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下山御消息講義0343~0364
序講
はじめに
本抄の文献的考察
本抄の教学的位置づけ
本抄の大意
0343:01~0343:08 第一段 因幡房が法門の聴門に至る経過
0343:01~0343:08 第一 下山兵庫光基の難詰
0344:01~0344:16 第二段 宗教の五綱と大小兼行の戒め
0344:01~0344:08 第一 法華経は最勝の教え
0344:08~0344:16 第二 仏法実践の方軌
0344:17~0346:02 第三段 鑑真より伝教大師に至る仏教の歴史と正直の行者
0344:17~0345:06 第一 鑑真の日本渡来
0345:06~0345:15 第二 伝教大師の法華経宣揚
0345:15~0346:02 第三 正直の行者は法華経のみを信受
0346:02~0347:05 第四段 正像末の弘通と上行喜薩の出現
0346:02~0346:09 第一 正像末の区分と正法時代の弘法
0346:09~0346:12 第二 像法の法華経は末法弘通の序分
0346:12~0347:05 第三 諸宗所依の経々は末法に不相応
0347:06~0349:09 第五段 良観ら鎌倉律師の批判
0347:06~0347:14 第一 律宗は小乗の小法
0347:14~0348:04 第二 律宗僧侶は阿羅漢に似た一闡提
0348:04~0349:01 第三 良観は持律に似像した悪比丘
0349:01~0349:09 第四 小乗戒は時機不相応の悪法
0349:09~0351:04 第六段 両火房の祈雨
0349:09~0349:17 第一 良観の行状と祈雨
0349:17~0350:07 第二 祈雨の敗北
0350:07~0350:18 第三 良観の悪態と祈雨失敗の原因
0350:18~0351:04 第四 真言師等の祈雨
0351:05~0352:03 第七段 三類の強敵と法華経の行者
0351:05~0351:16 第一 僭聖増上慢と大聖人の逢難
0351:16~0352:03 第二 悪師親近により亡国・堕地獄
0352:03~0354:09 第八段 叡山の密教化への歴史
0352:03~0352:13 第一 正像末と人々の機根
0352:13~0353:04 第二 真言宗の誑惑を見抜いた伝教大師
0353:04~0353:13 第三 慈覚の邪義
0353:13~0354:02 第四 慈覚・智証は仏法の大怨敵
0354:02~0354:09 第五 真言を重んじた明雲の非業の死
0354:09~0355:11 第九段 末法の様相と立正安国論の提出
0354:09~0354:14 第一 禅宗・念仏宗の出現
0354:14~0355:03 第二 大謗法による天変地夭
0355:03~0355:11 第三 立正安国論の提出
0355:12~0356:13 第十段 仏の三徳と発迹顕本
0355:12~0355:17 第一 主師親の三徳をそなえた大聖人
0355:17~0356:03 第二 大難のなか強盛に弘教
0356:03~0356:13 第三 佐渡流罪と竜の口の法難
0356:14~0358:06 第11段 最後の国諫と身延入山
0356:14~0357:03 第一 御成敗式目と幕府権力の迫害
0357:03~0357:15 第二 正法誹謗は亡国の因
0357:15~0358:06 第三 第三回国主諫暁と身延入山
0358:07~0361:12 第12段 三徳具備の仏に背く念仏者等の謗法
0358:07~0358:13 第一 浄土三部経は未顕真実の方便権教
0358:13~0359:02 第二 法華経誹謗は無間地獄の業因
0359:02~0359:12 第三 釈迦・多宝・十方の諸仏の証明
0359:12~0359:18 第四 法華経説法と観音・勢至喜薩
0359:18~0360:07 第五 二乗の成仏を説かない阿弥陀経
0360:07~0360:16 第六 法華経を貶する念仏の諸師
0360:16~0361:06 第七 三徳具備の釈尊を差しおく念仏者
0361:06~0361:12 第八 正法誹謗者の悲惨な末路
0361:13~0363:13 第13段 一国講法の現状と末法の御本仏たる内証の開示
0361:13~0362:02 第一 日本国中に充満する法華経誹謗の者
0362:02~0362:07 第二 謗法・慢心の浅慮
0362:07~0362:15 第三 予言的中に幕府の軟化
0362:15~0363:05 第四 法華経誹謗に諸天等の治罰
0363:05~0363:13 第五 亡国を招来する真言の祈とう
0363:14~0364:11 第14段 因幡房よりの諫言
0363:14~0364:03 第一 因幡房の忠言
0364:03~0364:11 第二 仏法による真の忠考
0364:07~0346:13 下山御消息2015:06月号大白蓮華より。先生の講義
序講top
はじめにtop
本抄は建治3年(1277)6月、日蓮大聖人が因幡房日永に代わって、下山兵庫五郎光基宛に認められた長文の御消息である。
本文中で大聖人は、因幡房の立場を借りてではあるが「教主釈尊より大事なる行者」と御自身の立場を表現され、末法の御本仏としての御内証の一端を明示されている。
しかるに本抄の御真蹟は断片としか残っていないために、例えば安国院日講の著した録内啓蒙に「日昭門流の抄に云う、此書は異本これ有り、聖人の御詞にあらざる処これあるか」とあるように、弟子による改竄があったのではないかという疑義が日昭門流から出ていたようである。
これについて浅井要麟氏も「教義法門の綱格に於て、往々不審を懐かしむる点がある。思ふに御真筆の一部を所蔵して、全貌を補成するに当り、遂にこの種の結果を生じたものではあるまいか。昭門学匠逸早くこれを感知せるは、烱眼ともいふべきである」と述べている。
日昭門流は、釈尊を本仏と立てる自説にとって不利であることから、この改竄を唱えたとも考えられる。まして浅井氏のように、勝手な「教義綱格」を立てて、それに合わないから不審であるといった我田引水の解釈は慎まなければならない。
よって、第一章においては、これまで等閑に付されてきた本抄の文献的な考証を本格的に行い、日昭門流の説について検討を加えたいと思う。また、併せて本抄を与えた下山兵庫と、大聖人がその代筆を努められた因幡房日永との関係についても明らかにしていきたい。
続いて第二章においては、その考証をふまえたうえで日蓮大聖人の教学における最重要課題たる「本仏論」をめぐって、教学的観点から本抄の位置付けを行いたい。
本抄の文献的考察top
本抄は御真筆が分散し、全国20ヵ所においてその断簡が所蔵されているのであるが、これらを全部合わせても、写本で伝わっている全体の1/7強にしかならない。10大部に数えられながら、御真筆がこのように分散した例は他には見られないところである。
次に写本のなかで書写年代が比較的古いものとされているのは、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵されている日法所持本には2本あり、このうち送り仮名が平仮名中心となっている<平仮名本>が古い写本と目されるものであり、他の1本はこれを書写して書体を改めた<片仮名本>と考えられている。次に現在重須本門寺に所蔵されている寂日房日澄の写本がある。さらに、これらより200年後に日澄による写本が大石寺にある。
これらは、いわゆる個別写本であるが、録内御書のセット本として、平賀日意によって書写された平賀本が、千葉県松戸市の平賀本土寺にある。
このなかで、日法所持本の<平仮名>本は、日法が正慶2年(1333)に大輔阿闍梨某に付嘱することを内題下に記しているという。
したがって、平仮名本の書写年代は、正慶2年(1333)以前であることは間違いなく、また高木氏は、片仮名本の写本の時期も平仮名本の付嘱の前後であろうと推定している。ただし、平仮名本の写本がどこまで遡れるかは不明である。
一方、日澄写本は、寂日房日澄が正安2年(1300)に日向と決別して日興上人に帰伏してから成ったものとすれば、その成立は死去の延慶3年(1310)に至る10年間であることは明白であり、あるいは日向との絶縁以前だとすると、その成立年代は更に遡るわけであるから、断定はできないまでも、日澄本が日法の平仮名本に先立つ可能性が十分にあるといえる。
さて、本抄の対告衆は甲斐の国、下山郷の地頭下山兵庫五郎光基であるが、彼の氏寺である平泉寺の僧因幡房日永が建治2年(1276)大聖人に帰依し、因幡房の請いによって大聖人は光基への諌暁の書として因幡房の名において本抄を認められた。下山兵庫は因幡房の父親である、というのが今日の通説となっている。
本抄は内容的には10大部に数えられる重書であるが、文献的に問題が多い。そのため、まず第一節で御真蹟について論じ、続いて第二節で全体像の手掛かりとなっている岡宮本の位置付けを論じ、最後に第三節では、対告衆の下山兵庫五郎と因幡房日永の関係を論じ、もって次章における教学的観点からの準備としたい。
第一章 本抄の御真蹟について
下山抄は、第二祖日興上人が10大部御書に数えられた重書であるにもかかわらず、その御真筆は、早くから散逸し、断片しか伝わっていない。延慶2年(1309)に富士一跡門徒存知の事が記された時点において、既に御正本の所在が不明になっていた。
その約半世紀後に著された三位日順の推邪立正抄には、当時、一致派の日学らが本抄の存在自体を疑っていたことが記されている。更に前述したように、写本に対しても、改竄があるのではないかという疑義が日昭門流から出されていた。存在自体に対する疑義については、部分的ではあれ御真蹟が確認されている今日では、明快にこれを晴らすことができる。
一、十八世紀初頭の御真蹟断簡
18世紀における本抄御正本に関する情報を記した玉沢禅智院日好著の録内扶老の巻12の下山御消息の題下には「此書ノ正本駿州岡ノ宮光長寺ニ之有リ。結要抄三十七往見、正徳四年七月此ノ書ノ中二十三ノ十一字ノ切レ御正筆ヲ拝見ス」とある。
日好がここに引用している結要抄は、円明院日澄(先の寂日房とは別人)の本迹結要抄を指している。日好引用の該当の文は、正しくは「此御書ノ御正筆ハ駿河ノ州タニ岡ノ山に在之云云」となっており、岡宮の地名をタニ岡ノ山と誤って書いていることからも、下山抄の御真筆が岡宮にあるとしているのは、日澄自身が確認したものではなく、伝聞によったものではないかと想像せしめるのである。
一方日好は、正徳4年(1714)7月に下山抄中の「責ル故両火房内々諸方ニ」という11文字の断片となった御真筆を見たという。また、日好は同じ録内扶老に本文中の「内々諸方ニ」という語について解説を加えて「予御正本ヲ拝スルニ分明ニ<諸方ニ>と仮名アリ<諸方ヘ>ニワアラザルナリ」と述べ、本抄の御正筆を拝したと主張して、当時の写本や版本には「諸方ヘ」となっているものもあるが、これは「諸方ニ」と正しいと言っている。(論点の部分は創価学会版御書全集の「せむる故に両火房・内内諸方に」(0348-18)の部分か?)故に両火房・内内諸方に
この日好の記述のとおりであれば、18世紀当初の時期においては、既に御真筆が細断散逸していたことが知られるのである。
同時に、円明院日澄の記述から、彼が活躍した15世紀末から16世紀の初頭にかけて、岡宮光長寺の写本が大聖人直筆の御正本と誤って伝えられていた節があると考えられる。つまり、当時の人々が本抄の御正本、及び岡宮本の実態についての正確な情報をもっていなかったということを示しているのである。
本抄御真筆の手掛かりとしては、身延山12世円教院日意の大聖人御自筆目録、及び寂照院日乾の身延山久遠寺御霊宝記録があるが、そのいずれにも記されていないことから、少なくとも身延では、これらより以前に散逸していたと考えられる。また富木常忍の本修院本尊聖教事には、「御書箱」の項目の一つとして「下山御消息 一帖」と記されているが、これは御真筆ではなく、写本とされている。ただし、本抄の写本が間違いなく存在していることを示しており、貴重な記録である。
二、御真筆の分散化について
本抄の御真蹟は数多くの断片としてのみ伝えられているが、その中で、細断を免れ、ほぼ現状をとどめていると思われる御真蹟が京都本圀寺に所蔵されている。
これはたて30.3cm、よこ43㎝の1紙に15行にわたって記されており、その字数は180字である。宮崎英修氏の計算によると本抄全体の字数が17000字であるから、この大きさの紙に、ほぼ同じ字数で書かれたとすると、本抄の御正本は約90枚に及ぶ大作であることになる。
ただし、この御真蹟も正確にいうならば完全な一紙ではなく、末行の文字の端が少し切り取られている。また頁数も記されていないことなどからして、本抄は立正安国論などと同じように巻物として、文字どおり一巻となっていたのではないかと思われる。
貞和4年(1348)に行われた富士門徒日寿と本迹一致派の日学との間の問答をもとに、重須談所の第2代学頭三位日順が著した推邪立正抄には、大聖人入滅後わずか半世紀にしか経過していない当時にあって、既に下山抄の存在自体を否定する見解が日学らによって出されていたことが記されている。
日学は、日朗門流の九老僧の一人・日像の門下であり、その彼が本抄の存在を疑っていたことから、日朗門流にも御正本の存在が知られていなかったと思われる。
本抄がいつ四散したのかは分からないが、現在では20数個所の寺院または個人の家に所蔵されている。
これらの御真蹟を所蔵している寺院は日向や日朗の流れをくむところが大半であり、今日では日蓮宗に属している。14世紀の中葉には、日朗門流の日学が、本抄の存在を否定したのであるが、その日朗門流の寺院に本抄の多くの断片が所蔵されていることは何を意味するか、これは今後の研究を待たねばならない。
三、御真蹟分散化の跡づけ
本抄御真蹟の分散がいつごろから始まったかは不明であるが、前掲の録内扶老によれば、正徳年間、すなわち18世紀には既に分散化はかなり進行していたことが分かるのである。
宮崎英修氏によれば、これより半世紀あまり前の慶安4年(1651)の記録として万宝全書には、日蓮大聖人の御真蹟の断葉が1枚5両という高価な値を付けて売りに出されていたことが記されているという。それらの中に本抄の御正筆の一部も含まれていたという可能性は十分に考えられることである。
以下に御真蹟が細分化されていった過程の一部を、できる範囲で跡づけておきたい。
宮崎氏によれば、昭和36年(1961)に滋賀の妙孝寺より断片が発見され(この部分ではなかろうか?「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども其の実を論ぜば天下第一の大不実の者なり、其の故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり、在世には十二年の後・方等大乗へうつる程の且くのやすめ言滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺なり 此れ亦・一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり、されば」(0347-08))2年後には東京の和田家よりの断片(この部分ではなかろうか?「ども後に事の由を知らしめんがために 我が大乗の弟子を遣してたすけをき給う、而るに今の」(0347-12))が発見された。元禄元年(1688)創建とされる妙孝寺は京都本圀寺の末寺であり、本圀寺第20世の元禄8年(1695)に妙孝寺3世日秀に与えた本尊が現存する。その裏書には「妙孝寺第三世権律師日秀与之、大僧正日隆花押」と記されている。宮崎氏は、日隆がこの本尊の授与に際し、先の御真筆を添えたものと推定している。
また和田家所蔵の書簡と妙孝寺所蔵の書簡とでは中間が欠けているものの(この部分か?「日本国には像法半に鑑真和尚大乗の手習とし給う教大師・彼の宗を破し給いて 人をば天台宗へとりことし宗をば失うべしといへ」(0347-11))続くものであり、本國寺所蔵の(この部分か「華経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、 乃至利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如きもの有らん」又云く「常に大衆の中に在て我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説き乃至悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」、又云く「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」等云云、涅槃経に云く「一闡提有つて羅漢の像を作し空処に住し方等大乗経典を誹謗す諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂えり」等云云、今予・法華経と涅槃経との仏鏡を以て当時の日本国を浮べて其影をみ」(0351-05))御真蹟と同じく、漢字で振られた読み仮名を削り取った跡があり、これも同じく本國寺から出たものと宮崎氏は推定する。この推定は本断簡が京都から持ってこられたという言い伝えに符合すつという。とするなら、先に示した和田家所蔵の書簡と妙孝寺所蔵の書簡との空間の部分も元禄の頃までには本國寺にあったことになる。
なお、本國寺所蔵の御真蹟にも切り取られた跡がある。この該当部分は岡宮本では、「等云云、今予・法花経と涅槃経との仏鏡をもつて」となっているが、御真蹟では「等云云、(三字空白)法花経と涅槃経との仏鏡をもんで」となっている。岡宮本ではこの3字空白のところを「今予」の2字をもって補っているのであるが、正しくはここにいかなる文字が入るのであろうか。このことを考察するうえでの重要なヒントが別の御真蹟中にある。すなわち、大阪府川崎家所蔵の(この部分か?「山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ、 便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法の威験をあらはさんと思う処に両火房常に高座にして歎いて云く『日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・男女には五戒・八斎戒等を一同に持たせんとおもうに、日蓮が此の願の障りとなる』と云云、余案じて云く『現証に付て事を切らんと思う処に、彼常に雨を」(0349-11))書簡なかの「戒等を一同に持たせんとおもうに、(三字空白)此の願の障りとなる」とあるのがそれである。
文中に3文字の空白があり、その部分が類似している。この空白部は宮崎氏等も認めているように、岡宮本等に見られる「日蓮が」の3文字が入っていたと推察できる。
ではその切り取られた3文字はどうなったか。宮崎氏の考察によればそれは「護符」として飲まれたのであろう、という。なお「日蓮が」の3文字を切り取ったのは、川崎家に渡る以前にどこかの寺院に所蔵されていた時期であったと思われる。文脈うえから、この3文字はなくても意味の通じる個所であり、また、本國寺の場合と全く軌を一にしている。
本國寺の場合の空白部にいかなる文字が認められたかといえば、次のように推側される。すなわち「今日蓮」の3文字があり、これが切り取られて護符として使用されたか、あるいは売られたかしたと見られるのである。
では、これを切り取ったのはいかなる人であったか、それは本國寺の別当にあたる人物であったか、あるいはその前に所蔵していたであろう身延派総本山久遠寺の貫主にあたる人物であったか、そのいずれかであった可能性が大きいかも知れない。なぜなら高木氏らも述べるように、御真筆は厳重なる管理がなされていたはずだからである。
次に稲田海素氏の日蓮聖人御遺文対照記によると同氏は明治35年(1902)4月13日に千葉県茂原市の藻原寺を訪れており、そこで下山抄断片の「己証の一念三千の法門を盗み入れて人の珍宝を我が有とせる大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知あて宗の一字を削りて叡山は唯七宗たるべしと云云、而るを弘法大師と申し天下第一の自讃毀他の大妄語の」(0352-18)を書写している。ただし御真蹟は同寺には現存せず、その一部すなわち「せる大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知」(0353-01)の4行64字が佐賀県岸川家に所蔵されている旨が記されている。
すなわちかっては、稲田氏が書写した御真蹟は藻原寺に所蔵されていたものが、3分、あるいはそれ以上に細断されたもので、藻原寺にはその写ししか残っていなかったものと思われる。そのうち1片が岸川家に所蔵され、他の2片ないし数片はやはりいずれかの所に現存している可能性が多分にある。何故に御真蹟がこのように分与されたかといえば、恐らくは供養の返礼として与えられたり、あるいは金銭でもって取引されたものであろう。
次にもう一例を挙げると「法華経の第一巻に至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し、然後実義を定めて云く『今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す、復教詔すと雖も而も信受せず、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん』等云云、経文の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に此れはさにては候はず在世滅後の一切衆生・阿弥陀経等の四十余年の経経を堅く執して法華経へうつらざらんとたとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と又自執の」(0358-11)という320字分はいずれも千葉県調福寺に保存されていた御真蹟と思われるが、所存の仕方が悪かった故に中間の部分が腐食してしまったのか、あるいはいずれかに分与されたのであろう。ある時点で比較的保存のよかった「第一巻に至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し」(0358-11)「而不、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、経文の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ」(0358-14)「法花経へうつらざらんとたとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と又自執の」(0358-17)
3点は、張り合わせて表装し直されたようである。
以上、数少ない史料ではあるが、今日たどれる範囲において、御真蹟がどのように細分されたかの過程の一部を見てきた。本抄の全体の字数がおよそ17000字に対して、御真蹟の現存率は15%である。今後更に発見される可能性もない訳ではないが、完全に収集することは不可能であろう。写本と比較しながら御正本の実体を復元することは、今後の研究のいかんによってはある程度可能であると思われる。
四、御真蹟分散化に至った理由とその背景について
前述したように今日に伝わる本抄の御真蹟の多くは広い意味で日向・日朗の流れをくむ寺院に所蔵されているが、また現在個人の所有となっているものも、たとえば佐賀県岸川家所蔵の「とせる 大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知」(0535-11)は、日向を開山とする藻原寺、及び和田家所蔵の「ども後に事の由を知らしめんがために我が大乗の弟子を遣してたすけをき給う、而るに今の」(0347-11)は日朗門流の本圀寺から分与されたと考えられる。
ただし重要な日法所持本を有していた岡宮光長寺は身延系ではない。同寺には比較的短い断片が所蔵されているのみである。あるいはこの2つの断片はある時点で同寺に購われたものであろうか。
宮崎氏が指摘したように、大聖人の御真蹟が市場に出されていたとするならば、そのもとをたどっていけば、その出所はやはり身延門流の寺院であったように思われる。というのも日朗の門流は、明治維新以降、身延派と合同することによって身延山を総本山とするに至ったが、それ以前にも日向の身延門流の支配下に入っていたこともあり、しばしば分立・統合を繰り返していたという経緯があるからである。
さて、われわれの確認できた範囲では、遠くとも近世までには本抄分散化は始まっていた。しかし、大聖人滅後、ある期間は、分散しないで保管されていたことはいうまでもない。
本抄の御正本が大聖人によって認められ、これが下山兵庫五郎のもとに届けられたのであるが、彼の没後、正中2年(1325)におけるその33回忌の時点では、彼の子息又四郎義宗のもとには既になくなっていたことは確かである。とするなら、その御正本は身延山久遠寺関係のいずこかに所蔵されていたという推理が成り立つのである。
第三節で後述するように、日興上人の御離山後、身延山久遠寺の中心者は日向であり、この日向が下山兵庫の没後、左衛門四郎の代になって新堂の開眼供養をしたという経緯があり、因幡房の弟子であった左衛門四郎は、大聖人入滅後に因幡房について日興上人に背き、日向の弟子となっていたのである。この経緯を考慮すると、本抄はこの頃、下山氏の手を離れて日向の所有に記したという可能性は十分に考えられる。
しかも、日興上人は、大聖人の御書の結集に努めておられた。しかしながら、富士一跡門徒存知の事に「正本の在所を知らず」(1605-04)と記されているように、門徒存知執筆の時点では、本抄の御正本は日興上人にとっては行方不明となっていた。したがって、本抄の御正本は、その日興上人の知られない某所に蔵されていたのであろう。
しかしながら、その後、厳格に保存されなかったのは、自らの寺院の格付け、これを利用したと計ったものと考えられる
だからこそ、その後、御真蹟は細断され、甚だしきは数文字の断片になって、更には「日蓮」という文字を含む個所が秘かに切り取られて護符とされたりしたのであろう。
こうした大聖人の御真蹟に対する扱いは、何も身延系日蓮入の人々の場合のみとは限らなかったかもしれないが、それらの行為がいかなる発想からよくよく考えなければならない。
一言でいうと、それは、彼らが日蓮大聖人を単に祖師とみるのみで、末法の御本仏であるという御内証を深く拝することができなかったからである。少なくとも、釈尊と同様に仏として大聖人を拝していたとするならば、その御真蹟をさいだんしたり売却したりするなどということはできないはずであったに違いない。
第二節 岡宮品(日法所持本)の位置
録内啓蒙に日昭門流の言として引用された「此書は異本これ有り」との文は、各写本間にかなりの異同があったことを指している。実際に岡宮長光寺所蔵の日法所持本と御真蹟の断片とを実際比べてみると、前者が後者を直接書写したものとはとても信じられないほどの内容の相違が見られるのである。そのような相違の生じたのはそれなりの理由がなければならない。我々がこれを追求することによって、それが日昭門流のいうような意図的改竄によるものか否かを明らかにしたい。
一、平仮名本と仮名本について
これまで伝統的に、現存する写本の中で、御正本の執筆年代に比較的近いものとされてきたのは、岡宮の2本のうちの1本、すなわち漢字と平仮名で書写されている写本である。
高木氏は両本の関係を解説して「諸本解説」で次のように述べている。
「日法所持本は二本ある。表記の仮名で区別すれば、一本は平仮名本、他は片仮名本といえよう。前者は、日法が1333(正慶2)年に大輔阿闍梨某に付嘱する内題を記している。後者の表紙左端下には、日法の自署花押があり、本文末尾一紙半闕失、1620(元和6)年日意がこれを写し足している。後者が前者を書写し、その際、その際、平仮名を片仮名化し、漢文風の表記に改めたと考えてよく、書写の時期も前者の付嘱の前後であろう。前者はとりわけ首尾の破損がはげしく、かつ中間に脱落がある。書写年度を明らかにできる下山抄の写本は後者片仮名本ということになろう。ただ、両者の写本は同一とは見えない。別筆による写本と考えられるが、後者の日法の自署花押はすくなくともその所持本であったことを示している。
以上の文中には、平仮名本の中間に脱落があるというが、その部分がどこであったかは明記されていない。片仮名本と平仮名本との異同については、平仮名本から片仮名本へと転写する間に漢文風に改めたと考えられると記すのみである。
ここで、平仮名・片仮名の関係を再確認しておく。高木氏は「諸本解説」において、御真蹟と両本を対照させ、「賢人は二君に仕へす貞女は両夫に嫁す」(御真蹟)、「賢人ハ二君ニ仕へす貞女ハ両夫ニ嫁かす」(平仮名本)、「賢人ハ二君二不仕貞女ハ両夫二不嫁」(片仮名本)の御文を挙げている。御真蹟に「仕へす」「嫁す」とあるのを片仮名本が「不仕」「不嫁」というように改めていることが確認され、少なくとも表記のスタイルは明らかに平仮名本の方が御真蹟に近いといえる。同氏は片仮名本が平仮名本が書写したものであるとしているが、その論拠は必ずしも明確でない。(HP作成者より・創価学会版御書全集でこの部分を示しておく「賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がず」(0346-02))
ここでは、一往、片仮名本が平仮名本を書写したものであるとの高木氏の見解を受けて、論孝を進めていくことにする。また、日本思想大系十四巻所収の下山抄の頭注には、両本の異同が若干記されており、それも大きな相違がないことから、写本がほぼ正確になされたと推定して大過ないと判断される。
さて、高木氏は「平仮名本も直接本を直接書写したものではない」としていることから、少なくとも第二転以上の写本と推定していることになる。
確かに岡宮本と御真蹟の間にはかなりの差異がある。しかしながら、それは平仮名本が第二転以上の重写本であったとすることによって解釈できるであろうか。
もしも平仮名本が第二転以上の重写本であったとするならば、どこかで直弟子による直筆本が少なくとも一つは存したことになる。そしてその写本はほとんど御真蹟と一致する正確さをもっていたと考えてよいであろう。したがって、岡宮本がその第一写本からの転写によったとすれば、不注意によるわずかの誤字を除けば、これまた御真蹟に近いはずである。ところが実際には岡宮本と御真蹟の間に大きな隔たりがあることは後に詳述するとおりである。
では岡宮本は第三転あるいは第四転の写本であったと考えるべきであろうか。もしそうであるとすれば、岡宮本よりはるかに御真筆に近い第一ないし第二転の写本がどこかに存在していたと考えられよう。しかし、今日伝わる個別の写本はいずれも御真蹟と大幅なズレがある。
また、寛文9年(1669)に京都に法華宗門書堂から刊行された録内御書収録の下山抄を見ても、写本における御真蹟とのズレ、特に岡宮本の誤り、欠落と思われる個所がそのまま踏襲されている。列挙すれば「比丘・比丘尼→四衆」「親近せず→欠落」「本朝末弘の→日本国に末だ弘通せざる」「最澄法師→教大師」等々、枚挙にいとまがない。
この寛文9年(1669)本は、寛永19年(1642)本を版下として、御真筆や異本と校合したうえで改定して出版された寛永20年(1643)を重印出版したものであるが、下山抄に限っていえば、御正本、あるいは直写本との校合がなされないままに刊本化されたといわざるを得ない。つまり、その時点では、御正本の所在、及びどれが直写本であるかが不明になっていたと推察されるのである。そして、先に見たように、円明院日澄が岡宮本を御真筆と誤って伝えたことからも、少なくとも岡宮本が御真筆に近い親写本と信じられていたのではないかと思われる。
本抄にはそうした特殊性がある故に、本抄の存在そのものを疑う極論さえ出てきた訳であるが、これについては、多くの御直筆の断片が発見されている今日にあっては、大聖人が本抄を記されたこと自体に対してはもはや疑う余地がないのであるから、自らの都合によって写本の価値を根拠もなく貶めるような非科学的な態度があっては断じてならない。そこで先入観を取り払って、改めて岡宮本の位置付けを再検討してみる必要があろう。
ところで、写本としては、日澄写本が岡宮の片仮名品よりも古いことはほぼ疑いないが、寂日房日澄師は日興上人の名において富士一跡門徒存知の事を記した人物であり、日興上人が後世のために十大部御書を定められたこの時点において、日興上人の手元には控えの写本があったはずであるが、それが日澄写本であったこともありえる。あるいは、今日に伝わっていないとはいえ、日興上人御自身が写本した可能性も決して否定できない。
同書に挙げられている十大部御書のうち、開目抄と報恩抄については「日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604-13)「日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604-15)等と記されている。しかし、本抄の場合は第二転という記述すらなく、しかも御正本の所在が既にわからなくなっていたという。
したがって、日興上人の手元にあった写本がいかなるものであったかは不明である。ただし、「聖人御書の事、付けたり十一ヶ条」に「御筆抄に法華本門の四字を加う」(1605-13)とあるように、十大部の御書には、すべて題号の上に「法華本門」の4字が加えられたのである。
よって本抄の写本にも題号たる「下山抄」の上に「法華本門」の4字が加えられたことが知られ、今日現存する日澄写本の題号も「法華本門下山抄」と記されているという。このことから、日澄写本の成立は正安2年(1300)に日澄師が日興上人に帰伏してより、延慶3年(1310)に亡くなる前の10年間の間に成立したことが明らかとなり、帰伏以前に遡ることはまず考えられない。
したがって、富士一跡門徒存知の事の執筆時である延慶2年(1309)の時点において、日興上人の手元にあったのは、日興上人の御自身による写本か、そうでなければこの日澄写本であったと推定されるのである。
なお、日澄写本が、いったい何から写本したものであるか、という疑問が残る。これについて手掛かりの一つとなるのが、昭和定本の脚注に記された日澄本との異同である。しかし、昭和定本においては、御真筆の断簡が残されている御文についてはほぼそのまま収録しており、御真筆の該当個所には、その異同が記されていない。
ところが、昭和28年(1953)の昭和定本編纂当時は未発見であった断簡当については、第四巻に正誤表を収録し、訂正を施している。
この異同は、昭和定本が根底とした、したがって、その異同によって、未収録の断簡に関して、日澄本と御真筆の違いを知ることができるようになる。ちなみに、下山御消息においては、大石寺版の御書全集でも日蓮聖人御遺文を根底としていると思われる。
では、日澄本と御真筆の違いの実例を挙げてみよう。
まず「を糾明せられしに六宗の碩学宗宗毎に我宗は一代超過の由各各に立て申されしかども教大師の一言に」の御文であるが、これについては異同が記されていないので、日澄本もこれと等しい訳である。これに該当する御真蹟は「を糾明せられしに、先は六宗の碩学各各宗宗ごとに我宗は一代超過々々の由立て申しされしかども澄公の一言に」となっている。したがって日澄本もやはり岡宮本の同系統の写本のように思われるのである。
以上の文の違いを図表すると次のようになる。
| 御真筆 | 創価学会版御書全集 | 日澄本 | 日法本 | 日主本 |
| 先は | 欠落 | 欠落 | 欠落 | 先は |
| 各々宗々ごとに | 宗宗毎に | 宗々毎に | 宗々毎に | 宗々毎に |
| 超過の由各々 | 超過の由各各 | 超過の由各々に | 超過の由各々 | 超過の由各々 |
| 澄公 | 教大師 | 教大師 | 教大師 | 教大師 |
価学会版御書全集「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども其の実を論ぜば天下第一の大不実の者なり、其の故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり、在世には十二年の後・方等大乗へうつる程の且くのやすめ言滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺なり此れ亦・一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり、されば」(0347-08)
②日澄本「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども、其実を論ぜば天下第一の大不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へうつる程の且くのやすめ言、滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺也。此亦一向大乗寺の毀謗となさんがためなり、されば」
御真筆「世間の人人には持戒実語の者のやうに見ゆれども、其実を論ずれば天下第一の不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律十誦等の律文は大小乗の中には一向小乗、小乗の中には最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へ還る程の且くのやすめことば、滅後には正法の前五百年は一向小乗寺なり。此又一向大乗寺の毀謗となさんが為。されば」
③御真蹟「世間の人人には持戒実語の者の様に見ゆれども、其実を論ぜば天下第一の大不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へうつる程の且ラくのやすめ言、滅後には正法の前ノ五百年は一向小乗の寺也。此亦一向大乗ノ寺の毀謗となさんがためなり、されば」
となっている。つまりいずれも御真筆からの写本でないことを示唆いている。
では、大聖人滅後さほど時を経ずして書写されたこれらの写本が何故に御真筆と隔たっているのであろうか。この問題を次に考察してみたい。
二、御真筆と写本の異同するもの
前項に述べたように、高木豊氏の見解によれば、岡宮本のうちの平仮名品は第二転、あるいは第三転以上となり、片仮名本はそれから更に転写した写本であったことになる。おそらく岡宮本と該当する御真蹟と比較したときに、余りにも多くの相違があることから、転写の際に誤写が生じたと考えたものであろう。つまり転写を重ねればそれだけ誤写が増えるからである。
しかし、後述するように、岡宮本にしろ、あるいは日澄本にしろ、御真筆との相違は、単なる誤写とは思えない節がある。しかも、これら両本は、他抄の誤写と比較しても早い時期に成立した写本であり、録内御書の写本が多数成立した時代とは違って、それだけ転写の回数が少なかった訳であるから、多少の誤写があるにせよ決定的な間違いというのは少ないはずである。
このことは、撰時抄の写本からも類推することができる。例えば、岡宮長光寺には同じく日法所持の撰時抄の写本があり、これは個別写本としては最古とされている。そして、他の録内御書の写本と比較して最も御真筆に近いとされている。ちなみに同書によれば、日法所持の同写本は、奥書によって元徳3年(1321)と判明していることから、下山抄の片仮名本とほぼ時期が重なっている。
では、以下に下山抄と現存の御真筆の写本との際立った相違点について、例を挙げ、その理由を究明してみることにする。
まず第一に、次のような諸例が挙げられる。御書全集に「設い親父たれども一向小乗の寺に住する比丘比丘尼をば一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近せず何に況や其法を修行せんや大小兼行の寺は後心の菩薩なり」(0344-15)との御文があり、これに該当する個所は岡宮本では「設親父たれども、一向小乗の寺に住する四衆をば、一向大乗の寺の子息、是を不礼拝、何況其の法を行ぜんをや、大小兼行の寺は後心の菩薩也」となっている。
一方これに該当する御真蹟は「比丘比丘尼をば、一向大乗ノ寺の初心の者入ること許ず」となっている。岡宮本と御真蹟を比較してまず気付くことは、御真蹟の「比丘・比丘尼」が岡宮本では、これに在家の優婆塞・優婆夷をも加えた「四衆」となっていることである。
次に、御真蹟の「初心の者入ること許ず」とあるのが、岡宮本では「後心の菩薩也」と全く別の言葉になっている。なるほど「後身」と同音の「後心」に改め、更に「菩薩」の下に「ための(のもの)」という語を補って解釈するならば、意味は通ずるといえる。ほかの諸本では「後身」が「後心」となっている所以でもあろう。
更に、御真蹟にある「修行」の「修」字、及び「親近せず」の四文字が岡宮品では脱落していることも見逃せない。このような一見不注意による書き落しと見受けられる欠落部は、後述するように岡宮本には極めて多いのである。
次に、もう一つ例を挙げておく。御書全集の0346-05~07行目に該当する御真蹟は「後の五百餘年は権大乗経、所謂華厳・方等・深密・大日経・般若・観経・阿彌陀経等を、馬鳴菩薩・龍樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩・大論師弘通すべし。而に此等の阿羅漢竝大論師は」となっているが、岡宮本では「後の五百年には、権大乗の内花厳・方等・深蜜・般若・大日経・観経・阿みだ経等を、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩の大論師、弘通可と云々。此等の大論師は」となっている。
御真蹟においては四依の大菩薩として馬鳴より天親に至る人物が記されているのに対して、岡宮本ではこれに弥勒菩薩と文殊師子菩薩とが加えられている。また御真蹟に記されている「阿羅漢竝」の4文字が岡宮本では脱落していること、大日経と般若との順序が入れ代わっている等の違いが見られる。しかし、ここに指摘したいことは、これらの相違とは、単なる不注意によるミス、すなわち誤写の範囲を超えたものといわざるを得ないということである。
次に御書全集に「世間の法にも賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申す是なり」(0346-01)とあり、これに該当する個所は岡宮品では、高木氏の諸本解説によれば「世間の法ニモ賢人ハ二君に仕へす貞女ハ両夫ニ嫁かすと申是也」となっているのであるが、この部分をほぼ含んでいる御真蹟は「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず。賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申是也」となっている。
岡宮本が第二転の写本であったとするならば、この場合は岡宮本の基づいたものと写本の筆者、あるいは岡宮本の筆者が御真蹟の「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず」の部分を抹消して「世間の法にも」と書き改めたことになるであろう。なるほど岡宮本の表現でも意味は十分に通ずる。
しかしながら、大聖人の記された文字に対して、そのような大幅な書き換えを弟子がなし得るものであろうか。まして御真蹟と岡宮本を比較したときに、御真蹟の文章の方が適切な譬喩も用いられており明らかにわかりやすくなっているのである。言い換えるならば、文章としての完成度が高いのである。しかるに、せっかくわかりやすくなっている文章から譬喩を削って書き改める。そのような添削が弟子によってなされたとすれば、それは明らかに越権行為というべきである。
御正本を拝すると、本抄はできる限り平仮名を多く使うという方針が貫かれており、仏法用語に不慣れな人に対しても可能な限りわかりやすい文章に、という配慮が多分になされている。にもかかわらず岡宮本は、そうした大聖人の意図に逆行する表現をしているのであり、これは写本という制約をはるかに超えていたといわねばなるまい。これが、岡宮本が御正本からの転写本であったとする場合、たとえ重写本であっても、どうしても拭えない疑問である。
三、下書の可能性
これまで挙げた例からも十分にうかがえるように、日法所持の岡宮本や日澄本は現存する御真蹟との間に相当の相違がある。にもかかわらず、それなりに一貫した文章で書かれており、かなり周到に練り上げられたものといえる。したがって御真蹟と写本の隔たりを理由で、書写した人物の単純ミス、転写の過程で生じたあやまりにのみ、求めるのは無理ではないかと思われる。
では、御真蹟と写本の間に大きなズレが生じたのは一体いかなる理由によるものであろうか。これについて一つの仮説を立てれば、大聖人自身が書き換えられたことによると考えられないであろうか。すなわち、大聖人が下書きを用意されて、これに推敲を加えられて御正本を認められたという可能性はないであろうか。つまり、岡宮本や日澄本の古い写本は、実はその下書き本を筆写したものではないかといいう推察である。
こうして完成された御正本は下山兵庫のもとへ届けられ、大聖人の手元に残された下書をもとにして岡宮本や日澄本が成立したのではないかと推察される。しかし、これだけでは推測の域を出ない。そこで、これを一つの仮説として、様々な角度から検討してみることにしたい。
まず、この仮説に基づいて考えるならば、写本と御真蹟の間にかなりの差異があることも極めて自然なことであり、転写に際して生じた欠落と見えた部分も、実は欠落ではなく、逆に加筆された部分であったことになるのである。以下に、下山抄に下書があったとするこの仮説を検討していく。
四、御真蹟が浄書本の一部である可能性
前項で提示したように、大聖人が下書きを準備されたうえで本抄を著されたという説をとる場合、現存する御真筆は果たして草稿の方であったか、あるいは浄書本であったのかという問題が起きてくる。
本抄の御真筆における大きな特徴は、他の御書の御真筆と比較して、訂正や末梢、挿入等がほとんど見られないことである。わずか3文字を抹消した跡が1ヵ所残っているのみである。これは、例えば、大聖人自身の手によると思われる30余ヵ所にわたる補筆・訂正が施されている観心本尊抄に比べるとはるかに少ない。もちろん、本抄の御真筆は著しく断片化されているため、これだけでは即断できないが、おそらく現存する御真筆が浄書のように思われる。
本抄の御真筆には、もう一つ際立った特徴がある。それは振り仮名が多いということである。これが誰の手によるものであるか不明であるが、あるいは日興上人ではないかといわれている。この点について日亨上人は次のように述べられている。
「記憶がたしかではないが、下山抄の断編に、興尊が旁訓をつけられたのを見たことがある。大聖より興師の手に、興師より弟子の日永に下りしときの御親切である」
ただし、宮崎氏の論文「下山抄の御真蹟について」では、振り仮名が削り取られたり、墨抜きされたりした御真蹟断片は10にものぼるとしている。したがって現存する御真蹟には、振り仮名があったといえることから、それは同一の御正本の一部であると推定される。というのも、草稿に振り仮名がつけられたとは考えられないからである。
次に写本との異同に着目てし、下書き説の可能性を探ってみたい。これまでの考察により、大聖人が本抄御執筆のために下書を用意されたという仮説が必ずしも根拠のない説ではないことがほぼ承認されるであろう。しかし、更に幾つかの事例を通してこの仮説を検討してみたいと思う。
前述したように、本抄は日昭門流によって「異本これあり」と疑いの眼で見られてきた。下書き説を前提にすれば、そのようになった経過はおよそ次のようであったろう。
すなわち下書きの草稿を書写して成ったと推定される日澄本や岡宮本と御正本の間にはかなりのズレが生じ、しかも御正本は行方不明となり、後に各方面に分散した。このために、後代になって岡宮本の写本が御正本や御正本からの直写本に基づいて校訂しようという試みもなされたに違いないのであるが、完璧にそれを成し遂げることは誰にもできなかった。この故に校合の度合いによって、また写本の系統によって複雑な錯綜が生じたものと考えられる。
さて、そのような跡を残すと思われる典型的な例がある。それは前項の御書全集の「不正直の者となる、世間の法にも賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申す是なり」(0346-01)の個所である。
平賀本土寺所蔵の下山抄写本の該当個所は「不正直ノ行者トナルナリ、譬ヘハ一女カ二夫ヲ兼タルカ如シ我ニハ殺害ヲ招キ子息ハ父定ナシ、世間の法ニモ賢人ハ二君貞女ハ不嫁両夫ハ申ハニ是也」となっている。これは御真蹟に極めて近い。よって平賀本は、この部分に関していえば御真蹟による校合を経た写本か、あるいはかつて御正本からの筆写本が存在していて、その系統に属する写本といえるであろう。ただし、御真蹟と全く一致するわけではない。
比較のために御真蹟を再掲すると、「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず。賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申是也」となっており、平賀本では「家」を「我」に、「定ず」を「定ナシ」と改め、「と申」を「ハ申ハ」と誤写していることのほかに、御真蹟にない「世間ノ法ニモ」を「賢人ハ」の前に置いていることが御真蹟と異なる個所である。
さて平賀本によって御真蹟より前の部分を復元することができるであろうか。これは比較的難問である。まず昭和新定においては「世間の法にも…かねたるがごとし」と、御正本の原形を想定している。すなわち「世間の法にも」の語は、正本中にも存在し、そのあとに何らかの語句、ないし御文があって「かねたるがごとし」に続いたと解しているのである。
これまでに岡宮本と御真蹟とを比較対照した際の例としては、御真蹟にはあるのに岡宮本に欠落している部分がある、という場合が多かった。これまで挙げた「親近せず」、「阿羅漢並に」、「々を法花経」のほかにも「浅深徳道の有無」、「存外に」というような語句がその例である。しかし、その逆の例は、つまり岡宮本にあって御真蹟には見られないという語句は、前述の「弥勒菩薩・文殊師利菩薩」の例くらいしかないのである。
その故に、他例と照らし合わせて、岡宮本をはじめとする現存するほとんどの写本にある「世間の法にも」の語は御真蹟にもあったはずである。と平賀本の筆録者や昭和新定の編者が判断したのも無理なからぬことではある。しかし、「世間の法にも」とくれば岡宮本や平賀本の如く「と申すは是なり」と首尾呼応すべきところである。ところがその中間に「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず」と比喩表現が挿入されるとどうしても文章としては続かないなである。
ともかく岡宮本が現存の御真筆からの転写本であることを前提とし、その欠落部は書写の過程で生じたものであるとする見方に立つかぎり、この問題は解決できない。そこで、岡宮本は実は大聖人御自身による下書きの別本を筆写したとする見方をとれば、大聖人は下書きに記された「世間の法にも」という語にこだわられなかったのではないかと考えられるのである。というのも、これは「賢人は二君に仕えず」以下の語を引き出すための枕ことばに過ぎないからである。
大聖人は下書に基づいて「不正直の者となる」のところまで筆を進められたとき、ここで、よりわかりやすい譬えを挙げることを思いつかれ「譬へば一女が二夫をかねたるがごとし、家には殺害を招き子息は父定ず」の比喩を加えられたと推側される。これを挿入し、しかる後に再び下書きに立ち戻って「賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がすと申此也」と続けられたのではなかろうか。その際、新たな比喩を挿入された結果不要となった「世間の法にも」の語は捨てられたのではないかと愚考する。
上の考察結果によって正本を復元すると「不正直の者となるなり、譬へば一女が二夫をかねたるがごとし、家には殺害を招き子息は父定ず、賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がすと申此也」となる。さて上の考察結果が認められたとするならば、その前提としての、岡宮本は下書きの草稿からの写本であったという仮説が必ずしも突飛な考えとはいえないのではないかと思うものである。この点については、更に考察を続えていくことにしたい。
五、下書き説の検討
前項では、最古の写本と目されている日法本や日澄本が御正本の直書写ではなく、下書きの草稿、またはその写本を書写したものであろうという仮説を立て、それに基づいて各地に残っている断片の御真筆のおそらく浄書本の一部であろうと推測した。ここでは、この下書の説の検討を更に進めることにしたい。
さて、日蓮大聖人が下書を用意されたことは他に例のないことではない。これまでの御真蹟目録などから、御草案が存在していたと推定されているのは、浄書御真蹟の完本が現存する曾谷入道殿許御書(御草案の一部と思われる断簡が現存する)をはじめとして、治病抄・法華取要抄・強仁状御返事・顕謗法抄等がある。
現存する本抄の御真蹟も、下書きをもとに浄書された可能性について言及する理由のもう一つ挙げておこう。それは、御真蹟中にある「法華経」という語の位置である。本抄中には「法華経」及び「法華宗」という文字が80数個所にわたって用いられており、そのうち現存する御真蹟によってその記された位置が確認できるものは19例である。
この19例のうち実に13例において、「法華経」及び「法華宗」の文字が行頭に位置している。これは果たして偶然であろうか。
思うに、大聖人は、本抄の執筆にあたって、できるだけ「法華」の文字が行頭に置くよう意図されていたのではなかろうか。つまり本抄の御執筆にあたっては、それだけ細かい神経を払われていたことが拝せられるのである。とするならば、大聖人があらかじめ下書を用意されたことも決してありえない話ではない。
次に、御書全集に「今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、而るに余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか」(0346-12)の1節があるが、岡宮本はほぼこれと同じで、「今の時きは、世既に上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、而に余愚眼を以て此を見に、先相既に顕たるか歟」となっており、日蓮宗全書所収の録内御書・縮冊遺文・及び昭和定本も同じである。
これに対し昭和新定ではこの個所に大幅な加筆が施されている。すなわち上の該当部は「今の時は世すでに末法のはじめなり、釈尊の記文、多宝・十方の諸仏の証明に依て、五百塵点劫より一向に本門寿量品の肝心を修行し習い給へる上行菩薩等の御出現の時刻に相当れり、例せば寅の時間浮に日出で、午の時大海の潮減ず。盲人は見ずとも眼あらん人は疑ふべからず。而るに余愚眼を以てこれを見に先相すでにあらはれたる歟」となっており、赤文字部が新たに挿入されている。これは、日講の録内啓蒙巻32に異本ある御文として引かれており、昭和新修日蓮聖人遺文集もこれを踏襲している。
この御文については、後世の人が勝手に挿入したと考えられなくもないが、大聖人御自身が挿入されたと判断したものであろう。もしそうであるとすれば、おそらく、できる限りのわかりやすく、というお考えから、御正本の中にこうした挿入がなされたのであろう。岡宮本の「時剋」が一般の人によりなじみのある「時刻」に改められているが、これも今までに見られた傾向と共通するものである。
啓蒙というところの「異本」が、具体的にはいかなる写本を指すかは不明であるが、御抄本からの直写本に系統に属する写本、あるいは部分的にであれ御真筆との校合を経た写本がかつて存在していたのかも知れない。前述したように日好が録内扶老で11文字の御真筆断片を見たと記しているが、それも今日には伝わっていない。当然のことながら、時代をさかのぼればさかのぼるほど、数多くの御真筆断片が存在していたはずであるが、ただし、写本を作成する段階でそうした御真筆の断片との照合が行われた可能性は小さいはずではないか。
というのも、写本において御真筆との照合が行われたのは、御正本のほぼ全体が残されていた場合であり、本抄の場合は既に御真筆が断簡化し余りにも広く分散してしまっていたからである。
本抄の場合においては、明治35年(1902)に稲田海素氏が小川泰堂編の高祖遺文録を根底として、御真筆との対照校合を行って縮冊遺文を編纂した当時ですら、京都・妙満寺、同・本國寺、小湊・誕生寺にそれぞれ所蔵されている御真筆断簡のわずか3片が知られていただけに過ぎない。交通機関が十分に発達していなかった昔の時代では、たとえ御真筆の断片がどこかに所蔵されていても、そうした情報を多くの人が共有するまでにはいたらなかったであろうと思われる。
次に、御書全集の「大石を小船に載するが如し修行せば身は苦く暇は入りて験なく華のみ開きて菓なからん、故に教大師・像法の末に出現して」(0347-02)の部分に関してであるが、岡宮本では「大石を小船に載るが如し。修行せば、身は苦く暇は入りて無験、花のみ開て無菓。故に教大師」となっており、一方、御真蹟では「大石を小船に載セたり。偶々修行せば身は苦シク暇は入リて験なく、花のみ開キて菓なく、雷のみ鳴テ雨下ラじ。故に教大師」となっている。この青文字「雷のみ鳴雨下じ」は先の例と同じく、大聖人御自身が御草案に加筆されたものとも考えられる。
以上、大聖人御自身の手になる本抄の御草案がかって存在した可能性について検討してみたが、本抄の場合、各書写本間の異同の厳密な考証、中世に成立した録内御書写本と御真筆との対照、あるいは現存する御真筆そのものの克明な考察など残された課題は少なくない。
例えば、御真筆における振り仮名の削除についても、御真筆の断片によっては研究者の見解が分かれているものもある。渡辺氏所蔵の「を糾明せられしに…澄公の一言に」の三行断片は、立正安国会編の日蓮大聖人御真蹟対照録中巻では“降り仮名削除”としているが、宮崎英修氏は全掲論文「下山抄の御真蹟について」でそのように扱っていない。
また、「三蔵・金剛智…雨を下ラシて」六行断片については、逆に宮崎氏のみが振り仮名ありとしている。この二例以外で見解が分かれているものは、一行の断片二葉であり、この場合は、もともと平仮名がなかったが、あるいは一行に切り取られる過程で平仮名が脱落した可能性もあるので、ここでは先の三行と六行の断片について触れておきたい。
さて、前項では下書の御草案があったと仮定し、振り仮名のある御真筆は浄書本の断片であろうと推察してきたのであるが、上の二つの断片と日法本及び日澄本の該当個所を比べてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。
まず、はじめに三行の断片は前項でも取り上げたように、御真筆は次のようになっている。
「を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過々々の由立テ申されしかども澄公の一言に」
これに対し、日法本では「を糾明せられしに、各宗々毎に、我宗は一代超過の由各々立申されしかども、教大師の一言に」となっている。前項で見たように澄本もほぼ日法本と変わらない。
これらの御真筆と写本との際立った相違から写本は下書きをしたものとする仮説を立てたのであるが、この仮説に基づけば、この御真筆の断簡は御草稿ではなく浄書本の一部であり、仮名が振れられていたのであるとの推測が成り立つ。故に、振り仮名がない場合は、前に削除されたとする対照録の見解と一致する。
一方、六行の断片の御真蹟は「三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時、小雨は下たりしかども三師ともに大風連々と吹て勅師つきてをはれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下て」となっている。これに対いて日法本では「三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時、小雨は為下、三師共に大風連々と吹て、勅旨を付けて追れし浅染と、天台大師・伝教大師の須臾と三日之間に帝釈雨を下して」となっており、漢文風に書き改められていること、同音異字を除けばほとんど同一であるといえる。
また、日法本及び日澄本と校合して編纂した縮冊遺文や日蓮宗全書収録の下山抄でも、この御文の個所は御真蹟とほとんど変わらないことから日澄本も同一であったと思われる。
先に私たちは、これら日法本や日澄本は浄書本の方ではなく、別の下書きを底本として書写したものではないかと推察した。ただし浄書と下書きが一致することは珍しくない。下書きの草稿の完成度が高ければ、当然、量的にもその方が多くなる。
このことを踏まえると、上の六行の御真蹟断片には、次の二とおりのケースしかない。一つは、御草稿の一部であるが浄書で訂正を加えられなかった場合であり、もう一つは浄書の一部である場合である。そして前者のケースでは振り仮名はなく、後者のケースでは振り仮名があるという推定が成り立つのである。
故に、対抄録の見解に従ってもしこの六行の断簡が振り仮名を削除したものではないとすれば、この断簡は現存するほとんどの唯一の御草稿断片であると考えられるのである。しかし、前項で述べたように、本抄の数多い御真筆の中で大聖人による御訂正はただ一ヵ所しか見られないのであるが、その唯一の訂正個所を含む六行がこの断簡なのである。
振り仮名の残っている御真筆を拝する限り、実に丁寧に振り仮名が振られており、六行もの長さにわたって振り仮名をつけ忘れたり、手を抜くというのは考えられないことである。そこから、この六行の断片に関しては、下書の可能性が高いといえるのである。
最後に大石寺所蔵の五行の断片があり、日蓮大聖人真蹟集成第九巻に付す山中喜八氏の」解説には次のように記されている。
「善護等謝差勅使表の文を抄出した五行断片。この断片は、その筆蹟並びに一度ほどこした振り仮名を再び削り去った痕跡をみることによって推考すると『下山御消息』の一部かと思われる」
その断簡の全文は次の通りである。
「惣括釈迦一代之教悉顕其趣無所不通独逾諸宗殊示一道。又云、其中所説甚深妙理。七箇大寺六宗学生昔所来未聞曾所未見。三論法相久年之諍渙焉水」
ところが、この文は、下山抄には引用されていないし、写本にも見当たらない。下山抄に善議等14人の謝表の文として引かれているのは、この文の少し後に続く個所である。すなわち、創価学会版御書全集でいうと0345-12行目の「此界の含霊而今而後悉く妙円の船に載り早く彼岸に済ることを得」の文である。
下書の説に立って推側すれば、御草案にあった文に更に引用文を増して書き加えられたが、あるいは引用文を変えられたと考えられなくもないが、やや無理があるのではないかと思われる。
現行の御書で、この文が引用されているのは、撰時抄と釈迦一代五時継図の二書のみである。このうち後者は御真筆が現存せず、御述作年代もはっきりしていないが、前者はほぼ完全な形で御真筆が今日に伝わっており、該当の文も含まれている。すなわち、三島市玉沢・妙法華寺に所蔵される第三巻の第9紙に全く同一の文がある。
妙法華寺に所蔵される撰時抄の御真筆は、大聖人による推敲の跡が著しく、おそらく御草案であろうと推定されている。もちろん振り仮名はつけられていない。そして、身延における御真蹟目録の身延山久遠寺御霊宝記録によって撰時抄の前半にあたる53紙がかって存在していたことが確認できることから、浄書本に当たる御抄本の前半は身延に存し、明治8年(1875)の大火で焼失したものと考えられる。ただし、これについては疑問がないわけではない。
例えば、報恩抄も日乾の目録によると身延に所蔵されていたが、日乾以後に身延所蔵の同抄の一部が流出していたため明治の大火による焼失を幸いにも免れているのである。このような例があることからも、目録に載せられているからといって、それがすべて完全な形で明治の大火まで身延にあったと必ずしも断定できないからである。
つまり、大石寺所蔵の五行の御真筆は、想像をたくましくすれば、かつて身延にあったと推定される撰時抄の浄書本の一部であることも十分考えられるのであり、釈迦一代五時継図の一部であるかも知れない。それは何ともいえないのであるが、それらの可能性と比較するならば、現実に対応する文が下山抄のどの写本にもないのであるから、下山抄の一部である可能性は少ないと考えるべきではないであろうか。
このように、御真筆についても更に厳密な研究が要求されるものであり、大聖人の御文における文献学的・書誌学的な研究に進むにつれて、新たに解明される問題もあるに違いないと思われる。本稿の仮説は、その意味で必ずしも十分ではないが、一つの問題提起として可能性を検討したものであり、決してこれに固執するものではない。いずれにしても、本抄が十分に推敲を重ねたうえで著されたことは疑いのないことであり、心して大聖人の大慈悲を拝するとともに、本抄にとどめられた大聖人の御真意をかりそめにも損ねるようなことがあってはなるまい。
六、改竄説への批判
最後に本節の結びとして、浅井要麟氏のいう「教義法門の綱格」にかかわる問題に触れておかなければなるまい。それは日昭門流のいう「聖人の御詞にあらざる」改竄の語が本抄の中に紛れ込んでいるか否かという問題である。
もとより、日昭門流の言い分は、ほとんど言い掛かりに等しいといっても過言ではない。なぜならば、教学上の綱格にかかわる問題とは具体的には「教主釈尊より大事なる行者」(0363-01)との語句を大聖人御自身が記されたのか、否か、という点に集約されるであろうが、この御文は岡宮本には「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の以第五巻日蓮之面を打て」とあり、また日澄本にも「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五ノ巻を以て日蓮が頭を打チ」と明確にあることから、これが改竄・付加されたものと推測することは困難である。
なぜならば、日澄本と日法本に共に「教主釈尊より大事なる行者」と記されていることは、もし改竄があったとすれば、それ以前にさかのぼる。
改竄は富士門流にとるものと暗示しているわけであるから、日澄本のもとになった写本に改竄があったことになる。この場合、日法本の底本が日澄のそれと同じか否かはここでは問題外である。また、もととなった底本が御正本であれば、改竄説が成り立たないことは断るまでもない。
富士門流の人による写本のなかで、寂日房日澄師に先立つのは、日興上人、及び日興上人の直弟子に限られており、大聖人御在世当時、あるいは御入滅後間もない時代に、富士門流の教学的立場を意識して改竄がなされたとはおよそ考えられないことである。なぜならは、六老僧の中で日興上人のみが大聖人の正義を守り、御書の収録に努め、後世に正しく伝えようとあれたのである。
そもそも改竄が必要なのは、大聖人の御書をありのままに残しては、自分たちの立場が危うくなる立場であろう。しかるに、日興上人ほど大聖人の御書を大事にされ、それを後世に残そうとされた御弟子はいなかったのである。であればこそ、日興上人は日興遺誡置文で「一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事」(1617-07)「一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事」(1617-08)と戒められたのである。
日興上人、およびその直弟子達が大聖人の御書をわざわざ改竄する必要などどこにもなかった。それどころか日興上人は、他門流によって御書を改竄されたり、御書を偽書よばわりされることを危惧されていたのである。そして、まさに日興上人が仰せのように、御真筆が伝えられないことをいいことに多くの御書が偽書扱いされていることは周知のとおりである。改竄説もそのひとつであるといってよい。
いずれにしても、本抄の教主釈尊より大事なる行者」(0363-01)との表現を改竄とする説にはなんの根拠も証拠もないのであって、釈尊を三宝のうちの仏宝、大聖人を僧宝とする自分たちの教義にとって都合が悪いという理由によってだされたものに過ぎない。
第三節 下山兵庫五郎光基と因幡房日永について
本抄は、日蓮大聖人が門下になって間もない因幡房という一人の僧のために、彼に代わって筆を執られた下山兵庫宛の御消息文である。したがって、本抄に込められた大聖人の御深意を拝するためには、因幡房と下山兵庫の関係を把握することがその前提となろう。
ことに大聖人は、対告衆によって、文体や表現等に細かい御配慮をされるのが常である。まして自分秩序の重んじられる封建時代社会状況の中での御執筆であるから、言葉遣いも、細かい気を配られることはいうまでもない。故に、本節においても相当のスペースを割いて、また可能な限りの史料を駆使して下山兵庫五郎光基と因幡房日永との関係について論究してみたい。
一、近年における通説との問題点
まず、近代における大聖人の御遺文研究の魁となった高祖遺文録を慶応元年(1865)に完成させた小川泰三は本抄の解説において「此章ハ大士因幡房日永ニ代テ其父下山兵庫助光基ノ為ニ記シタル書ニテ頼基ト一例也」と述べ、下山兵庫を因幡房を父と見る親子説をとっている。
因幡房と下山兵庫との関係をより具体的にうかがわせる資料としては、本抄の冒頭に引かれた下山兵庫からの書状の一節が挙げられている。すなわち「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まる可きか等云云此の事は仰せ候はぬ已前より親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」(0343-01)との一文である。
これに関連して高田恵忍氏は、日蓮大聖人御遺文全集講義第19巻所収下山抄の序講において「『親父代官云云』、『父母の御為』等の文に拠れば、下山殿の子とするのが妥当と思ふ」と述べている。すなわち同氏はこれを、同氏が親子の関係であったことの裏付けになるとしている。
更にこれを受けた浅井要麟氏は、日蓮聖人御遺文講義第10巻所収の下山御消息解題において録内啓蒙の説を批判して「『親父の代官といひ』を『下山殿に仕へた親父の代理としても』と解釈した結果であらうが、この文は『父上あなたの代理としても』と解すべきであらう」と述べて親子説をとっている。ただしこの録内啓蒙の解釈については後述したいと思う。いずれにしても、この親子説に対する反論らしきものは見られず、ずっと通説になってきた。
ただし、今日では通説となっているこの親子説にしても、あるいは因幡房の父が光基の家臣であったとする主従説にしても、厳密な考証を経て主張されたものかというと必ずしもそうとは言えない面がある。それは主に史料の制約によるものと思われるが、本稿ではまず可能な限り史料にあたって、光基と因幡房の関係に改めて光を当ててみたいと思う。
そして、そこでこの問題点を摘出するとともに、親子説がどのような経過をたどって通説となってきたかをたどってみることにする。そのうえで改めて、本抄の内容に即しつつ、親子説の妥当性、あるいは主従説の可能性について検討を加えることにしたい。
二、親子説の再検討 日興上人時代の史料を中心として
下山御消息の御述作の由来についての最古の記述としては、既に触れた富士一跡門徒存知の事がある。これは、延慶2年(1309)、寂仙房日澄師の手になり、日興上人の名をもって述作されたものである。
その「聖人御書の事 付けたり十一ケ条」のうち第五条に「甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以て遣さる、正本の在所を知らず」(1605-03)と記されている。
上の文から、本抄の対告衆が下山兵庫光基であったこと、そして因幡房日永がこの光基から勘気を蒙った際、大聖人が因幡房に代わって自ら筆を執られた書であることが分かる。ここには光基と因幡房との関係が直接的には記されていないが、光基は自家の氏寺の住僧であった因幡房を「追い出」したことから判断すると、因幡房にとっては光基は決定的な権力をもっていた人物であったことはたしかであろう。
次に、下山兵庫五郎光基のその後の消息を知るための手掛かりにもなるとして、日興上人による御本尊の脇書きがある。すなわち日興上人の門下に下山又四郎義宗なる人物がいて、正中2年(1325)、日興上人はこの義宗に御本尊を授与されている。そして、この御本尊はその父親である下山五郎光基の33回忌に認められたものであったという。なお、この御本尊は現在、島根県の妙伝持に所蔵されている。
したがって、この正中2年(1325)から逆算することによって、永仁元年(1293)が光基の没年であることが知られている。
次に因幡房日永に関するもうひとつの史料として、日興上人が永仁6年(1298)に記された弟子分本尊目録が挙げられる。ここには「甲斐の国下山因幡房は日興が弟子なり仍て与え申す所件の如し、但し今は背き了んぬ」と記されている。
したがって、これらの事実から、日永と又四郎義宗とが同一人物たりえないことが明らかになる。なぜなら、かって大聖人より日号、及び御直筆の御本尊を賜りながら、俗名に戻って日興上人から御本尊を授与されることはまずありえないし、しかも永仁6年(1298)に今は背き了ぬ」と記された人物に、正中2年(1325)に御本尊を授与されることはありえないからである。
次に、これよりやや後の史料としては、貞和4年(1348)に行われた富士門徒日寿と日朗門流の日学との間の問答をもとに重須談所の第二代学頭であった三位日順師の著した摧邪立正抄がある。同抄には、次のように述べられている。
「甲州・下山・若宮の内に一宇の堂を建て平泉寺と号す、時に下山五郎光基の所領なり、住僧有り、日永と名づく身延に詣でて法華に帰するの刻み地頭より問状を遣わす。返報は大聖の御筆なり、仍て所の名に寄せて下山抄と呼ぶ、法体に准ずれば顕本抄と号す」と。
日順師は摧邪立正抄執筆当時、下山の大沢に隠居しており、下山の地理等には詳しかったであろう。その日順師も地頭の下山兵庫五郎と因幡房日永との結縁関係については特に触れていない。つまり摧邪立正抄からは光基と因幡房との間の親子関係は浮かび上がってこない。もちろんだからといって親子関係を否定することはできない。
次に、下山の地にゆかりのある重要人物として挙げなければならないのが、下山左衛門四郎光長の名である。富士一跡門徒存知の事において、日興上人自身の手によって延慶3年(1310)に追加された8箇条の一つに「甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す」(1608-15)とあり、また弟子分本尊目録には「一、甲斐の国下山左衛門四郎は因幡房が弟子なり仍って日興之を与え申す。但し聖人御入滅後に背き畢ぬ」と記されている。同じ日興上人の筆による上の二つの史料中「左衛門四郎光長」と「下山左衛門四郎」とが同一人物であることは論をまたない。
この左衛門四郎光長と、前述の下山兵庫五郎光基の子息・又四郎義宗との関係はどうか。この二人を同一人物とする向きもあるが、一方は光長、もう一方は義宗であり、元服や入道による改名の場合を除いて、同一人物が全く別の呼称を用いることは考えられず、また前述したように「聖人御入滅後背き畢ぬ」とされた光長に日興上人が再び御本尊を授与されたことはありえないから、両者は明らかに別人である。
さてここで、この左衛門四郎光長と兵庫五郎光基との関係について考えると、兵庫五郎光基が下山の地頭であったことは摧邪立正抄に記されており、一方、富士一跡門徒存知の事には左衛門四郎光基が下山郷の地頭であったと記されている。両者が共に下山郷の地頭であったことのほかに、両者は共に因幡房と信仰面において重要な関係を有していたという点において共通点がある。つまり、因幡房は、光基にとって氏寺平泉寺の住僧であり、光長にとっては大聖人の門下となった時の師であった。しかのみならず、両者の名には共に光の名がついている。
このように見てみると、光基と光長とは少なくとも同族の結縁者であったと思われる。そして、親子であったとする可能性も十分に考えられるのである。また、陰山荒雄氏が想定されたように、光基の次の代の地頭が光長であったという可能性も極めて高いと思われる。
さて光長は光基の実子であったと仮定すると、前述べした、光基の33回忌に日興上人より御本尊を授与された光基の子息・又四郎義宗は、光長とは兄弟であったということになる。
さて、光基の命日は永仁元年(1293)11月11日ということになっている。そして前掲富士一跡門徒存知の事の続きに「而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る」(1608-16)とある記述によって、その跡を継いで地頭の地位を継承した光長は、光基の死後、時をへずして新堂の造立を行ったことが知られる。新堂造立の数年後の正安2年(1300)に民部日向によって開眼供養の義が行われたのであるが、その際に日澄師はそれまで師としていた日向と絶縁して日興上人に帰伏した。このころにはすでに日向に従った光長と日興上人に従った又四郎義宗との間にも、当然、溝が生じたのではないかと推測される。
やがて、正中2年(1325)に光基の33回忌の法要が執り行われ、大聖人の御命日という10月13日の意義深い日に又四郎を願主として日興上人より光基追善のため御本尊が授与されたのである。
ところで本抄の御正本は、光基の死去より16年後の延慶2年(1309)の時点では既にその行方が不明となっていた。もしも日興上人に従った又四郎義宗が光基より直接家督を相続したのであればこういう事態は避けられたかも知れない。このことから左衛門四郎の時期にいずれかに持ち出されたものと考えられるのである。
なお、御正本持ち出しには光永の師であった因幡房が関与していたとも考えられる。
以上の考察により、下山郷の地頭であった兵庫五郎光基の直接の家督相続者は左衛門四郎光長であって、光長が光基の実子であったと思われる。もし通説によって、因幡房も光基の子であったとすると、因幡房と左衛門光長は兄弟であったということになる。これを裏返していうと、もし因幡房と光長との間に兄弟という結縁がなかったとするなら、因幡房を光基の子とするこれまでの通説は再検討の余地があるということになろう。
しかし、先に引いた日興上人の弟子分本尊目録には「左衛門四郎は因幡房の弟子なり」と、その師弟関係についてのみ記されており、血縁には触れられていない。もちろん、兄弟でかつ師弟の関係にあったとも考えられなくもないから、このことから直ちに両人における血縁関係を否定することはできない。
また、門徒存知事によれば、左衛門四郎光長は大聖人御在世当時には大聖人の門下になっていた。先の「左衛門四郎は因幡房の弟子なり」との文から、光長は因幡房の折伏によって帰依したものと推察される。光長の入信は、因幡房の御勘気の以前であったであろうか、それとも以後であったろうか。もし以前であったとすれば、因幡房の折伏によって光長までが入信を始めたことから、光基はただならぬ事態に傍観できずに、さっそく因幡房の影響を排除しようとして彼を追い出しにかかったと考えられる。
その場合、もし因幡房と光長が兄弟であったとすれば、因幡房が光基より勘気を被った際、光長一人がかやの外にあったとは思えない。やはり二人は同罪であったろう。しかしながら、本抄の文面からはそのような事実はうかがえない。
あるいは、光基と光長の二人は下山抄を受け、因幡房の勧めによって相前後して入信したものであろうか。その辺の経緯は不明であり、特に光基はその後の消息がはっきりしていない。
いずれにしても、因幡房と左衛門四郎光長とが兄弟であったか否かについては、上に見たように史料の上からは明確にすることはできない。このような意味で光長が光基の実子であると仮定した時、因幡房と光長との兄弟関係が立証できなければ、光基と因幡房の親子関係についても立証することは困難であるといえるのである。
光基の33回忌の時点では、その子息又四郎が日興上人の弟子の立場を貫いており、またそれよりはるか以前に光長と因幡房は日興上人に背いて日向の弟子となっていたこと、その間に本抄の御正本が日興上人の側にとっては行方不明となっていたこと、おそらくこれは、光長・因幡房とむすびついた日向が、これを手に入れたのであろうと思われる。
これらの事実を総合するならば、地頭下山兵庫五郎光基の直接の後継者は光長であったと見られ、両者が親子であった可能性もかなり大きいのではないかと思われるが、断定はできない。そして、少なくとも以上の推測を否定する根拠となる史料は知られていないのである。
ところで、文明10年(1478)に書かれた行学院日朝の元祖化導記下には「或記に云く、弘安五壬午九月八日の剋身延の沢を出御有りて、其の日は下山兵衛四郎の所に「宿」とある。上文中の下山兵衛四郎というのは、おそらく兵庫五郎の名と左衛門四郎の名が混合したものと思われる。そのいずれが正しいかは判断できないが、その後、円明院日澄が著した日蓮聖人註画讃には「身延の沢を出でて下山に宿し」とあり、下山とのみ記している。
また、天明元年(1781)に刊行された本化高祖年譜では元祖化導記を踏襲し、「下山四郎に投宿す」とし、「下山四郎、具には兵庫四郎と曰ふ」と述べるとともに、他の伝記に「下山兵庫」とあることを記している。その一例を挙げれば、六牙院日潮が享保15年(1730)に著した本化別頭祖統記には「身延を発し、下山兵庫が館に舎す」とある。なお同書では下山抄を受けて兵庫五郎光基が大聖人に帰依したとしている。
三、親子説通説化の過程 16~18世紀の史料による
これまでの考察により、下山五郎光基と因幡房日永とが親子であるという通説が史料の上からは必ずしも決定的とは言えず、そこは再検討の余地があることが知られよう。にもかかわらず、これが今日まで、ほとんど通説となってきたのである。そこで、この親子説が形成され、これが通説となった過程を跡づける必要がある。
まず、永正3年(1506)に著された弘教寺日犍の御書鈔には、下山の題下に次のように記されている。
「是は初めつかたの御文章に意を得難し。此の下山と云う処は身延より五十町艮へ下って之有り、甲斐の国の中なり。此の在処地頭を下山殿と云ふ。今は皆信者なるが、其の時分は謗者なり。此の人の子に因幡殿と云ひて出家之有り。身延に参って聖人の御座ある体を拝見申し、又御法門を聴聞して信伏せられたり。而れども親には其の旨を何にも隠し居られたり。去る程に其の親が今の子を折檻せられたり。其の言に何としたる事ぞ、此の間の体は例時の阿弥陀経をも読まざる曲事なり』と云云。事の次でも父を教化せん為に高祖へ申して御書を書せ参せ。我が教訓伏にせられたり。去る程に、御抄は大聖の御作文の主は今の法師の親の方へ捧る状也、さてこそ下山抄と名づくる事聞きたり」
これは、本抄の冒頭に「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まざる可きか等云云」と仰せられた一節の注解として記された文章のようであるが、今日の版本ではその前の題下の方に移されて本抄の総説として扱われている。ともあれ、これが、親子説を立てている。今日我々の確認することのできる最初の史料である。
これに対して、その約200年後の元禄8年(1269)に完成した不受不施派の安国院日講の録内啓蒙には要行因日統著の日統抄の文として次のようにある。
「下山殿の御内に奉公せし人の子に因幡房と云える出家これあり、其の親父奉行の恩に下山殿より屋鋪の内の堂を給はりしに、因幡房を其の堂の別当のやうにしておかれし処に、因幡房吾祖の法門を信ぜしに依りて例時の阿弥陀経をよまず。これに依りて下山より御とがめありしかば、聖人へ申して御書を書かせまいらせ、我が状のやうにして下山殿へまいらせられたり」
上の文は常寂院日芳の手になる本抄の端書の意を略述した文章であるという。ここには下山兵庫五郎と因幡房の父とが主従という関係にあったことが記されている。これは健抄とは真っ向から対立する説である。
更にまた録内啓蒙には、平賀本土寺七世日意の御書端書にあるとして次の一文が引かれている。
「下山殿は下山兵庫助光基と申す人なり。下山郷の内、平泉寺と云う処に因幡房を別当としておかれたり。本は天台宗なりしが、吾祖へ帰伏し、祖師の御書をかかせまいらせ自身作文のやうにして下山殿にまいらせたり。
この文には、光基と因幡房とが親子関係にあったとは全く述べていない。日意もまた必ずしも親子説を決定的とは認めていなかったのかも知れない。
録内啓蒙では、以上のように健抄、日統抄及び平左賀日意の御書瑞書を引用した後で「『親父代官』の言に依るに、尤も統抄の義を以て正とすべし」と、下山兵庫五郎と因幡房の父とが君臣の関係にったとする日統の義が正しいと考えられる、と記しているのである。
なお、上文中の「『親父代官』の言」とは本抄冒頭部の「親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」の一節を指している。この御文の解釈としては、影山英雄氏が「父の代官も因幡房自身も、この四五年が間怠りなく阿弥陀経を読んで居た」としているが一見最も自然なように思われる。
しかし影山氏は親子説を前提としており、同氏のいう「父の代官」とは「父下山兵庫の代官であるところの人物」を意味していることになる。
これに対して、既に述べたように因幡房の父が下山兵庫五郎でなかったとするならば、「親父の代官」とは因幡房の父親が代官であったことをしめすことになるであろう。この時代のようほうとしては、代官とは必ずしも近世のそれの如く公的に任命された代官を意味するのではなかった。したがって、その場合、因幡房の父親は下山兵庫五郎の家臣であったと思われる。
以上の考察から、次のことが確認できるであろう。すなわち健抄の記された16世紀当初までに親子説が成立していたことは事実であるが、平賀日意や寂日院日房の御書瑞書、更には日統抄や録内啓蒙では別の説をとっており、16~17世紀半ばにおいては、親子説はいまだ定説にはなっていなかったのである。
次に18世紀に記された注釈として、享保13年(1728)禅智院日好の手に成った録内扶養がある。その本抄末段の「併父母御為候」の注釈に「次下の君父諌争の事、又『是は親の為に読み進せ候はぬ』の文等に準ずる因幡公此の書を以て親父を諌む書なるべし。の義然るべきか。故に日統抄は此等の文に疎遠たり。若し爾らば下山殿直に因幡公の神父なるべし、若し然らざれば『父母の御為』の文消し難し」とあり、日好は親子説をとっている。
上の文によれば、彼は日統抄を見ていたのであるが、その見解と対立を否定していることがうかがえる。ただし、その対立は主として本抄の本文の解釈上の相違に基づいていたのである。したがって、親子説にしても主従説にしても、いずれもそれを裏付ける決定的な史料というものではなかったといえるであろう。あるいは、この録内扶養の著された18世紀の頃には、親子説が定説化への方向へ傾いていたのであろうか。そして、やがてこれが19世紀の小川泰道氏へと受け継がれていったのであろうか。
四、親子説の通説化への過程 18~20世紀
前項で検討したように、下山兵庫五郎と因幡房を親子とする説は少なくとも17世紀前半頃までには主流を占める説ではなかったが、あるいは18世紀頃から定説化していったのではないかと推測してみた。そこで今度は一転して、親子説が完全に定説化した昭和の時代まで下ってみる。
下山家の家系と因幡房及び光基が入信に至った経過について比較的詳細に記したものとしては、昭和9年(1934)南巨摩郡連合教育会が発行した南巨摩郡郷土史概要に次のようにある。「後深草帝建長年間に、甲斐源氏加賀美次郎遠光の男、秋元太郎光朝の二男、下山小太郎光重が、下山領主として居住した。光重の男、下山兵庫光基は盛名があった。
現本国寺、下山小学校一帯の地域は、下山氏の居館の在ったところだと謂はれている。
光基は館の傍に平泉寺といふ寺を建立して、真言宗を信仰した。一族皆競って之にならった。光基の子四郎は幼少の頃から出塵の志厚く、入道して因幡房と称した。京都に上り、或は比叡山に或は高野山に登って修行した。晩年下山に帰って父の代官となった。
たまたまかっての法友最蓮上人の指導によって、日蓮に見参し、慈教を得て日蓮に帰依した。父光基は之を喜ばなかった。父子宗旨を異にして争った。日蓮は四郎に代わって『下山御消息』をものして光基に送った。光基は之をみて忽ち日蓮に帰依した。時は後宇多帝建治三年。光基が得度染衣して名を法持房日房と称し、因幡房も亦日永と与えられた。而して平泉寺を長栄山本国寺と改称し、最蓮上人を開基とした。
下山氏は四郎でその家族は絶えてゐる」
ここでは、平泉寺を真言宗の寺としたり、入道と出家のとの用語上の誤りがあったり、因幡房日永と左衛門四郎光長とを同一人物としたり、また下山兵庫五郎光基は出家も入道もしていなかったはずであるのに得度して法持房日芳と称したり等々、史実を伝える史料として見るなら、誤りだらけの使用に耐えない。ただ、上の記述は俗説がどのように形成され、あるいは継承されたかということを研究するうえにおいては、かえって貴重な「史料」となる。
ところで、上文の典拠については、何ら記載がないのであるが、その主として拠ったところは下山本国寺の寺記、並びに甲斐国志であったと思われる。このうち寺記をまず挙げれば、日蓮宗大観に下山本国寺の由緒沿革として次のように記されている。
「長栄寺と号して、開山最蓮房日浄上人の旧跡たり、開基因幡房日栄は巴主下山兵庫輔光基の子、下山入道入道にして開祖の叡山修学の砌り旧知の人、初め文応二年光基館の傍に一宇を創し平泉寺と称し、弥陀を安置し因幡房に法華経を読ましむ、会々文永十二年の春の末、最蓮房上人、身延の宗祖に奉持せんと光基の館に泊し、因幡房と共に御草庵に宗祖を拝す。信根忽ち発し帰来弥陀経を捨てゝ専ら妙経を読む。父懌ばず、因幡房之を宗祖に謀る。大聖人為めに宗教一策を著す、建治三年六月朔日の『下山御消息』これなり。光基拝読旧習霧散し、自ら身延に詣でゝ受戒得度す。法重房日芳是なり、因幡房は日栄と云う、共に宗祖の賜う所なり…大聖人滅後、最蓮上人は、聖廟参拝を朔日課とし、身延寺平搭林を建つ、実行山本因寺と云う。…天正七年三月十八日、本因寺を当山に合し、現地に復帰し輪奐悉く具はる。然も再三祝融等の災あり」
この史料も、因幡房日永を日栄としたり、因幡房を大聖人を旧知であったとしたり、光基が得度して法重房日芳となったりしたり、実子山本因寺を実行山本因寺としたり、誤りが多い。日永→日栄、法持房→法重房、実子山→実行山、というような同音または類似音による書き換えの例が多くあるのは、口承による伝承が多く拠ったためと考えられる。
また先の寺記中で因幡房を下山次郎入道としているのは、伊予守松平定能の編纂になる甲斐国志巻116、土庶部15所の東鑑の文歴2年(1253)の項に現れる「下山次郎入道」の項に現れる「下山次郎入道」と強引に結び付けようとしたものと思われる。その故に巨摩郡郷土史概要において、因幡房が「出家して」とすべきところを「入道して」と記したのであろう。
次に同じ甲斐国志の下山小太郎光重の項には次のようにある。
「年譜に、下山の巴主兵庫光基受戒。同攷界に兵庫光基は諸書に攷す可きものなし。又曰ふ、因幡受戒して日永と号す。或は云う光基の子或は云ふ、光基に奉事する者の子」
上文中の年譜よは、先に引いた本化高祖年譜のことであり、日諦・日耆の共著で安永8年(1779)に成立し、その2年後に発刊された。干本一巻と政異三巻とから成る。この高祖年譜では健抄の親子説と因幡房が父の家臣であったとする統抄の主従説と併記していることがある。そお時点では、親子説がまだ完全には定説化していなかったとみるべきであろう。とするならば、定説化への傾向は18世紀末から19世紀にかけのことではないだろうか。
五、最蓮房との関係の有無について
これまでの考察から下山兵庫と因幡房が親子であるとする説は、16世紀頃には成立し、18世紀末から19世紀にかけて通説化へと傾向をたどっていったことが理解されると思う。
そこで本項からは、これまでに検討し残してきた問題、すなわち本国寺寺記に三開祖として名を連ねる因幡房・光基・最蓮房のうち前二者と最蓮房との関係について論究しておかねばならない。
甲斐国志87の仏寺部第15の長栄山本国寺の項によれば、次のようにある。
「開山は最蓮房日浄、高祖年譜に云ふ。文永九壬申年二月朔、台徒最蓮来り門人と為る。是を日浄す。建治元乙亥年最蓮先に已に罪に坐し左州に謫せらる。赦に値て来り乃ち廬を下山に締ぶ。身延山に隣る。常に大士の事ふることを為す。攷異に云う。日浄は或は日栄に作る。字は最蓮。洛の人に曰く、駿の人と。台家一時の俊なり。故有りて佐渡に配さる。文永九壬申大士に見えて門人と為る。建治元年赦に逢甲に如く。大士に事ふる事本文の如し。延慶元年四月十八日化す。遺文中書九本を賜ふ…建治三年下山の邑主兵庫光基嘗て団焦を造りて弥陀の像を安ず。僧を講じて弥陀経を読ましむ。経僧因幡房陰かに大士帰す。故に唯妙経を読む。兵庫懌ばず。因幡之を諭さんと欲して大士に謀る。大士之が為に宗教一策を著す。六月朔書成る。兵庫一たび萬目して油然として信発し、自ら来たりて戒を受く。寺記に云ふ、兵庫助光基日蓮に帰依して己が家を寺とす。当寺即ち是れなり。法名は日芳、弘安六年三月三日卒す。因幡房は日栄と名づく、日浄を以て開基とせり」
この甲斐国志の記述が高祖年譜及び当時の本国寺寺記を典拠としたものであることは明らかである。ところで、ここでは光基と因幡房と親子関係にあったとはしていない。甲斐国志編纂時における寺記と今日見られる寺記との間には、内容的にある程度違いがあったとも考えられる。あるいは、史料編纂に手なれた甲斐国志編者はこの点について慎重を期したのかもしれない。
さて、上の文中で、最蓮房日浄の死去を延慶元年(1308)4月18日としており、このことは下山本国寺の墓銘に刻まれている。しかし、光基の死去は、前述のように、永仁元年(1293)であり、その33回忌に子息又四郎義宗が日興上人より賜った御本尊には、光基という俗明が記されていたのであるから、彼が出家したという事実は認められない。よって弘安6年没の法重房日芳なる人物と別人であることは明らかである。
ところで、寺記は、自らの権威づけのために俗説をもとに創りあげることは往々にしてあるから、これを無批判に史料として用いることはできない。しかしながら、最蓮房が因幡房らと何らかの関係を有していた可能性は否定できない。
というのは、影山氏によれば、愛知県の長福寺に所蔵されている大聖人の御真筆と称される御本尊の側書きに“建治二年二月八日”最蓮房日浄にこれを授与した」と認められていることから、この建治2年(1276)に最蓮房が大聖人のおられる身延に登山し、その直後に下山に滞在して日永を折伏したという可能性も考えられるからである。したがって本抄の初めに「おぼろげの強縁からではかなひがたく候にしに有人見参の候と申して候しかば」と仰せの「おぼろげ」ならざる「強縁」の人が最蓮房であったという可能性もられるであろう。いかにその可能性の当否を若干の考察を加えておく。
まず、最蓮房が佐渡流罪中赦免後に下山に定住したことを記す初出の史料と見られるのは、享保15年(1720)に六牙院日潮によって編集された別当統記第12巻の記述である。
「十一年甲戌の春、高祖鎌倉に帰る。…翌年乙亥栄果して赦を得。骨肉旧友を見ずに直に身延に至り定省く戌戌奉侍す。晩に茅を山麓に結びて終焉す。延慶元年戊申四月十八日化す」
しかしながら最蓮房が晩年に下山に定住した根拠はなく、上の記述を無批判に受け入れることはできない。
次に、最蓮房に関する史料として、下山本国寺に所蔵される寂照院日乾筆の本尊の側書が挙げられる。すなわち、これによれば、慶長16年(1611)の時点において下山の実子山本院寺に最林房日利という住持がいたことが判かるという。更にこれと関連する史料としてはこれより1世紀余り後に記された前引別当統記の続きに記される。「或は云く、志茂山本国の改山西林房日芳なりと。其の日芳末だ何人なることを詳かにせず。恐らくは謬ならんか」との文である。
これまでの史料を突き合わせると、慶長年間に実在した実子山本因寺の最林房日利なる人物が、いつしか本国寺の開山と伝えられていた法重房日芳なる人物と混同され、そして、これが更に西林房日芳と誤り伝えられてしまった、という当時の誤伝の経過が手にとるようにわかるのである。
このように考えてくると、下山本国寺の開山を最蓮房とする説は根拠薄弱であり「おぼろげならざる強縁の者」を最蓮房とする可能性も極めて小となる。
むしろ、前掲の弟子分本文の目録に「因幡房が日興が弟子なり」とあった記述を想記すれば、因幡房は最蓮房の弟子ではなくて、日興上人の弟子であるから、因幡房のいう「おぼろげならざる強縁」の者とは日興上人あるいはその人脈に連なる人物であろうと思われるのである。
ところで昭和55年(1980)に刊行された池上本門寺編日蓮宗寺院大鑑によれば、下山本国寺は「最蓮房さん」という通称をもっているとのことである。同寺には最蓮房の墓碑があり、かつ大聖人の御直筆から書写したことを伝える天正3年(1575)7月13日付けの日叙の奥書きを有する最蓮房ゆかりの祈?経が所蔵されているという。
しかし、影山氏も指摘するように、これらがあるからといって最蓮房が下山に住したという証拠にはならないのである。むしろ、下山本国寺の開山として後世の人が最蓮房を祭り上げ、これを権威づけるために本国寺に墓碑を設け、また祈禱経の写本を入手したと見る方が筋が通っている。
前項甲斐国志仏寺部でも「按ずるに最蓮西林音相近し、古今通用して最蓮坊と称せしと見えたり」と述べており、上の考えを支持したものといえよう。すなわち最林房あるいは西林房という人物と最蓮房を同一視することによって、最蓮房が下山本国寺の開祖であったという誤伝が生じ、これを利用して最蓮房を本国寺三開祖の一人として祭り上げてしまったと考えられ、甲斐国志の編者松平定能もその経過を洞察していたと思われるのである。
以上の考察により、下山本国寺の三祖とされた最蓮房、下山兵庫五郎、因幡房のうち、少なくとも最蓮房および下山兵庫五郎については、根拠のない俗説に過ぎないことが明らかとなった。
大聖人御在世当時にあって、宗門の中で下山の地にゆかりのありそうな3人を本国寺の開基に祭り上げることによって寺の権威づけがなされたものであったことは容易に察せられるところであろう。たとえ伝聞であっても一度記録されてしまうと、それが史実とかけ離れていたとしても、やがてそれが独り歩きしてしまうことがしばしばである。しかしながら、史実に基ずかない俗伝を多く記す寺記の類に引きずられて、その結果、最蓮房を因幡房の師であるとしたりすることは、厳につつしまなければならない。
六、光基と因幡房の人間関係
前項では、下山兵庫五郎を因幡房の父親とする説が登場するのは16世紀当初の健抄以来であり、14世紀に著された三位日順師の摧邪立正抄では特に触れられていないこと、また15世紀の平賀日意による御書瑞書、16世紀の日統抄、17世紀の録内啓蒙及び18世紀の本化高祖年譜においては必ずしも親子説をとっていないことを確認した。そして更に、これらの対立が史料に基づくものではなく、本文の解釈上の相違でよるものであることを明らかにした。
加えて、最蓮房を開基に祭り上げようとする寺記との関連の中で親子説が通説化していった経過を概観してきたのであるが、最後に本項では、下山御消息の本文そのものに照らして光基と因幡房との人間関係について論及しておきたいと思う。
まず両者の人間関係をめぐって解釈が対立する御文を挙げてみよう。それは、本抄の冒頭に記された次の御文である。すなわち、因幡房が大聖人に帰依してより阿弥陀経を止めて、法華経を読誦するようになったために、光基が「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まる可きか」(0343-01)としたこに対して答えたところである。
「此の事は仰せ候はぬ 已前より親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」(0343-01)
この御文中の「親父の代官」をめぐってまず解釈が分かれるのである。第一に、父、光基の代理として因幡房が法華経を読んでいたという解釈である。第二に「親父の代官」を父・光基の代官とする説である。第三に、因幡房の父が光基の代官であったと考える立場である。日統抄や録内啓蒙はこの解釈をとっている。
確かに、この御文に限れば、これらのいずれの解釈も成る立ちうるように思われる。いずれの説が正しいかを判断する決め手とはならないといえるであろう。
次に本抄の末尾に「此の身に阿弥陀経を読み候はぬも併ら御為父母の為にて候」(0363-17)と仰せられている。これは因幡房が阿弥陀経を読まないのは「御為」であり、また同時に父母の為であるとも言いたいのであるが、はじめの「御為」とは具体的に何を指しているのであろうか。
ところが、この御文は浅井要麟氏の編纂による昭和新修では「此の身に阿弥陀経を読み候はぬも、併しながら御為父母の御為にて候」となっており、はじめの「御為」の文字が削除され、「父母の為」が「父母の御為」と訂正されている。ちなみに昭和新修の底本となった縮冊遺文は上に引いた御書全集と同一であり、昭和新修は親子説を前提として校訂したものと思われる。
また日法所持本では「御為、又父母の為にて候」と「又」の一字が加わっている。これは、昭和定本の脚注によると日澄本も同様であり、昭和定本もこれに倣っている。
昭和新修の改定はやや独断の感もなきにしもあらずであるが、浅井氏はこの「御為」が誰を指すかが明瞭ではないので、文意を明確にするために「父母の御為」と直したものと推察される。
戸頃重基・高木豊氏は「併御為」について、注で「すべて下山兵庫五郎の御為」と記している。この解釈では、下山兵庫五郎が因幡房の父とは見ていないように受け取れる。なぜならば、もし下山兵庫が因幡房の父であるとすれば「御為」のあとに「父母の為」とあるのは不自然だからである。
そこで、先の「親父の代官」をどう解しているかというと、注に「父の代官としても、私としても」と記している。これはどちらともとれる表現である。つまり、これだけでは因幡房の「父」が下山兵庫なのか、あるいは兵庫とは別人なのかはっきりしない。なお高木氏の『日蓮とその文弟』には「日永は甲斐下山兵庫五郎の持仏堂の堂僧であったらしい」と記すのみで、それ以上は言及していない。これらのことから、高木氏らは下山兵庫五郎と因幡房の関係については慎重な態度を取っていたと想像される。
次に、高田恵忍氏の日蓮聖人御遺文全集大19巻の見解を見ておきたい。原文はそのままで「併ら御為父母の為にて候」となっており、その通釈では「私が阿弥陀経を読誦しませぬのも、偏に御両親の御為であります」としている。これは、「御為」を“父の為”と解した結果であろう。つまり“父の為であり、両親の為である”との意である。しかし、これだと「父母の為」ではなく「父母の御為」とあるべきではないか。しかも、本抄の末尾にも「親の為に」とあることから、この「御為」とは、親のことを指していったものではないと考えられるのであり、その意味で高田氏の解釈にはやや疑問が残る。
下山氏と因幡房が親子であるとすれば、前後の文脈から「御為」は、あるいは「国の御為」の意と解せられる。また因幡房の父が下山氏ではなく、その家臣であるとすれば、この「御為」は下山氏を指して言ったものと理解するのが最も妥当であろう。
したがって、この御文からも因幡房と下山氏の関係を解明するのは困難なのであるが、一つ気になるといえば、本抄の文中、下山氏に対して一貫して敬語を用いられており、「御後悔や候はんずらん」(0364-02)「現当の御歎きなるべし」(0364-07)というように、名詞には丁寧に「御」をつけてへりくだった表現をされていることである。それに対して、親にかかわる箇所では「親父の代官といひ」(0343-01)「父母の為にて」(0363-17)「親の為に」(0364-08)といった表現をされている。
これは、下山氏は因幡房の親ではなく主君に当たると考えれば、この使い分けが納得できるように思われる。ただし、事例が限られているので即断することはできないが、一考の余地はあるのではないであろうか。
さて大聖人は、更に因幡房自身の言葉として「世間の人人の思いて候は親には子は是非に随うべしと君臣師弟も此くの如し」(0364-03)と仰せられたうえで、①釈尊が父の浄飯王に背いてこそ父を成仏の道へと導くことができた、②比干が紂王を諌めたために殺されたがそれによって賢人の名を得ることができた、との事例を示されている。
この二つの例は諸御抄で取り上げられているが、前者は明らかに孝養の例であり、後者は開目抄に「比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり」(0186-04)と仰せられているように、忠義の例である。また聖愚問答抄にも「殷の紂王は悪王・比干は忠臣なり政事理に違いしを見て強て諌めしかば即比干は胸を割かる紂王は比干死して後・周の王に打たれぬ、今の世までも比干は忠臣といはれ紂王は悪王といはる」(0493-03)と記されており、紂王と比干とを主君と臣下の関係とされている。
史記などによると比干は紂王の父方の叔父に当たり、紂王は暴政に対してその非を責めたところ、紂王は逆上して「おまえは聖人か、聖人の心臓には七つの穴があるという」と言い、たちどころに比干を殺し、心臓をえぐりだしたという。
ところが、本抄では「比干が親父紂王を諌暁して」(0364-07)と述べられており、孝養の例とされているようにも拝される。であればこそ、そのやや後に「此れは親の為に読みまいらせ候はぬ阿弥陀経にて候へば」(0364-09)と、念仏を止めて法華経を読誦しているのもひとえに親の為であることを述べられているのではないであろうか。
このことから、下山兵庫が因幡房の父であったかどうかは別にして、大聖人に帰依した因幡房が念仏を信ずる親と信仰の面で対立し、親から相当の圧迫を受けていたと考えてほぼ間違いあるまい。
ところで日興上人が日目上人に与えられた御手紙の中で下山抄に触れられているものがある。御正本が大石寺にある卿公御返事がそれである。その御手紙は、日目上人の祖母に当たる故西光寺尼御前の法事に際して、法華経によるか先祖伝来の念仏によるかで紛糾していたために、日目上人の母・蓮阿尼と時光が指導を仰いだ際、日目上人に宛て認めたものであり、法華経によってこそ親への孝養をはたすことができることを御教示されている。
その中で日興上人は「それについてもともこのほうもんのようをかく聴聞して候にてあるへくとおぼえ候ハ、聖人の御存知因幡公の追出せられ候し時、下山の消息をあそハされて候し御心にて候へし」と仰せられている。
日目上人が日興上人の弟子として得度されたのは、建治2年(1276)のこととされており、その年の11月24日に身延に登山されている。したがって、下山抄の著された建治3年(1277)には、既に身延の地で日蓮大聖人、日興上人のもとで常随給仕されながら、修行の日々を送られていたことから、因幡房の勘気と事情と下山抄の内容については当然御存知であったわけであろう。この故に日興上人は、因幡房の例を引かれ、真実の孝養の在り方を御教示されたものと拝察される。
この日興上人の御消息からも、因幡房が親の念仏信仰と対立、念仏を取るのか法華経を取るのかの選択を迫られていたことが推測されるのである。
最後に上に述べたことを念頭に入れて本抄の末尾に記された「此れは親の為に読みまいらせ候はぬ 阿弥陀経にて候へば いかにも当時は叶うべしとはおぼへ候はず」(0364-09)の御文の解釈に触れて本項を結ぶことにしたい。
録内啓蒙では、この御文について次のように二義を挙げてる。すなわち「一義に云く弥陀経当時現当の祈りとならざる趣を宣べて親の為に読まざる志を顕せるか。一義に云く親の為によみ進せぬ心人にて候へば、いかによめと御責め候とも当時は御意に任せてよみ候事は叶ひ候まじ、若し読めば却て不幸になり候程にと云う趣を顕して陳謝せなるべし」と。
この文からみれば断定はできないが、おそらく前者は親子説に立つ健抄の意であり、後者は因幡房の父と下山殿を別人とする統抄の意をとったものであろう。ここで、この「親の為」ということが果たして下山氏自身を指しているのか、それとも下山氏とは別人であるところの因幡房の父親を指しているかは、どうしても見解が分かれるところである。
この御文の次上に大聖人は「賎み給うとも小法師が諌暁を用ひ給はずば 現当の御歎きなるべし」(0364-07)と仰せられているが、これは下山氏から因幡房を見れば“たかが小法師”と蔑まれるかもしれないが、その諌暁を聞こうとしないならば、現世・未来世にわたって歎まれることになるだろうという意味がある。つまり、ここでも因幡房が下山氏にとっては子供というよりも氏寺の住僧しかないという面が反映している。
このように、本抄では、因幡房と下山兵庫五郎光基との関係を示唆する部分が冒頭と末尾の御文に限られていることもあり、それについて確定するのは困難であるといわざるを得ない。しかし、前述したように因幡房が親と信仰の上から深刻に対立し、法華経か念仏か、すなわち信心か孝養かの二者択一を迫られていたことはほぼ疑いない。そうした因幡房のために、大聖人が自ら筆を執られて、念仏信仰に執着する下山殿の迷妄を打ち払って真実の正法へと導かれようとしたのが本抄である。そこで大聖人が代筆されたという本抄の特殊性に着目して、因幡房の当時をめぐる状況を推測することはできないだろうか。
大聖人は弟子門下のために代筆された例として、現在わかっているものは下山抄を含めて三例である。一つは、下山抄と同じ建治3年(1277)6月、四条金吾頼基に代わって江間光時に宛て認められた頼基陳状であり、もう一つは弘安2年(1279)10月、日弁・日秀の名で滝泉寺の院主代・行智の不法を訴えた滝泉寺申状の御草案である。この御抄本は現存しているが、初めの2/3を大聖人が書かれ、残りの1/3を日興上人が筆を執られている。
まず頼基陳状の著された背景を述べてみよう。四条金吾は文永11年(1274)に主君の江間氏を折伏して以来、同僚の讒言や怨嫉などにより主君からの圧迫が強まり、建治2年(1276)9月には主君より遂に所領の一部取り上げと越後国への領地替えを命じられた。更に翌建治3年(1277)6月、極楽寺良観の庇護のもとに鎌倉の桑ヶ谷で説法していた竜象房を大聖人門下の一人であった三位房日行が論破した。竜象房はこの腹いせから良観と謀り、三位房と同行していた金吾が武器をもって法座を乱したと江間氏に讒奏したのである。これを真に受けた江間氏は、金吾に法華経を捨てる誓状を書くように命じた。この報告を受けた大聖人は早速、金吾に代わって陳状の案文を認められた。これが頼基陳状である。
また滝泉寺申状は、滝泉寺院主代の行智の奸計のもと、弥藤次の訴えによって熱原の神四郎ら20人の法華講衆が逮捕され鎌倉に押送されたことから、弥当時の訴状に対する弁駁状として書かれたものである。これは日興上人によって清書され、問注所に提出された。
したがって、これらの二書に共通する背景として、いずれも弟子門下が弾圧というのっぴきならぬ事態にあったということが指摘できよう。また、一つは主君に対する陳状であり、もう一つは申状というように、公的な書状という性格が強いことも見逃せないところである。
翻って因幡房の当時の状況を考えてみると、残念ながら下山兵庫五郎光基から氏寺を追い出されたということしかわかっていない。しかし、下山氏と因幡房が親子であったとしても、因幡房は既に出家して僧になっていたこら、家督を相続するような立派な立場でなかったことは明らかである。
下山氏が因幡房の父親であったとすれば、因幡房が寺から追い出されたという事態もそれほど深刻であったようにはおもえないのである。そのうえ親子という私的な関係の中で、大聖人が子供の代筆をされてそれを父親に送るというのも不自然だという印象が拭えない。大聖人があえて代筆をされるだけの深刻な事情が下山氏と因幡房との関係にったのではなかろうか。そこで先に確認した。因幡房が親と信仰のうえから対立していたという事実のいみを考える必要があると思われる。
因幡房における親との信仰の対立という問題が深刻にならざるを得なかったのは、それが父子の対立にとどまらず、父親が念仏の熱心な信者であった下山氏の家臣であったという事情がはたらいていたのではないだろうか。すなわち、因幡房が念仏を捨てて法華経に帰依したことによって父親の立場をも危うくさせたという事情があったのではないかと推察される。
その場合、父親は当然のことながら、因幡房に対して主君の恩を説き、孝養の在り方を説いて念仏に戻るよう幾度となく論じたに違いない。そのなかで因幡房があくまで法華経の信心を貫こうとすれば、父親をなお一層苦しい立場に追い込むことは目に見えていたと想像される。因幡房にとってまさに親を取るか信心を取るかの重大きなところであった。当時の関係、親子関係を考慮するならば、因幡房の苦悩は深刻であったことはもちろんのこととして、入信まもない彼にとっては手に余る難文であり、切実な問題であったろう。かかる状況であったことからこそ、大聖人は、因幡房の父親の主君に当たる下山氏に因幡房に代わって消息を認められたのではないだろうか。
しかし、これはいわば状況証拠に基づいた推察であり、その場合、因幡房の父親を特定する史料もないことから、これが絶対とはむろんいい切れるものではなく、一つの可能性であり、なお検討の余地があろう。
本抄の教学的位置づけtop
本抄の文献上でのについてはこれまで述べたとおりであるが、次に日蓮大聖人が、自らの御内証の一端を明かされた「教主釈尊より大事なる行者を」(0363-01)の御文を中心に、本抄の教学的位置を論じたい。
続いて、本抄が富士一跡門徒存知の事で10大部御書の中に選定されたのは何故かという問題を論じ、本文理解のための一助としたい。
「教主釈尊より大事なる行者」とは
この御文の個所については、岡宮本でも改竄の余地がなかったことは既に見た通りである。その前後に関しては後世の写本及び版本によって、多少の異同がみられるにせよ、その意味においては全く変わりはない。したがって大聖人が因幡房の言葉を借りて御自身を「教主釈尊より大事なる行者を」(0363-01)と表現されたことはまぎれもない事実であり、これに対して意義をはさむ余地は全くないとされてよい。またその意味するところも誰の眼にも明らかであろうと思われるが、念のためこれまでどのように解釈されていたかということを見ておくことにしたい。
一、高田氏及び浅井氏の解釈について
高田恵忍氏は日蓮聖人遺文全集講義の本抄の該当部の注釈として次の如く述べている。
「是は法師品に一劫の間釈尊を罵詈するよりも、須臾の間行者に悪言を加る罪重しと説給へる意を顕はす」
これは、法華経法師品に「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ちの使いなり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大乗の中に於いて、広く人の為に説かんをや。薬王、若し悪人有って、不審な心を以って、一劫の中に於いて、現に仏の前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一人の悪言を以って、在世出家の、の、の、法華経を読誦する者を毀罵せん、その罪甚だ重し」と説かれていることを指したものである。ただし、それ以上の言及をしていないところを見ると、この御文の重要性をあえて等閑に付したものと思われる。
そこで、この法師品の意味するところを考察してみよう。まず、法師品の引用文は、一見して明らかなように、仏滅後の悪世末法において法華経を読誦する者を誹謗する罪が釈尊を誹謗する罪よりもはるかに大きいことを示している。このことから、高田氏は法師品の意を説いた御文として解釈したのであるが、大聖人がどのような意味で「教主釈尊より大事なる行者」と仰せられたかについては、あえてふみこんだ説明を加えていない。
大聖人は撰時抄において、次のように述べられている。
「されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにても見るべし、教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしと・とかせ給へり」(0256-17)
ここでは、確かに末代悪世における法華経の行者を誹謗する罪と釈尊自身を一劫の間、誹謗する罪とが比較されており、前者の罪の方が大であるとされている。では、末法の法華経の行者を罵詈する罪と釈尊を一劫もの長い間罵詈する重罪とを比べたとき、後者よりも前者の罪の方が重いとされるのはなぜであろうか。
刑法を例として考えるならば、人の悪なる行為と罰とは、その行為のなされた対象や状況にとか、あるいはその影響力によって、それに応じた罰が定められる。例えば、封建時代であれば、同じ殺人という行為であっても、その行為の対象が他人であるか尊属であるか等によってその罪がことなったのは当然である。
仏法においてもその考え方は基本的に同じであるといってよい。例えば同じ傷害という行為であっても、その対象が仏であれば出仏身血という五逆罪に数えられ、殺父・殺母・殺阿羅漢に匹敵する罪とみなされるのである。
このことを考慮するならば、同じ謗法という行為であっても、その対象者の仏法上の位が高ければその罪は重く、位が低ければ罪が軽いとされているのである。
この意味において撰時抄の御文は、法師品の経文を依文とされつつ、法華経の行者たる御自身をインド応誕の教主釈尊の上位に位置づけられていたことを示しているのである。
このように、大聖人が末法の法華経の行者たる御自身を、教主釈尊の上位に位置づけられていたことは明白であり、このことを直接的に明言された御文こそ、本抄の「教主釈尊より大事なる行者」との一節にほかならない。
次に浅井要麟氏の見解に触れておこう。同氏は、「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち」(0363-01)の個所について「末法には教主釈尊よりも大事な法華経の行者、日蓮が頭を、法華経の第五の巻を以て打ち」と釈し、「末法には」との一句をつけることによって、釈尊が現存しないが故に法華経の行者である日蓮が末法の今は最も大事な人であると解している。これは、原典にはない言葉を付け加えることによってその真意を歪めたものといわざるを得ない。
同氏は、「下山御消息の如きは、夙にその真蹟が散逸して、後人がこれを補筆した形跡もあるらしい」と述べ、該当部分も後世の歪曲であった可能性があると匂わせている。しかし、該当箇所に竄入の余地がなかったことは前章でふれた。
また、本抄では頼基陳状と同じく大聖人があくまで第三者の立場に立って筆筆されていることから、浅井氏は、その第三者である大聖人に対して、因幡房や四条金吾が称賛し礼賛したとしても必ずしも大聖人自らの自画自賛にはならないと解釈している。これは、こうした表現が大聖人の自賛であるとの批判を気にした言い訳である。しかし、そうした世欲的次元にとらわれていること自体、大いなる誤りである。
大聖人は、こと御自身の御内証に関しては控え目な表現で述べられるのが常であり、本抄のように直接的な表現で御自身の御内証を述べられた例はほとんど見当たらない。それは、浅井氏もいうように、まさに第三者の立場に立たれていたから可能であったのである。それにしても因幡房や四条金吾の立場を借りてであれ、このように述べられた大聖人の御真意を見逃してはならない。
つまり本抄において御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と表現され、あるいは頼基陳状で「日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを」(1161-08)と明言されたことは、大聖人が弟子の名において御自身のことを明示されたものであって、大聖人に対する弟子の称賛を記されたものでは決してない。これは、大聖人の御身にかかわる大事であるというべきであろう。
二 戸頃・高木氏の解釈について
次に、昭和45年(1970)に岩波書店より刊行された日本思想14・日蓮の著者である戸頃重基・高木豊の同氏は、同書補注の「法華経の行者」の項において次の如く述べている。
「ここに教主釈尊とは史上の釈尊ではなく、法華経の本門寿量品に説かれている抽象的な釈尊のこと。『観心本尊抄』では『本門寿量品の釈尊』『寿量の仏』、『報恩抄』では『本門の教主釈尊』というときの教主釈尊のこと。日蓮教学上の人本尊に当たる。『下山抄』ではこの『教主釈尊』よりも、行者日蓮のほうが一層大事な存在であることを宣言したのである。これはいったい何を意味するのであろうか。本抄よりも2年前の1275(建治元)年8月4日の『乙御前御消息』では、『日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給うひぬ』といい、カリスマ的な表現のなかにも、なお教主釈尊と同義異語の大覚世尊を自分より上位において、その加被力を謙遜しながら認めていた。それが『下山抄』にくると一変して、行者日蓮のほうが教主釈尊よりも上位に立つことを自負するのである。(中略)日蓮は『少々の難はかずしらず、大事の四度なり』(開目抄)の体験から、像法時代の智顗・最澄の境地をこえたばかりでなく、法華経の勧持品の偈によって、『日蓮だにも此の国に生ずば、ほどをど、世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし』という主体的な独自の境地を開拓していた。この境地をさらに押し進めてゆけば、当然、『下山抄』の自覚にまで達するのであって、それは日蓮大聖人の意義よりも修行のもつ意義を比類なく強調したものといえる。したがってここでは『日蓮』よりも『行者』のほうに力点をおいてみるのでなければならない」
ここでは、「行者日蓮」の方が「教主釈尊」よりも大事な存在であるという文献上の意味については誤りなく解してはいる。しかしながら“日蓮”個人よりも“行者”の方に力点を置いて見るべきだとしている。
さて、両氏の論においてはその基本的な前提において問題があるといわねばならない。それは下山抄の対告衆が仏法については比較的無智な下山兵庫五郎という未入信の在家者であったという事実を無視しているということである。このことを考慮するならば、本抄に仰せられた「教主釈尊」なる言葉は、当時の世間の人々が抱いていた概念からかけ離れたものではないはずであろう。したがって、これが仏教の開祖たるインド応誕の釈尊を指していたことは疑いないところである。「教主釈尊」という語にいかなる含意があるにせよ、大聖人が下山兵庫五郎に対してその理解の限界を超えるような意味で用いられているとは考えられない。
一方、これに対して観心本尊抄や報恩抄は当時としては仏法理解の極めて深い者を対象として著された書であり、本抄の場合とは明らかに異なるのである。本抄にゆう「教主釈尊」はインド応誕の歴史上の釈尊を指しており、大聖人はこの釈尊と対比されて御自身の方が勝れていると宣言されたのである。
しかも本抄において大聖人は仏の三徳を挙げられ「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり」(0355-12)と述べられている。すなわち、日本国の一切衆生に対して大聖人が主・師・親の三徳を具えられていることを明言されているのである。
このうち主の徳については「主君の御使なり」と、当時の社会状況を配慮したうえで謙遜の表現をとられているが、御自身が三徳を具えた仏であることを示されていることは文脈上から明らかである。したがって本抄において大聖人は、御自身が末法の御本仏であるとの御内証が明かされているのである。
この意味において、戸頃氏らのように、本抄に仰せの「教主釈尊より大事なる行者」との御文について「行者」という方に力点をおいて理解することは、まだ大聖人の御真意に達しておないといわざるを得ない。
なお「日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ」(1221-02)と記された乙御前御消息の時点と本抄執筆の時点において、戸頃氏の言うように大聖人の御内証そのもの、あるいは御自身の自覚に変化が生じたわけではない。こうした見方は、大聖人の御化導における変化をあたかも大聖人の内面の変化として捉える誤りに由来している。そして、これもまた、根本的には大聖人を末法の御本仏と拝することのできないが故の誤謬にほかならないのである。
三 大聖人が御内証を明示されなかった理由
大聖人は、内証は久遠元初の自受用報身であり、外用においては地涌の菩薩の上首たる上行菩薩の再誕であられるが、この外用の御立場においてすら、言葉を選ばれながら極めて慎重に表現されており、例えば文永9年(1272)5月、四条金吾に与えられた御消息では「多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の御使いか」(1117-17)と、御自身を「上行菩薩の御使いであろうか」と述べられている。
また文永12年(1275)2月の新尼殿御返事では「日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す」(0906-05)と仰せられている。
このように大聖人はその外用の立場についてすらあからさまに述べることは避けられていたのであり、ましてその御内証は、容易に明かすことのできない大事中の大事であったのである。
当時の日本にあっては、仏教といえば多くの人々は釈尊を仏教の開祖として仰ぎ信奉していたのであって、もし大聖人が御自身の内証の辺を明言されたならば、世間の人々はもとより、大聖人の仏法の深義を弁えぬ多くの弟子や信徒も疑惑を懐き、あるいは誤解して世間に間違った言説を流す恐れがあった。
しかも、当時の国家権力はいうまでもなく政教末分離の状況にあった。既成の仏教と結託した権力者が「異端」の集団に弾圧を加えてくることは眼に見えていた。もちろん大聖人にとっては、あらゆる大難、迫害は覚悟のうえであり、大聖人の仰せどおりに信仰を貫こうとした弟子檀那に対してもその覚悟を促されていたが、その一方で弟子檀那による不用意な発言によって世間と要らぬ摩擦を引き起こさぬよう戒められてもいる。
それは、当時の弟子檀那が大聖人の仏法を信じているとはいっても、いまだその理由は十分ではなく、甚深の法門になればなるほど誤解を生じることを危惧されたものと拝される。そして、封建体制下で信教の自由に対する補償のない社会状況下にあっただけに、大聖人は深く弟子たちへの配慮をされたものと拝される。御自身が大難の数々を受けられた身であってみれば、真実に信心を貫こうとする弟子檀那への御配慮もひとしおであったに相違ない。
権力者は常に宗教勢力を自己の支配下に置くことによって自己の権力の基盤を安定ならしめようとするものである。その例として、一つの史料をここに挙げておく。大聖人が日興上人に法燈を伝えられたことを示すものとして「二箇の相承」があるが、これを徳川家康が見た事実が駿府記に記されている。すなわち慶長16年(1611)12月15日の記に次のようにある。
「今晩、富士本門寺校割の二箇の相承、後藤少三郎御覧に備う。其の詞に云う。釈尊五十年の仏法、日蓮阿闍梨日興に之を付嘱す云云。是を以て之を按ずるに日蓮爾前の教を捨てざる事文明なり。後来末派に至れば本源に暗くして僅かに四十余年未顕真実の一語を以て爾前の教は之を棄捐すべし、是れ祖師の本意に非ざる者なり、御前に於いて、其の沙汰あり云云」
家康は、日蓮宗各派が他宗を破折することを禁ずる材料になりうると考えたのである。
こうした状況は、おそらく大聖人御在世の時代においても大して変わりはなかったであろうと思われる。すなわち釈尊を根源の仏と認めないことは、当時の既成の考えからすれば、仏法における異端であり、既成の権威を自らの権力の基盤として利用しようとした権力者がこれを認めることは到底ありえないことであったといってよい。
そして、大聖人は、いかなる弾圧が加えられようとも、身命を賭して仏法正義を守り抜く民衆の信心の成長をひたすらに待たれていたに違いない。それまでは、御自身の御内証を明かすことについては慎重を期されたのである。
また、本抄は下山兵庫五郎という個人に宛て認められた御消息文である。対告衆である下山五郎も地頭とはいえ、必ずしもトップクラスのインテリではなかった。そのことは、さしたる仏教の知識のない者にも理解できる平易な言葉を用い、また仮名文字を比較的多く用いられていることからも知られる。こうした幾つかの条件が重なって、大聖人は御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と直接的に表現することが可能になったと思われる。
本抄の対告衆である下山兵庫五郎は権力の中枢から遠い存在であった。しかし、大聖人は、光基についての必要な知識は当然もたれ、彼をある程度見込みのある人物として判断されたものと拝される。なぜなら、大聖人は常に相手に応じて慎重に法門を説かれているからである。このことは、本抄の前年に認められた報恩抄の送文に「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ」(0330-01)と仰せられていることからもうかがうことができる。
ところで前述したように、光基は本抄の受領後に発心して出家し、大聖人より法重房日芳という号を賜ったとする伝説がある。しかし山梨県南巨摩郡の下山本国寺の墓碑に記される法重房の没年月は下に記す光基の没年月とは異なっており、法重房なる人物は明らかに光基とは別人物と考えられる。
光基が大聖人に帰依し、あるいは出家したという事実は明確ではないが、彼の没後14年に、日興上人が彼の未亡人に与えられた御本尊があり、その脇書には「徳治二年卯月八日、甲斐国市川宮堅入道息女の兵庫五郎尼に之を授与す」とあり、光基の妻については、正法に帰依したことが知られている。
そして、それから更に18年後には、彼女の実子と思われる又四郎義宗が日興上人より御本尊を授与されており、その脇書に「正中二年十月十三日、正忌十一月十一日、甲斐国下山兵庫五郎卅三年、子息四郎義宗に之を授与す」とある。これによって又四郎が正法信仰に励んでいたことは明確である。
次に、本抄が何故に十大分御書に選ばれたかという問題を中心として、本抄の教学的位置づけを論ずることとしたい。
十大部御書について
下山御消息に関しては日寛上人の分段に類する本格的な研究書ないし解説書はこれまでになかった。正宗以外のものとしては、本抄を収録している高田恵忍氏の日蓮聖人遺文全集講義、及び浅井要麟氏の日蓮聖人御遺文講義があるが、富士門流以外においては十大部という考え方はなく、したがって本抄を重書としては扱っていない。
ただ、戸頃重基・高木豊の両氏のみが本抄が日蓮仏法の依文として重視されてきたという事実を述べている。
本抄の教学的な位置づけを明確にするためには、本抄が十大部御書とされた理由を考察する必要がある。よって本節では、まず十大部御書制定の背景から探求することにする。続いて十大部の御書名が初めて示された富士一跡門徒存知の事の真為という問題に触れ、続いて内容の面から十大部の他の御書と本抄とを比較し、もって本抄の教学的な位置づけを明確にしたい。
一 十大部御書選定の背景
大聖人御入滅後、大聖人の残された数多くの御書のなかから最も重要な法門を記す重書として十大部を選定されたのは日興上人であった。その背景について、富士一跡門徒存知の事の中の「聖人御書の御事 付けたり十一ヶ条」には次のように述べられている。
04 彼の五人一同の義に云く、 聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字
05 を以て仏法の因縁を粗之を示し、 若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて 愚癡の者を引
06 摂したまえり、而るに日興、 聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、 故に諸方に散
07 在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。
08 此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。」(1604)
この文の元意を記せば、日昭以下の五老僧は次のように主張したという。すなわち「大聖人の御著作の中には御書釈と称すべき本格的論著は見られず、多少あるにはあってもそれは在家のために仮名文字で仏法の因縁を概略的に示しておられるが、あるいはわずかばかりの供養に対する返礼としての愚癡の人々を引導するためのものばかりである。しかるに、日興はこれらを御書と称して談論しているが、これは先師大聖人の恥を示すことにほかならない」と、その故に、彼ら五老僧は各地に散在いている御書をすき返しにしたり燃やしたりして大聖人の御真蹟を多くを失ってしまった。よって御書を消滅の危機から守るため、これを註して後代の人々のための亀鏡とするのである。と。
上の文に、五老僧の離反のなかで大聖人の法燈を懸命に守り抜こうとされた日興上人の御苦衷が偲ばれるのである。そして、もし日興上人が十大部御書を選定されていなかったならば、後世の人々が重要な法門の所在に迷うばかりでなく、これらの御書が消滅してしまったとも考えられるのである。ことに下山抄の如きは、その御正本が既に所在不明であり、もし日興上人が記録されていなかったならば、後々まで偽書扱いであったかも知れない。
なお、上の本文中に「五人一同の義に云く」とあり、この五人が五老僧を指すことはいうまでもないが、この中には次項で述べるように、富士一跡門徒存知の事が著された直後に日興上人に帰伏した日頂も含まれており、五人の間にも大聖人の仏法に対する理解に浅深があったのは当然でる。したがって「五人一同の義に」とは必ずしも「五人が口をそろえて」といういみではなく、大聖人及び日興上人の深意を解し得ぬ人々を五老僧として述べられていると見るべきである。
「聖人御書の御事」には、十一箇条は記されている。その内容は次の通りである。
09 一、立正安国論一巻。
10 此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、 一本は弘安年中身延山に於て
11 先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。
12 一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
13 佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。
14 一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15 身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。
17 一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
01 駿河国西山由井某に賜る正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り
02 一、下山抄一巻。
03 甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以
04 て遣さる、正本の在所を知らず。
05 一、観心本尊抄一巻。
06 一、取要抄一巻。
07 一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く。
08 已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。
09 一、本尊問答抄一巻。
10 一、唱題目抄一巻。
11 此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に
12 爾なり。
13 一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く、 先例無きに非ざる
14 か。(1604)
十大部として選定された御書は
①立正安国論
②開目抄
③報恩抄
④撰時抄
⑤下山御消息
⑥観心本尊抄
⑦法華取要抄
⑧四信五品抄
⑨本尊問答抄
⑩唱法華題目抄
の十偏である。なお、前項の文には「具に之を註して」と記されていたが、ここに挙げられた十編のうち、本尊問答抄についてはただ「一巻」としか記されておらず、「具に之を註」せるべきでるにもかかわらず、それらしき記載がないことに気付く。
この例によって次のことが推測されるのである。それは富士一跡門徒存知の事が必ずしも完成稿として残されたものではないとうことである。少なくとも後日の補足を期して未完成のままに残された部分があったとも考えられる。このことは次項以下の考察の際に重要な視座となる故に、ここに留意しておきたい。
さて日興門流でいう十大部御書の編目の初出は富士一跡門徒存知の事である。しかるに他門流においては、同書の著作が日興上人であるということについて疑問視してきた。同書は日興門流の正統性を示す重要な史料となるので、この書の真偽問題については、項を改めて論ずることにしたい。ただし、十大部御書に関して本書を疑問視する浅井要麟氏の見解についてはここで取り上げておく必要がある。
同氏は、昭和新修日蓮上人御遺文全集別巻に収める「御書編纂の史的概念」において、前掲の11箇条を引用した後に「これに依て見ると、当時富士方面に前記十編の御書が写本及び一部真蹟を以て伝えられてゐた事実を知ることが出来る。しかし『富士一跡門徒存知事』の所伝の如く、興氏の執筆とするには幾多の疑問を有するが、それらの検討はすべて他日を期することとする。たヾこヽに不審なのは、富士の上の大石寺及び北山本門寺に真蹟ありとして、後年録内録外及び最近出版されたる『日蓮大聖人御真蹟写真帳』等に載録されたる諸偏が、『富士一跡門徒存知事』に載録されざりし点である。或は近代の刊行物に載する所は、概ね消息類であるから『門徒存知事』には載せなかったとの理由づけるかも知れぬが『諌暁八幡鈔』の如き、御消息にならざる述作が『門徒存知事』には漏れているので、疑問は依然として解けない」と述べている。
この文で浅井氏は「門徒存知事」の11箇条について基本的なところで思い違いをしている。つまり、日興上人は大聖人の御書を網羅する目録として「聖人御書の御事」を記されたわけではなく、幾多の御書の中から重要な法門を記した御書を厳選してこれを十大部とされたのである。その証拠に「聖人御書の事」においては唱法華題目抄を「最初の御書」と記されているが、断に御執筆のこの時よりも時期的に早い御書は数多く存在しているのであって、これはあくまでこの十大部の中で「最初の御書」であると述べられているのである。したがって十大部に入らない「諌暁八幡抄」が、「門徒存知事」に漏れていることは不思議でもなんでもないのである。
それはともかくとして、日興門流以外においては「十大部」という名称すら用いられていない。三大部および五大部という名称はあるが、それも人によって取り上げられる御書はまちまちである。そのほかに「録内御書」と「録外御書」という分類があるが、編纂の事情によって分けられるのみで、この分類には内容上の基準というものがない。
この事情を見たときに、早くから十大部御書を選定された日興上人が、大聖人の御書をいかに大切にされ、かつその全体を深く理解されていたかということが知られる。それ故にこそ、日興遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(1618-04)と仰せられている。
ところで下山御消息は、十大部御書の選定の時点で既に、その正本が所在不明の御書であった。このように重要御書の所在が不明となり、やがてその存在そのものが史上から抹殺されかねない状況を憂えられた日興上人が、後世のために大聖人の重要法門を伝える重書として十大部を選定されたのである。では何故に下山御消息が十大部の中に入れられたのか。これについては、次項において「富士一跡門徒存知の事の真偽問題」を確認したうえで論ずることにしたい。
富士一跡門徒存知の事の真偽問題について
富士一跡門徒存知の事の真偽問題とは、それが日興上人の意志によって成ったものか、それとも後世の富士門流の人々が勝手に日興上人に仮託して著述したものか、という問題である。
同書の現本は存在せず、追加8箇条のみ17世日精の時代まで存在したといわれている。現在の流布本としては永正18年(1512)6月4日付の日誉写本である。これは応永29年(1422)の日算本を転写したものであり、写本には原著の著作年も著述者名も記されていない。その故に他門流からは同書が後世の人の手になる偽書であるという偽書説が唱えられ、その成立に関して疑義が提起されていたのである。
同書の真偽問題を含む成立の経緯については日淳上人が昭和2年(1927)「富士一跡門徒存知事の文に就いて」を発表され、同書で疑惑に対する答えを出されている。しかし、日淳上人のその論孝は、宗門外の一般の人々の目にとまる機会が少なく、かつ長文でやや難解な部分がある故に、他門流においてはこれを踏まえざる機会も今も後をたたない。ここではその要点を整理しておくことにする。
同書の著著を確定するうえで一つのポイントとなるのは、同書中の「日興集むる所の証文の事」の内容である。そこには「御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、或は大網・随義転用し或は粗意を取って述用し給えり、之に依って日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、其の功末だ終らず且らく集むる所なり」と記されている。
その大意はつぎのようになろう。すなわち、大聖人が御書中に引用されている諸文献は大聖人の御立場から自在に義を転じて用いられている場合もある。故に引用の諸文件を集めて勘校を行ったが、その仕事はまだ完了していない、というものである。
ここで注目すべきは「その項末だ終わらず」の一文である。つまり同書が執筆された時点で諸文献の勘校が完了していなかった、ということであり、同書が執筆されている時も諸文献の勘校は進行中であったという事実である。
同書には続いて、次の項目が記されている。
16 一内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之を撰ぶ
01 一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。
02 一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。
03 一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。
04 已上七巻之を集めて未だ再治せず。
00
05 一、奏聞状の事。
06 一先師聖人文永五年申状一通。
07 一同八年申状一通。
08 一日興其の年より申状一通。
09 一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
10 一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
11 一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。
12 一先師の書釈要文一通。(1607)
一方、重須談所第二代学頭の日順が著した日順阿闍梨血脈には、日澄が日興上人の命を受けて諸書を集めたことが次のように記されている。
「或は貴命に応じて数帖自宗所依の肝要を抽んづ、所以に本迹要文上中下三巻・十宗立破各一帖十巻・内外所論上下二巻・倭漢次第已上二巻・且つ之を類聚して試に興師に献す、興師咲を含んで加被せしむる所なり」
先の御文にある「本迹要文上中下三巻」は存知事の「本迹弘経要文上中下三巻」に対応し、同じく「内外所論上下二巻」は存知事の「内外論の要文上下二巻」に対応していることは明らかであろう。巻数まで一致しているからである。そのほかに「倭漢次第」が存知事の「漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」及び「一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」と関連があることも明らかと思われる。
日順阿闍梨血脈所掲の諸文献は編纂整理した上で日興上人に献じられたとあるが、御存知においては「日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す。其の功末だ終らず且らく集むる所なり」とあり、日興上人に師事していた日澄が、自ら整理編纂した諸文献を日興上人に献ずるとともに、これと平行して門徒存知事の執筆をしていたという可能性が考えられる。
日順阿闍梨血脈の先の次上に「日澄和尚は、即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多門にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し、宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す。其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざること無し」とあることからも日澄師が諸文献に最も詳しい人であったことは疑いなく、彼が門徒存知事の著述に参画していた可能性は十分にあるのである。
ところが当の門徒存知事にこの推測とは矛盾するかのような内容が記されている。すなわち追加八箇条の第一条に「一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり」(1608-15)とあるのがそれである。
先の文は日澄師のことを詳しく記している。この文が原文では八行にわたっているのに対して、追加八箇条のうち他の七箇条はそれぞれ二行分しかないのである。このことからも、日興上人にとって日澄師がいかに特異な位置を占める存在であったかがうかがわれるのである。しかしながら、日淳上人より以前においては同書の追加の条に日澄師のことが記されているが故に、師が同書の追加の条に日澄師のことが記されているが故に、師が同書の執筆者に気付いた人はいなかったようである。
日淳上人は同書が日興上人の命を受けて日澄師が執筆したものであり、追加の八箇条のみが日興上人の手になったものと解されていたのである。ことに上の文中には日澄師のことを「彼の日澄は」と記している。日澄師がもし生存中であったならば、親しく側にいる人物を「彼の日澄」と表現されるわけはない。そこから、追加八箇条は日澄師の死後、日興上人自身が記されたと考えるのが妥当である。これが日淳上人の見解である。
このように、富士一跡門徒存知の事は、日興上人の指示を受けて日澄師が本文を執筆し、追加の八箇条は、日澄師の死後、日興上人御自身が執筆されたというのが日淳上人の考証であるが、それを裏付ける決め手となるのが実は前項で述べた十大部の写本である。
下山御消息の日澄写本には「法華本門下山抄」と題号が記されている。このことは門徒存知事執時に執筆写の手許にあった写本が日澄写本であることを物語っており、門徒存知事の本文の執筆者がほかならない日澄師自身であったという可能性は極めて高いと思われるのである。すなわち、日興上人の意図に従って「御筆抄に法華本門の四字を加う」と記したのは日澄師であったと考えられるのである。このことからも、日澄師が富士一跡門徒存知の事の本文を執筆したとする日淳上人の説は裏付けられることになるのである。
ところで門徒存知事では後世の人が日興上人の名を謳って作成した偽書であるとする論者がしばしば取り上げるのは、門徒存知事中の「聖人御影像の事」の内容である。これが本書偽作説の根拠となり得るものなのか否か、ことは重大である故に、やや長文となるけれどもその全文を引用して検討しておこう。
12 一、聖人御影像の事。
13 或は五人と云い或は在家と云い絵像・ 木像に図し奉る事・ 在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
14 爰に日興が云く、 御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きな
15 り、 之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異ら
16 ずと雖も 大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、 但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二
01 年日順図絵の本有り、 相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、 而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめん
02 が為裏書に不似と之を付け置く。
この文の大意は、すなわち五郎僧や在家の者たちが大聖人の後入滅後に絵像や木像を本尊として盛んにあらわしたが、それぞれ容貌が異なっている。そこで、日興上人の言うに言うには「大聖人の御影を図する目的は後世の人々にその御姿を伝えるためであるから、ありのままに描くべきである」と。そこで日興上人門下で大聖人にお会いした人たちが共に評議して描いた。全体としては似ているが、細部まで正確とはいえない。故にその旨を記したのである。ただし、個々に図した像は一つもにたものがない中に、去る正和2年(1313)日順師の描いたものは、似ているとまではいえないけれども、他の図像に比べると少し大聖人の面影を写している。故にどれがよいのかを弁別するために「不似」と書き付けた、というのである。
この文の前半においては、皆で評議して大聖人の像を描いた旨が記され、後半においては、各個人で大聖人の像を描いたことが記されている。しかしそこに記される日順師は大聖人御入滅後の人であるにもかかわらず、彼も大聖人の像を描いたという。これは前半の「聖人を見奉る仁等・評議して」とある前半の文と矛盾する。のみならず、日順師の描いた像が他よりも面影があったにもかかわらず「後輩に彼此是非を弁ぜんしめんが為裏書に不似と之を書き付け置」いたとう。
ここでは何を言おうとぃているのかよくわからない。したがって、後半の「但し彼の面面の図像」以下はこのままでは意味が通らないのでる。このように本書中には疑問の個所がることは事実である。それゆえに門徒存知事そのものの史料的価値を否定しようとする人々は門徒存知事全体が偽作であるというのである。
しかしながら、門徒存知事が全般に論旨明快の筋の通った一貫性のある主張を述べた書でることには誰しも異論はないと思われる。よって門徒存知事の著作者が頭脳明晰な人物であったことは疑いない。したがってその著者が「但し彼の面面の図像」以下の如き筋の通らない文章を残すとは考えがたい。もし誰かが意図的に本書を偽作したのであれば、それらしく前後意味の通ずる文を書いたはずである。
しかしながら、先のような文が紛れ込んでいるのは、少なくとも本書が一人の人の手によって作成されたものではないことを物語っている。要するに、この部分において後世の人の加筆があり、それが混乱をもたらすものとなったと思われる。
およそこのような内容を日淳上人は指摘されたのである。そしてこれを支持すべき材料が、前述の「聖人御書の事」中にある「故に具に之を註して後代の明鏡と為すなり」の文と、それにもかかわらず、本尊問答抄に関しては「具」なる説明が記されていないことである。
これはいかなることかと考えてみると、日興上人が本尊問答抄に関して全く情報をもっておられなかったはずはない。しかも、日興上人による写本が現在も北山本門寺や茨城県猿島の富久寺に所蔵されているわけであるから、門徒存知事の執筆時点でこの写本が日興上人の手許にあったことはほぼ疑いないであろう。例えば正本の所在が不明であったのであれば、下山抄のようにその旨が記されてしかるべきである。
したがって、本尊問答抄の註が空白となっていることの理由は次のように理解した時にのみ明白となると思われる。すなわち、日澄師が門徒存知事を執筆した際に、本尊問答抄に関しては御正本の所在等について調査中であり、その故に後で正確な記述をいれるために慎重を期して空白部を残しておいた。
ところが日澄氏は延歴3年(1310)3月14日に病没した。発病の際には筆を執るに耐えない状態となっていたという。このために、日澄師の残した空欄がうめられないまま日興上人に提出され、日興上人も遂にこの空欄中に記す暇がないままに後世に至ったものと考えられるのである。
こう考えると、門徒存知事は完成稿として後世に残されたものではなかったと言える。しかも大石寺に現存する日誉写本も数度の転写を経たものである。その間に途中の転写等による加筆があり、「聖人御影像の事」の該当部分が転写の過程で意味不明のものとなってしまったと考えられるのである。したがって、こうした転写の過程で意味不明となり、あるいは矛盾が生じたとしても、それだけをもって門徒存知事全編を偽書とすることは不当である。
これらの考察から、次のことが明言できるであろう。すなわち同書の内容に疑惑をいだく者は、同書の全体をよくよく公正に検討すべきであり、と同時に日淳上人の論を虚心に検討し、そのうえで云々すべきである、と。それをすることもなく、単に「本書に偽書の可能性あり」としてその存在を無視するとすれば、極めて卑劣な我伝引水の態度であるといわざるをえない。
なお正和2年(1313)に日順師が大聖人の御影を描いたという記述については、日淳上人も疑問視されているように、それ自体が誤伝であるという可能性が大である。おそらく、後世に竄入せられたものであろう。故に、この正和2年(1313)という年が日澄師の没年たる延慶3年(1310)依り後であっても、それは同書の本文を日澄師が執筆したとする日順師の執筆年代の説を否定するための論拠たり得ないことはいうまでもないことと思う。
しかし、日淳上人は富士跡門徒存知の事の本文執筆年代を日澄師が発病する以前の延慶2年(1309)とし、また追加八箇条を日興上が記されたのは翌延慶3年(1310)であろうと推定あれている。ただし、日淳上人御自身も述べておられるように、日澄師の執筆年代は少し遡る可能性もある。この点を少しく補足検討しておきたい。
日澄師が日興上人に帰伏したのが正安2年(1300)であるから、日澄師が本書を執筆し得た時期は1300~1309の間に限られる。しかし、前述したように、日澄師は空白部分を残したまま没したのである。門徒存知事執筆時においては本尊問答抄については調査中の事項があったが故に空欄としたのであろうと推測したのであるが、一方開目抄や報恩抄では「日興所持の本は第二転なり、末だ正本を以て校えず」とあり、また既述の如く下山抄では「正本の所在を知らず」と記している。
これに対して本尊問答抄の場合は途中報告すら記されていないのである。このことを考え合わせると、門徒存知事は恐らくは短期日のうちに記されたものであろうと思われる。してみれば、本尊問答抄の空白の残存は、ひとえに執筆者日澄病状の急激な進行によって結果したものと理解せねばならないのではないだろうか。
これらの考察を総合すると、同書は日澄師の死に至る病が起こる直前より病の進行までの間に記されたことになる。よって1309に本書の本文が執筆されたとする日淳上人の見解は極めて妥当であると見られるのである。また同書には日澄師の兄にあたる日頂師の帰伏については述べておらず、その故に、日興上人に追加八箇条を記した時期は日頂師が日興上人に帰伏してくるより少し前、すなわち延慶3年(1310)頃であったとする日淳上人が御考証についても承服できるとおもわれるのである。
以上の考察により、富士一跡門徒存知事の事を偽作とする説には全く根拠がなく、同書は確かに日興上人自身の意図によって記されたものであったという結論に導かれるのである。故に同書中に述べられた十大部講義については、日興上人がこれを選定されたのであることも疑う余地がないといえるであろう。
三、本抄と十大部他抄との関係
富士一門跡門徒存知のことには、十大部が
①立正安国論
②開目抄
③報恩抄
④撰時抄
⑤下山御消息
⑥観心本尊抄
⑦法華取要抄
⑧四信五品抄
⑨本尊問答抄
⑩唱法華題目抄
という順序で記されている。ただし、この順序は年代順でもなければ重要性によって配立されたものでもない。
本項では、下山御消息をより理解するために、本抄との関連を念頭に置きつつ、これら他の十大部御書の各篇のないようを概略しておくことにしたい。大聖人の仏法の大網はこれら十大部御書の中に示されており、これによって本抄の教学的位置はおのずから明らかになると思われるからである。
①立正安国論
文応元年(1260)7月16日、当時の鎌倉幕府の最高権力者であった前執権の最明寺入道時頼に上呈された。これは大聖人にとって第一回の国主諌暁であった。門徒存知事には「此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う」(1604-10)とあるが、現存する御正本には二種類ある。一つは大聖人が文永6年(1269)12月8日に写されたもので、千葉・中山法華経寺に所蔵されている。もう一つは、建治・弘安年間に書かれたと推定されている。いわゆる「広本」と称されているもので京都・本國寺に所蔵されてる。
最明寺殿に提出された安国論の御真筆は現存しないが、ほかに身延山延暦寺にも御真蹟があったことが目録によって確認されており、少なくとも三種類の大聖人御直筆の御真蹟が存在していたことになる。更にこの他にも御真蹟断片14紙が10か所に散在している。これは、最明寺に提出される以前の現本を御自身の手元に置かれていて、それをもとに自ら書写されたということであり、他に類例のないことである。これをもって大聖人がいかに安国論を大事にされていたかが拝察される。創価学会版御書全集の安国論は、中山法華経寺本が基準になっている。
同書は、正嘉元年(1259)の大地震を機縁として、当時相次いだ未曾有の災難の由来を明かし、その解決の方途を示すために御述作された。国主をはじめ人々が邪法を信じ、正法の教えに背いているところに一切の災難の根源があることを諸経の文を引いて明らかにされたのである。このことについては本抄にも「此の災夭は常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず定めて仏法より事起るかと勘へなしぬ、先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る」(0355-02)と仰せられている。
安国論では、法然の念仏が仏法僧三宝を破壊する邪義であることを指摘され「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024-03)と述べられ、災厄を生じている元凶たる謗法を一刻も早く禁ずるよう諌められている。この点について日寛上人は立正安国論愚記において、まず撰時抄の「文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと」(0287-09)との御文を引かれるとともに、本尊問答抄の次の文を挙げられ、安国論における念仏折伏の諸宗破折の意を含んでいることを示している。
「真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云云、其の証拠を尋ぬ可きなり所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経・此の経に分明なり此に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君・或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻見なり、譬えば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ超高が民の身として 横に帝位につきしがごとし又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし漢土にも知る人なく日本にもあやしめずしてすでに四百余年をおくれり。是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍つて 故最明寺入道殿に奉る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し」(0371-03)
このように、立正安国論における破折は、その元意においては念仏一宗だけでなく諸宗に及ぶのであり、その点は下山抄を共通するといえるであろう。
ただし安国論執筆当時は、大聖人にとっては弘通の初めであり、最も流行していた念仏の邪義からまず折伏を加えられたものと拝される。
これに対して、下山抄の御執筆は建治3年(1277)であり、安国論が著されてから17年後のことである。この間に時代背景も大きく変っていた。つまり、文永11年(1274)10月には、大聖人が立正安国論で警告されていた他国侵逼難が遂に蒙古軍の未曾有の国難として現実のものとなっていった。そして、その蒙古調伏のために一国をあげて盛んに行われるようになったのが真言密教による祈禱であったのである。
こうした背景と併せて大聖人は撰時抄・報恩抄を相次ぎ著され「宗と申す大邪法・念仏宗と申す小邪法・真言と申す大悪法」(1064-09)と仰せられてるように、大悪法たる真言密経の本格的な折伏に力を注がれている。下山抄もこうした御化導の一環のなかで、真言の破折にも重きを置かれた御書の一つと拝することができる。
②開目抄
文永9年(1272)2月、四条金吾に賜ったものであるが、もとより門下一同の書である。十大部のなかでは佐渡期の最初の御書である。門徒存知事には「佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604-13)とある。その後、御正本は身延につたえられていたが、明治8年(1875)身延の大火で焼失してしまった。
同抄は人本尊開顕の書として、立正安国論・観心本尊抄と共に三大部に数えられる重書である。「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(0186-01)の一節に始まり、五重の相対によって儒教及び外道に比べて仏教の勝れたる所以と成仏の種子である一念三千の法門は法華経本門寿量品の文底に秘沈されていることが明かされている。それとともに法華経の説く通り三類の強敵に値っていることを結論されている。夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり
日寛上人は開目抄愚記で同抄の御述作の由来について「凡そ当抄の興起は、別して竜口巨難に就いて由って起る所なり、謂く、蓮祖大聖人は正しく末法の法華経の行者にして三徳有縁の仏なり。然るに日本国の上下万民は末だ曾てこの事を知らず。父母宿世の敵よりも強く悪み、謀反殺害の者よりも強く責め、剰え文永8年(1271)9月12日すでに御命に及ぶ。然りと雖も、誹謗の人敢えて現罰を蒙ることなし、諸天等の誓言も殆ど徒然なるに似たり。故に弟子檀那は恐らく疑心を生じ、蓮祖はこれ法華経の行者に非ずと謂う。故に正しく法華経の行者なることを決定し、疑を断じて信を生ぜしめんが為にこの抄を述作するなり」と述べられている。
また開目抄では「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ」(0223-16)と仰せられ、竜の口の法難において凡身を捨てて発迹顕本されたことを述べられている。
そして末尾で大聖人が主師親の三徳を具備されていることを「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)と結論されている。この御文は、冒頭の文を承けて大聖人が三徳具備の末法の御本仏であることを自ら宣言されたのであり、同抄の元意をあらわされた重要個所である。ところが、縮冊遺文や昭和定本当においては、「しうし父母」を「したし父母」としている。今日では本抄の御真筆は焼失しまっているために確認しようもないが、日寛上人は文段で、同抄の大意から「しうし父母」が正しいとし、もし「したし父母」としても、三徳のうち親徳に他の二徳を摂して述べられたと拝すべきであると述べられている。
下山抄においても「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり」(0355-12)と、大聖人が一切衆生に対して主師親の三徳を具備されていることを明確に述べられている。
③報恩抄
建治2年(1276)7月21日、55歳の御作。大聖人の清澄修学時代の師である道善房が同年3月26日に死去し、大聖人はその知らせを受けて、道善房の追善供養のために同抄を認められ、同修学時代の法兄に当たる浄顕房・義城房のもとに送られた。門徒存知事には「身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604-15)と記されている。
同抄は冒頭に「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」(0293-01)と説き起こされ、人の人たる所以は報恩にあり、恩を報ずるためには仏法を習い究めてその極理に通達せねばならないとして、道善房のもとを離れて修学の旅に出られた動機を述べられた三大秘法の重要法門に説き及んでいる。報恩抄送状には「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ 詮なからん人人にきかせなば・あしかりぬべく候」(0330-07)と記されており、おの「大事の大事」について日寛上人は報恩抄文段の序において次のように御教示されている。
「凡そ五大部の中に、安国論は佐渡已前にて専ら法然の謗法を破す。故にこれ権実相対にして末だ本迹の名言を出さず。況や三大秘法の名言を出さんや。開目抄の中には広く五段の教相を明かし、専ら本迹を判ずと雖も但『本門寿量の文底秘沈』といって、尚末だ三大秘法の名言を明かさず。撰時抄の中には『天台末弘の大法経文の面に顕然なり』と判ずと雖も、而も浄・禅・真の三宗を破して、末だ三大秘法の名義を明かさず。
然るに今当の中に於て、通じて諸宗の謗法を破折し、別して真言の誑惑を責破し、正しく本門の三大秘法を顕す。これ則ち大事の中の大事なり」
末法弘通の正法として三大秘法の名目を明示しているのは、五大部御書のなかでも同抄のみである。
報恩抄のなかで三大秘法に言及されているのは、次の個所である。
「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-13)
この御文において重要なことは「本門の教主釈尊を本尊とすべし」「釈迦多宝」「脇士となるべし」との語が示す内容である。ここでは、釈迦・多宝の二仏が本門の釈尊の脇士となると仰せられている。したがって、多宝と並ぶ「釈迦」とは本門の「教主釈尊」と同一ではないことが明らかである。
これをいかに解すべきかで、釈尊を本仏と立てる他門流では苦しい解釈を重ねてきた。安国院日講も録内啓蒙巻第15の中でそれまでの解釈を列挙しつつ、結局は「粗意測り難し、故に衆義並び存して後賢の研覈に備う」と述べ、自ら正解を放棄して後世に委ねざるを得なかったのである。
この問題についても、下山抄で大聖人が御自身のことを「教主釈尊の大事なる行者」と仰せられた御真意を拝すれば、明瞭となるのである。すなわち、教主釈尊よりも大事なる行者である日蓮大聖人こそが「本門の教主釈尊」にほかならない。すなわち、報恩抄に仰せの「本門の教主釈尊」とは大聖人を指し、釈迦・多宝の二仏がその「脇士」となることは明らかである。
④撰時抄
建治元年(1275)、54歳の御作。門徒存知には「駿河国西山由井某に賜る,正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り」(1605-01)とある。
由井某とは駿河国西山に住んでいた。日興上人の外戚に当たる人と考えられている。また、これによって十大部御書のうち、御正本が日興上人の手許にあったごくわずかのこの書のうち上中二巻のみであったことが知られ、令法久住に心を砕かれた日興上人の御心中が忍ばれる。その後、いかなる経過をたどったかは不明であるが、御正本は現在・玉沢の妙法華寺に所蔵されている。
同抄には、仏法の実践においては、まず時を知るべきことを論じ、正法・像法時代の仏法弘通の歴史を踏まえ、末法今時において弘通すべきは法華経であり、この法華経を身読した閻浮第一の法華経の行者が大聖人御自身であることを示され、大聖人の仏法が必ず末法において広宣流布することを述べられている。
仏教伝来の歴史については、撰時抄の内容を更に平易に要約されている。
また、撰時抄においては、大聖人が主師親の三徳を具備されていること、閻浮第一の法華経の行者であられることを明かされたあと、「仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすといへども今のごとくの大難は一度もなきなり、南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」(0266-13)と仰せられ、更に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを 聖人という余に三度のかうみようあり」(0287-08)として、三度にわたる予言の的中をもって聖人たる証とされている。また「我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり」(028-06)と述べられている。
この二つの御文は、日寛上人が「『大人』とは大聖という事なり」と御教示されているように、大聖人が御自ら御本仏の異名たる「大聖人」と称されるべきことを明かされたものであり、御本仏としての境界を宣言されたものと拝さなければならない。
⑤下山御消息
本文の主題につき、省略する。
⑥観心本尊抄
文永10年(1273)4月25日、52歳の御時、佐渡で著され、富木常忍に与えられた。門徒存知事には法華取要抄・四信五品抄と共に、「已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り」(1605-08)とある。御正本は現在も中山法華経寺にあり、国宝に指定されている。
同抄は、仏法の究極たる事の一念三千の法門を末法において観心の本尊として顕することを宣せられており、故に法本尊開顕の書といわれる。末法の初めに地涌の菩薩が出現して本門の釈尊を脇士とする閻浮第一の御本尊が日本に出現することの必要性を経文及び天台大師等の釈によって明かされ、この御本尊を受持する功徳の大なることを説かれている。
下山抄が未入信の下山兵庫に与えられたのに対し、本尊抄は当時の在家信徒の重鎮であった富木殿へ与えられたものである。また説かれる法門が大聖人の御身にかかわる大事中の大事であったことから綿密に論を尽くされ、表現も極めて慎重を期されて、深き透徹した信解のある者にのみその内容の理解が可能な重書となっている。観心本尊抄送状に「無二の志を見ば之を開柘せらる可きか」(0255-02)と仰せられている。
また、本文中にも「問うて曰く教主釈尊は」(0242-14)の後に、「此れより堅固に之を秘す」(0242-14)と注し、あるいは「答えて云く宣べず、重ねて問うて云く如何、答う之を宣べず、又重ねて問う如何、答えて曰く之を宣ぶれば一切世間の諸人・威音王仏の末法の如く又我が弟子の中にも粗之を説かば皆誹謗を為す可し黙止せんのみ、求めて云く説かずんば汝慳貪に堕せん、答えて曰く進退惟れ谷れり試みに粗之を説かん」(0253-02)と述べられているように、慎重に慎重を重ねて説かれたのが次の内容である。
「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず」(0254-08)
この御文は、末法に地涌の菩薩が出現して本門の釈尊を脇士とする未曾有の御本尊を建立するとの意であるが、大聖人の正義に反して本迹一致を唱える不相伝の徒輩にとっては到底その深意を理解することはできずに、原文の漢文を誤って解している。すなわち御真蹟の原文は「此時地涌千界出現、本門釋尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此國、月支震旦未有此本尊」となっている。他門流では「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」と誤読しているのである。
この読み方が誤っていることは同抄の他の例に照らして明らかである。すなわち同様の表現が次のように記されている。
「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」(0248-01)
この赤文字部は縮冊遺文によると「小乗ノ釈尊ハ迦葉阿難ヲ為シ二脇士ト一権大乗並ヒ二涅槃法花経ノ迹門等ノ釈尊ハ文殊普賢等ヲ一為ス二脇士一」となっており、いずれも「為ス二脇士一」すなわち「脇士と為す」と読んでいる。にもかかわらず「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読んでいるのは、余りにも不自然であるといわざるを得ない。
ともかく、その後に御図顕された御本尊の相貌によって大聖人の御真意は明瞭であるといわねばならない。すなわち、本門の釈尊を脇士となす本尊こそ、地涌千界の上首・上行菩薩の再誕として出現された大聖人の顕される一閻浮提第一・未曾有の御本尊にほかならない。しかしながら、上行菩薩の再誕としての御立場は迹で、その本地は久遠元初自受用身如来であられる。人に約し久遠元初自受用報身如来とは即法に約して南無妙法蓮華経であり、御本尊中央の首題であられる。釈迦・多宝はその左右であって脇士となっているのである。
その意味で、下山抄における「教主釈尊より大事なる行者」とは、まさに大聖人の御内証の御立場を示されたのであり、教主釈尊とは久遠元初の御本仏に対して脇士となる本門の教主釈尊を指している。
⑦法華取要抄
文永11年(1274)5月24日に著され、観心本尊抄と同じく富木氏に与えられた。十大部のなかでは、身延に入山されて最初に著された御書である。
同抄は、一切経のうちの最第一の教えが法華経であり、法華経はことに末法のため、日蓮大聖人のために説かれた経であることを明かされ、法華経の肝要であるとともに、正像に弘められず末法のために残された秘法が三大秘法であることを「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(0336-02)と述べられている。そして、大聖人当時の天変地夭はひとえに上行菩薩が出現して三大秘法の法門を世界に流布すべき先兆であることを述べられている。
日寛上人は取要抄文段において「当に知るべし、諸抄の中に或は『寿量の文底』といい、或は『寿量の肝心』といい、或は『三箇の秘法』という。皆これ久遠名字の妙法なり。これ則ち正中の正、妙中の妙、要中の要、故に当流の意は、久遠名字の妙法を肝要と名づくるなり。当に知るべし、三世十方の微塵の経々、無量の功徳は、皆悉くこの要法に帰するなり、今蓮祖大聖、偏に如来の付嘱に任せ、この要法を取って末法今時に弘通したまう相を述ぶ。故に『取要抄』と名づくるなり」と述べられている。
なお下山抄においても「世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(0346-10)と仰せられているが、この御文の「迹門十四品を譲り給う」とは迹化の菩薩に与える法華経として迹門の法華経を付嘱したということであり、法華経の前半の半分を迹化に、後半の半分を本化地涌の菩薩に譲ったという意味ではない。次下の御文にあるように、本化地涌が弘められるのは「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」なのである。
⑧四信五品抄
下山抄と同じ建治3年(1277)、56歳の御作で富木氏に与えられた。門徒存知事には「法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く」(1605-08)とある。
富木常忍は不審というのは「法華経を修行するためには戒定慧の三学を具える必要がある」という通説を引いて、これをいかに考えるべきかと大聖人に質問したことを指すと思われる。
これに対して大聖人は、末法の初心の行者は、法華経分別功徳品第十七に説かれる四信及び五品のうちのそれぞれ最初の一念信解・初随喜の位であり、この一念信解・初随喜、すなわち名字即の位にこそ法華経の本意があることを明かされている。そして、初心の者には戒・定の二法を制止して専ら慧の実践をさせるべきであり、以信代慧の原理によって深く信に立脚するよう修行の肝要を示されている。
更に伝教大師の「二百五十戒忽に捨て畢ぬ」及び「末法の中に持戒の者有らば既に是れ怪異なり市に虎有るが如し是れ誰か信ず可き」の文を引かれて、戒を重んずる考え方を打ち破られている。ここに小乗戒と大乗戒との本質的相違を示唆されるのであるが、これは下山抄における良観批判の御文と重ね合わせるならば、その深意が明瞭となろう。すなわち鎌倉の良観こそまさに市の中の虎にほかならないということである。
大聖人はまた同抄で、仏教伝来の歴史を記されつつ、伝教大師の功績をたたえられて「此の人先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取つて末寺と為す、日本の仏法唯一門なり王法も二に非ず法定まり国清めり」(0342-17)と、法華迹門の広宣流布の相を述べられている。しかるに弘法・慈覚・智証の三大師が大日経を重んじて、仏法の流れを濁してしまったとして「所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し」(0343-05)と結ばれている。
⑨本尊問答抄
弘安元年(1278)9月、大聖人の清澄寺修学時代の法兄である義浄房日仲に与えられた。門徒存知事には「本尊問答抄一巻」と記すのみであるが、これは前述したように、同書が未完成のままに日澄師が病に倒れたためと考えあれる。同抄が重要でないということではない。
同書は十大部の中では最後に著されたものとなっている。下山抄はこれに先立つこと一年であるが、この間に、大聖人がかねてから主張されていた真言や禅宗との法論対決という形で実現しかけたことがある。ところが、いかなる経過をたどったかは不明であるが、結果として公場対決は実現しなかった。
三沢抄に「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、 此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489-07)と仰せのように、大聖人は真言宗との公場対決を極めて重視されていたが、これは実現しないまま、竜の口の法難を迎えたのであった。
竜の口の法難を経られて、万一の事態を考慮された大聖人は、門下のことを思われて、信頼すべき人物を対告衆として重要法門を書きとどめられたと拝察される。十大部御書でいうならば、立正安国論と唱法華題目抄を除いてはすべて佐渡已後の御述作である。
大聖人は、公場対決が実現しなかったことから、以後は後世の弟子に広布の実現を託して、令法久住のために全力を注がれた。本尊問答抄が時期的には十大部の締めくくりとなった背景としてこのような事情があったと推察できよう。
同抄では、まず末法では釈尊を本尊とするのではなく、法華経の題目を本尊とすべきことを教釈を引いて論証し、法華経こそ釈尊をはじめ、十方諸仏の能生の根源であると説かれている。続いて日本へ仏教が伝来して以来の歴史を詳述して諸宗を破折され、殊に日本一国を謗法で毒した源である弘法・慈覚・智証の三大師の誑惑を明らかにされ、真言が亡国の法である現証として、源平の戦いと承久の乱とを挙げられている。そして蒙古の調伏の祈禱を真言によって行うならば、三たび亡国の因になるであろうと警告されている。
最後に大聖人が顕される御本尊について「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へどもいまだ見へさせ給はず、日蓮は其の人に候はねどもほぼこころえて候へば地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり」(0373-17)と述べられている。
今、下山抄を対照とすれば、この御文は、実に仏滅後二千二百三十余年の間、未曾有であった御本尊を顕されているのが大聖人であり、それは大聖人が「教主釈尊より大事なる行者」であるからこそ可能なのである。
⑩唱法華題目抄
文応元年(1260)5月、39歳御作、対告衆は特に記されていない、御正本は所在不明であるが、日興上人による写本があり、由井家が所蔵しているという。門徒存知事には「此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり」とある。
十大部御書の中では最も早く著された御書であり、立正安国論上呈の2ヵ月前にあたる。内容は爾前経と法華経との相違すなわち権実相対に主眼が置かれ、いわば法華経入門として簡明に法門が説かれている。また、念仏が直接の破折の対象となっていることにおいても下山抄と共通しているといえよう。
同抄は15問答で構成されており、まず法華経の題目はたとえばその文義を知らずして唱えてもその功徳が莫大であることを述べられ、流通分たる法華経分別功徳品第十七と随喜功徳品第十八の意をとって「謗法と申すは違背の義なり」(0004-16)と述べられ、続いて五十展転の功徳を示されている。
しかしながら、多くの初心の人々は、念仏者等の悪知識によってたぶらかされ、成仏を妨げられるとして、涅槃経と法華経勘持品第十三の意を取って「末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候」(0006-01)と仰せられている。
続いて本尊と修行法に言及され、法華経八巻、一品、あるいは題目をもって本尊と定めるべきこと、行儀は本尊の御前においては座立行を行い、常の所行としては題目を唱えるべきことを示されている。更に法華経を弘めるべき機根と時について触れられ、法華経を弘めない者は天魔であると断じられている。そして法門をもって邪正を糺すべきであって利根と通力によってはならないと結ばれている。
四、本抄が十大部に選定された理由
ここで、再度、十大部御書における問題点を整理しておきたい。
門徒存知事に挙げられた十大部御書のなかで、現時点でほぼ完全に存するものは、立正安国論・観心本尊抄・法華取要抄・四信五品抄・撰時抄の五編であり、これに断簡多数の現存する下山抄を加えると、十大部のうち御真蹟が伝わっているのは六編を数えることに成る。
更に、明治8年に焼失した開目抄と報恩抄は身延の記録によると御真蹟が存在していたことが確認されている。残る唱法華題目抄と本尊問答抄については、御正本の所存が不明であるが、いずれも日興上人の写本がある。
さて、十大部御書という名称は、日興門流以外では用いられていることを聞かない。しかし、三大部という名称は早くから用いられており、日蓮大聖人御入滅後67年にあたる正平3年(1348)には、既に身延山第5世の日代に祖書三大部見聞という著名が見えている。これに比べると五大部という名称の初出は更に200年ばかり下る。即ち要行院日統の著に五大部講義と見えるのが初出である。また日寛上人が報恩抄文段において「五大部」の語を用いられたことは前述した通りである。
なお、門徒存知事に記された十大部の順序については、そのようになった理由が種々考えなれるのであるが、まず観心本尊抄・取要抄・四信五品抄の三編は富木氏に与えられたことから、これを一括して並べられたこと等により順不同となったことが考えられる。また観心本尊抄が門徒存知事では6番目に記されていることを踏まえると、十大部選定の段階では五大部や三大部という分類はまだなかったとも推定される。
さて、前項における十大部御書の概念によって、下山抄が他の九編の御書と内容的に深くかかわっていることを確認した。もっとも大聖人の御書においては、こうしたことは下山抄に限ったことではなく、それぞれが密接にかかわっており、一つの御書の元意、あるいは一つの御文の深意を把握するためには、御執筆の時期、背景を踏まえつつ、法門の全体観の上から理解する必要があるといってよい。
しかしながら、大聖人が因幡房の立場を借りてではあるが、本抄において末法の御本仏としての御内証を明示されていることは、他抄における重要法門の正確な理解に資すること大であり、換言すれば本抄の存在は、大聖人の御相伝に基づいた日興門流の教義の正統性を裏付けるうえで極めて重要であるといえるであろう。また、本抄を与えられた下山兵庫が必ずしも仏法に明るい人ではなかったから、くまでもその論述は平易に展開され、本尊抄のように漢文の読み方をめぐって紛糾することもない、不相伝家の他門流の本抄の改竄説を唱えたのも、かつてそうした本質の重要性を物語っているといえよう。
本抄の著された建治3年(1277)は、既に前年の報恩抄をもって五大部のすべてが終了し、これによって大聖人の仏法における重要法門の大網が整足されたことになる。つまり、三大秘法の建立という御化導の究竟に向けて、御自身の法門を周到に論述され、いよいよ末法万年にわたる一切衆生救済の根源であり出世の御本懐たる大御本尊の建立へと最後の御化導に入られるのである。この意味でも、本抄は大聖人の一期の御化導にいて重要な位置を占めており、日興上人が本抄を十大部の一つとして選定された所以もここにあると拝することができよう。
本抄の大意top
下山抄は、大聖人が因幡房日永の立場を借りて下山氏に送られた啓蒙の書でありながら、大聖人御自身の御内証の一端を明かされた重要な御書である。したがって決して偶発的に御内証が明かされているのではなく、周到に論旨を運ばれている。そのことは、以下の本文の流れを見ることによって明らかになるであろう。本抄の別名を法華本門抄という所以もここにある。
本抄御執筆の時期は第一回の蒙古襲来から3年後で、いつ再度の来襲があるかわからないという不穏な時代であり、そうした不安な世相の中で、仏法の正義に目覚めるべきことを大聖人は繰り返し訴えられている。
なお、本抄を与えられた下山兵庫五郎光基は、念仏の強信者であったが、この光基に対する、いわば仏法入門となっている。すなわち身延の草庵における大聖人の説法の内容を紹介するという体裁をとりながら、正・像・末という仏法流布の歴史を辿り、法華経の正統性と、法華経に予言された大難を乗り越えてこの法華経を身読した大聖人こそが、教主釈尊よりも更に根源的な仏、すなわち久遠元初の御本仏であられることを文証と理証を通して明快に示されている。
本稿においては、以上のような概念を踏まえて、基本的には日亨上人編纂の御書全集に従って、本抄を14段に分けた。それぞれの段落ごとの大意は次の通りである。
第一段 因幡房が法門の聴門に至る経過(0343-01~0343-08)
「例時には阿弥陀経をよむべきではないのか」という光基から因幡房宛ての詰問に対して、因幡房がそれまで退転なく読誦してきた阿弥陀経を止めて、昨年より法華経の自我偈を読誦している現状、及び阿弥陀経読誦を止めた理由を書き出して本抄が始まる。
すなわち本抄執筆の3年前文永11年(1274)の夏の頃、当時既に有名になっておられた日蓮大聖人が身延に入山された。その大聖人にお目通りしに行くという人があり、因幡房は様子を見るだけでもいいという気持ちから、大聖人の御説法を御庵室のうしろに隠れてそっと聴聞する機会に恵まれた。これが阿弥陀経読誦をやめるきっかけとなったと説明する。
第二段 宗教の五綱と大小兼行の戒め(0344-01~0344-11)
その折に聴聞した法門の内容はおよそ以下に述べる通りである。
まず法華経と阿弥陀経などの諸経とを比べたときに、その勝劣が天地雲泥であることは今更いうまでもないが、法華経を修行するにあたっては大小・権実・顕密を弁え、更に弘通すべき時と衆生の機根とを考えねばならない。しかし今の日本では、人々は阿弥陀経を重視して法華経を軽視しているばかりか、時や機根や弘通の先後によって修行法が異なることを誰ひとりとして弁えていない。故にいかに修行しても功徳がないのである。弘教の順序として、小乗が流布した国に大乗を流布することはあるが、その逆は許されず、まして初心の行者が大乗と小乗を兼ねて修行するようなかとがあっては断じてならない。と。
第三段 鑑真より伝教大師に至る仏教の歴史と正直の行者(0344-12~0346-02)
像法時代に日本へ天台法華宗の章疏をもたらした鑑真は、当時の衆生の機根が未熟であったので、天台法華宗を弘めることはせず、小乗の戒壇を建立した
その後、伝教大師は、律宗等の南都六宗と禅の奥義を究めたばかりでなく、天台法華・真言の二宗の勝劣を究めた。やがて延暦21年(0802)に高雄講経によって、伝教大師は法華第一を明らかに示し、六宗の高僧をして帰伏状を出さしめた。この歴史的事実に加えて法華経及び伝教大師の文証によって、法華経が諸経の中でも最も勝れていることが明かされる。しかして正直の初心の行者であるべき姿は、爾前の諸経への執着を捨てて純粋に法華経を修行するところにこそある。と論される。
第四段 正像末の弘通と上行喜薩の出現(0346-02~0347-05)
次に弘通の順序に関しては、釈尊は正・像・末の三時を区分し、そのそれぞれの時に弘通すべき経と人とを定められた。すなわち正法1000年のうち前半は小乗の教えを迦葉・阿難らが弘め、その後半には権大乗の教えを馬鳴・竜樹等が説き、像法1000年には法華経迹門の法門を天台大師・伝教大師等が弘通したのである。
そして今、末法は上行菩薩が出現して法華経本門を弘通すべき時にあたっており、その瑞相は既にあらわれている。しかるに諸宗の人師等は経の浅深に迷い、仏の付嘱の筋を忘れて、機根をも考えず自分勝手に宗派をたてている。ことに律宗等の小乗経は、インドにおいて正法時代の前半に弘通された小法であり、日本においては天台法華宗の流布の前提として、衆生の機根を調えるという役目をもっていたに過ぎない。だからこそ像法時代の末に伝教大師が出現し、叡山に法華経円頓の戒壇を建立した時、日本国をあげて小乗の戒壇は捨てられたのである。
第五段 良観ら鎌倉律師の批判(0347-06~0349-09)
現在の律師は、このようにとっくに破られ捨てられた小乗の経典を取り出して、これに法華経の大戒を盗み入れることによって公家や武家を欺き、自ら国師であると萬じているのであって、天下第一の欺瞞者というべきである。涅槃経において釈尊は像法・末法の悪比丘の姿を予言して「戒律をもっているかのごときの比丘」と述べているが、鎌倉極楽寺の良観こそまさにその悪比丘であり、彼に欺かれた日本国の人々は経文通りに現世では亡国の、後世には無間地獄の苦悩に陥らなければならない、と警告される。ところが責められた良観すなわち両火房は、讒言によって日蓮大聖人を亡き者にしようと画策し、このため、大聖人が身命を捨てて国主を諌暁されても、国主等は彼にたぶらかされ、誰一人大聖人の讒言を用いようとしなかったのである。
第六段 両火房の祈雨(0349-09~0351-04)
極楽寺良観の本質が法華経勘持品第十三に説かれる第三の強敵、すなわち僭聖増上慢であると見定められた大聖人は、文永8年(1271)6月、折しも良観が幕府より祈雨を命ぜられたことを伝え聞き、彼のもとへ使者を遣わして祈雨の勝負を申し入れ、良観はこれを受けた。
ところが当初の期限であった7日どころか14日かけて祈っても雨は一滴も降らず、かえって暴風が起き、勝負は誰の眼にも明らかとなった。しかるに良観は、潔く敗北を認めて邪見を翻し山林に隠れるべきところを臆面もなく弟子檀那に顔をさらし続けたのみならず、大聖人を陥れんと画策したのである。このような大悪人の讒言を用いるならば、現世の亡国と後生の無間地獄を招くことは疑いない、と大聖人は再度警告された。
更に、こうした祈雨の失敗の前例として、弘法や善無畏・金剛智・不空らを挙げ、それに対し、天台大師や伝教大師の場合はその祈りによって慈雨が降ったという史実を指摘される。
第七段 三類の強敵と法華経の行者(0351-05~0352-03)
再度、勧持品と涅槃経の経文を引き、仏説と当時の日本の状況とを照らし合わせて、三類の強敵とその役割を究明されていく。すなわち第三の強敵を呼び起こした日蓮大聖人こそが法華経の行者であり、また良観がいたからこそ経文が虚妄でないことも証明されたことになる。
この経文が真実であるとすれば、良観に帰依して日蓮を迫害する国主は、経文である通り現世には亡国、後世に無間地獄はもはや疑いないではないか、と三たび警告され、経文の予言通りの諸天による治罰が、日本の歴史始まって以来未曾有の大事たる蒙古襲来として現実になろうとしていることを示されている。
第八段 叡山の密教化への歴史第(0352-03~0354-09)
仏教以前の時代は衆生の機根が良かったが故に、外典を以て世も治まったのであるが、時代の進展とともに聖賢も出現せず福徳の人も滅じてきたために三災七難が起こり、外典では到底治まらなくなってきた。そこで仏が出現されて以後、内典のうちに小乗経を用いることによって到底治まらなくなってきた。そこで仏が出現されて以後、内典のうちの小乗経を用いることによって世は治まった。しばらくそこで保つことはできたが、時代の推移につれ人の悪は増長し、やがて小乗経では治まらなくなったので、次には大乗経を用い、更にそれも治まらなくなって伝教大師が法華円頓の戒壇を比叡山に建立し、世を治めたのである。
しかるに、弘法大師という天下第一の自讃毀他の輩が伝教大師入滅後に公家の人々をだまして真言宗を立てた。この真言の誑惑は、比叡山第三代座主の慈覚や第五代の智証に及んだ。この二人は、真言が法華経に勝るとして伝教大師の正義を歪曲してしまい、そのために王法の世界も下剋上の世となってしまったのである。それでもしばらくは儀式上、法華経読誦の伝統は絶えなかったが、後白河法皇の時代になって、座主明雲によって法華の三部経読誦が真言の三部経に取って代わり、天台山は名ばかりで真言の山と化した。これが決定的な一国亡国の先兆となすのである。
第九段 末法の様相と立正安国論の提出(0354-09~0355-11)
末法に入ると、この真言に加え、禅・念仏の悪法が並び起こってきた。承久の乱の際、真言によって祈禱を行った後鳥羽院らは幕府を倒そうとしたが、かえって臣下たる北条氏によって流罪されるはめになった。結局は、日本国の万民が真言に加えて禅宗・念仏宗の悪法を用いたために、前代未聞の下剋上を招いたのである。しかるに、承久の乱で勝利した北条義時は文武を究めた人物であった故に、その後しばらく世は治まった。
しかし、やがて真言の邪法が関東に下って根を張り、念仏及び禅も盛んとなって、人々の法華経への帰依が完全に廃れてしまう。そこで未曾有の天変地夭が起こる。仏典によってその理由を見極められた大聖人は、立正安国論にこの災難を止める方途を記して北条時頼に提出した。しかし幕府からは無視されたばかりでなく、逆恨みした念仏者によって草庵を襲撃され、更には幕府によって伊豆へ流罪されるに至ったという経過を述べられる。
第十段 仏の三徳と発迹顕本(0355-12~0356-13)
経文によるならば、日蓮大聖人こそ日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり主君の使いであることは明らかである。この大聖人を迫害する幕府はわざわざ災いを招いていることになる。やがて伊豆流罪は赦免となったが、大聖人は、法華経法師品第十等の経文通りの難を呼び起こしてこそ法華経を身読できるのである、と仏法の正義を主張し続けられた。
そこへ予期した通り刀杖の難が起こり、また文永8年(1271)9月12日には竜の口で頸の座に臨まれ、一分の失もないのに佐渡へ流罪となられた。このとき、「法華経のために命を捨てるほど嬉しいことはない」と弟子に語り、また平左衛門尉頼綱に対し、未来のことを予言された。
第11段 最後の国諫と身延入山(0356-14~0348-06)
大聖人に対する流罪・死罪の処罰は、幕府の根本法たる貞永式目中の起請文に背くものであるとともに、ひいては法華経の大怨敵となる行為であると指摘され、賢明なる国王であれば身命を賭した大聖人の諌言を詳しくきくべきところを、聞こうともせず用いようとしないことすら不思議であるのに、それどころか頸をはねようとしたことはもってのほかであると厳しく弾訶されている。とって幕府の重罪は許されるべくもなく、忠臣を虐殺した夏の傑王や殷の紂王の如く現世に亡国の憂き目を見、後生には無間地獄を免れないと、四度警告されている。
佐渡流罪より赦免された直後の文永11年(1274)4月8日に平左衛門尉に対面した際、大聖人は蒙古が今年中に必ず攻めてくるであろうと予言され、三度目の諌言をされたが、幕府がこれを用いなかった。故に「三度の諌めを用いざれば去れ」という故事に従って身延へ入られたと述べられている。
第12段 三徳具備の仏に背く念仏者等の謗法(0358-07~0361-12)
再び法華経譬喩品第三の文を挙げ、法華経の行者を軽賤憎嫉する者は阿鼻地獄に入る、とある経文の通り、阿弥陀等の爾前の諸経に執着したり、法華経と並べて行じたり、あるいは自分たちの経が勝れているとしたり、あるいは更に法華経の行者を辱しめるという謗法の行為が無間地獄の因となるのである、と念仏等の謗法を破折されている。
また念仏者の本師たる善導は千中無一の邪義を唱え法華経を誹謗したために顚倒狂死し、真言の祖・善無畏は三徳の教主釈尊を貶めて大日如来を崇めたために閻魔の責めにあって無間地獄に堕ち、禅宗の三階信行禅師は釈尊の一代聖教を時と衆生の機根に適わない別教であると下して自らの作った経を崇重したが故に現身に大蛇となった、と仏に背く行為たる謗法の罪の本質とその報いとを明かされている。
第13段 一国講法の現状と末法の御本仏たる内証の開示(0361-13~0363-13)
日本国の人々は、たとえ法華経を持ち釈尊を崇重しようとも、真言・禅・念仏による謗法を断じない限りは無間地獄を免れ難く、しかも法華経の行者たる日蓮大聖人を蔑み、慢心を起こしている。そして、かつて予言した通り蒙古の脅威が次第に強くなり、内心では後悔し始めてはいても、大聖人を信じようとしないでいる。大聖人を軽んじ諸宗の僧を貴んだが故に法華経の敵となり諸天の大怨敵となったために国が滅びようとしているのである。彼らがいかに蒙古軍の防備に努めたとしても、教主釈尊よりも更に大事な法華経の行者たる日蓮大聖人を迫害したその大謗法の重罪から免れることができるだろうかと述べられ、最後に、真言による祈禱では国難を救えるはずがないと、大聖人の帰依を強く勧告して本抄を結ばれていたのである。
第14段 因幡房よりの諫言第(0363-13~0363-11)
ここから因幡房の地の文に戻り、彼自身の覚悟と光基への諌暁を述べる。すなわち、理にかなった大聖人の主張に対して、これをよく吟味もしないで流罪にまで処した幕府のやり方は理不尽であるとの感想を述べ、彼が阿弥陀経の読誦をやめたのは下山殿のためであり、強いてこれを読誦せよというのであれば、下山殿のやり方も理不尽となるが故に謗法の罪は免れない、と警告する。
世間では親や主君や師匠の言には善悪につけて必ず従うべきであると言われているが、これは誤りであり、真実の恩を報ずるためには、一時的には背くように見えても正義を貫くことが大事である。この私の言を用いねば、必ずや後悔先に立たずという結果になるであろう、と因幡房よりの諌言を述べて本抄を結ばれている。
0343:01~0343:08 第一段 因幡房が法門の聴門に至る経過top
0343:01~0343:08 第一 下山兵庫光基の難詰top
| 下山御消息 建治三年六月 五十六歳御代作 与下山兵庫光基 01 例時に於ては尤も阿弥陀経を読まる可きか等云云此の事は仰せ候はぬ 已前より親父の代官といひ私の計と申し 02 此の四五年が間は退転無し、 例時には阿弥陀経を読み奉り候しが 去年の春の末へ夏の始めより阿弥陀経を止めて 03 一向に法華経の内・自我偈読誦し候又同くば一部を読み奉らむとはげみ候 これ又偏に現当の御祈祷の為なり、 但 04 し阿弥陀経念仏を止めて候事は 此れ日比・日本国に聞へさせ給う 日蓮聖人去る文永十一年の夏の比同じき甲州飯 05 野・御牧・波木井の郷の内身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給い候へば、 さるべき人人御法門承わる可きの由候 06 へども御制止ありて入れられず おぼろげの強縁ならではかなひがたく候しに 有人見参の候と申し候しかば信じま 07 いらせ候はんれうには参り候はず、 ものの様をも見候はんために 閑所より忍びて参り御庵室の後に隠れ人人の御 08 不審に付きてあらあら御法門とかせ給い候き。 -----― 「例時においては何よりも阿弥陀経を読誦すべきではないか」との仰せでございましたが、このことにつきましては、それ以前から父の代官としましても、私と致しましてもこの四・五年の間は怠ることなく、例時には阿弥陀経を読誦してまいりましたが、去年の春の末、夏の始めから阿弥陀経を止めて、もっぱら法華経のうちの如来寿量品の自我偈を読誦しております。また同じことから、法華経一部のすべてを読誦しようと努力しております。これもまたひとえに現当二世の御祈禱のためであります。但し阿弥陀経及び念仏を止めてしまったことにつきましては、つぎのような経緯がございます。 近頃日本国で評判になっております日蓮聖人が去る文永十一年の夏の頃、同じ甲州の飯野御牧のうち波木井郷にある身延の嶺という深山に御隠居されたのでございますが、しかるべき人々が聖人の御法門をお聞きになりたいと申しましても許されず中には入れません。それでよほどの縁がなければ聴聞は叶わないとおもっておりましたところ、ある人が聖人にお目にかかるということでしたので、信仰しようという考えで参ったわけではありませんでしたが、ただ様子を見てみようと人目につかないところから忍んで参りまして、庵室の後ろに隠れ、聖人が人々の疑問について、あらあら御法門を説かれるのをうかがっておりました。 |
本抄の題号について
本抄の「下山御消息」、あるいは「下山抄」という題号はもちろん後世につけられたものである。中山法華経寺に所蔵される富木常忍の本尊聖教事には本抄の写本として「下山御消息 1帖」と記されている。また富士一跡門徒存知の事には「下山抄一巻」とあり、本抄が因幡房に代わって認められた下山兵庫五郎光基への書状であることから、このように名づけられたものであろう。ちなみに十大部御書のなかで「御消息」の名がつくのは本抄のみである。
ただし日主上人の写本には「法華本門顕法抄」とあるが、これは本抄の元意を取って、このような別名がつけられたものであろう。三位日順師の摧邪立正抄にも「法華顕本下山御消息抄」とあり、更にその理由について「所の名に寄せて下山抄と呼ぶ、法体に准ずれば顕本抄と号す」と述べられている。
この「顕本抄」という題号は、おそらく日興門流のみで本抄の別名として伝えられてきたものと思われる。この題号は、日蓮大聖人が法華経文底独一本門の教主であり、末法の御本仏であられるその本地を顕された書として本抄を位置つけたものであり、その意味で十大部の一つとしてふさわしい題号といえるであろう。
なお日主上人の写本にある「法華本門」の4字は、門徒存知事の「聖人御書の事」の末尾にあるように、日興上人が大聖人の御書の題号に「法華本門」の4文字を冠せられたことにならったものであり、これは寂仙房日澄師の写本も「法華本門下山抄」となっていることからも明らかである。
例時に於ては尤も弥陀経を読まる可きか
これは冒頭に下山兵庫五郎光基が因幡房に対して難詰した内容を挙げたものである。諸本ではこの個所はいずれも漢文になっており、引用文は漢文で紀されているという本抄の表記上の特徴に照らして、光基が書状で因幡房を難詰したとも考えられる。本抄はそれに対する返答にあたる。
因幡房は光基の氏寺の住僧であるにもかかわらず、最近になって阿弥陀経の読誦を止め法華経を読誦していることを知った光基が、そのことを責めたのである。
鎌倉時代においては夕方に時を定めて阿弥陀経を読誦し念仏を称えることが天台宗における勤行の儀式として定まっていた。その起源は比叡山第三代座主の慈覚の時に求められる。光基は、自身の氏寺においても先祖の供養のためにこれを行わせていたのであろう。ところが、因幡房はこれを止めて法華経を読誦していたために、光基は「例時の勤行の際に何故、阿弥陀経を読まなくなったのか」と因幡房に厳しく迫り、平泉寺から追放したのである。
寺から追い出された因幡房は、直ちに身延へ馳せ参じ日興上人を通じて日蓮大聖人に報告したに違いないと思われる。門徒存知事によると因幡房が平泉寺を追い出された時に本抄が直ちに大聖人によって認められたとされている。
報告を受けた大聖人は、因幡房に代わって筆を執られ、因幡房の立場から大聖人の肝要の法門の御説法を聞いたという形で記されたのである。このような経緯から、本抄は御消息文という体裁をとっている。おそらく、大聖人は直ちに本抄を認められたと思われるが、2万字になんなんとする長編であるにもかかわらず、序講で述べたように入念な吟味・推敲を経たうえで成っており、その内容は一御消息の範囲を超えて重要な法門を含んでいるのである。
ともかく本抄の完全なる御正本が今日に伝わっていないことはまことに残念であるが、その主たる因は、因幡房が日興上人の弟子となって、大聖人より日永という法号まで戴いたにもかかわらず、大聖人後入滅後に日興上人に背き民部日向についてしまったことにあるといってよい。
一方、本抄を与えられた下山兵庫五郎光基は大聖人の御入滅後11年にあたる永仁元年(1293)に亡くなっている。そしてその14年後の徳治2年(1307)には光基の未亡人が日興上人より御本尊を賜っており、また正中2年(1325)、光基の33回忌にはその追善のために子息又四郎義宗が同じく日興上人より御本尊を戴いている。この当時の記録は、33回忌の追善のために御本尊が子息に授与されたという例は他にはほとんど見られず、光基にとっては実に名誉なことであったといわねばなるまい。
甲斐の出身であられた日興上人は、因幡房のみならず、この地にゆかりのある光基ともあるいは交諠があったのかも知れない。直接であれ間接であれ、日興上人は光基の人柄についてもよく御存知であったとも考えられる。
自我偈読誦
下山殿の難詰に対して、因幡房がこの4・5年怠ることなく勤めてきた阿弥陀経読誦を止めて法華経の自我偈を読誦しているという現状が述べられている。
ここで自我偈読誦について少し述べておきたい。寿量品の長行では、釈尊の真実の成道は今世ではなく、久遠の昔であったことを明かすとともに、以来常にこの娑婆世界において衆生を教化してきたことを明かしている。この長行の内容を韻文をもって重ねて説き、久遠の仏の徳を讃嘆したのが自我偈である。
建治元年(1275)御述作の法蓮抄には「今の施主.十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏.乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす」(1049-15)と御教示されている。寿量品は一代聖教の骨髄たる法華経の肝心であり、自我偈はその寿量品の内容を重ねて強調したものであるから「二十八品のたましひなり」と仰せられているのである。
そして、寿量品の肝心は三大秘法の南無妙法蓮華経であるから、自我偈の究極は南無妙法蓮華経にほかならない。大聖人は御義口伝で自我偈について「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり」(0759-第廿二 自我偈始終の事-01)と述べられ、この「自受用身」としての仏の生命は、凡夫である私たちにも本来具わっていることを、その次下に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(0759-第廿二 自我偈始終の事-04)と仰せられている。
また、先の法蓮抄の内容から、同抄を与えられた曾谷殿が13年にわたって毎朝、自我偈読誦の勤行を行っていたことが知られる。更に同年御述作の曾谷入道殿御返事には「方便品の長行書進せ候 先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし」(1025-01)と指導されている。
当初より大聖人の門下における勤行は唱題行を別とすれば、方便品と自我偈の読誦が基本となっていたのである。このことは文永元年(1264)御述作の水月御書に「方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候」(1201-18)と仰せられていることによって知られる。
なお、方便・寿量品の読誦の意義と題目の関係については、日寛上人が当流行事抄において次のように述べられている。
「修行に二有り、所謂、正行及び助行なり。…当流所修の二行の中に、初めに助行とは、方便・寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如く故に助行と言うなり。この助行の中に亦傍正有り。方便を傍とし、寿量を正と為す。…次に正行は三世諸仏の出世の本懐、法華経二十八品の最要、本門寿量の肝心、本底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用身の当体、事の一念三千、無作三身の南無妙法蓮華経是れなり」
また同抄には方便品の読誦に所破・借文の義があり、寿量品の読誦は所破・所用の義があると明かされている。
因幡房の入信に至る経過
立正安国論の予言が的中し、当時、世人から生き仏のように思われていた良観を祈雨の勝負で打ち負かし、竜の口の法難では光物によって斬首を免れ、更には二度の流罪にも屈せず我が道を行く人物。おそらくこうした大聖人のことは多くの人々に知られるところとなっていたのであろう。
その大聖人が文永11年(1274)の5月に因幡房の住む下山郷とわずか数㌔しか離れていない身延に入山された。彼としては日蓮大聖人はどんな人なのか、一目見たいという好奇心も少なからずあったのかも知れない。しかし、よほど信頼のある人間関係がないと大聖人にお会いすることはできなかったようだ。そうしたところ、ある人が大聖人にお目通りするという。そこで因幡房はその人について大聖人の御説法を聴聞することができた。それが大聖人が入山されて二年後の春の末であった。大聖人の気迫にあふれ、しかも理路整然たる御説法に触れた因幡房はその場で弟子となることを誓ったのであろう。
日興上人の弟子分本尊目録は「甲斐の国下山の因幡房は日興が弟子なり」とあることから、「有人見参の侯と申し候しかば」とある「有人」とは、因幡房と同じ甲斐国の出身であられた日興上人ゆかりの人物であったと思われる。
なお本文には、因幡房が「閑所」から忍び込んで、庵室の後ろに隠れて聴聞したと書かれている。これは、先に「おぼろげの強縁ならではかなひがたく」とあることとあわせて、大聖人は隠栖の立場であり、外部の人と直接会うことは避けておられたことをあらわしている。部外者であった因幡房は、ただ物陰から御説法を聞くことができたのである。
日蓮大聖人の身延での御生活
ここで大聖人の身延における御生活について簡単に触れておきたい。庵室修復御書には「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いし」(1542-01)と仰せられている。再三にわたる幕府への諫言が用いられなかったことによって、大聖人はこれ以上諌めようとしても無益であると見極められ、身延山中に隠栖されるとともに末法万年の令法久住のための闘いに取り組まれていった。
先の御文の「かりそめに」という語からうかがわれるように、身延の地そのものには、必ずしも永住するためでなく、当分の居住のための御気持ちであったと拝せられる。このことは本抄にも「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば 山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(0358-04)とあることによって知られる。ただ結果として、御入滅までの9年間をここで過ごされることになったのである。
身延の様子については建治2年(1276)御述作の種種御振舞御書に「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし」(0925-06)と述べられている。これは本抄御執筆の前年である。
また弘安元年(1278)の11月に記された兵衛志度御返事には、この年がここ何十年来最も寒い年であったことが記されている。そうした厳しい環境であったにもかかわらず、「人はなき時は四十人ある時は六十人」(1099-07)と仰せのように、続々と弟子や信徒が集まるようになり、翌弘安2年には「今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(1065-06)と、更に急速に人数の増大していたことが窺われる。
大聖人はこうして多くの弟子を教化・育成されながら、各地で活躍する門下のために数多くの御書を執筆され、弘安2年(1279)10月12日には出世の本懐たる一閻浮提総与の大御本尊を御図顕されたのである。
ただし、本抄に「身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給い」と仰せのように、世間的な意味では人里離れた身延の山中に隠遁という形をとっておられたので、門下以外の人とことは避けておられたのであろう。
0344:01~0344:16 第二段 宗教の五綱と大小兼行の戒めtop
0344:01~0344:08 第一 法華経は最勝の教えtop
| 0344 01 法華経と大日経.華厳・般若.深密・楞伽.阿弥陀経等の経経の勝劣.浅深等を先として説き給いしを承り候へば法 02 華経と阿弥陀経等の勝劣は 一重二重のみならず天地雲泥に候けり、 譬ば帝釈と猿猴と鳳凰と烏鵲と大山と微塵と 03 日月と螢炬等の高下勝劣なり、 彼彼の経文と法華経とを引き合せてたくらべさせ給いしかば 愚人も弁えつ可し白 04 白なり・赤赤なり、 されば此の法門は大体人も知れり始めておどろくべきにあらず 又仏法を修行する法は必ず経 05 経の大小・権実・顕密を弁うべき上よくよく時を知り機を鑑みて申すべき事なり、 而るに当世日本国は人毎に阿み 06 だ経並に弥陀の名号等を本として法華経を忽諸し奉る 世間に智者と仰がるる 人人・我も我も時機を知れり知れり 07 と存ぜられげに候へども 小善を持て大善を打ち奉り権経を以て実経を失ふとがは 小善還つて大悪となる薬変じて 08 毒となる親族還つて怨敵と成るが如し 難治の次第なり、 -----― まず法華経と大日経・華厳経・般若経・深密経・楞伽経・阿弥陀経などの経経との勝劣・浅深等などから説きになったのを承っておりましたところ、その内容はおおよそ次のようでありました。 法華経と阿弥陀経などの勝劣は一重二重の差にとどまるのではなく天地雲泥の差であり、それは譬えてみれば、帝釈天と猿、鳳凰とカササギ、大山と微塵、日月とホタル火の差に匹敵するほどの高下勝劣である。それらの経文と法華経とを引き合わせてくらべられれば、愚者にもはっきり分かるほど、その勝劣は明々白々である。従って法華経と他経との差が天地雲泥であるというこの法門は、大体は人も既に知っていることであり、改めて驚くべきことでもない。 また仏法を修行する方法については、必ず経典の大小・権実・顕密を分弁すべきで、そのうえによくよく時を知り、機根を考えて説くべきものである。 それなのに今の日本国はすべての人が阿弥陀経や弥陀の名号などを根本として法華経をおろそかにしている。世間から智者として仰がるる人々は、自分こそは時と機根を熟知していると思っておられるようであるけれども、実際には小善をもって大善を打ち、権経を以て実経をそこなわしめているので、小善はかえって大悪となり、薬は変じて毒となり、親族がかえって怨敵となるように、救いがたい状況となってしまっている。 |
諸経と法華経の勝劣
大日・華厳・般若・深密・楞伽・阿弥陀経等の諸経と法華経との勝劣は天地雲泥であり、そのことは「愚人も弁えつ可し白白なり・赤赤なり」と仰せである。しかもそのうえで「されば此の法門は大体人も知れり始めておどろくべきにあらず」と述べられている。「此の法門」とは、言うまでもなく権実相対の法門を指している。つまり、法華経が諸経の中で最勝の教えであることは常識であるというのである。そして、この経の勝劣を第一に判断の根本としたうえで、次に時機を考えるべきであると言われている。しかし、当時の念仏宗は、法華経の勝れることを認めながら、末代の機に適っているのは念仏であると唱えて法華経をないがしろにしているのである。
ところで、いずれの経も、自行の功徳を讃嘆する語は少なくないが、明確に他経との比較において自経が最勝であると説いている経典はあまり見られない。また、あったとしても限られた諸経の中での比較にとどまっている。ところが、法華経においては明確に一切経を比較の対象とした上での法華経の最勝性がいたるところで説かれている。
その例を挙げると、まず法華経の法師品第十には「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり…我が所説の経典、無量百千倍にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」とあり、已説の爾前経、今説の無量義経、当説の涅槃経に対して、法華経こそ釈尊一代の諸経の中で最も難信難解であり、最第一であると明かしている。
このことについて大聖人は報恩抄で「法華経の文には已説・今説・当説と申して此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず 後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う」(0300-07)と述べられ、また諸経と法華経と難易の事では「易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり」(0991-07)と仰せられている。釈尊が衆生の機根にかかわらず、その内容の覚りをそのまま説き示した法華経は随自意の教えであるが故に、難信難解なのである。
また法華経安楽行品第十四にも「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」とあり、更に薬王菩薩本事品第二十三には「譬えば一切の川流、江河の諸水の中に、海為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し」等と十種の譬喩を挙げて、法華経が諸経の中で最高の教えであることを示している。
法華経が最高であることについては、法華経の開経である無量義経に「四十余年には未だ真実を顕さず」、法華経方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」とあり、これから説く法華経において真実の悟りを明かすことを述べている。
また、涅槃経如来性品第四には「法花の中に、八千の声聞・記莂を受くることを得て、大果実を成ずるが如く、秋収め冬蔵めて更に所作無きが如し」とある。つまり、八千の声聞は、法華経で成仏の記別を受けた。それはそこで収穫が終わったということであり、涅槃経においては、もう何もすることがないとの意である。これは明らかに涅槃経と法華経の勝劣を明かしている。
0344:08~0344:16 第二 仏法実践の方軌top
| 08 又仏法には賢なる様なる人なれども 時に依り機に依り 09 国に依り先後の弘通に依る事を弁へざれば 身心を苦めて修行すれども験なき事なり、 設い一向に小乗流布の国に 10 は大乗をば弘通する事はあれども 一向大乗の国には小乗経をあながちにいむ事なりしゐてこれを弘通すれば 国も 11 わづらひ人も悪道まぬかれがたし、 又初心の人には二法を並べて修行せしむる事をゆるさず 月氏の習いには一向 12 小乗の寺の者は王路を行かず 一向大乗の僧は左右の路をふむ事なし 井の水・河の水同じく飲む事なし何に況や一 13 房に栖みなんや、されば法華経に初心の一向大乗の寺を仏説き給うに 「但大乗経典を受持せんことを楽つて、 乃 14 至余経の一偈をも受けざれ」又云く 「又声聞を求むる比丘比丘尼優婆塞優婆夷に親近せざれ」 又云く「亦問訊せ 15 ざれ」等云云、 設い親父たれども一向小乗の寺に住する比丘比丘尼をば 一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近 16 せず何に況や其法を修行せんや大小兼行の寺は後心の菩薩なり。 -----― また仏法についてわかっているように見える人であっても、仏法をどのように実践すべきかは時・機・国・先後の弘通によるべきことを弁えなければ、身心を苦しめて修行しても効果はないのである。たとえ専ら小乗経を流布する国に大乗経を弘通することはあっても、大乗経のみを弘めるべき国に小乗経を弘めるならば国に災いが起こり、人も悪道を免れないであろう。 また、初心の人には小乗経と大乗経の二法を並行して修行させることは許されない。月氏の習慣として専ら小乗のみを修行する寺の僧は王路を行かず、専ら大乗の身を修行する寺の僧は逆に左右の両端の路を踏むことはない。井戸の水や河の水を両者が一緒に飲むことはない。まして一つの房に住むことはありえない。 この故に、一向大乗の寺で修行する人に対して、仏は法華経で「ただ大乗経典を受持することを願って、他の経典の一偈たりとも受けてはならない」と説かれ、また「声聞を小乗の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親しみ近づいてはならない」、また 「問いたずねてもならない」と言われているのである。たとえ父親であっても一向小乗の寺に住む比丘・比丘尼を一向大乗の寺に住む子息は礼拝しないし親しみ近づくこともない。まして小乗経の法を修行したりすることがあろうか。大小兼行の寺は後心の菩薩のためである。 |
宗教の五網
仏法を修行するためには「教・機・時・国及び教法流布の先後」という五網を必ず弁えなければならない。宗教の五網については、教機時国抄に詳しく明かされている。今その要点を引用すると、およそ次のようになる。まず教については「一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年.仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、 後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし」(0438-01)と仰せである。本抄では法華経が最勝の経であることは当然とされており、「機」以下を問題とされている。
「機」については「二に機とは仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ、仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう故に須臾の間に覚ることを得たり」(0438-08)と示されている。
金師とは鍛冶屋であり、浣衣の者とは洗濯屋である。ここではこうした職業によって仏法理解の機根が異なることを示されている。数息観とは呼吸法であり、不浄観とは浄潔観である。すなわち金師という機根の者には数息観を教え、浣衣の者には不浄観を教えれば覚りが得られるのに、舎利弗はこれを間違えて逆に説いたが故に衆生が覚ることができなかったというのである。
智慧第一の舎利弗ですら、このように衆生の機根を見誤ったということは、末代の凡夫が機根を誤りなく見極めることがいかに難しいかを示している。したがって、必ず仏の智慧に基づいて一向に法華経を弘通すべきであると述べている。
次に「時」については「三に時とは仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し」(0439-01)と述べられている。
農作業において時を誤れば全く収穫が見込めないのと同じように、仏法においても時を誤って弘通すれば、衆生は皆悪道に堕してしまう。更に仏法独自の時の捉え方として正・像・末の三時がある。現在は末法の時であり、この末法に適った法を、時に適って行じなければ成仏は思いもよらないのである。
次に「国」については「四に国とは仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国.熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国.大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし」(0439-13)と仰せのように、それぞれの国・社会はそれぞれの歴史や地理や文化レベル等、多様であり、これらをよくわきまえて仏法を弘通しなければならないと説いている。
また、仏法的に見れば、それぞれの国にも、一向小乗の国もあれば、一向大乗の国、また大小兼学の国もあり、そのことも弁えることが大切であるとされている。同抄の後段に説かれるように、日本の国は一向大乗であり一向法華経の機の国である。
最後に「教法流布の先後」については「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(0439-16)と示されている。なお、日本における仏教弘通の次第については以下の段に記される。
教法流布の先後を知るという原則からすれば、一向大乗の国には小乗教を弘通すべきではない。後述するように、日本においては伝教大師によって円頓の戒壇が建立され、法華経が流布したのである。したがって、その後、小乗経や権大乗を弘めることは、仏法の原則に反する。
また修行者という立場からいうならば、まだ縁に紛動されやすい初心の者が大乗教と小乗教を兼学することは許されない。
大小兼学がインドにおいて固く禁じられていた実例として、智証は授決集巻上「便に次品の二乗を遠ざくるの義を決する第十六」において「西国の三蔵云く、『西天には大小二乗の僧同路を行くを得ず。謂く一の大路に於いて分かって三街と為し、中央を以って王の路と為す。即ち大乗の僧之を行く。左右の狭路は百姓の路と為す。即ち小乗の僧之を行く。分かつ所以は、二部寺を異す。河を分かって飲まず、相見ること亦希なり』と」述べている。
このようにインドの習慣としては、大乗経を修行する僧は王の道である中道の道を歩き、小乗を修行する僧は左右の狭い道を歩き、両者は同じ道を歩くことがなく、同じ河の流れの水を飲むこともなく、互いに姿を見ることさえ稀であったという。まして、大乗教の僧が一つの家に住むことはありえないのである。
また伝教大師は顕戒論で、玄奘の大唐西域記を引いて、インド・西域の諸国に大乗を修学する国、大小を兼学する国、ただ小乗を学する国の三種があるように、仏寺も一向大乗寺、一向小乗寺、大小兼行寺の三種があることを示すとともに、大乗修行の在り方として「初修行の菩薩は、其の小儀の比丘と同じく房舎に居せず、同じく牀に坐せず、同じく路を行かざる事を」とのべている。
このように大乗を修行し学ぶ者はその初心の段階においては大小を兼学することは許されないのであり、それ故に譬喩品第三に「但楽って、大乗経典を受持して、乃至、余経の一偈をも受けざる有らん、是の如き人に、乃ち為に説くべし」とあるように、もっぱら大乗経典である法華経を信じて、たとえ一偈であっても他の爾前権経を信じ持ってはならないとされている。次に、安楽行品第十四には「又、声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ。亦、問訊せざれ」とあり、声聞を求める小乗経の僧や尼、俗人の男女に親近してはならないし、またそのような人々を問いたずねてもならないと説かれている。
このように大乗と小乗は厳しく峻別しなければならないのであり、たとえ親であっても小乗経だけを修学する一向小乗の寺の僧尼を、大乗教だけを修行する一向大乗の寺に入った息子は礼拝することもなく、親近することもなく、ましてその小乗教の修行をしてはならないのである。大乗教と小乗教を共に修学できるのは、仏道を長く修行し縁に紛動されることのない後心の菩薩だけである。
以上は、仏法の考え方になじまない光基に対して、正しい仏道修行の在り方を教えられたものであり、宗教的な無知から念仏や禅を取り入れていた当時の武士階級の人々の風潮に対する警鐘ともなっている。なお、大小兼学が始まったのは仏教が中国及び日本に伝わってからである。インドにおいては厳格に大乗と小乗の区別がなされていたのである。
0344:17~0346:02 第三段 鑑真より伝教大師に至る仏教の歴史と正直の行者top
0344:17~0345:06 第一 鑑真の日本渡来top
| 17 今日本国は最初に仏法渡りて候し比・大小雑行にて候しが 人王四十五代聖武天皇の御宇に唐の揚州竜興寺の鑑 18 真和尚と申せし人漢土より我が朝に 法華経天台宗を渡し給いて有りしが 円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已 0345 01 心に収めて口にも出だし給はず、 大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を 日本国の三所に建立せり此れ偏に 02 法華宗の流布すべき方便なり、 大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず 例せば儒家の本師たる孔子老子 03 等の三聖は仏の御使として漢土に遣されて内典の初門に礼楽の文を諸人に教えたりき、 止観に経を引いて云く「我 04 三聖を遣して彼の震旦を化す」等云云、 妙楽大師云く「礼楽前に馳せ真道後に啓く」と云云、 仏は大乗の初門に 05 且らく小乗戒を説き給いしかども時すぎぬれば禁めて云く 涅槃経に云く「若し人有つて 如来は無常なりと言わん 06 云何んぞ是の人舌堕落せざらん」と等云云、 -----― さて今の日本国についていえば、最初に仏法が伝来した頃は、大小雑行の状態であった。人王四十五代聖武天皇の御世に、唐の揚州竜興寺の鑑真和尚という人が中国から日本に法華経天台宗を渡されたが、衆生の円教を受け入れる機根が未熟であると思われたのであろうか、この法門については胸中にとどめて口にもだされなかった。かくて唐の終南山の豊徳寺に住した道宣律師の小乗戒を日本の三ヵ所に建立された。これはひとえに法華宗を流布するための方便であって、大乗教出現の後には肩を並べて修行せよということではなかった。 例えば儒家の本師である孔子・老子等の三聖は仏の御使いとして中国に遣わされ、仏教への入門として礼楽の文を人々に教えたようなものである。このことを摩訶止観巻第六には経文を引用して「私は三聖を遣わして彼の中国を教化せしめよう」とあり、妙楽大師は「礼楽が先に広まり、真実の法は後に流布する」と述べているのである。 これと同じように、仏は大乗教への入門としてしばらく小乗戒を説かれたのであるが、時が過ぎて後、小乗の教えを戒めて涅槃経に「もし如来は無常であるという者がいるならば、この者の舌は必ず堕落するであろう」と言われているのである。 |
仏教の伝来
日本への仏教伝来については、日本書紀巻19によると、欽明天皇13年壬申(0552)の10月、百済の聖明王が西部姫氏達率怒唎斯到契らを遣わして、釈迦仏金銅像一軀、幢蓋若干、経論若干巻を献じ、別に表面をたてまつって、流通礼拝の功徳を述べ、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。…百済の王臣明、謹みて、陪臣、怒唎斯致契を遣して、帝國に伝え奉りて、畿内に流通さむ。仏の、我が法は東に流らむ、と記へるを果たすなり」と奏上したとある。
これは百済から日本の天皇に対して公式に仏・法・僧の三宝を献じた記録であり、この欽明天皇13年壬申が日本国に公式に仏教が伝来した年とされている。
しかし、この聖明王の上表文については近年の研究によって金光明最勝王経寿量品や、最勝王経四天王護国品、大般若経難聞功徳品などから改変取捨、補綴したものであることが解明された。しかも、金光明最勝王経が漢訳されたのは則天武后長安3年(0703)のことであることから、この聖明王の上表文は後世の創作であると考えられている。このため、日本書紀における欽明天皇3年壬申の仏教伝来は、疑問視されている。
一方、この壬申伝来説とは、年次の異なる仏教伝来に関する記述が伝承されている。すなわち、欽明天皇の戊午の歳に伝来したとする伝承である。
上宮聖徳法王説には「志癸嶋の天皇の御世に、戊午の年(0538)の10月12日に、百済国の主、始めて仏の像教並びに僧等を度し奉る」とある。これと同様の説が元興寺伽藍縁起並流資財帳にも、欽明天皇の「七年歳は戊午に次る十二月、度り来る」とある。
日本書紀において壬申公伝説が正史として採用された理由については諸説があり定かではないが、この壬申公伝説がなんらかの意図によって作られたもので、史料的信憑性に欠けるとする見方が強まるにつれ、欽明天皇七年戊午公伝説が有力視されるに至った。しかし近年では、壬申伝説が疑わしいからといって、戊午公伝説の方が史実に近いとは必ずしも言えないとの見方も生まれてきている。
それはともかく、わが国は古来朝鮮半島と往来が盛んであったので、既にこれより以前に帰化人によって仏教が伝えられていた可能性があることは明らかである。
さて、日蓮大聖人は「第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・」(1165-06)と仰せであり、欽明天皇13年(0552)壬申公伝説を採用されている。これは、日本最古の正史である日本書紀に基づいたものと拝される。
いずれにしても、日本に仏教が伝えられたのは、だいたい6世紀前半ごろと見られる。そして仏教の伝来当時は一括して仏教として伝えられたものであり、小乗教・大乗教といった区別はせずに行じられていたことを、大聖人は本抄で大小雑行と仰せになったのである。例えば奈良の東大寺は天平勝宝元年(0749)に完成しているが、当時は六宗兼行の道場として栄え、他の寺院も同様に宗旨によって区別されることなく、一寺で大小乗を兼学しているのが普通であった。
鑑真の渡来
鑑真は律宗だけでなく天台宗の章疏も日本に持ってきたが、天台宗を弘めずに終わった。それは、まだその機根が熟すにいたっていないと見たからであった。しかし、この時、鑑真が伝来した天台大師の法華三大部は後に伝教大師が見ることとなり、日本天台宗の成立にとっては極めて重要な意義をもつことになったのである。
鑑真は0668年(持統天皇2年)揚州に生まれ、0753年(天平勝宝5年)に日本の土を踏み、0763年(天平宝字7年)に寂した我が国の仏教史上において重要な役割を果たした人である。14歳で大雲寺の智満禅師に戒を受けて禅を学び、18歳で光州の道岸律師について菩薩戒を受けた。その後戒律修学のため洛陽へ赴き、20歳の時、長安の弘景律師に具足戒を受けて比丘になった。
道岸及び弘景はいずれも文綱の弟子であり、文綱は南山律宗の祖、道宣の弟子であった。この弘景は、天台大師が法華玄義・摩訶止観を説いた玉泉寺の僧となった人であり、法華経の信奉者であったと伝えられる。また道宣自身も内典録に天台大師の著述を引用して天台大師を讃嘆しており、天台教学の深い影響を受けていた。このように鑑真は四分律のみならず、弘景から天台を学び、「鑑真は宗は天台を研き律は南山を弘む」と称されたように、天台学への造詣が深かった。
天平5年(0733)、日本から興福寺の僧・栄叡、普照が律師招請の任務を帯びて入唐した。この2人の留学僧の懇請により鑑真は日本へ渡ることを決意する。天宝元年(0742)、55歳の時である。しかし渡航を試みること5回、自然の災難や人為による障害があったので失敗したのち、ようやく来日を果たしたのは66歳の時であった。
来朝した鑑真に、孝謙天皇は、天平勝宝6年(0754)2月、「今より以後、受戒・伝律は一に大和尚に任す」と宣して、受戒伝律に関する一切の権限を与えた。こうして3人の指導者と7人の証明者による厳格な受戒作法に基づく受具の法がはじめて行われた。また同年4月には、東大寺廬遮那仏の前に戒壇が築かれ、聖武天皇・光明皇太后夫妻と、孝徳天皇らに対して菩薩戒・沙弥430人に対して、具足戒の授戒がなされた。
また、天平勝宝7年(0755)9月に東大寺に戒壇院が建立し、正式の授戒が行われるようになった。更に天平宝字5年(0761)正月には下野国薬師寺・筑紫の観世音寺にも、それぞれ戒壇が設置され、これより天平の三戒壇として、僧侶はすべていずれかの戒壇で受戒しなければならないようになった。
日本においてはそれまで僧尼が出家する時、冶部省が度縁を授け、受戒のとき重ねて公験を発給しており、受戒の権限は律令政府の手に握られ、教団に権限がなかった。鑑真以後においては、受戒時に度縁を回収し、公験に代わって、受戒に立ち会った十師連署の戒牒を授けるようになった。
しかし、戒を受ける者は自部省印のある度縁を所持する沙弥・沙弥尼にかぎられており、受戒の権限がすべて教団側に移譲されたわけではなく、官寺仏教体制の枠内での委譲であった。とはいえ、国家権力による統制から仏教の自立へ向かって大きく一歩踏み出さしめた鑑真の功績はおおきいといわなければならない。そして鑑真の渡来により提起された受戒権と戒壇設置の問題は、伝教大師による大乗戒壇運動として継承されていくのである。
鑑真によって将来された天台三大部は東台寺に所蔵されていたが、後に伝教大師が南都に遊学した折、はじめて披見するところとなった。それが後に日本の天台法華宗が確立される重要な契機となった。このような経緯からも、鑑真の本意が小乗教の弘通にあったのではなく、衆生の機根を鑑みてやがて日本に大乗教が弘まる時がくるまでの方便としての小乗戒の弘通に努めたと仰せなのである。
円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已心に収めて口にも出だし給はず
鑑真は天台教学を深く学んでいた。しかし当時の日本は円機未熟であると判断して専ら小乗の戒律を弘め、法華経については説かなかったと仰せである。
中国においては既に天台の法門が確立されていた。また日本においても既に聖徳太子の時代より法華経そのものを流布していた。この観点から見ると、鑑真は大聖人のいう宗教の五網を無視していたかに見える。にもかかわらず大聖人は鑑真を評価しておられる。では、当時の日本が「円機未熟」であったというのは何故か。
先述したように、日本へ仏教が伝来したのは6世紀半ばであり、鑑真の渡来の時点までは約200年しか経っていなかった。中国の場合、インドから仏教が渡来してより天台大師の出現までに500年を要しているのである。勝れた法であればあるほど、それが弘まっていくためにはそのための準備期間が不可欠であるといわなければならない。鑑真が日本へ渡ってきた当時は、いまだ大乗仏教の弘まる機が熟していなかったのである。仏教の発祥から中国への伝来、また中国から日本への伝来にはそれぞれ数百年のズレがあったことを考慮すると、中国において像法時代であっても、それがそのまま日本に当てはまるものではない。
このように、宗教の五網とは立体的・総合的な、かつ柔軟性をもった仏教の方軌である。しかも後段で述べるように、時応機法の原理からしても、天平期の日本の仏教は小乗的な段階にあり、鑑真はそれを見抜いたが故に、まず小乗戒の確立・徹底に努め、来るべき円頓戒の準備としたと考えられる。
「礼楽前に馳せ真道後に啓く」
仏教の弘通にあたっては、仏法を理解できるだけの文化的なレベルアップが前提にならねばならない。このことを次に、中国を例として述べられている。古代の中国思想の大成者である孔子・老子・願回の「三聖」は仏の使いとして中国に遣わされ、仏教の初門として「礼楽の文」を人々に教えたのであるという。「礼楽」は礼儀と音楽に代表される中国文化であり、その果たした役割について天台大師は摩訶止観巻第六下で次のように述べている。
「孔丘・姫旦の如きは、君臣を制して父子を定む。故に上を敬し下を愛して世間大いに治まる。礼律節度あって尊卑に序有り、此れ戒を扶くるなり。楽は以て心を和し、風を移し俗に易う。此れは定を扶くるなり。先王の至徳要道は、此れ慧を扶くるなり。元古混沌として末だ出世に宣しからず。辺表の根性は、仏の興るを感ぜず。我三聖を遣して彼の真旦を化せしむ。礼儀前に開き、大小乗の経は然して後に信ず可し」
また、日蓮大聖人は開目抄において「礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ 父母を教て孝の高きをしらしめ 師匠を教て帰依をしらしむ」(0187-02)と仰せであり、礼楽等の文化的土壌の形成があって、はじめて仏法を深く理解できるのであり、儒教の流布は仏教の流布するための準備であったと位置づけておられる。
更に智者の役割と仏法との関連について減劫御書には「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(1466-14)と仰せであり、太公望・張良等の智慧は民を守ったという点において仏法の智慧に通ずるものと釈されている。
孔子・老子・顔回の場合もこれと全く同じである。このような考え方を端的に示しているのが妙楽大師の「礼楽前に駆せ真道後に啓く」との言葉である。
「若し人有つて如来は無常なりと言わん云何んぞ是の人舌堕落せざらん」
儒教が仏教流布のための地均し的な役割を果たしたように、小乗教は大乗教の初門として説かれたのである。したがって、時を過ぎて末法に入ってもそのまま小乗教を信仰せよといっているのではない。釈尊は涅槃経で小乗教を否定し「もし仏も無常を免れないという者があれば、必ずこの人の舌は堕ちるであろう」と戒めている。
この涅槃経の経文の意味するところについて大聖人は顕謗法抄で「此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云、問うて云く諸の小乗経に仏を無常と説かるる上又所化の衆皆無常と談じき若爾らば仏・並に所化の衆の舌堕落すべしや、答えて云く小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか、大乗経に向つて仏を無常と談じ小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか、此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか」(0449-02)と仰せられ、謗法の本質を指摘されている。
すなわち小乗の者が自らの教えに執着して大乗を批判するのが誹謗であり、より勝れた教えが説かれたときはこれに従わなければならないのである。
0345:06~0345:15 第二 伝教大師の法華経宣揚top
| 06 其の後人王第五十代桓武天皇の御宇に 伝教大師と申せし聖人出現せ 07 り始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極め給うのみならず、 達磨宗の淵底を探り究め給ひ剰 08 へいまだ日本国に弘通せざる天台真言の二宗をも尋ね顕わして 浅深勝劣を心中に究竟し給へり、 去延暦二十一年 09 正月十九日に桓武皇帝・高雄山に行幸なり給い、南都七大寺の長者・善議・勤操等の十四人を教大師に召し合せて六 10 宗と法華宗との勝劣を糾明せられしに 六宗の碩学宗宗毎に我宗は一代超過の由各各に立て申されしかども 教大師 11 の一言に万事破れ畢んぬ、其の後皇帝重ねて口宣す和気弘世を御使として 諌責せられしかば 七大寺・六宗の碩学 12 一同に謝表を奉り畢んぬ、 一十四人の表に云く 「此界の含霊而今而後悉く妙円の船に載り 早く彼岸に済ること 13 を得」云云、教大師云く「二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」云云、 又云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」 14 又云く「一乗の家には都て権を用いず」 又云く「穢食を以て宝器に置くこと無し」 又云く「仏世の大羅漢已に此 15 の呵嘖を被むれり 滅後の小蚊虻何ぞ此れに随わざらん」云云、 -----― その後、人王第五十代桓武天皇の御代に伝教大師といわれる聖人が出現された。初めは華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極められただけでなく、達磨宗の奥底をも究められ、そのうえいまだ日本国に弘められていなかった天台法華宗・真言宗の二宗をも探究し顕照して、その浅深勝劣を心中に深く究められた。 去る延暦二十一年正月十九日、桓武天皇は高雄山に行幸された折、南都七大寺の長者であった善議や勤操等の十四人を伝教大師に召し合わせ、六宗と法華宗との勝劣を糾明されたところ、六宗の碩学はそれぞれ我が宗こそは釈尊一代の教えの中で際立って勝れていると申し立てられたが、伝教大師の一言によって、ことごとく破折されてしまった。 その後、桓武天皇は重ねて勅宣を下し和気弘世を使者として糾弾されたので、七大寺・六宗の碩学は一同に謝表を上呈した。十四人の謝表には「この世界の衆生は、今から後はことごとく妙法蓮華経の船に乗ってすみやかに悟りの境地に渡ることができるでありましょう」とある。 伝教大師は後に「小乗の二百五十戒は直ちに捨ててしまった」と宣し、また「正法・像法は終りに近ずき、いよいよ末法が近づいている」、また「法華一乗の家ではいっさい権教を用いない」、更に「穢食を宝器に盛ってはならない」、また「釈尊在世の偉大な阿羅漢でさえすでに呵嘖を受けている。まして滅後の小さな蚊虻のごとき衆生がどうしてこれに従わないでいられようか」と述べている。 |
伝教大師の出現と法華経
伝教大師は南都六宗を破折し、比叡山に円頓の戒壇を建立した。大聖人は撰時抄で、これは、インド、中国においてもいまだ達成されなかった一大快挙であると、次のようにおおせである。
すなわち伝教大師は「鑒真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり 叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり、此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり」(0271-03)と。
ここで伝教大師の出現した時代背景を概観しておこう。奈良時代の末期になると、橘奈良麻呂の事件、藤原仲麻呂の反乱、淳仁廃帝の事件、看病禅師として称徳女帝に接近した弓削道鏡の変など一連の事件が起き、社会が乱れ、これと並行して、僧尼の質の低下と世欲化、仏教界の堕落が顕著になってきた。称徳女帝の死、道鏡失脚のあとを受けて即位した光仁天皇はこうした状況を憂えて仏教界を厳しく統制し、その粛正を図った。この方針は次の桓武天皇にも引き継がれ、僧尼の検校、得度制度の改革がなされた。このような政府の僧尼育成方針により、得度の条件も護国経典の暗誦中心から、経論研究による解義能力の重視へと大きく転換していった。こうした仏教政策に呼応し、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、南都六宗の中で最も理論性をそなえた法相宗において多くの学匠が輩出された。
伝教大師最澄は、俗姓を三津首といい、近江滋賀の人である。叡山大師伝によれば、先祖は後漢の孝献帝の末裔、登万貴王で、応神天皇の世に来朝し、滋賀に居地を賜って三津首の姓を称したという。最澄の父は百枝といい、私宅を寺となし、礼仏誦経に勤める熱心な仏教信者であった。
最澄は12歳の時、近江の国分寺に入り、大国師行表の弟子となり唯識の章疏等を学び、やがて14歳の時、国分寺の僧の欠員を補って得度し、19歳の時に東大寺の戒壇で具足戒、すなわち250戒を受け、正式の僧となった。その後、同じ年の7月中旬に比叡山に入り、以来12年関にわたって、山中で修行生活を続けた。
延暦16年(0797)11月、比叡山で初めて法華十講を修した。天台大師の入滅の聖忌を期して、毎年11月に行われたので、これを霜月会とよんでいる。特に延暦20年(0801)の霜月会には、勝猷・寵忍・賢玉・光證・観敏・慈誥・安福・奉基・玄耀等の「十箇の大徳」が招かれ、三部の妙典十巻の各一巻の講義が彼等によって行われた。
しかし、この時の講義は最澄の弟子・仁忠の叡山大師伝に「猶末だ歴劫の轍を改めざるは、白牛を門外に混ず」と評されているように、天台への関心はあるものの法相宗を主体とする南都諸宗の大徳たちの見解は、最澄と全くかけ離れたものであった。
この天台宗と南都六宗の勝劣が明白となったのが、延暦21年(0802)に開催された天台法華会でにおいてであった。この年の正月19日、和気弘世は、父清麻呂が建てた高雄山神護寺における法会の招請状を発した。招かれた南都の大徳は、前年の法華十講に参加した9人と新しく加わった善議・勤操・修円・道證・歳光の14人であった。この時最澄は36歳であり、天台の法華三大部である法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻を4月15日より向こう5ヵ月にわたり講義した。この講義により各宗は論破され、南都仏教界の長老である73歳の善議が代表して桓武天皇に謝表を奉った。
「竊に天台の玄疏を見れば、釈迦一代の教を総括して悉く其の趣を顕すに所として通ぜざると云うこと無し。独り諸宗に逾えて殊に一道を示す。其の中に説く所の甚深の妙理は、七箇の大寺六宗の学生は昔より末だ聞かざる所、曾て末だ見ざりし所なり。三論・法相の久年の諍いも渙焉として氷の如くに釈け、照然として既に明らかなり。猶雲霧を披いて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論、其の数多し。彼此理を争って、其の疑い末だ解けず。而も此の最妙の円宗猶末だ闡揚せず。蓋し以れば此の間の羣生末だ円味に応ぜざるか。伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受けて、深く純円の機を結べり、一妙の義理、始めて乃ち興顕し、六宗の学衆、初めて至極を悟る。謂いつ可し、此の界の合霊今より後、悉く妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得ん。…善議等幸いに体運に逢い、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」
謝表の現代語訳を示せば次のようになる。
「ひそかに天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観等を見れば、総じて釈迦一代の教を括って、その本意をことごとく顕して通ぜざることなく、天台宗のみが諸宗に超越して仏道を示している。その中の所説は甚深の妙理であり、われわれ七箇の大寺・六宗の学生はいまだかって聞いたこともなく見たこともないところである。三論宗と法相宗の長年にわたる争いもたちまちに氷のごとく溶け、照然として明らかになった。あたかも雲霧が開けて、日・月・星の三光を見るようである。聖徳太子が仏法を弘通されてこのかた、今に200余年の間講ずる所の経論はその数が多く、互いに争って、その疑いが解けないままであった。しかも伝教大師が説かれるような最妙の円宗は、いまだ世間に弘められなかったことは、この間の衆生はいまだ円身を味わう資格がなかった故であろうか。伏して考えて見るのに、今の天皇は遠く如来の付嘱を受けて深く純円の義理を結び、一乗妙法の義理を始めて興顕してくださり、6宗の学者は今初めて仏法の至極を悟ることができたのである。かくて、この世の衆生は、今より後は、ことごとく妙円の船に乗り、早く成仏得道の彼岸に渡ることができるであろう。…善議等は宿縁に引かれて良縁に逢うことができ、いまだかって聞いたことのない素晴らしい教えを聞くことができた。深い深い縮縁でなければ、どうしてこのような聖代に生まれあうことができたであろうか」と。
この伝教大師の高雄講経について、弟子の光定の著した一心戒文巻下には「延暦二十二年八月二十九日、桓武天皇、特に式部小輔従五位上和気朝臣弘世に勅し、七箇大寺の学生僧善議・勤操・修円等一十三人を請い、高尾寺において天台法花新玄疏等を講ぜしむ」とあり、この講経が桓武天皇の勅命により開かれたものであるという。
日蓮大聖人はこの説を踏まえられ、この法華会が単なる「天台教学の紹介であり、大師自身の法華経観を明かにしたもの」とする立場とは全く異なり、他宗破折の場であることを強調しておられる。
この法華会の意義について大聖人は安国論御勘由来で次のように仰せである。
「延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学・勤操・長耀等の十四人を召し合せ勝負を決談す、六宗の明匠・一問答にも及ばず口を閉ずること鼻の如し華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵・三時の所立を破し了んぬ但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ることを知る、同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰る、十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る」(0034-08)
なお、法華会については今日の研究水準においても史料不足の故に不明の点が少なくないが、大聖人の時代には依りどころとされた史料があったはずである。上の安国論御勘由来の文も、それに基づかれたと思われる。いずれにしても14人が謝表を奉ったのはまぎれもない事実である。
伝教大師の功績
高雄山において法華会が開かれてから2年後の延暦23年(0804)7月、伝教大師最澄は弟子の義真を伴って入唐し、翌延暦24年(0805)6月に遣唐使とともに無事帰朝、入京した。こうして、天台大師の金光明経玄疏・菩薩戒疏・天台宗第9祖妙楽大師の著した天台三大部の注釈書である法華玄義釈籤・法華文句記・止観輔行伝弘決・維摩経の疏・涅槃経の疏等、重要典籍を日本に将来した。そこで、桓武天皇は、和気弘世に命じて天台章疏を書写し南都七大寺に流布せしめた。
このようなこともあり、延暦25年(0806)正月には公認の年分度者を願い出て、初めて「天台業二人」の年分度者を賜った。ここに、日本天台宗が開創されたのである。更に、大同5年(0810)正月、宮中の金光明会にて天台宗年分得度者8人の得度が許された。
しかしながら、このような得度者の増加は必ずしも比叡山での修行者の増加をもたらさなかった。それは、学生が一人前の僧となるためには、天下公認の戒壇に登って、僧綱を行う試験に合格しなければならなかったからである。当時、天下公認の戒壇は南都東大寺、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺の三ヶ所であった。そのため、比叡山で天台教学を学んでも、試験は他宗の教えによって受けなければならなかったのである。
延暦21年(0802)の法華会で南都六宗の蹟学に「今而後悉く妙円の船に載り早く彼岸へ渡ることを得」という謝表を書かしたことにより、法華経が他の経典より勝れていることは誰の目にも明らかとなっていた。しかるに、僧となるためには小乗戒を受けねばならないという矛盾が続いていた。
ここに伝教大師は弘仁9年(0818)3月、「二百五十戒忽ちに捨て畢ぬ」と小乗戒の棄捨を断行したのである。このことは公的に認められている僧としての立場を投げ捨て、社会的な自らの立場をも投げ捨てるともいえる大胆な行為であった。この時点では、最澄の最大の理解者である桓武天皇は崩御し、和気弘世等の外護者も皆死去しており、当時の天皇は南都六宗に心を寄せる嵯峨天皇であった。
ここに最澄は破邪顕正のため、円頓の戒壇を比叡山に建立するため立ち上がったのである。
「一乗の家には都て権を用いず」と権大乗を破折し、「穢食を以て宝器に置くこと無し」と小乗を断訶し、「仏世の大阿羅漢已に此の訶責を被れり滅後の小蚊虻何ぞ此れに堕わざらん」と諸宗の僧を小蚊虻に譬えて強くこれを打ち破ったのである。先に挙げられたものは、すべて守護国界章において法相宗の徳一を破折した文章であるが、法華経を第一として他教を退ける伝教大師の立場が明瞭に示されている。
そして伝教大師は、弘仁9年(0818)の5月、叡山の学生を大乗戒によって養育することを定めた天台法華宗年分学生式を制定し、大乗円頓戒独立の勅許を請い、これが朝廷の認可を得られないまま、同年8月には山家学生式第二弾としていわゆる八条式、更に弘仁10年(0819)3月には四条式を定め、朝廷の認可を重ねて請うた。
これに対する南都六宗の反対に対して顕戒論三巻を著して反対を加え弘仁11年(0820)2月29日、朝廷へ奉った。そして伝教大師は、弘仁13年(0822)6月4日に入寂したが、その7日後の11日、ついに大乗円頓戒の勅許になったのである。
このことについて、日蓮大聖人は「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒尸那一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(0264-03)と仰せになり伝教大師の功績を称賛されている。
この円頓戒の確立によって初めて大乗仏法が小乗戒及び王法への従属から脱して自立を勝ち得たのであり、ここに、法華経による真の民衆救済が可能となったのである。
0345:15~0346:02 第三 正直の行者は法華経のみを信受top
| 15 此れ又私の責めにはあらず法華経には「正直に方 16 便を捨て但無上道を説く」云云涅槃経には「邪見の人」等云云、 邪見方便と申すは華厳・大日経・般若経・阿弥陀 17 経等の四十余年の経経なり、 捨とは天台の云く「廃るなり」 又云く「謗とは背くなり」正直の初心の行者の法華 18 経を修行する法は 上に挙ぐるところの経経・ 宗宗を抛つて一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり 0346 01 而るを初心の行者・深位の菩薩の様に彼彼の経経と法華経とを並べて行ずれば 不正直の者となる、 世間の法にも 02 賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申す是なり、 -----― これもまた伝教大師が勝手に責めて言っていることではない。法華経方便品第二には「正直に方便の経々を捨てて但無上道を説く」とあり、涅槃経には「邪見の人」と説いている。「邪見」「方便」というのは、「華厳経・大日経・般若経・阿弥陀などの四十余年の爾前の諸経典のことでる。「捨」とは天台大師の言われるには「廃することである」と、また「謗とは正法に背くことである」と。 正直の初心の行者が法華経を修行する方法は、以上に挙げた方便の経典や宗派をなげうって専ら法華経を修行することであり、それが真の正直の行者なのである、しかるに初心の行者が修行の進んだ深位の菩薩と同じ様に爾前の諸経典と法華経とを並行して修行すれば、不正直の者となる。世間の法においても、「賢人は二君に仕えず、貞女は二人の夫に嫁がず」といっているのはこのことである。 |
「正直に方便を捨て但無上道を説く」
ここでは、南都諸宗を破折し、もっぱら最勝の経たる法華経を受持すべきことを主張した伝教大師の言葉が決して己義ではなく、経文に裏付けられたものであることを、法華経や涅槃経の経文、天台大師の釈を挙げて示されている。
釈尊一代の中で爾前の経教は、衆生の機根に合わせて説いた方便の教えであり、真実究竟の教えである法華経が説かれれば、それらに執着してはならないのである。大聖人は、諸御抄で爾前権教を足代に、法華経を搭に譬えられている。つまり、塔が出来上がれば、足代は不要になり除去されるのであり、上野殿母御前御返事に次のように仰せられている。
「足代と申すは一切経なり大塔と申すは法華経なり、仏一切経を説き給いし事は法華経を説かせ給はんための足代なり、正直捨方便と申して法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏・大日経等の真言宗・阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛ちてのち法華経をば持ち候なり、大塔をくまんがためには足代大切なれども大塔をくみあげぬれば・足代を切り落すなり、正直捨方便と申す文の心是なり」(1569-15)
また、この法華経方便品第二の文と併せて涅槃経の文を引かれているが、この「邪見の人」の文は、迦葉菩薩が釈尊の説く如来常住の義を了解したことをもって正見となし、それ以前の自分たちは「邪見の人」であったと述べた言葉である。
天台大師は摩訶止観巻二下において、「大経に云く、『此れよりの前は我等皆邪見の人と名づく』と、豈悪に非ずや。唯、円の法のみ名づけて善と為す」と述べ、更に大聖人は開目抄でこの釈を引かれて「外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり」(0227-09)と御教示されている。
このように、未顕真実の40余年の方便権教を捨てて、正善の法たる法華経のみを信受する者が正直の行者であり、まことの正見の人なのである。
世間の法にも賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がず
この話は、史記の田単伝第22にある。時は紀元前3世紀、中国の戦国時代のこと、燕が斉を打ち破ったとき、燕は斉の王蠋の人物を恐れ、「もし斉に背いて燕の武将になれば一万戸の領地を与えるが、それを聞き入れないなら殺す」と脅した。しかし王蠋は「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫をかえず」といい自ら命を絶ったという。
ここで、大聖人は、武士であった下山兵庫五郎光基に、この史記の話を引用して、元来、法華経を根本とした天台宗の者が法華経以外の念仏に心を移していることの非を厳しくとかれたのである。
当時の天台宗においては、絶待妙と称して法華経以外の念仏や真言など様々な行を併行して修していた。絶待妙とは相対妙に対する語で、一切の比較相対を絶して妙なることをいい、天台大師の法華玄義漢二上に説かれる法門である。つまり、法華経の真理によって釈尊の説いた一切の教法を判釈すれば、大小・権実等の区別がなくなり、悉く大乗であり、真実の教えとなる、と説く教義である。
言い換えれば、相対妙が、ある教法と他の教法とを比較相対し、その勝劣を明らかにして、一方を麤法として斥け、他方を妙法として歎ずるのに対して、より高い次元から両者を統一・融和し、劣った法であっても妙法の体内における一分の真実を説いた教えとして位置づけるのが絶待妙の立場であるといってよい。大聖人は次のように仰せである。
「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり、此の時は爾前権教とて嫌ひ捨らるる所の教を皆法華の大海におさめ入るるなり、随つて法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌わるる者無きなり、皆法華の大海の不可思議の徳として南無妙法蓮華経と云う一味にたたきなしつる間 念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出す可き道理曾て無きなり」(0377-01)
しかしながら、ここで忘れてはならないことは、絶待妙は常に相待妙を前提としたものであるということである。しかるにそれを忘れて、いかなる爾前経もすべて真実を説いたものだといって、何を修行してもよいというのは、大なる誤りである。
そうした誤った考えに陥りやすいことについて、大聖人は先に諸宗問答抄の次下に「世間の人・天台宗は開会の後は相待妙の時斥い捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱うるも又諸仏・諸菩薩の名言を唱うるも皆是法華の妙体にて有るなり大海に入らざる程こそ各別の思なりけれ大海に入つて後に見れば日来よしわるしと嫌ひ用ひけるは大僻見にて有りけり、嫌はるる諸流も用ひらるる冷水も源はただ大海より出でたる一水にて有りけり」(0377-05)と示されている。
それは「設ひ爾前の円を今の法華に開会し入るるとも爾前の円は法華の一味となる事無し、法華の体内に開会し入れられても体内の権と云われて実とは云わざるなり」(0378-04)と述べられているように、爾前権教は、開会の後も体内の権であって、体内の実とはならないからである。
そもそも、爾前経に並べて行じるのは「但楽って、大乗経典を受持して、乃至、余経の一偈をも受けざる有らん」と仏の戒めに背くことである。故に、大聖人は「世間の法」として賢人と貞女の例を挙げて、法華経と諸経の兼行がいかに道理に反することであるかを示されているのである。
0346:02~0347:05 第四段 正像末の弘通と上行喜薩の出現top
0346:02~0346:09 第一 正像末の区分と正法時代の弘法top
| 02 又私に異議を申すべきにあらず。 03 如来は未来を鑑みさせ給いて 我が滅後正法一千年・像法一千年・末法一万年が間我が法門を弘通すべき人人並に 04 経経を一一にきりあてられて候、 而るに此を背く人世に出来せば設い智者賢王なりとも用うべからず、所謂・我が 05 滅後の次の日より正法五百年の間は 一向小乗経を弘通すべし迦葉・阿難乃至富那奢等の十余人なり、後の五百年に 06 は権大乗経の内華厳.方等・深密・般若.大日経・観経.阿みだ経等を弥勒菩薩.文殊師利菩薩.馬鳴菩薩.竜樹菩薩・無 07 著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩等の大論師弘通すべしと云云、 此れ等の大論師は法華経の深義を知し食さざる 08 にあらず 然而法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば 心には存じて口に宣べ給は 09 ず或時は粗口に囀る様なれども 実義をば一向に隠して演べ給はず、 -----― また、自分勝手に異議を唱えるべきではない。 如来は未来を見通されて自らの亡き後、正法一千年・像法一千年・末法一万年の間、自らの法門を弘通すべき人々と弘めるべき経を一つ一つ明確に当てられている。これに背く人が世に現れたならば、たとえ智者・賢王であってもその教えを用いなければならないのである。 いわゆる「我が滅後の次の日から正法五百年の間は専ら小乗経のみを弘めるべきであり、その人は迦葉・阿難から富那奢に至る十余人である。その後の五百年には権大乗経の内の華厳経・方等経・深密経・般若経・大日経・観経・阿弥陀経などを弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩等の大論師が弘通すべきである」と説かれている。 これらの大論師は法華経の深義を知っておられないのではなく、法華経を流布の時もいまだ来ていないのと、釈尊からも命じられていない大法なので、心の中には知っていても口にはだされなかったのである。ある時は概略このことを口に出されるようなことがあっても、仏の真意はひたすら隠して説かれなかったのである。 |
法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法
仏が入滅した後、その教法が辿る変遷を時代的に区分したのが正法・像法・末法である。大聖人は、釈尊の小乗経の変遷について「正法千年は教行証の三つ具さに之を備う像法千年には教行のみ有つて証無し末法には教のみ有つて行証無し等云云」(0506-14)と述べられている。
小乗教は初めの正法時代においては、教・行・証の三つが共に備わっている。つまり、民衆が小乗教の実践によって功力を得ることができる時代である。しかし、像法時代に入ると、小乗教は教と行はあっても、証果はなく、形骸化していく。そして、末法においては、行じる人さえなくなるというのである。
大乗教は正法後半あるいは教行証に具わっているが、末法に入ると、教行のみはあっても証がなくなる。すなわち、末法には大小乗共に証果がなくなってしまうのである。
なお、釈尊滅後の正像2時の年限は経論によって異なる。すなわち、
①正法 500年、像法1000年
②正法1000年、像法 500年
③正法1000年、像法1000年
④正法 500年、像法 500年
の4説である。
大聖人は、大集経巻55の分布閻浮提品第17の「五の五百歳」説を踏まえて、正法1000年・像法1000年、末法10000年説を用いられている。これは、法華経薬王菩薩本事品第二十三にも「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して」と説かれていることにより、大集経の「後の五百歳」の予言こそ釈尊の真意であると判じられたものであると判じられたものと拝される。
つまり、この薬王品の文中にある「後の五百歳」とは、五の500歳のうちの最後の500歳である。「闘諍言訟・白法隠没」の時を指す。この時代に釈尊の仏法が隠没し、代わって法華経の肝心たる大白法が広宣流布することを予言したのが薬王品にほかならない。
大集経第55・月蔵分第12・分布閻浮提品第17には次のようにある。
「我が滅後に於いて五百年中には、諸の比丘等猶我が法に於いて、解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦・多聞堅固に住するを得るなり、次の五百年は、我が法中に於いて、多くの搭寺を造り、堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて、闘諍言訟し白法隠没し損滅して堅固なり」
釈尊滅後最初の500年は解脱堅固と称し、人々は正しく仏法を修行し、智慧を得て解脱の境地に至ることができる時代としている。次の500年は禅定堅固といい、前代よりも解脱に至る者は少なくなるが、なお禅成を持ち、三昧の境地に安住する者が多い時代であり、以上の1000年が正法時代にあたる。
次の500年は読誦多聞堅固と称し、経典を熱心に読誦したり、説法等を聴聞することが行われる時代、次の500年は、多造搭寺堅固といい、寺院や仏搭が多く建立される時代である。以上の1000年が像法時代にあたる。
第五の500年は闘諍言訟・白法隠没といい、人々は互いに自説に固執して仏教の中で争いが絶えず、白法は隠没してその功力が失われる時代であり、これより末法の時代に入る。
さて大聖人は本抄並びに諸御抄で、それぞれの時代に弘通すべき経典とその人物を具体的に挙げられている。まず、仏滅後500年までの解脱堅固の時代には、撰時抄に「大乗経の法門少々・出来せしかども・とりたてててて弘道し給はず、但小乗経を面としてやみぬ」(0261-01)と仰せられているため、歴史的に見ると、4回にわたって経典結集が行われ、阿闍世王・阿育王などの外護のもとで仏法が興隆した時代である。
次の正法後半の500年・禅定堅固の時代には、付法蔵第11の馬鳴菩薩から第23の師子尊者に至るまでの10余人によって権大乗経が弘められた。これらの人々のうち、小乗を破し大乗経を宣揚した論師に、馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等がいた。
しかしながら、この時代の大論師たちは、撰時抄に「始には外道の家に入り次には小乗経をきわめ後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず」(0261-04)と仰せのように、大乗経をもって小乗経を打ち破り、それを弘通することはしたが、法華経の勝劣については明らかにせず、法華経の実義たる一念三千は胸中にとどめ、それを口に出すことはなかった。
開目抄に「始には外道の家に入り 次には小乗経をきわめ後には 諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず」(0189-02)と仰せられた通りである。
それでは、なぜこれらの菩薩が法華経を弘めなかったのであろうか。本抄では、「法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば」と二つの理由を挙げられているが、曾谷殿許御書には「問うて曰く迦葉・阿難等の諸の小聖何ぞ大乗経を弘めざるや、答えて曰く一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり、問うて曰く竜樹・天親等何ぞ一乗経を弘めざるや、答えて曰く四つの義有り先の如し」(1082-16)と述べられている。
すなわち、一つには弘経に伴う難に耐えられないこと、二つには民衆の機根が整っていなかったこと、三つには仏より付嘱を受けていない故にその資格がないこと、四つには時がきていなかった故である。よって法華経の深義は知っていても、心にとどめて弘通はしなかったのである。
0346:09~0346:12 第二 像法の法華経は末法弘通の序分top
| 09 像法一千年の内に入りぬれば月氏の仏法漸く 10 漢土日本に渡り来る世尊眼前に 薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又 11 地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて 本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を 一閻浮提の一切衆 12 生に唱えさせ給うべき先序のためなり、所謂・迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是なり、 -----― 像法の一千年に入ると、インドの仏法は次第に中国・日本へと伝えられてきた。釈尊は明らかに薬王菩薩等の迹化、及び他方の大菩薩に法華経の半分、迹門の十四品を授けられた。これはまた地涌の大菩薩が末法の初めに出現されて本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせるためのその序にあたる。いわゆる迹門弘通の人とは南岳・天台・妙楽・伝教等の人たちである。 |
法華経の半分・迹門十四品を譲り給う
像法の前半500年の時代で特質すべきことは、仏教が後漢の明帝の時、中国へ渡来したことである。これをきっかけとして、仏典の翻訳・解釈などが盛んに行われるようになった。とりわけ経典の翻訳は鳩摩羅什に至って頂点に達し、妙法蓮華経をはじめとして膨大な経典・論釈が漢訳された。そしてこの時代の終わりごろ、天台大師が出現し、南岳大師に師事して法華の深義を悟り、理の一念三千を打ち立てた。
その後、像法の後半500年には、唐代に入り、法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗が中国全土に広まり、多くの寺塔が建立された。日本の仏教が公式に伝来したのはこの時代の初め、欽明天皇の代である。日本においては、聖徳太子の時代より本格的に仏教が信奉されるようになり、飛鳥寺・国分尼寺・東大寺など次々に寺院が建立された。
そして、鑑真の小乗戒壇建立を経て、伝教大師によって比叡山に円頓の戒壇が建立されるに至ったが、「此の伝教の御時は像法の末大集経の多造塔寺堅固の時なり」(0264-12)と述べられているように、伝教大師の時代は像法の末であり、釈尊の仏法がまだ力を失っていない時であった。しかし、次の末法の時代に入ると、白法が隠没し、新たな大白法興隆の時を迎えるのである。
法華経勘持品第十三に「唯願わくは慮いしたもう為からず、仏の滅度の後の、恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし」従地涌出品第十五に「我等仏の滅後に於いて、この娑婆世界に在って、勤加精進して、是の経典を護持し、読誦し、書写し、供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於いて、広く之を説きたてまつるべし。…止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」とあるように、勧持品では迹化の菩薩が、湧出品では他方から来た菩薩が娑婆世界における滅後弘経を請うたが、釈尊はこれを許さなかった。そして、上行等の四菩薩を上首とする本眷属六万恒河沙の菩薩を大地より召し出したことが説かれている。
釈尊は何故に迹化や他方の大菩薩に滅後の弘経を許さなかったのであろうか。大聖人はこれについて天台大師・妙楽大師の釈を引かれたうえで、「経釈の心は迦葉・舎利弗等の一切の声聞・文殊・薬王・観音・弥勒等の迹化・他方の諸大士は末世の弘経に堪えずと云うなり」と仰せられている。一見すると、釈尊が滅後の弘経を制止したのは他方の菩薩のみに対してのようであるが、法華経の流れを辿ってみれば、迹化の菩薩も含めて制止したことは明らかである。
日寛上人は観心本尊抄文段で、本化・迹化・他方の三種の菩薩の立て分けに二義があるとされている。
一つは、菩薩の所住の処に約した場合であり、本化の菩薩は下方空中に住するから「下方」といい、他方の菩薩は娑婆世界以外の国土に住するから「他方」と呼ぶのである。この他方の菩薩に対して文殊等の迹化の菩薩を「旧住の菩薩」と名づける。
もう一つは、仏の本迹の教化に約した場合であり、下方の菩薩は仏の本地の教化による菩薩であるから「本化」と名づけ、文殊等の菩薩は迹仏の教化による菩薩であるから「迹化」という。これに対し、仏の本地の教化でもなければ迹中の教化でもなく、釈尊以外の他仏の弟子である菩薩を「他方」というのである。
ところが、大聖人は観心本尊抄で「文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩は宝威仏の弟子なり一往釈尊の行化を扶けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門の菩薩なり本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」(0251-14)と、文殊等の迹化の菩薩が他方他仏の弟子であり、暫くの間、娑婆世界に来至した菩薩であることを明かされている。
これは、釈尊の久遠の本地が明かされたうえから見れば、他仏も迹仏となるからであると拝される。なお、釈尊が迹化・他方の菩薩をとどめて本化の菩薩を召し出した所以については、六巻抄、本尊抄文段等でくわしく論じられている。
釈尊は法華経如来神力品第二十一では本化地涌の菩薩にのみ付嘱したが、法華経嘱累品第二十二では本化のみでなく迹化・他方も含めて付嘱した。この故に神力品における付嘱を別付嘱、あるいは本化付嘱というのに対し、嘱累品における付嘱を総付嘱、あるいは迹化付嘱と称している。神力品の別付嘱とは、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩の末法における三大秘法の弘通を付嘱したことをいうのに対して、嘱累品の総付嘱は、これら上行等の末法弘通も含めて、迹化・他方の菩薩による正像弘通を付嘱したことを指している。
したがって、この嘱累の付嘱は「法華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり」(1033-18)と仰せられているように、法華経一経にとどまらず、その前後一代の諸経にも通ずるのであり、法華経の半分・迹門のみを付嘱されたわけではない。ではなに故に大聖人は本抄で「法華経の半分・迹門十四品を譲り給う」と仰せられたのであろうか。
それは、薬王菩薩の再誕が天台大師であるとされるところから、特に天台大師の弘通に焦点を当てて仰せられているためであると拝される。そして、これら正法時代の正師による法華経弘通は、地涌の菩薩が末法の初めに出現して「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」を弘通するための序分であると仰せられている。
0346:12~0347:05 第三 諸宗所依の経々は末法に不相応top
| 12 今の時は世すでに 13 上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、 而るに余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか、 而るに諸 14 宗所依の華厳・大日・阿みだ経等は其の流布の時を論ずれば 正法一千年の内・後の五百年乃至像法の始めの諍論の 15 経経なり、而るに人師等・経経の浅深・勝劣等に迷惑するのみならず 仏の譲り状をもわすれ時機をも勘へず猥りに 16 宗宗を構え像末の行となせり、 例せば白田に種を下だして玄冬に穀をもとめ 下弦に満月を期し夜中に日輪を尋ぬ 17 る如し、 何に況や律宗なんど申す宗は一向小乗なり月氏には 正法一千年の前の五百年の小法又日本国にては像法 18 の中比・法華経 天台宗の流布すべき前に且らく機を調養せむがためなり、 例せば日出でんとて明星前に立ち雨下 0347 01 らむとて雲先おこるが如し、 日出雨下て後の星雲はなにかせん 而るに今は時過ぬ又末法に入りて之を修行せば重 02 病に軽薬を授け大石を小船に載するが如し修行せば身は苦く暇は入りて験なく 華のみ開きて菓なからん、 故に教 03 大師・像法の末に出現して 法華経の迹門の戒定慧の三が内・其の中・円頓の戒壇を叡山に建立し給いし時二百五十 04 戒忽に捨て畢んぬ、 随つて又鑑真の末の南都七大寺の一十四人・三百余人も加判して 大乗の人となり一国挙つて 05 小律儀を捨て畢んぬ、其の授戒の書を見る可し分明なり。 -----― 今末法の時代は既に上行菩薩等が出現される時に当たっている。私の愚眼をもって見るにその瑞相は既に現れているようである。 しかるに、諸宗が依りどころとしている華厳経・大日経・阿弥陀経等の諸経は、その流布の時を論ずれば正法一千年の後半五百年かあるいは像法時代の初めの諍論の時のためのものである。しかるに諸宗の人師らは経典の浅深とか勝劣などに迷うのみでなく、釈尊の弘通の付嘱も忘れ、時や機根も考えないで勝手に宗派を起こし、像法や末法の修行としたのである。これは畑に種を植えて冬に収穫を求め、下弦の月が出る頃に満月を期待し、夜中に太陽を探すようなものである。 まして律宗などという宗は専ら小乗の教えであり、インドでは正法一千年の前半の五百年の小法であり、日本にあっては像法時代の中頃、法華経天台宗が流布する前にしばらく衆生の機根を整えるために立てられた教えなのである。これを譬えるならば日の出前に明けの明星が輝くようなものであり、また雨が降る前にまず雲が生じるようなものである。日が出て後の星、あるいは雨が降った後の雲に何の意味があるであろうか。 今は正像の時は過ぎてしまっている。末法に入ってから小乗の教えを行じるのは、例えば重病の人に軽い薬を与え、あるいは大石を小船に乗せるようなものである。これを修行すればその身は苦しく、時間がかかるだけで結果もあらわれない。花だけ咲いて果実が実らないようなものである。 故に伝教大師が像法時代の末に現われ、法華経迹門の戒・定・慧の三学の内の円頓の戒壇を比叡山に建立された時、小乗の二百五十戒を直ちに捨て去ったのである。したがって、鑑真の末流の南都七大寺の僧十四人・三百余人も承伏状に署名して大乗の人となって、日本の国を挙げて小律儀を捨て去ったのである。その授戒の記録を見ればそのことは明らかである。 |
大集経に説く五五百歳の第五の500年は末法の始めを指している。釈尊の入滅年代を周の穆王53年壬申(BS・0949)とすると、仏滅より2001年経過した後冷泉天皇の永承7年(1052)が末法初年に当たる。
末法に入って200余年、日蓮大聖人御在世当時、自然災害が多発し、民衆はなすすべもなく不安を募らせていた。例えば地震に限ってみても、嘉禄2年(1226)の鎌倉大地震をはじめとして、立正安国論後述作の機縁となった正嘉元年(1257)の鎌倉大地震まで、鎌倉だけでも少なくとも10数回の地震が起こっており、それに伴って火災・疫病・飢餓などが蔓延した。このほか洪水、暴風雨、干ばつなどの転変地夭が度重なり、民衆は地獄の苦しみにあえいでいたのである。
この様相は立正安国論の冒頭に「近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」(0017-01)と描かれているように、悲惨を極めた地獄図そのものであった。
そうした自然の災害によってもたらされた民衆の苦しみと不安を更に助長せしめたのが相次ぐ戦乱である。平安末期に起きた保元の乱、平治の乱に始まって、源平の合戦と、血を血で洗う戦乱の歴史が綴られ、末世の様相を濃くしていく。とりわけ承久3年(1221)、後鳥羽上皇を中心とする朝廷方が、鎌倉幕府を滅ぼそうとしてかえって幕府方に破れた承久の乱は、三上皇が流罪に処されるという前代未聞の出来事となり、さらに五濁乱漫の様相を象徴する事件であった。
大聖人の御在世当時においても、文永9年(1272)2月に、執権北条時宗の異母兄・時輔の謀反の陰謀が発覚し、鎌倉名越の江間時章・教時兄弟らとともに誅殺された。いわゆる2月騒動と呼ばれる北条一門の争いが起きた。また文永11年(1274)には、日本にたび重なる使者を送り服属を求めていた元から遂に大軍が襲来し、猛威をふるった。これは大聖人が立正安国論で予言されていた自界叛逆難や他国侵逼難が現実化したものであった。
また当時の宗教界においても、「闘諍言訟・白法隠没」という仏の予言通りの様相を呈していた。多くの人々に末法の到来をいやがうえにも実感させたのは、僧侶の堕落・腐敗であり、なかでも僧兵の横暴は目を覆うばかりであった。それを象徴的に示したのが天台宗内部における延暦寺山門派と園城寺寺門派との抗争である。
両門徒の対立は既に10世紀の末に、天台座主の補佐をめぐって激化し、正歴4年(0993)8月に智証門徒が叡山より追い出されたことによって分裂は決定的となった。その確執は500年にも及んだという。
特に末法に入って30年目にあたる永保元年(1081)、延暦寺の僧兵が園城寺を襲い、堂搭を焼き払うという暴挙に出たことに人々に大きな衝撃を与えた。以後、7度にわたって園城寺は山門の衆徒による焼き打ちに逢い、そのたびに近所の民家もその災厄に巻き込まれた。
このような両門の抗争は、大聖人時代も変ってはいない。文永元年(1264)3月、叡山の衆徒が自ら放火し、叡山が炎上するという事件が起きた。
これは、文応元年(1260)1月、朝廷が宣旨を下し、三摩耶戒をもって法臈を定めることを園城寺に許したのに対して、叡山が強く反発したためにこれを取り下げたことをきっかけにし、その後、その代わりに四天王寺の別当職を園城寺に付したところ、これにも山門派が反対し、抗議行動を起こしたが、要求をいれられなかったため、山門の大衆が自ら火を放ったものである。火は叡山の講堂をはじめ、法華堂、戒壇院等、多くの堂搭をなめつくした。
しかも、山僧らは、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて京に入り、院の武士等と武力衝突を繰り返したのである。大聖人はこの事件を聞かれて「中堂炎上の事・其の義に候か山門破滅の期・其の節に候か」(1264-01)と、叡山の滅亡に代わって大聖人の仏法が新たに興隆する象徴であると示されている。
そうしたなかで、宗教者が権力と癒着し、その庇護のもとで自宗の勢力拡大を図っていたことも見逃してはなるまい。真言律宗の極楽寺良観はその典型であった。
大聖人は、このような当時の状況こそ、大集経に「白法隠没」と説かれている通りの様相であり、それは同時に、法華経薬王菩薩本事品第二十三で「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」と説かれている時であると見抜かれ、本抄で「上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり」と断言されたのである。
なお本抄で大聖人は「余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか」と仰せであるが、このことについては、観心本尊抄の次の文を拝すれば明らかであろう。すなわち「正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか」(0254-14)と。この御文では、当時の相次ぐ未曾有の転変地夭が上行等の四菩薩出現の先兆であることを明かされている。
すなわち顕仏未来記には「当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508-16)と正像2000年に弘まった釈尊の仏法が滅尽し、それに代わって大聖人の仏法が新たに興隆する大瑞相にほかならないと仰せられている。
華厳経・大日経・阿弥陀経等の権大乗の教えは、仏滅後正法時代1000年のうち後の500年、いわゆる禅定堅固の時代あるいは像法の初めに当たる読誦多聞堅固の時代に流布すべき経であった。像法後半になると、法華経迹門でなくては救えない機根となっていたのである。
にもかかわらず、像法末期の人師たちは経の浅深勝劣も知らず、釈尊の付嘱、また時や機根を弁えずに自分勝手に禅宗とか念仏宗等を立て、それが末法に入っていよいよ勢力を拡大していたのである。大聖人はこれらを信仰・修行しても無益であることを、例えば、畑に種をまいて冬に収穫しようとするようなものであり、下弦の月が出る頃に満月を期待し、あるいは夜中に太陽を捜すようなものであると破折されている。
そして、更に律宗に言及され、この宗はもっぱら小乗の教えであり、インドでは正法1000年の前の500年に弘まるべき小法に過ぎず、日本の国では像法の中頃、天台法華宗が流布すべき前にしばらく衆生の機根を整えるために鑑真が立てた教えであったのである。
この故に大聖人は、伝教大師により法華経が弘められて後は、当然捨てられるべき教えであり、まして末法において、律宗を修行するのは、重病人に軽い薬を与え、あるいは小石を小船に乗せるようなものであると仰せられている。
南都の戒壇と大乗の戒壇
一般に仏道修行のうえで必ず修学すべきものとして、「戒」「定」「慧」の三学がある。このうち戒とは防非止悪の義であり、五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、大乗経・小乗経を通じ在家出家それぞれに持つべき規律の詳細が定められている。その受戒の儀式を行う場所が戒壇である。
日本においては、天平勝宝6年(0754)に東大寺に戒壇が建立され、鑑真によって菩薩戒が授けられたのが最初である。
東大寺の凝然が著した三国仏法伝通縁起巻下には「其の年の四月に、初めて廬舎那度の前に於いて戒壇を立つ。天皇、初めに登壇して菩薩戒を受け、次いで皇后・皇太子も亦登壇して受戒したもう。…所立の戒壇には三重の壇有り。大乗の菩薩の三聚浄戒を表せるなり」とあることからもうかがえるように、伝教大師が大乗戒壇建立の勅許を朝廷に請うた際に、南都の諸徳はこれに反発し、日本には既に鑑真によって大乗戒が伝えられていると主張し、その旨を上奏した。
これに対して、伝教大師は顕戒論三巻を著して、南都の批判が的外れであるとして、法華経に基づく円の三学として大乗戒を樹立することが目的であることを明らかにしている。
ここで、南都六宗で言う「大乗の菩薩の三聚浄戒」と伝教大師の大乗戒との相違について論及しておきたい。
まず、三聚浄戒とは大乗の菩薩戒の一つで、仏の定めた一切の律儀を厳持して悪を防ぐ摂律儀戒、身口意にわたって一切の善法を修することを戒とする摂善法戒、一切衆生を教化して饒益することを戒とする摂衆生戒の三つをいう。
瑜伽派では、これら三聚浄戒のうち、摂律儀戒については、比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒等のいわゆる小乗戒を内容とし、これとは別に大乗的な戒律である摂善法戒・摂衆生戒を立て、合わせて三聚浄戒とすることにより、大乗の菩薩戒と小乗声聞の戒をも併せて受持すべきことを唱えたのである。これを大乗共門戒と称する。瑜伽論・菩薩地持経・菩薩善戒経等に説くところの大乗戒である。
これに対して、小乗戒を受持することを許さず、もっぱら大乗菩薩戒のみを受持すべきことを説くのが不共門戒であり、これを梵網菩薩戒経、菩薩瓔珞本業経に説かれる。鑑真が伝えた南都の戒は、瑜伽系の大乗戒であったから、大小兼学というべきものである。
これに対し、伝教大師の建立しようとした大乗戒は、「凡そ仏戒に二有り、一には大乗の大僧戒十重四十八軽戒を制し、以て大僧戒と為す。二には小乗の大僧戒、二百五十戒を制し、以て大僧戒と為す」とあるように、そうした小乗戒を一切まじえない梵網戒である。顕戒論巻中には次のように述べている。
「夫れ此の十重戒は先より伝授すと雖も、然も但其の名有りて、末だその義を伝えず。何を以てか末だ其の義を伝えずと知ることを得るや。然るに末だ円の義を解せざるが故に、猶小儀に共するが故なり」
つまり、梵網経に説く菩薩戒も既に日本に伝えられていたとはいえ、華厳部における別教の意においてであり、法華経の絶待妙開会の立場から権即実と開いて円戒とした梵網経と一線を画するものである。したがって、円教を意に解せずにいくら大乗戒を受けても小乗戒の域を出ない。これが伝教大師の南都への反駁であった。
その意味で、伝教大師が梵網経を円戒と位置付けているのはあくまで法華経の絶待妙開会の立場からであり、法華経開会がその前提となっているといえるであろう。
大聖人は十法界明因果抄に「法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり」(0435-13)と述べられ、相対妙の戒については「法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対して麤妙を論ずるを相対妙の戒と云うなり」(0435-16)と、また絶待妙の戒については「絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり」(0436-15)と述べられている。
伝教大師は法華経を根本とした絶待妙の意味において梵網経の戒を立てたのである。したがって、伝教大師が梵網経を円頓の戒としたのは、あくまで傍意であり、正意は法華の円戒にあったことを看過してはならない。大師が顕戒論において、もっぱら梵網経をもって大乗の円戒としたのは、小乗戒をまじえた南都所伝の大乗戒が有名無実であることをもっぱら明かすためであったと思われる。
鑑真が受戒したという菩薩戒が梵網戒であったかどうかについては諸説があり、史料的には定かではないが、鑑真が学んだ律が道宣律師の小乗の四分律であったことを考慮すれば、四分律の二百五十戒を三聚浄戒の律儀戒に摂する瑜伽系の大乗戒であったと考える方が自然であると思われる。
小乗戒を禁じた梵網戒と小乗の二百五十戒を併せもつことは道理に合わないことは明白であり、天台の宗義にも通じていた鑑真がそのような誤りを犯すはずがない。故に日寛上人は撰時抄愚記で次のように指摘されている。
「鑑真既に道岸法師に随って菩薩戒を受くるが故に、時の宣しきに随ってこれを授くるならん。既に南山を祖と為す。故に四分小律を出ずべからず。設い菩薩戒を兼ぬと雖も、多くはこれ善戒経・瑜伽論等の意なり。尚梵網の大戒に及ばず、況や法華の円戒に及ばんをや」
したがって、先に見たように三国仏法伝通縁起で東大寺の凝然が南都の戒壇を大乗であるとしたのはかえって鑑真の心を曲解したものといわなければならない。しかも、その凝然が八宗綱要下で明らかにしているように、戒には別受戒・通受戒の二種があり、総じて三聚浄戒を受けるのは通受戒で、別してそのうちの摂律儀戒を受けるのを別受戒といい、南都の戒壇では別受戒はもっぱら小乗の二百五十戒のみであったのである。
これに対して伝教大師は、一切の小乗戒を廃棄し別受戒を大乗の梵網戒とすべきことを主張したのである。大聖人は次のように仰せられている。
「伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下す」(1034-10)
伝教大師の大乗戒壇建立以前は、天台宗としての年分得度者であっても東大寺の小乗戒壇で受戒しなければならないという制約があった。そのせいか、叡山で得度しながら、南都の権威に屈して途中で法相宗に移ったり、退転して下山する学生が少なくなかったのである。このことは顕戒論巻下に記された次の言葉にうかがえる。
「而して頃年の間、此の宗の学生、小儀に駆散す。山室空しく蕪れ、将に円道を絶せんとす」
もちろん、そうした現実的な問題もさることながら、大乗教の真髄たる法華経を宗旨とする天台法華宗の立場からすれば、小乗の戒壇で受戒するということは相容れない根本的な問題であったといわなければならない。故に伝教大師は、叡山において独自に得度受戒できるために大乗戒壇を建立し、大乗僧を育成することを念願としたのである。
しかしながら、これに対して、南都の諸徳は当然のことながら強く反発し、こぞって頑強に反対したのである。このために大師の生存中には実現しなかったが、弘仁13年(0822)時の嵯峨天皇は大師の入寂を深く哀惜し、7日を経た6月11日をもって、叡山大乗戒独立允許の官符が発せられた。また翌年2月の延暦寺の勅額及び太政官牒が下がった。伝教大師の弟子・義真によって4月に菩薩大戒の受戒が延暦寺において行われ、天長4年(0827)に円頓の戒壇院が叡山に建立されたのである。これによって、南都において小乗の二百五十戒を受けなくても大乗の僧侶となる道が開かれたのであった。
なお、大聖人が本抄をはじめ諸御抄で、戒壇の建立が伝教大師入滅後であったにもかかわらず、大師が叡山の戒壇を建立したと述べられているのは、「功を伝教に帰して」のことである。
また、本抄で伝教大師建立の円頓戒壇を、法華経の迹門の戒定慧の一つであると位置づけられている点も見逃してはならない。三大秘法禀承事に「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に」(1022-18)と仰せのごとく、五濁悪世の末法にあっては、迹門の戒は無益となるのである。
0347:06~0349:09 第五段 良観ら鎌倉律師の批判top
0347:06~0347:14 第一 律宗は小乗の小法top
| 06 而るを今邪智の持斎の法師等昔し捨てし小乗経を取り出して 一戒もたもたぬ名計りなる二百五十戒の法師原有 07 つて公家武家を誑惑して 国師とののしる剰我慢を発して 大乗戒の人を破戒無戒とあなづる、 例せば狗犬が師子 08 を吠え猿猴が帝釈をあなづるが如し、 今の律宗の法師原は世間の人人には 持戒実語の者の様には見ゆれども其の 09 実を論ぜば天下第一の大不実の者なり、 其の故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は 大小乗の中には一向 10 小乗・小乗の中にも最下の小律なり、 在世には十二年の後・方等大乗へうつる程の且くのやすめ言滅後には正法の 11 前の五百年は一向小乗の寺なり 此れ亦・一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり、 されば日本国には像法半に鑑 12 真和尚大乗の手習とし給う 教大師・彼の宗を破し給いて 人をば天台宗へとりことし宗をば失うべしといへども後 13 に事の由を知らしめんがために 我が大乗の弟子を遣してたすけをき給う、 而るに今の学者等は此の由を知らずし 14 て六宗は本より破れずして有りとおもへり墓無し墓無し、 -----― しかし、今日、邪智の持斎の法師らの中には、昔捨てられた小乗経を取り出して、一戒も持たないで二百五十戒の法師とは名ばかりのものどもが、公家・武家を誑惑し、自ら国師であると僭称しているのである。 のみならず慢心を起こし、大乗戒を持つ人に対して破戒・無戒の者であると恥辱している。これは、例えて言えば犬が師子を吠え、猿が帝釈を恥辱するようなものである。 今日の律宗の法師どもは世間の人々には持戒実語の人のように見えるけれども、その実は天下第一の大不実の者である。その理由は、彼らが依文とする四分律・十誦律等の文は大乗・小乗の中では専ら小乗教に属し、小乗教の中でも最下級の小律だからである。釈尊在世にあっては、阿含時十二年の後、方等時で説かれる大乗教へ移るまで、しばらくの間、仮に説いた教えであり、釈尊入滅後では、正法時代の前半の五百年にあって専ら小乗教の寺で持った戒律である。これもまた専ら大乗のみを行ずる寺では毀謗の対象となすべきためのものである。故に日本国では像法の中頃に鑑真和尚がこの小乗教を、大乗教に入るための手習いとされたのである。 伝教大師がかの律宗を破折され、その人々をば天台宗へ帰伏された折、宗派としては廃止すべきところであったが、後世にこの経緯を知らしめるために自身の大乗の弟子を遣わして助けおかれたのである。ところが今日の僧たちはこの経緯を知らないで、六宗はもとより破折されていないと思っている。実にはかないことである、はかないことである。 |
伝教大師によって叡山に大乗戒壇が建立されてより、当然のことながら小乗戒を中心としていた律宗は衰退の一途を辿っていった。興福寺の実範が天永2年(1111)頃、鑑真開基の唐招提寺を訪れた時のことを記しているが、それによると寺は荒れ果てて衆僧もいず、わずかに野良仕事に従事する禿丁が一人いるだけだという。いかに衰退したかがうかがえる。
しかし、平安末期から鎌倉期にかけて南都仏教の復興の機運が現れてきた。治承4年(1180)12月、平清盛がその子重衡をもって南都を襲わせた際、南都が炎上し、東大寺・興福寺の二大寺も焼失したが、その再建が機となって南都仏教は復興の道を歩むのである。特に、戒律の重視・研究は、当時の延暦寺や京の諸寺の退廃への反動であろうが目覚ましいものがあった。その先駆者が実範であり、その後、興福寺の覚盛や西大寺の叡尊等が現れ、大いに戒律を宣揚した。
とりわけ、西大寺の叡尊は、真言と戒律を融合した独自の教学を打ち立てて真言律宗を開き、上皇から庶民に至るまであらゆる階層にわたって教化し、急速に勢力を伸ばしていった。この叡尊の弟子・良観は、鎌倉に招かれ北条氏の手厚い保護のもとで関東における律宗興隆の立役者となったのである。日蓮大聖人は本抄の第五段と第六段で、当時、興隆を誇っていた律宗の根本教義を批判するとともに、極楽寺良観を名指しで、その表裏にある言辞と行状とを厳しく告発されている。
良観が奈良・西大寺から関東に下ったのは建長4年(1252)のこととされている。関東入した良観は、まず常陸の三村寺を改宗させることに成功し、以後ここを拠点として鎌倉進出の機会をうかがっていた。弘長2年(1262)2月、北条実時の要請によって叡尊の鎌倉下向が実現した、その陰には良観の働きかけがあったろうと推察されている。
叡尊は鎌倉滞在中に、関東における律宗の中心を三村寺から鎌倉新清涼寺釈迦堂に移し、北条一門をはじめ多くの人々に戒を授けた。叡尊の鎌倉滞在は約半年にわたったが、この間、良観も鎌倉に滞在し師の活動を助けたことはいうまでもない。またこれを機会に良観と北条家とのつながりが一層強められることになったのである。叡尊が鎌倉の地を去った後も、良観は鎌倉に残り本格的に勢力を拡大していく。
良観を熱心に外護したのは、北条氏一族の中でも、前連署の重時とその子業時であった。重時は五代執権・北条時頼の妻の父で、六代執権・長時の父であったから、良観は幕府権力の中枢とつながることに成功したといえる。重時は息子の長時を動かして大聖人を伊豆流罪に処した張本人であったが、弘長元年(1261)5月、流罪に処した翌月に病に倒れ、その年の11月に狂死している。それはともかく、翌弘長2年(1262)の春には業時が多宝寺を創建し良観を招いた。
良観は文永4年(1267)、重時が創建した極楽寺の別当に請じられ、以後、摂津の多田院・四天王寺等、多くの別当を兼任しつつも、死去する嘉元元年(1303)に至るまで、37年間極楽寺に住し、名声と権威をほしいままにした。
律宗の教義への批判
さて、日蓮大聖人は、こうした真言宗の本質を鋭く見抜かれていた。まず彼らの教義について本抄では端的に「彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり」と喝破されている。
日本における律宗は、中国の道宣律師によって開かれ、鑑真によって日本に伝えられた四分律宗の流れを汲んでいる。インドから中国に伝わった律蔵は、法蔵部の四分律、説一切有部の十誦律、化他部の五分律、上座部の僧祇律があり、これを総称して四律、あるいは四部律といっている。道宣はこのうち四分律を所依として一宗を開いたのである。
大聖人がここで四分律のみならず十誦律等も含めて述べられているのは、大乗の立場から見るならば、四分律、十誦律はいずれも比丘・比丘尼のために説かれた小乗の戒律経典で共通しているからである。
ところで、小乗の三蔵を戒定慧の三学に配すれば、律蔵は戒学、経蔵は定学、論蔵は慧学にあたる。そして、三蔵経においてこれら三学の勝劣は「戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、 故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり」(0390-07)と仰せのように、三学中で最も劣っている戒を重視しているのが律蔵であることから、大聖人は本抄で「小乗の中でも最下」と指摘されたものと拝される。
四分律によれば、比丘・比丘尼が持つべき具足戒として比丘に250戒・比丘尼に348戒がある。このような戒律は、およそ通常の生活を営む人々には実践できるものではない。試みに在家の男性のために立てられた最も基本的な五戒について考えてみよう。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒である。
もし、この五戒を厳格に遵守すると日常生活に支障をきたすことは明白である。例えば、西大寺の叡尊とその弟子・良観は不殺生戒を人々に徹底しようとした。それを受けて殺生禁断が強圧的に押しつけられた地域では、魚師や猟師等が生きていけなくなる事態が生じたのである。
このように小乗戒は人間の煩悩をなくすことを目指しながら現実には人間生活を成り立たなくしてしまうのである。煩悩を押し込め、あるいは滅尽し悟りを得ようとする小乗教に対して、むしろ煩悩をより高い次元へと昇華することを教えたのが大乗教である。そして、この煩悩を昇華する原動力としての智慧を明かし、万人の成仏の道を示したのが法華経であった。であればこそ、伝教大師は自ら小乗戒を捨てて法華経を根本とする大乗戒を立てたのである。
日蓮大聖人が本文で律宗の四分律を「最下の小律」と仰せになっているのは、以上の理由からも理解できるであろう。そのような小乗戒が立てられたのは、あくまで大乗教を説くに先立って、衆生の機根を調養するための方便であったなである。
また、仏滅後、正法時代の500年に小乗教が広まり、小乗寺院が建てられたが、これらの寺院は、やがて大乗教の寺院が登場すれば、その使命を終えていったのである。したがって、日本に小乗教の戒をもたらした鑑真和尚も、あくまで大乗教が確立されるにあたっての土壌作りとして、東大寺以下、三ヵ寺に小乗戒の戒壇を建立したのである。
鑑真が小乗戒の戒壇を建立してから約半世紀後、伝教大師が出現し、鑑真が将来した天台三大部を読んで法華経こそ一切経の中にあって最高・甚深の経典でることを日本に明らかにした。高雄山で延暦21年(0802)1月より始まった法華会がそれである。南都七大寺の学匠を前に天台三大部とともに、法華経第一を講説したその講筵は、桓武天皇の注目・称賛するところとなった。以後、桓武天皇は伝教大師を支援し、伝教大師の入唐を実現し日本天台宗の開創の大きな力となった。また、善議等が天皇に奉った謝表文に明らかなように法華経の妙理によって打ち立てられた天台の宗義の優越性が明確化されたのである。
日蓮大聖人は、この高雄山寺の法界の歴史的意義については諸御書にふれられているが、本抄でも、各宗がこの帰伏の結果、廃されてしかるべきであったのに、廃されないで残されていたのは、伝教大師の考えによってであったことを述べられ、にもかかわらず当世の学者が、南都六宗の教義がいまだかって破られたこともないと思い込んでいる姿は、まことにはかない拙いことでると嘆かれている。
これまで、律宗が基本的に小乗の戒をもとにしたものであることを述べてきた。しかし問題はそれにとどまらない。むしろ当時の律師たちの問題は、人々の説いている戒律に彼ら自身が違背していることにあった。大聖人が本抄で、鎌倉における律宗の代表者たる良観の偽善者の仮面をはいで、その実像を白日のもとにさらし、「邪智の持斎の法師」とか「一戒もたもたぬ名計りなる二百五十戒の法師原」と痛烈な非難を加えられている所以がそこにある。
極楽寺良観に対する具体的な批判は後で触れることにし、ここでは次のことを指摘するにとどめておきたい。それは、今日に伝わる良観に関する伝記は性公大徳譜、元亨釈書など幾つかあるが、それらはいずれも良観の没後にできたものであり、しかも、例えば大聖人に祈雨の勝負で破れた事実がどの伝記にも見られないことからもうかがえるように、崇拝者の立場からしか記されていないといってよい。
良観はその外面においては慈善事業を推進した慈悲深い宗教者であり、伝記でもっぱらそのことに多くの紙幅が費やされている。しかし、それは彼の私利私欲を満足させるための手段であり仮面に過ぎなかった。大聖人は同時代人として、この良観の偽善者としての本質を如実に見破られていたのである。もし大聖人が良観について書き残されていなかったならば、彼の真実の姿は覆い隠されてしまったに違いない。
0347:14~0348:04 第二 律宗僧侶は阿羅漢に似た一闡提top
| 14 又一類の者等天台の才学を以て 見れば我が律宗は幼弱 15 なる故に漸漸に梵網経へうつり 結句は法華経の大戒を我が小律に盗み入れて 還つて円頓の行者を破戒無戒と咲へ 16 ば、 国主は当時の形貌の貴げなる気色にたぼらかされ給いて 天台宗の寺に寄せたる田畠等を奪い取つて彼等にあ 17 たへ万民は又 一向大乗の寺の帰依を抛ちて彼の寺にうつる、 手づから火をつけざれども日本一国の大乗の寺を焼 18 き失い抜目鳥にあらざれども 一切衆生の眼を抜きぬ仏の記し給ふ阿羅漢に似たる闡提是なり、 涅槃経に云く「我 0348 01 涅槃の後無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん正法滅して 後像法の中に於いて当に比丘有るべし、 持律に似像 02 し少く経を読誦し 飲食を貪嗜して其の身を長養せん、 乃至袈裟を服すと雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠 03 を伺うが如く外には賢善を現し 内には貪嫉を懐き唖法を受けたる婆羅門等の如く 実に沙門に非ずして沙門の像を 04 現し 邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云、 此の経文に世尊未来を記し置き給う。 -----― また、律宗の一部のものどもは、天台の才能と学識からみると、我が律宗が幼弱なので次第に梵網経へ移り、結局は法華経の大戒を自宗の小乗戒に盗み入れ、かえって法華円頓の行者を破戒・無戒と嘲笑したので、国主は当時の律僧のいかにも高貴そうな外見に惑わされて、天台宗の寺に寄進していた田畠等を奪い取って彼らに与え、また万民も大乗の寺への帰依を止め、小乗である律宗の寺に移ってしまったのである。 これは自ら火はつけなくても日本一国の大乗の寺を焼失させたも同様であり、抜目鳥ではないけれども一切衆生の眼を抜いたのも同様である。仏が記し置かれた“阿羅漢に似た一闡提”とは実に彼らのことである。 涅槃経には次のように説かれている。「私が入滅して後、無量百歳という長い年月を過ぎると、四道の聖人もまたことごとく入滅するであろう。正法が滅して後、像法時代になると次のような僧が現れるだろう。すなわち戒律を持っているように姿を似せ、わずかばかりの経文を読誦し、飲食をむさぼってその身を長養するような僧である。…袈裟を着ているとはいえ、布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目に見ながら静かに近付いて行くような姿であり、猫が鼠を狙っているような姿である。外面はさも賢者で善良である如く見せかけ、内心には貪り・嫉みを懐き、法門のことについては唖法を行じている婆羅門の行者のごとく黙りこくっている。彼らは真の僧侶でもないのに外面は僧侶の姿をし、邪見が強盛で正法を誹謗するであろう」と。 この経文に世尊は未来を記し置かれたのである。 |
大乗教の最高峰たる法華経を所依とした天台法華宗の教義と比較すれば、小乗教の戒律の遵守を説く律宗の教義が劣っていることは誰の目にも明らかであり、当時の律師たちも当然のことながらそのことを弁えていたであろう。そこで、西大寺の叡尊は、戒律を復興するにあたり、小乗戒の四分律に基礎を置きながらも、大乗経典の梵網経の十重禁戒・四十八軽戒を取り入れたのであった。
日本律宗開祖の鑑真も梵網経自体は用いていたが、小乗戒を否定した梵網戒は用いなかったのである。しかし叡尊は、在家・出家にわたって授戒し、大衆化することを目指して梵網戒を採用し、弟子に対して「律宗は大乗の根本である」と説いた。このことを大聖人は「漸漸に梵網経へうつり結句は法法華経の大戒を我が小律に盗み入れて」と指摘されているのである。
更に彼は、律宗とは本来無縁の慈善救済事業を宗教的実践として推進した。「済度群生」を唱えた叡尊の考えを受けて良観は「非人・病者勧誘」を始めた。良観は叡尊に弟子入りし、十重禁戒を受けた延応元年(1239)の翌年には、非人宿に文殊菩薩像を安置する「七宿供養」を始めている。
また、本文に記されていないが、叡尊は光明真言の祈禱を取り入れ、密教興隆の時代の風潮に乗って地頭・名主僧の心をつかむことに成功した。それによって西大寺に寄進される田畑が著しく増大したという。叡尊は、斎戒を受けて真言の祈禱を行うならば、現世の所願は必ず成就すると説いた。叡尊の弟子・忍性は、これをそのまま受け継いで、鎌倉の地で幕府要人の信を得て、権威を誇ったのである。
このように、西大寺流律宗は、真言宗の祈禱、天台宗の菩薩戒、民間の文殊信仰を取る入れた混合宗教であったといえるであろう。
また、大聖人は、国主が天台宗の寺に寄進していた寺領を奪い取り、律宗に与えたものと指摘されている。これは、良観が建治元年(1275)10月、従来天台宗の寺院であった摂津・多田院の別当に補せられたことを指しているものと思われる。一方、民衆も天台宗などの大乗教の寺の信仰を捨てて、小乗の律宗寺院を信仰の依りどころとうるようになってしまったのである。こうした仏教の混乱を引き起こした元凶である良観らのことを日蓮大聖人は、「手づから火をつけざれども日本一国の大乗の寺を焼き失い抜目鳥にあらざれども一切衆生の眼を抜きぬ」と厳しく非難され、これは「阿羅漢に似たる闡提」と釈尊が予言している通りの存在であると指摘され、涅槃経の文を挙げられている。
涅槃経如来性品第四の一には「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん」とあり、釈尊が涅槃した後、正法時代が過ぎると、正しく仏道を修めた四道の聖人もすべて涅槃するであろうと説かれている。
そして、次に、仏教が形骸化した像法時代には、次のような比丘が出現するであろうと経文には説く。その比丘とは、「持律に似像し」とあるように、戒律を固く持っているように姿を似せているが、経は少ししか読誦せず、逆に、飲食は大いに貪る。袈裟を身につけているけれども、布施を狙うさまは、あたかも猟師が獲物を狙って、目を細めて忍び足で近付くようであり、また猫が鼠をとる時に音もなく獲物に近くようであるという。そして、外面的には善良で立派な大徳のごとき姿を示しながら、心の中は貪欲と嫉妬の心が強く、法門については唖法を行ずる婆羅門のように何も言うことができない。このように、僧侶のように見えて実は僧侶ではなく、邪見の心をもって正法を誹謗するであろうと予言されている。
0348:04~0349:01 第三 良観は持律に似像した悪比丘top
| 04 抑釈尊は我等がためには 05 賢父たる上明師なり聖主なり、 一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て 未来悪世を鑑み給いて記し置き給う 記 06 文に云く「我涅槃の後無量百歳」云云 仏滅後二千年已後と見へぬ、 又「四道の聖人悉く復涅槃せん」云云、付法 07 蔵の二十四人を指すか、 「正法滅後」等云云 像末の世と聞えたり、「当に比丘有るべし持律に似像し」等云云今 08 末法の代に比丘の似像を撰び出さば日本国には誰の人をか引き出して 大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき、 俗 09 男俗女比丘尼をば此の経文に載たる事なし 但比丘計なり比丘は日本国に数を知らず、 然るに其の中に三衣一鉢を 10 身に帯せねば似像と定めがたし 唯持斎の法師計相似たり 一切の持斎の中には次下の文に 持律ととけり律宗より 11 外は又脱ぬ、 次下の文に「少し経を読誦す」云云 相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば誰を指し出だし経文をた 12 すけ奉るべき、 次下の文に「猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如く 外には賢善を現し内には貪嫉を懐 13 く」等云云両火房にあらずば誰をか三衣一鉢の猟師伺猫として仏説を信ず可し、哀れなるかな当時の俗男・俗女・比 14 丘尼等・檀那等が山の鹿・家の鼠となりて猟師・猫に似たる両火房に伺われたぼらかされて 今生には守護国土の天 15 照太神・正八幡等にすてられ他国の兵軍にやぶられて 猫の鼠を捺え取るが如く猟師の鹿を射死が如し、俗男・武士 16 等は射伏・切伏られ俗女は捺え取られて他国へおもむかん 王昭君・楊貴妃が如くになりて後生には無間大城に一人 17 もなく趣くべし。 -----― そもそも釈尊は我らにとっては賢父であるうえに明師であり、聖主である。一身にこの主・師・親の三徳を備えておられる仏が仏眼をもって未来の悪世を鑑みられて記し置かれた文に「私が入滅した後の無量の百歳」と言われているのである。これは仏入滅後二千年已後を指すと思われる。また「四道の聖人もまたことごとく入滅する」とは付法蔵の二十四人を指しているか。「正法が滅して後」とは像法・末法の世と思われる。 「戒律を持っているように姿を似せた出家の比丘がまさに現れるであろう」とあるが、今の末法の時代にこの「比丘の似像」を選び出すとすれば、日本国においてはいったい誰を引き出して大覚世尊を不妄語の人であると言えるであろうか。世俗の男女・比丘尼のことはこの経文に記しておらず、ただ比丘とのみある。比丘は日本国には無数にいる。しかし、そのなかで三衣一鉢を身に帯していなければ「似像」とはいえない。持斎をもった法師のみが該当するのである。一切の持斎の僧の中ではその次の文に「持律」と説いていることから律宗以外にはいない。 更にその続きの文に「わずかばかりの経文を読誦し」とあるが、これは相州鎌倉の極楽寺の良観房でなければ、いったい誰を指し出して経文の真実を証明することができるであろうか。また続きの文に「布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目にみて静かに近づいて行くような姿である。外には賢善そうな姿を現し内心には貪りと妬みを懐く」等とある。両火房でなければいったい誰を三衣一鉢の猟師伺猫の比丘として仏説を信じたらいいのか。 哀れにも、今日の俗男・俗女・比丘尼・檀那等は山の鹿・家の鼠となって猟師・猫に似た両火房にたぶらかされて、今世においては国土を守護する天照太神・正八幡等にも見捨てられ、他国の兵軍に攻めやぶられて、あたかも猫が鼠をおさえ取り、猟師が鹿を射殺すように、俗男・武士等は矢で射伏せられ刀で切り伏せられ、俗女は押え取られて、他国へ連れていかれるであろう。そして、王昭君・楊貴妃のようになって、後生には無間地獄に一人ももれなく赴くであろう。 -----― 18 而るを余・此の事を見る故に彼が檀那等が大悪心をおそれず 強盛にせむる故に両火房・内内諸方に讒言を企てて 0349 01 余が口を塞がんとはげみしなり、 -----― しかるに私がこのことを知るが故に良観の檀那等の大悪心をおそれず強盛にせめたので、両火房はひそかに諸方に讒言して私の口を塞ごうと図ったのである。 |
大聖人は、この涅槃経の文にある“持律に似像したる悪比丘”こそ良観房であると仰せられている。釈尊は、あらゆる人々にとって、賢父たる親の徳、明師たる師の徳、聖主たる主の徳の三徳を兼備している。一身に主師親三徳を具備した仏がその仏眼をもって未来悪世の状況を考慮して書き残したのがこの経文であると述べられ、この経文を軽く考えてはならないと戒められている。
大聖人は「我涅槃の後無量百歳」とは仏滅後2000年以後「四道の聖人悉く復涅槃せん」とある四道の聖人とは付法蔵の24人を指し、また「正法滅後」とは像法・末法の世であるとされている。そして「当に比丘有るべし持律に似像し」とあることから、末法の日本にあっては、三衣一鉢を身につけて戒律を守っているように見せかけている「持斎の法師」がこれに該当すると指摘されている。
そして涅槃経の次下に「少し経を読誦す」とあることも踏まえると、これに該当する人物は、日本広しといえども極楽寺良観をおいて他にないと結論されている。次の経文に「猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如く外には賢善を現し内には貧嫉を懐く」と説かれているのもまた両火房すなわち良観以外には考えられず、そうでなければ三衣一鉢の威儀を持ちながら経文の猟師や猫にあたる人物が出るとの仏説は信じ難いとまで仰せられている。
こうして大聖人は、良観房にたぶらかされた民衆が、正法を捨てて邪法に帰依することによって無間地獄に堕ちることを深く嘆かれている。この故に大聖人は、真っ向から良観を破折し、その偽善を容赦なく指弾されているのである。しかし、幕府権力と癒着し、北条一門の手厚い外護を受けていた良観を敵に回すことによって、大聖人は権力の弾圧を受けざるを得なかったが、これはもとより覚悟の上であられたことはいうまでもない。
良観の生涯と両火房の名称の由来
ここで、日蓮大聖人が指名して批判されている良観の生涯を簡単に記しておきたい。
良観は健保5年(1217)、大和の豪族伴貞行の子として生まれ、天福元年(1233)17歳で出家し、東大寺で受戒した。諱は忍性、法号は良観と称した。24歳の時、西大寺の叡尊に師事して律師となった。出家して以来、文殊信仰を続け、文殊信仰による慈善事業を取り入れて布教の手段とした。ただし、良観は、律宗教学の深化や学問の発展とは無縁であった。
叡尊と良観は鎌倉時代初期の西大寺流律宗を代表する律師であったものの、叡尊は自伝、講義録、行動記録を残し、教義上の発展に資しているのに比して、良観については、その死後、書かれた追善文や舎利瓶記や後世の伝記しか残されておらず、良観の自著は一切伝えられていない。良観は若年の時には断食や五字呪を唱える修行に専念し、長じてからは病人等救済、寺院復興のための勧進、道路や橋の工事などの事業経営に抜群の才覚を示した。
先に述べたように、良観は建長4年(1252)関東に下向し、約10年間常陸の三村寺に住して西大寺流律宗の流布に努めたが、この時期も、たびたび鎌倉に出向いて幕府権力の中枢に近づくことを心に砕いていたようだ。弘長元年(1261)大聖人が伊豆に流罪された年に、良観は清涼寺内の釈迦堂に請じられた。これ以後、北条一門の信望を得て、弘長2年(1262)叡尊の鎌倉入りを契機に良観の立場は、鎌倉仏教界にあって揺るぎないものとなっていった。大聖人が流罪を許されて鎌倉に戻られた時には、建長寺の蘭溪道隆と並んで、良観が鎌倉仏教界に君臨していたのである。
良観を表面的に見るならば、自らには戒律を厳しく課し、文殊信仰を説いて病人等の救済に力を注ぎ、祈雨や攘災の祈禱に長じた慈悲深く力量のある宗教人に映ったことであろう。鎌倉時代の民衆の多くが彼を「生き仏」のように崇めたのはそのためである。現代の学者もまた良観の社会事業・慈善事業を高く評価している。
しかしながら、涅槃経の一字が予言していたのは、まさしく、そのように「外に賢善を現」す人のことであり、「持律に似像」する人のことであった。正法に敵対する僭聖増上慢は、「僭聖」との言葉が示すように、決して悪人には見えず、外に向けて善行を施す偉大な仏法者としか見えないのである。問題はその内面のほんしつであろう。
次に大聖人の御教示に従って、良観の本質に迫ってみたい。大聖人は本抄で良観のことを「両火房」と呼ばれている。これは、良観の下で起きた火災から、揶揄して与えられた名称である。建治元年(1275)王舎城事には次のように仰せられている。
「名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり」(1173-10)
つまり、一応は、極楽寺と鎌倉市中の大火を「両火」と称されたのであるが、再往は現世における火と来世の無間地獄における阿鼻の炎とを両火と称せられ、極楽寺の名称と無間地獄という対照の妙を示されたものと拝される。また「両火」が「りょうかん」をもじっていることはいうまでもない。
ここで大聖人は、単なる悪口や揶揄にとどまるのではなく、良観の謗法の善悪を、その本質から、ズバリと喝破されている。しかるに、これまでの多くの学者は、現実に病者・貧民を救済している良観に対して、大聖人を、その良観の名声に嫉妬し、悪意に満ちた非難を浴びせたかのように見なしてきたのである。しかし、現実の良観は、外面に示しているような善良な人物ではなかった。
日蓮大聖人は、弘長3年(1263)2月22日、伊豆流罪を赦免になり、鎌倉に帰られた。しかし、現存する御書で、良観について初めて言及されているのは、文永2年(1265)の聖愚問答抄においてである。そこには愚人の言として次のように述べさせている。
「極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と 是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり、汝早く生死を離れんと思はば五戒・二百五十戒を持ち慈悲をふかくして物の命を殺さずして良観上人の如く道を作り橋を渡せ是れ第一の法なり」(0475-13)
それに対し「居士・示して云く」として、そのようなことは、“浅ましき小乗の法”であり、しかも、今の律僧らは「布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とする教行既に相違せり誰か是を信受せん」(0476-13)と破折されている。良観の社会事情をどう評価するかは別として、ここで大聖人は、良観の表面に現れる振る舞いの一つ一つに裏の意味があり、慈悲を表に出しながら自己の利益を追求していることを明確に指摘されている。
極楽寺は、東海道から鎌倉に入る要所にあった。当時鎌倉に入る道は7つあり、七切通と呼ばれていたが、極楽寺坂はその一つである。良観は、これら主要街道に関所を設けて、通行税を人ごとに徴収し、また海路では鎌倉に入るための要所であった飯島や六浦の港では関米を取り立てていたのである。鎌倉は政治の中心都市であったから、そこから得た利益は莫大なものであったに違いない。このように良観は、慈善事業を表看板にしながら、他方では利権を握って庶民の生活を圧迫していたのである。このことを大聖人は「道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り」(0476-14)と厳しく指摘されている。
更に大聖人は、文永5年(1268)に極楽寺良観宛に送られた書状で次のように仰せられている。
「日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、 長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」(0174-01)
大聖人はこの書状の中で、良観が幕府に大聖人のことを讒奏したことを取り上げ痛烈に攻撃されている。他の修行者を罪に陥れることは、小乗戒で禁じられていることであった。口で250戒を説きつつ、他の修行者を陰で弾圧することは完全な言行不一致といわなければならない。
ともあれ、この御状で「所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」(0174-07)と公場での法論対決を申し込まれたにもかかわらず、良観は、大聖人と公場で対決しようともせず、書状による反論もしようとしなかった。これは、正面きって反論できず、沈黙せざるを得なかったに過ぎない。鎌倉仏教界にあって第一人者として名声をほしいままにしていた良観にとって、大聖人はいわば目の上のたんこぶであり、心中では激しい憎悪を募らせていたであろう。
正面からの対決に勝ち目はないと自覚した良観は、裏で暗躍し、大聖人を亡き者にすべく様々な画策をしていった。良観の対応策は、北条一門から信頼されている立場を利用して、大聖人を危険人物のように言い触らすことであった。そして、まさにこの讒言によって、大聖人は文永8年(1271)9月、竜の口法難という最大の危機に陥れられることになるのであるが、これについては次の段でのべることにする。
0349:01~0349:09 第四 小乗戒は時機不相応の悪法top
| 01 又経に云く「汝を供養する者は三悪道に堕つ」等云云、 在世の阿羅漢を供養せ 02 し人尚三悪道まぬかれがたし、 何に況や滅後の誑惑の小律の法師原をや、 小戒の大科をば これを以て知んぬ可 03 し、或は又驢乳にも譬えたり還つて糞となる、 或は狗犬にも譬えたり大乗の人の糞を食す、或は援猴或は瓦礫と云 04 云、然れば時を弁へず機をしらずして 小乗戒を持たば大乗の障となる、 破れば又必ず悪果を招く其の上今の人人 05 小律の者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ 驢乳は牛乳を入れて大乗の人をあざむく、 大偸盗の者大謗法の者其の 06 とがを論ずれば 提婆達多も肩を並べがたく 瞿伽利尊者が足も及ばざる閻浮第一の大悪人なり帰依せん国土安穏な 07 るべしや、余此の事を見るに自身だにも弁へなば・さでこそあるべきに 日本国に智者とおぼしき人人一人も知らず 08 国すでにやぶれなんとす、 其の上仏の諌暁を重んずる上一分の慈悲にもよをされて 国に代りて身命を捨て申せど 09 も国主等彼にたぼらかされて用ゆる人一人もなし 譬へば熱鉄に冷水を投げ睡眠の師子に手を触るが如し、 -----― また経には「あなたに供養する者は三悪道に堕ちるであろう」とある。釈尊在世の阿羅漢に供養した人ですらなお三悪道はまぬかれがたい。まして仏滅後の世間を惑わす小律の法師どもに供養すればなおさらである。小乗戒に執着する大科はこの文によって知られるであろう。あるいはまた小乗の戒を驢乳にも譬えており、小乗の戒を持つ者は大乗の人の糞を食らうようなものである。そして更には猿とか瓦礫などにも譬えている。 したがって、時をわきまえず機を知らないで小乗戒を持つならば大乗の障害になり、その戒を破れば必ず悪果を招くことになる。そのうえ、今の小乗戒を持つ者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ、驢乳に牛乳を入れるようにして大乗の人をあざむいている。これは大盗賊の者であり大謗法の者である。その罪を論ずるならば提婆達多も肩を並べがたく、瞿伽利尊者などは足元にも及ばない閻浮第一の大悪人である。これに帰依してその国土が安穏でありえようか。 私がこのことを見るに、自分さえわきまえていれば済むことであったが、日本国に智者と思われる人々が一人もこのことを知らず、国はいよいよ滅びようとしている。そのうえ、仏の諌暁を重んじなければならないし、また一分の慈悲に動かされて国のために身命を捨てて諌暁したのである。にもかかわらず、国主らは彼らにだまされて私の諌言を用いる人が一人もいない。かえって熱く焼いた鉄に冷水を注ぎかけた如く、眠れる師子に手を触れた如くに激しく反発し迫害を加えてきたのである。 |
ここに引かれている「汝を供養する者は三悪道に堕つ」との文は、小乗教に執着する須菩提を責めて維摩詰が述べた言葉で、維摩経巻上弟子品第三に見える。須菩提は、釈尊の10大弟子の一人で阿羅漢果を得て解空第一と称せられた。仏法において阿羅漢は衆生の供養を受けてよいことになってり、応供と呼ばれていた。しかし、大乗教が説かれた後も小乗に執着するならば、そのような声聞に施すことは福運を積むことにはならず、かえって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまうであろうと維摩詰は誡めたのである。
この維摩経の一節を引かれて大聖人は、釈尊在世の阿羅漢でさえもこれに供養した人は三悪道に堕ちるのであるから、まして釈尊滅後の悪世末法において、人々を誑惑する小乗教の律師に対して布施・供養することはもっと大きな罪になると厳しく警告されているのである。
次に大聖人は、小乗律を持つことの誤りを大乗経典で指摘した譬えを挙げられている。すなわち、例えば驢馬の乳のようなものであると仰せである。伝教大師は顕戒論巻中で次のように述べている。
「牛驢の乳、其の色別ち難く、両迦の果、其の形何ぞ別たん」
ここに「両迦の果」とは、迦羅迦果と鎮頭迦果をいい、前者は有毒の実で後者は無害であるが、形だけでは区別がつかないという。これと同様に、驢乳は牛乳と外見は同じであるが、大智度論巻第18には「譬えは牛乳と驢乳との如し、其の色は同じと雖も、牛乳を攅むれば則ち酥と成り、驢乳を攅むれば則ち尿と成る」と述べられている。つまり攪拌し精製すると牛乳は酥となり、更に醍醐となるのに対して、驢乳は悪臭を放ち糞尿になってしまうというのである。これは、仏法と外道の勝劣について譬えたものであるが、大聖人はこれを転用して牛乳を法華経に、小乗の律宗を驢に譬え「還って糞となる」と仰せられている。更に大聖人は、小乗の律師を犬に譬え、大乗の人の糞を食らうようなものであると断じられている。
また、猿の譬えは、守護国界主経巻第十に出てくる。王の夢の中に10匹の猿が現れ、そのうち9匹は悪比丘に、残りの1匹が善比丘尼譬えられている。これらの9匹の猿は、人々の心を擾乱し、少欲知足の猿を団結して追い出そうとする悪沙門であり、戒律を破り、種々の悪行をなし、国王や大臣等に向かって真実の沙門を非難し、国から追放しようとするという。
瓦礫の譬喩は、南都の小乗戒を批判して大乗戒の正当性を宣揚した慈覚の顕揚大戒論巻第一に「清浄毘尼経に判じて云く、瓦礫の破れたるが如く修補す可からず。是声聞の毘尼なり」とあるように、一度破れたら補修できないことから小乗戒に譬えたものである。
天台大師の摩訶止観第五上にも「設い世を厭う者も、下劣の乗を翫ぶは、枝葉に攀附し、狗が作務に狎れ、獼猴を敬うて帝釈と為し、瓦礫を是明珠なりと宗む、此れ黒闇の人なり」と、下劣の教えに執着する愚かさを指摘されている。
このように、大乗教と小乗教との間には天地雲泥の差がある。であればこそ伝教大師は小乗戒を破して大乗戒壇を建立したのである。したがって、良観等の律師らは既に伝教大師によって破折し去られた小乗戒をそのまま復活させるわけにはいかず、大乗戒を小乗戒に取り入れることによって、人々の目を欺いたのである。これは、まさに驢乳に牛乳を混ぜるようなものであり、大泥棒・大謗法というほかない行為である。故に大聖人は、その罪は提婆達多にも劣らないほど重く、瞿伽利尊者など足元にも及ばないほどであると指弾されるとともに、こうした律師らに帰依するならば、その国土は安穏であるはずがないと警告されている。
大聖人が良観と、それをバックアップしている幕府要人たちに対してこのように厳しく指弾されたのは、自分だけ知っていればよいということであったが、国が滅びるのを黙視できないためにと「仏の諌暁を重んずる」が故、更に「一分の慈悲にもをされて」身命を惜しまず諌暁したと仰せられている。
しかしながら、鎌倉幕府の支配者はすべて良観に騙され、大聖人の警世の言辞を用いる人は一人もいなかったばかりでなく、かえって大聖人に迫害・弾圧を加えるに至ったのである。このことを、まるで灼熱の鉄に冷水を注いだようなものであり、眠れる獅子に手を触れて起こしたようなものであると述べられている。もとより、大聖人は「身命を捨て申せども」と仰せのように、そうした大難は覚悟の上であられたのである。
0349:09~0351:04 第六段 両火房の祈雨top
0349:09~0349:17 第一 良観の行状と祈雨top
| 09 爰に両 10 火房と申す法師あり 身には三衣を皮の如くはなつ事なし、 一鉢は両眼をまほるが如し二百五十戒堅く持ち三千の 11 威儀をととのへたり、 世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで 地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか 12 迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、 余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば 末代に入りて法華経 13 の大怨敵三類あるべし 其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ、 便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法 14 の威験をあらはさんと思う処に 両火房常に高座にして歎いて云く「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・男女に 15 は五戒・八斎戒等を一同に持たせんとおもうに、日蓮が此の願の障りとなる」と云云、 余案じて云く「現証に付て 16 事を切らんと思う処に、 彼常に雨を心に任せて下す由披露あり、 古へも又雨を以て得失をあらはす例これ多し、 17 所謂伝教大師と護命と守敏と弘法と等なり、 此に両火房上より祈雨の御いのりを仰せ付けられたり」と云云、 -----― ここに両火房という法師がいる。身に三衣をつけて、自分の皮膚のように離すことがない。一鉢を自分の両眼のように大切にしている。二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀をととのえている。世間の無智な僧俗は国主から万民に至るまで、良観をまるで地蔵尊者が伽羅陀山より出現したか、迦葉尊者が霊山よりやってこられたかのように思っている。私が法華経第五の巻の勧持品第十三を拝見するに、末代に入って法華経の大怨敵の三類が現れるであろうとあるが、その中の第三の強敵こそはこの者であると見定めたのである。 折あらば、国敵たる良観房を責めてその大慢の心を倒して仏法の威力をあらわそうと思っていたところ、両火房は常に高座において嘆いて言うには「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・在俗の男女には五戒・八斎戒などを一同に持たせようと思っているのに、日蓮がこの願いの障害となっている」と。それに対して私は「現証をもって決着をつけようと思っていたところ、良観房は常に雨を心のままに降らせると世間に宣伝している。昔もまた祈雨をもって優劣を決した例は多くある。かの伝教大師と護命、守敏と弘法の例などである。ちょうどこの時にあたって両火房が幕府より祈雨を仰せつけられたという」と思案したのである。 |
良観房忍性に対する当時の世間の人々の見方を記され、それに対し大聖人がその本質を見抜かれたことを述べられている。すなわち、いかに世間から尊敬され名声を博していても、その本質は法華経勘持品第十三に説かれた三類の強敵のうち僭聖増上慢にほかならないということである。だが、人々は、良観の外見に惑わされ、彼を生き仏のように崇めていたのである。常に三衣を身にまとい、一鉢を携え、そのうえ250戒の戒律を持って3000の威儀をととのえていたというその姿に、世間の人々は彼をあたかも伽羅陀山からの地蔵菩薩の再来か、霊鷲山から迦葉尊者が下向したものかと思っていた。
大聖人は、かねてから機会があれば、そうした良観の仮面をはいでその増上慢を打ち破り、真実の仏法に人々を目覚めさせなければならないと考えられていた。そして、その絶好の機会が到来した。それが文永8年(1271)6月の祈雨の勝負である。
法華経勘持品第十三に説かれる僭聖増上慢は、涅槃経如来性品第四の一の文にある「持律に似像」し「外には賢善を現し内には貧嫉を懐く」僧と本質的に同類である。
本抄の仰せによれば、良観は常々説法の庭で大衆に向かい、日本中の出家者には250戒・500戒を、在家の男女は5戒・8斎戒等を遵守させようと願っているが、大聖人がそれを妨げていると嘆いていたという。大聖人より聖愚問答抄や極楽寺良観への御状で手厳しく批判されていたので、大聖人に対して深く恨んでいたのである。
本抄に引用されている良観の言葉は、人々に対し、大聖人の憎しみを駆り立てるために語っていたことであろう。それに対して大聖人は、現証をもって勝負を決する以外にないと期しておられたのである。
文永8年。この年は春から雨が降らず、6月に入っても一向に雨がなく、田植えもできない有り様であった。そこで、幕府は良観に雨乞いの修法を命じたのである。良観は承諾して「万民をたすけん」と公言した。大聖人はこのことを伝え聞かれ、祈雨の勝負によって仏法の正邪を明確にしようと決意されたのである。
大聖人は本抄で、祈雨によって法の勝劣を決した例として、伝教大師と護命・守敏と弘法の名を挙げられている。この事例については三三蔵祈雨事に詳しい。
まず伝教大師と護命による祈雨については「去る弘仁九年の春・大旱魃ありき・嵯峨の天王真綱と申す臣下をもつて冬嗣のとり申されしかば・法華経・金光明経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき、三日と申せし日ほそきくもほそきあめしづしづと下りしかば・天子あまりによろこばせ給いて、日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり、伝教大師の御師・護命と申せし聖人は南都第一の僧なり、四十人の御弟子あいぐして仁王経をもつて祈雨ありしが五日と申せしに雨下りぬ、五日は・いみじき事なれども三日にはをとりて而も雨あらかりしかばまけにならせ給いぬ」(1470-10)と述べられている。
これは、伝教大師の弟子であり、師の命を受けて大乗戒壇の建立に尽力した別当大師光定の著した伝述一心戒文巻上に基づいて記されたものと拝される。
同書によれば、光定は弘仁9年(0818)2月7日、師より一乗の号を授けられ、大乗寺を建立しようとする伝教大師の意向をひそかに天皇と左近衛大将藤原冬嗣に上奏した。その後、4月21日、冬嗣より書状が届いたが、それは亢陽が続き、旱魃に苦しむ人々のために甘雨を降らすようとの要請であった。この年の春には疫病が流行し、4月に入ってからは何日間も雨が降らず旱魃が続いていたのである。伝教大師は23日に返事を自書し、4月26日より3日間、比叡山延暦寺の僧を率いて法華経・金光明経・仁王経の三部経を講じて、七難消滅を祈禱し甘雨を降らす法を修したところ、山に細雲が走り炎熱は消散し、細雨が降った。一方、南都の護命僧都は40人の大徳を率いて仁王経をもって祈ったところ、5日目の早朝になって大雨が降ったという。この事実をもって大聖人は、伝教大師の祈雨が護命に勝っているとされている。なお、弘法と守敏の祈雨については後述する。
0349:17~0350:07 第二 祈雨の敗北top
| 17 此 18 に両火房祈雨あり 去る文永八年六月十八日より二十四日なり、 此に使を極楽寺へ遣す年来の御歎きこれなり 「七 0350 01 日が間に 若一雨も下らば御弟子となりて二百五十戒具さに持たん上に、 念仏無間地獄と申す事ひがよみなりけり 02 と申すべし余だにも帰伏し奉らば 我弟子等をはじめて日本国・大体かたぶき候なん」と云云、 七日が間に三度の 03 使をつかはす、然れどもいかんがしたりけむ一雨も下らざるの上、頽風・颷風・旋風・暴風等の八風・十二時にやむ 04 事なし 剰二七日まで一雨も下らず風もやむ事なし、 されば此の事は何事ぞ 和泉式部と云いし色好み能因法師と 05 申せし無戒の者 此は彼の両火房がいむところの三十一字ぞかし、 彼の月氏の大盗賊・南無仏と称せしかば天頭を 06 得たり、 彼の両火房並に諸僧等の二百五十戒・真言法華の小法・大法の数百人の仏法の霊験いかなれば婬女等の誑 07 言・大盗人が称仏には劣らんとあやしき事なり、 -----― そこで両火房は去る文永八年六月十八日より二十四日まで祈雨を行った。日蓮は使いを極楽寺へ遣わし「あなたの年来のお嘆きの因は私のうちにあるとの由、あなたの祈雨により、もし七日のうちに一雨でも降るならば、あなたの弟子となって二百五十戒をことごとく持ち、そのうえまた、『これまで念仏無間地獄等と言ってきたことは誤りであった』と申しましょう。私さえあなたに帰伏すれば、私の弟子等をはじめとして日本国のほとんどがあなたに帰伏することになるでしょう」と申し伝えたのである。 そして、その七日の間に三度、使いを良観のもとに遣わしたのである。ところがどうしたことであろうか一雨も降らないうえに頽風・颷風・旋風・暴風などの八風が昼夜十二時にやむことなく、あげくのはては二週間たっても一雨も降らず風も止むことがなかった。 いったいこれはどうしたことであろうか。和泉式部という色好みや能因法師という無戒の者は、両火房が嫌う和歌で雨を降らせたのである。かのインドの大盗賊は「南無仏」と称えて天頭を得た。二百五十戒や真言法華の小法・大法をもった、かの両火房ならびに諸僧ら数百人が祈った仏法の霊験が、どういうわけで婬女らの誑惑の和歌や大盗賊の称仏の祈りに劣るのか。まことに不可解なことである。 |
大聖人が、良観の弟子であった周防房、入沢入道という2人の念仏者を通じて良観に祈雨の勝負を挑んだところ「良観房悦びないて」その挑戦を受けてたった。
頼基陳状によると、大聖人は大要次のように良観に伝えられた
もしあなたが7日の内に雨を降らせれば、日蓮は念仏無間などと主張することをやめ、良観の弟子となって250戒を持つことにしよう。もし雨が降らなければ、良観は持戒の智者ぶっているが実は大誑惑の人であることがはっきりするであろう。是をもって勝負しよう。と。
良観はこの大聖人の挑戦を受けて立ち、6月18日から24日までの7日間まず祈り、更に7月4日まで延ばして、2週間にわたって祈雨を行ったのである。
ここで、大聖人は仏法において「祈雨」を持っていた意義、あるいは広く「祈禱」が持っていた意味について考えておきたい。
加持祈禱による現世利益を信仰の効験として尊重するのは、特に密教の特色であった。密経を教義の根本としたのは弘法大師空海の真言宗であったが、日本天台宗もまた、第三代慈覚以降は密経を導入し、いわゆる台密となった。
叡尊・忍性らが再興した西大寺流律宗も、真言の加持祈禱の要素を大幅に取り入れていた。叡尊・忍性の祈雨の修法は密経によったものである。ことに良観は、祈雨の修法を得意とし、「雨を心に任せて下す」などと豪語していたようである。
さて、大聖人の仏法では「祈禱」はどう位置づけられているのか、大聖人は「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169-05)と仰せになり、また「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016-13)と述べられていることから、加持祈禱による霊験を根本としてはならないと戒められている。
しかし、大聖人の仏法においても、依正不二の法理から、人事と自然現象との不可分の関係を認めている。正報たる人間が正義を根本としているから、邪悪な法をよりどころとしているかは依法たる環境に影響を及ぼす。依正不二の原理から、人間が正法に反する行動をとれば、自然的・社会的災害が生じるのは当然とされるのである。
ここから、「祈り」とその果報の関係が考察されねばならない。正法によって正しい祈りを行じるならば、必ずや現世においてその果報を得ると大聖人は諸御書で御教示されている。試みに例を挙げれば、次のような御文がある。
「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(1124-14)
「祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候」(1241-01)
「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(1351-18)
「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば・いかでか祈りのかなはざるべき」(1352-07)
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」(0502-07)
これらの御文において、大聖人は、正法による真剣にして誠実な祈りがあれば、一生成仏という願いも、現世安穏の願いも必ず叶うと断言されている。そして自然現象についても、人間は自然から影響を受けているとともに、また人間自身の営みが自然現象に反映することを説かれている。
こうした大聖人の御立場からすれば、祈雨の行為自体は、それが正しい法による限り認め得るものであったといえるであろう。しかし、祈雨の効験をことさら取り立てて、正法の正しさを宣伝することに大聖人の主意があったのではない。むしろ、それによって仏法の偉大なる仏力・法力を矮小化することを懸念されたに違いない。
先にも述べたが、大聖人が良観を相手に祈雨の仏法の正邪を決する勝負とされたのは、あくまで公場対決のような正攻法では応じようとしない良観に対してとった次善策であった。このことは、大聖人が頼基陳状に「此体は小事なれども」(1157-16)とか「此の次でに」(1157-17)と仰せられていることからも明らかであり、良観の欺瞞をあばくための機会として祈雨の勝負を利用されたに過ぎないことを知っておくべきであろう。
良観は極楽寺において弟子120人を動員し、6月18日より祈雨の修法を開始した。「頭より煙を出し声を天にひびかし」(1158-05)して修法を行ったのである。しかし7日を過ぎても雨は一滴も降らず、それどころか暴風のみが連日激しく吹いたという。
日蓮大聖人は使いを遣わし、次のように良観に申し伝えさせた。
かつて和泉式部という色好みの女性や能因法師という破戒の僧侶が、貴僧の嫌う狂言綺語の和歌でもってたちまち雨を降らせたと伝え聞くのに、戒律を持ち、法華真言の義理を極め、慈悲において並ぶ者なしといわれる良観房が、弟子の僧侶数100人を率いて7日間も祈禱をこらしても全く雨を降らすことができないとは一体どうしたことか。このことから思い知るべきである。一丈の堀を越え得ない者に二丈・三丈の堀を越えることのできる道理がない。同様にたやすい雨を降らすことすらできない者には難しい成仏を達成することは不可能である。これ以後は邪見を捨てて日蓮を憎くことを止め、素直に約束を守り日蓮の許に来たまえ、雨を降らす法と成仏の道をお教えしよう。この7日の間に雨が降るどころか旱魃はいよいよひどくなり、八風がますます激しく吹いたので民衆は大いに嘆いている。速やかに祈雨の修法を止められよ。と。
良観は、涙を流してくやしがった。「良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(1158-14)という有様であった。諦めきれぬ良観は1週間延長して祈ったが、期日の7月4日までにはとうとう雨は全く降らなかった。
こうして良観は自身をもって祈った祈雨において、完全に破北したのである。この祈雨の事実経過が本抄、及び頼基陳状に詳しく記されているのは、両抄を与えられた下山殿・江間光時がいずれも大聖人の破折された邪宗に帰依していた人物であり、良観に対しておそらく世評の如き印象を抱いた人物だったからであろう。彼らは祈雨があったという事実については当然知っていたであろうが、細かな経緯については知らなかったであろう。
また、この祈雨の事実が今日に伝わる良観の伝記や他の記録にはなく、しかも良観が祈雨に成功した他の事例は残されていることから、これを大聖人の作り事とする者が昔からいたようである。
しかし、大聖人が事実でないことを江間光時や下山兵庫五郎光基に宛てわざわざ記されていることは決してありえない。良観との祈雨の勝負が当時の鎌倉の人々に周知の事実であったからこそ、その細かな経緯を記して注意を喚起されたのである。むしろ、良観の伝記作者などが、彼の汚点を隠棲して記さなかったものと見るべきである。
それはともかく、大聖人が本抄で仰せになっているように、もし良観に良心と羞恥が一片でもあったならば、潔く自らの敗北を認めて帰伏するか、鎌倉を去るなり大寺院の別当を辞するなりしたであろうが、良観はそのような人物ではなかった。むしろ、この後は、いよいよ僭聖増上慢の本抄をむきだして、大聖人を亡きものにしようと様々な画策を企てるのである。
雨乞いの歌
和泉式部と能因法師が和歌を詠んで雨を降らした逸話は、本抄、及び頼基陳状以外に種種御振舞御書・報恩抄でも述べられているが、歌の内容までは具体的に記されていない。
御書の最古の注釈書と目される弘経寺日健の御書鈔巻第七「報恩抄」には
「 天川ナハ代水ニセキクタセアマクダリマス神ナラバ神 和泉式部
照コトモ日ノ本ナレハ理リヤフラスハナトカ雨カ下トハ 能因法師(異本あり)
理リヤ日ノ本ナレハ照ソカシフラサラメヤハ雨カ下ニハ 能因法師」
とある。ところが、鎌倉妙法寺日澄の日蓮聖人註画讃には
「和泉式部 祈雨の歌
コトリヤ日ノモトナレハテルソカシフラサラメヤハアメカ下カハ
能因法師 歌
アマノ川苗代水ニセキクタセアマクタリマス神ナラハ神」
とあり、式部と能因の歌が入れ代わっている上に、日健が異本にあるとした歌のほうを式部の歌として挙げている。
これは安国院日講が録内啓蒙巻十五「報恩抄」で「健抄二人ノ歌ヲ取チカヘタルハ誤ナリ」と指摘しているように、日澄の方が正しいとしている。
能因の祈雨の歌は比較的有名であり、古今著聞集・十訓抄等の多くの書に伝えられている。ちなみに、著聞集巻第五によると、能因が伊予守に従って伊予の国に赴いたところ、夏の初め旱魃が続いて民の嘆きが深かった。そこで「神は和歌にめでさせ給うものなり」と国司歌を詠んで三島神社に奉るように能因にしきりに勧めるので、
「天川苗代水にせきくだせあまくだります神ならは神」
と読んで奉納したところたちまちに大なる雨が降ったという。
一方和泉式部の歌の出典は定かではない。また中村薫氏の研究によれば、小野小町の作として、
「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた雨が下とは」
の歌を示している。
大聖人は具体的に和歌の内容を記されていないが、これは、当時の有識者の人々にとって式部や能忍の雨乞いの歌はよく知られた説話ではなかったかと思われるが、歌人が伝承の過程で変化して伝えられたものであろう。
ただ言えることは、大聖人の仏法においては、妙法を受持することがそのまま持戒であり、和歌をたしなむことは破戒でも何でもないが、歌や舞を鑑賞することをも禁じる当時の律宗の立場からすれば、和歌を詠むことは破戒の行為としており「両火房がいむところの三十一字」と仰せられ、良観のような持戒・持律の僧には足元にも及ばない無戒の歌人でさえ雨を降らすことができたのに、良観はいかなることかと厳しく迫られているのである。
0350:07~0350:18 第三 良観の悪態と祈雨失敗の原因top
| 07 此れを以て彼等が大科をばしらるべきにさはなくして還つて讒言 08 をもちゐらるるは実とはおぼへず 所詮・日本国亡国となるべき期来るか、 又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨 09 の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり 雨種種なり或は天雨或は竜雨或は 修羅雨或はソ雨或は甘雨或は雷雨 10 等あり、今の祈雨は都て一雨も下らざる上 二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事な 11 し、 両火房真の人ならば忽に邪見をもひるがへし跡をも山林にかくすべきに 其の義なくして面を弟子檀那等にさ 12 らす上剰讒言を企て 日蓮が頚をきらせまいらせんと申し上あづかる人の国まで 状を申し下して 種をたたんとす 13 る大悪人なり、 而るを無智の檀那等は恃怙して現世には国をやぶり 後生には無間地獄に堕ちなん事の不便さよ、 14 起世経に云く「諸の衆生有りて放逸を為し清浄の行を汚す故に天・雨を下さず」又云く「不如法あり慳貪・嫉妬・邪 15 見・顛倒なる故に天則ち雨を下さず」又経律異相に云く「五事有て雨無し 一二三之を略す四には雨師婬乱五には国 16 王理をもつて治めず 雨師瞋る故に雨ふらず」云云、 此等の経文の亀鏡をもて両火房が身に指し当て見よ少もくも 17 りなからん、 一には名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか・二には慳貪なるか・三には嫉妬なるか・四には邪 18 見なるか・五には婬乱なるか・此の五にはすぐべからず、 -----― 幕府はこのことをもって彼らの大罪をしるべきであるのに、そうではなくかえって彼らの讒言を用いられているのは本当のこととは思えない。結局、日本国が亡国となるべき時期が来たのであろうか。また祈雨のことについては、たとえ雨を降らせたとしても、どのような雨であるかによって祈る者の賢・不賢を知ることができる。雨といっても様々である。あるいは天雨、あるいは竜雨、あるいは修羅雨、あるいは麤雨、あるいは甘雨、あるいは雷雨等がある。今の祈雨はまったく一雨も降らないうえに二週間、以前よりはるかにすさまじい大旱魃が続き、大悪風が昼も夜もやむことがなかった。 両火房が真実の人であるならば、すぐさま邪見をひるがへし、山林に姿を隠すべきであるのに、そうではなく臆面もその顔を 弟子檀那等にさらすだけでなく、こともあろうに讒言を企んで、「日蓮の首をきってしまわれよ」と幕府に申し上げ、日蓮の身柄を預かっている佐渡の国の代官にまで書状を申し出して、日蓮を亡き者にしようと企んだ大悪人である。にもかかわらず無智の檀那等は良観をたのみにして、現世には国を滅ぼし、後生には無間地獄に堕ちるであろうことは何と哀れなことであろうか。 起世経には「諸の衆生があって放逸をなし、清浄な修行を汚す故に天は雨を降らさない」とあり、また「正法に背き慳貪・嫉妬・邪見・顛倒であるために天は雨をふらさない」とある。また経律異相には「五つの理由があって雨が降らないのである。(一二三之は略す)四番目には雨師が婬乱のため、五番目には国王が理をもって国を治めず、雨師が瞋るために雨が降らない」とある。これらの経文の所説を鏡として両火房が身にあてはめてみよ。少しの曇りもなく符合するではないか。一つには名は持戒の僧と世に聞こえるけれども、実は放逸であるか、二には慳貪であるか。三には嫉妬であるか、四には邪見であるか、五には婬乱であるか。まさに、その実態は経文に説く五時に尽きるではないか。 |
大聖人は良観がなぜ雨を降らせることができなかったかについて、本抄で二つの経典を引いて示されている。まず第一は起世経である。同経の巻第八・三十三天品第八之三に雨の降らない原因が五つ挙げられている。本抄における引文は、道世の法苑珠林からのものと思われる。
起世経は、阿含部の経典の一つである。阿含経は、長部・中部・相応部・増支部・小部の五部から成る原始経典で、起世経はこのうち長部に属する。法苑珠林は、中国・唐代の道世が著した仏教関係の百科事典であり、全100巻を100篇668部の項目に分け、仏教における思想・術語・法数などを概説している。同書巻第四には起世経を引いて雨の降らない原因を五つ挙げている。
「起世経に云うが如し。仏、諸の比丘に告げたまわく、五つの因縁有りて雨らさず。第五に閻浮提人・不如法有りて慳貪・嫉妬・邪見・顛倒なるがための故に天則ち雨らさず。此の因縁を以て相師迷惑し占雨不定なり」
ちなみに、五つの原因の第一は阿修羅が雨雲を海中に投げてしまう故、第二には火が雨雲を焼滅してしまうが故、第三は雨が雨雲を吹き飛ばしてしまう故、と説かれている。そして第四に衆生が放逸なる故、第五に閻浮提の人が慳貪・嫉妬・邪見・顛倒であるが故、との原因を挙げられている。これらの中から大聖人は本抄で第四・第五の原因を取り出され、それが良観に該当しているとされている。
次に経律異相が引用されている。同書は中国・南北時代に編纂され、経や律に散見される希有異相を収録した一種の百科事典である。全50巻を天・地・仏・菩薩等の21部の項目に分けて解説している。この引用は、起世経に説く内容とほぼ一致しているといってよい。ただし、天台大師の法華文句では第五項目が違っており、国王の悪政にその原因があるとしている。本抄で引用されているのは、天台大師が法華文句で要約して引用したものに従っている。法華文句巻第七上には次のようにある。
「五事に雨無し、一には風起きて吹く、二には火起きて焦がす、三には阿羅漢手をもって接し海に入る、四には雨師淫乱す、五には国王理をもって治めざれば雨師瞋るが故に雨さず」
ちなみに経律異相巻第一では、第一の因縁は火であり、第二は風、第三は阿羅漢となっている。そして第四として、雨師が方誕にして淫乱であるため、また第五に世間の衆生が清浄の行を汚し、慳貪・嫉妬・顛倒なるが故に雨が降らないとされている。
大聖人はこれらの中から四と五を挙げて、良観が雨を降らすことができなかった理由が明らかであるとされている。
第一に放逸ということである。これは良観の行動面についての指摘というよりも、僧侶としての本質的な在り方にるいての御指導と拝される。つまり、良観が最も力を注いでいた社会事業にしても、世間の人々には世のため人のための慈悲の施しのように思わせながら、その本質は自身のための名聞名利の追求でしかなかったのである。
第二には慳貪なるが故である。慳貪とは、物を惜しんで人に与えず、貪り求めて飽き足らない心をいう。これも、良観の社会事業が常に利権と深く結びついていた事実を思えば、まさに慳貪そのものであったといわざるをえない。
第三は嫉妬である。祈雨に失敗した後の良観の行動からも、彼がいかに嫉妬と憎悪の心を抱いていたことがわかろう。
第四には邪見である。良観が「法華経第一」「正直捨方便」「不受余経一偈」等の仏説に背いて真言律宗の義を構えていることは、まさに邪見である。
第五に、雨師淫乱を挙げられている。ここで雨師とは雨を祈る祈禱師、すなわち良観のこととして用いられている。良観が持っていた比丘戒の250戒の中に「触女人戒」がある。また「塀所」「露所」が禁じられているように、女犯はおろか、女性と親密に話すことや一対一で対面することすら厳格に戒められている。しかしながら、現実の良観はどうであったろうか。良観が幕府高官の後家尼たちと常に親しく交わっていたことは、大聖人のことを讒言して迫害するのに、こうした女性を利用したことにも現われている。
0350:18~0351:04 第四 真言師等の祈雨top
| 18 又此の経は両火房一人には限るべからず昔をかがみ今を 0351 01 もしれ、 弘法大師の祈雨の時二七日の間一雨も下らざりしもあやしき事なり、 而るを誑惑の心強盛なりし人なれ 02 ば天子の御祈雨の雨を盗み取て我が雨と云云、 善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も小雨は下たりしか 03 ども三師共に 大風連連と吹いて勅使をつけてをはれしあさましさと、 天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝 04 釈雨を下らして小風も吹かざりしもたとくぞおぼゆるおぼゆる。 -----― また、これらの経は両火房一人だけでなく、今日の例にもあてはまる。弘法大師が祈雨をした時、二週間の間、一雨も降らなかったことも不可解なことである。しかるに彼は誑惑の心が強かった人なので、天子自からの御祈雨によって降った雨を盗み取って自分の祈雨による雨であると言いふらしたのである。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も、小雨は降ったけれども、三師の場合には共に大風が長々と吹いて、その故に勅使を遣わされて追放されたのである。 その浅ましさに比べると、天台大師や伝教大師が須臾の間、あるいは三日のうちに帝釈により雨を降らせて、少しの風も吹かなかったことこそまことに貴く思われる。 |
雨は人間生活にとって欠くべからざる天の恵みであるが、農耕を主体とする社会ではなおさらである。中国及び日本において、雨を祈る儀式が行われていた例は、内道・外道にわたって枚挙にいとまがない。仏教の中では特に真言密教による祈雨の例が多いが、天台宗でも頼まれて祈禱をした例があったようである。
中国の真言僧による祈雨の事例について、大聖人は三三蔵祈雨事、報恩抄に詳しく述べられている。例えば三三蔵祈雨事には善無畏の祈雨について次のように記されている。
「善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法を・をほせつけられて候しに・大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法を・をほせつけられて候しに・大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり」(1469-03)
これは栄高僧伝巻第二の善無畏伝に基づいているものと思われる。
「暑天亢早に属し、帝、中官高力士を遣わし疾く畏を召して雨を祈らしむ。畏曰く、今の旱、数として当に然るべし、若し苦りて竜を召して雨を致さば、必ず暴ならん。適に損わるに足るのみ、なすべからずと、帝これに強いて曰く。人暑病に苦しむ。風雷と雖もまた意を快するに足る。辞することえざるのみと。有司のために請雨の具を陳ぶ。幡幢螺鈸備われり、畏笑って曰く。これをもって雨を致すに足らずと。急にこれを徹して、乃ち一鉢に水を盛り、小刀をもってこれを攪す。梵言数百、これに呪す。須臾にして物有り、竜の如し、その大きさ指の如く、赤色なり、首を矯め水面を瞰てまた鉢底に僭む。畏、且は攪し、且は呪す。しばらくありて、白気あり、鉢より興りて逕に上ること数尺す。稍稍にして引き去る。畏、力士に謂いて曰く。すみやかに去れ、雨至らんとすと、力士馳せ去りて廻願するに、白気の疾く旋りて講堂よりして西するを見る。一匹の素の空に翻って上るが如し。既にして、昏霾し大いに風ふきて震電す。力士纔に天津橋に及ぶに、風雨馬に随って驟く、街中の大樹多く抜かる。力士入りて奏す。しかして衣は尽く霑湿す。帝、稽首して畏を迎え、再三致謝す」
善無畏は雨を降らしても暴風雨ななるから止めた方がよいと進言したが、玄宗皇帝は強いて祈雨を行わせしめた。はたして暴風雨となったが、それでも皇帝は善無畏に感謝したという内容である。善無畏の修法は鉢に水を張り、小刀で水をかきまぜながら呪文を唱えるというものであった。
次に金剛智について三三蔵祈雨事には「金剛智三蔵わたる、又雨の御いのりありしかば七日が内に大雨下り上のごとく悦んでありし程に、前代未聞の大風吹きしかば・真言宗は・をそろしき悪法なりとて月支へをわれしが・とかうしてとどまりぬ」(1469-05)と記されている。
同じく栄高僧伝巻一には次のようにある。
「其の年正月より雨ふらずして五月におよぶ…乃ち智に詔して壇を結んで祈請せしむ…第七日に至り…午後まさに眉眼を開くに、即時に西北の風生じて、瓦を飛ばし樹を抜き雲を崩し雨を泄す。遠驚駭す。…所司、旨を希んで奏すらく、外国の蕃僧は遣わして国に帰らしめよと」
金剛智は祈雨の修法に臨み、7日目の午後にようやく雨を降らすことができたが、暴風を伴ったために彼は危うく国外追放の憂き目にあうところであったという。
次に不空の場合は三三蔵祈雨事に「不空三蔵・雨をいのりし程三日が内に大雨下る悦さきのごとし、又大風吹きてさき二度よりも・をびただし数十日とどまらず、不可思議の事にてありしなり」(1469-07)と述べられている。これも栄高僧伝巻一に伝えるところである。
「是の歳夏を終わりても愆陽あり。詔して雨を祈らしむ…空奏して孔雀王の壇を立て、末だ三日尽きざるに雨已にあまねし、帝大いに悦び…絹二百匹を賜う。後、一日大風卒に起こるによりて空に詔して禳止せしむ」
不空の祈雨も、雨は降ったが、すぐ後で突風が吹いて被害が出たので、皇帝は祈禱を止めさせたという。
日本では空海が天長元年(0824)に守敏という真言僧と祈雨を競ったことが逸話として残っている。守敏は7日後に雨を降らしたが、京洛のみで近畿一円は旱魃のままであった。続いて空海が京都の神泉苑で請雨経法をしゅうした。その状況を元亭釈禳書には次のように伝えている。
「また海に詔す。七日過ぐるも雨降らず。…海、奏して二日を延べ…散目に重雲震雷、大いに膏雨を注ぎ、池水盈溢して火壇の畔に至る。霖沛三日、天下皆洽う」
このように空海の場合は1週間で雨をふらすことができなかったが、2日間の延長をして祈雨に成功したとある。しかし大聖人は諸御書で空海が日延べしたのは2日ではなく2週間、つまり14日、はじめの1週間と合わせると21日間であるが、それでも雨が降らなかったと次のように指摘されている。
「弘法にをほせつけられてありしかば七日にふらず二七日にふらず三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給いき、而るを東寺の門人等我が師の雨とがうす」(1469-12)
淳和天皇が空海の祈禱の法験を待ちかねて自ら祈禱を始めたところ、日ならずして雨が降った。空海はその天皇による祈雨を自分の功として世人を誑惑したのである。ところが、この天長元年の降雨は「お大師さまの雨」とされて何百年も言い伝えられることになったのである。大聖人はこの祈雨について先の御文の次下に「くわしくは日記をひきて習うべし」(1469-14)と仰せられていることから、たしかな記録文書に基づいて指摘されたことは明らかである。
これが、応安年間の頃までに成ったとされる太平記になると、この逸話は大きく変質してしまっている。そこでは守敏が弘法と真言密経の効験を争って負け、天皇に笑われたことを恨みに思い、呪力をもって三千大千世界の龍神を捕らえて水瓶に押し込め、旱魃をもたらしたことになっている。これを見破った弘法が皇居の前に池を掘らせ、清涼の水をたたえて龍王の来臨を講うたところ、善女龍王が金色の八寸の龍に現じて、この池に来臨したので、龍王に種々の物を供えて、雨を降らしたという。
祈禱と降雨の因果関係については、現代に生きる人々が考え得るのは、次のような観点であろう。一つには起世経や経律異相に述べられているように、祈禱する師の心根・生き方が天地の運行と合めとする当時の人々の謗法を指摘され、とりわけ良観を指弾されている。
もう一つは、真言宗の諸雨の修法内容に関連している。大雲輪請雨経や大孔雀呪王経に基づき、壇を設けて護摩の火を焚き、呪文を唱えるという祈雨の修法では、焚く護摩は、教義上神仏の供養という意味をもつのであったが、現代において知られている人工雨の知識からすれば、大きな炎を作って上昇気流を作ることも、煙を空中に放出することも降雨の条件を創出するために理にかなっているといってよい。
簡単にいって、雨とは空気中の水蒸気が細かい塵を足場として凝結核を形成し、その核を中心に水滴ができてそれが地上に落下する現象である。したがって適温で空中に煙を放出し、上昇気流を作り出せば、雨が降る確率は高くなる。ワーテルローの砲撃戦の後に降った雨はこうしてできた人工雨と言われている。原子爆弾が炸裂した直後の広島で黒い雨が降ったというのもおなじであろう。
こうしてみると、請雨の修法は、人々の経験知に基づいたものであったかもしてない。しかしながら、善無畏の行ったように鉢に満たした水を小刀で混ぜる修法から考えると、護摩壇と人工雨の関係はむしろ偶然の一致であったと見た方がよいのかもしれない。いずれにせよ重要なことは、根源の法に背く祈禱は真実の祈りとはならず、かえって災いをもたらすということである。
さて、大聖人は本抄で、祈雨に失敗した真言僧の祈禱に対して、天台大師と伝教大師の祈雨を挙げられている。伝教大師の祈雨については既に述べたので、ここでは天台大師の例について見てみたい。大聖人は三三蔵祈雨事で次のように仰せである。
「天台大師は陳の世に大旱魃あり法華経をよみて・須臾に雨下り王臣かうべをかたぶけ万民たなごころをあはせたり、しかも大雨にもあらず風もふかず甘雨にてありしかば、陳王大師の御前にをはしまして内裏へかへらんことをわすれ給いき、此の時三度の礼拝はありしなり」(1469-16)
続高僧伝巻17によれば、つぎのように叙述されている。
「是の亢早す。百姓咸な謂らく、神怒ると。顗、泉源に到って、衆を率いて経を転ず。便ち雲興り雨のそそぐを感じ、虚誣自ら滅す」
天台大師の場合、法華経を読誦して「須臾」のうちに雨が降ったのである。
ところで、雨といってもさまざまな種類がある。本抄には天雨・竜雨・修羅雨・麤雨・甘雨・雷雨等と列挙されている。ここで挙げられている雨の種類の区別は「雨の降り方」と「人々の生活・感情」との関係を基準としている。望ましいものは民衆が雨を渇望している時に降り、しかもしとしとと降る雨であろう。天台・伝教の場合は、こうした基準からも申し分ないものだったのである。
大聖人は、こうした現証を引かれて「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と喝破されているのである。
このように日蓮大聖人は、文証と理証、そして更には現証を通して良観を徹底的に破折され、その欺瞞と偽善のベールを剥ぎ取り、その本性を白日のもとにさらされたのである。良観は本来ならば、大聖人との約束通り大聖人の弟子となるべきところであった。
ところが、良観はかえって逆恨みし、大聖人を亡き者にしようと図ったのである。しかも、あくまで自分は表面に立たず事を進めようとしたのである。祈雨の勝負以前にも、良観は大聖人を第一の悪者として流言蜚語を飛ばしていたが、祈雨に破北した後には、念仏者の念阿良忠・道阿弥陀仏と語らい、良忠の輩下にある浄光明寺の僧・行敏に、法論を挑ませることにした。
行敏の論難の内容を要約すれば、
一、爾前無得道説
二、大小乗の戒律不要論
三、念仏無間の説
四、禅天魔の説
の四点であった。これらはすべて大聖人の年来の主張であったが、行敏はこれを取り上げて「事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す」(0179-04)として大聖人に法論を挑んだのである。この法論は、行敏が個人的に挑んだという形をとって、大聖人の見方を見たのであろう。
このことを看破された大聖人は、この年の7月8日行敏の御状に対して、5日間返答をされず、13日になって返事を認められ、私的な法論ではなく、幕府への上奏を経た公場対決で是非を糾明すべきであると申し送られた。
そこで良観らは、行敏の名で、大聖人を謗ずる訴状を問注所に提出させた。そこには、教義上の問題よりもむしろ、阿弥陀・観音等の像を火に入れたり川に流したりしている。凶徒を室中に集め、兵刀を貯えているなどの讒言を連ねており、大聖人一門を、幕府にとっての危険分子であると中傷することによって、権力を動かそうとした底意がありありと見える。大聖人は、この訴状に対して一つ一つ明確に反論されて問注所に届けられた。
そして、他宗の本尊を火に入れたり水に流したりしたことはないことを述べられ、良観らが罪をデッチ上げようとして「証拠無くんば良観上人等自ら本尊を取り出して火に入れ水に流し科を日蓮に負せんと欲するか」(0181-14)と論駁されている。また大聖人一門を危険集団のごとく言っていることについても、法華経守護のためには弓箭兵杖を所有することは経典に説かれていることであるとされたうえで、大聖人は、これまで種々の讒言によって、身に傷を受け、弟子等が殺されたではないかと切り返されている。
良観らは、大聖人と公場対決すればかなわないとわかっているので、いよいよ悪辣なる裏面工作を開始する。それは、権門に取り入って大聖人への様々な讒言を流すことであった。種種御振舞御書には次のように仰せである。
「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべし」(0911-03)
こうして、大聖人は文永8年(1271)9月10日、評定書へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けた。これに対して大聖人は「上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり」(0911-07)と堂々と答えられたうえで、これらは国を思っていったのであるから、彼らと公場で対決させよと迫られる。しかし、頼綱は聞く耳を持たず、ますます怒り狂い、翌々日の12日には数100人の武装兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲撃し、大聖人を捕縛し、竜の口で頸を刎ねようとするに至のである。
0351:05~0352:03 第七段 三類の強敵と法華経の行者top
0351:05~0351:16 第一 僭聖増上慢と大聖人の逢難top
| 05 法華経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、 乃至利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に 06 恭敬せらるること六通の羅漢の如きもの有らん」 又云く「常に大衆の中に在て 我等を毀らんと欲するが故に国王 07 大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説き 乃至悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」、 又 08 云く「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して 顰蹙し数数擯出せられん」等云云、 涅槃経に 09 云く「一闡提有つて羅漢の像を作し 空処に住し方等大乗経典を誹謗す 諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩 10 薩なりと謂えり」等云云、 今予・法華経と涅槃経との仏鏡をもつて当時の日本国を浮べて其影をみるに誰の僧か国 11 主に六通の羅漢の如くたとまれて而も法華経の行者を讒言して 頚をきらせんとせし、 又いづれの僧か万民に大菩 12 薩とあをがれたる、 誰の智者か法華経の故に度度・処処を追はれ頚をきられ弟子を殺され 両度まで流罪せられて 13 最後に頚に及ばんとせし、 眼無く耳無きの人は除く眼有り耳有らん人は経文を見聞せよ、 今の人人は人毎とに経 14 文を我もよむ我も信じたりといふ只にくむところは 日蓮計なり経文を信ずるならば 慥にのせたる強敵を取出して 15 経文を信じてよむしるしとせよ、 若し爾らずんば 経文の如く読誦する日蓮をいかれるは経文をいかれるにあらず 16 や仏の使をかろしむるなり、 -----― 法華経勘持品第十三には「或いは山林の閑静なところにいて、ぼろを継ぎ合わせた法衣を着て、人のいない所にいて…自らの利益に執着するが故に、在家の人々のために法を説いて、世間の人々から六神通を得た羅漢のように尊敬される者があるであろう」とあり、また「常に大衆の中にあって我らを毀ろうとするが故に、国王や大臣・婆羅門・在家の有力者、及び他の比丘達に向かって我々を誹謗・中傷し…悪鬼が彼らの身に入って我らを罵り辱めるであろう」とある。また「濁悪の世の悪比丘は、自分の信ずる教えは仏が人々の機根に随って方便として説いた教えであることを知らずして、悪口を言い、顰蹙し、しばしば追放されるであろう」等と説かれている。涅槃経には「一闡提の徒が阿羅漢の姿を装って静かな所に住し、方等大乗経典を誹謗するであろう。もろもろの凡夫は皆そうした人を見て、彼らこそ真の阿羅漢であり大菩薩であるとおもうであろう」等と記されている。 今、私がこの法華経と涅槃経の金言を鏡として現在の日本国を映し出してその姿を見ると、国主に六通の羅漢のように尊敬され、しかも法華経の行者を讒言して頚を切らせようとした僧はいったい誰であろうか。また万民から大菩薩と仰がれている僧はいったい誰であろうか。一方、法華経の故に度々所を追われ首をきられようとし、弟子を殺され、二度まで流罪にあい、最後には斬首されようとした智者はいったい誰であろうか。 眼がなく耳のない人はともかく、眼があり耳のある者であれば経文をよく見、聞きなさい。今の人々は誰もが「私も経を読んでいる、経を信じている」と言いながら、ただ憎むところは日蓮ばかりである。経文を信ずるというなら経文に明確に記されている三類の強敵を呼び起こし、これをもって経文を信じているという証拠とせよ。もしそうでなく、経文の通りに読誦している日蓮に対してか怒るのは、経文そのものを怒ることではないのか。それは仏の使いを軽んじていることになるのである。 |
前段において、極楽寺良観の本質を祈雨の失敗という事実を通して指摘されたが、本段では法華経・涅槃経の経文を引いて、末法の日本国において良観こそ法華経勧持品に予言された僭聖増上慢であり、大聖人は法華経の故に、その僭聖増上慢による種々の大難に値った法華経の行者であることを明らかにされている。そして、このような邪師・邪法を尊んでいる故に、政道が曲がり、諸天にも見捨てられ国も滅びようとしているのであると指摘されている。
初めに引かれている法華経の三つの文はいずれも勘持品第十三の文である。釈尊は 見宝搭品第十一において、三箇の鳳詔をもって大衆に対して滅後の弘法を勧めたが、これを受けて勧持品で薬王菩薩・大薬説菩薩をはじめとして、二万の菩薩眷属が此土の弘経を誓い、五百の阿羅漢、学無学八千、及び摩訶波闍波提比丘尼と六千の比丘尼が他土の弘経を誓願する。しかし、釈尊は黙然として、これに答えない。そこで不退の法輪を転じ諸の陀羅尼を得た八十万億那由佗の諸菩薩が十方世界の滅後弘通の誓いを発したのである。
ここに挙げられた勧持品の初めの二文は、これら八十万億那由佗の菩薩が誓願を起こして述べた二十行の偈文のうち、妙楽大師が分類した、三類の強敵の中の第三の僭聖増上慢の部分にあたる。ちなみに第一の俗衆増上慢は「諸の無知の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」と述べているのがそれで、第二の道門増上慢は「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心を充満せん」がそれにあたり、この後に「或は阿練若に」以下の文が続く。
開目抄に「像法一千年・二千年すぎて末法の始に法華経の怨敵・三類あるべしと八十万億那由佗の諸菩薩の定め給いし」(0225-14)と仰せられているように、この勧持品の二十行の偈は、末法に法華経の怨敵たる三類の敵人が出現することを予言した未来記である。このことは同時に、法華経を弘通して、三類の強敵による難に値う人こそ真実の法華経の行者で 「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心を充満せん」あることを示している。
妙楽大師は法華文句記巻八の四においてこの勧持品二十行の偈について「文に三あり。初に一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明かす。三に七行は僭聖増上慢の者を明かす」と三類に分類したあと、「故に此の三の中に初は忍ぶ可し。次は前に過ぎたり。第三最も甚だし、後後転た識り難きのを以ての故に」と、なかでも第三の僭聖増上慢による誹謗・迫害が最も甚だしく堪えがたい。それは、第一類よりも第二類、第二類よりも第三類と、後になればなるほどその本質を見抜くことが難しくなり、人々は容易に邪義に誑惑され、正法を持つ人に敵対してしまうからである、と述べている。
第一の俗衆増上慢について妙楽大師は「通じて邪人を明かす」と釈し、広く無智謗法の衆生を指しているとしている。大聖人は唱法華題目抄に、これらの経釈を引かれたうえで「文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり」(0006-07)と述べられている。
また第二の道門増上慢とは、末だ悟りを得ていないにもかかわらず悟りを得たと思い込んで、法華経の行者に敵対する増上慢の出家者のことをいう。
次に、第三の僭聖増上慢についてであるが、大聖人はこれに関して諸御書でよく引かれているのは智度法師の釈である。すなわち法華経疏義鑚に「第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す。常在大衆より下の両行は公処に向って法を毀り人を謗ず」とある文である。「或有阿練若より下の三偈」とは、本文に引用されている最初の文と、次の一偈である。
「是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮って好んで我等が過をださん」
智度法師が「出家の処に一切の悪人を摂す」と釈しているのは、出家者である僭聖増上慢こそ、法華経の行者迫害の中心であるということであろう。つまり僭聖増上慢のもとに正法に敵対する一切の悪人が結集し、法華経の行者を亡きものにしようとするのである。大聖人は開目抄でこの智度法師の文を引かれて「出家の処」とは具体的に日本国のどこを指すのかとの問いを構えられ「華洛には聖一等・鎌倉には良観等ににたり」(0228-10)と述べられている。これは、勧持品二十行の偈のなかの「納衣在空閑」「為世所恭敬 如六通羅漢」の経文等に照らして指摘されたものである。つまり僭聖増上慢とは、世間的な意味での悪僧とは全く違うものであって「納衣在空閑」「為世所恭敬 如六通羅漢」との経文が示すように、見た目は、ひたすら修行に打ち込んでいる聖者であり、世間の人々からは立派な仏法者と仰がれている人物である。
大聖人が良観と並べ挙げられている華洛の聖一とは、京都にある臨済宗東福寺の開山・弁円のことで、日本最初の国師号を授けられ、聖一国師の名で知られる。字を円爾といい、嵯峨天皇や亀山上皇、北条時頼に授戒を授けたという。元亨釈書巻第七に「正嘉元年寛元上皇、亀山宮に於いて禅門の菩薩戒を受けたまう。宮に留まること七日、法要を敷宣す。上皇自ら黄金扇を持して爾にあたえたもう。帝者の手づから授けたまうことは古来たぐいすくなし」とある。また、同年、弁円は時頼に招かれて鎌倉に入り、聖一和尚の号が授けられている。
このように、良観と同様に弁円は常に権力者と深いつながりを持っており、世間から聖僧と仰がれていた。このことから、大聖人は、彼を良観と共に僭聖増上慢の一類とされたのであろう。
次に、智度法師は「常在大衆より下の両行は公処に向かって法を毀り人を謗ず」とのべているが、「常在大衆より下の両行とは、法華経勧持品の次の文を指している。
「常に大衆の中に在って我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向って誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん」
この文の意は、僭聖増上慢が権力者や他の宗教者に対して法華経の行者を謗り、讒奏することによって権力者を動かし、法華経の行者を弾圧させるというのである。
次に「悪鬼其の身に入って」とは、法華経の行者を罵詈等するのは、悪鬼のしわざによることを表しているのであるが、これを大聖人は御義口伝で次のように述べられている。
「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり、鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり」(0749-第十二悪鬼入其身の事-01)
そして邪法に毒された悪比丘が法華経の行者を誹謗することによって、正法の行者は一度ならず所を追われる。すなわち「数数見擯出」の難にあうのである。開目抄に「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-17)と仰せられているように、大聖人御一人が法華経の故にこの難に値われ、仏説が真実であることを証明されたのである。
以上の法華経勧持品の文に加えて、大聖人は更に、涅槃経の文を引かれている。これは、人々が真の阿羅漢であり大菩薩であると思い込むような一闡提が出現するであろうと予言したものである。
そして次に、これらの経文によって当時の世を照らしてみると、誰がこれらの経に述べられている僭聖増上慢・悪比丘・一闡提であるが、明白であるとして、「今予・法華経と涅槃経との仏鏡をもって当時の日本国を浮かせて其影を見るに誰の僧か国主に六通の羅漢の如くたとまれて而も法華経の行者の讒言して頸きらんとせし、又いづれの僧か万民に大菩薩とあをがれたる」と仰せられている。
大聖人がここで挙げられている僭聖増上慢の要相は、
①国主から六神通を得た阿羅漢のように崇められている
②法華経の行者を讒言し、頸を切らせようとした
③万民から大菩薩と敬われている
の三点である。これに該当する人物が極楽寺良観以外にないことはもはや明白であろう。
このように、経文をもって良観の本質を明らかにされたうえで「誰の智者か法華経の故に度度・処処を追はれ頚をきられ弟子を殺され 両度まで流罪せられて最後に頚に及ばんとせし」と、経文の予言通りの大難を受けたのは、大聖人をおいてほかに誰もいないことを示されている。
大聖人はここで、御自身が受けられた数々の大難が、仏の予言に符合していることを簡潔に述べられている。
まず「度度・処処を追はれ」とは、具体的には、建長5年(1253)に清澄寺において立教開宗された際、安房東条郷の地頭・東条左衛門景信の難をさけるためにやもなく清澄山を出られたことがまず第一である。また、文応元年(1260)の松葉ヶ谷の法難もその一つと考えられる。松葉ヶ谷は立教開宗されて後、鎌倉に入られて最初に草庵を結ばれた地であり、文永8年(1271)竜の口の法難に至るまでの18年間の長きにわたって御化導の拠点とされたのである。
この法難については、本抄でも触れられているが、立正安国論を最明寺入道時頼に上呈されて40日目の7月27日の夜半、大聖人を亡き者にせんとして、念仏者等が松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのであった。このため大聖人は鎌倉を離れ、しばらく下総若宮の富木常忍のもとに身を移された。
次に「頸を切られ弟子を殺され」とは、文永元年(1264)11月11日の小松原の法難を指しておられると拝される。この法難は、大聖人が伊豆流罪赦免後、安房へ帰られた折、東条景信が家来を率いて、東条の小松原で大聖人一行を襲ったものである。この時、弟子の鏡忍房が殺され、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負ってまもなく死に、大聖人自身も景信が斬りつけた刀によって、額に傷を受けるとともに、左の手を骨折された。なお「頸をきられ」との仰せは、「頭を切られ」と読むこともできる。
更に「両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし」とは、いうまでもなく弘長元年(1261)の伊豆流罪、文永8年(1271)の佐渡流罪と、また佐渡流罪直前に起きた竜の口法難を指して、このように表現されたものである。
いずれにしても、大聖人は経文に予言されたような数々の大難を受けられたことをもって、「経文の如く読誦する日蓮」と御自身を規定され、その大聖人に敵対することは経文に背くことであり、仏の使いを軽んずることにほかならないと断じられている。ここに「仏の使」とは、地涌の菩薩の上首たる上行菩薩のことを意味しておられることは明らかである。
0351:16~0352:03 第二 悪師親近により亡国・堕地獄top
| 16 今の代の両火房が法華経の第三の強敵とならずば釈尊は大妄語の仏・多宝・十方の諸 17 仏は不実の証明なり、 又経文まことならば御帰依の国主は現在には 守護の善神にすてられ国は他の有となり後生 18 には阿鼻地獄疑なし、 而るに彼等が大悪法を尊まるる故に理不尽の政道出来す 彼の国主の僻見の心を推するに日 0352 01 蓮は阿弥陀仏の怨敵・父母の建立の堂塔の讎敵なれば仮令政道をまげたりとも 仏意には背かじ 天神もゆるし給う 02 べしとをもはるるか、 はかなしはかなし委細にかたるべけれども此れは小事なれば申さず 心有らん者推して知ん 03 ぬべし、 -----― 現在の両火房が法華経の第三の強敵とならなければ、釈尊は大嘘つきの仏であり、多宝如来や十方の諸仏も不実の証明をしたことになろう。また経文が真実であるならば、両火房に帰依する国主は、現世においては守護の善神に捨てられて国は他国のものとなり、後生においては阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。にもかかわらず国主が両火房らの大悪法を崇めている故に理不尽な政道がまかり通っている。 かの国主の僻見の心を推すれば「日蓮は阿弥陀仏の怨敵であり、父母の建立した堂塔の仇であるから、たとえ政道を曲げることになったとしても、仏の意に背くことはならないであろうし、そのことは天神も許してくださるであろう」と思っておられるであろうか。まことに浅はかなことである。さらに詳細に語るべきであろうが、これは小事であるから延べない。心ある人は推して知るべきであろう。 |
ここでは両火房を法華経勘持品第十三に説く三類の強敵のうち僭聖増上慢としないならば、法華経は嘘になり、釈尊は大妄語の人であり、多宝・十方の諸仏は嘘の証明をしたことになると仰せられている。
開目抄にも「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし」(0230-05)と仰せのように、当然のことながら、三類の強敵と法華経の行者は同時に出現するのであり、法華経の行者に迫害を加える三類の強敵が具体的に誰人を指すのかが明らかになれば、迫害されている法華経の行者も誰であるかがおのずとはっきりする。したがって、良観がもし第三の強敵でないとすればとの仮定は、大聖人が法華経の行者ではないとすれば仮定うることと同じ意味をもっているといってよい。
大聖人が法華経の行者として末法に御出現されなければ、勧持品二十行の偈はことごとく虚妄となり、釈尊は大妄語の仏となったであろう。それが経文を身読された御境地からの大聖人の御確信であったと拝される。開目抄においても「当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや、経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(0203-05)と、その御心境の一端を明かされている。
「釈尊は大妄語の仏」という表現から、大聖人が仏説を決して単なる観念とされず、常に事実に裏付けて捉えていたことがうかがえる。そして、このように法華経の文が真実である以上、法華経の行者を迫害し、謗法の失を重ねている国主が受ける罰の苦しみも偽りであるわけがない。大聖人はその報いとして
①現在においては諸天善神に捨てられて日本は他国に侵略される
②後生においては阿鼻地獄に堕すであろう
と指摘されている。
立正安国論に引かれる金光明経には「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん」(0018-03)と説かれている。
同じく仁王経の文を災難対治抄に引かれて「一切の国王は皆過去世に五百の仏に侍うるに由つて帝王主と為ることを得たり、是をもつて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん 若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨て去ることを為さん若し一切の聖人去らん時は七難必ず起る」(0078-15)とあり、更に大集経の文を安国論に「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん、暴火横に起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹タダヨワし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後・大地獄の中に生ずべし」(0020-06)と明確に記されている。
しかしながら、国主らは「日蓮は阿弥陀仏の怨敵であり、父母が建立した堂搭を焼き払えと言っている邪僧だから、たとえ政道を曲げて日蓮を迫害しても神仏から許されるはずだ」と考えているのであると推測され「はかなしはかなし」と憐れまれている。
「理不尽の政道出来す」「仮令政道をまげたりとも」とは、具体的には、幕府が良観らの讒言に踊らされて、一分の罪もない大聖人を裁判もなくいきなり斬首しようとしたことを言われたものと拝される。本抄の後の部分で「御式目を破らるるか」と述べられているように、そうした大聖人の処遇が幕府の法典である貞永式目に反するものであり、一国の政道を司る者として道理に外れ、理不尽きわまりない所行であったからである。
ともあれ、弥陀信仰を絶対と妄信し、その立場から、明らかに反するやり方は仏神は許してくれると彼らは考えていたのである。この考え違いについては、心ある者は推量してわかるであろうと記されている。
0352:03~0354:09 第八段 叡山の密教化への歴史top
0352:03~0352:13 第一 正像末と人々の機根top
| 03 上に書挙るより雲泥大事なる日本第一の大科此の国に出来して年久くなる間、 此の国既に梵釈・日月・四 04 天・大王等の諸天にも捨てられ守護の諸大善神も還つて大怨敵となり 法華経守護の梵帝等・鄰国の聖人に仰せ付け 05 て日本国を治罰し仏前の誓状を遂げんとおぼしめす事あり。 -----― これまで書き挙げてきたことよりもその重大さにおいて天地雲泥の差がある日本第一の大きな科が日本国に現れた。この大科が年久しくなったため、この国は既に梵釈・日月・四天王などの諸天善神にも捨てられ、守護の諸大善神もかえって日本国の大怨敵となった。法華経守護の梵天・帝釈は隣国の聖人に命じて日本国を治罰を加えて仏前の誓いを果たそうとされているのである。 -----― 06 夫れ正像の古へは世濁世に入るといへども始めなりしかば 国土さしも乱れず聖賢も間間出現し福徳の王臣も絶 07 えざりしかば政道も曲る事なし万民も直かりし故に小科を対治せんがために三皇・五帝・三王・三聖等・出現して墳 08 典を作りて代を治す、 世しばらく治りたりしかども漸漸にすへになるままに 聖賢も出現せず福徳の人もすくなけ 09 れば三災は多大にして七難・先代に超過せしかば外典及びがたし、 其の時治を代えて内典を用いて世を治す 随つ 10 て世且くはおさまるされども 又世末になるままに人の悪は日日に増長し 政道は月月に衰減するかの故に又三災・ 11 七難先よりいよいよ増長して小乗戒等の力験なかりしかば 其の時治をかへて小乗の戒等を止めて大乗を用ゆ、 大 12 乗又叶わねば法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立して代を治めたり、 所謂伝教大師・日本三所の小乗戒並に華厳・ 13 三論・法相の三大乗戒を破失せし是なり、 -----― そもそも正法・像法時代の昔は、世の中が濁世の時代に入ったといっても初期であったから、国土もさほど乱れず、聖人・賢人も時折現れ、福徳ある王臣も途絶えなかったので政道も曲がることはなかった。万民もまた素直であった故に、小さな罪科を対治するために三皇・五帝・三王・三聖等が出現して墳典を著して世を治めた。こうして世の中がしばらく治まったのであるが、次第に濁世の末になるにつれて、聖人・賢人も現れず福徳のある人も少なくなったために三災が多発・増大し、七難は先代にもまして現れ、外典の力ではどうすることもできなくなった。 そこで治世の方針をかえて、内典を用いて世を治めたところ、世に中はしばらく治まったのである。けれども、また時代が進んで末期になるにつれ、人々の悪業は日に日に増長し、政道は月々に衰えていったために、三災・七難がこれまで以上に増長し、小乗戒の効力が失われてしまったので、今度は小乗戒等を止めて大乗教を用いて世を治めたのである。更に大乗教によって叶わなくなると、法華経の円頓の大戒壇を比叡山に建立して世を治めた。いわゆる伝教大師が日本の三か所の小乗戒壇及び華厳・三論・法相の三大乗戒を打ち破ったのがこれである。 |
この段では、正法・像法・末法と時代が下るに従って人々の悪趣が増大し、聖人・賢人と呼ばれる精神面の指導者も、福徳ある社会的指導者も少なくなるために、政道に誤りが出来し、世の中も乱れてくる。そこで世を治めるために、より力ある法が立てられなければならなかったことを示されている。
この段では、まず初めに、「上に書挙るより雲泥大事なる日本第一の大科此の国に出来して」と仰せられている。「上に挙る」とは、これまで破折を加えられてきた極楽寺良観らの律宗の邪法・邪義のことである。そして、それと比べて天地雲泥の「日本第一の大科」であるとして、これから真言の邪法、特に日本天台宗を毒した密経化について論及されていくのせある。
ここで大聖人は何故、日本天台宗の密教化を「日本第一の大科」とされたのであろうか。これを考察するにあたり、大聖人が諸御書において真言破折に関連して「第一の」との形容詞を用いられているかいくつかの例をみておきたい。
「善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり、 両界の漫荼羅の二乗作仏・十界互具は一定・大日経にありや第一の誑惑なり」(0216-01)
「一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば 無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかかれしかば法華経はいみじとをもへども弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず、 天竺の外道はさて置きぬ漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり、例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし、伝教大師・御存生ならば一言は出されべかりける事なり、又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん天下第一の大凶なり」(0305-10)
「真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候いしを・誑惑して法華経にも勝るなんど申して多くの人人・大師僧正なんどになりて日本国に大体充満して上一人より頭をかたぶけたり、これが第一の邪事に候を昔より今にいたるまで知る人なし」(1509-12)
これらの用例からも明らかなように、大聖人が真言の教義、特に理同事勝を唱えて法華経をおとしめた教義を最大の邪法・悪法として位置つけられていとことが拝される。
このような根本の邪義である真言の教義を叡山が取り入れ、謗法の山と化してしまったことを日本仏教史上における最大の失として「日本第一の大科」と仰せられているのである。
撰時抄にも「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり、慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで 伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり、此の人真言宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が 真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり」(0279-12)と、叡山第三代座主慈覚が「大日経は理においては法華経と同じであるが事においては法華経に勝つれている」という理同事勝の邪義を「信じがたき最大の悪事」と仰せられている。
また「法門申さるべき様の事」においては「師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり、仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、此等は又外道のごとし、又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす」(1271-06)と、叡山の謗法こそが仏法隠没の根源であり、それが諸天の怒りを招いてひほんにとって未曾有の蒙古の襲来という国難を招来していると述べられている。
上の御文については更に詳しく考察してみたい。「師子身中の虫」とは、いうまでもなく仏法を内部から破壊する者を指す。師子は百獣の王で無敵とされるが、仏法もまた同様で外道によって破られることはない。しかし師子王といえども、自身の身中の虫には食い破られるように、仏弟子と称するものによって内からやぶられるというのである。
大聖人は更に「仏道の内には小乗をもって大乗を失い権大乗をもって実大乗を失ううべし、此等は又外道のごとし」と仰せになり、同じく仏法の中に生じた師子身中の虫といっても、大乗仏法にとっての小乗教や、法華宗にとっての権教は、外道の場合と同様で、それによって破られるものではないと仰せである。したがって、良観らの律宗の邪法・邪義の如きこの範疇に入ると考えられる。本抄で「小事」とされているのもその意味においてである。
それに対して「又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失範が大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし」と仰せのように、叡山の僧の中からは伝教大師の打ち立てた法華経第一という根本義を破壊する者こそ、師子身中の虫にほかならない。
しかも、伝教大師によって叡山に円頓の戒壇が建立されて以来、叡山は日本仏教界に対して決定的なイニシアチブを持っていた。故に、この叡山が密教化によって謗法化したことにより、日本仏教界全体こぞって大謗法と化すことになったのである。このような「日本第一の大科」があって、その後の日本において禅宗・念仏宗などの邪法が並び起こるに至ったのである。
「夫れ正像の古へは」と仰せられている一節は、中国に仏教が渡来する以前のことと拝される。大聖人は、中国に初めて仏教が伝わったのは、後漢の欽明皇帝の治世・永平7年(0064)とされている。これは、像法時代に入ってから15年目にあたっている。正法時代から像法時代の初期にこけてこの時代においては、人々の機根も優れていたうえ、聖人・賢人と呼ばれる人が出現し,福徳を備えた王臣も絶えることがなかったことから、儒教などの外道によって世を治めることができた。しかし、時代が像法・末法へと進むにつれて、民衆の機根も変わり、それに伴って世を指導すべき教法も次第に深いものが必要とされてきたと示されている。
ここには、時代・社会と仏法との関係についての基本的な考え方が要約して示されていると拝される。つまり、第一に時代が下るにつれて民衆の機根が低下するということであり、第二に民衆の機根が低くなればより深い教法でなければ世を治めることができないということである。
第一の点についていえば、正法・像法・末法の三時の考え方自体、それを前提にしているといえるであろう。大聖人は減劫御書に次のように仰せられている。
「減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり、漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもつて民の心をととのへてよをば治めしほどに・次第に人の心はよきことは・はかなく・わるき事は・かしこくなりしかば・外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし、外経をもつて世をさまらざりしゆへに・やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき、此れはひとへに仏教のかしこきによつて人民の心をくはしくあかせるなり」(1465-01)
「減劫」とは、寿命が次第に増加していく時期を増劫と言うのに対して、寿命が次第に減少していく時期をいう。人間の生命に内在する貧・瞋・癡の三毒の煩悩が強くなると、生命力が衰退し、寿命が縮まっていくのであるとの仰せである。このように時代が下がれば下るほど、三毒が強くなって、悪心がはびこり善心は次第に弱まって、時代・社会全体の生命力も枯渇してしまう。人間の智慧も次第に発達するものの、もっぱら悪事に発揮されるため、人間を深く洞察した教えでなくてはもはや世を治めることができなくなるのである。
そこで諌暁八幡抄に「此の時仏出現し給いて仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば 燈に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく天神等還つて威光をまし勢力を増長せし事成劫のごとし」(0576-08)と述べられているように、仏教が説き弘められることにより、燈に油、老人に杖の如く、衰えようとする生命力が蘇生したのである。しかし、仏の教法にも勝劣がある。釈尊は人々の機根に応じて小乗教、大乗教、そして大乗教の中でも権大乗・実大乗と説き残したのである。このことを弁えずに、小乗が大乗を破し、権大乗が実大乗を破ろうとするところに、仏法の混乱があり、それが因となって政道に乱れが生じ、国に災難が起こるのである。
日本においては伝教大師がただ一人、一切諸経の勝劣浅深を判別して法華経が最勝であることを主張し、南都諸宗の碩学たちを論破した。そして、法華経の円頓の戒壇を叡山に建立して世を治める根底としたのである。
0352:13~0353:04 第二 真言宗の誑惑を見抜いた伝教大師top
| 13 此の大師は六宗をせめ落させ給うのみならず 禅宗をも習い極め剰え日 14 本国にいまだひろまらざりし法華宗・真言宗をも勘え出して 勝劣鏡をかけ顕密の差別・黒白なり、然れども世間の 15 疑を散じがたかりしかば去る延暦年中に御入唐・漢土の人人も他事には賢かりしかども 法華経・大日経・天台・真 16 言の二宗の勝劣・浅深は分明に知らせ給はざりしかば、 御帰朝の後・本の御存知の如く妙楽大師の記の十の不空三 17 蔵の改悔の言を 含光がかたりしを引き載せて天台勝れ真言劣なる明証を依憑集に定め給う 剰え真言宗の宗の一字 18 を削り給う、其の故は善無畏・金剛智・不空の三人・一行阿闍梨をたぼらかして本はなき大日経に天台の己証の一念 0353 01 三千の法門を盗み入れて人の珍宝を我が有とせる 大誑惑の者なりと心得給へり、 例せば澄観法師が天台大師の十 02 法成乗の観法を華厳に盗み入れて 還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知あて 宗の一字を削りて叡山は唯七 03 宗たるべしと云云、 而るを弘法大師と申し天下第一の自讃毀他の大妄語の人、 教大師御入滅の後対論なくして公 04 家をかすめたてまつりて八宗と申し立てぬ、 -----― この伝教大師は六宗を責め落とされただけでなく、禅宗をも習い極められていた。更には日本国にいまだ広まっていなかった法華宗・真言宗をも研究され、その勝劣を仏法の鏡に照らして判じ、顕教と密教の相違を明らかにされた。しかしながら、それだけでは世間の人々の疑いを晴らすことが難しかったので、去る延暦年中に入唐された。 中国の人々も他の教理については通じていたけれども、法華経と大日経、天台宗と真言宗の二宗の勝劣・浅深については明確に知らなかったので、伝教大師は中国から帰朝されて後、もともと見抜かれていた通り、妙楽大師の法華文句記巻第十に記された不空三蔵が改悔して述べたという含光の話を依憑集に引用し、天台宗が勝れ真言宗が劣っているという明らかな文証とされた。 それだけではなく真言宗の「宗」の一字を削られたのである。その理由は善無畏・金剛智・不空の三人が、天台僧であった一行阿闍梨をあざむいて、もともと一念三千の法門が記されていない大日経に天台大師の己心の悟りであるこの法門を盗み入れ、他人の珍宝を自らのものとした大誑惑の者いたからである。このことは、例えば澄観法師が華厳の教えにはない天台大師の十法成乗の観法を華厳宗の教義に盗み入れ、逆に天台宗を末節の教えと見下したようなものであると見抜かれて、真言宗の、宗の一字を削って、比叡山は南都の六宗に天台法華宗を加えてただ七宗であるべきであるとされたのである。 それなのに、弘法大師という天下第一の自讃毀他の大妄語の人が、伝教大師御入滅の後に、対論もないまま朝廷をごまかし真言宗を加えて八宗と申し立てたのである。 |
日本においては、伝教大師が当時の南都六宗を破折し、法華経をもって世を治める根本とした。この経緯については第三段で詳しく論じたのでここでは述べないが、伝教大師は禅宗、更に当時まだ日本に広まっていなかった真言宗をも研究したうえで、法華経最勝を明らかにしたのである。
伝教大師は近江国師の行表を師として授戒した。この行表は、奈良時代に唐より伝来し日本に禅と華厳を伝えた道璿に師事した人である。
本朝高僧伝巻第四に「天平十五年、表、興福寺の北倉院に於いて唐の道璿に就いて重ねて戒法を受く…我に心法あり、祖師禅という。昔三蔵菩提達磨大師、西天より来たりて此の法を慧可に付し、僧燦・道信・弘忍・神秀と七伝して我が師普寂に至れり…我等権に従いて法を得たり。今以て汝に付す、と。即ち広く法要を説く。表、忻然として領受す。大安寺に住して熾んに教観を弘む。晩に心法を以て上足最澄に付す」と。伝教大師が行表より禅を付嘱されたことが記されている。このことは伝教大師の著した内証仏法相承血脈譜のなかで達磨大師付法相承師師血脈譜にもあり、菩提達磨の禅の法門が、道璿、行法を経て伝教大師に伝えられたと記されている。
不空三蔵の改悔の言を含光がかたりし
これは、不空三蔵が晩年は真言宗を捨てて天台大師に帰伏したことを不空の弟子・含光が語ったということであり、妙楽大師の法華文句記巻第十下に記している。すなわち、含光は妙楽大師に次のように語ったという。
「適江准の四十余僧と往きて台山に礼す。因りて不空三蔵の門人含光の勅を奉じ山に在りて修造するを見る。云く『不空三蔵と親しく天竺に遊びたるに、彼に僧有り問うて曰く、大唐に天台の教迹有り、是も邪正を簡び、偏円を暁むるに堪えたり。能く之を訳して将に此土に至たしむ可けんや』と、」
つまり、不空と含光が訪印した折、インドのある僧が、中国には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の論釈があるから、どれを翻訳してインドに伝えてほしいと頼んだのである。これは、天台大師の名声が遠くインドに伝わっていることを物語っているとともに、もはやインドには中国へ伝えるべきものがなかったことを示しているといえる。
故に、これを受けて「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや、而も此方識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」と述べている。ここにある「中国」とは仏教発祥の中心地・インドのことである。つまり、唐の時代にはインドにおいては釈尊の法は廃れ、そのために逆に中国から求めようとしていたのである。しかるに、中国の人はそのことが、よくわかっていない。それは、魯国の人々が自国の孔子の偉大さを知らなかったのと同じであるという意味である。
含光が語った、その師の不空三蔵が天台の法門の優れていることを弁えていたことを物語っている。故に、伝教大師は依馮天台宗において「天竺の名僧・大唐の天台の経釈最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞き渇仰してして法門の縁」として、この文句記の文を引き、「天台勝れ真言劣なる明証」としたのである。
真言宗の宗の一字を削りたまう
これは、伝教大師が真言宗を一宗として認めていなかったことから、伝教大師においては、天台宗と真言密教との勝劣は明らかであることを指摘されている。
伝教大師は延暦25年(0806)正月3日に上表した「まさに絶えんとする諸宗を続ぎ、更に法華宗を加えんことを請う表」において次のように述べている。
「沙門最澄言す。最澄聞く、一目の羅は鳥を得ることあたわず。一両の宗なんぞ普く汲むに足らん。彼らに諸宗の名のみありて、忽ちに伝業の人を絶つ。誠に願わくは、十二律呂に準じて年分度者の数を定め、六波羅蜜に法りて授業諸宗の員を分かち、両曜の朝に則りて各宗に二人を度せん。華厳宗に二人・天台法華宗に二人・律宗に二人・三論宗に三人、小乗成実宗を加う・法相宗に三人、小乗具舎宗を加う。しかればすなわち、階下法施の徳、ひとり古今に秀で、群生法財の用、永く塵劫に足らん。区区の至りに任えず。謹んで表をたてまつって、もって聞こしめず、軽しく威厳を犯す、伏して深く戦越す。謹んで言す。
延暦二十五年正月三日 沙門最澄 表をたてまつる」
ここで伝教大師が言っていることは、一目しかない小さな網では鳥を捕獲することができないように、一宗や二宗では仏法の全体を汲み取ることができず、いたずらに諸宗は名ばかりとなって、法を伝える人が絶えてしまっている。そこで、十二律呂の音階に準じて12人の年分得度者を定め、六波羅蜜の六に則って諸宗の業を授ける人員を分け、日月に則って宗別に二人ずつ得度せしめてほしい。すなわち、華厳宗・天台法華宗・律宗に2人ずつ、三論宗に小乗の成実を加え、また法相宗に小乗の具舎宗を加えてそれぞれ3人としていただきたいというのである。
これは、これまでの年分得度者の総数10名を南都六宗にわりふり、新たに天台法華宗にも二人の枠が与えられるように朝廷に申請したものである。この申請は僧綱の賛成を得て認可され、これにより天台宗は独立した宗として認められたのであるが、ここには七宗が挙げられているのみで、真言宗という宗名はどこにも記されていない。ここに伝教大師が既存の南都六宗を認めながら、真言宗を一宗として認めていなかったことは明らかである。
大聖人はその理由として善無畏・金剛智・不空の3人が一行阿闍梨を欺いて大日経に天台の一念三千の法門を盗み入れたという事実を伝教大師が見抜いていたからであると指摘されている。すなわち、善無畏三蔵が密教をもってインドから中国に渡ってきたとき、中国では既に法華経を根本とした天台大師の法門が打ち立てられており、通教に属する大日経を依処とした密教をそのまま弘めることは不可能であると知って、天台僧の一行阿闍梨をたぶらかして、天台大師の一念三千の法門等を盗み入れて大日経の疏釈を作らせたのである。伝教大師はこのことを見抜いて、依馮集に「大唐南岳の真言宗の沙門一行は天台の三徳・数息・三諦の義に同じて」と述べている。これについて日寛上人は、報恩抄文段で次のように仰せられている。
「一行阿闍梨、大日経の疏に天台円家の数息観を引いて彼の経の三落叉の文を釈す。また天台の三徳の義を挙げて菩提心・慈悲慧等の義を成ず。また天台の三諦の義を盗み取り、大日経に入れて理同の義を成ずること歴然たり。故に天台の正義を盗み取るというなり」
伝教大師が依馮集で引いている大日経疏の文のうち、特に天台大師の一念三千の義とかかわっているのは、次の文と思われる。
「又復衆縁より生ずるが故に、即空・即仮・即中なり。一切の戯論を遠離して、本不生際に至る。本不生際とは、即ち是れ自性清浄心なり。自性清浄心即ち是れ阿字門なり。心が阿字門に入るを以ての故に、当に知るべし、一切の法は悉く阿字門に入るなり。已に諸法の実相を観ることを説きつ」
阿字は梵語の文字の母恩における最初の文字である阿の字のことで、真言密経ではこれが一切経法の根源であるとして、本不生と説いている。しかしながら「即空・即仮・即中」のいわゆる円融の三諦は、円教にのみ説かれる法門であり、大日経において説くのは、但空・但仮・但中という隔歴の三諦に過ぎない。にもかかわらず、「彼に諸法実相と言うのは、即ち是れ此の経の心の実相なり」と説いて、大日経で説く「心実相」を法華経方便品第二の諸法実相と同じものであると主張したのである。大日経疏第五の次の文は、そのことをより明瞭に示している。
「一切の法は心の実相を出でざるを以ての故に、是の如き実相は、唯、仏と仏とのみ、乃し能く之を知りたまえり、思量分別の能く及ぶ所に非ず」
これは法華経方便品第二に「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と説かれる文をそのまま盗んで大日経の解釈に当てたのである。
更に、大日経疏巻第十二では、大日経第三において大日如来が「我は一切の本初なり」と述べているのを「将に秘蔵を説かんとして、亦自ら徳を歎ずるなり。此の法は難信なるを以ての故に、将に法華を説かんとして、亦自ら歎ぜしが如し。本初とは即ち是れ寿量の義なり」と釈し、法華経寿量品の久遠実成と同じであるとしている。
これらがこじつけにすぎないことは明白である。なぜならば、諸法実相の法門は、舎利弗が「我昔より来、末だ曾て、仏に従って是の如き説を聞きたてまつらず」と述べているように、法華経の方便品に至って初めて説かれた「甚深未曽有」の法であり、爾前権教の大日経に説かれている筈がないからである。
また、「我一切本初」の文をもって大日経にも久遠実成が明かされているかのように釈しているが、大日経巻第二には「我昔道場に坐して、四魔を降伏し、大勤勇の声を以て、衆生の怖畏を除く」とあり、始成正覚の仏であることが明らかである。しかも大日如来は、密経で言うように法身の仏で、単なる理を象徴したものにほかならないから、三身即一身の寿量品の仏とは全く異なるのである。
故に大聖人は開目抄で次のように指摘されている。
「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として 其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり」(0215-18)
こうしたことを看破していた伝教大師は、あくまで真言を天台法華宗の内の一部として取り扱い、独立した一宗として認めなかったのである。にもかかわらず、伝教大師なきあと、大日経こそ最勝であると主張し、真言宗を一宗として立てたのが弘法大師空海であった。
大聖人は本抄で空海を「天下第一の自讃毀他の大妄語の人」と断じられ、「教大師御入滅の後対論なくして公家をかすめたてまつり」としてきされているが、これは紛れもない事実である。空海は伝教大師最澄が存命中には決して法華経を下すことはしなかったが、最澄は弘仁13年(0822)に入滅するや、法華経を下して大日経を最勝とする教判を主張して、当時の公家等をだまし、真言密経を弘めたのである。
空海が、その教判を体系化したのは秘密曼荼羅十住心論十巻においてであり、それを要約した秘蔵法鑰三巻も、共に天長7年(0830)のころの著作と考えられている。また、十住心思想の骨格を初めて打ち出した平成天皇灌頂文にしても、伝教大師が入滅した弘仁13年に成立したものであり、大日経第一・華厳経第二・法華経第三なる教判は、伝教大師の存命中には公表されることがなかったもとに注目すべきであろう。少なくとも、空海の場合、天台宗や南都六宗と諦論して、自宗の正当性を根拠を明らかにするようなことは全くなかった。
先に見たように、伝教大師は天台法華宗を開くにあたって、天台法華宗の年分得度者2人の枠を朝廷に願い出て、僧綱の賛意を得て勅許された。しかし、それまで三論・法相の二宗にそれぞれ5人ずつ計10人の年分得度者が勅許されていたが、三論宗は3人、法相宗と具舎宗と合わせて3人に減ったわけで、法相宗の護命らにとっては内心は不本意であったことは想像に難くない。それでも僧綱たちが賛成せざるを得なかったのは、伝教大師の天台法華宗の教義が勝れていることを認めていたからといえよう。
この点において、空海がその在世中は年分得度者の申請をしなかったのも、南都諸宗の摩擦を避けるためであったと言われている。ここにも、伝教大師が既成の諸宗と鋭く対決しながら自宗の正当性を主張とは際立って対照的な、空海の狡猾な姿勢が現れているといえよう。
0353:04~0353:13 第三 慈覚の邪義top
| 04 然れども本師の跡を紹継する人人は 叡山は唯七宗にてこそあるべき 05 に教大師の第三の弟子・慈覚大師と叡山第一の座主・義真和尚の末弟子 智証大師と此の二人は漢土に渡り給いし時 06 日本国にて一国の大事と諍論せし事なれば 天台・真言の碩学等に値い給う毎に勝劣・浅深を尋ね給う、然るに其の 07 時の明匠等も或は真言宗勝れ 或は天台宗勝れ或は二宗斉等し或は理同事異といへども 倶に慥の証文をば出さず、 08 二宗の学者等併しながら胸臆の言なり然るに 慈覚大師は学極めずして帰朝して 疏十四巻を作れり所謂・金剛頂経 09 の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻なり 此の疏の体たらくは法華経と大日経の三部経とは 理は同く事は異なり等云云、 10 此の疏の心は 大日経の疏と義釈との心を出すが・なを不審あきらめがたかりけるかの故に 本尊の御前に疏を指し 11 置て此の疏仏意に叶へりやいなやと祈せいせし処に 夢に日輪を射ると云云、 うちをどろきて吉夢なり真言勝れた 12 る事疑なしとおもひて宣旨を申し下す 日本国に弘通せんとし給いしがほどなく疫病やみて 四ケ月と申せしかば跡 13 もなくうせ給いぬ、 -----― しかし、本師伝教大師の跡を継ぐ人々であれば、比叡山は唯七宗に限定すべきであるのに、伝教大師の第三の弟子である慈覚大師と比叡山延暦寺第一の座主義真和尚の末弟子である智証大師の二人は中国に渡られた折、天台と真言の勝劣は日本国において一国の大事であり諍論の的であったので、天台・真言の碩学に会われるたびにその勝劣・浅深について尋ねられた。 しかしながら、その時の優れた学者等も、ある人は真言宗が勝れていると言い、ある人は天台宗が勝れているといい、またあるある人は二宗は等しいと言い、またある人は理は同じで事において異なっていると言った。しかしながらいずれも明らかな証文を示すことがなかったから、二宗の学者等は全く憶測で言ったにすぎないのである。 ところが慈覚大師は学を極めないまま帰朝し、二経の注釈書十四巻を作った。いわゆる金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻である。この疏の内容は法華経と大日経の三部経とは理においては同じであり事においては異なるというものである。 この疏の本旨は大日経の疏と義釈の要旨に基づいたものであったが、それでも不審が残ったのか、慈覚大師は、本尊の御前にこの疏を安置し、この疏が仏意に叶っているかどうかと祈請したところ、夢に日輪を射たという。目をさまして吉夢である。真言が勝れていることは疑いないと思い、宣旨を願い出たのである。そして日本国に広く伝えようとされたが、ほどなく疫病にかかり四ケ月もしないうちに跡形もなく亡くなられたのである。 |
伝教大師は真言宗の一宗を認めていなかったにもかかわらず、叡山第三代座主・慈覚と第五代座主・智証は、開祖の教えに背いて、真言宗を認めただけではなく、大日経は法華経より勝れているとの邪義を唱えたのであった。叡山の密教化はまさにこの二人に始まるのである。
慈覚は仁寿元年(0851)に金剛頂経疏七巻、及び斉衡2年(0855)に蘇悉地経疏七巻をそれぞれ著したが、秘蔵して世間に発表しなかった。それは、これらの疏の内容が果たして正しいかどうか自信がなく、公表するのに躊躇していたためである。そして、これらの疏が仏意に通ずるか否かを祈禱したところ、日輪を射る夢を見たという。慈覚大師伝にはつぎのようにある。
「斉衡二年、蘇失地経疏七巻を作る。大師、二経の疏を造り、功を已に成し畢って中心に独り謂えらく、この疏仏意に通ずるや否や、若し仏意に通ぜずんば、世に流伝せ時と。仍って仏像の前に安置して、七日七夜,深誠を翹企して、勤修いて祈禱を行う。五日の五更に至って夢みらく、正午に当たって日輪を仰ぎ見て、弓を以て之を射る。其の箭日輪に当たって、日輪即ち転動すと。夢覚めての後、深く仏意に通達して後世に伝わる可しと悟れり」
すなわち慈覚は、仏像の前にこれらの疏を安置して7日7夜にわたり、心を込めて祈ったところ、5日目の夜明がたに至って夢を見た。それは、太陽が輝いているのを仰ぎ見て弓をもってこれを射ると、その箭が太陽に命中し、太陽は動転して落ちた、というものであった。この夢によって、慈覚は自分の解釈が深く仏意に通達していると確信したというのである。
ところで、これらの疏の内容は「法華経と大日経等の真言三部経とは、説かれている法理は同じだが大日経には印・真言があるから、事相においては異なっている」というもので、善無畏の釈を一行が記した大日経疏と更に智儼・温古が校訂した大日経釈の邪義をそのまま踏襲したものであった。すなわち蘇悉地経疏巻第一・請問品第一で「彼の華厳等の経は、俱に密と為すと雖も、而も末だ如来秘密の旨を尽くさず。今、所立の真言経とは別なり。仮令、少しく密厳等を説くと雖も、末だ如来秘密の意を究尽すと為さず。今、所立の毘廬遮那・金剛頂等の経は、或く皆如来の事理具密の意を究尽す。是の故に別と為すなり」と述べられている。これは大日経・金剛頂経等の事理具密、その他の大乗教を理秘密とし、事相において真言が優れているというのである。慈覚は、それが正しいか否かの判断の根拠を日輪を射落とした夢に託し「智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて」(0281-11)とし、智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて自分の智慧が智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて大日如来の心に通じたものと解釈し、これを弘める決意をしたというのである。
これは、まことに無責任な決断という以外にない。知的営為を尽くして真理を探究することを放棄したもので、実に危険このうえないことであろう。
大聖人は、慈覚が、このように夢の判断の根拠としたことに対して「夢を本にはすべからず ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」(0282-01)と厳しく破折されている。そして、更に「日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか」(0282-08)と難じられ「修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいたてまつる」(0282-11)「夏の桀・殷の紂と申せし悪王は常に日を身をほろぼし国をやぶる」(0282-12)などの事例を引かれ、慈覚の夢が吉夢ではなくむしろ凶夢であったと指摘されている。
太陽は尊ぶべき存在であるから、これを射ることは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経を射ることの象徴であると述べられ、慈覚には愚かにも自分の智慧の矢が大日如来に通じた証拠と解したが「是れは慈覚大師の心中に修羅の入つて法華経の大日輪を射るにあらずや」(1024-09)と喝破されている。ゆえに本抄で、慈覚の夢が吉夢どころか「仏法の大科此れよりはじまる日本国亡国となるべき先兆なり」(0353-17)と断じれれているのである。撰時抄にも「此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国を亡ぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべし」(0282-15)と、現世において亡国・亡家の報いを受けるのみではなく、死後は無間地獄に堕ちると厳しく指摘されている。
慈覚の教判は、本抄で指摘されているように、基本的に善無畏の「理同事勝」を受け継いだものである。慈覚によれば、まず一代諸経は顕示教と秘密教に分けられ、そのうち顕教は世欲と勝義とが互いに隔たっていまだ円融していない故に三乗教であるのに対し、密教は両者が円融一体なることを説いている故に一乗教であるとしている。
さらに秘密教は理秘密と事理俱密の二教に分けられ、華厳・般若・維摩・法華・涅槃等の諸経は世俗と勝義との不二とを説いているが、いまだ真言密印の事を俱に説いている故に事理俱秘密にあたるという。ここに「世俗」とは凡夫が知る世間一般の道理をいい、「勝義」とは出世間の真理を指しており、いわゆる真俗二諦と同じ意味である。
この慈覚の教判は、善無畏が大日経疏で述べた「理同事勝」を繰り返しただけである。ゆえに大聖人は撰時抄で次のように指摘されている。
「釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり」(0281-02)
天台座主記巻第一によると、慈覚は定観5年(0863)10月18日に初めて熱病を患い、翌6年(0864)正月14日になくなっている。金剛頂経疏を著したのは仁寿元年(0851)、蘇悉地経疏は斉衡2年(0855)であるから、慈覚がこの両疏の弘通を朝廷に願い出ようとしたのは、これらを述作して年月も経ち、臨終近くなってからのことであろう。それだけ、彼自身としてもこの内容には納得できないものがあったということであろう。
この点について、日好は録内扶老巻第十二で、慈覚大師は当時の王臣が帰依していた大徳であり、もし二経の疏を日本に流伝しようと宣旨を願い出ていれば、直ちに勅許があったことは必然であるとして、しかるに、既に勅許が下りないうちに逝去したのは、宣旨を願いでたのが臨終近い頃だったからであろうと推定している。
0353:13~0354:02 第四 慈覚・智証は仏法の大怨敵top
| 13 而るに智証大師は慈覚の御為にも御弟子なりしかば、遺言に任せて宣旨を申し下し給う所謂・ 14 真言・法華斉等なり譬ば鳥の二の翼・人の両目の如し又叡山も八宗なるべしと云云、 此の両人は身は叡山の雲の上 15 に臥すといへども 心は東寺里中の塵にまじはる本師の遺跡を紹継する様にて 還つて聖人の正義を忽諸し給へり、 16 法華経の於諸経中最在其上の上の字をうちかへして 大日経の下に置き先づ大師の怨敵となるのみならず 存外に釈 17 迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讎敵となり給う、 されば慈覚大師の夢に日輪を射ると見しは是なり仏法 18 の大科此れよりはじまる日本国亡国となるべき先兆なり、 棟梁たる法華経既に大日経の椽梠となりぬ、 王法も下 0354 01 剋上して王位も臣下に随うべかりしを 其の時 又一類の学者有りて堅く此の法門を諍論せし上座主も両方を兼ねて 02 事いまだきれざりしかば世も忽にほろびず有りけるか、 -----― ところが智証大師は慈覚にとっても弟子であったので、慈覚の遺言に従い宣旨を願い出られた。いわゆる「真言と法華は同等であり、例えば鳥の二つの翼、人の両目のようなものであり、また叡山を中心とする七宗に真言宗を加えて八宗とすべきである」というものである。 この二人は、その身は比叡山の雲の上にあるといっても、その心は東寺の里中の塵に交わっているのである。本師伝教大師の遺跡を紹継するように見えて、かえって聖人の正義をないがしろにされたのである。法華経安楽行品第十四の「於諸経中最在其上」の上の字を打ち返して大日経の下に置き、まず伝教大師の怨敵となるのみならず、思いもかけず釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の仇となってしまったのである。 したがって慈覚大師が夢の中で日輪を射るのを見たとはこのことなのである。日本国における仏法の大科は実にここから始まった。またこれは日本国が亡国となるべき先兆でもあった。棟梁であるべき法華経は既に大日経の椽梠となってしまったのである。 王法の世界においても下剋上の世となり、王位にある者がその臣下の者に従わなければならなくなったのであるが、この時は、まだ厳正にこの法門、すなわち天台・真言の勝劣・浅深について論争を行う一部の学者もいたうえ、天台座主も法華経と大日経とをあわせ持ち、その論争にまだ決着がついていなかったので世もすぐには滅びなかったのであろうか。 |
慈覚の理同事勝の誤った教判を受け継いで天台宗の真言密教化を決定的にしたのが叡山第五代座主智証大師円珍であった。
智証は、15歳で叡山に登り、義真に師事したが、智証自身、遺言に「余慈覚大師に随いて重ねて真言の奥旨を極めたり。余が門徒は、正月14日を以て、先師の為に曼荼羅供を奉修し、並びに10人の碩学の輩を堀請し、一乗の深義を講じ、大師の法楽に備えよ」と記しているように、慈覚を師と仰いでいた。そして慈覚が定観6年(0864)に死去すると、その意志を継いで貞観8年(0866)5月29日、「真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し、俱に深秘と称す」との宣旨を願い出た。
同年6月3日の宣旨には、「止観真言、その義異なると雖も、于に仏法を説尽し、実教を究竟するに至れり。其れ到一なり。是れを以て、故伝燈大法師位最澄、詳かに両業一味なるを知んぬ。誓って、国を護るを以て、彼此兼行す。譬えば、猶人の両目、鳥の双翼の如き者なり。先師既に両業を開いて、以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝えざること莫し。在後の輩、豈旧迹に乖かんや。聞くならく、山上の僧等、専ら先師の誓いに違いて偏執の心を成ず。殆ど以て余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みず。凡そ厥の師資の道、一を闕きても不可なり。伝弘の勤め、寧ろ兼備せざらんや。今より以後、宣しく両業に通達するの人を以延暦寺の座主と為し立て恒例と為すべし」とある。
これは真言密教と法華経とを同等とする、いわゆる円密一致の業を上表したものである。ところで智証は、宣旨を願い出るにあたっては法華・真言同等としながら、著書においては理同事勝の義を唱えている。また、智証は慈覚の遺志を継いで、元慶2年(0878)12月2日、金剛頂経疏・蘇悉地経疏を流伝すべく宣旨を願い出ている。
こうして、慈覚と智証の二人は、身は法華経最勝の法門を立てた伝教大師の末弟子でありながら、心は大日経を根本とする当時に寄せて、叡山を真言の邪義で汚してしまったのである。
伝教大師は法華宗句巻下において法華経法華経迹門十四品の「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の文を引いて、次のように述べている。
「明らかに知りぬ、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗なることを。天台法華宗は諸宗に勝るとは所依の経に據るが故なり」
この文に明らかなように、伝教大師は法華経最勝こそ釈尊の真意であるとして、天台法華宗は釈尊の立てた宗であり、故に天台法華宗は他の諸宗に勝っていると断言しているのである。まして、先に見たように伝教大師は真言密経を一宗として認めることさえしなかったのである。それは、善無畏・金剛智・不空三蔵を経て中国に伝えられた真言密教が天台大師の法門を盗み入れたものであることを看破していたからである。
ところが、慈覚・智証は、顕劣密勝を唱え、開祖の正義を蹂躙し、師敵対の怨敵となってしまったのであった。釈尊の正意に基づいて宗を立てた伝教大師に敵対したことは、取りも直さず釈尊に、また仏の説法の真実なることを証明した多宝・十方分身の諸仏に敵対したことにほかならない。更には、大日如来は、釈尊の垂迹仏であるから、法華経を大日経より劣るとしたことは大日如来にも背くことになる。ゆえに大聖人は本抄で「釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讎敵となり給う」と仰せられているのである。
この意味において、慈覚が日輪を弓矢で射たという夢は、一切諸仏に弓を引いたことのあらわれであり、大謗法の邪義たることの象徴にほかならない。まさにこの夢は日本国の亡国を招く先兆となる凶夢であったのである。
法華経を劣とし大日経を勝とすることは、本来、棟梁たる法華経を、本来の臣下たる大日経の従者としてしまうことである。この、仏法上の下剋上の故に、王法のうえでも下剋上が起こってしまった。大聖人は、こうした慈覚・智証の邪義に対して意義を唱えて論争した一類の学者がいて、またその後の天台の座主の中にも法華経と大日経を共に用いて、その勝劣を明確にしなかったために、国も急に滅びることはなかったのであろう、と仰せられている。
大聖人が仰せの「一類の学者」が誰を指しているかは詳かではないが、中興の祖といわれる第18代座主慈慧大師良源以降、慧心僧都源信等が叡山宗学を再興し、天台大師・伝教大師の法華一乗を宣揚したことを言われていると思われる。
源信は寛和元年(0985)に唱名念仏こそ極楽往生の肝要であると説いた往生要宗を著して、浄土宗の開祖・法然に強い影響を与えた人であるが、寛弘3年(1006)頃には一乗要決を著して、法華経の一乗思想を大いに宣揚した。大聖人は守護国家論において「往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(0050-01)と述べられている。
この源信を祖とするいわゆる慧心流から出た第46代座主の東陽房忠尋は、天台三大部の注釈書を著し天台宗学の興隆に努めた。また、法池房証真も三大部私記30巻を述作し、もっぱら天台学の研鑽・宣揚に力を注いだ一人である。
これらの人々は、慈覚・智証によって密教化された叡山の教学を天台大師・伝教大師の教義に立ち返って再興しようとしたといえるであろう。しかし、慈覚・智証は日本天台宗において聖祖として仰がれた人物であり、彼らにしてもその邪義を厳しく責めるまでには至らなかったようである。大聖人は、次のように仰せである。
「弘法.慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候、何に況や其の已下の古徳.先徳等は言うに足らず、但天台の第四十六の座主・ 東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ、然れども天台の座主慈覚の末をうくる人なれば・いつわりをろかにて・さてはてぬるか、其の上日本国に生を受くる人はいかでか心には.をもうとも言に出し候べき」(1006-03)。
0354:02~0354:09 第五 真言を重んじた明雲の非業の死top
| 02 例せば外典に云く「大国には諍臣七人・中国には五人・小国 03 には三人・諍論すれば 仮令政道に謬誤出来すれども国破れず 乃至家に諌子あれば不義におちず」と申すが如し仏 04 家も又是くの如し、 天台・真言の勝劣・浅深事きれざりしかば少少の災難は出来せしかども青天にも捨てられず黄 05 地にも犯されず一国の内の事にてありし程に 人王七十七代・後白河の法皇の御宇に当りて天台座主明雲・伝教大師 06 の止観院の法華経の三部を捨てて 慈覚大師の総持院の大日経の三部に付き給う、 天台山は名計りにて真言の山に 07 なり法華経の所領は大日経の地となる 天台と真言と座主と大衆と敵対あるべき序なり、 国又王と臣と諍論して王 08 は臣に随うべき序なり 一国乱れて他国に破らるべき序なり、 然れば明雲は義仲に殺されて院も清盛にしたがひら 09 れ給う、 -----― それは例えば外典に「大国に諌奏する臣が七人、中国には五人、小国には三人いて、絶えず王君への諌言を行うならば、たとえ政道に誤りが起きても国が破れることはなく…また一家の中に意見する子がいれば、その父が不義に陥ることはない」と述べられている通りである。 仏教においてもまた同じである。 天台と真言の勝劣・浅深について論議が続いて途切れることがなかったので、少々の災難は起きたけれども青天に捨てられることもなく大地に犯されることもなく、災いも一国の内に限られてきたのであるが、人王七十七代の後白河法皇の時代になって、天台座主の明雲が伝教大師建立の止観院に納められた法華経・金光明経・人王経の三部を捨てて、慈覚大師が総持院に安置した大日経等の真言三部経についてしまった。このため比叡山はに天台法華とは名ばかりでその実は真言の山とばり、法華経の所領は大日経の領地となってしまった。 これは天台と真言、座主と大衆との敵対が始まる前兆であり、国においても、王とその臣下とが争い、王がその臣下に従うようになる時代の前兆であり、一国が乱れて他国に破られる前兆でもあった。それ故、明雲は義仲に殺され、院もその臣下たる清盛に従えられてしまったのである。 |
慈覚・智証による仏法上の下剋上を反映して、王法にも下剋上の風潮が生じて乱れたが、その後は、天台宗の中にも両者の勝劣を弁える一部の学者が出現したこともあって、辛うじて日本国は亡国を免れていたのである。大聖人は、そのことを裏付ける原理として外典を引かれている。
これは、孔子が門弟の曾子に説いた内容を曾子の門人が記録したといわれる孝経の文の要旨である。孝経の諌爭章第15には次のようにある。
「昔は、天子に爭臣七人有れば、無道と雖も、天下を失わず、諸侯に爭臣五人有れば、無道と雖も、その国を失わず、大夫に爭臣三人有れば、無道と雖も、其の父を失わず。土に爭友有れば、則ち身は令名を離れず。父に爭子有れば、則ち身は不義に陥らず」
ここに「爭臣」「爭友」「爭子」とは主君や友人、父親を強く諌める家臣や友や子のことをいい、無道とは道理に外れた行いを意味している。大聖人は、孝経のこの教えを仏法にも通ずる道理として用いられている。天台・真言の勝劣について慈覚・智証の二人が誤りを犯したものの、その後の叡山の学僧の中に法華経を根本とした人々がいたことによって、少々の災難はあっても、比較的小さい災難で済んできたと指摘されている。
ところが叡山台55・57代座主の明雲は、伝教大師が鎮護国家のために止観院に安置した法華経・蘇悉地経・金剛頂経の真言三部経を根本とした。そのため叡山はもっぱら真言の山と化し、明雲自身、木曾義仲によって斬殺されるという非業の死を遂げ、王法においても、後白河法王が平氏一門によって屈服させられるに至った。これは真言亡国の現証であると指摘されているのである。慈覚大師事には次のように仰せられている。
「此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧・大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり。粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後・今三十余代一百余年が間・一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり」(1020-01)
大聖人は、このように明雲が法華経を捨てて真言の大日経を根本としたことは、天台宗と真言宗、また座主と大衆とが敵対しあう先兆となったと指摘されている。これは天台宗が真言宗によって屈服させられ、また座主と大衆との関係も、座主の権威が失墜して大衆が横暴を振るうようになったことを仰せられたものと拝される。そして、仏法上におけるこのような本末転倒が反映して、国においても臣下が王に背き、しかも王が臣下に随わなければならなくなるといった下剋上が起き、また一国が乱れて他国に破られることになっていくのである。後白河法皇が平清盛に随えさせたのは、その現証である。
なお明雲座主の最期については諸説があり、平家物語巻第八では、後白河法皇と決裂した義仲が寿永2年(1183)11月19日、法皇御書の法性殿を焼き討ちした際に、三井寺の長吏・円慧法親王と共に御所に立て籠っていた明雲は、黒煙が迫ってきたので馬に乗って急いで川原へ逃げ出そうとしたが、馬から射落とされ、頭を取られたとある。また、九条兼実の日記玉葉巻39の寿永2年11月22日の条には「伝ヘ聞ク、座主明雲合戦ノ日、其ノ場ニ於テ殺害サレ了ンヌ」と記されている。更に本朝高僧伝巻第52には次のようにある。
「寿永二年、左典廏源義仲、兵を以て上皇の行在法住寺を襲う。法親王円慧、および雲、共に流矢に中って殞す。十一月十九日なり」
合戦の最中の出来事のため、種々の伝聞が生じたものと思われるが、いずれにしても、法住寺の合戦において義仲の軍に攻められて非業の死を遂げたことは疑いがない。
0354:09~0355:11 第九段 末法の様相と立正安国論の提出top
0354:09~0354:14 第一 禅宗・念仏宗の出現top
| 09 然れども公家も叡山も共に此の故としらずして世静ならずすぐる程に 災難次第に増長して人王八十二代 10 隠岐の法皇の御宇に至つて 一災起れば二災起ると申して禅宗・念仏宗起り合いぬ、 善導房は法華経は末代には千 11 中無一とかき、法然は捨閉閣抛と云云、禅宗は法華経を失はんがために教外別伝・不立文字とののしる、此の三の大 12 悪法鼻を並べて一国に出現せしが故に 此の国すでに梵釈・二天・日月・四王に捨てられ奉り守護の善神も還つて大 13 怨敵とならせ給う 然れば相伝の所従に責随えられて主上・上皇共に夷島に放たれ給い 御返りなくしてむなしき島 14 の塵となり給う -----― しかしながら公家も比叡山も共にこれらの災いが法華経を捨てて大日経を立てたためであるということを知らなかったので、世の中は世静にならないままに時が過ぎてゆくにつれて災難は次第に増大し、人王八十二代の後鳥羽院上皇の時代に至って一災起これば二災起こるというように禅宗・念仏宗が相次いで起こったのである。 善導房は法華経によって成仏する者は末代においては「千中無一」であると書き、法然は法華経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と言い、また禅宗は法華経を排するために「教外別伝・不立文字」と主張したのである。これらの三つの大悪法が鼻を並べて一国に出現したために、この国は既に「梵天・帝釈・二天・日天・月天・四天王に捨てられて、国を守護する善神も逆に大怨敵となられたのである。その故に代々・臣下として仕えてきた者に責め従えられて、天皇・上皇共に未開の島に流され、その後帰還されることもなくむなしく島の塵となられたのである。 |
真言の悪法を野放しにしたので世の中は平静とならないまま災難は次第に増長し、しかも後鳥羽院上皇の時代になると、禅宗・念仏宗の邪宗が起こってきた。その故に守護の善神はかえって国を滅ぼす怨敵となり、日本国に前代未聞の下剋上が出現したのである。いわゆる承久の乱がそれである。承久の乱で朝廷方は惨敗を喫したのみでなく、3人の上皇が北条氏によって流罪に処せられた。これは朝廷の権威の失墜を象徴するもので、まさに王法の滅亡を意味したのである。
法然が専修念仏の一宗を開いたのは、平安時代末の安元元年(1175)のことである。当時は清盛の存命中で平氏が全盛を誇っていた時であったが、清盛が治承5年(1181)に死去した後、平氏の勢力は急速に衰え、元暦2年(1185)壇ノ浦の合戦で破れて滅亡した。
法然は、中国浄土宗の第三祖善導の観経疏を読むに及んで積年の疑問が解消したとして、「われは偏に善導の教えによって浄土宗を立つ」と宣言して日本浄土宗を開いたのである。
善導の観経疏巻第四によれば、浄土宗の実践行には正行と雑行の二種があり、このうち正行とは「専ら往生経に依って行を行ずる者」で、観経・阿弥陀経・無量寿経の浄土の三部経をよりどころとしている。これに、読誦正行・観察正行・礼拝正行・称名正行・讃歎供養正行の五つがある。そして一心に専ら阿弥陀仏を礼し、口に弥陀の名を称することを正定業としている。この五つの修行以外のすべて雑行と位置づけている。
さらに善導は往生礼讃偈において、意を専らにして正行を修するものは一人ももれずに極楽世界へ往生し、雑行を修して至心ならざる者は千人の中に一人も往生できないと説いている。法然はこれらの善導の文を引いて選択集において「凡そ此の集の中に聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて、浄土に入らしめんが為なり」「弥須らく雑を捨てて専を修すべし、豈百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之を思量せよ」と、専修正行以外の修行をすべて「捨てよ」と述べたのである。
また、末法の時代においては念仏のみが易きが故に一切に通じて機と時にかなっているとし、諸行は難きが故に機にあたらず時を失っていると説き「随他の前には、暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には、還って定散の門を閉ず。一たび開きて以後、永く閉じざるは、唯是れ念仏の一門なり」と記している。「定散の門」とは、安心に住して修する善行である定善と散心で行ずる善行の散善の法門のことで、これら定散の二善は釈尊が一機一類のために説いた随他意の教えであり、末法の衆生のためにはこれらの法門は閉じられ、ただ念仏の一門のみ随自意の法門として開かれていうとしている。
そして最後に「夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし」と締めくくっている。大聖人は、法然の選択集におけるこうした主張を法華誹謗の堕地獄の邪義であると指摘されている。
なぜならば、こうした法然の義は、釈尊が自ら法華経方便品第二において、「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と説いた教えを否定したものであり、法華経をも含めて捨てよ、閉じよと主張することは、譬喩品第三に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん…其の人命終して、阿鼻獄に入らん」とあるように、無間地獄に堕ちる悪業にほかならないからである。
禅宗は、6世紀の初めにインドの僧・菩提達磨によって中国に伝えられ、日本には孝徳天皇の白雉年間、道昭が入唐し、帰国後、元興寺に禅院を建てたのが最初とされるが、一宗を成すには至らなかった。禅宗が日本で一宗として成立したのは大日能忍が文治5年(1189)に弟子を栄へ送って育王山の拙庵徳光の認可を得ることによってである。その後、栄西が入栄し臨済禅を伝えてから急速に興隆した。
栄西は建久2年(1191)に栄より帰国すると、まず九州の地で禅宗の弘通に努めたが、他宗からの圧迫があったため、正治元年(1199)鎌倉に下り、翌年には北条政子の本願によって寿福寺を創建し、その開山となった。さらに、建仁2年(1202)には将軍頼家の帰依を受けて京都に建仁寺を建てた。
さらに、栄西の没後、寛元4年(1246)に北条時頼の招聘によって栄より蘭渓道隆が来日し、大聖人が立教開宗された建長5年(1253)に建長寺の開山となった。その後、文永2年(1265)には京都に上り、建仁寺に住して、宮中で禅を説いたという。同5年(1268)頃鎌倉に戻り、禅光寺を開いた。
また、大聖人が開目抄において良観と並んで僭聖増上慢とされる聖一国師も禅宗を弘めた一人であり、藤原道家の帰依を受けて京都に入り、建長7年(1255)道家建立の東福寺の開山となっている。円爾はさらに建仁寺と鎌倉の寿福寺の住職を兼ねるなど、時頼の庇護のもとで禅宗の興隆を図った。このように、禅宗は大聖人当時にあって幕府・宮廷に大きな勢力を得ていたのである。
禅宗では、他の諸宗が釈尊の説いた教えに基づいた「教宗」であるのに対して、禅宗は文字では表すことのできない仏の悟りに基づく「仏心宗」であるとして「教外別伝・不立文字」なる教義を立てた。すなわち、仏の悟りは経文によって表されず、経文とは別に伝えたと主張している。
これは、釈尊自ら「最第一」と説いた法華経を排除しようとして立てたものである。ゆえに大聖人は本抄で「法華経を失はんがために教外別伝・不立文字とののしる」と仰せられている。蓮盛抄では「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」(0152-18)との涅槃経の文を引かれ、禅天魔の所以を明かされている。
こうして、真言宗に続いて禅宗・念仏宗の悪法がはびこってきたために、日本の国は梵天・帝釈等の諸天に捨てられて、国を守護すべき諸天善神がかえって怨敵となってしまったがゆえに、承久の乱で後鳥羽上皇をはじめとする三上皇が臣下である北条義時に破れて遠島に流されるという「天下第一・先代未聞の下剋上」が起きたのだと指摘されている。
0354:14~0355:03 第二 大謗法による天変地夭top
| 14 詮ずる所は実経の所領を奪い取りて権経たる真言の知行となせし上日本国の万民等・禅宗・念仏宗 15 の悪法を用いし故に天下第一・先代未聞の下剋上出来せり 而るに相州は謗法の人ならぬ上・文武きはめ尽せし人な 16 れば天許し国主となす随つて世且く静なりき、 然而又先に王法を失いし真言漸く関東に落ち下る 存外に崇重せら 17 るる故に鎌倉又還つて大謗法・一闡提の官僧・禅僧・念仏僧の檀那と成りて 新寺を建立して旧寺を捨つる故に天神 18 は眼を瞋らして 此の国を睨め地神は憤を含めて身を震ふ長星は一天に覆ひ 地震は四海を動かす 余此等の災夭に 0355 01 驚いて粗内典五千七千外典三千等を引き見るに 先代にも希なる天変地夭なり、 然而儒者の家には記せざれば知る 02 事なし仏法は自迷なればこころへず 此の災夭は常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず 定めて仏法よ 03 り事起るかと勘へなしぬ、 -----― 結局のところ、実経たる法華経の所領を奪い取って権経たる真言宗の領地としたうえに、日本の万民等が禅宗・念仏宗の悪法を用いたために、天下第一の先代未聞の下剋上が起きたのである。しかるに相州守・北条義時は謗法の人ではなく、そのうえ文武を究め尽くした人であったので、しばらく世は平静を保ったのである。 それなのに、また、先に王法を失墜させた真言宗が次第に関東へと落ち下り、思いの外に崇重されたために、幕府は逆に大謗法・一闡提の真言僧・禅僧・念仏僧の檀那となって、新しい寺を建立し、旧寺を捨ててしまった。そのゆえに天神は眼をいからしてこの国をにらみ、地神は憤りをこめて身を震わせた。すなわち彗星が空を覆い、地神は憤りをこめて身を震わせた。地震が四海を動かしたのである。 私はこれらの天変災夭に驚いて、内典五千七千・外典三千等をあらあら通覧して見るに、これらは先代にもまれな天変地夭である。しかしながら、儒者はそれについての記していないのでその原因を知ることはできない。また仏法者は経典に説かれていても迷妄のゆえに理解できないでいる。これらの天変災夭は通常の政道の狂いや世間の誤りから生じたものではなく、まぎれもなく仏法より生じたものであるという考えに至ったのである。 |
ここで大聖人は、真実の教えである法華経の所領を奪い取って方便権教の真実の領地としたうえに、日本国の万民がその後に広まった禅宗・念仏宗の悪法に帰依したために、承久の乱で朝廷方は大敗を喫したのであると結論されている。
それに対し、鎌倉幕府の執権・北条時頼は、後鳥羽上皇のように法華経を下す真言の邪法を用いなかったことから法華経誹謗の罪を免れ、そのうえ文武を究め尽くした人であったから、天も国主の地位を与え、しばらくは世も平穏であった。 しかしながら、その後、真言師も関東に進出して教勢を拡大し、密教修法は有力武士の間に次第に浸透していった。例えば、北条時頼は先にも述べたように道隆を招いて建長寺を創建するなど禅宗に深く帰依していたが、執権として数々の危機に直面したとき彼を支えたのは呪術的な密教修法であったという。大聖人御在世当時は、幕府有力者の肩入れで、これら真言・禅・念仏の寺院が鎌倉に建てられていたのである。天変地異が相次ぎ起こった所以である。
日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日、御生誕の地・安房の国の清澄寺で立教開宗をされた後、弘教の戦いを政治の中心地である鎌倉に移されたが、建長・康元・正嘉の間に旱魃・大風雨・地震等の数々の天変地夭が相次いで起こり、加えて疫病が流行し、多くの死者が出た。当時の様子を吾妻鏡は次のように伝えている。
「建長六年
正月十日 西風烈しく、海浜より名越山王堂に至る大火によって人家数百宇を焼失
七月一日 暴風雨、人屋顚倒・稼穀存亡、二十年来かくのごとき大風無し
康元元年
六月七日 大雨洪水、殆んど例年を越え、寒気また以って時ならず
八月六日 大雨洪水、山は崩れ男女多く横死す
正嘉元年
五月一日 日触
五月十八日 大地震
八月二十三日 大地震、神社仏閣一宇として全きなし。山岳は崩れ、人屋倒壊、築地悉
く破損、地下より水涌出、又火炎燃え出す
十一月八日 八月の如き地震
十一月二十二日 若宮大路を焼失」
特に正嘉元年8月の大地震は前代未聞の規模であり、その被害は想像を絶するものがあった。この大地震を機として、大聖人は度重なる天変地夭の原因を明らかにするため、駿河国富士郡下方荘の岩本実相寺の経蔵に入られた。
この実相寺の経蔵に経・釈・論といった仏教の文献が揃っていたことは、文永5年(1268)8月に日興上人のお認めの実相寺衆徒愁状に「一切経論を書写し奉り、経蔵を立て灌頂堂を作り、正しく南天の風を移す」とある一節からうかがい知ることができる。
この実相寺の経蔵で一切経を閲覧された後、正元2年(1260)に御述作の災難対治抄の冒頭に「国土に大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種種の災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文」(0078-01)と記され、国王が正法を擁護せず、邪法を尊崇しているために諸天善神が国を捨て去り、この故に災難が起きることを、金光明経・大集経・仁王経等を引用して明らかにされている。その邪法とは、守護国家論に「未だ選択集謗法の根源を顕わさず故に還つて悪法の流布を増す、譬えば盛なる旱魃の時に小雨を降せば草木弥枯れ兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し。予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す」(0037-02)と述べられているところから拝されるように、法然の選択集をよりどころとする念仏宗にほかならなかった。
0355:03~0355:11 第三 立正安国論の提出top
| 03 先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを 故最明寺の入道殿に奉る御尋 04 ねもなく御用いもなかりしかば 国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん 念仏者並 05 に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし 夜中に日蓮が小庵に 数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもい 06 かんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ、 然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて 大事の政道を 07 破る日蓮が未だ生きたる不思議なりとて 伊豆の国へ流しぬ、 されば人のあまりににくきには 我がほろぶべきと 08 がをもかへりみざるか 御式目をも破らるるか御起請文を見るに梵釈・四天・天照太神・正八幡等を書きのせたてま 09 つる、余存外の法門を申さば子細を弁えられずば 日本国の御帰依の僧等に召し合せられて 其れになを事ゆかずば 10 漢土・月氏までも尋ねらるべし、 其れに叶わずば子細ありなんとて且くまたるべし、子細も弁えぬ人人が身のほろ 11 ぶべきを指をきて大事の起請を破らるる事心へられず。 -----― そこでまず、大地震を契機として去る正嘉元年より考えて著した書を一巻を故最明寺入道殿に奉ったのであるが、これに対して御下問もなくお取り上げにもならなかったので、国主が用いられない法師であれば、これを害してもその罪科は問われまいと思ったのであろうか、念仏者並びにその檀那も、またしかるべき人々も同意したと聞いているが、夜中、松葉ヶ谷の小庵に数千人が押し寄せ日蓮を殺害せんとしたのである。 だが、どうしたわけかその夜の害も逃れたのである。しかしながら、しかるべき人々との同意の上なことであったので、押し寄せた者もその罪科を問われることはなかった。これは大事な政道を破ることであった。 しかも、日蓮がまだ生きているのは怪しからぬことと思った幕府は、今度は伊豆の国に流した。してみると人は、あまりにも憎いと、自らを滅ぼす罪さえ顧みないのか貞永式目をも破られるのか、その式目の起請文には大梵天王・帝釈天王・四天王・天照太神・八幡大菩薩等を書き載せ奉っているのである。 私の説く法門が彼らの理解を超えていてその子細を理解できないというのであれば、帰依しておられる国内の僧等らを召集して私と対決させ、それでも決着しなければ中国・インドにまで尋ねて是非を決するべきである。それでも叶わないならば、何かわけがあるのではないかとしばらく待たれるべきである。その子細も理解できない人々が、自らの身を滅ぼすような罪をさしおいて、大事な貞永式目を破られたことは何とも納得できないことである。 |
大聖人は、正嘉元年の大地震をきっかけに災難の由来を考え、経文を裏付けとしてその原因が国主が正法に背き悪法に帰依したことにあることを明らかにした立正安国論を著され、文応元年(1260)7月16日、宿屋入道を介して、最明寺入道に提出された。
時頼は康元元年(1265)11月、わずか30歳で出家して執権職を北条長時に譲って、自らは入道していたが、北条本家の総領として重要問題についての解決権は握っており、幕府における実質上の最高権力者であった。大聖人が立正安国論を時頼に提出したのはその故である。
この上奏に対して、本抄にも「御尋ねもなく御用いもなかりしかば」と仰せられているように時頼は表面上、何の反応も示さなかったのである。破良観等御書に「上に奏すれども人の主となる人は・さすが戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・ なされざりしかば・」(1294-06)と記されている。
つまり、大聖人が立正安国論を上呈され、念仏を一凶と断じ、諸宗の謗法を厳しく訶責されたことに対し、憤った念仏者らは大聖人を処罰するよう幕府に求めたが、時頼はさすがにそれらの讒奏によって動かされることなく、大聖人を軽率に処刑しようとはしなかったのである。このことから、最明寺入道は経文に基づいて理を尽くされた大聖人の讒言に少しは感ずる部分があったものと想像される。
しかし、民衆の幸福と国の安泰を願われて、我が身を顧みず諌暁された大聖人の赤誠も、念仏者の檀那となっていた幕府の重臣たちには通じなかった。しかし「悪呂への施をとどむべし」という大聖人の正義の刀が自らの方に向けられていることを知った念仏者等は、自らの既得権益が侵されることを恐れ、念仏を信仰している幕臣等と語らって、大聖人を亡き者にしようと計画したのである。
立正安国論を上奏して40日目、文応元年(1260)8月27日の夜半、松葉ヶ谷にあった大聖人の庵室は多数の暴徒によって襲撃された。大聖人は本抄で、この暴徒の行動について「念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし」と仰せられているが、「さるべき人人」とは幕府の実力者であり、念仏の強信者であった北条重時などであったろう。この松葉ヶ谷の法難については破良観等御書に「きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わんとせしほどに・十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば」(1294-07)と述べられているように、権力者たちは一般庶民を扇動して、大聖人を襲撃させようとしたのである。
暴徒たちは草庵を押し倒すなどし、大聖人は下敷きになって亡くなられたものと思ったのであろう。しかし大聖人は無事に脱出され裏山を越えて、東京湾の側に出られたようである。
大聖人は、下総の富木常忍の邸で年を越され、翌弘長元年(1261)の春、鎌倉に戻られた。本抄にも「日蓮が末だ生きたる不思議なり」と仰せのように、幕府要人たちは、大聖人は死んだものと思っていたのが生きておられたので、理不尽にも大聖人を伊豆流罪に処したのである。
本来松葉ヶ谷の暴徒による襲撃自体が御成敗式目第10条や第13条に触れることであるにもかかわらず、その暴徒や首謀者らには何のとがめもなく、それどころか何の罪もない大聖人を流罪に処したのである。妙法比丘尼御返事には「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、」(1413-01)と述べられている。すなわち伊豆流罪は、正当な裁判によって決められたものではなく、当時の執権・北条長時が、父親の重時の意をくんで強行した私罪に等しいものであった。
これもまた、貞永式目に違反した行為にほかならなかったのである。こうした理不尽な処分について、大聖人は本抄で「されば人のあまりににくきには 我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか」と仰せられ、式目は起請文に「梵釈・四天・天照太神・正八幡等」の名を挙げて、それに誓う形で定められたものであることを指摘されている。式目の原文を引用しておこう。
「凡そ評定の間、理非に於いては親疎有る可からず、好悪有る可からず、只道理の推す所、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出す可きなり…この内若し一事と雖も、曲折を存じ違犯せしめば、梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国六十余宗大小の神祇、別して蒙る可きなり」
このようにして自ら定めた式目を破ることは自ら滅亡を招く行為にほかならないと厳しく指摘されている。
事実、松葉ヶ谷の法難や伊豆流罪といった大聖人迫害の張本人であった北条重時は、大聖人を伊豆流罪に処した翌月の弘長元年(1261)6月に、にわかに病に倒れ、同年11月、狂死した。この事実は、他の要人たちに少なからぬ衝撃を与えたであろう。弘長3年(1263)2月、北条時頼自身の措置によって大聖人が流罪より赦免された背景には、そのことが影響していたのかもしれない。
0355:12~0356:13 第十段 仏の三徳と発迹顕本top
0355:12~0355:17 第一 主師親の三徳をそなえた大聖人top
| 12 自讃には似たれども本文に任せて申す 余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、 13 一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、 経に云く「即如来の使なり」と又云く 「眼目なり」と又 14 云く「日月なり」と章安大師の云く「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云、 而るに謗法一闡提・国敵の 15 法師原が讒言を用いて其義を弁えず左右なく 大事たる政道を曲げらるるはわざとわざはひをまねかるるか 墓無し 16 墓無し、 然るに事しづまりぬれば科なき事は恥かしきかの故にほどなく 召返されしかども故最明寺の入道殿も又 17 早くかくれさせ給いぬ、 -----― 自讃するようではあるけれども、経文に従って述べるならば、私には、上は天子より下は万民に至る日本国の一切の人々に対して三つの故がある。一つには父母である。二つには師匠である。三つには主君の御使である。法華経法師品第十には「即ち如来の使いなり」とあり、見宝搭品第十一には「眼目なり」とあり、如来神力品第二十一には「日月なり」ととある。また章安大師の涅槃経疏には「彼の為に悪を除くのは、すなわち彼の親である」等と述べられている。 そうであるのに北条氏が正法に背く一闡提の国敵である法師らの讒言を信用して、その内容を吟味せずに、何の詮議もなく大事な政道を曲げられたのは、わざとわざ災いを招こうとされたのか、全くはかないことである、はかないことである。しかし、事態が鎮まってみると、無実の罪で罰したことが恥ずかしかったためか、間もなく赦免となり、鎌倉へ戻されたのであるが、最明寺の入道殿もそれから間もなく他界されてしまった。 |
ここは、日蓮大聖人が主師親の三徳を具備された末法の御本仏であることを示唆された重要な個所である。三徳のうち主徳については「主君の御使いなり」と仰せられているが、もとよりこれは当時の社会状況を考慮されての御謙遜の言葉である。このことは他の御書に照らして明らかである。例えば一谷入道御書では「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし」(1330-09)と明確に「主君」であると述べられている。
さて、本抄では、御自身が主師親の三徳を具備されていることを示されるにあたって、幾つかの経釈を引かれている。
初めの「即如来の使なり」とは、法華経法師品第十に「若し是の善男子・善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は即ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり」とある中の一節である。
四条金吾殿御返事では、次のように仰せである。
「末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く『能説此経・能持此経の人・則如来の使なり』八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり」(1181-17)
このように、大聖人は、御自身が法華経勘持品第十三に予言された三類の強敵による迫害、二度にわたる流罪という大難を受けられたことをもって法師品の「即如来の使」にあたるとされている。そして、法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆是れ我が有なり」とあるように、この娑婆世界は釈尊の領有するところであり、釈尊は娑婆世界の一切衆生に対して「主」にあたる。この釈迦如来の使いということから「主君の御使なり」と仰せられているのである。
次の「眼目なり」とは、法華経 見宝搭品第十一に「仏の滅度の後に、能く其の義を解せんは、是れ諸の天人、世間の眼なり」とある文の意を取って述べられたものと拝される。
諌暁八幡抄では、この文の意味について、次のように仰せである。
「日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う」等云云、此の方等経と申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田・応供の中の最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼・二乗・菩薩の眼・諸仏の御眼なり」(0582-03)
御講聞書には、同じくこの文について「此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり」(0841-01)とある。
すなわち、法華経は、人天・二乗・菩薩の眼ばかりでなく、諸仏の眼なのである。それは、諸仏が法華経によって五眼を得ることができたからである。この場合は、法に約して法華経を「諸仏の眼」とされたものである。また、人に約せば別しては日蓮大聖人、総じて大聖人に連なる弟子・檀那が「世間の眼」にあたると仰せられている。
では、この「眼目」は、主師親の三徳とどのような関係にあるのだろうか。
日寛上人は主師親三徳抄において「師は弟子の眼を開く豈に弟子のために眼目なるに非ずや、若し師無ければ即ち盲目なる故なり」と示されている。大聖人は報恩抄に於いて「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と仰せられているように、大聖人こそ末法の一切衆生の盲目を開き、成仏の直道たる南無妙法蓮華経妙法蓮華経を教えられた師匠にほかならないのである。
次に「日月なり」とは、法華経如来神力品第二十一に「日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん」と説かれている文の意を取られたものである。大聖人はこの文について「此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり」(1102-05)と述べられている。故に「斯の人」とは、末法に上行菩薩の再誕として出現された日蓮大聖人の御事にほかならない。
寂日房御書には「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」(0903-02)と仰せられている。
また、四条金吾殿女房御書には「明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」(1109-05)と述べられているように、「日蓮」の「日」とは「日月」の「日」、「蓮」は汚泥より生じて清浄な花を咲かせる「蓮華」の「蓮」を意味しており、大聖人が「日蓮」と名乗られたこと自体そこに甚深の意義が拝される。
さらに、相伝書の産湯相承事には「日蓮の日は即日神・昼なり蓮は即月神・夜なり、月は水を縁とす蓮は水より生ずる故なり」(0879-16)と、「日蓮」の二字に「日月」の意が含まれていることを示されている。言い換えれば「日蓮」とは体であり、「日月」とは用の関係にあるといえるであろう。
そして、日月は末法万年の一切衆生の煩悩の闇を照らす光明を象徴しているがゆえに、これも師の徳をあらわしているのである。ゆえに佐渡御書には「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり」(0957-18)と明言されている。
最後に、章安大師の涅槃経疏の文を引かれているが、これは三徳のうち親徳を示していることは明らかであろう。この文は涅槃経寿命品第一の三の文を釈して述べた言葉である。
すなわち涅槃経には「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置きて訶責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駆遣し訶責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」とあり、章安大師はこれを釈して「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼の人の怨なり…彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」と述べている。
仏法を破壊している諸宗と、その邪義を信じている人々に対して、その謗法を破折し、悪を除くことは「彼が親」としての慈悲の行為にほかならないのである。この親徳には、父の徳と母の徳の二意があり、日寛上人は次のように仰せである。
「父母とは慈悲広大の義なり、慈は謂く愛念をいとしむ、秘は謂く愍傷かなしむ、一切衆生六道輪廻をいとをしみかなしむ、又大悲与薬として無漏の薬を与えんがため預め灸治を加うるなり、是れ父の徳なり、故に慈父と云うなり大悲抜苦して飢寒の苦を抜かしむ為に衣食を与ふるなり。是れ母の悲なり」
そして、大聖人が諸宗謗法の悪を除くために、迫害を受けながら、もっぱら折伏されたのは、後の薬を与えるために灸治を加えられたものであり、父の徳によるものとされる。
これに対して大聖人は諌暁八幡抄に「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲」(0585-01)と仰せられているのは、日寛上人によれば、衆生の地獄道・餓鬼道の苦しみを除こうとされた大聖人の大悲を示されたものであり、まさに母の徳を述べられているという。ゆえに大聖人は本抄で「父母なり」と仰せなのである。
このように本抄では簡潔に経釈を挙げられるのみであるが、それぞれが大聖人にことごとく符合しており、このことをもって御自身が主師親の三徳を具備されていることが明かされていくのである。
ところで、大聖人がこの主師親の三徳を仏にのみ備わった徳として捉えられていたことは、一代五時鶏図、釈迦一代五時継図において、章安大師の涅槃経疏における「一体の仏を請じて、主師親と作す」との釈を引かれていることや、あるいは八宗違目抄において主師親の三徳を法報応の三身に約して示されていることからも明らかであり、本抄でも在世の釈尊に約して「一身に三徳を備へ給へる仏」と仰せられていることからも明白である。
特に本抄では、釈尊が我々にとっての「賢父」であるうえ、しかも「明師」であり「聖主」であると示されたうえで、大聖人自身が日本国の一切衆生にとっての主師親であることを明かされている。したがって、大聖人はただ単に上行菩薩の再誕であるということにとどまらず、その御内証は末法の御本仏であることを示唆されていると拝さなくてはならない。
日寛上人は、撰時抄において末法の主師親を明かされた「法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり章安大師云く『彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり』(0265-11)との御文について「内証深い秘の故に『主師親』という。蓮祖即ちこれ久遠元初本因妙の教主釈尊なり。秘すべし、秘すべし」と釈されているが、これは本抄においてもあてはまることである。
すなわち久遠元初の自受用報身如来という大聖人の御内証は、容易に明かすことのできない深秘にして難信難解の法門なるがゆえに、主師親の三徳を具備されていることをもって、その御内証の一端を示唆されているのである。
主師親が仏にのみ備わった力用であり、かつまた大聖人が末法の一切衆生の主師親を備えておられるとするならば、それは大聖人こそ末法の御本仏であられるということである。しかしながら、釈尊を本仏とする文上仏法に執着する他門流では、大聖人を上行菩薩の再誕としての外用の面でしか捉えず、釈尊の使いであるとのみしている。
したがって、大聖人が諸御書において自ら末法の主師親なりと明言されている御文に対してすらもあくまで「仏使」としての使命感、仏との一体感のあらわれと矮小化してしまい、大聖人の御真意を拝せないのである。
それゆえにこそ、本抄の「教主釈尊より大事なる行者」との御言葉についても、後世の加筆であるなどといって認めようとしないのであろう。
0355:17~0356:03 第二 大難のなか強盛に弘教top
| 17 当御時に成りて或は身に疵をかふり 或は弟子を殺され或は所所を追れ或はやどをせめし 18 かば一日片時も地上に栖むべき便りなし、 是に付けても仏は一切世間・多怨難信と説き置き給う 諸の菩薩は我不 0356 01 我不愛身命但惜無上道と誓へり、加刀杖瓦石数数見擯出の文に任せて流罪せられ刀のさきにかかりなば法華経一部よ 02 みまいらせたるにこそとおもひきりてわざと不軽菩薩の如く 覚徳比丘の様に竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子 03 尊者の如く弥強盛に申しはる、 -----― 時代は時宗公の治世に移っても、あるいは身に傷を負い、ある弟子は殺され、あるいは追放され、あるいは住居を攻められたために、一日片時も地上に安心して住むことはできなかった。それにつけても思い起こされるのは、釈尊が法華経安楽行品第十四で「一切世間に怨多くして信じ難い」と説き残され、諸の菩薩が勘持品第十三で「自分は身命を愛さない。ただ無上の道を惜しむ」と誓っているとのことである。 法師品第十の「加刀杖瓦石を加えられ迫害されよう」という文や、勘持品第十三の「しばしば所を追放されるであろう」の文の通りに流罪されたり、刀で切られたならば、これこそ法華経一部を読み奉ったことになると覚悟を決め、あえて不軽菩薩のように、覚徳比丘のように、また竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のように、いよいよ強盛に正法を訴えたのである。 |
伊豆流罪から赦免された後も、大聖人は、文永元年(1264)11月、小松原において東条景信に襲撃され、額に傷を負わされ、大聖人を護ろうとした弟子の鏡忍房と信徒の工藤吉隆が殺されたのをはじめ、大難が相次いだ。しかしながら、これらの諸難はすべて、法華経を行じたが故に起きたものであり、すべて法華経に説かれている通りであった。
大聖人が本抄でその文証としてまず挙げられているのが、法華経安楽行品第十四の「一切世間・多怨難信」の文である。この文は、法華経が仏の諸説の中で最も甚深の法であり、諸経中の最勝なるがゆえに、一切世間に怨多くして信じ難いことを示したものである。諸御書では、安楽行品のこの文と併せて法師品第十の「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」を引かれていることが多い。
例えば、単衣抄ではこれらの経文を引かれたうえで「天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に、日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり・多宝の証明も・なにかせん・十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年・月氏・漢土・日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん」(1514-12)と、釈尊滅後、大聖人のみがこれらの経文を身読されたことを仰せられている。
また南条兵衛七郎殿御書でも同様に経文を挙げられて、「日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども・法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ」(1498-09)と述べられている。法華経を読み、解釈した人は数多くいた。しかし、法華経の弘通のゆえに度々所を追われ、刀で斬られるなどの難に遭って、法華経の経文を身読されたのは日蓮大聖人以外誰もいなかったのである。
大聖人は次に勘持品第十三の文を引かれている。この文は、八十万億那由佗の菩薩が釈尊滅後の法華経弘通を誓って、たとえ三類の強敵が競い起ころうと「我等は仏を敬信し、当に忍辱の鎧を著るべし、是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん。我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と述べたものである。
秋元御書に「人を恐れ国を恐れて申さずば即是彼怨と申して一切衆生の大怨敵なるべき由・経と釈とにのせられて候へば申し候なり、人を恐れず世を憚からず云う事・我不愛身命・但惜無上道と申すは是なり、不軽菩薩の悪口杖石も他事に非ず世間を恐れざるに非ず唯法華経の責めの苦なればなり」(1074-07)と仰せられているように、いかなる権威・権力も恐れず、身命を賭して法華経の教え通りに実践していくことこそ「我不愛身命・但惜無上道」の心であり、それが数々の大難を乗り越えられて妙法を弘通された大聖人の御精神であったといえよう。
また、この経文が三類の強敵の出現を予言した後に述べられている意味も重要である。つまり、経文に「我不愛身命」と説かれていることは、法華経の行者には必ず身命に及ぶ大難があるからである。
ゆえに大聖人は撰時抄において「経文に我不愛身命と申すは上に三類の敵人をあげて彼等がのりせめ刀杖に及んで身命をうばうともみへたり」(0291-18)と仰せられている。
このことは、法師品に「若し此の経を説かん時、人有って悪口し罵り、刀杖瓦石を加うとも、仏を念ずるが故に応に忍ぶべし」とあり、また勧持品にも「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん、我等皆当に忍ぶべし」とそれぞれ刀杖の難について次のように仰せられている。
「及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557-03)
刀杖の難のうち、刀の難は、文永元年(1264)11月11日、小松原において東条景信の切りつけた刀によって額に傷を受けられたこと、また文永8年(1271)9月12日、竜の口で斬首されようとしたことである。杖の難は、竜の口の頸の座に連行される前、松葉ヶ谷の草庵で平左衛門尉の郎従・少輔房によって法華経第五の巻をもって頭を打たれたことがそれに当たっているとされている。
さらに、伊豆と佐渡への二度にわたる流罪は法華経勧持品で説かれる「数数見擯出」に当たるのであり、これらの事実から、大聖人こそ法華経を身読された末法の法華経の行者であることは疑いないのである。
大聖人は建長5年(1253)に立教開宗されて以来、法華経弘通のゆえにこれらの難にあうとすれば、それこそ法華経を我が身で読み切ることになると覚悟されて、杖木瓦石を加えられながら法華経を弘めた不軽菩薩のように、また命懸けて正法を説いた覚徳比丘のように、さらに正法のために身命をなげうった竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のように、いよいよ強盛に正法弘通に邁進されたのである。
0356:03~0356:13 第三 佐渡流罪と竜の口の法難top
| 03 今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く散散に責 04 るならば定めて万人もいかり国主も讒言を収て流罪し頚にも及ばんずらん、 其時仏前にして誓状せし梵釈・日月・ 05 四天の願をもはたさせたてまつり 法華経の行者をあだまんものを 須臾ものがさじと 起請せしを身にあてて心み 06 ん、釈尊・多宝・十方分身の諸仏の或は共に宿し或は衣を覆はれ 或は守護せんとねんごろに説かせ給いしをも実か 07 虚言かと知つて信心をも増長せんと退転なくはげみし程に 案にたがはず去る文永八年九月十二日に 都て一分の科 08 もなくして佐土の国へ流罪せらる、 外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ 余又兼て此の事を推せし 09 故に弟子に向つて云く 我が願既に遂ぬ悦び身に余れり人身は受けがたくして破れやすし、 過去遠遠劫より由なき 10 事には失いしかども 法華経のために命をすてたる事はなし、 我頚を刎られて師子尊者が絶えたる跡を継ぎ天台伝 11 教の功にも超へ付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人となり 不軽菩薩の行にも越えて釈迦・多宝・十方の諸仏に 12 いかがせんとなげかせまいらせんと思いし故に 言をもおしまず已前にありし事・後に有るべき事の様を平の金吾に 13 申し含めぬ此の語しげければ委細にはかかず。 -----― 今、法華経の大怨敵を見て、経文の通りに父母・師匠の敵、朝廷の敵、宿世の敵に対するように激しく訶責するならば、必ず万人も怒り、国主も讒言を聞き入れて流罪に処したり、首を切ろうとするに違いない。 その時、仏前に誓いを立てた梵天・帝釈・日月・四天などの諸天善人の誓いをも果たさせ申し上げ、法華経の行者をあだむ者を瞬時たりとも見逃してはならないと誓ったことを自身の身にあてて試してみせよう。 釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏が法華経の行者と宿所を共にし、或いは衣で覆い、或いは守護すると懇切に説かれたことが、本当か嘘であるかを知って、信心をもさらに深めようと思って退転することなく励んだところ、思っていた通り、去る文永八年九月十二日に、全く科もないのに佐渡へ流されることになった。 表向きは遠流と伝えられていたけれども、内々には首を切ると定められていたのである。私は、このことを前々から予測していたが故に、弟子に向かって言っていたのである。 「我が願いは既に成就した。その悦びは身に余るものがある。人として生を受けることは難しく、また失いやすいものである。過去遠遠劫の昔より無意味なことに命を失っても、法華経のために命を捨てたことはない。私は首を刎ねられることによって、師子尊者で絶えた付法蔵の跡を継ぎ、天台大師・伝教大師の功績をも超えて、付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人目となり、 不軽菩薩の修行にも勝って、釈迦・多宝・十方の諸仏に『いったいどのようにしてこの行者を遇すればよいだろか』と嘆かせ申し上げたいものだ」と。 またこの故に、言葉をも惜しまず、これまでにあったこと、これから起きるであろうことを平左衛門尉頼綱に言い聞かせ、警告したのである。この時の言葉は繁多であるから詳しくは記さないことにする。 |
大聖人は、文永5年(1268)の蒙古の使者の来日を機に、ますます強く幕府を諌められた。このことが、文永8年(1271)の竜の口の法難、佐渡流罪へとつながっていく。しかし、その陰には、祈雨の勝負で大聖人に敗れた良観の怨念による讒言工作があったことは、種種御振舞御書に詳しく述べられているところである。
文永8年(1271)9月12日、大聖人は幕府へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けられた。種種御振舞御書によれば、その際、大聖人は「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すか」(0911-04)と尋問されたという。
これに対して、大聖人は「その通りに言った。ただし、最明寺入道・極楽寺入道が謗法を捨て正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうということは二人の存命中に既に言ってきたことであり、二人の死後にはじめていったかのように非難するのはつくりごとである」との趣旨を述べられ、これらは国を思うゆえに言ったのであるから、仏法に関しては良観らと召し合わせて聞くべきである。それをしないで一方的に仏の使いである日蓮を害するならば、百日・一年・七年のうち必ず自界叛逆難と他国侵逼難の二難が起こると厳しく諌暁されたのである。
これに対して平左衛門尉は怒りを増長させただけで全く聞き入れようとしなかった。そこで大聖人は平左衛門尉に反省を促すため、9月12日、書状を送られた。しかし、平左衛門尉は数百人の武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を捕らえ、重罪人のごとく鎌倉の街中を引き回した後、幕府へ連行した。
そして、幕府が決定した表向きの罪状は遠流であったが、本抄でも指摘されているように、ひそかに斬首しようと内々決められていたのである。このことは妙法尼御前御返事にも「外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき」(1413-11)と仰せられている。
子の刻、役人たちは大聖人を引き連れて北条宣時の邸を出発した。ここに大聖人を人目に触れず闇から闇へ葬ろうとの魂胆があったことは明らかであろう。
しかし、竜の口の刑場に到着し、大聖人の頸をいよいよ切ろうとした時「江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき」(0914-01)と記されているように、突然夜空に光り物が出現して、結果として大聖人は斬首を免れたのである。
この竜の口の法難は、大聖人御一代の御化導において極めて重要な意義をつている。それは開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、 此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)と仰せになっているように、この竜の口の法難を機に大聖人は発迹顕本されたからである。ここに、「迹」とは大聖人における上行菩薩の再誕としての垂迹の立場であり、「本」とは久遠元初自受用身如来としての本地を指している。
他門流では、迹は凡夫たる日蓮大聖人で、本地を上行菩薩と誤って解釈している。既に建長5年(1253)の立教開宗から竜の口の法難に至るまで大聖人の御化導は、まさに上行菩薩としての御振る舞いそのものであり、このことは諸御書の御指南に照らして明らかであろう。
法華取要抄に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(0336-08)と仰せのように、そもそも題目を唱え出されていること自体、付嘱なしでは不可能なことである。御講聞書には「今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり」(0830-13)と御教示されている。
しかし、上行菩薩の再誕といえども外用の姿であり、その迹を発われて久遠元初自受用報身としての本地を顕されたのが竜の口の法難であった。
こうした法難が我が身にふりかかることを大聖人はもとより予想されていたので、弟子に向かって「我が願既に遂ぬ悦び身に余れり」と仰せられたという。弟子とは、おそらく竜の口の法難お供した四条金吾であろうと拝される。
先の種種御振舞御書でも、知らせを受けて駆け付けた四条金吾に「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと」(0913-12)と告げたことを記されている。
身命に及ぶ法難を身に余る悦びとされているのは、これによって成仏は疑いないがゆえである。佐渡御勘気抄には「仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし、天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頚をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、 漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく仏法のゆへなり、日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず」(0891-02)と仰せられている。
また、流罪の翌年の文永9年(1272)3月に著された佐渡御書には「世間の浅き事には身命を失へども 大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956-11)と述べられ、同年4月に同じく富木常忍に宛てられた御消息でも「日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか」(0962-02)と認められているように、大聖人は竜の口の法難・佐渡流罪という身命に及ぶ大難を一貫してむしろ喜ばしい限りであると法華経身読の歓喜を明かされながら、このような難こそ成仏のまたとない機会であることを弟子門下に繰り返し教えられているのである。
0356:14~0358:06 第11段 最後の国諫と身延入山top
0356:14~0357:03 第一 御成敗式目と幕府権力の迫害top
| 14 抑も日本国の主となりて万事を心に任せ給へり 何事も両方を召し合せてこそ勝負を決し御成敗をなす人のいか 15 なれば日蓮一人に限つて 諸僧等に召合せずして大科に行わるるらん 是れ偏にただ事にあらずたとひ日蓮は大科の 16 者なりとも国は安穏なるべからず、 御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに 起請文を書載せたり、第一・第二 17 は神事・仏事・乃至五十一等云云、 神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を讒人等に召合せられずして彼等 18 が申すままに頚に及ぶ然れば他事の中にも 此の起請文に相違する政道は有るらめども此れは第一の大事なり、 日 0357 01 蓮がにくさに国をかへ身を失はんとせらるるか 魯の哀公が忘事の第一なる事を記せらるるに は移宅に妻をわする 02 と云云、 孔子の云く身をわするる者あり国主と成りて政道を曲ぐるなり是云云、将又国主は此の事を委細には知ら 03 せ給はざるか、 いかに知らせ給はずとのべらるるとも 法華経の大怨敵と成給いぬる重科は脱るべしや、 -----― そもそも日本国の主となってすべては自分の思うがままであり、何事も双方の当事者を召し合わせて勝負を決し裁くべき人でありながら、何故に日蓮一人に限って諸僧たちと対決させることなく大罪に処されたのであろうか。これは全くただ事ではない。たとえ日蓮が大罪の者であったとしても、このような理不尽がまかりとおっては国の安穏があるはずがない。 御成敗式目を見ると五十一箇条を立てて、その最後に起請文を載せている。第一条・第二条には神事・仏事のことが記され、以下五十一箇条となっている。神事・仏事の肝要である法華経を手に持った者を讒言者等にも召し合わせないで彼等の言うがままに斬首しようとしたのである。それゆえ、他にもこの起請文に相違する政道はあるだろうけれども、これこそは最第一の重大事である。日蓮に対する憎さのゆえに国を滅ぼし身を失おうとされるのか。 魯の哀公が物忘れの最もひどい例として、転居の際に自分の移宅に妻を忘れたという故事を記している。孔子がいうには「わが身を忘れる者がいる。すなわち国主となって政道を曲げている者がそれである」と。 それともまた国主はこのことを詳しくはご存知ないのであろうか。しかし、いくら知らないといわれても、法華経の大怨敵となってしまった重罪は免れることができるであろうか。 |
ここでは、竜の口における斬首、佐渡流罪という幕府の大聖人に対する弾圧が、政道に外れた理不尽な処分であるとともに、仏法上からも大罪を免えることができないと厳しく指摘され、幕府を諌められている。
貞永元年(1232)時の執権・北条泰時は御成敗式目を制定した。御成敗式目制定の直接の目的は、泰時の弟が駿河守北条重時に送った書状の中にも記されている。
「雑務御成敗のあひだ、おなじ躰なる事をも、強きは申とをし、弱きはうづもるヽやうに侯を、ずいぶんに精好せられ侯へども、おのづから人にしたがう軽重などの出来侯ざらんために、かねて式条をつくられ侯」
つまり、裁判では、強い方は自分の言い分を力で押し通し、弱い方が負けてしまうことが往々にしてあり、たとえ裁判に慎重を期しても、裁く人によって、その裁判の結果が異なってくることがある。そうしたことが起こらないように式条を制定したということである。公平な裁判が行われるようにすることがその目的であったことがわかる。
それまでにも成分化した法典として、公家法といって、康保4年(0967)に施行された延喜式があった。この基本理念は律令であり、中国における制度を模倣したものであった。そのため公家法は用語・文章といった形式面がやたらと複雑で、発生した諸問題を解決する実質的な法としての能力は低かったのである。加えて、公家社会を対象としていた公家法が、異質な秩序体制を基本とする武家社会に対しては、なおさら役に立たなかった。
当初、鎌倉幕府では武士社会の規範や先例をもとに裁判を行っていたが、基本原則が成分化されていないため、裁判基準が曖昧なことが多く、訴訟の当事者の身分の上下によって判決内容が変化することがしばしばで、身分の低いものに不利な結末を招くことが度々あったものと思われる。こうした裁判の不公平をなくし、これによって鎌倉幕府に以信を向上させることが御成敗式目の直接的な目的であったといえよう。
その他に実質的な目的もあった。それは植木直一郎著「御成敗式目研究」において指摘されているように、当時、公領荘園の領主と新進の地頭との間に領地問題が頻繁に起こっており、その訴訟を円滑に解決する必要に迫られたことである。この所領に関するトラブルはともすれば封建制度の基盤をゆるがすことになっただけに、ないがしろにはできなかった。
旧来の公領荘園領主と新進の地頭との間の争いがはっせいしたのは、源頼朝が相伝の所領の他に後白河法皇より平家没官領を拝受したこと、さらには諸国の叛乱を取り締まるという名目で日本総守護、地頭職に補任されたことに原因があったといえる。
つまり地頭職となった頼朝は公領荘園に御家人を地頭として配置し、公領荘園における下地徴収権ならびに進止権を得た。その権限を盾にとって地頭は度々公領荘園を不法侵略し、あるいは年貢公事の抑留を行って旧来の領主を悩ましたのである。このトラブルを何とか回避しようとして、多くの領主は領地の一部を地頭に分け与えて譲歩したが、なかには幕府に訴訟を起こすという対抗処置をとった者もいたのである。
歴史的に見ると、この公領荘園の武家による浸食は、以後ますます進行し、室町時代には完全に武家領に吸収されたのである。しかし、まだ、その進行過程にあった鎌倉時代には、公領荘園の領主・公家・そして武家との間の力関係が拮抗しており、幕府体制を安泰ならしめるためには、とくに地頭が関係していた領地問題を円滑に解決せねばならないという緊急の要請があった。このことは51箇条から成る御成敗式目のうち、領地に関する条項が18箇条、守護・地頭に関するものが5箇条と多く含まれていることもうかがい知れよう。
この領主と地頭との紛争は、日蓮大聖人御生誕の地・安房東条の郷でも起こっている。地頭東条左衛門景信は、極楽寺重時の強力なバックアップのもとで、その権力をかさに領家の尼から領地を略奪しようと図った、しかし、清澄寺大衆中に「日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894-15)と記されているように、大聖人が領家の味方となって応援されたことにより、一年にして裁判に勝訴し、清澄・二間の二箇寺も、東条景信の手から守ることができた。日蓮大聖人の強い祈りと、裁判に対する適切な指導により、領家は勝訴することができたのである。この領地争いに負けたことから、東条景信は日蓮大聖人への憎悪をいっそう募らせ、その後、小松原で大聖人を殺そうと謀ったのである。
御成敗式目は緊急に解決すべき問題に対して定められた部分法典である。このため51箇条という数少ない条項のみでは、現実の多岐にわたるトラブルを裁定できるということは、式目制定時に既に予想されていた。
そこで式目の適用能力を高めるためにとられた措置は、執行者の自由裁定を公忍したことである。この考えは、執行者が道理に則って、正当な裁判を行うであろうとの楽観的な見解に基づいてなされたものである。
事実、御成敗式目の最後の起請文に「裁判に際しては好き嫌いなく道理によって判断すべきである。そして権威を恐れず、正々堂々と発言せよ」との趣旨の内容が書かれている。このような精神は既に紀元前3世紀頃の中国の律において説かれたものであるが、これはあくまで建前にしか過ぎず、現実には圧倒的多数の事例において裁判官の好みや感情によって判決内容が変化したのが、中国も含めて変らざる実態であったと言わざるを得ない。
ところで、日蓮大聖人の佐渡流罪の刑は、表面的には、次にあげる御成敗式目第12条の「悪口の咎のこと」を適用したものと思われる。
「第12条:「悪口の罪について」
争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し領地がない場合は流罪とする」
鎌倉時代においては、世情が騒然としており、悪口から刃傷沙汰になった事件も多かった。このため悪口のひどい場合は流罪に処すというのである。しかし、いななる内容の悪口をすると流罪になるかという具体的な罪状は規定されていない。
本抄で「都て一分の科もなくして佐渡の国へ流罪せらる」と仰せのように、大聖人は経文を基に仏法の正邪を訴えられたのであり、その大聖人を重い流罪の刑に処したことは、讒言を一方的に聞き入れて理不尽な裁判であったと思われる。こうした非法の裁判を可能ならしめたのも、「悪口」という内容に定義がなく、御成敗式目の自由裁量という制度を権力者側が恣意的に利用した結果であったともいえるだろう。成文法典が制定されたといっても、大聖人の時代は法政治には程遠い状態であった。
次に、第12条の「悪口の咎の事」を見る限り、たとえどれだけ悪口を言っても死刑に処せられることはあり得ない。そのために「外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」との御文の通り、平左衛門尉頼綱や幕府の要人は、表向きは流罪と定め、実際は闇にまぎれて大聖人を殺害しようと決めていたのである。それが文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難であった。
この理不尽な行為は鎌倉幕府の規範である式目に違背しているゆえに、若き執権時光には知らされていなかったようである。それを、本文では「将又国主は此の事を委細には知らせ給はざるか」と述べられたものと推測される。
ただし、どんなに知らなかったと言ったとしても、仏法の次元から見た時、法華経の大怨敵となったことの罪は免れるものではないと厳しく指摘されている。
鎌倉幕府の裁判で刑事訴訟を扱う検断沙汰は、告訴がなければ審理は行わないという弾訴主義が取られていた。したがって、日蓮大聖人を悪口の咎で告訴した者がいたゆえに文永8年(1271)9月12日、召し捕えられて審議が行われたのである。御成敗式目の精神からすれば、告訴側と大聖人の両方を召し合わせるのが当然であったろう。しかし、最後まで告訴人が明確でなく、正当な手続きを経た裁判とはなっていなかったと思われる。
また、式目の第1条は「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」、同じく第2条には「寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事」とあり、神事・仏事に関して定めている。さらに既に見たように式目の最後には起請文が記され、道理に違背した裁判を行ったなら神罰を受けると誓っている。
この起請文に記されている梵天・帝釈・四天王は法華経の行者を守護すると誓った諸天善神である。この法華経の行者を一方的な讒言により斬首しようとしたことは、起請文のこれらの誓いを破ったことになる。
こうした理由から、大聖人は「御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに起請文を書載せたり、第一・第二は神事・仏事・乃至五十一等云云、神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を讒人等に召合せられずして彼等が申すままに頚に及ぶ然れば他事の中にも此の起請文に相違する政道は有るらめども此れは第一の大事なり」と仰せられているのである。
ところで、式目の最後に起請文を載せたことは単なるアクセサリーではなく、現実的な意味があった。
すなわち、鎌倉幕府では裁判の際、証文・証人・起請文という順に採用していたが、この場合の起請文というのは、裁判の過程で偽りを言っているならば神仏の罰を受ける旨の起請文を書いて、例えば、一定期間神社の御堂に籠り、その期間中に病気等になって起請の失がおこなったなら、それは偽証であると断定したシステムをいう。
このようなことからも、式目の最後の起請文を幕府が自ら反古にしたことは、自ら裁判の基本原理を破壊したことに通じるのである。
0357:03~0357:15 第二 正法誹謗は亡国の因top
| 03 多宝・十 04 方の諸仏の御前にして 教主釈尊の申す口として末代当世の事を説かせ給いしかば 諸の菩薩記して云く「悪鬼其の 05 身に入つて我を罵詈毀辱せん、 乃至数数擯出せられん」等云云、 又四仏釈尊の所説の最勝王経に云く「悪人を愛 06 敬し善人を治罰するに由るが故に、 乃至他方の怨賊来つて国人喪乱に遭わん」等云云、たとい日蓮をば軽賎せさせ 07 給うとも教主釈尊の金言・多宝・十方の諸仏の証明は空かるべからず一切の真言師・禅宗・念仏者等の謗法の悪比丘 08 をば前より御帰依ありしかども 其の大科を知らせ給はねば少し天も許し善神もすてざりけるにや、 而るを日蓮が 09 出現して一切の人を恐れず 身命を捨てて指し申さば賢なる国主ならば子細を聞き給うべきに 聞きもせず用いられ 10 ざるだにも不思議なるに剰へ頚に及ばむとせし事は存外の次第なり、 然れば大悪人を用いる大科・正法の大善人を 11 耻辱する大罪・二悪・鼻を並べて此の国に出現せり、譬ば修羅を恭敬し日天を射奉るが如し故に前代未聞の大事・此 12 の国に起るなり、 是又先例なきにあらず夏の桀王は竜蓬が頭を刎ね 殷の紂王は比干が胸をさき二世王は李斯を殺 13 し優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如し 檀弥羅王は師子尊者の頚をきる 武王は慧遠法師と諍論し憲宗王は白居易を遠流 14 し徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印をさす、 此等は皆諌暁を用いざるのみならず還つて怨を成せし人人 現世には国 15 を亡し身を失ひ後生には悪道に堕つ 是れ又人をあなづり讒言を納れて理を尽さざりし故なり、 -----― 多宝・十方の諸仏の御前で教主釈尊が末法現在のことを給かれたのに対し、諸菩薩が次のように述べたことが記されている。すなわち「悪鬼がその身に入って我を罵り辱めるであろう、…しばしば対放されるであろう」と。 また四仏が釈尊の所説を証明した最勝王経では「悪人を愛し敬い、善人を罰することによって」「他国より怨賊が来襲して、国の人々は災難や喪乱に巻き込まれて命を失うであろう」と説いている。たとえ国主が日蓮のことを軽賎されようとも教主釈尊の金言や多宝・十方の諸仏の証明が虚妄になるはずがない。 あらゆる真言師・禅宗・念仏者等の謗法の悪僧に以前から帰依していたとはいえ、それが大罪であることを知らないでいたために、諸天も国主の罪を少しは許し、善神もこの国をすてなかったのであろう。 しかるに、日蓮が出現して、一切の人を恐れることなく身命を捨てて、その謗法を指摘し諌め申し上げたからには、賢明な国主であれば詳細を聞かれるべきであるのに、聞きもせず用いられないことすら不可解であるのに、まして首を切ろうとしたことはもってのほかである。 こうして、大悪人を用いる大罪と、正法の大善人を辱めるという大罪、二つの悪が鼻を並べてこの国に出現したのである。これらは、例えば修羅を敬って日天を射るようなものである。それ故に前代未聞の重大事がこの国に起きたのである。 これは先例のないことではない。夏の桀王は竜蓬が頭を刎ね、殷の紂王は比干が胸を裂き、秦の二世王は李斯を殺し、優陀延王は賓頭盧尊者を軽んじ、檀弥羅王は師子尊者の頸を切った。北周の武王は慧遠法師と諍論し、唐の憲宗皇帝は白居易を左遷し、栄も徽宗皇帝は法道三蔵の顔に火印をあてて処刑した。 これらは諌暁を聞き入れないばかりか逆に怨みをなして、現世では国を失い身を亡ぼし、後生には悪道に墜ちた人々である。これもまた善人を軽んじ、讒言を聞き入れて道理を尽くさなかった故である。 |
幕府自ら政道を破るという理不尽な処置をしたため、大聖人は数々の大難を受けられたが、これらの難は法華経で予言されたことであり、最勝王経には、仏法を正しく行ずる善人を治罰すれば国が滅ぶと説かれている。したがって、法華経の行者たる大聖人を軽賤し迫害する者は必ず滅びることは必定であるとして、大聖人に対する幕府の迫害がただ単に政道上の誤りを犯したものであるだけでなく、仏法の上からも大罪を免れないことを厳しく指摘されている。
法華経 見宝搭品第十一では、多宝如来が東方宝浄世界から法華経の会座に出現し、宝塔の中から「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」との大音声を放ち、釈尊の説く法華経が真実であることを証明した旨、説かれている。そして、十方世界にまします分身の諸仏も来集したのである。
見宝塔品から嘱累品第二十二までの12品は、多宝仏・十方の諸仏の御前で、しかも虚空で行われた説法であり、それ故に大聖人は「宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり」(1092-06)と位置付けられ、その理由として「其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現せり月の前に日の出でたるがごとし、又十方の諸仏は樹下に御はします十方世界の草木の上に火をともせるがごとし、此の御前にてせんせられたる文」(1092-07)と仰せられている。
釈尊はこれら多宝・十方の諸仏の御前で、六難九易をもって滅後弘通の至難さを述べて菩薩衆に弘経の発誓を勧め、それに応えた菩薩たちは、悪世末法において法華経を弘める者に悪口罵詈・杖木瓦石・数数見擯出等々の大難があることを明確に説いたのである。大聖人はこれらの大難をことごとく受けられることにより法華経の経文を身読されたのである。
大聖人は本抄で、この菩薩たちが発誓して述べた法華経勘持品第十三の文を引かれるとともに、正法を行ずる善人を理不尽に罰すると、国が滅びるとの金光明経の文を挙げられている。
最勝王経は、釈尊が王舎城耆闍崛山で説かれたとされ、国王が諸教の王であるこの経を護持すれば四天王をはじめ一切の諸天善神が守護するが、逆に、国王が正法をないがしろにすれば、諸天善神が国を捨てるために数々の災難が起こるとされている。
金光明経は中国・日本において、古くから法華経・仁王経とともに護国三部経の一つとして尊重されてきた。本抄の引用は正法正論品第二十の一節である。その前後をここに引用しておこう。
「若し王正法を捨てて悪法を以って人を化すれば、諸天本宮に処し、見已りて憂悩を生ず。彼の諸の天王衆、共に是の如き言を作す。此の王非法を作し、悪党相親附し、王位久安ならずと、諸天皆忿恨す。彼の忿を懐くに由るが故に、其の国当に敗亡すべし、非法を以て人を数え、国内に流行せば、闘諍して奸偽多く、疾疫衆の苦を生ず。天主御念せず、余天威く捨棄し、国土当に滅亡す可し、王身苦厄を受け、父母及び妻子、兄弟幷に姉妹、俱に愛の別離に遭い、乃至身は亡歿せん。変怪ありて流星堕ち、二日俱時に出て、他方の怨賊来たり、国忍喪乱に遭わん」とあり、また「悪鬼来たりて国に入り、疾疫遍く流行す。国中の最たる王臣、及び諸の輔相、其の心諂倭を懐き、並に悉く非法を行ず。非法を行ずるを見ては、愛敬を生じ、善法を行ずる人に於いて、苦楚して治罰する。悪人を愛敬し、善人を治罰するに依るが故に、星宿及び風雨、皆時を以って行われず」と説かれている。
仏法を破壊しようとする者こそ「悪人」の最たるものであり、当時の建長寺の道隆や極楽寺良観等がそれに当たり、この「悪人」を大事にして、「善人を治罰する」とは、良観らの讒言を一方的に用いて大聖人を流罪に処したことに当たるであろう。であればこそ、経文の通り天変地夭が絶えず、さらに蒙古の襲来は、「他方の怨賊来たり、国人喪乱に遭わん」の経文に符合している。故に大聖人は「日蓮を流罪するは国土滅亡の先兆なり」(1372-01)と喝破されている。
ともあれ、謗法の悪僧を重んずれば亡国は必定であり、このことを諌めている大聖人の言葉に耳を傾けるのが当然であるにもかかわらず、ただ聞こうとしないのみか、斬首しようとしたのは、もってのほかであると厳しく断じられている。
そして、幕府が良観らの邪僧の讒言を聞き入れて、大聖人を迫害したことは、仏法の眼から見れば、二重の意味で大きな罪を犯していることになると指摘されている。第一に謗法の大悪人を信じる大科であり、第二に正法の大善人たる大聖人を恥辱する大罪である。この二つの悪が鼻を並べて日本に出現したが故に、前代未聞の大事が起きているのである、と。
そして次に、賢人・忠臣等の讒言を用いず、かえって怨をなしたために国と身を滅ぼした歴史上の帝王たちの先例を挙げられている。
0357:15~0358:06 第三 第三回国主諫暁と身延入山top
| 15 而るに去る文永十 16 一年二月に佐土の国より召返されて 同四月の八日に平金吾に対面して有りし時 理不尽の御勘気の由委細に申し含 17 めぬ、 又恨むらくは此の国すでに他国に破れん事のあさましさよと歎き申せしかば 金吾が云く何の比か大蒙古は 18 寄せ候べきと問いしかば 経文には分明に年月を指したる事はなけれども 天の御気色を拝見し奉るに以ての外に此 0358 01 の国を睨みさせ給うか 今年は一定寄せぬと覚ふ若し寄するならば 一人も面を向う者あるべからず 此れ又天の責 02 なり、 日蓮をばわどのばらが用いぬ者なれば力及ばず、 穴賢穴賢・真言師等に調伏行わせ給うべからず若し行わ 03 するほどならいよいよ悪かるべき由申付けてさて帰りてありしに 上下共に先の如く用いさりげに有る上 本より存 04 知せり国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば 山林に身を隠さんとおもひしなり、 又上古の本文に 05 も三度のいさめ用いずば 去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ、 其の上は国主の用い給はざらんに其 06 れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたすかるまじ人も又仏になるべしともおぼへず。 -----― そして、去る文永十一年二月、佐渡の国より召し返されて同年四月八日に平左衛門尉と対面した時、佐渡流罪がいかに理不尽な罪であったかを詳しく説き聞かせたのである。更に「この国がいよいよ他国に攻め入れれようとしているのは情けないことである」と嘆いて言うと、平左衛門尉が問うて言うには「いつ頃、大蒙古は攻め寄せてくるであろうか」と。 そこで「経文にははっきりと年月を指し示していることはないが、天の様子を拝見してみると、ことのほかこの国を睨んでおられるようである。したがって、今年中には必ず攻め寄せて来ると思われる。もし寄せて来るならば、一人も面と立ち向かう者はいないであろう。これもまた天の責めなのである。日蓮のことをあなたがたが用いないのであるから致し方あるまい。ゆめゆめ真言師等に蒙古の調伏を行わせてはならない。もしそれを行わせたならば、ますます悪い結果になるであろう」という趣旨を申しつけて帰ったのである。 その後も国の上下共に以前と同じく私の讒言を用いそうにない上に、本より私は、国恩を報じるために三度までは諌暁しよう。そええでも用いなければ山林に身を隠そうと決めていたのである。また古代の書の文にも「三度諌めて聞き入れられなければ去れ」とあり、この本文にしたがってしばらくこの身延の山中に入ったのである。 かくなる上は国主が讒言を用いようとしないのだから、臣下等にこの法門を話したところでどうにもならないであろうし、たとえ法門をといたとしても国も助からないし、人々も成仏するとは思われないからである。 |
文永11年(1274)2月14日に幕府の赦免状が発せられ、3月8日に佐渡に届けられた。佐渡流罪赦免の理由は中興入道御消息に「科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども・相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて」(1333-14)と仰せられているように、大聖人の無罪が明確になったこと、他国侵逼の難の予言が的中したことを考慮して、北条時宗が周囲の反対を押し切って大聖人の赦免を決定したのである。
光日房御書には「文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月八日に佐渡の国につきぬ・同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風にはなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す」(0928-02)と記されていることから、本抄の「二月に佐渡の国より召返されて」の部分は、赦免状が発せられた日を指して仰せられたと拝される。
同年3月26日、佐渡より2年半ぶりに鎌倉に戻られた大聖人は、4月8日に平左衛門尉頼綱と対面された。
高橋入道殿御返事には「ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」(1461-06)と述べられているように、流罪赦免後、佐渡の地からそのまま山でも海でもどこかに隠居してもよかったのであるが、今一度、幕府を諌暁し、衆生を救わんがために鎌倉に戻ってこられたのである。
そして、平左衛門尉に会われた際に「やうやうの事ども・とひし中に蒙古国は・いつよすべきと申せしかば、今年よすべし、それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、たすからんとをもひしたうならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頚を切つてゆいのはまにかくべし、それも今はすぎぬ・但し皆人のをもひて候は日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもひて候、これは物のかずにてかずならず・真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり、弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり、設い二年三年にやぶるべき国なりとも真言師にいのらする程ならば一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき」(1460-18)と3回目の国主諌暁をされた。
その時の様子は種種御振舞御書にも「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上」(0921-02)と述べられている。時宗の命を受けた平左衛門尉の態度は以前と異なり、威儀を和らげて法門のことや蒙古襲来の時期を問うた。それに対して、大聖人は必ずや今年中に蒙古国が攻めてくるであろうと予言されたのである。
しかしながら、大聖人の3度目の諌暁も結局、幕府の受け入れるところとはならなかった。そこで、大聖人は故事に従い、鎌倉を離れて身延に隠棲する決意を固められた。もとより、大聖人が身延に入られたのは、決して消極的な意味で世間から身を引いて閑静な地を求められたものではなかった。しかし、大聖人の身延入山に関して、これまで誤解や曲解が少なくないので、ここで身延入山の意義について確認しておきたいと思う。
まず身延到着の5月17日に著された富木殿御書に大聖人は、身延までの道中を示されたうえで「十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし」(0964-03)と述べられている。
この短い御文から、①身延の山中が大聖人の当初のお考えに大体はかなっていたこと。②しかし、更にふさわしい地を求めて日本国中を巡ることもあるかも知れないと考えられていたこと、などの点が考察される。つまり、大聖人にはっきりした目的意識があり、それにとりあえず叶っていたので身延にとどまられたということである。それを果たせば、他の所へ流浪すべき身であると仰せられている。故に本抄にも「且く山中に籠り入りぬ」と仰せられているのである。
では、なんのために大聖人は「身を隠さん」とされたのであろうか。ここから「隠栖」という言葉を当てはめたのであり、多くの人々は、「隠栖」という言葉から“世をはかなんで山に籠る”という印象を受けがちであるが、大聖人の場合、決してそうではない。
例えば、田村芳朗氏は「日蓮 殉教の如来使」という著書の中で先の富木殿御書の一節と南条殿御返事の「いかにも今は叶うまじき世にて候へば・かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり」(1535-03)との御文を引いて「現実とのたたかいに刀おれ、矢つきた日蓮の姿が目にうかぶ」と述べているが、これなどは勝手に描いたイメージであるといわざるをえない。
この南条殿御返事の一節は、大聖人が蒙古から日本国を守るために命がけで諌暁されたにもかかわらず、もはや幕府は聞く耳を持とうとしないので身延へ入山したことを述べられたものである。大聖人が5月17日に身延に着かれてから、1週間後の24日に法華取要抄という重書を書き上げられているという事実からも、「現実とのたたかいに刀おれ、矢つきた」というのは的はずれの想像に過ぎないことは明瞭であろう。
むしろ法華取要抄において三大秘法の南無妙法蓮華経の末法弘通の正体であることを初めて整足して説かれたことを踏まえるならば、身延入山の意義は大聖人の御化導のうえで重要な段階に入られたものとして拝する必要がある。すなわち、法華経の身業読誦を終えられた大聖人は、いよいよ末法の御本仏としての内証の法門である三大秘法を顕されるために閑静な地を必要とされたのではないだろうか。その御化導の第一声として三大秘法開顕の重書たる法華取要抄をただちに著されたのである。
そして、この三大秘法の開顕が、大聖人出世の御本懐たる三大秘法の大御本尊の建立へとつながっていることはいうまでもない。したがって、身延入山は、大聖人の御化導の上において要請されたものであり、その根本の意義は、末法万年の民衆救済へ本門戒壇の大御本尊を建立されるところにあったと拝されるのである。
このことは、報恩抄の「賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに」(0323-17)との御文や、報恩抄送文の「自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へば」(0330-04)との御文からも、大聖人が「頓世」という世間的な見方とは全く別の御気持ちで身延に入山されたことが明らかに拝察される。
弘安3年(1280)10月に認められた四条金吾殿御返事には、次のように仰せである。
「倩事の情を案ずるに今は我身に過あらじ、或は命に及ばんとし弘長には伊豆の国・文永には佐渡の島・諌暁再三に及べば留難重畳せり、仏法中怨の誡責をも身には・はや免れぬらん。然るに今山林に世を遁れ道を進まんと思いしに人人の語・様様なりしかども旁存ずる旨ありしに依りて当国・当山に入りて已に七年の春秋を送る」(1193-09)
このように、大聖人は考える所があって身延の山に表面上遁れられたのであって、その御真意は、末法万年にわたる広宣流布・了法久住の礎を築かれることにあった。そしてその根本こそ、法華取要抄に「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0338-02)と仰せのように、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法を建立し、未来永劫にわたる広宣流布の根本を樹立されることにほかならなかったのである。
言い換えれば、身延入山の究極の目的は、御内証の法体の確立にあった。その意味で、大聖人が弘安2年(1279)10月12日、熱原の法難を機として本門戒壇の大御本尊を御図顕され、出世の本懐を遂げられたことは、大聖人の御化導の特質を象徴的に示しているのではなかろうか。つまり、大聖人は熱原の法難において一文不通の庶民が示した、自分の生命よりも仏法を大事にするという不退転、不惜身命の信心の姿に大御本尊建立の機が熟したことを鑑みられたものである。
勿体ない言い方であるが、たとえ大聖人が一閻浮提総与の大御本尊を建立されたとしても、もし身命を賭してこれを守り伝えゆく人がいなければ、大聖人の三大秘法を令法久住せしめることができないのである。しかも、武士や僧侶ではなく、圧倒的多数を占める庶民の中にこのような信心が確立したことは、大聖人の仏法が未来永遠に伝えられていく条件が整ったことになるのである。権力者の動向によって左右されることのない庶民の中にこそ、大聖人の生命は脈々と伝えられていくからである。
大聖人が身延に入られて弟子の育成に力を注がれたのも、すべては大御本尊の建立、末法万年にわたる広布の基盤を確立されるためであったと拝される。
この意味において、本抄で「国主の用い給はざらんに其れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたすかるまじ人も又仏になるべしともおぼへず」と仰せられているのも、一見すると冷たく、突き放された御言葉に受け止めかねないが、決してそうではない。
これは幕府に対して諌暁をこれ以上続けたとしても、広布の進展はもはや期待できないことを述べられたものと拝される。そして、広宣流布の遠い未来を展望され、庶民の中に広宣流布の確たる道を開かれるべく身延に入山されたと拝されるのである。それは、民衆に根差した大聖人の仏法の特質よりすれば、ある意味で必然であったといえるのである。
0358:07~0361:12 第12段 三徳具備の仏に背く念仏者等の謗法top
0358:07~0358:13 第一 浄土三部経は未顕真実の方便権教top
| 07 又念仏無間地獄・阿弥陀経を読むべからずと申す事も私の言にはあらず、 夫れ弥陀念仏と申すは源と釈迦如来 08 の五十余年の説法の内・前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり、 然れども如来の金言なれば定めて真 09 実にてこそ・あるらめと信ずる処に 後八年の法華経の序分たる無量義経に仏・法華経を説かせ給はんために先づ四 10 十余年の経経・並に年紀等を具に数へあげて 未顕真実・乃至終不得成・無上菩提と若干の経経並に法門を唯一言に 11 打ち消し給う事 譬えば大水の小火をけし 大風の衆の草木の露を落すが如し、 然後に正宗の 法華経の第一巻に 12 至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば 闇夜に大月輪の出現し大塔立て 13 後足代を切り捨つるが如し、 -----― また「念仏は無間地獄の業因であり阿弥陀経を読誦してはならない」と主張していることも、わたしが勝手にいっているのではない。そもそも弥陀念仏は、その源をたどれば、釈尊五十年の説法のうち、法華経を説く以前の四十余年の説法中の阿弥陀経等の三部経より出たものである。 しかし、釈尊の金言であるからきっと真実であるに違いないと信じていたところ、最後の八年間に説かれた法華経の序分にあたる無量義経の中で、釈尊は法華経を説かせ給くために、まず四十余年の間に説いた経々とその年数等を具体的に数えあげて「これらの教はいまだ真実を顕していない。(乃至)結局これらによって無上の悟りを得ることはできない」と説かれ、それらの多くの経々とその法門をたったの一言で打ち消されたのである。このことは譬えば大水が小さな火を消し、大風が多くの草木の露を吹き落とすようなものである。 そのうえで正宗分である法華経の第一巻、方便品に至って「世尊は法門を長きにわたって説かれた後に、必ず真実の教えを説くであろう」と仰せられ、また「正直に方便を捨てて、ただ無上道のみを説くであろう」と説かれたのである。これは譬えていえば、闇夜に大月輪が現れて他の星が光を失い、大塔を立てた後には不要になった足場を取り除くようなものである。 |
日蓮大聖人は建長5年4月28日、立教開宗にあたって、まず禅宗と浄土宗の僻見を破折され、法華経こそ釈尊一代の教法の中で最勝の教えであることを説かれた。この浄土宗破折のため、早速、地頭・東条景信による迫害を受けられたが、それ以来、「其の後二十余年が間・退転なく申す」(0894-05)と仰せのように、一貫して諸宗を破折してこられたのである。
本段では、このように「念仏無間」等と主張しておられることが、決して我見によるものではなく、釈尊の仏説に拠っていることを述べられている。すなわち、釈尊自身が浄土三部経は方便権教であり、真実の法華経が明かされた後は捨てるべきであると言明されているのである。と。したがってこの段は、本抄冒頭の「阿弥陀経を読誦しない理由」あるいは「法華経を読誦する理由」についての直接的回答と拝することができるであろう。
阿弥陀如来の名号を称える称名念仏を宗旨とする浄土宗が依経としているのは、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三部経である。
大聖人は、題目と念仏の相違を「諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば瓦礫と如意宝珠の如くに侍るなり」(0111-04)と仰せられているが、念仏宗というものについては「念仏は無間地獄の業因なり法華経は成仏得道の直路なり」(0097-01)とさらに厳しく断じられている。
諸仏の名号そのものは、ただ功徳が薄いというだけであるが、宗派としての念仏宗は、かえって人々を無間地獄に堕とす毒の存在である。
大聖人がこのように「念仏無間」と断じられているのは、一つには、日本浄土宗の開祖たる法然が選択集を著して、浄土三部経以外の諸経を捨閉閣抛せよと唱えたことによる。すなわち、三部経の中の無量寿経には、阿弥陀如来が仏になるために法蔵比丘として修行中に立てた48願が記されているが、その第18願に「唯五逆と誹謗正法を除く」とあることから、法然が法華経を含めて、浄土三部経以外の諸経を捨閉閣抛せよと主張していることは、阿弥陀の本願に漏れるので極楽浄土へ往生することはできない。しかもそればかりか、誹謗正法の大重罪を犯しているのであるから、法華経譬喩品第三に説かれたところによれば、無間地獄に堕ちることになるのである。
また一つには、そもそも本抄に述べられているように、浄土三部経は釈尊が自ら「未顕真実」とした方便権教であるが故に、それを根本とすることは、仏説に背くことになるからである。それ故「念仏無間」という破折は、大聖人の自分勝手の説ではなく、釈尊の経文により導き出されたものである。
本抄の仰せによれば、浄土三部経は、釈尊一代の説法のうち、法華経を説く以前の40余年の説法に含まれる。釈尊の説法であるからには、これらの説法もすべて真実であろうと考えがちであるが、実は釈尊自身がこれらの諸経には自らの悟った真実を明かしていない。法華経にこそ真実を説くと明言しているのである。すなわち、法華経の開経たる無量義経説法品第二で、それまで説いてきた経々を数え上げ、次のように説いている。
「善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」。
この経文の意味は極めて明瞭であり、これらの40余年間の見顕真実の説法に依拠しては成仏はできないとゆうことである。ゆえに大聖人は「四十余年未顕真実」の一言を、大水が小火を消すようなものであり、大風が草木の露を吹き飛ばすようなものであると仰せなのである。
法華経の方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」また「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」とある。つまり、爾前の教えはすべて方便であり、法華経こそが真実・無上の教えであると釈尊自身が明らかにしているのである。大聖人は本抄で、このように法華経が説かれた以後の爾前経について、闇夜に大月輪が出現したのちに光を失う諸星のようなものであり、大塔を建立した後には足場は取り除かれるようなものであると譬えられている。
0358:13~0359:02 第二 法華経誹謗は無間地獄の業因top
| 13 然後実義を定めて云く「今此の三界は皆是れ我が有なり 其の中の衆生は悉く是れ吾 14 が子なり而も今此の処は諸の患難多し 唯我一人のみ能く救護を為す、 復教詔すと雖も而も信受せず、乃至経を読 15 誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、 経文 16 の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に 此れはさにては候はず在世 17 滅後の一切衆生・阿弥陀経等の四十余年の経経を堅く執して 法華経へうつらざらんとたとひ 法華経へ入るとも本 18 執を捨てずして 彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と 又自執の経経を法華経に勝れたりといはん人と法華経を 0359 01 法の如く修行すとも法華経の行者を恥辱せん者と 此れ等の諸人を指しつめて 其人命終入阿鼻獄と定めさせ給いし 02 なり、 -----― こうして後に、実義を定めて法華経譬喩品第三に「今この三界は皆我が所有である。その中の衆生はことごとく我が子である。しかも今この世界は諸の艱難辛苦が多く、これを救えるのはただ我一人のみである。また教えを諭したとしてもこれを信受せず…かえって経を読誦し書写しす所持する者を見て軽賎し憎嫉して、しかも恨みを懐くであろう。その人は命が終って阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれたのである。 この経で説いている内容は普通の法理と異なっている。普通は五逆罪や七逆罪を犯した罪人こそ無間地獄に堕ちると定めているのであるが、この経はそうではなく、釈尊在世、及び滅後の一切衆生の内、阿弥陀経等の四十余年の間に説かれた経々に堅く執着して法華経へ移ろうとしない者、法華経に入ったとしても権教への執着を捨てないまま法華経と並行して修行する者、自分が執着している経々が法華経に勝っていると主張する者や法華経を教え通り修行しても法華経の行者を侮辱する者、これらの人々を指して「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と断定されたのである。 |
爾前経は方便であり法華経こそ真実であると釈尊自身が明言していることを示され、爾前権経に執着して法華経を軽んずる者は無間地獄に堕ちるというのが仏説であることを教示されている。それが本文に引用されている譬喩品第三の経文である。「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す、復教詔すと雖も而も信受せず、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは、法華経を信ぜず、また法華経の行者を誹謗する者は、必ず無間地獄に堕ちることを示したものである。
普通の経文では、阿鼻地獄に墜ちるのは五逆・七逆罪を犯した場合と決まっている。それに対し法華経では、法華経を誹謗する罪・謗法罪こそ無間地獄の業因であることが強調される。大聖人は以下に謗法を4つの類型に分類されている。
第一に、四十余年未顕真実の方便権経に固く執着し、法華経を信じないという謗法である。
第二・第三に、法華経の所説を信受したものの、爾前経と並べて同時に信仰しようとしたり、爾前経の方が勝れていると信じたりする謗法である。
そして第四に、法華経を信じ所説の通りに修行しつつも、法華経の行者を誹謗し卑しめる謗法である。
大聖人は「法門申さるべき様の事」で次のように仰せられている。
「方便と申すは無量義経に未顕真実と申す上に以方便力と申す方便なり、以方便力の方便の内に浄土三部経等の四十余年の一切経は一字一点も漏るべからざるか、されば四十余年の経経をすてて法華経に入らざらん人人は世間の孝不孝はしらず仏法の中には第一の不孝の者なるべし、故に第二譬喩品に云く『今此三界乃至雖復教詔而不信受』等云云」(1266-02)
方便権経に執着して法華経を信じようとしないことは、親父たる釈尊の「正直捨方便」の戒めに背く故に、第一の不幸の失を免れることができないのである。更にまた、その次下に「教と申すは師親のをしへ詔と申すは主上の詔勅なるべし、仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり、されば四十余年の経経につきて法華経へうつらず、又うつれる人人も彼の経経をすてて・うつらざるは三徳備えたる親父の仰を用いざる人・天地の中に住むべき者にはあらず、この不孝の人の住処を経の次下に定めて云く『若人不信乃至其人命終入阿鼻獄』等云云、設い法華経をそしらずとも・うつり付ざらん人人・不孝の失疑なかるべし、不孝の者は又悪道疑なし故に仏は入阿鼻獄と定め給いぬ、何に況や爾前の経経に執心を固なして法華経へ遷らざるのみならず、善導が千中無一・法然が捨閉閣抛とかけるは・あに阿鼻地獄を脱るべしや」(1266-07)と、本抄で示されていたいずれの謗法も結局は堕地獄を免れないことを明かされている。
また題目弥陀称名号勝劣事においては、念仏者が具体的にどのような主張をしていたかを挙げられている。ある者は次のように述べたという。
「念仏と法華経とは只一なり南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむにて侍るなんど」(0111-01)
これは、法華経と浄土三部経の信仰を同一視するものだから、謗法の第二類型に当たる。また次のような例も挙げられている。
「此身にて法華経なんどを破する事は争か候べき念仏を申すもとくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんが為なり」(0112-10)
「法華経は不浄の身にては叶ひがたし 恐れもあり念仏は不浄をも嫌はねばこそ申し候へ」(0112-11)
これらは両者とも法華経が深い教えであることは認めつつ、最も難信難解であることを理由として自宗の念仏信仰を正当化しようとするものであり、結局は今世における法華経信受を不要としているのであるから謗法の第三類型に当たることがわかる。要するに、たとえ法華経が最高の経典であることを認めたとしても、爾前の経々に固執することは、仏の「正直捨方便」の金言に背くが故に、謗法となるのである。
また、大聖人は顕謗法抄において、次のように仰せである。
「第八に大阿鼻地獄とは又は無間地獄と申すなり欲界の最底大焦熱地獄の下にあり此の地獄は縦広八万由旬なり、外に七重の鉄の城あり地獄の極苦は且く之を略す前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり、此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事他化自在天の楽みの如し、此の地獄の香のくささを人かくならば四天下・欲界・六天の天人・皆ししなん、されども出山・没山と申す山・此の地獄の臭き気を・をさへて人間へ来らせざるなり、故に此の世界の者死せずと見へぬ、若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はずとみへたり、此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり一中劫と申すは此の人寿・無量歳なりしが 百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに 人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり、此の地獄に堕ちたる者・これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり、業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり、今の世には仏ましまさず・しかれば出仏身血あるべからず、和合僧なければ破和合僧なし、阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし、但殺父・殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしく・あるゆへに 此の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五逆罪これあり木画の仏像・堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等をきりやき智人殺しなんどするもの多し、 此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか又謗法の者この地獄に堕つべし」(0447-02)
そのうえで大聖人は、五逆罪以外に誹謗正法の重罪によって無間地獄に堕ちることを示されるとともに、五逆と謗法の罪の軽重を比較すれば、謗法の方がはるかに重い罪であることを文証を挙げて明かされている。
その一つとして法華経常不軽菩薩品第二十の経文を引かれ、増上慢の四衆が瞋恚の心を生じて、不軽菩薩を悪口罵詈し、杖木瓦石をもって打擲した罪によって、千劫の長きにわたって阿鼻地獄に堕ち大苦悩を受けたことを通して、「法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448-11)と仰せられている。
このように、法華経誹謗、法華経の行者に対する誹謗・迫害の罪が重罪であるということは、法華経が他の経に比してはるかに偉大であり、力あることの証左にほかならない。
0359:02~0359:12 第三 釈迦・多宝・十方の諸仏の証明top
| 02 此の事はただ釈迦一仏の仰なりとも、 外道にあらずば疑うべきにてはあらねども 已今当の諸経の説に色を 03 かへて重き事をあらはさんがために 宝浄世界の多宝如来は自はるばる来給いて 証人とならせ給う、 釈迦如来の 04 先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して 後の法華経へ入らざらむ人人は入阿鼻獄は一定なりと証明し、又 05 阿弥陀仏等の十方の諸仏は各各の国国を捨てて 霊山・虚空会に詣で給い宝樹下に坐して 広長舌を出し大梵天に付 06 け給うこと無量無辺の虹の虚空に立ちたらんが如し、 心は四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に法蔵比丘の 07 諸菩薩・四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説く事は 且く法華経已前のやすめ言なり、 実には彼 08 れ彼れの経経の文の如く十方西方への来迎はあるべからず 実とおもふことなかれ 釈迦仏の今説き給うが如し実に 09 は釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり、 10 我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり 釈迦仏は天月の如し我等は水中の影の月なり 釈迦仏の本土は実には娑婆世界な 11 り天月動き給はずば我等もうつるべからず 此の土に居住して法華経の行者を守護せん事 臣下が主上を仰ぎ奉らん 12 が如く父母の一子を愛するが如くならんと出し給う舌なり、 -----― このことは、ただ釈尊一仏の仰せであっても、外道でなければ疑うべきではないけれども、已今当の諸経に説かれていることよりもなおいっそう重要であることを示さんがために、宝浄世界の多宝如来が自らはるばる霊鷲山まで来られて釈尊の証人となられたのである。釈迦如来の先判にあたる大日経や阿弥陀経・念仏等を堅く執着して、後伴にあたる法華経へ入ろうとしない人々は必ず阿鼻地獄へ堕ちると証明されたのである。 また、阿弥陀仏等の十方の諸仏がそれぞれの国を捨てて霊鷲山・虚空会の儀式に参られて宝樹の下に座り、広長舌を出して大梵天に付けられた様は、あたかも無量無辺の虹が虚空に現れたようであった。 その意味するところは釈尊が “四十余年に説かれたの観無量寿経・阿弥陀経・悲華経等において、法蔵比丘の諸菩薩が四十八願等をおこして九品の浄土に凡夫を迎えると説いたことは、法華経へ入るまでの気休めの言葉であり、実はそれらの経々に説かれているような十方浄土や西方浄土への来迎などはなく、これを真実と思ってはならない。このことは釈尊が今説かれた通りであり、真実には釈迦・多宝・十方の諸仏が法華経寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信じさせるためである”と出された広長舌なのである。 “我らと釈迦如来は同じように仏ではあるが、釈迦如来は天の月であり我らは水中に映っている月のようなものである。釈迦如来の本土は実は娑婆世界であり、天月である釈尊が動かなければ、その影である我らも他土に移ることはない。我らがこの娑婆世界に居住して法華経の行者を守護することは、臣下が主君を仰ぎ奉るようであり、父母が我が一子を愛するようなものである”と、そのような思いで出した舌なのである。 |
法華経こそ釈尊の悟りの真実を明かした説法であり、それ以前の40余年に説いた爾前権経には未顕真実の教えであることは、釈尊一人が言っていることではなく、多宝如来・十方の諸仏も証明しているところであり、このような多くの仏が来集して証明を加えたにのは法華経のみの特徴である。
本抄では、多宝如来の証明が「已今当の諸教の説に色をかへて重き事をあらはさんがために」なされたものであり、十方諸仏の広長舌相は、爾前経で説かれたことが「法華経已前のやすめ言」であり真実ではないことを示すと同時に、「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」を信ぜしめるために行われたのであると仰せである。
四条金吾殿御返事には次のように述べられている。
「教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり、八万法蔵は皆金言・十二部経は皆真実なり、無量億劫より以来持ち給いし不妄語戒の所詮は一切経是なり、いづれも疑うべきにあらず、但是は総相なり別してたづぬれば如来の金口より出来して小乗・大乗・顕密・権経・実経是あり、今この法華経は「正直捨方便等・乃至世尊法久後・要当説真実」と説き給う事なれば誰の人か疑うべきなれども多宝如来・証明を加へ諸仏・舌を梵天に付け給う」(1121-10)
つまり、八万法蔵・一切経はいずれも釈尊の説いた教えであり真実である。ただし、それは総じて言った場合であり、別しては釈尊の経々にも大小・顕密・権実の違いがある。法華経において釈尊は、爾前経を未顕真実の方便の教えであるとして捨て、法華経のみが真実であると説いた。しかし、爾前経の執着を捨て切れずにいる人々のために多宝・十方諸仏の証明がなされたのである。
開目抄に、「般若経の御時は釈尊・長舌を三千にをほひ千仏・十方に現じ給い・金光明経には四方の四仏現せり、阿弥陀経には六方の諸仏・舌を三千にををう」(0194-13)と述べられているように、他の諸経でも、それなりに証明の儀式がなされている。では、法華経における証明と権大乗教における証明とはどう違うのであろか。
これら諸経における証明は、小乗教と大乗教との間に「一分の相違」があることから、小乗教への執着を破して大乗教へ導くために行われたものである。その「一分の相違」というのは、小乗教では声聞・縁覚の二乗の修行を勧めたのに対し、大乗教では二乗が徹底して弾訶されたことである。この相違があるために、諸仏が出現して釈尊の説法を助けたのである。
しかしながら、小乗教と大乗教との相違は、権大乗教と実大乗教たる法華経との相違に比べれば、はるかに小さい。ゆえに「一分の相違」と言われているのである。なぜならば、法華経においては、爾前権教において成仏できないとされていた二乗の成仏や伽耶城菩提樹下で成道したとされていた釈尊の久遠実成が説き明かされるなど、諸大乗教と根本的な相違があるからである。つまり、法華経で説かれる法門が末聞の難信の法である故に、それが真実であることを強く証明する必要があったのである。
ゆえに観心本尊抄では、「夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し舌相梵天に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆うは有名無実なり、般若経の舌相三千光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず、此は皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」(0251-18)と断じられている。この「皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」との御文について、日寛上人は観心本尊抄文段で「これ即ち『行布を存する故に仍末だ権を開せず』『始成をいう故に尚末だ迹を発せず』の二失なり」と釈されている。
すなわち開目抄に、「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり」(0197-10)と説かれているのがそれで、この「迹門の一念三千」と「本門の久遠」こそ、「一代の綱骨・一切経の心髄」(0197-12)と仰せのように、最も重要な法門なのである。
このように爾前経と法華経とでは、その内容に大きい差がある故に法華経の証明のもつ意義が大きいのであり、それに比べれば、権大乗教における諸仏の証明などは有名無実であり、真実の証明とはいえないとされている。それは結局、証明すべき仏の究竟の真実が明かされていない以上、証明というのは名のみはあっても、実体はないことになるからである。
また、他の諸経典でも、そこに説かれる所説が正しく、最も勝れた教えであることを強調した言葉は確かにある。そこから、法華経こそ諸経典のなかで最第一であるというものも、他の経で言っているのと同じではないかという疑問が生じてくる。これについて、大聖人は次のように答えられている。
「疑つて云く経経の自讃は諸経・常の習いなり、所謂金光明経に云く『諸経の王』密厳経の『一切経中の勝』蘇悉地経に云く『三部の中に於て此の経を王と為す』法華経に云く『是れ諸経の王』等云云、随つて四依の菩薩・両国の三蔵も是くの如し如何、答えて曰く大国・小国・大王・小王・大家・小家・尊主・高貴・各各分斉有り然りと雖も国国の万民・皆大王と号し同じく天子と称す詮を以つて之を論ぜば梵王を大王と為し法華経を以て天子と称するなり、求めて云く其の証如何、答えて曰く金光明経の是諸経之王の文は梵釈の諸経に相対し密厳経の一切経中勝の文は次上に十地経・華厳経・勝鬘経等を挙げて彼彼の経経に相対して一切経の中に勝ると云云、蘇悉地経の文は現文之れを見るに三部の中に於て王と為す等云云、蘇悉地経は大日経・金剛頂経に相対して王と云云」(1003-11)
すなわち、金光明経・密厳経・蘇悉地経等においても、それぞれ自讃の文が見られるにしても、詳細にその本文を検討するならば、各経典でその勝劣を比較対照しているのは、一部の限られた範囲の経典と相対してのことであって、釈尊の説いた一切の経と相対しているわけではないのである。
これに対して法華経では、例えば法師品第十に「而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり…已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とあり、また 見宝搭品第十一にも「始より今に至るまで広く諸経を説く、而も其の中に於いて、此の経第一なり」とあるように、法華経のみが、釈尊がそれまでに説いた一切の教えだけでなく、これから後に説く経も含め、すなわち已今当の三説に対して、法華経が最第一であることを強調しているのである。
故に妙楽大師は「縦い経に諸経の王と云うこと有りとも已今当説最為第一と云わず」と指摘しているのである。これに比べれば、他経において「諸経の王」と説かれているといっても、いわば「小王に過ぎないのである。
寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字
ここでは、釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏の三仏が列座して行われた法華経の説法ならびに儀式の本意が、寿量品文底下種の南無妙法蓮華経を信ぜしめることにあったことを明かされている。日寛上人の題目抄文段において、本抄のこの御文を引かれて次のように仰せである。
「文の中の『実』の字、深く意を留めるべし。例せば『我実成仏』の『実』の字の如し。また『肝要』とは即ち文底の異名なり。諸文も例して爾なり。文意に云く、既に寿量品の説已りて神力結要付嘱の付に至り、先ず釈迦・多宝・十方分身の諸仏、広長舌を出して上梵天に至りたまう。その本意を尋ねれば、実に滅後末法の衆生をして但本門寿量品の肝要南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為なり」と。ここで日寛上人は、本抄の「実には」の「実」の字に深意があると指摘されている。
すなわち、これは「我実成仏」の「実」と同じで、この寿量品の文は、釈尊が「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と述べて、それまでの始成正覚の迹身を払って久遠実成の本地を明かしたのである。大聖人は本抄で法華経における三仏の説法と証明も、その本意は文底の妙法を宣揚し証明することにあったと明かされているのである。
また、次に本抄の「寿量品の肝要」とは、「『肝要』とは即ち文底の異名なり」と日寛上人が釈されているように、寿量文底の下種本門を指している。このことを開目抄では「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられ、さらに他の諸御書では、例えば「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(0251-09)、「寿量品の肝心南無妙法蓮華経」(1212-01)等と述べられているのである。すなわち、御書により「文底」「肝要」「肝心」とそれぞれ言葉は異なっても、その意味するところは全く同じである。
そして、「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」が法華経神力品において釈尊より上行菩薩に結要付嘱された三大秘法の南無妙法蓮華経を指していることは、観心本尊抄に、「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては 仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体」(0247-15)と仰せられていることに明らかであろう。
ゆえに、日寛上人は本抄に仰せの「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは、「即ちこれ文底秘沈の三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。故に『肝要』というなり」と御教示されている。
なお、大聖人が本抄も含めて、観心本尊抄等で南無妙法蓮華経を「七字」ではなく「五字」と仰せられているのはなぜであろうか。
大聖人の御書において、題目と字数を並べて述べられている場合、五字との表現が圧倒的に多い。すなわち、五字の用例は「妙法の五字」「題目の五字」「首提の五字」「結要の五字」「法華経の五字の名号」「妙法等の五字」「南無妙法蓮華経の五字」などであり、七字の用例は「南無妙法蓮華経妙の七字」「妙法蓮華経の五字七字」等である。
これら「妙法蓮華経の五字」の用例は、御化導の初期から晩年にいたるまでほぼ全般にわたっているのに対して、「南無妙法蓮華経の五字」の用例は文永10年(1273)の観心本尊抄が最初であり、佐前の御書には見れれない。
以下、南無妙法蓮華経の五字の用例は9編11個所である。
①観心本尊抄 (文永10年〈1273〉)
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う」(0247-15)
「但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」(0253-13)
②法華行者逢難事 (文永11年〈1274〉)
「天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう」(0965-08)
③高橋入道殿御返事 (建治元年〈1275〉)
「上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけば」(1459-08)
④曾谷殿御返事 (建治2年〈1276〉)
「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う」(1055-06)
⑤下山御消息 (建治3年〈1277〉)
「地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(0346-11)
「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」(0359-08)
⑥松野殿後家尼御前御返事 (弘安2年〈1279〉)
「設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう」(1392-01)
⑦上野殿御返事 (弘安2年〈1279〉)
「上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり」(1557-16)
⑧寂日房御書 (弘安2年〈1279〉)
「上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして」(0903-04)
⑨右衛門太夫殿御返事 (弘安2年〈1279〉)
「上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし」(1102-02)
これらの御文では、釈尊より結要付嘱を受けた上行菩薩が末法に出現して弘めるべき法を「南無妙法蓮華経の五字」として示されているとともに、それが法華経、ないしは本門寿量品の肝心・肝要であることを述べられている。さらに加えて、三大秘法の一つである本門の題目を、「事行の一念三千」、「境智の二法」として示されていることも看過できない点である。
次に、「妙法蓮華経の五字・七字」の用例を見てみたい。この用例は文永10年(1273)の諸法実相抄、弘安3年(1230)の諌暁八幡抄のわずか二例しかない。
すなわち、諸法実相抄では、妙法蓮華経の五字は地涌の菩薩の出現がなければ唱えることのできない題目であることを明かされたうえで、「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)と広宣流布の大確信を述べられるとともに、大聖人のうけられている大難が地涌の菩薩=法華経の行者として「妙法蓮華経の五字七字を弘むる故」(1361-03)であると示されている。
た諌暁抄においては「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり」(0585-01)と仰せられている。
だだし、佐前期の文永3年(1266)の法華経題目抄に「只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて」(0940-01)との一節、また文永10年(1273)の妙法曼荼羅供養事に「此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども」(1305-01)との仰せが拝される。
一方、「南無妙法蓮華経の七字」は、次の例が挙げられている。
①四条金吾殿御返事 (文永9〈1272〉)
「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し」(1116-09)
②別当御房御返事 (文永11年〈1274〉)
「南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ震旦高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみて其の願の満すべきしるしにや」(0901-05)
③兄弟抄 (文永12年〈1275〉)
「法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始ならん人の弟子檀那とならん人人の大難の来らん事」(1087-08)
④法華初心成仏抄 (建治3年〈1277〉)
「法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」(0548-17)
⑤御義口伝 (弘安元年〈1278〉)
「爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり」(0803-05)
⑥九郎太郎殿御返事 (弘安元年〈1278〉)
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(1553-12)
⑦中興入道消息 (弘安2年〈1279〉)
「南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ」(1335-01)
⑧御講聞書 (弘安3年〈1280〉)
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(0807-03)
「南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(0816- 一今我喜無畏の事-05)
⑨十八円満抄 (弘安3年〈1280〉)
「今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時・日本国に弘通す」(1367-09)
したがって、これらの事例から、大聖人が妙法蓮華経の五文字を五字七字とし、あるいは南無妙法蓮華経の七文字を五字と表現されたことはその御化導に深くかかわっているものと考えられる。
ただし、先に紹介したように法華経題目抄でも南無妙法蓮華経をもって例外的に五字七字と表示されているが、これは、同抄が佐前期の御書であることから、文面のうえでは権実相対の次元で「専ら唱題の妙有を明かして信心の勝徳を歎ずる」ことに趣旨があったからと思われる。つまり、南無妙法蓮華経という唱題の功徳を明かされるために、妙法蓮華経の五字ではなく、そのような表現を採られたと拝せられる。日寛上人が仰せられているとうに、同抄の冒頭に南無妙法蓮華経と記されている所以も実はそこにある。
それゆえに、同抄において「南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて」と仰せられて、「南無妙法蓮華経の七字」、あるいは「南無妙法蓮華経の五字」とは表現されなかった理由も、ほかでもなく佐前期の御化導であったからであると拝されているのである。したがって、また、その理由は本抄をはじめとする佐後の御書でなにゆえに七文字の南無妙法蓮華経を「南無妙法蓮華経の五字」と表現されたかという理由とまさに表裏の関係をなしているといえるであろう。
要するに、「妙法蓮華経の五字七字」「南無妙法蓮華経の七字」「南無妙法蓮華経の五字」という表現は、いずれも佐後期の御書に限られているということであり、そこに大聖人の御化導に即した深意が拝せられるのである。
まず「妙法蓮華経の五字七字」という表示は、釈尊が法華経の文上において「要当説真実」の法として明かした教法が「妙法蓮華経の五字」であることを示されている一方で、その釈尊より付嘱を受け末法に弘通される法体が、実は大聖人が久遠元初に成就された三大秘法の随一たる本門の本尊、人法一箇の南無妙法蓮華経にほかならないことを明示されたものと拝察される。したがって、「南無妙法蓮華経の七字」はその意義をそのまま表されたものであろう。
これに対して、「南無妙法蓮華経の五字」は、付嘱の法体に約せば、妙法蓮華経の五字であるが、大聖人御自身が久遠元初において妙法を証得された人法一箇の妙法の当体と顕れられた意味においては南無妙法蓮華経であり、それを末法の衆生の成仏のために行ずべき法であることを示されているのである。
このことは、観心本尊抄において「事行の南無妙法蓮華経の五字」と仰せられていることに表れている。これは、天台大師の理具の一念三千と大聖人の事の一念三千との相違を明らかにされたところであり、その前後を含めて次に引用しておきたい。
「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(0253-11)
天台大師の立てた一年三千の法門は、法華経本門を踏まえながらも迹門方便品の十如実相の文を依処として展開した。いわゆる迹面本裏の一念三千である。それは十章抄に、「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども 義分は本門に限る」(1274-05)と仰せのように、三世間のうち国土世間を明かしていない迹門のみでは一年三千の義を尽くすことはできないゆえに、天台大師は本門の義分を用いて、それを裏として一念三千の法門を立てたのである。
日寛上人によれば、観心本尊抄の「一念三千其の義を尽くせり、但理具を論じて」との御文は、文底下種の本門・事の一念三千に対して、面の迹門・裏の本門を共に通じて迹門理の一念三千と名づけられたものであるという。要するに、文上の本門は一往事の一念三千といえるが、再往、文底下種の事の一念三千に対すれば理の一念三千となるということである。
天台大師は、一念三千の義を尽くし、自行においては南無妙法蓮華経と唱えたが、時の至らざる故、付嘱なきが故にそれを人に説くことはできなかった。つまり天台大師の場合、その説いたところは、どこまでも法華経の文上の域にとどまっていたのであり、法華経の文と義は尽くしても、その肝要の意は内鑒冷然としていたが、心中にとどめざるを得なかったのである。
したがってまた、妙法蓮華経の五字の題目についても、法華玄義であくまで「理」として展開したのである。それは、いわば妙法蓮華経という、釈尊が悟った法を理論的に説明したのであり、事のうえに行ずることはしなかったのである。
これに対して、大聖人の場合は、妙法蓮華経の一法を、そのような客体的な理として扱うのではなく、御自身の刹那の一念において行じ証得されたのである。すなわち、大聖人の御身に具わるところの妙法であり、その人法一箇の御当体、人に即する法の本尊なるがゆえに、事行の南無妙法蓮華経と名づけられたのである。
日寛上人が三重秘伝抄において、文底独一本門の事の一念三千を名づける理由について「人法体一の故なり」と明かされている所以もまさにそこにあろう。また文底秘沈抄では次のように仰せられている。
「事は謂く、本門の題目なり。理に非ざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり。又事を事に行ずるが故に事というなり」
これは、法華経方便品第二の「一大事因縁」の文中の「事」について釈されたものであるが、大聖人弘通の題目を、天台大師の理行の題目と区別して事行の題目とする理由について事を事に行ずるが故に」と仰せられているのである。このことは、大聖人は文底下種の事の一念三千を事実として自ら身に当てて行じ証得され、御自身が一念三千の当体として顕されたことを意味していると拝される。
文永10年(1273)御述作の義浄房御書には「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり」(0892-07)と仰せられている。
大聖人が事の一念三千の三大秘法を成就されたとは、すなわち大聖人の御命そのものが本門の本尊であり、唱え給う題目が本門の題目であり、また大聖人のおわします所がそのまま本門の戒壇であることを示されたものにほかならない。そして、無作の三身の仏果を成就したことは、まさに事の一念三千の南無妙法蓮華経の当体として、顕れ給うたということである。
日寛上人は更に、文底独一本門をもって事の一念三千の本尊と名づける所以についても、天台家における一念三千の本尊が、三千の体性・一心の体性という理を、いわゆる絵像の十一面観音として図顕したものであり、いわば「理を事に顕している」がゆえに、法体はなお理にとどまっていたのに対して、大聖人の文底独一本門は「事を事に顕す」ゆえに法体は事であり、したがって事の一念三千の本尊と名づけるのであるとされている。これは、大聖人は「事が事に行ずる」ことによって一念三千の当体として顕された御自身の生命をそのまま御本尊として顕されたことを示されている。
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124-11)との御文はその明文にほかならない。ゆえに大聖人は、「事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり」(0717-12)と仰せなのである。
次に、曾谷殿御返事においては「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(1055-06)と仰せられている点に注目したい。
というのも日寛上人が文底秘沈抄で「若し理に拠って論ずれば、法界に非ざること無し。今事に就いて論ずるに差別無きに非ず。謂く、自受用身は是れ境智冥合の真身なり、故に人法体一なり。譬えば月と光と和合するが故に、体是れ別ならざるが如し。若し色相荘厳の仏は、是れ世情に随順する虚仏なり、故に人法体別なり。譬えば影は池水に移るが故に、天月と是れ一ならざるが如し」と述べられているように、自受用身は境智冥合の真身であり、ゆえに人法体一であるとされているからである。
取要抄分段では次のように御教示されている。
「本地無作の三身とは、即ちこれ釈尊久遠実名字の三身なり。また久遠元初の自受用身と名づくるなり。自受用身とは境智冥合の真仏なり。即ち所照の境はこれ無作の法身なり、能照の智はこれ無作の報身なり。起用は即ちこれ無作の応身なり」
この御文では、本地無作の三身とは釈尊久遠名字の三身であり、それが久遠元初の自受用身と同体異名であることが述べられている。そして、自受用身は境智冥合の真仏であり、その所照の境が無作の法身にあたり、その当体を能く照らす智慧は無作の報身に配される。その境智冥合の体が衆生を救うための慈悲を起こして世に応現すること、すなわち、「起用」が無作の応身に配されるのである。
また三世諸仏総勘文抄には次のように仰せである。
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)
日寛上人はこの御文について観心本尊抄文段の序で次のように釈されている。
「久遠の故に『五百塵点』といい、元初の故に『当初』というなり。『智』の一字は本地難思の智妙なり。『我が身』等は本地難思の境妙なり、この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、『即座に悟りを開き』、久遠元初の自受用身と顕るるなり」
五百塵点劫とは、法華経久遠寿量品で明かされたように、釈尊が真実に成道した久遠の時を指しているが、『当初』の二文字はその久遠実成の時に対し、さらにさかのぼる元初の時を指して言われたものにほかならない。したがって、文中の「釈迦如来」とは法華経文上の釈尊ではなく、久遠元初の自受用身を指している。
そして、「凡夫にて御坐せし時」の「凡夫」とは、六即のうち名字即の凡夫位を示している。なぜならば、「我が身は地水火風空なりと知しめ」すとは、“一切の法は皆是れ仏法なり”と知ることと同義であるからである。このことは、天台大師の摩訶止観巻第一下に、「名字の中に於いて通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とあることによって知られる。また日寛上人が当流行事抄において次のように仰せである。
「一切の法の外に我が身無く、我が身の外に一切の法無し、故に我が身全く一切の法なり。地水火風空は即ち妙法五字なり。妙法五字の外に仏法無し、故に五大全く皆是れ仏法なり。故に其の意是れ同じ奇なり。然れば即ち釈尊凡夫の御時、一切の法は皆是れ仏法なり、我が身の五大は妙法の五字なりと知ろしめし、速やかに自受用報身を成ず、故に即座開悟と云うなり」
すなわち、釈尊が久遠元初の名字の凡夫の御時に、凡夫身の我が身がそのまま妙法の当体であることを悟って、久遠元初の自受用身と顕れられたのである。
さらに、日寛上人はこの総勘文抄の一節を境智行位の四妙に配され、「凡夫」とは名字即であり、位妙に当たる。「知」の一字は、能証の智であり、智妙である。そして、以信代慧のゆえに、智妙は信心であり、信心は唱題の始めであるがゆえに、行妙を、兼ねており、我が身が妙法の当体であると知って南無妙法蓮華経と唱えることがそのまま行妙になる。そして「我が身」等とは、所証の境であり、境妙に当たる、とされている。
日寛上人は、この四妙の下種家の本因妙とし、「即座開悟」を下種家の本果妙であると位置づけられている。さらに、この境智の二法を自受用身の色心に約して、次のように御教示されている。
「当にしるべし、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。謂く、釈尊の五大即ちこれ十法界の五大なり。十法界の五大即ち釈尊の五大なり。十法界殊なりと雖も、五大種はこれ一なり。豈十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。…またこの自受用身の心法の妙智も一念三千の南無妙法蓮華経なり。故に宗祖云く『至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足し闕滅無し』等云云。『因果俱時・不思議の一法』とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に『一法』という。因果俱時の故に『蓮華』と名づく。不思議の一法の故に『妙法』と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に『十界三千の諸法』を具足す。豈自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや」
すなわち、自受用身の色法が境であり、その心法が智である。そして、その境智はともに一念三千の南無妙法蓮華経であるゆえに自受用身は境智冥合の真仏なのである。百六箇抄に「日蓮が修行は久遠を移せり」(0862-03)と仰せのように、大聖人はこの久遠元初の姿をそのままに末法に移されたのである。
このように「南無妙法蓮華経の五字」という表現は、釈尊より付嘱された寿量文底の妙法蓮華経の五字が久遠元 初の自受用報身如来であられる大聖人の御命に活現しているのであり、その当体としての事の一念三千・人法一箇の本門戒壇の大御本尊を仰せられたものと拝されるのである。
我等と釈迦仏は同じ程の仏なり
法華経の文意のうえから、釈尊と十方の諸仏との関係について述べられたところである。すなわち、釈尊と諸仏とは同じ仏であるとはいえ、釈尊は天月であり、諸仏は水に映った月である、と。
ここで、まず「我等と釈迦仏は同じ程の仏なり」とは、爾前の諸経においては、平等意趣の観点より、諸仏と釈迦仏との一体平等が説かれていることを示されたものと拝される。つまり、諸仏の悟った法そのものはすべて平等であることから、諸経に説く仏はすべて釈迦仏なりということが成り立つのである。
しかしながら、法華経の見宝搭品に至って、久遠実成を明かす寿量品の遠序として、十方の諸仏が釈尊の分身仏であることを明らかにされている。「釈迦仏は天月の如し我等は水中の影の月なり」とはまさにこのことを指していよう。
宝塔品の段階では、釈尊の久遠実成はまだ明かされていないが、天台大師が「分身既に多し。当に知るべし成仏の久しきことを」と指摘しているように、法華経の会座に来集した無数の十方の諸仏が釈尊の分身仏であるということは、釈尊が久しい過去に成仏していたことを示唆しているのである。宝塔品が寿量品の遠序とされる所以もここにある。したがって、厳密な意味では、法華経本門寿量品に至って釈尊の久遠実成が説かれたことによって十方の諸仏が釈尊の分身であることの根拠が明らかになったといえるであろう。
このことを大聖人は開目抄に「此の過去常顕るる時.諸仏皆釈尊の分身なり」(0214-01)と仰せられている。「此の過去常顕るる」とは、寿量品で釈尊の久遠実成が明かされたことを指している。これによって、一切の諸仏が釈尊の分身であるということが明確になったのである。言い換えれば、爾前・迹門に説かれた諸仏は本門で釈尊の久遠実成が明かされることにより、ことごとく釈尊という本源的な一仏に統合されたことになるのである。このことを日寛上人は開目抄愚記で次のような譬えを用いて説明されている。
「爾前・迹門の時は、譬えば六国の諸侯、各々王と称するが如し。今顕本の時は、六国皆秦に帰するが如し。故に諸の仏は皆釈迦の眷属というなり」
つまり、釈尊が始成正覚の仏として説かれていた爾前・迹門の段階では、諸仏は六国の諸侯がそれぞれ王を名乗っているようなものであり、本門寿量品で釈尊が久遠五百塵点劫以来の仏であることが明らかにされると、秦による統一後、諸国の王が秦の始皇帝の家来になったように、釈尊のみが王として君臨し、諸仏はその所従となったのである。
爾前・迹門では、多くの諸仏が釈尊の教えの中に現れるが、その本源は明らかでなく、法華経の本門に至って久遠の釈尊が示されることによって、諸仏が釈尊の体より出生した用の仏であることが明らかになり、その源が明確になったのである。ゆえに大聖人は、法華取要抄に次のように仰せである。
「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮ぶ是なり」(0333-03)
また開目抄には「華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云」(0197-17)とも御教示されている。
諸経における阿弥陀仏や大日如来等の諸仏はすべて権に説かれた用の仏であり、天月たる釈尊に対して池に映った月の影にしか過ぎないことを知らねばならない。
次に本抄で「釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり」と仰せられているのは、本門寿量品で釈尊が久遠の本地を明かした後に「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」と述べているように、釈尊は久遠以来、この娑婆世界を本国土としてきたことを指している。
爾前・迹門では、娑婆世界は凡夫の住する煩悩充満の穢土とされ、二乗は方便土、菩薩は実報土、仏は寂光土にそれぞれ住し、これらは娑婆世界とは別の国土と説かれていたが、寿量品では一転してこの娑婆世界こそが仏の常住する寂光土であり、釈尊の本国土であることが明らかにされたのである。
したがって、娑婆世界こそ寂光の本土であり、十方の諸仏の住する国土は逆に垂迹の穢土となるわけで、例えば西方極楽浄土なるものは、衆生を導くための方便として説かれた、まさに「法華経已前のやすめ言」にすぎないことが明確になったのである。故に法華取要抄には、「当世日本国の一切衆生 弥陀の来迎を待つは譬えば 牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し」(0333-01)と述べれれ、虚妄である「西方ヘの来迎」を待つ愚かさを指摘されている。
さらに大聖人は本抄において、教主釈尊の分身たる十方の諸仏も同じく娑婆世界に住して法華経の行者を守護することを述べられている。これは、法華経の説相よりも一重立ち入った大聖人の内証の法門と拝される。
なぜならば、法華経の嘱累品第二十二に、「爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来りたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめたまわんとして、是の言を作したもう。諸仏各、所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもうべし」とあり、宝塔品で来集した十方の諸仏は属累品でそれぞれ本土に帰ったとされているからである。
このことは大聖人も報恩抄において「東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ」(0296-02)と述べられている。
阿弥陀仏等の諸仏は他土の仏であり、釈尊のみがこの娑婆世界に有縁の教主であるということは諸御書に説かれている通りである。すなわち、釈尊は五百塵点劫の昔に成道して以来、教化してきた衆生が十方に充満しているゆえに、東方に分身して薬師如来と示現し、あるいは西方に分身して阿弥陀如来と示現して血縁の所化の衆生を利益したのである。しかしながら、こうした阿弥陀等の諸仏は、久遠の本仏たる釈尊が方便としてその他身を説いたものである。すなわち、寿量品に「或説他身」と説かれているのがそれである。
すなわち、十方の諸仏が娑婆世界に住して法華経の行者を守護せんとの御文は、久遠元初の御本仏の仏身に具わるところの十方の諸仏における因縁果報を説かれたものである。このことは、開目抄の次の御文と照らして明らかであろう。
「されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なりへり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし」(0216-18)
これは、諸経に説かれる諸仏・菩薩・人天等が法華経によって成道したことから、それぞれ法華経に深恩を負っているがゆえに、法華経の行者を守護することは道理であることを指摘されたものであり、これもまた大聖人の御境界に即して、大聖人の御身に具わる諸仏等の用きを述べられたものにほかならない。
0359:12~0359:18 第四 法華経説法と観音・勢至喜薩top
| 12 其の時阿弥陀仏の一二の弟子・観音・勢至等は阿弥陀 13 仏の塩梅なり雙翼なり左右の臣なり両目の如し、 然而極楽世界よりはるばると御供し奉りたりしが無量義経の時・ 14 仏の阿弥陀経等の四十八願等は未顕真実乃至法華経にて 一名阿弥陀と名をあげて 此等の法門は真実ならずと説き 15 給いしかば実とも覚へざりしに 阿弥陀仏正く来りて合点し給いしをうち見て さては我等が念仏者等を九品の浄土 16 へ来迎の蓮台と合掌の印とは虚しかりけりと聞定めてさては 我等も本土に還りて何かせんとて 八万二万の菩薩の 17 うちに入り或は観音品に遊於娑婆世界と申して 此の土の法華経の行者を守護せんとねんごろに申せしかば、 日本 18 国より近き一閻浮提の内・南方・補陀落山と申す小所を釈迦仏より給いて宿所と定め給ふ、 -----― その時、阿弥陀仏の第一・第二の弟子である観音菩薩と性至菩薩等は阿弥陀仏のあたかも按配であり、鳥の領翼のようなものであった。また左右の臣下であり、両目のようなものであった。この二菩薩は極楽浄土からはるばると阿弥陀仏のお供をしてきたが、釈尊は無量義経において、阿弥陀経等の四十八願等の法門を未顕真実と説かれ、さらに法華経において一名阿弥陀仏とその名を挙げて、これらの法門が真実ではないと説かれたのである。 それを聞いた二菩薩はまさか真実であるとも思わなかったが、阿弥陀仏が来て確かに同意されたのを目のあたりにし、それならば我らが念仏者等を九品の浄土へ迎えるための蓮台と合掌の印とは虚妄であると理解したのである。 それでは、自分達も本土の極楽世界に戻っても仕方がないとして、八万あるいは二万という無数の菩薩の中に入り、観世音菩薩普門品第二十五に「娑婆世界において遊ぶ」と説かれているように、この娑婆世界において法華経の行者を守護しようと懇ろに誓われたのである。日本国に近い一閻浮提の中の南方にある補陀落山という小さな場所を釈迦如来から賜り、そこを住所と定められた。 |
大聖人はここで、観無量寿経では、西方極楽浄土の阿弥陀如来、および、その脇士である観音・勢至菩薩が、共に法華経の会座に連なり、以後、この娑婆世界を住処とすることを指摘されている。
さらに勢至菩薩は、得大勢菩薩の名で常不軽菩薩品第二十の対告宗として登場し、観音菩薩は観世音菩薩普門品第二十五で、「云何がしてかこの娑婆世界に遊ぶ。云何がしてか衆生のために法を説く。方便の力其の事云何」との無尽意菩薩の問いに釈尊が答えて、33身を現じて諸の国土に遊び衆生を救済すると説かれている。観音品には、次のようにある。
「善男子、若し無量千万億の衆生有って、諸の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞いて、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時に其の音声を感じて、皆解脱することを得せしめん。」
このように、観音菩薩が33身に化身して、衆生を救済するであろうと説くこの品は、後代に独立して観音経といわれ、土俗信仰と混合して日本中に広まったが、もとより南無観世音菩薩ととなえることは、法華経の本来の意義を汲むものではなかった。観世音菩薩の自在神力を説く法華経を信受することが前提となっていなければならないからである。大聖人は御義口伝で次のように御教示されている。
「今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり、所詮観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり観とは法界の異名なり既に円観なるが故なり」(0776-第二観音妙の事第二観音妙の事-02)
観無量寿経においては、観音・勢至菩薩は阿弥陀仏の脇士とされているが、これは阿弥陀仏を他仏として説く爾前・迹門の所談であり、法華経本門では、先に述べたように、阿弥陀仏は久遠実成の釈尊の分身であることが明らかにされている。したがって、これらの諸菩薩と釈尊との関係も本門の意から問いなおさなければならない。このことは開目抄にも明確に述べられている。
「今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず 何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや」(0214-15)
このように、阿弥陀如来・薬師如来等の諸仏が釈尊の分身たることが明らかになった以上、それら諸仏の弟子とされていた観音・勢至等の諸菩薩もその根源を尋ねればことごとく釈尊の弟子であったことが明らかになるのである。爾前・迹門はその根源を明らかにしていないゆえに、当分の意をもって阿弥陀如来等の弟子と名づけていたのである。言い換えれば、爾前権教で説かれる諸仏・諸菩薩はことごとく法華経によってはじめて、その真実の立場、働きが明らかになったのである。
この意味において、阿弥陀の48願等も、法華経が説かれなければ、すべて虚妄の教えであり、法華経を離れては阿弥陀仏自身、虚仏に過ぎない。なぜならば、無量寿経において、48願のすべてを成就して仏になったと説かれる阿弥陀仏も実は法華経を種子として正覚を成じたのである。大聖人は次のように仰せられている。
「弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず」(0115-16)
これは、法華経迹門で説かれる阿弥陀仏について述べられたものであるが、三世十方の諸仏は妙法蓮華経の五字を種子として成道されたのである。また、大聖人は本抄で具体的に観音・勢至菩薩の行動と心情を描かれている。これは仏法の道理の上から当然のこととしてわかりやすく説かれたものと拝される。
0359:18~0360:07 第五 二乗の成仏を説かない阿弥陀経top
| 18 阿弥陀仏は左右の臣下 0360 01 たる観音勢至に捨てられて西方世界へは還り給はず 此の世界に留りて法華経の行者を守護せんとありしかば 此の 02 世界の内・欲界第四の兜率天・弥勒菩薩の所領の内・四十九院の一院を給いて 阿弥陀院と額を打つておはするとこ 03 そうけ給はれ、其の上.阿弥陀経には仏・舎利弗に対して凡夫の往生すべき様を説き給ふ、舎利弗・舎利弗.又舎利弗 04 ・と二十余処まで いくばくもなき経によび給いしは かまびすしかりし事ぞかし、然れども四紙の一巻が内すべて 05 舎利弗等の諸声聞の往生成仏を許さず 法華経に来りてこそ 始て華光如来・光明如来とは記せられ給いしか一閻浮 06 提第一の大智者たる舎利弗すら 浄土の三部経にて往生成仏の跡をけづる、 まして末代の牛羊の如くなる男女・彼 07 彼の経経にて生死を離れなんや、 -----― 阿弥陀仏は左右の臣下たる観音菩薩・勢至菩薩に捨てられて、西方世界へ帰られず、この娑婆世界に留まって法華経の行者を守護しようといわれたので、この世界の内の欲界第四の兜率天にある弥勒菩薩の所領の中の四十九院の一院を賜って、そこに阿弥陀院と額を掲げて住まわれているとうかがっている。 その上、仏は阿弥陀経においては舎利弗に対して、凡夫が往生する様子を説かれたのであるが「舎利弗」「舎利弗」「また舎利弗」とその長くもない経典の中で二十数個所にもわたって呼ばれたのは騒々しいばかりであった。しかし、四紙の阿弥陀経一巻の中には、どこにも舎利弗等の声聞たちの往生成仏を許していない。法華経に至って初めて華光如来や光明如来という記別を与えられたのである。 一閻浮提第一の大智者である舎利弗ですら、浄土三部経では往生成仏したという事実の跡はない。まして牛や羊のような末法の男女がこれらの経々によって生死の迷苦を離れることがどうしてできるだろうか。 |
浄土三部経によっては成仏できず、往生も空しいことを述べられているところである。なるほど、阿弥陀経には「凡夫の往生すべき様」を説いている。すなわち、釈尊は舎利弗に呼びかけて次のように述べている。
「若し善男子、善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで、阿弥陀仏は諸の聖衆とともに、現に其の前に在す。其の人終わる時に心顚倒せずして、即ち阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを得ん」
しかしながら開目抄において「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり」(0197-10)と指摘されているように、阿弥陀経も含めて爾前権教においては二乗自身の作仏が説き明かされていないのである。
阿弥陀経は経巻用の紙四枚で完結する極めて短い経典である。にもかかわらず、釈尊はその短い経の中で舎利弗の名前を30度も呼んでいる。
大聖人はこの阿弥陀経を取り上げ、舎利弗・舎利弗とやかましいほど呼びかけていながらも、この経は舎利弗の成仏は許していないことを指摘し、舎利弗など声聞の成仏は法華経にきて初めて許されたことを強調されている。つまり智慧第一の舎利弗ですら阿弥陀経においては往生も成仏も許されなかったのであるから、まして、無智の末法の衆生が阿弥陀経によって極楽往生できるわけがないではないか、といわれているのである。
一代聖教大意には次のように仰せである。
「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但 権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には 九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し」(0403-09)
たとえ阿弥陀経で凡夫の往生が説かれていても、極楽浄土も、そこに住する阿弥陀仏自体も架空のものに過ぎないのである。阿弥陀経の極楽往生は、たんに九界を厭うのみに終わっているといってよい。それは凡夫の現世への執情を打ち破るために説かれたのであって、それ以上の意味はもらえないのである。ゆえに日寛上人は開目抄愚記で、このような爾前権教における成仏往生を有名無実と断じられている。
さらに、小乗大乗分別抄には、「法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人・一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」(0522-01)と仰せられているように、一切衆生の十界のそれぞれに十界を具えている故に、十界の中の二乗が成仏しないということは、とりもなおさず他の八界に具わる二乗界も成仏しないということであり、そうであれば八界そのものの成仏ということになって、結局、九界の衆生の成仏はありえないということをならざるを得ない。
「若し二乗作仏を明かさざる則は菩薩・凡夫も作らず。是れ即ち菩薩に二乗を具うれば所具の二乗、仏に作らざる則は能具の菩薩、豈、作仏せんや」
菩薩界の衆生も二乗の生命を具えているから、もし二乗作仏が明かされなければ、菩薩も凡夫も成仏することはできなのである。したがって、二乗を永不成仏としたままで、いかに菩薩・凡夫の成仏を説いても、菩薩・凡夫の成仏も有名無実たることを免れない。法華経に至って二乗作仏が明かされてはじめて一切衆生の成仏が可能となったのである。
0360:07~0360:16 第六 法華経を貶する念仏の諸師top
| 07 此の由を弁へざる末代の学者等・並に法華経を修行する初心の人人かたじけなく 08 阿弥陀経を読み念仏を申して或は法華経に鼻を並べ、 或は後に此れを読みて法華経の肝心とし 功徳を阿弥陀経等 09 にあつらへて 西方へ回向し往生せんと思ふは譬へば飛竜が驢馬を乗物とし 師子が野干をたのみたるか将又日輪出 10 現の後の衆星の光・大雨の盛時の小露なり、 故に教大師云く「白牛を賜う朝には三車を用いず、家業を得る夕に何 11 ぞ除糞を須いん」、 故に経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」又云く「日出でぬれば星隠れ巧を見て拙を 12 知る」と云云、 法華経出現の後は已今当の諸経の捨てらるる事は勿論なり たとひ修行すとも法華経の所従にてこ 13 そあるべきに今の日本国の人人・道綽が未有一人得者・善導が千中無一・慧心が往生要集の序・永観が十因・法然が 14 捨閉閣抛等を堅く信じて 或は法華経を抛ちて一向に念仏を申す者もあり、 或は念仏を本として助けに法華経を持 15 つ者もあり或は弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて 左右に念じて二行と行ずる者もあり 或は念仏と法華経と一法の 16 二名なりと思いて行ずる者もあり、 -----― この次第を弁えない末代の学者等や法華経を修行する初心の人々は、阿弥陀経をありがたがって読み念仏を称え、あるいは阿弥陀経を法華経に鼻を並べ、あるいは法華経の後に阿弥陀経を読んで法華経の後に阿弥陀経を読んで法華経の肝要であると考え、阿弥陀経等の功徳をたよりにして西方極楽浄土へ回向しようと思っている。 これらは、譬えば驢馬を乗り物とし、師子が野干を頼りとするようなものである。また阿弥陀経は太陽が出た後の星の光・大雨が降っている時の一滴の露のようなものである。 故に伝教大師は「大白牛車を賜った暁には羊車・鹿車・牛車は必要なく、また長者の家業を継いだ後にどうして糞掃除の仕事が必要であろうか。故に法華経方便品には『正直に方便を捨てて但無上道を説く』と説かれている」といい、また「太陽が出れば星はかくれ、巧みなものを見れば拙なさがわかる」と述べている。 法華経が出現した後は已今当の諸経が捨てられることは当然である。たとえそれらの諸経を修行するとしても法華経の所従として位置づけられるべきであるのに、今の日本国の人々は道綽の「未有一人得者」、善導の「千中無一」、慧心の往生要集の序、永観の「往生十因」、法然の「捨閉閣抛」等を堅く信じて、ある者は法華経をなげうってただひたすら念仏を称え、ある者は念仏を正行として法華経を助行とし、またある者は阿弥陀経と法華経とを同等なものとして鼻を並べる如く、ともに念じて二行とし、またある者は念仏と法華経とは名が異なっても同じ一つの法であると思って修行している。 |
ここでは、法華経を知りながら、不成仏・不往生の阿弥陀経と法華経を並べたり、あるいは法華経を軽んじて用いる愚かさを厳しく指摘されている。法華経以外の教えは用いてはならないとの文証として、伝教大師の顕戒論序分の文を引かれている。この顕戒論の文は、法華経譬喩品第三における三車火宅の譬え、信解品第四における長者窮子の譬えに基づいたものである。
《三車火宅の譬え》
長者の古くなった大きな家が、ある日突然火事になった。ところが長者の子供達は、火事に気がつかずに家の中で遊びに夢中になっていた。父の長者は子供達を救おうとして、子供たちの欲しがっていた羊や鹿や牛の車が門の外にあるから、それで遊びなさい、すぐに家から出るようにと言った。喜んで家から出てきた子供達に長者は大白牛車を与えたという。大白牛車とは一仏乗の教えである法華経を意味し、羊・鹿・牛の三車は仏が方便として説いた声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の法を譬えている。
したがって、「白牛を賜う朝には三車を用いず」とは、法華経が説かれたのちは、方便である爾前権教を用いるべきでないことを示したものである。
《長者窮子の譬え》
ある国に限りない財宝を持ち、何不自由ない暮らしをしている長者がいた。長者は、幼い時、家を飛び出して行方不明になっている息子を探していた。家を出て50年、諸国を流浪して窮迫した息子は衣食を求め、知らずしらずのうちに生まれた故郷に帰り、雇われ人として父の城にやってきた。ところが息子は、父のあまりに立派な姿を見てかえって恐怖の念を抱き、自分のようなものが働く所ではないと思って、そこを逃げ出した。父は息子であることを知ってひきとめようとしたが、息子は長者が父であることがわからず、何の罪もなく捕らえられたのはきっと殺されるに違いないと思って、煩悶して地上に倒れてしまった。そこで長者は一計を案じ、風采のあがらない人間を息子のもとにやり説得して使用人として雇い入れることにした。まず便所掃除の仕事を与え、次第に大事な仕事を任せるようにした。長者はいよいよ臨終の折、息子に真実を打ち明け、財産のすべてを相続させたという。
これはまさに「無上宝聚不求自得」を譬えている。無上の宝聚とは一乗真実の法華経である。
顕戒論の「実家を得るに夕に何ぞ除糞を須いん」との言葉は、息子が家業を継いで財産を相続したうえは、方便として与えられた便所掃除の仕事は最早必要ないことを述べたものであり、これもまた法華経が説かれた以上、爾前権教は不要となることを示しているのである。
また、「日出でぬれば星隠れ巧を見て拙を知る」の一文は、健抄及び禄内扶養にはその出典についての言及がなく、安国院日講の禄内啓蒙は、顕戒論の文ではないとしたうえで、類似の文が竜樹の大智度論に見られると指摘している。また、禅智院日好は禄内捨遺で、天台法華宗伝法偈にある偈「今、日出て星収り、巧を見て陋を知る」との文を挙げて、大聖人が伝法偈の異本によったためかも知れないと推定している。
いでずれにせよ、この文の意味するところは、高次の法門である法華経が説かれた後には、低次の爾前の諸法門は無用のものとなるということである。釈尊が無量義経において「四十余年未顕真実」と述べ、法華経の方便品第二で「正直捨方便・但説無上道」と説いているにもかかわらず、中国・日本の仏教者の中には法華経を阿弥陀経等よりも下位に位置付け、あるいは法華経は末法の浅機の衆生には難しすぎると称して易行の念仏を重視する人々が絶えなかった。
大聖人はここで、そうした浄土門の推進者の名を挙げ、その邪義を一言に要約して示されている。「道綽が末有一人得者」「善導が千中無一」「慧心が往生要宗の序」「永観が十因」及び「法然が捨閉閣抛」がそれである。善導の「千中無一」法然の「捨閉閣抛」については既に触れたので、ここでは道綽の「未有一人得者」の邪義に言及しておきたい。
周知のように、日本に広まった浄土信仰は、中国の曇鸞・道綽・善導の流れをくむものであった。まず道綽が往生論註を著し、竜樹の十住毘婆沙論の難行道と易行道の語を恣意的に引いて、十悪五逆の造罪悪人も易行道によって往生できると説いた。続いて、曇鸞の影響を受けた道綽が安楽集二巻を著し、往生論註の所説を大集経月蔵分により正当化した。大聖人が引用された語句の前後には次のようにある。
「問うて曰く、一切衆生皆仏性有り、遠劫より以来応に他仏に植えるなるべし。何に因ってか今に至るまで、仍自ら生死に輪廻して火宅を出でざるや、答えて曰く、大乗の聖教に依る良に二種の勝法を得て以て生死を排わざるに由る。是れを以て火宅を出でず。何をか二と為す。一には謂く聖道、二には理深く解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く。我末法時中の億々の衆生は行を起こし道を修えんに、末だ一人も得る者有らず。当今は末法現に是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」
このように、道綽は釈尊の一代仏教を聖道門と浄土門に分け、五濁悪世の末法においては「一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る」という二つの理由から、聖道門は「末有一人得者」であるとして斥けたのである。そして、道綽は、その根拠として大集月蔵経の文を挙げたのである。
曇鸞の易行道・道綽の浄土門の考え方を踏まえ、道綽の弟子・善導が、中国浄土宗としてこれを組み立てたのであるが、ここでは、もう少し曇鸞の難行・易行と道綽の聖道・浄土の考え方について見ておきたい。元来、道綽における聖道門と浄土門という一代仏教の立て分けが、曇鸞の難行道と易行道という立て分けに基づいたものであることは明らかである。
日寛上人は撰時抄愚記で次のように指摘されている。
「この師の聖道・浄土の二門は鸞公の難易の二道に異らず。故に選択集に云く『難行・易行、聖道・浄土は其の言は殊なりと雖も、其の意は是れ同じ』等云云。既に『其の意は是れ同じ』という。故にまたその謬りもこれ同じきなり」
すなわち、道綽の聖道・浄土二門は曇鸞の難行道・易行道をそのまま受け継いだものであるから、その誤りも曇鸞における難易の二道という立て分けにもともと由来しているといえる。そこで、道綽の難易の二道について若干掘り下げてみよう。
曇鸞の往生論註の冒頭に次のようにある。
「謹みて案ずるに竜樹菩薩の十住毘婆沙に云く、菩薩、阿毘跋到を求むるに二種の道有り、一には難行道、二には易行道なり。難行道とは謂わく。五濁の世、無仏の時に於いて阿毘跋致を求むるを難しと為す。…譬えば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは謂わく、但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願すれば、仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得。…譬えば水路の乗船は即ち楽しきが如し。」
曇鸞は、竜樹の十住毘婆沙論に基づいて難易の二道を立てたのである。
ちなみに竜樹の十住毘婆沙論には次のようにある。
「阿惟超致地は是の法甚だ難し、久しくして乃ち得べし…汝、若し必ず此の方便を開かんと欲せば、今当に之を説くべし。仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有り。陸路の歩行則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩道も亦、是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て、易行にして疾く阿惟越致に至る者有り」
竜樹の十住毘婆沙論は、華厳経十地品に説かれる菩薩の十地のうち初地と二地を注釈したもので、発菩提心品第六から阿惟越致相品第八まで難行道が説かれ、易行品第九では易行道が説かれている。すなわち、菩薩が十地の第一である不退地に至るのに、自ら勤行精進して行く道を陸路の歩行に譬えて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水道の乗船に譬えて易行道としている。
ところが、曇鸞はこの竜樹の真意を曲げて使ったのである。この点について日寛上人は撰時抄愚記で、「本論違背」として次のように三点にわたって糾弾されている。
「この本論の意は、通じて仏道に難あり、通じて仏道に難あり、易あるを明かす。然るに鸞公ば別して無仏五濁の時に訳す〈第一〉
また本論の意は、歴劫長遠の教を以て難行と為す。故に『久しくして乃ち得べし』『勤行精人』等という。然るに鸞公は此土入聖を難行と為す。〈第二〉
また本論の意は、此土不退に約して易行を明かす。故に『此の身に欲せば』等という。然るに鸞公は、浄土に往生するを易行と為す〈第三〉
豈本論相違に非ずや」
すなわち、第一に竜樹が十住毘婆沙論において難行と易行に分けているのは、仏法に無量の門があるなか、広く菩薩道に難易の二行があるとし、ある時は信方便の易行を修し、ある時は精進して難行を修する旨を示したものであり、それを曇鸞は、無仏五濁の時に限定して解釈し、こうした濁世に阿毘跋致を求めることは難行であるとしている。これは明らかにスリカエである。
第二に、十住毘婆沙論における難行道の趣旨は、いまだ阿惟越到地に至らない菩薩のために示された歴劫修行のことを説いたものである。しかしながら、曇鸞は娑婆世界において凡夫が聖位に入ることが難行であると曲げて解している。
第三に、これは第二の点と関連しているが、竜樹の十住毘婆沙論の易行として立てているのは、「若し菩薩、此の身に於いて阿惟越致地に至ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就せんと欲せば、応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称すべし」と述べているように、菩薩がこの娑婆世界において不退の位を得るために仏の名号を称することを言ったものなのであり、曇鸞が釈したように浄土に往生する行を易行としたのでは決してない。
このように、曇鸞は竜樹の十住毘婆沙論に則っているかのように装って、その実は我見を立てたのである。
さらに日寛上人は、曇鸞に、「執権謗実の失」があるという。つまり、竜樹の立てた難易の二道は、あくまで爾前権教の範囲において菩薩道を難行と易行に分けたものである。にもかかわらず法華経を雑行として排斥するのは、まさに先判の権教に執して後判の実教たる法華経を誹謗していることになる。
大聖人は守護国家論で次のように喝破されている。
「竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり」(0053-15)
また当世念仏無間地獄事には、「十住毘婆沙論の一部始中終を開くに全く法華経を難行の中に入れたる文之無く只華厳経の十地を釈するに第二地に至り畢つて宣べず、又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに菩薩難行道に堕し二乗地に堕して永不成仏の思を成す由見えたり法華已前の論なる事疑無し十住毘婆沙論の一部始中終を開くに全く法華経を難行の中に入れたる文之無く只華厳経の十地を釈するに第二地に至り畢つて宣べず、又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに菩薩難行道に堕し二乗地に堕して永不成仏の思を成す由見えたり法華已前の論なる事疑無し」(0109-11)と述べられている。
そして、道綽の聖道・浄土の二門は、こうした曇鸞の難易の二道を基本的に受け継いだものであり、その意味で道綽に対する破折も以上の中にすべて含まれるといえるが、日寛上人は、別して道綽における二失を指摘されている。
一つには、所立不成の失であり、これについては次の三点を挙げられている。
第一に、道綽の安楽集では、すでに見たように、聖道門を斥け浄土門を立てる根拠として、「大聖去ること遥遠」「理深解微」を挙げているが、道綽のいう聖道とは曇鸞の立てた難行道にあたっている。これは、歴劫修行の権大乗であり、釈尊在世においても難行・雑証であることに変りはない。したがって、道綽の「大聖を去ること遥遠なるに由る」という言葉は明らかに矛盾しているのである。
第二に、軽病は凡薬、重病には仙薬を与えるのは道理であり、したがって「理深ならば則ち解微に非ず、解微ならば則ち理深に非ざることを」弁えなくてはならない。もっとも勝れた教えであれば、下根の衆生をも救う力があるとするのが仏法の道理なのであるから、「理深解微」ということ自体、道理に反した考えである。
第三に、安楽集では「末有一人得者」の文証として、大集月蔵経を引いているが、同経にはこの文はなく、まったくの捏造に過ぎない。また、これを経文の取意の文としている見方もあるが、そもそも大集月蔵経では、五濁悪世の末法において白法隠没すると説いているのは「浅理穏没の義」である。ところが、安楽集では、これを「深理穏没の義」に曲解しており、取意の文にもなっているのである。つまり道綽は大集経の名を借りて己義を正当化しようとしたに過ぎない。このゆえに、日寛上人は「所立不成」と破折されたのである。
大聖人は法華初心成仏抄で次のように仰せである。
「浄土宗の人人・末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみと云ひ又当今末法は是れ五濁の悪世唯浄土の一門のみ有て通入す可き路なりと云つて虚言して大集経に云くと引ども彼の経に都て此文なし、其の上あるべき様もなし仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり」(0549-01)
このように、道綽の聖道・浄土の二門によって唱えられた「末有一人得者」は根拠のない妄説に過ぎないのである。
また、善導も、教義的には曇鸞・道綽から受け継いでいるのであるから、同じ誤謬を犯していることは当然である。のみならず、善導は正行・雑行という法門を立て、法華経等を「雑行」として貶め、浄土信仰を「正行」と称し、明確に法華経を排斥したのである。法然の「捨閉閣抛」の主張は、直接的には、この善導の「捨雑」を継承したものと言える。
日本の専修念仏は法然から始まるが、浄土信仰は飛鳥・天平に遡る。また天台大師の法門の中でも念仏は修行の一つとして用いられていた。天台大師の摩訶止観に説かれる四種三昧のうち常坐三昧が雑行であるとして、助行の方便として阿弥陀仏の口唱をすすめた。これが日本天台宗における称名念仏の始まりであるとされている。
そうしたなかで天台僧源信は往生要集を著したのである。この著作は、極楽浄土に生まれることを意図して、それに必要な経論の文を集めて一書としたものであり、その序分に、「夫れ一に非ず。事理の業因、其の行惟れ多し。利智精進の人は末だ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、豈敢てせんや。是の故に念仏の一門に依りて聊か経論の要文を集む。之を披いて之を修すれば覚り易く行じ易からん」とある通り、自分のように「頑魯の者」であっても修行できるのが念仏であるとしている。
この文について、大聖人は守護国家論で、「此の序の意は慧心先徳も法華真言等を破するに非ず但偏に我等頑魯の者の機に当つて法華真言は聞き難く行じ難きが故に我身鈍根なるが故なり敢て法体を嫌うに非ず」(0053-04)と仰せられている。
すなわち、この慧心の言葉は、末代の浅機の衆生にとって念仏が易行であることを述べたもので、法体そのものの勝劣を判じたものではない。元来、釈尊が無量義経において「四十余年未顕真実」といって爾前経を排したのは、法体に約して権実の相対を示したものである。慧心は、この法華経の意義をよく知っていたので、法華経を排斥することは毛頭のべていない。
大聖人は、慧心の往生要集について、守護国家論においては「慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり、例せば仏の四十余年の経を以て権機を調え法華経に入れ給うが如し」(0054-13)と述べている、後に著した一乗要決に意義があるとして、「権を先にし実を後にする宛も仏の如く亦竜樹・天親・天台等の如し」(0055-03)と仰せられている。
しかし、慧心の本意とは別に、その著は法然の専修念仏弘経に利用されるところとなった。ゆえに撰時抄においては、慧心を慈覚・安然とともに「伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(0286-14)と仰せられているのである。
この点について日寛上人は「例せば国家論には、法然を破せんが為に、浄土の三師は爾前経に於て勝劣を判じ、法華・真言を雑行とはいわずと判じたまう。恵心の往生要宗も、後に一乗要決を作る。前方便なる故に権を先とし、実を後にす。宛も仏の如しと称歎したまう。これは一応なり、諸御書に浄土の三師並びに慧心の往生要集を破したまう。これは、再往の実義なり」と御教示されている。
本抄においても、慧心の往生要集の序を道綽の末有一人得者、善導の千中無一、法然の捨閉閣等と並べ挙げられているのは、日寛上人のいわれる“往生”の意であることはいうまでもない。
次に、本抄では永観の十因を挙げられている。この永観は東大寺の僧で三論宗の学匠として知られ、阿弥陀仏の一行に十の功徳が具われとして専修念仏に徹したといわれる。
その十の功徳がいわゆる往生の十因であり、以下に列挙しておく。
①広大善根
②衆罪消滅
③宿縁深厚
④光明摂取
⑤聖衆護持
⑥極楽化生
⑦三業相応
⑧三昧発得
⑨法身同体
⑩随順本願
0360:16~0361:06 第七 三徳具備の釈尊を差しおく念仏者top
| 16 此れ等は皆教主釈尊の御屋敷の内に居して 師主をば指し置き奉りて阿弥陀堂 17 を釈迦如来の御所領の内に 国毎に郷毎に家家毎に並べ立て 或は一万・二万或は七万返或は一生の間一向に修行し 18 て主師親をわすれたるだに不思議なるに、 剰へ親父たる教主釈尊の御誕生・御入滅の両日を奪い取りて、十五日は 0361 01 阿弥陀仏の日・八日は薬師仏の日等云云、 一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり 是豈に不孝の者にあら 02 ずや逆路七逆の者にあらずや、 人毎に此の重科有りてしかも人毎に我が身は 科なしとおもへり無慚無愧の一闡提 03 人なり、法華経の第二の巻に主と親と師との三大事を説き給へり 一経の肝心ぞかし、 其の経文に云く「今此の三 04 界は皆是れ我有なり 其中の衆生は悉く是れ吾が子なり、 而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為 05 す」等云云、 又此の経に背く者を文に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず、 乃至其の人命終して阿鼻獄に 06 入らん」等云云、 -----― これらは、皆、教主釈尊の御屋敷内にいながら、師でもあり主でもある釈尊をさしおいて、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領内の各国ごとに各郷ごとに、また各家ごとに並べ建てて、あるいは一万遍・二万遍、あるいは七万遍と念仏を称え、あるいは一生の間ひたすらに念仏の修行をしているのである。このように主師親を忘れることさえ不可解なことであるのに、それに加えて親父である教主釈尊の御誕生の日と御入滅の両日を奪い取って、御入滅の十五日は阿弥陀仏の日、また御誕生の八日は薬師仏の日である等と言っている。 釈尊の御誕生と御入滅の両日を東方の薬師如来と西方の阿弥陀如来の誕生と入滅の日にしてしまったのであり、これはまさに不孝の者ではないか。師敵対・七逆罪を犯す者ではないか。彼らはそれぞれの重罪を犯しておりながら、しかもそれが自分には罪はないと思っている。まさに恥知らずで一闡提の輩なのである。 釈尊は法華経巻第二に主と親と師という三大事を説かれており、これがまさにこの一経の肝心なのである。その経文には「今この三界は皆我が所有である。その中の衆生は悉く我が子である。しかも今この世界は諸の苦悩に満ちている。これを教えるのは唯我一人である」と説かれ、また、この経に背く者に関しては「またいかに教え諭してこれを信受しない。(乃至)こも人の死後は必ず阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。 |
ここでは、法然の専修念仏のみではなく、それ以前から行われていた、釈迦仏と並べて阿弥陀仏を信仰するのも、主師親の三徳を具える釈尊への忘恩・師敵対の振る舞いであると厳しく指弾されている。そして、釈尊が主師親の三徳を具備していることを示した法華経譬喩品第三の文を再び引かれている。
引用された譬喩品の文について大聖人は次のように仰せられている。
「経に今此の三界は皆是我有なりと説き給うは主君の義なり其の中の衆生悉く是れ吾子と云うは父子の義な而るに今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為すと説き給うは師匠の義なり」(0097-09)
上の御文を図示すれば次のようになる。
「今此の三界は皆是我有なり」 主徳
「其の中の衆生悉く是れ吾子」 親徳
「今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為す」 師徳
本抄では先に、大聖人自身が日本国の衆生にとって主であり親であり師であられることを明かされたが、ここでは阿弥陀信仰が釈尊への師敵対となることを示すために、釈尊が主師親を具えた仏であることを強調されているのである。西方浄土の阿弥陀仏は娑婆世界の衆生に対しては全く主師親の三徳を具えた仏ではないゆえに、娑婆世界の衆生にとって、本尊として崇める対象とはなりえないのである。このことは諸御書でお示しである。
まず一谷入道殿御書には、「阿弥陀仏は十万億のあなたに有つて此の娑婆世界には一分も縁なし」(1328-13)と。祈禱抄には「諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又『其中衆生悉是吾子』とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり」(1350-09)と。阿弥陀仏等の諸仏は、世尊であるから、一応主君であるけれども、娑婆世界に出現して化導するのでないから娑婆の衆生にとっては師でもなく親でもない。娑婆世界の衆生にとって主師信の三徳を具備しているのは釈尊であることを示されている。
同じことは南条兵衛七郎殿御書にも、法華経譬喩品の「今此三界」の経文を引かれたうえで、「此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、 不孝第一の者なり」(1494-04)と仰せられている。
娑婆世界の衆生にとって主師親の三徳を備えた仏は釈尊のみであり、したがって釈尊こそ大恩ある仏であるといわねばならない。
「而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む 故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや」(0097-12)と仰せられているように、浄土宗は主師親である釈尊の命に背いて阿弥陀仏を崇めているのである。
これは、いってみれば主君の命に背く逆賊の徒であり、朝敵ともいうべき存在である。その罪は八逆罪に当たるのである。この八逆罪とは、主君に背く罪を八種に分けたものである。
さらにこの御文の次下には、「次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや、次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり争か悪道に堕ちざらんや此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は 二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり」(0097-13)と。父に背くのは五逆罪に当たり、師匠に背くのは七逆罪に当たるとされ、主師親に背く罪は合わせて二十逆罪になると指摘されている。
日本中の人々は、こうした重罪を犯しているにもかかわらず、このことを自覚せず自分は何の罪もないと思っているために、大聖人はこれらの人々を「無慚無愧の一闡提人」と嘆かれているのである。
0361:06~0361:12 第八 正法誹謗者の悲惨な末路top
| 06 されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて 千中無一といいし故に現 07 身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ 堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで 十四日が間・顛倒狂死 08 し畢んぬ、 又真言宗の元祖・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねたる教主釈尊・法王を立下て大日 09 他仏をあがめし故に善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず 又無間地獄に堕ちぬ、 汝等此の事疑あらば 10 眼前に閻魔堂の画を見よ、 金剛智・不空の事はしげければかかず、 又禅宗の三階信行禅師は法華経等の一代聖教 11 をば別教と下だす我が作れる経をば普経と崇重せし故に 四依の大士の如くなりしかども 法華経の持者の優婆夷に 12 せめられてこえを失ひ現身に大蛇となり数十人の弟子を呑み食う。 -----― それでは、念仏者の本師である善導はいわゆる「其の中の衆生」に入らないのか。彼は「これを教えるのは唯我一人のみである」という法華経の経文を破棄して「千中無一」と言ったために現身に狂人となって柳の木にに登り身を投げ、堅い地面に落ちて死に切れず、十四日から二十七日までの十四日間、もだえ苦しんで狂い死にしてしまった。 また真言宗の元祖である善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねている教主釈尊という法王を軽んじて大日如来という他仏を崇めたために、善無畏三蔵は閻魔王の責めをうけたばかりでなく、無間地獄へ堕ちてしまったのである。あなたがこのことを疑うのであれば、閻魔堂の画を眼前に見よ。金剛智三蔵や不空三蔵のことは繁多になるので書かないことにする。 また禅宗の三階教を開いた信行禅師は法華経等の一代聖教を別教と下し、自分が作った経を普経として崇重したために、世間から四依の大士のように仰がれていたのであるが、法華経の信者であった在家の女人に詰問され、返答に困り声を失い、そのまま大蛇となって数十人の弟子を呑み込んでしまった。 |
釈尊に背いて邪説を立てた念仏の善導・真言密経の善無畏三蔵・禅宗の三階禅師の末路を示されている。
善導を「念仏者が本師」と呼ばれているのは、日本浄土宗の開祖・法然が善導の強い影響を受けてその教義を立てていることによるものと思われる。
ここで大聖人が、善導が法華経譬喩品第三に説かれる「其の中の衆生」に含まれないのかと詰問されているのは、釈尊を排して阿弥陀仏に救いを求め、阿弥陀仏以外の仏によっては救われないとして「千中無一」の邪義を主張したからである。この善導の言い分は釈尊の「唯我れ一人のみ能く救護を為す」との経文は真っ向から否定していることになる。このような邪説を立てたために、善導は悲惨な最期を遂げたのである。すなわち念仏無間抄には次のように詳しく記されている。
「所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ」(0099-16)
なお、この善導の自殺の伝は、おそらく法然の漢語燈禄に収められている類聚浄土五祖伝であると考えられる。そこでは、栄の王古の新修往生伝から善導の伝を再録し、善導の自害の様子を次のように記している。
「導人に謂て曰く、此の身厭う可し。諸苦遍迫す、情偽変易して暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登って、西に向いて願して曰く、仏の威信驟に以て我を接せよ、観音・勢至亦来て我を助けよ、我が此の心をして正念を失せず驚怖を起こさず弥陀の法の中に於いて以て退堕を生ぜざらしめたまえと願し畢って、其の樹の上に於いて身を投げて自ら絶す
これは釈迦一代五時継図に引用される類聚伝の文と同一であることが知られる。
善導は往生礼讃に「願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心に諸の苦痛無く、身心快楽にして禅定に入るが如く、聖衆現前し仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せん」と述べている。
日寛上人は主師親三徳抄で、善導が乱していたことは明らかであると断じられ、大聖人が本抄で「現身に狂人と成りて」と仰せられたことの根拠を示されている。
すなわち、第一に善導が自ら身を投げて死んだということは、たとえ覚悟の自害であっても身に苦通があることは当然のことであるから、平生本心の時に臨終の姿として「身心に諸の苦通無く」と願ったことに全く相反しているゆえに、狂乱のうえの自害であったことが明らかである。生前の願いからいって、狂乱していなければ身を投げることなどするはずがないからである。
第二に、善導は「身心快楽にして禅定に入るが如く」と述べているが、固い大地に身を投げて死んだ姿はその願いとはほど遠い。そもそも諸の禅定の中に身を投げて捨身することなどどこにもない。どうして「身心快楽」と言えるであろうか。これもまた、善導が狂乱に陥っていたことの証左である。
第三に、往生礼讃には「上の如く念々相続して畢命を期となすとは十即十生し百即百生す」とあり、他に勧めて教化するに「畢命を期となす」と釈しながら、自らは捨身自絶するのはまさに狂乱のゆえにほかならない。
なお、大聖人は本抄等で、善導が14日から27日まで14日間、顚倒狂死した旨を記されているが、これについては諸伝には見られない。これは、善導の臨終の日に関して、新修往生伝に「永隆二年三月十四日」とあり、また玄暢の帝王年代禄には「永隆二年三月二十七日」とあることが知られており、大聖人はこれらの両説を踏まえられて、善導は14日に身を投げて14日間顚倒して、27日に死んだものと判じられたと考えられる。
本抄では次に善無畏が仮死した時、閻魔王の責めにあったことを挙げられている。この話は、彼自身が講述し、一行が筆記した大日経疏巻五に出てくる。すなわち、「阿闍梨の言わく、少かりし時、嘗て重病に因りて、神識を困絶せんに、冥司往詣して、此の法王を覩たり…因りて放されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に繄持せられし処に、猶瘡痕あり、旬月にして癒えたりき」とある。大聖人は善無畏抄で次のように仰せられている。
「一時に頓死して有りき、蘇生りて語つて云く我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け鉄の杖を以て散散にさいなみ閻魔宮に到りにき、八万聖教一字一句も覚えず唯法華経の題名許り忘れざりき題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ息続いて高声に唱えて云く今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子・而今此処多諸患難・唯我一人能為救護等云云、七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき、今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき」(1233-01)
このように閻魔王による善無畏への訶責に関する諸御書の記述は、大日経疏よりやや詳細であるが、破良観等御書には「善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は大日経の疏に我とかかれて候上・日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」(1291-04)と仰せのように、当時の京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした画が描かれていて、よく知られていたのであろう。このゆえに本抄で、「汝等此の事疑いあらば眼前に閻魔堂の画を見よ」と喝破されたのであろう。
いずれにしても大聖人は、善無畏が閻魔王の責めにあったのは釈尊の主師親の三徳が具わることを説いた法華経を誹謗したゆえであり、その責めから許されたのは、法華経譬喩品第三の「今此三界」の偈文を唱えたことによるとされている。この点について日寛上人は、「此の文を唱うる所以は三徳に背くことを悔ゆる故に又救護を乞ふ故なり」と釈されている。
しかし、善無畏はその後も真言密教を弘め、堕地獄の相を現じて亡くなった。大聖人は報恩抄に栄高僧伝巻第二の「今、畏の遺形を観るに、漸く加縮小し、黒皮隠隠として骨其露なり」との文を引かれ、「彼の弟子等は 死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(0316-02)と厳しく断じられている。彼の門下たちは、堕地獄の相であることを知らずそのまま記したのであるが、それが師の堕地獄を期せずして証明していたのである。
信行によって、隋代に立てられた三階教は、その教義の内容から第三階宗とも普法宗とも呼ばれている。すなわち、仏法を三種に分類し、一乗を第一階の法、三乗を第二階の法とし、第三階を普帰普法とした。この普帰普法とは、一切仏・一切法・一切僧に帰す普真普正法を意味するとし、仏滅後500年、次の1000年においては一乗や三乗の別法によって悟りを得ることができたが、末法の現在においては衆生の機根が鈍根なるがゆえに、この第三階の普法によって一切の悪を断じて一切善を修めなければならないと主張したのである。
信行禅師が法華経を持つ女性に破折された話は出典は不明であるが、日寛上人は主師親三徳抄で、唐の懐信の釈門自鏡禄巻上の文を引かれている。これは三階の法を説く僧が法華経を持つ優婆夷に責められた話であるが、同じく唐の僧詳は法華伝記巻第九にも記され、両書の内容はほとんど同じである。自鏡禄には次のように記されている。
「慈門寺の僧孝慈、年五十ばかりなり。幼少より已来、信行禅師の三階の法を説くに依りて以て苦行を修す。常に乞食を業と為し六時に礼懺し糞掃衣を著す。住所の処は随いて三階の仏法を説きて朦俗を勧誘す…後に一時、岐州に在りて三階の仏法を説く。時に一優婆夷有りて法華経を持し、又有縁に勧めて同じく法華経を持す。…其の優婆夷、大衆中に焼香し発願して言う。『若し某乙の法華経を持することの仏意に称わざれば、願わくば某乙見身に悪病に著し、大乗をして共に法華経を持すれば此の罪報を得ることを知らしめん。又願いて生身に地獄に陥入し、衆の同見を願わん。若し某乙の法華経を持することの仏意に称順すれば、願わくば禅師も亦爾るべし』と。この優婆夷の発願の時に当たりて、其の禅師神打ちを被り音を失いて語らず。西の高座にて上唱し、集録する者も亦音を失いて語らず。更めて五箇の老禅師有るも亦音を失いて語らず。其の先に法華経を誦するを捨てし数人は、此れに因りて便ち発心して法華経を誦し、改めて殷重に生ぜり」
また、信行が現身に大蛇となって弟子を飲み干した話も自鏡禄巻上に見られる。
「神都福先寺の僧某乙、一時忽然として命終し、遂に業道中に信行禅師の大蛇身と作れるを見る。遍身総て是れ口なり。又三階に学びし人の死すれを見れば、皆此の蛇身の口中に入り去る処知る莫し。
0361:13~0363:13 第13段 一国講法の現状と末法の御本仏たる内証の開示top
0361:13~0362:02 第一 日本国中に充満する法華経誹謗の者top
| 13 今日本国の人人はたとひ法華経を持ち釈尊を釈尊と崇重し奉るとも真言宗・禅宗・念仏者をあがむるならば無間 14 地獄はまぬがれがたし、 何に況や三宗の者共を日月の如く渇仰し我が身にも念仏を事とせむ者をや 心あらん人人 15 は念仏・阿弥陀経等をば父母・師・君・宿世の敵よりもいむべきものなり、例せば逆臣が旗をば官兵は指す事なし寒 16 食の祭には火をいむぞかし、 されば古への論師・天親菩薩は小乗経を舌の上に置かじと誓ひ、 賢者たりし吉蔵大 17 師は法華経をだに読み給はず、 此等はもと小乗経を以て大乗経を破失し 法華経を以て天台大師を毀謗し奉りし謗 18 法の重罪を消滅せんがためなり、 今日本国の人人は一人もなく不軽軽毀の如く苦岸・勝意等の如く一国万人・皆無 0362 01 間地獄に堕つべき人人ぞかし、 仏の涅槃経に記して末法には法華経誹謗の者は 大地微塵よりもおほかるべしと記 02 し給いし是なり、 -----― 今、日本国の人々は、たとえ法華経を持ち釈尊を釈尊として崇重したとしても真言宗・禅宗・念仏宗の僧らを崇めるならば無間地獄は免れがたい。まして、これら三宗の僧らを日月のように渇仰し、自らも念仏などを行じている者はなおさらである。 心ある人々ならば、念仏及び阿弥陀経等をば父母・師匠・主君の敵、あるいは前代からの敵よりも忌むべきなのである。例せば逆臣が旗を官軍の兵士がかざすことがないように、また「寒食の祭」に火を忌みて使用しないようなものである。 このゆえに昔の論師・天親菩薩は小乗経を説かないことを誓い、賢者であった吉蔵大師は法華経さえも読もうとされなかった。こうしたことは、以前に小乗経をもって大乗経を打ち破つたり、自分勝手な法華経の解釈をもって天台大師を毀謗した謗法の重罪を消滅しようとしたためである。 いま日本国の人々は、不軽菩薩を軽毀したり苦岸比丘・勝意比丘等のいうように、一人も残らず皆無間地獄に堕ちるべき人々である。仏が涅槃経に記して「末法においては法華経を謗ずる者は大地微塵の数よりもおおいであろう」と予言されているのはこのおとである。 |
本段においては、冒頭より一国謗法の現状を厳しく指摘されている。すなわち、まず、たとえ法華経を釈尊が尊んでいたとしても、真言・禅・念仏と並べて信じている場合は、無間地獄は免れないと指摘されている。これは、法華経譬喩品第三に「余経の一偈をも受けざる有らん」とある戒めに背くのであり、法華経第一の心を踏みにじっていることになるからである。
しかしながら、当世の仏教界の中心であった日本天台宗ですら、朝には法華経を読誦し、夕方には念仏を称えるという兼行を行っていた。このことは種々の往生伝に見られる。
そもそも日本天台宗は、実教たる法華経を最第一として伝教大師によって立てられたにもかかわらず、何ゆえに阿弥陀経を基とする念仏を取り入れるようになったのだろうか。その淵源は遠く天台大師の摩訶止観にもとめることができる。摩訶止観巻第二上では、種々の経典に説かれている修行の方式を分類し、具体的修行方法として「四種三昧」を明かしている。「四種三昧」とは、
①常坐三昧
②常行三昧
③半行半坐三昧
④非行非坐三昧
の、四種類の三昧のことをいう。この中で常行三昧の口行の修行法として、阿弥陀仏の名を称えることが説かれている。
「九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無かれ、或いは唱念俱に運び、或は先に念じ後に唱え、或いは先に唱えた後に念じ、唱念相違する時無かれ、若し弥陀を唱うるは、即ち是れ十方の仏を唱うると功徳等し。但専ら弥陀をもって法門の主となす」
ただし注意しなければならないのは、天台大師の真意はあくまでも円教たる法華経をもとにした十境十乗観法によって悟りを得ることにあったということである。常行三昧に念仏の修行を導入したのは、絶待妙の立場から下根の衆生を発心させるための方便・助行としてだったのである。
大聖人が一念三千法門において「御年五十七の夏四月の比・荊州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云」(0412-03)と仰せられているように、天台大師の究竟の法門である一念三千は摩訶止巻の第五巻に至って初めて明かし、それ以前においては秘していたのである。
四種三昧の行が助行として位置づけられていたことは摩訶止観巻第二にも「四行を縁と為して心を観ず。縁を藉りて調直なり。故に通じて三昧と称するなり」とあることに明らかであろう。
このように、阿弥陀の称名念仏を止観のための手段とする修行を止観念仏と呼ぶ。それゆえ、他力本願により、西方極楽浄土への往生を求める善導流の念仏とは明らかに異なるといってよい。
いずれにしても、天台教学においては円教たる法華経が根本であり、像法時代であったので、迹門を根本にして、権教を修行の方便として用いたのである。
伝教大師の顕戒論には、天台宗の止観業の学生は、春秋は常行三昧、冬夏は常坐三昧、行者の楽欲に随って半行半坐、または非行非坐というように四種三昧をそれぞれ修習するように説かれている者は、一十二年、深山の四種三昧の行は、得度・授戒したばかりの学生、並びに南都の小乗から大乗に転じた初修行の者が深山にこもって修行すべきものとされていたのである。
大聖人は十章抄に次のように仰せられている。
「二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり」(1273-05)
しかるに、第三代座主の慈覚以後、この念仏行がかなり大きい比重をもつようになる。慈覚は「理同事勝」の義によって実教たる法華経を権経たる大日経の下に落とし、叡山を密教化したばかりでなく、善導流の念仏をも叡山に持ち込んだのである。すなわち、慈覚は入唐して五台山の法道和尚から善導流の引声念仏を学び、帰朝するや、承和15年(0848)、叡山に常行三昧堂を建立し、仁寿元年(0851)に初めて阿弥陀念仏を弟子に伝授したのである。
ただし、慈覚以後の叡山ではもっぱら真言密教を取り入れ、台密を完成することに精力が注がれたためか、阿弥陀念仏はほとんど関心の対象外にあった。その後、叡山は権力と癒着して宗教としての活力を失い、加えて民衆救済の使命を忘れ、山・寺両門の相克に明け暮れていたことはすでに述べた通りである。
その一方で末法思想の台頭とあいまって、人々の間に西方極楽浄土を願う念仏が急速に広まり、諸宗にも念仏が取り入れられていった。そうした念仏信仰を更に推し進めて、専修念仏を称えたのが法然であり、その教えは、たちまちに全国へ広まっていった。その流行のありさまを大聖人は次のように配されている。
「而るを天魔の身に入つて候・善導・法然なんどが申すに付いて・国土に阿弥陀堂を造り.或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り・或は宅宅.人人ごとに阿弥陀仏を書造り.或は人ごとに口口に或は高声に唱へ・或は一万遍・或は六万遍なんど唱うるに.少しも智慧ある者は・いよいよ・これをすすむ、譬へば火に・かれたる草をくわへ・水に風を合せたるに似たり」(1327-17)
大聖人は、法華経を捨てよ閉じよ等と説くこの専修念仏が明らかに法華経誹謗であるゆえに、堕地獄の業として厳しく弾訶されたのである。本抄でも、念仏、及び阿弥陀経等を父母・師匠・主君の仇以上に憎んでこれからキッパリと離れなければ堕地獄は免れないと、謗法厳誡の姿勢を強調されている。そして武家である下山兵庫光基に分かるように、これを武士の倫理観に譬えて、官兵たる者が反逆者の旗を立てることはしないのではないかと諭されているのである。
天親は、大乗の論師として知られているが、もとは小乗教の論師であり、「大乗はこれ仏説にあらず」といって誹謗していた。真諦の婆籔槃豆法師伝によれば、天親の兄である無著は弟のもとに使いをやって、「病が重いので、急いで来るように」と伝えた。直ちに本国に戻った天親に無著は、「我、今、心に重病あり、汝に由りて生じたり」といって、天親のために起きた病であることを明かした。つまり、天親が大乗仏教誹謗の罪業によって永久に悪道に堕ちてしまうことを心配して苦しんでいたのである、と。
これを聞いて驚いた天親は、兄に大乗を説いてくれるよう頼んだ。兄は、天親のために大乗仏教の要義を説いた。聡明にして深い学識のあった天親は、それを聞いてすぐさま大乗の理が小乗よりすぐれていることを悟ったのである。
そして天親は、かつて大乗仏教を謗ったことを悔いて、兄に向って「昔、この舌によって、そのために大乗を毀謗する言葉を生じさせてしまった。今、この舌を割いて、この罪をあやまるべきであろうか」と尋ねたところ、兄は、たとえ千の舌を割いてもその罪を消すことはできないと答え、もしその罪を滅しようとすれば、その舌によって大乗仏教を巧みに解説すべきであると諭したという。
涅槃経巻三十三には次のようにある。
「禁戒を護持して精勤して懈らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧鬘物を用いず、一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。毀戒懈怠、四重戒を犯し、五逆罪を作り、僧鬘物を用い、一闡提と作り、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地上の如し」
この経文において「是の経を信ぜざる」の「是の経」とは直接的には涅槃経を指しているが、大聖人はこれを法華経として読まれて、本抄で「法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」と仰せられたものである。
これについては報恩抄に「問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云、妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経なり涅槃経には法華経を極と指て候なり」(0314-05)と述べられている。すなわち法華経を一代聖教の極意とすることは涅槃経自体の意であり、涅槃経で「是の如き等の涅槃の経典」とあるのは、究極的に法華経と読むべきであるとされているのである。
0362:02~0362:07 第二 謗法・慢心の浅慮top
| 02 而に今法華経の行者出現せば一国万人・皆法華経の読誦を止めて 吉蔵大師の天台大師に随うが 03 如く身を肉橋となし不軽軽毀の還つて不軽菩薩に信伏随従せしが如く仕うるとも、一日二日・一月二月・一年二年・ 04 一生二生が間には 法華経誹謗の重罪は尚なをし滅しがたかるべきに 其の義はなくして当世の人人は四衆倶に一慢 05 をおこせり、 所謂念仏者は法華経を捨てて 念仏を申す日蓮は法華経を持といへども念仏を持たず我等は念仏を持 06 ち法華経をも信ず戒をも持ち一切の善を行ず等云云、 此等は野兎が跡を隠し金鳥が頭を穴に入れ、 魯人が孔子を 07 あなづり善星が仏ををどせしにことならず鹿馬迷いやすく鷹鳩変じがたき者なり、 墓無し墓無し、 -----― しかし、いま法華経の行者が出現するならば、一国万人は皆、吉蔵大師が法華経の読誦を止めて、天台大師に我が身を橋となして仕え、また不軽軽毀を軽んじ謗った人達がかえって不軽菩薩に信伏随従したように、この法華経の行者に仕えたとしても、一日・二日、一ヵ月・二ヵ月、一年・二年、一生・二生という間では法華経誹謗の重罪はなを消滅し難いのに、それをしないばかりでなく、現在の日本国の四衆はともに慢心を起こしている。 彼らは「念仏者は法華経を捨てて念仏を修行している。日蓮は法華経を持っているといっても念仏を持たない。我々は念仏を持ちかつ法華経をも信じ、さらに戒律を持って一切の善事を行っているのである」と主張している。これらは、野兎が足跡を隠して逃げ、あるいは金鳥が穴に頭を入れて隠れたつもりでいるようなものであり、また魯の人々が孔子を侮り、善星比丘が釈尊をおどしたのと異ならぬ愚かなことである。鹿と馬との判断は迷いやすく、鷹が鳩に変身できないようなものである。じつにはかないことである、はかないことである。 |
日本国の人々の法華経に背く重罪は、たとえその過ちを悔いたとしても、その罪をけすことは容易ではないのに、それどころかかえって自らを正当化して法華経の行者たる大聖人を誹謗していつことはまことに愚かなことであると嘆かれている。
ここでは、まず吉蔵大師が法華経の研究において種々の誤りがあったことを悔いて、法華経の読誦を止めて、もっぱら天台大師に帰伏したことを仰せられている。報恩抄にはやや詳しく次のように記されている。
「嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く『毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん』等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき、慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文・十巻あり伝教大師せめて云く『法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す』等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし、弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや、嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶已前の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん」(0314-12)
三論の大家であった嘉祥大師は、多数の著作を著しているが、そのうち法華経に関するものだけでも、法華経玄論、法華経義疏、法華経遊意、法華経統略の四部が残されている。しかしながら宋の志磐の仏祖統紀巻七には「郡中に嘉祥の吉蔵と云えるあり、先に曾て法華を疏解す。章安の道を開き、講を廃し衆を散じ、足を投じて業を請い、深く前作の妄を悔ゆ」とあり、それらの著作の妄を悔いて、自らの講会を廃し大衆も散会ささて自らの章安大師のもとに投じたという。
続高祖伝の灌頂伝にも、「吉蔵法師というものあり、興皇の入室なり、嘉祥に肆を結びて独り浙東に擅なり。称心の道勝あるを聞きて意に之いまだ許さず。義記を求借し浅深を尋閲す。乃ち体解心酔して従う所有るを知る。因りて講を廃し衆を散じて天台に投足し、法華を餐稟し誓を発して弘演せり」と記している。
また唐の道暹の法華経文句輔正記巻第三には「大師初めて陳都に至り、沙弥の法盛なるものあり。席を造りて数聞くに法師対うる無し、法盛時に年十七、身は小にして声大なり。法師嘲りて曰く『你那ぞ声を摧きて体を補わざるや』と。法盛声に応じて対えて曰く『法師は何ぞ鼻を削りて眸に頂からざるや』と。…吉蔵又問う『誰か汝が師たる。汝誰が弟子ぞ』と。法盛曰く『宿王種覚天、人衆中に広く法華を説く。是れ我等が師たり。我是れが弟子たり』と。講散じて乃ち山水を捨てて一領を納め、用って大師に奉る。遂に即ち伏膺して法華を講ぜんことを請い、身を肉隥と為し、用って高座に登るらしむ。後、章安の義記を借るに因りて乃ち弥よ浅深に達し、体解口鉗し身踊心酔す。講を廃し衆を散じ天台に足投す」と記されている。
つまり、嘉祥大師吉蔵は、天台大師に講義を請い、天台が高座に登る際に、身を肉隥として助けたということである。本抄の「吉蔵大師の天台大師に随うが如く身を肉橋となし」との一節はそのことを仰せられたものと拝察される。なお大聖人は真言七重勝劣事においては、「天台宗に帰伏する人人の四句の事」(0131-12)と記され、その中で嘉祥大師の名を「身心倶に移る」(0131-13)人として挙げられている。
法華経誹謗の重罪は、たとえ自らの過ちを悔い、吉蔵大師や不軽軽毀の人々のように法華経の行者に仕えたとしても、容易に消滅させることはできない。しかるに、当時の日本国の人々は自らの謗法に気付くことすらなく、「我等は念仏を持ち法華経をも信ず」るが故に法華経しかもっていない日蓮より優れているなどと慢心を抱き、謗法を悔いるどころか、かえって大聖人を非難していたのである。
大聖人は本抄でこれらの人々の愚かな姿を野ウサギやキジの行動などに譬えられている。つまり、野兎が足跡を隠しおおせたと勝手に思い込んで安心し、雉が頭だけ穴に突っ込んで隠れられたと思っている畜生の浅はかな知恵と同類なのである。
また、孔子の出身地である魯の国の人々は、孔子の偉大さに気付かなかったといわれる。釈尊の子供であった善星比丘が外道に唆されて父である釈尊を迫害した。日本国の大慢心の人々の愚かさはこれらと全く同じであり、鹿を馬と見誤り、鳩が変じて鷹となることがむずかしいように謗法をいかに正当化しても所詮は謗法なのであると述べられているのである。
0362:07~0362:15 第三 予言的中に幕府の軟化top
| 07 当時は予が古 08 へ申せし事の漸く合かの故に 心中には如何せんとは思ふらめども 年来あまりに法にすぎてそしり悪口せし事が忽 09 に翻がたくて信ずる由をせず、 而も蒙古はつよりゆく、 如何せんと宗盛・義朝が様になげくなり、 あはれ人は 10 心はあるべきものかな孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり 食する時は三度吐給う 賢人は此の如く用 11 意をなすなり世間の法にもはふにすぎば・あやしめといふぞかし、 国を治する人なんどが人の申せばとて 委細に 12 も尋ねずして左右なく科に行はれしはあはれくやしかるらんに 夏の桀王が湯王に責められ 呉王が越王に生けどり 13 にせられし時は賢者の諌暁を用いざりし事を悔ひ 阿闍世王が悪瘡身に出で他国に襲はれし時は 提婆を眼に見じ耳 14 に聞かじと誓い、 乃至宗盛がいくさにまけ義経に生けどられて鎌倉に下されて 面をさらせし時は東大寺を焼き払 15 はせ山王の御輿を射奉りし事を歎きしなり、 -----― 今は、私がかつて申したことが現実のものとなったので、彼らは内心ではどうしたものかと思っているようだったけれども、長年の間あまりにも法外に謗ったり悪口をいったので急に態度を翻して帰依することができないでいる。しかも蒙古の脅威は次第に大きくなり、どうしたらよいのだろうかと、かつての宗盛や義朝のように嘆いているのである。 まことに、人は何事にもよく考えて対処すべきである。孔子は九思一言といい、周公旦は来客があれば洗髪の途中であっても三度握り、食事中であっても口中の食を吐いて客を待たせず三度も対応された。賢人はこのようにして人に遇するにあたって心を用いるものである。また世間でもあまりに法に過ぎたことに対しては怪しむべきであるというのではないか。一国を治める者が、人が言ったからといって詳しく尋ね流しまったことは、何とも悔やまれることであろう。 これは夏の桀王が湯王に攻められ、また呉王が越王に生け捕りにされた時に、賢者の諌暁を用いなかったことを悔やんだのと同じである。さらに阿闍世王が全身に悪瘡が出て、しかも他国から攻められた折、二度と提婆の姿を見たり話をしたりすまいと心に誓い、また宗盛が戦いに敗れて義経に生け捕られ、鎌倉に送られて恥をさらした時には、東大寺を焼き払わせたり日吉山王の御輿を矢で射たことを後悔したのである。 |
自界叛逆難・他国侵逼難が必ず起きるとの大聖人の予言が的中したことによって、幕府も大聖人を迫害してきとことの誤りに気付いて、心の中では反省しはじめていた。しかしながら、大聖人を流罪に処するなどのこれまでの経緯からして、幕府も急に態度を改めて大聖人に帰依するまでには至らなかった。こうした幕府の態度を、忠臣の讒言も聞かなかったために自らの滅亡を招いた、桀王や呉王・夫差の先例を引かれ、その類似性を指摘されている。
大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国論を北条時頼に提出され、正法に帰依せず謗法を重んじているならば、自界叛逆難・他国侵逼難の二難が起こるであろうと予言されたことを指している。すなわち立正安国論に「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らしイソイで対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず 所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031-10)と。
この大聖人の予言は次第に現実のものとなっていった。まず他国侵逼の難については、文永5年(1268)正月16日に蒙古の国書が到来したことである。使節が九州の太宰府に到着し、太宰府守護の少弐資能に国書が手渡され、その翌月の閏正月18日に幕府に届けられた。この蒙古の牒状は表向きは日本との友好関係を要求したものであったが、実際には日本の蒙古への服従を求め、それを聞き入れなければ武力で討つという、威嚇的なものであった。
幕府は、これに対して連日協議を重ねたものの結論を見ないまま、2月7日、朝廷に国書が届けられた。朝廷は、返書を送らないことを決め、直ちに異国降伏の祈禱を諸大社・寺院に命じたのである。
この蒙古の来牒を聞かれた大聖人は4月5日、安国論御勘由来を著され、そのなかで、「而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し」(0035-02)と蒙古襲来によって立正安国論の予言が的中したことを指摘されている。
また、その年の10月11日には、北条時宗等に十一通の書状を認め、送られた。そのうちの北条時宗の御状では「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」(0169-01)と厳しく諌められている。
翌文永6年(1269)3月、再び蒙古の使者が日本にやってきた。この時の使節は、対馬の島民2人を捕らえて蒙古に帰ったが、9月17日、捕らえられた島民2人を伴って対馬に着き、ついで太宰府に来て日本に返書を求めたのである。これに対して朝廷では返書を送ることにし、草案も作ったが、今度は幕府の方でこれを握りつぶしてしまった。
大聖人はこれを機として同年12月8日、立正安国論を書写され、これに奥書を加えられた。そこでは、「又同六年重ねて牒状之を渡す、 既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か」(0033-05)と仰せられて、他国侵逼難の予言が的中したことから、未来においてもまた、正法誹謗を続けるならば他国侵逼・自界叛逆の二難が必ずおきることを再び予言されてる。
文永8年(1271)6月から7月にかけて極楽寺良観が幕府の依頼で祈雨した折、大聖人は勝負を申し出られ、良観はこれを受けた。しかし雨は降らず、良観の負けとなった。祈雨の勝負に敗れた良観の陰謀によって、大聖人は文永8年(1271)9月10日、評定所へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けられた。
その際、大聖人は「世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし」(0911-09)と仰せられるとともに、「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべし」(0911-10)と、平左衛門尉に対して厳しく諌め暁されたのである。
これによって激怒した平左衛門尉は9月12日、数百人の兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を逮捕したのである。その時、大聖人は再び自界叛逆・他国侵逼の二難を予言された。報恩抄に次のようにおおせられている。
「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし」(0312-10)と。
また佐渡御書にも、「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時 大音声を放てよばはりし事これなるべ」(0957-18)と述べられているように、主師親の三徳を具備された大聖人を処罰するならば、必ず二難がおこることを警告されたのであった。
また、佐渡に流罪になられて文永9年(1272)1月、塚原問答が行われた際には、守護代の本間六郎左衛門尉重連に、「只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべし」(0918-16)と、鎌倉にいくさが起ころうとしていることを教えられている。
この予言は一カ月後に的中した。すなわち文永9年(1272)2月11日に起きた北条一門による同士打ちがそれである。この同士討ちは「二月騒動」とも「北条時輔の乱」ともいう。権力の座を奪おうとして、鎌倉の名越教時と謀ったが、これを事前に察知した時宗が2月11日に名越時章・親時兄弟を誅殺するとともに、京都北六波羅探題の北条義宗に命じて4日後の15日にはと時輔を滅ぼさせた。
この自界叛逆難の的中によって光日房御書に「天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ」(0927-16)と仰せられているように、大聖人の予言的中に驚いた幕府は、竜の口の法難の際に捕らえた日朗等の大聖人の弟子を釈放したのである。
また、本抄にすでに述べられているように、文永11年(1274)佐渡流罪赦免後の4月8日、時宗の意を受けた平左衛門尉と面会されたとき、質問に答えて年内の蒙古襲来を予告された。この予言どおり、同年10月、蒙古の大軍が日本に押し寄せてきたのであった。いわゆる「文永の役」である。
蒙古の襲来を聞かれた大聖人は、同年11月の曾谷入道殿御書で「自界叛逆難・他方侵逼の難既に合い候い畢んぬ、之を以て思うに「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地に所楽の処有ること無けん」 と申す経文合い候いぬと覚え候、当時壱岐・対馬の土民の如くになり候はんずるなり、是れ偏に仏法の邪見なるによる仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり」(1024-01)とおおせられている。
こうして大聖人の予言が次々と的中したことにより、大聖人に対する幕府の態度も次第にやわらいできた。文永11年(1273)2月14日に大聖人を佐渡流罪から赦免したのは、まさにその表れであった。この経緯について大聖人は中興入道消息に「科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども・相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて・のぼりぬ」(1333-14)と、それが執権・時宗の決断によるものであったことを述べられている。
また、文永11年(1273)3月26日、佐渡から鎌倉に帰還され、4月8日、平左衛門尉頼綱と対面された際には「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上」(0921-02)と記されているように、あれほど大聖人に敵対していた平左衛門尉ですらも、かっては打って変った態度で大聖人に対していたことがうかがえる。
また日道上人の御伝土代には、「法光寺禅門、西の御門東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給う」とあり、幕府はこの時大聖人に堂舎を献上して懐柔にしようとしたようである。もとより大聖人はこうした幕府の懐柔を一蹴され、身延へ入山されたのである。
0362:15~0363:05 第四 法華経誹謗に諸天等の治罰top
| 15 今の世も又一分もたがふべからず 日蓮を賎み諸僧を貴び給う故に自 16 然に法華経の強敵となり給う事を弁へず、政道に背きて行はるる間・梵釈.日月・四天.竜王等の大怨敵となり給う、 17 法華経守護の釈迦・多宝.十方分身の諸仏・地涌千界.迹化他方・二聖.二天・十羅刹女・鬼子母神.他国の賢王の身に 18 入り代りて国主を罰し国をほろぼさんとするを知らず、 真の天のせめにてだにもあるならば たとひ鉄囲山を日本 0363 01 国に引回し須弥山を蓋として 十方世界の四天王を集めて波際に立て 並べてふせがするとも法華経の敵となり教主 02 釈尊より大事なる行者を 法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にフミたりし大禍は現当 03 二世にのがれがたくこそ候はんずらめ 日本守護の天照太神・正八幡等もいかでか・かかる国をばたすけ給うべきい 04 そぎいそぎ治罰を加えて 自科を脱がれんとこそはげみ給うらめ をそく科に行う間・日本国の諸神ども 四天大王 05 にいましめられてやあるらん 知り難き事なり -----― 今の世もまた一分の狂いもなくまったくこの通りの状況である。日蓮を賎み、諸宗の僧を貴ばれるがゆえに、おのずと法華経の強敵となるということを弁えず、政道に背いたことをされたために、梵天・帝釈・日天・月天・四天王・竜王等の大怨敵とられたのである。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩・迹化他方の諸菩薩・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神等が他国の賢王の身に入り代わって、この国主を罰し、国を滅ぼそうとしているということを知らないでいる。 もし真に諸天の責めであるならば、たとえ鉄囲山で日本国を取り囲み、須弥山を蓋として、十方世界の四天王を集めて波打ち際に並べて防がせようとしても、法華経の敵となって教主釈尊よりも大事な法華経の行者たる日蓮を法華経の第五の巻で打ち、法華経十巻をひき散らかし散々に踏みにじられた大禍は現当二世にわたって逃れ難いであろう。 日本国の守護神である天照太神・正八幡大菩薩等もどうしてこのような国をお助けになるであろうか。逆に急いでこの国を罰することによって、自らの罪科を脱がようとしておられるに違いないのである。それとも罰しないという失によって、日本国の諸神はすでに四天王に戒められているのであろうか。いずれとも知り難いことである。 |
臣下の諌めを用いなかったために滅びていった中国の夏の紂王や呉王、インドの阿闍世王や日本の平宗盛らの例を引かれたうえで、「今の世」もまったく同様であると仰せられている。
すなわち、幕府は日蓮大聖人の讒言を用いようとせず、かえって軽んじ、諸宗の僧侶を尊んでいるために、法華経の強敵となっていることに気付かないでいる。しかも、大聖人の政道を曲げてまで処刑しようとさえしたのである。
このように、幕府は政道を無視して理不尽に大聖人を迫害したことによって、梵天・帝釈・日月等の諸天善神の大怨敵となってしまったのである。なぜならば、幕府の政道の基本たる貞永式目は、これら梵釈・四天等に起請してこそ定めた条目を守るべきことが明記されているからである。しかも、法華経の行者である大聖人を迫害したことは、法華経守護の釈迦・多宝・十方諸仏・地涌千界・迹化他方の諸菩薩等から治罰を受けることになるのである。
梵天・帝釈以下の諸天善神が法華経の行者を守護することについては法華経安楽行品第十四に、「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も衛護し、能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん」とある。大聖人は諌暁八幡抄でこの安楽行品の文を引かれて「経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり」(0588-14)と仰せられている。このゆえに、大聖人に敵対する者に対しては、諸天善神がこれを罰するのである。
このように謗法の国を治罰するというのとは別に、正法が失われた国を諸天は捨て去るという原理も説かれている。それは、正法の法味は諸天にとっての威光勢力を増すもとだからである。したがって、国主等の為政者が正法に敵対し、正法が廃れれば、諸天は法味をなめて威光勢力を増すことができないために、その国を去ってしまうのである。唱法華題目抄には「守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い」(0008-08)と仰せである。
立正安国論に引用されている金光明経には次のようにある。
「金光明経に云く『其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず 必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん、疫病流行し彗星数ば出で両日並び現じ薄蝕恒無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し 暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん』」(0018-03)
また報恩抄では同経の次の文を引かれている。「金光明経に云く『時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん当に 四兵を具して彼の国土を壊るべし』等云云、又云く『時に王見已つて即四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし』等云云」(0313-05)
大聖人はこの経文に続いて、「最勝王経の文又かくのごとし、大集経云云仁王経云云、此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ」(0313-08)と述べられている。
さて本抄では「法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神」が「賢王の身に入り代りて国主を罰し」と仰せられている。つまり、諸天のみならず諸仏・諸菩薩も、法華経を守護するために、他国の賢王の身に入り代わって法華経に敵対する国主を責め、その国を滅ぼすであろうと仰せなのである。これは、仏・菩薩にとっても、その成道の根本は妙法であり、あらゆる功徳の根源も妙法であるがゆえに、妙法を何よりも大切にするからである。具体的に釈迦・多宝・十方分身の諸仏、いわゆる三仏が守護することについては諸法実相抄に次のように仰せられている。
「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし」(1361-10)
また地涌千界等の菩薩の守護については、顕仏未来記に「仏の滅後に於て四味・三教等の邪執を捨て 実大乗の法華経に帰せば 諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん」(0507-05)と述べられ、日女御前御返事には、「陀羅尼品と申すは二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり、二聖と申すは薬王と勇施となり・二天と申すは毘沙門と持国天となり・十羅刹女と申すは十人の大鬼神女・四天下の一切の鬼神の母なり・又十羅刹女の母あり・鬼子母神是なり、鬼のならひとして人を食す、人に三十六物あり所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五蔵と六腑と髪と毛と気と命等なり、而るに下品の鬼神は糞等を食し・中品の鬼神は骨等を食す・上品の鬼神は精気を食す、此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」(1246-07)と、二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神による守護が明かされている。
すなわち法華経陀羅尼品第二十六において、まず薬王菩薩は釈尊に、「世尊、我今当に説法者に陀羅尼呪を与えて、以って之を守護すべし」と誓い、勇施菩薩も、「我亦法華経を読誦し、受持せん者を擁護せんが為に陀羅尼を説かん」と法華経の行者を守護することを誓っているのである。また、毘沙門天・持国天王・十羅刹女・鬼子母神もそれぞれ陀羅尼を説いて法華経を受持する者を擁護することを述べている。
この故に、国主が法華経の行者を迫害した場合、これらの諸仏・菩薩・諸天等は法華経の行者を守護するために国主を治罰するのである。本抄で大聖人は、一国謗法と化した日本国が他国に攻められる所以がそこにあると仰せである。
教主釈尊より大事なる行者
この一節は、序講でも触れたように、日蓮大聖人が末法における御本仏であることを示唆された重要な御文である。
日蓮大聖人と釈尊との関係を知るうえで、諸法実相抄の次の御文はとりわけ重要であろう。
「如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358-12)
同抄は文永10年(1273)5月、佐渡流罪中に著され、最蓮房日浄に与えられた。インド応誕の釈尊に対して、末法の凡夫僧たる大聖人こそ本仏であるということを示された画期的な法門と拝される。
経文に説かれる三十二相八種好の仏は、仏の生命の尊さを象徴化して描いたものであり、実在する仏は凡夫僧であるということを意味しているともいえる。これをさらに立ち入って解釈するならば、「凡夫」とは大聖人御自身にほかならないことが、本抄の「教主釈尊より大事なる行者」という御文に照らして明瞭となるのである。大聖人の御振る舞いは凡夫僧としての御振る舞いなのである。
さて本抄に戻ると、本文には、日本の国主がいかに蒙古の襲来に備えて防御に努めようとしても、法華経の仇となって教主釈尊よりも大事なる立場にあられる大聖人を、法華経第五の巻で打ったという大謗法の罪は現当二世にわたって免れ難い、と弾訶されているところである。
恐れ多くも大聖人を法華経第五の巻で打ったのは、平左衛門尉頼綱の一の郎従・少輔房であった。すなわち、文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難の当日、平左衛門尉が大聖人を召し捕るために松葉ヶ谷の草庵を襲った際、その配下にある少輔房は、大聖人が懐中にしていた法華経第五の巻をもって大聖人の頭を三度打ったのである。この法華経第五の巻には三類の強敵が刀杖の難等を加えることを予言する勧持品第一三が収められている。
上野殿御返事に「杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします」(1557-07)と不思議なる経文の符合を指摘されている。
また本抄では、大聖人を迫害したこの「大禍」は、現当二世にわたって逃れることはできないと仰せになっている。蒙古襲来による国難はその総罰のあらわれであるが、別罰として日寛上人は撰時抄愚記で、本抄の御文を引かれて、「この大科終に免れずして、平左衛門尉頼綱も宗祖滅後十二年に当たって一類皆滅亡せり」と、平左衛門尉の一族が大聖人滅後十二年にして滅びたことを、大聖人の兼知末萌における滅後符合の一例として挙げられている。
当時、幕府で強い力をもっていたのは、安達泰盛と平左衛門尉頼綱の二人であった。泰盛は執権時宗の外戚であり、頼綱は得宗の家人である御内人の筆頭であった。
時頼の後を継いで執権となった長時・政村はいずれも得宗ではなかったが、これは得宗家の嫡子である時宗が幼少であったためである。御内人が権力の中枢に近づいたのは、文永5年(1268)に得宗が執権につくことによってである。その中心人物が平左衛門尉であり、内管領という彼の地位は御内人方の頭首を意味していた。
幕府のなかで御家人が勢力を強めてくるにつれて、一般の御家人は外様といわれるようになり、その対立が激化するようになった。外様の筆頭が時宗の舅にあたる安達泰盛であった。弘安7年(1284)に時宗が34歳の若さで亡くなり、貞時があとを継ぐと、権力の主導権をめぐる平左衛門尉と安達泰盛との対立は、ついに弘安8年(1285)11月、霜月騒動と呼ばれる抗争となって勃発し、これは頼綱・御内人方の勝利に終わった。
この騒動は、泰盛の子宗景が藤原氏を改めて源姓としたことから、頼綱はこれは、将軍になろうとする野心があったからだと貞時に訴え、泰盛一族を滅ぼしたものである。その結果、頼綱が権力を独占するに至った。
しかし、権勢をほしいままにした頼綱の専横も長くは続かなかった。頼綱の嫡男左衛門尉宗綱が、父の頼綱を、次男飯沼安房守資宗を将軍に立てようとの陰謀を企んでいると執権・貞時に密告したのである。正応6年(1293)4月22日、貞時は頼綱父子を誅殺し、併せて一族郎党を滅ぼした。また密告した平宗綱も佐渡に流された。
平左衛門尉一族滅亡について日寛上人は次のように仰せられている。
「今案じて云く、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、これ則ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるは、これ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。その事、既に符合せり、豈大科免れ難きに非ずや」
まさに聖人御難事に「末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190-02)と仰せの通りの結末であったといわざるをえない。
法華経法師品第十には、「若し悪人有って、不善の心を以って、一劫の中に於いて、現に仏の前に於いて常に仏を毀詈せん、其の罪尚軽し。若し人一の悪言を以って在家出家の、法華経を読誦する者を毀眥せん、其の罪甚だ重し」とあるように、法華経を受持する者をたとえ一言でも誹謗する罪は一劫という長い間、仏を罵る罪よりも重いとされているのである。いわんや「教主釈尊より大事なる行者」であられる大聖人を迫害した罪は、現当二世にわたって免れないのである。
法華経譬喩品第三には、「若しは仏の在世、若いは滅度の後に、其れ斯の如き経典を、誹謗すること有らん。経を読誦し書写すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん、此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん、一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して、無数劫に至らん」と説かれており、大聖人はこの経文を「今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり」(1042-08)と釈されている。
0363:05~0363:13 第五 亡国を招来する真言の祈とうtop
| 05 教大師云く「竊に以れば 菩薩は国の宝なること 法華経に載せ大乗 06 の利他は摩訶衍の説なり 弥天の七難は大乗経に非ずんば何を以てか除くことを為ん、 未然の大災は菩薩僧に非ず 07 んば豈冥滅することを得んや」等云云、 而るを今大蒙古国を調伏する 公家武家の日記を見るに或は五大尊或は七 08 仏薬師或は仏眼或は金輪等云云、 此れ等の小法は大災を消すべしや 還著於本人と成りて 国忽に亡びなんとす、 09 或は日吉の社にして法華の護摩を行うといへども不空三蔵がアヤマれる法を本として行う間祈祷の儀にあらず、又今 10 の高僧等は或は東寺の真言或は天台の真言なり 東寺は弘法大師・天台は慈覚・智証なり、此の三人は上に申すが如 11 く大謗法の人人なり、 其れより已外の諸僧等は或は東大寺の戒壇の小乗の者なり、 叡山の円頓戒は又慈覚の謗法 12 に曲げられぬ彼の円頓戒も迹門の大戒なれば 今の時の機にあらず 旁叶うべき事にはあらず、 只今国土やぶれな 13 ん・後悔さきにたたじ不便・不便と語り給いしを千万が一を書き付けて参らせ候。 -----― 伝教大師は山学生式に「ひそかに考えてみるに、菩薩が国の宝であることは法華経に記されたところであり、大乗の法が衆生を利益するのは摩訶衍の説である。天にはびこる七難は大乗経でなければ何をもって除くことができようか。これから起こるであろう大災は菩薩僧でなければどうして防ぐことができるであろうか」と言われている。 しかるに今、大蒙古国を調伏する公家や武家の日記をみると、真言の五大尊一檀の法、七仏薬師の法、仏眼法、あるいは一字金輪の法等に依っている。これらの小法をもってどうしてこの大災を消ことができるだろうか。法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」とあるごとく、日本国はかえってたちまちのうちに亡びようとしているのである。 あるいは日吉山王の社で、法華の護摩の修法を行ったとしても、これは不空三蔵の誤った法を根本としているのであるから真の祈禱にはならない。また今の高僧等の人々は東寺の真言か、あるいは天台宗の真言の人々である。東寺は弘法大師、天台宗は慈覚・智証の流れであり、この三人は前にも述べたとおり大謗法の人々である。それ以外の諸僧等はあるいは東大寺の戒壇ので授戒した小乗の者たちである。 叡山の円頓戒はまた慈覚の謗法によって曲げられてしまった。しかも、本来の叡山の円頓戒も迹門の大戒であるから末法今時の機には合わないから、いずれにせよ祈りが叶うはずがないのである。只今まさに日本国は破滅の危機に瀕している。後悔先に立たたず、まことに不憫なことである、不憫なことせある。以上のように日蓮聖人が話されました法門の千万分の一を書き付けてご覧にいれる次第でございます。 |
日本の国は正法誹謗のゆえに仏・菩薩・諸天によって治罰を受けることを指摘された大聖人は、ここで伝教大師の文を引かれながら、真言の邪法によって密経の修法がかえって国を滅ぼす因となることを破折されている。
ここで引用されている伝教大師の言葉は山家学生式の一文である。
この山家学生式は、伝教大師が天台法華宗の仏教を修学する学生のために規制を定めて朝廷に認可を得るために提出したもので、三式から成っている。その第一は弘仁年(0818)5月13日に朝廷に提出した天台法華宗年分学生式で、六条からなっているので「六条式」と称される。
第二は、同年8月27日に朝廷に提出された勧奨天台宗年分学生式で通常は「八条式」と言われる。これは六条式が天台学僧の養成に大網を定めたのに対して、得度許可の方法などの細則を記いたものとなっている。
第三は、先の二つがいずれも認可されなかったため、翌弘仁10年(0819)3月15日、天台法華宗の教団・戒律についての基本を規制した「天台法華宗年分度者小向大式」を提出し、認可を請うた。いわゆる四条式と呼ばれるものである。本抄の引用文は、この四条式の結びの一節である。
当時にあっては、すべての出家僧は、南都の戒壇において小乗戒を受けなければならなかった。伝教大師は、大乗仏教を学び弘める者が小乗戒を受けなければならない不合理を改めるべきことを訴えたのである。それを上奏した文書が菩薩こそ国の宝であるとする山学生式である。
そのなかで「菩薩は国の宝なることを法華経に載せ」と述べているのは、法華経譬喩品第三の「其の国の中には、菩薩を以って大宝と為す故なり」に依ったものである。したがって「末然の大災は菩薩に非ずんば豈冥滅することを得んや」の「菩薩僧」とは法華経を行ずる僧でなければならない。
ところが公家すなわち京の朝廷も、武家すなわち鎌倉幕府も、もっぱら真言の修法によって蒙古調伏を行おうとしていた。この点を大聖人は取り上げられて、もっぱら真言の小法によっては、一国滅亡の危機にある大災を乗り切ることなどできないのみならず、「還著於本人」の原理によって国の滅亡を招くであろうと指摘されている。
以下、当時の史料から、敵国調伏の記録を取り上げてみたい。
文永5年(1268)正月16日、蒙古の使者が日本にやってきた時
2 月25日 蒙古の事に依りて22社に奉幣す
3 月05日 石清水八幡宮に仁王経法を修し、異国降伏を祈る
3 月23日 仁王経法を東寺に修し異国降伏を祈る
3 月27日 住吉社臨時殿上使を発遣す、是日蒙古高麗牒状の仗議を行う
4 月29日 金剛法を禁中に修す
5 月07日 本法北斗供を禁中に修す
7 月17日 仏眼法を禁中に、七仏薬師法を延暦寺中道に修して異国降伏を祈る
8 月17日 延暦寺中道に七仏薬師法を修して蒙古の事を祈る
文永11年(1274)10月に蒙古の大軍がいよいよ来襲したとき
11月02日 亀山上皇、御所を山陵八所に献じ、延暦寺・東寺をして異国調伏の祈禱を修せしめらるる。
11月07日 蒙古の事に依りて、16社に奉幣使を発達す
11月07日 延暦寺に一字金剛法を修して異国調伏を祈らむ
11月09日 金剛寿院本房に金剛法を修して異国調伏を祈る
12月07日 延暦寺中堂に七面薬師法を行いて異国調伏を祈る
これれの、今日残っている史料からも蒙古調伏のための祈禱が盛んに行われたことがうかがえる。
還著於本人とは、法華経の行者を害そうと呪詛する者は、還って自らの身にそれを受けるようになるということである。四明知礼の観音義疏記巻第四に、「還著本人とは凡そ呪毒薬すなわち鬼法をもって人を害せんと欲するに前人邪念ならば、まさにその害を受く。若し能く正念ならば還って本人に著く」とあり、正念を調伏すれば祈りが逆になって破れることになると説かれている。
大聖人は種種御振舞御書にも「弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ」(0921-10)と仰せられているが、諸御書でも後鳥羽上皇を中心とする朝廷方が鎌倉幕府を滅ぼそうとして、延暦寺等の諸宗に幕府調伏の祈禱を命じてかえって幕府方に敗れた姿を、還著於本人の例として示されている。
一方、日吉の社においては法華の護摩が行われたと仰せられている。これは法華経をもとにしているようであるが、実のところは中国真言の祖・不空の邪義をもとにしたもので、法華経の真意を曲げた祈りでしかない。この修法は、不空三蔵の観智儀軌によって法華経を供養するもので、おもに台密で尊重された。
法華儀軌とも称される観音儀軌は、不空の訳出と伝えられるが、実際には不空が勝手に造ったものであろうといわれている。大聖人が撰時抄で「不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268-14)と指摘されているように、全般的に不空の訳は誤りが多いばかりでなく、数々のごまかしを重ねている。観智儀軌もその一つであり、かりに不空は訳出しただけとしても、自分勝手な解釈をしたものであろう。
大聖人は同じく撰時抄で次のように仰せられている。
「不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に寿量品を阿弥陀仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる此等はいうかひなし」(0268-09)
これは、観智儀軌では、はじめに法華経二十七品のそれぞれの大意を還命偈としてまとめているが、提婆達多品第十二が 見宝搭品第十一の中に含まれているほか、陀羅尼品第二十六、嘱累品第二十二の位置が羅什訳の法華経と異なっていることを指摘されたものである。
大正蔵第19巻に所収の現行の観智儀軌では、諸品の順序は羅什訳に従っているが、属累品の冒頭は「帰命最後属累品」となっており、大聖人が指摘されているように、不空が経末に置いていたことは間違いないと思われる。
大正蔵経の欄外に記す明本の異同によれば、明本における神力品以下の順序は次の通りである。
羅什訳 不空訳
神力品二十一 神力品
属累品二十二 陀羅尼品
薬王本事品二十三 薬王本事品
妙音菩薩品二十四 妙音菩薩品
観音普門品二十五 観音普門品
陀羅尼品二十六 普賢勧発品
普賢勧発品二十八 嘱累品
このゆえに、大聖人は先の撰時抄において「陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下」(0268-10)と破折されているのである。
さらに不空は、寿量品の仏を阿弥陀仏とする誤りをも犯している。すなわち観智儀軌には、「即ち跏趺して定印を結び、如来寿量品を誦し、或いは但品中妙儀を思惟し、深く如来常住にして世に在し、無量の菩薩・縁覚・声聞を以て眷属と為し、霊鷲山に処して常に妙法を説くと信じ、深信して疑わざれ、次に当に即ち無量寿命決定如来の真言を誦すること七遍、是の念言を作せ、願わくば一切の有情、皆如来の無量の寿命を獲ん、と」とあり、以下に真言を記している。不空は、法華経寿量品に説かれる久遠実成の釈尊を仏説大乗聖無量寿命決定光明王如来陀羅尼経等の阿弥陀仏のこととしたのである。
このように不空の観智儀軌は法華経の真意を大きく曲げたものであり、したがってそれに基づいて立てた祈禱法も所詮、真実の祈禱とはならないのである。
彼の円頓戒も迹門の大戒なれば
円頓戒とは、円頓の三学の一つに当たる。円頓の円とは円融・円満、頓とは頓極・頓足の意で、円頓とは円満に偏らず一切衆生を速やかに成仏させる教法たる法華経の本門を指している。また戒は防非止悪の義で、仏道を行ずる者の身口意の三悪を止め、一切の不善な行いによる非を防ぐための規範をいう。
すでに述べたように伝教大師は初め小乗の戒を受けたが、後に天台法華宗を立て法華円頓の大乗戒壇の建立を朝廷に願い出た。しかし、南都諸宗の頑強な反対にあって大師の存命中には勅許をおりず、入寂して7日後に叡山大乗戒壇独立勅許の官符が発せられた。
釈尊の一代仏教のうち、小乗では比丘に250戒・大乗では10重禁戒・48軽戒等を説いている。これらは、修行者の実際の行動を律する規範となっていることから事戒に当たる。これに対して天台の法門は法華経迹門による円戒を立て、これらの事の修行を廃して専ら一心三観・一念三千の理観による悟りを目指す。いわゆる廃事存理の法華一乗戒である。
しかしながら三大秘法抄に「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に」(1022-18)と仰せられているように、末法に入っては無益の戒であり、大聖人の文底下種仏法においては、不受余経一偈の誓いをもって三大秘法の御本尊を信受することがそのまま事の戒法となるのである。すなわち、下種仏法の受持がそのまま持戒となるのである。
このことを日寛上人は、依義判文抄に「応に知るべし、我等信行を励まずと雖も、我等戒法を持たずと雖も、若し能く此の本尊を受持する則は、自然に信行に励み戒法を持つに当るなり」と仰せられている。法華経の本迹二門は、大聖人の文底独一本門の仏法に対すれば迹門であり、ゆえに比叡山の戒壇は法華一乗の円頓戒といっても、なお迹門理戒にとどまることを知らねばならない。
0363:14~0364:11 第14段 因幡房よりの諫言top
0363:14~0364:03 第一 因幡房の忠言top
| 14 但し身も下賎に生れ心も愚に候へば此の事は道理かとは承わり候へども 国主も御用いなきかの故に鎌倉にては 15 如何が候けん不審に覚え候、 返す返すも愚意に存じ候はこれ程の国の大事をば いかに御尋ねもなくして両度の御 16 勘気には行はれけるやらんと聞食しほどかせ給はぬ人人の 或は道理とも或は僻事とも 仰せあるべき事とは覚え候 17 はず、 又此の身に阿弥陀経を読み候はぬも 併ら御為父母の為にて候、 只理不尽に読むべき由を仰せを蒙り候は 18 ば其の時重ねて申すべく候、 いかにも聞食さずしてうしろの推義をなさん人人の 仰せをばたとひ身は随う様に候 0364 01 えども心は一向に用いまいらせ候まじ、 又恐れにて候へども兼ねてつみしらせまいらせ候、 此の御房は唯一人お 02 はします若しやの御事の候はん時は 御後悔や候はんずらん世間の人人の 用いねばとは一旦のをろかの事なり上の 03 御用あらん時は誰人か用いざるべきや、 其の時は又用いたりとも何かせん人を信じて法を信ぜず、 -----― ただし私は、身分も賎しくに生まれ、心も愚かなので、大聖人の仰せられたことは道理であろうと承りましたが、国主も用いられないゆえに、鎌倉では一体どのようになっているのか不審に思っております。返す返すも私が愚孝致しますことは「これほどの国の重大事について、どうしてお尋ねになることもなく、二度まで流罪に処せあれたのであろうか」、その仔細をお聞きになって糾明しようともされない人々が、それを道理であるとか僻事であるとか言うべきことであるとは思えないのであります。 また、この私が阿弥陀経を読みませんのも、あなたのことを思ってのことであり、またその父母のためでもございます。ただし理不尽にも阿弥陀経を読むべしとの命を受けましたならば、その時には重ねて申し上げるでしょう。何とも聞き尋ねもされずに、陰で憶測するような人々の仰せに対しては、たとえ身は従うようなことがありましても、心は一向に従うものではありません。 また、まことに恐れ多いことではありますが、あらかじめ御忠告申し上げる次第でございます。この御房は日本国にただ一人の方でありますから、もしものことがありましたならば、その時は必ず後悔なさるでありましょう。世間の人々が用いないからといって御自身も信じようとされないのは、愚かなことであります。国主が御用いになられた時に誰が信じないものがありましょうか。その時になって信じたとしても何の甲斐がありましょう。それでは人を信じて法を信じないことになりましょう。 |
第二段から第十三段までは、日蓮大聖人御自身が語られた言葉をそのまま書き付けるという形式をとられたが、最終段の本段では、再び因幡房日永が述べるとう形式に戻っている。すなわち因幡房の立場を借りて大聖人を流罪に処した理不尽さを指摘されている。
大聖人が訴えられたことは国の存亡にかかわる重大事であり、その御予言の自界叛逆難・他国侵逼難はいずれも的中した。
ところが、そうした大聖人に対し、一方的に両度の御勘気、すなわち伊豆・佐渡の流罪をもって遇した幕府のやり方に対し、良識のある人ならば「いったいどうしたことか」と不審に思うのが当然である。そのことを詳細に尋ねて真相を知ろうともしない人に、大聖人の仰せを道理とか僻事だとか言う資格はない、という意である。
すでに述べたごとく幕府の態度は「日蓮は阿弥陀仏の怨敵・父母の建立の堂塔の讎敵なれば仮令政道をまげたりとも仏意には背かじ天神もゆるし給うべし」(0351-18)と指摘されているように、政道の法の運用の上からいっても反することであった。しかし、彼らは念仏を狂信し「政道を曲げても仏意に背かなければ許される」と考えていたのである。
この幕府のやり方の誤りは、もし下山兵庫が良識ある武士であれば分かったはずであろう。
因幡房が阿弥陀経の読誦をやめたのは、念仏が堕地獄の因であるからで、それは下山殿のためでもあり、自身の父母の成仏のためでもあると述べている。
仏法を正しく学ぶならば、念仏が無間地獄の業であることが明らかであり、因幡房が念仏を称えれば自身のみではなく、主君の下山殿をも、また父母をも無間地獄に堕すことになる。逆に法華経を読み題目を唱えれば、下山殿・父母をも成仏させることができるのである。
したがって、根本を尋ねることもなく勝手に邪推して一方的に阿弥陀経の読誦を強要しようとも、その意にしたがうことはできないと因幡房の身になって述べられ、封建的倫理の枠の中で、たとえ身は従ったとしても心は従うことはできないと強く主張されている。
さらに「此の御房は唯一人おはします」と大聖人が、かけがえのない仏であられることを婉曲ながら示され、もし多くの世間の人々が帰依していないが故に信じられないというのであれば、それは愚かなことである。
なぜならば、それは人を信じて法を信じないということになるからである。信仰とは法それ自体を信ずるところにその真髄があるのであり、世間の人々が信じているからとか、主君が信じているからという理由で信じるのであっては、それは信仰の本来の意義からかけ離れたものでしかない、と述べられている。
0364:03~0364:11 第二 仏法による真の忠考top
| 03 又世間の人人の 04 思いて候は親には子は 是非に随うべしと君臣師弟も此くの如しと 此れ等は外典をも弁えず内典をも知らぬ人人の 05 邪推なり外典の孝経には子父・臣君諍うべき段もあり、 内典には恩を棄て無為に入るは 真実に恩を報ずる者なり 06 と仏定め給いぬ、 悉達太子は閻浮第一の孝子なり父の王の命を背きてこそ 父母をば引導し給いしか、比干が親父 07 紂王を諌暁して胸をほられてこそ賢人の名をば流せしか、 賎み給うとも小法師が諌暁を用ひ給はずば 現当の御歎 08 きなるべし、 此れは親の為に読みまいらせ候はぬ 阿弥陀経にて候へば いかにも当時は叶うべしとはおぼへ候は 10 ず、恐恐申し上げ候。 11 建治三年六月 日 僧 日永 12 下山兵庫五郎殿御返事 -----― また世間の人々の考えでは、親に子は必ず従うべきであり、君臣・師弟の関係も同じであるとされています。しかし、これらは外典を理解せず仏典の教えをも知らない人々の誤った考えであります。外典の孝経には「子と父と、また臣下は主君と爭って諌めるべきである」という教えもあります。仏典には「父母の恩を捨てて仏道に入る者は、真実に恩を報ずる者である」と仏が定められております。 悉達太子は世界第一の孝子です。父の王の命に背いて出家されたからこそ、父母を仏道に導びかれたのであります。また比干は父紂王を諌めて、胸を裂かれたが故に、後世に賢人の名を残したのであります。私のごとき小法師が諌暁とはいえ、賎しんで用いられなかったならば、現世でも未来世にいても後悔なされるでしょう。阿弥陀経を読誦しないのは親の為でございますから、いかにしても今はお心に従うことはないでありましょう。以上、恐れ謹んで申し上げた次第です。 建治三年六月 日 僧 日永 下山兵庫五郎殿御返事 |
当時の日本の社会における倫理観では臣下は主君に絶対に服従すべきであり、子は親に従うべきであるとされていた。したがって大聖人に帰依し、主君である下山兵庫の命に従おうとしない因幡房の態度は、主君や親に対する反逆行為であり、恩ある人々に対する忘恩の姿と映ったであろう。
しかし、倫理観の基盤とされた儒教において、特に孝養を説いた孝経にも、子たる者は不義なる父とは争ってこれを諌め、臣下にあっても主君に不義あらばこれと争って諌言すべきであると記してある。
また仏法においては一度は恩愛の情を振り切ってでも出家して仏道に励み、かえって成仏の道に導くことこそ真実の報恩になることを明かしている。大聖人は、ここで内道の具体例として悉達太子が親の反対を押し切って出家し、両親を成仏に導いたという事実を述べ、また外典の例として比干が主君である紂王にその暴虐をやめるよう諌言した故事を挙げられている。
ここに、「世間の人人の思いて候は親には子は是非に随うべしと君臣師弟も此くの如しと此れ等は外典をも弁えず内典をも知らぬ人人の邪推なり」とある御指摘は非常に重要である。儒教の根本というべき忠孝の道について、当時の人々はその本来の精神を誤解しているとのご指摘である。すなわち人々は、主君あるいは親の立場から臣下あるいは子に対して、全面的服従を強要するための手段としては、この「忠孝」という考え方を利用していたのである。
本来の忠孝思想は決して盲目的服従を教えたものではなく、より根本に正義・不義という問題があることを前提としている。したがって親であっても社会正義に背いている場合には、これに従うのではなく、諌めるべきであり、主君であっても、人間としての正義に背いている場合は諌めなければならない。同様に師たりとも、宇宙・生命を貫く正しい法に背く邪義を根本としている場合には、これを諌めるべきである。正義に叶った生き方であってこそ、真の幸福の道となるのであり、この正道に導くことが父母・師・主君に対する真実の報恩となるからである。
最後に因幡房の立場から重ねて阿弥陀経不読の決意を述べ、正義に反した要求・命令には従えない旨を記して本抄を結ばれている。
0364:07~0346:13 下山御消息2015:06月号大白蓮華より。先生の講義top
世界を照らす太陽の仏法
人間の幸福――そのためにこそ宗教がある
6月は「創価の父」である初代会長・牧口常三郎先生の生誕月です。
本年は、「創価教育学」の出発から85周年の佳節でもあります。
大教育者であった牧口先生は、「子どもの幸福」と「教育のための社会」の実現へ、一貫して人間教育を実践されました。
その根本にあったのは、仏法の「一人を大切にする心」であり、「万人の可能性を信じる心」です。
人間こそ原点・幸福こそ目的
牧口先生の悲願の結晶である創価学園・創価大学では、「何のため」という根本の問いかけを大切にする伝統が築かれています。年々、発展する姿に牧口先生、また第二代会長・戸田先生が、どれほど喜ばれていることか。
万般にわたって、「何のため」という視点が大事である。「何のため」という原点を持っている人は強い。どんな複雑な問題にも、ぶれずに進むことができる。
仏教の創始者・釈尊、そして末法に出現された日蓮大聖人の戦いは、「宗教は何のためにあるのか」という根本の一点を問い続けるものでした。
結論して言えば、宗教は「人類の平和のため」「人間の幸福のため」にこそあるということです。人類の経典ともいうべき法華経と御書の神髄もそこにあります。万人の尊厳性を謳い上げた哲学こそ、民衆の宝です。
人間こそ「原点」であり、幸福こそ「目的」なのです。
教育者として、子どもの幸せという目的を探究した牧口先生は、57歳にして日蓮仏法に巡り合い、人類の幸福という大願に立って、「法華経の行者」として戦い抜かれました。
釈尊、法華経、日蓮大聖人、そして牧口先生・創価学会へと続く系譜とは、いわば「人間の幸福の実現」、すなわち「人間のための宗教」の確立という点にあるとも言えます。それはまた、人間を苦しめる魔性とは断じて戦うという「宗教革命」の系譜でもありました。
今回は「下山御消息」を拝し、この創価学会に流れ通う「人間主義」の系譜について確認していきたいと思います。
| 07 此れ等の大論師は法華経の深義を知し食さざる 08 にあらず 然而法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば 心には存じて口に宣べ給は 09 ず或時は粗口に囀る様なれども 実義をば一向に隠して演べ給はず、 -----― これらの大論師は法華経の深義を知っておられないのではなく、法華経を流布の時もいまだ来ていないのと、釈尊からも命じられていない大法なので、心の中には知っていても口にはだされなかったのである。ある時は概略このことを口に出されるようなことがあっても、仏の真意はひたすら隠して説かれなかったのである。 |
法華経は末法のための経典
本抄は、建治3年(1277)6月、大聖人が、門下の因幡房日永に代わって認め、甲斐国下山郷の地頭である下山兵庫五郎光基に送られた書です。
当時は、再度の蒙古の来襲が、いつあるか分からない状況でした。そうした不安な世相の中で、仏法の正義に目覚めるべきことを、大聖人は繰り返し訴えられています。
平泉寺の僧・日永は、日興上人の折伏によって大聖人の門下になり、法華経如来寿量品の自我偈を読誦するようになりました。しかし、念仏の信者であった下山光基の怒りを買い、平泉寺を追放されたため、大聖人が日永に代わって陳状をお認めになったのです。この結果、下山光基は、本抄の教導を機縁として大聖人に帰依したと伝えられています。また、一族も入信しています。
「教主釈尊より大事なる行者」(0363)
日蓮大聖人は本抄の結論部分で、御自身をこう述べられています。
これは、大聖人の御一生における重大事であり、本抄が「十大部」の一つとされている所以でもあります。言うまでもなく、大聖人ほど釈尊を大切にされた方はいません。そのうえで末法広宣流布を主題とした時に、いかに末法の法華経の行者が重要な存在であるのか。本抄は、大聖人が身延の庵室で説法していた内容を紹介するという体裁をとっていますが、いわば、日永の口を借りて、末法の法華経流布の本義を述べられているのです。
すなわち、大聖人は本抄で、正法・像法・末法という仏法流布の歴史をたどり、法華経の卓越性を確認します。それとともに、法華経に予言された大難を受けて、法華経を身読された大聖人こそが、末法にあっては、教主釈尊よりも大事な存在となることを、文証と理証と現証を通して明快に示されているのです。
末法弘通を担う地涌の菩薩
今回研鑽する御文は、正像末の弘通と上行菩薩の出現について述べられています。
釈尊は、滅後の弘通の順序について、正・像・末の三時を区分し、それぞれの時に弘通すべき「経」と「人」を定められていました。
まず、正法一千年では、前半は迦葉・阿難らの声聞が小乗の教えを弘め、その後半には権大乗の教えを馬鳴・竜樹らの大菩薩が説きました。これらの大論師たちは、大乗教をもって小乗教を打ち破り、それを弘通することはしました。
しかしながら、法華経については、その論書の中で言及することはあったものの、法華経の深い法義であり、仏の真意の教えである「一念三千」は胸中にとどめ、それを口に出すことはありませんでした。
では、なぜこれらの菩薩が法華経を弘めなかったのか――。本抄では、「法華経流布の時も来たらざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば」と二つの理由を挙げられています。
まず、「法華経流布の時も来らざる」とは、根本的には、法華経は末法のための経典であるからです。法華経の肝心である南無妙法蓮華経は、他の経典で教えなかった人をも、すべて救い切る大法なのです。
次に、「釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば」とは、滅後末法の悪世に、この大法を弘通すれば、大難が競い起こるゆえに、これらの大菩薩に弘通を仰せ付けられなかった。そして、久遠以来の本物の弟子である地涌の菩薩だけに付嘱されたのです。
この仰せには、重要なことが2点あります。一つは、法華経は悪世末法の一切衆生のための経典だということです。端的に言えば、最も悩み、苦しんでいる人を救うための教えです。そして二つ目は、その法華経を弘通する「人」が誰か、という点を見失ってはならないということです。
| 09 像法一千年の内に入りぬれば月氏の仏法漸く 10 漢土日本に渡り来る世尊眼前に 薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又 11 地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて 本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を 一閻浮提の一切衆 12 生に唱えさせ給うべき先序のためなり、所謂・迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是なり、 13 上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、 而るに余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか、 -----― 像法の一千年に入ると、インドの仏法は次第に中国・日本へと伝えられてきた。釈尊は明らかに薬王菩薩等の迹化、及び他方の大菩薩に法華経の半分、迹門の十四品を授けられた。これはまた地涌の大菩薩が末法の初めに出現されて本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせるためのその序にあたる。いわゆる迹門弘通の人とは南岳・天台・妙楽・伝教等の人たちである。 今末法の時代は既に上行菩薩等が出現される時に当たっている。私の愚眼をもって見るにその瑞相は既に現れているようである, |
仏法が混乱する悪世末法の時
今、確認したように、正法時代の千年は、法華経ほどの深義でなくとも、諸教が人々を利益しました。同じく、像法時代の千年もまた、法華経の迹門の教えで十分でした。天台・伝教らは迹化の菩薩である薬王菩薩などの後身とされています。
天台は法華経に基づいて、「一念三千」の法門を説いて、仏の智慧を開き、成仏するための実践を明かしました。伝教は、それを日本に広めていくために尽力しました。
大聖人は、これらは、末法に地涌の菩薩が出現して、本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を説くために、先立つ準備であったと仰せです。
正法・像法に対して、末法は、上行菩薩が出現して法華経本門を弘通すべき時に当たっておりその予兆は既に現れている、と喝破なされたのです。
つまり、末法の様相たる仏法の大混乱が既に激しく起こっていました。
日本の仏教界では、「何のため」という原点を完全に見失い、民衆を置き去りにして、闘諍言訟の様相を呈していたのです。
諸宗の僧らは経の浅深・勝劣に迷い、仏の真意を忘れて、時や機根をも考えずに自分勝手に宗派を立てていました。それだけではなく、万人成仏の教えである法華経を蔑ろにして、白法隠没という実態が広がっていました。
しかし、この時こそ、大白法が興隆すべき時であり、上行菩薩が出現すべき時なのです。
それでは、この大白法を説いて末法の一切衆生を救う上行菩薩とは、一体、誰のことか。それは真の「末法の法華経の行者」とは誰人なのか、という問いに直結します。
謗法の時代に人難弘通の実践
先にも述べたように、法華経は末法の人々を救う経典です。ということは、末法に、法華経の行者は、闘諍言訟の謗法充満の時代に、ただ一人立ち上がり、大難を受けながら、正法を弘通し続ける人であらねばならない。法華経の行者の存在によって、末法の全民衆が幸福になれるのです。
末法広宣流布の真実の姿を見れば、不惜身命を貫き妙法を流布する人を、「教主釈尊より大事なる行者」とまで仰せになる意味が、十二分に理解できます。
本抄には、日永を通して下山光基に伝える「仏法入門」「法華経入門」の一書という性質がありますが、言い換えれば、民衆のために戦う「法華経の行者」を知らなければ、仏法も、法華経も、その真意がわかりません。
それゆえに、本抄では、法華経の行者に敵対する僭聖増上慢とは、具体的に誰か、三類の強敵を引き起こした法華経の行者とは誰か、という主題が迫っていきます。
本抄では、念仏だけでなく、禅宗・真言宗・天台宗などの諸宗の転倒ぶりを示し、明快に破折されています。なかでも、真言律宗の極楽寺良観の破折に、多くの紙幅が費やされています。
とりわけ、大聖人と良観との「祈雨の勝負」について詳しく言及され、良観が祈雨に失敗した理由についても、諸経典に基づいて列挙し、明らかにされています。持律の聖人という外見の下に隠された良観の本質を見破り、破折されているのです。
なぜ、これほどまでに大聖人が良観を責めるのか――。それは、良観が“聖者の仮面”を被った人々をだまし続ける、仏法破壊の元凶であるからです。大聖人は、その正体について、「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」(0174-05)と断じています。
「僭聖増上慢」とは、人々から仰がれている高僧でありながら、自分の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとする者です。この僭聖増上慢は、三類の強敵のなかでも最も甚だしい「悪」であり、その正体を見破りがたいのです。
慈悲深い人間を装いながら、「人間を軽賤」し、自らの欲望を満たすためであれば、真実をねじ曲げようと、人々が不幸になろうと何とも思わない。さらには、秦の正義の人を醜い嫉妬心から迫害しようとする――これ以上の悪はありません。
大悪と戦ってこそ法華経の行者
ゆえに大聖人は、「真の民衆の幸福を願って、経文の通り仏法を弘め、行動している人は誰なのか」を明確にするため、人々を惑わす根源的な「悪」を激しく責めたのです。聖者を装う仮面の正体を見極め、人々が、“偽り”にだまされない社会を築きあげる――。それには、人々の精神的境涯を高めるしかありません。
牧口先生は、もし大聖人が出現しなかったら、良観のような輩も生き仏となったまま現世を終えていたであろうと言われたことがありました。真実を見極める智慧の人が誕生しなければ、社会はいつしか歪められ、善悪の基準を見失い、僭聖増上慢に操られ衰退していくに違いありません。
また、牧口先生は、本抄の一節を引かれて、法華経は、小善で大悪な魔の正体を明らかにして、人々を最大の善に至らしむる教えであると言われたこともあります。魔は小善の姿を示します。それ故に多くの人がその正体に気付くことが難しい.故に大善でなければ、破ることができないのです。
この法華経を実践して、万人に真実を教えるのが、「法華経の行者」として戦ってこられた事跡についても、詳細な記述があります。すなわち、「立正安国論」の提出から松葉ケ谷の法難、伊豆流罪に至る事情や、竜の口法難、また、佐渡流罪赦免後の平左衛門尉頼綱との会見についても、言及されています。
こうした事実が意味することは、大聖人ほど民衆の幸福の実現のために戦ってこられた方はないということです。そして、それは大聖人が三類の強敵、僭聖増上慢と戦い抜かれてきた「法華経の行者」であるという証明でもあります。
「信者でなく行者たれ」
現代において、御書の通りに、「法華経の行者」の系譜に列なるのが、創価学会です。
1942年(昭和17年)11月に行われた創価教育学会の第5回総会で、牧口先生は語られました。
「信者と行者を区別しなければならない。信ずるだけでも御願いをすれば御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信者であり、かつ行者である」
ここに、日蓮仏法は本来的に菩薩行であり、それが「法華経の行者」の実践であると捉えた牧口先生の慧眼が示されています。
信仰の偉大な功力を実感された牧口先生が、特に力を入れたのは「座談会」でした。牧口先生は「大善生活実験証明」と銘打った座談会に出席し、自ら先頭に立って折伏の戦いを進めていかれました。
戦時中、牧口先生を牢獄に縛った起訴状によれば、1941年(昭和16年)5月から1943年(昭和18年)6月の間に、軍部政府の弾圧の中で、実に240回以上の座談会が開かれています。
1942年(昭和17年)5月17日に行われた創価教育学会の第4回総会で、牧口先生は烈々と訴えられました。
「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである。数千人の説教中に一人も残らないような従来の教化運動とは異なり、10年前はただ一人だった同志が、この様に繁栄したのは全く信仰の基礎に立ち、現証を示し合えばこそである。ここまで来たのを以て察するに、今後ともに家庭を救い社会を救い、そうして広宣流布に到るまでの御奉公の一端も出来ると信ずるのであります」
動乱する世の中でも、牧口先生は広宣流布の歩みを決して止められなかったのです。それとともに、牧口先生は徹して一人から始められました。確かなる一人を育むためには座談会しかないのです。
学会は「広宣流布の教団」
大聖人の民衆救済の大慈悲を拝し、「皆の幸福のために」広宣流布に懸命に励む創価学会の一人一人こそ、末法における「法華経の行者」であり、地涌の菩薩です。釈尊の御請願である法華経の心を実現すべく、日蓮大聖人が一人立たれた地涌の大闘争を正しく受け継いだからこそ、創価の連帯は世界192ヵ国・地域にまで発展しました。
牧口先生が提唱された「大善生活実験証明座談会」から始まった、一対一の膝詰めの対話は、今や地球を舞台とした座談会として、世界中に明るくにぎやかに開催されています。
一昨年には、広宣流布大誓堂が建立されました。地涌の使命に目覚めた青年が陸続と誕生し,異体同心の題目の音声は青き地球に響き渡っています。妙法の種を蒔く友情の対話が、あの地でも、この地でも花開いています。
学会は未来永劫に広宣流布の教団であり、弘教・拡大の団体です「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」(1467-05)とあるように、友の心に幸福の種となる妙法を語り、植えることが、万人の生命に具わる仏性を発動させるきっかけとなります。これほど尊い仏道修行はありません。
国際宗教者戒学会のカール・ドブラーレ元会長は言われました。
「日蓮仏法は,『種を蒔く仏教』すなわち『新たな結果を生む新たな原因をつくることは、いつでも可能であるとする仏教』です。信仰の実践を通して『変毒為薬』――縮合がどうであれ、価値をそうぞうすること――が可能なのです」
「体験」と「確信」を語り抜け
広宣流布といっても、全ては一人一人の対話から始まっていきます。どこまでも誠実に、自身のありのままの信仰の「体験」と「確信」を語ることです。その真心の一言一言が、希望の種、幸福の種として、友の心に植えられていくのです。話したその時は、相手は気付かないかもしれない。しかし、どこまでも友を大切に、幸福を祈り続けていくのです。祈りは必ず通じます。その友が人生の岐路に至ったとき、“ああ、あの時、あの友が、こう教えてくれたな”と思い起こすこともあるでしょう。“折伏をすれば必ず信用が残る”とは、恩師の忘れ得ぬ指導です。
私たちの信仰は、確かな人生の道筋を示す羅針盤でもあります。この6月、にぎやかに婦人部総会が各地で行われます。学会の哲学は、まさに膝詰めの対話、納得と信頼の語らいから広がっていきます。婦人部総会こそ、その人間共和の縮図ともいえるでしょう。
私たちは、どこまでも一人の幸福のために、妙法の種を蒔き、「自他共の幸福」を実現するために生まれ合わせた地涌の菩薩です。
誇りも高く、末法広宣流布の主役として、地涌の使命を堂々と果たし抜いていこうではありませんか。