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法華取要抄講義0331~03387 1989:03~1992:04 聖教新聞より 千葉県青年部

         序講
         本抄の成立
         富木常忍について
         本抄の題号
         本抄の構成と展開
0331:01~0333:02 大段第一 一代諸経の大意を明かす
0331:01~0331:02 第一 一代聖教の勝劣を明かす
0331:02~0331:10 第二 諸宗の謬解を示す
0331:02~0331:07 その一
0331:07~0331:10 その二
0331:10~0332:10 第三 法華経最第一の正判を明かす
0331:10~0331:11 その一
0331:12~0331:14 その二
0331:14~0332:01 その三
0332:01~0332:02 その四
0332:02~0332:08 その五
0332:08~0332:10 その六
0332:10~0332:12 第四 三五の二法を標す
0332:11~0333:02 第五 教主の因位に寄せて勝劣を判ず
0332:11~0332:14 その一
0332:14~0332:16 その二
0332:16~0333:02 その三
0333:02~0333:15 第六 教主の果位に寄せて勝劣を判ず
0333:02~0333:06 その一
0333:06~0333:08 その二
0333:08~0333:11 その三
0333:11~0333:13 その四
0333:13~0333:15 その五
0333:16~0336:01 大段第二 今教所被の時期を明かす
0333:16~0334:03 第七 迹門の末法正意を明かす
0334:03~0334:06 第八 本門の二意を略示する
0334:06~0334:14 第九 略開近顕遠による在世衆生の得脱を明かす
0334:06~0334:11 その一
0334:11~0334:14 その二
0334:15~0335:10 第十 広開近顕遠の末法正意を明かす
0334:15~0334:16 その一
0334:16~0335:07 その二
0335:07~0335:10 その三
0335:11~0336:01 第11 助証・助顕等の末法正意を明かす
0336:02~0338:04 大段第三 末法流布の大法を明かす
0336:02~0336:06 第12 三大秘法を明はす
0336:06~0336:11 第13 ただ要を取るの所以を明かす
0336:12~0337:18 第14 広宣流布の先相を明かす
0336:12~0336:13 その一
0336:13~0336:18 その二
0336:18~0337:05 その三
0337:05~0337:13 その四
0337:13~0337:18 その五
0337:18~0338:04 第15 末法広宣流布を結勧す

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本抄の背景

 法華取要抄は身延入山後、最初に著された重書として、日蓮大聖人御一代の御化導のうえで重要な意義をもっていると拝される。すなわち、佐渡期にあっては、開目抄、観心本尊抄等の御書に拝されるように、発迹顕本された御立場のうえから、末法の御本仏としての御自身の御境涯と御胸中の法門を明らかにすることを、御化導の中心とされていたのに対して、身延入山以後は、本抄をはじめ撰時抄、報恩抄等に拝されるように、門下に対し末法流布の使命を教えられるとともに、その法体を三大秘法総在の末法戒壇の大御本尊として御建立されることを、御化導の中心とされていたと拝察できるのである。本抄は、日蓮大聖人の御内証たる法華経文底の妙法を三大秘法として開き示された御書であり、佐渡期から身延期への御化導の推移を象徴する御書と拝されるのである。
 文永11年(1274)3月8日、佐渡流罪の御赦免状が幕府から佐渡に届けられた。大聖人は同13日佐渡を御出発になり、鎌倉に到着されたのが26日であった。佐渡から鎌倉への道程については光日房御書に「同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風にはなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ」(0928-02)と仰せである。
 4月8日、平左衛門尉頼綱と対面し、質問に答えて、その年のうちに蒙古の襲来があることを予言されるとともに、真言が亡国の法であることを厳しく指摘し、絶対に真言をもって蒙古調伏を祈ってはならない、と諌められたのである。しかし、この三度目の諌暁も幕府に受け入れられなかったため、大聖人は「本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ」(0928-05)と身延入山を決意されたのであった。
 5月12日に鎌倉を発ち、17日に波木井の郷に到着された大聖人は、その日に認められた富木常忍の書簡に「十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」(0964-03)と、入山の際の御心境を述べられている。
 御草庵が出来上がるまで、しばらく地頭・波木井実長の館に逗留された大聖人は、直ちに本抄の御執筆に取り掛かられ、入山7日後の24日に完成されたのである。
 この経過と、身延入山第一声ともいうべき本抄の内容とを併せて拝察するに、身延入山の目的は、久しく、胸中に蔵されていた秘要の法門である三大秘法を顕説し、末法流布の法体を御建立されるにあったことは明白である。そして、これより5年後の弘安2年(1279)10月12日、大聖人は熱原の法難を契機として、一閻浮提総与の大御本尊を御建立され出世の本懐を遂げられるのである。
御真蹟と御草案
 本抄の御真筆は中山法華経寺に現存する。原文は漢文であり、24紙・321行からなる。ただし、御真蹟そのものには御述作の年月日や告告衆の名は記されていない。
 本抄を与えられた富木常忍は、大聖人滅後に、自分の所有していた御書・写本等の目録常修院本尊聖教事を作成しているが、その「御自筆皮篭」の項に、観心本尊抄と共に法華取要抄の名が並記されている。また、第二祖・日興上人は富士一跡門徒存知の事において、10大部を定められているが、その個所では、
   一、観心本尊抄一巻。
   一、取要抄一巻。
   一、四信五品抄一巻。
 と列挙されたうえで「已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り」と仰せであり、富木常忍が所蔵していた現存の御真蹟が本抄の正本であったことが明らかである。
 また、最古の写本として、日興上人及び第三祖・日目上人によるものが現存している。特に日興上人の写本には「文永11年(1274)」と本抄御述作の年代が記されている。
 また法華取要抄には、現存の御真蹟のほかに、その御草案が二種類、身延に存在していたことが、身延系の種々の御書目録によって、確認することができる。すなわち、身延の最も古い目録である大聖人御自筆目録には「法花取要抄 初ノ三枚メヨリ二枚計不足」、「以一察万抄ノ事也 一帖」とあり、また御霊宝記録には「法華取要抄 十三紙 中間不足 奥伝曰一国仏法等」、「上一察万抄 十九紙」とある。このほか遠録・奠録・筵録・西土蔵宝物録等の目録にも「上一察万抄」「法華取要抄」の名が並記されている。
 これらの目録の記述によって以下のことが確認できる。
 ①中山に現存している御真蹟の法華取要抄に類似しているが詳細は異なる二つの御真蹟が、身延にかつて存在し、明治8年(1875)身延の大火で焼失、また、そのうちの一つは「法華取要抄」と提されていたが、他の一つは「上一察万抄」という題号が付けられていた。
 ②大聖人御自筆目録、御霊宝記録によれば、身延にかつて存した「法華取要抄」は中間に欠落があった。
 ③また身延にあった「法華取要抄」は、「御霊宝記録」によれば、「十三紙」から成り、大聖人御筆自録によれば、3枚目から2枚ほど欠落していたことになるから、欠落部も含めるとほぼ15紙から成るものと推定できる。これは、中山現存の法華取要抄の24紙と比べてみると、字詰めの違いを考慮してもかなり量が少ないものといえる。
 ④御霊宝記録によれば、身延にあった「法華取要抄」は、「日一国仏法」という記述で終わっていた。
 この2書については、現在のところ中山現存の法華取要抄の御草案であると推定されるものの、明治8年(1875)の身延大火で焼失したため、その内容を知る手掛かりは少ない。ただ延山録外目録によって、これらの2つの御真蹟の始めと終わりの部分を、わずかにうかがい知ることができるのみである。すなわち、同目録には次のようにある。
 夫以印渡西天且置真丹日本所渡経論…我門弟敬之深信法華経 南○経
 法華取要抄御草案(断)
 取要抄 釈扶 支西天漢土日本所渡来経論…又最勝王経云由愛敬悪人○皆不以時行有三種過
 生正
 悪比丘破仏事(断)
  日本悪王   人者…一切衆生心滅失日一国仏法之事始之歟故
 もしこの内容通りの御真蹟がかつて身延に存在していたとすれば、次のようなことがいえるであろう。
 ①「以一察万抄」の冒頭御文「夫以印渡西天且置真丹日本所渡経論」は現存の法華取要抄の冒頭「夫れ以れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論」との仰せにほぼ一致する。また、最後部の御文「我門弟敬之深信法華経」は現存の法華取要抄の「我が門弟之を見て法華経を信用せよ」に似ており、したがって、「以一察万抄」にはこれ以下の部分が欠けていたことになる。
 「法華取要抄御草案」には冒頭に「取要抄 釈扶」という記述があるのに対して、「以一察万抄」にはそれがない。この「釈扶」とは現存法華取要抄の冒頭に記されている「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」にあたるものと推定でき、おそらくは「扶桑沙門日蓮釈す」というような表現になっていたのではないだろうか。
 ③「法華取要抄御草案」では、初めから「又最勝王経云由愛敬悪人○皆不以時行有三種過生正」4までが存していた。つまり、金光明最勝王経には「悪人を愛敬し、善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨、皆時を以て行はれず、三種の過生ずる在り、正法当に穏没すべし」とあるが、この経文の引用の「正法」の「正」の字までが存在していたということである。
 ④「悪比丘破仏事」については、独立した御書扱いをいているが、その最後部の御文「日一国仏法之事始之歟故」は明らかに御霊宝記録に記されている身延にあったが「法華取要抄」の最後部と一致している。したがって「悪比丘破仏事」を独立した御書と考えるのは適当ではなく「法華取要抄御草案」の後に続くものとしなければならない。
 ⑤したがって「悪比丘破仏事」の冒頭とされる「日本悪王   人者…一切衆生心滅失」は現存の法華取要抄本文の「今当世の悪王・悪比丘仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す」に更に最後の御文とされる「一国仏法之事始之歟故」は「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」の結文に相当すると拝される。これにより、身延にあった「法華取要抄」から現存の法華取要抄への推敲の内容が部分的であることが知ることができるのである。
本抄の御述作年代
 法華取要抄の御真蹟には御述作の年代は記されていない。しかし日興上人による法華取要抄の写本には明確に「文永11年(1274)」と記されている。現在、「文永11年(1274)5月24日」説が最も有力な説として定着しているが、過去の目録・注釈類によれば御述作年代について次の三説が存在していた。
 ①文永11年(1274)正月24日説(御書抄・1506年・日健著)
 ②文永11年(1274)正月24日説
 ③文永9年(1272)5月24日説(祖書目次・1779年・日諦著)(祖書網要・1785年・日導著)(新撰校正祖書目次・1814年・日明著)
 このほかにも、久成日相の御書和語式(1679)のように「校合ノ本ニ曰、御正本ニハ年号日月並びニ御判ナシト。然則年号日月ハ後人の加筆ナルコト疑ナシ。富木殿校合ノ本ニ云、御正本ニハ此三字ナシ」と。年代も、頂いた人の名前も確定できないとしているものもある。
 上の3説うち①の「文永11年(1274)正月24日」説と、②の「文永11年(1274)正月24日」説については、日寛上人が法華取要抄私記において次のように述べられている。
 「さて年号・月日の事は二説あり。一は文永十一年甲戌五月二十四日、二に同じき正月二十四日と云云。中に於て五月という事文明なり。十三丁、往いて見よ」
 ここで明らかなように、日寛上人の時代には、「文永11年(1274)」の「正月」か「5月」かという2説は存在していたが、「文永9年(1272)」説はまだなかったことが分かる。事実いま挙げた③の「文永9年(1272)5月24日」説を立てる目録・注釈書はすべて日寛上人より後のものである。なぜ「文永9年(1272)説が出てきたかについては後に述べることにし、ここでは「文永11年(1274)正月説の誤りについて述べておきたい。
 日寛上人は法華取要抄私記で、「5月」説の根拠として「十三丁、往いて見よ」と述べられているが、これは本抄の「今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず」という文永11年(1274)に起こった佐渡における天変について述べられた個所を指しており、これに明らかなように本抄は文永11年(1274)2月以降の御述作となるからである。したがって御書抄の「正月」の説は成り立たないのである。
 更にいえば、御赦免後、3月13日から身延入山までの間、つまり佐渡から鎌倉、鎌倉から身延への道程中には一編の御消息も残されていないことからも拝されるように、この間に法華取要抄のような重書を御述作されるとはほとんど考えられない。この点にも「5月」説の妥当性を見いだしうるであろう。
 しかし他方では、本抄の内容に観心本尊抄と共通する個所も多いことから、本抄が観心本尊抄御述作前後の時期、つまり佐渡期に成立したとする考え方も強く、この「佐渡御述作」説と「5月24日」説とを併せて、後に③の「文永9年(1272)5月24日」説が考えられるのである。したがって、この説の登場の背景には「佐渡御述作」か「身延御述作」か、という内容が内包されている。
 また、この「文永9年(1272)説の成立には、おそらく前述で述べた二つの御草案の存在が深くかかわっていると考えられる。先に述べたように、大聖人の佐渡流罪御赦免から身延入山までの間には、御草案とはいえ、本抄のような重要法門を内容とする御書を認められる暇はおそらくなかったと拝察できるから、二つの御草案は佐渡で著されたと考えるのが妥当であろう。
 このことに関連して、身延にあった「以一察万抄」と「法華取要抄」の成立について、今一歩論を進めておきたい。前節で述べたように延山録外目録によれば「以一察万抄」には「扶桑沙門」という記述が見られない。しかも結文が「我門弟之を敬い深く法華経を信ぜよ」となっているので、現存法華取要抄の結文を欠いた形で終わっている。ところが身延にあった「法華取要抄」は、同じく延山録外目録によれば、冒頭の個所について「取要抄…釈扶…支西天」とあり、闕字になっているものの、「扶桑」という言葉が記されていることは明らかである。しかも結文が「一国仏法の事之に始まるか」となっており、現存法華取要抄の結文「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」との仰せの内容に通ずる。
 後に序論第三章の「本抄の題号」で詳述ように、「扶桑」とは「日出る所」の意義があり、末法に広まるべき仏法が日本から生まれることを象徴されていると拝される。日蓮大聖人が御自身のことを「本朝沙門」と記されている御書としては、弘長2年(1262)の教機時国抄、顕謗法抄、文永9年(1272)の祈禱抄、そして文永10年(1273)4月の観心本尊抄の4書があるが、観心本尊抄以下は見られなくなっている。この「本朝」という表現に対し、本抄の「扶桑」という表現には、上に引用した本抄結文に拝される三大秘法広宣流布の意義がより鮮明表出されているのである。観心本尊抄では「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と述べられているが、三大秘法についてはまだ顕説されるには至っていないので「本朝」という表現にとどめられたと拝される。これに対し、本抄は観心本尊抄の内容を前提とされたうえで、三大秘法の顕説を主旨として認められた御書であり、その意義を明瞭に顕すために、御自身の御立場を「扶桑沙門」と表現されたと拝されるのである。その意味で、本抄はその内容のうえから観心本尊抄以後の御述作でなければならないのであり、したがってまた、その御草案の御述作も佐渡期ではあるが観心本尊抄以後、つまり文永10年(1273)4月以後であると拝されるのである。いずれにしても、三大秘法の密示か顕説かということを視点とすれば、本抄の「文永9年(1272)御述作説は成り立たないと考えられる。
 また、身延にあった「法華取要抄」「以一察万抄」が共に本抄の御草案であるとして両者の御述作の前後関係を考えると、「扶桑沙門」と記されていたと考えられる身延にあった「法華取要抄」の御述作の方が、それが記されていない「以一察万抄」の御述作よりも後であることが推定できる。したがって、身延にあった「法華取要抄」が現存法華取要抄の直接の御草案であり、御赦免に比較的近い佐渡期に認められたものと拝察できるのである。以上のことをまとめると、本抄成立の経緯は次のように拝察できるであろう。
 すなわち、佐渡期の観心本尊抄御述作の後に「以一察万抄」と題する御草案を著され、少し間を置いてそれを推敲して、文永11年(1274)5月24日に現存の法華取要抄を完成されたと拝されるのである。

         富木常忍についてtop

 本抄の対告衆は、御真蹟には明記されていないが、先に引用した日興上人の富士一跡門徒存知の事の記述などにより、富木常忍であることは疑いがない。
 富木常忍は、立教開宗の翌年である建長6年(1254)頃に入信したといわれ、日蓮大聖人の最も古い壇越である。また、観心本尊抄をはじめとする重要法門を認められた御書を大聖人より多く賜っており、学解においても優れていたとみられる。大聖人が御自身の胸中や重要な法門を明かされるときは、まず常忍に御書を認められて御教示されることが多く、また必要があれば常忍を通して門下に徹底されることもあったのは、常忍の信仰や学識を信頼されてのことであったと拝される。その意味で、大聖人が法華取要抄を富木常忍に与えたという事実に、本抄がもつ意義の重要性を拝察できるのである。
 本抄では、富木常忍の生涯と信仰を瞥見し、常忍が大聖人の御化導において果たした役割や当時の壇越の中で占めていた位置などについて確認しておきたい。
富木常忍の人物像
生没年と姓名

 本化別頭仏祖統記によれば、富木常忍は正安元年(1299)3月26日に84歳で寂したと伝えられており、これから逆算すると常忍の出生は建保4年(1216)となる。承久2年(1220)生まれとする説もあるが、富木常忍の生没年代について触れた文献としては本化別頭仏祖統記以外に信頼に足りるものがないので、ここでは建保4年(1216)出生説を採りたい。
 また、富木常忍の名は正しくは「富木五郎常忍」といい、入道してからは「富木五郎入道常忍」と名乗った。なお「富木」の表記については次項に述べる出身地の関係から「富城」が元来のものと思われるが、常忍自身が公の文書で「富木」と表記している。また、御書にはこれらのほかにも「土木」等の表記がある。
居住地と出身地
 富木常忍は下総国葛飾郡八幡荘若宮に住していた。
 しかし、元々は下総の人ではなく、富士一跡門徒存知の事に「因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常」(1605-08)とあるように、現在の鳥取県出身である。史料により、常忍の父が建長2年(1250)の頃に関東に移住したのに伴って常忍も下総の若宮に居住したと推察できるが、詳しいことは分からない。
社会的立場
 昭和42年(1967)に発見されたいわゆる「聖教紙背文書」によって、富木常忍は下総国守護の千葉介の有力な披官の一人であり、その役務は主に守護職にかかわる司法・行政の事務を司っていたことが明らかになった。
 「聖教紙背文書」とは、大聖人が書写された仏典の要文集の裏面に記されている富木常忍の仕事上の文書である。
 これは、紙の入手が困難であった当時にあって、富木常忍が不要になった仕事上の書類を大聖人に御供養し、その裏を大聖人が覚え書き用に使われたものである。したがって、断片的なものが多く、また判読が困難であるものも含まれているが、それらの断片は129通に上り、年代的には宝冶年間から文永初年に至るまでの約20年間にわたっている。内容的には、当時下総国の守護職であった千葉介頼胤と、その披官や周辺の地頭との往復文書で占められており、主に司法・行政に関連する事柄が記されていて、富木常忍の社会的立場および富木常忍をめぐる人間関係を解明するうえでの有力な手掛かりを提供している。
 この「聖教紙背文書」から富木常忍に関して推察できることを挙げておきたい。
 ①富木常忍は、下総国守護千葉介の披官の中でも有能な事務官僚として重要な立場にあった。
 このことから常忍が当時における知識階層に属していたことが知られるのであり、大聖人から多くの重要な御書を賜り、それを門下に伝達する立場にあったことの裏付けとなるであろう。
 ②幕府とのかかわりについては、同じ千葉介の披官の要職にあった長専なる人物が鎌倉に居住しており、常忍はその長専を通じて、間接的ではあるが、定常的に幕府の事務的業務に携わっていた。
 このことから、仕事のうえで、鎌倉と下総を往復する機会も少なくなかった。常忍が下総だけではなく、全檀越の要の存在たりえたのは、このような社会的な立場が基盤となっていたものと思われる。
 ③一方で幕府と接触する立場にあったとともに、他方では守護職の有力披官として、下総の多くの在地領主と交流する立場にあったことが知られる。
 これは、常忍が下総の檀越群の形成と発展のために中心的に貢献しえた一つの理由といえるのであろう。「聖教紙背文書」では後に大聖人の檀越となった大田乗明・金原法橋・矢木式部大夫等と仕事の上での交流があったことがうかがえる。
 ④主君の千葉介頼胤から、当時流行していた浄土講の段取りの要請を受けている記録があり、入信以前は念仏を信仰していたとも考えられる。
 当時、北条氏の得宗専制体制のもとで京都の文化が急速に取り入れられたことから、京に流行していた念仏も東国武士層に受容されていったのであり、常忍の主君頼胤も建長年間に浄土宗の良忠に帰依した。
 常忍もおそらくは、念仏に影響されていたのであろうが、大聖人の教化に触れて大聖人に帰依したのではないかと考えられるのである。
 ⑤富木常忍の入道の時期は建長3・4年(1251・2)年の頃で、大聖人の門下に加わった時は既に入道していた。
 忘持経事に「身は俗に非ず道に非ず」(0977-07)と仰せのように、常忍は半僧半俗の生活形態をとっており、また、同抄に「朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り」(0977-08)とも仰せのように、日常的には主君の館に出仕する日々であったようである。
家族
 御書の中に富木常忍の父についての記述が見られないのは、おそらく早く亡くなっており、大聖人とは面識がなかったからと考えられる。常忍が出身地の因幡国の自領に住む所従の所属をめぐって起こした訴訟の訴状には「去る建長二年の頃、富城中太入道の手より常忍之を譲得するところなり、譲状顕然なり、蓮忍、関東に居住せしむるの後、件の奴原自然に元富の辺を経過せしむる」とあり、これに見られる富木中太入道蓮忍が常忍の父の名であるとされている。
 また、常忍の母については、大聖人が亡持経書に「然りと雖も一人の悲母堂に有り朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り営む所は悲母の為め存する所は孝心のみ、而るに去月下旬の比・生死の理を示さんが為に 黄泉の道に趣く此に貴辺と歎いて言く齢既に九旬に及び子を留めて親の去ること次第たりと雖も」(0977-08)と仰せであり、常忍が自邸の持仏堂に住していた老母の孝養を日々深く心掛けていたこと、そして、その母が建治2年(1276)に90を越える年齢で亡くなったことが知られる。常忍は、母との離別が忍びがたく、遺骨を納めに身延の大聖人のもとに赴き、深く母の菩提を弔ったのであった。なお、常忍はこの前年に母が縫った帷子を大聖人に御供養している。
 また、常忍は最初に大田乗明の姉と結婚したが早くに死別し、御書において富木尼御前と呼ばれている夫人とは再縁であった。富木尼御前は駿河国重須に生まれ伊予橘定時に嫁いだが、これも再嫁したのであった。後に六老僧の1人となった伊予房日頂は、富木尼御前と橘定時との間にできた子であり、再婚に伴って常忍の義子となった。また、常忍と夫人の間には2人の子供ができ、その1人が後に重須学頭になった寂仙房日澄であり、もう一人は娘で乙御前と呼ばれた。
 富木尼御前は、大聖人に「尼ごぜん又法華経の行者なり」(0975-08)と称えられ、また弘安2年(1279)には御本尊を授与されていることからも分かるように、純真な信心を貫いたのであった。
 なお、富木家の家族構成を図示する。
   中太入道蓮忍  大田乗明・姉(死別)
      │     │
      ├────富木常忍  ┌─寂日房日澄
      │     ├────│
   常忍・母    富木尼御前 └─乙御前
            ├──────伊予房日頂
           橘定時(死別)
富木常忍の入信
入信

 富木常忍が大聖人の檀越の中でも最も早い時期に入信したことは確かではあるが、その明確な年次は決定しがたい。
 建長7年(1255)に一生成仏抄が与えられているので、常忍の入信は建長5年(1253)の立教開宗から建長7年(1255)の間であることは間違いないであろう。建長5年(1253)あるいは6年に大聖人から書簡を与えられているが、その文面からは、大聖人と常忍との交流の事実は知られているものの、その時既に入信していたか否かは決定できない。一説には、常忍は大聖人の京都御遊学を資助していたともいわれているが、一般的には、「聖教紙背文書」や常忍への賜書から分かるように、常忍は鎌倉と下総との間を頻繁に往来していたことから、立教開宗以後に鎌倉において大聖人と邂逅して入信したと考えられる。
弘教
 入信した富木常忍は居住地の下総を中心に弘教を開始した。特に文応元年(1260)8月27日松葉ヶ谷法難に遭われた大聖人を自邸に迎えた時に、大田乗明や曾谷教信をはじめとする下総の有力な檀越が入信し、下総の檀越群の基礎が確立したものと考えられる。
 大田・曾谷・金原等下総の檀越達が、直説的にせよ間接的にせよ富木氏を介して入信したことは間違いないであろう。なかでも、直接的に富木常忍を介して入信したと考えられるのは金原法橋である。「聖教紙背文書」によれば建長5年(1253)12月以前に金原法橋が公事を負担するにあたって富木常忍に相談を持ちかけており、2人は古くからの知己であったことが知られている。
 また大田乗明については、一説によれば、越中大田保の地頭職であったが千葉氏に招かれて披官となったといわれている。とすれば、その境遇は富木氏と近いものがあり、2人が職務を通じて親しくなり、ついに姻戚関係を結ぶに至ったものと考えられる。
 曾谷教信の場合は、下総八幡荘曾谷郷の在地領主であるから富木氏や大田氏とは立場を異にするが、大田氏と同じ越中に領地を有しており、しかも、大田氏は曾谷郷に大田屋敷と称される飛び地をもっていたので、おそらく富木常忍は大田乗明を通じて曾谷教信を知ったのではないかと考えられる。
 以上のようなつながりから、富木常忍を中心とする下総檀越群が形成され、常忍の立場はますます重要なものとなっていったと思われる。
 文永6年(1269)5月、常忍をはじめとする3人の檀越が幕府・問注所に召喚されて取り調べを受けた。このとき大聖人は問注得意抄を認められて「三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身か、西王母の薗の桃・九千年に三度之を得たる東方朔が心か 一期の幸何事か之に如かん」(0178-01)と仰せである。これは、法華経故に難をうけることは希有の幸いであると教えられている御文であり、常忍等の召喚が信仰上の理由によるものであることがうかがえる。
 また同抄では、問注所における問答の仕方等についてきめ細かな注意をされており、このあと常忍等の身辺に何らかな変化が生じた形跡がないので、大聖人の御指示通りに対処して無事乗り切ったようである。
 この問注所召喚は、当時、大聖人門下が活発な活動を展開しており、特に富木常忍がその中心者であったことを示すものといえるであろう。たとえば文永6年(1269)6月の富木殿御消息によれば、この月予定されていた「大師講」の会場に不都合が生じ、常忍は大聖人より、代わりの会場を段取りつけるよう要請されている。
 「大師講」とは、大聖人の門下が天台大師の命日である毎月24日に開いていた講のことで、文永3・4年(1266・7)年頃から行われていたものである。ここでは門下だけでなく他宗の僧俗も集い、法義を学び、信仰を談じていたようである。
 また、富木常忍の弘教について述べるうえで、忘れてはならないことは「真間問答」であろう。「真間問答」とは、弘安元年(1278)9月に富木常忍が天台宗の下総真間弘法寺の学頭了性房と法論しこれを破った問答をいう。
 了性房の主張は
    ①爾前権教は無得道であるという釈は天台・妙楽の60巻にはない。
    ②不信は謗法ではない。また不信であっても地獄に堕ちることはない。
    ③止観の行者は戒を持つべきである。
 という3点であるが、これを破したことに、富木常忍の教学の造詣の深さがうかがえる。
 大聖人は、常忍の経過報告に対して10月1日常忍抄を著され、上の3点について御自身のより深い見解を示されるとともに、①②については大聖人の根本の法門にかかわることであり障魔が競い起こることもあるので、今後はこの問題について了性房からの法論の申し出を受けてはならない。また、了性房を破したからには他の人とみだりに法論するのはかえって浅くなる、等と戒められている。
信仰の姿勢
 門下の側から大聖人に宛てた書簡で現存しているものはほとんどないが、富木常忍に関しては、大聖人宛てと思われる3通の書状が今も伝えられている。
 母が死去した建治2年(1276)の前後は、常忍の身辺に公私にわたる大きな変化が起きた期間であった。その一つは、主君の千葉介頼胤が文永11年(1274)の蒙古襲来のときに負った傷がもとで、翌年に九州の肥前で死去したことである。これにより頼胤側近の有力披官として活躍してきた常忍の立場が変化したようである。また建治元年(1275)から夫人が病魔に侵され、しばらく一進一退の状況を続けたが弘安2年(1279)頃に再発している。
 母の死の年に自身も還暦に達した常忍は、人生の無常を痛感したのであろうか、この頃から半僧半俗の生活を切り上げて出家し、身延の大聖人のもとに余生を送りたいという希望を抱くようになったのである。「不審状」には次のようにある。
 「受け難き人身を受け、遇い難き仏法に遇うことを得、明師大聖人に逢い奉って法門を聴聞してきたが、自分の根性が闇鈍であるため、所得の法門をたちまちに忘失するばかりである。これは謗法の先業によるべきものであろうか、私は齢既に六旬に及び余命いくばくもないのに、念々の所作はすべて三途の業である。仰いで仏法を信ずといえども罪業を滅尽せば三悪道は疑いない。たとえば不軽軽毀の衆が信伏せ随順しても謗法の罪を滅しなければ堕獄するであろうとの誡めがある。師の御顔に親近し常に耳に法門を触れれば、解了できなきなくとも罪業を消すことはできるではなかろうか。願わくは速やかに世事を捨て蘭室に入り師に親近して給仕申し上げたい。御観察を仰ぐものである」
 続いて、仏道修行に関して具体的な質問が詳細になされているが、その趣旨は以下の二点にしぼられる。
 一、観念も適わず、読誦に専念しようとしても、一念を集中することができない。どのように修行すれば理を得ることができるのか。
 二、五辛・肉食等の不浄の時の行は許されるのか。
 いずれも在家者としての日常生活の中で仏道修行を貫いていくうえで生じる問題点があり、富木常忍は信仰をより厳密に自らに課すことで仏法を体得しようとしていたことがうかがえる。常忍の潔癖さと真面目さが表出した質問とうけとれよう。そして、常忍は、在家者としての生活を捨てることによって、これらの問題を克服しようと考えたようである。しかしこれは、過去の仏法の在り方へのとらわれに由来する考え方であった。
 この「不審状」に対して答えられたのが、建治3年(1277)に認められた四信五品抄である。この御書の大要は、
    ①末法の法華経の行者の肝要は「信」にある。
    ②末代凡夫の修行は観念観法の持戒ではなく、南無妙法蓮華経と唱えることが根本である。
    ③たとえ一分の解がなくても、ただ題目を唱えることによって自然に仏意に適い身を利益することができる。
    ④したがって、大聖人の門弟の位は過去の諸宗の元祖よりも高位である。
 というものである。
 この御教示は、遁世によって行ずる持戒や観法では末代凡夫の成仏は適わないことを示されたものであり、常忍の迷いを法門の上から正されたものと拝されるのである。同抄の御真蹟には、富木常忍の筆で「末代法華行者位並用心事」と端書されており、常忍は同抄の御教示を深く受け止め、遁世によって先の疑念を解決しとうとしたことを反省したのではないかと思われる。
法難とのかかわり
 富木常忍が文永6年(1269)5月に問注所に召喚されたことは先に述べたが、その時に難を被ることもなかったので、富木常忍自身に直接的に降りかかった難は特になかったといってよい。千葉氏の有力な披官という社会的立場、下総という地理的条件を考えれば、法難を受けないで済んだ条件が揃っていたといえよう。
 それでは、大聖人が遭われた大難や熱原の法難において、富木常忍はいかなるかかわりをもったのであろうか。
 まず、文応元年(1260)松葉ヶ谷の法難の時には、一説によれば大聖人は下総の富木邸に一時難を逃れ、ここを拠点に弘教を展開されたという。いわゆる百日説法である。続く弘長元年(1261)伊豆流罪については、常忍とのかかわりを示す文献はない。また文永元年(1264)の小松原の法難では、これも一説によれば、この受難後、大聖人は安房から直接鎌倉に戻られず、一時富木邸に滞在されたともいう。いずれにしても、この三つの法難については門下とのかかわりを示す御書も少なく、詳しいことは分かっていない。この時期における富木常忍や四条金吾などの門下への中心者への賜書が残っていないのは、直接に会って指導・激励を示すものではないかと考えられる。
 しかし、文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難と、それに続く佐渡流罪の時期には、富木常忍への賜書が多くなり、この法難への常忍のかかわり方が明確にうかがえる。
 竜の口の法難直後、常忍は直ちに依智の本間邸の大聖人のもとに手紙を送り、その御返事として9月15日付で土木殿御返事をいただいている。この御書では、法難の経緯を簡潔に示されたうえで「これには一定と本よりごして候へば・なげかず候、いままで頚の切れぬこそ本意なく候へ」(0951-04)と仰せられ、法難直後の御自身の心境を明かされている。流罪が決定して佐渡に向かって出発された大聖人の安否を気遣い、常忍は自己の従者を付け人として大聖人に同行させている。
 しかし、大聖人は越後の寺泊でその付け人を常忍のもとへ帰還させている。その際、御自身の御内証を認められた寺泊御書を著され、常忍に送られたのであった。更に、佐渡に着いて最初の御書、富木入道殿御返事を与えられ、その一節に「一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」(0955-07)との御本仏の御境界を吐露されている。そして、佐渡流罪中は観心本尊抄をはじめとする、現存するもので実に12編に及ぶ御書を富木常忍に宛てて認められている。ちなみに最蓮房に8編、四条金吾および女房に6編がこれに続く。
 大聖人の佐渡流罪中はまさに一門にとって危急存亡の時であった。門下の大半は動揺あるいは退転という事態に陥り、大聖人は開目抄や佐渡御書を認められて法難の意味を明かし、門下を激励・指導されている。
 一方、門下の中から大聖人の赦免を幕府に働きかけようとする者がいた。富木常忍のいろいろ手をつくしたようである。しかし大聖人は、文永9年(1272)5月の真言諸宗違目において「日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり」(0139-04)と仰せられ、そうした策に走る門下の姿勢を厳しく戒められたのであった。
 また文永11年(1274)の御赦免後、身延に入られた5月17日、大聖人は富木殿御書を認めて常忍に送られ、続いて入山8日目の文永11年(1274)5月24日付で、身延における最初の重要法門として本抄を認められて、これを富木常忍に与えられたのである。
 このように大聖人は、竜の口法難・佐渡流罪・身延入山という御生涯で最も大きな激動の時期に富木常忍宛てに多数の御書を著され、それも節目節目に必ず認められている。このことは、大聖人の富木常忍への深い御信頼を物語るものと拝されるのである。
 最後に、熱原の法難に対して常忍はどうかかわったであろうか。熱原の法難は日興上人・南条時光を中心とする富士方面の弟子・信徒がかかわった法難であり、また大聖人御自身への法難でもなかったので、富木常忍は直接的にはかかわっていないようである。しかし、大聖人の御指示で越後房日弁と下野房日秀を富木邸に預かったことが富木殿女房尼御書で知ることができ、側面からの支援をしていたことがうかがわれる。
 以上のことから結論的にいえることは、富木常忍はほとんどの法難に関して、前線というよりも後衛的な位値におり、いわば背面から大聖人の一門を支えていったといえるのではないだろうか。これは、下総という地理的条件、社会的にある程度有力な階層に属していたこと、そして幕府に接触しうる立場にあったこと等による。
御供養
 「けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし」(0964-01)
 身延入山のその日に富木常忍に宛てられた御手紙の冒頭の部分である。檀越達にとって、身延に入られた大聖人に食・衣を御供養申し上げることが特に重要な役割であった。
 身延期における御供養者および回数は、南条時光の32回と、他を圧倒しているが、次いで富木常忍12回、四条金吾11回、池上兄弟8回と続く。(波木井一族は不明)
 このなかで特筆すべきは、南条時光の御供養では食料が主であるのに対して、常忍の御供養の大半は「鵞目」あるいは「青鳧」が主であり、これには、富木・四条・南条家等の大檀那が連携をとり、身延での大聖人の御生活に必要な品々を分担したためとも考えられるが、富木常忍は佐渡期においても6回の御供養の記録があり、他に帷子・御衣布・白小袖等の衣類などがある。
大聖人入滅後の富木常忍
 富木常忍は、弘安5年(1272)10月13日の大聖人御入滅の時には池上に馳せ参じ、御葬送の折には香炉を奉じて参列した。立教開宗の直後から後入滅まで約30年間、一貫して外護の誠を尽くしたといえよう。
 その後、常忍は、出家して常修院日常と号し、自邸の持仏堂を改めて法華寺として法灯を守ろうとした。惜しむらくは、晩年に子息の日頂や日澄と決別し、大聖人の御法門の真髄を理解できない者達に法華寺等の管理を任せたことである。しかし、御真蹟の格護を強く遺言し、現在までそれが伝えられたことは、ひとえに富木常忍の功績といってよいであろう。
檀越の要・富木常忍
 大聖人の門下は、出家僧である「出子」と在家信徒である「檀越」に大別できる。入道・尼という半出家半俗的な立場の門下もあったが、これは「檀越」と見なすことができる。ここでは「檀越」に絞って、その交流・連帯について検討し、その中で富木常忍が中心的な役割を果たしていたことを明らかにしたい。
 檀越を地域的に分類すると、次のようになる。
    下総 富木常忍及び妻・大田乗明及び妻尼・曾谷教信・金原法橋・秋元太郎
    安房 名越新尼・大尼・光日房・工藤吉隆
    鎌倉 四条金吾および妻日眼女・比企大学三郎・北条弥源太・大蔵搭辻十郎入道・日妙・乙御前・桟敷尼・妙一尼・妙密上人女房・井沢入道・坂部入道・河野辺入道
    伊豆 船守弥三郎
    富士 南条時光一族・松野六郎一族・石河入道及びその妻(重須殿)・高橋入道及び妻(妙心尼・窪尼・持妙尼は同一人物か?)・西山入道・河合入道・内房女房尼(新尼・大尼)・椎地四郎・熱原百姓
    甲斐 大井荘司・波木井実長一族   
    武蔵 池上宗仲一族
    佐渡 阿仏房・千日尼・国府入道
 居住地を同じくする檀越同士は、血縁関係や職業等を共通の基盤とするもので、御書にその交流を示す記述がみられなくても、面識があり、知己であったことは十分に想像できる。また、数も少なくないことから、大聖人を中心として、互いに交流をもっていたのではなかろうか。今、御書の中から、檀越間の交流を挙げることにする。
 「此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき」(0956-01)(富木殿と四条金吾他)
 「しかも善医あり中務三郎左衛門尉は法華経の行者なり」(0985-15)(富木殿と四条金吾)
 「ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ」(0995-01)(椎地四郎と富木殿)
 「太田入道殿のかたがたのもの・ときどのの日記のごとく給い候了んぬ此の法門のかたづらは佐衛門尉殿にかきて候」(0995-04)(大田殿・富木殿・四条金吾)
 「だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ」(1151-11)(大学三郎・四条金吾・池上家)
 「彼のあつわらの愚癡の者ども~さぶらうざへもん殿のもとに・とどめらるべし」(1190-18)(熱原百姓と四条金吾)
 「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候」(1449-02)(四条金吾と椎地四郎)
 安房・佐渡においては、遠隔地であるため、交流は見られないが、地域を越えての交流の存在は出家の門下を介してかなり頻繁に行われていたことが明らかである。
 更に、御書には「読み合っていきなさい」「語り合っていきなさい」など、特定の檀那に与えられたのではなく、門下に広く触れ示すように指示されているものがある。その指示がどこまで徹底されていたかは不明であるが、檀越達が互いに集い合う雰囲気があったことが、そうした仰せから、十分に想像できる。それも、狭い地域の人々だけではなく門下全般を対象にした指示もあるので、これも地域を越えた檀越間の交流があったことの一つの証となるであろう。そこで、御書でそのような御指示が拝される個所を挙げてみたい。
 「人々御中へ」(0505-07)
 「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」(0951-01)
 「此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり」(0956-01)
 「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」(0961-07)
 「一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ」(0967-09)
 「志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか」(0970-18)
 「此の文は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」(1096-09)
 「人人御中」(1191-12)
 以上御書全集ページ順に7編8箇所の御文を見てみたが、これらは、一部地域の檀越のみを対象としたものではなく、全門下への伝達・徹底を指示されており、その対告衆は、富木常忍と四条金吾に集中しており、この2人が門下中における御書の伝達の中心的立場にあったことである。
 なんといっても当時は、鎌倉が中心であったから、鎌倉在住の四条金吾が檀越間の交流の要となったのはいうまでもない。富木常忍の場合は、頻繁に鎌倉に行き来していたことと、門下の重鎮であったことから、常に要とされていたのである。
 三大秘法こそが末法に流布すべき要法であることを初めて体系的に明かされた法華取要抄を、富木常忍に与えられたのは、常忍の高い学識もさることながら、彼がかくのごとき檀越の要たる位値にあったためであると拝されるのである。
富木常忍への賜書と法華取要抄
 富木常忍は、その最晩年にあたる永仁7年(1299)の3月4日に、常修院本尊聖教事という目録の「置文」を書いているが、その冒頭では「一、聖人の御書並びに六十巻以下の聖教等、寺中を出す可かざること。右。聖教を惜しむことは法慳に似たりと雖も、借失するに至りては尚彼よりも甚だし。仍って何の大事有りと雖も、当寺の困外に出す事、一向に之を停止すべし。但し至要の時は道場に於いて之を披見する事は制の限りに非ず」と、御書の格護を後世に強く要請している。常忍の死去は、この直後の3月20日であった。
 このように富木常忍が御書の保管、管理に強い使命感をもってあたったのは、おそらく日蓮大聖人御自身より、そうした指示をいただいたからではないかと考えられる。このことは文永8年(1271)11月、大聖人が佐渡に御到着になって最初に認められた富木入道殿御返事における「貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず候」(0955-14)との仰せからもうかがえよう。
 富木常忍宛ての御書は現在知られているもので45編にのぼり、そのうち36編の御真蹟が現存している。
 本節ではこれらの賜書の中から、内容的に法華取要抄の成立と関係の深いと思われる佐渡期の御書について、その主要な御教示を拝察してみたい。
文永8年9月14日・土木殿御返事
 文永8年(1271)9月12日竜の口の法難が、日蓮大聖人の発迹顕本の契機となった法難であり、大聖人の御化導において重大な意義を有することはいうまでもない。大聖人は法難の直後から主として富木殿の書簡において御自身の胸中を明かされている。
 9月14日、相模・依智の本間六郎左衛門邸において認められた土木殿御返事では「数数見擯出ととかれて度度失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば我と苦行をいたす事は心ゆへなり」(0951-06)と仰せである。これは法華経勧持品第十三の「数数見擯出」の経文をもって法華の意義を示された初めての御文であり、佐渡期の御化導の先駆をなすものと拝せるのである。
10月22日・寺泊御書
 10月10日に依智を出発された大聖人は21日に越後の寺泊の津に到着された。翌22日に著された寺泊御書では、大要、
   ①法華経の肝要性
   ②八宗・十宗の総体的な破折
   ③日蓮大聖人が法華経を身読されていること
   ④不軽菩薩の実践と比較
 の四点を御教示されている。これらの御教示は法難の意義を明かすものとして相互に深く関連しており、佐渡期・身延期を通じてそれぞれに詳しく展開されていくのである。
 まず最初の法華経の肝要性については、涅槃経の「贖命重宝」の文に依って法華経と一切経の関係を「法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり」(0952-14)と明かされている。つまり法華経こそは一切経の肝要であるが故に「命」に譬えられ、涅槃経や華厳経などの諸大乗経の命をあがなうための「重法」に譬られるのである。この御教示は、法華経を何にも替えられない「命」として強調することにより、その“肝要性”を示されているものと拝される。そして「一部八巻・二十八品・天竺の御経は一由旬に布くと承わる定めて数品有る可し、今漢土日本は略の中の要なり」(0954-02)と仰せられている。この「略の中の要」たる二十八品に対して「要の中の要」が大聖人が流布せれる末法の大法なのである。その“要法”については、後に開目抄の「本門・寿量品の文の底」(0189-02)、観心本尊抄の「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」(0247-15)、「我が内証の寿量品」(0250-09)、「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(0251-09)、「事行の南無妙法蓮華経の五字 並びに本門の本尊」(0253-13)そして本抄の「本門の本尊と戒壇と題目の五字」、「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」、等の御教示によって明示されていくことになるのである。
 また寺泊御書では、この法華経の肝要性に関連して「八宗十宗等は皆仏滅後より之を起し論師人師之を立つ滅後の宗を以て現在の経を計る可からず天台の所判は一切経に叶うに依つて一宗に属して之を弃つ可からず、諸宗の学者等自師の誤りを執する故に或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語らい結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し失無き者を之を損うて楽と為す」(0952-15)と仰せられて、法華経が一代の肝要であるのにもかかわらず自義に執着して法華経に背き、更には法華経の行者に迫害を加えている八宗・十宗を破折されている。特に、大日経の「印と真言」を「仏教の最要」とする真言宗こそ「僻案」であり「僻見」であると破折されている。
 更に法華を機に起こった大聖人に対する4つの邪難を挙げたうえで、大聖人が法難に遭われていることは法華経を身読していることになることを、次のように勧持品の二十行の偈との符合を持って明かされるのである。
 「勧持品に云く『諸の無智の人有つて悪口罵詈し』等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、『及び刀杖を加うる者』等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる『常に大衆の中に在つて我等が過を毀ら数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり」(0953-15
 そして、大聖人が勧持品を身読していることは不軽菩薩の実践と等しいと、次のように示されている。
 「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、 今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(0953-18)
 不軽菩薩は、法華経の要点を化導したために上慢の四衆によって迫害を受けたのであり、この実践が釈尊の因位の修行となったとされる。日蓮大聖人もまた、法華経の肝要をもって化導されたが故に逆縁の衆生により法難を受けられたのであり、この点で不軽菩薩と同じ実践であるとされているのである。
 更に同抄では、勧持品二十行の偈を身読された御立場を「勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず但し『恐怖悪世中』の経文は末法の始を指すなり、此の『恐怖悪世中』の次下の安楽行品等に云く『於末世』等云云、同本異訳の正法華経に云く『然後末世』又云く『然後来末世』、添品法華経に云く『恐怖悪世中』等云云、時に当り当世三類の敵人は之れ有るに但八十万億・那由他の諸菩薩は一人も見えたまわず乾たる湖の満たず月の虧けて満ちざるが如し水清めば月を浮かべ木を植うれば鳥棲む、日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す彼の諸の菩薩の加被を請う者なり」(0954-03)と明かされている。此処に仰せの「八十万億那由佗の諸の菩薩」とは、勧持品で二十行の偈を述べる滅後の弘教を誓った迹化の菩薩であり、大聖人が今、その代わりに三類の強敵による難を受けておられる故に「代官」と仰せなのである。
11月23日・富木入道殿御返事
 佐渡・塚原に到着されてからの第一信ともいうべき「富木入道殿御返事」では、先の寺泊御書の御教示の意義を更に明確に示されている。すなわち同抄の大要は、
   ①正像末弘の「一大事の秘法」を日蓮大聖人が初めて弘通されること
   ②末法流布の瑞相
   ③日蓮大聖人が上行菩薩の再誕であることの密示
 の3点である。この3点に相当する御文を以下に引用しておきたい。
   ①「已に眼前なり仏滅後二千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」(0955-05)
   ②「前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり神世十二・人王九十代と仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞なり神力品に云く『仏滅度の後に於て能く是の経を持つが故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず』等云云、『如来一切所有之法』云云、但此の大法弘まり給ならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし、伝教大師云く『日出て星隠る』云云、遵式の記に云く『末法の初西を照す』等云云」(0955-08)
   ③「法已に顕れぬ、前相先代に超過せり日蓮粗之を勘うるに是時の然らしむる故なり経に云く『四導師有り一を上行と名く』云云 又云く『悪世末法時能持是経者』又云く『若接須弥擲置他方』云云」(0955-11)
 すなわち、日蓮大聖人は法難に遭われて法華経を身読されたことにより、
   ①正像末弘の要法たる「一大事の秘法」を顕されたのである。
   ②正嘉の大地震等は、この秘法が末法に流布することの瑞相として、その真の意義が明らかとなる。
   ③末法の法華経の行者たる日蓮大聖人こそが法華経本門において要法を付嘱された上行菩薩である。
 と、されているのである。
文永9年3月20日・佐渡御書
 翌文永9年(1272)の2月、厳寒の塚原・三昧堂で御思索を深められてきた大聖人は、開目抄を認められて、御自身こそが末法の御本仏であることを明らかにされた。この開目抄は四条金吾を通じて全門下に与えられたが、同じ2月に著作された富木常忍に与えられた八宗違目抄は、開目抄に論じられている真の一念三千に関する経釈が集成されている御書であり、その意味で同抄の準備的な著書とされる。
 同月、鎌倉と京で北条氏の内紛である北条時輔の乱が起こった。3月に認められ富木常忍を通じてすべての弟子・檀那に与えられた佐渡御書には、この事件の意義について触れられている。この御書では、北条氏の内紛は大聖人が予言された自界叛逆難の的中であるとされるとともに「摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩タ王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、 破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし、畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず」(0957-02)と仰せられて、悪王と邪法の僧とが結託して正法を滅ぼそうとしている時に、師子王の勇気をもって敢然と戦うことこそが末法の時に適った成仏の道であることを強調されている。
 そして、法華経不軽品第二十の「其罪畢已」の文を挙げ、折伏を行じ、今世で難に遭うことによって、自己の生命に具わる過去の「謗法」の重罪を消滅するこができるとされ、次のように明かされている。
 「法華経には『諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん』等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(0960-09)
文永9年4月10日・富木殿御返事
 塚原から一の谷に移られて最初に認められた御書である富木殿御返事では、大聖人が末法の法華経の行者であることは間違いないとの御確信を示されたうえで「但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受・折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず」(0962-07)との澄み切った御心境を吐露されている。大聖人を迫害したすべての悪人はまだ善知識であるとの仰せには、法華経を契機に末法流布の大法を顕そうとされている御本仏の深い御境界を拝することができる。
文永9年5月5日・真言諸宗違目
 文永9年5月5日御述作の真言諸宗違目では、「日蓮は日本国の人の為には賢父なり聖親なり導師なり、之を言わざれば一切衆生の為に『無慈詐親即是彼怨』の重禍脱れ難し、日蓮既に日本国の王臣等の為には『為彼除悪即是彼親』に当れり」(0140-01)と仰せられ、堕地獄の根源である諸宗を破折することこそ、人々を無間地獄から救う大慈悲であると述べられている。
文永10年4月25日・観心本尊抄
 以上拝してきた文永8年から9年にかけての諸御書においては、富木入道殿御返事で正像末弘・末法流布の大法を示唆されているものの、全体としてはむしろ、その大法を顕される日蓮大聖人御自身の御境界を明らかにすることを中心とされたと拝される。
 しかるに、文永10年(1273)4月に御述作の観心本尊抄では、末法の主師親であられる日蓮大聖人が末法の衆生のために建立し弘通される「法」に焦点を当てられ、法本尊を開顕されるのである。
 すなわち、
   ①末代凡夫の「観心」は釈尊をはじめ一切の仏の因行果徳の二法を具足する「妙法蓮華経の五字」の「受持」にほかならない。
   ②その「妙法蓮華経の五字」とは法華経寿量品の「肝心」であり真の仏種である。
   ③この下種の要法は末法のために本化地涌の菩薩に付嘱された。
   ④したがって、正像末弘の秘法であり、末法に地涌の菩薩が出現して初めて弘通された本門の本尊として日本国に建立される。
 等の諸点が明かされている。
文永10年7月6日・土木殿御返事
 観心本尊抄御述作直後の5月28日の義浄房御書において「寿量品の事の一念三千の三大秘法」(0892-08)と仰せられて「三大秘法」の名目を明かされており、また、閏5月11日の顕仏未来記では「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)と、閻浮提弘宣流布を示されているが、まだ三大秘法の内容を示されていない。
 しかるに7月6日の富木殿御返事では「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか、仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか」(0963-02)と、「定」「慧」は存生中に弘めるが「戒」は死後に託す、と仰せられ、末法に流布すべき法体は本尊・題目・と共に戒壇が具足することを示唆されている。この戒壇の義は同年8月の波木井三郎殿御返事における「本門の教主の寺塔」(1372-08)との仰せにも拝される。
文永11年正月14日・法華行者逢難事
 そして、翌文永11年(1274)の正月に富木常忍を通して一切の門下に与えられた法華行者逢難事の追伸において、「竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう、所詮一には仏・授与したまわざるが故に、二には時機未熟の故なり、今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」(0965-07)と、三大秘法の内容を具体的に明かされたのであった。
まとめ
 かくして、佐渡期の御化導を経て、同年5月24日、身延入山直後に本抄が著され、法華経の肝要は正像末弘通の三大秘法であり、それは日蓮大聖人によって建立され一閻浮提に広宣流布されることが顕説されたのである。
 以上のように、竜の口の法難から法華取要抄の御述作に至る大聖人の御化導の経緯を拝すると、富木常忍への賜書が重要な意義をもっていることが分かる。つまり、大聖人が御自身の御内証を説くときには、必ずといってよいほど、まず富木常忍に内示されているのであり、また常忍を通して門下に伝えられていったのである。
 その意味で、富木常忍は、大聖人が遭われた法難の意義に始まり三大秘法の流布を明かされるに至る佐渡期の御化導の全体を、一貫して拝してきた存在であったことが知られるのである。

         本抄の題号top

 この章では、本抄の題号「法華取要抄」の意義、及び題号の次下に記されている撰号「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」の意義について、日寛上人の取要抄文段の御教示に基づいて考察していきたい。
題号「法華取要抄」の意義
「法華取要」について
「法華」と「取要」

 「法華取要抄」の意義は、日寛上人の取要抄の文段における「法華取要抄とは『法華』の二字は一代経の中に爾前を簡び『取要』の両字は法華経の中に広略を簡ぶ。謂く、一代経の中には但法華経、法華経の中には但肝要を取る、故に『法華取要抄』と名づくるなり」との仰せに明確である。
 この仰せにおける「簡ぶ」とは「選び捨てる」の意であり、これに対して「取る」は「選び捨てる」の意である。したがって、上の日寛上人の御教示は、本抄の題号に二段階の“取捨”の意が込められていることを明かされているのである。
 すなわち、題号の「法華取要抄」の「法華」の二字には“釈尊の一代聖教の中から方便権教たる爾前経を選び捨てて、ただ法華経を選び取る”との意が込められているのであり、また「取要」の二字には“法華経の広略を捨てて、ただ法華経を選び取る”との意が込められているのである。以下においては、このことを本抄の御教示に即して確認していきたい。
爾前を捨てて法華を取る
 まず「法華」の二字に込められた“爾前を捨てて法華を取る”との意については、本抄前半部の御教示が、それにあたると拝せられる。すなわち、一代聖教のうちで法華経が最勝であることを次の諸点により示されている。
    ①法華経法師品第十の「已今当」の文により、法華経が一切経に勝れていることを仏自ら判ぜられていること。
    ②しかも釈尊一仏の判定だけではなく多宝如来と分身諸仏との証明があること。
    ③また法華経は如来の滅後のために説かれたこと。
    ④法華経の三五の二法によって釈尊の因位・果位が明かされたことにより、法華経の教主釈尊こそが娑婆世界の衆生にとって有縁の仏であったことが明らかになったこと。
 こうして、末法の衆生のためには、釈尊一代聖教のなかから最勝の法華経を選び取るべきであることが示されているのである。
広略を捨てて肝要を取る
 次に「取要」の二字に込められている“法華経の広略を捨てて法華経の肝要を取る”との意について、本抄の御教示を拝してみたい。
 日寛上人は取要抄文段において、「取要」とは「如来要を取って付嘱したまう旨を述ぶる」と「蓮祖要を取って弘通したまう相を述ぶる」の二意が含まれているが、前者は傍意であって、正意は後者にあると仰せである。
 この二意のうち、正意にあたる「蓮祖要を取って弘通したまう相を述ぶる」とは、本抄における「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」との仰せを指いておられると拝される。
 この仰せは、末法流布の大法たる三大秘法を明らかにされた直後の仰せであり、末法において、日蓮大聖人が初めて弘通される三大秘法とは、法華経の広略を捨てて肝要でとったものであることを示されているのである。つまり、日蓮大聖人御自身が法華経の肝要を取られるが故に「蓮祖要を取って」であり、また、その肝要の法が三大秘法として開顕されて末法に弘通されることが明かされているが故に「弘通したまう相を述ぶる」なのである。日寛上人は、このことを本抄題号の「取要」の正意とされているのである。
 これに対して傍意にあたる「如来要をとって付嘱したまう旨を述ぶる」とは、本抄の「法既に宝搭に入って二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず」との仰せを指しておられると拝される。この仰せには、法華経の虚空会の儀式において釈尊が法華経の肝要を取って地涌の菩薩に付嘱したこと、つまり結要付嘱について述べられており、確かに「取要」の一つの意義が示されている。これは経文にも明白である故に「当世異義有る可からず」と仰せられているのである。
 しかし、ここで付嘱を受けた地涌の上首・上行菩薩が日蓮大聖人であり、大聖人が弘められる三大秘法がその「要法」であることは、経文には示されていない。これを明かされることに本抄の正意があることはいうまでもない。
 この「取要」については更に明確にするために、取要抄文段では「要」の意義を論じられているのであるが、これについては項を改めて拝察してみたい。
「要」の意義
「要」の字義=一切を総括する

 「要」の字義は、一般的には「物事の大事なところ、かなめ」という意味であるが、文段では「一切を総括する、之を名づけて要と為す」との天台大師の言葉の引用をもって「要」の字義を説明されている。
 文段ではまた、孝経大義の「親を敬えば子が喜び、主君を敬えば臣下が喜ぶ。敬う対象は少なくても喜ぶ者は多い。これを要道という」という言葉を引いているが、これは、いわば、“少して多を包含するもの”という「要」の意義を示されているものと拝される。
 更には「要」の字義の譬えとして「樞柄」、「綱維」、「喉襟」、「目渓」等の言葉が挙げられている。これはおそらく、法華玄義巻九下の「明宗」の章の「宗とは修行の喉衿、顕体の要蹊なり、梁柱の屋を持ち網を結ぶ網維の如し。維を堤ぐるときは則ち目動き、梁安んずるときは則ち桷存す」との文を想定されていると拝される。
 日寛上人のこれらの御教示は、“一切を支え、律し、動かす唯一根本のもの”ということを「要」の意義として示されていると拝察できよう。
 また日寛上人は、これらの御教示の最後に法華経見宝搭品第十一の「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」との経文を引用されている。これは先の孝経大義の文の趣旨と関連しての引用とされているが、釈尊及び三世十方の諸仏が法華経を受持する者に対して歓喜するということは、法華経こそ一切諸仏の成仏の根源となった最要の法であることを意味する。「法華取要」の「要」とはその最要の法を意味するのである。
「広」「略」との比較
 次に、この“一切を総括する”という「要」の意義を、「広」「略」の字義を対照させて考察してみたい。
 語源的にみると「広」の字は「外枠が広がってがらんとした空間」を意味し、「略」の字は「すじ道をつけること」を意味する。通常では「広」の対語は「狭」であり、「略」の対語は「詳」である。しかし「広」「略」を対照的な対語とする場合、「広」が、物事をその広がりにおいて捉えることであるのに対して、「略」は、すじ道を立てて、枝葉の部分を省略し、それをもって本質的な内容を明らかにすることを意味するといえよう。
 このように「略」の字が、事柄の詳細にわたる「広」の内容に区切りをつけ、不必要な部分を省いて明らかにされた物事とすじ道を意味するのに対し、「要」は、ある事柄の一切を総括する最重要の部分、その事柄において欠かすことのできない要所を意味する。言い換えれば、「略」が、詳細にわたる「広」に準拠して立てられたものであるのに対して、「要」は、「広」を成り立たしめるための根源、あるいは「広」の一切の意義をあらしめるために不可欠なものである。したがって、「略」が「広」から帰納されるという方向性をもつのに対して、「要」は、そこから「広」が開かれるという方向性を内包するものといえよう。
肝要の法体の二意
 文段では、「要」の「字義」に続き、更にその「体」を論じられている。これは、「一切を総括する」との「要」の字義にあたる実体は具体的に法華経のいかなる法を指すかという点、すなわち法華経の肝要の法体についての御教示である。これについて日寛上人は次のように仰せである。
 「諸抄の中に且く両文あり。一には一部の題号に約す、報恩抄等の如し。二には寿量の妙法に約す、本尊抄等の如し」
 すなわち、肝要の法体について諸御書に拝される大聖人の御教示は二意あり、その第一は「一部の題号に約す」、つまり法華経の題号である「妙法蓮華経」を肝要の法体とされる場合であり、第二は「寿量の妙法に約す」、つまり寿量品の文底の南無妙法蓮華経を肝要の法体とされる場合である。
 第一の「一部の題号に約す」とは、例えば報恩抄における「問うて云く法華経・一部・八巻・二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経・阿含経の肝心は仏説中阿含経・大集経の肝心は大方等大集経・般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経・雙観経の肝心は仏説無量寿経・観経の肝心は仏説観無量寿経・阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経・涅槃経の肝心は大般涅槃経・かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目・其の経の肝心なり、大は大につけ小は小につけて題目をもつて肝心とす、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等・亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通・雲雷音王仏・是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつて・かくのごとし、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復.一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人.修羅・竜神等の頂上の正法なり」(0324-04)との御教示にあたる。すなわち法華経序品第一は冒頭の「如是我聞」から始まるが、その所聞の法体は、この「如是我聞」の上にある題号、すなわち「妙法蓮華経の五字」であり、これが「法華経の肝心」であり、更に「一切経の肝心」であるとされている。
 第二の「寿量の妙法に約す」とは、例えば観心本尊抄の「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」(0247-15)「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」(0250-10)「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(0251-09)等の御教示にあたる。
 日寛上人は、この二意について「一部の題号に約するは、これ一往傍義なり。寿量の妙法に約するは、再往の正義なり」と仰せになり、「寿量の妙法」を正意とされている。
肝要の法体=寿量文底の妙法
 次に文段では、「題号の妙法」と「寿量の妙法」の相違について論じ「寿量の妙法」を正意とする所以を明かされている。
 まず「題号の妙法」について次のように仰せである。
 「題号の妙法は仍これ迹門の妙法なり。何となれば、今日一代は皆これ迹中の所説なり、既に迹中所説の法華の題号なり。豈迹門の妙法に非ずや」
 すなわち、日蓮大聖人が報恩抄等で「題号の妙法」を法華経の肝心とされているのは、一往、「迹中所説の法華」の文に即して肝心の法体を示されているのである。「迹中所説」とは、垂迹化他の仏が説いた法との意である。インド応誕の釈尊は、文底の本地の仏と相対すれば垂迹化他の仏であるから、釈尊一代の聖教はすべて「迹中所説」になるのである。したがって、法華経の題号も迹中所説であり、その意味で「迹門の妙法」となる。
 次に「寿量の妙法」について日寛上人は次のように仰せである。
 「実にその功を論ぜは、悉く本門寿量文底秘沈の大法、久遠本地名字の所証の妙法に帰するなり」
 ここに仰せの「その功」とは、釈尊の「迹中所説」の法華経の功徳ということである。つまり、釈尊の法華経に述べられている功徳はすべて、寿量文底の大法に帰着するのである。
 要約すれば、一往「迹中所説」の法に即せば法華経の肝要は「題号の妙法」であるといえるが、再往「功」の帰する所を論ずれば「寿量文底の妙法」なのである。
 上に引用された文段の仰せでは、「寿量文底の妙法」について、更に「久遠本地名字の所証の妙法」と言い換えられているのが、この点について次に拝察してみたい。
久遠名字の妙法
 日寛上人は、寿量文底の妙法と迹中所説の法華経の題号との関係について「題号は只これ久遠名字の妙法の朽木書なり」と仰せられ、更に本因妙抄の「迹門の妙法蓮華経の題号は本門に似ると雖も義理・天地を隔つ成仏亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる」(0874-15)との御文を引用されている。ここに仰せの「朽木書」と消し炭や焼き筆で下絵を書くこと、あるいはその下絵のことである。すなわち、迹中所説の「題号の妙法蓮華経」は、日蓮大聖人が弘められる寿量品の文底の「久遠名字の妙法」のために釈尊が残した下絵なのである。
 「久遠名字の妙法」とは久遠元初の本地において仏が名字凡夫の位であったときに覚られた妙法であり、これが成仏の本因なのである。この妙法は、寿量品の「我本行菩薩道」の文底に秘沈されているが故に「寿量品の文底」といい、また、法華経そして一切経の肝要の法体であるが故に「寿量品の肝心」ともいう。御書ではこれと同様の意味を持つ言葉として「肝要」「惣要」「最要」「要法」「要津」「秘要」等が用いられている。この寿量文底の妙法を末法流布の法体として開顕されたのが「三大秘法」なのである。故に本抄文段で日寛上人は、諸御書に仰せの「寿量の文底」「寿量の肝心」「三箇の秘法」等とは、すべて「久遠名字の妙法」のことであると述べられたうえで、「これ則ち正中の正、妙中の妙、要中の要なり。故に当流の意は、久遠名字の妙法を肝要と名づくるなり」と結論されている。
法華経の広・略・要
 以上拝してきた日寛上人の御教示により、法華経の「広略要」について二通の捉え方があることが分かる。うなわち、一往、法華経の題号を「要」とする場合の「広略要」と、再往久遠名字の妙法を「要」とする場合の「広略要」である。前者は「迹中所説」という同一次元での捉え方であるのに対して、後者は一重深く「久遠名字の妙法」を「要」として、「迹中所説」を「広」「略」に配するのである。
 このように「要」については二通りの捉え方があるのであるが、それぞれの場合の「広」「略」「要」が具体的にどう定義するかは、あまり厳密に示されていない。末法の衆生にとって大切なことは、「要」が何かという点であり、むしろ「要」が定められれば「広」「略」に相当するものは、所対に応じて種々に変わってよいからではないだろうか。なぜならば、「要」は「一切を総括する」ものであるから、「広」の範囲は一切に広がりうるのであり、また「広」の広がりとともに「略」に相当するものが変わるからである。例えば、聖愚問答抄では、諸仏の得道に約して「要」の意義を述べられ、そのなかで次のように「広」「略」にあたるものを示唆されている。
 「所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり、檀王の宝位を退き竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり、夫れ以れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ修行の時刻をば一念随喜と定めたり、凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり」(0497-09)
 この仰せでは、「妙法蓮華経の五字」の「要」に対して「八万法蔵」が「広」にあたるとされている。この場合、明確には定められていないが法華経八巻が「略」にあたるとも拝される。また、観心本尊抄では、五重三段のうち文底下種三段が明かされるにあたり、次のように仰せである。
 「過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経経は皆寿量の序分なり」(0249-05)
 この御教示に基づけば、釈尊の一代聖教だけでなく、大通智勝仏の法華経も、また三世十方の諸仏が説いた微塵の経々もすべて、寿量文底の妙法の「要」に対する「広」とすることができるであろう。日寛上人も本抄文段において「当に知るべし、三世十方の微塵の経々、無量の功徳は、皆悉くこの要法に帰するなり」と仰せである。三世十方の諸仏は妙法蓮華経の五字の要法によって得道したのであるから、その説く所はことごとく妙法蓮華経の五字に帰する故に「要」に対する「広」とすることができるのである。そして、この三世十方の微塵の経々までを「広」とすれば、それとの所対で法華経二十八品は「略」とされてしかるべきであろう。例えば、寺泊御書では「一部八巻・二十八品・天竺の御経は一由旬に布くと承わる定めて数品有る可し、今漢土日本の二十八品は略の中の要なり」(0954-02)と仰せである。
 他方、同じ法華経二十八品を「広」とされる場合もある。例えば、次の法華経題目抄の仰せでは、修行に約して明確に、「広」=法華経二十八品、「略」=方便品・寿量品、「要」=題目、と配立されている。
 「一部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、但一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり」(0942-07)
 この場合は、受持・読誦等の修行に約しての仰せであるから、一切経や微塵の経々を対象とされていないのであり、そのときは法華経二十八品が「広」に配されるのである。そして方便品・寿量品の要品が「略」とされている。そして、これらの広略の法はことごとく、法華経の寿量文底の久遠名字の妙法蓮華経に帰入するのである。
 日蓮大聖人が本抄において「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」と仰せられたのは、末法衆生の成仏のために実践的な意味で末法流布の法体を選び取られるのであるから、本抄の場合の「広」「略」「要」をあえて立て分ければ、上の法華経題目抄における修行上の配立に相当するものではないかと拝される。つまり、選び捨てるべき「広」「略」とは法華経二十八品の文義であり、それによって、寿量文底の妙法即三大秘法を末法流布の法体として選び取られていると拝される。
「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」
「扶桑沙門」について
日蓮大聖人が用いられた撰号

 本抄では題号の次下に「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」と記されているが、この仰せについてまず「扶桑沙門」の意義を考察していきたい。御書を認められた大聖人の御立場を示す表記は諸御書に拝されるのであるが、それらを列記すれば以下の通りである。
    ①弘長 2年(1262)教機時国抄 「本朝沙門日蓮之を註す」(0438)
    ②弘長 2年(1262)顕謗法抄  「本朝沙門 日蓮撰」(0443)
    ③文永 3年(1266)法華経題目抄「根本大師門人 日蓮 撰」(0940)
    ④文永 3年(1272)祈?抄   「本朝沙門 日蓮撰」(1344)
    ⑤文永10年(1273)観心本尊抄 「本朝沙門日蓮撰」(0238)
    ⑥文永10年(1273)顕仏未来記 「沙門 日蓮 之を勘う」(0505)・「桑門日蓮之を記す」(0509)
    ⑦文永11年(1274)法華取要抄 「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」(0331)
    ⑧建治元年(1275)撰時抄   「釈子 日蓮 述ぶ」(0256)
    ⑨弘安 5年(1282)法華証明抄「法華経の行者 日蓮花押」(1586)
 これらのうち、③の法華経題目抄における「根本大師」とは伝教大師を指し、大聖人は発迹顕本以前の御立場からこの「門人」とされたのである。これは、釈尊―天台―伝教という法華経流布の歴史に沿った系譜に基づいて、御自身の位置を示されたものと拝せられる。
 これに対比されるのが⑧撰時抄の「釈子」である。これは、発迹顕本以後に強調される釈尊―上行菩薩の系譜、すなわち御自身の振る舞いが釈尊からの直接的な付嘱に基づくことを明かされているのであり、末法御本仏としての御内証を外用の辺において示されたものと拝される。
 また、病床にあった南条時光の激励の御消息である⑨法華証明証の「法華経の行者 日蓮」との記述は、同抄が、時光を悩ます病魔を打ちくだくために認められた渾身の一書であることを示している。これら3編以外の御書においては「沙門」という言葉が共通して用いられている。「沙門」とは出家者あるいは仏道修行の意であり、末法において真実の仏法を行じている者は、日蓮大聖人御一人であることを証明されていると拝されるのである。なお顕仏未来記抄末の「桑門」も同義である。
 その中でも特に、大聖人が御自身の立場を示すために多く用いられているのが「本朝沙門」という表現である。「本朝」とは、外国の朝廷に対する自国の朝廷という意であり、転じて「我が国」つまり「日本国」を意味する。したがって「本朝沙門」という表現には、“国における唯一の沙門”との意が込められていると拝されるのである。
 この表現を最初に用いられた①教機時国抄、②顕謗法抄の両抄は、伊豆流罪に際して初めて五網を明かし、末法において正しく仏法を弘めるための基準を示された御書である。特に前者では、この五義を知って身命を惜しまずに法華経を弘通する御自身こそが「日本国の国師」であることを宣言されている。また、祈禱抄は、法華経による祈りのみが正しい祈りであることを明かし、当時、蒙古襲来の国難に備えて行われていた諸宗の祈禱を破折された御書である。
 更に⑤観心本尊抄では、末代凡夫の真実の「観心」の在り方と、そのために末法において初めて弘められるべき「本尊」が明かされている。これらの御書はいずれも、末法の日本国において真実の仏法を行じているのは大聖人御一人である、との御立場から、重要法門について撰出されていると拝される。
 このように観心本尊章までは「本朝沙門」という表現が用いられてきたのに、法華取要抄ではなぜ「扶桑沙門」と云い換えられたのであろうか。「扶桑」とは単に「本朝」の言い換えに過ぎないのであろうか。それとも「本朝」とは異なる独自の意義を込められた言葉なのであろうか。この点について更に掘り下げて考察してみたい。
「扶桑」の意義
 「扶桑」とは、古くから用いられている日本の別名である。日寛上人の取要抄分段では日本の国号について14の異名が挙げられている。これを一覧すれば以下の通りである。
   ①「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」
   ②「豊秋津島(とよあきつしま)」
   ③「浦安国(うらやすのくに)」
   ④「細戈千足国(ほそほこちたるくに)」
   ⑤「磯輪上秀真国(しわがみほつまのくに)」
   ⑥「玉垣内国(たまがきうちくに)」
   ⑦「倭国(わこく)」
   ⑧「倭面国(わめんこく)」
   ⑨「倭人国(わじんこく)」
   ⑩「耶馬台国(やばだいこく)」
   ⑪「姫氏国(きしこく)」
   ⑫「扶桑国(ふそうこく)」
   ⑬「君子国(くんしこく)」
   ⑭「日本国(にほんこく)」
 この他にも一部代表的なものを挙げれば
   ⑮「日域(にちいき)」
   ⑯「八島国(やしまのくに)」
   ⑰「神国(かみくに)」
   ⑱「皇国(すめらみくに)」
 などがあり、大聖人はこの他、異名ではないが、
   ⑲「本朝」
 を多用されている。
 御書全集のなかでの使用回数は次のようである。
   ①本朝     27回
   ②扶桑     17回
   ③日域     14回
   ④秋津島(州)  5回
   ⑤倭国(和国)  3回
   ⑥野馬台     2回
   ⑦水穂      2回
 また、次の御文では、特に日本の異名に言及されている。
 「日本国と申すは十の名あり・扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり」(1072-12)
 「日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云云」(1516-01)
 「野馬台」や「水穂」は、単に列記されているだけに過ぎないが、「扶桑」の場合は「日本」「本朝」に次いで多いのである。このように「扶桑」が多く使用されることには理由があると拝される。
 いま、その理由を拝察するにあたり注目されることは、「扶桑」という言葉には、東方より昇って世界を普く照らす太陽のイメージが結びついているという点である。
 「扶桑」とは「扶木」ともいい、“大きく広がった桑の木”の意がある。中国の古書によると、中国では古くからの伝説として、東方の海上の日が昇る所には扶桑が生い茂っているとされていたようである。そのため日本では、日出る所の意である「日本」が国号の表記として一般化してからは、主として文学的な表現として「扶桑」の名が多く用いられてきたのである。
 そこで御書を拝すると、大聖人はまさに、末法に弘まるべき大法が日出ずるがごとく出現する国土の名として「扶桑」の名を用いられており、しかもその際には必ず、その大法が東から西へ、そして閻浮提へと広がっていくことを示唆されているのである。すなわち次のごとく仰せである。
 「天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり」(1165-02)
 「彼の大集経の文を以て此の法華経の文を惟うに後五百歳中広宣流布・於閻浮提の鳳詔・豈扶桑国に非ずや」(1037-10)
 「天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0588-18)
 これらの御文に明らかなように、「扶桑」の名には、末法の大法の出現と、その一閻浮提への広宣流布の意義が託されているのである。
 このことは本抄の「扶桑沙門」の意義を拝するうえで、重要な意味を持っている。なぜならば、本抄は、末法流布の法体が三大秘法であることを初めて明かされた御書だからである。特に、本抄の結文には「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」と仰せであり、本抄冒頭の「扶桑沙門日蓮」との仰せは、まさにこの結文と符合していると拝察できる。
 すなわち、末法に広宣流布すべき三大秘法を建立する「上行等の聖人」とは日蓮大聖人にならないことを表明されているのが「扶桑沙門日蓮」の仰せと考えられるのである。
「日蓮之を述ぶ」について
諸御書における表記

 重要法門を認められた御書には「日蓮撰」「日蓮之を勧う」などのように、題号の下や抄末における「日蓮」の御署名の直後に「記」「註」「撰」「勧」「述」などと記されているものが多い。これらの字の意味の相違を、それを用いられている主な御書名と共に列記してみると次のようになる。
   「記」  覚える、かきとめる、しるす      「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄」「十八円満抄」
   「註」  ときあかす、解説をつける       「教機時国抄」「当世念仏無間地獄抄」
   「撰」  よりわける、そろえ集めて文章をつくる 「観心本尊抄」「立正観抄」「法華経題目抄」「一代聖教大意」「三世諸仏総勘文抄教相配立」
   「勧」  よく考えて定める           「顕仏未来記」「当体義抄」
   「述」  のべ伝える、言い表す         「法華取要抄」「撰時抄」
 これらのうち「撰」の文字が最も多く用いられ、他は少ない。上に見る通り、文字によりその意味に多少のニュアンスの相違があるが、いずれにしても、日蓮大聖人が御自身の御考察を明らかにするために自ら認められた書であることを示すものと拝される。
 本抄のように「述」の字を配されているものは、他には撰時抄のみであるが、日寛上人は本抄文段において、この「述」のを御教示されているので、それを以下に拝察してみたい。
「述ぶ」の意義=「伝える」
 文段には「『之を述ぶ』とは、『述』とは伝なり」とある。すなわち「述」とは「伝える」という意味であるとされている。そして、論語や礼記の文を引用されて「述」の意味を説明されている。礼記の文は論語の文を踏まえたものなので、ここでは論語の引用文を中心に日寛上人の御教示を拝してみたい。すなわち論語の述而篇には「子曰く、述べて作らず、信じて古を好む」とある。これは儒教の始祖である孔子が、自分の思想について述べたものである。すなわち自分は勝手に新しい思想を創っているのではなく尭舜をはじめとする古の先王の道を正しく人々に延べ伝えようとしているだけだというのである。
 日寛上人はさらに、この孔子の言葉に対する次のような朱子の注釈を引用されている。すなわち、「述は旧を伝うるのみ。作は則ち創始なり、故に作は聖人に非ずんば能わず。而れども述は則ち賢者も及ぶべし、孔子は皆先王の古を伝う、末だ嘗て作る所有らざるなり」とある。ここでは「作」=「伝える」の意義を示している。重要なのはこれに続く次の引用文であろう。
 「其の事は述と雖も、而も功は則ち作に倍せり、知らずんばある可からず」
 古の道を現在の人々に伝えるといっても、そのためには、古い道の本質を知悉するとともに、更にそれに現実的な意義を与えて時代の中に生かしていくことができなければ、到底、なしうることではない。その意味で朱子は、「功」においては「述」の方が「作」よりも勝れているとしているのであろう。
 日寛上人はこれらの引用の後に「蓮祖もまた爾なり。皆久遠名字の妙法、搭中付嘱の要法を伝う。豈先王の古を伝うるに非ずや。故に「『日蓮之を述ぶ』というなり」とおおせられている。
 以上の本抄文段の御教示から「日蓮之を述ぶ」の意義として次の三点を拝察しうるであろう。
 ①「日蓮之を述ぶ」とは、法華経において教主釈尊から上行菩薩に付嘱されたところの要法を、日蓮大聖人が上行菩薩の再誕として末法の衆生に伝える、ということを意味する。
 ②その伝えられる要法とは久遠名字の妙法でり、したがって最も根源的な成仏の法があるから、「創作」するのではなくて「伝える」のである。
 ③この要法を伝えて未来の衆生を救済していくという意味で、その功は、単に創作することよりも勝れる。
 すなわち、日蓮大聖人は最も根源的な法体である久遠名字の妙法を選び取り、末法の一切衆生を救済するために、これを述べ流布していくのであるとの深意が「日蓮之を述ぶ」との仰せに込められていると拝せよう。

         本抄の構成と展開top

本抄の構成と要旨 
本抄の段分け
 
 日寛上人の取要抄文段によれば本抄は三つの大段に分けることができる。 さらに、本抄は細かく15段に分けることができえる。取要抄文段に基づいて、その分段及び各段の表題を以下に掲げる。 なお、ここでの表題は、表現については、文段そのままでないものがあるが、趣旨においては一致するものである。
 大段第一 一代諸経の大意を明かす            冒頭~0333:15
   第一段 一代聖教の勝劣を明かす           冒頭~0331:02
   第二段 諸宗の謬解を示す            0331:02~0331:10
   第三段 法華経最第一の正判を明かす       0331:10~0332:10
   第四段 三五の二法を標す            0332:10~0332:11
   第五段 教主の因位に寄せて勝劣を判ず      0332:11~0333:02
   第六段 教主の果位に寄せて勝劣を判ず      0333:02~0333:15
 大段第二 今教所被の時期を明かす          0333:16~0336:01
   第七段 迹門の末法正意を明かす         0333:16~0334:03
   第八段 本門の二意を略示する          0334:03~0334:06
   第九段 略開近顕遠による在世衆生の得脱を明かす 0334:06~0334:14
   第十段 広開近顕遠の末法正意を明かす      0334:15~0335:10
   第11段 助証・助顕等の末法正意を明かす     0335:11~0336:01
 大段第三 末法流布の大法を明かす          0336:02~終わり
   第12段 三大秘法を明はす            0336:02~0336:06
   第13段 ただ要を取るの所以を明かす       0336:06~0336:11
   第14段 広宣流布の先相を明かす         0336:12~0337:18
   第15段 末法広宣流布を結勧す          0337:18~終わり
各段の要旨
 大段第一 教法・教主の観点から釈尊の一代諸経を判じ、法華経が最高であることを示されている。
 第一段 インドから中国・日本へと渡来した経典・論書の勝劣・浅深・難易・先後については、人師・宗派により様々である。
 第二段 各宗派が自宗の依教を仏説中の第一とし、また、それを唱えた諸宗の元祖達は上下万人より崇められている。
 第三段 いま万人の謗りを顧みず諸宗の説の是非を判じてみる。
 諸宗の人師論師の邪義を捨てて本経本論によれば、釈尊一代五十年の諸経の中で諸経の勝劣を判ずる最も勝れた文は、法華経法師品第十の「已今当」の三字である。なぜならば、「已今当」の文こそ、すべての経を対象として法華経第一と判じた文だからである。これに対して、諸経にも自経を第一とする相似の文があり、これによって諸宗の説が立てられてきた。しかしながら、それらは一切経に勝れることを述べた文ではない。
 しかも、「已今当」の文は釈尊一仏のみの判定ではなく、多宝仏や十方分身の証明がある。更に諸経の文は二乗や迹化の菩薩に向けて説かれたものでは全くない。
 第四段 法華経と諸経を比較すると、20の点で法華経が優れている。そのうちの最要は三千塵点劫と五百塵点劫の法門である。
 第五段 法華経化城喩品第七では、三千塵点劫という長遠の過去における釈尊の因位を説き、娑婆世界の一切衆生に有縁の菩薩は、三千塵点劫の過去における釈尊以外にないことを明かす。これに対して諸経では、一応は釈尊の長遠の因位の修行の期間を種々に説くが、これらはいずれも釈尊の娑婆世界の一切衆生との縁を明かすものではない。
 第六段 仏の果位について論ずれば、法華経如来寿量品第十六では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したと説かれる。これにより、諸経で説かれる一切の仏が教主釈尊の所従であることが明らかになるとともに、娑婆世界の一切衆生が五百塵点劫の久遠以来、教主釈尊にのみ有縁であることが明かされたのである。
 大段第二 法華経は本門も迹門も滅後末法のため、なかんずく日蓮大聖人のために説かれたことを明かされている。
 第七段 法華経は誰のために説かれたのか。
 迹門正宗分八品については二意がある。方便品の第二から人記品第九へと順を追ってこれを読めば、釈尊在世の菩薩・二乗・凡夫のためである。しかし流通分より逆次にこれを読めば、釈尊滅後衆生のあめに説かれたのである。滅後のなかでも正法・像法の二時は傍意となり、末法が正意となる。末法のなかでも日蓮こそ正意である。
 このように、末法を正意とする文証は「況滅度後」の文であり、日蓮を正意とする文証は勧持品二十行の偈である。
 第八段 本門には二つの意義がある。第一には、従地湧出品第十五の略開近顕遠は、爾前・迹門によって化導されてきた在世の衆生を得脱させるために説かれたものである。第二に、一品二半の広開近顕遠は、一向に釈尊滅後の為に説かれたものである。
 第九段 湧出品の略開近顕遠の意義はなにか。
 迹化の大菩薩や天人等は爾前では釈尊の弟子ですらなかったが、法華経迹門の末聞の法を聞いて釈尊の弟子となった。また舎利弗等の二乗は釈尊初成道以来の弟子であったが、法華経で初めて実教を授与された。これらの衆生がすべて略開近顕遠に至って妙覚の位に入ったのである。
 第十段 広開近顕遠の寿量品は初めから終わりまで滅後衆生のために説かれたのであり、なかんずく、滅後の中では末法今時の日蓮等のために説かれたのである。
 その証文には、湧出品の略開近顕遠・動執生疑の個所にある文、寿量品の「是好良薬今留在此」をはじめ、分別功徳品第十七、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三、涅槃経などの文がある。これらの経文にある衆生の第一の重病とは法華経誹謗であり、それを治す第一の良薬こそ南無妙法蓮華経なのである。この大法を末法に広宣流布しなければ、釈尊の言葉は大虚妄となり、多宝仏・十方分身仏の証明は無為に帰する。
 第11段 多宝如来の証明や十方分身の広長舌相、地涌の菩薩の湧出は、「況滅度後」「令法久住」等の経文によれば、皆、末法の我らのためなのである。だから、天台大師や伝教大師は自らの時代には流布しないと述べ、末法流布のときを願楽しているではないか。
 大段第三 末法に広宣流布する大法は法華経の肝要たる三大秘法であることを明示されている。
 第12段 釈尊滅後、竜樹・天親・天台・伝教が弘めないで残した秘法とは、本門の本尊と戒壇と題目、すなわち三大秘法である。
 三大秘法が正法・像法時代に弘通されなかったのは、弘通すれば爾前・迹門の法門が一時に滅尽するからである。しかし、末法においては、爾前・迹門の法は教のみで得道がなくなっているうえに、一閻浮提の衆生は皆既に謗法に陥っている。その逆縁の衆生を救うためには、妙法蓮華経の五字に限るのである。
 第13段 どうして広略を捨てて要を取るのか。
 玄奘は略を捨てて広を好み、羅什は広を捨てて略を好んだように、取捨の例は過去にもある。日蓮は広略を捨てて肝要を好む故に、上行菩薩が釈尊から伝えられた要法たる妙法蓮華経の五字を取るのである。
 第14段 この大法が広まる時には、必ず瑞相があることは経釈に照らして間違いない。その瑞相とは、正嘉の大地震や文永の大彗星をはじめとして、現在に至るまでの様々な天変地夭である。今年も佐渡の国に二の日・三の日が現れたと聞く、仁王経・金光明経・大集経・薬師経などに説かれている様々な災難は皆既に現れているのである。
 これらの災難が起こるのは、法を滅する悪比丘を崇め、聖人を失わせんとする世だからである。また、正像二千年の悪王・悪比丘は、外道・道士等によって仏法を滅失しようとするものであったが、当世は仏法をもって仏法を破り、人々の心の内面から正法を失わせようというのであるから、比べものにならないほど罪も重く、災難も大きいのである。
 第15段 わが門弟は、このことをしっかりと見定めて法華経を信じていきなさい。国土が乱れた後に上行菩薩等の聖人が出現して三大秘法を建立し、全世界に妙法蓮華経が広宣流布していくことは疑いないことである。
本抄の展開
 本節では、前節の段分を踏まえ、更に内容的に立ち入って本抄の展開を拝察してみたい。

三つの大段の関連

 本抄の三つの大段のうち大段第一では、教法と教主の両面において、法華経が最勝であることを示し、大段第二では、法華経は本迹二門共に末法のために説かれたことが明らかにされている。
 したがって大段第一から大段第二への展開においては「末法では、釈尊一代諸経の中で最勝の法華経が弘通されるべきである」ということが示されていることになる。これは、前章で述べた本抄題号のなかの「法華」の意義、すなわち「爾前を捨てて法華を取る」に相当するといえよう。
 ここで留意すべきことは、大段第二においては、法華経が「末法」のために説かれたことを明かすとともに、「末法の中には日蓮を以て正と為すなり」「滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」と仰せのように、末法の中でもなかんずく日蓮大聖人のために説かれたとされている点であろう。
 つまり、大段第二では、法華経が末法の衆生のために説かれたことを明かすだけれなく、その末法の衆生のために法華経を弘める人が日蓮大聖人であること、すなわち能弘の人が明かされているのである。
 また大段第二では、能弘の人が示されるに伴い所弘の法についても大段第一よりも更に立ち入って論じられている。すなわち「寿量品の一品二半」で説かれた「広開近顕遠」の意義を明かされ、日寛上人の取要抄文段の御教示にとれば、そこに「内証の寿量品」すなわち寿量文底の妙法が示されているのである。
 これを受けて大段第三では、末法に流布すべき最勝の法とは、法華経の肝要たる寿量文底の妙法であり、「三大秘法」であることが明かされている。これは、本抄題号のなかの「取要」の意義、すなわち「広略を捨てて肝要を取る」にあたるのである。
 そして、大段第三では更に、「三大秘法」が末法の一閻浮提に広宣流布することは間違いないとの御確信が示されており、ここに日蓮大聖人こそが末法・一閻浮提の教主であられることを示唆されている。
 以上のことをまとめて結論的に言えば、大段第一から大段第二への展開においては、一往、能説の教主は「久遠実成の釈尊」所説の経法は「法華経」所被の時機は「末法の衆生、特に日蓮大聖人」と明かされている。しかし、大段第二から大段第三の展開においては、再往、能説の教主は「末法御本仏・日蓮大聖人」所説の経法は「三大秘法の南無妙法蓮華経」、所被の時機は「末法万年の順逆の衆生」と明かされていると拝されるのである。
 本節以下の項においては、この点について各大段の展開を追いながら確認していきたい。
大段第一の展開
法華経最第一

 大段第一の前半部は、法華経以外の諸経を第一とする諸宗の教判を破折しつつ、法華経法師品第十の「已今当」の三字こそが、釈尊の立てられたところの真の教判であることが述べられている。「已今当」とは、詳しく法師品の次の経文で「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も難信難解なり」
 この文は、その直前において釈尊の滅後に法華経を受持する者に功徳があるのは「法華第一」の所以は釈尊の一代諸経の中で法華経が最も「難信難解」だからであるとされている。
 天台大師の法華文句巻八上では「已に説き」とは爾前経、「今説き」とは法華経と同一会座の無量義経、「当に説かん」とは法華経のあとに説かれる涅槃経であるとしたうえで、これらの諸経よりも法華経の方が「難信難解」である理由を次のように述べている。
 「爾前の諸経は皆方便を帯しているので信を取りやすい。無量義経は一法から開かれる無量義経について説くが、無量義が帰する一法を明かさないので、これまた信じ易い。法華経は法を論ずれば一切の差別が融通する一法を説き、人を論ずれば師弟共に久遠であることを明かし、悉く以前の経々と反するので難信難解である。涅槃経はこの法華経のあとに説かれたので信じ易い」
 そして、一切法が帰する「一法」について、法師品では「已今当」の文の直後に「此の経は是れ、諸仏の秘要の蔵なり」と説いている。これらのことから法華経が最も「難信難解」であるということは、とりもなおさず法華経が「最勝」の法であることを意味する。そして法師品では、この故に、法華経を滅後においてよく受持する人に難が起こることを「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」と説くのである。つまり、法華経が最勝であるが故に況滅度後の難が起こるのであるが、また、最勝の法であるが故に受持する人に功徳があるのである。
 したがって「已今当」の文は、「①釈尊がみずから、②一代諸経中で法華経が最第一であることを明かし、③それを以て滅後の法華経受持を勧めている文」と位置付けることができるだろう。つまりこの文は、「釈尊が滅後に向けて自ら立てた教判」なのである。
 しかるに諸宗の元祖は、諸経において自経を第一とする類似の文があることに迷い、それを根拠として宗を立てたのである。しかしながら、自経を第一とする諸経の文は「全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」と仰せのように、あるいは外道に対し、あるいは小乗教に対し、あるいは一部の大乗経典に対して相対的な「第一」を述べたものであり、一切経に対しての真の「第一」を述べたものではないと破折されている。
 以上のように、「已今当」の文により「法華経第一」が釈尊自身の立てた最も正しい教判であることを明かされ、これに加えて本抄第三段では、諸経で立てる教法の勝劣は釈尊一仏の所説であるのに対して、法華経で立てる法華経第一には、多宝如来と十方分身の諸仏の証明があると仰せである。これは、法華経は一切の仏の所説に対して第一であることを示すものといえよう。
更に、法華経と諸経の対告衆の違いに触れられて、法華経は地涌の菩薩の上首・上行菩薩に対して説かれたとされている。
 これは、末法弘通の付嘱を受けたのは上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩であることから、「已今当」による法華経最第一の教判は末法のためのものであり、諸経の教判は末法においては用いるに足らないことを示されていると拝される。
法華経の教主釈尊
 次に、大段第一の後半部では、「三五の二法」を挙げて論を進められ、法華経の教主・釈尊と娑婆世界の衆生との関係について述べられている。
 第五段では「三五の二法」のうちの「三」、すなわち迹門の化城喩品第七で説かれる「三千塵点劫」を取り上げ、法華経で説かれる釈尊の因位の意義を、諸経で説かれる釈尊及び諸仏の因位と比較されている。
 「三千塵点劫」とは、人知をもって計ることのできない長遠の過去に、大通智勝仏が出現して法華経を説いた時をいう。この時に釈尊は、菩薩として大通智勝仏の説いた法華経を弘め、その結縁の衆生が、いま法華経の会座で釈尊の化導を受けている娑婆世界の衆生であるとする。このように三千塵点劫以来の化導の始終を述べて釈尊と衆生との因縁を明かすことにより、その間は種々の教法による化導はすべて法華経のための方便でるとして、それまで説かれてきた迹門・開三顕一の趣旨を更に徹底したところに化城喩品の意義がある。
 天台大師はこれを法華経の三種の教相の第二として挙げ、「如来施化の意」、すなわち釈尊が種々の教法を説いた謂れが示されている点で、他経にない教相であるとしている。
 本抄では、この三千塵点劫の過去における釈尊の因位と比べて諸経で説かれる仏の因位が劣ることを、次の二つの点において示されている。
 ①諸経でも釈尊の過去因位の修行を種々に説くが、それらはいずれも娑婆世界の衆生との因縁を明かすものではない。
 ②諸経で説かれる釈尊以外の諸仏の因位も、長遠の過去から娑婆世界の衆生との因縁を明かすものではない。
 つまり法華経の教主釈尊は、「三千塵点劫」という長遠の過去における菩薩のときから娑婆世界の一切衆生と有縁であると明かされている故に、因位という観点からみても諸経における釈尊並びに他の諸仏に勝れているのである。
 本抄で、このように仏の因位を取り上げて法華経と諸経の勝劣を明かされているのは、諸宗のうちでも特に阿弥陀仏の菩薩時代の本願を強調する念仏宗との対比であることは、第五段の仰せに明らかであるが、詳しくは後に譲る。
 次に第六段では「三五の二法」のうち、もう一つの「五百塵点劫」を取り上げ、法華経本門寿量品第十六で説かれる教主釈尊の果位が、他経に説かれる釈尊並びに諸仏の果位よりもはるかに勝れることを示されている。
 寿量品の「五百塵点劫」とは、弥勒等の大菩薩も思惟しえない無限の過去に釈尊が成道したとするものであり、釈尊はインドで始めて正覚を成じたとする爾前・迹門を根本から打ち破った法門である。
 本抄では、この久遠実成の意義について、第一に、久遠実成の教主釈尊と爾前・迹門の諸仏との関係に約し、第二に、久遠実成の釈尊と娑婆世界の衆生の関係に約して明かされている。
 このうち第一の点については、爾前経の諸仏と久遠実成の教主釈尊との関係に関して「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従なり、天月の万水に浮ぶ是なり」と仰せである。すなわち、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の爾前経所説の諸仏は、すべて久遠実成の釈尊の所従であることが明らかになったとされている。これは、久遠実成の釈尊が本仏であり、諸仏はその垂迹であることが明白となったということである。
 次に、法華経迹門の多宝如来との関係に触れられ、華厳経の毘廬遮那仏や大日経・金剛頂経の大日如来は多宝如来の左右の脇士であるとされ、「此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」と述べられている。すなわち、主従の関係でいえば、大日如来等は、二重に劣ることになるのである。かくのごとく、久遠実成の釈尊とは、爾前・迹門の一切の仏が帰一する根源の仏である。
 第二に、久遠実成の釈尊と娑婆世界の衆生との関係については、「此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり」と述べられている。先には、娑婆世界の衆生に有縁の「菩薩」は三千塵点劫の過去の釈尊のみであることが示されたが、ここでは娑婆世界の衆生に有縁の「仏」は、五百塵点劫の久遠に成道した本門の教主釈尊のみであることが明かされているのである。
 この御教示は、釈尊を忘れて大日如来や阿弥陀仏等の他仏を崇拝している真言宗や念仏宗の人々を破折する意義があるが、それだけではなく、同じ釈尊でも「小乗の釈尊」「華厳経の釈尊」「法華経迹門の釈尊」等、つまり始成正覚の釈尊にとらわれて、最も根源的な仏である本門の教主釈尊を知らない一切の諸宗を総じて破折されているのである。
大段第一まとめ
 以上のように大段第一では、
 ①まず「已今当」の文をもって「法華最第一」こそ釈尊自身及び一切の仏の立てた正判であることを示し、
 ②次に「三五の二法」を論じて、法華経の教主釈尊が因位・果位共に一切の仏に勝れたることを明かされている。
 また、このことを通して、
 釈尊の一代諸経の中で、娑婆世界の一切衆生に有縁の仏は法華経本門の久遠実成の教主釈尊のみであることが示されている。
 これにより、娑婆世界の衆生は、釈尊一代の聖教の中から専ら法華経を選び取って信受すべきであることが示唆されていると拝されるのである。
 以上のことから、大段第一の内容を要約して表示すれば、次のようになるであろう。
    能説の教主  久遠実成の釈尊
    所説の教法  法華経
    所被の衆生  娑婆世界の一切衆生
 大段第一は諸宗破折を根本とされており、したがって、釈尊の一代聖教の範囲内における諸経の勝劣を明かすために一往の義なのである。これを受けた大段第二以下では、問答形式で論が進められ、それにより日蓮大聖人独自の御立場からの再往の実義が明かされていくのである。
大段第二の展開
冒頭の問い

 大段第二では、冒頭に「法華経は誰人の為に之を説くや」との問いを設けられている。これは、大段第二の全体のテーマを表しており、この後、法華経の①迹門、②本門、③助証・助顕の三点から、まさに末法の我等衆生のためであることが明かされていくのである。
 また、この問い以後は、最後に末法広宣流布を結勧する第十五段を除いて、すべて問答形式で論を展開されている。このように大段第二に至って問答形式を取られたのは、大段第一では釈尊の一代聖教の中での法華経の最勝が示されたのに対して、大段第二以降ではその法華経の意義について、日蓮大聖人御自身の立場から明らかにされていくためであると拝される。
迹門の末法正意
 さて、冒頭の問いに対して大聖人はまず、法華経迹門の正宗分が誰のために説かれたのか、という点について論じられている。すなわち迹門正宗分の方便品第二から人記品第九までを、その次第に従って読めば在世の衆生のために説かれていることになるが、流通分を安楽行品第十四から勧持品第十三・提婆達多品第十二・宝搭品第十一、法師品第十と「逆次」に読めば滅後の衆生が正意であって、在世の衆生は傍意であることが分かる、とされている。
 更にその滅後についても、正像二千年は傍意で、末法が正意であり、末法のなかでも日蓮大聖人こそが正意であると明かされ、法華経迹門の正宗分も、結局のところ日蓮大聖人のために説かれたとされているのである。
 大聖人がここで迹門の「逆次」の読み方をしめされていることの意義は、一つには迹門流通分を強調することにあり、更に深くは本門の側からさかのぼって迹門を読む立場、つまり本門の義によって迹門を読むべきことを示されているものと拝される。
 このうち迹門流通分の強調は、大聖人の法華経身読と関係する。つまり、三類の強敵が説かれる勧持品をはじめとして、「猶多怨嫉況滅度後」の文が出ている法師品、六難九易・令法久住を説く宝搭品、悪人成仏・女人成仏を説く提婆達多品、「一切世間多怨難信」の文が出ている安楽行品は、すべて迹門流通分に属するのである。これらの文は、一往は迹門正宗分に説かれた開三顕一の正法の流通を勧めているのであるが、その再往の辺は、すべて末法の法華経弘通の様相を説いているのである。
 この意味で、流通分から逆次に読めば、迹門正宗分も末法の衆生のために説かれたものであり、末法のなかでも、流通分のこれらの経文を身読した日蓮大聖人のために説かれたといえるのである。したがって、この段の御教示は、例えば開目抄の次の仰せに相当するといえよう。「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、『悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲』又云く『白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し』此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-11)
 更には、本門に至って、上行菩薩の本化地涌の菩薩が末法の法華経弘通の付嘱を受けるのであるが、このことから立ち返ってみれば、迹門流通分の滅後弘通の様相は、すべて上行菩薩の振る舞いを示すものとなる。したがって迹門を「逆次」に読むということは、滅後弘通のために要法の付嘱を受けた上行菩薩の立場から読むということにほかあらないのである。
 これは、法華経を身読された末法御本仏の御境地にして初めて明かされた法門といえる。
本門の末法正意
 本抄第八段~第十段では、法華経の「本門」について日蓮大聖人の御立場から、その意義を明らかにされている。それは、本門正宗分の一品二半の配立についての問題であり、同じことであるが広開近顕遠の意義付けの問題である。
 天台大師によれば、従地湧出品第十五の前半の地涌の出現の有り様を描いた個所を本門の“序分”とし、同品で釈尊が「略開近顕遠」を説き会座の衆生が「動執生疑」を起こす後半の半品と、「広開近顕遠が説かれる如来寿量品第十六の一品および分別功徳品第十七の前半までを本門の“正宗分”として、これを「一品二半」と呼ぶのである。分別功徳品の後半以降は本門の“流通分”になることはいうまでもない。
 この一品二半について本抄第八段では、天台大師の所立とは異なる日蓮大聖人独自の配立がなされている。すなわち天台大師所立の場合、湧出品の「略開近顕遠」一品二半は含まれるが、大聖人の配立にいてはこれを含めず、「動執生疑」以降を一品二半とされるのである。そして「略開近顕遠」は、これまで化導されてきた在世の衆生の得脱のための説法で、「動執生疑」以降の一品二半は、もっぱら滅後の衆生のための説法とされている。
 ここで「略開近顕遠」とは、涌出品において地より出現した無数の地涌の菩薩を、釈尊はいつ、どこで化導してきたのかという弥勒等の質問に対して、「我久遠より来、是れ等の衆を教化せり」と答えたことで、これは、久遠の成道を略して明らかにしたおとになる。これにより会座の衆生は、釈尊が成道してから四十余年であるとの始成正覚への執着が揺らぎながらも、今の説は信じ難いとの疑いを起したのであり、このことを「動執生疑」と名付けるのである。そして、この疑いに答えて、寿量品において釈尊が明確に始成正覚を打ち破り、久遠の成道について詳しく説いたことを「広開近顕遠」という。
 天台大師は、寿量品の「広開近顕遠」の説法によって在世の衆生が「断疑生信」し、得脱したとするのであるが、大聖人は、在世の衆生は既に「略開近顕遠」のときに得脱しえおり、「広開近顕遠」はもっぱら滅後の衆生のための説法であるとされている。
 このように大聖人が天台大師とは異なる解釈を示されているのは、寿量品の「広開近顕遠」ついて天台大師がいまだ明かしていない深意を明かされるためであると拝される。すなわち、日寛上人の取要抄文段によれば、天台大師は久遠における釈尊の本果成道の本地を顕した「文上の寿量品」を「広開近顕遠」とし、これをもって在世衆生が「断疑生信」して得脱いた、とするのに対して、大聖人は久遠元初の名字妙覚の本地を顕す「内証の寿量品」を「広開近顕遠」とされているのである。
 故に本抄第九段では、在世衆生の得脱について「法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳依りの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり」と御教示されている。すなわち在世の衆生は「略開近顕遠」において得脱したとされていたのである。
 また、第十段では、「広開近顕遠の寿量品」あるいは「寿量品の一品二半」につて「始めより終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮が為なり」とされている。ここに御教示の滅後末法のための寿量品こそ「内証の寿量品」にほかならない。
 第十段では更に、湧出品の動執生疑の個所における「然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於いて、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業も因縁を起さん」との経文と、寿量品における「是の好き良薬を、今留めて此に在く」との経文を挙げて、これは正宗分の一品二半が滅後のためにあることを示す明文であるとされている。
 更に、本門流通分の諸品、及び涅槃経の諸文を引いて、寿量品の文で留め置かれたとされる「良薬」とは、末法に広宣流布されるべき法体にほかならないことを示されたうえで「諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり、諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり」と仰せられている。すなわち、大聖人が弘通されている南無妙法蓮華経こそが寿量品に留め置かれた「良薬」であり、末法に流布すべき法体であることを示されているのである。
 以上、法華経本門の正宗分及び流通分の文証より、広開近顕遠の寿量品が、「末法今時の日蓮が為」に説かれたものであることが明らかであるとされている。
 第十一段では、「多宝の証明」「十方の助舌」「地涌の涌出」が誰のためになされたのか、という問いが設けられている。これは直接的には、前段の最後に、謗法の病を治す第一の良薬たる南無妙法蓮華経を弘めている日蓮大聖人がいなければ、釈尊は大妄語、多宝仏の証明と十方分身の広長舌は虚妄となる、とされていることを受けたものと拝される。
 また、大段第一との関連でいえば、第三段の最後に、已今当の教判は多宝・分身も証明したものであり、法華経は地涌の菩薩に対して説かれたのであるから、他経の教判よりも勝れていると仰せの個所に対応していると拝されている。
 法華経の教相上の肝要は、迹門正分の開三顕一と、本門正宗分の開近顕遠であるが、これが他経にない末聞の法であるが故に、法華経の虚空会の儀式はこれらをさまざまに助証あるいは助顕している。それが「多宝の証明」「十方の助舌」「地涌の涌出」であり、いずれも虚空会の儀式の中でも重要な儀式となっている。すなわち、宝搭品の「多宝の出現」は迹門正宗分の開三顕一の説法の真実を証明するとともに、これ以後の説法がなされていく機縁となっている。湧出品の「地涌の湧出」は本門正宗分の開近顕遠の説法の機縁であり、神力品の「十方の助舌」は滅後弘通の大法の偉大さを助証しているのである。本段の問いは、これらの法華経の仏事が誰のためになされたかを問うているのである。
 この問いに対してまず、舎利弗・目連等の二乗・文殊・弥勒等の大菩薩・梵天・帝釈・日月・四天等の天人の名を挙げて、これら釈尊在世の衆生には無智の者は一人もないので、助証・助顕の必要がないとされている。 
 ついで、法師品の「況滅度後」と宝搭品の「令法久住」の文を引いて、助証・助顕がなされたのは「偏に我等が為」であると結論されている。
 「況滅度後」の文が引用されたのは、末法の大聖人こそそこに当てはまっているからである。また「令法久住」の文は、釈尊・多宝仏・分身諸仏の三仏が集まって虚空会の儀式がなされた所以は、滅後における法華経流布に邁進される日蓮大聖人御一人であり、それ故「我等が為」と仰せなのである。
 以上、法華経は、説かれた経法も、なされた仏事もすべてが妙法を正意とし、特に日蓮大聖人のためであることが明らかにされた。
 そこで最後に、大段第二の結びとして、天台大師の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と、伝教大師の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」の言葉を引かれ、法華経の大法が弘められ末法を両大師が願業したことを明らかにするとともに、これをもって、その末法流布の大法とは三大秘法であることを明かす大段第三への橋渡しとされているのである。
大段第二のまとめ
 大段第二では、大段第一において明らかにされた最勝の教法である法華経について、その所被の時期が総じて末法の衆生であることを明かされている。
 ここで注目されることは、迹門正宗分と本門正宗分の意義を問い直されている点である。末法流布は法華経の展開からいえば流通分に属する事柄であり、その意味で大聖人も本迹二門の流通分を重視されていることはいうまでもない。
 しかし、大段第二で問われていることの中心は、あくまでも本迹二門の正宗分で顕された教法の意義であり、またそれを助証・助顕する諸々の仏事の意義なのである。つまり、法華経で説かれた法体こそが大段第二の主題であり、寿量品の意義を中心に論じられている所以はそこにあると拝される。
 ゆえに大段第二では、大段第一からの流れにそって拝すれば、法華経の所被の時期が論じられているのであるが、逆に末法流布の観点から法華経所説の教法の意義を見直されることにより、日蓮大聖人の御立場、つまり文底の立場が表明されているのである。
 以上のことから大段第二の内容を要約して表示すれば、まず釈尊が説いた法華経の所被の時期を論じている点に即していうと、一往
    能説の教主 久遠実成の釈尊
    所説の教法 寿量品
    所被の時機 日蓮大聖人及び末法の衆生
 が示されている。しかしながら、大段第二において示された本門正宗分の寿量品の一品二半とは天台大師が釈したような「文上の寿量品」ではなく「内証の寿量品」であるとの観点からいえば、大段第二では、再往 
    能弘の人  日蓮大聖人
    所弘の教法 内証の寿量品
    所被の時機 末法の一切衆生
 が示されているのである。そして、これにより次の大段第三における三大秘法開顕の前堤が整うことになるのである。
大段第三の展開
三大秘法の開顕

 法華経が末法の衆生のため、なかんずく日蓮大聖人に説かれたことを明かされた大段第二を受けて、大段第三では、日蓮大聖人が末法の衆生のために建立される三大秘法を顕現されている。
 また大段第二では、釈尊が説いた法華経の“所被の機”として末法の衆生と日蓮大聖人が並列されていたが、この大段第三に至って、日蓮大聖人が末法の衆生のために顕される法体が明示されることにより、日蓮大聖人こそ末法の教主であることが明らかになるのである。
 二段の冒頭では「如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや」との問いをたてられている。これは、直接的には前段の末尾で天台大師・伝教大師の言葉を引き正像末弘を明かしたことを受けて、このような表現をとられているのであるが、その意は大段第二の全体を受けて“釈尊が寿量品に留めおいたのにもかかわらず、如来滅後の正像二千年間に弘められなかった秘法とは何か”ということである。したがって、「秘法」たる所以は単に正像末弘ということだけにあるのではなく、釈尊一代聖教の最要ともいうべき法華経本門寿量品の文底に秘沈されている大法であるからなのである。
 そして、この問いに対して「本門の本尊と戒壇と題目の五字なり」と答えられ、ここに寿量品文底の妙法は三大秘法であることが開顕されるのである。
 この仰せは、御文全体では短いが、法華経の意義について論じられた大段第一・第二での仰せの一切がこの一文に集約されているのであり、その意味からいえば本抄の要であると拝される。
 いま、この一節からこれまでの仰せを振り返って拝すると大段第一で明かされたように、法華経が最第一たる所以はこの三大秘法の文底に秘沈されているところにあり、また、法華経の教主釈尊の意義を論じられているのは、釈尊の久遠実成の根底に本因の三大秘法が拝されるからである。更に大段第二で、法華経の本迹二門の正宗分が末法のために説かれることを明かされているのは、その正宗分に説かれる教法の実体が三大秘法であり、この三大秘法によって末法の一切衆生が救われることを示されているのである。
 次に、その三大秘法が正像二時に弘通されなかった理由については「正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可きなり」と示されている。爾前の迹門の諸法が一時に滅尽するということは、在世結縁の衆生を得脱させるために「小乗・権大乗・迹門の法門」の諸法が時機に応じて弘められたのである。また、これを受けて問答では、末法においては寿量文底の妙法を弘める理由を次のように示されている。
 「末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」
 すなわち、爾前・迹門の諸法は正像二時の時機に応じて教としての役目を終え、末法にいたっては、在世結縁の衆生はいなくなったので、教のみあって得道の力用がなくなる。末法では本末有善の衆生のみとなるので、下種の法体である寿量文底の妙法が顕されなければならないのである。
 しかも、末法の衆生は正像二時に広まった爾前・迹門の諸経に執着して、容易に正しい教えを受け入れようとしない逆縁の衆生になってしまう。こうした謗法の病を治療する第一の良薬は、妙法蓮華経の五字以外にないと仰せである。このような逆縁の衆生に対する化導について、上の御文では不軽菩薩の実践を例として挙げられている。
 また、末法は総じて逆縁の衆生であるが「我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」と仰せのように、その中にも順縁・逆縁の別があることを示されている。順逆共に救う妙法である故に、逆縁の人もやがて本心を取り戻して正法に帰依し順逆共に救う妙法である故に、逆縁の人もやがて本心を取り戻して正法に帰依し順逆となっていくのである。ゆえに、本抄の結文においては、将来は「一四天・四海」に三大秘法が広宣流布するとの順縁広布が明かされ、三大秘法は、末法万年にわたり一閻浮提の一切衆生の所被の時機とする教法であることが示されるのである。
 次に第十三段では、末法において大聖人は法華経の広略を捨て、肝要の妙法を取って弘めることが示されている。
 すなわち、過去における取捨の例として、略を捨てて広を好んだ玄奘三蔵に対し、広を捨てて略を好んだ羅什三蔵が挙げられたうえで「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」と「取要」の所以を明かされている。つまり、要を取って弘めるのは日蓮大聖人が「好む」故であるとされている。ここに「取要」の主体者は日蓮大聖人御自身であることが明らかにされている。しかしながら、大聖人が「好む」ことが理由であるといっても、それは単なる主観に、その理由があるということではない。なぜなら肝要の法とは「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」だからである。つまり、釈尊・多宝仏・分身諸仏がこぞって末法に流布すべきことを勧め、上行菩薩に付嘱されたのが要法だからこそ、大聖人はその上行菩薩の再誕として要法を選び取られたゆえである。
 ゆえに、第十三段は次の仰せで結ばれている。
 「仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず」
広宣流布の先相
 広宣流布の先相を明かす第一四段は四つの問答から成っている。
 第一の問答では、経釈を引用され、三大秘法の広宣流布には必ず先相があるとの道理を示されている。
 第二の問答では、正嘉年間の大地震、文永元年の大彗星をはじめとして、今まですべての天変地夭が、その先相にたるとされ、特に本抄を著された文永11年(1274)正月と2月に佐渡で現れた「二の日」「三の日」のことに言及されている。
  第三の問答では、これらの天変地夭が起こる理由は、悪比丘と悪王が聖人に迫害を加えて仏法を破ろうとするからであることを、経文によって示されている。
 第四の問答では、当世の悪比丘・悪王による迫害は仏法を滅失するものであり、その失は前代に超過する故に前代に見られなかった大きな災いが起こったのであるとされている。
 以上のように第十四段では、前代に見られない大瑞が当世において現れていることを示され、それをもって、正像末弘の大法たる三大秘法の流布する前兆であると示されているのである。
 そして、次の第十五段では「我が門弟之を見て法華経を信用せよ」と仰せられ門下の信を促し、更に「二の日」が現れることは、闘諍により国土が乱れる前相であると述べられたうえで、「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」と、三大秘法の一閻浮提広宣流布への確信を述べられて本抄を結ばれている。
 この結文は、末法万年尽未来際までの衆生のために、大聖人御自身が広宣流布の根源たる三を大秘法の御本尊を建立されることの御宣言であると同時に、三大秘法広宣流布のために立ち上がるべきことを、門下に対して勧められているのである。
大段第三のまとめ
 大段第三では、末法流布の大法である三大秘法が逆縁の衆生を救済する要法であることを示されるとともに、この法体こそ、末法に広宣流布することが明かされている。
 この意味で、この大段では、末法救済の大法は三大秘法であり、それを建立される日蓮大聖人こそが末法の教主であることが明あされているのである。したがって、大段第三の内要を要約して表示すれば、次のようになるであろう。
    能説の教主 末法の御本仏・日蓮大聖人
    所説の教法 三大秘法の南無妙法蓮華経
    所被の時機 末法万年の順逆の一切衆生 

0331:01~0333:02 大段第一 一代諸経の大意を明かすtop
0331:01~0331:02 第一 一代聖教の勝劣を明かすtop
法華取要抄    文永十一年五月    五十三歳御作    与富木常忍 於身延 扶桑沙門日蓮之を述ぶ
01   夫れ以れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり、其中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先
02 後・自見に任せて之を弁うことは其の分に及ばず、 人に随い宗に依つて之を知る者は其の義紛紕す、
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 そもそも考えてみれば、インド・西域から中国・日本に渡来した経典・論書は五千巻あるいは七千巻もある。それらの経典や論書の勝劣・浅深・難易・先後について、自分の知見によって判断しようとしても、能力はそれに及ぶものではない。また、人師に随いを依りどころとしてこれを知ろうとする者は、その義に混乱し、誤るばかりである。

1 冒頭の一節と結文との対応
 冒頭の一節とは「月氏西天」より「漢土日本」へと多数の仏典が伝えられることがのべられているが、この仰せについて、本抄全体の大旨から拝察してみたい。
 すなわち、本抄の結文では、日本から一閻浮提へと三大秘法が広宣流布していくとの大聖人の御確信が述べられているが、それはこの冒頭の一節に対応していると拝されるのである。
 具体的にいえば、冒頭での仰せでは「月氏西天より漢土日本に」との表現をとられているが、これは一つには「月氏」と「日本」という月と日の対比が重要な意義をもっていると拝される。また、もう一点は「西天」という言葉を用いられることにより、正像二時においては「西より東へ」と仏法が移ってきたことが示唆されている。
 このことからこの冒頭の一節が、末法においては、日蓮大聖人の仏法が「日本から一閻浮提」と流布していくことを示されている本抄結文に呼応している、と拝されるのである。
 本抄御執筆の前年にあたる文永10年(1273)の5月に認められた顕仏未来記では「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)、「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)と述べられ、月と日の対比を譬えとして、末法においては、日蓮大聖人の仏法が東から西へと流布していくとの御確信を示されている。
 このように大聖人は、佐渡期末期から、正像の“仏法東漸”に対し、末法における“仏法西漸”の思想を明らかにされている。
 本抄冒頭の「月支西天より漢土日本に」という仰せには、これと同じお考えを前提としてとらえた表現であると拝察できるのである。
 言い換えれば、冒頭の一節の表現において既に「三大秘法の末法流布を明かす」という本抄の根本的な意義が反映されているのであり、本抄が首尾一貫する構成のもとで認められていることが確認できるのである。
2 仏法東漸の特色
 次に、本抄第一段~第三段の論旨のうえから冒頭の一節の意義を拝察してみたい。
 まず、「月支西天」と「漢土日本」とを区別されている点についてその意義を考えてみたい。「月氏」はインド、「西天」は西方の世界の意で、西域・インドを含む広い範囲を指していると考えられる。また「漢土」とは中国のことである。仏教がインドからアジアに広まっていった経路を大きく分けると三つのルートが看取される。すなわち、第一にはインドから中央アジアを経て中国に入り、中国から日本・朝鮮など東アジアの国々に伝えられた“北伝”の経路、第二にはインドからスリランカを経て東南アジアの諸国に伝えられた“南伝”の経路、第三には、インド・ネパールと中国の両方向からチベットと伝えられた経路である。
 “北伝”の経路における仏教伝播の大きな特色は、中国に伝えられるにあたって仏典が「漢訳」されたことであろう。言い換えれば、初めて全く異なる言語体系に仏典が翻訳されたのであり、このことは、既に高度に発達していた中国文化という異文化の中に仏教が移入されたことを示している。
 これに対して、同じ“北伝”においても、西域各地にあっては、仏典は基本的にサンスクリット語を中心とするインドの言語がそのまま用いられている。また“南伝“の経路ではインドのマカダ地方などの言語を用いて形成された聖典語が、これまたそのまま用いられているのである。これらは、インド文化そのものの伝播に伴って仏典が伝えられていることを示しているといえよう。
 仏教流伝の歴史において、中国への伝来は西域や東南アジアへの伝播とは本質的に異なる意義をもっているといえる。すなわち、インド文化圏で生まれた仏教が他の高度に発達した文化圏に通ずる普遍性を有するか否かという、きわめて重要な問題がここに横たわっているのである。
 また、朝鮮や日本などの東アジアの国々は、漢字文化圏として中国文化の強い影響下にあったため、これらの国々では、漢訳の経典や論書がそのまま用いられた。この意味で、本文に拝されるように、「漢土」と「日本」を一括しうるものである。
3 漢訳仏典と教相判釈
 中国に伝来し漢訳された経典類は膨大な数にのぼった。本抄では「渡来する所の経論五千七千余巻」と仰せられている。「五千」とは中国・唐代開元18年(0730)に作られた大蔵経の目録である開元釈教録に基づくものであり、その現定入蔵録には1076部5048巻が挙げられている。その後、同じく唐代の貞元16年(0800)に作られた貞元釈教録には、2417部7388巻がリストアップされている。「七千余巻」とは、後者の数字によられたと考えられる。
 漢訳の教論は大きく旧訳と新訳の二分される。旧訳とは、西暦1世紀半ばの仏教初伝から西暦7世紀の唐代の初めまでの期間に、主として西域から渡来した訳経僧によってなされた仏典の漢訳をいう。この時期の主な訳経僧としては、時代順に安世高・支婁迦識・支謙・竺法護・釈道安・鳩摩羅什・仏駄跋陀羅・曇無識・求那跋陀羅・菩提流支・勒那摩提・真諦等が挙げられるが、特にその頂点に位置するのが5世紀初めの鳩摩羅什であり、文体の美しさ、内容の正しさ共に他を凌駕している。
 漢訳された経典としては2~4世紀にかけては法華経のほか、阿弥陀経・維摩経や般若部経典があり、5世紀には鳩摩羅什によって法華経・維摩経・大品般若経・小品般若経等が訳されたほか、華厳経・涅槃経・楞伽経・勝鬘経などの代表的な大乗経典が相次いで訳されている。また、このほかに小乗の経典も訳されている。
 旧訳の経論としては、鳩摩羅什による大智度論・中論・百論・成美論等に続き、6世紀には十地経論・唯識論・摂大乗論・宝性論・大乗起信論等が訳されている。これらの論書に依拠にして地論宗・摂論宗・成実宗・三論宗などが成立したのであった。
 次に、新訳とは、唐代初期の玄奘以降になされた経論の漢訳をいうが、主たる経論は旧訳においてほぼ出揃っており、新訳は基本的にいって補充的な意味をもつのであったといえる。新訳には、実叉難陀による華厳経の翻訳をはじめ旧訳経典を改訳したもの、玄奘による唯識関係の翻訳、義浄による律宗の紹介、善無畏・金剛智・不空による大日経・金剛頂経をはじめとする密教経典の訳出、などが挙げられる。これらは、法相宗・華厳宗・南山律宗・真言宗の成立を密接にかかわっている。
 なお、以上の漢訳経論は、中国・朝鮮・日本の大蔵経として翻訳された当時のまま伝えられているのに対して、今日伝えられているサンスクリット語の原典は、そのほとんどが10世紀以後の書写本である。明治以後の我が国の仏教学会では、サンスクリット語原典を偏重し漢訳経典を軽視する傾向があったが、現在では、漢訳経典の資料的な価値が再び見直されつつある。
 ともあれ多数の教論が伝来し漢訳されるにつれて、中国仏教界では「教相判釈」が重要な課題となった。「教相判釈」とは、種々の経典を所説の内容のうえから分類・整理し、その浅深を判定することであるが、その分類や判定の基準が学者によって区々で多くの異説・宗派が生じた。
 このうち、旧訳の経論に基づき南北朝時代に成立した宗派は、天台宗により南三・北七と総称された。南三とは江南の三つ、北七とは河北の七派をいう。いずれも、法華経・涅槃経・華厳経を代表的な経典として認める点ではほぼ一致しているが、その主流は華厳経や涅槃経を第一とする教判であった。その代表的なものとして光宅寺の五時説が挙げられる。
 この所説の概略を述べれば、まず諸経を頓教・漸教・不定教に分類し、華厳経を仏が成道の直後に悟りをそのまま説いた頓教として別格視したうえで、他経を衆生の機根に合わせて説いた漸教としてこれを三時ないし五字に分け、その中で涅槃経を最後に如来常住・悉有仏性の真実を明かした経典として位置付けるものである。つまり、法華経を漸教の中の一分と看做し、華厳経・涅槃経の下に位置付けたのである。
 また、南三北七には入らないが、天台大師と同時代に三論宗を大成した吉蔵も、三転法輪の教判を立てている。これは、華厳経を仏の悟りを説いた根本法輪として諸経を枝末法輪とするうえで、法華経を、枝末の諸経を根本の般若に帰せしめる経典とするものである。これも、法華経の位置付けにおいて南三北七と若干の相違が見られるが、結局のところ法華経を方便の教えと同ずる点では同じである。
 これらに対し、天台大師が初めて法華経を一切経の中で最大一である、としたのであった。それまでの諸師による教判が、主としてインドの論書に依存して立てられたのに対して、天台大師は、法華経の開三顕一・開近顕遠の法門に基づいて、法華経最第一を主張したのである。つまり、天台大師の法華経第一の説は依法不依人を原則とし、仏説を基盤にして成立した教判であるといえよう。天台教判については次章で詳論するが、ここではその概略を述べて、南三北七や後の華厳・真言等の教判と基本的な相違を指摘しておきたい。
 天台大師はまず、法華経においてのみ如来の深意が明かされているとし、それを三種の教相として明らかにした。そして、このうち法華経方便品第二・譬喩品第三によって立てた第一教相により、如来は衆生の機根の熟不熟に応じて種々の経を説いたとして、五時の次第を明らかにしたのである。
 従来の教判においてもこのような説時の次第が立てられたが、それらは頓教の華厳経を別格視し、漸教において説示の次第が設けられたことに対して、天台大師の場合は、頓・漸・不定等の区別を一義的に各経典に当てはめるのではなく、それらを如来の普遍的な説法形式を捉える、つまり、仏の内証を直ちに示す頓教の相は華厳経に限るものではなく、諸大乗経に共通するものであり、仏は法を説くにあたり必ずまず頓教の相を示し、その後にしかるべき機根に応じてしかるべき教法を説いたとする。
 このように、従来の頓・漸の立て分けを基本とする経典の一般的な分類と独善的な価値創造を排斥したのである。そのうえで、法華経迹門の開三顕一の説法において過去・現在・未来の一切の仏の説法は本来、一仏乗を説くことを目的としているが、機根が熟していない衆生に対しては、まず一仏乗を分別して三乗法として説くと明示されたことに基づき、衆生の機根を調熟して最終的に一仏乗に帰せしめようとした、如来の一貫した説法のプロセスとして五時教判を立てたのである。
 つまり五時教判は、単に釈尊一仏の説法の経過にとどまらず、三世の一切諸仏の説法の普遍的かつ必然的な展開過程であるとしるのである。この点は、従来の教判と根本的に異なるところである。
 また天台大師は、化城喩品第七によって立てた第二教相に基づき、釈尊の化導の意義を更に大きな視野から明らかにした。すなわち、釈尊の化導は今世に始まるものではなく、長遠の過去に既に下種していたのであり、今世の化導は長遠の化導の一環なのである。
 更に、寿量品第十六によって立てられる第三教相により、釈尊の悟りである実智も衆生の機根に種々相に応じて教法を説く権智も、久遠の過去に成就されたものであるとともに、衆生もまた、この久遠の仏陀に相応する久遠の師弟関係にあることを明かした。この第三教相は、生命の究極の次元で仏と衆生が永遠の師弟関係にあることを明かしたものであり、それによって仏の化導と衆生の得益が成り立つ根拠が示されたのである。
 以上のように、天台大師は、法華経のみ如来化導の意図と衆生得益の所以を明かされているとし、したがって、法華経にいたって種々の教法は、一仏乗として統合されたとするのである。言い換えると、一切の教法は法華経に流入するのであり、法華経は諸教典と並立する一経典ではなく、一切を包摂する仏の根本の教法なのである。
 天台大師以降、7世紀から8世紀にかけて相次いで成立した法相宗・華厳宗・真言宗も、それぞれ独自の教判を立てていった。これらの諸宗の教判は天台教判の影響を受けながらも、インドから新たに伝来した経論に依存することによって、それに対抗しようとするものであった。しかしこれらは、自宗の依経を優位とする考えに固執して、それを煩瑣な理屈や神秘主義的な事法の強調によって権威つけようとしたものであり、所詮は経典に説かれた法理を深く追求して立てた天台教判に及ぶものではなかったのである。
 また、南北朝時代の末から初唐の時代は中国仏教の大成期であり、それまでに成立した諸流派の流れを汲みつつ、宗旨と教判を整えて諸宗が成立した時期であった。上述の天台・法相・華厳等の他にも、旧訳で伝えられていた小乗の四分律に基づき戒法・教義を整えて成った南山律宗、民衆の間に行われていた浄土信仰を背景に他力信仰の易行を強調する曇鸞・道綽・善導系の浄土宗、そして最後に達磨禅の流れを汲み頓悟を強調する禅宗など、後に日本に伝えられた諸宗が相次いで成立したのであった。これらの諸宗の教判の内容は第二段において述べることにする。
4 日本伝来と諸宗教判
 以上のごとく、中国仏教は仏典の漢訳と諸宗の成立によって特色付けられるが、この特色は、中国仏教を範とした日本仏教にもそのまま受け継がれた。
 日本に初めて仏教が伝えられたのは6世紀半ばとされているが、先にのべたように、7世紀から9世紀にかけての時期は中国では教判形成・諸宗成立の時期にあたっており、そのために、留学僧や渡来僧によって、漢訳仏典と共に、中国で成立した諸宗の教義があわせて伝えられたのであった。
 すなわち、奈良時代以前には、まず三論宗、次いで法相宗、成実宗、倶舎宗が、奈良時代に入ってからは華厳宗、律宗が伝えられ、ここにいわゆる南都六宗が栄えたのである。更に平安時代に入ると、最澄により天台宗が、空海により真言宗がもたらされた。これ以後、この二宗を要として八宗が国家の庇護のもとで共存する、いわゆる顕密体制が固定化されたのであった。
 このように、日本仏教は中国で成立した宗派の形態をそのまま移したところに、その特色があるといえよう。これを教判の問題に即して言い換えれば、日本では、中国のように教判を形成することではなく、既に中国で成立した教判のいずれを用いるということが、問題の中心であったといえよう。この教法の勝劣判定にあたっては、中国諸宗の元祖・大成者の権威が何より重んじられたのであり、まさに日本仏教の教判に対する姿勢は、本抄で仰せのように「人に随い宗に依つて之を知る」ことを基本としたのである。それ故に、伝教大師を除く他の人々は、依法不依人の原理によって立てられた天台大師の教判の意義を、真に認識することができなかったのであり、本抄に「其の義紛紕す」と仰せのように、紛糾するのみで明快な解答を得ることはできなかったのである。
 鎌倉時代には、上記の南都六宗、平安二宗の八宗のほかに、平安末期から末法思想を背景として念仏、禅の二宗が成立、流布し、あわせて十宗が並立することになった。しかも、天台宗は本来の法華経最第一の正義を見失って密教化していた。本抄では、次の第二段において天台宗を除く九宗の教判を並び挙げ、第三段においてそれらを総じて破折しておられるが、これは人師に依って仏説に依らない非を打ち破っておられるのであって、その意味で、当時の天台宗もこの批判の対象から除外されるわけではない。むしろ、大聖人はこうして諸宗の教判を全面的に検討することによって、法華経を最第一とする天台教判の精神を忘却している天台宗に対し、厳しい批判を加えられていると拝されるのである。
5 勝劣・浅深・難易・先後
 さて、本抄第一段の御文では、「勝劣」「浅深」「難易」「先後」という、教判に関する四つの視点が挙げられている。この四項について日寛上人は取要抄文段で「『勝劣』は能詮の教に約し、『浅深』所詮の理に約し、『難易』は法体に約し、『先後』は次第に約するなり」と立て分け、各項を説明されている。
 それについて述べれば、まず「勝劣」を弁うとは、「教」について法華経が最勝であることを知ることである。このことを示すために日寛上人は持妙法華問答抄の次の仰せを引用されている。
 「抑も希に人身をうけ適ま仏法をきけり、然るに法に浅深あり人に高下ありと云へり何なる法を修行してか速に仏になり候べき願くは其の道を聞かんと思ふ、答えて云く家家に尊勝あり国国に高貴あり皆其の君を貴み其の親を崇むといへども豈国王にまさるべきや、爰に知んぬ大小・権実は家家の諍ひなれども一代聖教の中には法華独り勝れたり」(0461-01)
 まず教の勝劣を知ることが正しい修行のための大前提である。したがって、本抄でもその後、教の勝劣を中心に論を進められていきのである。
 しかしながら、冒頭において「勝劣・浅深・難易・先後」との四つの視点を標示されているのは、単に「教」の選択のみにとどまってはならないことを示している。すなわち本抄では、法華経に所詮の「理」の当体である本門寿量品の文底の三大秘法を明かし、この最も難信難解である本門の三大秘法を明かし、この最も難信難解である本門の三大秘法を末法流通の「法体」とされていくのである。また「先後」についても、釈尊の説法の次第をよくよく弁えれば、本門正宗分の一品二半は一向に末法のために説かれたことが明かされていく。
 次に、「理の浅深」を知るということについて、日寛上人は開目抄の「黒白のごとく.あきらかに須弥・芥子のごとくなる勝劣なを.まどへり・いはんや 虚空のごとくなる理に迷わざるべしや、 教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし」(0222-02)との仰せを引用されている。理は教によって明らかにされるので、教を能詮、理を所詮に拝するのである。能詮の教に勝劣があるということは、その所詮の理にも浅深があることは当然であり、天台大師は諸経の所詮の理を隔歴の三諦、法華経の所詮の理を円融の三諦として、その浅深を明確にしたのである。また日寛上人は、理の浅深を知ることにいかなる意味があるかという点について、伝教大師の法華秀句巻下における「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」との言葉を引いている。つまり、理の浅深を知ることにより、浅い諸経の易きに流されず深い法華経を求めていく強い求道心をもつことができるのである。
 第三の「法体の難易」を知ることについて、日寛上人は、諸経と法華経と難易の事の次の御文を引かれている。
 「外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解.大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり.般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」(0991-08)
 この御文では、外道から法華経本門に至る「七重の難易」を示され、真実の難信難解の法体は法華経本門にあることが明かされている。更にこの御文では、法華経本門の法体を信ずることによってのみ、生死の迷いを晴らし、元品の無明を断ち切ることができることを明かされて、「法体の難易」を知ることがいかに重要かを示されている。また同抄では伝教大師の「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」との文を引いて難信難解の理由を明かされている。つまり法華経こそが、仏意に随って説かれた随自意の教えであるが故に最も難信難解であるが、仏の随自意の教えだからこそ、法華経を信ずることが出離生死の道なのである。
 最後に、「生死」とは「説法の次第」であるが、滅後に約せば「弘法の次第」ということもできよう。教法に勝劣・浅深・難易がある故に、それを正しい順序で時に適って説き弘めなければ、衆生を救うことはできないのである。これについて日寛上人は神国王御書の次の御文を引かれている。
 「法華経の第七の巻を見候へば『如来の滅後において仏の所説の経の因縁及び次第を知り義に随つて実の如く説かん日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』等云云」(1521-18)
 ここに挙げられてる法華経神力品第二十一の経文では、
   ①仏の所説の経に次第があること。
   ②その次第を弁えて滅後に法を弘める人が衆生を救う人である。
 ことが示されてる。
 「文の心は此の法華経を一字も一句も説く人は必ず一代聖教の浅深と・次第とを能く能く弁えたらむ人の説くべき事に候、譬へば暦の三百六十日をかんがうるに一日も相違せば万日倶に反逆すべし、三十一字を連ねたる一句・一字も相違せば三十一字共に歌にて有るべからず、謂る一経を読誦すとも始め寂滅道場より終り雙林最後にいたるまで次第と浅深とに迷惑せば・其の人は我が身に五逆を作らずして無間地獄に入り・此れを帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし」(1522-01)
 すなわち、一代仏教の次第と浅深に迷えば、教法を弘める師も、それを信ずる檀那も共に無間地獄に堕す。なぜなら、この次第と浅深を知らなければ、仏の真意を弁ることができないからである。また、浅深を知らずして優れた教法が説き弘められた後に劣る教法を説き弘めるならば、劣る教法をもって優れた教法を妨げることになり、その意味でも謗法に通ずるのである。ゆえに、日寛上人は更に、先後を知ることの意義について、法門申さるべき様の事の「仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり」(1265-08)との仰せを引用されている。
 以上のことから、本抄冒頭の「勝劣・浅深・難易・先後」との標示によって、教・理・法体・説法の次第というあらゆる角度から判じて、最勝の法を取るべきことを明確にされているのが本抄であることが示唆されているのであり、その最勝の法こそ法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法なのである。言い換えれば「勝劣・浅深・難易・先後」という教判の重層的な角度を示されているのは文底の妙法を選び取るためであり、ゆえに日寛上人は結論として「然れば則ち爾前・迹門・本門・文底の勝劣・浅深・難易・先後、能くこれを弁ずべし」と述べられているのでる。

0331:02~0331:10 第二 諸宗の謬解を示すtop
0331:02~0331:07 その一top
02                                               所謂華厳宗の
03 云く「一切経の中に此の経第一」と、法相宗の云く「一切経の中に深密経第一」と、三論宗の云く「一切経の中に般
04 若経第一」と.真言宗の云く「一切経の中に大日の三部経第一」と,禅宗の云く或は云く「教内には楞伽経第一」と、
05 或は云く「首楞厳経第一」と或は云く「教外別伝の宗なり」と、浄土宗の云く「一切経の中に浄土の三部経末法に入
06 りては機教相応して第一なり」と、倶舎宗・成実宗・律宗云く「四阿含・並に律論は仏説なり華厳経・法華経等は仏
07 説に非ず外道の経なり」或は云く或は云く、
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 華厳宗では「すべての経典の中で華厳経が第一である」といい、法相宗では「すべての経典の中で深密経が第一である」と言い、三論宗では「すべての経典の中に般若経が第一である」と言う。真言宗では「すべての経典の中で真言の三部経が第一である」と言う。禅宗では、あるいは「釈尊が説いた教えの中では楞伽経が第一である」、あるいは「首楞厳経が第一である」あるいは「禅宗は教典とは別に釈尊の真実の悟りを伝えている宗である」と言う、浄土宗では「すべての経の中で浄土の三部経が、末法に入っては教えと衆生の機根とが相応して第一である」と言う。倶舎宗や成実宗や律宗では「四部の阿含経と律蔵と論蔵の三蔵が、釈尊の説いた教えであり、華厳経や法華経などは、釈尊の教えではなく外道の教えである」という。このほかにも種々の教判が立てられている。

 ここでは、人師の説や宗派によって諸経の勝劣等を知ろうとする者は混乱し誤りばかりであるとする前段を承けて、教判に関する各宗派の異説を列挙されている。
 日寛上人は取要抄分段で、各宗派の依経・教判の概略を示されている。この日寛上人の御教示に基づきつつ、各宗派の教判の内容を概略してみたい。
1 華厳宗の教判
 華厳宗は、中国・南北朝時代に世親の十地経論に拠って成立した地論宗の流れを汲み、7世紀に、初祖杜順・第二祖智儼による華厳教学の形成を経て、第三祖法蔵より教学的に大成された。8世紀には、第四祖澄観により教団の活動が活発化したが、まもなく禅宗に吸収された。
 この宗の代表的な教判は、法蔵によって立てられた「五教十宗」判である。五教とは、小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教であり、大乗始教には一切皆空を説く深密経・般若経および唯識・三論関係の論書を、大乗終教には如来蔵を説く勝鬘経・如来蔵及び大乗起信論等を、大乗頓経には維摩経などの諸経に説かれる速疾頓成の教えを配し、最後の大乗円教を最勝として、これに華厳経を配するのである。また「十宗」とは、五教のうち小乗経を六宗に分け、大乗の四教と合わせて十宗とするのである。
 この五教十宗の教判は、玄奘・慈恩以来、唐朝の庇護のもと勢力を誇っていた法相宗を大乗始教に位置付け、これに対して円教の華厳経を優位とするところに、現実的な意味があったようである。
 五教十宗判の中では法華経について明確な位置付けは見られないが、法蔵は別の角度から法華経に対する華厳経の優位を主張している。すなわち、一乗を同教一乗と別教一乗に分け、別教一乗が優れるとしたのである。
 華厳宗という別教一乗とは、仏の絶対的な境地を明らかにした教えをいうが、仏の境地そのものは説き得ないので、可説の因分において仏の絶対的な境地を明らかにしたのが華厳経であるとする。また、その仏の絶対的な境地については、重々無尽、相即相入、主伴具足等の言葉によって表現する。すなわち、一切諸法が無限に関係しあい、相互に他を包摂しあい一が現れれば他の一切がそこに伴うとし、このような一大法界こそが仏の境地であり、これを説くのは華厳経のみであるとするのである。そして、この重々無尽の縁起を十玄・六相の法門によって説明した。
 華厳経では、このような別教一乗こそが方便の教えである三乗との対立を越え、しかも三乗を包摂する真に絶対的な一乗であるとするのである。これに対して、同教一乗とは三乗と対立ないし並存して立てられる一乗をいう。つまり簡単にいえば、別教一乗とは三乗と区別される面、同教一乗とは三乗に応同する面をいうのである。そして法華経については、三乗との関係の上で一乗を明かすにとどまり、仏の絶対的な境地そのものは明かしていない同教一乗であるとするのである。
 このように華厳宗では、法華経と華厳経を同じく一乗の教えとしながら、同別二教判により法華経を華厳経の従属的な位置に貶しめたうえで、五教判において円教の優位を専ら華厳経に帰せしめているのである。
 しかしながら、天台大師は華厳経について、別円二教を兼説した教えであると位置付けている。つまり、華厳経は別して大機の菩薩に対して説かれたという意味での別教であり、法理的には空・仮の二辺を超えた中道を説き、三諦が揃うので爾前経の範囲内での円教といえる。しかし、その中道は空・仮二辺と隔絶する超越的な真理として説かれており、その意味では華厳経では三諦が円融していない。いたがって、中道を悟る修行としては、どうしても空観・仮観・中観という次第行をとらざるを得ず、ゆえに華厳経に説かれる菩薩行は歴劫修行なのである。ここに華厳経の別教たる所以があり、華厳の円教は、権教たる別教を付帯した円教、つまり帯権の円なのである。
 また、華厳経に説かれる超越的な真理としての中道は、あらゆる相対を絶する絶対妙とはいえないのである。なぜならば、空・仮二辺と相対されているからである。
 これに対して法華経は、諸経において蔵・通・別の麤法を付帯して説いた理由を明かし、諸乗を一仏乗として開会する。この開会によってのみ真の絶対の妙法が顕されるのであり、したがって、法華経のみが純粋なる円教なのである。
 華厳経の別教一乗の絶対妙が、不可思議なる仏の境界を超越的な一大法界として抽象化し、それを思弁的に論じたものであるのに対して、法華経の絶対妙は、如来の化導と衆生の得益という実際的な面において妙法が顕された当処を指している。
 なお華厳宗では、別教一乗の教証として、しばしば華厳経巻七・賢首品第十二の「一切世界の諸の群生は、声聞道を求めんと欲すること有るは尠し、縁覚を求めむる者は転た復少なく、大乗を求むる者は甚だ希有なり、大乗を求むる者は猶易しと為し、能く是の法を信ずるは甚だ難しと為す。況や能く受持し正に憶念し、説の如く修行して真実を解せんをや」との経文を挙げている。
 それは、この文が、声聞乗・縁覚乗・大乗の三乗を超える一乗として、華厳経を位置付けているからである。しかし、この文は、法華経の「已今当」のように一切経と相対して華厳経の難信を明かしたものではない。更に、法蔵等が華厳経=別教一乗を論ずるのに、むしろ法華経譬喩品第三の三車火宅の譬喩を全面的に用いているのは、法華経なくしては別教一乗の論理を構築できなかったことを示しているといえよう。
2 法相宗の教判
 法相宗は、唐朝・太宗の代に、玄奘が将来した唯識関係の経論を基盤として成立し、玄奘門下の窺基によって大成された宗派である。唐朝の庇護下で勢力を誇った。
 同宗は、解深密経を正依の経典とし、同経に説かれる唯識説を宗旨とする。また同経の唯識説は、弥勒菩薩の瑜伽師地論、無著の摂大乗論、世親の唯識論によって展開・整理されたので、これらの論書も所依として用いている。しかし、唯識説は無著・世親以降、いくつかの系統に分かれており、同宗の宗旨とするものは無著・世親の正統を継ぐものではない。つまり、同宗は、世親の唯識三十頌に対するインドの十師の注釈を集めた成唯識論を所依としており、この書は十師の中でも専ら護法の説を正説とするから、実質的には、法相宗は護法の唯識説をよりどころとしているのである。
 このような同宗の本質は、その教判にも表れているので、それ以下を見てみたい。 法相宗ではまず、解深密経に説かれる三時の教判に基づき、釈尊の一代諸経を初時有教・第二時空教・第三時中道教に分け、前の二時を方便の未完成な教え、第三時中道教が真実を示した教えであるとする。
 解深密経の三時判は、
   ①声聞に対して四諦の相を説く小乗教
   ②一切法の無自性・空を「秘密の相」を以て示す教え
   ③一切法の無自性・空を「顕了の相」を以て示す解深密経の唯識説の優位
 を説くところに主眼がある。「顕了の相」とは八識や三性などの法相を明確に説いて、それらの無自性・空を明かすこととみられる。般若経等はこれら法相を明かさずに無自性・空を論ずるので「隠密の相」というのである。解深密経巻二・無自性相品第五の第三時について「顕了の相を以て正法論を転じたまう。第一の甚奇にして最も希有なりと為す。于今世尊に転じ給う所の法輪は、無上、無容にして、是れ真の了義なり」とある。
 この三時判は、本来、法華・涅槃を含まない。部分的な相対関係のうえに立てられた教判なのであるが、法相宗ではこれを普遍的な教判とするため、故意に法華経等を第三時に含めたと見られるのである。またこれは、中国仏教界で既に権威のあった法華経・華厳経・涅槃経と同じ中道教として解深密経を位置付けることにより、自宗の依経を権威付けようとしたものといえよう。
 しかし、他方では、法相宗は、護法の唯識説に基づき、五性各別・三乗真実・一乗方便を説く。まず五性各別とは、衆生を定性声聞種性・定性独覚種性・定性菩薩種性・三乗不定種性・無性有情種性の五性に分け、このうち定性声聞種性・定性独覚種性・無性有情種性については成仏の種子をもたないので不成仏であるとする。
 また、三乗真実・一乗方便とは、一切衆生を等しく成仏させる教えとして一乗は三乗不定種性の衆生を導くための方便であり、衆生の相違に応じて説き分けられる三乗ないし四乗の教えが真実であるとする説である。これによって法相宗は法華経などによって一乗を標榜する天台宗・三論宗を否定し、自宗の独自性と優位を強調したのであった。
 この五性各別や一乗方便の説は、護法の系統の唯識論にとらわれたことによる謬説にほかならない。本来の正統の唯識説は、一切はただ識であるとして対境の空を論ずるとともに、対境を了別する識も空であるとする。そして、迷いの諸法が八識の相互関係によって現れることを示すとともに、識の在り方を転ずることにより衆生の成仏がある、としたのが本来の唯識論であった。
 これに対して、護法及び法相宗の唯識論は、一切は識から離れた存在ではないとし、対境については空として、識を実体視するのである。このことから阿頼耶識に蔵される種子についても実体化し、上に述べたように衆生についての五種の種性を固定化するような考え方が生じたのであった。
 したがって、こうした法相宗の教義は、その依経としている解深密経の教判における第三時にもあたらないといえよう。
3 三論宗の教判
 三論宗は、竜樹の中論、十二門論、及び提婆の百論を所依とする宗派である。この三つの論書を一つにまとめて重視する考え方は、既にインドの中観派にあったといわれ、鳩摩羅什による伝訳とともにその考え方が伝えられたようである。したがって、三論宗では鳩摩羅什を同宗の始祖とする。これらの三論が羅什の門下によって盛んに研究されたことは確かであるが、同宗の基本教義である「二諦中道」説が形成されたのは北涼の僧朗以後であり、僧詮、法朗と伝えられ、隋代から唐代の初めにかけて吉蔵によって同宗の教義が大成されたのであった。
 三論宗の教判は、吉蔵が立てた「二蔵」及び「三転法輪」である。「二蔵」とは声聞蔵と菩薩蔵のことであり、大乗と小乗に関する教判である。これは、主として成美宗が説く空と三論宗が説く空との相違を明らかすことに、主眼があったと考えられる。すなわち、成美宗では、真諦と俗諦の二諦はいずれも中道に基づいて立てられた二つの真理であるとして、俗諦の有も中道に基づくものであるから非有であり、真諦の空も無にして非無であるとする。
 これに対して吉蔵は、真俗の二諦は実在的な真理ではなく仏が中道を教えるために用いた方便であり、真諦を説いて俗諦への執着を破り、俗諦を説いて真諦への執着を破るものであるとする。このように一方への執着を破することにとより、言葉では説き得ない中道の真理を教えようとしたものである。したがって、大乗の空の真の意義は不可得の空であって成美宗のいうごとき、俗諦の有と相対的に立てられる真諦の空は、小乗の析空間に等しいと断ずるのである。三論宗では、このような空についての考え方から、善悪にかかわらず一切のものへの執着を破すのであり、その破邪によってのみ中道を顕することができるとする。
 ここに同宗が、竜樹の二論に加えて、諸説を破する提婆の百論を重んずる所以があると考えられる。また、同宗の説く有・空を超えた真理としての中道は、天台大師がいう隔歴の三諦にあたるものといえる。
 次に「三転法輪」とは第一段で触れたように、釈尊の一代諸経の次第を、
   ①根本法輪=華厳経
   ②枝末法輪=大小乗の諸経
   ③摂末帰本法論=法華経
 とするのである。通じて南三北七の教判が華厳経と涅槃経を重視したのに対して、この教判は法華経を重視している点で前進しているといえる。しかし、あくまで根本法輪である華厳経に枝末法輪の諸経を帰せしめるための教えとして、法華経の役割を限定している点で、華厳経を別格視した従来の教判を法華経の文によって裏付けられているが、これは結果的には、かえって法華経の真意を歪曲したものといわなければならない。
 本抄で三論宗の教判を「般若経第一」とされているように、三論宗では所依とする三つの論書が般若経を規範としていることから、伝統的に般若経を最重要視する。伝教大師の法華秀句巻下にも「大唐の伝に云く『摩訶般若とは三論宗所依の経なり』」とある。
 吉蔵自身は生涯に三百回以上も法華経の講義を行われたといわれ、また多数の法華経注釈書を著すなど、法華経を重視している。だが、それにもかかわらず彼が法華経の意義を捉えきれなかったのは、諸大乗経はすべて同じ道を説くという般若経に基づく考え方の枠を出なかった故と思われる。すなわち般若経には、例えば「聴聞する所に随い、皆能く甚深の般若波羅蜜多に会入す。諸の造作する所の世間の事業も亦、般若波羅蜜多の方便善巧なるに依って法性に会入す。一事として法性を出づる者を見ず」とあり、般若経で説く般若波羅蜜こそが世間・出世間の諸経の帰するところであり、諸経はそのための方便であるとする。
 このような考え方から吉蔵は、法華玄論巻八に「法華は但開権の義を明かさ波若と異なるのみ。若し顕実の義は終に波若に帰す。波若の外に別に法華あるにはあらざるなり。法華と波若は同じく一大乗蔵是れなり。亦同じく一原と為すことを得」と述べて、法華経の所詮は般若経と同ずとするのである。かかる吉蔵の所説について、日蓮大聖人は報恩抄で「嘉祥大師の法華玄を見るにいたう法華経を謗じたる疏にはあらず但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ此れが謗法の根本にて候か」(0315-09)と破折されている。
4 真言宗の教判
 中国の真言宗は、唐朝、玄宗の代、開元年間に、インドから渡来した善無畏と金剛智によって開宗された。この両者は、7世紀にインドで盛んになった密経を中国に伝えたのであった。善無畏は大日経を漢訳し、金剛智は金剛頂経を伝訳したのであるが、この両経の翻訳が真言宗の基盤になったのである。
 また、善無畏に影響された天台僧、一行による大日経疏、及び金剛智の弟子の不空による多数の密経経典の伝訳により、真言宗の教義・儀軌が整えられた。特に不空は、敵軍調伏など護国密経を強調し、安史の乱による当時の政情不安に乗じて唐朝の帰依を勝ち取り、盛唐から晩唐にかけて同宗の繁栄を誇った。しかし武宗による仏教弾圧以後は急速に衰え、唐朝の滅亡後は道教等の民間信仰と融合した。
 日本には、不空の弟子恵果から大日・金剛頂の両部の灌頂を受けた空海によって伝えられ、開宗された。また、少し後に、天台宗の円仁、円珍が入唐し、天台宗に密経を導入した。これ以後、日本の密教は、空海の系統である東密と天台宗の系統である台密の二系統が並立することになった。
 中国の真言宗は明確な教判は立てなかったが、日本の真言宗は空海によって「顕密二教」及び「十住心」の教判が立てられた。本抄では真言宗の教判として「大日の三部経第一」と述べられている。「大日の三部経」とは大日如来を能説の教主とする大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三経を指している。大日経・金剛頂経の二経は中国密経と日本の東密において重視されたのに対し、日本の台密が重視したのは蘇悉地経であった。
 また、東密では大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立てるのに対し、中国密経及び台密では大日経第一・法華経第二とする違いがあるが、いずれにせよ、大日経を第一とするところから、本抄でいう真言宗とは、東密だけではなく台密も含まれると拝される。しかしここでは、東密の教判について述べるにとどめ、台密の教判、すなわち善無畏・一行の所説に基づく慈覚・智証等の「理同事勝」大日経第一・法華経第二については、本抄に名が挙げられている九つの宗派の教判について述べ終わった後に付記することにしたい。
 空海の立てた二教判のうち「顕密二経」は弁賢密二経論で、「十住心」は秘蔵法鑰、十住心論で展開されている。
 「顕密二教判では。
   ①能説の仏身
   ②所説の教法
   ③所化の機根
   ④成仏の遅速
 の四つの観点から密経が勝れ顕教が劣るとする。ここにいう密教とは大日経・金剛頂経の教えをいい、顕教とはそれ以外の大乗・小乗の諸経の教えをいう。
 まず能説の仏身については、密教は法身の説法、顕教のうち三乗教は応身の説法、一乗教は報身の説法であるが故に、密教が勝れ顕教が劣るとする。次に所説の教法については、顕教では因分可説・果分不可説とし、果分である仏の自内証は言語道断・心行所滅であるとするが、密教は法身大日如来が自受法楽する三密の大悲のうえから明らかにした教えであるが故に、密教は勝れ顕教が劣るとする。第三の所化の機根については、顕教は下根下智に対する教え、密教は上根上智に対する教えでるが故に、密教は勝れ顕教は劣るとする。最後の成仏の遅速については、顕教の修行は三大無数劫の長時間を経て成仏する歴劫修行であるが、密教では三密加持・五相成身観により父母所生の肉身のままで即身成仏するが故に、密教は勝れ顕教は劣るとする。また、天台・華厳の両宗でも即身成仏を説くが理論のみで実現の方法がないとする。
 次に「十住心」とは、大日経住心品第一、菩提心論の勝義段によって立てられた教判である。住心とは心の止住すところの意であり、これに十の段階を設けて、仏教諸派及び仏教以外の諸思想を以下のようにあてはめ、その浅深を判別しようとするのが「十住心」の教判である。
   ①異生羝羊心=バラモン外道の教え
   ②愚童持斎心=仏教中の人教と中国の儒教
   ③嬰童無畏心=仏教中の天教と中国の老荘思想
   ④唯蘊無我心=声聞教
   ⑤抜業因種心=縁覚教
   ⑥他縁大乗心=唯識法相宗
   ⑦覚心不生心=三論宗
   ⑧一道無為心=天台宗
   ⑨極無自性心=華厳宗
   ⑩秘密荘厳心=真言密教
 この「十住心」みよって、大日経巻一・入真言門心品に「云何が菩提。謂く、如実に自心を知るなる」とあるのを根拠に、自心の究極の実相を開顕したものが大日経・金剛頂経に説かれる胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅であるとする。それに対して、諸経の説くところは自心の実相を分々に顕したものであり、諸経は究極の真言密経に至る段階的な過程であると位置付ける。
 この十住心のうち、①~③は世間心であり因果応報を知るか否かで段階が設けられ、④~⑦は大乗・小乗の相違、あるいは三乗の相違を基本に段階付けられている。そして最後の⑧~⑩は、一乗たる究極の真理を説く教えを分別したものであるとするのであるが、ここに大いに問題がある。なぜならば、空海は、この十住心の根拠は大日経にあるとしているが、大日経のどこにもないような立て分けに相当する経証がないからである。いま、この問題点を更に追究してみることにしたい。
 日蓮大聖人は開目抄において、
 「大日経第一に云く『秘密主大乗行あり無縁乗の心を発す法に我性無し何を以ての故に彼往昔是くの如く修行せし者の如く 蘊の阿頼耶を観察して自性幻の如しと知る』等云云、又云く『秘密主彼是くの如く無我を捨て心主自在にして自心の本不生を覚す』等云云、又云く『所謂空性は根境を離れ無相にして境界無く諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性』等云云、又云く『大日尊秘密主に告げて言く秘密主云何なるか菩提・謂く実の如く自心を知る』等云云」(0221-05)と入真言門住心品の文を列挙されている。これをまとめると以下である。
 Ⅰ、『秘密主大乗行あり無縁乗の心を発す法に我性無し何を以ての故に彼往昔是くの如く修行せし者の如く 蘊の阿頼耶を観察して自性幻の如しと知る』
 Ⅱ、『秘密主彼是くの如く無我を捨て心主自在にして自心の本不生を覚す』
 Ⅲ、『所謂空性は根境を離れ無相にして境界無く諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性』
 ⅳ、『大日尊秘密主に告げて言く秘密主云何なるか菩提・謂く実の如く自心を知る』
 これらの経文のうちⅠ、は⑥他縁大乗心=唯識法相宗、Ⅱ、は⑦覚心不生心=三論宗の経証とすることができるであろう。またⅣは、いま空海の言うところを一応認めれば⑩秘密荘厳心=真言密教の経証とすることも可能である。しかし空海は⑧一道無為心=天台宗と⑨極無自性心=華厳宗の経証としては、Ⅲ、の文を挙げるのみである。Ⅲ、の文は、空性無境・極無自性を説いているが、これは、空・仮二諦から超越した中道を、言い換えれば隔歴の三諦を説く華厳経=華厳宗もしくは般若経=三論宗の教えに相当するものであり、天台大師の三諦円融を、したがって法華経の法門を表しているとは到底考えられないのである。
 空海もこれに気付いたのであろうか、彼は秘密荘厳心の経証とした「如実知自心」の文を⑧一道無為心の別名としてあてている。ただし、天台宗の三諦円融の理は、諸々の顕教の中では究極の理智法身を顕すものであるが、真言門から見れば「如実知自心」の初門であると位置付けている。
 そして、この位置付けの証拠としては、大日経の「初法明道」の文と大智度論の文として「入仏道の初門と名づく」を挙げているが、これらはいうまでもなく法華経を名指ししたものではないから適切な文証とはいえない。
 さらに空海は、⑧一道無為心の究極性の問題にこだわり、これを真言曼荼羅の一隅を占める観音菩薩の三摩地門と位置付けたり、釈摩訶衍論を援用して末だ至極に到達せずと言ったりしている。そして挙句の果てには「中に非ず是くの如くの一心は無明の辺域にして明の分位に非ず」と、天台法門=法華経を下したのであった。
 このように空海は、⑧一道無為心=天台宗についてはいまだ究極とはないことを証することに腐心し、「無明の辺域」と下したのに対して、⑨極無自性心=華厳宗については、真言行が開始される段階として積極的に位置付けている。つまり、華厳宗が究極とする果分不可説の境を出発点として、法身大日如来の働きかけと真言行者とが相応していく修行が始まりとするのである。
 このような位置付けは、華厳経と密教経典の親縁性を物語るものであり、大日経等が華厳経の延長上に成立したものであることを示すと同時に、反面において、華厳経・大日経等が法華経と根本的な相違を示唆しているのである。
 つまり、法華経があくまでも二乗作仏・久遠実成を説いて、衆生に対して具体的、厳密に成仏の法を顕したのに対して、華厳経や大日経は、不可説の境界や本有の法身を理として説くのみである。真言宗が印・真言という神秘主義的事法によって大日法身と合一できるとするのは、いわば神秘というブラック・ボックスの中に成仏の道を閉じ込め、そのうえに即身成仏の道を捏造したにすぎない。
 いずれにしても、大日経の所説は、般若経や涅槃経に通じるものがあるとはいえても、法華経にはとうてい及ぶものではなく、したがって、たとえ大日経に「大日経第一」の言葉があったとしても、それは般若経や華厳経に対してにすぎない。ゆえに大日経に基づくとされる空海の十住心判、特にその中における⑧一道無為心=天台宗の位置付けは、経論によらない我見の説であると断ずべきである。
 さらにいえば、空海は、大日経の「如実知自心」の文字を、法華経の諸法実相と無理やり結びつけているのであり、これは、一行が大日経疏において天台教学を用いて大日経を解釈したことを模倣したのである。
 日蓮大聖人は観心本尊抄において「爾前迹門の円教尚仏因に非ず何に況や大日経等の諸小乗経をや」(0249-07)「速疾頓成之を説けども三五の遠化を亡失し化導の始終跡を削りて見えず、華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず」(0246-04)と仰せであり、また、日寛上人はこれに基づき三重秘伝抄において、大日経所説の「心の実相」とは「小乗偏真の実相」に過ぎないと破折されている。すなわち、華厳経や大日経で説かれる実相は、化導の始終や種熟脱を踏まえないものであり、衆生化導の実際においては小乗教に等しいのである。
5 禅宗の教判
 本抄には、禅宗の教判として、
   ①「楞伽経第一」
   ②「首楞厳経第一」
   ③「教外別伝」
 の三つが挙げられている。この三つの教判は、中国における禅宗の変遷と関係しているので、まず中国禅宗史を概観しておきたい。
 禅宗は6世紀初めに南インドより中国に渡来したとされる菩提達磨を開祖とする。同宗のいうことによれば、達磨は、摩訶迦葉を第一祖とするインドの付法蔵の第二十八祖であり、また、中国ではこの達磨を初祖として、第二祖慧可・第三祖僧燦・第四祖道信・第五祖弘忍・第六祖慧能と法灯が伝えられたとし、これを「西天二十八祖・東土六祖」と呼ぶ。
 しかしこれは、8世紀以降における南宗禅の成立に伴い、同宗の宗風の理想的な体現者として仰ぐ慧能を、釈尊以来の正統を継ぐものと位置付けるために形成された説であり、後述するように歴史的な事実を無視したものといわざるを得ない。禅宗は「以心伝心」をその伝法の基礎とするが故に、一宗成立の基盤として、このような系譜の正統化を必要したとみられる。また、開祖・達磨についても少林寺における面壁九年など種々の事蹟が伝えられているが、その多くは南宗禅の宗風に合わせて後代に作られたフィィクションである。
 南宗禅のいう東土六祖の系譜も元来、一繋りのものではなく、事実としては次の三つの段階に分かれる。
①楞伽宗
 達磨は、当時、華北の地で活動していた多くの修禅者の一人であったが、講経等を中心とする当時の仏教界の動向に飽き足りない者達が次第に彼のもとに集まり、宗禅者の私的な集団が芽生えた。そして続高僧伝の伝えるところによれば、達磨・慧可の法孫達により、三論宗の影響下で楞伽経の研究を重視するグループが形成され「南天竺一乗宗」と称した。いわば「楞伽宗」ともいうべき宗派が達磨・慧可の門下によって形成されたものといえる。
②東山法門
 7世紀初め、上の楞伽宗とは別に、天台法門の影響を受けた修禅集団が、道信・弘忍を中心として形成され、自ら「東山法門」と称した。彼等は、天台大師が常坐三昧の根拠とした文殊説般若経に説かれる一行三昧を根本とし、「守心」すなわち本来清浄なる一心を守り、本来の自己に目覚めることが禅の意味であるとした。煩悩を破するための修禅とは異なり、ひたすら自心を観ぜよとするこの禅こそ正当の禅であるとして、彼等は達磨以来の以心伝来の相承をいうようになった。
 弘忍の弟子の神秀は、7世紀末に唐朝の帰依を受けて一世を風靡したが、まもなく新来の真言宗にとって代わられ、しかも南禅から達磨禅の正統ではないとして、「北宗」と貶称され、南禅宗の興隆とともに法灯が途絶えた。
③南宗禅
 8世紀初めに、荷沢寺の神会が、五祖、弘忍を継ぐ六祖は北宗禅の神秀ではなく、慧能であると主張したのを契機として、「即心是仏」を強調する慧能門下の南宗禅が勢力を伸ばし、六祖壇経等、六祖・慧能を正統と主張する種々の伝記の作成、宝林伝による「西天二十八祖・東土六祖」の系譜の確定、百丈清規による教団の規定や修行生活の規則の成文化等により、一宗としての形態を整え、中国禅宗の主流を形成した。特に、会昌の破仏以後は他の仏教諸派が衰える一方であったのに対して禅宗のみは発展を続け、栄代には仏教界の中心勢力となった。
 なお、南宗は、慧能の門下から南岳系と青原系の二系統に分かれ、唐末から五代にかけて前者から臨済宗と潙仰宗、後者からは曹洞宗・雲門宗・法眼宗の五宗が成立し、さらに北栄の初めに臨済宗から黄龍派・楊岐派の二宗が成立した。これを五家七宗というが、このうち臨済宗のみが南栄時代の五山十刹の制度のもとで栄え、また曹洞宗がわずかに命脈を保った。鎌倉時代以降に日本に伝えられた禅宗は、この臨済・曹洞の二宗を中心とする南宗禅の系統である。
 以上が中国禅宗史の概略であるが、次に本抄に挙げられている禅宗の三つの教判を順次検討し、同宗の本質である「教外別伝」の誤りを明らかにしていきたい。
一、「楞伽経第一」
 禅宗の教判の根本は、南宗禅において強調された「教外別伝」であるが、「楞伽経第一」は、既に述べたような楞伽経を重視する初期の禅宗の動向を示すものであるとともに、これが実は「教外別伝」思想の先蹤を成しているのである。
 続高祖伝巻十六によれば、菩提達磨が慧可に求那跋陀羅訳の楞伽経を授けて「我れ漢地を観るに、惟だ此の経のみ有り、仁者、依行して自ら度ることを得べし」と述べたという。つまり、達磨の見るところによれば、中国にある経典のうち楞伽経のみが肝要であり、この経に基づいて修行すべきである。との意である。これを受けて慧可も弟子達に対して、この経の重要性を強調したため、慧可の門下は等しく楞伽経を宣揚したとされる。
 達磨は、道に入る方法として理入と行入の二つを説くが、そのうち理入においては諸経典に説かれる教えの真髄をつかむことが要求されるとする。その真髄とは、一切衆生の本性は平等であるとの理であり、これを信じて、壁を観ずるごとくに、ひたすら自己の心を観じていけば、その平等の本源に合一して悟りに入ることができるとするのである。この、ひたすら自心を観ずるという禅法を達磨の「壁観」という。面壁九年の伝説はおそらくこの禅法に由来するものであろう。
 このように達磨は、一切経の真髄は一切衆生の平等の本性を説くことにあるとしたうえで、その“平等の本性”を悟るには、ひたすら自心を観ずればよいとするのである。
 諸経典のうちで楞伽経が特に重視された所以は、楞伽経は、唯識論を基調とする経典であるが、経典全体の宗旨を「一切仏語心」と記していることにある。これは“一切の仏の言葉の真髄”という意味であり、言い換えれば言葉として表されていない仏の密意を意味する。この仏の密意を明かすのが楞伽経の主旨だとするのである。後に南宗禅の基礎を確立した馬祖道一が達磨の教えについて「仏語心を以って宗と為し、無門の法門と為す」と要約しているように、達磨は、楞伽経の「仏語心」をもって、ひたすら自心を観じて平等の本性に合一しようとする壁観修行の正統化の依り所としたのである。
 また、同経には、「成道から涅槃に至るまで如来は一字も説いていない」という。いわゆる「如来一字不説」が説かれている。さらに、真実は文字を離れたところにあることが再三強調され、法は自己の心に現れるものであり、教説はそれを指す指にすぎないとも説かれているのである。
 これらのことも、達磨が楞伽経を重視した理由ではないかと考えられる。なぜならば、達磨の禅法はひたすら自心を観ずることを要諦とし、経典の所説をすべて排除するからである。このような達磨の禅法にみられる経典軽視の傾向が、後代の禅宗においてはさらに増幅され、いま述べた楞伽経の所説が「教外別伝」「不立文字」等の主張の根拠とされていうのである。しかしながら、これは明らかに楞伽経への誤解ないし曲解であり、この点について日蓮大聖人は蓮盛抄で「本法自法の二義を知らざるか学ばずんば習うべし」(0154-03)と仰せである。すなわち楞伽経の「如来一字不説」等の所説は、あくまでも、仏の自内証の法、あるいは本源的な常住の法が言葉に表しては説き得ないことを強調するためのものであり、また、それにより、教法の言葉にとらわれて真実の法を見失うことを戒めているのであって、決して、ひたすら自心を観ずれば悟りに入れるとか、法は心から心へと伝えられるというようなことを説いているのではないのである。
二、「首楞厳経第一」
 首楞厳経は、インド僧・般剌密帝によって漢訳されたと伝えられているが、最近の研究では、インドから将来された経典ではなく、8世紀初頭に中国で撰述された偽経であるというのが定説となっている。
 この経の成立から1世紀ほどの間、中国では、天台宗の妙楽大師や華厳宗の第四祖・澄観などが活躍したにもかかわらず、この経に注目した学者は見られない。首楞厳経に言及している最初の資料は8世紀末の歴代法宝記である。これは、禅宗の四祖、道信の流れを汲む保唐派の無住の正統を主張するもので、この中に記されている無住の言葉の中に首楞厳経の文が多数引用されている。
 9世紀に入り、教禅一致を唱える宗密が、円覚経の注釈書に首楞厳経の文を多用したのを契機に、首楞厳経・円覚経が唐末・五代の禅宗において盛んに読まれるようになり、さらには、栄代から明代にかけては禅宗だけではなく知識階級に広く愛好されるのであった。
 密教は先に触れた荷沢宗の神会にはじまる荷沢宗の五世であるとともに、華厳経においても、澄観を継ぐ第五祖としているという特異な立場にあった人物である。南宗禅の主流である相馬等が「教外別伝」を唱える中にあって、彼が「教禅一致」を主張するために円覚経・首楞厳経の二経を用いたことは、この偽経である両経の性格と禅宗の中での位置を示す抽象的なことであり、ひいては禅宗の本質を示すことであったといえるのである。この点について以下に述べることにしたい。
 この頃は、前述ごとく北宗禅から南禅宗へと禅宗の主流が移行する時期であった。この移行の教学的な背景として、隋唐の仏教、特に天台法門から脱却という課題があった。天台大師の止観行は、禅宗のように禅定だけに偏することなく、経典に説かれるすべての法理と修行を総合的に体系化したのであり、しかも、その体系化の根本原理を成すのが、法華経によって立てられた諸法実相・三諦円融の法理であった。それ故、天台大師の止観行は、教相の徹底的な追求のうえに成立したものであり「教相相資」を基本的な性格としていったのである。
 禅宗は、この天台法門の影響を脱却して一宗の独立を図ろうとしたのであるが、そのためにとらわれた方向が、教相の否定であり、北宗から南宗への移行は、この方向性の徹底を意味するのである。
 東山法門では、仏の心と同体の本来清浄なる本心を守ることが悟りに入る道であるとし、そのために心を静めることを目的とする一行三昧を強調した。
 また、北宗の神秀は、守るべき本来心を大乗起信論によって説明したり、それを了知するための修行として、華厳経等の五つの経典・論書を「方便」として用いる禅法を説いた。
 このように、南宗成立以前においては達磨禅の本来心を説きつつも、心を静めるための修行や心を了知するための方便行を強調したのである。
 これに対して南宗では、このような漸修を否定し頓悟頓修を強調する傾向は南宗だけれなく、当時の禅宗の各宗派に見られるのである。例えば保唐派では戒律・化儀を徹底的に排斥し、牛頭派では無修無証を強調して悟りや修行への執着を否定している。これらはすべて、教相判釈を基調とする随唐の仏教の枠を取り払おうとする動きにほかならない。
 宗密は、こうした動向の中で改めて教相の重要性を指摘するとともに、頓悟漸修主義を立てたのである。頓悟漸修とは、理においては頓悟であるが、事においては漸修を必要とするというものである。すなわち「即心即仏」とは心が本質において仏と同じということであり、これを頓悟することは重要であるが、頓悟のためには無限の漸修を必要とする宗密は説く、そしてこの主張を裏付けるために、円覚経や首楞厳経を用いたのであった。
 しかしながら、密経の教禅一致は、華厳宗の五教判を前提としたものであり、彼は種々の禅法を五教の浅深に相応させ、外道禅・凡夫禅・小乗禅・大乗禅・最上乗禅の五種に分け、心が即ち仏であると頓悟し、その立場で修行する最上乗禅が達磨禅にあたるとした。これは、本有の理を説くが、それを衆生の現実の上に開くことができない非実践的な華厳経と、実践的ではあるが教相を欠く達磨禅と安易に結びつけたにすぎず、教相の徹底的な追求のうえに成った教観相資の天台法門とは似て非なるものである。
 宗密が、教禅一致を説くために偽経である円覚経や首楞厳経を前面に用いたのも、その教相観の脆弱さを示している。この両経は、諸宗による教相判釈がほぼ出揃った段階でも撰述されたおのであり、その成果を踏まえて諸経論の両説を折衷して取り入れたものである。したがって啓蒙的・文学的な意義はあるにしても、仏法を正しく明かすとはいえない。
 また、このような性格をもつもので、どんな立場からも使えるのであり、事実、「教禅一致」をいう密教だけでなく、「教外別伝」をいう南宗の祖師達も両経を禅問答の素材として多用している。
 さらにいえば、このような経典を用いるところに、禅宗の「教外別伝」思想の根本的な限界がうかがえるのでる。その根本的な限界とは要するに、人師の主観的な悟りのみに一宗の基礎を置きつつ、それが仏法であることを主張しようとする根本的矛盾である。
 後に禅宗では、この矛盾を補うために、祖師達の「語録」や、過去の祖師達の大悟体験のきっかけとなった疑問点を集めた「公案」を重視するようになった。これらのことは、結局のところ、「教外別伝」の禅宗も「教」を必要としたことを示しているのであり、「以心伝心」による「教外別伝」の一宗を基盤とする禅宗の根底を揺るがす事態なのである。
 宗密は、南宗の「教外別伝」の思想の限界に気付いた人であるが、彼自身の教相観の脆弱さのため禅宗の枠から脱却できなかったのである。彼の教禅一致の思想は、後に法眼宗永明延寿に受け継がれた。延寿は、天台教学に依って宗鏡録百巻を著し、禅教一致思想を大成させたが、これは、普遍的な心の本性に返るのが禅であることに基づく、一種の総合主義であり、これにより、栄代以後には、禅宗と浄土教の折衷である念仏禅や、儒教・道教・仏教の三教一致の思想が出てくることになる。
 以上「楞伽経第一」「首楞厳経第一」の二教判を検討してきたが、いずれも「教外別伝」を本質とするのである。そこで次に、この「教外別伝」そのものを検討してみたい。
三、教外別伝
 既に述べたように、達磨は、衆生の平等な本性を説くことが、諸経典の真髄であるとし、自らの心をひたすら観ずる壁観がその真髄にかなった道であるとした。これは、諸経に説かれる教法を、いったん「真髄」たる「平等の本性」に還元し、そのうえで教法から離れて「自心」を観ずる「壁観」を諸経の帰結とする、という構造をもっている。したがって、諸経を踏まえているようでありながら、結局は諸経を離れて立てるものであり、明らかに「教外」に道を立てる論理を内包している。このような達磨の所説にうかがえる欠陥を、さらに詳しく示せば次のようになる。
 第一に、はたして諸経、すなわち、いずれの経も「真髄」は「平等の本性」を説くことにあるといえるのか、という点である。
 これは法華経についてはいえることである。法華経など諸大乗経典は一見、衆生の「平等の本性」を説いているようである。しかし、法華経を別にした諸大乗経典は、二乗や女人、悪人を不成仏としていることから、真の「平等の本性」を説いているとはいえないのである。
 第二に、仮に一歩譲って衆生の「平等の本性」を説くことが諸経の「真髄」であることを認めたとしても、だからといってひたすら「自心」を観ずるだけで「心」の「本性」ないし「本源」を開覚できるとする根拠は何もない、という点が挙げられる。
 法華経は、そのような理を説くだけでなく、衆生に対して妙法を開示するために説かれた経である。そして、実際に法華経を聴聞する在世の衆生だけでなく、滅後においても法華経を受持する衆生には妙法が開示されていることを説いている。つまり、経を聞き、受持することの衆生の成仏のために強調してやまないのが法華経である。
 これは、法華経を聴聞し、受持することが、衆生に妙法が開かれるための不可欠の契機であることを示したものであり、まさに、法は経によって伝えられることを示しているのである。天台大師は、このような法華経を釈尊の出世の本懐として、一代聖教の「真髄」としたのである。
 達磨は、心の本性が万人に共通する普遍的なものであるから「自心」を観ずればよい、とする倫理を立てたのであるが、それでは何も仏法である必要はない、ということになろう。言い換えれば、衆生の「平等の本性」を説くのが仏法の「真髄」と決めつけ、それ以上の教相の追求を排除する達磨の行き方は、いわば仏法を外道と同じていく契機を内包しているのである。
 禅宗の歴史は、以上のような達磨の教えに内包される欠陥が露呈していく歴史があるといってよい。
 既に述べたように「教外別伝」説は、禅宗が一宗として独立するために勝手に立てた説であり、したがって経証があるはずはないのである。後代の禅宗では経証として大梵天王問仏決疑経の「我に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無想・微妙の法門有り。文字を立てず、教外に別伝し…摩訶迦葉に付嘱するのみ」との文を挙げる。しかし、この経が偽経であることは衆目の認めるところである。日蓮大聖人は蓮盛抄において、この経は伝訳の由来も明らかではなく、しかも禅宗の根源に関連しているのに古い記録も一切ないことを挙げて「偽文なり」と断じられている。
 「教外別伝」は、正確には教判ではなく、むしろ教判を否定する考え方である。しかし、仏法を「教外」と「教内」とに分け「教内」たる諸経典を総じて方便と否定しているのであるから、禅宗成立の規範となる教判としての役割を果たしているのである。したがって、南宗による禅宗確立期には、先に述べた「西天二十八祖・東土六祖」説や、その付法の際の「伝法偈」の作成、釈尊から更に遡る「過去七仏」の強調など、「教外別伝」の系譜の形成に力が入れられたのである。いずれにしても、所詮は経典を軽視するゆえの空しい努力といわざるをえない。
 この「教外別伝」の根底にあるものは、禅宗のいう「返本還源」、すなわち根源に返れば本来の姿に戻るという考え方である。人間の心は迷いに汚されているが、その本性である清浄なる心は仏の心と同じであるとし、更に、諸経はこの本来の清浄心を指し示しているのであるが、しかし、その本来の清浄心そのものは心から心へと伝えられる以外にない、とするのである。
 また、このような考え方から、ありのままの心に返ることが即ち悟りであるという「頓悟頓修」、あるいは心が即ち仏であるとする「即心是仏」が強調された。例えば、南宗の宗風を確立した馬祖は、「平常心」こそがすなわち「道」であると強調し、日常生活がすべて禅であり仏の顕であるとした。したがってまた、根源の心を覆う余計なはからいこそが排除されなければならないとする。例えば、臨済宗の祖である義玄は、人為に基づく一切の迷いを徹底的に排斥した。彼は、坐禅や仏祖にとらわれてはならないとし「殺仏殺祖」の言葉を残した。
 このような「即心是仏」の考え方は、与えていえば、一切を空とする三論宗の考え方に通じるものであるが、奪っていえば、結局のところ人間の心や日常生活を無媒介に仏と等置するものであり、無為自然をいうインドの自然外道や中国の老荘思想と何ら変わらないものに堕するのである。この「是心是仏」の邪義について、日蓮大聖人は、次のように破折されている。
 「愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや」(0152-05)
 「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ 増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(0152-07)
 栄代に入ると、こうした外道に堕する傾向が教団内に実際に現れたため、修行方法が見直されるようになった。唐代では坐禅の形態にすらこだわっていないとされたのに対して、曹洞宗では坐禅宗義をとり、真実の修行は一切の作為を伴わない坐禅であるとした。
 また、臨済宗では、現実の心が即ち本来心であるという考え方を批判するとともに、曹洞宗の坐禅宗義をも批判し、公案禅が案出された。これは迷いの自覚の修行の出発点とするものであり、公案による大疑を契機に迷いを破り、大悟を得ようとするものである。
 しかしながら、これらはいずれも手段上の工夫に過ぎない。結局は本源の心性を覚知する見性体験によって仏の心性と同ずることができる。という「見性成仏」を説くのであるから、いずれにしても外道に堕する傾向は払拭できないのである。そのことは、やがて儒教と禅の一致を説くに至る禅宗の歴史そのものが証明することになる。そして、その根本原因は、「教外」に法を立て「教内」の経典を否定することにあるのであり、禅宗のいう「教外」とは「真髄」なのではなく、仏法の外の外道そのものといえるのである。ゆえに、大聖人は「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、涅槃経に云く『若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり』云云」(0152-17)と禅宗の本質を喝破されている。
6 浄土宗の教判
 本抄では、“一切経の中で浄土三部経が末法では機教相応して第一である”と浄土宗の教判が示されている。ここに明らかなように、浄土宗の教判は、これまでの諸宗の教判とは異なって、法理の浅深よりも、衆生の時機に適っているかどうかを基準としている。
 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三経を「浄土三部経」と名付けて浄土宗の依経としたのは日本の浄土宗の開祖・法然であるが、この三経に説かれる阿弥陀仏の本願力による往生浄土を強調する考え方は、既に中国の曇鸞・道綽・善導の所説を概観し、最後に、それらを総合して浄土三部経を選び取る教判を立てた法然の所説を検討してみたい。
 中国の浄土信仰には元来、弥勒信仰と阿弥陀信仰の二系統があり、南北朝以前には両系統が対峙していた。これは、弥勒菩薩の浄土を説く経典と弥陀仏の浄土を説く経典が多数訳されたことによる。しかし、隋・唐の時代には阿弥陀信仰の方が主流を占めるようになった。
 中国浄土宗の始祖としては、通常、蘆山慧遠の名が挙げられる。慧遠の浄土教は、いわゆる浄土三部経ではなく般若経系統の般舟三昧経に依るものである。また往生浄土を第一義とするのではなく、般若修道のための止観行の一環としての念仏三昧であり、現世での修行において阿弥陀仏を観ずることにより、さらに悟りに進もうとするものであった。つまり慧遠においては、念仏とは仏を想念することであり、観仏にほかならなかった。もっとも般舟三昧経には往生浄土も説かれていたため、彼のもとに形成された念仏三昧を目的とする結社の中から、往生浄土を願い、それを説く者も多く現れたが、あくまで諸行の中の一環であることにはかわりはなかったのである。
 慧遠以後も、中国浄土教の主流は、自力修行の一環としての念仏三昧、つまり観仏としての念仏だったのであり、他力念仏を強調する曇鸞・道綽・善導の系譜はむしろ傍流であったといえる。曇鸞・道綽・善導の教学は、そうした傍流の教義を正当化するためのもので、それゆえ、その所論には強引な解釈、無理な論法が多々、見受けられるのである。
一、曇鸞
 曇鸞の浄土思想の特徴としては、
   ①難行道と易行道の区別
   ②阿弥陀仏の本願力の強調
   ③称名念仏の強調
 の三点を挙げることができる。これらが道綽・善導から日本の浄土宗に至る教義の基本的な骨格となってきたのである。
 曇鸞はその著、浄土論註の冒頭において竜樹の十住毘婆沙論の易行品に基づき「難行道」と「易行道」の二道を区別している。
 「難行道」については、「五濁の世、無仏の時」においては菩薩が不退転の位をもとめることは困難であるとして、その理由として、
   ①外道が説く善法が菩薩の法と紛らわしい
   ②声聞の自利が大慈悲を損なう
   ③無顧の悪人により勝徳が破られる
   ④顛倒の善果が仏道修行を妨げる
   ⑤ただ自力だけであって他力がない
 の五点が挙げられている。
 これに対して「易行道」とは、「信仏の因縁」によって「仏の願力」に乗じて浄土に往生し、そこで「仏力」の支えによって大乗正定聚に入ることであり、この境位に入れば涅槃に至ることが約束されるとする。この「易行道」の説明からみると、曇鸞が「難行道」としているのは他力の支えのない自力のみの道があるといえよう。そして曇鸞は、阿弥陀仏を信ずることによって、その仏願力で易行道が得られるとしている。
 この曇鸞の説は、次の諸点において竜樹の十住毘婆沙論の趣旨から逸脱している。
 第一に、曇鸞は「五濁の世、無仏の時」でから「難行」であるとしているが、竜樹の十住毘婆沙論には、このような時代的な制約を「難行」の条件とするような考え方はどこにも見られない。
 第二に、曇鸞は「難行道=自力」と「易行道=他力」を立て分けて、二つの別な道として説いているが、このような立て分けも竜樹の十住毘婆沙論にはないのである。
 そもそも同論には「難行」という言葉はあっても「難行道」という言葉はない。そしてその「難行」とは、菩薩が無始以来の罪業を消滅して、清浄なる境地を得て不退転の位に至ることを難しいことをいったのである。つまり、不退転の位に至ること自体が本質において「難行」なのである。竜樹のいう「易行道」とは「安楽なる方便」の意であり、あくまで「難行」を行ずる場合にとらわれる「方便=てだて」である。竜樹においては、決して「難行道」と「易行道」という二つの道があるというのではない。
 第三に、竜樹のいう「易行道」とは「信方便」すなわち「仏を信ずる道」であるが、この道を支える仏力についても、竜樹は十方の諸仏、過去七仏、未来の弥勒仏等、三世の一切の仏力に帰依すべきことを説いているのであって、決して曇鸞のように阿弥陀一仏には限定してはいない。元来、大乗経において、十方諸仏を説いたのは、インド応誕の釈尊一仏に執着する小乗を破して、仏の普遍性・根源性を示すための方便であった。したがって、阿弥陀一仏の本願力に固執し、阿弥陀仏の本願力による往生浄土こそ無仏の世における「易行道」であるとする曇鸞の所説は、全く竜樹の十住毘婆沙論から逸脱した恣意的・独善的な説なのである。
 しかるに曇鸞は、この難行・易行の二道説を基盤にして、世親の往生浄土論を「易行道」を説いた書として絶賛しているのであるが、この世親の書に対する彼の解釈もまた恣意的であり独善的なのである。次にそれを見ることにしたい。
 曇鸞の浄土論註の主旨は「自力」に対し「他力」を強調したことにある。しかし、世親の浄土論には、このような「他力」の概念はない。同論の正式な題名は無量寿経優婆提舎願生偈というが、この「優婆提舎」とは経に説かれた義を教相と照応させて明らかにしていくことである。世親は同論で唯識瑜伽行派の立場に立ち、無量寿経の所説の義を唯識説の上から法相的に明らかにし、阿弥陀如来とその国土を自心を観ずる実践に役立てようとしたのである。この意味で、同論はむしろ無量寿経を素材として「自力」修行を説いたものとさえいわれている。
 しかるに曇鸞は同論を「他力」の立場から解釈したのである。それは例えば、浄土論に説かれる修行の仕方である「五念門」について以下のような解釈が見られる。
 「五念論」とは、無量義経にあり、
   ①礼拝=身行によって阿弥陀仏を礼拝すること
   ②讃歎=口業によって阿弥陀仏の名を称えて讃歎すること
   ③作願=心において往生浄土の願いを一心に作すること
   ④観察=智慧によって阿弥陀仏・菩薩・浄土を観ずること
   ⑤回向=一切の苦悩する衆生を捨てまいと心に常に願いを作すこと
 の五つである。世親は浄土論で、この「五念門」のそれぞれの目的について、
   ①礼拝=往生浄土の意を起こすため
   ②讃歎=阿弥陀の名の示す無量光の意義に如実に相応するため
   ③作願=心を一つのものに集中する修行を如実に行ずるため
   ④観察=対象を観ずる修行を如実に行ずるため
   ⑤回向=大慈悲心を成就うるため
 として、身業・口業・心業・智慧による自行と、衆生救済の利他の心を明らかにし、無量寿経に基づく体系を形成しようとしたのである。
 しかし曇鸞は、このような世親の意を無視して、徹底的に「他力」を強調したのである。たとえば、
   ②讃歎=“決定の信をもって阿弥陀仏の名をとなえること”この称名の力により衆生の志願が満たされる
   ③作願=“往生を願えば阿弥陀仏の名号等の力により一切の悪を止めることができる”
   ④観察=“観察によって浄土の真実の相が明らかになるのは行者の力によるのではなく、如来の本願力により浄土の荘厳が自ら現れるからである”
 としたのである。
 これらを見ると、曇鸞の浄土論註は、世親の浄土論の「註」ではなく、むしろ世親を利用して己義を述べたものといえよう。このような荘厳己義の傾向は、次に見る道綽・善導においてさらに甚だしくなるのである。
二、道綽
 涅槃経の学者であった道綽は、玄中寺における曇鸞の業績碑を読んで、それを機縁に浄土教を改心したと伝えられている。彼の著、安楽集の所説の特色として、
   ①聖道門と浄土門の区別
   ②称名念仏こそ時機相応の法である
   ③阿弥陀報身の強調
 の三点を挙げることができるが、これらはすべて曇鸞の己義を継承し、さらに捕捉・発展せしめたものであり、教判としての色彩をより強く打ち出している。以下この三点を簡単に見ていくことにしたい。
 道綽における「聖道門」と「浄土門」の区別は、既に見た曇鸞の「難行道」「易行道」の区別を発展させたものである。すなわち安楽集では、大乗における「二種の勝劣」を挙げ「一には謂く聖道・二には謂く浄土なり」といっている。そして第一の「聖道門」については、いわゆる“二由一証”を挙げて、「今の時」に相応しない教えであるとする。
 まず“二由”については「聖道の一種は、今時に証し難し。一には、大聖を去ること遥遠なるに由る。二には、理深く解微なるに由る」と述べる。曇鸞は「五濁の世、無仏の時」には他力による「易行道」が必要になるとしたが、道綽はこの考え方を基盤として、釈尊が入滅してから遥かな時を経ているので、聖道では証得が難いというのである。安楽集の別の個所では、大集経で説かれる五箇の五百歳を挙げて“時機と法は相応すべきである”としているが、道綽はこれを根拠として上の第一の理由を述べたものと思われる。第二の理由である「理深解微」とは、「聖道門」は、その法においては「理が深い」が、その教えを受け入れる人においては「解がわずか」ということであるから、やはり「法」と「機」の不一致を理由として「聖道門」を「難行道」であるとしているのである。
 また道綽は「聖道門」が難行であることの経証として、大集経からの引用として「我末法時中の億々の衆生は、行を起こして道を修するに末だ一人も得る者有らず」との文を挙げている。
 この「聖道門」に対して、「浄土門」については「当今は末法にして、現に是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入す可き路なり」と述べ、末法今時においては「浄土門」こそ悟りに入れる唯一の道であるとするのである。
 このように道綽は「聖道門」による仏道成就を困難とし「浄土門」を選ぶべきであると主張するのに、時機の法との相応ということを第一義としているのである。曇鸞が「自力」と「他力」を区別して、「他力」による「易行道」を強調したのに対して、道綽は、その「他力」による「易行道」こそが末法のために説いた聖道であると強調することにより、「浄土門」を正当化しようとしたのであった。
 ただし道綽のいう「聖道門」は、往生浄土を教える「浄土門」以外の教えというのみで、その内容については厳密に定義していない。また、「浄土門」についても、末法相応という視点からは「懺悔し福を修し応に仏の名号を称すべき時」、「称名はこれ正なり」と称名念仏を正行とするに至ってはいない。これは、彼が依拠とした観無量寿経をはじめとする経典の多くが観相念仏を中心としており、称名はその一環にすぎなかたからである。ところが観想念仏を強引に払拭して称名念仏を正行として立てたのが後述の善導なのである。
 なお道綽は、阿弥陀仏と極楽浄土の性格を「依仏」「依土」として規定し、これにより往生成仏の確かなことを強調している。このように強調する理由は、一つには、たとえ「浄土門」の易行によって浄土に往生しても、その往生した先の仏が真実の仏ではなくて確実に正定に入り成仏することができれば、阿弥陀仏の本願力を大前提とする曇鸞・道綽系の浄土教が根底から崩れてしまうことになるからである。
 また、もう一つの理由は、凡夫が往生できるような浄土はあまり高貴な所ではないのではないか、という疑問が根強くあったからである。特に天台大師をはじめ、浄影寺慧遠や三論宗の吉蔵など、当時の中国仏教界における錚々たる学者が等しく、阿弥陀仏とその浄土は「化仏」「化土」なり、と断定していたからである。
 このゆえに道綽は「現在の弥陀は是れ報仏、極楽宝荘厳国は是れ報土なり」と、“阿弥陀浄土=報仏報土”論を展開したのであるが、これは実に歯切れが悪く、論というよりも単なる断定的な主張にすぎなかった。たとえば、唯一の経証としている大乗同性経の文も、それとは確定できないほどの曖昧な趣意にすぎない。また、阿弥陀仏は極楽では報身であるが穢土に示現するときは化身仏であるとしたり、阿弥陀浄土は穢土に隣接する所であると同時に浄土の初門であるとするなど、苦肉の策を弄している。
三、善導
 以上の曇鸞・道綽を承けて浄土教として大成したのは善導である。日本の浄土宗の開祖である法然が「偏に善導一師に依る」と言い、浄土真宗の開祖である親鸞が「善導独り仏の正意を明かす」と述べているように、善導の浄土教学がなければ、日本の浄土系諸宗もありえなかったと考えられる。しかし、その善導による“浄土教の大成”なるものは、実に強引な経典解釈によって成し遂げられたのであった。 
  善導の所説の特色は、
   ①正行と雑行とを立て分け称名念仏を正行として確立したこと
   ②無量寿経の阿弥陀本願の立場から観無量寿経を解釈し、いわゆる浄土三部経を正依とする考え方を示した
   ③“阿弥陀浄土=報仏報土”論を更に展開した
 ことなどが挙げられる。
 このうち、まず善導が観経疏において展開した観無量寿経の解釈について一瞥してみたい。
 曇鸞以下の系統における主張の核心は、称名念仏という易行が浄土経典の本旨であるとして、無量寿経で説かれる阿弥陀仏の本願力の故に、この易行によって浄土に往生することができ、また浄土に往生すれば容易に成仏していくことができる、とすることにあった。しかし、浄土経典の多くは称名念仏ではなく観想念仏を以て念仏三昧としていた。
 特に観経は「十六観法」を説いており、この観仏三昧が特に重視され広く普及していたのである。しかるに善導は、まず「十六観法」の中に称名念仏を説く部分があることに着目し、観仏三昧と念仏三昧の両方の経の主旨であるとした。ここに既に無理があるが、善導はさらに、観経も一心に往生浄土をねがうことを強調しており、これが一経の本質であるから、この本質から見れば観経もまた無量寿経や阿弥陀経と同様、称名念仏を本旨としているのであるとした。そして、この強引な解釈を補強するため善導は、観経の教主として釈尊と阿弥陀仏の二尊を立てたのである。すなわち、同経正宗分である「十六観法」のうち、前の十三観 を定善として、これを韋提希夫人の疑問に答えた釈尊の所説とし、後の三観を散善として、これを阿弥陀仏の無問自説としたのである。
 同経には「諸仏を見るを以ての故に念仏三昧と名く」とあり、定善による観仏三昧が同経の宗旨であることは明瞭であり、従来は観経の「十六観法」はすべて定善であると解釈されていた。それを善導は、無理やりに散善義を立てて、そこに十三観の観仏三昧とは異なる称名念仏が示されているとした。さらに教主を阿弥陀仏にかえてしまい、念仏による阿弥陀仏の浄土への往生こそが観経の本旨としたのである。
 このように、善導は称名念仏を正当化するために、全くでたらめな経典解釈を施したのである。これは曇鸞が世親の浄土論を他力の立場から強引に解釈したことと通ずるものであり、このような無理をなさなければならないこと自体、彼等の浄土教の非正当性を露呈しているといってよいであろう。
 次に、善導の仏身・仏土論を検討していたい。彼は阿弥陀仏および西方浄土について、道綽と同じく「報仏・報土」であるとする。その経証としては、道綽が挙げた大乗同性経のほかに、無量寿経や観経の文を挙げているが、いずれも独善的な解釈でこじつけているにすぎない。また、そのような高貴な仏土にどうして凡夫が往生できるのかという点に対しては、そもそも往生は衆生の力によるのではなく仏の本願によるのである、としている。
 この論理の基盤には、弥陀仏は、法蔵菩薩のときに立てた本願を成就した“報い”として報身仏になったのであるから、その本願に乗じてのみ阿弥陀仏の報土に往生することができる、という一種の循環論法があるといえる。最後に「正行」と「雑行」の区別について、その所説を見ることにしたい。これは、阿弥陀仏の本願力に相応する凡夫の側の修行の内容を詳しく明かそうとしたのであった。
 すなわち善導は、往生の正因として観経所説の至誠心・深心・回向発願心の三心を挙げ、そのなかで特に深心を重視する、深心とは“深信の心”の意である。
 深信には二種があり、一つは自身が罪悪深重の凡夫であることの自覚、もう一つはその自分が仏の本願力により必ず往生できるとの絶対の信である。さらに後者の絶対の信について「人に就いて信を立つ」と「行に就いて信を立つ」との二つの信の立て方があるとする。前者は釈尊ならびに諸仏が阿弥陀仏による救済を説く言葉を信ずることであるとし、後者の「行に就いて信を立つ」に関して「正行」と「雑行」を論ずるのである。
 彼は、世親の浄土論の「五念仏」に基づき仏道修行に読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五種を立て、阿弥陀仏に対してなされるこの五種の修行を「正行」とし、他仏に対してなされるものを「雑行」と立て分けたのである。
 さらに善導は、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥の時節の久近を問わず、念念に捨てざる者は、是れを正定の業と名づく、彼の仏願に順ずる故なり」と述べ、正行のうちで称名を正定業、他の四つを助行とし、正定業の専修こそ仏の本願に順ずる修行であるとしている。
 この「正行」「雑行」の立て分けからすると、例えば阿弥陀浄土への往生を説かない経典の読誦は読誦雑行であり、阿弥陀仏以外の諸仏を礼拝するのは礼拝雑行であるとされる。つまり、善導は「正行」「雑行」を立て分けて、称名念仏を専ら修せよというのであるから、この立て分けは、阿弥陀仏・浄土三部経以外の一切の諸仏・諸経を選び捨てる機能を果たしているのである。曇鸞の「難行道」「易行道」道綽の「聖道門」「浄土門」は、その立て分けの具体的な内容においてまだ不明なところがあったが、善導の「正行」「雑行」の立て分けに至って、諸仏・諸経を捨てるという立場が明確に示された。これが法華経を含めた大乗経典、釈迦仏をはじめとする仏菩薩を「捨閉閣抛」せよ、との法然房源空の主張に結びついていくのである。
四、法然
 これまで、中国の曇鸞・道綽・善導によって、浄土教学がどのように形成されていったかをたどってきたが、これから中国の諸師の所説を総合して、教判として整備することにより一宗を立てたのが日本の法然である。彼は、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の「浄土三部経」と世親の浄土論との“三経一論”を浄土教の正依の経論と定めるとともに、菩提流支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康という中国における師資相承の系譜を立て、その系譜によって浄土教の正統が伝えられたとした。
 法然の所説の核心は、その主著、選択本願念仏集(選択集)の題名に端的に示されている。すなわち法然によれば「撰択」とは「取捨の義」で、諸経・諸行を捨て称名念仏の一行を選び取ることである。しかも、この「撰択」は阿弥陀仏・釈尊・他方化仏自身によるものだというのである。彼は、このことを経文によって説明しようとして、四経から仏による八つの「撰択」を挙げている。ここでは、法然のいうところを示し、その一つ一つに批判を加えておきたい。
 阿弥陀仏による「撰択」としては、選択本願・選択化讃・選択摂取・選択我名の四つが挙げられている。
 ①無量義経において法蔵菩薩が二百十億の諸仏の国土において行われている諸行の中から、衆生の往生の行として念仏の一行を選択したとし、これを「選択本願」と呼んでいる。 仏菩薩の誓願には、一切の仏菩薩が立てる総願と、それぞれの仏菩薩に固有の別願とあるが、無量寿経では阿弥陀仏の別願として「四十八願」を説く。その第十八願に、若し衆生が至心に阿弥陀仏の浄土への往生を願えば必ず往生できるとされている。法然はこれを根拠として、念仏の一行が阿弥陀仏の本願において選び取られた往生の行であるとするのである。
 しかし無量寿経には、第一に、至心に往生を願えば往生できるとはされているが、それが称名念仏の一行であるとは説かれていない。第二に、たとえ至心に願うことが称名念仏であるとの解釈を認めたとしても、その一行を選んで他の行を“捨てる”とはどくにも説かれていないのである。
 法然は、法蔵菩薩が二百十億の仏土で行われている諸行から、不浄浄行を捨てて、清浄行たる念仏の一行を選び取ったというが、無量寿経には清浄の行を「摂取」しただけである。法然はこれを「選択」と同義であるとしたのである。しかし、この「摂取」とは“修めた”“修業しおわった”の意であって、決して“選択した”との意ではない。また法然は、自説を補強するために無量寿経の異訳における「撰択」の語を出している。だがこの場合は、法蔵菩薩が自分の四十八願を選択したという意であり、諸行に対して称名念仏を取捨選択するとの意はない。
 さらに第三に、これが最も重要な点であるが、当の第十八願には「唯、五逆と誹謗正法とを除く」とあるのに、法然はこの一文をほとんど軽視している。特に「誹謗正法」については全く検討していない。日蓮大聖人は、法華経を捨てるべしとした法然の「撰択」こそ、この「誹謗正法」にあたるとされているのである。
 この「選択本願」をはじめとして、法然のいう諸々の「撰択」は、その多くは善導の経典解釈に依存して立てられたのであり、人師の我見をよりどころとして法に依らない独善性に貫かれている。「誹謗正法とを除く」との断り書きを無視するのも、そのような根本的な歪みに由来するのである。
 ②法然は阿弥陀仏は観無量寿経にいて定善・散善の諸行を示しながら、最終的に念仏の衆生のみを選んで救済したとし、これを「撰択摂取」と呼んでいる。
 これは、善導の独善的な観無量寿経解釈に基づいて立てた説である。すなわち同経では、十六種の観法を挙げ、観仏三昧を強調しているが、善導は、これらの観法では最終的には称名念仏に「摂取」されたとしたのである。法然はこれを承けて、観無量寿経では定善・散善の諸行を挙げ、それらと相対させて称名念仏を「撰択」したとするのである。
 ③さらに法然は、観無量寿経いおいて、阿弥陀仏が念仏を称える衆生を迎えに来たことを挙げ、これを「撰択化讃」と呼び、阿弥陀仏自身が称名念仏を「撰択」したのである。
 これは、同経の十六観のうちの十六観のなかの下品上生についての所説に基づくものである。そこでは、大乗経典の名を聞く聞経の功徳が説かれたうえで、臨終の時に念仏すると、その功徳として阿弥陀仏が来迎したと説いている。これを法然は、阿弥陀仏が聞経に対して称名念仏を「撰択」したとするのである。これもまた、謬釈であり、同経では聞経を捨てているのではなく、むしろ臨終時の功徳の前提としているのである。特に当核の個所では「方等経典を誹謗せず」とあり、誹謗正法がないことが大前提とされているのである。
 また、同経、第十六観は劣機・悪機である下品の衆生の臨終時における観仏を説くものであるが、ここにおいて念仏が説かれるのは、臨終の苦悩に応じた観仏三昧のなかでの一つの手立て、つまり方便なのである。さらにいえば、同経そのものが我が子・阿闍世王の悪業に苦悩し世を厭う韋提希夫人に対して説かれた対機説法であり方便経なのである。
 ④阿弥陀仏による「撰択」としてさらに、般舟三昧経において常に阿弥陀仏の名号を称える人のところに来迎されていることを挙げ、これを「撰択我名」と呼んでいる。しかし、同経もまた観仏のために止観行を説く経典である。その大意を捨ててわずかな一節を選んで阿弥陀仏の選択とするのは故意の切り文にすぎない。
 以上が阿弥陀仏による「撰択」とされるものである。いずれにしてもこれらは、善導・法然の立てた己義のうえからの「撰択」であり、決して経典に阿弥陀仏が「撰択」したとされているわけではない。
 法然は、次に、釈尊による称名念仏の「撰択」として、選択讃歎・選択留教・選択付嘱の三種を挙げ、さらに諸仏による「撰択」として選択証誠の一種を挙げている、これらは、阿弥陀仏の「撰択」なるものよりもさらに問題が多い。何故ならば、阿弥陀仏の場合は浄土教典の範疇内の議論であるが、釈尊や諸仏の「撰択」となると一切経が問題となるからである。まず法然の所説を列挙すると以下のようになる。
 ①無量寿経の末尾において釈尊が、往生の行として諸経を挙げながら、最後に諸行を捨てて、念仏のみを無上功徳と讃歎しているとし、これを「撰択讃歎」と呼んでいる。
 ②観無量寿経では、釈尊が諸行を説きながら阿難に対して念仏の一行のみを付嘱しているとし、これを「撰択付嘱」と呼んでいる。
 ③さらに阿弥陀経において、六万の諸仏が称名念仏による往生の真実なることを証明するために舌相を示したことを挙げ、これを「撰択証誠」と呼んでいる。
 法華取要抄の本段以後の展開では、法華経の立場から釈尊と諸仏の関係や真の付嘱・証明等について明かされており、それをもって法然のいう釈尊・諸仏の「撰択」なるものに対する破折とされている。詳しくは、その御文を拝読するときにのべることにし、ここでは、次の二点を指摘するにとどめたい。
 第一に、法然が挙げている諸経の文においては、確かに念仏を讃歎ないし証明した言葉はうかがえる。しかし、いずれの場合も、法然の主張するように、諸行と相対させて念仏を「撰択」し、諸行を「捨てる」ために讃歎ないし証明しているわけではない、とういう点である。
 第二に、もしこれらを釈尊や諸仏による「撰択」=「取捨」であるというならば、視野を一切経に広げての讃歎・留教・付嘱・証明を判じなければならないのであり、法然はこの点を怠っている。他行を「捨てる」とまでいいながら、それが釈尊や諸仏の真意であるかいえるのかどうかを、一切経にわたる検討をしていないのである。これは、教判を立てる態度としては妥当性に欠けるといわざるをえない。
 以上のように、法然は、選択集において、もっぱら称名念仏が阿弥陀経だけでなく一切の仏の「撰択」であることを強調し、その権威付けに基づいて、念仏以外の諸行・浄土教典以外の諸経を捨てて、念仏を専修せよと説くのである。日蓮大聖人はそれを「捨閉閣抛」の四字で表現され、この法然の教えが仏の本意でないのみか、法華経を誹謗しているゆえに謗法であることを明らかにされたのである。いま、「捨閉閣抛」について、選択集における主たる文を挙げ、その「謗法」の言々句々を示しておきたい。
 ①聖道門を「捨てよ」とする文
 「聖道・浄土二門を立つる意は、聖道を捨てて、浄土に入らしめんが為なり」
 「須らく聖道を棄てて浄土に帰すべし」
 ②聖道門に法華経を含める文
 「今此の集の意は、唯顕大及び権大を存す。故に歴劫迂廻の行に当たる。是に準じて之を思うに、応に密大及び実大をも存すべし」。
 ③雑行を「捨てよ」とする文
 「但意を専らにして作さしむるのは、十は即ち十生す。雑を修して至心ならざる者は、千が中に一も無し」
 「弥須らく雑を捨てて専を修すべし。豈百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執ぜらんや」
 ④雑行に法華経を含める文
 「唯大乗と云うて、而も権実を選ぶこと無し。然れば則ち正しく華厳・方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経に当たれり」
 ⑤諸行を「閉じよ」とする文
 「随他の前には、暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には、還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後、永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なり」
 ⑥「閣け」「抛て」とする文
 「計れば、夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には且く聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には且らく諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし」
 このように法然に至って謗法の度をいよいよ強めたといえよう。
 最後に、法然の教判のもっている体系上の誤謬を明らかにしておきたい。
 彼の教判の大前提は、曇鸞が立てた「難行道」「易行道」の区別と、道綽が立てた「聖道門」「浄土門」の区別がある。既に述べたように、この区別の本質は、時機と法との相応・不相応という点にある。すなわち、末法の「時」は仏が入滅してからはるか経った五濁悪世であり、衆生の「機」もまた悪機劣機である。したがって、自力による修行を基本とする「聖道門」は、たとえ法理が深くとも、衆生の理解は浅いゆえに時期不相応の「難行道」であるのに対して、仏の本願力によって容易に往生できる「浄土門」のみが、時機相応の「易行道」である、とする。このように、浄土宗の教判は、本来は「教の勝劣」よりも「行の難易」を重視し、「時機」を観点として「易行」を選ぶものである。そのために、釈尊の一代諸経を「聖道」「浄土」の二門に分けるのである。
 この見方において、既に、単に「難易」だけではなく、時機相応の浄土門、特に称名念仏の一行が勝れ時機不相応の聖道門は劣るとする「勝劣」の判定が入っている。それが中国では曇鸞・道綽・善導と次第するにつれて明らかになってくるのであるが、これをさらに強調したのが法然の教判なのである。
 彼が念仏こそ仏による「撰択」であると論ずるのはそのためである。すなわち、念仏には元来は衆生にとって易しいから選ばれるべき行であるとされたのであるが、それでは、一宗成立の教判としては弱いので、どうしても“衆生の選ぶ易行”が“仏の選ぶ勝行”であることを明らかにしなければならなかったのである。
 ここから、法然の選択集では「難易」と「勝劣」の二つの観点を明確に立てたのである。すなわち同書第三「本願篇」では阿弥陀仏が諸行を本願とせず、称名念仏の一行を本願とした理由として「勝劣」「難易」の二義を挙げている。
 まず「勝劣」の義については「名号は是れ万徳の帰する所」であると述べ、阿弥陀仏の内証・外用の功徳はすべてその名号に摂められているがゆえに「名号の功徳」は「最勝」であるという。それに対して、念仏以外の諸経については「余行は然らず、各一隅を守る。是を以て劣と為す」という。つまり余行は部分的であるがゆえに劣るとするのである。そして「故に劣を捨て勝を取りて」と結論している。
 また「難易」の義については、源信の往生要宗の文を挙げたうえで、「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。然れば則ち一切衆生をして、平等に往生せしめんが為に難を捨て易を取りて、本願となしたまうか」と述べている。つまり、阿弥陀仏が易行を本願としたのは、平等の慈悲によるとする。まず後者の義「難易」について検討すると、ここで引用されている往生要集巻下・第八「念仏の証拠」の文においては「念仏を勧めるとは他の妙用を排するためではなく、男女貴賤、時と所を選ばずにできる易行だけであり、特に臨終の時に便利だからである」としていることが注目される。法然はこれを称名が一切衆生を平等に教える法であることの文証としているのであるが、むしろここに従来の浄土教と法然の考え方の違いがみられるのである。つまり、往生要宗の場合は称名が便利であるからというだけで、他力を排しているわけではないのに対して、法然の場合は、仏が平等の慈悲のうえから「難を捨てて易を取った」とするのである。
 このように往生要集に代表される法然以前の浄土教においては、称名を選ぶ理由は“便利“ということにあり、称名の諸行の中の一部にすぎなかった。だが、法然においては、仏が一切衆生への平等の慈悲のうえから選ばれたものとして説明され、それにより「難易」が、単に“他行と共に称名をも用いる”ためではなく、“称名を選んで他行を捨てる”ための基準とされるに至ったのである。
 次に称名には万徳が摂められているから称名は最勝であり、諸行は部分的であるから劣るとする「勝劣」の義に至っては、浄土系の経典・論書においてすら文証がない。また道理のうえにおいても何の根拠も示されていない全くの独断であり、勝手に易行を勝行へと高めるための妄説であると断ぜざるをえない。
 法念や善導の所説によって立つところは、ただ一つ、無量寿経において阿弥陀仏の本願として称名念仏が選ばれたとするところにある。他の所説はここから類推的に派生しているにすぎないのである。すなわち“称名念仏は阿弥陀仏の本願として選ばれた唯一の往生の行であり、阿弥陀仏の本願は既に成就され、現在、西方極楽浄土として建立されているから、称名念仏により仏願力に乗じて容易に往生できる”というのが彼等の論理の骨格である。そこから“称名念仏は最勝であるはずだ”“一切の仏はその称名念仏を選択するはずだ”等々が派生しているのである。
 彼等のこの論理には多くの欠陥がある。
 その第一は、彼等が唯一のよりどころとするのは、無量寿経における阿弥陀仏の第十八願であるが、そこには、「我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚は取らじ」とあるように、直接的には称名念仏は説いてはいないということである。しかるに善導はこの文にある「十念」を“十回念仏を唱えること”と解釈したのであった。しかし、これは文字通り“往生を願う心を十回起こすこと”なのである。このように阿弥陀仏が本願として称名を選んだと解釈すること自体が誤りなのである。
 第二に、彼等がこの第十八願を究極の根拠とする理由が明らかではないという点である。善導がこの第十八願を強調したのは、易行を重視した曇鸞の考えを受け継いで、それを根拠付けるためであったにすぎない。したがって、彼等の諸説は法理のうえでの根拠を全く持っていないのである。
 第三に、より根本的な欠陥として挙げられることは、一切経の中における浄土三部経の位置が全く検討されていないという点である。
 彼等は、一切経を聖道門と浄土門に分けて、浄土門の経典を取るというだけで所論を進めている。しかし、浄土経典の範囲内で、いくら称名念仏が正行あるいは勝手であると主張しても、それは“他の諸行を捨てよ”との教判を立てる根拠にはならない。法華経で明らかにされたように、諸大乗経典において他土の諸仏が説かれたのは、小乗教の唯有一仏説を破るためであり、此土を厭うためではないのである。しかるに此土を厭い西方極楽浄土を最高の理想として、そこへ往生するための正行とは何かということを議論すること自体砂上の楼閣といわざるをえないのである。
 第四に、浄土宗が金科玉条とする“易行だから時機相応である”という主張についていえば、俗耳には入りやすいが、やはり根拠のない全くの独断である。与えていえば、人生のある一局面、あるいは歴史上、あるいは一時期においては、一面において念仏は自機相応といえるかもしれない。娑婆世界を厭い、此土を去って往生を勧める教えが、真に人生や歴史を導く指標となりうる普遍的な教えであるはずがない。無量寿経には未来の世の「百歳」のためにこの経を残すとあり、さらに同経の異説には、「滅後千年後の百歳と年限が規定されている。これを法然は「末法万年後の百歳と強引に解釈したが、いずれにしてもこのような年限の規定は、念仏の教えの本質を突いているのである。
 総じていえば、浄土宗の特徴は、「法」の究明において怠惰であるという点にあり、そこに仏教の宗派としては致命的な欠陥をもっているといわなければならない。その端的な現れが「誹謗正法」に対する無感覚である。彼等は、人間の在悪性を強調する余り、さらにその根底の「法」に対する盲目性を見ることができないのである。難行とは、この根本的な盲目性に由来するのであって、劣機とか悪機ということにあるのではない。したがって、易行だから救われるというのは幻想でしかない。
 また、浄土宗の諸師が言うように、もし阿弥陀仏の平等の慈悲から立てられた易行だから、万人を教えるというにしても、法念や善導がいった人師が、経典に自己の凡情を投影して作った化仏でしかない。真の仏は真の「法」によって衆生を救うのである。「法」とはすべての衆生の生命に遍く存在するものであるから、何も他土へ往生しなくても此土で救済されると説くのが真の仏なのである。
 このように「法」を軽視する浄土宗の本質は、これまで見てきたように、曇鸞以来浄土宗の諸師達の経典解釈の姿勢に表れているといえよう。そこで法然は、 この面でも際立っているのである。彼は「偏依善導」と公言してはばからず、挙げ句の果てには善導を「弥陀の化身」とまで呼んで傾倒している。それは選択集の叙述の姿勢にも明らかである。善導の釈を仏典とほぼ同じとして扱っており、経典そのものよりも、善導の経典解釈を重んじているとさえいわれている。
 ゆえに日蓮大聖人は、立正安国論において「曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ先に依つて後を捨つ末だ仏教の淵底を探らざる者なり、就中法然は其の流を酌むと雖も其の源を知らず、所以は何ん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏 菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄んず、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず」(0024-18)と、法然の本質を喝破されているのである。
7 倶舎宗・成美宗・律宗の教判
一、経・律・論の三蔵と四阿含

 本抄では、倶舎宗・成美宗・律宗における教判として「四阿含・並に律論は仏説なり華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」との説を挙げられる。
 ここに仰せの「四阿含・並に律宗」とは、インドの小乗経団に伝承されていた経蔵・律蔵・論蔵の三蔵をいう。
 経蔵とは、釈尊の教えを集成したもので、北伝ではアーマガ、南伝では二カーヤと呼ばれている。律蔵とは、教や律に対する研究・解釈の書である。インドの大乗仏教が興起した頃には、インドの小乗経団は十八派あるいは二十派に分かれ、それぞれが三蔵を伝承していた。そして興隆しつつあった大乗仏教に対しては、自分たちが伝承した三蔵こそ仏説であり、それ以外は仏説でないといって批判していたのである。
 「阿含」とは、梵語「アーガマ」の音写で「伝承された教え」の意であり、小乗の三蔵のうち経蔵にあたる。小乗各派の阿含経典のうち、北伝の経路で中国に伝訳されたものに長阿含経二十二巻・中阿含経六十巻・雑阿含経五十巻・別訳雑阿含経十六巻・増一阿含経五十一巻の四種類があるので「四阿含」というのである。長阿含経は比較的長い経を、中阿含経は中程の長さの経を雑阿含経は短い経をそれぞれ集めたものである。増一阿含経は短い経を1~11の法数によってテーマ別に分類・編纂したものである。
 なお、南伝仏教においては、四阿含とほぼ同じ内容の経典が「ニカーヤ」の名で伝えられており、長阿含・中阿含・雑阿含にあたるものがそれぞれ長部・中部・相応部・増支部と呼ばれている。
 このうち相応部では短い経が主提別に集められていることからみて、これと対応する雑阿含も元来は主題別に編纂されていたものと推定されている。さらに二カーヤにはこれら四部のほかに小部と呼ばれるものがあるが、これに相当するものは中国には伝えられなかったようである。この中にマンダ・パタやスッタニ・パータなど成立が最も古いと推定されている経典が含まれている。
二、三宗の成立と教判
 次に、倶舎・成美・律の三宗の成立と教義内容について概観しておきたい。
①倶舎宗
 倶舎宗は、世親の倶舎論三十巻を所依として立てられた宗派である。世親は大乗の論師として活躍した人であるが、倶舎論は、彼がまだ小乗経の説一切有部に属していた時代に著した書である。
 説一切有部の教義は、迦多衍尼子が紀元前2世紀の中頃に著した発智論によって確立されたとされる。これを注釈した大毘婆沙論の所説を更に新たな構成のもとに要約したものが世親の倶舎論である。なお同論は、単に説一切有部の立場を踏襲しているものではなく、同じ小乗の学派である経量部の立場から批判的な観点も見られる。
 倶舎論等の論書に見られる説一切有部の基本的立場は「我空法有」である。すなわち、衆生の生命はただ五蘊が仮に和合して成り立っているに過ぎないがゆえに、一定不変の我は存在しないとするのが「我空」である。しかし生命を構成する五蘊等の諸法は三世にわたって実在するとし、これを「法有」という。
 また同派は、現象を構成する実在の諸法を「五位七十五法」に分類し、これで一切諸法が尽くされると主張する。「五位七十五法」とは色法・心王・心所有法・心不相応行法・無為法の五つに一切諸法に大別し、それをさらに細かく七十五法に分けたものである。さらに同派では、これらの諸法から一切の現象が構成されていく種々の因果関係を分析して、現在の生命が苦報を受けるのは過去における煩悩と業によるものとする。したがって煩悩を滅することにより涅槃に入ることができるとするのである。
 倶舎論は、中国では、初め陳の代にインドの真諦三蔵によって漢訳されたが、盛んに研究されるようになったのは唐代の玄奘による新訳以語である。その門下の普光・法宝・神泰がそれぞれ倶舎論の注釈書を著し、これら三人の論疏は倶舎の三大疏と称されている。しかし、同論はあくまでも大乗の唯識を学ぶための前提であったため、中国では一宗として独立するには至らず、法相宗に付随する萬宗にとどまった。日本には、入唐して玄奘に師事し、帰朝後、法相宗を開いた道昭らによって伝えられ、南都六宗の一つに数えられていたが、やはり法相宗の萬宗の域を出なかった。
②成美宗
 成美宗は、インドの訶梨跋摩の成美論十六巻に基づいた宗である。成美とは、釈尊の説いた経・律・論の三蔵を釈成した、という意である。同論は、序論および苦・集・滅・道の四諦おのおのを論じた五聚から成っている。
 その内容は、説一切有部における我空法有の説を批判し、人法二空を主張しているところに特徴がある。つまり、衆生の生命は五陰によって構成されているから空であるとするだけではなく、その構成要素たる諸法も空であるとする。さらには、大乗の影響を受けて、仏の教えにおいては、一切法の有・無をいう説はすべて方便説であり、仏の第一義の立場ではないとしていた。そして有無に偏した断常の二見を離れる「聖中道」が真実の仏教であると説いたのであるが、この中道についての所説は、明確ではない。同論の主眼はあくまでも、説一切有部の法有に対して空法を主張するところにあったとみられる。
 また、実践論としては、仮名心、法心、空心の三心を滅することにより、涅槃に入ることができるとする。仮名心とは、種々の現象を実有となす心であり、それらの現象が五陰から成る仮有であることを知って、この心を滅しなければならないとする。また、現象の仮たる所以として因成仮・相続仮・相待仮の三仮を明かしている。さらに、仮名心を滅してもなお、現象を構成する五陰の存在を認める心、すなわち心法が残るから五陰を無と感じて心法を認めなければならないとする。そして、以上の空観によってすべては無に帰するが、なお一切は空であるとする考え、すなわち空心が残るとした。この空にとらわれた心をも滅することにより、真の涅槃を得ることができると説いている。
 このように成美論は、人空だけではなく法空をいう点に説一切有部との相違がある。その空とは、分析していけば無であるとする折空観であり、空を分析的・虚無的に捉える点においては、結局のところ説一切有部と同じなのであって、ただ無とする範囲を広げたにすぎない。この意味で、同論は言葉のうえでは中道を立てているが、所詮は煩悩尽滅による涅槃を説いているので、小乗経の範囲を出ていないとされているのである。
 成美宗は、5世紀初めに鳩摩羅什によって漢訳され、羅什の門下によってその研究が進められた。なかでも門下の四哲の一人に数えられ、羅什の訳業にも加わった僧叡は、成美論が訳了した際、羅什の命によりただちに講説し、師の称賛を受けたと伝えられている。梁高相伝によれば、その後、劉宋の代にやはり羅什門下の僧導が最初の注釈書である成美論疏を著している。さらに梁の代に入ると、開善寺の智蔵、荘厳寺の僧旻、光宅寺の法雲など、多数の優れた成実学者が輩出し、成実学派の全盛期を迎えた。
 こうして成実論は梁・陳の代を通じて研究され、その波は隋代まで続いたが、天台大師や三論宗の吉蔵によって小乗経を断じられてから次第に衰えていった。我が国には三論宗と共に伝えられた。
③律宗
 律宗は、経・律・論の三蔵のうち律蔵に基づく宗派である「律」は、梵語でヴィナヤといい、制御・調伏・規律などの意味である。釈尊の在世当時、出家の弟子の守るべき生活規範、教団の規律を意味した。律蔵は、こうした律を説いた典籍をいう。これにたいして「戒」は、梵語シーラの訳で、尸羅と音写し、本来は行為・習慣・道徳などを意味しており、そこから非行・悪行を戒める防非止悪の意味が生まれたといわれている。これは出家・在家を問わず仏教徒が自発的な努力によって守るべきものである。このように戒と律とは元来、別のものではあったが、後には混同して用うられるようになった。戒律という熟語も戒の意味で用いられたり、あるいは律の意味で用いられたりして、必ずしもその意味は一定していない。
 インドでは、小乗の教団が十八もしくは二十派に分かれていたため、律蔵もそれぞれ部派で伝えられていった。例えば、化他部には五分律三十巻、説一切有部は十誦律六十一巻、法蔵部は四分律六十巻、大衆部は摩訶僧祇律四十巻というように、部派独自の蔵律が伝承されたのである。これらの四つの律蔵は中国に伝訳され“四分律”と称された。
 中国への伝来は四分律の訳経僧によるが、5世紀の初め、0404年に北インドの罽賓の弗若多羅が十誦律を伝えて、鳩摩羅什らによって共訳されたのが最初である。0410年には同じく罽賓の仏陀耶舎が四分律を誦出し、竺仏念とともに翻訳された。さらに、0418年にインドの仏駄跋陀羅が摩訶僧祇律を0424に罵賓の仏陀什が五分律をそれぞれ漢訳し、わずか20年の間に四分律が相次いで伝えられたのである。
 これらの律蔵のうち、南北朝時代にはもっぱら十誦律が盛んに研究されたが、隋の末・唐代の初めごろになると四分律にとって代わられた。  凝然の八宗綱要によれば、唐の時代には四分律に三つの分派があり、相部の法礪律師、終南山の道宣律師、長安の崇福寺東搭の懐素律師がそれぞれ異説を唱えて争っていたという。法礪は、相州の日光寺で一派を立てたことから、彼の系統を相部宗という。懐素は法礪に就いて律を学んだ弟子であったが、後にその説を批判した。彼の一派は東搭宗と呼ばれている。
 しかし、中国律宗の主流となって繁栄したのは、陝西省の終山豊徳寺を本拠として道宣が開いた南山律宗であり、日本にも鑑真を通じて伝えられた。律宗といえばこの南山律宗を指している。
 四分律はもとより小乗の律蔵であるが、道宣は、教えは小乗であっても義は一分、大乗に通ずると主張し、四分律宗を分通大乗と判じた。また、性空教・相空教・唯識円教の三教に釈尊一代の教えがすべて収まるという教判を立てた。そして四分律宗はその教えからすれば本来、性空教の一分であるが、分通大乗であるから、戒定慧の三学の上に円融無礙の道具を具え、小乗の戒法のままで一乗の妙義を具えているゆえに唯識円教の実大乗にあたると説いた。
 道宣の時代においては、既に大乗経が弘まり、小乗教との勝劣が決判されていたことから四分律を大乗の義に通ずるものとして、このような教判を立てざるを得なかったと思われる。
 唐代の中国では、大乗経徒は小乗教の戒律主義を軽んじたこともあり、僧風が著しく乱れ、退廃を極めていた。そのために僧侶はかえって俗人軽視され、人々の信仰心を失わせる結果となっていた。大乗仏教の興隆後に小乗教に基づく四分律宗が成立された所以がそこにある。そうした退廃した仏教界を背景として、道宣は持戒持律の精神を重視し、大乗的な見地から四分律を再構成したのであった。
 したがって、その戒律観にしても、小乗の具足戒などの伝統的な戒律を踏まえつつ、大乗の菩薩戒を取り入れた。出家者は初めの五年間は小乗の律を学び、その後に大乗の菩薩戒を学ぶべきであると説いている。それは、大乗・小乗の教えは、衆生の機根に応じて説かれたものであり、したがって衆生の機根の優劣が問題なのであって、理においては差がないとの道宣の考え方に基づいている。
 道宣は、玄奘が瑜伽論を訳出した時、その訳業に参加していたこともあり、道宣の取り入れた大乗戒は、瑜伽論の説く瑜伽戒系の菩薩戒であったといわれる。この瑜伽戒は大乗戒である三聚浄戒のなかの律儀戒として四分律の二百五十戒を取り入れているところに大きな特色がある。つまり、大小両戒を兼ねており、この点において小乗戒を排した梵網の大乗戒とは、根本的に異なっている。したがって、道宣、あるいはその戒律を日本にもたらした鑑真が、四分律の小乗戒を基本として、菩薩戒として梵網の純大乗戒を取り入れようとしたことは、理論的に不可能なことであったといわなければならない。
 伝教大師が顕戒論において、もっぱら梵網の菩薩戒をもって大乗戒と立て、南都の戒律に反対したのも、梵網経では、小乗の経・律・阿毘曇論を学ぶことを許さず、たとえ一瞬の一念であっても、小乗の心を起こせば軽戒を犯したことになるとして、菩薩僧は小乗の戒律に同じてはならないと説いているからである。南都側では、日本にも既に梵網の菩薩戒は伝えられていると主張したが、それは小乗の戒との併用であり、梵網経における円意を理解しないで用いたことになり、かえって仏戒を犯すという自己矛盾を暴露したのである。
 鑑真は、伝記によれば16歳で出家し、18歳で菩薩戒を受け、のちに小乗の具足戒を受けたという。伝教大師は、鑑真がこのように大乗戒の後に小乗戒を受けたのは、小乗の機根にある衆生を導くため、つまり利他のうえから仮にうけたのであると説明している。つなわち、天台の教学に通じた鑑真が、大乗の菩薩戒を知りながら、かつ日本に天台の三大部を将来しながら、もっぱら小乗戒を弘めたのは衆生の機根に応じたためであったというのである。大聖人が下山御消息で「鑑真和尚と申せし人漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給いて有りしが円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已心に収めて口にも出だし給はず」(0344-17)と仰せられた所以がある
三、小乗経徒による大乗非仏説の難
 以上、倶舎宗・成実宗・律宗の三宗の成立とその教義を概略してみたが、大聖人は本抄で、これら小乗三宗による「小乗の教えのみが釈尊の説いたものであり、華厳経・法華経等の大乗経は仏説ではなく外道である」との非難を挙げられている。これは三論宗が実際にこのような大乗経典を誹謗していたわけではないが、大聖人がこのように仰せなのは、三宗が小乗の教えをもって一宗を立て、そこに執着していたことを破されたものと拝される。
 インド・中国においては、大聖人が顕謗法抄において「天竺・震旦には小乗宗の者・大乗を破する事これ多し日本国には其の義なし。」(0454-10)と指摘されているように、小乗教徒が大乗経を批判することはしばしば見られたようである。その際、大乗経を非仏説・外道の教えと非難するのが小乗教徒の常套句であった。
 例えば、インドにおいては、大乗仏教が興った当時、上座部の学者達が「大乗は非仏説である」と非難したことが、竜樹の大智度論にうかがえる。同書巻六十三・第四十一信謗品には「仏口づから説きたまえる所を弟子誦習し、書して経巻を作るに、愚人は謗りて言わく、『是れ仏説に非ず、是れ魔、若しくは魔民の作る所、亦た是れ断滅の邪見の手筆し、荘厳せる口力の者の説なり』と」とある。また弥勒の大乗荘厳経論や無著の摂大乗論でも、大乗経が仏説であることをまず論じて主張していることからも、小乗教徒による大乗非仏説の非難がかなり根強かったことが推察されよう。
 また、日寛上人は取要抄文段で、涅槃経巻二十六の次の文を引かれている。
 「諸仏菩薩・三乗を説く。而も是の経の中には純ら一乗を説く。謂く、大涅槃なり、此くの如きの言、云何が是れ仏の正典に当らん。諸仏は畢竟して涅槃に入りたまう。是の経には仏は常楽我浄、涅槃に入りたまわずと云う。是の経は十二部の数に在らず、即ち是れ魔の説なり。是れ仏説に非ず。善男子、是くの如き人は我が弟子なりと雖も、是の涅槃経を信順する能わず」
 この経文の趣旨は、釈尊滅後には愚癡にして破戒の声聞の悪比丘が現れ、諸法を無常・無我・無楽・無浄と説く。“仏は必ず煩悩を滅して涅槃に入る”とする小乗の教えに執着しているために、仏が常楽我浄の常住の境界にあることを説く涅槃経を「仏の所説ではなく、邪見の人、六師外道の作った魔説である」と誹謗するであろうというのである。
 こうした大乗を非仏説とする主張はインドのみならず中国においても見られた。
 例えば、羅什門下の一人である僧祐の弘明集巻十二には、僧伽提婆が来て小乗経を弘めたところ慧義・慧観の徒は、その小乗の教えを賛仰して、理の極まるところであり、それに対して方等の経は皆魔書であると言ったことが記されている。僧伽提婆は罽賓出身で、4世紀末に増一阿含経や中阿含経、阿毘曇心論などを中国にもたらした僧である。
 また、同じく僧祐が編集した出三蔵記集録下巻五にも、曇摩耶含の弟子である法度はもっぱら小乗を学んで、大乗経を読むのを禁じたとある。ほかにも、慧導なるものが般若経を疑い、曇楽は小乗に偏執して法華経を誹謗し、僧淵が涅槃経を誹謗したために舌根が鎖爛したことが記されている。これらの僧については詳しくは記されていないが、僧淵は梁高僧伝巻八によると、羅什の弟子・僧高に師事して成実論や毘曇を学んだ成実の学者であったようである。このように、インドで大乗仏教が興起した時、また中国に大乗仏教が弘まっていった時に、小乗教徒による大乗非仏説の非難があったことは歴史的な事実なのである。
8 天台密経の教判
 本抄では、華厳宗以下の九宗の教判説を列挙されたうえで、最後に「或は云く或は云く」と記されている。これについて、日寛上人は本抄文段で「この『或は云く』等は慈覚・智証の義なるべし」と述べられている。すなわち、九宗の教判説以外に「慈覚・智証の義」すなわち天台密教の教判説も、破折すべきものに含まれているということである。
 本抄では台密を具体的に挙げられてはいない。しかし、「法華第一」の正義を破った張本人として忘れるわけにはいかないのが、天台法華宗を内から変質させてしまい、日本仏教の堕落を引き起こした慈覚・智証の邪義である。
 いうまでもなく、日本の天台宗は、元来は天台大師の所説に基づき、法華経を所依として立てられた宗であった。しかし、延暦寺第3代座主・円仁と第5代座主・円珍によって、真言密教を一宗の要とするようになったのである。日蓮大聖人は報恩抄において「叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん、天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり、されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給う人なり、已今当の経文をやぶらせ給うは・あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや、弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、」(0308-14)と仰せである。まさにこの御指摘おように、慈覚・智証による天台宗の密教化は、弘法大師空海の真言密教以上に、仏法上の大きい罪を犯したことになるのである。
 既に述べたように、真言宗の空海は、法華経・華厳経等の大乗経典を一括して顕教として、すべて真言密教に劣るとした。さらに「十住心」判を立て、法華経を、大日経・華厳経に次ぐ「第三の劣」と貶めたのであった。これに対して慈覚・智証等は、一応、法華経と真言諸経とを同等とする「円密一致」説をとったが、結局は中国の善無畏・一行が立てた「理同事勝」の妄説に基づき、真言諸経を第一とし法華経を第二と下したのであった。
 この台密教判のうち「円密一致」について、伝教大師以来の日本天台宗の基調であり、慈覚・智証等はそれに準じたのであるとする考え方がある。まず、この問題について検討してみたい。
 「円密一致」とは前述のよりも法華経と真言経典とを同等であるとする考え方をいうが、この考え方によれば、一乗円教は即ち密経であり、三乗経は顕教であるということになる。すなわち顕密二教とは、三乗と一乗の区別にほかならないことになる。伝教大師も、法華一乗こそが真の密教であるという考え方をもっていたので、この“顕教=三乗・密教=一乗”との区別は、一見したところでは伝教大師の考え方に通ずるようにも見えよう。
 しかし、この区別を最初に説いた慈覚においては、伝教大師の“密教=一乗”観からの重大なる逸脱があり、かえって空海の顕密に二教判に同じてしまうのである。慈覚に始まる台密と伝教大師の密教観との根本的な相違点は、伝教大師においては、法華経の会座のうえから真言密教を法華一乗に包摂している。それに対して、慈覚の場合は、逆に真言密経を根本として、その一分として法華経の意義を認めたのである。言い換えれば、法華経と真言密経のどちらを根本とするかという点で、両者は全く背反しているのである。
 このことを慈覚の蘇悉地経疏によって具体的に検討してみよう。同書ではまず顕教とは三乗経であるとしたうえで、その理由として「末だ理事倶密を説かざる故」とする。そして「華厳・維摩・般若・法華等の諸大乗経」は「理密」を説うがゆえに密教とすることができるが、まだ「事密」を説いていないので「事理倶密」を明かして「如来秘密の旨」を説き尽くした「毘廬遮那・金剛頂経」とは区別されるとするのである。
 この慈覚の説は、以下の点において伝教大師の密教観から逸脱している。
 第一に、一応は「円密一致」と立てているが、結局は真言密教こそ「事理倶密」とし、法華経等よりも勝れているとするのであるから、空海の「顕劣密勝」判と何らかわるとこがない。
 第二に、法華経の円教を、華厳・維摩・般若の諸経における爾前の円教と同列に置いて見ているという点である。
 慈覚は、これらの諸経はいずれも「理密」を説いているとするが、慈覚のいう「理密」とは「世俗と勝義の円融不二」ということであって、大乗一般にみられる次の次元で法華経を捉えているに過ぎない。法華経で具体的に開顕された「如来秘密」等の真の意味での密経を理解していないのである。
 ここで、伝教大師が法華経をこそ密教としていたことを示す法華秀句の文証をいくつか挙げておきたい。
 ①「其れ妙法華経は、内証の本法なり、故に経を留めて機の熟を待つ。其れ華厳等の諸経は、随宣の説法なり。故に機に随いて時を待たず」
 ②「果分の一切の所有の法、果分の一切の自在の神力、果分の一切の秘要の蔵、果分の一切の甚深の事、皆、法華経に於いて宣示顕説す」
 ③「直道直至は已顕に興こる、是の故に法華経宗は、諸経の中の最勝なり」
 ④「即入の言は即身と異なること無し。他宗所依の経には、都て即身入し、一分即入すると雖も、八地已上を推して、凡夫の身を許さず。天台法華宗には、具さに即入の義有り
 これら法華宗句の諸文は直接的には法相宗の徳一を破折するためのものであるが、空海の立てた諸経も、この破折された内容に含まれるといえる。すなわち①と②は、真言密経が仏の自内証あるいは果分を説いた教えであるとする空海の説に対して、法華経こそが内証・果分の所説であることを示したものである。また③と④は、真言密教にのみ即身成仏の直道があるとする空海の所説に対して、成仏の直道は法華経のみにあるとするものである。また、仏身論においても、空海が大日如来の法身仏だから勝れ釈尊は応化仏だから劣るという勝劣を立てたのに対して、伝教大師は、法華経の久遠実成の仏こそが具体具用の常住の三身であるとする。
 このように伝教大師は明確に“法華経の密教”を根本としたのであり、そのうえで真言密経を開会して用いたのである。従来、伝教大師が慈覚等と同じ「円密一致」の立場に立っていたとする証拠として、空海宛ての書簡における「遮那の宗、天台と融通す」あるいは、離反して空海のもとへ走った弟子・泰範への書簡における「法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣有らん」等の文が挙げられてきた。だが、これらは真言密教に固執する空海や泰範を法華一乗と誘因するための言葉であり、決して法華経と真言密教とを無条件に同等しているわけではないのである。
 慈覚は「円密一致をさらに拡大して、中国の真言宗の元政の示唆に基づき「一大円教」論を立てている。これは、如来の一切の教えはすべて円教であるとするのであるが、法華経ではなく真言密教を根本としているのである。慈覚は伝教大師の法華経を根本とする立場から大きく離反してしまったのである。
 それを端的に示すのが、先に見た慈覚の蘇悉地経疏における所説であろう。すなわちそこには、法華経等の諸経は理密・真言密経は事理倶密であるがゆえに、 理においては両者同等であるが、事においては密経が勝れるとの「理同事勝」説が示されている。台密の教判は、慈覚と智証によってその大網が形成され、五大院安然によって整備されたとされるが、その基調となったのがこの「理同事勝」説である。
 慈覚の段階では、その義はともかく、表現自体においては、真言経典が勝れ、法華経が劣るとの円劣密勝の義はまだ明確化されていない。だが智証、安然へと次第に法華経を下す表現が明確化し、空海の所説と変わりのない円劣勝判へと傾斜していくのである。それをまず、智証について見ると、彼の大日経指帰では天台大師の五時教判における「法華時」について、さらに、
   ①初善=法華経
   ②中善=涅槃経
   ③後善=陀羅尼法門
 と分け、「法華・涅槃を以て爾前と為す」と述べている。まさに天台宗においては前代未聞の「法華経=爾前経」なる謬義が立てられたのである。また同書では、大日経を五時判の中の方等部に属するとする唐決を激しく批判し、「今此の三摩地論を案ずれば、唯此の秘密教に在り。…故に大乗の中の王、秘中の中の最秘と云う。法華尚及ばず、矧や自余の教をや」といっている。ここに密教が勝れる所以と挙げている「三摩地門」とは、三摩地は三昧と同義で禅定を意味し、この三昧に入る門として、身語意にわたる三密の法を立てるのである。また智証は、天台止観だけでなく真言密教にも勝れている人を比叡山の座主にすべきである、と朝廷に上奏した。
 次に安然について述べれば、彼は自身の立場を示すのに、明確に「真言宗」という名称を用いるに至るのである。そして教時諍では、諸宗の勝劣を判じて“真言宗・仏心宗・法華宗・華厳宗・無相宗・法相宗・毘尼宗・成実宗・倶舎宗”の次第を立てている。まさに、配立の順は少し異なるが、空海の十住心判と同じく、法華経を第三の劣に下しているのである。
 さらに智証が五時判に謬釈を加えたのに対して、安然は天台大師の化法の四教に勝手な解釈を施し、蔵・通・別・円・密の「五教」判なるものを立てた。すなわち菩提心義抄巻五では、「今真言宗は、一切仏教を判じて五教と為す。一に蔵、二に通、三に別、四に円、五に密」と述べ、その根拠として「蘇悉地疏に理秘密教の外、更に事理倶密の教を立つ。故に前四の外、更に五を加う」と慈覚の説を挙げている。また、蔵・通・別の三教は随他意語、円教は随自他意語、密経は随自意語と分別し、密教のみが仏の純粋な随自意の教えであるとしている。
 以上のように台密においては「理同事勝」の説に基づく「円劣密勝」判を根本として、法華経を下していったのである。この台密の教判論を通じて見ると、その論法は華厳宗の法蔵が立てた五教および同別二教判に著しく似ていることが看取される。すなわち、華厳宗の法蔵は華厳経と法華経をともに円教としたうえで、その円教の中に同教=法華経、別教=華厳経の二教を立て分け、別教の方が勝つれるとしたのであった。同様に、台密では、法華経と真言密教を理において同じく円教であると位置付けた上で、しかし事密を具している点では密教が勝れるとしている。この理論の上に智証の変則五時判が作られたのであった。さらにいえば、空海の十住心判も、法華経を大日教等と同じ円教であるとしつつ、第三の劣と下しているのであり、これも同じ論法によっているといえよう。彼等は、最勝とすべき経を我見で定めた。それを教判として明らかにするにあたり、仏説に基づいて法華経を下すという論法をとったといえるのではないだろうか。
 このことを言い換えれば、一旦は天台教判に基づくか、あるいはそれを背景として法華経の最勝を認め、自宗の経が同等としたうえで、次に、経典にはない別な根拠を持ち出して、自経が法華経より勝れていると主張したのである。「理同事勝」説はまさにその典型である。日蓮大聖人は法華真言勝劣の事において、他経にはない分々の法を説いているから勝れているというならば、阿含経には世界建立・賢聖の位置が、無量寿経には四十八願が、般若経には十八空が説かれており、大日経にはそれらが説かれていないから、大日経はそれらの諸経に劣ることになると指摘され「理同事勝」説の根本矛盾を突いて破折されている。

0331:07~0331:10 その二top
07                     而に彼れ彼れ宗宗の元祖等.杜順・智儼.法蔵・澄観.玄奘・慈恩.嘉祥・
08 道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑒真・曇鸞・道綽・善導・達磨・慧可等なり、 此等の三蔵大師等は皆聖人な
09 り智は日月に斉く徳は四海に弥れり、 其の上各各に経律論に依り 更互に証拠有り随つて王臣国を傾け土民之を仰
10 ぐ末世の偏学設い是非を加うとも人信用を致さじ、 
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 しかるに、これらの各宗の元祖等は、杜順・智儼・法蔵・澄観.玄奘・慈恩・嘉祥・道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑒真・曇鸞・道綽・善導・達磨・慧可等である。これらの三蔵・大師等は皆聖人であり賢人である。その智慧は日月に等しく、その徳は四海に行きわたっている。そのうえ、これらの各祖師はそれぞれに経・律・論をよりどころとしており、それぞれの教判の証拠がある。したがって王臣は国を挙げて各宗に帰依し、人民はこれを仰ぎ尊崇している。ゆえに、末世の偏頗な学僧が、これらの教判に正邪の判定を加えても人は信用しないであろう。

 この御文では、諸宗による種々の教判説を紹介した前文を承けて、それらの教判説を立てた七宗十八人の祖師たちの名を列挙されている。そしてこれらの祖師達はいずれも智慧・人徳共に優れた高僧であり、その所説は経・律・論を依りどころとしていて、しかも正しさを裏付ける証拠もあるとされ、広く尊崇されてきた人々であるとされている。故に、当時の常識からいって、日蓮大聖人のような末世の偏頗な僧が批判しても誰も受け付けないであろうと述べられている。日蓮大聖人は諸御書において、伝えられた諸師の種々の事蹟の多くについては、あくまで事実としてではある承認されている。しかし、その教判については、それぞれ本質面において法華経誹謗があることを明らかにし、厳しく破折されていることはいうまでもない。
 ここでは、これら諸宗の祖師達の事蹟を、順次、紹介したうえで、最後に、日蓮大聖人による諸師破折の視点についてまとめてみたい
1 諸師の事蹟
一、杜順・智儼・法蔵・澄観=華厳宗

 華厳宗第一祖杜順は、隋の文帝や唐の太宗に重んじられ、帝心尊者・敦煌菩薩と尊称された。種々の奇瑞を現じ文殊菩薩の化身と仰がれたと伝えられる。特に実践面において勝れていたとされ、華厳経に基づく観行である法界法門を著し、華厳教学の源流を形成した。
 二祖・智儼は、華厳経の講経に努め、雲華尊者、至相大師と尊称された。捜玄記・孔目章等の書を著し、杜順の教えを教理的に杜順整備した。彼に始まる同別二教判は、後の法蔵・澄観の法華経を華厳経よりも劣るとする教判に大きい影響を与えた。
 日蓮大聖人は杜順・智儼について「実経の文を会して権の義に順ぜしむる人人なり」(0966-10)と仰せである。
 三祖・法蔵は、唐の則天武后の厚い帰依を受けた。さらに中宗・睿宗などの歴代皇帝の戒師となるなど、唐朝に重用され、賢首大師・国一法師と称された。また玄宗によって鴻臚卿の位を贈られた。尊称としては、他にも康蔵大師、香象大師、賢首菩薩等がある。華厳経の新訳、講経等に努めるとともに、華厳五教章、探玄記等、多数の書を著して華厳宗の教義を確立した。講経の際に口から光明を発したとの伝説がある。
 四祖・澄観は唐の徳宗以下の歴代皇帝の帰依を受け、清澄国師、大統国師の称を贈られた。また、世に華厳菩薩と尊称された。華厳教学だけでなく南山律・相部律・南宗禅・北宗禅・天台・三論等も修め、広くインド・中国の学門・技芸等にも通じていたという。彼は華厳宗の注釈に全力を注ぎ、華厳経疏、演義抄等の書を著して華厳経第一の義を強調した。
 法蔵は、既に述べたように、五教判と同別二教判によって巧みに華厳経第一の教判を立てた。また澄観はこれを受けて、華厳経と法華経は同じ円教であるが、華厳経は釈尊が大菩薩衆に対して根本の法を説いて出世の本懐を遂げた経であるのに対して、法華経は二乗・凡夫等の機根を調熟させた後に華厳経に入らせるために説いた経にすぎないと言って法華経を下したのである。このような法蔵・澄観の所説について、大聖人は「所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成をあかさざるに記小久成ありと・をもひ華厳よりも超過の法華経を我経に劣ると謂うは僻見なり」(0458-04)と破折されている。
 すなわち法蔵・澄観は、華厳経には二乗作仏・久遠実成は説かれていないのに説かれていると思い、のみならず二乗作仏・久遠実成が説かれている法華経を華厳経より劣るとする僻見を立てたのである。
 澄観が天台大師の一念三千を盗み取って、華厳経の「心如工画師」の文などを解釈したことについて、大聖人は「澄観は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれども一念三千の法門をば・ぬすみとれり」(0896-15)と痛烈に破折されている。
二、玄奘・慈恩=法相宗
 法相宗の開祖である玄奘は、インド求法の旅に出掛けたことを、膨大な数の仏典を本釈したことで名高い。
 すなわち彼は、29歳のときに、それまで中国に伝訳された経論では不明確な点が多い唯識や倶舎の研究を志してインドに旅立ち、16年後、仏舎利、仏像と共に、仏典657部を携えて長安に帰った。時の皇帝・太宗は、玄奘に帰依し、大慈恩寺に翻経院を建て、将来された経典の翻訳に当たらせた。玄奘によって訳出された経論は総計75部1335巻に及んだ。経・律・論の三蔵を将来し、また、それらに通暁された高僧という意味で、玄奘三蔵、あるいは単に三蔵法師と尊称された。
 玄奘の弟子窺基は、玄奘が将来した唯識学を整備・大成し、法相宗の実質的な開祖となった。大慈恩寺に住したので慈恩大師と称された。また、多くの経典・論書を注釈したため「百本の疏主」といわれた。大聖人が兄弟抄において「仏舎利を筆のさきより雨らし牙より光を放ち給いし聖人なり」(1081-01)と記されているのは、弥勒上生経の疏を書いているときに筆先から27粒の仏舎利がこぼれ落ちた、あるいは、死後に棺を開けたら歯が玉のように光っていた、等の伝説を承けてのことである。
 玄奘・慈恩らは、天台大師の末だ見ていなかった解深密経・瑜伽論・唯識論等を盾に取って「三乗真実・一乗方便」を主張し、法華一乗を強調する天台大師の教学と真っ向から対決したのであった。
三、嘉祥・道朗=三論宗
 三論宗の大成者である嘉祥大師吉蔵は、その高い学徳が広く知れ渡り、道を求める者が絶えず、門前市をなしたと伝えられている。彼が生きた時代は、南北朝末から唐代初めにかけての乱世であったが、陳の桂陽王、隋の煬帝、唐の高祖等、歴代のいずれの王室からも重んじられた。
 特に三論および諸大乗経典の講義・注釈に力を注いだ。法華経についても300回を超える講経を行って讃仰し、注釈書も法華玄義をはじめとする6編が現存している。彼自身が「少くして四論を弘め、末には専ら一乗を習い」と述べているように、後半生においては、三論よりも法華経の学者としての自覚の方が強かったようである。
 日蓮大聖人は諸御書において、吉蔵が晩年、天台大師に帰伏したことを述べられているが、続高僧伝や国清百録によれば、吉蔵は天台大師に法華経講義を要請したとされている。また、仏祖統記には、天台大師の法華玄義を一覧するや、自らの法華経注釈を焼き捨てたとの記述がある。
 次に本抄に挙げられている道朗については、
   ①北涼時代の河西の道朗
   ②梁・隋の時代の興皇寺の法朗
 のいずれかと考えられる。どちらも三論の伝持者であるが、前者は曇無識の涅槃経の翻訳を助けた人であり、後者は吉蔵の師である。続高僧伝において吉蔵の師の名が「興皇寺道朗」とされているため、古くから一般的に法朗と道朗が大聖人は報恩抄で、三論宗の代表的な祖師として吉蔵とともに「興皇」の名を挙げられているので、本抄で言われている道朗は興皇寺の法朗のことであろうと思われる。
 法朗は陳の武帝の勅により興皇寺に住し、竜樹の遺風を貴んでよく三論を顕揚し多くの人材を集めた。吉蔵は、師の法朗の教えを祖述して三論宗を立てたとされる。
四、善無畏・金剛智・不空=真言宗
 善無畏三蔵は、東インドの烏奈国の王子で13歳のときに王位に就いたが、兄の嫉みをかったために譲位し、仏道を求めて出家した。ナーランダ寺の達磨掬多に指示し、真言の潅頂を受けた。師に勧められていた中国に旅立ち、0716年に唐の都・長安に入った。旅の途中では、説法の言葉が虚空に金字となって列なった等の多くの神変を現じたとされる。中国では玄宗皇帝に用いられ、その庇護を受けて大日経蘇悉地経などを翻訳した。また、天台宗の僧・一行をかたらって大日経疏を著させ、天台大師の一念三千の義を取り入れて大師経の文に取り入れて大日経の文にこじつけさせて、理同事勝の義を立てて法華経を下した。
 ある夏、祈雨を命じられ雨を降らせたが大風が吹いて多くの被害があったという。また、弟子の見聞によると死後の相は陰々たる黒色相であったと伝えられている。日蓮大聖人は報恩抄等において、これを法華経誹謗のゆえの堕地獄の相であったとされている。
 金剛智三蔵は、中インドの王族、あるいは南インドのバラモンの出身とされ10歳で出家し、ナーランダ寺で中観・唯識を学んだ後に、南インドで竜智に師事して金剛頂系の密教を修めた。中国で開宗を決意し、約3年の海路の旅を経て0720年に長安に入った。玄宗皇帝の国師として遇され、諸寺に真言潅頂の道場を構えて布教した。後に不空・一行を補佐として訳経に従事し、金剛頂経系の密教経典を訳出した。祈雨などの祈禱に失敗したためか、晩年は不遇であったようであるが、死後、弟子の不空の力により代宗から大弘経三蔵の号を追贈された。
 不空三蔵は、師子国の出身で、14歳のときに中国に向かう金剛智に出会って師事し、師と共に中国に渡った。金剛智の死後、一時、帰国し、竜智より大日・金剛頂の両部の密教を授けられたとして、0746年、100部・1200巻の経論をもって中国に帰った。
 このとき不空と同行していた弟子の含光が、後に妙楽大師に語ったところによれば、不空はインドへの一時帰国は、法華経に基づいた真言の修法が法華儀軌などを持ち帰っていることなどから見て、内心では師の金剛智の密教では天台大師の法門に対抗できないと思い、新たな経論を求めに行った節がうかがえる。
 帰唐した年、不空は玄宗の勅により祈雨を修したが、善無畏と同じく雨は降ったものの大風が吹いたと伝えられる。その失敗のためか、河西に退き訳経に専念することになったが、安史の乱に乗じて都に戻り、反乱軍調伏の祈禱を行なって玄宗に重用された。その後、玄奘以後に将来された多くの未訳の経論を翻訳し、代宗より大広智三蔵の号を賜った。不空は、善無畏・金剛智によって開宗された真言宗を中国に定着させる役割を果たしたといえる。
 大聖人は、不空は内心では天台大師に帰伏していたとされるとともに、不空の経論翻訳については「不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268-14)と厳しく批判されている。中でも菩提心論の訳については、竜猛の著とされているが、不空の己義が多くさしはさまれているため、大聖人は竜猛の著書ではなく不空が作った偽書であるとされている。特に、同書に「唯真言法の中にのみ即身成仏す」とあることについて、竜樹が真の即身成仏の教えである法華経をさしおいて、真言のみを即身成仏の法という道理がないと言われ、「天下第一の僻見なり」(1007-17)とされている。
 いづれにしても、以上の真言三師の翻訳や注釈は日本の真言宗における「理同事勝」や「第三の劣」等の謬訳の起源にもなっているのである。したがって、大聖人はしばしばこれら三師を一括して扱う人々を地獄に堕とす邪師として厳しく破折されている。
五、道宣・鑒真=律宗
 南山律宗の開祖である道宣は、玄奘の訳経に参加するとともに、戒律についての講説・著作に専念し世に南山律師・南山大師と称された。総計35部180巻の著作があり、特に続高僧伝・広弘明集等の多くの史伝書を著したことで名高い。
 鑑真は中国にいる時から4万人を超える人々に授戒したとされ、律僧中の第一人者といわれたが、天台学・密教学も修めていた。0742年、日本の僧栄叡・普照の要請により日本への布教を決意したが、渡航に5回失敗し、0753年に6回目にしてついに日本に渡ることができた。この時既に66歳、しかも、この間に鑑真は失明していた。日本では・聖武上皇・孝謙天皇の帰依を受け、東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇を建立したほか、戒律道場として唐招提寺を開いた。
 また、多くの仏典を将来したが、なかでも天台の三大部をはじめとする天台関係の論書は、後に伝教大師が閲覧し、日本天台宗の開創の機縁となった。鑑真は、このほか、彫刻・薬草などの面でも新しい知識を紹介したといわれる。
六、曇鸞・道綽・善導=浄土宗
 浄土宗の第一祖とされる曇鸞は、当時、霊地と尊ばれた五台山で出家し、三論宗の流れを汲んで四論の研究に打ち込んだ。50歳の頃、大集経の注釈論の作成中に病にかかり、不老長生の法を求めて、当時、仙術師として有名であった陶弘景を尋ね、仙経を得た。その帰路、インドの訳経僧・菩提流支に会い、仙経に勝る不老長生の法が仏法の中にあるかと尋ねたところ、真の大仙は生死を解脱することであるとたしなめられ観無量寿経を与えられた。以来、専ら浄土系の経典・論書を研究し、他力念仏を強調するに至った。玄中寺を開いて多くの人々を念仏信仰に導き、東魏の王から神鸞の尊称を贈られた。
 道綽は、初め涅槃経の研鑽に励んだが、玄中寺で曇鸞をたたえる碑文を見て感銘し、同寺にとどまって念仏の布教を志した。観無量寿経の講経は生涯に200回を超え、自らも毎日7万遍の念仏を唱えたという。称名の数を重視し、小豆や数珠で称えた念仏の数を数える方法をあみだしたので、小豆念仏と称された。唐の太宗は自ら玄中寺の道綽を尋ねて供養したと伝えられる。
 善導は、幼くして出家して各地を求道遍歴し、ついに観無量寿経を得て感銘した道綽に師事したという。師の死後は、長安に出て、光明寺で称名念仏を弘め、無数の土女を教化したと伝えられている。一切の名利を避けて、女人に対しては目を伏せて見なかったといわれ、また、日に10万遍の念仏を称え、生涯に10万巻の阿弥陀経を書写し、300を超える浄土変相図を描いたという。
 往生伝、仏祖統記等では、善導は、光明寺の柳の木の上から投身自殺したことを伝えている。
七、達磨・慧可=禅宗
 中国禅宗の初祖とされる菩提達磨の事蹟については、あまりにも粉飾した伝説が多く、その実像は知りがたい。
 いま、その伝説のままに述べれば、達磨は東インドの香至国国王の第三王子で、般若多羅に師事して法を継ぎ、インド付宝蔵第二十八祖となった。6世紀初め、中国に渡来したが、梁の武帝に召されて、講経や伽藍建立の功徳を問われた時、達磨は王に機あらずと見て「無功徳」と答えただけで立ち去ったという。後に少林寺に入り、9年間、壁に向かって座禅を続け、壁観婆羅門と呼ばれた。慧可に法を付し死んだとされる。
 その後、栄雲がインドから帰国するときに、パミールで達磨が片方の草履を手に提げてインドに帰るのに出会った。帰国してから、達磨の葬られた棺を開けて見たところ、中には片方の草履だけが残されていたという。このほかにも後世に作られた種々の伝説がある。後に、唐代になって禅宗が盛んになるとともに、大宗より円覚大師の号を贈られた。
 二祖の慧可については、40歳のときに、雪中の少林寺に達磨を尋ね入門を請うたが、許されなかったので、自ら左の臂を切断して求道の心を示したと伝えられている。
2 日蓮大聖人による諸師批判
 以上、7宗18人の諸師の事蹟を概観してきたが、これらの事蹟を特徴として以下の諸点をあげることができよう。
 第一に、いずれの諸師も求道者あるいは弘通者として常人を超えた姿が種々伝えられている。求道者の典型としては、法を求めてはるばるインドまで行った玄奘や不空、あるいは達磨のもとに入門するために自らの臂を切断したという伝説の残る慧可などを挙げることができる。また、弘道者としては、密教を弘めるためにインドから中国に渡った善無畏・金剛智、また何回もの渡航の失敗にもめげず日本に律宗を伝えた鑑真などを挙げることができる。
 第二に、学問に勝れ人徳が高いという点である。学問に勝れる例として、各宗の教学を実質的に大成した法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・道宣などを、人徳の面では、一切の名利を避けたとされる善導などを代表として挙げることができよう。
 第三に、王室の帰依を受け、一世を風靡した人が多いという点である。三論の嘉祥・華厳の法蔵・澄観、真言の不空、そして、宋代には南宗禅の諸師が、権力者より帰依を受けている。また浄土宗の諸師は多くの民衆の帰依を受けた。
 第四に、種々の神異・奇瑞を現したとされる点である。その例としては、華厳の杜順、法相の慈恩、真言の善無畏・金剛智・不空、禅宗の達磨などを挙げることができよう。
 これらの伝えられた事蹟から、本抄で「智は日月に斉しく徳は四海に弥れり」、「王臣国を傾け土民之を仰ぐ」と述べられたことが察せられる。
 もとより、これらは一応、伝えられたことをそのまま鵜呑みにしている当時の人々の思いを記されたものであった。日蓮大聖人は、これら人師が立てた教判の本質を法華経誹謗であると洞察され、その点を根本にして、これらの人師を厳しく批判されている。大聖人の批判の一端を以下に挙げてみたい。
 ①経論を正しく判別できない暗師・愚人である。
 「漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人.法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観.真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり、経に於ては大小・権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず論に於ては通申と別申とを糾さず漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり、経に於ては大小・権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず論に於ては通申と別申とを糾さず」(1034-16)
 ②法華経をのおのの立場から曲解した。
 「諸宗の元祖等・法華経を読み奉れば各各其の弟子等は我が師は法華経の心を得給へりと思へり、然れども詮を論ずれば慈恩大師は深密経・唯識論を師として法華経をよみ、嘉祥大師は般若経・中論を師として法華経をよむ、杜順・法蔵等は華厳経・十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ、此等の人人は各法華経をよめりと思へども未だ一句一偈もよめる人にはあらず」(1239-11)
 ③法華経の久遠実成の仏を知らない不知恩者、才能ある畜生である。
 「妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども 子の父を知らざるがごとし」(0215-09)
 ④人々をたぶらかす悪知識である。
 「法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり」(1081-18)
 ⑤法華経を持つ凡夫よりはるかに劣る。
 「又云く『能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し、一切衆生の中に於て亦これ第一なり」等云云、此の経文をもつて案ずるに華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳.良弁僧正・聖武天皇,深密般若経を持てる勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、真言宗の大日経を持てる金剛薩タ・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持てる迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵、光宅寺の法雲南三北七の十師等よりも末代悪世の凡夫の一戒も持たず一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて 而も一分の解なからん人人は、彼等の大聖には百千万億倍のまさりなりと申す経文なり」(0290-02)
 このほかにも種々の角度から破折されているが、ここでは略すことにすり。しかし、以上挙げただけでも、大聖人が破折された視点を、法華経の正義を知っているか否かという一点に置かれたことは明白である。
 諸師がいかに学問に優れ高徳に見えても、また、いかに評判が高くとも、法華経の正義を知らず、それに背いているという一点において、人々を導く導師として失格である。むしろ人々を迷わしたその罪は極めて大きいとされているのである。

0331:10~0332:10 第三 法華経最第一の正判を明かすtop
0331:10~0331:11 その一top
10                         爾りと雖も宝山に来り登つて瓦石を採取し 栴檀に歩み入つて
11 伊蘭を懐き取らば悔恨有らん、故に万人の謗りを捨て猥りに取捨を加う我が門弟委細に之を尋討せよ。
-----―
 しかしながら、せっかく宝の山に来て登ったのに、瓦や石を集め取ったり、あるいは栴檀の林に歩み入ったのに、毒草の伊蘭を抱え取ってくるのでは、悔いや恨みが残るばかるであろう。故に、万人から謗られることを顧みずに、あえて邪義と正義とを取捨選択するのである。我が門弟は、詳しく、このことを尋ね究めなさい。

「已今当」と法華経第一
 本抄第三段では、諸宗の誤った教判を列挙された前段を受けて、法華経法師品第十の「已今当」の文を、「法華経第一」の依文として挙げられ、この文が、他宗の教判の依拠とされた諸文より勝れている所以を明かされている。
 ここでは、この第三段の御教示に基づき、「法華経第一」をテーマとして考察することとする。
 まず「その一」の部分では、前段の最後において、誤った教判を立てた諸宗の元祖等が王身万民から尊崇されている、と述べられたことを受けて、たとえ、諸宗の元祖等に逆らって、万人から謗れれようと、日蓮大聖人は、あえて教法の勝劣・邪正を正しく取捨選択するのである、と御自身の御立場を述べられ、門弟に対しても、この教法の勝劣について、深く研鑽していくよう勧められている。
 「宝山に来り登つて瓦石を採取し栴檀に歩み入つて伊蘭を懐き取らば」とは、釈尊の一代聖教を宝の山や栴檀の林に譬え、その中で、諸宗の教判に従って低い教法を採用することを、宝物や栴檀を捨てて、瓦石や伊蘭を集め取っている姿に譬えているのである。
 日寛上人は本抄文段において、この御文をもって始まる第三段は「今家の正判」を明かす段である、とされている。「今家の正判」とは、前段で示された「諸宗の謬解」に対するもので、“日蓮大聖人による正しい教判”の意であり「法華経第一」がそれである。本段ではその「法華経第一」の所以について、
   ①文証
   ②証明の有無
   ③対告衆の尊卑
 の三点から明かされていくのである。

0331:12~0331:14 その二top
12   夫れ諸宗の人師等或は旧訳の経論を見て 新訳の聖典を見ず或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き或は自宗の曲に
13 執著して己義に随い愚見を注し 止めて後代に之を加添す、 株杭に驚き騒ぎて兎獣を尋ね求め智円扇に発して仰い
14 で天月を見る 非を捨て理を取るは智人なり、
-----―
 諸宗の人師は、あるいは旧訳の経論を見ても、新訳の経論を見ていなかったり、あるいは新訳の経論を見て、旧訳の経論を無視している。あるいは自宗の誤った教えに執著し、自分勝手な考えにしたがって愚かな注釈を書きとどめて、これを後代に加え残しているのである。たまたま切り株に当たった兎を捕らえて驚き騒いだ後は、切り株を見守るのではなく、兎そのものを追い求めるように、また、月を譬える円扇によって智慧を開いた後は、円扇を捨てて仰いで天の月を見るように、非を捨てて理を取るのが智人の在り方である。

 ここでは、諸宗の人師等によって種々の謬解が生じた理由を明らかにされている。その理由としては、
    ①旧訳の経典・論書は見ているが、新訳の経典を見ていない
    ②新訳の経典・論書を見ているだけで、旧訳の経典・論書を無視している
    ③自宗の誤った教えに執着し、自分勝手な考えに従って愚かな注釈を書き、これを後代に残した
 との三点が挙げられる。
 ①に相当するものとしては、旧訳の般若経や中論・十二門論・百論などの経論をよりどころにする三論宗が代表的である。また、同じく旧訳の成美論による成美宗、摂大乗論による摂論宗、十地論による地論宗等をはじめとする、いわゆる南三北七の諸宗・諸師もこれに相当するであろう。これらの宗派は隋代以前の成立であり、その成立時おいては、唐初以後に訳された新訳経論を見ていないのは当然であるが、そうした時代的な制約とともに
    (1)旧訳の中の一部の経論によって宗をたてた
    (2)新訳の経論が出た後も、自宗所依の経論に執着した
 等により、始終の謬解を後代に残したのであった。
 これに対して、天台大師も陳・隋の人であるから、当然、新訳の経論をみてはいない。だが、種々の経々が説かれた所以を仏自身が明かしたのが法華経であり、その法華経に基づいて、旧訳の一切の経論を体系的に位置付けることによって、「法華経第一」の教判を証明したのである。その義は、新訳経論をも、おのずから包摂しているのである。
 ②玄奘が訳した解深密経や成唯識論等の、唯識関係の経論をよりどころとする法相宗、また、新たにインドから請来した大日経・金剛頂経等の、密経関係の経論によって立てられた真言宗が代表的である。これらの宗派は、新しく伝訳された経論を表に掲げて、旧訳の経論を顧みなかったのである。
 要するに①と②は、諸宗が全体的な経論の顕等もせずに、一部の経論を無前提に最勝とすることによって謬解が生じたことを明かされているのである。
 ③は、南三北七の時代に立てられた。大小相対を基調とする華厳宗、あるいは浄土関係の恣意的な注釈書を書いて一宗を立てた、曇鸞・道綽・善導等の浄土宗が相当するであろう。また、経論にはよらないが自義に執着するという点では、禅宗も含めることができよう。
 このように、諸宗の教判は、一部の経論や自宗の邪義に囚われて立てられた謬解であり、こうした諸宗の教判によっては、教法の勝劣を正しく捉えることはできないのである。
 御文に仰せの、株杭と兎、円扇と天月の譬喩は、このような諸宗教判の在り方を踏まえたものと拝される。すなわち、一部の経論や自宗の邪義に囚われて立てられた諸宗の教判は、株杭に囚われて兎を求めず、円扇に囚われて天月を見ないようなものであり、逆に、そのような謬解を捨てて、道理に適った教判によって正しい教判を取るのが、智人の在り方である、と示されているのである。

0331:14~0332:01 その三top
14                       今末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて専ら本経本論を引き見る
0332
01 に五十余年の諸経の中に 法華経第四法師品の中の已今当の三字最も第一なり、
-----―
 いま、インドの末流の論師や、中国・日本の各宗の祖とたなった人師の邪義を捨てて、専ら真実の経典・論書を引いて見ると、釈尊一代五十余年の諸経の中では、法華経巻第四の法師品第十の中における「已今当」の三字こそが、教法の勝劣を判ずるうえで最第一の文である。

 前文では、非を捨てて理を取る智人の在り方を示されたが、ここからは、その、取るべき「理」たる正しい教判を明かされていくのである。
 まず、捨てるべき「非」とは、「末の論師」や「本の論師」の邪義であるとされたうえで、取るべき「理」を明らかにするには、専ら「本経本論」、すなわち釈尊の経典と正しい論書によるべきであることを示されている。
 その結果、釈尊の一代諸経の中で、法華経法師品第十の「已今当」の文が、教法の勝劣を判ずるうえで、最も重要であるとされているのである。
 以下においては、大聖人が「已今当」の文を教法の勝劣を判ずるうえで、最重要とされる所以を、御書に示されているくつかの観点から拝察してみたい。
1 法師品第十「已今当」の文とは
 「已今当」とは、法華経法師品第十の「我が所説の経典、無量百千億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」との文を略称したものである。
 天台大師は、この文における「已に説き、今説き、当に説かん」の部分を釈して「今初めに已と言うは、大品已上の漸頓の諸説なり。今とは同一座席にして、無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と述べている。すなわち、「已に説き」とは大品般若経以前に説かれた一切の経々、つまり華厳経から般若経に至る爾前諸経のことである。ここで「漸頓」と断り書きされているのは、頓教とされる華厳経も、漸教とされる阿含・方等・般若の諸経典も、つまりは爾前の一切の経典がすべて「已に説き」の語に含められていることを示している。また、「今説き」とは、法華経と同一の座席、すなわち霊鷲山において、法華経の開経として説かれた無量義経のことであり、そして「当に説かん」とは、法華経の後に説かれる涅槃経のことである、としている。したがって、釈尊一代の説法の中で、法華経以外の一切の経々を「已今当」の三説という。
 このように、法華経の前後に説かれた一切の経々を、明確に指し示したうえで、それらの経典に対して、「為れ難信難解」とは「最第一」を意味していることは明らかである。なぜならば、この「已今当」の文の直前に、「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華経最も第一なり」との文があり、この文における「法華最第一」の意義について、次の二点において更に詳しく明らかにしたのが、「已今当」の文だからである。
 ①已説・今説・当説の一切の経々に対して法華が「最第一」であるとし、所対を明らかにしている。
 ②法華経が最も「難信難解」であるとして「最第一」たる所以を明らかにしている。
 以下においても、この二点のうち、本抄において主題とされている①の点についてまず考察し、次に、これとの関連で、②の「難信難解」の意義について述べることにしたい。
2 三説超過の法華経
 本抄では、他経の諸文と比較して「已今当の三字」が、教法の勝劣を明かす最重要の文であるとされている。すなわち、諸宗が所依とする経典にも、その経を第一とする文があるが、それは限定された意味においての第一であり、法華経のように、已今当の三説に対して第一とはしていないからである。この点については、本抄のこの後の御文において他経の諸文を挙げられているので、その御文を拝するときに述べることにする。
 ところで、法華経並びに開結二経の中には、「已今当」以外にも、法華経の最勝を示す文証を多く見いだすことができるのであるが、それでは何故に、大聖人は、特に「已今当」の文を以て最重要とされたのであろか。ちなみに、「真言見聞」では、法華経の最勝を示す諸文を次のように列挙されている。
 「無量義経説法品に云く『四十余年・未顕真実』」(0147-01)
 「一の巻に云く『世尊は法久くして後要ず当に真実を説きたもうべし』」(0147-02)
 「四の巻に云く『薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり』」(0147-03)
 「又云く『已に説き今説き当に説かん』」(0147-04)
 「宝塔品に云く『我仏道を為つて無量の土に於て始より今に至るまで広く諸経を説く而も其の中に於て此の経第一なり』」(0147-04)
 「安楽行品に云く『此の法華経は是れ諸の如来第一の説なり諸経の中に於て最も為甚深なり』」(0147-05)
 「又云く『此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り』」(0147-06)
 「薬王品に云く『此の法華経も亦復是くの如し諸経の中に於て最も為其の上なり』」(0147-07)」
 「又云く『此の経も亦復是くの如し諸経の中に於て最も為其の尊なり』」(0147-08)
 「又云く『此の経も亦復是の如し諸経の中の王なり』」(0147-09)
 「又云く『此の経も亦復是の如し一切の如来の所説若しは菩薩の所説若しは声聞の所説諸の経法の中に最為第一なり』」(0147-09)
 いずれも、よく知られた文なので説明は省略するが、こうした種々の文証があるにもかかわらず、本抄においては何故に、特に「已今当」という文をあげられたのであろうか。
 その一つの理由として拝察できることは、「已今当」という「釈尊一代」の所説と対比して、法華経こそ最勝であることが、最も鮮明に表現されている点を挙げることができよう。
 例えば、無量義経の「四十余年未顕真実」や、法華経方便品の「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」等の文は、法華経以前の四十余年に説かれた方便の経々に対して、法華経が真実の経であることを示した明文である。確かに、これらによって、四十余年已前の諸経と法華経との勝劣は明確になるのであるが、しかし、これだけでは法華経より後に説かれる涅槃経との勝劣が、明確にされていない。
 また、法華経諸品における「此の経第一」「最も為れ甚深」「最も其の上に在り」「最も為れ其の尊なり」「諸経の中の王なり」等の文も、何に対して第一とするのかが、明確かつ具体的に示されていないため、他経の類似の経文との相違を、明らかにしにくいきらいがある。
 これらに対して、法師品の「已今当」の文では「已」「今」当」の三字によって、既に説いた爾前諸経、今の同一座席で説かれた開経の無量義経、そして、これから未来に説かれるいかなる経と比べても、法華経が第一であることが明言されている。したがって「已今当」の文は、釈尊の教説のすべてを対象としたうえでの勝劣判ということになり、そこに「已今当の三字最も第一」とされる所以があるのである。
 すなわち同抄では「阿含経は乳味の如く観経等の一切の方等部の経は酪味の如し、一切の般若経は生蘇味・華厳経は熟蘇味・無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし」(1059-06)と、五味によって諸経の勝劣を判じられたうえで、更に「涅槃経は醍醐のごとし法華経は五味の主の如し」(1059-07)と仰せである。前の御文では、爾前諸経に対して、無量義経・法華経・涅槃経を一括して醍醐味の経であるとされているのに対して、後の御文では、更に涅槃経に対して、法華経を「五味の主」として勝劣を立て分けられている。「五味」と「五味の主」との相違については、「五味は寿命をやしなふ寿命は五味の主なり」(1059-09)と仰せられている。このように、「五味」の諸経と「五味の主」である法華経との相違を、寿命を養うものと、寿命そのものとの相違として示されることにより、両者の根本的な勝劣を示されているのである。
 すなわち、一応、「五味」の範疇内で立て分ければ、法華経は無量義経・涅槃経とともに醍醐味として位置付けられる。だが、より厳密にいえば、法華経の価値はそれだけでは言い尽くせないのであり、その法華経の価値を示されるために、爾前経・無量義経・涅槃経、つまり已今当の三説と立て分けて、法華経を「五味の主」とされていると拝されるのである。
 このように、已今当の三説と法華経との間に見られる根本的な勝劣関係は、次のような仰せにも拝されるであろう。
 「已今当の諸経の説に色をかへて重き事をあらはさんがために宝浄世界の多宝如来は自はるばる来給いて証人とならせ給う」(0359-02)
 「夫れ以みれば一乗の妙経は三聖の金言・已今当の明珠諸経の頂に居す」(1011-05)
 また、次の仰せに拝されるように、「已今当の三字」は釈尊一代だけでなく、十方三世の諸仏が説く諸経との相対で、法華経を最勝とする教判であるとされている。このことも、已今当の三説と、法華経との根本的な勝劣が明らかにされたときに、必然的に帰着するものと拝されるのである。
 「已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏えの御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給い各各・又自国に還らせ給いて我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子等信用すべしや」(0296-03)
 それでは、その根本的な勝劣とはいかなるものであろうか。この点については次項「難信難解の所以」のなかで、考察し論究していきたい。
3 難信難解の所以
 法華経法師品第十では、已今当の三説に対して、法華経が最も「難信難解」であるとされているが、ここでは、天台・妙楽・伝教の釈によって、なぜ法華経が「難信難解」とされるかを考察してみたい。
 天台大師は法華文句巻八上において、法華経が「難信難解」である理由を、次のように述べている。
 「大品等の漸頓は皆方便を帯し、信をとること易しと為す。今の無量義は一より無量を生じ、無量末だ一に還らず、是れ亦信じ易し、今の法華は、法を論ずれば、一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば、則ち師弟の本迹倶に皆久遠にして二門悉く昔と反す。信じ難く解し難し。鋒に当たる難事を法華に已に説く、涅槃は後に在れば則ち信ず可きこと易なり」
 すなわち、まず「已説」たる爾前諸経については、すべて「方便」を帯びているので易信易解である、としている。「方便」とは、衆生の情意に随って法を説くことであるから、衆生にとって信じ易く解し易いのである。
 次に「今説」たる無量義経については、無量義は一法より生じたことを明かすだけで、無量義が帰す一法そのものは、まだ明らかにしていないので、やはり易信易解であるとする。
 それに対し、法華経は、爾前経・無量義経にいまだ説かれていない一乗法を明かして、一切の差別を融通し更に、初めて始成正覚を打ち破って、釈尊と衆生が久遠以来の師弟関係にあることを明かしており、それ以前の経々の説いたところと反しているので難信難解であるとするのである。
 最後に、「当説」たる涅槃経については、既に法華経において難信難解の法門が明かされた後に、それを追説した経であるから易信易解である、としている。
 天台大師のこの説明によって、已今当の三説が易信易解であり、法華経が難信難解である理由は明らかではあるが、では、何故、法華経が難信難解であることが、易信易解の已今当三説に勝れていることになるのであろうか。
 このことを明らかにするために、法華経法師品において「已今当」の文の次下に説かれている次の経文に注目してみたい。
 「薬王、此の経は是れ、諸仏の秘要の蔵なり。諸仏世尊の、守護したもう所なり。昔より已来、末だ曾て顕説せず」
 ここにおける「昔より已来、末だ曾て顕説せず」の文について、法華文句では「三蔵の中に於いて二乗の作仏を説かず。亦末だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は末だ融会せず」と釈している。
 これに対して、法華経については、「此の経は具に昔に秘する所の法を説く。即ち是れ秘密蔵を開すれば、亦即ち是れ秘密蔵なり」と釈している。すなわち、法華経においては、爾前経・無量義経で説かれなかった諸仏秘蔵の要法が衆生に開示されたのである。
 また天台大師は法華玄義において、已今当の三説が易信易解であるのは、前者が「随他意」、後者が「随自意」だからとしている。すなわち、同書巻十上では、華厳・阿含・方等・般若の爾前経、および涅槃経の名を挙げて次のように述べている。
 「凡そ此の諸経は皆是れ他意に逗会し、他をして益を得せしむ。仏意を譚せず、意趣何くにか之かん。今経は爾らず。…但だ如来布教の元始、中間の取与を論じて、漸頓時に適う」
 ここで、法華経以外の諸経は、他意に合わせて説いたものであり、仏意を説いていないので、真意を尽くしていない。これに対して、法華経は、如来の化導の元始・中間を論じて、漸頓の諸経の教意が明かされた、としている。したがって天台大師は更に、法華経は「大事の因縁・究極の終訖、説教の網格、大化の筌罤」であるとしている。
 これらの釈は、法華経以外の諸経が、衆生の意に随った「随他意」の教えであるのに、法華経のみが、仏意に随って説かれた「随自意」の教えであることを強調している。このことは、次の法華玄義巻十の文も同じである。
 「已今当の説には、最も難信難解と為す。前の経は是れ已説にして随他意なり、彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し、無量義は是れ今説にして、亦是れ随他意なり。亦信じ易く解し易し。涅槃は是れ当説なり。先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。…秖是れ教の意を説く。教の意は是れ仏意なり。仏意は即ち是れ仏智なり」
 また、伝教大師も法華宗句巻下の次の文に見られるように、法華経は「随自意」の故に「難信難解」であるとしている。
 「当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は、易信易解なることを。随他意なるが故に。この法華経は最も為れ難信難解なり。随自意なるが故に」
 以上のように已今当の三説に対して法華経が「難信難解」である所以は「随自意」ということに要約されている。「随自意」とは、仏が自らの意に随って法を説くことであるから、先に法師品の文に即して述べた法華経の「難信難解」の所以、すなわち、仏が自らに秘蔵している成仏の要法を説き顕すということと、同じといえよう。
 更に天台大師は、法華経が已今当の三説と異なる点として「絶待妙」を挙げている。すなわち、法華玄義巻二下では、まず「権を開し実を顕さば、諸麤皆妙なり、絶待妙なり」と述べたうえで、この「絶待妙」を顕した法華経と、それ以前に説かれた諸経との関係を次のように述べている。
 「法華は衆経を総括して、而も事は此に極まる。仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり」
 「横に周く豎に窮まり、悉く法華に帰会す」
 また涅槃経との関係については、「涅槃は命を讀うの重宝なり、重ねて掌を抵つのみ」
 更に法華玄義では、法華経の「絶待妙」が分からず、法華経は単に二乗作仏の事相を説くだけの経典である、とする当時の疑難に対して、「人、此の理を見ず、是れを因縁の事相と謂って軽慢すること止まざれば、舌、口中に爛れん」と破しているが、この文について、妙楽大師は法華玄義釈籤巻六において、「今に至って方に求めずして自ずから得たりという。已今当の妙茲に於いて固く迷えり。舌爛れて止まらざるは猶為華報なり。謗法の罪苦、長劫に流る」と釈している。ここでは、法華経においてのみ顕された「絶待妙」を「已今当の妙」と表現し、それを知らずに法華経を下す。謗法の罪の深重なることを強調している。
 以上の天台・妙楽・伝教の三大師の釈をまとめると、已今当の三説に対して法華経が「難信難解」とされる所以として、
   ①法華経においてのみ「諸仏の秘要の蔵」が明かされた
   ②法華経のみが「随自意」の教法である
   ③法華経においてのみ「絶待妙」が開示された
 の三点を挙げることができるが、これらは結局、いずれも同じことを意味しているといえるのである。
 すなわち、法華経は、随他意の諸経の教意を示して仏意を開顕し、一切衆生を等しく仏智に入らしめるために説かれた、随自意の経であり、そこに、他の一切の経典においては顕されていない絶待妙、すなわち仏界の妙が開顕されたのである。この点において法華経は、已今当の一切の経々に超過して勝れている、とされているのである。
4 日蓮大聖人における「難信難解」
 日蓮大聖人は、基本的に、前項で見てきたような天台大師等の釈を踏まえて、「已今当」の意義を示されている。例えば、涅槃経巻六の「了義経に依って不了義経に依らざれ」を引いて、次のように仰せである。
 「此の経に指すところ了義経と申すは法華経・不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり、されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか」(0294-13)
 また、次の仰せでは、法華経が已今当の三説に勝れる所以として、「随自意」とういことを挙げられている。
 「諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる」(1437-09)
 また、「絶待妙」を明かす故に法華経は已今当の三説に勝れる、とする義については、例えば法華経題目抄の「妙楽大師の釈に云く『已今当説最為第一』等云云、此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり」(0943-08)との仰せに、拝することができよう。
 このように、大聖人は天台大師等の釈を踏まえて、「已今当」の意義を示されているのであるが、「難信難解」については、法華経が爾前経に対して難信難解であるにとどまらず、更に、法華経の中でも本迹について、本門こそ最も難信難解であるということにとどまらず、更に、法華経の中でも本迹については、本門こそ最も難信難解であることを強調されている。ここに、天台大師には見られない独自性を拝することができるのである。
 その代表的な例として、諸経と法華経の難易の事、における次の御文を挙げることができる。
 「日蓮読んで云く外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり・般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」(0991-10)
 ここでは、
   ①外道と小乗経
   ②小乗経と大日経
   ③大日経と般若経
   ④般若経と華厳経
   ⑤華厳経と涅槃経
   ⑥涅槃経と法華経
   ⑦法華経の迹門と本門
 という七重の相対によって、法華経本門が究極の「難信難解」であることを明かされ、衆生の生死の闇を照らし、元品の無明を断ずるための実義は、法華経本門以外にないとされている。
 この究極の「難信難解」の法門たる本門の実義の内容については、観心本尊抄での御教示によって拝察できる。同抄では、二個所において法師品の文、および天台・章安・伝教等の釈を挙げて、「難信難解」を論じられており、その第一の個所では、己身に仏界が具することについて「難信難解」とされ、第二の個所では、教主釈尊が我等の己心に具すことについて「難信難解」とされている。後者の文を挙げれば次の通りである。
 「但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり、此の事を仏遮会して云く『已今当説最為難信難解』と次下の六難九易是なり、天台大師云く『二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し鉾に当るの難事なり』章安大師の云く『仏此れを将つて大事と為す何ぞ解し易きことを得可けんや』伝教大師云く『此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に』等云云」(0244-18)
 この「教主釈尊等の大難」とは、教主釈尊が凡夫の己心に具することは信じ難い、との論難である。同抄では、この“己心具仏界”の「難信難解」を会通して、いわゆる「受持即観心」が説かれ、釈尊の因行果徳の二法を具足する妙法蓮華経の五字を受持すれば、凡夫の己心に自然に仏界が具する、とされている。そして更に、凡夫の己心に具する常住の仏界は、法華経本門寿量品において初めて顕された、と述べられ、この「本門の肝心」たる「南無妙法蓮華経の五字」が地涌の菩薩に付嘱され、それを、地涌の菩薩が末法において「一閻浮提第一の本尊」として建立するとされている。
 すなわち、釈尊の一代諸経の中で、法華経本門にのみ凡夫の己心に具する真実の仏界が説かれ、真実の十界互具・一念三千が顕されたのであり、大聖人は、この法門こそが、一代諸経の中で最も「難信難解」である、とされているのである。
 故に同抄では、以上の論述の過程において、「又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249-03)と述べられ、法華経迹門を、已今当の三説と共に随他意・易信易解に属するとされ、本門のみを随自意・難信難解であるとされているのである。
 このように大聖人は、厳密には、法華経本門を指して、三説超過の難信難解の法門とされているのであり、その所以は、本門においてのみ凡夫成仏の実義が顕されたからである。
 以上のことから帰結する「已今当」の文の意義として、次の諸義が御書において示されている。
   ①成仏の有無
   ②釈尊所立の宗
   ③諸経・諸宗を破す
   ④滅後のための文
 以下においては、これらの諸義について、順次、拝察してみたい。
5 成仏の有無
 次の御文に明らかなように、大聖人は、「已今当」の文が示す諸経の勝劣の根底にあるものは、成仏の有無の問題とされている。
 「法師品の已今当・無量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし、 諸経の勝劣は成仏の有無なり、慈覚智証の理同事勝の眼・善導法然の余行非機の目・禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり」(1279-11)
 諸経ではいかに成仏について説いたとしても、実際に衆生を成仏せしめる力がなければ、観念論にすぎない。したがって大聖人は、次の仰せに拝されるように、衆生成仏の力用を具することをもって、法華経を最勝とされているのである。
 「法華経は何故ぞ諸経に勝れて一切衆生の為に用いる事なるぞと申すに譬えば草木は大地を母とし虚空を父とし甘雨を食とし風を魂とし日月をめのととして生長し華さき菓なるが如く、一切衆生は実相を大地とし無相を虚空とし一乗を甘雨とし已今当第一の言を大風とし定慧力荘厳を日月として妙覚の功徳を生長し大慈大悲の華さかせ安楽仏果の菓なつて一切衆生を養ひ給ふ」(1060-12)
 また大聖人は、法華経においてのみ“成仏の道”が成り立つ故に、法華経を、已今当の三説に超過して勝れた経であるとされている。
 「経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて」(0290-07)「或は又已今当の三説の中に仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云う事は正しき仏の金言なり」(0545-18)
 このように、大聖人は、法華経こそ一切衆生を実際に成仏せしめる力を持った経である故に、法華経第一を強く主張されたのである。
6 釈尊所立の宗
 「已今当」の文は釈尊が述べた言葉であり、この事はすなわち、仏自らが、法華経を一代の肝要とする「法華宗」を立てたことを意味する。故に大聖人は法華初心成仏抄に於いて「法華宗は釈迦所立の宗なり其の故は已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給う是れ釈迦仏の立て給う処の御語なり、故に法華経をば仏立宗と云い又は法華宗と云う又天台宗とも云うなり」(0544-01)「法華より外の経には全く已今当の文なきなり已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云う今説とは無量義経を云う 当説とは涅槃経を云う此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり」(0544-04)等と仰せである。これに対して、諸経を第一とする人師・論師の説によって立てられた諸宗は、当然、仏が立てた法華宗に劣るのである。
 「余宗は仏・涅槃し給いて後・或は菩薩或は人師達の建立する宗なり」(0899-11)「余宗は仏・涅槃し給いて後・或は菩薩或は人師達の建立する宗なり」(0544-05)
7 諸経・諸宗を破す
 「已今当」の文は、已今当の諸経に対して、法華経が最勝であることを定めた文であるから、已今当の諸経と、それらを依経とする諸宗を破折する文となっているのである。すなわち「已今当の三説を非毀して法華経一部を讃歎するは釈尊の金言なり諸仏の傍例なり敢て日蓮が自義に非ず」(0180-09)「法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も諸経の裏に法華を破るの文全く之無し、所詮已今当の三説を以て教法の方便を破摧するは更に日蓮聖人の莠言に非ず皆是れ釈尊出世の金口なり」(0848-10)「法華経出現の後は已今当の諸経の捨てらるる事は勿論なり」(0360-12)等と仰せである。
 したがって「已今当」の文は次の仰せのように、諸経に執着している一切の諸宗を破折する文となるのである。
 「先と答えば未顕真実の文を以て之を責めよ敢えて彼の経の説相を尋ぬること勿れ、後と答えば当説の文を以て之を責めよ、同時と答えば今説の文を以て之を責めよ」(0075-17)
 また逆に、「已今当」の判は釈尊によって立てられただけでなく、多宝・十方の諸仏によって証明されたのであるから、たとえ釈迦仏たりとも、後になって独断で破ることはできないと仰せである。
 「教主釈尊・多宝・十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し多宝諸仏は各本土に還りたまいぬ、三仏を除くの外誰か之を破失せん」(1035-14)「已今当の経文は仏すら・やぶりがたし・何に況や論師・人師・国王の威徳をもつて.やぶるべしや」(1595-02)
8 滅後のための文
 守護国家論では、釈尊自らが法華経を滅後に流通せしむるために言った言葉として「已今当」の文を引用されたうえで、「文の意は一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり、八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説き給えるなり」(0047-18)と仰せられている。
 続いて、 見宝搭品第十一において、令法久住のために多宝如来が出現し、十方の諸仏が来集したこと、釈尊や菩薩達に対して、「各三説の諸経滅尽の後・慥に未来五濁難信の世界に於て此の経を弘め」(0048-03)る、旨の誓言を立てるように要請されたこと、それに応えて、八十万億那由佗の菩薩が滅後弘通を誓ったこと、が述べられている。
 そして如来神力品第二十一での地涌の菩薩への付嘱、薬王菩薩本事品第二十三で「後五百歳中広宣流布」と、法華経の末法・広宣流布が説かれたこと等を述べられている。ここで大聖人は「已今当」の文は、滅後のために説かれたものと位置付けられるべきことを、強調されているのである。

0332:01~0332:02 その四top
01                                      諸の論師・諸の人師定めて此経文
02 を見けるか、 然りと雖も或は相似の経文に狂い或は本師の邪会に執し 或は王臣等の帰依を恐るるか、
-----―
 諸々の論師や人師み、必ずやこの已今当の経文を見たにちがいない。しかしながら、彼等が誤った教判に執着しているのは、あるいは已今当と相似する経文に狂い、あるいは自らの師の邪な見解に執着し、あるいは王臣等の帰依が失われることを恐れたからであろう。

 ここでは、「已今当」という法華経最勝を示す明確な証文を知りながら、なぜ諸々の論師や人師は誤った教判に執したのか、という点について述べられている。すなわち、
   ①諸経における「已今当」と似た経文に迷って、それぞれの経を第一と考えた
   ②自宗の祖師の邪義に執着した
   ③内心では法華経第一と知りながら、王臣等の帰依が失われるのを恐れていい出せなかった。
 の三点を挙げられている。
 これらのうち、①は、インドの末流の論師や、中国の各宗の祖師における誤りであるといえよう。そして、この誤謬が各宗の邪義の源流となったのである。また②③は、中国・日本の諸宗末流における誤謬の因を示されていると拝される。
 このような誤謬・執着・保身等が重なり合うことによって、各宗は「已今当」の文を無視してきたのであった。その結果として「十宗七宗まで各各・諍論して随はず」(0294-09)との仰せのごとく、各宗が勝手な教判を立てて争うことになったのである。
 このような状況に対して日蓮大聖人は「涅槃経と申す経に云く『法に依つて人に依らざれ』等云云 依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり」(0294-11)と仰せのように、仏説をこそ根拠として、人師の釈にはよらないという、「依法不依人」を根本原則とすることによって、立ち向かわれたのであった。これらはいずれも、人師の誤りがどこから生じたかを示されたものであり、言い換えると、「不依人」とすべき理由を示されたものとも拝することができる。この「不依人」については、諸御書において次のように強調されている。
 「論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん」(1293-03)
 「人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397-13)
 「人師を本とせば仏に背くになりぬ」(0451-01)
 「人師の言語は無用なり」(1278-09)
 さて、「依法不依人」を根本原則とされている大聖人の御立場においては、諸宗の謬解の根源となった①の点が、特に重要な問題点を孕んでいると拝される。なぜならば①は一応、経典を踏まえており、その意味で「依法不依人」の原則に適っているように見えるからである。そこで本抄の以下では①の点に焦点を当てて検討を加えられていくのである。

0332:02~0332:08 その五top
02                                                所謂金光明
03 経の「是諸経之王」密厳経の 「一切経中勝」六波羅蜜経の「総持第一」 大日経の「云何菩提」華厳経の「能信是
04 経.最為難」般若経の「会入法性.不見一事」大智度論の「般若波羅蜜最第一」涅槃論の「今者涅槃理」等なり、此等
05 の諸文は 法華経の已今当の三字に相似せる文なり・然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王
06 なり或は小乗経に相対すれば 諸経の中の王なり或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば 一切経の中に勝れたり全く五
07 十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず 所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべき
08 なり、 強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり、
-----―
 諸々の人師が迷った相似の文とは、いわゆる、金光明経の「金光明経は諸経の王である」、密厳経の「密厳経は一切経の中で最も勝れている」、六波羅蜜経の「契経等の五蔵の中で総持門を最も第一とする」、大日経の「菩提とはいかなるものか、といえば如実に自心を知ることである」、華厳経の「よくこの経を信ずることは甚だ難しい」、般若経の「世間・出世間のすべての法は、般若をもって法性に会入し、一事として法性からはずれるものは見られない」、大智度論の「般若波羅蜜が最第一である」、涅槃論の「今、涅槃の理は流動なく得失なく起滅なし、故に所汚となさず」等の文である。
 これらの諸文は、法華経の已今当の三字に相似した文である。しかしながら、これらの文は、あるいは梵天・帝釈・四天等が説いたといわれる諸経との比較のうえで、諸経の王であるとし、あるいは小乗経との相対のうえで諸経の王であるとし、あるいは華厳経や勝鬘経等との相対のうえで、一切経の中で勝れているとしているのである。決して釈尊一代五十余年の大乗経・小乗経・権経・実経・顕経・密経の諸々の経と比較して、それら諸経の王の上に立つ大王だといっているのではない。
 結局、比較された対象を見て、経々の勝劣を判別すべいである。強敵を倒して、始めてその人の大きな力を知見することができるのと同じである。

1 列挙された諸文の意味
 ここで列挙されている諸経論の文は、いずれも、法華経以外のそれぞれの経を最勝とするものであり、そのように最勝の経を判じているという意味で、法華経を第一とする「已今当」の文と相似している。
 大聖人はここで、これらの文がいかなる経と比較して、それぞれの経を第一としているのかという点、すなわち“所対”を知らなければならない、と言われている。その大聖人の御教示を踏まえて、まず列挙されている諸文の意味するところを検討し、その後に“所対”の問題のうえから、「已今当」の文の意味を考察してみたい。
一、金光明経の「是諸王之王」
 まず金光明経の「是れ諸経の王なり」の文を挙げられている。これは、金光明経の序品第一の冒頭にある「是の金光明は、諸経の王なり」の文にあたる。同経の次下では、諸経の王たる所以として金光明経の威徳を挙げている。すなわち、金光明経を聞けば、諸々の善神の加護によって無量の諸苦・諸悪を滅し、無量の楽を得ることができるとする。
 日蓮大聖人は、この文について「金光明経の是諸経之王の文は梵釈の諸経に相対し」(1003-15)と仰せであり、本抄の「梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり」との仰せも、この金光明経の文についての仰せであることが明らかである。
 これらの仰せは、金光明経巻二・四天王品第六における「諸の梵天が説く出欲論、菩提桓因の種種の善論、五通の人の神仙の論の如き、世尊・梵天・釈提桓因・五神通人・百千億那由他無量の勝論有りと雖も、是の金光明経は中に於いて最勝なり」の文に基づかれたものであると拝される。この文では、梵天・帝釈等が説いたとされる、外道の離欲・十善等の教えと相対して、金光明経が最勝であるとしている。「是れ諸経の王なり」の文も、まさに、この意味での最勝ということであって、法華経の「已今当」の文のように、一切経と相対して最勝としているわけではないのである。
 なお、金光明経の「是れ諸経の王なり」の文は、特定の宗派の教判を依文として用いられていたわけではない。だが、同経は、日本において早くから鎮護国家の経典として重要されてきており、特に不空訳の「金光明最勝王経」の名、およびそれに由来する最勝会が、盛んに行われてきたこと等から、“最勝の経”としての名が通っていたものとみられる。故に大聖人は、自経を第一とする文の代表例として、まず金光明経の文を挙げられたものではないかと拝察されている。
二、密厳経「一切経中勝」
 次に密厳経の「一切経中勝」の文を引用されている。詳しくは、大乗密厳経の巻上・入密厳微妙身生品第二に、「十地華厳等、大樹と神通し、勝鬘及び餘経は、皆此の経より出づ。是くの如き密厳経は、一切経中の勝なり」とある。すなわち、十地経・華厳経、大樹緊那羅王所問経、菩薩方便境界神通変化経、勝鬘経等の経々の名を挙げて、これらはすべて密厳経より出たものであるとし、それをもって密厳経が一切経の中で最勝とする。ここに挙げられた華厳経等の諸経は、いずれも菩薩行を称揚した経典である。密厳経では、密厳浄土という、大日如来が住する三密荘厳の世界を説き、上記の諸経で説かれる菩薩行は、すべてこの悟りの世界を本地とするものであるから、その悟りの世界そのものを説く密厳経が、最も勝れているとするのである。
 この文について大聖人は、本抄において「或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり」と仰せであり、また、大田殿許御書においても「密厳経の一切経中勝の文は次上に十地経・華厳経・勝鬘経等を挙げて彼彼の経経に相対して一切経の中に勝ると云云」(1003-16)と述べられている。すなわち、これもまた、一部の限定された諸経の中での最勝をいうものにすぎない、とされているのである。ゆえに、日寛上人も同文の「一切」について、「これ普く尽際に及ぶの『一切』に非ず、只これ少分の一切なり」と釈されている。
三、六波羅蜜経「総持第一」
 第三に六波羅蜜経の「総持第一」の文が引用されている。これは、真言宗の空海が顕劣密勝判の経証としたものであり、詳しくは、同経の巻一・帰依三宝品第一に、「総持門とは契経等の中に最も第一と為す。能く重罪を除く」とある。すなわち同経では、過去・現在の諸仏が説くところの八万四千の諸法を、
   ①素咀纜=契経
   ②毘奈耶=調伏
   ③阿毘達磨=対法
   ④般若波羅蜜多=般若
   ⑤陀羅尼蔵=総持門
 の「五蔵」に分けたうえで、先の四蔵を受持することができず、また五逆罪、謗法罪等種々の重罪をつくっている衆生に、速やかに悟りを得さしめるために陀羅尼蔵を説く、としている。そして、五蔵を順に乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五味に配し、陀羅尼蔵を醍醐味として最第一としている。
 これについて、空海の弁顕密二教論では、①~③を小乗の三蔵、④を大乗の三蔵に配して、以上を顕教とし、更に⑤を密経の三蔵に配することによって、密教こそ醍醐味の教えであるとし、顕劣密勝を立てた。のみならず、法華・涅槃を醍醐味とする天台の教判については、醍醐の名を盗んだと謗じたのである。
 これに対して日蓮大聖人は開目抄において、「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり」(0222-10)と仰せである。すなわち、六波羅蜜経には有情・非情にわたる真の成仏の法を明かしていないと、その限界を指摘されて、同経で説く五味判は涅槃経の五味判に及ばないにもかかわらず、有情・非情にわたる成仏の仏と久遠実成を明かした法華経を、第四熟蘇味に配した空海の迷乱を、厳しく破されている。
 また、日寛上人は開目抄愚記において、六波羅蜜経の五蔵のうち①~③を小乗の三蔵、④を通別二経、⑤を爾前の円教に配し、したがって同経でいう五味と、総じて一代五時を譬えた涅槃経の五味とは、水火の相違があることを明かされている。所詮、六波羅蜜経の「総持第一」とは、こうした爾前諸経の中での最勝をいうにすぎないのである。
四、大日経「云何菩提」
 第四の「云何菩提」とは、大日経巻一・入真言門住心品第一に「秘密主、云何が菩提・謂く、如実に自心を知るなる」とある文を略して示されたものである。秘密主とは大日経の対告衆である金剛薩埵のことであり、上の「云何菩提」の文はその金剛薩埵に対して大日如来が、菩提とは如実に自心を知ることなり、と教示している文である。
 大日経住心品では、この文を皮切りに種々の住心を説いているが、真言宗の空海は、同品のこの所説によって十住心の教判を立て、「云何菩提」の文をもって最高の秘密荘厳心の依文としている。そして、この秘密荘厳心を説く真言経典を最勝とし、これを説くに至らない顕教の華厳経や、法華経は劣ると判じた。つまり、この「云何菩提」の文を、真言経典を第一と判ずる根拠としたのであった。
 空海の十住心判については、第一章において詳しく検討し、特に第八・九・十の住心については、経証に欠けることを明らかにした。ここでは繰り返しになるので述べないが、要するに、十住心判は、天台の法門を盗み入れて大日経を解釈した。中国の一行の大日経疏に基づき、空海が恣意的に立てた教判であり、大日経住心品では、大日経が一切の経に勝れているとは、全く明かされていないのである。
 また、同品で説かれる住心とは、心を細かく分析したものであり、大日経では、そうした種々の心が調和する曼荼羅の世界を説き、それをもって心の実相とする。それは縁起の理法の象徴化であり、理に偏した実相にすぎない。大聖人が観心本尊章で「爾前迹門の円教尚仏因に非ず何に況や大日経等の諸小乗経をや何に況や華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや、与えて之を論ずれば前三教を出でず奪つて之を云えば蔵通に同ず、設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-07)と仰せのように、大日経の説く理に偏した実相は、衆生の成仏に何も役立たないのであり、所詮は小乗教に同ずるのである。
五、華厳経「能信是経・最為難」
 次に、華厳経の「能信是経・最為難」の文を挙げられているが、詳しくは、同経巻七・賢首菩薩品第八の二に「一切世界の諸の群生は、声聞道を求めんと欲すること有るは尠し、縁覚を求むる者は転た復少し、大乗を求むる者は甚だ希有なり、大乗を求むる者は猶為れ易く、能く是の法を信ずるは為れ甚だ難し」とある。
 この文は、声聞乗・縁覚乗・大乗の三乗を挙げて、華厳経がそれらよりも難信の法であるということで、したがって最勝の法たる証文であるとされている。これは一見すると法華経の開三顕一に似ているが、蔵通二教における三乗法と相対して、それらを超越した中道の法を説く、別教としての華厳経が勝れていることをのべたものに過ぎない。法華経の開三顕一は、華厳経も含めた一切の三乗を開いて一乗に摂し入れ、そこに真の一乗を顕したのである。法華経の「已今当」の文は、このような開三顕一、更には開近顕遠によって妙法を顕した法華経を最勝と述べたものであり、華厳経の上の文とは根本的に意義が異なっている。
 しかるに、華厳経の智儼・法蔵・澄観は、この文を依文として華厳経を最勝としたのである。なお、華厳宗の教判については前に詳しく述べたので、ここでは略すことにしたい。
六、般若経「会入法性・不見一事」
 六番目に引用されている般若経の「会入法性・不見一事」とは、大般若波羅密多経巻三百二十六・初分不退転品第四十九の二における「聴聞する所の世・出世の法に随って、皆能く方便して般若波羅蜜多甚深の理趣に会入し、諸の造作する所の世間の事業も、亦般若波羅蜜多を以て法性に会入し、一事として法性を出ずる者を見ず」との文を略して示されたものである。この文の意味は“衆生が聴聞するところの世間の法・出世間の法をすべて方便となして、般若によって法性に摂め入れ、一事として法性から外れるのを見ない”というものである。
 大乗経では一般に、煩悩生死も菩提の種子であるとして悪法・悪人を開会するが、小乗の法およびそれを行ずる二乗については、永不成仏等と弾訶している。ところが、上の般若経の文は一見すると、小乗経を含めて、一切経を般若によって開会しているように思え、そこから、このような般若を説く般若経こそ、諸大乗教の中で最勝の経であるかのように考えられたのである。
 しかし、天台大師は、法華玄義巻九上で、「般若の中に、二乗所行の念処道品は皆摩訶衍なり。貧欲・無明・見愛等も皆摩訶衍なりと明かして、善悪の法、悉く皆会せらるるも、亦悪人及び二乗の人等を会せず。其の作仏を弁ぜざるは、此れ即ち別円の摂なり」と述べている。ここにいわれている二乗所行の四念処等の種々の道が、般若経でいう出世間の法にあたり、貪欲・無明・見愛等が般若経でいう世間の法にあたる。また摩訶衍とは大乗教のことである。つまり天台大師は、般若経には、世間・出世間の善悪の法をすべて大乗であるとする「法開会」はあるが、二乗・悪人の成仏が説かれていないので「人開会」がない。したがって、般若経はいまだ真の円教ではなく別教に属する、としている。日蓮大聖人も一代聖教大意で、「般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず」(0396-08)と仰せられている。
 般若経に「法開会」のみあって「人開会」がないということは、同経の開会がいまだ不徹底であり、また抽象的・観念的であることを意味する。実際に衆生に成仏の道を開いてこそ、真実の開会であり、したがって二乗・悪人の成仏を説き、人法ともに仏智の世界に開き入れた法華経こそが、真の開会の経なのである。
 以上のことから、般若経の「会入法性・不見一事」の文は、小乗の法を開会しない諸々の権大乗経に対比したかぎりで、般若経を最勝としているのであって、法華経に比べれば、般若経は真の開会を説いていない方便権経であり、法華経における人法の開会によって、初めて意義を与えられるものなのである。
七、大智度論「般若波羅蜜最第一」
 次に、竜樹の大智度論から「般若波羅蜜最第一」の文を挙げられている。これは、同論巻四十六の「本起経・断一切衆生疑経・華手経・法華経・雲経・大雲経・法雲経・弥勒問経・六波羅蜜経・摩訶般若原密経、是の如き等の無量無辺阿僧祇の経は、或は仏の説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道の天の説なり。是の事の和合するを、皆摩訶衍と名づく、此の諸経の中にて、般若波羅蜜は最も大なるが故に摩訶衍と説き」との文における、最後の一節を略して示したものである。
 同じ大智度論の巻百では、般若よりも勝れた甚深の法とは何か、との問いに対して「般若波羅蜜は秘密の法に非ず、而して法華等の諸経には阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩は能く受持し用う。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と答えており、般若経よりも勝れた法華経の名を挙げている。このことからも、竜樹が、法華経を般若経よりも劣る経とは考えていないことが明らかであろう。
 それでは、「般若波羅蜜」が「最大」であるとする先の文は、どのような意味なのであろうか。
 この点は古くから問題とされているが、その中でも、慧心僧都源信は一乗要決で、「般若波羅蜜最大」とは経の勝劣をいうのではなく、六波羅蜜の中で、般若波羅蜜を第一とすることであると会通している。この説は妥当性があるといえるのではないだろうか。なぜならば、先の文では、法華経・般若経を含めた十経の名を挙げて、それぞれ説き手は様々であるが、総じて大乗教であるとしており、「般若波羅蜜最大」とは、その理由を述べたものと見られるからである。つまり、六波羅蜜の中で般若波羅蜜が最も勝れているが故に、これらの大乗教において般若波羅蜜が説かれた、との意である。事実、大智度論には、先の文の直前に「六波羅蜜の中、第一に大なるは、般若波羅蜜なり」とある。したがって、先の文における「般若波羅蜜」とは、それが表立って説かれているか否かは別とし、大乗教総体に共通するものであって、般若経だけを指しているのではないということが明確である。
八、涅槃論「今者涅槃理」
 最後に、世親の著とされている涅槃論から「今者涅槃理」の文を引用されている。これは同書に「四諦の教乃至般若波羅蜜法華、亦、煩悩所汚と名づく。今、涅槃の理は、流動無く、得失無く、起滅無し、是の故に為に汚れざること」とあるのを略して示されたのである。この文の意味は“四諦を説いた小乗教から般若経・法華経に至るまで、その諸説の理は、煩悩によって汚される所と名付ける。今、涅槃の理は、流動、得失、起滅が無い故に、煩悩によって汚されることはない”ということである。この文面上からは、小乗教から法華経まで一切の経に対して、涅槃経を第一とする文として理解することもできる。
 確かに涅槃経では、その全編を通して「如来常住」および「一切衆生悉有仏性」の義が強調されており、その意味で、この文にいわれている通り、不変常住の理が明かされている。それに対して法華経では、同様の義が説かれているのであるが、法華経は、常住不変の理を概念的に強調するよりも、むしろ、衆生に仏知見を実際に開かせることを主眼とした教えである。言い換えれば、法華経は、衆生の観心を実際に成就せしめることを主目的があり、開三顕一および開近顕遠の教えは、そのために必然的に採られるべき道筋であった。また、この意味で、この法華経が説かれなければ、あらゆる教法が水泡に帰するのである。
 このように、法華経は、衆生の観心を実際に成就せしめる教えであるから、そこに開示される法は、衆生の迷いを破する力用があり、したがって煩悩を浄化するという意味で、必ず煩悩とともにあるといえる。故に、その限りで煩悩の「所汚」ということができよう。しかし、このことはすなわち、法華経の実践性、力動性を意味するのである。
 これに対して涅槃経は、滅後の流通のために法華経を追説した教えであり、法華経の内容を概念的に整理して説くとともに、その教えを堅持していくための種々の戒めを説いている。したがって、その所説の理は、不変常住のものとして説かれるのであり、それが「流動無く、得失無く、起滅無し」とされる所以である。しかし、それ故に、涅槃経の理は一面の真理にとどまらざるを得ないのであり、法華経のように真理の全体的な顕現は望むべくもない。涅槃経は、法華経が説かれた後の経としてこそ意義があるのであり、そこに、大収の後の捃拾、大陣を破した先鋒の後に続く破残党、と位置付ける所以がある。以上のことから、涅槃論の「今者涅槃理」の文は、一切経に対して涅槃経を最勝と示すというよりも、涅槃の理そのものを述べた文として理解すべきであり、法華経の「已今当」の文を覆すものではないといえる。
2 「已今当」の文と諸経の文の「所対」の相違
 本抄では、法華経の「已今当」の文に“相似”する諸経論の諸文を挙げられたうえで、結論として、「全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり、強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり」と打ち破られている。すなわち、これらの諸文は、「已今当」の文と同様に、それぞれの経を第一としているが、それは「所対」すなわち“比較の対象”が異なるのである、とされている。つまり、諸経論の類似の文は、ある限定された一部の経々を「所対」として、「最勝」をいっているにすぎないのに対し、法華経の「已今当」の文は、一切の経々を「所対」として、「最勝」を明かしているのである。
 この大聖人の御教示に基づき、ここでは、法華経の「已今当」の文と、これら類似の諸文との「所対」の相違について、整理して、次の三点を例示されている。
   ①小乗経のように、「梵帝・四天等の諸経」つまり外道の経を所対とするもの
   ②「小乗経」を所対とするもの
   ③密厳経の文に見られるように、「華厳・勝鬘等の経」つまり一部の大乗経を所対とするもの
 また報恩抄では次のように仰せである。
 「大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文・一字・一点もなし、或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき或は諸の空仮に対して中道をほめたり、譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし、法華経は諸王に対して大王等と云云」(0295-02)
 この御教示においては、諸経の類似の文における所対について、次の三点を挙げられている。
   ④「小乗経」を所対とするもの
   ⑤「俗諦」を所対として、「真諦」の勝れていることをいうもの
   ⑥「空仮」二諦を所対として、「中道」が勝れているこというもの
 更に曾谷二郎入道殿御返事では、「華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等の諸教の中に経経の勝劣之を説くと雖も或は小乗経に対して此の経を第一と曰い或は真俗二諦に対して中道を第一と曰い或は印・真言等を説くを以て第一と為す、此等の説有りと雖も全く已今当の第一に非ざるなり、然而るに末の論師・人師等謬執の年積り門徒又繁多な」(1068-06)と仰せである。この御教示においては、次の三つを挙げられている。
   ⑦「小乗経」を所対とするもの
   ⑧「真俗二諦」を所対として、「中道」を第一とするもの
   ⑨「印・真言」を説くことをもって第一とするもの
 以上、本抄および報恩抄・曾谷二郎入道殿御返事における三つの御文では、「小乗経」を所対とするものが共通して挙げられている。②④⑦は大小相対に属するものであり、権大乗経全般に通ずる基調であるといえよう。また、①における「梵帝・四天等の諸経」は世俗的な真実を説くものであるから、①は⑤と同様、「俗諦」を所対とするといえよう。これは内外相対に属するのである。
 更に⑥⑧は、「空仮二諦を説くが、いまだ中道を説かない大乗の諸経を所対として、中道を説く経を勝れるとするもので、般若経や華厳経などの別教の経典の文に見られる。そして⑨は、印・真言を説かない諸経を所対として、印・真言を説く大日経などの真言経典を勝れるとするもので、真言宗における立義である。しかし、これらは特定の観点から、大乗経相互の勝劣を立てるものであり、その意味で、③と同類といえよう。したがって、結局、所対の観点から諸経論の類似の文を分類すれば、次の三種に分けられることになる。
    一、俗諦を所対とするもの=①⑤
    二、小乗経を所対とするもの=②④⑦
    三、一部の大乗経を所対とするもの=③⑥⑧⑨
 さて、これらの中で、法華経の「已今当」の文に相似していて最も紛らわしいのは、大乗経を所対としている、「三」であろう。こお点について日蓮大聖人は次のように御教示されている。
 「仏説の如く之を勘うれば法華経の外華厳経・大集経・般若経・大日経・深密経等の諸経は但小衍相対なり但法華経計りに限つて已今当を以て眷属の修多羅と為す」(1204-06)
 ここに仰せの「小衍相対」とは、小乗経と摩訶小衍の相対、つまり「大小相対」のことである。すなわち、華厳経・大集経・般若経・大日経・深密経等の文は、すべて大小相対のうえでの立義であって、法華経のみが、すべての経教に対して法華経が最勝を宣言しているということである。更に続けて、「然りと雖も天台已前の諸師・法華経等の一切の大乗経を小衍相対を以て之を釈す、王臣の差別無く上下之を混す仏法未だ顕れず愚癡の失之有り、 天台已後に諸宗小衍相対の経経を以て権実相対之を定む、天台の智之を盗めり、日月に背いて灯炷に向い・丘塚を華恒に比する是なり」(1204-07)と仰せになり、諸経の大小相対と法華経の権実相対とを混同してきた。二つのタイプを示されている。すなわち、第一のタイプは、天台大師以前の南三北七に見られるもので、法華経などの大乗経を大小相対だけで判ずるものである。第二のタイプは、天台大師以後に成立した華厳宗・真言宗等の各宗に見られるもので、天台大師が立てた権実相対の義を、自宗の依経である華厳経や大日経を正当化するために盗み入れたものである。
 以上の大聖人の御教示に拝されるように、法華経以外の諸大乗経に見られる教判は、大小相対を基調としたものであり、大乗教の中での相対を述べたものの場合も、ある特定の観点からの限定的な相対を示したものであって、大小相対を超えて権実相対を示したものとは、決していえないのである。
 権実相対は、法華経迹門の開三顕一によって初めて明らかになるものである。すなわち、化導の流れのうえから、種々の小乗・大乗の爾前諸経が何のために説かれたかという、諸経の教意を明らかにして、一切の元意が、一切衆生の成仏を実現する法華経に帰着することが示され、大小相対のうえから永不成仏と弾訶された二乗の成仏が、明かされなければならなかったのである。
 この人法両面の開会によって、権実の相対が明瞭になったのであり、この両面に欠けている華厳経・大日経等は、どんなに他の諸大乗経との勝劣を強調したとしても、決して権実相対の経とはいえないのである。

0332:08~0332:10 その六top
08                           其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり全く多宝分身の助
09 言を加うるに非ず私説を以て公事に混ずる事勿れ、 諸経は或は二乗凡夫に対揚して小乗経を演説し、或は文殊・解
10 脱月・金剛タ等の弘伝の菩薩に対向して全く地涌千界の上行等には非ず、
-----―
 その上、諸経に説かれている勝劣は、釈尊一仏だけが説いている法の浅深であり、全く、多宝如来や十方分身の諸仏が証明を加えた勝劣ではない。一仏の私的な説法をもって、一切仏の公の仏事と混同してはならなのである。
 更に、諸経はあるいは二乗と凡夫のために小乗経を宣揚して説いたものであり、あるいは文殊・解脱月・金剛薩埵などの法を弘め伝える迹化の菩薩のために説かれたものであって、全く地涌千界の上行菩薩のために説かれたものではない。

 「已今当」の教判が諸経論の類似の文に比して勝れている所以について、前文では「所対」の観点から示されたが、ここでは更に二つの観点、すなわち、第一に多宝如来および十方分身仏による証明の有無、第二に諸経と法華経との対告衆の相違という二点を挙げられている。以下においては、この二点について考察したい。
1 証明の有無
 日蓮大聖人は、諸経における勝劣を立てたのは、釈迦一仏だけであったのに対して、法華経の「已今当」の教判は釈尊一仏だけではなく、多宝如来および十方の分身諸仏による証明があるところに、大きな違いがあるとされ、この相違を「私説」と「公事」の相違とされている。「私説」とは私的な説法、すなわち、釈尊一仏だけの説法ということであり、それに対して「公事」とは公の仏事、すなわち一切の仏の証明によって裏付けられた説法や、その儀式のことと拝される。
 したがって、法華経の「已今当」の教判に多宝・分身諸仏の証明があることは、この教判が一切の仏に承認された、普遍的・根本的な教判ということになる。
 この点については、三世諸仏総勘文教廃立における御教示が示唆的であろう。すなわち同抄では、三世の諸仏が挙って判じた教相として、「自行の法」と「化他の経」の相違を挙げられている。「自行の法」とは、一切の仏が自ら行じた成仏のための根本の法のことである。「化他の経」とは、衆生を教化するために方便として説かれた種々の教法である。この立て分けは、一切の仏が総じて証明を加えた教判である、と仰せである。
 このことは守護国家論の次の御文にも明確に示されている。
 「釈迦如来の内証は皆此の経に尽くし給う其の上多宝並に十方の諸仏来集の庭に於て釈迦如来の已今当の語を証し法華経に如く経無しと定め了んぬ」(0073-11)
 すなわち、法華経には釈迦如来の内証、つまり自行の法が説き尽くされており、それ故に釈迦如来は「已今当」の教判を立てたのであり、この釈迦如来の言葉に対して多宝仏・十方の諸仏が証明を加え、法華経と肩を並べる経はないと定められた、との仰せである。
 次に、法華経の構成のうえから、「已今当」の文と多宝仏・十方諸仏による証明との関係を確認しておきたい。
 まず多宝仏の証明についえいえば、「已今当」の文は法師品第十の文であり、多宝仏による証明はその次の 見宝搭品第十一においてなされるから、まさに法華経の展開のうえで、両者が密接な関係にあることは明らかである。
 また、十方の分身諸仏による証明は、如来神力品第二十一においてなされるが、この品は地涌の菩薩への付嘱がなされ、宝塔品より始まる虚空会の儀式の目的が成就される品である。つまり、宝塔品では、多宝仏の証明があった後に、十方の諸仏が来集し、釈尊は滅後弘通のために付嘱することを宣言するのであるが、その付嘱が、神力品において地涌の菩薩に付嘱がなされるのである。すなわち虚空会の儀式は、「已今当」の文によって判ぜられた最勝の法を、地涌の菩薩に対して付嘱するための儀式であり、その最終段階において十方諸仏による証明がなされるのである。この意味で、十方諸仏の証明もまた、「已今当」の文と結びついているといえるのである。
 したがって、多宝仏と十方諸仏の証明は、いずれも、仏の自行の法を説いた法華経の最勝を証明するものであり、しかもその法華経を滅後に弘通するためになされたのが、虚空会の儀式であるが、その発端と最終段階に位置することによって、滅後のための証明としての意味を帯びているといえよう。
 以上のことから「已今当」の文が、一仏の「私説」ではなく一切仏の「公事」とされる所以として、次の二点を挙げることができよう。
 ①「已今当」の教判が、一切の仏の自行の法を説いた法華経を最勝と判じている。根本的かつ普遍的な教判だからである。
 ②「已今当」の教判が、釈尊滅後の一切衆生の成仏のために判じられたものであり、仏にとっても衆生にとっても、もっとも重要な教判だからである。
 最後に、本抄には二つの草稿があり、その最初の草稿の題名が「以一察万抄」とされていたことは序論で述べたが「以一察万抄」の意義と「已今当」の文の関係について、多宝仏・十方諸仏の証明との関連で付言しておきたい。
 「以一察万抄」とは「一を以て万を察する」との意であるが、この「一」について報恩抄では「已今当」の文であるとされている。すなわち同抄では、漢土・日本に渡来した経々には、法華経より勝れた経はないかもしれないが、インドや竜宮・忉利天・都率天等にはもっと勝れた経があるのではないか、との問いに対して、「一をもつて万を察せよ庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり」(0295-15)と仰せられたうえで、「已今当」の文を引用されている。そして、この文は多宝仏・十方諸仏が証明を加えたものであり、したがって、一切の仏土において法華経を超えるものはないということである、と答えられている。
 これは、「已今当」の三字に、釈尊一代の諸経のみではなく、十方仏土の一切の経々が納め尽くされていることを意味するのであり、それら十方仏土の一切経を所対として、法華経こそ最勝であるとしたのが「已今当」の教判のもつ意義なのである。
2 対告の相違
 さらに続けてこの御文では、先に挙げられた諸経の教判が誰のために説かれたか、ということについて、次の二点を示されている。
 ①二乗・凡夫のためには小乗経が宣揚された。
 ②法華経以外の諸大乗経を第一とする教判は、文殊・解脱月・金剛薩埵等の、迹化・他方の菩薩に対して説かれたものであって、本化地涌の菩薩に対して説かれたものではない。
 これは諸経の教判が、二乗・凡夫や迹化・他方の菩薩のために説かれた法華経の「已今当」の教判とは、根本的な立場が違っていることを明かされたものである。
 まず、第一に仰せの、二乗・他方の菩薩に対して説かれた諸大乗経の教判についていえば、これらは、三乗法の中の菩薩乗を弘める菩薩に対して説かれた教判であり、その意味で、やはり対機的・方便的な教判なのである。本抄はこれらの菩薩を「弘伝の菩薩」と仰せられているのは、“菩薩乗を弘める菩薩”の意であると拝される。
 これに対して法華経の「已今当」の教判は、釈尊滅後に一仏乗を弘める地涌の菩薩のために判ぜられたものであり、したがって、諸大乗経の教判とは根本的に異なるのである。
 天台大師は、法華玄義巻十上において、「已今当」の文の意義を明かすに際し、法華経には諸経に比して疑晴が多いことに言及しており、その理由として、法華経は「菩薩の法」ではなく、難信難解の「仏の法」を説くからである、としている。すなわち、「将に此の教を説かんとするに疑晴重畳なり、具さに迹本の二文の如し。本門の中には、菩薩、仏に仏法を説きたまえと請ず。豈、菩薩の菩薩に菩薩の法を説きたまえと請ずるに此せんや。若し此の意に就かば、彼に加ること有らん」と述べている。また、華厳経の菩薩と法華経の地涌の菩薩の相違については、「若し彼の列衆は十方より雲集す。皆是れ廬遮那仏宿世の知識なり。此の経の雲集地涌の菩薩は、皆釈尊に従って発心す。『是れ我が所化なり』と。此れ一往は則ち斉しけれども、而も疎密無きに不ず」と述べている。すなわち、華厳経で雲集した菩薩が廬遮那の知識であるのに比べ、地涌の菩薩は初発心の弟子であるから、その関係は親密であり、したがって釈尊の内証たる難信難解の一仏乗を弘めるのは、地涌の菩薩なのである。
 なお、日寛上人の本抄文段において、ここで御教示は「対告の尊卑」を明かされた箇所であるとされているが、この場合の「対告」とは、教判を“告げ知らせる相手”の意であって、“一経の主たる利き手”という意味での対告衆の意ではない。法華経の対告衆は舎利弗等の二乗や弥勒等の迹化の菩薩であって、地涌の菩薩ではないからである。

0332:10~0332:12 第四 三五の二法を標すtop
10                                   今・ 法華経と諸経とを相対するに一代
11 に超過すること二十種之有り、 其の中最要二有り所謂三五の二法なり
-----―
 今、法華経と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。

 本段から第六段においては、法華経が他経に勝れる理由として、特に「三五の二法」、すなわち“三千塵点劫”および“五百塵点劫”の二つの法門を取り上げ、この二つの法門に明かされる、法華経の教主の因位と果位について御教示されている。そして日蓮大聖人は、釈尊の一代諸経の中で説かれた種々の仏の中で、娑婆世界の衆生に有縁の仏は、因位についてみても、法華経の教主・釈尊以外にないことを明らかにされているのである。
 このように「三五の二法」を取り上げている所以は、諸宗の本尊観を破折するためであると拝される。既にのべたように、大段第一では、諸宗と相対して法華経が最勝であることを明かされているのでるが、その後半にあたる本段から第六段においては本尊観のうえから諸経の諸仏と相対して、法華経の教主・釈尊が最勝たることを示し、諸仏を本尊とする諸宗の本尊観を破折されているのである。
 さて、本段においては、法華経が已今当の三説の中で、第一の経であることを示した前段を承けて、法華経を第一とする具体的な理由の一つは「三五の二法」、すなわち化城喩品第七に説かれる“三千塵点劫”と、如来寿量品第十六に説かれる“五百塵点劫”の二つの法門である、と述べられている。
 御文ではまず、釈尊一代諸経の中で法華経を最勝とされている所以に、「二十種」あると述べられているが、これは、妙楽大師が法華文句記巻四下において明かした「十双歎」に基づいての仰せである。「十双歎」とは法華経のみに説かれている法門を、第一双から第十双に至る十対、二十句によって示し、これにより法華経を讃嘆したものである。その中の第十双として「三五の二法」が挙げられるのであるが、その文を示せば「況や迹化には三千の塵点を挙げ、本成には五百の微塵に喩えたり」とある。
 ここでは、最初に“三千塵点劫”と“五百塵点劫”の概略を説明し、次に、法華経が勝れる所以を列挙した妙楽大師の「十双歎」に関連して、法華経の特徴を明らかにした諸師の説の中から、いくつかの代表的な説を簡単に紹介する。
1 三五の二法の概要
一、三千塵点劫

 法華経化城喩品第七では、方便品第二・譬喩品第三のどの説法によっても、まだ開三顕一の旨を領解できない下根の声聞のために、三千塵点劫の久遠における大通覆講以来の釈尊と、声聞達との因縁を明かしている。その因縁とは以下の通りである。
 まず大通覆講とは、大通智勝仏が十六人の王子の請いに応じて説いた法華経を、十六王子が菩薩として、それぞれ無量の衆生に対して広く講説したことをいう。この第十六番目の王子が釈尊の因位である。覆講によって多くの衆生が菩提心を起こしたが、法華経は信じ難く解し難いので、退転して小乗に安住する者もいた。こうした衆生を得脱させるために、十六王子はそれぞれ十方の国土に仏として出世し、衆生も結縁の師の仏土に生まれて、化導が続けられているのであるが、その中で、娑婆世界で化導を続けているのが釈尊であるという。
 この説法によって、
    ①釈尊の化導は、三千塵点劫の久遠以来の長遠にわたる
    ②化導は一貫して、法華経を説くためになされている
    ③在世の声聞達は、三千塵点劫の過去に、釈迦菩薩の化導によって法華経に結縁した人々である
    ④今、在世の法華経の化導によって、声聞達が過去の結縁を成就して得脱する段階に至った
 等が明らかにされたことになる。そして、この因縁を知ることにより、下根の声聞達も開三顕一の旨を領解して、法華経への信を起こすことができたのである。
二、五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六では、釈尊が五百塵点劫という久遠の過去に成道し、それ以来、常に娑婆世界で説法教化してきたことが明かされている。つまり、五百塵点劫とは、釈尊が成仏してから今日に至る長遠の時間である。この五百塵点劫の時間的な長さについては後にのべることにする。ここでは、寿量品の久遠実成の開顕、つまり釈尊が五百塵点劫の久遠に成仏し、そのことが寿量品でとかれたことの意義について、その主要な点を述べておきたい。
 その第一は、久遠実成とは釈尊の本地を明かしたものであり、また、その本地とは不生不滅の永遠の仏である、という点である。すなわち、寿量品では、仏においては入滅ということはないのであるが、衆生を化導するための方便として、入滅を現ずることが説かれている。このように久遠実成の開顕とは、釈尊の常住の本地の開顕を意味するのである。
 第二に、久遠実成の仏たる釈尊と、爾前・迹門で説かれる諸々の仏との関係が明らかにされたという点である。例えば、然燈仏等の過去仏をはじめ、名が異なり年紀に大小がある種々の仏が説かれてきたが、それらの仏はすべて、久遠実成の釈尊が成道以来、今日に至るまでの中間において、衆生の機の利鈍に応じて出現した仏であるとしている。つまり、爾前・迹門の諸仏はすべて久遠実成の仏の垂迹なのである。
 第三に、娑婆世界こそ本来、常住の仏が住する常住の国土であることが明かされた、という点である。すなわち、久遠実成の釈尊は、常に娑婆世界で衆生を教化していると説かれ、また久遠実成の釈尊が住する娑婆世界は、安穏にして不壊であるとも説かれている。
 第四に、三界の衆生も本来、久遠実成の仏と同じ常住の本地に住していることが示された、という点である。すなわち、如来は如実に三界の相を知見してるが、そこにおいては生死・退出がないとされ、また、衆生が身命を惜しまずに、一心に仏を見奉らんとすれば、必ず常住の仏が法を説いていることを知ることができる。
 この他にも、天台大師が明かした本門の十妙に見られるように、寿量品の久遠実成の開顕には種々の意義があるが、詳しいことは後章で開近顕遠を論ずる際に考察することにしたい。
三、三千塵点劫と五百塵点劫の比較
 次に三千塵点劫と五百塵点劫の時間的な長さについて述べておきたい。
 「三千塵点劫」とは、前述したように、釈尊が声聞衆を化導してきた大通覆講以来の時間の長さを示したものである。今、これを法華経化城喩品第七に基ついて示すと次のようになる。
 最初に三千大千世界のあらゆる国土をすりつぶして塵とする。その塵をもって、東方に向かって行き、千の国土を過ぎることに一塵を落とし、塵が尽きるまで行く、そして、このようにして通り過ぎた国土を、塵を落とした国土も落とさなかったところも含めて、すべて集め、それをすりつぶして塵とし、その一塵を一劫と数えたときの塵の数だけの劫数は「三千塵点劫」である。
 「三千大千世界」とは、須弥山を中心として、四州・四海・日月・虚空等からなる小世界を、10億も集めた広大な世界であるから、これをすりつぶした塵の数がそもそも膨大である。まして、その塵の数の1000倍の数の国土を更にすりつぶした塵の数は、まさに想像を絶する。しかも「劫」という時間の単位は、一説には1600万年にあたるとされるのであるから、ここに示された「三千塵点劫」とは、通常の人間の思惟を絶した長遠の時間を意味するのである。故に化城喩品では、算師やその弟子も算定できないと述べられている。
 つぎに「五百塵点劫」は、釈尊の久遠実成以来の時間の長さを示したものである。その数え方は、ほぼ化城喩品の「三千塵点劫」の場合と同じであるが、二つの相違点がある。その第一は、最初に作る塵が一つの「三千大千世界」をするつぶしたものではなく「五百千万億那由侘阿僧祇の三千大千世界」の国土をすりつぶしたとされることである。「五百千万億那由侘阿僧祇」とは、500×1,000×10,000×100,000×那由佗×阿僧祇のことで、しかも那由佗や阿僧祇は膨大な数の単位を意味する。
 したがって、両者の違いは、譬えていえば、一つの銀河系宇宙と、すべての銀河系を集めた大宇宙そのものの違いといえるであろう。
 第二の相違点は「三千塵点劫」の場合は、東方に「1000の国土」を過ぎるごとに一塵を落とすとされたが、「五百塵点劫」の場合は、東方に「五百千万億那由侘阿僧祇の国」を過ぎるごとに、一塵を落とすとされていることである。つまり「五百塵点劫」の場合、最終的にすりつぶす国土の数は、単純に考えても、「三千塵点劫」の場合の“五百千万億那由侘阿僧祇×五百千万億那由侘阿僧祇÷1000倍”になる。このような計り知れない数の国土をすりつぶした塵の数だけの劫数よりも、更に長い時間が「五百塵点劫」であるから、これは「三千塵点劫」とくらべてさえも“より長い”というような比較相対の次元で捉えられるのではなく、むしろ、比較を絶した長さを示していると捉えるべきであろう。
 このことに関連して、「三千塵点劫」の場合は、算師も算定できない、とされているのに対して、「五百塵点劫」の場合は、一生補処の等覚の菩薩である弥勒菩薩にも思惟できない、とされている点が注目される。九界の衆生の最高位にある弥勒菩薩にも思惟できないということは、九界の一切衆生が思惟できないということでる。言い換えれば、「五百塵点劫」は仏のみが知ることのできる長遠の時間であり、永遠ということを意味するといえるのではないだろうか。
2 諸師の法師観
 本段では、妙楽大師の「十双歎」に基づき、法華経を最勝とする所以に「二十種」あるとされているが、この仰せに関連してここでは、法華経の卓越性を論じた諸師の説を慨観してみたい。
 日蓮大聖人は諸御書において、法華経の卓越性を正しく捉えていた論師・人師として、竜樹・天親・天台・伝教の四師の名を挙げられている。本抄にも「如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法」と仰せである。また、妙楽大師の名は特に挙げられていないが、天台大師の三大部を正しく注釈した人として、天台大師と一体の扱いをされていると拝される。
 したがって、大聖人の御教示に基づき、歴史上で法華経を正しく捉えたとされる人を挙げるならば、竜樹・天親・天台・妙楽・伝教の五師になるであろう。このうち天台大師の法華経観については、前章で詳しく考察したので、ここでは、残りの四師の法華経観をみることにしたい。
一、竜樹の法華経観
 竜樹の著作の中には、法華経を主題として論じたものはない。しかし、大品般若経を釈した大智度論の中に、法華経の引用が二十数個所見られ、その引用の仕方をもって、竜樹の法華経観を窺いしることが可能である。その引用箇所を考えると、竜樹は、主として二乗作仏を説かれるところに、法華経の特質と卓越性を見ていたようである。
 例えば大智度論巻九十三では、法華経方便品第二の「一たび南無と称うれば、皆已に仏道を成じき」との文を引き、法華経では、すべての衆生が必ず成仏すると説くことを示し、更に「又復、声聞の人は、皆、当に作仏すべし」と述べて、法華経では声聞の作仏を説くことを示しており、そのうえで、次のように法華経と他経の相違を明かしている。
 「法華経の中に畢定を説くが如きも、余経には退有り、不退あるを説く」
 すなわち、余経では一切衆生が必ず成仏できるとは説いていないのに対して、法華経では一切衆生の成仏の「畢定」、つまり成仏できることを説いているとし、その例として、法華経の「一称南無仏」の文と、二乗作仏の文を挙げているのである。
 また、同じく巻九十三では「仏法は五不可思議の中に於いて最も第一なり。今は漏尽の阿羅漢還って作仏するは、唯仏のみ能く知りたまう」と、法華経の二乗作仏が、種々の不可思議の中でも第一の不思議あることを述べ、仏のみの内証の法であることを示している。
 更に、大智度論巻百では、「般若経より勝れる甚深の法とはなにか」という趣旨の問いを設けて、次のように答えている。
 「答えて曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而して法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏するを説き、大菩薩は能く受持し用う。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」
 すなわち、法華経が般若経よりも勝れる所以は、諸経では成仏しないとされていた二乗の作仏を説くからであるとし、それを大薬師が毒を変じて薬と為すことに譬えている。また、そのような法華経こそ真の秘密の法だとしている。大智度論には、この他にも法華経の二乗作仏に着目した記述が多く見られるがここでは省略する。
 次に、大智度論には法華経本門についても注目すべき記述があり、特に同巻二十六では「仏はどうして度すべき衆生がいるのに入滅するのか」という問いに対して、仏が衆生を得度させるのに「現前の得度」と「滅後の得度」が二種類あるとし、その証拠として、如来寿量品第十六の良医病子の譬を挙げている。すなわち、薬師が諸子のために薬を調合して与え、その後に他国に去ったのは、衆生に「滅後の得度」があることを示したものとする。
 これは、法華経が滅後の衆生のために説かれたことを明かした、本抄の第七段以降の御教示に符合するものといえよう。この他に、地涌の菩薩について、仏の法性自身の大眷属として位置付ける記述も見られる。
 以上のように大智度論は大品般若経の注釈書であるために、般若経の法界会、すなわち諸法はすべて般若波羅蜜を根本とすることの強調を、主眼としているのであるが、般若経には説かれていない人開会に言及する必要があるときは、専ら法華経の二乗作仏を取り上げ、更に、その法華経を般若経より勝れる経として位置付けているのである。
二、世親の法華経観
 世親の法華経論は、インドにおける法華経の注釈書としては、現存する唯一のものであり、法華思想史上極めて重要な位置を占める論書である。その内容は多岐にわたっているが、ここでは、世親の法華経の捉え方を端的に示す「十七種の異名」「三平等」「十無上」について述べておきたい。
①十七種の異名
 世親は法華経論の冒頭で法華経序品第一を釈しているが、その中で、序品には法華経の「甚深の功徳」を顕示するものとして、法華経の「十七種の名」が挙げられていることを明かしている。その名、および、そのように挙げる理由についての、要旨を挙げる。
   (1)無量義経 法華経は諸仏如来の最勝の境界たる甚深の妙法の義を説き尽くしている故に。
   (2)最勝修多羅 経・律・論の三蔵の中で最勝の妙蔵であるが故に。
   (3)大方広経 無量の大乗経法の中の善法が成立する故に。
   (4)教菩薩法 機根の熟した菩薩を教化するために説かれるが故に。
   (5)仏所護念 如来によって法華経の法門がある故に。
   (6)一切諸仏秘密法 仏のみが知る甚深法門であるが故に。
   (7)一切諸仏之蔵 如来の功徳三昧の根源が法華経であるが故に。
   (8)一切諸仏秘密処 受法の器にあらざる機根未熟の衆生には、末だ明かしていないが故に。
   (9)能生一切諸仏経 諸仏は法華経を聞いてよく大菩提を成就したが故に。
   (10)一切諸仏之道場 諸仏の大菩薩をよく成就する法門は法華経であって諸経ではないが故に。
   (11)一切諸仏所転法輪 法華経は一切の障礙をよく破する故に。
   (12)一切諸仏堅固舎利 法華経では如来の真実の法身が常住のものとして説かれているが故に。
   (13)一切諸仏大巧方便経 仏は法華経を根本として衆生のために人・天・二乗等の一切の方便の善法を説くが故に。
   (14)説一乗経 法華経において如来の大菩薩の究極の体が顕示される故に。
   (15)第一義住 法華経の法門は即ち諸仏如来の法身の究極の住処であるが故に。
   (16)妙法蓮華経 出水の義・華開の義を示しているが故に。
   (17)最上法門 上の16の名はすべて最上の法門であることを示しているが故に。
           16の名の総名としてこの名があるとする。
②三平等
 世親はまた、法華経では衆生の「三種の顛倒の信」を対治するために「三種の平等」が説かれているとする。
 「三種の顛倒の信」とは、
   (1)仏が説く乗に二乗・三乗などの種々の立て分けがあると固執すること
   (2)世間と涅槃とが相違すると固執すること
   (3)仏身と衆生とが相違すると固執づること
である。これらの謬信を対治するために、法華経では、
   (1)乗平等 仏がすべての衆生に対して平等に一仏乗のみを説く
   (2)世間涅槃平等 衆生が住する世間と仏が住する涅槃の境界とはその対において平等無差別である
   (3)身平等 如来の法身と衆生の法身が平等無差別である
 という、三種の平等が説かれている。
 また、(1)については二乗作仏の授記を、(2)(3)については、入涅槃している多宝如来が此土に示現したことを、証拠として挙げている。
③十無上
 次に「十無上」は、如来の法身と衆生の法身とが平等無差別であることを無上義とし、この無上義が法華経に種々の形で説かれていることを十種に要約して示したものであり、これによって法華経こそ無上の経であることを明らかにしている。この十無上は、そのほとんどが名の説処とのみが挙げるにとどまっているが、ここでは法華経論の他の個所の所説を参考にしながらそれぞれの意義を推察してみたい。
   (1)種子無上 薬草喩品第五
 薬草喩品では、種々の草木がすべて同じ大地から生じ、また同じ雨に潤わされて育つことに譬えて、仏は種々の法を説いているようであるが、実は一相一味の平等の法を説いているのであり、衆生も種々の法を行じているのではなく、等しく成仏するための菩薩行を行じているのである、と明かす。これにより、種々の相を現じている衆生が、すべて同じ仏性という種子から育っていることが明らかになるため、世親はこれを種子無上としたものと考えられる。
   (2)行無上 化城喩品第七
 化城喩品では、三千塵点劫の過去における大通覆講以来、常に妙法蓮華経を説いて、衆生を教化する仏の所行を明かしているが、このような仏の所行の無上をいうものと思われる。
   (3)増長力無上 化城喩品第七
 同じく化城喩品の化城宝処の譬では、衆生に煩悩の厳しい道を越えさせるために、仏が化城を化作して衆生に一時の休息を与えそのうえで険難の道を越えて、宝処に向かうように励ますことが説かれている。このように衆生の修行を深めていく、仏の力の無上をいうものと思われる。
   (4)令解無上 五百弟子受記品第八
 五百弟子品の衣裏珠の譬は、自身の内に仏性があるとの声聞達の領解の内容を、譬喩によって示したものである。このような深い領解を得えしめる、仏の力を無上というものと思われる。
   (5)清浄国土無上  見宝搭品第十一
  見宝搭品では、出現した宝塔が開かれるにあたり、三変土田によって、娑婆世界および十方の仏土が清浄なる一仏国土に統一される。このような仏国土の無上をいうと思われる。
   (6)説無上 安楽行品第十四
 安楽行品の髻中明珠の譬は、法華経は難信難解であるため、説かれたことが希であることを譬えたものである。これによって、法華経が無上の仏説であることが示されている。
   (7)教化衆生無上 従地涌出品第十五
 湧出品では、釈尊が無量の地涌の菩薩を久遠以来教化してきたことが明かされ、衆生を教化する無上の仏力が示されている。
   (8)成大菩提無上 如来寿量品第十六
 これについて法華経論では、寿量品には応仏・報仏・法仏の三種の菩提が具足して明かされている故に、無上であるとしている。応仏菩提とは、伽耶城近くの菩提樹下で、釈尊が成就した菩提、報仏菩提とは、釈尊が五百塵点劫の久遠において成就して以来の常住の菩提をいう。法仏菩提とは「如来は如実に三界の相を知見す」等の文に示されている。衆生界即涅槃界という真如の法をいいこれが仏の悟りの体なので法仏菩提をいうのである。
   (9)涅槃無上 如来寿量品第十六
 寿量品の良医病子の譬に、如来は方便として涅槃を現ずると説かれているが、この涅槃の真実相を無上とするのである。
   (10)勝妙力無上
 これは、主として本迹二門の流通分の諸品に示されているもので、世親はこれを「法力」「持力」「修行力」に分けている。これらは法華経に説かれる功徳等をいう。「法力」は、分別功徳品第十七に説かれる在世衆生の得脱、および四信五品の功徳、随喜功徳品第十八の五十展転の功徳、法師功徳品第十九の六根清浄の功徳等を得させる法華経の経力である。「持力」は、法師品第十・勘持品第十三・安楽行品第十四等に説かれている。釈尊滅後の種々の法華経受持の相をいう。仏性は近きにあり、との決定心をもって法華経を受持する故に、大菩薩を得ることができるとする。「修行力」は如来神力品第二十一の広長舌相等、あるいは妙音菩薩品第二十四・観世音菩薩普門品第二十五に説かれる種々の功徳を指し、衆生の修行を奨励・擁護する種々の力を意味する。
 以上、竜樹・世親の法華経観を見てきたが、この二師が迹門の開三顕一・二乗作仏を中心として、法華経の特質、卓越性を捉えていたことは明らかである。だが、本門の意義は、それに付随して示されるにとどまっている。また天台大師のように、本迹二門の教相を踏まえて、一念三千の観法を立てることもしていない。ここに日蓮大聖人が「竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)、「迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云わず」(0245-05)等と仰せられた所以があると拝される。
三、妙楽大師・法華文句記の「十双歎」
 妙楽大師は、法相宗・華厳宗・真言宗・禅宗等の、台頭という、中国における天台大師以後の仏教界の動向に対応して天台大師所説の意義を明確化することに尽力した人である。特に、上記の諸宗と対抗する必要上、法華経第一の義を更に強く打ち出している。本段で言及されている法華文句記巻四下の「十双歎」は、十対・二十句に要約して法華経を讃嘆したものであり、ここに、妙楽大師の法華経観に端的に示されていると見られる。この「十双歎」の文言、および、その典拠となる法華経の品名を示せば、以下の通りである。
   (1)二乗に近記を与え(方便品第二・授学無学人記品第九)
      如来の遠本を開く(如来寿量品第十六)
   (2)随喜は第五十の人を軟じ(随喜功徳品第十八)
      聞益は一生補処に至る(分別功徳品第十七)
   (3)釈迦は五逆の調達を指して本師と為し(提婆達多品第十二)
      文殊は八歳の竜女を以て本化と為す(提婆達多品第十二)
   (4)凡そ一句を聞くにも咸く授記を与う(法師品第十)
      経名を守護するに功量るべからず(法師品第十)
   (5)品を聞いて受持するは永く女質を辞し(薬王菩薩本事品第二十三)
      若し聞いて読誦するは不老不死なり(薬王菩薩本事品第二十三)
   (6)五師法師は現に相似を得(法師功徳品第十九)
      四安楽行は銅輪に入る(安楽行品第十四)
   (7)若し悩乱する者は頭七分に破れ(陀羅尼品第二十六)
      供養することある者は福十号に過ぎたり(法師品第十・薬王菩薩本事品第二十三)
   (8)況や已今当の説は一代に絶えざる所(法師品第十)
      其の教法歎ずるに七喩を以て称揚す(薬王菩薩本事品第二十三)
   (9)地より湧出せるをば阿逸多一人も識らず(従地涌出品第十五)
      東方の蓮華は竜尊王末だ相本を知らず(妙音菩薩品第二十四)
   (10)況や迹化には三千の塵点を挙げ(化城喩品第七)
      本城は五百の微塵に喩えたり(如来寿量品第十六)
 この「十双歎」の特徴として、以下のような諸点を見ることができる。
 第一に(1)は、法華経本迹二門における最も重要な法門を挙げて、法華最勝の所以を総括的に示しているという点である。なぜならば(1)の前句は迹門の二乗作仏の授記を、後句は本門久遠実成の開顕を指しており、法華経はまさに、この二大法門によって妙法を開顕したものといえるからである。また、天台大師による本迹二門の立て分けが踏まえられていることも、注目される。
 第二に(2)~(6)は法華経修行の種々の功徳を各品の説相に合わせて示し、その功徳を賛嘆している。これらが(1)に続けられているのは、(1)の二大法門によって開顕された、妙法の功徳を示したものだからである。
 第三に(8)と(9)は法華経第一の教判を示したものである。すなわち(8)は、法師品の已今当と薬王品の十喩を挙げて、仏自身が法華経を第一の教法と判じていることを示したものである。(9)は、阿逸多でさえ、地より出現した地涌の菩薩を、一人も知らなかったという湧出品の所説と、八万四千の蓮華を化作した妙音菩薩の力の根本を、竜尊王でさえ知らなかったという妙音品の所説とを挙げて、法華経が、仏のみ究尽した甚深の法門であることを示している。
 第四に、最後の(10)は、法華経の能説の教主である釈尊と所化の衆生との関係についての、本迹二門の所説を挙げている。衆生にとっては、これこそが最も重要な意義を持ち、特に本門の五百塵点劫は、釈尊滅後の衆生にとっての成仏の、究極的な根拠を明かしたものといえる。故に妙楽大師は、これらを最後に挙げたものと見ることができる。また、これは、前章で述べたように、天台大師が明かした、法華経の三種の教相の第二教相・第三教相と対応している。天台大師においても、これらが法華経を最勝とする根本的な理由とされていることは、既に述べた通りである。大聖人が本段において「三五の二法」について「最要」と仰せられている所以も、滅後末法の衆生にとって最も重要な法門であるからと拝される。
 以上のことから、妙楽大師の「十双歎」は、まず(1)において、法華経本迹二門における妙法の開顕を最重要の法門として挙げ、次に、諸品の説相に基づいて開顕された妙法の功徳を示し、更に法華経を第一とする教判を挙げ、最後に衆生にとっての肝要の法門を示す、という構成になっているといえよう。
四、伝教大師・法華宗句の「十勝」
 伝教大師の法華経観を知るうえで参考になる著作として、法華宗句と守護国界抄をあげることができる。この二書はいずれも、法華宗の徳一との論争を契機として著されたものであるが、なかでも法華宗句は、徳一との論争書としては最後のものとされており、論争の過程で著された守護国界抄よりも更に総合的な観点から、法華経の最勝を明かしたものといえる。
 すなわち法華宗句では随書に法華経の要文を引用しつつ、「十勝」、つまり十項目にわたって、法華最勝の所以を明らかにしている。また、単に法相宗だけではなく、三論宗・華厳宗等の名を挙げ、総じて「他宗所依の経」と「天台法華宗所依の法華経」との勝劣を明らかにしており、更には、法華経最勝の所以として「即身成仏」を重視している。このことから、名を挙げてはいないが新来の真言宗を想定して、法華経の意味を示していることが窺えるのである。同書の「十勝」の内容を略述すれば次の通りである。
   (1)仏説已顕真実勝
 法相宗の徳一が主張する「三乗真実・一乗方便」および「五性各別」の説を総括的に破折したものである。「一乗真実・三乗方便」および「一切衆生の成仏」の義を、法華経の経文に基づいて明らかにし、これらの義を説く法華経には勝れているとする。
   (2)仏説経名示義勝
 世親が明らかにした法華経の17の異名のうち「無量義経」の名に即して、諸経は因分の歴劫修行を説いたものであるのに対し、法華経は果分の成仏の大直道を明かすので、勝れているとしている。
   (3)無問自説果分勝
 法華経は仏自らが果分の法を無問自説した教え、つまり、随自意の教えである故に勝れているとする。
   (4)五仏道同帰一勝
 方便品第二では、五仏は、すでに先に方便の諸経を説き、後に一仏乗に帰一させると説かれている。法華経は、その一仏乗を明かす故に勝れているとする。
   (5)仏説諸経校量勝
 法師品第十で仏が自ら、已今当の三説の中で法華経が難信難解である、と判じていることについて、法華経は随自意の故に難信難解・諸経は随他意の故に易信易解と釈し、だから法華経は勝れているとする。
   (6)仏説十喩校量勝
 法華経の最勝を説いた薬王菩薩本事品第二十三の十喩を釈して、十喩それぞれの観点から法華経最勝の理由を示している。
   (7)即身六根互用勝
 法師功徳品第十九に説かれる六根清浄の功徳を挙げて、このように、父母所生の身に即する「即身」の功徳をもたらす力を有している点に、法華経の卓越性があるとする。
   (8)即身成仏化導勝
 提婆達多品第十二に説かれる竜女の成仏は、歴劫修行によるものではなく、「妙法の経力」による「即身成仏」であるとし、そのような経力を有する法華経の卓越性を示している。
   (9)多宝分身付属勝
  見宝搭品第十一の諸文を引き、法華経は釈迦・多宝・分身諸仏の三仏のために付嘱された経である故に勝れているとする。
   (10)普賢菩薩勧発勝
 普賢菩薩勧発品第二十八において、釈尊滅後に法華経を受持する普賢菩薩が守護する、と説かれているが、その守護は法華経の経力によるものとし、また、この守護によって速やかに成仏できるとする。
 以上が、伝教大師が法華宗句に説かれた法華経の「十勝」である。これに一貫してみられる特徴は、法華経を仏の果分を明かした随自意の経として捉え、それ故に、総じて因分を説くにとどまっている他宗所依の諸経よりも勝れている、としている点である。言い換えれば、同書の結文にある「天台法華宗は、能説の仏は久遠の実成なり。所説の経は髻中の明珠なり」との文にも明らかなように、伝教大師は、久遠の仏の本地所証の法を明かした経として、法華経を捉えているのである。

0332:11~0333:02 第五 教主の因位に寄せて勝劣を判ずtop
0332:11~0332:14 その一top
11                                  三とは三千塵点劫なり諸経は或は釈尊の因
12 位を明すこと或は三祇・或は動逾塵劫・或は無量劫なり、 梵王云く此の土には二十九劫より已来知行の主なり第六
13 天・帝釈・四天王等も以て是くの如し、 釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論す爾りと雖も一指を挙げて之を
14 降伏してより已来梵天頭を傾け魔王掌を合せ 三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり、
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 三とは三千塵点劫である。諸経では、釈尊の因位の修行について、あるいは三阿僧祇、あるいは動逾塵劫、あるいは無量劫と明かしている。
 大梵天王が言うには「二十九劫以前から自分がこの娑婆世界を支配する主であり、第六天の魔王も帝釈天も四天王等もまた同様である」と。釈尊と大梵天王等とが初めて支配の後先を論争したのであった。
 しかしながら、釈尊が一指を挙げて大梵天王を降伏させてから以後は、大梵天王は頭を下げ、第六天の魔王は合掌して、三界の衆生を釈尊に帰伏させたのであった。

 この御文では、法華経以外の諸経に説かれている釈尊の因位の修行の意義について御教示されている。
1 諸経に説かれる釈尊の因位
一、三祇・動逾塵劫・無量劫

 「三祇」とは、三阿僧祇を略したもので、権教において説かれた菩薩修行の期間である。すなわち蔵教では、釈尊は過去に、三阿僧祇劫という長期にわたって諸仏のもとで六波羅蜜を修行し、更にその後、百劫の間、三十二相の因となる百福の修行をしてから人中に出世し、菩提樹下の寂滅道場で三十四心によって煩悩を断じて成道したとされる。
 例えば、大毘婆沙論巻百七十八では、釈尊の因位の諸仏のもとで、すなわち過去の釈迦牟尼仏から七万五千仏に仕えて、宝髭仏のときに第一阿僧祇劫を成就し宝髭仏のときから七万六千仏に仕えて宝髭仏のときに第一阿僧祇劫を成就し、燃燈仏のときから七万七千仏に仕えて、勝観仏のときに第三阿僧祇劫を成就したとある。
 また大智度論巻四では、過去の釈迦無尼仏から尸棄仏に至る第一阿僧祇劫では、成仏できるか否かを知らず尸棄仏より然燈仏に至る第二阿僧祇劫において、心では自己が成仏することを知って然燈仏より毘婆尸仏に至る第三阿僧祇劫において、心で了了と知り、口に作仏を語っても恐れることはなかった、とされている。この大智度論の説は、天台大師の法華玄義において用いられている。
 次に「動逾塵劫」とは、「動もすれば塵劫を逾ゆ」と読み、通教の菩薩の修行の期間が、ややもすれば塵劫を超えてしまうほど長い、という意味である。
 すなわち通教では、三乗の修行の段階として、十地を説き、その第七已弁地で三界見思の惑を断じ、第八・辟支仏地で見思惑の習気をも断じ尽くすとされる。
 二乗は、この段階で取証の心を起こして修行をやめてしまうのであるが、菩薩は、煩悩を断じ尽くすと、三界に生じて利他行を行ずることができなくなるので、無生法忍の境地に入り、あえて煩悩の習気を帯びて第九・菩薩地に進む。この第九地で菩薩として利他行を行ずる期間が「動逾塵劫」すなわち、ややもすれば塵劫を超えるほど長い、とされているのである。
 そして、第九地の菩薩行を経て、第十・仏地で初めて煩悩の習気を断じ尽くして成道するのであるが、これにより、大慈悲・十力・四無畏・十八不共法などの一切の功徳を具足することができるという。
 最後の「無量劫」とは、別教で説かれる菩薩行の期間を示したものである。すなわち別教では、苦・集・滅・道の四諦に無量の種類があると説く。集は苦の原因としての煩悩等、苦はその結果としての生死であり、また、道は苦を滅するための修行、滅はその修行の結果としての悟りである。したがって四諦は要するに、迷いの因果と悟りの因果を意味するものであるが、別教ではこれらの因果に無量の種類があるとする。それ故、成仏を目指す菩薩の修行においても無量の差別があるとされ、その無量の階差が四十一地・五十二位・五十一位等、経によって種々の形でまとめられているのである。別教で説かれるこれらの位階の特徴は、中道の理に対する迷い、すなわち無明を断じていく位を立て分けたということである。つまり別教では、無明を含めた無量のすべての惑をすべて断じて中道の理を悟ることが成仏であるとされ、そのために要する修行の期間を「無量劫」としたのである。
二、円教の因位との比較
 以上のことから、蔵・通・別の三教で説かれる「三祇」「動逾塵劫」「無量劫」という三種の因位は、単に修行期間の長短を示すためのものではなく、むしろ三教における修行観・成仏観の相違を示しているといえるであろう。その相違を日蓮大聖人が小乗小仏要文に掲げられている表に従って述べれば次のようになる。
      ┌蔵因──三祇百劫菩薩──未断見思
    迹仏┼通因──動喩塵劫菩薩──見思断
      ├別因──無量劫 菩薩──十一品断無明
      └円因──四十一品断無明
       劣応       草座
       勝応 ┌蔵──三十四心断結成道
    迹仏果──果┤     天衣
          ├通──三十四心見思塵沙断の仏
       報身 │     蓮華座
          ├別──十一品断無明の仏
       法身 │     虚空座
          └円──四十二品断無明の仏
 蔵経では、三十四心により見思惑を断じて成仏すると説かれるから、蔵経の「三祇百劫」の菩薩は末だ見思惑を断じていない菩薩である。また、通教では、見思惑を断じて第九地の菩薩行を経てから、塵沙惑を断じて成仏すると説かれているから、通教の「動逾塵劫」の菩薩は既に見思惑を断じた菩薩である。そして、別教では、見思・塵沙の両惑だけでなく中道の理に対する無明を断じ切って成仏すると説くから、別教の菩薩は無明を断じつつある菩薩である。
 本抄で挙げられている蔵・通・別の三教の因位は、以上のような意義の相違があるが小乗小仏要文では更に、円教の因位について「四十一品断無明」、また果位については「四十二品断無明の仏」と」示されている。つまり、円教の菩薩は十住・十行・十廻向・十地・等覚までの四十一位において、四十一品の無明を断じているが、最後の元品の無明をまだ残している。元品の無明を断ずれば等覚の仏となるのである。
 無明を断ずるということは中道の理を証すことであるから、円教の菩薩は十住から等覚に至る四十一位における分々の中道に証しているということになる。のみならず、天台大師によれば、円教の菩薩は十住以前の十信の位において、既にほぼ中道の理を理解し無明を伏して六根清浄の功徳を得ているのであり、更には、それ以前、つまり初心の凡夫位においても中道の諸法実相への信を確立し、一切法即仏法と通達解了としているのでる。
 このように円教の菩薩は一貫して中道実相の理に即して修行を進めていくのであり、そこに円教の因位の本質がある。そして、常に中道の理に即しているということは、天台大師が「無次位の次位」としているように、円教の菩薩の位階は、そのときの菩薩の状態を一応、位階として示したものであって、必ずしも一つ一つ登っていくものではないということを意味する。
 つまり、どの位階からも直ちに成仏することが可能なのであり、この側面から天台大師は、円教の位を「六即位」として表現したのであった。
 これに対して、蔵・通・別の三教の菩薩は、その深さは異なるが、いずれも煩悩を断ずることを前提としている点で共通している。したがって、必ず位階の修行を登るという修行形態になるのである。大聖人が本抄において通・別・円の三教の因位を「或は三祇・或は動逾塵劫・或は無量劫」と並列的に述べて、ほぼ同等にあつかわれている所以は、ここにあると拝することができよう。
2 知行の諍論と降魔成道
 次に、釈尊が成道したとき、娑婆世界の「知行の先後」について大梵天王等の天人たちと諍論したことを述べられている。「知行」とは支配者が領地を治めることであるが、その「先後」を争うということは、釈尊と大梵天王等のどちらが、真の娑婆世界の主かという点について争ったことを意味している。
一、「二十九劫」とは
 まず、大梵天王の言葉として「此の土には二十九劫より已来知行の主なり」とあるが、この「二十九劫」とは、世界の成立時から釈尊の出世時までの劫数と考えられる。なぜならば、仏教では成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫をもって世界の生成・消滅の周期とし、この四劫の長さはそれぞれ二十小劫ずつとされているが、そのなかで、釈尊が出現しているのは、住劫の第九の減・人寿百歳の時であるとされているからである。つまり「二十九劫」とは、世界が形成された成劫二十小劫を経て、住劫の第九の小劫の期間にあたる。したがって、上の大梵天王の言葉は、世界成立以来、一貫して三界を支配してきたのは、自分をはじめとする天界の諸王であると主張したのである。
二、「指を挙げて」の意義
 御文では次に、大梵天王の主張に対して、釈尊が「一指を挙げて之を降伏」させたと仰せである。この「一指を挙げる」とは、摩訶止観巻一に、「大覚世尊功を積みて行満じたまい、六年に渉って以て見を伏し、一指を挙げて魔を降したまう」とあるように、釈尊が成道の際に魔を降した時の振る舞いであり、第六天の魔王が世界の王たりえた福徳よりも、釈尊の修行と果報の方が勝れていることを証明するために、大地を指差して地神を呼び出したときの釈尊の動作である。これは、釈尊の降魔成道を象徴する場面として、諸経論によって広く伝えられ、種々の仏像にも表現された仏画にも描かれている。
 釈尊の成道時における降魔の経過や様相についての記述は、経によって少し異なるが、ここでは「一指を挙げる」の意味が比較的明瞭に示されている過去現在因果経と、仏本行集経の二経の所説で紹介しておきたい。
 まず、過去現在因果経では、およそ次のように説かれている。
 釈尊が菩提樹下で端坐思惟し、正覚を成就するまで座を立つまいとの誓言を発した。それを聞いた第六天の魔王は、自分の支配する欲界の衆生が釈尊によって奪われ教化されるのを恐れ、釈尊の成道を妨げようとして、まず自ら弓矢をとって脅し、次の三人に美しい魔女に誘惑されたが、釈尊は少しも動じなかった。
 そこで、次のような魔女と釈尊の争論が始まるのである。
 最初に魔王が「汝は人界の安楽で満足できないのであれば、我が王位と五欲の愚をすべて汝に与えるから天界に昇れ」と切り出す。権力と快楽の誘惑である。これに対して釈尊は「汝の自在天王の地位は、過去のわずかな布施行を因として得た限りある福徳にすぎないので、私が用いるところではない。汝は必ず福徳尽きて、再び三悪道に堕すであろう」と退ける。これを聞いた魔王は「確かに我が果報の由来は汝の知るとおりであるが、汝の果報が我が果報より勝れていることを誰が知ろうか」と反問する。これに対して釈尊が「この菩薩は過去に計り知れない布施行を行じた。故に魔王はいかにしても菩薩の成道を妨げることはできない」と述べて、釈尊が勝れていることを証明した。その後、魔王は、虚空に充満するほどの多くの異形・悪形の魔衆を集めて、釈尊が悩乱させようとしたが敵わず、今度は空中の神が「菩薩が劫を歴て修習した善果は魔軍を決して破るところではない」と再び証明したので、ついに魔王は慢心を打ち破られて退散した。
 このように過去現在因果経の所説においては、「一指を挙げる」という釈尊の振る舞いそのものは描かれていないが、魔王との諍論のときの「この地のみ知る」との釈尊の言葉が、大地を指す振る舞いに相当していえるといえる。これに対して仏本行集経では、以下に述べるように、「一指を挙げる」という振る舞いが明確に述べられている。
 魔王が釈尊の成道を妨げようとして、恐るべき魔軍を集めて釈尊を威嚇したが、釈尊が一向に動じないので、魔王の心は動揺する。それを察した釈尊は、魔王の改心を促すために「菩薩が成道を妨げようという魔王及び魔軍の願いよりも、正覚を成就しようとの私の誓願と善根の力の方が強いのであるから、いかに妨害しても無駄である」と諭し、更に「汝はたった一回の無遮会の福徳により、今のような力を得たにすぎないのに対して、私は無量億阿僧祇のあいだに布施行を行じてきたのであるから」と、釈尊の力の方が勝れていることを述べる。この言葉に魔王が「我が無遮会についてはその通りであるが、汝が布施行については誰が信ずることができようか」と反論したのに対して釈尊は、千万種の功徳を備えた右手を挙げて大地を指しつつ次のように言った。「この大地が私の虚妄ならざることを証明するであろう。大地よ願わくは真実のままに説け」と。すると、たちどころに大地から地神が出現して、「我は汝が過去において、千万億劫のあいだ無遮会を施したのを知っている」と証明し、また、大地が三千大千世界に轟く音を立てて震動した。これにより魔軍は四散し、魔王はついに釈尊に降伏した。
 以上が、釈尊の成道時における降魔のおおよその有り様であるが、これに明らかなように、釈尊は、自らの因位の修行が魔王の過去の善行よりも勝れていることを示すことによって、魔王を降伏させている。「一指を挙げる」とは、この過去の修行の勝劣を証明するための振る舞いなのである。
三、釈尊と梵天の諍論に言及された意義
 ところで、釈尊が降伏させたのは直接には第六天の魔王であって大梵天王ではない。しかるに本抄の御文においては、大梵天王をはじめとする天界の諸王を降伏させたとのべられている。
 この点については、あるいは、大梵天王の知行の古さを争ったという経があったのかもしれない。
 例えば大悲経では、「自分こそ世界の主であり、創造者である」との大梵天王の増上慢を破するために、釈尊が、世の人々の苦悩の姿や悪行を挙げて、これらもすべて大梵天王の作ったものであるか、と問うたところ、大梵天王は返答に窮してしまった。釈尊は世のすべてのものは業が作ったものであることを教え、大梵天王に仏法を守護していくことを誓わせた、と説かれている。このような釈尊と梵天との論争は、他に阿含諸経や大集経などにも説かれており、直接的には娑婆世界知行の古さを争ったことは述べられていないが、訳本によっては、この梵天との論争の中に含まれていたとも考えられる。
 いずれにしても、本抄で釈尊と大梵天王の諍論に言及されているのは、諸経に説かれる釈尊の因位の期間の長さを示す「三祇」「動逾塵劫」「無量劫」が、大梵天王の知行期間である「二十九劫」をはるかにうわまわる長い修行期間であることを示し、更にそれらの諸経に説かれた期間をはるかに凌ぐのが、法華経の三千塵点劫であることを言われるためである。
 蔵教の「三祇百劫」を例にとれば、これが、無数の過去仏のもとで釈尊が菩薩として修行してきた期間であることは、既に述べた通りである。今、先に述べた大智度論の説を用いるとすれば、第三阿僧祇劫の最後は毘婆尸仏のときであるが、この毘婆尸仏はいわゆる過去七仏の第一として挙げられる仏である。そして、過去七仏の出現は過去の荘厳劫からの現在の賢劫にわたるとされる。すなわち、過去の荘厳劫に出現した毘婆尸仏のもとで釈尊の三阿僧祇劫の修行が既に成就したというのであるから、釈尊の因位の修行の期間が、現在の大劫の初め以来大梵天王等の知行期間よりもはるかに長いことは明らかであろう。
 しかしながら、この後の御文は、法華経に説かれる釈尊の因位である「三千塵点劫」の意義を示されるのである。
 しかも、ここで、“娑婆世界の知行”に焦点を当てられているのは、娑婆世界の衆生にとっての「主師親」というテーマに結びついているからである。しかし、この点については釈尊の果位について御教示されている第六段を拝するなかで述べることにしたい。

0332:14~0332:16 その二top
14                                            又諸仏の因位と釈尊
15 の因位と之を糾明するに諸仏の因位は 或は三祇或は五劫等なり 釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来娑婆世界の
16 一切衆生の結縁の大士なり、 此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し、
-----―
 また諸仏の因位と釈尊の因位調べてみると、諸仏の因位はあるいは三阿僧祇劫、あるいは五阿僧祇である。これに対して釈尊の因位は、既に三千塵点劫の過去よりより、娑婆世界のあらゆる衆生に仏縁をむすんできた大菩薩なのである。この娑婆世界の六道の一切衆生で、他の仏土の菩薩に縁がある者は一人もいない。

 この御文では、法華経の三千塵点劫の開顕が、諸仏との対比のうえで、我々娑婆世界で衆生にとっていかなる意味を持っているかを御教示されている。
 前文では大梵天王の知行との対比が示された、それに対し、ここでは釈尊以外の他仏との対比が述べられるのである。諸仏の因位については「三祇」と「五劫」が挙げられている。
 「三祇」は既に述べたように、小乗教において釈尊の因位の期間として説かれたところである。小乗教では、現在仏は釈迦一仏であるが、過去の諸仏の因位の期間も「三祇」であるとされたので、これを諸仏の因位の期間として挙げられているのである。
 次に「五劫」は無量寿経に説かれる阿弥陀仏の因位の期間である。すなわち同経では法蔵菩薩が五劫の間、修行したと説かれている。大乗の諸経では、現在仏は娑婆界の釈尊だけではなく、十方の諸仏が衆生を教化していると説く。ここでは、その代表例として阿弥陀仏の因位を挙げられているのである。またこれはこの後に念仏を破折していくための前提となっていると拝される。
 したがって、ここでは、小乗と大乗に説かれる諸仏の因位の期間の代表的な例として、「三祇」と「五劫」を挙げたと拝されるのである。
 御文では、次に、法華経で説かれる三千塵点劫という釈尊の因位の意義を示され、これが小乗経・大乗の諸経に説かれる諸仏の因位とは全く異なるとして、次の二点を指摘されている。
 ①法華経では、三千塵点劫という長さや三祇や五劫という桁違いに長いこと。
 ②しかも、釈尊はそれ以来ずっと娑婆世界の一切衆生と結縁した菩薩である。したがって、娑婆世界の一切衆生にとって有縁の菩薩は釈尊であって、他土の諸菩薩は娑婆世界の衆生には全く無縁であること。
 このうち第二の点は、明らかに、阿弥陀仏の本願の力に頼って極楽に往生することを願った当時の人々の念仏信仰に対する破折の意味がこめられている。しかし、この点については、この御文を拝する中で述べることにしたい。
 諸経で説かれる仏の因位と法華経で説かれる釈尊の因位との相違について述べれば、諸経では、仏の因位は種々に説かれているが、あくまでも菩薩が仏になるための修行の在り方として説いており、娑婆世界の衆生との関係を説いたこのではない。これに対して、法華経の化城喩品で説かれる三千塵点劫の釈尊の因位は、娑婆世界の衆生との因縁を明かしたものであり、これにより、釈尊こそ娑婆世界の一切衆生にとって有縁の仏であることが示されているのである。
 もとより、化城瑜品では、三千塵点劫の過去に釈迦菩薩に結縁した衆生が、その後、釈迦仏のもとに娑婆世界に生まれてその化導を受け、他の菩薩に結縁した衆生は他土に生まれて他仏の化導を受けている、とされている点である。このことから、娑婆世界に生まれてきた衆生であれば、他土の菩薩や仏に結縁している道理はないとされたのである。
 もう一点は、始成正覚を打ち破って久遠実成を明かした本門の義に基づく、より根本的な理由である。すなわち本門寿量品では、釈尊は久遠実成以来、常に娑婆世界にあって説法教化してきたと説かれている。これに基づけば、化城喩品で説かれる三千塵点劫の化導も、その後の途中の一場面と捉えられるのである。また、このように拝する根拠として、観心本尊抄における「久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ」(0249-15)との仰せを挙げることができる。すなわち、本門に説かれる五百塵点劫の久遠を在世衆生に対する下種とし、三千塵点劫の過去の大通結縁を中間の熟益の化導と位置付けられている。言い換えると、真の下種結縁は迹門で説かれた三千塵点劫の過去に大通覆講ではなくて、本門で説かれた五百塵点劫の久遠なのである。

0332:16~0333:02 その三top
16                                                法華経に云
17 く「爾の時に法を聞く者は各諸仏の所に在り」等云云、 天台云く「西方は仏別に縁異り 故に子父の義成せず」等
18 云云、 妙楽云く「弥陀釈迦二仏既に殊なり 況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや結縁は生の如く成熟は養
0333
01 の如し生養縁異れば父子成ぜず」等云云、 当世日本国の一切衆生 弥陀の来迎を待つは譬えば 牛の子に馬の乳を
02 含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し、 
-----―
 法華経の化城瑜品第七には「一六人の沙弥による大通覆講の時に法をきいたのは、現在各の有縁の仏のもとにいる」等とあり、天台大師は法華文句に「西方浄土は仏が別である縁が異なる。故に父子の成立は成り立たない」等といい、妙楽大師は法華文句記で「阿弥陀と釈迦は別々の仏である。まして三千塵点劫の過去における衆生との縁も異なり、二仏既に殊なり、化導も同じではない。結縁を結ぶのは親が子を生むようなものであり、機根を成熟させることは親が子を育てるようなものである。生むのも育てるのも異なっているのであるから父子の関係は成り立たない」等と言っている。当世に日本国のすべての人々にとっての阿弥陀の来迎を待つのは、例えば牛の子に馬の乳を飲ませ、瓦の鏡に天空の月を映そうとするようなものなのである。

 この御文では、阿弥陀が娑婆世界の衆生とは無縁の仏であることを明かされている。
 仏の因位を論ずるなかで特に阿弥陀仏に言及されている所以は、阿弥陀仏の誓願力によって救われると強調する念仏宗の教えを破折するためである。すなわち、念仏宗によれば、阿弥陀仏の因位のである法蔵菩薩は、四十八の本誓願を立て、それをすべて成就して阿弥陀仏になった。したがって、その本願の力によって、劣機の衆生は念仏を称えれば容易に阿弥陀仏の極楽世界に往生できる、というのである。
 これに対して御文では、法華経化城喩品第七の経文、および天台大師の法華文句と妙楽大師の法華文句記の文を引き、そのような念仏に頼ることがいかに無益であるかを明らかにされている。
 まず最初に引かれている化城喩品の「爾の時の聞法の者、各諸仏の所に在り」との文は、大通智勝仏の十六王子によって化導された衆生がそれぞれの有縁の仏のもとにいると説いたものである。すなわち、三千塵点劫の過去に大通仏の法華経を覆講した十六人の菩薩沙弥は、その後成道して、現在、十方の仏土に仏として出世しており、この現在の十六仏のうち、西方の仏土の仏が阿弥陀仏、東北方の娑婆世界の仏が釈尊であるとしている。そして大通覆講のときに法華経に結縁した衆生はそれぞれの有縁の仏のいる国土に生まれて、その化導を受けていることを示しているのである。
 次に引かれている天台大師の言葉は法華文句巻六の文である。この「西方は仏別に縁異なり…故に父子の義成ぜず」との文は、法華経信解品第四の長者窮子の譬における長者とは阿弥陀仏であるとする、光宅寺の法雲の異解を破したものである。信解品の長者窮子の譬は、釈尊と衆生の関係を、長者と窮子という父子の関係に譬えたものであるから、窮子を娑婆世界とすれば、その父である長者とは娑婆世界に出現した釈尊のことである。阿弥陀仏は西方浄土に有縁の仏であって、娑婆世界の衆生との間には父子の関係はないことを示したものである。
 次に引用されている「弥陀釈迦二仏既に殊なり…況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや結縁は生の如く成熟は養の如し生養縁異なれば父子成ぜず」との文は、法華経信解品第四の長者窮子の譬における長者とは阿弥陀仏であるとする。光宅寺法雲の異説を破したものである。信解品の長者窮子の譬は、釈尊と衆生の関係を、長者と窮子という父子の関係に譬えたものであるから、窮子を娑婆世界とすれば、その父である長者とは娑婆世界に出現した釈尊のことである。阿弥陀仏は西方浄土の衆生に有縁の仏であって、娑婆世界の衆生との間には父子関係がないことを示したものである。
 次に引用されている「阿弥釈迦二仏既に殊なり…況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや悦縁は生の如く成熟は養の如し生養縁異なれば父子成ぜず」との文は、妙楽大師の法華文句記巻七上の文である。此の文は、上の法華文句の文を更に訳したもので、化城喩品に説かれる三千塵点劫の過去の結縁を「生」、すなわち親が子を産むことに、そして、その後の化導によって仏が衆生の機を成熟させることを「養」、すなわち子を養うことに譬えて、娑婆世界の衆生にとっての阿弥陀仏は「生」の縁も「養」の縁もないことを述べているのである。
 以上の文に明らかなように、阿弥陀仏と娑婆世界の衆生との間には、信解品の長者窮子の譬に見られるような父子の義は成立しない。
 天台大師の法華玄義を見ると、衆生と仏との関係につて、感応妙・神通妙・説法妙・眷属妙・功徳利益妙などの種々の観点から明らかにされている。感応妙とは、衆生の機とそれに対する仏の働きかけという関係を原理的に示したものであり、この関係を仏の側に即して明らかにしたものが神通妙と説法妙、衆生の側に即して明かしたものが眷属妙と功徳利益妙である。「父子の義」とは、仏と衆生との間に、これらの諸義が成り立つことを意味する。したがって、上の天台大師と妙楽大師の文は阿弥陀仏と娑婆世界の衆生との間には、感応から功徳利益妙に至る一切の関係が成り立たないことを示しているのである。
 本抄では、以上の法華経および天台大師・妙楽大師の三文を受けて、「当世日本国の一切衆生弥陀の来迎は譬えば牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し」と仰せである。この仰せでは、「牛の子」と「馬の乳」あるいは「瓦の鏡」と「天月」の関係を譬えとして、阿弥陀仏と娑婆世界の衆生との間には、感応妙をはじめ功徳利益妙に至る一切の関係が成り立たないことを端的に示され、念仏信仰がいかに無益かを示されているのである。

0333:02~0333:15 第六 教主の果位に寄せて勝劣を判ずtop
0333:02~0333:06 その一top
02                  又果位を以て之を論ずれば 諸仏如来或は十劫・百劫・千劫已来の過去の仏な
03 り、 教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我
04 等が本師教主釈尊の所従等なり、 天月の万水に浮ぶ是なり、華厳経の十方台上の毘盧遮那・大日経・金剛頂経・両
05 界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり、 例せば世の王の両臣の如し 此の多宝仏も寿量品の教主釈尊
06 の所従なり、
-----―
 また、果位の位を以って諸仏と釈尊の勝劣を論ずる、諸経に説かれる諸仏如来は、十劫・百劫あるいは千劫という過去に仏果を得た仏なのである。それに対して教主釈尊は既に五百塵点劫の過去よりより妙覚果満の仏である。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の十方に偏満するすべての諸仏は、我等の本師である教主釈尊の所従である。天空の月があらゆる水面に影を浮かべているようなものである。
 華厳経に説かれる十方台の上に座す毘盧遮那仏と大日経や金剛頂経に説かれる両界の大日如来とは、法華経見宝塔品第十一に説かれる多宝如来の左右の脇士である。例えば、世間の王の左右の臣下のようなものである。この多宝仏もまた寿量品の教主釈尊の所従なのである。

 第六段では、仏の果位の面から法華経寿量品の教主釈尊と諸経の諸仏との勝劣を明かされ、諸仏を本尊として下している諸宗の本尊観を破折されている。
 上に挙げた御文は第六段の冒頭の個所にあたり、寿量品と教主釈尊と諸経の諸仏とが本地と垂迹の関係にあたることを示して、両者の勝劣を明らかにされているところである。
1 問題の所在
 御文では寿量品の教主と諸経の諸仏との関係について御教示されている。その内容は次のように三点に分けて拝することができる。
 ①まず、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の諸経の諸仏は、十劫・百劫・千劫等の昔に成仏した仏とされているが、寿量品の釈尊は、それらとは比べものにならない五百塵点劫の久遠に仏果を成就し、それ以来常住する仏として説かれていることを示されている。つまり、成道以来の時間の長さの相違という端的な観点から、両者の相違を示されていうのである。
 ②次に、寿量品の釈尊と諸仏との関係を“主君の所従”の関係に譬えられている。この譬えは、寿量品の釈尊と他の一切の諸仏の間に“仏としての格の違い”があることを示されていると拝される。また、天月と水月の譬えを示されていることからも知られるように、この相違とは結局、“本地と垂迹”の問題に帰着すると拝される。
 ③最後に、華厳経の教主である毘廬遮那仏と、大日経・金剛頂経の教主である大日如来に特に言及され、これらの仏は、法華経宝搭品の多宝如来の脇士に位置付けられることを、更に、その多宝如来自身が教主釈尊の所従であるとされている。
 以上のような本抄の御教示について、ここでは次の二点に焦点を当てて拝察してみたい。
 第一に、成道以来の時間の長さの相違が、なぜ仏の身格の相違につながるかという点である。
 第二に、特に華厳経の毘廬遮那仏と真言の大日如来を取り上げ、この両仏と多宝如来、多宝如来と寿量品の教主釈尊という二段階の関係を示されているのは何故なのか、という点である。
 結論的にいえば、この二点はいずれも仏身における本迹の相違ということと密接な関係がある。この仏身の本迹については、天台大師・妙楽大師は三身論に基づいて明らかにしており、大聖人もそれを踏まえておられる。したがって以下においては、三身論のうえから、教主釈尊と諸仏の関係について考察することにしたい。
2 寿量品の教主釈尊
 本題に入る前に、まず「寿量品の教主釈尊」について概略をのべてみたい。
一、「教主」の意義
 本段では、仏の果位について「寿量品の教主釈尊」と諸経の諸仏を比較し、両者の勝劣を明かされている。つまり、前段で単に「釈尊」と表現されていたのとは異なり、本段では「寿量品の教主」という立場が強調されている。
 前段においては、仏の因位について、爾前諸経の諸説と、法華経迹門の諸説との相違を論じられている。したがって、爾前経も釈尊も、ともにその教主は始成正覚の釈尊である点では相違がないために、単に「釈尊」と表現されていると拝される。
 これに対して仏の果位について論じられている本段では、本門寿量品において始成正覚を打ち破って久遠の本地を顕した久遠実成の釈尊と、諸経と諸仏の勝劣を論じられている。つまり、本門では、「教主」としての立場が爾前・迹門とは根本的に相違しているのであり、その点を明示するために、単に「釈尊ではなく、「寿量品の教主釈尊」と仰せられていると拝される。
 「教主」とは、“教法を説き顕す”のいであるが、この言葉には、
   ①“教法能説の主”の意味を重点に置く
   ②“経教の主尊”の意味に重点を置く
 場合の二面があり、後者が「本尊」の意に通ずる。「寿量品の教主釈尊」という場合の「教主」には、この両意、つまり“寿量品の説き手である釈尊”の意と、“寿量品において明らかになった主尊としての釈尊”の意とが含まれていると拝される。
 爾前の諸経および法華経迹門では、説き手としての教主は始成正覚の釈尊であるが、説き顕された主尊は、経によって種々の相違があった。すなわち、あるいは釈尊、あるいは毘廬遮那仏、あるいは阿弥陀仏、あるいは大日如来等が主尊として説かれている。故に諸宗は、これらの諸仏を本尊としたのであった。
 しかるに法華経寿量品においては、釈尊が、発迹顕本、つまり爾前・迹門の始成正覚の立場を払って久遠の本地を明らかにしたのでる。これにより、爾前・迹門の経教を説いた釈尊が、この本仏の垂迹仏の立場になるとともに、そうした釈仏が説いた諸経における主尊として諸仏も迹仏となり、寿量品において顕された久遠の釈尊こそが真の主尊であることが、明らかになったのである。
 このように、寿量品においては、能説の教主である釈尊が根本的に変わるとともに、所願の本尊もそれまでの迹仏・権仏ではなく、久遠実成の真の仏であることが示されたのである。大聖人は、この二意を込めて「寿量品の教主釈尊」と表現されたと拝される。
二、久遠実成の釈尊
 次に、法華経如来寿量品第十六の所説に即して「寿量品の教主釈尊」と諸経の諸仏との関係を述べてみたい。
 同品では、まず釈尊による三誡、会座の大衆による三請重請があった後、釈尊が重誡して次のように久遠実乗を明かす。
 「一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」 
 この文の前半は、一切の人々が始成正覚にとらわれていることを示し、「然るに善男子」以後は久遠実成を明かして、人々の始成正覚のとらわれを打ち破っている。すなわち一切世間の衆生は、釈尊が王宮を出て出家し、修行を経て、伽耶城の近くの菩提樹下で始めて悟りを開いたと思っているが、真実には、釈尊は無量無辺百千万億那由佗劫という長遠の過去に、既に成仏していたという。
 同品では次に、五百塵点劫という長遠の過去を説き更に「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」と説いて、この五百塵点劫の久遠以来、常に娑婆世界の衆生を教化している常住の仏であることを明かす。また、「亦、余処の百千万億那由佗阿僧祇の国に於いても、衆生を導利す」と説き、他の多くの国土で衆生を教化する多くの仏も、実は久遠実成の釈尊の垂迹でることを明かすのである。 この点については、更に次のようにも説かれている。
 「諸の善男子、是の中間に於いて、我然燈仏と説き又復、其涅槃に入ると言いき、是の如きは皆方便を以って分別せしなり」
 すなわち久遠実成以来、今日のインド応誕に至るまでの中間の時期において出現し、また入滅していった然燈仏等の過去の諸仏も、すべて久遠実成の釈尊が方便として示現した姿、つまり垂迹仏なのである。また、この「垂迹」ということについて、次のように詳しく説かれている。
 「若し衆生有って我が所に来至するには我仏眼を以って、其の信等の諸根の利鈍を観じて、応に度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同、年記の大小を説き、亦復、現じて当に涅槃に入るべしと言い」 
 つまり種々の国土で年記の異なる種々の仏として出現したのは、すべて衆生の機根の利鈍に応じて現じた姿なのである。また、以上のことを総括的に示したのが次の経文である。
 「或は己心を説き、或は他身を説き、或は己心を示し、或は他身を示し、或るは己事を示、或は他事を示す。」
 最初の「或は己身を説き、或は他身」とは、諸経で説かれた釈尊や他の諸仏くべて、久遠実成の釈尊が方便として説いた仏身であることを示している。また次の「或は己身を示し、或は他身を示し」とは始成正覚の釈尊を含め過去・現在に出現したすべての諸仏は、久遠実成の釈尊が方便として垂迹示現した仏であることを示している。最後の「或は己事を示し或は他事を示す」とは上の垂迹仏が衆生化導のために為したすべての仏事も、久遠実成の釈尊が方便として示現したものであることを示している。
 寿量品では更に、「所作の仏事末だ曾て暫くも廃せず」と説き、久遠実成の釈尊の化導は、少しも絶えることなく続けられていることを示したうえで、次のように釈尊の本地が常住不滅の仏であることを明らかにしている。
 「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして滅せず」
 以上の寿量品の所説は結局、釈尊の本地は、久遠実成以来の常住の仏であり、始成正覚の釈尊や他の諸仏は、すべてこの本地から衆生の機根の利鈍に応じて応現し、あるいは説示された垂迹仏であることを示しているのである。
3 三身論から見た教主釈尊と諸仏
一、御文に挙げあれている諸仏につて

 本段では最初に、諸経に説かれる諸仏の例として「大日如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」の三仏を挙げられ、次に「毘廬遮那仏」「大日如来」の二仏を挙げられて、法華経に説かれている「宝搭品の多宝如来」および「寿量品の教主釈尊」との関係を示されている。
 この最初に挙げられている三仏は、いずれも当時の日本で、人々から広く信仰されていた仏であり、その意味で諸経の諸仏の代表例とされていると拝される。
 すなわち、「大日如来」は真言密教において、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅の主尊として崇拝された仏であり、仏像としても盛んに造立され、各地の大日堂に安置されて人々の信仰の対象となっていた。「阿弥陀如来」は、いうまでもなく、念仏宗の本尊であり、西方極楽往生で現在説法している現在仏として信じられ、また臨終のときは来迎して極楽浄土に導いてくれる仏として渇仰された。とくに鎌倉時代には全国各地に阿弥陀堂が建てられて阿弥陀信仰が広まっていった。「薬師如来」は、中古日本の仏教界の中心地であった比叡山延暦寺の根本中堂の本尊であるとともに、いかなる病を治す力を持った仏として広く民間にも信仰され、薬師如来の仏像を安置する薬師寺・薬師堂が各地に建てられていった。
 このように「大日如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」の三仏は、実際には当時の人々の信仰の対象、つまり「本尊」として広まっていた仏であり、大聖人はこの現実を踏まえて、諸経の諸仏の代表として三仏の名を挙げたと拝される。しかし、一切経に説かれている仏の中で、末法の衆生が「本尊」とすべき最尊の仏は寿量品の教主釈尊であるが故に、「我等が本師教主釈尊」と仰せられ、三仏をはじめとする諸経の諸仏は、この教主釈尊の「所従」である、との位置付けを強調されているのである。したがって、この御教示では、総じて諸経の諸仏と寿量品の教主釈尊との関係を明かされているのであり、三仏の名を挙げられているのは、あくまで当時の実際の宗教状況に即した例示の意味からであったと拝されるのである。
 これに対して、次に「毘廬遮那仏」と「大日如来」の名を挙げられているのは、前の三仏の場合とは異なる意味があると拝される。すなわち、この「両仏」はそれぞれ、華厳経および大日経・金剛頂経の「教主」とされ、華厳宗や真言宗等で、その身格が盛んに論議された仏である。そして、その論議の中で「毘廬遮那仏」や「大日如来」は法身あるいは報身とされたのに対して、法華経の教主である「釈尊」は応身とされ、両仏の下位に位置付けられていたのであった。したがって大聖人は「寿量品の教主釈尊」を取り上げ、教義的な意味で、この二仏と教主釈尊との身格上の関係を特に明示されたと拝されるのである。
 ところで、華厳経の教主・毘廬遮那仏や真言密教の教主・大日如来を「法身」あるいは「報身」として、法華経の教主・釈尊を「応身」とする考え方には、仏身・仏格についての根本的な誤りが含まれている。その誤りとは「本地の三身」「垂迹の三身」との違いを踏まえていないという点である。次に諸経論で展開されている仏身論の概要を述べて、その点を明らかにしていきたい。
二、諸経論における仏身論
 「仏身」とは、“仏果を証得した身”の意であるが、諸経論において、その種々の立て分けが論じられてきた。その主な説と出典、および各身格およびその意味は以下の通りである。
   ①「真身・応身」の二身説
 小乗・大乗を通じて諸経論いおいて説かれており、この他にも「法身・生身」「常身・無常身」等の名称があるが、内容はほぼ同じである。つまり、常住の法を体とする真理身を「真身」等と言い、衆生に対して応現する生身の仏を「応身」等という。
   ②「法身・報身・応身」の三身説
 三身の名義は十地経論の所説であるが、摂大乗論の「自性性・受用身・変化身」、金剛般若論の「法身仏・報仏・化仏」、勝鬘経の「一切法常住身・色無尽智慧身・妙色身」等も、表現は異なるが内容としてはほぼ同じものであり、大乗の諸経論全般を通じて最も多く見られる説であるといえる。①の真身を開いて「法身」と「報身」に分けたもので「法身」は真理を体とする身、「報身」は因行の報いとして得た智慧や功徳の面を仏の身格として立てたものである。
   ③「法身・報身・化身」の三身説
 金光明経の所説であり、一方で②の法身と報身を合わせて「法身」として、他方で②応身を開いて「応身」と「化身」に分けたものである。
   ④「法身・報身・応身・化身」の四身説
 入楞伽経の所説で、正確には「法仏・報仏・応化仏・所作応仏」とあるが、②③との対応関係を示す意味で上のような表記にした。すなわち、②と③を合わせて、すべての立て分けを列挙したものといえる。真言密教の四種法身は、この四身説の立て分けに相応している。
   ⑤「法身・自受用身・他受用身・応身」の四身説
 仏地経論の所説で、②の報身を開いて「自受用身」と「他受用身」に立て分けたものである。
 なお、以上の五説の他に、二乗と仏の違いを強調した解深密教の三身説重々無尽の法界を強調した華厳経の十身説などがあるが、煩瑣になるのでここでは名を挙げるにとどめたい。
 さて、仏身に関する①~⑤の諸説を見ると、各経論によって表現と意義に細部では相違はあるにしても、大筋から見れば同工異曲といえよう。
 そして、これらの仏身論の骨格は、①の真・応の二身説と②の法・報・応の三身説にあると思われる。なぜならば、前者は大乗・小乗を通じて見られる最も基本的な立て分けであり、後者は大乗固有の立て分けとして最も普遍的なものだからである。
 真・応の二身説は、仏身に、衆生に応現した面と、衆生には見えない真理身の面との二面があることを示すことにより、衆生の前に出現した生身の仏陀だけにとらわれない。総合的で本質的な仏身観を提示したものといえる。とりわけ、この二身説の特徴として重要なことは「応身」「生身」に対して「真身」「法身」が立てられていることに見られるように、「法」あるいは「真理」が仏身の本質とされている点であろう。
 法・報・応の三身説は、「報身」を導入することにより、二身説よりも更に本質的で総合的な仏身観を示したものといえる。つまり、仏の仏身を「法」だけではなく、「法」を悟る「智慧」更には、「法」を悟ることによって成就された「功徳」としてもとらえるべきことを提示しているのである。「報身」とは、この「智慧」と「功徳」を意味する。また、これにより、二身説においてはともすれば客観的・分離的にとらえられがちであった「法身」が、仏の生命に相応するものであることが明らかになるとともに、「応身」も、単なる無常の生身というような否定的な意義ではなく、真理と智慧とが一体となったところに生ずる「慈悲」の働きとして、より本質的にとらえ直されているのである。
 天台大師も、法華文句巻九下において、法華経の「如来寿量品」の題号を釈するにあたり「如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり」と述べ、真・応の「二仏」法・報・応の「三仏」を、「如来」の意義を示す基本的な立て分けとして挙げている。なお、この文では更に「本仏・迹仏」の名が挙げられている。これは、諸経論の「二仏」「三仏」の立て分けを超えた法華経における仏身論の特徴を示しているものであるが、この点については後で詳しく考察する。
三、多宝如来と毘廬遮那仏・大日如来
 次に、多宝如来と毘廬遮那仏・大日如来との関係について三身論のうえから考察する。
 「毘廬遮那」「廬遮那」は、梵語ヴァイローチャナの音写であり、「大日」は梵語のマハー・ヴァイローチャナであり、仏の広大無辺の境界を象徴的に表した呼称である。
 華厳経や密教経典では、この象徴的な仏を主尊として説いているが、華厳宗や真言密教では、これらの経典を依経として、毘廬遮那仏や大日如来を最尊とし、釈尊を下すという誤りを犯したのであった。
 毘廬遮那仏について、華厳経の巻二の毘廬遮那仏品では、無量劫のあいだ修行して正覚を感じ、蓮華蔵荘厳世界に住して十方に大光明を放ち、毛孔より化身の雲を出して、無量の方便をもって衆生を化導すると説かれている。
 また、華厳経の結経とされる梵網教では、百阿僧祇劫の修行を経て初めて正覚を成じ、蓮華台蔵世界に住している仏であると説かれている。同経ではまた、廬遮那仏の住する蓮華台の周囲の千葉は即ち千の世界であり、廬遮那とはその一々の世界に千の釈迦となって示現し、更にその各の世界の中にある百億の世界に、百億の釈迦仏となって出現し仏道を成じたとある。つまり梵網経では、台上の廬遮那仏が千葉の上の釈迦、各の葉の中に百憶の小釈迦の本身であると説くのである。この梵網経の廬遮那仏が本抄で仰せの「十方台上の毘廬遮那」である。
 この梵網経の所説について、天台大師は、法華文句巻九下に「梵網経は華厳教を結成す。果台を本と為し、華葉を末と為す。別して一縁の為に此の如きの説を作す。而して本末相離れることを得ず」と述べている。すなわち、梵網経で蓮華台上の廬遮那仏を本、葉上・葉中の釈迦仏を末と立て分けるのは、一縁に応じて立てられた方便説であるとしている。天台大師のこの釈は、法華経の結経である普賢菩薩行法経に基づいたものである。すなわち同経には「釈迦牟尼仏を毗廬遮那遍一切処と名づけたてまつる」とあり、釈迦仏とは毘廬遮那仏とは別仏ではないとしている。これに基づき天台大師は法華文句巻九下で、普賢経の「毘廬遮那仏」を報身如来・華厳経お「廬遮那仏」を報身如来、「釈迦牟尼仏」を応身如来と配して、三身の相即を明らかにし、三身相応こそが真実なのであり、三身を各別にとらえる梵網経のような説は方便説であるとしていたのである。
 しかるに天台大師以後の華厳宗の諸師は、華厳経の教主・毘廬遮那仏について、応身でも報身でもなく、十方を具足して法界に遍満する法界身であり、真身と応身とが相即する円満の仏であるなどと唱えた。例えば、法蔵の華厳経探玄記巻二では「唯、是れ周遍法界の十仏の身となるなり」といい、澄観の華厳経疏巻一では「即ち是れ法界無尽の身雲にして、真応相融し一多無礙なり」という。これらの説は一見すると天台大師の三身相即説と同じようであるが、実は全く異なっている。つまり毘廬遮那仏を無尽の法界仏ということにより、毘廬遮那仏こそ本身、釈尊はその化身、という方便説を繰り返しているに過ぎない。これにより、毘廬遮那仏の所説である華厳経が、釈尊の所説である他の諸経よりも勝れているとの邪説を立てたのである。 
 このような華厳宗の所説に対して天台宗では、華厳経の毘廬遮那仏は「勝応身」でしかないことを明らかにした。「勝応身」とは、鈍根の二乗・凡夫に対して現れる応身ではなく、上根の大菩薩に対して現れる勝れた応身のことである。例えば妙楽大師は法華文句記巻七上で「勝応は華厳に在り」と述べており、四明知礼も十不二門指要抄巻下で「遮那は乃ち是れ釈迦の異名なり。縦い勝劣殊なり有れども、而も説は必ず是れ応なり」と述べている。つまり毘廬遮那仏と釈尊についての、華厳宗による本身と化身という立て分けに対し、小乗の劣応身よりは勝れているが、応身の域をでないことを明らかにしたのである。
 四明知礼は更に「凡そ円教を説くは皆即ち法身なり、何ぞ独り華厳のみならん。但彼の経は小を隔つるが故に勝身を現ず。乃ち報身の像にして而も即ち法身なり、今経は権を開する故に、応身に於いて即ち法身なり」と述べ、華厳経の毘廬遮那仏と法華経迹門の釈尊との相違を明らかにしている。すなわち、両者はともに円教を説く仏として法身仏に位置付けることもできるが、その場合でも、華厳経の毘廬遮那仏は“報身の像に即す法身”にすぎないのに対して、法華経迹門の本尊は“応身に即する法身”であるとしている。つまり、毘廬遮那仏はあくまで応身の釈尊が説いた「報身の像」にすぎないのであり、その本身はむしろ応身・釈尊なのである。法華経迹門は、その本身の方の応身に即して法身を示した教えであり、したがって「報身の像」に即して法身を示した華厳経よりも勝れているということである。
 次に、真言密教の教主である大日如来の身格について検討する。
 真言密経の依経である大日経や金剛頂経では、大日如来は身語意の三業が虚空に遍満する仏であり、その加持の力によって三密平等の法を説くとある。
 このように説かれている大日如来について、善無畏の示唆で一行が著した大日経疏では、本地法身と加持受用身とに分けて釈している。すなわち、大日如来の本地は一切処に遍満する毘廬遮那仏であるが、加持力によって法を説くのは受用身であり、この二身は一体であるとする。  
 このような大日経疏の所説を受けて、日本の密教でも大日如来について種々の説明がなされた。
 空海は、弁顕密二教論、秘蔵法鑰等で、密教の三密論は、自性受用仏である大日如来が慈受法楽のために、自眷属の菩薩に対して如来内証の境界を説いた法門である。としている。つまり、大日如来は、その内証の本地は法身であり、自身がその内証の法楽を受用するために、三密論を説いたというのである。このように、法身仏が自らのために法を説き、その法楽を受用する、という考え方を法身説法というが、これは古義真言の批判的な考え方であった。
 これに対して新義真言では、毘廬遮那法身仏はあくまでも無説であり、法を説く大日如来は、衆生化他のために、自証菩薩の徳から曼荼羅の中台八葉の主尊として身を現じた加持身である、とする。これは一種の分身説であるといえよう。また台密の慈覚・智証等は、大日如来を、法身仏たる毘廬遮那仏との立て分け、自受用身として位置付けている。この他にも、他受用身説・法身・自受用身・他受用身の三身一体説、種々の説が立てられている。
 このように真言密経では、大日如来の身格について種々の煩瑣な議論があるが、大筋としては法身、もしくは法身に即する報身と位置付けており、また、応身の釈尊より勝れた仏であるとする点では変わりがない。このような位置付けは、三身論のうえからは、華厳宗における毘廬遮那仏の位置付けと、本質的には違いがないといえるであろう。したがって、先に述べた華厳宗に対する天台宗の側からの批判は、そのまま真言宗の大日如来の考え方にも当てはまると考えられる。つまり、大日如来も、毘廬遮那仏と同様、応身・釈尊によって方便として説かれた像にほかならないのである。
 ただし本抄で「大日経・金剛頂経・両界の大日如来」と仰せのように、大日如来は、大日経・金剛頂経の両経に基づく両界曼荼羅の主導として具現化され、本尊として広まっており、現実的な影響力の点で、毘廬遮那仏とは異なっていたといえる。
 大日経に基づく胎蔵界曼荼羅は、如来の一切の功徳を生み育む平等の理が凡夫の心に蔵されていることを示すものとされ、金剛頂経に基づく金剛界曼荼羅は平等の理を証す如来の智慧を示すものとされている。つまり、両界の曼荼羅は仏の理・智の二面を象徴するものであり、それを多数の仏・菩薩の配置によって表現している。そして大日如来は、胎蔵界では理法身、金剛界では智法身とされ、理・智の二面において、一切の仏・菩薩を包摂・統合する最高の法身仏として位置付けられており、形式面でも、大日如来を中尊として、周囲に多数の仏・菩薩が拝されている。両界の曼荼羅は、このような位置付けを、実際に人々の心に像として植え付ける役割を果たしたと考えられる。
 以上のように仏身論のうえで、毘廬遮那仏と大日如来は釈尊よりも勝れた仏と位置付けられてきた教義的な背景があり、しかも、特に大日如来は真言密教の曼荼羅の中尊とされることによって、大日如来こそが最も尊い仏であるという誤った本尊観を、人々の心に植え付ける役割を果たしたといえる。
 このような本尊観に対して、大聖人は本抄でまず、毘廬遮那仏と大日如来は「宝搭品の多宝如来」の左右の脇士であると位置付けられているのである。次に、この位置付けの意義について拝察してみたい。
 「多宝如来」は、法華経見宝塔品第十一において涌出した多宝搭の中から、大音声を放って法華経の真実を証明した仏である。同品では、多宝如来は東方宝浄世界に住し、法華経の証明を本誓願としているため、自身は法は説かないが、十方の国土のどこであれ法華経が説かれれば、その真実を証明するために宝塔とともに出現するとされる。また、仏の分身仏が十方より集まれば、宝塔を開いてその身を会座の衆生の前に現す、と説かれている。そこで釈尊が十方の分身諸仏を集めて宝塔を開き、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並坐して虚空会の儀式が始まるのである。
 したがって虚空会の儀式では、釈迦・多宝・十方の諸仏の三仏が揃っていることになるが、この三仏について法華文句巻八下では「多宝は法仏を表し、釈尊は報仏を表し、分身は応仏を表す」と釈している。すなわち、天台大師は宝塔品に基づき、法華経を説く主役としての釈尊が報身、その法華経を証明する多宝如来が法身、そして法華経の会座に来集した十方分身諸仏が応身を表しているとする。
 このように天台大師は、真実説である法華経説法ということを核心とした本当の意味での三身を、三仏が揃った宝塔品の説相に基づいて示しているのである。これに対して華厳宗や真言密教では爾前の方便説の中で像として化現された毘廬遮那仏や大日如来を仏の本身とし、しかもそれを説いた応身・釈尊よりも勝れているとする本末転倒に陥ったのであった。
 本抄において宝塔品の三仏のうち、特に多宝如来を取り上げておられるのは、多宝如来が三仏の中では、法身が仏身の根本とされており真言密教の両界曼荼羅にはそれが象徴的に示されていた。それに対して、宝塔品における多宝如来の出現は、法華経が説かれるとこにこそ、真実の法身が現れることを示しているのである。それ故、方便の教えの中の化身の法身・報身たる毘廬遮那仏等は、法華経の会座において出現した真実の法身である多宝如来の脇士として位置付けられたと拝されるのである。
 しかし、本抄では更に、その多宝如来も寿量品の教主釈尊の「所従」であるとされている。これは、釈迦・多宝如来・分身諸仏をもって示されている三身は、まだ迹門所説の各別の三身であって、真の三身相応の仏ではないからである。迹門の三身は、法華経という法を根本として示されたが故に、爾前経の毘廬遮那仏・大日如来という、法身仏同士の比較によって示されたと拝される。しかし、この迹門の三身も、本門寿量品において開顕される三世常住・三身円満の教主釈尊から見れば劣る故に、大聖人は多宝如来を教主釈尊の「所従」と位置付けられたのである。また、これによって、爾前経所説の三身は、本門の三身円満な教主釈尊よりも二重に劣ることを示されているのである。
四、本地の三身と垂迹の三身
 ここでもしばしば言及されてきたように、法華経如来寿量品第十六の教主釈尊と諸経の諸仏とは、本地と垂迹の関係にある。しかし、本地と垂迹の関係は法華経以外の諸経にも説かれている。それでは法華経で説く本地・垂迹と諸経で説く本地・垂迹とは、いかなる違いがあるのかという点が問題になる。ここでは、この点について、伝教大師・妙楽大師等の釈に基づいて考察しつつ、「寿量品の教主釈尊」の意義について三身論のうえから明らかにしてみたい。
 天台大師は、法華文句巻九下において如来寿量品の題号を釈して次のように述べている。
 「寿量とは詮量なり。十方三世の二仏・三仏・本仏迹仏の功徳を詮量するなり。今正しく本地三仏の功徳を詮量す。故に如来寿量品と言うなり
 この文の意味するところはおよそ以下の通りである。
 「寿量」とは仏の成就した功徳を明らかにすることであるが、その仏に真・応の二仏、法・報・応の三仏、本仏・迹仏等の種々の立て分けがある。諸経で説くところの仏の功徳は、そうした種々の仏の功徳のいずれか一面を説いているにすぎない。寿量品では、なかんずく「本地三仏」の功徳を明らかにすることが正意であり、また、これは法華経如来寿量品以外には説かれていない。それ故に「如来寿量品」と題するのである。
 諸経でも種々の仏身を明かし、その功徳の荘厳なることを説いている。また、三身を立て分け、仏の本地は法身、あるいは報身であるとの、本迹の立て分けを明らかにしている。しかし天台大師は、本地の三身は寿量品以外に明らかにされていないというのである。この点について、妙楽大師は法華文句記巻九中では、まず「法・報は是れ本、応身は迹に属す、何を以ってか乃ち本地の三仏というや」との問いを設け、次のように答えている。
 「問う。若し其れ末だ開せざれば法・報は迹に非ず。若し顕遠し已れば本迹各三なり」
 すなわち、寿量品において久遠実実成が開顕される以前は、法身・報身がお本地であったが、久遠実成が開顕された後は、本地、垂迹の各に三身がある、という。つまり、法報二身が本地・応身が垂迹というのは寿量顕本以前の迹仏についての所説であり顕本以後は「本地の三身」と「垂迹の三身」の、二種の三身があることが明らかになったのである。
 まず「本地の三身」について述べれば、寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠において成仏して以来、常に衆生を教化してきた常住の仏であることが明かされている。天台大師は法華文句巻九上において、この久遠以来常住する寿量品の釈尊が三身円満の仏であることは、次の経文で明らかであるとしている。
 「如来は如実に三界のを知見す」
 「如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず」
 「或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」
 つまり、最初の文は、三界という境を如実に知見する智慧を説いてから報身如来を表し、第二の文は、世間の人々がとらえる偏った真理を超えた、究極の真理を悟っていることを説いているから法身如来を表し、最後の文は、種々に応現して衆生を教化することを説いているから応身如来を表している。とする。したがって、寿量品の仏が久遠において最初に三身を成就して以来、三身相応の如来として常住していることは明らかであり、これを「本地の三身」というのである。
 この本地の三身においては、法身だけではなく、報身・応身も常住なのであり、この点が法身の常住しか説いていない諸経の三身とは異なるところである。特に応身も常住であるということは、五百塵点劫の久遠以来に出現した諸仏、つまり一切の諸仏が、本地の応身の応現であることを意味し、これにより諸仏は本地三身の垂迹であることが明らかになる。また、「法身・報身が本地、応身が垂迹」あるいは「法身は無始無終、報身は有始有終」というような爾前諸経の三身各別の仏身観が打ち破られ、そうした各別の三身が総じて、方便として示現・説示された「垂迹の三身」であることが、明らかにされたことなのである。
 このように寿量品の教主釈尊は、法・報・応の三身常住の本地であり、三種各別の諸経の諸仏とは全く異なるのである。故に天台大師は法華文句巻九上で「発迹顕本の三如来は、永く諸経に異なる」と結論している。
 以上のことから、法身として常住するとされた毘廬遮那仏や大日如来、また荘厳な浄土に住とされる阿弥陀如来をはじめとする爾前経の諸仏、更には法華経迹門の多宝如来も含めて、釈尊が迹仏の立場で説いた一切の仏は、本地の三身である「寿量品の教主釈尊」の垂迹でさることが明らかであろう。
4 御書に拝する寿量品の仏
 次に、「寿量品の教主釈尊」について御書での御教示を拝していきたい。
一、諸経の諸仏・諸土・諸尊と教主釈尊
 開目抄では、寿量品における久遠実成の開顕の意義を、以下のように、教主・国土・所化に約して示されている。まず教主釈尊については、「此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり」(0214-01)と仰せである。「過去常」とは釈尊が五百塵点劫の久遠以来、常住してきたことである。爾前・迹門においては諸経の諸仏は釈尊と同等、あるいはむしろ先輩格の仏とされたが、寿量品において釈尊の久遠実成が開顕されてからは、一切諸仏は釈尊の分身であり眷属であること、つまり垂迹の仏であることが明らかになったのである。
 開目抄では上の御文に続き、久遠実成の開顕とともに明らかになった浄土観について、次のように示されている。
 「今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる」(0214-03)
 すなわち、諸経では諸仏が住する十方の他土が浄土とされたが、寿量品における久遠実成の開顕の後は、久遠実成の釈尊が常住するこの娑婆世界こそが真の浄土であり、諸経に説かれてきた十方の浄土は、かえって垂迹の穢土であることが明らかになったのである。諸経の諸仏は始成正覚の釈尊が説いた化身の仏であり、それら諸仏の住する仏土も化現の浄土にすぎない故に、これを「穢土」と仰せなのである。
 開目抄には続いて、諸仏の所化の菩薩等について、「仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや」(0214-04)と仰せである。
 この御文では、諸経に説かれている諸仏が釈尊の分身である以上、その諸仏の弟子たる観音・勢至等の菩薩も釈尊の弟子となる。まして、この娑婆世界の日月・衆星などの諸天が、寿量品の教主釈尊の弟子であることは、いうまでもない。
 以上の開目抄の御教示では、寿量品における釈尊の久遠実成の顕現によって説かれた諸仏・諸土・諸尊のすべてが寿量品の教主釈尊の臣下であり、弟子であることが明らかになったことが示されているのであるが、このような御教示は他の御書にも配することができる。例えば小乗大乗分別抄では「久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(0520-10)と仰せられ、寿量品に比べれば諸経は小乗の法にすぎず、寿量品の久遠実成の本仏に比べれば、諸経に説かれた諸仏は小仏にすぎないとされている。また聖密房御書では、諸尊と教主釈尊の関係について、「久遠実成は一切の仏の本地・譬へば大海は久遠実成・魚鳥は千二百余尊なり、久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし夜の露の日輪の出でざる程なるべし」(0898-10)と仰せである。ここでは、本地たる久遠実成の釈尊と垂迹である一切の諸仏・諸尊を、大海と魚鳥の関係に譬えて明示されている。
 また浄土観については、観心本尊抄に、「久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(0247-09)と仰せである。すなわち、爾前・迹門に説かれた浄土は、始成正覚の釈尊が方便として示現し説示したのであるから、能変の教主である釈尊が入滅すれば、それとともに滅尽する無常の仏土にすぎないのである。これに対して、同じく観心本尊抄で「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」(0247-12)と仰せのように、久遠実成の釈尊が常住する寿量品所見の娑婆世界こそが、常住不壊の浄土なのである。
 以上のように日蓮大聖人は、久遠実成の仏が一切の諸仏・諸尊の本地であることを明かされ、これにより、教主釈尊をないがしろにし、垂迹である諸仏・諸尊を本尊としている諸宗の誤りを厳しく指摘されたのであった。
二、無作の三身
 次に、三身論のうえから、寿量品の教主釈尊の意義を示されている御書の御文を拝してみたい。
 既に述べたように天台大師や妙楽大師は、爾前・迹門では「垂迹の三身」を明かすにとどまるのにたいして法華経寿量品では「本地の三身」を明かすとし、三身論のうえから寿量品の独自性を明らかにしたのであった。
 この立て分けの根拠は、寿量品において釈尊が自ら伽耶始成を打ち破って、五百塵点劫の久遠における成道を明かしたことにある。つまり、これにより、①諸経の一切の諸仏は始成正覚の釈尊が方便として説いた仏にすぎないこと、また、②五百塵点劫の久遠は、過去に出現したとされる一切の仏が活動した時よりも更に昔であり、一切の仏は、五百塵点劫の過去に成道した釈尊の垂迹であることが明らかになったのである。
 このことを三身論のうえからいえば五百塵点劫の久遠以来常住する釈尊の三身のみが如来の真実身であり、したがって、応身に対する如来の真身として諸経に説かれた報身や法身も、いまだ如来の真実身ではないことになる。この点を天台大師は「本地の三身」と「垂迹の三身」との立て分けをもって示されたのである。 
 日蓮大聖人も、寿量品に明かされた「本地の三身」と諸経の「垂迹の三身」との立て分けを強調されている。例えば開目抄では「雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」(0198-06)と仰せである。先にも述べたように、爾前の諸大乗経では仏身の常住は説いても、それは法身のみを無始無終とするにすぎなかった。それに対して、法華経寿量品では、報身・応身をも具した三身相応の本地仏が、五百塵点劫の久遠以来常住することを明かしたのであった。この三身の常住こそ、諸経には絶えて見られない寿量品の独自性なのである。
 また、次の法華真言勝劣事の御文では、三身の常住を説いていない諸経の諸仏は、すべて本無今有・有名無実であるとされている。
 「諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず、本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり、寿量品に此の旨を顕す釈尊は天の一月・諸仏菩薩は万水に浮べる影なりと見えたり」(0124-04)
 真言密経でいかに大日如来の無始無終をいおうと、それを説いている釈尊自身が始成正覚で三身常住の本地仏を明かしていないので「本無今有」である。そして、「本無今有」であれば、大日の無始無終も何ら実在的な意義を持たず、単なる言葉や観念だけの空論にすぎないから「有名無実」なのである。
 ところが寿量品で明かされた五百塵点劫の久遠は、長遠といえども有限な時間であるから、久遠実成の釈尊も有限な仏にすぎないという論難があった。これは、真言密経における大日如来等の有名無実の無始無終にとらわれた論難であり、寿量品では、そのような爾前・迹門の仏身観を総じて打ち破って、本地の三身を開顕したのであるから、全く寿量開顕の意義を理解していない的はずれの愚論であるといえよう。故に大聖人は法華真言勝劣事において、このような論難に対し、寿量品では始成正覚の仏身観が破されたことに重大な意義がある、として次のように答えられている。
 「今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し」(0125-07)
 けだし、寿量品の仏について、爾前経の観念的な法身仏の無始無終と対比して論議すること自体、大いなる誤りといえよう。大聖人がこの仰せで、久遠実成の仏が無始無終か否こという問題に、直接的には答えられなかった所以は、ここにあると拝されるのである。また、次の諸宗問答抄の御文では、大日如来についていわれているような法身の無始無終は、あらゆる衆生に当てはまるものであり、したがって無始無終だからといって特に大日如来が勝れていることにはならない、とされているのである。
 「今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し」(0382-07)
 以上のように、大聖人は主として真言密教の仏身観を破折されるために、諸経の三身各別の仏身観と相対させて、寿量品における三身常住の本地仏の開顕の意義を強調されているのである。
 このように、大聖人は、諸経の仏身観との対比のうえからは、文上寿量品に開顕された本地の三身の意義を強調されているが、更に文底の立場から「無作の三身」について御教示されている。
 後章で詳しく拝察するが、日寛上人は取要抄文段で、無作の三身を文上寿量品の法門ではなく内証の寿量品の法門であるとされている。つまり無作の三身は、厳密にいえば、文底に属する法門なのである。大聖人は、諸経に説かれた諸仏を本尊としている諸宗の本尊観を破する時には、文上の久遠実成の仏を表に立てて、諸仏との勝劣を定められているが、大聖人御自身の法門を明かされるときは、「寿量品の釈尊」とは、寿量文底の無作の三身を指しておられるのである。
 この意味の仰せは諸処に拝される。例えば観心本尊抄には「寿量品に云く『然るに我実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり』」(0247-03)と仰せであり、三大秘法抄では「所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり」(1021-06)と仰せである。このように大聖人が無作の三身を強調される所以は、無作の三身こそが本尊とすべき究極の仏身だからであり、また、無作の三身でなけれな法即人・人即法ではありえないからであると拝される。
 無作の三身と体一である“法”とは即ち一念三千である。この点について小乗大乗分別抄では、「二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども法華経の中にてはいまだ奇妙ならず一念三千と申す法門こそ奇が中の奇妙が中の妙にて華厳大日経等に分絶たるのみならず」(0521-03)と仰せである。すなわち、文上寿量品の所説である久遠実成は一代諸経の肝要ではあるけれども、一念三千の法門こそが妙中の妙とされているのである。
 この一念三千を“事”の上に顕したのが「南無妙法蓮華経」であり、かつ、一念三千の法即人たる無作三身の宝号を「南無妙法蓮華経」ということは、御義口伝に「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0754-07)との仰せに明らかである。

0333:06~0333:08 その二top
06        此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり 不孝の失に依つて今に覚知せずと雖も
07 他方の衆生には似る可からず、 有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く 無縁の仏と衆生とは譬
08 えば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向うが如し、
-----―
 この娑婆世界の衆生は、五百塵点劫の昔から教主釈尊の慈愛する子である。不孝の失によって今は父子の関係を覚知していないけれども、釈尊と娑婆世界の我等衆生との関係は、他の国土の衆生の場合とは似るはずもない。有縁の仏と結縁の衆生との関係は、譬えていえば天空の月が清水に影を浮かべるようなものであり、無縁の仏と衆生との関係は、譬えていえば耳の聞こえない者が雷の音を聞こうとしたり、目の見えないものが日月に向かっているようなものである。

 この御文では、次の二点が御教示されている。
 第一に、寿量品の教主釈尊と娑婆世界の衆生と五百塵点劫の過去以来、父子の関係にある、とされている。これは、仏の主・師・親の三徳のうち、親の徳に約して寿量品の釈尊と娑婆世界の衆生との関係を示されているのである。
 第二に、したがって、娑婆世界の衆生は釈尊の間にのみ、感応道交の関係が成り立つのであって、他仏との間には成り立たない、とされている。
 このうち第二の釈尊と衆生との感応道交については、本段の最後の御文を拝する中で考察することにし、ここでは、第一の釈尊と衆生との関係を中心に拝察していくことにしたい。
 法華経では、釈尊が衆生にとって主・師・親の三徳を具する仏であることを強調している。例えば譬喩品第三では、「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我れ一人のみ、能く救護を為す」とある。すなわち、「今此の三界は、皆是れ我が有なり」は主の徳、「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」は親の徳、「而も今此の処は、諸の患難多し、唯我れ一人のみ、能く救護を為す」は師の徳を表している。
 また、信解品第四では、この譬喩品の説法を領解した声聞が長者窮子の譬を述べるが、この譬えはまさしく、親子の関係に約して釈尊と衆生の関係を示したものである。
 以上は迹門の所説であるが、法華経寿量品にも、「我が此の土は安穏」、「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」「我も亦為れ世の父、諸の苦患を救う者なり」とあり、順に主・師・親の三徳を表している。また、寿量品に説かれている良医病子の譬もまた、親子の関係をもって教主釈尊と衆生の関係を示している。
 このように法華経では教主釈尊の三徳、なかんずく「親」の徳が強調されているのであり、本抄でも、娑婆世界の一切衆生は教主釈尊の「愛子」であると仰せられている。このような「親」の徳の得質としては、衆生を慈愛する「慈悲」を挙げることができるであろう。
 仏の慈悲が一切衆生に平等に注がれることは、諸経の仏においても共通であるが、法華経の教主釈尊の娑婆世界の衆生に対する慈悲は法華宗句において、「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有って巌の義を闕く。天台法華宗は厳愛の義を具して、一切の賢聖、学無学、及び菩提心を発せる者の父なり」と述べている。すなわち、爾前経では衆生の苦を悲しむという意味での仏の慈悲にとかれてはいるが、これは「母」としての「愛」のみにすぎない。
 これに対して法華経では、一切衆生を成仏せしめるために仏の随自意の妙法が開顕される。この妙法は難信難解であるから、衆生がこれを証得するためには、自らの無明に挑戦しなければならないし、まして濁世にこの妙法を弘通していくためにあっては、三類の強敵と戦っていかなければならないから、厳しさが伴う。故に法華経の教主釈尊の慈悲は、衆生の苦を悲しむ「愛」の義だけではなく、衆生に挑戦を勧める「父」としての「厳」の義を具すものである。法華経では、先に引いた寿量品の「我も亦為れ世の父」の文に象徴されるように、教主釈尊が一切衆生の「父」であることが強調されているが、これは仏の慈悲の「厳」の義に焦点を当てているからであり、またここに、本抄で教主釈尊が一切衆生の「父」である、と仰せの理由があると拝される。
 このように、「厳」「愛」の二義を具する故に、法華経の教主釈尊こそが真の親徳を具しているといえるのであり、他の諸仏の慈悲は「厳」の義を欠く故に、真の親徳を具しているとはえないのである。このような「厳愛」の親子関係の根底にあるのは、子を自分と等しい一人前の人間にしたいとの期待であり、これは特に「父」において著しい。
 この点について、日寛上人の主師親三徳抄では、一切衆生は等しく「仏性」を持っている故に仏の子たりうる、と御教示されている。
 同抄ではまず、法華文句巻五下における三者火宅の譬は、一切衆生に等しく仏性有るを譬う。仏性同じき故に、等しく是れ子なり」の文、および、妙楽大師の金剛錍における「人は是れ果人の性有りと言わんが故に」の文を引用されている。すなわち、一切衆生が仏の子であるといえる根拠は、衆生が等しく仏性を具していることにあるということである。
 人間の親から生まれた子は同じ人間であり、また親のもっている資質がその子に引き継がれている。同様に、一切の衆生は仏性を有する点で仏と同じであり、このことが仏と衆生の親子の関係の基本姿勢になるのである。そして、仏と衆生との違いは、その仏性を既に顕しているか否かという点にある。そして親が子の成長を願うように、仏は仏性を顕して広大無辺な境界を成就し大慈悲をもって一切衆生の成長、すなわち仏性を顕して成長することを願うのであり、ここに仏は親、衆生は子という関係が生ずる。
 日寛上人の主師親三徳抄では、更に、仏と衆生との関係について、衆生の三因仏性の面から御教示されている。三因仏性については法華玄義巻九下に「弾指散華」は是れ縁、因の種、随聞一句は是れ了因の種、凡そ心有る者は是れ正因の種なり」とある。すなわち、正因は本来、仏界の生命を持っていること、了因は仏の教えを聞いて信解すること、縁因は仏界を覚知するための修行をすることである。この三種の仏性は他から与えられるものではなく、衆生が本来、具有しているものであり、それ故に仏の化導も成り立つのである。
 この衆生の正因・了因・縁因の三因と仏の法身・報身・応身の三身との関係について、日寛上人は、「此の中の正了縁と果中の法報応と同じきなり。故に仏性と同じきが故に等しく是れ子なりと云ふ。譬へば石中の火と現具の火と同じきが如し。猶ほ子の身と親の身と同じきが如し。故に悉是吾子と云ふなり」と仰せである。すなわち正・了・縁の三因仏性は仏界を覚知したときは法・報・応の三身として成就されるのであるから、因中において三因仏性、果中において三身であり果因の相違はあれども体は同じなのである。したがって、衆生は三因仏性を本来具している故に仏の子なのであり、また、仏は衆生の三因仏性を働かせて成就した時の姿である故に衆生の親なのである。
 このような仏と衆生との深遠な関係を明らかにしたのが法華経であり、なかんずく本門寿量品なのである。
 既に述べたように法華経迹門では三千塵点劫の過去における大通覆講以来の釈尊と衆生との結縁関係を明らかにしている。この点について天台大師は法華玄義巻六下で「大通の覆講に於いて妙法華を説くに大乗の父子を結ぶことを得たり」と述べている。三千塵点劫の過去の大通覆講の時、衆生に妙法の仏種を下した釈尊は父であり、この法を聞いた衆生は仏の子である。まさに迹門においては、釈尊と衆生が父子の縁を結んだ最初の時を三千塵点劫の過去として明かされたのであった。この三千塵点劫の開顕により娑婆世界の衆生は、他の諸仏ではなく釈尊の結縁の衆生であることが明らかになったのである。
 しかし、迹門では釈尊自身が始成正覚の仏として本門寿量品の久遠実成が開顕され、釈尊が諸仏を統合する根源的な本地仏であることが明確になると、必然的に十方世界の一切衆生にとっても、釈尊こそ三徳具備の有縁の仏となる。また五百塵点劫という長遠の過去から有縁であるということは、いかなる仏よりも深く結縁しているということであり、その意味でも最も根本的な有縁性を示しているのである。要するに寿量品では、他仏との相対性を超えて、本地仏として一切衆生との究極的な血縁関係が明かされたのであり、また良医病子の譬ではそのような根本的な有縁性が父子の関係を示されたのである。
 その本門における、教主釈尊と一切衆生の根本的な有縁性とは結局、釈尊と衆生との根源的な一体性に帰着する。なぜならば、既に述べたように、親と子の関係は一体性を根拠としているからである。
 日蓮大聖人は船守弥三郎許御書で、教主釈尊と衆生との一体性について以下のように御教示されている。
 「我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。寿量品に云く『顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ』とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ」(1446-03)
 この御文では、一念三千を説き明かしたのが法華経である故に、法華経を行ずる人は、「無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不壊の仏身」となることができることを明示されている。なぜならば、十界のあらゆる衆生が即身成仏できることを明かしたのが一念三千の法門であり、したがって、無始以来の凡夫が本来の理性を悟ることにより、寿量品の一念三千の仏と全く等しくなることができるのである。
 このように寿量品の教主釈尊とは即ち我等衆生であり、久遠実成はすなわち法界の成仏であるとの御教示は、教行証御書にも拝することができるのである。
 「此の経には二十の大事あり就中五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、我等が如き凡夫無始已来生死の苦底に沈輪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・無作本覚の三身と成し実に一念三千の極理を説く」(1280-13)
 すなわち寿量品の五百塵点劫顕本とは、結局、衆生をそのまま無作の三身となす。一念三千の妙法が明かされたことにほかならない、とされている。
 もとより大聖人は、我等衆生の現実の迷いの色心が、全く修行もせずにそのまま仏身だとされているわけではない。船守弥三郎御書の御文に「法華経の行者となりて」と仰せのように、法華経を行ずるという修行があって初めて、無始の色心のうえに仏身を成ずることができる。つまり総じていえば一切衆生が即ち教主釈尊であるが、別していえば法華経を行ずる者こそ寿量品の教主釈尊であり、無作三身如来なのである。この点については次の御文で明らかである。
 「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752-04)
 ここで「別しては日蓮の弟子檀那なり」と仰せであるが、文字通り法華経を行じきられたのは日蓮大聖人御一人であるから、「日蓮の弟子檀那」も総じて同じ立場であり、別しては日蓮大聖人御一人こそ、真の法華経の行者であり無作三身の仏なのである。

0333:08~0333:11 その三top
08                         而るに或る人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し 或る人師は
09 世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なり、 或る人師の云く小乗の釈尊と 或は華厳経の釈尊と或は法華経迹門の釈尊と此
10 等の諸師並びに檀那等釈尊を忘れて 諸仏を取ることは例せば阿闍世太子の頻婆沙羅王を殺し 釈尊に背いて提婆達
11 多に付きしが如し、
-----―
 しかるに、ある人師は釈尊を卑しめて大日如来を仰いで仰崇し、ある人師は釈尊は無縁の仏であり阿弥陀如来は有縁の仏している。またある人師は、「選びとるべき最尊の仏は、小乗教の釈尊である」といい、あるいは「華厳経の釈尊でといい、あるいは「法華経迹門の釈尊である」という。
 これらの諸の人師、ならびにその檀那達が、寿量品の教主釈尊を忘れて諸仏を選び取っているのは、たとえば阿闍世太子が父の頻婆沙羅王を殺し、釈尊に背いて提婆達多に付き従ったようなものである。

 ここでは、寿量品の教主釈尊を忘れて、他の諸仏を本尊として選び取っている諸宗の本尊観として、五例を列挙されている。そのうち、最初の二例は、明確に釈尊を下して他仏を本尊とするものであり、後の三例は、一応、釈尊を本尊と立てているが、やはり寿量品の教主釈尊を忘れている例である。
 また、これらの本尊はいずれも、仏法上、衆生の真の親である寿量品の教主釈尊に敵対していることになる故に、親を殺し釈尊を殺した阿闍世王に譬えられている。
 前の御文では、衆生は寿量品の教主釈尊との父子の関係を忘れて「不孝の失」を犯していると述べられたが、ここでは具体的に「不孝の失」の例を示されたといえるであろう。
 開目抄では、諸宗の本尊観が「不孝の失」にあたることを、より詳しく示されているので、ここではその御教示を紹介することにしたい。
 まず劣応身の釈尊を本尊とする小乗諸宗については「倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし」(0215-01)と仰せである。衆生は本来、諸仏の王たる寿量品の教主釈尊の子である故に、天尊の太子のようなものであるが、その衆生が、小乗の劣応身の釈尊を本尊とすることは、自らを民の子と貶めるようなものである、とされている。つまり、寿量品の教主釈尊を天尊とすれば、小乗の釈尊は民にあたるとされているのである。これは、いうまでもなく本抄の「小乗の釈尊」にあたる。
 次に、勝応身の釈尊を本尊とする法相・三論等の諸大乗宗について「法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし」(0215-03)と仰せである。天王たる寿量品の釈尊から見れば、勝応身の釈尊は家臣の侍のようなものなのである、とされている。これは、本抄の仰せでいえば、「華厳の釈尊」にあたると拝される。なぜならば、華厳経の釈尊は、菩薩に対して現れた勝応身だからである。総じて権大乗の諸経は菩薩乗の教えであるから、勝応身たる「華厳の釈尊」をもって、権大乗の諸宗の本尊観を代表されたものと拝される。
 また、法身仏たる毘廬遮那仏や大日如来を本尊とする華厳宗・真言宗については「華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり」(0215-03)と仰せである。既に詳しく述べたように、華厳経の毘廬遮那仏や真言経典の大日如来は、爾前経の三身各別の仏身観のうえから示された法身であり、三身相応・三世常住の寿量品の教主釈尊から見ればはるかに劣る。また、これらの仏は本来、釈尊が方便として説いた仏ですぎないのに、特に華厳・真言の両宗では、これらの法身仏を本尊とし、釈尊を応身にすぎないと下すのである。
 この意味で、一応は法身仏と位置づけられる故に「法王のごとくなる」なのであるが、もともと仮に説かれた仏であるから、「種姓もなき者」なのである。この両宗の本尊観は、本抄の仰せでいえば、「釈尊を下して大日如来を仰崇し」にあたる。
 更に開目抄では浄土宗について「浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり」(0215-04)と述べられている。浄土宗では、阿弥陀仏は劣機の衆生を極楽浄土に往生させることを本願とするから、この本願の力に頼ることが末法の劣機の凡夫に適った易行道であり、その他の釈尊の教えは末法濁世においては無益であるとする。つまり機根論のうえから、阿弥陀仏こそ末法衆生の有縁の仏であるとしているのである。この本尊観は、本抄の「世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なり」にあたることになる。
 最後に禅宗について「禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし」(0215-05)と仰せられている。禅宗は特に本尊を立てず、正法は以心伝心で教外に別伝されるとし、人師の見性体験を強調して「仏向上人」、「毘廬の頂上を踏む」などと奢る。凡夫の我見を根本としている故に「下賤の者」であり、一分の見性体験に奢って仏を下す故に「一分の徳あって父母をさぐる」と仰せられていると拝される。
 なお、本抄に仰せの「法華経迹門の本尊」については、開目抄に御教示されていない。この本尊観は、法華経を立てるが、迹門の理を重視して寿量品の教主釈尊を忘れている天台宗についての仰せと拝される。
 以上のように、諸宗はすべて、それぞれの本尊観によって、結局は寿量品の教主釈尊を下しているのである。故に開目抄では、以上の御教示の結論として、諸宗の本尊観を総じて次のように破折されているのである。
 「仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く『一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず』等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」(0215-06)。

0333:11~0333:13 その四top
11           二月十五日は釈尊御入滅の日乃至十二月十五日も三界慈父の御遠忌なり、善導・法然・永観等
12 の提婆達多に誑されて 阿弥陀仏の日と定め畢んぬ、 四月八日は世尊御誕生の日なり薬師仏に取り畢んぬ、 我が
13 慈父の忌日を他仏に替るは孝養の者なるか如何、
-----―
 二月十五日は釈尊の御入滅の日である。したがって一年の十二ヵ月の毎月の十五日も三界の慈父である釈尊の御遠忌である。しかるに当世の人々は、善導・法然・永観らの提婆達多のような邪師にだまされて、阿弥陀仏の日と定めてしまっている。また、四月八日は釈尊の御誕生の日である。しかるに薬師如来の日として奪い取ってしまった。自分の慈父である釈尊の忌日を他仏の日にすり替えるのは、孝養の者といえるだろうか。

 この御文では、娑婆世界の衆生にとって父ともいうべき釈尊を忘れて、無縁の他仏を本尊とする諸宗、及びその信徒の迷妄を如実に示す事例として、当時、念仏信仰の流行とともに民間に普及していた宗教的な習慣を取り上げ、これを批判されている。
 御文では最初に「二月十五日は釈尊後入滅の日」と仰せであるが、涅槃経巻三十では、この釈尊後入滅の日である「二月十五日」の意義について、以下のように説かれている。まず「二月」については、万仏が生長を開始する春陽の月であり、仏の常楽我浄を智者が愛楽するにふさわしい月であるから、釈尊は2月に大涅槃に入るとする。また、「十五日」については、満月の日であることから、能く闇を破り、衆生に道と道以外の境目を明瞭に見せ、あるいは、一切の盗賊が盗みを行う思いを断たせるなど満月の光明の11の意義を挙げる。そして、そのうえで、この満月の大闇を破壊し、正道・邪道の区別を演説し、煩悩の賊を破るなど、11の功徳が備わっていることが示されている。
 このように涅槃経では、仏の入滅が2月15日であることが明らかにされている。
 次に「十二月十五日も三界慈父の御遠忌なり」と仰せであるが、これは2月15日が釈尊の入滅の日とされることから、1年12ヵ月の毎月の15日が釈尊の遠忌の日にあたる、との意である。しかるに、釈尊の遠忌の日であるべき毎月の15日が、当時の鎌倉の習慣では「阿弥陀仏の日」と定められていたのであった。加えて、釈尊の生誕の日である4月8日についてもまた、「薬師仏の日」とすり替えられていることを指摘されている。
 このような大聖人の仰せの背景には、毎月の定められた日を特定の仏・菩薩に縁のある日とする当時の習慣であった。今日の他宗派で言われている(縁日)はその名残であろうか。
 この習慣は「十王信仰」に基づく「十斎日」を源とするためであり、御文で名が挙げられている永観の往生講式に採用されたのを契機に、平安時代以降は浄土信仰の流行と結び付いて、民間に普及していたのであった。
 この経緯を明らかにするために、以下においては「十王信仰」に基づく「十斎日」および当時、念仏信仰の流行の軸となった。いわゆる「庶民講」の発展について述べておきたい。
一、十王信仰と十斎日
 「十王信仰」とは、人の死後、生前の行いについて罪が決まるが、冥界において順次10人の王から審判を受けるという信仰である。その審判には、死後の遺族が行う追善供養が影響するとされたため、その必然的な結果として、使者の冥福を十王に祈願することが盛んに行われることになった。
 ちなみに、この十王とは、初七日における秦広王の審判を初めとして、二7日・初江王の審判、三7日・栄帝王、四7日・五官王、五7日・閻魔王、六7日・変成王、七7日・太山王とされ、更には100日・平等王、1年・都市王、3年五道天輪王に至るまで裁断が続くのである。
 この信仰のよりどころは、預修十王生七経にあり、この十王経は、中国で道徳思想などの影響を受けて成立したとされている。同経では毎月の1・8・14・15・18・23・24・28・29・30日を十斎日とし、各の日ごとに縁ある仏・菩薩を配している。「斎日」とは八斎戒を持つ日のことで、その日を月に10日設けるので「十斎日」というのである。この「十斎日」」そのものは地蔵本願経巻上に説かれているが、これを十王信仰と結び付け、各の日ごとに仏菩薩を配したのは十王経による。
 この十王信仰は日本でも広まり、地蔵菩薩発心因縁十王経が偽作されるに至った。この経でも「十斎日」に仏・菩薩を配しており、15日に阿弥陀如来、8日に薬師如来が配当されている。
 中国成立の十王経や日本成立の地蔵十王経で、「十斎日」の各日に仏・菩薩を配していることの教義的な背景として、冥界の十王の本地としては、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・阿閦・阿弥陀が挙げられ、このうち特に、冥土の支配者とされていた閻魔王の本地である地蔵菩薩への祈願によって、五7日の追善供養が大切であるとされている。
 本地垂迹の考え方は、これまで述べてきたように、本来は法華経如来寿量品第十六の久遠開顕の本迹から出たものであるが、それが、いわば応用されて、中国儒道の聖人を仏教の菩薩の垂迹とする考え方が立てられた。
 このことは天台大師も用いたところで、摩訶止観巻六下に「我、三聖を遣わして彼の真丹を化す」とあり、これを妙楽大師は清浄行法経の文として、止観輔行伝弘決巻六の三に「月光菩薩彼に顔回と称し、光浄菩薩彼に仲尼と称し、迦葉菩薩彼に老子と称す」と引いている。
 これは、天台大師の法門においては、一切法は仏法の一分であるとの原理からいわれたものであるが、日本においては、神仏習合思想の根拠として、さまざまなものに当てはめられた。すなわち、日本における仏教受容にあって最も苦慮されたことは、日本古来の神祇信仰をいかに仏教の信仰と調和させるかであり、そのためにこの本地垂迹説が用いられたのである。具体的には、10世紀後半以降、日本の神々は仏菩薩の垂迹であるという思想が宣伝され、仏教と神祇信仰の融合が積極的になされていった。そして、例えば、11世紀末近くには、八幡宮の本地仏は阿弥陀如来であるといった配分がなされたのである。したがって、日本の場合は、その仏・菩薩と神との生命的特質をとらえての根拠のあるものではなく、神社の勢力の強弱によって、その神の本地仏が決定あれていったようである。
 日本における十王信仰、また十斎日の考え方は、こうした神仏習合思想の影響下に普及したものであったといえる。しかも、これを民衆の間に定着させたのが、次項に述べる念仏の「講」だったのである。
二、庶民講の普及と永観の往生講式
 仏教における「講」とは、「講経」すなわち経典の講義に端を発している。中国や日本では、この講経のための集い、つまり「講会」あるいは「講筵」が盛んに行われるようになった。こうした「講」は聖徳太子の時代に既に行われていたが、時代が下るにつれて講演形式から宗教儀式の色彩を強めていく。また、宗教儀式的な集いである「講」は、当時の天台宗・真言宗などが貴族階層を信徒としていたこともあって、当然貴族を対象としたものであったが、平安時代の末期に至って、念仏信仰が庶民の間に広まるにつれて、庶民を対象とした「庶民講」が盛んになっていくのである。 
 元来、律令体制下における仏教は、僧侶と貴族間のみに成り立ち、民衆への布教は、制度上固く禁じられていた。しかし、この制度は、いわゆる畿内に限定されたもので、当時外国と称されていた七道では、民衆への布教は放置されていた。その制度上の間隙をぬって、律令体制下の旧勢力たる南都六宗に対して、平安時代に新しく興った天台・真言二宗も、東国や九州、四国などに布教の足跡を残してはいる。しかし、本格的な民衆への布教は、むしろ平安時代後期に新しく興った浄土宗が先鞭をつけたのである。やがて律令体制が崩壊するにつれ、畿内における民衆布教の禁制も実質上無効なものとなっていき、例えば、10世紀に京都において民衆を相手に盛んに行われた念仏勧進は、禁止の処分を免れている。
 こうして平安時代の仏教は、初期において貴族だけのものであったのが、中期以降、広く民衆にかかわりを持つようになったのである。このような変遷のなか民衆と仏教とのかかわりを積極的に進める役割を担ったのが「庶民講」の存在であった。
 この「庶民講」の成り立ちについては文献的にはあまり詳しく知られていないが、僧俗貴族、老若男女の区別なく、同信の者が結集する場として広がっていたようである。
 例えば、今昔物語集巻十七の「僧仁康、祈念地蔵遁疫癘難語」第十には、祇陀林寺の仁康が道心を起こして大仏師の康成の家に行き、半金色の地蔵の像を作らせ、これを開眼供養した後、地蔵講を初めて行ったことが説かれている。それによるとこの講に結縁した道俗男女は疫病の難を逃れることができたので、ますます繁盛したと記されている。
 これに似た事例は、同時代の物語にしばしば見られるが、これらに共通する点として、
    ①講の対象者は道俗男女を問わなかったこと
    ②講が講演の場から同信の者の祈願儀式の場と変化していったこと
 などが挙げられる。その結果、講は、いわば庶民の間に開かれた信仰の場として普及していった。
 このようにして普及した庶民講の特色として、第一に、信仰の対象においては、阿弥陀講・舎利講・観音講・地蔵講・弥勒講など多彩な講が出現したことが挙げられる。これは、平安時代の中・後期における観音信仰・弥勒信仰・薬師信仰・地蔵信仰など、民間信仰の多様化を反映したものと思われる。
 第二に、祈願の内容においては、死者の追善供養に比重が移っていった点が挙げられる。この点に、先に述べた十王信仰が関係しているのである。また、講が、死後の極楽往生を説く念仏信仰の有力な布教手段の理由も、この点にあると考えられる。
 このような追善供養を特徴とし、民間においても自然発生的に広まった講であったが、次第に定着するにつれて、講の儀式次第を規定した、いわゆる「講式」が作られるようになった。
 庶民講以前の「講式」の文献としては、伝教大師最澄による薬師如来講式一巻をはじめ、代表的な講ごとに定められた覚鑁の愛染王講式、貞慶の観音講式・弥勒講式、高辨の四座講式などが知られている。これは主として僧侶講で用いられたものであったが、観音講式は民間の講でも用いられた形跡があり、また源信作の地蔵講式は、民間の諸講に利用されることをねらって記されたものとされる。
 そして、当時の念仏信仰の流行にともなって、民間の講に本格的な影響を与えたのが、永観の往生講式一巻であった。永観は、三論の学僧であるが、阿弥陀経要記一巻、往生拾因一巻等を著すとともに、浄土教に基づく往生講の講式を定めて自らこれを修するなど、念仏信仰の普及に尽力した人物である。
 それ以前の講の多くが、例えば観音講は18日、地蔵講は24日というように月1回行われるものであったのに対して、永観の往生講も一応は阿弥陀仏の日とされている毎月15日に行うと記されているが、実際には拾遺往生伝巻下に「十斎日毎に往生講を勤修せり」との文献もあり、往生講を、毎月の「十斎日」に繰り返して修していたようである。
 平安末期から鎌倉時代にかけての念仏の民間布教の軸となったのが庶民講であり、その講式が永観の強い影響を受けたことから、誤った本地垂迹説に基づいて「十斎日」を各仏に配分するという浅薄な習慣が民衆の間にはびこったのである。その結果、本来、釈迦牟尼仏に最も縁の深い日としてとどめなければならないはずの15日や8日が、庶民の信仰の対象となった阿弥陀仏や薬師仏の日とされていったのであった。
 ここに、本抄で「善導・法然・永観等の提婆達多に誑されて」と仰せの所以があると拝される。善導は中国浄土宗の大成者であり、法然は日本浄土宗の創始者である。この二人は教義的な面で念仏の流行に影響力を持ったのであるが、彼等に加えて永観をあげられたのは、念仏布教の軸となった「講」の儀式次第の、いわば“発案者”として現実の布教面で影響を与えた人物だからであると拝される。
 なお、庶民講の普及にともない、都市や近郊以外の寺院のない地域では、民間の堂宇が次々と建立されていったが、特に阿弥陀堂の建立が盛んであり、例えば一谷入道御書には、その有り様が次のように示されている。
 「又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にて・おはするぞかし、父母を知るも師の恩なり黒白を弁うも釈尊の恩なり、而るを天魔の身に入つて候・善導・法然なんどが申すに付いて・国土に阿弥陀堂を造り.或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り・或は宅宅.人人ごとに阿弥陀仏を書造り・或は人ごとに口口に或は高声に唱へ・或は一万遍・或は六万遍なんど唱うるに・少しも智慧ある者は・いよいよ・これをすすむ、譬へば火に・かれたる草をくわへ・水に風を合せたるに似たり」(1327-16)
 このような御指摘は御書の諸所に拝することができるが、それは、阿弥陀堂の建立、普及が念仏信仰の普及と定着をもたらす有力な基盤となったという意味で、決してゆるがせにできない問題であったが故に、指摘されたものと拝される。こうした誤った本堂・堂宇・信仰の蔓延に対し、正法による末法の衆生救済のために、大聖人は本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法を顕現し、その広宣流布を宣言されているのである。

0333:13~0333:15 その五top
13                        寿量品に云く「我も亦為れ世の父・狂子を治する為の故に」等云
14 云、天台大師云く「本此の仏に従つて 初めて道心を発す亦此の仏に従つて不退地に住す 乃至猶百川の海に潮すべ
15 きが如く縁に牽かれて応生すること亦復是くの如し」等云云。
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 寿量品に「寿量品の教主釈尊もまた世の衆生の父である。本心を失った子を治すための故である」等とある。天台大師は法華玄義で「もともと、この仏に従って初めて仏道を求める心を起こした。また、この仏に従した。(乃至)さながらすべての川が必ず海に流れ込むように、衆生は仏縁に引かれて、有縁の仏の出現に応じて、生まれてくるのである」等といっている。

 ここでは、法華経如来寿量品第十六の教主釈尊の意義を明かした第六段の結びとして、経・釈の文を引用されている。
 最初の文は寿量品から略して引用されたものである。詳しくは同品に次のようにある。
 「医の善き方便をもって、狂子を冶せんが為の故に、実には在れども而も死すと言うに、能く虚妄を説くもの無きが如く、我も亦為れ世の父、諸の苦患を救う者なり」
 つまり、寿量品の良医病子の譬において、父子である良医が狂子を救ったように、寿量品の教主釈尊も世の衆生の父として、諸の苦悩から衆生を救済するとの意である。この父子の関係については既に述べたところなので、ここでは説明を省く。
 次に引用されている天台大師の言葉は法華玄義巻六下の眷属妙を論じた個所に出る文であり、衆生は本縁によって仏のもとに、その眷属として応生することを述べている。その趣旨はおよそ次の通りである。
 「法身菩薩は過去において、仏を師として初めて発心し、その師のもとで法身を得て不退地に住するに至ったが、その修行の師であった仏が娑婆世界に出現して仏事を為すときは、過去の本縁の牽引力で、おのずと有縁の仏のもとに往生する。それは、譬えていえば百川が海に流れ込むようなものである。
 この天台大師の言葉に関連して、以下においては、法華経における仏と衆生との関係について、「眷属妙」と「感応妙」を中心に考察する。なお、ここで「感応妙」にも言及する理由は、感応道交こそが、神通・説法・眷属・功徳利益等の、仏と衆生との関係が成り立つための基盤だからである。このことについては、先に配したように、本抄で「有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く無縁の仏と衆生とは譬えば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向うが如し」とおおせられている。ここでは「感応妙」について考察しつつ、この御文の意義についても拝察していくことにしたい。
一、法華経の眷属妙
 法華玄義巻六下では、仏の一切の眷属を、理性眷属、業生眷属、願生眷属、神通生眷属、往生眷属の五種に分けている。
 「理性眷属」とは、一切衆生は、仏性という究極の理において仏と一如であるから本来的に仏子であり、その意味で、具体的な結縁の有無にかかわらず仏の眷属であることをいう。「業生眷属」とは、過去に仏と結縁してまだ得度しえなかったが、業縁によって今生の仏の眷属となる者のことであり、「願生眷属」とは、同じく過去においては未得度であったが、強い願力によって仏の眷属として生まれてくる者のことである。「神通生眷属」とは、過去の仏の化導によって一分の真理を得て聖位に昇り、その報いとして他の世界に生を受けているが、自らの願力と神通力により仏の世界に来生して、仏の化導を助ける者である。
 最後の「往生眷属」とは、過去に無明を破し法身を得て実報土に住している菩薩が、仏の出現した所に応身として生まれてくる場合をいい、この「応生」について天台大師は次の三義を明かしている。
   ①熱他=他者の機を熟させるために慈悲力によって応生する
   ②自成=自身の修行を進めるために往生する
   ③本縁=自身が発心・修行した師である仏との本縁に引かれて、仏が化導する所におのずから往生する
 本抄で引用されている文は、③の本縁による応生いついて述べたものである。したがって一応は実報土に住する法身菩薩の応生について述べた文といえるが、大聖人はこれを娑婆世界の一切衆生に敷衍して引用されていると拝される。そして、そのように敷衍して引用しうる根拠は、法華経に明かされる「眷属妙」にあると拝察できる。
 天台大師は、上記の五種の眷属、あるいは応生眷属の三義は、諸経に説かれる諸眷属の一応の立て分けであり、法華経ではそれら諸眷属が究極的には、すべて妙であることを明かしているとする。つまり、それら種々の衆生が仏の眷属であることのすべての根拠は、すべての衆生が仏性を持っていることにあり、このことを明らかにするために法華経では、根敗の二乗や断善根の一闡提の成仏を説いたのである。
 それ故に法華経では一切の眷属の妙が成り立つのである。それに対して諸経では、一切衆生の仏性の妙を説かないので、眷属妙が成り立たないのである。故に天台大師は法華玄義巻六下において「諸経には麤の眷属を明かして、皆仏性を見ず。今の法華には天性を定め、父子を審かにするに復客作に非ず」と述べている。また、法華経においては一切の眷属が妙であることを次のようにも述べている。
 「謂ゆる結縁妙・成熟妙・業生妙・願生妙・応生妙・内眷属妙・外眷属妙なり。能く妙道を受け妙事に影響す。是の故に妙と称す」
 つまり、過去の結縁や成熟も、今生に業生・願生・応生したことも、また業生眷属のなかで、道を得た法内の眷属も道を得ざる法外の眷属も、法華経においてはすべて妙なのであり、これら一切の眷属は仏が説く妙道を受け、仏の為す妙事に何等かのかかわりを持っている、とされるのである。
 例えば天台大師は、釈尊の肉親や弟子達のような親縁者、更には提婆達多や阿闍世王等の仏に怨嫉し敵対した者でさえも、一応は業生の眷属であるが、その実は熟他のために往生し、仏の化導を助けた法身菩薩であるとする。これは法華経の「内に菩薩の行を秘し、外に是れ声聞なりと現ず」等の所説に基づくものである。
 前の文は富楼那に記を授けたときの言葉であり、富楼那等の声聞の姿は衆生を度すための方便であり、本当は菩薩行を行じているとするものである。後の文は、提婆達多が釈尊に敵対したのは釈尊の化導を助ける善知識の働きであるとしている。この他にも、授学無学人記品第九では、釈尊の出家前の子である羅睺羅葉、肉親即ち仏子であることを衆生に示していると説かれている。
 このような法華経の所説に基づいて天台大師は、衆生が仏に対して示す法内・法外、好・悪、順・逆などの種々相はすべて仮の姿であり、法華経の妙のうえからは、こうした立て分けをすべて超越して、一切の眷属が仏子としての妙なる存在となるとしている。
 以上のことから、本抄に引用されている天台大師の言葉は、単に、応生眷属たる法身菩薩の本縁について述べたものと限定せずに、一切衆生の本縁を述べたものとして敷衍することが可能であるといえよう。そして、この場合、「本此の仏に従って」との言葉に示されている本縁とは、当然、個々の法身菩薩の過去の修行時の仏縁ということではなく、“本地仏たる寿量品の教主釈尊との仏縁”ということを意味するといえるのである。なぜならば、一切経のなかでは、寿量品の教主釈尊のみが、久遠以来、一切衆生を教化してきた仏であるといえるからである。天台大師も玄義において、「今経には、仏自ら近の権を開して遠の実を顕す。諸の眷属の迹の権を開して本の実を顕す。故に文に云く『今当に汝等が為に、最実事を説く』と」述べている。教主釈尊が久遠の本地を顕した寿量品の開近顕遠と、衆生の眷属妙の開顕との密接な関係を示すとともに、「最事実」という法華経の言葉を引用することによって、本地仏との本縁こそが、衆生にとっての究極の事実であるということを示唆している。
 すなわち法華経でも迹門との段階では「理性眷属」にとどまるが、本門寿量品で、久遠の仏と地涌の菩薩の師弟・父子関係が明らかになったのであり、ここに「応生眷属」の説明を末法の衆生にあてはめることが可能となる。なぜなら、釈尊に有縁の衆生が本已有善であるのに対し、末法の衆生はそれだけでは本未有善であるが、妙法受持により地涌の眷属たりうるからである。
 ちなみに、本抄に引用されている天台大師の「本此の仏に従って」との文は、地涌の菩薩と久遠実成実状の釈尊との本縁を示した。法華経従地涌出品第十五の経文が踏まえられていると推察できるのである。
 「是の諸の大菩薩は、無数劫より来、仏の智慧を修習せり。悉く是れ我が所化として、大道心えを発せしめたり、此等は是れ我が子なり…我伽耶城、菩提樹下に於いて坐して、最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、爾して乃ち教化して、初めて道心を発さしむ。今皆不退に住せり、悉く当に仏道を得べし」
 したがって、本抄では、寿量品の「我も亦為れ世の父」との経文に続けて「本此の仏に従って」との天台大師の言葉を引用されているが、これにより、「此の仏」とは即ち、寿量品の「我」=教主釈尊であることを示唆されていたのである。
二、感応道交
 次に、仏と衆生との関係の根本である感応道交について、天台大師の法華玄義巻六の論述に基づき考察したい。
 「感」とは「機」の別名であり、「機」とは仏を感ずる衆生の精神的な機能である。また「応」とは、衆生の感に応ずる仏の働きかけである。この応について天台大師は玄義において「果智は寂にして照らし、感有れば必ず彰る」と述べている。すなわち仏智は静寂であるが、しかも一切法を照らしているので、衆生の感があれば、必ず何らかの働きかけを現すのである。
 そして天台大師は、衆生の「機」について「微」「関」「宜」の三義を、仏の「応」について「赴」「対」「応」の三義を挙げ、それぞれ次のように対応することを示している。
 (機の三義)…(応の三義)
   ①微の義…赴の義
   ②関の義…対の義
   ③宜の義…応の義
 まず①の機の「微」とは、衆生においてまさに生じようとしている善をいう。それが、まだ顕ではなく潜在的なので「微」というのである。「微」の字は、目立たないこと、顕ではないことを意味する。つまり、「微」の義は、衆生において可能性の段階にある善を指すといえる。この潜在的な可能性は、仏の働きかけがあって初めて実現されるので、玄義は次のように述べられている。
 「衆生に生ず可きの善有り。故に聖応ずるときは則ち善生じ、応ぜざるときは則ち生ぜず。故に機は微なりと言うなり」
 したがって、機の「微」に対応する応の意義として「赴」が挙げられるのである。つまり「赴」とは、衆生の潜在的な可能性に対する仏の働きかけを示している。
 そもそも「機」という漢字には“弩がもつ石を弾き出す働き”という意味があり、この働きは射手が射る前には現れないから、まさに、「微」と相通ずる意味を持っている。例えば周易には「機とは動の機にして、吉の先ず見わるる者なり」とある。このような意味で「微」によって「機」の意義を説明することは、その字の本来の意味からも自然な解釈であったと考えられる。
 天台大師は、「生ずべき善」の「生ずべき」ということを広い意味での可能性と解釈して、「微」の義を採用した。すなわち、従来の成美宗などの考え方では、「生ずべき善」とは今まさに生じようとしている善の兆しであり、これに仏菩薩が応ずるとされたのであった。これに対して天台大師は「今、生ず可きの善を明かすは、此の語則ち寛し」と述べ、単に、いま動ぜんとして近い未来に実現されるべき個別的な可能性ではなく、更に広い意味での普遍的な可能性であるとしている。そして、この普遍的な可能性については、それを未来に実現するために仏が応ずるということを、天台大師は積極的に認めるのである。ただし「若し通じて論ずれば、三世の善悪を皆機と為す。別して論ずれば、但、未来の善悪を取りて正義と為すなり」と述べているように、天台大師は、善だけではなく悪に対しても仏の応があるとする。この点を明らかにしたのが②の「関…対」の義であり、③の「宜…応」の義なのである。
 ②の「関…対」の義は、衆生の機が善であるか悪であるかを超えて、そもそも仏と衆生との本質的に相関関係にあることを示したものである。このことを天台大師は「衆生に善有りて、聖の慈悲に関わる。故に機は是れ関の義なり」と述べている。つまり、衆生の善悪は、いずれも仏の慈悲に関わっている故に、機は「関」の義なのである。また、仏の慈悲は、単に衆生の可能性としての善の機のみではなく、衆生の現実の善悪の事実に対して応ずる故に、応は「対」の義なのである。この「対」の義を説明するにあたり、天台大師はこれを商取引に譬えている。すなわち、一方が売ろうとしても他方が買おうとしなければ、商取引そのものが成り立たず、売り手は売り手であることができないように、衆生の善悪が仏に関わっているから、仏も衆生に対して慈悲の働きを起こすことができるのである。
 この「関…対」の義は成実宗の感応論、すなわち仏と衆生を全く別なものとして立て分けたうえで両者の関係を論ずる感応論を批判して、大乗の空の立場から感と応が因縁の関係において成り立つことを強調した。三論宗の主張を踏まえたものと思われる。しかし天台大師は、こうした空の立場にとどまらず、更に深い感応の意義を明かしている。
 それがすなわち③の「宜…応」の義である。これは、単に感と応との関係の相互性をいうのではなく、より具体的・行動的な両者の対応性をとらえたものである。すなわち機の「宜」とは、衆生が苦を厭い楽を求めることが、無明の苦を抜き法性の楽を与えようとする仏の慈悲に適っている、という意味である。こうした仏の慈悲に適った「機」があってこそ、仏はその宜しき所に従い、抜苦あるいは与楽のために種々の法をもって応ずることをいう。
 このように天台大師は「宜…応」の義によって、衆生の機の善悪がともに仏の慈悲の応と対応することを示し、この意味から、単に善を正機としたり、逆に単に悪を正義とすることは誤りであると破して、「闡提の改悔の心を起こすより、上等覚に至るまで、皆、善悪相帯すること有り、故に機と為すことを得」と結論している。
 ところで、仏が衆生の善悪いずれにも応ずるということは、仏の応が多岐にわたるということを意味する。天台大師は、この感応の多様性を「冥機冥応」「冥機顕応」「顕機顕応」「顕機冥応」の四句に分別している。冥機とは過去に善根を積んで熟した機であり、顕機とは現在仏道修行に励んで善根を積んでいる機である。また冥応とは明らかには感得できないが、仏の法身の応えにより、見えない利益がある場合であり、顕応とは明らかに感得できる形で仏の功力の応現がある場合である。上の四句は、この二機と二応との組み合わせに、種々のケースがありうることを示したものであるが、これを開いて四機・四応を組み合わせた三十六句を立て、更に十界互具の原理のうえから、総計64800の感応の形態までも明かされている。
 このような玄義の論述のなかで注目すべきことは、第一に、一切の機に感応がありうるとしていることであり、第二に、明らかには感得しえない冥応がある、としていることであろう。これにより、従来のように、特殊な場合に感得される特殊な霊端のみを感応とするのではなく、普通的でしかも本質的な感応の在り方を示しているのであり、特殊な霊端はむしろ、特殊な場面に応じた現れ方であり、いわば本質的な感応の方便として位置付けられることになる。
 上の二点のうち、一切の機に感応がありうるという点は、更に、仏は単に衆生の「事善」に応ずるのではなく、より本質的には、一切衆生に本具する「理善」に応ずるというとらえ方に極まる。このとらえ方は、先に挙げた機の三義および応の三義を四悉檀に配しているところに示されている。すなわち、「微…赴」の義は、衆生が善を欲する心に仏が赴くことを意味するので世界悉壇、「関…対」の義は、抜苦の悲をもって衆生の苦に対し、与楽の慈をもって衆生の善に対するので、対治悉壇にあたるとしたうえで、「宜…応」の義については、各人にとっての具体的・個別的な善である「事善」を生ずるうえに宜しい感応は為人悉壇に、一切衆生に本具する普遍的な善である「理善」を生ずるに宜しい感応は、第一義悉檀にあたると立て分けている。これは、衆生に本具する普遍的な「理善」に仏が応ずることこそ、感応の根本であることを示しているといえよう。
 また、このとらえ方は、十界互具の原理に基づき、一切の衆生が仏界の妙機を具していることを示している次の玄義の文にも見られる。
 「阿鼻は楽間つること無ければ、則ち事善無し、云何ぞ十を具せん。然るに阿鼻に性善の断ぜざること有るが故なり。又、近世に事善無しと雖も、遠劫に或いは有らん。悪強く善弱ければ妙伏して末だ発せず、若し因縁に遇はば発することも亦何ぞ定まらん。是の故に阿鼻の十機を具すことを得べし、即ち麤妙を判ぜば、九界の機を麤と為し、仏界の機を妙と為す」
 この文では、一切衆生は十界の機を本具としているとし、その十界の機について九界を麤、仏界を妙と立て分けるのであるが、これにより、たとえ阿鼻の衆生であっても、内に具する仏界の妙機に、仏が応ずることがありうることを示している。
 「理善」は、生命に本具するものであるから、阿鼻の衆生においても決して断じられてはいないのであり、その意味で、仏が一切の機に応ずることの根底の基盤になるものである。
 次に、明らかには感得しえない「冥応」については、天台大師においては、これこそが真の「妙応」として位置づけられている。すなわち玄義には「末だ法身の応を得ざれば麤、法身の応を得るは妙なるものなり」とある。応身の応ではなく法身の応である故に感得しにくく、だからこそ冥応なのであるが、しかし、見える応身の応よりも見えざる法身の応こそが、仏の応の本質なのである。したがって、法身の応がなければ、いかなる霊端も麤の感応であるとされるのである。またこの法身の応こそが、理善を生ずるに宜しき感応であるといえよう。
三、寿量品の仏と感応妙
 これまで拝察してきたように、本段では、娑婆世界の衆生と寿量品の教主釈尊との関係について次の二点が明かされている。
    ①一切経に説かれる仏の中で、娑婆世界の衆生にとっての本縁の仏は、寿量品の教主釈尊以外にない
    ②娑婆世界の衆生は、寿量品の教主釈尊との間にのみ真の感応道交が成り立つ
 この感応道交について、本段では「有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く」と仰せである。いうまでもなく、この御文の「天月」とは寿量品の教主釈尊の“応”を、「清水」とは娑婆世界の衆生の“感”を譬えられているのであるが、この譬喩は、天台大師が法華玄義巻六において、円教の感応について述べられている次の文の趣旨と一致でるであろう。
 「一月降らず、百水昇らずして、河の短長に随い、器の規矩に任せて、前無く後無く、一時に普く現ずるが如し。此は是れ不思議の妙応なり」
 すなわち、天の一月たる仏が降りるもので、地の百水たる衆生が昇るのでもない。月が河の長短や器の大小等の相違を超えて、すべての水にあまねく影を映すように、一切の機に一時に応ずる不思議の妙応が円教の感応である、としている。
 この玄義の文を踏まえていえば、本抄の「譬えば天月の清水に浮ぶが如く」との譬喩の意義として、次の二点を拝することができる。
 すなわち第一に、一と多の関係、つまり天の一月たる寿量品の教主釈尊と、地の万水たる娑婆世界の一切衆生との感応を示されていると拝される。寿量品の教主釈尊は三世常住の本地仏であるから、一切の機に応じうるのである。それに対して、爾前諸経の諸仏は三身各別の権仏であり、一定の機に対して方便として示現された仏にすぎない。
 第二に、妙機と妙応の関係が示されていると拝される。つまり、この仰せにおける「清水」とは「結縁」があることであるが、衆生の主体的な姿勢においていえば“信心”と拝されるのである。そして、その“信心”という清らかな水に天の一月たる寿量品の仏が明瞭に映るということは、衆生に本具する仏界が顕現するということである。その意味で、ここでは仏界の妙機・妙応が示されていると拝されるのである。そして、この妙機・妙応の感応道交を妨げるのが、麤機・麤応へのととらわれである。その麤機・麤応の代表が当時においては阿弥陀如来だったのであり、それ故、本段では念仏のとらわれを中心的に破折されているのである
 ところで、天台大師は法華玄義巻六上において、感応道交を根本とする仏の化導の具体的な在り方として、身輪・口輪・他心輪の三輪、つまり身・口・意の三業による転法輪を挙げている。身輪は説法の前に瑞相として示されている種々の神通であり、口論は説法そのものであり、他心輪は衆生の心に対する働きかけである。もとより他心輪は神通・説法の結果として現れるのであり、また、神通は説法のための前提でるから、結局、仏の衆生に対する“応”の中心は説法にあるといえる。
 その説法についていえば、釈尊一代の説法の究極が法華経であることは、本抄で既に明らかにされた。したがって、妙機に対する妙応とは、法華経の説法に集約されるのであり、法華経によってのみ真の感応道交が成り立つのである。特に寿量品において、本地仏たる久遠実成の釈尊と在世衆生との感応道交が実現し、衆生は自らの生命のうえに一念三千を覚知したのである。
 本抄の次段以降においては、法華経が末法の衆生を正機とすることが明かされるのであるが、その一つの意味は、法華経という教えを介してのみ、末法の衆生の妙機と本地仏の妙応との感応道交が成り立つということにある。ただし、この場合の法華経とは、日蓮大聖人の法華経の根底に立ち返って明らかにされた事の一念三千の妙法であり、更には、この妙法の流通を法体として建立された三大秘法であることはいうまでもない。

0333:16~0336:01 大段第二 今教所被の時期を明かすtop
0333:16~0334:03 第七 迹門の末法正意を明かすtop
16   問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、 答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より
17 下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に
18 之を読めば滅後の衆生を以て本と為す 在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば 正法一千年像法一千年は傍な
0334
01 り、 末法を以て正と為す末法の中には 日蓮を以て正と為すなり、 問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度
02 後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、 答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖
03 を加うる者」等云云、 問うて曰く自讃は如何、 答えて曰く喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり、
-----―
 問うて言う。法華経は誰のために説かれたのか。
 答えて言う。方便品より人記品第九至るまでの八品に二意がある。上から下に向かってこれを読めば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫説かれたのである。安楽行品第十四、勧持品第十三、提婆達多品第十二、見宝塔品第十一、・法師品第十と逆次にこれを読めば。釈尊滅後の衆生をもって本意としており、釈尊在世の衆生は傍意である。釈尊滅後について傍正を論ずるならば、正法一千年と像法一千年は傍意であり、末法をもって正意とする。末法のなかでは日蓮をもって正意とするのである。 
 問うて言う。その証拠は何か。
 答えて言う。法師品第十の「況んや滅度の後をや」という文がそれである。
 疑って言う。正しく日蓮を正いとする文は何か。
 答えて言う。勧持品第十三に「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん」等とある。
 問うて言う。自讃するのはどうしてか。
 答えて言う。喜び身に余るが故に、耐えきれずに自讃するのである。

迹門の末法正意と身業読誦
 本段は、総じて法華経が末法の衆生のために説かれたことを明かした大段第二の冒頭の個所であり、釈尊在世の声聞のために説かれたように見える迹門正宗分の八品も、釈尊流通分から「逆次」に読めば、末法の衆生、なかんずく日蓮大聖人のために説かれたことになるとされている。
 すなわち、日蓮大聖人こそ、勧持品等の迹門流通分の経文を身で読まれた、末法の法華経の行者であることを示されているのである。また、それにより、本段以降に示される日蓮大聖人の法華経のとらえ方が、法華経の身業読誦を完了された、独自の御境地に基くものであることを示唆されているのである。
 本段は四つの問答からなっており、その第一問答では、法華経迹門が末法の衆生を正機とし、なかんずく日蓮大聖人を正意とすることを示し、後の三つの問答では、法華経の文証を挙げて、身業読誦を完了された日蓮大聖人の御境地を簡潔に示されている。
 ここでは、第一問答に即して、迹門の正意が末法にあるということの意義を、後の三問答に即して、日蓮大聖人の法華経身業読誦の意義を拝察する。
1 迹門の末法正意
 冒頭に「法華経は誰人の為に之を説くや」との問いが設けられているが、これは、本段だけでなく、大段第二全体にかかわる問いである。すなわち、大段第二では、まず
    ①迹門正宗分が、次に、
    ②本門正宗分が誰のために説かれたかを論じ、最後に
    ③多宝証明等の助証・助顕の仏事が誰のためになされたか
 を論じられている。これにより、総じて法華経一経が末法のために説かれたことを明かされているのである。
 また、この問い以後、本抄は問答形式によって展開されていく。そして、それにより、日蓮大聖人御自身の御立場からから、法華経の意義が明かされていく。すなわち、大段第一において中心的なテーマとなった已今当判や三五の二法の意義は、天台大師・妙楽大師等が既に論じたところであったのに対して、大段第二で明かされる法華経の末法正意、また大段第三で開顕される三大秘法は、まさに大聖人独自の法門なのである。
一、迹門正宗分の二意
 本段では、法華経のなかでも迹門正宗分にしぼって、それが誰のために説かれたのかという問答が展開されている。
 この点について次の「二意」があるとされている。
 ①迹門正宗分を方便品から順次、品の「次第」に従って読めば、第一に菩薩、第二に二乗、第三に凡夫の順で、在世の衆生のために説かれた。
 ②迹門流通分より安楽行品第十四・勘持品第十三・提婆達多品第十二・ 見宝搭品第十一・法師品第十と「逆次に読んでいけば、滅後の衆生を正意とし。在世の衆生が傍意であることが分かる。
 そして、②の滅後正意について更に傍正を立て分けると、正像2000年は傍意、末法が正意であり、末法のなかでも日蓮大聖人が正意であるとされている。
 すなわち、迹門正宗分は結局のところ、日蓮大聖人のために説かれたものであるとされているのである。
 このように迹門正宗分の「二意」とは、「次第」に従う読み方と「逆次」の読み方との、二つの異なった読み方に基づいているのであるが、この二つの読み方は、観心本尊抄で次の仰せで「一往」と「再往」の相違が述べられているところと同じである。
 「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す」(0249-10)
 すなわち、「次第」に従う読み方は「一往」の浅義であり、「逆次」の読み方は「再往」の深義を表しているのである。
二、第一菩薩・第二二乗・第三凡夫
 次に、「次第」に従う「一往」の義において、迹門正宗分は「第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫」のために説かれたとされている点について、経文に基づき確認してみたい。
 この仰せは、迹門正宗分の説法に対する衆生の領解の順を示されている。
 まず、“第一菩薩、第二二乗”との次第については、迹門正宗分の最初の品である法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く、菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く、千二百の羅漢、悉く亦当に作仏すべし」とある。すなわち方便品では、十如実相・開三顕一が説かれ、一切衆生の成仏こそ仏の化導の目的であることが明かされたが、菩薩はこれを聞いて既に完全に領解し、いささかの疑いもなくなったとされているのに対して、阿羅漢が、声聞はまだ領解していないことが示されている。
 次に、“第二二乗、第三凡夫”との次第については、法華経譬喩品第三に「世尊是の法を説きたもうに、我等皆随喜す。大智舎利弗、今尊記を受くることを得たり、我等亦是の如く、必ず当に作仏して一切衆生に於いて、最尊にして上有ること無きことを得べし」とある。この文は譬喩品において声聞の舎利弗が領解し、未来作仏の記を授けられたのを見て歓喜した「諸の天子」の言葉であるが、この文の前に「爾の時に四部の衆、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽等の大衆」とあるように、法華経の会座に列した六道の大衆を代表した発言なのである。つまり、上の文の「我等」とは総じて六道の凡夫を指しており、したがって上の文は声聞の領解の後に凡夫の領解があったことを示しているのである。
 以上のことから、迹門正宗分は、領解の次第に従って読めば、第一に菩薩、第二に二乗、第三に凡夫のために説かれたといえるのである
 ところで、先に引用した観心本尊抄の御文では、これら在世の三種の衆生の領解の次第を示されるのではなく、その中の傍正の立て分けを示されている。その個所をもう一度引用すれば、「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す」(0249-10)と仰せであり、また薬王品得意抄にも「方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し 傍には菩薩凡夫の作仏を明かす」(1499-02)と同趣旨の仰せがある。すなわち、在世の衆生の中では、二乗をもって正意とし、菩薩・凡夫を傍意とするのである。
 実際方便品第二から人記品第九までの迹門の正宗分は、二乗の作仏を中心に説法が展開されている。すなわち、方便品第二で爾前未説の十如実相・開三顕一が説かれた後、譬喩品第三では説法周の舎利弗、授記品第六では譬説周の須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞・五百弟子受記品第八では因縁周の富楼那をはじめとする千二百人の声聞、授学無学人記品第九で阿難・羅睺羅をはじめとして二千人の声聞がそれぞれ領解し、仏より未来作仏の記を授けられたのである。このように、迹門正宗分では、明らかに二乗を正意としているといえる。
 それにもかかわらず、本抄で「第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫」と、領解の「次第」に従って迹門正宗分の所被の機を列挙されているのは「上より下に向て次第に之を読めば」と仰せのように、方便品から順に読んでいった場合であるからである。
三、迹門流通分を逆次に読む
 本段では、迹門を「安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師」と「逆次」に読めば、迹門正宗分八品が、末法の日蓮大聖人のために説かれたことが明らかになる。と仰せられている。ここに挙げられている安楽行品第十四以下の五品は、釈尊が滅後に法華経の弘通を勘め、菩薩達が弘経を誓ったことが迹門流通分の諸品である。
 この“逆字に読む”ということについて日寛上人は本抄文段で、「流通分より立ち還って正宗八品を見」ることであるとされている。したがって、この仰せは、一応は在世の衆生のためのように説かれたかのように見える迹門正宗分も、再往、迹門流通分から立ち返って見れば、末法の日蓮大聖人のために説かれたことが明らかになるということである。
 ここでは、この点について経文に即して確認していくことにしたい。
 最初に法華経流通分の五品の概要を、法師品第十から安楽行品第十四へと、品の次第に従って述べれば以下の通りである。
 まず「法師品第十」では釈尊滅後の正しい修行として五種法師が説かれている。五種法師とは、釈尊滅後において法華経を受持・読・誦・解説・書写する人をさす。これらを行ずる人は、過去世において既に菩薩を成就していることであるが、衆生を救うために、あえて悪世に生まれてきた人であるとされ、その優位が次のように説かれている。
 「我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。」
 また同品では、法華経は仏の秘要の蔵を開示している故に、已今当三説の諸経を超える難信難解の経典であるとし、したがって、法華経を滅後の悪世において弘通する人には、必ず釈尊在世を超える大難があることを、「如来の現在すら、猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」と示している。
 つぎに「 見宝搭品第十一」では、宝塔の涌現、多宝の証明、三変土田、二仏並坐の後に、三回にわたって滅後の弘通を勧めている。すなわち開目抄で“三箇の勅宣”と仰せられているものである。
 その第一は、法華経が仏の滅後、娑婆世界に弘通されるべき経であることを述べたものであり、次のようにとかれている。
 「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以って付嘱して在ること有らしめんと欲す」
 第二の勅宣では、釈迦・多宝・十方の諸仏があつまったのも「令法久住」の故であることを述べて、滅後弘通の発誓を勧めている。すなわち「法を久しく住せしめんが、故に此に来至したまえり…我が滅度の後に、誰か能く、斯の経を護持し読誦せん。今仏の前に於いて、自ら誓言を説け」と説かれている。
 第三の勅宣では、「六難九易」をもって滅後弘通がいかに難事であるかを示し、そのうえで「諸の善男子、諦かに思惟せよ。此れは為れ難事ばり、宣しく大願を発すべし」
 「諸の善男子、我が滅後に於いて、誰か能く、此の経を受持し読誦せん。今仏の前に於いて、自ら誓言を説け」と滅後の弘通を勧めている。
 「提婆達多品第十二」では、提婆達多の悪人成仏と竜女の女人成仏が説かれ、釈尊滅後の悪世の凡夫に対する法華経の功徳の甚深なることが明かされている。日蓮大聖人は開目抄で、悪人成仏を“二箇の諌暁”と呼ばれ、法華経によって釈尊滅後の悪世の凡夫を救うべきことを勧めた説法である、とされている。
 「勘持品第十三」では八十万億那由佗の菩薩が滅後弘通の誓いを“二十行の偈”をもて述べられているが、そこにおいて「三類の強敵」による弘経者への迫害の様相が明かされている。詳しくは後述するが、この二十行の偈の内容が、大聖人の値われた法難の様相に一致するのである。   
 最後に「安楽行品第十四」では、滅後の悪世において法華経を弘通する人は、身・口・意・誓願四安楽行、すなわち諸々の悪縁に対して、身・口・意のいずれにおいても動ぜず、確固たる境地に安住すべきこと、また慈悲誓願を根本とすべきことが説かれているが、その中でも、「如来の滅後に、末法の中に於いて」、「後の末世の、法滅せん時に於いて」等と、明確に末法の時を指示していることが注目される。
 さらに同品では、髻中明珠の譬を説いて、法華経は「一切世間に怨多くして信じ難く、先に末だ説かざる所」の仏の秘蔵する最上の法であるが、魔と戦い、三毒を滅し、三界を出でる者のため、今初めて説くのであると述べている。
 以上、品の次第を追って迹門流通分の内容を見てきたが、これを本段の御教示にそって、安楽行品より「逆次」にたどりつつ整理すると次のようになる。
 ①安楽行品第十四では、明確に「末法」の時が示され、その末法における「法華経の行者」のためにこそ、最上の法たる法華経が説かれたことが明かされている。
 ②勘持品第十三では、滅後悪世の法華経弘通者に「三類の強敵」による迫害があることが明かされており、その予言は大聖人の値難の様相と一致する。
 したがって、以上の二品によって、法華経迹門正宗分が「末法」のために説かれたこと、なかんずく、末法の「法華経の行者」たる日蓮大聖人を正意とすることが明らかになる。
 ③提婆達多品第十二では、悪人成仏と女人成仏が説かれている。これを①とあわせて考えれば、法華経が“末法の凡夫”を正義としていることは明白である。
 ④ 見宝搭品第十一一では、三箇の勅宣により釈尊滅後の法華経弘通が勧められている。これを①②とあわせて考えてみれば、この三箇の勅宣は釈尊滅後のなかでも末法の弘通を勧めたものと位置付けられる。
 ⑤法師品第十では「況や滅度の後をや」と、釈尊在世の難よりも滅後の何の方が大きいことが説かれており、その通りに大難に値われた日蓮大聖人を予言したものとなっている。
 以上のように迹門流通分を安楽行品より逆次に読めば、滅後の中でも末法を正意とし、なかんずく、末法の法華経の行者たる日蓮大聖人による弘通を予証していることが、明らかになるのである。
 流通分とは、正宗分に示された教法を流通することの意義や功徳を説いた部分であるから、迹門流通分が末法の日蓮大聖人のために説かれたものとなっているということは、すなわち迹門正宗分自体が、末法の日蓮大聖人のために説かれたといえるのである。
四、本門の義から読む迹門正宗分
 迹門の「逆次」の読み方は、更に深い次元からいえば、法華経本門を根拠とする読み方であると拝される。次に、この点について考察してみたい。
 法華経を読んでみると、釈尊滅後における法華経弘通という問題は、迹門では完結せず、従地涌出品第十五における地涌の菩薩の出現から如来神力品第二十一、嘱累品第二十二の滅後付嘱に至る、本門八品において完結していることが明らかである。なぜならば、迹門流通分は、滅後弘通の難の様相や功徳の大きさなどは説かれていても、誰が滅後に弘通するかという点については、いまだ確定していないからである。滅後の弘通の人が確定するのは、本門の神力品で、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩への結要付嘱がなされることによってである。これにより初めて、滅後の弘通を託する儀式が完結するのである。その意味で、迹門を流通分より「逆次」に読むということは、本門の義から迹門を読むことに通ずると拝されるのである。
 迹門の流通分が本門と関連することは、そこに一貫した流れがあることからも当然であるが、この点を明確にした代表的な釈として、天台大師が法華文句巻八下において、見宝搭品第十一における宝塔湧出の意義として明かしている、「証前」と「起後」の二義を挙げることができよう。「証前」とは宝塔如来が宝塔の中より声を発して、それまでの迹門における三周の説法がすべて真実であると証明したことをいう。「起後」とは、法華文句に「後を起こすとは、若し塔を開せんと欲せば、須らく分身を集め、玄を明かして付嘱すべし。声は下方に徹して、本の弟子を召して寿量を論ず」とあるごとく、宝塔涌出が、上行菩薩の本化地涌の菩薩を召し出して、本門寿量品が説かれる機縁となっていることをいう。このことは、宝塔品以後は、迹門の流通分に属しているけれども、本門と深く関連していることをいうことである。
 天台大師はこの点について、法華経の文の流れにそって明かしたのであるが、日蓮大聖人は、神力品において付嘱を受けた上行菩薩の再誕として御自身のうえから明かされていく。すなわち、本段においては、迹門の逆次の読み方として、また、本抄後段においては本門正宗分の一品二半の独自の配立として、明確に示されていくのである。
 今、法華経の滅後における弘通という問題が迹門では完結せず本門で完結する、という点について、経文に即して確認してみることにしたい。
 前述のように 見宝搭品第十一では、三箇の勅宣により滅後の弘通が勧められているが、その第一の勅宣において「如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以って付嘱して在ること有らしめんと欲す」と説かれ、いままさに滅後のために「付嘱」の時が至ったことが明かされている。しかし、この「付嘱」は迹門においてはなされず、本門の神力・嘱累の二品においてなされているのである。
 すなわち、勘持品第十三では、八十万億那由佗の菩薩が宝塔品の三箇の勅宣を受けて、「仏の滅度の後の、恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし」、「是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん、我身命を愛せず、但無上道を惜しむ、我等来世に於いて、仏の諸嘱を護持せん」等と滅後弘通の誓願を立てた。また従地涌出品第十五の冒頭でも八恒河沙の数に過ぎたる他方の菩薩が、滅後の弘経の許しを願っている。
 しかし、これら迹化・他方の菩薩衆の滅後弘通の発誓に対し、釈尊は涌出品において「止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止したうえで「所以は何ん。我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に、各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」と述べている。これは、自らの本眷属の菩薩こそ、滅後弘通の大任に堪える人々であることを明かしたのである。
 そして、この言葉と同時に無量の大菩薩が大地の下方より湧出した。いわゆる本化地涌の菩薩である。これを見て、弥勒菩薩をはじめとする迹化の菩薩衆より、これらの菩薩は誰の弟子で、いかなる法を行じた人なのかという問いが発せられる。釈尊はこの問いにたいして「我久遠より来是れ等の衆を教化せり」と答え、釈尊の成道が久遠の昔であることを略して明かすのである。
 この言葉は仏の始成正覚に対する会座の大衆の執着を動かし、疑問を生ぜしめた。この疑いを晴らすため、釈尊は如来寿量品第十六において詳しく久遠五百塵点劫の成道を説き、久遠の本地を明らかにしたのであった。これにより地涌の菩薩は釈尊の久遠の本地における弟子であり、久遠の妙法を所持する大菩薩であることが明らかになったのである。
 また、分別功徳品第十七の後半以降の本門流通分では、寿量品に明かされた久遠本地の妙法を、釈尊滅後において受持する功徳や、その弘通の方軌が説かれる。そしてその後に、如来神力品第二十一に至って、別して上行菩薩を上首とする地涌の菩薩に対する別付嘱がなされた。嘱累品第二十二では総じて、一切の菩薩に対する総付嘱が行われるのである。
 以上のように、宝塔品より始まり神力・嘱累の二品の付嘱で終わる虚空会の儀式は、地涌の菩薩に対して滅後の弘通を付嘱するための儀式といえるのであり、その付嘱の法体である久遠本地の妙法は寿量品に開顕されるのである。
 したがって、 見宝搭品第十一から嘱累品第二十二に至る十二品は、滅後弘通の「付嘱」を一貫したテーマとしているのであるが、なかでも涌出品以後の本門では、
   ①付嘱の法
   ②付嘱される法
 が明確にされたのであり、これにより、滅後弘通という問題が完結を見たということができるのである。このことを日蓮大聖人は「宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・嘱累に事極まりて候」と仰せである。
 以上のことから、迹門流通分の品々も、すべて、本門において滅後弘通の大法を付嘱された本化地涌の菩薩のために説かれたといえるであろう。したがって、本門神力品において付嘱を受けた地涌の菩薩、なかんずく、その上首である上行菩薩としての御立場にして初めて、本門の立場から迹門をとらえて直すことが可能であり、更に迹門流通分に予言された難を悉く受けられたからこそ、迹門を流通分から逆次に読まれることが可能であったといえよう。
 故に、迹門正宗分が末法を正意とするといっても、日蓮大聖人が迹門を末法において広めということでは決してない。この点について日寛上人は本抄文段において次のように仰せである。
 「故に知んぬ、迹門は若し在世に望むればこれ正意なりと雖も、若し本門に望むれは乃これ傍意なること、これ傍意なりと雖も、而も文底を助顕するの功あり。故に在世及び正像に望みて『末法の中には日蓮を以て正と為す』と判ずるなり」
 すなわち、迹門は在世の衆生と比較していえば末法の衆生、なかんずく日蓮大聖人のために説かれたのであるが、法のうえで本門と迹門を並べれば、あくまでも本門が正であり迹門は傍である。しかし、迹門は傍といっても、文底の妙法を助顕する功があるのであり、それ故、大聖人は本抄において、在世や正法・像法の衆生に対比して、迹門も末法の日蓮をもって正意とすると仰せられたのである。
2 身業読誦と完了と三大秘法の顕説
 法華取要抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪を御赦免になり、身延に入山された直後に執筆された御書である。大聖人御一代の御化導において、佐渡流罪の御赦免は“身業読誦の完了”という重要な意義をもっていたと拝される。
 すなわち文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難を経て、いよいよ末法の御本仏としての内証を明らかにされることになり、これをもって大聖人の御化導はいわば“正宗分”に入られたのであるが、佐渡期においてはまだ条件が整っていなかったため、正宗分の内容である三大秘法については、観心本尊抄等で密示されるにとだまっていたのである。いわば佐渡期は三大秘法開顕の準備期にあたり「正宗分の初め」と位置つけられる。そして、文永11年(1274)の御赦免をもって大聖人の御化導は新しい段階に入るのであり、御赦免直後に認められた法華取要抄において、初めて三大秘法が体系的に顕現されたのである。
 本段は、法華経迹門が末法を正意とすることを明かされている段であるが、当時に、身業読誦を完了された大聖人の御境涯を明かされている段でるとも拝される。すなわち本段では、大聖人が身読された勧持品の経文を引用されたうえで、御心境の一端を次のように示されている。
 「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり」
 ここに「喜び身に余る」と仰せであるが、大聖人は諸抄において、竜の口の法難・佐渡流罪の過程での同様の御心境を、しばしば吐露されている。例えば、竜の口の法難の際における御心境については、「左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし」(0913-18)と示されている。また、佐渡在島中の御心境は例えば以下の諸文に拝される。
 「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(0203-06)
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(0237-11)
 「亦一たびは喜んで云く 何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや」(0505-03)
 「此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし」(1360-17)
 これらの御文は、日蓮大聖人ただ御一人が、法華経の経文に符合する末法の法華経の行者であられることの「悦び」「喜悦」を示されているのである。
 「身業読誦」とは、次の仰せに拝されるように、単に声をあげて読むものでも、また、単に心で読むことでもなく、法華経を身をもって読むことである。
 「法華経は紙付に音をあげて・よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か」(1001-02)
 「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(1213-03)
 このように身業読誦とは即ち色心二法により読誦、あるいは身・口・意の三業すべてによる読誦であり、言い換えれば、法華経に説かれた通りに振る舞う。またその通りの姿になるということである。
 したがって、身業読誦の根本にるものは法華経に説かれた通りの不惜身命の実践ということにある。この点について、例えば佐渡御勘義抄では次のように仰せである。
 「仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし、天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頚をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく仏法のゆへなり、日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや」(0891-02)
 故に大聖人は、御自身以外の不惜身命の実践者に対しても「法華経の行者」の称を用いられている。
 しかし、大聖人御一人にのみ、当てはめる身業読誦の意義がある。それは、大聖人が法華経如来神力品において滅後弘通を付嘱された、上行菩薩の再誕であることを証すための身業読誦であり、したがってまた、上行菩薩が所持しているはずの久遠本地の妙法を、大聖人の御一身に具有されていることを証明するための身業読誦なのである。
 以上のことを踏まえたうえで、大聖人の値難の様相と、末法の法華経の行者の値難の様相についての経文の予言との一致することを、まず確認してみることにしたい。
 勧持品二十行の偈では、釈尊滅後における法華経の行者の値難の様相が、具体的に示されており、妙楽大師は法華文句記巻八の四において、これを“三類の強敵”すなわち俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢の三種類の敵対による迫害として釈した。
 第一類の俗衆増上慢について、法華経勘持品第十三には「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん」とある。すなわち仏法に無智な在俗の衆による迫害である。小松原で襲撃を加えた東条景信、竜の口の法難・佐渡流罪に処した平左衛門尉頼綱等がこれに当たるといえよう。
 第二類の道門増上慢については、勧持品には「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、末だ得ざるを為れ得たると謂い、我慢の心充満せん」とある。これは、邪智により法華経を行ずる人を蔑む邪師達を指す。涅槃経第九にも、如来滅後においてこのような悪比丘が存在することを、「是の時に当に諸の悪比丘有るべし。…経典を読誦すと雖も、如来の深密要義を滅除して」と指摘している。大聖人は開目抄において、このような邪智の悪比丘の代表として浄土宗の法然を挙げられている。
 第三類の僭聖増上慢については、勧持品に以下のように説かれている。
 同品ではまず、僭聖増上慢の姿について「或は阿練若に、納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貧著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるることを為ること、六通の羅漢の如くならん」と明かしている。すなわち、人里離れたところに法衣をまとって籠り、自らは真の仏道を行じていると思って、世間の人々を軽んじているが、その本質は名聞名利を貪ることにあるとしている。ちなみに僭聖の「僭」とは身分不相応に傲ることを意味し、したがって「僭聖」とは聖人ではないのに「聖人」であると傲ることである。
 大聖人は開目抄において、大般泥恒経巻六の「阿羅漢に似たる一闡提有って悪業を行ず」の文、あるいは妙楽大師の法華文句記巻八の四の「第三最も甚だし、後後の者は転識きを以ての故に」の文などを引用して僭聖増上慢の特質をより明らかにされている。
 すなわち大般泥恒経の文は、仏弟子に似てその実は謗法・不信の一闡提であるということであり、また法華文句記の文は、第一の俗衆より第二の道門が、第二の道門より第三の僭聖が恐るべき仏法の敵対者である、ということが見分け難いことを示す文として引用されていると拝される。そして開目抄では、このような僭聖増上慢にあたる者として具体的に、鎌倉極楽寺の良観と京都東福寺の聖一の名を挙げられている。
 いずれも戒律を持した聖僧として当時の人々から仰がれ、権力者から厚い庇護を受けた僧侶である。外面は立派な聖僧を装っているだけに、これを悪僧と見抜くことが難しいのである。
 勧持品では更に、僭聖増上慢による法華経の行者への迫害の相を「常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王大臣、婆羅門居士、及び余の比丘衆に向って、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」と説いている。すなわち僭聖増上慢は、大衆の中に法華経の行者への誹謗中傷を広めるために、国王・大臣等の権力者に法華行者の悪口を吹き込み、そうした権力を動かそうとする。その意味で権力を利用するところに僭聖増上慢による迫害の特色があり、それ故、この文についての智度法師の東春巻五では「公処に向かって法を毀り人を謗ずる」と釈している。
 開目抄において「今末法の始には良観・念阿等偽書を注して将軍家にささぐ・あに三類の怨敵にあらずや」(0229-08)と仰せのように、まさしく、大聖人に対する幕府の弾圧は良観等の讒奏に起因するものであった。
 また三類の強敵による迫害の相を総括的に述べた次の文は、末法の法華経の行者が一度ならず流罪されることが予想される。
 「濁世の悪比丘は、仏の方便、随宣所説の法を知らずして、悪口して顰蹙し、数数擯出せられ塔寺を遠離せん」
 この文に見られる「数数見擯出」の一句は、大聖人の二度の流罪と一致するものであり、その意味で、大聖人こそが経文に予言された末法の法華経の行者たることを、最も明確にする経文といえる。故に、日蓮大聖人は開目抄で「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-17)と仰せである。
 以上のように大聖人に対する迫害の相および迫害者の姿は、勧持品の二十行の偈にとかれていることに見事に一致している。そして、勧持品二十行の偈と日蓮大聖人の値難の様相とが合致していることにより、大聖人こそが法華経に予言された末法の法華経の行者であることが明白になるのである。
 さて、大聖人の値難と様相の経文との符合は、大聖人が法華経を身をもって読まれたことを意味するのであるが、この法華経身読の更に深い意義は、神力品において上行菩薩に付嘱された要法を、大聖人が、その一身の当体に具有されているという点であると拝される。この点を経文に基づいて確認してみたい。
 まず、勧持品二十行の偈には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ。我等来世に於いて、仏の所嘱を護持せん」と説かれている。すなわち、法華経の行者が三類の強敵による迫害に耐えるのは、仏から付嘱された要法を、身命も惜しまず護持するためであるとされている。
 また法華経法師品第十の「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」の文において、滅後に在世以上の難があるとされる所以は、弘通する法が難信難解の「諸仏の秘要の蔵」だからである。故に、この文について、天台大師は法華経巻八上で「『如来在世猶多怨嫉』とは四十余年に即ち説くことを得ず。今説かんと欲すと雖も、而も五千は尋で即ち座を退く。仏世猶爾り。何に況や未来をや。理は化し難きに在るなり」と釈し、これを受けて妙楽大師は法華文句記巻八の三において、「此の理を明かすことは、意、衆生の化し難きことを知らしむるに在り」と釈している。また智度法師の東春巻五の次の下の文にも同様の釈が見られる。
 「此の経は五乗の異執を拝して、一極の玄宗を立つ。故に凡を斥け聖を訶し、大を排い小を破り、天魔を銘づけて毒虫と為し外道を説いて悪鬼と為し、執小を貶して貧賤と為し菩薩を挫いて新学と為す。故に天魔は聞くを悪み外道は耳に逆い、二乗は驚怪し菩薩は怯行す。此くの如き徒、悉く留難を為す。『多怨嫉』の言、豈虚しからんや」
 要するに、法華経は随自意・難信難解の極理であるから、在世ですら易信易解の爾前経に執着する者による怨嫉が多く、まして滅後においては衆生の機根は更に悪くなるので、法華弘通は更に大きい難が起きるのである。
 更に法華経 見宝搭品第十一の「六難九易」の文にも同様のことが説かれている。例えば「若し有頂に立って、衆の為に、無量の余経を演説せんも、亦末だ難しと為ず。若し仏の滅後に、悪世の中に於いて、能く此の経をかん。是れ則ち難しとす」とある。また法華経安楽行品第十四の「一切衆生に怨多くして信じ難く」との文も、既に述べたように、法華経が末説の最上の法である故に難信であり、したがって末法におけるその弘通にあっては、難が多いことを示している。
 以上に挙げた法師品・宝塔品・安楽行品の諸文が、大聖人の末法弘通を予証する文であることは前項で述べた通りであるが、これらの文は等しく、法華経が仏の随自意・難信難解の要法である点を、滅後弘通の多難である理由として挙げているのである。したがって、大聖人が、これらの経文通りに難を受けたということは、随自意・難信難解の要法を弘通されていることを意味するのである。
 三大秘法を顕説されることを目的とした本抄において、法華経迹門も末法の日蓮大聖人のために説かれたことを明かされている所以も、ここにあると拝される。すなわち、迹門流通分に予証された通りに大聖人が難を受けたということは、迹門で一往、理の辺から説かれ、本門では再往、事のうえで説かれた仏の随自意の要法を大聖人が所持され、弘通されているということであり、その要法こそが、大聖人の滅後のために建立されている三大秘法なのである。
 この意味で大聖人は、御自身の御立場を「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284-08)「我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なり」(0289-06)「教主釈尊より大事なる行者」(0363-01)等と示されているのである。また、御義口伝では「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)と、三大秘法の本尊は、法華経の行者たる御自身の当体であることを明かされている。
 したがって、本段では、単に迹門が末法を正意とすることを明かれているのではなく、それを通して、本迹二門の更に奥底にある三大秘法を開顕される。大聖人御自身の御立場を示唆されている御文として拝されるのである。

0334:03~0334:06 第八 本門の二意を略示するtop
03                                                   問う
04 て曰く本門の心如何、 答えて曰く本門に於て二の心有り一には涌出品の略開近顕遠は 前四味並に迹門の諸衆をし
05 て脱せしめんが為なり、 二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近
06 顕遠と名く一向に滅後の為なり、
-----―
 問うて言う。本門の意はいかなるものか。
 答えて云う。本門には二意がある。一には涌出品の略開近顕遠は前四味、並びに迹門の諸衆を得脱せしめるために説かれたのであり。二には涌出品の動執生疑以下の半品、並びに寿量品と分別功徳品の前の半品、以上の一品二半を広開近顕遠と名付ける、これはひとえに釈尊滅後のために説かれたのである。

本門と末法正意と内証の寿量品
 これより、第八段を拝読するが、そのまえに、第八段から第十一段につらなる「本門と末法正意と内証の寿量品」について、各段の考察の概略を述べる。
 第八段。法華経本門が誰のために説かれたかという点について、第一に、在世の衆生を得脱させるために湧出品の略開近顕遠が説かれ、第二に、滅後の衆生のために広開近顕遠の一品二半が説かれたと、二意を挙げられている。
 大聖人がここで本門正宗分の一品二半とされている配立は、湧出品の略開近顕遠の個所が除かれており、その点で天台大師の一品二半と相違している。この段では、大聖人が一品二半の独自の配立を明かされたてんについて、その深意を拝察していく。
 第九段。前段で示された第一の意について、更に深く明かされており、人・天・二乗・菩薩を問わず、在世のすべての衆生は本門の略開近顕遠によって初めて得脱したとされている。既に略開近顕遠によって在世の衆生は得脱したのであるから、その後に説かれた広開近顕遠の一品二半は、専ら滅後の衆生のために説かれたことになるのである。
 また、この段では、略開近顕遠によって、在世の衆生が「妙覚の位」に入るとされているが、この点に関連して本段では、文底の立場から見た在世の衆生の得脱の意義を考察する。
 第十段。第八段で示された第二の意について更に詳しく論じられている。すなわち広開近顕遠の一品二半は釈尊滅後のなかでも、末法の日蓮大聖人のために説かれたとされ、それを経文の詳細な引用によって証明されている。また、これによって、日蓮大聖人が弘通される南無妙法蓮華経が、末法の衆生を救済する「第一の良薬」であることが明らかにされている。
 本段では南無妙法蓮華経が「第一の良薬」とされる所以について、法と時機の二つの観点から考察する。
 なお第十段では広開近顕遠の一品二半について「広開近顕遠の寿量品」「寿量品の一品二半」と、寿量品に焦点を当てた表現を採られているが、これは明らかに、観心本尊抄において示された文底下種三段の正宗分たる「内証の寿量品」の意にあたると拝される。
 第11段。多宝の証明・十方諸仏の舌相・地涌の菩薩の法華経における重要な仏事も、また、末法のために説かれたことを示されている。これは法華経における釈尊の説法だけでなく、それに伴う諸々の仏事も、末法のためになされたことを示されているのであり、これにより、総じて法華経一経が末法のための経であることを強調されていると拝される。
1 一品二半の配立の相違
一、配立の相違

 まず、問いの文に「本門の心」と仰せであるが、この「心」とは“仏意”の意であると拝される。すなわち、大段第二の冒頭に「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや」との問いが設けられており、これを受けて本段では、法華経のなかでも特に本門が誰のために説かれたのか、ということを問われているのであるが、この意味での“仏意”つまり“仏が本門を説いた意図”を「本門の心」とおおせられていると拝されるのである。
 本段では、その「本門の心」に「二の心」があるとして、湧出品に説かれた略開近顕遠と一品二半に説かれた広開近顕遠を挙げ、前者は在世の衆生のために説かれ、後者は専ら滅後のために説かれたとされている。
 この本門の二意は、大聖人独自の解釈であり、それまで一般に通用していた天台大師の解釈には見られないものである。大聖人の解釈の相違点を挙げれば以下の通りである。
 第一に、天台大師が略開近顕遠と広開近顕遠を、在世衆生に対する一連の説法として解釈しているのに対して、大聖人は略開近顕遠は在世衆生の得脱のため、広開近顕遠は滅後のためと明確に立て分けられている。
 第二に本門正宗分の一品二半の配立が相違する。
 すなわち、天台大師は湧出品の前半品を本門の序分として、略開近顕遠・動執生疑が説かれている湧出品の後半品、在世衆生の断疑生信のために広開近顕遠を説いた寿量品、および寿量品を聞いた衆生に総じて得脱の記を授けた、分別功徳品の前半品の一品二半をもって正宗分とし、分別功徳品の後半以下を流通とする。これに対して大聖人は、湧出品の略開近顕遠を正宗分の一品二半から除き、動執生疑以下の半品、寿量品、分別功徳品の前半品をもって広開近顕遠の一品二半とされている。したがって、両者の配立の相違点を要約していえば次の二点である。
 ①天台大師の配立では、湧出品の略開近顕遠が一品二半に含められていたが、大聖人の配立では略開近顕遠は一品二半から除外された。
 ②天台大師の配立では、湧出品の動執生疑の部分は広開近顕遠に位置付けられていないが、大聖人の配立では、動執生疑の部分は広開近顕遠にふくめられている。
 天台大師の一品二半には略・広の開近顕遠が含められているのに対して、大聖人の一品二半は全体が広開近顕遠であるから、日寛上人は前者を「略広開顕の一品二半」、後者を「広開近顕遠の一品二半」と呼ばれ、良者の相違を名称のうえで明らかにされている。
二、大聖人の配立の根拠
 次に大聖人の一品二半の配立が、経の説き方のうえから見ても、道理に適った根拠をもっていることを明らかにしたい。
 最初に広・略の開近顕遠や動執生疑等の一品二半の配立の問題に関連する法華経の内容について説明を加えておく。
 まず「開近顕遠」とは、釈尊の近成を開いて久遠の成道を顕すことであり、湧出品ではこれを略して明らかにしたので略開近顕遠といい、寿量品では詳しく明かしたので広開近顕遠という。
 すなわち、従地涌出品第十五では弥勒菩薩が、大地の下方より出現した地涌の菩薩と釈尊の因縁を問うが、この質問に答えて釈尊が「我久遠より来、是れ等の衆を教化せり」と述べ、地涌の菩薩は釈尊の久遠以来の弟子であることを明かした。これにより、釈尊の成道が久遠に遡ることが暗に示されたので、この説法を「略開近顕遠」というのである。
 また、この略開近顕遠を開いて、法華経の会座の大衆は始成正覚に対する執着が揺らぎ、疑いが生ずる。これが「動執生疑」である。そこで弥勒菩薩が大衆を代表して疑いを述べたうえで、自分達の疑いを除くために、また未来のために、久遠の成道について更に詳しく説いてほしいと釈尊に請い、これをもって湧出品が終わる。
 この弥勒疑請に応えて説かれたのが、如来寿量品第十六の「広開近顕遠」である。すなわち同品では「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」等と説かれ、明確に始成正覚の人々への執着を破り、五百塵点劫の久遠における釈尊の成道が明かされ、久遠以来の長遠の仏寿について、種々の意義が明らかにされたのであった。その内容については既に前々章で詳しく述べた通りである。
 そして分別功徳品第十七の前半では、寿量品の説法を聞いた衆生に得脱の記が授けられ、最後に弥勒菩薩が領解を述べる。ここまでを一品二半とするのである。
 さて、大聖人が、天台大師と異なる独自の一品二半の配立を立てられた根拠として注目されるのは、寿量品が説かれる直接的な契機となったのが湧出品の弥勒疑晴である。なぜならば、弥勒疑晴の文から、寿量品の「広開近顕遠」が誰のために説かれたかが明らかになるからである。その弥勒疑請の関連文を以下に引用する。
 我等は復、仏の随喜宣の所説、仏の所出の言、末だ曾て虚妄ならず。仏の所知は皆悉く通達し給えりと信ずと雖も、然も諸の新発位の菩薩、仏の滅後に於いて、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起さん。唯然なり世尊、願わくは為に解脱し、我等が疑いを除きたまえ、及び未来世の善男子、此の事を聞き已りなば、亦疑いを生ぜじ」
 ここで弥勒菩薩は、自分達は仏語を信ずるが、釈尊滅後の求道者は疑いを起して法を破るかもいれない。との危惧を述べたうえで、一つには自分達の疑いを除くために、もう一つは未来の求道者が疑いを起さないようにするために、法を説いてほしいと講うている。したがってこの弥勒疑晴の文からは、これに応えて説かれた寿量品の「広開近顕遠」が、在世の衆生のために説かれたことも、釈尊滅後の衆生のためにとかれたことも可能であり、一応は両意が並び立つといえる。
 だが、あくまでも重点は滅後の方に置かれていることは明らかである。それは、弥勒菩薩が偈頌において、重ねて次のように述べていることで一層明らかとなる。
 「我等は仏に従って聞きたてまつれば、此の事に於いて疑い無し、願わくは未来の為に、演説して開解せしめたまえ、若し此の経に於いて、疑いを生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし、願わくは今為に解説したまえ」
 この文に即して考えるならば、弥勒菩薩は専ら、仏滅後の衆生が疑いを起して悪道に堕ちるのを防ぐために、更に詳しく説いてほしいと要請しているのである。更には、この文では、弥勒菩薩等の在世衆生は釈尊の説法を既に領解していたとすら解せられる。
 したがって、日寛上人は観心本尊抄文段にいて、「寿量品に両辺あり。文上は在世脱益の為、文底は末法下種の為なり。然るに蓮祖、弥勒の疑請の文意に准じて、文上の辺を退いて湧出品の略開近顕遠に属し、即ち在世脱益と為とするなり。既に文上の辺を退いて略開に属し、在世脱益の為とす。故に寿量品は一向に滅後末法の為と成るなり。これ則ち弥勒の疑晴の文意に依る。故に天台・蓮祖・各一義に拠るなり」と述べられている。すなわち、大聖人は、滅後に重点を置く弥勒菩薩の文意に拠って、寿量品における在世脱益のための文上の辺を、寿量品から退けて湧出品の略開近顕遠に属させ、この略開近顕遠をもって在世衆生の得脱のための説法とされたのである。
 また、これにより、寿量品には末法下種のための文底の辺のみが残るから、寿量品は一向に滅後末法のためとなるとされている。
 また、この日寛上人の仰せにおける「天台・蓮祖・各一義に拠るなり」とは、先に述べたように弥勒疑請の文には、在世衆生のためと滅後のためという二義が示されており、天台大師と大聖人はそれぞれそのうちの一義に拠って、在世衆生を中心とする一品二半、滅後末法を中心とする一品二半の配当を立てた、との意である。
 これによって日寛上人は、在世衆生を中心とする天台大師の解釈のみが正当なのではなく、滅後に焦点をあてた大聖人の解釈も、法華経の文意に基づく正当な解釈であることを示されていると拝される。
 天台大師は、略開近顕遠による動執生疑→広開近顕遠による断疑生信→得脱の授記という次第で一品二半を解釈しており、本門正宗分を、在世衆生が得脱する過程として理解していることは明らかである。
 これに対して大聖人においては、滅後に焦点を当てられている故に、湧出品の略開近顕遠を在世得益のためとされて、略開近顕遠を末法のため一品二半をのぞかれたのである。そして、これにより、大聖人所立の一品二半においては、略開近顕遠による動執生疑とか広開近顕遠による断疑生信というような、在世衆生中心の意義付けは意味がなくなるとともに、動執生疑の文は略開近顕遠に属する文ではなく広開近顕遠が説き起こされる契機となった文として意義付けられるのである。
 以上のことから、一品二半に関する大聖人と天台大師の相違は、単なる配立の相違にとどまるものでないことは、おのずと明らかであろう。日寛上人は観心本尊抄文段において、両者の一品二半の相違については、
   ① 配立の不同
   ② 脱益の不同
   ③ 異名不同
 の三種があることを示されている。
 このうち①の「配立の不同」については既に述べた。②の「脱益の不同」とは、天台大師配立の一品二半は、在世衆生の脱益のための一品二半であり、大聖人配立の一品二半とは、末法の下種のための一品二半であるという相違である。③の「異名不同」とは、天台大師配立の一品二半の異名としては「略開近顕の一品二半」「在世の本門」等が、大聖人配立の一品二半の異名としては「広開近顕遠の一品二半」「末法の本門」「文底下種の本因妙」等が挙げられることをいう。
 この三つのうち「種脱の不同」は義のうえでの相違を示すものであり、「異名不同」は義の相違を、種々の観点から名称の相違を示したものであり、そして「配立の不同」は、義の相違から帰結する本門正宗分の立て分けの相違である。つまり、大聖人が天台大師と異なる一品二半の配立を明かされたのは、種脱相対の観点から、本門正宗分についての、より深いとらえ方を示されているのである。次に、この点について、観心本尊抄で明らかにされた「五重三段」に即して考察してみたい。
2 文底下種三段と一品二半
一、五重三段

 観心本尊抄では、本門の本尊が末法衆生のために開顕されることの経文上の証拠を、「五重三段」によって明かされている。この「五重三段」によって見たとき、天台大師所立の一品二半が本門脱益の正宗分であるのに対し、大聖人所立の一品二半は、文底下種三段の正宗分として位置付けられ、両者の相違が明確になるのである。
 「五重三段」とは、釈尊一代諸経を教法の浅深により五つの段階に分け、それぞれについて序分・正宗分・流通分の三段を立て分けて、一代諸経の肝要を明らかにしていく教判である。
    ①序分とは、正意とする教法を説くための準備段階となる部分である。
    ②正宗分とは、まさしく本意とし目的とする教法を説示した部分である。
    ③流通分とは、正宗分の教えを流布し、衆生を利益することを目的とする部分である。
 経典を序分・正宗分・流通分に分けて解釈する方法は、中国・東晋の道安法師によって始められたと伝えられているが、その真偽は今のところ定かではない。また6世紀に中国によって伝えられた親光菩薩の仏地経論には、教起因縁分、聖教所説分、依教奉行分という立て分けが見られ、ほぼ序・正・流通に相当する。いずれにしても中国では、天台大師以前に既に、この経典解釈の方法が知られていたことは確かである。
 天台大師は法華文句巻三上において、法華経序品第一の「初善・中善・後善」を、頓教の序・正・流通にあたると解釈している。また同じく文句巻一上では、法華経における正・序・流通の特色について、序分は正直に方便を捨て、ただ無上仏道を説くための序であり、正宗分は正しく仏の一切種智を説き明かすのであり、流通分は専ら円満の教法をもって、遠く後の五百歳まで妙道に沾わすためのものである、としている。
 この序・正宗・流通の立て分けを、日蓮大聖人は「五重三段」において、単に一経典の分科のためではなく、釈尊の一代諸経における究極の正説を選び取るために、そしてそれが、在世・滅後のいずれを正意として明かされたかを示すために用いられたのである。したがって、その適用範囲は広く一代聖教全体に及ぶのである。すなわち、次の五段階において序・正宗・流通の立て分けが適用されている。
    ①一代三段
    ②一経三段
    ③迹門熟益三段
    ④本門脱益三段
    ⑤文底下種三段
 ①「一代三段」は釈尊の一代諸経全体を一経と見て序・正・流通の三段に分けるものである。華厳経より般若経に至る爾前諸経を序分とし、法華経の開経たる無量義経一巻、法華経八巻、結経である普賢経一巻を正宗分とし、涅槃経を流通分とするのである。
 ②「一経三段」とは、一代三段の正宗分である法華経ならびに開結二経の十巻について、更に序・正・流通を立て分けるものである。開経の無量義経を本経序品第一とを序分とし、法華経方便品第二から分別功徳品第十七の前半品に至る十五品半を正宗分とし、分別功徳品第十七の後半品より後半より法華経の最後までの十一品半と結経の普賢経を流通分とする。
 日寛上人は観心本尊抄文段において、以上の①一代三段、②一経三段の二つを「総の三段」残りの③迹門熟益三段、④本門脱益三段、⑤文底下種三段を「別の三段」と立て分けられ、その違いを次のように示されている。
 「凡そ総の三段は別の三段を顕わさんが為なり。故に一往と名づくるなり。別の三段は正しく本尊を明かす、故に再往というなり」
 すなわち、「総の三段」である①一代三段と②一経三段は、「別の三段」を明かすために一往立てられたものであり、正しく本尊が明かされているのは、「別の三段」たる③迹門熟益三段、④本門脱益三段、⑤文底下種三段である。
 そこで次に、「別の三段」について大聖人の御教示を拝してみたい。
 ③「迹門熟益三段」は、法華経迹門十四品を一経と見て序・正・流通を立て分けるべきであり、無量義経と法華経序品第一を序分とし、方便品第二より授学無学人記品第九までの八品を正宗分とし、法師品第十より安楽行品第十四の五品を流通分とする。
 この「迹門熟益三段」の特徴として、大聖人は観心本尊抄において次の諸点を示されている。
 (1)能説の教主は始成正覚の仏。
 (2)所説の法体は百界千如であり已今当の三説に対していえば随自意・難信難解の正法といえるが、本門の法体と対していえば本無今有の法である。
 (3)所被の衆生については、まず、三千塵点劫の過去の大通覆講のとき下種され、今日の前四味を縁として、法華に至って大通下種の種子を覚知した迹門の当機衆を挙げられている。また、この八品を初めて聞いて結縁した衆生については、法華経で熟し脱するまでに至った者、普賢・涅槃経で脱する者、滅後正像末に小乗・権大乗を縁として法華に入る者等がある。とされている。
 ④「本門脱益三段」は、法華経本門十四品について序・正・流通を立てるものであり、先に述べた天台大師所立の「略開近顕遠の一品二半」はこの正宗分にあたる。すなわち湧出品の前半部を序分とし、同品後半の略開近顕遠・動執生疑の部分と寿量品全部と分別功徳品の前半を正宗分とし、分別功徳品の後半以降を流通分とされている。その特徴については以下のように示されている。
 (1)能説の教主は始成正覚の釈尊ではなく、久遠実成の教主釈尊である。
 (2)所説の法体は、十界の常住と国土世間の常住によって開顕された、本有常住の一念三千である。これは、迹門の本無今有の百界千如とは天地の相違があり、一代諸経の中では真の随自意・難信難解の正法といえる。しかし、文底の法体との対比でいえば、本迹二門の法体は竹膜を隔つ程度のごくわずかな差といえる。
 (3)所被の衆生については、迹門に準ずるので略されている。
 ここで③迹門熟益三段と④本門脱益三段をまとめると、次項述べる⑤「文底下種三段」が述べられるなかで、特に当機衆に関する化導の始終については、迹門の場合ここで、のとらえ方が異なることを示されている。すなわち、法華経の当機衆である二乗・凡夫も実は、三千塵点劫の過去の大通覆講の時ではなく、五百塵点劫の久遠において下種されたのであり、それ以降、今日の本門に至るまでの中間の化導において熟され、本門に至って等覚・妙覚に登り解脱したとされている。
 つまり、大通覆講や今日の迹門は、中間の脱益の化導に含められるのであり、法華経の当機衆は、久遠下種の法体を本門において覚知し、得脱したとされているのである。
 以上の③迹門熟益三段と④本門脱益三段が示しているのは、迹門正宗分の八品は、在世の衆生に対する熟益の化導のためであり、本門正宗分の一品二半によって、在世の衆生が得脱したということである。所詮、在世衆生が成仏するために覚知すべき久遠下種の法体とその教主は、本門一品二半において開顕されたのであり、その意味で在世衆生が根本として尊敬すべき法と仏の開顕、すなわち本尊の開顕は、本門の一品二半においてなされていたのである。
 しかし、本門脱益三段の正宗分における本門の開顕は、爾前・迹門の熟益の化導を経た在世衆生を得脱させるためのものであって、滅後に流通さるべき法体を明かしたものではない。言い換えれば、熟益を前提とした脱益の本尊、すなわち熟脱の本尊を開顕したのが本門脱益三段の正宗分であり、そうした熟脱の化導を受けてきていない滅後の衆生のための下種の本尊は、いまだ明かされていないのである。その下種の本尊の説処を「内証の寿量品」として明かすのが、以下に述べる⑤「文底下種三段」であり、本抄で大聖人が示された「広開近顕遠の一品二半」は、まさにその、⑤「文底下種三段」の正宗分たる「内証の寿量品」を意味するのである。
二、文底下種三段の序分
 これより前項で論じなかった⑤文底下種三段について、さらに序・正・流通の三項に分け、それぞれ観心本尊抄に沿って述べることにする。
 本尊抄ではまず⑤「文底下種三段」における序分として、大通智勝仏の時の法華経より、現在の爾前・迹門・涅槃経に至る一切の諸経、更に十方三世の諸仏の微塵の経々を挙げられている。つまり、釈仏所説の諸経はすべて、文底下種三段の序分となるのである。
 そこで文上の本門は文底下種三段の序分に属するか否か、という問題が生ずるが、この点について日寛上人は観心本尊抄文段において、結論的には文上の本門も序分に属するとされる。しかしながら大聖人が序分の経々として本門を挙げられていない理由を次のように示されている。
 「文上の本門もまた序分に属すべし。序分に属すと雖も、これ小邪未覆に非ず。これ則ち『在世の本門と末法の始は一同に純円』なるが故なり。この故に且くこれを除く」
 ここに仰せの「小邪未覆」とは「小乗経・邪経・未得道教・覆相教」のことである。すなわち観心本尊抄では、上に挙げた序分の経々について「一品二半より外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)と仰せであるが、文上の本門のこの法門は「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」にあたらない故に、一応、除かれているのである。また、日寛上人は、文上の本門が「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」にあたらない理由を「純円なる故」とされているが、この「純円」とは、法のうえでは本有常住の一念三千を顕していて、本無今有の方便を帯びていないことをいう。このように、文上の法門は人法ともに方便を払った「純円」の教えである故に、在世の衆生は本門に至って得脱できたのである。
 しかし、上に引用した御文に「一品二半よりの外は」と仰せであるが、この「一品二半」とは文上本門の正宗分としての一品二半ではなく、文底下種三段の正宗分としての一品二半、すなわち本抄で明かされた広開近顕遠の一品二半である。これに対して、文上の一品二半は熟脱のための法であり、したがって文底下種三段の正宗分から除かれ、先に挙げた迹仏所説の経々とともに、序分に属することになるのである。
 なお、文底下種三段の序分として挙げられた法華経迹門・爾前経・涅槃経の諸経は、正像流布の諸宗の依経とされたものであり、釈尊滅後における教法流布の次第において、まさに法華経文底の大法が末法に出現するための序分となったのである。この点については下山御消息には「世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(0346-10)と仰せである。
三、文底下種三段の正宗分
 次に、「文底下種三段」の正宗分について、本尊抄では以下のように述べられている。
 すなわち、第一には「過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経経は皆寿量の序分なり」(0249-05)と。ここで「寿量」と仰せられているが、文底下種三段の正宗分を言われていることは明白である。
 第二には「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249-06)との仰せの個所である。この仰せにおける「一品二半」が文底下種三段の正宗分を指しておられることは、文脈から明らかである。
 第三に在世の本門と末法の本門とを相対させて、正しく末法流通の下種の法体を明かされている個所である。すなわち「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と仰せである。この仰せでは、在世の本門と末法の初めに弘通される本門とについて、「脱」と「種」の相違として明かされている。つまり在世の本門は、過去に下種・熟益の化導を受けてきた本已有善の在世衆生を得脱させるために説かれたのに対して、末法の初めにおける本門は、いまだ熟脱の化導を受けていない本未有善のための下種の法体なのである。
 また、その法体を「一品二半」と「題目の五字」の相違として示されている。ここに仰せの「一品二半」とは、在世脱益のための文上の一品二半であり、本抄で天台大師配立の略開近顕の一品二半として示されているものに相当する。これに対して「題目の五字」とは末法流通の法体であり、本抄で大聖人が配立された広開近顕遠の一品二半の所詮として、明らかにされたものである。
 第四に、この能詮・所詮の関係を更に明確にされた個所が、本化地涌の菩薩に付嘱された法を示されている次の仰せである。
 「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250-09)
 ここでは、釈尊が本化地涌の菩薩に付嘱する法を「我が内証の寿量品」と表現され、付嘱を受けた地涌の菩薩が末法において一閻浮提の衆生に授与する法を「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」と仰せである。
 すなわち、文上の寿量品は在世衆生のための脱益の教えであるから、そのままでは全く滅後末法に流通される法体にはなりえない。そこで釈尊は、滅後弘通のために、種子の法体を蔵する「我が内証の寿量品」を地涌の菩薩に付嘱する。そして、それを地涌の菩薩が末法に出現して「妙法蓮華経の五字」として顕し、衆生に与えるのである。
 日寛上人は、観心本尊抄文段において「我が内証の寿量品」と「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」とは同じなのか異なるのか、という問いを設けて次のように答えられている。
 「『我等が内証の寿量品』とは、直爾に久遠元初の本因妙を説き顕す故に、能詮の辺に従って内証の寿量品と名づけ、所詮の辺に従って久遠本地の本因妙と名づくるなり。然るに能詮・所詮に二なく別なし。故に『我が内証の寿量品』とは、即ちこれ脱益の寿量品の文底本因妙の事なり」
 すなわち久遠元初の本因妙たる妙法蓮華経の五字は、所詮の辺に即しての名であり、内証の寿量品は、所詮の辺に即しての名であるが、両者は一体であるとされている。久遠元初の本因妙は、在世脱益の寿量品の文底に秘沈されている故に、その所在は、在世においてはあくまでも寿量品である。したがって、久遠元初の本因妙を直ちに説き顕す能詮の教を、文上の寿量品と区別して「内証の寿量品」と名付けるのである。
 大聖人が本抄で仰せられている、滅後のための広開近顕遠の一品二半とは、まさに、本尊抄で滅後弘通のために地涌の菩薩が付嘱を受けたといれている「内証の寿量品」に相当することが明らかである。
四、文底下種三段の流通分
 本抄および観心本尊抄では、法華経の本迹二門が、ともに末法を正意とすることを明かされているが、これは、言い換えれば、文上の本門・迹門が、いずれも末法の文底下種仏法の出現のための序分であり、この大法が出現して後は、その流通分にあたることを示されているのである。つまり「内証の寿量品」たる広開近顕遠の一品二半を正宗分とする文底下種三段においては、文上の本迹二門はすべて序品であり、流通分に属することになる。故に、御義口伝では次のように仰せである。
 「惣じては流通とは未来当今の為なり、法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、其の故は妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや」(0766-第十五於如来滅後等の事-03)
 この御文では、法華経一部八巻二十八品と、内証の寿量品の所詮の法体であり妙法蓮華経の五字との関係を明かされている。すなわち、末法において流通する法は、妙法蓮華経の五字が「体」であり、法華経の品々の法門は、その「用」であるとされている。つまり、末法流通の法体はくまでも妙法蓮華経の五字であり、法華経二十八品は、「体」である妙法蓮華経の五字の「用」なのである。したがって、末法流通の法体を明かす内証の寿量品が正宗分であり、法華経二十八品は、その序分であり、流通分となるのである。
 日寛上人は観心本尊抄文段で、法華経二十八品を更に本迹二門に分けて、この関係を説明されている。すなわち、まず迹門については、「凡そ迹門に於いてまた二意あり、一には迹門当分。これ則ち本無今有の法なり。『不識天月・但観地月』とはこれなり。二には本家の迹門。これ則ち本有常住の迹門なり。『従本垂迹・如月元水』とはこれなり。前には迹門当分の辺を以て序分に属す、故に小邪末覆というなり。今は本家の迹門を以て流通に属す。故に末法を正と為すというなり」と仰せである。すなわち、本無今有の百界千如を明かした迹門は、その当分の辺においては序分であるが「本家の迹門」つまり本門の体内の迹門は流通分に属するとされている。本門の顕本以後においては、迹門も、本門の本有常住の一念三千を顕す教法として用いられるので、これを、本無今有の法にすぎない迹門当分の辺と立て分けて、本門の体内の迹門というのである。
 次に本門については「文上脱益の本門にまた二意あり。一には脱益当分、二には種家の脱益なり。今の種家の脱益の本門を以て流通段に属するなり」と仰せである。すなわち文上の本門について、在家衆生の得脱のために説かれた当分の辺と「種家の脱益」つまり文底下種の体内の脱益本門とを立て分けられ、その体内の辺は下種仏法の流通分に属するとされている。文底下種の体内の脱益本門とは、在世衆生に得脱の利益をもたらした文上本門の意義を、文底の立場からとらえたものである。すなわち、在家衆生の得脱の利益をもたらした文上本門の意義を、文底の立場からとらえたものである。すなわち、在世衆生の得脱は久遠元初の下種の法体を覚知したことによる、と見るのである。文上本門を、久遠元初の下種の法体の体内の法として見れば、これは流通分となるのである。
 つまり、文底下種の体内の本門は、末法流通の法体の説明となっている故に文底下種の流通分になり、したがってまた、その本門の迹門も文底下種の流通分となっているのである。
 更には、文底下種三段の流通分は法華経本迹二門にとどまらない。大通覆講のときの法華経をはじめ、中間の諸経、今日の爾前・迹門の諸教、更には三世十方の諸仏の微塵の経々も、体外の辺では文底下種の序分とされることは先に述べたが、同様に、これらの序分の諸経が、すべて体内の辺では文底下種の流通分になるのである。日蓮大聖人は曾谷入道殿許御書において「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(1038-13)と仰せられ、釈尊の一代聖教のみならず、正像二時に流布八宗の章疏も、すべて、大聖人が弘通される文底下種の大法の流通分になることを示されている。日寛上人も観心本尊抄文段で、この御文を引用して以下のように述べられている。
 「文底下種の三段とは、正宗は前の如く久遠元初の唯密の正法を以て正宗と為す。総じて一代五十余年の諸教、十方三世の微塵の経々並びに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属す。謂く、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体外の辺は以て流通に属するなり…今この三段は三世の諸仏の微塵の経々一塵も余すことなく、十方世界の仏法の露一滴も漏らさず、皆咸く文底下種の序・流通なり」
 ここに仰せのように、一切の経教が文底下種の序分とされ流通分とされるのであるが、両者にはおのずと区別がある。すなわち、それらの諸教の当分の辺は序分であるのに対して、文底下種仏法の体内の辺でこれをとらえた場合は流通分となるのである。
 しかし、一切の経教が体内の辺では文底下種三段の流通分に属するといっても、流通の法体はあくまでも、正宗分たる内証の寿量品の所詮である妙法蓮華経の五字である、という点に注意されるべきであろう。つまり文底下種三段においては、正宗分の所詮が即ち流通の法体なのである。この点について日寛上人は、観心本尊抄で次のように仰せである。
 「在世の本門、脱仏所説の正宗はこれ在世の為にして、末法下種の法に非ず。故に流通の正体と為さず。末法の本門、下種の仏の所説の正宗は正しく末法下種の為なり、故に末法流通の正体と為す」
 在世衆生は、文上本門の正宗分である寿量品を聴聞して得脱した。その得脱の根底には、久遠元初の下種の法体の覚知があるとはいえ、文上脱益の正宗分はあくまでも在世衆生の得脱のためであり、それ自体は末法万年の流通の正体ではない。これに対して、内証の寿量品、すなわち久遠元初の仏を明かしたという立場から読む寿量品であってこそ、末法流通の正体である久遠元初の下種の法体を顕すのである。したがって、御相伝の御本尊七箇相承の次の仰せにおいては、まつほうにおける流通の義を強調されている。
 「序正流通の中には何れぞや、師の曰はく流通分の大曼荼羅なり流通とは末法なり、久遠本果の名字の妙法蓮華経の法水・末代の我等が耳に流入す可しと云ふ三仏(釈迦・多宝・十方の諸仏)の御約束なり、在世は正宗が画と成り・滅後は流通が面と成るなり」
文底下種三段三段のまとめ
 以上、本抄で明かされている大聖人所立の一品二半と、観心本尊抄で明かされている文底下種三段との関連を、日寛上人の御教示に基づいて述べてきたが、多少込み入っているので、これを箇条的にまとめておきたい。
 ①大聖人は、天台大師が法華経本門の正宗分とした一品二半から、従地涌出品第十五の略開近顕遠の部分を除き、湧出品の動執生疑以後を正宗分の一品二半とされて、これを広開近顕遠と位置付けられた。
 ②涌出品の略開近顕遠は在世衆生の得脱のために説かれた教えであり、大聖人所立の広開近顕遠の一品二半は、専ら滅後のために説かれた教えである。
 ③天台大師所立の一品二半は文上脱益三段の正宗分、大聖人所立の一品二半は文底下種三段の正宗分にあたる。
 ④大聖人所立の一品二半、上行菩薩が滅後弘通のために釈尊より付嘱された「内証の寿量品」と全く同義でる。
 ⑤「大聖人所立の広開近顕遠の一品二半=文底下種三段の正宗分=内証の寿量品」は、寿量文底に秘沈された、久遠元初の下種の法体たる「妙法蓮華経の五字」を明かす教法である。
 ⑥「大聖人所立の広開近顕遠の一品二半=文底下種三段の正宗分=内証の寿量品」の所詮の辺である「妙法蓮華経の五字」は、久遠元初の下種の法体であると同時に、末法流通の正体である。つまり、文底下種三段においては、正宗分の所詮の法体が即ち流通の法体となる。
 ⑦文底下種三段においては、法華経文上の本迹二門をはじめとする釈尊の一代聖教、および三世諸仏の微塵の経々の体外の辺を序分とし、同じくこれら諸教の体内の辺を流通分とする。したがって、い正宗分の所詮の法体である「妙法蓮華経の五字」が顕されたときには、序分の一切の経教の当分の辺が破されるとともに、その体内の辺は「妙法蓮華経の五字」の流通分として用いられるのである。

0334:06~0334:14 第九 略開近顕遠による在世衆生の得脱を明かすtop

 この段では、前段で「略開近顕遠」が在世の衆生の得脱のための教えであるとされたことについて、更に詳細され、その意義を明らかにされている。
 冒頭の問いにある「略開近顕遠の心」とは、いうまでもなく略開近顕遠の説法の目的、その意図するところという意であるが、当然、この答えとして、大聖人のお立場からみた「略開近顕遠の心」を論じられていくのである。
 前述したように、ここで仰せの「略開近顕遠」とは、いわゆる涌出品の略開近顕遠のみを指すのではなく、在世衆生の得脱のために説かれた法門、すなわち天台大師所立の「略開近顕遠の一品二半」と同義である。つまり、ただ寿量品の文底に秘沈された末法流布の法体を明かす「内証の寿量品」のみを、「広開近顕遠」とする故に、末法流布の法体を明かさない文上の一品二半を「略開近顕遠」と呼ぶのである。
 「略開近顕遠の心如何」との問いに対する答えの部分は、更に以下の三節に分けて拝することができる。
 まず「答えて曰く文殊弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等初成道の時より般若経に至る已来は一人も釈尊の御弟子に非ず此等の菩薩天人は初成道の時仏未だ説法したまわざる已前に不思議解脱に住して我と別円二教を演説す釈尊其の後に阿含・方等・般若を宣説し給う然りと雖も全く此等の諸人の得分に非ず、既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり勝は劣を兼ぬる是なり委細に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか善知識とは是なり釈尊に随うに非ず、法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞いて此等の人人は弟子と成りぬ」では、在世の衆生のうち、釈尊の説法以前、つまり華厳経の時に不思議解脱の境地に住して、自ら別円二教を知っていた彼等にとっては、爾前の、蔵・通・別・円の四教を説いている段階の釈尊とは師とはいえなかった。それが、法華経に至り未聞の法を聴聞して、初めて釈尊を師として仰ぎ随順する立場になったとされている。
 次に、「舎利弗目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり、然りと雖も権法のみを許せり、今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり」の部分では、最初に、釈尊に従って初めて発心した舎利弗・目連等の二乗の弟子を取り上げ、彼等は初めから釈尊の弟子であったが、爾前経においては権法しか教えられず、法華経に至って初めて実法を授与されたと述べられている。次に、この二乗も、また先の菩薩・天人等も、法華経本門の略開近顕遠の説法を聞いて等覚位に達し、また妙覚の位に入ることができたとし、略開近顕遠によって在世衆生が得脱したことを明示されている。等覚位に達したということは、一往、在世衆生が次位の次第を経て至った。文上における究極の解説相を示されている。妙覚位に入ったということは、再往、文底から見た場合の解脱相であり、すなわち文底下種の法体を覚知して、久遠名字妙覚の極位に至ったことを示されているのである。
 最後の「若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」の部分は、略開近顕遠の説法で菩薩・二乗・諸天等の在世衆生が妙覚位に至ったということが、末法衆生にとっていかなる意義をもっているかを示されているところである。すなわち、梵帝・四天・日月等の諸天は、生身の妙覚の仏が、それぞれの本位に住して衆生を利益しておられる姿にほかならないということである。

0334:06~0334:11 その一top
06                問うて曰く略開近顕遠の心如何、答えて曰く文殊弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・
07 日月・衆星・竜王等 初成道の時より般若経に至る已来は一人も釈尊の御弟子に非ず 此等の菩薩天人は初成道の時
08 仏未だ説法したまわざる已前に不思議解脱に住して 我と別円二教を演説す釈尊其の後に阿含・方等・般若を宣説し
09 給う然りと雖も全く此等の諸人の得分に非ず、 既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり 勝は劣を兼ぬる是な
10 り委細に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか 善知識とは是なり釈尊に随うに非ず、 法華経の迹門の八品に来至して
11 始めて未聞の法を聞いて此等の人人は弟子と成りぬ 
-----―
 問うて言う。略開近顕遠の意はいかなるものか。
 答えて言う。文殊・弥勒等の諸大菩薩や大梵天王・帝釈天・日天子・月天子・衆星・竜王などの天人達は、釈尊が初めて成道した時から般若経を説きおわるまでの間は、一人も釈尊の御弟子ではなかった。これらの菩薩や天人達は、釈尊が初めて成道した時に、仏がまだ説法をされていない以前から、不思議解脱という悟りの境界に住して、自ら別教と円教の二教を説いていた。釈尊はその後に阿含経や方等経や般若経を説かれたけれども、全くこれらの人々の得るところとはならなかった。既に別教と円教の二教を知っていたから、蔵教と通教もまた知っていたのである。勝は劣を兼ねるとはこのことである。くわしくこのことを論ずれば、あるいは釈尊の師匠であろうか。善知識とはこのことである。釈尊に従ったわけではない。それが法華経の迹門の八品に至って始めて未聞の法を聞いて、これらの人々は釈尊の弟子と成ったのである。

菩薩・天人等と釈尊
一、華厳経における菩薩・天人等

 上掲の御文では、文殊・弥勒等の大菩薩、梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等が、釈尊の初成道の時、法を説く以前から不思議解脱の境地にあったとされているが、これは華厳経の説相に基づいての仰せである。
 すなわち、華厳経巻一の世主妙厳品第一では、菩薩以下の四十種の衆生が登場し、その一人一人について、到達した境地や衆生化導において果たす役割などが述べられている。
 本段で列記されている衆生で、華厳経のはじめの世主妙厳品第一に登場するのは、梵天・帝釈・日月・衆星・竜王である。菩薩については、同品では普賢菩薩をはじめとする20人の菩薩の名が挙げられているが、本抄で挙げられている「文殊・弥勒」の名は見えない。しかし両菩薩は、入法界品第三十九において善財菩薩の善知識として登場しており、特に文殊師利菩薩については、他の重要な品々で説法者として登場し、普賢菩薩とともに同経の菩薩の中では中心的な菩薩といえる。本抄で文殊師利菩薩と弥勒菩薩の名を挙げられているのは、この二菩薩が法華経の会座に列し、法華経の展開において特に重要な役割を担っている、代表的な菩薩だからであると拝される。また法華経従地涌出品第十五における弥勒菩薩の疑請は、如来寿量品第十六が説かれる機縁となっている。
 「不思議解脱」とは、これら衆生が過去世に善根を修して達していた境地であり、その境地のうえから、衆生を教化するための種々の力を備えているとされる。例えば40衆の執金剛神については、次のように述べられている。
 「皆往昔無量劫の中に於いて、恒に大願を発す。願って常に諸仏に親近し供養し、願に随って行ずる所は、已に円満なることを得て彼岸に到り、無辺の清浄なる福業を積集し、諸の三昧の所行の境に於いて悉く已に明達し、神通力を獲て如来の住に随い不思議解説の境界に入り衆会し処にて威光特に達し諸の衆生の所応に随い身を現じて調伏を示し、一切諸仏の化形の在る所には皆化に随いて往き、一切の如来の所従の処は常に勤めて守護す。
 これは執金剛神が不思議解脱の境界に達していたことを述べている一節であるが、他の衆生についても類似の表現が見られる。
 また本抄では、これらの衆生が自ら、釈尊以前から「別円二教を演説」したとされている。華厳経は釈尊の成道後、最初の説法とされ、また毘廬遮那仏が経の根本の尊主であるとされているが、実際には釈尊も毘廬遮那仏も説法せず、代わりに諸菩薩・諸天王・諸善神等が法を説いているのである。例えば法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩は、それぞれ十住・十行・十回向・十地の法門を説いている。そして、これらの法門の内容が化法の四教でいえば「別円二教」にあたるのであるが、この点については後述する。
二、爾前経における菩薩・天人等と釈尊
 御文では、阿含・方等・般若の爾前諸経では釈尊が説いた蔵・通・別・円の四教は、華厳経において不思議解説に住する菩薩・天人等が説いた別円二教を越えるものではないとされ、この点から、爾前経を説いた釈尊と華厳経の菩薩・天人等との関係について、
   ①菩薩・天人は釈尊の弟子ではない
   ②菩薩はむしろ釈尊の師匠である
   ③華厳経の菩薩・天人は釈尊の善知識である
 と結論されている。
 開目抄においても同様の御教示を拝することができるので、それを紹介しつつ本抄の御教示の意味を、更に詳しく考察してもたい。
 第一の「菩薩・天人は釈尊の弟子ではない」という点について、開目抄では「総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん・十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず」(0207-15)と仰せである。ここでは、華厳経の菩薩・天人等は、釈尊が教えを説く以前から不思議解脱の境地に住していたのであるから、釈尊の過去の因位における弟子、または過去の仏の弟子であったかもしれないが、始成正覚の釈尊の弟子ではない、とされている。
 次に「菩薩はむしろ釈尊の師匠である」という点について、開目抄では次のように仰せである。
 「方等・般若の別・円.二教は華厳経の別・円・二教の義趣をいでず、彼の別・円・二教は教主釈尊の別・円・二教にはあらず、法慧等の別円二教なり、此等の大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども仏の御師とも・いゐぬべし、世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円をとけり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり…されば前四味の間は教主釈尊・法慧菩薩等の御弟子なり、例せば文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし」(0207-18)
 この仰せでは、釈尊は華厳経の会座において法慧等の諸大菩薩が説く別円二教を聞き、それに啓発されて、後の方等時・般若時に同じ別円二教を説いたので、華厳経の菩薩はむしろ釈尊の師であるとされている。つまり、華厳経の諸大菩薩が説いた別円二教と、釈尊が説いた爾前における蔵通別円の四教とを比較し、その教法の内容と説法の前後関係によって、華厳経の諸大菩薩は釈尊の師というべきである、とされているのである。
 第三に「華厳経の菩薩・天人は釈尊の善知識である」という点について、開目抄では次のように述べられている。
 「華厳経に此等の菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり、善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり、蔵・通・二教は又・別・円の枝流なり別・円・二教をしる人必ず蔵・通・二教をしるべし、人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり」(0208-04)
 この仰せのごとく、華厳経では多くの菩薩の名を挙げて、それらの菩薩が皆、過去世においては毘廬遮那仏の善知識であったと述べられている所が数個所見られる。たとえば六十巻華厳経では、十方世界微塵数の大菩薩は「皆是れ盧舎那仏の宿世の善友にして、一切は功徳の大海を成就す」「皆是れ廬遮那如来応供等正覚の、菩薩道を行じ無量の諸の法門を修習せし時の善知識なり」等とあり、八十巻華厳経の対応する個所には、「此の諸の菩薩は、往昔皆毘廬遮那如来と共に善根を集め、菩薩の行を修し、皆如来の善根海より生じ」「是の如き菩薩は、皆毘廬遮那如来と与に往昔の時に於いて同じく善根を植え、菩薩の行を修し」等とある。すなわち、菩薩達は、過去に毘廬遮那仏が菩薩行を修行していたときの善知識なのである。
 また、六十巻華厳経の入法界品第三十四には「其れ衆生有って、如来の自在神通力を見聞念知するは皆仏の宿世の善知識なり」とあり、菩薩に限らず如来の自在神通力を見聞念知する華厳会座の菩薩・人天等は、この毘廬遮那仏の過去無量曠劫の菩薩行の過程における善知識だったのである。
 その菩薩時代の善知識が宿世の因縁によって華厳の会座に来至したのであり、したがって、華厳経の会座では、釈尊の師とも弟子ともいえない存在なのである。そのうえであえて、華厳時以後、阿含・方等を経て般若に至る、爾前諸経における釈尊と菩薩・人天等の師弟関係をいうとすれば、先に華厳時に菩薩・天人等が別円二教を説き、その後阿含・方等・般若の三時に釈尊が同等の別円二教、あるいは更に劣る蔵通二教を説いているのであるから、その説法と内容と前後関係からいえば、むしろ、菩薩・天人等の方が釈尊の師匠であるとされているのである。
三、善知識について
 ここで、しばらく本抄の御教示の文脈から離れて「善知識」そのものの意義について考察しておきたい。
 善知識とは、正直・有徳の善友のことで、ある人が仏道を成就するための善き因縁となる人をいう。したがって、修行を進めるために善因縁となる人はすべて善知識であり、その意味で善知識とは本来、師とも弟子とも定められぬ存在なのである。
 華厳経の入法界品では、53人の善知識を訪ねて修行した善財菩薩のことが説かれているがその善知識の中には、普賢・文殊・弥勒等の諸菩薩や天神・女神等のほかに、在家の長者や居士、更には身分の低い男女・童子・男女・年齢を問わず、すべての人々が善知識たり得ることが示されている。また同品では、次のように十の譬えをもって善知識の勝れた働きを明かしている。
 「善知識は則ち慈母為り、仏家に生ずるが故に、善知識は則ち慈父為り、無量の事を以て衆生を益するが故に、善知識は則ち養育為り、守護して一切の悪を為さざらしむ故に、善知識は則ち大師為り、教化して菩薩の戒を学ばしむるが故に、善知識は則ち導師為り、教化して彼岸の道に至らしむるが故に、善知識は則ち良医たり、一切の煩悩の患を治癒するが故に、善知識は則ち雪山為り、明浄智慧の葉を長養するが故に、善知識は則ち勇猛たり、一切の諸の恐怖を防護するが故に、善知識は則ち牢船為り、悉く生死の海を越度せしむるが故に、善知識は則ち船師為り、一切の法宝の洲にいたらしむるが故に」
 これによれば、善知識は師としての側面をもっていることが明らかである。ただしこの文は、善知識がもたらす仏道修行上の効果を示したものであるから、善知識が直ちに師であるといっているわけではない。あくまでも、修行者にこのような修行上の効果をもたらす存在がすべて善知識なのである。
 次に法華経では、妙荘厳王本事品第二十七において次のように善知識の意義が説かれている。
 「若し善男子、善女人、善根を植えたるが故に、世世に善知識を得。其の善知識は、能く仏事を作し、示教利喜にして阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ、大王当に知るべし。善知識は、是れ大因縁なり。所謂化導して仏を見ることを得、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さしむ」
 すなわち善知識とは、修行者の過去の善根によって得られる存在であり、正覚を成就するための大因縁となるとされている。つまり、過去の善根によって得られる善知識が、更に現在の仏道修行のための大因縁となるのである。
 また、天台大師は法華文句巻十下において前掲の妙荘厳王本事品の文を釈し、善知識を「外護」「同行」「教授」の三種に分類している。すなわち、「能く仏事を作す」とは“外護の善知識”、「化導して菩提心を発させる」とは、“同行の善知識”「示教利喜して菩提に入らしむ」とは“教授の善知識”であるとする。これは、仏道修行を促進する善知識の徳用を分類したものであり、先に引いた華厳経入法界品の文に説かれる善知識の十種の勝徳はすべて、この三種の中に含まれるといえよう。摩訶止観巻四下では、この三種の善知識について以下のように説明されている。
 まず、“外護の善知識”については「母の児を養うが如く、虎の子を銜むが如く、調和所を得。旧の行道の人、野ち能く為すのみ」とある。すなわち、仏道を修行するうえにおいて、外から保護して修行を満たすのを助けてくれる先輩が“外護の善知識”なのである。
 次に“同行の善知識”については「更に相策発して、眠らず散せず、日に其の新たなること有りて、切磋琢磨し、心を同じうして志を斉うして、一船に乗るが如く、互いに相敬重して、世尊を視るが如くす」とある。つまり、互いに励ましあい切磋琢磨しあうことにより菩提心を日々新たにしていける同志が“同行の善知識”である。
 “教授の善知識”については「能く般若を説きて道と非道を示し、内外の方便、通塞妨障、皆能く決了す。善巧に法を説きて、示教利喜し、人の心を転破す」と述べられている。すなわち、教えを示しながら菩提へと導き入れてくれる師匠的な存在が“教授の善知識”であるといえよう。
 更に摩訶止観では、観心に約してこの三種の善知識の意義を明かしているが、その中で、法性の理こそがよく智を起こす故に、観心における教授の善知識であると明かしている。
 次に善知識についての日蓮大聖人の御教示を拝察すれば、諸抄において末代凡夫の修行における善知識の重要性を説かれているが、そのなかでも善知識の本質を明かされているのは守護国家論であろう。すなわち同抄では、末代凡夫のための真実の善知識は「法華経」であるとされ、その理由を次のように明かされている。
 ①摩訶止観巻一下の「或は知識に従い或は経巻に従い上に説く所の一実の菩提を聞く」との文を引かれて、通途には人をもって善知識とするが、末代には善知識となる大聖がいないから「法」をもって善知識とする、とされている。
 ②法華経普賢菩薩勧発品第二十八の「若し法華経の、閻浮提に行ぜんを受持すること有らん者は、応に此の念を作すべし、皆是れ、普賢威神の力なり」との文を引かれて、末代の凡夫が法華経を信ずるのは普賢菩薩の善知識の力が具しているのである。
 ③同じく普賢品の「若し是の法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写すること有らん者は、当に知るべし。是の人は、即ち釈迦牟尼仏を見るなり」との文を引かれて、法華経が即ち釈迦如来であるとされている。
 ④法華経 見宝搭品第十一から二文を引かれて、法華経の名号を唱えるところに多宝如来・十方の諸仏が来至するとされている。
 ⑤法華経を信ずる者のところに来至する釈迦・多宝・十方の諸仏、および普賢菩薩こそが実経の善知識であるとされている。
 ⑥涅槃経巻六から「法によって人に依らざれ智に依って識に依らざれ」との文を引き、法華経の常住の法に依らざる仏菩薩は真実の善知識ではないとし、法華経に依らない権教の善知識を用いてはならないとされている。
 ⑦妙楽大師の「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟を生ぜん故に知んぬ悟を生ずる力は真如に在り故に冥薫を以て外護と為するなり」との言葉を引かれて、善知識の働きによって悟りに入ることの根本は、内薫、すなわち自身の仏性が内より薫発することであると明かされている。
 ⑧十界互具を説いた法華経によってのみ自身の仏界を入ることができる故に、法華経こそが、在世・滅後の一切衆生の「誠の善知識」であると結論されている。
 以上が守護国家論における善知識についての御教示の概要であるが、要約していえば、真の善知識とは十界互具を説く「法華経」であり、その法華経によってのみ自身の仏性が内より薫発し、善知識の働きが生ずるとされているのである。
 先に見たように、法華経妙荘厳王本事品では、善知識は修行者自身の「善根」を因縁として顕れるとし、また天台大師は、よく智を起こす「法性」こそが観心における教授の善知識であるとしているが、自身の仏界を開く「法華経」という「法」こそが、善知識の根本であるとされている大聖人の御教示は、まさしく妙荘厳王や天台大師の所説を、末代凡夫の信心に約して更に明確に示されたものと拝されるのである。
四、法華経における菩薩・天人等と釈尊
 さて御文では、華厳経の菩薩・天人等は、法華経迹門の正宗分である八品に至って、初めて「未聞の法」を聴聞し釈尊の弟子となった、とされている。この「未聞の法」とは、迹門正宗分の開三顕一の説法によって明かされた「一仏乗」を指す。この「一仏乗」が菩薩・天人にとって「未聞の法」であったことについて、無量義経、および法華経の序品第一・方便品第二・譬喩品第三の経文によって確認しておきたい。
 法華経の開経である無量義経では、「無量義とは一法より生ず」と説いて、無量の法が生じた根源の実相の一法があることを明かし、更に「四十余年には未だ真実を顕さず」と説いて、四十余年の爾前経には、この実相の一法を開顕していないと断言している。また同経では四十余年の諸経として、小乗経・方等諸経・般若経・華厳経の名を挙げており、華厳経がまだ実相を開顕していない経であることを示している。
 法華経に入り、序品第一ではまず、釈尊が「無量義処三昧」に入る。無量義処三昧とは無量義の根拠となる三昧のことで、無量義の帰する実相の一法を証得した境地にあって動じないことを意味する。この三昧に入った釈尊は眉間の白毫から光を放って東方方八千の世界を照らし、ついに文殊師利菩薩が弥勒菩薩の質問に答えて、この神変は仏が妙法蓮華経を説いて「諸法実相の義」を明かす瑞相であると述べる。
 そして、迹門正宗分の八品の冒頭である方便品第二で、いよいよ未聞の法が説かれるのである。
 釈尊はまず、仏の成就した法は「無量無辺未曾有の法」であると称歎し、また衆生にとっては「第一希有難解の法」であると説く。すなわち、仏は法華経以前に、衆生の諸々の執着から離れるために種々の因縁、種々の譬喩を用いて無数の方便の教えを説いたのであるが、そのように自在に方便の教えを説ける所以は、仏が無量の方便と甚深未曽有の知見波羅蜜を成就したからである。その成就した法自体は第一希有難解の法であり、ただ仏と仏のみが究め尽くしている「諸法の実相」なのである。  
 そして「深心微妙の法は、見難く了すべきこと難し」「是の法は示すべからず、言辞の相寂滅せり」等と述べて、仏が成就した甚深の妙法は示しがたく説きがたいと述べ、声聞、辟支仏、新発意の菩薩、不退の諸々の菩薩等といった、仏以外の衆生にとっては知り得るところではないとする。
 ところが、このように仏の成就した妙法の甚深なることを称歎し、その説きがたいことを強調した後、釈尊は更に「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」と述べる。すなわち、仏は久しく三乗方便の教法を説いた後に、必ず真実の妙法を衆生に説き明かすというのである。
 以上が方便品の“略開三顕一”の説法の概要であるが、これを聞いた声聞・縁覚・天竜・菩薩・天輪聖王等の法華経会座の衆生は、“仏の内証の法については誰も問わなかったのに、何故に釈尊は自ら内証の権智・実証を称歎し、しかも、その真実の法を必ず説くと言われたのであろうか”との疑いを起こしたのであった。
 そこで舎利弗が代表してこの疑いを述べた後に、「合掌し敬心を以て、具足の道を聞きたてまつらんと欲す」と請願する。「具足の道」とは、仏が称歎した内証の法、すなわち一切法を具足し、無量義がそこから開かれてくる甚深未曾有の実相の一法を指す。その真実の法を仏は必ず説くと釈尊が述べたので、それを是非ともお聞きしたいというのが、上の誓願の言葉の意味である。
 この請願の言葉は、舎利弗だけでなく、菩薩・天人等を含めた法華経会座の一切の人の請願の心を表したものである。したがって、ここにいう「具足の道」は、菩薩・天人等がいまだ聴聞したことがない法なのである。
 この請願に対して釈尊は舎利弗に。「止みなん、止みなん、復説くべからず、若し是の事を説かば、一切世間の諸点及び人、皆当に驚疑すべし」といって応じないので、舎利弗は請願を繰り返すこと三度、ついに釈尊は「汝已に慇懃に三たび請じつ。豈説かざることを得んや」と述べ、未聞の法がいかなるものであるかを説きはじめるのである。それが“広開三顕一”の説法である。
 釈尊はまず、すべての仏はただ「一大事の因縁」のために世に出現するとし、その一大事因縁につて次のように明かす。
 「衆生をして仏知見を開かしめ…衆生に仏知見を示さん…衆生をして仏知見を悟らしめん…衆生をして、仏知見の道に入らしめん」
 「仏知見」とは、方便品の冒頭で釈尊が称歎した仏の悟りの法、すなわち諸法実相に他ならない。その「仏知見」を衆生に開示悟入をせしめること、すなわち衆生を成仏させることが仏の一大事の因縁であり、仏の出世の目的はこれ以外にないのである。釈尊はまた、このことを「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生のために法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」とも説いている。「一仏乗」とは衆生を成仏させる唯一の教えということであり、仏の教えはこの一仏乗以外にない、というのがこれらの文の意である。
 「諸の不善根を成就するが故に、諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」と明かされている。すなわち、衆生の機根を熟させるために、仏は衆生の機に応じて、一仏乗を声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つに立て分けて説いたのであり、そうした随縁の教法が爾前の諸経であったのである。
 これに対して、法華経方便品では一仏乗が開顕され、これまでの爾前諸経の三乗の経法はすべて一仏乗のための方便であったというのである。
 また衆生についても、「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」「声聞若しは菩薩、我が所説の法の、乃至一偈を聞かば、皆成仏せんこと疑いなし」とあるように、声聞・縁覚・菩薩の差別が廃され、すべての衆生が正覚を成就して作仏すべき菩薩として統一される。そして、その修行についても、「諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以って、衆生に示悟したまわんとなり」とあり、すべての修行が仏知見を開くためのものとして開会されている。そして「一華」の供養。「一手を挙げ、或は復少し頭を低れ」ること、「一たび南無仏と称う」ること等の例が挙げられて、一仏乗の法を聞いた者にとっては、いかなる行も、ことごとく成仏のための道となるとされている。
 以上のように、広開三顕一の説法によって一仏乗の意義が詳しく開顕され、爾前経において分別されていた教法、衆生、修行が一仏乗のもとに統一されたのであった。
 また、「我本請願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき、我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ」とあるように、一切衆生を仏道に入らせることが釈尊の本請願であり、一仏乗を説くことによってその本請願が成就されたとしている。
 さて、この説法を聞いた菩薩・天人等の衆生は、どのように変ったのであろうか。まず菩薩については方便品に、「諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但無上道を説く。菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く」とある。もちろん、爾前の大乗諸経でも、法華経の一仏乗に類似する円教が説かれなかったわけではない。しかしそれらは、兼・但・対・帯という種々の形で方便を説く中での所説であり、円教が唯一の教法であるとの趣旨を明かしていなかったのである。それ故、菩薩達は、いかなる法が真実の成仏の法であるのか分からず、疑いを抱いてきたのであった。
 ところが開三顕一の説法では、一切の方便を捨てて無上道を開顕し、一切衆生を成仏させることが仏の化導の究極の目的であることが明かされたのであり、これを聞くことにより菩薩達の疑問が氷解したのである。したがって、この一仏乗を説いた純円の法は、まさに菩薩達にとっての未聞の法なのであった。
 また、天人達については譬喩品第三に「我等昔より来た、数世尊の法を聞きたてまつるに、末だ曾て是の如き、深妙の上法を聞かず」とある。これは、梵天・帝釈の言葉であり、この一説について伝教大師は守護国界章巻下において、「我等昔より来た。数々世尊の説を聞く。謂く、皆法華前の華厳等の大乗を聞くなり、末だ曾て是の如き深妙の上法を聞かずと。謂く、末だ法華経唯一仏乗教をきかざるなり」と釈している。すなわち、諸天にとっても一仏乗の教えは未聞の法だったのである。
 日蓮大聖人は開目抄において、法華経迹門の開三顕一の説法の意義について、「又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ」(0210-01)と述べられている。そして、菩薩・天人等が釈尊の御弟子になった証拠として、見宝搭品第十一において釈尊は菩薩等に滅後の法華経弘通の諌暁をしたのであり、すべての諸大菩薩等も、この諌暁に応えようとしたことを挙げられている。
五、華厳経の別円二教と法華経の円教
 御文では、釈尊は阿含・方等・般若の爾前諸経において蔵・通・別・円の四教を説いたが、この爾前の四教は、華厳経において菩薩・天人が説いた別円二教を超えるものではなく、法華経の円教こそ華厳の別円二教をはるかに超えるものであった、とされている。ここでは華厳経の別円二教と法華経の円教との相違について簡単に述べておきたい。
 華厳経において菩薩・天人等が説いた経法とは、
   ①十住・十行・十回向・十地等の行布次第の修行を説いた別教
   ②旧訳華厳経に「初発心の時、便ち正覚を成ず」とあるごとく、行布次第を越えて円融の修行を説いた円教
 である。
 別教とは、別して菩薩のみを所被の機として説かれた教えのことである。蔵通二教が声聞・縁覚・菩薩の三乗を対象とし、また円教が三乗を包摂した広い意味での菩薩を対象とするのとは大きく異なり、別教では三乗の中から二乗を除外した、狭い意味での菩薩を所被の機としているのである。また、別教の菩薩は、自らの分別・計らいを中心として修行を進めていく権機であって、自らの計らいを捨てて如来行に徹する円機の菩薩ではない。
 別教は、権機の菩薩を所被の機とするから、その所説の理たる中道も分別的に説かれている。すなわち、相対的な事象を超越した絶対平等の理としての中道が説かれ、したがって、この中道の理は修行者が迷いを断じ、事象の覆いを除くことによって顕れるとする。故に別教では中道の理に空仮中の三諦が具足すつといっても、三諦相互に隔てがあり、円教の説く円融三諦にははるかに及ばない。また、空・仮・中の三諦を観ずる一切智・道種智・一切種智の三智を段階的に得ていくことを説き、更に断惑についても、見思・塵沙・無明の三惑は別体のものとされるから、それぞれ個別の修行によって断じなければならないと説かれている。
 このように別教では、すべての面で分別的に説かれるので、その行位も段階的である。すなわち、その修行は、行者が自らの計らいにより、分別的に真理を証得しようとする所作として位置付けられるために、その一々の行が個別的であり、円教の行のように一つの行において一切行の徳を具する円満の行ではない。また、その次の次第は、一定の因を積み上げて一定の果を得ることによって十住・十行・十回向・十地等というように次第に上がっていくのである。
 以上のように、別教が行者の思議分別に合わせて説かれた随他意の教えであるのに対して、円経は仏の内証の不可思議な境地をそのまま説き顕した随自意の教えである。
 円教の説く理は別教と同じく中道であるが、別教が事象から超越した原理として中道を立てるのに対して、円教では中道の理は事象と相即すると説く。したがって別教のように迷いを断じる事象の覆いを払って理を悟るのではなく、事象そのものにおいて理を直観していけるとする、また、円教では、中道の理は空・仮二諦と相即しているとする円融の三諦を説く。
 三智も一心に同時に具するとされ、また三惑の根本は三諦円融の中道の理の迷いたる無明であるとされる。
 円教の修行は、行者の分別を基調とするのではなく、真如の働きが顕れたものとされることから、個々の修行は、真如を証得した仏の生命を行ずる如来行として位置付けられる。故に一つの行に一切行を成就した仏の徳が具するとされ、したがって一つの位から直ちに仏果に至ることが可能なのである。
 これら円教の特色は、一切が相即する仏の境地を説き顕した仏の随自意の教えを、そのまま信受することに成り立つものといえる。
 円教は法華経だけではなく、華厳経・涅槃経・般若経・維摩経などの諸大乗経にも説かれている。華厳経の円教の例は先に挙げた「初発心の時、便ち正覚を成ず」の文が示しているが、涅槃経で一心に五行が具すると説き、維摩経で薝蔔と、いう花はその芳香によって他の花の香りを同化してしまうように、大乗の法に入る者はすべて直ちに仏の徳を具する、と説かれていることなども円教に相当する。
 しかし、爾前の大乗経における円教は、円教そのものを説き明かすことを目的として説かれたものではなく、衆生の機根を調熟するための一環として説かれたものであり、したがって円教の所説はあっても、全体としては方便権教を帯びているのである。
 すなわち、華厳経では別教を兼ねて円教を説き、維摩経などの方等諸経は、四教それぞれを相対させて説く故に円教も含まれているが、その教意はあくまでも小乗に執着する二乗を弾訶することにあった。般若経には小乗と大乗とを融通して、衆生の小乗への執着を沙汰するために円教を説いたのであって、それ故、円教とはいっても通別二教の方便を帯びているのである。涅槃経は法華経の開経の後の経であるため、当然、円教を説くが、開顕そのものを目的としているのではなく、むしろ滅後流通のための四教を追説して、円教の意義を明かしているのである。
 このように、方等時・般若時の諸経の円教は、すべての衆生の機根を調熟するための、方便の教えの一環として説かれたのであり、法華経のように、専ら円教そのものを開顕するために説かれたものではなく、最初の華厳経で説かれた円教の域を出ていない。したがって大聖人は開目抄において、方等・般若の別円二教は菩薩・天人等が説いた華厳経の別円二教と「色もかわらぬ」と、仰せられたのである。
 爾前諸経が、たとえ円教を含んでいても全体としては方便の教法であることは、二乗作仏を説かないことに端的に示されている。一切衆生を仏と同じ境地に至らしめるには、法華経のように二乗作仏を説き、一切の差別を超えた仏の絶対平等の境地の上での、真実の円教を開顕しなければならないのである。
 故に大聖人は一代聖教大意において「蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、別円二教には衆生に仏性を論ず但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し此等は皆?法なり」(0400-15)と仰せである。

0334:11~0334:14 その二top
11                         舎利弗目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり、 然りと雖も
12 権法のみを許せり、 今法華経に来至して実法を授与し 法華経本門の略開近顕遠に来至 して華厳よりの大菩薩・二
13 乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向つて之を見
14 れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり。
-----―
 舎利弗や目連らは、釈尊が小乗経を説いた鹿野苑の時已来、釈尊によって初めて発心した弟子であるけれども、釈尊は爾前経の間は、権法だけを許し与えたのであった。今、法華経に至って実法を授与し、法華経本門の略開近顕遠に至って、華厳経以来の大菩薩も二乗も、大梵天王・帝釈天・日天子・月天子・四天王・竜王らの天人も、妙覚の隣の位に登り、また妙覚の位に入ったのである。
 したがって、今、我等が天に向かって見れば、生身の妙覚の仏が本来の位にあって衆生を利益しているのであり、このことが略開近顕遠の心なのである。

1 権実二法と実法の授与
一、権法と実法

 前文で釈尊と華厳経の菩薩・天人等との師弟関係について論じられたのに続き、この御文では最初に、釈尊と舎利弗・目連等の声聞達との師弟関係について述べられている。すなわち、菩薩・天人等が爾前経では釈尊の弟子ではなく、法華経で初めて弟子になったのに対して、声聞達は鹿野宛で小乗経が説かれた時以来の釈尊の弟子であった。なぜならば、既に不思議解脱に住して自ら別円二教を説いた菩薩・天人等とは違って、機根が未熟であり、外道・世俗の見にとらわれていた声聞達にとっては、小乗経ですら未聞の法だったからである。しかし、その声聞達も爾前経においては「権法」しか教えてもらえず、法華経に至って初めて「実法」を与えられた、と述べられている。
 ここではまず、天台大師の釈に基づき「権実」そのものの意義について触れ、その後に釈尊が声聞達に「実法を授与した」ということの意義について考察したい。
 天台大師は法華文句巻三下において、事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別の益・悉壇の十種の観点から「権実」の意義を明かしている。それを簡単に紹介すれば次の通りである。
 ①「事理の権実」とは、仏が究めた法を理と事に分け、実相の一理は常住である故に「実」、種々の事相にとって現れる一切法は、衆生の心・意・識の浄不浄の依存して定まらない故に「権」であるとする。
 ②「理教の権実」とは、仏が究めた法を理と事に分け、実相の一理は常住である故に「実」、種々の事相をとって現れる一切法は、衆生の心・意・識の浄不浄に依存して定まらない故に「権」であるとする。
 ③「教行の権実」とは、事理の二法を説き顕した教えを「実」とし、その教えに従ってなす行には進趣浅深がある故に、これを「権」とする。
 ④「縛脱の権実」とは、理に違っている行は虚妄の縛を生ずる故に「権」、理に順ずる行は解脱をもたらす故に「実」とする。
 ⑤「因果の権実」とは、因である空仮二観は中道の果に入るための方便道の故に「権」、中道の果は最終目的である故に「実」とする。
 ⑥「体用の権実」とは、仏・菩薩が実相に住して化他の用を起こす場合に、実相は体であるので「実」、化他の用は種々の変化がある故に「権」であるとする。
 ⑦「漸頓の権実」とは、化他の用を漸教と頓教とに区別し、体の実相を直ちに説く頓教は「実」、衆生を次第に誘引うるための漸教は「権」であるとする。
 ⑧「開合の権実」とは、仏の一代の化導において、最初に頓より漸をひらくのを「権」、後に漸より頓に合するのを「実」とする。
 ⑨「通別の権実」とは、漸教に通じて見られる無常の益は「権」、別して頓教によってもたらされる常住の益は「実」であるとする。
 ⑩「悉壇の権実」とは、世界・為人・対治の三悉壇は世間法の故に「権」第一義悉壇は出世間法の故に「実」であるとする。
 この十種の「権実」は、仏が、自らの証得する仏界の法を、九界の諸法にとらわれている衆生に対して開示していく種々の次元において、「権」と「実」に立て分けたものであり、仏界の法に近い面を「実」、九界の諸法に近い面を「権」としているといえよう。したがって、天台大師における「権実」については、次のような特質をうかがい知ることができる。
 ①「権」「実」は、仏の内証・化導から衆生の修行・得益に至る種々の次元において適用される多面的な立て分けである。
 ②衆生がとらわれている九界の諸法、あるいはそれを考慮しての仏の計らいに当たる面を「権」仏の内証である仏界の法そのもの、あるいは仏が衆生に対して仏界の法を開示する面を「実」とする。
 ③したがって、仏界の法を「実」とし、九界の諸法を「権」とする、いわゆる九権一実の立て分けが、種々の「権実」の立て分けの根本にある。
 御文に仰せの「権法」「実法」とは、まさに九界の権法と仏界の実法を示すと拝される。すなわち爾前諸経には九界の衆生の機根に合わせて説かれた随他意の教えである故に、所詮は九界の権法にとどまっている。これに対して法華経は、仏の境地をありのままに開顕し衆生に伝える随自意の教えである故に、仏界の実法を衆生に授与しているのである。
二、実法の授与とは
 迹門の開三顕一といっても、その内容は観点によって多岐にわたっている。いま、開三顕一の説法において示された主要な内容を挙げてみる。
   ①衆生の三乗への執着を破して、ただ仏智のみを称歎した。
   ②三乗のひとはすべて成仏すべき衆生であることを明かした。
   ③三乗の教を廃して、一仏乗こそ仏が出現した目的であることを明かした。
   ④三乗法の所詮の理は、すべて実相の一理に包摂されることを明かした。
   ⑤三乗の修行は、一仏乗のもとではすべて成仏のための菩薩行となることを明かした。
   ⑥三乗を説いているときでも、仏の本意は常に一仏乗にあったことを明かした。
 この他にも開三顕一の意義を示す説法内容があると思われるが、この辺でとどめておきたい。ここで言いたいことは、このような多くの角度から開三顕一の意義が示されることにより、衆生に一仏乗への信を生ぜしめることができたという点である。ここに法華経が、専ら一仏乗を開顕した純円の教えであるといわれる所以がある。そして、純円の教えである故に仏界の実法を衆生に授与しえたのである。
 そこで、迹門において釈尊が声聞達に仏界の実法を授与したという点を確認するために、舎利弗・目連等の声聞達が、迹門の開三顕一の説法をどのように受けとめたかということについて、経文にしたがってのべてみたい。
 まず説法周の声聞である舎利弗は、譬喩品第三において以下のように告白している。「今世尊に従いたてまつりて、この法音を聞いて心に踊躍を懐き、未曾有なるを得たり」
 「今、仏に従いたてまつりて、末だ聞かざる所の未曾有の法を聞いて、諸の疑悔を断じ、身意泰然として、快く安穏なることを得たり。今日乃ち知んぬ。真に是れ仏子なり、仏の口より生じ、法より化生して、仏法の分を得たり」「今柔輭の音、深遠に甚だ微妙にして、清浄の法を演暢したもうを聞きて、我が心おおいに歓喜し、疑悔永く已に尽き、実智の中に安住す」
 舎利弗のこれらの告白における共通点として次の三点を挙げることができる。
 ①「法」ないし「法音」を「聞いた」としていること。逆にいえば「聞く」ことによって「法」を受けとめたとしていること。
 ②この法を聞くことにより、これまでの「疑い」や「悔い」が晴れ、心身共に「歓喜」に満ちたとしていること。
 ③その結果「未曾有なる」もの、もしくは「仏法の分」を得、あるいは「実智」の中に住して、「真の仏子」になったとしていること。
 このような告白の意味するところは、舎利弗の得たものが、単に開三顕一の説法の趣旨を理解したという表面的なものではなく、仏から舎利弗へ、全生命的に伝えられたということであろう。すなわち、①は、「法」が仏の生命の響きとして直接的に伝えられ、舎利弗が仏の説法の声とともに、その「法」を聞いたということを意味し、②は、舎利弗の生命の変化を端的に示すものであり、③は、舎利弗がいまだかって聞いたことがない仏界の法を体験し、その中に住してもはや退くことがなくなったということであろう。
 実法の授与とは、まさに、三乗法のように分別して説くことはできない仏の境界そのものを、衆生に直接的に伝え、触れさせることではないだろうか。それ故に譬喩品第三において「一切の声聞、及び辟支仏は、此の経の中に於いて、力及ばざる所なり。汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って入ることを得たり、況や余の声聞をや、其の余の声聞も、仏語を信ずるが故に、此の経に随順す、己が智分に非ず」と説かれているのである。「己が智分」とは二乗の分別智である。仏の境界は分別しえない故に、舎利弗のようにいかに優れた分別智をもっていようと、それでは仏の境界に入ることはできない。信があって初めて仏の智慧と慈悲の世界に入ることができるのである。
 この点は、譬説周である目連・迦葉等の四大声聞の領解にも明らかである。すなわち、信解品第四において、彼等は次のように告白している。「我等今日、仏の音教を聞いて、歓喜踊躍して、未曾有なることを得たり。仏声聞、当に作仏することを得べしと説きたもう。無上の宝聚、求めざるに自ら得たり」
 「無上の宝聚」すなわち一仏乗とは、声聞としての分別智によっては得られず、「仏の音声」を「聞く」ことによって得られたのである。
 また彼等は次のようにも述べている。
 「我等今者、真に是れ声聞なり、仏道の声を以って、一切をして聞かしむべし、我等今者、真に阿羅漢なり、諸の世間、天人魔梵に於いて、普く其の中に於いて、応に供養を受くべし、世尊は大恩まします。希有の事を以って、憐愍教化して、我等を利益したもう」
 ここでは、四大声聞がかつての自利を求めて灰身滅智していく声聞ではなく、仏の体内に入り開会された真の声聞であることが示されている。すなわち、仏道の声を一切衆生に聞かしめていくのが真の声聞であるとしている。このように自己の智による計らいを捨てて、信を以て仏の境界に入ったことこそ、仏界の実法を授与されたということではないだろうか。そして、信を以て仏の世界に入りえたからこそ、声聞達に対して未来作仏の授記がなされたのである。しかし、これは決して得脱ではない。あくまでも仏語を信順して、自ら成仏を目指すべきことを領解したのであって、真実の成仏は、本門の説法を待たねばならなかったのである。
2 在世衆生の得脱
一、問題の所在

 次に御文では、諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・四天・竜王等の、不思議解脱に到達しながらも、法華経迹門において未文の法を聞いて、釈尊に初めて師事した衆生達と、鹿野宛以来の弟子であり、法華経迹門において成仏の記別を受けた舎利弗等の二乗達が、本門の略開近顕遠の説法を聞くことによって、得脱したことが示されている。すなわち本抄に「位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり」と仰せである。
 「位妙覚に隣り」とは、天台大師の法華玄義の 序王において「衆聖の権巧を発して本地の幽微を顕す。故に増道損生して位大覚に鄰る」と述べられているのを踏まえられたものと拝される。この文の「大覚」とはすなわち「妙覚」であり、その隣の位とは菩薩の最高位とされる「等覚」のことである。つまり天台大師は、在世衆生は法華経本門の一品二半における本地開顕の説法を聞くことによって、等覚位に至ったと解釈しているのである。この解釈は、以下の理由で、法華経の文上の説相に適ったものといえる。
 すなわち、本門正宗分の一品二半のうち分別功徳品第十七の前半では、在世衆生が開近顕遠の説法を聞いて得た境地を、種々に立て分けて明らかにしている。それらは基本的に「無生法忍」、つまり分々に無明を断じて、無生無滅の中道の理に安住して動じない境地であり、円教の五十二位でいえば十住・十行・十回向・十地・等覚がこれにあたる。しかし同品では、在世衆生が妙覚に至ったとは説いていない。したがって、開近顕遠の説法を聴聞した衆生が到達する位は等覚位なのである。
 このように法華経の説法においても、天台大師の解釈においても、在世衆生が開近顕遠の説法を聞いて至りえた位は、等覚位にとどまるのである。
 ところが、大聖人は更に「妙覚の位に入るなり」と述べられている。そして、このような御教示は本抄だけではなく他の御書にも拝することができる。例えば観心本尊抄では「本門に至つて等妙に登らしむ」(0249-16)と仰せである。「等妙」とは等覚と妙覚のことである。また祈禱抄でも「諸の大地微塵の如くなる諸菩薩は等覚の位まで・せめて元品の無明計りもちて侍るが・釈迦如来に値い奉る元品の大石をわらんと思ふに、教主釈尊・四十余年が間は『因分可説果分不可説』と申して妙覚の功徳を説き顕し給はず、されば妙覚の位に登る人・一人もなかりき・本意なかりし事なり、 而るに霊山八年が間に『唯一仏乗名為果分』と説き顕し給いしかば・諸の菩薩・ 皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等しく」(1349-09)と仰せである。この御文における「諸の菩薩」とは、華厳経以来の菩薩だけでなく、迹門で発心して初住位に至った二乗や天人等を含めての仰せと拝される。つまり法華経の会座に列した在世衆生は、すべて妙覚位に登ったと述べられているのである。
 では何故、大聖人は、一見すると法華経の説相とは異なる見解を示されたのであろうか。この問題は、大聖人が法華経本門における在世衆生の得脱の意義を、文底独一本門の立場からとらえて拝することによって、初めて判然するのであるが、以下においては、この点について考察していくことにしたい。
二、等覚と妙覚
 「等覚」「妙覚」とはいかなる境地をいい、また、両者との間にはどのような相違があるのであろうか。
 天台大師の法華玄義巻五上では、等覚について以下のように述べられている。
 「等覚地とは、無始の無明の源底を観達して辺際智満じ、畢竟清浄なり。最後窮源微細の無明を断じて中道の山頂に登り、無明の父母と別る。是を有所断者と名づけ、有上士と名づくるなり」
 つまり、等覚とは一切の煩悩の源である元品の無明を観ずる所まで到達している境地であり、覚知という点では妙覚と等しい故に“等覚”なのである。
 しかし、まだ元品の無明を断じてはいないから「有所断者」であり、したがってまた、中道実相の境地をいまだ成就していないので、それを成就した妙覚には及ばない。故に「有上の士」と名付けられるのである。
 次に妙覚については、同じく法華玄義巻五上に「妙覚地を明かさば、究竟の解説、無上の仏智なり。故に無所断者・名無上士と言う。是れ則ち三徳不縦不横にして究竟後心の大涅槃なり」と述べられている。すなわち、元品の無明を断じて無上の仏果を成就した境地が妙覚なのである。
 更に天台大師は、等覚と妙覚の相違を次のように明かしている。
 「等覚を妙覚に望めて因と為し、菩薩に望めて果と為す」
 「十住より去って真因と名づけ、妙覚を真果と名づく」
 すなわち等覚は、十地以下の法身の菩薩が目指す果であり、その限りで仏とさえいえるが、妙覚から見れば、まだ因の立場にとどまるのである。そして妙覚のみが真の果であるとされている。
 このように天台大師は、等覚について、十地以下の菩薩との相対のうえでは一応、覚者として認めているのであるが、妙覚との相対のうえでは決して覚者としては認めていないのである。
 これに対して、法華玄義巻五上で「『唯、仏と仏とのみ乃し能く諸法実相を究尽す』とは、即ち是れ妙覚の位なり」と述べているように、妙覚こそが唯仏与仏の実相を証得した境地であるとしている。また摩訶止観巻二下でも「分真即とは…初めて無明を破して仏性を見、法蔵を開きて真如を顕すを発心住と名づく。乃至、等覚は無明微薄にして智慧転た著る…究竟即の菩提とは、等覚一たび転じて妙覚に入る。智光円満して復増す可かざるを菩提の果と名づく。大涅槃断にいてさらに断ず可きなり果果と名づく、等覚は通ぜず。唯仏のみ能く通ず」と述べている。すなわち、初従位より等覚に至るまでを分真即とし、妙覚を究竟即とし、等覚と妙覚を明確に立て分けている。
 更に法華経でも、等覚以前の不退の法身菩薩の唯仏与仏の妙覚の仏とは、一仏乗の知・不知という基準によって明確に立て分けられている。すなわち方便品第二では「不退の諸の菩薩、其の数恒沙の如くにして、一心に共に思求するも、亦復知ること能わじ」と説き、法身の菩薩は一仏乗を覚っていないとしている。これに対して次下には「無漏不思議の、甚深微妙の法を、我今已に具え得たり、唯我のみ是の相を知れり。十方の仏も亦然なり」と説き、仏のみが一仏乗を知っていると断じている。
三、名字妙覚
 以上のように等覚と妙覚の相違は、因と果の相違、つまり菩薩と仏の相違に相当する。
 したがって、法華経の文上および天台大師の釈については、在世の衆生が等覚の位に至ったとし、本門の開近顕遠によって、到達し得る境地を示しているのであるが、それが、円融自在の境地を完成した、究極の仏果である妙覚との区別は従因至果の成仏観を前提としている。日寛上人は本抄の文段で「若し文の上の寿量品の意に拠れば、能化の教主、已に四十二品の無明を断じて妙覚究竟の位に入れり。能化既に爾なり、所化もまた爾なり」と述べられている。文上の寿量品における能化の教主とは久遠実成の釈尊である。この文上寿量品の仏とは、菩薩行を修行した結果としての五百塵点劫の久遠の昔に成道したとされる。
 つまり、修行の結果として「なった」仏、すなわち本果の仏として説かれているのである。したがって、所化の得脱もそのような従因至果の成仏観に準じて示されることになる。
 ところが大聖人が、在世の衆生について妙覚の位に入ったと仰せられているのは、文上寿量品とは異なった成仏観の上からの立義であると拝されるのである。その点について日寛上人は本抄の文段で次のように仰せである。
 「若し本化付嘱の内証の寿量品の意に拠れば、能化の教主、五百塵点の当初、凡夫の御時、本地難思の境智の妙法を則座に開悟し、名字妙覚の成道を唱るなり。これを本地自行の成道と名づくるなり。能化既に爾なり。所化もまた然なり、これ則ち不断煩悩・不離五欲・凡夫即極・即身成仏の極説なり。
 ここに仰せの「内証の寿量品」の内容について拝察すると、
 ①内証の寿量品の能化と教主成道の時は、文上寿量品に示された五百塵点劫の久遠ではなく、その「当初」、すなわち「久遠元初」である。「久遠元初」とは、五百塵点劫久遠における成道よりも更に根源的な成道を示している。
 ②根源的な成道とは、凡夫のままで即座に「本地難思の境智の妙法」を開悟することをいう。この「本地難思の境智の妙法」とは、あらゆる仏の根源である種子の法体である。
 ③根源の成道と相対すれば、文上寿量品に示された五百塵点劫久遠における釈尊の成道は、垂迹化他のために示す種々の力用の本源としての「本果」を成就したことを意味する。この文上の寿量品における最も根源的な成道、つまり種子の法体を即座に開悟すうことによる成道を「本因」の成道という。また、この両者の関係をとらえると、本因の成道が「本地自行」であるのに対し、本果の成道は「垂迹化他」の辺に配される。
 ④内証の寿量品における成道の位に約せば、凡夫の位において直ちに種子の法体を覚知して妙覚の位に至るのであり、断惑による次位の次第がない。これを「名字妙覚」という。名字とは、天台大師の六即の第二位の名字即のことであり、仏の教えを聞いて一切法は皆これ仏法なりと信解するが、いまだ断惑していない位である。内証の寿量品における成道は、断惑を経ずして直ちに妙覚に至る故に名字妙覚というのである。日寛上人が仰せの「不断煩悩・不離五欲・凡夫即極・即身成仏」とは、まさに名字妙覚の義を表す。
 以上のことから明らかなように、内証の寿量品における能化の教主の成道の在り方は、文上の寿量品における能化の教主の成道の在り方とは異なる。したがって、それぞれの所化の衆生の成道の在り方も、当然異なるのである。
 つまり、文上の寿量品においては、一切の惑を断じて成就された本果を妙覚とし、その成就をもって成道とし、その所化の衆生の得脱は菩薩の最高位である等覚にとどまるのである。これに対して内証の寿量品においては、名字凡夫において直ちに妙覚を成就する。そして、在世の衆生が妙覚の位に入ったとするのは、この内証の寿量品の立場に立ってのことなのである。この点について日寛上人は本抄文段で、「然れは則ち内証の寿量品の眼を開いて、還って在世の本門の得益を見る則は、始め発心より終わり補処に至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るなり」と仰せである。「発心」とは初住位、「補処」とは等覚位である。本門における在世衆生の得益は、初住位から等覚位に至る種々の段階が説かれているが、内証の寿量品の眼をもって見れば、断惑の浅深応ずるそれらの諸段階がすべて払われて等しく久遠名字妙覚の位に入ったことになるのである。
 もちろん彼等が直接的に聴聞した教えは、文上の寿量品である。しかし彼等は、それまでの熟益の化導によって仏種が純熟していたため、文上の寿量品を通じて内証の寿量品の意を領解したのである。この点について日寛上人は当流行事抄で「等覚に登らしむとは即ち体外の意なり。妙覚に登らしむとは、即ち体内の意なり。…妙覚に至る人は都て経文に之無きなり。然るに体内の意は霊山一会の無量の菩薩、体外の寿量を聴聞して但文上脱迹を信ずるのみに非ず。復文底秘沈の種本を了して久遠元初の下種の位に立ち還りて、本地難思の境智の妙法を信ずるが故に、皆悉く名字妙覚の極意に至るなり。是れ即ち体内得脱の相なり…文底の眼を開いて還って彼の得道を見れば、実に久遠下種の位に還って名字妙覚の極意に至る、此れ即ち真実の跨節の断惑なり」と論じられている。体内・体外とは、同じ文上寿量品についても、文底の意を知らずに聞く文上の寿量品を体外といい、文底の意を表すものとして聞く文上の寿量品を体内というのである。
 在世の衆生は仏種が純熟している故に、文上寿量品を聞いて文底の意を領解したのであり、それにより、種子の法体たる本地難思の境智の妙法を信じて久遠下種の位に立ち返り、名字妙覚の極意に至り得たのである。
 したがって、在世衆生が妙覚の位に入ったというのは、いったん久遠下種の信心の位に立ち返って、そこから名字妙覚の成道を遂げたということであって、十住ないし十地・等覚から段階的に妙覚に上ったのではない。故に日寛上人は本抄文段において、「始終の不変なるを名づけて妙覚となす。而も少しも変わらざるが妙覚の実体なり、謂く『雖脱在現・具謄本種』の本因妙・久遠常住にして『等覚一転・名字妙覚』の成道を唱うるが真実の妙覚なり」と仰せである。
 「雖脱在現・具謄本種」とは、妙楽大師の法華文句記巻一上の文であり、「脱は現に在りと雖も具さに本種を謄ぐ」と読む。「謄ぐ」とは、馬が跳ね上がることを原意とし“高く上がる”“登る”等の意味を持つ言葉である。つまり「雖脱在現・具謄本種」とは、在世衆生は現在の本門寿量品において得脱したけれども、その得脱の本因を詳しく尋ねれば、久遠の本種にさかのぼる、との意である。日寛上人はこれを、在世衆生がいったん久遠下種の信心の位に返り、文底下種の本因妙によって得脱しえたことを示す文として用いられているのである。故に文底秘沈抄では「脱益は是れ一往なり、故に雖脱在現と云い、下種は是れ再往の具謄本種なり」と述べられている。
 また「等覚一転・名字妙覚」とは、当門流の相伝であり、在世衆生の真の得脱を要約した言葉である。すなわち、在世衆生は文上脱益の化導によって等覚に至ったが、文底の意を領解して一転して久遠下種の信心に返り、その信心によって名字妙覚の位に登ったことが示されているのである。
 このように熟脱の化導を受けた在世衆生であっても、成道の根本は本地難思の妙法の下種にあり、その下種の法体を信解することによって、名字即の位から次第を経ずに即身成仏することはできたのである。
 末法においては文上を払って、一切衆生の成道の本源たる下種の法体そのものが直ちに弘通される。故に、本抄では大聖人の配立の広開近顕遠の一品二半、すなわち内証の寿量品を明らかにされているのである。
四、生身妙覚の仏の利益
 御文では最後に、「若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本意に居して衆生を利益する是なり」と述べられ、法華経本門の略開近顕遠による在世衆生の得脱を明かされた第九段をむすばれている。
 「若し爾れば」とは、“菩薩・二乗・梵天・帝釈・日月等のすべての在世衆生は、本門の略開近顕遠の説法により内証の寿量品を覚って妙覚の位に入ったのであるから”との意である。そして、その妙覚位に入った在世衆生の中から、特に日月等に焦点を当てて「今我等天に向つて之を見れば」云々と仰せである。すなわち、今、現実に天空にあって輝いている太陽、月などは、その本位においては妙覚の仏であり、その妙覚の仏が衆生を利益している姿に他ならないとされる。
 日寛上人は本抄文段において、「生身の妙覚の仏とは「名字妙覚の仏」であり、また、「本位に居して」の「本位」とは本来の久遠名字の妙覚の位を指し、「居」は本位を動くことがないという意である。と仰せである。そのうえで日寛上人は、上の文意を次のように示されている。
 「文意に云く、既に本門に至って諸菩薩乃至日月等、皆久遠名字の妙覚の位に入る。若し爾れば生身の妙覚の仏、久遠名字の本意を動ぜずして、常恒不退に衆生を利益したまうなり云云」
 「生身」とは「法身」に対する語で「法身」が妙法それ自体を体とする身を意味するのに対して、「生身」は天界、人界等の身をもって現れている姿を指す。「生身の妙覚の仏」とは「生身」のまま妙覚の位に入った仏ということであり、したがって、名字凡夫のまま妙覚の位に入った「名字妙覚の仏」を意味する。法華経本門の会座におけるすべての在世衆生が、名字妙覚の位に入ったということは、それぞれの「生身」の本意が妙覚の仏であるという、生命の本有の相が明らかになったということであり、その本有の相の上から、今、現実に天空に輝いている太陽や月は、妙覚の仏が衆生を利益する姿とされるのである。
 天空にある日・月・衆星等の天体は何らかの意味で、地上の我等衆生の生存に不可欠の深い恩恵をもたらしている。それは、久遠名字の妙法を覚知して妙覚の位に入っている故に現すことができる。本有の慈悲の姿なのである。
 日寛上人の本抄文段では、次下に法蓮抄、四条金吾釈迦仏供養事、国府尼御前御返事から三文を引用されたうえで、次のように述べられている。
 「所詮・本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん云云」
 「本因妙の教主釈尊」とはすなわち久遠名字妙覚の仏である。寿量品文上の教主釈尊は久遠実成の本果の仏であるが、日寛上人は三抄の御文から、本因妙の教主と日月と日蓮大聖人は、名は異なるが体は同じであるとされているのである。以下においては、引用された三抄から御文を拝察して、日寛上人の仰せを確認してみたい。
   ①法蓮抄
 日寛上人の引用は次の御文である。
 「一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり…」(1050-14)
 「一一の文字」とは、具体的には法華経寿量品の自我偈の文字を指すが、法華経のすべての文字と拝してよいであろう。つまり「法華経の文字」「日輪」「釈迦如来」の三者は一体であると仰せなのである。法蓮抄では、この仰せの直前に、次のようにも仰せられている。
 「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」(1050-09)
 すなわち、この御文では「法華経の文字」は即ち「生身の仏」であること、また、そうとらえることができるのは「仏種・純熟せる人」であること、が示されている。仏種が純熟している人とは、久遠元初の下種を覚知して妙覚の位に入った人を指していると拝されよう。
 つまり、仏種が純熟している人にとっては「法華経の一一の文字」は即ち生身の仏であり、「日輪」もその本位は妙覚の仏であり現実には妙覚の仏と顕れた「釈迦如来」と等しいことが分かるのである。したがって「法華経の文字」「日輪」「釈迦如来」は、すべて等しく久遠名字の妙法を体とするのである。
 なお、法蓮抄では上掲の御文の後に、末法において法華経を受持・弘通する日蓮大聖人の御振る舞いを示された上で大聖人の御境地を「当に知るべし此の国に大聖人有り」(1053-18)と明ともされている。これは、御自身こそが久遠名字の妙法を所持している末法の御本仏であることを示されていると拝される。
   ②四条金吾釈迦仏供養事
 日寛上人の引用は次の御文である。
 「大日天子と申すは宮殿七宝なり其の大さは八百十六里・五十一由旬なり、其の中に大日天子居し給ふ、勝無勝と申して二人の后あり左右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天女まします・七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う、他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事・耳にこれを・きくとも愚眼に未だ見えず、是は疑うべきにあらず眼前の利生なり教主釈尊にましまさずば争か是くの如くあらたなる事候べき、一乗の妙経の力にあらずんば争か眼前の奇異をば現す可き」(1145-11)
 この御文の中に大日天子が「四天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う」と述べられており、このことが、「是くの如くあらたなる事」であり、また「眼前の利生」「眼前の奇異」なのである。「利生」とは衆生利益のことである。日天が日々新たにめぐり衆生を利益するのは「教主釈尊」の利益であり、「一乗の妙経の力」が現であるとされている。したがって「大日天子」はすなわち「教主釈尊」であり「一乗の妙経」なのである。
 また、同文には「他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事・耳にこれを・きくとも愚眼に未だ見えず」とあり、他の仏・菩薩・天子等の利生の凡夫の眼には見えないが、それに対して疑う余地のない眼前の利生が大日天子の場合である、と仰せられている。また同抄では更に、「日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり」(1146-01)とも仰せられている。つまり、日天だけに限らず、月天も我等衆生の眼前に衆生利益の働きをおこしているのであるといわれ「教主釈尊にましまさずば争か是くの如くあらたなる事候べき」とおおせられている。
 ここでの「教主釈尊」とは「久遠名字妙覚の仏」であり、また「一乗の妙経」とは根源的な要法である「久遠名字の妙法」にほかならないであろう。
 また同抄では、「一念三千」の魂魄を入れた仏像は「生身の仏」であり、この一念三千の魂の入った仏を受持・供養している人は、必ず「梵・帝・日月・四天等」が守護すると述べられている。
   ③国府尼御前御書
 日寛上人の引用は次の御文である。「日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」(1325-09)との御文を引用されている。①②の二文によって「日月」もまた、その本位は「久遠名字妙覚の仏」に他ならないことが示唆されたわけであるが、この国府尼御前御書の御文では、大聖人自身が「日月にかげをうかぶる身」であると仰せである。これは、日蓮大聖人御自身が「久遠名字妙覚の仏」であることが示唆されているのである。
 以上の三文から、本因妙の教主釈尊と日月と日蓮大聖人とは、日寛上人が仰せの通り「一体異名」であることが明らかになる。
 したがって、本抄に仰せの「生身の妙覚の仏」とは、末法において久遠名字の仏として衆生を利益される、御本仏・日蓮大聖人御自身を示唆されていると拝することができるのである。

0334:15~0335:10 第十 広開近顕遠の末法正意を明かすtop

 本段では、二つの問答によって、法華経本門の正宗分の一品二半が、末法のために説かれたことを明らかにされている。
 最初の問答では「広開近顕遠」を説いた「寿量品の一品二半」は、
   ①「滅後衆生の為」に説かれた
   ②「滅後の中には末法今時の日蓮が為に説かれた
 ことを明かされている。
 ここに仰せの「寿量品の一品二半」とは、いうまでもなく、先に述べられた大聖人所立の「広開近顕遠の一品二半」のことであり、広開近顕遠を正説している寿量品がその中心であるゆえに「寿量品の一品二半」と呼ばれたのである。
 第二の問答では、最初の問答の仰せを証明する文証として、法華経より六文、涅槃経より一文、計七文を引用されている。
 これら七文を通じて、本門正宗分の略開近顕遠の一品二半、特に広開近顕遠を正説した寿量品が、末法衆生を「重病」から救う「良薬」を説いていること、そして、その「良薬」こそが末法に流通されるべき法体でなることが明らかになる。
 これを受けて、本段では最後に、末法衆生の「第一の重病」とは法華経に対する「謗法」であり、それを救う「第一の良薬」、つまり末法流通の法体とは「南無妙法蓮華経」に他ならないことを明かされている。

0334:15~0334:16 その一top
15   問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、 答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで
16 正く滅後衆生の為なり 滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり、
-----―
 問うて言う。釈尊は誰のために広開近顕遠の寿量品を説いたのか。
 答えて言う。寿量品を中心とした広開近顕遠の一品二半は初めから終りに至るまで、まさしく釈尊滅後の衆生のために説かれたのである。滅後の中では、末法今時の日蓮等のためである。

末法のために説かれた寿量品
 上掲の御文の聞答では、釈尊が誰のために「広開近顕遠の寿量品」を演説したのか、との問いに対して「寿量品の一品二半は始より終に至るまで正しく滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」と答えられている。
 まず、問いの御文においては「広開近顕遠の寿量品」と仰せであるのに、答えの御文では「寿量品の一品二半」と仰せられている点にのべておきたい。
 問いの御文は「広開近顕遠の寿量品」とは、先に、「本門に於て二の心有り一には湧出品の略開近顕遠…二には湧出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く」と述べられたのを受けての表現であることは明らかである。ただし「広開近顕遠の寿量品」と言われているところに、本段の主題が含意されていると拝される。なぜならば、大聖人配立の広開近顕遠の一品二半のうち、正しく広開近顕遠を明かしたのは寿量品であって、湧出品の後半は広開近顕遠の寿量品を説く契機となる部分、分別功徳品の前半は、広開近顕遠による在世衆生の得脱を明かす部分だからである。
 前項で述べたように、本段の主題は「南無妙法蓮華経」が末法流通の法体であることを明かすことにあり、それは寿量品の文底に秘沈されているのである。つまり、問いの御文における「広開近顕遠の寿量品」とは、末法流通の法体である「南無妙法蓮華経」の能詮の辺を指示した表現なのであり、その意味で、先に第八段を配する中でのべた「内証の寿量品」とまったく同義であると拝される。
 したがって、答えの御文における、「寿量品の一品二半」も、「広開近顕遠の寿量品」を言い換えたものであるから、「内証の寿量品」を意味することにはかわりはない。しかし、あえて「一品二半」と仰せられているのは、湧出品の略開近顕遠が在世衆生の得脱のために説かれたのに対して、湧出品の動執生疑からの一品二半は、まったく滅後の衆生のために説かれた寿量品を中心にしている意を込めて、「寿量品の一品二半」と表現されたと拝される。故に「始めより終に至るまで」と強調されているのである。
 末法流通の法体たる「南無妙法蓮華経」が秘沈されているのは寿量品の文底であり、その文底の意から見た寿量品を「内証の寿量品」という。
 ところが、湧出品後半の動執生疑の部分では、その後の寿量品が滅後の衆生のために説かれることが示された。また、分別功徳品の前半に説かれる在世衆生の得脱も、前段の御文を配する中で述べたように、文底の意においては久遠名字の妙法たる「南無妙法蓮華経」を覚知することによるものである。
 したがって、両半品は、文底の意の上からは「内証の寿量品」を含めることができるのである。つまり、広開近顕遠の一品二半の全体が、末法流通の法体である「南無妙法蓮華経」を明かすためのものとうえるのである。
 次に、「広開近顕遠の寿量品」=「寿量品の一品二半」が誰のために説かれたか、という問いに対して、まず「始より終に至るまで正しく滅後衆生の為」と答えられ、更に「滅後の中には末法今時の日蓮が為」と答えられて、二意を明かされている。
 この両意はいずれも、釈尊が寿量品の一品二半を誰のために説いたのか、ということが明かされているのである。だが、前半の答えが、法華経の文の上にうかがえる釈尊の仏意を明示されたものであるのに対し、後半の答えは、単に文の上にとどまるのではなく、法華経の説相とそれに合致しる事実。すなわち法華経の予言とその通りの値難 の上から、日蓮大聖人御自身が釈尊より付嘱を受けた上行菩薩の再誕である、との御確信を示されていると拝される。
 その上で第二の問答では、重病の末法衆生を救う大良薬が南無妙法蓮華経であり、それを弘めている大聖人自身が、その内証においては末法の仏であることを示されていくのである。

0334:16~0335:07 その二top
16                                疑つて云く此の法門前代に未だ之を聞かず経文
17 に之れ有りや、 答えて曰く予が智前賢に超えず設い経文を引くと雖も 誰人か之を信ぜん卞和が啼泣・伍子胥が悲
18 傷是なり、 然りと雖も略開近顕遠・動執生疑の文に云く 「然も諸の新発意の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を
0335
01 聞かば或は信受せずして 法を破する罪業の因縁を起さん」等云云、 文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪
02 道に堕せん等なり、 寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く」等云云、 文の心は上は過去の事を説くに
03 似たる様なれども此の文を以て之れを案ずるに 滅後を以て本と為す先ず先例を引くなり、 分別功徳品に云く「悪
04 世末法の時」等云云、 神力品に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以つての故に 諸仏皆歓喜して無量の神
05 力を現じ給う」等云云、 薬王品に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して 閻浮提に於て断絶せしむ
06 ること無けん」等云云、 又云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、 涅槃経に云く「譬えば
07 七子の如し父母平等ならざるに非ざれども 然も病者に於て心則ち偏に重し」等云云、
-----―
 疑つて言う。この法門は前代にいまだ聞いたことがない。経文のどこにこのことが説かれているのか。
 答えて言う。私の智慧では前代の賢人を超えないので、たとえ経文を引いたとしても誰が私の言を信じるであろうか。その悲しさは、昔、楚の卞和が正しいことが受け入れられないために声をあげて泣き、呉の伍子胥が諌めを聴きいれられないために心をいためたのと同じである。
 しかしながら湧出品の略開近顕遠・動執生疑の文には「しかも諸々の初めて発心した菩薩は、釈尊の滅後においても、もしこの言葉を聞いたならば、あるいは信受せずに法を破る罪業の因縁を作るであろう」等とある。
 この文の意味は釈尊が寿量品を説かなければ、末代の凡夫は皆悪道に堕ちてしまうであろう、ということである。
 そして寿量品には「是の好き良薬を、今留めてここにおく」等と説かれている。
 寿量品においてこの経文の前に説かれた広開近顕遠の内容は、過去の事を説いたようだけれども、この経文をもって考えてみれは、釈尊の滅後を本意としているのである。これはまず過去の例を引いたのである。分別功徳品に云く「悪世末法の時」等とある。
 神力品には「仏の滅度の後によく法華経を持つ故に、諸の仏は皆歓喜して無量の神力を現わされるのである」等とある。
 薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳のうちに法華経を広宣流布して、閻浮提において断絶させることがあってはならない」等とあり、更に「この経はすなわち閻浮提の人の病の良薬である」等とある。
 涅槃経には「たとえていえば七子のようなものである。父母は七人の子に対して平等でないことはないが、病気の子に対しては特に重く心をかける」等とある。

本門の末法正意を証する経文
 この問答では、前の問答における大聖人のお答え、すなわち“広開近顕遠の寿量品は滅後衆生のため、滅後の中でも末法のために説かれた”ということを証明するために、七つの経文引用されている。そのうち、初めの二文は法華経本門正宗分の湧出品からの引用、次の四文は本門流通分の分別功徳品・神力品・薬王品からの引用、最後の一文は涅槃経からの引用である。これら七文を通じて、末法衆生の「重病」を救う「良薬」が明らかにされていくのである。
 以下、それぞれの経文の意義を拝察していきたい。
一、卞和が啼泣・伍子胥が悲傷
 上掲の御文では、まず、自分のようなものが経文を引いて示しても容易に人々から信受されないであろう、との悲しみの御心情を明かされて「予が智前賢に超えず設い経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん卞和が啼泣・伍子胥が悲傷是なり」と述べられている。
 「卞和が啼泣・伍子胥が悲傷」とは、誠言が受け入れなかった中国の人々の故事である。
 卞和とは、下邑出身の和氏のことで、中国・周代の人である。韓非子和氏篇によれば、下和は荊山で玉璞という宝石を得て周の厲王に献上した。しかし、鑑定人はただの石と鑑定したので、下和は王を欺く者とされ、左足を切られてしまった。次に武王が即位したとき、下和は再び玉璞を献上したが、また、ただの石と鑑定され、今度は右足を切られてしまった。次に文王が即位したとき、下和は楚山の麓で三日三晩、声を上げて泣き、ついに涙が涸れて血を流して泣いた。それを聞いた王が訳を尋ねたところ、下和は「自分は両足が切られたから悲しいのではない。正直者なのに、たばかり者とされたことが悲しい」と答えた。そこで王が玉璞を磨かせたところ、素晴らしい宝石となった。
 伍子胥は春明時代の末に、呉の国の策略家として活躍した人物である。春秋左氏伝等によれば、呉が斉を討とうとしたとき、越王の句践が贈り物をたずさえて挨拶にきた。呉の人々は喜んだが、伍子胥だけは呉王の夫差に「越が従順な態度で我が国に仕えているのは、我が国を滅ぼさんとする野望のためである。斉を討つよりも、いまのうちに越を討たなければ、わが国はきっと滅びるであろう」と諫言した。夫差がこれを聞き入れなかったため、伍子胥は、我が子だけは、いずれ滅びる呉から逃れさせようと斉の知人に預けて改姓させた。これを聞いた夫差は奸臣の讒言もあって、伍子胥に剣を与えて自害させた。伍子胥は死ぬときに「我が墓に梓の木を植えよ。呉が滅びるときに王の棺を作る材料となるであろう」と言い残したという。11年後、呉は越に滅ぼされ、夫差は自害した。
 このように「卞和が啼泣」も「伍子胥が悲傷」も、真実が聴き入れられない故の悲しみを意味する。大聖人は、法華経が末法のために説かれたことを経文を引いて証明しても、末法の衆生は容易に信じないであろうことを知られているので、その悲しみを、これらの故事をもって示されているのである。
二、略開近顕遠・動執生疑の文
 法華経本門が末法のために説かれたことを証する文として、最初に従地涌出品第十五の次の文が引用されている。
 「然も諸の新発意の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を聞かば或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん」
 この文は湧出品における弥勒菩薩の疑請の中の文であり、「是の語」とは、同品において釈尊が略して開近顕遠を明かした「我久遠より来是れ等の衆を教化せり」との言葉を指す。この略開近顕遠の言葉を聞いて法華経会座の衆生が動執生疑したため、弥勒菩薩が代表して会座の衆生の疑いを述べ、釈尊に詳しい説法を請うたのが弥勒菩薩の疑晴である。そして、この請いに応えて、釈尊は寿量品において広開近顕遠を説いたのであった。
 大聖人が湧出品の弥勒疑晴の文の中でも、特にこの経文を引用された意は、広開近顕遠の寿量品が、大聖人の滅後における新発意の菩薩のために説かれることが明示されているからである。その新発意の菩薩のために説かれることが明示されているからである。湧出品の略開近顕遠だけでは、かえって疑いにとらわれ「法を破する」という最も重い罪業を犯すかもしれない衆生なのである。したがってこの経文は、大聖人が本抄において、「文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり」と釈されているように、寿量品が釈尊滅後の衆生の中でも、特に、謗法によって悪道に堕していく末法の衆生を救うために説かれたものであることを示しているのである。
 なお、この経文について、天台大師も法華文句において、「然諸菩薩の下は、第二に未来の浅行は喜んで誹謗を生ずるが為なり。新発意の者は、謗って悪道に堕す。不退の者は信じて謗らずと雖も、道すること能わず。若し為に分別せば、謗る者は則ち信を生じ、信ずる者は則ち道を増さん」と釈し、寿量品が未来の誹謗者を救うために説かれたことを示唆している。
三、寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く」の文
 次に、如来寿量品第十六の良医病子の譬の中にある「是の好き良薬を今留めて此に在く」との文が引用されている。
 良医病子の譬は、釈尊が真実に常住不滅の仏であるが、衆生教化のための方便として涅槃を現ずること、つまり「方便現涅槃」を譬喩によって説明したものである。
 それによれば、良医が、毒を服して苦しんでいる病子に良薬を与えて救おうとするのであるが、その病子は、本心を失っていない者と、毒気に深く侵されて本心を失った者とがいた。本心を失っていない病子は良薬をすぐに服し、病を癒すことができた。しかし、本心を失った病子は、父の良医が勧めても良薬を服そうとはしない。そこで、良医は他国に旅立ち、使者を遣わして自分が死んだと伝えさせた。頼るべき父を失って嘆き悲しんだ病子達は、その悲しみの果てについに目覚め、良医が置き残していった良薬を服し、病を治すことができた。良医は、死を方便として、本心を失った病子を救ったのであった。
 本抄で引用されている「是の好き良薬を今留めて此に在く」の文は、良医が旅立つ前に、本心を失った病子達に言い残した言葉であり、仏が滅後の衆生を救う良薬を寿量品に留め残したことを示している。故に大聖人は本抄で、この文の意を「文の心は上は過去の事を説くに似たる様なれども此の文を以て之れを案ずるに滅後を以て本と為す先ず先例を引くなり」と明かされている。「上」とは、良医病子の譬の前に説かれていた寿量品の内容を指していると拝される。その内容とは、釈尊が始成正覚の迹を開いて五百塵点劫の久遠以来の本地を明らかにしたこと、すなわち広開近顕遠である。
 この広開近顕遠は、五百塵点劫久遠という過去のことを説いているように見えるけれども「是好良薬。今留在此」の文をもってその意義を考えてみれば、広開近顕遠はまさに、滅後の衆生を救うために説かれたことが明らかになるのである。
 また「先ず先例を引くなり」の「先例」とは“過去の例”ということで、寿量品では本来の衆生の成仏のために、まず五百塵点劫久遠の過去における釈尊の成道を例として説いた、ということであると拝される。
 それでは何故、五百塵点劫久遠における釈尊の成道、つまり久遠実成が、未来の衆生の成仏の先例になるのであろうか。
 この点について日寛上人は本抄文段において次のように仰せである。
 「『過去の事』とは、釈尊久遠五百塵点の昔、本因妙の修行に由って本果の成道を唱うるという事なり。『滅後を以て本と為す先ず先例を引くなり』とは、滅後末法の衆生、本因妙の修行に由って本覚無作の成道を唱えんこと、例せば釈尊の如し等云云」
 五百塵点劫の久遠における釈尊の本因妙の修行は、寿量品に「我本行菩薩道」と説かれているが、この文の文底に一切の因行・果徳を具足する根本の法体、すなわち妙法蓮華経の五字が秘沈されている。久遠における本果の成道も、この妙法蓮華経の五字によるものなのである。
 この妙法蓮華経の五字こそ、本心を失った病子たる末法の衆生のために留め置かれた「良薬」なのであり、末法の衆生はこの「良薬」によって成道することができるので、久遠における釈尊の成道は、末法の衆生の「先例」となるのである。故に観心本尊抄では「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(0251-09)と仰せである。
四、分別功徳品の文
 第三に、分別功徳品第十七の「悪世末法の時」との文を引用されている。この文は、本門流通分にあたる同品の後半のうち、滅後の五品を頌える偈の中にある。
 滅後の五品とは、釈尊滅後における法華経受持の在り方を随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品の五種に分けて説いたものである。これらの五品の修行は、随喜の心を根底とする法華経受持の深まりの度合いを分別したものであり、総じて法華経受持の修行であるといえる。
 「悪世末法の時」の文は、第二の読誦品の功徳を明かす偈に出ている、この文から、分別功徳品において説かれた五品の功徳の元意は、滅後の中でも特に「悪世末法」における法華経受持の功徳を説いたものであることが明らかになるのである。
 また、本門流通分の場合の法華経受持とは、寿量品で広開近顕遠が説かれた後の法華経の受持を意味する。したがって、分別功徳品に「悪世末法の時」とあることは「広開近顕遠の寿量品」が「末法」のために説かれたことを明示しているといえるのである。
五、神力品の文
 第四に、如来神力品第二十一の「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以つての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給う」との文を引用されている。
 この文は、同品において釈尊および十方諸仏が現じた十神力を頌える偈の中にあり、十神力が釈尊滅後の法華経受持のために現されたことを明かしている。
 十神力とは、
   ①出広長舌  釈尊・諸仏が梵天に届く広長舌を出したこと
   ②通身放光  釈尊・諸仏が毛孔から光を放ったこと
   ③謦欬    釈尊・諸仏が一斉に咳払いをしたこと
   ④弾指    釈尊・諸仏が一斉に指を弾いて鳴らしたこと
   ⑤地六種震動 謦欬・弾指の音で十方の大地が六種に震動したこと
   ⑥普見大会  会座の衆生が十方の諸仏を普く見ることができたこと
   ⑦空中唱声  諸天が声高く賛嘆の言葉を唱えたこと
   ⑧咸皆帰命  十方の衆生が一斉に南無釈迦牟尼仏と唱えて帰命したこと
   ⑨遙散諸物  十方世界から種々の宝物が娑婆世界に散ぜられたこと
   ⑩十方通同  十方世界の隔てがすべて払われて一仏土となったこと
 である。
 天台大師は法華文句において、十神力について「現を表し将を表す」としている。また十神力それぞれの意義を釈して、前の五神力については主として在世の衆生のためとし、後の五神力については、法華経を付嘱された諸菩薩の化導によって未来に実現されることの相を表すものとしている。しかも、この未来の諸菩薩の化導についても、天台大師は、神力品で結要付嘱を受けた本化地涌の菩薩による化導だけではなく、属累品で摩頂付嘱を受けた迹化および他方の菩薩による化導も含めている。
 しかし、大聖人は観心本尊抄で「此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与し給うなり前の五神力は在世の為後の五神力は滅後の為なり、爾りと雖も再往之を論ずれば一向に滅後の為なり」(0252-09)と仰せである。すなわち十神力は寿量文底の法体である妙法蓮華経の五字を、上行等の四菩薩に結要付嘱するために現されたのであるから、十神力を在世と滅後の両意に配するのは一往の釈であって、再往はすべて滅後のためであると釈されるのであり、しかもその本化の菩薩が出現する末法のためとされるのである。
 そして同抄では、その再往の釈の文証として、神力品の「仏滅度の後に能く此の経を持たんを以ての故に」との文を挙げられているのである。
 したがって、本抄でこの文を引用された大聖人の意は、十神力が専ら、結要付嘱を受けた上行等の地涌の菩薩による滅後の化導のために現されたことを、示されることにあると拝される。更に言えば、これによって、「末法」の凡夫を救うために寿量品に留め置かれた「良薬」とは、上行菩薩が所持する妙法蓮華経の五字、すなわち南無妙法蓮華経に他ならないことを暗示されていると拝される。
六、薬王品の二文
 薬王菩薩本事品第二十三からは二つの経文が引用されているが、そのうち最初に引用されている「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶せしむること無けん」との文は、釈尊の滅後の中でも特に「後の五百歳」=「末法」における「閻浮提」への法華経の「広宣流布」を予言した仏の未来記である。
 次に引用されている「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」との文は、前の文で「断絶せしむること無けん」との理由を示されたものであり、それは法華経こそが、閻浮提の人の病を治す「良薬」だからであるとされている。大聖人はこの文を引用されることによって、末法のために寿量品に留め置かれた「良薬」、すなわち寿量文底の法体である南無妙法蓮華経こそ、末法の一閻浮提の衆生を救うために広宣流布すべき法体であることを示唆されていると拝される。
 大聖人は顕仏未来記の冒頭で、釈尊の未来記としての前の文を引き「亦一たびは喜んで云く何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや」(0505-03)、「如来の未来記汝に相当れり」(0508-01)等と仰せである。すなわち、この薬王品の文にあたっている人は大聖人御自身にほかならないとされている。また御講聞書では「地涌千界の出現・末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云」(0840-一日蓮己証の事)と仰せである。
 すなわち、上行菩薩たる日蓮大聖人が、釈尊より寿量文底の南無妙法蓮華経を付属され、それを末法万年までの一切衆生に「取り次ぐ」ことが「断絶せしむること無けん」の文の意であるとされている。
七、涅槃経の文
 最後に涅槃経より「譬えば七子の如し父母平等ならざるに非ざれども然も病者に於て心則ち偏に重し」との文を引用されている。この文は、大涅槃経巻二十・梵行品第八にあり、阿闍世王と耆婆の対話の中における耆婆の言葉の趣意である。
 父を殺した過去の罪に悩んでいた阿闍世王は、虚空より聞こえてきた父・頻婆娑羅王の「汝今当に耆婆が所説に随うべし。邪見の六臣の言に随うこと莫れ」との声を聞いて、悪瘡が増劇し悶絶して地に倒れた。これを見通した釈尊は、「我今当に是の王の為に世に住し、無量劫に至るも、涅槃に入らざるべし」と述べて、阿闍世王のために月愛三昧に入り、大光明を放って阿闍世王の悪瘡を冶した。身瘡の癒えた阿闍世王が耆婆に、この光明の意義を問うたのに対して、耆婆は「先に王の身を治し、然して後に心を治すなり」と述べ、更に「例えば一人に七子有り。是の七子の中の一子、病に遇わんに、父母の心平等ならざるに非ざれども、然も病子に於いて心則ち偏に重きが如し。大王、如来も亦爾なり」と述べて、仏の慈悲の在り方を明かすのである。なお、この後更に耆婆は「如来は尚一闡提等の為に、法要を演説したもう」と述べ、如来が救う病子の中に「一闡提」を含めている。
 大聖人は本抄において、涅槃経の文の引用の後に「七子の中の第一第二は一闡提謗法の衆生なり」と釈されているが、この仰せの「第一第二」とは、顕謗法抄の「恒河の七種の衆生の第一は一闡提・謗法常没の者なり、第二は五逆謗法・常没等の者なり」(0455-15)との仰せから拝察できるように、涅槃経における「恒河の七種の衆生」の譬えの中の「第一第二」の衆生のことである。
 「恒河の七種の衆生」の譬えは涅槃経の二個所において説かれている。一つは涅槃経巻三十二の師子吼菩薩品第十一に「恒河の辺に七種の人有り」とあり、この恒河とは「生死の大河」を意味する。いま一つは同経巻三十六の迦葉菩薩品第十二に「恒河の中に七衆生有るが如し」とある。この恒河は「大涅槃河」を意味している。このように二つの「恒河の七種の衆生」の譬えでは「恒河」の意義が異なるわけであるが、これは、衆生の側から見れば「生死の大河」となり、仏の側から見れば「大涅槃河」となるということにほかならない。
 さて「第一第二」の衆生とは、義浄房御書に「彼の経には七種の衆生を列ねたり、第一は入水則没の一闡提人なり生死の水に入りしより已来いまに出でず・譬へば大石を大海に投入たるがごとし、身重くして浮ぶことを習はず常に海底に有り此れを常没と名く」(1431-08)と仰せのように、第一に「入水則没」の人であり、第二に「出已復没」の人である。前者は断じている故に、信心を起こせない一闡提であり、生死に没してでることができない故に「常没」の者である。後者は善友に親近して信心を起こす故に一闡提ではないが、悪縁によって退転して生死に没する故に、やはり「常没」の者である。また、前者は断善根の故に正法をそしり、後者は悪縁に紛動されて正法をそしる。したがって、いずれも正法誹謗者なのである。
 このように大聖人は、涅槃経の「恒河の七種の衆生」の譬えを踏まえられて、同じく涅槃経に説かれた「七子の中の病子」を「一闡提謗法の衆生」であるといえるのである。

0335:07~0335:10 その三top
07                                         七子の中の第一第二は一闡
08 提謗法の衆生なり諸病の中には 法華経を謗ずるが第一の重病なり、 諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬な
09 り、 此の一閻浮提は縦広七千由善那八万の国之れ有り 正像二千年の間未だ広宣流布せざるに法華経当世に当つて
10 流布せしめずんば 釈尊は大妄語の仏・多宝仏の証明は 泡沫に同じく十方分身の仏の助舌も 芭蕉の如くならん。
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 七子の中の第一番と第二番は、一闡提・謗法の衆生である。諸々の病の中では法華経を謗るのが第一の重病である。この一閻浮提は縦と横とがそれぞれ七千由善那であり、そこには八万の国がある。法華経は正法・像法二千年の間にはいまだ広宣流布していないのであるから、当世末法において流布させなければ、釈尊は大妄語を説いた仏となり、多宝如来の証明は泡沫のようにはかないものとなり、十方分身の仏が証明のために出した舌も、芭蕉の葉のようになってしまうであろう。

1 一闡提謗法について
 この御文では、直前に引用された七つの経文のうち、後半に列挙されている分別功徳品・神力品・薬王品・涅槃経から五文の意を釈す形をとりつつ、最初湧出品・寿量品の二文を含めた七文全体を貫く元意、すなわち、法華経誹謗の極重病であり、それを治す良薬たる寿量文底の南無妙法蓮華経を一閻浮提に広宣流布して、末法衆生を救うべきであることを明示されているのである。
 また、これにより、「末法」のために説かれた「広開近顕遠の寿量品」とは、寿量品の文底に秘沈された「南無妙法蓮華経」にほかならないことを、明かされているのである。
 ここでは、引用された経文に即して以上の点を確認した後に「一闡提謗法」が第一の重病とされる所以も、および、「南無妙法蓮華経」がこの極重病を治す第一の良薬とされる所以について考察していきたい。
一、末法衆生の重病と末法流布の法体
 まず、最後の涅槃経の文における「七子」の中の「病者」を釈して、「七子の中の第一第二は一闡提謗法の衆生なり」と仰せである。この「第一第二」とは、既に涅槃経の文を解説したところで述べた、恒河の七種の衆生の中の第一・第二であり、これがすなわち「一闡提謗法の衆生」なのである。したがってここでは、「七子」の中の「病者」の「病」とは「一闡提謗法」であると明かされていることになる。
 これを受けて更に、「法華経誹謗」こそ「第一の重病」であると仰せである。涅槃経における「謗法」とは如来常住・一切衆生悉有仏性の義を誹謗することであり、その誹謗者を「一闡提」という。そして、その如来常住の義は、法華経本門の久遠実成の義から帰結されるところであり、一切衆生悉有仏性とは、法華経迹門の義であるから、結局、涅槃経における「一闡提謗法」とは「法華経誹謗」を意味するのである。
 故に、大聖人が涅槃経の文を引用された意は、「法華経誹謗」という「第一の重病」に罹った衆生を救う、仏の慈悲を明かすことにあると拝されるのである。
 そして、その「第一の重病」に罹った衆生とは「末法」の衆生にほかならないことを、分別功徳品の「悪世末法の時」の文、及び「後の五百歳」「閻浮提の人の病」等の言葉が含まれている、薬王品の文を引用されることによって示されたと拝される。
 それでは、仏は、何をもって末法衆生の重病を救おうとされたのであろか。それを明かしているのが寿量品の「是の好き良薬を、今留めて此に在く」の文である。この文は、釈尊の法華経を信受しようとしない毒気深入の衆生を救うために、この良薬をここに留めて置くとのべられたのである。
 既に述べた通り、この「良薬」とは寿量文底の法体であり、末法の逆縁の衆生を救うため、神力品で上行菩薩に付属された下種の南無妙法蓮華経にほかならない。故に大聖人は「諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり」と仰せなのである。
 したがって大聖人は、末法において「閻浮提の人の病の良薬」である法華経を、一閻浮提に広宣流布」すべきことを説いた薬王品の文を引用されて、こに「南無妙法蓮華経」の末法流布に、釈尊・多宝仏・十方諸仏の正意があることを述べられているのである。
二、涅槃経の一闡提論
 次に「謗法」が第一の重病とされる理由を考察するにあたり、まず「一闡提」につての涅槃経の所説を検討したい。
 「一闡提」は、法華経全体を貫くテーマであるといっても過言ではない。同経巻五では、「無信」の者を一闡提と名付け、「不可治」の病と強調している。また、巻九では、菩提心がなくても大涅槃の光明にある因縁により、菩提の因を得ることができると仏は説いたことに対して、迦葉菩薩より、四重禁・五逆罪・一闡提などの不信悪逆の者が菩提を得られるならば、持戒修善の修行に何の意味があろうか。との問いが発せられる。この問いに対して、仏は四重禁・五逆罪を犯した者は、涅槃経にあうことにより菩提心を起こし得るが、一闡提だけは例外であると答えている。なぜならば、一闡提は、たとえ大涅槃を聞いても菩提心を起こさない「焦種」であり、救済不可能の「必死の人」だからである。したがって、たとえ一切衆生が成仏しても一闡提だけは成仏し得ないとし「一闡提の不成仏」が明言されている。
 このように一闡提が嫌われる所以は、一闡提が、涅槃経の所説の根本である如来常住・一切衆生悉有仏性の義を否定する人だからである。もとより、一切衆生悉有仏性の義からすれば一闡提も仏性を具えていても、ちょうどカッコのいいように、無量の罪苦に覆われているため、仏性が出ることはないのである。
 また巻十では、一闡提の道に陥る者について、
   ①正法を誹謗して改悔せず心に慙愧の念がない者
   ②四重禁・五逆罪を犯して怖畏慙愧の心がないため、ともすれば正法を誹謗する者
   ③仏法僧の三宝なしと説くもの
 という三種を挙げている。そして、もし一闡提が善心を生ずれば一闡提とは言わないとし、一闡提の境地から脱却できる可能性を説いている。
 巻十一では、最後の病人が明かされている。すなわち第一に必死難治の者、第二に可治不可治末定の者、第三に必定可治の者である。そして第一必死難治の者として「大乗を謗る者」「五逆罪を犯した者」「一闡提」を挙げている。
 巻十六では、菩薩の一子地の境地を説き、一切衆生を平等に必死難治の者慈しむこの境地にあっては、たとえ一闡提であろうと、一瞬でも悔い改めの念があれば、善根を生ぜしめ救おうとすることがしめされている。
 しかし、これまでの所説においては、一闡提が救済可能なのか不可能なのかは、必ずしも明確ではない。そこで、巻二十二では、一闡提では善根を断じた人とされるが、これは仏性を断ずることを意味するのか。もし仏性を断じないのであれば、なぜ一闡提というのか、という問いが提起されている。これに対して、仏性は本具するものであるから、一闡提は善根を断じても、決して仏性を断ずることはないとされている。そして、一闡提といっても定まった性ではなく、不決定であるから、成仏の可能性があるとされている。また巻二十四でも、一闡提は仏性ある故に、その一闡提の心を捨てれば成仏できるとされている。
 巻二十六では、この「断善根」と「不断仏性」の二説の関係について、更に論が進められている。すなわち一闡提は善根を断じている故に、諸仏・諸菩薩に会おうと会うまいと、一闡提の心を離れることはできないが、菩提心を起こせば既に一闡提でない故に成仏できるとされている。つまり、一闡提の「断善根」とは生得の善を断じたということであって、本有の仏性を断じたということではない。仏性は善でも不善でもなく、一闡提といえども断ずることはできないものである。むしろ一闡提は、自らの仏性を信じない故に成仏できないのである。
 師子吼菩薩品では仏性の意義を強調されているが、特に修行と仏性との関係を論じて、先に述べた「恒河の七種の衆生」が明かされている。すなわち、たとえ仏性を本具していても、修行がなければその仏性の本具を知ることができないので、修行の浅深によって衆生に差別があり、それが恒河を渡る七種の衆生の譬えによって示されているのである。七種の衆生とは、
   ①一闡提   河に入って沈むもの
   ②鈍根退転  浮かび出てまた没するもの
   ③利根無退転 浮かび出て没しないもの
   ④四沙門果  出てから四方を見るもの
   ⑤辟支仏   四方を見おわって進むもの
   ⑥菩薩    進んで浅き所に達するもの
   ⑦如来    彼岸に到達するもの
 である。
 迦葉菩薩品では、更に仏性論を推し進めているが、特に巻三十六では、随自意語・随他意語・随自他意語の三説の分別が重要であるとする。すなわち、一切衆生悉有仏性は随自意語、一闡提不成仏は随他意語、一切衆生悉く仏性あれども煩悩覆う故にみることができず、と会通するのは随自他意語である。涅槃経において、一闡提が成仏可能であるとも不可能であるとも説かれている所以が、このことから明らかになる。また同巻では、随自意の立場から恒河の七種の差別がありといえども、しかも仏性の水を離れない存在であるとされる。そして、この立場から「或は一人七つを具する有り、或は七人各一つなる有り」と説かれている。
 したがって一闡提は決して成仏できないとするのも、悉有仏性の故に成仏できるとするのも、一面的である限り正しくないのである。
 以上のように涅槃経における一闡提論は、仏性性と深くかかわり合っている。一闡提は、「不信」「断善根」をもって定義されるが、一闡提が不成仏とされる理由は、「断善根」の故に「悉有仏性」の義に「不信」を起こすからであり、結局は、正法に対する「不信」こそ一闡提不成仏の根本的な理由なのである。
三、謗法の形態
 次に日蓮大聖人が諸御書で明らかにされている「謗法」の意味について拝察し、それが「第一の重病」とされる所以を考察したい。
 本抄では涅槃経に説かれた恒河の七種の衆生の「第一・第二」を「一闡提謗法の衆生」とされている。既に述べたように、「第一」とは、善根を断じているために法華経への信心を起こさない一闡提であり、「第二」とは、いったんは信心を起こしていても、悪縁等によって信心を失うものである。後者はかりそめにも信心を起こすので一闡提ではないが、信心を失って正法を誹謗するので、一闡提と同様のものとされるのである。したがってこの二種の衆生はいずれも不信・謗法をもって特色ずけられる。
 故に本抄ではおの二種の衆生は一括にして「一闡提謗法の衆生」であるとされたと拝される。
 この点について、顕謗法抄における御教示に基づき、もう少し詳しく考察してみたい。同抄では涅槃経三十六の次の二種の衆生の関係を示されている。
 「我契経の中に於て説く二種の人有り仏法僧を謗ずと、一には不信にして瞋恚の心あるが故に二には信ずと雖も義を解せざるが故に善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち能く邪見を増長(0459-07)
 ここで明かされている二種の謗法の人のうち、第一の正法を信ぜず瞋恚之の心を起こして誹謗する人とは、すなわち恒河の第一の衆生であり一闡提である。大聖人は同抄で、この第一の衆生について更に「解而不信」の者であると仰せである。つまり一闡提とは、たとえ智慧あって法華経・涅槃経の一切衆生悉有仏性の義を解しても、それを信ずることができない者であり、むしろその不信の故に正法を背く邪見をますます増長させ、すすんで異解を唱えていく者である。
 これに対して第二の人は、たとえ正法を信じても義を解することができない者、つまり「信而不解」のものであり、それ故に無明に陥り正法を背く恐れのある者である。大聖人はこの文の第二の者は恒河の第二の衆生にあたるとされ、更に「口には涅槃を信ずと雖も心に爾前の義を存する者なり」(0459-18)と仰せである。すなわち、たとえ法華経・涅槃経を聞いて信心を起こしたとしても、心になお爾前の義を存するため、結局、法華経等の義を正しく信じていない者なのである。その意味で同抄では、第二の衆生を「信而不信」であるとされている。したがって第二の衆生は一闡提のように真っ向からの不信者ではないが、正法の義を解していないのであるから、信を起こしているつもりであっても、本物の信心ではないのである。
 このように、大聖人が不解の者をも「一闡提謗法の衆生」であるとされているのは、自覚せざる正法への不信が「謗法」にあたることを明らかにして、一闡提の道に陥る可能性がある末法の衆生を救うためであると拝される。
 この点に関連して、顕謗法抄で明かされている「謗法」の意義を拝察しておきたい。同抄では次のように「謗法」を定義されている。
 「天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」(0448-16)
 天台大師の「梵網経の疏」は梵網菩薩戒経義疏のことであるが、その巻下に「謗は是れ乖背の名なり。絓は是れ解は理に称わず、真実に当たらず。異解して説く者を名づけて謗と為すなり。已が宗に乖くが故に罪を得」とある。これは、言葉で正法を謗らずとも、正法に背く異解を抱き、それを説くことが謗法の罪にあたることを明かしている。
 さらに天親菩薩の「仏性論」を引かれているが、詳しくは同論巻一に「若し大乗を憎み背かば、此の法は是れ一闡提の因なり。衆生をして此の法を捨てしむるが故に」とある。この文は正法を憎み背く一闡提の謗法について、自分が背くだけでなく他の衆生に正法を捨てさせる大重罪となることを示している。先の梵網経義疏の文は、どちらかといえば、正法を解せない“愚癡”の者の異解が謗法にあたることを示したものであったが、この「仏性論」の文は、正法に対し“瞋恚”の心を起こす者が他の衆生に与える影響を明かしているといえよう。大聖人がこの文を「憎は背くなり」という表現で引用されているのは、「憎む」という“瞋恚”の心を強調さえるためと拝される。
 先に引用した涅槃経の文でも、第一の一闡提については、不信にして「瞋恚」の心がある者とされているのに対して、第二の者は智慧なき故に義を解することができない者とされている。言い換えれば、第二の者は「愚癡」の心を持つ者と言える。このように「謗法」とは、正法に対して起こす「瞋恚」や「愚癡」等であり、三毒という心の働きをもって正法に「背く」ことが根本なのである。そこから実際に誹謗の言葉や正法に背く異解が生ずるのである。
 以上のことから「謗法」とは正法に「背く」ことであるが、その背き方には「瞋恚」によるものなのか「愚癡」によるものなのか、あるいは顕在的なものなのか潜在的なものなのか、という相違があり、そこから「謗法」に種々の形態があることになる。
 大聖人は、諸抄において謗法に多種の形態があることを明かされている。中でも人々に仏法を教える人師の謗法の種類については、例えば十法界明因果抄に「謗法は多種なり大小流布の国に生れて一向に小乗の法を学して身を治め大乗に遷らざるは是れ謗法なり、亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も諸経と法華経と等同の思を作し人をして等同の義を学ばしめ法華経に遷らざるは是れ謗法なり、亦偶円機有る人の法華経を学ぶをも我が法に付けて世利を貪るが為に汝が機は法華経に当らざる由を称して此の経を捨て権経に遷らしむるは是れ大謗法なり」(0428-08)と仰せである。すなわち、次の三種の人師を「謗法」と断じられているのである。
 ①大乗と小乗が共に流布しているとき、もっぱら小乗を学んで身を治め大乗に遷らない者
 ②大乗を学んでも、諸大乗経と法華経は同等であると思い、他人にその義を学ばせて法華経に遷らせない者
 ③法華経を学ぶ者に対して、衆生の機根が法華経にあたらないとして、これを捨てさせて権教に遷らせない者
 ①が自行にとどまっている例であるのに対し、②③は人々にはたらきかける、いわゆる祖師等を踏まえて示されたものである。中でも③は当時の真言宗、念仏宗を指して「大謗法」と仰せである。御講聞書には次のようにある。
 「此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり、されば、誹謗の二字を大論に云く、口に謗るを誹と云い、心に背くを謗と云うと、仍つて色心三業に経て、法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり、所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり」(0823-12)
 すなわち、法華経を誹謗することは、十界の衆生の「仏種」を断ずることにあたり、しかも真言や念仏の祖師達は、法華経を口に謗り心に背く故に「大謗法」なのである。
 また大聖人は各宗派の教えに即して「大謗法」たる所以を明らかにされている。
 まず念仏宗については先の十法界明因果抄の文に明らかなように、法華経は末法の劣機の衆生に相応しない教えであるとして、人々を法華経から念仏へと退転させる故に仏種を断ずる「大謗法」なのである。同じ主旨のことは次の御文にも拝される。
 「随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて而も易行の中に取つても猶観経の念仏往生は易行なりと之を立てられば権実雑乱の失・大謗法たる上随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて而も易行の中に取つても猶観経の念仏往生は易行なりと之を立てられば権実雑乱の失・大謗法たる上」(0010-18)
 「夫れ一切衆生皆成仏道の法華経、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜんの妙典善導が一言に破れて千中無一虚妄の法と成り、無得道教と云はれ平等大慧の巨益は虚妄と成り多宝如来の皆是真実の証明の御言妄語と成るか十方諸仏の上至梵天の広長舌も破られ給ぬ、三世諸仏の大怨敵と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の科甚重し大罪報の至り無間大城の業因なり」(0099-11)
 次に真言宗については、「此等の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き秘密教と定め給へるを経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや」(0145-15)「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師 法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来・叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き神護七大寺は弘法の僻見に随う其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す、是くの如き諂曲既に久しく四百余年を経歴し国漸く衰え王法も亦尽きんとす彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頚を刎ねし、此の漢土の会昌天子の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる此等大悪人為りと雖も我が朝の大謗法には過ぎず」(0185-02)等と仰せである。すなわち、顕密二教判や理同事勝説により、法華経は密教経典より劣るとして法華経を下す故に「大謗法」であるとされている。
 なお禅宗は「教外別伝・不立文字」と唱え、導き入れるべき経を本来立てないが、法華経を否定することについては同じであるので、これも「大謗法」であるとされる。例えば立正観抄では次のように仰せである。
 「修多羅の教主は松の如く其の教法は藤の如し各各に諍論すと雖も仏も入滅して教法の威徳も無し爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり、然而法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏なり、 禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり、是法住法位・世間相常住の金言に背く僻見なり、 禅は法華経の方便無得道の禅なるを真実常住法と云うが故に外道の常見なり、若し与えて之を言わば仏の方便三蔵の分斉なり若し奪つて之を言わば但外道の邪法なり与は当分の義・奪は法華の義なり法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云うなり」(0533-09)すなわち、禅宗は、正法は教外に別伝されるとして、経典を月を指す指にすぎないとし、常住不滅の法を説き世間相の常住を明かす法華経を下す故に、一切世間の仏種を断ずる大謗法にあたるのである。
 また当時の天台宗の学僧達については「悲しいかな当世天台宗の学者は念仏・真言・禅宗・等に同意するが故に天台の教釈を習い失つて法華経に背き大謗法の罪を得るなり」(0529-06)と仰せである。つまり名は天台僧であっても、心は法華経に背き謗法の諸宗に同意している故に「大謗法」であるとされている。例えば天台僧が禅宗に同意している例について、「当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり」(0533-07)と明かされている。天台大師の止観行は、あくまでも法華経の妙法を悟るための修行であったのに、それを忘れて法華経よりも止観の方が勝れているとしたため、結局、謗法の禅宗に同じてしまったのである。ゆえに彼等を「法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為」(0527-07)と破折されている。 以上、諸宗の人師の「謗法」について述べたが、大聖人は更に、一般の人々が諸宗の邪師の悪縁に紛動されて陥る「謗法」についても、種々の形態があることを明かされている。例えば南条兵衛七郎殿御書では次のように仰せである。
 「我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ 物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし、貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆をば・おかさざれども五逆に似たる罪・又日日におかす、又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・人ごとに法華経をばもちゐず、又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず、信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも 法華経の敵をだにも・ せめざれば得道ありがたし」(1494-12)
 末法の衆生は貧瞋癡の三毒が極めて重厚であるため、十悪の罪や五逆に似た罪は日々に犯しているが、それよりも重大なことは、十悪・五逆よりも重い「謗法」の罪を人ごとに犯していることであるとし、その「謗法」の形態として次の三種を明かされている。
   ①明確な言葉で誹謗しなくても法華経を用いない
   ②法華経を用いているように見えても、念仏等を信ずるほどには法華経への信心が深くない
   ③法華経を深く信じているようでも、法華経の敵を責めない
 これらは、人々が、一闡提の道に堕ちた諸宗の人師に盲従し、結果的に、その法華経誹謗を容認してしまう与同罪としての「謗法」を明らかにされているのである。大聖人が佐渡御書において「彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」(0959-04)と仰せられているのも、日本国の一切衆生が上に挙げた種々の形で「謗法」を犯しているからであると拝される。
 以上のように大聖人は「謗法」の諸形態を詳しく明らかにされているのであるが、それは当時の人々が「謗法」という「第一の重病」にかかっていながら、それを気付かないでいるのを目覚めさせるためであったと拝される。この点について妙法尼御前御返事には、「謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(1408-09)とあり、また妙心尼御前御返事では「今の日本国の人は一人もなく極大重病あり所謂大謗法の重病なり今の禅宗念仏宗律宗真言師なりこれらはあまりに病おもきゆへに我が身にもおぼへず 人もしらぬ病なりこの」(1480-02)と仰せである。この「極大重病」から人々を癒すためには、まず目覚めさせなければならないとのお考えから、大聖人は謗法の諸形態を詳しく分析されたのである。
四、謗法の罪法
 「謗法」が「第一の重病」である所以は、何よりも、その罪報の重さにある。大聖人は法華経、涅槃経等いくつかの経典をよりどころとして、謗法の罪の重さを明らかにされているが、その中でも根本とされている依文は法華経譬喩品第三の次の経文である。
 「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん…其の人命終して、阿鼻獄に入らん、一劫を具足して、劫尽きなば更に生まれん、是の如く展転して、無数劫に至らん」
 この経文では、
   ①法華経誹謗が「一切衆生の仏種を断ずる」罪業である
   ②無間地獄に堕して無数劫を経るのが法華経誹謗の罪報である
 の二点が明かされている。なお、この経文の中略部分には「経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」とあり、法華経の誹謗だけではなく、法華経を受持する人に対して誹謗の心を起こすことも、同様に無間地獄の業であることが明らかである。
 大聖人はこの譬喩品の文を受けて、謗法の罪報が五逆罪のそれよりもはるかに重いことを諸抄で明かされている。例えば、「凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん」(0029-14)「阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり、但し五逆の中に一逆を犯す者は無間に堕つと雖も一中劫を経て罪を尽して浮ぶ、一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願うと雖も法華に背きぬれば無間に堕ちて展転無数劫と見えたり、然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり」(0142-05)「此等は皆一業引一生なり故に一度悪道に堕すれば還つて二度悪道に堕せず、謗法は一業引多生なれば一度三宝を破すれば度度悪道に堕する是なり」(0617-04)等と仰せである。
 すなわち、五逆罪もまた無間地獄の業因とされる罪業である。無間地獄に堕して一中劫を経れば罪報を消滅して出られるのである。それに対して、法華経誹謗の罪は、無数劫の間、無間地獄を展転しなければならないとされている。
 また大聖人は、謗法の罪報を明かされるにあたり、法華経常不軽菩薩品第二十の次の文に依られることもある。
 「彼の時の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は瞋恚の意を以って我を軽賤せんが故に、千劫阿鼻地獄に於いて、大苦悩を受く」
 この文では、不軽菩薩を迫害した上慢の四衆が、最終的には不軽菩薩に信伏随従したにもかかわらず、瞋恚の心をもって不軽菩薩を軽賤した罪、つまり法華経の行者に憎み背く謗法の重罪が余残のため、千劫の間、阿鼻地獄に堕して大苦悩を受けたことが明かされている。
 大聖人はこの文を受けて「此の経文の心は 法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448-11)「彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん」(0960-14)等と仰せである。すなわち、改悔の心を起こして罪の大部分を滅しても、なお五逆罪の千倍の苦悩を受けるほどの重罪が謗法の罪であるとされる。
 また大聖人は、謗法罪と五逆罪との罪の軽重をより明確にするために、上記の法華経の文を踏まえつつ、更に大品般若経や涅槃経の文も用いられている。例えば顕謗法抄では、大品般若経の次の文を引かれている。
 「舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば 則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり無量無辺阿僧祇の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受るなり」(0448-03)
 この文では、破法罪は三宝を破り世間の正見を破る故に、無量無辺阿僧祇劫の罪を得るとされている。これは、謗法が重罪である所以を「一切衆生の仏種を断ず」と明かした法華経譬喩品の文に通ずるといえる。
 また涅槃経では、先にも述べたように、四重禁や五逆罪などの大罪を犯した者でも、涅槃経によって菩提の因を得ることができるが、正法を誹謗する一闡提だけは、決して菩提の因を得られぬ必死の重病人であることが強調されている。例えば同経巻九では、“焦種は甘雨にあっても芽を出さない”、あるいは、“明珠は濁水の中にあれば水を清らかにするが、淤泥の中では水を清らかにすることができない”等の譬喩をもって説いている。大聖人は開目抄で、これらの譬喩の文を引きつつ、「此等多くの譬あり、詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし」(0231-14)と述べられている。
 以上のように、法華経をはじめとする諸経の文によって、諸法の罪報は五逆罪のそれよりもはるかに深重であることが明らかである。そして、その理由は、自らが正法に背くだけではなく、正法を誹謗することによって、他の人々の正法に対する信をも破ることになるからである。この点については般若経の「世間の正見を破す」との文にもうかがえるが、最も明確に説いているのは法華経譬喩品の「一切世間の仏種を断ず」の文であろう。
 この「仏種」について、天台大師は法華文句巻六上において、「今の経には小善の成仏を明かす、此れ縁因を取りて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずるなり」と述べている。法華経方便品第二では小善成仏が説かれており、六道の衆生が正法を信じて為す小善は、妙法の力によってすべて成仏の原因になるとされている。この小善は、正・了・縁の三因仏性のうちの縁因にあたるので、「仏種」なのである。法華経を誹謗することは六道の衆生の信心を破り、因縁となる善根を積む心を失わせるので、「一切世間の仏種を断ず」ることになるのである。
 それでは何故、南無妙法蓮華経が、このような「第一の重病」である謗法をも治す「第一の良薬」であるとされたのであろうか。次項では、この点について考察してみたい。
2 謗法と重病を治す良薬
一、心の病としての三毒と謗法

 日蓮大聖人は諸御書において、人間の病を身体の病と心の病の二種類に大別され、心の病とは八万四千の煩悩であり、なかんずく貪欲・瞋恚・愚癡の三毒であると指摘されている。
 煩悩とは心身を煩わせ悩ませるる種々の心の作用をいうが、仏教では、多くの煩悩のなかでも貧・瞋・癡の三つこそ、あらゆる苦の根源であるとされ、衆生の善心をよく破壊する毒性の故に三毒と呼んでいる。法華経譬喩品では「三毒の火」と、火に譬えられている。
 この三毒について、竜樹の大智度論巻三十四では通途の三毒と邪三毒とを立て分け、邪三毒は度し難いとしている。これを受けて天台大師は摩訶止観巻六上において、三毒を正三毒と邪三毒との二種に立て分け、正三毒とは思惑としての通途の貧・瞋・癡、邪三毒とは見惑の上に起こす貧・瞋・癡であるとしている。つまり邪三毒とは、辺見・邪見等の思想的な迷いである見惑と複合化した邪三毒にあたると考えている。
 日蓮大聖人は曾谷殿御返事において「今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり、所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり」(1064-16)と仰せであり、人々が、更に法華経の行者たる大聖人の弘通を契機に、正法への瞋恚を起こしたため、一国が深く三毒の病に侵されていることを明かされている。
 この教法の迷いの上に起こされた三毒の病を治す方途にいおて、治病大小権実違目の冒頭では、つぎのように明かされている。
06                     夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一
07 風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此
08 れを治するにゆいて愈えずという事なし、 二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・
09 六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、 又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、六道の凡夫の
10 三毒・八万四千の心病は小仏.小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師.人師此れを治するにゆいて愈えぬべし、但し此
01 の小乗の者等・ 小乗を本として或は大乗を背き或は心には背かざれども 大乗の国に肩を並べなんどする其の国其
02 の人に諸病起る、 小乗等をもつて此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし、 諸大乗経の行者をもつて此
03 れを治すれば則ち平愈す、又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して我が宗は或
04 は法華経と斉等或は勝れたりなんど申す人多く出来し 或は国主等此れを用いぬれば此れによつて三毒・ 八万四千
05 の病起る、 返つて自の依経をもつて治すれども・いよいよ倍増す、 設い法華経をもつて行うとも験なし経は勝れ
06 たれども行者・僻見の者なる故なり(0995)
 このように、三毒の病は、執着する教えが高くなるほど重くなっていくのであり、それを治すにはより高い教えが必要になってくるのである。そして、法華経誹謗の第一の重病は、法華経本門にとってのみ治すことができるのである。この点について冶病大小権実違目では、更に次のように仰せである。
 「日本.一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり、見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり、神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし、但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る」(0998-09)
 すなわち、末法衆生の法華経誹謗は最も重い元品の無明の表れであり、この重病は神仏や法華経の祈りでは増長するばかりであるが、法華経の行者たる日蓮大聖人が弘通される法華経本門によってのみ、治すことができるとされている。ここでは、いわゆる法華経と大聖人が弘通される法華経本門とを、明確に区別されており、後者のみが末法の重病を治す良薬であるとされている。
 それでは、このように南無妙法蓮華経が元品の無明を起こさせるのに、どうしてこの妙法を弘通することが、この重病を治すことになるのであろうか。それは、逆縁の功徳によるからであるが、そのことを理解するには、煩悩・業・苦の三道がそのまま仏種となることを明かした、法華経の相対種開会について知る必要がある。
二、相対種開会の妙法
 法華経薬草喩品では、仏は衆生の「種・相・体・性」を如実に知見して法を説くことが述べられているが、この「種」について天台大師は、法華文句巻七において就類種と相対種との二つがあることを明かしている。
 就類種とは同類に就いて明かされる仏種のことであり、相対種とは反対のものについて明かされる仏種のことである。すなわち、類種種とは、解脱の種となる低頭挙手等の一切の善業・般若の種となる一切の世智・解心・法身の種となる心の存在等である。これらは、仏の三徳の種となる善なるものなので、同類の善としての仏種という意味で就類種という。
 これに対し、相対種とは、煩悩・業・苦の三道が、転じて法身・般若・解脱の三徳の種子となることをいう。日蓮大聖人は初聞仏乗義において、「其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・ 其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」(0983-03)と仰せである。
 爾前の権大乗経においても煩悩即菩提と、相対種の開会に似た法門を説いているが、二乗の成仏を明かさず衆生に差別を設けているのであるから、一切衆生の煩悩等の当体を仏種とする相対種の開会にはならない。
 故に太田殿女房御返事には、「さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時 二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり」(1005-08)と仰せである。すなわち、爾前経で、煩悩・業・苦の三道がそのまま仏の三身の種となるとはされていない。それに対して法華経では、二乗も十界互具の当体であることを明かし、その十界互具の原理の上から一切衆生の成仏を説くのである。「二乗が無き煩悩・業・苦」とは、二乗も煩悩等を断じているわけではないが、一往与えられた立場で、二乗は煩悩を断じていると拝される。
 しかし、法華経ではこの二乗も十界互具しており、煩悩・業・苦の真実の意味では断じていないことを明かし、それを法身・般若・解脱の三徳と転じ即身成仏をすることを説いたのである。このことを竜樹は大智度論において「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」といい、また「余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり」と説いている。また、これを受けて天台大師は法華玄義巻六下において「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く二乗の根敗反服すること能わず、これを名づけて毒と為す。今経に記を得るは即ち是れ毒を変じて薬と為す」と釈している。
 また大聖人は始聞仏乗義において「我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり」(0983-12)と仰せられている。つまり、妙法を顕した法華経によってのみ、衆生は三道即三徳を開覚し、煩悩等の毒を変じて薬と為すことができるのである。
 「毒と申すは苦集の二諦・生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし、此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を妙の極とは申しけるなり、良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり」(1006-10)「権教の心は毒草なり法華に値いぬれば三毒の煩悩の心地を三身果満の種なりと開覚するを薬とは云うなり」(0728-第一薬草喩品の事-04)「妙法の薬草なれば十界三千の毒草・蓮華の薬草なれば本来清浄なり」(0795-一薬草喩品-01)「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道・法身.般若・解脱の三徳と転じて」(0512-10)等と明かされている。
三、妙法五字の力用
 前項では、法華経で明かされた十界互具の妙法によってのみ、煩悩・業・苦の三道を仏種とする相対種開会が成り立つこと、したがって三毒の病を治す良薬とは、法華経の妙法以外にないことを明らかにした。この法華経の妙法を、末代凡夫が受持しうる具体的な法として具現化されたのが三大秘法の南無妙法蓮華経である故に,大聖人は本抄をはじめとして諸抄において、南無妙法蓮華経を「良薬」に譬えられたと拝される。
 この「良薬」の条件として、第一に、衆生の三毒の病を治す力用を具しているという、いわば“薬効”の面を挙げることができる。しかし、それだけではなく、更に第二の条件として、“服用可能”であるということ、言い換えれば、衆生が受持することのできる妙法でなければならないという点を挙げるべきであろう。妙法がいかに偉大な力用をもつとはいえ、衆生が修行できないのであれば、それは服することのできない薬と同じである。衆生が現実に修行できてこそ真の良薬であるといえる。
 この二つの条件を満たすのが法華経の題目なのである。本来、いかなる経であれ、その一経の内容を集約的に表現しているのが題号であり、その意味で題号が一経の肝要であるといえる。天台大師は法華玄義において、名・体・宗・用・教の五つの観点から、法華経の題目である妙法蓮華経に一経のすべてが具足していることを明らかにした。したがって、妙法それ自体は凡夫の眼には見えず、また思議しがたい法であるが、題目の妙法蓮華経は、凡夫が妙法を修行するための有力な手掛かりになるはずである。
 報恩抄では、爾前権経の題目と法華経の題目を比較して、一闡提謗法の重病を治す良薬は法華経の題目に限ることを示されて、次のように仰せである。「五逆・謗法の大きなる一闡提人・阿含・華厳.観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし、法華経の大雪山の上に臥ぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし・されば愚者は必ず法華経を信ずべし、各各経経の題目は易き事・同じといへども愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥なり」(0324-16)
 すなわち、同じ題目を唱える易行であっても、諸経の題目は妙法の力を具していないために、その功徳は、愚者が行ずるのと智者が行ずるのとでは天地雲泥の相違があるとされてきた。これは要するに、諸経の功徳は機根の上下によることを意味する。これに対して、法華経の題目には妙法の力用を具しているので、これを唱えれば愚者でも重病を治すことができるのである。このような妙法の力用について,報恩抄では次のような種々の譬喩によって説明されている。
 「譬へば大綱は大力も切りがたし小力なれども小刀をもつて・たやすく・これをきる、譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破がたし、利剣をもてば小力も破りぬべし、譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ食は服すれども病やまず、譬へば仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず」(0325-01)
 また同じく報恩抄では、諸経の功徳は法華経よりも劣るだけでなく、南無妙法蓮華経が弘通されれば、それらが本来もっている力用も失われるとされている。すなわち、「彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用を失ふ、 例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失ない牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし、南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる」(0326-04)と仰せである。
 このように諸経の題目は一応、服用可能な法薬であり、各の分に応じた薬効もあるといえるが、法華経の題目の力用の前には意義を失うのである。しかも上の御文に続けて「彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのものなるべし」(0326-09)と仰せのように、諸経がそれぞれの力用も、もともと妙法蓮華経の力用に基づくものであるから、諸経に執して法華経を謗ずる末法の諸法の衆生においては、諸経はむしろ妙法の力用を妨げる毒の作用を起こすのである。
 日寛上人は文底秘沈抄、報恩抄文段等で、この妙法蓮華経の題目の意義を「一往就法」「再往功帰」の二つの観点から明らかにされている。
 「就法」とは、“法に就く”という意味であり、文上の法華経に即して妙法蓮華経の意義を示すことである。すなわち、法華経一経を通じて妙法蓮華経の名は同じであるが、義を尋ねれば迹門の妙法蓮華経は開近顕遠の妙法を示し、本門の妙法蓮華経は開迹顕本の妙法を示すものであるから、本迹二門では妙法蓮華経の意義は異なるとする。
 大聖人は、この就法の観点、言い換えれば本迹相対の観点から、在世衆生の脱益はあくまで本門であり、迹門は熟益に過ぎないことを示されている。観心本尊抄に「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す 所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ」(0249-14)と仰せられている通りである。
 しかし、法華経文上の本文の利益は、あくまでも本位今有の在世および正像の衆生に対するものであり、本未有善の末法の衆生にとっては無益である。
 「天台大師は玄・文・止観に秘せんと思召ししかども末代の為にや止観・十章・第七正観の章に至りて粗書かせ給いたりしかども薄葉に釈を設けてさて止み給いぬ、但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給う。彼の天台大師は迹化の衆なり」(1016-15)「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり 」(0998-15)と仰せの「本門の事の分」「本門の一念三千」とは、当然、在世得脱のための文上の法門のことではない。日寛上人は、この点を明らかにされるために「再往功帰」という観点を立てられたのである。
 「功帰」とは、“功徳が帰する”との意であり、この観点から、成仏の功徳をもたらす力用が帰着する根源の一法、言い換えれば、一切の功徳を具する種子の法としての妙法蓮華経を明かすのである。すなわち、文上の本迹二門における妙法蓮華経は熟脱の法であり、一切の功徳が帰する種子の法とは言えないのに対して、文底の南無妙法蓮華経のみが真の種子の法であり、一切の功徳の根源であるとされているのである。
 観心本尊抄の先に引いた御文の次下には「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-16)とある。
 大聖人は、この種脱相対の観点から、文上の本門と文底の南無妙法蓮華経とを相対して、南無妙法蓮華経こそが真に民衆救済の力用を有する法体であることを明かされている。例えば四条金吾殿御返事には次のように仰せである。
 「法華経本迹相対して論ずるに迹門は尚始成正覚の旨を明す故にいまだ留難かかれり、本門はかかる留難を去りたり然りと雖も 題目の五字に相対する時は末法の機にかなはざる法なり、真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170-01)
 また以下の仰せでは、文上の法華経は末法の衆生の重病を治す良薬ではなく、日蓮大聖人が弘通する妙法蓮華経の五字のみが、末法の一切衆生を救う良薬であることを明確に示されている。
 「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(1458-13)
 「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり、日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし」(1546-11)
 この南無妙法蓮華経の力用は、法華経を信受しようとしない謗法の衆生に対しても発揮されるものである。それが聞法下種による逆縁の功徳であるが、次にこの点について述べてみたい。
四、五重玄具足の法体と逆縁の功徳
 前項では、南無妙法蓮華経が一切の功徳を具する種字の法であることを述べたが、ここでは更に南無妙法蓮華経は名・体・宗・用・教を具足する法体であるという点について触れ、この聞法が不信・謗法の衆生にも逆縁の功徳をもたらす理由を考察したい。
 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経が名・体・宗・用・教の五重玄を具足する法体であることを、次のように明かされている。
 「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(0251-09)
 「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(1022-14)
 「大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆・ 謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう…爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり」(1030-14)
 名・体・宗・用・教とは、天台大師が法華玄義において、法華経の大網を明かすために用いた五つの観点である。名とは法華経の題名である妙法蓮華経、体とは法華経の所詮の理である諸法実相、宗とは法華経の宗要である本因・本果、用とは法華経が衆生にもたらす断疑生信の力用、教とは法華経の教相をいう。上に引用した御文では、南無妙法蓮華経が、この名・体・宗・用・教をすべて具足した法体であることを明かされたと拝される。まず、この点を、他の御書によって確認してみることにしたい。
 最初の「名」については後述することにし、まず「体」としての意義については、一生成仏抄の「爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり」(0383-01)との御教示に配することができる。すなわち、衆生が本来具する妙理は妙法蓮華経として具現化されているのであり、したがって妙法蓮華経と唱えることが、妙理を観ずることになるとされている。
 また法華初心成仏抄では、「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり」(0557-03)と仰せである。すなわち、妙法蓮華経とは一切衆生に平等に具する理であり、その理が即ち仏性であり、諸仏が悟った妙法なのである。
 次に「宗」としての意義については観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)との仰せ、あるいは当体義抄の「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して 闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(0513-04)との仰せに拝される。
 法華経の宗要である本因・本果とは、本有の妙理に即した仏の自行の因果であり、法華経では寿量品において、五百塵点劫の久遠における釈尊の成道の因果として明かされている。天台大師は、この本因・本果は諸経の分々の因果とは異なり、それら衆因衆果を包摂する根本の因果であり、成仏の要諦であるとする。つまり、この因果を根本とするからこそ、諸々の修行が成仏の修行として成り立つのであり、反対に、この因果を根本としなければ諸経の修行は虚妄になるのである。そして、この因果を説き明かすことが法華経の宗要であるとしている。
 しかるに上の観心本尊抄の御文では、「釈尊の因行果徳」を具足する「妙法蓮華経の五字」を受持することによって、我等衆生が自ずから仏の因果の功徳を受得できることを示し、また当体義抄の御文では「因果倶時・不思議の一法」たる「妙法蓮華経」を修行することによって、仏因・仏果を同時に証得することができつとされている。
 すなわち妙法蓮華経は法華経の宗要たる本因・本果そのものであり、しかも、その妙法蓮華経として示されることにより、我等衆生が受持し修行することが可能となったのである。
 次に「用」としての意義については、四信五品抄の「問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らんや」(0341-17)との仰せや、法華経題目抄の「問うて云く火火といへども手にとらざればやけず水水といへども口にのまざれば水のほしさもやまず、只南無妙法蓮華経と題目計りを唱うとも義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事いかがあるべかるらん、答えて云く師子の筋を琴の絃として一度奏すれば余の絃悉くきれ梅子のすき声をきけば口につたまりうるをう世間の不思議すら是くの如し況や法華経の不思議をや」(0940-04)との仰せに拝することができよう。すなわち南無妙法蓮華経は衆生の身を自然に利益する力用を有しているのである。
 天台大師のいう法華経の「用」とは、迹門の開三顕一や本門の開迹顕遠の説法による、断疑生信の働きである。天台大師は、爾前の方便経は化他の権実二智に由っているため、断疑生信の力用は微弱であるが、法華経の開三顕一や開迹顕本は、深く広く諸法実相の理を照らす仏の自行の権実二智による巧みな説法であり、それ故、断疑生信の力用も大きいとする。また天台大師は、その法華経の力用の根底には、仏の自行の因果から起こる慈悲があるとし、断疑生信の力用を「用の用」、より根本的な慈悲を「用の宗」と呼んで立て分けている。
 これに対して南無妙法蓮華経の力用は、巧みな説法の力による断疑生信の用というよりも、本有の妙理に即する仏の自行の因果から起こる、より直接的な働き掛けであり、それ故、衆生を自然に利益するのであると拝される。また、“体に即する宗”の直接的な働き掛けという点にこそ、南無妙法蓮華経が下種の利益を有する所以があると拝されるのである。
 この点について日寛上人の御教示に基づき、もう少し詳しく考察してみたい。
 日寛上人は当流行事抄で、仏の自行の因果とは境地冥合の始終のことであることを明かしている。すなわち、「天台釈して云く『境地和合する則は因果有り、境を照らすこと末だ窮らざるを因と名づけ、源を尽くすを果と為す』云云。当に知るべし、境地和合の始めを名づけて因と為す、故に照境末窮と云い、境智和合の終わりを名づけて果と為す。故に尽源為果と云うなり。是れ則ち刹那始終一念の因果なり」と仰せである。
 そして、この仏自行の境智冥合の因果を無作三身に配し、智は無作の報身、境は無作の法身、境智合して起こす慈悲の用は無作の応身であると示されたうえで、更にそれを「体」「宗」「用」の三章に配されている。すなわち、「此の三身、即ち三徳三章なり。謂く、無作の法身は即ち法身の徳此れ妙体なり。無作の報身は即ち般若の徳是れ妙宗なり、無作の応身は即ち解脱の徳是れ妙用成り、無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、是好良薬、結要付嘱之を思いあわすべし」と仰せられている。
 この二つの御教示を合わせ考えると、境智冥合している仏の自行の生命に「体」「宗」「用」が具し、それがすなわち無作三身であり、その宝号を南無妙法蓮華経というのである。したがって、南無妙法蓮華経の力用は、体である境およびその宗である智と相即しているのであり、その意味で、仏の内証から起こる直接的な働き掛けなのである。したがってまた、この南無妙法蓮華経の用は、天台大師がいうところの「用の宗」すなわち境智が合したところに起こる慈悲の用そのものであるといえる。
 このように南無妙法蓮華経は体・宗・用が相即する法体であるから、その「名」の意義も、当然、経典の題号と同列に扱うべきではない。南無妙法蓮華経の「名」としての意義については、先に引用した日寛上人の当流行事抄の御文に「無作三身の宝号」とあるが、これは御義口伝の「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)との仰せを踏まえられていると拝あれる。南無妙法蓮華経は「無作三身の宝号」であり、したがって体・宗・用が相即する仏の自行の妙法に即して名付けられた「名」なのである。である故に、それを唱えることに無量の功徳が具するのである。
 このことについて、法華初心成仏抄では「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法.一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(0557-04)と仰せである。すなわち南無妙法蓮華経の「名」は、己心の仏性を呼び顕す「唯一音」であり、一切衆生は、南無妙法蓮華経と唱えて仏性を呼び顕すことによって仏となるのである。
 さて南無妙法蓮華経が体・宗・用に即する名であることから、不信・謗法の衆生も、この名を聞くことによって下種の利益を得ることができるのである。一念三千の法門では、南無妙法蓮華経のよる「聞法下種」の利益について次のように明かされている。
 「妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す一念も随喜する時 即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す、妙楽大師の云く『若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違終いに斯れに因つて脱す』と云云、日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり法華経に若有聞法者等と説れたるは是か」(0415-08)
 すなわち、妙法蓮華経を信受して南無妙法蓮華経と唱える順縁の衆生は即身成仏し、また不信・違背の衆生も、南無妙法蓮華経の名を耳に触れるだけで、成仏の種子を成すとされている。これが「逆縁の功徳」である。
 御義口伝には「本心を失うとは謗法なり本心とは下種なり不失とは法華経の行者なり失とは本有る物を失う事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり」(0755-第七或失本心或不失者の事)と仰せのように、法華経に違背する謗法の衆生もまた、本来的には妙法の当体であるが、生死流転の過程で不信・謗法を重ねたため、本有の妙法との本源的な結縁を忘失してしまっているのである。このような衆生に実相の理を抽象的な言葉で説いたとしても、不信・謗法を重ねるのみであろう。しかし、究極の妙法が仏の内証の体・宗・用を具し、しかも明確な名をもって顕されることにより、耳を経ての結縁、すなわち聞法下種が可能になり、忘失していた妙法との結縁を回復できるのである。
 この聞法下種こそ成仏の根本条件であるから、下種の利益は他のいかなる功徳にも勝るのである。故に顕謗法抄では、「聞法生謗・堕於地獄・勝於供養・恒沙仏者との経文を引いて、「此の文の心は法華経をはうじて地獄に堕ちたるは釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり」(0451-18)と、たとえ逆縁たりとも聞法下種の功徳の偉大さを示されている。
 南無妙法蓮華経が一闡提・謗法の極重大病を治す「第一の良薬」であるとされている所以は、このように下種結縁の功徳によって、病を根源から治すためであると拝されるのである。
 なお最後に、五重玄の「教」の観点から南無妙法蓮華経の意義を言えば、仏の内証の体・宗・用が相即する法体が、南無妙法蓮華経という名をもって顕されたこと自体が「教」であると拝され釈尊の脱益の法華経とは明確に立て分けられたのである。

0335:11~0336:01 第11 助証・助顕等の末法正意を明かすtop
11   疑つて云く多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出此等は誰人の為ぞや、答えて曰く世間の情に云く在世の為と、
12 日蓮云く舎利弗.目ケン等は現在を以て之を論ずれば 智慧第一.神通第一の大聖なり、過去を以て之を論ずれば金竜
13 陀仏・青竜陀仏なり、 未来を以て之を論ずれば華光如来、 霊山を以て之を論ずれば三惑頓尽の大菩薩、本を以て
14 之を論ずれば内秘外現の古菩薩なり、文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏・現在の応生なり、梵帝・日月・四天等は
15 初成已前の大聖なり、 其の上前四味・四教・一言に之を覚りぬ・仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し誰人
16 の疑を晴さんが為に多宝仏の証明を借り諸仏舌を出し 地涌の菩薩を召さんや方方以て謂れ無き事なり、 経文に随
17 つて「況滅度後・令法久住」等云云、 此等の経文を以て之を案ずるに偏に我等が為なり、 随つて天台大師当世を
18 指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」 伝教大師当世を記して云く「正像稍過ぎ已つて 末法太だ近きに有り
0336
01「末法太有近」の五字は我が世は法華経流布の世に非ずと云う釈なり。
-----―
 疑つて言う。多宝如来の証明、十方分身の諸仏の広長舌相の助証、地涌の菩薩の涌出などは誰のために為されたのか。
 答えて言う。世間の考えにおいては在世の為というであろう。しかし日蓮が言うには、舎利弗や目連らの仏弟子達は現在をもって論ずれば智慧第一・神通第一の偉大な聖者であり。過去をもって論ずれば金竜陀仏・青竜陀仏である。未来をもって論ずれば華光如来等の仏であり、霊鷲山会の時をもって論ずれば三惑をすみやかに断じ尽くした大菩薩である。その本地をもって論ずれば三惑をすみやかに断じ尽くした大菩薩である。その本地をもって論ずれば、内に菩薩行を秘め外には声聞の姿を現した菩薩である。文殊師利菩薩や弥勒菩薩らの大菩薩は過去においては仏であり、釈尊在世に仮に菩薩として応現したのである。大梵天王・帝釈天・日天子・月天子・四天王らの諸天善神は、釈尊の初成道以前からの偉大な聖者であり、その上、前四味の四教を一言でこれを悟ったのであった。
 このように釈尊の在世には一人として無智の者はいない。誰の疑あいを晴らすために、多宝如来の証明を借り、十方分身の諸仏が舌を出し、地涌の菩薩を召し出す必要があったであろうか。釈尊在世の各衆生にとっては、これらの仏事が為されるべきといわれはないのである。
 したがって経文には「況や滅度の後をや」「法をして久しく住せしめん」等と説かれている。これらの経文をもって考えると、多宝如来の証明等の仏事は、ひとえに末法の我らのためなのである。
 したがって天台大師が当世を指して言うには「後の五百歳は遠く未来までも妙道に沾おうであろう」と。伝教大師が当世のことを予言して言うには「正法・像法の時代も過ぎおわろうとしており、末法ははなはだ近くにある」と。「末法太有近」の五字、自分の世は法華経流布の世ではないとうい釈である。

1 法華経で説かれる仏事の意義
一、多宝の証明・十方の助舌・地涌の湧出

 本抄「大段第二」では、これまで法華経本迹二門における釈尊の説法が、すべて末法のためであったことが明かされてきたのであるが、ここでは最後に、釈尊の説法だけではなく、法華経見宝搭品第十一における多宝如来の証明、如来神力品第二十一における十方分身の諸仏の助舌、涌出品第十五における地涌の菩薩の出現等も、釈尊在世の衆生のためでなく、滅後末法のためになされたことを明かされている。
 これにより、法華経一経が、総じて末法のために説かれた経であることが示されているのである。
 宝塔品では、多宝如来はいずれの地であっても法華経を説く仏があれば、その真実を証明するために出現する仏であるとされている。同品の冒頭では、多宝如来が湧出した宝塔の中より大音声を出して「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたもう、是の如し、是の如し、釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」と述べ、迹門における釈尊の説法が真実であることを証明したのであった。
 釈尊は迹門の正宗分で開近顕実を説き明かしたのだが、その正宗八品の説相に明らかなように、菩薩・二乗・人天等の在世衆生は、その説法の旨を領解したのであった。したがって在世衆生の領解のためには、釈尊の説法だけで十分だったのであり、更に多宝如来の証明を加える必要はなかったといえる。
 しかし、迹門流通分の最初の法師品第十では、釈尊滅後の衆生にとっては法華経は最も難信難解であることを説き、その中で法華経を説く法師の功徳の大なることを明かして、滅後弘通を勧めている。見宝搭品第十一の多宝如来の証明は、それを受けてなされたのであるから、在世衆生のためというよりも、滅後のための証明であったことは明らかである。
 また十方分身の諸仏の助舌については、法華経神力品に「爾の時に世尊一切の衆の前に於いて、大神力を現じたもう。広長舌を出して、上梵世に至らしめ、一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧く十方世界を照らしたもう。諸の宝樹下の、師子座上の諸仏も、亦復是の如く、広長舌を出し無量の光を放ちたもう」と説かれている。すなわち釈尊が大神力を現して広長舌相と通身放光の相を示したのに続いて、十方分身の諸仏もまた広長舌相と通身放光の相を示したとされる。
 神力品では、これらの相を皮切りに十神力が示されたのであるが、この十神力は、釈尊が滅後のために、上行をはじめとする本化地涌の菩薩に付嘱する法の功徳を示すものとされている。つまり十神力は地涌の菩薩による末法の法華経弘通のための瑞相なのである。十方の諸仏は、この瑞相を釈尊を助けて共に現したのであり、このことを最初の広長舌相に焦点を当てて「助舌」とおおせられたのである。
 しかも、広長舌相は、言説の真実を証明する相であり、釈尊をはじめ十方の諸仏が広長舌相を示したということは、一切の仏が地涌の菩薩によって末法に弘通される法華経、すなわち日蓮大聖人の南無妙法蓮華経が真実なることを証明したことを意味するのである。
 以上の多宝如来の証明と十方諸仏の助舌について報恩抄にも「すでに教主釈尊かく定め給いぬれば疑うべきにあらねども我が滅後はいかんかと疑いおぼして東方・宝浄世界の多宝仏を証人に立て給いしかば多宝仏・大地よりをどり出でて妙法華経・皆是真実と証し十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給い広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給う」(0300-08)と仰せである。ここでは「我が滅後はいかんか」との釈尊の真意を示し、あくまでも釈尊は滅後のために、多宝如来や十方分身の諸仏が証人として法華経の会座に招かれたとされている。
 なお釈尊が他の仏を証人にすることについては、法華経方便品の「唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相との文に深く関連していると考えられる。すなわち、法華経で初めて明かされた諸法実相は唯仏与仏の極理であり、この極理を証明するのは仏以外にないのである。一切衆生の成仏という仏の本懐は、この極理に基づくのであり、それを実現するために法華経が説かれたのである。その意味で、法華経の滅後弘通は一切の仏の深い要請であり、そこに多宝仏や十方諸仏がこぞって法華経の真実を証明した所以があるのである。
 次に、地涌の菩薩の涌出については、涌出品に「仏、是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に湧出せり」とある。既に詳しく述べたように、この地涌の菩薩の出現に疑念を抱いた大衆を代表して、弥勒菩薩が釈尊に質問したのに対して「我久遠より来、是れ等の衆を教化せり」と略開近顕遠が説かれ、更に寿量品の広開近顕遠へと展開していくのである。
 また地涌の菩薩は、神力品において釈尊より付嘱を受け、法華経の要法を所持した末法弘通の主体者である。したがって、地涌の菩薩こそが「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無かれ」との仏の未来記を実現する菩薩であることは明らかである。このように地涌の菩薩の出現が釈尊滅後、特に末法のためであることは疑いようがない。
二、在世衆生の境位
 御文では「世間の情に云く在世の為」と仰せられ、世間の通俗的な考え方の上では、多宝証明等が釈尊在世の衆生のためになされたかのように思われがちであったことを述べられている。これは、法華経は末法の劣機の衆生のための教えではない、とする念仏宗の理深礙微等の邪義に惑わされた世間の人々の迷情・無智を指しての仰せと拝される。
 そこで大聖人は、この誤った見方を打ち破るために、釈尊在世の衆生の境位を種々の観点から列挙されることにより、多宝証明等が在世衆生におっては不必要であったことを示された上で、経文を引かれて、末法の衆生のためにこそ必要であったことを証されているのである。
   ①釈迦在世においては声聞の聖位に登り、それぞれ智慧第一、神通第一と称された
   ②過去世については金竜陀仏、青竜陀仏の仏であった
 金竜陀仏については、法華文句巻一上に「若し身子の化を見れば、則ち竜陀の本を見る」と述べられている。
 これについて法華文句記巻一では、舎利弗が金竜陀仏であるとするのは大宝積経の所説であるとの所伝を紹介している。また同書ではあわせて「須菩提は是れ東方青竜陀仏なり」との真諦の説を紹介している。いずれにしても、舎利弗や須菩提などの仏弟子の本地は仏であった、との言い伝えがあったようである。
 未来については、
   ③法華経迹門において、舎利弗は華光如来など声聞の弟子達に未来作仏の授記がなされた
   ④霊鷲山における法華経の会座において成就した境位は、見思・塵沙・無明の三惑を断じ尽くした大菩薩である
 つまり、舎利弗などの声聞達は、迹門の開三顕一の説法によって一分の無明を断じて初住位に登り、更に本門の開近顕遠の説法を聞いて等覚位という菩薩の最高位に登った。
 本地については、
   ⑤内秘外現の古菩薩である
 すなわち、法華経五百弟子受記品第八に富楼那に即して「内には菩薩の行を秘し、外には是れ声聞なりと現ず…我が弟子是の如く、方便して衆生を度す」と述べられているように、在世の仏弟子は、外には声聞としての方便の姿を現しているが、内に秘められた本地は衆生を救う菩薩であるとされている。
 次に、文殊や弥勒などの大菩薩については、既に過去世において悟りを開いた仏であったが、釈尊の説法を助け、衆生を教化するために菩薩の姿をとって応生したとされている。
 更に法華経説法の会座に参集していた梵天・帝釈・日天・月天・四大天王など天人について、釈尊が成道する以前からの大聖であり、法華経以前の四味・四教といった諸経も一言聞いただけで、その真意を覚ってしまうような大聖であったとされている。
 以上のように、法華経の会座に列なった在世の衆生は、それぞれ法華経の説法を聴聞して信解できる高い境位にあり、舎利弗・目犍連などの声聞や文殊・弥勒などの菩薩は、むしろ釈尊の説法を助け、衆生を教化するために、それぞれの姿をもって出現したと言えるのである。したがって、本抄で「仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し」と仰せのように、釈尊の説法に加えて、多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出といったことを、在世衆生のために示す必要はなかったといえよう。
 本抄では以上のように述べられた上で、法師品の「令法久住」などの文を引いて、多宝証明などは、ひとえに末法のために為されたものであると結論されている。
 法師品の「況滅度後」の文は、難信難解の法華経を釈尊の滅後に弘通する人は、釈尊の在世よりも更に大きな難を受けることを示して滅後弘通を勧めた文であり、釈尊が法華経を説いた本位は、在世の衆生のためというよりも、むしろ滅後のためであるということを端的に示していると言える。また、本門流通分に至る法華経の展開の上から見れば、神力品において付嘱を受ける地涌の菩薩による末法弘通を予証する文であると言える。したがって大聖人は法華経を身読された御境地の上から、この文を、上行菩薩の再誕としても御自身の振る舞いを予証する文とされている。
 また宝塔品の「令法久住」の文は、釈迦・多宝・十方の諸仏が法華経の会座に集まった理由が、釈尊滅後に法華経を久しく住せしめることにあることを端的に示した文である。
 故に大聖人は、この両文をもって、多宝証明等の仏事も「偏に我等が為」であると結論されていると拝される。
2 天台・伝教等の末法願楽
 天台大師と伝教大師の釈を挙げて、法華経が末法を正意とすることを明かした一段を結ばれている。
 引用されている天台大師の言葉は、法華文句巻一上で法華経流通分の意義を明かした文であり、詳しくは「但当時に大利益を獲るのみに非ず、後の五百歳遠く妙道に沾う故に流通分あるなり」とある。この「後の五百歳遠く妙道に沾う」とは、明らかに薬王菩薩本事品第二十三の「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して」との文を踏まえたものであり、したがって、法華経が末法の広宣流布の時のために説かれたことを示唆しているのである。故に大聖人は顕仏未来記において「天台大師云く『後の五百歳遠く妙道に沾おわん』等云云広宣流布の時を指すか」(0505-05)と仰せである。
 次に、伝教大師の言葉は守護国界章巻上之下の文であり、詳しくは「当今の人、機皆転変し、都て小乗の機無し。正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり」とある。
 この文は法相宗の徳一が小乗・権大乗の諸経の観行を主張したのを伝教大師が破迹して述べている個所にあたる。伝教大師はこの個所において、徳一の観行は小乗の迂回道、権大乗の歴劫道、法華一乗の直道の区別を知らずに立てたものであり、当時の人は小乗の迂回道や権大乗の歴劫道を行ずる機根ではない、と破したのである。
 この趣旨から見て、上の文はあくまでも伝教大師当時の衆生の“機根”を論じていることに注意する必要がある。「今正しく是れ其の時なり」とは“今まさに法華一乗の機の衆生のみがいる時である”との意であり、決して当時を末法としているのではないのである。そして、当時がいかなる時かという点についての伝教大師の意は、むしろ「末法太だ近きに有り」という言葉に表されていると言えよう。この言葉が、本抄で大聖人が仰せのように“当時はまだ末法ではない”ということを示しているのは明白である。
 つまり伝教大師は当時について、衆生の機根は法華一乗の機であっても、まだ法華経広宣流布の円時である末法には至っていないととらえているのである。これは、大聖人が観心本尊抄において、像法時代に地涌の菩薩が出現しない理由を「所詮円機有つて円時無き故なり」(0253-13)と明かされていることに符合する。
 また、伝教大師が“今の衆生は法華一乗の機である”ということを論じている個所で、「末法太だ近きに有り」と末法の時に言及したということは“衆生は法華一乗の機であるのに法華経広宣流布の時である末法はまだ来ていない、末法よ早く来たれ”というような、末法広宣流布の時を待ち望む伝教大師の内意が表出されたとみることができる。まさに顕仏未来記において「伝教大師云く『正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り』等云云 末法の始を願楽するの言なり」(0505-04)と述べられているのはその意味であろう。
 この末法願楽の心は、伝教大師の言葉だけでなく、末法が法華経広宣流布の時であることを述べた先の天台大師の文、またその天台大師の文を釈した妙楽大師の「末法の初め冥利無きに不ず」の文にもうかがえるのである。故に大聖人は撰時抄において「法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり」(0260-05)と述べられている。

0336:02~0338:04 大段第三 末法流布の大法を明かすtop

 この段では、末法に弘通されるべき大法として三大秘法が明かされている。ここでは、三大秘法が正像二時に流布されなかった理由を示されている。以下本抄及び諸抄にしたがって考察していく。

0336:02~0336:06 第12 三大秘法を明はすtop
02   問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、 答えて云く本門
03 の本尊と戒壇と題目の五字となり、問うて曰く正像等に何ぞ弘通せざるや、答えて曰く正像に之を弘通せば小乗・権
04 大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可きなり、 問うて曰く仏法を滅尽するの法何ぞ之を弘通せんや、 答えて曰く末
05 法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し 一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経
06 の五字に限る、 例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり、 
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 問うて言う。釈尊滅後二千余年間竜樹・天親・天台・伝教が末だ説いていない秘法とは何か。
 答えて言う。本門の本尊と戒壇と題目の五字とである。
 問うて言う。正法・像法時代に何故弘通しなかったのか。
 答えて言う。正法・像法時代にこれを弘通すれば、小乗教・権大乗教・迹門の法門が一時に滅尽してしまうからである。
 問うて言う。仏法を滅尽してしまう法を、なぜ弘通しようとするのか。  
 答えて言う。末法においては、大乗教も小乗教も、権教も実教も、顕教も密教も、ともに教だけがあって得道がないからであり、一閻浮提の人々が皆、謗法となってしまっているからである。逆縁の者のためには、ただ妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品に説かれている通りである。我が門弟は順縁の者であるが、日本国の人々は逆縁である。

1 正像末弘の理由
 御文では最初に、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台・伝教が説き弘めないで残した秘法が三大秘法であると明示されている。
 ここに挙げられている四師は、いずれも法華経を称歎し、その意義を明らかにした正像二時の正師である。すなわち、正像時代の竜樹は大智度論で、二乗作仏を説く法華経のみが秘密教であり、二乗作仏を説かない般若経は秘密教にあらずと述べて、法華経の意義の一分を明らかにした。また天親は法華論を著して、他教に見られない法華経の教相上の特質を明らかにした。竜樹・天親の法華経観は、前にも詳しくのべたように、迹門を中心としたもので、しかも教相に偏しており、法華経の観心の法門である一念三千については、全く明らかにしていない。故に御書には次のように仰せである。
 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず」(0189-02)
 「問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり、或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云わず」(0245-04)
 「華厳・般若等の四教・三諦の法門なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず」(0267-17)
 つまり竜樹・天親等は、法華経の一念三千を知っていたが、外には権大乗を説き弘め、法華経については、わずかに迹門の一分を述べたにすぎないのである。
 像法時代においては、中国の天台大師が摩訶止観・法華玄義・法華文句のいわゆる天台三大部を著して、法華経の一念三千を明らかにするとともに、これを証得するための修行として止観行を立てた。また、我が国においても伝教大師は、天台大師の所説に基づいて法華経が根本の経であることを明らかにし、迹門円頓戒壇を建立した。撰時抄では、天台大師の弘通した法門について次のように述べられている。
 「正法一千年・像法の前四百年・已上仏滅後・一千四百余年にいまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず其の声月氏までもきこえぬ、法華経の広宣流布にはにたれどもいまだ円頓の戒壇を立てられず小乗の威儀をもつて円の慧定に切りつけるはすこし便なきににたり、例せば日輪の蝕するがごとし月輪のかけたるに似たり」(0270-15)
 円定・円慧とは、法華経に基づく円教の禅定・智慧ということであり、一念三千を証得するための観心の修行を意味する。天台大師はこの円定・円慧を弘通したが、まだ法華経に基づく円戒を立てなかったので、欠けることがあったと仰せである。この円戒を立てたのが伝教大師である。すなわち同抄に「伝教大師は日本国の士なり桓武の御宇に出世して欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり天台大師の円慧・円定をせんじ給うのみならず、鑒真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり、此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり、内証は竜樹・天台等には或は劣るにもや或は同じくもやあるらん、仏法の人をすべて一法となせる事は竜樹・天親にもこえ南岳・天台にもすぐれて見えさせ給うなり」(0271-02)と。伝教大師の円定・円慧を踏まえて、諸宗を法華経の正義に帰服せしめ、円戒を立てたから、法華経の弘通において、竜樹・天親よりも勝れていると仰せである。
 このように、伝教大師に至って法華経に基づく戒・定・慧がそろったことについて、報恩抄では、総括的に次のように述べられている。「されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり」(0328-10)
 しかし、正像二時の正師達は、それぞれの時に応じて法華経の意義を宣揚したものの、寿量品の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経を、末だ説き弘めることはなかったのである。この正像末弘の理由について本抄では「正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可きなり」(0336-03)と明かされている。それでは三大秘法を弘通すれば、何故に小乗・権大乗・法華経迹門の法門が一時に滅尽するのであろうか。また、正像二時はこれらの法門が一時に滅尽してならないのは何故であろうか。
 この点について観心本尊抄では以下のように御教示されている。まず正法時代に本化地涌の菩薩が出現して三大秘法の南無妙法蓮華経を説かない理由について「正法一千年の間は小乗権大乗なり機時共に之れ無く四依の大士小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ 謗多くして熟益を破る可き故に之を説かず例せば在世の前四味の機根の如し」(0253-10)と仰せである。すなわち、正法時代は四依の人々が小乗・権大乗を弘める時であり、衆生はそれらの教えを縁として、釈尊在世における下種を調熟し、その後に得脱していくことができるのである。つまり、正法時代の衆生は、小乗・権大乗によって、在世の法華経の下種を育て得脱したのである。ところが、もし三大秘法の南無妙法蓮華経を説けば、それを誹謗してしまい、得脱にいたるまでの熟益を破ってしまうのである。
 像法時代については同抄に「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(0253-11)と仰せられている。像法時代は正法時代よりも衆生の智慧が浅くなっているため、小乗・権大乗よりも深い法華経が弘められねばならないのであるが、これもまたあくまで在世の法華経との結縁の種子を育て得脱させるためであった。天台大師はこのような時代の正師であるから、時に適った法である迹門の理の一念三千の法を説き、その上に止観行を立てたのであり、「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」つまりは三大秘法の南無妙法蓮華経を説くことは、末だ時至らぬ故できなかったのである。
 要するに、正像二時は、既に在世の法華経と結縁した本已有善の衆生が出てきている時代であり、その在世結縁の種子を育てる縁として、小乗・権大乗・法華経迹門の教えが必要だったのである。したがって、これらの教えを正像二時には滅尽させてはならなかったのである。
 また、三大秘法の南無妙法蓮華経を説けば、何故これらの熟益の教えが滅尽するかといえば、一つには、先にも述べたように、熟益の段階にある正像二時の衆生は南無妙法蓮華経を誹謗し、善根をなくしてしまうからである。そして、法に即していえば、報恩抄に「大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし、彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用を失ふ、例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失ない牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし、南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる、彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのものなるべし当時眼前のことはりなり」(0326-04)と仰せのように、南無妙法蓮華経の力用は一切の教えの根本であるから、南無妙法蓮華経が顕されてしまえば、一切の教えはその当分の力用を失ってしまうからである。
 なお日寛上人は本抄文段において、正像に三大秘法を弘通すれば一時に滅尽するとされる「小乗・権大乗・迹門の法門」の「迹門の法門」について、本抄の大意からいえば、ただ法華経迹門十四品を指すのではなく「天台弘通の法華一二門」を指すとされている。ほれは、本抄で像法弘通の法として迹門のみが挙げられているからといって、文上の本門が末法弘通の法であるとされているのではないことを、明らかにされているのである。
 先に引いた観心本尊抄の御文の中に、天台大師弘通の法門について「迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり」(0253-12)と述べられているように、天台大師は理の一念三千を明かすにあたり、あくまでも迹門を表に立ててはいるが、裏には文上の本門を用いている。この意味で天台大師弘通の本迹二門、つまり文上の法華経一部はすべて、本抄で後に「広略を捨てて要を取る」と仰せられている「広略の法門」になるのであり、したがって、文上の法門も、法華経の肝要である三大秘法の南無妙法蓮華経が、滅尽すべき像法の教法の中に含まれているのである。
 故に大聖人は上野殿御返事において「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神のごとし、此れにものを・ならぶれば・きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし、わざはひのみなもとなり、正法・像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(1546-
08)と仰せられ、余経も文上の法華経も末法弘通の法ではなく、ただ文底の要法である南無妙法蓮華経のみが末法弘通の法である、と峻別されているのである。
2 末法に弘通する理由
 本抄では三大秘法正像末弘の理由について述べられた後に、末法こそ弘通される理由を次のように明かされている。
 「末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し」
 日寛上人は本抄文段において、これを要約して、
   第一「有数無益の故」
   第二「不軽の例による故」
 とされている。
 第一の「有数無益の故」については、「縦令法の儘に弘教有れども、末法に至っては大小・権実・顕密、共に教は有れども得道なし、この故に三大秘法を弘通するなり」と述べられ、第二の「不軽の例による故」については、「何に況や弘法・慈覚・法然已来、一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ。逆縁の為には但妙法五字に限る。不軽に例するが故に三大秘法を弘通するなり」と述べられている。この二つの理由について、更に詳しく考察してみたい。
 まず、末法においては「大小・権実・顕密」の諸経による得道がなくなる故に三大秘法を弘通するという、第一の理由について考察する。
 この「大小・権実・顕密」について、日寛上人は本抄文段において次のように御教示されている。
 「大は即ち権大乗、小は即ち小乗、権は即ち爾前、実は即ち迹門の法門となることを。顕は即ち他経、密は即ち今教なり」
 したがって、末法においては無得道となるとされる「大小・権実・顕密」とは、釈尊一代の一切の経々を指すのである。
 末法においては諸経による得道がなくなる理由について、顕仏未来記の次の御文に詳しい。
 「法華経を以て之を探るに正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり、像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず、末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し」(0506-15)
 この御文では、まず正像二時における諸教経による「証」の有無は在世における法華経との結縁の厚薄によることが明らかにされている。すなわち、釈尊在世における法華経との結縁が深い衆生は、正法時代に生まれて、小乗の教・行を縁として小乗当分の証を得ることができた。また、より結縁微薄な衆生は像法に生まれてきて、権大乗の教・行によって当分の証を得ることができたのである。
 ただし、これらの証は、その限りでは、あくまでも小乗・権大乗の当分の証であり、熟益にとどまるのであって、決して成仏の果報が得られるわけではない。そして、その熟益すらも、在世の法華経と結縁があったからこそ可能なのであり、小乗・権大乗の教・行は熟益の縁として機能しないのであり、したがって無益なのである。この点については教行証御書に次のように明確に述べられている。
 「夫れ正像二千年に小乗権大乗を持依して其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り、然りと雖も彼れ彼れの経経を修行せし人人は自依の経経にして益を得ると思へども法華経を以て其の意を探れば一分の益なし、所以は何ん仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否に依り円機純熟の者は在世にして仏に成れり、根機微劣の者は正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し、されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し」(1276-01)
 それでは、正像二時の衆生が、小乗・権大乗によって熟益を得ることがいかなる意味があるかといえば、観心本尊抄に「正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る例せば在世の前四味の者の如し」(0248-18)と仰せのように、小乗・権大乗の熟益を経ることによって法華経に記入し、その法華経において初めて得脱できるのである。
 なお、この観心本尊抄の「正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る」との御文では、正像だけではなく、末法にも小乗・権大乗を縁として法華経に入る衆生がいることが示されているが、これは、末法の初めにも在世の法華経に結縁した人が、ごく少数であるが残存しているとの仰せと拝される。しかし、末法に入って、法華経の行者が出現されるまでの二百年に、そのような人々は得脱してしまい。少々は残っていたとしても、謗法の者が充満するために、その結縁の善根も濁世の中で消えてしまうのである。このことについては小乗大乗分別抄に「今は又末法に入つて二百余歳・過去現在に法華経の種を殖えたりし人人も・やうやくつきはてぬ、又種をうへたる人人は少少あるらめども世間の大悪人・出生の謗法の者数をしらず国に充満せり、譬えば大火の中の小水・大水の中の小火・大海の中の水・大地の中の金なんどの如く悪業とのみなりぬ」(0525-11)と示されている。末法の衆生は総じて法華経との結縁がない本未有善の衆生といえるのである。
 このように、末法の衆生は、そもそも在世の法華経との結縁がない。本未有善の衆生であるために、小乗・権大乗の教行によって証をとることができないのである。故に、先に引いた顕仏未来記の御文では「末法に於いては大小の益共に之無し」と仰せである。そして、これらの権小の教法による熟益の証を得ることができないということは、法華経に帰入することができないとを意味する。この場合の法華経とは、既に熟益を経てきた本已有善の衆生を得脱させる教法として法華経、つまり文上脱益の法華経である。この文上の法華経もまた、末法には無益なのである。故に教行証御書では次のように御教示されている。
 「今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(1276-05)
 すなわち、末法の衆生は在世法華経との結縁がないので、権実二教によって益を得る機根ではないとされ、寿量文底の南無妙法蓮華経のみが下種益の要法でることを明かされている。
 次に、三大秘法を末法に弘通する理由の第二として、末法は謗法の衆生が充満するため、弘通されるべき法は逆縁の衆生を救うことができる「妙法蓮華経の五字」に限る。とされている点について述べる。
 顕仏未来記にも「其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり、仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く 正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり、此の時に当つて諸天善神其の国を捨離し但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し法華経の行者を罵詈・毀辱せしむべき時なり、爾りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し」(0507-01)と仰せであり、また観心本尊抄でも「今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し 東西共に之を失し天地顛倒せり迹化の四依は隠れて現前せず諸天其の国を棄て之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て 幼稚に服せしむ」(0253-11)「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と仰せである。
 これらの御文に明らかなように、「妙法蓮華経の五字」とは即ち「本門の本尊」であり、この「本門の本尊」に「三大秘法」が総在するのである。ちなみに「妙法蓮華経の五字」と「三大秘法」との関係をいえば、「妙法蓮華経の五字」が、寿量品の文底に秘沈された久遠元初の唯密の正法の名を指すのに対して、「三大秘法」は久遠元初の正法が末法の衆生に弘通されるときの「形貌」であるといえよう。つまり、「三大秘法」は久遠元初の正法から開かれた末法流布の法体なのである。
 この妙法蓮華経の五字によってもたらせられる下種益、および逆縁の功徳については、既に述べた通りである。ただし「例せば不軽品の如し」と仰せられ、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれた不軽菩薩の弘通を逆縁の衆生に対する弘通の例として挙げられている点について若干、触れておきたい。不軽菩薩の弘通と日蓮大聖人の弘通との対比は次の御文にも示されている。
 「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507-07)
 「往過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向つて唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値つて益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり」(1276-08)
 これらの御文に述べられている、不軽菩薩の弘通と大聖人の弘通との共通点は、次の諸点に整理できよう。
   ①仏の入滅後の濁世に出現し、凡夫として法華経を弘通
   ②要法を弘める
   ③衆生の機根を調熟せず、直ちに法華経を以て衆生を而強毒之し、順縁・逆縁ともに救う。
   ④難を忍受
 このように不軽菩薩の実践は、仏の滅後における法華経弘通の方軌を示しているのであり、大聖人もこの方軌に則って法華経を弘通されている故に、不軽品を御自身の弘通の「例」とされているのである。
3 順縁と逆縁
 本段の御文の最後に「我が門弟は純縁なり日本国は逆縁なり」と仰せである。これは、末法の逆縁の衆生のためには、ただ妙法蓮華経の五字に限るとされるのを受けて、末法は総じて本未有善の衆生であるが、その中でも、順縁と逆縁の別があることを示されていると拝される。
 妙法蓮華経の五字は、それを聞いて反発する逆縁の衆生も、下種益を施す大法であるが、聞いて素直に信受する衆生は順縁の人といえる。あるいは、いったんは反発して逆縁を結ぶが、後に改悔して信受すれば、その人は順縁の人となったといえよう。法華初心成仏抄に「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」(0552-14)と仰せのように、大聖人が弘通される三大秘法の南無妙法蓮華経は、順逆いずれの衆生をも所被の機としているのである。
 さて、「我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」との仰せについて、日寛上人は「当に知るべし、弘通の始めは一国皆逆縁ばり。然るに妙法漸々に滅じて、順縁漸々に増するなり。而る後、終には逆縁都て尽き、一国皆順縁と為るなり」と述べられている。これは、三大秘法を顕説した本段より始まる大段第三全体の趣旨を踏まえての仰せと拝される。すなわち本段では、三大秘法を顕説された後に、まず、
   ①「一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ」
      大聖人弘通の始めは逆縁の衆生で充満していたことを示されている。
   ②「我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」
      順縁の弟子が漸増してきたことを示されている。
   ③「上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」
      本抄最末尾の文で、未来の順縁広布を展望されている。
 のである。

0336:06~0336:11 第13 ただ要を取るの所以を明かすtop

 本段では、日蓮大聖人が広略の法華経を捨てて、法華経の肝要たる三大秘法の南無妙法蓮華経を取る理由を明かさている。本抄の題号「法華取要」の意義と由縁を示す重要な部分である。
06                                     疑つて云く何ぞ広略を捨て要を取る
07 や、答えて曰く玄奘三蔵は略を捨てて広を好み 四十巻の大品経を六百巻と成す 羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻
08 の大論を百巻と成せり、 日蓮は広略を捨てて肝要を好む 所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり、 九包淵が
09 馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取る 支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る等云云、 仏既に宝塔
10 に入つて二仏座を並べ分身来集し 地涌を召し出し肝要を取つて 末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可
11 からず。
-----―
 疑つて言う。どうして広略を捨てて肝要をとるのか。
 答えて言う。玄奘三蔵は略を捨てて広を好み、四十巻の大品経を六百巻と成した。鳩摩羅什三蔵は広を捨てて略を好み、千巻の大智度論を百巻と成した。日蓮は広略を捨てて肝要を好む。すなわち上行菩薩によって伝えられた妙法蓮華経の五字である。
 九包淵が馬を見分ける方法は、黒か黄かとの毛の色をとらわれないで駿馬か否かを見た。支道林は経を講義するのに細かな区分を捨てて根本の意をとった。
 釈尊が既に宝塔に入って多宝如来と座を並べ、十方分身の諸仏が来集したなかで、地涌の菩薩を召し出して、肝要をとって末代のために五字を授与したことは、当世においても異義のあろうはずがない。

1 玄奘と羅什
 「何故、広略を捨てて肝要を取るのか」との問いに対して、まず、略を捨てて広を取った玄奘の例、逆に広を捨てて略を取った鳩摩羅什の例を挙げられている。このように広・略を取捨した先例を挙げられることによって、広略を捨てて肝要を取る日蓮大聖人御自身の取捨が、仏法の弘通の方軌の上から、必ずしも奇異なことではないことを示されている。
 鳩摩羅什と玄奘は、いずれも中国の代表的な経典翻訳家である。第一章で述べたように、中国における経典の漢訳は、鳩摩羅什を代表とする旧訳と、玄奘を代表とする新訳とに分けられる。
 まず、玄奘が略を捨てて広を好んだ例として「四十巻の大品経」を「六百巻」に釈し直したことを挙げられているが、「四十巻の大品経」とは鳩摩羅什の大品般若経を指し、「六百巻」とは玄奘訳の大般若経の巻数である。玄奘訳の大般若経は十六会からなり、その第二会が羅什訳の大品般若経にあたる。大品般若経に限らず、玄奘以前に既に訳されていた般若部の諸経典の多くは大般若経の一六会のいずれかにあたっている。
 しかし、このことは必ずしも、大品般若経等が大般若経の一部に過ぎないということを意味するわけではない。なぜならば、大品般若経や道行般若経を原型として、羅什の時代よりも更に後にインドにおいて形成された般若経系諸経典を十六会の形式にまとめたものが、大般若経であると見られるからである。大般若経六百巻の大半を占める第五会までの五百六十五巻は、ほぼ同じ内容の繰り返しであり、したがって大般若経と大品般若経とは、ただ広・略の関係にあるにすぎないと言えるのであり、内容的には大品般若経に尽くされているのである。
 このような略を捨てて広を取る傾向は、玄奘の翻訳の全般に見られるところであり、その意味から、彼の訳風はまさに「広を好む」と表現できるのである。ちなみに、出三蔵記によれば、鳩摩羅什が翻訳した経典は七十四部・三百八十四巻になる。これに対して玄奘は、翻訳した仏典の種類は羅什とほぼ同じ七十五部であるが、巻数は羅什の約三倍半にあたる一千三百三十五巻にのぼっている。玄奘の翻訳に、このような「広を好む」傾向が見られる理由は、一つには、彼が直訳を重んじたからであり、二つには、インドにおいて時代が下がるにつれて増広されてきた経典を、そのまま伝訳しようとしたからであると考えられる。
 次に鳩摩羅什が広を捨てて略を好んだ例として、もともとは千巻にのぼるはずの竜樹の大智度論を羅什が百巻に略して翻訳したことが挙げられている。この点について、羅什訳の大智度論の末尾に僧叡の付記には次のようにある。
 「初品を論ずるに三十四巻、一品を解釈す、是れは全く具本を論じ、二品已下は法師之を略し、其の要足を取って、以て文の意を開釈するのみ、復、其の広釈を備えずして此の百巻を得、若し悉く之を出さば将に此れに十倍すべし」
 すなわち羅什訳の大智度論百巻中、約1/3にあたる三十四巻は大品般若経の初品一品を注釈した部分にあたり、残りの六十六巻が報応品第二から嘱累品九十に至る八十九品を注釈した部分になる。これは羅什が、初品の注釈のみを全訳し、残り八十九品については要点のみを抄訳したからであり、もし八十九品の注釈をも全訳していたとすれば、大智度論の巻数は十倍、つまり千巻にのぼっていたであろう、というのである。
 この一事に象徴されるように、鳩摩羅什の訳風はまさに「略を好む」と表現できる。しかしそれは、単に省略を好むという意味ではない。羅什の翻訳の多くは当の経論の全訳であって、決して要点のみの抄訳ばかりではない。序論第三章で述べたように、「略」とは不必要な部分を取り除いて物事の筋道を浮き彫りにすること、言い換えれば、筋道を立てて物事の本質的な内容を明らかにしていくことを意味する。羅什の訳風を「略を好む」といわれるのも、簡潔で美しい文体によって経論の本質的な内容を正しく伝えているものだったからである。
 羅什以前における仏典の漢訳は、ともすれば文体の美しさに偏して内容の正確さを欠いたり、逆に内容の正確さを追う余り、晦渋で生硬な文体に陥ってしまうなど、経論の本質的な内容を正しく伝えるものとは言いがたかった。これに対して、羅什に至って初めて、文体の美しさと内容の正確さとを兼ね備えた翻訳がなされたのであった。また羅什以後においても、羅什ほどに経意をつかんで訳した人は、出現しなかったといってよい。玄奘は、自らの直訳的な訳風を新訳と称して誇ったが、インドにおいて梵本の経典そのものが増広、変革を加えられていったこともあり、それを網羅的、かつ直訳的に訳すこと自体が、かえって仏意を曇らせてしまうことにあったのである。
 それ故、大聖人は、中国におけるすべての仏典翻訳の中で、鳩摩羅什を最も正しく経典の真意を伝えた翻訳家であるとされている。例えば次のように仰せである。
 「総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人もアヤマらざるはなし、其の中に不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268-13)
 「然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり」(0577-09)
 以上のことから、御文で「広」を好んだ玄奘、「略」を好んだ羅什の例を挙げられているのは、単に並列的に列挙されているのではなく、価値的な順序にしたがって列挙されているものと拝されるのである。つまり、仏典の翻訳においては、「広」すなわち一切を網羅的に伝えることよりも、「略」すなわち本質的な内容を正しく伝える方が価値が高いのである。そして「玄奘」「羅什」の例を列挙された後に、大聖人御自身について「広略を捨てて肝要を好む」とされているが、この「広→略→要」という記述の順序は、「法を伝える」ということに関する価値的な優劣を示されていると拝される。つまり「広」より「略」の方が優れ、「略」より「要」の方が優れているのである。
 もとより大聖人はここで、「広」の価値を否定されているわけではない。文物を広く伝えることは、文化的な交流の上で重要な意義があるのは当然であり、そのような一般的な意味においては、大聖人はむしろ玄奘等の事蹟を肯定的に述べられている。しかし、大聖人が、この法の伝持の謀介者となる仏典翻訳の例を取り上げておられるのは、あくまでも「法を伝える」ということを問題とされているからである。
 “いかなる法を、いかに人々の実践できるように伝えるか”という問題は、衆生救済の可否に直結する最重要の問題であろう。故に如来神力品第二十一で、釈尊は末法衆生のために上行菩薩に結要付嘱したのであり、大聖人はその上行菩薩の再誕として、そこで付嘱された要法である法華経の肝要、妙法蓮華経の五字を弘通されているのである。
2 「肝要を好む」
 御文では、広を好んだ玄奘、略を好んだ羅什の例を挙げられた後に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」と仰せである。
 玄奘・羅什の場合「好む」という言葉には、それぞれの翻訳に一定の傾向、つまり、訳風があることを示している。そうした訳風を持つということは、ある意味でその翻訳家の境地の反映であると言える。したがって「好む」という言葉は、その人の境地を示唆する言葉として用いられていると拝される。
 大聖人御自身が、末法に弘通する法として法華経の肝要を選び取ることを、「肝要を好む」と表現されているのも、大聖人独自の御境地を示唆されていると拝されるのである。そして、大聖人が好まれる「肝要」について「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」と仰せられていることから、その独自の御境地とは上行菩薩の再誕としての御境地であり、再往は久遠元初自受用報身再誕、末法の御本仏としての御境地であることはいうまでもないであろう。
 また、九包淵の支道林の故事を述べられているのは、広略を捨てて肝要を取った先例を挙げられているのであるが、同時にこれらの先例によって肝要を取ることが広・略を取ることよりも優れていることを示唆されているのである。
 九包淵は中国・春秋時代の馬の鑑定家である。准南子、列子などによれば、九包淵はある時、当代随一の鑑定家であった伯楽の紹介により、秦の穆公から名馬を求められた。三カ月後、黄色い牝の良馬を得たと報告したが、しかし実際には黒い牡馬であったため、穆公は伯楽に毛色や牡牝の区別もつかない者が信用できようかと疑問を呈した。これに対して伯楽は、九包淵は馬の天性を見たのであり、誤った報告をしたのは、内に在る本質を見て外姿を忘れた結果であると答えた。後日、九包淵の選んだ馬は天下の名馬になったという。
 支道林は、中国東晋時代、陳留の学僧である。幼いころから聡明で、25歳で出家し、般若経や維摩経の解説者として名声を博したと言われている。高僧伝第四によれば、支道林は経を講ずるのに、章句にとらわれずに要を得ていたが、守文の徒からは、経文をないがしろにするとして非難された。これを聞いた支道林の友人はかえって喜び、「支道林は細科を略して元意を取るのは九包淵が馬の玄黄を略して駿馬を選び取ったのと同じである」と支道林を称えたという。
 このように九包淵と支道林の故事は、肝要を取ることが優れていることを示す例とされているのである。
3 結要付嘱
 御文では「上行菩薩所伝の妙法蓮華経」を裏付けて、釈尊が虚空会の儀式において多宝如来、分身来集のもとで、末代のために、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に授与したのが、法華経の肝要であったことを明かされている。
 「仏既に宝塔に入って二仏座を並べて分身来集し」とは、 法華経見宝搭品第十一における虚空会の儀式の始まりを示している。すなわち宝塔品では、冒頭で宝塔が大地より湧出し、塔中より多宝仏の大音声が発せられて、法華経の所説がすべて真実であると証明があった。そして三変土田し国土が清浄にされたところへ十方の分身諸仏が来集し、塔が開かれ、塔中に釈迦・多宝の二仏が並座して虚空会の儀式が始まる。そして釈尊より、「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり…仏此の法華経を以って付嘱して在ること有らしめんと欲す」と、滅後流通のために法華経を付嘱する、との仏意が示されるのである。
 そして、迹化・他方の諸菩薩の申し出を断った御、御文に「地涌を召し出し肝要を取って末代に当てて五字を授与せん」と仰せのように、従地涌出品第十五において地涌の菩薩が召し出され、如来寿量品第十六で開近顕遠が説かれ、如来神力品第二十一において地涌の菩薩に付嘱がなされたのである。そして嘱累品第二十二で虚空会の儀式が終了する。したがって、虚空会の儀式は一貫して付嘱のための儀式ということができる。この点について大聖人は「宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候」(0905-13)と仰せである。
 そして、滅後のために地涌の菩薩に付嘱された法については、神力品のいわゆる「結要付嘱」の文に次のように明かされている。
 「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」
 この文では、法華経所説の法が「如来の一切の所有の法」「如来の一切の自在の神力」「如来の一切の秘要の蔵」「如来の一切の甚深の事」の四句に要約されているので、これを「四句の要法」という。この要法について天台大師は法華文句において次のように釈いている。
 「要を結するに四句有り一切法とは一切は皆仏法なり此れ一切皆妙名を結するなり、一切力とは通達無礙にして八自在を具す、此れ妙用を結するなり、一切秘蔵とは、一切処に遍して皆是れ実相なり、是れ妙体を結するなり、一切深事とは因果は是れ深事なり、此れ妙宗を結するなり」
 すなわち四句は、次のように、五重玄義のうち名・用・体・宗に配される。
   「如来の一切の所有の法」  名
   「如来の一切の自在の神力」 用
   「如来の一切の秘要の蔵」  体
   「如来の一切の甚深の事」  宗
 「如来の一切の所有の法」とは、仏の所有する一切の法を総称するものであり、したがって「名」にあたるのである。具体的には、結要付嘱の前の直前に「嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに猶尽くすこと能わじ」とあり、更に前には、この文の「此の経」の名が「今諸の菩薩摩訶薩の為に、大乗経の妙法華経、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説きたもう」と明かされていることから、如来所有の一切の法を総称する「名」とは「妙法蓮華経」であることが明らかである。
 「如来の一切の自在の神力」とは、例えば涌出品における釈尊が無量の地涌の菩薩を教化してきた力を「諸仏の自在神通の力」と表現しているように、また、寿量品においては、久遠実成の釈尊が娑婆世界や、他の無数の国土で常に説法し、衆生を教化してきた力を「如来の秘密神通の力」と表現しているように、仏が衆生教化のために自在に応化する力や、自在に法を説く智慧力を意味する。総じていえば衆生教化のための仏の力用というのであり、故に「用」にあたるのである。
 「如来の一切の秘要の蔵」とは、神力品に、「諸仏の道場に坐して、得たまえる所の秘要の法」とあるように、如来の内に蔵された内証の法をいう。これは方便品においては唯仏与仏の秘法とされ、また第一希有難解の法とされる「諸法実相」を指す。また法師品でも已今当の諸経の中で最も難信難解である法華経は「諸仏の秘要の蔵」であるとされている。この難信難解の秘法である「諸法実相」こそ、一切の法が帰する根本の理である故に、「如来の一切の秘要の蔵」とは「体」にあたるのである。
 「如来の一切の甚深の事」とは、衆生に諸法実相の理を証得させるための甚深の“事”、つまり仏がもろもろの教えを説くことがこれにあたる。神力品では、仏の使いとして滅後の法華経の行者がなすであろう甚深の事について、「能く是の経を持たん者は、諸法の義、名字及び言辞に於いて、楽説窮尽無きこと、風の空中において、一切障礙無きが如くならん。如来の滅後に於いて、仏の所説の経の、因縁及び次第を知って、義に随って如実に説かん」等と説かれている。
 「宗」とは法の特質を意味し、法華経では、寿量品所説の仏の自行の因果、すなわち本因本果が「宗」にあたるのである。
 次に、結要付嘱の文における「皆此の経に於いて宣示顕説す」の一説について、天台大師は法華文句で、「総じて一経を結するのに、唯四のみ、其の崇柄を撮って而して之を授与す」と釈している。すなわち「皆此の経に於いて宣示顕説す」とは、「四句の要法」に法華経一経のすべてが含まれていることを意味するのであり、釈尊は、その「崇柄」を取って地涌の菩薩に授与したのである。
 ところで、この「崇柄」が何を意味するかという点について、法華文句の表現の上からは、
   ①「四句の要法」のすべて
   ②「四句の要法」のどれか
 の二意のいずれの意にもとることができる。この点について御義口伝で大聖人は、「一経とは本迹二十八品なり唯四とは名用体宗の四なり枢柄とは唯題目の五字なり授与とは上行菩薩に授与するなり之とは妙法蓮華経なり」(0794―01)と御教示されている。すなわち「崇柄」とは「題目の五字」を意味するのである。また「之を授与す」とは「上行菩薩に妙法を授与する」との意であるとされている。つまり天台大師のいう「其の崇柄を撮って而して之を授与する」とは、「仏は四句の要法の崇柄である題目の五字を選び取り、これを上行菩薩に付嘱し、以て寿量文底の妙法を授与した」という意味であるとされている。
 これは、妙名にあたる「如来の一切の所有の法」の一句が、他の三句を括る総名の位置にあるからであると拝される。この点について妙楽大師は、「名は此の三に冠して三を総ぶ、一部の要此れに過ぎんや。故に総じて之を攬って以て流通を成ず」と述べている。
 つまり、上行菩薩が付嘱された「妙法蓮華経の五字」は他の三句で示されている法華経の体・宗・用を自ずと具している総名なのである。
 この御教示に基づき神力品を読み返すと、まさにその通りのことが説かれていることに気が付く。すなわち同品の偈頌には、滅後において「能く此の経を持たん者」、つまり妙法蓮華経の五字を持つ地涌の菩薩が、
   ①釈迦・多宝・分身の諸仏に歓喜せしめる
   ②諸仏の道場所得の秘法を得る
   ③諸法の義に通じ、仏の所説の因縁・次第を知って自在に法を説き、よく衆生の闇を晴らす
 と説いている。天台大師は、これらが順に「自在の神力」「秘要の蔵」「甚深の事」にあたると釈している。①は仏の滅後において、妙法蓮華経の五字を持つ者が如来の神力を共有することを意味するのであり、②は如来の秘要の蔵を得ることであり、③は如来の甚深の事を降る舞うことを意味するのである。
 以上のように、上行菩薩は法華経の体・宗・用を具する総名の「妙法蓮華経の五字」を付嘱れたのであり、これがすなわち法華経の「肝要」たる「妙法蓮華経の五字」なのである。
4 付嘱の要法と三大秘法
 次に本章で示されている上行所伝の要法たる「妙法蓮華経の五字」と、前段で顕説された「三大秘法」との関係について考察したい。
 日寛上人は依義判文抄において、如来神力品第二十一の結要付嘱の文と前後の文とともに挙げて、それが「三大秘法」の依文であることを明らかにされている。
 まず「結要付嘱」の文の直前にある「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以って、無量無辺不可思議阿僧祇劫に於いて、嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに猶尽すること能わじ」との、いわゆる「称歎付嘱」の文については、「先ず所嘱の法体、本門の本尊の功徳を歎ず」と述べられている。つまり「此の経」とは「本門の本尊」であるとされているのである。
 先に、引用した「要を以て之を言わば…宣示顕説す」の四句の要法・結要付嘱の文については「本尊付嘱」の文であるとされている。つまり、釈尊が上行等の地涌の菩薩に、如来の一切の体・宗・用を具足する総名であることの「妙法蓮華経の五字」を付嘱したということは、「本門の本尊」を付嘱したこを蓮華経の五字に於ては 仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に」(0247-15)との御文を引用されている。この御文では明らかに、地涌の菩薩に付嘱された「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」を承けて「其の本尊」と仰せられている。
 更に日寛上人は、神力品において結要付嘱の文の次下にある「是の故に汝等如来の滅後に於いて、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし」との文は「題目勧奨」の文とあるとされている。なぜならば、「一心」とは「信」を、「受持」等は「行」を意味し、「信行具足の本門の題目」を指しているからである。
 そして、深く次の神力品の文について、日寛上人は「戒壇勧奨」の文と位置付けられている。
 「所在の国土に、若しは受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すること有らん。若しは経巻所住の処、若しは園中に於いても、若しは林中に於いても…若しは山谷礦野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何ん。当に知るべし。是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於いて法輪を転じ諸仏此に於いて般涅槃したもう」
 此の文について日寛上人は、はじめに説かれている受持等の如説修行者の所在の国土とは「本門の題目の修行の処」を示しており、次に説かれている経巻が住する園中、林中、ないし山谷礦野等の場所とは「本門の本尊所在の処」を明かしており、これらは「義の戒壇」を示しているとされている。また「皆応に塔を起てて供養すべし」とは、「事の戒壇」の建立を勧める文であるとされている。
 このように神力品では、「本門の戒壇」の意義を「本門の題目の修行の処」として「本門の本尊所在の処」として示しているのであるが、このことを更に訳したのが「所以は何ん」以下の文である。この文は、いわゆる法身の四処を示している。すなわち「是の処は即ち是れ道場なり」とは本尊所在の所が諸仏の道場、つまり諸仏が修行して法身を生じた所であることを示している。また、「諸仏此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得」とは、本尊所在の所こそ諸仏が正覚を成就したところであることを示し「諸仏此に於いて法輪を転じ」とは、諸仏は本尊所在の所から法を転じて衆生に説くことを示し、そして「諸仏此に於いて般涅槃したもう」とは、諸仏が本尊所在の所において涅槃に入ることを示している。つまり、本門の本尊が住する本門の戒壇こそ法身の四処の根拠なのである。
 日蓮大聖人は、御自身の一身がこの法身の四処にほかならないことを次のように示されている。
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・ 日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(1578-09)
 この御文について日寛上人は依義判文抄において「教主釈尊の一大事の秘法」とは「本門の本尊」に、その本尊が住する「日蓮が肉団の胸中」とは「本門の戒壇」にあたるとされている。また「かかる不思議なる法華経の行者の住処」との仰せについては、法華経の行者の所修は「本門の題目」その題目修行の所は「本門の戒壇」であるとされている。すなわち、「三大秘法」は、末法の法華経の行者たる日蓮大聖人御一身に具足するのである。
 以上のように、釈尊から上行菩薩等の地涌の菩薩に付嘱された法華経の肝要たる「妙法蓮華経の五字」とは「本門の本尊」であり、その「妙法蓮華経の五字」を所持した上行菩薩は、末法において、神力品で勧奨のごとく「本門の題目」と「本門の戒壇」を一身に具足されて、法華経の行者として振る舞われるのである。いいかえれば神力品の付嘱の文は、上行菩薩の再誕として末法に出現される日蓮大聖人が「本門の本尊」の御当体であり、また、その一身において「本門の題目」を行じ「本門の戒壇」の義を有することを予証しているのである。
 したがって、結要付嘱の文における四句の要法は、ことごとく「本門の本尊の御当体」としての日蓮大聖人の御事を示していると拝することができる。すなわち「如来の一切の所有の法」とは大聖人の御当体に即する「妙法蓮華経の五字」即「本門の本尊」であり、「如来の一切の自在の神力」とは、本尊の当体としての大聖人の力用であり、「如来の一切の秘要の蔵」とは大聖人の御内証であり「如来の一切の甚深の事」とは大聖人の振る舞いである。大聖人は、一身に具されたこの内証・力用・振る舞いを、「三大秘法」として末法の一切衆生のために開顕されたのである。
 特に「甚深の事」にあたる大聖人の末法弘通の御振る舞いは、神力品において次のように予証されている。
 「能く是の経を持たん者は、諸法の義、名字及び言辞において、楽説窮尽無きこと、風の空中に於いて、一切障礙無きがごとくならん、如来の滅後に於いて、仏の所説の経の、因縁及び次第を知って、義に随って如実に説かん、日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん、是の故に智有らん者、此の功徳の利を聞いて、我が滅度の後に於いて、応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」
 この文について、日興上人は上行所伝三大秘法口訣において、以下のように釈されている。
 まず、最初の「能く是の経を持たん者」の「是の経」とは「三大秘法の中の本門の妙法蓮華経」であると仰せである。これは、大聖人の御一身に即する三大秘法総在の「本門の本尊」にあたると拝される。
 また「諸法の義、名字及び言辞に於いて、楽説窮尽無きこと」の文における「名字」については「主題の五字」であると釈されている。これは「本門の題目」を意味すると拝される。この神力品の文は、上行菩薩が末法に出現して、仏の内証の法である諸法実相の義を、名字や言辞によって明確かつ自在に説くことを示しているのであるが、特に「名字」を楽説するということは、内証の法体である南無妙法蓮華経を明らかにして、末法の衆生のために「本門の題目」の修行を立てることを意味すると拝されるのである。
 更に「如来の滅後に於いて」とは「末法の始めの五百年」を意味し、「仏の所説の経の、因縁及び次第を知って」とは「釈尊五十年」であるとされている。つまり釈尊一代の教法がいかなる機根の衆生に対して、どのような次第で説かれたかを知ることである。
 次に「日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん」の文における「日月の光明の、能く諸の幽冥を除く」については、妙法が生死の長夜を照らす大燈明であることを意味し「斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅し」については、大聖人が人間世界に出現されて、衆生の元品の無明を断ずることを意味するとされている。そのうえで「一乗」について「三大秘法の中の本門の本尊」であると仰せである。すなわち、先の「此の経」が大聖人御一身に即する三大秘法総在の「本門の本尊」を意味したのに対して、この「一乗」は、大聖人が末法の衆生を救済するために具体的に御建立し、弘通される「本門の本尊」すなわち本門戒壇の大御本尊を意味すると拝される。また「一乗に住せしめん」とは、衆生の即身成仏を意味するともされる。
 最後に「我が滅度の後に於いて、応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」の文とは、妙法を受持する衆生の成仏が必定であることを示しているのであるが、日興上人は「斯の経を受持すべし」の文について「三大秘法の中の本門戒」すなわち「本門の戒壇」であるとされている。末法の戒は「本門の本尊」を受持する以外にないのであり、その受持の所が即ち「本門の戒壇」なのである。
 このように「甚深の事」を称歎する「能く是の経を持たん者は、諸法の義」以下の偈頌は、日蓮大聖人による「三大秘法」の弘通を予証しているのである。
 以上述べてきたことを要約すれば、次のようになるであろう。
 ①神力品の結要付嘱の文において上行菩薩に付嘱されていた要法とは、三大秘法総在の「本門の本尊」であり、その名は「妙法蓮華経の五字」である。
 ②末法において上行菩薩の再誕として出現された日蓮大聖人が、御自身の当体である三大秘法総在の「本門の本尊」を「三大秘法」として開きこれを末法に弘通される。
 ③神力品の付嘱の文は総じて、末法に大聖人が「三大秘法」を弘通されることを予証している。
 故に大聖人は三大秘法抄の冒頭において、神力品の結要付嘱の文を挙げられた上で、「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021-03)と仰せである。すなわち結要付嘱の要法とは、釈尊が、初成道より爾前・迹門を捨て湧出品の略開近顕遠にいたるまで秘していたものであり、寿量品にいたって初めて明かされたのである。そしてそれは、釈尊が「実相証得の当初」において修行した「三大秘法」にほかならないとされている。
 本抄では、釈迦・多宝・十方の諸仏が、未来のために地涌の菩薩に対して肝要の妙法蓮華経の五字を付嘱したことについて、「当世意義あるべからず」と仰せである。これは直接的には、三位の総意において地涌の菩薩の肝要の法が付嘱されたことは経文の説相に明らかであり、意義を立てる余地がないことを示されていると拝されるが、一重立ち入れば、三大秘法を末法に弘通することこそが三仏の本意であり、またその広宣流布は、大聖人の甚深な御確信であることを示されていると拝されるのである。

0336:12~0337:18 第14 広宣流布の先相を明かすtop

 正像に未弘であり、末法に流布される法が三大秘法であることを開顕した前段を受け、この段では、正嘉の大地震、文永の大彗星をはじめとする種々の転変地夭こそ三大秘法の広宣流布の先相であると断じられている。
 本段は四つの問答からなっているが、その概要を示せば次のようになる。
 第一問答では「三大秘法の流布に先相があるのか」との問いに対し、仏法における大事には必ず瑞相があるという道理を、経・釈をもって示されている。
 第二問答では、「では、その先相とはどういうものか」との問いに対して、正嘉の大地震、文永の大彗星をはじめとして、文永11年の当時に至るまで起きている天変地夭が三大秘法流布の瑞相である。とされ、特に、文永11年(1274)正月、2月に佐渡で見られた「二の日」「三の日」また「明星の並出」等の天変に言及されている。
 第三問答では「それら災難が起こる原因は何か」との問いを設けられ、それに対し経文を引いて、天変地夭などの災難が起こる原因は、悪比丘が聖人を迫害して亡きものにしようとしていることにある、とされている。
 第四問答では「正像の時代にも、悪人が聖人を迫害した多くの事例があったのに、どうして大きな災難が起きなかったのか」との問いに対して、正法・像法の時代は外道や邪神にとって仏法を滅失しようとするものであったから、まだその罪が浅い故であり、末法今時は、小乗・権大乗の仏法をもって正法を滅失させようとするものであるから、その失は前代に超過する故である、とされている。

0336:12~0336:13 その一top
12   疑つて云く今世に此の法を流布せば先相之れ有りや、答えて曰く法華経に「如是相乃至本末究竟等」云云、天台
13 云く 「蜘虫掛りて喜び事たり 鵲鳴いて客人来る 小事猶以て是くの如し何に況や大事をや」取意、
-----―
 疑つて言う。この世にこの法を流布するならば、瑞相があるのか。
 応えて言う。法華経には「如是相乃至本末究竟等」とある。
 また天台大師は、法華玄義で「蜘虫が巣をかければ喜びごとが訪れ、カササギが鳴けば客人が来る。小事ですらこのような前兆があるのだから、仏法の大事において瑞相がないはずがない」と説いている。

瑞相が現れる道理
 上掲の御文は、仏法の大事には必ず先相があるとの道理を明かされた第一問答にあたり、法華経方便品の十如実相の文、および天台大師の法華玄義の文を挙げて答えられている。
 まず、方便品の「如是相…本末究竟等」の文が引用されている。「本末究竟等」とは、如是相を本とし、如是報を末とする九如是は、究極のところ、いずれも実相に帰結するから等しい、という意味である。ここで、九如是のうち、特に「如是相」を挙げられているのは、先相が如是相にあたるからであると拝される。
 大聖人がここで論じられている先相とは、末法における三大秘法の流布という、仏法上の大事の前兆となる瑞相である。瑞相とは、当然、目に見えるもの、つまり相として現れた面である。ここで、その瑞相として指摘されている天変地夭の事象が、仏法上の出来事といかなる関係を持っているかは、一般人の人々には理解できない。しかし、諸法実相に通達した仏の目には、瑞相となる事象と、仏法上の出来事との関係が明確に映っているのである。この点を示すために、十如実相の文を引用されたと拝されるのである。
 次に、天台大師の言葉を引かれているが、これは意を取ったものであり、詳しくは、法華玄義巻六上に次のようにある。
 「世人、以えらく、蜘蛛挂るときは則ち喜事来り、鵲鳴く時は則ち行人至ると以う。小、尚、微あり、大、焉んぞ瑞無けん」。
 この文の意は、世法の小事すら前兆があるのだから、仏法の大事に瑞相があるわけがないということである。つまり、三大秘法の流布という仏法の最大事に瑞相がないはずはない。という道理を示すために、この文を引かれているのである。
 この法華玄義の文は「神通妙」を論じた個所に出ている。神通力とは自在で測りがたい力の意で、仏が衆生のために妙理を顕し、衆生を化導するための力が、仏の“神通力”である。仏の説法の前に瑞相が現れるのも、説法そのものも、この不可思議な神通力によるのである。
 法華経には種々の瑞相が示されている。大聖人は瑞相御書において、法華経の瑞相として、序品の六瑞などの迹門の瑞相、宝塔品の宝塔出現、涌出品の地涌の菩薩の涌出などの本門の瑞相、末法流布のための付嘱が行われた神力品における十神力の瑞相を挙げられ、これらの大きさを比較して次のように仰せである。
 「夫一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて法華経の迹門を・とかせ給いぬ、其の上本門と申すは又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり、大宝塔の地より・をどりいでし地涌千界・大地よりならび出でし大震動は大風の大海を吹けば大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のをひほにつくが・ごとくなりしなり、されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問い涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問いたてまつる・これを妙楽釈して云く『迹事は浅近・文殊に寄すべし久本は裁り難し故に唯仏に託す』云云・迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり、本門の事は妙徳すこしもはからず、此の大瑞は在世の事にて候、仏・神力品にいたつて十神力を現ず此れは又さきの二瑞には・にるべくもなき神力なり、序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方世界、序品の地動は但三千界・神力品の大地動は諸仏の世界地・皆六種に震動す、此の瑞も又又かくのごとし、此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて 末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり」(1141-02)
 すなわち、爾前の瑞相よりも迹門の瑞相の方が大きく、迹門よりも本門の瑞相が、そして本門の瑞相よりも末法流布の瑞相の方が大きいのである。
 また大聖人は、このように法華経の瑞相が大きく、また末法流布のための瑞相が更に大、きい理由について、同御書では次のように述べられている。
 「今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う」(1141-17)。

0336:13~0336:18 その二top
13                                                問うて曰く
14 若し爾れば其の相之れ有りや、 答えて曰く去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる
15 天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難.二十九難.無量の難、金光明経.大集経・守護経.薬師経等の諸経に挙ぐ
16 る所の諸難皆之有り 但し無き所は二三四五の日出る大難なり、 而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月
17 廿三日の申の時西の方に 二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、 二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の
18 中間は三寸計り等云云、 此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、
-----―
 問うて言う。もし仏法の大事には必ず瑞相があるというのであれば、その瑞相が実際にあったのか。 
 答えて言う。去る正嘉の大地震、文永の大彗星、それから以後、現在までの種々の大きな天変地夭は、三大秘法流布の瑞相である。
 仁王経の七難・二十九難・無量の難、金光明経・大集経・守護経・薬師経等などの諸経に挙げられている諸々の災難が、皆、現われている。
 ただし、まだ現われていなかったのは「二三四五の日が出る」という大難であった。ところが今年、佐渡の国に住む人々が口々に「今年の正月廿三日の申の時に、西の方に二つの日が出現した」、あるいは三つの日が出現した」等と言っている。また「二月五日には東方に明星が二つ並んで出現した。その間隔は三寸ばかりであった」等とも言っている。この大難は日本国の先代にも、いまだかってなかったのではなかろうか。 

 この問答では、どんな出来事が三大秘法流布の瑞相なのかを明かされている。
 すなわち、正嘉年間の大地震に始まり、本抄御述作の時までに起こった大きな天変地夭が、すべて三大秘法の瑞相であるとされている。
 また、この間に、仁王経をはじめ、金光明経、大集経、守護経、薬師経などの諸経に説かれている種々の災難は、すべて現されたとされた。
 しかし、前年までは、これらの経典に説かれている所難のうち、仁王経でいう「二三四五の日出る」の大難が現れていなかった。ところが、文永11年(1274)正月23日、佐渡に二つの日、三つの日が出現し、同じく2月5日には、明星が二つ並んで現れた、との証言が大聖人に伝えられた。この天変により、経典に説かれたすべての災難が現れたことになるのである。
 ここに言及されている「二の日」「三の日」とは、いわゆる幻日現象である。
 幻日とは、太陽の両側に強く輝く点が現れ、あたかも二つも三つも太陽が並んで現れたかのように見える現象である。これは、太陽の暈が空中に浮かぶ水晶によって屈折して、新たに、ほぼ地平線と並行する暈ができ、これと、もとの暈が交わるところが強く輝く現象である。したがって、太陽と二つの幻日の三つが並ぶ「三の日」が普通なのであろうが、見る方向や、その時の気象条件によって「二の日」に見えることがあるし、また暈が二重、三重になると、「四の日」「五の日」に見えることもある。月においても同様の現象があり、幻月とよばれている。
 また、あわせて言及されている「明星二つ並び出ず」の現象については、当時、いずれも明るく輝く金星と木星が接近していたことが計算によって明らかになっている。
 いずれにしても、これらの天変現象は、当時の人々にとって、凶兆とされ、人々を不安に落とすものであった。

0336:18~0337:05 その三top
18                                   最勝王経の王法正論品に云く「変化の流
0337
01 星堕ち二の日倶時に出で 他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、 首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両
02 つの月を見す」等、 薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、 金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄
03 蝕恒無し」 大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」 仁王経に云く「日月度を失い 時節返逆し或
04 は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く 或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、 此の日月
05 等の難は 七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、 
-----―
 最勝王経の王法正論品には「妖しい流星が落ちたり、同時に二つの日が出たら、他国の怨賊が攻めてきて、国王も人々も災いにあい亡びる」とある。
 首楞厳経には「あるいは二つの日が現れ、あるいは二つの月が現れる」等とあり、薬師経には「太陽や月の光が薄くなったり欠けたりする難」とあり、金光明経には「彗星がしばしば現れ、二つの日が並んで現れたり、光が薄くなったり欠けたりすることが頻繁に起こる」とある。大集経には「仏法がまことに衰亡すれば(乃至)日月は光を失う」とある。仁王経には「日月が通常をはずれ、時節が逆になり、あるいは赤い日が出たり黒い日が出たり、二三四五の日が出たりする。あるいは日蝕となって光が無くなり、あるいは日輪が一重・二・三・四・五重の輪が現れる」などと説かれている。
 この日月などに現れる七難は、二十九難、無量の様々な難の中でも、第一の大悪難である。

 日月の意変を挙げた最勝王経、首楞厳経、金光明経、大集経、仁王経の経文を引かれ、日月の難が「諸経の中に第一の大悪難」であると仰せである。
 「二の日」「三の日」等といっても、それ自体が害を及ぼすわけではない。ところが、なぜ「第一の大難」とされるのかは、本抄の末尾に至って明らかになる。すなわち「一国に二の国王並ぶ相」、「臣・王を犯す相」「四天下一同の諍論」「太子と太子との諍論」といった一国内乱の凶兆なのである。この点についての詳細は後に述べることにしたい。

0337:05~0337:13 その四top
05                              問うて曰く 此等の大中小の諸難は何に因つて之を
06 起すや、 答えて曰く「最勝王経に曰く 非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰
07 す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風
08 雨皆時を以て行われず」等云云、 大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘 我が正法を
09 毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、 又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の
10 法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、 又云く「諸の悪比丘多く名利を求め 国王太子王子の前
11 に於て 自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん 其の王別まえずして 此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎
12 て 当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し 眼有らん我が門弟は之を見よ、 当に知るべし
13 此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、
-----―
 問うて言う。これらの大中小の諸難は何が因たなって起きたのか。
 答えて言う。金光明最勝王経には「法に背くことを行う者を見て、愛し敬う念を生じ、善法を行ずる人を苦しませ罰する」とある。
 法華経にも、涅槃経にも同様のことが説かれている。
 金光明経には、「悪人を愛し敬い、善人を罰する故に、星座や風雨がみな時節通りに運行されない」等とある。
 大集経には「仏法が衰亡すると(乃至)このような不善業の悪王と悪比丘が、我が正法を破り壊す」等とある。
 仁王経には「聖人が去る時には、七難が必ず起こる」等とある。また「法にも律にもよらないで、比丘をとらえて囚人のように扱う。そのような時には、仏法は久しからずして滅びる」等とある。「多くの悪比丘が名利を求め、国王や太子や王子の前において自ら仏法を破る因縁や国を破る因縁を説くであろう。その国王は分別できずに、この言葉を聞いて信ずるであろう」等とある。
 これらの明鏡を今の日本国を引きあててみると、その天地のありさまを浮かべていることは、まさに割り符を合わせたようである。眼ある我が門弟はこれを見なさい。まさに知るべきである。この国に悪比丘らがいて、天子・王子・将軍らに向かって讒言し、訴えることを企てて聖人を失う世なのである。

 この問答では、天変地夭などの災難が起こる原因が何であるかを、経文を引いて明かされている。すなわち、その原因とは、今の結びの御文で「当に知るべし此の国に悪比丘等有って天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て聖人を失う世なり」と仰せのように、「悪比丘」が権力者と結託して。「聖人」をなきものにしようとしていることにある、とされている。
 引用されている経文それぞれについて見よう。
 最初に引用されている金光明経最勝王経の文は、権力者が非法を行う悪比丘を敬い、善法を行ずる聖人を苦しめ罰することを示されている。
 次に「法華経に云く・涅槃経に云く」とあるのは、最勝王経の文と同趣旨であることから略されたのであり、それにあてはまるものは、法華経は勘持品第十三の三類の強敵の文であり、涅槃経は如来性品の、悪王の比丘が正法を誹謗し隠没するさまを説いている。
 次に再び金光明最勝王経から引用されているが、この文は、まさに証人迫害が災難の原因であることを示している。つまり、これまでの最勝王経、法華経、涅槃経の文は、ただ正法隠没についての文証で、この金光明経の文の「悪人を愛敬し善人を冶罰する」につながっている。この金光明経後半は、それらが因となって、その結果として「星宿及び風雨皆時を以て行われず」と、災難が起きることを表している、と考えられる。
 大集経からの引用は、悪王と悪比丘が仏法を滅することを示したものであり、この正法滅尽のために種々の災禍がもたらされることは、立正安国論での引用に詳しく拝されているところであるが、本抄ではその先の中の「日月明を現ぜず」だけ示されている。この引用では「乃至」として略されている。
 仁王経から引用されている三文のうち、最初の一文には、聖人迫害の結果として「七難」が起こることを示され、後の二文には、悪王による聖人への不当な迫害が「法滅」の原因になること、名利を求め、権力者と結託する悪比丘が「破仏法」「破国」の因縁になることが示されている。
 この問答では、天変地夭などの災難が起こる原因が何であるかを、経文を引いて明かされている。すなわち、その原因とは、今の結びの御文で「当に知るべし此の国に悪比丘等有って天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て聖人を失う世なり」と仰せのように、「悪比丘」が権力者と結託して。「聖人」をなきものにしようとしていることにある、とされている。
 引用されている経文それぞれについて見よう。
 最初に引用されている金光明経最勝王経の文は、権力者が非法を行う悪比丘を敬い、善法を行ずる聖人を苦しめ罰することを示されている。
 次に「法華経に云く・涅槃経に云く」とあるのは、最勝王経の文と同趣旨であることから略されたのであり、それにあてはまるものは、法華経は勘持品第十三の三類の強敵の文であり、涅槃経は如来性品の、悪王の比丘が正法を誹謗し隠没するさまを説いている。
 次に再び金光明最勝王経から引用されているが、この文は、まさに証人迫害が災難の原因であることを示している。つまり、これまでの最勝王経、法華経、涅槃経の文は、ただ正法隠没についての文証で、この金光明経の文の「悪人を愛敬し善人を冶罰する」につながっている。この金光明経後半は、それらが因となって、その結果として「星宿及び風雨皆時を以て行われず」と、災難が起きることを表している、と考えられる。
 大集経からの引用は、悪王と悪比丘が仏法を滅することを示したものであり、この正法滅尽のために種々の細禍がもたらされることは、立正安国論での引用に詳しく拝されているところであるが、本抄ではその先の中の「日月明を現ぜず」だけ示されている。この引用では「乃至」として略されている。
 仁王経から引用されている三文のうち、最初の一文には、聖人迫害の結果として「七難」が起こることを示され、後の二文には、悪王による聖人への不当な迫害が「法滅」の原因になること、名利を求め、権力者と結託する悪比丘が「破仏法」「破国」の因縁になることが示されている。

0337:13~0337:18 その五top
13                                       問うて曰く弗舎密多羅王・会昌
14 天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、
15 答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し 正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い 或は道士を語らい或は
16 邪神を信ず仏法を滅失すること 大なるに似たれども其の科尚浅きか、 今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは
17 小を以て大を打ち 権を以て実を失う 人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして 自然に之を喪す其の失前代に
18 超過せるなり、 
-----―
 問うて言う。弗舎密多羅王・会昌天子・物部守屋らは、インド・中国・日本の仏法を滅ぼそうとしたし、提婆菩薩や師子尊者らは殺害された。その時に、どうして今のような大災難が起きなかったのか。
 答えて言う。災難は人に随って大小の違いがある。正法・像法二千年の間悪王、悪比丘らは、あるいは外道を用いたり、 あるいは道教の僧と謀ったり、あるいは邪神を信じていた。仏法を滅ぼすこと自体は重大なことのように見えるが、その罪科はまだ浅いといえようか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅ぼすのは、小乗を以て大乗を打ち、権経をもって実経をなきものにしているのであり、人々の身を滅ぼさずして正法への信仰心を削り、寺塔を焼き尽くさずして自然に仏法を滅ぼすのである。それ故、その失は正像時代よりも重いのである。

 この問答は、末法の災難が前代に超過する理由を明かされている。
 まず問いにおいては、インドの弗舎密多羅王、中国の会昌天子、日本の物部守屋などの、正像二時における仏教弾圧者の名が挙げられている。また、これらの弾圧者とは直接的には対応していないが、迫害を受け殺害された正法護持者として、インドの提婆菩薩や師子尊者の名が挙げられている。弗舎密多羅王は、阿育大王の末孫にあたるインドの王であるが、自分の名を上げようとして、悪臣の言を容れて阿育王の立てた八万四千の仏塔を破壊し、僧侶を殺害した。行敏訴状御会通には「弗沙弥多羅王は四兵を興して五天を回らし僧侶を殺し寺塔を焼く」(0182-09)と述べられている。
 会昌天子とは、中国・唐の第十五代皇帝、武宗のことである。はじめは念仏を信じていたが、道教を重要するようになり、大規模な仏教弾圧を断行した。強仁状御返事には「此の漢土の会昌天子の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる此等大悪人為り」(0185-06)と述べられている。
 物部守屋は日本の古代の豪族で、仏教の受容をめぐって排仏を主張し、崇仏派の蘇我氏と争った。当時の疫病流行は崇仏が原因であるとして仏教を弾圧した。大聖人は守屋について「守屋中臣の臣勝海大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ」(1166-13)と述べられている。
 また、提婆菩薩は南インドの人で、正法時代の付法蔵の第十四祖である。多くの外道と法論をして屈服させたが、怨まれ殺された。師子尊者は、中インドの人で、付法蔵の第二十四祖であるが、罽賓国で布教中に、その国王・壇弥羅王に首を切られ、正法時代の最後の伝法者になった。
 このように、正法時代における仏法迫害の時に大きな災難が起こったのは何故か、と疑問を提起され、この点について大聖人は、これら正像二時の仏教弾圧は、迫害者が外道や道教や邪神を信じ、その立場から仏法を破ろうとしたものであるとされ「其の科尚浅きか」と述べられている。これに対して、末法の場合は、小乗・権大乗によって法華経を滅ぼそうとするものであり、それゆえ前代よりも科が重いのである、と。
 この点について、日寛上人は「取要抄文段」において、次のように三位を示されている。
 「答う、此に三つの意あり、一には内外異なるが故に、謂く、彼の悪王はこれ外敵なり、故に実には仏法を滅失する能わざるなり、故にその科は尚浅きなり。今末法の悪王等はこれ内敵なり。…能く仏法を滅する故に、其の科重きなり。」
 「二には権実異なるが故に、謂く、彼の悪王等はこれ権教・権仏を敵と成す。故にその科浅し。今末法は皆実教、実仏を敵と成す。故にその科重きなり。」
 「三には、多少異なるが故に。謂く、彼の悪王等は只その王一人の悪行なり。今末法は上下一同の悪心なり。」
 すなわち、第一は、迫害する悪王等が信ずる法の違いである。正像二時の悪王等は、外道等の立場から仏教を迫害したのであり、外道をもっては仏教を滅ぼすことはできないから、まだ科が浅いのである。これに対して、末法の悪王は、本抄に仰せのように悪比丘と結託して、小乗・権大乗などの仏教をもって法華経の正法を滅ぼそうとするのであり、これによって仏法を滅ぼすことも可能であるから、その科は前代よりも重いのである。
 第二は、迫害される仏教の側にある権実の違いである。正像二時の悪王は権教を敵にしたのであるから、まだ科は浅く、末法では、実経である法華経を敵にするのであるから科が重いのである。
 第三に迫害者の多少による。正像二時は、王一人の悪行による迫害であるから科が浅いのに対して、末法では、国のすべての人々が悪心を起こして迫害する故に科が重いのである。

0337:18~0338:04 第15 末法広宣流布を結勧すtop
18         我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、 二の日
0338
01 並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、 王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、 日と日と
02 競い出るは四天下一同の諍論なり、 明星並び出るは太子と太子との諍論なり、 是くの如く国土乱れて後に上行等
03 の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か。
04       文永十一年五月
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 我が門弟は、前代未聞の天変地夭が起こったのを見て法華経を信じなさい。試しみに眼を怒らせて鏡に向かって見なさい。鏡の像が自分に怒り返してくるだろう。同じように、諸天が怒るのは人に失があるからである。
 二つの日が並んで出るのは一国に二人の国王が並ぶ前相であり、王と王との争いである。星が日月を犯すのは、臣舌が王を犯す前兆である。日と日が競い出るのは、四天下で争いが起こる前兆である。明星が並んで出るのは太子と太子とが争う前兆である。
 このように、国土が乱れた後に、上行菩薩らの聖人が出現して、本門の三つの法門を建立し、全世界一同に妙法蓮華経が広宣流布することは疑いのないことである。
       文永十一年五月

 本抄の結文である。大聖人の門弟に対して、末法流布の瑞相である天変地夭が起こっていることをもって、更に信心を深めるべきである、と勧めるとともに、上行菩薩が出現して三大秘法を建立し、妙法蓮華経が世界に広宣流布することは間違いない、との御確信を示されている。
 「目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり」とは、目を怒らして鏡に向かえば、鏡の中の顔が自分に怒り返してくるように、人に罪があるから、天が怒って災難が起こるという意味である。その瞋恚の心を起こして迫害し、正法を誹謗するということである。その瞋恚の心の故に、諸天が憤り災難が起きているのだとの仰せである。この仰せについて、日寛上人は取要抄文段において、「目を瞋らして鏡に向かえば、却って象の瞋は人にあり。当に知るべし。諸天は昼夜に行者の頂に在り、故に瞋を起こして行者に向かえば、即ち目を瞋らして天に向うなるべし。故に却って天の瞋は人にあるなり」と述べられている。つまり、法華経の行者に瞋恚を起こすと、天が瞋るのは、法華経の行者の頭にこそ諸天が宿っているのである。
 次に、「二つの日並び出る」「星の日月を犯す」「日と日と競い出る」「明星並び出る」などの天変を挙げられている。これらのうち「星の日月を犯す」については、星が月を犯すとは、明るい星が月に近づいているのが見える、という現象である。星が日を犯す、とは、太陽に黒点が現れたことか、昼間に星が輝いているのが見える現象か、あるいは、太陽が明るすぎて、接近した星は見えないので“日月”とあるのは言葉のあやとも思われる。また「日と日と競い出る」とは、太陽が二つも三つも見える幻日現象を指して言われている。
 大聖人はここで、これらの天変は種々の国難の瑞相であるとされている。
 まず「二つの日並び出る」という現象が「一国に二の国王並ぶ相」であり、「王と王との闘諍」が起こる瑞相であるとされている。幕府と朝廷が並立していた鎌倉時代の公武二次政治、また、幕府の中でも将軍が傀儡化され、執権の北条氏が権力を握ったこと等はこれにあたるといえよう。
 また、大聖人の御入滅後、半世紀を経て、南北朝は並立するようになるが、これを予言されたとも拝することができる。実は、大聖人の御在世時代は、南北朝の分裂の縁因となった時代であるといえる。すなわち、文永9年(1272)2月17日嵯峨天皇がなくなり、その後継問題により、後深草上皇の系統と亀山天皇の系統に皇統が分裂し、以後、この両系統から交互に天皇をだすことになったのであった。これはまさに「王と王との闘諍」にあたるのではなかろうか。文永9年(1272)2月は、大聖人が佐渡に流罪された直後であり、幕府にあっては2月騒動の渦中であった。「聖人去る時七難必ず起こる」との仁王経の文のままに、大聖人が佐渡流罪されるのと時を同じくして、幕府・朝廷の双方の内部に混乱が生じたのであった。
 また、「星の日月を犯す」のは「臣・王を犯す相」であるとされている。鎌倉幕府が朝廷を破った承久の乱は、これにあたるといえようか。また、大聖人御入滅後においては、やがて、鎌倉幕府は滅亡し、南北朝時代、室町幕府を経て、応仁の乱以後の戦国時代に、下剋上の風潮が本格化する。こうした到来を予言されたものと拝することができるのである。
 更に「日と日と競い出る」のは「四天下一同の諍論」の瑞相であるとされている。この「四天下」については「国全体」とするか「世界全体」とするか、いずれとも考えられる、前文で「二の日並び出すは一国に国王と並ぶ相なり」とあるから、その脈絡でいえば「一国」と解釈するのがだとうである。
 しかし、蒙古の脅威が世界中を圧巻していた当時の現実を踏まえれば、「世界全体」とも解せるといえよう。
 以上のように、ここで大聖人が示されている、種々の天変を瑞相とする種々の国難の相は、既に当時において起こっていたことであるといえる。そしてその国難の相が、大聖人御入滅後に、いよいよ明らかになったといえるのではないだろうか。ここで仰せが、日本の未来の混乱を予言されたものであるように拝せるのもそのためであろうか。
 したがって「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し」との仰せは、一往、将来に国が混乱してから上行等が出現するかのような表現であるが、ここに仰せの「聖人」とは明らかに大聖人御自身のことであり、近い将来に、大聖人が三大秘法総在の大御本尊を建立することを宣言されているのである。
 そして「一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」とは、将来の世界広宣流布を予言されたものと拝することができる。
 本抄は三大秘法の宣説にとどまるのではなく、その流通を御確認され、広宣流布との御遺命にも似た表現を以て筆を置かれているのである。