば、王道が栄え、天下は和平であり、暗ければその反対であるとされた。天の位置は北宮であるが、夏から秋にかけて南方に見えるので南斗の名前がある。
―――
北斗
北斗七星のこと。北天の大熊座のしっぽにあたる。古来、北斗星の光が明らかであれば国が栄え、反対には衰えるといわれていた。周りに傍星が多い時は国は安泰で、少ない時は訴訟が多く、傍星が大きくなって北斗と合するようなことがあれば、兵乱がおこるともいわれていた。
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五鎮の大星
太陽系の惑星である歳星=木星、熒惑星=火星、太白星=金星、辰星=水星、鎮星=土星をいう。鎮星を中心に他の四星がこれを輔けているような配置をしているので、総称して五星という。中国人はこれを天の五気、地の五行と考えた。すなわち准南子の天文訓に次のような記述がある。「何をか五星と謂う。東方は木なり、其の帝は太暭、其の佐は勾芒、規を執りて春を治む、其の神を歳星と為す、其の獣は蒼竜、其の音は角、其の日は甲乙。南方は火なり、其の帝は炎帝、其の佐朱明は、衡を執りて夏を治む、其の神を熒惑と為す、其の獣は朱鳥、其の音は微、其の日は丙丁。西方は金なり、其の帝は少旲、其の佐は蓐収、矩を執りて秋を治む、其の神を太白と為す、其の獣は白虎、其の音は商、其の日は庚辛。北方は水なり、其の帝は顓頊、其の佐は玄冥、権を執りて冬を治む、其の神を辰星と為す、其の獣は玄武、其の音は羽、其の日は壬癸。」とある。図示はつ次の通りである。
宮 鎮 帝 佐 役目 季節 神 獣 音 暦 信 宮 宿 根 味 色雲 神 蔵 戒
東 木 太暭 勾芒 規 春 歳星 蒼竜 角 甲乙 仁 猊 角亢氐房心尾箕 眼 酢 青 魂 肝臓 不殺生戒
南 火 炎帝 朱明 衡 夏 熒惑 朱鳥 音 丙丁 礼 視 井鬼柳星張翼軫 舌 苦 赤 神 心臓 不飲酒戒
中央 土 黄帝 后土 縄 土用 朱鳥 黄鳥 宮 戊己 信 心 身 甘 黄 意 脾臓 不妄語戒
西 金 少旲 蓐収 矩 秋 太白 白虎 商 庚辛 義 言 奎婁胃昴畢觜参 鼻 辛 白 魄 肺臓 不偸盗戒
北 水 顓頊 玄冥 権 冬 辰星 玄武 音 壬癸 智 聴 斗牛女虚危室壁 耳 カン黒 志 腎臓 不邪淫戒
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国主星
地上における国主が天上に反映し、その運命を象徴すると考えられた星。大集経月蔵分護持品に、二十八宿と五星を須弥山および四衆に反映し、その国を守らしめることが説かれている。古来中国においても、二十八宿、五星が司る諸国の配分が繰り返し議論された。これを分野説といって、春秋・戦国・漢代と、時代によって種々の説が立てられた。もとより定説というものは存在しない。日寛上人の分段には「国主を守る星等なり」とある。
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三公星
三公とは、周の制度において、王を補佐する太師・太俌・太保をいう。北斗の柄の東と魁の西に位置している形が三公を連想させるので名づけられた。太師は日本の太政大臣に当たり、太傳・太保は左右の大臣に相当する。太平御覧によると「天文禄に曰く、三台一能、一名天柱、三公の位なり、人に在りて三公と曰う、天に在りて三台と曰う」とある。
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百官星
文武百官を司ると考えられたので、このように名づけられたのであろう。
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鬼火
一般には、湿地に小雨が降る闇夜などに燃え出て、空中に浮遊する青い火、これは燐化水素の燃焼であるとの説があるが不明である。また、鬼火とは衆生の乱れを鬼が怒って起こす原因不明の火事をさす。中国の吉蔵の疏には「鬼衆生を離れば、悪人夜起らしめ、亦人をして熱病せしむ」とあり、日寛上人の分段には「鬼火とは、鬼・衆生を瞋れば、悪火・夜起こる」とある。
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竜火
竜の怒りによって起こされる火。竜は水から火を吹く等といわれ、恐れられた。落雷によって起こる火災を指したものか。日寛上人の分段には「竜火とは霹靂火を起こす」とある。
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天火
天によって起こると考えられた火災。
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山神火
神仙の怒りによって起こるとされた火災。火山の爆発によるものか。日寛上人の分段には「山神火とは仙人瞋れば、火・瞋りに従って生ずと云云」とある。
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人火
人の過失によって起こる火災。日寛上人の分段には「人火とは人あやまちて火を失うがごとし」とある。
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樹木火
日照りが続いて空気が乾燥しているとき、樹木同士の摩擦によって起こる火災。日寛上人の分段には「樹木火とは亢陽・時に過ぎ樹木・火を起こす」とある。
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賊火
盗賊の放火による火災。日寛上人の分段には「賊火とは賊・火を起こす」とある。
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大水百姓を漂没し
百姓とは各種産業に従事する一般大衆。漂没とは漂わせて押し流し、溺没させること。大洪水で多くの民衆を溺死させ、生産・生活施設を流出させること。
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冬雨ふり・夏雪ふり
異常気象をいう。日本の記録としては承平元年(0931)6月8日、大雪が降るとある。
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赤水・黒水・青水
激しい風で砂塵が巻き上げられたり、火山の爆発で火山灰が巻き上げられたり、生産工場で発生する有毒ガス・埃などが、雨に含まれ変色すること。
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土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す
異常気象による災害、土石流、山崩れ、堤防の損壊等による逆流水、津波、高潮等。
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亢陽
大地も空気も熱しきっているありさま。
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炎火洞燃
熱した空気が、炎が燃え上がるように、大地から昇る状態。
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百草亢旱
一切の草木が乾ききってしまうこと。
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五穀
主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
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土地
大地が高温に熱せられること。
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四方の賊来つて国を侵し
外国からの侵略。他国侵逼難がこれにあたる。
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内外の賊
内は父方・外は母方(逆もある)の親戚。同族間の争い。自界叛逆難がこれにあたる。
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火賊・水賊・風賊
災害に乗じて悪事を働く賊。
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刀兵刧
刧とは劫のこと。仏経は成住壊空成住……と四段階を繰り返すと説く。成とは世界の形成期、住とは活動期、壊とは崩壊期、空とは消滅期であり、続いて再び成と永遠に続くと説く。この成住壊空の一周を一小劫といい、二十小劫を一中劫、四中劫を一大劫という。大の壊劫には火水風の「大の三災」が起こり、穀貴・兵革・疫病の「小の三災」は小劫の末におこる。すなわち刀兵劫とは、劫末に似た状態であることを示して、その因は正法誹謗によるものである。
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星や日月の変動が、われわれ人類に影響があるとは、不思議に思えるであろう。だが、依正不二の原理、一念三千の哲理が明らかになるならば、何等不思議ではない。さらに、現代の最新の科学、なかんずく天文学は、これらのことを実証しつつあるのが、趨勢である。
まず、仁王経と薬師経の七難を比較すると次のようになる。
仁王経 薬師経
第一難日月失度難─────日月薄蝕難(第五難)
第二難衆星変改難─────星宿変怪難(第四難)
第三難諸火梵焼難
第四難時節反逆難──┐
第五難大風数起難──┴──非時風雨難(第六難)
第六難天地亢陽難─────過時不雨難(第七難)
第七難四方賊来難──┬──自界叛逆難(第二難)
└──他国侵逼難(第三難)
人衆疾疫難(第一難)
第一難日月失度難
日月度を失い・時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無・或は日輪一重.二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり
これらのことについては、これまでにしばしば触れてきたので省略するが、ただ、日月の変化がわれわれにさまざまな影響をもたらすことは、厳然たる事実である。
たとえば、太陽からの微粒子や紫外線のエネルギーは、太陽活動の変動によって大きく変化しており、これが超高層の大気に、大きな影響を及ぼしていることも事実である。ただしその影響は超高層であり、それがどのような過程で、またどのような地上の天候の変化や異常気象をもたらしているかはまだ明らかでない点が多い。だが、その影響が非常に大きいことは充分考えられる。特に太陽黒点数の変動と地球上のいろいろの現象と比較してみると、ある現象については、驚くほど一致していることがわかってきた。
故藤原咲平博士は、太陽活動と凶冷について、その密接なる関係を力説し「凶冷の八十一年周期説」を主張した。さらに荒川秀俊博士は、これを再び取り上げ、「天明のききん、天保のききん、慶応、明治初年の大凶作の三回の凶作群は、どれも太陽黒点数の十一年周期変化の極大値が非常に大きくなったときの極大年にはさまれて生じた」という事実をあげ、1953年以後「4~5年から10年ぐらいまでの期間が、最も警戒を要するもとと思われる」と述べた。
しかして、その後、1953年から1957年のころまで、冷夏年が続いたことは、周知の事実である。黒点の変化と他にさまざまな要因が加わって、地上に大小の影響を与え、あるいは日照不足を起こし低温が激しく、国土と人間生命に微妙な変化をもたらすことは、明らかなところでる。
また、太陽面で最もすさまじいフレアーと呼ばれる現象がある。これは、太陽の彩層の一部が、急に明るさを増して爆発し、数時間後にもとに戻る現象のことである。
フレアーが起こると同時に、地球大気上層の電離層に、デリンジャー現象の名で知られる短波の無線障害が起こり、少し遅れて、宇宙線の異常増加が起こる。その後約30時間たって、オーロラ、磁気嵐などが起こる。フレアーがさらに大気の循環に影響を与え、気圧の下降などを起こすことは確実とみなされている。日食もまた、さまざまな影響がある。まず太陽光線がそれだけさえぎられるのであるから、大気中に影響を与える。宇宙の変化、また引力の変化、さらにそれらのものが、地上の人間の生命活動に大きな影響をもたらすのである。
また月の引力が、地球にさまざまな影響を与えていることも明らかになってきている。太陽の引力、月の引力、地球の引力等が、互いに影響し合っていることは事実である。そして、太陽、月、地球がどのような位置をとるかにより、したがって、月食などが起こることによって、地球にはさまざまな変化が起きる。潮の干潮、血液の循環、したがって、人間の生命活動に微妙な変化をもたらすことは明瞭である。
また、赤い太陽、あるいは、二、三、四、五の太陽、また太陽に二重、三重、四重、五重の暈があらわれるということも、けっしてわれわれの生活と無関係ではない。こうした現象は、大気中に、塵、氷の結晶等の微粒子が多いときに起こるものである。これらは、太陽とわれわれの間に介在して、さまざまな影響を与えるのである。
たとえば、乾燥した大地に、大風が襲って巻き上げられた埃や、火山がたびたび噴火し、高層の大気中まで舞い上がった火山灰が、日光を遮るために、赤い太陽があらわれる。これによって、冷害等が引き起こされることは前述のとおりである。
また、暈とは、まったく違った現象であるが、太陽にかかるビショップの環とよばれるものは、まことに不吉な前兆であり、日照量を減少させて、凶作をもたらすことがしばしばある。これは、高空にただよう微粒子の一次回折による現象で、内径は10度、外径は20度におよび、環の外側ほど赤く見え、また時には日の出から日没まであらわれている。しかも、これは普通地上では塵埃や煙とかが、まったくない快晴の日にあらわれる現象である。記録によればペレ―・サンタ・マリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に観測されており、これらの年は日射量が20%近く減少し、いずれも東北地方の凶作をともなったのである。
しかも、こうした現象は、単にそれにとどまらず、さまざまな他の現象を内にはらんでいる。火山の爆発、あるいは大地の乾燥等は、またいろいろな宇宙の変化と関係している。したがって、一つの現象が、つぎつぎと他の現象に及んでいく。いわんや一時に多くの異常気象があらわれるということは、宇宙のリズムそれ自体に、異常のある証拠であり、容易ならぬものである。
このように、太陽や月の変化は、地上にいろいろな変化を起こす。だが、まだ、具体的にわかっていない面も多い。ただし、人間もまた宇宙の構成物質でつくられている以上、太陽や月の変化が、気づかないうちにも、きわめて多くの、否、ほとんどすべてにわたり、人間生活に影響を与えていることは、絶対の事実である。
第二難衆星変改難
二十八宿度を失い金星・彗星・輪星.鬼星.火星・水星・風星.チョウ星.南斗.北斗.五鎮の大星.一切の国主星・三公星.百官星.是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり
ここに掲げられた星は、必ずしも、今日の天文学で、いったい、いかなる星をさすかは不明のものも多い、だが、当時、望遠鏡もなく、しかも今日と3000年前に見えた星が必ず一致していないであろうし、また、地球の地軸自体も、多少変化している。したがって、昔の人が画いた星座と今日と必ずしも一致していなくとも、なんら不思議ではない。だが、当時このような天文学があったことは驚くべきである。おそらく、このような天文学は、生活のなかからにじみ出たものであろう。宇宙の変化が、微妙に人間生活に影響を及ぼすことは、古代人も感じていたであろう。これが一方では、多くの迷信を生んだであろうが、また他方では、古代人の直観は、今なお万古不滅の力をもち、むしろ、今日の近代天文学が、それを裏づけている感すらある。
しかして、たとえ星の名がどう変わろうと、星座の位置がどうなろうと、この経文にあげられた星のいくつかが、不明であろうと、それらのことは問題ではない。個々の問題よりも、むしろ、さまざまな星の変化が、いかに人間生活に大きな影響をもたらすかという方程式は、変わらざる哲理であり、今日の天文学が、それをはっきりと説明するにいたっている。
たとえば、彗星や流星の出現は、かつて戦乱等の不吉な事件の前兆とされた。だが、科学の発達は人々に合理的な物の考え方を植えつけ、また他方では、実証によらなかった古代人の考えを迷信であると決めつける悪弊も生じた。その風潮のために、彗星の出現と人間生活と結びつけていた古代よりの考え方をも迷信と決めつけてしまった。だが、現代の最先端を行く天文学では、彗星および流星が、人間生活に影響があるどころか、人類の運命をもになっていることを明らかにしつつある。大部分の彗星は、太陽のまわりを、大集団となって回っている微粒子よりなる。彗星はときおり分裂する。彗星が分裂すると、粒子は太陽系が占める膨大な広がりのなかにまきちらされる。そのような粒子が、ときどき地球の大気のなかに入ってくると、流星となる。大きな粒子は明るい流星となる。見かけ上、とるに足らないこれらの流星たちは、地球上の気候に重大な関係を持つことがある。イギリスの天文学者、ホイルは「彗星が空に現われると何が凶事が起こるとは、昔からの迷信である。この迷信は正しいのかもしれない」と述べ、彗星の分裂により流星塵が、氷河時代に出現したとして、大略次のように述べている。
氷河時代というものは、われわれ大気の温室効果が破懐されたか、あるいは著しく弱められたときに起こったに違いない。これは大気中にあって、赤外線の放散をくいとめる役をしている水蒸気が、極端に減少したために起きることである。そこで、大気中の水蒸気の量が、特に地上6000mあたりの水蒸気が、どうして減ったかということが問題になる。これを解決することが、氷河期のナゾに対する答えになる。
大気中の水蒸気がときおり凝結して、液体の粒となると、雨になって地面に降ってくる。これは、大気中の水蒸気を減らそうとするが、一方では大洋からの蒸発は、大気中の水蒸気の量を増やそうとし、この間につりあいが保たれている。
ところで、大気中で、たとえば、地上6000mあたりには、水蒸気から大量にたむろし、雨となって降らずにいる。というのは水蒸気から大きい水滴となっても、相当大きい水滴でなければ雨として降らないからである。ここに大量の流星塵が上からやってくると、状況は大転換し、小さな水滴は流星塵のまわりに凝結する。もしその凝結が十分多量であれば、雨として降り、大気中の水蒸気の量はバランスを失い、きわめて少なくなり、温室効果が弱められ、ここに氷河期があるというのである。
このように、天文学の最先端は、彗星や流星の微妙な影響に着目しはじめているのである。むろん、まだ、それらがいかなる影響をあたえるのか決定的な結論は示されていないが、宇宙のきわめて小さな現象すら、われわれと関係なく、密接に関係し合っていることは、論断できよう。さらに、宇宙のリズムがこわされ、星道が狂い、軌道に突然の変化でもあれば、いかなることが並び起るであろうか。
第三難諸火梵焼難
大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり
ここで明らかなように、火の難には、鬼火・竜火・山神火・樹木火のように自然現象によるものと、人火・賊火のごとく人間の故意または過失によるものとがある。もし宇宙のリズムに、さまざまな異常をきたすならば、異常な乾燥あるいは落雷等も頻発し、また火山の大爆発による灼熱した溶岩の流出、降灰等で、都市全体が埋没した例があり、あるいはいまだに起きていないが、国を焼き、万姓を焼尽するような火の海と化することも考えられる。
だが、今日においては、むしろ戦争による火の難が最も大きいであろう。第二次世界大戦における原子爆弾投下によって、火の海に化するのも諸火梵焼難であり、今日、ベトナム戦争で、ナパーム爆弾等で焦土作戦がとられているのは、まさしく、諸火梵焼難であろう。もし、第三次世界大戦が起き、全世界が核兵器に焼かるるならば、これは、最大の諸火梵焼難ではないか。
また、人心が動揺しているときには、火災が多い。狂気のごとく放火する人間もふえ、また嫉妬と憎悪のうずまく社会であれば、事はもはや重大である。また、劣悪な政治のために、水不足が大火を広げる結果にもなる。すなわち、今日においては、火災は、自然的なものより、むしろ人間の問題に帰着するところが多い。
第四難時節反逆難
大水百姓を燒没し.時節返逆して・冬雨ふり.夏雪ふり.冬時に雷電霹礰し.六月に氷霜雹を雨らし.赤水.黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり
「大水百姓を燒没し」とは、いうまでもなく大洪水である。
「冬雨ふり.夏雪ふり」とは、冬にさっぱり雪が降らず、夏に雪が降ることである。冬にまったく雪が降らなかった例は少なくない。(史量は膨大のため略す)
また、冬に雷が鳴ることも異常である。日蓮大聖人の時代においては、文永2年(1265)1月20日に雷雨があったとの記録がある。江戸時代にはいっては、享保9年(1724)11月1日には、京都に数カ所の落雷、翌10年(1725)11月11日も京都で落雷、百姓の家が十軒ほど焼けたとの記録がある。宝歴4年(1754)12月4日には、陸前国に、雷風があり、そのとき海に大波が起こり、三人溺死したとある。安永8年(1779)10月25日京都に落雷、享和元年(1801)12月4日落雷により四天王寺炎上、文政10年(1827)11月20日岸和田城炎上、天保7年(1836)1月8日江戸、慶応元年(1865)11月25日大阪で落雷等の記録がある。
夏の氷霜雹
「六月に氷霜雹を雨らし」の異常気象の記録も膨大な量であり、ここではその代表例として、水戸で起きたとの二例の日付を記す。
寬文7年(1667)4月9日・延宝6年(1678)9月9日。
赤水・黒水・青水
「赤水・黒水・青水」とは、着色した雨である。
1608年、南フランスの小さな町に、鮮血を思わせるような暗褐色をした雨が降った。住民は、これを本当に血の滴りであると信じ、恐怖におののいた。迷信深い人は、死を覚悟していたとのことである。だが、雨は去り、赤い滴りは次第に蒸発し、そして人々は、何事もなかったことにほっと安心し、やがて恐怖から立ち直った。1608年の血の雨のような例は、他にもたびたびあった。日本においても、さまざまに記録されているが、わが国に限らず、昔から、いろいろな国でときどき降っている。フランス、イタリア、スペイン、およびトルコの住民は、この不思議な現象を一度ならず目撃しているとのことである
1813年に、イタリアに降ったこの種の雨について、目撃者は次のように語っている。
「人々は、海の方から近づいてくる厚い雲をみとめた。正午頃、雲は四方の山々をかくして太陽をおおいはじめた。はじめは薄いバラ色であった雲の色は、火が燃えるように赤い色に変わっていった。そして間もなく、町はきわめて濃い闇につつまれ、家の中でランプをつけなければならないほどになった。闇はますます濃厚となり、空全体は、灼熱の鉄からできているように見えたのである。やがて雷が鳴りはじめ、赤みかかった液体の大粒の雨が落ちはじめた。これを、ある人は血と考えたし、他の人は溶けた金属を考えたのであった。夜になる頃に、空は晴れ渡り、雷や稲妻も止み、人々はほっとしたのである」
そして、この雨滴は、黄褐色の跡をいたるところに残しており、それを拡大鏡で見ると、こくこまかな赤みが勝った塵が、この跡の中に認められたとのことである。
赤い色の雨だけではない。時には、オレンジ色、黄色、緑色の雨も、見受けられる。これらの雨は、暴風雨の風が、遠くの砂漠、乾燥した大地で、おびただしい量の赤土を空に舞い上げ、それを運んできたり、火山の爆発で火山灰が高空に吹き上げあれたりした場合、これらのほこりや灰が、雨とまじり合って、着色した雨をふらせるのである。
また、夏、池や沼のたまり水は、しばしば緑色、赤褐色、その他のさまざまな色を、時には黒色を帯びることがある。すなわち水が色づくのである。無数のいろいろな微細の微生物によるものである。ある微生物は緑色の群体をなし、他の微生物は黄色、アイ色、茶色あるいは黒色の群体をなし、水の中で急速に繁殖していく。
こうして色づいた池や沼に、旋風が襲うとそこの水をまき上げ、それからどこか遠いところで、さまざまに色づいた雨として、地上に降らすのである。
色づいた雨が降ると同様に色づいた雪が降ることもある。
最近では昭和38年(1963)1月15日と30日の二回、石川県白峰地方に「赤い雪」が降った。村役場の話によると、朝起きてみると赤い雪の原になっていて、約10cm近くも積もったときには、銀世界が夕焼けに映えたような景観だったという。この赤い雪の正体は、大陸の黄塵が運ばれてきて、雪とともに降下してきたものと推論される。
今日、世界的に赤い雪、その他さまざまな色が確認され、その原因としてほこりや火山灰が、雪とともに降下する場合と、微生物の繁殖によってそうなる場合等が考えられている。
土山石山を雨らし
これは、土や石が数多く降ってきて山のようにうず高く積まれることか、あるいは、土砂くずれをいうのか、いずれとも考えられる。土が降ってくる例は、すでに述べたとおりであるが、石が降るというのは、火山の大爆発、あるいは竜巻によると思われる。また、隕石とも考えられる。宇宙のなかには、星や遊星のような大きな天体のほかに、多くの微笑天体、石、大小の塵、塵の集まり、がある。これがまた地球の大気の中に飛び込んでくると、空気の抵抗にあい、加熱され、発光をはじめ、燃焼してしまう。したがって、たいていの場合は、隕石と呼ばれる物体は、きわめて小さな物であり、砂粒よりも小さいこともよくある。だが、微小天体が、多少大きいと、空気中で燃えきらずに地球の表面に到達する。このために大きな石が降ってくることもある。
1492年、ドイツのエンジスハイム市付近で、多くの人の目の前で、空から大きな音をたてながら、大きな石が落ちてきたので、人々がびっくりしたのであった。
土地の教会の僧侶は、これを利用し、空から落ちてきた石は、神によって贈られたものであるとして、教会に安置し、それがまた飛び去らないように、鎖で壁にしばりつけた。そして、この石を拝めば、病気が直るとか、その石にさわれば、罪滅ぼしになるのだといって、多くの人に礼拝させたとのことである。
江河逆に流れ山を浮かべ石を流す
これは、大洪水であり、河川の大氾濫である。特に「山を浮べ」とは、大洪水のため平野全体が、水中に没し、山だけが、あたかも、水に浮かんでいるように見えるというような、ものすごい大洪水である。たとえば、延宝2年(1674)6月13日に、中国・近畿一帯が大洪水となった時のもようが、次のように記されている。
「北河内郡、南河内郡等は、堤防所々に決壊し遂に淀川の水と大和川の水の合するところとなり北は枚方より南は堺まで、東は生駒山麓より西は大阪まで一面泥海と化した。殊に大阪福島を浸した濁水は翌日逆流して天満に入り、天満川の水これに合して、天満、長柄から尼崎に至る一円に氾濫し、草木も見えぬ程白波滔々と波立った」とある。まことに「江河逆に流れ山を浮べ石を流す」ごとき惨状ではないか。
最近では、昭和34年(1959)伊勢湾台風の時、低地一帯は完全に海の中に埋没してしまった。また、昭和40年(1965)9月15日台風20号がもたらした1000mmを越す記録的集中豪雨で奥越の平和境といわれた福井県大野郡西谷村は、一瞬のうちに泥沼の村となった。
「西谷村の災厄は9月15日朝、突然にやってきた。ゴーツという音が前ぶれの山津波だった。黒いドロ水がまたたくうちに全村を包んだ。ドロの流れはみるみる腹から腰、腰から屋根までと高くなった。家具や衣類も持ち出すヒマはなかった。中心部の中島地区では総戸数106戸のうち100戸まで倒壊、流出し全滅状態、村役場も小学校も、公民館もすべてドロの中に埋まっている。『父祖伝来の土地も安住の地ではない』と知らされた村民の一部は早くも離村をはじめている」これまた大水の悲劇である。
第五難大風数起難
大風.万姓を吹殺し国土.山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風.黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり
「大風.万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し」とは、尋常の大風ではない。わが国においては、史上、いくたびか、猛烈な暴風に襲われ、しばしば大雨をともない、山くずれ、洪水等を引き起こし、ある一帯の地方をまるでちがった光景にしてしまった例も少なくない。たとえば、慶長9年(1604)7月13日に土佐を襲った大風雨は、猛烈なもので、洪水をともない、徹底的な被害をその地方にもたらした。「不時頓に大風吹来り洪水湧、山之竹林を吹倒し諸之作物根葉を枯らし家微塵に吹なし、山は河となし淵河は山と埋れ、人之首も吹切るほどの大風なれば深山幽谷之民等土木におされて死るもあり、或は半死半生の消息、風国土の人民、何計何万」
これには、多少の誇張はあるにしても、ものすごいものだったにちがいない。外国においても、猛烈な風害が記録されている。1780年ごろにアメリカの西海岸を襲ったハリケーンと呼ばれる、すさましい嵐は4万人の人命を奪った。また、1876年、インド洋で起こった猛烈な暴風雨は、ベンガル州海岸で、山のような波を引き起こし、25万人以上の人が、荒れ狂う水の中で生命を失った。竜巻もまた猛威をふるう。1904年に、モスクワの南東にものすごい旋風が巻き起こった。家からはぎとられた屋根は、まるで軽い紙のように空に舞い上がり、古いアンネンゴフスカヤの森は、ほとんど全滅してしまった。太さ1mの大木も吹き倒され、さらに森の中で遊んでいた牛は、風のため空中に吹き上げられ、数秒間飛行したという。
だが、経文のごとくであれば、さらに苛烈な大風が吹きすさぶことが考えられる。あまりの異常気象に、大竜巻のごとき現象が一時に頻発したらどういうことになろうか。人を吹き殺し、山河、樹木等ことごとく破懐される等と、まことに恐るべきではないか。
また、「黒風・赤風・青風」も吹くとあるが、これは、巻き上げられた黒土、赤土の砂塵を含んだ風、あるいは緑色の海草を含んだ風であろう。これがまた、黒色、赤色、緑色等の雨や雪を降らす原因であることは、前述のとおりである。
第六難天地亢陽難
天地・国土・亢陽し炎火洞燃として・百草亢旱し・五穀登らず・土地赫燃と万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり
これはいうまでもなく旱魃である。旱魃の被害については、しばしばのべてきたので、ここでは省略する。ただ、旱魃に対し、ダムを作り、水を貯えて、いざというときそれを使うことができ、あるいは、穀物の貯蔵もできる今日においても、もし、この経文にあるがごとき、大旱魃が起これば、まことに甚大な被害を与えるであろう。あるいは「万姓尽きん」とあるがごとき事実が、未来に起きないと断定することはだれもできない。ただでさえ、ときおり水不足が問題になる今日、また、ますます多量の工業用水を必要とする今日、しかもダムとはいえば、台風をあてにしなければならないようなものである現在、河の水を干し切ってしまうような恐るべき旱魃に見舞われたならば、対処すべきなにものもないではないか
第七難四方賊来難
四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり
これは、薬師経の七難のうち、他国侵逼と自界叛逆の二難にあたる難である。この難についても、すでにしばしば論じておいた。また本章以後に、何回となくふれるべきことであり、ここでは最後の「刀兵劫起らん」ということについてのみ言及したい。
宇宙に存在するもののなかで、永遠に変化せず、そのままの姿でとだまっているものはひとつもない。いかなるものも、必ず、誕生、存続、破懐、死滅を繰り返して、絶えず変化を続けている。これを、仏法では成・住・壊・空と呼んでいる。
成とは、一つの生命が誕生し、成長していく状態をいい、住とは成長が終わって爛熟期にはいり、それが存続していく状態をいい、壊とは爛熟期を過ぎて老衰期にはいった状態をいい、空とはある一定の生命活動が終わって宇宙のなかに溶け込んでしまった状態をいう。
これを人間の一生にあてはめてみると、母の胎内に宿り、出生して成長する青少年時代は「成」であり、人生の爛熟期である壮年時代は「住」、老年期は「壊」、死んで生命が宇宙のなかに溶け込んだ状態を「空」ということができる。人間に限らず、アミーバのような下級動物から、机やコップなどのような非情の生命にいたるまで、宇宙の万物は、すべてこの四段階を循環すると説いているのである。
これを地球についていえば、地球ができた当初は「成」であり、ここに人間等の生物が生息し活動する期間は「住」であり、地球がだんだん老齢化し、崩壊しゆく段階は「壊」であり、ついに崩壊し尽くして「空」の状態になるのが「空」である。
しかして、宇宙または一世界の成・住・壊・空とその時間の長さを説くのに、仏法は「劫」という単位を用いている。この「劫」なは、さまざまな説がある。大別して小劫、中劫、大劫の三種類がある。顕謗法抄に「人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり」(0447-08)とあるように、一小劫とは1600万年より2000年を減じた数(15,998,000年)である。したがって一中劫とはその20倍の319,960,000年の長さを指すことになる。そして、この中劫を4つ合わせたものを一大劫といい、この宇宙の始終の長さとしている。そしてこの4つの中劫とは、はじめが成劫、つぎが住劫、さらに壊劫、最後が空劫である。では現在の地球の状態はどこにあたるかというと、俱舎論によれば「住劫第九の減」に相当するという。すなわち、成劫はすでに過ぎ、まもなく住劫の半ばに至ろうとしているのである。
天文学と成住壊空論の一致
最近の天文学では、地球の年齢について「現在の地球は成立後約50億年、生物ができてから30億年も経過した壮年期の惑星である」という結論を出しているが、これは年の数こそ違うが、この成・住・壊・空の四劫の考え方と、見事な一致を示しているのである。
成・住・壊・空を繰り返すのは、地球ばかりではない。夜空に輝く無数の星にも生まれたばかりの星、若い星、年老いた星等の差別があり、さながら人生のさまざまな姿を見るようである。さらにこれらの恒星と同じく、その構成体たる銀河系宇宙のような星雲すなわち島宇宙も、また一個の大生命体として成・住・壊・空の流転を繰り返しているのである。この大宇宙には、観測可能な範囲だけでも、2000億個の恒星を持つ銀河系宇宙のような島宇宙が、なんと数千億個あるといわれている。この島宇宙がことごとく成・住・壊・空の四段階を流転しているのである。すなわち、この島宇宙を無数にかかえた大宇宙自体が、生命の法則にのっとって、巨大なエネルギーをたたえながら、悠久に変化を続けているのである。これまことに仏法で説く南無妙法蓮華経という生命の当体であり、無始無終に発展し変化する一大生命体といえようか。
さて、ここに「刀兵劫」とは、大の壊劫においては、火災、水災、風災の「大の三災」が起こって世界が崩壊していくのであるが、各小劫の末においても、「小の三災」が起こる。これが、穀貴、疫病、兵革の三災で、刀兵とは兵革の災のことである。曾谷殿御返事にいわく「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき、壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり」(1064-14)と。
しかして、ここに「刀兵劫起らん」とは、法が隠没すれば、劫末に起こるような、刀兵劫が現実にあらわれ、すさまじい崩壊と、凄惨なる世界が眼前に繰り広げられるであろうとの意である。第二次世界大戦の惨禍、さらに全世界を崩壊し尽くし、全人類を絶滅させるであろうといわれている核戦争は、まさにこの金言どおりではないか。この御文によれば、創価学会の出現がなければ、絶対に第三次世界大戦は避けられないのである。創価学会の今日の活動こそ、まさしく戦争を絶滅し、人類に幸福と繁栄をもたらす、唯一の光明である。そこには、妙法のリズムがあり、仏界の慈悲があり、生命の奥底からの歓喜があり、感激がある。これがやがて全世界をおおってゆく時、人類それ自体が宿命転換をなし、平和な世界、幸福な世界が出現することを心から確信し、強く主張してやまぬのである。
三千大千世界と現代天文学
この経文に「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億日月・一一の須阿弥に四天下あり、其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り」と。
これ、まことに雄大な宇宙観ではないか。太陽・月・地球等をひっくるめた世界がただ一つではなく百億もあると説かれているのである。しかも、それぞれの世界に人の住む南閻浮提があり、そこに国も形成されている、ということである。
ここで須弥山を中心とした宇宙観について一言したい。
3000年前、釈尊出現当時、まだ一般には須弥山を中心とする世界観、宇宙観が信じられていた。
釈尊も、それを否定せず、一応は用いているが、あくまでも絶対的なものとしてではなく、衆生の機根にしたがったものであろう。それは須弥山を中心とした宇宙観が、もっとも低い小乗経に多く説かれていることからもうかがえる。おそらく釈尊は、生命の実相を説かんとして、当時のインド人の生活感情を考慮に入れたにちがいない。
仏経典で説く宇宙観は、経文によって多少の違いはあるが、大略次のようなものである。
まず、われわれの住む世界の中央には、須弥山という途方もなく巨大な山がそびえている。これは、妙高山と訳し、その東面は白銀、西面は波璃、南面は瑠璃、北面は黄金であって、大空に色彩あるのは、その輝きによる。山の形がまた、まことに奇抜で、上と下の直径が大きく腰がほそい杵のような形である。その高さは水面より八万四千由旬、水底より水面まで同じく八万四千由旬、したがって全体の高さは十六万八千由旬となる。一由旬とは、僧肇の「註維摩」に「上由旬六千里、中由旬五千里、下由旬四十里」とあり、また西域記には三十里とありまちまちであるが、通常六尺一足、三百六十歩一里、その四十里の長さ(一由旬=25,920m)(須弥山の高さ4,354,560,000m)であるという。その須弥山の頂上は直径八万由旬(2,073,600,000m)で、三十三天に分かれ、その一つの喜見城天に帝釈天が住み、他の三十二天を支配するという。
この須弥山のまわりには、香水海があって須弥海という。さらにその外側を七つの金山とそれと同名の七つの功徳海が囲んでいる。七つの金山とは、踰健達羅山、伊沙駄羅山、朅地洛迦山、蘇達梨舎那山、頞湿縛羯拏山、毘那怛迦山、尼民達羅山であり、その高さは須弥山からしだいに二分の一を減じて、尼民達羅山の高さは六百二十五由旬(16,200,000m)である。一番外側の海(それより内側の海を内海という)は鹹水をたたえた大海であって、さらにその四方を鉄輪囲山という高い山に取り巻かれている。その外界の四方に四つの大陸があり、東方を弗婆提、南方を閻浮提、西方を瞿耶尼、北方を欝単越といった。そのうち南方の閻浮提はその中央に阿褥達という山がある。さらに、その南は天竺(インド)東北は震旦、西北は波斯国(ぺルシャ)である。そして、日本は南閻浮提、震旦の東方海中の栗散国つまり小島群の一つでる。これは、いうまでもなくヒマラヤを中心とした世界図である。今日では全世界を含めて閻浮提と考えることができる。
太陽も月も、この須弥山を中心に運行しているという。そしてこの九山(須弥山、七金山、鉄輪囲山)八海(七内海、一外海)を含めて、一世界の最小単位と考え、これを小世界といったのである。
むろんこうした世界観は、現在においてそのまま認めるわけにはいかない。戸田前会長は「仏法において、須弥山中心の世界観は現在の地球上ものをもって考えることはできない。この国土観は、現在のことばをもってすれば、宇宙観ともいうべきでものである」と述べている。また、須弥山が七宝をもって作られているということなどをもって考えれば、現実の山ではなく、生命論であるとも考えられる。
しかし、仁王経等の大乗教へくると、須弥山を中心とした宇宙観は、巨大なスケールをもって説かれるのである。すなわち百億の須弥山、百億の日月」等と、こうした世界が百億もあるという。
さらに、これは仏法の宇宙観のほんの一部でしかない。さらに三千大千世界という、まことに膨大な宇宙像が示されていく。三千大千世界とは、太陽、月、四州、六欲梵天等を含むものを一世界とし、それを千合わせて一小千世界、一小千世界が千集まって中千世界、中千世界が千で大千世界、また大千世界という。また一説には、三千大千世界の最初の一小千世界は一小世界が百億集まったとする説もある。
「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す」(1104-03)
これによれば、仁王経で説かれた「百億の須弥、百億の日月…」なども、三千大千世界のうち、ただの一小世界にすぎない。さらにこの三千世界すら、宇宙観のほんの一部にすぎないのである。
釈尊最高の経典たる、法華経本門寿量品には「五百万億那由陀阿僧祇の三千大千世界…」とある。これは、五百万億那由陀阿僧祇=5×100×1,000×10,000×100,000×1,028×1,056の三千大千世界=1000×1000×1000の須弥山があるということになる。
仏法の宇宙観と天文学の比較
この三千大千世界の考え方と、現在の天文学を比較してみよう。
一つの恒星をとりまく世界が一小世界である。これが1,000集まったのが、一小世界であるという。その1,000倍のまた1,000倍が三千大千世界であるから、この三千大千世界には1,000,000,000個の小世界が集まったことになる。また、最初の一小世界が10,000,000集まったとする説もある。この説に従えば、この三千大千世界には1,000,000,000,000個の小世界があることになる。いずれにしても、これがさらに、五=5×百=100×千=1,000×万=10,000×億=100,000×那由陀=1028×阿僧祇=1056の三千大千世界となれば、5×10117となり、現代の天文学をもはるかにしのぐ、まことに膨大な数量であないか。
最近の天文学の成果によれば、われわれの地球が属する、この銀河系宇宙は太陽のような恒星を約200,000,000個も含む島宇宙で、銀河系外のアンドロメダ大星雲や大マゼラン星雲のような島宇宙とまったく同格の小宇宙であることもわかってきた。しかも宇宙全体には、このような小宇宙が、なんと数億個も存在するというのである。これは、アメリカのパロマ天文台の二百インチ望遠鏡で見える半径二十億光年内の数である。
しかも、銀河系宇宙の中には局部恒星群のようなものが多くあり、また銀河系宇宙のような星雲が数万個集まって超銀河系をつくり、つぎつぎに大きな集団をつくっていくことが確認されている。
この近代天文学による宇宙観と、先に述べた三千年前の仏法の宇宙観を比較したときに、不思議にも一致しているのである。この三千大千世界という考え方は、けっして仏法の究極でもなければ、骨格でもない。多分に当時のインドの民衆の心に合わせようとして説かれた面もあり、低い小乗、権大乗にも説かれているのである。
だが、それすら、現代科学が、つい最近ようやくたどりついた結論にすぎないのである。
むろん、何の実証も得られなかった3000年前のことであり、数こそ違うが、その基本的な考え方については、驚くべき正確さを持っているのである。
現代の宇宙観によれば、われわれ銀河系宇宙は、二百億年の歴史をもち、直径が約十万光年、中心部の厚さが一万五千光年ぐらいの凸レンズの形をした、二百億の恒星と莫大な星間物質の大集団で、渦状星雲といわれているもなである。その全体を取りまいて半径六・七万光年ほどの星と希薄なガスと球状星団があり、銀河系のコロナとかハローと呼ばれる。
また太陽系は、銀河系の中心から27000光年ぐらい離れた所で、渦巻きの腕の一本の端の方にあるといわれる。銀河系宇宙は二億年の周期で自転しており、電源で観測した結果では銀河系の中心部、半径二・三千光年のところで、さらに十倍ほどの早い速度でまわっているという。。
しかも、太陽は恒星としては、ごくありふれた星で、恒星進化によって、何代も世代を経た恒星といわれる。それでは太陽という恒星の惑星である地球は、どのようにしてできたか、また地球のように生物あるいは人類のごとき高等生物が住む天体が、ほかにこの宇宙にあるのだろうか。また、あるとすればどのくらいありうるのだろうかという疑問が生ずる。
いずれにしても、太陽はありふれた恒星である。地球のような惑星も宇宙のいたるところに無数に存在し、したがって、人類否それ以上の高等生物の住む無数の仏国土が、現実に、この宇宙に存在することが明白に証明されているのである。しかし、法華経以外の権経で説く西方十方の極楽浄土のごとき仮説は、もちろん論外である。その法華経等で説かれる三世十方の仏国土観等は、まことにおもしろいものである。
地球の生成に関する二説
地球が太陽から分かれて、太陽の子供として、飛び出してきたという説は、現在、否定されている。そして地球の生成に関して、大きく二説がある。
第一の説は、太陽の誕生の過程で、地球も自然にできたというものである。太陽のような恒星の母体は、星間物質という冷たいガスや微塵の巨大なガスの雲であった。このガス雲が、自転するうちに、中心は冷たい原始太陽となり、まわりの渦巻き運動のなかから、惑星や衛星が生じたとする。
このような雲が、同じような二つのものに割れると連星となり、三つに割れると三連星になり、一方が大で一方が小さいと、小さい方はいくつかにも割れて惑星になるという。星全体の半分ほどが、連星であるという事実は、この説に有力である。具体的な過程となると、カイバー、シュミット等の理論が、さまざまにあり、定説ではないが、惑星は星間物質からできたとする点で、一致している。
地球形成の第二説は、ホイルによって最近唱えられた説である。太陽と地球の組成は、かなり違っているところから、地球は、太陽と連星になっていた巨大な星が、超新星となって大爆発し、ガスとして吹き飛ばされた。そして、超新星の高温の恒星核には、すでにあらゆる原子核融合反応が行われ、現在の地球や惑星と同じような組織をもっていた。
この恒星核が太陽から飛び去る前に、ガスの雲を吐き出し、太陽がこれを捕えた。このガス雲は太陽のまわりに拡がり回転する円盤の形をとり、惑星は、この円盤内の仏質から凝結したとする。すなわち、地球の真の親はまったく太陽ではなく、飛び去った不明の星ということになる。連星が多いことは、この説をも有力にしている。
そして、第一・第二説のいずれもが、地球のごとき惑星が、全宇宙に数限りなく存在しうることを示している。すなわち、第一説にあっては、銀河系だけに限っても、二千億の恒星のなかに1%ないし10%が惑星系をもつとし、小さく考えても二十億の恒星に惑星系があり、平均十組の惑星をもつとして二百億の惑星が存在することになる。すなわち全宇宙では、数千億の星雲が存在しているから、二百億×数千億の惑星があることになる。
また第二説によっても、銀河系内で、二百年ないし三百年について一回の割合で、超新星が爆発したことが、歴史上わかった。しかも、他の星雲で広範囲に捜索した結果、超新星の爆発は一つの星雲について四百年ないし五百年の割合で起こるという。ゆえに各星雲では百万個の惑星系、千万の惑星、したがって、全宇宙では千万×数千億の個の惑星があることになる。
もちろん、これらの惑星の中には地球に似たような状態の惑星や、地球よりもっと生命の存在に良い条件をもつ惑星が存在しているかもしれない。そして、人類と同じ、また人類よりも高度の知能をもった生物が住むとも考えられるのである。
惑星に生命が誕生して三十億年もたてば、地球と同じく頭が一つで、手足が二本ずつの形の生物にまで進化しうることは、まず疑いないことであろう。しかして、地球上と同じく、仏法律、仏法哲学は必ず宇宙の哲学として、価値をもつことは、最高の道理なるゆえに、これまた疑いないところであろう。
0020:05~0020:10 第七章 再び大集経を挙ぐtop
| 04 大 集経に云く「若 05 し国王有つて無量世に於て 施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て 捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無 06 量の善根悉く皆滅失して 其の国当に三の不祥の事有るべし、 一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、 一切 07 の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵ニョウする所と為らん、 暴火横に起り悪風雨 08 多く暴水増長して人民を吹タダヨワし内外の親戚其れ共に謀叛せん、 其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の 09 後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」 10 已上。 -----― 大集経にはこうある。 「もし国王がいて、過去世で数えきれないほど生まれ変わることを繰り返し、そのたびに布施・持戒・智慧の実践を行っていても、仏の法が滅しようとするのを見ていながら、関心を持たず守ろうとしないなら、このように種をまいた無量の善根がことごとく失われ、その国には三つの良からぬことがあるにちがいない。一つには穀貴・二つには兵革・三つには疫病である。 すべての善神がことごとくこの国を捨て去れば、その王が命令しても人々が随うことはなく、常に隣国に侵略されるだろう。激しい火災が盛んに起こり、害をもたらす風雨が多く、激流が水かさを増して、人々を押し流し、国内の親戚が反逆する。 その王はほどなくして重病を患い、寿命が尽きた後には大地獄の中に生まれる。…王と同様に夫人・大臣・都市の首長・村の首長・将軍・郡の首長・官吏もまたそうなるだろう」以上。 |
国王
国土を統率し、臣民を治める元首。行いが仁義に合し、民の帰依するものをいう。功徳は帝に次ぎ、徳政を政治の主とする者ともいう。説文には「王は天下の帰往するところなり。董仲舒にいわく、古の文を作る者、三画して、三の中を連ね、これを王という。三は天・地・人なり、之を参通する者は王なり、孔子のいわく、一、三を貫くを王となす」とある。諌暁八幡抄には「王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつてんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す」(0587)とあり、王となる原因の修行については、心地観経に「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔曾つて三の浄戒を持し戒徳熏修して招き感ずる所人天の妙果・王の身を獲」とあり、安然和尚の広釈にも「菩薩の大戒は持して法王と成り犯して世王と成る」とある。これらの文を引いて十法界明因果抄に「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり。」(0432)と申されている。民主主義の社会においては、主権は国民にあり、王は国民によって選ばれた政治家である。
―――
無量世
生まれてから死ぬまでの一生を一世といい、数えられないほどの多くの生死生死を重ねることを無量世という。
―――
施戒慧
布施・持戒・智慧の略で、六波羅蜜の修行である。波羅蜜とは梵語(Pāramitā)で、度彼岸、到彼岸等と訳す。布施・持戒・忍辱・精進・禅・智慧の六つあるので六波羅蜜という。釈尊は通教時において、菩薩がこの六法を修行すれば、生死の此岸より、その涅槃に至ることができると教えた。法華時の説法では、開経の無量義経で「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説き、妙法を信行する功徳に一切が含まれ、六度の修行は不要となると説く。
―――
我が法の滅せんを見て
仏の正法すなわち末法においては、御本仏、日蓮大聖人の真実義たる三大秘法の南無妙法蓮華経である。この三大秘法が滅しようとするのを見ながら、捨てて擁護しないならば、王が無量世の間積んできた福運も、ことごとく尽きて三災七難が起こるであろうとの経文である。
―――
穀貴
物価が高くなって、食料の入手が困難になることである。貴は「たかし」と読む。食は生活の最も基本であるから、穀物の値の謄貴は一切の物価の暴騰につながる。インフレーションがそれである。
―――
兵革
兵とは、本来、剣などの武器、革とは甲冑を意味する。兵革の災とは戦乱のこと。日寛上人の分段には「兵は劒の器なり、ゆえに兵の字に器材門・入るべし、しかるに聚分韵に入れざるゆえに唐人不審すといい伝えたり。革はツクリカワと読むなり、蚩尤が鎧を作る時・革をもってこれを作るなり、ゆえに具足の惣名なり、後に金をもって作るゆえに金篇なり」とある。
―――
教令
将軍が下す命令のこと。現代では国の法律・司法。
―――
侵嬈
侵略のこと。他国に攻め込み、占領して自分の思うがままに振舞うこと侵は「なぶる」嬈は「もてあそぶ」の意。日寛上人の分段には「嬈は聚分韵に『戯弄なり』と云云」とある。
―――
暴火横に起こり
暴火とは大火。横は、おこるはずがないこと。原因不明のままに起こる大火。
―――
内外の親戚
内は父方(内戚)外は母方(外戚)で、血縁関係のある人々。
―――
柱師
村主将帥の転用。全軍を指揮し統率する大将のこと。
―――
宰官
宰は「つかさどる」官は「つとめる」。前者は役所の長官、後者は一般支院。合わせて官吏一般をいう。
―――――――――
これは、三災を明かした経文である。先に三災とは大の三災と小の三災があり、大の三災は、壊劫の時起きる火災、水災、風災であり、小の三災とは、小劫の終わりに起きる、飢渇、疫病、合戦である。今、大集経では、飢渇を穀貴とし、合戦を兵革として、第一に穀貴、第二に疫病、第三に兵革としている。ともに同じ意味である。
つらつらこの文を見るに、現今におけるアジアの悲劇を映し出してあまりなき明鏡たるの感を深くする。
日本もかつて未曾有の兵革の難に会い、また終戦後も、物価の急上昇、疫病の蔓延、さらにアメリカ軍の占領下にあったことを思うときに慄然とせざるをえない。だが、今日においても決してこの三災が去ったわけではない。否、むしろ、形を変え、しかもまた、さらに深刻に、この三災が起きつつあるし、また、将来に起こるやもしれぬ。言語を絶するような悲劇の、前兆すら、ここかしこに存するのである。さらに今日のアジアにこそ、この三災の並び起こる泥沼のごとき様相を見いだすのである。
朝鮮戦争の悲劇
あの昭和25年(1950)より始まり、三年にわたる激しい戦闘が行われた朝鮮戦争は、まことにあわれであった。正確な点は不明ではあるが、アメリカ側の発表によれば、国連軍の死傷者は36万人、そのうちアメリカ兵14万人、韓国兵20万人に及んでいる。また共産軍の損害は、中共軍90万人、北朝鮮軍52万人におよんでいる。また、共産側の公表数字だと、国連軍は66万以上の死傷者を出している。また民間の被害も膨大なもので、韓国の資料によると、南朝鮮だけで、人命の被害が92万人、戦災をうけた人々は無慮400万にのぼるという。北朝鮮のそれと合わせたら、もっと恐るべき数字となることは確実である。
全朝鮮のめぼしい施設や建物は、ほとんど破懐しつくされた。かつて東洋一を誇った水豊の発電所をはじめ、北朝鮮の工業地帯は全滅に近い被害をうけた。北朝鮮側の発表によれば、その被害総額は4200億北朝鮮円におよび、破懐された工場、建物は8700ヶ所、面積にして280万㎡、住宅は60万戸に達するという。韓国の首都京城の市街も三度にわたる猛烈な攻防戦でその1/3が破壊されてしまった。
いったい、このような犠牲を払って、なにを得たというのか。二つの朝鮮が民族の願いを反映して一つになったとでもいうのか。なにも得られず、まつ二つに分裂されたままの朝鮮民族の不幸は、今日に至るも、痛ましい姿ではないか。
この時、日本の多くの人たちは、この朝鮮動乱をなんと考えたでろうか。ある人は興味本位に、日々の報道に耳を傾け、国連軍と共産軍の攻防戦に、心を奪われていたのではあるまいか。また、ある人は、日本の好景気の到来を心ひそかに喜んでいたのではあるまいか。他国の不幸によって、一国の繁栄がもたらされるなどとは、まことにいまわしきことではないか。所詮、一国の繁栄と全世界の平和とが一致せる、戦争なき、相互扶助の世界をつくらぬかぎり、この矛盾はいつまでもつきまとうのである。
とまれ、日本の国内で、朝鮮民族の不幸をわが不幸と感じ、アジアの幸福を絶叫した人が、いったい何人いたであろうか。この時、真に朝鮮民族の嘆きを、自分の嘆きとし、東洋広布流布に立ち上がったのは、私の恩師戸田前会長であった。
「38度線を中心とした朝鮮の戦争は、共産軍と国連軍の闘争である。
戦争の勝敗、政策、思想の是非を吾人は論ずるものではないが、この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親を捜す民衆が多くおりはしないかと、嘆くものでる。
きのうまでの財産を失って、路頭に迷って、にわかに死んだ者もあるであろう。なんのために死なねばならぬかを、知らずに死んでいった若者もあうであろう。『私は何も悪いことをしない』と叫んで殺されていった老婆もいるにちがいない。親とか兄弟とかいう種類の縁者が、世の中にいるのかと不思議がる子供の群も、できているにちがいない。着のみ着のままが、人生の普通の生活だと思い込むようになった主婦も少なくあるまい。昔、食べた米のごはんを夢みて、驚く老人がいないであろうか。
彼らのなかには共産思想がなにで、国連軍がなんできたかも知らない者が多くなかろうか。『お前はどっちの味方だ』と聞かれて、驚いた顔をして、『ごはんの味方で家のある方へつきます』と、平気で答える者がなかろうか。
朝鮮民族の生活はこのうえない悲惨な生活で、彼らの身におおいいかぶさった世界は、悪因悪時の世界である」
この朝鮮民族を思っての言葉が、まったく今日のベトナムの姿にあてはまっていることは、驚くべきではないか。さればこのベトナム戦争に終止符を打つためにも、さらにアジアをこの悲劇から救うためにも、第二、第三のベトナムをつくらぬためにも、この朝鮮戦争および、その後の朝鮮民族の悲劇の真因をつきとめねばならぬと信ずる。
真の朝鮮民族を救うもの
戸田前会長は、さらに、この大集経の文を引いて、次のように述べている。
「この文、日本国にあたり、朝鮮民族にあたりはしないか。『我が法の滅せんを見て』とは、仏教、真実の仏教が滅するをみて、国の主権者が『のほほん』としてバカな顔をしていれば、三つの災難があって主権者がどんな政令をくだしても民衆はいうことをきかないということだ。日本国の姿はどうであろうか。朝鮮民族はこれをもってどう考えているか。『常に隣国に侵嬈せらる』と。この文、東洋において日本および朝鮮を除いて、いずこの国をさすか。
『暴火、暴風、暴水』と、かかることありしや、また、これより先起こるとするや、仏の教えなれば、吾人はこれを信ずるものである。「人民をし内外の親戚其れ共に謀叛せん」と、上は朝鮮にこのすがた顕著にして下の文日本に歴然たり、恐るべし、悲しむべきである。人民がいくところがない。楽土に対する希望がないほど悲しきことはない。自己の生命の努力は、大風に吹きちらされる鳥の羽毛のごときものであるからだ。
ただ天をうらみ地に泣き、救いを求めて助けなく、泣く声も、ただ風をただよわせるだけである。ついに神をうらみ、仏を憎み、世をのろい、人を怨み、地獄、修羅、業火に身をこがすだけである。『王の寿終わって後は大地獄の中に生まれん』と。またいわく『夫人も子も大臣も、その政治の責任者はまた同じ』。そのごとくであるかいなや、仏眼によるにあらずんば知るよしもないが、仏は不妄語の方である。仏が不妄語の人ならば、『仏法 真実の仏法』のまさに滅せんをみて、捨ておいた王の後生ほどは恐るべきである。
これ三つの不祥のことありというなかの一つである。『穀貴』とは、物が高くて民衆が買うことができない。生活程度の下落することで、すなわちインフレのことである。
二つに『兵革』とは、戦争の災難を受けるということである。それが外国からの戦争にしても、内戦にしても民衆にとって、なんの価値があるであろうか。
三つに『疫病』とは、伝染病の流行である。また民衆の精神分裂を意味する。一人は共産主義で、一人は国粋主義だ。一人は資本主義だ、一人は享楽主義だ、また個人主義うんぬんと、民衆間の思想上、政治上、なんの統一もおこなわれないすがたである。
この大集経の三つのすがたが、東洋になにをさすのか、またありとすれば、いずこの国をさすのか。
これ皆、仏の金言にそむいて仏をまつらないところから出来したものである。邪宗教、低級仏教によって、仏の真意にそむく仏罰である。日蓮大聖人の『世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず』とのお教えを再度繰り返して吾人は叫ぶものである」
まさに、朝鮮民族の悲劇は、日本と同様、真実の仏法を隠没し、低級な思想、邪義、邪智の横行にまかせたからにほかならない。その源流もまた遠くさかのぼるのである。
仏教弾圧以来朝鮮民族の悲劇は続く
三千年の歴史をひもとくとき、朝鮮半島の果たした偉大な役割を認めぬわけにはいかない。
日本に初めて仏教を伝えたのは、朝鮮半島南端の国、百済であった。インドから中国に伝えられた仏法は、たちまちのうちに、高句麗、百済、新羅へと伝わり、朝鮮半島に広宣流布したのである。
特に、半島史四千年のなかでも、最も平和であり、文化の発展し、かつ半島全体の統一国家をつくりあげたのは、国みずから法興と称して、仏法の国家を根本においた新羅であった。
この時代は朝鮮漢字の「吏読」が生まれ、そのほか朝鮮固有のものは、ほとんどその基礎がつくられている。
しかしながら、今日その仏法はどこへいってしまったのか。朝鮮半島に仏法の光は消え去ってしまっている。李朝時代の太祖、李成桂は、高麗末の儒者であった鄭道伝らを使って、外道儒教を国教とし、仏教を弾圧しようとかかった。経文や寺院を焼き払い、僧侶を賤民においやるまでに「排仏毀釈」運動が行われたのである。
それ以来、表面的な繁栄の時代はあったにせよ、絶えず「他国侵逼難」「自界叛逆難」に悩まされたのである。すなわち、日本の豊臣秀吉との戦争「王辰の倭乱」、また「丁卯・丙子の胡乱」がそれである。このふたつの「他国侵逼難」のため、国土は荒廃し、農民は流民となってさまよった。
また旱魃、水害、悪疫などの「三障七難」が相次ぎ、なかでも顕宗の時代に起こった大飢饉は、前二者の戦争による戦死者以上の餓死者を出し、李朝の復興期であった英祖の時代に起こった飢饉は、25年間で疫病による死者60万、飢民333万人を出したとさえいわれる。
ゆえに、李朝は歴代王朝のなかでも、最も悲劇的な幕を閉じねばならないという結果に終わったのである。
儒教精神のなかでも、特にその「家父長的那名分主義」、「尚古的事大主義」、繫文褥礼のみの形式主義、また同階級内での「文武の差別」、「嫡庶子」の徹底した差別、「再嫁女・子孫」の不採用、そのほか地方的差別などの悪習は、きょうもなお朝鮮人民の生活の根に深くはびこっており、南北統一の大きな障害となっている。
朝鮮民族が、二大陣営の対立の具となり、南北に分かれて、同胞を互いに敵視し、残虐な殺戮をし合う、あの悲惨な姿は、実に「我が法の滅せんを見て捨てて擁護」しなかったところに淵源があることを知るべきである。
以来、朝鮮民族は、福運をなくしてしまった。韓国についていえば、過半世紀を振り返ってみると、36年間の日本の統治、やっとめぐってきた民族の解放と独立、その喜びも、つかのまに始まった朝鮮戦争の悲劇、戦後も南北の対立の溝は、ますます深く、再び統一することは絶対にありえないようなところまできている。また、戦争後に残された戦火の傷跡と独裁政治、二回にわたる革命と日韓正常化をめぐる学生のデモのアラシ 韓国はまさに悲劇の国である。しかも今なお、悪政につぐ悪政のために、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいる。三災の第一である「穀貴」は、今なお民衆に重くのしかかっている。民衆の生活程度は極度に下落し、インフレはますます激しく、政府がいかにこれを再建しようとしてもかえって悪化し、完全に麻痺状態である
第二の「兵革」についても、朝鮮動乱による戦火に民衆がいかほど、苦しんだことか。この惨禍は、今なお生々しいしい爪痕を残しているのである。さらに、クーデター、内乱は相次ぎ、絶えず政情不安であり、そのもとにあって民衆は、苦悩を続けてきた。さらに、たえず他国侵逼難の危機にさらされているのが、現状ではないか。戦争であれだけ辛酸をなめた韓国が、今日再び、ベトナムへ軍隊を出兵せざるをえないのは、なんたる不幸であろうか。
第三に「疫病」であるが、伝染病の流行はもとより、民衆の精神状態は錯乱し、思想上、政治上の統一がなく、争いが絶えぬ姿である。
アジア全体が三災並び起こる姿
こうした、一国一民族の総罰の悲惨な歴史を綴ってきた朝鮮半島の姿は、また、アジア全体の姿である。
しかして、今日、朝鮮戦争の悲劇が、ベトナムに展開されているのである。現在、米軍は、北爆を強化し、南ベトコン地区に対し、徹底的な焦土作戦を行なっている。ガソリン、重油などを広範囲に散布し、そのあとへパーナム弾を投下し、一帯を火の海と化す戦法である。特に中部の密林地帯に行ない、広いところは、100k㎡にが数日間にわたり燃え続けている。今や各地区で避難民の洪水であるという。戦争の谷間にある、これらの民衆の心はいかばかりであろうか。大殺戮につぐ大殺戮、しかも南ベトナムに、各地には予想されなかったベスト病が流行し多数の死者を出したとも伝えられている。さらに深まりゆく飢餓の惨状は目にあまるものがある。
かくして、兵革・飢饉・疫病の三災の充満せる国土となっているのである。豊かな自然を破壊し、無辜の民衆の、苦悩せるアジアの惨事を、同じ人間として、同じアジアの一員として、また大正法を護持するわれわれとしては、黙って見ていられないのが心情である。さらに、この悲劇が日本に起こらぬと、誰が断言できようか。
今日の日本もまた、三災ならび起こらんとする兆しは、いたるところにある。物価は上昇の一途をたどり、生活苦にあえぐ民衆は決して少なくない。すなわち「穀貴」である。「兵革」の難もまたいつ起きないともかぎらない。また第三次世界大戦の危機は、今やいずれの国の民衆にもいい知れぬ恐怖と不安を与え、日本もまた例外ではない。さらに二大陣営の対立、もっと直接的には米中戦争の渦中にいつ巻き込まれるともしれぬ。われわれが、一日も早く広宣流布を実現して、日本民族の真の幸福をはかりたいと願望するも、まさしくこのただならぬ世界情勢があるからである。
また「疫病」にあたる災難もけっして少なくない。奇病・ガン等、治らぬ病気が多く、また性病等も横行し、さらに四信五品抄に「国中の疫病は頭破七分なり」(0343-14)とあるがごとく、精神異常をきたす人が多く、また思想の分裂と混乱も甚だしいものがある。これまさに、現代における「疫病」ではないか。
三災の根本原因とその終止符への道
御義口伝には、法華文句を引いてこれらの三災の起こる原因を、五濁のなかの劫濁の姿から、次のように説いている。
「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」(078-02)
この文章の意味は、こうである。劫濁の相というのは、四濁がきわめて激しく、ある時代にあつまっていることである。瞋恚が激しくなれば、その国土に戦争が起き、貪欲が盛んな時には伝染病が蔓延する。このような三災が起こってくると、人々の煩悩はますます盛んとなり、諸々の邪悪な思想や宗教がはびこるようになるのである。
これと同様の御文は曾谷殿御返事に「飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる」(1064-15)とある。
まず「瞋恚増劇にして刀兵起り」とは、戦争の本質をついたものである。戦争など狂人でない限り、誰一人として望んではいない。これを望む人があれば、まさに姿はどうであろうと魔であり、鬼であると断定せざるをえない。ではいったい、誰も望まぬにもかかわらず、なぜ戦争が起きるのか。核兵器が製造されるのか。第三次世界大戦の恐怖におびえねばならぬのか。これは、理性では絶対にわりきれぬものがある。これ、ひとえに、人間の生命に、本然的にそなわる瞋恚の生命があるからにほかならない。平和を願う人が、ひとたび戦争の渦中に巻き込まれるや、殺人鬼のごとく殺戮に狂奔するのも、指導者の頭が狂い、まるで何かにとりつかれたかのごとく戦争をかりたてるのも、これまったく瞋恚からくるものである。「修羅は身丈八万四千由旬」とあるが、これら生命からいえば、怒りの境涯であり、怒りのために、あらゆるものが、見境がつかなくなり、人間までが小さなものに見えてしまう。小さくは個人間の争いも、大きくは戦争の際の、あの残虐さも、ことごとく激怒と激怒の衝突によるものである。
次に「貪欲増劇にして飢餓起り」とは、人々が、利己主義で、自分の利益を追求することのみに没頭し、あくせくしていくならばたまたまの旱魃が、徹底的に民衆に大打撃を与え、飢饉が起こるのである。特に政治の劣悪は、インフレを起こし、人々の生活を苦悩のどん底へと追いやるのである。人々は、他人をけおとしてまで、自己保身のために躍起となり、これがますます、飢饉を増していくのである。特に指導者が貪欲にかられ、不正を事とし、おのれ一身の利益追求にのみふけり、民衆を忘れたならば、民衆は塗炭の苦しみを味わねばならない。これ今日までの歴史があまりにも明確に事実を物語っているではないか。
さらに、「愚癡増劇にして疾疫起り」とは愚癡すなわち愚かであるため、病気が起こるというのである。すべての病気は、正しいリズムからはずれたときに起こる。すなわち病気とは、生命の不調である。それは一時的、部分的、末梢的な不調和である場合もあるし、また永続的、全体的、根本的な不調和の場合もある。それによって、病気の軽重、治療の難易も分かれてくるのである。そしてそれは、外部から引き起こされる場合もある、内部から引き起こされる場合もある。後者は前者より重く、現代医学をもってしても解決できないのがほとんどである。だが、いずれにせよ、所詮は、生命力の減退こそ病気の根本原因であると断ずることができる。もし、生命力に満ちている身体であれば、外部からの病原菌に左右されず、少々の病脳もゆうゆうと克服していくことができるからである。しかるに愚癡蒙味して、目先のことのみに目を奪われ、正しきことに積極的にならず、無気力となり、生命力が衰え、そこに疫病が蔓延するのである。
「三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」とは、こうした人々の生命の濁りが原因で刀兵、飢餓、疾疫がおこるのであるが、この三災が原因となって、さらに煩悩や邪見を増すという悪循環を繰り返すのである。
しかして、この貧・瞋・癡の三毒は、実に、邪宗、邪教、邪智により盛んとなったものであり、また正法隠没とともに、わが身体の中に妙なる生命におおわれて、生命それ自体が三悪道、四悪趣のみ活発となったものである。この三毒は、事態とともに民衆を支配し、一国を支配し、たえず三災の起こる基盤となったのである。ゆえに、曾谷殿御返事の次下の文にいわく「今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり、所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり、是れ即ち小の三災の序なり」(1064-16)と。
されば、今日の三災に終止符を打つ道は、妙法を根底にする以外にない。人々の生命が正常化され、清浄なるリズムが脈打ち、やがて、それが、日本一国のリズムとなり、全世界のリズムにしていくことは必然である。
国連とアジア諸国
第一次、第二次世界大戦によって、人類は国際間の平和機関をつくることによって、戦争の絶滅をはかろうとした。その結果、第一次世界大戦後つくられたのが、国際連盟であり、第二次世界大戦後につくられたのが、国際連合であった。
第一次世界大戦前にも、フランスのルソーによって「永久平和安」が提唱され、ドイツのカントによって「永遠の平和のために」という構想が立てられたこともあった。いずれも諸国家の連盟を論じたものである。
第一次大戦後の国際連盟は、20年にわたって続いたが、モンロー主義を唱える大国アメリカの非加入、あるいは日本、ドイツ等の脱退が相次いで、ついに第二次大戦前に有名無実な存在となってしまった。
このような諸国家の連盟や連合では物足りないとして、さらに強く各国家を規制し拘束する「世界国家」やウェルズ等は、自由な民主主義によって統一政府をつくり、やがて世界国家に発展させようとする案を提出した。第二次大戦後において、世界国家ないし世界連邦を提唱する声は各方面からあがった。
しかし、諸国家の根本理念、民族性、宗教、哲学、思想、社会体制、民族感情、教育等を無視して、観念的な世界国家をうんぬんすることは有名無実である。アメリカ合衆国は、民族こそ違え、大旨、プロセスタントとして結ばれた精神的な同志国家があった。いまだにヨーロッパは統合というわけにはいかないが、EEC諸国も又、カトリックによって連帯感をもつ諸民族なるがゆえに、経済的結合が容易であったといえよう。反対にインドとパキスタンのごときは、同民族であっても宗教によって国家が分裂した例もある。
ゆえに、第二次大戦後も、世界国家、世界連邦というような形態は、戦勝国、敗戦国の両者がある以上、所詮は実現不可能であり、現状の国際連合という、平和愛好国家と称する諸国家の連合という形で実現した。これは現状としてはやむをえないものがある。なぜなら世界国家や世界連邦の構想は、理想的にはすばらしいものであるが、現実的には幾多の隘路がある。国際連合のごとき、ゆるやかな連帯感のなかにすら、戦争や相剋が絶えない。いわんや、そのまま一層拘束的な世界国家、世界連邦の規定に、諸国家が服従することは考えられぬからである。
もし、ここで世界国家ないしは世界連邦をつくって、各国家を無理に超国家的な規律に屈従させようとすれば、必ず世界国家ないしは世界連邦のなかに、現在の各国家間の相剋と同じ、内乱という名の争いが生ずるということは、火をみるよりも明らかである。
ゆえに、不本意ながら、第一に思想のうえで各国家が心から納得しうる大思想を奉ずるようになるまで、第二に世界の各国家の軍備が全廃され、ただ世界国家ないし世界連邦にのみ、世界警察軍とも称すべき軍隊が樹立されるまでは、世界国家、世界連邦の可能性はありえないのである。
しかして、その時までは、平和構想と国際協調をめざしてつくられた国際連合に、世界平和の保障と機能を任せる以外にない。国際連合を暖かく守り育て、機能を改善し、各国家の安全保障を、より立派にはかっていくことが大事であろう。
国連の問題点
しからば、国際連合は、いかなる形でつくられたのであろか。第二次大戦のさなか、イギリスの宰相チャーチルは、戦後の国際機構について考え、国際連盟よりも強力な世界平和維持機構をつくらねばならぬと決心した。さらにチャーチルは、国際平和についての大国の責務を重視していた。しかし、この考えが、安保理事会における大国の拒否権にまで発展して大国主義に陥った弊害もまた、いなめない事実であった。
このようなチャーチルの考えが、1941年8月、大西洋上のニューファウンランド島沖における、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の会見の席上、連合国側の初めての公式声明として、第二次大戦後の国際平和機構についての提案がなされる原因となった。この大西洋憲章のなかに「広範かつ、より恒久的な一般的安全保障の体制の成立をまって」新しい国際平和機構をつくるべき宣言となってあらわれたのである。
ソ連のスターリンもまた大国主義を考えていたようであうが、1943年10月、連合国側におけるモスクワ外相会談で、米英ソならびに中国を含んだモスクワ宣言が採択され、この宣言の第四の原則は「なるべく短期間のうちに、国際平和と安全のために、すべての平和愛好国の主権平等の原則にもとづく世界的国際機構の設立を必要と認める。右の諸国は、大小を問わず、右の機構に加入することができる」とあり、第六の原則は、他国に対して武力を行使しないことについて定めた。
しかし、米英ソ仏中の戦勝五大国には、それぞれ、自国本位のおもわくがあった。いわく、大国主義と主権平等主義のいずれをとるか、また地域主義とするか普遍主義とするか、さらに権力中心主義か理想主義優先か、これらの理念がうずをまいて対立したが、結局、全部の加入を包含する国連総会と、大国を中核とする安全保障理事会の二つからなる普遍的国際機構をつくることに落ち着いた。
その他、安全保障理事会の表決方式について、大国一致の原則、いわゆる拒否権が、常任理事国の特権として保持されるということについては一致したが、拒否権の範囲を、いかに限定するか、拡大するのか等の論争があった。信託統治地域と非自治地域についても、意見が対立した。
1945年2月、ヤルタ会談で、拒否権問題で米英ソ三国の同意が成立し、国連創立は一歩前進した。すなわち、常任理事国たる大国の拒否権は手続き問題に適用されないこと、紛争の当事国は、平和的解決が試みられている際には拒否権を適用できないこと等で、妥協ができた。
1945年4月25日、サンフランシスコ市のオペラ・ハウスで、ついに国連創立会議がもたれた。6月26日に、国連憲章に署名したのは50ヵ国であり、少し遅れてポーランドが署名し、原加盟国は51ヵ国となった。しかし、サンフランシスコ会議の最大課題は、常任理事国となった五大国と、他の中小国との対立を、いかに調整するかということであった。かくて国連は創立時から、不平等問題で論争が始まった。結局、拒否権の範囲を狭くしようとする中小国の企図は成功しなかったが、総会の権限を増大させようという提案は成功して、総会に一般的な審議権・勧告権を与えるという、新しい条項が、国連憲章に追加された。そのほかラテン・アメリカ諸国およびその他の中小国の提案によって、国連憲章第五十一条の「個別的および集団的自衛の固有の権利」の規則が追加され、その結果、例外的に認められた集団自衛の方法が、全米相互援助条約、北大西洋条約、東南アジア防衛条約、ワルシャワ条約などの法的裏づけとなった。
日本の国連加入は1956年12月18日であり、80番目の加盟国となった。1952年4月28日、対日講和条約が効力を発して、独立を回復するや、国会の承認をえて、6月23日に国連事務局へ加入を申し込んだ。しかし、時あたかも米ソ冷戦の真っ最中であったため、ソ連の拒否権によって、4年の間、涙をのまざるをえなかった。
アジアに共同の場を設定を
1966年4月現在、国連加入国は、117ヵ国に達したが、遺憾ながら、中国はいまだに非加入であり(中国の加入は1971年10月常任理事国として、ただし、台湾はこの時点で国連追放となる)インドネシアは脱退(1966年秋・再加入)したままである。国連の今後の課題としては、第一に中国やインドネシアの加入を促進することであり、第二に国連安保理事会を改善し、さらに国連による安全保障体制の強化等の問題がある。特に第二次大戦後独立したAA諸国は、国連において過半数の60ヵ国を占め、大きな発言権を有するにいたった。
現在、アジア諸民族は世界32億のうち17億を数え、過半数を占めている。21世紀当初、第三次大戦さえなければ、世界人口は60億を越えるとみられるが、アジアの人口は実に40億に達すると予想されている。
この、2,3世紀の長きにわたって、欧米諸国の帝国主義に屈従され、植民地化の悲哀を味わってきた。しかも、ようやく独立したのちでも、二大思想対立の戦乱に巻き込まれ、経済的な苦難にあえいでいるのは、ほかならぬアジアの植民地である。そして、今なお飢餓と栄養失調は、アジアの諸国をおおっている。
二・三千年前といわず、数世紀前まで、偉大なる文化をほこってきたアジア民族として、まことに残念なことである。それだけに、平和を望み、繁栄を祈る声は、アジア民族にこそ、最も強いことを確信してやまない。現在もなお、欧米の大国主義の犠牲となり、大国のイデオロギー対立の犠牲となっているのは、ほかならぬアジアの民衆である。そのほかアジアの諸国が、低開発国の名前を返上できえないのも、ヒンズー教、イスラム教、カトリック教、小乗仏教、民間宗教等の害毒が、その根本原因である。アジア民族の悲哀は、アジア諸国から偉大なる大乗仏法を失ったときから始まったことは、歴史のよく示すことである。もちろん、信仰は、個人個人の問題として論ずるべきである。
ここで吾人が叫びたいのは、アジア民族が、国連を中心として、世界平和のために、絶対平和思想をかかげて、立ち上がるべきだということである。真にアジア民族が、いかにしてアジア諸国の繁栄と福祉をはかり、いかにして世界平和に貢献しうるか、真剣に討論し、話し合っていく共同の場を設定すべきであると主張するものである。
世界を結ぶオリンピックに対して、先年、アジア・オリンピックが発足し、オリンピックの中間の年を取って同じく四年ごとに開催され、アジアの若人の緊密な連帯感を深めていることは論をまたない。しかし、スポーツの分野にまで、イデオロギーの対立が持ち込まれている現状は、まったく遺憾という以外にはない。
われらは、アジア諸国が、武力を背景にして、イニシアチブを握るような覇道的な行き方を廃して、国連の諸機能を生かしつつ、あくまでも道理と平和をもって前進したいものである。
アジアに寄せる期待
近年、機械文明、物質分明の発達と共に、精神的なものの発達を、物質的発達と表裏一体のものとして、必要であるという主張が、とみに盛んになってきた。また、アジア諸民族の健全な前進に、人類の未来を託そうという声も、多く聞かれるようになった。
たとえば、フランスの評論家ジャン・バレーは「資本主義も共産主義も、いずれも人間を粉砕するために役立つだけの結果にすぎなかった。未来の究極の課題は、精神の文化、人間の進化、モラルの革命である」と説き、「二十一世紀当初まで、人間が生存するならば、アジアの諸大国が進歩した力によって、人類を指導するだろう」と述べている。
また、イギリスの政治学者E・H・カーは、歴史の進歩について述べたなかで、トックヴィルの「新しい世界には、新しい政治学が必要である」との言葉を引用し、これらの新しい歴史を築くべき、新しい科学の完成を待望している。
近代最高の理論物理学者アインシュタインは、はじめドイツより先に、アメリカで原爆を製造することを勧告しながら、のちに原水爆の恐怖を全世界に訴え、「人類の滅亡を防ぐには、偉大なる精神文明の台頭が必要であり、私はそれをアジアに期待する」と叫んだ。イギリスの著名な歴史家トインビーは「人類はいま大量自殺 行為をあえて犯すか、さもなくば人類全体の共存かつ二者択一の決定を迫られている。共存共栄の唯一の道を選ぶには、文明が生み出した高等な宗教による人間の救済こそ最高の価値があり、その最も優れた宗教は、アジアにおける大乗仏教である」と述べた。
さらに、ロベット・ユンクは、機械文明を高く評価しながらも、同時に将来について、根本的な指向、すなわち大規模な精神的革命の必要性を強調している。
ドイツの実存哲学者カール・ヤスパースは「世界秩序」という地球共同体実現の希望を述べ、「世界秩序」とは、討論・討議を経た共同決議から生まれる規制力・支配力だけを、統一的な支配力とする統一をさし、そのためには、主権の放棄と国家概念の放棄が前提にならねばならない。したがって「世界秩序」は世界国家ではなく、既存の自由諸国家の連邦制から出発して、地域全体に転化した諸国間の、包括的連邦制とでもいうべきものとしている。これがヤスパースの地球共同体実現への見解である。同じくヤスパースは、世界における未来の強国として、中国などアジア諸国が、世界政治指導のカギを握るであろうと予想しているのは、注目に値する。
かく展望してくると、今後の世界は、新しい生命科学台頭の時代であり、科学文明と表裏一体の形で精神文明の興隆が強く望まれる新時代を迎えている。この要求にこたえて、アジア民族が、平和と繁栄の姿勢を高く保持して、立ち上がるべきであると念願するものである。
0020:11~0020:13 第八章 四経の明文により災由を結すtop
| 11 夫れ四経の文朗かなり万人誰か疑わん、 而るに盲瞽の輩迷惑の人妄に邪説を信じて正教を弁えず、故に天下世 12 上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、 仍て善神聖人国を捨て所を去る、 是を以て悪鬼外道災を 13 成し難を致す。 -----― 四つの経の文はこのように明らかである。万人の中で誰が疑うだろうか。それなのに、目を閉ざした輩、正しいことが分からず迷いとまどう人々は、きちんと考えずに間違った説を信じてしまい、正しい教えを判別することができない。それ故、この国のすべての人は、仏たちとその多くの経に対して捨て去る心を生じて、守ろうとする志が無い。そこで、善神・聖人は国を捨て去り、その結果、悪鬼や仏教を否定する者たちが災いを引き起こし苦難を寄せるのである。 |
盲瞽の輩
盲とは、生まれてのち目をなくし、盲目となった者。瞽は生まれつきの盲目者で、目がみえないかわりに音感がすぐれているところから、音楽に関係する者が多かった。瞽を楽器、楽工の意味で用いるのはこのためである。盲瞽とはともに盲人ということで、仏法の正邪がわからない人の意。
―――
迷惑の人
事理に暗く、迷い惑うこと。迷とは、もともとは道に迷うという意味がある。惑は、事の是非を取り違えることである。今日、一般に使われている「迷惑をかける」等とは意味を異にする。
―――
諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて
日寛上人の分段には「書二十三にいわく『日本国中・上下万民・深く法然を信じこの書を仰ぐ、ゆえに捨閉閣抛の四字を見て彼の仏経等において還って捨離の心を生ず』等云云」とある。
―――
悪鬼
悪鬼とは奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――――――――
災難の起こる理由は、第一に、人々が悉く邪宗教を信ずること。第二に、そのために諸天善神がその国を捨て去ること、第三に、悪鬼が乱れ入って災難が起こること、の三つである。
以上の道理を経文によって明らかに示されている。法然の撰択集は、もっぱら念仏の三祖たる曇鸞、道綽、善導の釈を引用するだけで、自己の見解を述べているのに対し、日蓮大聖人はあくまで経文を第一とし、釈尊の仏教は、まず釈尊を根本に立てて判断しなければならないとされている。そうでなければ、法華経が、仏法の真髄でありかつ最高峰であることを知り、さらに法華経の現文によって、末法には上行菩薩の再誕たる御本仏、日蓮大聖人が三大秘法、末法万年の外未来までの一切衆生を救われるということが、まさしく経文どおりであり、仏法の方程式であり、大宇宙の鉄則であることが明瞭となる。されば、日蓮大聖人の仏法に帰依する以外に、真実の幸福への道なきことを知らざるをえなくなる。
また、このように大聖人御在世当時に釈迦仏法は末法に用うべき仏法でないと、断固破折されているにもかかわらず、今なお禅宗、真言宗、念仏宗等が、大伽藍をもち、破壊の悪侶が、葬式屋をやっているということによって、いかに今の日本民族が、仏法に眜いかということが、はっきりとわかる。これにもまして奇怪なのは、日蓮大聖人の名をかたって、仏法の真髄を乱さんとする身延、中山、仏立宗等の徒輩である。また、なんら大聖人の仏法を知らずして流行している新興宗教は、師子身中の虫であり、仏敵といおうか、国土を興廃に導く一大原因をなしているのである。
なお「善神聖人国を捨て去る」について、日寬上人は、文段に「この論は、正しく法然に対するのである。ゆえに、諸仏・衆経において捨離の心を生じ神聖捨て去るというのである。もし、その元意は、釈尊・法華経において捨離の心を生ずるゆえに神聖捨て去るのである云云」と述べられている。
すなわち、本文には、諸天善神が国を捨て去るは、法然が「捨・閉・閣・拠」の四字で、一切衆生をして「諸仏・衆教」に捨離の心を生ぜしめたからであるとあるが、その元意は、釈尊および法華経、さらに本因妙の釈尊、すなわち日蓮大聖人および下種の法華経、すなわち大御本尊に捨離の心を生ぜしめたからであると仰せである。
0020:14~0021:16 第三段 誹謗正法の由来を挙げ亡国を証すtop
0204:01~0020:16 第一章 仏法興隆をもって問難すtop
14 客色を作して曰く 後漢の明帝は金人の夢を悟つて白馬の教を得、 上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成
15 す、 爾しより来た上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四
16 海.一州.五畿.七道.仏経は星の如く羅なり堂宇雲の如く布けり、シュウ子の族は則ち鷲頭の月を観じ鶴勒の流は亦鶏
17 足の風を伝う、誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
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客は顔色を変えて怒っていう。
後漢の帝明は金色に輝く人の夢を見たことに示唆を受け、白馬によって伝えられた仏教を得て、聖徳太子は物部守屋の反逆を処罰して四天王寺の寺塔を建立した。それ以来、皇帝から庶民に至るまで、仏教を崇め経文を記した巻物を一心に信仰している。そうであるから、比叡山・南都の諸寺・園城寺・東寺をはじめ、上は天皇から下は万民に至るまで仏像を造立して崇め、経巻をひもとき読誦してきた。五畿・七道からなる日本のどこでも、仏の経は星がちりばめられているようにあちこちに安置され、寺院は雲が空に広がるように至るところに設けられている。舎利弗の一門は霊鷲山に出る月を観想し、付法蔵の二十三祖である鶴勒の弟子たちも鶏足山で入定した迦葉の遺した伝統を伝えている。誰が釈尊一代の教えを軽んじ仏法僧の三宝の伝統を断絶させていると言うだろうか。もしその根拠があるなら、詳しくその理由を聞こう。
この客色を作して曰く
顔色を変えて怒ること。日寛上人の分段には「すでに四経の文を引き已って結して『天下世上・諸仏・衆経に於いて捨離の心を生ず』というゆえに客色を作して問難するなり。礼記二十四哀公問にいわく『哀公いわく“あえて問う人道には誰を大なりとなす”孔子愀然として色を作して対していわく“君この言に及ぶや百姓の徳なり”』註に『色を作すとは色を変ずるなり』と云云、色を作して仏を罵る、之に准じて解すべし」とある。
後漢
(0027~0075)後漢第二代の皇帝で、第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外政に力を尽くし班超を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。仏祖統紀の明帝七年の下に、帝が丈六の金人の庭に飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅
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後漢の明帝
後漢第二代の皇帝で、第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外政に力を尽くし班超を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。
仏祖統紀の明帝七年の下に、帝が丈六の金人の庭に飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現して、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡愔、秦景、博士ら王遵ら十八人を西域につかわしそれを求めさせたとある。金湯編には、これらの十八人が天竺の隣りの月氏国に行った時、摩謄と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の六十万巻を得、それを白馬に乗せて、摩謄と竺法蘭も連れて永平八年洛陽に帰った。帝は大いに喜び、摩謄を鴻臚寺に迎え、ついで永平十年、勅命して洛陽の西に白馬寺を建てたという。日寛上人の分段には「前漢は高祖より平帝に至る十三代、孺子新室を加えて十四代なり、もし王莽を加うれば十五代二百三十年なり、高祖九世の孫・光武と申すは平帝の子なり、深く深山に隠れ、二十八宿・二十八将と変じ来って王莽を亡ぼす。光武・位に即く、すなわちこれ後漢第一なり。光武第四の子を顕宗孝明皇帝と名づく、すなわち今いう所の後漢の明帝なり」とある。
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金人の夢
仏祖統紀の明帝七年の下に、帝が丈六の金人の庭に飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現して、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡愔、秦景、博士ら王遵ら十八人を西域につかわしそれを求めさせたとある。日寛上人の分段には「これ永平二年正月朔日なり。あるいは四年というなり。同五年王導等十八人西域に使し同八年洛陽に還るなり、同十年白馬寺を立つ。同十五年正月朔日・五岳の道士表していわく仏法虚偽なりと、周く十五日に経を焼く等なり」とある。
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白馬の教
後漢の明帝の命で王遵ら十八人を西域につかわし月氏国ににて、摩謄と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の六十万巻を得、それを白馬に乗せて、摩謄と竺法蘭も連れて永平八年洛陽に帰ったことをいう。中国への仏法初伝である。
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上宮太子
(0578~0622)人皇第32代用明天皇の第二代皇子。聖徳太子のこと。母は穴穂部間人皇后。敏達3年正月1日に手に仏舎利を握り、身から光明を放って、厩の中で誕生されたので、厩戸皇子と呼ばれた。八人の奏上することを一時に聞き分けることができたので、八耳王子・豊聡耳命ともいう。推古天皇の皇太子として、政を摂し、官位十二階・憲法十七条を制定。また、天皇記・国記・臣・連・伴造・国造の百八十部ならびに公民などの本記を撰録せしめた。深く仏法を信じ、当時、蘇我氏の崇仏派と物部氏の排仏派が相争っていたのを、太子は蘇我氏を立てて仏教興隆の礎をつくった。すでに皇子のころ、朝鮮から渡来した僧をさして、「わが弟子なり」といわれ、渡来の僧らも「わが師なり」と敬したという。十七条憲法にも「篤く三宝を敬え」と仏教の信奉を明言し、みずから四天王寺をはじめ諸国に寺院を建立、法華・勝鬘・維摩の三経を鎮護国家の三部経と定め、義疏も作った。日本における仏教興隆の功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物であり、ひいては大化の改新の先駆となられた改革者であったといえる。日寛上人の分段には「人皇三十二代用明天皇の御子聖徳太子の御事なり、敏達元年正明朔日、手に舎利を握り身に光明を現じ厩の下において誕生す、ゆえに厩戸の王子とも名づく、八人同時に奏する事を一時に聞きたもう、ゆえに八耳の王子とも名づけ、また耳聡の王子とも申すなり、用明・愛敬して南宮の上殿に居せしむ、ゆえに上宮太子と名づくなり、これ本朝の大聖人なり、ゆえに聖徳太子と申すなり。」とある。
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守屋
物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
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寺塔の構を成す
聖徳太子が寺や搭を建立されたことをいう。法隆寺や四天王寺、大安寺は聖徳太子の建立と伝えられている。日寛上人の分段には「『推古天皇四天王寺を建つ、その余の寺塔畿内に遍し』等云云。僧史略上にいわく『寺とは釈名にいわく“寺は嗣なり”と、事を治むる者相嗣ぎてその内に続くなり、本これ司の名・西僧乍ち来り権に公司に止まる。移して別居に入るれどもその本を忘れずして還って寺号を標す、僧寺の名ここに始まるなり』と文」と。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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南都
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・
持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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東寺
教王護国寺ともいい、古義真言宗東寺派の大本山。平安京奠都とともに延暦15年(0796)羅城門の東に左京・東国の鎮護として造営された。弘仁14年(0823)嵯峨天皇が空海に賜って以後、真言密教の道場となった。
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四海
四海とは四方の海、天下、国内、四方の外国、世界等さまざまな意で用いられることがある。
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五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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七道
東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海のこと。
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仏経
仏像と経巻のこと。
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堂宇
堂は仏像を安置するところ、宇は経巻を置くところの意。
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鶖子の族
鶖子とは舎利弗のこと。目が鶖に似ていたからこのように呼ばれたとも、母の訳名をとって名づけられたという。鶖子の族とは、観法を尊ぶ流派の総称。
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鷲頭の月を観じ
鷲頭とは王舎城の東北にある霊鷲山の頂をいう。この霊鷲山で一代仏教の肝心、法華経が説かれた。「鷲頭の月を観じ」とは、観念観法により法華経の哲理を会得するとの意。
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鶴勒の流
鶴勒とは、付法蔵第二十三祖鶴勒夜那のことで鶴勒の流とは、観法に対して教法を尊ぶ宗派の総称。
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鶏足の風を伝う
鶏足とは、インドの伽耶城東南方にある鶏足山のこと。付法蔵の第一の迦葉。禅宗が祖と仰ぐ迦葉が、この山の洞窟に入定し如来の遺法と衣を奉持して、弥勒に授与するために、弥勒仏の出世を待っているという。風を伝うとは、付法蔵第一の迦葉以来、付法蔵二十四人に正しく教法は伝えられ、今なおその伝統は崩れていないとの意味。
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誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや
釈尊一代の教、すなわち仏法を見下げ、卑しめ、軽んずること。
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三宝の跡を廃す
三宝とは仏法僧のことで、仏法の肝要。跡を廃すとは、仏法が滅びることを意味する。
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この段では、たくさんの寺があり、数えきれないほど多くの僧侶があっても、正法を誹謗している。いわゆる邪宗教ばかりでは、けっして平和な社会、幸福な楽土を築くことはできない。のみならず、かえって災難が競い起こる旨を説かれているのである。
まずはじめに、「客色を作して曰く」とは、すでに前段で主人が四経の文を引き終わって、決して天下世上が諸仏衆経において捨離の心を生ずるというゆえに、客は顔色を変えて、そんなはずがないといって問難するのである。
後漢の明帝の時を論ぜざれたのは、中国に仏法が渡ったことを示し、上宮太子の時を述べられたのは、日本における仏法流布を意味されたからである。すなわち、これ仏法東漸の歴史を述べたものである。
仏教と神道の争い
仏教が、わが国に伝来したのは、およそ1400年前であった。インドに発生し、釈尊によって説かれた仏教が、やがて中国、朝鮮を経由して、仏教有縁の国・日本に伝来したのである。
仏教と神道が大きく争ったのは、この仏教伝来時と、明治維新の王政復古であったが、この両者とも、ほぼ100年足らずして仏教の勝利に終わり、神道も日本古来の神道として、あるべき位置におさまったことは、まことに不思議といわなければならない。
わが国に仏教が伝来した年代については種々の説がある。最も一般にいわれているのは、日本書紀による第30代欽明天皇の13年である。百済国の聖明王が、その年の冬10月、西部の姫氏達率怒唎斯到契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献じたことが、日本書紀に記載されているからである。
同じく日本書紀によれば、欽明天皇は、おおいに喜ばれて、その使者に「朕は古より此の如き微妙の法を聞かず、然れども朕自ら、之を決すること能わず」と仰せられて、群臣を集めて諮問せられ、仏教を奉ずべきかどうかを会議にかけられた。このとき、大臣蘇我稲目は仏教を信ずべきであると答え、物部大連尾興、中臣連鎌子は仏教を拝すべきでないと奏上した。欽明天皇は、仏教を蘇我稲目に賜わって、試みに礼拝しよと命じたのである。これが日本書紀に伝える仏法渡来の記録である。
しかして仏教伝来の年について、学者には、なお異説がある。すなわち西暦538説がこれである。
第一の根拠は、奈良時代の作である上宮聖徳法王帝説に、欽明天皇の御世戊午の年(0538)10月12日、百済国聖明王が初めて仏像経教ならびに僧等を渡し奉ると記されている。これは欽明天皇の13年(0552)とは14年の差がある。(ただし戊午の年は、日本書紀では、宣化天皇の3年であり、欽明天皇の時代ではない)
第二の根拠は、凝然の三国仏法伝通縁起に、宣化天皇即位3年歳次戊午年12月12日に、百済国より仏法伝来とある。
第三の根拠は、弘仁年間に伝教大師が比叡山に法華迹門の戒壇を建立することを奏請したのに対し、奈良の護命僧正が上奏して反対したが、そのなかに「欽明天皇歳次戊午、百済国、仏法を渡来し奉る」とある。これに対し伝教大師の反駁した顕戒論のなかには「天皇即位庚申、御宇正経32歳、謹案歳次歴都に戊午は無し、元興縁起は戊午歳を取りて已に実録に乖く」といわれている。
しかして、伝教大師が顕戒論に引用した元興縁起は、正確には元興寺伽藍縁起流記資材帳といい、推古天皇21年の勅によって記されたものを本として記されたものである。この元興寺縁起のはじめに「斯帰島宮、天下治めす天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目弥仕奉時、天下冶めす7年、歳次戊午12月渡来、百済国聖明王時、太子像並びに、灌仏之器一具及び説仏起書巻一筺」と記されている。すなわち欽明天皇の7年に仏教伝来とある。これらの文献は、それぞれ多少の違いはあるが、ともに戊午の伝来をつたえている。最近の多くの史家は研究の結果、仏教伝来を、欽明天皇の7年、戊午の年(0538)説を唱えている。
いずれにしても、これらの仏教伝来の年はあくまで公式に伝来した年であり、それ以前に、大陸との交通が開始されて以来、民衆主体の国民外交によって、あるいは帰化人等によって、仏教の信仰が逐次伝えられてきたことは、多くの記録によって明らかである。すなわち扶桑略記などに、継体天皇の16年春2月に、漢人の案部主、司馬達等が、大和国坂田原に草道を構え、仏像を安置し帰依礼拝したと記されている。
このころから韓国は、百済・高句麗・新羅の三国が、半島の覇権をめぐって激しく抗争していた。百済は日本と組んで、北の高句麗、東の新羅の両国と対抗していた。仏教は当時百済において盛んであり、中国古典の学術や仏書の研究が寺塔の建立が興隆を示し、欽明天皇の6年(0545)9月には、聖明王の発願で、丈六の仏像を造り、願文を作り、同盟国、日本の太平と天皇の祝福を祈った。
蘇我氏と物部氏
百済国の聖明王が仏像経論等を献じた時、欽明天皇は、群臣に仏教を奉ずべきかどうかを問われた。大臣蘇我稲目は、早速、西方の諸国がすべて仏教を礼拝していることをあげて、わが国も仏教を信奉ずべきであると奏上した。これに反して、物部大連尾興、中臣連鎌子は、わが国には古来神道があり、天下に王と拝すべきは百八十神であると主張し、仏教を排斥した。
蘇我氏は竹内宿弥の後裔であり、大伴氏と共に進歩思想で、百済国と修交して、新文化を採用しようと務めていた。しかるに物部氏、中臣氏は、保守主義で、新文化を締め出そうとはかったのである。
欽明天皇は、やむをえず、仏像を蘇我稲目に賜わり、試しみに礼拝するように命じた。蘇我稲目は、小懇田に仏像を安置し、さらに向原の宮殿を寺院とした。これが後の向原寺である。その後、一年を経て、疫病が流行した。神道を奉ずる物部氏、中臣氏は、これを幸いと「他国の神を礼する罰である」として圧迫を加え、はじめは、神道が優勢であった。これ仏法に対する第一回の迫害である。
その後、30余年、仏教を信奉し続けた蘇我稲目は、用明天皇、推古天皇に対し、いかなることがあっても仏法を捨ててはならぬと懇願し遺言した。しかし蘇我稲目が死去するや、その翌年には、物部氏らは仏教の堂舎や仏像を焼いて難波の堀江に流した。これ仏法に対する第二回の迫害である。
その後、敏達天皇の11年(0582)に、向原寺は桜井に移され、桜井道場となった。仏法伝来に功あった司馬達等の女、島女等の三人は出家して、日本最初の尼となった。敏達天皇は仏法を嫌って再び圧迫し、大臣蘇我馬子などの仏教信奉者の家の仏像や堂塔を破却し、三人の尼も追い出した。これ仏法に対する第三回の迫害である。
用明天皇が即位されるや、蘇我稲目の遺言で仏法を信奉していたゆえに、ようやく仏法は明るさを取り戻した。蘇我馬子は後の聖徳太子、厩戸皇子とはかって、勅許をえて、三人の尼を呼び桜井道場を復活し、さらに豊浦寺をつくった。これらは後に元興寺となった。かくて、わが国の仏法は、はじめは、神道派に圧迫されたが、用明天皇、推古天皇および用明天皇の皇子である聖徳太子の保護によって、やがて興隆に向かった。
用明天皇の崩御ののち、蘇我馬子は、聖徳太子、泊瀬部皇子、竹田皇子等と共に、物部守屋を討って滅ぼした。泊瀬部皇子は即位し崇峻天皇となり、蘇我馬子は大臣としての地位を固め、聖徳太子と組んで、日本の新文化を築くこととなる。
とくに聖徳太子は、第34代推古天皇の摂政として、おおいに仏法を興隆した。みずから法華経を講じ、法華経等の義疏を著わし、仏教の精神を根本とした十七条の憲法を制定し、国家統一の指導原理とした。聖徳太子の建立した寺院は四天王寺、法隆寺はじめ7ヵ寺といわれ、小野妹子をはじめ遣隋使を中国に派遣し、仏法とともに、多くの大陸文化を日本にもたらしたのである。
かくして、聖徳太子の時代になると、仏教と神道の争いも、ついに仏教の勝利に終わり、蘇我氏、物部氏等の争いを経た後、仏法は立派に興隆、確立された。
日蓮大聖人は以上の経過について、四条金吾殿御返事に次のごとく述べられている。
「此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に 此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまとあに独り背やと申す、 物部の大むらじをこし中臣のかまこ等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく百八十神を春夏秋冬に・さいはいするを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはたと申すところに入まいらせて安置せり、物部の大連・不思議なりとて・いきどを程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つちをもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むちをくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生給へり・用明の御子・敏達のをいなり御年二歳の二月・東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く『西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍を銷し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む』等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く『蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻ぞくべし』等云云、此に守屋中臣の臣勝海大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く『焼くがごとし・きるがごとし』又瘡をこる・はうそうといふ、馬子歎いて云く『尚三宝を仰がん』と・勅宣に云く『汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未四月に天皇疫病あり、皇勅して云く「三宝に帰せんと欲す』云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国の法師是なり、物部の守屋・大連等・大に瞋り横に睨んで云く天皇を厭魅すと終に皇隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く『釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん』と・馬子願て云く『百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし』と云云、弓削なのつて云く『此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり』と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見の赤梼と申す舎人に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ、はだのかはかつをちあひて頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。 第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。」(1165-06~116714)
幕末維新の排仏毀釈
次に、仏教が神道によって激しく圧迫されたのは、江戸時代から明治維新にかけてであり、それが陰に陽に、第二次世界大戦まで続いた。
仏教は江戸時代末期になると、徳川幕府の保護政策によって惰眠をむさぼり、まったく堕落の極に達した。江戸時代に排仏論を唱えた主な儒学者は、藤原惺窩より藤田東湖に至るまで、およそ40人を数えた。また国学者は、白井宗因などの12人、大名では徳川斉昭ら9人を数えた。
特に国学者、神道家の排仏論は、いたずらに浅薄な感情論にすぎなかった。平田篤胤などは、仏教に対して悪罵の限りを尽くし、出定笑語などをあらわした。排仏論では僧侶の腐敗堕落を論じたものが、最も多かった。
明治維新になると、さらに仏教排撃の性格が一変した。王政復古を遂げた明治政府は、天皇主権を強める必要上、天皇を神格化し、排仏毀釈の声は高まった。明治の欽定憲法は第一条に「天皇ハ神聖二シテ侵スヘカラス」と条文化して、天皇を神として、古来の神道に結びつけた。
明治憲法には、近代国家としての対面を保つため、先進国の憲法に習って、信仰の自由を条文化する必要もあった。そして、神道のみを特に保護し、他の宗教を弾圧する必要もあった。かくて生まれた明治憲法の条文は「火本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信仰ノ自由ヲ有ス」というものであった。事実これによって信教の自由は明白に束縛され続けることになった。
すなわち、明治憲法によって、一応は、江戸時代のキリスト教禁圧や、封建的なさまざまの宗教政策が撤廃され、弾圧の歴史も、ひとまず終焉となった。しかし、一方、政府は神道のみに特別な保護政策をとり、神道はしだいに国家的地位を確立していき、他方、仏教は王政復古の際の排仏毀釈の打撃から立ち直ったものの、だんだんに神道の前に屈服していったのである。
特に、第二次世界大戦の軍部政府の時代に入ると、神社参拝は、国家的な強制を帯び、仏教のなかにも、田中智学を中心とする国家社会のごときは、あえなく神道に屈服し、完全に神道宣揚の徒となり下がった。政府は、この機に乗じて宗教団体法を制定して、いっさいの宗教を、大日本帝国の国民的支柱である神道のもとに強制的に結合させるという暴挙に出た。
この時、断固として日蓮大聖人の大仏法を守り抜き、憲法の信教の自由の精神を貫いたのが、初代牧口会長であり、恩師戸田前会長であった。第二次世界大戦の終了と共に、神がかり的な宗教政策は一掃され、今日みられるごとく、真実の信教の自由が、平和憲法によって保障され、神道は国家の保護から解かれることになった。かくて、明治初期以来の神道による仏教の圧迫は、名実ともになくなり、仏教は勝利をおさめたのである。
今や東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大仏法は、西方を、否、全世界を照らす太陽の仏法として、広宣流布-すべき時を迎えた。はじめにのべたように、仏法が日本に伝来したのは、インドより中国、中国より朝鮮、朝鮮より日本へという経済を経た結果である。ゆえに、この歴史的事実から、今日、日蓮大聖人の大仏法は、御本仏の予言のままに、日本から朝鮮へ、さらに中国へインドへと流布されるべき使命があると、吾人は強く訴えたい。そして、特に第二次世界大戦中に迷惑をかけたアジア民族に、幸福と平和を約束する最高の大乗仏教をお返しする時が来たことを強く叫ばざるをえない。
真実の仏法の存在
「爾しより来た」以下は、日本の人々が仏教を尊重している。すなわち、仏教が国内に弘まっている状況を示し、「然れば即ち」以下は、国内に寺があり、仏教を信ずる者多きことを示している。
次に日寛上人の安国論文段には「鶖子の族」等は通じて諸宗の磧徳をあげているとい、鶖子の族等は観を明かし、鶴勒の類は教を明かし、すなわち教観二門を明かすとしている。ゆえに第二章には「法師は諂曲にして」というのは、通じて諸宗をさすことをいうべきである。「鶖子の族」以下は、各宗派が盛んであることを説いて、日本は一国全体に仏教なきがごとく論じたのを弁駁しているのである。
この考え方は、現代においてもまったく変わらない。各町村に寺があり僧侶があり、彼岸といい、お盆といい、寺に詣でる者も多く、日本は、今もなお、仏教興隆の国のように見える。しかるにその実情は、仏法の形骸のみであって、そこには真の仏法はない。このことを次の段において述べられているのである。
仏法東漸の歴史
ひるがえって、仏法発祥の国インドに仏法があるであろうか。また、仏法がかつて流布した、中国、ビルマ、朝鮮に仏法があるであろうか。いまなお寺院があり、僧侶もいるかもしれぬ。だが、これらの国にまったく仏教なきことは明らかである。
インドには、もはやまったく仏法の精神なく、ただヒンズー教の低級な教義、またカースト制度の極端な形式主義が横溢し、民衆の心をかたくしばりつけているではないか。中国においても、唐末に武宗皇帝が、仏教を破壊して以来、まったく仏法はなくなってしまっている。今ある寺院も、ことごとく形式化したものであり、民衆は儒教の事大主義、封建制に閉ざされて、今日に至っている。朝鮮に仏教なきことは、すでに論じたところである。
また、ビルマ、ベトナム、タイ、カンボジア等の東南アジアの国々にも、寺院あり、僧ありで、あたかも仏教国のごとき観を呈しているが、ただ小乗教の形骸を守っているにすぎないのである。小乗教の戒律主義、人間性を無視した実践法、さらに現実否定よりくる怠惰とあきらめの風潮が、いかに民衆を毒してきたか、測り知れぬものがある。ここに、これらの国が、西欧列強にふみにじられる内部的原因をつくってしまった。
されば、日蓮大聖人は、日本以外に仏法なきことを、顕仏未来記に、次のごとく仰せられている。
「疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く、妙楽大師の云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」等云云、天竺に仏法無き証文なり漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る 猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508-01)
ここに、インドを発祥し、中国、朝鮮、日本と東漸してきた仏法は、つぎつぎと渡った国で栄え、インド、中国、朝鮮、その他の国々では、仏法の精神が失われ、最後の日本の国にとどまり、ここに開花し、特に奈良、平安初期の輝かしき仏教文化の興隆をみたのである。以来、日本以外に仏法なく、他の国々は、その後、仏法は長く埋没し、まったく閉ざされてしまったのである。
だが、この日本の国においても、平安末期より、仏法は、まったく形骸化し、経文に「白法隠没」とあるごとく、釈迦仏法はことごとくその力を失ってしまった。だが、当時の民衆は、釈迦仏法に力なきことを知らず、いまだ尊重の念を廃せず、むなしい祈りをささげていた。各宗派は、競って大伽藍を構え、僧侶は、わが世の春を謳歌していた。だがその実体はまったくなく、仏法それ自体の力はなく、ただ世欲的な権威と結託し、民衆のうえに君臨していたにすぎなかったのである。その証拠は今日、厳然とあらわれた。当時盛んであった、真言、禅、念仏、律、天台宗等は、今は、まったく見るも無残な醜状を呈しているではないか。大聖人時代、まさに日の出る勢いであった建長寺、極楽寺、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺等、十一通御書に認められている寺院は、今やすっかり落ちぶれ、見る影もないのである。世欲的な権威と利害で結びついた寺院は、その政治権力の没落とともに、自身同じ運命をたどっていった。
だが、大聖人の「仏法まったく地におちたり」との叫びは、僧侶が尊重され、大伽藍の目を奪っていた当時には、理解されなかった。この客人の「誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん」との質問は、当時の一般民衆の心をあらわしてあまりなきものがある。
楽土建設への前進
今日、既成宗教は、まったく頽廃の極に達している。だが、民衆の事大主義は相変わらず根強い。そのうえ先祖崇拝または尊重の念も強く、また昔からの根強い習慣が残っている。また、死に対する恐怖は万人共通である。ここに既成宗教は、必死にしがみつき、取り入り、細々ながら余命を保っているにすぎない。
それは、今日、創価学会の折伏によって、信者の数の減るのを必死に食い止めようとはかった既成仏教の各寺院が、いかなる挙に出たかによって、ますます明瞭である。彼らは埋葬拒否という悪辣な手段を講じた。これは昭和32年ごろから激しくなり、その後数年間にわたって続けられた。これこそ、彼らの宗教が、まったく堕落しきった証拠であり、民衆の弱味につけこみ、必死に余命を保たんとしながら、はかなく没落しゆくものであり、かつ日蓮大聖人の御金言の正しき証拠である。
かくして、釈迦仏法が、まったく隠没し去ったことは、経文に照らし、仏法の方軌に照らし、さらになによりも末法にはいって今日にいたるまでの数百年の事実に照らし、火をみるよりも瞭々として明らかである。
今日における仏法の真髄は、まさしく700年前に、この日本に建立された、日蓮大聖人の大仏法しかないのである。だが、既成の権威の壁は厚く、700年もの間、この大正法が日本にありながら、無智のゆえに、隠没されてしまった。
しかしながら、今日、敗戦というきびしき現実を経験して以来、民衆の眼は徐々に開かれ始めた。既成の権威にとらわれず、新しい力を求めるにいたった。これらの人々は、勇を鼓し、自分の既成概念と戦い、幾多の障壁を打ち破って創価学会に入り、日蓮大聖人の仏法を信仰しはじめたのである。それはまさに時の流れであった。
だが、忘れてならぬことは、いかなる時代においても、また洋の東西を問わず、燦然と輝く、新しき世紀、新しき時代、新しき文化を築くのは、民族のたくましき息吹、その世紀、時代、文化を渇仰する芽ばえであるとともに、それを推進し、戦い抜く、力強き指導者、実践者によってなされるという厳粛な事実である。
その指導者の存在なくば、いかなる時代の潮流をも生み出すことはできない。また、誤れる指導者によれば、新しい息吹も熱も力も、誤れる方向に向けられ、民衆をして戦乱の巷に追いやり、業火に身を焼かしめ、ついには破滅に向かわしめるのである。しかして、創価学会の進む、新しき世紀、新しき時代、新しき文化は、民衆が生命の奥底より要求してやまぬ。絶対的な幸福、真実の恒久平和の世界である。これを身をもって示されたのが、戸田前会長であった。
今日、創価学会の怒涛のごとき前進は、もはや、いかなる魔王、魔民たりとも食い止めることはできない。これあたかも、渓谷の水が一挙に大河にはいったごとく、暖められたワラの中の火が、一時に燃え上がるが如く民家の中に閉ざされていた、内奥の清浄なる生命が、その智慧と勇気と力とが、ほとばしり出て、新世紀を、新文化を築きゆく姿でなくして、なんであろう。
ついに、日本に、太陽がのぼった。これからは仏法西漸の歴史がつづられるのだ。時あたかも、東洋は、大動乱の巷にあり、世界は行き詰まってきている。日本より、東洋へそして全世界へと、大正法が広宣流布しゆく前兆ではないか。東洋は、全世界は、日本の行く手に刮目している。日本に期待するところは絶大である。ジョージ・サートンいわく「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度かわれわれの霊感は東から来た。それが再び来ないという理由がどこにあろうか。恐らく偉大なる思想は今後もなお東からわれわれに達するであろう。われわれは、それを迎える心の準備をしておかなければならない」「新しい霊感は依然東洋から来るかもしれない。いな、なお来ている。これを自覚すれば、われわれは一層賢明となるであろう」と。
アインシュタインいわく「今日の社会は、あまりにも科学が発達しすぎた。いまこれを使いこなす精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」と。
では、彼らが期待するものは、現代の動乱と殺戮と無智のうずまく東洋であろうか。否、真実に偉大なる思想によって潤された新しき東洋であり、なかんずくそれをリードする未来の楽土日本であり、それを築くのは、大正法を持てるわれらしかないことを、世界に向かって宣言するものである。
0020:17~0021:01 第二章 世人法の正邪を知らざるを喩すtop
| 18 主人喩して曰く仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ 僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり崇重年旧り尊貴日に新たなり、但 0021 01 し法師は諂曲にして 人倫を迷惑し王臣は不覚にして 邪正を弁ずること無し、 -----― 主人は納得させようとしていう。 仏像を安置した堂も経典を納めた蔵もたくさん立ち並んでおり、僧は竹や葦・稲や麻のように大勢いる。そうしたものを尊崇することは長年にわたり、尊敬は日々新たであった。しかし、法師は人に媚びて自分の心を曲げて迎合し人々を惑わせ、王も臣下も愚かで正邪を判断できていないのである。 |
仏閣
閣とは、高殿・楼観・宮殿、仏閣とは立派な門構えを持った寺院。
―――
甍
家の上棟、転じて屋根瓦、瓦葺の屋根。
―――
僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり(安国論)
僧は闍梨・行学をまっとうした出家者、侶は伴侶・伴僧。竹葦・稲麻は数の多いことのたとえ。
―――
崇重年旧り尊貴日に新たなり(安国論)
仏閣・僧侶を民衆が深く崇めるようになって年久しい。しかも、仏教を尊ぶ民の信仰は日々あらたで、次々と堂々たる仏閣が建設され、いよいよ興隆の一途をたどっているとの意。
―――
諂曲
自分の意志を曲げて、相手に媚びへつらうこと。
―――
人倫
人の尊卑の順序。転じて、広く人の踏み行うべき道をいう。
―――
人倫を迷惑す
人の踏み行うべき道をまどわすこと。邪法の僧たちが正法正義を隠没し、そのゆえに一切の人倫がみだれること。
不覚
覚悟・自覚が確かでないこと。仏法の正邪がもたらす利害、幸・不幸の結果に対し、無認識・無自覚・無智なこと。
―――――――――
現在の日本に仏教があるかないか。この点で主人と客の見解が食い違っている。
客は仏教が伝来して以来数百年にわたり、多くの名僧が出現し、多数の寺院が建立さて、天皇・将軍をはじめ万民が、これを信仰しているのではないか。にもかかわらず、どうしてこの日本の国に仏法がないとうのかと、反問するのである。
これに対し、主人は、そのように万人が信仰している宗派が、みな悉く邪宗邪義であり、今末法の時に適い、末法の機根に応じた正法が、まったく捨て去られている。しかも王臣ともに愚かで、無智で、仏法の邪正を見分けることができないから、ますます邪宗邪義が栄えているのだと喩されている。
この主客の考え方の、根本的な違いは、客が、形式主義にとらわれているのに対し、主人は、実質を論じ、権威主義、形式主義を排し、仏法の邪正・高低・浅深という、問題の核心にふれていくのである。
700年前より今日にいたるも、一貫して変わらないことは、人々は宗教を論ずるあまりに形式にとらわれ、宗教と名のつく者はみな善知識だと決めてかかって、宗教の邪正・高低・浅深にきわめて無頓着なことである。これが邪宗教の跋扈を許す根本原因である。
この権威主義、形式主義にとらわれて、実質を見失うのは、人間の弱点である。かつて、西洋においても、キリスト教会の「宗教的ドグマ」「教会の権威」は、未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を巨大な圧力で押しつぶし、権威と形式でしばりつけたいまわしい歴史である。
また、日本においても、戦時中の、あの神道思想への、一国あげての傾注は、思えば、愚かしい、狂気の沙汰であった。神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重々しくのしかかった。人々は神主は尊いもの、陸海軍の大将は立派な人物と決めて疑うことを知らなかったのである。
しかも、それらの底流をみるときに、権威主義、形式主義は、民衆の生命の奥深くに根ざしていたのである。既成の権威のなかに閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智、そして自己保身に汲々となり、長いものにまかれろ式の事大主義、これらの風潮が、政治面においては、やがて、これに君臨する巨大な独裁権力を生むのである。宗教界においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義が横行させ、それにより民衆の生命は、根底よりむしばまれてしまうのである。
今日、われわれが折伏に行くと、いかに民衆の生命のなかに、これらの風潮が残存しているかが知らされるのである。
ことに、自分の信仰している宗教が、邪宗教であると知らされるや、「先祖の宗教をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとくおこりだすなど、その典型である。自分の既存の知識、自分の既存の権威にしがみつき、必死に抵抗しようとする哀れな姿ではないか。
日蓮大聖人は、こうした我慢偏執を捨て、真に宗教の正邪・善悪を検討することを教えられている。しかして、その実質を論ずれば、真実の仏法はまったく隠没し去り、仏法の形骸のみ残存していることが明らかになると、論じられているのである。
ここに「但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し」とは、当時の一般の僧のみならず、名僧・高僧とうたわれた極楽寺良観、建長寺道隆の本質をえぐられたものであり、「王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」とは、鎌倉幕府に真正面から切り込み、その愚迷を諌言された言葉である。まことに、一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、ただ一人決然と戦われる雄姿を見るではないか。
創価学会もまた同様である。いかなる権威に迎合する必要もない。ただ真実を叫び、三類の強敵のアラシと戦ってきた輝かしき歴史が、今日の創価学会を築いている。これからも同じ道を進むのである。日本民族の幸福のため、世界の幸福のために、正々堂々と戦いの駒を進めていくのである。これこそ、最も強く、栄光ある大道ではないか。
0021:01~0021:05 第三章 仁王経等により悪侶を証すtop
| 01 仁王経に云く「諸の悪比丘多く名 02 利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、 其の王別えずして此の語を信聴し 03 横に法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。 04 涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺さ 05 れては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。 -----― 仁王経にはこうある。 「悪僧らは、名声と利益を多く求め、国王・太子・王子の前で、仏法を破壊し国を破滅させる原因となる教えを自ら説くだろう。その王は正邪を区別できず彼らの言葉を正しいものと認め、好き勝手に法律や制度を作って仏の戒めに基づかない。これを仏法破壊・国家破壊の原因とするのである」以上。 涅槃経にはこうある。 「菩薩は凶暴な象などに対しては心に恐怖を懐くことはないが、悪知識に対しては恐怖の心を生じるのである。それは、凶暴な象に殺されても地獄など三悪道に至ることはないが、悪知識に殺されると必ず三悪道に至るからである」以上。 |
悪比丘
比丘とは梵語で、仏法に帰依して具足戒を受けた男子。悪比丘とは、名利のために形ばかり比丘となり、邪法を説く輩。出典は仁王般若波羅蜜経嘱累品。
―――
名利
名誉と利益。
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破仏法の因縁・破国の因縁
文・理・現の三証に照らして、仏法に反する教えは、破仏法の因縁であり、国主あるいは一国の主権者がそれを信じ流布すれば、破国の因縁となる。ゆえに名仏法の因縁は即破国の因縁となって現れるのである。
―――
横に法制を作って
横しまとは、仏法の哲理に順じない、すなわち道理に従わないこと。法制とは法律の制度で、それを定める人の人生観・世界観によって、その本質が規定される。誤った思想の指導者がつくる法制は横しまとなる。
―――
仏戒
仏のいましめ。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。
小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻
大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻
栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻
「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
悪知識
悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。
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三趣
三悪道のこと。地獄・餓鬼・畜生をいう。
―――
悪友
悪知識と同語。道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。
―――――――――
一個人、一家庭を不幸におとしいれるのは邪宗教であり、邪義である。さらに一国を滅亡に導くもの、ほかならぬ邪宗教であることを示された御文である。この御文こそ、大聖人御在世当時にまったく符合しており、今日もその動きが見え始めている。二度と同じ轍を踏まぬためにも当時の状況をみておきたい。
極楽寺良観と国家権力の結託
日蓮大聖人の時代において、大聖人を陰に陽に迫害しつづけた元凶は、極楽寺良観という人物であった。
彼の師匠は、奈良西大寺の叡尊であった。叡尊は、もと真言僧であったが、律宗の復興に没頭し、橋をかけたり、貧乏人・病人を救済する等の慈善事業で、行基菩薩の再来とあがめられた。その弟子・忍性は、関東へ来て、律宗をひろめ始めた。彼は、巧みに幕府の要路者に取り入り、徐々に基盤を固めていったのである。
ここに、北条重時という人物がいた。重時は、前の連暑で、執権長時の父であったが、法然門下の証空の弟子、修観に帰依して入道していた。彼は、鎌倉深沢にあった極楽寺という寺に別荘を構え、極楽寺入道と称していた。彼の存在は、念仏者が幕府の権力と結ぶうえに、まことに好都合であった。
また、立正安国論の書かれたちょうどその年、やはり北条一門の北条実時が、武蔵国金沢に、やはり念仏寺院である称名寺を建てた。これは今も金沢文庫で知られているが、このように念仏は、幕府の周辺に強大な勢力を占めていた。日蓮大聖人が立正安国論を著わし、念仏宗を「此の一凶」と断じたのも、まさに念仏宗と権力者の緊密な結託があり、亡国の道を歩んでいたからである。
時頼は、これを完全に黙殺して、なんの反応もしなかった。それどころか、一か月ほどのちに日蓮大聖人の破折に、腹を立て興奮した念仏者たちは、闇夜にまぎれて大挙して松葉ヶ谷の草庵を襲撃し、放火乱入して斬りかかってきた。日蓮大聖人は、難をのがれて、一時下総の富木五郎胤継の宅に身を寄せられた。
だが、日蓮大聖人の破折は、さらに強く、きびしく続けられた。いよいよ腹を立てた念仏者たちは、告訴し、大聖人は、ついに伊豆に流罪されたのである。
この松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆への流罪の黒幕であり、張本人であったのは、ほかならぬ極楽寺良観であった。自身尊敬していた法然の実態が究明され、選択集の邪義を破折されたがゆえに、なにかにとりつかれたように、大聖人の迫害に狂奔したのであった。
良観が、最も取り入ったのは、寺地の選定に参画したことをもって、その背景がわかるではないか。そして、その翌々年、北条重時が死ぬとその葬儀の導師となり、ついに鎌倉に居を移し、さらに権力者に取り入ることに専念し、その看板に慈善事業を掲げたのであった。
彼は、まず、奈良から、当時有名であった師の叡尊を招く運動を起し、ついにそれに成功した。あたかも、今日、宗教屋が有名人を招いて、自宗の宣伝に努めるごときものであった。ために重時の子・業時はもちろん、時頼も、彼の奸智にたけた宣伝に傾倒し、まもなく、良観は時頼の招請を受けるようになった。これらは、大聖人が、伊豆へ流罪されていた間の出来事であった。
文永4年(1267)良観はついに鎌倉に入って極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、良観は、多宝寺の長老のほか、数ヵ寺の別当になった。
彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を堅くたもった聖者であると見せかける、売名的な行為であった。また、幕府に取り入らんがための手段であり、その本質は、名声欲、権勢欲にかられたものであった。しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。
聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(0476-12)と。
飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根のところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側を海岸という。ここで良観は通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。これで良観が、もはや、自分で税を取るような権限があったことがわかるとともに、多くの人の犠牲のうえに、売名的な慈善行為がなされていたことが明らかである。
慈善事業という名の売名行為
余談になるが、慈善事業が、他の多くの人々の犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。寛元2年(1244)大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、どんなに荘民の生活が圧迫されたか測り知れない。文永10年(1273)北条実時が金沢郷六浦荘戸堤の内の入江おいける殺生を禁断したが、これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。さらに弘安4年(1281)多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍がだんだん修造され荘厳を加えたが、そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人々は苦しんだことか。さらに慈善事業自体も、当時、餓死線上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていった。すなわち、当時の最底辺の人々たちは、施主に対して施物を強制するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。
所詮、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪である。民衆の貧欲をそそり、はては三悪・四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、他の人々の犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして、我利我利亡者の偽善にすぎぬではないか。今のキリスト教の各事業はこの観点から見直されるべきである。
だが、当時の人々は、良観の正体がわからなかった。名声はとみにのぼり、幕府の権力者は、良観を厚く重んじた。
日蓮大聖人は、この良観こそ、権力者にこびへつらい、権力と結託し、民衆を嘆きのどん底に追いやる元凶なることを喝破され、生き仏のごとく、六通の羅漢のごとく尊崇されていた良観に対し、断固破折を加えられた。
文永5年(1268)、閏正月18日、蒙古国より「速く通好の使いを送り来れ、然らば兵を用いん」という牒書が幕府に到着した。大聖人の予言はいよいよ事実となった。実に立正安国論の上書より9年目のことであった。
しかし、幕府は、大聖人の教えをなんら用いようとしなかった。そこで、大聖人は、4月5日、法鑒房に「安国論御勘由来」を、さらに8月21日、11ヵ所に痛烈な諌状と破折の書状を送り、公場対決を迫られた。これが、いわゆる十一通御書である。
時の執権北条時宗に対しては、立正安国論の予言が的中したことをあげて「日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり」(0169-02)と御確信を述べられ、「諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(0170-01)と、熱誠あふれる諌言をされ、さらに「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」(0170-09)と、公場対決を叫ばれた。
また、実際に国家の権限をことごとくにぎっていた平左衛門尉頼綱に対しては、同じく立正安国論の予言的中を述べ「然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、併ながら 貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(0171-02)と諌言し「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや」(0171-08)と、幕府の理不尽な態度を指摘し、さらに、同じく公場対決せよと呼号なされている。
良観に対する大聖人の破折
このように、幕府の要路者への、至誠の諌言をなされるとともに、当時の宗教界に君臨する、極楽寺良観、建長寺道隆等に対しては完膚なきまでに破折を加えられ、正々堂々と公場対決を申し込まれた。良観に対する書状を次に示そう。
「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、 若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候、所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り「於一切衆生中亦為第一」とは是なり、文言多端理を尽す能わず併ながら省略せしめ候」(0174-01)
なんたる確信に満ちた大師子吼であろうか。あの、わが世の春を欧歌し、日本国全体の尊敬を一身に集めていた良観の本質は、ここに見事に浮き彫りにされた「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし」と揶揄されるなど、悠悠たる御境涯であった。しかも「三学に似たる矯賊の聖人」あるいは「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」等と、その破折は痛烈をきわめた。さらに、絶対の確信をもって、公場対決を迫られている。もとより、極楽寺良観は、仏法それ自体の研鑽に励んで、その智徳のために名声を得たのではない。慈善事業で人をあやつり、幕府にたくみに取り入って、それまでの地位を築き上げたのであった。されば、大聖人より正面きった対決の書状をつきつけられたときの驚愕はいかばかりであったろうか。
これに対し、この時の日蓮大聖人の、死をものともせず、国を救わんとの決意は、弟子檀那への御状のなかにありありと拝することができる。
「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿.宿屋入道.平の左衛門尉・弥源太.建長寺・寿福寺.極楽寺・多宝寺.浄光明寺・大仏殿.長楽寺已上十一箇所仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ 定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給」(0177-01)と。
その時は、なんの手答えもなかった。また、なんの波乱もなかった。しかし、それは表面上のことであり、その裏面では、極楽寺良観、建長寺道隆を先頭に、七大寺の僧たちは、困惑し、狼狽し、大聖人をなんとかして迫害し、なきものにしようと、その対策に狂奔したのである。
大聖人と良観の祈雨の勝負
文永6年、7年は無事に暮れた。そして時は文永8年(1271)。
その年の2月下句より6月まで全国的な大旱魃が続き、民衆は飢饉のため、苦悩のどん底に追いやられた。執権北条時宗は、関東諸国の地頭より、日照りが続いて稲作が案じられるとの報告を受け取り、極楽寺良観に雨乞いを命じた。良観はなんのためらいもなく、満々たる自身をもって引き受け、鎌倉じゅう、否、日本国中の上下万民も「生仏の良観さまが雨乞いをしてくれる」といって喜んだ。
このことをいち早く知られた日蓮大聖人は、これこそ破折の鉄槌を加えるべき時と考えられ、「法華経の行者日蓮、対面を遂げ、申し入れたきことあり」という書状を持たせて、極楽寺へ使いを走らせた。
これによって、極楽寺から周防房と入沢入道という二人の念仏者がやってきた。大聖人は、この二人を通して、良観に次のように申し入れをされた。
「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり」(1157-17)
これを聞いた良観は非常に喜んだ。これこそ、これまで幾多煮え湯をのまされてきた大聖人を思い知らせる好機だと思ったのであろう。また、必ず7日のうちに雨を降らせる自信があったからであろう。さっそく愚かにも、このことを鎌倉中にふれまわってしまった。そして彼は「弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請」(1158-05)するという盛大な修法を始め肝胆くだいて祈禱したのだった。
ところが3日たっても4日たっても雨は降らず、ただ「あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上」(0912-10)ばかりであった。さらに彼は数百人の僧を加えて必死になって祈禱を続けた。
だが「四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・ 七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158-06)というありさまであった。
これに対し、日蓮大聖人は、三度使いをつかわして催促された。ちょうど7日目の申の時、大聖人の使者は、「いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へ」(1158-08)と、大聖人の仰せどうり叫んだのであった。
良観は、涙を流してくやしがった。弟子たちも歯ぎしりしてくやしがった。
苦しまぎれにもう7日の猶予を願いたいということになった。ところがその結果も下山御消息に「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350-10)とあるがごとく、良観の大惨敗に帰したのである。
これによって、良観は大聖人に帰伏するどころか、いよいよ第三類の僣聖増上慢の本性を発揮し、ありとあらゆる策謀をめぐらした。まことに卑怯というべきである。また、彼が二百五十戒をもっていることなど、彼がこの敗北で約束をたがえたことによって、まったくの虚偽であったことが、青天白日のもとにさらされた。
祈雨の法が終わってからまもない7月8日、良観は配下の浄光明寺行敏をして挑戦状を送ってよこした。大聖人は、その背後にある陰謀を見抜かれて、しばらく動静を見られたのち「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言」(0179-聖人御返事)と返事され、あくまでも公場対決を要望された。
そこで、良観もいたしかたなく、行敏に大聖人を問注所に訴え出たのであった。これまた大聖人に、訴えの根拠となる理由をいちいち破折され、再駁の状をだすことができず、そのままとなってしまった。
良観と平左衛門尉頼綱の結託
だが、良観は、手を変え品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人を迫害しようとした。
その時の様子は、種種御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911-03)とあり、報恩抄には「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば」(0322-12)とあり、また妙法比丘尼御返事には「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416-16)等と仰せられているなかに、その光景がまざまざとまのあたりに見られるような気がする。
そしてついに、良観は平左衛門尉を動かした。平左衛門尉といえば、当時の執権の家司と侍所の所司を兼ねた、幕府の要路者中でも第一人者である。北条幕府の政務は、評定制であるが、最後の決定権は執権が握っていたので、執権の執事たる家司の政治上の権力は、絶大なものがあった。のみならず、侍所の所司として軍事、警察権をも握っていた。実質的には政治と軍事の大権を、みずからの手中におさめていたのである。しかも、祖父三代にわたってその任にあったので、頼綱の権威は、不動のものとなっていた。彼のライバルは安達泰盛で、秋田城之介といい、大聖人も御書の中で、平左衛門尉を「平等」といい、秋田城之介を「城等」といわれ、並び称されていた。この二人が、当時の鎌倉幕府を実質的に牛耳っていたのであり、執権時宗はこの二人の勢力のうえに築かれた存在であったといっても過言ではない。読売新聞社編「日本の歴史4」には、このことが次のように述べられている。
「時宗ともっとも近い関係にある二人の重臣の勢力争いである。一人は前にも名前のでた安達泰盛であり、他の一人は時宗の家令の頼綱である。安達氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、北条氏を隆盛にすることによって、自分も勢力をのばしてきたような豪族であって、泰盛もその娘を時宗にとつがせており、評定衆、恩賞奉行、上野国の守護などを兼ねて、御家人中随一の名望家であり、また町石とよばれて、いまも高野山に残る里程標を建てたり、高野版と呼ばれる印刷経典を刊行したりするほどの富の持ち主でもあった。一方の頼綱はいわば北条家の総支配人であって、もともと御家人よりは身分の低い武士であるが、北条氏の権力が強まるにしたがって、彼の発言力もしだいに大きくなり、政界の実力者にのしあがってきた。つまり泰盛と頼綱は、時宗を動かす陰の人物ということになるが、この二人がしだいにしのぎをけずる間柄になる。
してみると、執権時宗の権力は、実は泰盛と頼綱の勢力均衡のうえに、わずかな安定を保ったようなもので、幕府の対外政策がこのような激烈な政争を超越して、時宗個人の胆略と意志だけで決定されたとは、どうしても考えられない」
この二人の争いは、のちに平左衛門尉の勝利に帰し、独裁政治を行ったことは、ここでは省略する。
ここに宗教界の名声、地位、尊崇をほしいままにした極楽寺良観と、絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握った平左衛門尉頼綱とが、利害のために結託し、大聖人を迫害するという挙にでたのであった。すでに、良観の祈雨に応援したのは平左衛門尉であった。諸宗を誹謗し、武器を隠匿しているという罪状で告発された。
第二の国諌と竜の口法難
文永8年(1271)9月10日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉直々の取り調べである。だが、逆に裁くものが裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。
「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911-04)
この大聖人の痛烈な破折、至誠の国諌は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だがその御境涯は、悠々たる大海原にも似たものであった。
その翌々日、9月12日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、物々しく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ヶ谷の庵室に乱入し、狼藉の限りを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。この時、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。撰時抄にいわく「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(0287-11)
それから、大聖人は、竜の口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模の国依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されたのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。
こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく、痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。
「法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157-07)
以上、良観の行動を中心に、邪宗教の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたが、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、その王別えずして此の語を信聴し横に法制を作って仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の本質である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動そのものではないか。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずして何であろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、特に平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型ではないか。
「横に法制を作って仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせものの御教書を作ったりしたではないか。また熱原の法難に際して多くの罪なき農民を、ありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。
「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏・破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは邪宗教であり、最も忌むべきものは、邪宗教と政治権力との結託である。
今日における邪宗教と政治権力の結託
太平洋戦争中は、形は変われども、まったく700年前と同じことを繰り返していた。神道と国家権力の結託、また、あらゆる宗教がことごとく妥協し、神道のもとに統一される等、さらに、その末期に近衛文麿が、日本にどうしても勝算がなくなった時、高野山に祈禱を頼んだことなど、まさしく邪宗教の害毒を知らざる哀れな姿であった。これ、破仏・破国の因縁であり、ついに国は滅び去ったではないか。しかるに近年にいたって、神道の復活を夢見て策動したり、政治家に働きかけて、再び神道の国家保護を目論むなど言語同断といわざるをえない。まして生長の家あたりが、天皇制復活をかついで、政界進出をはかる等のことは断じて許されるべきではないか。
今日もまた、政治権力と邪宗教の結託という、過去のいまわしき事例が、ふたたび頭をもたげ始めている。
特にその動きが顕著だったのは、昭和40年に行われた、参議院選挙の際であった。この時、既成宗教では、東西本願寺から、また全日仏からそれぞれの代表が当選し、新興宗教では生長の家、新宗連、立正佼成会からも当選者を出している。
彼らは、いつも宗教団体の政治介入はけないと、創価学会を非難してきた。ところが、最近になって創価学会の大前進に恐れを懐いたこれらの邪宗教は、なんの臆面もなく、にわかに参議院等に、自己の利益を守るべく候補者を立てたり、保守党と取り引きをして推薦候補にする等、邪宗教と政治家の結託が、目立ってきたのである。これほど卑怯で卑劣な団体、教団はない。これら教団こそ、魔物であり、悪魔であると断言するものである。
しかも、彼らの所属はほとんど保守党であり、政治の腐敗堕落が叫ばれ、国民の不信を買っている保守党議員との馴れ合いこそ、彼らの邪宗教の本質を見事に暴露しているのである。
すなわち、すべて名聞名利のために宗教団体は政治家を利用し、政治家は宗教団体の票をあてにして媚びを売る等、まったく理念も節操もない、野合である。そのうえ邪宗教は、口を揃えて、学会に対する悪口、中傷を並べ立てた姿は、大聖人御在世にける、良観をはじめとした邪宗の坊主と、幕府が結託して日蓮大聖人を迫害したのと同じ方程式であり、まさに破仏法と破国の因縁を説くと示されたとおりである。
涅槃経にいわく「爾の時に多く無量の外道有って和合して共に摩訶陀の王、阿闍世の所に往き、今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為って能く善を修せず、呪術の力の故に迦葉及び舎利弗、目揵を調伏す」と。
瞿曇沙門とは釈尊のことである。無量の外道あって和合してとは、いっさいの邪宗教が総連合をつくることである。摩訶陀の王、阿闍世とは一国の指導者であり、政治家である。ここでは、明らかに邪宗連合と悪徳政治家が結託して、唯一人の釈尊の悪口をいい、迫害しようとする原理が説かれている。
700年前においては「唯一人の瞿曇沙門」とは、日蓮大聖人であり、大聖人を迫害するために、権力者に媚を売り、へつらい、取り入らんとする当時の良観等の邪宗の坊主の連合こそ、この文のとおりではないか。さらに今日において「唯一人の瞿曇沙門」とは創価学会である。創価学会に敵対して、なんの節操もなく、全日仏・新宗連等の邪宗総連合をつくり、権力に迎合する姿もまた、まったくこの経文のとおりである。3000年前のこの経文が、まったく今日のことを述べたごとく、連合しているのは、いかに時移り、人は変われども、そこに一貫して変わらざる原理があることを物語るものである。されば、今日の、邪宗教と政治権力の結託という事実は、まさしく亡国への胎動なりと断ずるものである。
唱法華題目抄にいわく「悪知識は甘談詐媚巧言令色もて人を牽いて悪を作さしむ 悪を作すを以ての故に人の善心を破る之を名づけて殺と為す即ち地獄に堕す」(0007-15)と。
国にとっては亡国の根源であり、個人にとっては、その生命をむしばみ、善心を破壊し堕地獄に向かわしむる因こそ、邪宗教の実体である。邪宗教と既成の悪徳政治家の結託は、社会の繁栄と個人の幸福を実現するのに反し、社会の滅亡と個人の不幸をもたらす以外なにものでもないのである。
しかして、あたかも、大聖人の痛烈な破折によって、良観等の実態が明らかになったごとく、われわれの戦いが進めば進むほど、今日における腐敗権力との結託が、鮮明になることは当然であり、このいまわしき壁を打ち破ることが、広宣流布の大前進の基盤となることを強く主張するものである。
次に涅槃経の「菩薩悪道等に於ては」の文であるが、これは、いかに邪宗教が、恐ろしいものであるかを明示したものである。悪象とは、釈尊の時代のインドにおいては、凶悪な象が、もっとも恐れられていたので、恐ろしいものの代表として、これをあげたものであろう。悪象のために殺されるとは、今日においては、交通事故で不慮の死を遂げたり、強盗に殺害される等の横死を意味する。だが、これらの原因による死は、けっして地獄・餓鬼・畜生の三趣に堕ちることはない。だが、悪友のため、悪知識のために殺されるならば、絶対に三悪道に堕ちるというのである。
悪知識も悪友も、ともに邪宗教であり、邪智、謗法の者をさす。すなわち、邪宗教によって、生命を破壊されるならば、三悪道に堕ち、永久に苦悩に沈みゆくしかないとのことである。この原理にしたがえば、今日、いかなる核兵器よりも、いかなる大地震よりも、邪宗教が恐ろしいのである。
0021:06~0021:11 第四章 法華経を引き悪侶を証すtop
| 06 法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、 或は 07 阿練若に納衣にして空閑に在り 自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、 利養に貪著するが故に白衣 08 の与めに法を説いて 世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、 乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと 09 欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議 10 を説くと謂わん、 濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて 我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘 11 は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん」已上。 -----― 法華経にはこうある。 「悪い時代の僧は、悪智慧がはたらき、人に媚びて自分の心を曲げて迎合し、覚りをまだ得ていないのに『得た』と思って、自分が優れているとおごる慢心に満ち満ちているでしょう。あるいは、人里から離れたところで粗末な衣を身にまとい、人が住んでいない場所にいて、自分では慎み深い行動をしていると思い、俗世間の人々を軽蔑する者がいるでしょう。布施に執着して、在家の人々に法を説いている。世間の人々から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を習得した阿羅漢のようです。…常に人々の中にいて、私たちを非難しようとするからです。 国王や、大臣・バラモンや家長およびその他の僧らに向かって、私たちを誹謗し、悪人であると説き、私たちのことを誤った考えの人であり、仏教以外の教えを説いていると言うでしょう。 世界全体が混乱する悪い時代には、多くの恐ろしいことがあるでしょう。悪鬼が悪僧の身に入って私たちを罵り、中傷するでしょう。 混乱した時代の悪僧は、仏が方便を用いて人々の受容能力に合った法を説くことを知らないで、私たちに悪口を浴びせ、顔をしかめるでしょう。そして、私たちはたびたび居所を追い出されるでしょう」以上。 |
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
現存しない経
①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
現存する経
④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている
説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。
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悪世
闘諍堅固・白法隠没の五濁悪世のこと。末法の相をいう。
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邪智にして心諂曲に(安国論)
日寛上人の分段には「これ正直ならざるゆえに邪曲という。仁王経の悪比丘・涅槃経の悪知識これなり」とある。
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我慢
自分を恃みたかぶって、他をあなどること。我意を張り他に従わぬこと。
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我慢の心
自己の感情、意志、思想に執着し、慢心盛んにして、正法正義を信じ実践する者を誹謗・罵詈・迫害すること。
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阿練若
梵語(Aranya)阿蘭若・阿蘭那・阿練茹とも書く。訳して無諍声・無声所・遠離処・意楽処・無諍行・閑静・寂静処・空寂・無諍・空家等という。人里離れた静かな山寺のこと。
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納衣
僧衣・袈裟のこと。もともとは糞掃衣ともいい、人が捨ててかえりみない布帛を縫い集めて作った法衣。
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空閑
人里離れた静かな山寺のこと。阿練若と同意。
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人間
①人の住むところ②世間・俗界③人柄
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利養に貪著する
法の為、世の為などには眼中になく、自利自養のみを考えているありさま。貪り執着すること。
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白衣
在家の信者のこと。釈尊在世では僧侶の穢色に対して、俗人は白衣を着たため、転じてこう呼ばれる。
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六通の羅漢
六神通をもった阿羅漢。六神通とは天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)。阿羅漢とは、無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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婆羅門
インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
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居士
梵語で(grha-pati)といい、家長・長者と訳す。出家しないで仏門に帰依した男子。
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邪見
仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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濁劫
五濁に支配される時代。五濁とは
①劫濁。時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
②見濁。思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
③煩悩濁。貪・瞋・痴等の煩悩が盛んになること。
④衆生濁。衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。
⑤命濁。衆生の寿命が次第に短くなること。
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仏の方便・随宜所説の法
仏が方便として、宣しきに随って説いた所の法。すなわち、衆生の機根に従って説いた方便権教のこと。爾前の諸経に執着する輩は、それが随自意の実教である法華経とまったく異なることを知らないのである。
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顰蹙
顔をしかめて憎むこと。
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数数・擯出せられん
数数とは、一度ではないこと。擯出とはしりぞけ、のけもの、居所を追い出すこと。伊豆・佐渡流罪がそれにあたる。
伊豆流罪 弘長元年(1261)5月12日~同3年(1263年)2月22日
佐渡流罪 文永8年(1271)10月10日~同11年(1273)3月8日
勧持品には、「数数見擯出遠離於塔寺」とあるが、大聖には何故諸御書に、「数数見擯出」のみを強調され「出遠離於塔寺」は省略されているのか。推測の域を出ないが、大聖人の一生において「塔寺」なるものに安住されていない(大聖人の居所は鎌倉・名越領の松葉ケ谷の草庵と甲斐・南部郷の波木井の草庵で搭寺といえるものではない)ためではなかろうか。
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これは、有名な勘持品の二十行の偈で、三類の強敵を説いた未来記である。この文と、日蓮大聖人とのお振舞いをみるに、あまりの一致に驚嘆し、かつは、仏法の偉大さを心底より実感せずにはおれぬではないか。この二十行の偈を、三類に分けるとつぎのようになる。
第一類=俗衆増上慢 諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし
第二類=道門増上慢 悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に末だ得ざるを為れ得たると謂い我慢の心充満せん
第三類=僣聖増上慢 或は阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん、利養に貪著するが故に白衣の与めに法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん
日蓮大聖人は、諸御書に、この勧持品二十行の偈を身読したのは、自分以外にないと断言されている。そしてこの事実をもって、御自身こそ、法華経に予言された、末法の全民衆を救済する御本仏であるとの確信に立たれているのである。
開目抄にいわく「我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ、『悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲』又云く『白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し』此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-10)
上野殿御返事にいわく「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、 不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557-02)
現代の三類の強敵
この三類の強敵は、今日、われわれも常に経験するところである。
まず第一の俗衆増上慢につては、御義口伝に「一文不通の大俗なり悪口罵詈等分明なり日本国の俗を諸と云うなり」(0748-第七有諸無智人の事-02)と述べられている。すなわち、一般の人々の悪口、罵詈雑言が俗衆増上慢である。これはわれわれが信心するやいなやあらわれてくるものである。普段は、心よく交際し、暖かく話し合い、助け合う中の人が、たちまち血相を変え、激怒をはらんで、大声で罵声を放ち、あるいは陰に回り、悪口をなすのである。まるでおこったことのないような人までが、この信心の話となると、決まって、怒りだしたり、猛反対するのは、まことに不思議であり、仏法の原理の正しさを、ひしひしとわが身に体験するのである。だが所詮、人々の生命の奥底は、妙法へと向かっているのである。どんなに反対しようが、悪口しようが、それ自体、逃れよう逃れようと賢明なるがゆえであり、その実相は、大御本尊へと向かう姿なのである。事実、今日、五百数十万世帯の学会員が、はじめは大なり小なり反対した人々であり、なかには激しい憎悪と怒りをぶちまけた人さえいるのである。この人々が、今や口に大御本尊の偉大さを讃嘆し、喜喜として、希望多き日々を送っているのは、まさに、そのなによりの証明ではないか。
次に、第二類の道門増上慢については、「悪世中比丘の悪世とは末法なり比丘とは謗法たる弘法等是なり、法華の正智を捨て権教の邪智を本とせり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は正智の中の大正智なり」(0749-第八悪世中比丘の事)と述べられている。
自宗の正義を貫くなんらの信念もない宗教は、ただ利益のため、世法のために連合し、おのが宗教を守らんとする、卑怯な、醜い創価学会に対する批判、これ「邪智にして心諂曲」のものではないか。邪な教義に毒され、さも大学者のごとく装い、正法を盲評する悪僧等は、まさに「末だ得ざるを為れ得たりと謂い。我慢の心充満せん」に当たる輩ではないか。
わが創価学会の歴史からいえば、戸田前会長の会長就任の昭和26年(1951)ごろから、昭和30年(1955)の小樽法論を境として、道門慢の力は衰えてはいるが、以後、宗教上の論争をうることもなく、既成宗教の最後の抵抗ともいえる埋葬拒否等の墓地問題も、昭和34・5年ごろを頂点として、その後、法律論において、彼らの主張の非合理が明らかにされる判決が出て、終止符を打っている。
されば、広宣流布の大前進と、民衆の覚醒により、これらの邪宗教も、しだいに没落していくことは必然であるが、これらの宗教が、海外に根をはりつつあることも見逃すことはできない。日本から海外へ逃避した邪宗教は、やがて世界広布の時がきたなら、どこに逃げるのであろうか。また邪宗教が、なんとか創価学会に対抗しようとして、連合軍を作っているものもあるが、いかに策謀を講じようと、あせり、あがこうが、ただおのれの墓穴を掘っているのみである。「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」(1190-08)「師子を吠る犬は腸くさる」(1080-13)等の御金言に照らし、それは歴然たるものである。
もはや、彼らに創価学会に抵抗する力がなく、これからの戦いは、僣聖増上慢との闘いであり、この勝利こそ広宣流布実現の最後の砦であろう。
現在は僣聖増上慢との戦い
第三の僣聖増上慢とは、現在では、世界的尊敬を集めている一流の評論家、学者、あるいは一流日刊紙等の誹謗中傷をさす。また、政治家、財界人等の権力者が、国家権力を盾に、陰に陽に迫害してくることをいうのである。これに往々にして先の道門増上慢たる邪宗教が結託することは、前章に述べたごとくである。
かつて、戸田前会長は、広宣流布の前提として、僣聖増上慢の出現する時がくると、つねづね申されていた。その時とは、まさしく今である。以前は、彼ら権力者、評論家、学者等は、学会に対して冷静を装っていた。というより、小バカにしていた。だがいよいよ創価の大折伏戦が展開し、新しい日本の建設に立ち上がるや、既成の権威にしがみとく連中は、驚愕し、あわてて本気になってその進出をはばもうとしてきているのである。
学会の目的は、民衆を幸福にする以外のなにものでもない。生命の限りなき尊厳を説ききる日蓮大聖人の仏法を奉じ、あらゆる人々が心の底より望んでやまぬ、幸福な平和な社会を築くこと、ただそれだけである。これ真の民主勢力であり、平和勢力であり、仏の軍勢である。この進出を食い止めようとするものは、いかにうまいことを言おうが、その実体は反民主主義勢力であり、保守反動であり、魔軍である。しかして、学会の前進が本門の時代にはいるにつれ、魔もいよいよ本格的となってきている感が深い。いにしえの大聖人時代においては、大聖人を迫害した平左衛門尉の本質は、民衆の幸福を奪い、恐怖と不幸とを与える悪魔であった。その誕生は、大聖人滅後のあの恐怖政治である。
だが今日は順縁広布、化儀の広布の時代である。彼らにいつまでも、民衆の幸福を奪われたままでおいておく時代は過ぎ去った。これからは、日蓮大聖人の仏法を根底に、幸福にめざめ、汝自身の内に秘めた力を知り、社会に目を瞠いた民衆が、有智の団結をもって築く時代である。今や民衆の心は、滔々と流れゆく大河の如く、動いているのである。大悪大善御書にいわく「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、 普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり」(1300-01)と。すでに三類の敵人あらわれたり。必ずや大正法が広宣流布し、社会の安泰・平和が実現することは、大聖人の御金言に照らし、絶対なりと確信するものである。しかして、迦葉尊者よりも、舎利弗よりも、百千万億倍すぐれたる大歓喜をもって、さらに広宣流布をめざして前進するものである。
0021:12~0021:16 第五章 涅槃経を引き悪侶を証すtop
| 12 涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘 13 有るべし、持律に似像して少く経を読誦し 飲食を貪嗜して其の身を長養し 袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て 14 徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し、 常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと 外には賢善を現し内には貪嫉を懐く 15 唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。 -----― 涅槃経にはこうある。 「釈尊が入滅した後、数えきれないほどの歳月が過ぎて、四段階の仏道修行上の覚りをそれぞれ得た聖人たちもことごとく亡くなるだろう。正しい教えが滅びた後、像法の時代に、次のような僧が現れるにちがいない。見た目には戒律を守っているようであるが、少しばかり経典を読誦しては、布施として手に入れた飲食を貪り、我が身を養っている。袈裟を着ているといっても、まるで猟師のようであり、注意深く目を配り歩くさまは、猫が鼠を狙うようである。 そしていつもこう言う。『私は阿羅漢の境地を得た』と。外見は、賢人・善人の姿であるが、内には激しい欲望を抱いている。無言の行をしているバラモンなどのようである。実際は出家修行者の格好をし、誤った考えに満ちていて、正しい教えを誹謗するだろう」以上。 -----― 16 文に就て世を見るに誠に以て然なり悪侶を誡めんずばあに豈善事を成さんや。 ・ -----― 経文に即して世の中を見てみると、実にこのとおりである。悪僧を制止しないで、どうして善事を成し遂げることができるだろうか。 |
涅槃
梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。
①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。
②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。
③権大乗では他方の浄土へ往生すること。
④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
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無量百歳
無量も百歳も、ともに長い年月をあらわす。仏滅後、正法から像法・末法へと時が移る年月。
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四道の聖人
四道とは①須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四果のこと。②初依・二依・三依・四依のことで、四依を聖人ともいう。聖人の聖とは耳がよく通って、声がよく聞こえることを意味する。普通の人の聞きえない天の声をよく聞きうる人。儒教では、智慧がすぐれて万時に通達し、万人の仰いで師表とすべき理想の人物をいった。堯・舜・孔子等がそれで、唐以降は天子の尊称として用いられた。仏法においては、智慧が広大無辺で、慈悲深く、その時に適った正法を持ち、民衆を救済する指導者、正師・仏の事。
―――
像法
釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
―――
持律に似像して
律とは戒律のことである。邪僧の高僧たちが、外見はあたかも戒律を保っているかのような姿に似せるさま。
―――
飲食を貪嗜
飲み物や食べ物をむさぼること。
―――
長養
育て、養うこと。
―――
袈裟
梵語(Kasōya)不正雑色の意。僧侶が左脇から右脇下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条・七条・九条の三種がある。法衣・功徳衣・無垢衣・忍辱鎧ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せたたのが衣としたのが由来とされる。以来仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するよになった。袈裟の色は青・赤・黄・白・黒を避けて、他の雑色を用いることが決まりとなっており、普通似黒・似赤・似青を用いる。インドでは乾陀色、中国では木蘭色、日本では香色という。
―――
猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し
漁師が獲物を見つけて、細目でにらみながら、気づかれあれないように、近づいていく様子。邪法の僧侶が金持ちの信者に近づいていくさま。
―――
外には賢善を現し内には貪嫉を懐く
外面はさも賢者で、善良であるようにみせかけること。しかるに、心の中では欲が深く、信者の布施を貪り、正しい仏法を受持する人を妬んで、さまざまに妨害すること。
―――
唖法
バラモンの修行の一つで、無言の行、人に向かってものをいわず、唖のように黙り込んでしまうのを至道とする。邪宗の僧が、偉そうな恰好ばかりで、説法もできなければ、信者の指導もできず、法門のことを聞かれても、答えられないことをいう。
―――
沙門
梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
―――
正法を誹謗せん(安国論)
日寛上人の分段には「註にいわく『この一文・但・誹謗の末句にあり』と云云、上来これ律僧に約す、ゆえに同文のゆえに来なり、今浄土家に対するゆえに誹謗正法の末句これ今の所用なり」とある。
―――
誠に以て然なり
まことに経文に説かれているとおりのすがたである。
―――
悪侶を誡めんずば
日寛上人の分段には「花の朝に嵐を厭い月の夕には雲を厭う、もし謗法の悪侶を誡めんずば何ぞ正法の善事をなさんや」とある。
―――
善事
一般大衆を真実に導くこと。
―――――――――
我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て
この涅槃経の経文が、釈尊滅後2000年以後の末法の時代を示すことは、明白である。すなわち日蓮大聖人は、下山御消息に、この涅槃経の同文を挙げて、次のように、仰せである。
「此の経文に世尊未来を記し置き給う。抑釈尊は我等がためには賢父たる上明師なり聖主なり、一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云く『我涅槃の後無量百歳』云云仏滅後二千年已後と見へぬ、又『四道の聖人悉く復涅槃せん』云云、付法蔵の二十四人を指すか、『正法滅後』等云云 像末の世と聞えたり、『当に比丘有るべし持律に似像し』等云云今末法の代に比丘の似像を撰び出さば日本国には誰の人をか引き出して大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき、俗男俗女比丘尼をば此の経文に載たる事なし但比丘計なり比丘は日本国に数を知らず、然るに其の中に三衣一鉢を身に帯せねば似像と定めがたし唯持斎の法師計相似たり一切の持斎の中には次下の文に持律ととけり律宗より外は又脱ぬ、次下の文に『少し経を読誦す』云云相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば誰を指し出だし経文をたすけ奉るべき、次下の文に『猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如く外には賢善を現し内には貪嫉を懐く』等云云両火房にあらずば誰をか三衣一鉢の猟師伺猫として仏説を信ず可し、哀れなるかな当時の俗男・俗女・比丘尼等・檀那等が山の鹿・家の鼠となりて猟師・猫に似たる両火房に伺われたぼらかされて今生には守護国土の天照太神・正八幡等にすてられ他国の兵軍にやぶられて猫の鼠を捺え取るが如く猟師の鹿を射死が如し、俗男・武士等は射伏・切伏られ俗女は捺え取られて他国へおもむかん王昭君・楊貴妃が如くになりて後生には無間大城に一人もなく趣くべし」(0348-04)
以上の御文のごとく、大聖人は、涅槃経の経文を、滅後2000年已後の末法において極楽寺良観のような悪侶が、出現することを、御在世中の鎌倉時代に約して、釈しておられるのである。日寛上人は文段に「像法なおしかなり、いわんや末法をや、ゆえに像法というなり」と仰せである。しかして、この涅槃経の経文を、化儀の広宣流布の時代たる現状に約せば、いかなることになるのであろうか。
涅槃経の現代的意義
この経文は、まったく現代の宗教界の実態を浮き彫りにしてあまりあるものがある。
今日において、最も悪らつなものは、宗教界を装う宗教事業家、すなわち宗教屋である。日本全国の寺々には、お布施をもらうための寺であり、日本全国の宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的である。
自分は生仏であるとか、生神様であるとか、上行菩薩であるとか、無辺行菩薩であるとか、ひどいのになると日蓮再来とかいいだして人々をまよわせ、また姿は、あたかも宗教家であるかのような格好をして教義には眛く、都合主義の教義をこしらえ、信者から金をしぼりとる様は、まさに「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」の文そのままではないか。
しかもまた、自分はさも聖人のごとく、見せかけ、心の中では貧欲のかたまりであり、善人をうらみ、嫉妬し迫害するのは、まことに「外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」偽善者であろう。少し教学について突っ込むと「唖法を受けたる婆羅門」すなわち人間の言葉を忘れる修行をしたもののごとく、だまりこくって返事をしない。これは、かつての小樽問答における身延派の代表のあの醜態ぶりを見れば明らかである。これこそ、真実を教えず、否、知らずして、甘現で人をあやつることのみにたけた詐欺漢であろう。そのうえ金をしぼりとるのでは、追剥に等しいではないか。これ「沙門に非ずして沙門の像を現し邪見熾盛」の者であり、されば「正法を誹謗」する挙に出るのである。
今日の指導者階級の姿にも符合
また、この文は、単に宗教家にとどまらず、政治家、評論家、学者等にも通ずるものである。
「持律に似像して」とは、さも教養人、文化人のごとく装うことである。「少く経を読誦し」とは、少しばかりの自分の才智を誇ることであり「飲食を貪嗜して其の身を長養し」とは、不幸な民衆の上にあぐらをかき、私利私欲にふけることである。「袈裟を著すと雖も」とは、昔は、袈裟をつけていれば、僧侶として尊敬をうけた。だが、今日、僧衣を見ただけで尊敬心をもつという人はあまりいない。元来、袈裟は春秋左氏伝に「衣身の章なり」とあり、その注に「章は貴賤を明らかにするなり」とあるごとく、今日においての袈裟は、まさに評論家、頭取、重役等の看板であり、国会議員のバッジであり、大臣のポストである。
「猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」とは、すべて名聞名利であり、人気取りに没頭し民衆に媚びへつらい、また他の有力者に取り入る様であろう。選挙の時に、候補者が、票集めに狂奔し、民衆に取り入り、実現しようという意志がないにもかかわらず、票のために政策を並べ立て、あるいは金品で人々をあやつり、または恩を売り、義理でしばり、あらゆる手段を講ずるあの様は、まさしくこの文のとおりである。しかも、その心は、獲物を狙う漁師のごとく、鼠を伺う猫のごとく、さらには狼のごとく、虎のごとく民衆を食いものにすることは必定である。
「常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと」とは、自分ほど偉いものはないという、思い上がりであり、うぬぼれである。わずかばかりの知恵ですべたがわかったこのように思う錯覚である。よく創価学会のころを知らずに、よく調べもせず勝手に、学会批判をなす者がいるが、これなどもこの文にあたるであろう。
「外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」とは、さも、聖人君主のごとく振舞い、心の中は、自分の利益のみを思い、常に他人のよくなることを憎み、怨嫉をいだくことである。今日の指導者の中に、真実に民衆の幸福を思い、不幸の人が幸福になることを、最も喜び、人生の生甲斐をする人が何人かいるが、まことに残念なことではあるが皆無に等しき現状である。いかに、地位を得ようと、名声を得ようと、それ自体が人間の価値を決めるものではない。むしろ名聞名利に狂奔するならば人生の堕落者であり、敗残者である。これ、今日の政治家、財界人、評論家の大半の姿なのである。
「唖法を受けたる婆羅門等の如し」とは、何ら定見がなく、権力にもおおむね時流迎合する輩であり、かつ、自分に危険があるときは、その問題についてはまったく黙して語らなかったり、たえずそれを避けようとして、言を左右する卑怯な者のごときである。人々の思惑を気にかけ、たえずそれによって発言をする等は、これ何の信念もなき、オウムのごときであり、まさに唖法そのものであろう。
「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」とは、民衆の幸福を願う指導者のような顔をして、その実は、民衆を足蹴にし、民衆の幸福を奪う悪人のことである。「沙門」とは、通常出家して仏道を修める者の通号である。だが本来の意味は、勤息と訳し「善法を勤修して悪法を止息する者」の意であり、広く論ずれば民衆救済の指導者すなわち、民衆のため、社会のため、一身を投げ出して戦う人は「沙門」に通じよう。だが、現代の指導者は、形のみ偉ぶり、その実質は、名利にとらわれたもののみ多く、まことに残念でならない。これらのものが第三類の僣聖増上慢として、創価学会を中傷し、迫害してくるのは「邪見熾盛」のためであり、「正法を誹謗せん」の文のごとくである。
以上、日蓮大聖人は、仁王経、涅槃経、法華経の文を引き、いかに形の上では、仏法が盛んのように見えても、実質は、まったく地におちたことを述べられている。しかしてこれらの文と、大聖人の時代の世相とまったく符合しているがゆえに「文に就て世を見るに誠に以て然なり」と仰せられているのである。この大聖人の一言は、そのまま、現代にも通ずるものである。まことに、これらの経文は、現代の世相を映し出したる明鏡であり、仏法の方程式が、いかに時代が移り、人は変われども、万古に変わらざる原理であるかとの明証である。
真実の幸福への善事
ここに「善事」とは、一般大衆を真実の幸福へ導くことである。善とは、個人の行為が、社会に対する関係の中で、美の価値と利の価値を社会に提供することで、これにも小善・中善・大善と分けなければならない。小さな社会、たとえば農村の部落に利益になることは、農村部落の善ではあるが、その上の社会、たとえば村民社会全体の損になることは、その上の社会からみれば、その小さな社会の善は悪になるのである。農民社会の利益は、農民社会の善ではあるが、それが国家社会に不利益であれば悪となる。それを要約すれば、小善が中善に敵対すれば悪となる。中善が大善に敵対すれば大悪となる。
大善にして至高善とは、全人類社会に幸福を与えるということである。その幸福を、根本的に与えきる唯一の道は、仏法の根本、末法御本仏の真意たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信ぜせしめることである。されば、大悪の本源たる邪宗教を打ち破らずば、真実、幸福の善事はなされぬことは明らかである。ここに「悪侶を誡めんずばあに豈善事を成さんや」と仰せられたのである。
0021:17~0024:04 第四段 正法誹謗の元凶の所帰を明かすtop
0021:17~0022:01 第一章 正法誹謗の人・法を問うtop
| 17 客猶憤りて曰く、 明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、 世上の僧侶は天下の帰する所 18 なり、悪侶に於ては明王信ず可からず 聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、 今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽 0022 01 からざるを知んぬ、何ぞ妄言を吐いて強ちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘と謂うや委細に聞かんと欲す。 -----― 旅人はそれでもわだかまりが解けずにいう。 聡明な王は天地の道理に基づいて人々を教え導き、聖人は道理にかなっているかどうかを見極めて世を治めている。世の中の僧は天下の人々が帰依している対象である。悪僧に対しては聡明な王は信じない。聖人でなければ賢明な人が尊敬することはない。今、賢人・聖人が尊重していることから、竜や象にもたとえられる立派な僧侶は軽んじてよいものではないと分かるのである。どうしてあなたはいいかげんな言葉を吐いて、無用な誹謗を成し、いったい誰を悪僧と言うのだろうか。詳しく聞こうと思う。 |
明王
賢明な君主。天皇・執権・将軍、総理・大臣等。
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天地に因つて化を成し(安国論)
森羅万象の根底にある法、社会の現状、民衆の欲望に応じて、政治を行ていくこと。
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聖人は理非を察して世を治む(安国論)
世間の道理に適った社会正義と、道理にあらざる邪説を分別して、民衆の生活の安定に尽くしていくこと。
―――
世上の僧侶
現在の世の中の僧侶
―――
悪侶に於ては明王信ず可からず(安国論)
正法に違背する僧侶の言をを、賢明な天皇や執権、指導者は用いてはならないという事。
―――
賢哲
賢は多才、哲は智をいう。智者・学匠をいう。
―――
竜象
聖者・高僧を巨大で威力のある動物、竜や象にたとえていう語。
―――
妄言
五戒・十悪の一つ。口から出まかせをいうこと。
―――
誹謗
悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。
―――――――――
この段は、世の中を乱し、民衆を不幸のどん底に沈ませた最も悪い僧侶の代表として、法然を取り上げ、法然の著わした撰択集が邪法を弘め、正法を誹謗する元凶となっていることを明らかにしている。
「客猶憤りて曰く」とは、前段においては色を作し憤ってほぼ問うてきたが、この段では前段における主人の答えに対して、客は前にも倍してますます憤りを増して主人に質問をしてきたので「猶憤りて」というのである。前段において、主人は、客の問いに対して、この日本の国には、たしかにたくさんの寺があり、僧侶も数えきれないほどたくさんいるが、いずれも正法を誹謗した邪宗教ばかりで、そのために、社会は幸福にならないのみか、かえって災難が競い起こる結果になってしまったと、三災七難の本源を指摘したのである。
ところが、客にしてみれば、この答えはまったく予想外であり、かつ不可解なものであった。世の僧侶はいずれも天下万民から尊敬の的となっている人たちばかりで、主人のいうような悪侶ではないというのである。もし、主人のいうような悪い僧侶であったならば、世の人々が尊敬するわけでもないし、そのような宗派が興隆を誇るはずがないではないか。というのである。そこで、そのようなことをいうならば、具体的に誰をさして、悪侶というのか、というのが、この段の問いである。
宗教の正邪を決するもの
「世上の僧侶は天下の帰する所なり」とは、近代以前においては、僧侶が社会の知識階級であり、指導的階層であったことを考えなければならない。たとえば、現代の最新の科学技術に相当する大陸の諸文化を、まず最初にわが国にもたらしたのは、仏法修学のため大陸へ渡った学僧たちや、宋から弘経のために渡来した僧たちであった。
こうした僧のなかには、彼の地で医術や土木工法や農法までも学んできて、それを応用指導する者も珍しくなかったのである。これらの特殊技術が、仏教信仰と結びついて、僧侶の社会的地位を、いやがうえにも高めていたのである。
かつての真言の弘法が唐へ留学したとき、大陸に上陸してまず足を向けたのは長安の都であった。彼はここで、もっぱら灸や土木の工法を学び、その後わずかに仏法を聞きかじって帰ってきた。真言のごとき邪法しか知らなかったのも、このゆえで、帰国後の彼は、まず灸や土木工事で名を売り、その名声に便乗させて真言の邪法を弘めたのである。
大聖人当時の律宗の良観や、禅の栄西、道元も手口は同じである。表面は、こうした技能をもって社会に貢献しているように見せかけながら、恐るべき邪法をもって、人々を地獄へ堕とし、三災七難を起していったのである。
法然については、別に詳しく論ずるので、ここでは簡単に述べるが、彼こそ当時、日本国じゅうを風靡した浄土宗の教祖であり、勢至の再誕か、阿弥陀の化身とまでいわれるほど、死後ますます、尊敬を集めていったのである。
しかも、それを尊崇しているのは、無智盲目の庶民百姓ばかりでなく、公卿、武家から天皇、執権までも熱心に信じ、仰いでいる。賢明であり、学識もある。これらの人々でさえも尊崇しているほどの僧であるから、その僧が悪侶であり、不幸の原因などといっても信じられないというのが、客の言葉である。
だが、大部分の人が賛成し支持しているからといって、それが正しいとは必ずしもいえない。また、有名な政治家や学者が信仰しているからといって、その宗教が正しいとは必ずしもいえない。
たとえば、中世ヨーロッパにおいては、民衆も、高名な学者や指導者も、あげてキリスト教神学を尊び、それが正しいと信じて疑わなかった。しかし、近世の夜明けとともに、神学の誤りはつぎつぎと明らかにされ、万人が認めざるをえなくなってきたではないか。
戦前のわが国における国家神道も同じである。当時の民衆、指導者のなかで、はたして何人がその誤りを明確に意識し、それを主張したであろうか。
その反対に、支持する者が少ないからといって、それが誤っているとはいえないことも、コペルニクスやガリレオ等の例から、明らかであろう。
宗教の正否を決するものは、その教義であり内容である。その教義の浅深勝劣の判定によってはじめて、正しいか、否かが決定されるのである。
しかして、物理学のことは物理学者に、経済学のことは経済学者に、仏教のことは仏教を最もまじめに、真剣に学んでいる者に聞くのが当然である。ゆえに、われわれは宗教に関しては、わが、創価学会に聞くべきであると主張するのである。
さて、このように大勢の民衆から尊敬される立場であればこそ、その謗法の罪は一層重い。かつて初代牧口会長は、価値論のなかで、同じ罪でも社会的に重要な立場にある者の場合は、それだけ大悪となると教えられた。これを、世間話にあてはめるならば、誰にも理解できる。
仏法は見えざる世界の原理を説く。そのためなかなか納得しがたいが、道理は同じことである。法然はじめ僧侶たちは、世の人々から尊敬されているがゆえに、多くの人々を地獄に堕とし、世の中に大きい害毒を流す。したがって、その罪はきびしく弾劾されなければならないのでる。
明王・聖人と聖人との関係
また、日蓮大聖人は、この段の客の問いを通じて、真の指導者のあり方を述べられている。すなわち「明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む」のところは、社会の指導者のあるべき姿を明確に示されたものである。ここでいう明王とは、文中においては鎌倉時代の権力者、すなわち、京都の朝廷あるいは鎌倉幕府、別しては北条氏をさしているが、現在のわれわれの立場から拝するならば、現在の政治そのものであり、またそれを司る政治家、為政者のことである。また、聖人とは大学者とも、また政治の中心的人物とも拝することができる。
「明王は天地に因つて化を成し」とは、すなわち、一国の政治、また為政者というものは「天地に因つて」 一往は宇宙のリズム、再往は社会のことである。 すなわち、社会の働き、民衆の微妙な心、要望に、時代の潮流等を察知していくということである。「化を成し」の「化」とは、元来「徳を以って人民を導き感ぜしめ、善良なる風俗習慣を作る義」である。すなわち今日においては、抽象的なものでなく、どのように具体的に、時代に応じ、社会を繁栄させ、民衆の生活を安定させていくことができるか、ということである。単に理論のための理論ではなく、机上の空論でもなく、どのようにして、民衆を指導し、しあわせにしていくかということが、指導者、政治家の最大の問題である。
しかるに、現実はどうか、まったく、これと逆である。いつも民衆から離反した政治、私利私欲のためならば、民衆の不幸をなんら顧みようとしない政治、悪から悪へ、闇から闇へ、国のほんの一握りの人々のために、多くの大衆を犠牲にしている政治、はたして、わが国に、真の政治家ありやと疑うものである。民衆の幸福を考慮しないものが、どうして政治家、また指導者といえるか。現在のわが国の政治は、いわゆる政治以前の大人のケンカそのものではないか。政治以前の政治を、政治家以前の政治家がやっているといったら、いいすぎであろうか。「聖人は理非を察して世を治む」 ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、さらに、それを政治の根本理念として、いかなければならないということである。「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負等を、具体的な政治の場面に反映させ、あくまでも、民衆の生活の安定を目標としていかなければならない。すなわち民衆の幸福、大衆福祉の実現こそ、政治の要諦である、ということである。
現在は、政治の乱世であるため、理非を察してではなく、利害を根本として社会が運営されている観がある。そして、恐るべきことは、そのような政治であっても、それをなんとか革命していこうという気力さえ、国民の大半が喪失してしまったことである
すなわち、政治家はもちろんのこと、学者も、評論家も、この濁りきった政治をどのように革命していったらいいのか、見当もつかず、ついには現在の姿が、あたかもあたりまえのように、考えられてしまっているという情けない状態である。それにつづく民衆にいたっては、まったくの半身不随の状態である。
これ、民衆の生命それ自体が濁りきってしまった姿である。これを打開する方途を見いだされぬ限り、腐敗せる土壌、脆弱な土台のうえに、いつも、劣悪な政治が繰り返されているだけである。極端な人間無視の政治が行われるのも、所詮、その底流は、民衆の無気力、無智、惰弱な生命にある。この状態を、人間性をしばりつける道徳や、精神修行で打開できぬことは当然である。
では明王と聖人は何によって生ずるか、これが大問題である。そもそも人間の生命を本源的に変革する唯一の道は、日蓮大聖人の仏法しかないのである。政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、またその他のあらゆる文化は、ことごとく“人間”の営みであり、人間生命の具体的な表現である。この人間それ自体を善導し、変革し、最高に発揚させる根源の方途すなわち正しい仏法を教える人、これ仏法上の「聖人」の立場であり、これを土台として、具体的に民衆の幸福を願い、権力政治ではなく、慈悲の政治を実現し、大衆の福祉を、現実に社会に、国家にあらわしていく人、これ「明王」と「聖人」の立場なのである。
過去の歴史をひもといてみるとき、真に民衆のことを思い、国家のことを考えて、政治を行う指導者の出現したときは、その国家はおおいに繁栄し、国民はとみに充実した。だが、悪い為政者に支配されたときの国家や、国民は、まったく悲惨な目にあわされているのである。その善悪を決定したものは、実に指導者が持った法の正邪・高低であった。
いま、国の内外に大きな問題をかかえたわが国は、いまこそ明王・聖人すなわち真実の民衆の指導者の出現を待っているものといえるのであろう。一日も早く濁りのない、清らかな政治が行われることを、祈り続けてきたわれわれ国民にとって、明王・聖人の出現こそ、待望久しきものである。われわれは今日まで、どんなにか耐え忍び、明王・聖人の出現を求めてきたことか。だが、これは所詮無理であり、あきらめざるをえないことは明瞭となった。
もとより、仏法の原理に照らし、創価学会が明王・聖人となる以外になきことは必然であるが、ここに「王」とは、独裁者の「王」ではなく、民衆それ自体であり、または、民衆のなかより出、民衆の与望を担い、民衆の幸福のために戦う真実の指導者の意である。また、聖人というのも、民衆から離れた指導者を意味するのではなく、有智の民衆は直結し、民衆を真に幸福に導く指導者である。創価学会が第三文明建設に立ち上がり、あらゆる分野に有為な人材を送らんとしているのも、まさにこの実践以外のなにものでもない。
0022:02~0023:03 第二章 法然の邪義撰択集を示すtop
| 02 主人の曰く、 後鳥羽院の御宇に法然と云うもの 有り選択集を作る則ち一代の聖教を破しアマネく十方の衆生 03 を迷わす、 其の選択に云く 道綽禅師・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、 初に聖道 04 門とは之に就いて二有り 乃至之に準じ之を思うに 応に密大及以び実大をも存すべし、 然れば則ち今の真言・仏 05 心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意正しく此に在るなり、 曇鸞法師往生論の注に云く謹ん 06 で竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く 菩薩・阿毘跋致を求むるに二種の道有り 一には難行道 二には易行道な 07 り、 此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり 易行道とは即ち是れ浄土門なり、 浄土宗の学者先ず須らく此の旨を 08 知るべし設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も 若し浄土門に於て其の志有らん者は 須らく聖道を棄てて浄土に帰 09 すべし又云く 善導和尚・正雑の二行を立て 雑行を捨てて正行に帰するの文、 第一に読誦雑行とは 上の観経等 10 の往生浄土の経を除いて 已外・大小乗・顕密の諸経に於て 受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、 第三に礼拝雑 11 行とは上の弥陀を礼拝するを除いて 已外一切の諸仏菩薩等及び 諸の世天等に於て 礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑 12 行と名く、 私に云く此の文を見るに 須く雑を捨てて 専を修すべし 豈百即百生の 専修正行を捨てて 堅く千 13 中無一の雑修雑行を執せんや 行者能く之を思量せよ、 又云く 貞元入蔵録の中に始め 大般若経六百巻より 法 14 常住経に終るまで 顕密の大乗経 総じて 六百三十七部二千八百八十三巻なり、 皆須く 読誦大乗の一句に摂す 15 べし、 当に知るべし 随他の前には暫く定散の門を開くと雖も 随自の後には還て定散の門を閉ず、 一たび開い 16 て以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、 又云く念仏の行者必ず三心を具足す可きの文、 観無量寿経に云 17 く同経の疏に云く問うて曰く 若し解行の不同・邪雑の人等有つて 外邪異見の難を防がん 或は行くこと一分二分 18 にして群賊等喚廻すとは即ち別解.別行・悪見の人等に喩う、私に云く又此の中に一切の別解.別行・異学・異見等と 0023 01 言うは是れ聖道門を指す已上、 又最後結句の文に云く 「夫れ速かに生死を離れんと欲せば 二種の勝法の中に且く 02 聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ、 浄土門に入らんと欲せば 正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて 選んで応 03 に正行に帰すべし」已上。 -----― 主人がいう。 後鳥羽院の治代に法然というものがいて『選択集』を作った。そして釈尊のすべての教えを否定し、十方の衆生を一人残らず迷わせた。 その『選択集』にこうある。 「『道綽禅師が聖道・浄土門の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰依すると述べている文』『初めに聖道門とは、これについて二つある』大乗経には顕教と密教・権教と実教があり、道綽は顕教の大乗経と権教の大乗経という歴劫修行の教えを聖道門とする。 これに準じて考えると、聖道門には、密教の大乗経と実教の大乗経も含まれるだろう。そうであるから、今の真言・禅・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論の諸宗、これら八つの宗派の主張は、正しくこの聖道門に在る。 曇鸞法師は、『往生論註』でこう述べている。 『謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を調べてみるとこうある。菩薩が不退転の境地を求めるには、二種の道がある。一つには難行道、二つには易行道である、と』 この中、難行道とは、聖道門のことにほかならない。浄土宗の学者は、まず、このことを知らねばならない。仮に以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門に心を寄せているなら、聖道門を棄てて浄土門に帰依しなければならない」 またこうある。 「『善道和尚が、正・雑の二行を立て、雑行を捨てて正行に帰依すると述べている文』 第一に読誦雑行とは、先に述べた観無量寿経などの浄土への往生を説く経を除いて、それ以外の大乗・小乗・顕教・密教の諸経を受持・読誦することを、ことごとく読誦雑行と名づけるのである。 第三に礼拝雑行とは、先に述べ他阿弥陀仏を礼拝することを除いて、それ以外のすべての仏菩薩などと仏教以外の様々な神々を礼拝し敬うことを、ことごとく礼拝雑行と名づけるのである。 私見を述べると、これらの文を見る限り、雑行を捨てて専ら正行を修行しなければならない。どうして百人が百人とも往生できる専修正行を捨てて、千人に一人も成仏しない雑修雑行にかたくなに執着するだろうか。修行をする者は、よくこのことを考えよ」 またこうある。 「『貞元入蔵録』の中に、最初の大般若経六百巻から最後の法常住経までの顕教・密教の大乗経は、すべて合わせて六百三十七部、二千八百八十三巻である。これは皆『大乗を読誦する』との一句に当然、包摂される。 結論として以下のことが分かる。随他意の教えを説いている前の時には一時的に定善・散善の修行の門を開くけれども、随自意の教えを説いている後の時には以前とは逆に定善・散善の門を閉じるのである。一たび開いて以後永久に閉じないのは、念仏の一門のみである」 またこうある。 「『念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないという文』 観無量寿経には次のようにある。 善導の『観無量寿経疏』にはこうある。 『問うていう。もし法門の理解や修行が、浄土教の人と同じではなく、誤ったものをまじえている人たちがいたとしよう。…そのような浄土教以外の邪な異なった人による批判を防ごう。…あるいは道をほんの少し行ったところで群賊などが呼び返すとは、別の理解・別の修行・悪い思想をいだいている人らを譬えているのである』 私見を述べると、…また、この中に『すべての別の理解・別の修行・異なった考えの者など』というのは聖道門のことを指しているのである」以上。 また最後の結びの一句はこうである。 「そもそも、速やかに生死の苦しみを離れようとするなら、二種の勝れた法の中で、ひとまず聖道門を置いておいて浄土門を選んでその一員となれ、浄土門の一員になりたいならば、正行・雑行の二つの行の中で、ひとまず種々の雑行を抛って、正行を選んでそれに帰依するのでなければならない」以上。 |
後鳥羽院
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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選択集
法然の代表的著作で、選択本願念仏集という。当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)選述し、浄土宗の教義を十六章に分けて明かしている。その内容は、念仏以外の一代仏教を捨閉閣抛せよという破仏法の邪義で、当時においてすら並榎の定照から「弾選択」、栂尾の明慧から「墔邪輪」「荘厳記」をもって破折されている。
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十方
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
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道綽禅師
(0562~0645)浄土宗七祖の第四祖。中国唐代の僧で、14歳で出家し、讃禅師に師事して空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門にきえした。貞観2年(0645)84歳で死去した。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として、釈迦一代仏教を誹謗した。
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聖道浄土の二門
聖道門・浄土門の二門のこと。聖道門とはあくまでも、この娑婆世界で悟りを開き、成仏するために説いた教えであり、浄土門とは、この娑婆世界を穢土と嫌い、他方に極楽浄土があるとして、そこへ往生することを目的として修行することを教えた権の教え。道綽が爾前40年についてこの二門を立てたのを、法然は法華経まで我見で含めてけなしている。
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真言
真言宗の事。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
仏心
禅宗の事。涅槃経にある「正法眼蔵、涅槃の妙心・実相無相、微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付嘱す」との経文どおりに伝承して、第二祖阿難、第三祖商那和集と、代々相付して第二十八祖の達磨にいたったという邪義を立てる。戒定慧の三学のうち、とくに定の部分のみ強調し、仏教の神髄は複雑な教理の追及でなく、座禅入定によってのみ自証体得できると説く。仏心を月にたとえ、経文を月をさす指にたとえて経文の不要を主張する。教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏等の邪義がそれである。しかし、その半面、楞伽経や像法決疑経を用いているのは、これらが方便権教であることはもちろんである。明らかに前の主張に相違するのである。わが国では栄西(1141~1215)、道元(1200~1253)が曹洞宗を、隠元(1592~1673)が黄檗宗を始めた。
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天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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華厳
華厳宗の事。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道?が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえる。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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地論
地論宗の事。天親菩薩の「十地経論」によって立てられた宗派。開祖は慧光。のちに華厳宗に吸収された。日本には伝承されていない。
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摂論
摂論宗のこと。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てられた宗派で、中国陳隋の世に広まったがのちに法相宗に包含された。日本には伝承されていない。
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八家
南都六宗に(倶舎、成実、律、法相、三論、華厳)天台、真言を加えた宗派。
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曇鸞法師
(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。
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竜樹
付法蔵第十三。竜網菩薩ともいわれる。仏滅後700ねんごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義をひろめた。はじめは小乗教を学んだが、のちヒマラヤ地方で一老比丘から大乗経典を授けられ、それ以降、弁論巧みに外道を破折した。のち、南インドの国王が外道を信じていたので、これを折伏するために、7年間、赤旗をもって王宮の前を往来した。ついに王がこれを知り、外道と対論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信を受けて大乗教をひろめた。著作には「大智度論」「十二門論」「十住毘婆沙論」「中観論』などがある。正法時代の正師であり、表には出さなかったが、内心では一念三千を知っていたと大聖人が認めておられる。
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十住毘婆沙論
竜樹の造。羅什の訳で十七巻からなる。華厳経十地品の初地、二地を釈したもので、難行道・易行道の文は第五巻「易行品」にある。爾前経について難易を論じたもので法然のごとく法華経までいわれたものではない。
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阿毘跋致
梵語(avivarika)。意訳して「不退転」。仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても退転しない境涯になること。天台大師は菩薩の五十二位のうち、初住のくらいをもって不退としている。これをさらに三段に分け、
①位不退、別教の第七住、円教の第七信であって見惑・思惑を断じ、二死を離れる位として退転しない位であるので、位不退という。
②行不退、別教の第八住。円教の第八信に登れば塵沙の惑を断じ、化他に出ずるのである。化他においてはいかなる難があっても退転しないので行不退という。
③念不退、別教の初地。円教の初地にいたれば無明惑を断じ、一分の中道の理を証し、その心は常に中道実相を離れないゆえに念不退と名づける。
この念不退に位不退、行不退を含めて、円教の初住に三不退を具すると説いている。羅什は訳語として阿鼻跋致を用い、十住毘婆沙論の訳以後、法華経の訳には阿惟越致と訳語として用いているが、同義語である。大智度論では無生法忍を同じ意味で用いている。
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正雑の二行
正とは一止不邪、雑とは穢悪交雑の義。
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善導和尚
(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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難行道
易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
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易行道
難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。
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善導
(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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読誦雑行
法然が立てた五種の雑行のひとつ。法然は選択集の中で法華経などの諸経を「 ① 読誦雑行、②観察雑行、③礼拝雑行、④称名雑行、⑤讃歎供養雑行」と立て禁じている。日寛上人は「今第一・第三を出す、『読誦は経を謗ずるにあり、礼拝は仏に逆うにあるゆえなり』と云云」とある。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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世人
人界の神および諸天善神をいう。
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礼拝雑行
法然が立てた五種の雑行のひとつ。法然は選択集の中で法華経などの諸経を「 ① 読誦雑行、②観察雑行、③礼拝雑行、④称名雑行、⑤讃歎供養雑行」と立て禁じている。日寛上人は「今第一・第三を出す、『読誦は経を謗ずるにあり、礼拝は仏に逆うにあるゆえなり』と云云」とある。
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百即百生
阿弥陀仏を念じ、その名号を唱えれば、百人が百人ともに、極楽往生へ往生できるという善導の邪義。
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専修正行
もっぱら念仏の正行を修する意で、自力を離れてただ念仏をする浄土真宗の宗義をいう。これは邪義である。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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雑修雑行
念仏宗で説く邪義。、「雑行・雑修・自力の心」を捨てなければ、阿弥陀仏の救済はないと説く。
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貞元入蔵録
唐の徳宗が貞元年中に、僧・円照が勅命によって選んだ経巻の種目。
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大般若経
般若経のこと。大品・光讃・金剛・天王門・摩訶の五般若からなり、仁王般若を結経とする。釈尊が方等部の説法を終わり、法華経を説くまでの間に説いた経文で、説処は鷲峰山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」四十巻と玄奘三蔵の「大般若経」六百巻がある。前者を旧訳・後者を新訳という。般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称で般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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法常住経
訳者不詳。文中に「法は常住なり、仏あるも仏なきも法の住するは、もののごとし」とあるので、この名がつけられた。法は常住であるけれども、仏が深義を分別して三乗の機根に応じて法を説き説脱せしめるのは、仏が根本の法に合して浄明徳を成じ、それによって衆罪を消滅せしむるのであると説かれている。
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随他
衆生の機根に応じて説くこと。法然は釈尊が浄土三部経を説く手段として、随他のために、それ以外の諸経を説いたが、浄土三部経があらわれてのちは、随自になるから、これらの諸経は閉じるべきだと述べている。一代仏教の浅深・勝劣を知らないで勝手に立てた邪見である。
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定散の門
法然は観無量寿経で、極楽浄土へ往生する方法として、十六種の観法と三福の修行を説く。この十六観のうち、前の十三観を定善といって、浄土の荘厳な仏菩薩の相好を諦観するので入定凝念を必要とする。のちの三観および三福は、散乱の心のままで念ずることができるので散善という。しかし、この定散ともに、仏の随他意の教えで末法のためではなく、念仏の一行のみが仏の随自の教えで末法のための教えであるとの邪義を構えた。
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三心
至誠心・深心・回向発願心のこと。
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観無量寿経
略して観経ともいう。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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解行の不同
聖道門の人は念仏の行者と知解も修行も同じでないから、解行不同という。
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邪雑の人
念仏宗では聖道門の念仏を謗る人を邪雑の人と呼んでいる。
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外邪異見の難を防がん
観経疏のなかの答えの一句である。念仏者以外の人を外道・邪見・異見の者として、それらの難を防いで、もっぱら念仏を修行せよ、との意。
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群賊等喚廻す
合譬の中の一句である。涅槃経及び大智度論に、火と水の二河と幅四、五寸の白道の譬えがあるのを、善導が引いて極楽往生をすすめている文。白道を進もうとする良民を群賊と呼び返すというのは、別解・別行・悪見の人、すなわち聖道門の雑行の人で、これらの人々の言葉に従うなと善導は念仏者に警告しているところである。法然は竜樹・天親・南岳・天台・明楽・伝教を皆群賊の中に入れてしまっているのである。
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すでに客が、悪侶とは一体、誰かと問うたのに対し、今、答えの意は、謗法の悪僧の元凶として法然の名を挙げ、その選択集の邪義を徹底的に破折されたのが、本章である。法然は選択集を作って、捨閉閣抛といい、仏教を破り、民衆を迷わしたがゆえに、法然を悪比丘としたのである。
すなわち、この時代の宗教界の実態は、国の大半が念仏者となって、法然に帰依していた。他に天台、真言、禅、律などの諸宗もかなりの勢力をもち、活動もしていたが、浄土宗の発展ぶりに較べれば、天台、真言、律は停滞期にあり、法相、華厳等は没落期、禅宗は、まだ微々たる勢力でしかなかった。いわば念仏は開創以来数十年を経て、旭日の勢いを示している新興宗教の覇者だったのである。しかも、それが権教をもって実教を破る仏教破壊の思想で、悪鬼、魔神の邪教であることは歴然としていた。経文に照らし、三災七難の元凶であることも明々白々である。
このゆえに、日蓮大聖人は、その念仏の開祖たる法然の名を挙げて、特に法然が選択集を作って捨閉閣抛と称し、仏教を破り民衆を迷わしている実体を示して、これの折伏に立ち向かわれたのである。しかしながら、主人のいう悪侶とは、単に法然一人にとどまるものでない。総じては、いっさいの邪宗僧侶を全部含めているのである。
なぜかならば、すでに第一段の問いにおいて、客をして「然る間或は利剣即是の文を専にして」から「万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う」まで、国じゅうのあらゆる宗教がそれぞれ力の限りを尽くして、国難退治の祈禱を行っているにもかかわらず、一向に効き目がないばかりか、ますます災難、不幸を増長するばかりであると嘆かせている。このことは、いかなる宗教も三災七難を対冶できないことはもとより、結局、彼らこそ災難を増長させている原因であることを物語っている。
さらに、先に仁王、涅槃、法華の各経文を引いて示されたが、これらの文に該当する僧は、どの宗派にも共通である。そうした僧は、ことごとく仏法のなかの怨であり、天魔外道の輩なりと断じられるのである。法然は、その最も凶悪なる代表として挙げられたのである。今日、浄土宗、真宗、真言宗、禅宗、等々の既成宗教から、明治時代以降および戦後に誕生した新興宗教に至るまで、宗教界のすべての僧、教祖、幹部に、この経文がピッタリと符合している事実を痛感するものである。また、その邪義をつくる手口も、本章で示されている法然のそれと、まことによく似ている点に注目すべきであろう。
法然は、曇鸞、道綽、善導の邪義をさらに発展させて種々に邪義を構えた。これが、いかにずるがしこい、卑怯な方法で行われたか、少しく検討していけば明瞭である。
まず聖道門と浄土門との立て分けは、道綽の安楽集にある邪説である。だがこれは、爾前の諸経を聖道、浄土の二門に立て分けて、聖道門を捨てて、浄土門に帰すべしと述べているのであってまだ法華経を含めていない。
だが、法然は、選択集において、聖道門に法華経を含めて、これを捨てよと論じたのである。すなわち「準之思之」の四字で、拡大解釈し、道綽の立てた聖道・浄土の二門を法華経にまで及ぼしたわけである。すべて、この調子で、曇鸞の難行道・易行道、善導の正行・雑行の邪説を「準之思之」の四字で拡大解釈し、法華経誹謗の大重罪をおかしているのである。
これについては、大聖人は、守護国家論で次のごとく述べられている。
「問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く「初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな」(0052-06)
この法然の邪義がいかにして作られていったかは、あとでさらに詳しく論ずることにして、まずあのような低級、卑劣な邪義が、なぜ当時あのように蔓延したか、これを明らかにするために、ここで当時の宗教界における法然の地位、法然の一生、法然の選択集の破折の順でのべてみたい。
民衆の無智につけこんだ法然
延暦13年(0794)の平安京遷都以来、絢爛たる文化を誇った良き時代も11世紀にはいると、政治の腐敗、仏教界の堕落、僧兵の横暴、武士団の勃興と、世の中は物情騒然たる時代となり、相次ぐ天災、飢饉のなかに、人々は不安の毎日を余儀なくされていた。
それまで天台宗を中心としていた仏教界は、その内側における葛藤から、腐敗、乱脈をきわめ、しかも保元、平治の乱、さらに源平の合戦と、相次ぐ戦乱にみずから巻き込まれて、人々を救うなんの力もないことを露呈したのである。こうして現世を穢土として嫌い、浄土往生を願う念仏思想が、次第に民衆のなかに溶け込んでいった。
しかも、永承7年(1052)は、釈尊滅後ちょうど2000年、すなわち末法にはいる年とされ、従来の煩瑣な理論を持つ仏教では功力はないとし、単純な、新しい宗教の出現を渇望していったのである。
法然の念仏思想は、こうした時代の風潮に便乗したもので、それまでの天台・真言のように難解な教義はなんら必要とせず、いっさいを捨てて、ただ念仏を唱えることによって、極楽往生できるというきわめて単純なものであった。法然に帰依したものの大部分が、朴訥無学な武士や諸民であったことは、既成仏教と根本的に異なる点であった。彼らにとっては、わずらわしい教義はなんら必要ではなかった。専修念仏の信仰は、聞くだけでうっとりとするような極楽浄土を慕うムード、狂信的な踊り念仏の流行、若い念仏僧が美声を張り上げて歌う和讃等々、いわば現代のモンキー・ダンスやロックンロール、ジャズ等のような形で民間に浸透していったのである。それは、まったく精神異常以外のなにものでもなかった。
このあと、すぐ述べるところであるが、少しく仏教を知り、冷静に考えてみるならば、法然の教義は実にたわいのないものであり、しかも正法を誹謗した恐るべき邪説であることが、すぐ判断できたはずである。のみならず、比叡山の学僧のなかに、これを破折して世に警告を発した人も少なくなかった。だが、一般民衆にはなにもわからないまま、疫病が流行するように蔓延していったのである。
法然によって説かれた専修念仏の教えは、その弟子たちの手によって、たちまちのうちに全国に流布し、わが国は上下をあげて、この邪義に心酔してしまった。なかでも前に述べたように、時宗の一遍等は、全国をくまなく遍歴して、邪教を弘め、無智な民衆をたぶらかしていったのである。
この時代は、法然の念仏のほか、禅宗が北条時頼を後ろ立てに得て、発展し、栄西、道元、道隆などの僧を中心として、隆盛をはじめている。律宗でも、良観が、巧みに幕府に取り入って、自己の保身、勢力の拡張を推し進めている
法然の一生
ここで法然の生い立ち、その一生を略述してみよう。法然は長承2年(1133)美作国久米郡に生まれた。父の漆間時国は久米郡の押領使で、母も土地の豪族の出であった。法然が9歳の時、父時国は多年にわたって争いを続けてきた土地の預所明石定明に夜襲を受けて殺されてしまった。このような事件は当時の社会にあっては、役人同士の争い、中央官僚と地方豪族の争いとしてよくあったもので、特に珍しいことではなかった。
浄土宗側の伝記によれば、この夜襲の際、臨終の父は法然に対して、仇討ちを厳にいさめ、一切衆生が安易に救済される法門を開顕するために、出家するよう諭したというが、幼名を勢至丸といったこととともに、当時の記録になくはなはだ疑わしい。久安3年(1147)、15歳の時、母に暇を乞い、比叡山に登り、持宝房源光の室にはいり、ついで功徳院皇円に移り、11月に剃髪受戒して円明善弘と名のった。
ここで3年間修学したのち、18歳の時、黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、ここで法然房源空と改名した。この黒谷で、彼は慧心僧都の「往生要集」をはじめ、諸宗の章疏を学び、なかんずく、善導の「観経疏」の「一心専念弥陀名号」の文をみて、承安5年(1175)、43歳の春、浄土宗の邪義を構えたのである。
彼の教義の特色は、それまでの仏教界の中心であった天台宗等が、難解な教学を旨としたのに対して、戒定慧の三学をはじめ、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、ただ阿弥陀に対する強い信仰を強調したことである。これによって、一般庶民を引きつける力を持つ結果とはなったが、それは、まさに仏法を隠没する暴義でもあった。
また、布教の仕方も、従来、僧侶は山中にはいったり、いかめしい寺院の奥深くにあって、庶民のなかでも、遊女や賤民と話したり、顔を合わせたりすることはなかった。これに対して法然らは、そうした婦女子にも積極的に近づいて、布教を進めていった。こうして、多くの無学な武士階級や一般庶民が、つぎつぎと念仏を唱え始めた。貴族のなかでは関白九条兼実らも帰依し、法然の教義は上下に伸張していったのである。
ために比叡山、興福寺などの旧仏教から嫉視されるようになり、たびたび念仏禁止の上奏がなされた。だが、最初のうちはこの上奏も、いずれも却下され、沙汰やみとなっていた。しかるに建永元年(1206)、法然が74歳の時、彼の弟子で美貌、美声の噂の高い安楽と住蓮が開いた念仏の会合に、後鳥羽院の留守を利用して、数人の女房が出席した。そして、彼女たちが安楽、住蓮と密通したという噂がひろまったのである。これが、院の大きな怒りを呼んでしまった。
年が明けるとともに、法然門下の僧侶は次々と捕えられ、安楽、住蓮の二人は死刑、そのほか法然自身も讃岐に流罪に処されたほか、多くの門弟が島流し、追放をいい渡された。
浄土宗ではこれを法難と称して美化しているが、女性問題、風紀問題で弾圧されたことが、なにが法難か。これを国難を救うためわが身を惜しまず諌暁され、ために三類の強敵を呼び起こした大聖人の法難とくらべるなら、まさに天地雲泥の違いがあるではなか。
法然は道々、遊女や漁師など庶民に布教を続け、承元5年(1211)許されて京都に帰ったが、翌年、80歳で没した。その後嘉禄3年(1227)すなわち、彼の死後15年、延暦寺の僧徒の訴えによって、念仏禁止の勅宣が下され、墓および堂宇は破壊され、遺骸は鴨川に流された。
仏教に全く依らない選択集
法然は、その生涯において、幾つかの著作を試しみたが、その代表とされるのが「選択本願念仏集」である。彼の構えた邪義は、この一書に集約されており、これが以来700年間、日本民族を苦しみ続けた念仏の害毒の源である。
この選択集に対する破折は、日蓮大聖人の諸御書で論じられているが、なかでも体系的に完膚なきまでに破折し尽くされたのが「守護国家論」である。今、立正安国論で破折されているのは、ごく大網をとって論じられている。しかし、これだけでもすでに明瞭なごとく、選択集の邪義の拠りどころは、すべて、曇鸞、道綽、善導、慧心僧都の人師の説であって、仏説たる経文に対しては、亳も考察し、依拠としていないのである。
なぜ、仏説を依処としないか、それは、法然が唱えようとしている教義が、経文のどこにも説かれていないからである。すなわち法然の浄土宗とは、仏教とは名ばかりで、内容的には仏教とはなんの関係もない、法然経にすぎない。
およそ仏教と名のる以上は、その主張に誤りのないことが、経文のうえで、証明されるものがなければならない。こういえば、現代科学の帰納法的思考しか知らぬ人々は「それでは発展性がないではないか」と反論するかもしれない。
この反論は、一応は尤もである。だが、東洋哲学の真髄たる仏法は、そうした帰納法とは本質的に違う演繹法に立つものであることを知らなければならない。すなわち、仏の悟り、境地は絶対的なものであって、そこにいっさいの原理があり、源がある。仏の説いた八万四千の法門には、すべてが説き尽くされているのである。このゆえに、仏の金言、仏の予言に反する説は、邪説と断ずることができるのである。これが仏教者の信念であり、鉄則である。
さらに一般的に論じても、もしも仏の説と異なった説を立てる以上は、仏の説のどこに誤りがあるのかを明確にしたうえで立てられるものでなければならない。それをまったく無視して、しかも異説を唱え、そのうえに、ただ独断的に、浄土三部経のみが正しくて、他はすべて誤りであるから捨てよ等というものは、民衆を盲目視し、ばかにしているにもほどがあるといわねばならない。
しかして、そうした根拠のない邪説に、ただ盲目的に従って、低級なる三部経にのみ執着して、最高の法華経をはじめ、仏の経説を捨てる民衆は、愚かといって、なんのいいすぎであろうか。この盲目の民衆をきびしく叱り、めざめさせて正法を教えられたのが日蓮大聖人である。
目をさまし、生気に戻って眼を開いて見るならば、末法衆生の主師親、すなわち御本仏は、日蓮大聖人にほかならないことがわかるのである。その末法御本仏、日蓮大聖人の説かれる成仏得道の大白法こそ、三大秘法の大御本尊である。
ここで、この立正安国論で、特に、本章等において、法然の邪義を責めるにあたり、難行道、聖道門、雑行のなかに法華真言を含めている我見を、特に強調されている所以がある。
「実教より之を責むべし」
法華真言とは、大聖人御在世当時でいえば、一応は比叡山自体ともいえる。したがって一見、これは、法然の浄土宗を責めて、天台宗に帰依せよと主張されたかのように思われるむきもあろう。
だが、大聖人の御真意が、天台宗のごときでないことは、冒頭の客の質問に、天台宗の祈禱も一向に効き目がないと嘆かせられていることからも明白である。ではなぜ、ここで法華真言と申されたのか。これは、すなわち、権実相対の立場で論じられていることを知らなければならない。
如説修行抄にいわく、
「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し 敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(0503-13)
浄土宗が依経とする阿弥陀経は権教である。わが国においては、伝教大師の出現によって、実教たる法華経の広宣流布が成し遂げられている。しかるに、今になって、浄土宗がひろまったということは、権実雑乱以外のなにものでもない。しかも、法然が、法華経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てというのは、まさに権経即実経の敵となる姿ではないか。
この時には「実教より之を責む可し」なのである。このゆえに権実相対の立場から、大聖人は権教たる阿弥陀経に対して、実教たる法華経を立て、権仏たる阿弥陀如来に対して実教たる釈迦如来を立てられたのである。これにより、法華経こそ最高唯一の教なることを知り、さらに法華経の経文のうえから、末法に出現せられた日蓮大聖人こそ、経文に予言せられた末法の御本仏であり、大御本尊以外に幸福になる道はないことを、知りやすくせんがためである。かつ、同じく法華経といい実教といっても、天台仏法の法華経でないことは、観心本尊得意抄に「設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如」(0972-09)等とあることから明瞭である。如説修行抄の「純円・一実の法華経」「一乗流布」というのも、末法流布の三大秘法の謂なのである。
末法の民衆の生命力を増し、絶対的幸福の人生を遊戯せしめる本源こそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈された、三大秘法の仏法にほかならない。しかして、これが最も根本的な大良薬なのである。日蓮大聖人の御本意は、あくまでもこの大良薬を服せしめることにあるのであって、天台仏法に帰依せよと仰せられているのでは、毛頭ないことを知るべきであろう。
浄土宗教義の成立
さて、法然の邪義の所以のさらに深いのは、仏の経説によらず、人師の謬説によっていること、さらに、この人師の説を曲げてしまっているということである。これを明かすため、曇鸞、道綽、善導がどのような謬説を立てそれを法然がどのように邪悪化したかを概要しょう。
曇鸞について
曇鸞は5世紀末から6世紀にかけて、いわゆる南北朝時代の人で、はじめ四論を学んだがのちに病にかかって長生不死の法を求め、江南に道士、陶弘景をたずねて仙経を得て北に帰った。しかるに、洛陽で菩提留支に会って、その法を聞き、たちまち意を翻して仙教を焼き、もっぱら浄土教に帰依した。魏の帝王の帰依をえて親鸞の名をもらい、并州大厳寺に住み、晩年は石壁山玄中寺に住んだ。
著書に「往生論註」二巻、「略論安楽浄土義」「讃阿弥陀仏偈」などの浄土教に関するものから、「療百病雑方丸」三巻、「論気治療方」一巻といった道教式の医書まである。往生論註は、その代表的著書で、菩提留支が訳した天親菩薩の「優婆提舎願生偈」を、竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」の易行品等の所説を取り入れて論じたものである。
竜樹、天親は正法時代に出現した正師で、その所説は権大乗経の流布に本意があり、権大乗のなかで浅深勝劣を明かしたのであった。そこでは、権大乗と実教とは明確に立て分けて論じられていた。曇鸞の「往生論註」も、難行、易行の二道を立て分けたが、あくまでも権大乗の諸経のなかでの論議で、法華経を難行道に入れることはしていない。法華経までも一緒に論じたのは、法然が初めてつくった自分勝手な邪説にほかならないのである。
日蓮大聖人は、これを破折して「守護国家論」に次のように述べられている。「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。」(0053-11)と。
このように、雑行、易行を論ずるならば、法華経が最も易行であることを、仏みずから定めている。このゆえに、曇鸞ですら、法華経を難行道に含めることをはばかったのである。しかるに法然は、仏説に背き、曇鸞の教えも踏みにじって、法華経を難行道に入れ、これを捨てよ等という、大謗法を犯している。
道綽について
道綽は6世紀後半、唐代の僧で、生まれたのは曇鸞の死後20年である。したがって、曇鸞・道綽は、直接のつながりはない。玄中寺をたずねた道綽が、その碑文を見て、当時の末法思想に便乗して曇鸞の思想をひろめたのが、その真相である。道綽は、はじめ讃禅師について涅槃学を学んだが、曇鸞の碑文を見て浄土教を立て「安楽集」等を著した。
その所説は、法華経以前の大小乗教について、聖道門、浄土門の二つを分かち、聖道門は千中無一すなわち千人修行しても、一人も成仏できない。浄土三部経のみが百即百生の教説であると主張したのである。
これについても、法然は「私の料簡」として「初に聖道門とは之に就いて二有り、一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、理不尽にも、法華経さえも千中無一の聖道門である。と断定している。これまた、仏説をないがしろにする大謗法であり、浄土宗の祖と崇める道綽の本意をすら踏みにじったものであることは、論をまたないであろう。
善導について
善導も唐代の僧で、生まれたのは山東省とも安微省ともいい、詳らかではない。少年時代、法華経、維摩経を読み習ったが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て、浄土に生まれようと願いをたて、観無量寿経に専念するようになったという。その後、玄中寺で道綽の教えを受け、また終南山妙真寺、長安の光明寺と転々した。
その修行は、30余年間、寝処を定めず、道を歩くときは目をふせて女性を見ないようにしたとか、日々托鉢し、それを大衆に施した等々という。また、阿弥陀経を書写すること十万巻、浄土の変相三百鋪を描いて、領布し、塔寺の損壊を見れば必ず修復した等々といわれる。こうした姿は、大聖人御在世当時の忍性良観等と同じで、経文の「持律に似像して」云云にあたる。
外面は高徳道綽並びなき名僧のごとくであるが、その教義は、釈尊、天台の正義に反する己義で、人を地獄に突き落とす天魔・外道以外のなにものでもなかった。
著作は「観無量寿経疏」「往生礼讃」「般舟賛」「観念法門」等があり、儀式には音楽的要素を取り入れたのも善導に始まるといわれる。
しかし、高僧という評判は天下に響き、多くの無智の男女が帰依して、阿弥陀経読誦30万遍、日課称名10万遍等という念仏信者も現われ、往生を願って自殺する者が絶えなかった。
善導自身、大勢の信者がその極楽往生の様を見ようと集まってきているなかで、寺の前の柳の木に縄を掛け、首をくくった。しかるに、前にも述べたように、枝が折れるか縄がきれるかして、善導は地面に落ち、背の骨を折って7日7夜、苦しみ悶えて息絶えていったのである。このように、善導は、みずから念仏者の極楽往生はウソであり、むしろその末路は、無間地獄に堕ちることを証明したのである。
善導の教えは、釈尊の教えに反して極楽往生を理想とし、四十余年末顕真実の権教に執した点で、あくまで邪教であった。しかし「往生礼讃」の正行・雑行の立て分けは、ひとえに摂論宗を破るための所判であって、法華経を雑行に入れる意図は毛頭なかった。これを勝手に作り変えて、法華経を雑行に含め、天台等を群賊いれたのも法然である。現身に堕地獄の相を示した善導以上に、法然の受ける罪報は大きいことを知らなければならない。
曇鸞、道綽、善導ともに、その説は、所詮、仏の真意たる法華経に反する邪説であった。しかし、法華経をもって、捨てよ等という決定的な謗法ではなかった。このゆえに、守護国家論に大聖人は「多分は本論の意に違わず」と申されているのである。
慧心僧都について
法然が浄土信仰に転ずる動機となったのが慧心の「往生要集」である。慧心は、比叡山第18代座主慧恵大師の弟子で、教相を重んずる檀那流に対して、観心を重んずる慧心流を立てた学僧である。「往生要集」は表面的に見れば浄土宗を宣揚しているようであるが、その大文第十の問答料簡の中の第七、諸行勝劣の念仏と法華経の一念信解の功徳を比べて、一念信解の方が念仏三昧より百千万億倍勝ると結論している。
すなわち、「往生要集」は法華経がいかに勝れているかを説くために著したものである。だが、これには、なお念仏的な臭いが残っており、それに気づいた慧心は、権少僧都の職を辞任してまで、前非を悔い、さらに「一乗要訣」を著わして、法華最勝の義を鮮明に論じているのである。
これを法然が読みきれず、単に浄土宣揚の書と受け取ったのは、法然がいかに無智であり、浅学であったかを証明するものといわざるをえない。あるいは、己義を荘厳するために、都合のよい所だけをとったのであろうか。
しかし、以上は、与えて論じたのであって、奪って論ずれば、慧心が法然の邪義の淵源になったことは事実である。撰時抄には、慧心を師子身中の虫と断じられている。「法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、師子の身の中の虫の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや」(0280-04)と。
また、同じく撰時抄に「日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(0286-13)と。
現代においても、学者のなかには、法然をもって、あたかも中世日本の生んだすぐれた思想家であるかのごとく論ずる人が少なくない。だが、法然の思想が、どのようにして組み立てられているかを、厳密に研究するならば、およそ思想、哲学とはいえない、飛躍であり独断であり、邪説であることがわかるはずである。
また、法然をもって宗教的改革者であるとする人々もある。これも、法然が晩年の元久元年(1204)弟子がふえて、叡山の衆徒が専修念仏の禁止を天台座主に要求したとき、弾圧を避けるため、他宗の悪口をいってはならない等の七箇条の禁制を定め、師弟190人が連署して天台座主に出している。その内容は
一、阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗らない。
二、他教の人と好んで論争しない。
三、他教の人にその信仰を捨てさせない。
四、念仏門では無戒と称して婬酒食肉を勧めたりしない。
五、勝手に自分の教義を立てて人と争ったりしない。
六、唱導で無智の人々を教化しない。
七、誤った教えを偽って師範の説としない。
の七箇条である。しかし、すでに膨大化し、突っ走り始めた狂騒の民衆は、法然の手にも負えなくなってしまい、ついに朝廷による念仏一門禁圧を招いたのである。
一切の宗派を邪義なりと断じ、経証を引いて、哲学的に論証し、謗法の者を即刻断絶せよと、師子王のごとく叫ばれた日蓮大聖人と比べれば、まさに天地雲泥の違いがあるではないか。ここに、われわれは、正義と邪義、仏と魔との本質的な相違を見ることができるのである。
0023:04~0023:09 第三章 法然の謗法を断ずtop
| 04 之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一 05 代の大乗 六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、 06 或は捨て或は閉じ 或は閣き或は抛つ此の四字を以て 多く一切を迷わし、 剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群 07 賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、 遠くは一代五時の肝 08 心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う 09 者なり、 -----― これに即してみて見てみると、雲鸞・道綽・善導の誤りに満ちた注釈を引いて、聖道門・浄土門・難行道・易行道の主張を立てて、法華・真言を含めて総じて釈尊が生涯にわたって説いたという大乗経三百六十七部二千八百八十三巻と、すべての仏・菩薩たちの仏教以外の様々な神々などを皆、聖道門・難行道・雑行などの中に入れて、捨てたり、閉じたり、閣いたり、抛ったりしたのである。この「捨閉閣抛」の四字で全ての人々を大いに迷わせ、さらにはインド・中国・日本の立派な僧侶や十方の仏弟子を皆「群賊」と呼び全員を罵らせたのである。 手近なところでは、自らが依拠する浄土三部経の「五逆の者と正法誹謗の者だけは、浄土への往生から除く」という法蔵比丘の誓願を説いた経文に背いているし、視野を広げれば、五時に分けられる釈尊の全ての教えの肝心である法華経第二巻の文、「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」という警告の文を正しく理解していない者である。 |
曇鸞・道綽・善導の謬釈
謬釈とは誤った釈。法然は曇鸞の往生要集・道綽の安楽集・善導の往生礼讃等を、あたかも仏の説のように金科玉条として尊び、それにさらに自己の我見を加えて、ますます邪義を盛んにしている。これらの諸師が正しいか否かは、あくまでも仏の説法たる経文に立ち返って判定しなければならない。しかるに、仏は法華経の開経たる無量義経で「四十余年未顕真実」と、阿弥陀経等がまだ真実を顯わさない方便の権教であることを断定し、ただ法華経に真実があると説いているのである。したがって、念仏以外は、聖道門・難行道であり、雑行であると説いた説が、仏に敵対する謬説であることは明瞭である。
―――
華真言
比叡山天台宗は第三祖慈覚以降、真言の邪法に犯されて法華と真言の混血となったため、こうよばれる。台密ともいう。比叡山は本来迹門戒壇建立の地であり、仏教界の中心であることに変わりはなかったが、これをないがしろにし、さらには念仏の台頭を許す土壌となってしまったのである。
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或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ
捨閉閣抛のこと。法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。
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三国の聖僧
三国とはインド・中国、日本の事。聖僧とは仏法を正しく広めた僧。インドの竜樹・天親、中国の天台・明楽、日本の伝教等のことをいう。
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五逆
殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧のことをいう。阿羅漢とは声聞の四果の最上で阿羅漢果を得た者のこと、出仏身血とは、仏の身に傷をつけて血をだすことである。提婆達多は大石を崖の上から投げて釈尊の足を傷つけ、この罪を犯した。末法の御本仏大聖人は、文永元年(1264)11月11日下総国・小松原で東条景信によって、眉間に傷を受けられている。
―――
唯除五逆誹謗正法
無量寿経の中の法蔵比丘の四十八願の中の文「唯五逆と誹謗正法を除く」と読む。法蔵比丘はこの四十八願を成就して阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これは念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っている。
―――
一代五時
釈尊一代五十年の説法を天台大師が説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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前章に法然の選択集を長く引いたのに対し、本章では経文の中の文証を引いて、これを破折されたのである。
はじめに「雲鸞・道綽・善導の謬釈」とあるが、これは今奪って論じたものであって、前章の講義の中に引いた守護国家論の中にある文証になんら違するものではない。前章においては、法然の邪義から見るならば、中国の三師の釈は「多分は本論の意に違わず」と述べられたもので、これは与えて論じたものである。
同様の例として、当世念仏者無間地獄事にいわく「浄土の三師に於ては書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り、然りと雖も法然が如き放言の事之無し」(0109-14)。これは与えて論じたものである。同じ御書に奪って論じて、次のごとく仰せである。「三師並に法然此の義を弁えずして 諸行の中に法華・涅槃並に一代を摂して 末代に於て之を行ぜん者は千中無一と定むるは近くは依経に背き遠くは仏意に違う者なり」(0109-05)
なぜ与えて論ずるかといえば、法然の邪義に比べれば、三師の邪義など物の数ではないという立場から法然の悪を強く指摘するためであり、再往奪って論ずるのは、法然の邪義は、三毒の邪義のうえに形成されたものであり、三師の邪義を挙げ、さらに法然の邪義のいかに謗法きわまりなきものであるかを強く示されるのである。ともに法然の邪義に焦点を向けられるためである。
法然こそ誹謗正法の張本人
まことに法然こそ、中国の三師の誤った解釈にさらに輪をかけて、法華経をはじめとする釈尊一代の聖教を浄土の三部を除いては、聖道門、難行道、雑行としてしまい、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと「捨閉閣抛」の四字をもって上下万民を迷わした張本人なのである。
そのうえ、法然は法華経等を正しく伝えた聖僧、および十方の仏の弟子を群賊とし、自己の邪義のうえに、さらに聖僧罵詈の罪を犯した。
こうした法然の邪義に対し、日蓮大聖人は、一つは彼らの依経としている弥陀の三部経のなかから、他の一つは法華経の経文から、二つの文証を引いて破折を加えられたのである。この三つの経文のうち、弥陀三部経の経文は、彼ら念仏者の立場を一応認めて、与えて論じられたものであり、法華経の文は、奪って論じたものである。まず、彼らが依経としている三部経の一節「唯五逆誹謗正法を除く」の経文であるが、これは大無量寿経のなかに法蔵比丘の四十八願の第十八願として「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我国に生まれんと欲し乃至十念せん若し生ぜずんば正覚を取らじ唯五逆と誹謗正法とを除く」と説かれている。
この法蔵比丘の四十八願について、少し説明を加えるならば、過去無数劫に然燈仏等の五十三仏があらわれた後、世自在如来が出現し、民衆を教化した。そのとき一人の国王がその仏の説法を聞いて随喜し、信心の心を起こし、ついに王位を捨てて僧侶となり、法蔵比丘といった。そして菩薩道を修行し、自分の仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏に、これまでもろもろの仏たちとは、どのように荘厳したかを教えてくださいと頼んだ。そこで世自在王仏は二百一十億の諸仏の先例を説いた。法蔵比丘は四劫の間思索し、そのなかのよい例を選択して、みずから仏のもとへ行って自分の国土を荘厳し、浄化するという四十八願を立てた、というのである。
その第十八願が先の経文であり、その仏国土は、娑婆世界から西方へ十万億仏国をすぎたところにあると説いた。これが、念仏宗で説く、極楽往生であり、このことから、彼らは、この世の中は穢土で、死んでのち西方の極楽浄土へ往生すると説いているのである。
ところが、彼らが念仏を唱えると、極楽往生できるという唯一の依処たる法蔵比丘の第十八願のなかに、明確に「唯五逆と誹謗正法を除く」と示されているのである。
たとえば釈尊が「四十余年未顕真実」といって説かれた爾前経であるにせよ、彼らの依経としている三部経を一応正しいものと認め、念仏を唱えたとしても、百人が百人、必ずしも極楽浄土へ行かれないということが、法蔵比丘の四十八願のなかにはっきりしているのである。
五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものとは、いかに阿弥陀仏を念じようとも、極楽浄土へ生ずることはできない。このことはほかでもない彼らの依経のなかに明示されているのである。にもかかわらず、その断わっているところを隠し、誰もが西方浄土へ行けるようにいいふらしたのは、いかなるわけか。ここに都合の悪いところは削除するという、邪宗教特有の奸智にたけた悪侶の姿を見いだすではないか。
さらに日蓮大聖人は第二番目として、奪った立場から法華経譬喩品の一節「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至その人命終って阿鼻獄に入らん」をもって、破折されている。
まず、ここで引かれた譬喩品の前後をみると「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん、或は復顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に此の人の罪報を聴くべし、若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯くの如き経典を誹謗すること有らん、経を読誦し所持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん、此の人の罪報いを汝今復聴け、其の人命終って阿鼻獄に入らん」とあり、以下に正法を誹謗した時の苦悩、悲惨のありさまが、詳しく説かれている。
これらの点については、すでに第一段第二章に詳述したとおりである。そのどれを取り上げても、誹謗正法がいかに恐ろしいことであるかを示されているのである。
念仏の開祖・信者の悲惨な結末
日蓮大聖人は、念仏無間地獄の姿を善導、法然等の開祖の臨終のようすから、次のように教えられている。すなわち、当世念仏者無間地獄抄にいわく、
「而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は此の文を受けて転教口称とは云えども狂乱往生とは云わず、其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く願くは弟子等命終の時に臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失念せず身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し等云云、此の中に錯乱とは狂乱か而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は 意を得ざる事なり、而るに善導和尚の十即十生と定め又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発る可し、何に況や念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、 其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(0105-14)
このように、念仏者の臨終の姿は、一洋に悲惨そのものである。これこそ無間地獄に堕ち行く姿でなくてなんであろうか。前章でも詳しくみたとおり、狂乱のあまり、庭先の柳によじ登り、大地に落ちて7日間地獄の苦しみのうちに死に絶えた善導、死後、勅により墓をあばかれ鴨川に捨てられた法然、それにつづく善慧、隆寛、聖光、薩生、南無、真光等の高位の弟子がいずれも悪瘡の重病で、狂乱のまま息絶えていった厳然たる事実、まさしく経文の「命終って阿鼻獄に入る」姿そのものではないか。
立宗の開祖、宗祖が、このような状態であるから、弟子檀那にいたってもけっして例外ではないはずである。「大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる悪瘡事なり」とは、このことを仰せられたものであり、「浄土門に入って師の跡を踏む可くば臨終の時善導の如く自害有る可きか、念仏者悪瘡として頸をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何」との大聖人の破折を、念仏者は一体、なんと答えられるのか。
法然の死後、その残した邪義、害毒のゆえに、どれはどの人が不幸のどん底に堕とされたことか。念仏を強盛に信仰していけばいくほど、その一家が悲惨となっていく。この姿こそ法然の立てた教義が、まったくの邪義であるとのなによりの証拠である。日蓮大聖人が四箇格言のなかで「念仏無間地獄」と一言のもとに破折された以上、その教えに逆らって念仏に執着するものがあれば、いかなる人といえども必ず、不幸悲惨の日々をすごさなければならないのである。
堕地獄疑いない念仏者
700年前、国民のほとんどを帰依させるまでに隆盛を極めた念仏宗も、今日では、わが創価学会の進軍の前に、はかないあがきを示しているにすぎない。念仏がかくまでも没落し、国民の大半から見放された状態となってしまったのも、所詮は彼らの教義が低級、幼稚のためであり、低級なる思想、宗教は必ず没落していくとの明確な証明である。
さらに敷衍して、この法華経の文を考えるならば、法然の念仏に限らず、末法の法華経たる大御本尊を誹謗するいっさいの輩は、皆、堕地獄疑いなき者である。
日蓮大聖人御在世当時、大聖人に敵対した者に例をとるならば、この定理は一分の狂いもなくあてはまっている。
聖人御難事には、次のごとく法罰の現証を述べられている。
「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり」(1190-05)
ここに大田親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房は、熱原の法難の際、日蓮大聖人の一門を迫害した連中であり、厳然と罰があらわれ、落馬し、悶絶し、死んでいったのである。
また、大聖人の御在世を通して、大聖人をはじめ、その門下に激しい弾圧を加えたのは、時の権力者、平左衛門尉頼綱であった。
この平頼綱は、大聖人御在世中、鎌倉幕府のなかにあって、現代でいえば、警視総監の地位につき、文永8年(1271)9月12日の竜の口法難、つづく佐渡流罪と、数々の法難のうちでも、最も大規模に、また冷酷に大聖人をはじめ、その門下を弾圧した張本人である。
また、大聖人が出世の本懐たる三大秘法の大御本尊を認められたのは、弘安2年(1279)10月12日であったが、この大御本尊御図顕の直接の縁となった、熱原法難の際、その大迫害の最高責任者も同じく平頼綱であった。
だが、そうした断圧当時には、頼綱も、またその周辺になんの不幸もなかった。むしろ大聖人御入滅後3年たった弘安8年(1285)11月には、幕府内にあって勢力を競い合っていた安達泰盛一派を討って、北条氏のもとにおける地位は盤石のものとなった。この争いは一般に霜月騒動と呼ばれているが、この騒動後頼綱の地位は、まったく旭日の勢いで、北条氏をしのぐとさえいわれるほどであったが、彼の行った政治は恐るべき専権と恐怖の政治であった。
頼綱の子平宗綱、飯沼判官助宗、弟の長崎光綱らがにわかに権力を握って、中央に進出してきた。霜月騒動後、その恐怖政治は約8年間続いた。頼綱の権力はいまやとどまるところを知らず、執権貞時もようやく、身辺に不安をおぼえ始めた。永仁元年(1293)4月13日、鎌倉では大地震が起こり、将軍の邸宅をはじめ建長寺など諸寺が顛倒焼失し、死者は2万余人におよんだ。
「保歴間記」の伝えるところによると、嫡子の宗綱が「父・頼綱は弟の飯沼判官助宗将軍にしようと企んでいる」と執権貞時に密告したという。頼綱にこの陰謀があったかどうかはわからないが、執権をしのぐ権勢をもっていたことは確からしい。永仁元年(1293)4月22日、ついに執権貞時も腰をあげ、討手を差し向け、頼綱の輩を急襲、頼綱と助宗は自害、長男宗綱は佐渡へ流罪、以下一族郎党はすべて逮捕されてしまった。かの熱原法難から数えてちょうど14年後、大聖人滅後11年目の出来事である。
厳然たる罰と功徳
仏法はどこまでも峻厳であり、その哲理にあてはめていったときは、いささかの例外もない。信ずるものには偉大なる功徳があり、敵するものには厳然たる罰があるのである。
されば、聖人御難事にいわく「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190-02)
撰時抄にいわく、
「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし」(0266-11)と。
「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」 まさに、そのとおりである。この御金言は大聖人御在世の時代はもちろんのこと、現代の創価学会の活動にも、まさに明確にあてはまっている。正法誹謗の罰の恐ろしさを、今さらのように痛感しないではいられない。
戦時中、牧口初代会長、恩師戸田会長が投獄した官憲の責任者、過酷な取り調べを行った検事、戦後の学会再建を妨げた数多くの僧侶、かの有名な小樽法論で身延側の講師として登場者、今日まで悪らつきわまる弾圧を試しみようとした官憲の者等々、一々名をあげれば、すべて事件後、まともな生活をしている者はいない。かの牧口会長、戸田会長を投獄せしめた主謀者は絞首刑になり、大川周明は発狂し、そのほか、ある者は不慮の事故で横死し、ある者は妻子を失い、あるいは事故で廃人になった者等、まったく悲惨そのものである。
これこそ、わが創価学会が、仏意にかなった正しい宗教団体であり、全世界を救いきっていく大使命である、明白な証拠といえるのではないか。
信仰をしていても、毎日の生活のなかに、なんら価値が得られないような宗教が、どうして正しい宗教といえるであろう。
厳然たる罰と功徳があってこそ、真の宗教である。わが創価学会が、一大和合僧団として、今日、かくまで発展をみたのは、信仰していったときには、絶大なる功徳があり、いかなる不幸も打開しきっていく力ある宗教なるがゆえである。また、反対したときには、厳然たる罰が出ることも、われわれは個々の例をとおして知ることができた。
今後とも、われわれの戦いの行く手には、数々の障魔がたちはだかるであろう。だが、それのいずれも、誹謗正法の者は堕地獄の哲理に照らし、必ずや仏の軍勢が勝つとの大確信をもって、勇敢に進んでいこうではないか。
0023:09~0024:04 第四章 選択集の謗法を結すtop
| 09 是に於て代末代に及び人・聖人に非ず・各冥衢に容つて 並びに直道を忘る・悲いかな瞳矇をたウず痛い 10 かな徒に邪信を催す、 故に上国王より下土民に至るまで 皆経は浄土三部の外の経無く 仏は弥陀三尊の外の仏無 11 しと謂えり。 -----― このように考えてくると、時代は末代に至っており、人は聖人ではない。それぞれが暗い分かれ道に迷い込んでしまい、みなまっすぐな道を見失っている。なんと悲しいことであろう。無知から目覚めないことは、なんと痛ましいことであろう。誤った信仰心を起こして何の利益もないことは。それ故、国王から民衆に至るまでのすべての人々が、皆、経といえば浄土三部経の外の経は無く、仏といえば阿弥陀三尊の外の仏は無いと思っている。 -----― 12 仍つて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏 13 像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し 若しくは深谷の底に蓮宮を起てて 以て崇重す、 釈迦薬師の光を 14 並ぶるや威を現当に施し 虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、 故に国王は郡郷を寄せて 以て灯燭を明に 15 し地頭は田園を充てて以て供養に備う。 -----― かつては、伝教・義真・慈覚・智証等が、万里の波濤をこえて渡した経典や、日本一国の山川を巡って求めて崇める仏像に対しては、高い山の頂に華界を建てて安置したり、深い谷の底に蓮宮を起てて大切に崇めていた。釈迦如来・薬師如来の威光がともに輝き、その功力を現在・未来にもたらし、虚空蔵菩薩・地蔵菩薩が人々を教化して、その利益を今生と後生にわたって与えた。それ故、国主は所領の郡・一郷を寄贈して寺々の灯りの費用とし、地頭は田園を寄進して供養とした。 -----― 16 而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて 西土の仏駄を貴び付属を抛つて 東方の如来を閣き唯四巻三部の 17 教典を専にして 空しく一代五時の妙典を抛つ 是を以て弥陀の堂に非ざれば 皆供仏の志を止め 念仏の者に非ざ 18 れば早く施僧の懐いを忘る、 故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、 然りと雖も各護惜の心 0024 01 を捨て並びに建立の思を廃す、 是を以て住持の聖僧行いて帰らず 守護の善神去つて来ること無し、 是れ偏に法 02 然の選択に依るなり、 悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて 多く仏教に迷えり、 傍を好んで正を忘 03 る善神怒を為さざらんや円を捨てて 偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、 如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を 04 禁ぜんには。 -----― しかし、法然の選択集に依って、教主である釈尊を忘れて西方の仏である阿弥陀如来を貴び、伝教大師以来の伝統を抛って東方世界の薬師如来を閣き、ひたすら四巻の浄土三部経だけを信仰して、何の見返りもないのに釈尊の全ての教えの中ですばらしい経典を抛ってしまったのである。 その結果、阿弥陀仏の堂でなければ、誰もが仏を供養しようとする志をなくし、念仏する者に対してでなければ、僧へ布施をしようとの思いをたちまち忘れてしまったのである。それ故、仏堂は荒れ果てて、ツメレンゲ(瓦松)が屋根の上に煙のように生えて長い年月が経ち、僧の住居は荒廃して、茂った庭の草は露でしっとりと濡れている。そのような状況にもかかわらず、それぞれが仏教教団を守る心を捨て、みな寺塔を建設しようとの思いがなくなっている。その結果、仏の教えを保持する立派な僧侶は行ってしまって帰らず、守護の神々は去って来ることがない。これらは全て法然の『選択集』が原因なのである。 なんと悲しいことだろうか。数十年の間、百千万の人が魔のはたらきにたぶらかされて、ひどく仏の教えに迷っている。謗法の教えを好んで正法を忘れている。善神は怒りを起こさないだろうか。円満な教えを捨てて偏頗な義を好んでいる。悪鬼がつけ入る隙を得ないだろうか。あのような数多くの祈りを行うよりもこの一凶を禁じるにまさるものはない。 |
代末
正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
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冥衢
暗い道のこと。正しい仏法を見失い、悪鬼精神の法である念仏等の邪教に迷わされている姿を、正しき道を見失って暗い道に迷い込んだ姿に譬えらえている。
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直道
一生成仏への正しい道。平和楽土建設への根本的解決の道。
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瞳矇を討たず
瞳矇とは事理に暗いこと。またその人で蒙昧と同じ。討つとは、蒙昧に迷い込んだ人の目を開かせること。謗法を責めて正邪を明らかにさせること。
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弥陀三尊
念仏宗が立てる本尊。阿弥陀仏とその脇士である観世音・勢至の二菩薩のこと。観無量寿経には観音は左蓮華に座し慈悲をあらわし、勢至は右蓮華に座し智慧をあらわす。
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伝教
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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義真
(0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
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慈覚
(0794~0864)。日本天台宗の第三祖。諱は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和5年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
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智証
(0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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一朝
日本のこと。
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華界
僧院・仏堂
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蓮宮
僧院・仏堂
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釈迦(比叡山の)
比叡山西塔の本尊居高三尺(90㌢)伝教大師の作と言われているが現在の本尊はものは疑わしい。
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薬師(比叡山の)
比叡山東搭の本尊。本来薬師とは東方浄瑠璃世界の教主で、十二の誓願を発して衆生の病患を救い無明の固疾を癒すという。しかし比叡山では釈迦像とともに本尊としている。天台宗で薬師を立てるのは、寿量品の良医の譬えになぞられるゆえといわれる。
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虚空・地蔵
虚空蔵菩薩と地蔵菩薩のこと。
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益を生後に被らしむ(安国論)
生後とは今世・後世=現当二世のこと。成仏得道の功徳を一切衆生に与えているということ。
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国王は郡郷を寄せて以て灯燭を明にし、地頭は田園を充てて以て供養に備う
天皇・将軍等が帰依する寺社に一郡・一郷あたりの広大な領地を寄進し、もって燈明料に代えた。大寺の荘園がこれである。対して地頭は領内の一部をさいて寄進した。
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西土の仏駄
阿弥陀如来のこと。その住処は西方十万億の国土を過ぎたところにある極楽浄土世界。したがって阿弥陀如来は、娑婆世界の我ら衆生とはまったく縁のない他土の仏である。三世十方の一切衆生の根本たる久遠元初の自受用身より見れば、垂迹に過ぎない。
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付属を抛つて
釈尊は法華経の会座で、嘱累品をもって薬王等の迹化の菩薩に像法時代の法華経流布を託した。その儀式に従って、薬王菩薩の再誕として出現し、迹面本裏の法華経を流布したのが天台大師であり、またその後身といわれる伝教大師である。そして天台・伝教は寿量品の譬如良医を表す意味から、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来を本尊として用いた。しかるに念仏の阿弥陀一仏のみを尊とする教えに迷って、薬師如来をないがしろにしているのは、仏の付属を抛ったことになるのである。なお、これは像法時代の天台仏法に功徳のある像法時代のことで、末法には上行菩薩を上首とする神力品の付嘱によらねばならず、その本地は久遠元初自受用身如来である。
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四巻三部(浄土宗の)
浄土三部経のこと。無量寿経二巻、観無量寿経一巻、阿弥陀経一巻。あわせて三経四巻となる。
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一代五時の妙典
釈尊一代の説法は華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分かれる。特に一切経が妙典とあるのは、法然の選択集で抛てといった経典のなかに、法華経が含まれているからであり、真実の妙典は法華にかぎるのである。
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供仏
仏に供養すること。供養とは、報恩のために、仏法僧の三宝に種々の物を捧げること。またその功徳を死者に回向するためにも行われる。これに財供養と法供養、色供養と法供養がある。あるいは身口意の三業供養、四時、四種、五種、六種、十種、事の供養と理の供養等数多くの分け方がある。正しい仏法への供養は自分の無量の善根を積むことになるが、邪教に対する供養は堕地獄の因となる。
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施僧
僧に金銭や品物を供養すること。布施は梵語のdānaすなわち檀那の訳で、清浄な心で物を惜しまず施し恵むことをいう。特に別教では菩薩行の大切な要素とされた。
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瓦松の煙老い
瓦松とは建物が古くなって修繕する人もなく、屋根の瓦に苔が生えて、遠くから見ると、あたかも松のように見えるのを表現した言葉。「煙老い」とは、そこから立ちのぼるかまどの煙も、ほそぼそとして活気なく、零落していること。
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住持
安定して法を持するの意で、転じて一寺の主長となる僧のこと。
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円
まどかのことで完璧な教え。法華経のこと。
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偏
かたよったの意で不完全な教え。爾前諸経のこと。
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此の一凶(安国論)
念仏のこと。一切不幸の根源であり、念仏が一切衆生をことごとく毒しているゆえにこういわれているが、総じて一切の邪法邪義が一凶となる。
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前章で、法然の選択集を経文によって破折されたのに引き続いて、本章では、浄土宗の隆昌が、天台仏法を衰亡させ、仏教の正統学派の流れを濁乱させて、亡国の根源となっていることを指摘されている。この文だけを読むと、天台宗を復興せよと申されているかのようであるが、大聖人の御真意がそうでないことは、前々章にも述べたとおりである。
本章末尾の「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」は、三災七難の元凶は、法然の邪義にあり、これを禁ずることが、災難対治の要諦であるとの大師子吼である。当時の国の上下を挙げての念仏信仰を思うならば、このように叫ばれる大聖人に、大迫害が嵐のごとく襲いかかることは火を見るより明らかであった。にもかかわらず、それを厳然と叫んで、幕府を諌暁される大聖人の御確信と、日本民族を救わんとされる大慈悲は、末法御本仏にあらずしては、ありえないところである。
この師子吼をみても、日蓮大聖人を、勇気ある坊さんだ、憂国の志士である等の評価しかできない知識人や歴史家がほとんどであったが、これがいかに皮相的な観察であり、とりもなおさず、みずからの浅薄さを表明する以外のなにものでもないことは明瞭であろう。
はたして大聖人は、この年の8月27日には、嫉妬した念仏僧たちにそそのかされた民衆によって、松葉ヵ谷の草庵を焼き打ちされた。ついで、翌、弘長元年(1261)5月12日には伊豆に流罪されている。その後も、小松原の法難、竜の口の頸の座、佐渡流罪等々、数多くの大難にあわれた。そのすべての淵源は、この御断言にあったのである。だが、大聖人は一毫も退かれてはいない。
もし、人々のいうような、単なる勇気であるならば、一度の迫害で主張を引っ込めてしまうのが普通である。前にも述べたように、法然のごときは、選択集で、浄土三部経以外のいっさいの経を閉じよ、阿弥陀如来以外のいっさいの仏を捨てよ等と論じながら、叡山の衆徒が念仏禁止を陳情しただけで、たちまち師弟190人で自戒を申し合わせているではないか。まさに、吠える臆病犬の観がある。
またヨーロッパにおいては、ガリレオのごとき高名の科学者でさえ、その地動説の撤回を法王庁から迫られるや、これを引っ込めている。署名したあと、小さな声でそれでも地球は回っていると呟いたというが、撤回を認めたことに変わりはない。これに対して、日蓮大聖人が、その何倍も恐るべき権力を敵に回しながら、生涯正義を叫び抜かれたということは、単なる勇気ではなく、深い深い心の奥底から発せられたものであることを知らなければなるまい。すなわち、この大聖人の教えを聞かなければ、現世には国を滅ぼし、民衆は未来永劫に阿鼻の炎にむせぶことになる。これを救うために、大聖人はみずからの御生命を投げ出されたのである。
民衆をしあわせにするのは、自分以外にないとの強い責任感は主の徳である。邪法の迷いから覚めさせ、正道を教えんとの偉大なる智慧は師の徳である。しかして、全民衆を子のごとく憐れみ、それを救うために身命を投げ出される大慈悲は親の徳である。この主師親の三徳こそ、御本仏であらせられることの証明である。「如かず彼の万祈を修せんよりはこの一凶を禁ぜんには」の一句のなかに、もったいなくも、主師親の三徳を具備された御本仏の境地を拝することができるのである。
佐渡御書にいわく、
「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべし」(0957-18)
此関東の御一門とは、時の為政者たる鎌倉幕府であり、その棟梁であるとは、全日本民衆の主君なりとの御断言である。日月は、いっさいの生ある者の能生、能養の徳をあらわすゆえに親の徳である。亀鏡、眼目は、いっさいを映し、正邪を明らかにするがゆえに、師の徳である。この主師親三徳具備の日蓮大聖人によらなければ、三災七難を避けることはできないとのお言葉である。
是に於て末代に及び人・聖人に非ず
すでに時代は末法にはいり、人は仏法の正邪の分別がつかない愚かな衆生が充満し、いたずらに邪法に迷っていることを嘆かれているのである。
ここで末法ということについて考えてみたい。大聖人は減劫御書に、人間が進歩するにつれて、悪の智慧が勝ってくることを指摘され、それに対して、いかなる仏法が救いの手をさしのべてきたかを述べられている。しかして、末法について、
「今の代は外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり、ゆえいかんとなれば衆生の貪・瞋・ 癡の心のかしこきこと大覚世尊の大善にかしこきがごとし、譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり、又鼻の禽獣をかぐことは大聖の鼻通にも・をとらず、ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・りうの身のかしこき・皆かしこき人にもすぐれて候、そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり」(1465-11)と述べられている。
まことに、現代の人間像をあますところなく述べられているではないか。宗教界において、仏が衆生を救済するために説いた仏法は、歪められ、方便の教は実教の哲学と荘厳され、ことごとく人を悪道に突き落とす邪教とされてしまった。自然科学においては、人類の幸福を推進すると期待された原子力の発見は、大量殺人の凶器として利用されている。思想界において、虐げられた無産階級を解放するはずのマルキシズムは、新たな独裁政治のもとに、民衆を抑圧する結果とさえなっている。
これらは一例に過ぎない。将来、われわれは、善の智慧によって、全てを人間の幸福を増すものに変えていかなければならない。しかして悪の智慧を打ち破るためには、善の大智が必要である。
同じく減劫御書にいわく、
「しかれば代のをさまらん事は大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或はせめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、 善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(1466-07)と。
すなわち、仏の智慧たる南無妙法蓮華経の大法をもって、はじめて、末法衆生の貧・瞋・癡の悪を破ることができるのである。また、同時に、この仏法の体を改めることによって、世間の影は自然と改まるのである。天台いわく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と。大聖人いわく「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)云云と。
科学の問題も、思想・社会・政治・経済等の問題も、その歪みを是正し、真に民衆の幸福のために生かしていく秘訣はここにあるといっても過言ではない。妙法の広宣流布こそ、いっさいの文化を本来の文化たらしめる源泉なりと主張してやまない。
末法に関する現代的考察
さて、ここで、末法ということについて、現代的に考察すると、どうなるか。いうまでもなく、末法とは「末の法」の意ではなく「仏法の功力が消滅し、穏没する時」のことである。しかして、ここでいう仏法とは、釈迦仏法をさすのである。
しかし、こういうと、仏法の知識のない人は、さまざまな疑問を生ずるに違いない。釈迦仏法とは何か。 仏法は釈迦が説いたもので、他に何があるのか。 功力がなくなるとはどういうことか。 等々。
およそ、仏法は仏の説いた教えであるが、その仏には三世十方の仏といって、数えきれないほどたくさんの仏がある。その仏の一人一人が、それぞれの法を説くのである。釈迦仏の法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の法は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また、法華経には、過去に不軽菩薩が現われて、二十四文字の法華経を説いたと説かれている。そして、これらそれぞれの仏法に、正法時代・像法時代・末法時代がある。
正法とは、仏に深い縁のある衆生が生まれてくる時代で、したがって、法は正しく、浄らかに伝えられていく。像法に入ると、生まれてくる衆生の機根は劣り、仏法は形式に流れていく。末法になると、生まれてくる衆生はその法とはまったく縁がなく、仏法は名ばかりで、まじめに修行する人もいないし、救う力もなくなるのである。
このような原理は、仏法に限らず、すべての思想についていえる。たとえば、経済思想についてみよう。アダム・スミスの自由主義経済学は、資本主義経済の成長過程においては、充分に効力をもち、指導性ももっていた。しかし、資本主義経済が各国で成長を遂げ、一方では、その市場網が全世界をおおい尽くし、他方、国内の労働力が余剩をもたないところまで動員され尽くしてしまうと、もはや彼の経済論理をもってしては、律しきれなくなってしまったのである。
それに代わるものとして現われたのが、マルクス主義である。すなわちマルクスは、国内労働市場における問題点に着目し、資本家と無産階級の対立を宿命的なものとして、プロレタリア革命による共産社会の樹立を唱えた。確かに、マルクス思想は、資本家が賃金をできるだけ安くし、商品をできるだけ高く売り、利潤を貪ることのみを考え、労働者はそのために搾取されるのみであるという事態が進行している限りにおいて有効であった。
だが、労働者が団結して資本家と話し合い、資本家も折れて、これに応じ、適当に互いの福利向上を図るという事態、さらに国家がその統制権をにぎり、福祉国家を実現しようと努力するようになると、マルクス主義は完全に指導性を失ってしまったのである。
同様に、外国市場の開拓、争奪戦に対して、その帝国主義性を摘発したレーニン思想も、やはり、現代では指導性を失ったと断ぜざるをえない。こうした歴史の中に、アダム・スミス哲学における末法、マルキシズムにおける末法、マルクス・レーニン主義における末法を見ることができる。
末法を憧憬した天台・伝教
しかしながら、彼らは、ただ、自己の思想哲学を最高のものと確信して酔っているのみであった。凡夫の凡夫たる所以といえようか。これに対し、仏法は人間生命を解明した哲学である。だが、仏は三世を通観して誤りがない。釈尊は、みずからの法の将来を予言して、大集経にいわく「我が滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年は禅定堅固(以上千年)、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造搭寺堅固(以上二千年)、次の五百年は我が法の中に於いて闘諍堅固して白法隠没せん」と。
はじめの千年間を、釈迦仏法によって民衆が解脱し、禅定を得るゆえに正法といい、次の千年を読誦多聞・多造搭寺の形式のみ盛んなるがゆえに像法という。そして、最後の第五の五百歳は仏法穏没のゆえに末法というのである。
このように、末法の時代とは、釈尊の仏法が隠没する時代である。同時に、法華経の文底に秘沈された大仏法が出現し、流布する時代でもある。法華経涌出品で、上行菩薩を上首とする六万恒沙の本化の菩薩が出現し、大法流布の付属を受けたのはこのためである。
ゆえに、正像の正師たちは、すべて末法を賎しみ嫌うのではなく、その大法を恋い慕っているのである。
遵式の筆にいわく「始め西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」と。遵式は中国栄代の天台宗の僧で、22歳で国清寺にはいり、一生を天台の教法流布に捧げ、門弟1000人を超えたといわれた高僧である。その遵式が、西より伝わった釈尊の仏法を月に譬え、東の日本より出現する末法の大法を太陽に譬えているのである。
像法時代の仏といわれた天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と、妙法流布する末法の世に憧れている。また、伝教大師も「当今、人機みな転変して都て小乗の機無し、正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と。この言葉の中にも、むしろ末法を憧憬している心が伺われるではないか。
だが、正しく仏法を知らない人々は、末法の到来をいたずらに不安におののいた。事実、末法に入った平安時代末期の日本は、民心を無常観に追いやるような、乱れた世相でもあった。貴族文化の頽廃と無気力化、加えて武士階級の台頭による兵乱の連続、相次ぐ天変地変、僧兵の暴挙等、仏教界自体も乱脈に乱脈を極めていた。
したがって、この人生を無常とし、この世界を穢土とする現実否定的な考え方が、有力になっていったのは、自然の勢いであった。現世を否定して、西方の浄土に憧れ、自力の法門より他力本願の易行を唱える浄土宗がもてはやされたのである。それはいわば、人間の真理の弱味につけ込んだ詐欺であり、民衆の悩みの解決を極楽往生にすりかえた、卑劣きわまりない教えであった。
これと対照的に現実を凝視し、経文に照らし、敢然と取り組んで、解決の方途を叫ばれたのが日蓮大聖人である。そして、大聖人は末法万年尽未来際の大仏法を説かれたのである。
釈迦仏法について
釈尊の説いた仏法を検討すると、それは、指導階級、知識階級のための宗教であることがわかる。全民衆の信仰すべき、真実の仏法は、日蓮大聖人によって初めて説かれたといえるのである。また、大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、迹である釈迦仏法は日蓮大聖人の仏法が出現する準備的教えにほかならない。
その証拠をまず教主について見るならば、釈尊は、インド・カピエラ城の太子として生まれた。何一つ不自由のない少年時代を過ごし、19歳にして、人生の無常を知り、これを解決するために出家し、30歳で悟りを開いたという。極端にいえば、このような境遇の人の説くことが社会の底辺に生まれ、貧困の生活を送っている民衆に、実感をもって信じられているということは、実際問題、不可能である。これは観念的な憧憬の気持ちを起させることはできよう。だが、真実の生命の共鳴は期し難い。
それに対して、日蓮大聖人は、みずから「栴陀羅が子なり」と述べられているごとく、安房国の貧しい漁師の子として生まれられた。そして、生涯、貧しい凡夫僧の姿で、三障四魔・三類の強い敵と戦い、しかも御本仏として全民衆救済の大仏法を建立されたのである。われわれと同じ凡夫であり、貧しい姿であったが、ただ法によって尊極無上の人生、いかなる権力も破壊うることのできない、絶対的幸福の境涯が確立できることを示されたのである。この日蓮大聖人の教えに、誰人が共鳴しないでいられようか。
次に、説かれた法門についてみよう。釈尊の法門は、一代50年の説法、八万法蔵におよぶ。その極説である法華経にしても、本迹合わせて28品もあり、その哲学を学ぶことは煩雑という以外にない。これに対して、日蓮大聖人の仏法は七文字の法華経であり、本尊、題目、戒壇の三大秘法に、いっさいの仏法がことごとく含まれてしまう。ゆえに、万人が即座に法門の究極に達し、その実践をすることができる。
修行の方法について見ると、釈迦仏法は、受持・読・誦・解説・書写の五種の修行を実践しなければならない。法華経28品を受持するだけでも困難であるのに、これを読み誦んじ、解説し、書写するとなれば、相当の智能と時間的、経済的余裕がなくてはできない。いわゆる貴族仏教と称する所以はここにある。すなわち、みずから働かないで収入を得、時間的にも経済的にも恵まれている王族や貴族、あるいは地主や隠居であって、初めてできる修行だからである。
現代の社会に、はたしてこのような修行をできる人が何人いるであろうか。一般の労働にたずさわっている人人はもとより、芸能人もスポーツマンも政治家も、まことに多忙である。むしろ、一般人以上にびっしり詰まったスケジュールに追い回されている。こんな修行ができるのは、せいぜい有閑階級と、専門の僧侶ぐらいのものであろう。
以上は、釈迦仏法について、きわめて常識的に、表面だけを論じてみたに過ぎない。仏教哲学に立ってこれをみれば、本已有善と本末有善、熟脱と下種益、本因妙と本果妙等々、幾多の観点から論ずることができる。結論としていえることは、釈迦仏法が、一部の上層階級の信仰であるということができる。したがって、今、本文で、伝教、義真等が法華経迹門を広宣流布したといっても、それは、あくまでも貴族階級の信仰にすぎなかった。本文にも「故に国主は郡郷を寄せて以て燈燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う」と仰せられているとおりである。一般庶民の信仰は、原始的な呪術であり、あるいは婬祀邪教化した仏教の亜流であった。
この過程は、大聖人なきあと、大聖人の正義を知らず、天台仏法に執着した五老僧の流れが、いずれも竜神や鬼子母神や、大黒、稲荷等を取り入れて、低俗、邪悪な謗法の栖み家と化していった姿にも認められる。
法然が、現在でも学者に高く評価されているのは、こうした特権階級専用の既成仏教に対して、初めて、仏教を底辺の民衆のものとしたという意味からである。だが、法然が浄土宗を弘めた結果は、民衆を無気力にし、風俗を紊乱し、天変地変を惹き起こし、さらに無間地獄に突き落としたのであった。そして、徳川時代には、文字どおり封建主義支配の御用宗教となって、民衆を圧迫し続けたのであった。
大聖人の仏法は、民衆が真に、思想的自由を獲得した戦後になって、興隆し始めたのである。このことは、大聖人の仏法こそ、真実の民衆の宗教であり、民衆を救う力ある宗教であるとの証左であると叫ぶものである。
0024:05~0025:18 第五段 和漢の例を挙げて念仏亡国を示すtop
0024:05~0024:15 第一章 法然の邪義に執着するを示すtop
| 05 客殊に色を作して曰く、 我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一 06 向に浄土に帰し、 道綽禅師は涅槃の広業を閣きて 偏に西方の行を弘め、 善導和尚は 雑行を抛つて 専修を立 07 て、 慧心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、 弥陀を貴重すること 誠に以て然なり又往生の人其れ 08 幾ばくぞや、 就中法然聖人は幼少にして天台山に昇り 十七にして六十巻に渉り並びに八宗を究め具に大意を得た 09 り、 其の外一切の経論・七遍反覆し章疏伝記究め看ざることなく智は日月に斉しく徳は先師に越えたり、 然りと 10 雖も猶出離の趣に迷いて涅槃の旨を弁えず、 故にアマネく覿悉く鑑み 深く思い遠く慮り遂に諸経を抛ちて専ら念 11 仏を修す、其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む、 故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、 然れ 12 ば則ち 十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ、 爾しより来た春秋推移り星霜相積れり、 而るに忝くも釈尊の 13 教を疎にして 恣に弥陀の文を譏る 何ぞ近年の災を以て 聖代の時に課せ 強ちに 先師を毀り 更に聖人を罵る 14 や、 毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し、 罪 15 業至つて重し科条争か遁れん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。 -----― 客がとりわけ顔色を変えて怒っていう。 私たちの根本の師である釈迦牟尼仏が浄土の三部経をお説きになって以来、曇鸞法師は初は『中論』など四論の講説を捨ててひたすら浄土の教えに帰依し、道綽禅師は長大な涅槃経の講義をやめてしまい西方浄土への往生を目指す修行だけを弘め、善導和尚は雑行を抛って阿弥陀仏だけを信仰する修行を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて念仏という一つの修行を肝要とした。阿弥陀仏を貴ぶことは、実にこのようなありさまである。また極楽世界へ往生した人は、一体、どれだけ多くいるだろう。 その中でも法然上人は、幼くして天台宗の比叡山に登り、十七歳で天台・妙楽の主著・六十巻を読破し、同時に八宗を究め、それぞれの大意を熟知したのである。その外、あらゆる経論を七遍も繰り返し読み、目を通さなかった注釈書はなく、その智慧は太陽や月に譬えられるほどで、その徳は先師を越えていた。そのようであったけれども、まだ生死の苦悩を離れるとはどのようなことであるかがはっきりせず、涅槃とはどのようなことであるか分からなかった。それ故、誰にでも会って教えを請い、すべてを検討して、深く思い、先の先まで考え、その結果、諸経を抛って念仏だけを修行したのである。その上、ある時に不思議な夢を見て、国の四隅まで全ての人に教えを弘めた。それ故、人々は勢至菩薩の化身と呼んだり、善導の再誕として尊敬したりした。そうであるから、十方のあらゆる階層の人がみな礼拝し、全国の男女が会いに来た、それ以来、長い年月が経過している。 それにもかかわらず、あなたは、恐れ多いことに釈尊の教えを疎かにし、阿弥陀仏について説いた経文を好き勝手に謗っている。どうして近年の災いの原因を過去の素晴らしい時代にあると言い、むやみに先師を謗り、さらに聖人を罵るのか。わざわざ毛を吹いて傷を探し求め、皮を切り取って血を流させるようなものである。昔から今に至るまで、このようなひどい発言は見たことがない。恐れおののかなければならない。その罪はきわめて重い。その罪に対する罰をどうして逃れることができようか。向かい合って座っていることすら恐ろしい。杖を手にして帰ろうと思う。 |
釈迦文
梵語(Sakyamuni)の音写の略。釈迦牟尼仏のこと
―――
曇鸞法師
(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。
―――
四論の講説(曇鸞の)
曇鸞は菩提留支に会って浄土の教えを聞く以前、インドの竜樹菩薩の「中間論」「十二門論」「大智度論」提婆菩薩と世親菩薩の共著「百論」を学んだといわれる。
―――
涅槃の広業(道綽の)
道綽は、はじめ涅槃宗によって修行したが、のちに浄土に移って涅槃宗を捨てた。涅槃とは、聖・凡・嬰児・病・天の五行を明かすのを広行というとも、浄土宗の四巻に対して涅槃経は四十巻の広行と言っている。
―――
慧心僧都
(0942~1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
―――
八宗
奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わせて八宗という。
―――
出離
三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。
―――
一夢の霊応(法然の)
法然は善導の教えた阿弥陀仏の称号による極楽往生が決して疑いないことを信じ、なお念仏弘通のしかるべきかどうかを、深秘の霊感によってためそうとして、夢に金色の善導にあい、念仏印可を受け、また浄土の法門の付属をうけたという。法然の邪説を夢によって正当づけようとする門徒の企みである。正覚の著「黒谷源空上人伝」にある。
―――
四裔の親疎
四裔とは四方の遠き果て、疎とは疎遠のこと。国中の親しい者にも疎遠なものいもという意。
―――
勢至の化身
法然の魔縁にとろかされた念仏宗徒たちは、法然を阿弥陀仏の脇士である阿弥陀仏の化身である等と称し、幼名を勢至丸といったこと。
―――
十方の貴賎頭を低れ(念仏宗)
法然が43歳の承安4年(1148)浄土宗を開いてのち、すぐに高倉天皇や戦いに敗れて捕らえられていた平重衡などが帰依し、文治2年(1186)の大原問答では、諸宗の碩徳を破り、これが帰したという。その後、後白河法皇、中宮任子、上西門院、宣秋門院、藤原経宗、藤原兼実等、朝廷の人々や公卿、さらには熊谷直実、千葉胤頼などの有力武士も、次々と信仰するようになったことを意味する。悪鬼魔神の邪教は、相次ぐ戦乱と災害の世相に乗じて、またたくまにひろまったのである。
―――
強ちに先師を毀り更に聖人を罵る(安国論)
曇鸞・善導を先師といい、法然を聖人と称していること。
―――
毛を吹いて疵を求め
「韓非子」に出てくる語。毛を吹き分けて根元の小さな傷を探し求めるように、他人の小さな欠点や悪事をわざわざ探し出したり、追求したりすることをいう。「毛を吹いて過怠の疵を求む」「毛を披いて瑕を求む」「毛吹いて瑕を取る」ともいう。
―――――――――
前段において、主人が法然の名をあげて悪比丘といい徹底的に破折し、また現代の災難がひとえに数十年前の法然の邪義において生じた、と主人が説くのを聞いて、客はとうとう怒りだしてしまった。客が憤怒して顔色をさらにかえたので「殊に色を作して」というのである。これに対して、主人が、礼儀を失った国は乱れ、念仏を弘めて亡国となった中国と日本の先例を示していくのが、この第五段である。すなわち、前段には文証を挙げ、この段では理証と現証を説き出されるのである。
客殊に色を作して
これは、われわれが折伏する時によくある例で、一般的に現在の宗教は邪宗教だと言っているときには、わりあいに素直に聞いても、君の最も崇敬し信仰しているそれが、最も邪宗教で極悪であると決めつけられれば、たちまちにおこって席を立つようなものである。
この場合に、客は法然が論破されたので、同座することさえけがらわしいから帰るといいだした。これに対する主人の態度は、まさしくわれわれの折伏の鑑である。客がおこったからこちらも一緒におこっては、折伏にならない。怒った客に対し、主人たる日蓮大聖人は、御本仏としての絶対の御確信と、相手を思う慈悲の一念に徹し、笑みを浮かべ、しかも妥協するのではなく、むしろ、もっと峻厳に、もっと痛烈に道理のうえから、現証の上から、諄々と説いていくのである。
客のいいぶんは、まことに単純かつ常識的であり、皮相的である。曇鸞・道綽・善導・慧心僧都源信等が、みな念仏以外にないと論断したのだから、間違いないだろうというのである。しかも、当時一般にいわれていることをなんの検討もなく、得意然として語る様は、まことに今日の知識人・評論家・似非宗教家が、宗教を語る姿そのままではないか。
また、この客人の“常識”がいかに誤ったものであるかは、たとえば、慧心僧都に対する見解に如実にあらわれている。「諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を尊重すること誠に以て然なり」云云とあり、慧心僧都の著書をまったく読まずに、世間でいわれていることをそのまま鵜呑みにしていることがわかる。
前にも述べたごとく“常識”といものは、誤った認識である場合が多い、いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、もはや新しい目で、真実を追求することができなくなってしまう。
さらに、客のいいぶんが、法然のことにおよぶ段は、いかに当時の人々が法然を尊敬し、信頼していたかがよくわかる。法然の一生および、その邪義の成立までの経過については、すでに第四段第二章において詳しく述べたが、法華経誹謗の低劣な邪義にもかかわらず、こうした悪僧一流の巧妙な手腕によって、天皇・法王をはじめ、貴族や武士階級に取り入り、法然の名は、当時人々の上下に知れ渡った。
故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ
この一節こそ、いかに法然が当時の人々から、生き仏のように思われていたかを如実に示している。文中「善導の再誕」等とは、念仏家の相伝で阿弥陀の化身であるという。このように、いかに邪説であっても、うまく理論をこしらえて我が身を飾り立てると、世の人は尤もと思って、深く信じきってしまうのである。それというのも、釈尊一代の仏法の浅深高下を知らず、釈尊出世の本懐を悟り得なかったからである。釈尊の弟子と称して、釈尊の出世の本懐を知らぬとは驚き入ったものである。また、時の人は、小乗教と大乗経の差異、権教と実教の差異、本迹二門の区別等を知らなかったのせある。まして教相・観心・文上・文底等は知り得ようはずがない。ゆえに仏教に迷ったのである。現在においてはさらに甚だしく、仏教の概念すら、知っている者は、きわめてわずかである。なんの宗教でも、みな釈尊が説いたものだからといい思い込んでいる。そのために、インチキ宗教家に易々と騙されていくのである。しかも、このことが一家を不幸にして、一国を衰微させるということに気づく者は、ただの一人もいないのである。
而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや
これは、釈尊をはじめ、法然の教義をそしるだけならまだしも、最近相次いで起きている災難の原因を、わざわざ法然の時代まで遡り、その責任を法然に転嫁するとは何事であるか、という客のいいぶんである。
それゆえ、そのような行為は「毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す」ことだと、客は反論するのである。
この客人の発言をみるときに、まことに思想が、その低き哲学、低き宗教であっても、人間生命に対し影響するところが、いかに大きいかを痛感するのである。むろん、低き哲学、低き宗教にも必ず行き詰まりがある。矛盾は絶えずつきまとう。だが、それが大勢の意見であり、また権威ある人々の信奉するものとなると、人々は少少の矛盾を感じても、気にもとめず、その権威と伝統に従うのである。その権威ある人々を少しでも批判すれば、たちまち理性を失い、感情に走り、激しい怒りを顔面にたたえ、批判する人をののしり、迫害してくるものである。
だが、いつまでもそれが人々の心をとらえることはできない。やがて矛盾と行き詰まりは表面立ち、既成の権威と伝統はもろくもくずれ、ついにはその生命を奪われるのである。今日、念仏の寺々は、ほとんどさびれ、大伽藍を構えているものとして、寂しい、わびしい、空虚なものでしかない。
だが、大聖人当時においては、念仏宗は、日本全国にひろがり、民衆の生命の奥深く浸透していったのである。
特に法然に対する信奉は、異常なまでに高まっていた。念仏の寺々はにぎわいを見せ、僧侶は裕福な生活を満喫していた。されば、日蓮大聖人が、法然こそ、「此の一凶」と示されたのであるから、当時の人々の驚きは絶大なものがあった。その民衆の心をくまなく知られていた大聖人は、ここに客をして、あれほどの高徳の人をまるであら捜しでもするごとく、悪口をいうのはあまりひどいではないか、それは罪悪だと、問わしめたのである。
これは、なにも大聖人の時代のみではない。西欧中世においても、キリスト教会が絶大な権威を誇り、少しでもそれに異論を唱えたり、教会の権威を脅かすと考えられたものは、恐るべき非難と迫害とにあったではないか。キリスト教のごとき、幼稚であり、低級な理論が、まるで金科玉条のごとく信奉され、教会の最高権威者たちの批判などすれば、それを聞いた民衆は、激怒し、批判した人に対し悪魔のごとき思いをなしたのである。
まだ、われわれの記憶にも生々しい太平洋戦争中も、神道を国を挙げて信奉したではないか。そして、少しでも真実のことをいおうものなら、「非国民」とののしられて、力ずくで抑えられたであろう。わが創価学会が、神道の非なるを指摘し、その狂気の姿こそ、亡国の道なりと断ずるや、迫害し弾圧し、ついに牧口初代会長、戸田前会長を投獄したのであった。これまた同じ原理ではないか。しかして、結局、正義は邪義を打ち破ったのである。今日において、私は、これを初めて、厳然と事実の証拠のうえからいいきることができる。そしてさらに時とともに、大聖人の仏法こそ、世界人類を救うただ一つの光明であることが、理解されることも、われらの絶対の確信である。
此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し
「此くの如き悪言」とは、日蓮大聖人が法然の邪義を、あらゆる角度から徹底的に破折したことをいったものである。当時の社会にあって、念仏が最も信仰されていた時代に、その中心者である法然を徹底的に破折された大聖人の言葉は、念仏者にとってみれば許しがたい悪口雑言であった。
だが、当時の社会にあって、これほど尊敬されている者なればこそ、いっさいの不幸の元凶なりとして、大聖人は真正面から堂々と破折に向かわれたのである。この大聖人の大確信こそ、われら大聖人門下生、創価学会員の精神にほかならない。この大聖人の破折の勇姿を見よ。今日われら創価学会員以外に誰人が、この精神、この振舞いを継承しているであろうか。今なお、創価学会の折伏をさして、まるで、学会がつくりだした独特の砲撃方法のように考えるひとがいるが、とんでもない誤りである。ましてや、邪宗日蓮宗のごときが、そのようなことを口にするにいたっては、その一事をもってしても、彼らが日蓮大聖人の門下生でないことは明瞭である。時流に迎合し、真実を曲げ、安逸をむさぼる者は「仏法中怨」の責めを蒙る経文にあてはまるではないか。
日蓮大聖人の御一生は終始一貫、破邪顕正の生涯であられた。法然をはじめとする数々の邪義に毒された日本国民を根底から救いきるとの確信に立たれての御一生であった。その御一生は、民衆を不幸におとしいれる邪宗・邪教・邪智との、一刻の休みもなき戦いであったともいえる。
その大聖人の破邪顕正の折伏精神こそ、わが創価学会の今日までの一貫して変わらざる根本精神である。創立以来、今日までの学会の歴史、戦いは「折伏」の二字につきる。われわれは、今や500数十万世帯を数える世界最大の宗教団体と成長したが、この国土からいっさいの邪宗教が姿を消すまで、大聖人のおしえのままに邁進する決意である。しかして、それは権力を用いるのではなく、あくまでも思想対思想の対決であり、正法にめざめた民衆の叡智と理性が、人間性を失わしめる、恐るべき邪宗教を追放することを信じてやまぬものである。
0024:16~0025:05 第二章 現証を以って法然の邪義を破すtop
| 16 主人咲み止めて曰く 辛きことを蓼の葉に習い 臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて 悪言と思い謗者を指して 17 聖人と謂い正師を疑つて悪侶に擬す、 其の迷誠に深く其の罪浅からず、 事の起りを聞け委しく其の趣を談ぜん、 18 釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず、 而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて 実を忘れ先に依 0025 01 つて後を捨つ末だ仏教の淵底を探らざる者なり、 就中法然は其の流を酌むと雖も其の源を知らず、 所以は何ん大 02 乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏 菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の字を置いて 一切 03 衆生の心を薄んず、 是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、 妄語の至り悪口の科言うても比無し責めて 04 も余り有り 人皆其の妄語を信じ 悉く彼の選択を貴ぶ、 故に浄土の三経を崇めて 衆経を抛ち極楽の一仏を仰い 05 で諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵聖僧衆人の讎敵なり、 此の邪教広く八荒に弘まり 周く十方に遍す、 -----― 主人は微笑みを浮かべて、旅人をひきとめていう。 辛い蓼の葉を食べる虫は辛いことに慣れており、便所に長くいると臭いことを忘れてしまうと言われている。 ためになる言葉を聞いてひどい発言と思い、謗法の者を指して聖人と言い、正しい師を疑って悪い僧のように思い込む。その迷いは実に深く、その罪は浅いものではない。このような事態になった原因を聞きなさい。詳しくその事情を語ろう。 釈尊の種々の説法の中、すなわちその一生涯にわたる五つの時期の教えの間に、先と後の区別を立てて、権の教えと真実の教えを分ける。 ところが、曇鸞・道綽・善導が、すっかり権の教えに執着して真実の教えを忘れ、先に説かれた教えに基づいて後に説かれた教えを捨てている。まだ仏の教えを奥底まで究めていない者たちである。 その中でも法然は、彼ら先師たちの流れを酌んでいるが、その源を知らない。 その理由は何か。大集経六百三十七部二千八百八十三巻、さらにあらゆる仏・菩薩たちと仏教以外の様々な神々に対して、捨閉閣抛の四字を置いて、あらゆる人々の信仰の心を減退させてしまった。自分勝手な間違った言葉を繰り広げるだけで、仏が説かれた経典の説を全く見ていない。ひどい嘘であり、悪口を言った罪はどのように言っても比べるものがなく、いくら責めても足りない。 人は皆その嘘を信じ、ことごとくあの『選択集』を貴んでいる。それ故、浄土三部経を崇めてその他の多くの経を抛ち、極楽にいる阿弥陀仏だけを信仰して諸仏を忘れてしまった。実に諸仏・諸経の敵であり、立派な僧侶や多くの人々の仇である。この誤った教えは、全国に広まり、十方のすべてに行きわたっている。 |
蓼
マタデ、ホンダテともいう。川原や湿地などに自生し、全体に辛みのあるタデ科の年草。茎は高さ30~80㌢でよく分枝し、葉の多くは柳の形をしているのでヤナギタデともいう。夏から秋にかけて葉腋や枝頂に細長くて先が下垂する花穂を出し、紅緑の小花を咲かせる。ボントクダテは辛みがないが、タデ類はいずれも辛みがある。「辛きことを蓼の葉に習う」とは、いつも辛い蓼の葉を食べなれている虫は、辛いことを感じないでいるという意味。
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溷厠
トイレのこと。農耕が行われるようになって、屎尿は肥料として使われるようになり、家の傍らにトイレが作られるようになったので「母屋の傍ら」がなまって厠となったとの説がある。
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先後・権実
釈尊自身、一代五時の説法について先判・後判をたて、その権実を弁じている。すなわち無量義経で、華厳・阿含・方等・般若の四時を先判とし「四十余年未顕真実」の権教なりと断定し、法華時を後判として「要当説真実」と明言しているのである。したがって、仏の教えを信奉する者である以上は、先判の方便権教を捨てて、後判の実教たる法華経につくのが当然である。
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私曲の詞
我見による邪説、邪で、自分の不正な利益をかばうための語。
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妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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八荒
八方の果てをいう。すみずみまで。
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客が、浄土の三部経は釈尊が説いたものであり、曇鸞・道綽・善導・慧心は、他の法門を捨ててこれに帰依したのである。なかんずく法然は一切経を学んだうえで、念仏を修したのであるから、間違いないのだと主張するのを、徹底的に破折されるのである。
まず「釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず」とは、客の「我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて」のいいぶんを破折されたのである。
すなわち、釈尊みずから、40余年の説法を終わって、最後の8年、法華経にはいるにあたり、無量義経で「四十余年未顕真実」と述べ、それまでの経はすべて方便であるゆえに捨てよと説いている。しかるに浄土三部経は、その40余年の説法であり、仏の教えに従うならば捨てなければならない。それを客は知らないで執着している。これば仏説に反する謗法といわなければならない。
法然が依拠としている曇鸞・道綽・善導らも「権に就いて実を忘れ権教に執し、そのなかで聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行を論じているのにすぎないのである。
したがって、法華経も聖道・難行・雑行にいれて捨閉閣抛せよと論じた法然に比べれば、まだ罪は浅いものの、「末だ仏教の淵底を探らざる者」ということは免れない。
なかんずく法然は、この曇鸞の流れをくむとはいっても、その源たる三師の誤りを知らない。仏の経文にどのように説かれているかを見もしないで、自分勝手に曇鸞らの説を正しいとし、加えて、自分流にさらに謗法の輪をかけているのである。
法華経のみを最高唯一とすることは、三世十方の仏菩薩が来集した会座で決定されたところである。しかして、法華経のみが一切衆生を成仏させる正法である。したがって、この法華経を捨てよと説き、民衆を騙すことは、三世十方の仏の敵であり、諸経の精神に反するものである。また、民衆の成仏得道、すなわち、絶対的幸福境涯確立への道を断ちきってしまうことになる。
念仏無間地獄抄にいわく「而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや」(0097-12)と。
またいわく「浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり譬えば塔をくむに足代をゆふが如し念仏は足代なり法華は宝塔なり法華を説給までの方便なり法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、 然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは塔をくみ立て後足代に著して塔を用ざる人の如し豈違背の咎無からんや、然れば法華の序分・無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給う、正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う之に依て阿弥陀経の対告衆長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢んぬ、四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成り畢んぬ、阿弥陀経の長老舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞・閻浮提第一の大智者なり肩を並ぶる人なし、阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり、かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望を遂げず仏在世の祖師此くの如し祖師の跡を踏む可くば三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ず可き者なり」(0098-01)
これを主人は「妄語の至り悪口の科言うても比無し責めても余り有り」と慨嘆されるのである。この主人の慨嘆はいいかえるならば、日蓮大聖人の御精神でもある。いやしくも日蓮大聖人の弟子である以上は、法然の邪義を徹底的に追及し、責めて責めて責め抜いていくべきである。また、同じように仏説に背き、民衆を不幸にたたき落とす魔物が、一切宗教の本性である。妙法流布の暁まで、いっさいの邪宗教の息の根を止めるまで、折伏に折伏を続けていこうではないか。
辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思い
昔も今も、まったくこのとおりである。大聖人御在世当時、法然の邪義に毒された人々は、自分がその毒のゆえに不幸になっていることもわからず、かえって、それに気づかせ、救い出そうとした大聖人を恨んだのである。「臭きことを溷厠に忘る」の表現もぴったりではないか。
現代にも、同じく不幸のなかに悶々としている人がなんと多いことか。そして、先祖代々の宗旨に執着して、その宗義を知らず、人々を救おうとする善言を悪言と思って憎み、謗者である邪宗の僧侶や指導者たちを聖人のごとく敬う等々、あらゆることが逆になっている状態である。
この転倒の姿は、ひとり宗教界にとどまらず、政界にも、経済界にも、教育界にも、あらゆるところにあらわれている。正しい節操のある政治家は、バカにされ、のけ者にされ、あげくは暴力団に襲われて殺されることも珍しくない。経済界においても、一国の繁栄、民衆の興隆、世界平和の推進のために立つ事業家は、まことに少ない。否、皆無といっても過言ではない。そうした高潔な人材が育たないような、汚れきった「溷厠」のごとき泥沼の世界となってしまっているからである。
教育界も同様である。本当に教育に情熱を燃やし、誠意を尽くすより、政治的に立ち回る人の方が重んじられ出世するという、情けない実態ではないか。そして、大部分の人は、大学を卒業して就職した当初は、純粋な気持ちで情熱はもってはいるが、やがて周囲の実情に気づくにつれて、保身のため、出世のため、打算的となり、それがあたりまえと思いこむようになってしまう。すべて改革しなければならないことばかりである。だが、少し勇気ある人が出ても、あまりの壁の厚さに、なにもできずに手をこまねいているばかりである。
人間には本質的に、現状に甘んずる傾向が存するものだ。それが、たとえ悪い状態であることはわかっていても、そこから出ること、それを変えることを嫌う気持ちがある。「住めば都」という言葉があるが、これはそうした人間性の一面をまことに端的に、表現したものである。半面、いっさいの現状に安んずることを嫌い、常に新しいものを求めてやまない性情もある。それが青年の特質でもある。
宗教革命は、青年の進取的な気槪によって遂行されるものである。既成のものに執着しうる老いたる人々は、その老獪な悪智慧を働かせて、さまざまに妨害するであろう。だが、われわれは、過去もいっさいの妨害を乗り越えてきたし、未来も、いっさいの障壁を打ち破って進んでいくのである。肉体的な老若を問わず、創価学会員のこの若々しい気風こそ、妙法の不老不死の理の立証である。濁乱の世に染まぬ清浄さ、経文に説かれている如蓮華在水の姿ではないか。
日本の現状を見るとき、政界の腐敗堕落、またそれに対する国民の極端な不信、その裏にあって政界以上の汚れをみる経済界、なんらの教育理念ももたない教育界、こんな状態で、国家としての満足な成長があったならば、むしろ不思議である。しかしながら、このように腐敗堕落させてしまったのも、所詮は、それを司っている一人一人の人間であり、さらに、その人間を堕落させたのは、憎むべき邪宗教である。
結局、世の乱れのいっさいの根源をつきとめていくならば、邪義邪宗にまで遡らざるをえない。しかして、その邪義を唱えて、世を乱した者こそ、悪人のなかの極悪人である。
釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず
釈尊一代の説法は、勝劣浅深がはっきりしており、混同する道理はまったくない。
ここで、われえわれは、宗教にはその勝劣浅深を明らかにする基準があることを知らなければならない。今日、創価学会の折伏に対して「どうして人の宗教を悪くいうのか」とか「人の宗教をけがすような宗教は嫌いだ」とか「本人が好きでやっているものを、他人がとやかくいうのはおかしい」等と反駁してくる人がある。このような批判をするのは、宗教を正しく理解していない人々である。冷静に一つ一つの宗教を吟味していくならば、「どの宗教でもかまわない」などという暴論は、けっして出てくるわけはないのである。
どの宗教でも同じというのは、あらゆる宗教が同じ本尊を持ち、同じ修行を行ない、同じ教義を説いてこそいえるであろう。現実に一つ一つまったく違う以上、その相違を認識し勝劣浅深を検討するのが、近代人の態度である。
しかるに、現代の人々は、宗教に対してまったく盲目的であり、およそ浅薄なる知識しか持ち合わせていない。特にわが創価学会に対する批判の内容をみるとき、それは単なる感情によるもので、理論的な裏づけをもって反対しているものは皆無である。批判することを生活の糧としている「評論家」の言にいたっては、取り上げるも愚かなほどである。
しかも、宗教に対する一般的な批判のなかで、われわれがよく耳にするものは、「宗教とは非科学的なものである」という盲心的な批判である。
そのような言葉を口にする人に限って、その日常の行動たるや、まったく非科学的な場合が多いのである。建設工事の起工式や竣工式のとき、神道が何であり、そうすることにどういう意味があるかも知らないで、信妙な顔をして、神主の祈禱を受けるひとたち、正月といえば、普段はなんら関係のない神社仏閣へ参詣する人たち、それらの人々の行動は、どうみても科学的とはいえない。
科学性を重んずる現代人であるならば、まず宗教を科学的に検討してみよ、と私は訴えたい。そうすれば、なぜ創価学会員が、他の宗教を邪宗教というのか、おのずからわかってくるであろう。
宗教とは、生命の本質を解明したものであり、生活の根本法を説き明かしたものである。それゆえ、宗教を誤ることは、人生、生活の根源を誤ることになる。われわれが不幸になるのは窮極においては、その根本の生活法ともいうべき宗教が低級であり、かつ誤っている点に原因がある。したがって、宗教の内容、本質も糾明せず、また、先祖からのものであるとか、習慣であるからといって、そのまま鵜呑みにしてよいわけがない。根本法なればこす、最も高く、正しいものを求めて、価値ある人生としていくのが、文明人のあり方といえる。
現在、日本には、世界じゅうのあらゆる宗教が存在しており、文部省の統計によれば、宗教法人の数はおよそ18万といわれている。しかしながら、そのほとんどの人は、それらの宗教を判別し、批判していく基準原理を知らない。
このように、多くの宗教が乱立しているのは、日本人がいかに宗教に対して無批判であるかの証左でもある。無批判とは、反近代的、非科学的の意にほかならない。
また、無批判が信教の自由であるかのごとくいう人がいるが、これもいかに幼稚な錯覚である。単に無関心、無批判であるためならば、自由の獲得に尊い血を流す必要は毛頭なかったのだ。正しいものと邪なものとを批判し、邪なものを捨て、正しいものを信ずるために、人類の信教の自由をかち取る戦いが行われたのである。人類は真に納得のできる正しい信仰をもってこそ、先覚者の苦闘の意義あるものとすることができるのであろう。
宗教批判の原理
およそ、すべての物に測る基準があるように、宗教にも、その正邪・勝劣を測る基準がある。その基準によって測っていくならば、いかなる宗教も、厳格にその成否が決定され、誤りのない宗教が選び出されてくる。この宗教を測る基準を「宗教批判の原理」というのである。宗教批判の原理としては、文・理・現の三証、宗教の五網、五重相対、四重興廃、三重秘伝等たくさんあるが、ここでは三証、宗教の五網、五重相対の三つんついて述べる。
文・理・現の三証
三証とは、文証・理証・現証のことである。
文証とは、文献上の証拠の意で、その宗教がいかなる経典をよりどころとしているかということである。仏教ならば、各宗各派、おのおのが依経としている経文がある。キリスト教の聖書、イスラムのコーラン等、いずれも文証である。およそ、経典や教義のないような宗教とは、宗教とはいえない。これらの各宗教の経典、そこに説かれている教義を比較検討してみるならば、仏教以外の宗教の教義は、仏教に比べて、はるかに低い教えであることをただちに知ることができるのである。
理証とは、以上の文証があるとしたうえで、その文証が哲学的に究明して、現代科学と矛盾せず、かつ理論としてあらゆる人が納得できるかどうかという問題である。いかに経文が立派であっても、説かれている内容が支離滅裂で、科学的価値がなかったならば、これは捨てなければならない。哲学とは、思惟することであるが、正しい宗教は合理的であり、普遍妥当性をもっていなければならない。同一原因は、時と所によらず同一結果を具現し、すべての人々を幸福に導くものでなくてはならないのである。
さらに、現証とは、経文に説かれ、理として示されているところが、実際生活のうえに証明されることである。本来、真実の宗教の意義は人間革命にあり、個人個人の宿命を打開して絶対的幸福を得さしめることが目的である。したがって、この理を完全に説明できる哲学がなくては、真実の宗教とはいえない。しかして現証とは、その宗教を実践することにより、いかなる証拠が現実の生活に現われるという実験証明である。
日蓮大聖人も、この現証に最も重きをおかれ、安国論にも以下の本文のように、唐の例や日本の承久の乱の例を引き邪教が国家に及ぼした現証を教えられている。
弘安2年に認められた聖人御難事にいわく、
「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、 大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(1190-05)
現証があるかないか、これこそ宗教の正否を決するものである。大聖人は現証が最も大切であることを、三三蔵祈雨事に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と仰せられている。
かくのごとく、宗教を論ずるにああっては、証拠を第一とする。日蓮大聖人を末法の御本仏と断定するのも、文証としての法華経のうえに明らかであり、その文証どおりに大聖人が振舞われたがゆえに、われわれはそれを信ずるのである。
よく、西欧の考古学的な仏教学者の影響で、釈尊の説いた教えは根本仏教のみで、他の小乗教・大乗経は後世につくられたものであるといって、これを否定する生半可な学者がある。そのようなことは、小乗教がまず弘まり、ついで大乗教が弘まったという仏法流布の方程式を知らないところから起こったものであろう。インドにおいても中国においてもかつて論議されたし、近代日本の国学者などからも出されたことがある。古代仏教は伝承によって伝えられたので、これを文献的にうんぬんすることは所詮無理なのである。
仏法は生命哲学である。小乗教より大乗教、大乗教のなかでも法華経が最も勝れていることは明白である。法華経を否定する人々は、機械や知識の奴隷になっているのである。主体的に、理性ある人間としてみれば、そのようなことは取るに足りないことである。もったいない話であるが、一つの譬えでいえばよくわかる。ある人が、某有名メーカーの製品と信じていた、優秀なラジオがあったとする。ところが、よく調べると、それは、そのメーカーの製品でなかった。だからといって、そのラジオの性能の優秀であることに変わりはない。有名ラベルさえあればよいという人はともかく、賢い人なら、機械が優秀であること自体を喜び、それを重んずるであろう。
仏の経典もまた然りである。大切なのは経文が優れていることであり、説かれている哲理が高く、深く、正しいことである。日蓮大聖人のお振舞いは、法華経に説かれているのと寸分の違いもなく、大聖人の建立された三大秘法の大御本尊の力は、経文に説かれているとおりに、今、われわれの生活に実証されている。
この現実の証拠をもって、また、われわれの主体性に立って、学問や知識の奴隷と化した学者たちの主張が、いかに愚かであるかを知ることができる。
五重の相対
内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つをいう。
内外相対とは、内道と外道の比較論である。内道とは仏教、外道とは仏教以外の宗教、すなわちキリスト教、儒教、イスラム教、バラモン教等である。この二つを比較すると、内道である仏教の方が、外道よりはるかにすぐれている。その比較の基準は因果の理法の有無である。
仏法は因果の理法を根幹として、原因があれば必ず結果があると説き、これが一法則のごとく定まっている。ゆえに科学である。しかるに外道においては、この因果論がはっきりと説き明かせておらず、また因果を無視した説が多く、仏法に比較すると、はるかに低級といわざるをえない。
たとえば、キリスト教等で天地創造説を立てる。天地創造以前は無であり、混沌である。すでにここに因果律は成り立たない。いわんや一つのパンから無数のパンを出したり等の、いわゆる奇跡と称するものは、因果無視の典型である。大聖人は唱法華題目抄に「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016-16)に、と述べられている。「法門ををもて邪正をただせ」とは、因果の道理である。奇跡のごときは絶対にありえないと断言されているのである。
このようにいえば、創価学会で病気がなおる等というではないか、という人があるかもしれない。だが創価学会でいうのは、あくまでも信心によって本人の生命力が増し、福運がついて病気を克服するという、現代医学でも証明されつつある道理にかなっているのである。いわんや仏法哲理、生命哲学に照らせば、明々白々の原理が存するのである。
大小相対とは、仏教のなかにも大乗教と小乗教がある。小乗教は釈尊が説法を始めてから、三七日間の華厳経についで、最初の12年間に説いた経である。これを依経とした宗派は、わが国では倶舎・実成・律宗等があったが、いずれも今は消滅している。小乗教以後の説教を大乗教という。小乗教が戒律を主体とし、修行が複雑であるうえ、単にその個人をしか教えないのに較べ、大乗教は、法の内容が高度で、しかも修行は簡単である。ゆえに多くの衆生を救える大乗にたとえるのである。今日、この小乗教は、ビルマやチベットなどの東南アジアで行われているが、厳しい戒律と修行を青年に要求し、むしろ近代社会としての発展を阻害する結果となっている。一方、わが国でも、天理教や日蓮宗各派がこれを取り入れているが、使い古した暦のごとくで、むしろ低級な邪教ぶりを証明しているにほかならない。
権実相対とは、大乗教のなかにも権大乗教と実大乗教とがあり、実大乗教の方が勝れているのである。権大乗教は華厳経の21日の説法、方等部の16年間の説法、般若部の14年間の説法で、浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗、三論宗等が、この権大乗教の経文をそのよりどころとしている。この教えは、いずれも仏が衆生の機根を調えるための方便として説いた経文で、いまだ真実の教えである宇宙の根本原理、生命の実相観は説かれていない。それを説き明かしたのは、実大乗教、すなわち法華経である。ゆえに権大乗教は実大乗教にはるかに劣るのである。
本迹相対とは、実大乗教のなかでも、本迹二門があり、迹門に対して本門が勝れているということである。釈尊は一代の説法の肝心として、最後の8年間に1部8巻28品の法華経を説いた。その28品のうち、前14品を迹門、後14品を本門というのである。迹門においては、釈尊がこの世に生まれて、30歳で初めて成仏したという始成正覚を前提として、生命の理論上の実相観を述べている。しかるに本門においては、永遠の生命観のうえに立って、宇宙および生命の実相を説き明かしたのである。
迹門の迹とは「影」の意で、本門の本とは「本体」、永遠の生命である仏が、初めて仏になるという姿を示し、その立ち場で説く本門であるゆえに迹門というのである。したがって、仏が本地において説いた本門のほうが、はるかに勝れていることはいうまでもない。
この本門の説法を聞くことによって、法華経迹門に至るまで成仏することのできなかった迹化の菩薩や人天の大衆も、初めて成仏することができたのである。しかしながら、迹門はもとより、本門といえども、日蓮大聖人の仏法と比較した時には、天地雲泥の相違がある。釈尊の教えは末法においては、なんの利益もないのである。
種脱相対とは、仏になるこれこそ最も肝心の法門である。すなわち、仏法において、大切なことは、種・熟・脱の三義である。
種とは下種のことで、仏になる根本の原因をつくること、すなわち、仏に会って仏になる種を植えることをいう。熟とは、過去の下種が薫発し調養することであり、脱とは下種された仏種が調養して、ついに仏と等しい境涯を得ることをいうのでる。これみな仏法の大利益であるがゆえに、三益といい、それぞれ下種益・熟益・脱益というのである。
さて仏教において、釈尊は以上の三つのうち、どの利益を在世の衆生に与えたかというと、それは脱益なのである。すなわち、過去五百塵点劫の世において、自分が下種し、結縁した衆生が、その長い間、調養し、さらにインドに、釈尊と同時代に生まれてきて、その教えを聞いて調養し、ついに法華経にいたって仏の境涯を得たのである。ゆえに釈尊の出世の本懐は過去の下種を熟し脱せしめんがためである。
しかして、過去に下種されながら、釈尊の在世に得脱しなかった者たちは、正法1000年間、像法1000年間に仏法を修行して調養し脱したのである。すなわち像法時代には、薬王菩薩の後身である天台大師が出現して、理の一念三千を摩訶止観に説いて熟益を施した。ずっと過去に下種されていた人々は、この天台の熟益の教えによって、調養しつつ、自然に得脱したのである。
それでは、末法はどうであろうか。われわれ末法の衆生は、釈迦仏法にはなんの結縁もないのである。いわゆる本末有善の衆生といって、過去に釈迦仏法によって下種されたこともなければ、当然、熟益の功徳をうけたこともない。そういう善根はいっさい積んでいないのである。したがって、釈尊50年の経々によっては、成仏もできないし、現世に成仏の証拠としての幸福もつかみ得ないのである。されば末法の衆生は、現世において初めて下種を受け、直達正観といって、末法の正法の仏力・法力によって、ただちに仏の境涯にいたるのである。この下種仏法の本仏こそ、日蓮大聖人である。
釈迦仏法では、五百塵点劫という長い期間を修行してようやく成仏するのに対し、日蓮大聖人の仏法は、一生成仏といって、この一生の間に成仏を得ることができる。すなわち、下種仏法といっても、下種するだけをいう意味ではなく、下種・調熟・得脱を具えているのである。受持即観心といって、この妙法を受持し三大秘法の御本尊に南無妙法蓮華経と唱える、その当体がすでに仏身なりと説かれるのである。このように、凡夫の身そのままで成仏することを即身成仏という。
下種の仏法と脱益の仏法とは、以上のように根本的に違っており、末法今時においては、脱益の仏法を捨てて下種の仏法を採らなくてはない。これを種脱相対して仏法を批判するというのである。
世の人々は、法華経というと、釈尊の28品の法華経だけだと思い込んでいるが、法華経には何種類もの法華経があり、釈尊以後だけでも三種の法華経がある。釈尊の28品は脱益の在世当時の法華経で、熟益の法華経は、像法時代の天台の摩訶止観であり、末法下種の法華経は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経である。
日蓮大聖人、観心本尊抄にいわく「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-16)と。
宗教の五網
五網とは教・機・時・国・教法流布の先後の五つである。この五つの条件に適った宗教でなければ正しい宗教とはいえない。
まず教とはいかなる教えが最高であり、民衆を物心ともに幸福に導くことができるかを判断することである。この判断の基準は、すでに見てきた三証・五重の相対によるのであるが、大聖人は教機時国抄の中で、次のように仰せられている。
「所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は 涅槃経は 法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁せよ止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁えたる者は教を知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば 教を知れる者之れ少きか教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、 恐る可し恐る可」(0440-01)
日蓮大聖人は、法華経こそ勝れたり唯一絶対なりと知るのが、教を知る者なりと御断定である。しかして、この法華経とは、釈尊の28品の法華経でもなく、また像法時代の天台の摩訶止観でもない。文底秘沈の南無妙法蓮華経の7文字の法華経である。この南無妙法蓮華経こそ末法唯一の教としることを教を知るというのである。
機を知るとは、民衆の機根を知ることである。最高の教えである三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法も、正法・像法時代には弘めることができなかった。それは一つには、正像の民衆の機根と合致しなかったゆえである。逆に今末法現代において、仮に釈迦仏法が最高だとしても、悠長な歴劫修行では、民衆は納得しないであろう。もしも、そのような修行をするとなれば、社会生活の方が成り立たなくなり、幸福生活を実現することはできなくなってしまう。決局は有閑階級の気休めになってしまうことは必然である。今はやりの坐禅のごときは、まったく現代の民衆の機根に合わぬものであり、また経文書写も仏像崇拝等も、いずれも前時代的で現代の時代に適合したものとはいえない。
三に、時を知るとは、現在は正・像・末のうち、末法の時代である。釈尊の予言どおり、釈迦仏法の功力は失われ、邪宗が横行している五濁の相を現じている。民衆は塗炭の苦しみに陥り、力ある宗教、真実の仏法の出現を待ち望んでいる。このような時こそ、日蓮大聖人の大哲理が弘まる時であると知ることこそ時を知るというのである。
この時を知ることは、第一の教えを知るのとともに、五網のなかでも特に大切な問題とされている。これについて明かされたのが、「撰時抄」で、その冒頭に大聖人は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256-01)と述べられている。末法現代、民衆の機根は下劣になっているが、自然科学の発達によって、仏法の深遠な生命哲学が理解されやすくなっているのは、やはり時のしからしむるところといえようか。
さらに国を知るとは、日本は実大乗有縁の国である。弥勒菩薩の瑜伽論にいわく「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」と。肇公の翻経の記にいわく「大師須耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く仏西に入って遺耀将に東に及ばんとす此の経典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」と。この予言のとおりに、日本は日蓮大聖人御建立の一閻浮提総与の大御本尊がまします国である。しかも大聖人は顕仏未来記に、この大仏法が中国・インドへ帰ると予言されており、現にわれわれ創価学会員の手によって、一歩一歩それが現実となっている。このように日本こそ、大仏法建立の国であると知るを、国を知るというのである。
最後に教法流布の先後とは、教機時国抄にいわく「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし 先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(0439-16)
わが国では、華厳・法相の権大乗が奈良時代に弘まり、法華経迹門が平安時代に広宣流布された。しかるに、権大乗の真言・浄土宗等が、この後に弘まって、国を乱し、民衆を苦しめたのである。しかも明治以降は、外道たる、まったく低級な神道を尊重したので、ついに亡国の悲劇を招いたのであった。一度、法華経が流布した以上、次に流布されるべき仏法は、法華経独一本門の大法でなければならない。これを教法流布の先後というのである。
報恩抄にいわく、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と。 すなわち、日蓮大聖人建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手によって、広宣流布し、末法万年尽未来際までの平和楽土を実現していくのである。
0025:05~0025:15 第三章 中国における亡国の現証を挙ぐtop
| 05 抑 06 近年の災難を以て往代を難ずるの由 強ちに之を恐る、 聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し、 止観第二に史記を 07 引いて云く「周の末に被髪・袒身・礼度に依らざる者有り」弘決の第二に此の文を釈するに 左伝を引いて曰く「初 08 め平王の東に遷りしに 伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る、 識者の曰く、 百年に及ばじ其の礼先ず亡 09 びぬ」と、 爰に知んぬ 徴前に顕れ災い後に致ることを、 又阮藉が逸才なりしに 蓬頭散帯す後に公卿の子孫皆 10 之に教いて奴苟相辱しむる者を 方に自然に達すと云いソン節兢持する者を呼んで田舎と為す 是を司馬氏の滅する 11 相と為す已上。 -----― そもそも、近年の災いの理由として、先年を非難することを、あなたは強く恐れているが、少し先例を引いてあなたの迷いを晴らすことにしょう。 『摩訶止観』の第二巻に『史記』を引いて、「周の時代の終わるころに、髪を結わず肌をあらわにして、伝統的な作法に従わない者がいた」と述べている。 『止観輔行伝弘決』の第二巻でこの文を注釈するにあたり、『春秋左氏伝』を引いて次のように述べている。 「昔、平王が都を東に遷した際、髪を結わないままの者が野外で祭祀を行っているのが伊川で見られた。 見識ある者が言う。『百年も経たずにこの地は異国民のものとなるだろう。伝統的な作法が先に亡んでしまったのだ』と」 このことから、予兆が前に顕れ災いが後に到来するということが分かる。 また『摩訶止観』には続けて以下のようにある。 「阮籍は逸材があったが髪をぼうぼうにして帯を喪服のように垂らしていた。後に、貴族の子孫が皆これを模倣して、『奴』や『狗』などと言って人をはずかしめる者を本来あるべき境地に達した者と同等とし、節度があり慎み深い者を田舎者呼ばわりした。これが司馬氏が滅びる前兆であった」以上。 -----― 12 又慈覚大師の入唐 巡礼記を案ずるに云く、 「唐の武宗皇帝・会昌元年勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に 13 於て弥陀念仏の教を伝え令む寺毎に三日巡輪すること絶えず、 同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す、 同三年河北 14 の節度使忽ち乱を起す、 其の後大蕃国更た命を拒み回鶻国重ねて地を奪う、 凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里 15 の際に起る、何に況んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥ること能わずして遂に以て事有り」已上取意。 -----― また慈覚大師円仁の『入唐巡礼記』を調べてみると次のようにある。 「唐の武宗皇帝は、会昌元年、勅令を発して章敬寺の鏡霜法師に諸寺で阿弥陀仏の教えを伝えさせた。寺ごとに三日ずつ念仏を行い、絶えることなく巡り続けた。 同二年、ウイグル国の軍隊が、唐の国境地域に侵入した。同三年、河北の節度使が突如、乱を起こした。その後、チベットが再び命令を拒み、ウイグル国が再度領地を奪った。 戦乱は秦の末期の項羽の時代とほとんど変わらず、戦火が地方を襲っている。まして、武宗は大いに仏法を破壊し、多くの寺塔を壊してしまったのだから、それ以上の災難が起こるのは当然である。乱を鎮圧することができないので、そのままついに亡くなってしまった」以上、取意。 |
止観
摩訶止観の略。天台大師が荊州玉泉寺で説き、弟子の章安大師が筆録した書で「発句玄義」「法華文あらわして像法適時の観念観法の実践修行を明かした。天台大師出世の本懐はこの書に尽き、理の一念三千を明かしているので像法の法華経とも称される。題名の摩訶とは梵語で「大」を意味し、止とは、邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。観とは、さらに正見・正智をもって諸法を観照することで、すなわち妙法を感得することをあらわしている。章安大師は「止観の明静なる前代に末だ聞かず」称え、日蓮大聖人も兄弟抄で次のように述べられている。「されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く『止観の明静なる前代に未だ聞かず』云云、又云く『天竺の大論尚其の類に非ず』等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし」(1087)なお、この止観といえども理の法門であって、末法において出現する事の一念三千の大御本尊の説明書にすぎないのである。
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史記
(前0145~013?)司馬遷が前漢の武帝時代に著した中国最初の歴史書。その内容は、開闢時代から武帝に至るまでの帝王の興亡史を編年体で書いた「本紀」、各種の「年表」、政治・経済・文化の諸制度の変遷を書いた「列伝」等からなる。こうした歴史叙述の形式は紀伝体といわれ、以後正統的な史書の発祥となった。彼以前には、断片的な記録や列国史等しかなく、綜合形式による一般史はこの史記をもって最初とするのである。司馬遷は本署によって「天人の際を究め、古今の変に通じて一家の言に立つ」ことをめざした。序文で、悪事の限りを尽くしながら幸福な一生を終える者もあれば、善人であるが不幸な人もいる。その原因はどこにあるのかと疑問を投げているのは興味深い。著者・司馬遷は字は子長、太史公と称された。太史令司馬談の子で、夏陽に生まれ、幼少のころから学者となるべく厳格な教育を受けた。10歳の時には、すでに諸種の古典に通じたという。20歳の時、父の命により中国全土を巡歴し各地の史跡をたずね、記録伝承を採取した。のちに武帝に仕えて郎中となり、37歳、または27歳の時、父の跡を継いで太史令となった。これは宮廷の図書を司り、暦を作る職で、これによって、一層見識を深めることができた。また彼の改正した太初暦は後の暦法の基礎となる画期的なものであった。おりしも、西域に出征していた武将李陵が匈奴に降ったのを独り弁護したので、武帝の怒りをかい宮刑に処せられた。この時恥を忍んで自決を思い止まったのは、父の遺命である修史を完成するためで、以後、全魂を傾けて「史記」を完成した。史記130巻は本記12巻、世家30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻より成っている。
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周の末
周とは、西紀前12世紀の末から前40256年まで約850年、37代にわたって続いた中国の古王朝。姫姓を称する周は、陝西の渭水流域に興り、西伯の子・発にいたって、黄河下流域に繁栄していた殷の紂王を滅ぼして建てられた。はじめ西方の宗周を都とし、並んで東方の成周にも都を営んだが、犬戎等の異民族の侵入、国内諸候の離反により、前0770年、平王の時、鎬京を捨てて洛邑の身となった。これ以前を西周といい、以後を東周という。西周時代の社会は、周王の一族や功臣を諸侯として各地に分封し、王と諸侯とは本家・分家の関係で結ばれ、いわゆる封建制度の典型をなしていた。この思想は武王の弟・周公旦の創唱した宗法・礼儀によるもので、後世・儒教を唱えた孔子は周公の思想にその範を求めた。日蓮大聖人は報恩抄に「周の代の七百年は文王の礼孝による」(0329)と申されている。しかしながら、東周にはいってのちは、まもなく春秋時代と呼ばれる乱世になった。春秋時代の周は一応、名目的には王として尊ばれたが、実質は一諸侯にすぎず、戦国時代にはいると、各諸侯が王と称するようになり、周王の権威はますます地におちて、ついに前0256年、秦によって滅ぼされたのである。周の末とは、微末という意味の末であり、周の最後というのではない。
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被髪
髪を結ばず、振り乱すこと。古代中国では、最も身だしなみの悪いこととされた。現在でいえば、散髪しないで長く伸び放題にし、櫛も入れず、伸び放題にし、汚れるままにしていること。
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袒身
衣を解いて、膚をあらわにすること。露出症。
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礼度に依らざる者
国で定めた礼儀を守らない者。あるいは、礼儀を守ることが古臭いとか、田舎者といってさげすむ者。わけのわからない非道徳的なことが時代の先端と思われる世相も、これにあたる。
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弘決
天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。
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左伝
「春秋左氏伝」の略称。左氏伝は公羊伝、穀梁伝とともに春秋三伝と称せられる。第二者が理念に重点をおいているのに比して、左氏伝は史実に重点をおいている。いずれも一王によって統一された天下の倫理的秩序を確立しようと志すものである。左氏伝は東周時代の学者、左邱明の著といわれるが、左邱明については孔子と同時代の人とも、以前の賢人ともいわれ定かではない。左氏伝を春秋内伝といい、国語を春秋外伝ともいう。
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平王
(前0771~0720)周期第13代の王で、幽子の子。名は宣臼。幽王は犬戎に殺され、西周最後の王となった。平王は犬戎に敗れて鎬京を去り、東に遷って洛邑に都した。兵王以下、斉・楚・晋・秦等が強大となり、春秋・戦国時代に迎えて周は衰亡した。
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伊川
伊水ともいう。河南省汝州伊陽県のこと。
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野に於て祭る
中国・周代の末の世相。野原で祭りを行うこと。周では祭りは神聖なものとして、身だしなみを整えて行うのが儀礼とされていたが、野に於て祭ることは、周の世を支えていた礼節が根本から腐ったことを意味し、これを周の滅びる前兆であるといわれている。
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阮藉
(0210~0263)中国の三国魏代の詩人。竹林の七賢の代表として有名。父、瑀は曹操に仕えて丞相掾となった。彼自身も歩兵尉となったが、むしろ母の喪中に酒を飲み、竹林で気違いじみた仲間と老僧の道を談ずるなど、奇怪な言動が多い。これは、当時、実権は司馬氏であったが、世情不安定で、名門の子弟の運命はきわめて危い状態にあった。そのため「いかにして生きのびるか」との目的のもとに計画された言動であると解せられる。五言詩「詠懐詩」八十二首のほか「大人先生伝」などの作品がある。
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蓬頭散帯
頭髪をぼうぼうに生やし、帯をだらしなく締め、気違いじみた格好をすること。
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公卿
朝廷や王族に仕える貴族の総称。
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奴苟相辱しむる者
奴も苟も賤しいものの意。賤しい人たちが礼儀を無視して、乱暴な言葉を使って相はずかしめ合うこと。
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自然に達す
堅苦しい形式や枠をとった、人間性の本来のあるかたに戻ること。老荘思想。礼儀・形式をやかましく説いたのが孔子の儒教であるのに対し、老荘思想は自然に達することを理想とした。中国の歴史において、治世には為政者が儒教を押し付け、乱世には民衆の間で老荘思想が勢いを増すという繰り返しが行われた。もとより為政者の中にも老荘思想に惹かれた者もいる
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撙節兢持
撙節とは、抑えて制限すること。兢持は、みずから慎み戒めること。
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司馬氏
中国の氏のひとつ。
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入唐巡礼記
慈覚著作の書。「入唐求法巡礼行記」四巻のこと。承和5年(0838)6月13日、太宰府を出帆して承和14年(0847)7月、筑前に入港するまでの10年間の紀行文。彼が入唐したのは文宗の開成3年で、武宗皇帝が即位した会昌元年はその4年後である。また帰朝したのは武宗崩御の翌年である。
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武宗皇帝
(在位0841~0847)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088)と述べられている。
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回鶻国
(Uigur,Uighur)回紇とも書く。栄から元にかけて、蒙古・甘粛・新疆方面で活動したトルコ系の部族。唐代の中頃、突厥に代わって蒙古の覇を制した。はじめ唐の支配下に属していたが、のちにそむいてしばしば漢民族をおびやかした。現在のシベリアにいたキルギスに敗れ四散し一部は中国に遷って現在の新疆住民になったといわれる。
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河北の節度使
河北とは黄河の北方、後の山西省・山東省。節度使とは唐朝が辺境の異民族の侵入を防ぐために大軍を配置したが、その軍管司令官として置いたのが節度使である。しかるに、その節度使が地方の監察官を兼任し、やがて武力を背景に、一切の行政権・財政権を握り、軍隊を私兵化し、中央に脅威を及ぼすようになった。有名な玄宗皇帝が時の安禄山も河北・山東を地盤とする節度使であり、最後に唐朝を倒した朱金思も汴州宣武軍の節度使であった。
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大蕃国
吐蕃ともいい、チベットに対する唐宋時代の呼称。吐蕃は太宗・高宗時代の唐朝初期に唐の属国となり、則天武后、韋氏の唐朝混乱に乗じて離反、玄宗の開元の治を経てふたたび唐の規律がゆるむと、それに応じて離反している。ちょうど武宗即位前、チベットは廃仏派のダルマ王が暗殺され、混乱のなかから仏教と民間信仰のボン教が融合してラマ教が生まれようとしていた。巡礼記の「大蕃国名を拒み」とは、こうした民族意識の高まりによるものと思われる。
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秦項の代
秦は周代の末の春秋時代に覇を争った列国の一つであるが、政王のときに周および六国を滅ぼし統一を成し遂げた。これが秦の始皇帝である。しかし秦は三世王の世、建国16年で滅ぼされた。秦の後の天下を8年間にわたって争ったのが漢の沛公と楚の項羽で沛公の劉邦が勝って漢王朝を創建した。この間戦乱絶え間なく、民衆が困窮のどん底に陥ったのが「秦項の代」である。
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邑里
村里・集落
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遂に以て事有り(武宗の)
武宗は会昌6年3月、国内騒然とするなか病死した。死因は神経衰弱と背疸のためといわれる。これは、念仏の邪義を重んじ、のちに正邪を問わず、仏教を弾圧したためであると慈覚は述べている。
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この章は客の問いに「何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや」とあったのに対して、具体的例をもって破折されたのである。
この章に引いた三つの例は、いずれも中国の例で、一に周の末、二に晋の時代、三に唐の末で、いずれも、国家が大きく乱れた例を引いている。
一の周末の例は、仏法とは無関係の立場であっても一国の興廃には必ず前兆のあること。
二の晋代の例は、外道においても国の興亡には必ず前兆のあること。
三の唐末の例は、仏法においても、当初邪法が流布すれば、一国に災難が起きてくる。
ことを現わしたものである。
周末の乱れ
はじめに周の末についてみれば、西紀前12世紀に文王、武王によって建国された周は、はじめ、西の鎬京(現在の西安か)を都と定め、中国史を通じて、最も典型的な封建体制のしかれた時代であり、安定し、繁栄もしていた。ところが第10代の廣王の時代になると、さしもの周王朝も衰微し、滅亡の徴候を見せ始めた。廣王は圧政を続け、民衆の苦悩は、増大する一方であった。ために民衆の不平不満は高まった。これに対し王は、衛の国から巫女を呼び寄せて、王の悪口を言うものの名を神がかりで告げさせ、かたっぱしから謙疑者をとらえて殺すという暴挙に出た。ついに周の都には大反乱が起こり、国民は立ち上がって王の宮殿を襲撃した。いのちからがら危地を脱した王は東方に出奔し、以来14年間、周は空位時代となった。その跡を継いで廣王の子で、英明な宣王が立ち、在位46年間、周室は大いに復興した。だが宣王といえども、晩年はうってかわって失政が多く、民衆の不満、反感は高まった。そこに、宣王あと、暗君幽王が立ったために、民衆は、再び苦悩のどん底に追いやられた。特に旱害が続き、陝西地方に大地震が起こったりして天災が重なったために、悲惨な状況は、筆舌に尽くしえぬものがあった。
民衆が苦悩している時、幽王は、愛する褒姒の歓心を得るため、いろいろなばかげたことをやってのけた。たとえば、褒姒が少しも笑わないので、これを笑わせるために、外敵の侵入を知らせるのろしをあげさせた。四方から馳せ参じた諸候が、外敵の侵入がなかったので、拍子ぬけした顔をした。これを見て褒姒が大笑いした。褒姒の笑顔を見たい一心の幽王は、その後、幾度となくのろしをあげたので、諸候はのろしの合図をまったく信用しなくなってしまった。さらに幽王は、皇后の申后と太子を廃して、褒姒を皇后に、その子伯服を太子に立てようとしたため、皇后の一族は、西北の犬戎をそそのかして幽王を攻めさせた。幽王はのろしをあげて、諸候を召したが、集まるものとてなく、幽王は犬戎の手にかかって殺された。周の鎬京の都は陥落し、完全に夷狄の手中に落ちた。諸候はやむなく東にのがれて、もとの皇太子を立てて平王とし、東方の都洛邑(現在の洛陽か)で即位させた。この遷都をさかいに以前を西周、遷都後を東周と呼んでいる。この周代の社会構造は、中国歴史中、最も典型的な封建体制のしかれた時代であったが、東周となってからは、その制度も乱れるようになり、周王といえども、地方の一諸候と同程度の実力しか持ち合わせなくなった。
この周の末を春秋戦国時代と呼ぶが、その時代は洛邑遷都から、晋が魏、趙、韓の三つに分割された年まで、戦国時代をそれから秦の始皇帝が天下を統一した年までとするのが、普通の見解である。いずれにしても、この時代は春秋と戦国の二期に分けるとはいえ、その内容は西周の封建制度があらゆる面で解体し、次にくる秦漢統一国家の成立する準備の過程と一貫している。
東周のはじめの頃は、国に100余の諸候がおのおのの領土を治めていたが、春秋を経て戦国時代にはいると、弱国は強国に併合されて、秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙のいわゆる戦国7雄が、広大な領土国家を形成するようになった、
この時代には、各国も内には内乱に悩まされ、外には国家間の争いが絶えず、国土は荒乱し君主や郷大夫の亡命も珍しいことではなかった。戦争のたびごとに、それを調停する会議が設けられ、調停者として覇者と呼ばれる人々が出るようになった。なかでも、斉の桓公・晋の文公などは有名である。これらの覇者は時により国王に代わって、中原に出て秩序を保つ役割りを演じたりしたが、これがかえって諸国間の争いを激化させる一因にもなった。
世の乱れを救いきれなかった孔子の教え
かくして、西暦前770年の遷都から前0221年の秦の統一まで、約550年間も戦乱が続いた。これは驚異的な長さであり、特に、戦国末は悲惨であり、秦が趙に殲滅的打撃を与えた長平の戦いでは、秦将白起は、食糧不足のため趙軍のの降卒45万人を全部穴うめにして殺すなど凄惨をきわめた。この間いかに民衆がその中に巻き込まれて苦しんだかは想像にかたくない。
礼儀が乱れることが、なぜ世の乱れの瑞相であったか。思うに、礼儀の乱れこそ、実に民衆の心の乱れのあらわれであり、民衆のいらだち、あせり自暴自棄、目的観の喪失、既存の権威への不信、不満等が、さまざまな姿、形ににじみ出たものであるからである。
かつて文王の時代に定められ、かたく守られていた周の礼儀は、時とともに次第に失われていったのである。それは、そのまま周王朝の運命を物語るものであった。西周は没落し、東周の時代になるといっそう礼儀はかえりみられず、周王朝は衰微の一途を辿っていった。この時代に、いかに礼儀が失われたかは、孔子が魯の国の年代記をもととして編纂した、紀元前722年から前481年にいたる241年間の歴史をつづった「春秋」に明かである。孔子の「春秋」は、孔子が、臣下として君を弑し、子として父を殺すという極悪非道の世を慨嘆し、周の礼を復興し、大義名分をただし、乱臣賊子の行動を批判するために、もとの年代記に多少筆を加えてつくったものといわれている。
孔子の理想は、周公の定めた制度を復興し、周の礼に返ることであった。彼は、魯の定公のもとで大臣に任ぜられた。ところが、三桓氏をうち、豪族政治を打倒しようとした彼は豪族たちの反撃にあって、失敗し、前497ごろ国外に出奔したのだった。その後、彼は、晋・趙等の国々をまわり、礼を説き、それを具現すべきことを主張した。だが、どこの国でも彼の意見は取り入れられず、その間すんでのところで一命をおとしそうになったり、国境で立往生し、食糧がつきて7日間絶食するなど、13年間の旅行ですっかり心身疲れはて、失望のすえ、69歳のとき魯の国に帰った。このこと自体、儒教の限界であり、もはや、いったん失われた礼儀は、人為的にいくら復興しようとしても、復興できないことの証明であろう。すなわち、礼儀や頽廃は、民衆の生命の奥深くに根ざしたものであり、それに対し、再び形式的に礼儀を押しつけようとしても、もはや何の効果もなかったのである。この孔子の失敗した事実にも、そのころの礼儀の頽廃がいかにひどいものであったかが伺われるのである。また周王朝滅亡の姿であり、本文中に引かれた「百年に及はじ其の礼先ず亡びぬ」と識者の予言が的中したのも、まことにゆえあるかなと思うものである。
晋の衰微と竹林も七賢
第二の晋の衰微について述べるにあたり、この時代の概観すれば、後漢の滅びた西暦0202年から隋の建国589年までの約360年間は、まさしく動乱の時代であった。この時代は魏・蜀・呉のいわゆる三国鼎立の時代からはじまり、西晋となり、一時中国全体を平定、統一したが、北方異民族の侵入のために西晋(梁)は南に下って東晋となり、北に五胡16国、南に東晋と南北朝分かれて対立したのである。
北朝(魏)は異民族の盛衰、興亡が激しく、わずか120年の間に成・漢・後趙・前燕・前凉・前奏・後燕・後奏・西泰・後凉・南凉・北凉・南燕・西凉・夏・北燕と大小16の王朝がめまぐるしく入れ替わった。こうした異民族王朝もやがて興った北魏によって統一され(0493)、しばらく平穏が保たれたが、6世紀の中途から再び乱れ始め。東魏・西魏の分裂、さらに北斉・北周と王朝が変わって隋の統一を待つことになるのである。
一方、南朝は、東晋の時代がしばらく続いたあと、その乱脈極まりなき政治は、ついに再び激動期を迎え、420年に宋朝に変わり、ついで斉・梁・陳と王朝が交代し、589年北周とともに隋に滅ぼされ、南北統一が実現したのである。
この間、400年間というものは、先の春秋時代に劣らず、戦乱につぐ戦乱が続き、民衆の疲弊はその極に達していた。中国においては前漢・後漢の漢朝約400年間にわたる冶世の根底思想、理念として、孔子・孟子を祖とする儒家の哲理が行われていたが、漢末には、その孝悌、仁義を骨格とする思想の拘束に反抗するものが続出し、正統たる儒家思想は、次第にくずれさっていった。
本文に引かれている阮藉も、そうした反抗者ひとりで、阮藉を頭に嵆康・山濤・向秀・阮咸・劉伶・王戎の7人を、名づけて竹林の7賢と呼んでいる。阮藉が生まれたのは西暦0210年であるから、漢王朝が魏の曹操に滅ぼされるちょうど10年前で彼が長じた頃は、三国鼎立の時代であったわけである。
竹林の7賢といえば、聞こえもよく、いかにも聖人君子の集まりであるかのように思えるが、実際には、当時の行き詰まった世相に飽き飽きした者たちが、儒教倫理の形式主義をわざと無視し、酒を飲み、詩を吟じて気違いじみた行動を起こしたといった方が、ぴったりとしている。彼らは、当時魏を倒したあと西晋を建国した司馬氏らの一門や、礼教に縛られた人々を哀れな者共と見下し、そのような君子顔をしている連中は褌のシラミだといっては罵倒したのである。
この7人のグループの人たちは、いずれも風変わりな連中ばかりで、7斗の酒を飲む者。琴を弾く者、死んだら何もいらないから酒壺だけを一緒に埋めてくれと頼む者、母が死んだ時、その葬式の席上で、酒肉を食らい、賭け事をしている者等々、要するに、奇行者の集まりだったわけである。
この7人の首領格が阮藉で、彼が身だしなみもかまわず、だらしのない格好で登庁すると、それをきっかけとして若い人たちが皆それをまね、たちまちのうちに流行となってしまった。そして下品な言葉を使い、そのようにしてふるまうことが、あたかも立派な人であるかのような錯覚すらおこしてしまったわけである。
こう論じてくると、こうした様相は何も竹林の7賢の時代に限ったことではなく、そのまま現代の世相にあてはまることがわかるではないか。次々と流行を追う若者たち、熱狂的に歌い、踊り、一時の陶酔に身をゆだねる現代青年の姿こそ、まさしく彼の時代をそのまま再現したものといっても過言ではあるまい。この一事をみても、いかに現代の社会が思想的には勿論、あらゆる面で行き詰まり、乱れきっているかがわかるであろう。
残虐非道の限り尽した八王の乱・永嘉の喪乱
さて、晋の時代の礼儀の頽廃は、そのまま政治の乱脈の象徴でもあった。魏の建国時代の政治、軍事に大功のあった司馬懿仲達の孫、司馬炎は、ついに魏をうばって晋を立て、武帝と称した。武帝は最初のうちは占田、課田の法という土地政策を施行するなど、意欲的な政治を行ったが、晩年は遊宴にふけり、皇后とその一門を寵愛して、政治はゆるみ、乱れた。石崇とか王愷等の豪奢の限りを尽くした人物があらわれたのもこのころである。竹林愷の7賢の一人である王戎は、実は極端に利己的な蓄財家であり、広大な邸宅や奴婢のおおいことは、洛陽中に較べる者がなく、田園や水碓は天下に遍しといわれた。彼の夜の楽しみは、燈下に妻と財産勘定することであったという。しかも、邸にある李樹は年々の金儲けの一つであったが、そのよい李の種子が、他家で植えられるのをおそれて錐で核に穴をあけたとまでいわれる。竹林の7賢とほめはやされ、無為自然などといい、聖人ぶっても、本性はこんな人間だったのである。他の竹林の7賢の人々も、内容は違えども、大なり小なり共通する面があったと評したら酷であろうか。
このような奢侈生活が流行しているなかに武帝が崩じ、暗愚な恵帝が即位するや、嫉妬深く、悪智慧に富んだ賈皇后を中心に閨閥間の争乱が生じ、また、かつて武帝の時代に晋王室のまもりとして、周辺に配した同族の諸王のなかの有力野心家が、次々と叛乱を起こし、洛陽には殺戮がうずまいていた。いわゆる8王の乱である。この争乱の中で306年に恵帝は毒殺されてしまった。だが表向きは食中毒と公表された。
この間、住民は、戦争、凶作、略奪に追われて、流亡し続けた。0296年、0297年には関中一帯に大飢饉が続き、かつ悪疫が流行した。米価の値上がりが甚だしく、一般の人々は、生きるために子を売り、妻を売った。
0298年には、いたるところ大洪水に襲われた。0310年には北部一帯にイナゴの大群が発生し、村から村へ、いっさいの草木を食い尽くして行った。牛馬の毛までなくなったという。その上悪疫が大流行し、多くの人命が失われた。
このような内部の争乱に乗じ、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡の騎馬略奪部隊が侵入し、都市、部落を破壊し西晋の滅亡を決定的なものにした。とりわけ匈奴は勢力も大きく、その将軍劉淵は、自立して、漢王と称し、ついで皇帝と称した。劉淵のあとの4男の劉聡は、兄を殺して漢皇帝となり、残虐非道な殺戮をほしいままにした。一方、洛陽では、8王の乱の最後をなす東海王越は、懐帝の側近たちを殺して実権を握ったが、帝との間には不和が続いていた。それにつけ入って匈奴軍は、激しい攻撃を加えた。特に東海王越が死ぬや、匈奴の将軍石勒は、陰惨きわまる殲滅作戦を展開し、匈奴騎馬部隊に包囲された晋の武士10余万人は、四方から飛んでくる矢のなかでことごとく死に、死骸は山のようになったという。
東海王の太子以下一族、また大臣から土民にいたるまで、逃げ遅れたものはことごとく捕えられ殺されていった。諸稜墓もあばかれ、中の金品は略奪された。懐帝も捕えられ、あらゆる恥辱をけたあと殺された。これは0313年の事件で、世に永嘉の喪乱と名づけられている。このあと、長安で西晋最後の皇帝が擁立されたが、勝ち誇った匈奴の騎馬部隊は長安にも侵入、おりから激しい飢饉のために、長安はなすすべを知らず、たちまち敗北に帰し、晋皇帝は殺され、ここに皇帝即位から52年で匈奴軍の蹂躙するなかに、西晋はその幕を閉じたのである。御文に「司馬氏の滅する」とあるのは、このような悲惨な事実をさすのである。
唐末・安禄山史思明の叛乱
第三に、国の亡んだ例として、日蓮大聖人は唐の末の例をひかれている。唐代といえばその領土のおおきさといい、華麗な文化といい、中国の歴史中、最も栄えた時代であり、四方の異民族とも最も善隣友好を結んだ時代である。その都・長安は、西のバグダット、アレキサンドリアとともに、世界文化を中心地として人口も100万を越える賑わいを見せていた。特に高祖の跡を継いで皇帝となった第2祖太宗の時代は、賢王のもと、国力は充実の一途を辿り、貞観の冶と呼ばれる太平の一時期を画した。
ちょうど陳の天台大師が、おりからの南三北七と乱立していた仏教を、法華経に統一してから約50年にあたり、儒教・道教に比して仏教が国の上下から篤く信仰されていた時代である。
唐王朝はその後、一時王朝内部に叛乱があって動揺したが、第6代玄宗皇帝の時に再び国力は充実して、開元天宝の冶と呼ばれる太平の世を出現した。唐代を代表する華麗な文化は、この時代にほとんど完成され、その勢力は広く周辺の異民族を敬服させ、遠くペルシァ、ローマとも積極的な交流が行われた。
しかし、この繁栄も玄宗皇帝の晩年からようやく乱れをみせ、諸国の安定のために設置していた節度使が、かえって勢力を得て叛乱を企て、安禄山が0755年、次いでその部下の史思明が0763年に、それぞれ朝廷に向かって叛旗を翻した。これらの叛乱は、やっとのことで鎮められたが、以後、中央の権力は極度に弱まり、地方の節度使は軍閥と化し、朝廷を脅かしたのである。
第15代武宗皇帝が即位したのは、こうして唐王朝が風前の灯となった0841年で、これは玄宗皇帝から約100年、唐代滅亡前60年にあたる。皇帝は即位するや会昌元年(0741)に勅を発して、鏡霜法師に命じて弥陀念仏の教えを各寺に伝えさせたという。ところが、その翌年には、唐の北西部に位置していたウイグル国が叛乱を起して唐の領土内に侵入、同3年には河北に派遣されていた節度使が叛乱を起こして朝廷をおびやかした。
その後、唐の属国となっていたチベット国が唐の朝廷の命を拒み、異民族のウイグルの叛乱はますます度を加えるなど、唐朝の勢力は、まったく失墜した。武宗皇帝は、その原因を道士、趙帰真に問いただしたところ、趙は、仏教を弘めさせたのが原因と奏上したため、会昌5年(0846)、皇帝は勅を発して国内の仏寺44,600余を破壊し、僧尼26万人に対して還俗を強制するなど、仏教に対して極端な弾圧政策をとった。このため、国の内外はますます騒然とし、皇帝自身も、会昌6年(0847)強度の神経衰弱と背疸のため悶死した。慈覚はこの死こそ、仏教を弾圧した罰であると、かの入唐巡礼記の中に書いている。
朱全忠唐を亡ぼし栄を建国
その後、唐朝はさらに乱脈を続け、民情は悲惨をきわめた。財政難はひどく、節度使はますますさかのぼり、官官は横暴をほしいままにし、胡族の侵入はさらに激化した。この被害は、ことごとく民衆に集中し、流亡者が続出し、貧民は、飢餓の巷をさまよった。民衆の怒りはついに爆発点に達した。この機をとらえて、大規模な組織をつくり、武装した、闇塩商人の大反乱 黄巣の乱 が起きた。これが唐朝崩壊の決定的な一打となった。生活必需品である塩は、当時も専売制で、政府の重要財源の一つであった。だが国家財政の窮乏のため、塩価はおそろしいほど引き上げられ、ここに塩を求める民衆の苦悩に結びついて闇塩商人の暗躍が絶えなかった。政府はやっきになって取り締まったが、逆効果で、ついに黄巣を中心とする大規模な組織的叛乱となったのである。
黄巣軍は、はじめ、江南へ南進し、広州をおとしいれた。このとき、黄巣軍によって殺されたアラビア商人は12万人にも達したといわれる。ここで豊富な財貨と軍需物資を確保した黄巣軍は、数10万の軍勢をもて「打倒唐朝」のスローガンのもとに、意気揚々と北伐を開始した。官軍はたちまち敗退し、0880年、長安は占領された。黄巣は長安に無血入城、帝位につき、国号を大斉、年号を金統とあらためた。だが、彼らの占領も長くは続かなかった。大掠奪をほしいままにしたため、民衆が怒り、一方、唐軍が地方の軍閥と連合して反攻し、長安を包囲したのである。このため黄巣は長安を放棄、0884年、朱温は黄巣を殺して、唐に下った。しかも、皮肉にも、この朱温は唐に亡ぼされたのである。
朝廷は長安の黄巣を追い払った大功のある、外人部隊の酋長、李克忠を牽制うるために、朱全忠を優遇し、彼を開封の節度使に任じた。朱全忠はここで、着々と実力をたくわえていったのである。おりしも、長安の近くにある鳳翔の節度使李茂貞は、天下をとるべく、再三にわたって長安に攻め込んでいた。同じく天下をねらう朱全忠は、これを打つために大軍を擁して西に向かった。
それ以前に、朱全忠は、彼の管轄下にあった洛陽の町に豪壮な御殿を作り、ここに皇帝を呼びよせ、自分が天下に号令しようとしていた。これに恐れをいだいた廷臣は、朱全忠が西に向かうや、皇帝を連れて李茂貞の本拠鳳翔城に逃げ込んだ、朱全忠は破竹の勢いで西進し、またたくうちに鳳翔を囲んだ、ここで攻防戦が数カ月つづいた。城内は食糧が尽きはててしまって餓死者が続出し、ついには人肉まで公然と売られていたといわれる。
ついに城は明け渡され、勝ち誇った朱全忠は、ひとまず長安に引き返し、そこで宦官を根こそぎ殺戮し、また、計画どおり皇帝昭宗を洛陽に移した、ここにさしもの豪華な長安の都もまったくの廃墟と化してしまう。しかし、朱全忠の意に従わなかった昭宗は殺され、ついで13歳の哀帝が即位させられる。皇族たちは、皆殺しにされ、かくて、唐は20代、290年にして悲惨な末路を辿って、ついに去ったのである。
以上の3例からもわかるように、国の興亡する時には必ずその前兆があり、春秋時代も、魏晋南北朝も、唐代末も、すべてその原理どおりになっていることは明らかである。特に唐の滅亡は、一つは邪教念仏衆の流行と、二つには仏教の弾圧と二つの原理が考えられ、大聖人の御在世に法然の念仏宗が大流行したのと、共通するものが考えられるわけである。
礼儀の頽廃による国の滅亡
日蓮大聖人が、このように立正安国論をはじめ、多くの書の中で念仏宗、特に法然の名をあげ無間地獄の張本人、亡国の極悪人と破折されると「選択集が災難の原因というならば、法然が選択集を著わす以前には災難はなかったか」などと聞いてくる者もいたに違いない。
災難対冶抄にいわく「 疑つて云く国土に於て選択集を流布せしむるに依つて災難起ると云わば此の書無き已前は国中に於て災難無かりしか、答えて曰く彼の時も亦災難有り云く五常を破り仏法を失いし者之有りしが故なり所謂周の宇文・元嵩等是なり、難じて曰く今の世の災難五常を破りしが故に之起ると云わば何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや、答えて曰く仁王経に云く「大王・未来の世の中に諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘横に法制を作りて仏戒に依らず亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず七難必ず起らん」と、金光明経に云く「供養し尊重し讃歎せず其の国に当に種種の災禍有るべし」涅槃経に云く「無上の大涅槃経を憎悪す」等と云云、豈弥陀より外の諸仏諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名くると云うに当らざらんや、難じて云く仏法已前国に於て災難有るは何ぞ謗法の者の故ならんや、答えて云く仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり礼義を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり、問うて云く其の証拠如何、答えて曰く金光明経に云く「一切世間の所有る善論は皆此の経に因る」と、法華経に云く「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」と普賢経に云く「正法をもつて国を治め人民を邪枉せず是れを第三懺悔を修すと名く」と、涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず」と、止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」と、弘決に云く「礼楽前に駈せて真道後に啓く」と、広釈に云く「仏三人を遣して且く震旦を化す五常以て五戒の方を開く昔は大宰・孔子に問うて云く三皇五帝は是れ聖人なるか孔子答えて云く聖人に非ず又問う夫子是れ聖人なるか亦答う非なり又問う若し爾らば誰か聖人なる、答えて云く吾聞く西方に聖有り釈迦と号く」文。
此等の文を以て之を勘うるに仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当れり」(0083-14)
このように、仏法が流布する以前においては、五常が破れることによって国が亡びることは、多くの経釈に明らかであり「一切法之れ仏法」の原理によって、ますます助長するものであり、やがて一国滅亡の道を辿るしかないことを示すものである。
0025:16~0025:18 第四章 日本における亡国の現証を挙ぐtop
| 16 此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、 然れば則ち 17 大唐に例を残し 吾が朝に証を顕す、 汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ 唯須く凶を捨てて善に帰し 源を塞ぎ 18 根を截べし。 -----― 以上のことから考えてみると、法然は後鳥羽院の治世、建仁年間の者である。あの院に何が起こったのかは、一目瞭然である。そうであるから、中国にも先例があり、わが国でも証明されている。あなたは疑ってはならない。あなたは怪しんではならない。必要なことは、邪悪なものを捨てて善に帰依し、悪の根源を断つことだけだ。 |
彼の院の御事(承久の乱)
後鳥羽法王が鎌倉幕府を倒そうとして承久の変が起こり、朝廷方が惨敗したことである。京都朝廷は鎌倉幕府の開設、守護・地頭の設置によって、政治的にも経済的にも大打撃を蒙った。ちょうど鎌倉では源頼朝の暗殺後、北条氏の実権が確立される時期にあたり、有力武家人の間に紛争が起こっていた。朝廷方の宗家ともいうべき後鳥羽上皇は、時機到来とみて承久3年(1221)執権・北条義時追討の院宣を出した。これに応じた畿内西国の武士たちが集まってきたが、北条氏を中心とする東国武士の団結は予想以上に早く、直ちに義時の子・泰時を大将とする大軍が西上し、たちまち上皇軍を打ち破った。幕府は仲恭天皇を廃して後堀川天皇を立て、敗残の後鳥羽上皇を隠岐に土御門上皇を土佐に、順徳天皇を佐渡にそれぞれ流罪し、また上皇方の主な公家、武士を厳罰し、それらの所領3000余か所を没収して功あった武将に与えた。さらに六波羅探題を京に設置して、朝廷方を監視し、幕府の体制を強力なものにしたのである。この朝廷方の敗北の原因は、法然の念仏流行にあると、安国論では断じらえている。
―――――――――
前の中国の例に続き、本章では承久の乱を指摘して、浄土宗の弘まることが、一国の災いの原因であり、前兆であることを示されている。しかして、この先例をもって、災いの源をふさぎ、根を断つためには、元凶たる謗法を捨て、最高善たる正法に帰依すべきであると強調されているのである。
承久の乱の歴史的意義
さて、ここで申されている「彼の院の御事」すなわち承久の乱は、いかなる事件であったか。一言で、その歴史を述べてみるとすれば、正に日本の主導権が京都の天皇、公卿から鎌倉の武士に移ったことを決定づけた事件ということができよう。
すなわち、鎌倉幕府は、すでに源頼朝によって開かれ、いわゆる「東国武士」による統一という新しい時代が始まっていたのであるが、まだまだ朝廷方の意志を無視するわけにはいかなかった。このため、源家が三代で滅んだあとは、京から将軍を迎えてこれを奉ぜざるを得なかったし、特に西国に対しては鎌倉の威勢は無力に等しかった。
さらに、幕府を構成している東国武士内においてすら、梶原景時・阿野全成・和田義盛等の草創期に重鎮が肩を並べ、互いに覇を競い合っていた。こうしたなかで、最後の勝利を獲ち取ったのが、頼朝の妻・政子を出した北条氏である。
今から見ると、北条氏は東国武士の主力であったかのように思われがちであるが、事実は頼朝の外戚ということと、旗上げ以来の功臣ということ以外、なんの力もなかったのである。梶原・和田・三浦等の豪族に較べれば、取るに足りない存在でさえあった。
この北条氏が政所別当としての地位を着々と強化し、巧みな策謀を駆使し、時には実力に訴えて、ついに執権体制を確立する時期もこのころである。かくして、三代将軍実朝の暗殺、幕府創立の重臣打倒等の事件が、京都方面にとって、幕府を倒す絶好のチャンスであるように見えたのも無理からぬ所であったろう。この倒幕の中心が後鳥羽上皇であった。
承久の乱発端・経過
上皇は、土御門道親を謀臣として、まず鎌倉方と仲のよい関白・九条兼実を排し藤原基道を後釜にすえた。
そして上皇の寵妾・伊賀局や通親の死後は、代わって出てきた九条良経の義を入れ承元4年(1210)土御門天皇を退位させ、討幕に積極的な順徳天皇を即位させた。こうして王朝の故実風儀を興すかにみせかけながら、ひそかに院の藤原忠信・宗行・範茂らの近臣を集め、西国武士や脱落した御家人の結集を図った。
内乱の口火となったのは、承久元年(1219)幕府が実朝の跡を継ぐべき将軍職に皇族の東下を要請したのを上皇が「いずれ誰かを選んで下向させるであろうが、今はダメだ」と体裁よく拒否し、院に接近した御家人、仁科盛遠の所領の返付と、伊賀局領である摂津の倉橋、長江二荘の地頭の改補を命じたことである。
北条義時はこの時、朝廷側の強い態度に驚き、弟の時房に一千騎を与えて上洛させ、兼実派の道家の子で、当時わずか二歳の頼政を鎌倉殿に迎えることとし、上皇の要求をことごとく拒否したまま、鎌倉へ戻ってしまったのである。この事件は朝廷方の倒幕計画を挑発した。
上皇は、まず承久3年(1211)4月、万一を考慮して順徳天皇から仲恭天皇へ位を譲らせ、ついで5月14日、鳥羽城南寺に流鏑馬と称して畿内の兵1700余を集め、その翌日、義時追討の宣旨を下し、三浦胤義に命じて京都守護、伊賀光季を襲わせて血祭りにあげた。この第一報が鎌倉へ伝えられると、幕府では政子を中心として、遠江以東14ヵ国の兵を徴し、義時と大江広元に軍政を見させ、西上軍の部署と決めた。
総大将、北条義時が鎌倉を発った時は、わずか18騎であったが、たちまちふくれ上がり、「吾妻鏡」にはその数19万騎となったと記されている。これには多少誇張はあるにしても、上京するにつれて非常な大軍となっていったことは、まず間違いあるまい。東海道は時房と泰時、東山道は武田信光、小笠原長清、北陸道は北条朝時、結城朝広らをそれぞれ大将として、三方から攻めのぼらせた。
これを迎える朝廷方の軍勢は6万騎、これは西面の武士、関東方の脱略者、僧兵らの混成軍で、これを東海、北陸の二軍に分けて、幕府軍に対抗した。藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱らは美濃・尾張まで出陣し、宮崎定範、糟屋有久、仁科盛遠らは加賀へ出陣したが、両軍とも一撃で敗走するありさまであった。後鳥羽院上皇は、土御門、順徳上皇を連れて延暦寺へ難を避け、ついで賀画院に逃避した。
しかし、近臣武将の要求で最後の一戦を試みることになり、勢多、宇治を中心に広瀬、淀、牧野、芋洗などの要所に敗軍の諸将を配置して戦ったが、6月13日、時房の軍が勢多口で山田重忠を破り、翌日には泰時の軍勢が宇治川を渡って源有雅、藤原範茂らを潰走させ、朝廷軍は武将もほとんど召し取られて、なんらなすすべもなく四散した。こうして京都は幕府軍によって占領され、上皇は賀陽院にあって門を閉じ、承久の乱は二ヵ月で終わりをつげた。
幕府三上皇を流し、断固たる処置
この戦乱によって、京都は、かの保元・平治の乱、木曽義仲の乱入、源義経、範頼に率いられた東国武士の乱入と、相次いだ戦乱の傷の癒えないうちに、またもや焦土と化し、地獄さながらのありさまを呈した。承久記には、この時のもようが次のように記されている。
「板東方の兵ごも、深草・伏見・岡屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散り、馳せ散り、或は一・二万騎、或は四・五千騎、旗の足を翻して乱入す。三公・卿相・北政所・女房・局・雲客・青女・官女・青侍・遊女以下に至るまで、声を立て、をめき叫び、立ちまよふ。天地開闢より、王城洛中のかかる事いかでか有らじ、かの保元のむかし、又平家の都を落ちしも、是ほどにはなかりけり。名をもをしみ、家をもおもう重代の者共は、ここかしこの大将にさしつかはされて、或は討たれ、或はからめとらる。其の外は(略)いつ馬にも乗り、軍したるすべもしらぬ者どもが、或は勅命に駈り催され、或は見物の為に出来る輩ども、板東の兵に追いつめられたる有様は、唯鷹の前の小鳥のごとし、射殺し、切りころし、首をとる事若干なり、板東の兵、首一つづつとらぬものこそなかりけれ。」
後鳥羽上皇は6月15日、勅使を時房に送って討幕が自分の本意でないことを陳弁し、京都の秩序維持を依頼した。後堀川上皇をたて、院の近臣であった藤原基朝、平有範、藤原宗行らを斬首に処した。ついで後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡へ、それぞれ配流した。
幕府はこのような大胆な処置をすると同時に、彼らの所領3000ヵ所を没収し、軍功のあった武将に与え、これを新補地頭とした。これによって、いままで幕府の権力のおよばなかった、西国の所領もその権力、御家人を植えつけることになった。そして時房、泰時を六波羅に駐在させて、南北の探提として、事実上、西国全域を支配させた。これによって、朝廷方は完全に幕府に屈し、幕府は、名実ともに、全国支配の実権を握ったのである。
承久の乱の勝敗は、当時の人々の思想に大きな変動をもたらした。「一天万乗の大君」の軍勢は、哀れにも惨敗し、ひとたび発布すれば落花をも枝にかえすはずの宣旨は、今やその無力さを、万人の目の前に明らかにされた。「あずまえびす」とさげすんでいた武士たちの手で天皇は廃位され、三上皇は配流されるという、夢想だにしなかった驚くべき事件が、現実となって眼前に展開されたのである。
鎌倉中期以後に書かれた、この承久の乱のもようを伝える書の多くが、後鳥羽上皇の失政を攻撃するかたわら、天下の民生を安定させることこそが、政治の最高の目的であるとして、断固、朝廷を打倒した義時の正当性を主張していることは、大いに注目すべき点である。
念仏の熱烈な信仰もむなしく
この承久の乱は、かの法然の死後9年を経た事件である。本文には「法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり」とあるが、建仁年中とは1201~1203年までの3年間を指したもので、建久9年に法然が選択集を著してから、ちょうど3年目、その邪義がようやく京方の上下に浸透して、既成宗教の比叡山をはじめ、興福寺等から、念仏禁止の声が次第に強くなって、中宮任子・上西門院・藤原経院・藤原兼実等の貴族が熱心な信徒となったため、京における法然一門の地位は、旭日の勢いであった。
こうした中で、後鳥羽院上皇を中心とした朝廷側の公家の中から、倒幕計画が企てられていったわけであるが、念仏への熱烈な信仰、真言等への祈禱等、邪義邪法の害毒のゆえに、日本国始まって以来の天皇方の敗北、三上皇の流罪というみじめな結果を出現したのである。
日蓮大聖人、富城入道殿御返事にいわく
「去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・ 車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候」(0993-06)
この御文の後半に「王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや」とあるが、これは当時の天皇の権力に対する一般的な考え方で、一度、天皇が命を発するや、如何なることも成就しえないことはないというのが、朝廷はもとより、関東の武士の間でも強く信じられていた。したがって、いざ戦いとなれば、どちらの軍に天皇の宣旨が下ったかによって、忠臣ともなり、朝敵ともなったのである。それらの武士が、最も恐れたものは、朝敵の汚名であり、一度それが冠せられるや、その当時はもとより、一族郎党の全滅を意味するものであった。
かの頼朝が石橋山に兵を挙げ、一旦は破れて落ちのびたが、関東の兵を、たちまちのうちに万余と集め得たのも、決局、皇子、以仁王の令旨を体しての挙兵という、最高の切り札があったからである。頼朝は挙兵から平家滅亡まで、たびたび以仁王の命旨であるとして、文書を発行しているが、その以仁王は、頼朝が挙兵する三月も前に、冶承4年(1180)5月26日、宇治川の合戦で平氏の軍に敗れ、戦死を遂げているのである。しかし頼朝は最後までそのことを隠し、陣中に以仁王の令旨があるとして、全ての戦いに大義明文を立てたのである。
崩れ去った朝廷方の絶対的権威
したがって、この承久の乱の時も、朝廷方は、後鳥羽院上皇の宣旨が下った以上、近畿地方の武士はもとより、遠国の武士も続々と集まってくるであろうと予想したことは当然であるし、反対に幕府側にしてみれば、何よりも恐れていたのは、天皇の宣旨に背いて出陣することに、関東の武士が、躊躇するのではないかということであったわけである。
この時の朝廷方の空気は、院の宣旨も出たことであるし、あとは朝敵、北条義時の首が到着するのを待つばかりであるという、虫のよい話すら出ていた状態であった。これに対し幕府方は、はたして武士が集まってくるのか、また駆けつけた武士たちも、京都まで出陣する気があるかという、最悪の事態だったのである。「上皇の宣旨下る」の第一報が幕府に届けられた時、さすがの幕臣たちも動揺の色は隠せず、駆けつけた尼将軍、北条政子の涙を流しながらの演説を耳にして、初めて奮い立ったといわれる。
「吾妻鏡」によれば政子の演説は次のとおりである。「皆、心を一にしてうけたまわるべし。これ最後の詞なり、故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位といい、俸禄といい、その恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。然るに今、逆臣の讒により非義の論旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、胤義らを討ち取りて、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院内に参ぜんと欲するものは只今申し切るべし」
また「承久記」は「人々見たまわずや、むかし東国の平家が宮仕えせしには、かちは出しにて、のぼりくだりしぞかし、故殿鎌倉をたてさせ給ひて、京都の宮仕へもやみぬ、恩賞うちつづき、たのしみ栄えてあるぞかし、故殿の恩をば、いつの世にか報じつくしたてまつるべき。身のため、恩のため三代将軍の恩墓をば、いかでか京家の馬のひづめにかくべき、今おのおの申し切るめし、宣旨に随わんと思われれば、まず尼を殺して、鎌倉中を焼き払いて後、京へは参り給うべし」と記し、居合わせた武士たち全員が、涙さながらに一致団結を誓い、立ち上がったと筆は留めている。
しかしながら、いざ出陣となると、京まで一拠に攻めのぼれというものの、箱根、足柄の関で守りを固め、抗戦せよというものなど、意見はまちまちで、京まで出撃という結論に到達するまでには、かなりの時間を必要とした。この間のいきさつを「増鏡」では、次のように書いている。
「『今度の合戦は味方に後ぐらい点など一つもない。心をつよくもって奮戦せよ、勝たずにふたたび箱根、足柄の山を越えるな』と父・義時から激励されて出発した泰時は、翌日唯一人戻って来て、天皇みずから京方の先頭に立って進撃して来た場合の処置について尋ねた、義時は『よくぞ尋ねた。その際は天皇の神輿に弓を引くことはできぬ。ヨロイを脱ぎ、弓の弦を切って降参せよ、だがそれ以外の時には千人が一人になっても奮闘せよ』と答えた。このことばを聞き終わるや否や、㤗時はふたたび馬にムチをあてて西上した」
この時代のもようを伝えた書物はいくつかあるが、いずれも同工異曲のことが書かれており、一旦は朝廷に対する徹底的な抗戦を打ち出しながらも、なお何かすっきりしていない思いが、武士たちの心の中に残っていたことは事実だったのである。また、そのような状況であったりすればこそ、幕府側としては一刻も早く出陣して、野戦の中で彼らの団結をはかることが急務だったともいえる。
それだけに、戦乱が終わったときの朝廷方、京方の驚きと、幕府側の喜びは、想像をはるかに越えるものであったことは、いうまでもない。勝利の報を手にした鎌倉の義時は「今は義時思うことなし、果報は王の果報には猶まさり参らせたりけれ」と叫んだと書は伝えている。
京都は敗戦ということすら信じきれずにいたところ、幕府の処罰は予想をはるかに越えてきびしく、三上皇の島流しという、日本国始まって以来の大事件となった「あずまえびす」とさげすみ、バカにしていた東国の幕府が、おそれ多くも、天皇を思うがままに譲位させ、在位わずか70余日の天皇は廃位、後鳥羽上皇の兄、行助法親王が後堀川天皇として、即位させられたのである。かくして次第に弱まりつつあった天皇の権威は、この事件によって決定的に失墜してしまったといえよう。
仏法から見た承久の乱
天皇の勅宣を絶対的なものとして頼り、それが出ただけで勝つたのごとく喜び、西国からの応援をあてにしてみずから武器を取って立とうとしない無気力さ、それは文字どおり念仏の害毒と呼ばずして、なんといおうか。
のみならず、東寺等に仰せつけて、盛んに幕府方を調伏する真言の加持祈祷を行った。これまた、みずからを滅ぼす原因となったことは、大聖人が申されているごとく、還著於本人の理である。時代の変遷ともいえる。士気の違いともいえる。人心の動向の然ならしむところともいえる。だが、その最も根底にあって朝廷方の敗北を決定したものは、じつに謗法の害毒だったのである。
さらにわれわれは、承久の乱を中心とする時代の転換を、日蓮大聖人の御出現、法体の広宣流布の時代的背景の一つと考えるならば、それが現代の化儀の広宣流布の時代的背景に、あまりにもよく似ていることに不思議をすら覚える。
すなわち、一つは、従来の政治的権威、価値観の中心であった天皇制が政治上の権威も価値も失って、単なる象徴になってしまってことである。一つは律令制以来の旧い社会体制が壊れて守護・地頭制度が全国的に樹立されたこと、そして伝統的な貴族階級の主導権が失われて、いわば庶民・百姓の中から育ってきた武士階級がそれに代わったことである。
なお挙げれば際限がないが、この法体の広宣流布の時代的背景に対応して、現代もまた、天皇の権限が実質上、消滅し、国民の象徴とされるという大転換があった。そして、社会体制も変革され、民主主義の世となった。まことに多くの点で共通しているではないか。
これをもってしても、今こそ、正しく化儀の広宣流布の時であり、大聖人が「時を待つべきのみ」と申された。その時が来ていることを強く確信するものである。
この段の最後に、日蓮大聖人は「汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」と仰せられている。なんと偉大な確信に満ちた獅子吼ではないか。このお言葉どおり、この世からいっさいの不幸の根源を絶滅すべく戦っている団体こそ、わが創価学会なのである。われわれは、この大聖人の御金言を学会の永久の指針として、さらに全地球上から、不幸の根源を絶滅させ、平和世界を実現するために、さらに前進していくことを堅く誓うものである。
0026:01~0026:12 第六段 念仏禁止の勘状を奏否を明かすtop
0026:01~0026:03 第一章 法然の謗法を弁護すtop
| 0026 01 客聊か和ぎて曰く 未だ淵底を究めざるに数ば其の趣を知る但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢ケン在り仏家 02 に棟梁在り、 然るに未だ勘状を進らせず 上奏に及ばず汝賎身を以て輙く莠言を吐く 其の義余り有り其の理謂れ 03 無し。 -----― 旅人は少し気持ちが落ち着いていう。 まだあなたの主張が完全に理解できたわけではないけれども、大体の趣旨は分かった。とはいえ、京都から鎌倉に至るまで、釈迦の一門という門には扉の鍵にもたとえる人物も、仏教教団を家に譬えれば棟木・梁ともいうべき人物もいる。しかし、これまでそうした人々が朝廷や幕府に、念仏をやめさせようという意見を進言したことはない。あなたは賤しい身分でありながら安易に邪悪な言葉を吐く。その主張は行き過ぎであり、その理屈は根拠がない。 |
淵底
物事の奥義、奥底、真意。
―――
華洛
中国周代の都を洛邑といい、後漢の都を洛陽といったところから、洛は都の代名詞のように使われるようになった。華洛とは「花の都」のこと。京都をいう。
―――
柳営
将軍の陣営のこと。漢書「周勃伝」に漢の将軍・周亜大が匈奴征討のため柳営の地に陣をおいたことから、この名がある。
―――
釈門
仏教界のこと。
―――
枢犍
枢は戸の回転軸、犍は扉の関の木。門にとって大事な要所・かんぬき。
―――
棟梁
家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
―――
勘状
考える所を書に記して、主君に意見すること。
―――
上奏
臣下が上司に口頭で意見を具申すること。
―――
莠言
莠とは薬草。転じて醜、善に似て悪いものの譬えとして用いる語。莠言とは醜悪の意味もある。
―――――――――
前段のように、主人の理論整然たる破折を聞いて、客としても、当然、承服しにわけにはいかなくなった。ゆえに「客聊か和ぎて」と云われたのである。しかし、まだ法然への執着を断ちきることができず「日本には、たくさんの仏法権威者がいるが、いまだ、主人のいうようなかとは聞かない。あなたのような卑しい身分で、どうしてそんなことがいえるのか」と反駁するのである。
今日、創価学会の折伏、行動に対しても、同じような批判がよくなされる。ジャーナリズムの学会批判記事に、必ず大学の宗教学教授や宗教評論家が顔を出すのは、同じ心理にもとづくといってよい。編集者も、こうした評論家や教授を仏教の権威者と信じ込んでいるのである。しかして、彼らが創価学会のことを悪くいえば、学会は悪いのだと思い、よくいえば、よいのだと思うのである。そこには編集者も、読者も、ともに、主体的な判断はない。
これは、自己の理性、自己自身による観察、自分自身の判断力を放棄している姿である。人の眼を通してしか見ず、人がはってくれたラベルによってしか判断しようとしない。哀れむべき現象といわなければならない。
汝賤身を以て輙く莠言を吐く
これは、社会的地位が低いからといってバカにし、貧乏人だからといって、その言葉を取り上げないという、愚かな考え方の代表である。この考え方は、現代にも根強く残っている。
これがために、どれほど有為の人材が空しく埋もれてきたか、測り知れない。また、民衆の貴重な声が、不当に、残酷に封じられてきたことか。これに対して、優れた指導者とは、身分の貴賤上下に関係なく、有能な人材を見いだし、その能力を最も有効に発揮できる地位に配当する人だ。われわれは、全ての人が、その場を得て、思うがままに、社会の発展のために働ききってゆける社会を建設しなければならない。
また「学会員は仏教については素人だ」という説には、既に昭和30年(1955)の小樽法論で、完膚なきまでに打ち破られている。以来、いかなる宗派のいかなる学僧も、わが学会の教学陣に対しては、一言たりとも正面きって言えない状態である。哀れにも、物陰に隠れて、ヤセ犬が吠えるごとく、時たま悪口をいっているに過ぎない。
およそ、政治家はもとより、宗教評論家といえども、宗教についてはまたく無智であることを、民衆は知らなければならない。学者の中にも、歴史学的、思想史的に研究している人はある。だが、宗教の本質を知るためには、その宗教の精神を実践してこそ、正しい評価ができる。
民衆の苦しみを見ても、これを救おうという情熱もなく、よそ事に考えている人々に、どうして、民衆救済のために身命を抛って戦っている批判をすることができようか。いかなる有名人も、仏法の慈悲の精神に立って、民衆救済のために折伏を行ずる、一学会員の足もとにも及ばないことを知るべきであろう。
また、客が「然るに未だ勘状を進らせず上奏に及ばず」というのは、まったく知らないからであって、これから第六段第四章に述べられるように、延暦寺・興福寺等から、数度にわたって上奏が行われている。また、法然の選択集に対する破折も、法相宗の明慧の摧邪輪、三井寺の実胤大僧正の浄土決疑集、天台宗の隆真法橋の弾選択集等があり、それぞれの立場から理論的に破折しているのである。浄土宗の僧たちが、敢えてこれを隠していたために、客はそれを知らなかっただけの話なのである。
0026:04~0026:05 第二章 仏法の衰微を歎ずtop
| 04 主人の曰く、 予少量為りと雖も忝くも大乗を学す 蒼蝿驥尾に附して万里を渡り 碧蘿松頭に懸りて千尋を延 05 ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。 -----― 主人がいう。 私は、非力ではあるが、恐れ多いことに大乗を学んでいる。青蠅が駿馬の尾について万里を渡り、緑の蔓草は松の枝先に懸って千尋の高さにまで伸びていく。仏弟子である私は、唯一の仏である釈迦仏の子として生まれて、諸経の王である法華経に仕えている。どうして仏法の衰微を見て悲しまないでいられるだろうか。 |
少量
器量が小さいこと。転じて、身分が低く、身分や徳もない凡人のこと。
―――
大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
蒼蝿驥尾に附して万里を渡り
蒼蝿は青バエ、驥は一日に千里を走るという駿馬。わずかしか飛べない青バエも駿馬につかまっていれば万里を行くことができるということわざ。我らのような凡人でも三大秘法を持つことによって、偉大な智慧をさずかり、自他俱の成仏を得ることができる。
―――
碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ
碧蘿とは碧羅とも書き、緑色のつたかずらのこと。自身では立つことはできないが、高い松の木に寄って、千尋の高さにのびることができる。少量の凡夫を碧蘿にたとえ、松頭を大乗仏教にたとえる。大乗中の大乗とは南無妙法蓮華経のこと。
―――
弟子一仏の子と生れ
一仏とは一往は釈尊をさし、阿弥陀経や大日経を否定する文であるが、本地無作三身如来こそ真の一仏であり、子とは学会員のことである。
―――
諸経の王
一切経の王のこと。法華経。末法にあっては日蓮仏法。
―――――――――
客の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という増上慢の言葉に対して、自分は小さな器で取るに足らない者であると、あくまでも謙遜しながら、だが、かたじけなくも大乗仏法を学び、仏弟子として諸経の王たる法華経を信ずることができた。しかして、よくよく仏教をみるに、邪義のみが栄えて正法が衰微している。この状態をみて、どうして嘆かずにおられようかと、自身の心情を吐露されるのである。
予少量為りと雖も忝くも大乗を学す
前章の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という客の言葉に対して、徹底的に破折されたのである。すなわち、ここで、人間の価値はなんで決まるかということを、明らかに示しているのである。
人は、意識するしないとにかかわらず、貧富・学歴・血統・身分あるいは地位等で、人の価値を決めようとする傾向をもっている。半面、それらのいずれをも、人間の価値判断の根本の基準とすることが間違いであることを知っている。金持ちだから偉いと誰かが言ったとすれば、大部分の人は反発するであろう。それを認める人は、拝金主義者の、ごく異常な部類とみなされるのがおちである。
学歴についても、あの人は最高学府を出たから偉いという考え方は、決まって反発される。血統しかり、身分、地位しかりである。だが、理屈の上ではこれらを否定しても、現実にそうした場面にぶつかると、無意識のうちに、貧乏人より金持ちを、小学校中退より大学出を、平凡な生まれより名家の子を、小使いより社長を、ただそれだけの理由でそれぞれ尊ぶ。
そこには明やかに、矛盾がある。この矛盾はどこから生じたかといえば、結論的にいって、人間の価値を決める明確な判断の基準がないことに帰着する。しかして、この一事が、愚昧で性悪な人間を大事なポストに置いて、その機構を停滞させ、その機構の中にいる人々を苦しませ、ひいては人間社会全体の発展と幸福を阻害する結果を生んでいる。
ゆえに、いかなる基準をもって人を判断し、適材適所を実現していくかという将軍学、あるいは指導者学は、この判断基準を体得した人であって初めて顕現される。しからば、その基準は何か。すなわち、人の価値はいかなる法をもっているかで決まるのであり、大乗を学する人こそ最高の人格者なりといえるのである。このゆえに、法華経を換言すれば、現代の最高の将軍学であり、指導者学といえる。
人にはそれぞれ、独自の思考・発言・行動・態度の基準をもっている。まったく何の基準もなく、規則性もなく、デタラメであるということは、極度の精神錯乱者以外にありえないのである。平常人の場合、ある者はきわめて本能的な衝動によることもある。子供のころからの、躾によることもあろう。また、ある者はその人が自分なりに築いた人生観・社会観に則った行動であることもある。
その行動が、本人の意識のどの程度の深さから出てきたものかにかかわりなく、それらを一貫する一つの共通的な様式、傾向がある。それは意識の最も深層の部分に連なっていくのであり、これを、仏法の上からは法というのである。
さまざまな意見、さまざまな行動をおこしながらも、その中に、その人らしさがにじみ出ているのもこのためである。利己的な物の考え方が、生命の奥深く染まりついている人は、自然とその言葉、行動、姿の中に、その本質的な傾向がにじみ出ているのは、まことに不思議である。
したがって、その人がいかなる価値創造をなすことができるか、どれ程の力があるかということは、この法の勝劣、浅深によって決定されるのである。今、本文で「大乗を学す」と仰せられるのも、大乗という最高の法を持っているがゆえに、最も尊いのであるとの御確信である。ここで大乗とは、五重の相対の原理に照らして、法華経文底独一本門の大法であり、三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。
この道理を示された御文は、御書の各所にあり枚挙にいとまがない。「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578-12)と。
また、宝軽法重事には、釈尊・天台・妙楽の言葉を引かれている。
「妙法蓮華経第七に云く「妙法蓮華経第七に云く『若し復人有つて七宝を以て三千大千世界に満てて仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん、是の人の所得の功徳も此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きには如かじ』」(1474-017)と。
すなわち、金・銀・瑠璃等の七宝を三千大千世界に満てて仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養する功徳より、法華経すなわち御本尊を受持する功徳のほうがはるかに大きいとの意である。世に金持ちと称する人のごときは、妙法受持の人に較べれば、まったく取るに足らない存在ではないか。
また天台大師の法華文句の十に上の経を釈していわく「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かずと云うは法は是れ聖の師なり能生能養能成能栄法に過ぎたるは莫し故に人は軽く法は重きなり」と。
すなわち、妙法・御本尊を持つ功徳が、なにゆえこのように大きいかといえば、御本尊は三世十方の仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢の師であるが故であると釈されているのである。
妙楽大師は、天台大師の文をさらに釈して、法華文句記の十にいわく「父母必ず四の護を以て子を護るが如し、今発心は法に由るを生と為し始終随逐するを養と為し極果を満ぜしむるを成と為し能く法界に応ずるを栄と為す、四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」と。
すなわち、仏菩薩等の四聖が最初に発心したのも、法すなわち御本尊を根本としてであり、途中、修行したのも御本尊によって修行したのである。得脱したのも御本尊の力によってであり、得脱してのち、悟りの境涯を楽しみ、衆生を化導するのも、同じく御本尊を根本とするとの意である。
したがって、この御本尊を持った人は、最も尊いのである。大聖人の宝軽法重事の文にいわく「法華経の最下の行者と華厳・真言の最上の僧とくらぶれば帝釈と援猴と師子と兎との勝劣なり、而るをたみが王とののしればかならず命となる、諸経の行者が法華経の行者に勝れたりと申せば必ず国もほろび地獄へ入り候なり」(1475-08)と。
四信五品抄にいわく、
「問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(0342-06)と。
ゆえに、この妙法を受持する人は、三世十方の仏・菩薩の加護を受け、絶対に崩れることのない幸福生活を営むことができるのである。もし、この人を迫害して悩まし、苦しめ、あるいは悪口をいう者があれば、大罰を受けなければならない。経にいわく、
「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん、乃至諸の悪重病あるべし」と。
われら妙法を受持する者は、この偉大な法の恩を感じ、報恩の誠を捧げていかなければ、不知恩の輩となってしまうのである。
弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや
この言葉に示された、大聖人の御心情こそ真に仏法を学し、仏道修行を志す者の模範であり鑑である。
今、大聖人が「弟子一仏の子と生れて」と申されているのは、外用の立場であり、われわれ仏道修行を志す者のあり方を教えられているのである。大聖人の御内証を拝する時、大聖人こそ人法一箇の御本仏であられることは明白である。
御義口伝にいわく、
「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752-第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事-04)
南無妙法蓮華経は一切の能生能養能成能栄の師であり、それはまた、末法の法華経の行者、日蓮大聖人の宝号でもある。大聖人こそ人法一箇の御本仏なりとの意である。
また、諸法実相抄にいわく、
「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」(1358-11)
御義口伝下にいわく、
「自受用身とは一念三千なり」(0759-第廿二 自我偈始終の事-02)と。
日蓮大聖人の正しい仏法を知らない人は、仏といえば、三十二相八十種好の荘厳な様相を整えている姿を思うであろう。だが、そのような色相荘厳は、仏の生命のすばらしさを衆生に理解させ、渇仰させるために示された図式にほかならない。真実の仏は十界互具・一念三千の当体であり、凡夫相そのままである。
別しては、日蓮大聖人が末法の仏であり、総じては、御本尊を受持する人は、すべて仏である。その仏性の湧現は、ひとえに仏の弟子として、護法のために不惜身命の戦いをなすことできまるのである。「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起す」人こそ、仏弟子として真実の資格ある人といえよう。
わが創価学会の精神の骨髄も、この一事に尽きる。末法民衆救済の唯一の正法を護持した創価学会は、戦時中からの大弾圧を受けて、正に衰微のどん底であった。戸田前会長は、この創価学会を再建させ、興隆して、最高の正法たることを世界に知らしめるため、一つには日蓮大聖人の御金言を虚妄にしないため、しかして、全民衆を苦悩の底から救い出さんために、立ち上がられたのである。
恩師が第二代会長に就任された、昭和26年(1951)以来14年間、学会の発展は隆々たるものがあり、全世界の注視の的となるに至った。その原動力は、まったく護惜建立の精神に尽きるのである。だが、大聖人の御金言を実現する道はいまだ遥かに遠い。世界広布の前進は、休みなく続けられなければならない。
聖愚問答抄にいわく、
「汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と、此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろく法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり」(0496-10)と。
信心の究極の姿は死身弘法である。法難にあって、華と散っていった熱原三烈士しかり、牧口初代会長しかり、また、今、順縁広布の時を迎えたわれわれは、このような法難に遭わなくとも、広布達成をめざし、民衆救済のため、一生涯を捧げて前進しゆくことが、不惜身命・死身弘法の姿であると断言するものである。
0026:06~0026:08 第三章 謗法訶責の精神を説くtop
| 06 其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是 07 の人は仏法の中の怨なり、 若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」と、余・善比丘の身為ら 08 ずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮つて粗一端を示す。 -----― その上、涅槃経にはこうある。「もし善い比丘がいて、仏法を破壊する者を見ていながら、放置して、追い出したり責め立てたり罪を数え上げて処断しなければ、この人は仏法の中の敵であると知らなければならない。また逆に、もし追い出したり責め立てたり罪を数え上げて処断したりするなら、釈尊の弟子であり、真の声聞である」 私は、善い出家者というわけではないが、「仏法の中の敵」と責められるのを免れるために、要点だけを取り上げてその一端をおおよそ示しただけである。 |
呵責
叱り、責めること。相手の罪禍を追求し責め立てること。
―――
駈遣
その処を追い出すこと。
―――
挙処
その罪を検挙し、世を挙げて処分すること
―――
声聞
十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
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この章は「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや」と前章に述べられたのに加えて、さらに涅槃経の文を引いて、法然をはじめとする邪義を破折せねばならぬ所以を説き示されている。
経文中の「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」の経文は、仏法が滅び、民衆が不幸に陥るのを防ぐために、二つの方程式を教えている
第一は、仏法を破る邪説を立てた者を捨てておくことは仏法中の怨である。
第二は、仏法を破る邪説の者を責めるものは、真の仏弟子である。
仏法を滅ぼすものは、外部からの権力等によって寺や搭を破壊することよりも、内部にあって、仏法に名をかりた邪説を立てる者である。師子身中の虫とはこれである。ゆえに、仏が最も厳しく戒められたのは、仏法の中において、仏法を乱す者、すなわち謗法であった。その原理は、仏法以外の団体、社会、また個人の生命についても当てはまる。外部より殺される人間よりも、自己の不節制、不注意、病気等で死ぬ人間が圧倒的に多いことも、この原理の証左といえよう。したがって、また、法を破る者を見て放置するならば、その放置した者は重罪を犯したと同じ結果になるのである。
日蓮大聖人は諸御書において、謗法の者や、謗法の行為そのものを堅く戒められ、謗法を責めなければ、成仏することはおろか、大罰を受けると教えられている。
阿仏房尼御前御返事にいわく「少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし」(1308-08)と。これは、おのおのの心に巣食う謗法不信を戒められた文である。
さらに、曾谷殿御返事には、涅槃経の今の文を引かれて、「此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば 火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056-06)と仰せである。
すなわち、謗法を見ながらこれを責めなければ、自分が御本尊を拝んでいても、謗法の者と同じく、無間地獄に堕ちるのである。折伏を嫌って行じない人は、よくこの御文を拝すべきであろう。
しかしながら、だからといって、非常識な行動をとることを勧めるのではない。道を歩いて、謗法の者と行き会ったからと、見知らぬ人に折伏しても、相手はおこるのみで、聞かないであろう。あくまでも身近な人で互いに知っている人を、座談会等の場で諄々と話し、謗法の邪義を納得させていくことが肝要である。
開目抄にいわく、
「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(0236-13)
折伏活動こそ真の慈悲の振舞い
折伏は慈悲の行為である。「彼が為に悪を除く」の文のごとく、相手の心に巣くう悪を断ち、その人を根底より救いきる厳愛の振舞いである。
現今の社会には、あまりにも慈悲の欠如が著しい。利己の人のみ充満し、最も民衆の幸福を願わなければならないはずの政治家や指導階層は、おのおのの野心を満たすことばかり考えているではないか。
互いに憎しみ合い、嫉妬し合いながら、それでいて、言葉だけ和らげてお世辞を言い、甘言で相手の心に取り入ろうとする。しかも心の中は、貪欲に満ち満ち、他人の幸福など、少しも考えないのである。これ「慈無くして詐り親しむ」姿であり、欺瞞も甚だしいではないか。
このような、欺瞞のうずまく社会にあって、慈悲に立脚し、心の底から真実を主張してやまぬ折伏活動こそ、仏法の方程式に適ったものであり、かつ時代をリードしていく、最高善の振舞いなのである。
まことに、折伏こそ民主主義の先駆をなすものであり、真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉である。すなわち、折伏は、あらゆる人々が平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行なわれているのである。妙法の当体でなければ、なんで折伏する必要があろうか。
われわれが折伏するのは、相手が駄目な人間であると、非難したり、悪口を言ったりするものではない。事実は、まったく逆であり、相手のもつ邪法を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳極まりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これ最も相手を尊敬する行為であり、かつ生命の尊厳を基調とする民主主義の先駆をなすものではないか。しかもまた、いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く折伏していくことは、最大の寛容ではないか。
今慎んで日蓮大聖人の御振舞いをみるならば、そこに獅子王のごとき勇姿を見るとともに、一切衆生を救う大慈悲が伺えるのである。
日蓮大聖人は、あらゆる三類の強敵と戦い、邪宗邪義を破折し、正法正義を打ち立てられた、小松原の法難、松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆および佐渡への流罪、竜の口法難等々、その他、大小の難は数知れず起こった。だが、大聖人は、それらの迫害にも、一切衆生の幸福を願って微動だにすることなく、いよいよ御本仏の大確信に立たれたのであった。しかも、迫害した人々を恨むどころか、むしろ、それらの人々を善知識と呼ばれたのであった。
種種御振舞御書にいわく、
「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917-07)と。
さらに、あのように大聖人を迫害した北条執権に対しても「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509-11)とまで仰せられたのであった。これこそ、御本仏の大慈悲であった。
折伏に暴言、迫害は覚悟の上
創価学会の折伏活動も、あくまでもこの仏法の精神、大聖人の御振舞いに立脚しているのである。
だが、貧・瞋・癡の三毒充満し、利己の人のみ多き社会にあっては、人々のために尽くしていこう、民衆のために戦おうという純粋な行為がそのまま受け止められないのである。
よく日蓮大聖人を鎌倉時代の一介の僧侶ぐらいに考えて、その行動が過激に過ぎたと批判したり、また、大聖人の弟子たる、わが創価学会の行動、折伏をファシズム等にむすびつけて考えるものがいる。だが、これらは、いずれも釈尊に始まる大仏法の流れを、何も知らない者の口にする言葉であり、貧しい人、苦悩に打ちひしがれている人々を救おうとする慈悲の精神など、微塵も理解できない人々である。相手が仏であれ、孔子であれ、帝王であれ、英雄であれ、あるいはシェークスピアであれ、ゲーテであれ、批判することは容易である。いわんや道理の通らぬ悪口をいうことなら、小学生でもできる。道理を窮め、根底にある精神を理解したうえで批判することは、並々ならぬ困難である。まして、自分が批判の対象としているこれらの先哲の遺業を、はたして自分にもできるかとうえば、とうていできる道理がない。したがって、相手が偉大であれば偉大であるほど、謙虚にその教えをまず聞くべきであろう。これができぬ人こそ、まさに偏狭であり不寛容であり、排他主義であり、傲慢であり、利己主義ではないか。
しかしながら、折伏をすれば、三障四魔、三類の強敵が競い起こることは必定である。
大聖人は開目抄にいわく、
「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、 いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり」(0200-09)
この御文は、いっさいの不幸の原因は、根本的には邪宗にある。これを知っているのは、日蓮大聖人ただ一人である。ゆえに、これをいわなければ無慈悲となり、自分も無間地獄の大罰をうけるであろう。いえば必ず魔が競い起こって迫害を加えられるであろう。この二つの板ばさみの中にあって、遂に、どんなに難があってもいわなければならない、と大聖人は決意されたのである。
されば、われわれも、あらゆる難や妨害は覚悟のうえで、日蓮大聖人の弟子として、折伏はどうしてもなさなければならない使命である。
一時、この「折伏」の語が一般化して、信心していない人々の間で、何か強引に者を押しつけられた時など「折伏された」等と使われたことがあったが、折伏の真の意味は、相手の邪宗邪義に執着している心を破折し、この日蓮大聖人の正義に屈服させることをいうのであって、大聖人門下生として、最も貴く、気高い行為なのである。
また、折伏行は、けっしてやさしい行為ではなく、特に末法においては難事中の難事であると、諸御書に教えられている。宝塔品の六難九易とは、末法において法華経をたもち、折伏することがいかに大変なことであるかを説かれたのも、次のとおりである。
「諸の善男子よ、各おの諦らかに思惟せよ、此れは為れ難事なり、宣しく大願を発すべし、諸余の経典は、数恒沙の如し 、此れ等を説くと雖も、末だ難しと為さず、若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、末だ難しと為すに足らず、若し足の指を以て、大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦、末だ難しと為さず、若し有頂に立って衆の為に、無量の余経を演説せんも、亦、末だ難しと為さず、若し仏の滅後に、悪世の中に於いて、能く此の経を説かば、是は則ち難しと為す、仮使い人有って、手に虚空を把って、以て遊行すとも、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ち、若しは人をしても書かしめば、是れは則ち難しと為す、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、仏の滅度の後に、 悪世の中に於いて、暫くも此の経を読めば、是れ則ち難しと為す、仮使い劫焼に、乾ける草を担い負いて、中に入って焼けざらんも、亦、末だ難しと為さず、我が滅度の後に、若し此の経を持って、一人の為めに説かば、是れは則ち難しと為す、若し八万四千の法蔵、十二部経を持って、人の為に演説して、諸の聴かん者をして、六神通を得せしめんも、能く是の如くすと雖も、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、此の経を聴受して、其の義趣を問わば、是れは則ち難しと為す、若し人は法を説いて、千万億無量無数の、恒沙の衆生をして、阿羅漢を得、六神通を具せしめんも、是の益有りと雖も、亦末だ難しと為さず、我が滅度に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せば、是れは則ち難しと為す」
すなわち、この経文においては六つの難事と九つの易行とを掲げ、末法における折伏行が大変であることを教えられている。
六難、 広説此経難・書持此経難・暫読此経難・少説此経難・聴聞此経難・受持此経難。
九易、 余経説法易・須弥擲置易・世界足投易・有頂説法易・把空遊行易・足地昇天易・大火不焼易・広説得通易・大衆羅漢易 である。
この九易のうち、どれ一つを取り上げても、けっしてでき得ることではないが、折伏行はそれ以上にむずかしいというのである。これほどの難事行であるゆえ、釈尊は薬王・弥勒・観音等の迹化の菩薩方には末法の化導を付属せず、日蓮大聖人を上首とする本化地湧の菩薩を大地より召し出して、付属されたのである。
こそ宿命打破成仏の最直道
折伏を行ずると必ず悪口をいわれ憎まれ嫌われる。これほどの大事でありながら誰一人として折伏されたことを喜ぶものはいない。大聖人は曾谷殿御返事に「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(1056-13)と仰せである。
折伏するわれわれは、謗法の者の迷蒙を開き、仏果を得させようと努力するのであるが、折伏される方は、そうは取らず「忠言耳に逆う」のである。だが、先の御文の「いまだこりず候」こそ、わが学会の折伏精神である。広宣流布をめざして、われわれは悪口をいわれようが、迫害されようが「いまだこりず候」と、莞爾として折伏行にいそしんでいかなければならない。
創価学会がなぜ強いかといえば、それは創価学会の目的が全民衆の幸福にあるからである。われわれには、なんの野心もない。権力に迎合する必要もない。右でもなければ左でもない。われわれは中道をまっしぐらに進むのである。されば、折伏の功徳もまた絶大である。
しかして、折伏は、御本仏、日蓮大聖人の使いとして、如来の事を行ずる行為である。ゆえに御本仏の冥々の加護が、日常の生活に現われると同時に、折伏の功徳によって強い生命力があふれ出てきて、世の中のことを処するに勇気が出るとの、以信代慧の原理により、御本尊を信ずる信心の智慧と化するので、この三拍子そろって、日常生活がぐんぐん改まってくるのである。
これこそ経文にある「現世安穏・後生善処」の姿であり、また、折伏が成仏の最直道であり、必ず成仏できるという証拠でもある。
およそ信仰していなくても、体が丈夫である。金に困らない等々、部分的な幸福条件を備えた者はいくらでもいる。だが、それらは、部分的であり、一時的な幸福であって、絶対的な幸福とはいえない。ゆえに、その半面には必ず不幸な条件をもっているのが現実である。これらの幸・不幸の現象は、根源をたどれば、過去世からの宿命である。日蓮大聖人の仏法は、この低い相対的幸福の境涯から脱却し、最高の絶対的幸福境涯に転換する仏法である。折伏を行ずることによって過去の宿習が一度に出るので、折伏すれば種々の難が競い起こるのである。この難によって宿命を打破していくのであるから、折伏の途上において種々の難に被ることは、むしろ喜びとしなくてはならないのである。
佐渡御書にいわく、
「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり」(0960-07)
不惜身命の信心で真実の幸福へ
以上のごとく、日蓮大聖人も、強き折伏によって過去の重罪を消滅する姿を示されたのである。われわれもまた、大聖人の教えのごとく、折伏を行ずることによって、過去の罪を消し、宿命を転換することができるのである。
ゆえに、折伏に際して競い起こってくる大小の難に対しては、不自惜身命の強い信心によって、これを打ち破ってこそ、絶対的な幸福境涯が得られるのである。
撰時抄にいわく「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、 謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(0291-05)
佐渡御書にいわく「強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり」(0957-08)
御義口伝にいわく「身とは色法・命とは心法なり事理の不惜身命之れ有り、法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり命根を断たるを事の不惜身命と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値」(0747-第二不惜身命の事-02)
これらの御文は、ともに不惜身命の信心こそ、真実の幸福への直道であることを教えられたのである。
信心に限らず、一般に、ある目標に向かって、あらゆる難関と戦い、身命を打ち込んでいる人の生命には、躍動があり、リズムがある。またその姿は美しくも、すがすがしくもある。発明家が研究に没頭するのも、医者が病人をなおすために懸命になっている姿も、学者が真理の探究に身を打ち込んでいる姿等々、いずれも不惜身命に通ずるものである。だが、一方では浅きもの、低級なもの、誤れるものに、身命を抛つほどの哀れなことはない。
最高のものに帰命していく人生こそ、真実の不惜身命である。すなわち、大御本尊に帰命することであり、全民衆の幸福のために、いかなる三類の嵐があろうが、身命を抛って戦うことが、最高に偉大なる人生であり最高に強い人生である。誰をも恐れる必要もないし、誰にこびへつらう必要もない。いっさいの振舞いがそのまま自体顕照であり、ゆうゆうたる人生であり、厳のごとく堂々としており、太陽のごとく光輝に満ち、大空の無限に広がりゆくごとく希望に満ちた人生である。
0026:09~0026:12 第四章 法然等、上奏により流罪されるを示すtop
| 09 其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経・勅宣・御教書を申し下して、 法然の選択の印板を大 10 講堂に取り上げ 三世の仏恩を報ぜんが為に 之を焼失せしむ、 法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて 11 破却せしむ其の門弟・隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せらる、 其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を 12 進らせずと云わんや。 -----― その上、かつて元仁年間に延暦寺・興福寺の両寺から度々朝廷への申し入れがなされ、勅宣・御教書を申請した。比叡山では、法然の『選択集』の版木を大講堂に押収し、三世の諸仏への報恩のために焼き捨てた。法然の墓所については、感神院の犬神人に命令して破壊させた。法然の門弟である隆観・聖光・成覚・薩生らは遠国に配流され、その後にいまだ処罰を許されていない。 どうして「意見を進言したことはない」と」いえるだろうか。 |
元仁年中
1224年11月20~1225年4月20までの間5ヵ月間。元年8月(正確には貞応3年)専修念仏禁止の勅宣・御教書が出ている。貞応から元仁の改元は天変地夭による。また元仁から嘉禄の改正は疱瘡の流行によもの。わずか5ヵ月での改元は。天変地夭・飢饉・疫病がいかに深刻なものであるかを物語っている。
―――
興福
法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する大きい脅威となっている。
―――
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
―――
御教書
摂関政治のころから始まった公文書の一つで、三位以上の公卿において家司が上位を奉じて出すという形式をとる。のち、鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権・管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執建状ともいう。行政が出す公文書がこれにあたる。
―――
印板
昔、文書や図画などを印刷するのに木板に彫刻して紙とすり合わせた印刷方式の原板。材料は主に桜や黄柳。
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三世の仏恩
過去・現在・未来の三世にわたる一切諸仏の恩。
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法然の墓所
法然は建暦2年(1212)1月、東山大谷禅房で死に、死体は庵の東側に埋められていた。嘉禄3年(1227)6月22日、勅許を得た比叡山の僧徒が襲って、この墓は破壊された。ついで6月29日、専修念仏禁止の宣旨が発せられ、7月6日には法然の高弟であった隆寛・空阿弥陀・成覚房幸西を眷属させ、陸奥・薩摩・隠岐にそれぞれ流罪にすることが決定されたが3人は宣旨が出ると同時に逐電し、姿をくらまし、のち、隆寛だけが捕られ奥州へ追放された。
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感神院
祇園神社の別号で八坂神社のこと。貞観18年(0876)神託と称し播磨国広峰から牛頭天王のを移したのがはじめで、観慶寺感神院と号し、興福寺の所管に属した。天延2年(0974)3月、延暦寺別院、日吉社の末社となった。祇園祭の宮司社として有名。
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犬神人
平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、祭儀その他の雑務を努めた人。祇園社の犬神人の場合は、境内の掃除をして不純物を捨てたり、靴や弓矢を作って行商していた賎民である。祭りの前には、神輿の前を行って道路の清掃などもした。一説には蝦夷討伐で捕らえた人を神社が買い取り、奴隷として扱ったともいわれている。
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隆観
(1148~1227)浄土宗長楽寺流の祖、竜寛とも書く。藤原資隆の子で、はじめ天台宗慧心流を学んだが、法然の弟子となって洛東の長楽寺に住した。安貞元年(1227)比叡山の定照が「弾選択」を著したのに対し「顯選択」を著して応戦した。しかし、そのため法然の墓をあばかれる因となり、彼自身も対馬に流罪が決定した。80歳没。
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聖光
(1162~1238)浄土宗鎮西派の祖。韓は弁長。のち弁阿と改めた。筑前国遠賀郡(福岡県北九州市)で生まれ7歳で出家した。比叡山で学び、一度故郷に帰ったが、弟の死を見て無常観に襲われ再び入京して法然に会った。元久元年(1204)筑紫に下り、筑紫国に善導寺を建てて念仏を弘めた。嘉禎3年(1237)「徹選択集」を著し鎮西派の依処となる。弟子に然阿・良忠がいる。
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成覚
(1133~1247)成覚房幸西のこと。正確には生没年不詳。姓は物部氏。はじめは比叡山西塔南谷鐘下房において天台の経疏を学んだが、弟子の死にあって無常を感じ、法然をたずねて弟子入りした。36歳の時という。その後、承元元年(1207)法然が土佐に流されたときには阿波に流された。嘉禄3年(1227)にも伊豆に流されたという。また一念義を主張したために、法然からも附仏法の外道と責められて擯出させられたともいう。一念義とは、一度、念仏を唱えれば、それで往生は決定してしまうのだから、多く唱える必要はないという説。それに対して、できるだけ多く唱えて弥陀に恩を報ずべきだというのが念仏で、法然自身、日に六万遍唱えたといっている。すでに法然の在世中から批判する弟子は跡をたたなかったのである。
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薩生
はじめは天台を学んだが、成覚房幸西に従って専修念仏帰依した。証空から西山派の修行を教わり、鎌倉に出て独自の宗派を作った。生没年不詳
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この章は、この段の客の問いのなかに「末だ勘状を進らせず上奏に及ばず」とあったのに対して、延暦寺、興福寺から数度にわたる上奏があり、ついに勅宣・御教書が下されて法然の一門が弾劾された事実まであることを指摘して反論したところである。
すでに法然の一生、その邪義が成立した経過については第四段・第五段の各章で詳しく論じてきたので、本章では、法然の生前における一門と既成仏教との争い、法然没後の一門に加えられた弾劾、迫害、および没後今日までの念仏一門の推移を略述してみたい。
法然一門と既成仏教の争い
建久9年(1198)3月、法然は選択集を完成した。この時、法然は16歳、その一門は日々に隆盛を加え、比叡山・興福寺等、既成仏教にとっては、しだいに一大脅威となりつつあった。面倒な教義などいっさいなく、ただ弥陀念仏を修して、西方極楽浄土の往生を期せ、という単純な教義は、それまでの仏教の難解な教理に較べれば、はるかにはいりやすく、武士階級をはじめ、庶民への浸透は急速度で進んでいった。
元久元年(1204)、ついに延暦寺衆徒は蜂起して専修念仏の禁止を天台座主に要求した。これに対し法然は、その弾圧を避けようとして弟子を集め、自戒すべき7ヵ条を掲げて弟子たちの同意を求めた。そして、みずから7ヵ条のあとに署名し、以下に190の弟子が連署し自戒を誓ったものとして天台座主に差し出したのである。この7ヵ条は現在、京都に残っている。
法然はその7ヵ条のなかで「年来の間、念仏を修しているが、聖教に随順し、あえて人心に逆らわず、世間を驚かすこともなく、この30年の間こともなくすごしてきた。ところがこの10ヵ年以後、無智不善の輩が次々とあらわれては弥陀の教えにそむくばかりか、釈尊の遺法もけがすようになった」と述べ「無智不善の輩」の行いとして、
一、 阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗ること。
二、 別の教えを行う人と好んで論争すること。
三、 別の教えを行う人にそれを棄てさせようとすること。
四、 念仏門では戒律はないとして淫酒食肉をすすめ、戒律をみくだすこと。
五、 勝手に自分の教義を立てて人と争うこと。
六、 唱導で無智の人々を教化すること。
七、 誤った教えを偽って師範の義とすること。
の7ヵ条を掲げ、それらを戒めている。
元久元年(1204)のこの出来事は、叡山の衆徒が叡山出身の法然をおさえることを座主に要求し、法然が自戒を誓った文書を座主に提出することによっておさまった。したがってこれは、どちらかといえば、天台宗内部の出来事ともいうべきものであった。
ところが翌元久2年(1205)、事態は法然の予想をはるかに越えて深刻なものとなった。すなわち、法相宗の興福寺が念仏禁止を院に訴え出たのである。その奏状には、
一、 新宗を建つる失。
二、 新像を図する失。
三、 釈尊を軽んずる失。
四、 万善を妨ぐるの失。
五、 霊神に背くの失。
六、 浄土に暗きの失。
七、 念仏を誤るの失。
八、 釈尊を損ずるの失。
九、 国土を乱すの失。
という9ヵ条にわたる具体的な内容を掲げて、法然とその教団への批判をのべている。
今度は、法然も、簡単にその鉾先をそらすわけにはいかなかった。しかしながら、院の貴族たちのなかにも熱心な念仏信仰者があり、法然の念仏を禁ずるのにためらいを感じている者も少なくなかった。決定的な結論が出せないまま月日は過ぎ、興福寺を中心とする旧仏教の勢力は、ますます強く弾圧を求めたのである。
こうした矢先、すでにふれたように、たまたま後鳥羽院が熊野に参詣中、留守をあずかっていた院の女房数人が、おりから開かれていた念仏の会に出席し、僧安楽・住蓮と密通したという噂がひろまってしまった。これには後鳥羽院も激怒し、建永2年(1207)の新春早々、安楽・住蓮の二人を斬罪に処し、ついで法然一門の主だった者に対して、流罪を宣告した。
法然は流罪中の土佐から、1年たらずで許されて戻ったが、京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、知恩院のある京都・東山大谷の地で没した。
法然の流罪、ついでその死亡によって、いちじ念仏の教勢にとどまったかに見えたが、没後はまたしだいに勢力を強め、叡山・興福寺からは念仏禁止の奏状はたびたび提出され、一方では教義面から、これを破折を加える者も現われた。
大聖人の念仏無間地獄抄にいわく、
「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん」(0101-02)
法然滅後、一門に加えられた弾圧
法然滅後の経過をみるならば、没後5年目の謙保5年(1217)3月に、叡山の衆徒が蜂起して念仏禁止を訴え、元仁元年(1224)8月に、専修念仏禁止の令が出されている。そして、嘉緑3年(1227)には、安国論本文に記されているように、これら法然没後の弾圧、禁止のなかでも最大の規模のものが行われ、法然の墓の破壊、弟子たちの島流しが行われた。
すなわち、この年の6月22日、延暦寺衆徒は専修念仏の邪義を訴えて蜂起し、勅許によって法然の墓を破壊し、ついで7月6日、念仏僧の隆寛・聖光らを島流しの刑に処して、念仏禁止を強く推し進めた。
念仏無間地獄抄にいわく、
「法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」(0101-09)
これらの一連の事件については、そのつど、院から宣旨がだされていたわけで、この段の客の「勘状を進らせず、上奏に及ばず」はまったくの誤りである。
嘉緑3年(1227)、山門に下された宣旨には、次のように認められている。
「専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、 此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候、者綸言此の如し」(0101-17)
また同年10月10日、関白から武蔵守北条泰時に下された御教書には「専修念仏の事、五畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るを諸国に尚其の聞え有り云云、宣旨の状を守つて沙汰致す可きの由・地頭守護所等に仰せ付けらる可きの旨・山門訴え申し候、御存知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可き由・殿下の御気色候所なり、仍て執達件の如し」(0102-13)とある。
さらに、念仏者追放宣旨事には、
「永尊竪者の状に云く弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、 七月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩身を容れし草菴に於ては悉く破郤せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦め取らるるの間・礼讃の声黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず山門今に訴え申し候なり。
此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下され候か、恐恐。
嘉禄三年十月十五日」(0089-08)
とある。
日寛上人は立正安国論文段に、次のごとく申されている。「今謂く法然伝記の第7に准ずるに、法然・存生の昔は藤井元彦という俗名を付けられた後鳥羽院の御宇・建永2年(1207)2月28日に土佐国へ流されぬ、およそ流罪は賢聖の常例なり、所謂・竺の道生は蘇山に流され、法道は江南に還され、一行禅師は菓羅国に放さる。然りといえども末だ俗名の事を聞かず、法然の俗名豈永代不易の恥辱にあらずや。滅後の今は墓所を破却せらる。これ第一の恥辱なり、慈覚大師事にいわく『生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり』(1020-03)と。また大田殿許御書にいわく『或は閻魔王の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり権者は辱を死骸に与えざる処の本文に違するか』(1004-16)と。これに例して知るべし」とある。
すなわち日寛上人は、大聖人の御書を引用しながら、痛烈に法然の驚くべき法罰の姿を明らかにされている。第一に存生には俗名をつけられて流罪されたこと、第二に死後には墓場を破却されたことは、仏法上、永代不易の第一の恥辱であると仰せである。
このように、法然の教えが、いかに仏法を破壊する邪悪な説であるかは、歴然たるものがあった。智者、学匠はそれをよく知っていたのである。このゆえに、すでに生前から選択集に対する破折もあったし、為政者もこれを禁じた。だが、民衆は、選択集を破折した文を読んでいなかったがゆえに、結局は、悪鬼入其身の方程式で、邪義がひろまっていた。所詮、天台過時の法門の立場では、魔の根を断つことはできなかったのである。
しかして、法然のやり方自体も、まことに魔物の原理そのままである。先にみずから選択集で、浄土宗以外のいっさいの仏・菩薩・経典を捨閉閣抛せよと説きながら、いざ弾圧があるとわかると、その主張を「無智不善の輩のしわざ」とすりかえたことなどは、その一例である。そして、九条兼実等の公卿に取り行って、権力との結託を進めていったのである。
それを、あたかも法然は勢至の再誕だ、善導の後身だ等と喧伝し、邪義がまたたくまにひろまったのは、ひとえに民衆の無智にあるといっても過言ではあるまい。客の質問でもあるように、法然一門が禁止された事実すら、マスコミのない当時の民衆はまったく知らなかったのである。
衰亡の一途をたどる最近の浄土宗
さらに、法念なきあと、今日までの間に、浄土宗においてどのような宗派が分かれたかを示すと、次のようである。このうち親鸞の浄土真宗は、内容的にも浄土宗とはまったく違うし、親鸞自身、法然の弟子であったかどうか疑わしい。しかし、一応ここでは浄土宗が主張しているものを、そのまま図表にした。
┌白旗派 (良暁)
├藤田派 (性心)
├名越派 (尊勧)
┌鎮西流 良忠(弁良)┼三条派 (道光)
│ ├一条派 (然空)
│ └木旗派 (慈心)
│ ┌西谷流 (浄音)
法然┼西山流───(証空)┼深草流 (立信)
│ ├東山流 (証入)
│ ├嵯峨流 (道観)
│ └三鈷寺流(一遍)
├諸行本願寺義(長西)─────九品寺流
├多念義 (隆寛)─────長楽寺流
├一念義 (幸西)
└浄土真宗 (親鸞)
なお、このほか、法念常随の弟子と称する源智は、その滅後、廟所である知恩院を護持し、その系統が跡を継いだが、別流を称せず、鎮西流に合同している。また信空・湛空などという弟子たちも、それぞれ鎮西・西山流に合流している。
現在、鎮西流の六派のなかでは、白旗流が大部分を占め、名越派がわずかばかりあるのみで、他の派は壊滅している。西山流のなかでは西山流・深草流のみ残り、また、諸行本願義・多念義・一念義の三派はなんら見るべきものはない。
法然の教化が京都中心であったので、いまなお浄土宗は、近畿地方を中心に根を張っているが、弁良は九州方面、弟子の良忠は鎌倉に教団を開拓した。室町時代の応仁の大乱で京都市内各寺院は大打撃を受けたが、漸次回復し、江戸時代にはいってからは、徳川家の宗旨が代々浄土宗であったため、西は京都の知恩院、東は江戸・芝の増上寺を中心に栄えた。
明治にはいってからは、徳川家の庇護も断たれ、廃仏毀釈に遭って、一時、衰微のきざしをみせたが、やがて当局に巧みに取り行って、財政面から挽回した。京都の知恩院と、東京の増上寺は仲が悪く、長年分裂対立していたが、話し合いがついて、昭和36年(1961)知恩院を総本山とし、東京の増上寺・長野の善光寺など7寺を大本山として、今日に至っている。
一方、親鸞の浄土真宗は北陸、北関東にひろまっていたが、生前から分派を生じていた。現在も人口に真宗十派と称する派閥があり、親鸞の血統を伝えていると称する本願寺派、大谷派のほかに、興正派、高田派、仏光寺派、三門徒派、山元派、出雲路派、誠照寺派、木辺派の十派がそれぞれ独立している。今日、これらの中で最大の教勢と血統を誇る本願寺派や大谷派は、蓮如が出現するまで見るかげもない存在であったが、蓮如は応仁の乱(1467)当時の世相に乗じて、巧みな政治力を発揮し、一代で本願寺教団の基礎を築き上げたのである。
現在、檀徒数は浄土宗300万人、真宗大谷派600万人と称しており、それだけに寺院や僧侶の数も多い。だが、平均して50世帯で一人の僧侶、少ないところでは10世帯の檀家ももたない零細寺院もあって、宗勢力の衰微はおおうべくもない。
再三にわたった念仏禁止の上奏
本章の末尾に「其の後未だ御勘気を許されず」とあるのは、大聖人が立正安国論を著わされた文応元年(1260)になっても、まだ念仏禁止の令が解かれたことがいないことをいったものであって、隆寛・聖光らが流されてから33年を経ている。この間、天福2年(1234)延応2年(1240)にそれぞれ、念仏禁止の上奏がなされているのである。
このように、法然の一門は、仏法の面から邪義であることはもちろん、社会的にも風紀を乱すものとして、勅宣・御教書が再三、下されたことは事実である。当時においても、大聖人が「然りと雖も恭敬供養する者は愚癡迷惑の在俗の人、帰依渇仰する人は無智放逸の輩なり、権者に於ては之を用いず賢哲又之に随うこと無し」と仰せられているように、分別を弁えた人々は、念仏を極度に嫌っていたようである。
「鳴呼世法の方を云えば違勅の者と成り帝王の勅勘を蒙り今に御赦免の天気之れ無し心有る臣下万民・誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶ可きや、仏法の方を云えば正法誹謗の罪人為り無間地獄の業類なり何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致す可きや、庶幾くば末代今の浄土宗・仏在世の祖師・舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛つて法華経を持ち菩提の素懐を遂ぐ可き者か」(0103-06) 世の念仏信仰の者は、この大聖人の御金言を拝し、一刻も早く、その邪法を捨てて正法に帰すことを訴えてやまない。
0026:13~0030:07 第七段 布施を止めて謗法断絶を明かすtop
0026:13~0026:18 第一章 災難対治の方術を問うtop
| 13 客則ち和ぎて曰く、 経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、 然れども大乗経六百三十七部二千八百八十 14 三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て 捨閉閣抛の四字に載す其の詞勿論なり、 其の文顕然なり、 此 15 の瑕瑾を守つて 其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、 賢愚弁ぜず是非定め難し、 但し災難の起りは 16 選択に因るの由、 其の詞を盛に弥よ其の旨を談ず、 所詮天下泰平国土安穏は 君臣の楽う所土民の思う所なり、 17 夫れ国は法に依つて昌え 法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き 法を誰か信ず可きや、 先ず国家 18 を祈りて須く仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。 -----― 旅人はそこから心が落ち着いていう。 法然が経をないがしろにし、僧侶たちを謗ったというのは、あなた一人だけがしている非難である。 しかし、法然は、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻、されに一切の仏・菩薩たちと仏教以外のさまざまな神々に対して、捨閉閣抛の四字をその上に置いた。その言葉があることは言うまでもなく、その文ははっきりしている。あなたはこのわずかの欠点にこだわり、そのような誹謗をしている。 あなたが迷って言っているのか覚って語っているのか。あなたが賢か愚か判断がつかないし、是か非か定めることはできかねる。 しかし、災難が『選択集』を原因として起こってるということを、あなたは盛んにいい、ますますそのことを説いている。 結局、天下泰平・国土安穏こそ主君も臣下も求めるものであり、民衆が願うものである。そもそも、国は根本とする法によって栄え、法はそれを崇める人がいてこそ貴い。国が亡び、人がいなくなってしまえば、仏を誰が信じるであろうか。まず国家の安泰を祈って、仏法を確立するのでなければならない。もし災難をなくす手立てがあるなら、聞きたいと思う。 |
世天
仏教道の諸天善神と陰陽道や神道で祀られている一般の神。「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」には、諸天善神を敬わないという理由で、念仏禁止を訴えた南都の奏状として「一、霊神を蔑如する事 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔を承けて四海其の加護を仰ぐ、而るに専修の輩永く神明を別えず権化実類を論ぜず宗廟・祖社を恐れず若し神明を憑まば魔界に堕すと云云。実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹に至つては既に是れ大聖なり」(0087-15)とあり、専修念仏の党類は神明に向背しているのである。
―――
此の瑕瑾
瑕は玉に傷があること。転じて、傷・短所・欠点・恥などを意味する。瑾は美しい玉。
―――
賢愚弁ぜず
意見の違う二人の言が、どちらが賢でどちらが愚か判断がつかないこと。
―――
天下泰平
あらゆる民衆が互いに強調しあい仲良く生活をたのしみ、建設していくこと。
―――
国土安穏
天変地夭に侵されない国土。戦争・紛争のない国土。
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この段では、人生の不幸の根源と、三災七難の淵源を断ち切り、真実の平和楽土を建設する方法は、国じゅうの謗法を禁ずることであると、断言されている。謗法を禁ずるとは、所詮、謗法の僧侶の命を断つことである。
それをあかすに当たって、本章は客の疑問を掲げている。ここで客の述べていることは、単に大聖人当時、すなわち、鎌倉時代の為政者ならびに民衆の考え方にとどまらず、現代人の宗教観、政治観にもそのまま該当するものがある。
経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し
主人の道理正しい話に、客は、ようやく納得してくる。特に法然が捨閉閣抛といって、法華経を誹謗したことは悪いのだと気がつく。しかし、徹底的に悪いことだとは、まだ思えない。ゆえに客は、この段にきて、和らいでいいながらも「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」と、まだ疑問に感じている。
この意は「経を下し僧を謗じているのは、必ずしも法然一人ばかりとはいえまい」というのである。すなわち言外には「主人だって、浄土の諸経を下し、法然を謗じているのは同罪ではないか」という疑問があるわけである。しかし、もちろん、日蓮大聖人が、法然の捨閉閣抛は、まったく仏法に背反する邪見であるから、同列に論ぜられるわけがない。
ここで日寛上人は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」等の文について、文段に次のように申されている。すなわち「かくのごとく点ずべし、客の意にいわく『経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、主人もまた浄土の経を下し法然を謗ずればなり』と云云、古点穏やかならず、一義にはこの八字の主人に約す。いわく『大乗経を下して衆僧を謗ずることは法然一人としては論判し難し』と云云、蒙これには牃するがごとし、今いわく、二義倶に末だ美からず」と。
すなわち「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」の御文を、一義には皆主人に約し、一義には皆法然に約する解釈が、古来、邪師によって行われてきたが、この二義は、ともに誤りであり、正しくは、日寛上人の仰せのごとく、客の意は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難く、主人もまた経を下し僧を謗じているのではないか」という意にあるのである。
このように、立正安国論の解釈は、古来から、多くの人々によってなされてきたが、日蓮大聖人の御真意を正しく解釈しえたのは、ただ巨匠、日寛上人のみであり、他の邪宗各派の学者が、すべて誤りに満ちた謬釈をしていることは、まったく明白ではないか。
此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども
日寛上人の文段には、次のように、いわれている。
「またかくのごとく点ずべし、この下の六句二十四字を古来の諸師はみな主人に約す、倶に穏やかならざるか。今慎んで案じていわく、この二句八字は主人に約し、次に迷の下の二句八字は法然に約し、三賢の下の二句八字は法然と主人とに約するなり。ゆえに今の問の意にいわく『経を下し僧を謗ずることに法然一人には論じ難し主人もまたしかればなり、然れども大乗経等を以って“捨”等の四字に載せたること選択の文分明なり、主人は此の瑕瑾を守って其の誹謗を成せども、法然は迷うて言うか、覚りて語るか、しかれば法然と主人との間・賢愚弁ぜず是非定め難し』等云云」。
すなわち、この御文についても、古来、いろいろな読み方がなされてきたが、日寛上人は明白に読み方についての決定を下された法然が捨閉閣抛といって大乗教はもちろん、諸仏菩薩をすべて否定し去ったことについて、客も法然の誤りであることを納得する。しかし客は「この法然の捨閉閣抛の四字は、あたかも美しい玉にわずかのきずがあるようなものであり、主人が小さいきずに強い誹謗を加えるのは行きすぎだ。だからといって法然のいうことも、迷っているのか、さとっているのか、判断がつかなくなった。あなたと法然とでは、どちらが賢いのか愚かなのか、どちらの主張が是なのか、非なのか、自分でもわからなくなった」と心情を述べたのである。いずれにしても、客は法然に大きな疑いを生じてきたわけである。
およそ、浄土三部経以外の経典を捨てよ、阿弥陀如来以外の仏菩薩を抛てとは、釈尊一代仏教のどこにも説かれていない。すでに破折されているように、これは曇鸞・道綽・善導らが勝手に立てた悪義を、法然がさらに増長せしめた邪義である。仏説にあらざる私の邪義を立てることは、仏弟子にあらずして仏敵である。
のみならず、法然が捨てよ閉じよ閣け抛てという一切経のなかに、釈尊一代仏教の肝心たる法華経が含まれている。これは、彼らが念仏を唱えれば極楽往生できるという唯一の依拠である、法蔵比丘の「唯五逆と誹謗正法の者を除く」という誓願さえはずれることになる。
また、法華経は、いっさいの経典の究極であり、いっさいの仏菩薩の能生の根源である。浄土三部経は法華経を説くため、最も低い段階の足場にすぎない。阿弥陀如来は、法華経迹門の説法では、大通智勝仏の十六王子の一人として、迹門の釈尊の兄弟である。釈尊の本地を明かした本門の説法では、五百塵点劫に成道した釈尊が化他のために迹を垂れた仏の一つになる。
阿弥陀を尊んで釈尊を卑しみ、浄土三部経を崇めて法華経を捨てるのは子を尊んで親を賎しみ、弟子を崇めて師匠を罵る狂態である。しかも「仏法は体のごとし世間はかげのごとし」(0992-14)と仰せのように、宗教界における本末顛倒は、必ず世法において、狂乱の姿となって現われてくるのである。
ゆえに、法然の選択集は、まさしく毒薬の魂であり、悪魔の者と断ずべきである。其の誹謗を成せどもと客はいう。だが善いものを嫉んで悪くいうのが誹謗である。悪を悪と断じその罪を弾劾することは、むしろ正義を守るための絶対必要条件である。
創価学会が折伏を行じて、今日に至った途上においても「学会は他宗の悪口をいうから嫌いだ」等、あるいは「宗教が他宗教を誹謗するのはよくない」等という人があった。今後も、出てくることであろう。
だが、悪を追究することが禁じられるならば、一体、世の中はどうなることであろうか。警察は活動を停止し裁判所は門を閉じて、悪人はわが世の春と横行し、善良な民衆は不幸のどん底に突き落とされるに違いない。
こうした国法上の混乱にもまして、最も恐ろしいことは、仏法の正義が失われることである。いかなる嫉妬、迫害、弾圧も恐れず、われらは勇敢に、護法のため、民衆の幸福のため、社会の繁栄のため、世界平和のために、邪義を粉砕していかなければならない。
所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり
いかなる時代の、いかなる国を問わず、社会の平和と国土の安穏、すなわち民衆が安心して日々の生活にいそしみ、人生を楽しんでいける社会の実現が、指導者も民衆も共に願うところであり、政治の要諦であるとの原理である。
古来、中国において、天下泰平の理想社会をあらわすものとして、次のようなエピソードが用いられてきた。中国の伝統的な聖天子・堯の時代に、ある農家で一人の老人が腹鼓を打ち、土器を叩きながら、謳ってる。その文句は「日出でて作し、日入りて息う。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らう。帝力何ぞ我に有らんや」というのである。
すなわち、古代中国では、帝王の力、政治権力の存在が意識されないほど、民が安心しきって生業に励めることが天下泰平の理想的なあり方とされたのである。「天子は正しく南面せるのみ」というのも、同じ考え方から出た言葉である。逆にいえば、民衆にとって帝王の力が意識されたのは、重税を取り立てられ苦しめられるとか、災害や賊の跳梁によって悩み、帝王の力による対策を要望せざるをえない時であったともいえる。
現代の社会は、こうした自給自足の古代社会とまったく異なる。工場で機械を作っている人も、サービス行に従事している人も、商人も、あるいは農業・漁業を生業としている人も、国の政策、さらには国際情勢の変動からの影響を免れることはできない。世界の涯に起こった動乱によって、急に景気がよくなったり、逆に暴落したりすることは、しばしば経験されるところである。
いわんや、軍事科学の発達がもたらした驚異的な核兵器と、ほとんど世界を網羅する軍事ブロックの形成とによって、地球上のいかなる地点も、安全な所はないとまでいわれるようになってしまった。文字どおり人類は同じ一つの屋根の下にいるのであり、しかもそれは、恐るべき破壊力をもつ核兵器が貯えられた火薬庫なのである。
天下泰平とは、単に一国の平和であるのみならず、全世界の平和でなければならない。日本の国だけが平和と繁栄を謳っても、アジアの不幸と動乱、世界情勢の不安定によって、たちまち脅かされることは明瞭である。資本主義陣営に属する国も、共産主義陣営に属する国も、あるいはその中間にある諸国も、すべての国の指導者は、今こそ恒久平和の実現に全魂を傾けるべきである。
また人間と人間の争いから起こる災いのみにとどまらず、いわゆる天災地変による不幸を解決する道は、仏法による以外にない。科学の発達した現代でも、アメリカ南部沿岸を襲うハリケーンの猛威は、年々莫大な被害を与えている。ソ連や中国における農業問題も、人為による改善の余地は多分にあるとはいえ、天然の条件によるところがきわめて大きい。科学の力も自然の威力の前には、まだまだまことに微々たるものでしかない。
「君臣の楽う所土民の思う所」とは、平和こそ人間性本然の欲求であるとの意である。資本家の利益のため、指導者の名誉のために戦争し、民衆を犠牲にするようなことは、絶対にあってはならない。否、いかなる理由、目的にもせよ、戦争は断じてしてはならない。最も尊いものは人間の生命である。同じ人間でありながら、人命の犠牲もやむをえないなどというのは、人間としての資格をみずから放棄するのと等しいと知るべきである。
夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し
国の繁栄、民族の興隆は、必ずその根底となるべき法の浅深、高低によって決定されるとの原理である。客の言葉であるが、重要な真理を表わしているといえる。
ヨーロッパの歴史の例をとってみても、古代ギリシァの都市国家は、それぞれ哲学、理念をもって維持されていた。美と哲学の文化をもって立ったアテネ、きびしい軍事教練と法治主義を根幹としたスパルタ等、それぞれに応じた興隆と発展を示している。
ローマにもやはりローマらしい征服思想と統治思想があり、土木建設や事業面で、特色ある興隆を遂げた。中世諸国家は王権神授説を骨髄とする絶対主義政治、キリスト教の商業蔑視に基づく略奪主義が行われた。近代ヨーロッパの植民主義国家が、ルネサンスと、宗教革命を経て形成された啓蒙君主政治と、個人の自由主義を基礎理念するものであることも、周知の事実である。
目を中国に移せば、儒教的封建主義によった周、道教思想と法治主義によった秦、儒教的王道主義によった漢、天台仏法を根幹においた隋・唐等、いずれも、その法は王朝の性格、文化圏の広狭、民衆の幸・不幸に大きい影響を与えている。むしろ、決定的要因となっているのである。
ヨーロッパにおいては、きびしく縛られたスパルタの民衆より、伸び伸びとしたアテネの民衆のほうが幸福であったに違いない。後世の文化に及ぼした影響性もアテネのほうが大きい。人間性を無視した中世よりも人間中心的なローマの高度の分明と繁栄をもっていたし、そのローマは、自由・平等・博愛を旗印とする近代ヨーロッパのほうが、すぐれた文化水準に達したといえよう。
中国についても、冷厳な法治主義によった秦は短命で滅び、礼教によった周は一応長命を保ったが、その後半は有名無実であった。秦より周、周より漢、漢より仏法によった唐のほうが、偉大な文化の華を咲かせ、広い地域に影響力をもち、政治的にも安定していた。唐朝の後半、武宗皇帝の仏教弾圧、浄土宗の流行と共に、急激に衰運をたどったことは、仏教の正邪が政治・経済・文化・民族の生命力に、いかなる関連性をもっているかを如実に物語っているといっても過言ではない。
日蓮大聖人の妙法を根底とした第三文明が、最高の、人類の理想を具現する大文明であり、一閻浮提の仏法なるがゆえに、一国・一民族にとどまらず、全世界の、全類の未曾有の興隆と発展をもたらすことは、この道理よりして必然なりと叫ぶものである。
仏法の偉大さは人が実証
また「法は人に因って貴し」とは、いかなる法も、それを実践する人の実証の姿如何によって流布もするし、消滅もする。すなわち、伝持の人、実践者の重要性を意味する。すなわち、法をたもっている人が幸福になり、興隆し、福運を積んでいくことによって、その法の偉大さが証明される。反対に法をたもっている人が凶悪となり、残忍となり、みずから悲惨な末路をたどって滅び去ることによって、その法の低級さが証明されるのである。
人生というものを考えた場合、いかなる人も、必ずなんらかの法を有している。多くの場合、それは体系化されず、哲学性をもたないこともある。だが、なんの法ももたないということは、いっさいの行動を動物的本能によってとっていることであって、人間としての理性がある以上は、そのようなことはありえない。
その法の高低・浅深・正邪によって、生活の個々の行動の仕方、そして、それによって現われる結果が支配される以上、低いものより高いものを、浅いものより深いものを取るべきである。邪なものを捨てて、正しいものをもつことが肝要である。
人の心の奥底にあって、あらゆる行動、思想ににじみ出てくる規範を、いっさいの哲学・思想・主義に対する信仰を含めて信心といい宗教というのである。されば信心といい、宗教といい、人が行動の規範としている法であって、祈りの儀式や、法衣や、数珠や、線香や、ローソク等の形式はあくまで枝葉にすぎない。その観点からいえば、共産主義に対する信奉も信心であり、宗教である。
ここに宗教選択の大切である所以がある。日蓮大聖人は「妙法なるが故に人貴し」(1578-12)と仰せである。それでは「法は人に因って貴し」とは、逆になってしまうかというならば、今度は偉大な法をたもった者の立場になるのである。すぐれた法をたもったとしても、まだ充分に身につけることができず、その人の行動の一部を支配しているのみで、大部分の行動は相変わらず、古い低い法によって行われていることが多い。
仏法という最高の法といかにして完全に合致し、全人格をこれによって満たしていくか、低い法による古いカスを追放していくかが、仏道修行であるともいえる。完全に合致したならば、これを成仏というのである。
その過程は努力、精進である。仏法をたもった人が、どれだけこの努力、精進を積み重ねて、わが身に仏法の偉大さを体現していくかによって、法の興隆が決定される。
創価学会の今日の発展、隆昌が恩師戸田前会長の獄中での不思議な体験、人間革命、広宣流布への情熱によって決定づけられたことを思い合わすべきである。「法は人に因って貴し」日蓮大聖人の仏法の興隆は、戸田前会長によって決定づけられ、そして今、500数十万世帯の創価学会員の燃ゆるがごとき信心、広布への決意、幸福生活の実証によって、全世界に、未来永劫に流布していくべき源泉が決定づけられているのである。
先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし
国が亡び、人が死んでしまったならば、仏法を信奉することができない。したがって、まず国家、社会を安定して、しかるのちに仏法を立てるべきであるとの客の言葉である。
すなわち、政治が主であって、宗教は従であるという考え方が、この根底にある。客とは、時の為政者、北条義時になぞらえているのであるから、これは当然であったかもしれない。
今日においても、こうした考え方は、むしろ当時以上に支配的となっている。たとえば「原水爆戦争が起こって、地球上の全人類が滅亡してしまえば、仏法だの、広宣流布だのといっていられない。まず、平和のために、大衆運動を起こすべきだ」等の議論である。
その底辺には、宗教を単に気休めや、形式や、精神修養ぐらいにしか考えない、宗教認識の恐るべき無智がある。「政治が先だ」という人は、それでは政治によって戦争を絶滅し、真実の恒久平和を実現する確信があるのか。過去の歴史を辿ってみるならば、たとえ本人は確信があるとしても、暗澹たるものをおぼえずにはいられまい。
しかも、いつの時代の、どの国の民衆も、平和を望む心に変わりはない。だが独裁者の野望と権力の前に惨めに屈服し、あるいはみずからの心に憎悪と恐怖がうずまいて、戦乱のなかに自滅していったのである。戦争を憎み、平和を渇望するのも人間の心である。戦争を好み、利益と名誉を願うのも人間の心である。
この人間の心を動かし、狂気を追放して正気となし、反目によらず団結で、すべての人の幸福をかち取ってく平和世界の実現は、法によって決定されるのである。すなわち宗教の正邪、仏法の正邪によって、国家社会ひいては全世界の安危が決まることを知らねばならぬ。このことは、主人の後段における主張によって次第に明らかにされるのである。
エラスムスは言った。「戦争は獣のためにこそあれ、人間のためにはない。実に凶悪なものである」と。だが、その獣を人間にする法は、どこにあったか。東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大生命哲学こそ、その唯一の秘法である。
ゆえにわれらは、色心不二の大生命哲学をもって、一人一人の人間革命を遂行し、これを全世界に及ぼすことこそ、永遠にくずれざる恒久平和への直道なりと確信するのである。
0027:01~0027:03 第二章 国家安穏天下泰平の原理を説くtop
| 0027 01 主人の曰く、 余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず唯経文に就いて聊か所存を述べん、抑も治術の旨内外の間其 02 の文幾多ぞや 具に挙ぐ可きこと難し、 但し仏道に入つて数ば愚案を廻すに 謗法の人を禁めて 正道の侶を重ん 03 ぜば国中安穏にして天下泰平ならん。 -----― 主人がいう。 私は愚かであって決して賢くはない。ただ経文に即して少しばかり思うことを述べよう。 世を治める術というのは、仏教か否かを問わず。どれほど多くの教えがあることだろう。すべてを挙げることはできない。とはいえ、仏道に入って何度となく自分なりに考えたところ、謗法の人を制止して正しい考えの人々を重んじるなら、国の中は安穏になり天下は泰平となるだろう。 |
三災七難を消し止めるには、どうすればよいのかとの前章の客の問いに答えて、本章からその方法を説き出されるのである。
まず本章で、「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と述べられているのは、結論の極理である。しかる後に、第三章以下で、法華経・涅槃経の文を引いて、これを論証されているのである。
いうまでもなく、謗法の人とは、浄土宗のみに止まるのではなく、禅宗・真言宗・華厳宗・法相宗等である。
よく、立正安国論では、法然の選択集のみを謗法と訶責されているかのように論ずる人がいる。しかし、それは誤りである。特に法然の浄土宗を大きく取り上げられたのは、すでにしばしばふれたように、当時の宗教界の情勢をみれば、直ちに理解されるところである。
法然が専修念仏を唱え始めたのは、日蓮大聖人御誕生のわずか48年前であり、法然の墓が勅命によって発かれ、高弟たちが流罪されたのは、日蓮大聖人の6歳のときであった。しかし、この数十年間に、専修念仏は戦乱と災害に脅える民衆の不安、末法思想の流行に乗じて、疫病がはやるように、全国津々浦々に広まった。念仏の哀音は日本国中をおおい、比叡山でさえ、これを認めなければ信者の庇護、寄進をうけられないほどの世相になっていたのである。武士の都、鎌倉の北条重時が浄土宗のために極楽寺を創立したのは、安国論御述作の前年である。
この一事によって、国諌の書たるこの立正安国論が、謗法の代表としての法然の浄土宗を取り上げ、これを完膚なきまでに破折された所以は、瞭然である。だが、単に浄土宗のみの破折に終わっているのではない。
十一通御書の建長寺道隆に当てた御状にいわく「夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり」(0173-01)云云と。
この日蓮大聖人の御心によって現代の宗教界を見るならば、既成仏教が連合体制をとり、大聖人の仏法を奉ずる創価学会を弾圧しようと図っていることや、新興宗教の徒輩が、新宗連を構成し、創価学会対策に躍起となっていることも、大聖人御在世当時と同じ方程式といえる。
ゆえに、既成たると新興たるとを問わず、彼ら邪宗教こそが、現在の日本に起こっている三災七難の根本病源であることは明らかである。彼らの謗法を厳重に禁じて、正道の侶、すなわち創価学会に教えを乞うならば、必ずや国中が安穏になると共に世界平和が実現されることを、強く強く確信するものである。
余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず
示同凡夫のお立ち場から、謙遜された言葉である。また前問の「賢愚弁ぜず」に対する語である。また、日蓮大聖人の言々句々は、すべて仏の経文を依処とし、裏づけとして述べられている。そこには、毫もみずからの才を誇ったり、客観的裏づけのない無責任な発言はないのである。
偉大なる仏法の予言
外道にせよ、仏教の僧にせよ、およそ予言者といえば、天の啓示を受けたとか、夢のお告げがあった等と称して、いつ、どこで、どのようなことが起こる等、というものである。そこには、言外に、自分が特別にこの啓示を受けたのだ、一般の者たちとは違うのだぞという。優越感、差別感がふくまれている。
こうした予言者、啓示者は、正しい仏法においては用いないのである。「利根と通力には依るべからず」(0016-13)と、大聖人も厳に戒められているのである。成程、一見すると、こうした予言者の方が素晴らしく見えよう。だが、それは根底に客観的と哲学に裏づけられた普遍妥当性がない証拠ではないか。
それに反して、日蓮大聖人は、この立正安国論で展開されているように、一つ一つ経文を引いて裏づけ、経文を示して結論を下されている。すなわち、ここに示された原理は、すべて事実の証拠と経文による裏づけと、哲学的論理性があるゆえに、いついかなる時代においても、またいかなる国土においても、共通する大原理なのである。
700年前に認められたこの立正安国論は、単なる歴史的文献でもなければ、文学的著述でもない。700年後の今日にもそのまま通じ、民族の興亡と経済的対立、思想的、軍事的相克に苦悶する全人類に対する警告の書として、生き生きとして胸臆をえぐるのである。
経文は仏の説法である。その時々に、思いつきや逃げ口上でいう無責任な指導者や、支離滅裂な評論家の言々句々とは、天地雲泥の相違がある。宇宙の本質を悟り、永遠の生命観に立脚した仏の言であるがゆえに、絶対に誤りのない真理である。
また日蓮大聖人は、この立正安国論で述べ、予言された自界叛逆・他国侵逼の両難が寸分の狂いもなく現われたことを証拠として「日蓮に帰せよ」「日蓮が言に随え」と、大確信をもって、正法を教えられるのである。
文永5年(1268)蒙古より使者が到着した。他国侵逼難の予言的中が明らかとなった時、11ヵ所に当てて認められた公場対決申込みのお手紙を拝してみよう。
まず、執権・北条時頼への御状には次のように申されている。
「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(0169-01)云云と。
また、極楽寺良観の御状にいわく、
「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く 毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(0174-01)云云と。
また多宝寺への御状にも、
「若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無間大城に堕す可し」(0176-03)
と申されている
「日蓮は聖人の一分に当れり」「彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」「早く日蓮房に帰せしめ給え」等、いずれも、日蓮大聖人こそ末法の仏であり、蒙古の襲来の前には風前の灯となった日本国を救う者は自分以外にない、との御確信であられる。
さらに、多宝寺への御状のごとく、大聖人の教えを実行しなければ、今生には日本を亡国に追いやり、来世には指導者も民衆も無間地獄に堕ちるであろうと仰せられるのは、明らかに末法御本仏の境涯以外の何ものであろうか。
したがって、この立正安国論は、国家諌暁の書であり、あくまでも謗法を禁ずることを表に打ち出して建言されている。しかしながら、その御本意は、一般学者がいうような、法華経28品を用いることはない。この安国論に予言された自界叛逆・他国侵逼の二難が的中したことを証拠として、日蓮大聖人の教えを受ける以外にないと申されているのである。
広宣流布こそ立正安国の実践
その時に、大聖人が教えてくださる正法、すなわち立正の正とは何か。これすなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである。
三大秘法抄にいわく、
「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021-03)
日蓮大聖人の説法の究極は、三大秘法にあるとの御断言であられる。ゆえに、安国論等で法華経を表に打ち出されているのは、一つには、権教である浄土宗を権実相対の立ち場から破折するために、実教である法華経を立てられたのである。もう一つは、同じく三大秘法抄に、
「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相.所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-05)
とあるごとく、三大秘法がこの法華経に秘されているがゆえである。
したがって、今、われら創価学会が一閻浮提の大御本尊に帰命し奉り、その住処を荘厳し、全世界へ化儀の広宣流布の戦いを進めていることは最も大聖人の御真意に叶った行動であると確信するのである。
治術の旨内外の間其の文幾多ぞや
およそ、三災七難を対治する方法を説いたものは、内道すなわち、仏法においても幾多の説があり、外道においては、さらに多くの諸説がある。
たとえば、早害等に対して、土地の沼や河川の主と称せられる蛇や竜神等に祈ることは、科学文明の発達した20世紀の昨今においても、少し田舎に行けば盛んに行われているところである。東京や大阪等の大都市において、近代建設の粋を集めたビルの屋上に、稲荷のホコラを祀り、社長以下社員が商売繁盛の祈願をするといった光景も、けっして珍しいことではない。その因って来るとこりは、宗教に対する、悲しむべき無智であることは論を俟たない。
これと逆に、そうした不合理な行為を排斥するあまり、大生命哲学にもとづく、創価学会の行動をも、迷信とか無智とかで片づけようとする人々も少なくない。このようにいう人々自体、宗教に対する無智ということにおいては、まったく同じである。
前者は宗教一般に対する無智であり、後者は日蓮大聖人の仏法に対する無智である。前者は宗教そのものを盲信しているのであり、後者は、宗教に関して自己が作り上げた幻影を盲信しているのである。おなじ無智と盲信が一方に肯定と表われ、一方は否定と表われたに過ぎないともいえる。前者は、多くの場合、一般民衆の哀れむべき実態であり、後者は、インテリと自称する人々の悲しむべき実相である。
科学万能主義の誤り
こうした宗教に無智な現代の人々が例外なく頼るところは科学である。一方で因縁をかつぎ、稲荷や蛇等に祈りを捧げる人々も、科学の成果に対しては、これも盲目的に受け入れる。宗教否定論者に至っては、なおさらである。現代人の科学に対する信頼は、冷静に見る人の眼には、恐らく狂信的と映るほどであろう。
風邪薬、栄養剤、ビタミン剤、目薬等の洪水は、この現代人の異常心理を如実に物語っている。薬さえ飲めば、ピタリと咳がやんで熱が下がる。疲労は一挙に吹き飛んで、モリモリと元気が出てくる。目がすっきりと美しく澄み、新聞広告の窓からニッコリ微笑んでいる女優のような目になるだろう。 等。その奥底には、現代科学に対する盲目的な信仰があるのである。
同様のことは、早害や水害、冷害、台風等の天災についてもいえる。世界第一の大都市である東京で、水源地が干上がり、井戸は涸れ、都民は洗濯もできず、飲料水さえ思うに任せない事態になった。都民は一斉に都政の愚を突き、天災にあらず人災であると不満をもらした。果たして、人工降雨や海水を真水に変えてはどうか、などの議論さえ盛んに行なわれた。これも、科学に対する信頼がいかに全幅的なものであるかを物語っているといえよう。
確かに、科学に頼ることは結構である。また、こうして災難を未然に防ぎ、被害を最小限に止め、民衆の苦難を減らすために、科学の働き得る分野は、無制限に残っている。したがって、科学を一層、急速に発達させ、未開拓の分野を一つ一つ征服していくことは大切である。
だが、そうなる時を待つのみであっては、現実の民衆の苦しみを解決したことにはならない。10年、20年、100年後は、科学がそのような力をもつようになるかもしれない。また、そのような力をもつことを期待する。だが、それよりも大事なことは今である。未来に期するがゆえに、現在を犠牲にしてよいという法はない。止むを得ないということはあろう。だが、現時点で尽くせる方法があるのならば、それを用いるのが、賢明な指導者である。
いわんや、科学の発達には、そのプラスの面と共にマイナス面があることも事実である。
また、ある書は、語る。
戦後20年、農薬の発達と普及とによって日本の農業、特に稲作技術は一変した。1960年代の日本農業からは、凶作という文字が消えたといっても過言ではない。異常低温や台風があっても、米の収穫高は平年並みである。米に関する限り、日本は万年豊作の国になった。
農薬はウンカのような害虫を殺し、イモチのような病気を防いでくれるばかりか、雑草も絶やしてくれた。農民は真夏に腰を曲げ草取りの重労働から解放された。日本じゅうの田んぼを、農薬へヘリコプターが飛び回っている。その効用は、どれだけの形容詞を使っても使い過ぎるものではない。
だが人々がその「効」だけを見つめているとき、その裏側の「罪」がしのびよってきていた。
昆虫がいなくなったため、受粉できないリンゴの花が、色あせても枯れずに残っていく。やっと見つけたドジョウやフナは奇形だった。飛び出したまま帰ってこない働き蜂と、卵を生めない女王蜂。もだえ死んでいく雌牛。農薬に汚染されている桑を食べたカイコが、酔ったようにはい回り、口から濁った汁を吐き出し、やがて、身体が収縮して死んでしまう。
こうした農薬の恐怖は、人間にも及んでいる。イモチの特効薬である有機水銀が、稲に少しずつ定着し、それを食べた人間の体内に貯まって“第二の原爆病”を生むかもしれない、といわれている。
これは、農薬という、きわめて一小部分の科学が生んだ明暗の二面である。原子力の開発がもたらした悲劇については、今さらいうまでもない。この暗黒面の解消については、政治と科学とが坦っている重荷といえる。将来、真剣な検討と、綿密な研究とが要求される問題である。
だが、ここにまた、もう一つの問題がる。それは、複雑、微妙であり、しかも、恐るべきことである。すなわち、こうした「罪」の面については、多くの具眼の士が早くから注目し、事実を挙げて警告しているにもかかわらず、問題が一般大衆の口にのせられるほど重大な事態になるまで、ほとんど顧みられないということである。
ある問題については、何百人もの人が死んだり廃人になったりして、ジャーナリズムに取り上げられるようになって、初めて真剣に検討されるようになった。ある問題にいたっては、まったく顧みられず、それを世論に訴えようとした良識派は脅迫され、犠牲者は泣き寝入りをしなければならなかったということさえある。
そこで、浮かび上がってくるのは、たとえば、農薬の例について見ると、ある種類の農薬を作るために、ある大会社は莫大な資金を注いで整備を整え、原料産地とも長期の契約を結んで量産体制している。その販売ルートについても、農業協同組合等と手を組んで、恒久的な体制を築いている。
もしも、その薬の有害面から、研究しなおし、大幅に作りかえなければならないとすれば、研究資金もかかる。施設の手直しもしなければならない。消費者に対する啓蒙も、大幅な手間がかかる。現料産地との契約も変えなければならない。販売ルートには信用失墜である。第一、有害と認めた以上、即時に生産を停止しなければならないし、おれから新製品の量産にはいるまで、どうやって経営を維持していくのか。
求められる新しい理念と指導者
しかも、この会社は、与党の保守政治家に莫大な資金を献金しており、その利害はそのまま、有力政治家たちの懐に影響してくる。少なくとも現在の日本においては、そうしたつながりが、政界と財界の間につくられている。したがって、一般農民に対して害を及ぼすことがわかっていても、政治的な圧力で良識の声は封じられ、現存の体制が維持されようとするのは、必然の理である。
われわれは、ここに、現代政治機構の複雑かつ微妙な裏面を覗き見るとともに、人間生命の汚濁した奥底を知ることができるのである。日本の民衆は、封建時代の昔から「知らしむべからず、依らしむべし」の原則で為政者によって扱われ、「見ざる・聞かざる・言わざる」の態度を強いられてきた。その生活は、いっさいの楽しみやぜいたくは厳禁され、「百姓は生かすべからず、殺すべからず」とさえいわれる。非人間的な生活に馴らされてきたのである。
日本の為政者の民衆に臨む態度の底辺には、こうした古くからしみついたものがあることも、かなしむべきことである。否定できない事実である。この無慈悲な指導者を追放して、慈悲の政治を実現する以外に、民衆の幸福はない。民衆が目覚め、古い絆を断ち切って、政治に対する無智と無関心を打ち破り、自己の理想へ希望をもって戦うようにならなければならない。
また、そうした民衆の中から、民衆の苦しみを知り、民衆を愛し、民衆のために戦う、新しい指導者が出現して、政界に出なければならない。
この民衆と指導者の自覚と奮起のためには、何が必要か。生命を躍動させ、情熱を燃え上がらせる、新しい理念が必要である。個人と社会に関する、力強い哲学が必要である。大衆が心を一つにして団結し、その同じ目的のために力を有効に発揮させていく、指導者が必要である。かつ、科学に対する盲信から現代人を目覚めさせ、科学のみならず現代機械文明の環境の中に自我を見失った現代人に、真の自我を確立させる、根本的なヒューマニズムが必要である。
この一切の要求に応える唯一のものこそ、日蓮大聖人の色心不二の大生命哲学げあり、創価学会の基本理念であり、仏法哲学の実践による人間革命である。
過去千数百年にわたって、日本民族の、こうした力強い自覚を隠滅し、無智と無気力におとしいれてきた張本人こそ、浄土宗をはじめとする邪悪な仏教の僧侶たちである。正しい仏法が人間の心を、浄らかで、強く明るくするのに対して、邪な教えは、濁らせ、弱々しくし、理性の眼を閉じさせてしまう。
このゆえに、民族の生命力は衰え、独創性は消え、分明は沈滞する。思想は陰険となって狭い国土で、骨肉相食み、動物にも劣る醜態を繰り返していく。この正報が依報に反映し、三災七難を呼び起こすことは既に論じたとおりである。したがって「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と申されているのである。 三災七難を消し止めるには、どうすればよいのかとの前章の客の問いに答えて、本章からその方法を説き出されるのである。
0027:04~0027:12 第三章 涅槃経を引き謗法訶責を説くtop
| 04 即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切に施さば皆讃歎す可し、 純陀問うて言く云何なるをか 05 名けて唯除一人と為す、 仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、 純陀復た言く、我今未だ解せず唯願く 06 ば之を説きたまえ、 仏純陀に語つて言く、 破戒とは謂く一闡提なり其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく 07 大果報を獲ん、 純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義何ん、仏言わく、純陀若し比丘及び比丘尼・優婆塞・ 08 優婆夷有つてソ悪の言を発し 正法を誹謗し是の重業を造つて永く改悔せず心に懺悔無らん、 是くの如き等の人を 09 名けて一闡提の道に趣向すと為す、 若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて 是くの如き重事を犯すと知れども而 10 も心に初めより怖畏懺悔無く肯て発露せず 彼の正法に於て永く護惜建立の心無く 毀呰・軽賎して言に過咎多から 11 ん、 是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、 唯此くの如き一闡提の輩を除いて其の余に施さば一切 12 讃歎せん」と。 -----― 涅槃経にはこうある。「仏が仰せになった。『ただ一人だけを除いてその他のあらゆる者への布施は、皆、讃嘆するがよい』 純陀が問うて言う『どのようなものを、ただ一人だけを除くとされるのですか』 仏が仰せになる。『この経の中に説いている破戒の者のことである』 純陀がまた言う。『私は今まだ理解できません。お願いします。お説きください』 仏は純陀に語って仰せになる。『破戒とは、一闡堤のことである。その他あらゆる一切の者への布施は、皆、讃嘆するがよい。そうすれば、大きな果報を得るだろう』 純陀がまた問う『一闡堤とは、どういう意味ですか』 仏が仰せになる『純陀よ、もし在家・出家の男女がいて、口汚い言葉を発し、正法を誹謗し、この重い悪業を造っていつまでたっても反省せず、心の中に恥ずかしく思う気持ちがないなら、このような人を一闡堤の道に趣く者というのである。 もし四重禁戒を犯し五逆罪を作り、このような重大な誤りを犯したことは間違いないと自分自身知りながら、初めから畏怖や懺悔の心が無く、決して告白せず、自分が謗った正法に対して守り確立しようとする心がいつまでたっても無く、そしったり軽んじたり発言することで多くの罪を犯すなら、このような人を一闡堤の道に趣く者というのである。 このような一闡堤の輩だけを除いてその他の人に布施をするなら、一切の人が讃嘆するだろう』と」 。 |
純陀
准陀・周那ともいう。訳して妙義。中インドの拘尸那城・跋提河のほとり沙羅双樹林に住んでいた金工で、釈尊が入滅するとき最後の供養を捧げ、涅槃経の対告衆となった。
―――
破戒
戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである
―――
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦、一闡底柯とも書く。断善根、信不具足、焼種、極悪、不信等の意で、正法を信じないで誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない者のこと。涅槃経一切大衆所問品第十七には「麁悪言を発して正法を誹謗し、この重業を造り永く改悔せず、心に懺悔無くば、是の如き等の人を、名づけて一闡提の道に趣向すと為す。もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定んで是の如き重罪を犯すを知りつつ、しかも心にすべて怖畏・慙愧無く、肯て発露せず。仏の正法において、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して、言に過咎多き、是の如き等の人も、また一闡提の道に趣向すと名づく」とある。
―――
麤悪の言
麤は荒い・事実の正しい認識にもとづいていない、との意。悪は憎悪・悪感情。合わせて偏見・邪見による悪口・雑言。
―――
改悔
悔い改めること。改心悔解の意。
―――
懺悔
過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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四重
四衆のうち、比丘の極重罪のことで、十悪業のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語の四つをいう。また四重禁戒といって、一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不邪淫戒、四に不妄語戒で、これを犯せば教団を放逐される。出家としての最重罪である。
怖畏懺悔
怖れ、謹んで懺悔すること。
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肯て発露せず
心の中では、怖畏懺悔する気持ちはあっても、いっこうにすなおにしようという気持ちを起こさず、表面にも出さず、さらに悪業を重ねること。
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護惜建立
正法を護り、惜しみ、これを建立して令法久住せしめること。
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毀呰
悪口をいうこと。
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軽賎
軽んじ、賤しむこと。
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過咎
過ち・間違い・とが。
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天下安泰・国土安穏は冶術か、謗法の人を禁しめて正道の侶を重んずることであることを明かすに先立って、謗法の人、一閻浮提の人とはいかなる者なのか、また、釈尊は一闡提人をどのように処せよと教えられているのかを、涅槃経を引いて明かされるのである。
すなわち、涅槃経によれば、一闡提人とは「僧尼男女を問わず、麤悪の言を発し、正法を誹謗し、無間地獄に堕ちる重罪を犯しながら、永く悔い改めず、心に懺悔のない人」であり、「四重・五逆を犯し、その罪を自ら知りながら怖れる心もなく、懺悔もなく、正法を護持しようという心もなく、かえってこれを誹謗するような人」である。
しかして、今末法において、正法とは、日蓮大聖人御建立の三大秘法の大御本尊である。されば今日において正法を破る一闡提人とは総じて大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝さぬ者、またいっさいの邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。なかんずく、正法を毀謗してやまず、一切衆生を不幸のどん底に追いやる各宗派の悪侶こそ、まさしく一闡提中の一闡提であり、涅槃経の指摘する一闡提とは、別してこれを指すのである。
破戒とは謂く一闡提
破戒とは、戒を破る者をいう。戒とは戒めで、外道においては、教祖や、その後継者の立てた各種各様の戒がある。島崎藤村の小説「破戒」が、父の戒を破るという内容であることは周知のとおりである。キリスト教、ユダヤ教ではモーゼの十戒、バラモン教ではヴェーダに記された各種の戒、儒教では孔子の論語、道教では老子、荘子の述作にそれぞれ戒が説かれている。
経により異なる仏教の戒律
仏教について戒を見ると、小乗教・権大乗教・実大乗教と、経門の浅深、仏の境涯の高下によって、その意味する実体も違いがある。
仏教における戒とは、天台大師の菩薩戒疏にいわく。
「戸羅ここに翻じて戒となす。戒とは何の義があるか、義は警に訓ずるなり、三業を警策し、縁の非を離れて、その因を明らかにするによるなり。古の所伝の如きは、防非禁悪、以って戒と解す。然るに戒は善悪に通ず、律義また然なり。普ねく挙げて以って戒の義を釈すべからざるも、経論の如きは、多く善戒に従う。義に約して名を得たり」と。
「善悪に通ず」とは、たとえばヤクザの世界にはヤクザの掟がある等の意である。今、仏法においては「非を防ぎ悪を止める」との本来の意義をとって、戒を防非止悪と釈するのである。しかして、これを受持すれば、煩悩業苦の因を離れ、清涼の果を得る故に清涼と訳し、悪を禁じ非を防ぐ故に禁と釈し、悪を止め善を得る故に止得と訳し、好んで善道を行じ、自ら放逸に流れないが故に性善とも釈すのである。
釈尊の教えの中で、小乗教は戒を中心としたものである。従って、小乗戒は最も数が多く煩雑でもある。なぜ釈尊が戒を重んじたかについて、その背後には、当時のインドの一般民衆の風潮を考えなければならない。即ち、当時のインドでは、享楽主義の傾向が強く、何よりもこの風潮を打ち破る必要があったのである。
その内容は、俗男俗女に対する五戒・八斎戒、出家のために十戒、また具足戒といって比丘に250戒・比丘尼に500戒、さらに3,000の威儀、80,000の細行等である。
これに対して、大乗教では、民衆の済度のために勇猛精進する実践修行が中心となり、小乗の戒は、この実践の中に含まれていると説かれるのである。
内容としては、梵網経の十重禁戒と48軽戒、涅槃経の菩薩五種戒、事理二戒、軽重二種戒、十種戒、菩薩地持戒等の九種戒、大智度論の八律義戒、二種および三種戒、華厳経の八種戒と十種戒がある。また諸大乗教を通じて説かれている戒として三聚義戒がある。
三聚浄戒とは、一に摂律義戒といって、いっさいの律義を摂受する義である。律とは律法禁止、儀とは儀制軌範をいう。小乗の五戒・八斎戒・十戒・250戒・500戒はすべて、ここに含まれるのである。
二に、摂善法戒といって、菩薩が行ずる所の戒は、八万四千法門ならびにいっさいの善法を摂聚するのである。これによって、先の摂律義戒で身・口・意の所作の善の所作の善に加え、聞・思・修の三慧・六波羅蜜等、ことごとく無上菩提に回向することになる。
三に、摂衆生戒といって、菩薩の四弘誓願である。これによって、菩薩の慈・悲・喜・捨等の一切を摂するのである。
次に、法華経の戒には、一乗戒、三如来室衣座の戒、四安楽行の戒、普賢四種の戒の四つがある。一乗戒とは、法華経を受持することである。三如来室衣座の戒とは、大慈悲為室、柔和忍辱衣、諸法空為座で、衣座室の三軌ともいう。法師品に説かれている。普賢四種の戒とは、普賢品に「一には諸法に護念せられ、二には衆の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救う心を発するなり」とある。この四法を成就することをいう。
以上、釈迦仏法の各教法に説かれている戒を見てもわかるように、教法の内容が低いほど戒が煩多で厳しい。したがって、その戒を全うできる人は、階層的にも特殊化され、数の上でも極めて限定されてくるのである。むしろ、小乗の250戒、500戒にいたっては、完全に実行することはできないのが当然といって過言ではない。
教法が優れていれば優れているほど、煩雑な行法は枝葉末節となって比重が軽くなり、不必要となる。かえって、根本をかくす害悪ともなるのである。実践が簡略化すれば、それだけ、どのような立場の人であっても、修行することができる。すなわち、広範囲の衆生を救済することができるので、大乗というのである。
末法の戒は受持即持戒
さて、それでは、末法のおいては、何をもって戒とするのか。すなわち、受持即持戒といい、大御本尊を受持することに尽きるのである。
教行証御書にいわく、
「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず 是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)と。
御義口伝にいわく、
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり」(0744-02)と。
大学三郎殿御書にいわく「設い世間の諸戒之を破る者なりとも堅く大小・権実等の経を弁えば世間の破戒は仏法の持戒なり」(1205-12)と。
また四信五品抄にいわく、「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340-09)と。
上に挙げた諸文から、末法における戒は、ただ一つ、三大秘法の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることであることは明瞭である。初信の行者に対しては布施、持戒等の五波羅密を廃することである。このゆえに、無量義経では「末だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれているのである。
なお、ここで五波羅密を制止するというのは、般若波羅密は、以信代慧の信として、末法修行にも重要な位置を占めてるから、これを除いて五波羅密というのである。
末法においては、同じく四信五品抄に「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰かず可き」(034112)との伝教大師の言葉を引かれているように、持戒の者はありえない。また、不必要なのである。これを「末法無戒」という。
この末法無戒とは、題目さえ唱えていれば悪事を働いてもよいという意味ではない。南無妙法蓮華経の修行によって、自然に六波羅蜜の徳、もろもろの戒等が具わってくるのである。
三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」と已上、此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0569-16)と。
この文に己心とあるのは、われわれの信心の一心一念であり、仏身とは御本尊である。御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え奉り境智冥合することが、末法の観心である。受持即観心であり、また受持即持戒となるのである。
このように、末法においては、正法を受持することが持戒であるので、正法を受持せず、護惜建立の心なく誹謗する一闡提を破戒というのである。したがって、破戒とは、一往、信心しない人いっさいの人々に通ずるが、再往、一切衆生の善心を破り、不幸をもたらす邪宗教の輩こそ、破戒の中の破戒であることはいうまでもない。
其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん
一闡提以外のあらゆるいっさいの人々に布施するならば、皆その行いを讃歎するであろうし、また、その行ないによって大果報を得るであろうとの意である。
涅槃経のこの文は、布施をすることをすすめることに本意があるのではない。一闡提、謗法を排除することを教えるために説かれたことを知らなければならない。それによって、善良の人々が謗法、一闡提となって無間地獄に堕ちるのを防ごう、また、無間地獄に堕ちるべき業因をすでにつくっている謗法、一闡提人をも、悔い改めさせることによって、その罪を軽減させてやろうとの大慈悲であることもいうまでもない。
法の布施と財の布施
本来、布施には、財の布施と法の布施とがある。財の布施とは物品を与えることであり、法の布施とは、正法をもって衆生を救う行為であり、今われら創価学会が勇猛精進している折伏行がそれである。
末法の衆生は、貧・瞋・癡三毒熾盛の衆生であるとは、仏の予言である。正しくそのとおり、欲張りで、怒りっぽく、ひがみっぽく、愚かである。もし、こうした衆生を、財の布施のみで幸福にすることができると考えたならば、恐らく大変な失望を感ぜずにはいられなくなるであろう。
衣食住を満たしてやれば、次はラジオやテレビ、ゴルフセット等々、娯楽品がほしがるようになる。それが満たされると、男なら自動車や飛行機、女なら宝石や貴金属、毛皮のコート等々、恐らく、その欲望は際限なく広がっていくに違いない。そして、自分のもらったものと隣の人がもらったものを較べてみて、あるいは、ひがむ人も出てくるに違いない。恩を感ずるどころか、かえって与えてくれた人を恨み、怒る人も出てくるであろう。
これに似た事実は、われわれの日常生活で絶えず見受けられる。また、北欧諸国等の社会福祉政策の徹底している国で、民衆が無気力化しているという事実、この一点からも、唯物論的な幸福論や共産主義国家をめざす理想社会、資本主義諸国のいう“豊富な社会”が、いずれも、大きな錯覚の上に築かれた幻の城にすぎないことがわかるのである。
物の布施には限りがある。だが、法の布施には限りがない。大御本尊の信心を教えることにより、病気の人は健康体に、貧乏の人は金持ちに、精神的異常の人は正常になる。これは、本人が大御本尊に題目を唱え、折伏を行ずることによって境智冥合し、偉大な生命力と福運と智慧とを発揮することができるようになったからである。金や物を与えるのではなく、金や物を手に入れることができる力と智慧と福運が大御本尊を拝むことによって、つちかわれるのである。したがって、この大御本尊を人々に教えてあげること、すなわち折伏は最も偉大な布施行といえるのである。
而して、その折伏は、三世十方の仏みな讃嘆するのであり、行ずる人はみずから大果報を得る源泉であることを知るのである。
ここに一闡提の謗法の者に対する布施を禁じられたのは、物の布施であって法の布施ではない。むしろ一闡提人に対しては、物の布施を禁ずることが実は法の布施になるのである。それは一闡提の生命を断ち、不幸の原因を取り除くことになるからである。一闡提人に対しては強折することが、最高の法の布施であり、これは絶対になさねばならないのである。
懺悔について
一般に懺悔というと、キリスト教独特のもののように思っている人が多い。だが、本来の懺悔とは、仏法にあるのであって、キリスト教のそれは、もともとの「悔悛の秘蹟」といったのを、仏法に無智な人が懺悔と名づけたに過ぎない。
キリスト教の懺悔とは、カトリック教会で行っている秘蹟の一つである。その考え方は、まず彼らは入信する時の洗礼によって、その受洗者のすべての罪は赦されるとする。しかし、受洗後、罪に堕ちる者もある。この者たちの救いのために、いわゆる悔悛の秘蹟を行なう、というのである。
悔悛の秘蹟を授ける資格があるのは、司祭と司教で、これを受ける者は洗礼を受けた者に限る。そして、犯した罪に対して心から悔いて、司祭または司教の前で、それをいいあらわさなければならない。司祭、司教は告白者の罪の償いを命じ、赦免の言を与えるのである。
これは、実に奇妙なことといわざるをえない。司祭、司教といえども、過ち多き人間であることに変わりはないはずである。極端な例だが、ローマ法王庁に陰謀と野心と恐怖と堕落が渦巻いていたのは、その全盛時代に当たる数百年前のことではないか。司祭、司教が教会王国を形成して、農奴や商人を獄卒が囚人を扱うように苛責し、血をしぼり肉をもぎ取ったのも、やはり彼らの全盛を誇った中世ではないか。
一体、彼らに何の資格があって、人の犯した罪を赦したり、償いを命じたりすることができるのか。彼らこそ、その先輩が、民衆の父祖に対して行った虐待の罪に対し、赦しを乞うというほうが、まだしも筋が通っている。これは要するに、無智な民衆の罪悪感に乗じて、何の関係もない悪者が操ろうとする、詐欺にほかならない。これが、キリスト教の懺悔の実体である。
それでは、真実の懺悔、仏法の懺悔とは、どのようなものか。法華経の結経である普賢経にいわく、
「一切の業障海は、皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と。
実相とは、生命の本質、宇宙の極理であり、南無妙法蓮華経である。この大法を日蓮大聖人は一閻浮提総与の大御本尊として、御図顕あそばされたのである。すなわち、経文の心は、いかなる罪の人も大御本尊に向かって端坐し、真剣に題目を唱えるならば、罪は太陽が霜や露を消すようにことごとく消える、との意である。これを大荘厳懺悔というのである。
上の普賢経の文について、御義口伝には、次のように説かれている。
「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり」(0786-第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事)
すなわち、法に約して南無妙法蓮華経、人に約して日蓮大聖人、その人法一箇の大御本尊こそ、一切衆生の業障を消滅する慧日なりとの御金言である。
また、これに加えて、同経には刹利、居士すなわち民衆の指導者として行うべき五種の懺悔の法を説いている。
第一は、 三宝を謗ぜず、正法を行ずる者に留難をなさず、大乗を持つ者を供養、尊重し、自らは甚深の教法、第一義空即ち、南無妙法蓮華経を心に念ずることでる。
第二は、 父母に孝養し、師長を恭敬すること。
第三は、 正法をもって国を治め、人民を邪枉しないこと。
第四は、 六斉日には、力の及ぶ限り不殺を行ぜしめる。
第五は、 深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅し給わずと知ること。
である。
御義口伝にいわく、
「末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」(0786-第五正法治国不邪枉人民の事)と。
すなわち、日蓮大聖人の大生命哲学をもって、民衆を、今世はもとより、未来永劫にわたって、平和世界に住せしめることができるのである。
0027:13~0028:03 第四章 仙予国王の謗法断絶を示すtop
| 13 又云く「我れ往昔を念うに閻浮提に於て大国の王と作れり名を仙予と曰いき、 大乗経典を愛念し敬重し其の心 14 純善にソ悪嫉リン有ること無し、 善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず婆羅門の方等を誹謗するを聞き聞き已つ 15 て即時に其の命根を断ず、 善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と、 又云く「如来昔国王と為りて菩 16 薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す」と、 又云く「殺に三有り謂く下中上なり、 下とは蟻子乃至一切の 17 畜生なり唯だ菩薩の示現生の者を除く、 下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く、 何を以 18 ての故に是の諸の畜生に微善根有り 是の故に殺す者は具に罪報を受く、中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是 0028 01 を名けて中と為す、 是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支 02 仏・畢定の菩薩なり阿鼻大地獄の中に堕す、 善男子若し能く一闡提を殺すこと有らん者は 則ち此の三種の殺の中 03 に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。 -----― また涅槃経にはこうある。 「過去世の昔を思い浮かべると、釈尊は閻浮提で大国の王であり、仙予という名であった。大乗経典を大切に思って敬い、その心は全く善良であり、粗暴なところや嫉妬・物惜しみなどはなかった。 我が弟子よ、私はその時、大乗を重んじていた。バラモンが大乗経典を誹謗したのを聞き、聞き終わってそのままただちにバラモンの命を断った。 我が弟子よ、これによって、それからずっと、わたしは地獄に堕ちることはなかった」 またこうある。「私は、昔、国王となって菩薩の修行を行っていた時、多くのバラモンの命を断った」 またこうある。「殺生には三種ある。下殺と中殺と上殺である。 下殺の『下』とは、蟻をはじめ一切の動物のことである。ただし、菩薩の示現生の者だけは除く。下殺の原因として地獄・畜生・餓鬼の三悪道に堕ちて、下の苦を一つ残らず受ける。 なぜか。この殺された動物にも善根が少しだけでもあるからである。このために、殺した者はその罪の報いを一つ残らず受けるのである。 中殺とは、凡夫から阿那含の位までの人を、『中』と名づける。この悪業のために地獄・畜生・餓鬼に堕ちて、中の苦を一つ残らず受ける。 上殺の『上』とは、父母をはじめとして阿羅漢・縁覚・不退の位の菩薩までの人のことである。無間地獄という大地獄の中に堕ちる。 我が弟子よ。もし一闡堤を殺すことがあっても、その場合はこの三種の殺の中に当てはまることはなく悪道に堕ちることはない。 我が弟子よ、あの過去世で殺したバラモンなどは、すべて皆、一闡堤であったのだ」以上。 |
嫉恡
嫉はねたみ、恡は悋の俗字で物惜しみすること。
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婆羅門
インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
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菩薩の示現生
菩薩が衆生救済度のために、誓願して畜生の姿でこの世に生まれているもの。すなわち、畜生に生まれ、人間に食べられることによって縁を結び、その人間を救うために動物の姿を取るというのである。その例として、釈尊が昔、飢饉の世に赤目の大魚となって五人の大工に食べられたが、それによって縁を結んだのが成道後、最初に教化した阿若憍陳如・頞鞞・跋提・十力迦葉・拘利太子の五人であったというのである。これは殺しても罪にならないという意。
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微善根
畜生といえども微小の善根がある。
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阿那含
梵語で(Anāgāmin)で小乗教における声聞の悟り、第一須陀洹、第二斯陀含、第三阿那含、第四阿羅漢の第三、「阿」は「不」・「那含」は「来」の意味で、訳して不来、不還という。この聖者は欲界九品の惑を断じて、ふたたび欲界に還ってこないのでこのように名づける。大乗義章第11に「阿那含はここに不還と名でく、小乗法の中にさらに欲界に還りて身を受けず、阿那含と名づく」とある。
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辟支仏
梵語プラティエーカ・ブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。辟支迦羅とも書き、独覚・縁覚・因縁覚と訳す。旧訳では縁覚と訳す。これは、一つには十二因縁の理を観じて、修行覚道するゆえに名づけ、一つには飛花落葉の外緑によるによって悟るという。新訳では独覚というのは無仏の世において、あるいは十二因縁の理を観じ、また、飛花落葉等の外縁を観じて、独りみずから悟るゆえに、このように呼称する。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し」(0433-07)とある。
―――
畢定の菩薩
修行が畢って行位不退に安住している大菩薩である。畢定とは、畢竟決定の意で、不退ということである。十法界妙因果抄には「凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云う、然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し十劫を経て不退の位に入り永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う未だ仏に成らず還つて六道に入れども苦無きなり」(0434-12)と述べられている。但し、ここでいう畢定とはあくまで信位不退ということで、念不退の初住の菩薩以上は除く。なぜなら、初住の菩薩以上は、一分の菩薩であって殺害することはできないからである。
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謗法の者を対治せよと仰せられる裏づけとして、たとえ殺しても仏法上の罪は受けないことを涅槃経の文を引いて証明されるのである。謗法がいかに憎むべきものであるか。その流す害毒がどれほど大きいか、この一事をもってしても瞭然たるものがあるではないか。
およそ、この経文は、仏法を暖かい慈愛の教えにしか知らない現代人にとっては、驚天動地の説法であろう。「これが、あのお釈迦さまの言ったことだろうか」と耳を疑う人もいるかもしれない。そのような人は、まず、自己がこれまで持っていた仏法観が、まったく皮相的であったことを知るべきである。そして、仏のもつ深遠な哲理、力強い指導性を、心を謙虚にして求めるべきである。
すでに、多くの経文を引いて、繰り返し論じられてきたように、三災七難の根本原因は、この社会に、邪法、邪宗がひろまっていることにある。飢饉・疫病・戦乱・水害・早害・冷害等々の天災や人災によって、死んでいった人々の数は、測り知ることすらできない。
すなわち、これらの人命を奪い、民衆の生命力を衰えさせ、国土を荒廃させた張本人こそ、謗法、一闡提の僧たちなのである。彼らは魔物以外の何ものでもない。しからば、魔物を対冶して、人々が安心して生活していける社会にしていくことは為政者の義務である。この道理から、謗法の命を断ぜよと仰せられているのは当然といえるのである。
法蓮抄には、この安国論の要点を、みずから次のように示されている。
「彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云」(1053-05)
また、撰時抄にいわく、
「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(0287-11)
上の御文に拝されるように、日蓮大聖人自身も、涅槃経の文によって「邪宗の者どもの頸を切れ」と叫ばれたのである。これひとえに謗法を憎むゆえであって、人殺しを承認されているのではない。仏の慈悲は、母の慈愛ではない。父の厳愛に譬えられる。一切衆生を慈愛するからこそ、悪に対しては厳格である。
ゆえに、この後の文で「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」と申されているのである。日寛上人は「頸を斬れ」とは対治悉檀、「施を止めよ」は為人悉檀に約すと教えられている。すなわち、謗法の心を断ち切り、謗法の行為を殺せとの意である。
今、われら創価学会員が、既成宗教各派、新興宗教の輩を、堂々たる折伏戦、言論戦をもって責め、彼らの邪義・邪法を完膚なきまでに打ち破るのは「頸を斬れ」とのお心に応えることになるのである。また、彼らに迷わされて、檀信徒、会員となっている民衆を、正義に目覚めさせて、邪宗教から離れさせているのは「施を止む」に叶う行為といえよう。
生命の尊厳
生命の尊厳を余すところなく説ききった哲学は仏法以外にない。仏法こそ最高唯一の生命哲学である。
およそ、人間生命について、人は古来、おのおのの立場から、さまざまに考えてきた。だが、それらは、単に表面のみを見た皮相的なものであり、かつ、部分観である。したがって、実に千差万別である。ここでは、一応、性善説と性悪説とに分けて考えてみよう。
まず、性善性に属するものに、孟子がある。彼いわく「人性の善なるや、なお水の下に就くが如きなり」と。すなわち、人の性は水が高きより低きに流れるごとく、自然に向かうもなだというのである。書経にいわく「人は万物の霊」と。すなわち、人間は生まれつき性善であるというのが、性善説の主張である。
これとまったく反対に、人間は本来、悪の性分であるというのが性悪説である。荀子のいわく「人の性は悪、その善なる者は偽りなり。古の聖王、人の性悪なるをもって、これが為に礼儀を起し、法度を制し、もって人の惰性を矯飾してこれを正す」と。すなわち、性悪なるがゆえに、礼、法が必要だというのである。
過去の思想をみるに、一般に洋の東西を問わず、性善説より性悪説の方が優勢であったようである。アメリカのプラグマティズムの創始者、ジェームズも、性悪論者の一人である。いわく「生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族を組織的に餌食にする唯一の猛獣である」と。この言葉は、戦争の残酷さ、愚かさ、ヒトラーやスターリンの行った大量虐殺等を思い合わせてみると、首肯せざるをえない真理を含んでいるともいえる。
また、こうした、互いに相反する性善・性悪両説の中庸をとって、本来、両面があるのだとする考え方も古くからある。たとえば、中国の楊雄が「人の性は善悪混ず、其の善を修むれば善人となり、其の悪を修むれば悪人となる」といい、ヨーロッパではアウグステイヌスが「神は人間を、その本質が天使と獣類との中間に存するものとして作り給えり」というのが、それである。
今、結論的にいって、両面説が真実に近づいていることはいうまでもなかろう。但し、それが、どうしてそうなのかを、生命の奥底から解明するには、仏法の十界論、一念三千論に求める以外にはない。治病大小権実違目に大聖人は、次のように説かれている。
「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は 善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-06)と。
また、三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」(0563-10)と。
ここに善といい悪というも、生命の本体と外界との関係性の問題であり、善悪一如なるところが、生命の実相であると明かされている。今の下にいわく「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり 此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり」(0563-17)と。
生命の尊厳というも正しい生命観に立った上での生命尊重でなければ、生命尊重といっても、所詮は空理空論である。
性善説に立つ人も、性悪説を唱える人も、およそ狂人でもない限り、生命の尊厳については必ず認める。それは本能的な生存意識から出てくるものともいえる。しかしながら、生命を惜しむことが心の奥底にはそれを感じながら、封建的な道義感や騎士道精神が優先して、むしろ卑怯とされる傾向も少なくなった。
ヨーロッパ哲学において、人間生命の尊厳こそ価値の実体であることを明言したのは、ドイツの哲人カントであった。すなわちいわく「人間は単なる手段でなく目的であり、世界の内なる一切のものは、それ自身の価値をもたないが、ひとり人間のみは人格として価値をもつ。この人格の内なる人間性を尊重するという価値感情が尊厳である」と。
これは価値哲学の立場から、生命の尊厳なる所以を説いた言葉である。その意味では、従来の漠然たる尊厳論より一歩進んだものといえる。
いっさいの人間の活動は、いいかえれば、その生命の働きである。しかして、その活動の成果が、生命の幸福増進に帰着することが、万人共通の願いである。人間の生命、またその活動が国家のため、政治、経済等の機構のため、機械等の物質のために犠牲にされることは不幸というほかない。いわんや、人間の叡智、努力が、人類を破滅させるために費やされるとすれは、これは最大の悲劇である。
われわれは、あくまでも生命尊厳をすべてに優先し、一切の思想、行動の根幹としていかなければならない。また、そのような世界にしていかなければ、人類の幸福、平和もありえないであろう。
しかるに現実は、現代ほど人間性が危機にさらされた時代はかってない。ヒューマニズムという思想は古代からあった。しかるに、人類はこの思想を一度として確立したことはないのである。どうしてそうなのか、これを知るためには生命尊厳の思想が、どのように移り変わってきたかを、振り返ってみる必要がある。人間生命の尊厳を守るという時、いったい、何に対してか、いかなる事態からか、ということを明らかにしなければならない。
真のヒューマニズムの確立
人間生命を何よりも尊重すべきであるという考え方をヒューマニズムという。これは美しい言葉である。だが、問題は二人の人間、二つの階級、二つの民族が不俱戴天の敵同士になったとき、そのヒューマニズムは何に対してのヒューマニズムになるかである。
古代ギリシァでヒューマニズムが叫ばれた時、それは多くの奴隷たちを度外視したものであった。否、婦人たちさえも、このヒューマニズムの対象から除かれていたのである。
ヨーロッパ中世においても同様である。それは、特権的な貴族たちだけのヒューマニズムであったり、ブルジョアだけのものであった。この下にうごめく、かれらの衣食住を作っている民衆は、まったく存在を考慮されてはいなかった。近世、近代における民衆もしかりである。
マルクスがプロレタリアートの団結を叫び革命を呼号したのも、所詮は、この虐げられ、無視された人々のヒューマニティーのためであった。だがプロレタリア独裁への革命を叫ぶ彼の思想は、旧来の支配階層の人々のヒューマニティー、革命体制に反対する人々のヒューマニティーを必然的に無視せざるをえなかった。
一部の人のみヒューマニズム、他を犠牲にしてもかまわぬという思想は、これを極限に押しすすめた時、ドイツ民族を至高とし、スラブ民族をそれに仕える奴僕とし、ユダヤ民族は虐殺せよと説いたナチズムとなる。
また、白人のみのヒューマニズムが、黒人虐待、有色人種蔑視として、今も幾多の惨事を惹起していることは、周知のとおりである。南アフリカのアパルトヘイト、アメリカの黒人問題、ソ連における黒人留学生冷遇事件等、数え挙げれば際限がない。
人類数千年の歴史は、まさに異なる民族同士の相克の歴史であり、異なる階級同士の闘争の歴史である。民族と民族、階級と階級とがおのおの異なっても、相手の人格を認め尊重し合い、それぞれ特性を生かして平和に暮らしていける日は、いつくるのであろうか。否、いかにすれば実現できるであろうか。
われわれは、人間の人間に対する、こうした幾多の考え方の実相を見た時、その根底にはなんらの哲学、理論もないことに気づく。何をもって人間生命を尊しとするか。生命とはいったい何か、等の問題については誰人も末だ明快な解答を出していない。ただ漠然とした気持ちの上に立ってヒューマニズムが云々されているに過ぎない。
それはあたかも根のない木であり、土台のない家であり、生命のない大理石の像であり、エンジンのない自動車のごときである。見た目は美しくも生命がなく、人々の争いを解消する力もなく、いったん、国際情勢の急変によって戦争が始まるか、あるいは独裁者が出現してテロを使い始めるような事態にもならば、忽ちにして吹き飛んでしまう、はかない存在である。
今、世界の人類は、人間の尊厳が脅かされている未曾有の危機に直面している。機械文明の発達による人間疎外、人類32億を一瞬に抹殺してしまう原水爆戦争等、これらは過去のいかなる時代にもなかった現象である。国家と国家、民族と民族、階級と階級とが互いに分かれて争っている間に、その勝者も敗者も共に絶滅してしまう恐るべき敵が迫ってきているのだ。しかも、それは人間がみずからの手で作り出したものなのである。
したがって、世界平和こそ、人類が直面している最大の課題であり、他の何ものにもまして守らなければならないのは、人間生命であるとの思想が確立されなければならない。
仏法の中に説かれている尊厳論
しかるに、人類の叡智といわれる人々が、今なしていることは何か。国連総会、軍縮協定、核実験停止条約、平和アピール等々である。言葉は美しいが、いざ行動となると、その根底には、自国の利益があり、思想の対立があり、民族的偏見が相変わらず拭い去られてはいない。その対立が、新しい紛争を惹起し、憎悪のもつれ合いを深めている。
われらは、生命の尊厳を、本格的に自覚する道は、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の生命哲学による以外にないことを、全世界の民衆に、指導者に、訴えてやまない。この自覚に立ったならば、国家的利益も、思想の対立も民族的偏見も、高山から沼沢を見下すがごとく明らかとなり、こうしたものに捉われて、いたずらに争いや対立を繰り返すことの愚が、はっきりと自覚できるのである。
日蓮大聖人の白米一俵御書にいわく、
「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり」(1596-04)と。
三千界、三千大千世界とは、古代インドの宇宙観の一つである。現代の天文学的知識をもって考えるならば、銀河系宇宙に相当する。地球一個に含まれているあらゆる宝、富といえども、一個の人間の命には代えられないとの意である。これはどの人間生命の尊厳を説ききった哲学・宗教・思想が他のどこにあろうか。
だが、この尊厳論に較べて、現実の人間はあまりにも弱く、あまりにも惨めである。戦時中の日本では、立った一枚の徴兵礼状で、生命を捨てなければならなかった。今も、多くの国で、それは現実問題として、存在している。その他、飢えて死んでいく人、病気に倒れて死ぬ人、ふとした手違いで死んでいく人、憎まれ殺される人、わずかの金を奪われて死んでいく人、災害で死んでいく人等々、これでは、仏法が説く尊厳を、いったい誰が保障してくれるのか。仏法が説くところは、現実離れしているのではないか、という疑問が湧いてくる。
だが「仏語実不虚」仏の言葉は真実にして誤りなしと、仏みずからが断言されている。そして、その尊厳を、単なる観念論ではなく、事実の上に確立していく方法として、仏道修行を教えられているのである。この仏道修行を全うして、目的である仏界の生命を湧現した時に初めて、この尊厳が、単に頭の中で描いて言葉で表現したものではなく、自己の生命力、充実感、外界に対処する力と智慧として実証される。すなわち、永遠の生命観、宇宙即我の境涯を実感し、一念三千の法理を悟った時に、わが生命は、常楽我浄の人生を生ききっていくことができるのである。
およそ、自己という存在を価値のあるものに高めていく責任は、所詮、自己自身が負っている。もとより、世間では、生まれつきの家柄や身分、周囲の人とのつながり等が左右することもあろう。しかし、それは、その人の本質的なものに関係するのではなく、表面だけのことに過ぎない。いっさいの飾りを取り去った後に残る真の自分は、やはり自分の責任である。
科学者は、科学者として研究と実験と思索を重ねていかなければ、立派な科学者になることはできない。事業家しかり、政治家しかり、技術者しかり、教育者しかり。しかして、それらはすべてに共通な人間としての力、人間としての価値、人間としての尊厳、その向上、教育、鍛錬の最高唯一の道こそ、仏法の修行、信行学に励むことである。
すなわち、日蓮大聖人の教えを信じ、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を信じ、東洋仏法の真髄、色心不二の大生命哲学を学びきっていく以外にない。また、その御遺命を奉じ、化儀の広宣流布達成へ、不惜身命の戦いをなしきっていくことが、自己の人間完成、一生成仏への大道である。
されば、これを妨げんとする者は、人類にとって最大の敵であり、最も憎むべき魔物なりと断じて、何の言い過ぎであろうか。
涅槃経にいわく、
「菩薩摩訶薩、悪象等において心に怖畏すること無く、悪知識においては怖畏の心を生ぜよ、何をもってのゆえに、この悪象等は唯よく身を破りて心を壊る能わず、悪知識は二倶に壊るゆえに、この悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。この悪象等は唯よく不浄の臭き身を破壊す、悪知識はよく浄身および浄心を壊る。この悪象等はよく肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る、この悪象等は但身の怨となり、悪知識は善法の怨とならん、このゆえに菩薩、常にもろもろの悪知識を遠離すべし」と。
悪象とは、凶悪で、手に負えない力がある、最も恐ろしい野獣として、インド人が恐れたものである。現代人に当てはめれば、近代兵器、核爆弾等に譬えられようか。それよりも恐るべきは悪知識、すなわち、邪法邪義によって民衆を導き、無間地獄に突き落とす謗法の僧等である。
ゆえに、これらの謗法の僧を憎み、彼らを追放し、善良なる民衆を天魔波旬の凶手から守ることは、最も偉大なヒューマニズム運動といえるのである。
是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず
釈尊が過去、仙予国王として、菩薩の道を行じていた時、婆羅門が正法を誹謗するのを聞いて、即座にその命を断った。この正法を護惜建立する心によって、以来、地獄に堕ちないという善根を作ったのである。
次に引かれている経文のように仏法上、殺生の罪に三種の別がある。下殺とは蟻の子から牛や豚、猛獣にいたるいっさいの畜生を殺す罪である。これらにも、微笑ながら善根があるから、殺した者は、その度合に応じて地獄・餓鬼・畜生界の苦を受ける。だが、殺した善根が微笑であるゆえに、下の苦すなわち軽い苦しみですむというのである。
同様にして、中殺とは、凡夫で小乗の悟りである。声聞の四果の中の阿那含までの人を殺した罪である。先の畜生に較べて、これらの人・天・声聞の衆生は、はるかに大きい善根を持っているから、より大きい苦を受ける。
上殺は、声聞の最上の悟りである阿羅漢から、辟支仏すなわち縁覚、不退位の菩薩、また自分の父母を殺す罪で、これは地獄の中でも、最も恐ろしい阿鼻地獄に堕ちるのである。ここで実に1中劫、20小劫の間、苦しまなければならないといわれている。1小劫は、通説によると、1600万年から2000年を引いた159,980,000年であるから、想像もつかない恐ろしさである。
さて、殺生の報いは以上のとおりであるが、正法誹謗の者は、上の畜生にもはいらないのである。その因縁を佐渡御書に、次のように説かれている。
「般泥オン経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」(0958-16)と。
すなわち、正法誹謗の徒は地獄の衆生なりとの御断言である。
しかして、正法誹謗のために地獄において受ける苦は、現世に悔いても千劫の長きにわたる。悔いない者は無数劫の間、無間地獄に沈淪するのである。訶責謗法滅罪抄にいわく、
「法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにもソシる程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候、不軽菩薩を罵打し人は始こそ・さありしかども後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事・諸天の帝釈を敬ひ我等が日月を畏るるが如くせしかども始めソシりし大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき」(1125-07)と。
謗法の重罪がいかに恐るべきか、この文に明らかである。
したがって、このような重罪をつくる謗法を斬る、すなわち命を断ずるということは、殺生の罪を受けないのみでなく、自身が絶対に地獄に堕ちない原因をつくったことになるのである。
もとより、仙予国王の場合は婆羅門を殺したのであるが、釈尊以後の仏法においては、布施を止めることが、正しいあり方である。また「殺す」というのも、その肉体を殺すのではなく、この謗法の心を殺すとの意に解すべきである。
今、われわれが折伏を行じ、世のいっさいの謗法に対して果敢な攻撃を展開していることは、この経文の元意に照らして、永久に地獄に堕ちないという原因をつくっているのである。また、われらの折伏戦によって、既成仏教の僧侶たちも、新興宗教の指導者たちも、生存を脅かされ、減少しつつあることは、地獄の獄卒を退治していることに通ずるではないか。
大聖人のいわく「無間地獄の道を塞ぎぬ」と。地獄の獄卒が横行している仏国土などありえない。仏の弟子として、仏国土建設のため、民衆を一人として地獄へ落とさぬために、この世界から悲惨の二字を追放しきるまで、折伏につぐ折伏を勇気百倍して続けていくのである。
0028:04~0028:05 第五章 守護付属の文を挙ぐtop
| 04 仁王経に云く「仏波斯匿王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故 05 に王のごとき威力無ければなり」已上。 -----― 仁王経にはこうある。 「釈尊が波斯匿王に告げてこう仰せになった。『この故に、諸の国王に付嘱して、出家の男女に付嘱しないのである。それはなぜか。王のもつ強い力が無いからである』と」以上。 |
波斯匿王
梵語(Prasenajit)和悦または月光と訳す。釈尊在世当時の舎衛国の王。梵授王の子として、釈尊と同じ日に生まれた。釈尊を日光と尊称したのに対して、王は月光と称した。政治的にも優れた手腕を発揮したが、早くから釈尊に帰依し、舎衛国は釈尊に最も縁の深い仏都と称されるに至った。有名な祇園精舎は須達長者と太子祇陀によって建てられたものである。また、仏が説法するに際して、この仏都ですら、1/3の人が仏を見、1/3は仏は見たが説法は聞かず、1/3仏も見ず、説法も聞かない無縁のひとであった。このことは舎衛の三億として知られている。
―――
付属
相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
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この人王経受持品の文は、守護付属の依文である。国王とは、君主政治における王であるが、総じて、政治権力を持つものである。したがって、民主主義社会にあっては主権在民であり、この国王とは民衆から選ばれた政治家と解することもできるが、正法を証明させ納得させる力、すなわち、広宣流布への不自惜身命の信心をもって前進していく力である。
弘宣・伝持・守護の三付属
守護付属とは何か。仏が説かれた法を受け継ぎ、それを流布する使命は仏弟子にある。如来の法を如来の使いとして説き弘め、全世界を信仰せしめる実践がなければ弟子ではなく、そこには師弟相対の原理は成り立たない。仏が弟子に令法久住のために法を授け、その広宣流布の使命を託すことを付属というのである。
しかしながら、一言に流布するといっても、そのためには、あらゆる角度の条件が整わなければならない。また、様々の立場からの働きをする人が出なければならない。
四条金吾殿御返事にいわく、
「正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき、設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき・ 」(1148-01)云云と。
また、法華初心成仏抄にも
「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ、譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(0550-15)と、仰せである。
日寛上人は撰時抄文段に弘宣・伝持・守護の三つを立てて、次のように述べられている。
「一には弘宣付嘱、謂く四依の賢聖は釈尊一代所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり、嘱累品に云く『若し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説し聞知することを得せしむべし、其の人をして仏慧を得せしめんが為の故に、若し衆生有って信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし』と。此の中に余の深法と云うは爾前の諸経なり、既に法華経に対して余と云う故なり、若し台家の意は余の深法只是れ別教、余法深教は即三教に通ず云云。但し次第三諦所摂を以ての故に爾前の諸経は即是れ三教なり、故に大義異なること無きなり。
二には伝持付属、謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世世相継いで住持する故なり、涅槃経第二に云く『我今所有の無上の正法悉く以て摩訶迦葉に付嘱す。当に汝等の為に大依止と作ること猶如来の如くなるべし』等云云。統紀四に此の文を釈して云く『迦葉能く世に継で伝持するを以てなり』又第五に云く『迦葉独り住持に任ず、是れを以て祖祖相伝住断えざるなり』楞厳疏に云く『覚性三徳秘蔵に安住し、万善の功徳を持して失わざる故に住持と云うなり』今寺主以て通じて住持と云うは此れ等の意に依るなり』云云。
三には守護付属、謂く国王檀越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護し法をして久住せしむるなり、涅槃経第三に云く『如来・今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付嘱す、是の諸の国王及び四部の衆応に諸学人等を勤励して戒定慧を増長するを得せしむべし』又涅槃経に云く『内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法久住す』等云云。此の中に戒定慧は一代及び三時に通ずるなり、若し末法に在っては文底秘沈の三箇の秘法なり、具に依義判文抄に會て之を書するが如し、故に之れを略するのみ」と。
守護付属実践する創価学会
守護付嘱は、国王檀越等、すなわち在家の者に対して、大聖人の仏法を守護し永久にこれを伝えていきなさいとの御命令あそばされたのである。妙法流布の方程式といえよう。
さて、時に随いとは、一国の謗法、軍部の正法弾圧が第二次大戦の大敗北をもたらし、大聖人の他国侵逼難の御予言が正しく事実となって現われた。神道を中核に行われた宗教統制は、信教の自由によって崩れ去り、既成仏教の勢力もまた、経済的基盤を奪われた。宗教は宗教の場で、純粋に正邪を争うことができる舞台が作られたのである。これすなわち、広宣流布の時が来た証拠ではないか。
機に随いとは、神道も仏教も、封建思想とともに、その権威を失墜してしまった。その空虚に乗じて、戦後、一方ではキリスト教が、もう一方からは共産主義が洪水のように流入した。だが、それらは、大乗仏教によってきた高度な日本民衆の心を捉えることはできなかった。ごく一時的に、軽薄な人々にもてはやされはしたが、所詮、思想的混乱を生むものでしかなかった。今はそのどちらも、音楽やダンス等の誤楽で、ムードに弱い、ごく少数の青年たちを引き留めているに過ぎない。
今、民衆は、力ある新しい理念を欲している。生命の奥底から希望と勇気と確信を湧現していくことのできる哲学・宗教を欲求している。巨大な機械文明、複雑な社会機構、恐るべき核戦争の脅威、人類の前に立ちはだかるこれらの問題は、正しく未曾有の難問である。それを解決していく生命力、叡智、そして団結の絆は、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学に求める以外にない。
国王とは、現代に約していえば、一往は総じて民衆である。再往は、その民衆のなかから選挙によって議員となり、大臣となり、政治権力をもって正法を守護し、民衆の幸福のため、広宣流布のために戦っていけとの仏勅と拝すべきであろう。
現代の国王とは民衆のこと
しかして、その国主とは、国家の主権を持つ者である。鎌倉時代においては幕府の執権であり、江戸時代は徳川将軍、明治以降は天皇であった。現代においては、主権在民なるがゆえに、民衆である。
よく「国王」という言葉に対する封建時代からの考え方が抜け切らぬためか、権力を利用して辿るのではないか等の疑惑を懐く人がある。むしろ、その旧来の思想に毒された感覚を哀れに思わずにはいられない。
広宣流布とは、民衆が胸を張って「国主とはわれわれのことである」と叫び、かつ行動していける、真の民主主義の現実であるとさえいえる。すでに日蓮大聖人は700年前に、この理念を示されている。かつ、大聖人の御一生は、上下貴賤を問わず、全民衆救済に身命をなげうたれての戦いの連続であられた。われわれが実現せんとしているのは、仏法民主主義の根源であり、最高の模範は、大聖人の御振舞にほかならないのである。
広宣流布達成の儀式がいかなるものであるかは、われわれ凡智をもって測り知ることはできない。だが、それがいかなるものにせよ、その時こそ、民衆が心の底から幸福を享受できる時代であり、国が最高に繁栄した時代であることだけは断言できる。そして、民衆が心から希望し、喜び、期待する中に、広宣流布の儀式は行われるのである。
法華初心成仏抄にいわく、
「法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて後にこそ賢王の名をば留め給いしか、南三・北七を捨てて智顗法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は今に賢王の名を留め給へり、智顗法師と云うは後には天台大師と号し奉る最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし」(0550-07)と。
空前の宗教革命
フランス革命は、ルソー、モンテスキュー思想を根底に、政治革命をもってフランス社会を復興させた。ロシア革命はマルクス・レーニン思想によって経済・政治革命を行ない、ロシア民族の生命を更新した。また、現在の中国は、マルクス、毛沢東の思想をもって、その革命を成し遂げた。
これらの革命は周辺の諸国に大きい波動を与え、後世に幾多の教訓と手本を残した。そこに果敢に戦い、革命のために命を捨てた人々の名は、歴史の上に永久に記念されている。だが、悲しいかな、思想の低級さのゆえに、流血の惨事を免れることができなかった。
今、われわれがなさんとする事業は、日蓮大哲学を生命哲学を根底に、偉大なる宗教革命を成し遂げようとするものである。3000年前の仏教、2000年前のキリスト教、1000数百年前のイスラム教は、世界の文明を一変させ、現代をも、なお規制しているといっても過言ではない。
しかし、これらの諸宗教は、今や形骸化し、新しい息吹きを生み出す力は消失した。現代世界の人類の要求に応えて出現する大聖人の仏法は、色心不二の最高の哲学である。この宗教革命が、現代の政治・経済・教育・科学・芸術等のいっさいの分野に、若々しい、力強い、新しい生命を呼び起こしていくことは、当然である。さらに末法万年尽未来際にわたって、源泉となることも絶対に間違いないと確信するものである。
されば、今、この偉大なる宗教革命の先駆として、日本の広宣流布のために戦うことは、何とすばらしい栄誉ではないか。われわれの活動が全世界より模範とあおがれ、後代永久に名をとどめることになるのである。歓喜勇躍して、偉業達成へ前進していこうではないか。
また、現在、創価学会に対し、悪口をいい、つとめてその意義を過小評価しようとする人々も少なくない。後世の人々から、陰険で小心な、時流を知らぬ、愚か者であったと笑われぬよう、眼を開いて真実を認識すべきであろう。
善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし
仏の正法たる日蓮大聖人の大御本尊を受持した者は、五戒を修する必要はない。御本尊を受持することが持戒になるからである。このことについては前述したとおりである。
さらに日寛上人の安国論の文段には、次のように仰せである。
「余疏十・十三。経にいわく『いわゆる正法とはすなわちこれ如来の微密の蔵なり』と云云。ゆえに正法とは意・実に文底の秘法を指すなり。今文の『護持正法』とは正しく在家の護法を明かすなり、ゆえに章疏四・三十三にいわく『善男子護持正法は広答、二となす、一には在家・二には出家なり、在家の護法はその元心の所為を取る、事を弃て理を存して匡しく大教を弘むゆえに護持正法という、小節にかかわらざるゆえに不修威儀という』と。開目抄にこの疏文を引いて『出家在家の護法』というのは出家の二字・恐らくは剩せりこれ科目なり何ぞ釈文とせんや、蒙九・七十のごとし、『恐らくはこれ後人の写し謬りなるべし』云云」と。
ゆえに、ここで「正法を護持せん者」とは、在家の護法を明かすことは明白である。それでは、在家はどのような修行、活動が正しいかといえば「刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と説かれているのである。また、五戒を持する者は大乗の人といえない。正法を護ることが大乗であり、そのために、正法を護る人は刀杖等の武器を持つべきであるというのである。
いうまでもなく、この当時は、武力専横の時代である。国内に悪人が充満しても、これを取り押さえる警察力もなかった。したがって、謗法の者が武力をもって正法を圧迫することは常套手段であったし、彼らから正法を護るためには武力による以外になかったのである。
ゆえに、この経文を見て、仏教は武力主義かというのは、およそ見当違いも甚だしいといわなければならない。そのような人は、飢えた猛獣の群棲するジャングルを、銃一つ持たずに行けというのと等しいからである。
日蓮大聖人御自身も三条小鍛冶宗近作の名刀をお持ちであられた。御書にも、北条弥源太が刀を御供養したことが記されている。また、日興上人も、二十六箇条遺誡置文に、
「一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す」(1618-16)
と、申されている。
このように、刀剣・弓箭・鉾槊を持することは、それで殺人を行なうことが目的であったのではない。いわんや、イスラム教の「右手に剣・左手にコーラン」や、キリスト教の十字軍のように、布教のための侵略のために武力も用いるのでもない。正法を護ることが目的であり、そのための止むを得ざる手段として所持を許されたのである。
このことは、大聖人43歳の御時、安房の小松原で東条景信の一党が大聖人を殺害しようと襲ってきたのに対し、工藤左近尉吉隆、鏡忍房等が刀をもって大聖人をお守りしたことにも窺われる。刀剣なくして、正法を護り切ることのできない時勢であったことを知らなければならない。
弥源太殿御返事にいわく、
「殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも.たのみ給うべし、けはしき山・あしき道.つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ」(1227-01)云云と。
所詮、現代は、法治主義の時代であり、政治権力の時代である。化儀の広宣流布の時を迎えて、競い起こる三障四魔、三類の強敵も、個人的な怨嫉から一族郎党を率いて襲いかかってくるような規模ではない。むしろ、政治権力、言論界等と組んで、より多角的に、より大規模に襲ってくる時代とさえいえる。
この時にあたって、正法護持のために、取って立つべき「刀剣・弓箭」は、ほかならぬ言論の力である。
仏道修行といえば、過去の釈迦仏法のごとく静かな山間僻地に逃避して、思いをこらすことであるとか、単に経を読むことが、あるいは行ない澄まして善行を修するとか、という考え方が、大部分の現代人の仏教観である。これ大なる誤りである。正法護持のため、広宣流布達成のために、智慧をば働かせ、師子王のごとく勇敢に、戦っていくことが最も正しい仏道修行であることを知らねばならない。
0028:06~0028:11 第六章 正法護持の方軌を示すtop
| 06 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・及び四部の衆に付属す、正法を毀る者をば大臣四部の衆 07 当に苦治すべし」と。 -----― 涅槃経にはこうある。 「今、無上の正法を、諸の王・大臣・宰相と出家・在家の男女に付嘱する。正法を謗る者についっては、大臣と出家・在家の男女は厳しく指導しなければならない。 -----― 08 又云く「仏の言く、 迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり善男子正法 09 を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有 10 らば名けて大乗の人と為す事を得ず、 五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く、 正法を護る者は当 11 に刀剣器仗を執持すべし刀杖を持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。 -----― またこうある。「仏が仰せである。『迦葉よ、正法を護持すれば、それによって、金剛のように壊れない身となることができる。 我が弟子よ、正法を護持する者は、五戒を受けなくてもよいし、作法にかなった振る舞いをしなくともよい。むしろ、刀や剣・弓矢・矛を持たなければならない』と。 またこうある。「もし五戒を受持する者がいても、大乗の人と名づけることはできない。五戒を受けていなくても、正法を護るなら、その人を大乗の人と名づけるのである。正法を護る者は、刀や剣や武器を手にしなければならない。刀や杖を持っていても、私はこれらの人々を『戒を持つ』と言うのである。 |
四部の衆
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のこと。比丘は梵語で(bhikșu)仏門に帰依して具足戒を受けた男子、僧である。乞士、慧命。比丘尼は(bhikșuņi) 出家して具足戒を受けた女子、尼僧、除女、熏女と訳す。優婆塞は(upāsaka)俗家であって仏法を信行する男子、清信子、近事男。優婆夷は(upāsika)仏門に入った在家の女子。俗家にあって仏法僧に近事し、諸の善法に親近して修習し、過去の罪業を離れて清く、しかもよく仏道に入る信を立て、破戒を離れる女性をいう。清信女、近事女。いずれも正法を保つ人々。
―――
苦治権
厳しく対治すること。
―――
迦葉
迦葉童子菩薩のこと。迦葉には釈迦の十代弟子の一人である迦葉のほかに、優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などあるが、本項の迦葉はそのいずれでもなく、涅槃経ではじめて現れ、仏に三十六の問を発し、その対告衆となっている捃拾の機の迦葉のこと。
―――
金剛身
金剛とはダイヤモンドのこと。壊れないこと。壊すことのできないものを譬える。仏の境涯は、いかなるものでも壊すことができないので、仏身を金剛身という。また、仏の持つ三大秘法を受持することを、金剛宝器戒というのも同じ意である。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)とある。
―――
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒を破る者は「現世には悪色、悪力、悪名、短命等の報いを受け、財物を耗損し、賢聖に呵責され、他人に信ぜられず、父母、兄弟、妻子とも疑偈を懐き、心は常に苦悩して、散乱し、善を修することができない。死しては地獄に堕して、長命の苦悩をうけ、うけ終わって、また人身をうけても悪色・短命・貧賤にして、人に凌辱される」と説かれている。 よく戒を持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができる。 文句第四下に「五戒は人となり、十善は天に生ず」また十法界明因果抄に「人道とは報恩経に云く『三帰五戒は人に生る』」(0430-09)とある。
―――
威儀
一般的には、重々しく畏敬すべき挙動。いかめしい立居振舞い。作法に適った動作、礼の細則。仏法的には、行住坐臥の四つに分け、四威儀と立てる。さらに分けて三千の威儀、八万の細行ともいう。しかし、これは戒を重んずる小乗教の説くところであって末法においては無用である。三世諸仏総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0750-01)とある。すなわち三大秘法を深く信じて、正法を護持する者は、いっさいの振る舞いが自然のうちに宇宙のリズムと合致し、威儀が整うのである。
―――
刀剣
片刃のものを「かたな」といい、諸刃のものを「つるぎ」という。
―――
弓箭
弓矢のこと。
―――
鉾槊
鉾は剣のきっさいの意。槊は「ほこ」のこと。
―――
器仗
器は「道具」仗兵器の総称。
―――――――――
本章は、涅槃経に説かれた守護付嘱の文を示されるのである。最初に引かれているのは、前章の人王経の文とほとんど同じである。ここでは、人王経の文面に出ていなかった「付嘱の法」が「無上の法王」を明らかにされている。無上とは有上に対して、これより上のものはない、最高であるとの意で、即文底深沈の大法たる三大秘法の南無妙法蓮華経である。
また、人王経で、単に「王」と訳されていたのが、ここでは「諸王・大臣・宰相及び四部の衆」となっている。日寛上人の文段には「諸王とは国王や親王である」とあり、さらに「是れ則ち国王・親王・大臣・宰相・四部の次第・残闕なきか」とある。すなわち四部の衆とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷であるが、別しては在家である優婆塞・優婆夷を強く指したといることは諸王・大臣・宰相と並べられている点からも、当然理解されることであろう。
このように「諸王・大臣…」と並べて記されているのは、諸御書に「王臣一同に」あるいは「王臣万民一同に」と仰せられているのと同じでる。日蓮大聖人の仏法は、特権階級の御用宗教でもなければ、低級な邪教でもない。全民衆の崇めるべき信仰であり、王すなわち指導者の側にとっても、その政治の依るべき支柱であり、民衆にとっても、偉大な力の源泉であるとの御確信を、拝することができないではないか。
ここで「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」とあるから、正法を持つ人が政治権力をにぎって、反対者に弾圧を加えるのではないかと危惧する人もいよう。すなわち、ここで教会主義国家との相違を明らかにしなければならない。
キリスト教の政治関係
ローマ帝政初期、ネロ皇帝等によって激しい弾圧を受けたキリスト教は、西暦0313年にはコンスタンティヌス帝によって公認され、0395年にはテオドシウス帝からローマ国教としての地位を獲得するまでになった。西ローマ帝国が0476年に滅亡した後も、ローマ教会は着実に北方異民族を感化し、0800年、フランク族の王、カールを神聖ローマ帝国の大帝に任ずるのとひきかえに、ラヴェンナを教会領として贈られ、ここに教会国家としての出発をみたのである。
その後、ローマ法王を頂点とするキリスト教会は、広大な法王領を有し、傘下に無数の領地を有する司教団を擁し、宗教的権威とともに巨大な世俗権力をも行使するようになった。領地からの課税はもとより、全ヨーロッパにおいて10分の1税、初収入料を民間から徴収した。法王グレゴリウス7世、インノケンレリウス3世の時代は、まさにその絶頂期で、当時、法王庁の収入は、ヨーロッパ総国王の総収入を越えたといわれる。
こうした教会の世俗権の増大は、必然的に皇帝や国王、諸侯との衝突を免かれることができなかった。皇帝ハインリッヒ4世はグレゴリウス7世にカノッサで膝を屈し、のち武力を整えて法王を南イタリアに追い、これを憤死させた。また、法王アレクサンデル3世に屈したフリードリッヒ1世、ベケットの柩に額ずいた英王ヘンリー2世の話はあまりにも有名である。
世俗君主以上に、強欲で苛酷な僧職に対する憎悪、その生活の堕落、頽廃ぶり、陰険な僧職領主のために、十字軍遠征の留守に領地を乗っ取られた騎士への同情…等、当時の社会を描いた文学には、こうした主題が実に多い。キリスト教の無慈悲さと、民衆のキリスト教会に対する怒りが如実に感じられるのである。
したがって、中世にあらわれた政治学説も、ほとんどが法王と皇帝との対立抗争をめぐって説かれている。法王の優越を主張する者は、天国への鍵をあずかったのは使徒ペテロであり、それは法王に譲られてきた。法王は太陽であり、皇帝は月である。法王は神の国を司り、皇帝は地上の国を、法王より任されて統べる、霊界と俗界を治める二つの剣があるが、その所有権は共に法王にあり、皇帝は俗界の剣の使用権が許されるに過ぎない、等の説を立てた。
これに対して、皇帝を支持する者は、二つの剣について法王の優位は一応は認めるが、俗界の剣は、法王を通してではなく、神から直接、皇帝に与えられたものだと反発した。マキアベリが君主論を説いたのも、ダンテが帝国論を説いたのも、その根底には、皇帝を擁護し、法王を排斥する意図があったのである。
宗教の権威が政治権力をにぎって政治に介入する。いわゆる教会国家主義という事実は、ガルヴァンの神聖国家等にも認められる。だが、それは、いずれも、権力と権力との醜い争いであり、民衆に対しては貪欲な搾取をもって望む、無慈悲きわまりない苛政にほかならなかった。
こうした事態は、キリスト教が政治を、哲学的、思想的に指導できる理念の何ものも持たないがゆえに生じたのであった。また、キリスト教には人間性を変える力もなかった。むしろ、より貪欲に、より陰険に、より残酷にしてしまったと結論せざるをえない。
たとえば、中世における宗教裁判は、ジャンヌ・ダークをはじめ、多くの女性を魔女と決定して、残虐な火あぶりの刑に処したではないか。ジョルダーノ・ブルーやヨハネス・フス、ガリレオ・ガリレイ等の偉材をさえも、あるいは灰にし、あるいは沈黙させたではないか。また、数々の宗教戦争の徹底的な虐殺ぶりも、キリスト教信仰の人間性に欠けるものを物語っている。聖バーソロミューの虐殺、30年戦争の惨劇を想起せよ。実に30年戦争では新旧両派が外国の応援を頼んで殺し合い、ドイツの人口は1600万人から700万人に激減したのである。
人々が恐れるべきものは、まず何よりもこの残酷さ、非情さ、徹底的に相手を憎悪する感情の激しさである。それはひとえに、キリスト教が愛を説く教えであるところからきている。愛は憎と表裏の関係にあることは、日常、だれもが経験するところである。愛の教えとは、実は憎の教えにほかならない。
政教分離説き明かす仏法
これに対して、仏教は慈悲の教えである。慈悲は、絶対的なものであり、裏かえしても慈悲である。釈尊の教えを見れば一目瞭然である。たとえば釈尊にあれほど迫害を続けた提婆達多も、天王如来の記別を受けて救われるではないか。提婆にそそのかされて、釈尊を弾圧した阿闍世王も悔いてのち、悪痩を癒してもらい、寿命も延ばし、仏滅後は、経典結集を行って、仏法流布に重大な役割りを果たしているのである。
また、阿育大王や迦膩色迦大王による仏法流布においても、異教徒に対して弾圧を加えたなどという事例は、一つとしてない。異説を主張する者が出てきた時は、必ず公の場で法論させ、王をはじめ大臣・学者・大衆に、どちらが道理正しく理路整然としているかによって、正邪を判定せしめたのである。
すなわち、正しい仏法ということは、その説くところが道理に適っており、現実の証拠と経文上の証拠が厳然としてあるものでなければならない。したがって、宗教上の正邪の争いは、あくまで宗教の場で決せられるのである。このゆえに、正法を護持した者が、異教の信者を宗教的、思想的理由で敵対する者を弾圧したという事実は仏教以来3000年間、ただひとつとしてない。西欧において、1648年、30年戦争のあとで樹立されたごとき信教の自由は、仏教世界においては、自然の形で3000年来行なわれてきたのである。
しかも、仏教では、僧侶が政治権力を握るという原理はまったくない。前章の付嘱論で、伝持付嘱と守護付嘱と、劃然と分かれているように、僧は僧としての本文をまっとうし、正法を守護する使命は、在家の人、すなわち一般社会人としての生活を基盤に置く人によって行われるのである。これ政経分離の厳然たる証拠ではないか。
仏教が政治に影響をおよぼすのは、何よりもまず、仏法を実践、修行する人を慈悲の精神に立たせることである。すなわち、政治の運営、法の遂行が慈悲という基礎の上に行なわれるようになることである。しかして、仏法哲学に説かれている、仏の智慧、また哲理は、政治・経済・教育等、いっさいの文化を指導していく理念を提供するであろう。かくして、人類の叡智は限りなく発展し、文化の水準は飛躍的に高まることも絶対であると確信する。
したがって「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」というのも、仏教の本来のあり方からいって、何ら信教の自由を否定するものではない。あくまでも、宗教の正邪は宗教の場で争い、決せよとの意である。
歴史をひもとくならば、むしろ、つねに迫害され、弾圧されてきたのは正法の側である。この経文は、邪宗教に迷わされて正法護持者を弾圧する権力者に対して覚醒を促し、ひいては正法護持者自身が権力を持つことによって、同じく権力をもちあるいは権力と結託して、正法を弾圧する謗法者から、正法を護れとの方程式を述べたものと解すべきである。
今、さらにこの点を明確にするために、信教の自由の問題について論旨を展開してみよう。
信教の自由について
信教の自由は、人間の本然的な欲求といっても過言ではない。しかしながら人類の歴史は、長い間、その実現を見ることがなかった。ヨーロッパにおいては、30年戦争後のウェストファリア条約で新旧両派の間で原則的に認められたが、ある宗教に対する自由の確認は、さらにそれより下るのである。
すなわち、自由を求めるヨーロッパ人によって開かれた新大陸、アメリカで1787年に憲法に明記されたのを嚆矢とする。ついで大革命後フランスで、1791年、人民の尊厳と自由・平等を謳う人権宣言が発表された。
この精神は、ナポレオンの欧州遠征に伴って各地に伝えられ、1808年にはバイエルン憲法、1831にはベルギー憲法、1848年のスイス憲法、オランダ憲法、ドイツ憲法、1867年にはオーストリア憲法と、各国が続々信教の自由を制度として確立したのである。
しかし、今なお、一定の宗教を国教とし、あるいは公認教としている国も少なくない。イギリス、イタリア、スペイン等は国教主義であり、カナダ、ニュージーランド、アルゼンチン等は準国教制を建て前としている。自由主義陣営に属する国々において、実体はこの程度である。
一方、共産主義陣営を見ると、マルクス主義は「宗教はアヘンなり」と断定し、宗教全体に対して批判的である。また、民衆の間では、かなり多くの老人は旧来のギリシァ正教やイスラム教に執着をもっているし、反宗教的に教育された青年たちの間でも、宗教的な心の支えを求める気運が芽生え始めている。しかし、そうした動きを露骨には圧迫しなくとも国是としては、あくまでも無宗教を立てるので、精神的には大きい圧迫となっている。さらに教会、寺院外での布教を禁じられているので、これも信教の自由を疎外している部類といえる。
これに対して、アジアにおける歴史をたどってみると、専制主義であるだけに、様々であるが、慨して儒教、道教、ヒンズー教、イスラム教を立てた君主は、必ず仏教信者を迫害している。逆に仏教信者である君主は、他の宗教の布教に対して、大幅に自由を許していることが観取される。
前者の例をとおしては師子尊者を殺害した檀弥羅王、法道三蔵を流罪した徽宗皇帝、中国仏教を壊滅的に破壊した唐の武宗等がある。後者の例としては、インドの阿育大王、迦膩色迦大王、中国の天台大師の時代の陳主、日本の伝教大師の時代の桓武・嵯峨・平城の三帝が挙げられる。
しかも正法を迫害した前者の場合は、必ずその裏にバラモンないしヒンズー教、儒教、道教の僧、修道者が権力者をそそのかしている事実が認められているのである。これに対し後者の場合は、必ず法の正邪を公場で争わせ明確にしている。
このことから、われわれは、信教の自由を妨げてきたものは、ほかならぬ邪宗教ないし低級宗教であったと結論することができるのである。すなわち、他の宗教と論争しても堂々と勝てるという哲学的裏づけ、確信のない宗教が、権力と利益と名誉を独占するために、権力と結託して他宗派を圧迫してきたのである。
東洋で、正法が流布された時代には、完璧な信教の自由が確立されたのは、このためであった。ヨーロッパにおいて、圧迫の連続であったのは、キリスト教も、それ以前の神話も、キリスト教内部に派生した諸宗派も、この哲理と確信のない、低級思想であったゆえである。ようやく近代になって信仰の自由が確認され始めたのは、キリスト教の無気力と不合理がはっきり認識され、実質的に見放され始めたからである。
いわば、キリスト教世界も、イスラム教世界も、あるいは仏教内の邪宗各派においても、信教の自由とは、実は無宗教化の謂にほかならなかった。これがためにもたらされた、精神的空白を嘆く声も出始めており、わが国の場合にこれに便乗して、国家神道の復活を唱える反動主義者もある。だが、所詮、自由の空気を吸った民衆を再び縛りつけることは、できようはずもない。また、断じてあってはならない。
近代日本の信教の自由
わが国においては、明治22年(1889)2月11日に発布された大日本帝国憲法で、すでに信教の自由は保障されている筈であった。すなわち第28条にいわく「日本国民ハ、安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」と。だが、事実は、神社神道の国教化が進めあれていった。そして軍部政権下の昭和18年(1943)、創価学会に対する弾圧となったのである。
一国謗法の罪、正法護持者弾圧の罪が、一国を滅亡させるに至ったのである。これに対し、連合国側は、早くから日本軍国主義の源が国家神道であることを見抜いていた。戦時下の昭和20年(1945)5月、すでにポツダム宣言は「言論・宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重」を確立せよと、要求していた。
終戦後の昭和20年(1945)10月14日、連合国総司令部から「政治的、社会的及び宗教的目的に対する制限除去の件」という覚え書が発せられ、12月15日「国家神道の禁止」に関する指令が出され、明治体制下に日本の信教の自由を阻んできた元凶は、完全に骨抜きにされたのである。
しかして昭和22年(1947)5月3日より施行された、新しい日本国憲法は、基本的人権の確立を謳い、信教の自由を明確に規定したのである。すなわち第20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国からの特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動をしてはならない」とあるのが、それである。
ここでいう「特権」とは、かつての神道のごとき国教的地位とそれに伴う利益等を意味する。また「政治上の権力」とは立法権・課税権・裁判権等で、これらは、かつて寺院が、その所有する荘園に対して行使した権力であるが、今は国家および地方公共団体以外にはない。この「政治上の権力」の中に、国民として当然持っている選挙権、参政権をふくめるがごとき発言をする者がある。無認識の至り、まことに笑止といわざるをえない。
このように、新憲法によって確立された信教の自由は、いかなる宗教も、権力の援助を受けることなく、純粋に宗教としての優劣、正邪を争う舞台を実現したのである。
すなわち、信教の自由とは
第一に、宗教上の信仰について、特定の宗教を信ずること、その信仰を変えること、すべての宗教を信じないことは、いっさい、個人の自由であって、国家権力や政治権力は何ら干渉を加えてはならないということである。
第二に、宗教的教義を宣伝し普及することも、個人の自由権に属することであって、それに対して、国家権力や、特定の宗教について援助したり、疎外したりすることはできないのである。
洋の東西を問わず、その宗教の正邪・教義の浅深に関係なく、権力と結合した宗教は必ず堕落している。信教の自由は、むしろ宗教にとって最も喜ばしいことといわなければならない。
新憲法によって実現された信教の自由の尊さを日本において、最も深く理解しているのは、わが創価学会であるといっても過言ではなかろう。
今こそ遂に、青天白日のもとに正法を叫び、妙法流布に前進できる大道が開かれたのである。かくして、民衆の中にとけこんで、座談会を開き、膝を突き合わせて語り、あるいは新聞を発行して、書籍を出版して、あらゆる言論戦を展開して、今日の発展を築いたのである。信教の自由があればこそ、今後も永久に発展していくことは絶対に間違いない。
開目抄にいわく、
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」(0232-02)と。
いかなる誘惑も迫害も、物の数ではない。万が一にも自分の法門・教義・哲学が智者に破られるようなことがあれば、その智者には従うであろうが、それ以外の大難は風の前の塵のごときものである、との強い強い御確信であられる。
「智者に我義やぶられずば」とは即信教の自由を前提にしてのお言葉である。権力によらなければならないような、虎の威をかる狐と、この大聖人の師子王の雄叫びと、正に天地雲泥の相違があるではないか。
0028:12~0029:11 第七章 有徳王・覚徳比丘の先例top
| 12 又云く 「善男子・過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益如来と号したてまつ 13 る、 仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、 爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と 14 曰う、 爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師を逼む、 是の時の 15 国王名けて有徳と曰う 是の事を聞き已つて護法の為の故に 即便ち説法者の所に往至して 是の破戒の諸の悪比丘 16 と極めて共に戦闘す、 爾の時に説法者厄害を免ることを得たり 王・爾の時に於て身に刀剣鉾槊の瘡を被り体に完 17 き処は芥子の如き許りも無し、 爾の時に覚徳尋いで王を讃めて言く、 善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る 18 者なり 当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、 王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜し尋い 0029 01 で即ち命終して阿シュク仏の国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従・人民・眷属・戦闘有りし 02 者.歓喜有りし者.一切菩提の心を退せず命終して悉く阿シュク仏の国に生ず、覚徳比丘却つて後寿終つて亦阿シュク 03 仏の国に往生することを得て 彼の仏の為に 声聞衆中の第二の弟子と作る、 若し正法尽きんと欲すること有らん 04 時当に是くの如く受持し擁護すべし、 迦葉・爾の時の王とは即ち我が身是なり、 説法の比丘は迦葉仏是なり、迦 05 葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、 是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て 以て自ら荘厳 06 し法身不可壊の身を成す、 仏迦葉菩薩に告げたまわく、 是の故に法を護らん優婆塞等は応に刀杖を執持して擁護 07 すること是くの如くなるべし、 善男子・我涅槃の後濁悪の世に国土荒乱し 互に相抄掠し人民飢餓せん、爾の時に 08 多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん 是くの如きの人を名けて禿人と為す、 是の禿人の輩正法を護持する 09 を見て 駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、 是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以 10 て伴侶と為すことを聴す、 刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、 刀杖を持すと雖も命を断ずべ 11 からず」と。 -----― またこうある。「我が弟子よ、過去の世にこの拘尸那城で仏が出現されたことがあった。歓喜増益如来というお名前があった。この仏が亡くなった後、正法は無量億年に至るまで留まっていた。さらにもう四十年、仏法はまだ滅びずに留まっていた。 その時、戒を堅持する一人の出家者がいた。覚徳という名であった。その時、戒を破る出家者が多くいた。覚徳がこのように説くのを聞いて皆悪心を生じて、刀や杖を手に持ち、この法師を迫害した。 この時は国王は、有徳という名であった。このことを聞いて、法を護るために即座に、説法している者の所に行って、この破戒の悪い出家者たちと激しく戦った。 その時、説法している者は危害を免れた。王は、その時、体や刀や剣や矢や矛によって傷つけられ、無事だったところは芥子粒ほどもなかった。 その時、覚徳は王を賞讃して言った。『すばらしいことです。王は、今、本当に正法を護る者です。来世には、その身が計り切れないほど巨大な法の器になるに違いありません』 王は、この時、法を聞くことができて、心は大いに歓喜し、そしてすぐに命を終えて阿閦仏の国に生まれて、その仏にとって第一の弟子となった。その王に付き従った人民や手下で、戦闘した者、歓喜した者は、すべて、覚り求める心から退転することはなく、死後、全員が阿閦仏の国に生まれた。 覚徳比丘は、その後、寿命が尽きて同様に阿閦仏の国に生まれ、その仏にとって声聞たちの中で第二の弟子となった。正法が滅びてしまいそうな時には、このように正法を受持しなければならない。 迦葉よ。その時の王とはこの釈尊自身なのである。説法した出家者とは迦葉仏である。 迦葉よ、正法を護る者は、このような無量の果報を得るだろう。こうしたわけで、私は、今日において種々のすぐれた特徴・特質を得て、身を飾り、壊れることのない法身となったのだ」 「釈尊は迦葉菩薩に告げられた。『それ故、法を護ろうとする在家の信者らは、刀や杖を手に持ってこのような正法を持つ者を守らなければならない。 我が弟子よ。私が亡くなった後の乱れた時代に、国土は荒廃し、人々は互いに奪い合い、人民は飢饉に陥るだろう。その時、飢饉のために発心・出家するものが多くいるだろう。このような人を禿人と名づける。 この禿人たちは、正法を護持するものを見て、教団から追い出し、殺したり、危害を加えたりするだろう。 それ故、私は今、戒を堅持する人が、刀や杖を持つ在家の人々を頼り、仲間とすることを許す。刀や杖を持っていても、私はこれらの人々を戒を堅持する者と名づけると言う。刀や杖を持っていても、命を断ってはならない』」 。 |
拘尸那城
梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。
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持戒の比丘
受持即持戒で、正法を固く受持する僧侶。
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破戒の比丘
身は僧であり、賢者の姿を示しながら、正法に反逆し、正法を持つ者を憎み、嫉む者。
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有徳
有徳王ともいう。釈尊の過去の菩薩修行中の姿。涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
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説法者
正法を説く覚徳比丘のこと。
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芥子
芥子科の越年生草木で、たかさ1㍍になる。葉は白粉をおび、花は五月ごろ四弁で、白・紅・紅紫・紫などに咲く。まだ熟していない果実の乳液からアヘンがとれる。種子が細かいので、微細なことの譬えに用いられる。
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覚徳
涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿?仏国に生まれ、阿?仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。
―――
無量の法器(安国論・有徳王)
有徳王の肉体は、全身傷だらけとなったが、護法のための故に、未来世には無量の法器となろうと覚徳比丘が言った語。法器とは内に妙法の無量宝聚を蔵する器。妙法の当体、成仏の境涯を意味する。
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阿閦仏
(Aksobhya)東方妙喜世界の世界で阿閦仏経、大宝積経、悲華経、観仏三昧経、維摩経等に出てくるが、法華経化城喩品第七では、大通智勝仏の十六王子の第一、智積王子の後身と説かれている。すなわち「是の十六の菩薩は、常に楽って、是の妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化、六百万億那由佗恒河沙等の衆生は、世々に生まるる所、菩薩と俱にして、其れに従い法を聞いて、悉く皆信解せり。此の因縁を以って、四百万億の諸仏・世尊に値いたてまつることを得、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう。無量百千万億の菩薩、声聞有って、以って眷属と為り、其の二りの沙弥は、東方にして作仏す、一を阿閦と名づく、歓喜国に在す」と。
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菩提の心
菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。仏法の悟りの境地をいい、いわゆる人生、生活における喜び、楽しみ、幸福である。小乗、爾前経では、煩悩を断じて菩提が得られるとした。それに対して法華経では、妙法を信じることによって煩悩がそのまま菩提になると説く。生死一大事血脈には「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」(1338-08)と教えられている。煩悩の薪、菩提の火と譬えるのもこの意である。なお、菩提の心というのは、菩提を求める心、成仏を志すことをいう。
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声聞衆
小乗教で説く、独善的・利己的な意味での声聞ではなく、仏の弟子として、仏の説法を聞き、またその遺教を学び、仏教の教え、後世に伝えていく人である。
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迦葉(童子菩薩)
迦葉童子菩薩のこと。迦葉には釈迦の十代弟子の一人である迦葉のほかに、優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などあるが、本項の迦葉はそのいずれでもなく、涅槃経ではじめて現れ、仏に三十六の問を発し、その対告衆となっている捃拾の機の迦葉のこと。
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迦葉仏
過去七仏の第六で、現在賢劫の第九の減・人寿20,000歳のときに出現した仏、大智度論巻九には「この九十一劫の中、三劫に仏ありき、賢劫の前の九十一劫の初めに仏あり、鞞婆尸と名づく、第三十一劫の中に二仏あり、一を尸棄と名づけ、二を鞞恕婆付と名づく。この賢劫の中に四仏、一を拘留孫仏と名づけ、二を俱那含仏と名づけ、三を迦葉と名づけ四を釈迦牟尼と名づく、これを除いて余の劫は皆空にして仏なし、はなはだ憐愍すべし」とある。また、長阿含経巻一にも「毘婆尸仏のとき人寿八万歳。尸棄仏のとき人寿七万歳、毘舍婆仏のとき人寿六万歳。拘留孫仏のとき人寿四万歳。拘那阿仏のとき人寿三万歳、迦葉仏のとき人寿二万歳。われいま出世す。人寿百歳より少し出で、多く減ず」と説かれている。
―――
種種の相
応化の仏が具えている三十二の特別の相、三十二相八十種好のこと。このうち三十二相の項目は以下の通りである。1足下安平立相2足下二輪相3長指相4足跟広平相5手足縵網相6手足柔軟相7足趺高満相8伊泥延膊相9正立手摩膝相10隠蔵相11身広長等相12毛向上相13一一孔一毛生相14金色相15丈光相16細薄皮相17七処隆満相18両腋下隆満相19上身如獅子相20大直身相21肩円好相22四十歯相23歯斉相24牙白相25獅子頬相26味中得上味相27大舌相28梵声相29真青眼相30牛眼睫相3頂髻相32白毛相
―――
法身不可壊
法身とは法・報・応の三身の法身。我が身即妙法の当体となること。この境涯は成仏の究竟であり、絶対に壊るとのできない幸福生活である。このゆえに不可壊というのである。
―――
濁悪の世
末法五濁悪世のこと。法華経方便品に「舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁なり」とある。末法の世はこの五濁がとくに盛んになると説かれており、末法の日蓮大聖人御出現の世となるのである。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。
―――
相抄掠
互いに土地や財産を奪い合うこと。
―――
禿人
食うために出家した形だけのニセ坊主のこと。
―――――――――
前章の「正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」文を受けて、正法を末法において護持する方軌について、さらに正法を弘持する覚徳比丘、それを刀杖をもって殺そうと迫る破戒の比丘と戦って覚徳比丘を護りぬく有徳王、これ末法の広宣流布戦いの原理を示している章である。
有徳王・覚徳比丘
有徳王・覚徳比丘については、大般涅槃経金剛身品第二の文であり、大聖人は三大秘法抄にも引用されている。
過去の世に倶戸那城に歓喜増益如来という仏が出現したことがある。その仏が入滅した後、如来の正法は無量億年という長期間にわたって続いた。その最後、あと40年間で仏法が滅しようといていた時に、正法を堅く持った、ただ一人の比丘がいて、名を覚徳といった。その時、多くの破壊の悪比丘がいて、この覚徳比丘を殺そうとした。
これを知った有徳王は武器を執って駆けつけ、これらの悪比丘たちと果敢に戦い、覚徳比丘を守り抜いたのである。だが、この時、有徳王は、全身に刀剣、矢、矛などの傷を受け、体に完きところ寸分もない状態であった。覚徳は王の生命をかけた信心の姿勢を「善きかな、王、いま真にこれ正法を守る者なり、未来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」と賛嘆した。王はこの覚徳のこの教えを聞き終わって心大いに歓喜して亡くなったのである。王はその後、護法の功徳力により、阿闕仏の国に生じその仏の第一の弟子となった。また、王とともに戦った将兵や人々も同じく阿闕仏の国に生まれたのである。さらに、覚徳比丘もその因縁により阿闕仏の国に生じ、その仏の声聞衆中、第二の弟子となった。
この話をした後、釈尊は有徳王とは実は今の自分であり、覚徳比丘は迦葉仏であると説き、もし、正法が滅せんとするときは覚徳比丘のごとくに正法を受持し、有徳王のように正法を守護すべきであると説いたのである。
このエピソードは、権力者である王が一宗派を守るという党派的な闘争を示すものではない。覚徳比丘とは人間として仏法の精神を体現する人であり、それを命をかけて守るのが有徳王である。
有徳王は、みずからは幕者にあって、軍隊に命じて戦わせたわけではない。王自身、全身に傷を受け、死んでいったということからすると、あくまで正法を惜しむ一個の人間として、自ら先陣に立って戦ったのである。また、共に戦った「将従・人民・眷属」がいると経典に説かれているが、彼らも、「歓喜有りし者」とあることから考えると、命令され戦いに加わったのではなく、自発的に戦ったと考えられる。有徳王が覚徳比丘を守ったのは、内なる仏法の精神を守ったことに通ずる。
有徳王とは、守護付嘱を受けた「国王檀越」のことである。だが、国王といっても、権力的存在をいうのではなく、多くの眷属をひきいて正法護持に戦った死身弘法の在家の指導者を意味するといえよう。正法護持の民衆を代表する広宣実践の指導者こそ、有徳王の働きをなすものといえる。「有徳」とは、死身弘法の功徳・福運の大きさをたたえたものと考えることができる。
そのゆえは、正法護持のために受けた傷は、即、福運となり、未来にはこの身が「無量の法器」となるからである。
「体に完き処は芥子の如き計りも無し」とは、護法のため、正法流布のため、謗法の者が、とくに第三類があらゆる陰謀をめぐらして誹謗し、迫害し、悪口罵詈するのと、全魂かたむけて戦うことである。また、それを恐れてはならないとの精神である。牧口初代会長・戸田二代会長の、護法の戦いは、まさにこの経文に適うものと確信する。
開目抄にいわく「教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に『最澄未だ唐都を見ず』等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(0237-06)と。
如説修行抄にいわく「哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚と思はんずらん、汝等何計うらやましく思はんずらん、一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」(0504-15)云云と。
いまはすでに順縁広布の時代である。だが、広宣流布の暁までなお幾多の難関があるかもしれない。また、個人個人においては一生がきびしい宿命打開への戦いであり、一生成仏への前進である。おのおのの宿業によって、幾多の障害も競い起こってくるであろう。だが、つねに最後の勝利を確信し、いまの苦労がぜんぶ大福運となって結実することを信じて、希望をもって打ち破っていこうではないか。
若し正法尽きんと欲すること有らん
北条時頼への諌暁の書という立場で拝すれば、日蓮大聖人は御内証は御本仏であるから、一往、覚徳比丘の姿を現ぜられた。大聖人が諸宗の僧たちから讒言され、弾圧され、まさに「正法尽きんと欲する」状態であった。もし、時頼が大聖人の言葉に納得し、帰命し、謗法の帰依を止めていたならば、有徳王の働きをしたといえる。ここは大聖人が時頼に有徳王の働きをせよと命じられているのである。しかし、時頼は大聖人の諌言を用いようとはしなかったのである。
それから、700年を経て、戦時中、一億総決算を叫び、思想統一を企てた軍部は、宗教界をも、神道を中核とする大聖翼賛体制に組み入れ、分派した宗派を統合しようとはかった。
かくして、日蓮の名を冠に置く各派は、権力と結託した身延派を中心に合同させようと圧力を加えるに至ったのである。戦時下から戦後にわたる「正法尽きん時」である。
創価学会においても、昭和18年(1943)7月、牧口会長をはじめ戸田理事長他19名の一斉検挙があり、ために牧口初代会長は昭和19年(1944)11月18日に獄死、19名は退転、戸田二代会長は20年(1945)7月3日、ようやく保釈出所が許されるという大法難が起きた。この事件により創価学会は現在の有徳王であることを知らしめたのである
0029:12~0029:13 第八章 念仏無間の文を挙ぐtop
| 12 法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、 乃至其の人命終して阿鼻 13 獄に入らん」已上。 -----― 法華経譬喩品にはこう説かれている。「もし人が信じないで、この法華経を謗るならば、即座に全世界の仏種を断つだろう。…その人は命が終わって阿鼻地獄に堕ちるだろう」以上。 |
仏種
仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性とも、とることができる。
―――
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――――――――
この文は、法然の撰択集を破折される段で、念仏無間の文証として既に引かれたものである。ここに、再び引用して、謗法の恐るべき所以を明かされている。
現代の、特に青少年には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」といっても、死後の生命も信じないし、無間地獄の恐ろしさなど、想像できないであろう。大部分の人は、地獄など迷信かお伽話のように思っているかもしれない。
それは、ひとえに浄土宗をはじめとする既成仏教が、長い間、御用宗教となり、特権の座にあぐらをかいて、宗教としての使命も、資格も、失ってしまったからにほかならない。そのため、民衆は地獄といえば、針の山や血の海があり、大火焰が渦巻いている絵巻の光景しか思い浮かべることができなくなってしまったのである。
だが、すでに述べたように、地獄とは、われわれの生命の苦悩の境涯にほかならない。激しい病苦に責められて、苦しみ悶える人、罪を犯して追われる人、あるいは悪の泥沼に足を踏み入れて、抜け出すに抜け出せず苦悩する人等々、平和な社会にも、地獄の苦しみは厳然とある。
さらに、世界に目を転じ、あるいは過去に想いを馳せた時、泥沼のごとき戦争に肉身を失い、国土を焼かれ、化学兵器に身体を毒されて苦しんでいるベトナム民衆は眼前ではないか。父母・兄弟・姉妹・妻子も、家畜以下、ハエや蛆虫がバクテリアのように殺害されたユダヤ民族の悲劇はつい20年前のことである。
「地獄などウソだ、そんなことは作り話だ」という人は、もしも自分が、ベトナム民衆の一人だったら、もしかユダヤ人だとしたら、こんな気持ちでいられるであろうかと考えてみるがよい。しかも、彼らとて、現実にそうした不幸に直面するまでは、そのような事態をも夢にも想像しなかったに違いない。
人間の生命を現世のみの存在としても、いつ、こうした不幸に陥るともしれない。一生、そんな目に会わないとは、誰人も断定できないのである。いわんや、仏は、生命は永遠であり、過去・現在・未来の三世にわたって続くと説かれている。
われわれの現在の姿は、過去にその因を求めなければならないし、未来の因は現在にあるのである。しかして日蓮大聖人は、現世の終わりであり、未来への第一歩ともいうべき臨終の相こそ仏法の大事であると、次のようにお示しである。
妙法尼御前御返事にいわく「大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相.餓鬼に八種の相.畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」(1404-03)
又いわく「大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し、一代聖教を定むる名目に云く 「黒業は六道にとどまり 白業は四聖となる」」(1404-14)
千日尼御前御返事にいわく「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し」(1316-11)
教行証御書にいわく「一切は現証には如かず善無畏.一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様.実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(1279-16)
日寛上人の三重秘伝抄にいわく「如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し」
このように仏法哲理の上に明らかであるにもかかわらず、現代人に、永遠の生命などありえない。三世の生命観は迷信だという考え方が支配的であることは、悲しむべきである。もし生命が偶発的なものだとするならば、現実に個人によって種々の能力差、性格の相違、容姿の違いがあるのを、どう説明するのか。単に遺伝や環境論からの説明はつくかも知れないが、しからばそういう遺伝のもとに生まれ、そのような環境の中で育たなければならなかったのはなぜか、となると、何の解明もできない。
わからないから偶然と片づけるのは、科学精神の放棄にほかならない。自分にもわからないがゆえにこそ、それを解明した哲学を謙虚に求めるべきであろう。その求めて止まぬ旺盛な探究心、真理を会得しようという努力、これを真の近代精神といわずして、何といおうか。
少なくとも、自己の既成知識で包みきれないから、みずから探究する努力を放棄して、偶然とか迷信とか妄想とかの言葉で片付けてしまうのは、無智、蒙昧、固陋の人でることを強く訴えておきたい。
0029:14~0029:17 第九章 経証により謗法治罰を結すtop
| 14 夫れ経文顕然なり私の詞何ぞ加えん、 凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり、故 15 に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん、 涅槃経の如くんば設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、 蟻子を殺 16 す者は必ず三悪道に落つ、 謗法を禁ずる者は不退の位に登る、 所謂覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦 17 文なり。 -----― さて、経文ははっきりしている。私個人の言葉をどうして加える必要があろうか。 一般的に言えば、、法華経の言うように、大乗経典を謗る者は、無量の五逆罪を犯したものよりも罪が勝っているので、阿鼻地獄へ堕ちていつまでたっても出てくる時がない。 涅槃経に言うように、たとえ五逆罪を犯したものへ供養を許すとしても、謗法の者への布施は許さない。蟻を殺す者は、必ず三悪道に堕ちる。謗法を制止する者は、不退転の位に登る。すなわち、覚徳比丘とは、迦葉仏のことであり、有徳王とは、釈尊のことである。 |
大乗経典
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
無量の五逆
五逆とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧のことをいう。無量とは数えきれないほど。
―――
阿鼻大城
阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
五逆の供
五逆とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧のことをいう。これらを犯した者に供養すること。
―――
謗法の施
正法を誹謗するものに布施・供養をすること。
―――
三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
―――
不退の位
不退とは梵語(avivartika)。不退転のこと。仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても、退転しないで必ず成仏の境涯へ進むという位。天台大師は菩薩の五十二位のうち、初住をもって不退としている。
―――――――――
これまで引かれた仁王経・涅槃経・薬師経の文をまとめて、謗法の者を絶対に責めなければならないことを結論されている。したがって、この段の意は、これまでの各章で述べたとおりであるので、ここでは改めて述べる必要はあるまい。
私の詞何ぞ加えん
すでに述べたように述べたように、日蓮大聖人の御説法は、全て仏の経文をあくまで依り所として行なわれている。このことは、竜樹菩薩・天親菩薩・天台大師・伝教大師等、正法の伝灯者に共通する重大事である。
天台大師のいわく「修多羅と合せば録して之を用いよ文無きは信受す可からず」と。伝教大師いわく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」。竜樹菩薩、大智度論にいわく「修多羅に依るとは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」云云と。
修多羅とは、梵語のスートラで、経という意である。いかに世間から名僧知識といわれる人の言葉であっても、仏の金言である経文に反することは、絶対にこれを用いてはならないとの戒めである。
しかるに、法然の撰択集の論旨を見ても明らかなように、依拠とするところの曇鸞・道綽・善導の人師の所説であって、仏の経文によっていない。しかも、曇鸞・道綽らの所説は、竜樹菩薩の言葉を我見で解釈し、これにみずからの邪見を加えて作り上げたものにほかならない。それを、さらに法然の邪見で邪悪化しているのであるから、二重・三重の毒となってしまっているのである。
ひるがえって、日蓮大聖人御入滅後、五老僧たちは大聖人の御書を焼き、天台沙門と名乗り、天台流の教義をもって我見をひろめたのである。これ師敵対の大謗法ではないか。
富士一跡門徒存知の事にいわく、
「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ」(1064-04)と。
何たる浅見、何たる愚かさ、五老僧といえども、大聖人を御本仏と知らざること、このありさまであったのである。不聞三宝名、雖近而不見の経文そのままではないか。
今、われらは、創価学会の正義によるがゆえに、大聖人の御本仏であることを知り、人法一箇の大御本尊を拝することができた。その福運は、どのような譬えをもってしても説き尽くすことはできないであろう。
大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり
大小とは、穢土の此岸より浄土の彼岸へ、衆生を運ぶ乗り物の意から、多くの衆生を救済する教えを大乗、少しの人しか救えない教えを小乗という。普通、五重の相対等で、三蔵教を小乗というのに対して、通別円の三教を大乗といい、これをさらに区別して、通別二教を権大乗、円教を実大乗といっている。
それでは、ここに「大乗経典」といわれているのは、通別円のいずれの経典を誹謗しても、無量の五逆に勝れるという意味と思う人がいるかもしれない。それは、大なる誤謬である。末法今時においては、ただ文底秘沈の大法、本地難思の妙法蓮華経の一法をもって、真実の大乗経典となすのである。
小乗大乗分別抄にいわく、
「夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、仏教に入つても鹿苑十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり、又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う華厳の大乗経に其余楽小法と申す文あり、天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(0520-01)と。
本来、大乗といい、小乗というのは、相対的なものである。バラモンや儒教・道教の外道に対すれば、一切仏教は大乗である。今度は一代仏教内で論ずれば、三蔵教は小乗であり、通別円は大乗である。さらに、その大乗の中で、通別の権教は小乗であり、法華の円教が大乗である。法華経二十八品の中では、前十四品の迹門は小乗であり、後十四品の本門が大乗である。
この釈尊一代仏法中、大乗の中の大乗である法華経本門も、受量品文底の独一本門に対すれば小乗となり、独一本門こそが真の大乗となるのである。
観心本尊抄にいわく、
「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)と。
ここで、一品二半とは、天台所立の略広開顕の一品二半ではなく、大聖人御正意の末法流布の大法たる、広開近顕一の一品二半である。すなわち、末法において、三大秘法の南無妙法蓮華経以外は、全て、小乗教であり、邪教であり未得道教、覆相教であるとの仰せである。
そのゆえは、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)と申され、高橋入道殿御返事にも「法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」(1458-16)と仰せられていることによって、明白である。
したがって、今、本文で「大乗経典を謗ずる者は、五逆罪を数えきれないほど犯した罪よりもさらに重い」と申されているのは、日蓮大聖人の建立あそばされている三大秘法の大御本尊を誹謗する者との意である。これを知らなければ、無間地獄の罪を免れる術は、絶対にない。
設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず
この御文は、たとえ五逆罪を犯したものに供養することを許しても、謗法の人に供養することは絶対に許されないとの意である。すなわち謗法を固く禁ずることの大事なことを力説されているのである。
教機時国抄には、「法華経を謗ぜん者をば正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず、供養せば必ず国に三災七難起り供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり」(0439-08)とある。
また、したがって正法の聖僧は謗法からの供養を受けることも絶対にないのである。日寛上人の文段には、次のように仰せである。すなわち「すでに謗法の人の供養することを許さず、何ぞ謗法の人の供養を受けんや。主君耳入免与同罪にいわく『但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受』(1133-04)すなわち今文の意に同じきなり。教機時国抄もまた今文に同じ。乗明聖人御返事にいわく『劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ 勝れたる経を供養する施主・一生に仏位に入らざらんや、但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし、譬えば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ』(1012-06)これ謗法の供養を受けざるの明文なり、豪36・35のごとし、御義口伝下にいわく『謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり』(0755-第八擣簁和合与子令服の事-06)、日興上人二十六箇条遺誡置文にいわく『謗法の供養を請く可からざる事』(1618-15)云云」と。
0029:18~0030:07 第十章 国中の謗法を断ずべきを結すtop
| 18 法華涅槃の経教は 一代五時の肝心なり 其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや、 而るに謗法の族正道を忘るの 0030 01 人・剰え法然の選択に依つて弥よ愚癡の盲瞽を増す、是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露し或は其の妄 02 説を信じて 莠言を模に彫り之を海内に弘め之をカク外に翫ぶ、 仰ぐ所は則ち 其の家風施す所は則ち其の門弟な 03 り、 然る間或は釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、 或は 04 四百余回の如法経を止めて 西方浄土の三部経と成し 或は天台大師の講を停めて善導講と為す、此くの如き群類其 05 れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択に依るなり。 -----― 法華経・涅槃経の教えは五時に分けられる釈尊の全ての教えの肝心である。それらが禁止していることは実に重大である。よりどころとしない者がいるだろうか。 ところが、謗法の人々は、正しい考えの人を忘れ、それだけにとどまらず法然の『選択集』に基づいて、いよいよ愚かになり迷いを増している。 その結果、亡くなった法然の姿を偲んで木像・画像を作ったり、その妄説を信じて醜悪な言葉を版木に彫ったりして、国中に弘め津々浦々で手にしている。 みなが信仰しているものは法然の主張であり、布施しているのはその門弟に対してである。そうであるから、釈迦仏の像の手の指を切って阿弥陀仏の印相に結び変えたり、東方の浄瑠璃世界の薬師如来の堂を改めて西方の極楽世界で教えを説く阿弥陀仏を安置したり、四百余回にわたって行われてきた法華経の定めどおりの写経をやめて西方浄土の三部経を書写したり、天台大師智顗の法会をやめて善導の法会としたりした。 このような人々は、実に数え切れない。これは仏を破壊することではないか。この邪義は『選択集』に基づくものである。 -----― 06 嗟呼悲しいかな、如来誠諦の禁言に背くこと、 哀なるかな愚侶迷惑の麤語に随うこと、早く天下の静謐を思わ 07 ば須く国中の謗法を断つべし。 -----― ああなんと悲しいことであろうか、如来の禁止の言葉に背くことは。なんと哀れなことだろうか、愚かな輩の迷いに基づく低劣な言葉に従うとは、今すぐ天下の安穏を考えるなら、国中の謗法を断たねばならない。 |
盲瞽
「盲」も「瞽」もともにメクラのこと。仏法の正邪がわからず、邪法に迷って苦しみの生活に陥っている人。
―――
莠言
醜いことば、正義を隠没する邪義の言。
―――
模
印刷の原板となる版木のこと。
―――
墎外
墎は現在では郭と書く。「かこみ」「くるわ」をいう。郡城の周囲を城壁で囲んだことから、内外をくべつして城内・城外とよんだ。郭外は城外のこと。
―――
印相
印契ともいう。梵語(mudra)。母陀羅・慕捺羅・母奈羅の訳。仏、菩薩が手の指で想像上の特定な姿で、仏像の種類特徴づける重要な要件とされる。釈尊には釈尊、阿弥陀には阿弥陀、真言には真言の印契がある。中世、念仏が非常な勢いで広がり始めたとき、民衆の意を迎えるため、釈迦像の指の手を切って阿弥陀の印相に変え、手の構えによって阿弥陀像を表していた。こうした印相は、インド教の影響を受け、密教が重視したもので、印を諸仏・諸尊の悟りや誓いとしたものである。印相は形を変えて、手の形による手印と持ち物等の契印に変化している。
―――
東方如来
薬師如来のこと。その国土が東方浄瑠璃世界であるのでこうよぶ。衆生の心の病根を治そうと十二の大願を立てた大医王仏とも称される。
―――
鵝宇
伽藍・僧侶が集まって修行する所。仏堂のこと。建物全体の屋根が鵝ににているので、こういうとも、屋根の形が鴈の羽を広げた形に似ているのに由来したともいわれている。
―――
鵝王
仏の三十二相のひとつに、⑤手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)があり、これは指の間に縵網があることである。このことから仏を鵝王と異称するようになった。涅槃経には「若し菩薩摩呵薩、四摂法を修して衆生を摂取す、是の業縁を以て縵網の指の白鵝王のごとくなるを得」とある。
―――
如法経
比叡山天台宗第三祖、慈覚が始めたもので、法華経書写の行の一つ。慈覚は天長年間(0824~0832)に、比叡山横川に庵を結び、3年間、六根懺悔の三昧行法を修し、如法作法によって法華経を書写し、これを小搭に納めて如法堂に安置したのが始めといわれる。以来、藤原道長が寛弘年間(1004~1011)に法華三部を書写し大和の金峯山に納めるなど盛んに行われた。しかるに元久年間(1204~1205)法然が浄土三部経を書写して供養したのが始まりで、以後、浄土宗の隆昌とともに、法華経中心の如法経会は廃れ、浄土三部経の如法経会に取って代わられてしまった。
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天台大師の講
天台智者大師の入滅会で、毎年、11月24日に行われた。比叡山では霜月会または天台会と呼んだが、他の諸寺では大師講と称した。23日までに十講を終え、24日には慧心僧都がつくった天台大師和讃を唱えて大師供をおこなった。浄土宗の隆昌とともに、善導講にすりかえられ、また報恩講などとも呼ばれている。
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誠諦
誠とは真実、諦とは明らかにすることで、悟りのこと。究めるという意味があり、仏が自ら深く究め明らかにした真理。
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迷惑
方便権教の邪法に迷い、真実を明らかにできないこと。誠諦の反対で、愚癡の凡夫の迷いをいう。このような僧侶の言葉を聞いた大衆を迷わせるものであることは当然である。
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静謐
平穏・泰平・世の中が穏やかに治まること。
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当世の謗法の輩が、釈尊を忘れ、またその釈尊の教えを正しく引き継いだ天台・伝教等の、仏法の正統を見失ったばかりか、法然の邪義に迷わされ、破仏法の行為が国じゅうに充満していることを指摘されている。
三宝について
「而るに謗法の族・正道を忘るの人・剩え法然の選択に依って弥よ愚痴の瞽を増す」について、日寛上人は文段に「この二句は諸宗は元来謗者にして正道を忘れたる人なることを明かすなり、その上、選択に依っていよいよ愚盲を増すゆえに剩えと云うなり」と仰せである。
「是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや」とは、浄土宗の輩の行為が仏法僧の三宝を真っ向から破壊する邪教にほかならないことを糾弾されたのである。釈迦像を改造して阿弥陀にするのは破仏である。法華経の如法経を浄土三部経にすり替えているのは破法である。天台大師講を善導講に変えたのは、破僧である。
聖徳太子の十七条憲法にいわく。
「篤く三宝を敬へ」と。
法華経寿量品にいわく、
「我が浄土は毀れざるに、而も衆は焼け尽きて憂怖諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以って、阿僧祇劫を過ぐれども、三宝の名を聞かず」と。
このように、三宝は仏法上、きわめて重視されている。ゆえに三宝を正しく立てるか否かによって、その宗教の正邪が決定されるのである。まして、仏・法・僧の三宝を破壊し、否定し、あるいは誤れる三宝を立てるものは、ことごとく謗法となる。
究竟一乗宝性論第三にいわく「真宝は世に希有なり、明浄および勢力あり、能く世間を荘厳し、最上なり不変なり」と。この希有・明浄・勢力・荘厳・最上・不変の六義をもって仏・法・僧を三宝となすのである。
仏宝とは、宇宙の実相・永遠の生命を見究め、一切衆生に対して主師親の三徳を具備された仏である。法宝とは、その仏の教法であり、僧宝とは、仏の教法を正しく伝持する僧である。この三宝のいずれが欠けても、正しい仏道修行はできない。したがって、成仏、絶対幸福の境涯を会得することができないのである。
このゆえに、三宝の恩を報ずることは、一切の報恩の中でも、特に重視されている。四恩抄には、次のように説かれている。
「 釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神.地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母.六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(0934-02)
それでは、正しい三宝とは何か、という点が、次の問題となる。これについては、正法・像法・末法の三時によって弘まる法が異なる。それに応じて、仏の宝も、僧の宝も変わってくることを知らねばならない。
正像末の三時の正しい三宝の立て分け方を示すと、次のようになる。
正法時代
一 小乗の三宝
仏 丈六劣応身の釈尊
法 四諦・十二因縁の法門
僧 声聞の四果、縁覚等の比丘。迦葉・阿難等付法蔵の人々
二 権大乗の三宝
仏 三十二相八十種好の勝応身の仏
法 通教・別教の諸経
僧 十住、十行、十回向、十地等の菩薩。竜樹・天親等の論師
像法時代
三 法華迹門の三宝
仏 始成正覚の円仏
法 迹門理の一念三千
僧 法華会上の声聞・縁覚・薬王の後身といわれる天台・伝教
四 法華本門の三宝
仏 久遠五百塵点劫成道の釈尊
法 本門事の一念三千
僧 上行菩薩
ただし、本門の三宝は、天台大師が迹面本裏の立場で用いたもの。いわゆる文上脱益の配立である。もし
これを末法の文底下種事行の一念三千に対すれば、本迹事理の一念三千といえども、共に理の一念三千と
なる。また、佐渡以前の大聖人も外用の辺で、この本門の三宝を立てられている。
末法
五
仏 久遠元初の自受用身、即、日蓮大聖人
法 事行の一念三千南無妙法蓮華経
僧 血脈付法の日興上人
日寛上人、当流行事抄にいわく、
「久遠元初の仏宝、豈異人ならんや即ち是れ蓮祖大聖人なり、五百塵点劫の当初・毎自作是念・以何令衆生・得入無上道・速成就仏身・此の大秘願力を以て即ち末法に出現し自ら身命を惜しまず此の大法を授与す、此の如き大慈悲心・豈末法の仏宝に非ずや。
久遠元初の法宝とは即ち是れ大御本尊是れなり、釈尊の因行果徳の二法・妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与う於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑云云此の如き大恩・香城に骨を摧き雪嶺に身を投ぐるとも寧ろ之を報ずるを得んや、
久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり、然りと雖も若し之を伝えずんば即ち末代今時の我等衆生曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば即ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり」と。
およそ、日蓮大聖人が末法の御本仏にあられることについては、法華経の予言との符合で、誰人も疑う余地のないところである。大聖人御自身の御書にも、開目抄の「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)撰時抄の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284-08)等々、明言されているとおりである。
早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし
仏法は勝負である。信心に妥協はない。謗法を責めて責めて責抜いて、これを追放して初めて、信心している者も、信心していない者も、安心して暮らしていける平和世界が実現するのである。但し、これは総じての意であり、みずからの宿命を打開し、永遠の幸福を樹立するためには、信心する以外にないことはいうまでもないのであろう。
如説修行抄にいわく、
「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-05)と。
上の御文は、国じゅうの謗法を断ち、広宣流布するならば、かかる理想世界が出現するとの仏のお約束である。
0030:08~0030:18 第八段 謗法に布施を止めるの意を説くtop
0030:08~0030:09 第一章 経文の如く斬罪に処すべきかを問うtop
| 08 客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁の違を絶せんには彼の経文の如く斬罪に行う可きか、 若し然らば殺害 09 相加つて罪業何んが為んや。 -----― 旅人がいう。 もし、謗法の人々を根絶し、仏の禁止への違背をなくそうとするなら、あなたが引用した経文のように斬罪に処しなければならないのか。もしそうなら、殺害が加わるが、その罪業はどうするのか。 |
仏禁の違
仏の禁言に違背する謗法の徒。災七難を治め、天下泰平・国土安穏の世を実現するためには、謗法を対治しなければならないことは、明らかである。それでは、どのような方法で対冶するかが問題である。
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三災七難を治め、天下泰平・国土安穏の世を実現するためには、謗法を対治しなければならないことは、明らかである。それでは、どのような方法で対冶するかが問題である。
まず本章で謗法を断絶するには、涅槃経の文のように斬罪にしなければならないのか、もし、そうだとしたら殺害の罪を犯すことになるのではないか、という客の問いを掲げられている。
いうまでもなく、仏法上から見て、殺害の罪は謗法の罪よりも、比較にならないほど軽い。法華経には「大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり」と。五逆は、今日でいえば尊属殺人である。無量の尊属殺人を犯すよりも、正法誹謗の方が重いというのである。
しかし、仏法は慈悲の教えであり、悪人といえども、絶対に救われる宗教である。妙法受持によって宿命転換し、いかなる罪障も消滅することができる。ゆえに、いっさいの死刑は廃止すべきであるとの立場をとる。
涅槃経に、謗法の命を断ぜよとあるのは、世間で最も重い罪に対して適合されるのが、死刑であるとの考え方から謗法こそ最も憎むべきことを教えたと考えられる。すなわち、謗法の人を殺すのではなく、謗法の心を殺すのである。したがって、日蓮大聖人御自身、浄土宗の僧侶や一切邪宗の指導者たちの首を斬れと主張されたのも、これと同じお心と拝すべきであろう。
仏法から見た死刑観
一体、誰に人の命を勝手に奪ったりできる資格があるのか。仏のいわく「一切衆生は皆吾が子なり」と。善人であると、悪人であるとにかかわりなく、全民衆は仏の子供であるとの言葉である。であれば、誰人の生命であれ、その生殺与奪の権は親たる仏にこそあれ、凡夫たるわれらにはない。
また、一念三千の法理に照らして、悪人といっても、必ず善心がある。地獄・餓鬼・畜生・修羅の心と共に、菩薩・仏の命もある。十界互具・一念三千の当体である。そして、その人の命は、即、法の器といえる。治病抄には「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-06)と申されている。
生命は、また水晶の玉に譬えられる。赤い光を当てれば赤く輝き、青い光を当てれば青く輝く、それが輝いている結果のみを見て、醜い光が当たっている原因を考えず、惜しい玉を砕いてしまう。これと同じ愚を、死刑は犯すことになるであろう。
しからば、その美しい光りは何か、醜い光は何か、時代的、社会的条件も、もちろんあろう。だが、それらが影響する度合を、まったく凌駕して人間生命の輝きを左右するものがある。すなわち、仏の正法と、仏に敵対する謗法とがそれである。
このゆえに、われわれは、社会を指導する原理は、仏法哲学によらなければならない。また、指導者は仏法の慈悲を根本精神とすべきであることを主張するのである
わが国において、弘仁元年(0810)藤原仲成が誅せられてから保元元年(1156)保元の乱後、源為義が死罪にされるまでの約350年間、まったく死刑がなかったという事実がある。法律的には、この時代も律令政治の延長で、斬・絞の二種の死刑が存続していた。したがって、特に重罪の場合、死刑が宣告されても、別に勅を発して、始一等を免じ、遠流にされたのである。
この時代は、伝教大師が嵯峨天皇の帰信を受け、南都六宗の高僧たちと殿上で法論を行って、法華最勝の義を高揚したころである。法華迹門の戒壇が建立されたのは、伝教大師入滅後であったが、全仏教界の中心となり、平安朝文化の華を咲かせたのである。この正法興隆と死刑廃止とが一致している事実に注目すべきであろう。
なお、死刑復活の口火を切った源為義の処刑は保元元年(1156)のことで、その時代的背景を見ると、朝廷、貴族を中心とした律令体制が、武士の出現によって動揺し始めた時代でもある。平安朝の繁栄と平和が過去のものとなり、戦乱と天災地変が頻発し始めた時代である。そして、最も人々の心を大きく動かしたのが、末法思想で、邪悪な浄土の教えが仏教の正統派である天台仏教に、公然と反旗を翻し始めた時代なのである。
源為義処刑のころ、法然は23歳になっており、黒谷の叡空のもとで法然房源空と名のり、慧心僧都の「往生要集」を初めて読んだといわれる時にあたっている。法然が専修念仏をひろめ始めたのは43歳というから、これより少し時代は下るが、大きい時の流れとして、すでに慧心等の浄土思想が相当ひろまっていたことは間違いない。邪法の流布と世相の混乱との一致にも、不思議をおぼえる。
なお、死刑は、鎌倉時代には斬首のみで、稀に謀叛人等には梟首が行われた。室町時代には武士の死刑に切腹が行われるようになり、戦国時代には、磔・逆さ磔・鋸挽き・串刺・車裂・火焙り・釜煎・簀巻などの残酷の極みが尽くされた。これは、江戸時代にもほぼそのまま引き継がれた。
これらの処刑の方法は、まことに残酷で、詳説するのは避けるが、浄土宗・真言宗が徹底的に流布された時代に、こうした残酷な行為が行われたのである。悪鬼魔神の宗教がはびこり、御用宗教と化しながら、人心を支配した恐ろしさを、改めて確認すべきであろう。西欧においてもキリスト教の宗教裁判と残虐無比な刑罰とが密接に関係し合っていたことは万人の認めるところである。
明治以降、死刑は絞首刑のみとなり、特別に陸海軍刑法として銃殺も行われたが、戦後は、これはなくなった。死刑執行の数も減少の一途を辿っており、死刑廃止も叫ばれるようになっているが、犯罪の凶悪化、増加によって、その反対論も強い。大生命哲学によって正しい生命観を確立する社会浄化こそが、恒久的死刑廃止の大道であると確信する。
0030:10~0030:15 第二章 僧尼殺害の罪を挙げて問うtop
| 10 則ち大集経に云く「頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、 天人彼を供養す可し、 則ち我を供養するに為 11 りぬ、是れ我が子なり 若し彼をカ打する事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、 若し彼を罵辱せば則ち我を毀辱す 12 るに為りぬ」料り知んぬ善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く僧侶為らんに於ては 供養を展ぶ可し、 何ぞ其の子を打 13 辱して忝くも其の父を悲哀せしめん、 彼の竹杖の目連尊者を害せしや 永く無間の底に沈み、 提婆達多の蓮華比 14 丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ、 先証斯れ明かなり後昆最も恐あり、 謗法を誡むるには似たれども既に禁 15 言を破る此の事信じ難し如何が意得んや。 -----― というのも、大集経にはこうある。「髪を剃り袈裟を着れば、戒を持つ人であれ戒を破った人であれ、神々や人々は彼らを供養するであろう。そうすれば仏を供養したことになる。彼らは仏の子である。もし彼らを打ち叩くならば、それは仏の子を打ったことになる。もし彼らを罵り辱めるなら、それは仏を謗り辱めたことになる。 旅人の考えでは、善悪を論ずることなく、正しいか否かを区別せず、僧侶であるものについては供養を行うのがよい。どうして仏の子である僧侶を打ち辱めて、恐れ多いことにその父である仏を悲しませてよいだろうか。 ご存じのように竹杖外道が目連尊者を殺害した時には、竹杖外道はいつまでも無間地獄の底に沈んだのであり、提婆達多が蓮華比丘尼を殺した時には長い間、阿鼻の炎に苦しんだのである。先例はこのように明らかである。後の人々は最もこのことを恐れている。謗法をとがめるようではあるけれども、もはや仏の禁止の言葉を破っている。このことは容易には信じられない。どのように理解すればよいのだろう。 |
袈裟
梵語(Kasōya)の音訳。不正雑色の意。僧侶が左脇から右脇下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条・七条・九条の三種がある。法衣・功徳衣・無垢衣・忍辱鎧ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せたたのが衣としたのが由来とされる。以来仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するよになった。袈裟の色は青・赤・黄・白・黒を避けて、他の雑色を用いることが決まりとなっており、普通似黒・似赤・似青を用いる。インドでは乾陀色、中国では木蘭色、日本では香色という。
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毀戒
戒律を破る者。破戒と同意。
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天人
天界および人界の衆生。
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供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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撾打
撾も打もともに打つこと。
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竹杖の目連尊者を害せし
目連は大目揵連といい、釈尊十大弟子の一人で、神通第一と称せられた。過去世の母、青提女が慳貪の罪によって五百生の間、餓鬼道に堕ちていることを神通力で知るが、救うことができず、聖僧を供養して餓鬼道からようやく救うことができたという話は、盂蘭盆会の始まりとして有名である。法華経の会座において、目揵は多摩羅跋旃檀香仏の記別を授けられ、ここに母子ともに成仏することができた。また、釈尊の入滅後、目連は羅閲城にはいって托鉢をしていたが、この時、仏教徒を憎んでいた婆羅門の一族、竹杖外道に囲まれた。いったんは脱出したが、過去の宿業と知ってみずから戻り殺されることによって宿業を消した。竹杖外道はこの罪により、地獄に堕ちた。
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提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし
提婆達多(Devadatta)は調達ともいい、斛飯王の子であり、釈尊には従弟にあたる。阿難尊者は提婆達多の弟である。提婆はその出生のとき、諸天は提婆が成長して後、三逆罪を犯すことを知って、心に悩熱を生じたので、天熱と名づけられたという。外道の六万蔵を誦持し、出家して神通を学んだが、心が憍慢で大衆の前で釈尊に叱責されたのを恨み、ことごとく師敵対し、三逆罪を犯した。その第一は、釈尊の和合僧団を破って、五百人の弟子を得たこと。これは破和合僧の罪である。第二は、釈尊を殺そうとして、山上から大石を投げ、その破片が釈尊の足を傷つけたこと、これは出仏身血である。第三が「提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし」であり、提婆にだまされて謗法を犯した阿闍世王が、改心して釈尊に帰依したので、ある時、提婆は王に会うために王舎城にやってきた。そこで蓮華比丘尼から面と向かって謗法を責められたので、提婆はおこって蓮華比丘尼をなぐり殺してしまったのである。この蓮華比丘尼は、蓮華色比丘尼ともいい、はじめは淫女であったが、目連の化導によって釈尊に帰依し、修行のすえ、阿羅漢果を得た。彼女を殺すことによって、提婆は殺阿羅漢の罪を犯したのである。この直後、提婆の立っていた大石が破裂し、提婆は生きながら地獄に堕ちたといわれる。なお、この提婆達多も、実は過去世においては、阿私仙人といい、釈尊の因位の師であった。ここに因果の理法のきびしさを身をもって示し、釈尊の化導を助け、さらに法華経では天王如来の記別をうけて、悪人成仏の先例を残したのである。
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後昆
後世の子孫・後世の人。
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客の問いの後半の意は、頭を剃り袈裟を着ている者は、すなわち仏の子であると大集経に説かれている。これはどの僧尼を訶責することは、仏を悲しませることになるのではないか、というのである。
これは、文証もあり、現証も挙げているのに、一見、正しいようであるが、大きい誤りがある。すでに第二段に、同じく大集経の文が引かれているが、そこで「是の如き不善業の悪王、悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し」云云と述べられている。
沙門に非ずして沙門の像を現ず
比丘とは、頭を剃って出家し、袈裟を着した男、すなわち僧である。ここに明らかに、僧にも正法を毀壊し、世を混乱におとしいれる憎むべき悪僧があることが、前提とされている。いわんや、仁王経には「諸の悪比丘多く名利を求め…破仏法の因縁、破国の因縁を説かん」、法華経には「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に…或は阿練若の納衣にして」等、また涅槃経には「正法滅して像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似相して少しく経を読誦し…袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く…実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と説かれているではないか。
したがって、」この大集経の文の意は、あくまでも正法を護持した僧を指していると考えなければならない。法然をはじめとする浄土宗の僧や、良観などの律僧等は「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」た輩であって、この禁戒には、まったくあてはまらないのである。しかして、彼らは仏子にあらずして仏敵である。彼らのような悪比丘は、徹底的に呵責せよというのが仏の命令である。
目連尊者は、釈尊の十大弟子の一人であり、正しい仏法を修めた聖僧である。蓮華比丘尼にしても、仏弟子として、正義によって悪逆の提婆達多を厳しく面責したゆえにこそ、彼によって撲殺されたのである。仏の正法に背き、法華経の行者をそしる、末法の悪僧たちは、竹杖外道や提婆達多にこそ似ていても、目連や蓮華比丘尼と比較できる道理ではないか。
開目抄にいわく、
「世間の浅き事すら猶あやまりやすし何に況や出世の深法アヤマなかるべしや、犢子・方広が聡敏なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況や尸那・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡も倍増せり、仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし」(0199-12)と。
現代の邪宗僧尼の姿は、もはや誰人も彼らが尊いなどとは思えないほどになりきっている。御本仏、日蓮大聖人の師子吼によって、魔性の本体を破折し尽くされた結果であるともいえる。
彼らの大部分は、自宗の低級な教義についてすら、なんら研究、思索もなく、いわんや、生活の原理として民衆に納得せしめる指導性など、微塵もなくなってしまっている。ただ先祖代々の檀信徒のみをたよりとして、葬式や法要の際に、出かけていっては布施をもらって、生計の糧としているにすぎない。派手な袈裟、衣を着た、その姿はサルまわしのサルのごとく、根性は乞食同然ではないか。
しかも、世間の僧侶は、人の不幸によって利益を得ようとするのであり、その読む経文は、地獄の生命を宿して、人々を奈落の底に突き落とす働きしかない。これほど、非生産的、破滅的な存在はない。一日も早く追放すべきである。
最近の学会の折伏によって、旧来の檀信徒が激減し、繁華な地にあるものは、境内をさいて売却・賃貸したり、住職が、副業の寺のなかで飲食店を経営したりしているものもある。山間僻地の寺院にいたっては、そのまま観光客や、避暑客のホテルに変身して、小僧たちがボーイをつとめ、住職はマネージャーよろしくやっている例もある。
「天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」との大聖人の御遺命を胸に、最後の息の根を止めるまで、一歩も退くことなく、破邪の剣を振って進もうではないか。
なかんずく、彼らは全日本仏教徒連盟なるものを組織し、衰亡しゆく個々の力ではどうしようもないので、団結して、衰運を食い止めようと躍起になっている。土台自体がすでに崩壊しているうえ、同体異心の連合軍のごとき恐れるに足りない。その魔物のあがきに対しては、断固、粉砕の鉄槌を加えなければならない。
なお、歴史的、美術的見地から見て重要な、国宝、文化財に指定されている寺院や仏像等をどうすべきか、という問題がある。これについては、純粋に歴史的、美術的観点から、国家あるいは公共団体によって維持、保護されることが望ましい。現在のように、謗法の僧がこうした文化財の参観料を生計の糧にしている形態は、文化財保護のためにも、はなはだ憂うべきである。文化関係者が頭を痛めているこの問題も、以上のような方法によれば抜本的に解決される道が開けるものではないか。
0030:16~0030:18 第三章 謗法に布施を止める意を説くtop
| 16 主人の云く、 客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子を禁むるには非ず唯 17 偏に謗法を悪むなり、 夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、 然れば則 18 ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。 -----― 主人がいう。 あなたは明らかに経文を見ていながら、まだこのような発言をしている。理解が足りないのか、道理が通じないのか。 仏の子を捕縛するのではまったくない。ただひたすら謗法を嫌悪するだけである。 そもそも、釈尊より前の仏の教えでは謗法の罪ある者を斬り殺していたが、釈尊の出現以後の経に説かれているのは布施をやめることである。そういうわけで、天下のあらゆる国々、すべての人々が、悪に布施をしないで、皆が善に帰依するなら、どのような難が一斉に起こり、どのような災いが先を争って到来することだろうか。 |
全く仏子を禁むるには非ず(安国論)
主人が浄土宗を弾劾し「須く国中の謗法を断つべし」といったのは、仏弟子を禁ずるのではなく、ただひとえに謗法を責めているのであるとの意。
―――
釈迦の以前仏教
仙予国王・有徳王等、3000年前釈迦がインドに出現される以前の仏法。
―――
能忍
釈迦如来のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗・迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。善無畏三蔵抄には「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(0885-08)
―――
其の悪に施さず皆此の善に帰せば(安国論)
其の悪とは、念仏等の一切邪宗教の悪侶たち。此の善とは正法の一善。すなわち末法の正法たる日蓮大聖人の三大秘法の仏法。
―――――――――
先の客の問いに対する主人の答えである。まず謗法を禁ぜよといって僧侶を戒めることは、仏子を戒めることで、ひいては、その父である仏を悲しませる結果になるのではないか、との問いについては、まったく、私のいうのは、仏子を戒むるのではなく、謗法を憎むのである。
ついで、第一章の「斬罪に行う可きか」の問いについて、釈尊の以前は斬罪に行なった有徳・仙予等の実例があったが、釈尊の以後は、布施を止めることをもって謗法を対冶する要諦となすと、その方術を明らかにされているのである。
夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬る
仙予国王や有徳王のように、釈尊が3000年前、インドで出現して説いたよりも、ずっと昔の仏教では謗法の人を斬ったのである。いずれも、釈尊の因位の修行とされている。
偉大な三世にわたる生命観
そのようなことが事実であったかどうか、現在の科学的、歴史的研究によって、明らかにされていない。むしろ、否定的であり、三世の生命という考え方に対しては、お伽話のようにしか受け取っていない。おそらく、それは、西欧の科学によって育てられた、実証主義的思考法しか知らない現代人に共通するところともいえる。
だが、実証主義の、帰納法的思考のみが、人間の叡智のすべてであると誰が断言できるか。現代こそ、それが支配的になっているが、古代インドにおいては、時間、空間を超越した悟りによる、演繹法を叡智の主体としたのである。おそらく、彼らにとっては、現代科学の思考法のごときは、空にかける鳥が、ミミズの這うのを哀れむと同じように思えたことであろう。
だが、また一方では、現代科学は、徐々にではあるが、仏法の説く原理を証明しつつあるのが実相である。これはまだ推定の域を出ないが、氷河期以前に、相当、高度の文化が栄えたアトランティス大陸なるものが大西洋にあったことも、一部の学者の間で真剣に議論されている。他にも、偉大な文化が栄えた国家がなかったとはいいきれまい。そして、そこに仏法の繁栄した期間がなかったとも断定できないのである。
たとえ、これが事実でなかったにせよ、仏法は、なにも、この地球上のことのみを説くのではない。仏法では、大宇宙それ自体が妙法の当体なりと説くのである。されば、何十万年、何千万年、いや何億年の昔のどこか、他の天体に、地球上と同じような変化があり、そこに生物が、さらには動物が、そして人間が住んでいたことも充分考えられる。そして、そこに偉大な文化が栄えなかったと断定できるなにものもないのである。否、仏法においては、三世にわたり、また大宇宙にひろげて、仏国土を説ききっているのである。
千日尼御前御返事にいわく、
「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏.南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏.東北方三乗行仏・上方広衆徳仏.下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏.未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経.涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏.尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)
これは仏の透徹した眼から見た世界であり、われわれが感得する以外にない問題である。しかして、現代科学が、これを証明する方向に進んでいくことは、すでに、第二段第六章で論じたところである。さらにまた、仏法では、永遠の生命に立脚し、きびしく過去・現在・未来における生命の連続を説き明かしているのである。これもまた、体験の問題であり、人間の生命に感得する以外にないのである。これ東洋哲学の真髄であり、やがて西洋哲学も科学もこれに近づくことと思う。現実に、ヨーロッパ哲学の内部においても、アリン・ベルグソンのごとく、生の跳躍をもって、人間叡智の中核とする思想が現われている。
すなわち、ベルグソンによると、
われわれを取り巻いている外的世界は「等質的空観」としての「物質」の世界であり、通俗的に用いられている時間というものも、実はこのような空間に影を投じた時間にほかならない。
これに対して、われわれ自身の内的世界は、「異質的時間」であり、存在することなく、生育するのみの「自由」の世界である。そして、人間の意識とは「純粋持続」である。これがすなわち世界の内的本質であって、それを「生の飛躍」という。したがって、世界は機械論的立場からも、目的論的立場からも捉えられていない、不断の「創造的進化」にほかならず、「生の飛躍」は、空間的な物質の世界しか捉えることのできぬ「悟性」によってではなく、「直観」によって初めて捉えられる、と説く。
この考え方は、東洋哲学の演繹主義を理解するために、きわめて接近したものといえよう。
また、アインシュタインや、ガリレオや、ニュートンのごとき、最も実証哲学の依処となった自然科学の分野で、その偉大な発展の道を切り開いた天才たちは、いずれも、その発見を、一瞬の悟りによって得たといわれている。そのあとで、自己の掴んだ真理を、あるいはみずから実験し、あるいは他の誰かが実験、経験して証明しているのである。
生命の本質究め尽した仏法
このように考えてみると、釈尊の前生の話も、そんなばかな話があるものかと嘲笑うわけにいかないものを感ずるはずである。むしろ、われわれは五五百歳の予言、末法世相の予言、付法蔵の導師たちに関する予言等々、釈尊が未来に関していったことが、すべて的中していることから、過去に関していっていることも、事実として信じないわけにはいかないのである。
ある書物に、チベットのダライ・ラマ高僧たちをめぐる、さまざまな話が述べられていた。
そして、なによりも、現代人に不思議に感じられたのは、三世の生命観が皆に共通の考え方として、ごくあたりまえのこととされている点である。たとえば、ダライ・ラマの後継者を捜すのに、国じゅうの該当する年齢の男子にあたり、なくなったダライ・ラマの特色とまったく一致している男の子を見いだしてきて、これをまったくダライ・ラマの後身として遇し、やがて位につける。
同様のことが、おそらく古代インドでも常識とされていたにちがいない。釈尊が過去に仙予国王であった。また有徳王として出現したこともある等とも説いて、不思議でもなんでもなかったのである。
開目抄にいわく、
「月氏の外道.三目八臂の摩醯首羅天.毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父.悲母・又天尊.主君と号す、迦毘羅.ウ楼僧ギャ・勒娑婆.此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には.にるべくもなし、或は過去・二生・三生.乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云」(0187-08)と。
外道においてすら、このとおりであるから、仏教で三世にわたる生命観を説くのは、当然のことであたろう。
もとより、現代のわれわれは、こうした力はない。それは、いわゆる小乗の聖者・阿羅漢の得る六神通のなかの宿命通にある。日蓮大聖人の仏法においては「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016-13)と仰せのごとく、そのような神通を現ずる者があるとすれば、魔の眷属と断ぜられるのである。
しかして、正しい仏法の考え方は「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(0231-04)でなければならない。三世にわたる生命の因果は厳然たる事実である。現在の生命に、過去のいっさいが含まれ、しかも未来への因をなしている。したがって、過去の因によって、果として現われた現在の境遇がいかに対処し、これを転換して、未来、幸福になるべき因となしていくかが重大である。ここに、生命の本質、宇宙の実相を究め、それを実践化した仏法の出現が要求される。
この仏法を知らなくては、人生はただ宿命のままに漂わされる、木の葉のごときものとなる。仏法を知らない人々が自由や平等、尊厳を叫んでいるのは、仏の眼から見れば、所詮、波間に漂う木の葉の上での自由・平等・尊厳にすぎない。いわゆる福運を、天なる神の意志とし、人間の力のおよばざるところとする思想が、これを如実に表明している。
仏法は、この宿命、運命を転換する法である。譬えてみれば、波をきって進む船である。仏法を信じ、実践し、その哲理を学ぶ者こそが、真実の自由・平等・尊厳を欧歌することができるのである。
なお、釈尊の因位の世を仙予国王といい、有徳王というも、いずれも始成正覚の仏の境涯であり、垂迹化他である。すなわち、仏法弘通の姿を示すために、こうした因行が説かれたのである。観心本尊抄に、本門脱益三段を説かれたなかに「又本門十四品の一経に序正流通有り涌出品の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す其の余は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず所説の法門も亦天地の如し十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜を隔つ、又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249-01)とあるように、仏は久遠の昔に成道して以来、常に娑婆世界にあって「常住此説法」しているのである。
しかして、釈迦仏法においては、久遠五百塵点劫成道しか説かず、また化他の辺を脱しきってはいない。日蓮大聖人の仏法によって初めて、無始無終の仏の生命が明かされ、真実の十界互具、一念三千の法門が確立されるのである。
三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり」(0568-13)云云と。
「五百塵点劫の当初」とは、久遠元初の意であり、したがって「釈迦如来」とは、久遠元初の自受用報身如来であられる。仏教は、決して今から3000年前に、インドに出現して初めて説いたものではなく、この宇宙と共に、無始永遠の昔より常にあったことを知らなくてはならない。
能忍以後教説は則ち其の施を止む
能忍とは釈尊である。すなわち釈尊以後は、謗法を禁ずる最直道として、謗法に対する布施を止めるのである。これ、破仏法、破国の根源を断つ要諦であり、われら創価学会員が、謗法の者を折伏していく方法が最も正しいとの文証である。
日蓮大聖人の御在世当時、寺にとって最大の施主は、鎌倉では幕府要人であり、京では天皇家、公卿であった。北条時頼は道隆のために建長寺を建立・寄進し、また執権職隠退後は、最明寺に住して、世に西明寺殿と呼ばれた。時頼の大叔父にあたる重時もまた、良観のために極楽寺を建立・寄進し、火災にあったのちも、再建を全面的に負担している。また、京、奈良の大寺院は、天皇家や公卿から多数の荘園の寄進を受け、そこから取り立てた租税によって、経営を維持していた。
したがって、これらの謗法の寺を断絶し、そこに巣くう邪僧たちの息の根を止めるには、幕府要人や天皇、公卿を諌め、寄進、布施をやめさせる以外になかった。民衆の浄財寄進等もあったが、所詮、高位の人々が帰依しているからとの理由で、これにならったにすぎなかったし、金額もたいしたものではなかった。高位の人々を止めれば、民衆もそれにならって布施をやめることは決定的であった。
民衆の中に繰り広げられる折伏
現在は民主主義の時代である。民衆一人一人の、第一には宗教に対する無智、第二には人生に対する真剣な思索の欠如、第三には社会、世界の繁栄、平和の問題に対する無関心が、謗法の存在を許しているといっても過言ではない。ごく小部分の人は、これらの内の一つは真剣に考えているが、そのために他の二つはなおざりにされている。むしろ、せざるをえないというのが本当かもしれない。それは、なによりも、この三つを同時に現実する高い思想、哲学は、日蓮大聖人の仏法以外にないからである。
大聖人御在世にあっても、大聖人、日興上人が折伏の第一線に立たれ、武士であろうと、町人、農民であろうとかかわりなく、民衆一人一人と語り合われた、そしてその生命に、正法の信心を植えつけられたのである。
所詮、赤裸々の一個の人間になりきった者が強い。また革新的でもある。権勢、名誉、地位に縛られた者は、保守的になりがちである。政治の舞台では賢者とうたわれながら、人生の根本的な舞台では愚者である場合が多い。聡明といわれた北条時頼も、結局は、大聖人の教えに従うことができなかったのである。
それに反して、あれほど大聖人が幕府から迫害され、悪僧呼ばわりされたなかにあっても、その教えに帰依する人は、年々増加していったのである。しかも、そうした人々の多くは社会の中堅階層であり、学識のある人々であった。このことは、法然の念仏が、上はいち早く藤原兼実等の有閑貴族と結託し、下は無智蒙昧の底辺の民衆に浸透し、しまいには法然の手にも負えないほどの狂態を呈したのと、実に対照的といわなければならない。
のち、弘安年中にはいって、日興上人が指揮をとられた駿河方面の大折伏は、多くの農民が続々入信し、三類の強敵のアラシを呼び起こした。そして、ついに弘安2年(1279)、有名な熱原法難となって現われたのである。この時、20数人の百姓が拷問されたが、毅然としてその苦しみに耐えた。
拷問の末、神四郎、弥五郎、弥六郎の3人は、ついに斬殺されたが、これらの人々は、かねてから、熱原の百姓たちの中心となった指導者で、法難のアラシから他の農民たちを守り抜いた情熱と、指導ぶりは、刮目すべきものがある。最後まで大聖人の正義を叫び、横暴な狂乱せる平左衛門尉一党の権力と敢然と戦いきって、法難の華と散っていったのである。総指揮を取られた日興上人の教化の偉大さが、伺われるではないか。大聖人はここまで信心が確立されているのを御覧になって、出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を御図顕あそばされたのである。
このように、民衆の一人一人と膝を突き合わせて語り合う、折伏は、大聖人御在世のころより700年、厚い雪におおわれて、絶えて芽をあらわすことはなかったが、来るべき時を、忍耐強く待ったのである。
創価学会の前進と既成仏教の狂乱
戦後、民主主義の実現、信教の自由の保障、折伏の師匠の出現、これまさに時の到来であった。広宣流布の春を迎えたのである。折伏に対して、今や、いかなる権力も、これを弾圧し、妙法護持者を迫害することはできなくなったのである。
謗法の悪鬼が其の身に入った、権力の700年間の総決算ともいえる軍部と戦いきって、戸田前会長は、出獄された。そして、大聖人の化儀の広布の御遺命を実現するため、戦いを開始したのである。それは、一人の同志をつくることから始まった。座談会を設け、一人を入信させ、また、その人が折伏していく。
昭和26年、会員の熱烈な推挙によって、恩師戸田先生が、第二代会長に就任された時は、約3000世帯になっていた。7年後の昭和33年、念願とされた75万を越える80万世帯を達成して、戸田前会長は霊鷲山へ帰られたのである。それからさらに7年、昭和35年に私が第三代会長に就任して以来、今、学会世帯数は500数十万世帯を数え、折伏は世界を舞台として展開されるようになった。
もとより、この間、三障四魔、三類の強敵は、紛然として競い起こった。妙法流布の前進には、障魔との戦いの歴史の異名であるといっても過言ではない。兄弟抄にいわく「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087-15)と。
なによりも、障魔の根源は、信者を学会の折伏によって失い、収入を激減された謗法であった。今後も、変わらない方程式であろう。今日、普通の寺は、約100軒の檀信徒で維持されている。小さい寺になると50軒ぐらいのもある。学会が月に5万世帯の折伏をすると、500の謗法の寺が倒されたことになる。10万世帯だと1000寺院である。
檀信徒の離脱防止に躍起となった邪宗寺院は、まず村八分や町内の交際断絶の手段で、学会に入信した家庭を圧迫し、心をひるがえさせようとした。しかし、これは社会問題になるし、村人や町内の人々に威令が徹底されないとわかると、次は学会にはいった人が、その後も寺の墓地をもっている、墓を破壊したり、死人が出ても、その埋葬を拒否してバリケードを築く等の狂気の沙汰を始めたのである。
これもまた、昭和34年(1959)、厚生省通達によって、寺側のやり方がまったく不当であることが確認された。
最近は、学会誹謗のパンフレットを出して檀信徒に回し、学会の折伏によって信者が離れていくのを必死に防ごうとしている。だが、その内容は、支離滅裂で、自宗の低級さと無能ぶりを暴露するのみに終わっている。所詮、はかない努力にほかならない。
また、もう一方では、各宗連合して候補を押し立て、政界に代表を送ろうとしている。主義・主張の異なるがゆえに、一宗を形成しているはずの宗教が、一体、何のために連合するのか、宗教は人生の根本に関するもので、そこには妥協はありえないはずである。自宗の主張より大事な、妥協しなければならないものがあるとすれば、その自宗の教義は宗教としての意義のない、無益なものであることをみずからの認めることにほかならない。すなわち、全日仏・新宗連等、宗教が連合しているのは、彼らみずから、自己の宗教が無用の長者であること、一宗一派を形成しているのは、利益を追う営業にほかならないことを世に宣揚しているのと同意なのである。
もし、世界平和のために、教義の相違を捨てて大同団結しなければならないというのであれば、それは自宗の教義には、世界平和を実現する哲学がないことを意味する。また、宗教は個人の救済が分野であるというならば、戦争の脅威におびえ、社会の混乱に翻弄される人間は、わが宗の救済できるところではないと宣言したようなものである。一体、世界の情勢、社会の動向とは無関係な人間がどこにいるのか。人間である以上、そのような存在はありえない。ということは、これらの宗教は誰人も救うことができないということである。
もし、個人を救うというならば、その宗教は、同時に世界平和をも、社会の繁栄をも実現していく哲学がなくてはならない。しかして、その教義、哲学をもって一宗一派を形成している以上は、教義の異なる他の宗派と妥協できるものはないのが当然である。いっさいの宗教と妥協せず、孤高を持した宗教は創価学会以外にない。この一事をみても、創価学会のみが、世界で正しい唯一の宗教であることが断言できるのである。
今や創価学会は500万世帯を越えるにいたった。一寺院100軒として、5万の邪宗寺院に対して「其の施を止めた」ことになる。「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」の御金言を、実践しているのは、われら学会員である。必ず、世界平和実現の道は、われわれの前進によってのみ開かれていることを確信しようではないか。
四海万邦一切の四衆
日蓮大聖人の仏法が、単に日本一国のものでなく、全世界に流布すべき大白法であることを明示された御文である。
大聖人出世の御本懐である、本門戒壇の大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。一閻浮提とは全世界という意味である。日本民族だけでもなければ、アジア民族だけでもない。アメリカ大陸の民衆も、ヨーロッパの民衆も、アフリカの民衆も、すべての人類に与えられた御本尊との意である。
ゆえに、三大秘法抄にも、
「事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022-17)と仰せである。「三国並に一閻浮提」とは、日本・中国・インドの、過去に大乗仏法が流布した有縁の国々はもとより、全世界の民衆が、この大御本尊のまします戒壇に詣でて懺悔するならば、無始以来の一切の罪障を消滅し、幸福になることができるという意味である。
顕仏未来記にいわく、
「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)
また、同じく顕仏未来記にいわく、
「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)と。
諌暁八幡抄にいわく、
「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(0588-18)と。
その他、この仏法が世界に流布すべき大法であることを教示された御文は、枚挙にいとまがない。このように、みずから世界の宗教であることを宣言された宗教は、日蓮大聖人の仏法以外にない。
宗教と世界宗教
たとえば、いわゆる世界宗教として、キリスト教、イスラム教がある。だが、最も世界宗教的とされるキリスト教も、悲惨なユダヤ民族に伝えられたメシヤ思想を変革させたもので、救済の目的もユダヤ民族に限られていた。なによりも、彼が30歳で弟子ユダに裏切られ、官憲に捕えられて死に直面したとき「神よ、なぜ私を見捨て給うか」と嘆きながら息絶えたという事実は、彼の教えが人類を救うというには、あまりにもたよりないことを物語っている。また、神は救いの手を差し伸べなかったことを立証しているといいたい。
この動かすことのできない事実に対して、いかにいいわけをしようと、それは論理のすり替えであり、ペテンにすぎない。あるいはいう。「彼は、人類のいっさいの罪を背負って死んだのだ」と。それでは、彼以後、罪を犯す人はなくなったか。あるいは罪のために身を滅ぼす人はいなくなったか。すべて答えは否定である。ローマ帝政下、大協議場で無数の獅子の餌になって殉教死した。また、キリスト教全盛時代、無数の罪なき民衆まで、異端の烙印を押され、罪におとしいれられた。
特に、ユダヤ民族に対する迫害は熾烈をきわめた。中世以来、キリスト教社会のヨーロッパ各地を流浪したユダヤ民族は、他のアジア等を流浪したユダヤ人に較べて、天地雲泥の悲惨であった。20世紀にはいって、ナチ・ドイツがユダヤ民族絶滅をうたい、数百万にのぼる大虐殺を行った時も、キリスト教会は、なんらこれに対して抗議しなかった。
いわんや、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、その究極とするところは、唯一絶対、全智全能の神である。そこには誰人も納得できる道理・哲学はない。また実証もない。単に観念的に、そのような神の存在を唱え、人知がいまだ達し得ない自然、宇宙の神秘に対する畏れに便乗しているにすぎないのである。いわんや、人間生命に関する思索・解明はまったく欠如している。
これに対して、仏法は宇宙および生命の根源の法を究明しているのである。仏とは、この法を体得し、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立たれた方をいう。しかして仏教とは、いっさいの民衆が、同じくこの悟りを得て仏になるために仏が慈悲をもって、その法を説かれた教えである。
キリスト教やイスラム教の神は、唯一絶対神であるから、人は神になることはできない。あくまで神は主人であり、人は奴隷にすぎない。ニーチェが、キリスト教を「弱者の哲学なり」と喝破したのは、まことに的を射ている。仏法は、いっさいの人を同じ境涯にしようとする。これこそ本源的な民主主義であり、全人類がなんの差別感もなく平等に団結していける哲理ではないか。
御義口伝にわく、
「されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」(0720-第六如我等無異如我昔所願の事-09)と。
すなわち、御本仏、日蓮大聖人の御心は、末法万年の全民衆を、御自分と同じく成仏せしめんとの大慈悲心であられる。
恒久平和の実現めざす創価学会
そして、大聖人の弟子として、大聖人の大慈悲の御精神を精神として、末法折伏の大業を遂行しているのが、わが創価学会である。この一切衆生に差別なく注ぐ仏の慈悲のもとに、全世界の民衆が結束した時、初めて真の恒久平和が実現されるのである。
ある学者の調査によると、西暦紀元前1500年から1880年までの間に、8000におよぶ平和条約が結ばれ、そのいずれもが恒久平和を維持するのに役立つと期待されたが、いずれも平均2年しか続かなかったということである。
平和は、人類の本然的な欲求である。だが、戦争もまた、本然的な欲求から起こるものである。それでは戦争はさけられないものか。否、絶対に避けうる。原始の昔、おそらく戦いは氏族間の争いであった。やがて氏族は、互いに連携し、団結するほうが有利だと気づいたにちがいない。こうして、次の段階の戦いは部族間の闘争となった。さらに、社会構成が進化すると、種族間あるいは民族間の争いとなった。18世紀から19世紀のヨーロッパ、20世紀のアジア、アラブ紛争は、実に民族闘争にほかならない。アフリカのコンゴ等では、今なお部族抗争に明け暮れている状態である。わが国において、数十の諸国に分かれて争った時代が終わったのは、明治維新によってであった。
このように、小さな囲いを壊して、より大きい単位で団結してきた過程が人類の発展史ともいえる。そこには、必ず「互いに変わりない人間なのだ」という平等意識と、対立にむだなエネルギーや犠牲を出すより、互いに力を合わせていくほうが得だという利害感情が働いている。
現代の世界は、一方で国家あるいは陣営のカベを越えて、結束していくべきだという気持ちもありながら、もう一面では、油断していたら踏み込まれ、惨めな目に合わせていくのではないかという不信感がある。理論的には、同じ人間であることは充分に理解できるが、理屈で動かせない感情が、疑惑・警戒心・対立意識をあおっているのである。
そして、この互いに大小のさまざまのカベをつくって、対冶し合っている人類の置かれている場所は、文字どおり一瞬にして、いっさいが吹き飛んでしまう火薬庫ではないか。両方の陣営で、叡智をふりしぼり、莫大な費用をかけて、苦労して作ったものは、核兵器という危険物にほかならない。狂気の沙汰といっても過言ではない。
低次元イデオロギーの超克
資本主義と共産主義の違いも、アングロ・サクソン、ゲルマン、スラブ、ラテン、漢等の民族の違いも越えて、皆ひとしく人間なのだという意識を築き上げる強い思想、それを生命の奥底に深く刻みつける理念、団結の絆を強める真の世界宗教こそ、現実世界の平和を実現するために、最も必要なのである。
過去の歴史をみても、正しい仏法を信奉した民族は、必ず民族主義的、イデオロギー的偏見を超越している。インドにおけるアソカ大王やカニシカ王の治世において、王の文化使節は東南アジア諸国からアフリカにまで派遣された。逆に、それらの国々の民衆も、インドに来て自由の文化や技術を提供したり、インドのそれを学んだりしている。
わが国の聖徳太子の摂政下、やはり中国や朝鮮から多くの技術者を、帰化人として迎えている。逆に、太子の臣下は遣隋使として大陸におもむき、その文化を吸収した。だからといって、卑屈になるのではけっしてなく、太子は隋の煬帝にあてた書に「日出ずる国の天子、日没する国の王に致す…恙なきや」と、堂々と記したのである。
伝教大師の法華経迹門の弘宣流布によって築かれた平安朝文化も、同様である。この文化を担った人々の意識には、唐朝に対しても、朝鮮民族に対しても、あるいは唐朝に仕えて安南節度使となった安部仲磨のごとく、いかなる民族に対しても、偏見等はまったくない。これは、まことに偉大なことといわなければならない。
そして現在、日蓮大聖人の仏法を奉持した学会員は、アメリカにヨーロッパに、東南アジア、中近東、アフリカに至るまで、折伏を展開し、人種、イデオロギーの差別なく、共々に励まし合って幸福生活の確立にいそしんでいる。創価学会員となった白人と黒人は、座談会においても、和気あいあいと御本尊の功徳を語り合っている。かつてアメリカの歴代大統領も、いかなる思想家も、社会運動家も、実現しようとして実現しえなかった光景が、大仏法を根幹として見事に実現されているのである。
いわんや理性も秀れ、世界平和の責任感もある指導者たちが、妙法を護持し、大生命哲学を根幹とした時には、絶対にいっさいの偏見を捨てて、全人類の恒久的な団結が実現できるものと確信する。
治病大小権実違目にいわく、
「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と。
世界の指導者たちが、人類を滅亡におとしいれる第六天の魔王となるか、元品の法性を開いて、全世界の幸福と平和を実現する梵天・帝釈等となるか、その鍵は妙法護持の一事にかかっている。誤れる思想によって貧・瞋・癡の三毒強盛ならば、無明の闇に沈まざるをえない。正法によって三毒を転じて仏性を湧現するならば、みずから法性の大空を遊戯し、共に全世界の民衆を幸福にする。偉大な指導者たりうることを断言してやまない。
0031:01~0032:17 第九段 正法に帰し立正安国を論ずtop
0031:01~0031:06 第一章 正法正師に帰すを期すtop
| 01 客則ち席を避け襟を刷いて曰く、 仏教斯く区にして旨趣窮め難く不審多端にして理非明ならず、 但し法然聖 02 人の選択現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す、 其の文顕然なり、茲れに因つて聖人国を去 03 り善神所を捨てて 天下飢渇し世上疫病すと、 今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、 故に妄執既に飜えり 04 耳目数朗かなり、 所詮国土泰平・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり楽う所なり、 早く一闡提の施を 05 止め永く衆僧尼の供を致し・ 仏海の白浪を収め法山の緑林を截らば 世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん、 06 然して後法水の浅深を斟酌し仏家の棟梁を崇重せん。 -----― 旅人はそこで敷物から下りて主人を敬う姿勢を示し、襟を正していう。 仏の教えはこのように様々に分かれていて、その趣旨を全て知ることは難しく、不審は多岐にわたって何が正しいのか明らかではない。とわいえ、法然聖人の『選択集』は目の前にある。仏たち・諸経典・菩薩たち・神々などに対して捨閉閣抛という四字をその上に置いている。その文は明らかである。 「これが原因で、聖人は国を去り善神は所を捨ててしまっては、天下は飢えと渇きに苦しみ、世の中には疫病がはやっている」とあなたはいう。 今、あなたは広く経文を引いて正しいものと正しくないものとをはっきりと示された。そのため、私の妄執はもはや覆り、ありのままに物事を理解できるようになった。 結局、国土が泰平で天下が安穏であることは、皇帝から万民に至るまで、すべての人々が好むものであり、望むものである。 すみやかに一闡堤への布施を禁止し、いつまでも多くの僧や尼への供養を行い、仏の海の盗賊である白浪を静かにさせ、法の山の緑林を取り除くなら、世の中は伏義・神農の時代のような平和な世となり、国は唐堯や虞舜が治めたような安穏な国となるだろう。 そうとなった後、仏法という水の浅深を探って、仏教という家の棟木や梁というべき正しい僧侶を崇め重んじよう。 |
客則ち席を避け襟を刷いて曰く(安国論)
ともに敬意を表明する動作、態度。これまで平等に対座して論じてきたのが、主人の言葉に心を打たれ、疑いが晴れて帰服したことを示している。
―――
旨趣
物事の道理。趣旨と同語。
―――
理非明ならず(安国論)
理非とは、道理にかなっていることと、否かの区別。どの宗派が正しいか邪であるか区別が明らかでないということ。
―――
妄執
迷妄な執着。
―――
衆僧尼
僧や尼
―――
仏海の白浪
仏海とは、釈尊の一代仏教を総称して、これを広大であるがゆえに海に譬えた言葉。白浪とは、中国の後漢の末に黄巾賊。張角の余賊が西河の白波谷にこもって略奪をはたらいたのを、白波賊と呼んだ。これが広く盗賊の異称となり、とくに海や河に出没する水賊を白浪と呼ぶようになった。すなわち、仏界の白浪とは民衆を不幸に陥れる法然とその一族、浄土宗の僧、その他、一般邪宗教の僧・指導者のこと。山海の違いはあるが法山の緑林と同意。
―――
法山の緑林
法山とは釈尊の一代仏教を総称して、これを高く大なるがゆえに山に譬えた言葉。緑林とは、中国後漢の王莽の末の世、各地に反軍が起こった。なかでも王匡・王鳳は窮乏した民衆に呼びかけてこれを集め、湖北省当陽県の緑林山に拠って根強く征討軍に反抗した。世にこれを赤眉賊と呼んだ。このことから盗賊の異称として、とくに山賊に対して用いられるようになった。すなわち、法山の緑林とは民衆を不幸に陥れる法然とその一族、浄土宗の僧、その他、一般邪宗教の僧・指導者のこと。山海の違いはあるが仏海の白浪と同意。
―――
羲農の世
中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる伏義・神農の世を併称して義農の世という。この時代は、天子である伏義・神農の徳がよく万民に徹底し、人々は安穏に生活に打ち込むことができたばかりでなく、災害も起こらず、理想的な時代であったとされる。日蓮大聖人は如説修行抄にもこれを用いられて「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、 万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得」(0502-06)と申されている。前漢の武帝時代の史家、司馬遷の史記によると、伏義は成紀で生まれ、蛇身人頭で、聖徳が備わっていた。天を仰いで日月星辰の運行を見、地を見下ろして山川の高低を察し、鳥や獣のありさま、地の形勢をことごとく見て、さらに自身を参考に、八卦の象をつくりだしたという。また、政には紙契を考察し、それまで文字がなかったので、縄を結んで記憶の頼りにしていた結縄に代えた。婚姻の札をつくり、三十五弦の瑟を作ったのも伏義だという。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。
―――
唐虞の国
唐虞は唐堯・虞舜のことで、中国上古の伝説時代の王。尚書によると唐堯は、父の黄帝の曾孫にあたる帝嚳高辛氏、母は陳鋒氏の女で、名を放勲といい、仁徳は天のごとく、智は神の如くであったという。黄色の冠をかぶり質素な服を着、赤い色の車を白馬に引かせて乗った。百官を適材適所に配し、人事は公明だったので、全諸侯の国々がよく和合した。義和に命じて日月星辰の運行をもとに暦を作り、大洪水を治め、大いに善政を施した。七十年の治世の後、舜の孝行を聞いて、挙用し、二女とめあわせて帝位をゆずった。退位二十八年で死んだとき、民は父母を失ったように悲しんだという。虞舜は虞の人で有虞氏という。父が後妻をもらって舜を虐待し殺そうと図ったが、至孝をもって父および継母に尽くし、異母弟・象を愛した。それを堯王が知るところとなり、摂政に挙用され、二女を妻にめとり、さらに帝位について善政を行った。在位三十九年、禹王に後事を託して没。江南の九疑に葬られた。
―――
法水の浅深
仏教の浅深勝劣をよくわきまえること。
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仏家の棟梁
日寛上人の分段には「末法の仏家の棟梁は即・これ蓮祖大聖人なり、ゆえに撰時抄にいわく『去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり』(0287-11)等云云」とある。
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経文を引き、道理を尽くし、現証を示しての、主人の理論整然たる言葉に、客も遂に納得する。そして、師弟の礼をとり、謗法に対する布施を一切止め、聖僧を重んじて、理想世界の実現を図ろうと誓う。
すなわち、この立正安国論では、法然の浄土宗を中心に謗法の実体を明かされ、かつ、謗法の罪と三災七難との関係を示されたので、数多い仏教各派のすべてについて、その正邪が明らかいなったわけではない。しかし、主人と論ずるところに、もはや微塵も疑点はない、ゆえに主人のいうように、謗法に対する布施を止めて正法を尊崇しようというのである。
仏教斯く区にして旨趣窮め難く
現在、仏教の中には、日蓮宗・天台宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗・禅宗・時宗等、大きく分けても十数派がある。その一つ一つはさらに多くの派に分かれており、恐らく細かく数えれば200を越えることになる。そしてそのおのおのが、仏も、依り所とする経典も、開祖として崇める僧も、修行の細かい行義にいたるまで、異なっており、自宗が、最も正しいのだと主張しているのである。
この結果、わが国の民衆は、どの宗派に聞いても、自宗が正しいというのだから、結局同じことなのだろうという、無批判に落ち着く習慣ができてしまった。僧侶自身も、所詮、自分の生活のために僧侶になったのであるから、全仏教を綿密に検討することもない。悟り顔して「皆、同じことです、仏様の教えは広大ですから、山に登るようなもので、登り口は違っても頂上に行き着くのは同じです」というのが、却って高僧であるかのように喧伝されさえしたのである。
逆に、日蓮大聖人のごとく、正しい仏法をもって、誤れる宗教を邪宗教として厳しく責めると、これを怨嫉し、大迫害をなすにいたったのである。今日、創価学会の、大聖人の御精神をそのまま受け継いだ折伏に対して、破折される者が反発するのは当然、関係のない人々も「他宗の悪口をいうのはよくない」等と批判する。
だが、数多い宗派の一つ一つについて、その正邪を検討することは容易ではないとしても、その一つでもよい、開祖の行状を知り、教義が仏の経典と合っているかどうか、またその経典は、拠り所とするにふさわしいかどうか、等の問題を冷静に検討していくならば、おそらく、そのデタラメぶりに驚嘆することは間違いない。
そして、いったい、そのような誤りと邪義で固まった代物に、どうしてこれまで気づかなかったのであろうと不思議に思うであろう。それは、なによりもまず、仏教は盲目的に信ずるもの、形式的に従うものと決めて、常に外から眺め、中に飛び込んで批判しようとしなかったことに原因がある。
ある人は言った。「日本人は、本質的に無宗教的である」と。これだけ多くの宗派があり、仏教が盛んであるように見えるのに、不思議な言葉のようであるが、事実は、上に述べた姿を述べたものとして、まことに至高といわざるをえない。
さて、宗教の正邪について、その批判の原理は幾つかある。文証・理証・現証の三証、五重の相対、宗教の五網等がそれで、その内容については前に述べたとおりである。
ここでは、現代日本の仏教各派および、それと提携して成立した、宗教営業としての新興宗教の教義等について概念しておこう。
一、天台宗
天台宗は、日蓮大聖人御出現以前、すなわち像法時代における唯一の正法であった。中国においては天台大師がこれを確立し、わが国においては伝教大師がこれを弘めて、ついに迹門円頓戒壇まで建立した。こうして比叡山延暦寺は、平安朝時代の日本仏教の中心となり、この絢爛たる平安文化の華を咲かせたのであった。
このゆえ、およそ世に認められる僧となるには、必ず比叡山に登って修行し、授戒して資格を得なければならなかったのである。ところが、伝教・義真のあと、第三祖慈覚・第四祖智証から真言宗の邪法を取り入れたのみならず、法華経より大日経が、釈尊より大日如来、天台・伝教より弘法の方が勝れているとまでいうようになった。
このように天台宗は、清浄であったのはわずかに義真・円澄までで、その後は、本質的には台密といわれるように、弘法の弟子であり、真言密教の亜流という情けない姿に堕してしまったのである。
加えて、世は末法に入り天台・伝教より伝えた法華経の学問も、去年の暦のごとく、時機不相応になってしまった。平安朝中末期以後、比叡山延暦寺が京の上下を苦しめた僧兵の巣と化し、法然等の悪僧を出して仏教界濁乱の淵源となり、さらに時代を下れば織田信長による焼き打ちにあうなどの、聖域にあらざる姿を露呈したのも、ひとえに、昔の残骸が腐敗して悪臭と蛆虫を生じたのにほかならない。
その教義は、法華経を正依の経とし、涅槃経や華厳経等の比較的高い経を傍依とする。教観二門を立て、教相に五時八教、観心に三諦円融の理を唱える。しかして止観の一念三千、一心三観の理を証することにより速疾頓成することをめざす。 これが法華経をあくまで中心とした天台宗の教義で、実際には、次に述べる真言宗の方が天台宗内の優勢を占めている。
この破折は、これまでにおりにふれているところで述べてきたので、ここでは略す。
二、真言宗
インドにおいて、ヨガ等の外道に影響された密教があった。すなわち、仏教を哲学的に信解するより、行躰によって、会得しようとする流派である。中国・真言密教の開祖となった善無畏は、鳥萇奈国の太子で一旦、王位についたが、兄弟にそねまれて追われ、出家して密教を学んだ。ちょうど中国は唐朝の世で、インドとの交流が盛んであった。インド仏教僧は、特に優遇されたので、善無畏も一旗あげようと、大日経をもって中国に渡ったのである。しかし、当時、中国では天台宗が南三北七の邪義を破り、教義も当然最高であったから、容易に手が出せない。そこで、善無畏は天台僧で不満をいだいていた一行禅師をたぼらかして、天台宗や他の各宗の教義を聞き取り、自分の持ってきた大日経は、インドでは法華経と同じで、釈迦は舎利弗や弥勒に向かって大日経の印と真言を捨てて、理だけを説いて法華経と名づけた。これと同じく大日如来は金剛薩埵に向かって法華経を大日経と名づけて説いたのであると教えた。
これをすっかり信じ込んだ一行が書いたのが「大日経疏」で、善無畏の布教を助ける結果となった。しかも、善無畏は王族の出身というふれこみで玄宗皇帝の篤い帰依を受けた。それがために、急にひろまった。安禄山の乱が起こって国内は混乱し、玄宗皇帝の退位もやむなきに至った。楊貴妃の問題や内政の紊乱等、表面的な原因は種々あげられるが、根底には、亡国の邪法である真言を信仰したことが害悪を惹き起こしたのである。
善無畏のあと、金剛智・不空が同じくインドから渡って真言密教を弘めたが、真言の邪義を一段と邪悪にし子供だましの方法で、日本に弘めた空海について触れなければならない。
空海は伝教大師と同じく、延暦年中に入唐し、青竜寺の慧果に会って真言密教を学び、大同2年(0807)、毘廬遮那、金剛頂経200余巻の経・論・釈をもって帰朝した。この船中で、それが落ちたところを根本道場にしようと願をかけ、日本に向かって三鈷を投げたところ、果たして、高野山で発見されたといっている。あるいは、帰朝後、真言を開こうとして、朝廷に各宗を集め、智拳の印を結んで南方へ向かったら、口が急に開いて法身仏になったともいう。
さらに弘仁9年(0818)の春、天下に疫病が流行した時には、空海が般若経で祈ったら疫病が止み、夜、太陽が輝きだしたと。万事、こうした非常識きわまる大嘘で、朝廷はじめ有力公卿たちをだまし、民衆をたぼらかして真言を弘めたのである。今日では、馬鹿馬鹿しくて吹き出すところであるが、弘法が唐帰りの高僧であるというので、容易に信じ込んだばかりか、却ってありがたい話として民衆は受け取ったのであろう。小さいホラは見破れるが、大きいホラにはだまされるという、古今変わらぬ真理ともいえよう。
空海の邪義は「十住心論」「秘蔵宝鑰」「二論経」に出ているが、その主なものは「華厳経と大日経に較べると、法華経は戯論である」「法身の大日如来と相対すると釈尊は無明の辺域であって、ゾウリ取りにも及ばない」「天台宗は真言の六波羅蜜経から醍醐味を盗み取った盗人である」等である。
いずれも、経典のどこにも出ていない邪義であることは論をまたない。ちなみに、六波羅蜜経は唐代に中国に伝来した経で、醍醐味を立てた天台大師は、それより以前の陳隋の人である。初めて来たものを、生前に盗める道理がない。これも空海一流の大嘘である。
その他の邪義も、五重の相対等、宗教批判の原理に照らせば明白である。仏を倒して虚仏である大日を立て、一切経中王たる法華経を倒して大日経を立てるがゆえに、亡国の邪教と断ずることができるのである。
教理よりも実践的修法を重んじるが、それには、受戒・潅頂・加行・護摩・祈禱などがある。総じて口に真言を唱え、手に印を結び、心を仏の三味に同ずることを根本としている。
教義は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を三部経と称し、これに菩提心論、空海の書いた十住心論・秘蔵宝鑰等を拠り所とする。内容は、全ては地・水・火・風・空・識の六大から成り、仏も衆生も同じである。一切の仏・菩薩・明王・諸天は始覚的な智をあらわす金剛界と、本覚的な理をあらわす胎蔵界とに分かれるが、究極において大日如来によって統一されている等というものである。
これらの教義は空海が天台大師の一念三千の法門、法華経の開近顕遠の哲理を盗んでつくりあげたものであることは明瞭である。彼は伝教が生きている間は小さくなっていたが、死後おおっぴらに真言の邪義をいいだしたのである。また、彼は土木事業、特に新田開墾用の用水池のために堤をつくって名をあげた。仏教界のことで名を弘めて、それにのせて邪義を弘めるのも、今日の低級思想と同じ手口ではないか。
なお、空海以後、真言宗は実慧と真雅の二派に分かれ、一旦、源仁に統一されたが、再び益信と聖宝の二系統に分かれた。益信の系統からは、寛朝の「広沢流」が、聖宝の系統から、仁海の「小野流」が生まれた。この二流が、また、六流ずつに分かれたので「野沢十二流」といった。
これとは別に、平安時代の末、覚鑁が高野山を離れて根来にこもり、その後継ぎが高野山に対抗して「新義真言」を唱えた。これは室町時代の末には大きい勢力となったが、豊臣秀吉に敵対して滅ぼされ、長谷寺と智積院に移った。覚鑁ここから豊山派と智山派がそれぞれ生じた。鎌倉時代、西大寺の叡尊が戒律の復活を唱えて立てた流れに真言律宗がある。
三、禅宗
仏教の真髄は、複雑な教義の追究ではなく、おのおのが坐禅修道して心を澄ませば、直接に自証体得できると主張し、教外別伝・不立文字・見性成仏と立てる。現在、日本には臨済・曹洞・黄檗の三宗がある。
禅定そのものは、六波羅蜜の一つとして、古代インドで行われていたが、これをもって一宗とした始祖は菩提達磨である。
菩提達磨は南インド南香国の第三王子と称し、劉栄末の470年ごろ広州に至り、梁の武帝に招かれて金稜におもむいた。ここで禅を説いたが機熟せずとみて嵩山少林寺に去って、第二祖慧可に法を伝えた。達磨は楞伽経によって五巻の疏を造り「この経のみが人をすくうことができる。お前はこれによっで世を救え」と命じたという。不立文字の教義とまったく自語相違しているのである。
また、禅宗は、釈尊が涅槃の時、座に登って華を拈るこれを衆に示した。誰もこの意味がわからないでいた中に、迦葉ひとりその意を悟り破顔微笑した。そこで仏が「吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相夢相・微妙の法門有り文字を立てず教外に別伝し摩訶迦葉に付属するのみ」と説いて迦葉に伝え、迦葉から阿難と相伝したのが禅宗である。達磨はその第二十八祖であると主張する。
しかるに、このことを説いたという大梵天王問仏決疑経は、唐代の貞元・開元緑の中にもなく、明らかに後世のつくられた偽書なのである。
また、心を重んじ、是心即仏・即身成仏と説いて、これが現代人にもてはやされ、世界的なブームをすら呼び起こしている。これについて大聖人は「心は是れ第一の怨なり此の怨最も悪と為す此の怨能く人を縛り送つて閻羅の処に到る汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ」(0152-03)との経を引いて破折されている。
まことにそのとおりで、人は心によって善を行うが、逆に悪を行うのも心から起こるのである。詐欺を働いて監獄におくられるのも、殺人を犯して死刑台の露と消えるのも、心の正法に背いて地獄に堕ちるのも、所詮は心から出たものではないか。ゆえに、仏は涅槃経に「願って心の師とは作るとも心を師とせざれ」と戒められているのである。
さて、中国において禅は慧可から僧璨・道信・弘忍と伝えられ、次は慧能と神秀に分裂した。はじめ北支の洛陽・長安に拠った神秀が優勢であったが、のちに広東省韶州の宝林寺に拠った慧能の南方禅が有力となり、禅の代表となるに至った。慧能の弟子懐譲が臨済から出て臨済宗を開き、潙山・仰山が出て潙仰宗を創めた。同じく慧能の弟子、行思の系統から曹洞宗が生じ、雲門・法眼の二宗が生まれた。その後宋代に臨済宗から黄竜・楊岐の二宗が出たので、これらを総称して五家七宗と呼んだ。
日本に初めて禅宗を伝えたのは懐譲派の義空で、嵯峨天皇の代であった。当時、伝教大師の法華迹門が流布していたので、受け入れられず、義空は空しく帰国している。鎌倉時代、入栄した栄西は黄竜派の臨済禅を学んできて、博多を中心に活動を始めたが、叡山の禅宗停止の訴えによって、建久5年(1194)停止を命じられてしまった。あわてた栄西は、禅宗擁護のために様々に運動し建久9年(1198)には「興禅護国論」を著わして、禅宗が旧仏教と基本的に対立するものではないと言い訳している。
栄西が鎌倉にはいったのは叡山の圧力から逃れるためで、ここで北条政子、の寺である寿福寺の住持となった。建仁2年(1202)源頼家が京に建仁寺を建てたので、迎えられて、その住持にもなったが、栄西はこれを叡山の末寺として、天台・真言・禅兼修の寺として、自分の地位の安定に利用している。その他、栄西は名誉欲の強い僧で、大師号を得ようと賄賂をばらまいた。これは藤原定家などから「上人にあるまじきこと」と嘲笑され、当時、だいぶ有名であったらしい。
なお、栄西に先立って、大日房能忍という叡山の僧が独学で禅宗を学んでいた。中国の阿育王山・拙庵徳光から「潙山警策」という漢の典籍まで送られ、それを出版するなど注目を浴びていたが、ある夜、甥の平景清が訪ねてきた時、弟子に命じて酒を求めに走らせた。景清は叔父が自分を密告しようとしたのであろうと早合点して、すぐさま刺し殺してしまったのである。「禅天魔」と仰せの日蓮大聖人の破折そのままの現証ではないか。
今日の曹洞宗を開いた道元は、久我通親の子で、幼時に父母を失い、叡山に登ったが、のちに栄西の門にはいった。栄西の死後、みずから入栄し印可証明を得て、安貞元年(1227)帰朝した。波多野義重の招きで越前に傘峯大仏寺を開創、のちに吉祥山永平寺と称した。主著は「正法眼蔵」で、臨済宗が貴族武士階級にひろまったのに対し、曹洞宗は庶民の間に浸透していった。
この後、江戸時代の初期、明僧隠元が渡来して宇治に黄檗山万福寺を開いたのが黄檗宗のはじめである。
四、浄土真宗
法然を元祖とする浄土宗と似ているが、専修念仏を一層徹底させている。元祖は親鸞であるが、中興の祖と称する蓮如との間にも、思想的に大きな違いがある。後世の本願寺王国の基礎を築いたのは、この蓮如である。
親鸞の前半生については、本願寺資料でもほとんどわかっていない。また、その生涯全体についても、客観的に信頼できるものはない。門徒の立ち場で、親鸞は法然の高弟であったといわれているが、それすらも実は怪しいものである。
俗説によると、親鸞は、承安3年(1173)日野有範の子として生まれたという。日野氏は藤原氏の末流で、有範は皇太子大進の職にあったが、慨して恵まれない、没落貴族であった。親鸞が出家したのは9歳の年で、以仁王挙兵の翌年に当たり、京は戦乱と飢饉で地獄図を呈していた。親鸞出家の動機も、不如意の一家の口減らしが目的であったといわれている。
親鸞の死後、3人目の妻、恵信尼の娘の覚信尼に送った手紙によると、この9歳から29歳まで20年間、彼は叡山の堂僧を勤めた。叡山の大衆は、学生・堂僧・堂衆の上中下三層に分かれていた。貧乏とはいえ一応、貴族の子弟であれば、20年間も堂僧のままでいたとは信じがたい。こんなことからも、日野氏の出身ということは疑惑がはさまれるのである。
さて恵信尼の手紙によると、この堂僧として不断念仏に精進し、六角堂に参籠している時に、聖徳太子の夢告があって法然に会い、以後、専修念仏に転向した。法然の下で妻帯し、これが人間性に立った革新的な壮挙のように、近世の親鸞崇拝者の間で喧伝されたが、当時、僧侶の妻帯は珍しいことでも何でもなかった。
ただ、親鸞の場合、公然と行ったこと、信仰の問題とつながっていることなどが違うのだという議論もある。だが、沙石集に「昔から、妻帯を隠すは上人、せぬは仏というが、最近は隠す上人、せぬ仏さえも少なくなった」と嘆いているように、公然と行なうのも珍しくなかったのである。信仰の問題と関連があるというのも、小乗教的な戒律を破るものという意味では革新的であったかもしれないが、法華経から望めば論ずるに足りない問題である。
法然の弟子であった証拠として門徒があげるものに元久元年(1204)、叡山の衆徒による弾圧を避けるために、法然一門190人が連署して自戒を誓った「七箇条制戒」がある。これは、阿弥陀以外の仏菩薩を謗らない、他宗と論争しない、他宗の信徒を説いて、その信仰を捨てさせるようなことはしない。無戒を唱えて淫酒食肉をすすめない等というものであるが、この中に綽空とあるのが親鸞だというのである。もとより、これも確証のない推論に過ぎない。
その後、伝によれば、法然の高弟であった安楽・住蓮が後鳥羽上皇の院の女房と関係したという噂から、一門が弾圧され、安楽・住蓮は殺され、法然も佐渡へ流されるという事件が起こった。この時、親鸞は越後に流され、赦免後も京へ帰らず、越後から東国の常陸、笠間郡稲田郷に落ち着いたとされている。
家庭革命すらできなかった親鸞
さて、親鸞と法然の間には、考え方に根本的な違いがある。それは、法然が浄土三部経を重んじ、教理を立て、一日に念仏を六万遍唱えたと誇称されているように、自力主義的な要素をもっているのに対して、親鸞はこれをまったく廃する立ち場をとる。すなわち、「阿弥陀の本願は絶対であるから、一度念仏を唱えれば、すでに救われることは決定している。あとは、その仏恩報謝のために唱えるのだ」というのである。いわんや、浄土三部経を読んだりするのは、阿弥陀の本願を疑うことであると排斥した。
代表的著作といわれる「教行信証」詳しくは「顕浄土真実教行証文類」も、この期間にできあがった。親鸞の直弟子44人中29人までが関東の人々で、これもこの期間の活動の結果であるという。
ところで、親鸞は「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆえは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとえに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」といって、門徒の組織化、寺の建立を否定している。
これは、後に蓮如によって、真っ向から破り棄てられた考え方である。いいかえれば親鸞の思想は、今日の本願寺教団の形成を否定しているのであって、この一事からも浄土真宗の誤りが歴然としている。もとより、他力本願の念仏が、仏教への叛逆であり、かつ、民衆の幸福を破壊するものであることは、いうまでもない。
また、親鸞は仏像を用いず「南無阿弥陀仏」とか「帰命十方無碍光如来」とかと書いた紙を本尊とした。根本尊敬たる本尊が一定しないということも奇妙であり、いわんや、後世、きらびやかに造った阿弥陀像を拝んでいるのも、教祖のやり方に反する行為である。
嘉禎元年(1235)、鎌倉幕府から専修念仏の禁止令が出て、親鸞は東国を去って京都に帰ったとされる。この禁令が出た原因は、「悪人正機」の教えを聞いた信徒たちが、弥陀の本願がある以上、悪をしても往生を妨げられることはないと言い出し、社会問題化し始めたからである。しかし、この間の事情はあくまで不明である。
帰京後、親鸞は、東国の信徒からの志、いわゆる寄金で生活しながら、著述に専念したらしい。しかし、東国信徒の間では、さまざまの対立があり、子の善鸞が一方で親鸞をあざむきながら、他方で「父から秘事を伝授された。関東の道場主らの教えは皆誤っており、自分だけが正しい」といって攪乱しているこがわかったのである。そのため、親鸞は、康元元年(1256)、善鸞を義絶している。時に84歳、みずからの家庭をすら改革できず、子供をすらどうすることもできず、孤独のうちに弘長2年(1262)生涯を閉じたのである。
念仏王国築き上げた蓮如
親鸞の死後200年、浄土真宗は、念仏踊りで民間を風靡した時宗、早くから室町幕府や権力者と結託した法然系浄土宗の隆盛に押されて、細々と伝えられたに過ぎなかった。これを北陸・大阪に急激にひろめ、組織化して、念仏王国を築いたのは、本願寺8代目と称する蓮如である。
蓮如が父存如の跡を受けて、法主になったのは43歳の時であった。当時、京、東山大谷の本願寺系は真宗の中でも、下野の高田を本拠とする専修念仏派、三門徒流などに押されて、滅亡寸前のありさまであった。蓮如は85歳で死ぬまで5人の妻を迎え13男14女という多くの子をもうけたが、生活は苦しく、着るものには、袖口に絹をつけただけの紙衣で、子供たちも養い子に出さなければならなかった。
蓮如は、親鸞が禁じた神祇礼拝を認める等、外部からの圧力を緩和することを心かけた。はじめ近江の堅田を固め、そこに叡山の圧迫が加わると、越前の細呂宜郷にある吉崎に拠点を置いて、北陸布教に勢力を注いだ。ここで蓮如が取った作戦は、門徒から「御文」と呼ばれている手紙と、講の組織である。
「御文」は現存するだけでも180通に達し、その都度、信仰のあり方、弘教のしかた、講のあり方等について指導したり、他宗や宗内異端に対して攻撃したりしている。おそらく、一通の「御文」が数多くの門徒の間で回覧されたものであろう。文章は当時の庶民にわかりやすく、仮名で言葉づかいも日常語が用いられている。
講組織については、有力者の信徒宅等で月定例の寄合をもち、念仏を称えたり、信心を語り合ったりした。指導と普及の最前線にあったわけで、そこでは、社会的な上下の差別等をいっさい排除した、道場主義を、俗人であるところから毛坊主と呼んだが、卑賤の者がなることも珍しくなかったようである。この寄合・講の道場の上に末寺があり、末寺は本願寺と直結し、信徒からの志も、このルートで本願寺に納められた。
蓮如の場合、講に対する心の使い方は特に細かく、運営の仕方や心がけ等を具体的に指示している。布教の要領として「坊主」すなわち他宗の僧と「年寄」「長」すなわち村の中心者をまず落とせば、他はそれに従うものだ、といっている。
こうした組織化による階級がつけは、親鸞の教えとまったく背反するものであったし、他宗との妥協も、ひとえに教勢を拡大するための、いわゆる目的のための手段を選ばないという態度が見えるのである。
だが、やがて門徒は巨大な群衆へと発展し、蓮如の手にも負えなくなってしまう。分明7年(1475)彼が発した「篇目」は、自分でつけた火を押さえるのに必死な、新しい苦境を物語っている。いわく「仏法は内心深く信じ、外面には決して信仰を振りまわさないように心がけねばならない。まず。
① 神社を軽んじてはならぬ。
② 諸仏、菩薩や諸堂を軽んじてはならない。
③ 諸宗、諸法を誹謗してはならない。
④ 守護、地頭を疎略にしてはならない。
⑤ 当国の仏法には非義誤りが多い。正義におもむかなければならない。
⑥ 当流の立てる他力信心を内心に深く決定すべきである。
」というのである。
この篇目を出してから一ヵ月後、蓮如は吉崎を去って河内国出口に本拠を構えて新しい布教を開始した。時に61歳である。本願寺を山科に移して、蓮如が隠居したのは75歳の延徳元年(1489)であるが、その前年の長亨2年(1488)加賀の一向一揆は守護の富樫政親を攻めて殺しており、本願寺は実質的には封建領主化の第一歩を踏み出したのである。
この後、大阪の石山に移り、織田信長と戦ったが、天正11年(1591)豊臣秀吉から、京都堀川の地を寄進されて建てたのが、今の西本願寺である。徳川時代には幕府の御用宗教となって全国的に勢力を拡大し、民衆を苦しめ無気力にしたことは、今さらいうまでもなかろう。
東西本願寺への分裂
この間、第11代顕如の没後、相続問題から、兄の教如が東本願寺を興し、弟の准如が西本願寺を継いで今日に至った。この二派が、いわゆる血脈といって、親鸞の血統を引くものである。すなわち仏法から背反した世襲制を誇りとさえしている邪教である。
この他に、興正派・高田派・仏光寺派・三門徒派・山元派・出雲寺派・誠照派・木辺派の八派があり、合わせて真宗十派と呼びならわされている。
以上、見てきたごとく、浄土真宗は人間性の弱味につけこむ、徹底した弱者ないし破北者宗教であり、そのうえ、教祖親鸞の存在自体にも幾多の疑点がある。なかんずく、一切の経、仏を否定することは、仏法上の大謗法である。世襲制の問題も、これを禁ずるのは仏法上のまったく初歩的なことで、敢えて犯して血脈等といって神聖化しているのは、封建領主としての地位を安泰にするための口実に過ぎないのである。
五 その他
この他、既成宗教として、華厳・法相・律・三論・成実・俱舎宗の各宗がある。華厳宗は、中国の杜順・智儼等を経て法蔵に至って則天皇后の帰依で隆盛、わが国では奈良時代から鎌倉時代まで栄えた。本山は東大寺で、現在50数寺を有している。
法相宗は、中国で玄奘、日本では道昭が出て奈良時代に栄えた。現在、薬師寺、興福寺がその栄華の跡を伝えている。律宗は、中国では道宣が出て開き、日本には鑑真が伝えて唐招提寺を根本道場として弘めた。鎌倉時代、大聖人に敵対した忍性良観は律宗の僧であった。
三論宗は中国の吉蔵がはじめ、日本では仏教渡来直後の7・80年間存続したのみで華厳宗に吸収された。成実宗は付宗、俱舎宗は法相宗の付宗である。
六 日蓮宗各派
本迹一致派
法華経の本門と迹門は、一往、二つに分けるが、再往は一致するとする派で、日向の身延山久遠寺、日朗の池上本門寺、富木日常の中山法華寺、日像の京都妙顕寺、日朗の京都本圀寺、日奥の不受不施派、日講の不受不施講門派等が、これに属する。
①身延は、大聖人が最後の9年間を過ごされた地であり、日興上人がこの跡を受けて別当となられたのであった。だが、地頭の波木井実長が日向にたぶらかされて四箇の謗法を犯し、日興上人の諌めを聞き入れなくなったので、日興上人は御本尊はじめいっさいの重宝を奉持して、上野に移られたのである。
日向は暫く身延にいたが、晩年は房州の藻原へ去り、主を失った久遠寺は、単なる波木井の檀那寺に過ぎなくなった。その後、徳川時代の初め、第11代日朝が政略に長けて徳川幕府に取り入り、大聖人のおられたのと反対側の山をけずって建てられたのが現在の久遠寺である。
しかも、その祀ってあるものは、大聖人の像、釈迦像から帝釈、鬼子母神、稲荷、竜神に至る、あらゆる淫祀邪教の寄せ集めといって過言ではない。江戸時代、中山の日親すらも「身延や池上に下馬してはならない、参詣など沙汰の限りである」と戒めている程である。
あくまで、宣伝と政治性に長け、世間には身延派が日蓮宗の本家であるように錯覚させ、戦時中、身延派を中心に全日蓮宗を合同しようと軍部が図ったことも周知のとおりである。しかし、創価学会の手によって、昭和30年(1955)3月、小樽問答で打ち破られた。今も本尊を何にするか、宗内でさえ統一された結論が出ていないのは笑止の至りである。
②池上本門寺は、大聖人が御入滅の地に日朗が開山となって建てたもの、日朗の邪義そのままに、清正公堂や長栄稲荷、大黒堂等の謗法が雑居している。日朗は、晩年、誤りに気づき、富士に日興上人を尋ねて手をとって泣いたとつたえられている。
③中山は富木日常が邸内につくった法華堂が発展したもので、鬼子母神を祀ったり、加持祈禱の荒行者の養成で、妖名をとどろかせている。教義的には何もなく、観心本尊抄等の重書御真筆を有していることが唯一のとりえともいえよう。
④京都妙顕寺は、日朗の弟子、日像の布教によるものである。日像は帝都弘教の付属を受けたと称して釈迦本仏、本迹一致の邪義を弘めた。五老僧の立てた各派中でも最初に堕落し、邪宗と妥協したのが、この京都一致派で、現在の身延派の大部分はこの流れといわれている。
⑤不受不施派は岡山県妙覚寺を本山とする日奥が開いたもので、これがさらに分裂して日講が開いたのが同講門派である。また、日昭が開いた玉沢妙法寺も一致派に属する。以上が本迹一致派であるが、本迹一致が大聖人の正義に反するものであることは、次の御文をみれば歴然としている。
すなわち、治病大小権実違目にいわく、「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり」(0996-07)と。
また、本因妙抄にいわく、「若し末法に於て本迹一致と修行し所化等に教ゆる者ならば我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち其れに随従せんともがらも阿鼻に沈まん事疑無き者なり」(0876-04)と。
本迹勝劣派
法華経文上本迹勝劣は立てるが、文上脱益の法門に執着して、文底秘沈の独一本門を知らないので、これも大聖人の正法正義に反するのである。これに属するものは、一致派の京都妙顕寺から飛び出した、日隆の法華本門宗、その分かれの仏立宗、日什の顕本法華宗、日真の本妙法華宗、日陣の法華宗等である。
⑥勝劣派を初めて立てたのは、大聖人御入滅後約130年、一致派の京都妙顕寺の日隆・日存・日道等である。当初、日隆は一致派に負かされ「一致門流を捨てたのは後悔千万で、今後は一致派門流に背かない」と詫び状をかいたほど、臆病、不勉強の僧であった。その後、妙蓮寺日忠なども八品正意を唱えて八品派を形成した。
尼崎本興寺、鷲栖鷲山寺、岡宮弘長寺、京都本能寺、京都妙蓮寺等がこれに属する。
八品正意と立てるのは、観心本尊抄に付属流通の段を示されて「但八品に限る」と述べられているものを、不相伝、無学のあまり、八品所顕の本尊といいだしたのである。
八品派すなわち本門法華宗は、戦時中、本妙法華宗や法華宗と合同し、のちふたたび三分した。また八品派の分かれに本門経正宗、本派日蓮宗等があるが、いずれも弱体である。
⑦本門仏立宗は、徳川時代の末に八品派から分かれたものであるが、これは、京都で、長松清風なる本門法華宗の僧が、離脱して、自分は日扇と称して仏立講という在家講をつくったものである。日扇は、八品派内で地獄・餓鬼・畜生の三途は成仏するかしないかという馬鹿げた議論が起こった時、不成仏を主張して負け、本応寺日憲に対して詫び状を書いている。いかに仏教に無知であったかがうかがわれる。
その後、また離脱して仏立講を開いたが、うまくいかないで死んだ。死相は堕地獄の相を示していたという。これを見た幹部たちは、かねてから折伏を受けていた日蓮正宗に改宗し、京都住本寺の檀家となった。ためで、本山を京都の宥清寺においているが、実質上の根城は東京・渋谷の乗泉寺である。
教義は、八品所願の妙法と、釈迦本仏と、上行日蓮菩薩とを立てる低級な邪義である。本尊は南無妙法蓮華経のニセ曼荼羅で、坊主は黒衣をまとって信者宅を回り、飲み食いに励む。信者は拍子木をたたいて題目を唱え、病気になると想像に及ばぬ水を飲ませるという邪教ぶりである。
⑧在家日蓮宗浄風会、日蓮主義仏立講、法華宗獅子吼会等は、ともに仏立宗に叛旗を翻して、在家信者たちが作ったものであるが、日蓮大聖人の正法に反する邪義である点は同じである。
⑨顕本法華宗は、妙満寺派または什門派と称し、大聖人滅後100年ごろ、日什が開いたものである。本山は京都・妙満寺である。日什は、もと天台宗の学僧であったが、大聖人の御書を読んで、末法の法華経は大聖人によらなければならないと知ったが、どの宗派が正統かわからず、みずから御書を読んで悟ったと称し、経巻相承と立てた。
教義には、一応三宝をたて、法宝を寿量文上・本果の妙法、仏法を寿量顕本・脱益釈迦、僧法を上行蓮と立てているが、末法御本仏・文底仏法を知らぬ哀れさというべきである。
戦時中、顕本法華宗は、奇怪にも一致派の身延と合同し、その後、一部独立したが、大部分は身延派にとどまっている。なお、明治時代、本尊統一と叫んで釈迦本仏を立てた本多日生は、この派のものである。
⑩法華宗陣門派は、日朗の弟子・日印が派祖で、日印は京都本圀寺と、越後三条市の本成寺を開創した。日印の弟子日静は本圀寺を日伝に本成寺を日陣に譲って死んだ。その後、日陣が勝劣を唱え、一致派の本圀寺と分かれて独立したのが陣門流である。
⑪法華宗真門流は、京都妙顕寺日具の弟子、日真が、京都・四条大宮に本隆寺を開創し、本迹勝劣を立てたのに始まる。
これらの勝劣派はいずれも本迹相対までは知っているが、種脱相対を知らない輩である。
日興亜流
⑫これら五老僧を系統として生じた亜流に対して、富士門流から別派を立て独立した本門宗がある。北山本門寺、京都要法寺、伊豆実成寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、西山本門てらであり、いずれも本門戒壇の大御本尊を、根本の御本尊と仰げぬ輩である。
なお、正法本流と仰がれていた、日蓮正宗の邪義については、機会を見て別に論ずる。
新興宗教
明治以降に発生された新興宗教で、圧倒的多数を占め、邪教をほしいままにしたのが、南無妙法蓮華経を唱えた経団である。その発生は、ともに日蓮宗各派の荒行等に参加した信徒が神がかりになり、奇妙なことを口はしりはじめたのである。そのため、教義らしいものは特になく、のちになって言い出したものと、結局、日蓮宗各派や天台宗等の学者をやとって作っている。立正佼成会のごときは、その代表で、その厚顔無恥ぶりは呆れるばかりである。
⑬大正時代の初め、子供のオシとイザリに悩んでた西田俊蔵が、ワラをもつかむ思いで、無縁仏を清め、その戒名を仏壇に祭って題目を唱え、仏所護念の信仰と称した、その信者になった小谷安吉、その妻キミ、弟の久保角太郎が、赤坂の三畳間で猛烈な荒行を続けた結果、大正12年(1923)に旗上げして霊友会と称したのである。
教義は、死んだ先祖を仏と思い込んでいる錯覚を利用して戒名を本尊として読経唱題するものである。もとより、戒名の当人たちは、地獄界・餓鬼界の不幸の中に沈淪しているので、これを拝むことは、みずから地獄・餓鬼等の悪道に堕ちる結果となる。仏所護念を「仏を護念する」等とよんでいるのも、彼らの無智無学を暴露する外の何ものでもない。法華経の「妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くる法」とあるのは、仏が護念し給う法でその実体は寿量品の如来秘密神通之力、すなわち事行の一念三千の大御本尊である。
要するに彼らは仏教哲学の何たるかもわからず、言葉だけを看板にしているに過ぎない。そして、その本質は、身延派や中山派から取り入れた荒行で、信心を狂わせ、金を巻き上げているのである。社会事業等に手を出すのも、こうした邪教ぶり、悪らつな搾取に対する世間の攻撃を避けるためのごまかしにほかならない。
⑭立正佼成会は、霊友会が内部紛争から崩壊し、妙智会、考道教団等に次々と分裂し始めたのに乗じて昭和13年(1933)、庭野鹿蔵と長沼マサ一派が独立して発足したものである。教義は霊友会と同じく低級な先祖崇拝と因縁話を結びつけたもので、布教の手段に姓名判断を取り入れたのが目新しいところである。
強引な布教とばかげたこじつけの因縁論で、悩んでいる中年婦人を集め、金をしぼり、勤労奉仕させて、東京・杉並の和田本町に次々と道場を建てた。しかし、戦後の混乱期を過ぎると、布教も止まり、財産を取り上げられて気がついた信者たちが離脱している。
その対策として、教義を作り、法華経講義に狂奔し、本尊まで、次々と取り替えているのは、笑止千万である。化けの皮のはがされた狐が、あわてふさめいて、次々と姿を変えようとするのと同じではないか。
さらに、新聞、書籍販売、組織等、万事創価学会の真似をしているのは、滑稽な位であるが、ただ一つ、真似のできないものがある。それは、正法の信心であり、信者を幸福にするということである。
⑮孝道教会は、天台宗と邪宗日蓮宗との混血児で「熟脱正法」なる珍説をふり回している。教祖は岡野正道で、もともと天台宗の僧侶であったが、昭和の初期、横浜でラジオ屋を開いているころ、妻ミキ子とともに霊友会に入り、支部長にまでなった。
しかし、霊友会のあまりにも低級な教義にあきたらず、一派を開いて孝道教団と称した。終戦後、横浜の六角橋に本部を設け、さらに鳥越山を買収して孝道山と呼んでいる。本尊は入信当初、佼成会と同じく総戒名を与え、「みちびく」と、曼荼羅や守護尊神なるものを与える。その際、莫大な金を取ることは、もとよりである。
教義は「現在は釈迦滅後2500年である。釈迦滅後2000年から2500年までの末法500年は、題目だけを唱える上行所伝の下種益の法華経が弘まった。しかし、2500年以後は熟益の時代で、無辺行所伝の法華経すなわち熟益正法、みのる法華経でなければ功徳はない」というもので、岡野総理が無辺行菩薩であるというのである。
四菩薩の何あるかも知らず、種熟脱の三益も知らない、わらうべき「もと天台宗」の教学力である。四菩薩とは生命論では常楽我浄の四徳を表わすものである。また、法華経の付属の儀式に見ても、総じて四菩薩以下六万恒河沙の地湧の菩薩に付属されているが、別しては上首上行に末法万年尽未来際の大法弘通を託されている。2500年をもって区切ることなどは、経文のどこにもない岡野の我見である。
また、大聖人の下種益とは、種・熟・脱を一度に生ずる即身成仏の大功徳をいうのである。彼らは別体の地涌、総体の地涌とあるのを知らないで、下種の師は上行で、熟益の師は無辺行という三益の師を別に立てることは、仏法に対する無知ぶりを示したものにほかならない。いわんや、種・熟・脱と時代を区切るのは、即身成仏を知らず、歴劫修行に執する邪見の極みである。
⑯国柱会は、明治の初めに田中智学が開いたものである。はじめ蓮華会と称したが、いわゆる横浜問答によって一時姿を消したが、また現れて立正安国会を開き、大正3年(1914)国柱会と称するようになった。釈迦仏法を立てながら、佐渡始顕の本尊を根本正式の本尊にせよとか、支離滅裂の教義である。
高祖遺分緑や本化聖典大辞林、日蓮主義教学大観等を出版し、あるいは日蓮正宗の教義を盗んで、富士戒壇説、曼荼羅本尊中心説、本尊雑乱撤廃説等を唱えた。しかし、みずから身延に参拝したり、大聖人ゆかりの名所・旧跡を歩いたりしているのは、以上の主張とまったく反する自語相違というほかない。戦時中には、時流に迎合した国体論を宣伝し、神社参拝を強調して、謗法の限りを尽くした。智学は失明し悲惨な晩年を送った。
彼の死後、国柱会は智学の子供や、高弟の山川智応等の間で醜い権力争いを演じ、四分五裂した。田中芳谷、香浦の国柱会、里見岸雄の立正教団、山川智応・高橋智遍の本化妙宗連盟、田中雅哉の正法会、ほかに立憲養正会、精華会等がこの流れを汲むもので、一部立正佼成会に流れたものもいる。
⑰このほか、平和運動の学生デモに混じって黄色い袈裟を着て、異様な雰囲気をかもし出している宗教団体、日本山妙法寺がある。服装は原始仏教時代的な南方仏教のようであるが、藤井日達が33歳の時、満州で創立したものである。その後、中国、インドに渡り、ガンジーの無抵抗主義の影響を受けた。彼らが平和運動等に顔を出すのも、この暴力否定、無抵抗主義を旗印にしているからであろう。
その半面、日本に150ヵ寺、インドに数ヵ寺をもち、中央に曼荼羅をかけ、その前に大聖人の像、左右に釈迦像と聖徳太子像を置くといった本尊雑乱ぶるである。そして「相手の眠っている仏性をよびさますのだ」と称して、ウチワ太鼓をたたいて題目をとなえている。
大聖人出世の本懐たる大御本尊を拝さずして、本尊を雑乱し、謗法を呵責しないで同座し、平和祈願と称して仏舎利を造り、正法にそむいて相手の仏性を覚醒するなど、ことごとく大聖人の御精神に反する大謗法である。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」の御金言を、よくよく拝すべきであろう。
まとめ
以上に述べてきた、各宗派の邪義ぶりは、氷山の一角を表面的に触れたに過ぎない。その実態はもっと悪質であり、流す害毒は筆舌に尽くしがたい。仏教と銘は打っていても、実は宗教営業であり、民衆の血を搾取する悪鬼である。生命力をむしばみ、財産をしぼり尽くして、理性を麻痺させ、あげくの果ては不幸のどん底へ突きおとしているのであり、時代の変革とともに、今後新たな邪教団が出てくることも必然である。
宗教は難解である。流派が多すぎて、どれが正しいのかわからない。皆、我田引水で自宗をよく言い他宗をけなすのはあたりまえである。だから、そんなことは本気で聞けない等とおうのを止めて、まず耳を澄まし、よく考えるべきである。そして、文証・理証・現証によって、はたして正しいか、邪悪かを、冷静に判断することを訴えたい。
唐世は義農の世と成り唐虞の国と為らん
義農とは伏義・神農、唐虞とは唐堯・虞舜で、ともに理想的な幸福社会の意である。孔子・孟子等の儒教思想家が理想郷として示したので、広く用いられるようなった中国のユートピアである。
政治を行なう者も、政治思想を説く者も、また、よき社会を願う民衆も、一つの理想像を描き、憧憬をもやし、その現実をめざして努力することは、人間心理の自然な動向といえよう。義農の世も、唐虞の国も、歴史上はたして実在したかどうか、また、史記等に説かれているような理想社会であったかどうか、それは不明である。だが、中国民衆は古来、そのような時代があったと信じ、孔子等の儒教を根底におく政治思想家も、そのような社会の実現を政治の究極の目標として立てたのである。
これに対して、老子・荘子の流れを汲む人々の理想としたのが天仙の国、蓬莱山である。理想世界をこの娑婆世界に建設しようというのではなく、東方の海の中に楽土があると説き、仙人の修行によって、海を渡る術を得て、そこに行けば、しあわせになれる等と教えたのである。
中国においては、この二つの思想が、互いに対立し、勢力争いを演じながら漢民族の歴史を織りなしたのである。仏教が中国民族の歴史の上に現われたのは、この二つに較べると、はるかに短かった。前二者が2000数百年に及ぶのに対し、仏教は後漢の明帝の永平10年初伝という。これは西記0067に当たる。唐第15代武宗皇帝による大弾圧が0842年で、これ以後、若干復興したが、元の侵略に伴ってラマ教が支配し、さらに清代、1850年ごろの太平天国の乱で壊滅的な打撃を受けた。実質的には、武宗による弾圧をもって終わったとも見られるのである。
こうして見ると、中国における仏教流布の時代は、まことに短い。むしろ、中国仏教は天台大師を頂点として、日本に仏教を伝え、末法御本仏出現の基盤を整えるためであったと考えられる。これ仏法東漸であり、末法の大白法が、今度は東から伝えられ、末法万年尽未来際まで、中国の民衆をも、インドの民衆をも救済するのである。
而して、中国に流布した仏教は、浄土教であり、天台宗である。釈尊一代の教法からみても、権大乗、法華経迹門に過ぎない。だが、仏教の中国文明史に残した足跡は、実に大きい。法華経本門の大仏法を根底とする第三文明の偉大さが、この事実からも確信できる。
仏教に説く理想郷・寂光土
さて、仏教において、その理想郷とする所は、まず権大乗では、東方浄瑠璃世界や西方極楽世界のごとく、この娑婆世界とははるか離れた遠くにあると教えられた。而して、実大乗経である法華経では、遠くにあるというのは誤りと否定され、この娑婆世界が即寂光土と説かれる。
すなわち、寂光土とは、よそに求めるのではなく、われわれが、この世界に実現すべき目標である。その方法は、妙法の広宣流布によるのである。理想世界といい、汚濁の世界といい、所詮は人で決まる。民衆に福運がなく、智慧もなく、貧乏・病気・不和に支配されている社会は、不幸の社会であり穢土という以外にない。逆に、民衆に福運があり、智慧があれば、貧乏も病気も追放し、不平・暴力もなくすことができる。すなわち、福祉社会が実現する。
これが「妙法なれば人貴し、人貴ければ所貴し」の方程式であり、理想世界実現の原理なのである。あくまでも、法が根本である。法のない社会は、骨のない動物に等しく、魂のない人間に等しい。必ず独裁制に陥り、民衆の自由を奪うか権力の乱立となって社会としての秩序を失う結果となろう。最高の正しい法と、それによって革命されたる人間の叡智の結集こそ理想社会の真髄である。
西洋哲学に見るユートピア
過去、ヨーロッパにおいても、さまざまの理想郷が描かれてきた。そうした考え方は、イギリス・ルネサンスの思想家トーマス・モアが著わした書にちなみ「ユートピア思想」と叫ばれている。utopiaとはギリシァ語の「ない・場所」ou toposを合成した語である。彼は、架空の島を想定して現実社会を批判し、理想社会を描いたのである。
このほか、イタリアのカンパネラの「太陽の都」イギリスのF.ベーコンの「二ユー・アントランス」等がルネサンス期のユートピア思想の代表例である。
降って、17世紀以後の近代市民革命の時代にも、さまざまのユートピア構想が現われている。イギリスのウィンタンスを中心とするディガーズ、18世紀フランスのレモン、マブリらがそれである。
19世紀にはいると、産業革命の結果、資本主義が発達し、幾多の社会的矛盾が生じ始めた。これに対して、サン・シモンやフ―リエ、オーエンなど、いわゆる空想的社会主義が、やはりユートピアを構想して、現実への批判を行っている。
総じて、ヨーロッパにおけるユートピア思想は、社会の機構上の改革をめざすことが主眼であった。私有財産制を攻撃して共有財産、共同労働、相互扶助の主張は、共通した論点といえる。だが、これらは単なる空想の域にとどまっている。それを初めて、経済学的、哲学的に体系化し、革命という手段で実現したのが共産主義である。
だが、共産主義は社会機構を変革し得ても、人間性を変えることはできなかった。ソ連におけるスターリンの恐怖政治、個人の自由への圧迫は、共産主義社会が、けっして理想社会でないことを物語っている。最近、ソ連当局が国民の私有財産や産業の利潤追求を大幅に認めたというのも、彼らの理想に根本的な誤りがあったことをみずから認めたことを意味する以外のなにものでもない。
人間社会の幸福と繁栄は、人間性への深い洞察と理解なくして実現できる道理がない。この人間性の基盤に立ち、また人間性を根幹にしての社会変革、機構の確立であって初めて理想社会を建設できるのである。これが、われわれが実現しとうとする人間性社会主義の思想である。
政治と人間性
政治の良し悪しほど民衆の幸・不幸を左右するものはない。これまで、さまざまに論じてきたように、悪政が災害を増長し、多くの民衆を飢餓や病苦に追いやることもある。また、単に天災による被害が悪政のために増大するような場合のみでなく、現代における公害問題のごとく、人間の営みそのものが災害をもたらすこともある。
あるいは、政府の偏よった政策が、犠牲を生み、多くの人々を困窮のどん底に落とすことも珍しくない。しかし、最も直接的に民衆を苦しめる政治悪は戦争である。戦争とは、どんなに美化しようと、政府の名で公認された大量殺人にほかならない。
かつて、広島と長崎に人類最初の原爆が投下されて、何の罪もない30余万の民衆が、その劫火に焼かれて死んだ。しかし、投下を決定した最高責任者は、何の罪にも問われていない。
一方、ソ連では、ドイツ軍との間に激戦が展開されたとき、数百万のソ連兵士が人命を落とした。もとより、ドイツ軍の被害も大変なものであった。もしスターリンの作戦に誤りがなければ、ソ連軍の被害は、はるかに少なくてすんだであろうといわれている。しかし、戦後、スターリンは、大戦を勝利に導いた英雄として、それまで以上の崇拝を受けた。
人間性尊重こそ政治の要諦
これに対して、もとより罪を問われた人々もある。敗戦国ナチ・ドイツの指導者たち、日本軍部政権の首脳たちである。すなわち、国破れ、政権の座から引きずりおろされた者は、罪人となっている。
このことは、伝在の世界には、政治権力の座にあるかぎり、いかなる非道を犯しても、いかなる誤りがあっても、その人は罪に問われないという、まことに不思議な原理が存在していることを物語っている。それゆえにこそ、政治の良し悪しは、厳密に検討されなければならないし、政治の根底に人間性をおかなければならない。
すなわち、政治はそれを行なう主体、権力者も人間であり、その対象も人間である。そこに一貫されるべき思想は、あくまでも人間性を尊重しなければならない。これが、万人の求めてやまぬ政治の理想といっても過言ではないであろう。
そればかりではない。過去のいかなる時代に比較しても、現代ほど政治のあらゆる面に人間性の果たす役割りが期待され、重視されている時代もない。しかも、それにもかかわらず、過去のいかなる時代にもまして、現代は人間性の危機が叫ばれているのである。
過去の政治観を検討してみると、そのいずれも、政治や国家は人間の力以上の何かによって動かされているという考え方があった。たとえば、古代においては、中国の天命説のように、天の命によって統治すると考えた。それと似た思想があらゆる民族、国家にあった。エジプトにおいては王すなわち神なりとされた。くだって中世ヨーロッパでは、王権神授説がとなえられ、政治権力の絶対性が神の名において主張された。
近世にはいって17世紀から18世紀にかけ、ロックやボブスンが出現し、さらに民主主義が確立されるに及び、政治権力は民衆の依託によるものとされるようになった。ここに大きい前進を遂げたのであるが、なお、完全に人間性によって律せられるようになったわけではない。
たとえば、19世紀資本主義においては、個人の自由な活動を重んじているが、全体的な調整については「見えざる神の手がこれをなし給う」と説く。これに対し、共産主義思想は、全体的な調整を人間の手に帰したものの、その歴史的展開は、社会全体の弁証法的発展によるものとしている。
20世紀にはいった現代、資本主義も共産主義も、福祉国家をめざして前進している。資本主義は本来、放任してきた個人主義的自由を抑制せざるをえなくなり、かなり社会主義的な行き方に変わってきている。共産主義も、社会は放っておいても自然に弁証法的発展をするわけでは決してなく、社会革命には暴力の必要もあるし、計画経済で運営していかなければならないという考え方を根幹にするようになってきている。
これらの事実は彼らが信じていた「見えざる神の手」も「弁証法的発展法則」も、所詮、人間の手を離れてはなく、人間がそのように図っていく以外にないということに気づいた結果である。この意味であくまでも人間本位の思想なのである。これは、過去に例を見ない現代の特色であり、まさしく人類史上の一大変革ともいうべきであろう。
この20世紀に始まる思想は、まだ試行錯誤の段階であって、これが根底から確立されるためには、人間生命への深い洞察と哲理を有する生命哲学が基盤でなければならない。すなわち、日蓮大聖哲の色心不二の生命哲学こそ、人類の新時代をもたらす最大源泉なりと確信してやまない。
時代の趨勢は福祉国家へ
以上の理念的な面に対し、具体的な政治についても、現代は大きく行き方が変わってきている。これを簡単にいうと、これまでの政治は消極政治であり、現代ならびにこれからの政治は積極政治であるということができる。
すなわち、18世紀、19世紀の政治機能論は、市民生活の上において何らかの支障が生じた場合にのみ、それを取り除くために働けばよいというものであった。したがって、政治が大車輪で動くということは、内乱か戦争か、あるいは国民の膏血をしぼりとる重圧政治か、いずれにせよ、よいことではなかった。
その一つの典型として、19世紀イギリスの「夜警国家」という考え方がある。これは、国家は泥棒を取り締まり、市民が安心して働き、生活できるようにすればよいのであって、それ以上に市民生活に干渉すべきではないというのである。
現代においては、国家機構は国民のあらゆる生活部面に密接に結びついているし、その糸は複雑にからみ合っている。人間は誕生してから成長し、勉強し、就職して働き、結婚して家庭生活を営み、子供を生み、育て、さらに年を取ったり、病気をしたり、さらに死にいたるまで、人生のあらゆる問題について、国家の世話にならないですませるものは、何一つとしてないといっても過言ではない。
一日の生活についても、食べる物、着る物、乗り物等、みな何がしかのつながりを政治にもっている。政府の物価政策は、微妙に食卓やレストランのメニューに反映しているし、政府の交通政策が道路の良否、電車賃の高低を決定している。
これは逆に政府の形態、国家機構からみても明らかである。天皇の下に太政大臣、左右の臣下しかなかった平安時代はいうに及ばず、明治にはいってからでも、政府機関はきわめて簡単なものであった。すなわち、宮中・府中の別を立て、宮中に内大臣と宮内大臣の二つ、行政府に内閣総理大臣以下、外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の十大臣があったに過ぎない。
戦後、今日の内閣は、総理府・法務・外務・大蔵・文部・厚生・農林・通商産業・運輸・郵政・労働・建設・自治の各省、および経済企画・行政管理・北海道開発・防衛などの各庁からなっている。
この二つを較べてみると、戦前の内閣は、いわゆる天皇の大権を補うという、眼を上に向けた性格のものであることがよくわかる。社会保障や医療問題を扱う厚生省、交通問題を扱う運輸省、労働者の待遇問題を扱う労働省、住宅や道路等に関する建設省、あるいは地方自自体の諸問題に関係する自治省、国民経済の見通しを立てたりする経企庁などは、戦前にはなかった。
これは日本だけについて見たものであるが、世界各国もほぼ同様の事情である。すなわち福祉国家は現代のあらゆる国がめざしている目標であり、その実現へ努力することが政府の当然のあり方とされるにいたっている。
裏返していえば、現代の政治は、過去のように消極的なものではなく、国民の住宅も、道路その他交通問題も、衣食の供給も、さらに病気にかかったり、老いて働けなくなかったりした場合の救済も、一切をになっていかなければならない。
日本国憲法第二十五条には次のように規定されている。
〔生存権、国の社会的使命〕① すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び前進に務めなければならない。
政治の根底に慈悲の精神を
現代の政治は、国家の中に人間としてふさわしい生活ができない人が生じた場合、これを救済しなければならない。すなわち、国民一人一人が皆、健康で文化的な生活を営むことができるよう努力することは、政治の使命であり、義務でもある。
事業に成功して大富豪になるのもその人の自由、失敗して一文なしになり、ついには一家心中するのも、その人の自由といった放任主義は、この憲法の精神のもとでは認められない。現実問題としては、もちろん一家心中や自殺もある。しかし、そうした不幸の人をなくすことを究極の目標として努力することが、政治の正しいあり方とされているのである。
いいかえれば、これは政治の根底に人間性の尊重、生命尊厳の思想が確立されるということにほかならない。したがって、政治の運用にあたる政治家や官僚こそ、この人間性尊重の精神に立って行うことが要請されるのである。
だが、残念なことに、現在まだ、政治家も官僚も、この理想からはるかに遠い。むしろ考えていることは、一身の栄誉栄達、名聞名利であり、自由の欲望を満たすために民衆を踏み台にし、尊い血税を吸い取り、騙しているものが少なくない。
特に、血も涙もない官僚の利己主義、縄張り主義は大きい嘆きである。これは、かっての封建主義的な役人根性の遺物である。政治家も官僚もあくまで民衆が税金で養っている公僕ではないか。民衆に仕え、民衆のために働くことこそ、彼らの当然の義務である。この事実を、政治家・官僚も、民衆も再認識しなければならないし、その精神を永久に失ってはならないであろう。
大切なことは、政治の基本精神に、この地上より“悲惨”の二字をなくそう、一人として不幸の人を出さないという慈悲が具現されることである。慈悲すなわち“抜苦与楽”こそ政治の古今変わらざる根本理念であり、現代政治においては、それがいよいよ具体的に要望されるといえよう。
この慈悲を人間の心に、なかんずく政治家の精神として確立し、ひいては社会原理として築く源泉は仏法にあると主張するのである。
政治権力は、往々にして、これまでの非人間性の代表のごとく思われてきた。為政者の貪欲・征服欲・支配欲・愚かさが、民衆を苦しめ、このような印象を常識化したともいえる。だが政治権力は、かつてのリンカーンが述べたように「民衆の、民衆による、民衆のための政治権力」でなければならない。
なかんずく、機械文明が、かくまで高度に発達し、人間疎外の現象を生み出している現代においては、さらに一歩すすんで「人間の、人間による、人間のための政治権力」でなければならないことが再確認されるべきであろう。
0031:07~0032:06 第二章 重ねて謗法対治を促がすtop
| 07 主人悦んで曰く、 鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る、 悦しきかな汝蘭室の友に交りて 麻畝の性と成る、 08 誠に其の難を顧みて 専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、 但し人の心は時に随つて移り 09 物の性は境に依つて改まる、 譬えば猶水中の月の波に動き 陳前の軍の剣に靡くがごとし、 汝当座に信ずと雖も 10 後定めて永く忘れん、 若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らしイソイで対治を加えよ、所 11 以は何ん、 薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、 所以他国侵逼の難・ 自界叛逆の難なり、 大集経の 12 三災の内二災早く顕れ 一災未だ起らず 所以兵革の災なり、 金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も 他方の 13 怨賊国内を侵掠する 此の災未だ露れず此の難未だ来らず、 仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以 14 四方の賊来つて国を侵すの難なり 加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る 鬼神乱るるが故に万民乱ると、 今此の文に 15 就いて具さに事の情を案ずるに 百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ 先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪 16 法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや、 帝王は国家を基として天下を治め 人臣は田園を領して 17 世上を保つ、 而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し 自界叛逆して其の地を掠領せば 豈驚かざらんや豈騒がざら 18 んや、 国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん 汝須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か、 0032 01 就中人の世に在るや各後生を恐る、 是を以て 或は邪教を信じ 或は謗法を貴ぶ 各是非に迷うことを悪むと雖も 02 而も猶 仏法に帰することを哀しむ、 何ぞ同じく信心の力を以て 妄りに邪義の詞を宗めんや、 若し執心飜らず 03 亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん、 所以は何ん、 大集経に云く「若し国王有つて無 04 量世に於て施戒慧を修すとも 我が法の滅せんを見て 捨てて擁護せずんば 是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く 05 皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇い 寿終の後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城 06 主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならん」と。 -----― 主人は喜んでいう。 鳩が変化して鷹となり、雀が変化して蛤となった。なんと悦ばしいことであろうか。あなたは、香り高い蘭室の友に交わって麻畑に生える蓬のようにまっすぐな性質になった。 真剣に災難を振り返り、ひたすらこの言葉を信じるなら、風はおだやかになり波は静かになり、わずかのうちに豊年となるだろう。 とはいえ、人の心は時間の経過にともなって移り変わり、人の性質は接する境遇に基づいて変わる。譬えを挙げれば、水面に映る月が波に動き、戦いに臨んだ軍隊が剣の動きにつれて動くのと変わらない。 あなたは、今この場では信じているが、後になると必ず忘れてしまって思い出すこともないだろう。もし、まず国土を安穏にして現世・来世のことを祈ろうと思うならば、速やかに考えを廻らして急いで謗法を滅しなさい。 その理由は何か。 薬師経の七難の内、五難は現に起こり、二難がまだ残っている。すなわち他国侵逼難・自界叛逆難である。大集経の三災の内、二災はすでに出現し、一災がまだ起こっていない。すなわち兵革の災である。 金光明経の内の種々の災禍はそれぞれ起こっているが、外部の敵対者が国内を侵略するという災難はまだ現れていない。 仁王経の七難の内、六難は今盛んであるが、一難はまだ現れていない。すなわち、四方の外敵がやって来て国を侵すという難である。それだけではなく、「国土が乱れるという時にはまず鬼神が乱れる。鬼神が乱れるために万民が乱れる」とある。 今、この文に即して詳しく事態の本質を考えてみると、百鬼はすでに乱れ、万民は多く亡くなっている。先に起こる災難は、明らかにすでに起こっている。後に起こる災難をどうして疑うことができるだろうか。もし残りの災難が、悪法を用いた罪によって一斉に起こり先を争って到来するなら、その時はどうすればよいのだろうか。 帝王は国家を基盤として全国を治め、臣下の者は田園を領有して世の中の安穏を保つものである。しかし外敵がやって来てその国を侵略し、内乱・反逆が起こってその地を支配下に置くなら、どうして驚かないことがあろうか。どうして騒然としないことがあろうか。 国家が滅亡してしまったら、世を逃れるといっても、どこにいることができるだろう。自分の安心を考えるなら、あなたはまず社会全体の静穏を祈ることが必要ではないのか。 とりわけ、人の世に生きているかぎりは、だれもが死後のことを心配している。その結果、誤った教えを信じたり、正法を謗る教えを貴んだりしてしまう。それぞれの人は、正しいものと正しくないものとの区別に迷って、誤った教えを信じてしまうことは、嫌悪しているけれども、それでもなお判断を誤り正しい仏法と分からず、正しい仏法に帰依することを哀しいことだと思って避けている。同じ信じるなら、その信じる力で、どうして思慮もなく、誤った主張を説く言葉を崇めるであろうか。 もし執着する心が改まらず、また歪んだ心がそのままあるなら、無常であるこの世からすみやかに去って必ず無間地獄に堕ちてしまうだろう。 その理由は何か。 大集経にはこうある。 「もし国王がいて、過去世で数え切れないほど生まれ変わることを繰り返し、そのたびに布施・持戒・智慧の実践を行っていても、私の法が滅しようとするのを見ながら、関心を持たず護ろうとしないなら、このように種をまいた無量の善根がことごとく失われ、…その王は短命で必ず重病に遭い、寿命が尽きた後には大地獄の中に生まれる。王と同様に夫人・太子・大臣・都市の首長・村の首長・将軍・郡の首長・官吏もまたそのようになるだろう」 |
鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る
出典は礼記の月令篇で中国古代の説話と思われるが正確には不詳。に鳩・鷹・雀・鳩等は、物事が変化する譬えとして用いられている。日寛上人の分段には「珠林四十三にいわく『春分の日・鷹化して鳩と為る、秋分の日・鳩化して鷹と為る、時の化なり』またいわく『百年の雀・江に入りて蛤と為る』……客すでに悪を転じて善と成るは鳩化して鷹と為るがごとし……但・変化の義を義を取るのみ」とある。
―――
蘭室の友
薫り高い蘭の室にいると、その香りが身にしみてくることから、高徳の人と交わって感化されることをいう。
―――
麻畝の性
麻畝は麻畑のこと。蓬のように真っすぐに伸びない草でも、麻畑に生えると、周りの麻に支えられてまっすぐに伸びる。邪法を信じて誤った考えに陥ったひとでも、ひとたび創価学会に入ると、同士に守られて、幸福境界を得ること。
―――
人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる
安国論の文であるが、依文の出典は不詳。人心の変化するさまを示す。
―――
水中の月の波に動き陳前の軍の剣に靡く
安国論の文であるが、依文の出典は不詳。人心の変化するさまを示す。
―――
情慮
どのように事を運ぼうかという思索。考え。
―――
薬師経の七難
①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難
―――
大集経の三災
穀貴・兵革・疫病
―――
金光明経の内の種種の災過
①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
―――
仁王経の七難
①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難
―――
先難
すでに起こっている災禍
―――
後災
経文に説かれていながら、まだ現れていない災禍。
―――
悪法の科
一国謗法の罪。
―――
自界叛逆
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
―――
一身の安堵
不安のない生活、環境。堵とは垣を意味する。自己の生活を境界に侵されることなく、その内に安んじていられること。
―――
四表の静謐
四表とは四方のことで、静謐とは、安定・平和を意味する。
―――
猶仏法に帰することを哀しむ
せっかく仏法に帰依していながら、誤れる宗教との分別がつかず、迷っていること。
―――
曲意
仏の教えを正しく聞こうとしないで、自分勝手の考えを持つこと。我見・私曲の心。
―――
有為の郷
有為は梵語(saṃskṛta)で、為作あるの義。無為の反対語。娑婆世界・人間世界を意味し、因縁によって生ずる種々の現象をいう。すなわち有為の法とは、必ず生住異滅の四相があり、常住でないから「有為無常」ということで、永遠の生命を覚知できない凡夫の生命を「郷」という。
―――――――――
が態度を改め、主人の言葉どおりに邪宗に対する布施をやめて正法を信じ、社会の平和と繁栄を期そうと誓ったのを喜び、重ねてその決意の実践を促している。
特に、三災七難のうち、自界叛逆・他国侵逼の二難が残っており、もし日蓮大聖人の諌暁を用いて謗法を対治しなければ、必ずこの二難が競い起こってくるであろうと予言されているのは重要である。
蘭室の友に交りて麻畝の性と成る
客が主人と語り合うことによって、蒙を啓き、ただ災難を嘆くのではなく、対治の法をもって立ち上がったことを喜ばれているのである。人は環境を支配し、周囲を動かしていくが、逆に環境に支配され、人に動かされる面も少なくない。自己に確固たる指針と信念のない人は、むしろ、動かされ、支配されることの方が多い。環境や交際する友人が大切である所以である。しかしながら、最初から確固たる指針や信念をもっている人はいない。もっている人と触れ合うことによって、おのずから自己を確立することができるのである。
今、創価学会に対して、誤解や浅い認識しかなく、悪意と偏見をいだいている人が少なくない。だが、ひとたび学会の座談会等の会合に出席し、共に語り合うならば、必ず、偏見であったことに気づき、悪意は善意に変わると確信してやまない。
また、学会員の御本尊に対する信心を根本とした世界平和の情熱、民衆の幸福への希望、自己の生活向上の確信は、必ずその人の心を動かし、同じくまっすぐにしていくであろう。事実、乱れきった世間に染まって、根性曲がりの利己主義であった人も、素直な自己を取り戻し、やがてみずから御本尊を拝んで創価学会員とし、大聖人の弟子として、希望と確信と情熱に満ちた、充実した人生に変わっているのである。
人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる
話を聞いた当座は感激しても、やがて時がたつと、その感激はうすれてしまう。また、その場にいる時は正しいとわかっていることでも、悪の仲間の所へ戻ると、正しくないように思ったり、ばかなかしいと思い直したりするものである。
人の心は微妙である。時代により環境によって、時としては、まるで逆の反応を示すものである。戦時中、天皇制を讃え、国体論を唱えた人が、占領下では180度転換して民主主義を叫び、今また、口では民主主義を唱えながら、民衆の真の覚醒を妨げようとしている例も少なくない。戦前は日本民族至上主義を信じた人々が、いったん、国破れるや、日本を馬鹿にして、売国的な行為に走っている例も少なくない。
個人においても、社会・国家においても、絶対に崩れることのない精神的支柱を築き上げなければならない。低い哲学・低級な思想は、必ずいつか力を失い、崩れ去ってしまうものである。偏狭な思想は、世界的な視野に立って、協調しながら民族の発展を推進するということはできない。最も高く、最も円満な哲学・思想によらなければならない。それは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学であり、東洋仏法の真髄、三大秘法の大仏法による以外ないのである。
若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らしイソイで対治を加えよ
薬師経、金光明経、大集経、仁王経の4経の経文に照らして、自界叛逆・他国侵逼の2難は眼前にある。その根源は一国謗法である。したがって、謗法を対冶することが、国土を守るため、第一の肝要である。こうしてのちに現在および未来、さらには未来世への幸福と繁栄を願っていきなさいとのお言葉である。
このように、本人に謗法払いさせる方程式は、一家においても同じである。創価学会の折伏について、謗法払いが破壊活動になるのではないか等の邪義をふりまわす人々がいる。これはまったくの悪意による非難で、折伏した方の学会員が、謗法払いを強要したり、あるいは本人が嫌がるのをみずから手を下して行なったりすることはない。本人の主体的意思によって行なわれるものである。
一国の謗法払いは、謗法の僧を禁じて、仏の正法に敵対する宗教を対冶することである。それはすなわち、指導者も民衆も、一念の中にある謗法を断ち切ることに帰するのである。同じく、一家の場合も、謗法払いを通じて一念の謗法を断絶することになるのである。
謗法払いを、創価学会が勝手に考え出したことのようにいう人がいる。無認識も甚だしいといわざるをえない。謗法を呵責し、禁ずることは、仏教本来の精神である。創価学会こそ、この仏法の精神を最も真面目に、仏の金言のままに実践しているのである。
しかして、謗法を禁じて自界叛逆・他国侵逼の源をふさぎ、国土を安んじてのちに、おのおの幸福境涯の確立を図るべきであるとの言葉である。すなわち自界叛逆難・他国侵逼難が絶対に起こってくるとの御確信であって、この予言が的中したことは、前述したとおりである。
すなわち自界叛逆難は、すでに何回かふれたごとく大聖人佐渡ご流罪中の文永9年(1272)2月の北条時輔の乱がそれである。時輔は北条時頼の子で、執権の時宗とは異母兄の関係である。時頼の正妻の子でないからという理由で、家督を時宗にとられたのを恨んで謀叛を企てたのである。事前にこれを察知した時宗は、一味と目された名越教時、仙波盛直らを、2月11日、鎌倉で殺害し、続く15日、京の南六波羅蜜探題にあった時輔を、六波羅北方の北条義宗らに襲わせた。世にこれを二月騒動という。
他国侵逼難は、文応元年(1260)の御予言から満7年と7ヵ月たった文永5年(1268)閏正月、蒙古・高麗の国書をたずさえて、使者、潘阜が大宰府に着いており、数度にわたる使者来日ののち、満14年ののち文永11年(1274)10月、文永の役、さらに、文応元年(1260)から数えて21年後の弘安4年(1281)5月に弘安の役となってあらわれたのである。
このように、厳然たる事実があるにもかかわらず、蒙古軍は二度とも風雨にあって破退したのだから、国が亡ぶという大聖人の予言は外れたのではないかという輩がある。これについて、日寛上人は、次のように論破されている。
すなわち、第一には、大慈悲忠諌の意であって、父が子の過ちを責めるのに、改めないと身を滅ぼすであろうという、それは身を滅ぼさせないための親心の親切である。と同じく、大聖人の御予言も、国を安んぜんがための大慈悲心である。
第二には「神の力によって護られた」と世人の言っていることに関連するのであるが、一つは鎌倉政府が悔い改めたことによる。その証拠として、大聖人の佐渡流罪を赦免し、大聖人の御活動を妨害しなくなった。もう一つは、何といっても、御本仏、日蓮大聖人がひかえておられて、護ってくださったのである。種種御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-16)と仰せのとおりである。
日蓮大聖人の大慈悲によって、蒙古襲来による亡国の悲運は免れた。しかし、以来700年間、大聖人の正法を用いようとせず、弾圧迫害を続け、謗法を深めた結果、「法に過ぎて」遂に太平洋戦争の敗戦亡国となったのである。
異体同心事にいわく、
「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん、譬へば灸治をしてやまいをいやし針治にて人をなをすがごとし、 当時はなげくとも後は悦びなり」(1463-12)と。
すなわち敗戦の現実、連合軍による占領政策は、未曾有の謗法払いがなされたと同じ結果となった。まず、敗戦によって、過去、日本民族が持ち続けてきた謗法の神に対する盲信が崩れ去った、次に、占領政策の実施によって、過去数百年来、既成仏教の維持した数々の特権が取り去られた。農地改革による広大な寺院所有地の整理等は、寺院の経済的基盤を抜き取ってしまうことになった。結果的には「一闡提の施を禁ぜよ」の御金言が、見事に実行されたことになる。占領軍の宗教政策の主眼であった国家神道に対する特権の除去は「信教の自由」として、憲法に明文化された。
大聖人の御予言の正しさは証明され、一国謗法の根は断たれ、化儀の広宣流布の条件は整ったのである。ここに、この大目的のために立ち上がったのが創価学会である。だが、民衆の宗教に対する不信は深く、無智は幾多の新興宗教の跳梁を許した。順縁広布とはいえ、決して平坦な路でないことは、覚悟の上で進まなければならない。過去もそうであったし、未来も、いよいよ、そうである。
仏法民主主義について
「加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とは、思想の乱れが民衆の乱れを惹起し、民衆の乱れが国土の乱れを招くとの原理である。同じ方程式で、この逆をいえば「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578-12)となる。民衆の幸福、国土の安穏を築くためには、まず悪法、邪法を追放して善法、正法を確立することが肝要である。
民主主義が、自由・平等・尊厳をその内容とすることは、多くの思想家の一致した見解である。だが、この三つは並列的に論ずべきものではなく、自由といい、平等といっても人間生命の尊厳という土台に立っての自由・平等でなければならない。
いかに個人の自由といっても、他人の権利、生命を犠牲にすることは許されない。また平等というも、生命の尊厳を無視した平等は絶対に認めることはできない。政治も、経済も、教育、科学、芸術も、いかにすれば民衆の幸福を増進できるか、人間性を向上できるかという目的のための活動である。
だが、人間の幸福、生命の尊厳観は、単に物質的に恵まれ、教養を豊かにしたところで完全に満たされたことにならない。欲望は限りなく発展して満足することを知らないし、一方では、死の恐怖が常に幸福を空虚なものにしている。尊厳を理想としつつ、現実は余りにも醜く、はかない。この矛盾を解決するために宗教が生じた。
キリスト教民主主義と人民民主主義
キリスト教は、人みな原罪によって穢れた存在であるとし、父なる全知全能の神を信じ、その教えを実践することによって救われると説いた。このキリスト教が全ヨーロッパに流布して現出した神の国が、暗黒時代といわれた中世ヨーロッパにほかならない。
ルター等の宗教改革は「神の代理人」としてのローマ法王を否定し、天なる神を地上の人間と信仰によって直結させようとする試みであった。かくして、新教側にも、また新教に刺激されて旧教側にも、新しい宗教運動が起こった。そして、神と直結するという考え方から人間生命の尊厳思想が確立して、民主主義思想の発展をもたらしたのである。
このように、近世以来、イギリス、フランス、アメリカ等において発展してきた民主主義は、キリスト教を根底とするのである。すなわち、キリスト教民主主義と呼ぶことができる。
これに対し「宗教は阿片なり」として、キリスト教を真っ向から否定して唯物論を唱え、プロレタリア革命を叫んだマルクスを元祖とする、新しい民主主義がある。ここでは、共産主義体制がとられ、計画経済のもとに、個人の自由が大幅に制限されている。経済的自由のみならず、思想、文化、信教の自由も厳格に規制されている。実質的には、むしろ全体主義、独裁主義ともいうべき政治が行われているのである。
しかし、彼らは、これは理念に至るまでのやむをえない手段であるとして、最終的には、マルクスやレーニンの唱えた、プロレタリアートによる完全な民主主義に達するのだという。このゆえに、人民民主主義と呼ばれている。
この二つが、現代の民主主義の代表である。このほか、世界的に流布した宗教としては、イスラム教がある。これは、唯一絶対神アラーへの信仰を唱え、厳格な戒律と一日に五度も行なう礼拝・喜捨・断食を要求する。中近東から北アフリカ、パキスタン、インドネシア等に流布し、かつては、華やかなサラセン文化を生んだ、だが、今はその形骸を留めるのみで、民衆の生活に浸透した習慣や迷信は、かえって民衆を無気力化させ、近代化と発展への妨害となっている。
イスラム教を信奉する中近東諸国やエジプトは、民族主義の旗印のもとに独立は獲得したものの、個人的な指導者の力量に依存せざるを得ず、したがって国家としての存立の基盤は脆弱である。「世界の火薬庫」といわれるこれらの国々の絶え間ない政情不安に、終止符を打つためには、力ある思想哲学が必要である。
インドにおけるヒンズー教も、カースト制度として、インド民衆を強く規制し、近代化の阻害となっている。生まれながら人を階級づける思想が、民主主義に反することはいうまでもないであろう。
また、その他の東南アジア諸国においては小乗仏教が流布している。男子はある年齢に達すると、必ず出家して、乞食行等の修行をする。禁欲と厳しい戒律を要求するこの宗教にも、やはり新しい政治・経済・科学を指導する理念を求めることはできない。
かくしてイスラム教地域でも、小乗仏教地域でも、その指導理念の空白に乗じて、西側のキリスト教民主主義と、東側の人民民主主義とが激突して争奪戦を演じているのである。この事情は、大乗仏教国である日本も同じである。大乗仏教が流布したとはいえ、もはやまったく形骸を残すのみで、心から信じている人はなくなってしまった。釈尊の予言どおり、白法穏没の姿が現実となって現われているのである。
仏教民主主義に理想社会の建設
このように、自由主義、共産主義、民族主義、国粋主義、あるいは売国的な思想等々が相争い、そしてそのいずれもが、深く根をたどる利己主義に帰着する。この姿は、正に「鬼神乱る」の実相ではないか。そして「万民乱る」の結果が出るのではないか。
さらに、キリスト教民主主義も、人民民主主義も、その最も基盤たる人間生命の尊厳については、きわめて偏見であり、観念的である。キリスト教哲学は観念的な唯心論を唱え、共産主義は偏狭な唯物論を主張する。肉体と精神活動とが一つになっている人間存在を正しく解明しきった哲学とはえない。しかも、単なる現世論で、死および死後の問題に対する解答はない。
西欧において、キリスト教に飽き足りない人々が、あるいは共産主義にはしり、あるいはニヒリズムを唱え、あるいは仏教を求める現象もこのゆえである。また、ソ連等共産圏において、思想的、文化的な統制政策を廃止できないのも、共産主義哲学に満足できない人々が多いからにほかならない。このように、東西両陣営にも「鬼神乱るるが故に万民乱る」の姿が、いよいよ顕著に現われ始めているのではないだろうか。
世界の全民衆が心から納得し、全人類が団結して理想世界の建設へ邁進していける唯一の政治理念こそ、仏法民主主義である。すなわち、色心不二の大哲学であり、永遠の生命観と宇宙即我の絶対的幸福を実現する日蓮大聖人の大仏法を根底とする民主主義である。
自由主義世界の民衆も、共産主義世界の民衆も、また、後進地域の民衆も、妙法に帰依して仏界の生命を湧現して初めて、真実最高の尊厳なる存在となることができるのだ。しかして妙法の当体なるがゆえに平等であり、苦の束縛を打破するがゆえに真の自由を獲得することができるのである。
さらに詳しく論じてみよう。
自由・平等・尊厳について
先に引用した「妙法なるが故に人貴し」とは、人間生命の尊厳について、その本源を明らかにされている。すなわち、人間の生命が尊いとは、誰でも口にすることである。だが、現実に、世の中には、尊い人間もいれば、害になる人間もいる。また、その程度も、千差万別である。これが現実とすれば、単に生命の尊厳を叫んでみても、それは空理空論である。
それでは、何をもって尊しとするか。その人の持っている法、哲学の高低浅深と、それがどのように言動に反映されるかによって、その人の尊厳が決まるのである。極端な例であるが、ナチズムのごとく、ドイツ民族を至高とし、多民族は支配されるべき奴隷であり、ユダヤ民族は抹殺すべき民族であるという思想を持った人がいるとする。そして、その思想を実践して、他民族を征服し、ユダヤ人を殺し始めたとすれば、冷静な人なら誰しも、この殺人主義者を尊敬することはできないであろう。
逆に、生命を浄化し、宿命を転換し、生命力を旺盛にする力ある哲学を持ち、自己を人間革命するとともに、人々にもそれを教えていく人は、最高に尊厳な人といわなければならない。しかして、その哲学を徹底して実践していく人が最高のなかの最高であり、自己の弱さに負け、徹底しきれない度合いに応じて尊厳の程度も決まってくるのである。この哲学こそ日蓮大聖人の生命哲学である。すなわち本地難思の南無妙法蓮華経の大法である。
日蓮大聖人は法に即して人、人に即して法、人法一箇の御本仏であられる。われらは、大聖人の教えどおり、人法一箇の大御本尊に題目を唱え、境智冥合することによって、同じく生命を浄化し、宿命転換し、力強い生命力を湧現して生活を楽しんでいくことができるのである。
このような、生命の奥底から確立し、現実の生活に実証できる生命の尊厳は、大聖人の仏法による以外に絶対にない。このゆえに、仏法民主主義こそ、人類が少なくとも3000年来、求め求めてきた真実の民主主義なりと断言してやまない。
また「自由」について考えてみよう。およそ西欧民主主義が求めてきた自由とは、キリスト教的ドグマからの自由であり、封建的身分制度からの自由であった。今日、憲法等で規定されている思想・信教・学問・職業・集会等の自由は、こうした思想的・政治的自由の具体化されたものである。
しかし、これは自由のごく一部に過ぎない。広い意味での自由とは、一定の因果関係において、一つの原因の働きが、他の因果系列や条件に妨げられることなく結果を生むことである。したがって、物理学において、物体が落下する場合、途中に妨害物がないことも自由と呼ぶのであり、生物学において、生物の行動についても自由が論じられる。心理学においては、たとえば本能や衝動に対する知性の自由ということもある。
このようにして、人間生命の存在について真実の自由を考えるならば、社会・政治的な外部的条件からの自由と同時に、最も本源的な煩悩・業・苦からの自由が獲得されなければならない。この生命の本源的な自由の獲得は、仏法による宿命転換、妙法の宇宙のリズムに合致することによって初めて実現されるのである。
今日、実存主義哲学で、人間存在の本源的な自由を、絶対者と、それに規制される人間性との関係において思索しようという動きがある。これは、中世からカント以前まで、神学上の基本問題として盛んに議論されたテーマでもある。こうした実存哲学の新しい動きがある。詮ずる所、人間生命を、より深く解明したいとの欲求の現われであり、東洋仏法の真髄たる日蓮大聖人の大生命哲学を求める、時代の趨勢ともいえるのではないだろうか。
平等についても、一応はキリスト教に説かれている。すなわち、人間は一人一人、神の似姿としてつくられ、神につながるというのである。だが、はたして神は人間を平等につくったが、観念的に平等といい、それが不平等による苦しみをまぎらわす一時の慰めとはなっても、それは本質的な解決とはならない。
政治においても、一応形式的には平等である。だが、実質的には、まず経済的な裏づけがなければ、必ず不平等を生ずる。観念的に人格の平等を説いても、具体的には、個性も違い、才能も違う。特に、西欧の民主主義においては、平等よりも自由に重点が置かれているため、社会的差別は、あらゆる分野に残存し、民衆を不幸におとしいれている。資本家と労働者、黒人と白人、黄色人種等の人種問題は、常に社会問題を惹き起こしている。
これに対して、共産主義社会においては、自由を束縛しても平等を重んずる。だが、その平等は物の平等、経済的平均であって、人種的偏見は、けっして解消されてはいない。のみならず、その経済的平均すら、科学、技術関係者に対する待遇と、一般労働者や農民に対する待遇の差は、むしろ資本主義以上のものがある。国家的に見ても、ソ連と東欧衛星諸国に対する態度は、ハンガリー平等事件に見られるごとく、まるで属国扱いの不平等ではないか。
民衆一人一人の主体性を確立
仏法では、生命の本質を一念三千、十界互具と説く。妙法を持った人は、自然のうちに生命に対して偏見を捨て、この円満な見方ができるようになる。また、みずからの生命活動も一念三千の法理に適った振舞いへと変わっていくのである。
自由と平等は、共に民主主義の基本であり、人間の幸福生活を保障するための根本問題でありながら、互いに相反する概念である。西欧のキリスト教民主主義も、東欧の人民民主主義も、対立しあう両者を正しく理解し調和させることができないところに、抜本的な行き詰まりの壁がある。すなわち「個」と「全体」の調和の問題である。
この「個」と「全体」の調和こそ「社会的存在」としての人間の本質に関する問題である。古来、幾多の哲人が思索し、その思想を述べ、政治指導者が実践せんと試みたのも、これにほかならない。
キリスト教は「博愛」を説き、西欧民主主義もまた、この実践を標榜している。マルクス、あるいはレーニンは社会に対する献身こそ善なりとして、個人に優先する全体の価値を説いた。中国の儒教哲学においては、修身から斉家、治国、平天下への関係性を説き、基盤である修身の範疇を仁義礼智信とした。
しかし、儒教哲学は形式主義に流れて封建的身分秩序に陥ってしまった。レーニン等の「個」に対する「全」の優位は、人間性の抑圧を招いている。キリスト教の「博愛」もまた、抽象的な観念論に過ぎず、「愛」を理想として説きながら、現実は厳しい憎悪の葛藤を演じている。
その因って来たる根本原因は、これらの哲学は、いずれも、個々の人間の尊厳、主体性を確立する哲学ではないという点にある。すなわち、無智の民衆による民主主義は、所詮、衆愚政治に陥らざるを得ない。無智・無責任・無自覚の民衆に与えられた自由と平等は、結局は放縦、無秩序と、腐敗、混乱を招くのみである。
真実の民主主義は、民衆一人一人が主体性を確立し、智慧・責任・自覚をもって、社会全般のことを考えるようになった時に、初めて成立するのである。仏法民主主義は、その個々の主体性を確立する人間革命を基盤とし、自覚ある民衆による民主主義社会の建設をめざすものなのである。
社会全体が有智の団結であり、指導者・政治家の政治を行なう原理は「慈悲」である。ここに仏法民主主義の真髄がある。立正安国の精神とは、仏法民主主義の確立による、人類の真の自由・平等尊厳の達成なのである。
帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ
帝王とは政治家、指導者であり、人臣とは民衆である。国家とは、小さくいえば地方自冶体であり、普通は、たとえば日本国という一つの社会である。大きく論ずれば、国際連合のような全世界を統括する機構ともいえよう。田園とは、現代では単に農業のみでなく、鉱業・工業・商業・漁業等、いっさいの社会生活の営みを含むと考えられる。したがって、この文は政治の使命は、国家等の社会機構の運営によって、民衆の生活、さまざまな機構間の円滑な発展を図ることにあり、民衆は生活活動に従事して幸福生活、文化的生活を営めるようにしていく、との意である。
しかるに、もしも、外国から侵略されて、国家を蹂躙され、あるいは国内で民衆が互いに、その生産活動を妨害しあうような事態になれば、幸福生活、文化生活は営めなくなってしまうのである。
この一文は、まことに簡単であるが、社会機構と人間性、政治と経済の関係を、日蓮大聖人は実に明快に捉えられている。これに対して、たとえば、西欧資本主義国家にあっては、政治権力は個人にとって必要悪であるとし、したがって、その機能はできるだけ小さいことが理想とされた。いわゆる国家は、泥棒を取り締まるだけの夜警をつとめれば充分で、それ以上に国民に干渉すべきではないという「夜警国家主義」が18世紀末から19世紀にかけて、資本主義国家を支配していた。
しかし、19世紀後半にはいると、こうした放縦が深刻な社会問題を惹き起こしていることがわかるようになった。すなわち、個人の自由な利潤追求を放任しておくと、貧富の差が開くばかりで、資本家と労働者の階級対立が激化して、きわめて危険な様相を示し始めたのである。今一つは、産業界における無政府状態から、利潤の多いものに勢い集中し、ついに度を越して恐慌をきたす例が少なくないということである。
自由経済主義の思想家、アダム・スミスは個人の自由に任せておいても、見えざる神の手が自然に調整してくれると説いたのであった。だが、現実にそうした事態に直面して、「見えざる神の手」は働くべき時に働かないで、働いた時には、まことに無慈悲で痛烈であることがわかったわけである。
ここにいたって、あてにならない「神の手」をあてにするより、人間の手で調整し、階級的対立と、産業相互の関係を円滑化しようという考え方が起こってきたのは当然といえる。これがすなわち社会主義思想である。
社会主義を資本主義的な世界観、経済体制に対立する概念として、はじめて打ち出したのは、ロバート・オーゥエン等のロンドン協同組合で、1830年ごろである。これほとんど同じ頃に、チン・シモン等も、社会主義的考え方を発表し始めている。
その主張は「資本主義の弊害は、生産手段の私有制にある。すなわち、生産手段を私有している資本家が無計画な生産競争を賃金労働者の生活を犠牲にして行なう。そしていったん、生産過剰から恐慌になると、急激に生産を縮小して、商品の滞貨と生産設備の遊休と、そして最も悲惨な労働者の失業が起こるのである。したがって、こうした事態に陥らないようにする抜本策は、私有制を廃止して、共有制にし、計画生産行なうことだ」というのである。
このような考え方は、オーウェン、サン・シモン等の他にも、種々の形で現われており、のちにマルクスは、封建的社会主義、キリスト教社会主義、小市民的社会主義、ブルジョア社会主義等の名をそれぞれに付しているほどである。一般にオーウェン、サン・シモン等の思想は「空想論的社会主義」と呼ばれる。
この命名者もマルクスで、その理由は、彼らが労働者ではなく、資本家であったこと、階級観念によらず一挙に全人類を解放しようとしたこと、道理の王国と永遠の正義を実現させようとしたことであるという。
これに対して、マルクスの社会主義は、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義、イギリスの古典経済学を総合的に批判して編み出されたもので、科学的社会主義と自称している。事実、マルクスの思想は社会現象の説明や批判の仕方に大きい変革をもたらし、後の社会活動に画期的な影響を与えた。
20世紀にはいり、ロシアのボルシェビキ革命を通じて、マルクス主義はソビエトの国家原理として現実した。今日では、社会主義とマルクス主義とは、ほとんど同義語になっている。
現在、社会主義体制の国家は、世界の1/3の面積を占めるなでになっており、自由主義的資本主義世界と、きびしく対立している。しかも、一方、資本主義世界においても、イギリス、デンマーク、スゥエーデン、オーストリア等は、かなり大幅に社会主義政策を実施し、福祉国家をめざしている。アメリカでも、1929年の大恐慌ののち、ルーズベルト大統領によって、二ユー・ディール政策が行われたが、これも一種の社会主義化の現象といえる。
人間性を無視した共産主義
このように、個人の無制限な自由に対して全体的な見地から調整するという考え方は、今では世界的な趨勢になっているといっても過言ではない。だが、そこにまた解決しなければならない深刻な悩みが生じている。
すなわち、このような統制機構の成立、発展は、必然的な人間本来の所有欲、利潤追求の欲望等を圧迫する。そのために労働意欲の低下を惹き起こし、産業全体が沈滞するのである。卑近な例でいえば、一般に人間は自分の工場だと思えば損壊しないように大切にもするし、生産が向上するように工夫もする。また、生産量を増加すれば、それだけ利益が多く自分のものになると、やはり生産に張り合いが出てくる。逆に、自分のものでない、いくら働いても給料は決まっているという状態では、設備等を大切にしようとの気持ちも起こらないし、働く意欲もうすれてくるのである。
これは、労働という一分野の例に過ぎない。実際には、政治の分野についても、教育の分野についても、文化的な活動の分野についても同じことがいえる。すなわち、社会機構の巨大化と複雑化とは、個人の無力感を増長し、いわゆる人間疎外という心理的病弊を蔓延させているのである。社会主義化が時代の要求であり趨勢でありながら、一面では、このような人間軽視の現象が生じ始めたのである。したがって、これを解決する哲学、理念の確立こそ、次の時代への偉大な鍵といえるであろう。
すでに、社会主義あるいは共産主義社会であるソ連等において、こうした人間性が社会国家全体の生産力に及ぼす影響を無視することができなくなり、前に述べたように、利潤追求の資本主義的要素を導入しようとする動きがある。だが、これは、生産活動という小部分における欠陥のきわめて因循姑息な修正にほかならない。
確かに唯物論を根底とする社会主義は、観念論的な資本主義にクサビを打ち込み、世界史に新しい変革をもたらした。だが、今、その唯物論的な社会主義もまた、行き詰まり、幾多の欠陥を生じ、資本主義的方法で現状を糊塗せざるをえなくなったのである。もし、弁証法論者のいう論法を借りるならば、正・反に対して、新しく出現する合の理念は何か。これこそすなわち、日蓮大聖人の教えられた人間性の尊重、個々の人間完成を根幹として大衆福祉を実現する「人間性社会主義」以外にはないと確信するのである。
人間性社会主義の人間性とは、まず社会の構成員としての個々の人間の向上、成長である。すなわち、いかなる機構も、団体も、それを構成し、運営していくのは人間である。そして、その機構の能力は、構成し運営する人によって決定される。どんな立派な機構をつくっても、運営する「人」を得なければ、それは充分に機能を発揮することはできまい。逆に、機構に欠陥があっても「人」を得ればその欠陥を補い、見事な効果をあげることができる。
現在の社会主義が克服しえない根本的な難関は、ここにある。これに対して、色心不二の生命哲学によって個々の人間革命を行いつつ、大衆福祉を実現する思想が人間性社会主義である。
人間性社会主義の人間性とは、もう一面では、その社会を運営していく原理としての人間性である。すなわち、社会の運営すべき根本指針または根本理念が、人間性を基調としていかなければならない。マルクス主義においては、成立の過程から階級闘争であり、流血革命であった。スターリン治下、共産主義体制の徹底化のために、大量の民衆が犠牲にされたことは有名である。かかる人間性無視の原理は、暗黒時代を出現するのみで、絶対に幸福社会を建設することはできない。
あくまでも、社会主義の目的が大衆の福祉社会の建設である以上、その手段もまた、犠牲を生み出さず、全民衆が相互に扶助して行われるものでなければならない。このためには、力と力の対決という動物的手段よりも、はるかに高い人間としての知性が要求される。ここに個々の主体性の確立と人間性の向上が先決条件となるのである。
大衆福祉をめざす人間性社会主義
さらに、ここで、われわれの主張する人間性社会主義の形態について、若干の考察を加えてみたい。
前述したごとく、いまや世界の趨勢は、自由主義国、社会主義国の如何を問わず。まさに、専制主義より民族主義へ、自由経済より計画経済に向かう傾向にあることは、誰人も否定しえまい。
しかして、平和民主憲法を掲げる、わが国こそ、平和裡に、最も理想的、能率的な、民主主義と計画経済を、最高に具備した新社会を建設しうる資格と力を有すると確信する。われらは、それらを人間性社会主義という体制で実現することを念願している。
人類の最も恐れる米中戦争、第三次世界大戦の危機を回避する道は、現代の資本主義、共産主義のドグマを反省せしめる、見事なる社会体制を、わが国において実現することにあると信じて止まない。
すでに、わが国においてさえ、資本主義と共産主義のイデオロギー的な対決ムードが、いよいよ強まろうとしていることは、まったく遺憾にたえない。さればこそ、われわれは、このような対立を、それこそ弁証法的に止揚せしめて、より高い次元の上から指導し統一をもたらす大思想を、高く掲げて立ち上がったのである。
一口に社会主義といっても、千差万別である、過去における、八割が農民で低開発国であった、ソ連や中国の社会主義革命が、農民がすでに三割台となり、高度な工業社会体制となった。現在のわが国に適用されうるはずがない。また、暴力革命のごとき過去の亡霊などは、断じて排撃すべきである。さらに、人間性社会主義は、社会主義特有の生産手段の共有や計画経済についても、わが国の現状、民族性、将来性に合致した、民衆の誰人も心から賛同しうる体制でなければならない。したがって、すべての生産手段を共有するような愚かな轍は、踏まないのは当然である。
われらの人間性社会主義は、あくまでも大衆福祉を旨としたものであり、また、根底にある指導理念は、低級なマルクス主義などと違って、東洋仏法の真髄、色心不二の大生命哲学であることを、声を大にして叫びたい。これこそ、21世紀の新しき時代を築きゆく理想理念であることを、強調して止まない。
また、対立を相互扶助にまで昇華せしめるだけの高次元の思想が、社会全体になくてはならない、すなわち、正しい生命観を根幹に、社会観、世界観が、常識的な行動の規範として樹立されなければならない、それを実現するものこそ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学である。
しかして、この生命哲学によって、社会の基盤である人間存在を洞察し、その上に立って、社会の制度、秩序、組織を確立していかなければならない。現代は、まさにその必要性に直面している時代といえよう。
一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
一身の安堵とは、個人の幸福、一家の和楽である。四表の静謐とは、社会の繁栄、世界の平和である。真実の宗教は、社会、国家、世界の繁栄と平和を確立する、力ある祈り、実践でなくてはならない。
宗教は個人の内面的な救いにしかならないかのごとく述べる人がよくあるが、それは、力なき、誤れる宗教の自己弁護の詭弁にのせられた考え違いであるというべきである。現実生活において幸福になったと、客観的に証明できるのでなければ、どうして内面的にも救われたといえようか。
また、世界の微妙な変動でさえ、経済的に、あるいは戦争の脅威として精神的に、個人に影響を及ぼす現代において、世界の繁栄と平和を実現する力のない宗教が、どうして個人を救える道理があろうか。
宗教は、宗教のための宗教であってはならない。また、個人の内面的な救済のみを唱える観念的な宗教も、真実の宗教ではない。その宗教の祈り、その宗教の実践自体が、個人も社会も世界をも変えきっていく力がなくてはならない。
したがって、現在、新宗連や全日仏等が、世界平和や世界連邦樹立を唱えて、ヨーロッパ等へ出かけた等と宣伝している。あるいは、ローマ法王と会って共同声明を発表した等々、すべてこれ、売名であり、名聞名利にほかならない。もし、自宗に力があるなら、その祈り、実践によって平和を実現すべきである。いわんや、新宗連や全日仏として宗旨の違う者が互いに結託するなど、自宗の宗教が看板だけであることの宣伝をしているのと同じで、まことに滑稽な話である。
人の世に在るや各後生を恐る
人が信仰に頼るのは、何よりも死の問題を解決するためである。また、死あるいは死後に対して恐れを感じない人もいないであろう。ある人は言った。「全生涯が死への準備でなくてはならない。生きること自体が、すでにその最初の第一歩から、死への接近にほかならない」と。また、日蓮大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404-07)とも仰せである。
死を単に生の終わりという人もある。もし、死によっていっさいが無に帰してしまうなら、この世で好きなように生きて、行き詰まれば死んでしまえばよい、ということになる。だが現実に、そのような無責任、不道徳に徹しきれる人はいない。生命の奥底には必ず後生、来世というべきものへの予感があり、恐れが存するものである。このゆえに、多くの人は宗教を求め、無批判に謗法の邪教にすがりつくのである。
参考までに、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」の大要を紹介してみよう。
ベルグソンは、人間の精神文化に閉じたものと開いたもの、静的なものと動的なものとを区別する。知性は人間に物質を支配させるか、半面、利己主義を教えて社会生活を危殆におとしいれ、また、死の不安を意識させて生の活動を沈滞させる。こうして、威圧的な、閉じた道徳、迷信的な静的宗教が自然発生的に生じた。そして、そのような道徳と宗教の社会は、自然的社会であり、排他的で、したがって、内部は沈滞に陥らざるをえない、と。
これに対して、史上あらわれた聖者の例のごとく、深く創造的生命の根源に沈潜し、神と合一する例外的な人は、開いた道徳を想像し動的宗教を教えてくれる。そのような人の呼びかけに、多くの閉じた魂が憧憬し、閉じた社会は全人類へと開かれ、創造的愛はある限られた社会内にとどまるのでなく、広く全人類に対する愛へと躍進するのであり、と。
このベルグソンの思想は、閉じた道徳、静的宗教として原始的な未開社会のダブーや呪術信仰を前提し、開いた道徳、動的宗教としてキリスト教を前提にしていることはいうまでもない。そして事実、この分類をわが国の宗教界にも当てはめた場合、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」で来世の恐ろしさと、阿弥陀の来迎図で信仰した者は救われることを教えて民衆の間に浸透した浄土宗や浄土真宗などは、前者の閉じた道徳、静的宗教の類といえよう、また、怪しげな加持祈祷や迷信を取り入れた真言や日蓮宗各派もしかりである。
しかし、ベルグソンの説自体にも無理がある。すなわち、キリストをもって創造的生命の根源に沈潜し、神と合一した等とすることは、客観的には認めがたい。キリストが神と合一したとすれば、何故、最後に「神は我を見捨て給うか」と嘆かなければならなかったの。創造的生命の根源に沈潜した者が、何故、30歳前後で悲惨な最期を遂げなければならなかったか。
そして、開かれた道徳、動的宗教であるはずのキリスト教社会が、どうして中世暗黒時代を現出したか、陰惨な宗教裁判を行ない、苛烈な宗教戦争を繰り広げなければならなかったか等々、考えれば、確かに原始宗教に較べれば開いた道徳であり、動的宗教であったろうが、あくまで、それは相対論といわざるをえない。
真実の開かれた宗教とは、日蓮大聖人の仏法である。「創造的生命の根源に沈潜する」とは、永遠の生命を悟り、十界互具、一念三千の実相を会得した仏について初めていえることである。「神との合一」も、その実体は、わが身妙法の当体なりと知り、宇宙即我の境涯に立つ以外にはありえない。一閻浮提総与の、全民衆救済の大仏法こそ、全人類に慈悲の折伏をもって働きかけるがゆえに、正に開かれた宗教、動的宗教といえるのである。
而して、現世に偉大なる福運を積み、生命力を得、三世にわたる生命の実相に確信をつかんで、死んでいけることが大切である。大聖人の「先ず臨終の事を習うて」云云のお言葉も、そのための仏道修行の実践、福運を積みきって人生を生きていくことを強調されているのである。
誤った宗教においては、所詮、死は恐怖でしかない。正法においては、死は永遠なる生命の現ずる生死の二相の一面であり、来世への若々しさを回復するための方便である。
大聖人の警告と蒙古襲来
日蓮大聖人が、立正安国論に予言された他国侵逼難、自界叛逆難は、文永・弘安の二回にわたる元冦の難、および北条時宗と異母兄時輔の争乱によって、不思議な的中をみた。
特に、他国侵逼難については、大集経の三災、薬師経および仁王経の七難、さらに金光経の種々の難を挙げられ、邪法を停止し正法を立てなければ、他国より攻められ、亡国の憂目にあうべきことを強く警告されたのであった。
すなわち立正安国論にいわく「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らしイソイで対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず 所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も 他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや、帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(0031-10)と。
ここに重復を省みず、御書の長文を引用したのは、まったくこの御文が、謗法の国土に他国侵逼難すなわち大蒙古襲来あらんことを、強く警告された御文であるがゆえである。しかも、当時の鎌倉幕府も、世の指導者も、また民衆も、みんな大聖人の国家民衆を諌むる御状を、一笑に付したのである。
果たせるかな、立正安国論を勘えられ北条時頼に提出された文応元年より、満7年と7ヵ月を経た文永5年(1268)閏正月18日、西方大蒙古国より、わが朝を襲うべき由の牒状が到来した。さらに翌6年(1269)重ねて蒙古国よりの牒状が渡された。
大聖人は文永6年(1269)12月8日の立正安国論の奥書に、この事を記して後に「既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か」(0033-05)と仰せである。
また文永5年(1268)4月5日に顕わされた安国論御勘由来には「日蓮正嘉の大地震同じく大風同じく飢饉・正元元年の大疫等を見て記して云く他国より此の国を破る可き先相なりと、自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊せば復た仏法の破滅疑い無き者なり。
而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、定めて勅宣御教書を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。
日蓮復之を対治するの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり、譬えば日月の二つ無きが如く聖人肩を並べざるが故なり、若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん、但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」(0035-07)と申されている。
さらに日蓮大聖人は、日本国が謗法を続けるならば蒙古襲来の危険性があることを、三度にわたる国家諌暁で警告されている。それは撰時抄に、三度の高名として述べられている。すなわち、
「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、 此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(0287-08)と。
同じく種種御振舞御書には「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、 其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911-10)と仰せである。
大聖人の御予言のごとく、大聖人が文永8年(1271)10月の佐渡流罪後、100日を経た文永9年(1272)2月に、北条時宗の異母兄である六波羅探題北条時輔の謀叛があり、日本中は、鎌倉方と京都方の二つに相分かれての大内乱が起こった。また3年を経た文永11年(1274)10月に、第1回目の蒙古襲来、いわゆる文永の役があった。さらに7年を経た弘安4年(1281)5月には、第2回目の蒙古襲来、いわゆる弘安の役があり、大聖人の予言は、驚くべきほどの的中を示した。
しかして大聖人は、種種御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ」(0919-16)と申されてるごとく、2回目の蒙古襲来も、日蓮大聖人が厳然と日本国におられることによって、亡国は回避しえたのである。しかし、莫大な戦費を消費した北条幕府は、経済的にも窮迫して、やがて亡びざるをえなかったのである。
また、立正安国論に「若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031-15)および種種御振舞御書に「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-18)の御警告のごとく、700年後の今日正法を用いなかった咎によって、日本国は歴史はじまって以来の敗戦、亡国となってあらわれたのである。しかも、第三次世界大戦、米中戦争の危機は、まったく予断を許さず、一度これらの大戦が起これば、原水爆や核ミサイルの発達によって、人類の全滅も憂慮される現状である。
蒙古襲来とアジア民族の抵抗
ここに700年前の蒙古襲来の姿を、日本側の資料のみではなく、元や高麗等の資料も加えて考察しようと思う。特に、弘安の役の後にも、元の国王フビライは、第3次日本襲来計画を強力に進めていたのであるが、不思議にも、大乗仏教を奉ずるベトナムの蒙古に対する叛乱があって、日本侵攻は断念せざるをえなかったという歴史的事実があったのである。
前にも述べたごとく、元冦のころの大元帝国は、世祖フビライの時代であったが、アジアの大部分、中央アジア、東ヨーロッパにまたがる広大な領域を支配し、西ヨーロッパ、インド、日本を除き、全世界の大部分が蒙古の支配をうけた。これは人類の歴史はじまって以来、空前の大帝国であった。
特にアジアは、インドの一部と日本を除いてすべて蒙古の侵略をうけ、塗炭の苦難を味わった。当時、ベトナムは、南北に分かれていた。ベトナムの北部は交祉、南部に占城王国があった。交祉に対しては、憲宗のとき出兵して「三年一貢」の約束をとり、世祖フビライ時代には、内政監督官を派遣し、安南宣慰司を設置し、元の役人を送って統治していた。占城に対しても使者をやって、服属をすすめていた。しかし、後述するように、占城・交祉ともに、大乗仏法を奉ずる民族で、元に対する屈従をいさぎよしとせず、のちに叛乱を起こし、フビライが死ぬまで、元との戦いが続いた。
現在のビルマには、緬国があったが、同じく元の出兵にあって、屈服させられた。カンボジアも朝貢させられた。ジャワ・スマトラ・マパール、キロンなどの国々も、元の圧力によって、相次いで入貢した。のちにジャワが反抗したとき、フビライは3万の軍隊を送って、王城を攻略した。かくのごとく、元の威令は、東南アジア全体を属国化していた。
最も悲惨な目にあったのは、高麗国すなわち現在の朝鮮である。1219年(承久元年)ごろから、蒙古と高麗の外交関係が生じ、蒙古の使者は頻繁に高麗にやってきて莫大な貢物を要求した。1225年(嘉緑元年)、蒙古の使者が帰国する途次、鴨緑江のほとりで盗賊に殺害される事件が起こり、蒙古は高麗政府の責任として、国交を断絶した。1231年(寛喜3年)、蒙古は、蒙古使者殺害を口実に、高麗に侵入し、約30年間、高麗は蒙古の侵略をうけ続けた。
高麗軍は、あらゆる戦闘で偉大なる抵抗を示したが、衆寡敵せず、第一次、二次、三次、四次、五次、六次侵略によって、高麗国の悲惨は目をおおわしむるものがあった。1259年(正元元年)、高麗太子の蒙古入城よって、蒙古と高麗の関係は新段階にはいり、高麗王朝は、ついに蒙古陣営の一翼に編入されることになった。
かくして1260年(文応6年)世祖フビライの即位と共に、蒙古は高麗侵略をやめることになったが、しかし新しい重大な任務を高麗に課そうとしていた。それは、日本侵略の命令であった。この年、日蓮大聖人は、立正安国論を著わされ、他国侵逼難の警告を発せられた。まことに不思議なる御本仏のお振舞いというべきであった。
1266年(文永3年)11月、蒙古から兵部侍郎黒的と礼部侍郎殷弘の2人が、世祖フビライの日本招諭の詔書をもって、高麗にやってきた。招書の一通は高麗王国に、他の一通は日本国王へあてたものであった。これ第一次の蒙古使である。
高麗国王の書は「いま爾の国趙彜来たり告ぐ彜『日本は爾の国と近隣たり。典章、政治は嘉すに足るものあり。漢・唐より下りて、また或は使を中国に通ず』と。故にいま黒的らを遣わして日本に往かしめ、ともに和を通ぜんと欲す。卿それ去使を道達し、以て彼の彊にいたり、東方を開悟し、風に向い義を慕わしめよ。この事の責は卿よろしく之に任ずべし、風濤の険阻を以て辞となすなかれ、末だかって通好せざるを以て解となすなかれ、彼の命に順わず、去使を阻むことあるを恐れて托となすなかれ。卿の忠誠ここに見るべし。卿それ之を勉めよ」というもので、すなわち蒙古の使者を案内し、日本に行くべきことを厳命したものであり、日本を属国になさんとの意図であった。
日本国王の詔書は「上天の眷属せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君も、境土相接すれば尚務めて講信修睦す。况んや我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は悉く数うべからず。朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑に瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その彊域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は、感嘆して来朝せり、義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣もまたすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること末だ審かならざるを恐る。故に特に使を遣わし、書を持たしめ朕が志を布告す。冀くば今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰んぞ好むところなからん。王それ之を図れ。不宣。」という、はなはだ威嚇を込めた無礼なる書であった。
高麗の君臣は、もし日本がこれを拒否した場合、蒙古の先兵として日本を襲うようになることを恐れて、日本へ渡るに風濤のすさまじいこと、日本へ使することの有害無益なること等を説いて、日本への詔書を思いとどまらせた。使者一行は翌年正月、巨済島まで来たが、空しく引き返した。
しかし文永4年(1267)8月、世祖フビライは怒って、また黒的・殷弘をもって、日本に使いすべきことを厳命してきた。これ第二次の蒙古使である。高麗は止むをえず潘阜を使者に任命し、8月日本に出発させた。潘阜は、前年の蒙古皇帝の詔のほかに、高麗の国書をたずさえ、11月に対馬を経由して、文永5年(1268)正月、太宰府に到着した。蒙古・高麗の国書は鎌倉に送られ、京都に転送されたが、評定の結果、国書の受理を拒み返牒を与えないことに決定し、潘阜らはむなしく引き揚げた。
世祖フビライは、日本を攻略するために、高麗に軍隊4万の徴収と兵船1千隻の建造を命ずると共に、第三次の蒙古使を日本に派遣した。すなわち文永5年(1268)11月、蒙古から黒的・殷弘が高麗を経て、直接に日本に向かい、対馬で日本人を捕え引き返した。
第四次の蒙古使は、文永6年(1269)ウルタイらが、日本の俘虜を連れて、高麗を経て、9月に対馬に到着した。太宰府護所は使者の一行を対馬にとどめ牒状を鎌倉に送った。鎌倉幕府は、なんの返答もせずに蒙古・高麗の使者を追い返した。その後、高麗に叛乱が起こったが、蒙古はさらに文永7年(1270)には第五次、文永9年には第六次蒙古使を、日本にもたらした。この時は元の趙良弼が多勢の従者をしたがえ、太宰府護所におもむき、直接に国王・将軍に会って国書を手渡さんとしたが、拒まれてはたさなかった。趙良弼は文永10年(1273)5月蒙古に戻って世祖フビライに復命した。
世祖は遂に日本討伐を決意し文永11年(1274)正月、大小戦艦900隻の建造を高麗に命じ、6月に建造は完了した。蒙古軍3万高麗軍1万3千の連合軍は、同年10月6日対馬を攻撃し、守護代の宗助国以下を全滅させ、10月14日には壱岐を襲い守護代の平景高以下を全滅させ、さらに12月20日、博多湾に上陸し、博多、箱崎を攻略した。しかし太宰府の占領を翌日にのばし、船に引き揚げたが、冬の季節風を恐れ、遠征軍は途中の風のため1万3千余の未帰還者を残して高麗の合浦に引き返した。
その後も、高麗の脅迫は続き、忠烈王は二度と日本遠征をせぬよう、蒙古に願い出たが聞かれなかった。検事元年(1275)4月、元使杜世忠らが長門にきたが、9月に北条時宗は元使を斬り、さらに蒙古の怒りをかった。蒙古は、さらに高麗に弘安2年(1279)2月、日本遠征用の戦艦600隻の建造を、6月には戦艦900隻の建造を命じた。弘安4年(1281)世祖フビライの命で、范文虎の率いる10万、3500隻の蒙古江南軍と、蒙古・高麗連合の東路軍4万、900隻あわせて14万、4400隻の大軍が博多湾に向かった。
はじめ東路軍は、5月26日から対馬や壱岐、志賀島、能古島などを襲った。7月初旬、遅れた江南軍と合併し、14万の大軍は7月27日、鷹島を占領し、博多湾へ殺到せんとした。7月30日、翌閏7月1日、台風が吹きつのり、4400艘の元の兵船の大部分は沈没し、14万の大軍は日本上陸直前にあえなく壊滅し、生還者は約3万数千人にすぎなかったという。
しかし、世祖フビライは、日本遠征をあきらめたわけではなかった。第一次遠征も、第二次遠征も暴風に負けたので、日本の武力に負けたのではないという自負心をもち、その後も、繰り返し遠征を計画した。弘安5年(1282)2月、大小兵船3000隻の建造が開始された。しかし、高麗は度重なる蒙古の無理強いで、まったく疲弊し、中国、ベトナムでは蒙古に対する大規模な叛乱が相次いで起こった。
すなわち1283(弘安6年)9月、広東に一揆が起こり、10月には福建に10万の大叛乱が起こった。そのため日本遠征のために編成された蒙古軍は、国内の叛乱鎮圧のために使用せねばならなかった。つづいて広西省、広東省、湖南省、江西省などに相次いで叛乱が起こった。
さらにベトナムでも叛乱が起こった。前述したごとく当時、ベトナムは南北に分かれ、南ベトナム地方は占城王国、北ベトナム地方は交址があった。占城ははじめ元に朝貢しており、元は占城を基地にして東南アジア全体を統御しようとしていた。のちに占城は元に反抗した。1282(弘安5年)元は江南の兵5000を動員して占城を討った。のちに元は数多くの増援部隊を送ったが、占城は屈しなかった。ついに世祖フビライは1284(弘安7年)2月兵15000、船200隻を出動させた。しかし、この遠征軍は、日本におけると同じく暴風雨にあって大損害をうけた。これらの兵船は、実は日本遠征用のものであった。かくて、1282から1284(弘安5~7年)ごろ、中国およびベトナムの叛乱によって、第三次日本遠征計画は、実現しなかった。
しかし世祖フビライは、まだ日本遠征をあきらめず、弘安6年(1283)には日本遠征のための征東行省を再置し、弘安7年(1284)秋から、出兵準備をはじめ、兵船の建造を開始した。弘安8年(1285)11月、日本遠征の大計画が発表された。高麗にも戦艦650隻、兵10000の微発が命令された。再び10数万の大軍団が、高麗の合浦に結集する予定が立てられた。
1286(弘安9年)正月、突然、日本遠征計画は中止になった。その理由は、ベトナム北部の交址が反抗したためであった。ベトナム南部の占城の叛乱も、いまだ鎮圧されていなかった。中国南部方面でも、叛乱が続いた。東南アジア諸民族の元に対する反抗心は実に根強いものがあった。1284(弘安7年)から元軍は交址に侵入していたが、交址は屈服するどころか、かえって、たびたび元軍を破り、交址の抵抗は長びいた。
世祖フビライは1286(弘安9年)日本遠征の中止に際し「日本は孤島の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ…日本は末だかって相犯さず。いま交址は辺を犯す。宣しく日本をおきて交址を事とすべし」といって断念した。劉宣の「元史」によれば、中国とくに江浙の民衆は喜び「連年日本の役、百姓は愁戚し、官府は擾攘す。今春停罷す。江浙の軍民、歓声雷の如し」とある。
ベトナム北部の交址の抵抗は、なおも続き、1287(弘安10)年には、元は91000、船500隻を出して遠征をこころみたが、食糧が欠乏し、わずかの期間、占領しただけで、また引き揚げざるをえなかった。また中国の北方でも、内乱が起こった。かくて、さすがのフビライも、日本遠征を断念せざるをえなかったのである。その後1292(正応5年)ごろ世祖は日本遠征計画を再燃させたが、1297(永仁2年)正月、世祖死するに及んで、元はついに日本遠征を、取りやめた。これ、一つには、アジア諸民族の元に対する抵抗が、大きな要因であった。
蒙古襲来の現代的意義
仏法上より、蒙古襲来をみれば、大聖人の仰せのごとく、梵天・帝釈が隣国の王に仰せつけて、謗法の国、日本を治罰せしむることであった。しかして、700年後の今日、再び謗法の国日本は、アメリカ、中国等の連合軍に無条件降伏をなし、梵天・帝釈の使いに屈した姿をとった。
蒙古襲来といい、第二次世界大戦といい、日蓮大聖人の仏法の広宣流布に、中国が大きく関係していることは、まことに不思議なことである。しかして、700年前は、蒙古軍の侵略としてあらわれ、現代においては、残念ながら日本軍の中国侵略となってあらわれたが、とくに謗法の国・日本は、梵天・帝釈の治罰を被り、大正法興隆の基となったのである。
しかして、中国は、わが国の仏法興隆にとって、最も宿縁の深い国家であった。第一に、仏法はインドから中国に伝来し、朝鮮をへて日本に伝来したのである。特に、漢文に翻訳された5000巻7000巻の仏典が、日本において、そのまま使用されることになった等を考えると、実に測り知れない恩恵を中国に被っているといわざるをえまい。
第二には、隋・唐の時代に、諸種の文化と共に、中国から莫大なる仏典が、すべて日本に伝えられたことであり、特に、法華経迹門の戒壇を日本の比叡山に建立し、迹門の広宣流布を達成した伝教大師は、最も中国に縁深厚だったことを想起すべきである。
伝教大師は、中国天台宗の開祖天台大師と共に、薬王菩薩の再誕といわれた。すなわち、仏法上、天台大師の後身ともいうべき人である。しかして伝教大師は法華経を持ってのちに、中国に渡り、天台宗の後裔たる道遂和尚より甚深なる法華の奥底を相伝された。さらに伝教大師の父は三津首百枝で、先祖は後漢考献帝の子孫、登万貴王であるが、日本を慕って帰化したのである。このように伝教大師は、世間・出世間ともに、中国に関係が深かったといえる。
さて、日本より出現した太陽の仏法、日蓮大聖哲の大生命哲学が、いまや、全世界に流布するにあたり、世界の現状は、かの700年前の蒙古軍の侵略、また第二次世界大戦の惨状に劣らぬ危機感が強まっている。
そして、それが、朝鮮戦争、ベトナム戦争でみられるごとく、中国を中心としたアジア諸民族の苦悩となって、あらわれている。ここに、われらは、蒙古襲来の時のごとく、第三次世界大戦によって人類が大惨事を惹起することのなきように、切に祈らずにはいられない。
思えば、蒙古襲来の時は、中国や朝鮮、ベトナム等のアジア民衆が元に抵抗したことによって、第三次蒙古襲来は防がれた。また第二次世界大戦においては、日本の軍隊が、中国や東南アジアの民衆を苦しめること、まことに絶大であった。
われらは、大聖人の仏法の流布は、世界平和の最高の寄与と確信するものである。また1000万の技術移住の主張等は、アジア民族に偉大なる経済的援助を実現するものと期待してやまない。しかして、わが国は、アジア民族に相互扶助的な平和と繁栄をもたらしながら、日本より出現した大仏法をアジアに送らんとするものである。
大聖人、顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)と。
同じく諌暁八幡抄にいわく、
「天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(0588-18)と。
0032:07~0032:09 第三章 仁王経をもって謗る法の果報を示すtop
| 07 仁王経に云く「人仏教を壊らば復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず 疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾 08 し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん、 若し出て人と為らば兵奴の果報ならん、響の如く影の如く人の夜 09 書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。 -----― 仁王経にはこうある。 「人が仏の教えを破壊するなら、孝行の子は一人もなく、近親は不和となり天の助けもない。疫病や悪鬼が、毎日来て人々を害す。災害・怪異が絶えることなく、連続する禍いは予期不能である。死んでからは地獄・餓鬼・畜生に堕ちるだろう。もしそこから出て人となるなら、罪の報いとして兵士や奴隷となるだろう。 声にはこだまが応え、ものには影が伴い、人が夜に文字を書くと灯火は消えても文字は存在するが、三界を輪廻する果報もそれらと同様で、決して消え去ることなく後に必ず現れるのである」 。 |
六親
妻(夫)・父母・子供・兄弟等。一般には六親等までの血縁者。
―――
天竜
天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦等の八部衆。
―――
災怪首尾し
災害や凶事が、絶え間なく続いて起こること。
―――
連禍縦横し
禍が連続して頻発すること。縦とは時間的ひろがり、横とは空間的広がりをいう。
―――
人と為らば
死の生命、三悪道より出でて、生を得て、人間として生まれたならば。の意味。
―――
兵奴の果報
兵隊として戦争目的のために使われる立場になること。これは人に服従しなければならない不自由の身で、自分自身で幸福をつかむことができない。また生殺与奪の権限も、上官に握られ、生命の尊厳は認められない。人間として最大の不幸の一種である。
―――
三界の果報
三界とは地獄・餓鬼・畜生道のこと。そのような悪業に縛られ、不幸の闇を流転していくこと。果報を断ち切る利剣は妙法である。
―――――――――
謗法を捨てて正法に帰依すべきことを、謗法が亡国の根源であるという観点から説かれてきたのである。ここでは、さらに進んで、個人にいても、謗法が堕地獄の、いかに恐ろしいものであるかを説かれている。
先に大集経によって、王の福運が尽きる姿を示し、この仁王経の文では、現世には、家庭生活が破壊され、死しては三悪道に堕ち、人間として生まれても兵奴の果報をうけるであろうと説かれている。
人仏教を壊らば復六親不和にして
仏教を壊るとは、知ると知らないにかかわらず、謗法を信ずることが仏教を破壊することになるのである。
謗法を信ずれば不幸になるというと、よく「仏が罰を降すのか」と反駁する人がある。このような「罰を降す」という考え方は、神を擬人化した素朴な原始宗教からきたもので、あくまでも仏法の考え方とは違うのである。
すなわち、人生の幸・不幸は、おのおのの生命流転の過程において行なった善業悪業の原因として、その結果として生ずる現象である。この因果の現象は、大宇宙の不変の法則であって、幸福になるのも不幸になるのも、自分の責任である。無始以来の、過去の原因によって現在の自分がある。これを宿命という。
しかしながら、ただ現在の自分が過去によって決定されており、そして現在によって未来が決定していくだけならば、人間には余りにも無力である。大宇宙の本源の法を会得された仏が、この無力な人間に、同じく法を会得させ、過去にどんな罪障があろうと、それを消滅し、未来に善業を積んでいける法を教えられたのが仏教である。すなわち、仏教は宿命打開、宿命転換の教えである。
したがって、この仏の教えに従わないで謗法するということは、大宇宙の本源の法に逆らっていくことになり、生活のリズムが乱れ、不幸になるのである。あたかも交通法規に違反すれば、警官に叱られるよりも、事故を起こし一命を落とすことになりかねないのと同じである。信号を無視して横断して、はねとばされてから、知らなかったといっても、傷が元へ戻せるわけもない。
人生を事故なく、幸福に生きていく根本は、何よりもまず仏法を知り、仏教に随うことである。仏法を知らない人生は、交通法規を知らないで大都会を歩き、灯火なしで険難の山道を夜歩き、海図も羅針盤もレーダーもなしで大洋を航海するに等しい。これを見て知らぬ顔をしている人がいたとすれば、その人こそ人非人であろう。
さて、ここで引用された経文は、謗法が一家和楽を破壊する根源であることを明かしている。一家和楽、家庭の平和は、いつの時代にあっても、また、どのような人にとっても、最も大切な幸福の要件である。偉大なる指導者は、常に民衆の家庭の平和、繁栄を築ききっていける人でなければ、その資格はない。
過去に、英雄と称されたシーザーにせよ、アレクサンダーにせよ、ナポレオンにせよ、あるいはチンギス汗にせよ、いずれも一家の柱である青壮年男子を戦いに狩り立て、民衆の家庭を破壊した。また遠征した敵の家庭を破滅せしめた。このゆえに、一時的には自己の民族の栄光をもたらしたが、所詮、民衆は不幸であり、したがって、栄華はたちまちに衰えてしまった。正法の指導者にして初めて、個人の幸福、一家の和楽を基盤とした、真の民族の繁栄を実現することができるのである。
道徳教育に反して凶悪化する青少年犯罪
「仏教を壊らば孝子なく」とは、道徳といっても正法を根底にしなければ有名無実であり、形式主義に堕ちってしまうのみである。
現今、わが国に限らず、欧米諸国あるいは共産圏においてすら、道徳の頽廃、いわば無道徳化が青少年の間に支配的となりつつあることが深刻な問題となっている。数字となって現われてくる青少年犯罪が、年々凶悪化し、ハイティーンからローティーンへと拡がっているのも、実はこうした全般的な非道徳化の風潮が土壌となっているからである。
そこで、犯罪の増加を食い止めるには、どうしても青少年全般の道徳性を確立しなければならないという考え方から、フランク・ブックマン等の道徳再武装論が生まれた。特にわが国においては、道徳教育の復活が議論の的になっている。戦前のわが国では、修身教育が軍国主義的、封建主義的な皇国精神を涵養する手段とされた。そのため、いったん、廃止された道徳教育を、昭和25(1950)年ごろから復活しようという議論が起こった時、それをめぐる論争は、きわめて政治的な色彩をもつことになった。決局、左翼の強硬な反対を押しきって、昭和33年(1958)から実施に移されたが、今に至るまで道徳教育に関する議論は、事あるごとに繰り返されている。
現在、政府の意図している道徳教育が、資本主義の望む人間をつくらんとしているのか、どうかの議論は別として、はたして道徳教育が、青少年の非行を根絶する力があるのかという問題を考えてみなければならない。
およそ、その答えは絶望的といわざるをえない。すなわち盗みをしてはいけないということを知らないがゆえに、盗みを行なったという青少年犯罪者は、皆無だということである。むしろ、悪いことを知りながら、スリルを味わいたい、大人に反抗してみたい等の気持ちからやったという例が圧倒的に多い。そして、そうした青少年の家庭は、けつして貧困ではなき、むしろ恵まれた中・上流に属するものが大半を占めているという事実である。
このことは、今さら、政府の意図しているような道徳教育を徹底して「盗みは悪いことである」「ウソをついてはいけない」「人に親切せよ」等の項目を教え込んでも、効果はないということを物語っている。同時に、左翼政党の主張するような、社会環境、特に貧困な犯罪を増加させているというわけでもないことが明らかである。犯罪の病根は、さらに深い、生命の奥底から発しているといわざるをえない。しかも、そうした犯罪者のみが悪いのではなく、思想界、芸術界も、政界も、社会全般、時代そのものが病に冒されているといっても過言ではない。
生命浄化こそが五濁根絶への道
これを仏法では五濁悪世と説くのである。すなわち、人間が生まれながらに持つ貧・瞋・癡・慢・疑の本能の乱れである煩悩濁、思想の乱れである見濁が根底となって、命濁すなわち生命力が弱まり、生活が乱れる現象を生む。この命濁から人間そのものの濁乱を意味する衆生濁となり、衆生濁はさらに拡がって時代そのものの乱れ、すなわち劫濁となるのである。
この方程式を現代社会にあてはめてみるならば、あまりの適合に驚かないではいられない。今、問題にしている青少年犯罪等は、まさしく五濁の反映である。生命力が弱く、正常な生活では楽しみを感ずることができなくて、異常な刺激を求める。そして学校へ行かず、家庭にも落ち着かず等の生活の乱れをきたしている。その原因は、貧すなわち欲望であり、大人や社会に対する反抗心、すなわち瞋であり、自分が傷つき、損することがわからない癡であり、慢すなわちのぼせ上であり、かつ、周囲の好意も信じられない疑である。これを、思想の乱れ、いかがわしい新聞、雑誌、映画、テレビの氾濫が助長している。
この五濁の根源を断ち切り、生命を浄化し、社会を健全化していく方法は、妙法を信じ、妙法を広宣流布する以外にないというのが、仏法の教えである。
古来、道徳の教えを最も完璧に説いたものは儒教である。開目抄に儒教を破折していわく。
「但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ 後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云」(0186-11)と。
礼楽とは道徳と芸術であり、真道とは仏法である。道徳等が全民衆に徹底されるということは、仏法の流布を容易にする前提となるとの意である。逆にいえば、道徳のみによっては、宿命も転換できないし、生命の浄化もなし得ない。仏法によって初めて、宿命を転換し、生命を浄化して道徳が生きてくるのである。
古代ギリシァ哲学においては、自然科学が主流であったが、初めて道徳に目を向けたのはソクラテスであった。彼は外界についての知識の豊富を誇つたり、詭弁を弄する風潮を否定し「汝自身を知れ」と叫んだ。ソクラテスの弟子プラトンは、善のイデアをイデアの最高位に置いて、道徳哲学を打ち立てた。アリストテレスは思弁的、形而上学を基盤とする道徳哲学が主流を占めた。デカルト、スピノザ等も、道徳、倫理を中心に思想を展開している。カントにいたっては、理性に叶った道徳こそ宗教の基盤であるとして、道徳律に最高の価値を与えている。
しかし、これらの哲学は、単に道徳が人間精神にいかなる役割りを果たすか等の機能から道徳の重要性を論じたものに過ぎない。道徳的に正しい人が、現実には必ずしも幸福でない事実、道徳律を知りながらそれが実践できない人間性の非合理性等、より本源的な問題は東洋の儒教でも、西洋の倫理学でも解明できなかったのである。道徳を単なる行為の規範や社会科学的な機能として論ずるのではなく、生命の深奥まで掘り下げ、そこから思索し、確立しなければならないということは、心ある人々なら、共通して感ずるところである。
さらに仏法の眼より見るならば、非行化した少年をどうするかよりも、そのような眷属を持たねばならない本人の宿命が問題なのである。これこそ三世の因果に照らさなければ、解決しえないであろう。仁王経に「人仏法を壊らば」とあるのも、所詮、本人の福運こそ根本であることを示されたものである。
復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん
家庭のさまざまな不幸な姿が示されている。これを裏返していえば、これらの悪条件におかされないことが、幸福な家庭生活の要素であるともいえる。
第一は「孝子無く」で、子供が早死にしたり、不良化したりすることは、家庭にとって大きな不幸である。子供が健康で、心も素直に、親孝行であるということは、家庭の幸福の第一条件である。
第二の「六親不和」とは、父母兄弟妻子の間が不和であることで、これも家庭を冷たい、うるおいのないものにする悪条件である。互いが仲よく、愛し合って生活していく一家の団らんは、何ものにも代えがたいしあわせといえよう。
第三の「天竜も祐けず」とは、一往は、農業を家業としている場合、日照りの具合や、雨の降り方、雪等の気象によって収穫が左右される。この気象を天竜と表現したもので、気候に恵まれないで凶作になることを「天竜も祐けず」といったのである。再往は、商業にせよ、鉱業、工業、漁業にせよ、事業面において、全てが順調にいかず苦しむことと考えてよい。このことも家庭の幸福にとっては重大な問題で、経済的困窮から家族の仲がうまくいかなくなることは、往々にして身受けられるところである。現代でも、東北や北海道で冷害のため、娘を売ったり、一家離散したりする悲惨な話を聞く。妙法を受持すれば、いかなる災厄も転重軽受し、変毒為薬することができるのである。
第四の「疾疫悪鬼日に来つて侵害し」である。どんなに仲のよい、経済的にも恵まれた家庭であっても、病人がいることは寂しいものである。楽しいことがあっても、皆それを楽しみきれない心のわだかまりが残る。喜怒哀楽の感情を、知らず知らずに抑えて、家庭全体が暗くなる。いわんや、経済的に楽でない家庭では、治療費や薬代で負担がかかり、ついには借金をしなければならないこともある。家族が健康であることは、幸福の大切な条件である。また、悪鬼とは思想の濁乱とも考えられる。世の中には親の封建的思想と子の急進的思想の衝突で不和をまねいている家庭も多い。これ悪鬼侵害の一例といえよう。
第五の「災怪首尾し」とは、火災が起きること等、
第六の「連禍縦横」とは家族が交通事故にあったりすること等である。家族が病気で入院したのを見舞いに行って、途中、交通事故にあって死んだということも、新聞などに、しばしば報道される事例である。禍いは必ず他の禍いを呼ぶもので、一つのつまずきが、大きい悲劇に発展することも珍しくない。一つつまずいても、それを変毒為薬することが、妙法の功徳ともいえる。
以上、述べてきたような現象が、謗法を信仰している家庭には必ずあることが、われわれが折伏に当たって常に経験するところである。一つが解決できたと思えば、次の不幸が待ち受けているという連続が、そこにある。これを断ち切るためには、所詮、妙法を受持して家庭革命しきる以外にない。
しかも、そうした不幸の連続が今世を終わって、死ねば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しまなければならない。すなわち死は生命の終わりではなく、今の生涯に受けている境涯が、そのまま続いていくのである。地獄の苦しみの連続で死んでいった人の生命は、肉体は死しても、大宇宙の十界のリズムの中の地獄界にはいって、同じく地獄の苦しみを続けていくのである。
逆に妙法に照らされて、題目を唱え仏界の生命を湧現して死んでいった場合は、大宇宙の仏界のリズムにはいって幸福境涯を続けることができるのである。ここに、信心を生涯全うしなければならない所以がある。
若し出て人と為らば兵奴の果報ならん
謗法の人は、死して三悪道に入り、再び人間として生まれてきた時には、兵奴の果報を得るであろう、との意であえる。
兵奴の果報とは、兵隊として戦線に追いやられ、行動の自由も思想の自由もなく、戦争の目的のために駆使され、命の生殺与奪の権すら人に握られている。不幸の境涯である。古来、種族、民族、国家の興亡盛衰は、武力の優劣によって決せられてきたので、自然、戦士、兵隊について、これを美化し、強い者を英雄視するという慣習が行われてきた。いわゆる「一人殺せば殺人、百人殺せば英雄」といった矛盾は、洋の東西を問わず、存在した。今日でも、大量殺人者が国民的英雄に祀り上られるということは、大した批判も受けないで各国で行なわれている。
だが、仏法の生命哲学よりこれを見るならば、まことに生気の沙汰とはいいがたい。兵士にとられることほど、人間として悲しむべきことはない。民主主義の原理から論じ、人間性の本質から見て当然である。人間としての幸福の最も根本的な条件は、生命の尊厳と自由と平等であることは、誰もが認めるところである。しかるに、この三つが共に認められないのが一般の兵士である。
まず、兵士は生命を捨てることを覚悟しなければならない。銃剣にせよ、小銃弾にせよ、迫撃砲弾にせよ、あるいは凄まじい高熱の炎の海と化すナパーム弾、恐るべき化学兵器にせよ、否応なしに生命を奪われる場におもむくことを、拒むわけにはいかない。ここでは人間の生命尊厳は、禁句とされていることさえ珍しくないのである。
次に、軍隊の中での生活には原則としていっさいの自由は認められない。勝手に移動することもできないし、自己の思想を発表することも許されない。集会や出版の自由も、もとよりない。平等についても同様である。軍隊の組織は、最も合理的、機械的な発想のもとに階級づけられている。上級士官の命令は、下級兵士にとって絶対服従する以外にない。
加えて、敵を殺さなければならないということも、大きい不幸というべきである。殺そうとしている敵兵士も、同じ人間である。戦争という渦の中にあって、感覚こそ麻痺していても、人を殺すという行為には、平和時の殺人も、戦時の殺人も変わりはない。それを敢えて犯さなければならない宿業は、悲しむべきことである。
それはまた、現在の空軍兵士が、何千メートルの上空から爆弾を投下する場合も同じである。あるいは、将来万が一、原水爆戦争が起こった時、ボタン一つで敵国民、何百万人を殺す場合も同様であろう。それによって焼けただれ、粉々になり、あるいは一瞬に蒸気となって消えてしまう犠牲者の悲惨な姿は、見ないで済むかもしれない。だが、犯した罪の大きさは、一人一人を自分の手で切り刻んで殺すのと変わりはないはずである。
われわれは、断じてこのような悲しむべき地獄図を、出現させてはならない。現在、繰り広げられているベトナム等の戦争も、即刻、中止すべきことを訴えたい。それを私は心から日本の、そして全世界の良識ある人々に叫んでやまぬものである。しかして、今後、絶対に、第二、第三のベトナム、否、全人類の破滅を起こさない土壌を私はつくっていく決意である。その最も本源的な方法は、すなわち、人類始まって以来、常に切実な願いとされながら、いまだかって止んだことのない。この人類の宿命を転換すべき法は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布以外にないことを、全世界に向かって訴えるのである。
響の如く影の如く人の夜<書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し
生命の因果論である。ある地点で鐘を鳴らし、かりに100m離れた所で反響したとする。音が伝わっていくのを誰も見ることはできないが、音に従って響きがある。物と、それが映った影との関係も同様である。物に従って影は形を変え、所を変える。あるいは、夜、字を書いて灯を消したとする。闇となってもはや字は見えないが、夜が明ければ、そのまま字は残っている。
これと同じく、生命の因果も、過去世にどのような原因をつくったかを記憶していることはできない。だが、その結果は、今、つくった原因のままに受けているのである。また同じ一生の間にも、犯した罪が、その直後から罰となって現われてくるわけでない。ある期間を経て縁によって出てくるものである。この因果の流転が生命の実相なのである。しかして、この因果に、通途の因果と、正法誹謗の因果とがある。前者は、正法と無縁の衆生が業因業果を流転していくものである。後者は、正法を誹謗することによって、それぞれの因果を感ずるのであって、はるかに重業であるが、逆縁となって最後は救われるのである。
佐渡御書にいわく、
「一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食ソ疎五には求財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 」(0960-01)と。
このように、一往は区別されるが、再往は一切、正法によって罪障消滅する以外にないのである。すなわち、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経に帰依することによって、全世界のいかなる衆生もことごとく罪業を消し、しあわせになることができるのである。
0032:10~0032:12 第四章 念仏無間地獄の経文を挙ぐtop
| 10 法華経の第二に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と、 同第七 11 の巻不軽品に云く「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、 涅槃経に云く「善友を遠離し正法を聞かず 悪法に住 12 せば是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形・縦横八万四千由延ならん」と。 -----― 法華経の第二巻・譬喩品にはこうある。 「もし人が信じないで、この法華経を謗るなら、…その命が終わって阿鼻地獄に堕ちるだろう」 同じく法華経第七不軽品にはこうある。 「千劫の間、阿鼻地獄で大苦悩を受ける」 涅槃経にはこうある。 「善い友から遠ざかり、正法を聞かないで、悪法がその人から離れないなら、このことを原因として阿鼻地獄に没してしまい、そこで受ける身体は地獄と同じ縦横八万四千由旬の大きさとなり地獄の苦をすべて一身に受けるだろう」 。 |
千劫
劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。これを20倍したのが一中劫であり、一中劫×1000 を千劫という。顕謗法抄には「 此の経文の心は 法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども 罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448-11)とあり、誹謗正法のものの苦悩を受ける期間を説かれている。
―――
善友
善知識と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
―――――――――
法華経譬喩品と常不軽品、涅槃経の迦葉菩薩品の三つの経文を引いて、正法を聞いても邪法への執着を断たず、なお謗法を信じているならば、無間地獄に堕ちることを示されている。
日蓮大聖人は、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の、いわゆる四箇の格言をもって、当時の代表的な邪宗教を厳しく破折された。なかでも、この立正安国論においては念仏を中心に取り上げられていることは、これまで述べてきたとおりである。
しかしながら、無間地獄に堕ちる邪宗教は念仏のみではない。今、ここに引かれたように正法を毀謗する悪法を信ずる者はすべて無間地獄の罪を免れることはできないのである。禅宗も無間地獄であり、真言、律も無間地獄である。同じ方程式で、今日、創価学会に対し、また三大秘法の大御本尊に対し、誹謗し、批判し、妨害しようとするあらゆる宗派、団体は、ことごとく、無間地獄の業であることを知らねばなら。なぜかならば、大御本尊が日蓮大聖人の出世の御本懐であり、仏法の極理中の極理であることは、いうまでもなかろう。創価学会は、大聖人の御遺命である化儀の広宣流布を成し遂げんと立ち上がった唯一の団体である。真の仏弟子であり、師子王の子である。これを謗り妨げることは、仏に背き、法華経を毀謗するのと同じことになるからである。
したがって、また、これを毀謗する者は、邪宗教だけが無間地獄に堕しるのでもない。化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに対して、政治などの分野においては政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力をもって弾圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定である。
創価学会は民衆の幸福を心から願って、そのために戦っている団体である。これを妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、これまた「人信ぜずして此の経を毀謗せば」「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば」の類となる。したがって、彼らも、無間地獄に堕ちることを免えないのである。
それでは、無間地獄に堕ちるとは、どういうことなのか、無間地獄そのものについては、八大地獄の中の最も重いもので、仏がありのままにその苦しみのありさまを説くと、聞く人はそれだけで血を吐いて死ぬといわれている。それはどの苦しみの境涯をいうのである。
一体に、地獄といっても現代人には、それを実感として受け取れる人は、恐らくいないであろう。ほんとうの人が、仏とは死体のことをいうのと同じく、死後の世界を地獄というのだろうぐらいにしか思わない。死んで仏になって地獄へいったというような矛盾も、矛盾と感じないのが大部分の人である。
こうした、死後の世界を取り扱った文学として最も有名なのは、イタリア・ルネサンスの巨星、ダンテの「神曲」であろう。ダンテは、それを地獄と煉獄と天国の三つに分かれているとした。仏教の十界論に対比すると、いわば三界論を立てたわけである。
日本の神話では、死者の世界を「黄泉の国」と呼んで、イザナギノミコトの妻をイザナミノミコトを連れ戻そうとする話がある。ギリシャ神話ではハーデスという名称で呼ばれた。これらは、いずれも、生前の罪業や善業が死後に影響するとは考えられない。原始宗教から一歩進んで、初めて死後の世界の差別が立てられるようになったのである。
このことは、人生における善業・悪業の区別に対して、明確な判断をもつか、もたないかという問題と関連している。すなわち、現実生活において善悪の問題、道徳性が論じられる精神的発展を遂げた時に、その倫理の裏づけとして、死後の功罪という概念が生まれたといえる。
したがって、死後の生命の状態に関してまったく無関心な現代人は、少なくとも道徳面については、きわめて原始人に近いということになろう。ただし、原始人の倫理性が、その民族特有のダブーを拠り所としていくのに対し、現代人のそれは利害と合理主義であるという点が違う。これは、進歩といえぬものでもない。だが、それだけに規範の脆さが社会全体の問題となっていることも考えるべきである。
臨終にみる堕地獄
さて、仏教の地獄観は、昔から偶話的に語られてきたようなものではない。また、単に倫理を確立するための手段としてあらわれたものである。あくまでも、地獄は、現実に生活しているわれわれの生命の状態を一種類である。すなわち、苦しみ懊悩する境涯そのものを地獄というのである。
そして、死んで地獄に堕ちるとは、われわれの生命が死と共に、因果の理法に従って、大宇宙の生命のリズムに合致していく。大宇宙の地獄の生命に冥合した時に、これを地獄に堕ちたというのである。その証拠として、臨終の時、次のような姿を現ずるといわれている。まず千日尼御前御返事には、
「譬えば黒漆に白物を入れぬれば白色となる、女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物の如し人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し」(1316-10)とある。
また、妙法尼御前御返事にも、大論の「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」天台摩訶止観の「身の黒色は地獄の陰に譬う」等の文証を引かれて、臨終の時黒く変ずるのは、堕地獄の相であると述べられている。
事実、邪宗教を信仰している人々は、熱心にもてさやはれるほど、顔など皮膚の色が黒ずんできて、艶もなくなってくる。これは、天台大師のいう地獄の陰が、だんだんに濃さをましているゆえであろうか。文証と現証の一致からも、これは誠に不思議なことである。
大聖人のいわく「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」(1404-05)
而して、妙法を持ち切った人は、生前、黒い人でも白くなり、死体も軽く、柔軟で、顔や目は口を半ば開け、血色は生きている時の如き姿で死相を現ずるのである。同じく、大聖人は「須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(1405-08)と仰せである。
仏法を知らざる人とはいえ、レオナルド・ダ・ヴィンチの次の言葉は、死の意味をよく捉えているといえよう。彼のいわく「遺憾なく過ごした一日は、楽しい眠りをもたらす。それと同じく善く用られた一生は、安らかな死を与える」と。
信心強盛に一生を貫き、見事な臨終の相を現ずることが、そのまま永遠の幸福に通ずるゆえに人生の最後にして最肝要の勝利といえる。
0032:13~0032:17 第五章 結して立正安国を論ずtop
| 13 広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず、 悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、 愚なるかな各 14 悪教の綱に懸つて鎮に謗教の網に纒る、 此の朦霧の迷彼の盛焔の底に沈む 豈愁えざらんや豈苦まざらんや、 汝 15 早く信仰の寸心を改めて 速に実乗の一善に帰せよ、 然れば則ち三界は皆仏国なり 仏国其れ衰んや 十方は悉く 16 宝土なり宝土何ぞ壊れんや、 国に衰微無く土に破壊無んば 身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、 此の詞此の言 17 信ず可く崇む可し。 -----― 多くの経に広く目を通すと、何よりも謗法を重大にしている。なんと悲しいことだろうか、皆、正法の門を出て邪法の牢獄に深く入ることは。なんと愚かなことだろうか、それぞれが悪い教えの綱に懸かって永久に謗法の教えの網に纏わりつかれることは。朦朧と立ち込める霧のような迷いによって、激しく燃え盛るあの炎の地獄の底に沈む。どうして憂えずにいられようか、どうして苦しまずにいられるだろうか。 あなたは早速ささやかな信仰の心を改めて、速やかに本当に成仏へ至らせる教えである唯一の善い法に帰依しなさい。そうすれば、三界は皆、仏国である。仏国がどうして衰えることがあろうか。十方はことごとく宝土である。宝土がどうして壊れることがあろうか。国が衰えることがなく国土が壊れることがないなら、身は安全であり、心が動揺することがないだろう。この言葉を信じ敬わなければならない。 |
専ら謗法を重んず(安国論)
いずれの経も、正法を誹謗することが極重罪と説き、これを戒めているとの意。
―――
悪教の綱
邪法邪義に迷わされること。網とは、網をあやつる要で、大網の意。
―――
謗教の網網
邪法邪義に迷せ、正法を誹謗する経。網とは、網をあやつる要で、大網の意。
―――
彼の盛焔の底
正法を誹謗した者が受けなければならない無間地獄の苦しみの代表が燋熱・盛焔という。彼とは死後・来世。
―――
実乗の一善
実乗とは、実大乗の法華経。末法においては文底秘沈の南無妙法蓮華経であり、妙法のみが、末法の衆生を救済する一善の法であるとの意。
―――
宝土
権大乗教では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝で飾られていると説いた。この故に、仏国土を宝土という。法華経本門において、国土世間の常住が明かされ、娑婆即寂光が説かれた。すなわち、爾前の権大乗教では、仏土は遠い彼方にのみあり、この世界は穢土であると嫌われたのが、この娑婆世界こそ仏国土であると示されたのである。妙法の広宣流布が達成された時、国土はそのまま宝土であり、寂光の仏国土となるのである。
―――
衰微
慮いをしずめて、思惟の行を修することをいうが、ここでは、心に不安がなく、落ち着いて、日々の生活に力強く取り組めるようになること。
―――――――――
主人の最後の結論で、国中の民衆が謗法に迷って無間地獄に堕ちているのを悲しまれ、破邪立正による安国の方途を示されている。この御確信、大慈悲は、御本仏にあらずしては、ありえないことである。
従って、日蓮大聖人が上行菩薩の再誕としての迹をはらって、末法御本仏、久遠元初の自受用身としての本を顕わされるのは、文永8年(1271)9月12日の竜の口の頸の座であるが、この文応元年(1260)7月御述作の立正安国論も、その奥底には脈々と御本仏としての大慈悲が流れているのである。
汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ
早く謗法の信仰を捨てて、速かに真実の仏法に帰依せよと促されているのである。ここで「実乗の一善」とは何か。これまでの九段は、もっぱら念仏等の謗法を対冶することを強調されてきたので、実乗の一善が何かということは説かれていない。このゆえに、それを法華経ととることが一般に行なわれてきたのである。
だが、日蓮大聖人が天台宗ごときを正法とされていないことは、この立正安国論冒頭の客の嘆きに「或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め」と挙げさせ、だがいっこうに効き目がないと慨嘆されていることでも明らかである。もし、実教の一善を法華経二十八品あるいは天台宗とするのであったら、どうして効き目がないと嘆かれる道理があろうか。
事実、平安末期から、京の公家や源平の武家の間では、法華経を書写し、読誦し、供養することが盛んに行なわれていた。それにもかかわらず、そうした公家や武家も、衰亡、没落の運命を辿っていった。もはや効力のないことは歴然としていた。それを大聖人が、今さら持ち出される道理があろうはずがない。
天台宗を破折された御文は、観心本尊得意抄にいわく、「所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり、設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや」(0972-07)と。
また、三大秘法抄に、本門の戒壇を論じられた後、叡山の戒壇について、次のように述べられている。
「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林のイ棘となるにも過ぎたるなるべし、夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇をフましむべきや」(1022-18)云云と。
上の御文に明らかなように、日蓮大聖人の仏法は、天台、伝教の法門より一重立ち入った法華経本門文底の事行の一念三千である。大聖人のお立場からすれば、天台宗のごときは去年の暦であり、しかも謗法に染まった土泥にも等しいのである。しかして、この事行の一念三千すなわち三大秘法が仏法の究極中の究極であり、極説中の極説である。
御義口伝にいわく、
「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752-04)
百六箇抄にいわく、
「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり」(0862-下種の今此三界の主の本迹-05)と。
この文底下種、久遠元初の大仏法を大聖人は、建長5年(1253)4月28日に始めて説き出され、27年後の弘安2年(1279)10月12日、一閻浮提総与の大御本尊建立をもって、出世の本懐を遂げられたのである。この御本尊こそ末法の全民衆が帰命すべき「実乗の一善」である。
聖人御難事にいわく、
「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-01)
ゆえに「実乗の一善に帰せよ」とは、三大秘法の広宣流布であることはいうまでもない。
されば本文において「寸心を改め」とは邪教であり、「実乗の一善に帰せよ」であり、「然れば即ち三界」云云は安国である。
然れば則ち三界は皆仏国なり
化儀の広宣流布達成を述べられて御文である。広布達成は国土の成仏を意味する。ゆえに、国土世間の地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の生命は冥伏して、天変地変が起きなくなるのである。
だが依正不二であり「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578-12)の原理である。一度広宣流布されたとはいえ、人々が形式に流され、信心の血脈を失い、謗法を犯すことのようになれば、ふたたび悪国土となるのである。
「仏国其れ衰んや」等とは、妙法流布の国土には衰微することがないとの御文である。国土の衰微といっても、短い時間の単位で考えたのでは理解しがたい。広く世界の歴史を見ると、民族の運命を決定する重大な意義をもっていることがわかるのである。
たとえば、現在、世界の文明国は北緯30度から50度の温帯地方に集中している。北アメリカ・ヨーロッパ・ソ連・中国・日本等がそれである。だが、このような分布状態ができあがったのは、最近一千年以内のことに過ぎない。それ以前の数千年、あるいは何万年間、文明の中心はエジプト・北アフリカ・中近東・インド・中南米等の赤道地帯にあった。
エジプト・北アフリカ・オリエントの各地は今は砂漠地帯である。だが、かつて大文明が栄えたころは、もっとも雨量も多く、土地も肥沃であった。これが気象の変化によって、今日のような不毛の地となってしまったのである。
現代科学の発達によって、エジプトのアスワン・ハイ・ダム建設の灌漑計画のごとく、国土を人間の力で改造しようという時代になった。だが、人間の力が全面的に自然を改造できるわけではない。ダム建設といっても、これまで無駄に流されていた水を、より有効に活用しようというにほかならない。
したがって、人間の力が科学の発達によって、飛躍的に増大したことは間違いないし、またそれをさらに発展させようとする努力も尊い。だが、これをもって、科学で一切が解決できるというのは、むしろ科学を知らざる人の言である。真の科学者は自然の科学の偉大さを知り、これを畏敬さえしているのだ。
その偉大な自然を動かしている源泉は何か。これこそ南無妙法蓮華経の大仏法であると大聖人は説かれたのである。しかして、この妙法を全民衆が信仰するならば、自然の力は民衆の幸福生活を増進する方向へと働くようになる。逆に謗法の時は、不幸を増す方向へと働くようになるのである。これ、仏法の大原理であり、立正安国論で天変地夭を鎮める要法を説かれているのも、この方程式を大前提とされているのである。
われわれが日本民族の永遠に続く繁栄、全人類の、絶対に崩れることのない幸福を願うならば、今、妙法を広宣流布して仏国土を建設する以外にない。不幸の歴史に終止符を打ち、幸福生活の歴史を築いていこうではないか。
国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん
国家、民族が栄え、国土が平和であって、初めて民衆の個人個人の物心共の幸福が樹立できるのである。しかして、その要諦は立正安国論の実践である。この実践を忘れてわが身のみの幸福、平穏を願うのは、日蓮大聖人の弟子ではない。所詮、観念論であり、利己主義となってしまうのである。
正しい仏道修行は、全人類の平和、一国の繁栄を願う祈り、精神、実践でなくてはならない。
ここで、依正不二の原理から、この文のとおりだと、依報が根本で正報はそれによって左右されるという関係になるのではないかという人がいるかもしれない。依報によって正報が支配されていくという姿は、一般日常生活に見られるところである。しかし、それだけであれば、人間は外界の力に動かされる弱々しい存在に過ぎない。
今度は、その実相を正しく確認した上で、身近な例でいえば科学、技術をもって自然を変え、従えさせていく、また根本的には、仏法によって国土世間を革命していく、これが依正不二である。しかして、その信心の一念が正報となり、正報によって依報が決定されるのである。
また「三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」の文について、日寛上人の文段にいわく、
「文は唯日本及び現在にあり、意は閻浮及び未来に通ずべし」と。
すなわち「三界は皆仏国なり」「十方は悉く宝土なり」の文は、一往は日本であり、また現在時点のみを示しているようであるが、再往、その意は、全世界の末法万年尽未来際にわたる恒久平和と理想社会の出現をいうのである。
立正安国論こそは、一国、一民族の安泰と幸福にとどまらず、崩れざる世界平和と人類の幸福への、偉大なビジョンとイデオロギーを説かれた書であることが明々白々ではないか。
国際連合といい世界連邦といっても、単なる機構やムードによっては、けっして世界の一体化を実現することはできない。われわれはその厳しい教訓を、あの第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合に学んだ。今もまた、第三次大戦に突入しかねないような、不穏な情勢に直面している。
だが、万が一にも第三次大戦が起こったならば、人類の大部分は滅亡するであろう。断じて、そのような悲劇を惹き起こしてはならない。過去数千年、否、数万年にわたって、営々と文化を築いてくれた先人のためにも、またこの世界を引き継ぐべき子孫のためにも。
人類は文化の発展に伴って、その相互扶助の生活範囲を民族から部族へ、部族から民族へと拡大してきた。その拡大によって、文化の飛躍的な発展と、民族の福祉の増進がもたらされたのである。この拡大を拒否した排他的、閉鎖的な集団は、文化の発展から取り残され、停滞した未開民族となっている。
現代は民主主義の時代である。最も進んだ欧米でも、たとえば、アメリカにおいては、アングロ・サクソン、ゲルマン、ラテン等の白色人種間の民族の融和は実現してきている。しかし、白色人種と黒色人種、黄色人種の間には、根深い差別感が残っている。ヨーロッパにおける西欧の団結と、スラブ人種との対立も、これと共通するものがある。
一方、アフリカやインド等においては、民族以前の部族対立が、紛争の深刻な一因となっている。後進国と称される所以である。
このように、細かく見れば、先進諸国と後進地帯とでは、種々の相違があるが、慨していえば民族主義的対立が現代を特徴づけるといえる。なかんずく、この民族的対立に国家的利害の対立が加味されて、相互の衝突を、ますます尖鋭にしている。一体化の進んだ西欧の諸国家においてすら、国家的対立が民族的融和を帳消しにすることが珍しくない。
このゆえに、真に平和な、一体となった世界を築き上げるためには、感情の問題として一体感を盛り上げることも当然、第一に必要である。しかし、それとともに強力な世界機構が設置されて、現在ある各国家の機能を上回る働きにより、現実的な信頼関係が確立されなければならない。
そして、これを可能にするものは、既存の宗教や哲学による人生観、世界観にはない。それらは本質的に、現実を否定するものであったり、個人主義に閉じこもるものであったり、あるいは個人の尊厳を否定するものであるからだ。何よりも、過去の歴史が彼らの無力を明確に実証しているではないか。
日蓮大聖人の仏法こそ、全人類の同胞意識を築き上げ、世界平和への大指導原理を本質的に含んだ、真の世界宗教なのである。
境民族主義を論ず
仏教は全世界の大宗教
「三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや」と仰せのごとく、仏教は単なる一国、一民族を対象とするものではない。全世界、全宇宙を対象とし、永遠の平和と繁栄を説くのである。
「三界」とは、六道を分別したものであって、欲界・色界・無色界である。欲界とは下は地獄界から上は天上界の六欲天までの欲望の世界のすべてをいう。色界とは欲界の外の浄妙の色法だけが存在する天上界、無色界とは物質のない精神界の最上の天界をさす。なおこの三界の外には、二乗の住する方便土、菩薩の住する実報土、仏の住する寂光土があると説く。
しかしこのような分別は、爾前迹門において説かれたものである。法華経の本門寿量品においては本国土妙を明かし、本仏は永遠の昔より、この娑婆世界において説法教化しつつあることを説く。
ゆえに「三界は皆仏国なり」「十方は悉く宝土なり」とは娑婆世界即寂光土であり、われわれの住むこの世界が永遠不滅の仏国土であることを示す。これを観心本尊抄には「十界久遠の上に国土世間既に顕われ」(0249-02)と仰せになっているのである。
さて以上の三界論や、仏国土から考えても、仏教が特定の国や、特定の民族に限るものでならないことはいうまでもない。日蓮大聖人は常に一閻浮提を対象として、三大秘法を立て、三大秘法を弘通あそばされたことは、次のようにお示しのとおりである。
観心本尊抄に「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と。
撰時抄に「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259-10)と。
報恩抄に「三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(0328-16)と。
さらに仏教伝来の歴史の上からいっても、インドの仏教が中央アジアを経て、中国から朝鮮・日本へと弘通された。中国では既に流通していた儒教・道教の激しい抵抗を受けたが、幾多の論争のすえ仏教が勝ち、全土に流布し尊崇されるに至った。
日本においても、初めて仏教が伝来した時は、西蕃の仏を崇めるや否やの争いが、当時の氏族間の対立抗争や、皇位継承問題などにもからみ、数十年にわたる論争と暗闘を繰り返した。その結果は、崇仏派の勝利となり、仏教は全国に弘通された。すなわち仏教は、偏狭なる民族主義や国家主義をよく同化し、一切衆生皆成仏道の大海に流入せしめてきたのである。
世界民族主義実現の時
末法の御本仏、日蓮大聖人の慈悲の精神を根本として、世界平和を実現せんとするわれわれの思想は、文明論でいえば第三文明、政治面でいえば仏法民主主義であるとともに、国際間からいえば民族は唯一の民族であり、同一のこの地球上住むあらゆる民族は唯一の民族であり、同一この地球上に住むあらゆる民族が、国境、言語、風俗、生活環境等々の相違を克服して共存共栄すべきであると主張する。しかし、このような理想は、正しい仏法を根幹としてこそはじめて実現することができる。正しい仏法とは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学たる三大秘法の大白法なのである。
通信機関、交通機関をはじめ科学が大きく発達し、地球上の距離はきわめて短縮された。今や十数時間もあれば地球の裏側の諸国まで飛ぶことができるし、地球上に起きた事件は、二・三時間もすればたちまち世界じゅうの人々に知れわたってしまう。世界全体が、一つの町のようになり、世界じゅうの指導者がいつでも一所に会することができ、通信機関を通じて相談することもできる。このような科学の世界に生きながら、昔ながらの国境を墨守して相争うことなどは、実に愚かなことではないか。
地球上のいかなる国も、いかなる民族も、ともに相互扶助の体制が立ち、ともに平和と繁栄を期すべき時である。国境を越え、民族を越え、さらに国家間の集団陣営や国家群を越えて、地球全体の安全、全人類の平和維持を考え、実現すべき時である。世界はすべて一民族であり、国境は対立抗争のための国境ではなく、行政上の区画ぐらいになり、世界連邦の結成へと進むべきである。
世界連邦の提唱は、いまに始まったことではない。しかし、世界の指導者たちが、その根底となるべき偉大なる哲学もなく、宗教もないのでは、このような大理想が実現できるわけがないのである。いかなる哲学書も、社会主義や民主主義の理論体系も、みな人類の幸福をめざしているものに相違ない。しかし、真実の理論と実践を可能にする哲学は、日蓮大聖人の大仏法を根本とする時こそ、初めて世界連邦の実現も可能になり、世界民族主義を実現することができるのである。
いかなる政治家であっても、政治を行なうには、その根底に思想がなくてはならない。そして、その基本となるべき政治思想の高低浅深が、おのずからその時代の繁栄が、衰亡かを決定していくのである。ゆえに、その政治技術を論ずる前に、まずいかなる政治理念、いかなる政治思想を実現しようとするかを論じなくてはならない。世界民族主義も、世界連邦も、真実の宗教を根本となさなければ、実現することができない理由もここにあるのである。
ナショナリズム
国家間、国際観を論ずるにあたって、ナショナリズムとインターナショナリズムの問題がある。ナショナリズムに、一往の定義をあたえるとすれば、「あるnationが、自らを他から区別して意識してその統一、独立、発展をおし進めようとする思想、あるいは運動」とでもいうべきであろう。しかしてこのナショナリズムの訳語に「国家主義」とか「国民主義」とか「民族主義」といった多くの言葉が用いられているのは、この主義、思想のあらわす意味が、多方面にわたっているからにほかならない。またナショナリズムは「祖国愛」とか「愛国心」と訳される場合もあるが、いずれもそのような一面の意義を含んでいるのである。
西欧におけるナショナリズムの発展過程をF.H.カーは三つの時期に分けた。その第一期は君主のナショナリズムであって、主権者としての君主がネーションの代表として振舞った時期であり、これはフランス革命とナポレオン戦争をもって終わる。その第二期は、ブルジョアジーのナショナリズムであって、主として自由民主主義ないしブルジョア民主主義の枠のなかで動き、これはフランス革命から始まり、1914年の第一次世界大戦の勃発まで続いた。その第三期は、大衆のナショナリズムであるとした。このようにカーは、ナショナリズムの発展を、政治集団としてのネーションに対する見解の発展に即してとらえたのである。
わが国におけるナショナリズムは、以上のような西欧諸国における発展段階に較べて、それが同一の経過を辿っていない。すなわちわが国では、第二次世界大戦が「国家主義」「愛国心」の原点となったが、その結果は「超国家主義」「侵略主義」「好戦主義」となってあらわれ、敗戦亡国を招来し、世界人類に無量の不幸をもたらす結果となった。ゆえに戦後はこのナショナリズムが、一種の禁句と考えられる時代であった。
やがて朝鮮戦争は、ナショナリズムに対しても大きな波動を与えた。朝鮮半島を舞台にして連合軍と北鮮・中央軍との激烈な攻防戦、停戦のためのインドの貢献、中印両国の平和五原則生命、バンドンにおけるアジア・アフリカ会議の開催等を通じて、アジア・アフリカの民族解放運動が、新しいナショナリズムとして、国際政治の場に、登場してきたのである。
こうしたアジア・アフリカのナショナリズムは、多分に「民族主義」「国家主義」と要素を持っている。しかしこれが第二次世界大戦における日本の「超国家主義」や、ナチ・ドイツにおける「国家社会主義」と比較した場合に、その根本的な区別は、「民主主義」の原理を認めるか否かにある、ということができるであろう。しかし、問題はこの「民主主義」という言葉の意味である。自由主義陣営では、われこそ真の民主主義といい、逆に社会主義陣営では「人民民主主義こそ真実」という。
これらの主張は、いずれもその一面の真理を含むのみであって、哲学自体が偏頗であるところから起こったものである。ゆえにわれわれは、唯物論や唯心論の執着を捨て、色心不二の生命哲学の確立を叫ぶとともに、生命哲学を根本にしてこそ、初めて真実の民主主義の確立があると主張するのである。
インターナショナリズム
次に、インターナショナリズムは、国際主義と訳す。これはナショナリズムと対立するようであるけれども、国家主義、民族主義を、国家や民族の至上主義と解しないならば、相互に矛盾することはない。すなわち、インターナショナリズムが、個々の国家の主権に制限を加えて超国家的政治社会の形成を理想としつつも、その構成単位としての国家の独立的機能を認め、諸国間の平和的、共存体制の促進をめざすものと解すれば、互いに両宗義間の矛盾はなく、両主義は併存するわけである。
インターナショナリズムは、中世の普遍的教会や、普遍的帝国の理念と区別され、近世以降の所産とされている。そして、その発展と類型は、次のように三段階と三種類に分けられる。
第一は王朝的インターナショナリズムで、17~18世紀における国際主義が、君主ないし王朝間で論じられ、結合された。19世紀前期の神聖同盟もその一つであった。
第二はブルジョア的インターナショナリズムで、貴族的特権階級と、労働者階級とに対して共通の利害連帯性を有し、政治的民主主義と、経済的世界主義を両立するものとして発展した。やがて民族主義、帝国主義思想の増大は、第一次世界大戦を引き起こしたが、その結果は国際連盟が樹立され、インターナショナリズムの発展に一時期を画した。また第二次世界大戦の結果、国際連合が誕生したが、米ソの二大陣営の対立と、植民地後進国の反帝国主義、民主主義は一段と活発化していった。
第三はプロレタリア的インターナショナリズムである。1864年、マルクスの指導下に第一インターナショナルが結成され、1878年には解散。1889年に第二次インターナショナルの結成、1914年には第一次世界大戦の開始、1919に第三次インターナショナルの結成、ロシア革命後のボルシェヴィキ政府は、対外的にはコミンテルンを指導し、世界各地に大きな影響を与えてきている。
以上のような思想の流れ、歴史の変遷を辿ってきたが、最近の国際情勢は、中ソの対立によって、共産主義陣営は二分された。またベトナム戦争を中心とするアジア諸国は、大きな不幸と不安に襲われつつある。さらに第三次世界大戦がもし起きれば核戦争となり、世界人類が一瞬にして滅亡するという危機をはらんでいる。今こそ真実にして強力な指導理念が確立され、永年にわたる人類の、対立抗争をよく指導し、永遠の平和と幸福の実現を待望してやまないのである。これこそ真実の立正安国論である。
世界平和と原水爆宣言
日本は第二次世界大戦の末期に、二発の原爆を蒙り、文字どおりこの世の地獄の相を出現した。その苦しみ、恐怖、悲しみの中から、「世界のいかなる国にも、二度と再び原爆を落とさせてはならない」「核開発は平和促進のみに利用されるべきであって、断じてこれを戦争目的に使用してはならない」との運動が起こされてきた。しかるに戦後20年の間に、日本国民は辛うじて保たれている平和の中に安住し、毎年繰り返されている原水爆禁止運動は分裂抗争の醜態を晒している。
創価学会第二代戸田会長は、すでに昭和32年(1957)9月、全世界に向かって原水爆の禁止を強力に訴えられた。それはいずこの国であろうとも原水爆を戦争に使用したものは、ことごとく死刑に処すべきであり、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界にひろめるべきであるとの宣言であった。
このような絶対平和主義も、唯物論や唯心論を基本としていたのでは、とうてい実現されるわけがない。仏法の真髄たる日蓮大聖人の哲学により、その慈悲を根本とする平和思想の流布によってのみ、世界人類の永遠の平和が確立され、立正安国が実現されるのである。
0032:18~0033:04 第十段 領解して謗法対治を誓うtop
| 18 客の曰く、 今生後生誰か慎まざらん誰か和わざらん、 此の経文を披いて 具に仏語を承るに誹謗の科至つて 0033 01 重く毀法の罪誠に深し 我一仏を信じて諸仏を抛ち 三部経を仰いで諸経を閣きしは、 是れ私曲の思に非ず 則ち 02 先達の詞に随いしなり、 十方の諸人も亦復是くの如くなるべし、 今の世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこ 03 と文明かに 理詳かなり疑う可からず、 弥よ貴公の慈誨を仰ぎ 益愚客の癡心を開けり、 速に対治を回して早く 04 泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶けん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。 -----― 旅人はいう。 今世のことも来世のことも、誰が身を慎まないことがあろうか、誰が心穏やかでいられようか。 これらの経文に目を通して詳しく仏の言葉を承ってみると、誹謗の罪はきわめて重く、法を謗る罪は実に深い。私は阿弥陀仏だけを信じて諸仏を抛ち、浄土の三部経を仰いで諸経を閣いたのは、先達の言葉に随っただけである。全国の人々もまた同様である。今世には仏性の心を消耗させ、来世には阿鼻地獄に堕ちてしまうことは、経文に明らかであり法理は行き届いている。疑うことはできない。 あなたの慈悲の教誨をいよいよ仰ぎ、私の愚かな心をますます開くことにしよう。速やかに謗法を滅する手立てを施し早急に泰平を実現し、まず生前を安穏なものとして、さらには死後のために善根を増すようにしよう。ただ私だけが信じるのではなく、それに加えて、他の人々の誤りをも制止していこう。 |
私曲の思
自己の利益のために勝手に立てた妄想。
―――
先達
自分より先に道に達した人。
―――
性心
生まれたままの心。
―――
慈誨
慈悲あふれる教訓。相手を救おうという真心から出た厳格な教え。
―――――――――
客が主人の教えを全く了解し、自ら正法に帰依するとともに、主人の説の如くに謗法対治をしていくという談である。したがって、これに対する主人の言葉はなく、この客の言葉をもって全編の結論とされている。
今生後生誰か慎まざらん誰か和わざらん
謗法が現世から未来永劫にわたる大不幸の原因であることを知るならば、誰人たりとも謗法を慎み恐れずにはおられないとの意。
どんなに権力があろうと、学者、有名人、金持ち、身体頑健な人であろうと、仏法を誤れば、この福運はたちまちに尽きてしまう。世の中の一切の不幸の原因は、根本をたどれば、すべて誤った宗教を信仰していくことに帰着するのである。もとより、近い原因、あるいは助縁は、いろいろと指摘できるであろう。だが、そうせざるを得なかった根本原因は、仏法を知らない人には、とうてい解明できないのである。
現在創価学会の折伏によって、旧来の謗法を捨て、正法に帰依した人は、謗法を信仰していたときにはどうしても解決できなかった、どんな生活の悩みをも解決し、幸福になっている。この事実は、謗法がそれらの悩みの原因であったことを、現実の証拠として証明しているのである。
さらに、経文にも、前段で挙げられたように明確に説かれている。また、大聖人は観心本尊抄には「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可き」(0254-16)諸経と法華経の難易の事にも「仏法やうやく顛倒しければ 世間も又濁乱せり、 仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)と仰せである。これらの経文上の証拠に照らし、さらに、これを生命哲学の道理に照らすならば、当然のこととして理解できるのである。
是れ私曲の思に非ず則ち先達の詞に随いしなり
客が念仏を信じて謗法を犯したのは、自分で勝手に考えだしたことではなく、先達即ち法然等の言葉にしたがったゆえである。との意。当時の浄土宗に限らず、各宗教のひろまった過程を見ると、かかる低級な邪義が簡単にひろまった最大の原因は、民衆の宗教に対する無知であることがわかる。少しでも悩みにふれた言葉を聞かされると、簡単に理性を失い、すべてが正しいように思い込んでしまうのである。それによって謗法に陥り無間地獄に堕ちるのであるから、実に哀れなことである。ルネサンス期のイギリスの哲人フランシヌ・ベーコンは「知らない力なり」といったという。そのとおりである。無智の大衆が何千万人集まろうと、陰険な敵は、たちまちこれを攪乱し、味方に寝返らせ、やがて全員を捕えてしまうであろう。有智の団結が最も強いのである。創価学会は、最高の有智の団体なのである。
御書を通じ、法華経を通じて、日蓮大聖哲の仏法哲学を学ぶ教学部員は、すでに100万人をはるかに超え、200万人になんなんとしている。その教学部員は日本のみならず、アメリカ、東南アジアから遠くヨーロッパにも定期的に行われている試験に合格し、ぞくぞく誕生している。もとより日ごろの研鑽の成果である。
聖教新聞をはじめとする学会出版物は、いまや全世界中、最も注目される存在となっている。学会員がいかに求同心、向学心に燃えて知識の吸収、知性の涵養に務めているか、安逸に流された人々には理解しがたいところであろう。これは、日蓮大聖人の仏法が現代に生きた哲学であり、人生の智慧の最も豊かな源泉であることを如実に物語っているともいえる。
ある唯物論哲学者のいわく「日蓮は700年前の人であるから、今ごろ、その教えが当てはまるわけがない」と。惜しむらくは、この人は不変の真理を思索する哲学者になるより、ジャーナリストになるべきであった。だが、すぐれたジャーナリストであるなら、今、1000万以上の民衆が、信仰の情熱を燃やし、向学心に燃えて求めているその実体、かつ、第三文明の大社会運動を生み出しているその力の源を、偏見を捨てて正しく知りたいと務めるに違いない。
日蓮大聖人の仏法は、久遠元初の大仏法である。無始の昔より無終の未来にわたって、不変不滅の哲理である。マルクス主義は、わずか100年前に生まれた経済上の学説であり、50年後には早くも幾多の矛盾を露呈し始めた。唯物主義の偏見である。このような低級思想の眼で、大聖人の仏法が理解できる道理がないのである。
無智な批判は、自己の恥をさらすのみでなく、正法誹謗の恐るべき悪業の因をつくっていることも知らなければならない。
今の世には性心を労し
謗法を信ずる者は、現世において、生命力をむしばまれ、知情意ともに衰えてしまうものだ。絶え間ない不幸のために、知力は衰えて感情も沈滞し、意志の力も失われて無気力になっていく。幼少のころは元気はつらつとしていた人が、年をとるにつれて消極的、無気力になっていく例は、われわれの周囲に、絶えず見受けられる。
わが国において、浄土宗や真言宗が封建制度と結託して、民衆の無気力化に果たした役割りは、無視できない。徳川幕府は「百姓は生かすべからず、殺すべからず」という苛政をもって農民に臨んだ。同時に、全農民、町民を全国にくまなく存在する邪教寺院の檀信徒として、その宗門人別帳を戸籍台帳としたのである。民衆は宗教に対して全く批判を許されぬままに、邪教の信者とさせられ、邪教の魔力で政府の苛政に反抗する気力をも奪われたのである。
なかでも、この世を住みにくい穢土とし、ひたすら念仏を称え、阿弥陀を信ずれば、来世は必ず極楽へ往生できるという教えが、為政者にとっても、この上ない好都合であったことは想像に難くない。こうして、江戸時代の仏教寺院は、それ自体が封建領主的であると同時に、幕府の支配機構の一環として権力を振るったのである。
明治維新を迎えて、新政府が幕府体制の破壊のために、まず手をつけたのが廃仏毀釈運動であったことも、この間の事情をよく物語っている。権力との結託で腐敗しきった仏教に対しては、すでに徳川時代から儒学者や国学者による批判が現われていた。明治政府は天皇の神格化と幕藩体制破壊の必要から、神道を国教化して仏教を廃止しようとしたのである。
最初に行われたのは、慶応4年(1868)4月、比叡山坂本日吉社で仏像・僧像・経巻・法器等が破壊され、焼かれた事件である。以後、全国に波及し、明治2年(1869)、土佐藩では寺院総数615のうち439が廃寺とされ、薩摩藩、隠岐島では全廃、富山藩では一派一寺院に限定された。神道を精神的支柱とした明治体制が、遂には軍部の横暴、正法への弾圧により、亡国を招いたことは周知のとおりである。
だが、この廃仏毀釈が明治初期の人心の一新、民族の新しい興隆をもたらしたことも事実である。
誤れる宗教が、民衆にどのような影響をおよぼすかを、最も端的に表現したものはマルクスであり、ニーチェであった。マルクスのいわく「宗教は逆境に打ちひしがれた者の溜息であり、非情な世界の感傷であり、魂のないところの魂をみるのである。それは民衆の阿片である」と。
また、ニーチェはいう「誘惑し、陶酔させ、麻痺させ、堕落させる力において『聖なる十字架』というあの象徴に匹敵し『十字架にかかれる神』というあの戦慄すべきパラドツクスに匹敵し、神が人間を救うために、およそ想像を絶して端的に残忍な、自ら十字架にかかるというあの秘蹟に匹敵する何があろうか」と。
改めて断わるまでもなく、これらはキリスト教に関しての批判である。キリスト教がヨーロッパ中世の封建社会において演じた役割は、わが国の場合の浄土宗や浄土真宗等とまったく同じである。
ここで、マルクスが「阿片」といい、ニーチェが「誘惑し、陶酔させ、堕落させ」といっている言葉が、大聖人の「性心を労し」と申されているのに、なんとよく似ていることが、現代人は、これらの言葉に改めて耳を傾け、謗法の宗教の恐ろしさを、冷静に見直すべきである。
しかも、大聖人の仰せは、マルクスやニーチェのごとき単なる現世の問題ではなく、生命哲学の立場から、未来永劫に無間地獄に堕ちると警告されているのである。
先ず生前を安じて更に没後を扶けん
仏法は現当二世にわたる幸福生活を築く源泉である。よく、学会が現世利益を説くといって批判するひとがいる。幸福を求めるのは万人共通の心情であり、これを批判する者は人間性の喪失者という以外にない。
しかして、この批判の根本にある、宗教とは、現世の幸福を願うものではなく、来世に幸福を祈るものだという考え方も大なる誤りである。それは、民衆を幸福にする力のない宗教、むしろ不幸にする宗教が、言い訳のためにつくりあげた詭弁である。現実に幸福になれる証拠がなくして、どうして来世もしあわせになると信ずることができようか。
三世にわたる生命観は、縮小すれば昨日・今日・明日と続く生活に譬えることができる。不幸をそのままにして、一夜明ければ幸福に変わるということはありえない。よい明日を迎えるためには、今日の努力が必要である。今日のうちに好転しておいてこそ、明日の幸福はあるといえる。これは日常生活の原則である。現世と未来世の関係も、まったくこれと同じである。
したがって、全学会員の信心によって、大功徳を受け、幸福に満ちた生活を確立していかなければならない。それが来世、また次の来世と、未来永劫の幸福生活の実証となる。
また、現在、広宣流布の闘志として、折伏の第一戦に活躍し、楽土建設に尽くした人は、永久に平和楽土に安住していくことができるのである。
唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ
これは折伏を誓っている言葉であり、立正安国論の最後の一句が折伏論で結ばれている事実は、重大な意味がある。すなわち、謗法の民衆を折伏し、救っていくことこそ、立正安国論の実践の要諦と拝することができるのである。
曾谷殿御返事にいわく「涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056-04)と。
また、日興上人の遺誡置文にいわく、
「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618-06)と。
さらに日寛上人の安国論文段には、この御文を釈して「これ仏法中怨の責めを恐るるゆえなり」と仰せである。
日蓮大聖人、日興上人、ともにその御一生は、謗法の徒輩と、それに迷わされた上下万人に対する大折伏の連続であられた。その御精神を最も忠実に承継し、不惜身命の折伏に立ち上がったのが、初代牧口会長以来の創価学会である。戸田前会長は、みずから「私は末法の折伏の師匠である」と宣言された。そして、その念願であった75万世帯の大折伏を達成し、その言葉を事実の上で証明されたのである。
戸田会長なきあと、創価学会は、さらに折伏を展開し、550万世帯を優に超えるにいたった。創価学会が末法折伏の団体であり、立正安国論の御遺命を達成すべき仏意仏勅を受けた、仏の軍勢であることは、絶対に間違いない。
わが身のしあわせを願って、自分だけが信心していけばよいというのは利己主義であり、仏の弟子のあり方ではない。かえって、謗法をみながら、これを誡めず呵責しない者は、仏法中怨として、無間地獄に堕ちると申されているのである。
ひるがえって、現代の世相を見る時、国内において既成、新興の邪宗教はもとより、正法を知らず、誤った思想が充満している。また、科学的合理主義に名をかりて、あるいは唯物主義に名をかりて、宗教は有害無益であるとする風潮も一般化している。
こうした無智、無認識と悪意、偏見の壁は厚く、われわれの前途は険しく遠い。だが、立正安国論の御遺命達成が夢としか考えられなかった暗闇の時代は過ぎた。決してそれが夢でも仮構でもないことがはっきりと理解でき、自覚できる時代にはいったのである。
目標を見つめ、理想を掲げ、正義を叫んで力強く前進していこう。
聖人御難事にいわく、
「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり、故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり、今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず、設い大鬼神のつける人なりとも日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつしがたかるべしと存じ給うべし、月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-07)と。
第三文明建設の理念
「早く泰平を致し」云云とあるのは、真実の幸福な世界出現を意味し、今日においては、具体的には第三文明の建設がそれである。ここに最終の段であることも考え合わせ、第三文明建設の理念について総括的に論じておきたい。
文明とは、人類の普遍的な遺産である。しかして、あらゆる文化の根底には、必ず思想、哲学、宗教すなわち根本理念が存在している。
現在、世界には、唯心思想を根底とした文明と、唯物思想を根本とした文明と、文明の二大潮流があることは、論をまたぬ。しかるに、この二大文明の対立は、今や世界に重大なる相克を生ぜしめていることは、まことに遺憾にたえない。
ここに、われらは、第三文明の建設を提唱し、世界平和と人類の繁栄に寄与せんとするものえある。第三文明とは、日蓮大聖人の大仏法哲学、大生命哲学を根底とした文明に名づけたものである。
なぜなら、現今の二大思想たる唯心思想も、唯物思想も、ともに矛盾した思想であり、偏頗な思想たるを免れない。そして、唯心思想、唯物哲学を弁証法的に止揚せしむる大思想こそ、東洋の大仏法に説くところのいわゆる色心不二の大生命哲学である。色心不二とは、通途にゆう物心一如と一応は類似しているが、さらに深奥なるゆえに、第三文明と名づけたのである。
また不思議にも、現代は、すでに第三の炎が燃え、世界的には平和を築く真実の第三勢力が待望される時、この第三文明の興隆こそ、正に日本の光りであり、世界の希望であることを確信して止まない。
われらが提唱する第三文明は、東洋仏法の真髄たる日蓮大聖哲の大生命哲理を根本理念として、次のような内容と理念を有する。すなわち、絶対平和主義、中道主義、仏法民主主義、社会民主主義、世界民主主義、真実のヒューマニズム、大衆福祉の理想等々である。これらの優れた理念こそ、今後の日本、世界をリードしていくべき新時代の大革命原理なりと主張してやまない。すでに仏法民主主義、人間社会主義、世界民族主義、真実のヒューマニズム等については、前段までに述べてきたゆえに、ここでは、簡単に慨説するにとどめたい。
絶対的平和主義
世界における、古今東西のすべての宗教の中で、実に東洋に出現した仏教ほど、平和主義に徹したものはあるまい。しかして、この東洋仏法の真髄を伝え、末法といわれる濁悪の社会を救済しゆく仏法こそ日蓮大聖哲の大仏法である。
仏法の理念は、慈悲を基とする。いわゆるキリスト教的な愛が、愛憎という相対的概念の上に成立するのに比して、真実の仏法で説く慈悲とは、絶対的なものであり、人に楽しみと幸福をもたらし苦しみや不幸を取り除く絶対的概念である。
日蓮大聖人は、いかなる迫害や弾圧に対しても、身に寸鉄を帯びずして、慈悲と道理の絶対平和主義に立って、宗教革命を進められた。われらも、また仏法における絶対的平和主義を奉持し、慈悲と道理の無血平和革命を推進せんとするものである。
われわれが、平和主義を基調とした日本国憲法を、あくまでも擁護して、祖国を、全世界を戦争の危機から救いたいと強く念願しているのも、この仏法における絶対平和主義を貫き通さんとする決意と同じ精神である。
仏法における絶対平和主義は、世間一般でいわれる、いわゆる平和思想、平和運動とは、明らかに根本的に異なっている。なぜなら第一に根本理念たる哲学の相違である。第二には、ある種の平和運動は、目的を達成するための一つの戦術であり、ある場合いは一転して暴力革命や戦争に訴える性質をはらんだ平和思想にすぎないゆえである。
われらの絶対平和主義は、断じて正義と平和の両面を共に強烈に貫き通すものであり、これ根底となる哲学が優れているゆえに実践しうるのである。すなわち真実の仏法には生命の尊厳なるゆえんが比類なき高度な哲学として説かれ、また真実の仏法には慈悲と道理という平和理念によって達成しゆく強き実践力が包含されているからである。
とくに、700年前の蒙古襲来よりも、何十倍、何百倍と恐ろしい他国侵逼難、これが現代における米中ソ等の対立であり、核戦争の恐怖である。かかる時代にあって、もっとも大事なのは、絶対的平和主義に立った強き平和への祈りであることを、心から訴えて止まない。
しかして、世界の救世主・日蓮大聖哲のこの立正安国論こそ、絶対的平和主義の仏法を根本として、高らかに世界平和主義を宣揚する大宣言書なりと主張するものである。
戦争を絶滅し、一軒一軒の家庭が、人生を最高に楽しみながら、安穏に、平和に、福運をもって暮らしていける。このような国家・社会を築いていくのが、大仏法の目的である。
絶対的平和主義を唱える大仏法によって、一人一人が立派に人間革命し、人間革命は、家庭革命を生み、人間革命はさらに教育革命、経済革命、政治革命を起こし、やがて社会革命、一国の平和革命を達成してゆくのである。
武力ではなく、文化、哲学を根幹とした国家、民族の繁栄、これこそ、われらの進む目標である。第二次世界大戦では、日本は世界中から攻められたが、今度は妙法の革命によって、世界の各民族が、平和な日本、幸福な日本、繁栄する日本に、自然に集い来るように、ぜひ、したいものである。
あたかも、芸術の都パリにあこがれ、社会保障の完備したデンマークやスウェーデンの見学を望むごとく、妙法を根底とした日本の社会が、その何十倍、何百倍も優れた平和な文化国家となった時に、世界の全人類が、平和と繁栄の日本を渇仰し日本に押し寄せてくることは、火を見るより明らかではないか。
中道主義
真実の仏法は、あくまでも中道主義を理想とするものである。そして日蓮大聖人の仏法ほど、中道主義に徹したものはない。釈尊の法華経は空仮中の三諦円融した法門を説き、しかも空諦・仮諦・よりも中諦すなわち中道を基としたものである。いわんや、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経にあっては、根本的に、三諦円融はもとより、中道主義を根本理念として包含している。
仏法で説く中道主義とは、いわゆる巷間でいわれている中道精神や、儒教等で説く中庸精神、またアリストテレス流の中庸とは、基本的に異なるものである。いわんや、現実の世界や政治において、どっちつかずの中立とか、保守と革新の中間といったようなものとは、断じて異なるものであることは、いうまでもない。
真実の仏法で説く中道主義とは、高い次元の上から、すべてのものを包含して指導し統一しゆく大原理である。すなわち、日蓮大聖哲の色心不二の大生命哲学は、自由主義・共産主義・実存主義のすべての哲学を、ぜんぶ包含し統一しゆく宗教なるがゆえに、真実の中道主義である。
世界の現状は、思想にせよ、イデオロギーにせよ、あるいは政治にせよ、すべて対立と相克、もしくは分極化、多様化の方向に向かっている。そうして、国際的には、二大陣営の対立とか、東西問題・南北問題等を惹起している。また日本の現状も同じく、保守と革新の対立抗争、階級的な対立、さらに各政党や組織の内部における派閥抗争等、まことに互いの相克は、目にあまるものがある。
これらの内外における対立、相克を、根底的に、高い次元の上から、包含し融合し指導し統一しゆく理念こそ、妙法の中道主義である。
すなわち、観念的に、中道主義を定義づけるならば、それは単に相対峙する二つの勢力の中間を行くというものとは本質的に異なるものである。また、両方からよい所だけをとって、それをもって自己の主張としていくような行き方でもない。これらは、どっちつかずの消極的な中庸主義、あいまいな折衷主義以外の何ものでもあるまい。
中道主義は、独自の強い主張性をもち、既成の思想を打ち破って、指導していく力がなければならない。また中道主義は、すべての思想を包含して指導し統一しゆく幅広い高い次元の哲学を、根底に有していなければならない。さらに中道主義は、広く国民大衆に直結し、世界人類を真に救いきっていく実践力がなければならない。かくして、中道主義は、全人類の賛同と信頼をえて、結局は、さらに自己発展を続けることになる。
しからば、現実に、このような中道主義が存在するのか。私は、しかり、そして唯一だけ存在すると主張するものである。これこそ、妙法の中道主義である。
妙法の中道主義が、独自の強い主張性をもち、既成の思想を打ち破っていくとは、いかなることか、その既成の思想とは、一方では、キリスト教的唯心論を土壌とし、過去数世紀にわたって育成されてきた資本主義がある。他方、この資本主義を土壌としながらも、反対思想として生まれた。弁証法的唯物論による共産主義がある。もちろん、この中にあって、それぞれ派生した修正主義がある。しかし、この力なき修正主義は、決して両体制を打破しうるものではない。
この唯心論、唯物論を打ち破り、指導する力ある思想こそ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学をおいて、他にあろうか。この力強き思想を根底にして初めて、民衆も国家も、世界も、誤りなく平和と繁栄へ導いていける理念も政策も生まれるのである。
また、妙法の中道主義が、すべての思想を包含して指導して統一しゆく幅広い高い次元の哲学を、根底に有しているとは、いかなることか。仏法は、すでに八万法蔵といわれる。まことに雄大な体系を有している。そして、その最高峰に位して統一しているのが日蓮大聖哲の三大秘法である。
仏法の体系の中には、すでに唯心論的な教えであり、唯物論的な教えであり、実存主義的な教えであり、実に多種多彩である。たとえば、天台大師の理の一念三千の法門のごとき一つを取り上げても、現代のいかなる心理学等も、足元にもおよぶものではない。しかして、これらの八万四千の法門を指導し統一する、高次元の哲学こそ、色心不二の哲学なのである。
ゆえに、現在の数百、数千の思想のごときは、すべて大仏法に包含され指導されゆくことは、明白なのである。さらに「無量義は一法より生ず」と。また大仏法より、あらゆる理念、政策が、咲き薫ることもまた当然なのである。
私は、折にふれて、新しい時代の指導者は、民衆に直結し、国民大衆の中に生き、大衆のために生命を賭して働き、大衆の中で死んでいくべきであると唱えてきた。かかる指導者こそ、真に国民に信頼され期待されうる資格を持つのである。
かくて妙法の中道主義は、いかなる思想や政治の対立化や多元化をも、包含しきっていける唯一真実の中道主義なることを内外に宣言するものである。
仏法民主主義と人間性社会主義
一般に、民主主義とか、社会主義とか、自由とか平等とか権利とかいうような思想は、明治の開国以来、また第二次世界大戦の敗戦によって、外国から日本にもたらされたものであると主張する人が多い。もちろん欧米流の民主主義は、イデオロギーとして外来であることは否定するものではない。しかし、欧米流の民主主義以上の内容とイデオロギーのもつ真実の民主主義は、実に700年来、厳然と、わが国に存在したことを知るべきである。これ仏法民主主義である。
民主主義とは、民主主義そのものがイデオロギーではなく、根本とすべきイデオロギーがあって、初めて民主主義が成就しうるのである。ゆえに、根底にいかなる思想があるかによって、民主主義は、その理想を達成し、平和と繁栄をもたらしうるかが決定される。
民主主義の根底となりうる思想とは、人間尊重の思想であり、ヒューマニズムであることは誰しも異存あるまい。しかしてヒューマニズムといっても、きわめて漠然とした概念であり、個人的ヒューマニズム、地域社会、民族中心のヒューマニズム、人類のヒューマニズム等、多岐にわたり、それぞれのイデオロギーを中心に理解するゆえに民主主義そのものも、実に多岐にわたるのである。
しかして、民主主義があらゆる方面から唱えられるにかかわらず、すぐれた指導理念として民主主義を確立しえず国民に密着しないのは、ヒューマニズムや、生命の本質、生命の尊厳なる理由等が、究明されていないゆえといえよう。ここに生命の本質に根源的解明を与えたのは、日蓮大聖人の色心不二の仏法であり、その偉大なる生命哲学は、民主主義の根本とすべき真実のヒューマニズム、真実の生命の尊厳、真実の人間性の尊重、真実の自由と平等を説きつくしたものである。かかる思想に立脚した仏法民主主義こそ、全人類が渇仰する幸福と平和を実現する正しき民主主義であり、真に国民大衆に密着しうる民主主義なりと叫ぶものである。
フランスの亡きシューマンが、西欧民主正義はキリスト教民主主義であると唱えたが、いわゆる人民民主主義もマルクス・レーニン主義を根底としたものである。前にも詳しく論じたごとく、キリスト教民主主義も、人民民主主義も、空しい理想論であり、真の人間性尊重から、ほど遠い偏見であることは、幾多の事例が証明するところである。
ゆえに、700年来、西欧民主主義よりも、はるか以前に、堂々と説かれた仏法民主主義は、日本の平和民主憲法を支える最高の理念であり、また全人類に信奉、実践されるべき思想なりと確信して止まない。
人間社会主義とは、前段で述べたごとく、社会の繁栄と個人の幸福を一致しうる新しき時代の社会主義であり、真実のヒューマニズムを基底に打ち立てられた新社会主義である。やがて、人間社会主義の具体的な様相は、第三文明の華として咲き出すことは必然である。
世界民族主義
ナショナリズムとインターナショナリズムの統一、これこそ現代社会に課せられた大問題である。前段にも論じたごとく、われらは、この世界民族主義という形で、止揚せしめた、理想的な概念を主張することに、大いなる喜びを覚えるものである。
丸山真勇は「ナショナリズムには、人類・言語・宗教・地域の共通性に基づいて自然成長的に形成されてきた共同感情という契機と、国を形成し国の運命を左右するのは一人一人の行動と責任にかかっているという。自発的決断、または意識的な選択という契機と、この二つから成り立っている」という。しかも、ナショナリズムが一歩誤れば、極端な国家主義、排他主義となって、世界人類の危機を招いたことは、第二次世界大戦等でわれわれが強く体験したところである。
民衆の自主性とか、植民地主義からの解放等、良き面におけるナショナリズムと、良き意味のインターナショナリズムを共に統一した理念が、われわれの主張する世界民主主義である。
今世界中のいかなる国も、いかなる民族も、一体であって、たがいに尊敬しあいながら、共に繁栄を期すべきである。国家を越え、民族を越え、世界全体の安全、全人類の平和維持を考うべき新時代なることは、申すまでもない。ゆえに世界の全民族は、すべて一つの世界民族であるとの意識を持つべきである。われらは国連を尊重し、より発展させ、各国の指導者が話し合い、やがて相互扶助の体制をつくり、各国の軍備等も全廃し、偉大なる思想に結ばれた真実の世界連邦が実現すべきことを、心から期待したいものである。
第三文明の実現
真実の宗教は、生活それ自体の中に生き、あらゆる社会に根ざして、価値創造せしむるものでなくてはならぬ。決して宗教のための宗教であってはならぬ。真実の宗教こそ、個人の幸福と社会の繁栄の原動力である。
立正安国論とは、第三文明の偉大なる社会を実現することである。創価学会は第三文明の建設のため、心なき中傷・迫害を乗り越えて前進してきた。輝かしい第三文明の華は、あらゆる分野に咲き、いよいよ政治・経済・芸術・思想・学問・文化等、社会のあらゆる分野において、民族の繁栄と人類の平和のため寄与してゆかんと決意するものである。
かくして第三文明は、偉大なる理念を根本として、人間性豊かな、生命力の横溢した、しかも大衆から盛り上がった自主的な新文明として、わが国に、否、全世界に、みごとに開花することを確信して止まない。
0033:01~0033:07 安国論奥書top
| 立正安国論奥書 01 文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。 02 去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以 03 て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、 其の後文永元年太歳甲子七月五日 大明星の時 弥此の災の根源を知 04 る、文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て西方大蒙古国自り我が朝を襲う可 05 きの由牒状之を渡す、 又同六年重ねて牒状之を渡す、 既に勘文之に叶う、 之に準じて 之を思うに未来亦然る可 06 きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か。 文永六年太歳己巳十二月八日之を写す。 -----― 立正安国論は文応元年に述作した。正嘉の時から勘え始めて、文応元年に勘え終わったのである。 去る正嘉元年八月二十三日午後九時ごろ起きた大地震を見てこれを勘えた。その後三年を経て、文応元年七月十六日に宿屋左衛門入道光則を通じ、故最明寺入道北条時頼殿にこれを奉ったのである。その時、文永元年七月五日の大彗星の時、いよいよその災難の根源を知った。文応元年より文永五年の閏正月十八日にいたるまで九ヶ年を経過して、西方大蒙古国から日本を襲う旨の牒状がもたらされた。また同じく翌六年には重ねて牒状がきた。すでに安国論に予言したことはぴったりと的中し、現証となってあらわれたのである。これに準じて思うに、未来もまた安国論の予言は必ず的中するであろう。この安国論は、そのように現証を伴った力ある書なのである。これひとえに日蓮の力ではない。法華経の真文の感応のいたすところの力である。 文永六年十二月八日 これを写す。 |
戌亥の尅
午後9時ごろ。
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宿屋禅門
宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
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最明寺入道
北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
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勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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徴
現実の証拠。
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真文
仏が説かれた誤りのない文。
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この奥書は、文永6年(1269)12月8日、日蓮大聖人が御自身で立正安国論を書写された時に加えられたものである。日寛上人の安国論文段には、災難のおこる原因を三つ挙げられ、次のように仰せである。
「一、災難興起の事 今・仏家によりしばらく三義を明かさん。一には万民の業感によるゆえに、いわく悪業の衆生ともに同時に生ず、業感によるがゆえに災難を招くなり、これ国王に関するにあらず万民みずから招くのみ、堯代9年の水渇の時・7年の早のごときこれなり。
二には国王・理に背くによるゆえに。いわく国王不明にして教令・理に背くゆえに天これを罰するゆえに災ありこれ万民に関わるにあらず国主みずから招くのみ孝婦しからざるの誅・忠臣霜を降らすの囚のごときなり。
三には、誹謗正法によるゆえに、いわく当論・所引の四経の文のごときこれなり、これすなわち国王万民・天下一同に招く所の災難なり。
まさに知るべし初めの義のごときも遠くその本を論ずるときはいずくんぞ知らんこれ無始の誹謗正法の業感にあらざることを、また第二の義も、世法の理に背くは即・仏法の理に背くなり、仏法の理に背くは即、これ謗法なり、もし深く仏法を識れば世法・即これ仏法はこれなり、もしこの三義を暁せば往いて通ぜざることなきかな」と。
この前年、文永5年(1268)正月には、蒙古から牒状をもって使者が到来し、日本は国中をあげて大騒ぎした。表面上は親交を結びたいという穏やかな文章であるが、真意は蒙古の属国となり貢ぎ物を持ってこいという脅迫状だったからである。その文面は次のとおりである。
「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟うに、古より小国の君も、境土相接すれば、尚努めて講信修睦す。況んや我が祖宗は天の明命を受けて、区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は悉くは数うべからず。朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑に瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆城を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は感戴して来朝せり。義は君臣と雖も歓は父子の若し。計るに王の君臣またすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること未だ審かならざるを恐る。故に特に使を遣し書を持たしめ朕が志を布告す。冀くば今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る。それ孰んぞ好むところならん。王、それ之を図れ。不宣。
至元三年八月日」
この国書をもった使者、高麗人藩阜が対馬に着いたのが文永4年(1267)11月で、年を越して1月大宰府にはいった。これは現地最高識者である鎮西奉行・少式・武藤資能によって受理され、約40日後の閏正月上句に鎌倉に届けられた。時の幕府では、時頼の叔父で高齢の政村が時頼および長時の死後、時頼の嫡子の時宗が成長するまでの間を担当して、執権職についていた。
この重大事態に対して、幕府はみずから決定を下さず、それをさらに2月7日、京の朝廷に上奏した。朝廷では、それから連日会議を重ね19日に「返牒あるべからず」と議決したのである。すなわち、このことは、蒙古のいう「兵を用うるに至る」自体を覚悟しなければならないということにほかならなかった。
国をあげて異国牒伏を祈願
朝廷では2月15日、全国の諸大社に勅を発し、蒙古の難を告げて祈禱した。幕府は、2月27日西国の御家人に「異敵」の襲来にそなえるよう指令を発した。そして、3月5日には、幕府が連署となり、18歳の時宗が執権となった。
蒙古の使者は、7月まで大宰府で待ったが、いくら嘆願しても返書がもらえず、空しく帰っていった。高麗から蒙古へは「努力するも得ずして帰る」と報告された。蒙古の世祖フビライがこんな返事で満足するわけがない。世祖から高麗へ命令が下され、文永6年(1269)3月、蒙古国使8人、高麗人4人、従類70余人という使者が対馬に着き、押し問答のあげく、一行は塔二郎と弥三郎という2人の島民を捕えて江島に帰っていった。2人は、それから首都・燕京の宮殿まで見物し、7月下句、再度使者と共に日本へ連れ戻されてきた。この一行が対馬に着いたのは9月17日で、やがて大宰府に到着した。
朝廷では、今度は返書を送ろうということになって、菅原長成が草案を作った。内容は日本は神国であるから威嚇には屈しないというものであった。だが、これは幕府で握りつぶされ、蒙古の牒状が無礼だという理由だけ申し渡して、使者は送り返された。
このような蒙古の使いの渡来が、どれほど民衆を動揺させたか。文永5年(1268)の使者渡来の際、宮中の仏事のために上京していた東大寺尊勝院の宗性という僧が、問題の国書を写しとったものが東大寺に現存している。宗性はその奥書に「当世天下無双の大事件である」と記している。この一事をもってしても、並々ならぬ動揺ぶりであったことが伺えよう。
朝廷が各大社に祈禱させ、幕府が西国御家人に対して戦いの準備を命じたことは前述した。幕府のとった具体的対策として、異国警護番役がある。これは、現在の福岡・佐賀・長崎の三県にあたる筑前・肥前の二ヵ国沿岸の要衝地を、一ヵ月交代の輪番で守護するものである。これに服務するのは、九州に所領をもつ幕府配下の武士全員が当てられた。この当時の御家人は、本領地は関東にあっても、諸国に所領をもっているという事例がほとんどであった。これまで、自分は本領地にいて、九州の所領には一族や従者を代官として送っていたという御家人も、全部九州下向を申しつけられたのである。
また、軍事費については、日本全土にわたって土地調査を行ない、所領の地名、広さ、領主氏名を明らかにして、それに応じて負担させることにした。この時の調査の対象は、地頭、御家人等の幕府直属の配下のみでなく、社寺領、荘園、国衙領にまで及んでいる。このことは、文永5年(1268)の使者到来の時、幕府が朝廷に奏上して、決議を仰いでいるのに対し、全面的に幕府が指導権を握っていたことを意味する。先の朝廷方作成の返書を幕府が握りつぶしたのも、そのような変化の氷山の一角といえる。政村と時宗の違いともいえよう。
相次ぐ牒状到来と十一通御書の提出
いずれにしても、国内は、嵐に襲われるように、不安と動揺の渦中に巻き込まれたのである。日蓮大聖人は、文永5年(1268)8月21日、使者が渡来したことを聞かされ、先に安国論を時頼に渡す仲介となった宿屋入道に、次のように書き送られている。
「其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候、抑去る正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を作して起す所の災なり、若し此れを対治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由勘文一通之を撰し正元二年庚申七月十六日御辺に付け奉つて故最明寺入道殿へ之を進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参を遂げて申す可く候」(0169-01)と。
同年10月11日、北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の11ヵ所に当てて、書状を認められ、大聖人は公場対決を迫られたのである。既に、日蓮大聖人が9年前の文応元年(1260)に、立正安国論をもって予言されたことが事実となって現われてきたなである。ゆえにこの未曾有の国難を救うのは自分以外にない。しかるに幕府は、いまだに謗法に執着し、ますます謗法によって、敵国降伏を祈っている。この上は、公場において、大聖人と彼ら邪宗との正・邪を決し、謗法執着の根を断たねばならぬとの大慈大悲の御精神のほどばしりであった。
しかし、この大聖人に返ってきたものは、悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。種種御振舞御書には「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各、の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり、此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となりてとしひさしくなりぬれば大禍のつもり大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり、」(0909-08)と述べられている。
「鉢の木」にみる鎌倉時代の政道の法
ここで「政道の法」云云と申されているのは、幕府の体制は法度・式目による法治制が守られていた。平左衛門が勝手に処理することはこれに反するのである。また、鎌倉幕府の武家政治を単に上意下達式のものとしか知らない人には信じ難いことであろうが、草創期の幕府は、きわめて下部武士団の意見を尊重し、政治に取り入れているのである。その具体的なあらわれが、北条泰時や時頼をめぐる数々の美談である。
たとえば、泰時にはこんな話がある。ある男が生活に困って所領を売ったところ、その息子が買い戻してやった。ところが、父親は、所領を買い戻してくれた息子ではなく弟の方に譲ってしまった。それがため、兄弟の間で相続争いが起こるという事件があった。これを裁いた泰時は一応、親の意志を重んじて弟の勝訴とし、一方、兄の方は自分の家に養っておいて、しばらくして兄の本国に父の遺領より大きい没収地があったので、これを与えた。
また、時頼については、謡曲で有名な「鉢の木」の話がある。一人の旅僧が信濃国から鎌倉に向かう途中、上野国左野の辺りで大雪にあって、ある家に一夜の宿を請うた。宿の主人夫婦は貧しい暮らしで、粟飯で僧をもてなし、また、秘蔵の梅・松・桜の木を燃やし僧をあたためた。僧が素性を尋ねると、主人の名は佐野源左衛門尉常世といって、もとは佐野荘三十余郷の領主であったが、一族の者に奪われてこのように落ちぶれている。だが、もし鎌倉にいったん、事があれば一番に馳せ参じて忠勤を励む覚悟だと語る。翌朝、僧は名残り惜し気に立ち去っていったが、まもなく鎌倉から諸国の軍勢へ召集がかかった。佐野源左衛門は痩せた馬に鞭うってかけつける。すると、執権時頼が、いつかの旅僧は自分であったと身分を明かし佐野が言葉に違わず参上したことを激賞し、本領を返した上、雪の夜のもてなしの返しとして鉢の木にちなんで、加賀国梅田庄、越中桜井庄、上野国松井田庄を与えるという話である。
こうした泰時、時頼のエピソードの真偽については議論もあろうし、また、その背景として、幕府内部の複雑な事情から、執権と御家人の結びつきを緊密化せざるをえなかったということ等も挙げられはしよう。だが、幕府それ自体が、いわゆる封建的な制度によってよりも、人間的な主従関係の結合によってささえられていたがゆえに、こうしたエピソードが生まれる可能性も素地も充分にあったのである。
今、大聖人が種種御振舞い御書で「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし」(0909-08)と申されているのは、まことに、現代の民主政治に通ずるものがあるではないか。残念なことに、現在の政界は、大臣・議員・官僚ともに、利己の利害と関係することには鋭敏に応ずるが、関係のないことには全く無責任であり冷酷である。これは、形体は民主主義になっていても、封建制度化の権威主義的為政者精神そのままを受け継ぐ、時代遅れな人間の政権にたずさわっているためにもたらされた弊害にほかならない。「いわうや・この事は上の御大事」云云とは、大聖人の私事であっても取り上げるべきであるのに、まして、これは幕府・国家・民族の存亡に関する大事であり、各人にとっては、現世には蒙古軍に捕われ、殺され、来世には謗法の大罰によって無間地獄に堕ちなければならないという、恐るべき問題であるとの意である。
このような「自分が今、正義を叫ばなければ日本は滅びる。もとより、叫べば難の競い起こることは覚悟の上だ」という。日本国民としての連帯意識、日本民族の運命に対する強い強い責任感、これは大聖人が末法御本仏であられるとの議論を全く抜きにしても、後世の無責任な学者等が批判すべき筋合いのものではない。かえって、自己の愚かさを暴露するだけであろう。大聖人の偉大な精神、境涯に深く敬慕して、その哲理を謙虚に求めるべきである。
既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか
10年前の文応元年(1260)に予言されたことが、すでに事実となってあらわれた。ゆえに、未来において、同じように謗法を重ね、正法を隠没するならば、必ずまた同様の結果を招くであろうとのお言葉である。正しく、この御金言のごとく、700年後、日本は一国大謗法のすえ、敗戦、亡国を招いた。
だが、その半面「汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ、然れば三界は皆仏国なり」云云も、大聖人が未来に残された予言である。
われわれは、悲哀すべき亡国の予言が事実となったことを知った。しからば、これからは、歓喜すべき予言も事実であることを確信して、一国、民族、さらに世界人類の宿命の大転換を成し遂げようではないか。
0033:01~0035:16 安国論御勘由来top
| 安国論御勘由来 01 正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す.同二年戊午八月一日大風.同三年己未大飢饉.正元元年 02 己未 大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ,而る間国主之に驚き内外典に 03 仰せ付けて種種の御祈祷有り、爾りと雖も一分の験も無く還つて飢疫等を増長す。 -----― 正嘉元年八月二十三日、夜の九時ごろ未曾有の大地震があった。同二年八月一日には大風が吹き、同三年には大飢饉、正元元年には大疫病が流行、同二年には春夏秋冬、四季の分けへだてなく大疫病が流行し続け、万民はすでに大半が死に絶えた。そのようであるから、国主たる朝廷も幕府も驚いて外道・内道の両方に対して命令を下して種々の御祈祷を行ったが何の効しもなく、かえって飢饉・疫病を増長するばかりであった。 -----― 04 日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く 還つて凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ、 終 05 に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す、文応元年庚申七月十六日辰時屋戸野入道に付けて 0034 01 古最明寺入道殿に奏進申し了んぬ此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり、 其勘文の意は日本国・天神七代・地神五代 02 百王百代・人王第卅代欽明天皇の御宇に 始めて百済国より仏法此の国に渡り 桓武天皇の御宇に至つて其の中間五 03 十余代・二百六十余年なり、 其の間一切経並びに六宗之れ有りと雖も 天台真言の二宗未だ之れ有らず、桓武の御 04 宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云う小僧有り後に伝教大師と号す、已前に渡る所の六宗並に禅宗之を極むと 05 雖も未だ我が意に叶わず、 聖武天皇の御宇に大唐の鑒真和尚渡す所の天台の章疏・四十余年を経て已後始めて最澄 06 之を披見し粗仏法の玄旨を覚り了んぬ、 最澄・天長地久の為に延暦四年叡山を建立す 桓武皇帝之を崇め天子本命 07 の道場と号し六宗の御帰依を捨て一向に天台円宗に帰伏し給う。 -----― 日蓮がいまの世の状態をみて、ほぼ一切経を勘えるのに、そのような御祈祷では効果がないのか、かえって凶悪を増長するばかりであるとの道理と文証を得ることができた。そして、ついにやむをえず勘文一通をしたため立正安国論と号して、文応元年七月十六日、宿屋入道を通じて、故最明寺入道北条時頼に奏進した。これひとえに国土の恩を報ぜんがためである。 この立正安国論の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代のうち第三十代欽明天皇の御代に初めて、百済国から仏法がこの国に渡り、以降桓武天皇の御代にいたるまで五十余代・二百六十年であった。その間には、一切経ならびに六宗があるとはいいながら、天台・真言の二宗はまだなかった。桓武天皇の御代に近江の国山階寺の行表僧正の御弟子に最澄という小僧があって、後には伝教大師と号した。最澄はそれ以前すでに渡っていた六宗と禅宗を研究し奥義を窮めたが、いずれもまだ自分の意に叶うものがなかった。その後最澄は、四十余年前の聖武天皇の御代に中国・唐の鑒真和尚の伝えたところの天台大師の章疏を開きみて、日本ではじめてほぼ天台の真意・仏法の奥底を悟ったのであった。よって最澄は天長地久・国土安穏のために延暦四年、叡山を建立した。桓武天皇はこれを崇め、天子本命の道場と号し、いままでの六宗に対する御帰依を捨てて、一向に天台の円宗に帰伏されたのであった。 -----― 08 同延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ、 同延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩 09 学・勤操・長耀等の十四人を召し合せ勝負を決談す、六宗の明匠・一問答にも及ばず口を閉ずること鼻の如し華厳宗 10 の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵・三時の所立を破し了んぬ 但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ること 11 を知る、 同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰る、 十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る、 其の後代代の皇帝叡 12 山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え 黎民の王威を恐るるに勝れり、 或御時は宣明を捧げ或御時は非を以て理 13 に処す等云云、 殊に清和天皇は 叡山の恵亮和尚の法威に依つて位に即き 帝王の外祖父・九条右丞相は誓状を叡 14 山に捧げ、源の右将軍は清和の末葉なり鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背す天命恐れ有る者か。 -----― 同じく延暦十三年には、それまでの都であった長岡の都を遷し平安京を建てた。延暦二十一年正月十九日には高雄寺において、奈良七大寺の六宗の大学者である勤操・長耀等の十四人を召し合わせ、最澄と仏法の正邪について勝負を決談させた。そのときのようすは、六宗の大学者たちは、一問答すらすることができず、口を閉じること鼻のごときであった。ただ自宗を破られるのみでなく、皆謗法の者であることを知ったのである。ゆえに十日を経た二十九日に天皇は勅宣を下して、これらの六宗の僧をせめたので、十四人は謝表を作って天皇に捧げ奉ったのである。 その後、代々の天皇の比叡山延暦寺に対する御帰依は孝行の子が父母に仕えるよりも厚く、臣民が王位を恐れるよりも勝れていた。あるときは宣命を捧げ、あるときは非を理とされたこともある。ことに第五十六代清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威によって位につき、帝の外祖父であった九条右丞相藤原良房は誓状を叡山に捧げたのである。さて、源頼朝は清和天皇の子孫である。ところがその跡を継いで実権をにぎっている今の北条執権は、政治的な是非は別としても、事ごとに叡山の意向に背反している。このような鎌倉幕府の行為は天命を恐れるべきであろう。 -----― 15 然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の身に入つて国中の上下を誑惑 16 し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く、 存の外に山門の御帰依浅薄なり 国中の法華真言の学者棄て置かれ 17 了んぬ、故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神法味をクラわずして威光を失い国土を 18 捨て去り了んぬ、 悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり、 又其の後文永元 0035 01 年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、 此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者 02 も其の凶瑞の根源を知らず、 予弥よ悲歎を増長す、 而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国 03 の国書を見るに 日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し、 仏記して云く「我が滅度の後一百余年を経て 阿育 04 大王出世し我が舎利を弘めん」と、 周の第四昭王の御宇・大史蘇由が記に云く 「一千年の外・声教此の土に被ら 05 しめん」と、 聖徳太子の記に云く 「我が滅度の後二百余年を経て山城の国に平安城を立つ可し」と、 天台大師 06 の記に云く「我が滅後二百余年の已後東国に生れて我が正法を弘めん」等云云、皆果して記文の如し。 -----― しかるに第八十二代後鳥羽院の御代、建人年中に法然房・大日坊という二人の増上慢の者があり、悪鬼がその身に入って国中の上下万民を誑惑し、人々はすべて念仏者となり、あるいは禅宗の信者となった。そのため思いのほか叡山に対する御帰依は浅薄となり、国中の法華・真言の学者たちは捨て置かれてしまった。ゆえに叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七神、ほか一切の国中守護の諸大善神は法味を味わうことができず、威光を失い、国土を捨て去ってしまった。ために正法を失った日本国には、悪鬼が入って災難を起こし、結局は他国からこの国を破るべき前兆があらわれることを予言したのである。またその後文永元年七月五日、彗星が東方の空に出て、その光はほぼ一国におよんだ。これまた世始まって以来前例のない凶瑞であった。しかし、内典の学者も外典の学者も誰一人として、その凶瑞の根源を知っていない。自分はそれを見て悲嘆の思いを増長したのである。 しかるに安国論を捧げて九ヶ年の後、今年の閏正月、大蒙古国の日本を襲うとの国書を見るに、日蓮の予言に一分の狂いもなく的中している。釈尊は「自分の滅後百年して阿育大王が出現し、仏法を弘めるであろう」と予言し、周の第四代昭王の時代に、大史蘇由が占っていわく「今より一千年後に仏法が中国へ伝来するであろう」また、聖徳太子の記にいわく「自分の滅後二百年にして山城国に平安城がたつであろう」と。天台大師の記にいわく「自分が死んで東国に生まれ、ふたたびわが正法を弘めるであろう」と。これらの予言はいずれも的中し事実となってあらわれたのである。 -----― 07 日蓮正嘉の大地震同じく大風同じく飢饉・正元元年の大疫等を見て記して云く 他国より此の国を破る可き先相 08 なりと、自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊せば復た仏法の破滅疑い無き者なり。 -----― 日蓮は正嘉の大地震・大風・飢饉、正元元年の疫病の大流行をみて「これらはいずれも他国からこの国が破られる先相である」と予言した。これは自分で自分を讃めているようであるが、もしこの日本国がやぶれるなら、仏法の破滅もまた疑いないのである。 -----― 09 而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、 定めて勅宣御教書を給いて此 10 の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。 -----― しかるに、当世の高僧たちは謗法の者と同意の者であり、また自分の宗派の奥底さえも知らない者共である。いま、この上なお国主が勅宣および御教書を賜って蒙古襲来の災難を止めんと祈請するならば、仏神はいよいよ怒りをまし、国土を破壊するであろうことは疑いないことである。 -----― 11 日蓮復之を対治するの方之を知る 叡山を除いて日本国には但一人なり、 譬えば日月の二つ無きが如く聖人肩を 12 並べざるが故なり、 若し此の事妄言ならば 日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん、 但偏に国の 13 為法の為人の為にして身の為に之を申さず、 復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ 之を用いざれば定めて後悔有る可 14 し、恐恐謹言。 15 文永五年太歳戊辰四月五日 16 法鑒御房 日 蓮 花 押 -----― 日蓮はこの蒙古襲来の災難を対治する方策を知っている。比叡山すなわち伝教大師を除いて、日本国のなかでこれを知っているのは唯日蓮ひとりのみである。たとえば、日や月が二つないのと同様、聖人は二人、肩をならべることはないからである。もしこのことが嘘であるならば、日蓮は自身がもつところの法華経守護を誓った十羅刹の治罰をこうむるであろう。日蓮がこのことをいうのは、ひとえに国のため、法のため、人のためであって、自身の身のためにいうのではない。 また、あなたに対面する故に、これを告げるが、もしこれを用いないなら、必ず後になって後悔するであろう。 恐々謹言。 文永五年太歳戊辰四月五日 法鑒御房 日蓮花押 |
天神七代
地神五代より前に高天原に出た七代の天神。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
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地神五代
日本神話において、天神七代に続き、神武天皇以前に日本を治めたとされる五代の地神①天照大神②天忍穂耳尊③瓊瓊杵尊④彦火火出見尊⑤鸕鷀草葺不合尊。
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欽明天皇
(0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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百済国
古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
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最澄
(0767~0822)伝教大師のこと。わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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聖武天皇
(0710-0756)第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(0749)7月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(0756)5月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。
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鑒真和尚
(0688~0763)中国・唐の揚州江陽県の出身。俗名を淳于といった。14歳のとき大雲寺で智満禅師、について出家、神竜元年18歳の説き、道宣の弟子、道岸律師について菩薩戒をうけた。その後、帰郷し、揚州の大明寺で講じていたが、たまたま日本の入唐僧、栄叡、普照らが聴講しており、この二人の請によって来日を決意した。当時、唐僧の渡海は国禁とされており、幾度か失敗しながらも初志を曲げず、その間、マラリアで両眼を失明したが、孝謙天皇の天平勝宝5年(0753)ついに薩摩阿多郡秋妻屋浦(鹿児島県南さつま市笠沙町)に着いた。ときに鑑真66歳であった。翌年の正月に入京、4月、東大寺の大仏殿前に戒壇を築いて聖武天皇以下諸僧に受戒した。これはわが国における受戒の最初で、天平宝字2年(0758)に大僧都、8月に大僧正に任じられ、ついで大和尚の号を授けられた。天平宝字3年(0759)、天皇から水田100町歩を賜って伽藍を建て、唐招提寺の号を賜った。天平宝字7年5月、77歳で没。鑑真は渡来に際して仏舎利3000粒のほか王義之の真蹟、天台の章疏をもってきた。また鑑真自身がひろめたのは律宗であったが、彼のもたらした天台三大部は、のちの伝教大師が学ぶところとなり、天台法華宗の興隆に大きく貢献した。
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章疏
経や論の義理を注訳したもの。
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玄旨
玄とは心、真理の意で、玄旨とは根本義のこと。
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天地長久
天地が永く変わらないように、物事がいつまでも続くこと。天を天皇にたとえ、地を万民にたとえるとの説もある。
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天子本命の道場
天皇自身が仏道修行する場所。
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天台円宗
天台宗のこと。円とは円融円満という意味で、法華経の一念三千をさす。また、円頓といってそれをただちに悟ることをいう。しかし、天台宗は観念観法の修行であって、日蓮大聖人の一念三千には遠く及ばない。一念三千の法門といっても、天台・伝教は理にすぎず、亊の本体は、三大秘法の大御本尊に尽きるのである。
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長岡の京
桓武天皇は天応元年(0781)4月に即位してより3年目の延暦3年(0784)6月から長岡京の造営に取りかかった。しかし、結局失敗に終わり、延暦12年(0793)山城の国に遷都を定め、延暦14年(0795)10月22日4の遷都を終わって平安京と名づけた。
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高雄寺
京都市左京区梅ケ畑にある。現在は真言宗東寺派の別格本山高尾山神護寺となっている。これは延暦年間に和気清麻呂が河内に建てた神興寺を天長元年(0824)に移して、それまでの高尾寺と合したものである。したがって、伝教大師が法論を行った延暦21年(0802)には、まだ真言宗とは関係がなかった、真言宗の祖、空海が帰朝したのは、大同元年(0806)の8月である・
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南都七大寺南都七寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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勤操
(0758~0827)奈良・平安朝時代の三論宗大安寺流の僧。天平宝字2年(0758)大和高市郡(奈良県高市郡)に生まれ、12歳で出家、宝亀元年(0761)14歳にして勅度1000僧の1人に選ばれ、16歳で高野山に登り、下山してのち東大寺の善議に従って三論を究めた。弘仁年中、大極殿で最勝王経を講じ、紫宸殿の論議には座首にあげられるなど英才の名が高かったが、延暦21年(0802)高雄山寺の法論で、伝教大師から完膚なきまでに破られた。なお勤操の弟子に空海がいた。
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華厳宗の五教
華厳宗が立てる教判。創始者である杜順が立てたもので小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教と説いたのに対して、法蔵がそれをさらに発展させて体系化したものである
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法相宗の三時
釈迦一代に説かれた教説を三時期に分類したもの。法相宗では、初時教を有教・第二時教を空教・第三時教を中道教であるとしている。
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三論宗の二蔵・三時
三論宗では一代仏教を声聞蔵と菩薩蔵の二蔵に分け、また心境俱有・境空心有・心境俱空の三時に立て分けている。
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十四人
延暦21年(0802)正月19日、高尾寺にて聖武天皇の御前で伝教大師と対論して敗れた南都六宗の主だった僧。善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏。配下の僧を加えて、対論参加者は二百数十名に及んだと言われている。
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黎民
庶民・万民のこと。古代中国では、庶民はかんむりをかぶらないで、黒髪をあらわすところからこう呼ばれた。
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宣明
宣命、宣読する勅命のこと。奈良朝以後、天皇の詔勅は漢文が主体となったが、元日の朝賀、改元、立后、立太子などの儀式には国語をもって天皇の言葉を宣布する公文書が用いられ、これを宣命と称した。平安時代には神社・山陵・任大臣・贈位などの告文にのみ用いられた。これは宣読する必要から、用語の語尾や助詞が万葉仮名で小さく記されている。
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非を以て理に処す
僧兵たちの道理の通らない要求や主張も、叡山を崇めるあまり天皇が認めたこと。
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清和天皇
(0850~0880)文徳天皇の第四皇子と生まれ、諱は惟仁。母は太政大臣藤原良房の娘、女御明子。腹違いの兄よりも重んじられて、天安2年(0858)9歳で第56代天皇となった。実権は外祖父藤原良房に握られ、良房は人臣として最初の摂政となった。在位19年にして、貞観18年(0876)12月陽成天皇に位を譲って後は出家して素真と名乗った。元慶4年(0880)4月12日栗田山荘円覚寺で崩御。
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恵亮和尚
(0801~0860)叡山の学僧で信州(長野県)に生まれ、幼少のころから叡山に登り、剃髪得度した。天長6年(0829)義真座主によって止観院で菩薩大戒を受く。ついで円澄・円仁について密教の法を学び、止観行を相承した。西塔の宝幢院に住し、十善師大法師に任ぜられ、貞観元年(0859)同院の検校に補せられた。なお、安国論御勘由来に「恵亮和尚の法威に依って」とあるのは、文徳天皇が惟仁と惟喬のいずれに皇位を譲るかに迷って相撲の勝敗によって決した。この時、惠亮は惟仁のために記念し、この法力によって勝ったといわれていることによる。
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九条右丞相
(0804~0872)太政大臣藤原義房のこと。贈太政大臣冬嗣の次男。幼少の頃から風格に優れ、11歳の時、嵯峨天皇の寵をうけ皇女潔姫を配らせる。淳和天皇の天長3年(0826)に蔵人に補せられ、以後、中判事、大学頭、加賀、左近衛権少将蔵人頭を経て、仁明天皇の承和元年(0834)に参議に任ぜられ、父祖の勢力と妹・順子を女御として威を振るった。承和2年(0835)中納言、ついで陸奥出羽按察使を兼ねた。さらに、承和の変を仕組んで、恒貞親王を廃して順子の産んだ道康親王を皇太子、そして文徳天皇にした。この間、良房は大納言を経て右大臣となる。また、娘・明子を文徳帝の后とし、明子は惟仁を産み、惟人は清和天皇になった。天安元年(0857)良房は人臣として最初の太政大臣となり、翌年文徳天皇の崩御ののち9歳で清和天皇が即位されたので、良房は人臣として最初の摂政となった。貞観13年(0871)准三宮として年官を受け、随身兵杖を賜い、封戸を加賜され、また直盧を宮中に賜った。翌年9月に69歳で病死、正一位を贈られ、忠仁公と諡された。世に染殿・白河殿といわれ、藤原氏の栄華の基を固めたのである。
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源の右将軍
(1123~1160)。源義朝のこと。平安時代後期の武将。為義の子で頼朝の父。保元の乱の時に、平清盛とともに後白河天皇方に味方して勝利し、崇徳上皇方についた父の為義を斬った。その後、平清盛の進出に不満をもち、藤原信頼と結んで挙兵した。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅に移動したため、一転して賊軍となった義朝は戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
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大日
大日房能忍といい、梶原景清の叔父。摂津三宝寺を開創し、また弟子の連中、勝弁を宗につかわして育王山の拙庵に学ばせたりして、禅風をひろめた。しかし、景清の誤解を受けて刺し殺された。
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山門
比叡山延暦寺の異称。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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正八幡宮
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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山王七社
大三輪神または大比叡神といい、延暦寺創立にさいして、比叡山の地主として祭られた。上七社・中七社・下七社がある。上七社、大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮、中七社・牛御子・新行事・早尾・下八王子・王子宮・聖女、下七社、小禅師・山末・気比・岩滝・剣宮・大宮竈殿・二宮竈殿。
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符契
割符のこと。木片に文を書き、引証を中央に押してこれを二つに割ったもの。一片を相手に与えて一片を自分の手元にとどめおき、合わせて後日の証とした。
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阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵語アショーカ(Aśokaḥ)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と訳す。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、その慈悲の精神を施政に反映するとともに、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
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舎利
梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
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周の第四昭王の御宇
昭王は中国上古・周の第四代王。名を瑕という。康王について即位し、よく世を治めたが、晩年、王道やや衰え、その威を回復しようとして南方の楚を攻めたが、その途上没した。在位51年。この昭王24年の4月8日、夜中に五色の光気があり、昼のような明るさであった。さらに大地は六種に震動し、雨が降らないのに江河・井池の水があふれ出たという。王がこのことに驚いて、大史蘇由に問うたところ、蘇由が答えていうには「西方の国に聖人が生まれた。その聖人の教えは一千年ののち、この中国に伝わってくるであろう」と。昭王はこのことを石に刻ませ、碑として建てた。この年月日は、ちょうど釈尊がインドに生まれた日にあたり、しかも蘇由の予言どおり、1015年経った後漢の明帝、永平10年に仏法はインドから中国に伝わった。仏祖統記に出ず。
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大史
中国における天時星暦をつかさどる官名。年末に新年の暦を奏し、祭祀慶弔の日を選び、時節禁忌のことを奏上した。
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声教
聖教・仏教のこと。
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聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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玄底
根底、もっと深い真意。いずれの宗派も依拠とする経を究め、根源を探るならば、寿量品文底の南無妙法蓮華経に帰趣すべきことが瞭々としているのである。
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勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
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御教書
摂関政治のころから始まった公文書の一つで、三位以上の公卿において家司が上位を奉じて出すという形式をとる。のち、鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権・管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執建状ともいう。行政が出す公文書がこれにあたる。
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瞋恚
怒り、憤怒すること。
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聖人
聖とは、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通の人の聞き得ない天の声をよく聞きうる人の意。世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」(1240)とあり、「聖人知三世事」には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」と申されている。
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十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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禅門
法鑒房のこと。法鑒房については、時の侍所司・平左衛門尉頼綱の父、平三郎左衛門尉盛時とする説もあるが、不明である。
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立正安国論を勘えられた由来が述べられているのでこの名がある。この法鑒御房が誰であるか詳かではない。ただ、最後に「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」とあるように、幕府の中心に関係ある人と推察できるのみである。
これをしたためられた年月は、先の奥書より一年早い文永5年(1268)4月で、蒙古の国書がこの正月に着いたばかりのところである。安国論の予言が事実となってあらわれたことを指摘され、日蓮大聖人の教えを用いなければ、この国難を対冶することはできないと断言され、幕府の反省を求められている。
文面は、一応、比叡山天台宗の正統なる所以を述べ、それを法然の念仏、大日の禅宗が隠没したために数々の難がおこったのであると指摘されている。したがって「叡山を除いて日本国には但一人なり」ともあり、比叡山を認められているかのようであるが、既に比叡山の天台宗は過去の仏法であり、日蓮大聖人に帰依する以外にないことを強調されているのである。
此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり
大聖人が立正安国論を著わし、北条時頼に諌暁されたのは、国土の恩を報ずるためであったと申されているのである。
恩については、報恩抄に父母の恩・師匠の恩・三宝の恩、国王の恩、四恩抄には一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩、三宝の恩が説かれている。ここで「国土の恩」と申されているのは、以上の「国王の恩」と同意と拝せられる。特に国土と限定されている所以は、立正安国論そのものが、謗法を禁じて三災七難を退治し、正法を立てて仏国土を建設する要術を説かれているからである。
すなわち、四恩抄に国王の恩を次のごとく述べられている。
「三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや」(0937-18)
天の三光とは、太陽、月、星である。この三つが人間生活に及ぼす影響は、あまりにも偉大である。太陽エネルギーの莫大な数値、月の引力が大海の潮汐を生ぜしめていること、また人体においては血液の流れ等にも、その影響があらわれているといわれる。
こうした唯物的観点からの影響にとどまらず、太陽、月、星の光が精神活動に及ぼす関係性も、筆舌に尽くしがたいものがある。しかして、これが国土によって千差万別の様相を呈するのである。
太陽そのものに変わりはないが、たとえば北欧等の民衆は、寸暇を惜しんで太陽光線を浴びようと求める。それに対して、アラビアの砂漠の民にとっては、太陽は恐るべき灼熱である。あるいは、まったく人間の生存を許さない国土もある。
今われわれが、四季の変化に富んだ自然の恩恵を受け、それに応じて衣食住でも種々の楽しみをもたらしてくれるのは、ひとえに日本という国土による。その国土が乱れ、廃れるのを防ぐことは、国土の恩を報ずる道である。すなわち、妙法流布による仏国土建設は、国土の恩を報ずる究極の要諦といえよう。
このように「報恩」というと、前時代的な封建思想であるかのごとく考える風潮がある。知恩報恩は人倫の基礎的概念であり、これを知らざることは、動物に等しく、また動物に劣るのである。民主主義が人間性の尊重を基盤とする思想である以上、民主主義確立の根本的支柱は、真の知恩報恩観にあるといわなければならない。
伝教大師の公場対決
真に民衆が幸福生活を営なんでいける理想社会を実現するためには、正法を広宣流布する以外にない。しかして正法を広宣流布するには、国家諌暁して謗法を禁じさせなければならない。そのためには、公場において対決し、仏法の正邪を明らかにする必要がある。古来、仏法の流布は常に国主の前における公場対決によって行われた。
これは、君主政なるがゆえに、必然的にとられた方法であって、主権在民の現代における公場対決とは、個々の折伏に依る以外にない。すなわち、いかなる宗教をもった人が民衆を幸福にし、社会を繁栄させる力があるか、いかなる宗教をもった人が名聞名利の徒であり、私利私欲に明け暮れて、社会を不幸と混乱におとしいれているかを国民大衆の判定を待つのである。
伝教大師の高雄寺での法論は、彼が36歳の時で、これによって南都六宗の日本仏教は初めて統一され、法華最勝の義が宣揚され、また天台大師の五時八教の教判、理の一念三千、三諦円融の法門等が最高の理法として認められたのである。時の桓武天皇からは「像法の伝燈、古今末だ聞かず」との勅宣を賜わり、南都六宗の磧学14人は謝表を作って天皇に差し出した。14人の謝表にいわく、
「竊に天台の玄疏を見れば総じて釈迦一代の教を括って悉く其の趣を顕すに通ぜざる所無く独り諸宗に逾え殊に一道を示す其の中の所説甚深の妙理なり七箇の大寺六宗の学生昔より未だ聞かざる所曾て未だ見ざる所なり三論法相久年の諍い渙焉として氷の如く釈け昭然として既に明かに猶雲霧を披いて三光を見るがごとし聖徳の弘化より以降今に二百余年の間講ずる所の経論其の数多く彼此理を争えども疑未だ解けず、而るに此の最妙の円宗未だ闡揚せず蓋し以て此の間の群生未だ円味に応ぜざるか、伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受け深く純円の機を結び一妙の義理始めて乃ち興顕す六宗の学者初めて至極を悟る此の界の含霊今より後悉く妙円の船に載り早く彼岸に済ることを得と謂いつべし、乃至善議等牽れて休運に逢い乃ち奇詞を閲す深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」云云。
意味は、聖徳太子の仏教興隆以来、華厳、法相、三論、俱舎、成実、律の六宗に分かれ、互いに論議しあってきたが、いずれが最高の法理か、いかなる教えが釈尊の本意か、疑いが解けなかった。しかるに、伝教大師によって、天台法華宗の甚深の妙理を知り、これらの疑いがことごとく氷解し、あたかも雲や霧が晴れて日・月・星の光を見るごとくである。これより以後、一切衆生は、皆妙円の大法によって成仏得道することができる。南都六宗の大将となった三論の善議以下、この聖代に巡り会ったのは、深い宿縁によるものといわねばならない、というものである。
伝教大師は、これより弘仁13年(0822)、56歳で入滅されるまでの20年間、天台宗学生式を制定し、顕戒論、守護国界章、法華秀句等を著わし、南都東大寺の小乗戒壇を廃して比叡山に法華迹門の大乗円頓戒壇を建立すべきことを唱えた。この伝教の意志は、滅後7日に聴許され、義真の手によって建立されたのである。
以来、比叡山は、代々の天皇の厚い帰依を受け、天台座主は国師として国民の尊敬を一身に集めた。政治にも、仏法の慈悲が具現され、平安朝の黄金時代を湧現したのである。だが、伝教、義真の法華最勝の正義は、第二代座主円澄から、真言密教に毒され始め、第三代慈覚からは、理同事勝の邪義を構えるにいたった。加えて世は像法を過ぎて末法となり、天台法華宗は、まったく功力のない、単なる形骸と化してしまった。
今末法において、唯一の正法は、日蓮大聖人御自身の法、すなわち、事行の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。
内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず
善につけ、悪につけ、一切の事には必ずその先ぶれ、前兆がある。これが瑞相といい、善事の瑞相を吉相、悪事の瑞相を凶相というのである。
このことは、ある一つの事件は、それぞれ単独で突発的に起こるものではなく、さまざまな要素が集まり、これが作用しあって形成されるものである。したがって、その要素が最も有効に組み合わさって、大事件を招来する前は、種々の形で小規模な事件を発生させるのが普通である。その全体的な因果の連関を見透す力ある賢明な人は、小さい事件をもっても、後に起こってくる大事件を推察することができる。愚鈍な人は、小事件に気づかず、または気づいたとしても、その意義を知らないで看過してしまうのである。
気象条件によって厳しい生活を左右される山間等においては、気象学のない時代から、どういう時に初雪が降り、どんな風が吹くと大雪になるか、また、どのような条件の時にナダレが起きるか等がわかる。いわゆる古老と呼ばれる人がいたものである。海についても、河についても、平地においても、同様である。
それは一見、まったく関係のないことを判断の基準にしているようのも思える。だが、よくよく科学的に分析してみると、けっして根拠のない、迷信ではないことも多い。同じく、今、経文で瑞相として挙げられていることは、仏法哲理という最も広く深く高い原理を体得した立場で論じられているのである。現代科学は、この仏法哲理のごく限られた一面を、その一部分だけ解明しているに過ぎない。ゆえに、無智の人から見れば、まったく無関係なことのようで、したがって、そうした物の間に関係性を主張するのは非科学的、迷信的のごとく思われるのも仏法哲理に照らすならば、そこには厳然として関係性がある。
本文の講義でしばしば論じてきたように、依正不二の哲理に照らし、今、大聖人が彗星・地震・飢饉・疫病等を他国侵逼の大難の前相とされたことは、絶対の真理にもとづかれているのである。
一体に、一つの事を見て、ただそれだけのこととしてしまうのか、その奥底にあるものを見るかは、観察者の洞察力による。医者は、身体にあらわれた体温や皮膚の色や動悸等の変調を見て、病気の正体を察知する。気象学者は、気温や風の方向、強さ、温度、気圧をもって、どのような気候の変化が起こるかを予知する。経済学者は、株価の変動や物価の動向等を見て、経済変動を推知することができる。これらは、皆、医学、気象学、経済学等の学問体系を身につけた人にとっては、その法則性にのっとって、必然的に結論できるもので、これを迷信的というのは、これらの法則性を知らない人の盲目あるがゆえである。
仏法は、生命の本源的な法則性を解明し、そこから社会現象、自然現象、ひいては天文現象にいたるまですべてを包含した法則性をあますところなく究明しきった哲学である。ここに仏法の偉大な瑞相観がある。
瑞相御書にいわく、
「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる、眼根をば東方をもつて・これをつくる、舌は南方・鼻は西方・耳は北方・身は四方・心は中央等これを・もつて・しんぬべし、かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す」(1140-06)と。
衆生とは生命であり、依報とはこの生命の存在する環境、世界である。生命は体、環境世界はその影であると共に、生命はまた環境世界をもって作られていると述べられている。前者の原理を解明せんとしている学問が現代心理学者であり、また現代医学の新しい方向といわれる精神身体医学も、同じである。西欧の哲学思潮でいえば唯心論であるが、東洋哲学においては唯識論等、はるかに深く究明している。唯識論者とは一切の法は皆心や識の転変であり、実有なるものは心識のみであるという哲学で、西欧の観念論や唯心論と似ているが、はるかに組織的、理論的で、すぐれているのである。だが、それは、仏法哲理の一分を取り上げているに過ぎない。
後者の原理を解明せんとしているのは、生物学、科学等の自然科学、また政治、経済、社会等の社会科学である。一般に現代科学は依報が正法を形成し、規制するとの前提に立っている。哲学思潮でいえば、マルクス主義等の唯物論がこれであるが、その学理的深さは、インドのバラモンのマヒダーサ、パグダハ、ブリハスパティあるいは勝論派によって展開されたものにさえ及ばない。いわんや仏教の中にはいると、華厳経には、現代科学にも匹敵する天文学説や素粒子論を展開しているのである。
仏法哲学は、この両面を共に而二不二として包含し、最も深く、最も正しく実相を解明しているのである。この仏法哲学を体得する時、一切の現象は、鏡に映すごとく瞭然とし、誤りなく見透すことができるのである。
開目抄に「天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」」(0187-04)と。
観心本尊抄に「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(0254-16)
瑞相御書に「されば天台大師の云く「世人以蜘蛛掛れば喜び来りカン鵲鳴けば行人至ると小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て遠きを表す」等云云」(1140-14)と。
船守弥三郎許御書にいわく「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品に云く『顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ』とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は昆首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり」(1446-04)云云と。
したがって、瑞相御書はけっして非科学的な迷信ではなく、むしろ、最も科学的な法則性によって、智慧の眼を開いたものといえるのである。
但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず
日蓮大聖人が謗法を攻撃し、正法に帰依せよと国家諌暁されるのは、国を救わんがために、令法久住のため、民衆の幸福のためであって、決して自分の名誉や利益のためではない。との意である。
このようにいうだけなら、大聖人以外の各宗の教祖たち、政治家たちも口にする。だが、それを身をもって実践されたのは、日蓮大聖人以外にはない。かの松葉ヶ谷草庵の焼き打ち、小松原の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪等、大聖人が一生の間に遭われた迫害を思い浮かべるとき、瞭然ではないか。
そこには一分たりとも自己保身の妥協はない。緊張の連続であり、苦難の連続の御一生であられた。大聖人の無罪が明らかとなり、佐渡流罪が赦免になって鎌倉に帰ってこられた時、幕府は大聖人に寺を与え、布教を許可しようと申し出たのであった。しかし、大聖人のお心は、そんな所にある道理がなかった。国家、民衆の救済が目的であり、そのためには国じゅうにはびこっている念仏等の謗法を禁ずることである、と言いきられた。
平左衛門尉頼綱ら幕府当時者が、これに従うはずもなく、大聖人は「三度諌めて用いられずんば聖人は所を去るべし」との故事にならって、身延に入り、以後9年間、悠々たる境涯の中に、弟子を育成し、大事の法門を認め、なかんずく弘安2年(1279)10月には出世の御本懐である「一閻浮提総与の大御本尊」を建立されたのである。これ、末法流布の大白法、三大秘法の法体の広宣流布にほかならない。
戦時中、牧口初代会長は、一国謗法を見て敢然と国家諌暁を叫ばれた。「一宗の亡びるのを嘆くのではない。一国の亡びるのを悲しむのだ。それが大聖人の御精神ではないか」と。救国のため、民衆救済のため、しかして護法のため、華と散られた牧口会長の精神こそ、大聖人の御心に叶い、創価学会の永久不滅の指針である。
願わくは、広宣流布の暁まで、全学会員が火の玉となって、国のため、法のため、人のために、死身弘法しきっていこうではないか。
0035:01~0035:01 安国論別状top
| 安国論別状 01 立正安国論の正本、富木殿に候、かきて給び候はん、ときどのか、又。 . 02 五月廿六日 日 蓮 花 押 -----― 立正安国論の正本が富木殿のところにあるから、書き写して送っていただきたい。富木殿か、また他の弟子衆のところにあるか。 五月二十六日 日蓮花押 |
安国論別状の由来については不明であるが、この中に、安国論の正本が富木殿のもとにあったことが明らかである。また、御正本を、大聖人は、御自身では持たずに、最も安全な場所に置かれていたことが伺える。
これは、ただひとえに令法久住のためであり、滅後の人々のためであり、民衆の幸福の万古不変の原理とされようとしたためと拝する。なかんずく創価学会の実相を見れば、安国論が現代のための書であることは瞭々として明らかではないか。
0035:01~0035:01 2015:04月号大白蓮華より 先生の講義top
ただ民衆の安穏のため 希望と勝利の対話を!
民衆は、真の幸福の哲学を求めています。
万人が生命の尊厳性を輝かせつつ、対話の力で善の連帯を広げ、調和と共生の社会を建設していく、新しき運動を心の底から深く求めています。
創価学会は、「立正安国の旗」を掲げて、どこまでも、民衆の幸福と世界の平和のために、現実社会の変革に挑戦しゆく使命を貫きます。
そこに、「人間のための宗教」の精髄があるからです。
それは、仏教の根本精神でもあります。
また、日蓮大聖人直結の実践の証しです。
そして、これこそが創価の師弟の魂にほかなりません。
仏教は、本来、自分自身が覚って、それで満足して終わる宗教ではありません。「人々の幸福のために行動する」――この実践があってこそ、真の覚りと言えるからです。
釈尊は、帰依したばかりの弟子たちに対して、弘教を勧めて次のように述べました。
「修行者たちよ、遍歴するがよい。多くの人の幸福のために、多くの人々の安穏のために、世界に対する共感を抱くために、神々と人々の利益のために、幸福のために、安楽のために」
多くの人々の苦しみに依り添い、行動し、共に幸福で安穏な人生を確立し、平和な世界を築くことこそが、釈尊の法を広める最大の目的でした。
末法の闇を照らす妙法の太陽
すなわち仏教とは、その出発の当初から「万人の幸福」を目指す「人間のための宗教」であったのです。
法華経に「安穏ならしむる所多く、諸天人民を憐愍し饒益せん」とある通りです。
この願いは、釈尊一人にとどまらず、三世十方のあらゆる仏の根本の誓いであり、願いです。この願いを実現する「法」、すなわち法華経を説き広めることが、仏たちがこの世に出現する根本目的であり、「出世の本懐」なのです。
そして、釈尊滅後に、人々の苦悩と混乱が渦巻く末法において、この誓願を受け継いで、万人救済のために法華経の行者として、広宣流布に敢然と立ち上られたのが、日蓮大聖人です。
人々の幸福と安穏を願えば、現実社会の変革へ、目を向けざるを得ません。この娑婆世界を即、寂光土へ変革していく。これが、大聖人の「立正安国」の本質です。
創価学会は、この大聖人の大闘争と御精神に寸分違えず連なる教団です。
立宗の4月を迎え、そして「創価学会の日」である「5・3」を目前に、「立正安国論」を心新たに拝して、大聖人の民衆救済の御精神を学び、創価の人間主義の哲学を確認していきましょう。
| 16 帝王は国家を基として天下を治め 人臣は田園を領して 17 世上を保つ、 而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し 自界叛逆して其の地を掠領せば 豈驚かざらんや豈騒がざら 18 んや、 国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん 汝須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か、 -----― 帝王は国家を基盤として全国を治め、臣下の者は田園を領有して世の中の安穏を保つものである。しかし外敵がやって来てその国を侵略し、内乱・反逆が起こってその地を支配下に置くなら、どうして驚かないことがあろうか。どうして騒然としないことがあろうか。 国家が滅亡してしまったら、世を逃れるといっても、どこにいることができるだろう。 |
民衆の嘆きへの「同苦」
大聖人が「立正安茲論」を御執筆になった直接の動機は、正嘉の大地震です。この大災害の前から、大風、洪水などの自然災害、深刻な飢饉、疫病などによって、民衆の災禍はとどまることがありませんでした。そこに正嘉元年(1275)8月、鎌倉地方を大地震が襲います。
大聖人は、この民衆の苦悩を目の当たりにして、本書に「独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す」とあるように、嘆きや悲しみが深いのに分かち合う友もなく、やりきれなさと、もどかしさが、どうにも収まらないとまで、仰せです。
大聖人は、社会の実態を直視され、“民衆を何としても救いたい”そのために“民衆を不幸に陥れる「一凶」を明白にし、根絶しなくてはならない”との烈々たる御決心から、諸経典をひもとき、原因と解決策を探究されました。
その結論として、「生命尊厳」「人間尊敬」を説く法華経を否定する「謗法」が世の乱れの根本原因であり、正法を社会の支柱として人々の心に打ち立てる以外に、究極の解決策はないと、深く確信されたのです。
そして、この真実を「立正安国論」に著され、時の権力者に対して、諌め暁されました。「国主諌暁の書」とも言われる所以です。
「四表の静謐」を皆の力で実現
今回拝する御文は、本書の第9段・第10段です。第9段では、いよいよ客が、主人の立正安国の思想を受け入れ、法華経を誹謗する妄執を捨てて、正法を真摯に求める決意を表明します。
大聖人が、これを受けて客に強調されているのは、“断じて戦争を防がねばならない”“手遅れにならないように、直ちにこうどうせよ”との2点です。
大聖人はこの御文の直前で、薬師経、金光明経、大集経、仁王経の四経の文に照らして、まだ起こっていない災難があることを挙げられています。具体的には「自界叛逆難」「他国侵逼難」の二難であり、「兵革の災」です。すなわち国内外の「戦乱」です。
戦争ほど残酷なものはない。戦争だけは絶対に起こしてはならない――それが大聖人の至誠の諌暁でありました。
ここで大聖人は、力強く仰せです。
「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」
すなわち、自身の安穏を願うのであれば、まず、自分を取り巻く社会の平穏を祈るべきであろうと示されているのです。
この御文には為政者に対する諌暁があると同時に、民主主義の現代においては、私たち一人一人の実践の指標ともいえましょう。
「一身の安堵」――一個の人間の安穏は、本質的には、自分一人だけでは実現できません。
一人の人間が安心して暮らしていくには、自然環境も社会環境も、平和で安定して発展していることが重要です。
それ故、「一身の安堵」を本当に求めるなら、まず、エゴイズムに束縛された小さな自身を超克して、自分が生きる社会全体の静穏――「四表の静謐」を確立すべきだと仰せなのです。
また、「四表の静謐」と仰せになられた大聖人のお心は、“一国の安定”を超えて“全世界の平和”に思いを馳せられていたものと拝察されます。
現実世界で幸福を築く経典
仏法は「生命尊厳」の思想です。
「命と申す物は一身第一の珍宝なり」(0986-01)「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり(0986-11)「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(1596*04)です。
何よりも、「生命尊厳の思想」を、一切に最優先する社会を築かねばなりません。
法華経は、一人の存在の中に尊極な仏の生命を見いだす経典です。その価値基準に照らせば、たとえ法華経以外の思想でも、「生命尊厳」の価値を説く思想を、互いに尊重することができます。反対に、「生命尊厳」を否定する思想は断じて容認しない。それが、真の寛容の慈悲の精神です。
大聖人が本書で為政者に諌暁しているのは、法華経以外の教えを全否定せよ、という排他的なものではありません。人々に生命尊厳を説いた法華経を捨てさせる排他的な教えを放置してはならない、ということです。それも、“謗法への布施を止める”という、真の問題解決への正しき価値選択を、対話によって実現しようとされたのです。
具体的に本書で大聖人が破折を加えられた「一凶」とは、人々の法華経信仰を奪う法然の念仏信仰です。すなわち、法然は、生命尊厳の大法である法華経を「捨閉閣抛」するように教えていたのです。
実際に当時、世の中に広まっていた念仏の教えは、自分の努力を諦めて苦悩の現実世界から逃避し、結局は、偉大な超越者にすがって、来世に安楽な浄土に生まれることを願うものでした。
これは、法華経の思想とは相反します。法華経は、わが胸中にそなわる尊極の生命を開き現し、現実社会を浄化し、平和と幸福の楽土を築いていくことを目指します。末法の苦悩渦巻く五濁の現実世界にあって、どこまでも主体者は、人間自身であることを教えている経典なのです。
全体観に立つ真の智慧を
与えて論ずれば、念仏も釈尊の教えの一つとして、苦難に打ちひしがれた人にやさしく寄り添うという点で、傷ついた人に一時的な非難・休息を与えるという意味であったと言えるかもしれません。相手の特殊な状況に対応して、そのように仏が指導することもあり得るでしょう。しかし、それはあくまでも、特別な機根に応じた部分観であり「小善」の教えです。大聖人は、極楽往生の教えは、一時的な安心を与えるための方便である「やすめ言」で、そこには真実はないと指摘されています。
それに対して、法華経は、全体観に立ち、すべてのものごとの根幹に関わる根本の「大善」を説きます。言い換えれば、どのような状況でも、万人に実現可能な救済の道を示しています。
「小善」は「大善」に違背しない限りにおいては、「善」の働きを持ちます。しかし、部分観にとらわれて全体観を見失い、根本の「大善」に背けば、もはや「善」ではなく、かえって「大善」に背く「大大悪」となってしまう。法然の専修念仏は、人々の能力・資質だけを重視して法華経を排除したものです。
大聖人は、本書で、為政者に、その悪の本質を教えられるとともに、真実の生命の正道を示されたのです。
すなわち、問題の根本的解決は、全体観に立つ真の智慧に基づき、正しい価値観を確立して、混乱の時代に終止符を打ち、安寧、幸福の社会を実現する以外にありません。
正法を立てて、娑婆世界を浄化して常寂光の国土を建設していくのが、真の立正安国への大道なのです。
| 13 広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず、 悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、 愚なるかな各 14 悪教の綱に懸つて鎮に謗教の網に纒る、 此の朦霧の迷彼の盛焔の底に沈む 豈愁えざらんや豈苦まざらんや、 汝 15 早く信仰の寸心を改めて 速に実乗の一善に帰せよ、 然れば則ち三界は皆仏国なり 仏国其れ衰んや 十方は悉く 16 宝土なり宝土何ぞ壊れんや、 国に衰微無く土に破壊無んば 身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、 此の詞此の言 17 信ず可く崇む可し。 -----― 多くの経に広く目を通すと、何よりも謗法を重大にしている。なんと悲しいことだろうか、皆、正法の門を出て邪法の牢獄に深く入ることは。なんと愚かなことだろうか、それぞれが悪い教えの綱に懸かって永久に謗法の教えの網に纏わりつかれることは。朦朧と立ち込める霧のような迷いによって、激しく燃え盛るあの炎の地獄の底に沈む。どうして憂えずにいられようか、どうして苦しまずにいられるだろうか。 あなたは早速ささやかな信仰の心を改めて、速やかに本当に成仏へ至らせる教えである唯一の善い法に帰依しなさい。そうすれば、三界は皆、仏国である。仏国がどうして衰えることがあろうか。十方はことごとく宝土である。宝土がどうして壊れることがあろうか。国が衰えることがなく国土が壊れることがないなら、身は安全であり、心が動揺することがないだろう。この言葉を信じ敬わなければならない。 |
わが「心の変革」が世界を変える
大聖人の「立正安国」の戦いとは、「万人成仏」という「根本善」を否定する、「根本悪」との闘争でもありました。
この段では、人々を迷わせる邪法にとらわれ、謗法に取り込まれないよう、今一度、厳しく戒められております。大聖人は「邪法の獄」「悪教の綱」「謗法の網」などの表現を使われて、「獄」「綱」「網」というべき、謗法からの脱却の難しさを強調されています。
「此の朦霧の迷」とは、現世における仏法の正邪の迷いを、濃く立ち込める霧に譬えたものです。「彼の盛焔の底」とは、無間地獄に堕ちた時の苦しみを、焦熱の火焔として示したものです。
大聖人は、人々をこの不幸の鎖から解き放って、社会の安穏を成し遂げていくための方途を力強く教えられています。
それこそが、「信仰の寸心」の変革です。根底からの「一念」の革命ともいえます。
何を信仰するのか――。それは、「何を根本として大切に尊重するか」「どのような価値観をもつか」ということです。「何のため」という根本目的を正しく確立することです。
つまり、根底にあるものが、他人を排除し犠牲にしてでも、自分の幸福を追求するエゴイズムなのか、それとも、他人の不幸の上には自分の幸福を築かないと、自他共の幸福を願う慈悲なのか――焦点は、一人一人の「心の変革」「価値観の転換」です。まさしく一個の人間における「人間革命」です。それなしでは、「立正安国」の実現はありません。
では、心を変革して、いかなる理念に基づいていくべきなのか。大聖人は、それを「実乗の一善」と仰せです。
「実乗の一善」とは、法華経の根本善ということであり、全ての民衆が、それぞれ自身に具わっている仏性を開いて成仏することができるという法理です。
この「実乗の一善に帰せよ」との一文に、初代会長牧口常三郎先生は厳然と線を引かれておりました。「実乗の一善」に生きることこそが、人類の宿命を転換する確かな方途になるのです。
民衆の幸福と安穏が「立正」の目的
ここであらためて、「立正安国」の原理を確認しておきたいと思います。
「立正」とは、まず、一人の人間の心の次元の変革にかかわります。自身に内在する「根本善」に目覚め、胸中に法華経の「人間尊厳」「生命尊厳」の哲理を確立し、生き方の根底の哲学とすることです。この目覚めた人の行動によってこそ、法華経の哲理は、社会を支え、動かす原理として確立していくのです。
そして、社会に平和の精神基盤を築くことが「立正」の肝要である以上、生命尊厳のため、平和のために、志を同じくする人々や団体と共に立ち上がるのは当然です。決して排他的なものではありません。
何よりも大事なのは「立正」を貫く一人一人を育てることです。一人の「立正」の人が立ち上がることで、周囲を善の方向へ、平和の方向へと変革していくことができます。そうした使命を担う師子王の如き人材を輩出することが「立正」の帰結なのです。
また、立正安国の国とは、民衆の住む国土のことであり、私たちが目指す安国とは、仏国土を実現して民衆のために安穏の国土を建設することです。もとより狭い意味での国家体制を意味するものではありません。そもそも、一国に限定する必要もありません。
世界へ未来へ開く
「安国」の本義は、国家主義の対極にあり、世界に広々と開かれたものです。それと共に、「安国」とは、未来に開かれています。仏国、すなわち仏の国土とは、「一閻浮提」に及び、永続するものだからです。
「仏国」とは、「生命尊厳」「人間尊敬」という仏法の精神が生き生きと脈打つ社会であり、自他共の幸福の実現という思想が重んじられる世界のことです。
この段で大聖人は、私たちが住む三界の国土が仏国土であり宝土であれば、いかなることがあっても、衰えることも、また壊れることがないと示されています。その国土に住する人々の「心の財」が壊れない限り、国土は必ず、常住の仏国土となっていくのです。
「創価」の心に立正安国の使命が
私ども創価学会の民衆運動の根本精神は、この「立正安国」そのものです。
全ての子どもの幸福を願って教育革命に立ち上がられた牧口先生は、「立正安国論」に強く共感し、日蓮仏法に帰依されました。そして、「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義があろうか」との信条のままに、社会に開かれた広宣流布の実践を始められました。戦時中は、「今こそ国家諌暁の秋ではないか」と決然と立ち上がられ、その結果、軍部政府によって投獄されても、最後の最後まで民衆の幸福のために戦い抜かれて殉教されたのです。
この権力の魔性との闘争を覚悟し、広宣流布と学会の再建を誓って、戦後の焼け野原に一人立たれたのが、第2代会長戸田城聖先生です。私が19歳の時に蒲田の座談会で運命的に出会った時に、恩師が講義されていたのも、まさに「立正安国論」でした。
「私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです!」
その師子吼は、今も胸から離れません。
民衆の幸福のために、民衆から不幸と悲惨を取り除くために、「立正安国論」の闘争に身命を賭したのが、三代の師弟です。
思えば、牧口先生と戸田先生の師弟の対話から生まれた「創価」の名は、「価値創造」を意味します。では、私たちはいかなる「価値」を「創造」するのか。
端的にいえば、“民衆の安穏のため、世界の平和のため、現実に目の前で苦しむ一人に、妙法という正しい哲学によって、生き抜く力を与えていくこと”であると確信します。
「一人」を大切にし、一対一の対話に徹する、この「創価」の心の中に、「立正」の実践も、「安国」の使命も包含されています。
その意味でも、わが創価学会こそ、御本仏・日蓮大聖人の「立正安国」の御闘争を現代に正しく受け継いだ正統の教団であると、声高らかに宣言したいのであります。
| 18 客の曰く、 今生後生誰か慎まざらん誰か和わざらん、 此の経文を披いて 具に仏語を承るに誹謗の科至つて 0033 01 重く毀法の罪誠に深し 我一仏を信じて諸仏を抛ち 三部経を仰いで諸経を閣きしは、 是れ私曲の思に非ず 則ち 02 先達の詞に随いしなり、 十方の諸人も亦復是くの如くなるべし、 今の世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこ 03 と文明かに 理詳かなり疑う可からず、 弥よ貴公の慈誨を仰ぎ 益愚客の癡心を開けり、 速に対治を回して早く 04 泰平を致し先ず生前を安じて更に没後を扶けん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。 -----― 旅人はいう。 今世のことも来世のことも、誰が身を慎まないことがあろうか、誰が心穏やかでいられようか。 これらの経文に目を通して詳しく仏の言葉を承ってみると、誹謗の罪はきわめて重く、法を謗る罪は実に深い。私は阿弥陀仏だけを信じて諸仏を抛ち、浄土の三部経を仰いで諸経を閣いたのは、先達の言葉に随っただけである。全国の人々もまた同様である。今世には仏性の心を消耗させ、来世には阿鼻地獄に堕ちてしまうことは、経文に明らかであり法理は行き届いている。疑うことはできない。 あなたの慈悲の教誨をいよいよ仰ぎ、私の愚かな心をますます開くことにしよう。速やかに謗法を滅する手立てを施し早急に泰平を実現し、まず生前を安穏なものとして、さらには死後のために善根を増すようにしよう。ただ私だけが信じるのではなく、それに加えて、他の人々の誤りをも制止していこう。 |
「世界平和の一書」「対話の一書」
「立正安国論」は、断じて民衆を救い、民衆の安穏を実現していくための「世界平和の一書」であります。
また、相次ぐ災難を嘆く客と主人の問答で解決策を探究し、分かち合う「対話の一書」ともいえるでしょう。
この対話の過程において、主人と客の誤った仏法理解を正したことによって、客が顔色を変えて怒り、席を立って帰ろうとする場面もあります。
しかし「主人咲み止めて曰く」と、主人は笑顔をたたえながら客の足を止めて包容し、諄々と諭します。やがて客は、襟を正して主人への敬意を表明し、主人の主張を理解したことを示していくのです。
客の劇的な変化に対して大聖人は、「悦しきかな汝蘭室の友に交わりて麻畝の性と成る」と仰せです。
主人の徳に感化されて、仏法に対して曲がっていた客の心がまっすぐになったと、よろこばれています。
そして「立正安国論」の最後の段で客は、主人の話を心から納得して、同じ実践に励んでいくことを誓うのです。
この段で客はまず、正法を誹謗する罪は重く、破壊する罪は深いことが分かったと述べます。また、念仏を崇拝してきたのは、自分の考えではなく、先達の言葉、すなわち法然らの言葉に従ったためであるとします。
ここには重大な問題が指摘できます。
現代でも全く同じですが、人は物事を判断する際に、時として自らの眼でも信念でもなく、周囲の評価や評判に左右されてしまいがちです。ましてや権威や、権力のある立場の人の意見であれば、なおさら鵜呑みにしてしまうこともあるでしょう。
だからこそ、指導的立場にある人間の責任、いな、罪はあまりにも重いのです。
大聖人が呵責されているのも、この点です。
人々を惑わし、不幸に陥れる思想そのものを、さらにはそれを吹聴する権威の高僧たちを悪の根源として厳しく戒められているのです。
とともに、民衆も賢明に悪を見抜かねばなりません。騙されては不幸です。
一人一人と誓いの共有を
御文に戻れば、客は、主人の慈悲にあふれた教えを聞くことによって、自分の愚かな心を聞くことができたので、速やかに謗法を退治して、今の社会を安定させ、今世と来世の安穏を祈っていこうと決意します。
反対していた者を味方に変えていく――まさに対話であり、折伏であり、座談の模範そのものであります。
その要諦は、客が示す怒りや疑念に対して、主人が包容するように一つ一つ丁寧に解きほぐしながら対話を深めるという、いわば“魂と魂の触発”にこそあったといえるでしょう。
最後に、客がこう言明して「安国論」は締めくくられます。
「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」
これは、客が主人と同じく「立正安国」の誓いを共有したという宣言といえましょう。
「立正安国論」が「主人の言葉」ではなく、「客の誓い」で結ばれていることに、大きな意味があると思われてなりません。
それは、とりもなおさず「立正安国」に立ち上がる継承者が、陸続と続いていかなくてはならないとの、広宣流布の原理を示しているのではないでしょうか。
人間と人間を結ぶ対話を
客の清々しい決意で結ばれた本書。そこから学ぶべき点は、一つの対話の終わりには、新たなる対話への出発であるということにほかなりません。
仏法は、「対話の力」を確信しています。
その時には、目に見える結果が無くとも、必ず相手の仏性は発動しています。「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」(1467
-15)です。仏の生命を開き現すには、妙法という最高の縁をもって働きかけるしかありません。妙法を持った私たちが真実を語った分だけ、仏縁が拡大されるのです。
いよいよ「対話の春」です。
一人一人が自身の人間革命に果敢に挑戦し、社会の変革のため、民衆の安穏のため、あの友にこの友に、対話につづく対話の潮流を巻き起こしていこうではありませんか。
「立正安国」とは、即「世界平和」にほかなりません。
私たちは、どこまでも「対話」という平和的手段で、善の連帯を広げていくのです。
この私たちの対話は、人間の力を復興する戦いです。
私たちの対話が、社会を変え、世界を結び、未来を創ります。
私たちの対話には、希望があります。
生命の可能性を開く蘇生の力があります。
勝利と勇気と確信があります。
「人間を信ずる力」によって民衆の時代を築くのが、私たちの立正安国の対話なのです。