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四信五品抄現代語訳0338~0348

0338~0343    四信五品抄 現代語訳
0338:01~0338:01 第一章
0338:02~0338:03 第二章
0338:04~0338:08 第三章
0338:08~0339:04 第四章
0339:05~0339:13 第五章
0339:14~0340:03 第六章
0340:04~0340:08 第七章
0340:09~0341:06 第八章
0341:07~0341:12 第九章
0341:13~0341:16 第十章
0341:17~0342:01 第11章
0342:02~0342:05 第12章
0342:06~0342:15 第13章
0342:16~0343:07 第14章

0338~0343    四信五品抄 現代語訳top
0338:01~0338:01 第一章top
四信五品抄    建治三年四月十日    五十六歳御作    与富木常忍
01   青鳧一結送り給び候い了んぬ。                                   ・
――――――
現代語訳
 銅銭一結をお送りいただきました。

0338:02~0338:03 第二章top
02   今来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと雖も 法華を修行するには必ず三学を具す一を欠いても成ぜ
03 ず」云云。
――――――
 この頃の学者たちはみな同じく次のように考え述べている。
 「釈尊が御存命中なのか、お亡くなりになった後なのかという違いはあっても、法華経にもとづいて修行するには、必ず戒・定・慧の三学が必要である。一つでもかけていれば成仏しない」と。

0338:04~0338:08 第三章top
04   余又年来此の義を存する処一代聖教は且らく之を置く法華経に入つて 此の義を見聞するに序正の二段は且らく
05 之を置く 流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし、 而して流通に於て二有り一には所謂迹門の中の法師等の
06 五品・二には 所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり、 此の十一品半と五品と合せて十六
07 品半・此の中に 末法に入つて法華を修行する相貌分明なり 是に尚事行かずんば普賢経・涅槃経等を引き来りて之
08  れを糾明せんに其の隠れ無きか、
――――――
 私も長年にわたり、同様にこの考えを持っていたが、釈尊が一生のうちに説いた経典の全体はひとまず置くとしよう。法華経に限って、このことについて人から聞いたり経文を見たりすると、序分と正宗分はひとまず置いておいて、流通分は末法の時代の規範となるもので、最も頼みとしなければならない。
 ところが、流通分については、二つのものがある。
 第一は、迹門の中で法師品などの五品である。
 第二は、本門のなかで分別功徳品の後半から経典の終わりまでの十一品半である。
この十一品半と五品を合わせると十六品半となるが、この中に末法の時代に入ってから法華経にもとづいて修行する在り方がはっきりと説かれている。それでも納得できないなら観普賢経や涅槃経などを参考にして検討を加えれば不明なことはないだろう。

0338:08~0339:04 第四章top
08                 其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要・在世・滅後の亀鏡
09 なり。
――――――
 その中でも、分別功徳品に説かれている四信と五品は、法華経にもとづいて修行する上で根本であり、釈尊のご存命中ならびにお亡くなりになった後の規範となるものである。
――――――
10  ケイ谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、 其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の
0339
01 五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり、 天台妙楽の二
02 の聖賢此の二処の位を定むるに三の釈有り所謂或は相似・十信・鉄輪の位・或は観行五品の初品の位・未断見思或は
03 名字即の位なり、 止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し機に赴きて異説す 此を借つて開解せば何ぞ労しく
04 苦に諍わん」云云等。
――――――
 妙楽大師湛然は次のように述べている。「一念信解は、本門で修行について述べる最初である」と。
 これらのうち、現在の四信の初めの一念信解と、滅後の五品の第一の初随喜という、この二つの段階は、いずれも同じく百界千如・一念三千を収めた宝箱であり、十方・三世の様々な仏が出現する門である。
 天台大師・妙楽大師という二人の聖人・賢人が、この二つの段階がどの修行段階に当たるのかを定めているが、それには、三つの解釈がある。
 すなわち、あるところでは、相似即・十信・鉄輪の段階であると言っている。
 また、あるところでは、観行即である五品の中の初品の段階であり、また見惑・思惑を根絶しないと言っている。
 さらに、あるところでは、名字即の位であると言っている。
 『摩訶止観』では、解釈が一定しないという問題を解消して「仏の意図は理解しがたい。聴衆の能力に応じて、違ったことを説く。それによって理解が広がればよいのであって、どれが本当に正しいかなどと、わざわざ論争するに及ばない」などと述べている。

0339:05~0339:13 第五章top
05   予が意に云く、 三釈の中名字即は経文に叶うか滅後の五品の初の一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の
06 心を起す」と 若し此の文相似の五品に渡らば而不毀呰の言は便ならざるか、 就中寿量品の失心不失心等は皆名字
07 即なり、 涅槃経に「若信若不信乃至熈連」とあり之を勘えよ、 又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに
08 居し解の一字は後に奪わるる故なり、 若し爾らば無解有信は四信の初位に当る 経に第二信を説いて云く「略解言
09 趣」と云云、 記の九に云く「唯初信を除く初は解無きが故に」随つて次下の随喜品に至つて上の初随喜を重ねて之
10 を分明にす五十人是皆展転劣なり、 第五十人に至つて二の釈有り 一には謂く第五十人は初随喜の内なり二には謂
11 く第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり、 教弥よ実なれば位弥よ下れりと云う釈は此の意なり、四味三教
12 よりも円教は機を摂し 爾前の円教よりも法華経は機を摂し 迹門よりも本門は機を尽すなり教弥実位弥下の六字心
13 を留めて案ず可し。
――――――
 私の考えでは、三つの解釈の中では名字即とするのが経文と合致しているのではないだろうか。
 滅後の五品の初めの一品を説いて「誹謗することなく、随喜の心を起こす」と述べている。
 もしこの文が、五品の相似即に至っているという趣旨なら「誹謗することなく」という言葉は、不都合ではなかろうか。特に、寿量品で説かれる「正気を失った者」も「正気を失っていない者」もみな名字即である。
 涅槃経に「信じる者も信じない者も、不動国に生じるとか、熈連河の砂の数ほどの多くの仏のもとで覚りを求める心を起こした者は、悪い時代に生まれて、経典を記憶しなさい」とあるのを、考え合わせてみなさい。
 また、「一念信解」という四字の中の「信」という一字は四信の初めに位置し、「解」という一字はそれよりも後の段階に属するからである。もしそうであるなら、理解がなく信だけがあるのが四信の最初の段階に当たるのである。
 経では第二信を説いて「言葉の内容がおおまかに理解できる」とのべている。『法華文句記』巻九には「四信のうち、初心だけを除く、初心には理解がないからである」と述べている。
 したがって、その後の随喜功徳品に至って、先に説かれた初随喜を再度詳細に説いている。随喜功徳品で説かれる五十展転の教えの五十人は、最初の一人から最後の五十人になるにつれて、段々と程度が下がっていく。
 最後である第五十人の人に至って、この人の修行の段階について二つの解釈がある。
 一つには、第五十人は初随喜の範囲内であるというものである。
 一つには、初随喜の範囲外であるというもので、これは名字即のことである。
 「教えが真実に近づくほど、それを行じる修行の段階は低くなっていくという注釈は、この意味である。
 四味の三教よりも円教は多様な能力の者を包容し、爾前の円教よりも法華経はさらに多様な能力の者を包容し、迹門よりも本門はあらゆる能力の者を包容するのである。「教弥実位弥下」の六字を心に留め、よく思案すべきである。

0339:14~0340:03 第六章top
14   問う末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や、 答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出して
15 貴辺に送付す、 所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して 一向に慧の一分に限る慧又堪ざれば信を
16 以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり、天台云く「若し相似の
17 益は隔生すれども忘れず 名字観行の益は隔生すれば即ち忘る或は忘れざるも有り忘るる者も 若し知識に値えば宿
18 善還つて生ず若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、 恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教
0340
01 の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷れり、 末代の学者・慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本
02 心を失い弥陀の権門に入る退大取小の者なり、 過去を以て之を推するに未来無量劫を経て三悪道に処せん若し悪友
03 に値えば即ち本心を失うとは是なり。
――――――
 質問する。末法時代に入って、初めて覚りを求める心を起こした修行者は、例外なく円教の戒・定・慧の三学を全て実践する必要があるのか。
 答える、このことは、重要なことであるので、経文と考え合わせ、必要な個所を取り出して、あなたに送る。
 すなわち、五品のうち初品・第二品・第三品では、仏は紛れもなく戒と成という二つのものを制止して、修行の内容をひたすら慧も実践できなければ、信を慧の代わりとし、信という一字を究極としている。
 不信は一闡堤や謗法の原因であるのに対し、信は慧の原因であり、名字即の位である。
 天台大師は次のように述べている。「相似即の利益を得た場合、一度死んで次に生まれても忘れることはない。名字即や観行即の利益では、次に生まれた時に、忘れてしまうが、忘れない場合もある。忘れた者も、正しく導いてくれる者に遭遇すれば、過去世の善い行いが再び効力を発揮する。もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心を失ってしまう」と。
 はばかりながら、少し前の天台宗の慈覚大師円仁・智証大師円珍のお二人も、天台大師・伝教大師という正しく導いてくれる人に背いて、善無畏や不空などといった悪へと導く者に心が移ったのであろう。
 釈尊の時代から遠く離れた現代の学者は、慧心僧都源信の『往生要集』の序分にたぶらかされて、もともとあった法華経を信じる心を失い、阿弥陀仏を信じる一時的な教えへと入っていく。「大乗から退き、小乗を取る」と言われる者たちであった。
 過去世のことから推しはかると、未来には無量劫にわたって、三悪道に生まれることになるだろう。「もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心をうしなってしまう」とは、このことである。

0340:04~0340:08 第七章top
04   問うて曰く其の証如何 答えて曰く止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり円教の
05 位下きは真実の説なればなり」 弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず 教弥よ実なれば位弥よ下く教弥
06 よ権なれば位弥よ高き故に」と、 又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く実位弥よ下きを顕す」と
07 云云、他宗は且らく之を置く天台一門の学者等何ぞ実位弥下の釈を閣いて 慧心僧都の筆を用ゆるや、畏・智・空と
08 覚・証との事は追つて之を習え大事なり大事なり一閻浮提第一の大事なり心有らん人は聞いて後に我を外め。
――――――
 質問する。その証拠はどのようなものか。
 答える。『摩訶止観』第六巻には、ほけきょうより前の教えで、それを行ずる者の修行の段階が高い理由は、真実に導く手だてとしての教説だからである。完全な教えで行ずる者の修行の段階が低いのは、真実の教説だからである」とある。
 『止観輔行伝弘決』では、これを注釈して「『前の教えで』以下は、一時的な教えと真実な教えを判別するものである。教えが真実に近づけば近づくほど、それを行ずる者の修行段階は低くなり、教えが一時的なものになればなるほど、修行段階は高くなるからである」としている。
 また、『法華文句記』第九巻には「修行段階を判定するという箇所では、観察する対象が深くなればなるほど、真実の教えにおける修行段階ではそれだけ低くなることを明らかにしている」とある。
 他の宗派はともかくとして、天台宗に属する学者たちは、どうして「真実の教えにおける修行段階はそれだけ低くなる」という解釈を放置して、慧心僧都の書いたものを用いるのか。
 善無畏・金剛智・不空・慈覚大師・智証大師のことは後で学びなさい。
 先に述べたことこそ実に重要なことである。一閻浮提で第一の重要なことである。思慮分別のある人であるなら、初めから耳を塞ぐのではなく、聞いた後で、私から遠ざかりなさい。

0340:09~0341:06 第八章top
09   問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、 答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と
10 称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり 是れ則ち此の経の本意なり、 疑つて云く此の義未だ見聞せず心を
11 驚かし耳を迷わす 明かに証文を引て請う苦に之を示せ、 答えて云く経に云く「須く我が為に復た塔寺を起て及び
12 僧坊を作り四事を以て 衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明かに 初心の行者に檀戒等の五度を制止する
13 文なり、 疑つて云く汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか、答えて曰く初
14 を挙げて後を略す、 問て曰く何を以て之を知らん、 答えて曰く次下の第四品の経文に云く「況や復人有つて能く
15 是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云、 経文分明に初二三品の人には檀戒等の五度を制止し第四
16 品に至つて始めて之を許す 後に許すを以て知んぬ初に制する事を、 問うて曰く 経文一往相似たり将た又疏釈有
17 りや、 答えて曰く汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か 将た又漢土日本の人師の書か本を捨て末を尋ね体を離れ
18 て影を求め源を忘れて流を貴ぶ 分明なる経文を閣いて論釈を請い尋ぬ 本経に相違する末釈有らば本経を捨てて末
0341
01 末釈に付く可きか 然りと雖も好みに随て之を示さん、文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨
02 げんことを畏る直ちに専ら此の経を持つ即ち上供養なり事を廃して理を存するは所益弘多なり」と、 此の釈に縁と
03 云うは五度なり 初心の者兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり、 譬えば小船に財を積んで海を渡るに財と
04 倶に没するが如し、 直専持此経と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持つて余文を雑えず 尚一経の読誦だも許さ
05 ず何に況や五度をや、 「廃事存理」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云、 所益弘多とは初心の者
06 諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。
――――――
 質問する。釈尊の時代から遠く離れた今の時代に、初めて覚りを求める心を起こした修行者に対して、何を制止するのか。
 答える。布施や持戒などの五つの波羅蜜を制止し、ひたすら南無妙法蓮華経と唱えさせるのを、一念信解・初随喜品の初歩の段階とするのである。これが、この経が本来意図するところである。
 疑問を述べる。この説は、これまで聞いたことも見たこともない。心は驚き、耳は迷っている。はっきりとした証拠となる文を引用して、丁寧に示していただきたい。
 答える。経には「釈尊のために仏塔や寺院を建てたり、僧侶の住居を建てたり、四つのものを僧侶に供養する必要はない」とある。この経文は明らかに、初めて覚りを求める心を起こした行者に、布施や持戒などの五つの波羅蜜を制止している文である。
 疑問を述べる。あなたが引用した経文は、仏塔や寺院を建てることや僧侶を供養することだけを制止しており、それ以外の持戒の波羅蜜には及んでいないのではないか。
 答える。初め布施波羅蜜だけを挙げて、後の四波羅蜜は略したのである。
 質問する。何によって、それが分かるのか。
 答える。先に引用した文の後にある第四品を説いた経文には「まして、この経典を記憶し、それと同時に布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行うものがあれば、その功徳が最もすぐれていて、計り知れないことはいうまでもない」とある。
 経文には明らかに、初品・第二品・第三品の人には般若波羅蜜以外の布施・持戒などの五つの波羅蜜を制止し、第四品に至って許可したことから、初めには制止していたことがわかるのである。
 質問する。経文上はあなたの言ったとおりのようだ。では、あなたの主張を裏づける注釈書の解釈はあるのか。
 答える。あなたが求めている解釈というのは、インドの四依の大学者の論か、それとも、中国・日本の学者の書か。
 あなたは、根本を捨てて末端のものを尋ね本体を離れ影を求め、源泉を忘れて末流を貴んである。明瞭な経文を放置して、論や注釈書を知りたいと求めている。
 根本である経に対して、末端であるはずの注釈が相違している場合、根本である経を捨てて、末端である注釈を支持するほうがよいのか。
 しかしながら、あなたの好みにしたがって、注釈を示すことにしよう。
 『法華文句』巻九には次のようにある。
 「初めて覚りを求める心を起こした者は、縁によって動揺させられ、本来の修行が妨げられることを用心する。ただこの経を記憶して保持することだけが、そのまま素晴らしい供養となる。外面に現れる具体的な実践を差し置いて、内面に保持することで、利益が大きいのである」と
 この解釈で「縁」というのは、般若波羅蜜以外の五波羅蜜のことである。初めて覚りを求める心を起こした者が、ついでに五波羅蜜も修行すれば、本来の修行である信心を妨げることになるのである。
 譬えを挙げると、小さな船に財宝を積んで海を渡るなら、財宝と一緒に水没するようなものである。「ただこの経を記憶して保持することだけ」というのは、経典全体のことではない。ただ題目だけを記憶し保持し、他の経文を混入させることはしない。経文全体の読誦さえ許していないのであるから、まして五波羅蜜を許すはずがない。「外面に現れる具体的な実践を差し置いて、内面に真理を保持する」というのは、持戒などの外面に現れる具体的な実践を差し置いて、題目という心理だけを保持するなどといったことである。「利益が大きいのである」とは、初めて覚りを求める心を起こした者が、様々な修行と題目とを同時に実践すれば、利益を全て失うということである。

0341:07~0341:12 第九章top
07   文句に云く「問う若爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり 何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや、答う此は
08 初品を明かす後を以て難を作すべからず」等云云、 当世の学者此の釈を見ずして末代の愚人を以て 南岳天台の二
09 聖に同ず誤りの中の誤りなり、 妙楽重ねて之を明して云く「問う若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須いず 亦
10 須く事の戒を持つべからざるべし 乃至事の僧を供養することを須いざるや」等云云、 伝教大師の云く「二百五十
11 戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず 鑒真の弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、 又教
12 大師未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。
――――――
 『法華文句』には、次のようにある。
 「質問する。もしそうであるなら、経を記憶することが、最も根本的な意味での戒である。どうしてさらに『戒を保持する者』というのか。
 答える。これは初品の意を明かしたものである。後の方の記述によって、論難をしてはいけない。
 今の時代の学者は、この解釈を見ないで、釈尊の時代から遠く離れた時代の愚かな者を南岳大師・天台大師という二人の聖人と同一視している誤りのなかの誤りである。
 妙楽大師はさらにこのことを明らかにして、次のように述べている。
 「『質問する。もしそうであるなら』というのは、もし事物とくて存在する仏塔や仏の遺骨を必要としないのであれば、同様に、目に見える具体的な戒を保持する必要もなく、それをはじめとして、ついには現実に存在する僧侶に対して供養する必要もないということにならないか、という意味である」等と。
 伝教大師は「二百五十戒をたちまちに捨ててしまった」と述べている。 
 伝教大師一人だけではない。鑑真の弟子である如宝や道忠がそれに加えて七つの大寺院などが一斉に捨ててしまったのである。
 また、伝教大師は、未来の人々に忠告して、次のように述べている。
 「末法の時代に戒律を保持するものがいれば、奇怪なことである。町中に虎がいるようなものである。誰が信じるだろうか」と。

0341:13~0341:16 第十章top
13   問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや、 答えて曰く日本の二字に六十六国の人畜財
14 を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや、 妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」
15 又云く「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す、 文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法
16 蓮華経と題し次下に領解して云く「如是我聞」と云云。
――――――
 質問する。あなたはどうして一念三千の観相の修行を勧めないで、ただ題目だけを唱えさせるのか。
 答える。日本という文字に六十六ヶ国の人間・動物・財宝を収め尽くして一つも残すことがない。月氏という二つの字のなかにどうして七十ヶ国がないだろうか。
 妙楽大師湛然は「簡略に経の題だけを挙げて、広く経典全体を収めているのである」と述べ、また、「簡略に十界・十如是だけを挙げ、三千の森羅万象を全て収めているのである。
 文殊師利菩薩と阿難尊者は、三つの会座から成る八年間の仏の言葉を挙げて、「妙法蓮華経」という題をつけ、次にそれになっとくして「このように私は聞いた」と述べたのである。

0341:17~0342:01 第11章top
17   問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、 答う小児乳を含むに其の味
18 を知らざれども自然に身を益す 耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん 水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らん
0342
01 や竜樹・天台皆此の意なり重ねて示す可し。
――――――
 質問する。その意味が分からない人がただ南無妙法蓮華経とだけ唱えても、意味を理解したという功徳はそなわるのか。
 答える。小さい子供が乳を吸えば、その味が分からなくても、自然と体を成長させる。耆婆の素晴らしい薬を、誰が中身や作り方を理解した上で飲んでいるだろうか。水には心がないが、火を消す。火は物を焼くが、どうして自覚があるだろうか。
 竜樹菩薩も天台大師智顗もみなこうした考えである。再度このことを示そう。

0342:02~0342:05 第12章top
02   問う何が故ぞ題目に万法を含むや、 答う章安の云く「蓋し序王とは経の玄意を叙す玄意は文の心を述す文の心
03 は迹本に過ぎたるは莫し」妙楽の云く「法華の文心を出して 諸教の所以を弁ず」云云、 濁水心無けれども月を得
04 て自ら清めり 草木雨を得豈覚有つて花さくならんや 妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なる
05 のみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。
――――――
 質問する。どうして妙法蓮華経という題名が全ての教えをふくんでいるのか。
 答える。章安大師灌頂は次のように述べている。「思うに巻頭の序というものは、経典の奥深い意味を説く、奥深い意味は、経文の核心を述べる。経文の核心は、迹門と本門以外にはない」と。
 妙楽大師は次のように述べている。「この文は法華経の経文の核心を出し、様々な教えの根拠を立て分けている。
 濁った水には心がないが、月が映れば自然に清らかになる。草木に雨が降った時、どうして自覚があって花が咲くだろうか。「妙法蓮華経」という五字は経文ではない。その文に即した教えでもない。法華経全体の本意に他ならない。初めて覚りを求める心を起こした修行者は、その本意を知らなくとも、それでもこれを実践すれば、自然とその本意に合致するのである。

0342:06~0342:15 第13章top
06   問う汝が弟子一分の解無くして 但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位
07 並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖.畏・厳・恩・蔵・宣・摩.導等に勝出すること百
08 千万億倍なり、 請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ 進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩な
09 り豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば 八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し 天子の襁褓に纒
10 れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、 妙楽の云く「若し悩乱する者は頭 七分に破れ
11 供養すること有る者は福十号に過ぐ」と、 優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し 相州は日蓮を
12 流罪して百日の内に兵乱に遇えり、 経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん 若は実にも
13 あれ若は不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん 乃至諸悪重病あるべし」又云く「当に世世に眼無かるべし」等
14 云云、 明心と円智とは現に白癩を得・道阿弥は無眼の者と成りぬ、 国中の疫病は頭破七分なり罰を以て徳を推す
15 るに我が門人等は福過十号疑い無き者なり。
――――――
 質問する。あなたの弟子が、すこしの理解もなく、ただ一回だけ声を出して南無妙法蓮華経と唱えた場合、その人の修行段階はどのようなものなのか。
 答える、この人は、単に四味・三教の最後の修行段階の者や、爾前の円教の人を超えるだけでなく、さらには真言宗などの様々な宗派の開祖である善無畏・智儼・慈恩大師・吉蔵・道宣・達磨・善導らよりも勝れること百千万億である。是非とも、日本国中の人々よ、私の弟子たちを軽んじないでいただきたい。
 時代をさかのぼって過去世を調べれば、八十万億劫の間、仏たちに供養した偉大な菩薩である。どうして、熈連河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを求める心を起こしさた者やガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで覚りを起こした者でないことがあろうか。
 未来世を論ずれば、八十年にわたって布施を行った者を超え五十番目に法華経を伝え聞いた者と同じ功徳を備えるに違いない。皇帝に生まれた時は産着に包まれており、巨大な竜も生まれたての時は小さいようなものである。決してないがしろにしてはならない。
 妙楽大師は「もし、法華経を説く者を悩ますなら、頭が七つに割れ、供養すれば、その福徳は十の称号を持つ仏を供養した場合を超える」とのべている。
 優陀延王は賓頭盧尊者をないがしろにし、七年の内に身体の自由を失った。北条時宗は日蓮を流罪し百日の内に内乱に遭った。
 経には次のようにある。「もしこの経典を学び記憶して保持する者を見て、その人を悪く言うようなことがあれば、もしそれが事実であっても事実でなくても、この、悪口を言う人は、生きているうちに白癩病になるだろう。…様々な重篤の病にかかるであろう」と。また、「生まれるたびに、生まれつき盲目であるだろう」とある。
 明心と円智とは生きているうちに白癩病にかかり、道阿弥は盲目の者となった。日本全国の疫病は「頭が七つに割れ」という経文通りである。誹謗した者たちが受けた罰によって、法華経を信じる者の功徳を推しはかるなら、私の弟子たちは「十の称号を持つ仏を供養した場合を超える」という経文通りになるのは疑いないことである。

0342:16~0343:07 第14章top
16   夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来 桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間六宗有りと雖も
17 仏法未だ定らず、 爰に延暦年中に一りの聖人有つて此の国に出現せり所謂伝教大師是なり、 此の人先きより弘通
18 する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し 諸寺を取つて末寺と為す、 日本の仏法唯一門
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01 なり王法も二に非ず法定まり 国清めり其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり 其の後弘法・慈覚・智証の三大
02 師事を漢土に寄せて 大日の三部は法華経に勝ると謂い 剰さえ教大師の削ずる所の真言宗の宗の 一字之を副えて
03 八宗と云云、 三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し 寺毎に法華経の義を破る是偏に已今当の文を破らんと為
04 して釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ、 然して後仏法漸く廃れ王法次第に衰え天照太神・正八幡等の久住
05 の守護神は力を失い梵帝四天は国を去つて已に亡国と成らんとす 情有らん人誰か傷み嗟かざらんや、 所詮三大師
06 の邪法の興る所は 所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり 禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無
07 き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し。
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 さて、神武天皇から数えて三十代にあたる欽明天皇の在位中に初めて仏法が渡って来て以来、桓武天皇の在位時代にいたるまで、二十代・二百余年の間、六つの宗派があると言っても、仏法の有り方はまだ定まらなかった。ここに延暦の時代に一人の聖人がこの国に出現した。伝教大師という人である。この人は、以前から広まっていた六つの宗派を問いただして間違いを明らかにして七つの寺院を自分の弟子として、最終的には比叡山延暦寺を立てて根本の寺とし、その他の寺を末寺と位置づけた。日本の仏法は、ただこの一つの流れだけである。政治の面でも、王が二人いるわけでない。仏法が安定し、国は清浄になった。その功績を論じるなら、根源的には「已今当」の文に発しているのである。
 その後、弘法大師・慈覚大師・智証大師の三人は、中国の学者の説に寄りかかって、大日経などの三部経は法華経より勝れていると言い、それに止まらず、伝教大師が削除した真言宗の「宗」の一字を付け加えて、八宗があると言っている。
 三人は同じように申請して天皇のお言葉をいただき、日本中に広めて、どの寺でも法華経の教えを否定している。これは、ひたすら「已今当」の経文を否定しようとして、釈尊・多宝如来・十方の仏たちの大変な怨敵となってしまったのである。
 その後、仏法は段々と衰退し、天皇の政治権力も次第に脆弱になり、天照太神や正八幡大菩薩など昔から日本にいた守護神は力を失い、梵天王や帝釈天・四天王は既に国を去ってもはや国は滅びようとしている。心ある人で、苦悩を感じ嘆かない者がいるだろうか。
 結局、三人の大師の誤った教えが盛んなところは、具体的には、東寺・比叡山の総持院・園城寺という三ヶ所である。これを禁止しなければ、国土が滅亡し、衆生が死後に三悪道に堕ちるのは、疑いないのではなかろうか。
 私は、このようなことを一通り調べ、国主に示したが、全く採用することはなかった。何と悲しいことではないか。