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報恩抄講義0293~0330

         序講
0293:01~0293:03 第一章 報恩の道理を明かす
0293:03~0293:09 第二章 報恩の要術を明かす
0293:10~0294:05 第三章 諸宗の迷乱を挙ぐ
0294:05~0294:15 第四章 涅槃経の遺誡
0294:16~0295:12 第五章 一代諸経の勝劣
0295:13~0296:15 第六章 法華最第一を明かす
0296:16~0298:02 第七章 在世及び正法時代の値難
0298:02~0299:09 第八章 漢土天台大師の弘通
0299:09~0300:17 第九章 天台大師の公場対決
0300:18~0302:10 第十章 天台滅後、三宗の迷乱
0302:11~0304:04 第11章 日本伝教大師の弘通
0304:05~0305:04 第12章 伝教大師の真言破折
0305:05~0305:17 第13章 弘法の真言伝弘
0305:17~0306:12 第14章 慈覚の真言転落
0306:13~0307:06 第15章 智証の真言転落
0307:07~0309:07 第16章 慈覚智証を破責す
0309:08~0310:02 第17章 法華最勝の経釈
0310:02~0310:13 第18章 法華経の三国三師
0310:13~0311:17 第19章 日本に謗者のみあるを明かす
0311:17~0312:15 第20章 日蓮大聖人の国家諌暁
0312:15~0313:14 第21章 災難の所以を明かす
0313:15~0314:09 第22章 国中の謗法を明かす
0314:09~0315:12 第23章 嘉祥の懺悔謗罪
0315:12~0317:02 第24章 中国の真言三祖を破る
0317:03~0317:16 第25章 弘法慈覚の悪現証
0317:17~0318:06 第26章 善導の悪夢の例を挙ぐ
0318:07~0319:07 第27章 弘法の霊験を破す
0319:07~0321:06 第28章 弘法の誑惑を責む
0321:07~0321:14 第29章 真言破折を結す
0321:14~0323:05 第30章 日蓮大聖人の知恩報恩
0323:05~0324:03 第31章 道善房への報恩
0324:04~0325:03 第32章 略して題目肝心を示す
0325:04~0326:11 第33章 広く題目肝心を明かす
0326:12~0327:08 第34章 馬鳴竜樹等の大乗弘通
0327:09~0328:12 第35章 天台伝教の迹門弘通
0328:13~0329:13 第36章 本門三大秘法を明かす
0329:13~0329:17 第37章 正しく報恩を結す
0330:01~0330:13 報恩抄送文
報恩抄2007:09月号大白蓮華より。先生の講義
0329:03~0329:07 報恩抄2015:01大白蓮華より先生の講義

         序講top

 報恩抄の講義にあたり、まずその序講として、
    第一に、本抄御述作の由来
    第二に、本抄の大意
    第三に、本抄の元意・内証
 を略述することとする。
第一 本抄御述作の由来
 本抄は建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人が身延山において御述作になり、安房の清澄寺における故道善房追善のため、浄顕房・義浄房のもとに送られた御抄である。
 この時は日蓮大聖人が身延にはいられて3年目にあたり、聖寿55歳の御時であった。本抄の御正筆は身延にあったが、明治8年(1875)の火災で焼失している。
 日興上人の富士一跡門徒存知の事には、いわゆる10大部を挙げられているが、報恩抄の項は次のとおりである。
14   一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15   身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。(1604)
 以上のように、本抄は、道善房逝去の報を聞かれて、報恩謝徳のためにこれを述べられ、浄顕房、義浄房のもとへ送られたことが明らかである。
(一)旧師道善房
 日蓮大聖人は12歳の御時から、安房国清澄寺に上られて修学に励まれた。その時の師匠が道善房であり、兄弟子にあたる2人が浄顕房、義浄房であった。
 建長5年(1253)4月28日、この清澄寺の諸仏坊の持仏道の南面で初めて南無妙法蓮華経の三大秘法をお説き遊ばされたのである。
 しかるに地頭の東条左衛門景信は、強盛な念仏信者で、日蓮大聖人を迫害した。また清澄寺内の大衆も、多くは大聖人の御正義に反対し、大聖人は浄顕房、義浄房の2人にかくまわれて、ようやく脱出なされたほどであった。
 本抄にいわく「但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0323-18)と。
 本尊問答抄にいわく「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373-14)と。
 このような浄顕房、義浄房に対し、師匠の道善房は、臆病で小心で、地頭の権威を恐れ、清澄寺住職の保身に汲々としていた。日蓮大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年はひかれるものもあったが、保身のためには念仏を離れることもできないし、地獄におちても仕方がないというような考えであった。
 本抄にいわく「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323-08)と。
 本尊問答抄にいわく「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし」(0373-11)と。
 善無畏三蔵抄にいわく「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時 彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0888-17)と。
 以上のように道善房は、愚癡で臆病で小心の念仏者であった。地頭の東条景信は、また邪宗の信心も強情であったが、次の御書でお示しのように、清澄の飼鹿を狩り取るような悪人であった。しかも清澄寺には、円智房、実成房というような、日蓮大聖人に敵対する勢力も強かったものとみられる。こういう状況の中で最後には少しは信心にめざめた傾向もあったが、結局はまことに頼りない姿で一生を終ってしまった。そもそも、道善房はもとより、清澄の大衆は当然に日蓮大聖人の御徳に感服しなければならないような次のような事件もあった。
 清澄寺大衆中にいわく「就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894-12)と。
 当時、地頭の東条景信は、念仏者の極楽寺などの後援で天台宗であった清澄一山を念仏にしようとした。その上、二間寺をも領家から放そうとしたのである。飼鹿を狩り取ったことは清澄に対する一種の示威運動とみられる。そこで日蓮大聖人は、東条の領家ならびに清澄方の味方となり、東条側も訴訟をなし、一ヵ年の間に勝訴となったものである。
 領家は日蓮大聖人の父母もお世話になった関係もあった。こうした難問題を日蓮大聖人御みずから解決なされたことである。
(二)嵩が森で読む
 およそ日蓮大聖人の御指導に反することばかりの道善房であり、清澄寺の情勢ではあったが、それでも道善房の逝去をお聞きになった大聖人は、次のようにおおせられている。
 本抄いわく「それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず」(0323-15)と。
 本抄送文にいわく「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330-03)
 日蓮大聖人御自身は、このような事情で身延から出るわけにはいかないので、御弟子の中でも房総方面出身の民部日向が、使いとして選ばれ、報恩抄を持って清澄寺に行き、嵩が森の頂と、故道善房の御墓の前で拝読したのである。
 同抄送文にいわく「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」(0330-09)と。
 この日蓮大聖人のご指示は、そのとおり実行された。
 華果成就御書にいわく「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0990-01)と。
 さて、この送り状にある「嵩はもり」であるが、古来の多くの御書は「山の高み森」とか、「山高き森」とよんでいるが、これは、はなはだしい誤読である。
第二 本抄の大意
(一)本抄の題号

 この報恩抄の題号には、通と別の二意を含む
 通じていえば四恩の報謝であり、別していえば師の御報謝である。
 四恩についても、本抄の四恩と、四恩抄の四恩には次のような相違がある。
    本抄の四恩  四恩抄の四恩
    父母の恩   衆生の恩
    師匠の恩   父母の恩
    三宝の恩   国王の恩
 なにゆえに本抄は師の恩を出し、一切衆生の恩を没しているのか、それは別して師恩謝徳のために本抄を述作なされたゆえに、師恩を開出されたのである。
 しかして衆生の恩を父母の恩の中におく。法蓮抄にも「六道四生の一切衆生は皆父母なり」(1046-06)とある。よって、父母の恩に報ずることが、一切衆生の恩を報ずることになるのである。
 次に別していえば、師の恩の報恩にある。旧師道善房の逝去をいたみ、その報恩謝徳のために本抄を御述作になり、嵩が森と御墓の前で読ましめたことは前述のとおりである。
 本抄総結の文には「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-13)と。
 日蓮大聖人の、恩師をしのばれる御心情は、われわれがごとき凡眼には、とうてい想像のつかないところである。
 しかしながら、われわれ創価学会のためには、大法弘通の御ために御一生を捧げ尽された恩師牧口先生と、戸田先生がおいでになる。大聖人が、あの凡愚の道善房に対してすら尽された御精神を拝するならば、われわれはこの尊い恩師に、いかにしたらその万分の一をも報いることができるのであろうか。時まさに恩師戸田城聖先生の七回忌を迎えて、粛然として襟を正し、この感慨を深くするものである。
 しかしながら、ただ一つ心強く思うことは、恩師なきあと、その御遺訓のままに広宣流布の大道を邁進し、世界に400数十万所帯を突破する大折伏を敢行した事実である。恩師も必ずやお喜びくださるものと確信してやまない。
(二)本抄の大意
 本抄御述作の由来からみても、本抄の大意は通じて四恩を報じ、別して師の恩たる故師道善房の恩を報ずべきことを明かしていることはいうまでもない。
 しからば、いかにしたらこの大恩を報ずることができるであろうか。それは本抄にお示しのごとく「必ず仏法をならひきはめ智者」とならなくてはならない。「仏法を習い極めんとをもはば」出家して一代聖教を学ばなくてはならない。
 しかるに一代聖教を学ぶべき十宗が、日本の国にはびこり、我も第一、我も第一と争っていて、いずれが本意かわからない。そこで一代聖教に照らして判ずるならば、大小、権実、本迹、種脱の勝劣が分明であって、末法の大慈大悲の御本仏が日蓮大聖人であられ、しかも大聖人の建立あそばされるところの大白法は三大秘法であることを明かされている。とくに本抄では真言の邪義を厳しく破折されている。五大部の中においても、立正安国論は佐渡以前の書であり、専ら法然の念仏を破折なされた権実相対が主眼になっている。開目抄には五重相対して人本尊を明かし、観心本尊抄には末法流布の大御本尊を明かされているが、いまだ三大秘法の名目すら出されていない
 撰時抄には各宗の邪義を打ち破り「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)と判じられてはいるが、いまだ三大秘法は明らかではない。
 建治の本抄においては、中国における善無畏・金剛智・不空の三三蔵、日本における弘法・慈覚・智証の邪義、誑惑・霊験・悪夢等を徹底的に破責なされている。すなわち通じては禅・念仏の邪義を破するが、別して真言の邪義、とくに身は天台座主の地位にありながら、真言に転落した慈覚・智証を破責なされている。
 しかして、本門三大秘法を明かされ、しかも日蓮大聖人の慈悲曠大のゆえに、この三大秘法は末法万年のほか、未来永遠の衆生をお救いになることを断定あそばされているのである。三大秘法を明かされているがゆえに、送文には「大事の大事どもをかきて候ぞ大事の大事どもをかきて候ぞ」(0330-07)とおおせになっている。
 最後に総結の文には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-14)とおおせられて、三大秘法を流布し、一切衆生をお救いあそばされることのみが、故師の大恩を報ずる道であることが明かされているのである。

第三 本抄の元意即ち御内証
(一)真の知恩報恩

 以上のように、報恩の要術は、三大秘法を信じ、三大秘法を流布することにある。
 ゆえに、一往は故師道善房に対する報恩を明かされてはいるが、その元意即ち御内証は、日蓮大聖人が末法の御本仏として、三大秘法を建立し、広宣流布なされることを明かされているのである。
 われら末弟もまた、通じては父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩を報じなければならないし、別しては師の恩を報じなければならないと、訴えておく。 報恩抄の講義にあたり、まずその序講として、
    第一に、本抄御述作の由来
    第二に、本抄の大意
    第三に、本抄の元意・内証
 を略述することとする。
第一 本抄御述作の由来
 本抄は建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人が身延山において御述作になり、安房の清澄寺における故道善房追善のため、浄顕房・義浄房のもとに送られた御抄である。
 この時は日蓮大聖人が身延にはいられて3年目にあたり、聖寿55歳の御時であった。本抄の御正筆は身延にあったが、明治8年(1875)の火災で焼失している。
 日興上人の富士一跡門徒存知の事には、いわゆる10大部を挙げられているが、報恩抄の項は次のとおりである。
14   一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15   身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。(1604)
 以上のように、本抄は、道善房逝去の報を聞かれて、報恩謝徳のためにこれを述べられ、浄顕房、義浄房のもとへ送られたことが明らかである。
(一)旧師道善房
 日蓮大聖人は12歳の御時から、安房国清澄寺に上られて修学に励まれた。その時の師匠が道善房であり、兄弟子にあたる2人が浄顕房、義浄房であった。
 建長5年(1253)4月28日、この清澄寺の諸仏坊の持仏道の南面で初めて南無妙法蓮華経の三大秘法をお説き遊ばされたのである。
 しかるに地頭の東条左衛門景信は、強盛な念仏信者で、日蓮大聖人を迫害した。また清澄寺内の大衆も、多くは大聖人の御正義に反対し、大聖人は浄顕房、義浄房の2人にかくまわれて、ようやく脱出なされたほどであった。
 本抄にいわく「但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0323-18)と。
 本尊問答抄にいわく「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373-14)と。
 このような浄顕房、義浄房に対し、師匠の道善房は、臆病で小心で、地頭の権威を恐れ、清澄寺住職の保身に汲々としていた。日蓮大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年はひかれるものもあったが、保身のためには念仏を離れることもできないし、地獄におちても仕方がないというような考えであった。
 本抄にいわく「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323-08)と。
 本尊問答抄にいわく「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし」(0373-11)と。
 善無畏三蔵抄にいわく「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時 彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0888-17)と。
 以上のように道善房は、愚癡で臆病で小心の念仏者であった。地頭の東条景信は、また邪宗の信心も強情であったが、次の御書でお示しのように、清澄の飼鹿を狩り取るような悪人であった。しかも清澄寺には、円智房、実成房というような、日蓮大聖人に敵対する勢力も強かったものとみられる。こういう状況の中で最後には少しは信心にめざめた傾向もあったが、結局はまことに頼りない姿で一生を終ってしまった。そもそも、道善房はもとより、清澄の大衆は当然に日蓮大聖人の御徳に感服しなければならないような次のような事件もあった。
 清澄寺大衆中にいわく「就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894-12)と。
 当時、地頭の東条景信は、念仏者の極楽寺などの後援で天台宗であった清澄一山を念仏にしようとした。その上、二間寺をも領家から放そうとしたのである。飼鹿を狩り取ったことは清澄に対する一種の示威運動とみられる。そこで日蓮大聖人は、東条の領家ならびに清澄方の味方となり、東条側も訴訟をなし、一ヵ年の間に勝訴となったものである。
 領家は日蓮大聖人の父母もお世話になった関係もあった。こうした難問題を日蓮大聖人御みずから解決なされたことである。
(二)嵩が森で読む
 およそ日蓮大聖人の御指導に反することばかりの道善房であり、清澄寺の情勢ではあったが、それでも道善房の逝去をお聞きになった大聖人は、次のようにおおせられている。
 本抄いわく「それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず」(0323-15)と。
 本抄送文にいわく「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330-03)
 日蓮大聖人御自身は、このような事情で身延から出るわけにはいかないので、御弟子の中でも房総方面出身の民部日向が、使いとして選ばれ、報恩抄を持って清澄寺に行き、嵩が森の頂と、故道善房の御墓の前で拝読したのである。
 同抄送文にいわく「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」(0330-09)と。
 この日蓮大聖人のご指示は、そのとおり実行された。
 華果成就御書にいわく「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0990-01)と。
 さて、この送り状にある「嵩はもり」であるが、古来の多くの御書は「山の高み森」とか、「山高き森」とよんでいるが、これは、はなはだしい誤読である。
第二 本抄の大意
(一)本抄の題号

 この報恩抄の題号には、通と別の二意を含む
 通じていえば四恩の報謝であり、別していえば師の御報謝である。
 四恩についても、本抄の四恩と、四恩抄の四恩には次のような相違がある。
    本抄の四恩  四恩抄の四恩
    父母の恩   衆生の恩
    師匠の恩   父母の恩
    三宝の恩   国王の恩
 なにゆえに本抄は師の恩を出し、一切衆生の恩を没しているのか、それは別して師恩謝徳のために本抄を述作なされたゆえに、師恩を開出されたのである。
 しかして衆生の恩を父母の恩の中におく。法蓮抄にも「六道四生の一切衆生は皆父母なり」(1046-06)とある。よって、父母の恩に報ずることが、一切衆生の恩を報ずることになるのである。
 次に別していえば、師の恩の報恩にある。旧師道善房の逝去をいたみ、その報恩謝徳のために本抄を御述作になり、嵩が森と御墓の前で読ましめたことは前述のとおりである。
 本抄総結の文には「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-13)と。
 日蓮大聖人の、恩師をしのばれる御心情は、われわれがごとき凡眼には、とうてい想像のつかないところである。
 しかしながら、われわれ創価学会のためには、大法弘通の御ために御一生を捧げ尽された恩師牧口先生と、戸田先生がおいでになる。大聖人が、あの凡愚の道善房に対してすら尽された御精神を拝するならば、われわれはこの尊い恩師に、いかにしたらその万分の一をも報いることができるのであろうか。時まさに恩師戸田城聖先生の七回忌を迎えて、粛然として襟を正し、この感慨を深くするものである。
 しかしながら、ただ一つ心強く思うことは、恩師なきあと、その御遺訓のままに広宣流布の大道を邁進し、世界に400数十万所帯を突破する大折伏を敢行した事実である。恩師も必ずやお喜びくださるものと確信してやまない。
(二)本抄の大意
 本抄御述作の由来からみても、本抄の大意は通じて四恩を報じ、別して師の恩たる故師道善房の恩を報ずべきことを明かしていることはいうまでもない。
 しからば、いかにしたらこの大恩を報ずることができるであろうか。それは本抄にお示しのごとく「必ず仏法をならひきはめ智者」とならなくてはならない。「仏法を習い極めんとをもはば」出家して一代聖教を学ばなくてはならない。
 しかるに一代聖教を学ぶべき十宗が、日本の国にはびこり、我も第一、我も第一と争っていて、いずれが本意かわからない。そこで一代聖教に照らして判ずるならば、大小、権実、本迹、種脱の勝劣が分明であって、末法の大慈大悲の御本仏が日蓮大聖人であられ、しかも大聖人の建立あそばされるところの大白法は三大秘法であることを明かされている。とくに本抄では真言の邪義を厳しく破折されている。五大部の中においても、立正安国論は佐渡以前の書であり、専ら法然の念仏を破折なされた権実相対が主眼になっている。開目抄には五重相対して人本尊を明かし、観心本尊抄には末法流布の大御本尊を明かされているが、いまだ三大秘法の名目すら出されていない
 撰時抄には各宗の邪義を打ち破り「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)と判じられてはいるが、いまだ三大秘法は明らかではない。
 建治の本抄においては、中国における善無畏・金剛智・不空の三三蔵、日本における弘法・慈覚・智証の邪義、誑惑・霊験・悪夢等を徹底的に破責なされている。すなわち通じては禅・念仏の邪義を破するが、別して真言の邪義、とくに身は天台座主の地位にありながら、真言に転落した慈覚・智証を破責なされている。
 しかして、本門三大秘法を明かされ、しかも日蓮大聖人の慈悲曠大のゆえに、この三大秘法は末法万年のほか、未来永遠の衆生をお救いになることを断定あそばされているのである。三大秘法を明かされているがゆえに、送文には「大事の大事どもをかきて候ぞ大事の大事どもをかきて候ぞ」(0330-07)とおおせになっている。
 最後に総結の文には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-14)とおおせられて、三大秘法を流布し、一切衆生をお救いあそばされることのみが、故師の大恩を報ずる道であることが明かされているのである。
第三 本抄の元意即ち御内証
(一)真の知恩報恩

 以上のように、報恩の要術は、三大秘法を信じ、三大秘法を流布することにある。
 ゆえに、一往は故師道善房に対する報恩を明かされてはいるが、その元意即ち御内証は、日蓮大聖人が末法の御本仏として、三大秘法を建立し、広宣流布なされることを明かされているのである。
 われら末弟もまた、通じては父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩を報じなければならないし、別しては師の恩を報じなければならないと、訴えておく。 報恩抄の講義にあたり、まずその序講として、
    第一に、本抄御述作の由来
    第二に、本抄の大意
    第三に、本抄の元意・内証
 を略述することとする。
第一 本抄御述作の由来
 本抄は建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人が身延山において御述作になり、安房の清澄寺における故道善房追善のため、浄顕房・義浄房のもとに送られた御抄である。
 この時は日蓮大聖人が身延にはいられて3年目にあたり、聖寿55歳の御時であった。本抄の御正筆は身延にあったが、明治8年(1875)の火災で焼失している。
 日興上人の富士一跡門徒存知の事には、いわゆる10大部を挙げられているが、報恩抄の項は次のとおりである。
14   一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15   身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。(1604)
 以上のように、本抄は、道善房逝去の報を聞かれて、報恩謝徳のためにこれを述べられ、浄顕房、義浄房のもとへ送られたことが明らかである。
(一)旧師道善房
 日蓮大聖人は12歳の御時から、安房国清澄寺に上られて修学に励まれた。その時の師匠が道善房であり、兄弟子にあたる2人が浄顕房、義浄房であった。
 建長5年(1253)4月28日、この清澄寺の諸仏坊の持仏道の南面で初めて南無妙法蓮華経の三大秘法をお説き遊ばされたのである。
 しかるに地頭の東条左衛門景信は、強盛な念仏信者で、日蓮大聖人を迫害した。また清澄寺内の大衆も、多くは大聖人の御正義に反対し、大聖人は浄顕房、義浄房の2人にかくまわれて、ようやく脱出なされたほどであった。
 本抄にいわく「但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0323-18)と。
 本尊問答抄にいわく「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373-14)と。
 このような浄顕房、義浄房に対し、師匠の道善房は、臆病で小心で、地頭の権威を恐れ、清澄寺住職の保身に汲々としていた。日蓮大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年はひかれるものもあったが、保身のためには念仏を離れることもできないし、地獄におちても仕方がないというような考えであった。
 本抄にいわく「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323-08)と。
 本尊問答抄にいわく「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし」(0373-11)と。
 善無畏三蔵抄にいわく「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時 彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0888-17)と。
 以上のように道善房は、愚癡で臆病で小心の念仏者であった。地頭の東条景信は、また邪宗の信心も強情であったが、次の御書でお示しのように、清澄の飼鹿を狩り取るような悪人であった。しかも清澄寺には、円智房、実成房というような、日蓮大聖人に敵対する勢力も強かったものとみられる。こういう状況の中で最後には少しは信心にめざめた傾向もあったが、結局はまことに頼りない姿で一生を終ってしまった。そもそも、道善房はもとより、清澄の大衆は当然に日蓮大聖人の御徳に感服しなければならないような次のような事件もあった。
 清澄寺大衆中にいわく「就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894-12)と。
 当時、地頭の東条景信は、念仏者の極楽寺などの後援で天台宗であった清澄一山を念仏にしようとした。その上、二間寺をも領家から放そうとしたのである。飼鹿を狩り取ったことは清澄に対する一種の示威運動とみられる。そこで日蓮大聖人は、東条の領家ならびに清澄方の味方となり、東条側も訴訟をなし、一ヵ年の間に勝訴となったものである。
 領家は日蓮大聖人の父母もお世話になった関係もあった。こうした難問題を日蓮大聖人御みずから解決なされたことである。
(二)嵩が森で読む
 およそ日蓮大聖人の御指導に反することばかりの道善房であり、清澄寺の情勢ではあったが、それでも道善房の逝去をお聞きになった大聖人は、次のようにおおせられている。
 本抄いわく「それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず」(0323-15)と。
 本抄送文にいわく「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330-03)
 日蓮大聖人御自身は、このような事情で身延から出るわけにはいかないので、御弟子の中でも房総方面出身の民部日向が、使いとして選ばれ、報恩抄を持って清澄寺に行き、嵩が森の頂と、故道善房の御墓の前で拝読したのである。
 同抄送文にいわく「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」(0330-09)と。
 この日蓮大聖人のご指示は、そのとおり実行された。
 華果成就御書にいわく「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0990-01)と。
 さて、この送り状にある「嵩はもり」であるが、古来の多くの御書は「山の高み森」とか、「山高き森」とよんでいるが、これは、はなはだしい誤読である。
第二 本抄の大意
(一)本抄の題号

 この報恩抄の題号には、通と別の二意を含む
 通じていえば四恩の報謝であり、別していえば師の御報謝である。
 四恩についても、本抄の四恩と、四恩抄の四恩には次のような相違がある。
    本抄の四恩  四恩抄の四恩
    父母の恩   衆生の恩
    師匠の恩   父母の恩
    三宝の恩   国王の恩
 なにゆえに本抄は師の恩を出し、一切衆生の恩を没しているのか、それは別して師恩謝徳のために本抄を述作なされたゆえに、師恩を開出されたのである。
 しかして衆生の恩を父母の恩の中におく。法蓮抄にも「六道四生の一切衆生は皆父母なり」(1046-06)とある。よって、父母の恩に報ずることが、一切衆生の恩を報ずることになるのである。
 次に別していえば、師の恩の報恩にある。旧師道善房の逝去をいたみ、その報恩謝徳のために本抄を御述作になり、嵩が森と御墓の前で読ましめたことは前述のとおりである。
 本抄総結の文には「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-13)と。
 日蓮大聖人の、恩師をしのばれる御心情は、われわれがごとき凡眼には、とうてい想像のつかないところである。
 しかしながら、われわれ創価学会のためには、大法弘通の御ために御一生を捧げ尽された恩師牧口先生と、戸田先生がおいでになる。大聖人が、あの凡愚の道善房に対してすら尽された御精神を拝するならば、われわれはこの尊い恩師に、いかにしたらその万分の一をも報いることができるのであろうか。時まさに恩師戸田城聖先生の七回忌を迎えて、粛然として襟を正し、この感慨を深くするものである。
 しかしながら、ただ一つ心強く思うことは、恩師なきあと、その御遺訓のままに広宣流布の大道を邁進し、世界に400数十万所帯を突破する大折伏を敢行した事実である。恩師も必ずやお喜びくださるものと確信してやまない。
(二)本抄の大意
 本抄御述作の由来からみても、本抄の大意は通じて四恩を報じ、別して師の恩たる故師道善房の恩を報ずべきことを明かしていることはいうまでもない。
 しからば、いかにしたらこの大恩を報ずることができるであろうか。それは本抄にお示しのごとく「必ず仏法をならひきはめ智者」とならなくてはならない。「仏法を習い極めんとをもはば」出家して一代聖教を学ばなくてはならない。
 しかるに一代聖教を学ぶべき十宗が、日本の国にはびこり、我も第一、我も第一と争っていて、いずれが本意かわからない。そこで一代聖教に照らして判ずるならば、大小、権実、本迹、種脱の勝劣が分明であって、末法の大慈大悲の御本仏が日蓮大聖人であられ、しかも大聖人の建立あそばされるところの大白法は三大秘法であることを明かされている。とくに本抄では真言の邪義を厳しく破折されている。五大部の中においても、立正安国論は佐渡以前の書であり、専ら法然の念仏を破折なされた権実相対が主眼になっている。開目抄には五重相対して人本尊を明かし、観心本尊抄には末法流布の大御本尊を明かされているが、いまだ三大秘法の名目すら出されていない
 撰時抄には各宗の邪義を打ち破り「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)と判じられてはいるが、いまだ三大秘法は明らかではない。
 建治の本抄においては、中国における善無畏・金剛智・不空の三三蔵、日本における弘法・慈覚・智証の邪義、誑惑・霊験・悪夢等を徹底的に破責なされている。すなわち通じては禅・念仏の邪義を破するが、別して真言の邪義、とくに身は天台座主の地位にありながら、真言に転落した慈覚・智証を破責なされている。
 しかして、本門三大秘法を明かされ、しかも日蓮大聖人の慈悲曠大のゆえに、この三大秘法は末法万年のほか、未来永遠の衆生をお救いになることを断定あそばされているのである。三大秘法を明かされているがゆえに、送文には「大事の大事どもをかきて候ぞ大事の大事どもをかきて候ぞ」(0330-07)とおおせになっている。
 最後に総結の文には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-14)とおおせられて、三大秘法を流布し、一切衆生をお救いあそばされることのみが、故師の大恩を報ずる道であることが明かされているのである。
第三 本抄の元意即ち御内証
(一)真の知恩報恩

 以上のように、報恩の要術は、三大秘法を信じ、三大秘法を流布することにある。
 ゆえに、一往は故師道善房に対する報恩を明かされてはいるが、その元意即ち御内証は、日蓮大聖人が末法の御本仏として、三大秘法を建立し、広宣流布なされることを明かされているのである。
 われら末弟もまた、通じては父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩を報じなければならないし、別しては師の恩を報じなければならないと、訴えておく。

0293:01~0293:03 第一章 報恩の道理を明かすtop

0293
報恩抄                            日蓮之を撰す
01   夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、 されば古への賢
02 者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう演と申せし 臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり、 いか
03 にいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、
-----―
 そもそも、狐は決して生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときにも必ず首を古塚に向けるといわれ、また毛宝に助けられた白亀は、後に戦いに敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報いたという。かくのごとく、畜生すら恩を知る。いわんや人間に報恩の心がなくてよいのだろうか。
 ゆえに昔、中国の予譲という賢人は、主君智伯の恩に感じ、智伯を滅ぼした裵子を刺して恩に報いんとはかった。また衛の弘演は、主君の懿公が戦死したとき、主君の恥をさらすまいとして、おのれの腹を割き、主君の肝を入れて死んだ。これは世法上の報恩である。ましてや、仏法を学ぶもの、どうして父母、師匠、国家社会の恩を忘れることがあってよいであろうか。

老狐は塚をあとにせず
 狐は、みずからが生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときは丘を枕にするという。日寛上人の文段には、次のような諸説が引用されている。淮南子にいわく「兎は死して窟に帰り、狐は死して丘を首にす」。楚辞いわく「鳥飛びて古郷に帰り、狐死するに必ず丘を首にす」。朱子注していわく「鳥の飛びて古郷に帰るは、古巣を思うなり。狐の死して必ず丘を首にす、その生るる所を忘れず」。鄭玄注していわく「狐は穴丘をもって生まる、また、丘を背にして死するを忍びざるは、恩を忘れざるなり」。
―――
白亀は毛宝が恩をほうず
 事文類聚に出ている。中国・晋代、ある日、毛宝が河へ行くと、漁師が一匹の白亀をつかまえていた。毛宝は、自分の着物を漁師に与え、その亀を救ってやった。後年、毛宝が予州の刺史となり、邾城の警備の任についていたとき、敵の大軍に攻撃されて城は陥落した。毛宝は城をのがれて河岸へたどり着いたが、乗るべき舟がなかった。すると、そこへ、昔救った亀があらわれた。毛宝は亀の背に乗って河を渡り、難をのがれたとある。
―――
予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて
 史記八十六の予譲伝にある。中国・戦国時代、晉の人である予譲は、初め范氏に、続いて中行氏に仕えたが、いずれも用いられなかった。のち、智伯が范・中行の両氏を滅ぼすや、智伯に仕えて大いに重用された。後年、智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放したが、予譲は身に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰し啞となり、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受けてこれを刺し、智伯の仇を報ずるの意を示し、みずからは剣に伏して死んだという。ここで「剣をのみて」とあるのは、自刃したことをいう。紀元前0450年ごろの話である。
―――
こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり
 魏志・陳矯伝、また史記にある。中国・春秋時代、衛の懿公の臣である弘演は、命を奉じて遠くに使いをした。帰国する前に、(北方民族)が衛国を攻め懿公を殺してその肝を捨ててしまった。弘演は、天に号泣して悲しみ、自らの腹をさいて公の肝を入れて死んだという。紀元前0660年ころの話である。
―――――――――
 この章は、仏弟子が必ず恩を報ずべき道理を明かしているのである。仏法において説かれる真実の報恩観については、序講にもくわしく述べてきたが、総じては四恩を報じ、別しては師の恩を報ずべきことを明かしている。四恩については、次のように二通りある。
 (本抄の四恩は) (四恩抄の四恩は)
  一、父母の恩   一、衆生の恩
  二、師匠の恩   二、父母の恩
  三、三宝の恩   三、国王の恩
  四、国王の恩   四、三宝の恩
 なぜ本抄において衆生の恩を取り上げず、師匠の恩を強調なされたかについては、日寛上人のおおせによると、別して師恩を開出し、師の恩を報ぜんとなされたからである。しかして、衆生の恩を父母の恩に合せられたことは、次のとおり法蓮抄に明らかである。「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり」(1046-11)
 啓蒙日講は、恩を報ずべきものを明かすのに、初めに世間有為の報恩を明かし、「いかにいわうや仏教をならはん者」の下は出世無為の報恩を明かすといっている。これを日寛上人は破折して、次のようにおおせられている。「本抄の大意は、出世無為すなわち仏法上において、ただ沙門の報恩に約し、無知の男女に約さないのである。沙門の報恩の中においても、意は日蓮大聖人自身の報恩に約すのである。どうして世間有為すなわち一般世間の報恩を明かすということができようか」
 日蓮大聖人の師匠の道善房は「此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず」とも「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ」ともおおせられている。このような愚痴の師匠に対してすら、その御死去を聞かれて報恩抄をおしたためあそばされて、道善房の御墓の前で読み、また嵩が森で読めとおおせである。
 しかも送状には「大事の中の大事」を本抄にお述べあそばされたとお示しになっているが、日寛上人は、五大部中においても、本抄において初めて三大秘法の名目をあげられたがゆえに「大事の中の大事」であるとなされている。ゆえに、真実の報恩とは、この三大秘法を信じ、折伏を行ずることにあるのである。
報恩は人類の永遠の倫理
 報恩ということは、決して封建時代や特定の時代の遺物ではない。時代の変遷によって、種々の意義、種々の形態はあったけれども、永久に人間としてなさなければならない重要な倫理というべきである。
 人類始まっていらい、洋の東西を問わず、報恩という徳義は、深く人間性に根ざし、一般庶民の中に奥深く融け込んだものであった。これは、古来、多くの教訓や寓話として、全世界の国々に残されていることからも、推察できるのである。
 たとえば、紀元前六百二十年ごろ、ギリシャのアイソーポスによってあらわされたイソップ物語りは、ソクラテスの言行録「フェードン」や、アリストテレスの著作等にも、しばしば引用されているが、これは、動物の世界から材料をとり、道徳や処世の術に関する常識を教えるための諷喩的な短い萬話である。このイソップ物語り等にも恩を感じ恩を報ずべきであるという教訓が多く含まれている。この思想は、古代ギリシャの日常の道徳的教訓であり、「範例による哲学」と称する人すらある。そして、これらの寓話は当時広く東洋民族やゲルマン民族等にも伝えられていたと思われる。
 またローマの俚諺にいわく「恩を知らざる人は穴多き桶の如し」と。アラビアに伝わる俚諺にいわく「汝に陰を与えたる樹木は、これを伐るべからず」と。時代が下ってドイツの哲学者カントいわく「世に恩を知らざる人より悪しきはなし」と。このように、ヨーロッパの庶民には「忘恩の者は畜生より劣る」という思想が、はっきりうかがわれる。
 中国にも古くから知恩報恩の感情が強かったことは、日蓮大聖人が報恩抄に引用されている「老狐」や「白亀」の例や、「予譲」「弘演」等の故事から、明白に知れることであり、あえて説明を要しないところである。
 さらに日本においても、最古の文献である古事記や万葉集などには、古えの人々の報恩観が物語りや歌に託して見られ、また、古くから伝わる、いわゆる、おとぎばなし等の中にも、報恩思想が中心倫理になっているものが、ずいぶんと多いのである。このように、恩を知り恩を報ずることは、人間本来のすぐれた美徳として、賞揚されてきたのである。
 現代日本の風潮として、報恩といえば、何か封建的な主従関係を思い出させるのであるが、真実の報恩とは、決してそのようなものではない。封建的な報恩観は、日本の江戸時代末期に、儒教等によって片頗に誇張されて用いられたことが原因になっているにすぎないのである。誤解や誤認識から、真実の報恩を軽蔑し、忘恩を助長するような風潮を深く嘆かずにはおられない。
 しかして、真実の報恩とは、日蓮大聖人の仏法に説かれた報恩であり、仏法で説く四恩および本抄により根源的に示された報恩の道理こそ、永久に人類の指針・基準とすべき倫理であると主張するものである。
 ひるがえって、現代社会に目を転ずると、いわゆる民主主義をはき違えた放縦主義、無責任主義が横行している。そして、ふみはずした民主主義思想が、どれほど社会に害毒を流しているか、はかり知れないものがある。
 真実の民主主義とは、真実の宗教哲学によってのみ説かれ、実践されるものである。なぜならば、真の民主主義の思想は、歴史的にも現実的にも、宗教にその起源を有し、これを土台にして成立しているからである。今の社会に見られるような無責任な放縦主義や、社会を無視した個人の自由や、倫理道徳のない個人の尊厳や、秩序のない平等は、真の民主主義の姿では断じてありえないのである。
 われわれは、民主主義の根本思想は、決して唯心主義や唯物主義等ではありえないことを、道理、現証の上から明白に知っている。そして、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の宗教であり、真の民主主義を確立するものであると確信する。すなわち、大仏法を信じて、苦悩に束縛されず楽しみきっている自己の生命こそ真の自由であり、民族人種の差別なく、あらゆる人々がすべて一念三千の生命であるがゆえに真の平等であり、だれびとも仏界をそなえ仏界を涌現できるがゆえに真の尊厳なのである。
 しかして、報恩という徳義においても、それぞれの思想、哲学、宗教によって千差万別の相があることを知るのである。結論的にいえば、キリスト教、イスラム教、儒教、唯物主義等は、真実の報恩観を説かず、むしろ一般庶民に芽ばえている報恩観をつみとるような働きさえ示しているといわざるをえない。そして、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の仏法のみが、正しい報恩観を説いていると確信するものである。
 たとえば、キリスト教においては、人間は神によって造られ、罪でけがれたものであるがゆえに、恩というものは、ただ神からのみ授かるものであると説く。すなわち、人間は、本来恵みを受けるに値しない罪ある存在であるが、神からのみ、恩寵、恩恵を受けるにすぎないというのである。
 さらに、唯物主義における報恩観は、一応、国家社会に対する報恩観ありといえなくもないが、その行動言動において、報恩というよりも、報復と憎悪の対象を求めている姿は、やはり同じく人間性を無視したものといわざるをえない。国家社会に対する一片の報恩観も、根底の思想の誤りのゆえに、決して人類社会を益するものとはいいがたいのである。
 しからば、釈尊の仏法における報恩観はどうであろうか。報恩の徳義は、欧米よりも東洋に芽ばえ発展したと思われる。とくに仏法において、さらに高く、広範囲に、一重立ち入って報恩思想を説いているのである。
 釈尊の仏法において、方等部の報恩経の中に、知恩報恩の因縁および種々の法門を説いている。さらに報恩を説く各経の一端を示せば、雑阿含経にいわく「恩を知りて恩を報ずとは、其の小恩あるも尚お報じて終に忘失せざれ、況や復た大恩をや」と。大集経にいわく「菩薩摩訶薩は親旧を捨てず、恩を知りて恩を報じ、一切を憐愍す」と。大宝積経にいわく「知恩報恩は是れ菩薩の行なり、仏種を断ぜざるが故なり」と。大方広不思議境界経にいわく「恩を知る者は生死に在りと雖(いえど)も善根を壊らず、恩を知らざる者は善根断滅す」と。般若経にいわく「一切世間の恩を知り恩に報ずるは仏に過ぎたる者無し」と。また智度論にいわく「恩を知る者は大悲の本なり、善業を開くの初門なり」と。
 そして、正法念処経には「母恩、父恩、如来恩、説法法師恩の四恩」を挙げ、心地観経には、「父母、衆生、国王、三宝の四恩」が説かれ、とくにこれは広く用いられて、日蓮大聖人の四恩抄にも引用されていることは前述のとおりである。
 このように、釈尊の仏法にあっては、小乗、権大乗、実大乗を問わず、報恩を強く説いて、人類の倫理と立てているのである。しかし、当然、少数の人を短い間のみ救済する小乗仏法よりも、多数の人々を長く救済しきる大乗仏法が報恩思想において秀れ、また権大乗よりも実大乗たる法華経が秀れていることはいうまでもない。ゆえに日蓮大聖人のおおせには、釈尊の仏法にあっては「但法華経計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へ」(1311-18)と。また法華経の功徳を讃え「此の経は内典の孝経なり」(0223-14)等とおおせである。
 正法時代の竜樹菩薩、天親菩薩、像法時代の天台大師、伝教大師等の仏法の正統承継者も同じく、釈尊の滅後、インド、中国、日本等において、真実の報恩思想を強調したのである。しかして、根本的に報恩を説かれた方こそ、末法の御本仏・日蓮大聖人であられたのである。
 一方、中国の儒教等においては、恩を説くこと、はなはだまれであった。孟子が斉の宣王に対して説いた恩も、実は仁、愛を意味するものであった。むしろ儒教では、報恩ではなく施恩を説いたと思われる。江戸時代の初期、日本に儒教思想が取り入れられたさいには、恩はさほど問題ではなかったのである。
 しかるに江戸時代の中期、後期にいたって、中江藤樹、貝原益軒等の儒学者が、仏教の報恩思想に対抗して、感恩報恩を強調したのが、儒教の報恩思想の始まりである。そして、これが、故意に儒教流に歪曲されて武士階級に持ち込まれ、いわゆる封建的な主従関係を儒教の感恩の思想によって、しばりつけたのである。この儒教流の感恩思想が災いをなして、報恩といえば、何か封建的な思想として、現代において真実の報恩思想すら排斥されている傾向が強いのである。
 仏法における報恩は、決してこのような窮屈な強制的な封建的な儒教流の報恩ではない。とくに日蓮大聖人の仏法における報恩思想は、釈尊の仏法の報恩よりも、さらに一重立ち入った最高の報恩思想であり、全人類が等しく最高の倫理の一つとして仰ぐべき徳義であることを、重ねて強く主張するものである。

0293:03~0293:09 第二章 報恩の要術を明かすtop

03                               此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ
04 智者とならで叶うべきか、 譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし 方風を弁えざらん大
05 舟は諸商を導きて宝山にいたるべしや、 仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからず いとまあらん
06 とをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず 是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠
07 等の心に随うべからず、 この義は諸人をもはく顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう、しかれども外典の孝経にも
08 父母主君に随はずして 忠臣・孝人なるやうもみえたり、 内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者
09 なり」等云云、比干が王に随わずして賢人のなをとり悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。
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 しからば、この大恩を報ぜんために、いかにすればよいのか。それには、必ず仏法の奥底を学び修行して、智者とならなければならない。たとえていえば、多くの盲人を道案内して橋や河を渡ろうとするのに、自分があきメクラの身では、決して道案内はできない。また、風の方向を知らぬ船頭の舟が、どうして多くの商人を誤りなく宝の山へ導きえようか。
 そのように、仏法を習いきわめ智者となるためには、仏道修行に時間をかけて打ち込むべきである。さらに、むだな時間を惜しんで仏道修行に励もうと思ったならば、父母、師匠、国主等に左右され、従っていては、絶対に目的を果たすことはできない。ともかく、成仏の境涯に立ち、永遠の幸福をつかもうと思ったならば、父母、師匠の心に従っていてはならないのである。
 このようにいえば、人々はみな驚き「これは大変なことだ。これでは世間の道徳にもはずれ、仏法の精神にも背くことになるではないか」と思うであろう。しかし、外典の孝経には「父母、主君の心に従うべきではないときは、従わずして、かえって父母、主君を諌めていくのが真の忠臣、孝子である」と説かれている。また、内典の仏経には「父母に対する恩愛の情を捨てて、成仏を願って仏道に入るものは、真実の報恩である」等と示されている。
 殷の紂王の臣・比干は、暴逆な王命に従わず、かえって賢人の名を高めた。釈尊は悉達太子といった時代に、父の浄飯大王の心に背いて出家し、ついに三界第一の孝子となった等も、同じ例である。すなわち、父母の心に反して仏道に入ってこそ、忠孝をつらぬき、真実の報恩を果たしたのである。

方風
 方向と風の向き。
―――
出離の道
 三界六道の俗世間を出る道。仏道修行のこと。
―――
顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう
 羂は皮相的な世間の道徳。冥は内面的な仏教の精神。
―――
「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」
 「清信士度人経」にある文。「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」(三界の中に流転して 恩愛断つこと能わずとも 恩を棄て無為に入らば 真実の恩に報いる者なり)。すなわち流転三界の迷いのなかにあっては、真実の報恩はできない。いま、人情の縄によって種々に束縛されている恩愛の情を捨てて、出家して仏道修行に励み、人をも救っていくことが、真実の報恩であるとの意。一説には「清信士度人経」の名目は、一切経にないともいう。
―――
比干が王に随わずして賢人のなをとり
 史記の殷本紀第三によると、殷の紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、強く諫めた。妲己は王に向かって「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖なり、帝、かれが心をさきてみたまえ」と。帝は比干の胸を割いた。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅亡した。西紀前0830年ごろの話である。
―――
悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりし
 悉多太子は釈尊出家前の名。父の浄飯王の意思にそむいて、19歳のときに王宮を去って仏道修行に入った。
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 この章からは、報恩の要術を明かす段となる。
 世間一般においても、恩を知り恩を報ずることは重要であるが、報恩に、大小、浅深があり、価値観をもって判断すべきことが多いのである。
 その前に善ということを取り上げてみよう。古来、善の観念については多くの論議が戦わされ、現在も倫理学の中心問題となっている。しかるに善について、何人も納得できうる規定はなされなかったのである。プラトンは「善のイデア」を論じながら善についての明確な定義を避けており、カントは「道徳律を遵奉するのが善である」といい、平凡社の哲学辞典には「ひろい意味では一般にわれわれにとって価値あるもの、貴重なもの、有利なものを善という」と規定し、岩波新書の哲学小辞典には「広くは意志、要求、目的に適うものとして求めらるべきもの」等としてある。また西田幾多郎著「善の研究」においては「善とは自己の発展完成である」等といっている。
 しかして、創価学会初代会長牧口常三郎先生は、カント哲学を批判して、価値概念として善利美の系列を立て、善の概念については、「公益を善という」と定義した。しかして、善にも小善、中善、大善があり、「小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる」等という価値判定の基準を説いたのである。
 同じく報恩についても、価値観から論じなければなるまい。報恩において、大中小、浅深、当分跨節がある。たとえば忠臣蔵は、江戸時代の中期に、主君の敵を討って主君の恩に報いたということで、名高い芝居になったものである。その他、主君の恩を報ずるために命を捨てたような例は、歴史上に多く数えられる。また広く国家社会の恩を報ずるために命を捧げたような例も、戦争等において多くみられる。この場合において、たとえ主君の恩を報じても国家社会に公害になるような時は、当分の報恩であり、跨節真実の報恩とはいえまい。また現代の各種の選挙などで、買収されたり、わずかの恩義や義理を感じて悪徳腐敗候補を応援するようなことは、逆に国家社会に対する忘恩となるのも、この理である。所詮は、報恩といっても、普遍妥当性の永久性の価値あるものでなければならぬ。すなわち真実の平和主義、戦争反対のごときは、広く人類に対する報恩というべきである。
 日蓮大聖人が佐渡御書におおせには「世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、(中略)世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956-12)と。ここで、主君の恩とは、現代でいえば、広く社会の恩と考えるべきであろう。ともかく、大事の仏法を奉じて、人間革命をはかり、また広く社会の繁栄と幸福のために仏道修行を行じていってこそ、師恩および四恩に対する最高の報恩であるとのおおせである。
 古くは、三千年前、釈尊が出家したのも、父母親族をはじめ社会の人々の恩を報ずるためであり、近くは御本仏日蓮大聖人の出家のお姿も一切衆生を救わんがためであり、最高の報恩であるとのおおせである。ゆえに、現代でいえば、われわれの広宣流布への実践活動こそ、広く国家社会に対しても、最高の報恩であることを確信すべきである。
 さて本文についていえば、まず、この大恩を報ずるには、どうしたらよいか、それには必ず仏法を習いきわめ智者とならなければならないと申されている。仏法を習いきわめ智者となるためには、一代聖教を学び、八宗の章疏を習いきわめなくてはならないであろう。しかし、末代下根の衆生がどうしてそのような習学ができるであろうか。だが、それができなくては、一人も恩を報ずる者がないことになるではないか。
 このような疑問に対し、日寛上人は次のようにおおせになっている。
 「他宗他門のごときは、たとい一代聖教を胸に浮かべたとしても、決して仏法を習いきわめたとはいえない。これ、三重秘伝を知らず、権実、本迹、種脱に迷乱しているからである。しかるに当流の学者は、じつに一迷先達の日蓮大聖人の御跡を忍ぶゆえに、初めから、このことを知るゆえに、その義、仏法を習いきわめたことになるのである。……ただし、当流の学者が三重秘伝の奥義を知っているといっても、もし正法を伝え、民衆救済のため折伏をしなければ、結局は、恩を報ずることにはならない。仏が説いていうのには、只通化伝法をもって報恩と名づけるのみである云云と。
 問う、たとい当流といっても、無知の俗男俗女は三重秘伝を知らない人がいる。このような人は恩を報ずることができないのか。答う、無知の男女は、ただ本門の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉るのが、じつに、この大恩を奉ずることになるのである」と。
 以上、お示しのとおり、真実の報恩は、三大秘法の仏法を信じ、題目を唱え、折伏を行ずることである。ゆえに折伏を行じて広宣流布のために戦う創価学会員のみが、真実の報恩の誠を尽くすことができるのである。
 「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」とは価値観である。同じく恩といっても、その価値には大小高下がある。「父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず」とおおせになっているのも、三大秘法の習学のため、折伏を行ずるためには、父母にも師匠にも国主にも随っていてはならないとおおせである。
 兄弟抄には「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085-07)と。親の恩とか、師匠の恩とか、国主の恩を報ぜよといえば、封建的な道徳観や主従関係を思わせるが、そうではない。日蓮大聖人のお説きになる知恩、報恩とは、以上のように三大秘法の仏法を根本にした知恩、報恩である。親の恩、主君の恩を報じなければならないことはいうまでもないが、仏法の真髄たる三大秘法の御本尊を根本にすれば、ぜんぶ含まれてくるのである。
 親の恩を報ずるのは親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いているのである。「孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」と。ゆえに、三大秘法の大仏法を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰依させ、また亡き親に対しては朝に晩に正法をもって回向するのが最高の親孝行というべきである。また、親に反対されたり、一家の中に信仰に反対のものがいても、はじめに入信したものが、しっかりと信心修行に励み、自分の生活に御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、一家のため、国のためになることは、われわれのよく体験するところではないか。すなわち日蓮大聖人は「世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す」(0183-15)と申されている。
 同じく、親に対する報恩に限らず、すべての報恩に上品、中品、下品の段階があることを知るべきである。

0293:10~0294:05 第三章 諸宗の迷乱を挙ぐtop

10   かくのごとく存して父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に一代聖教をさとるべき明鏡十あり、所謂る
11 倶舎.成実・律宗.法相・三論・真言.華厳・浄土・禅宗.天台法華宗なり此の十宗を明師として一切経の心をしるべし
12 世間の学者等おもえり 此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと 小乗の三宗はしばらく・これををく民の消息
13 の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし、 大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて 浄土の岸につく大船なれ
14 ば此を習いほどひて 我がみも助け人をも・みちびかんとおもひて習ひみるほどに 大乗の七宗いづれも・いづれも
15 自讃あり我が宗こそ一代の心はえたれ・えたれ等云云、所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈
0294
01 恩・智周.智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏.金剛智・不空.弘法.慈覚.智証等、禅宗の達磨.慧可・慧
02 能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、此等の宗宗みな本経・本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をき
03 はめたりと云云、 彼の人人云く一切経の中には華厳経第一なり法華経大日経等は臣下のごとし、 真言宗の云く一
04 切経の中には大日経第一なり余経は衆星のごとし、 禅宗が云く一切経の中には楞伽経第一なり 乃至余宗かくのご
05 とし、 而も上に挙ぐる諸師は世間の人人・各各おもえり 諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随うがごとし
-----―
 こうしたことがわかって、父母、師匠等に随わないで、仏法を習おうとするのに、現在の日本には次のような十宗がある。すなわち、釈尊五十年間の聖教の真髄をうるのには、明鏡とすべき教えが十あることになる。それは倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、真言宗、華厳宗、浄土宗、禅宗、天台法華宗の十宗である。
 世間の学者たちは、これらの十宗を明師として釈尊の一切経の真髄を知るべきであると思っている。また、この十の鏡となる教えは、いずれも正しく仏の説かれた道をさし示していると思っている。また、この十の鏡となる教えは、いずれも正しく仏の説かれた道をさし示していると思っている。しかし、そのなかで、倶舎、成実、律宗の三宗は小乗であるから、いまは論じない。これらは、ちょうど他の国へ手紙を出す場合、一個人の資格であっては、権威がないのと同じである。
 大乗教の七つの教えこそ、生死の大海を渡って成仏の岸へ着けてくれる大船である。ゆえに、これを習いきわめて、自分も成仏し、人をも導こうと思って習学したところが、大乗の七宗いずれも「わが宗こそ一代聖教の真髄を得た」とそれぞれに自慢している。
 いわゆる華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、これらの人々は、みな各自の宗旨の拠りどころである経典や論釈をタテにとって「われこそ一切経の奥底を悟った」「われこそ仏の本懐をきわめたものである」といっている。
 彼らのなかで華厳宗は「一切経のなかで華厳経が第一である。それに比すれば、法華経や大日経等は臣下のごときものである」といっている。真言宗は「一切経のなかで大日経が第一である。他の経は月に対する星のごとき存在である」という。禅宗がいうには「一切経の中では楞伽経が第一である」と。その他の宗も同様に、おのおの自宗が第一なりと誇っている。しかも、いままで挙げたところの諸師は、世間の人々から尊敬されること、ちょうど諸天がその王である帝釈を尊敬し、衆星が日月に随っているような姿である。

一代聖教 
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
―――
成実
 四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
―――
律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
法相
 法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
―――
三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえ
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
天台法華宗
 天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
―――
十宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
―――
小乗の三宗
 俱舎宗・成美宗・律宗のこと。
―――
大乗の七鏡
 法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗のこと。
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杜順
 (0557年~0640)。中国隋・唐代の人で華厳宗の祖。僧名は法順。俗姓が杜氏であり杜順と通称される。雍州万年(陝西省西安市)の人。18歳で出家し、僧珍禅師について修行し、禅および華厳を究めた。隋の文帝、また唐の太宗の崇敬を受けた。「華厳法界観門」一巻を著わして、専ら華厳を弘め、その弟子・智儼に華厳宗を伝えた。
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智儼
 (0602~0668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。14歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」五巻、「華厳孔目章」4巻などがある。
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法蔵
 (0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」二十巻、「華厳五教章」三巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
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澄観
 (0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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玄奘
 (0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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慈恩
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
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智周
 (0668~0723)。中国唐代の法相宗の僧。法相宗は①玄奘、②慈恩、③慧沼、④智周へと伝えられた。著書には「成唯識論演秘」14巻、「成唯識論掌中枢要記」2巻などがある。
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智昭
 智鳳あるいは道昭を伝写の誤りか。智鳳は奈良時代の新羅僧で、0703年に入唐して智周から法相宗を伝えられた。道昭は帰化人の子孫で、0653年に入唐し、法相宗を玄奘から直接に伝えられ、これを行基に伝えた。
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興皇
 三論宗祖師の一人、法朗の別名。興皇に住んでいたゆえに、このように呼ばれる。嘉祥の師。21歳のときに、梁の青州で出家した。摂山の僧・朗をしたって、その後継者である止観院の僧・詮について「中論」「百論」「十二門論」「華厳経」「般若経」等を学んだ。陳の太建13年(0581)、75歳で死んだ。
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嘉祥
 (0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
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金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空
 (0705~0774)。中国唐時代に真言宗を弘めた一人。善無畏・金剛智と共に三三蔵と称される。北インドのバラモンの出身で、15歳の時金剛智三蔵に師事した。開元8年(0720)、師の金剛智と共に中国の洛陽に赴く。開元29年(0741)、帰国の途につき獅子国に達した。竜智菩薩に会い、密蔵及び諸経論五百余部を得て、六年後、再び唐都の洛陽に帰った。その後、玄宗皇帝のために潅頂し、尊崇を受けた。永泰9年(0774)、70歳で死んだ。門下の慧果は弘法の師である。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四翻訳家の一人に数えられ、多くの訳経があるが、日蓮大聖人は撰時抄に「不空三蔵は誤る事かずをほし……他人の訳ならば用ゆる事もありなん此の人の訳せる経論は信ぜられず」(0268-09)と仰せである。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘仁14年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏1,000巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」1巻、「法華論記」10巻などがある。
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達磨
 中国禅宗の初祖。本名は菩提多羅。般若多羅より教えを受け、彼の滅後67年に震旦(中国)に法を弘めるように命ぜられ、梁の普通元年(0520)中国に入り、武帝に禅を説いたが、受け入れられず、魏に渡り嵩山少林寺の壁にむかい9年間坐禅した。そのため壁観婆羅門と呼ばれた。
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慧可
(0487~0593)。達磨より法をうけた禅宗の第二祖。中国の南北朝の人。達磨を訪ねて終夜雪の中に立ち、みずから臂を断って信を表わし初めて入門を許されたという。従学すること6年で、達磨の付属をうけた。
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慧能
 (0638~0713)諡は大鑑禅師、范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。
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道綽
(0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃で、「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」(観無量寿経疏)4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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懐感
 中国唐朝の浄土宗の僧。長安の千福寺にいて精進し道を求めたが、満足せず、善導に会うに及んで、ただひたすらに念仏を唱えれば、必ず証験があると信じ、3週間道場にこもった。しかし、なんの霊験もなかったので、さらに3年間修行し、ついに念仏三昧を証得したと称した。「群疑論」(「釈浄土群疑論」)の著者である。法然は「類聚浄土五祖伝」等で、浄土五祖(曇鸞・道綽・善導・懐感・少康)の1人とした。
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源空
 (1133~1212)。わが国浄土宗の元祖法然のこと。伝記によると、童名を勢至丸といい、母が剃刀をのむ夢をみて源空をはらんだという。15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。承元元年(1207)2月、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、法然は還俗させられて土佐国に流罪され、弟子の住蓮と安楽は処刑された。翌年、許されて京都に戻り、建暦2年(1212)80歳で没した。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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楞伽経
「楞伽阿跋多羅宝経」「入楞伽経」「大乗入楞伽経」の三訳が現存する。禅宗の依経の一つ。仏が、楞伽山頂において大慧菩薩の問いに答えた種種の法門を記した経典。達磨は、この経を如来の極説として、慧可に授けた。
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 報恩の要術を明かす中に、この章は諸宗の迷乱を挙げている。
 日寛上人は「問う、報恩の要術とはその意如何」との問いを設け、次のように明かされている。「答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂(いわ)く身命を惜しまずして邪法を退治し、正法を弘通する則ち一切の恩として報ぜざるなき故なり」と。
 すでに前章にも述べてきたとおり、邪法を退治し正法を弘通することが、すなわち報恩である。ゆえに、いずれが邪法か、いずれが正法かを判別することが最も肝要となるのである。ところが、本文にお示しのとおり「世間の学者等おもえり」とて、世間一般の学者たちは、いずれの宗派も、いずれの教典も、みなそれぞれに功徳があると思っている。しかし、一般に、哲学、倫理、宗教等には、必ず勝劣、浅深、正邪があることを知らなくてはならぬ。しかして勝、深、正なるものを、求むべきである。
 それらの批判の原理をのべる前に、西洋哲学の話が出てくるので、哲学、倫理、宗教とは、いかなるものであるかを、かんたんに考察してみよう。
 哲学(Philosophy)とは、ギリシャにおいて一般に知識を愛し教養を求むることで、広く学問一般を意味した。しかし、学問が種々に分化することによって、哲学から自然科学、心理学、美学、倫理学等がそれぞれ独立し、現在においては、哲学といえば形而上学、認識論、さらに論理学、歴史哲学等を含む学問をいうようになった。
 また倫理とは、人間の意志行為に対する当為規範であり、一般にいわれる道徳、修身等よりは広範囲にわたるのである。
 いわゆる道徳、修身等は、まだ狭く封建的な要素を含んでいると考えられるのである。
 宗教の「宗」とは根本の意である。したがって、宗教とは生命活動の本源、宇宙現象の根本義を説き明かしたものである。しかして、この根本理論を生活法とし具体的に顕現したものにほかならない。ゆえに宗教には、必ず本尊があり、本尊と人の関係において感応利益がなければならないのである。
 しかして、哲学、倫理、宗教等が劣、浅、邪であるならば、不幸にならざるをえない。
 さて、一代仏教の判釈は五時八教である。五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華の五時であって、その教は擬宜・誘引・弾訶・陶汰・開会等と、すべて仏の善巧方便によって説きすすめられた次第である。
 また八教は、化儀の頓・漸・秘密・不定であり、化法の蔵・通・別・円であって、これまた時に応じ機根に応じて説かれたものである。
 しかして仏教の各宗派は、これら大小・権実・顕密等、多種多様の経典を拠りどころにしている。ゆえに、宗教はなんでもよいとか、同じ釈尊の教えだからどの宗派でも同じだなどということにはならないのである。すなわち、法そのものに差別があり、哲理に上下、雲泥の差があるのである。
 さらに、本抄にお示しのような十宗は、その依拠とする経典をそのまま用いても、すでに末法には無用有害の経典である。末法は釈尊の仏法に縁がないのである。しかるに、それぞれの開祖たちは、釈尊の出世の本懐たる法華経を誹謗して自宗を立てた。さらに、日蓮大聖人の御出現以後においては、末法の御本仏たる大聖人の三大秘法を誹謗しているので、ことごとく謗法無間地獄のやからとなっているのである。
 知恩、報恩のひととなるか、それとも不知恩、忘恩の徒となって地獄へ堕ちるかは、まず第一に、その宗教が正法か邪法かを知って修行に励まなければならないのである。
 宗教の正邪の判定は、三三蔵祈雨事にいわく「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と。
 すなわち、正しい宗教には、まず教典の上に正確な依拠があり、しかも、その教えが道理にかない、しかも修行すれば、そのとおりの現証があらわれるものである。反対に、邪宗教とは、道理も証文も現証もないものである。
 恩師戸田先生の「立正安国論講義」には、
 「第一に文証とは、文の証拠を求めることで、Aなる宗教があった場合、まずその宗教の依経とするものは何かということを究めなくてはならない。仏教以外の宗教なら仏経典とその経典とを比較研究しなくてはならぬ。教義のないような宗教は宗教とはいえないのである。もしまた仏教内の教えである場合、五重相対等によって、その経文の高低、浅深、価値の正反等を判定するのである。
 第二に理証とは、文証があるとして、その文証が哲学的に研究して現代の科学と一致し、かつ理論として文化人が納得できるかどうか、または肯定しうるかどうかを研究しなくてはならない。いかに経文はりっぱでも、哲学的価値がなかったならば、これは捨てなければならない。哲学とは思惟することであるが、これがいかにりっぱに思惟されていても、科学的でなくてはならない。即ち普遍妥当性を有していなくてはならないし、同一原因は同一結果を時と所とによらず具現しなくてはならない。かつまた、それが最高の価値をもたらす結論を有しなくてはならない。即ち幸福を証明づける理論でなければならないのである。しかも、その幸福は万代不易の幸福であって、幾多の事件にもたたきこわされるような幸福であってはならないのである。
 第三に現証とは、事実生活の上に証明されるものである。もともと最高宗教は人間革命にあり宿命の打破にあるゆえに、この理を完全に説明できる科学でなくては最高の宗教とはいえないのである。現証とは、その宗教を実践するにあたって、いかなる現実の証拠が生活に現われるかという実験証明であり、もっとも大切である。しかし、現在、邪宗教がよくこれを用いて、やれコップにアワが出たから現証だ等といっているのは非常な誤りであって、文証どおり、理証どおり、現実生活に経験せられることが正しい現証論である」
 このような宗教批判の原理に照らして、それぞれの宗教を批判してみるときに、その真偽、正邪が明白になるのである。
 しかして、末法の御本仏日蓮大聖人が、御入滅ののち700年を過ぎた今日、道理・証文・現証のととのう宗教は、結論的にいって、ただ一つ創価学会だけである。宗教の五網、五重相対等、あらゆる宗教批判の原理の上からして、このことは絶対に誤りのない結論である。
小乗の三宗、大乗の七鏡等
 「小乗の三宗はしばらく・これををく」とは、「小を簡びて大を取る」すなわち、大小相対である。譬えの文は、小乗は民の消息のごとく、大乗は、国主の御判のある通知状のようなものである。また、小乗は小舟で、大乗は大船であるから、よく大海を渡り彼岸に達するためには、乗り物を選ばなければならないのである。
 次に「大乗の七宗いづれも……」からは、七宗の迷乱を明かすのである。要するに、師匠が邪法を信じ、邪法をひろめていれば、その弟子檀那も、ことごとく邪宗の徒となる。師が地獄へ堕ちれば、弟子檀那も、ことごとく地獄へ堕ちるのである。
 また、当時の七宗、十宗等は、一応は民の消息のごときもあり、国主の判のある通知状のごとき宗派もあった。しかし、その後は、さらに時代も濁悪となり、最近では、仏教ともつかず、外道ともつかない天理教や立正佼成会のごとき邪宗が栄えてきた。これみな三大秘法広宣流布の瑞相と見ることができる。
西洋哲学の師弟関係
 次に、哲学、宗教等は、必ず師弟によって決定され、指導者の如何によって幸不幸が左右されることを確認したい。仏教哲学に関しては、すでに論じたとおりであるが、いわゆる西洋哲学の分野においても、同じ原理が成立するのである。
 たとえば、西田幾多郎といえば「善の研究」で登場し、いわゆる京大哲学の祖として一世を風靡した、近代日本の哲学者といわれている。彼は近代西洋哲学と、禅の体験や念仏思想等の仏教哲学を統一しようと試みたのであった。彼は真宗の家に生まれ、母が真宗の信者であったところから、彼自身は真宗の信者ではないといいながら、知らずしらずのうちに影響をうけ、親鸞や歎異抄に引かれるところが多かったようである。ゆえに結局は、西田幾多郎の哲学の根本は、詮ずるところ、いわゆるキリスト教哲学と、善と念仏の哲学の融合のような形をとらざるをえなかったのである。
 また、西田幾多郎には、田辺元、三木清というような弟子があった。田辺元の哲学は、彼自身の告白によれば宗教的方向においては西田幾多郎の禅的直観に傾倒してその影響を受け、またケーベルのキリスト教哲学と波多野精一の原始キリスト教の講義によって、大きくキリスト教の影響をうけた。さらに、彼は自力から他力への転換において親鸞に導かれたけれども、最後にはキリスト教に還った等とのべている。田辺元も西田と同じく、キリスト教、禅宗、真宗という宗教哲学を混同した哲学を説いたにすぎない。そしてそれは、西田、ケーベル等の彼の師の影響以外のなにものでもなかったのである。
 また三木清は、彼の「読書遍歴」という著書に、聖書を繰り返して読んで、そのつど感銘を受け、仏教の教典では浄土真宗の「正信偈」とか「御文章」を聞き覚え、誦し、結局は「歎異抄」に感銘をうけた等と告白している。このような背景のもとに、三木清も、西田幾多郎に師事するようになる。
 これらは、哲学は師弟によって決定されるという一例であるが、日本の代表的哲学者が、そろいもそろって、キリスト教、禅、念仏等に傾倒したところに、日本の哲学界の悲劇があったといえよう。
 また、西洋哲学も、歴史的に研究すれば、すべて師弟相対で論ぜられるものである。いわゆるマルクス、エンゲルスの哲学も、ヘーゲルの弁証法と、ヘーゲル左派のフォイエルバッハの唯物論、さらに当時の空想的社会主義等の影響をうけて発生したにすぎないのである。
 「源濁れば流れ清からず」東洋仏法の真髄、日蓮大聖哲の色心不二の大生命哲学によらなければ、真実に人類を幸福にする宗教、倫理、哲学たりえないことは、明々白々であると主張するものである。
 ひるがえって、近代の世界指導者をみるに、ヒットラーにせよ、ムッソリーニにせよ、スターリンにせよ、また日本の東条にせよ、すべて誤った哲学を根本としたがゆえに、民衆を不幸に導いたのである。彼らの哲学に、指導理念に、いままで論じてきたような報恩の観念が、少しでも説かれていただろうか。いな、彼らの持つものは、ただ権力と誤れる低級哲学にすぎなかった。恐ろしきものは、指導階級のもつ哲学の内容ではないか。
 ここで、突きつめて考えるとき、倫理学も、その根本前提をたずねられれば、宗教哲学とならざるをえないのである。紀元前三世紀のヘレニズム時代にはストア派やエピクゥロス派が、また中世紀にはスコラ哲学などが、倫理学の形をとったが、根本は宗教哲学なのである。そして西洋哲学で宗教が問題となる場合、すべて、キリスト教を指しているのである。
 ゆえに西洋哲学で論ぜられるのは、近代の実存主義であれ実証哲学であれ、いつもキリスト教や神を、いかに考えるかが、もっとも重要なる因子となってくるわけである。ここに、哲学、倫理学等も同じく、宗教批判の原理によって、勝劣、浅深、正邪が論ぜられるということになるわけである。

0294:05~0294:15 第四章 涅槃経の遺誡top

05                                                  我等凡
06 夫はいづれの師師なりとも 信ずるならば不足あるべからず 仰いでこそ信ずべけれども 日蓮が愚案はれがたし、
07 世間をみるに各各・我も我もといへども 国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず 家に二の主あれば其
08 の家必ずやぶる一切経も又 かくのごとくや有るらん 何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすら
09 め、 而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑
10 うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ 天台大師の専ら経文を師として 一代の勝劣をかんがへしがごとく
11 一切経を開きみるに 涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云 依法と申すは一切経・不依人と申
12 すは仏を除き奉りて 外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり、 此の経に又云く「了義
13 経に依つて不了義経に依らざれ」等云云、 此の経に指すところ了義経と申すは 法華経・不了義経と申すは華厳経
14 ・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり、 されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心を
15 ばしるべきか。
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 われらがごとき凡夫には、いずれの師であっても、信ずるときには不足がないように思われる。したがって、人々はただ、それぞれ最初に信じた教えをあおいで、とうぜんであるように思っている。けれども、そんなことでは日蓮自身の疑いは晴れない。
 なぜならば、世間を見るのに、各宗派がおのおの「わが宗こそは」といって力を誇示していようとも、国主というものは、一国に一人であるべきであって、二人になったら、その国土には争乱が起きる。一家に二人の主人がいるならば、必ずその家は滅びてしまう。一切経もまた、これと同じであるはずである。 
 諸宗所依の多くの経典中、いずれかの一経のみが、一切経のなかには真の大王の教えであるはずである。ところが、十宗・七宗が互いに第一であると争っているのは、ちょうど国に七人十人の大王があって、互いに勢力を争い、万民が平和でありえないのと同じである。こうした実情を知っては、おのおのの教えに勝手に随うわけにはいかないではないか。いかにすればよいかと悩んだすえに、一つの願いを立てたのである。「自分は八宗や十宗の勝手な所説には随うまい。天台大師がただ仏の経文を師匠として、釈尊一代の経々の勝劣を考えたように、自分もあくまで虚心坦懐に仏の本意をきわめよう」と、一切経を開いてみた。
 ところが、涅槃経には「法に依って人に依らざれ」とあった。「依法」の法とは、一切経のことであり「不依人」の人とは、仏以外の普賢菩薩、文殊師利菩薩とか、その他、前にあげた諸宗の人師たちである。次にまた、涅槃経には「了義経に依って不了義経に依らざれ」とある。この涅槃経の示すところによれば、「了義経」とは法華経であり「不了義経」とは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経をいうのである。
 しかも、この涅槃経は仏の最後の説法であり、仏の遺言の教えにあたる。この仏の遺言を信ずるならば、ただ法華経を鏡として、一切経の真髄を知る以外にないように思われるのである。

涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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法に依って人に依らざれ
 涅槃経には、人の四依と法の四依を説く。人の四依とは、仏の滅後において衆生をあわれみ、世間の人々のよりどころとなるべき四種の人格者をいう。すなわち、一には煩悩障を具す人、二には須陀洹・須陀含の人、三には阿那含の人、 四には阿羅漢の人の四種である。また妙楽大師は別円二教の菩薩の位にも四依のあることを判じている。日蓮大聖人は観心本尊抄に「四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し」(0251-07)と仰せであり、正法の前の五百年には迦葉・阿難、正法の後の五百年には馬鳴・竜樹・天親等、像法一千年には南岳・天台等が出現した。法の四依とは、仏滅後において四依の人が必ず遵法すべきもので、「法に依って人に依らざれ」「義に依って語に依らざれ」「智によって識に依らざれ」「了義経に依って不了義経に依らざれ」の四つの法である。
―――
普賢菩薩
 東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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已今当
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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 これより日蓮大聖人の正判を明かすのに、まず仏教が七宗十宗に分裂していることに疑いを起こし、経文を師として一代の勝劣を判じようと誓願を立てるのである。ついで、涅槃経の遺誡(ゆいかい)たる四依により判ずるならば、法華経を明鏡としてのみ一切経の心を知ることができる、と結論なされているのである。
「法に依って人に依らざれ」等
 四依には「人の四依」と「法の四依」がある。「人の四依」とは、仏の滅後において一切衆生を導き、一切衆生の拠りどころとなる四種の人格者をいう。すなわち、この時代の思想、哲学、教育等の根源となる宗教界の指導者である。
 涅槃経には次のように四依を説く。
   一には煩悩障を具す人
   二には須陀洹、須陀含の人
   三には阿那含の人
四には阿羅漢の人
       小乗声聞   別教菩薩       円教菩薩
   初依――三賢―――――十住、十行、十回向――十信――――似位
   二依――初果、二果――初地~六地――――――初住~六住―┐
   三依――三果―――――七地~九地――――――七住~九住 ├真位
   四依――四果―――――十地、等覚――――――十住以上聖位┘
 章安大師の疏には、涅槃経の文は小乗の賢聖の位をあげているが、義によって大乗に通ずるものとし、次のようにあげている。
 なお、日蓮大聖人が観心本尊抄に「四依に四類あり」とおおせられ、小乗の四依、大乗の四依、迹門の四依、本門の四依と判ぜられていることは、語訳に述べたとおりである。
 次に「法の四依」とは、四依の人々が必ず遵守すべき四種の法である。すなわち、その時代の指導者が遵守すべき指導原理、指導精神である。その内容は、
   一、法に依って人に依らざれ
   二、義に依って語に依らざれ
   三、智によって識に依らざれ
   四、了義経に依って不了義経に依らざれ
 以上の四依は仏道修行の上においても、折伏弘教の上においても、もっとも根本となるべき指導原理である。まず第一の「法に依って」とは、仏の説き示された一切経に依るべきであること。「人に依らざれ」とは、いっさいの菩薩、いっさいの人師などを本としてはならないとの意である。
 また、現在の末法において考えるならば、御本仏・日蓮大聖人は人法一箇であらせられる。大聖人の出世の御本懐たる三大秘法の御本尊が法である。この根本の法をいっさいの基準としなければならない。そのほかの本尊も教えも基準にはならない。いわんや、信心している人の生活や姿などを本にして宗教を判断しては決してならないのである。
 第二に「義に依って語に依らざれ」とは、文にあらわれたことばのみに執着してはならない。そのことばが何を表現しようとしているのかの義に依らなければならないのである。
 第三に「智に依って識に依らざれ」とは、仏の智慧に依らなければならない。菩薩以下の知識を本にしてはならないし、現代人の知識なども拠りどころとはならないのである。
 第四に「了義経に依って不了義経に依らざれ」とは、了義経とは釈尊出世の本懐たる法華経であり、不了義経とは、法華経以前に説かれたいっさいの方便権教である。しかして、本文にお示しのごとく、法華経を明鏡として一切経の心を知らなければならないのである。
 日蓮大聖人は曾谷入道等許御書において「三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」(1034-16)と責破されている。
 以上にあげられた人は、みな各宗の開祖とあおがれ、大学者とあおがれ、一世の指導者として一生を送った人たちであるが、そのじつは「四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」である。じつに恐ろしいことではないか。
 現代においても、世の指導者とあおがれる学者、評論家、思想家たちも、日蓮大聖人の大白法を知らないものは、みな暗師であり、愚人といわざるをえない。
 すなわち「法に依って人に依らざれ」という原理は、現代社会にも通用する偉大な原理なのである。現代日本の評論家、学者等の中には宗教の正邪もわきまえず創価学会をうんぬんするものがいるが、学会の奉ずる日蓮大聖人の大仏法哲学を根本的に論じたものは、ほとんど皆無である。これは、まことに不思議な現象である。
 そうした評論家、学者といわれる人々は、ほとんど仏法のなんたるかを知らず、また仏法を正しく実践してはいないのである。まことの評論家、学者であるならば、客観的にせよ、主観的にせよ、仏法哲学の真髄を究明し、実践してこそ、初めて真実のりっぱな評論家、学者の資格ありというべきである。
 それでは、彼らは、いかなる哲学、思想によって批判するのかといえば、まことに頼りない次第である。定まった哲学、思想等はもっていないといっても過言ではない。前に論じたように、日本で哲学者といわれる人々でさえ、なにかの縁で最初にとりついた、キリスト教や禅や念仏の教えをあおいで信じてとうぜんのように思っているにすぎないのである。このような低級な哲学で、どうして最高の仏法哲学を批判しえようか。
 仏法を論じ、学会を批判するのならば、東洋仏法の真髄である日蓮大聖哲の色心不二の大生命哲学を深く究明し、しかる後に自由に批評すべきであると主張するものである。
 宗教、哲学、思想等に関するのみでなく、他の種々の学問、自然科学等の分野においても、初めにとりついた概念に固執するという傾向が、善悪にかかわらず、日本には多いのである。これが学閥等を助長する原因ともなりかねないのである。一般の学問は、まだ比較的、弊害が少ないが、こと宗教、哲学、思想の面になれば、ここに大なる弊害があらわれるのである。
 評論家や学者が、いままでの自分の観念にしがみついて、虚心坦懐に、仏法というものを正視しえないのも、案外、このようなところに原因があるのかもしれない。そこには、日蓮大聖人が「我義やぶられずば用いじとなり」また「わが理破られてありとも其の心ひるがえらずば命をも召しとれよかし」といわれるような求道心、正義感は、ツメの先ほども見当たらぬのを、はなはだ遺憾とするものである。
 見よ、現在、比較的自由に宗教を選択しうる庶民、青年、学生等が、ぞくぞくと邪法邪義邪師を捨てて日蓮大聖人の真実の大仏法を求めているではないか。日本の一部の青年が、唯物主義や新興宗教を求めているではないかというものがあるかもしれないが、彼らの大部分は、長くて四、五年もすれば、低級思想にあきたらずに去っていくのである。
 しかして、正法を信ずる青年は、人間革命と社会の繁栄を願い、一生を通じて大生命哲学を奉じていくことを思えば、その差は歴然としているのである。しかして、虚心に仏法の真髄を究明していくならば、一国に王が一人であったごとく、天に太陽が一つであるごとく、末法における御本仏は、真の救世主は、日蓮大聖哲ただおひとりであることを知るのである。

0294:16~0295:12 第五章 一代諸経の勝劣top

16   随つて法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て 最も其の上に在り」等云云此の経文のごとくば
17 須弥山の頂に帝釈の居がごとく 輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく 衆木の頂に月のやどるがごとく 諸仏の頂に
18 肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
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 ゆえに仏説にしたがって、法華経を開いてみれば、薬王品には「この法華経は諸経の中で最上位にある」と説かれている。この法華経の文によるならば、須弥山の頂には帝釈がいるように、転輪聖王の頂には如意宝珠があるように、多くの木の上には月がクッキリと浮かぶように、諸仏の頭には肉髻があるように、法華経こそは華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に居するところの如意宝珠である。
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0295
01   されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば 大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出
02 現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり、 又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に
03 相似の経文・一字・一点もなし、 或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき 或は諸の空仮に
04 対して中道をほめたり、 譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし、 法華経は諸王に対して大
05 王等と云云、 但涅槃経計こそ法華経に相似の経文は候へ、 されば天台已前の南北の諸師は迷惑して法華経は涅槃
06 経に劣と云云、されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経経をあ
07 げて涅槃経に対して 我がみ勝ると・とひて又法華経に対する時は 是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記
08 ベツを授くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云、 我れと涅槃経は法華経
09 には劣るととける経文なり、 かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば 末代の学者能
10 く能く眼をとどむべし、 此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし、
11 而るを経文にこそ迷うとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし、 然れど
12 も天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし・いわうや余宗の人人をや。
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 それゆえに、もっぱら論師・人師の所見や所説を捨てて、仏の経文にただちによるならば、法華経が大日経や華厳経等に勝れていることは、ちょうど晴れわたった日に、いやしくも目あるものならば、天地を見るのにその高下は明らかなように、まことにはっきりしている事実である。
 また、大日経や華厳経等の一切経を見るのに、この法華経のこのようなすぐれた文に似ている文は、一字一点といえども見当たらない。彼らのなかに、いくぶん似た文があっても、ただ小乗経の劣に対して大乗経の勝を説き、あるいは世間法たる俗諦に対して仏法の真諦の勝れているゆえんを説き、あるいは種々の空・仮の二諦に対して中道の勝れたることを説くにすぎない。ちょうど小国の王が、自分の臣下に対しておのれを大王というようなものである。
 法華経の王は、諸経の小王に対して大王というのであるから、最高に勝れているわけである。ただし、涅槃経にのみは法華経によく似ている勝れたる経文を見出す。ゆえに、天台大師以前の南北の十師は、それに迷って、法華経は涅槃経に劣るなどといっていた。しかるに、もっぱら経文をすなおに拝見してみれば、無量義経に説かれているように、華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の諸経をあげて、これを涅槃経みずからに比較して、しかも涅槃経は四十余年の爾前経に勝れたりと説いているのである。
 また、法華経と比較するときは、この涅槃経の説かれたゆえんは「法華経の中で八千の声聞が未来に成仏するという記別を得たのは菓実がりっぱに実ったようなものである。この涅槃経では、その菓実を秋にとりいれ、冬のための蔵入れも終わっているようなもので、さらに作すべきことはなく、わずかにこぼれを拾うようなものである」といって、みずから「涅槃経は法華経には劣る」と説いた文がある。 
 このように経文は明らかにその勝劣を説いているが、中国の南三北七の大智者たちも迷ったほどであるから、末代の学者たちは、よくよく意を留めて熟読すべきである。この経文は、ただ法華経と涅槃経の勝劣を説いているばかりでなく、これによってあらゆる十方世界の一切経の勝劣も知ることができるのである。
 しかるに、世の学者どもが経文を正しく読みきれないで迷うのは、まだ仕方ないとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師等が、経文の意はかくのごとしと、明白に諸経の勝劣を厳然と示されたのちは、心あるものは、それを了知していなければならないはずである。しかれども、天台宗の人たる慈覚、智証でさえ、この経文の真意を理解できなかったのであるから、まして他宗の人々が迷うのはとうぜんというべきか。

須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
輪王
 転輪聖王。仏教で説く理想の君主で、武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされ、七宝(輪・象・馬・珠・女・主蔵臣・主兵臣)および三十二相をそなえるという。王はこの輪宝の旋転により一切を感伏せしめ、あらゆる国土の起伏、不平均を均して、一切をみな平等にならしむる徳がある。また、金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の四種の輪王がいる。倶舎論巻十二によれば、金輪王は人寿八万歳のときに出現し四洲全部を統領している。銀輪王は人寿六万歳のときに出現し東西南の三洲を領し、銅輪王は人寿四万歳のときに出現し東南の二洲を領し、鉄輪王は二万歳のときに出現し南閻浮提一洲を領するといわれる。
―――
如意宝珠 
 意のままに、種々無量の宝を出すことのできる珠。仏舎利変じて如意宝珠になるとか、竜王の脳中から出るとか、摩竭魚の脳中から出る等といわれた。摩訶止観巻第五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。しかして兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈して「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-第八有一宝珠の事-02)と仰せであり、すなわち末法の如意宝珠とは御本尊のことと明かされる。
―――
肉髻
 仏の32相のひとつ。頭の頂上の肉が高く隆起して髻のようになっている。または無見頂相。
―――
論師人師
 論師とは梵名で阿毘曇師。はじめは三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、のちに論議をよくする人、あるいは論を造って仏法を宣揚する人をいうようになった。人師とは、論師に対する語。仏、菩薩ではなく、しかも人々を教導する者をいう。竜樹、天親等を論師といったのに対し、天台、妙楽をはじめ法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等を総称して人師といった。
―――
俗諦
 世間一般で認められる真実。世間の道理。
―――
真諦
 絶対不変の真理。究極の真実。第一義諦。勝義諦。
―――
無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
秋収冬蔵して更に所作無きが如し
 法華経によってすべてが得道したことは、秋に穀物を取り入れ、冬になって蔵入れを終わったようなものであって、涅槃経はその落穂拾いにすぎない。
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 これより法華の明文によって一代諸経の勝劣を判じている。
 初めに引く明文は薬王品第二十三の文であるが、「諸経の中に於て」とは、釈尊一代五十年の諸経はもとより、十方三世の諸仏の諸経の中において、法華経が最も第一であるゆえに「最も其の上に在り」というのである。
 しかしまた法華経にも、釈尊在世の法華経、像法時代・天台の法華経、末法における日蓮大聖人の法華経のごとく差別がある。「仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124-12)と判ぜられているように、釈尊の出世の本懐は二十八品の法華経である。日蓮大聖人の出世の本懐は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また天台大師は像法時代に出現して、摩訶止観をひろめた。これが像法時代の法華経であった。
 法華経薬王品の「諸経の中に於て最も其の上に在り」という経文は、末法の法華経たる日蓮大聖人の仏法こそ全世界の哲学、倫理、宗教、思想の中で最高唯一のものであることを示していると拝さなければならない。
 今日の世界をみるに、哲学、倫理、思想といえども、結局その根本理念は宗教哲学であることは明白な事実であり、キリスト教、回教、ヒンズー教、小乗仏教等の低級宗教がその根源となっていることを見破らなければならない。ゆえに、いかに深遠そうな論理を展開しようとも、結局、キリスト教哲学や小乗仏教の亜流にすぎないことは、かのアインシュタインや、トインビー、ラッセル等の平和論、文明論を見れば、一目瞭然たるものがあるではないか。
大日経・華厳経等に法華経の勝れ等
 この文からは、諸経の相似の文を会すのである。初めに爾前の相似の文を会している。別して大日経、華厳経をあげたのは、真言宗、華厳宗を破折なされるためである。
 「此の経文に相似の経文・一字・一点もなし」とは、「所対」に意をとどめて経文を読まなければならないのである。すなわち、爾前経においても、外道に対すれば仏教の勝れていることを説いているし、小乗に対すれば大乗のすぐれていることを説いている。
 しかし、法華経のように、諸経中において最もすぐれているとか、諸王のなかの大王であるというような文は一字一点もない。これは奪って爾前相似の文を会すのである。次は本文に「但涅槃経計こそ」からは、与えて涅槃経の文を会すのである。
 「涅槃経の中に法華経に相似の文がある」との御文意は、涅槃経中の五味の文である。その五味の文とは次のとおりである。
 涅槃経聖行品の下にいわく「是の諸の大乗方等経典は復無量の功徳を成就すと雖も、是の経に比せんと欲せば、喩を為すことを得ず……善男子、譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。醍醐は最上なり。若し服する者有らば衆病皆除く。有らゆる諸薬の悉く其の中に入るが如く、善男子、仏も亦是くの如し。仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。なお醍醐の如し。醍醐と云うは仏性に喩う」
 天台は、以上の文を五時の証拠の文として立てている。大涅槃が醍醐とは、法華涅槃を示すのである。寺泊御書にいわく「涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり、天台大師の料簡に云く命とは法華経なり重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり、但し涅槃経に説く所の円教は如何、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ涅槃経の円常を以て法華経に摂す、涅槃経の得分は但・前三教に限る」記の九末にいわく「法華は大陣を破る如し、涅槃経は残党の如し、難からず、故に法華は大収の如し、涅槃は捃拾の如し」(0952-09)
 なお本抄の「八千の声聞……秋収冬蔵」等の御文は、前述のごとく、涅槃経如来性品第九の文であって、ともに思い合わすべきである。
 次に、本文の「かう経文に分明なれども」からは、十方世界の一切経の勝劣を比知すべきことを明かしている。その意味は、涅槃経がなお法華経に劣ることを了するならば、十方世界の一切の諸経が法華経に劣ることが分明となる。ゆえに十方世界の一切経の勝劣を比べ知ることができるというのである。
 「天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし」とのおおせであるが、これらの諸大師が法華経第一と決定されてから、すでに千数百年になる。日蓮大聖人が三大秘法をお建てになり、立正安国の大道を示されてからでも、すでに七百年になる。いかに宗教界に進歩がなく、宗教に対する邪智邪見の根深いか知られるであろう。もし創価学会の出現がなければ、さらに幾百年、幾千年にわたって、いかに邪宗邪教が全世界を不幸におとしいれていったか、はかり知れないものがあるであろう。

0295:13~0296:15 第六章 法華最第一を明かすtop

13   或る人疑つて云く漢土・日本にわたりたる経経にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも月氏・竜宮.四王・日月.
14 忉利天 ・都率天なんどには恒河沙の経経ましますなれば其中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん、 答て
15 云く一をもつて万を察せよ 庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり、 癡人が疑つて云く我等は南天を見て東西
16 北の三空を見ず 彼の三方の空に此の日輪より別の日やましますらん、 山を隔て煙の立つを見て火を見ざれば煙は
17 一定なれども火にてやなかるらんかくのごとくいはん者は 一闡提の人としるべし生盲にことならず、 法華経の法
18 師品に釈迦如来金口の誠言をもつて 五十余年の一切経の勝劣を定めて云く「我所説の経典は 無量千万億にして已
0296
01 に説き今説き当に説ん而も其の中に於て此法華経は最も為難信難解なり」等云云、 此の経文は但釈迦如来・一仏の
02 説なりとも等覚已下は仰いで信ずべき上 多宝仏・東方より来りて真実なりと証明し 十方の諸仏集りて釈迦仏と同
03 く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ、 已今当の三字は 五十年並びに十方三世の諸仏えの御
04 経、 一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を 十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給
05 い各各・又自国に還らせ給いて 我弟子等に向わせ給いて 法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子
06 等信用すべしや、又我は見ざれば月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に法華経に勝れさせ給いたる経や・おはしま
07 すらんと疑いをなすはされば梵釈・日月・四天・竜王は法華経の御座にはなかりけるか、 若し日月等の諸天・法華
08 経に勝れたる御経まします 汝はしらずと仰せあるならば大誑惑の日月なるべし、 日蓮せめて云く日月は虚空に住
09 し給へども我等が大地に処するがごとくして 堕落し給はざる事は上品の不妄語戒の力ぞかし、 法華経に勝れたる
10 御経ありと仰せある大妄語あるならば 恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか 無間大
11 城の最下の堅鉄にあらずばとどまりがたからんか、 大妄語の人は須臾も空に処して 四天下を廻り給うべからずと
12 せめたてまつるべし、而るを華厳宗の澄観等・真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大
13 師等の華厳経・大日経等は 法華経に勝れたりと立て給わば 我等が分斉には及ばぬ事なれども大道理のをすところ
14 は豈諸仏の大怨敵にあらずや、提婆・瞿伽梨もものならず大天・大慢・外にもとむべからず・かの人人を信ずる輩は
15 をそろし・をそろし。
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 かくいえば、ある人は疑っていうであろう。「中国、日本に渡来した経々の中には、法華経よりも勝れている経はないかもしれぬが、月氏・竜宮・四天王・日天月天、忉利天、都率天などには、恒河沙ほどの経があるといわれるゆえに、その中には、法華経より勝れた経典もあるのではなかろうか」と。
 答えて言う。いやしくも智人であるならば、一をもって万を察し、門を出ずして天下の形勢を知るということは、これである。法華経が最勝であるゆえんも、こうした智人こそ明らかに知ることができるのである。愚かな者は、疑い深くて南の空だけを見て東西北の三天を見ず、その三方の空には自分らの見る太陽と別の太陽が照らすであろうかと、考えるようなものである。また山のかなたに立つ煙を見て、煙は確かに上がっているが火は見えないから火はないかもしれないというようなものである。今の質問もかくのごとき愚者のことばであり、また、これこそ不信謗法の人であり、生盲に異ならぬというべきである。
 法華経の法師品第十で釈迦如来はみずから五十年間の一切経の勝劣を定めて「わが説く所の経典は、実に無量千万億であって、已に説いたもの、今説き了るもの、当に説かんとするもの、まことに多くの経典があるが、その中で、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の哲学である」と説かれている。
 この法華経の経文は、たとえ釈迦如来、一仏の説であろうとも、等覚以下のすべての菩薩は、ただ仰いで信ずべきである。しかるにその上に、釈迦仏のほか多宝如来は東方の宝浄世界から飛んで来て、「この法華経は、すべて真実なり」と明白に証明し、さらに十方世界の諸仏までも、無数に集まって、釈迦如来と同じ広長舌を梵天につけて真実を証明した。そして終わって後、多宝仏も十方の分身仏もみなおのおのの本国へ帰ったのである。
 このように十分な証明あって説かれた法華経の已今当の三字は、釈尊五十年の説法はもとより、三世十方の諸仏の御経を全部、その一字一点も残さずにこれを総括し、法華経と比較して、しかも法華経こそ最高なりと説かれたのである。十方の諸仏は、それを明らかに認めて、「真実なり」との判を押したのである。ゆえに、もしも諸仏がおのおのの国土に帰ってから、たとえ自分の弟子たちに向かって「じつは法華経より勝れたる経文があったのだ」と説いたとしても、その弟子たちは信用するはずがあろうか。
 また自分は見ないけれども、月氏、竜宮、四天、日天、月天等の宮殿には、法華経より勝れたる経があるだろうという人がいれば、まず次のことを知りなさい。梵天、帝釈天、日天、月天、四天、竜王等は、法華経の座にいなかったのかどうか。じつは、この諸天善神はすべて厳然と法華経の座につらなっていたのである。もしも日天、月天等の諸天が「じつは法華経に勝るところの経があるのだが、汝らはそれを知らぬのだ」というならば、まさに大誑惑の日月天というべきである。日蓮はこれを責めていうであろう。「日天、月天が虚空に住して、われらのようにいまだに大地に住しないということは、上品というすぐれた不妄語戒を持った力によるのである。それであるのに、もし今、法華経より勝れたる経文がある等と大妄語あるならば、おそらくは壊劫の時期を待つまでもなく、大地の上に、どうと転落してしまうであろう。そして大地裂けて無間地獄の最下位の堅鉄まで転落しなければ止まりがたいであろう。このような大妄語の日天、月天であるならば、須臾の間も、天に懸かって四天下を照らすべきでない」と、厳然と責めるであろう。
 以上のごとく、法華経の最勝は明々の理であるのに、華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等の智者といわれる三蔵大師等が、華厳経・大日経等は法華より勝れたりと立てている。わが分際で批判の限りではないけれども、仏法は道理である、仏説による大道理から見るならば、みな諸仏の大怨敵ではないか。釈尊を殺そうとした彼の大悪逆の提婆達多や瞿伽梨尊者等も問題ではない。まことに大天、大慢バラモン以上の大悪逆のものである。このような誑惑の師を信ずる人々も、また恐ろしいことである。

月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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竜宮
 竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
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四王
 四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
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忉利天
 梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
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都率天
 梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。六欲天の第四天。兜率天とも書く。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天界の衆生の欲楽する処とされる。
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恒河沙
 ガンジス河の砂のことで、数え切れないほどの数を示す譬喩。
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癡人
 おろかもののこと。
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一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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等覚
 菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
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多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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広長舌
 神力品に説かれる。法華経を付嘱するためにあらわした十種の神力の第一で広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
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已今当
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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誑惑
 たぶらかすこと。
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上品の不妄語戒
 五戒を上中下の三品に分かって最上品のこと。
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壊劫
 四劫のひとつ。生命・世界が破滅する時期。
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四大下
 鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
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提婆
 提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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瞿伽梨
 梵名コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多の弟子であり、釈尊の制止も聞かず、舎利弗や目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
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大天
 大天は訳名で、梵名は摩訶提婆という。仏滅後百年に末土羅国の商家に生まれた。大毘婆沙論によると、大天は父母および阿羅漢を殺し、その罪を滅するために摩竭陀国の鶏園寺にはいって出家した。聡明で言詞巧みで、時の王にも崇敬され、我れ阿羅漢を得たり、と慢心を起こした。そして悪見を立て、上座部の耆宿と争い、大衆部をつくって仏法分裂の因をつくった、とある。
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大慢
 大慢婆羅門のこと。インドの外道の僧で、慢心を起こして外道の三神および釈尊の像を高座の四足としてわが徳四聖に優れたりと称していたが、賢愛論師に法論で敗れ、国王に処刑されるにあたり、賢愛論師は王に請うて彼の罪を減じ、かつこれを慰問したが、大慢はなお諭師をののしり、仏法僧を誹謗したので、ことば終わらざるうちに大地さけて現身に地獄に堕ちた。
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 これより法華最第一を釈成するのである。初めに仮の難を設けてこれを会し、次に三説超過の文を引いて一代ならびに十方三世の諸経のなかに法華最第一の旨を明かしている。
 初めの仮の難は、インドから中国へ、中国から日本へと渡ってきた教典の中では、法華経が勝れているとしても、われわれのまだ知らない世界のどこかには、もっと勝れた経典があるかもしれないではないかというのである。これに対し「一をもって万を察せよ」とも「住まいの庭を出なくても天下を知ることができる」ともおおせられている。
 さらに、癡人は南の空の太陽を見ているときには、東西北には別の太陽があるかもしれないとか、山を隔てて煙の立つのを見て、煙は確かに上がっているが、火は見えないから火ではないかもしれないなどと疑いを述べている。そういう輩は一闡提人であり生き盲である。
 しかるに、物質文明の驚異的な発展をみた今日においても、宗教に関しては、このような一闡提人や無知な人が多い。創価学会を知らない人たちは、ことごとく、この類いである。すなわち、日蓮大聖人の出世の御本懐たる本門の本尊の功徳を聞いても信じようとしない。
 「宗教は何を信じても同じだ」とか「あなたはそれをありがたいと信じていれば、それでよい。私は私で別だ」とか「いかなる本尊でも絶対最高ということはありえない。ほかによいものがあるかもしれない」とか、いろいろの意見がある。一般社会人はもとより、学者、評論家といわれる人たちも、このようにして、仏法の真髄たる生命哲学を知らないで批評している。これらは、すべて一闡堤人であり、宗教に無知な人であると断言できるのである。
法師品の三説超過の文
 次に、三説超過の文とは、法華経法師品の文である。「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」。已説の爾前経、今説の無量義経、当説の涅槃経のなかで、法華経こそ最も難信難解であるということは、法華経が最高第一の経典であるがゆえである。
 ただ釈尊一代における第一であるのみならず、十方三世の諸仏の諸経中において第一である。そのゆえは、方便品に「三世の諸仏の 説法の儀式の如く 我れも今亦た是の如く」である。
 さて、法華経には、また迹門、本門、文底の相違がある。次に示す御文は、爾前と法華と相対し、あるいは爾前と迹門と相対して、法華迹門の難信難解であり、勝れていることを示されている。
 観心本尊抄にいわく「『已今当説最為難信難解』と次下の六難九易是なり」(0244-18)。
 同抄にいわく「伝教大師云く『此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に』等云云」(0245-)。
 同抄にいわく「始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意・難信難解の正法なり」(0248-13)。
 次の難信難解の御文は、爾前、迹門を破って、法華本門を立てられるのでる。
 観心本尊抄にいわく「迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249-03)。
 次に、末法においては、日蓮大聖人の法華経本門寿量品文底秘沈の三大秘法こそ、最も難信難解、最高第一であって、釈尊の説かれた二十八品の法華経は、本迹二門ともに随他意の易信易解となるのである。
 このことは「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)とも「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)とも判ぜられているのである。
上品の不妄語戒の力ぞかし
 五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)に上中下の三品を立てる。上品は最上の意である。本文に不妄語戒の力とおおせあるのは、しばらく一戒をあげたのであって、天に生ずるのは十善戒の功徳によるのである。十善戒とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・綺語・悪口・貪欲・瞋恚・愚癡の十事を堅く行じないことをいう。
 不妄語とは正直のことである。諸天善神は正直の因によって神となり、神はまた、正直の頭に宿るのである。このことを諌暁八幡抄にいわく「八幡の御誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』」(0587-12)と。
 また、八幡の本地は釈迦如来であって、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き、垂迹は日本国に生まれて正直の頂にすみたもう。このことを「凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり」(0588-09)とある。すなわち、諸天善神が正直の因によりて神となり、正直の頭に宿るのがこれである。
かの人人を信ずる輩はをそろし
 正法正師について三大秘法を行ずれば、即身成仏するうえに、真実の報恩となる。しかるに、邪法邪師につけば地獄へ堕する。師が堕ちれば弟子も堕ち弟子が堕ちれば檀那も堕ちる。大荘厳仏の末の四比丘は六百万億那由陀の人を皆、無間地獄へ堕としてしまった。師子音王仏の末の勝意比丘は無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆、阿鼻地獄へ堕とした。同様に日本の国では、弘法・慈覚・智証の三大師によって、一切衆生ことごとく無間地獄の苦をうけたのである。
 またまた、日蓮大聖人の御入滅後にも、邪法を崇重するがゆえに、三災七難が競い起こって、ついに日本の国も敗戦亡国を体験せざるをえなかったのである。いま、化儀の広宣流布の時を迎えて、ふたたび、われわれは、このような謗法による苦難を繰り返してはならない。そのために、わが学会は立ち上がっているのであることを、よくよく肝に命じようではないか。
順縁広布の時代
 仏法の浅深高下を論ずれば法華経は難解難入であり難信難解である。三大秘法はそれ以上の最為難信難解である。しかし現代はすでに順縁広布の時代に入り、南無妙法蓮華経の哲理は実際生活の上に余すところなく適用され、自由無礙に全世界に広まりつつある。妙法尼御前御返事には、法華経は難信難解であることをのべられ、次に末法の法華経たる三大秘法の南無妙法蓮華経は持ちやすいことを説かれている。「かかる持ちやすく行じやすき法にて候を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候」(1403-02)真実の仏法なればこそ、あらゆる人々が信心できる。小乗教のごときは、きわめて少数の人しか救われないのである。
 現在、仏法といえば、すべて死せる仏法と思われ、また難解でわからないことが仏法の代名詞のようにいわれるまで、仏法は人々の心を離れてきたのである。しかも仏法を盗んだ新興宗教の群れは、ただ仏法の片鱗のみをもって宗教企業の道具としているにすぎなかったのである。
 しかし、東洋仏法の真髄、日蓮大聖哲の真実の仏法が、いよいよ、生きた大仏法として、最高の哲理をもってだれびとをも実生活にあてはめて指導し、あたかも泉がこんこんと湧きいずるごとく、幸福の源泉になってきているのである。
 過去の法華経といえば、日本に伝来いらい、初めは民衆と遊離した貴族仏教として一日経、如法経というような姿で書写行の対象となったり、普門品等が用いられたりした。やがて伝教大師によって迹門の法華経が像法適時の仏法として光輝を放ち、法華経迹門の戒壇建立が完成した。しかるに、叡山の慈覚が真言の邪義を取り入れてから、ふたたび法華経は暗黒に包まれ、念仏、真言、禅などとともに、時の政権と結託した堕落宗教となり、正しく用いられることはなかったのである。正しく釈尊の白法隠没の予言のごとくであった。
 末法に入って二百余年、日本に御出現の御本仏、日蓮大聖人は、いよいよ末法の法華経たる三大秘法の南無妙法蓮華経を御建立になった。また現在、七百年の夢を破って、日蓮大聖人の正義は、創価学会によって余すところなく実践されているのである。
 わが学会は、あらゆる迫害、弾圧の中から、ひたすら大衆の幸福のために、民衆の真の味方となって立ち上がってきた崇高な歴史を有する。創価学会こそ、あらゆる人々に幸福と繁栄をもたらす民衆宗教であり、民主仏法であり、もっとも身近のすべての人々の幸福の源泉となっていく、唯一の清らかな宗団なりと叫ぶものである。
 いずれの時代においても、先駆者は迫害と弾圧のアラシにさらされるものである。いわんや仏法は魔との戦いであり、元品の法性は元品の無明との争いであり、正法正義をもって邪宗邪義の邪師を粉砕してこそ、輝かしい民衆救済の目的が達成されるものである。

0296:16~0298:02 第七章 在世及び正法時代の値難top

16   問て云く華厳の澄観.三論の嘉祥.法相の慈恩.真言の善無畏・乃至弘法・慈覚.智証等を仏の敵との給うか、答え
17 て云く此大なる難なり仏法に入りて第一の大事なり 愚眼をもつて経文を見るには 法華経に勝れたる経ありといは
18 ん人は設いいかなる人なりとも 謗法は免れじと見えて候、 而るを経文のごとく申すならば・いかでか此の諸人仏
0297
01 敵たらざるべき、 若し又恐をなして指し申さずは一切経の勝劣むなしかるべし、 又此人人を恐れて末の人人を仏
02 敵といはんとすれば 彼の宗宗の末の人人の云く法華経に大日経をまさりたりと申すは 我れ私の計にはあらず祖師
03 の御義なり・戒行の持破・智慧の勝劣・身の上下はありとも所学の法門はたがふ事なしと申せば彼人人にとがなし、
04 又日蓮此れを知りながら 人人を恐れて申さずは寧喪身命・不匿教者の仏陀の諌暁を用いぬ者となりぬ、 いかんが
05 せん・いはんとすれば世間をそろし 止とすれば仏の諌暁のがれがたし進退此に谷り、 むべなるかなや、 法華経
06 の文に云く「而かも此経は如来の現在にすら 猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」又云く 一切世間怨多くして信じ難
07 し等云云、釈迦仏を摩耶夫人はらませ給いたりければ 第六天の魔王・摩耶夫人の御腹をとをし見て我等が大怨敵・
08 法華経と申す 利剣をはらみたり事の成ぜぬ先に・いかにしてか失うべき、 第六天の魔王大医と変じて浄飯王宮に
09 入り御産安穏の良薬を持候 大医ありとののしりて毒を后にまいらせつ、 初生の時は石をふらし 乳に毒をまじへ
10 城を出でさせ給いしには黒き毒蛇と変じて道にふさがり 乃至提婆・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入
11 りて或は大石をなげて仏の御身より血をいだし 或は釈子をころし或は御弟子等を殺す、 此等の大難は皆遠くは法
12 華経を仏 世尊に説かせまいらせじと たばかりし如来現在・猶多怨嫉の大難ぞかし、此等は遠き難なり近き難には
13 舎利弗・目連・諸大菩薩等も 四十余年が間は法華経の大怨敵の内ぞかし、況滅度後と申して未来の世には又此の大
14 難よりも・すぐれてをそろしき大難あるべしと・とかれて候、仏だにも忍びがたかりける大難をば 凡夫はいかでか
15 忍ぶべきいわうや在世より大なる大難にて・あるべかんなり、 いかなる大難か提婆が長三丈広一丈六尺の 大石阿
16 闍世王の酔象にはすぐべきとはおもへども 彼にもすぐるべく候なれば小失なくとも 大難に度度値う人をこそ滅後
17 の法華経の行者とはしり候はめ、 付法蔵の人人は四依の菩薩・仏の御使なり 提婆菩薩は外道に殺され師子尊者は
18 檀弥羅王に頭を刎ねられ 仏陀密多・竜樹菩薩等は赤幡を七年十二年さしとをす 馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとな
0298
01 り如意論師はおもひじにに死す。
02   此れ等は正法・一千年の内なり、
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 問うて言う
 問うていう。いまの話によれば、華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏、ないし弘法、慈覚、智証等を一様に仏敵といわれるのか。
 答えていう。この疑難は、実に重大なることである。仏法における第一の大事である。経文のさし示すところを、私が観察すれば、「法華経よりも勝れた経がある」という人は、たとえ、なにびとたりとも謗法の罪はまぬかれぬこと、経文に明白である。ゆえに経文のとおりにいうならば、この澄観等の人々が仏敵であることは明白な事実である。もし、それを恐れて、その謗法を破折しなかったならば、釈尊の一切経の勝劣浅深は、総くずれになってしまうのである。
 また彼ら諸宗の祖の権威を恐れて、末代の門下たちばかりを仏敵として破折すれば、それらの諸宗の人々はいうであろう。「法華経よりも大日経が勝れているということは、私のことばではない。われらの祖師の説なのである。祖師とわれらとでは、戒行をたもつか破るか、智慧が勝れるか劣るか、身分の上下等の差別はあったとしても、学んだところの法門には、なんの異なりもない。われらは祖師の教えどおりにやっているのである」というであろう。かくいわれれば、末代の門下の人々には、根本の罪がないということになる。
 かくのごとく、根本的には、諸宗の元祖に重大なる罪のあることを知った。しかるに日蓮、かの諸宗の元祖を恐れ世間の批判を気にして、彼らの謗法を明らかにしなかったならば、「身命を喪うとも、正しい教えを匿してはならぬ」(涅槃経第九)との仏意仏勅を用いぬものになってしまう。いかにしたらよかろうか。それをいうならば、世間の非難迫害は、とうぜん受け切らなければならぬ。黙ってこれをいわぬならば、仏の諌暁をどうすべきか。進退ここにきわまったというべきである。しかし、このような難はとうぜんであって、法華経法師品には、「この経を説こうとすれば、釈尊在世でさえもなお怨嫉が多かった。まして仏の滅度の後においてをや」と。また法華経安楽行品には、「一切世間のものは怨嫉のみ多くして、この法華経を信じがたい」といわれるゆえんである。
 ここで仏在世のようすをみるに、摩耶夫人が釈迦仏を懐妊なさったときに、第六天の魔王は摩耶夫人のお腹の子を通し見て、ひじょうに恐れおののき、「われらの大怨敵である法華経の利剣を身ごもったのである。出産前に、なんとかして、これを失うようにせねばならぬ」と決心した。そして、第六天の魔王みずから大医師と姿を変えて浄飯王宮にはいり、「ご安産の大良薬を持参してきた大良医である」といって、夫人に毒をさしあげたのである。
 さらに、生まれたときから、すぐに石をふらせてつぶそうとし、乳には毒を入れて殺そうとはかった。また出家のために城を出られたときには、黒い毒蛇となって道をじゃまし、あるいは提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身中にはいって、あるいは大石を投じて仏の身から血を出さしめ、あるいは釈尊の同族を殺し、あるいは仏の弟子等を殺すという大難がつづいた。
 これらの大難は、みな遠くは、法華経を釈尊に説かせまいとする計画的な迫害であった。そしてこれが「如来の現在にすら猶(なお)怨嫉多し」の大難である。しかし、これは釈尊誕生以前からの遠き大難、久しい昔からの大難というべきである。そして、近き難、すなわち後々の大難としては、舎利弗・目連・諸大菩薩等も、爾前経が説かれた四十余年のあいだは、みな法華経の弘通を妨害した大怨敵のものたちであった。
 これらは仏在世の難であった。しかし、法華経には「いわんや滅度の後をや」と説かれ、未来には、仏在世のときよりも、よりいっそうの大難があると説かれている。いかなる大難がこようとしているのか。しかも仏でさえ忍びがたい大難を、凡夫はいかにして忍んでいかれるであろうか。いわんや仏在世よりも大なりといわれる大難なのである。どんな大難であろうとも、提婆が長さ三丈、広さ一丈六尺という大石を投じて殺そうとした大難や、阿闍世王が酔象をもって踏みつぶそうとした大難等にも超越する大難があるのであろうかとも思うが、また彼の仏在世にもすぎた大難であるならば、自分にはなんの小失もないのに、たびたび在世以上の大難にあうならば、まさにその人こそ、仏滅後、末代の法華経の行者であると知りうるであろう。
 仏滅後の付法蔵の二十四人の人々は、いずれも四依の菩薩であり、仏の御使いである。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頸を刎ねられた。また仏陀密多は十二年間、竜樹菩薩は七年間も、ともに赤幡を押し立てて、外道ならびに邪宗の元凶に破折を加えた。馬鳴菩薩は、金銭三億をもって敵国に売られ、如意論師は外道の横計のために、思い死にしてしまったのである。これらは、すべて正法一千年のあいだの難であった。

行の持破
 戒は、仏によって定められた戒法、その戒の体である戒体、受持して修行する戒行、五戒・十戒・具足戒等の戒相の四つに分けられる。すなわち、仏の定めた戒相そのままに行ずることを戒行という。しかし、これはあくまでも釈迦仏法の範囲で論ぜられるもので、末法ではご本尊を受持することが唯一の戒で、これを金剛宝器戒という。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」(1282-10)とある。
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寧喪身命・不匿教者
 涅槃経第十六の文。「寧ろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」と読む。
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摩耶夫人
 善覚長者の長女で浄飯王の后」となる。釈尊を産んで7日後に死亡している。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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波瑠璃王
 梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国(舎衛国。現在のウッタルプラデーシュ州北東部)の王。大唐西域記巻六等には「父王波斯匿が位についたとき、釈迦族の種姓が尊高なので、カピラバストゥ(迦毘羅衛城)に妃を求めた。舎衛国は大国であり、波斯匿王が暴悪なので、この要求に応じないわけにはいかず、釈迦族の美しい婢の娘を選んで結婚させた。波瑠璃がある日、迦毘羅衛城に行ったとき、釈尊を迎えるために造り、だれにも踏ませなかった大講堂にふみこんだので、釈迦族の人々は怒って、卑賤の婢が波瑠璃を生んだ事実を話して辱(はず)かしめた。波瑠璃は、即位後は必ず釈迦族を滅ぼすといい、後に父王を放逐し、国王となり、ただちに釈迦族を全滅させた」とある。しかし、その後七日目に、釈尊の予言どおりに焼死して地獄へ堕ちた。
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阿闍世王
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。訳して未生怨という。釈尊在世から滅後にいたるまでの中インド・マガダ国(摩竭陀国。現在のビハール州辺り)の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿経疏によると「父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ『山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろう』と予言した。王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ『男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう』と予言した。まもなく太子が生まれた。成長して提婆達多の弟子となる。しかして、提婆達多にそそのかされて父王を殺して王位につき、母を幽閉してしまった。このように、生まれずして王に怨みをもっていたために阿闍世すなわち未生怨といわれるのである」と。さらに、提婆を新仏にしようとして、酔象を放って釈尊を殺そうとした。のち、提婆は謗法の罪によって地獄へおち、阿闍世は全身に大悪瘡を生じ臨終に近づいたが、耆婆大臣の勧めにより釈尊に帰伏した。悪瘡は癒えて寿命を延ばし、仏滅後の経典の結集に力を尽くした。
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如来現在・猶多怨嫉
 法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
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況滅度後
 法師品の文。法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
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提婆が長三丈広一丈六尺の大石
 九横の大難のひとつ。提婆達多が耆闍崛山において釈尊をめがけて落したが崖石の破片が、足にあたり親指を破り出血したという事件。
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阿闍世王の酔象
 阿闍世は梵語。未生怨、法逆と訳す。頻婆沙羅王の子。仏在世及び滅後における摩訶陀国の王。ここにあるのは、釈迦の九横の大難の一つで、阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、仏弟子である父王を殺して王位につき、さらに釈尊を殺して提婆を新仏にしようとし、酔象を放ち仏を殺させようとしたことをいう。釈尊は城内に五百人の弟子を連れ、乞食行をしていた。阿闍世王は悪象に酒を飲ませ、鼻に利剣を結び付けて放った。酒に酔った悪象は、はるかに釈尊をみると耳をふるい、鼻を鳴らして走ってきた。阿難を除き、余の弟子はみな逃げ散った。阿難は早く遠ざかることを願ったが、逆に釈尊に「如来を信じないのか」とたしなめられ、慈心三昧に入り、神通力をもって如来の五指より五師子王を化作し、左右から酔象に飛びかからせた。また象のうしろに大きな火が燃えたぎる坑を作った。悪象は進むことも、退くこともできず、地にひざまずいてしまった。そして「汝よ竜を害することなかれ、竜の現わるるはなはだ難し、竜を害せざるによりて、なんじ善所に生まるるをえん」との仏の偈を聞き、象は自ら剣を解き、釈尊に向かってひざまずき、鼻を仏の足にすりつけたという。如来は金剛身であり、いかなる怨敵も仏身を害することはできないことに譬えたもの。涅槃経にある。
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提婆菩薩
 付法蔵の第十五。仏滅後七百五十年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
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師子尊者
 付法蔵の第二十四。師子または師子比丘ともいわれる。仏滅後千二百年前後に、中インドに生まれた。鶴勒夜那から法を受け、のちに罽賓国に遊化して衆生を化導し仏法を大いに宣揚した。この国の二人の外道がこれを嫉んで、相謀って乱を起こし、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ち、7日ののちに命が終わったという。師子尊者は、死身弘法の行者、付法蔵最後の伝灯者として、その名をとどめている。
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仏駄密多
 付法蔵の第九。仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は、大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその非を糺そうとして赤幡をかかげて王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者居士と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。
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竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後七百年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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馬鳴菩薩
 付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
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金銭三億がかわりとなり
 付法蔵伝五によると、馬鳴菩薩が中インド・摩竭陀(国華氏城に遊化していたとき、旃檀罽昵吒王が兵をおこして攻めてきた。王は志気盛んで勇名は天下に轟いていた。交戦の後、華氏王は破れ九億の金を求められた。そこで国王は、馬鳴と仏鉢と一つの慈心鶏をもって各三億にあて、罽昵吒王に奉献したところ、王は喜んで受け取り本国へ持ち帰ったという。馬鳴は王の保護のもと、おおいに仏法を弘めて民衆から尊敬された。
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如意論師はおもひじにに死す
 如意論師は、世親菩薩の師。大唐西域記には、「室羅伐悉底国の王は、私怨をいだき、論師をはずかしめようとし、他派の学者100人を集めて、論師と討論させた。99人が屈服したが、最後の1人は、王とともに強固に論師を辱しめた。論師は『党援の衆と大義を競うことなかれ、群迷の中に正論を弁ずることなかれ』と世親に遺誡し、みずから舌をかみ切って死んだ。世親はその遺誡を守って、新しい王の時に如意論師の名誉は回復され、改めて世親はその外道たちと論議し、これを打ち破った」と記されている。
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 この章からは、広く諸宗の謗法を呵責する。
 初めの問いは、華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の善無畏等々、各宗の開祖を仏敵なりときめつけたことに対する問難である。
 現在、日本の宗教界をみても、各派の開祖たちは、神のように、仏のように、大指導者のように、あがめられているけれども、ことごとくそれは仏法にそむくゆえに仏敵といわざるをえないのである。
 「戒行の持破・智慧の勝劣・身の上下はありとも」とは、一宗の開祖と現在の人師とを比較したものである。このような相違はあっても、同じことを学び同じ本尊を信じているならば、開祖の誤りはそのまま現在の人師の誤りであり、開祖の謗法は、そのまま現在も謗法をつづけていることになるのである。よって邪智、邪宗の破折には、まずその本源となっている開祖の邪義、邪智を責め、仏敵なるゆえんを明らかにしなければならない。
 「寧喪身命・不匿教者」とは、章安大師が涅槃経の次の文を解釈した文である。
 涅槃経菩薩品第十六にいわく「譬えば王の使、善能く談論し、方便に巧みにして命を他国に奉ず。寧ろ身命を喪うとも、終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり、凡夫の中に於て身命を惜しまず。要必ず大乗方等如来の祕蔵、一切衆生皆仏性有るを宣説す」と。
 現代においては折伏を行ずる創価学会員のみが、この諌暁を遵守するものである。
むべなるかなや、法華経の文に等
 この御文からは、広く難に値うことをもって法華の行者を顕わすのである。
 法華経の法師品第十には「如来の現在すら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」との予言がある。また安楽行品第十四にも「一切世間怨多くして信じ難し」とある。
 この予言によれば、仏の滅後において、仏説の如く法華経を弘めるならば、必ず大難が競い起こるのである。いかなる大難が競い起こるとも、身命を惜しまず謗法を呵責し、能く大難を忍んで法華の行者と顕れることによって、父母師匠等の大恩を報ずることができるのである。
 本文に「釈迦仏を摩耶夫人はらませ給い」からは、釈尊在世の七つの難を明かしている
   一、母胎に毒をすすめ
   二、初生の時に石をふらし
   三、乳中に毒をまじえ
   四、城を出る時、毒蛇が道をふさぎ
   五、提婆が大石を投げ
   六、破瑠璃王が無量の釈子を殺し
   七、阿闍世王の酔象で無量の弟子が死んだ
 さて以上の七難を「遠き難」となされ、「近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等」と示されている。
 なぜ舎利弗等が大難をなしたかについて、日寛上人は文段に「記八の意に云く迹門は二乗鈍根菩薩を以て怨嫉となす。本門の中には菩薩の中に近成を楽(ねが)う者を以て怨嫉となす」とおおせである。
 しかし、いくら釈尊が大難を受けたからといって、釈尊自身が「況んや滅度の後をや」と予言し「我が在世の難は大したことはないが、滅後においてはもっともっと大難を受けるであろう」といっているのである。
況滅度後と申して未来の世には等
 その予言のとおり、世間の失は少しもない人が、法華経のために、たびたび大難に値うのをみて、法華経の行者を知ることができるのである。付法蔵の人々は、仏の滅後において、仏の使いとして一切衆生を救われたのである。にもかかわらず、提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられた。
 仏陀密多は十二年の間、竜樹菩薩は七年間、赤旗をかついで王宮の前に立ち、正法を叫び邪教を破折していた。
 赤旗の由来を、さらにくわしくのべてみよう。
 釈尊の滅後、付法蔵第九の仏陀密多ならびに付法蔵第十四の竜樹菩薩は、共に赤旗を立てて、それぞれの国の大王を諌暁し、ついに正法正義による主張を通した。いわゆる赤旗の真実の意味は、仏教における折伏の旗印なのである。
 仏陀密多の赤旗の故事について、付法蔵経によって、のべてみよう。
 仏陀密多は、付法蔵第九として、仏陀難提から法を相承した。その時の国王は才能高く勇猛で多聞博識であった。しかし残念にも、国王は異学を学びバラモンの邪見を信じ、仏法僧をつねに軽べつしていた。
 仏陀密多は、いかにしてか、その国の民衆を救済せんと願った。しかし、その国の現状をみると、国王がはなはだ大邪見である。ゆえに、王に主権のある国のこととて、まず国王を折伏すれば、樹の幹が傾いて初めて枝葉や花茎が倒れざるをえないように、一般の民衆も正法に従うようになるであろうと決意した。
 仏陀密多は、普通の手段では事が進まぬことを知り、ついに12年にわたって、みずから赤旗をかかげて国王の前を行ききした。長い時がすぎても国王は問わなかった。しかし、12年目になって、国王は怪しんで、「これはいかなる人か」と仏陀密多を召して問いただした。
 仏陀密多は答えていわく「大王よ、我は智人である。まことによく正法を論ずる。王の前で一たびは試みられよ」と。
 大王は国中に令を発して、「あらゆるバラモンの学者、長者、居士の中で聡明博達でよく議論するもの、ことごとく我が正勝殿上に集まり、ひとりの仏法の僧と論議せよ」と。
 ここに、いっさいの邪見の外道の中で、弁舌にたけ智慧すぐれ、天文地理すべてを知るものが、心に忿毒を含み、雲のごとく競い集まった。いよいよ正殿の上に、おごそかに供具をととのえ、焼香散華して荘厳明浄にして、仏陀密多は法座に昇り、多くの外道と法論を開始した。
 浅はかな智慧のものは、一言で屈服した。聡明で弁才あるものすら、二言目には、ことばに詰まった。国王は仏陀密多によって、外道がすべて理きわまり尽きたのをみて、王みずから仏陀密多と議論した。
 しかし王は初めに一言いったのみで破折された。仏陀密多は、王と論じて大勝利の姿を明らかにしてはならないと考え、王に対して「この義は深遠であるが、あなたは聡明な王なるがゆえに、よく解了されるであろう」と花をもたせた。
 王はみずから及ばざるを知り、また仏陀密多の思いやりを感じて、たちまちに邪心を改め、正法を敬信し、仏弟子となり、みずからの国土に広く仏教を弘めるようになったという。
 次に竜樹菩薩の赤旗の故事についてのべよう。
 時の南天竺の王は、はなはだ邪見で、外道に師事し、正法を毀謗していた。
 竜樹菩薩は彼の王を化導するために、みずから大きな赤旗をかついで、王の前を、七年間、通ったという。王は初めて怪しみ問うた。「汝は、これ、いかなる人ぞ。いかにしてわが前を赤旗をかかげて通るのか」と。竜樹菩薩は答えて「われは一切智人である。これを知ろうとなさるなら、どんなことでも尋ねてごらんなさい」と。
 王は、しばらく、ためらった後に「諸天は今、何をしているか」と問うた。竜樹は「諸天は今正に阿修羅と戦えり」と答え、空中より刀剣や修羅の耳鼻を落とす奇瑞をあらわしてみせた。王は驚き悟って、竜樹を恭敬尊重して仏法に帰依した。同じく殿上の多くのバラモンも、王に続いて発心し髪をそって出家した。
 時に、多くの外道が、このことを聞いて、ことごとくきたり、雲と集まり、怒りを含み、嫉妬をいだき、竜樹と法論を望んだ。竜樹は一言二言にしてすべての外道を論破した。ついに外道はすべて降伏し竜樹の弟子となる。かくして竜樹菩薩は、国中に広く大乗仏法を流布して、民衆を救い切ったのであった。
 さらに馬鳴菩薩、如意論師のことは本文のとおりである。
 しかるに、これらの大難は、果たして釈尊以上の大難であるかどうか。じつに釈尊以上の大難を受けた者は、正法千年、像法千年の間には一人もなかったのである。
 「況滅度後」の文には通別があり、通じていえば正像末の三時に大難があるが、別していえば末法に限るのである。
 聖人御難事にいわく「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189-15)。
 こうして日蓮大聖人が、釈尊以上の大難を受け、ただ一人「況滅度後」の予言の正しいことを証明なされたということは、じつに大聖人が末法の御本仏であらせられることを、現証をもって示されたお姿である。
 開目抄にいわく「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と。
 「馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり如意論師はおもひじにに死す、此れ等は正法・一千年の内なり」
 このように、況滅度後の中でも、比較的難の少なかった正法時代においてさえ正法弘通のためには、如意論師をはじめ、馬鳴菩薩、師子尊者が身命を捨てているのである。日蓮大聖人御在世中においても、熱原の三烈士、工藤吉隆、鏡忍房等が死身弘法の姿を示している。
 しかして、日蓮大聖人の御滅後においても、長い間、法難の歴史が続いたのである。江戸時代に起きた各地の法難をはじめ、近くはわが創価学会が初代会長の時代に、弾圧を受け、幹部21人が投獄され、初代会長は獄死するにいたるほどの大法難を受けた。
 これみな「況滅度後」の予言どおりである。第二代戸田会長の時代からは、ようやく広宣流布の時のいたれるか、太平洋戦争の敗戦亡国を機に、創価学会の折伏の手は全世界に伸び、恩師戸田会長の七回忌を迎える今日では、すでに四百数十万世帯と発展してきたのである。われらは、いま、順縁広布の時に恵まれているとはいえ、日興上人の御遺戒置文「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」の一条を、肝に命じて信心に励むべきであろう。

0298:02~0299:09 第八章 漢土天台大師の弘通top

02                  像法に入つて五百年・仏滅後・一千五百年と申せし時漢土に一人の智人あり始
03 は智顗・後には智者大師とがうす、 法華経の義をありのままに 弘通せんと思い給しに 天台已前の百千万の智者
04 しなじなに一代を判ぜしかども詮して十流となりぬ 所謂南三北七なり十流ありしかども一流をもて最とせり、 所
05 謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり、 此の人は一代の仏教を五にわかつ 其の五の中に三経をえらびい
06 だす、所謂華厳経・涅槃経・法華経なり一切経の中には華厳経第一・大王のごとし涅槃経第二・摂政関白のごとし第
07 三法華経は公卿等のごとし此れより已下は万民のごとし、 此の人は本より智慧かしこき上慧観・慧厳・僧柔・慧次
08 なんど申せし大智者より習ひ伝え給るのみならず 南北の諸師の義をせめやぶり山林にまじわりて法華経・涅槃経・
09 華厳経の功をつもりし上梁の武帝召し出して内裏の内に寺を立て光宅寺となづけて 此の法師をあがめ給う、 法華
10 経をかうぜしかば天より花ふること在世のごとし、 天鑒五年に大旱魃ありしかば 此の法雲法師を請じ奉りて法華
11 経を講ぜさせまいらせしに 薬草喩品の其雨普等・四方倶下と申す二句を講ぜさせ給いし時・天より甘雨下たりしか
12 ば天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて 諸天の帝釈につかえ万民の国王ををそるるがごとく 我とつかへ
13 給いし上或人夢く 此人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり、 法華経の疏四巻あり此の疏に云く「此
14 経未だ碩然ならず」亦云く「異の方便」等云云、正く法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候、此の人の御
15 義・仏意に相ひ叶ひ給いければこそ 天より花も下り雨もふり候けらめ、 かかるいみじき事にて候しかば漢土の人
16 人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあるなれと思いし上新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて
17 大体一同の義にて候しに法雲法師・御死去ありていくばくならざるに 梁の末・陳の始に智顗法師と申す小僧出来せ
18 り、 南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども 師の義も不審にありけるかのゆへに一切経蔵に入つて度度御らん
0299
01 ありしに華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし此の三経の中に殊に華厳経を講じ給いき、 別して礼文を造り
02 て日日に功をなし給いしかば世間の人おもわく 此人も華厳経を第一とおぼすかと見えしほど に法雲法師が一切経
03 の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが あまりに不審なりける故に・ことに華厳経を御らんありけるな
04 り、かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給いて なげき給うやうは如来の聖教は漢土に
05 わたれども人を利益することなしかへりて一切衆生を悪道に導びくこと人師のあやまりによれり、例せば国の長とあ
06 る人・東を西といゐ天を地といゐいだしぬれば万民は・かくのごとくに心うべし、後にいやしき者出来して汝等が西
07 は東・汝等が天は地なりといはば・もちうることなき上我が長の心に叶わんがために 今の人を・のりうちなんどす
08 べしいかんがせんとは・おぼせしかども・さてもだすべきにあらねば 光宅寺の法雲法師は謗法によつて地獄に堕ち
09 ぬとののしられ給う、 其の時・南北の諸師はちのごとく蜂起しからすのごとく烏合せり、
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 像法時代にはいって五百年、仏滅後一千五百年の時に、漢土にひとりの智人があった。初めは智顗、後に天台智者大師と号した。法華の実義をありのままに弘通しようと思い種々それ以前の人々の説を調べた。それによれば、天台大師以前の智者といわれる百千万人の人々が、種々に釈尊の一代仏教を研究して、それぞれ教判を立てたが、おもなものは十流であった。それは南の三派、北の七派の十流であったけれども、所詮はその中の一派のみがもっとも勢力があった。それはいわゆる南の三派中の第三、光宅寺の法雲の教判である。
 この光宅寺法雲は、一代の仏教を五時に分けた。五時の教えの中で、三経を選び出した。すなわち、華厳経・涅槃経・法華経である。光宅法雲は、その三経について、勝劣浅深を説き、「一切経の中では華厳経が第一であって、大王のごとく、涅槃経は第二であって摂政関白のごとく、第三の法華経は公卿等のごときものである。この三経より以下の経々は、万民のごときものである」とした。
 そもそも光宅法雲は、生来智慧が勝れているうえに、仏法のことは慧観・慧厳・僧柔・慧次という大学匠から学んでよく解していた。しかも南北の諸師の義を論破するのみでなく、静かに山林に交わって、法華経・涅槃経・華厳経の研究をつくした。梁の武帝は、光宅法雲の名声を聞いて、召し出して法を聞き、内裏のなかに寺を建て、光宅寺と名づけて住せしめ、一方ならず法雲をあがめた。法華経を説法すれば天から花のふること、釈尊在世の説法のごとくであったという。また天鑒5年に大旱魃のあった時、この法雲法師に請うて祈雨せしめた。その時、法華経を講じたが、薬草喩品の「其の雨は普ねく等しくして 四方に倶に下り」の文を講じた時、干天より甘雨が沛然と降ってきた。天子は御感のあまり法雲を僧正に任じ、以来諸天が帝釈につかえるごとく、万民が国王を畏れるごとく、みずから供養しつかえたという。またある人の夢に、「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという。
 また法雲は、法華経の疏を4巻作った。この疏の中には「この法華経はまだ碩然せぬ」とか「異の方便である」等といっている。これは法華経がいまだ仏の法理を究めつくしたものでないとのことである。
 こうしたことも、この人の義意が仏意に相いかなったればこそ、天から花も降り、また雨も降ったのであろう。このようなすばらしい奇瑞があったのであるから、中国の人々は、「さては法華経は、華厳経や涅槃経に劣る教なのであろう」と思ったのである。その上、中国の祖師たちがこうであるから、新羅、百済、高麗等の朝鮮や日本まで、この光宅法雲の疏が弘まっていた。法雲法師が死去して間もなく、梁の末、陳の始めに、智顗法師すなわち天台大師が出現したのである。
 天台大師は南岳大師と申す人の弟子であったが、師匠・南岳大師の義も不審であると思われたかのゆえに、一切経蔵の中にはいってたびたび一切経を研究していた。そして、一切経の中にも、華厳経、涅槃経、法華経の三経をもっとも大事な経として選び出し、この三経の中でも、ことに華厳経の講義に力を入れられた。別して華厳経の礼文を作って、日夜、華厳経に力を入れたので、そのために、世間の人々は、「この天台大師も華厳経を第一と立てるのか」と思っていたのである。しかし天台大師の考えはそうではなかった。すなわち法雲法師が「一切経の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三」と立てたのが、あまりに不審であったので、それを確認するために、華厳経を、とくに、くわしく研究されたのである。
 かくして、あらゆる研鑽のすえに、天台大師は、「一切経の中には、法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三」と決定されたのである。しかして天台大師は、さらに嘆いていうのには、「釈迦如来の聖教は多く中国にわたってきたけれども、少しも人々を利益することがない。かえって一切衆生を悪道に導くことになった。これは、ひとえに、仏経を解釈した人師たちの誤りによるものである」と。
 たとえば一国の指導者が、東を西といい、天を地というならば、万人はみな、それに従うであろう。それより後に身分の賤しいものが出現して、「汝らの信ずる西は、実は東であり、天は地なのである」といっても、世の人々は、それを用いることがないばかりでなく、指導者の心に迎合するために、そのものを罵詈し打擲するであろう。
 天台大師は、そこで、どうしようかと思案されたが、絶対に黙っているべきではないと決意されて、「光宅寺の法雲法師は、謗法の科によって、地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時は、南北の諸師は、あたかもハチの巣をつついたごとく騒然となり、烏の群れがつどうがごとく集まって、天台大師を攻撃した。

智顗
 (0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。天台大師、智者大師ともいう。智顗は諱。字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
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南三北七
 中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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光宅寺の法雲法師
 (0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。七歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園における法華経の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じたという。普通6年(0525)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
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慧観
 中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は崔氏。清河の人。
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慧厳
 (0363~0 443)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は范氏。豫州の人。
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僧柔
 (0431~0494)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。禅・律を学び方等諸教に通じていた。
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慧次
 (0434~0490)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は尹氏。
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梁の武帝
 中国南北朝時代の梁の帝王。仏法の帰依が厚かった。その願いは提婆達多は地獄におちても最後は成仏したが、欝頭羅弗は天界に生じたが、のちに仏法にそむきて地獄におちた。だから、自分は提婆となって地獄へおちても、欝頭羅弗となることあしない、ということだった。
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薬草喩品の其雨普等・四方倶下
 薬草喩品の「其の雨普ねく等しくして、四方倶に下り、流樹すること無量にして、率土充洽す」とある。文句には、これを注雨の譬えとして「八音四辯をもって法の雨を宣べ注ぐ、四方俱に下り、一時に俱に聞く、また、四等とは、根・茎・枝・葉・信・戒・定・慧をいうなり、およそ心あるものは、みな利潤をこうむる、ゆえに率土克治というなり」とある。
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灯明仏
 日月燈明仏の略称。法華経序品第一の最初に、八万の大菩薩や、万二千の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まったところ、天より曼陀羅華が降り、地は六種に震動し、仏は眉間の白亳より光を発ち、万八千の世界を照らした。大衆は不思議に思い、弥勒菩薩が代表して文殊師利菩薩にこの瑞の訳を問いた。すると文殊が答えるには、「過去世に日月燈明仏がおられた。声聞に四諦の法を、縁覚に十二因縁を、菩薩に六波羅蜜の教えをそれぞれ説いて、菩提を成ぜしめた。さらにその次の仏、そして次の仏と、二万の仏が生じ、それがみな同一の仏号をもって出世した。その最後の日月燈明仏がまだ出家していないとき、八人の王子があり、みな父に従って出家した。そのとき、日月灯明仏は無量義経を説き、無量義処三昧に入った。その後、皆が今見ているところの瑞相を現じてのち、800の弟子の上首である妙光菩薩によせて、法華経を説いた。その時の妙光菩薩とは、誰あろう我(文殊)である。日月灯明仏は法華経を説き終わって、涅槃にはいった。それがあたかも、いまの釈迦仏のようであった」と、無量義処三昧から法華経開説までの因縁を明かしたのである。
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法華経の疏四巻
 法雲法師が著わしたものに「法華義記」八巻があり、次下の文にある「……日本まで此の疏ひろまりて……」とあるのは、わが国の聖徳太子が、この義記を用いて法華義疏をあらわした。しかし、義記には「此の疏に云く『此経未だ碩然ならず』亦云く『異の方便』」の文の内容は見当たらない。
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新羅
 朝鮮半島における最初の統一王朝(前0057~0939)。百済・高句麗とともに三韓の一つ。紀元前0057年頃に辰韓の統一をはかり、朴赫居世が建国、以後7世紀頃まで、高句麗・百済と抗争しつつ並立した。
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百済
 百済国のこと。古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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高麗
 朝鮮三韓のひとつ。(0918~1392)開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗とした。0935に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の属国となり文永の役には蒙古軍の先導をつとめた。1392年に滅びた。
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梁の末・陳の始
 天台大師(0538~0597)存命の時代。0557年、梁は陳に滅ぼされている。
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南岳大師
 (0515~0577)。中国南北朝時代末期の僧。名は慧思。北斉の慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華・般若心経を講じる。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。日本では南嶽慧思後身説、すなわち聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変わりであるとする説が生じた。
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礼文
 章安大師(灌頂)が編さんした「国清百録」四巻のなかに、天台大師の「敬礼法」が出ている。それには、日々夜々、盧舎那仏および三世十方の諸仏を礼拝することを示している。
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 前章においては釈尊の在世および正法一千年の時代に、仏法を弘通し、なかんずく法華経弘通のゆえに、大難にあわれたことを明かしたのであるが、本章は漢土における天台大師の法華経広宣流布と、迫害に遭われたことを明かしている。
所謂南三北七なり
 南三北七の十派については、撰時抄にある。なお、天台の玄義第十に詳論されている。南三とは三時・四時・五時である。これらの諸派は、いずれも頓・漸・不定の三教を立てる。頓とは華厳であり、漸とは鹿苑から涅槃経まで、不定とは勝曼経・金光明経等である。
そのうち漸教に三師の異議がある。
   一に三時教とは、一に有相教で阿含、二に無相教で般若、方等、法華、三に常住教で涅槃経である。
   二に四時教とは、三時教のうち、無相教の中から法華を開出して万善同帰教と名づけている。
   三に五時教とは、四時教のうち、無相教の中から浄名等の方等経を開出して、抑揚教となしている。
 次に北七とは、五時、半満、四宗、五宗、六宗、二宗の大乗、一音である。
   一に五時とは、提謂波利を取って人天教となし、浄名般若を合して無相教となす。その余の三は南方と同じである。
   二に半満とは、阿含を半字教とし、その余を満字教とする。
   三に四宗とは、一に因縁宗、二に仮名宗、三に誑相宗、四に常宗である。
   四に五宗とは、四宗のほかに華厳を法界となす。
   五に六宗とは、法華を真宗と名づけ、大集経を円宗と名づけ、その余の四宗は右に同じとした。
   六に二宗の大乗とは、一には有相の大乗で華厳・瓔珞・大品等であり、二には無相の大乗で楞伽・思益。
   七に一音教とは、但一仏乗のみあって二無く亦三無しであると。
 さてこのように十派に分かれたとはいえ、その中でもっとも有力な一派は光宅寺の法雲である。法雲は南三の中の第三であり、華厳経第一と立てたさまは、本文にお示しである。玄義には「古今の諸釈世々光宅を以て長と為す。今光宅を難ず、余は風を望むのみ」と。
 本抄においては「法雲法師は謗法によって地獄に堕ちぬとののしられ給う」とお示しのごとく、天台大師は十派を強折なされたのである。しかして南北の諸師がハチのごとくカラスのごとく競い集まって、天台大師に迫害を加えたのである。これは正法の流布する時に必ず起こる定則である。
 釈尊が九十五派のバラモン哲学を破して九横の大難にあわれたことは、すでに述べられたとおりである。わが国の伝教大師は、また、南都六宗を強折なされ、法華迹門の戒壇を比叡山に建立あそばされたことは、次章以下にある。また日蓮大聖人が「況滅度後」の大難にあわれ、末法の御本仏として一切衆生をお救いになることも諸御抄に明らかなとおりである。
像法時代の仏教史観
 正像末三時の仏教史観については、各経に正法一千年、像法一千年、末法一万年説、あるいは正法五百年、像法千年説、あるいは正法千年、像法五百年説があるが、仏法の正統家では、天台大師、伝教大師、そして日蓮大聖人は、いずれも正法一千年、像法一千年、末法一万年のほか尽未来際までという説を用いているのである。
 また五箇五百歳とは、大集経に正像末三時を五百年ずつ五箇に区分している。即ち第一の五百歳は解脱堅固、第二の五百歳は禅定堅固、これは正法一千年である。次に第三の五百歳は読誦多聞堅固、第四の五百歳は多造塔寺堅固、これは像法一千年である。堅固とは盛の意味である。さらに第五の五百歳は闘諍言訟、白法隠没の末法にはいるのである。
 正法一千年は、インドにおいて第一の五百歳は小乗教、第二の五百歳は権大乗教が弘まった。像法時代の初め第三の五百歳には、中国に法華経迹門が弘まり、第四の五百歳には日本に同じく法華経迹門が流布したのである。末法には白法隠没し、釈尊の仏法はすべて功力を失い、いよいよ三大秘法の南無妙法蓮華経が広宣流布するのである。
 ここで像法時代における中国の仏法史観を若干のべてみたい。像法の像とは似るという意で、仏法が形式的に流れ、内容が失われつつある時代である。
 中国に仏法が三宝具足して伝わったのは、釈尊滅後一千十五年すなわち像法にはいって15年目(0617)後漢の明帝、永平10年、迦葉摩謄、竺法蘭の二僧が、白馬に仏像経巻を乗せて洛陽に到着した時である。
 その後、経典の翻訳は着々と進み、鳩摩羅什(旧訳)、玄奘(新訳)にいたって最高潮に達した。また中国人は非常に理論的哲学的で、経文の体系化に得意の手腕をふるった。また教判においても南三北七の十流が生じた。教判とは教相判釈のことで、多くの経典を分類し、その中から最も秀れた経典を選出することである。しかし、ここで五時八教、三種教相等という最高の教判を示して十流を統一したのは、彼の天台大師であった。天台大師は法華経こそ釈尊出世の本懐の経典なるを明かし、理の一念三千、三諦円融等の法門を説き、三大部の中でも摩訶止観は像法の法華経と呼ばれるものである。
 かくて天台大師によって、第三の読誦多聞堅固の時代は完成されたのである。天台大師が摩訶止観を完成したのは釈尊滅後1540年(0594)であった。このように、像法の初めに、中国に、法華経迹門が、釈尊の予言どおりに流布したということは、まことに驚くべきことといわねばならない。
 次に天台大師出現の社会的背景を眺めてみよう。後漢の末期、漢の帝室は衰え、魏・蜀・呉の三国時代に入り、有名な曹操、劉備、孫権等が諸葛孔明らと共に活躍する。その後、魏の司馬懿が権力を握り、その子昭を経て司馬炎にいたって国号を晋と称し、遂に三国を統一した。晋はわずか20余年で分裂し、その後、西記0317年、南渡して、四世紀には中国は南北の二大勢力に分裂し政変が相次いで起こった。
 すなわち江北では五胡十六国から北魏、北斉、北周の諸王朝が交代して北朝となり、江南においては、呉、東晋、栄、斉、梁、陳の六朝時代を築く。天台大師は、この陳の代に出現し、陳の後主にまねかれ金陵の光宅寺で法華文句を説いた。やがて随の天下統一後は煬帝に菩薩戒をさずけ、煬帝は天台に智者大師の号をおくった。のち荊州当陽の玉泉山において法華玄義、摩訶止観を説いて出世の本懐を遂げた。天台大師の出現した六朝時代の末、陳の代は、仏寺の建築や彫刻絵画など仏教芸術が大いに隆盛した時代であり、また教学の研究も非常に盛んであった。かくして天台宗の流布によって、隋唐時代の花やかな文化が築かれたのである。
 以上のべたごとく、時代に応じ、国土に合った正法が、人を得て必ず興隆するという姿を、像法時代の中国においても、明白に示したのである。潮の干満のように、春夏秋冬の変化のように、日月の運行のように、末法の正法も必ずや全世界に流布することは、歴史的必然であるという以外にはない。

0299:09~0300:17 第九章 天台大師の公場対決top

09                                          智顗法師をば頭をわるべ
10 きか国ををうべきかなんど申せし程に 陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて 我と列座してきかせ給
11 いき、法雲法師が弟子等の慧栄.法歳・慧曠.慧ゴウなんど申せし僧正・僧都.已上の人人.百余人なり各各・悪口を先
12 とし眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたく、而れども智顗法師は末座に坐して色を変ぜず言をアヤマらず威儀
13 しづかにして 諸僧の言を一一に牒をとり言ごとに・せめかえす、 をしかへして難じて云く抑も法雲法師の御義に
14 第一華厳・第二涅槃・第三法華と立させ給いける証文は何れの経ぞ 慥かに明かなる証文を出ださせ給えとせめしか
15 ば各各頭をうつぶせ色を失いて一言の返事なし。
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 南三北七の邪師たちは、天台法師(智顗法師)の破折に憤り「智顗法師を殺せ」あるいは「智顗法師を流罪にせよ」とののしった。そのことを聞いた陳の国主は彼ら南三北七の数人と天台大師を公場対決させ、みずから君臨して、両者の主張を聞いたのである。そのとき、法雲法師の弟子の慧栄・法歳・慧曠・慧恆等の僧正・僧都以上の人々百余人が集まった。彼らはおのおの、ただ天台大師の悪口をいい、眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたき、罵り騒ぐだけであった。  
 しかし、天台大師は、当時無官であったため末座に坐ったまま顔色も変えず、言葉も静かに、威儀を正して彼らの一々を取っては、みごとに、これを責め返し押し返したのである。そして逆に彼らを難じていうのに「法雲法師の義に、第一は華厳、第二は涅槃、第三は法華と立てられたのは、いかなる経文によるのか。たしかに明らかな文証を示せ」と責められたので、おのおの頭をたれ、顔色を失って、一言の返答もできなかったのである。
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16   重ねてせめて云く無量義経に正しく次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空等云云、仏我と華厳経の名をよびあ
17 げて無量義経に対して 未顕真実と打ち消し給う法華経に劣りて候・無量義経に 華厳経はせめられて候ぬいかに心
18 えさせ給いて華厳経をば 一代第一とは候けるぞ各各・御師の御かたうどせんとをぼさば 此の経文をやぶりて此れ
0300
01 に勝れたる経文を取り出だして御師の御義を助け給えとせめたり。
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 天台大師は重ねて責めていわく「無量義経には、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く等とある。仏みずから華厳経の名をあげられて、無量義経に対して未顕真実と打ち消したのである。法華経より劣るところの無量義経にすら、華厳経は責められているのである。法雲法師は、これをどのように思って、華厳経をば一代経中第一だなどといったのであろうか。おのおのも、また師匠たる法雲法師の味方をしようとするならば、この無量義経の文を破るところの勝れた経文を示して、彼の師の義を助けるべきである」と責められた。
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02   又涅槃経を法華経に勝るると候けるは.いかなる経文ぞ涅槃経の第十四には華厳.阿含・方等・般若をあげて涅槃
03 経に対して勝劣は説れて候へども まつたく法華経と涅槃経との勝劣はみへず、 次上の第九の巻に法華経と涅槃経
04 との勝劣分明なり、 所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・ 記を受くることを得て大菓
05 実を成ずるが如き秋収冬蔵して 更に所作無きが如し」等云云、 経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華
06 経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始クン拾の位と
07 定め給いぬ、 此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ、法華経の文には已説・今説・当説と申して此の
08 法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず 後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う、 すでに教主釈尊かく
09 定め給いぬれば疑うべきにあらねども 我が滅後はいかんかと疑いおぼして 東方・宝浄世界の多宝仏を証人に立て
10 給いしかば多宝仏・大地よりをどり出でて妙法華経・皆是真実と証し十方分身の諸仏 重ねてあつまらせ給い広長舌
11 を大梵天に付け又教主釈尊も付け給う、 然して後・多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各各本土にかへらせ給い
12 て後多宝分身の仏もおはせざらんに 教主釈尊・涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば 御弟子等は信ぜさせ給
13 うべしやとせめしかば 日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく 漢王の剣の諸侯の頚にかかりしがごとく両眼を
14 とぢ一頭を低れたり、 天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり、
15 かくのごとくありしかば・さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと 震旦一国に流布するのみならず
16 かへりて五天竺までも聞へ月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず 教主釈尊・両度出現しましますか仏教二
17 度あらはれぬとほめられ給いしなり。
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 また「涅槃経が法華経より勝れるという経文は、どこにあるのか。涅槃経第十四には、華厳・阿含・方等・般若経等をあげて、涅槃経に対して勝劣は説いているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見えない。ところが、涅槃経のその前の第九の巻には法華経と涅槃経の勝劣が明らかに示されている。すなわちこの涅槃経の文には『是の涅槃経が世に出ずるのは乃至法華経の中で八千の声聞が記別をうけることができたのは、大果実を実らせる秋収冬蔵の大果実の位、涅槃経はその後の秋の末、冬の初めの捃拾の位、すなわち落ち穂拾いの位である』と定めているのである。
 ゆえに、この経文は、明らかに涅槃経みずから法華経に劣ると頭を下げているのである。法華経の文には已説・今説・当説とあって、この法華経は、法華以前の経や、法華経にならぶように見える無量義経等に勝れるだけではなくして、後に説かれる経々にも勝れると仏は説き定められた。すでに教主釈尊が、かく定められた上は、なんら疑うべき余地はないけれども、仏は滅後のことを心配されて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人と定められたので、多宝如来は大地から躍り出て、『妙法華経は皆是れ真実である』と証明した。またその上に十方の分身の諸仏も集まってきて、広く長い舌を大梵天につけ、法華経に誤りなきを証明し、また教主釈尊も同じく広長舌を大梵天につけて法華経真実を宣言した。そうして後、多宝如来は宝浄世界に帰り、十方の分身の諸仏もおのおのの本土に帰られてしまい、多宝仏も十方分身の諸仏も、だれもいないところで、教主釈尊ひとり涅槃経を説いて、涅槃経は法華経にすぐれるとおおせられても、御弟子たちは、これを信ずるだろうか」
 かくのごとく天台大師は南三北七の諸師を責められので、法雲の弟子たちは、日月の大光明が修羅の眼を照らすがごとく射すくめられ、また、漢の高祖の剣が、諸侯の首を切らんとかかったごとく両眼を閉じ、頭をたれて聞き入った、その時の天台大師の威容こそは、あたかも師子王が狐や兎の前でほえるがごとく、鷹や鷲が鳩や雉を捕えようとするのに似ていた。
 このことがあって、初めて世間の人々は、さては法華経が華厳経や涅槃経より勝れているのだということを知って、中国全土に流布したのみでなく、かえってインドにまで流伝したのである。ためにインドの大小の論師たちも、中国の天台智者大師の義には勝てず、教主釈尊が二度出現されたのか、はたまた仏教がふたたびあらわれたのかと賛嘆したのである。

陳主
 (0553~0604)。陳の第五代皇帝、後主のこと。諱は叔宝。第四代宣帝の子。0528年、30歳で即位した。この時、陳の国力は傾いており、施文慶らの重用によって滅亡を早めた。天台大師を帝師として崇めていた。
―――
慧曠(
 (0534~0623)。中国・南北朝から隋代にかけての僧。天台大師に律蔵と大乗を教えた律師でもある。しかし、南三北七の諸師と共に、天台大師にその謬義を論破されている。
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慧恆
 (0515~0589)。中国・南北朝時代の僧。陳の永定3年(0559)には白馬寺で涅槃経・成実論を講じている。至徳4年(0586)には大僧正となった。至徳3年(0585)勅によって天台大師と法論して敗れた。
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方等十二部経
 方等部の経々。大乗教の一切を意味する場合もある。
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摩訶般若
 摩訶般若波羅蜜経のこと。「大品般若経」ともいう。27巻からなり、羅什の訳。
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華厳海空
 華厳経の法門。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るごとく、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの三昧をえると、一切衆生の心行を己心に映すことができるようになるとされる。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす言である。ここでは華厳経そのものを指した語。
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華厳海空
 華厳経の法門。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るごとく、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの三昧をえると、一切衆生の心行を己心に映すことができるようになるとされる。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす言である。ここでは華厳経そのものを指した語。
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涅槃経の第十四
 涅槃経に「善男子、仏もまたかくのごとし、仏より十二部経出で、十二部経より修多羅出で、修多羅より方等経出で、方等経より般若波羅蜜出で、般若波羅蜜より大涅槃出ず、なお醍醐のごとし」とある。これは五つの勝劣を説かれているのである。
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捃拾
 大果実の位である法華経で大収穫したのちに説かれた涅槃経をさして「捃拾」という。
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宝浄世界
 多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
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日月の大光明の修羅の眼を照らす
 正法念処経にある。羅睺阿修羅王は、大海地下二万一千由旬の光明城に住む。王の身体は須弥山の如く大きい。この王が大憍慢を生じて、天女を見ようと大空に上ったが、日光が目を障えるので、右手で日光をさえぎり、諸天の遊戯するのを見て嫉妬したという。これがいわゆる日蝕である。また、月宝殿にいたっては、手で月光を障えたといい、いわゆる月蝕である。
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漢王の剣
 漢王とは、漢の高祖劉邦(前0206~0195)のこと。沛に兵をあげ、諸候とともに秦をうち、沛公と称した。関中を占領した後、漢王に封ぜられた。後、天下を統一し、漢と号し、帝と名乗って6年間王位についた。後漢書には「漢高三尺の剣座諸侯を制す」とある。
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震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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仏教二度あらはれぬ
 仏在世と天台大師の時をいう。
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 この章は前に引きつづき、天台大師の弘通のうち、陳殿における対論であり、公場対決である。
 報恩抄には、天台大師については「陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて我と列座してきかせ給いき」とある。また伝教大師については「延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人……を召し合わす」とお述べになっている。このように仏法の正邪を、時の君主が自ら明らかにすることが、きわめて重大なことである。
 そのゆえは立正安国論に「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」(0026-16)と。また「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」(0027-02)と。
 正法を立てれば国は安んじ、邪法は国を乱し国を滅すのである。ゆえに時の主権者が、法の邪正を明らかにすることは、政治のもっとも肝要とするところである。
 日蓮大聖人は文応元年に立正安国論をもって幕府を諌め、文永五年には十一通の御状をもって国を諌められた。しかして、文永八年には行敏なる者が、四箇の格言を難じ、問答対決を迫ったが、次のようにお答えになっている。聖人御返事にいわく「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随って是非を糾明せらる可く候か」(0179-01)と。
 また建治元年には、強仁が同じように問答を迫ってきたが、これに対して、強仁状御返事にいわく「田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長松・匠を知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糾明せば上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか」(0184-02)と。
 要するに私的な問答は喧嘩のもとになったりするから、仏法の正邪を論ずる問答は、公場において決すべきである。行敏にしても、強仁にしても、日蓮大聖人との問答を希望するなら、幕府と朝廷に訴えて、公式の場を作って対論せよとの御意である。
 天台大師時代の陳主のように、伝教大師時代の桓武天皇のように、双方を召し合わせて、国主がみずからこれを裁くことによって、正法が広宣流布して、天下太平となったのである。
 日蓮大聖人の御在世時代には、公場対決を迫られる大聖人に対して、幾分か公場対決の行なわれそうな風聞の生じたこともあった。諸人御返事にいわく「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん、在家は左右の臣下に列ならん」(1284-02)と。
 日蓮大聖人は公場対決さえ行なわれるならば、「日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか」(1284-01)とおおせられ、広宣流布は絶対に疑いないと断ぜられているのである。しかるに大聖人の国家諌暁にもかかわらず、公場対決もなければ、かえって迫害弾圧を加えられ、数々見擯出の大難にあわれたのである。
 日蓮大聖人の御入滅後においても、幕府も朝廷も、いっこうに用いないのみか、しばしば迫害され、昭和にはいって太平洋戦争中には、創価教育学会の牧口会長以下幹部21人が投獄されるほどの弾圧を受けた、しかして大聖人の予言のとおり、自界叛逆と、他国侵逼の二難が競い起こり、ついに国は滅び民衆は苦悩のどん底にあえぐ結果となってしまったのである。
 創価学会は初代牧口会長の時代には、門下3,000人といわれるまでに発展したが、太平洋戦争中の弾圧のため、ほとんど壊滅の状態となり、牧口会長は巣鴨拘置所で獄死なされてしまった。二代戸田会長は、敗戦後の東京において、ただひとり学会の再建にあたられ、昭和33年(1958)におなくなりになるまでに、80余万世帯の折伏を達成なされた。その後は恩師の御精神のままに、全世界にわたって折伏の大行進が展開され、すでに75万世帯を数え、着々と広宣流布の大道を前進しつつある。
 思うに、幕府や天皇に権力のあった時代には、幕府や朝廷を諌暁し、公場対決を要求したのである。しかるに現代は民主主義の時代である。国家権力の最高の機関は国会であり、その国会議員を選出する国民が主権者なのである。ゆえに民衆一人一人を折伏し、一軒一軒の家庭が宗教革命による功徳の実証を生活に示しきっていくのが、国家諌暁でもあり、唯一の広宣流布への道である。
 ゆえに広宣流布とは、民主政治のもとにある今日においては、権力者の一片の命令や、議決によって成就されるものではない。国民の総意において決定されるべきものであり、創価学会の今日までの活動が、如実にそれを物語っているのである。
教主釈尊・両度出現しましますか
「月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず教主釈尊・両度出現しましますか仏教二度あらはれぬとほめられ給いしなり」
 正法が流布するところ、必ず文化は興隆し社会が繁栄することは、インドにおいて阿闍世王、アソカ大王、カニシカ王等が厳然と証明し、セイロン、インドネシア、ビルマ等においても例外ではなかった。
 そして、天台大師によって法華経迹門が広宣流布した中国においては、隋唐時代の絢爛たる文化の華を咲かせたのである。
 唐の初期、長安の都は政治、文化の中心であり、太平の縮図として、うららかな光りに包まれていた。唐の国威と文化を慕って来訪する外国人、また交易のために押し寄せる外国人も多く、国際的な都市として、あたかも世界の中心のような盛況を呈した。
 当時、日本からも遣隋使につづいて遣唐使が盛んに派遣され、唐の文化の吸収につとめた。今の正倉院の宝物のごときは、ほとんど唐時代の工芸美術品といわれている。また仏教をはじめとする、あらゆる文化が日本に伝えられたのである。
 すなわち唐の初期の政治は、貞観政要で知られる貞観の治といわれる盛世を現出し、さらに開元の治といわれる興隆期を現出した。漢民族の勢力がおおいにふるい、国際的な文化がヨーロッパ、アラビア、ペルシャ、インド、東南アジア、日本、朝鮮等に広く波及したのである。また古代の制度を集大成し、制度、武力を整えて中央集権の確立をはかった等、めざましい政治的な発展があった。
 社会情勢をみるに、中国史上、もっとも平和な時代といわれ、産業がおおいに発達した。黄河流域の華北ではアワと麦の輪作による三年四毛作、二年三毛作が普及しおおいに主食が増産された。その他、砂糖、米、茶、麻等が飛躍的に増産され、綿布、漆器、養蚕業、金属工業、商業、交通等が盛んとなり、ヨーロッパ、アラビアとの貿易も大発展した。
 美術、工芸、音楽等の芸術は、諸外国からも伝えられ、仏教を中心に発達して、周囲の諸民族に波及した。とくに文学では、文語体小説が大成し、詩の分野でも李白、杜甫の二大詩聖をはじめ、白居易、王維等が輩出したのである。
 しかし、この隋唐の興隆時代も、天台大師の正義が流布されて民衆に浸透したあいだだけであり、法相宗の玄奘や真言宗の善無畏等が唐の中期に活躍するにつれて、やがて唐朝も衰微に向かっていく。

0300:18~0302:10 第十章 天台滅後、三宗の迷乱top

18   其の後天台大師も御入滅なりぬ陳隋の世も代わりて唐の世となりぬ 章安大師も御入滅なりぬ、 天台の仏法よ
0301
01 やく習い失せし程に 唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人・貞観三年に始めて月氏に入りて 同十九年にかへりし
02 が月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす、 此の宗は天台宗と水火なり 而るに天台の御覧なかりし深密
03 経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密には劣るという、 而るを天台は御覧なかり
04 しかば天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、 又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、 い
05 うべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし、 法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方
06 便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり、 天竺よりは・わたれども月氏の外道が漢土にわたれるか法華経は方
07 便・深密経は真実といゐしかば釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚くなり玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にて
08 はありしか。
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 その後、天台大師も隋の開皇十七年に六十歳で入滅された。陳隋の時代も過ぎて、やがて唐の代となった。天台大師の第一の弟子、章安大師も入滅された。かくして天台大師の仏法は、ようやくすたれ、その教学もまさに滅びんとした。時に唐の太宗の御宇に、玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に中国を発してインドに入り、貞観十九年に中国に帰ってきた。玄奘はインドの仏教をたずね尽くして、その中に法相宗がもっとも優れるといってこれを中国に伝えた。
 この法相宗は、天台宗とは、水火のごとく相反する教えであった。しかも玄奘は、天台大師がいまだご覧にならなかったところの深密経・瑜伽論・唯識論等を持ち帰ったと称し、しかも「法華経は一切経には勝れた経ではあるけれども、深密経には劣る」と主張した。天台の末学たちは智慧、学識も浅かったために、天台の真意を解すすべもなく、天台大師はご覧にならなかったのだからと思い、玄奘のいうことを、そうであろうとそのまま受け入れてしまった。
 また、唐の太宗は賢王であると人々に思われ、玄奘への御帰依はまた一通りでなかったので、玄奘に対していいぶんをもった人々も、世の常として、時の皇帝の権力を恐れて、それをいい出す人がいなかった。真実の法華経を投げ捨てて、「三乗は真実、一乗方便、五性各別」と主張したことは、まことに残念なことであった。
 彼の持ち帰った経文は、インドから伝えたものであるが、その邪義なることは、インドの外道が漢土にやってきたかのごとくであった。法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の証言も、かえってムダになってしまい、逆に玄奘やその弟子の慈恩等が、生身の仏のごとく思われるという、とんでもないことがおこったのである。
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09   其後則天皇后の御宇に天台大師にせめられし華厳経に又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、 さきのいきどをり
10 を・はたさんがために新訳の華厳をもつて 天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて 華厳宗と申す宗を法蔵法師と
11 申す人立てぬ、此の宗は華厳経をば根本法輪・法華経をば枝末法輪と申すなり、南北は一華厳・二涅槃・三法華・天
12 台大師は一法華・二涅槃・三華厳・今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
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 玄奘が法相宗を伝えた後、しばらく経って、唐の則天武后の時代に、法蔵法師が出た。法蔵法師は、天台大師によってせめおとされた華厳経に、その後訳された新訳の華厳経を助けとして華厳宗を開いた。法蔵の気持ちは前に華厳が天台大師によって打ち破られた、その恨みを晴らすためであった。
 この華厳宗の主張は、「華厳経は仏陀最初の説法であるから根本法輪であり、法華経は最後の説であるから枝末法輪である」というのである。また、前の南三北七の諸師は、一華厳、二涅槃、三法華であった。天台大師は一法華、二涅槃、三華厳であり、法蔵の立てた華厳宗のいいぶんは、一華厳、二法華、三涅槃であった。
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13   其の後玄宗皇帝の御宇に 天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす、金剛智三蔵は金剛頂経をわたす、
14 又金剛智三蔵の弟子あり不空三蔵なり、 此の三人は月氏の人・種姓も高貴なる上・人がらも漢土の僧ににず法門も
15 なにとはしらず 後漢より今にいたるまで・なかりし印と真言という事をあひそいて・ゆゆしかりしかば天子かうべ
16 をかたぶけ万民掌をあわす、 此の人人の義にいわく華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内・釈迦如
17 来の説の分なり、 今の大日経等は大日法王の勅言なり彼の経経は民の万言此経は天子の一言なり、華厳経・涅槃経
18 等は大日経には梯を立ても及ばず 但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ、 されども彼の経は釈迦如来の説・
0302
01 民の正言・此の経は天子の正言なり 言は似れども人がら雲泥なり、 譬へば濁水の月と清水の月のごとし月の影は
02 同じけれども 水に清濁ありなんど申しければ、 此の由尋ね顕す人もなし諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ、
03 善無畏・金剛智・死去の後・不空三蔵又月氏にかへりて菩提心論と申す論をわたし いよいよ真言宗盛りなりけり、
04 但し妙楽大師といふ人あり 天台大師よりは二百余年の後なれども 智慧かしこき人にて天台の所釈を見明めてあり
05 しかば天台の釈の心は 後にわたれる深密経・法相宗又 始めて漢土に立てたる華厳宗・大日経真言宗にも法華経は
06 勝れさせ給いたりけるを、 或は智のをよばざるか或は人に畏るるか 或は時の王威をおづるかの故にいはざりける
07 かかくて・あるならば天台の正義すでに失なん、 又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとおぼして 三十巻の末文
08 を造り給う所謂弘決・釈籤・疏記これなり、 此の三十巻の文は本書の重なれるをけづりよわきをたすくるのみなら
09 ず天台大師の御時なかりしかば 御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを 一時にとりひしがれ
10 たる書なり。
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 その後、唐の玄宗皇帝の時に、インドから善無畏三蔵が中国にわたってきて、大日経、蘇悉地経を伝えた。さらに金剛智三蔵は、金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵の弟子に不空三蔵というのがあり、この不空三蔵もわたってきた。
 これらの三人は、いずれもインドの人で、種姓も高貴であり、人柄も中国の僧よりも優れていた。その説く法門も、後漢の世に仏教初めて伝来してより、今日にいたるまで見聞しなかったところの印と真言という、まったく新しいものをあいそえて教えを説いた。それが、まことに堂々としてりっぱであったので、上は玄宗皇帝から下は万民にいたるまで、すべて深く頭を垂れ、また手を合掌して帰依したのである。
 この人々の説によれば、「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は、顕教内の勝劣であり、釈迦如来の説法の範囲である。いまこの大日経は、大日如来の説法であって、法華経の顕教と相対すれば、彼の諸経は民の万言、この大日経は天子の一言である。華厳経、涅槃経等は、大日経に梯を立ててもおよびもつかないが、ただ法華経のみは大日経に相似た経といえよう。しかし、彼の法華経は釈迦仏の説で、民の正直語にすぎぬが、この大日経は大日如来の説、天子の正言である。正言である点は似ているけれども、仏の資格は、釈尊と大日如来とでは天地雲泥である。たとえば釈尊は濁水に映る月影のごとく、大日如来は清水に宿る月影のごとく、月は同じであるが水に清濁あるようなものである」等と勝手な論を吐いたのである。しかも、この誤りをだれひとり尋ねあらわす人がなくて、諸宗は皆落ち伏して真言宗になりさがってしまったのである。
 善無畏・金剛智の死去の後、不空三蔵はふたたびインドに立ち帰り、菩提心論と申す論を中国にもってきたので、いよいよ真言宗は盛んになるばかりであった。
 ただし、天台の陣営にも、妙楽大師という人が出現していた。天台大師より後、二百余年に出現した人であるが、ひじょうに智慧の優れた人で、天台大師の解釈をくわしく究め尽くしていた。ゆえに天台の釈された真意は、その後にわたってきた深密経や法相宗、また初めて漢土に立てられた華厳宗、また新しく伝来した大日経を依経とするところの真言宗、これらのいずれにも、格段に勝れているのが法華経であるということを明白に知っていた。
 しかるに、天台の末学たちは、その智解がそこまでいたらないのか、あるいは玄奘・法蔵・善無畏等を恐れるのか、あるいはそれらの邪義に帰依した、時の皇帝の威力を恐れたのか、なにもいい出せなかった。このままに打ち過ぎるならば、天台の正義も滅び去ってしまうであろう。また彼らの唱える邪義は、陳隋以前の南三北七の邪義にも越える大邪義である。
 妙楽大師は、これは絶対に捨てておくわけにはいかぬと堅く決心して、天台大師の本疏について註釈書を三十巻つくられた。いわゆる摩訶止観輔行伝弘決(摩訶止観の註釈)、法華玄義釈籤(法華玄義の註釈)、法華文句疏記(法華文句の註釈)である。この三十巻の書は、本書の中で重複しているところは一方を削り、意味の明瞭でないものをはっきりさせただけではなくして、天台大師時代なかったために、天台の破折をのがれていた法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時に論破せられた偉大な書なのである。

章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」2巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威に法灯を伝えた。
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唐の太宗
 (0598~0649)。李世民のこと。中国、唐の第二代皇帝(在位0626~0649)。太宗は廟号。隋末、天下おおいに乱れたとき、父の李淵とともに、太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、李淵が帝位につくや秦王となり、皇太子を経て高祖より王位を受けた。房玄齢・杜如晦・魏徴らの名臣を用いて「貞観の治」を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。
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玄奘三蔵
 (0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて十七年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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法相宗
 南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。日本伝来については四伝あり、道昭が孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。
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深密経・瑜伽論・唯識論
 「深密経」は法相宗正依の経。5巻。2訳あるが玄奘訳が多く用いられる。唯識説の中心となる思想が説かれている。「瑜伽論」は瑜伽師地論の略。百巻。弥勒菩薩または無著の著とされる。玄奘訳。「唯識論」は①「唯識二十論」の略。一巻。世親の著。菩提流支などの三訳がある。②「成唯識論」の略。
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三乗真実・一乗方便・五性各別
 諸仏一仏乗を主張するのは仏の方便で、三条として、各種性に応じて修行するというのが真実である。すなわち五性はみな別なのである。このように法相宗は、人の差別の面からのみを根拠として法を説き、法華経のごとく一切衆生がみな成仏するという教えとは、まったく反対の教えである。
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慈恩
 (0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。
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則天皇后
 (0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
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華厳宗
 南都六宗の一つ。華厳経を所経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)7月20日、唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅学生の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とした。
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新訳の華厳経
 義浄の訳。80巻からなる。
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法蔵法師
 (0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
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華厳経をば根本法輪・法華経をば枝末法輪
 華厳宗では、華厳を根本法輪とし、鹿苑以後法華経以前の法華経を枝末法輪としている。
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玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国唐朝第六代皇帝。在位は先天元年(0712)から天宝15年(0756)。姓名は李隆基。第五代睿宗の第三子。第四代中宗の皇后である韋后の禍を平定し、睿宗を立て、みずからは皇太子となった。即位後は外政を抑え、民政に努力したので「開元の治」と呼ばれる安定した世を現出させた。しかし後年、楊貴妃を寵愛し、政治を怠り、奸臣等を用いたため政情が混乱し、ついには安史の乱の勃発を招いた。晩年は譲位した粛宗との関係も思わしくなく不遇のうちに世を去った。
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善無畏三蔵
 (0637~0735)。中国・唐代の僧。中国に密教を伝えた最初の人といわれる。宋高僧伝巻二によれば、もと中インドの人。王子として生まれた。王位についたがすぐ兄に位を譲って出家し、マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従い密教を学ぶ。開元4年(0716)に中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」7巻などを翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。とくに、大日経疏において、天台大師の一念三千の義を盗み入れ、大日経は法華経に対し理同事勝であるとの邪義を立てた。金剛智、不空と合わせて三三蔵と呼ばれた。
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金剛智三蔵
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空三蔵
 (0705~0774)。不空金剛のこと。北インドの人。15歳の時唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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菩提心論
「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。
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妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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弘決
 天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。
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釈籤
 法華玄義釈籤のこと。天台の法華玄義を妙楽が注釈した書。10巻からなる。
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疏記
 天台の三大部を妙楽が訳した書。各10巻、計30巻からなる。
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 この章は天台大師の滅後、ふたたび仏法の迷乱したことを明かしている。
 せっかく天台大師の国家諌暁によって、十宗の諍論が破折統一され、諸経中王の法華経が広宣流布したのに、わずか天台章安の二代のみで、後から渡来した法相宗、華厳宗、真言宗に入り乱されてしまった。正法が正しく後世に伝承されることは、はなはだ困難なことである。三千年前にインドに興った仏教が全東洋に流布して、三千年後の今日も東洋仏法の真髄たる大仏法が、なお民衆の苦悩を救いつつあることなどは、驚くべき事実である。 
 さらに七百年前の日蓮大聖人の御書が、数多く今日まで伝えられているなどは、じつに御仏意のしからしむるものと拝するほかない。顕仏未来記には「伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」(0508-06)と。また一代聖教大意には「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(0398-03)とおおせのごとく、伝持の人により後世に正しく伝えられたのである。
 なお天台宗は、本文にお示しのごとく、天台大師の滅後二百余年、天台大師から六世の後に妙楽大師が出て、ふたたび天台の正義を宣揚なされたが、妙楽大師の後は、ふたたび衰減の一途をたどっていったのである。しかし、その伝灯は日本へ渡来し、伝教大師が唐に渡って、一心三観・一念三千の深旨を習得なされ伝付されたのは、妙楽の弟子たる行満座主および道邃和尚であったのである。
三乗真実・一乗方便・五性格別等
 法相宗の教義である。法相宗の玄奘三蔵の開いたもので、玄奘は17年の大旅行の後、インドから持ち帰って唐の太宗皇帝に授け、帝をはじめ一国の帰依を受けたことは、本抄をはじめ、開目抄、撰時抄にも詳述されている。
 さてこの宗でいうところの五性とは次のとおりである。
   一、声聞乗性
   二、辟支仏乗性
   三、如来乗性
   四、不定乗性
   五、無性(謂く一闡提なり)
 右の五性のうち、声聞性、辟支仏性、如来性の三種性のために、仏は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗を説いたのである。不定種性の二乗のためには法華経(一乗)を説いて成仏せしめた。三乗性のない無性有情のためには人天乗を説いた。
 このことを撰時抄には「此の宗(法相宗)の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便」(0262-07)と。さらに、開目抄には「此の宗(法相宗)の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず……されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず」(0198-14)と説かれている。無性有情とは五性の中の第五、無性の者であって、長く成仏しない。決定性の二乗とは、二乗と決定し、永遠に二乗でいるもので、同じく永不成仏であるという。
 要するに法相宗では、一仏乗を説いた法華経が方便であるといい、声聞、縁覚、菩薩とそれぞれの機根に応じて説いた三乗の説法が真実であると、反対のことをいっているのである。
 無量義経には「四十余年には未だ真実を顕わさず」と説き、法華経方便品には「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説き給うべし」「仏方便力を以て、示すに三乗の教を以てす」また、いわく「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説き給う。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」と。
 しかして、法華経の真実であることは、多宝仏も、分身の諸仏も来集して証明している。しかるにこのような明白な経文に迷い、三乗真実などという、とんでもない迷論・愚説を立てたのである。あるいは無性有情と決定性の二乗は成仏しないなどという。爾前経においては方便教なるがゆえ、三乗を別々に説いているが、法華経では十界互具、一念三千を説き、一切の万法悉く妙法蓮華経の当体となるのである。彼らのいうごとく三乗とか、五性などの決定的差別のあるべきはずがないのである。
 開目抄にいわく「一念三千は十界互具よりことはじまれり、法相と三論とは八界を立てて十界をしらず況や互具をしるべしや」(0198-04)と。
 現代の仏教界をみると、700年前、日蓮大聖人によって、すでにその根を断ち切られたにもかかわらず、念仏や禅、真言等のたぐいが横行している。
 しかも、仏法の真髄に関係なき愚論が、各宗で建てられた学校等を中心に、流布されていることは、まことに慨嘆にたえないものがある。ゆえに、いよいよ仏法が誤解され、いわゆる西洋哲学の下風に立っているような感を呈しているのは、はなはだ残念なことである。
 いまや、まじめに仏教の真髄を究明しきっている人はいないといっても過言ではない。そして片々たる誤れる一宗一派に固執して生活のかてにしているにすぎないのである。
 ゆえに、ここで、700年前の日蓮大聖人の御精神を体して、仏法哲学の統一をはかり、思想の統一をはかるべしと叫ぶものである。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、哲学思想の根源からの破折に対して、いまだになんの回答も反論もしないままに、西洋哲学等の思想を取り入れて邪義邪教を糊塗しようという姿は、正しく日蓮大聖人が開目抄に説かれた学仏法成、附仏法の姿でなくて、なんであろうか。
 いわゆる仏教界の既成宗派といわれる彼らは、確固たる教義も信心もなく、葬式と法事と墓場の番人たる姿をいよいよ露呈してきた。化儀の広宣流布の時代にはいった以上、東洋仏法の真髄がさらに光輝を放って、爾前迹門の権理迹理を粉砕する時がきたといえよう。

0302:11~0304:04 第11章 日本伝教大師の弘通top

11   又日本国には 人王第三十代・欽明天皇の御宇 十三年壬申十月十三日に百済国より一切経・釈迦仏の像をわた
12 す、又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして先生所持の一巻の
13 法華経をとりよせ給いて持経と定め、其の後人王第三十七代・孝徳天王の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・
14 成実宗わたる、 人王第四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる 已上六宗なり、 孝徳より人王五十代の桓武天皇
15 にいたるまでは十四代・一百二十余年が間は天台真言の二宗なし、 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり 山階寺の行
16 表僧正の御弟子なり、 法相宗を始めとして六宗を習いきわめぬ 而れども仏法いまだ極めたりとも・おぼえざりし
17 に華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに 天台大師の釈を引きのせたり此の疏こそ子細ありげなれ 此
18 の国に渡りたるか又いまだ・わたらざるかと不審ありしほどに 有人にとひしかば 其の人の云く 大唐の揚州竜興
0303
01 寺の僧鑒真和尚は 天台の末学・道暹律師の弟子天宝の末に 日本国にわたり給いて小乗の戒を弘通せさせ給いしか
02 ども天台の御釈持ち来りながらひろめ給はず 人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる、 其の書を見んと申さ
03 れしかば取り出だして見せまいらせしかば 一返御らんありて生死の酔をさましつ 此の書をもつて六宗の心を尋ね
04 あきらめしかば一一に邪見なる事あらはれぬ、 忽に願を発て云く日本国の人皆・謗法の者の檀越たるが 天下一定
05 乱れなんずとおぼして六宗を難ぜられしかば七大寺・六宗の碩学蜂起して京中烏合し天下みなさわぐ、 七大寺六宗
06 の諸人等悪心強盛なり、 而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あつて 七寺の碩徳十四人・善
07 議.勝猷・奉基.寵忍.賢玉.安福.勤操.修円.慈誥.玄耀・歳光.道証・光証.観敏等の十有余人を召し合わす、華厳.三
08 論・法相等の人人.各各・我宗の元祖が義にたがはず最澄上人は六宗の人人の所立.一一に牒を取りて本経・本論・並
09 に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず 口をして鼻のごとくになりぬ、 天皇をどろき給いて委細に
10 御たづねありて重ねて勅宣を下して 十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり、 其書に云く「七箇の大寺六
11 宗の学匠乃至初て至極を悟る」等云云又云く「聖徳の弘化より以降今に二百余年の間講ずる所の経論其数多し、 彼
12 此理を争うて其の疑未だ解けず而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云、 又云く「三論法相・久年の諍渙焉と
13 して氷の如く解け照然として 既に明かに猶雲霧を披いて三光を見るがごとし」云云、 最澄和尚十四人が義を判じ
14 て云く「各一軸を講ずるに 法鼓を深壑に振い賓主三乗の路に徘徊し 義旗を高峰に飛す長幼三有の結を摧破して猶
15 未だ歴劫の轍を改めず白牛を門外に混ず、 豈善く初発の位に昇り阿荼を宅内に悟らんや」等云云、 弘世真綱二人
16 の臣下云く「霊山の妙法を南岳に聞き総持の妙悟を天台に闢く一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」等云云、 又
17 十四人の云く「善議等牽れて休運に逢て乃ち奇詞を閲す深期に非るよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云、 此の十四
18 人は華厳宗の法蔵.審祥・三論宗の嘉祥.観勒・法相宗の慈恩.道昭・律宗の道宣・鑒真等の漢土.日本元祖等の法門・
0304
01 瓶はかはれども水は一なり、 而るに十四人・彼の邪義をすてて 伝教の法華経に帰伏しぬる上は誰の末代の人か華
02 厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや、 小乗の三宗は又彼の人人の所学なり大乗の三宗破れぬる上
03 は沙汰のかぎりにあらず、 而るを今に子細を知らざる者・六宗はいまだ破られずとをもへり、 譬へば盲目が天の
04 日月を見ず聾人が雷の音をきかざるゆへに天には日月なし空に声なしと・をもうがごとし。
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 また、わが日本国において、人王第三十代・欽明天皇の御宇、十三年、壬申十月十三日に、百済の国より一切経ならびに釈迦仏の像が渡ってきた。その後、用明天皇の御宇に、聖徳太子が仏教の研究を始められ、とくに、和気の妹子(小野妹子)という臣下を中国に遣わして、先生に所持したところの法華経を取り寄せて、持経と定められた。その後、人王第三十七代、孝徳天皇の時代に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗等が渡来してきた。次に人王第四十五代聖武天皇の時に、律宗が伝えられた。以上で六宗となった。孝徳天皇から第五十代桓武天皇にいたるまで、十四代百二十余年のあいだは、いまだ、天台宗・真言宗の二宗はなかったのである。
 桓武天皇の時代に最澄(伝教大師)という小僧がいた。山階寺の行表僧正の弟子である。法相宗をはじめとして六宗を学び尽くした。しかし、いまだ仏法の真髄は得られなかったので、華厳宗の祖、法蔵法師が説いた起信論の疏を見られた。その書の中に天台大師の釈が引用されてあった。
 そこで最澄は、この書こそおおいに子細がありそうだ、ぜひそれを読みたいが、その書が日本にわたっているか、あるいはいまだわたっていないかどうか不審であったがゆえに、ある人にそのことを話したところが、その人のいうには、「中国の揚州竜興寺の住僧で鑒真という人がいる。鑒真は天台の末学であり、また道暹律師の弟子である。天宝年間の末に日本にやってきて、小乗の戒律をひろめたが、天台の書物は持ちきたりながらひろめずに終わってしまった。それは第四十五代聖武天皇の御代のことである」と。
 これを聞いた最澄は、すぐにもその本を見たいと申されたので、即座に取り出して見せたところ、一度にして生死の迷いをさまされた。しかも、この書によって、六宗をたずねられたところ、ぜんぶ邪見であることがわかった。
 そこで、たちまち願をおこし「六宗の邪義によって、日本国中の人々が、みな謗法の者の檀那となっているゆえに、かならず天下は乱れるであろう」といって、六宗を責められたので、南都の七大寺、六宗の学者たちは蜂起して、京都中に烏合して、ために天下の大騒動となった。七大寺六宗の人々は、伝教大師を憎み、悪心ははなはだ強盛であったが、延暦二十一年の正月十九日に、桓武天皇はみずから高雄寺に行幸になって、そのさい、七大寺の学僧である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十余人と最澄とを召し合わせ、対論を命じられた。これ、有名な伝教大師の公場対決である。彼ら華厳、三論、法相等の学者たちは、おのおの自宗の元祖の立義に固執した。しかし伝教大師(最澄)は、六宗の人々の立義を一々に取り上げて、法華経や天台大師の論釈、その他の経や論釈に照らし合わせて責めたので、六宗の人々は唖然と口をつぐんで鼻のごとく、一言も答えることができなかった。
 天皇も驚かれて、伝教大師に詳しくお尋ねがあり、重ねて勅宣を下して十四人の学者たちを厳しく責められたので、みな帰伏の謝り状を奉った。その謝表には「七大寺六宗の学者達は、初めて純円一実の至極の法門を知りました」また「聖徳太子が仏法をひろめられてから、今日にいたる二百余年のあいだ講ぜられたところの経文や論釈は数多い。しかし彼此(かれこれ)とたがいに勝劣を争っていまだその疑いが解けなかった。しかも、この最妙の法華の円宗はいまだひろまらなかった」と。また「三論と法相との長い間の争いは、あたかも氷がさらりと解けるがごとくしかも照然として明らかにその解決をみたことは、ちょうど雲や霧を開いて、日、月、星の三光を見るようである」等といっている。
 伝教大師は十四人の邪義を批判していわく、「六宗の人々は、おのおの法華経の一軸を講ずるのに、自宗の立義によっている。ゆえに、法鼓を深い谷にひびかせて盛んに法門を論談するのであるが、ことごとく、主客ともに声聞、縁覚、菩薩の三乗に徘徊して、成仏の道を歩めないのである。しかし、なお義旗を高山に立てて人々を集めている。なるほど、長幼の学者や三有の煩悩を破折するのはよいが、しかし、なお長き歴劫修行をしなければならぬという権経の教えを説いている。これでは大白牛車たる法華経と、いやしい車の権経を混同するものである。かかる六宗の教えでは、どうして、よく初発心の位から、ただちに成仏得道の境涯を得ることができようか」と。
 この論議の席に参加していた、和気清磨呂の子、和気弘世、真綱の二人の兄弟は、「霊鷲山の釈尊の妙法を、南岳大師によって聞くことができ、いままた総持の妙悟を天台大師によって聞くことができた。しかるに今の人々は、この妙法を聞くことができず、権乗にいろどられた一乗の法であることを嘆き、三諦円融の義いまだ顕われないことを悲しむものである」と嘆いた。また六宗の十四人の学者たちのいわく、「善議等はさいわいなことに、良縁にひかれて福運つよく、今日の奇特な講義を聞くことができた。これ宿世の深縁でないならば、どうして今日の聖代に生まれることができたであろうか」と。
 これらの十四人の人々は、これまでは、いずれも華厳宗の法蔵、審祥、三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩、道昭、律宗の道宣、鑒真等の中国日本における、それぞれの宗の元祖の法門を、次から次へと伝承していったもので、あたかも、瓶は変わっても、中の水は異ならぬようなものであった。
 これらの十四人が、それぞれの邪義を捨て、伝教大師の説かれる法華経に帰依した上は、それより以後の人々は、だれが華厳、般若、深密経等は法華経より勝れているということができようか。小乗の成実・倶舎・律の三宗は彼ら十四人がとうぜん学んだところであって、大乗の三宗が破れた以上は、小乗の三宗ごときが、何やかやいうべきでない。しかるに今日でもこの子細を知らぬ六宗の者どもは、自宗はいまだ法華経には破れぬのだろうと思っている。これは、たとえば盲人が天の日月を見ることができず、聾人が雷の音を聞くことができず、ために天に日月がなく、空に声なしと思うのに等しいのである。

欽明天皇
 (0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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和気の妹子
 小野妹子のこと。生没年不詳。推古朝の官人。推古15年(0607)、遣隋使として中国に渡り、国書を呈した。翌年、隋使の裴世清とともに帰国。同年、南淵請安・僧旻・高向玄理らの留学生を伴って再び隋に渡り、翌年帰国した。
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最澄
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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行表僧正
 (0721~0797)伝教大師得道の師。近江国(滋賀県)崇福寺の住職で千手千眼の観音像を造って安置した。山階寺は、行表が具足戒を受けた。
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起信論の疏
 馬鳴菩薩がつくった「大乗起信論」の注釈書。法蔵法師の著で4巻からなっている。
―――
鑒真和尚
 (0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
―――
道暹律師
 生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。天台県(浙江省)の人。大暦年間(0766-0779)長安に来て盛んに著述を行ったという。妙楽大師の法華文句記を注釈した「法華文句輔正記」10巻などを著した。
―――
七大寺
 南都(奈良)の七大寺のこと。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。このうち、元興寺と大安寺は現存しない。
―――
碩学
 大学者との意。
―――
碩徳
 高僧徳望のある人。
―――
三論法相・久年の諍
 三論宗は、仏滅後700年に出現した竜樹が創始した〝中観派〟を起源とする。竜樹の「中論」四巻、「十二門論」1巻、弟子の提婆(迦那提婆)の「百論」2巻により、般若経の「一切皆空」をその教えの肝要とした。ゆえに三論宗を空宗ともいう。法相宗は、仏滅後900年に出現した無著・天親(世親)兄弟が唱導した〝唯識派〟を起源とする。弥勒の「瑜伽師地論」百巻、無著の「摂大乗論」3巻、世親の「唯識二十論」1巻により、解深密経の「唯識実有」を教えの肝要とした。インドでは、竜樹系の中観派と天親系の唯識派とが、その義を相争った。また中国では、嘉祥等が三論宗を立て、慈恩等は法相宗を立てて、たがいに争った。さらに日本では、元興寺等は三論を講じ、興福寺等は法相を講じて空有を争った。しかし、伝教大師が法華真実の法門を宣揚したので、南都六宗の碩徳14人は、空有の論諍が権教方便の説であることを知って最澄に帰伏した。
―――
三光
 太陽、月、明星の三つをいう。
―――
法鼓を深壑に振い
 14人の碩徳が、法門の鼓を山の深谷に振るわせて三乗の道に迷い、いまだ一仏乗を知らないさま。「深壑」は高峰に対する語。
―――
賓主三乗の路に徘徊し
 賓は客、主は主人。すなわち問う者も、答える者も、ともに三乗(声聞・縁覚・菩薩)の間に迷い、いまだ真実の仏乗を得ないとの意。
―――
義旗を高峰に飛す
 仏教の深義を旗のごとく高峰になびかすこと。
―――
長幼三有の結を摧破し
 長幼は、前の賓主に同じ。三有とは、欲有、色有、無色有をいい、三界六道のこと。有は有漏のことで、煩悩に迷い三界の巷にあること。結とは煩悩。摧破とは打ち破ること。
―――
歴劫の轍を改めず
 爾前経における歴劫修行の跡を踏襲すること。
―――
白牛を門外に混ず
 法華経比喩品第三に示された羊車・鹿車・牛車の三車と、大白牛車とについて、天台大師は、大白牛車を一仏乗、真実の教えとし、羊鹿牛の三車を三乗方便の教えとしたが、他宗では、三車中の牛車を大白牛車なのだといって、混同している。
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豈善く初発の位に昇り阿荼を宅内に悟らんや
 初発とは初住をいい、菩薩五十二位中、十住の初菩提心を発すること。阿荼とは般若経でいう、修行の段階で四十二の字門によって定めている。初めの阿字門と四十二番目の荼字門である。すなわち、四教の十信を除いた四十二位にあてはめると、阿荼とは、十住の初住の位から妙覚位までになる。宅内とは、内外に対し火宅の内すなわち娑婆世界をいう。すなわち初発心の位にのぼったからといって、すぐに妙覚の位をうけるわけにはいかないとの意。
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弘世
 生没年不明。和気広世のこと。奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。和気清麻呂の長男で、真綱の兄。医学に通じて典薬頭となり、大学別当に任じられた。また、大学寮の南に弘文院を設置し、師弟の教育に尽くした。弟の真綱とともに神護寺を建立、また伝教大師の天台宗開創に寄与した。
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真綱
 (0783~0846)。和気真綱のこと。平安初期の貴族。和気清麻呂の子で、広世の弟。若くして大学に学び、よく史伝に通じ、参議従四位上に進んだ。仏教に深く帰依し、高雄山寺で南都六宗の高僧十四人を集め、伝教大師を講師として法華会を開くなど、兄の広世とともに伝教大師を援助して天台宗の開創に寄与した。
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霊山の妙法を南岳に聞き
 南岳大師によって、霊山会上において説かれた法門を聞くことを得たこと。
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総持の妙悟を天台に闢く
 総持とは陀羅尼のこと。天台大師は、台蘇山の普賢道場において、法華三昧を悟ったこと。
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一乗の権滞を慨き
 法華経に権教の教えを入れて解釈していることを嘆くこと。
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三諦の未顕を悲しむ
 三諦円融相即の義を知らざるを嘆くこと。
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善議
 延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。(0729~0812) 天平元年生まれ。大安寺の道慈に三論をまなび,唐にわたる。帰国後は大安寺の僧として三論宗をひろめ,法将とよばれた。弘仁3年(0812)8月23日死去。84歳。河内出身。俗姓は慧賀。
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牽れて休運に逢て
 宿縁のゆえに良縁にあうことができたこと。
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奇詞を閲す
 いまだかって聞いたことのない天台の奥義にあったこと。
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深期に非るよりは何ぞ聖世に託せんや
 深い宿縁がなければ、どうして信実の仏法が弘まるこの世に生まれることができたであろうか、の意。
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審祥
 韓国の新羅の人で、唐に渡って賢首大師法蔵に華厳を学び、天平のころ日本へ来て良弁らとともに、華厳宗をひろめた。
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観勒
 百済の僧。生没年不詳。推古10年(0602)来朝し,暦本、天文地理書などをもたらした。同32年(0624)、日本で初めて僧正の位に任ぜられ、元興寺について仏法を弘めた。三論・成実の学問に通じていた。
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道昭
 (0629~0700)。日本法相宗の開祖。河内国丹比郡に生まれ、元興寺に入って出家、白雉4年(0653)、遣唐大使にしたがって入唐。慈恩寺を訪れ、玄奘に師事し法相の教えを受ける。窺基とも交わり、恵満について禅も学んだ。斉明天皇6年(0660)に帰朝、元興寺に禅院を建立、法相宗を弘め、諸国をまわって慈善事業に励む。文武天皇4年(0700)3月寂。遺命によって遺骸を荼毘に付したが、これは日本における火葬の初めといわれる。
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道宣
 (0596~667)唐代の僧。姓は銭。丹徒(浙江  省)の人。智首に律を学び、修南山に住して四分律を研究、南山律宗を開いた。著「四分律行事鈔」「大唐内典録」など。
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 この章は、日本において、伝教大師が法華経を広宣流布したことを明かしている。
 そもそも日本民族は、法華経に縁があり、また大乗仏教に深い縁をもった民族である。このことを伝える古記は多いが、その中の二、三をあげてみると、
 弥勒菩薩の瑜伽論には「東方に小国有り、其の中に唯大乗の種姓のみ有り」と。
 肇公の翻経の記にいわく「大師須利耶蘇摩左の手に法華経を持し、右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与して云く、……此の経典、東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」と。
 根本大師(伝教大師)の記にいわく「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西……」と。唐の東・羯の西とは正しくわが日本の国をさしているのである。
 御義口伝にいわく「殊には此の八歳の竜女の成仏は帝王持経の先祖たり、人王の始は神武天皇なり神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり此の葺不合尊は豊玉姫の子なり此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり八歳の竜女の姉なり、然る間先祖法華経の行者なり甚深甚深云云」(0746-)と。
仏法の日本伝来
わが国に仏教の伝来したのは、第三十代欽明天皇の13年(0552)である。百済の聖明王の使者が、経論、釈尊の像、僧尼等を献上した。
 すなわち、日本書紀によれば、百済の聖明王が、その年の冬10月13日、臣である西部の姫氏達率怒喇斯致契等をして、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干を献上せしめた。
 また別に表を奉って、流通、礼拝の功徳を讃していわく、
 「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流」(この法は諸法の中において、最も為れ殊勝で、難解で入り難く、周公・孔子もなお知ることができません。この法はよく無量無辺の福徳果報を生し、すなわち無上菩提を成ずるのです。譬えると、人の意のままになる宝を懐いて、その用いる所を尽くすが如きです。この妙法の宝も、また然りです。祈り願う情にしたがい、乏しい所はありません。また、遠くは天竺から、ここ三韓にいたるまで、教えのままに奉持し、尊敬されずということはありません。これにより、百済王であります臣の明(聖明王)は謹んで陪臣の怒喇斯致契を遣わし、帝(欽明天皇)の国にお伝えして、畿内に流通し奉ります。仏の記す所の「我が法は東に流えん」ということを果たすのです)
 と奏上した。これは国王から国王に対し公式に仏、法、僧の三宝を献じた記録である。この上表文については、異説を唱える人もいるが、当時すでに「我が法は東へ流えんということを果たすなり」という一大思想があったことは、注目に値する事実である。
 なお、日蓮大聖人は、神国王御書に、日本書紀の記録と異なる上奏文を引かれている。これは、当時、存在していた日本の古記にあったものと思われるが、現在は不明である。神国王御書にいわく「其の表の文に云く臣聞く万法の中には仏法最善し世間の道にも仏法最上なり天皇陛下亦修行あるべし、故に敬って仏像経教法師を捧げて使に附して貢献す宜く信行あるべき者なり已上」(1516-12)と。
 そのころの韓国は、高句麗、新羅、百済の三国がそれぞれ、半島の覇権をめぐって激しく抗争していたが、一面、頻りに好みを中国に通じ、中国文化の影響をうけて、政治的、文化的に大きく躍進していたのである。
 したがって仏教も、四世紀のころには、高句麗、百済に伝えられ、ついで新羅にも伝えられていた。とくに百済では、中国古典の学修、仏書の研究、寺塔の建立が盛んに行なわれ、それが欽明天皇のとき、初めて日本に貢献せられたのである。
 この歴史的事実から、今日、日蓮大聖人の末法の大仏教は、御本仏の予言のままに、日本から韓国へ、さらに中国、インドへと、流布さるべき使命があると、吾人は強く訴えるのである。なぜかならば、韓国にも、中国、インドにも、民衆を根底より救いきる仏教が、今日ではまったくその姿を没しているがためである。
 大陸との交通が開始されて以来、民間人によって仏教の信仰が逐次伝えられていたことは想像に難くない。
 第27代継体天皇の御代に、南梁の司馬達等が来て、大和坂田が原に草堂を構え、仏像を安置して礼拝していたというのも、この例である。
聖徳太子の仏法興隆
 さて欽明天皇の子、用明天皇の皇子、聖徳太子は、第三十四代推古天皇の摂政となり、おおいに仏教を興隆した。みずから経を講じ、勝鬘経、維摩経、法華経の義疏を著わし、仏教の精神を根本とした十七条の憲法を制定して、国家統一の指導原理とした。
 聖徳太子は「先生所持の一巻の法華経」を漢土から取りよせたとある。これは現代人は想像もできないことであるが、生命は三世にわたるのであって、とうぜんありうることである。
 開目抄には太子が過去世の師として、大陸から渡ってきた弟子に相対したことを記されてある。すなわち、
 「日本の聖徳太子は人王第三十二代・用明天皇の御子なり、御年六歳の時・百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子・我が弟子なりと・をほせありしかば彼の老人ども又合掌して我が師なり等云云、不思議なりし事なり」(0212-15)
 聖徳太子は推古天皇14年(0607)10月岡本の宮で法華経を講じ、また22年(0615)4月13日法華義疏四巻を作られた。最近、皇室御物の中に、この原本四巻が発見された。すなわち日本における最古の著作であり、現存せる最古の筆跡ということができる。この法華義疏は一応、光宅寺法雲の法華義記を参考にされたが、義記に左右されることなく自主的に書かれた。しかし、一念三千の法門等、真の法華経の解釈は、天台大師、伝教大師そして末法御本仏、日蓮大聖人にゆずられたということができる。このような理由で、日蓮大聖人は、聖徳太子の法華義疏は用いられていない。
 聖徳太子の建立した寺院は、四天王寺、法隆寺はじめ七か寺と伝えられ、十七条憲法の第二には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。何れの世、何れの人か、是の法を貴ばざる。人悪しきもの尤だ鮮(すくな)し、能く教うれば之れに従う。其れ三宝に帰せずんば、何を以てか枉れるを直さん」といわれている。また、小野妹子を始め遣隋使を中国に派遣し、仏法と共に、多くの大陸文化を日本にもたらしたのである。
 かくして聖徳太子は、当時まで蘇我、物部等の争いをよんで不安定だった仏法を立派に興隆し、外交、文化、社会、経済等にも、みごとな実績を示して、その後数百年の日本の基礎を作り、奈良時代から平安時代にいたるあいだ、日本文化の花を咲かせたものといえよう。そして、仏教渡来から、法華経迹門の広宣流布までの橋渡しをしたということができるのである。
伝教大師の国家諌暁
 仏教を弘通するには国家諌暁の大事なこと、さらに時の国王がみずから法の正邪を見きわめるために、公場対決の必要なことは、前章に述べたとおりである。
 伝教大師の時代には桓武天皇がよく仏法の正邪を分別し、法華経の広宣流布に努められたので、平安時代という長い泰平時代と、文化のいちじるしい発展があったのである。
 延暦二十一年正月十九日、高雄山寺に十余大徳を招き法華の妙旨を講じたのは、大師が三十六歳の壮年であった。これより弘仁十三年、五十六歳で入滅にいたるまで、天台宗学生式を制し、顕戒論を著し、大乗戒壇の建立を叫ばれた。
 しかして大師御入滅の直後に、大乗戒壇の建立が聴許せられている。
 日本の仏教史上、伝教大師が仏教統一を完成させたことは、大きな意義がある。すなわちこれは仏法の真髄が、法華経の哲学にあり、また天台大師の五時八教の教判、理の一念三千、三諦円融の法門等を最高の法理として認めさせたのである。
 当時、日本にあった宗派は、華厳宗、法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、律宗のいわゆる南都六宗と呼ばれているものである。倶舎、成美、律宗は、小乗仏法であるから、一応論外としても、華厳宗、法相宗、三論宗等は、そうとう有力な哲学体系をそなえていたのである。
 たとえば華厳宗は「心仏及衆生是三無差別」等の法門を説き、また華厳経の中には、現在の科学にも匹敵する天文学説や素粒子論等をも展開している。また法相、三論の二宗は、弥勒、無著、世親菩薩系の唯識哲学をもって、竜樹、天親の諸法実相の哲学に対抗してきたのである。
 唯識というのは、かんたんにいえば、ただ識のみという意で、いっさいの諸法はみな心や識の転変であり、実有なるものは心識のみであるという哲学で、西洋哲学の観念論、唯心論等と相似しているが、唯識論のほうが格段にすぐれているのである。しかし、この唯識哲学も、天台大師の一念三千、三諦円融の法門よりみれば、まだ部分観にすぎないことが、明白になったのである。
 もちろん絶待妙の立ち場から、これら華厳の法門も唯識哲学も開会の上で用いることにおいては、いっこうにさしつかえがないわけである。日蓮大聖人が御義口伝等に、五識、六識、八識、また九識心王真如の都等と説かれているのは、この意である。
 ただ、現在の仏教界にあって、このような理がわからず、天台の法門のなんたるかも究明せず、華厳の法門とか、唯識論などを無批判に研究している学者等がいるが、まことに平安以前に逆立ちした無意味な盲動といわざるをえない。しかして、現在すでに天台の法門に幾千万億倍する、東洋仏法の真髄である日蓮大聖人の大仏法哲学が現存する以上、仏法哲学を究明し実践せんとする人々は、なにびとといえども、日蓮大聖人の大仏法を奉ずる創価学会にきたれと叫ばざるをえない。
奇怪な全日仏と新宗連
 現代日本の宗教界に、まことに奇怪きわまる二つの団体がある。その一つは全日本仏教会いわゆる全日仏であり、もう一つは新宗教連盟いわゆる新宗連というものである。
 全日仏は既成宗教を一束にして作った団体であるが、各宗派の利益にからんで、しばしば分裂や脱退騒動を起こしている。また全日仏は墓地問題等においても、自宗派の者しか埋葬させないというような指令、請願を行ない、国法、社会福祉、人権を無視した行動をとっているのは、まことに民衆救済の仏法とはいいがたい堕落した姿といわざるをえない。
 これらは、もちろん民衆の唯一の味方として立つ創価学会に対する怨嫉以外のなにものでもないが、昭和38年(1963)の秋にも全日仏で「創価学会の批判的解明」というような書を出版し、その中で笑止にも日蓮大聖人を各所で誹謗する暴挙に出て、同床同穴の邪宗日蓮宗各派をあわてさせたというような喜劇をまきおこしているのである。
 さらに、なんらの哲学、教義もなく、宗教企業に堕している、新興宗教を束にした新宗連というような団体があるが、心あるもの、日本民族の将来を真剣に考えるものならば、嘆かざるをえない存在以外の何物でもない。
 ただ、天台大師、伝教大師の公場対決、また、日蓮大聖人の国家諌暁の故事を思うとき、いかに衆を頼んで正法に対抗しようとも、所詮は同体異心、邪義邪宗なるがゆえに、ついに滅びざるをえないことは、道理に照らし、歴史に徴(ちょう)しても明らかなことである。

0304:05~0305:04 第12章 伝教大師の真言破折top

05   真言宗と申すは日本人王・第四十四代と申せし元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたして弘通せずして漢
06 土へかへる、 又玄昉等・大日経の義釈十四巻をわたす又東大寺の得清大徳わたす、 此等を伝教大師御らんありて
07 ありしかども大日経・法華経の勝劣いかんがと・おぼしけるほどにかたがた不審ありし故に 去る延暦二十三年七月
08 御入唐・西明寺の道邃和尚・仏滝寺の行満等に値い奉りて 止観円頓の大戒を伝受し 霊感寺の順暁和尚に値い奉り
09 て真言を相伝し 同延暦二十四年六月に帰朝して桓武天王に御対面・宣旨を下して 六宗の学生に止観真言を習はし
10 め同七大寺にをかれぬ、 真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども 又大日経の義釈には理同事勝とかき
11 たれども伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、 大日経は法華経には劣りたりと知しめして 八宗とはせさせ給は
12 ず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし 大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・
13 涅槃等の例とせり、 而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を 我が国に立う立じの諍論がわずらはしきに依り
14 てや真言・天台の二宗の勝劣は 弟子にも分明にをしえ給わざりけるか、 但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華
15 天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、 されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり、 いわうや不空
16 三蔵は善無畏・金剛智・入滅の後・月氏に入りてありしに竜智菩薩に値い奉りし時・月氏には仏意をあきらめたる論
17 釈なし、漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび 偏円をあきらめたる文にては候なれ、 あなかしこ・あなかし
18 こ月氏へ渡し給えとねんごろにあつらへし事を 不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを 記の十の末に
0305
01 引き載せられて候を この依憑集に取り載せて候、 法華経に大日経は劣るとしろしめす事・伝教大師の御心顕然な
02 り、 されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に 大日経等の一切経の中には法華経はすぐれ
03 たりという事は分明なり、 又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心も かくのごとし、 大智度論を能く能く尋ぬる
04 ならば此の事分明なるべきを不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて此の事に迷惑せるか。
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 真言宗という宗は、わが国第四十四代、元正天皇の時代に、中国から善無畏三蔵がやってきたが、大日経の経典だけを渡して弘通せずに中国へ帰った。その後、玄昉等の僧も大日経義釈十四巻を伝えた。さらに東大寺の得清大徳も真言を伝えた。
 これらの書を御覧になった伝教大師は、法華経と大日経との勝劣について、彼らのいうことに不審を持たれていたゆえに、去る延暦二十三年の七月入唐のさい、西明寺の道邃、仏滝寺の行満等から、止観の法門、円頓の大戒等を伝え、加えて霊感寺の順暁和尚にあい真言を相伝されたのである。かくして延暦二十四年六月に帰朝されて、桓武天皇に御対面になり、宣旨を下して六宗の学生たちに止観真言を学ばしめ、これを七大寺におくことにされた。
 真言と天台の二宗の勝劣については、中国にも種々の主張があり、また、大日経の義釈にも、法華の理と大日経の理はともに諸法実相だから等しい、しかし印と真言が大日にはあるから事相において勝る、というような、理同事勝の邪論もあったけれども、伝教大師は、「それらはぜんぶ善無畏の誤りである。大日経は法華経にまったく劣っている」と知ったため、奈良の六宗の上に、天台宗を加えて七宗とはしたが、真言宗を入れて八宗とするということはしなかったのである。その上、真言宗という宗名もけずってしまって、法華宗内に含め七宗とされたのである。しかも大日経をば、法華天台宗の傍依の経とされて、華厳・大品・般若・涅槃等と同列におかれたのである。
 しかしながら当時は、大事な大乗別受戒の大戒壇をわが日本国に建立するために、これをめぐって大戒壇を立てる立てないと、諸宗との諍論が激しい時代であったがゆえに、また対真言との争いにかかっては、大事な目的である円頓の戒壇建立に支障をきたすおそれがあると考えられてのことであろうか、真言、天台の二宗の勝劣については、弟子たちにも分明(ふんみょう)には教えられなかったようである。
 ただし、伝教大師の依憑集という本には、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとって大日経に引き入れ、大日経の意とし、理同などという邪義を唱えたという意があるのである。ゆえに彼の真言宗は、天台宗に降伏した宗なのである。ましてや不空三蔵は、善無畏、金剛智三蔵が入滅した後インドに行き、竜智菩薩に会った時、竜智は、「インドには仏の本意を明かした教えがない。中国には天台がいて、その釈こそまことによく邪正を正し、偏円を明らかにした文である。であるならば、ぜひこれをインドへ持ってきて伝えてほしい」と竜智は不空に頼んだ。このことは、不空の弟子含光というものが、妙楽大師に話したのが法華文句記の十の末にある。またその文が伝教大師の依憑集に載せてあるのである。これを見れば、大日経は法華経よりも劣るということが伝教大師の御心である、ということが明白になるのである。
 ゆえに、釈尊も天台大師も、妙楽大師も、伝教大師も、みないちように大日経等の一切経に比して、法華経が最勝であると考えられたことは明瞭である。また、真言宗の元祖であるという竜樹菩薩のお心も同じである。大智度論をよくよくたずねみるならば、このことは明らかであるのに、不空が書いた誤りの多い菩提心論に多くの人が迷わされ、竜樹菩薩のお心も見失うこととなったのである。

真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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善無畏三蔵
 (0767~0735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、輸波迦羅と音写。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多(だつまきくた)に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
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玄昉
 (~0746)。奈良時代の僧。義淵に師事。養老元年(0717)遣唐使に随行、入唐して智周に法相を学び、経論5,000余巻と仏像を携えて帰国した。法相宗の第四伝にあたる。のちにわが国小乗三戒壇の一つである筑紫の観世音寺を建立した。
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得清大徳
 唐から「大日経義釈」を請来した僧。
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西明寺の道邃和尚
 西明寺とは、長安(陝西省西安市)街西の延康坊にあった唐の高宗の勅建寺。インドの祇園精舎を模し壮麗をきわめたと伝えられる。ただし監主は玄奘三蔵であり、道邃和尚ではない。ここは龍興寺か国清寺の誤伝か。道邃は中国、唐代の天台宗の僧。生没年未詳。諡は興道尊者。妙楽大師湛然に師事。貞元20年(0804)に龍興寺(浙江省臨海市)に住す。同年より翌21年にわたり、最澄と通訳僧であった義真に天台法門を伝えた。道邃が最澄に出会った時の興味深い逸話が「一代聖教大意」に説かれる。天台山国清寺で入寂した。
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仏滝寺の行満
 仏滝寺とは、天台山仏隴寺(浙江省)のこと。行満は中国、唐代の天台宗の僧。生没年不明。妙楽大師湛然に師事。伝教が入唐したときは、道邃が天台山国清寺を領し、行満が天台山仏隴寺を住持していた。仏隴寺は天台山の仏隴峰の北峰の銀地に位置し、国清寺より約二20里上にある。延暦23年(0804)9月から翌月にかけ、伝教に数多の天台学の書籍を与え、天台法門を伝授した。著書に「六即義」一巻等がある。
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止観円頓の大戒
 摩訶止観を止観といい、円頓とは円満、頓極の教え。即身成仏の教え。

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霊感寺の順暁和尚
 霊感寺とは、泰山霊巌寺(山東省)のこと。順暁は中国、唐代の真言宗の僧。生没年不明。善無畏三蔵の弟子・義林に師事。霊巌寺に住し、その後越州(浙江省紹興)の竜興寺に移った。この間、不空三蔵からも密教を学んだという。延暦23年(0804)伝教に真言の法を授けた。
―――
理同事勝
 真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
―――
大乗別受戒
 天台法華宗では、一般の大乗戒が三聚浄戒を通じて受ける通受戒に対して、別に梵網の十重・48軽戒を受けるのを大乗別受戒という。
―――
依憑集(
 伝教大師の著、1巻。くわしくは「依憑天台集」。諸宗の師が天台大師に依憑している文を集めたもの。
―――
竜智菩薩
 真言宗の第四祖。竜樹菩薩の弟子で、金剛智の師。
―――
大智度論
 略して大論、智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
不空
 (0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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 この章からは、末法においては、日蓮大聖人が日本に出現あそばされて、法華経を流布し、怨嫉を受け、大難にあわれるのを明かすのである。
 初めに、前代流布の真言を破折する段であり、本章はわが国において伝教大師が真言を破折なされていることを明かされている。第11章の「又日本国には人王……」からは、わが国へ仏法の伝来したことを明かされていて、初めには六宗を、次には天台、真言の二宗の伝来の相を明かしているようにみえる。しかるに、なぜ前代流布の真言を破折というのであるか。これに対して日寛上人の文段には、次のように示されている。
 第七章からは在世及び正法時代の値難について述べ「如来の現在すら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」の仏の予言を証明なされている。「況んや滅度の後をや」の文を釈するのに、初めは正法時代の四依をあげて、提婆菩薩・師子尊者、仏陀密多、竜樹菩薩、馬鳴菩薩・如意論師等が、正法弘通のゆえに大難にあわれたことを明かしている。次は像法時代の三師を挙げ、天台大師・妙楽大師・伝教大師が、それぞれ法華経のゆえに大難にあわれたことを明かしてきた。以上で正像の二時を釈し終わり、本文からは末法を釈するのである。
 なぜ「前代の真言」といって、念仏・禅の混迷をあげないのか。それは本御抄における日蓮大聖人の破折の正意は真言宗にあるからである。清澄寺大衆中にいわく「真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ……日本国の法華経の正義を失うて一人もなく人の悪道に堕つる事は真言宗……」(0893-08)と。
真言・止観の二宗の勝劣等
 真言宗は前に引く御抄のとおり、法華経を失う悪法であり、亡国、堕地獄の邪宗である。今これを撰時抄の御文を引きながら、概略してみよう。
一、中国の真言の開祖
 唐の玄宗皇帝の時代に、善無畏、金剛智、不空の三人の三蔵によって、インドから大日経、金剛頂経、蘇悉地経が中国へ渡された。まず善無畏三蔵は中国へきてみて、今さら大日経を弘めても、華厳宗や天台宗にはとうてい及びそうもないところから、天台宗の学僧の中の一行阿闍梨という人をつかまえて、次のような邪説を立てて書かせた。 
 「爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向って大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向ってとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし、もししからば大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし、さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし、三密相応する程ならば天台宗は意密なり真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して弓箭を横たへ太刀を腰にはけるがごとし、天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸なるがごとくならんといゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり」(0276-01)
 これがいわゆる理同事勝であって、大日経と法華経とは理が同じく、大日経のほうは印と真言があるから事において勝れているという邪義である。
 一行阿闍梨というのは、天台の学僧でありながら、このような、とんでもない邪義を筆授して世に伝えたのである。また天台宗の中にも、天台大師のような智者もなく、しかも善無畏らは王族の出身で尊貴の身分であるところから、真言の邪義は世にはびこり、天台宗の正義がかえって薄れてしまったのである。
二、伝教大師と真言
 伝教大師は中国へ留学して帰る時、天台、真言をわが国へ持ってきて、天台宗を日本の皇帝に授け、真言を六宗の僧に修学させた。その後伝教大師は、真言をはっきりと破折されなかったけれども、その原因は、一には戒壇を建てるか建てないかの争論が激しく、なるべく敵を少なくして戒壇を建立せんがために、真言に破折を加えられなかったのであろうか。あるいは二には末法に破折させようと残されたものとも思われる。
 ただし伝教大師の著に依憑集という秘書があり、これには真言をはっきりと破折なされている。その文は本講義第十六章に、詳しくのべられている。すなわち依憑集の序には「新来の真言家は則ち筆授の相承を愍じ」と。さらに本文にもお示しのごとく、不空三蔵は、善無畏と金剛智の死んだ後にインドに旅行して竜智菩薩に会った。するとインドには仏意をきわめた論釈はないが、中国の天台こそは邪正偏円をきわめているから、それをインドへ持ってきて弘めてくれといったということを、不空の弟子で含光という人が、妙楽大師に語ったと、妙楽大師は記の十に書いている。その文を伝教大師は、また依憑集に載せている。これによってみても、真言より天台のほうが、はるかに勝れていることが明らかである。
 さらに日本へきては、弘法慈覚等によって、いよいよその邪義が激しくなったのである。
三、日本の真言の邪義
 弘法は十住心論、秘蔵宝鑰二教論に「戯論となす」「無明の辺域にして明の分位に非ず」「震旦の人師諍って醍醐を盗んで各自宗に名く」と。
 すなわち大日経に対すれば、法華経は「戯れの論」であるとか、「大日如来に比べたら釈迦は無明の辺域である」とか、さらにはなはだしいのは、「天台大師が真言の醍醐を盗んで天台宗を醍醐と定めた」というような、反対のことをいっている。天台の一念三千を盗んで理同などといったのは、真言の開祖たちである。自分が盗人のくせに、盗まれた人をさして「あれは盗人だ」といっているのである。
 次に正覚房の舎利講の式には「法華・華厳等の仏は、正覚や弘法に比べたら、牛飼、履物取にも及ばない」といっている。
 さらに、慈覚大師、智証大師は身は天台の座主でありながら、真言を第一とし、理同事勝と立てている。天台宗の中にもこの邪義邪見を破折する者がなかったために、日本国中に亡国、堕地獄の悪法が弘まってしまった。
 報恩抄にも後段に引かれているが、真言亡国の第一現証は承久の乱である。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと企て、真言のあらゆる秘法をつくして祈禱したのに、兵をあげてからわずかに一か月、幕府軍と戦っては、たった一日で朝廷軍は潰滅(かいめつ)し、三上皇が島流しになってしまった事実である。
 その後も、高野山で戦勝祈願を行なうなどということが、敗戦亡国の原因となったのである。また今日、真言宗の家庭において一家の跡取りがつぎつぎと倒れ、または家出等して、真言亡国の現証をよく見ることができるのである。
不空があやまれる菩提心論等
 本抄には、
 「問うて云く唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす其の名を菩提心論となづく……竜猛の言ならぬ事処処に多し故に目録にも或は竜猛或は不空と両方にいまだ事定まらず、其上・此の論文は一代を括れる論にもあらず荒量なる事此れ多し、先ず唯真言法中の肝心の文あやまりなり其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして文証も現証もあとかたもなき真言経に即身成仏を立て候又唯という唯の一字は第一のあやまりなり、事のていを見るに不空三蔵の私につくりて候を時の人にをもくせさせんがために事を竜猛によせたるか其の上不空三蔵は誤る事かずをほし」(0268-03)と。
 法華経と真言宗の大日経の哲学の相違をくらべれば、まことに天地雲泥の相違がある。すなわち大日経は法華経からみれば、七重八重の劣にすぎない。
 真言宗の立てる大日如来は、与えていっても単法身の如来にすぎない。また久遠を明かさぬゆえに垂迹仏である。天台で立てる法華経本門の久遠実成の仏は、法報応三身常住であるがゆえに、単法身の大日如来よりも、比較にならぬほど秀れているのである。
 真言の大日如来は、法身論を説くゆえに、西洋のキリスト教に似ていなくもない。また当時、一念三千の法門をはじめ、天台宗の義をことごとに盗みとったという辺からみれば、物まねに終始する現在の立正佼成会のような姿といえようか。
 このように真言宗は、方等部以下の大日三部経を立て、しかも諸経中の王たる法華経を三重の劣、戯論の法と下し、本門の釈迦仏を顕教の教主と下し、理同事勝を唱え、一念三千を盗み、不動や畜類を本尊として拝ませる、これ恐ろしき亡国の邪教というべきである。
 伝教大師は依憑集の中で、一応、真言を打ち破られたが、大破折は末法の御本仏、日蓮大聖人の御出現に待たれたというべきである。すなわち、日蓮大聖人は、立宗の初めは浄土念仏を徹底的に破折なされたが、佐渡以後とくに、完膚なきまでに真言を粉砕しておられるのである。
 次に、本抄にも数多くの経や釈のことがのべられているが、仏教には経論釈がある。経とは仏の説いた教法の本典をいう。論とはインド等の菩薩論師が、仏の教義経説を広く解釈弘伝したものである。釈とは中国、日本等の人師が経を注釈して著述した書である。
 たとえば、竜樹菩薩の大智度論、中論、十二門論、提婆菩薩の百論、天親菩薩の唯識論等は「論」にあたる。法華経二十八品を注釈した天台大師の法華文句、法華玄義、摩訶止観や妙楽大師の法華文句記、法華玄義釈籤、輔行伝弘決等は、「釈」にあたる。
 末法においては「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし」「白法隠没」といわれるように、御本仏、日蓮大聖人の御書こそ、経と拝さなければならない。そして、日蓮大聖人の仏法を根幹として発表するわれわれの論文は、いずれも応用であり、「論」「釈」にあたるものといえよう。

0305:05~0305:17 第13章 弘法の真言伝弘top

05   又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり後には弘法大師とがうす、 去ぬる延暦二十三年五月十二日に御
06 入唐、漢土にわたりては 金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子 慧果和尚といゐし人に両界を伝受し大同二年十
07 月二十二日に御帰朝平城天王の御宇なり、 桓武天王は御ほうぎよ 平城天王に見参し御用いありて御帰依・他にこ
08 となりしかども 平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給いしかば 弘法ひき入れてありし程に伝教大師は嵯峨天王
09 の弘仁十三年六月四日御入滅、 同じき弘仁十四年より弘法大師・王の御師となり 真言宗を立てて東寺を給真言和
10 尚とがうし此より八宗始る、 一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、 法華
11 経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、 教主釈尊は仏なれ
12 ども大日如来に向うれば 無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、 天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華
13 経を醍醐というなんどかかれしかば 法華経はいみじとをもへども弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず、 天
14 竺の外道はさて置きぬ漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば 邪見の経といゐしにもすぐれ 華厳宗が法華経は華
15 厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり、 例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈
16 尊の四人を高座の足につくりて 其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし、 伝教大師・御存生ならば一言は出され
17 べかりける事なり、 又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん天下第一の大凶なり、
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 また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という者があり、後に弘法大師と号した。この人は、さる延暦二十三年五月十二日に入唐し、中国の地において金剛智・善無畏両三蔵の第三代目の弟子である慧果和尚から、金剛界および胎蔵界の真言を伝受した。そして平城天皇の大同二年十月二十二日に帰朝した。
 その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。
 弘法は、釈尊一代の教法を判じていわく、「第一真言大日経、第二華厳、第三は法華涅槃である」等と。しかも弘法は「法華経は、阿含経、方等経、般若経等に対すれば真実の経であるけれども、華厳経、大日経に望むれば戯論の法である。法華経を説かれた教主釈尊は、仏ではあるけれども、大日如来に比すれば、無明の辺域を脱しきれぬ仏である。あたかも皇帝と俘囚(捕虜)のごときである。天台大師は盗人である。真言の醍醐味を取って、法華経を醍醐という」等と書いたので、彼のいうことを聞いていると、みなは内心では法華経は勝れた教えだとは思うけれども、弘法大師にあえば、物の数でないことになってしまう。
 インドの外道の邪義であることはさておいて、中国の南三北七の邪師が、法華経は涅槃経に比すれば邪見の法だといったよりも、はなはだしい謗法であり、華厳宗のものが、法華経は華厳に対すれば、枝末の教だと説いたよりも過ぎている。たとえば、彼の月氏の大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくって、その上にのぼって種々の邪法をひろめたのにひとしい。もし、かりに、伝教大師が御存生であったならば、かならずや破折のことばを出されたにちがいないのである。
 御入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審を懐(いだ)かなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。

石淵の勤操僧正
 (0758~0827)。大和国石淵寺の三論宗の僧。善議法師から三論宗を受ける。伝教大師からは密潅を受け、弘法大師には三論宗を伝えた。六宗七大寺14人の碩徳 に加わり、伝教大師と論議して敗れた。
―――
空海
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
慧果和尚
 (0746~0806)。中国唐代の僧。照応(陝西省臨潼の人で、俗姓を馬という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(0805)弘法に教えを伝えた。
―――
両界
 真言宗の依経である大日経胎蔵界と金剛頂経金剛界曼荼羅。
―――
東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
―――
無明の辺域
 真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
―――
大慢婆羅門
 インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
―――
大自在天
 梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。
―――
那羅延天 
 梵語ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空を行くとある。一切経音義巻六には、この神を供養するものは多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。
―――
婆籔天
 梵語ヴァスデーヴァ(Vasu-deva)、音写して婆藪天。「意譯世天」と訳す。此天為毘紐天の子。
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 この章からは日本の真言の開祖たる弘法・慈覚の伝弘を明かしている。まず本章は弘法である。
真言は亡国の悪法
 前章の講義にも真言の邪義謗法を指摘したが、じつに真言宗というのは国を滅ぼし家を滅ぼす悪法邪法である。
 彼らの立てるところによれば、大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛頂経を説いた。金剛薩埵がそれらを結集して南天の鉄塔においた。
 釈尊滅後の100年ころ、竜樹菩薩がその鉄塔の扉を開き、両経を金剛薩埵より授かり、これを竜智菩薩に伝えた。竜智はさらに大日経等を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けたという。さらに不空に伝えられ、不空は慧果に伝えた。善無畏・金剛智・不空・慧果はみな中国において弘通したが、いまだ真言宗という一宗派にはなっていなかった。
 日本の弘法は慧果より、金剛・胎蔵両部を伝承し、帰朝の後、真言宗として日本に弘めた。弘法や正覚房や慈恩が、法身の大日を立てるとともに、口をきわめて法華経や釈尊を戯論だなどとののしったことは、前章の講義のとおりである。
 しかして弘法の流れは、弘法の立てた東寺を中心にして弘めたので、東密という。これに対し、慈覚や智証は天台宗の座主でありながら、天台・法華を破し、真言を第一と立てて弘通したので、これを台密とう。
 日蓮大聖人は真言を亡国の邪法なりと断定されたのは、おのれの主君である釈尊を捨て、法身の大日を立てるので、亡国とおおせられたのである。大日如来は法身仏であって、われわれの生活に直接の関係はない。慈悲と智慧をもって衆生を化導する一身即三身の仏こそ、主師親の三徳の仏である。正像には釈尊、末法には日蓮大聖人こそ主師親三徳の仏である。
 誤れる宗教がなぜ国を滅ぼすか。現代人は宗教に無智であるから不思議に思うであろう。しかるに開目抄には「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200-09)と仰せられている。いくら仏道修行に励んでも、いくら努力をつみ重ねても、国に亡国の邪法が流行していては、民衆の幸福はありえないのである。とくに一国の指導者・政治上の権力者が、心すべきことはこのことである。
 現在の真言宗は、台密を別にすれば、いずれも弘法を開祖として、高野山を総本山とする古義真言宗と、智山、豊山の両山を総本山とする新義真言宗とに分けられる。すなわち古義は高野山金剛峯寺、仁和寺、大覚寺等の古義真言宗、真言宗東寺、真言宗醍醐寺等の七派であり、これに対して新義は真言宗豊山派と真言宗智山派である。
 新義派は、法身の大日如来が自証極意という絶対の位で説法したのが大日経であるとする本地身説法を説き、古義派は衆生を加護するための加持身を現わして説法したのが大日経であるとする加持身説法を説く。しかし、いずれの派も、釈尊出世の本懐である法華経を第三の劣、戯論と下し、また釈迦仏を無明の辺域であり草履取りにも及ばないという邪義を立てている。
 江戸時代の中期に、第五代将軍綱吉は始め英邁な将軍とされていたが、後に新義真言の隆光に帰依してから悪政をほしいままにし、隆光の勧めで、世に悪名高い「生類憐みの令」によって、人間を犬等の畜生以下に取り扱う等の暴挙に出たこともあった。現在も真言の悪義は亡国亡家の教えであり、真言の祈禱によって、国を滅ぼし社会を混乱させ家を滅ぼした例は無数にある。また成田不動などの不動信仰も、真言密教の邪悪な修法の流れであり、同じく大きな害毒を社会に流しているのである。弘法ひとりの我見によって、現在まで、日本国中に邪法がまき散らされていることは、まことに恐るべきことといわなければならない。

0305:17~0306:12 第14章 慈覚の真言転落top

17                                                  慈覚大
18 師は去ぬる承和五年に御入唐・漢土にして十年が間・天台・真言の二宗をならう、法華・大日経の勝劣を習いしに法
0306
01 全・元政等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云、天台宗の志遠・広修・ 維等に習いしには大日
02 経は方等部の摂等云云、 同じき承和十三年九月十日に御帰朝・嘉祥元年六月十四日に宣旨下、法華・大日経等の勝
03 劣は漢土にして しりがたかりけるかのゆへに 金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻・已上十四巻此疏の心は大日
04 経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は 其の所詮の理は一同なれども 事相の印と真言とは真言の三部経すぐ
05 れたりと云云、 此れは偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし、 然れども我が心に猶不審
06 やのこりけん 又心にはとけてんけれども人の不審をはらさんとや・おぼしけん、 此の十四巻の疏を御本尊の御前
07 にさしをきて御祈請ありき・かくは造りて候へども 仏意計りがたし大日の三部やすぐれたる 法華経の三部やまさ
08 れると御祈念有りしかば五日と申す五更に忽に夢想あり、 青天に大日輪かかり給へり 矢をもてこれを射ければ矢
09 飛んで天にのぼり日輪の中に立ちぬ 日輪動転してすでに地に落んとすと・をもひて・うちさめぬ、悦んで云く我吉
10 夢あり法華経に真言勝れたりと造りつるふみは 仏意に叶いけりと悦ばせ給いて 宣旨を申し下して日本国に弘通あ
11 り、 而も宣旨の心に云く「遂に知んぬ 天台の止観と真言の法義とは理冥に符えり」等と云云、祈請のごときんば
12 大日経に法華経は劣なるやうなり、宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。
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 慈覚大師は、去る承和五年に入唐、彼の中国で十年のあいだ、天台・真言の両宗を学んだのである。
 法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広脩・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段に劣ると説いていた。
 こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言灌頂の事を願い出たところが、行なってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国で学んだあいだは、知ることができなかったかのごとくであった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して以上十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。
 この所見は、まったく善無畏・金剛智・不空等の意によったもので、彼らの大日経の疏の意と同じである。しかし、このように書いたものの、わが心になお不審が残っていたためか、また自分の心では決めていても、他の人々の不審をはらそうと思ったのか、慈覚は、この十四巻の疏を、本尊の宝前に安置して祈請をしたのである。すなわち、自分はこの疏に意見をしたためたのであるが、仏意のほどはなかなかはかりがたい。大日経の三部が勝れるものか、法華経の三部が勝れるのか、験をたまわりたいと祈ったところが、五日目の午前四時ごろに夢想があった。それは、青天に大日輪がかかり、矢をもってこれを射たところ、矢飛んで空に上り、日輪の中に当たったので、日輪は動転して地に落ちんとした時に夢さめたのである。夢さめて慈覚は、ひじょうに喜んでいうのには、「われにとってまさに吉夢である。法華経に真言勝るるという所見は、すでに仏意にかなっている証拠である」と喜んでいった。そこで宣旨を得て、日本全国にひろめたのである。
 しかし妙なことに、この宣旨には、「ついに天台の止観と、真言の法義とは、その所詮の理は冥合である」といっている。祈請の意は、「大日経は勝れ、法華経は劣る」というのであるから、宣旨を申し下した「法華経と大日経とは同じ」という内容と、ぜんぜん違い、まことに奇怪千万なことである。

慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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法全
 生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。
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元政
 中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0838)入唐し、金剛界の教えを受けた。
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志遠
(0768~0844)。中国・唐代の天台宗の僧。幼くして父を失ったが、母は常に法華経を念じてその義を悟ったという。各地の名徳をたずね五台山華厳寺に入って天台宗を学び、入唐した慈覚に止観を伝えた。
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広脩
(0771~0843)。中国・唐代の天台宗の僧。広修とも書き、至行尊者ともいわれる。道邃和尚の弟子となり、天台山禅林寺で天台の教観を学び、法華経・維摩経・金光明経等を日々読誦したといわれる。後に、請われて台州に行き、学堂で止観を講じた。円澄の「延暦寺未決三十条」の問いに対して、開成5年(0840)弟子の維蠲とともに答えている。
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維蠲
 中国天台宗、天台山広脩座主の高弟。妙楽大師の法曽孫。
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金剛頂経の疏七巻
 金剛頂経を慈覚大師が訳した書。7巻からなる。
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蘇悉地経の疏七巻
 蘇悉地経を慈覚大師が撰した書。7巻からなる。
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忽に夢想あり
 慈覚大師は、仁寿元年(0851)金剛頂経の疏を作り、4年後の斎衡2年(0854)、蘇悉地経の疏を作った。この二経の疏を仏像の前に置き、7日間の祈りをこらした。5日目の夜に、晴天にかかった日輪を射て、動転させる夢をみて、これこそ仏意にかなった吉夢として、後世に伝え、流布した。ただしこの夢は吉夢ではなく悪夢である。
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 障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
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 この章は慈覚の伝弘を明かし、その謗法を破折なされている。
 14巻の疏を作り、その疏が仏意にかなう証拠として、夢に日輪を射て、矢が日輪に立ち、日輪が動転するのを見たという。このような大凶夢を、仏意にかなうなどというのは、じつに言語道断である。また、まことに非科学的であるといわざるをえない。
 ゆえに撰時抄には「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279-12)とて、慈覚が天台の第三の座主でありながら、法華に真言は勝れると立て、日本国の滅亡の原因をつくってしまったことを責められている。慈覚、智証ともに本来は天台宗であり、伝教大師の弟子であり孫弟子である。ゆえに恩師の正義を奉じて、おおいにこれを高顕するとともに、もし恩師の滅後に邪智邪見の者が出現したならば、不自惜身命の戦いをなすべき地位にあったのである。
 しかるに彼らは、真言の研究に没頭し、ついには法華が劣り、真言が勝れるという、とんでもない弘法の邪義に転落した。本来が弘法の弟子で、師の邪義を受け継いだというのなら、同じ地獄へ堕ちてもまだやむをえない一面があるとしても、天台座主という仏教界の最高の地位にありながら、邪義邪見に陥ったということは、「百千万億倍・信じがたき最大の悪事」と責められるのもとうぜんであろう。
 宗教批判の原理に、文証、理証、現証ということがある。どんな幼稚な人であっても、太陽を射落として、これが吉夢だなどということが、道理の上から考えても、生活現証の上から考えても、どうしていえるであろうか。しょせん狂人というよりほかはないのである。
 まことに慈覚の理同事勝の邪見は、救いがたいものであり、日蓮大聖人は「早勝問答」の中に「慈覚大師を無間と申すなり」ともおおせである。
 慈覚は諱を円仁といい、下野国都賀郡の人である。年15にして伝教大師の弟子となり、後に止観院において円頓戒もうけ、承和5年(0838)、勅を奉じて唐に渡った。年の間、修行研鑽に励み承和13年(0843)9月帰朝した。この間の「日記」や「入唐巡礼記」は有名で、細密な記録は当時の唐を語る貴重な文献として珍重されているが、その後、延暦寺座主に任ぜられながら、真言に転落したのである。世上、いかに尊敬され、記録を残そうとも、仏法において大違失、大謗法あるならば、仏敵としか言いようがない。これは、弘法や智証等、すべての邪師に通ずる問題である。
 はたせるかな、弘法、慈覚等の最後は、はなはだ悪かったのである。日蓮大聖人の教行証御書には「一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や、……是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞや」(1279-16)とおおせである。
 すなわち慈覚の遺体は、今、山形県の山寺、立石寺にありというが、首と胴が離れ離れになっており、死去のありさまは大変悪かったようである。また弘法も死去の前に悪瘡が身体に生じて苦しみ、死去の際も入定と称して誰にも会わせなかったといわれ、七百年前には、明白な記録があったゆえに、日蓮大聖人が、かくおおせになったと思われるのである。「臨終のことを習うて後に他事をならうべし」の御金言、もっていかんとなすや。
現代の仏教観
 ところで、一般世間の弘法、慈覚、忍性良観等に対する見方は、仏法の正邪、あるいは民衆に真の幸福をあたえたかどうかではなくして、多分に表面的なものや形式等を中心にして評価しているのである。とくに、現代人の仏教観はますます仏法の真髄から離れる傾向にあることは、おおいにいましめていかなければならない問題であろう。
 たとえば、現代の人々は、仏教といえば「消極的なあきらめの宗教である」「念仏のような他力本願の宗教である」「座禅を組むのが仏教の教えである」「仏教はなんでも同じである」あるいは「仏とは死んだ人をさすのである」「南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も同じである」等というような、きわめて浅薄な誤れる仏教観しかもっていない。
 その結果、仏教を軽べつし、興味を失い、キリスト教や西洋哲学のような低級宗教、低級哲学に走ってしまうのである。これも、いままで、あまりにも堕落しすぎた既成仏教、葬式仏教、墓守り仏教の罪というべきである。しかし、真実の仏教は、全世界の宗教、哲学を堂々とリードし、指導しきっていく大生命哲学なることを知らなければならない。
 よく仏教で「諦観」「諦め」「三諦」とかいう、いわゆる「諦める」とは、現在のように、「消極的に物事を思いきる」「断念する」意味ではなくて、「物事の道理をあきらかに究明しきっていく」ことを意味しているのである。そして、その結果、空仮中の三諦とか、三諦円融とか、西洋哲学も遠くおよばない、まさに画期的な思想体系を作り上げているのである。
 また「念仏のような他力本願」「禅宗のような自力本願」といわれるような教えは、すでに三千年前、釈尊が方便権教として捨て去るべきであると決定した低級哲学であり、真実の仏教は、釈尊在世には法華経、像法時代には法華経迹門、理の一念三千、現代においては日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の教え以外にないことを仏教史観に照らして明らかに知るべきである。仏教には五時八教、五綱等があって、けっして「仏教はなんでも同じ」ではなく、厳然と優劣正邪があるのである。
 さらに仏とは「死んだ人」というような観念は、仏教思想が堕落した江戸時代ごろからいわれたことであり、真実の仏とは、インドの釈尊、日本の日蓮大聖人のごとく、絶対的幸福の境涯に達し、すべての民衆を救い切っていく大聖哲をさすのである。また仏教においては、一念三千の理法によって、真実の本尊を信じ行ずることによって、あらゆる人が、人間革命しえて絶対的幸福の境涯に達することができることを教えているのである。したがって、正しい仏教を信じた人は仏となり、邪法邪義を信じ正法を信じない人は現世にも苦しみ、死んでも仏とはなれないのである。
 卑近な例のみをあげたが、そのほか現代人には真実の仏教に対する誤解が満ちみちているといっても過言ではない。心ある人々が、早く東洋仏法の真髄、世界最高の大哲学を求めて、各個人の偉大なる人間革命と、社会繁栄の実をあげていただきたいことを、心から念願してやまないものである。

0306:13~0307:06 第15章 智証の真言転落top

13   智証大師は本朝にしては義真和尚・円澄大師別当・慈覚等の弟子なり、顕密の二道は大体・此の国にして学し給
14 いけり天台・真言の二宗の勝劣の御不審に 漢土へは渡り給けるか、 去仁寿二年に御入唐・漢土にしては真言宗は
15 法全・元政等にならはせ給い大体・大日経と法華経とは理同事勝・慈覚の義のごとし、天台宗は良ジョ和尚にならひ
16 給い・真言・天台の勝劣・大日経は華厳・法華等には及ばず等云云、七年が間・漢土に経て去る貞観元年五月十七日
17 に御帰朝、 大日経の旨帰に云く「法華尚及ばず況や自余の教をや」等云云、 此釈は法華経は大日経には劣る等云
18 云、 又授決集に云く「真言禅門乃至若し華厳法華涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」等云云、普賢経の記・論の記
0307
01 に云く同じ等云云、 貞観八年丙戌四月廿九日壬申・勅宣を申し下して云く「聞くならく真言・止観・両教の宗同じ
02 く醍醐と号し倶に深秘と称す」等云云、 又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開いて以て 我が道と為す代代
03 の座主相承して 兼ね伝えざること莫し 在後の輩豈旧迹に乖かんや、 聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違い
04 て偏執の心を成ず殆んど余風を扇揚し 旧業を興隆するを顧みざるに似たり、 凡そ厥の師資の道・一を闕きても不
05 可なり伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや、 今より以後宜く両教に通達するの人を以て 延暦寺の座主と為し立てて恒
06 例と為すべし」云云。
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 智証大師は、入唐前、日本において義真和尚、円澄大師、別当の光定、慈覚等の弟子であった。ゆえに、顕密の二道は、だいたいこの日本国において勉学し終わった。しかるに天台、真言の二宗の勝劣に不審の念をいだき、それを解決するために中国へ渡ったのであろうか、去る仁寿二年に入唐し、中国においては、真言宗は法全・元政等に学んだが、だいたいにおいて、大日経の勝劣については、慈覚の邪義のごとく、同じく理同事勝の邪義であった。
 天台宗については、良諝和尚に学びとり、真言、天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華経にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてその他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華、涅槃経等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためである」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。
 また、貞観八年丙戌四月廿九日壬申に勅宣を申し下して「聞くところによれば、真言、止観の両教の宗は同じく醍醐の教えであり、ともに深秘の法である」といっている。また六月三日の勅宣にいうには、「先師伝教大師は、すでに止観、遮那の両業を開いて、もってわが天台家の修道とされた。したがって、代々の天台宗座主はみなこれを相承して、両業を兼ね伝えぬことはなかった。後人のやから、またこの旧来の義に違背すべきではない。聞くところによれば、近来の比叡山の僧等は、もっぱら先師の義に違背して、自分の勝手な偏執の心をおこしている。しかして、ほとんど古来からの余風を宣揚し、旧業を興隆することを顧みようとしないのである。およそ、師資の道がそのまま一つ闕けてもならないのである。伝弘のつとめは、先師のごとく兼備していかなければならない。いまより以後は、よろしく顕密両教に通達する人をもって、延暦寺の座主として立てることを恒例とする」と。
 かくのごとく、智証のいうことは、あるいは真言が勝れ、あるいは法華が勝れ、あるいは同じなどと、すべて矛盾に終始しているのである。

智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
―――
義真和尚
 (0781~0833)。平安前期の天台宗の僧。比叡山延暦寺第一代座主。修禅大師と称される。相模(神奈川県)の出身。俗性は丸子連または丸子部。はじめ奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒され中国語にも通じた。その後最澄に師事、延暦23年(0804)最澄の入唐時、訳語僧として随行し通訳を務めた。最澄の死後、大乗戒壇設立の勅許を得て戒和上となった。著書に「天台法華宗義集」1巻などがある。「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり」(0310-14)とおおせで、義真が師の正義をよく奉じたことを賞されている。
―――
円澄大師
 (0771年~0836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310-14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320-04)とおおせで、円澄はその心の半分を、他師である弘法の方に向けている、と喝破されている。
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別当
(0779~0858)。光定のこと。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、30歳の時に伝教大師の弟子となる。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
―――
顕密の二道
 顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
法全
生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。
―――
元政
 中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0832)入唐し、金剛界の教えを受けた。
―――
良諝和尚
 生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。良湑とも書く。天台大師から第九代の伝法弟子。開元寺に住み、後に日本天台宗第五代になる智証が嘉祥4年(0851)にこの寺を訪れた時、天台宗旨を講述した。和尚は弟子から呼ぶ師匠の称。なお禅宗では「おしょう」、天台では「かしょう」、真言、律宗では「わじょう」と読む。
―――
授決集(
 智証の著。二巻。
―――
摂引門
 授決集には「真言・禅門……若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」とある。真実の教えに摂引すべき方便の門すなわち、真言、禅等は、法華へ入らしむるためのものであるとの意。
―――
普賢経の記
 智証の著。「観普賢菩薩行法経記」2巻のこと。
―――
論の記
 智証の著。天親(世親)の法華論を注釈した「法華論記」10巻、略して「論記」という。
―――
―――
醍醐
 五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
―――
両業
 天台宗の学生が学ぶべき二つの行為で、止観業と遮那業のこと。
―――
相承
 相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。
―――
旧迹
 伝教の開創した天台宗の行業。
―――
山上の僧
 比叡山延暦寺の僧。
―――
扇揚
 あふりたて、さかんにすること。
―――
師資の道
 教法を授受するの道。資は稟の義で弟子をいう。
―――
両教
 顕密両教のこと。
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 次にこの章は智証の伝弘である。
 智証は諱を円珍といい、後に三井寺を再興した。三井寺はまた園城寺ともいう。智証は慈覚と同じく、理同事勝の邪義を弘めたが、慈覚を祖とする比叡山延暦寺と、智証を祖とする園城寺は、後に犬猿のごとく相争い、日本歴史に、また仏教史上に、大きな汚点を残すようになるのである。
 そして、比叡山と三井寺は、約千年の間、日本民族を不幸にしながら、現在においては、あわれな旧跡をとどめて、また観光地化に一役かっているような姿にすぎない。本師・伝教大師が、いかほど嘆き悲しんでいるか、察するにあまりあるものである。
 智証は、伝教大師や慈覚と同じく、唐へ渡って仏法の正邪を明らめようとした。仏法東漸の像法時代において当時の仏道修行者は、一度は大陸へ渡って、一切経を学び、奥底をきわめようとすることを願っていた。これはちょうど現在、留学生が欧米に渡っているのと似ているのである。そうすることは、世間的にも、また官に仕える立場からいっても、ひとつの資格のように思われていたのである。しかるに今日では、かつて仏教の発生したインドにおいても、また多くの日本の留学生を迎え仏教の中心として栄えた中国の各地においても、仏教はすでに亡び去っている。
 現在は仏法西漸の時代である。末法の御本仏は、この日本の国に出現あそばされ、三大秘法をお建てになったのである。これによって一切衆生の即身成仏もかなうのである。
智証の矛盾
 さて本章では智証の矛盾を挙げられている。
   一には大日経旨帰には「真言は勝れ、法華でさえ真言に及ばないから、余経は問題ではない」といっている。
   二には授決集には「法華経が勝れていて、真言などは摂引門でしかありえない」といっている。
   三には勅宣を引いて「真言と法華は等しい」といっている。
 なぜ勅宣を引いて智証の矛盾をあげたかといえば、その宣示は智証の申し述べた意味をそのまま取って宣示されたから、これを引かれたのである。

0307:07~0309:07 第16章 慈覚智証を破責すtop

07   されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値いて有りしかども二
08 宗の勝劣は思い定めざりけるか或は真言すぐれ 或は法華すぐれ或は理同事勝等云云、 宣旨を申し下すには二宗の
09 勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり、 此れ等は皆自語相違といゐぬべし 他宗の人はよも用いじとみえ
10 て候、 但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引き載せられたり、 抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞ
11 や此の事よくよく尋ぬべし、 慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは 親に値うての年あらそひ日天に
12 値い奉りての目くらべにては候へども 慈覚・智証の御かたふどを・せさせ給はん人人は分明なる証文をかまへさせ
13 給うべし、 詮ずるところは信をとらんがためなり、 玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし天竺にわたらざ
14 りし宝法師にせめられにき、法護三蔵は印度の法華経をば見たれども嘱累の先後をば漢土の人みねどもあやまりとい
15 ひしぞかし、 設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真
16 の正文に相違せばあに不審を加えざらん、 伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり、 彼の書の序に云く
17 「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し 旧到の華厳家は則ち影響の軌範を隠し、 沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘
18 れて称心の酔を覆う、 著有の法相は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う等、 乃至謹んで依憑集の一巻を著わして
0308
01 同我の後哲に贈る某の時興ること 日本第五十二葉・弘仁の七丙申の歳なり」云云、 次ぎ下の正宗に云く 「天竺
02 の名僧 大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞いて 渇仰して訪問す」云云、 次ぎ下に云く「豈中国に法
03 を失つて之を四維に求むるに非ずや 而かも此の方に識ること有る者少し 魯人の如きのみ」等云云、 此の書は法
04 相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり、天台・真言の二宗・同一味ならばいかでかせめ候べき、而も不空三
05 蔵等をば魯人のごとしなんどかかれて候、 善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば・いかでか魯人と悪口あるべ
06 き、 又天竺の真言が天台宗に同じきも又勝れたるならば 天竺の名僧いかでか不空にあつらへ 中国に正法なしと
07 はいうべき、 それは・いかにもあれ慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子に
08 あらず、其の故は此の書に云く「謹で依憑集一巻を著わして 同我の後哲に贈る」等云云、 同我の二字は真言宗は
09 天台宗に劣るとならひてこそ 同我にてはあるべけれ 我と申し下さるる宣旨に云く「専ら先師の義に違い偏執の心
10 を成す」等云云、 又云く「凡そ厥師資の道一を闕いても不可なり」等云云、 此の宣旨のごとくならば慈覚・智証
11 こそ専ら先師にそむく人にては候へ、 かうせめ候もをそれにては候へども 此れをせめずば大日経・法華経の勝劣
12 やぶれなんと存じていのちをまとに・かけてせめ候なり、 此の二人の人人の 弘法大師の邪義をせめ候はざりける
13 は最も道理にて候いけるなり、 されば粮米をつくし人をわづらはして漢土へわたらせ給はんよりは本師・伝教大師
14 の御義を・よくよく・つくさせ給うべかりけるにや、されば叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代
15 計りにてやありけん、 天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり、 されば慈
16 覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給う人なり、已今当の経文をやぶらせ給うは・あに釈迦・多宝・十方の
17 諸仏の怨敵にあらずや、 弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、
18 其の故は水火・天地なる事は僻事なれども人用ゆる事なければ 其の僻事成ずる事なし、 弘法大師の御義はあまり
0309
01 僻事なれば弟子等も用ゆる事なし事相計りは其の門家なれども 其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに 善無
02 畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり、慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さ
03 もやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらは
04 んがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり、 例せば法師と尼と黒と青とは・まがひぬべけれ
05 ば眼くらき人はあやまつぞかし、 僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず、いわうや眼あきらかなる者をや、 慈
06 覚・智証の義は法師と尼と黒と青とが・ごとくなる・ゆへに智人も迷い 愚人もあやまり候て此の四百余年が間は叡
07 山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ。
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 されば慈覚と智証の二人は、伝教の弟子であり、また義真の弟子である。しかも、ともに中国に渡っては、天台宗や真言宗の明師に会って学んでいるのであるが、天台、真言の二宗の勝劣については、決定し兼ねたのか、あるいは真言がすぐれるといい、あるいは法華経がすぐれるといい、あるいは理同事勝である等といっている。宣旨を申し下した文の中には、天台、真言の二宗の勝劣を論ずるものは違勅の罪人であるといましめている。
 これらは、みな自語相違というべきである。真言宗のほかの他宗の人々は、もはや信用しないであろう。しかして真言天台の二宗は斉しいということは、先師伝教大師の御義である等と宣旨に引きのせられているが、いったい伝教大師のいずれの書物に書かれていることか、よくよくたずねてみるべきである。慈覚、智証と日蓮大聖人とが伝教大師の御事を、いろいろ詮索するのは、親に会い親の前でその年をいいあらそうようなものであり、日天に向かって自分の目が太陽よりも明るいというようなものである。すなわち慈覚・智証は伝教大師の直弟であり、日蓮大聖人は後世の者であるからである。しかし、慈覚・智証の味方をする人々は、もっとも明らかなる証文をいだすべきである。ということは、つまりは真実の確信を得んがためのものである。
 昔、玄奘三蔵はインドで婆沙論を見た人であるが、インドにも行かぬ宝法師に攻められた。法護三蔵はインドの法華経を見たけれど、嘱累の先後については正しくこれを見ることができなかった。ゆえに漢土の人々から、彼は誤ったといわれたのである。たとい慈覚は伝教大師にあいたてまつって習学したとしても、また智証は義真和尚から直接に口決の相承を受けたとしても、伝教大師、義真大師の確証たる正文と相違するならば、慈覚・智証の義に不審を懐かざるをえないではないか。
 伝教大師の著に、依憑集という一巻の書がある。この書は伝教大師における第一の重要な意義をもつ秘書である。この依憑集の序にいわく「新来の真言宗は、すなわち筆授の相承の教義を泯亡するものである。旧到の華厳宗はすなわち天台の影響をうけ、天台を規範としたことを隠している。空に沈むところの三論宗は昔、天台の学徒より論破された屈恥を忘れて、章安の講義に心酔したことをかくしている。有相に執着する法相宗のものは撲揚が天台の教義に帰依したことを否定し、また青竜寺の良賁が天台の判教によったことを忘れている。いま、つつしんで依憑集一巻を著わして我に同心なる後来の学者に贈る。日本国第五十二代、弘仁七年、丙申の歳」と。
 ついで次下の正宗文には「インドの名僧がいうには中国に天台の教迹があって、まことによく邪正権実を簡ぶということだから、ぜひ見たいと思ってたずねた」とあり、次下には「じつに仏法の中国たるインドに仏法を失って四周の他国に仏教を求めるものではないか。ところが、天台の国の人々は、これほどの大法が自分の国にあることを知っている者は、ほとんどいない。ちょうど、それは魯国の人が自分の国の孔子の偉大さを知らなかったようなものである」と。
 依憑集は法相、三論、華厳、真言の四宗を論破したところの書である。天台、真言の二宗が同一味ならば、どうして真言を攻めるわけがあろうか。しかも不空三蔵のことを「魯人」とまでいわれているのである。善無畏、金剛智、不空等の主張する真言がりっぱであるならば、どうして伝教大師が「魯人」などと悪くいわれるわけがあろうか。またインドにある真言が天台宗に同じか、または勝れるならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に天台宗の調査を依頼し、「中国(インド)には彼の正法がないゆえにこれを釈せ」といっただろうか。
 いずれにしても、慈覚、智証の二人は言葉では伝教大師の御弟子と名のっているけれども、心はけっして伝教大師の弟子ではないのである。そのわけは依憑集には「謹んで依憑集一巻をあらわして同我の後哲に贈る」とある。同我という二字の意味は、真言宗は天台宗に劣る教であると心得てこそ、同我というのである。しかして慈覚等が申し下した宣旨には「もっぱら先師伝教大師の義に違うて偏執の心を成ず」といい、「おおよそ師資の道というものは、一を闕いても成り立たない」とある。この宣旨によるならば、慈覚、智証こそもっぱら先師伝教大師にそむくものではないか。かくいって責めることは恐れ入ることであるけれども、このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が転倒してしまうと思い、命をかけてこの義を公言し邪義を責めるしだいである。
 このようなわけであるから、この慈覚、智証の二人が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、まことにとうぜんのことである。されば彼らは多くの費用を浪費し、数多くの人々の労力を使って中国へ渡ることよりも、本師伝教大師の御義を徹底してよくよく研究すべきであった。比叡山の仏法は、ただ伝教大師、義真大師、円澄大師の三代の時までで、以下の天台座主はまったく真言の座主に転落してしまったのである。ゆえにその名と所領とは天台山であるが、その主人は真言師である。
 されば慈覚、智証の両大師は「已今当」の経文を破壊した以上は、釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵になるのであって、いままでは弘法大師こそが第一番の謗法者だと思っていたが、彼の慈覚、智証の両師は、弘法以上の大僻見者であった。
 そのわけは、水と火、天と地ほど相違した僻事はだれでもこれを見破り、人は信用することがないから、その僻事は成功することはない。弘法大師のいう義は、あまりの僻見であるから、弘法の弟子たちも信用しないのである。弘法の門下たちは、その事相だけはその門流であるが、教相においては、弘法の義は依用しがたいから、善無畏、金剛智、不空、慈覚、智証の義を用いている。慈覚、智証の義こそ真言と天台の理は同じだなどというから、なにびともそうであろうと思っている。
 こう思うところから、事に勝れた印、真言について、天台宗の人々も、画像・木像の開眼は、一様にこの事相によらねばならぬとしている。かくして日本一同、真言宗へと転落して、真の天台宗のものは一人もいなくなった。
 このように、天台の末学が誤りをおかした原因は彼らに黒白を区分することができなかったからでもあるが、またそれほど酷似していたといえよう。たとえば法師と尼と、黒と青とはよく似ているので、目の悪いものは迷ってしまうのである。僧と俗人、白と赤とは目の悪いものも迷わない。ましてや目が健全なものは迷うわけがない。慈覚、智証の義は、法師と尼と、黒と青とのごとくであるから、智人も迷うのである。ましてや愚人はなお誤ってしまうのである。かくして四百余年間、比叡山、園城寺、東寺は無論のこと、奈良の諸大寺も、五畿七道のものも、日本全国みな真言のものとなった。ゆえにみな大謗法の者となったのである。

玄奘三蔵
 (0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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婆沙論
 説一切有部の教説の注釈書。旧訳は北涼の浮陀跋摩・道泰の共訳による「阿毘曇毘婆沙論」60巻、新訳には玄奘三蔵訳の「阿毘達磨大毘婆沙論」200巻がある。
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宝法師
 中国・唐代の高僧。はじめは玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に梵語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。後、俱舎宗を弘めた。
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法護三蔵
 竺法護のこと。中国・三国時代の僧。8歳で出家得道したが、諸大乗経があまり中国へ伝わらないのを嘆き、みずから西域に遊行し、広く言語を学び翻経に一生を捧げた。現存する法華経の三つのうち「正法華経」の訳者である。
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嘱累の先後
 鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」には、嘱累品は第二十二番目にあるが、法護訳の「正法華経」には経末にある。これを妙楽大師は法華文句記の嘱累品のなかで、羅什訳が正しいとしている。
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筆授の相承を泯し
 筆授の相承とは、中国・唐代の真言宗の一行阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行は嵩山の普寂について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏」は、まったく天台宗の立場で大日経を釈したものであるが、弘法の東密は大日経を学ぶうえでこれを唯一絶対の権威としながらも、天台法華を大日の三部より劣ると下している。これは善無畏・一行の真言の相承を破ったものであるという意味。なお「泯す」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。
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影響の軌範を隠し
 華厳宗は、天台宗に影響を受け、天台を規範としたことを隠している。すなわち、華厳の法蔵三蔵の五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教)は天台の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に範をとり、それに影響されたのである。
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弾訶の屈恥を忘れて
 三論の祖である嘉祥が、講義中に、天台の学徒で十七歳の法盛に論難され、まったく閉口したことを示す。
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称心の酔を覆う
 称心は、章安大師の住所。嘉祥が章安大師の講義を聞いて、体も心も酔うようになったという。このことを隠しているとの意。
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撲揚の帰依を非し
 撲揚は、中国法相宗第三祖の智周の住所。智周は初め天台に帰依し、「菩薩戒経」の疏をつくったが、日本の法相宗は天台の義によらないので、かくいったのである。
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青竜の判経を撥う
 中国青竜寺の良賁が、仁王経の註釈をするとき、従来の法相宗の師の分文に従わず天台大師の仁王経疏によって分文したことを忘れている。
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同我の後哲に贈る
 我に同心なる後来の学者。世の人々におくること。
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日本第五十二葉
 日本国第52代、嵯峨天皇の御世。
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正宗
 正宗分のこと。」
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「豈中国に」
 中国とはインドのこと。仏教の中心地の意味でこういう。
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四維
 四方。周囲のこと。
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魯人
 露人とも書く。ロシア人のことで、仏教を知らない人々をあらわす言葉として用いられている。
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不空にあつらへ中国に正法なし
 不空に向かって、インドの僧が仏教の中心地である中国にもはや正法は存在しないといった語。
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五畿
 畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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七道
 東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。
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 この章は慈覚、智証が本師・伝教大師に違背した失を顕わし、その謗法の罪を破なされている。
此れ等は皆自語相違ともいゐぬべし
 或いは真言すぐれ、或いは法華すぐれ、或いは理同事勝、宣旨には二宗の勝劣を論ずる者は違勅の者と禁止されている。このように真言と法華の勝劣についての彼らの見解がまちまちであるゆえに、自語相違と断ぜられているのである。
 しかし、慈覚は、法華が勝れているとはいっていない。法華が勝れると立てたのは智証であるが、いまは相従して両方へかけられたのである。
 等海抄にいわく「尋ねて云く真言天台、勝劣同異に幾不同有りや。心賀御義に云く爾なり。四義不同なり。
 一には真言は事理倶に一向天台に勝る是れ弘法智証の御義なり。智証大師御釈に云く南岳大師の三観、一心の理は源、阿字本空の理より出ず。無畏、不空三密同体の教は、冥に円頓一実を助く。此の釈は能生の法は真言、所生の法は天台と釈する故、所生の法は事理共に劣るなりと聞きたり。
 二には事理倶密は真言勝れたり。唯理秘密は両宗同じ。慈覚、五大院、兜率等の御義なり。
 三には真言、天台は事理倶に一向全同なりと。是れ伝教の御義なり。山家の御釈に云く、真言止観、其の旨一なり。故に一山に於て両宗を弘む。本覚の身口意三業の行は更に三密修行に不同無き者なり。元より名目も不同に名言も相違せん事は、両宗格別なる故なり。然るに三密修行も三業相応の行にして共に本覚の修行を以てなり。更に不同有るべからざるなり。
 四には天台は勝れ真言は劣るとは、四重秘釈を以て口伝する子細これ有り」と。
但二宗斉等とは先師伝教大師の御義等
 本文に「抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや」とて、伝教大師には、法華と真言が等しいなどということを書いたものはないと述べられている。
 しかるに伝教大師の書かれた物の中には、二宗が等しいと述べられたものが、次のように残されている。
 すなわち牛頭決には「天台所立の十界互具の文と、秘密最大三十七尊住心城の文と、大道異なりと雖も不思議一なり」と。学生式には「止観真言、二羽両輪」と。しかるになぜ、伝教大師には「二宗斉等」の文がない、と本抄におおせられるのであるか。
 それは、このように真言と法華が等しいと述べられたところは、約教一往の傍義である。約部再往の正意ではないのである。たとえば「此の妙彼の妙、妙の義異なることなしと雖も、但、方便を帯せるか、方便を帯せざるかを以て異と為すのみ」と同じ意である。「大道異なりと雖も不思議一なり」とか「止観真言、二羽両輪」とは、一往の傍義である。再往の正義とは、
 一には真言には宗の名をつけず、天台法華宗と称された。
 二には守護章に大日経を傍依の経となされた。
 三には依憑集に真言を破する故。
 四には記十を引いて真言の元祖を「魯人」となされた。
 五にはそのような含光の物語りを書き載せられた。
 これらの文義に准ずれば、伝教大師の御心は二宗勝劣にあることは分明である。守護章上にいわく「我が山家は教部にして、八教を摂ぜず」と。すでにわが山家は教部といわれていることを思い合わすべきである。それでは伝教大師はなぜ一往斉等の釈をなされたのであるか。それは一山において両業を修して除障方便となされたのである。その証拠として、日寛上人は次の等海抄に略引されている。
「等海抄に都率の三密抄を引て云く、大日経の疏の始終一向に文義を以て釈成す。此の経の理と三観の妙理全く天台に同じ。問う若し爾らば何ぞ秘密教は障を除き顕教は爾らざるや。答う円頓の理は法華経に過ぎず。除障の方便は三密の加持に如かず。天台の法華の陀羅尼品疏にいうが如し。悪世の弘教はすべて悩乱多し、咒を以て之を護る流通することを得る便りとす云云。正宗の妙理、勝ると雖も更に咒を用い難を除く故に、知ぬ三密の教門は除障の術なり。此の教門多く悪世を利する為に、学者我山は真言止観を兼学す。良に以有るなり」
天台大師の依憑集と申す文
 この文からは正文相違の失を破している。
 天台大師の著述された依憑集とは、依憑天台集といって、序文は「天台の伝法は諸宗の明鏡なり」から始まり仏教の各宗派が天台に依憑して宗を立て義を立てていることを明かしている。
 日寛上人は文段に次のようにお述べになっている。「此の序文の意、或は二意有り。謂く且く文相に准ずるに、但元祖の依憑を挙げて、以て末弟の偏執を破するなり。往て義意に准ずるに、彼の元祖の依憑は即ち盗台に当るなり。其の故は天台法華の義に依憑して、宗々の依経を誇耀する故なり」と。
 この依憑集で破折されている真言宗、華厳宗、三論宗、法相宗等は、いずれもその時代の思想界、宗教界を指導し、あるいは政治権力と結んで東洋の各地に流行したものである。しかるにいかに巧妙な宣伝をしても、釈尊がみずから四十余年未顕真実と打ち破ったところの爾前権経を立てるがゆえに、天台法華宗とは天地雲泥の相違を認めざるをえなくなるのである。
 今日においては創価学会のみが、仏法の正統であり嫡流である。しかるに、日蓮宗と名のる邪宗が流行し、いまだに立正佼成会などという、法盗人がことごとに創価学会のマネをし、大衆の無知を悪用して、私利私欲をむさぼっている。
師資の道
 「師資の道・一を闕いても不可なり」であって、正法正義を選んで信心に励んでこそ、即身成仏がかない、邪法邪義を信ずる者は無間地獄に堕ちることも深くいましめなければならないのである。
 「師資の道・一を闕いても不可なり」とは、師弟の道を示しているのである。師とは師匠である、資とは稟けるの意で、弟子を意味する、すなわち、仏法において、師弟の道は一を闕いても成仏はできないとの謂である。仏法はいかに師弟相対を重んじていることか。
 日蓮大聖人と日興上人のお姿こそ、厳然たる師弟の道であり、六老ありといえども、ただ日興上人お一人が、日蓮大聖人の大仏法を余す所なく理解され、大聖人を正しく御本仏と拝されたのである。しかして、日興上人のほかの五老僧や、その末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、三大秘法の御本尊を信じ得ないゆえに、謗法の徒であり、断じて師弟の道は成り立たないのである。とくに五老僧は佐渡以後の常随給仕がなく、信心もなく、大聖人御滅後、退転し師敵対してしまった。学会にあっては、一人も五老僧のようなものを出してはならない。
 わが学会が、日蓮大聖人、日興上人いらいの唯一の相伝たる御本尊を信じている姿こそ、正しく師弟の道を遵奉しているものである。しかるに邪宗邪義のものは、師対弟子という真の師弟の道に立てず、あまつさえ自宗内で世襲制をしいているがごときは、けっして仏法とはいいえないのである。
 とくに、浄土真宗の東西両本願寺や、立正佼成会のごとき新興宗教は、明らかな宗教企業であり、しかも信徒から奪った財を世襲制によって子孫に渡すというような醜態は、仏教の仮面をかぶった餓鬼という以外にないのである。

0309:08~0310:02 第17章 法華最勝の経釈top

08   抑も法華経の第五に「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」云云、
09 此の経文のごとくならば法華経は大日経等の衆経の頂上に住し給う正法なり、 さるにては善無畏・金剛智・不空・
10 弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給うべき、 法華経の第七に云く「能く是の経典を受持する
11 こと有らん者も亦復是くの如し 一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、 此の経文のごとくならば法華経の行
12 者は川流.江河の中の大海・衆山の中の須弥山・衆星の中の月天・衆明の中の大日天、転輪王.帝釈・諸王の中の大梵
13 王なり、 伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是くの如し 乃至諸の経法の中に最も為第一なり能く是の
14 経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し 一切衆生の中に於て亦為第一なり」 已上経文なりと引き入れさせ
15 給いて次下に云く「天台法華玄に云く」等云云、 已上玄文と・かかせ給いて上の心を釈して云く「当に知るべし他
16 宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず 其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず、 天台法華宗所持の法華経は最も
17 為れ第一なる故に能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり 已に仏説に拠る豈自歎ならん哉」等云云、 次下に譲
18 る釈に云く「委曲の依憑具さに別巻に有るなり」等云云、 依憑集に云く「今吾が天台大師法華経を説き法華経を釈
0310
01 すること群に特秀し唐に独歩す 明に知んぬ如来の使なり 讃る者は福を安明に積み 謗る者は罪を無間に開く」等
02 云云、
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 そもそも法華経の第五の巻安楽行品には「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵である。諸経の中において最上の経法である」とある。この経文のごとくであるならば、法華経は大日経等の諸経の頂上に位するところの正法である。
 であるならば、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、この経文をいかに解しているのだろうか。法華経第七の巻、薬王品には「この経を受持するものも、またかくのごとく一切衆生の中で第一人者である」と。この経文の通りであるならば、法華経の行者は川流、江河中の第一の大海であり、衆山中第一の須弥山であり、衆星中第一の月天子であり、多くの光明中第一の日天子、諸の小王中第一の転輪王、三十三天中第一の帝釈天、一切諸王中第一の大梵天王のごとくである。
 伝教大師の法華秀句という書には、「この経も、またまた、かくのごときである。乃至多くの経法の中で法華経が最もこれ第一の経である。よくこの経を受持する者もまたかくのごとく一切の衆生の中で第一の衆生なり」と。以上経文であると引き入れておいて、その以下にはそれを解釈した「天台法華玄に云く」としてその文を示し、已上玄文と書かれて、その心を釈していうには、「まさに知るべし、他宗所依の経は、まだこれ第一ではない。その経を受持するものも第一ではない。天台法華宗所持の経典こそ、最もこれ第一であるゆえに、よく法華経を受持するものはまた、衆生の中の第一である。これは明らかに仏説によるのであって、決して自分の独りよがりではない」と、いっている。同じく伝教大師は法華秀句の巻末に「諸宗の諸師が天台大師に依憑している仔細のことは別巻にある」と記された。その依憑集には「今わが天台大師が法華経を説き、法華経を解釈することは、南三北七の諸群聖に秀で、中国全土に独歩するものである。これまことに如来の使いである。ゆえに如来の使いたる天台大師を賛嘆するものは福を安明(須弥山)よりも高く積み、これを誹謗するものは無間地獄におつるという大罪をうけるであろう」とある。

文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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会通
「和会疏通」の意。和会、融会、会釈ともいう。経論の異義異説を和会し、一意に帰させること。「和会」は経論の説を照らし合わせること、「疏通」とは筋道が通ることをいう。
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須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――委曲の依憑具さに別巻に有るなり
 伝教大師が、秀句の巻末に述べた語。諸宗・諸師が依らないことの仔細は、別巻(依憑集)で書き記すとの意。
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安明
 須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。
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 この章からは、正しく日蓮大聖人の御弘通を明かしている。初めに法華が一切経中において最も勝れているという経文と、天台、伝教の釈を引かれるのである。
 法華経第五の「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」との御文は、安楽行品第十四の文である。次に引かれた法華経第七の文は、薬王品第二十三の十喩のうち、第八の四果辟支仏喩の文である。
 伝教大師の「法華秀句」には、次に示すように、第八喩の所持能持、一連の文を引いているのに、本抄ではなぜ安楽行品を引いて、薬王品の所持第一の文を引かないのか。これに対し日寛上人は文段に次のようにお答えになっている。
 「然るに元意を推するに恐らくは真言宗を破せんが為、別して此の文を引くなり。此に二意有り。一には彼宗は大日経を以て即秘密と名く。釈尊は法華経を以て別して秘密と名く故に経に〝秘密の蔵〟と云うなり。問う若し爾らば彼は秘密にあらざるや。答う彼は是れ隠密にして微密に非るなり。二には彼の宗は金剛頂経を以て衆経の頂上と為す。釈尊は正しく法華経を以て衆経の頂上と為す。故に〝諸経の中に於て最も其の上に在り〟というなり」と。
伝教大師の秀句と申す書
 秀句の第八喩の文は次のとおりである。
 「又云く、一切凡夫人の中、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し、一切衆生の中に於て亦第一なりと。ある。
 天台の法華玄に云く五仏子の如き、凡夫の中に於て第一なり。或は衆生を抜きて涅槃に出だす。菩薩の無学の上に居するが如し。今の経は衆生を抜きて方便教の菩薩の上に過ぐ。即ち法王と成る最も第一なりと。已上玄文
 当に知るべし他宗所依の経は未だ最為第一ならざることを。其の能く経を持する者も、亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も第一なり。故に能く法華を持する者も亦衆生の中に第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」と。
 「諸の経法の中に最も為れ第一なり」は、所持第一の文であり、「能く是の経典を受持すること有らん者」からは、能持の行者第一の文である。「妙法なるが故に人貴し」であって、この法を毀りこの人を毀る者は、無間地獄の罪業を造るのである。
 法華秀句は、伝教大師は、なにを目的として書いたものであろうか。
 法華秀句は上中下の三巻からなり、弘仁十二年に作られたものである。「十勝」とも称され、日蓮大聖人は「秀句十勝抄」を著わされ、法華秀句を研究なされたことが明らかである。しかし、この「秀句十勝抄」は大聖人の御真書ではあるが、天台の法門の御抄録文とみなして、御書全集のなかには入れていないのである。
 法華秀句を著わした目的は、秀句の序分にのべられている。すなわち、
 「法華秀句は髻珠を琢磨するの砥礪なり。乃ち霊山の明珠は遠く西秦に伝わり、天台の珠嚢は遥かに東海に流るるあり。珠を施すの客、各是非を諍い、珠を求むるの主、所帰を知るなし。是れを以て麤食の見林を剪除して天台の円城を建立す。是に於いて一謀家ありて云く、天台所立の四車の義は、華厳宗をして其の義を奪い取らしめ又其の所立の成仏の義は三論宗をして其の義を奪い取らしむと。然れば則ち天台法華宗は何等の義を以て自宗の義と為ん。若し自宗の義なくんば別宗を許さざる者なり。時人を矇さんと欲し其れを度りて謀を為す。誣誷も亦甚だし。是の故に且く法華秀句三巻を著わす。庶わくば妙法の勝幢千代に傾かず、一乗の了義、群心を開悟せんことを。但恐らくは織成正しからずして聖の耳目を汗さんことをや」と。
 この序文によって、法華秀句の目的は、法華が最勝であることを主張し、他宗の策謀家を粉砕して天台法華の光輝をいよいよ増益するためであることが知れる。
 また顕勝門の十勝とは、仏説已顕真実勝一、仏説経名示義勝二、無問自説果分勝三、五仏同道帰一勝四、仏説諸経校量勝五、仏説十喩校量勝六、即身六根互用勝七、即身成仏化導勝八、多宝分身付属勝九、普賢菩薩勘発勝十である。
 とくに「仏説已顕真実勝一」には、得一の「慧日羽足」の十教二理・四教二理等を徹底的に破折している。これが上中二巻となり「仏説経名示義勝二」以下をもって下巻としているという。
 このように、伝教大師は多くの著述をあらわして、邪宗邪義を、ただ一人で粉砕されていったのである。
 釈尊と天台と伝教は、法華経を諸経法中の第一となしているのに、慈覚は真言を諸経法中の第一となしている。これは仏敵であり大罪人である。
 弘法は、法華経を第三となしたが、弘法のほうがまだ罪は軽い。法華を第二となして人々を迷わした慈覚、智証のほうがさらに罪は重いのである。
仏教研究の初歩
 およそ、いかなる学問・研究においても、またどんな時代でも、文証・経文・原典を根本として究明していくということはとうぜんのことである。とくに、宗教、哲学、思想等では、おおいに厳格なることが要求されるのである。因果の理法を説き、最高の哲学体系を誇る仏法においては、さらに正確、細密でなければならない。
 ところが、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等が、法華経、大日経等を研究するのに、みな我見私見を基にして、経文、原典を省みないありさまは、じつに軽率でありふまじめである。哲学究明の初歩において、すでに誤り転落したものというべきではないか。
 このような傾向は、真言、念仏等の邪宗にすべてみられるところである。すなわち念仏の法然等の論釈をみても、まず道綽、善導等の人師の釈を引用して解釈し、次に論師の論を引用し、終わりに申しわけていどに法華経や浄土三部経を援用しているというような書き方で、これでは論文として倒錯であり落第である。しかも、これが学生の卒業論文などと違って、仏法の誤りは何十万何百万という民衆を不幸に突き落す作用をしているのである。
 日蓮大聖人が、また天台大師、伝教大師等が、まず経文を引き、次に論釈を援用して、みごとな論説を展開して、正法正義を宣揚しておられるのと比べて、まことにその差の大きいのに驚くのみである。
 依憑集において伝教大師は、天台大師を如来の使いなりと断定し、「讃る者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」と述べられていることは、釈尊の経典から天台の立ち場を絶対のものとの確信に立たれていたものと思われるのである。
 現代においても明らかに邪宗とわかる新興宗教などよりも、邪宗日蓮宗のほうが謗法の罪が重く、さらに創価学会の組織や行事などを、ことさらにまねて大衆をまどわしている立正佼成会のごときは、もっとも邪宗、邪義のはなはだしいものである。
 しかして現代においては、天台も、伝教も如来の使いとしての働きはないのである。釈尊の仏法自体がすでに白法隠没しさっているから、その使いの功能のないのもとうぜんである。
 末法今日の大白法は日蓮大聖人の三大秘法である。この三大秘法を仏説のごとく信じ行ずる創価学会員こそが如来の使いである。ゆえに信心折伏に励む学会員を、讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開くのである。「妙法なるが故に人貴し」であって、いかに下賤の者といわれようとも、持つところの御本尊が貴いゆえに、その人も尊貴の人となるのである。ゆえに、日蓮大聖人は、もったいなくも、われわれの尊貴なるゆえんをのべられた後に「請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ」(0342-08)等と、おおせられているのである。

0310:02~0310:13 第18章 法華経の三国三師top

02    法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心の如くならば今日本国には法華経の行者は一人も・なきぞかし、月氏に
03 は教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て 大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にす
04 へ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、 此の大日如来は 大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の
05 主君なり、 両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う 此れ即ち法華経の行者なり
06 天竺かくのごとし、漢土には陳帝の時・天台大師・南北にせめかちて現身に大師となる「群に特秀し唐に独歩す」と
07 いう・これなり、日本国には伝教大師・六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師となり給う・月氏・漢土・日本に
08 但三人計りこそ於一切衆生中亦為第一にては候へ、 されば秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり
09 浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり 天台大師は釈迦に信順して 法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天
10 台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、 仏滅後・一千八百余年が間に法華経の行者・漢土に一人・日
11 本に一人・已上二人釈尊を加へ奉りて已上三人なり。
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 以上、釈尊の法華経、また、天台大師、妙楽大師、伝教大師、こうした人々の経釈の心からするならば、いま日本国には法華経の行者はひとりもいないことになる。
 昔、インドで、釈尊が法華経を説かれたが、その宝塔品の時、いっさいの諸仏を雲集せしめられ、大地の上に集められた。その時、釈尊は多宝仏の塔中にあったが、大日如来は、宝搭中の南の下座に座し、釈尊は北の上座に着座された。しかもこの大日如来は、大日経に説くところの胎蔵界の大日如来、金剛頂経に説く金剛界の大日如来、この両界の大日如来の主君なのである。
 かくのごとく両部の大日如来を郎従とする多宝如来のさらに上座に、教主釈尊は席をとられたのである。この釈尊こそ、法華経の行者なのである。インドにおけるありさまは、かくのごとくであった。
 中国では、陳の時、天台大師が南三北七等の諸師に攻め勝って、現身に大師として尊敬せられた。これは伝教大師が法華秀句の中で「群賢に秀で唐土に独歩す」といったゆえんである。日本では伝教大師は六宗のものを降伏せしめて、日本における最初の第一の根本大師となられた。
 このように、インド、中国、日本において、釈尊、天台、伝教の三人だけが、法華経にいう「一切衆生中第一」なる人である。ゆえに、伝教大師の法華秀句には、「浅きは易く深きは難しとは、釈尊の説きたもうところである。浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である。天台大師は釈尊に信順して法華宗を中国に弘布し、比叡山の一門すなわち伝教大師等は、天台大師に相承して、法華宗を日本にひろめるのである」と。仏滅後、一千八百余年、この間に法華経の行者は、中国に天台一人、日本に伝教一人、以上二人である。それに釈尊を加えたてまつって、以上三人だけである。
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12   外典に云く聖人は一千年に一出で 賢人は五百年に一出づ、 黄河は涇渭ながれを・わけて五百年には 半河す
13 み千年には共に清むと申すは一定にて候けり、
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 中国の外典の書にも、聖人は一千年に一度出で、賢人は五百年に一度出るという。また黄河は涇河、渭河と流れを別にしているが、五百年には、その流れの半分が清み、千年には全流が清むという。まことに、たとえのとおりで、彼の三人は聖人であり、賢人であるといえる。

大日経の胎蔵界
 真言密教の教えで、胎蔵とは含蔵と摂持をあらわす。含蔵とは、女性の胎中に輪王の聖胎を得たように、凡夫の煩悩の心中に諸仏の慈悲の功徳を含蔵することをいう。摂持とは、女性の胎中の輪王は、四天下を統御し、万民を撫育する徳を摂持するように、凡夫の心中に仏界は隨縁生起し、自他ともに利益をおよぼし、いっさいを摂持することをいう。金剛界の智性に対して理性をあらわしている。根本経典は大日経。
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金剛頂経の金剛界
 金剛とは、堅固をあらわす。不可破壊すなわち堅固をもって本義としている。根本経典は金剛頂経。
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現身に大師となる
 大師とは、仏の尊号の一つ。のちに、僧の尊称としても使われるようになった。日本では、高僧に対して勅賜されたが、生前にこの号を賜った先例はない。種種御振舞御書に「現身に大師号もあるべし」(0909-03)とある。中国では、天台大師その他に例がある。
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根本大師
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判
 浅きとは、随他意の方便権教で、信じやすく解しやすいけれども、深き教え、随自意の正法は、信じがたく解しがたいということ。宝塔品には六難九易、法師品には難信難解を説いている。
―――
震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
涇渭
 涇水と渭水をいう。涇水は濁り、渭水は澄んでいる。共に中国陝西省を流れる。
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 この章からは、前章に引くところの、経の意を釈すのである。初めに日本国にはすべて法華経の行者がいないことを明かし、次に末法には日蓮大聖人のみが法華経の行者なることを明かしておられる。
 すなわち「一切衆生の中に於て亦為第一なり」とは、日蓮大聖人の御事である。このことを示さんがために初めに日本国には法華経の行者がいないことを明かすのである。
 なぜなら、法華経によっても、天台、仏教の釈によっても、「法華経こそ諸経法の中で最為第一であり、諸経の中に於て最もその上(かみ)に在り」と行ずる者を法華経の行者と名づけるのである。
 しかるに日本国中一同に、あるいは「諸経法の中で最為第三」といったり、「諸経の中に於て最も其の下に在り」といっている。あるいは「諸経法の中で最為第二」といったり、「諸経の中に於て最も其の中に在り」などといっている。
 それというのも、日本国中が、弘法、慈覚、智証に惑わされて、真言の邪義に堕ちたからである。なぜそのような邪義、邪宗のやからを、法華経の行者といえるであろうか。ゆえに日本国は一人も法華経の行者がいないのである。
月氏には教主釈尊等
 月氏、漢土、日本を通じて法華経の行者が但三人であるとは、上代においてもなお法華の行者が希有なることを明かし、第十九章の「然るに日本国……」からは、日本国にはすべて法華経の行者なく、ただ謗者ばかりあることを明かしている。
 「教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめ……」とは、儀式に約して第一を示し、「此の大日如来……」からは、所説に約して第一を示している。
 儀式に約して第一を示す中で、分身の諸仏はすでに大地の上にいるゆえ、下劣である。多宝如来は塔中にいるゆえ、分身に勝れている。しかして、大日如来は南の下座にいるのに対し、教主釈尊は北の上座につくから、第一である。
 次に所説に約して第一を説くとは、権教の三身は「未免無常」のゆえに、大日経、金剛頂経の二種の大日如来は、所従である。実教の三身は倶体倶用のゆえに、法華経の多宝如来は主君である。
 しかしまた、この多宝如来も迹門宝塔品の仏であって所従である。本門寿量品の教主釈尊は、久遠の本仏のゆえに主君である。もししからば、両部の大日の主君は多宝であり、多宝の主君は釈尊であって、釈尊こそ第一となるのである。
 法華取要抄にいわく「大日経・金剛頂経・両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり、例せば世の王の両臣の如し此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」(0333-04)と。
 右の御文のように、両界の大日の主君は多宝如来である。しかるに本抄ではなぜ「大日如来計り宝塔の中の南の下座」とおおせられ、「多宝」とおおせられていないのか。
 この疑問に対し、日寛上人の文段には次のように答えられている。
 「ここに二意があり。一には他師に順ずるゆえである。蒙十八に賢記を引いて云く、多宝を大日という事は、不空の法華儀軌(ぎき)に両部の大日を脇士となしている。法華の多宝を不二の大日と名づけ、中央となしている。若ししからば、不空の儀軌によっても、二種の大日の主従が明らかである。
 二には所表に従うゆえである。朝抄に云く多宝を大日ということは、多宝が法仏を表する釈の意である。ゆえに但法身ということである。大日経でいう権教の法身は、法華経の実教に説く法身の所従なりとの意である。
 次に〝南が下座〟〝北が上座〟とは、インドの風俗の上からそうなるのである。すなわち、インドでは右尊左卑である。宝塔は西向きであるから、西へ向いた場合、北が右で尊く、南が左で卑となるのである」と。
 次の結文の「此れ即ち法華経の行者なり」の文に対し、釈尊のことを「行者なり」といって、なぜ「教主なり」といわないのか。この疑問に対し日寛上人は、いうところの行者に「自行有り、化他有り」、いまは化他に約すゆえに、行者というのであるとおおせである。
現身に大師となる等
 「南北にせめかちて現身に大師となる」とは、第一の義を顕わしているのである。
 「六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師」とは、また第一を顕わすのである。
 この「日本の始第一」の文について、文段には次のように釈されている。
 「第一の言に就いて二義有り。一には最勝の極を第一と名づく、即最為第一の如し。二には衆次の首を第一と名づく、即序品第一の如し。今第一とは是れ衆次の首の義なり。当に知るべし、始第一とは是れ根本の二字の意を顕わすなり。謂(いわ)く前に望むるに、日本元始の大師なり、故に根本大師と云う。後に望むるに第一の大師なり、故に根本大師と云う。故に前後に望みて其の意を顕わすなり」と。
 さらに日寛上人は、「啓蒙」に「日本始めての法華最第一の法華の行者なる故に第一といわれた」と解釈しているのを「穏かならず」と破折なされている。
 また日蓮大聖人はいかに、というに、すでに諸宗の邪義を責め落して、前代未聞の妙法を弘通せられているので、第一の法華経の行者であらせられるのはとうぜんである。
 撰時抄にいわく「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもってすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284-08)と。
 しかるに日蓮大聖人は、諸宗の邪義に攻め勝ったとはいえ、いまだ大師とはなっていないから、第一とはいえないではないか。
 右の疑問に対しては次のとおりである。すなわち、
 種種御振舞御書にいわく「賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909-03)
 たとえ大師の徳があっても、賢王、聖主の御代でなければ、大師号を授けられることがないのである。
聖人は一千年、賢人は五百年
 仏滅後1,800余年が間に、釈尊、天台、伝教の三人が、法華経を説いて、民衆を救ってきたのである。在世および像法時代の法華経が、一千八百余年の間、東洋民族の哲学として奉ぜられたということは、まことに驚くべきことといわなければならない。
 聖人とは、みずから悟るもの、賢人は教えをうけて悟るものともいわれる。また「三世を知るを聖人という」と。真実の聖人とは、三世を知り、自解仏乗なされ「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」とおおせられた日蓮大聖哲あられるのみである。ゆえに大聖人とお呼び申し上げ、これ御本仏の異名なのである。現代において、日蓮大聖人に帰依したてまつる以外に、世界の民衆の不幸は救われないし、真の世界平和もありえないということを、声を大にして叫ぶものである。
仏法は演繹的哲学
 仏法は演繹的哲学の最高峰であり、仏が一大事因縁によって出現し、究極の大生命哲学を説いたのである。仏法哲学は、根本の生命哲学を解明しきっているがゆえに、観念哲学や唯物論等の西洋哲学より格段にすぐれているのである。本講義の主題である報恩観にしても、また師弟相対においても、西洋哲学は驚くほど貧弱であるのは、まったく西洋哲学の貧困と低級さを示しているものにほかならない。
 西洋の哲学は、帰納的である。ゆえに、アリストテレスに対するプラトン、ヘーゲルに対するフォイエルバッハ等の師弟観は、まさに対立的抗争的であって、仏法の演繹哲学における師弟関係とは、根本的に異なっているのである。すなわち、あらゆる分野から思惟して、仏法は西洋哲学に幾千万億倍すぐれているといわざるをえない。

0310:13~0311:17 第19章 日本に謗者のみあるを明かすtop

13                       然るに日本国は叡山計りに 伝教大師の御時・法華経の行者ましま
14 しけり、 義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半
15 は弘法の弟子なり、 第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名
16 は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、 而れども円頓の戒計りは又御弟子に
17 にたり蝙蝠鳥のごとし 鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、 法華経の父を食らい持者の母
18 をかめるなり日をいるとゆめに・みしこれなり、 されば死去の後は墓なくてやみぬ、智証の門家・園城寺と慈覚の
0311
01 門家・叡山と修羅と悪竜と合戦ひまなし 園城寺をやき叡山をやく、 智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ慈覚大師
02 の本尊・大講堂もやけぬ現身に無間地獄をかんぜり、 但中堂計りのこれり、 弘法大師も又跡なし弘法大師の云く
03 東大寺の受戒せざらん者をば 東寺の長者とすべからず等御いましめの状あり、 しかれども寛平法王は仁和寺を建
04 立して東寺の法師をうつして 我寺には叡山の円頓戒を持ざらん者をば 住せしむべからずと宣旨分明なり、 され
05 ば今の東寺の法師は鑒真が弟子にもあらず 弘法の弟子にもあらず 戒は伝教の御弟子なり又伝教の御弟子にもあら
06 ず伝教の法華経を破失す、 去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば・公家より遺体をば・ほうぶらせ給う、其
07 の後誑惑の弟子等集りて御入定と云云、 或はかみをそりて・まいらするぞと・いゐ或は三鈷をかんどより・なげた
08 りといゐ或は日輪・夜中に出でたりといゐ或は現身に大日如来となりたりといひ 或は伝教大師に十八道を・をしへ
09 まいらせ給うといゐて、 師の徳をあげて智慧にかへ我が師の邪義を扶けて 王臣を誑惑するなり、 又高野山に本
10 寺・伝法院といいし二の寺あり本寺は弘法のたてたる大塔・大日如来なり、 伝法院と申すは正覚房の立てし金剛界
11 の大日なり、此の本末の二寺・昼夜に合戦あり 例せば叡山・園城のごとし、 誑惑のつもりて日本に 二の禍の出
12 現せるか、 糞を集めて栴檀となせども 焼く時は但糞の香なり大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり、
13 尼ケンが塔は数年が間・利生広大なりしかども 馬鳴菩薩の礼をうけて忽にくづれぬ、 鬼弁婆羅門がとばりは多年
14 人を・たぼらかせしかども阿涇縛ク沙菩薩にせめられて・やぶれぬ、 拘留外道は石となつて八百年・陳那菩薩にせ
15 められて水となりぬ、 道士は漢土をたぼらかすこと数百年・摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ、趙高が国をと
16 りし王莽が位をうばいしが・ごとく 法華経の位をとて大日経の所領とせり、 法王すでに国に失せぬ人王あに安穏
17 ならんや、
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 しかるに日本国を見るに、比叡山は法華経の山であるが、伝教大師の御在世中だけ、法華経の行者がおられたにすぎない。
 義真、円澄は第一、第二の座主である。第一の義真だけが、伝教大師に似て正法をたもった。第二の円澄は、半分は伝教大師の弟子、半分は弘法の弟子である。
 第三の慈覚は、最初は伝教大師の弟子のようであった。しかし、年四十にして中国に行ってからは、名は伝教大師の弟子であるが、しかも、その弟子として伝教大師の跡を継いだのであるが、その説くところの法門は、まったく弟子の分際ではなかった。しかし、円頓戒だけは、まだ弟子であったようである。これはあたかも、蝙蝠のようである。蝙蝠が鳥でもなく鼠でもないようなものである。また、母を食う梟のごとく、父を害する破鏡のごときものである。第三の慈覚こそ、父たる法華経を食らい、母たる法華経の持者を害するものである。慈覚が日輪を射たと夢に見たのは、まったくこの父母の殺害を意味するものである。こうした大罪を犯した彼であるから、死後も、まことに情けない姿であった。
 また、智証門流の園城寺と。慈覚門流の比叡山とは、修羅と悪竜のごとく争いを繰り返している。あるいは園城寺を焼き、時には比叡山を焼いたのである。そのために、智証大師の本尊である慈氏菩薩(弥勒)も焼けてしまった。慈覚大師の本尊も、大講堂も焼けてしまった。慈覚や智証は、現身に無間地獄を感じているのである。このような中で、ただ一つ、伝教大師の建立された根本中堂だけが残ったのである。
 弘法大師のあとも、またひどいものである。弘法大師は「鑒真が建てた東大寺の戒壇を踏まないものは、東寺の長者としてはならない」といい残した。然し、かの寛平法王は、仁和寺を建立して、そこに東寺の真言の僧を移されたが、後、「わがこの仁和寺には比叡山の円頓戒を受持しないものをば住させてはならぬ」と明白な宣旨があった。これによれば、いまの東寺のものは、鑒真の弟子でもなく、弘法の弟子でもない。戒律においては、伝教の弟子である。ところが伝教の弟子とすることもできない。なぜなら、伝教大師の法華経に違背するからである。
 弘法大師は、さる承和二年三月二十一日に死去した。そのときは、公家において遺体をほうむった。ところがその後、誑惑の弟子たちが集まって評議して「弘法大師は入定されたのであって、入滅ではない」といいだした。またあるものは、「入定した弘法大師の遺骸の頭髪が、あまりに伸びたので、そりたてまつった」といい、あるものは「弘法大師が唐から帰られる際、日本に向かって、三鈷を投げられた。それがいまの高野山の地に留まったのである」といった。あるものは「弘法大師が疫病を祈られたら、日輪が夜中に現われた」といい、あるものは「弘法大師は現身に大日如来を現じ給うた」といい、「伝教大師に密教の十八道を教授した」といった。こうした弘法一派の邪義は、いずれも師匠の弘法の徳をあげることによって、わが智慧にかえ、わが師の邪義を助けて、王臣の帰依を得ようとする謀計である。
 また高野山には、本寺と伝法院の二寺がある。本寺は弘法の建立した金剛峯寺で、大塔の大日如来を本尊とする。伝法院は正覚房の建立するところで、金剛界の大日如来を本尊とする。この本末の二寺は、当初から今日にいたるまで、つねに合戦をしている。ちょうど、比叡山と園城寺の争うがごときものである。これらは、彼らの長年の誑惑が積もって、わが日本に叡山と園城、高野と伝法院の二つの禍いとして出現したのであろうか。
 たとえば、いかに糞を集めて栴檀だと称しても、これを焼いてみれば、やはり糞の香ばかりである。そのごとく大妄語を集めて、いかに仏の教えと称しても、ただ無間大城へ堕するのみである。
 尼犍外道の塔は、数年のあいだは利益も多かったが、馬鳴菩薩に礼拝されたら、たちまちに崩落してしまった。鬼弁婆羅門の教えは多年のあいだ、人々をたぶらかして信仰されたけれども、阿濕縛窶沙菩薩(馬鳴)のために責められて、その邪義をあらわしたのである。
 拘留外道は化石となって八百年、陳那菩薩に責められて水となった。中国の道士は、中国の人々を数年のあいだもたぶらかしてきたが、迦葉摩騰、竺の法蘭の二人に責められたとき、仙経は焼けて、道教に法力がないことを示した。趙高が主君を廃してその国を奪い取り、王莽が、主人の地位をうばって王と称したように、法華経の王位を横取りして、大日経の所有としてしまった。法王すでに、その所領を失ったのであるから、人王また平静でありえようか。日本国は、みな、慈覚、智証、弘法の亜流となってしまった。ゆえにひとりとして、謗法でないものはない。

梟鳥禽
 フクロウのこと。俗に〝成長すると母を食う〟といわれ、母食鳥とも不孝鳥ともいう。千日尼御返事に「梟鳥と申すとりは生れては必ず母をくらう」(1320-15)とある。
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破鏡獣
 破獍とも書く。父を食う、虎に似た悪獣といわれる。一説には、むじなの一種ともいう。史記の封毒書等にある。
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智証の門家・園城寺と慈覚の門家・叡山
 山門派と寺門派の抗争をいう。比叡山第19代座主尋禅座主が引退して、20代余慶が任命されたころより、抗争は表面化している。
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東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず
 東寺の長者は、弘法大師の時はすこぶる重要な地位を占めていたもので、弘法の第一の弟子たる実恵が、その位置にすえられたのをみてもわかる。また、弘法は東大寺の戒壇で弟子たちを受戒させたが、弘法の考えでは、小乗律である東大寺の戒壇で、真言密教の人が受戒すれば、真言律になると思っていたのである。
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寛平法王は仁和寺を建立
 寛平法王とは第59代宇多天皇のこと。寛平9年(0897)位を第60代醍醐天皇にゆずり、翌々年、真言宗の益信(について出家し、名を空理と称し、灌頂をうけて真言の列祖中に加わった。法皇となって後は、仁和寺に住し、そこを御室といった。
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叡山の円頓戒
 法華迹門の円頓戒壇であるが、慈覚・智証の代より真言の邪義に汚染されている。
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誑惑の弟子等集りて御入定と
 弘法大師は承和2年(0836)3月21日に死去し、遺体は公家によって葬り去られたのであるが、弟子たちは、弘法は高野山奥の院に入定しているのであって、死んだのではないといっていること。
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三鈷をかんどより・なげたり
 三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさい、中国明州の浜より、三鈷を海上に向かって投げた。それがはるか雲の中にかくれ、後日、高野山において発見された。高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義。
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日輪・夜中に出でたり
 弘法大師が病気を祈ったら夜中に日輪があらわれたという。
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現身に大日如来となりたり
 弘法の弟子真済(0800~0860)が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。
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十八道
 密教の修法。
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本寺・伝法院といいし二の寺
 本寺は弘法大師によって建立された高野山の金剛峯寺、嵯峨天皇の弘仁7年(0818)に寺塔を構え、後に金堂・根本大塔を建立。伝法院は正覚房覚鑁が建立した寺院。両寺は勢力争いを起こし、真言宗古義派と新義派に分裂している。
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正覚房
 (1095~1144)。新義真言宗の祖、覚鑁のこと。
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尼犍が塔
 付法蔵経巻五にある。かつて外道の尼犍が、泥団を塔上におき「来世の千仏の中にして成仏できるならば、その証拠にその泥団を仏像にかえてほしい」と誓ったところ、実現したのでおおいに歓喜した。たまたま、この塔のそばを国王がとおり、外道の塔が七宝で荘厳されてあるのを見て、如来の塔と思い、香華をそえ、偈を読んでその徳をたたえた。すると、その塔が分裂してしまった。王は驚いて、「自分の福運がつきたか」と悲しんだが、ある人が「それは外道の塔である」と教えた。衆人は、王の徳深厚なるゆえに、この邪塔を礼拝したら破壊したのであるといった。本抄では、王ではなく馬鳴菩薩になっているが、あるいは、王が馬鳴に帰依していたことによるものであろうか。
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馬鳴菩薩
 梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。音写して阿濕縛窶沙。馬鳴は漢訳名。付法蔵の第十二。1世紀から2世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。
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鬼弁婆羅門
 鬼弁婆羅門とは、二世紀ごろインドにいたバラモンの一人。大唐西域記に「摩訶陀国鶏園寺の鐘塔の北に住み、逆説的理論をもてあそんでいた。世をさけて林中におり、鬼を祀って世人の尊敬をうけていた。常に帷をたれ、問答を行なっていたので、だれもその正体を知らなかった。阿濕縛窶沙菩薩(馬鳴菩薩)は、ある日、国王とともにその場所へ趣き、問答をしたところ、鬼弁は口を閉じてしまったので、馬鳴は、帷をあけてその妖態を見破った」とある。
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拘留外道は石となって
 拘留は鵂鶹の借字で、鵂鶹は漚楼僧佉のこと。釈尊が出現する800年以前のインド勝論学派の祖。止観私記巻十には「真諦云く、休留仙人成劫の末に出でて長生の薬を服し、変じて石と為る、形・牛の臥せるが如し。仏前800年の中に在りて石消融すること灰の如し、門人皆称して涅槃に入ると称す」とある。また輔行巻十に「外道が身の死するのを恐れて、林中で化して石となった。その石に偈を書いて祈ると何でも願いがかなうという。のちに、陳那菩薩がその石に偈を書くと、石は裂けて水になった」とある。
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摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ
 摩騰迦・竺法蘭で、ともに中インドの人。後漢の明帝の命により、中国に仏典をもたらし、崇重された。すると、昔から皇室の祭祀をしていた儒家、道家の人人数千人が、この事を嫉(そね)んで訴えたので、双方を召し合わせて、勝劣を決することとなった。道士は喜んで、唐土の神、百霊を本尊とし、一方、摩謄迦・竺法蘭の二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊となし、その力を頼りとした。道士は、昔から王の前で行なってきた習わしどおり、仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪と一緒に積んで焼いたところ、仏法渡来以前は焼けなかった書が、この度はことごとく灰となってしまった。また以前には水に浮かんだものが、今は水に沈んでしまった。鬼神を呼んでも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに褚善信・費叔才などという道士は思い悩んで死んでしまった。一方、仏教の二人の聖人が説法をすると、仏舎利は天に登って光を放って、日の光すらみえないありさまであった。そして画像の釈迦仏は眉間から光を放たれたのである。呂慧通等の600余人の道士は、その場で仏法に帰伏して出家し、30日の間に10箇寺が建立されたと、仏祖統記にある。四条金吾殿御返事に詳しい。
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趙高
 (~前0207)。中国・秦代の宦官。史記等によると始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ権力を握った。旧臣を退けて酷政を行ったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利と見るや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。
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王莽
 (前0045~0023)。漢書王莽伝によると、中国・前漢末の政治家、新の建国者。名家の出身であるが、父が早死にしたため少年時代は貧しかった。一族の推挙を受けて出世し、哀帝の没後、九歳の平帝を立てて権勢を握った。平帝が長ずると毒殺して二歳の劉嬰を立て、自ら摂政となった。符命説で漢王朝の天命は尽きたと流言し、帝位を譲り受けて新を建国した。儒教の理想を実現しようと復古的政策をしいたが成功せず、内乱が続発する中で新は滅亡した。
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 この章は、わが国にすべて法華経の行者がなく、ただ謗法のみあるを明かしている。さらに三段に分かれ、初めに慈覚、智証、弘法の現罰と、死後の恥辱を明かし、次に尼犍の下は世間を誑惑してもそれは長くつづかないとの前例を示し、三に趙高からは亡国の所以を明かしている。
 慈覚は「死去の後は墓なくてやみぬ」と。「あさましい」ことを「はかなし」ともいうから、慈覚の死去の後のあさましい勢力争いや謗法の現証を示していることにもなる。しかしまた実際に慈覚の墓もないのである。山門の記録には慈覚は比叡山で死んだことになっているが、別の説によれば、出羽国立石寺で死んだともいう。そうして頭は立石寺にあるともいい、ある弟子が慈覚の遺骨は比叡山にあるべきであるといって、頭を切って比叡山へ持ってきたともいう。
 これについて御書には、「最在其上」の法華の首を切って、金剛頂の字につけた過によってこの悪報を感ずるのであると責められている。「法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、……法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頚を切って蝦の頚に付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頚も切れぬと見え候、此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ」(1019-07)
園城寺と叡山の合戦ひまなし
 園城寺は現在の滋賀県大津市の西北にあり、地名を三井ということから、三井寺ともいう。智証がこの寺の出身であったので、その後比叡山と長年にわたって勢力争いをし、たびたびの兵戦や焼き討ちをくりかえした。
 その争いは「啓蒙」に詳しく記されている。
 第64代円融院の天元4年(0981)、智証の門人余慶が座主に任ぜられたのを怒り、慈覚門徒が讒訴をなしたのが初めである。これより長暦年(1037)まで4度にわたって兵乱が起こり、山門から三井寺を焼き討ちなどした。
 その後も、比叡山の三井寺焼き打ちは次のようにつづけられた。
 第72代白河院 永保元年(1081)
 第84代順徳院 建保2年(1214)
 治承のころには、高倉の宮謀叛の時、清盛の命令で三井寺が焼かれた。
 文永元年(1264)月、延暦寺が炎上した。これは天王寺の別当を三井寺へつけられることを怒り、山僧がみずからの寺へ火を放って焼いた。
 文永元年(1264)5月、山門より三井寺へ押し寄せ悉く焼きはらう。
 文永5年(1268)、同じく山僧みずから放火して比叡山を焼く。
 実に御書に「修羅と悪竜の合戦」とおおせられ、智証の本尊も焼け、慈覚の本尊も焼け、大講堂も焼けうせて、「現身に無間地獄を感ぜり」のおおせどおりではないか。
弘法大師も又跡なし
 「跡なし」とは、弘法の死後、禁誡(きんかい)も守られず、遺跡も断絶したことをさす。禁誡の一つは本文にお示しの「東大寺の受戒」うんぬんである。すなわち弘法は、鑒真の立てた東大寺の小乗の戒壇をふまない者は、東寺の長者としてはならないと遺誡した。
 しかるに寛平法王は、仁和寺を建立して東寺真言の僧を住せしめたが、仁和寺には比叡山の円頓戒を受持しない者は住してはならないと宣言している。このように弘法の流れが、たちまちに乱れていたのである。
 さらに弘法の死後、弟子たちが集まって「師の徳をあげて智慧にかへ我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり」と。その意味は、弘法が智者ならば、法華経を第三戯論というからには、分明の経文を出して証明すべきである。しかるに証文はまったくない。そこで末弟らは他宗から論難されるのを防ぐため、種々の虚偽の徳をあげて宣伝しはじめた。
 その一つは、弘法は死んだのではなく入定したのだといい、あるいは弘法の髪をそってきたといい、あるいは中国から投げた三鈷が高野山の地に留まった等々、およそありもしない妄想を並べ立て、師匠たる弘法の徳を偉そうにかざりたてたのである。さらに高野山では、弘法の建てた本寺と正覚房の建てた伝法院が争いを起こし、昼夜に合戦をつづけてきている。あたかも叡山と三井寺のようであると。
 弘法、慈覚等の末流の騒乱、また邪師の悲惨なる墓ない最後をみるときに、およそ天下の騒乱の根源は、邪宗邪義邪師にあり、しかして、邪師は必ずその末路は悲惨であることを、しみじみと感ずるのである。
 中国にあっても、玄奘、善無畏等が、法相、真言等の邪義を弘めてから、さしも絢爛たる文化を誇った唐朝も、また玄宗等もはかなく滅びゆき、禅、念仏等が弘まった時も同じく騒乱がたえなかったのである。日本においても、御書にくわしく説かれてあるとおりではないか。
 とくに現在の真言宗の現状は、総本山高野山は観光地化によって、ようやく息をつき、いまや心から真言を信ずるものは、激減の一歩をたどっている。

0311:17~0312:15 第20章 日蓮大聖人の国家諌暁top

17      日本国は慈覚・智証・弘法の流なり一人として謗法ならざる人はなし。
18   但し事の心を案ずるに大荘厳仏の末・一切明王仏の末法のごとし、 威音王仏の末法には改悔ありしすら猶・千
0312
01 劫・阿鼻地獄に堕つ、 いかにいわうや日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし如是展転至無数劫疑なき
02 ものか、 かかる謗法の国なれば天もすてぬ天すつれば ふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給い
03 ぬ、但日蓮計り留り居て告げ示せば 国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈・或は悪口・或は杖木・或は刀剣・或
04 は宅宅ごとにせき・或は家家ごとにをう、 それにかなはねば我と手をくだして 二度まで流罪あり、去ぬる文永八
05 年九月の十二日に頚を切らんとす、 最勝王経に云く「悪人を愛敬し 善人を治罰するに由るが故に 他方の怨賊来
06 つて国人喪乱に遭う」等云云、 大集経に云く「若しは復諸の刹利国王有つて諸の非法を作して 世尊の声聞の弟子
07 を悩乱し、 若しは以て毀罵し 刀杖をもつて打斫し 及び衣鉢種種の資具を奪い、 若しは他の給施せんに留難を
08 作さば我等彼れをして自然に他方の怨敵を卒起せしめん 及び自らの国土も亦 兵起り病疫飢饉し非時の風雨・闘諍
09 言訟せしめん、 又其の王をして久しからずして復当に己が国を亡失せしめん」等云云、 此等の経文のごときは日
10 蓮この国になくば 仏は大妄語の人・阿鼻地獄はいかで脱給うべき、 去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並び
11 に数百人に向て云く 日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、
12 此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより 若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、 にはかに・
13 いくさをこり又 大風吹き他国よりせめらるべし等云云、 去ぬる文永九年二月のどしいくさ同じき十一年の四月の
14 大風同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや、 いわうや前よりこれを・かんがへたり誰の人か
15 疑うべき、
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 日本国の人々は、みな慈覚、智証、弘法の末流である。したがって、邪宗真言にたぶらかされて、ひとりとして謗法でないものはないありさまである。
 しかして、この日本の一国謗法の姿を、つらつら考えてみれば、まことに、過去世の大荘厳仏における末法のごとく、同じく一切明王仏における末法のごとくである。また威音王仏の末法には、不軽菩薩の折伏によって、後に改悔したものすら、なお千劫の長いあいだ、阿鼻地獄に落ちて大苦を受けたのである。いかにいわんや、日本国の真言師や禅宗のものや、念仏者等は、それに反して一分の改悔心もないゆえに、法華経常不軽品に「是の如く展転して無数劫に至る」とあるごとく、永遠に無間地獄をさまようようなことは疑いなしというべきものか。かかる謗法の国なるがゆえに、諸天も日本国を捨てたのである。諸天が捨てたゆえに、守護の善神も、その祠を焼き払って、寂光の都に帰りたもうたのである。
 このことを知るのは、ただ日蓮大聖人おひとりである。もし日蓮大聖人が、諸天善神の捨て去った後に、ただひとり、この国にとどまって、このことを知らし示せば、国主は日蓮大聖人を怨み、数百人の人々は、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは杖木をもって打ち、あるいは刀剣をもって切らんとし、あるいは各戸ごとに門を閉じ、あるいは家ごとに日蓮大聖人を追い払ったのである。それでもダメだと知って、みずから手を下して、日蓮大聖人を二度までも流罪したのである。すなわち伊豆の流罪と佐渡の流罪である。また、去る文永八年九月十二日には、竜の口において、首を切らんとした。
 最勝王経にいわく「悪人を尊敬し、善人を治罰するがゆえに、他国の怨賊が攻めきたって、そのために、その国の人々が喪乱にあうのである」と。大集経には「諸々の刹利種たる国王があって、種々の非法なることをなし、仏の声聞の弟子を悩乱し、またはののしり、または刀杖をもって打ち、および僧衣や鉢など種々の修行の器具を奪い去り、あるいは仏弟子に布施するものを迫害する。これらの留難をなすならば、われら諸天善神は、その王のために、しぜんに他国の怨賊をおこして攻めさせ、および自国にも内乱をおこさせ、病気疫癘をまんえんさせ、飢饉におとし入れ、非時の風雨、諍(あらそ)い、訴訟などをおこさしめよう。また、その王をして久しからずして、かならず自国を滅亡させるであろう」と。
 これらの経文のごときは、日蓮大聖人がこの日本国におわしまさぬならば、かならずやいつわりの経文となり、仏は大妄語の人となって、大阿鼻地獄に堕さなければならぬこととなったであろう。
 さる文永八年九月十二日、竜の口に引かれる前、日蓮大聖人は、平の左衛門尉頼綱および数百人のものに向かって、厳然と宣言した。「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことは、日本国の柱を倒すことである」と。
 前に挙げた最勝王経、大集経には、「国主らが悪僧の讒言を信じたり、諸人の悪口を取り入れて、国を憂い国を救わんとする智人を、迫害するようなことがあったら、たちまち戦争が起こったり、また大風が吹いたり、あるいは他国から攻められて塗炭(とたん)の苦しみを味わうであろう」と説かれている。
 すなわち、さる文永九年二月の北条時宗、時輔の争った大内乱、同じく文永十一年四月の大風、さらに文永十一年十月の大蒙古国の襲来は、まさしく末法唯一の大智人・日蓮大聖人を迫害したゆえではないか。いわんや、このことは前々から、天下に予言していたことである。ゆえに、だれびとがこのことを否定できようか。

大荘厳仏の末・一切明王仏
 仏蔵経・往古品には「大荘厳仏の滅後に、五人の比丘がいて、大衆もこの五人のもとにそれぞれわかれていた。そのなかで、普事比丘のみが、仏の正法を護持していたが、四比丘尼は、この普事比丘を誹謗したため地獄へおち、それにしたがって大衆も、ともに命終して地獄におちた。そして、八大地獄をめぐり、十方世界の大地獄をへて、ようやく人中に生じたが、五百生のあいだ生きめくらの報いを受けた。その後、一切明王に会い、過去の正法誹謗の罪により、涅槃をうるものが一人もいなかった」とある。
―――
威音王仏の末法
 不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。不軽品には「乃往古昔に、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて仏有ましき。威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と名づけたてまつる。劫を離衰と名づけ、国を大成と名づく。その威音王仏彼の世の中において、天人阿修羅の為に法を説きたもう。声聞を求むる者のためには、応ぜる四諦の法を説いて、生老病死を度し、涅槃を究竟せしめ、辟支仏を求むる者のためには応ぜる十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に因せて、応ぜる六波羅蜜の法を説いて、仏慧を究竟せしむ。得大勢、是の威音王仏の寿は、四十万億那由他恒河沙劫なり。正法世に住せる劫数は一閻浮提の微塵のごとく、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵のごとし。その仏、衆生を饒益しおわって、しかして後に滅度したまいき。正法、像法、滅尽の後、この国土に於いて、復仏出でたもうこと有りき。また威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と号づけたてまつる。かくのごとく次第に二万億の仏有す、皆同じく一号なり。最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して、後像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力あり。その時に一りの菩薩比丘あり、常不軽とづく」とある。
―――
阿鼻地獄
 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
廻心
 心を廻転することで、邪教を転じて、正信に帰すことをいう。
―――
如是展転至無数劫
 法華経譬喩品第三に「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。展転とはころがること、めぐることで、つぎつぎとめぐり続くこと。無数劫とは数えきれないほどの長い間のこと。すなわち、正法誹謗の無間地獄に堕ち、未来永劫にその苦悩を受けるさまをいう。
―――
最勝王経
 中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
―――
大集経
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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刹利国王
 刹帝利国王。インド四姓の一つ。刹帝利は梵語クシャトリア(kşatriya)の音写で、訳して王種という。四姓とは婆羅門、刹帝利、毘舎、首陀のことで、国王、大臣、武人は必ず刹帝利から出る。
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非法
 仏の正法にそむく行為や制法。社会の道理に反した行為、制度。
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衣鉢
 衣は法衣。鉢は布施の食物などを受ける器。ともに僧侶の生活を助ける道具。
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給施
 布施供給の義で、施すことをいう。
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留難
 留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。
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平の左衛門
 平の左衛門尉頼綱。北条氏の家司で、侍所の所司を兼務していた。北条幕府の政務は評定制度であるが、最後の決は執権がにぎっていた。しかるに平左衛門は、北条氏の家司、すなわち執権の執事であるから、実際上の政治的権力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏よりも、強大となるべきで、加えて侍所の実権をにぎっているため、政兵の大権を自由にしていた。
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どしいくさ
 同士打ち。味方同士が戦うこと。ここでは北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
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同じき十月に大蒙古の来りしは
 文永11年(1274)年10月、蒙古軍は、6日に対馬を攻撃、守護代の宗助国以下全滅、14日には壱岐を攻撃、守護代の平景高以下全滅、更に20日、九州・博多湾に上陸、博多、箱崎を侵略した。しかし、太宰府の占領を翌日に延ばして船に引き揚げたところ、冬の季節風にみまわれ、遠征軍は高麗の合浦へ引き返した。文永の役である。
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前よりこれを・かんがへたり
 日蓮大聖人は文永8年(1271)9月12日に受けられた竜の口の大法難の直前、平左衛門尉に向かって、大聖人を迫害する時は、必ず自界叛逆と他国侵逼の二難があることを断言された。この予言どおりに、「自界叛逆難」は安国論以後12年、竜の口法難以後150日目に的中し、文永9年(1272)2月11日に、北条時輔の乱が起きた(二月騒動)。「他国侵逼の難」は安国論から8年後の文永5年(1268)に最初の国書が到来して現実の問題となり、更に安国論から14年の文永11年(1274)10月には大軍をもって襲来した。
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 この章は、末法今時は、但日蓮大聖人のみが法華経の行者であって、日本国の一切衆生を救い、日本の国を救われるのであるという所以を明かしている。
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大荘厳仏の末・一切明王仏の末法等
 仏蔵経第三往古品には、大荘厳仏を説く。大荘厳仏の滅後に5人の比丘がいて、普事比丘のみが正法を護持していた。四比丘はこの普事比丘を誹謗して地獄へおちた。長いあいだ、地獄で苦悩を受けて後、一切明王仏の法の中に生まれ、出家修道したが、得道することなく、過去の謗法により、さらに無間地獄におちたという。
 さて「一切明王仏の末法」とは誤りであって、諸法無行経の師子音王仏の末法、勝意比丘の例を出されたものと思われる。すなわち一切明王仏とは、前述のように末法の事を説いてはいない。しかるに今の文には一切明王仏の末法と述べられているから、この場合の引例とならない。
 そのような書き誤りは、示同凡夫のゆえにとうぜんであろうと、日寛上人は述べられている。
 さて大荘厳仏と師子音王仏については、次の御書に、その例を引かれている。
 兄弟抄には「大荘厳仏の末法における六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘にたぼらかされて、普事比丘を迫害したので、大地微塵劫という長いあいだ、無間地獄の生活を送った。師子音王仏の末法の男女等は勝意比丘という持戒の僧について喜根比丘を嘲笑したので、無量劫があいだ地獄に堕ちた」(取意)とある。
 諌暁八幡抄にも「たとえば大荘厳仏の末法の四比丘が六百万億那由佗の人々をみな無間地獄に堕したこと、師子音王仏の末法の勝意比丘が無量無辺の数の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいをみな阿鼻大城に導いた……」(取意)と。
かかる謗法の国なれば天もすてぬ等
 この文から下は呵責謗法を明かす段であり、初めに国主の諌暁を明かしている。国主の諌暁がまた二となり、一には諸天善神が謗国を捨離したことを明かし、二には但日蓮計りから下に正しく諌暁を明かしている。
「守護の善神」とあるが、日寛上人は文段に、神には三種ありと、次のように明かされている。
   一に法性神。これは万法の精霊天然不測の理である。ゆえに善悪の分けようもなく、来去の分けようもない。
   二に邪横神。これは実迷の悪霊神である。
   三に有覚神。これは垂迹和光の神明である。いわゆる仏菩薩が、内証三身の光りを和らげて同居四住の塵にまじわり、この世に働きをなすのを善神という。今国を捨てて去るのはこの第三の有覚神である。ゆえに守護の善神というのであると。
 次に善神はなぜ謗法の国を捨てて去るのであるか。
 これにまた多くの所以ありとて、次のようにおおせられている。
 一には仏前の誓いに依る故である。立正安国論に詳しく諸経の文を引かれているが、例えば金光明経に「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて 涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん」(0018-03)とある。
 また新池御書にいわく「霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ……天照太神・八幡大菩薩・天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき」(1442-10)と。
 二には法味を嘗めざるに依る故。謗法の法味は厩の糞土の如し、妙法の法味は天の甘露の如し……と。
 唱法華題目抄にいわく「守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い」(0008-08)
 そのほか、このような類文は多数の御書にお示しあそばされている。
 三には住処無きに由る故。謗法の頂は銅燃猛火のごとく正法の頂は七宝の宮殿のごとし……と。 
 四条金吾許御文にいわく「八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂に・やどらんと誓い給ふ、而るに去ぬる十一月十四日の子の時に御宝殿をやいて天にのぼらせ給いぬる故をかんがへ候に・此の神は正直の人の頂に・やどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり」(1196-14)と。
 八幡が右のとおりならば、他の善神も同じであることは、前述の新池御書のとおりである。
 さて次にはまた諸御抄に、諸天善神が国を捨て去ったとも、あるいは去らないが、いても守護をする力がないともおおせられている。すなわちその文は、
 開目抄にいわく「天照太神・正八幡・山王等・諸の守護の諸大善神も法味を・なめざるか国中を去り給うかの故に悪鬼・便を得て国すでに破れなんとす」(0190-16)
 曾谷入道等許御書にいわく「閻浮守護の天神・地祇も或は他方に去り或は此の土に住すれども悪国を守護せず或は法味を嘗めざれば守護の力無し」(1032-14)
 以上のように或いは住し或いは住しないとおおせられているのに、なぜ一方では神天上と断定なされているのかについて、日寛上人は次のように解釈なされている。
 或いは住すの辺があるといっても、悪国を護らない。たとえ護ろうと欲しても法味を嘗めないから威力がないゆえに、住するといっても住しないごとく、去らずといっても去るがごとしで、ゆえに通じて諸神は天上したというのであると。
 また次に神が天上して日本の国を守護しないならば、蒙古襲来の時に、なぜ神風が吹いて国が救われたのかと疑問が生ずる。この問いに対しては、日蓮大聖人はすでに佐渡御流罪中においても、日蓮が日本の国に居れば日本の国は諸天に護られると、次のようにおおせられている。ましてや弘安四年の蒙古襲来の時には、幕府は佐渡流罪を悔いて赦免しているので、護られることができたのである。
 種種御振舞御書にいわく「日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし……教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり……かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-11)と。
 さて日蓮大聖人が日本の国にお出でになれば、善神が国を護るということは、安楽行品にも「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」とあるとおりである。
 次に本文に「ほこらをやひて」とおおせられているが、守護の善神がほこらを焼いて昇天したのは、何年何月かという問題がある。
 日寛上人は文永11年(1274)11月14日であるとなされている。すなわち御抄には、
 諌暁八幡抄にいわく「去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて日本国の兵を多くほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ」(0583-06)
 四条金吾許御文にいわく「去ぬる十一月十四日の子の時に御宝殿をやいて天にのぼらせ給い」(1196-15)
 これらの御文からして、文永11年(1274)10月に蒙古が襲来し、戦乱の最中に11月14日、ほこらを焼いて昇天したのであると。ゆえに文永8年(1271)9月12日に八幡を諌暁あそばされたことも実に理由のあるところである。
 次は本文に「寂光の都へかへり給いぬ」とある。諸抄の中には或いは他方へ去るといい、或いは天上といい、今はまた寂光の都とおおせられるのは、どのような相違があるのであろうか。
 日寛上人文段には「天上の義に即三義有り」として、一には地祇が去って天神に帰す故に天上という。二には都率天に帰る故に天上という。三には法性真如の第一義天に帰す故に天上というと。
 本抄においては、法性真如の第一義天を指して寂光の都というのである。
 もし本迹に約せば、諸抄の意は迹門の意であり、本抄が本門である。ゆえに本地自受用身の垂迹としての諸天善神が、本地の寂光の都へ帰り給うのである。
 諌暁八幡抄にいわく「諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり」(0588-07)
 一実相とは一念三千であり、一念三千とは自受用身である。すなわち久遠元初の自受用身の垂迹である。
 日眼女造立釈迦仏供養事にいわく「東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」(1187-02)
 この教主釈尊とは久遠元初の自受用身、本因妙の教主釈尊である。ゆえに十方三世の諸仏乃至梵帝日月天神地祇はみな本地自受用の一仏の内証に帰するゆえに、寂光の都へ帰るというのである。
 当に知るべし、久遠は今に在り、今は即ちこれ久遠なりと。久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人は即ち是れ久遠元初の一仏である。
但日蓮計り留り居て告げ示せば等
 此の下は正明でまた二。初めに初度の諌暁と国主の怨嫉。次の最勝王経からは二度の諌暁と国土の災難を明かしている。
 「但日蓮計り留り居て」とは、法華経譬喩品の「唯我れ一人のみ能く救護を為す」の御一人であり、また開目抄に「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」とおおせのとおりである。
 また「一迷先達して余迷に教ゆ」という最初の導師が即ち日蓮大聖人であらせられる。ゆえにただ日蓮大聖人御一人を信じ奉って、南無妙法蓮華経と唱えれば、すなわち十方三世の諸仏乃至梵帝日月天神等をことごとく信じ奉ることになるのである。
 本文に「留り居て告げ示せば……」とは、文応元年、立正安国論をもって、最初に諌暁あそばされたことを指すのである。
 最勝王経や大集経を引く意味は、およそ爾前経を引くのに当分跨節の二意がある。
 当分に約せば、最勝王経や大集経の行者を指して善人および世尊の声聞の弟子といい、この善人を治罰しこの声聞を悩乱せば、にわかに自界叛逆、他国侵逼等の難が起きるのである。このように権大乗の行者を治罰し脳乱するのになお自他の怨賊が起きる。いわんや実大乗たる法華の行者を治罰し脳乱するにおいてをやである。
 次に跨節に約すとは、彼の文の善人および世尊の声聞の弟子とは、ただちにこれ末法の法華経の行者、日蓮大聖人の御事である。ゆえに日蓮此の国に無くばとか、日蓮は日本国の柱等とおおせられているのである。
 「日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ」日蓮大聖人は平の左衛門尉ら数百人に対して厳然と叫ばれて、国家諌暁をなされたのである。日蓮大聖人こそ、人類を救う御本仏であられるという大宣言でなくて、なんと拝そうか。
 同じく、われらは、身不肖なりといえども大乗を学し、大仏法を信奉するものであるがゆえに、「創価学会は日本の柱である。学会を失うほどならば、日本の柱を倒すことになる」と堂々と主張しつつ、広布の大道を歩んでいくものである。
 世に多くの団体、多くの指導階層があるが、真に民族の興隆を願い、人類の幸福、社会の繁栄、世界の平和を祈って立ち上がっているものが、学会を除いて、どこにあるかといいたい。
 われらは断じて世の誹謗や中傷を恐れるものではないが、具眼の士であるならば、どうして、このような学会の前進に怨嫉し、日本の柱、世界の柱の倒るることを願うような行動ができようか。

0312:15~0313:14 第21章 災難の所以を明かすtop

15     弘法・慈覚・智証のアヤマリ国に年久し其の上禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて逆風に大波をこり大
16 地震のかさなれるがごとし、 さればやふやく国をとろう太政入道が国をおさへ 承久に王位つきはてて世東にうつ
17 りしかども 但国中のみだれにて 他国のせめはなかりき、 彼は謗法の者はあれども又天台の正法もすこし有り、
18 其の上ささへ顕わす智人なし・かるがゆへに・なのめなりき、 譬へば師子のねぶれるは手をつけざれば・ほへず迅
0313
01 流は櫓をささへざれば波たかからず盗人はとめざれば・いからず火は薪を加えざれば・さかんならず、 謗法はあれ
02 ども・あらわす人なければ王法もしばらくはたえず 国も・をだやかなるに・にたり、例せば日本国に仏法わたりは
03 じめて候いしに始は・なに事もなかりしかども守屋・仏をやき僧をいましめ堂塔をやきしかば 天より火の雨ふり国
04 にはうさうをこり兵乱つづきしがごとし、 此れはそれには・にるべくもなし、謗法の人人も国に充満せり、 日蓮
05 が大義も強くせめかかる 修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず、金光明経に云く 「時に鄰国の怨
06 敵是くの如き念を興さん当に 四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云、 又云く「時に王見已つて即四兵を厳い
07 て彼の国に発向し討罰を為んと欲す 我等爾の時に 当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して 為に護助を作し
08 彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云、 最勝王経の文又かくのごとし、 大集経云云仁王経云云、此等の
09 経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ 邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・
10 隣国の賢王の身に入りかわりて 其の国をせむべしとみゆ、 例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失
11 いしがごとし、 訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし、 漢土にも仏法をほろぼしし王みな賢王にせ
12 められぬ、 これは彼には・にるべくもなし仏法の・かたうど・なるようにて 仏法を失なう法師を扶くと見えて正
13 法の行者を失うゆへに愚者はすべてしらず 智者なんども常の智人はしりがたし、 天も下劣の天人は知らずもやあ
14 るらん、されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。
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 弘法・慈覚・智証等の仏法上の誤りは、すでに長く日本国を大苦難におとしいれた、その上、禅宗と念仏宗等のわざわいが重なって、そのため日本の国土は、逆風に大波が重なり、その上に大地震が重なったような大災害にみまわれることになったのである。されば、いよいよ日本の国は衰微していくのである。
 しかし昔は現在ほどのひどい謗法、災害はなかった。昔のことを思えば、太政入道(平清盛)が国政をすべて左右し、さらに承久の乱の後には、京都の朝廷の威令が達せず、政治の中心は東国の鎌倉にうつった。これらは一応、事件ではあったが、しかし、その時は、ただ国内の動乱のみであって、いまだ他国よりの侵略はなかった。また、あの当時は、正法に反対する謗法の者は多かったけれども、まだ当時の正法たる天台の教えも残っていた。また、その上、謗法を破折し、大正法をひろめる智人なきゆえに、智人を迫害する必要もなかった。そのため、智人出現をあらわす諸難もなく、世はまずまず平静ではあった。
 このことは、たとえば、眠れる獅子に手をつけなければ、獅子は吼えることはない。いかに、急流とはいえ、流れに櫓を支えなければ、波は立つことがない。いかなる盗人といえども、これをとがめなければ騒ぎ立てることはない。また、火は、新しく薪を加えなければ、盛んに燃ゆることはない。同じく、謗法はあっても、これを指摘し破折する人が出なければ、この智人を迫害する大謗法は世に起こらず、したがって、一国の政治もしばらくのあいだは、そのまま保ちえて、おだやかなままに過ぎていくであろう。
 たとえば、日本国に仏法が伝来した最初のころは、別に何ごとも起こらなかった、しかし、その後、物部守屋等が仏法を憎んで、仏像を焼き僧をとらえ、仏法の堂や搭などを焼くという謗法を重ねたため、天より火の雨が降って御所を焼き、国内には伝染病たる疱瘡が流行し、その上、兵乱が続出したようなものである。
 しかし、このたびのことは、かの仏法伝来の時のようになまやさしいものではない。謗法のものは国内に充満している。これを折伏する日蓮大聖人の大義も強く、邪宗にせめかかった。ちょうど修羅と帝釈との争い、仏と魔王との合戦にも、けっして劣るものではない。
 金光明経には「時に応じて隣国の怨賊が、かくのごとき念をおこすであろう。まさに歩兵、馬兵、車兵、象兵の四兵をうごかして、彼の謗法を壊滅すべし」と。また同じく金光明経には「時に彼の外敵の王は、見終わって、四兵を動員して、彼の謗法の国に押し寄せて討罰を加えんと欲す。われら諸天善神も、その時に、まさに眷属の無量無辺の多くの夜叉諸神を動かし、各形をかくして王を援護し、彼の謗法の怨敵をしぜんに降伏させるようにしむけるであろう」と。最勝王経の文も、これと同じである。大集経にも、仁王経にも「破仏破国の因縁のゆえに七難おこる」と説かれている。
 これの経文のごとくであるならば、国主が正法を行ずるものに仇をなし、邪法を行ずるものの味方となって擁護するならば、大梵天王・帝釈天・日天・月天・四天等が、隣国の賢王の身に入りかわって、その謗法の国をせむるであろうというのである。
 たとえば、訖利多王が仏法破滅を策したゆえに、雪山下王がこれを攻め滅ぼし、大族王が仏教徒を殺害したゆえに、幻日王がこれを打ち滅したごとき姿となるのである。すなわち訖利多王と大族王とは、月氏(インド)の仏法を迫害した国王であることを忘れてはならぬ。かくのごとく漢土(中国)においても、仏法を滅した国王は、みな隣国の賢王にせめられて、滅び去ってしまった歴史がある。
 しかるに、今時の日本は、これら月氏、漢土の例よりも、なおひどい姿であった。すなわち、仏法の味方のように見せかけて、じつは仏法を滅ぼす邪宗の坊主を保護し、正法の行者を迫害しているのである。あまりにも狡猾なるため、愚者はみなこのことを知らず、智者といわれる人も、普通の智人では、この真実のことを、なかなか知りえないであろう。諸天も、さぞ、下劣の天人は、このことを知らずにいることであろう。
 されば、いにしえの中国、インドの乱れよりも、現在の日本の乱れの方が、限りなく大きいというべきである。

太政入道
 (1118~1181)。平清盛のこと。太政大臣に任ぜられ入道したのでいう。平安時代末期の武将。忠盛の長子。法号は浄海。大相国(太政大臣の唐名)と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て対抗勢力が消滅すると著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや、反平氏勢力の一掃を図った。「国をおさへ」とは、治承3年(1179)後白河法皇を幽閉して、独裁政治を行ったこと。だが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ、熱病で苦悩のうちに亡くなった。
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承久に王位つきはてて
 承久の乱。源実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、後鳥羽上皇は政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)5月15日、義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、朝廷側は敗れて第85代仲恭天皇は廃され、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は島流しとされた。
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守屋・仏をやき
 第30代敏達天皇の代に、大臣の曽我馬子が仏法を信じた。そのとき、疫病が流行し、物部の守屋は蘇我氏が仏法を崇拝するためであるとして、堂塔をこわし、仏像を焼いた。
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四兵
 歩兵・騎兵・車兵・象兵をいう。
―――
訖利多王を雪山下王のせめ
 大唐西域記巻三にある。訖利多王は、仏滅後600年、北インド加湿弥羅国の王。訖利多は種族名。はじめ阿難の弟子・末田底迦阿羅漢が加湿弥羅国に五百の伽藍を建立する時に、異国から連れてきた奴隷であったが、後に勢力を得て自立した。犍駄羅国の迦弐志加王に支配されていたが、王の死後、再び王位につき、僧徒を追放して仏法を破壊した。時に、都貨羅国の雪山下王は、厚く仏法に帰依していた。勇士500人とともに、刀を袖にかくし、奇宝を訖利多王に献ずるふうをして王を刺した。その後、堂塔を建て、僧尼を供養して、仏法は再び加湿弥羅国に栄えた。
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大族王を幻日王の失いし
 大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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 ここからは災難の超過を料簡するのである。
 「逆風に大波をこり大地震のかさなれるがごとし」とは、一義にいわく「逆風を真言に配し、大地震を禅・念仏に配す」と。一義にいわく「逆風大波の起こるを真言に比し、大地震の重なるを禅念仏に比すべし」と。一義にいわく「逆風を謗法に比し、大波起こるを災難に比すべし」と。
 日寛上人はいわく「逆風を真言の悞に比し、大波起るを禅・念仏の禍に比す」と。また「大地震を真言の悞に比し、重なる辺を禅・念仏の禍に比するのである」と。いずれにしても真言の邪法によって亡国の悲運にありながら、さらに禅宗、念仏宗の邪法が栄えて三災七難が競い起こっているのである。
 さて本文に「ささへ顕わす智人なし」とおおせられているが、昔は謗法を責める人がなくて平静であったが、いまは日蓮大聖人が一国の謗法を呵責するので三災七難が起こるというのである。しからば、その次の守屋が仏法を破った例はどうなるか。
災難の起こるわけ
 これに対し、日寛上人は、次のように災難の起こる所以を明かされている。
 「汎く災難の起こりを究明するに、重々の由来があるのである。つまり、謗法の者が充満するゆえに、善神は国を捨て、善神が国を捨てるゆえに、悪鬼が乱入し、悪鬼が乱入するゆえに、国土に災難が起こり、災難が起こるゆえに、日蓮大聖人がこれを諌暁されるゆえに、国主が怨嫉し、国主が怨嫉するゆえに、当世の災難が盛んに起こるのである。
 今略してこれを論ずると、一応、二つの由来となる。つまり、日蓮大聖人の諌暁は遠由であり、国主の怨嫉は近由である。すなわち、日蓮大聖人の諌暁により、国主が怨嫉し、国主の怨嫉により、当世の災難が盛んに起こって、ついには他国侵逼難に至るのである」と。
 次は本文に「此れはそれには・にるべくもなし」云云とは、正しく当世の災難強盛の所以を明かされている。さらに「これは彼には・にるべくもなし」からは釈成の文である。
 守屋の場合は仏法の敵人となって、寺塔や僧尼に迫害を加えるから、極悪なること分明であって、愚人もこれを知っている。いわんや智者はもちろん知っている。
 いまの場合は仏法の方人となって、しかも仏法を破している。このことを愚人はすべて知ることなく、智者もまた、常の智人はこれを知らない。ゆえに国をあげて正法を怨嫉するゆえに、災難もより強盛なのである。
 妙法比丘尼御返事にいわく、
 「大族王や武宗皇帝の漢土の場合は、王一人の悪心であって、大臣以下は本気になって仏法を破ったのではない。また当時の仏法は、権仏・権経であり、僧も法華経の行者ではなかった。いまの場合は、全員が法華経(御本尊)の敵となっている。国主一人のみならず、日本国の智人ならびに万民全員の心から起こっている大悪心・大怨嫉なのである」取意。
 仏法は現証を重んずる。金光明経、最勝王経、大集経、仁王経等は、いずれも、国主が正法を行ずるものをあだみ、邪法を行ずるものの味方をすれば、必ず大梵天、帝釈、日月、四天等の諸天善神が、隣国の賢王の身に入りかわって、謗法の国を攻めると説いてある。
 この日蓮大聖人のおおせのごとく、正法時代のインドでも、カニシカ王の死後、カシミラ国の王位についた訖利多王が仏法を破壊したため、正法を奉ずる雪山下王が訖利多王を刺し、ふたたびカシミラ国に仏法が栄えたことがあり、また、大族王は仏法を破壊したため幻日王と戦って敗れたという。
 像法時代の中国では、唐の武宗が邪宗念仏を国に弘めたため、回鶻国の攻めを受け、また武宗が仏法を破ったため、乱を治めることができずに亡び去ったのである。日蓮大聖人は、そのほか中国で仏法を亡ぼした王は、みな賢王に攻められ衰亡したとおおせである。
 しかも、日本では「漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし」と申されている。すなわち日本においては、後鳥羽院の時代に法然が念仏を広めたため、後鳥羽上皇に難があり、また承久の乱で三上皇が邪法真言で祈ったため、戦いに敗れて島流しにあう等の悲劇を重ねているのである。
 さらに、今時の大平洋戦争において、軍部が正法を奉ずる初代会長牧口先生等を迫害したために、有史いらいの大敗北を喫し、日本民族が塗炭の苦しみをなめた等は、明らかな現証というべきではないか。
 今、全世界が第三次大戦の危機におののき、もし原水爆使用の世界大戦おこるならば、勝者も敗者も等しく全滅の憂き目をみるという現代に、正法を奉じて前進するわが創価学会を誹謗することは、いかに恐るべきことであるか、大いなる警告を発せざるをえないのである。そして、正法の広宣流布以外に、世界の平和も人類の幸福もありえないことを強く訴えていこうではないか。

0313:15~0314:09 第22章 国中の謗法を明かすtop

15   法滅尽経に云く「吾般泥オンの後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾が道を壊乱せん、乃至悪人転多く海中
16 の沙の如く善者甚だ少して若しは一若しは二」云云、 涅槃経に云く 「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは爪
17 上の土の如く 乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云、 此の経文は時に当りて貴とく予
18 が肝に染みぬ、当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり、 諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし、 此
0314
01 の経文には末法に謗法の者・十方の地土・正法の者爪上の土等云云、経文と世間とは水火なり、 世間の人云く日本
02 国には日蓮一人計り謗法の者等云云、 又経文には大地より多からんと云云、法滅尽経には善者一二人、 涅槃経に
03 は信者爪上土等云云、 経文のごとくならば日本国は但日蓮一人こそ爪上土一二人にては候へ、 されば心あらん人
04 人は経文をか用ゆべき世間をか用ゆべき。
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 法滅尽経に、釈尊は次のごとく説いている。すなわち、「われ、入滅ののち、五逆濁世に悪魔の邪教が盛んになり、魔が僧侶の姿となって出現して、わが仏法を乱し破壊してしまうであろう。また、悪人の数は海中の砂のごとく多くして、しかも善者ははなはだ少なく、わずか一人か二人にすぎぬであろう」と。
 同じく釈尊は涅槃経に、「このような涅槃経典を信ずるものは、爪上の土のごとく少なく、乃至この大乗経を信じないものは、十方界の所有の地土のごとく多いであろう」と説かれている。この経文は、まことに時にあたって尊く、日蓮大聖人の肝に染むるものである。
 当世の日本国には、「われも法華経を信じたり、われも法華経を信じたり」という人が多い。この諸人のことばのごとくであるならば、日本国には一人も謗法のものはいないことになる。この仏説たる涅槃経の経文には、「末法悪世においては、謗法のものは、十方の地土よりも多く、正法のものは爪上にのせうる土よりも少なし」等と説いている。経文と日本当世の姿をくらぶるに、水火のごとき相違がある。世間の人々のいわく「日本国には、日蓮法師ひとりのみが謗法のものである」と。しかるに釈尊の経文には「謗法のものは大地よりも多いであろう」と説かれている。
 すなわち、法滅尽経には「善者は、わずか一人、二人にすぎない」と。涅槃経には「正法の信者は爪上の土よりも少なし」と。もし経文のごとくであるならば、日本国には、ただ日蓮大聖人おひとりのみが「爪上の土、または一人、二人のみ」といわれた正法のものであり、善者というべきである。されば、心あらん人々は、仏説たる経文を用ゆべきか、世間の凡夫のことばを用ゆべきか、よくよく考えるべきである。

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05   問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、 汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に
06 云く「法華の中の如し」等云云、 妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経な
07 り涅槃経には法華経を極と指て候なり、 而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは 主を所従といゐ下
08 郎を上郎といゐし人なり、 涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり、 譬へば賢人は国主を重んずる者をば
09 我を・さぐれども悦ぶなり、 涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば・あながちに敵と・にくませ給う、
-----―
 問うていうのには、涅槃経の文には、「涅槃経の行者は爪上の土」等とあって、けっして法華経の行者は爪上の土等とは説いていない。しかるに、汝が義は、法華経の行者を正法のものとしているのは、いかなるわけか。
 答えていうのには、涅槃経には「法華の中のごとし」等と説いている。また妙楽大師のいわく「大経はみずから法華をさして極としている」と。この釈の中の大経と申すのは、涅槃経には、法華経を極の法とさしているのである。しかるに、涅槃宗の人々が、「涅槃経のほうが法華経よりも勝る」などというのは、あたかも、主人を所従とけなし、下郎を上郎という人と同じである。涅槃経をよむということは、法華経を真実によむことである。
 たとえば、賢人というものは、たとえわれを下げても、国主を重んずる人をば喜ぶのである。そのように、涅槃経の精神は、法華経を下げて、涅槃経をほむる人をば、敵として憎むのである。

法滅尽経
 仏説法滅尽経。1巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、また光明を現じなかった。そこで阿難が3回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって生ずることを説いている。
―――
般泥洹
 般涅槃・涅槃・入滅と同意語。
―――
五逆濁世
 五逆罪の者が充満した濁悪の世。
―――
魔道
 正法に背き、人を邪法・邪見に導く道。
―――
妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
大経
 大般涅槃経のこと。
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 これより真言の折破であり、この章はまず承前起後となるのである。
 法滅尽経は、普賢経と涅槃経の中間に説かれた経である。それは経の文に「一時仏、拘夷那竭国に在り、如来三月あって、当に般涅槃すべし」とあるから明らかである。
 さて法滅尽経には「吾涅槃の後、法滅せんと欲する時」とある。「法欲滅時」とは像法の終わりを指す文であって、末法の始めではないではないかとの疑問が生じる。
 これについては伝教大師の顕戒論には「時を知りて山に住する明拠を開示す。法滅尽経に云く仏賢者阿難に告げ給わく吾が般泥洹の後五逆の濁世魔道興盛にして、乃至悪人転多きこと海中の沙の如し、乃至善者甚だ少くして若しは一、若しは二、乃至三乗山に入り福徳之地に淡泊自ら守り以て欣快と為さんと已上経文今已に時を知る、誰か山に登らざらんや」と。
 ゆえに善者が若しは一若しは二とは、正しく像法の終わり伝教や義真のことである。どうして末法の日蓮大聖人のことであるといえようか。この疑問に対し、日寛上人は、じつにそのとおりであるとお答えになっている。
 たとえば安楽行品の、三処の「後の末世の法滅せんと欲する時」の文を伝教大師は守護国界章に次のように引かれている。「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末法法滅の時なり」と。
 しかるにいま法滅尽経を引いて末法をあらわそうとするのは、像法の終わりと末法の初めは同じ状態であるがゆえである。さらにはまた、像法の終わりすら善人はもしは一、もしは二である。いわんや末法の初めをやという意味にもなるのである。
 また、法滅尽経の「善者は一、二人」および涅槃経の「信者は爪上の土」という経文は、まさに太平洋戦争中の創価学会の姿ではなかろうか。その時、清純に大聖人の正義をお守りし、国家諌暁を断行された人こそ、初代会長牧口常三郎先生、恩師戸田城聖先生であった。
涅槃経には法華経を極と指して候事
 涅槃経は所従のごとく下郎のごとし、法華経は主君のごとく上郎のごときゆえに、極とおおせられるのである。
 上郎・下郎等の文は、現代の世相には的確な例ではないが、当時の世相を御書には次のように引かれて、法華経第一を示されている。
 顕謗法抄にいわく「例せば上郎・下郎・不定なり田舎にしては百姓・郎従等は侍を上郎といふ、洛陽にして源平等已下を下郎といふ三家を上郎といふ」(0457-)と。
 次に「涅槃経をよむと申すは法華経をよむ」とは、購読賛嘆のことである。それでは涅槃経を読まず、但法華経を読むのを、涅槃経を読むと名づけてよいか。そうではない。涅槃経を読む時に法華経を賛嘆すれば、法華経が即涅槃経の意に称うがゆえに、じつにこれ涅槃経を読むというのである。
 また涅槃経は残党のごとく、法華は大陣を破るが如し。法華は秋収冬蔵のごとく、涅槃経は捃拾のごとし。法華は主君のごとく、涅槃経は臣下のごとし。

0314:09~0315:12 第23章 嘉祥の懺悔謗罪top

109                                                  此の例
10 をもつて知るべし 華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣とよむは 彼れ彼れの経経の心にはそむくべし、
11 此れをもつて知るべし 法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども 諸経にても得道なるとおもうは 此の
12 経をよまぬ人なり、 例せば嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く
13 「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、 法華経をやぶる人なりされば 嘉祥は落ちて天台につかひて法華
14 経をよまず我れ経をよむならば 悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき、 慈恩大師は玄賛と申して法
15 華経をほむる文・十巻あり 伝教大師せめて云く「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、 此等をも
16 つておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、 嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし、
17 弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや、 嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶已前
18 の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん、 例せば不軽軽毀の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこり
0315
01 て千劫阿鼻に堕ちぬ、 されば弘法・慈覚・智証等は設いひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがた
02 しいわうや・ひるがへる心なし、 又法華経を失い真言教を昼夜に行い朝暮に伝法せしをや、世親菩薩・馬鳴菩薩は
03 小をもつて大を破せる 罪をば舌を切らんとこそせさせ給いしか、 世親菩薩は仏説なれども阿含経をば・たわふれ
04 にも舌の上にをかじとちかひ、 馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給き、 嘉祥大師は天台大
05 師を請じ奉りて百余人の智者の前にして 五体を地になげ遍身にあせをながし 紅の・なんだをながして 今よりは
06 弟子を見じ法華経をかうぜじ弟子の面を・まほり法華経をよみたてまつれば 我力の此の経を知るににたりとて・天
07 台よりも高僧老僧にて.おはせしが・わざと人のみるとき・をひまいらせて河をこへ・かうざに.ちかづきて・せなか
08 にのせまいらせて 高座にのぼせたてまつり結句・御臨終の後には隋の皇帝にまいらせて 小児が母にをくれたるが
09 ごとくに足ずりをしてなき給いしなり、 嘉祥大師の法華玄を見るにいたう法華経を謗じたる疏にはあらず 但法華
10 経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ此れが謗法の根本にて候か。
-----―
 この涅槃経の例をもって知りなさい。同じく、華厳経、観経、大日経等を読む人も、もし法華経をそれらの経より劣ると読むのは、彼の華厳経や観経や大日経等の経々の心にそむくことである。これをもって知りなさい。法華経を読む人が、たとえこの法華経を信じているような姿をしても、もしも、法華経以外の諸経でも得道があると思うのは、この法華経を正しく読まぬ人というべきである。
 例をあげれば、中国の三論宗の開祖、嘉祥大師は「法華玄論」という十巻の疏釈を作って、法華経を賞賛したけれども、妙楽大師はかの嘉祥大師を責めていうのには、「いかに法華経を賛嘆しているように見せかけても、法華経に対する毀りが、その中にあらわれている。どうして、弘讃といえようか」と破折している。
 すなわち、じつには、嘉祥大師は、法華経を破る人なのである。されば嘉祥大師は、後に降伏改悔して天台大師に仕えた。しかして、「われ法華経を読まず。もしわれ法華経を読むならば、元のように悪道に落ちること、まぬがれがたし」といって、七年間、あるときは、天台大師を背負って河を渡るなど、我が身を橋として、天台大師に仕えきったのである。
 また法相宗の開祖、慈恩大師は「法華玄賛」という、法華経を賛える十巻の疏釈を作った。しかし伝教大師はかの慈恩太師をせめて法華秀句にいわく「法華経を讃むるといえども、かえって法華経の心を死す」等と。
 これによって、つくづくと思うのは、むしろ法華経を読み法華経を賛嘆する人々の中に、かえって無間地獄におちる人が多くあるのである。先にあげた、中国の嘉祥大師、慈恩大師という人々こそ、法華経を一応は賛えているけれども、じつには、すでに法華一乗を誹謗する人たちである。いわんや、弘法とか慈覚とか智証とかいうものどもが、どうして法華経を蔑視する謗法の人でないわけがあろうか。
 すでに、嘉祥大師のごとく、前の自身の講を廃して、いままで嘉祥に師事していた大衆を散じて、しかも、わが身を橋として天台大師を背負って河を渡るなど、誠心誠意、天台大師に仕えたけれども、なお以前の法華経誹謗の大罪は、かんたんに消えることはなかったのであろう。たとえば、過去世、威音王仏の像法時代に二十四文字の法華経を説く常不軽菩薩を軽しめ迫害した大衆は、後に不軽菩薩に信伏随従したけれども、法華経誹謗の重罪いまだ残るゆえに、なお千劫のあいだも阿鼻地獄に堕して苦しまざるをえなかった。
 されば、弘法や慈覚や智証等の法華経誹謗の大重罪人は、たとい万一、謗法の心をひるがえし法華経を賛嘆したとしても、なお彼らが法華経を読むならば、以前の重罪は消え難いのである。いわんや、彼らは謗法をひるがえす心は微塵もないではないか。またその上、法華経を誹謗し失わせ、真言の邪教を昼夜に修行し、朝暮に伝法するにいたっては、まことにその謗法は消えがたしというべきである。昔、月氏(インド)の世親菩薩や馬鳴菩薩は、小乗教をもって大乗教を破った謗法罪を後悔して、大乗教を誹謗したその舌をば切って詫びようとまでしたのである。ゆえに世親菩薩は、阿含経はたとえ仏説なれども、小乗教であるゆえに、たわむれにも舌の上にもてあそばず一言も言うまいと堅く誓った。また馬鳴菩薩は、懺悔のために、大乗を賛嘆する大乗起信論を作って、小乗教を打ち破った。
 嘉祥大師は、後に天台大師に帰依し、天台大師に請い奉って、百余人の智者の前で、わが五体を地に投げ、全身に汗を流し、紅涙をたたえて、誓っていうのには、「いまよりわれは弟子を指導いたすまい。法華経を講ずることもやめましょう。もしや弟子の前をかざって、法華経の講義をつづけるならば、自分は法華経の極意を知らないのに知っているかのような錯覚を世間の人に与えるであろう」と。
 しかして、嘉祥大師は、天台大師よりも年長で高僧老僧のような姿ではあったが、わざと自分のかつての弟子や知人等が見ている前で、天台大師を背負って河を渡り、また高座のそばでは、天台大師を背中にのせて高座にのぼらせるなど、誠心誠意、天台大師に仕えたのである。ついに、天台大師の御臨終のときには、隋の皇帝の前にあって、あたかも幼児が母にさきだたれたような思いで、足ずりをして悲しみ泣いたといわれている。
 いったい嘉祥大師の法華玄論を見ると、ひどく法華経を誹謗したという疏釈ではない。ただ「法華経と諸大乗経とは、はいるべき門には浅深はあるけれども、その根本の心は一つである」と書いてあるが、このことばが謗法の根本といえようか。
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11   華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそ・かかれて候へ、嘉祥大師・とがあらば善無畏三
12 蔵も脱がたし
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 しかるに華厳の澄観も、真言の善無畏も、「大日経と法華経は、理は同じである」ということを説いたのである。もし、かくのごとく嘉祥大師に仏法上の過失があるならば、どうして善無畏三蔵も、のがれることができようか。

嘉祥大師
 (0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で八8ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7間仕えた。
―――
法華玄
 嘉祥著の「法華玄論」十巻。この中に、華厳は純一乗・法華は会三帰一と説く。
―――
慈恩大師
 (0632年~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
―――
玄賛
 慈恩撰の「妙法蓮華経玄賛」10巻。五性各別の邪義を説く。
―――
不軽軽毀の衆
 不軽菩薩を軽賎し、毀謗して地獄におちた増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆。

―――
世親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
馬鳴菩薩
 付法蔵の第十二。仏滅後六百年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
―――

馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくり
 馬鳴は小乗に執していたが富楼那に説破され、舌を切って謝罪しようとした。そのとき、富楼那はこれを止めて出家せしめた。のちに馬鳴は大乗起信論2巻(漢訳には実又難陀の2巻・真諦の1巻がある)を著した。

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 この章からは正しく真言を破すのである。本章は総破である。また四に分け一に依経違背の謗法、二に不信毀謗の謗法を責む、三に不懺悔の謗法を責む、四に謗法の根本を責むとなっている。
 一に依経違背の失とは、華厳経、観経、大日経等を読む人が、法華経がこれらの経に劣ると読むならば、それぞれの経の心に背くのである。顕謗法抄にいわく「謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん」(0455-06)と。これは爾前経を信じながら爾前の意に反するので、信じながらも不信の謗法となるのである。
 二に不信毀謗の謗法を責むとは、爾前経を信じても爾前経の意に反すれば不信になると同じに、法華経を信じても法華の意に反すれば不信となる。法華の意とは、爾前は無得道堕地獄の根源であり、法華経のみが已今当に勝れ、法華経よりほかに仏になる道はなしと強盛に信ずることである。顕謗法抄にいわく「一切衆生悉有仏性の説を聞きて之を信ずと雖も又心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云うなり此れ信而不信の者なり」(0459-14)と。
 本文に「例せば嘉祥大師」からは、引例として嘉祥と慈恩を挙げられている。妙楽が嘉祥を責めて「謗其の中に在り」といっている。この点において異義もあるが、日寛上人は「嘉祥が疏を造って法華経を賛嘆しているけれども、その賛嘆の言の中に、毀謗の義があることを在其中というのである」とおおせられている。
 三に不懺悔の謗法を責むとは、嘉祥のごとく懺悔してもなお謗法の罪は消え難いのに、弘法、慈覚のごとく懺悔もしない者はどれほどの大罪となるか、はかり知れないのである。
 四に謗法の根本を責むとは、嘉祥の法華玄には、法華経を謗じてはいないけれども、諸大乗教と法華経と其の心は一つと書いていることが、謗法の根本となっている。顕謗法抄にいわく「諸大乗経の中の理は未開会の理いまだ記小久成これなし法華経の理は開会の理・記小久成これあり」(0458-15)と。
 このように天地の相違があるのに、澄観や善無畏は大日経と法華経は理が一つであるなどといった。諸大乗経の理は、有名無実であり、本無今有である。法華経の理は名体倶実、本有常住である。どうして理一などといえるであろうか。
 なお次の御抄によっても、爾前と法華経の相違がじつに明らかなのである。法華初心成仏抄にいわく「いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず、故に無量義経には『是の故に衆生の得道差別せり』と云い又『終に無上菩提を成ずることを得じ』と云へり、文の心は爾前の経経には得道の差別を説くと云へども終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給いて候へ」(0548-05)と。
法華の心を死す
 伝教大師のいわく「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」と。いま、この慈恩に対する破折のことばを、現代の宗教界に適用すれば、どうなるであろうか。
 まず天台宗や日蓮宗他派の者が、日蓮大聖人も法華経を弘めた法華経の行者であるというように、かんたんに考えて、釈尊在世、像法時代と同じく法華経を賛嘆し、法華経二十八品を読誦し書写し用いている。これらは釈尊が末法には「白法隠没」するがゆえに「法華経も功力を失い、ただ法華経に予言された末法出現の仏を信ぜよ」と予言したことに反するものである。すなわち法華経を賛嘆するといえども、法華経の精神を破る姿である。
 末法の法華経とは、三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮宗他派の徒が、日蓮大聖人の御正意、末法における本尊を知らず、あるいは法華経、あるいはニセマンダラ、あるいは釈迦仏像、あるいは鬼子母神、キツネ、竜神、戒名等を本尊にしている姿は、正しく「法華の心を死す」ものであり、破仏法このうえもないことである。
 末法今時においては、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」とおおせられた、正しき御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである。
 世親菩薩、馬鳴菩薩、嘉祥大師等は、いずれも小乗を捨てて大乗を弘め、わが小法を捨てて天台大師に師事する等の有羞、懺悔の僧であった。しかるに、現代の僧が、自分の法が邪劣であることを知りながら、大法正法に信順できないのは、じつにはかない姿である。

0315:12~0317:02 第24章 中国の真言三祖を破るtop

12       されば 善無畏三蔵は中天の国主なり位をすてて 他国にいたり殊勝・招提の二人にあひて 法華経を
13 うけ百千の石の塔を立てしかば 法華経の行者とこそみへしか、 しかれども大日経を習いしよりこのかた法華経を
14 大日経に劣るとや・おもひけん、 始はいたう其の義もなかりけるが漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ、 天台
15 宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、 忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄 七すぢつけられて閻魔王宮にいた
16 りぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・な
17 げすてて法華経の今此三界の文を唱えて 縄も切れかへされ給いぬ、 又雨のいのりを・おほせつけられたりしに忽
18 に雨は下たりしかども 大風吹きて国をやぶる、 結句死し給いてありしには弟子等集りて 臨終いみじきやうを・
0316
01 ほめしかども無間大城に堕ちにき、 問うて云く何をもつてか・これをしる、 答えて云く彼の伝を見るに云く「今
02 畏の遺形を観るに 漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり」等云云、 彼の弟子等は 死後に地獄の相の顕われた
03 るをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、 死してありければ身やふやく・
04 つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、 人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞ
05 かし、善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ 幼少にして位をすてぬ第一の道心なり、 月氏・五十余箇国を修行せり慈
06 悲の余りに漢土にわたれり、天竺・震旦・日本一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる此の人の徳にあらずや、 いかに
07 して地獄に堕ちけると後生をおもはん人人は御尋ねあるべし。
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 しかして、この真言の邪師・善無畏三蔵は、初め中天竺の国主であった。しかるにその後、思うところあって位を捨てて出家した。他国をめぐって修学し、殊勝・招提の二人に会って、法華経を学び、百千の石の塔を立てて修行したゆえに、初め世間から法華経の行者のごとく思われたのである。
 しかしながら、その後、大日経を学んでからは、法華経を大日経に劣るものと勘違いをしたのであろうか、初めは、ひどく大日経第一という義はなかったのであるが、中国にわたって玄宗皇帝の師匠となってから、心変わりをしたのである。
 すなわち漢土には、すでに法華経をもとにしたりっぱな天台宗があった。善無畏は、この天台宗に怨嫉する心が生じて真言を弘めたのであろうか。そのために、たちまちに罰をうけて、あるとき善無畏は頓死した。二人の獄卒に鉄の縄を七すじも身体にいましめられ、閻魔王宮に引かれていった。
 しかし善無畏の命いまだつきずといわれて、また蘇生して、娑婆世界に戻されたのであるが、そのとき、これは法華経を誹謗した罪であると自覚したのであろうか、真言の観念、印真言などの邪法をば、みずから投げ捨てて法華経譬喩品の「今此三界皆是我有……」云云の経文を唱えたため、七すじの縄も切れて、ようやく許されて帰されたのである。
 その後、善無畏は朝廷から、雨の祈りを命令された。善無畏の祈雨によって、たちまちに雨は降ったことは降ったのであるが、大風が同時に吹いて国土を荒らした。これまったくの悪相である。結局、善無畏が死にいたったとき、彼の善無畏の弟子たちが集まって、臨終がりっぱであったと追従してほめたのであるが、じつは善無畏は無間大城におちたのである。
 問うていうのには、いかなる理由をもって善無畏が地獄におちたと知るのかと。
 答えていうのには、善無畏の伝記をみると、次のように書かれている。すなわち宋高僧伝には「いま、善無畏の遺体の形相を見ると、だんだんに、ますます遺体は縮小し、黒皮が隠々として、骨もあらわになっている」と書かれている。
 善無畏の弟子たちは、善無畏の死後に、地獄の相がはっきりと顕われたのを知らずに、臨終正念であったとして、「生前の遺徳をあげた」などと思っているかしらぬが、じつには、善無畏の伝記を書きあらわした筆には、善無畏の堕地獄の相を示しているのである。すなわち、それによれば「死んだ後の善無畏の遺体を見るに、身体はだんだんに縮まり、小さくなり、皮膚は黒く、骨は露出している」等と書いてあるのである。
 そもそも人がなくなって後、色の黒いのは地獄の業相であると決定したことは、これじつに仏陀の金言なのである。ゆえに善無畏三蔵は地獄におちたのである。それでは、善無畏三蔵の地獄の業因はなにごとであろうか。善無畏は、幼少にして国王の位も捨てた。これ第一の求道心というべきではないか。その上、月氏(インド)、五十余か国を経めぐって修行を積んだ。民衆を一人でも多く救いたいという慈悲の心のあまり、月氏より漢土まで渡って、仏法をひろめた人である。インド、中国、日本、またアジア諸国のなかで、真言宗を伝え、鈴をふって修行する人の多いのは、みなこの善無畏の徳のいたすところではないか。
 このような人が、どうして地獄におちたのかと、後生の大事を思う人々は、深くその根本原因を追及していくべきである。
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08   又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり、金剛頂経を漢土にわたす其の徳善無畏のごとし、 又互いに師となれ
09 り、而るに金剛智三蔵・勅宣によて雨の祈りありしかば 七日が中に雨下る・天子大に悦ばせ給うほどに忽に大風吹
10 き来る、 王臣等けうさめ給いき使をつけて追はせ給いしかども・とかうのべて留りしなり、 結句は姫宮の御死去
11 ありしに、 いのりをなすべしとて御身の代に殿上の二女七歳になりしを 薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚
12 にはおぼゆれ、 而れども・姫宮も・いきかへり給はず不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり、此等の事を不審と
13 やおもひけん畏と智と入滅の後・月氏に還りて 竜智に値い奉り真言を習いなをし 天台宗に帰伏してありしが心計
14 りは帰えれども身はかへる事なし、 雨の御いのり・うけ給わりたりしが三日と申すに雨下る、 天子悦ばせ給いて
15 我れと御布施ひかせ給う、 須臾ありしかば大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり雲閣・月卿の宿所・一所もあるべし
16 とも・みへざりしかば 天子大に驚きて宣旨なりて風をとどめよと仰せ下さる・且らくありては又吹き又吹きせしほ
17 どに数日が間やむことなし、 結句は使をつけて追うてこそ 風も・やみてありしか、此の三人の悪風は漢土日本の
18 一切の真言師の大風なり。
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 また、同じく中国の真言の開祖といわれる金剛智三蔵は、南インドの大王の太子であった。金剛頂経を漢土にわたす仕事をした人で、その徳はおよそ善無畏のごとしというべきである。また善無畏とは、たがいに相手の足らざるところを教えあう師となりあって研究に励んだ。
 しかるに、金剛智三蔵は、勅宣によって雨の祈りをしたときに、七日以内に雨が降った。天子はおおいに喜んだのであるが、その後たちまち大風が吹いた。ために天子も臣下も一同みな興ざめして、使者をつかわして金剛智を追放したのであるが、金剛智はなんとか理屈をいいつのって、また中国にとどまってしまった。さらに、ついには、その後、皇帝の寵愛した姫が臨終となったとき、祈願を命ぜられた。金剛智は早速、姫の身代りとして、殿上の七歳になる二女を選んで、これに緋絵をまとわして、そばに火をたいて祈った。しかし、結局、無残にも二女は焼け死んでしまい、姫もついに生き返ることなく死んでいったのである。まことに、ふびんなことであった。
 不空三蔵は、金剛智三蔵の弟子として、月氏より供をして漢土にわたった。しかし、これら善無畏、金剛智の不祥事を見て、不審に感じたのであろうか、善無畏と金剛智の死後、ふたたび月氏にかえって、竜智菩薩にあって、真言を習学しなおして、ついに天台宗に帰伏したのであるが、心ばかりは法華経に帰伏し、身は帰伏することができなかった。
 不空も同じく祈雨を命ぜられた。雨の祈りによって、三日のうちに雨が降った。天子はひじょうに悦んで、みずから布施をさし出した。しかるに、たちまちのうちに、大風が吹ききたって、宮殿の内裏をも吹き破り、雲閣、月卿の宿所なども、みな吹き飛ばされて、ただの一所も残っている建物はないようなありさまであった。されば天子はおおいに驚き、命令を下して「風をとどめよ」と言いつけられた。しかし、しばらくやんでは、また猛烈に吹きすさび、また吹き荒れて、ついに数日の間、止むことはなかったという。ついには、勅使をつかわして不空を追放して、初めて大風はやむしまつであった。
 この漢土の真言師、三人の悪風は、ただ彼ら三人だけのものではなく、漢土、日本のいっさいの真言師の大風であり邪教の証拠なりというべきである。
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0317
01   さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・ 東寺第一の智者の雨のいのりに
02 吹きたりし逆風なり、善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか心にくし心にくし。
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 そのためであろうか。去る文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂の加賀法印という東寺第一の智者の雨の祈りによって吹いた逆風である。東寺は邪教真言を伝えるものであり、正しく善無畏、金剛智、不空の悪法を少しもたがえず、この日本に伝えたるがゆえに、同じく大風が吹いたというべきである。まことに心にくいまでに符合しているではないか。

善無畏三蔵
 (0637~0735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
―――
中天の国主
 善無畏は、中インド烏仗那国仏種王の子で、13歳にして王位についている。

―――
殊勝・招提
 宋高僧伝・善無畏伝にある。「善無畏が烏仗那国を後にして南に行き、海浜に至った。そこで、殊勝・招提の二人に会って法華三昧をえた。砂を集めて塔をつくること一万か所、その徳により、黒蛇に指をかまれたが絶息することがなかった」と。
―――
玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
―――
真言の観念・印・真言
 真言蜜教で説くところの観念、
唵字観・阿字観・五輪観等の法門をいう。印とは、真言宗における漫荼羅の諸尊が、おのおの、その内証の本誓を表示する形式。広義の印とは、刀剣・輪宝・宝珠・金剛杵・蓮華等をさし、狭義には、本尊の手相および行者の手の形をいう。われわれの合掌も印の一種となる。真言とは、真言陀羅尼ともいい、仏の真実のことばをいい、呪文のようなものである。
―――
法華経の今此三界の文
 法華経の譬喩品第三にある。「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子」(今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり)との文。
―――

隠隠
 憂い悲しめる状態。色のどす黒くなるありさま。

―――
金剛智三蔵
 (0571~0741)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
姫宮
「宋高僧伝」には、玄宗皇帝の寵愛された姫とある。
―――
不空三蔵
 (0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)。阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
―――
雲閣
 四位・五位・六位の昇殿をゆるされたものの称で、殿上人ともいう。
―――
月卿
 天皇を日になぞらえ、三位以上の公卿を月になぞらえてこのようにいう。なお、公卿とは公と卿のこと。公は太政大臣・左大臣・右大臣をいい、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。大臣公卿と分けていうときは、公卿とは納言以下の公家をいう。
―――
阿弥陀堂の加賀法印
 鎌倉大倉の阿弥陀堂の別当で、加賀の法印定清のこと。真言宗小野流定清方の開祖。
―――――――――
 真言を破す中に、前章は総じて破し、本章は別して破す段である。別して破す中では、本章に漢土の三祖を破し、次章に日本の弘法、慈覚を破している。
 さて、漢土の三祖とは、善無畏、金剛智、不空のいわゆる三三蔵である。かれらの邪義を破するにあたって、本章では祈雨の失敗や、臨終の相が悪いという現証をもって破折なされているのである。
 現証の大事なことは御書に、三三蔵祈雨事にいわく「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と。
 しかしてこの御抄にも三三蔵の祈雨についてお述べになっている。「善無畏は、唐の玄宗の時、大雨を降らせたけれども大風が出て国土を吹き破った。金剛智は、同じく七日の内に大雨が降ったが、前代未聞の大風が吹き、国外へ追放せよとの命令さえ出された。不空は、三日のうちに大雨を降らせたが、大風が吹き、数十日とどまらなかった」。また日蓮大聖人当時の文永11年(1274)の大風は、東寺第一の智者といわれた阿弥陀堂の加賀法印の雨の祈りの逆風であった。また極楽寺良観が、日蓮大聖人から祈雨の失敗を追求され、怨嫉を懐き幕府へ訴えて弾圧の端緒をつくったことも有名である。
 そもそも国に正法なく、邪宗が盛んであるからこそ大旱魃も起きるのである。にもかかわらず、邪宗の雨乞いを行なったのでは、雨も降らなければ、国土も安穏になるわけがない。かえって国を滅し、民を滅し、地獄の業因をつくりかさねているにすぎないのである。
 そもそも日蓮大聖人が良観を責められたのは、
 種種御振舞御書にいわく「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、(乃至)いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞ」(0912-12)と。
 顕立正意抄にいわく「設い日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも勘うる所当らずんば誰か之を信ぜん」(0537-04)と。
 法蓮抄にいわく「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045-03)と。
 このように日蓮大聖人は、予言の的中することを見て、仏法の正邪も判定されるし、永遠の幸福も疑ってはならないと断定あそばされているのである。しかして御自身の立正安国論の予言については、
 立正安国論奥書にいわく「既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり」(0033-05)と。
 こうして国家の危急を救い、一切衆生に即身成仏の大直道を与えられる御本仏日蓮大聖人に相対する時、雨乞いの祈りさえかなわないような邪法邪宗のいかに、はかない存在であるか。国民大衆の願うところは、旱魃に悩み苦しみて後、雨を祈ってもらうよりも、初めから旱魃や豪雨や大風の被害のない平和な幸福な社会である。
死後に地獄の相の顕われたるをしらず等
 善無畏三蔵が死んだ時、その身が縮まり、色が黒くなり、骨があらわになってきたというのは地獄の相である。
 死相については、御書に数多くの文証がある。
 千日尼御前御返事「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅緜の如し」(1316-11)
 妙法尼御前御返事「大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが……臨終の事を習うて後に他事を習うべし……大論に云く『赤白端正なる者は天上を得る』云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し」(1404-03)と。
 およそ仏法は師弟相対である。師匠が地獄におちれば、弟子はまた地獄におちざるをえないのである。真言、念仏、禅宗等の中国、日本における元祖は、いずれも堕地獄の相を現じたことを、よくよく考うるべきではないか。
 すなわち、中国の真言三祖、善無畏、金剛智、不空の三三蔵は、いまのべたごとく、いずれも悪現証をあらわしたのである。また、日本の真言の祖も、弘法にせよ、慈覚にせよ、みな死去のありさまは堕地獄の様相を示したのである。
 また念仏においても中国の開祖・善導は、寺院の前の柳の木に首をくくって死のうとし、苦しんで死んだといわれる。日本の法然も死して後、墓をば犬神人に発掘され、遺骨は加茂川に捨てられた。謗師の実態は、いずれも、かくのごときである。

0317:03~0317:16 第25章 弘法慈覚の悪現証top

03 弘法大師は 去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・ 祈雨して七日が内に雨を下す 但京中にふりて
04 田舎にそそがず、 次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし 三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者
05 として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、 此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり 我が
06 雨として今に四百余年・弘法の雨という、 慈覚大師の夢に日輪をいしと弘法大師の大妄語に云く弘仁九年の春・大
07 疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云、 成劫より已来・住劫の第九の減・已上二十九劫が間に日輪夜中に
08 出でしという事なし、 慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみる
09 は吉夢という事有りやいなや、 修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、 殷の
10 紂王は日天を的にいて身を亡す、 日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、 命の云
11 く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・ かをほれりと云云、 阿闍世王は邪見を
12 ひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に
13 落つと・ ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、 我国は殊にいむべきゆめな
14 り神をば天照という国をば日本という、 又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ
15 給える太子なり、 慈覚大師は大日如来を叡山に立て 釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵とな
16 せしゆへに此の夢出現せり。
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 弘法大師は、さる天長元年の二月、大旱魃のあったとき、祈雨の命をうけた。その時は、まず初めに守敏が祈雨をして七日のうちに雨を降らした。しかし、ただ京都の内に降ったのみで、地方には降らなかった。次に弘法が引きつづいて祈ったが、一週間にはぜんぜん雨は降らなかった。二週間すなわち十四日たっても雲すら見えなかった。三週間、すなわち21日たったとき、天子から和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にたてまつったところが、そのためであろうか、沛然と雨ふること3日間であった。この雨を弘法大師ならびに弟子たちが奪いとって、弘法が祈ったために降った雨として、すでに400余年たったけれども、いまだに弘法の雨と宣伝している。
 慈覚大師は、日輪を射た夢を見たという。また弘法大師は、弘仁九年の春、大疫病の治癒を祈っていたら、夜中に大日輪が出現したと大妄語、大嘘をいっている。
 まったく、この地球ができた成劫の初めよりこのかた、住劫の第九の減の今日まで、二十九劫の間に、日輪が夜中に出たなどという例は絶対になかったのである。また慈覚大師は、日輪を射た夢を見たというが、仏経典五千巻、七千巻、外典三千余巻の中に、日輪を射たという夢が、吉夢であるということを、一か所でも説いてあるか、どうか。阿修羅王はあるとき帝釈天を怨んで敵対し、日天に向かって矢を射た、しかし、その矢は、日天にあたらないで、かえって、わが目にたったではないか。中国古代の悪王、殷の紂王は、日天を的として矢を射てわが身を滅したではないか。日本においても、神武天皇の時代、度美長と五瀬命と合戦したとき、大和朝廷側の五瀬命の手に矢が立った。そのとき五瀬命のいわれたことは、「われは日天の子孫である。しかるに、われ北から南に攻め上り日に向かって弓を引いた。ゆえに日天の責めをうけて敗れたのである」といった。次には南より迂回して日天を背にして戦い、大勝利をえたという故事がある。
 またインドの阿闍世王は、いままでの邪見をひるがえして釈尊に帰依し、宮廷の内裏に帰って就寝したのであるが、やがて驚いて飛び起き、諸臣に向かっていうのには「われ、日輪が天より地に落つという夢を見たり」と諸臣は、「これこそ仏の御入滅であろうか」といいあった。はたして、そのとおりであったという。須跋陀羅の夢も、これと同じであった。昔のことは、みなかくのごとくであった。
 しかして、わが日本国においては、日輪を射るということは、ことに忌むべき夢である。わが国においては、神をば天照大神という。また教主釈尊をば日種と申している。すなわち摩耶夫人が日をはらむ夢を見て、誕生したのが悉達太子であり、教主釈尊である。
 まことに慈覚大師は、権経の大日如来を比叡山にまつり、教主釈尊を捨て、さらに邪教真言の三部経をあがめて、法華経の三部経を敵にした大謗法のゆえに、日輪を射るというような下剋上の悪夢を見たのである。

守敏
 生没年不明。平安初期の真言僧。幼い頃から奈良で遊学し、勤操等について三論・法相および密教に通じた。弘仁14年(0823)嵯峨天皇から西寺を授けられた。この時、弘法は東寺を授けられた。天長元年(0824)2月の大旱魃に、弘法と祈雨を競い、守敏は7日で京中のみに雨を降らせることができたが、弘法は3週間を経たが守敏の呪によって雨を降らすことができなかった。そこで天子が雨を祈り、雨を降らすと、東寺の門人等は、師の弘法が降らした雨だといいふらした。
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和気の真綱
 (0783~0846)。和気真綱のこと。平安初期の貴族。和気清麻呂の第五子。若くして大学に学び、よく史伝に通じ、参議従四位上に進んだ。仏教に深く帰依し、高雄山寺で南都六宗の高僧14人を集め、伝教大師を講師として法華会を開くなど、兄の広世とともに伝教大師を援助して天台宗の開創に寄与した。
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神泉苑
 平安京造営の時、大内裏の南に接して造られた禁苑(天皇の庭)。南北四町、東西二町の地を占め,自然の涌泉にもとづく広大な池があり、樹林繁茂し、乾臨閣などの楼閣を配していた。延暦19年(0800)の桓武天皇の行幸以来、歴代天皇の遊宴場となった。天長元年(0824)の大旱魃に、弘法が祈雨をして以来、善女竜王がまつられ、雨乞いの場とされた。現在は京都市中京区門前町に苑池の一部が存し、東寺付属の寺院となっている。なお善女竜王については、「元亨釈書・空海伝」に「神泉苑(京都二条城の南にある)の池に善女と名づくる竜がいた。形を示せば祈雨が成就することになっている。そのことを帝王に上奏すると、帝は和気の真綱を使として、御幣を神竜に供えた。すると、沛然として3日の間雨がふり、天下がうるおった」とある。
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修羅は……日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ
 羅睺羅阿修羅王が日月を障礙することは、法華文句巻二下に「羅睺羅、此には障持と云う。日月を障持する者なり……日月を怖る時倍して其の身を大にし気もて日月を呵す。日月は光を失て来て仏に訴う。仏、羅睺に告げたまわく、日月を呑むこと莫れと。羅睺の支節戦動して、身に白汗を流し即ち日月を放つ」とある。「日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ」の出典は不明。ここでは還著於本人の道理を阿修羅に即していわれている。
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殷の紂王は日天を的にいて身を亡す
 紂王は殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。「日天を的にいて身を亡す」の出典は不明。
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度美長
 長髄彦のこと。神武天皇の東征を妨げ、皇室に仇をなした土豪の主長で、孔舎衛坂の戦いには、神武天皇の兄、五瀬命に傷をつけた。
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須跋陀羅がゆめ
 須跋陀羅は、梵語スバッダ(Subhadra)の音写。仏の入滅のときに教化をうけた最後の弟子。大智度論三に「ある夜、いっさいの人がみな目を失い、裸形で闇の中に立ち、日はおちて大地は破れ、大海は乾いて大風が須弥山を吹き散らした夢を見た。翌朝、仏が今夜半に涅槃するということを聞き、仏に会って出家しその夜のうちに羅漢となった」という。
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 この章は、別して真言を破する中で、日本の弘法・慈覚を破す段である。
 弘法は夜中に太陽が出たという。慈覚は、太陽を弓で射落とした夢を見たといって、彼の邪説が仏意にかなった証拠としている。弘法のことは次章にくわしく出てくる。また慈覚のことは撰時抄にもくわしい。すなわち、慈覚は、金剛頂経と蘇悉地経の疏をつくり、法華と真言とは、理は同じく一念三千であるが、密印と真言は法華になく、天地雲泥の相違があると書いた。
 この疏の心が仏意に通ずるかどうかと、仏像のまえに安置し、7日7夜の祈りをささげたところ、5日の五更にいたって、太陽を弓で射落とした夢を見た。このような大凶夢をもって、自己の邪義が仏意にかなった証拠としている。じつに邪宗のなかの極邪宗ともいうべきである。
 しかし、日蓮大聖人御入滅後700年にいたる今日においても、なおこのような邪宗が残骸をさらし、さらに終戦後の新興宗教のなかにも、同じような道理を無視した邪義が、平然と横行してきたことも、驚くべき事実である。

0317:17~0318:06 第26章 善導の悪夢の例を挙ぐtop

17   例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に 値うて法華経をよみたりしが後には道綽に値うて法華経をす
18 て観経に依りて疏をつくり法華経をば千中無一・ 念仏をば十即十生・ 百即百生と定めて此の義を成ぜんがために
0318
01 阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす、 仏意に叶うやいなや毎夜夢の中に常に一りの僧有りて来て指授すと云云、 乃
02 至一経法の如くせよ乃至観念法門経等云云、 法華経には「若し法を聞く者有れば 一として成仏せざる無し」と善
03 導は「千の中に一も無し」等云云、 法華経と善導とは水火なり善導は観経をば十即十生・百即百生・無量義経に云
04 く「観経は未だ真実を顕さず」等云云、 無量義経と楊柳房とは天地なり 此れを阿弥陀仏の僧と成りて来つて汝が
05 疏は 真なりと証し給わんはあに真事ならんや、 抑阿弥陀は法華経の座に来りて 舌をば出だし給はざりけるか、
06 観音勢至は法華経の座にはなかりけるか、此れをもつてをもへ慈覚大師の御夢はわざわひなり。
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 次に、悪夢凶夢の例をあげてみよう。一例として、漢土の善導は、初めは密州の明勝というものに会って、法華経を学んだのである。しかるに、後に道綽に会ってより、法華経を捨て、観経を用いるようになった。すなわち観経によって疏を作り、法華経は「千中無一」であり「法華経によって成仏するものは千人の中に一人もなし」と誹謗し、念仏は「十即十生・百即百生、すなわち、十人が十人、百人が百人、往生する」と定めたのである。そして、この義を成就するために、阿弥陀仏の前で祈誓をなした。仏意にかなったのか、どうか、毎夜、夢の中に、いつも一人の僧が出現して教授し指導したので、この書を完成したのだという。ゆえにこの観経疏は、つねに「仏の経法のごとくせよ」といわれ、彼の著「観念法門」も経のごとく尊敬せよといわれているのである。
 法華経方便品には「もし法華経を聞くものがあれば、ひとりとして成仏しないことはない」と説かれている。しかるに、善導は、「千中無一、すなわち法華経を信じても、千人のうち一人も成仏するものはない」といっている。法華経の説くところと、善導のいいぶんは、まったく水火のごとき相違がある。
 善導は、観経は「十即十生、百即百生」の経と説いている。しかるに無量義経には「四十余年の中に説いた観経は、いまだ真実を顕わしていない」等と説かれている。善導は、後に楊柳の枝に首をくくって自殺をしたが、仏説たる無量義経と、この楊柳房とは、まったく天地の差がある。これをもって思うのに、善導の夢の中に、阿弥陀仏が僧となって出現して、「汝が説いた疏は真なり」と証明したということは、どうして真実のことといえようか。そもそも、阿弥陀如来は、三世十方の諸仏のひとりであるべきなのに、法華経の座にきて、「法華経は皆是れ真実なり」という証明の舌を出さなかったのであろうか。また、観音、勢至の二菩薩も、迹化他方の菩薩として、法華経の座にいなかったのであろうか。もし、法華経の座にいたならば、善導の夢にあらわれるはずはないではないか。これをもって、善導の夢は、大妄語であったことは明白である。
 これをもって思うのに、同じく、慈覚大師の日輪を射る夢も、悪夢であり、凶夢である。これこそおおいなるわざわいと知るべきである。

善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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密州の明勝
「観経玄義分伝通記」によると、三論宗の嘉祥と同門の師に、明勝というものがいて、善導は、その明勝から法を受けたという。密州はいまの中国山東半島の浙水のあたり。
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道綽
 (0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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楊柳房
 善導のこと。みずから居住している寺の門前にある柳の木に首をくくって自殺したことから、こう呼ばれている。
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観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―――
勢至
 勢至菩薩のこと。阿弥陀仏の脇士で、知恵をあらわす。
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 この章は、中国の念仏の開祖たる善導をあげて、善導が夢で阿弥陀の指授を受けたというごまかしを、破折されている。
 善導も、慈覚も、たとえそのとおりの夢を見たとしても、仏法の正邪の判定は、道理、証文、現証とか、依法不依人とか、とにかく仏説を基にし、経典を基準にしてのみ判定されるべきである。一宗一派の開祖の夢などが基準になろうはずがないのである。
 下山御消息にいわく「されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ」(0361-06)と。
 日寛上人の文段にいわく「浄家良忠伝通記に云く、善導入寂の日を明して云く、新修伝に云く、春秋六十有九、永隆二年三月十四日入滅す、帝王年代銀に云く高宗皇帝永隆二年三月二十七日、善導和尚亡す等云云、吾祖深く此の両説を探り、十四日間顛狂死云云、豈明察に非ずや」と。
念仏の邪教
 浄土宗であれ浄土真宗であれ、いわゆる念仏は非科学的な教えである。現代科学からの追求批判を待つまでもなく、念仏は釈尊の方便権教にすぎないのである。
 念仏における指方立相の西方浄土を否定する声は、他門のみならず、浄土門内からも、たびたび聞かれるところである。しかし、彼らの教祖は「たとえ阿弥陀仏にすかされて方便の念仏を信じて地獄へ堕つるとも悔いはない」という狂信であるから、初めから念仏が方便であり非科学的な教えであることは、先刻承知の上なのである。
 他力本願の念仏は、まことに仏法を毒する邪道である。努力や向上を否定し、生命力を衰亡させ、無気力な人生に堕落させる念仏思想は、歴史的にみても、中国、日本の民衆をどれほど不幸にしてきたか、わからない。
 親鸞が86歳の時に作ったという「愚禿悲歎述懐」と題する和讃の一節に「浄土宗に帰すれども、真実の心はありがたし。虚仮不実の我が身にて、清浄の心もさらになし」というのがある。これが、すでに「教行信証」をあらわして浄土真宗を確立して30余年後の述壊なのであるから、念仏はまさに「絶望の宗教なり」といわざるをえない。これに宗教的価値を見出そうとするような日本の哲学者は、ただ西洋のキリスト教に追随せんとする卑屈な宗教観しかもたないゆえと断ずるほかはない。
 西洋のキリスト教や日本の新興宗教の一つの天理教なども、同じく念仏と似た非科学的な他力主義の低級宗教にすぎない。科学の進歩とともに、キリスト教、念仏、天理教等は、だんだんに姿を消すことは、もはや世界的傾向である。
 ちなみに、終戦後、アメリカ占領軍と共に日本に押し寄せたキリスト教のごときも、最近では衰退の一歩をたどり、昭和26年(1951)から昭和35年(1960)までの10年間に、キリスト教の日曜学校にくる生徒が10万人も減少したという統計も、これを雄弁に物語っているのである。
 もっとも科学的で、人生を発展向上させる、人間革命の宗教、これこそ日蓮大聖人の大仏法であり、いまや創価学会を求むる声は、世界的な様相を示しているのである。

0318:07~0319:07 第27章 弘法の霊験を破すtop

07   問うて云く弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す、 爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙
08 を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉り給う 予講読の撰に範りて経旨の宗を綴る未だ結願の 詞を吐かざるに蘇
09 生の族途に彳ずむ、 夜変じて而も日光赫赫たり是れ愚身の戒徳に非ず金輪御信力の所為なり、 但し神舎に詣でん
10 輩は 此の秘鍵を誦し奉れ、 昔予鷲峰説法の筵に 陪して親り其の深文を聞きたてまつる 豈其の義に 達せざら
11 んや」等云云、 又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し 諸宗を朝廷に群集す即身成仏の
12 義を疑う、大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄に開いて 金色の毘盧遮那と成り 即便本体に還帰す、入我・
13 我入の事・即身頓証の疑い此の日釈然たり、 然るに真言・瑜伽の宗・秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」、又云
14 く「此の時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て 請益し習学す三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台
15 の円澄等皆其の類なり」、 弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く 我が所学の教法若し感応の地有らば
16 此三鈷其の処に到るべし仍て日本の方に向て 三鈷を抛げ上ぐ遥かに飛んで雲に入る十月に帰朝す」云云、 又云く
17 「高野山の下に入定の所を占む 乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云、 此の大師の徳無量なり 其の両
18 三を示す・かくのごとくの大徳ありいかんが此の人を信ぜずして・かへりて阿鼻地獄に堕といはんや、 答えて云く
0319
01 予も仰いで信じ奉る事 かくのごとし 但古の人人も不可思議の徳ありしかども 仏法の邪正は其にはよらず、外道
02 が或は恒河を耳に十二年留め 或は大海をすひほし 或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかど
03 も・いよいよ大慢を・をこして 生死の業とこそなりしか、 此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈
04 せられて候へ、 光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそ
05 かかれて候へ、 されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」 伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらし
06 ておはせしも 其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、 弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と
07 定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは 智慧かしこからん人は用ゆべからず、 
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 問うていうのには、(弘法大師の「般若心経の秘鍵」や「孔雀経の音義」や、あるいは「弘法大師の伝」には、弘法大師についての多くの奇瑞が出ている。どうして、弘法大師を信じてはならぬといい、弘法大師が阿鼻地獄に落ちたというのか。)
 すなわち、初めに弘法大師の般若心経秘鍵の跋文にいわく「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。ここに天皇は、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を掌に握って、紺紙金泥の般若心経一巻を書写せられた。自分は、この般若心経を講読する命をうけて、経旨の趣を書きつづった。しかも、いまだ結願の詞をのべ終わらぬのに、この大疫病の流行はとまり、蘇生した人たちは道にたたずんでいる。また夜変じて世中に太陽が赫々と輝いている。これ、自分がごとき愚かな身の戒徳のゆえにあらず、ひとえに金輪聖王たる天皇の御信力のたまものである。ただし、今後は、神社に参詣するものたちも、この般若心経秘鍵の文を読みたてまつるべきである。昔、自分が霊鷲山の説法の座に列していたとき、眼前に、その深意を聞いたのである。ゆえに、どうして、この経の意義に達しないわけがあろうか」と。
 また、孔雀経の音義にいわく、「弘法大師は、唐より帰朝の後、真言宗を立てんと思われ、諸宗の代表を朝廷に集めて論議した。みな真言宗の即身成仏の義を疑っていた。そのとき、弘法大師は、智拳の印を結んで南方に向かったところが、弘法大師の面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那と化し、すなわち毘盧遮那の本体にたち還った。これによって、入我、我入の教意、すなわち、諸仏をわが身中に引入しまた、わが身を諸仏に引入すること、即身に仏果を証することが明らかになったので、衆人の疑いは、たちまちに氷解したのである。しかして、真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道は、この時から建立されたのである」と。
 同じく、孔雀経の音義に、またいわく「この時に諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して初めて真言を得て、請益し、習学したのである。すなわち三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄などが、みなこのたぐいであった」と。
 弘法大師伝には、次のように、弘法大師をたたえている。「いよいよ中国から日本に帰り帰朝のため、舟を出す日、弘法大師が発願していうのには、わが学んだところの教法をひろむるに適した感応の地があるならば、いまから投げ上げるこの鈷がかならず、その他に落ちるであろうと。そして日本の方に向かって鈷を抛げ上げた。三鈷は、はるかに飛んで、雲の中にはいった。しかして、その年の十月に日本に帰朝した」と。
 同じく弘法大師伝にいわく、「高野山の下に弘法大師が入定すべき場所を決定した。乃至かの海上で投げ上げた三鈷が、いま、あらたにここに落下してあった」等と。この弘法大師の徳というものは、まことに無量である。その二・三を示しても、かくのごとき大徳があるのである。どうして、この弘法大師を信じてはならないとし、また弘法大師を信じたら、かえって阿鼻地獄に落ちると、あえていうのであるか。
 答えていうのには、私も、弘法大師の徳を仰いで信じたてまつろうと思うのである。しかし、いにしえの人々も、不可思議の徳をもっていたのである。しかし、仏法の邪正は、けっして、このような奇事にはよらないのである。インドのバラモン外道は、あるいは恒河の水を、耳に十二年間とどめ、あるいは、大海を一日にしてすい干し、あるいは日月を手ににぎり、あるいは釈尊の弟子を牛や羊のごとくなすなどということをしたけれども、いよいよ大慢心をおこして、生死の業となったにすぎないではないか。 
 このことを天台大師は、法華玄義にいわく「名聞名利をもとめるもので、見愛の煩悩を増したにすぎぬ」とこそ、解釈されたのである。光宅法雲がたちまちに雨を降らし、法華経説法の時には、須臾の間に天から花を咲かせ降らせたのに対しても、妙楽大師は「なるほど、感応はかくのごとくあったけれども、なお理にかなわざるものだ」とこそ書かれたのである。されば、天台大師が法華経を読んで「須臾の間に甘雨を降らせ」伝教大師は3日間のうちに甘露の雨をふらせたのであるが、それをもって、なお仏意にかなったのだとは、おおせられなかったのである。
 もしも、与えて、弘法大師に、いかなる徳があったとしても、法華経を戯論の法と定めたり、釈迦仏を無明の辺域と書いた筆跡を、智慧すぐれた人は、絶対に用いてはならないのである。

弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816八)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
心経の秘鍵
 心経は「般若波羅蜜多心経」のこと。弘法大師が心経を註釈したものが「般若心経秘鍵」1巻。
―――
結願の詞
 祈祷の終わりにあたって捧げる言葉。
―――
戒徳
 戒行を修して得た徳。
―――
金輪
 金輪聖王。転じて有徳の帝王のこと。
―――
鷲峰説法の筵
 霊鷲山における法華経説法の座。
―――
孔雀経の音義
 孔雀経とは、孔雀明王の神呪・修法、その功徳などを説いたもの。音義とは、漢籍や仏典の字句を抜出し、その発音や意味を注釈したもの。特に真言宗では、真言や陀羅尼の意味、読み方を学ぶ必要があった。
―――
智拳の印
 金剛界の大日如来の印。左右とも、小指、薬指、中指を屈し、親指を少し前に出して屈し、人差し指を屈して親指の第一関節を押す。この形を金剛拳という。さらに、この金剛拳の左を下にし、右の上にのせて石こぶしの下でもって左こぶしの頭指の屈頭をにぎるものを「智拳の印」という。

―――
面門
 口のこと。

―――
金色の毘盧遮那と成り
 弘法の弟子真済(0800~0860)が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。
―――
本体に還帰す
 本体である毘盧遮那の姿を示した。

―――
入我・我入の事
 「秘蔵記」に「真言印契等のゆえに、諸仏をわが身中に引入す。これを入我という。わが身を諸仏に引入す、これを我入という。入我我入のゆえに、諸仏の無数劫中に修習するところの功徳、わが身に具足す」とある。すなわち真言の法を修することによって、仏の三蜜と衆生の三業が互入して、仏の徳をわが身に具するという。

―――
真言・瑜伽の宗
 真言宗のこと。瑜伽とは相応という義。すなわち、大日如来の教えに相応する宗。真言宗が、三蜜の瑜伽をその宗とする。

―――
秘密曼荼羅の道
 真言は、顕教に対して密経を標榜し、その修行の道法は、漫荼羅によってあらわされている。

―――
請益
 教えにより利益を受けようと請願すること。
―――

道昌
 (07980875)。 平安時代前期の僧。延暦17年(079838日生まれ。真言宗。はじめ三論をまなぶ。天長5年(0829)空海より灌頂をうける。京都の広隆寺,隆城寺の別当を歴任。貞観16年嵯峨の葛井寺を修築し・法輪寺として再興。少僧都。京都大堰川の堤防修築にもつとめた。貞観17年(087529日死去。78歳。讃岐(香川県)出身。俗姓は秦。

―――
源仁
 (08180887)。平安時代前期の僧。弘仁9年(0818)生まれ。真言宗。元興寺の護命に法相を・東寺の実恵に真言をまなぶ。また真雅・宗叡に師事して灌頂をうけ、内供奉十禅師・東寺二長者となる。南池院を建立し、成願寺と称した。弟子に益信・聖宝。仁和3年(08871122日死去。70歳。通称は池上僧都。

―――
道雄
 生年不詳。仁寿元年(085168日は、平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。讃岐国多度郡の人。俗姓佐伯氏。空海と同族で、実恵の親族。また、一説には円珍の伯父ともいわれる。海印寺の開基。

―――
天台の円澄
 (0771~0836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310-14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320-04)とおおせで、円澄は伝教大師の弟子でありながら、心は弘法の方を向いている、と喝破されている。
―――
帰朝泛舟の日
 中国から日本に帰る船出の日。

―――
感応の地有らば此三鈷其の処に到るべし
 三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさい、中国明州の浜より、三鈷を海上に向かって投げた。それがはるか雲の中にかくれ、後日、高野山において発見された。高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義。
―――
見愛
 見思の煩悩。見惑と思惑。見惑は迷理の惑、真理を誤認することで、我見・辺見などの五見をいう。思惑は迷事の惑、生来そなわる煩悩のことで、貪・瞋・癡・慢・疑をいう。
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光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせし
 (0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺に住して法雲という。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園において法華経を講ずると、たちまちに天華が舞い下り、また薬草喩品「其雨普等 四方俱下」の句に至りて、雨が降ってきたという。
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伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらし
 弘仁9年(0818)、伝教大師と護命とが祈雨の争いをした。護命は法相宗の僧。美濃に生まれ元興寺に学んだ。伝教大師が祈ること3日にして甘雨を降らせたのに対し、護命は雨を降らすのに5日かかったので負けとなった。このことからも、3週間かけて降らせられなかった弘法の失敗がいかに無残なものであったかが、明らかである
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 この章は次の第二十八章とともに、弘法の霊験と称する各種の妄談を破折されている。
不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず
 仏法の邪正は法門によって決定されるのであり、利根や通力によってはならない。唱法華題目抄にいわく「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016-13)と。祈雨にしても、天台も伝教も雨を降らせたが、それをもって仏意にかなうとはなさらなかった。
 夜中に太陽が出たとか、中国で舟に乗る時に投げた三鈷が、日本の高野山からでてきたなどという弘法の虚言は、じつに邪教中の邪教であり、亡国、亡家、亡人の法というべきである。

0319:07~0321:06 第28章 弘法の誑惑を責むtop

07                                          いかにいわうや上にあげ
08 られて候徳どもは不審ある事なり、「弘仁九年の春・天下大疫」等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘
09 仁九年には大疫ありけるか是二、 又「夜変じて日光赫赫たり」と云云、 此の事第一の大事なり弘仁九年は 嵯峨
10 天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、 設い載せたりとも信じがたき事なり 成劫二十劫・住劫九劫・已
11 上二十九劫が間に ・いまだ無き天変なり 、夜中に日輪の出現せる事如何・ 又如来一代の聖教にもみへず未来に
12 夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず 仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の
13 日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、 設い内外の典に記せ
14 ずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記
15 あるならば・すこし信ずるへんもや、 次ぎ下に「昔予鷲峰説法の筵に陪して 親り其の深文を聞く」等云云、 此
16 の筆を人に信ぜさせしめんがために かまへ出だす大妄語か、 されば霊山にして法華は戯論・大日経は真実と仏の
17 説き給けるを阿難.文殊がアヤマリりて妙法華経をば真実とかけるか.いかん、いうにかいなき婬女・破戒の法師等が
18 歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人は・かかる徳あるべしや是四、孔雀経の音義に云く「大師智拳の印を結
0320
01 んで南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、 此れ又何れの王・ 何れの年時ぞ漢土には建
02 元を初とし日本には大宝を初として 緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣
03 も年号も日時もなきや、 又次ぎに云く「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云、抑も円澄は
04 寂光大師・天台第二の座主なり、 其の時何ぞ第一の座主義真・根本の伝教大師をば召さざりけるや、円澄は天台第
05 二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり、弟子を召さんよりは三論・法相・華厳よりは天台の伝
06 教・義真の二人を召すべかりけるか、 而も此の日記に云く「真言瑜伽の宗・秘密曼荼羅彼の時よりして建立す」等
07 云云、此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ、 弘法は平城天皇・大同二年より弘仁十三年までは盛に真言をひろめ
08 し人なり、 其の時は此の二人現におはします 又義真は天長十年までおはせしかば其の時まで弘法の真言は・ひろ
09 まらざりけるか・かたがた不審あり、 孔雀経の疏は弘法の弟子・真済が自記なり信じがたし、又邪見者が公家・諸
10 家・円澄の記をひかるべきか、又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし、「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等
11 云云、 面門とは口なり口の開けたりけるか眉間開くとかかんとしけるがアヤマりて面門とかけるか、ぼう書をつく
12 るゆへに・かかるあやまりあるか、 「大師智拳の印を結んで南方に向うに 面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成
13 る」等云云、 涅槃経の五に云く「迦葉仏に白して言さく 世尊我今是の四種の人に依らず何を以ての故に瞿師羅経
14 の中の如き仏瞿師羅が為に説きたまわく 若し天魔梵破壊せんと欲するが為に 変じて仏の像と為り三十二相・八十
15 種好を具足し荘厳し円光一尋面部円満なること猶月の盛 明なるが如く眉間の毫相白きこと珂雪に踰え 乃至左の脇
16 より水を出し右の脇より火を出す」等云云、 又六の巻に云く「仏迦葉に告げたまわく 我般涅槃して乃至後是の魔
17 波旬漸く 当に我が正法を沮壊す乃至化して阿羅漢の身及仏の色身と作り 魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り
18 我が正法を壊らん」等云云、 弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云、 而も仏身を現ず此れ涅槃
0321
01 経には魔・有漏の形をもつて仏となつて 我が正法をやぶらんと記し給う、 涅槃経の正法は法華経なり故に経の次
02 ぎ下の文に云く「久く已に成仏す」、 又云く「法華の中の如し」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対し
03 て「法華経は真実・大日経等の一切経は不真実」等云云、弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して「法華経
04 は戯論」等云云、 仏説まことならば弘法は天魔にあらずや、 又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りて
05 ほりいだすとも信じがたし、 已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数
06 多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし。
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 いかにいわんや、いままであげた徳などには、多くの不審があるのである。
 まず弘法大師の般若心経秘鍵に「弘仁九年の春、天下大疫す」等とあるが、春といっても、一月から三月まで九十日間ある。いずれの月の、いずれの日だったのか、明らかにすべきではないか。これ第一の不審である。
 また弘仁九年に、はたして大疫病がまん延した事実があったのであろうか、これ第二の不審である。
 同じくまた般若心経秘鍵には、「弘法大師が般若心経の経旨の宗を書いただけで、夜変じて日光が赫々と輝いた」という。このことは、第一の大事である。弘仁九年といえば嵯峨天皇の御代である。しかし、このようなことは、左史の書、右史の書にも、載っているであろうか。これ第三の不審である。
 たとえ左史右史の記に載せてあったとしても、このことは、まったく信じられない。なぜなら、この世界で、成劫二十劫、住劫九劫、合わせて二十九劫の間に、いまだ、かつてなかった天変である。夜中に太陽が出現するということは、いったい、いかなることだろうか。また釈迦如来、一代五十年の聖教にも、このようなことは見えないのである。「未来に、夜中に太陽が出現するだろう」などとは、中国の三皇五帝の三墳五典の書にも、まったく載っていないのである。仏経典の説によれば、壊劫にはいったときこそ、二つの太陽、三つの太陽、ないし、あるいは七つの太陽の出現があるだろうとは説かれているけれども、これは昼に出るとのおおせである。もし南閻浮提に夜、太陽が出現したならば、東西北の三方の世界は、いかなることになるだろうか。
 たとえ内典、外典に記していないとしても、判然と弘仁九年の春、いずれの月の、いずれの日の、いずれの夜の、いずれの時間に、太陽が出現したという、公家、諸家、叡山等の日記があるならば、少しは信ずることもできようが、それにも、ぜんぜんないではないか。
 般若心経秘鍵の次ぎ下の文に「昔、弘法大師が霊鷲山で般若心経の説法の座につらなっていて、まのあたり、その深遠な経文を聞いた」等とある。この般若心経秘鍵の書を、人に信じさせるためにかまえた大妄語ではないか。されば霊鷲山において、釈尊が「法華経は戯論の法、大日経は真実の法」と説いたのを、阿難や文殊菩薩が誤って、「妙法華経は真実なり」と反対のことを書いたというのか、まさに、いうもおろかな昔の婬女や破戒の法師などが、歌をよんで降らした雨を、三七日すなわち二十一日間も祈りつづけて降らすことのできなかった弘法などに、法華経聴聞の徳があるはずがあろうか。これ第四の不審である。
 また孔雀経の音義にいわく「弘法大師が、智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。これまた、いずれの王、いずれの年時であるか。中国においては建元の年号を初めとし、日本においては大宝の年号を初めとして、かならず年号があり、しかも、仏法に関してのことも一般の世間のことも大事の文章には、かならず年号を記載するのがならわしである。しかるに、これほどの大事に、どうして、王も臣も年号も日時も記載していないのか。
 同じくまた孔雀経の音義にいわく「三論の道昌、法相の源仁、華厳の道雄、天台の円澄などは、弘法大師に帰依して習学した」と。そもそも、円澄寂光大師は天台宗第二の座主である。そのとき、どうして第一の座主である義真大師、また根本大師たる伝教大師を招かなかったのであるか。円澄は天台宗第二の座主であり、伝教大師の弟子であるけれども、また弘法大師の弟子ともなりさがった。弟子を招くよりも、また三論宗、法相宗、華厳宗よりも、天台宗の伝教大師、義真大師の二人を招くべきではなかったのか。
 しかも、この日記すなわち、孔雀経音義にいうのには、「真言瑜伽の宗を、秘密曼荼羅を、かの時より建立したのである」等と。この書は、伝教大師、義真大師の御存生の時の書と思われる。弘法は、平城天皇の大同二年に帰朝したときから弘仁十三年伝教大師が入滅されるまでは、盛んに真言の教えを弘めた人である。その時は、この伝教大師と義真大師の二人は、現にまだ御存生であった。しかも義真大師は、天長十年存生であられたから、そのときまでは、弘法の真言は弘まらなかったというのか。これについて、まだいろいろな不審がある。すなわち、孔雀経の音義は、弘法の弟子、真済の自記である。ゆえに、はなはだ信じられない書である。また、邪見者が、公家・諸家、円澄の記を引けるわけがあろうか、また道昌・源仁・道雄の記をたずねてみるべきである。
 同じく孔雀経音義には、「面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等とある。面門とは口のことである。弘法の口が開いたというのか。これは、眉間が開くと書こうとしたのであるが、誤って面門と書いてしまったのであろう。謀書を書いたゆえに、このような誤りがあるのであろうか。
 孔雀経音義にいわく「弘法大師が智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。
 涅槃経の第五の巻にいわく「迦葉、仏に申していわく、仏世尊よ、われ今、この四種の人を依拠としない。何となれば、瞿師羅経の中のごときは仏が瞿師羅のために説いていわく、もし天魔が梵を破壊せんと欲するがゆえに変じて仏の像となり、三十二相、八十種好を具足し、荘厳し、円光一尋・面部円満なること、なお月の盛明なるごとくであり、眉間の白毫相の白く輝くことは珂雪にこえ、乃至、左の脇より水を出し、右の脇より火を出した」等と。
 同じく、また涅槃経の第六の巻にいわく「仏は迦葉に告げいうのには、われ般涅槃して、乃至、後に是の魔や波旬が、ようやくまさに我が正法を沮壊せんとしている。乃至、化して阿羅漢の身および仏の色身となり、魔王はこの有漏の形をもって、無漏の身となり、わが正法を破壊するであろう」と。
 弘法大師は、法華経を華厳経、大日経に対して戯論である等といった。しかも、孔雀経音義によれば仏身のごとき相を現わしているという。これ涅槃経には「魔が有漏の形をもって、仏となって、わが正法を破壊するであろう」と記されてあるとおりである。涅槃経でいう正法とは、法華経のことである。ゆえに、涅槃経の次ぎ下の文にいわく「久しくすでに成仏している」と。涅槃経に、また、いわく「法華の中のごとし」と。
 釈迦、多宝、十方の諸仏、一切経に対して「法華経は真実であり、大日経等の一切経は不真実である」といっている。しかるに、弘法大師は、仏身を現じながら、華厳経、大日経に対して法華経は戯論である、といっている。仏説がまことであるならば、弘法大師は天魔ではないか。
 また、三鈷を中国から投じたということも、ことに不審きわまることである。中国の人が事情を知らない日本にきて、三鈷をただちに掘り出したとしても、そういうことは信じられぬことである。堀り出す以前に、人をそこにつかわして、三鈷を埋めたのではなかろうか。いわんや、弘法は日本の人であり、どんな工作もできる立場にある。そして、このような誑乱は、数多くいままでもあったことである。
 これらのことをもって、弘法は仏意にかなう人であるという証拠にはならないのである。それどころかまったくの邪義邪教の人である。

左史右史の記
 歴史の記述ということ。左史右史は太政官の職員で、左史右史ともに大史小史各二員ずつ、計八史がある。左史は天下の事を起し、右史は天子の言を記すという。
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三皇五帝
 中国古代の伝説的帝王。古来多くの説があるが、大聖人は儒教の学者・孔安国の尚書序等において立てられた説に従われている。すなわち三皇は伏羲・神農・黄帝で、五帝は少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜である。
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三墳五典
 三皇・五帝が著わしたとされる書。尚書の序に「三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典という」とある。三墳の墳とは〝大道〟を意味し、五典の典とは〝常道〟を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。
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婬女・破戒の法師
 ここで婬女とは和泉式部、破戒の法師とは能因法師をさす。和泉式部は平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったという。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことわりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」と詠み、雨を降らせたという。能因法師は本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して、能因と称した。伊予国(愛媛県)の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ、天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちに雨が降ったという。
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漢土には建元を初とし
 中国では、前漢の孝武帝が即位した建元元年(西暦前0140)をもって、年号の初めとした。
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日本には大宝を初とし
 わが国では、大化が年号の初めである。大宝元年は第四十二代文武天皇の世、西暦0710年になる。
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緇素
 僧侶と俗人のことを緇素という。緇は黒色、素は白色のことで、インドでは僧侶は黒衣を著し、俗人は白衣を着していた。
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真済
 (0800~0860)。平安時代前期の真言宗の僧。山城の神護国祚真言寺(神護寺)第二代。俗姓は紀氏。京都の人。若くして出家し弘法に従って胎蔵・金剛両部の大法を受け、25歳で伝法阿闍梨となり、斉衡3年(0856)僧正に任ぜられる。高雄僧正、柿本僧正、紀僧正ともいう。
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四種の人
 四依の人と同じ。仏の滅後、衆生をあわれみ、その依処となるべき四種の人をいうのである。
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瞿師羅経
 瞿師羅は梵語ゴーシラ(GhosiLa)の音写で、美音などと漢訳される。中インド・憍賞弥国の長者で、美音精舎を造って仏を招き、ここで説法することを請うた。この経の中には、仏道を破らんがために魔が仏の姿となり、神通力を現じて瞿師羅をまどわしたとある。現在の大蔵経の中には、この経の名は見当たらない。
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三十二相八十種好
 三十二とは、応化の仏が備えている特別な相のことで、仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめること。八十種好とは「はちじゅつしゅごう」とも読み八十種の好ましい相ことで、八十随形好・八十随好・八十微妙種好・八十小相ともいう。この三十二相に八十種好が具り円満になるのである。
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珂雪
 珂は、めのうの一種とも、また珂具といって海中よりとれる白雪のごときものともいう。白雪のごとき白き色にたとえた。
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三鈷
 三鈷杵ともいう。真言密教の祈禱に用いる道具。鈷はもと古代インドの武器で、仏教では法具となり、煩悩を破るとの意をもつ。金剛杵の一種で、手杵の形に似ており、両端に各三鋒あるものを三鈷という。
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 この章は前章につづいて、弘法のかずかずの誑惑を破折なさっているのである。
一、心経の秘鍵(夜中の太陽の事件)
 疫病流行のこともなんらの記録はなく、まして夜中の太陽の記録などあろうはずがない。
 「設い載せたりとも信じがたき事なり」とは、一には前二十九劫の間に、そのような例はなく、二には未来にもあるべしという予言は、内典にも外典にもさらにないから、信じられないのである。
 「東西北の三方は如何」とは、南州の夜中は、北州の日中であり、東州の日の出の時、西州は日没の時であると当時は考えていた。ゆえに夜中に急に太陽が南州へきてしまったら、ほかはどうなっているのかとの問いである。「予鷲峰説法の筵に陪して」との文を信ぜしめようとするために、疫病や太陽のごまかしを作り上げたのであろう。それにしては、法華経の説法をほんとうに聞いていたならば、法華経を戯論とか、釈迦仏を無明の辺域などという邪義を唱えられようわけがない。
 また雨乞いをして、3週間も雨を降らせられなかったというような邪道を、平気で行なえるわけもないではないか。そのような邪師に、法華経聴聞の徳などあるわけがないのである。
二、孔雀経の音義、面門俄かに開く
 弘法大師が智拳の印を結んで南方へ向かったら、口がにわかに開いて金色の毘盧遮那になったという。面門とは口であり、口をあいたら法身如来になったなどということは、まったく意味がない。おそらく眉間白毫がにわかに開いて成仏の姿をあらわしたと書くつもりで、誤って面門と書いたのであろう。謀書、偽書を作るからそういう誤りを犯すのである。
 また次に三論、法相、華厳、天台の各派の代表を集め、これらの諸宗の学徒がみな弘法に帰依したという。これも、とんでもない妄説であることはいうまでもない。
 第一に天台宗の円澄を呼んだというのが、どうかしている。弘法が中国から日本へ帰り、平城天皇の大同2年(0807)からは盛んに真言を弘めていた。伝教大師は大同2年(0807)から10数年後の、弘仁12年(0822)まで存命せられていた。天台第二の義真は、それよりさらに天長10年(0833)まで、12年も存命せられていたのである。このように、伝教、義真のお二人がいたのに、これを除いて円澄を呼んだというが、そもそも円澄は半ばは弘法の弟子だったのであり、天台宗の代表とはなりえないのである。
 報恩抄にいわく「日本国は叡山計りに伝教大師の御時・法華経の行者ましましけり、義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310-13)と。
 次にこの孔雀経の疏というのは、弘法の弟子、真済の書いたものであって、こういう邪見の人間の書いた物は信じられないのである。
三、涅槃経、魔が仏の形となる
 涅槃経には、魔が、三十二相八十種好を具足する仏の形を現わし、世間の人に信用させておいて、しかも仏法を破ると説かれている。正しく弘法がこれにあたる。面門を開いて法身になったといいながら、しかも法華経を戯論などといっているのである。
 「三鈷の事・殊に不審なり」と。しかし法華経には「若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為(せ)ず。若し仏の滅後に悪世の中に於て、能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす」と。三鈷を中国から日本へ投げたくらいのことは、法華経を末法に説き行ずる困難にくらべたら、問題にならないというのである。
近代精神と宗教観
 近代精神は批判精神であり合理的精神である。ところが、ひとたび宗教の問題となると、まったく無批判に受け入れる傾向が、とくに知識人といわれるような人々に多い。古くは、弘法などに対する考えがそれである。日蓮大聖人の破折で明確にわかるように、およそ仏法に関しては弘法は誑惑のかぎりをつくしたのである。しかし、弘法がお灸や筆や社会事業などで有名になると、世人は宗教的にも正しいものであるという奇妙な錯覚におそわれるのである。
 真実の宗教はけっしてお灸や筆や社会事業などが目的ではないのである。社会事業などは国家が政治で行なうべきもので、寺や神社がやるべきものではない。いったい、釈尊がどんな社会事業をやったというのであろうか。宗教は慈悲と道理と智慧、および宗教的な力によって民衆の苦悩を救い幸福をあたえていくべきものである。宗教家の社会事業などというものは、宗教の無力と政治の貧困を陰弊しようとする陰険な策謀という以外にはない。
 このぶんでいけば、天理教や立正佼成会のごとき、とるにたりない新興宗教なども、あんがい、歴史とともに由緒ある宗教と認められて、ますます民衆を不幸にしていくことにもなりかねないのである。恐るべきは、民衆の宗教的無知であるといわざるをえない。
 最近も、ある日蓮宗の僧籍にあるものが総理に指名されたとたんに僧位が七階級特進したり、またある殺人犯人を密告した娘の父が同じく僧位が七階級特進したごときは、どこか狂っている宗教観を反映したものではなかろうか。
 わが創価学会は、あくまでも文証、理証、現証の厳密で合理的な批判精神に立って、宗教哲学を研究し実践しているのである。そして、あくまでも慈悲と道理の上から、民衆を不幸におとしいれる佼成会や天理教のごとき邪宗邪義を徹底的に打ち破っているのである。

0321:07~0321:14 第29章 真言破折を結すtop

07   されば此の真言.禅宗・念仏等やうやく・かさなり来る程に人王八十二代・尊成・隠岐の法皇.権の太夫殿を失わ
08 んと年ごろ・はげませ給いけるゆへに大王たる国主なれば・なにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、 鷹の雉
09 を取るやうにこそ.あるべかりし上.叡山・東寺・園城・奈良七大寺.天照太神・正八幡・山王・加茂.春日等に数年が
10 間・或は調伏・或は神に申させ給いしに二日.三日・だにも・ささへかねて佐渡国・阿波国.隠岐国等にながし失て終
11 にかくれさせ給いぬ、 調伏の上首・御室は但東寺をかへらるるのみならず 眼のごとくあひせさせ給いし第一の天
12 童・勢多伽が頚切られたりしかば調伏のしるし 還著於本人のゆへとこそ見へて候へ、 これはわづかの事なり此の
13 後定んで日本国の諸臣万民一人もなく 乾草を積みて火を放つがごとく 大山のくづれて谷をうむるがごとく 我が
14 国・他国にせめらるる事出来すべし、
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 されば、これらの真言宗、禅宗、念仏などの邪教が、ようやく盛んになってきたころ、人王八十二代、尊成隠岐の法皇(後鳥羽上皇)が、北条義時を滅ぼそうと年来、努力されていた。この上皇は、大王であり、国主であるから、どんなことがあっても、師子王が兎を取るように、鷹が雉をとるように、北条氏を滅ぼすことは容易であると思われた。その上に、比叡山、東寺、園城寺、さらに奈良の七大寺、また天照太神、正八幡大菩薩、山王、加茂、春日神社等に数年の間、あるいは北条氏の調伏を命じ、あるいはあらゆる神社に祈願をかけた。しかるに朝廷方は、わずか二、三日間も北条幕府の軍勢を阻止することができなくて総くずれとなり、かえって三上皇は佐渡の国、阿波の国、隠岐の国等に流罪されて、ついにそこでなくなられたのである。
 しかも、北条幕府を調伏した上首たる御室は、ただ東寺を追われたのみではなく、目に入れても痛くないほどかわいがっていた第一の天童・勢多伽が首を切られたゆえに、調伏の結果は、かえって還著於本人となって、自分の災いが重なったことがわかるのである。
 これらは、弘法の邪義、真言の邪法からすれば、まだまったくわずかの現証にしかすぎないのである。真言の邪法を用いつづけるならば、その後、かならずや、日本の諸臣万民は一人もなく乾草を積んで火を放ったごとく、大山がくずれて谷をうずめてしまうがごとく、わが日本国が他国に攻められるという未曾有の大事がおこるであろう。

人王八十二代・尊成・隠岐の法皇
(1180~0239)。後鳥羽上皇のこと。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。土御門・順徳・仲恭の三帝にわたり院政を敷いた。北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが失敗、隠岐に流された。配流の直前に出家し、法皇となった。
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権の太夫殿
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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園城
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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奈良七大寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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山王
 日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
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加茂
 加茂神社のこと。桓武天皇が平安京に遷都の時、これを王城の守護神とした。
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春日
 春日神社のこと。奈良県奈良市春日野町にある。藤原氏の氏神で興福寺の鎮守。
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調伏の上首・御室
 第59代の宇多天皇が、入道されて仁和寺を京都西山の地に建立し、御室をかまえて住んでより、御室の言葉が起こった。その後、法王・法親王は代々仁和寺の流れをくみ、たんに御室と呼称するようになった。調伏の上首・御室とは、承久の乱の祈禱を行った後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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御室
 第59代宇多天皇が、入道して仁和寺を京都西山の地に建立し、御室をかまえて住んでより、御室のことばが起こった。その後、法皇、法親王は代々仁和寺の流れをくみ、御室と呼称するようになった。御書にある御室は、承久の乱の祈祷を行なった、後鳥羽天皇の第2子、道助法親王をさす。
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勢多伽
 佐々木山城守広綱の第6子。道助法親王の侍童である。承久の乱(1221)のとき、叔父信綱の讒訴により斬首された。吾妻鏡の承久3年(1221)7月11日の条に「今日山城守 広綱の息小童(勢多伽)を仁和寺より六波羅に召し出す。これ御室道助の御寵童なり」とあって、後にその斬首のことが記されている。
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還著於本人
 法華経観世音菩薩普門品第二十五の文であり、「還って本人に著きなん」と読む。正法を持った者を呪詛する者は、かえって本人が調伏の祈りを蒙ることになるということ。四明知礼の観音義疏記巻四には「還著本人とは、凡そ呪毒薬乃ち鬼法を用いて人を害せんと欲するに、前人邪念ならば方に其の害を受く。若し能く正念ならば還って本人に著きなん」とある。
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 この章で、真言の責破を結んでいる。
 真言、禅宗、念仏という邪教が一国にはびこり、ついには承久の乱が起きて、朝廷は滅亡の悲運をたどったのである。
 後鳥羽上皇は承久3年(1221)5月15日に京都に兵を起こした。鎌倉幕府はただちに軍を編成し、一手は東海道を、一手は東山道を、一手は北陸道を京都へ攻め上る。6月14日、宇治勢多に朝廷軍を破って、京都へ攻め入る。上皇は兵をあげてわずか一か月、合戦をまじえては、わずか一日の戦いに完敗して終わった。その結果は、後鳥羽院は隠岐国へ、順徳院は佐渡国へ、土御門院は阿波国へ流されてしまった。
 こうして朝廷軍と幕府軍を比較してみれば、一には君と臣との相違がある。二には朝廷はあらゆる調伏を行ない、三には神社に祈願をさせた。臣下でもあり、神社や仏に祈願や調伏をしない幕府軍が、かんたんに勝つとは考えられないのが常識である。しかるに、わずか一日の戦いで、朝廷方が完敗したのは、すべてこれ邪宗真言に祈ったゆえである。
 そのために調伏の上首たる御室は、東寺から追放され、天童として愛されていた勢多伽は首を切られてしまった。公卿をはじめ、この祈りに加わった者は数千人が死んでしまう。これ還著於本人の現証である。
 しかも日蓮大聖人は「これはわづかの事なり」とおおせられて、早く邪教を禁じなければ、日本国の諸臣万民、一人もなく他国に攻め滅ぼされるであろうと予言なされている。
「これはわづかの事なり此の後定んで日本国の諸臣万民一人もなく乾草を積みて火を放つがごとく大山のくづれて谷をうむるがごとく我が国・他国にせめらるる事出来すべし」
 これはじつにきびしいおことばではないか。しかも、それが七百年後に完全に事実となって現われた以上、御本仏の御慈悲と御予言の前に厳然と襟を正して、正法弘通につとむべきである。そして、このおことばは、邪宗邪義が撲滅されないかぎり、いかなる時代にも通用する御金言と拝すべきである。
 この報恩抄を著わされたのは建治2年(1276)であるから、すでに第一回の蒙古襲来がすんでいた。そして第二回は弘安四年である。しかしこの元寇は、御本仏、日蓮大聖人が厳然として日本に御存生であったがゆえに、不思議にも大嵐がおこって、日本国は事なきをえたのである。日蓮大聖人の御金言にいわく「日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。
 そして、それから七百年、謗法を重ね、あまつさえ正法を護持する創価学会に強力な弾圧迫害を加えたわが国は、ついに原爆のもとに亡国の悲惨を味わったのである。広島・長崎の惨状、また東京をはじめとするあらゆる大都市の姿を想起せよ。一発の原子爆弾により、一瞬にして数十万人の人が焼けただれて死んだ。あるいは爆撃を受けてすべての大都市が壊滅してしまったのである。まさに、乾草を積んで火を放ったがごとくではなかったか。また大山のくずれて谷をうむるがごときではなかったか。
 まして、今後といえども、原水爆の破壊力のすさまじさを思えば、御金言たる広宣流布に励む創価学会に迫害弾圧をくわだて、広宣流布を遅延させるような事態が生じたならば、同じ方程式によって、いかなる惨事が発生するか予測を許さないものがある。
 願わくは、仏天の加護と御仏意によって、広宣流布の達成の一日でも早からんことを祈って、力強く前進しようではないか。

0321:14~0323:05 第30章 日蓮大聖人の知恩報恩top

14                   此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば殷の紂王の
15 比干が胸を・さきしがごとく 夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく 檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく竺
16 の道生が流されしがごとく 法道三蔵のかなやきをやかれしがごとく・ならんずらんとは・かねて知りしかども法華
17 経には「我身命を愛せず、 但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも 教を匿さざれ」といさめ
18 給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・
0322
01 ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず 或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに
02 去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に 御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、 又同じき弘長三年癸亥二月
03 二十二日にゆりぬ。
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 このことは、日本の中に、ただ日蓮一人のみが知っているのである。もしこのことを世間にいうならば、殷の紂王が、諫言した比干の胸を割いたように、夏の桀王が同じく竜蓬の頚を切ったように、また檀弥羅王が師子尊者の頚をはねたように、また竺の道生が蘇山に流されたように、法道三蔵が顔に焼き印を押されたように、大迫害をうけるであろことは、かねてから知っていたが、しかし、法華経には「我れ身命を愛せず、但無上の道を惜しむ」と説かれ、涅槃経には「むしろ身命を喪うとも、正法を匿していてはいけない。いいきらなければならない」といましめられている。
 このたび正法流布のために命を惜しんで仏勅を実践しなかったならば、いつの世に仏になることができようか。また、いつの世にわれ成仏して父母、師匠を救うことができようか。このように考えて、ひとえに思い切って正法をもって国家諌暁したゆえに、思ったとおり、あるいは所を追われ、あるいは悪口をいわれ、あるいは討たれ、あるいは我が身に傷を蒙るというような迫害をうけつづけたのである。そして、ついにさる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を受けて、伊豆の国、伊東に流罪された。しかし、それは同じく弘長三年癸亥二月二十二日に許されたのである。
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04   其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、 昔の不軽菩薩の杖
05 木のせめも我身に・つみしられたり覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も 此れには及ばじとをぼゆ、日本六十六箇国・嶋
06 二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、 古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる
07 持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば 悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者
08 等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、 いわうや世間の常の人人は 犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・
09 こめたるににたり、 日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に
10 向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、 人ごとに真言を尊む 真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗
11 を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人な
12 らず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに・かう・いよいよ身も・をしまず力にまかせて・せめしかば禅僧数
13 百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき 或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等につ
14 いて無尽のざんげんをなせし程に 最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極
15 楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり 御尋ねあるまでもなし 但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は
16 遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり。
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 その後、いよいよ菩提心を強盛にして正法をひろめたがゆえに、いよいよ大難が重なってきたことは、あたかも大風によって大波が起こったような姿であった。
 過去の不軽菩薩は杖木によって人々から打たれ責められたが、その苦しみも、わが身にして知ることができた。同じく過去の覚徳比丘が、歓喜増益如来の末法に大難を受けたけれども、日蓮がいまの大難にくらべれば、彼らは、遠くおよばないと思われる。日本六十六か国および島二つのなかで、一日たりとも、片時たりとも、どこにも安住するところがない。
 いにしえは、二百五十戒をたもって忍辱の行を積み、羅睺羅のようであった持戒の聖者も、また富楼那のようであった智者も、日蓮に会って折伏を受けると、みな悪口をはくようになるのである。正直で魏徴・忠仁公のようである賢者も、日蓮を見ると、道理を曲げて非道なことをおこなうようになるのである。
 いわんや、世間の常の人々は、あたかも犬が猿を見るように、猟師が鹿を追うのにも似て、日蓮を敵視したのである。日本国のなかに、だれひとりとして、日蓮の弘教に対して「何か深い道理があるのであろうか」と、まじめに話を聞く人はいない。しかし、それはむしろとうぜんなことであろうか。
 なぜならば、念仏を信ずる人々に会うごとに「念仏は無間地獄に堕ちる」と折伏するからであり、また、真言を尊く思って信じている人に会うごとに「真言は国をほろぼす悪法である」と折伏するからである。さらにまた、国主たる北条時宗は禅宗を尊く思って信じているが、これに対しても「禅宗は天魔の所為である」と折伏するゆえに迫害を受けるのである。
 かくのごとく、みずから招いた法難であるから、世間の人が悪口するのもとがめず、じっと耐え忍んできたのである。もっとも、とがめるといっても、相手は一人二人ならず大勢であるから、できようはずもない。また他人から打たれても、もとより覚悟していたがゆえに、痛いとも思わない。
 このように、いよいよ身命を惜しまず、力を尽くして破折を加えたので、禅宗の僧は数百人、念仏者は数千人、真言宗のもの百千人、このような人々が、あるいは奉行にとりいり、あるいは幕府と縁故のある権勢家にこびて結び、あるいは、そうした権勢家の婦人たちに近づき、あるいは身分ある後家尼御前等などについて、はかりしれないほどの讒言をしてきた。
 最後は「天下第一の大事である。それは日蓮が日本国をほろぼそうと呪咀する坊主であり、故最明寺殿(北条時頼)も極楽寺殿(北条重時)も無間地獄に堕ちたといっている。なにも取り調べるまでもない、即刻首を切るべきである。弟子たちも首を切り、あるいは遠島流罪、あるいは牢に入れよ」と、高位の尼御前たちが怒ってののしったので、そのとおり迫害が行なわれたのである。
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17   去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は 相模の国たつの口にて切らるべかりしが、 いかにしてやありけん其の
18 夜は・のびて依智というところへつきぬ、 又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの
0323
01 国までゆく、 今日切るあす切るといひしほどに四箇年というに結句は 去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・
02 ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り 同じき四月八日平の左衛門の尉に見参して やうやうの事申したりし中に
03 今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、 同じき五月の十二日にかまくらをいでて 此の山に入れり、これは・ひとへ
04 に父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、
05 又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば 山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり、 
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 さる文永八年辛未九月十二日の夜は、相模の国竜の口で首を切られることになったが、いかがしたのであろうか、その夜は首切らずに命のびて、相模の国の依智というところに到着した。あくる十三日の夜は「罪は許された」と、人々が騒ぎどよめいたが、また、どうしたことであろうか、今度は佐渡の国へ流罪になったのである。
 きょうこそ切る、あすこそ切るといいながら、四か年の月日が過ぎて、結局、文永十一年太歳甲戌二月十四日許されたのである。文永十一年三月二十六日に鎌倉に帰り、四月八日、平の左衛門尉に面談して、さまざま話したなかに「ことしは必ず蒙古軍が攻めてくるであろう」と申したのである。
 そうして、同五月十二日に鎌倉を出て、この身延の山にはいった。これは、ただひとすじに、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国の恩を報ぜんがために身も命もなげうったのである。しかし、なお今日まで首を切られることもなく命を害されることもなく、今日にいたったのである。
 また、賢人の習いとして、三たび国をいさめて用いられなかったならば山林にまじわれと、これは昔からの定まった例である。この古賢の法によせて身延に入山したのである。

殷の紂王の比干胸を・さき
 殷王朝第30代の帝・紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとせず国がほろびようとしたとき、忠臣の比干がこれを強く諫めた。すると、妲己は王に向かって「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖である。心を割いてみたまえ」といったので、紂王は比干の胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅亡した。
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夏の桀王の竜蓬が頚を切り
 夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
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檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ね
 付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者は、釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
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竺の道生が流され
 道生は、中国東晋の時代から南北朝の宋の時代の高僧。竺法汰につき出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に流された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、道生の義が正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
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法道三蔵のかなやきをやかれ
 宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたとき、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。彼ら師子尊者、竺の道生、法道三蔵等は、共に法華経の行者として、死身弘法、不自惜身命の仏道修行の例として挙げられたのである。
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不軽菩薩の杖木のせめ
 不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
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覚徳比丘が歓喜仏の末の大難
 涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを有徳王が守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
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日本六十六箇国・嶋二
 日本全国のこと。北海道を除く日本全国を66か国に分割したことにより、66州ともいう。壱岐と対馬は66か国の中には含まれず、2島と称した。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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羅云
 羅睺羅の別称。釈迦十大弟子の一人。密行第一といわれた。釈尊が出家するまえに、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が六年間も生まれさせなかったといわれている。20歳で仏弟子となり、舎利弗について修行し、ついに密行第一とまでいわれるまでになり、法華経で蹈七宝華如来の記別を受けた。
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富楼那
 富楼那弥多羅尼子の略称。釈迦十大弟子の一人。説法第一といわれた。聡明で弁論に長じ、その弁舌の巧みさをもって、証果より涅槃に至るま99,000人を度したといわれる。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経で法明如来の記別を受けた。
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魏徴
 (0580~0643)。唐の第二代皇帝・太宗に重用された文臣。もと太宗の長兄・李建成に仕えたが、次弟の李世民(太宗)が李建成を殺して即位した。しかし太宗は、かつての政敵であった魏徴を評価し、登用した。これに感激した魏徴が「人生意気感、功名誰復論」との詩を詠んだ。諫議大夫として節を曲げぬ直言をもって仕え、侍中(宰相)にまで昇進し、後世に理想の政治と評価された〝貞観の治〟を支えた。没したときは太宗に「魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣と嘆かしめた。
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忠仁公
 (0804~0872)。藤原良房。左大臣・藤原冬嗣の第二子。白河殿と称され、諡号は忠仁公。人臣初の太政大臣、また摂政となり、藤原北家の権力基盤をつくりあげ、子孫は相次ぎ摂政関白となった。「貞観格式」「続日本後紀」」の編纂にも当たった。
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故最明寺殿
 (1227~1263)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190-09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
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極楽寺殿
 (1198~1216)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。
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三宝の恩
 「三宝」とは、仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。心地観経では、この三宝に対する恩を報じることを四恩の一つとしている。
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三度国をいさむるに用いずば……
 孔子の孝経・諌争章に「三諌不納奉身以退」とある。
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 この章では日蓮大聖人が、御一生を通じ生命をなげうって、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国恩を報ぜられたことを明かしている。
 本抄に明かしている報恩とは、父母、師匠、三宝、国主との四徳をあげられているけれども、別しては師の恩にあるのである。
 また、いかにして恩を報ずるかは、一般的にいえば、一代聖教、八宗の章疏を修学しなければならないことになるが、当流においては三大秘法の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、死身弘法に励むことのみが、唯一の知恩、報恩である。
 日蓮大聖人の、伊東流罪、竜口法難、佐渡流罪、身延へ入山、とたどられた御一生は、じつに末法の御本仏として、永遠の未来の一切衆生を救われんがための、大慈大悲の御一生であらせられたのである。
 わが創価学会の今日あるも、すべて初代会長、二代会長の死身弘法の賜物である。われらは、いかにしてこの師の重恩をば報ずることができようか。ただひたすら、寸刻を惜しみて信行に励み、不自惜身命の決意もあらたに、広宣流布の大道を邁進するのみである。しかし、また、ここに時代の相違を見ることができる。
 日蓮大聖人の御一代にわたる大難をはじめとして、当流の歴史は迫害と法難の歴史でもあった。江戸時代においても、入牢、追放、遠流等が跡を断たなかったのである。
 しかるに創価学会の初代牧口会長の牢死、二代戸田会長の会長就任よりは、ようやく広宣流布の時のきたれるか。日本国内はいうまでもなく、遠く世界の各国にまで、折伏の手が伸びつつある。弾圧や迫害に耐え忍んできた前代に比し、いまは個人も家庭も社会も、御本尊の大功徳に浴しながら、ますます信行に励む時代となったのである。
 法難と戦いぬかれた諸先師を思うにつけても、創価学会員こそ、最も知恩報恩の誠を、一刻も忘れてはならないと痛感するのである。
此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり
 開目抄では「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200-08)とおおせである。「此の事」とは、邪宗邪義こそ、民衆の不幸の根本原因であるということである。この恐るべき事実を知られた方は、日本国の中に、いな全世界の中で、日蓮大聖人ただお一人であるとの大宣言は、まことに強き御確信ではないか。
 恩師戸田先生は開目抄の講義録の中で「ゆえに名誉も栄達をも考えることなく、身を凡愚に具して身命を捨てて大衆の救済に立たれたのである。末法において、ただ一人、民衆救済の大原理をお知りあそばされたからこそ、このお方こそ聖人であり、仏であらせられるのである。この一言の中に日蓮大聖人の勇猛心と精神力がうかがわれるではないか」と申されている。
 われわれは、しあわせにも、このことを知った。ゆえに日蓮大聖人の弟子として、師匠と同じく、広宣流布の先駆をともに切っていこうではないか。
 「古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう」(0322-06)
 これは極楽寺の忍性良観等のことをいっているのである。良観は当時の鎌倉時代にあって、幕府の高官や信者の夫人たちの保護をうけて、慈善事業等を行なって宗教の無力をカバーしながら、民衆に生き仏のごとく思わせることに成功した。しかし日蓮大聖人の大破折にあい、大聖人の元品の法性によって、良観の元品の無明が猛然と燃え上がって、ひどく大聖人を怨み悪口し、卑きょうな手段で裏面から大聖人を迫害したのである。これ僣聖増上慢の代表的人物である。
 このように、現代にあっても、ふだんはりっぱそうに思われる人が、ひとたび学会を怨嫉するや、あたかも忍性良観のごとく、感情的に学会の悪口誹謗をたくましうする姿は、正しく鎌倉時代も現代も原理は同じだという感がする。
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」また「大聖にほむらるるは一生の名誉なり」と。われわれは、ほめられようと、けなされようと、ただ世界の平和、人類の幸福を願って、ひたすら広宣流布の大道を前進しゆくのみである。

0323:05~0324:03 第31章 道善房への報恩top

05                                            此の功徳は定めて上
06 三宝・下梵天・帝釈・日月までも・しろしめしぬらん、 父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん、 但疑い念うこ
07 とあり目連尊者は扶けんとおもいしかども 母の青提女は餓鬼道に墜ちぬ、 大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿
08 鼻地獄へ墜ちぬ、 これは力のまますくはんと・をぼせども自業自得果のへんは・すくひがたし、故道善房はいたう
09 弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人
10 なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながち
11 にをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、 但一
12 の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・
13 かほりて・はやく失ぬ、 後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせ
14 ん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、 力なき人にも・あらざりしがさどの国まで
15 ゆきしに一度もとぶらはれざりし事は 法華経を信じたるにはあらぬぞかし・それにつけても・あさましければ彼の
16 人の御死去ときくには火にも入り 水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せん
17 とこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり
18 出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、 さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず、但
0324
01 し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、 勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御
02 弟子とならせ給いしがごとし、 日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに かくしおきてしのび出でられたりしは
03 天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず。
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 この日蓮大聖人の死身弘法の功徳は、かならずや、上は仏法僧の三宝、下は大梵天王、帝釈天王、日天月天等までも承認されることになろう。ゆえに、わが父母も、故道善房の聖霊も、かならずやこの大功徳によって成仏するであろう。
 ただし、一つ疑い思うことがある。目連尊者は母をなんとか助けようと思ったけれども、母の青提女を餓鬼道から救うことはできなかった。釈尊の子供であるけれども、善星比丘地獄におちてしまった。これは、わが力によって救おうと思っても、相手があまりに極端な謗法では、自業自得となって救いがたいのである。
 わが師匠・故道善房にとっては、日蓮大聖人はかわいい弟子であるから、日蓮大聖人をば憎いとは思われなかったろうけれども、きわめて臆病であった上に、邪宗清澄山の住職を離れまいと執着した人であった。その土地の地頭、東条景信を恐れていたし、また、釈尊時代の提婆達多、瞿伽利という悪僧にも異ならない円智、実成などが、それぞれ清澄の上と下にいておどかしていたのを、ひじょうに恐れていた。そのため故道善房は、もっともかわいいと思っていた正法を奉ずる年ごろの弟子たちまでも、捨てたような人であるから、後生はいかがかと疑うしだいである。
 ただ一つの幸いとしては、謗法の強かった東条景信と円智、実成とが、先に死去したということは、外からの圧迫が除かれたので、一つの助かりとは思えるが、しかし、彼らは法華経十羅刹の責めをうけて、早く死去したのである。彼らの死去の後に、じゃまがいなくなったために、故道善房が後には少し法華経を信じたということもあったが、なんとなく「けんかのあとの棒ちぎれ」のような感じがする。時が過ぎたあとの、いわゆる昼の灯火というものは役に立たぬものである。
 その上、いかなることがあっても、子、弟子などというものは、まことに心にかかり不便と思うものである。故道善房は、力のない人でもなかったのに、この日蓮が佐渡の国まで流罪されたのに、一度もおとずれてこなかったことは、法華経を信じたということにはならないのである。それにつけても、心から思っていたので、故道善房がなくなられたと聞いたときには、火の中をくぐり、水の中にも沈み、走って行って、故道善房のお墓をたたいて、法華経一巻を読誦してあげたいと思ったけれども、賢人のならいとして、わが心では遁世とは思わぬけれども、世の人々はみな遁世と思っているのであるから、理由もなく走り出すならば、最後まで志をまっとうできなかったと、人々は非難するであろう。
 ゆえに、いかに故道善房のお墓に参上したいと思っても、ここで行くべきではない。ただし、あなた方、浄顕房、義浄房のお二人は、日蓮の幼少の時の師匠であった。あたかも勤操僧正と行表僧正は、初め伝教大師の師匠であったが、かえって後に、伝教大師の弟子となられたようなものである。日蓮が東条景信にあだまれて、清澄山を出ようとしたとき、あなた方お二人が、この日蓮をかくまって、ひそかに道案内をして無事に逃してくださったのは、まことに天下第一の法華経に対するご奉公というべきである。それによって、あなた方お二人の後生の成仏は疑う余地のないことであり、堅く確信してよいことである。

梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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目連尊者は扶けんとおもいしかども
 目連は大目犍連の略称。釈迦十大弟子の一人で、神通第一。仏説盂蘭盆経によると、目連は天眼通を以て、母の青提女が慳貪の罪によって、五百生にもわたる餓鬼道に堕ちていたことを知った。そこで目連は餓鬼道に行き、母に飯をやったが、その食がまだ口に入らないうちに、炎と化した。神通を現じて水をかけようとしたら、水が変じて薪となり、さらに燃え上がった。自力では何としても救うことができず、釈尊の教えを仰いで十方の聖僧を供養し、その生飯を取って、やっと救うことができたという。しかし、目連の供養は小乗の教えによるもので、母を餓鬼道から救っただけであって、成仏させたのではなかった。盂蘭盆御書に「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)と仰せの通り、目連が法華経に帰命し、多摩羅跋栴檀香仏となったとき、母・青提女も成仏することができたのである。
―――
善星比丘
 釈尊の出家以前の子といわれる。涅槃経巻三十三によると、出家して仏道修行に励み、第四禅定を得たが、これが真の涅槃かと思い、苦得外道に親近し悪見を起こした。そのうえ、釈尊に悪心を懐いたため、生きながら地獄に堕ちたという。
―――
阿鼻地獄
 阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
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瞿伽利
 瞿伽利は梵語。悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の出身で、浄飯王の命令により出家して仏弟子となったが、のちに提婆達多を師として舎利弗・目連を誹謗し、生きながら地獄へ堕ちた。
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地頭景信
 東条景信。安房国(千葉県南部)東条の地頭で、文永元年(1264)11月11日、日蓮大聖人、小松原法難のときの首謀者。
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円智・実成
 ともに清澄山の住僧とおもわれる。
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いさかひの後のちぎりき
 乳切木とは、地面に立てたとき、胸に達するゆえにいう。棒ちぎり。物を担うほか、護身用にも用いたという。棒の先に、鎖をつけた分銅を装着したものが、武具として今に伝えられる。「諍(いさか)いの後の乳切木」とは、何の役にも立たないこと。次下の「ひるのともしび」と同義。
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勤操僧正
 三論宗の僧。伝教大師が、桓武天皇の前で南都六宗七大寺の碩徳十数人を論破したが、そのなかの一人であった。
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行表僧正
 伝教大師を得度させた師匠。後に勤操らとともに伝教に帰伏した。
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 日蓮大聖人が師の道善房の恩に報いようとの御心情をお述べの段である。
 日蓮大聖人の御一代にわたる大慈大悲のおふるまいからするならば、師の道善房も救われるに違いない。ただし、目連尊者の母が餓鬼道に堕ち、釈尊の子の善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちたので、このような自業自得果はどうすることもできないとのおおせである。じつに因果はきびしいのである。
 道善房が日蓮大聖人の師匠となったことは、決して偶然ではない。そこには深い深い仏縁があるのである。しかるに、道善房はあまりにも臆病で、利己主義者で、事なかれ主義の小心者であったようである。ただひたすら権威を恐れ、地頭を恐れ、円智や実成を恐れて、清澄寺の住職たる自己の保身だけを考えていた。
 自分の弟子たる日蓮大聖人が、地頭から追放されたり、佐渡へ流されたりしても、いっこうに助けようとも、慰めようともしなかった。しかも日蓮大聖人は、清澄寺大衆中によれば、東条左衛門景信の策動を封殺され、清澄寺のため、また領家のために戦われている。道善房はその御恩義も感じているはずである。
 また、さすがの道善房も「後にすこし信ぜられてありし」(というていどに心は動いていた。にもかかわらず、本章では、自業自得果の辺は救いようがないとおおせられているのである。しかるに、報恩抄の最後には、「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と結ばれている。それは、いかに三大秘法の仏法が偉大であるか、しかも日蓮大聖人の大慈大悲によって、万年のほか未来永遠の衆生を救われるのであると断定あそばされた上で、最後の結論をお述べになっているのである。
清澄山時代の日蓮大聖人
 ここで、日蓮大聖人が御幼少のころ、道善房を師匠として修学された清澄山時代のことを、若干のべてみよう。
 日蓮大聖人は承久の乱後、まだいくばくもたたぬ承久4年(1222)2月16日、安房国東条の郷、小湊の漁家に御誕生になった。父は貫名重忠、母は清原氏で梅菊と申し上げた。御幼少のころから、ひじょうに英邁剛毅であられたことが、じゅうぶんうかがわれるが、残念ながら当時の資料は、ほとんど残っていない。しかし、日蓮大聖人の出家の動機については、御書を拝すると、次のようなことが考えられる。
 まず、当時盛んに信ぜられた念仏を唱える人が、みな悪相を現じて苦悶にみちた死に方をしていたことである。幸福になるべき仏法を信じて、地獄におちていくさまを見て、ひじょうな疑惑をもたれたことである。また当時、日本に仏教が八宗、十宗とあるが、いずれが真に正しい仏教であり、幸福になるべき教えかという点にあった。さらに承久の乱において、なにゆえ朝廷方が敗れて、三上皇が島流しにあわれたかという疑問もあられた。
 かくして日蓮大聖人は、一刻も早くこれらの疑念を一掃して一切衆生を救済したいという念願で、天福元年(1233)5月、12歳の御時に、出家を志され清澄山に上って習学、剃髪は16歳であった。当時の仏法の中心はなんといっても比叡山であり、また王法の都は鎌倉であった。小湊の地は比叡山からみて、はるかに遠国であり、名ある名僧智識も少ない辺国であったが、縁あって近くの清澄山に登られ道善房を師匠とされたのである。そして、これらの疑問を解決されるために、幼少の時より、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈られたことは有名である。
 清澄修学の道にはいられてより4年余、16歳の時に出家剃髪され、名を是生房蓮長と改め、なおきびしく仏法の究明に力をつくされた。清澄寺は天台真言の寺であり、師の道善房は念仏にも心を奪われていた。日蓮大聖人は、やがて師の道善房に遊学の志をつげ、まず鎌倉に向かわれ、浄土宗、禅宗等の教義を討究され、ついで、比叡山、園城寺、高野山、天王寺さらに京中、またはいなかの寺々をたずねて、研究されたのである。かくて、日蓮大聖人は、ついに、法華経こそ釈尊五十年の説法の肝要であり、出世の本懐であること、また法華経神力の付嘱によって、三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法を、末法に流布して一切衆生を救うべきことを悟られた。そしていよいよ建長五年四月二十八日、御年三十二歳の時、清澄寺の持仏堂の南面で、御立宗あさばされたのであった。
 本尊問答抄にいわく「然るに日蓮は東海道・十五箇国の内、第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに、我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに」(0370-08)云云と。
 善無畏三蔵抄にいわく「而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(0888-09)
 破良観等御書にいわく「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上……論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん」(1292-18)と。
 妙法比丘尼御返事にいわく「此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」(1407-14)云云と。

0324:04~0325:03 第32章 略して題目肝心を示すtop

04   問うて云く法華経.一部・八巻.二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経・
05 阿含経の肝心は仏説中阿含経・大集経の肝心は大方等大集経・般若経の肝心は 摩訶般若波羅蜜経・雙観経の肝心は
06 仏説無量寿経・観経の肝心は仏説観無量寿経・阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経・涅槃経の肝心は大般涅槃経・かくの
07 ごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目・其の経の肝心なり、 大は大につけ小は小につけて 題目をもつて肝心と
08 す、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等・亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通
09 仏・雲雷音王仏・是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、 今の法華経も亦もつて・かくのごとし、
10 如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復.一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人.修羅・
11 竜神等の頂上の正法なり、 問うて云く南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると 南無大方広仏華厳経と心もしら
12 ぬ者の唱うると斉等なりや浅深の功徳差別せりや、 答えて云く浅深等あり、疑て云く其の心如何、 答えて云く小
13 河は 露と涓と井と渠と江とをば収むれども 大河ををさめず・大河は露乃至小河を摂むれども 大海ををさめず、
14 阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし、方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり、
15 法華経は露・涓・井.江・小河・大河.天雨等の一切の水を一渧ももらさぬ大海なり、譬えば身の熱者の大寒水の辺に
16 いねつればすずしく.小水の辺に臥ぬれば苦きがごとし、五逆・謗法の大きなる一闡提人・阿含・華厳.観経・大日経
17 等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし、法華経の大雪山の上に臥ぬれば 五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散
18 ずべし・されば愚者は必ず法華経を信ずべし、 各各経経の題目は易き事・同じといへども愚者と智者との唱うる功
0325
01 徳は天地雲泥なり、譬へば大綱は大力も切りがたし小力なれども小刀をもつて・たやすく・これをきる、 譬へば堅
02 石をば鈍刀をもてば大力も破がたし、 利剣をもてば小力も破りぬべし、 譬へば薬はしらねども 服すれば病やみ
03 ぬ食は服すれども病やまず、譬へば仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず。
――――――
 問うていうのには、法華経一部、八巻、二十八品の中には、なにものが、もっとも肝心であるか。
 答えていうのには、華厳経の肝心は大方広仏華厳経である。また阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、雙観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。
 かくのごとく、一切経はみな、如是我聞の上にある題目が、その経の肝心なのである。大乗は大乗として、小乗は小乗なりに、ともかく、題目をもって肝心としているのである。大日経、金剛頂経、蘇悉地経等も、また、かくのごとくその経の題目が肝心である。
 仏についても、また同じことがいえるのである。大日如来、日月燈明仏、燃燈仏、大通智勝仏、雲雷音王仏、これらの仏も、また仏の名のなかにその仏の種々の徳をそなえているのである。いまの法華経も、また同じである。
 如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は、すなわち法華経一部八巻の肝心である。またそれだけではなく一切経の肝心である。さらにいっさいの諸仏、菩薩、二乗、天、人、修羅、竜神などの頂上の正法である。
 問うていうのには、「南無妙法蓮華経」と、その経の心も知らないで唱えるのと、同じく「南無大方広仏華厳経」と、その経の心も知らないで唱えるのとでは、その意義は等しいか、また功徳の浅深、差別があるのか。 
 答えていうのには、それは明白に功徳の浅深がある。
 疑っていうのには、しからば、その心はいかん。
 答えていうのには、小さい河は、露や涓や井戸の水や、渠の水、江の水などは収めるけれども、大河の水を収めることはできない。大河は、露や乃至小河の水は収めるけれども、大海の水を収めることができない。阿含経は井江等や露涓などを収めた小河のようなものでる。方等経、阿弥陀経、大日経、華厳経などは、小河の水を収めた大河のようなものである。しかして、法華経は、露、涓、井、江、小河、大河、天雨などの一切の水を一滴ももらさず収めた大海のようなものである。
 たとえば、身体が熱くてたまらない者が、大寒水のほとりに、いつづければ、涼しくなるが、小水のほとりに伏せれば熱くて苦しいようなものである。五逆罪、謗法の大きな一闡提(いっせんだい)人が、阿含、華厳、観経、大日経等の小水のほとりにいるのでは、大罪の大熱を散ずることができない。しかし法華経の大雪山の上に伏せれば、五逆罪、正法誹謗、一闡提等の大熱がたちまちに散ずるであろう。
 されば、すべての愚者は必ず法華経を信じて功徳をうけるべきである。おのおのの経々の題目は、たやすいことである。同じようなことであるといっても、愚者なれども法華経の題目を唱える功徳は勝れ、智者なれども権経の題目を唱える功徳は劣る。その相違はまさに天地雲泥である。
 たとえば、大綱は大力のものでも切ることができない。しかし小力なりとはいえ小刀をもって切れば、たやすく切ることができる。大網とは五逆謗法である。小刀とは法華経の題目である。また、たとえば、堅い石を、やわらかい鈍刀をもってしては、大力のものも破ることができない。しかし、堅い利剣をもてば小力のものでも破ることができる。利剣とは法華経の題目である。また、たとえば、薬は、その効能などを知らなくても、服しただけで病気はなおる。しかし、単なる食物では、いかに服しても病気はなおらない。薬とは法華経の題目である。また、たとえば、仙薬は寿命を延ばし、凡薬は病気はなおすが寿命を延ばすことはできない。仙薬とは法華経の題目である。

日月燈明仏
 略して燈明仏ともいう。法華経序品第一の最初に、八万の大菩薩、万二千の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まったところ、天より曼陀羅華が降り、地は六種に震動し、仏は眉間の白亳より光を発ち、万八千の世界を照らした。大衆は不思議に思い、弥勒菩薩が代表して文殊師利菩薩にこの瑞相の訳を問いた。文殊が答えるには、「過去世に日月燈明仏がおられた。声聞に四諦の法を、縁覚に十二因縁を、菩薩に六波羅蜜の教えをそれぞれ説いて、菩提を成ぜしめた。さらにその次の仏、そして次の仏と、二万の仏が生じ、それがみな同一の仏号をもって出世した。その最後の日月燈明仏がまだ出家していないとき、八人の王子があり、みな父に従って出家した。そのとき、日月燈明仏は無量義経を説き、無量義処三昧に入った。その後、皆が今見ているところの瑞相を現じてのち、八百の弟子の上首である妙光菩薩によせて、法華経を説いた。その時の妙光菩薩とは、我、文殊である。日月灯明仏は法華経を説き終わって、涅槃にはいった。それがあたかも、いまの釈迦仏のようであった」と、無量義処三昧から法華経開説までの因縁を明かしたのである。
―――
燃燈仏
 燃灯仏とも書く。法華経序品第一に説かれる、過去の日月燈明仏の八人の子のうちの末子。父の高弟、妙光菩薩にしたがって法華経を修業し、八人の子がしだいに成仏した。その最後に成仏した仏が燃灯仏である。生まれたときに、身の光りが灯のようであったために、成仏後も、燃灯仏と称した。また太子瑞応本起経巻上によると、釈尊が、因位の修行のとき儒童菩薩として、五百の金銭で買い取った五茎の青蓮華を錠光仏に奉り、己の髪を道に敷いて仏に通らせた。その功徳をもって、仏は儒童菩薩に「汝は将来仏となり、釈迦牟尼仏という名で世界の燈明となるであろう」と授記した。この錠光仏とは、燃灯仏の別訳である。ゆえに錠光仏すなわち燃灯仏は、儒童菩薩すなわち将来の釈尊の師である。その燃灯仏は妙光菩薩すなわち文殊の弟子であるところから、文殊を釈尊の九代の師という。
―――
大通仏
 大通智勝仏のこと。法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。そのうちの第十六王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。佐渡御書にいわく「大通第三の余流にもやあるらん」(0958-14)と、すなわち末法の我々は、久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心すらしなかった衆生の余流なのであろうか、と言われている。
―――
雲雷音王仏
 法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。過去に雲雷音王仏が有して、その国を現一切世間、劫を喜見といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の妓楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たとされる。
―――
一闡提人
 一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
―――――――――
 この章では、略して法華経の題目が肝心であることを明かしている。
 前章では師の道善房に対する報恩を明かし終わったのに、なぜここで法華経一部八巻の肝心を論ずるか。それは前章の結論が、道善房は法華不信の人であること、後すこし信ずるようであったが、昼の灯のようなものであったこと、その上、日蓮大聖人が佐渡へ流された時に一度も訪れなかったので、法華経を信じたとはいえない、自業自得果はのがれられないであろうと。
 しかるに本章以後においては、日蓮大聖人は一代仏教の肝要骨髄たる三大秘法を弘通なされるのであって、最後には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と、結論なされるのである。すなわち三大秘法をあらわすための、問答料簡が始められるのであって、文旨は一連なのである。
如是我聞の上に妙法五字は即一部八巻の肝心
 如是我聞の上の妙法に二義があり、一には就法、二には功帰である。はじめ就法に亦二意を含み、一には名通、二には義別である。
 妙楽は「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」といっている。「略して経題を挙ぐ」は名通であり、「玄に一部を収む」は義別である。籤(せん)一には「妙法の両字は通じて本迹を詮す」と妙法の両字は名通であり、「通じて本迹を詮す」は義別である。
 第二に功帰とは亦二意を含む。いわゆる本果と本因である。玄一にいわく「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、三世諸仏の証得する所なり」と。籤一にいわく「迹中に説くと雖も、功を推すに在る有り故に本地と云う」と。
 はじめに本果とは、本果所証の妙法をさして本地甚深等という。これは外適の辺で寿量品の文上である。次に本因とは、本因名字の所証をさして本地甚深等という。これは内鑑の辺で寿量品文底の意である。
 さて、本因名字所証とは、すなわちこれ三大秘法総在の妙法蓮華経である。文に本地とは即これ本門の戒壇である。本尊の所住の地なるゆえに本地という。本尊所住の地は戒壇である。文に甚深とは、即これ本門の本尊である。実相甚深とは一念三千の本尊である。文に奥蔵とは、奥蔵とは能歎である。すなわち本門の題目である。題目の中に万行を包蘊するのである。
 いま三大秘法総在の妙法に約するゆえに、この妙法蓮華経とは本地甚深の奥蔵なりという。今日の一部八巻二十八品は、もしその功を論ずれば、近は本果の所証に帰し、遠は本因の所証に帰す。ゆえに本因名字の所証を以て、本中の本、妙中の妙とするのである。
愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥
 愚者なれども法華経の題目を唱える功徳は、おおいに勝れ、智者なれども権経の題目を唱うる功徳はおおいに劣るのである。ゆえに智者と愚者と唱うる功徳、雲泥というのである。
 その余の譬えも、みなこの意である。
 すなわち愚者なれども、いかなる悪人なれども、ひとたび御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる功徳は絶大である。これ悪人成仏、各階層の救済をみごとに示しておられるおことばである。
 現代の指導者は、ただ虚栄をもって民衆の救済を叫んでいるにすぎない。真実に心の奥底から貧困のもの、病弱の人、苦悩多き人々の幸福を考えているのではない。現代にあっては、ただ、わが学会のみが、真剣に不幸な人々の真の味方として立ち上がっていることに深く思いをいたすべきではなかろうか。
 「問うて云く南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱うると斉等なりや浅深の功徳差別せりや、答えて云く浅深等あり」
 じつに大事なおことばである。宗教は信ずる対象すなわち本尊によって決まってくるのである。信仰は本尊と人との関係において感応利益を信ずることなのである。ゆえに、いかに信ずるかは、また別問題になってくる。
 「たとい発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、もし正境あらずんばたとい偽妄なきも亦種とならず」の言、よくよく思うべきである。
 現在の知識階級の考え方は、まったく迷倒している。宗教の正邪、本尊の正邪などということを夢にも考えず、ただ信ずる人々の精神状態のみを問題にしているかのごとくである。また、はなはだしきにいたっては、朝晩の勤行が横隔膜を刺激して健康によいだろうぐらいに考えているのは、宗教の本質を知らぬ言語道断のことばというべきではないか。

0325:04~0326:11 第33章 広く題目肝心を明かすtop

04   疑つて云く二十八品の中に何か肝心ぞや、答えて云く或は云く品品皆事に随いて肝心なり、 或は云く方便品・
05 寿量品肝心なり、 或は云く方便品肝心なり、 或は云く寿量品肝心なり、或は云く開示悟入肝心なり、或は云く実
06 相肝心なり。
-----―
 疑っていうのには、法華経二十八品の中には、何が肝心であるか。
 答えていうのには、ある人がいわく「法華経二十八品の品々がみな事に随って肝心である」ある人がいわく「方便品、寿量品が肝心である」ある人がいわく「方便品肝が肝心である」ある人がいわく「寿量品が肝心である」ある人がいわく「開示悟入が肝心である」ある人がいわく「実相が肝心である」と。
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07   問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり、其の証如何阿難・文殊等・如是我聞等云云、問うて云く心
08 如何、答えて云く阿難と文殊とは八年が間・此の法華経の 無量の義を一句・一偈・一字も残さず聴聞してありしが
09 仏の滅後に結集の時・九百九十九人の阿羅漢が 筆を染めてありしに 先づはじめに妙法蓮華経とかかせ給いて如是
10 我聞と唱えさせ給いしは妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心にあらずや、 されば過去の燈明仏の時よ
11 り法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝えんとす 前題に一部を挙ぐるなり」等云云、 霊山
12 にまのあたり・きこしめしてありし 天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云章安大師の云く記者釈して曰く
13 「蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述す」等云云、 此の釈に文心とは題目は法華経の心なり妙楽大師云く
14 「一代の教法を収むること法華の文心より出ず」等云云、天竺は七十箇国なり総名は月氏国・日本は六十箇国・総名
15 は日本国・月氏の名の内に七十箇国・乃至人畜・珍宝みなあり、日本と申す名の内に六十六箇国あり、出羽の羽も奥
16 州の金も乃至国の珍宝・人畜乃至寺塔も神社もみな日本と申す二字の名の内に摂れり、 天眼をもつては日本と申す
17 二字を見て六十六国乃至人畜等をみるべし・法眼をもつては 人畜等の此に死し彼に生るをもみるべし・譬へば人の
18 声をきいて体をしり跡をみて大小をしる 蓮をみて池の大小を計り雨をみて竜の分斉をかんがう、 これはみな一に
0326
01 一切の有ることわりなり、 阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども 但小釈迦・一仏のみありて他仏なし、
02 華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏いまさず、 例せば華
03 さいて菓ならず雷なつて雨ふらず 鼓あつて音なし 眼あつて物をみず 女人あつて子をうまず 人あつて命なし又
04 神なし、大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし、彼の経経にしては大王・須弥山・
05 日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用
06 を失ふ、 例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ 諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失な
07 い牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり 衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがご
08 とし、 南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩
09 薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる、 彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば 皆いたづらのものなるべし当時眼
10 前のことはりなり、 日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は 月のかくるがごとく塩のひるがごとく
11 秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ。
-----―
 問うていうのには、汝が心はどうであるか。
 答えていうのには、南無妙法蓮華経が肝心である。
 問うていうのには、その証拠はどうであるか。
 答えていうのには、阿難、文殊等は「如是我聞」等といっている。
 問うていうのには、その心はどうであるか。
 答えていうのには、阿難と文殊とは、八年の間、この法華経の無量の義を、一句一偈一字も残さず聴聞したのである。そして、釈迦仏の滅後、一切経の結集のとき、九百九十九人の阿羅漢が、筆を染めたが、まず初めに妙法蓮華経と書いた。次に如是我聞と唱えたのは、妙法蓮華経の五字は、一部八巻二十八品の肝心であるという証拠ではないか。
 ゆえに、過去の日月燈明仏のとき以来、法華経を講じていたといわれる光宅寺の法雲法師は「如是とは、まさに所聞(しょもん)の法を伝えようとしているのである。しかして、前題に法華経一部をあげたのである」等といっている。
 霊鷲山において薬王菩薩として出現し、まのあたりに法華経を聴聞した天台大師は「如是とは所聞の法体である」といっている。さらに章安大師は「記者(章安大師)がさらに天台大師の解釈のうえに釈していわく、蓋し序王とは、法華経の玄意を叙述したのであり、その玄意は文の心を叙述したものである」と。
 この釈に「文の心」というのは、題目は法華経の心であるという意味である。妙楽大師のいわく「一代の教法を収むることは、法華の文より出たことである」と。
 天竺は七十箇国である。総名を月氏国という。日本は六十箇国である。総名を日本国という。月氏の名のなかに七十箇国はもちろん、人間も畜生も珍宝もみな含まれている。日本という名の中に六十六箇国が含まれる。出羽に産する鳥の羽も、奥州の金も、また国の珍宝、人間、畜生等、さらに寺塔も神社も、みな日本という二字の名の中にすべて収まっているのである。
 天眼をもって日本という二字を見るならば、日本の六十六国あるいは人間、畜生等を見ることができる。法眼をもって見るならば、人間や畜生などが、ここに死し、かしこに生まれるのを見ることができる。たとえば、人の声を聞いて、その体を知ることができ、足跡を見れば、その人の大小を知ることができる。また、蓮の花の大小を見て池の大小をはかり知ることができ、雨のようすを見て竜の姿を想像することができる。これらは、みな一つの姿にいっさいの姿が現われているという道理を示しているのである。
 かくのごとくみれば、阿含経の題目には、おおむねいっさいが含まれているようであるけれども、ただ小乗教の釈迦一仏のみあって、他仏は含まれないのである。華厳経、観無量寿経、大日経などには、一切経が説かれているようであるけれども、じつは、声聞、縁覚の二乗を仏にする法門と、久遠実成の釈迦仏のことは説いていないのである。これは、たとえば花が咲いても果実がならず、雷が鳴って雨が降らず、鼓があっても音が出ない、目があっても物が見えない、婦人でありながら子供を生まない、人間であるが命がなく、また精神活動がないようなものである。
 すなわち、大日如来の真言、薬師如来の真言、阿弥陀如来の真言、観世音菩薩の真言なども、同じくこのようなものであり、魂のない姿である。かの大日経、薬師経、阿弥陀経などの経々では、各経の題目は大王、須弥山、日月、良薬、如意珠、利剣などのように思っているようであるけれども、法華経の題目に対すれば、雲泥ほどの勝劣があるのみでなく、みなおのおの当体のみずからの働き、功徳というものを失ってしまうのである。
 それは、たとえば、多くの星が一つの太陽のために光を奪われてしまう。あるいは、多くの鉄があっても、一つの磁石にあうことによって吸いつけられて、たちまち鉄の利性は尽きてしまう。また、大剣はいかに切れ味がよくとも、小火にあっては、なまくらになってしまう。牛乳や驢乳が師子王の乳にあえば水になり、多くのキツネの術も一犬にあって失われてしまう。また狗犬が小虎にあっては、あわて恐れるようなものである。
 南無妙法蓮華経ととなえれば、南無阿弥陀仏の働きも、南無大日真言の働きも、観世音菩薩の働きも、みな、ことごとく妙法蓮華経の働きのために力を失ってしまうのである。かの経々は、妙法蓮華経の働きを借りなければ、みな、役に立たない、空しい教えになってしまうのである。これらは、この時代にあって、とうぜんのこととしてうなずける道理である。
 日蓮が南無妙法蓮華経ととなえ弘めることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出て月がかくれるような状態になり、潮が引いていくような姿であり、秋冬の草が枯れていくような、あるいは氷が太陽の光りにあって溶けるような、衰えゆくようすを、はっきりと見なさい。

開示悟入
 法華経方便品第二の広開三顕一の文。「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」。広開三顕一とは、広く三乗を開いて一乗を顕わすこと。法華経以前には、声聞、縁覚、菩薩の人を分けて説き、これを三乗の法といったが、法華経にいたって、真実の仏の教えはただ一つであるとして、一仏乗の法を説かれたのである。方便品第二より人記品第九までの間に、三乗の法を開会して一乗の法を説かれたものである。御義口伝には「開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり」(0716-第三唯以一大事因縁の事-09)と申されている。
―――
過去の燈明仏の時より法華経を講ぜし
 報恩抄に「或人夢く此人は過去の燈明仏の時より法華経をかうぜる人なり」(0298-13)(ある人の夢に「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという)とあり、光宅寺の法雲が当時、過大に評価されていたことを皮肉ったもの。
―――
光宅寺の法雲法師
 (0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(058五)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園における法華経の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じたという。普通6年(0523)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
―――
霊山にまのあたり・きこしめしてありし
 呵責謗法滅罪抄にいわく「薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳云云」(1128-09)。これらの因縁は、法華伝記巻二の智顗伝の中にある。「宣律師、天に問うて曰く、陳の国の思、隋の国の顗は、神の徳、倫を超えたり。昔、霊山に在って同じく法華を聴く。昔、誰なるか審かならず……答えて云く、倶に是れ遊方の大士、本是れ古仏なり。思は是れ観音。普門一品の其の利を説く。顗は是れ薬王。日月浄明徳の世に興し、頓て一身を捨て、法に供養す」等とある。天台自身、南岳の下で四安楽行を授け、そののち薬王品の「是真精進、是名真法」の文で開悟したこと、南岳が普門品を用いたことからも、天台が薬王菩薩の後身、南岳が観世音菩薩の後身といわれるわけである。
―――
天台大師
 (0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。天台大師、智者大師ともいう。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
―――
章安大師
 (0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
蓋し序王とは
 章安大師が、天台大師の法華玄義の序王の要点を説明したものである。すなわち、大師の序王は法華経の玄意を述べたものであり、玄意である妙法蓮華経は、法華経一部の文の心である、と。
―――
妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
出羽の羽
「風土記」の文に「しかるに允恭天皇の御代に鷲の羽をたびたび御調物にそなえたてまつりけるに、御褒美ありて、かの羽の出る所になぞらえて、出羽の国と名付け給いしなり」とある。
―――
奥州の金
 第四十五代聖武天皇の天平21年(0749)、奈良の大仏を造立するとき国内から黄金を産出せんことを祈ったところ、陸奥国守の百済王敬福が、国内より産出したといってたてまつった。
―――
久遠実成
 釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
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 この章は広く題目肝心を明かしている。「二十八品の中に何か肝心ぞや」の問いに対し、六箇の惑義をあげている。これは天台の学者の異議をあげられたのであろう。さてその六義は、
 或は云く品品皆事に随いて肝心なり。
 或は云く方便品、寿量品肝心なり。二乗作仏、久遠実成が今経の骨髄なる故。
 或は云く方便品肝心なり。既に仏の出世の正意顕実を釈する故。
 或は云く寿量の一品肝心なり。顕本遠寿を以て命と為す故。
 或は云く但開示悟入の一文肝心なり。是れ迹要なりと雖も顕本し已れば即本要となる故。
 或は云く諸法実相の一文肝心なり。本迹二門倶に諸法実相を以て体玄義となす故。
 このように、種々の論議が行なわれてきたが、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経肝心なり」と断定あそばされているのである。四信五品抄にいわく「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(0342-04)と。
 あたかも天竺とか、日本という名の中に、一切の山川草木、人畜等を含むように、妙法蓮華経の五字には一切を具すのである。華厳経や観経や大日経には、一切があるように見えても、二乗作仏と久遠実成がない。
 その次の七譬のうち、①華さいて菓ならず ②雷なって雨ふらず ③鼓あって音なし ④眼あって物をみず ⑤女人あって子をうまずは二乗作仏なきに譬え ⑥人あって命なし ⑦又神なしは、久遠実成なきに譬うるか。また七譬通じて二箇に譬うるなりと、日寛上人はお述べになっている。
 しかして、諸宗の仏も題目もことごとくその用を失い「小犬が小虎の前に出て色を失う」ような状態である。しかも「当時眼前のことわりなり」と絶対の御確信をお述べになっている。
 次に「題目肝心」とは、法体をさしていうのである。すなわち本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」と同意である。これ日蓮大聖人が「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124-11)とおおせの十界互具の三大秘法の御本尊であられる。
 「日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく塩のひるがごとく秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ」
 ひとたび三大秘法の南無妙法蓮華経があらわれれば、権小の諸経の功徳が滅尽することをのべられているのである。上野殿御返事に「正法・像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)とおおせられているのも同じ意味である。
 また現在にあてはめて考えるならば、わが創価学会の出現によって、つい最近まで羽ぶりをきかして民衆をだまし不幸にしてきた新興諸宗教や、葬式や法事や墓守りのみに窮々とする形骸化した既成仏教各宗派が、潮のひくがごとく力を失っていく姿こそ、この原理の現れといえよう。
 さらに、西洋哲学にしても、ヘーゲル以後、マルクス主義、実証主義、実存哲学、プラグラティズム論理分析学派、サイバネティックス等の多くの哲学が派生したが、日蓮大聖哲の大生命哲学が現われた以上、すべて日光の前の燭火にすぎないのである。
 また、政治、経済、教育、芸術など、文化一般についても、既成の思想、宗教、哲学を基礎にしたものは、どうしようもない行き詰まりと内部分裂におちいって、色心不二の生命哲学を根底とした第三文明によってくさびを打たれることは必然である。

0326:12~0327:08 第34章 馬鳴竜樹等の大乗弘通top

12   問うて云く此の法実にいみじくばなど迦葉.阿難.馬鳴.竜樹.無著.天親・南岳.天台・妙楽・伝教等は善導が南無
13 阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく・すすめ
14 給はざりけるやらん、 答えて云く此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず、馬鳴・竜樹菩薩等は仏の滅後・六
15 百年・七百年等の大論師なり、 此の人人世にいでて大乗経を弘通せしかば諸諸の小乗の者・疑つて云く迦葉・阿難
16 等は仏の滅後・二十年・四十年住寿し給いて正法をひろめ給いしは 如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか、而るに
17 此の人人は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給いしに今.馬鳴・竜樹等かしこしといふとも迦葉.阿難等には
18 すぐべからず是一、 迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり、此の人人は仏にあひたてまつらず是二、 外道
0327
01 は常.楽・我.浄と立てしを仏・世に出でさせ給いて苦.空・無常.無我と説かせ給いき、此のものどもは常楽我浄とい
02 へり、 されば仏も御入滅なり又迦葉等もかくれさせ給いぬれば 第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて
03 仏法をやぶり外道の法となさんとするなり、 されば仏法のあだをば頭をわれ 頚をきれ命をたて食を止めよ国を追
04 へと諸の小乗の人人申せしかども 馬鳴・竜樹等は但・一二人なり昼夜に悪口の声をきき朝暮に杖木をかうふりしな
05 り、而れども此の二人は仏の御使ぞかし、 正く摩耶経には六百年に馬鳴出で 七百年に竜樹出でんと説かれて候、
06 其の上楞伽経等にも記せられたり 又付法蔵経には申すにをよばず、 されども諸の小乗のものどもは用いず但めく
07 らぜめにせめしなり、 如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり、提婆菩薩の
08 外道にころされ師子尊者の頚をきられし此の事をもつて・おもひやらせ給へ。
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 問うていうのには、この南無妙法蓮華経の仏法が、じつに、そのようにりっぱであるならば、どうして、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、あたかも善導が南無阿弥陀仏とすすめて中国に弘通したごとく、また慧心や永観や法然が、日本国をみな阿弥陀仏の信者にしたように、南無妙法蓮華経をひろめなかったのか。
 答えていうのには、このような疑難は昔からある疑難であって、いま急にいわれはじめられたものではない。馬鳴、竜樹菩薩は、釈迦仏の入滅後、六百年か七百年後ごろに出現した大論師である。これらの人々が世に出て大乗教を弘通したので、多くの小乗経信仰のものたちが、疑っていうのには、
 「迦葉、阿難等は、釈迦仏の入滅後、二十年、四十年とこの世に住して正法をひろめられたのは、釈迦如来の一代仏法の肝心をこそ弘通されたのであろう。しかるに、この迦葉、阿難という人々は、ただ苦・空・無常・無我の法門をこそ、もっとも詮要とされたのに、馬鳴、竜樹等は、また違った法門を立てている。いま、馬鳴、竜樹等が、いかに賢明であるといっても、迦葉、阿難等よりも勝れているというわけはないであろう。これ第一の理由である。
 迦葉は、直接に釈迦仏にあって理解をした人である。この馬鳴、竜樹という人々は、仏に会われるということはなかった。これ第二の理由である。外道のものたちが、人生は常、楽、我、浄であると立てたのを、釈迦仏がこの世に出現されて人生は苦、空、無常、無我であると説かせられたのである。しかるにこの馬鳴・竜樹というようなものどもは、また常楽我浄であると唱えたのである。されば、おそらく釈迦仏も御入滅になり、また迦葉らも死なれてしまったゆえに、第六天の魔王が、この馬鳴、竜樹らの身に入りかわって仏法を破り、外道の法としようとしたのであろう。ゆえに、彼の馬鳴、竜樹らは、仏法の怨敵であるから、頭を破り、首を切れ、また命を断て、食をとどめよ、国を追い払ってしまえ」
 このように、多くの小乗教の信者たちが叫んでいた。しかして、馬鳴や竜樹たちは、ただ一、二名にすぎなかったがゆえに、昼も夜も小乗の徒の悪口の声を聞き、朝に夕暮れに杖や木でうたれたのである。しかしながら、事実はこの馬鳴、竜樹のふたりは釈迦仏のお使いであったのである。まさしく摩耶経には、釈尊滅後六百年に馬鳴が出現し、七百年には竜樹が出現するであろうと説かれているのである。その上、楞伽経に記せられているし、また付法蔵経にあることは申すまでもないことである。
 しかしながら、多くの小乗経のものどもは、この仏説を用いないのである。ただ理不尽に大乗仏教を攻撃したのである。「この法華経を説くのに、如来の現在すら、なお怨嫉が多い。いかにいわんや如来の滅度の後においてをや」という法華経法師品の経文は、この時にあたって、少しは、馬鳴、竜樹等の身につまされて知ることができたのである。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が首を切られたのも、このことをもって、思いやるべきである。

慧心
 (0942~1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
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迦葉
 迦葉尊者、摩訶迦葉ともいう。摩訶は大の意。釈迦十大弟子の一人で頭陀第一と称せられ頭陀修行に秀でていた。阿難と共に小乗の釈尊の脇士で、仏滅後20年間、小乗教を弘通した。
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阿難
 詳しくは阿難陀。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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馬鳴
 梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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慧心
 (0942~1070)。恵心とも書く。叡山第十八代座主・慈慧大師の弟子。恵心院源信と呼ばれた。天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡に生まれ、9歳で比叡山に登り、13歳で得度し源信と名のった。以後、横川の恵心院に止住。44歳のときに著した「往生要集」は、後年、法然が浄土信仰に入る動機の書ともなっている。元来、恵心の本意は、爾前の念仏の利益と法華経の一念信解の功徳を較べて、一念信解のほうが念仏三昧より百万倍もすぐれると結論するためのものであったが、往生要集は、念仏臭が強かったのである。このことに気づいた恵心は、65歳のときに「一乗要決」を著わして、法華最勝の深義を論じている。以後、弟子の訓育と著述に努め、天台の観心の法門を宣揚した。行年76歳。
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永観
 (1032~1111)。平安中期の僧。奈良東大寺に住して、三論、法相、華厳を修したが、京都禅林寺で浄土教を布教。東大寺別当に任ぜられ、務めた後も念仏を布教した。著作に「往生拾因」等がある。
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第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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摩耶経
 詳しくは、摩訶摩耶経とも仏昇忉利天為母説法経ともいう。斉の曇景訳。仏が母の摩耶夫人の恩を奉ずるために、忉利天に4月15日に昇り7月15日に帰るまでの90日間に説法し、初果の益を得させた。この経には貧者の一灯の教えがある。すなわち願って多くの財を布施しても信心が弱くては仏に成ることはできないが、たとえ貧しくても信心が強く志が深ければ、仏に成ることは疑いないということである。のちに、仏が入滅したことを聞いた摩耶夫人は急ぎ忉利天より下り、涅槃の場にかけつけ仏の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、仏は大神通力をもって金棺の蓋をあけ、身を起して毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて、母子が相いまみえた。仏は母のために世の無常の理を説き、説き終って再び棺の蓋を閉じたと説かれている。
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楞伽経
「楞伽阿跋多羅宝経」「入楞伽経」「大乗入楞伽経」の三訳が現存する。禅宗の依経の一つ。仏が楞伽山頂に住して、大慧菩薩の問いに答え、種種の法門を説いた経。達磨(だるま)は、この経を如来の極説として、慧可に授けた。
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付法蔵経
 仏滅後、正法千年間に、仏の付嘱を受けて仏法を弘めた付法蔵の二十四人の因縁伝が記されている。6巻より成り、吉迦夜と曇曜の共訳がある。
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提婆菩薩
 迦那提婆のこと。付法蔵の第十五。南インドの婆羅門の出である。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に施したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて提婆に危害を加えた。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだという。
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師子尊者
 師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
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如来現在・猶多怨嫉・況滅度後
 法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
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 前章は日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経が、権経の邪義邪宗を悉(打ち破って、一切衆生をお救いになることを述べた。しからば、それほど威力のある正しい仏法が、なぜ過去にインドや中国や日本に広まらなかったのであるか、という疑いがある。これに答えて「此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず」と仰せられている。
 ということは、日蓮大聖人が三大秘法をお立てになる最初からの論難である。じつに三大秘法は後章に詳述されるごとく、仏の滅後二千余年の間、だれひとり弘めることもなく、名前さえも説き出した者がない。末法の初めにおいて、久遠元初の自受用身が再誕せられて、初めて、お立てになる三大秘法である。
 常忍抄にいわく「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり」(0981-08)。
 右の御抄にも明らかなとおり、第三の法門たる種脱の相対、三大秘法はいまだかつて顕われていない。世間にはほぼ夢のごとく一二をば申しているが第三は顕われてないのである。しかも末法の初めは、白法隠没、闘諍堅固の時代であってみれば、信じ難く解し難いのもとうぜんである。
 また、これとは意味は若干異なるが、創価学会の建設期においても、「そんないい宗教なら、なぜもっと早く広まらなかったのか」とか、「指導階級の人や知識人が、そういういいことを知らないというのはおかしい」などという疑問がよく提起されたものである。しかし、創価学会の偉大な発展につれて、まもなくそのような疑問は消えて、かえって「創価学会はなぜそんなに発展したのか」という疑問に変わってきている。
 さて馬鳴、竜樹菩薩は、正法時代の大論師であるが、大乗教を弘通するにあたって、やはりそうとうの迫害があったのである。
 馬鳴菩薩は付法蔵の第十一で富那奢に師事して、大乗の大論師となったのである。馬鳴という名は、馬鳴菩薩の過去の因縁談すなわち輪陀王の故事によるのである。過去世に輪陀王という大王があった。千の白馬がいて、はなはだ好声であった。白馬が鳴くと大王は徳を増し、白馬が鳴かないと大王は徳を損じた。これらの白馬は白鳥を見るときに、よく好声で鳴き、白鳥を見ないときは声を出さなかった。そのため大王は広く白鳥を求め捜したがいなかったので、次のような布告を出した。「もしバラモン外道が、白馬を鳴かせれば、仏教を破って外道を尊信しよう。もし仏弟子が白馬を鳴かせれば、外道を破って仏教を尊信しよう」と。馬鳴菩薩は一僧であったが仏教の流布を願って、三世十方の仏に祈って千の白鳥を現じさせ千の白馬を鳴かせ、ついに正法をこの国に打ち立てた。世の人々、尊んで馬鳴と名づけて呼んだという。
 ここで日蓮大聖人は曾谷殿御返事に「白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」(1065-03)とおおせである。
 もったいなくも、私に会通を加えるならば、この原理は、白馬のいななきとは、恩師の指導また幹部の真心こめた信心指導にあたるといえよう。これによって、学会員が力をえて信心折伏に励む姿があるといえるのである。

0327:09~0328:12 第35章 天台伝教の迹門弘通top

09   又仏滅後・一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり陳隋の代に天台大師出世す、 此の人の云
10 く如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり、迦葉・阿難等は一向に小を弘め馬鳴・竜樹・無著・天親等
11 は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば 或は但指をさして義をかくし 或は経の面をのべて始中終をのべず、 或は
12 迹門をのべて本門をあらはさず、 或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三・北七の十流が末・数千万人・時を
13 つくりどつとわらふ、 世の末になるままに不思議の法師も出現せり、 時にあたりて我等を偏執する者はありとも
14 後漢の永平十年丁卯の歳より今陳隋にいたるまでの 三蔵・人師・二百六十余人をものもしらずと申す上 謗法の者
15 なり悪道に墜つるといふ者・出来せり、 あまりの・ものくるはしさに法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも・もの
16 しらぬ者と申すなり、 漢土はさてもをけ月氏の大論師・竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給
17 はずといふなり、 此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり鬼をころすにもすぐべしとののしりき、 又妙楽
18 大師の時・月氏より法相・真言わたり漢土に華厳宗の始まりたりしを・とかくせめしかば・これも又さはぎしなり。
0328
01 日本国には伝教大師が仏滅後・一千八百年にあたりて・いでさせ給い 天台の御釈を見て欽明より已来 二百六十余
02 年が間の六宗をせめ給いしかば在世の外道・漢土の道士・日本に出現せりと謗ぜし上・仏滅後・一千八百年が間・月
03 氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・
04 中国大和の国・東大寺の戒壇は同く小乗臭糞の戒なり瓦石のごとし、 其を持つ法師等は野干・猿猴等のごとしとあ
05 りしかばあら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん、殷の紂・夏の桀・法師となり
06 て日本に生まれたり、 後周の宇文・唐の武宗・二たび世に出現せり仏法も但今失せぬべし国もほろびなんと大乗・
07 小乗の二類の法師出現せば修羅と帝釈と項羽と高祖と一国に並べるなるべしと、 諸人手をたたき舌をふるふ、 在
08 世には仏と提婆が二の戒壇ありて・そこばくの人人・死にき、 されば他宗には・そむくべし我が師天台大師の立て
09 給はざる 円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ・あらおそろしおそろしと ののしりあえりき、されども経文分
10 明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ、 されば内証は同じけれども 法の流布は迦葉・阿難よりも
11 馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ 天台よりも伝教は超えさせ給いたり、 世末になれば人の智はあ
12 さく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。
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 また釈迦仏の入滅後、一千五百年にあたって、月氏の東に漢土という国があった。この中国の陳隋の代に、天台大師が出現したのである。
 この天台大師のいうには「釈迦如来の聖教に大乗経あり小乗経あり、また顕教あり密教あり、また権教あり実経がある。迦葉・阿難等は、釈迦仏のおおせのままに、いっこうに小乗教を弘めた。馬鳴、竜樹、無著、天親等は、権大乗経を弘めて、実大乗経の法華経をば、あるいは、ただ指をさして義をかくし、あるいは経の面をのべて始中終をのべず、あるいは法華経迹門をのべて本門をあらわさず、あるいは法華経に本門迹門あって観心なし」と説いたので、南三北七の十流の末流が、数千万人、それを嘲笑して次のようにいったのである。
「世も末になってくると、不思議な僧も出現するものだ。時にあたって、われらを偏執するものはあったとしても、後漢の永平十年丁卯(ひのとう)の歳より、今の陳隋の世にいたるまで三蔵、人師、二百六十余人を、物も知らない人々であるというばかりでなく、彼らは謗法で、悪道におちたという、とんでもないことをいう者が出てきた。あまりにも、物狂わしさに、法華経を持ってきた羅什三蔵をも、物知らないものであると申すにいたった。漢土における人々はさておき、月氏の大論師の竜樹、天親等の数百人の四依の菩薩たちも、いまだ実義をのべることはなかったというのである」
 こうした大悪見のものであったから、「これらの人を打ち殺した人は、鷹を殺したようなものである。鬼を殺したよりも、すぐれているのである」と、大声でわめいていた。
 また、妙楽大師の時代に、月氏より漢土に法相宗や真言宗が渡ってきて、さらに漢土に華厳宗の始まったのを、妙楽大師がとかく責めたので、このことについても、また騒ぎ出したのである。
 日本国には、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年にあたって、出現され、天台の御釈を見て、欽明天皇より以来二百六十余年の間に出た六宗を責められたので、人々は「釈尊在世の時の外道や、漢土の道士が、いま日本に出現したのだ」といって、伝教大師を誹謗した上、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年の間、月氏、漢土、日本になかった円頓の大戒を立てんというのみでなく、西国の観音寺の戒壇、東国下野の小野寺の戒壇、中国大和の国、東大寺の戒壇は小乗臭糞の戒である、瓦石のごとくである。それらの小乗戒を持つ僧たちは野干・猿猴等のごときであると申したので、人々は「ああ、不思議な、法師に似た大蝗虫が日本の国に出現したものである。これでは、せっかくの仏教の苗が、一時になくなってしまうであろう。中国の大悪王である殷の紂王や、夏の桀王らが、法師となって日本に生まれたのであろう。後周の宇文や唐の武宗が、二たび世に出現して破仏法を強行したようなものである。仏法も、ただいま、滅失してしまい、国も亡びてしまうであろう」とののしる大乗、小乗の二類の法師どもが出現したので、修羅と帝釈が、また項羽と高祖が一国に並んで出現したようなものであると、諸人は手をたたき、舌をふるって恐ろしがった。
「釈尊在世には、釈迦仏と提婆達多の二つの戒壇があって、若干の人々が死んだのである。されば、他宗にはそむいてもいいが、わが師、天台大師の立てられなかった円頓の戒壇を立てようという不思議さよ、ああ、恐ろしいことだ」と高声でののしり騒いだのであった。
 しかしながら、経文に明白にあったがゆえに、とうとう比叡山の大乗戒壇は、すでに立ってしまったのであるゆえに、内証は同じだとはいっても、仏法の流布からいえば、迦葉、阿難よりは、馬鳴、竜樹等はすぐれ、馬鳴らよりも天台大師はすぐれ、天台大師よりも伝教大師は超過しているのである。
 世が末ともなれば、人間の智慧は浅くなり、仏教は深くなるのである。たとえば、軽病には凡薬をあたえ、重病には仙薬をあたえ、弱い人には強い味方があって助けるようなものである。

始中終をのべず
 釈尊一代に説かれた教の始、中、終の相異をのべないとのこと。
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南三・北七の十流
 中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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三蔵
 経・律・論に通達した高僧。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
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円頓の大戒
 伝教大師が提唱した法華経の義から導き出された大乗戒のこと。弘仁10年(0819315日に著された天台法華年分度者小向大式には「凡そ仏戒に二あり。一には大乗大僧戒。十重、四十八軽戒を制して、以って大僧戒と為す(中略)凡そ仏受戒に二あり。一には大乗戒。普賢経に依りて三師証等を請す。釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す。文殊師利菩薩を請して菩薩戒の羯磨阿闍梨と為す。弥勒菩薩を請して菩薩戒の教授阿闍梨と為す。十方一切の諸仏を請して菩薩戒の証師と為す。十方一切の諸菩薩を請して同学等侶と為す。現前ひとりの伝戒の師を請して以って眼前の師と為す。若し伝戒の師無くんば千里の内に請す。若し千里の内に能く戒を授くる者無くんば、至心に懺悔して必ず好相を得、仏像の前に於いて自誓受戒せよ。今、天台の年分学生並びに回心向大の初修行の者には、所説の大乗戒を授けて将に大僧と為さん」と円頓戒について記している。この大乗戒は、南都七大寺が採っていた小乗戒と相容れないものであった。小乗戒とは「小乗律に依り、師には眼前の十師を請して白四羯磨す。清浄持律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」である。この伝教大師の上表は南都七大寺の高相によって拒否されたため、伝教大師の生前には、大乗戒壇の勅許はおりなかった。
―――
西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和の国・東大寺の戒壇
 唐から来朝した鑑真が、天平勝宝6年(0754)、奈良に来てから東大寺の戒壇を建立し、ついで天平宝字5年(0761)、西国の人々のために筑紫(福岡県)の観世音寺と東国の人々のために下野(栃木県)の薬師寺とに、おのおの戒壇を築造した。
―――
野干
 射干とも書く。狐に似た獣の一種。翻訳名義集巻2に「悉伽羅。此に野干という。狐に似て而も小型なり。色は青黄にして狗の如し。群行して夜狼の如く鳴く」とある。
―――
後周の宇文
 (在位0560~0578)。北周の第三代皇帝、武帝のこと。姓は宇文、諱は邕。儒教を重んじ釈教を排し、慧遠法師等の抗議もきかず、ことごとく経像を破り、僧侶と道士とを還俗させた。武帝の死後3年にして、暗君の後嗣のために北周は滅亡した。
―――
唐の武宗
 (在位0840~0846)。唐の第十五代皇帝、武帝のこと。道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真等を用いて、会昌5年(0845)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏という。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。
―――
修羅と帝釈
 観仏三昧経巻一によれば、香山の乾闥婆の娘と阿修羅王との間に生まれた娘の悦意を、帝釈が求めて妻とした。ある時、帝釈が多くの綏女と歓喜園で遊戯しているのをみて嫉妬した悦意は、父の阿修羅王に訴えた。父王は激怒し、四兵を出し、帝釈の住む喜見城、須弥山を動かし、四大海の水を波動させて帝釈を攻めた。帝釈はなすところを知らず、善法堂で大名香をたき、般若波羅蜜を持して仏道を護持する大誓願を発して修羅の退散を念じた。このとき、虚空から大刀輪が下りてきて、阿修羅の耳・鼻・手・足を切り落とした。阿修羅は恐れおののいたが遁げるところがなく、小身となって蓮の絲の孔の中にかくれたとある。佐渡御書にいわく「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり、例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」(0957-10)。
―――
項羽と高祖
 漢の高祖・劉邦は、秦の始皇帝死去の翌年(前0209)、楚の懐王を擁し兵を挙げた。また項羽は楚の武将の子孫で、会稽で兵を挙げ、秦の都咸陽を攻略して西楚の覇王と称した。秦の滅亡後、高祖は、懐王を殺した項羽の不義をいさめ、天下をかけて5年にわたり争いを展開した。垓下の戦いのとき、漢軍が四面に楚歌するのを聞いて、項羽は漢がすでに楚を得たものと思い、囲みを破って南走し、最後は自ら首をはねた。紀元前0202年、高祖は皇位につき、都を長安に定めて漢朝を創業した。
―――
そこばく
 若干、幾許。①いくつか。いくらか。②多数。多く。たいそう。はなはだ。ここでは②の意か。
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仏と提婆が二の戒壇
 提婆達多は釈迦に対抗して象頭山に戒壇を建立した。

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 正法時代の迦葉・阿難・馬鳴・竜樹に次いで、この章では像法時代の天台大師、伝教大師について説かれるのである。
 天台大師が南三北七を破って法華経を立てられたときの十派のありさま、また伝教大師が小乗の戒を破って円頓の大戒を立てようとなされたときの模様をお述べになっている。
 邪法邪智の流行する時代には、正法はなかなか弘め難い。太平洋戦争中に弾圧をうけて牢死なされた牧口初代会長も、終戦後の焼野原と化した東京で、ただお一人で広宣流布を叫ばれた戸田会長も、初めは同じような物笑いにされたり、悪人として扱われ、国賊にされたりしながらも、三障四魔と戦い抜かれて、いまの創価学会の広宣流布の基礎を築かれたものである。
 いまはあらゆる戦いに勝利を飾ることができているが、われわれはつねにこの草創期の尊い御精神を忘れてはならないのである。
世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる
 釈尊の在世よりも滅後正法時代、正法時代より像法時代、像法時代より末法の時代へと、しだいに人の智慧は浅くなる。しかして、末法の衆生は三毒強盛であり、本未有善の衆生である。
 したがって、劣れる衆生を救わんがためには、仏法はより高い、より深い正法でなければならなくなる。ゆえに迦葉阿難よりも馬鳴菩薩が勝(すぐ)れ、馬鳴等よりも天台は勝れ、天台よりも伝教が勝れているのである。しかるに伝教は法華経迹門の導師であり、法華経本門の大導師は日蓮大聖人であらせられる。日蓮大聖人こそ無上の中の極無上の大導師であらせられ、御本仏であらせられるのである。
インド、中国、日本における戒壇の歴史
 戒壇とは、一般に、仏道修行の身口意三業をととのえるための戒法を授ける道場である。戒とは防非止悪の義で定慧と並んで三学と称せられる。戒定慧三学は仏法において必須の要法なのである。
 しかしながら、小乗、権大乗、法華迹門、法華本門、文底独一本門と、それぞれ定慧が異なるように、戒法もしたがって戒壇の様相も相違がある。
 歴史的に戒壇の発祥を求めるならば、インドの祇園精舎である。すなわち釈尊が成道して10年、摩訶陀国において弗迦沙王のために説法を行なった。そのときに楼至菩薩が比丘に受戒せんと請うて祇園精舎の外院の東南に小乗戒壇を建立した。
 この戒壇の構造は、唐の南山道宣律師「戒壇図経」によれば、三重からなり、仏像等はなく、四隅に四天王像が受戒の儀式を守る形で安置された。
 インドにおいては、これにつづいて多くの戒壇が建立されたが、いずれも小乗戒壇であり、後世の中国、日本の戒壇のような国家的意義はなかった。一般に小乗教は戒を重んじて定慧の比重が軽く、したがって受戒者も授戒者も資格をきびしく問われた。
 中国においては、後漢末、西紀0067年に仏教渡来とされ、戒壇が初めて建立されたのは西紀0249年、曹魏第三代斉王の世、天竺曇摩迦羅三蔵によるもの。あるいは西紀0434年、劉宋文帝元嘉11年、求那跋摩による南林寺の戒壇とされる。その後、つぎつぎと各地に戒壇が建立され、数百もの小乗戒壇が建立されてその地方の僧尼受戒の中心地となった。
 中国大乗戒壇の初めは、唐、代宗の永泰元年(0765)大興善寺の方等戒壇であり、以後数10か所に及ぶ。大乗戒壇では四天王をおかず、釈迦像をおいている。なお、天台大師においては観法の理を重んじて行動の事を軽んじ、したがって一応、円頓の理戒を設けたが、受戒は小乗を用いていた。
 日本においては西紀753年、鑑真が中国より伝え、まず奈良・東大寺、唐招提寺、つづいて東国は下野・薬師寺、西国は筑紫・観音寺とそれぞれ小乗戒壇を建立した。東大・薬師・観音を小乗三戒壇と称し、東大寺ではまず天皇・皇后・太子・公卿430余人が受戒するなど、小乗ながら国家的意義をもったと考えられる。
 しかし、戒壇についてもっとも注目すべき偉業を達成したのは、比叡山延暦寺に法華迹門の戒壇を建立した最澄・伝教大師である。伝教大師は22歳で比叡山寺を開基、後、唐に留学して道邃和尚より大乗円頓戒を受法、帰朝して天台宗を開き、天皇はじめ万民の尊崇のなかに法華迹門の弘法に尽した。
 しかして南都六宗の諸寺諸僧の邪義を破折して法華迹門の円頓戒壇建立のために身をささげた。この願望は没後7日にして勅許が下り、弟子義真によって実現されたのである。すなわち叡山円頓戒壇は、国内全僧侶の受戒すべき根本道場として、宗教界・思想界の中心となったのである。
 東大寺の本尊は釈迦多宝二仏並座の多宝塔を中央に四天王が四隅を守る、薬師寺の様式はいまでは不明、観音寺は盧遮那仏を本尊に文殊弥勒が脇士となっている。叡山の戒壇は文殊弥勒を脇士とする釈迦像である。
 以上、正像2000年における戒壇の歴史を略述したが、これらの共通点は、僧尼等に戒を授ける道場であったことである。そして、それによって仏教界ひいては思想界の統一と国の繁栄、民衆の幸福を期したのである。
 いま、末法にはいり日蓮大聖人の三大秘法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。
 ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法」である。すなわち、現在全国、全世界に本尊建立がなしとげられていって、その総意の結果として事の戒壇が完成される。この戒壇に安置したてまつる御本尊こそ、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊である。

0328:13~0329:13 第36章 本門三大秘法を明かすtop

13   問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、 答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、
14 末法のために仏留め置き給う迦葉.阿難等・馬鳴・竜樹等.天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く
15 其の形貌如何、 答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、 所謂宝塔の内の
16 釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、 二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一
17 閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず 一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、 此の事いまだ・ひろまら
18 ず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間 一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声
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01 もをしまず唱うるなり、 例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下 あり池に随つて蓮の大小あり雨の大
02 小は竜による根ふかければ枝しげし 源遠ければ流ながしと・いうこれなり、 周の代の七百年は 文王の礼孝によ
03 る秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、 日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが
04 るべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、 無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超
05 へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、 正像二千年の弘通は末法の一時に
06 劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、 春は花さき秋は菓なる夏は・あたた
07 かに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。
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 問うて言う。しからば天台大師や伝教大師の、いまだ弘通していない正法があるのか。
 答えて言う。ある。
 求めて言う。それは、いかなるものか。
 答えて言う。それは、三つある。これ末法の世のために、仏が留めおかれたものである。これは迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかったところの正法である。
 求めて言う。その形貌はいかなるものか。
 答えて言う。一つには本門の本尊である。日本乃至、一閻浮提の人々は一同に本門の教主釈尊を本尊となすべきである。いわゆる、宝塔の内の釈迦多宝、そのほかの諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきである。二つには本門の戒壇である。三つには本門の題目である。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智にかかわりなく、一同に、他事をすてて南無妙法蓮華経と唱えるべきである。 このことは、いまだ弘まっていない。一閻浮提の内に、釈迦仏の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮大聖人お一人が、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と、声も惜しまず唱えているのである。
 たとえば、風にしたがって波の大小があり、薪によって火の高下があり、池の大小にしたがって蓮の大小があり、雨の大小は竜、すなわち雨雲の大小によるようなものである。根が深ければ枝しげく、源遠ければ流ながしというのは、これである。
 中国の周の代が七百年もの長い間つづいたのは、ひとえに文王の礼孝によるものである。反対に、秦の世が、ほどもなく滅びたのは、始皇帝の無道の行いによるものである。
 日蓮大聖人の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。
 極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。 
 春は花が咲き、秋には果実が実る。夏は暑く冬は寒い。これも時のしからしむるによるところではないか。
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08   「我滅度の後.後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔.魔民.諸の天竜.夜叉・鳩槃荼等に其の
09 便りを得せしむること無けん」等云云、 此の経文若しむなしくなるならば 舎利弗は華光如来とならじ迦葉尊者は
10 光明如来とならじ目ケンは多摩羅跋栴檀香仏とならじ阿難は山海慧自在通王仏とならじ 摩訶波闍波提比丘尼は一切
11 衆生喜見仏とならじ 耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とならじ、三千塵点も戯論となり・五百塵点も妄語となりて
12 恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち 多宝仏は阿鼻の炎にむせび 十方の諸仏は八大地獄を栖とし一切の菩薩は一百
13 三十六の苦をうくべし・いかでかその義候べき、 其の義なくば 日本国は一同の南無妙法蓮華経なり、
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 法華経の薬王品に、釈尊は「わが入滅の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提において、断絶して悪魔、魔民、多くの天竜、夜叉、鳩槃荼等に、その便りを得せしむるようなことはないであろう」等と予言した。
 もし、この法華経薬王品の予言が的中せず、経文むなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならず、迦葉尊者は光明如来とならず、目犍連は多摩羅跋栴檀香仏とはならず、阿難は山海慧自在通王仏とならず、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならず、耶輸陀羅比丘尼(は具足千万光相仏とはならないであろう。
 三千塵点も戯論となり、五百塵点も大妄語となって、おそらくは教主釈尊は無間地獄におち、多宝仏は阿鼻地獄の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を住み家とし、いっさいの菩薩は、一百三十六の地獄の苦しみをうけるであろう。どうして、法華経薬王品の経文がむなしくなるという義があろうか。その義がなければ、日本国は一同に南無妙法蓮華経と唱えるのは決定的である。

一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
本門の教主釈尊
 法華経本門文上説かれる久遠実成五百塵点劫の釈尊ではなく、文底にあらわれた久遠元初の自受用法身如来・日蓮大聖人のこと。
―――
周の代の七百年は文王の礼孝による
 文王は中国周王朝の基礎をつくった君主、理想の名君とされている。周の治世が700年もつづいたのは、文王が礼厚く、至孝であったからである。姓は姫、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。死後、子の武王が殷王朝を滅ぼし、周王朝を建てるにおよんで、文王と諡された。
―――
秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり
 秦の始皇帝の治世は37年、二世胡亥の代三年、三世子嬰はわずかに46日、前後40年という短期間だったのは、始皇帝の横道によるものである。
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夜叉
 梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
―――
鳩槃荼
 梵語クムバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を喰らう、馬頭人身の鬼。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある鬼の一つ。
―――
舎利弗は華光如来
 舎利弗は梵名シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。法華経譬喩品第三には、方便品第二に説かれた「諸法実相」の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けた
―――
迦葉尊者は光明如来
 迦葉は梵名マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写。摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって8日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、付法蔵の第一として、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。法華経信解品第四には、須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、「三車火宅の譬」をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことをまのあたりにし、歓喜踊躍したことが説かれ、さらに法華経授記品第六において、迦葉は未来に光明如来になるとの記別を受け、他の三人も記別を受けた。
―――
目犍は多摩羅跋栴檀香仏
 目犍は梵名マハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)の音写、摩訶目犍連のこと。大目犍連、目犍連とも書き、目犍、目連は略称。釈尊十大弟子の一人。摩竭陀国・王舎城の近くのバラモン種の出で、幼少より舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈尊の教えを求めて250人の弟子とともに仏弟子となる。神通第一と称され、盂蘭盆経上によると、母が餓鬼道に堕ちていたことを神通力で知るが、自分の力では救えず、釈尊に教えを乞い、供養の功徳を回向して救うことができたという。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品第六で、多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。 
―――
阿難は山海慧自在通王仏
 阿難は梵名アーナンダ(Ānanda)の音写、阿難陀の略。釈尊の十大弟子の一人。常随給仕し、釈尊諸説の経に通達していた。多聞(たもん)第一と称される。提婆達多の弟で、釈尊の従弟。仏滅後、摩訶迦葉のあとをうけて付法蔵の第二として諸国を遊行し、衆生を利益した。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王如来の記別を受けた。
―――
摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏
 摩訶波闍波提は梵名マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢刺闍鉢底とも書く。また〝釈迦族の女性〟の代表としてゴータミーと呼ばれ、憍曇弥と音写する。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で一切衆生憙見如来の記別を受けた。
―――
耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏
 耶輸多羅は梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。耶輸大臣の女である。悉達太子の正妃で、羅睺羅の母。釈尊が成道して12年目に、迦毘羅衛国に帰ったとき、釈尊より化導され、比丘尼となった。法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
―――
三千塵点劫
 法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
―――
五百塵点劫 
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」と説かれている。釈尊の成道は五百塵点劫という遠い昔にあり、この久遠五百塵点劫より以来、師弟の関係をもっていることを説き、永遠の生命を説き明かしたのである。
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教主釈尊は無間地獄に堕ち多宝仏は阿鼻の炎にむせび
 無間地獄は阿鼻地獄の意訳。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、無間と訳す。大阿鼻地獄、阿鼻大城ともいう。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。ここでは、たとえ仏であっても法華経薬王品の「後の五百歳中、広宣流布」の予言が的中しないならば、最悪の地獄に堕ちざるをえないと言われ、裏を返せば、仏の予言は絶対に的中するとの大確信であらせられる。
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一百三十六の苦
 一百三十六の地獄のこと。八大地獄にそれぞれ十六の小地獄があり、小地獄の百二十八と大地獄の八を加えて百三十六となる。罪の軽重によって堕ちる地獄が異なる。法華玄義巻六下には「重き者は遍く百三十六を歴、中なる者は遍くせず、下なる者は復た減ず」とある。
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 いよいよ、この章において、本門の三大秘法を明かすのである。送文に「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」とおおせられたのも、この三大秘法を明かされたゆえである。
 御一代を通じ五大部と称せられる御書の中にも、立正安国論、開目抄、観心本尊抄、撰時抄といずれも三大秘法の名目すら明かされていない。ゆえに本抄を「大事の大事」とおおせられているのである。
一、先聖の未弘と日蓮大聖人の弘通
 日蓮大聖人の三大秘法は、仏の滅後、迦葉、阿難等、馬鳴、竜樹等、天台、伝教等のいまだかつて弘通したことのない大白法である。
 常忍抄にいわく「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり」(0981-08)と。
 しからば、なぜこれらの先聖が、三大秘法を弘通されなかったのか。それは次の四つの理由がある。
 曾谷入道等許御書にいわく「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028-16)と。
 しからば、日蓮大聖人の御弘通は、一には自身能堪なる故、二には所被の機有る故、三には仏より譲り与うる故、四には時来るが故である。いまここに日寛上人の文段から、さらにこの四つの故を明らかにしよう。
 (一)に彼は堪えず、此れは能く堪うる故。観心本尊抄にいわく「夫れ文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩は宝威仏の弟子なり一往釈尊の行化を扶けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門の菩薩なり本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」(0251-15)と。爾前迹門とは今日の迹本二門通じて迹門と名づく。是れ則ち迹中所説の故なり。久遠名字の妙法を本法と名づくるなり。
 当に知るべし観音、薬王等、迹中の番々に於て、迹本二門の説法を聞く。能く之を所持すと雖も未だ文底秘沈の久遠名字の妙法の付属を受けず。何ぞ之を所持すべけんや。是れ則ち世々番々に付属せざる故なり。
 然るに本化の菩薩は久遠名字の御弟子にして、能く此の本法を受持し給えり。故に久遠名字已来本法所持の菩薩なり。故に此の経を弘むること猶魚の水に練れ、鳥の虚空に自在なるが如し。故に観音薬王等は自身既に堪えざる故に之を弘めず、わが日蓮大聖人は自身能く堪ゆる故に之を弘め給うなり。
 (二)に彼は所被の機無し此れは所被の機有り。立正観抄にいわく「天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり、故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり」(0529-15)と。
 彼は既に帯権の円機にして、本門の直機に非ず。何ぞ本門の大法を授けんや。此れは是れ法華本門の直機なり。直機とは直ちに本因下種の機なり。故に日蓮大聖人は本因下種の要法、三大秘法を弘め給うのである。
 (三)に彼に譲り与えず此れに譲り与うる故。観心本尊抄にいわく「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250-09)と。
 内証の寿量品とは文底本因妙の事である。ここに他方本化の前三、後三、迹化本化の前三、後三があるが、これを略す。
 (四)に彼は時来らず此れは時已に来る故。すでに本化の菩薩に付属し已って、正しく流布の時を指示す。云く後五百歳中広宣流布と云云。故に知んぬ三箇の秘法は末法流布の大白法である。何ぞ正像に於て之を弘通すべけんや。
二、教主釈尊を本尊
 そもそも当流の宗義の大網は、宗教の五箇と宗旨の三箇である。宗教の五箇とは、教、機、時、国、教法流布の前後であり、宗旨の三箇とは本門の三大秘法である。
 なぜ本門の三大秘法というかといえば、本門寿量品文底秘沈の大法なるゆえである。
 曾谷入道等許御書にいわく「大覚世尊仏眼を以って末法を鑒知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう……爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや……所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり」(1030-15)と。
 妙法五字とは即ち本門の本尊である。本尊の所住の処は本門の戒壇であり、本尊を信行するが本門の題目である。寿量品に是好良薬、今留在此、汝可取服と。是好良薬は本尊、今留在此は戒壇、汝可取服は題目である。
 さて本文に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とある。これは人本尊を示されたものである。教主釈尊には多くの義があり、蔵教、通教、別教、法華経の迹門、本門、文底のそれぞれに教主釈尊がある。いまここにおおせの教主釈尊とは、本門寿量品文底下種の教主釈尊である。すなわち久遠元初の自受用身であらせられ、末法に日蓮大聖人と御出現の教主であらせられるのである。色相荘厳の在世の釈尊は、法勝人劣であるが、久遠名字の教主釈尊は、人法一箇であらせられる。ゆえに本尊となすところの教主釈尊とは、事行の一念三千の大曼荼羅であらせられるのである。
三、他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱う
 本門の題目に信行を具す。信は是れ行の初め即本因妙である。行は是れ信の終わり即本果妙である。これすなわち刹那の始終、一念の因果である。いまの御文に「一同に他事を捨てて」とは信心である。「南無妙法蓮華経と唱う」とは修行である。
四、日蓮が慈悲曠大
 前の段に三箇の秘法を明かし、いまここには日蓮大聖人の三徳を明かしている。
   日蓮が慈悲曠大 ……………… 親の徳
   一切衆生の盲目をひらく …… 師の徳
   無間地獄の道をふさぎぬ …… 主の徳
 「教主釈尊を本尊とすべし」と明かされて、御自身の三徳を明かされるのは、日蓮大聖人が本因妙の教主釈尊であらせられ、末法の人の本尊であらせられるのである。
 「万年の外・未来」とはまた重大な意義がある。いかなる仏でも正法何年、像法何年等と定められているのに、日蓮大聖人の仏法は、未来永遠の衆生を救われて、尽きるところがないのである。
 「極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず」とは、竜樹・天親よりも、天台・伝教よりも、日蓮大聖人の功徳の最も勝れておられるのを明かしている。また正像二千年の間の楽な弘通の功徳は、末法の一時の修行にも劣るものであるとの意であるが、今末法におけるわれわれの信心の上においても、比較的、楽な条件のもとで信心した功徳と、困難と戦いつつ信心をつづける功徳との比較と考えることもできる。
 すなわち経済的にも家庭的にも、また時間やそのほかのあらゆる生活条件にめぐまれず、交通不便の中で戦っている同志の方々がいる。一面はひじょうにたいへんであるが、人間革命の功徳は絶大なのである。ゆえに、どんな悪条件の中にあっても、けっしてひるんだり、いじけたり、愚痴をこぼしたりしてはならない。そこで、ひるまず活動しきっていくことは、偉大なる功徳の源泉となっていくのである。逆にいろいろな点でめぐまれている人も、けっしてゆだんをせずに仏道修行に励んでいきたいものである。
 生死一大事血脈抄に「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」(1338-08)とおおせであるが、これは題目を真剣に唱え、広宣流布への最高の活動である学会活動に力強く励み、社会に意欲的に参加していく、自覚ある学会人こそ、この御金言にあたるものといえるのである。
 「時のしからしむる耳」とは、まことに甚深なるおことばと拝するのである。三大秘法抄および身延相承書には「時を待つべきのみ」とおおせられたが、今は正しく化儀の広宣流布の時ではないか。
 「冬きたりなば春遠からじ」「冬は必ず春となる」仏法においては、とくに「時」が重要なのである。だれが疑おうが、だれが怨嫉しようが、だれが反対し、だれが弾圧しようが、日蓮大聖人の三大秘法の仏法は、必ず全世界に流布され、絶対の功徳あることは、冬が春になり、太陽が東から西にはいるよりも確実なことなのである。これ、ひとえに「時のしからしむる耳」のゆえである。
 世界広布、大白法の流布の途上には、多少の弾圧や摩察がおこるのはとうぜんである。三障四魔が競いおこることは御本仏の御金言である。しかし、高き水が低きに流れるがごとく、三大秘法の御本尊、すなわち日蓮大聖人の大生命哲学は必ず全世界に流布されていくことは必然である。
 「恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち」とは、たとえ仏であっても法華経薬王品の「後の五百歳中、広宣流布」の予言が的中しないならば、地獄に堕ちざるをえないという、きびしいおことばである。裏を返せば、仏の予言は絶対に的中するとの大確信であらせられるのである。ゆえに「其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」とおおせであり、「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)「梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし」(1539-15)と同義であることを知るべきである。
 「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957-17)「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)の御金言を、よくよく肝に命ずべきである。そして、日蓮大聖人の御予言は、すべて的中したことを知らなければならない。また、わが創価学会は断じて日蓮大聖人のおおせを虚妄にしないとの自覚をもって前進していこうではないか。
 透徹した、時代、社会への、洞察眼を開いて、はじめて未来を予見することができるのである。いまの評論家、学者等は、よくよくこの御金言を肺腑に染むべきであろう。「戸田会長なきあとは、学会は分裂するであろう」「停滞するであろう」「学会が発展したのは戦後の一時現象である」などと、煙のごとき夢のごとき予想をのべたものが多かったが、すべて的中しなかったことを、じゅうぶんにわきまえていくべきである。日蓮大聖人に命を賭されての民衆救済の御予言があり、また、われわれに、不自惜身命の広宣流布への自覚と実践があるならば、広宣流布は絶対に実現しないわけがないことを、強く主張するものである。 

0329:13~0329:17 第37章 正しく報恩を結すtop

13                                                 されば花
14 は根にかへり真味は土にとどまる、 此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし、 南無妙法蓮華経・南無妙
15 法蓮華経。
16       建治二年太歳丙子七月二十一日    之を記す
17     甲州波木井郷身延山より安房の国・東条の郡・清澄山・浄顕房・義成房の許に奉送す
-----―
 されば、花は根にかえり、菓は土にとどまる。この功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
 建治二年太歳丙子七月二十一日  これを記す
 甲州波木井郷身延山より安房の国、東条の郡、清澄山、浄顕房、義成房のもとに奉送す。

 本抄は一部の総結である。
 文段には「廻向の文なり」とおおせられている。すなわち三箇の秘法広宣流布の功徳は、道善房の御身に帰すべしといわれているのである。
 すでに自業自得果の辺は救われないこと、しかも道善房はついに日蓮大聖人の信仰に帰しないままに死なれてしまっている。それにもかかわらず、三大秘法の功徳が絶大のゆえに、しかも日蓮大聖人の大慈大悲は、末法万年のほか未来までも流布すべきゆえに、この功徳が故道善房の御身に集まるであろうとのおおせである。愚痴でおろかで信心まことに薄かった道善御房に対して、日蓮大聖人の報恩のお心の強さに、ただただ感激したてまつるのみである。
 願わくは、広宣流布に励む、われわれのつたない功徳をもって、報恩をはかっていきたいものである。われわれの功徳を積み、報恩をはかる道は、ただ三大秘法の御本尊を広宣流布するための折伏以外にはないことを、ふたたび、ここに確認したいと思うのである。
 華果成就御書にいわく「さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし・あらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(0900-06)と。
 この御文は、さらにくわしく、師匠と弟子の関係をおのべになった御書である。三大秘法の大仏法を弘められる功徳は、御幼少の時の師匠であった道善房に帰し集まるとのおことばである。まことに、師弟相対のきびしき御姿と拝せられる。日蓮大聖人の師を思う真心にかかわらず、道善房は正法を信ずること、ひじょうにたよりない姿であったことは、たびたびのべてきたとおりである。この上に、日蓮大聖人のこのようなおことばを拝して、われわれは日蓮大聖人の御報恩の深さ、師弟の不思議に涙せずにはおられないのである。いわんや、化儀の広宣流布に邁進する、われら学会員においてをやの感をあらたにするものである。

0330:01~0330:13 報恩抄送文top

0330
報恩抄送文
01   御状給り候畢ぬ、親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ、御本尊図して進候・
02 此の法華経は仏の在世よりも仏の滅後・正法よりも像法・像法よりも末法の初には 次第に怨敵強くなるべき由をだ
03 にも御心へあるならば日本国に是より外に 法華経の行者なしこれを皆人存じ候ぬべし、 道善御房の御死去の由・
04 去る月粗承わり候、 自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが 自身は内心は存ぜずといへ
05 ども人目には遁世のやうに見えて候へば なにとなく此の山を出でず候、 此の御房は又内内・人の申し候しは宗論
06 や・あらんずらんと申せしゆへに 十方にわかて経論等を尋ねしゆへに国国の寺寺へ 人をあまたつかはして候に此
07 の御房はするがの国へつかはして当時こそ来て候へ、 又此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ 詮なからん人
08 人にきかせなば・あしかりぬべく候、 又設いさなくとも・あまたになり候はばほかさまにも・きこえ候なば御ため
09 又このため安穏ならず候はんか、 御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故
10 道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては 此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ、 たびたびになり
11 候ならば心づかせ給う事候なむ、恐恐謹言。
12       七月二十六日                       日 蓮 花 押
13     清澄御房
-----―
 御状いただき拝見しました。法門というものは、親しい人であっても疎遠な人であっても、とにかく信心のない人には、軽々しく話すべきものではない。このことは、よくよく心得ていきなさい。
 御本尊を図顕してさしあげた。この法華経は釈迦仏の在世よりも釈迦仏の滅後に、また正法時代よりも像法時代に、さらに像法時代よりは末法の初めに、しだいに怨敵が強くなり、法を弘むることも困難となるのである。このことを、よく心得ておられるならば、日本国においては、この日蓮以外に法華経の行者はいないことは明らかであろう。そして、このことは貴僧はじめ、みんなが承知しておられるところである。
 道善御房が御死去になったということは、前の月に、だいたいのことは、うけたまわった。日蓮みずからが早速、清澄山に参上し、またこの報恩抄をもたせた御房(日向)をも、やがて遣わさなければと思っていたのである。しかし、私自身の内心では、そう思っていないのであるが、世間の人々からは遁世のように見られているために、この身延の山を出て清澄山に墓参におもむくということはできないのである。
 この御房は、また多くの人々が内々にいっていることは「近いうちに宗論があるのではないか」ということである。そこで、十方に手分けをして経論等を尋ね集めるために、各国々の寺々に人を多く派遣していたのである。いま、この御房は駿河方面へ遣わしていたのであるが、ちょうどいま、ここに帰ってきていた。ゆえにこの御房を清澄山に遣わしたわけである。
 また、この報恩抄には、ずいぶん大事な中の大事な法門を書いたのである。ゆえに、事情のわからない人々に聞かせることは悪いことであるから、絶対に聞かせてはならない。また、たとえ、事情のわかる人であっても、数多くの人に聞かせたならば、しぜんに、ほかの信心のない人たちの耳にも聞こえることとなって、貴僧等のためにも、この法門のためにも安穏でいることができなくなるであろう。 
 ゆえに、あなた(浄顕房)と義成房との二人が、この御房を読み手として、嵩が森の頂上で二、三べん聞いて、また故道善御房の御墓の前で一ぺん読みなさい。その後は、この御房にあずけておいて、つねに聴聞しなさい。そのように、たびたび聴聞するならば、法門やその他のことについて、なるほどと心から気がつくことにもなるであろう。恐恐謹言。
  七月二十六日            日 蓮  花 押
   清 澄 御 房

 本状はいうまでもなく、報恩抄の送り文である。
 初めに法門を軽々しくいってはならないとは、清澄寺内にまだ三大秘法に反対するそうとうの勢力があったものとみえる。しかし次の「御本尊図してまいらせ」とあるから、浄顕房らは御本尊をいただくほどになっていたことも知られるのである。
 「此の御房」とは日向である。日向は駿河方面へつかわされていたこともあるようで、これは富士方面の日興上人の弘教の援助の意味もあったと考えられる。日向の駿河派遣については、異体同心事に「はわき房さど房等の事」(1463-01)とある、さど房が即ち日向である。
 富士方面は、いかに弘教が盛んであったかは、日興上人の直門としての多くの弟子檀那の御活躍が残されているし、またこれから2、3年の後に惹起した熱原の法難によっても、うかがわれるのである。
 「又此の文は随分大事の大事どもを書きて候ぞ」大事の大事どもとは何か、これこそ、日蓮大聖人の出世の御本懐、三大秘法の御教示にほかならないのである。
 「嵩が森の頂で読め」とは、華果成就御書によっても、当時の状況をしのぶことができるのである。

報恩抄2007:09月号大白蓮華より。先生の講義top

17                                          此の事いまだ・ひろまら
18 ず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間 一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声
01 もをしまず唱うるなり、 
-----―
 このことは、いまだ弘まっていない。一閻浮提の内に、釈迦仏の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮大聖人お一人が、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と、声も惜しまず唱えているのである。

仏法の要諦は“一人立つ”精神
 我々の三世にわたる根本の師匠は、日蓮大聖人であります。釈迦滅後2000余年間、どんなに唱えたくとも、だれ一人、口にすることのできなかった南無妙法蓮華経の題目を、日蓮大聖人は、押し寄せるであろう迫害、中傷の嵐を覚悟のうえで、命を賭して説いてくださった。我々は、この深恩を夢にも忘れることがあってはならないと思うのであります。
 朝晩の勤行・唱題は、我々にとってごく普通のことのように生活のリズムとなっておりますが、実はこのことが、どれほど甚深な意義を秘めていることか。2000年の長きにわたって、人々が知ると知らざるとにかかわらず、生命の奥底で求めてきた一点こそ南無妙法蓮華経だったのであります。
 「生死一大事血脈抄」の講義でも述べておいたことですが、生死の問題のように人間の幸・不幸を決める決定的な分岐点に立った時、この世の地位・財産・名誉等は、なんら役にたちません。御書に「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0287-06)とわれているように、業苦淵を垣間見た生命は、ひたすら南無妙法蓮華経と求め抜くのであります。
 しかも御本尊に縁することのなかった生命は、求めて得られず、何に「南無」してよいのか、すなわち、何をよりどころにしてよいのか分からず、苦悩の海で、あてのない航海を続けていかざるをえません。
 故に、大聖人は「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(0260-11)と仰せなのであります。「癩人」とは、この世の不幸の象徴でありましょう。「天台の座主」つまり世の中でいかに位人臣を極めようとも、南無妙法蓮華経と唱えることのできる大福運に比べればいかほどのことでもない。したがって自分が、どんなに恵まれない環境にあろうとも、今、現実に題目を唱えることができるということは、確たる仏法の正道なのであります。
 その現在の一瞬に、苦楽一如・善悪一如の大生命力を湧現させるためにこそ、大聖人は御本尊を認められたのであります。報恩・感謝、これに過ぎるものはありません。このことを、朝晩の唱題のさい、深くかみしめることのできる日々でありたい。
 次に「日蓮一人」ということについて触れておきたい。これは「諸法実相抄」に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが」(1360-09)とあるのと同様、本宗、創価学会の永遠の指針である“一人立つ精神”“一人の原点”に通ずると拝せましょう。尽未来際を潤す清流が大聖人御一人に源を発するように、今や大河のごとく水かさを増しつつある創価の運動も、もとはといえば、老齢の身を極寒の獄中に殉ぜられた先師・牧口常三郎先生、その意志を継いで国破れた山河に一人立たれた恩師・戸田城聖先生御一人の誓願に発しているのであります。
 広く、これを論ずれば、戦野がいかに多角化、重層化しようとも、その運動がどれだけ進展し価値を生んだかを測る尺度は、それを通して皆さん方一人一人がどれだけ境涯を開き、人間革命の実証を示すことができたかに尽きるのであります。その一点を抜きにした運動というものは、どんなに華々しかろうと、広宣流布の名に値しない空転であるといっても過言ではないでしょう。
「声」とは生命感応の響き
 更に、重要なことは「声もをしまず唱うるなり」との箇所であります。「声仏事を為す」と仰せられているように、声というものはまことに不思議な力をもっています。
 あの人の声を聞くと本当に気持ちがいい、爽やかだという人もあれば、声をきいただけで、うんざりするような気分にさせられる場合もある。目は心の窓であるように、声こそ我が生命の明暗をあやまたずに映しだすスクリーンであります。
 ともかく、声には宮殿堂の奥深くより発する、力強い響きがなくてはならない。能破・擬破という言葉がありますが、たとえば友の誤りを、時に厳しく指摘してあげなければならない場合もある。そのさい、自分の生命に友を思う一念が脈打っていれば、指導は梵音声にも似た力強い慈愛の響きとなって、友の生命に巣くう障魔を打ち破っていくに違いない。これ能破であります。逆にいらいらしたり、感情に走ったりした生命状態であれば、同じ言葉を発したとしても、相手の心に入るものではありません。擬破であり、残るものは感情的な対立やしこりだけであります。
 竜の口の法難のさいの大聖人のお降る舞いは、声の力用をあますところなく示したものと拝せます。権勢に傲る平左衛門尉は、郎党数百人を引き連れて、松葉ヶ谷の草庵へ大聖人を捕捉にやってくるのですが、それに対して大聖人は一歩も退くことなく、彼らを大音声で叱咤される。「日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば」(0912-05)と。おびただしい刀や弓を前にして大聖人が憶するとは思いのほか、このようなすさまじい気迫に触れ、郎党どもは周章狼狽した様子が「種種御振舞御書」には、手にとるように描かれています。
 もとより「大音声」「大高声」といっても、単に声が大きいということだけではない。その内なる生命の明暗が、外なる言語音声・挙措動作となって発現してくるさいの“感応の響き”が「大」なのであります。
 したがって、ごく少人数の親しい語らいでっても、そこに生命の“感応の響き”さえあれば「大音声」「大高声」であるといってよい。端的にいえば、たとえ声なき声であっても、その振る舞いを通して、同じ効果を発揮する場合さえあるかもしれない。要はどれだけ“一人”の生命の宝搭を開き、仏事を成就していけるかであります。
 だからこそ我々は、声を惜しんではならないのであります。限られた生涯を、尊い使命に生きるならば、この偉大な仏法を力の限り語り継いでいくことこそ、我ら地より湧き出た者の本懐であります。

01             例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下 あり池に随つて蓮の大小あり雨の大
02 小は竜による根ふかければ枝しげし 源遠ければ流ながしと・いうこれなり、
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 たとえば、風にしたがって波の大小があり、薪によって火の高下があり、池の大小にしたがって蓮の大小があり、雨の大小は竜、すなわち雨雲の大小によるようなものである。根が深ければ枝しげく、源遠ければ流ながしというのは、これである。

21世紀へ妙法の根を広く
 日蓮大聖人が一人立って妙法を唱えられたことが一切の根源力となって、広宣流布していく原理を具体的な例をあげて、説いてくださっているわけであります。すなわち、風と波、薪と火、池と蓮、竜と雨、根と枝、源と流れといった関係のうえから分かりやすく教えておられます。
 まず「根ふかければ枝しげし、源遠ければ流ながし」。なにごとも「根源」さえ盤石でありさえすれば、一切は栄えていくということであります。「根源」という言葉を分解すれば「根」と「源」になります。万事に根さえしっかりと地中の奥深く張っていれば、大樹に育っていくということがあります。空を覆うような大木にはそれ相応の根の張り方があります。
 川の流れについても、その水源がどこに位置するかで、大河になるか小川に終わるかが決まってしまうのは当然です。たとえばナイル川ですが、その地中海に注ぐ河口から、はるか6000kmさかのぼったルワンダに水源を見いだすことができます。
 更に「根ふかければ枝しげし」「源遠ければ流れながし」の両御文を、大聖人は同じ意味で使っておられますが、そこには若干のニュアンスの相違があるようです。「根ふかければ」が横への広がりを方向性としているのに対し「源遠ければ」は、縦の流れの永遠性を意味するといってよい。
 この二つの原理は、現代の我々にとっても実に重要な機軸を示されていると拝せます。第一に、あらゆる分野、あらゆる次元にわたって、地中深くそして広く、妙法の根を張っていかなければならないということであります。これなくして、大聖人の仏法を、人類の共有財産にしていくことはできない。皆さんはどうか、そのための根っこになっていただきたい。私の祈りにも似た心境であります。
信行学の根本軌道外すな
 第二に、妙法の流れを永遠たらしめるためには、崇高なる伝統と、それに湛えられた満々たる草創の息吹を、常に胸中に通わせていかなくてはならない。組織であれ、国であれ、伝統のないところほど脆いものはありません。時の流れのままにいつしか生命力も枯渇させ、老残の姿をさらし出してしまうものであります。我々は史上数多く見られる、そのような時代の徹を踏むようなことがあってはならない。それには、学会の重厚な伝統の骨格をなす信・行・学の根本軌道を、厳しく継承していくことを第一義とすべきであります。

02                                     周の代の七百年は 文王の礼孝によ
03 る秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、 
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 中国の周の代が七百年もの長い間つづいたのは、ひとえに文王の礼孝によるものである。反対に、秦の世が、ほどもなく滅びたのは、始皇帝の無道の行いによるものである。

千里の道も一歩より始まる
 中国の古代国家・周の世が700年間も続き、秦の時代が始祖の没後ほどなく滅亡の運命をたどったのはなぜか、それは周の文王、秦の始皇帝というそれぞれの建国の祖の振る舞いによることが明らかであると仰せなのであります。
 「十八史略」によれば、秦の始皇帝は、文化を破壊した専制暴君の典型であった。戦国時代、強大な軍事力をもち「虎狼の国」として恐れられていた秦は、他の六カ国を占領し、天下統一を成し遂げる。秦王は、覇者にふさわしい名称を欲し、中国太古の名君といわれた三皇五帝を超えるものとして、三皇の「皇」と五帝の「帝」を合わせて皇帝と称した。それだけでは足りず、その上に「始」をつけて「始皇帝」として、天下・人民の始祖たることを僭称したというのであります。新秩序に従おうとしなかった多くの学者を弾圧し、その著書をやいた“焚書坑儒”事件などは、よく知られております。
 それに対して周の時代が長く続いたのは、創業の文王の業績によるところが多いといわれております。文王については、名参謀・太公望との“釣り”にまつわる逸話などで有名ですが、その治世の実をたたえる話として、次のようなエピソードが伝えられている。 周の国に近い二つの国で、ある時、土地争いが起こった。なかなか決着がつかず、周へ行って裁定を仰ごうとした。ところが一歩、周の領内に入ると農民があぜを譲り会い、年長者を大切にしているのに接し、二人はすっかり恥ずかしくなり、労せずして和解が成り立った、というのであります。
 もとより「十八史略」は、一つの史観にのっとつて書かれたものであり、今日の目から見れば多くの異論もあるはずであります。その問題はさておき、大聖人は当時流布していた故事を例にとり、草創期の伝統というものが、いかに大きい力を発揮するかを述べられているのであります。
草創期の伝統継承に労苦惜しむな
 ともあれ、昔も今も、また我が国においても、他国においても、更に大小を問わず、いかなる団体においても「源遠」をいかにして「長流」にしていくかが最大の課題であることは間違いない。
 この一点において、失敗するならば、いかに一時的にはなやかであっても、それは一炊の夢のごとくはたまた、うたかたのごとく儚いものとなってしまうのであります。
 仏法の歴史においても、釈尊は十大弟子をつくって法を久住せしめようとした。また、付法蔵二十四人の人々が次々と仏法の松明を伝持しながら、時代の昂然たる灯としてきたのであります。更に、天台大師もまた、その仏法を、なんとか後世へ伝えていくことを念願し、章安、妙楽そして日本の伝教等は、その精神の後継の人でありました。
 日蓮大聖人もまた、末法万年、尽未来際までに流布すべき大法として大御本尊を建立されたのであります。弟子たちに与えられた数多くのお手紙の行間からは、その未来久住、民衆救済の熱誠が溢れ出ております。必ずやその文字が、後世の人々を触発し、人間仏法の規範、鏡となっていくであろうとの大確信の心情が心に食い入ってくるのであります。
 創価学会も同様であります。初代会長・牧口常三郎先生、二代会長・戸田城聖先生の精神を万代まで流し通わしていかねばならない。その役割を担う者こそ、現在に生きる私どもの使命であると信ずるものであります。
 私の心境もまた、いかにして、まず21世紀の人材をつくりあげるか、かつは、その道程に至る最も重要なこの20有余年間において、万代までの布石をどう打っていくかという一点だけは、最大の課題として、念頭を離れたことはありません。どうか、この妙法の灯台の光を永遠に消してはならない、という強い決意を受け継いでいただきたいのであります。
 時代は闇中の遠征を続けねばならないかもしれない。希望は濃霧に隠れて、淡い光を発するにとどまっているとも見える。この時にあたって、まず我々は現実を凝視し、足元を固め、千里の道を進む用意が必要であることを訴えたいのであります。
 私はその意味で、この1・2年が確固たる未来永遠の発展の基礎を作る重要な時期であると思っております。

03                      日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが
04 るべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、 無間地獄の道をふさぎぬ、
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 日蓮大聖人の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。

万代たる御本仏の慈悲
 有名な御文です。私はこの文に接するたびに、日蓮大聖人の民衆に注がれる大慈大悲を感じ、胸が熱くなってくる。この崇高な叫びを、世の指導者はなんと聞くか。と叫ばずにはおられない。
主師親の三徳を示す
 まず、この御文は、主師親の三徳をあらわされた文であります。「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」とは親の徳、「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」とは師の徳、「無間地獄の道をふさぎぬ」とは主の徳、と拝される。すなわち、日蓮大聖人が主・師・親の三徳具備の仏であると宣言された御文であります。
 第一に、日蓮大聖人は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」と述べられている。「日蓮が慈悲曠大ならば」が人、「南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」が法をあらわすことはいうまでもありません。
 日蓮大聖人は、学問や観念で人々を救われたものではない。慈悲という本源的な生命から発する力をもって、人々の救済に向かわれたのであります。
 されば「開目抄」には「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と説かれたのであります。
 慈悲なきところに難はない。民衆を本源より救いきろうとする慈悲の力の前には、これを妨げる三障四魔が紛然として競い起こるのが仏法の原理であります。日蓮大聖人は「仏法は勝負なり」の道理によって難を忍ばれ、大慈悲のやむにやまれぬ発露のままに実践行に挺身されたのであります。
 「南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」とは、南無妙法蓮華経の法力が、慈悲という大聖人の人格に発する力によって尽未来際まで流れ通うということであります。所詮、この文は広宣流布の淵源が、日蓮大聖人の振る舞いから始まったことを意味しているといってよい。
 慈人は、人間の営為のなかに、にじみ出てくる人間の光なのであります。法・法といっても、しょせんは人間の営みのなかに流れていることは間違いない。
 第二に「日本国の一切衆生の盲目」の「盲目」とは、これは肉眼というものではない。どんなに強い肉眼をもっていても、生命の本源に暗く、人生に暗く、未来に光を感じない人はここでいう盲目なのであります。日蓮大聖人の仏法は、たとえていえば暗闇を、さ迷う船を導く灯台であります。また、荒海を航行する船の羅針盤であります。方向性を失った生活・人生・社会はみじめこのうえもない。常に未来を開く叡智の光の光源こそ、南無妙法蓮華経であることを、強く訴えておきたい。
 第三に「無間地獄の道をふさぎぬ」の「無間地獄」とは、人間の苦悩の極限を指すものであり、人間が人間らしさを失い、品位も尊厳も、芥の如く踏みにじまれていく塗炭の苦しみをいうのであります。その最たるものは戦争でありましょう。
 故に無間地獄の道を塞ぐということは、あらゆる苦悩の根源である生命奥底の魔性を冥伏させることによって、三毒熾盛の根を断つことを意味している。そこに、人間が最も人間らしく生きることのできる平和・文化建設の方途を示されていることは必然であります。
学会は大聖人仏法の生命を受け継いだ教団
 結論していえば、我々は主・師・親の三徳具備の御本仏日蓮大聖人の御境涯には、千万が一分にも及びません。しかし、私ごとき凡愚下賤・無智不徳の者を中心とした創価学会ではありますが、仏法の実践の上からみれば、偉大なる日蓮大聖人の生命をいただいている教団である。御仏智にかなった教団であります。
 「万年の外・未来までもながるべし」とは日蓮大聖人の仏法が未来まで流れるといっても、自然の間に流れるものではないのです。
 かつて、700年前の仏法の流れが途絶えたかにみえた瞬間があった。それを、現実に流れ通わしめたのはだれか。創価学会をおいてないのであります。だからこそ創価学会は、日蓮大聖人のご慈悲を受け継いだ団体なのであります。

04                                        此の功徳は伝教・天台にも超
05 へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、 正像二千年の弘通は末法の一時に
06 劣るか、
-----―
 この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。

天台・伝教に超える功徳 
 「此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」日蓮大聖人の主・師・親の三徳を具備なされた三大秘法の仏法を流布しゆく功徳は、伝教・天台に超過し、竜樹・迦葉にも勝れていると仰せであります。
 竜樹・迦葉・天台・伝教のいまだ弘めなかった「大法」を弘通するものは、これらの人々の受けなかった「大功徳」を受けられると仰せなのであります。まさに「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578-12)とあるように「法妙なるが故に人貴し」の原理であり「人貴きが故に所尊し」となっていくことも必然であります。
 我々にとって、まことにありがたい仰せであります。あの釈尊の十大弟子の筆頭たる摩訶迦葉が、かの「大乗八相の祖」とされる竜樹を凌駕し、中国における小釈迦といわれた大聖哲・天台大師を超え、かつまた、日本の平安期の精神文化の基礎を築いた伝教大師に勝るとの仰せである。
 ここに、迦葉・竜樹を代表としてインドの先哲・天台大師を代表として中国の碩学、伝教大師を代表として日本の大宗教家を挙げておられる。三国を網羅しているということは、当時の世界観に照らして全世界に通ずる意味をもっているのであります。すなわち、大御本尊を受持し、日蓮大聖人直流の行動に生きる人は、全世界の先哲や碩学よりもなお尊貴であることを訴えておられるのであります。なんと、崇高な、我らの立場でありましょうか。末法の大法・南無妙法蓮華経こそ宇宙本源のリズムの根源力であり、この妙法を唱えられる福運を、我々は改めて肝に銘ずるべきでありましょう。
 また、これこそ日蓮大聖人の「人間仏法」の骨髄のご教示であると拝することができる。なぜなら、天台・伝教等々これらの先哲は、かつて人々の崇拝の的であり、雲閣月卿を見るがごとき高貴な存在であった。それに対し我らは無名の庶民である。しかし、それらの人々よりも、なお偉大な人間としての実践行動ができることを示されているのです。
「極楽百年」は「穢土一日」にしかず
 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」と。「極楽百年の修行」とは、現実を離れた別世界に幸福郷を求める生き方であります。これに対し「穢土の一日」とは、現実の一歩一歩を最も大切にいく生き方と拝せる。日蓮大聖人の仏法は、青年としての夢のなかにさすらいの旅を続けさせるような哲学ではない。青年の生命のなかに、日蓮仏法の赫々たる偉大なる魂の力を与えていくものであります。この現実社会には、死ぬことも許されない多くの悩める友がいる。その友に、嘆息と諦めと精神の自殺への道をひた走るほど愚かなものはない。こうした数々の苦悩せる現実の世界にあって、波乗りさえ楽しむ勇気と希望を与えていくことが最重要なのであります。
 更にまた「極楽」とは、安逸の日々であるともいえる。これに対し「穢土」とは、人間革命の日々であります。怠惰な安逸の、間延びした生活がいかに味けなく、逆に真剣さと勇気をもって現実を切り開く日々が、なんと生命充実の一瞬一瞬に彩られていることでありましょう。人間革命、すなわち生命の変革は、決して観念の夢のドラマではない。安楽イスの中にあるような生き方に、どうして我が生命の電撃的な変革が可能となるでありましょうか。汗と労苦のなかにのみ、人間の真実の価値は生ずるのであり、日蓮大聖人の仏法には、この現実の鋭い対決のなかに、その偉大なる昇華があることを説き示されたのであります。
 かつての仏教の興亡盛衰の姿は、まさしく極楽百年の修行に酔いしているものといわざるをえない。日蓮大聖人の極理にいきるものは、あくまでも、この現実に生き、現実を呼吸していくものである。すなわち、この現実を離れて仏法はない、ということであります。現実の生活・人生・社会のなかに仏法は生き生きと脈動していくのだ。これを徹底して叫ばれた末法の御本仏の、まさしく千鈞の重きをもつ御文と拝せるのであります。
人間の中にのみ仏法は脈動
 次に「正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」について、これはまず、第一に日蓮大聖人の仏法が、釈迦仏法よりいかに偉大であるかを時に約して説法されたものであります。正像二千年とは、山岳仏教、貴族仏教の流れを意味し、また末法の一時とは、無名の庶民による壮大な末法広宣流布の時をしめしているといってよい。更にまた、2000年という長きにわたった釈迦仏法も、大御本尊を信受し、広宣流布に向かって進むわが瞬間瞬間の生命のなかに、すべてが包含されているかということでる。この観点からいっても、王侯貴族仏教に対して、人間を徹底的に愛し、どこまでも人間とともに進みゆこうとされる御本仏に日蓮大聖人の民衆愛というものが、こよなくあふれているように、私には思われてならない。実に感慨深い御文といえよう。
 この世において、何が最も尊く、何が最も偉大なものなのか、人間ほど尊く、人間ほど偉大なものはあるまい。故に、この現実に逞しく生きる人間の賛歌を、日蓮大聖人はこの一節に凝縮されたのであります。

06 是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、                  ・
-----―
 これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。

時にかなった実践行動を
 仏法流布における「時」の重要性を、鋭く明言された一節です。「日蓮が智のかしこきには・あらず」とは、一往は謙遜の立場からの発言ですが、再往は、正像の時に対して、末法の時の重要性を述べられた御文であります。
 当時、末法といえば、正像2000年が終わり、その延長として、暗いイメージを伴っていました。それに対して、日蓮大聖人は、末法という時代が、いかに光輝に包まれた時であるかを確信せられています。更に私は、この一句に万感を込めて、広宣流布の時を感ぜられている大聖人のご心境が胸に迫ってくるのであります。夕日のごとく地に落ちていく既成の釈迦仏法、それに対して旭日のごとく昇りゆく胸中の灼熱のエネルギーをもった大仏法、その対照はあまりにも鮮やかであったに違いありません。
 時とは、偉大であり、かつ力強いものであります。末法という時とは、即、妙法が広宣流布するという時なのです。だれが何と言おうと、だれが阻止しようとも、動かすことのできぬ時のリズム、それを日蓮大聖人がつくってくださったのであります。
 ともに「時のしからしむる耳」とのご断言は、その時をつくり、開けと、後継の門下に未来を託された言葉と私は拝したい。
 更に、この一節から、大聖人は一人の人間の偉大な智力によりも、時にかなった実践行動を展開する有智の民衆の力こそが偉大であることを、教えられているとも考えられる。
 次の文に「春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや」とお述べのように、仏法3000年の弘通を貫く主軸は「時」であったことを、天地自然の道理を挙げて説かれています。
 撰時抄の冒頭の有名な一句は「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256-01)との御文があります。「必ず先づ」とある。教・機・時・国・教法流布の先後という宗教の五網の中核をなすものは「時」であり、これにすべてが包摂されるといってよい。例えば、機といっても民衆の鼓動は絶えず時代精神を反映したものであり、時のなかにすべて含まれているのです。
 いずれの社会、時代においても、必ず時の流れと方向性というものがあった。その方向性を掴んだ人が勝利し、掴みきれなかった者は破北した。しかしながら一時的に時を得ても、やがて時を逸し、衰滅の残光の中に消え去っていった例は数しれない。時流の波浪は、多くの人々を、勢力を、その中に飲み込みながら、有為転変の歴史を繰り返してみてまいりました。
 日蓮大聖人が「時のしからしむる耳」といわれたのは、一時の繁栄を述べられたものでは決してありません。末法万年尽未来際まで栄えさせていくべく、南無妙法蓮華経というリズムをつくられたのであった。仏法の眼からみれば、時とはリズムであり、生命の波動といってよい。日蓮大聖人は大宇宙の律動と我が生命のリズムとの調和のために、南無妙法蓮華経という大法則を打ち立てられたのであります。
“時”を知り“時”を拓く大法師に
 次に「時のしからしむる耳」との仰せを、ただ漠然と時をすごしていれば、いつかは自然と広布の時がくる、というように、受動的に固定化してとらえるのは、明らかに誤りであります。それは身近な例でいえば、電気ガマのスイッチも入れず、時がくればご飯が炊けるであろうと、はかなく夢想しているようなものと変わりはない。故にこの御文は、御本仏日蓮大聖人につらなり、地涌の門下としての能動の誓いを込めて受け取らなければならない御金言と受け止めたいのであります。
 時代を動かすものは、主義にあらず人間である。といった先人がいます。我々もまた、一人の人間革命が日本の運命・世界の宿命をも変えていくことを確信している。
 日寛上人の撰時抄文段には「時を知るを以ての故に大法師と名づくと云云。文意に云く。時尅相応の道を知るを以ての故に大法師と名づくと云云。大法師とは能く法を説いて衆生を利する故なり」とります。
 時を知り、時尅相応の道を選びつつ、衆生を利する大法師の出現があって、初めて広宣流布の確実な歩みが開始されることを忘れてはならない。末法の初め、時代と民衆が無明の深き眠りについたころ、御本仏日蓮大聖人は末法弘通の大法を建立された。その法性の慧火は700年余りの歳月を経ていま仏法の旭日となり、地平を昇りはじめています。  
 総じて時を知る。とは、人々が何を欲しているか、人情の機微を知ることも、人心の帰趨を知ることも含まれる。いかなる激浪をも乗り越え、機雷を回避しつつ、現実の舞台のなかでカジを取り、眼光鋭く本源を見抜いて適切に処置を取る人でなければなりません。故にそれは民衆共済という大責任に立った時に、取り得る行動といえますし、その時にこそ初めて民衆の有智の団結の輪はつくられてゆくのであります。
 かつて戸田先生は、広布を担いゆく丈夫に「今は如何なる時かを凝視して」と呼びかけております。
 いま皆さんの敢闘によって、学会は、いよいよ時を得て、民衆の文化と平和へ貢献しゆく道を、着実に進んでおります。
 どうか今後とも、広宣流布のために、立派な指導者に育たれるようお願い申し上げて終わります。

0329:03~0329:07 報恩抄2015:01大白蓮華より先生の講義top

03                      日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが
04 るべし、 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、 無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超
05 へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、 正像二千年の弘通は末法の一時に
06 劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、 春は花さき秋は菓なる夏は・あたた
07 かに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。
-----―
 日蓮大聖人の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。
 極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。 
 春は花が咲き、秋には果実が実る。夏は暑く冬は寒い。これも時のしからしむるによるところではないか。 

「慈悲」の精神で人類を結びゆけ
 新しき躍進の夜明けです。
 赫々たる太陽を仰ぎながら、今、親愛なる同志の皆様の胸中には、清々しい希望の光が満ち満ちていることでしょう。
 新しき一歩を勇んで踏み出す時です。
 今日から、自身の新たな前進の歴史を勝利の金文字で刻んでいくのです。師弟が共に、そして全世界の同志が共々に、朗らかに「未来までの・ものがたり」(1086-07)を綴っていくのです。

 今も鮮やかに思い出します。
 ちょうど40年前、ごく小さな世界市民の集いが行われました。
 1975年(s50)の1月26日。
 太平洋戦争の激戦地となり、甚大な犠牲者を出したグアム島に、51ヵ国・地域から約160人の地涌の先駆者が参集し、第1回「世界平和会議」が開催されたのです。
 国家首脳の会議でも、学者や経済家などの集まりでもない。無名の庶民の集いです。しかし一人一人の胸には、人種や民族、国籍などの違いを超えて、崇高な誓願の炎が燃えていました。
 「世界広宣流布」即「世界平和」への大道を開拓しゆく、尊き誓いを共有した「SGI」が、この日、この時、発足したのです。
「全世界に平和の種を蒔いて」
 最初のスピーチで、私は宣言しました。
 「地平線の彼方に、大聖人の仏法の太陽が、昇り始めました。
 皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わらせてください。私もそうします」と。
 日蓮大聖人の大仏法は、生命尊厳と人間尊敬の慈光で全人類を包みゆく「太陽の仏法」であります。
 20世紀から21世紀へ、大きな人類史の転換期の中で、わがSGIの友は皆、時代・社会の荒波を忍耐強く、聡明に乗り越え勝ち越え、良き市民として活躍してきました。
 いまやSGIは、192ヵ国・地域にわたる「平和と文化と教育の連帯」へと大発展しています。
 地平線の彼方、闇を破って輝き始めた仏法の人間主義の太陽は、いよいよ明々と全天を照らしているのです。
 今回、「世界広布新時代・躍進の年」のスタートにあたり、私はあらためて「報恩抄」の有名な一節を拝したいと思います。創立の父・牧口常三郎先生も、ご自身の御書に力強く線を引かれていた御金言です。
報恩抄で誓願成就明かす
 「報恩抄」は、日蓮大聖人が、若き日の師・道善房の死去に際して、師恩に報ずるために著された重書です。
 本抄では、大聖人が仏道を志した若き日に、仏法の肝要を知る智者となって、全ての人を苦悩から根本的に救うと誓った誓願が示されています。この誓願の成就こそ、御生涯をかけて目指された根本の目的と拝されます。
 本抄の結論となる段で、一切衆生を救済する根本法たる「三大秘法の南無妙法蓮華経」を明かされ、釈尊滅後の世界で、ただ一人、この南無妙法蓮華経を「声もをしまず」唱え始め、不惜身命の弘通を貫かれてきたことを述べられています。
 すなわち「三大秘法の南無妙法蓮華経」を厳然と建立されたこと、そして、末法万年尽未来歳にわたる広宣流布の基盤を確立されたこと――大聖人は、これをもって、根本の誓願の成就であり、亡き師匠への最大の報恩の証しとされているのです。
 さらに「根ふかければ枝しげし」「源遠ければ流ながし」などの譬えをもって、妙法が「根源」にして「永遠」の大法であることを示されたあとに説かれるのが、今回、拝する御文です。
 今、「広宣流布大誓堂での広宣流布誓願勤行会の折にも、女子部の代表によって凛として拝読されています。
「慈悲曠大」を受け継いだ陣列
 「法」は永遠であり、常住です。しかし、いかに勝れた「法」であっても、それを実践する「人」がいて初めて、その偉大な力は現実の上に顕れるものです。御書に「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-09)と示されている通りです。
 一方、一人一人の人間は、生老病死の理を逃れられません。この有限の「人」がいかにして「法」を永遠に現実世界にあらしめていけるのか。
 日蓮大聖人は、仏と仏のみが覚知できる永遠の妙法を「三大秘法の南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、混乱と苦悩が渦巻く末法の凡夫の私たちが信受できるように確立してくださいました。私たちは、この御本尊を拝し南無妙法蓮華経と唱える時、虚空会の付嘱の儀式における末法広宣流布の「地涌の菩薩」の大誓願に連なることができるのです。
 言い換えれば、大聖人が建立された三大秘法と、その法を受持し弘通する地涌の菩薩が出現してこそ、初めて、妙法がこの現実世界で流布され、永遠に民衆を救済することができる。
 「日蓮が慈悲曠大ならば」――こう言われる大聖人の慈眼には、「日蓮と同意」の広布の大誓願に燃えて、後継の地涌の菩薩として娑婆世界で妙法を実践し、民衆を救いきっていく人間群が、二陣三陣と躍りでていく光景が、ありありと映じていたのではないでしょうか。
 まさしく今、日本中、世界中で、この「慈悲曠大」なる尊き「仏の仕事」を「仏の使い」としての誉れと使命を胸に、忍耐強く、また誇り高く法を弘めているのは誰か。いったい誰が、勇敢に民衆の大海原に飛び込んで、苦悩に沈む一人を励ましてきたのか。一人また一人と、絶望の淵から希望の人生へと蘇生させてきたのか。それは、わが創価学会の同志であり、わがSGIの先駆者であります。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」(0720-13)との仰せを、事実のうえで証明してきたのは、他でもない皆様方なのです。
「全人類の宿命転換」を大宣言
 以前、世界広布のリーダーから「ガンジス川の源流域」の写真をいただいたことがあります。ヒマラヤの氷河に発する悠久なる大河の源流は、それはそれは凄まじい奔流でした。獅子が吼え走るが如く、何ものも押し止めようのない「勢い」でした。
 私は思います。あの轟々たる奔流に始まる大河の如く、南無妙法蓮華経が全人類を平和と幸福の智水で潤していく。そのほとばしる大精神を、大聖人は「慈悲曠大」との仰せに込められているのではないでしょうか。
 この根源の妙法には、そして、その大法を行ずる実践には「日本国の一切衆生の盲目を開く功徳」があると仰せです。日本国は一閻浮提に通じます。妙法への強き「信」が元品の無明の闇を破り、己心の仏界の眼を開かせ、顕現させていく。あらゆる人々の胸中に燦然と太陽が昇るのです。
 さらに大聖人は、「無間地獄の道をふさぎぬ」、すなわち「塞いだ」と厳然と仰せです。
 「無間地獄」とは、御在世当時の念仏宗をはじめとする謗法です。
 念仏への執着を捨てきれなかった道善房を救い、ひいては将来永遠にわたって一切衆生を幸福への軌道へと入らせていくとの大確信。
 “一人でも、苦しむ人がいるならば、草の根をかき分けてでも救っていく。絶対に絶望と悔恨の人生に転落させない!”――これこそ、大聖人の慈愛の師子吼に連なる学会の師弟の精神です。
 とともに、この仰せは、あらゆる人間集団――家族から国家、人類社会までも包含した、全体の破局への坂道までも塞いだとの、「全人類の宿命転換」の大宣言とも拝されるのではないでしょうか。
不信と無力感の闇を破れ
 歴史を見れば、甚大なる自然災害や戦争や飢饉など、個々人の人生をひとたまりもなくのみ込み、奪い去っていくような悲劇が繰り返されてきました。人間がいかに無力な存在か、思い知らされるような過酷な実現があります。そうした災難を、人智を超えた運命や宿命とする諦観の言葉も古来、数多くありました。
 しかし――。100年前、フランスの文豪ロマン・ロランは、まるで「戦争の宿命は一切の意志よりも強い」という「古い極吏文句」に煽られるように、各国で雪崩をうって参戦し、第一次世界大戦へ突入していく中で、激烈な抗議の声を発しました。
 「決して宿命はない!宿命とは、私たちが欲することだ。それはまた、よりしばしば、私たちの意欲が足りないということだ」
 ロランは、国家指導者や知識人が“これが運命”とばかり戦争迎合の時流にのみ込まれていく無責任な姿を、断固として拒否したのです。
 詮ずるところ、一人一人の人間が、何をしても無駄だという。この無力感――人間の尊厳性と無限の可能性への無知・不信こそが元凶です。私が敬愛してやまない南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領も、その元凶と戦い抜いてきました。
 大聖人が放たれた「無間地獄の道をふさぎぬ」との師子吼は、まさに、この人間不信の闇を打ち破るものであったと、私は思えてなりません。
 「立正安国論」には、人々を無間地獄に突き落とす元凶を剔抉して、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024-03)、「唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(0025-17)と破折されています。
 大聖人が、鋭く「三災七難」の「兵革の災」、「自界叛逆難・他国侵逼難の二難」の警鐘を鳴らされたのも、まさに、運命論や無力感を打ち破って、「無間地獄の道」を塞ぎ、人類が悲惨な不幸に転落するのを防ぐためであったと拝されます。
現代社会を慈悲の精神で包む
 思えば20世紀は、未曾有の規模の「世界戦争」が2度にわたって起こった時代であり、その大闘諍の中で核兵器が造り出され、人類滅亡の危機という前代未聞の扉が開かれてしまった時代でもあります。さらに急激な環境の破壊によって、21世紀の今、地球の生態系の存続さえ危惧されるに至っています。また、グローバル化が進む中、経済危機や疫病なども世界規模の脅威となってきました。
 「人類の破局」を塞ぐ道はあるのか?それは、今の時代につきつけられた避けることのできない課題であります。
 私ども創価学会、また「SGI」が誕生したのは、まさにこの人類生存の危機が現実に浮上してきた時代であります。
 民衆を戦争に駆り立てる、国家神道を精神的支柱とした軍国主義に敢然と対峙し、「今こそ、国家諌暁の秋」と叫び、民衆の幸福のために戦い切った初代学長・牧口常三郎先生は、獄中で殉教されました。そして、先師を獄死せしめた凶暴な国家主義、権力の魔性との戦いを誓った第2代会長・戸田城聖先生は、日本が焦土と化した焼け野原に、広宣流布の旗を掲げて、ただ一人立たれたのです。
 先生の胸には、「東洋広布」「仏法西遷」の誓願の炎が燃え、戦乱の止まぬアジアと世界の民への深い同苦がありました。さらに全面核戦争の脅威が広まる渦中には、「原水爆禁止宣言」が発表されたのです。それは、民衆の生存の権利を脅かす魔性の根を断ち、人類の地獄への転落を塞ぎたいとの師子吼でありました。
 戸田先生は「現代の時勢に、もっとも吾人の強く感ずることは、人々の生活に慈悲と自覚が欠如していることである。無慈悲そのものが現代の世相ではないか」と喝破し、「自然の行業に慈悲があふれる人々をより多くつくらなくてはならない」と訴えられました。
 無慈悲な社会の中に、暖かな慈悲の血潮をいやまして脈々と流れ通わせ、平和と幸福の人間世紀をひらいていくのが、私どもの広宣流布の運動の目的です。
仏法は苦しんでいる人のために
 ここで「慈悲」について、今少し考察しておきたいと思います。
 「慈悲」には、「楽しみを与える」意義と、「苦しみを抜く」意義の両面があります。
 その由来をインドの言葉にたどれは、「慈」は梵語の「マイトリー」で、有情や友との結びつきを意味します。「悲」は「カルナー」あるいは「アメカンバー」で、憐憫や同情、優しさを意味します。同苦といってもよい。
 「慈しみ」と題する初期の仏典には、こういう一節があります。
 「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
 慈悲が包み込む世界が、どれほど広大無辺であるか、この言葉にも明らかでしょう。
 慈悲は「平等」です。それは、ヨコに無限に広がり、タテに永遠に及びます。
 と同時に、その慈悲とは単に「等しい」というものではなく、最も不幸な人に向けられたものです。大聖人は、釈尊が入滅に臨んで最も心配されたのは、罪深き阿闍世王であったとの経文を通し、「人にはあまたの子あれども父母の心は病する子にありとなり」(1253-05)と述べられています。
 誰が一番、苦しんでいるのか。だれが一番、助けが必要であるのか、それは、今、眼前で苦しんでいる人です。
 私は常々、「一番苦しんでいる人こそ、一番幸福になる権利がある」と訴えてきました。仏法とは、その一番苦しんでいる人のためにあるのです。その人に同苦する、その人の身になって考え行動する。そこに慈悲が光ります。
 より高い次元から見れば、末法という最も困難な時代、耐え忍ぶべき苦しみに深く覆われた娑婆世界で懸命に生きている、一切の人間に手を差し伸べ、苦悩を抜いていくことこそ、仏法の根本目的にほかなりません。
 苦悩から立ち上がっていくカギは何か――それは、苦悩の根本原因が、尊厳性の否定であり、人間不信であるが故に、尊厳性の自覚であり、人間への信頼と尊敬です。
 いかなる生命も本来、尊極であり、この世の何一つ無駄なもの、無意味なものはない、自身もまたその尊き宝の一つであると自覚する時、強い自身と揺るぎない安心と限りない感謝が生まれます。そして、他の人もまた、一人も残らず尊い宝であると知り、深い尊敬と固い信頼と慈愛が生まれてくるのです。
現実の苦悩の人を救う行動
 この「慈悲」の発露が、折伏の精神です。
 「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(0236-13他)
 「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」(0236-14他)とは章安大師の言葉です。
 真に相手を思って悪を除くのが慈悲の真髄の行動であり、この正しき修行が折伏行です。
 大聖人は「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」と断言されました。
 いうまでもなく、念仏宗では、娑婆世界を「穢土」として嫌います。そして、専修念仏によって「西方十万億土」の彼方にあるとされる極楽浄土に往生し、そこで安楽に修行して成仏すると説きます。
 しかし、そうした理想の場所は、観念上のものでしかありません。どこまでも、この苦難の現実の中にあって、幸福への道を開拓し、創造するしかないのです。
 大聖人は、現実逃避の“あきらめ”の思想を、一時的な慰めとなる方便にしかすぎないと破折され、どこまでも娑婆世界というこの現実で戦うことこそ、正しい末法の修行であると断言されました。
 これこそが、民衆が幸福になるための根本の道です。
 この折伏行は本来、仏事であり、まさしく慈悲なくしては為し得ぬ仏道修行です。しかし現実には、凡夫が慈悲を現することは容易ではありません。
 ゆえに戸田先生は、凡夫において慈悲に代わるものは「勇気」であると教えてくださったのです。
 このご指導通りに、わが同志は、友のもとへ、人間の中へ、民衆の中へと飛び込んできました。ただただ勇気に燃えて――。
 この折伏精神に生き抜く「穢土の一日」の修行こそが最高の功徳となり、わが人間革命の黄金の歴史となり、わが生命の最高の「心の財」と輝いてくのです。
妙法流布の時は「今」
 日蓮大聖人は、佐渡御流罪のただ中、「如説修行抄」を記されています。
 「然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり、かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ」(0501-14)と。
 大聖人のこの時代、誰もが、「末法悪世」を感じていました。「末法だから」世も終わりだという絶望が蔓延していたのです。
 これに対し、「末法だから」こそ、最も力のある大法がいよいよ出現し、民衆を利益する時だ、妙法流布の時は「今」なのだと立ち上がられた末法の御本仏が、大聖人です。
 まさに、この末法という「時」を自ら選んで、できる、できないでなく、必要だから、正しいからと勇んで戦いを起こすのが、地涌の菩薩です。
 時代の危機の闇が深ければ深いほど、絶望を打ち破る太陽のような力ある思想が興隆する時であると、一人立ち上がるのです。
 牧口先生がそうでした。
 戸田先生がそうでした。
 私たちも決然と立ち上がりました。これが創価学会です。
 そして日本中、世界中の地涌の同志が、民衆の心に平和の種を蒔き、「人間主義の時代」を創ってきたのです。
「人間のための宗教」の太陽
 今から20年前の1995年1月17日、日本では、阪神・淡路大震災が起こりました。あまりにも多くの方々が犠牲になられ、甚大な被害がもたらされました。あの苦難と衝撃を忘れることはできません。
 その真っ直中で、わが同志は「妙とは蘇生の義」(0947-02)との仰せの通り、共に必死に励まし合いながら、不死鳥のように立ち上がってこられました。生きる希望の源泉たる「人間のための宗教」の太陽を昇らせてこられました。
 震災直後、私たちの友人で、アメリカの人権の母ローザ・パークスさんは、兵庫の女子部にメッセージを贈ってくださいました。
 「私は思うのです。今こそ、皆さまや皆さまのお友達は、自らの勇気を奮い起こして神戸災害の再建に立ち上がり、その姿を通して世界を激励する時である、と」
 そして女子部の友が、「この困難な挑戦に対し、新しい精神で『ウィ・シャル・オーバーカム』を歌われることを信じています」と念願されたのです。
 このパークスさんが人種差別に抗議して、「ノー!」と叫んだあの瞬間について“彼女は「ツァイトガイスト」によってそこにいた”としてきしたのは、公民権運動の若き指導者キング博士でした。
 歴史が大きく動く変革期には、しばしば「人」と「時」の不思議な巡り合わせ、絶妙なる協動があるものです。
世界を結ぶSGIの慈悲の行進
 キング博士は「人類の進歩は、不可避性という車輪が回って進んでゆくものでは決してないのです」と洞察しました。
 「人類の進歩」とは、使命を深く自覚した人々の「倦󠄀くことなき努力によってもたらされる」のです。反対に、「このひたむきな働きがなければ、ときそのものが、社会停滞の勢力に与することになってしまう。
 ゆえに博士は、こう結論しました。
 「われわれは、創造的に、すなわち、正しいことをおこなうためには、時期はいつも熟しているという認識において、ときを利用しなければならないのです。
 世界広宣流布の「時」も、ただ座して待っていて、動き始めたわけでは、断じてありません。「立つ時は今だ」と一念を定めて戦った創価の友によって、「時」が創られたのです。まさに「時のしからしむる」と仰せの如く、大法興隆の「時」が満ちてきたのです。
 そして今、世界のあの地この地に、「地より涌きたる」使命の慈悲の菩薩が、陸続と出現しているのです。
苦難を乗り越える地涌の底力
 40年前、「SGI」の出発に際して、私は、こうスピーチを締めくくりました。
 「どうか勇気ある大聖人の弟子として、また、慈悲ある大聖人の弟子として、それぞれの国のために、この一生を晴れ晴れと送ってください。
 SGIの友が暮らす国や地域――それは、現実の世界そのものです。
 誰もが心から平和と幸福を求めて生きている。また誰もが苦悩を抱え、もがきながら生きていいます。国家や社会、民族を翻弄する分断と反目の暴力に傷つき、今も懊悩している人々も少なくありません。国は豊かに見えても、差別や格差に苦しむ人々もいます。
 この現実世界で、SGIの友は、自他共の幸福と世界の平和を祈り、自身の人間革命と宿命転換に勇敢に挑みながら、信頼と友情の花を広げてきました。戦乱を逃れた流浪の中で仏法に巡り合い、やがて祖国に帰還して広布に走る友もいます。紛争で引き裂かれた国々で互いに連携を取り合いながら、唱題の同盟を結んでいる同志もいます。
 自分のいるその場所で!――他の誰でもなく、これが自分の使命だと、決然と一人立ってきました。地涌の菩薩に一切、限界はありなせん。学会員は、どんなところにも飛び込み、どんな境遇の人々とも関わってきました。「難問答に巧みにして、其の心に畏るる所無く、忍辱の心は決定し」との経文の如く、無理解や侮辱の壁も、世間の差別の壁も、勇気と智慧と誠実の対話に乗り越えてきました。
 かける言葉を失うような絶望と悲嘆の底にある友の傍らにも、わが同志は寄り添ってきました。ただ伝わる手の温もり、ただ一緒に流す涙だけが唯一の対話だったこともあるでしょう。しかし、決して希望を捨てなかった。いかなる人も、苦難に負けない底力を、逆境をはね返す底力を、そして宿命を使命に変える底力を持っていると信じてきたのです。
 「貧乏人と病人の集まり」――学会の草創期、こんな罵詈雑言が浴びせられました。しかし、戸田先生は「一番苦しんでいる人を救うのが、本当の力ある宗教じゃないか、慈悲の行動じゃないか」と達観されていました。
 苦悩の友を、絶対に見捨てない。自他共の幸福と勝利のために動き働く、あの尊い菩薩の姿よ!私は、この学会員の行動の中に、大聖人が仰せの「慈悲曠大」なる精神に生きて躍動していることを確信してやみません。
 私たちは、人類史上初めて、地球のあらゆる地域に暮らす民衆同志が、草の根ネットワークをむすぶことのできる時代を迎えました。
 ロシアの文豪であり偉大な世界市民であったトルストイは晩年、こう留めました。
 「人間のあいだに愛を増大させることだけが、現在の社会機構を変えることができる」
 「私がこの世界の生活の発展過程に目を注ぐかぎり、そこに現われているのは、相互扶助の法則のみである。およそ歴史は、この唯一の万人強調の法則が次第にはっきり姿を現わす過程にすぎない」
 「慈悲」の拡大に通じる言葉です。
我等創価の民衆のスクラムを
 「慈悲」の精神が社会のすみずみに浸透し、脈動していく時、どんなに社会は明るく変わることでしょう。「人間主義の時代」「生命尊厳の時代」へ――私たち創価の民衆スクラムの前進が、その夜明けを創りひらいていくことは、絶対に間違いありません。
 自己の使命に目覚めた民衆による「慈悲曠大」の行動が、必ず人類の境涯をも変えていく。そして、燃え盛る火宅のような世界を変革し、人が人を殺戮することのない、平和と不戦の世界を創っていく――それが、私たち創価の悲願です。SGIの使命です。
 苦悩の民衆がいる限り、創価学会の戦いに終わりはありません。
 戸田先生は、「地上から“悲惨”の2字をなくしたい」と叫ばれました。広宣流布とは、人類の苦を抜き去り「慈悲の行業」を世界に広げる戦いです。平和と幸福の種を蒔き続ける永遠の挑戦です。我等創価学会の連帯は、この「慈悲」の精神で、人類を結びゆくのです。
 「世界広宣流布・躍進の年」とは、その「希望の春」の到来です。地涌の生命の連帯が、大きく躍進する時がきたのです。
 さあ、新たな勇気の行動開始です。平和を願う民衆と民衆の心を通わせながら、わが地域を舞台に、我らの地球を舞台に、意気揚々と躍り進もうではありませんか。