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百六箇抄講義・解説0854~0869

百六箇抄講義 1977:01~11 大白蓮華より先生の講義
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仏教哲学大辞典より

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第一回top

 新春、昭和52年、希望に満ちた開幕、まことにおめでとうございます。
 この一年もまた、妙法の兄弟である同志の皆さまが、色心ともに凛々しく明るく活躍されますよう、心より御祈念申し上げます。
 さて、本年「教学の年」の意義に因み「大白蓮華」誌上に、新年号から「百六箇抄」の講義を展開していくことにいたします。
 思えば私は、会長就任より2年後、昭和37年の8月31日より、約5年間にわたり、学生部の代表に「御義口伝」を講義しました。また、その間、昭和38年7月19日より、2年間にわたり、当時の京大生の代表に「百六箇抄」の講義をしていたのです。
 すでに「御義口伝」は、上下二巻の講義録としてまとめられましたが、「百六箇抄」の講義については、一切活字にはしておりませんでした。
 以前から、ぜひ機関誌紙に掲載してほしいとの強い要望がありましたが、大事な書であるだけに、慎重を期していたわけです。
 もとより「百六箇抄」は相伝書であり、その本義について、私は私なりに凡夫相応の立場から、時代・社会への展開も含めて講述したのです。
 思い起せば、昭和30年前後、戸田先生から、数十名の教授に対して重要御書の研究担当を命ぜられたことがありました。そのとき私の担当した御書が、この「百六箇抄」でありました。
 そのとき、先生から幾度となく、この御抄の読み方に対し、厳しいばかりの指導をいただきました。今でも、その当時のことが忘れられません。当時使用していた私の御書の「百六箇抄」の部分には、それらの多くの書き込みがあり、懐かしいものです。
 なお、掲載にあたり、京大生への講義内容を吟味し、筆を加えさせていただきたい次第です。
文底秘沈の法門を明かした相伝書
 講義に先立ち、簡単に「百六箇抄」について述べておきます。「百六箇抄」は、末法の御本仏日蓮大聖人より、第二祖・日興上人に口伝された相伝書であり、「本因妙抄」と併せて、両巻抄ともに血脈抄とも呼び習わされてきました。重書中の重書であります。
 残念ながら「百六箇抄」の御真筆は残されておりませんが、伝承の経過をみれば、大聖人から日興上人への口伝書であったことは明らかであります。その点について概略触れれば、「百六箇抄」の末文によると、
   弘安3年正月11日、日蓮大聖人より日興上人へ
   正和元年10月13日、日興日尊に之を示す
   康永元年10月13日、日尊、日大日頼に之を示す
 となっております。
 要法寺の日辰の祖師伝には、日尊伝として、日興上人から日尊に、また日尊から日大と日頼に付嘱したと示されています。
 日精上人の富士門家中見聞上には、日興上人から血脈の相伝を、日目、日大、日順、日尊の四人が受けたと記されています。
 現存する写本は、要法寺日辰と妙本寺日我のもの、大石寺の日俊のものがあります。
 なお、御真筆は北山本門寺にありましたが、紛失した経緯については、西山本門寺との反目の際、武田勝頼家臣の理不尽な振舞いにより、宝物持ち去られ、それが後に返却されたものの「血脈抄」等がなくなっていたようであります。そのときの「本尊以下還住の目録」に「百六箇」「旅泊辛労書」「三大秘法書」「本門宗要抄」「本因妙抄」は御本書紛失、写しのみ御座候。との記載があります。
 とにかく、相伝書であっただけに「百六箇抄」の内容は、大聖人の仏法における文底深秘の法門を説き明かして余すところなく、釈迦仏法と日蓮仏法との、厳格なまでの種脱相対を白日のもとに照らし出して、一点のかげりもないといえましょう。
 これこそ、末法の御本仏・日蓮大聖人の胸中に燦然と輝く独一本門の赤光であり、濁悪の未来を照らす久遠の太陽であるとの確信を深くするものであります。
 その意味からも、私たちは、純粋にして強盛なる信行学の結晶をもって、本書を身口意の三業にそめて拝読しなければならないと思うのです。口伝書なるが故に、三千年にならんとする仏法哲学の究極の結論が、無限の法義をはらんだ珠玉のごとき短文となって表出されております。思索に思索を重ね、如説修行の実践に実践を貫いた生命で、本書に脈打つ血脈の奥義に迫り、その脈動する血潮を我が生命の奥底に刻み込んでいくという不退の決意で、本書に取り組んでいきたいものであります。
全編にみなぎり人類救済の大情熱
 ここで「百六箇抄」の構成について一言しておきたいと思う。
 本抄の全体を通覧して気づくと思いますが、本抄の骨格は、脱に50箇、種に56箇の本迹を立ち分けて論じられております。この部分は、日蓮大聖人から日興上人に直接、血脈相承された口伝そのものであります。
 この脱の50箇、種の56箇ということにつて、簡単に申し上げれば、「脱益仏法の本迹」と「下種仏法の本迹」とは、ほとんどすべて相対した形で論じられております。
 例えば、脱益の最初の「理の一念三千・一心三観本迹」の項目は、下種益の最初の「事の一念三千・一心三観本迹」並びに「下種人天の本迹」と相対させることができます。そのほかの、大部分の項目では、脱益と下種益の項目は、一対一に対応しております。
 しかし、脱益仏法とは相対しない下種仏法における項目もあります。それは「下種三種法華の本迹」「四土具足の本迹」「下種境智俱実の本迹」の三項目です。
 その理由は、下種益の本迹は、脱益の本迹を一応の基盤としながらも、大聖人の仏法と釈迦仏法の勝劣を論じたものであり、故に、下種益の本迹を述べるにあたって、たとえ脱益の本迹に該当する項目でなくても、独一本門の立場を鮮明にするために、必要不可欠な要項として立てられたものと思われます。
 「下種三種法華の本迹」と「四土具足の本迹」では、迹本文底と立て分けられています。故に脱益での迹と本の勝劣は、この中に含まれてくる。下種益の個所で脱益の本迹も包含して述べられておられることがわかります。
 「下種境智俱実の本迹」は、境智に約しての結論であり、すなわち下種の立場からの、「百六箇抄」全体にわたる結論であると拝せましょう。
 次に、本抄には、歴代の閲覧者が「百六箇抄」を拝読し、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が、織り込まれており、「創価学会版御書全集」もこれらの付加が、日蓮大聖人の血脈を受け、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝えるとの意味から、行間、本抄の前後、各項目の注釈として書き込まれたものを編纂しています。この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。
 この講義にあたっても、百六箇条の口伝はもとより、付加の部分も、すべて大聖人の金口として拝していきたいと考えております。なお、御書全集では、口伝そのものを大活字で、付加の部分を小活字で組むという体裁をとっております。
 いずれにしても、本抄の全体に、日蓮大聖人の人類救済にかける、烈々たる大情熱がみなぎっている事実に刮目していただきたいのであります。
0854
百六箇抄   (血脈抄)   弘安三年    五十九歳    与日興
01      具騰本種・正法の実義本迹勝劣正伝、本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す。
02      万年救護写瓶の弟子日興に之を授与す云云、脱種合して一百六箇之れ在り、 霊山浄土・多宝塔中・久遠
03     実成・無上覚王・直授相承本迹勝劣の口決相伝譜、 久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の
04     垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す。
-----―
 この百六箇抄は、具に本種を騰すの正法の実義、言い換えれば、末法の正法である南無妙法蓮華経の真実の義を、脱益の釈迦仏法、下種益の南無妙法蓮華経を踏まえて、あらゆる角度から本迹の勝劣を明確に立て分けることによって、正しく後世に相伝するものである。
 本因妙の教主であり、独一本門の本仏たる日蓮が謹んでこの相伝を要約して結んだのが百六箇抄である。
 末法万年、未来永遠にわたって民衆を救済するために法水写瓶の直弟子たる日興にこの相伝を授与するものである。
 これは、脱益仏法についての本迹勝劣を説いたものが五十条、下種仏法についての本迹勝劣を説いたものが五十六箇条であり、合計一百六箇条からなっている。
 また百六箇抄は、文上の意においては霊山浄土、多宝搭中において久遠実成の教主大覚世尊より、日蓮がたしかに直授相承された本迹勝劣の口決相伝書であり、文底の意においては、久遠元初以来無始無終にわたって常住する本因本果の教主 霊山に迹を垂れて上行菩薩とあらわれ、末法に独一本門の本仏として再誕した日蓮が詮要した相伝書である。

 この序として記述されている個所は、極めて簡潔な文章でありますが、ここには、百六箇抄のまさしく血脈抄である所以が明記され、更に本抄全体にわたる意味と概要が説かれているのであります。
 そこで、まず最初に、この序の意味を汲み取る前提とし、また同時に、百六箇抄の口伝を正しく理解するために、日蓮大聖人の仏法の根幹をなす哲理の一つである種・熟・脱の法門について概略しておきたいと思う。
種・熟・脱の意味するもの
 さて、種・熟・脱の種とは、種子を植えるという意味である。つまり下種のことであり、仏になる種子、仏種を植えることです。熟とは、植えられた過去の種子が、次第に育てられ、養われていきことを指し、脱に至って、下種された仏種が熟しきって、いよいよ成仏の境涯をあらわすのであります。
 仏の教法は、この種・熟・脱のいずれの功力をもっているかによって、下種益・熟益・脱益と分けて表現されます。
 たとえていえば、この大地に、植物の種子を植える。この種子を大地に植えつけるという利益が下種益である。大地におろされた種子は、土壌に含まれる豊かな栄養分と水分を吸収して、小さな芽を出すに至ります。
 その植物の芽に、陽光がさんさんと降り注ぎ、白雲が雨となって土壌を潤すにつれて、小芽は小樹となり、更には、天地を覆うような大樹へと成長していくはずです。その大樹には、生きとし生けるものが蘇生する春には絢爛たる花が咲き、灼熱の夏から万物成熟の秋の訪れとともに、見事な果実が枝もたわわに実るでしょう。
 同じく、衆生の生命という豊潤な大地におろされた仏の種子も、降り注ぐ陽光や栄養分をたっぷりと含んだ水分を得て、植物の種子が育ちゆくように、仏陀の慈悲の化導を得て、生命の大地から虚空に伸びゆく“生命の大樹”へと成長していくのです。
 時の流転とともに、この“生命の大樹”にも、華麗なる幸福の花が咲き、成仏の果実が豊かに実っていくはずであります。
 今、植物の生長過程を一つのたとえとしてあげたように、仏法もまた衆生の成仏にとって「種・熟・脱」いずれの利益をもたらすために説かれているのです。
 それ故に、壮大で深遠な哲理が説かれているとってもいつ、いかなる仏によって仏種が植えられ、また、この種子がどのようにして熟され、脱せられかという過程が明かされないかぎり、衆生の成仏にとっては全く空虚な教えとなり、架空のものとなってしまうのです。
 つまり、単なる論議・理論に終わり、現実の苦悩の衆生を救い得る実践力とはなりえないのです。「観心本尊抄」に「設い法は甚深と称すとも 未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)とある通りであります。この文の中に「化の始終無し」と述べられているのは、種・熟・脱の法門は換言すれば、仏の化導の始終を表していることにもなるとの意味であります。仏の仏種をおろす化導が、いつから開始され、いつ衆生を仏にする脱を迎えるかという“始終”であります。開目抄文段に「問う種熟脱の其の義いかん、答う即ち化導の始終なり」とあることからも、上のことは明瞭でありましょう。
 故に、衆生にとっては、いかなる仏によって下種され、熟脱されるか、つまり化導されるかが、重大な問題となるのであります。
衆生の生命開く仏法の化導
 仏法は衆生の生命の真実の姿に鋭く迫った哲学であり、深遠な思想です。とともに、日々、哀楽の交差に生きる人々の悩みといかに取り組み、それを打開するかという、なまなましい実践論でもあります。いかに高慢であろうが、理論のみに終われば、力なき哲理といわざるをえません。
 仏法に限らず、およそいかなる修行にも、いつ入門し、いかにして終了するかという、過程があるのは当然のことです。学校にも入学と卒業がある。書道や茶道等においても入門と免許皆伝というべきものがあります。スポーツなどにおいても、この法理はなんら変わるところはない。すべて、生命のなんらかの向上のためには、化導ということが必要であり、その始終が明確になってこそ、一つの道を極めたということができるのです。仏法は、生命の奥底から根本的な触発・向上・完成のための教えです。そこに種・熟・脱という衆生をいかにして導いていくかの化導の始終がなければならないことは、いうまでもないでしょう。
 いわんや、仏法の化導は、本来衆生の生命の内にないものを与えたり、上から下へ恩寵を与えたりするという類のものではない。元初の昔より衆生の生命に内在する尊き仏界の輝きを内から薫発せしめ、自ら悟らしめるための化導です。その故にこ・そ、それを涌現させるための作業が必要になってくる。「曾谷殿御返事」に「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056-14)とある通り、肥沃な大地から豊潤な果実をあらわしいだすための「植え手」が仏であり、仏法の指導者の役割なのです。
 更に化導ということについて論及するならば、仏とは仏の悟りをもって教化するということであり、導とは仏道に導くことです。言い換えれば、化とは生命の変革、転換せしめることであり、導とは転換せしめた生命を、より完成へと向上せしめることであるといえるでしょう。鉄縄門よりもなお堅く閉ざせれ、煩悩の苦に繋縛された衆生の生命の門を開くのが「化」であり、衆生の生命を、大河の流れのごとく、成仏の大海へと向かわしめるのが「導」であるとってもよい。
 したがって、化導する仏の如何によって、衆生がいかなる転換をし、いかなる道を歩むかが決定されるのです。先ほどの書道やスポーツの例でいえば、我流の人や、技術の未熟な人のもとでは、その域を越えることができないばかりか、正常な発達を阻害することさえもある。まして、幸不幸の根本の鍵である信仰において、いかなる師にも化導されるかが、その人の人生にあたって決定的な意味をもつことはいうまでもない。御本仏たる大聖人に化導を受け、その本眷族として自体を顕照できる私たちの福運を喜ぶべきです。
 ともあれ、種・熟・脱、化導の始終が明らかになったとき、初めて、生命の深き哲理が現実の上に燦然と光り輝くことを忘れてはならない。種・熟・脱の原理がなければ、仏法は無価値であるといっても、決して過言ではないのです。
 この種・熟・脱という重大事を、一切経のなかで初めて明確に説き示した経典こそ、法華経にほかなりません。「種熟脱の法門・法華経の肝心なり」(1072-05)との「秋元御書」の文も、そのことを明証しております。
釈迦仏法における種・熟・脱
 しかし、更に論じていけば、法華経に説かれた種・熟・脱の法門も、迹門、本門、文底と立て分けることが肝要であります。法華経迹門の立場では、過去三千塵点劫の時、釈迦が大通智勝仏の第16王子として、衆生に仏種を下したのが下種であり、釈迦在世今日に爾前経で仏種を養い育てたのが熟に相当します。法華経に入って迹門で未来成仏の記を授けられたことが脱になりましょう。
 本門の場合には、久遠五百塵点劫に下種し、大勝智勝仏及び今日の爾前・迹門までを熟とし、本門寿量品に至って得脱させるのが脱であります。
 以上の法華経・本迹二門の種・熟・脱の過程を見て明らかなように、いずれも釈尊の化導に終始していることが明瞭であります。故に法華経の文上の説法は、釈迦が過去においてすでに下種していた仏種を、熟し脱せしめるために説かれた法門であるといっても過言ではありません。化導される側の衆生もまた、釈迦有縁の衆生であり、このような機根の衆生を指して本已有善の衆生と称するのです。
本末有善の衆生を化導する大仏法
 ところが、末法という時代は、釈迦とは無縁の衆生、本末有善の衆生のみが出現して、五濁悪世の時代を形成しているというのが、大聖人の捉え方であり、また、仏法の眼からみた時代相の深い洞察であったのです。この本末有善の衆生に対する化導こそは、久遠元初の自受用報身如来による下種によらなければならない。その種子の本体は、寿量文底・三大秘法の南無妙法蓮華経なのであります。一生のあいだに種・熟・脱のすべての過程が一挙に具わるのです。更にいうならば、一瞬の生命の中に種・熟・脱を含むといってよい。「本因妙抄」に「因果一念の宗」(0891-04)とあるのはこの意であります。したがって、即身成仏が可能なのであります。これが、文底仏法における種・熟・脱の法門であります。
 若干、広く展開した論じ方になるかもしれないが、一生のあいだ、また一瞬の生命に種・熟・脱が含まれるという考え方のうえに立って、更に、大聖人と私たちの実践のあいだに種・熟・脱を論ずるならば、700年前、日蓮大聖人が出現され、大御本尊を建立されたのは、広宣流布の「種」を下されたことになります。今、私たちが広宣流布の春を迎えんとするのは、まさにその種子が薫発し、花開かんとしている姿であると考えられるでしょう。
 「三大秘法抄」にいわく「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(1023-10)と。また「四条金吾殿御返事」にいわく「大陣すでに破れぬ余党は物のかずならず、今こそ仏の記しをき給いし後五百歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん」(1181-13)と。すなわち、日蓮大聖人の出現が、後五百歳広宣流布の文の実証があるとの強き御確信の文です。大聖人は三大秘法の南無妙法蓮華経をもって、一切衆生の心田に下種された御本仏なのです。「御義口伝」にいわく「日本国の一切衆生は子の如く日蓮は父の如し」(0726-第四心懐悔恨の事-03)と。「総勘文抄」にいわく「一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり」(0568-02)と。
 日蓮大聖人の下種があり、日興上人以下の苦闘、そして創価学会において初代・二代会長をはじめとする多くの先輩の激闘が、その種を成熟させ、広宣流布の確かな流れが築かれ、開花したことを忘れてはならない。同時に、私たちの今日の戦いがまた、世界を舞台にした、より大きな広布史の下種作業となって、必ずや大輪の花を咲かせ、永遠に壊れざる果実を結ぶことも確信し、日々の着実な実践と取り組むべきであると思うのです。
妙法こそ一切衆生を救う根源の法
 さて、この南無妙法蓮華経という根源の種子こそは、三世十方の諸仏が仏になりえた、得道できえた究極の一法にほかならないのであります。
 秋元御書にわく「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と。
 また、日寛上人は「当流行事抄」において、玄文第七の「三世乃ち殊なれども毘廬遮那一本異らず百千枝葉同じく一根に趣くが如し」の文を引いて「本果の釈尊は万影の中の一影・百千枝葉の中の一枝葉なり・故に本果の釈尊の外更に余仏有るなり、若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受用身は一月の如く本の一根の如し・故に余仏無し・当に知るべし余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり」と、更に「横に十方に徧じ竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」といわれております。すなわち、日蓮大聖人は、あらゆる仏の本種である南無妙法蓮華経を説かれ、本末有善の末法の衆生に、直ちにこの究極の法門を下種してくださったのであります。これを下種益の仏法というのです。これに対して釈迦仏法は、すでに下種した衆生の仏種を熟し脱せしめることに焦点を定めた仏法ですから、脱益仏法と称するのです。
 その結果、化導する側の仏の身と位にも根本的な相違が生じます。すなわち、脱益の仏法の仏は色相荘厳の極果の位であり、下種仏法においては凡夫即極、名字究竟の位です。この故に、脱益仏法を本果妙、下種益の仏法を本因妙というのです。
 この本因妙・本果妙ということについては、後に詳しく論じていきたいと思っております。
 なお、脱益の釈迦仏法が、一切衆生を脱せしめたかというと、そこにおのずから限界があった。釈迦仏法の最高峰たる法華経においても、五千の上慢の方便品における退座をとどめることはできず、化導することはできなかった。また、虚空会の説法にあたって、宝搭品で三変土田して国土を荘厳した際も、四悪趣の衆生・諸天人は他土に置かれ、その化導に浴することはできなかったのです。一切衆生皆成仏道の法華経においても、現実には化導に漏れる衆生があったということであります。
 日蓮大聖人は、御自身を旃陀羅の子といわれ、貧瞋癡の三毒熾盛の凡夫身であることを明確にされて、一切衆生と同苦しながら救うことを宣言されている。その故にこそ、三類の敵人いよいよ強く、大聖人の前途に現われたのであり、また私たちの広布達成の道程にも立ち塞がるであろうことを忘れてはならないのです。大乗の精神とは、多くの衆生を彼岸に到らせるところにあり、どれだけの衆生を化導し成道せしめるかに法の勝劣があるとするならば、下種仏法と脱益仏法の根本的勝劣は、ここに明確にあることを知っていただきたい。万人に光を与えるに力至らぬ脱益仏法を月にたとえ、遍く全人類に、さんさんと功徳の慈光を注ぐ下種仏法を太陽にたとえられたのも、むべなるかなと思うのです。
 このような釈迦仏法を迹として、日蓮大聖人の仏法を本とし、その勝劣を106箇の箇条として説かれたのがこの百六箇抄なのです。
 次回からは、この本迹、つまり本抄の末文にある「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の文のごとく、なぜ本迹を立てるかということについて、文を追って論及していきたいと思います。

第二回top

 百六箇抄はいうまでもなく、106箇にわたる本と迹の立て分けを論じた御抄です。種に56箇、脱に50箇の立て分けがなされております。脱の50箇は釈
迦仏法における本迹の立て分けであり、種の56箇は釈迦仏法の本迹をともに「迹」日蓮大聖人の仏法を「本」とする立て分けであります。
釈迦仏法に遥かに勝る独一本門
 このことについて、日寛上人の「観心本尊抄文段」には「本迹の不同実に天地の如しと雖も、若し文底独一の本門の事の一念三千に望み、還って彼の迹本二門の一念三千を見れば殆ど竹膜を隔つとなり」とあります。
 すなわち日蓮大聖人の仏法からみるとき、釈迦仏法にける本迹の相対がたとえ天地水火の相違であっても「竹膜を隔つ」にすぎなくなるのであります。
 日寛上人は、これをたとえて、一尺と一丈との差は大変なものであるが、十丈からみれば、その一丈と一尺の差はわずかなものになると述べられている。
 もう少し今日風にいうならば、ちょうど10㎝の草花と10mの大木を地上で見ると天地のような差であっても、空から見れば、両者の差はほとんどなく、竹の節と節の間にある膜を隔つほどしかない、ということになります。このたとえは、日蓮大聖人の独一本門の仏法が、釈迦仏法に比し、いかに高く勝れたものであるかを述べているのであります。
 大聖人の仏法においては、迹門は理であり、事の仏法である本門からみるならば、はるかに劣り、どこまでも事を根本にすべきであることが説かれています。
 「理」とは、いうまでもなく理論であり、「事」とは、一往、事実の姿であるといってよいでありましょう。「治病大小権実違目」にいわく「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」(0996-07)と。
 また更に、今度は釈迦仏法全体を迹として、日蓮大聖人の仏法を本、独一本門として、同じ「治病抄」の最後には「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり」(0998-15)と説かれています。これは、釈迦仏法としての天台家の仏法全体を迹門の理観とし、日蓮大聖人の仏法を事の仏法と立て分けられているのであります。
 では、なぜ本門の事が勝れ、迹門の理が劣るのでしょうか。
 それは、理も重要でありますが、現実に人々を教えるか否かということが、仏法の最重要問題であるからであります。
 天台大師が表現した内容に「本より迹を垂る」という言葉があります。迹より本が生まれるものではない。「本」を事実、「迹」を理論とするならば、「本」たる事実から「迹」の理論が位置づけられてくるのであります。理論は一つの物差しである。したがって理論は事実を説明する規範とはなりうるが、それがすべてではない。作々発々と振る舞う生命自体が事で、その事実から普遍化されたものが迹門であります。
 もし、迹理を根本といていくならば、「天月を識らず但地月を観ず」とあるがごとく、仏法の生命力を失い、教条主義に陥り、固定化、ドグマにとらわれた行き方になってしまうことは、幾多の現実社会、ならびに歴史をみても知悉できるところであります。
 これに対し、事を根本とするならば、雄大な宇宙生命のリズムを奏でながら、しかも、そこに普遍性の理を伴いつつ、時代社会をリードし、常に新鮮な息吹をたたえて進むことができるのであります。
 本来、仏法は一個の人間生命それ自体が真理であり法であると洞察したこころから出発しているのであります。真理を人間生命を越えたところにあるとし、その心理から人間を規定するものではない。そのことを最も明瞭に宣言されたのが日蓮大聖人の仏法なのであります。
 「三世諸仏総勘文教相廃立」にある「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(0563-17)とのあまりにも有名な御文は八万四千という膨大な量に広がった経典も、詮ずるところは、一個の人間の生命を記述したものであり、それを一歩も出ないとの結論であります。
 この「人間」という一個の生命の事実相から出発し、人間、社会、宇宙の振る舞いに顕現するのが事の仏法であります。逆に理の仏法とは、生命の事実相を抽象化し、理論化したものであります。
 戸田先生はよく迹門の理は家の設計図に、本門の事を家それ自体にたとえられて、わかりやすく説明されましたが、迹門はあくまで、作々発々と振る舞う生命自体を設計図として描いたものにすぎない。設計図はどこまでも設計図です。どんなに精密な設計図を幾枚重ねても、遂に生命そのものとはならないでしょう。
 もう少し卑近な例でいえば、恋愛とは何かという説明は「理」であります。事実、胸中に脈打つ燃ゆる感情そのものは「事」であります。これと同じように、例えば、いかに一切衆生に仏界があると説かれている法華経の真理を認識しても、それ自体、仏界の事実の顕現とはならないのであります。
本仏の生命に触れることが大事
 また、釈迦仏法には、三千塵点劫、五百塵点劫という長遠な過去にさかのぼり、そこに深遠な哲理が秘められているかのごとく、精密な理論を展開していますが、やはり一幅の設計図にすぎず、本源の生命そのものを指し示すための手段なのであります。
 総じて、哲学や思想というものが、慨して民衆から遊離し、観念的な理に低迷しているのも、ひとえに、人間を人間たらしめている生命そのものを全体として把握しきれていないからこそであると思います。
 日蓮大聖人は、三千塵点劫、五百塵点劫という一時点を想定する幻想の過去をたたき破って「久遠元初」「久遠即末法」「久末一同」と説かれたのであります。
 今、ここに、鼓動し、律動し持続しつつある生命それ自体を凝視し、久遠より流れる法と力を見いだし、そこに一切の淵源があると喝破されたのであります。
 「久遠即末法」とは、大御本尊即日蓮大聖人の御命のことであります。大聖人の命そのものが久遠元初であり、もったいなくも、御本尊に南無して唱題する私たちの生命もまた久遠元初に生きていくのであります。
 「観心本尊抄文段」には「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」と述べられているとおりであります。
 以上にみてきた、本迹、事理の勝劣は、また、私たちの生活やあらゆる行動、振る舞いに応用展開できるのであります。
 まず、私たちの信心の基本である信・行・学が、なぜこの順序になっているかについても、事と理の立場から明瞭になるのであります。
 たとえ、仏法実践の姿勢なく、どんなに御書を訓詁注釈的に拝読しても、そこには、末法の御本仏・日蓮大聖人の生命の鼓動はない。不変真如の理の教学には、信心の血脈はない。ただただ、南無妙法蓮華経を唱え弘教に励む私たちの一念の作動のなかにしか大聖人の仏法は存在しえないのであります。
 大聖人御自身も、現実の変革を遂行する実践、振る舞いのうえに相関して、経文を身読されていたからであります。
 開目抄の「勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」(0202-11)とも、また「日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」(0202-14)等の言葉はその証明でもあります。
 御書は、この大聖人の実践行の結果書き留められたものであります。それ故に、私たちもまず、御本尊への絶対の信を根底とし、更に、広宣流布という民衆救済の実践行を振る舞う生命の躍動のうえに、御書を拝読したときに、日蓮大聖人の久遠元初の御生命に直接触れることができるのであります。つまり、本仏の御生命に我が生命が触れること、感応することが「本」でり、事であり、随縁真如の智の教学となるのでありあす。
 実践もなく、歓喜もなく御書を教条的に読んであるのは理であり、迹であり、偏狭とならざるをえない。したがって、信・行・学の順は、決して変えることのできない、私たちの信心修行の鉄則なのであります。
本迹とは生き方の規範
 以上、「事」と「理」の観点から述べてきましたが、それは迹門が「持続し動いている生命」をいったん固定化させ、その断面図を分析しているから理なのであり、本門は、その生命を、流れるうえからの事実の把握をしているから事であると、私は考えるのであります。その意味から、迹門は「空間」の側面、本門は、それを含めて「時間」に焦点があてられているとも論ずることができます。
 例えば一人の人を見る場合、その人のある一時点の行動や振る舞いを見て、それだけでその人の人格を決めるのは、部分観で、横に空間的な側面を切って評価したにすぎない。  本門の全体観は、ある一時点の行動や振る舞いをそれだけで評価せず、その人の過去にしてきた行状、振る舞いや未来への可能性を含めて、過去・現在・未来という時間的流れに拡げて捉えていく立場となります。
 空間的な迹門の捉え方とは、活動し変化している人間の生命を、現在の一時点で立ち切り、その断面を見るものです。時間・空間にわたる本門の捉え方は、横の断面を見ると同時に、それをもう一度、縦に過去・現在・未来と流れる時間に即して、変化流動のなかに捉えていくものです。どちらのほうが、よりよく人間を捉え得るかは、おのずから明らかでしょう。  少しこれを、わかりやすい例をもって示してみよう。
 ギリシァの哲学者ゼノンが唱えた有名な逆説の一つに「飛ぶ矢は静止している」というものがあります。
 飛んでいる矢であっても、その一時点をとらえれば静止している。例えば飛んでいる矢を高速度カメラでとったとき、止まっているように見えるのと同じです。その止まっている矢を、いくら継ぎ合わせても、ゼロにゼロを加えているようなものであり、矢は前へ進まない。したがって飛んでいる矢は静止していることになる というものです。  これは、一時点をとらえた矢を表面的にしかみないところに、根本的な誤りがある。止まっているように見える矢も、運動しようとする力と方向、エネルギーをもっております。したがって全くの一点だけをとらえて止まっているように見える矢も、それに加えて一定の時間として見るならば、早いスピードで飛んでいることがわかる。運動している物体は、一時点の断面だけでなく、連続した時間のなかでみるべきことを教えた原理であるともいえましょう。
 また、私たちの五陰仮和合の生命は、一瞬もとどまることなく動いている。エネルギーに満ちた存在です。これを一時点の断面だけでみようとするのは、あたかも飛んでいる矢を静止させてみようとしているようなものでありましょう。「因」と「果」の織りなす連続した時間のなかで生命を捉えてこそ、真実相に迫りうるのではないでしょうか。本門が迹門より一歩深い洞察に立っているのは、この観点からもいえると私は思うのです。
 この関係を釈迦仏法でいえば、迹門では、始成正覚の仏と説かれ、釈尊の仏としての生命は、今世にはじめて生じたもので、その根源が明かされていません。また、本門寿量品において五百塵点劫の昔に仏になったことが説かれたとしても、それも、ただその原因は、菩薩道を行じたというだけで、結果のみが表になっています。
 それに対して、御本仏・日蓮大聖人は、大宇宙とともに、元初よりの南無妙法蓮華経を説き明かし、それを大聖人の事実の行動のうえに顕現されたのであります。まさしく、一個の生命に律動している根源の大リズムを捉えたというべきでありましょう。
 以上、本迹相対が、私たちの生活、ものの見方、考え方にまで、応用・展開できることをみてきましたが、「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の本抄の末文のごとく、一切にわたって本迹ということがあるのです。本迹とは、たんに仏法上の原理ではない。私たちの行動原理であり、また、生き方の規範そのものであると申し上げておきたいのであります。
 これから序分に入りますが、序分の一つ一つは重大な意味をもっております。一つの問題を論ずるのに、相当の時間をかけて論じなければならない問題が含まれているけれども、本文のなかに含まれているものもあるので、ここでは簡単に説明しておきたい。
釈迦仏法は本種=妙法を指向
具謄本種

 この文は、妙楽大師の法華文句記巻一にある「雖脱在現・具謄本種」から引かれたものであります。「脱は現に在りと雖も、具に本種を謄す」と読みます。
 したがって、この文の意味は、釈迦仏法では、所化の衆生は、寿量品の説法を聞いて得脱したとするのであるが、その成仏の根本をたずねてみれば、寿量文底に久遠の下種が蔵されており、その本種を覚知することによって妙覚の位にのぼりえたのである、ということになります。「謄」とはあげる、登らせるの意で、脱益の経文に謄写版のごとく、種の仏法が浮かび上がっているとの意味です。
 釈迦仏法の衆生は、修行によって、あるところまでさかのぼると、文底仏法を悟る衆生なのです。寿量品を開いて得脱した仏のようであるが、寿量品の文底にある南無妙法蓮華経を悟って成仏したのです。したがって、文底の目より見れば、寿量品そのものが下種の仏法を浮かび上がらせているのです。
 ですから、釈迦仏法は大聖人の仏法に至る説明書であるといってもよい。釈迦が寿量品で一体何を説こうとしたのか、大聖人の生命には、ありありと浮かび上がっていたにちがいありません。
 大聖人の眼からみるならば、二十八品の文々句々がすべて南無妙法蓮華経を明らかに示していたことでしょう。「撰時抄」に「迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親.乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)とあるとおりです。二十八品ことごとくが、大聖人のお振る舞いの説明であり、御本尊の説明となるのです。
 釈迦仏法は「脱益」です。釈迦仏法に含まれているものは、すべて南無妙法蓮華経の指向です。言い換えれば、在世の衆生のために説かれたかにみえる法華経も、再往は滅後の衆生、なかんずく末法の衆生のために、南無妙法蓮華経を秘沈しつつ説いた法であるかということが具謄本種なのです。
 この原理は、仏法に限らず、すべての思想、学問に通ずることでもあります。いかなる学問も、求めるところは究極の一法、すなわち本種であることはいうまでもありません。
 物理学の分野において、粒子論を打ち立てたハイゼンベルグは、大宇宙の根本法則ともいうべき「宇宙方程式」を提示したことがあります。この方程式自体当否は物理学の問題でありますがその試みそのものが、物理学の視点からの「宇宙の原理」への肉薄であると思う。
 物質を構成する根源的な粒子を追求してあらわれた素粒子も、その数が数百に増えるや、更に根源的な基本粒子の追求がなされ、相対性理論と粒子量の統一への試みもなされることは、まことに興味深いことです。
 また、心理学の分野は近年、画期的な進展をみせていますが、人間生命の奥深く目を向けたユング心理学等では、生命の最も奥底に「自己と名づける当体を設定している。人間生命の奥底に、自己自身としか名づけられないような当体を見いだしていることも、まさに「本種」をさぐろうとする努力であるといえましょう。
 さまざまな分野で求めようとしている本種の、更に奥底にある根源の種子こそ、南無妙法蓮華経です。これは、すべての分野の土台となる哲学・思想の「宇宙方程式」であり、真実の「自己」の当体でもあります。あらゆる学問・思想は、やがてこの根源の種子に接近するであろうことを、私は深く確信してやまないのです。
大聖人は成仏の根本因を植える仏
本因妙の教主

 本因妙の教主とは、本因妙の仏法を説く仏であり、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人である。
 日蓮大聖人を本因妙の教主と呼ぶ理由は、次の文底秘沈の問答のなかに明瞭に記されています。
 「文底秘沈抄」には「問うて云く教主とは応に釈尊に限るべし、何ぞ蓮祖を以て教主と称すや。答う釈尊は乃ち是れ熟脱の教主なり、蓮祖即ち是れ下種の教主なり。故に本因妙の教主と名ずくるなり」とあります。
 教主とは、自らの体得した法をもって民衆を教化する人をいうわけですが、仏法において教主といえば、ただ釈迦に限ると思っている人もいるでしょう。
 しかし、釈迦は、過去に下種された衆生の仏種を、熟し、脱せしめる教え、つまり脱益仏法を説く仏にすぎません。釈迦の教法には、熟・脱の功徳をそなえているにすぎないのです。下種を本因とするのに対して、熟・脱は本果となりますから、釈迦を本果妙の教主と呼ぶのです。
 また、寿量品の釈迦といえども、本果第一番成道を遂げた久遠実成の仏にすぎないのです。仏の資格からいっても、釈迦は本果妙の仏となるのです。
 ところで大聖人は、本末有善の衆生に、成仏の根本因たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植える仏ですから、本因妙たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植え付ける仏ですから、本因妙の教主に名づけるのであります。大聖人の仏法には、種・熟・脱の功徳がことごとく内包されていることはいうまでもありません。
 また、大聖人の本地は久遠元初の自受用報身如来ですから、本因妙の仏と称するのです。このことについては、本文に入って再び展開することにします。
 久遠元初自受用報身の再誕としての日蓮大聖人こそ、本果妙の教主・釈尊の仏法を遥かに越える本因妙の大仏法を説示する本仏であり、末法万年の衆生を救済できる教主のです。
「本因」の姿勢こそ未来を開く鍵
 恩師戸田城聖先生は「本因妙の仏法」についての講演で、生命論のうえから、大要次のようなことを話されたことがありました。
 生命は厳然たる因果の法則に支配されており、しかも瞬間の連続であり、瞬間以外には、生命の実在はない。
 私たちは、その瞬間に幸福を感じ、不幸をみ、希望をもったり、失望したりする。まさに瞬間こそが、生命の全体といえる。
 この因果に支配され、幸・不幸を感ずる瞬間を「因」「果」のいずれの視点から捉えるかによって、実は未来の発展があるか否かが決定される。すなわち、瞬間を過去からの「結果」であり、結実のみがすべてであると考えるのが「本果」、つまり釈迦の仏法である。ここには、もはや未来の発展はない。
 これに対して、瞬間を未来の「原因」とする、あるいは「原因」でなければならないと決定するのが「本因」つまり日蓮大聖人の仏法である。
 しかもこの「原因は」、久遠に通じた原因であって、根も深く、理も法界に徹している。即ちこの「原因」とは、南無妙法蓮華経である。
 したがって、本果妙の仏法である釈迦仏法との相違は天地雲泥である。私たちが本因妙の仏法の根源の当体である大御本尊を信じ行じていくならば、いかなる困難をも変毒為薬できる。その生活は、久遠の因を根本とした活動であり、大御本尊の功徳によって測り知れない生命力が湧現し、仏力・法力による確たる結果が生ずるのである。
 この戸田前会長の講演は重大な内容を示していますが、これに基づき生活に約していえば、本因妙とはひとくちでいえば、常に出発点に立っていく行き方です。過去の栄光に包まれて功績等に生きる生き方は脱益であり、過去の人です。常に未来に生きる人こそ、本因妙の人であるといえます。
 御本尊にも「現当二世」とありす。御本尊がすでに本因妙です。故に、本因妙の人、常に前進の息吹を満々とたたえている人が、御本尊と境智冥合できる人であることを知ってください。退く人、過去を追っている人は御本尊と境智冥合できる道理はないのであります。
上行は大聖人の生命の働き
霊山浄土・多宝塔中・久遠実成・無上覚王・直授相承本迹勝劣の口決相伝譜

 この文は、大聖人が地涌の菩薩の上首である上行菩薩として、法華経の会座において、本迹勝劣の口決相伝を久遠実成の釈迦より直授相承せられたことをあらわしています。
 法華経の文上の義にのっとおっていえば「霊山浄土」とは、宝搭品の説法が行われた場所でありあす。「多宝搭中」とは、宝搭品の儀式の時、宝浄世界から湧現した七宝の搭の中という意味があります。「久遠実成・無上覚王」は、五百塵点劫に成道した無上の覚者、つまり仏をさします。
 上行菩薩は六万恒河沙の地涌の菩薩の上首として、神力品において釈迦滅後末法に法を弘めるために付嘱をうけたと、法華経には明記されております。
 これをうけて日蓮大聖人は「三大秘法稟承事」に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(1023-05)と述べられています。いまここで記されている文は、この「三大秘法抄」の文意にも通じることでしょう。
 日蓮大聖人が多宝搭中において久遠実成の釈尊より口決相伝されたといわれていることについては、更に深義があります。
 文底より論ずれば、その霊山の座は久遠の座であり、その立場に立てば、釈尊とは無作の報身、多宝とは無作の法身を意味しています。そしてその座に集まった十方分身の仏とは、無作の応身を意味します。
 すなわちこの文は、無作三身の生命を継承したという意味がこめられているのです。
 更に上行菩薩として、妙法を直受相承されたことにも言及するならば、上行とは常楽我浄の四徳波羅蜜に配していえば「我」にあたり、それは永遠に持続する生命そのものをいいます。すなわち大聖人が上行菩薩であるということは、永遠に続く生命、妙法それ自体であるという甚深の意味が含まれていると拝することができましょう。
 上行は日蓮大聖人の御生命の働きの名であります。内証は久遠元初の自受用報身如来であることはよくご存知のとおりです。その久遠元初の自受用報身如来の生命を継承したということをまさに明らかにされたと拝さなければなりません。
 その故にこそ、このあとの文で、本因本果の主として大聖人が詮容されるという内容が続くのです。
 法華経は釈迦己心の説法であるとは、戸田先生の教えであります。とするならば、虚空会の儀式も、歴史的な事象として捉えるのではなく、生命と生命の荘厳なるドラマであると洞察してこそ、法華経を真実に読んでいることになると申し上げたい。
大聖人こそ久遠元初の仏
久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す

 この文は、文底の意にのっとった解明であります。「久遠」とは久遠元初であり、「名字」とは名字凡夫の位を指します。「本因本果の主」とあるのは、本有常住の十界の因果を具時にそなえた仏、という意味であります。
 故に「久遠名字より已来たる本因本果の主」の文は、久遠元初において、名字凡夫位のままで、我が身は即妙法の当体であると開悟され、即時に、究極の仏果が得られてより以来、すなわち無始無終にわたって常住する本因本果の主である、と拝せるのであります。
 これ、日蓮大聖人の久遠元初における成道であり、久遠元初の自受用報身即日蓮大聖人の生命が、永劫の過去から無限の未来にわたって本因本果の主として常住されていることをあらわした御文でありあす。
 さて、日寛上人は「文底秘沈抄」において、この文全体を引用された後、次のように教示されております。
 「若し外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若し内証深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知りぬ本地は自受用身・垂迹は上行菩薩・顕本は日蓮なり」と。
 この場合、外用浅近とは、衆生を教化するために外面にあらわされた働きを指します。
 つまり、法華経文上に記された儀式にのっとった姿をいいます。外用の姿は、まだ大聖人の生命の、浅く近い辺をあらわしているにすぎません。
 これに対し、内証神秘とは、大聖人の生命内奥に実証された本仏の境地そのものを指しています。究極の境地は、生命の奥深く秘沈されているものであります。
 ところで、外用浅近の立場からすれば、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。
 大聖人は、法華経神力品において、本化地涌の菩薩の上首として、末法における妙法弘通の別付嘱をうけられました。そして、末法に生をうけられた大聖人は、法華経の予言どおり、妙法を弘通されたのであります。
 しかし内証神秘の立場から論ずれば、大聖人はまぎれもなく久遠元初の自受用報身如来であられます。大聖人の悟りの生命は、久遠実成の釈迦を遥かに越えた久遠元初の本地の境地そのものなのであります。
 もし大聖人が単なる釈迦仏の使いであるとすれば、釈迦仏法の力が消滅する末法の世に出現されても、何の意味もないことになってしまうでしょう。
内証深秘に肉薄する信心が大事
 日蓮大聖人は本地自受用身の再誕として、本末有善の一切衆生を救済しうる久遠の大仏法を掲げて、末法に出現されました。これ内証神秘の「辺」であります。
 故に「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」の文は「再誕」の文字を「本地自受用報身」と「垂迹上行菩薩」の両方にかけて拝していかなければなりません。
 すなわち「垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」と読めば、外用浅近の辺になります。「本地自受用身の再誕・本門の大師日蓮」と読んで初めて、内証深秘の領域に達するのです。
 事実大聖人は、上行菩薩としての外用の姿をあらわされながらも、竜の口の頸の座において発迹顕本されております。
 開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)とあるように、大聖人は頸の座において、上行菩薩の再誕としての迹の姿をはらわれ、久遠元初の自受用報身の再誕としての本地の生命を開顕されたのであります。
 この発迹顕本を指し「文底秘沈抄」には「顕本は日蓮なり」と述べられています。
 したがって「百六箇抄」は、文底の意からすれば、本地自受用報身が霊山においては垂迹上行菩薩とあらわれ、末法には独一本門の大師として再誕された日蓮大聖人の詮要した相伝書であるということになるのであります。
 以上のべてきたように、大聖人は久遠元初の本仏の生命をあらわしているのでありあす。また、そして、この久遠元初の仏としての生命をそのまま御本尊として顕わされ、万年の未来のために残されているのであります。ゆえに私どもの信心に約して拝すれば、元初の生命はただ御本尊への信心の二字のなかにあるのです。
 私たちの生命は、過去遠遠劫からの宿命を背負い、また染法の厚い雲に覆われているかもしれない。しかしながら、久遠元初の生命は、それより更に淵源となる太陽であります。したがって、それが塵埃、雲をすべて払拭していける、最も偉大な生命を、我が胸中に湧現させていくことができるのです。
 釈迦仏法が、過去遠遠劫よりの宿業を、遥かな歴劫修行の山河を越えて解決しなければならないのに対して、受持即観心の透徹した信心で瞬時に転換し、晴れやかな人生を開くことができるのも、大聖人の久遠元初の力強き生命を、我が胸中に湧現させるからであります。

第三回top

 いよいよ今回から百六箇抄の各項目の部分に入ってくわけでありますが、本抄における記述は、まず脱益仏法の立場を論じ、次に、下種仏法の本迹にうつるという順序になっております。しかし、大聖人の正意が「種の上の本迹勝劣」を明確に論じることにあることはいうまでもありません。
 そこで私は、この講義にあたっては本抄の順序を異なってまいりますが、最初から下種仏法の本迹の項目を中心に拝していきたいと思います。つまり「種の上の本迹勝劣」の項目をとりあげ、それを論じるなかで、必要と思われる脱益部分の該当部分にも論及していく方法をとってまいります。
01   事の一念三千・一心三観の本迹         釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり、南無
                           妙法蓮華経は本なり。
-----―
 まず、表題の「事の一念三千・一心三観の本迹」というのは、「事の一念三千」と「事の一心三観」との「本迹」ということであり、「事の」というのは一念三千・一心三観の双方にかかるのである。
 そして、一念を本・三千を迹、一心を本・三観を迹と立て分けるのであります。

人法体一の深理を顕す
 結論からいえば、事の一念三千とは、御本尊であり、事の一心三観とは、日蓮大聖人の無作三身の御振る舞いであります。
 しかも、それは、「法」と「人」の関係を表しており、事の一念三千が法となり、事の一心三観が人となるのであります。「事の一念三千・一心三観」で人法体一となっているのであります。
 まず、事の一念三千、すなわち御本尊の相貌についていうならば、中央の「南無妙法蓮華経・日蓮」が事の一念三千「一念」にあたります。左右の十界三千は南無妙法蓮華経の力用であり、大聖人の仏法における事の上の迹となるのであります。
 次に、一心三観の「一心」とは、日蓮大聖人の一念の心法であります。すなわち、それは南無妙法蓮華経の御生命であります。
 したがって、この御生命から発するところの御本仏の衆生を救う振る舞い、民衆を救う智慧、それらの双方を備える本仏・日蓮大聖人の御当体がすべて南無妙法蓮華経の三身であるとの悟達を一心三観というのであります。
 日蓮大聖人の御当体についていえば、一念の心法である南無妙法蓮華経が「本」となり、そこから、現われた三身は「迹」となります。
 ここでいう迹は、日蓮大聖人の仏法と釈迦仏法を相対した上でいわれるものではなく、いうなれば「体」に対する「用」の意味に使用されているのであります。
 本文の「釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり」とは、御本尊左右の十界三千を意味します。文中「唱る」とは、左右の十界三千ことごとく南無妙法蓮華経と唱えている姿であり、本有の尊形となるのであります。
御本尊受持が事の一心三観
 今度は、事の一念三千を私達の信心の対境である御本尊とするならば、事の一心三観とは私達の信心修行に約すことができるでありましょう。
 信心に約せば、「一心三観」の「一心」とは、私達の信心の一心であり、「本」であり「体」になります。「三観」とは私達の御本尊受持の姿、行動であり、これは「体」に対して「用」となる。
 すなわち、私達が御本尊を信ずる「一心」という本から出発して、一切の生命活動を行ない、生活を送っているというのが、まさに、事に基づいた用なのであります。
 釈迦仏法においては、一念三千の「一念」、一心三観の「一心」は、宇宙普遍の理である妙法蓮華経をあくまで理として説かれたにすぎないのであります。したがって、そこから三千の法を説き、一心を内観するとはいっても、理の領域を出ないのであります。
 「脱の上の本迹勝劣」では次のように述べられています。
    (本迹)     (本迹)
01   理の一念三千・一心三観本迹          三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義理の三千は釈迦諸仏の仏
                           心と妙法蓮華経の理観の一心とに蘊在せる理なり。(0854)

 この場合、一念三千が境、一心三観が智となることはいうまでもありません。
 釈迦仏法においては、一念を三千と観じていくのが一心三観であります。いいかえれば、三千世間を空仮中の三諦と観じていくことが一心三観であり、つまり一心三観は一念三千を自身に観じていく方法であります。
 それ故に、釈尊三世の諸仏が一念三千・一心三観によって成道したといっても、結局は理にすぎないのであります。したがって、義理の一念三千では、真実の三世諸仏の成道はない。事の一念三千にいたって、三世十方の諸仏、また、あらゆる衆生の成仏の道が開けるのである。「南無妙法蓮華経」という根本の法理、電源に通じてこそ、一念三千という電灯に、灯が点ぜられるのであります。
 私達の場合は、さきほども述べた通り、事の一念三千が御本尊になり、その御本尊を信受することが受持即観心で、事の一心三観になるのであります。
 ありがたいおとに、下種・独一本門の仏法を持った私達は自らが苦しみ、悩み、ある場合は楽しむのも、一心の妙用としてあらわれる南無妙法蓮華経の所作であります。つまり、妙法という大網の中に動きゆく網目であるといってよい。
 迹といっても、本に基づかない迹というのではなく、独一本門という確固とした基盤に立った迹であります。あたかも一念の働きを心王と心数に分けたとき、心王を本とし、心数を迹とするごときものであるといえましょう。
 妙法を知らない人々は、大網を失ったようなものです。機関士や、そして、羅針盤を失った船のようなものであります。また糸の切れた凧のごとく人生の大海、大空を放浪者としてくるしまなければならない。
 私達は、久遠の一念に淵源を発しながら、あたかも名機関士を得た大船のごとく、人生の大海を航行し、また妙法という自己の生命の糸に結ばれて、裕然と大空を舞うがごとき人生となっていくことを誇りとしていきたいものであります。
久遠即末法の原理を展開
02   久遠元初直行の本迹          名字本因妙は本種なれば本門なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の
                       迹なり、久遠釈尊を口唱を今日蓮直に唱うるなり。
-----―
 まず、表題の「久遠元初直行」とは、久遠元初の南無妙法蓮華経を末法今日、直ちに行ずることをいい、それは即ち、御本仏・日蓮大聖人の下種仏法そのものであります。
 本文に入って「名字本因妙は本種なれば本門なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり」とあります。名字即の凡夫が行ずるこの下種仏法が「本」であり、釈迦仏法はその「本」より出でた「迹」であるとして、その勝劣を論じられているところであります。
 ここで、名字本因妙は、下種の日蓮大聖人の仏法、本果妙は脱益の釈迦仏法であることはいうまでもない。

 「久遠釈尊を口唱を今日蓮直に唱うるなり」の久遠とは久遠元初のことであります。
 釈尊とは、仏の異名であり、したがって、久遠の仏とは久遠元初の自受用報身如来のことであります。久遠元初の仏が唱えた南無妙法蓮華経を日蓮大聖人はそのまま唱えられているという意味であります。
 この「直」の言葉には深い意味がこめられています。それは、本果妙が「余行に渡る」ということに相対する言葉であります。
 この「余行に渡る」については、後に説明いたしますが、ともあれ、日蓮大聖人は、釈尊の如く、自らを色相荘厳して飾り、様々な教説を説きながら衆生を導いていったのではなく、直ちに久遠元初の南無妙法蓮華経を末法において唱えられ流布されたのであります。
 この御文の内容には、重大な意義をはらんでおります。それは釈尊の日蓮大聖人の仏法との勝劣相対にとどまらず、まさに、末法今時の修行がそのまま、久遠元初であることを意味し「久遠即末法」という大原理が展開されているのであります。
 そのことについては、この項目の最後に、ふれたいと思います。
成仏の本因明かさぬ釈迦仏法
 まず、順序を追って、今までのことと若干重複いたしますが、釈迦の本果妙の仏法と日蓮大聖人の本因妙の仏法との関係を明らかにしていきたい。
 釈迦は法華経如来寿量品第十六において、それまでの始成正覚の立場を打ち破って、五百塵点劫の成道、すなわち久遠実成を説き明かしました。
 「我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫」との宣言こそ、法華経本門の眼目であり、骨髄であったのであります。
 久遠実成を明かした釈迦は、五百塵点劫に証得した仏果をもって、一切衆生を自らの境涯と等しくするために、以来、五百塵点劫において結縁した衆生が住するところの娑婆世界に常に垂迹し、種々の方便をもって衆生を化導し利益してきたことをもあわせて寿量品で説いたのであります。「娑婆世界説法教化」「常住此説法」等の説法はそのことを示しております。
 しかしながら、五百塵点劫に成道した釈迦はあくまでも久遠元初の妙法を因として仏果を得た果分の仏にすぎないのであります。
 しかも、釈尊は、その果分を本地として中間、今日の説法や化導を展開してきたことを述べるだけで、自らが成道し得た肝心の久遠元初の本因については、最後まで明かされなかったのであります。
 もっとも、五百塵点劫に成道するために行なった修行については「我本行菩薩道」とだけは示されているのではありますが、ただ菩薩の修行をしたことを述べるのみで、何時、いかなる方法により成仏を得たかについては、ついに明かされておりません。それ故、釈迦仏法を本果妙というのであります。
 それに対し、久遠元初の本因下種たる南無妙法蓮華経は三世十方の仏菩薩の能生の根源であります。日蓮大聖人は、本因下種の南無妙法蓮華経を「我本行菩薩道」の五十二位の本因初住の文底に見いだされ、元初の妙法こそ釈尊の五百塵点劫成道の根源であり、本源力であったとされたのです。
 この三世諸仏の成道の本因たる南無妙法蓮華経を一切衆生に直ちに説かれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人なのであります。それ故に、本因妙というのであります。
 以上の本因妙と本果妙の関係をもとに本文を読めば、名字本果妙とは、名字即のまま究竟即であるという因果倶時・不思議の一法たる南無妙法蓮華経であります。この原理は、実は重大な哲理であり、これについては後にゆずるとします。
 さて、妙法は本種、すなわち、三世十方の仏を成仏させた根源の種子であるが故に、本門中の本門、独一本門の法門となるのであります。それに対して、本果妙の釈迦仏法は「余行に渡る故に本の上の迹」となるのです。“余行に渡る”とは、本果妙の仏は成仏の本源の種子を直接説かずに、これを間接的に示すために、四教八教、法華経本迹二門を説くということであります。
 「当流行事抄」には、「本果の儀式全く今日に同じ四味及以迹本二門今文に顕然なり」とあります。釈迦在世においてとった説法の方式と、久遠本果においてとった方程式は同じであるというのです。ただ、釈迦在世の姿を遠い昔に移しただけのことなのです。
 つまり、釈迦仏法は説法する仏が、たとえ五百塵点劫の本果第一番成道の仏という立場であっても、三千年前の今日という立場であっても、自分を成仏せしめた本因の妙法を説くことができないため、まず四味を説き、次に法華経迹本二門と種々の方便をもって説き進めたというものであります。したがって四味八教と余行にわたって説法する本果妙の仏法は、本因妙の独一本門から見るとき「迹中の本」であり、南無妙法蓮華経という「本」の上に成り立つ迹でありあす。ここに本迹勝劣が明らかであります。
革命的な凡夫即極の思想
 では、いったいどうして本果妙の仏は余行に渡るのでありましょうか。なぜ、久遠元初の妙法を直ちに衆生に示すことができないのでありましょうか。
 一つには、凡夫名字即のままで仏となる妙法を説くには、大難が競い起こることが必定であり、本果妙の仏には大難に打ち勝つ力と資格に欠けていたからであるというべきでありましょう。
 それ故、釈迦にせよ、天台にせよ、自らを高く持して、深遠な法は、あくまで奥にひそませている形をとらざるを得なかった。そして、民衆に渇仰の心を起こさせて衆生を導く以外になかったのであります。
 また、民衆こそ本当の仏であると宣言するには、いまだ、時代、社会が許さなかったといえるかもしれない。内にはそれを知っていたとしても時代性、民衆の機、歴史の推移の上から、やがて末法に出現するであろう御本仏に一切を託しつつ間接的な説き方にとどめたのでありましょう。これに対し、大聖人は末法万年にわたる崩れざる大法としての民衆こそ、凡夫こそ、本仏であると、我が身に大難がふりかかるにも顧みず、宣言されたのであります。「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」と「諸法実相抄」で明らかにされた通りであります。
 本果の仏と本因の仏との相違は、まさに「教弥実なれば位弥よ下く、教弥よ厳なれば位弥よ高し」の言葉に要約されております。
 その教が深く真実を究めれば究めるほど、その法を説く人は、自らを民衆の大地に置いていくのであります。逆に経が権であれば虚栄虚飾で自分を高く見せなければならないというのであります。
 その意味で、御自身凡夫位のままにおいて、凡夫こそ本仏なり、と宣言された日蓮大聖人の仏法は、それまでの宗教の考え方を転換した宗教革命であるとともに、この革命を生き抜かれた大聖人の生涯こそ壮大なる宗教の逆転劇であったと申し上げてもよかろうと思うのであります。
 「久遠釈尊の口唱を日蓮直に唱うるなり」の文は「久遠即末法」「久末一同」を表されたものであり、まさに日蓮大聖人の仏法の革命性、本源性を余すところがありません。
 「直に」とは「即」と同義であります。「今」とは末法であり、したがってこの文の意は久遠即末法ということであり、日蓮大聖人は、久遠元初の妙法の直体であられる、ことを意味します。それは正像末と次第に教法の移りゆく夕日の如き、宗教ではない。あたかも、元初の太陽の生命をはらんだ黎明として御本尊の出現があったのであります。
 この大聖人の仏法の本義に立てば、ただ今が久遠元初であります。この瞬間瞬間の生命以外に南無妙法蓮華経という大仏法はないのであります。
妙法広布に戦う現在こそ久遠元初
 久遠元初とは歴史的過去ではない。遠きかなたのことでもない。この瞬間に永遠を凝結させている、大海のごとき大生命そのものであり、満々たる力と息吹をたたえているものであります。「御義口伝」にいわく「久遠とははたらかさず.つくろわず.もとの儘と云う義なり」(0759-第廿三 久遠の事-01)とありあす。久遠は通常「時の無窮なこと」「遠い昔」「永遠」というように理解されております。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の眼からみるならば、久遠とは時間的な意味も含めて、大宇宙の本源、生命の根源の意義にまで及ぶのであります。無作本有常住の生命、無始無終の生命であり、久遠元初自受用報身如来の御生命を指すのであります。同じく「御義口伝」に「久遠とは南無妙法蓮華経なり」(0759-第廿三 久遠の事-03)とあるごとく、久遠元初とは、一言にしていうならば南無妙法蓮華経それ自体であります。
 さらに南無妙法蓮華経と唱うる私達の生命もまた久遠元初を開いているというべきでありあす。
 故に、私達が常に御本尊を受持し広布のために戦うことこそ自体が、久遠の仏法兄弟の姿となっていくのであります。この元初の生命に綴られた尊い歴史というものは、永遠に消えることなき信心の元初の経典として輝いていくに違いありません。私達は今こそ、元初の朝の日の出を迎えている信行学の日々と銘記したい。

第四回top

久遠成道の生命を本迹に立て分ける
03   久遠実成直体の本迹          久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり我本行菩
                       薩道是なり、日蓮が修行は久遠を移せり。

 表題としてかかげられた久遠実成は、南無妙法蓮華経如来の寿量品における久遠実成であります。文上の五百塵点顕本をさすのではありません。
 この久遠実成について、御義口伝、久遠の事には「この品の所詮は…久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成、無作とは開けたるなり」と訳されております。明らかにこの「久遠」は「久遠元初」である。故に南無妙法蓮華経それ自体であります。実成は「まことにひらけたるなり」と読み、「実」とは無作三身如来、「成」とは開くという意味でありますあす
 本当のものというものは生命のなかにある。生命それ自体から発したものでなければ虚飾であります。「実」ではなく「虚」であるというほかはありません。仏法の究極は、わが己心の宮殿を開くことにあります。久遠とは生命の淵源ともいうべき南無妙法蓮華経であり、その根本の法をわが胸中に開いていく以外に、自らの確固たる実像の人生はありえないことを、大聖人自らが示されているのであります。
 百六箇抄の久遠実成も、本文を拝して分かるとおり、久遠元初において、わが身は即、無作三身如来の当体蓮華仏であると覚知されたことであり、まさしく日蓮大聖人の久遠元初の成道を意味しております。
 表題に「久遠実成直体の本尊」と記されているのは、この久遠元初における成道の大生命を「本」と「迹」に立て分けて論ずるということでありあす。
妙法は宇宙と生命の根源の法
 本文に入って、まず「久遠名字の正法は本種子なり」と述べられていますが、この御文は、次にある「名字童形の位、釈迦は迹なり我本行菩薩道是なり」の文と関連させて拝するとよく理解できるでしょう。
 この場合、久遠名字の正法とは、いうまでもなく宇宙と生命の究極、久遠元初に脈うつ純正の一法、南無妙法蓮華経をさしています。その妙法が「本種子」であるとおおせなのです。「本種子」とは一切の根源の種子という意味であります。
 妙法が万物能生の種子であり、また三世十方の諸仏の成仏の根源の種子であることは、これまでも毎々述べてきた通りであります。ここで妙法を「本種子」とするのは、名字童形の位の釈迦を「迹」とされていることに対応するものであります。
 ちなみに、名字童形の位という表現は、名字即の凡夫の位を譬喩的に述べられたものと拝察します。一点の虚飾の装いをもこらさず、凍氷の逆境に吹きわたる春一番のごとく生命本然のはつらつとした振る舞いに光り輝く童形、妙法にいだかれた童子の姿にたくして、本有の凡夫の生命を描きあらわそうとされたのではないでしょうか。
 凡夫位の生命、その当体を外用の面からみれば「迹」となりますが、その内証は南無妙法蓮華経であります。あえて、童形と譬喩的に表現されているのは、外用のお姿が凡夫であることを強調されるためでありましょう。しかし久遠の本仏・日蓮大聖人は、あくまで凡夫即南無妙法蓮華経の当体であられます。
 いいかえれば久遠の自受用身即日蓮大聖人の外用の姿は凡夫であられても、この凡夫は単なる凡夫ではない。南無妙法蓮華経如来の当体の凡夫なのであります。何ら他人と変わらず、特別な人間ではないにもかかわらず、同時に妙法の当体であることを教示なされているのであります。絶妙なるリズムをもって脈打つ宇宙生命そのものであります。我が生命の内奥にも、宇宙生命が大リズムをもって鼓動しております。
わが身即妙法の当体の覚悟が大事
 私どもの立場から論ずれば、もともと、わが身は妙法の当体なのです。いや、宇宙森羅万象が、妙法蓮華経の直体なのです。わが色心の躍動も、万物を貫く生命賛歌の旋律もことごとく南無妙法蓮華経の輝ける顕現にほかならないのです。
 ただ、最大の重要事は、この厳粛な生命的真実を覚知するか、それとも、無明の暗雲に閉ざされて闇から闇へと流転していくかの問題であります。
 自己の色心が即妙法の直体であり、宇宙生命の当体であると覚知すれば、その身が名字凡夫の位のまま、究竟即の仏と開かれるのであります。逆に、無明の積雲をつき破れず、色心の内なる元初の太陽を開くことができなければ、未来永劫に、生死流転の苦悶をのがれる道はありません。
 日蓮大聖人は、久遠元初において、名字童形のわが身を、即、久遠名字の正法の直体であると覚知され、即座に妙覚果満の仏の大生命を体現されたものであります。
 総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)と記されております。
 この場合、釈迦如来とは、名字凡夫位の釈迦、つまり、久遠元初の自受用身如来であります。「我が身は地水火風空なり」とは、わが身即全宇宙であり、妙法蓮華経の当体であるとの意味です。境智の二法からすれば、「我が身」等が境となる。その境を覚知する「知」が智となる。この境地が冥合するところに、凡夫の当体のまま、即座開悟の無作三身如来の大生命が顕現するのであります。
 このような観点から、久遠名字の正法と名字凡夫位の釈迦を本迹に立て分ければ、外用の面である凡夫童形の釈迦が迹となり、その内証に脈うつ久遠の妙法蓮華経が本となるのであります。
 さて御文には「名字童形の位、釈迦は迹なり」にひきつづいて「我本行菩薩道是なり」と記されております。この御文は、いうまでもなく南無妙法蓮華経如来の寿量品における「我本行菩薩道」とは、久遠元初の自受用身即無作三身如来の外用の面の振る舞いであり、行動であり、示同凡夫のお姿であります。故に「迹」となるのであります。
凡夫の振る舞いの中に真実の仏法
 末法に出現された久遠の本仏、日蓮大聖人は、妙法を広める立場では上行菩薩の再誕というお姿をとられました。これ、日蓮大聖人の「我本行菩薩道」であると拝されるのであります。
 しかし、大聖人の本地は、あくまで、久遠元初の南無妙法蓮華経如来であられます。
 仏といっても、凡夫の振る舞い、他の人間、衆生と同じ姿、行動をとられている。そこにしか、真実の仏法は存在しえないからであります。だからといって、もし名字童形の姿のみをみて本仏の大生命に脈動する南無妙法蓮華経如来という根源の法への開眼がなければ、大聖人の御内証を洞察することも自身の成仏得道も永遠に不可能となるのでありあす。大聖人の御在世当時にも、垂迹上行菩薩の再誕としてのお振る舞いしかわからず、久遠の本地にするどい信心の眼を開くことができなかった人たち、荒れくるう大難の怒涛にまきこまれて、ひとたまりもなく退転してしまったのであります。「我本行菩薩道」という外用の行動のまっただなかに、元初の光輝をはなちつづける自受用身即南無妙法蓮華経の大生命に肉薄し、その宇宙をもゆり動かす血脈をうけつぐ、如説修行の信心をふるいおこしていただきたい。わが胸中に、久遠の血脈を流れかよわしめた凡夫にしてはじめて、大聖人のまことの弟子と呼ばれるにふさわしいことを、改めて強調しておきたいのであります。
 百六箇抄の現文の最後には「日蓮が修行は久遠を移せり」と記されております。また、本因妙抄には「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」(0877-06)とあります。
 ともに、久遠元初の自受用身も、末法今時の日蓮大聖人も、その「行」と「位」が全く同じであり、名字即の凡夫の当体のままの仏の振る舞いである故に、日蓮大聖人は全く久遠元初の自受用身即無作三身如来であられるとの御言葉であります。これ、本仏の生命に約しての「久遠即末法」「久末一同」の原理です。
 日蓮大聖人の生涯は、人類をおおう無明との壮絶な戦いの連続であられました。宇宙に瀰漫する魔性との、自らの生命をとしての戦いの一生であり、人間究極の荘厳なる道を歩まれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人であられます。
 身に寸鉄をおびることなく、一片の権力、名声をもかえりみることなく、ただひたすら、一人の凡夫僧としての当体のままに、無明の積雲を吹きはらい、久遠の太陽として輝きわたらせられた生涯、これまさしく、久遠の直体を末法に顕現し、宇宙生命の根源に発する大慈大悲の“修行”を末法今日に移された間断なき激闘であられたといえるのではないでしょうか。
 弁殿尼御前御書にいわく「釈尊.久遠名字即の位の御身の修行を末法今時.日蓮が名字即の身に移せり」(1224-03)と。故に、日蓮大聖人が、その最終章において御本尊を建立されたということは、とりもなおさずご本尊こそが、無明を吹きはらう唯一絶対無二の当体であるといえるのであります。
 久遠の開顕は、宇宙に遍満する第六天の魔王、元品の無明との戦いの最中にある。元初の太陽の無限の慈悲に浴するには、無明の厚い壁をたちきらねばならない。わが身即妙法との覚知は、単なる観念の問題ではない。わが生命の内なる魔性を打ちやぶらなければ、無作三身の智慧と力を体得できるはずもない。すべてが夢中の幻事と化してしまうであろう。
 御義口伝には「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」(0725-第一信解品の事-04)とあります。御本尊への絶対の信、令法久住を願う赤誠の祈りのみが、よく元品の無明を断破し、元初の太陽を開きあらわしうるものであります。
久遠の激闘をそのまま末法に移す
 「日蓮が修行は久遠を移せり」の「移せり」に重大な意味が包含されていると思うのです。「移せり」とは「そのまま」ということであります。日蓮大聖人は、本地自受用身の再誕としてこの末法に御出現になられました。久遠における元品の無明との戦いの高らかな勝利の宣言が、久遠元初の成道であり、久遠実成にほかなりません。その久遠の激闘をありのまま末法の世に移されたことは、今述べた通りであります。
 私たち弟子に約してこの文を読むならば、こうして広布の庭に戦っていることが、そのまま久遠を移していることでもあります。私たちが現在、御書講義ができるのも、妙法を聞くことができるのも、すべて久遠をそのままに移した姿であり、久遠においてもまさしく“その通りであった”ということでもります。
 久遠元初の荘厳なる儀式、たしかに私たちにも無作三身の仏の子として、晴れやかに自受用身の絶妙なる説法に耳を傾け、無作三身如来の師子吼に歓喜の血潮を湧きたたせたのでありあす。無明を打ち破る弘教の法戦に、妙法を高らかに唱えながら勇んで直参していたのであります。その久遠の儀式を、全くそのままに末法に移す。「久末一同」の義と表現する他はありません。
 したがって「久遠即末法」とは、この濁乱の世に、御本仏のあとをつぎ宇宙生命の当体、南無妙法蓮華経を現実に呼吸しつつ、久遠の戦いをそのままに生きて生き抜くことであります。これ、末法における瞬間、瞬間の久遠実成なのであります。驕慢におぼれず、臆病心に堕せず、名誉と権力にいささかもこびることなくまっしぐらに、まことの凡夫道を貫く人間生命の内奥にのみ、無作三身の究竟の仏が顕現するのであります。わが胸中の真如の都がまばゆいばかりの光沢を放って開かれるのであります。
 どうか皆さんは、末法の御本仏・日蓮大聖人の直弟子として、元初の陽光をさんさんとあびながら、人間究極の“久遠の道”を堂々と闊歩する歓喜の人生を貫き通していただきたいのであります。
04   久遠本果成道の本迹          名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり 直に唱え奉る我等は迹なり。
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 まず表題の「久遠本果成道」について申し上げると、前項の場合と同じく、ここも久遠元初成道をいわれております。

 普通久遠本果といえば、久遠五百塵点劫の本果第一番成道の釈尊をいうのでありますが、ここでは、久遠元初の成道をさしていることは、「名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり直に唱え奉る我等は迹なり」と言われていることからも明らかであります。久遠元初の成道は、さきにも述べた通り、日蓮大聖人が名字凡夫のままで無作三身と開悟されたことをいうのであります。
 私たちに約していえば、日々の勤行・唱題によって、元初の南無妙法蓮華経如来と現われたことをいうのであります。
 この「名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり直に唱え奉る我等は迹なり」という文については「直に唱え奉る我等」とは、凡夫の姿としての“我等”であり、これは外用の辺であり「迹」となるとの仰せであります。しかしその凡夫の生命は内側に「名字の妙法」を所持し抱いているのであり、この内証の生命の当体をみるならば「本」となるのであります。
直に唱える題目で元初の生命開く
 「持つ処」の“処”とは、凡夫の生命がそのまま妙法の体であることを表すが故に「直躰の本尊」となるのであります。
 したがって、凡夫の私たちが題目を“直”に唱えるということは、自身の生命を、つねに「本」へ「本」へと回転せしめる原動力となっているのであります。
 「直に」とは間に雑物を入れないこと、純粋、強盛な信心で御本尊に直結していく姿勢をいわれている。この「直に」の姿勢が大切なことは改めて論ずるまでもないでしょう。
 傅大士の釈にいわく「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し、時時に成道し、時時に顕本す」と。
 御義口伝に「第四与如来共宿の事」において引用された余りにも有名な文であります。
 仏とは、いうまでもなく御本尊であり、同時に私たちの奥底より“如々として来る”元初の生命であります。
 それ故、妙法を唱える私たちは、朝になれば元初の生命とともに起き、夜になれば元初の生命とともに床に臥すのであります。すなわち、私たちが行住坐臥と振る舞う一挙手一投足に、久遠元初の生命に脈打っているということであります。
 どんなに苦悩の限界にあるときも、また行き詰まっての働きのとれないようなときにも、私たちの直下に元初の生命は如々として来っているからであります。
 仏法の肝要は、この妙法の直躰を開くか否かの問題しかない。
 「開とは信心の異名」とある通り、御本尊に向かって“直に”題目を唱えるとき、そのまま元初の生命が開かれるのであります。
 それは同時に苦海を克服し、行き詰まりを打開する雄々しい生命力と智慧が湧き出ずることを意味しているのであります。これまさに「時時に成道」の姿であり「時時に顕本」の姿なのであります。
 「時時に顕本」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、凡夫としてのこの生命に、その本地たる南無妙法蓮華経如来を顕現することであり、直躰の本門を開顕することであります。
 「時時に成道」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、久遠本果の成道を果たしていくということであります。
 ともかく、行動・実践・振る舞いという外面にあらわれた姿を「迹」、その内側にあって、無始無終の常住に本有の妙法を「本」として立てわけられたのであるが「久遠本果成道の本迹」なのであります。
 この観点に立てば、先にふれたごとく、仏といっても、その振る舞い、行動は、全く凡夫のそれと異なるものではない。否、外面からみるかぎり、凡夫そのものの振る舞いなのであります。
妙法に生きぬく中に自在の境涯
 末法の御本仏・日蓮大聖人も、食事をされたり、歩かれたり、横になられたり、などの所作は、全くありのままの凡夫の振る舞いと、なんら変わるものではない。この外面の姿だけを見れば「迹」でありますが、そこに、即南無妙法蓮華経如来、御本仏の大生命が貫かれていたのであります。
 「諸法実相抄」にもいわれているが「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」(1359-10)と日本国の上下万民から迫害されている凡夫僧としてのお姿は“迹”であり、この内証の御本仏としての御境涯は見抜くこともできないし、いかなる権力をもってしても如何ともできない金剛不壊の境地であることを吐露されているのであります。
 総じて私たちも、生死流転の姿は免れない。笑うときもあれば、泣くときもあろう。その次元では人間は全て同じであるといってよい。
 しかし、妙法を受持しない他の人々は、その次元、立場にとどまり、胸中にある常住の妙法を開く鍵を持たないのであります。その結果は、波浪に呑み込まれて、木の葉のごとく翻弄される人生を歩む以外にない。
 それに対して、私たちは同じ凡夫であっても、胸中に妙法をたもち、日蓮大聖人の御命を抱いているのであります。
 この大地に根を下ろした盤石の根の上に、常識人、社会人としての振る舞いをまっとういているのが私たちなのであります。
 体外の人々と体内の私たちの間には、同じ人間凡夫としての外面の姿は同じです。そのよって立つ基盤が全く異なることを私たちは深く認識したいものであります。
 再び「総勘文抄」の文を引用すれば「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0570-01)とあります。
 これは、妙法に生き抜く私たちの作々発々と振る舞うところ以外に、真実の自在の境地、生命の根源の自由、したがって、真の人間尊厳の現実はないという御教示であります。
 妙法に生きる私たちの行住坐臥は、こんこんと湧き出る元初の生命に照らされて「過も無く障りも無き」自由自在の境涯になっていくのであります。自在な振る舞い。それは決して外なる条件をいかに変革しようとしても、得られるものではない。己が生命の内から本然と発する無作三身如来の躍動により顕現するものなのであります。
 また「一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とは、名字即のことであります。それはまた、単に観念で知るということではなく、受持即観心であり、大御本尊を信受し、題目を唱えることによってのみ開かれる生命自体の智慧であります。
 そのときのわが身は、日蓮大聖人即御本尊と境智冥合して行住坐臥の振る舞い、ことごとくが、大宇宙のリズムと合致した、真実の自由の境涯、自在な境地になるとの仰せであります。
 私たちは、この自身の生命の宝庫、「直躰の本門」を常に開くことができる己が福運に目覚め、誇りを持ち続けたいものであります。いかなる障魔が競いおころうとも、いかなる悪口、罵詈にあおうとも“内証にはいかんが及ばん”との決意も固く、不退・不動の信心を貫き通していただきたいことを、切に望むものであります。

第五回top

「男」とは色法、「女」とは心法の面
05   久遠自受用報身の本迹         男は本女は迹知り難き勝劣なり。 能く能く伝流口決す可き者なり。

 表題の「久遠自受用報身」とは、いうまでもなく、末法の御本仏日蓮大聖人のことです。すなわち、日蓮大聖人御自身の境地を本迹に立ち分け論じられているのが本項であると理解してください。これは、次の項目である「色法即身成仏の本迹」とも深く関連している。
 そこで大聖人は色法即身成仏を「父の義」とされ、それに対し心法即身成仏を「母の義」とされている。故に、ここでいう「男」というのも、生命の色法の面をとらえたものであり、「女」とは生命の心法の面をとらえたものとも考えられる。
 心法というのは、内面性であり、これに対して、色法というのは、外に現われた具体的な姿、行動、形を表します。
 この観点を前提にした上で、人を救いたいという一念の発露を心法と捉え「迹」とされ、現実に人を救う行動、振る舞いを、色法と捉え「本」とされているのであります。
 では、何故、心法の面を「女」と表現し、色法の面を「男」と表現されたのでありましょうか。まず、心法の面でありますが、心の持つやさしさ、また繊細にして鋭敏な内面性という特質から論ずることができると思います。
 また、誤解があってはなりませんが、一往一般論でいえば、心法とは隠れた存在を指します。それを、象徴的に女性の義とされたと考えられます。
 それに対して“表に立つ”という色法の面を、男性の義と表現されたとも考えられます。
 したがって、この本文は具体的な男性と女性を比較して、その勝劣を論じられたものではない。「男」として表現された色法の面、「女」として表現された心法の面を、本迹に立て分けられて、その勝劣を論じられたものであることを、大前提として、踏まえておきたいのであります。
 しかも、その「心法」「色法」を久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の境地における本迹として立て分けられております。すなわち「男は本・女は迹」というのは、御本仏日蓮大聖人の御一身の境地の心法面を「女」、色法面を「男」としての本迹なのであります。
 日蓮大聖人が、弟子達に対してとられた、やさしくも繊細な心づかいや、また一切衆生を温かく包容し、救済されんとした大海の如き心を「女」の義とされたのです。それに対して、現実に荒れ狂う社会の中で、権力に立ち向かわれ、弾圧と戦い抜かれた面を「男」の義と捉えられたのです。この大聖人の一身に備わる、色心の二面を本迹に立て分けられ、現実に一切衆生を救う「色法」即行動面を「本」とし、「心法」を迹とされたのです。すなわち色法のみでは、また迹理にすぎません。色法という姿、形に顕現されて初めて、色心不二となり、本門となるのであります。
 この本迹こそ御本仏日蓮大聖人の一身の妙用であり、不可思議な境地であるが故に「知り難き勝劣」と説かれているのです。したがって、また、この甚深の義を、後世に「能く能く伝流口決す可き者なり」と述べられている。
男女の根本的平等観を説く仏法
 元来、仏法では「男」「女」という問題を固定化して捉えてはいない。男性の中にも女性を認め、女性の中にも男性を認めて、しかもその上で、根本的平等を説いているのであります。
 御義口伝には「是れ又妙法蓮華経の提婆竜女なれば十界三千皆調達竜女なり、法界の衆生の逆の辺は調達なり法界の貪欲・瞋恚・愚癡の方は悉く竜女なり」(0797―一提婆品―01)とあります。
 すなわち、総じて、一切衆生の生命には、竜女の性質も調達の性質もともに包含しているのであり、その本性には男女両面を備えていることがうかがえます。
 更に、御義口伝には、一往、男性を「陽」女性を「陰」とされながら「陰陽一体にして南無妙法蓮華経の当体なり」(0798- 一勧持品-01)とあります。
 すなわち、「陰」とは隠れた無形の面で、女性の義を表し、「陽」は、有形の結晶で男性の義を表現されていますが、ともに、南無妙法蓮華経の当体であるとの意味です。換言すれば、男女とも、久遠元初の妙法即日蓮大聖人の御生命の発露であると述べられているのです。ここに、真の根本的な平等観が説かれています。
 この真実に根本的な男女間に立って、法華経提婆達多品の「変成男子」の思想を据え直すならば、次のようになります。
 竜女が、男子に変成する直前に「我大乗の教えを闡いて苦の衆生を度脱せん」と宣言していることを思い合わせるとき、実際に、具体的に苦の衆生を救済するという対外的な行動、振る舞いに出ずる面を“男子”と捉えるのであります。それ故に、竜女が“男子”に変成したとは、竜女自身の中にあったそれまでの自愛のみに生きようとする心法面の特質を克服して、色法面、すなわち、現実に人々を救う有形の実践に歩み出したことを指しているのであります。
 したがって「変性男子」とは、竜女自身における心法から色法への転換をいうのであり、生命の姿勢の変革を表現しているのです。結局、本当の人間の本源性とは、男性は、男性の特質を最大限に発揮しつつ、女性を包含することであり、女性は女性の特質を最高度に発揮して、しかも男性を包含していくことなのであります。
一律に、男女同一というのではない。それぞれの役割をにないながら、ともに、無作三身如来の生命を発現していくところに、真の平等があるといいたいのであります。
06   久成本門為事円の本迹         上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば 事理倶勝の本なり、
                       日蓮並に弟子檀那等は迹なり。

 前項が、大聖人御自身の境地を本迹に立て分けたのに対して、これは、御本尊即事の一念三千の上の本迹を立て分けられたものです。表題の「久成本門」とは、久遠実成の独一本門という意味です。そして、久遠実成とは、これまでも出てきたごとく、文上の五百塵点劫の成道ではなく、正しく、久遠元初の自受用如来の成道をさすのであります。
 すなわち、久遠実成は、久遠元初において凡夫の当体本有のまま、即、無作三身の仏と開覚したことをいうのです。この久遠元初の自受用報身如来の大生命に脈動する一法こそ、名字本有の妙法、つまり南無妙法蓮華経に他なりません。
 また、この名字の妙法こそ、法華経寿量品の文底に秘沈された究極の当体である故に本門の中の本門、文底独一本門と称するのであります。
御本尊それ自体が事円
 日蓮大聖人は、久遠元初の自受用身即無作三身如来の再誕として、末法濁悪の世に御出現になられ、凡夫僧のお姿のまま、苦悩の民衆のまっただなかにとびこんでいかれました。
 そして、波乱の生涯の最終章において、時機到来を観取されて、久遠元初の妙法であり、宇宙一切の変化の本源力である南無妙法蓮華経を、一幅の大御本尊として顕され、末法の底しれぬ無明の闇にしずむ一切衆生にさずけられたのであります。
 この、慈愛あふれる本仏の厳粛なる所作を百六箇抄の現文では「久遠本門を事円と為す」と表現されたと拝察したい。
 ここに記された事円は、いうまでもなく、事の一念三千の本尊のことです。
 円は円融円満の法、すなわち、一念三千を意味しておりますが、事円とありますように、単に、一念三千の法理を知ることではない。つまり、理円にとどまらず、あくまで事円なのです。
 もし、法界森羅万象が一念三千の当体であり、四季をおりなす大自然の変転も、生きとし生けるものの絶妙なる営みも、すべてが、妙法の息吹をたたえていると洞察するだけならば、いまだ理円の領域を一歩も出るものではなく、所詮、観照の哲学という他はない。
 荒波の現実に苦闘する凡夫の生命の内奥から、価値を創造し、福運をつちかう仏界の大生命を湧現させ、事実の上で、輝ける妙法の当体として生きる人生へと転回せしめるものでなければ、仏法の真実の意義はない。不幸の泥沼にあえぐ庶民をさして、妙法の当体であるといかに力説してみても、ただ、それだけでは無慈悲のそしりさえ免れえないと思う。
 ここに、日蓮大聖人の大慈悲は、万物は一念三千の当体であるとの方程式を、久遠の本仏の魂魄をとどめた御本尊という価値創造の直体のうえに、具現化なされたところにあるのであります。
 いいかえれば、理円の究極を包含しつつ、それを見事に実践化した事円こそ、御本尊なのです。
 御本尊それ自体が事円であります。事の一念三千の当体であるが故に、この御本尊を信受し境地冥合することによって、凡夫の色心の奥底から、偉大なる仏界の大生命を顕現できるのであります。このような、御本尊即日蓮大聖人の生命において「本」と「迹」を立て分けて論ずるのが、この表題の趣旨といえましょう。
上行所伝とは久遠元初の儀式
 さて、本文に入って「上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば事理倶勝の本なり」と記されております。
 まず「上行所伝」ということに関して、次の御義口伝の御文を併せて論じていきたいと思います。
 御義口伝「寿量品・第二十五建立御本尊等の事」には「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760)とあります。日蓮大聖人は、外用の立場で、地涌の菩薩の上首上行して、霊山において、教主大覚世尊より、三大秘法の御本尊を面授口決された。
 そして、今、大聖人の一身に持っておられる。故に、本尊とは、末法の法華経の行者である日蓮大聖人の一身の当体でると拝することができましょう。
 いま、この百六箇抄「上行所伝」等の文も、同じく、かの荘厳な神力品の儀式を意味して言われたものと拝するのです。すなわち、霊山会上において、上行菩薩の所伝した妙法は、久遠元初の名字本有の南無妙法蓮華経、即事の一念三千の本尊であるから、事理俱勝なのである、と拝せましょう。
 しかし、このように理解するのは、いまだ外用の辺といわなければならない。御義口伝の文とともに、さらに深く、内証の辺より会得していかなければ、大聖人の真意には、到底、迫りえないのです。
 日蓮大聖人の深奥の境地からすれば、霊山とは久遠元初であり、霊然会上の儀式は、久遠の生命の会座に展開する宇宙大の雄荘なる儀式となるのです。また、教主大覚世尊は、久遠元初の自受用身即無作三身如来に他なりません。
 上行は、生命論に約すならば、三世にわたって常住する生命の“我”それ自体であります。
 故に「上行所伝」とは、久遠元初の自受用報身如来から、上行としての生命の“我”に、名字本有の南無妙法蓮華経をうけついだ久遠元初の儀式をさすのです。
 儀式といい、所伝と称して、それは、単なる形式ではない、また観念的所作であるはずもない。
 宇宙の源泉たる久遠元初の自受用身の体内に激しく鼓動する妙法それ自体、久遠の所伝は、まぎれもなく、そのすべてが、上行という生命の中核に流れこんだ事実をさすのであります。このような理由から、百六箇抄の本文では上行所伝の南無妙法蓮華経が「事理俱謄の本」であるといわれたのです。
 この場合、事は、妙法の事実の発動そのものであります。また、理とは、その妙法の理が法界に徹していることであります。
事理俱に最勝の民衆仏法
 ここに、事理俱に勝れるとある。“俱に”重大な意義がこめられておりましょう。
 法理が低劣であり、それを実践する人間生命を完璧に説きあかしたものでなければ、その法理に忠実になろうとするほど、理想と現実のキャップに悩み、苦しみぬかねばならないでしょう。その結果、二重人格者をつくりだしたりしたり、また、低劣な理を権力で強制して、はつらつたる人間性を抑圧してしまうことにもなりかねないはずです。
 また、法理が勝れていても、その理を弘教する人間生命の力が劣っていれば、釈尊のように自らの色相を荘厳し、民衆の渇仰心をおこさせなければならないのです。
 事理俱に最勝である久遠生命の仏法であるからこそ、大聖人は名字凡夫の当体のまま、民衆の荒波のなかで戦われたのであります。つまり、事理俱勝であることが、民衆仏法となりうる基本的な要件であるといえましょう。
 さて、現文では、妙法が事理俱勝の「本」であると訳されていますが、この「本」は、次の「日蓮並びに弟子檀那等は迹なり」の「迹」と相対されております。
 日蓮大聖人は、法を弘める立場では、一往文上の上行菩薩の姿をとられました。これ久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の、示同凡夫としての外用の振る舞いでありあす。即ち御本尊が「本」、御本尊と境地冥合しゆく凡夫が「迹」であります。しかし、大聖人の御内証は、あくまで久遠の本仏であられる故に「本」なのであります。
 この点に関しては、すでに前回、論じておりますので、ここでは、省略いたします。
 ただここに「日蓮並びに弟子檀那等」とありますが、この「並に」に着目して拝さなければなりません。「並に」とは「同じく」ということです。この御文からも、大聖人に直結し、大聖人の振る舞いとその精神を根本とすべきであるとのお心が如実にうかがわれるのであります。
 日蓮大聖人は、その崇高なる生涯を、一片の権力をもこびることもなく、一介の凡夫僧として貫き通されました。私どもも、また、大聖人の正真正銘の弟子であるならば、凡夫の当体のまま、庶民のなかの庶民として、勇んで妙法広布に邁進すべきでありましょう。
 断じて、権力の魔性にみいられてはならない。名声の甘言に心をうごかされてはならない。
 虚飾の装いをこらし、擬装の仮面をつけるところに、仏法の清流は流れゆくはずもないからであります。民衆の苦悩としてひきうける人間究極の当体にのみ、妙法の珠玉の英知が輝くのであります。
 たしかに、大聖人は名字凡夫の姿であられた。だが、これこそ一切の虚像をかなぐりすてた凡夫の実像のなかにしか、久遠の仏法は生きないことを、御自身の振る舞いを通して教示なされたものと思うのであります。
 さらに一歩すすめていえば、大聖人は単なる凡夫ではない。外用の迹の姿の内面には、久遠本門の英知と情熱の炎が赤々と燃えさかっていた。そお炎はまぎれもなく、元初の太陽の真紅の炎だったのであります。私どもも、大聖人に直結する弟子として、単なる凡夫ではない。我が生命の心王を御本尊に直結させながら、現実に荒れ狂う怒涛に生きる大凡夫の自覚でなければならない。
 諸法実相抄には「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(1360-06)と記されております。
 日蓮大聖人の心をわが心として、末法の御本仏の民衆救済への大情熱をわが生涯の使命として戦う勇者が、地涌の菩薩である、地涌の戦士の使命に目ざめ、生きぬくことが、そのまま、久遠元初の自受用身の本眷族になるとのおおせであります。
 今生に、凡夫の一人として生をうけた目的は、法華弘通にある。 その、宇宙生命の淵源に達する永劫の使命感に立脚する人にはじめて「日蓮並びに弟子檀那」の「並に」の二文字を、色心の二法で読みきる凡夫となりうると確信いたします。
「色法」は価値創造の実践の面
07   色法即身成仏の本迹          親の義なり父の義なり、 涌出品より已後我等は色法の成仏なり不渡
                       余行の妙法は本・我等は迹なり。

 表題の「色法即身成仏」とはまず「事の即身成仏」ということであります。「色法」が目に見える有形の事物、肉身を意味することはいうまでもありません。それ故、凡夫の具体的な肉身をそのまま、即本有無作の三身如来と開く、一往は法華経本門、再往は日蓮大聖人の事の仏法を「色法即身成仏」というのであります。
 これに対して、法華経迹門に代表される釈迦仏法で説かれた即身成仏のことを「心法即身成仏」と称するのです。「心法」とは「色法」に相対して、無形の心や、精神を意味するところから、目に見えざる無形の真理観や認識観を、表しております。
 すなわち、釈迦仏法の場合、即身成仏といっても、結局は、凡夫の生命に仏性・仏種が内在するという普遍的な真理・哲理を説いたにすぎない。
 換言すれば、理論的に凡夫に即身成仏の可能性が具わることを明かしたに止まったといえる。これ「理具の」即身成仏であり、「心法即身成仏」と称するゆえんです。
 ともかく、無形の真理は有形の事実となって現れて、初めて、価値を生ずる。いかに高慢な哲理を説こうとも、有形の現実の上に具現化されなければ、所詮、虚妄であり、観念論、抽象論に陥ってしまうのであります。
 そこから、「心法」を単なる認識論とするのに対し、「色法」を、価値創造の実践とも捉えていくことができます。
生命の可能性を引き出す「父」の働き
 本文に入って「親の義なり父の義なり、涌出品より已後我等は色法の成仏なり」とあります。この御文は、該当する脱益仏法の項目と関連して拝するとよく理解できると思う。「脱の上での本迹の勝劣」では次のように説かれています。
    (母の義なり)(地の義なり) 
01   心法即身成仏の本迹         中間・今日も迹門は心法の成仏なれば華厳・阿含・方等・般若法華の
                      楽行品に至るまで円理に同ずるが故に迹は劣り本は勝るる者なり。

 最初に「親の義なり父の義なり」とは、色法に関して述べられたものであることを明らかにしよう。これは「心法即身成仏」の横に小さく「母の義なり、地の義なり」と注釈されているのと対応するからであります。
 すなわち、心法が母、地の義になるのに対し、色法が父、親の義になるということです。
 まず「心法」とは、さきに述べたように、衆生の生命に仏性・仏種を具え、即身成仏の可能性を有しているという、潜在・冥伏の側面です。すなわち、衆生の生命は、本来、仏種を内に抱き、いつでも成仏しうる可能性を宿している。そして「母」と「地」とは「母なる大地」ともいわれるように、ともに、生命能生の根源たる種子を宿し、これを誕生させ、守り育むところの可能性の宝庫であり、源泉であります。
 それ故、この釈迦仏法の心法即身成仏を、「母」「地」に喩えたのです。
 これに対し「親」「父」というのは、「母」により抱かれ守られていた生命を、実際に現実の荒波の中できたえ、訓練して、可能性を事実の上に引き出す働きを指している。「母」により温かく保護されていた生命が「父」の手により、厳しく鍛錬され、強靭な生命として開花するのでありあす。
 この可能性を引き出し、現実化する「父」の働きを日蓮大聖人の仏法の色法即身成仏にたとえられたのです。この「母」と「父」の両義があいまって「親」の義が完璧となることをいうことから「親の義なり」と仰せなのであります。
信心の歓喜が顕現されなければ理
 次に「湧出品より已後・我等は色法の成仏なり」とは、脱益仏法の本文 「中間・今日も迹門は心法の成仏なれば華厳・阿含・方等・般若・法華の安楽行品に至るまで理円に同ずるが故に迹は劣り本は勝る者なり」 に、一往、対応して述べられたものです。
 すなわち、爾前経と法華経の迹門十四品までを、“心法の成仏”と規定されたのに対し、法華経の本門十四品である「涌出品已後」を“色法の成仏”と相対されているからであります。
 一往、与えていえば、法華経文上本文には、国土世間があらわれ、因果国に約して、仏身の常住を明かしているが故に「事」となり「色法の成仏」となる。
 しかしながら、再往、奪っていえば、真実の「事」「色法の成仏」は、文底独一本門による以外にはなく、文上の法華経本迹ともに「理」「心の成仏」となってしまうのです。それ故に「涌出品已後」とは、文底独一本門のことであり、事行の南無妙法蓮華経のことであります。
 したがって、「我等は色法の成仏なり」の“我等”とは、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人および門下の私達のことを指していることはいうまでもりません。
 もちろん、生命は色心不二である。したがって、成仏といっても、色心ともに成仏であってしかるべきであります。ところで、どうして、独一本門の哲学は、色心の成仏を強調するのでありましょうか。
 それは、色心不二は大前提なのです。その上に立って、本門事の仏法は、具体的姿の上に、信心の歓喜の姿として顕現されなければならないことを言っているのだと考えられます。
 信心をした。しかし、感動の姿、歓喜の姿、人間としての行動ににじみ出る生命の息吹、慈悲と勇気と希望の振る舞いなくして、真に、仏法を持った姿といえるか。どこまでも、仏法の究極は、現実にあり、足下にあり、社会にあり、生活にあることを宣言されていると知るべきです。
 たとえ、一枚の手紙であっても、人を奮い立たせることはできる。具体的な色法を通じての人間の通いなくして、どうして、事といえるのか。必ず、心法は、色法として顕在していく方程式を私達は、忘れてはならないと思う。
 さて、本文の最後の「不渡余行の妙法は本・我等は迹なり」の文は、すぐ上の「涌出品より已後・我等は色法の成仏なり」を受けるとともに、同時に表題の「色法即身成仏の本迹」の結論ともなっておりあす。
 「我等は迹なり」の“我等”とは、凡夫の姿としての“我等”です。有形の色法、すなわち、振る舞いや実践、行動に現れる凡夫の外面の姿は迹であるといわれているのです。
 なかんずく「涌出品より已後・我等は色法の成仏なり」との文と相応させれば、地涌の菩薩として、妙法を現実社会に弘通していく実践活動は、まさに“色法”であります。すなわち、地涌の菩薩の内証は妙法そのものであるあらです。
 凡夫の生命が即生活の上で、社会の中で、地涌の菩薩として振る舞うその振る舞いの中に、妙法の当体として色法がある。すなわちその五体に、音声に、姿の上に信心の歓喜をともないつつ輝くことが、色法の即身成仏であり、真実の発迹顕本なのであります。

第六回top

現実変革の仏法は色法の妙法
08   色法妙法蓮華経の本迹       男子と成つて 名字の大法を聞き己己・物物・事事・本迹を顕す者なり、
                     又今日の二十八品・品品の内の勝劣は 通号の本なり 勝なり・別号は迹
                     なり劣なり云云。

 表題の「色法妙法蓮華経」の色法とは、わかりやすく言えば目に見える現象という意味であり、「色法妙法蓮華経」で事の一念三千である南無妙法蓮華経ということになります。「事」とは事実の意味です。
 すなわち、色法とは、凡夫の肉身、現実の振る舞い、形のある物等を意味している。したがって、色法の妙法とは、凡夫の肉身のうえに、また事実の振る舞いのうえに脈打つ妙法の当体、南無妙法蓮華経そのものを指すのであります。
 いうまでもなく日蓮大聖人の仏法は、現実を直視し、変革させていく仏法であります。色法に顕れる事実の証明以外に、仏法の真髄はありえません。ただ理論的に、宇宙森羅万象が妙法の当体であり、衆生の生命にも妙法のリズムが内在していると知っただけでは、末だ抽象的であり、観念の域を一歩も出るものではない。
 「理」において私たちが仏であるとしても、現実生活で餓鬼道に悩み、地獄に苦しんでいるのであっては、仏法の価値はありません。まだその段階までしか明かさない妙法は、いわば心法の妙法蓮華経の領域にとどまるといわざるをえません。
 生死の苦しみを流転している凡夫の身体のうえに、生活のなかに、南無妙法蓮華経という輝ける大生命の宮殿を開き、宿命転換させてこそ、色法の妙法であり、事の妙法蓮華経といえるのであります。
 別しては久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の民衆救済の振る舞い、名字凡夫のお姿が、そのまま真実究極の色法妙法蓮華経であります。また、今時においては、大聖人ご自身の生命を図顕された人法一箇の御本尊が、事の一念三千の直体、色法妙法蓮華経にほかなりません。
 総じていえば、一切の衆生が、御本尊と境智冥合することによって、自己の五体のうえに顕現する慈悲と智慧の生命も、色法の妙法蓮華経にほかなりません。
 ここでは、日蓮大聖人即御本尊という久遠の大生命、すなわち色法妙法蓮華経に立って本迹を論ずることが、表題の趣旨と拝せましょう。
 本文には、まず「男子と成って名字の大法を聞き、己己・物物・事事・本迹を顕す者なり」と記されています。
「男子」は慈悲と勇気の実践者
 「男子と成って」とは、端的な表現であります。一切に責任を負っていく存在、また実践面を意味しております。無明の闇に包まれた社会の荒波に乗りいだし、苦悩の民衆救済に邁進する、という意味になります。
 前回も述べたように、百六箇抄では、生命の心法の側面を「女」と表現するのに対し、色法の側面、行動面を「男」と表現されている。大聖人において「男子と成」ることであります。
 ともすれば厳しい現実の問題から目をそらせ、抽象の世界に逃避しがちな生命の傾向性を克服し、慈悲と勇気の実践に立ち上がる者こそ、まことの凡夫であり、男子と成った、栄えある姿ではないでしょうか。
 次に「名字の大法を聞き」とありますが、この場合の「名字の大法」とは、名字凡夫の生命に脈打つ南無妙法蓮華経であります。
 「名字」は「名字即」のことです。この名字即について「三世諸仏総勘文抄」には、天台家の意を用いて「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する 是を名字即と為す」(0566-15)と記されております。つまり、仏法がその人の一切の振る舞い、生活の根底にあるという意味です。
 なぜ「名字」という名がつけられているかといえば、名字を知ることが体を知ることであり、名前と体とが切り離しては考えられないことを示しているのです。
 私たちの振る舞い、生命活動も、一人一人の名前で表現されます。これと同じように、妙法という名字を知り、仏法がその人の生活にそのものになっている状態を「名字即」というのです。
 また「御義口伝」には「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」(0752-07)とあります。わが生命活動が南無妙法蓮華経の体内のものとなるということであります。一切の活動の根底に妙法を脈うたせていく、この名字即の姿勢を追ってこそ、南無妙法蓮華経を聞きうるのであります。
 「御義口伝」の「如是我聞の事」には、法華文句を引用した後に「所聞の聞は名字即なり法体とは南無妙法蓮華経なり」(0709-03)と記されております。
 この場合“聞く”とは、単に、耳という感覚器官で受容し、認識し、記憶するということではない。生命全体で信受し、聞くのであります。我見や慢心やエゴの心で聞くということでもない。
 我見や慢心のエゴを一切ぬぐい去って浮かび上がる生命それ自体、つまり名字の我をもって、名字の大法に迫っていくのであります。法も赤裸々な生命の真実相を明かした名字の大法であり、その法を聞くのも、全生命をかけた名字即の信心で聞くのであります。そのときの凡夫の生命に、妙法の満々たる血潮が流れ込んでくるのであります。つまり、妙法の血潮の、心法から色法への顕現であります。
生命・社会の連続革命示す
 さて現文には「男子と成って名字の大法を聞き己己・物物・事事・本迹を顕す者なり」と記されております。
 この文は、行動の真っ只中で名字の大法を色法の世界へと顕現されるとき、己己・物物・事事において、本迹を顕す者となるのである、という意味に拝せましょう。
 「己己」とは自己自身です。「物物」とは、その自己を取り巻く環境世界になります。つまり「己己」が正報であり「物物」が依法となるのです。
 そして、正報と依報との間に生ずる事象を「事事」を表現されているのです。「事事」とは「こと」もしくは「できごと」の意味であります。
 故に、数限りない大小のさまざまな事件、あらゆる生活場面での他者との出会い、物との触れ合いが「事事」の具体的な内容となりましょう。
 したがって「己己・物物・事事」で、生命主体を含んだ宇宙森羅万象の一切の営みを指しているのであります。
 では、万物の営みにおいて、本迹を顕すとは、いかなる意味でしょうか。
 まず、己己の当体、つまり正報において本迹を論ずれば、人間として存在している。その生命自体が本、私たちの社会に示す姿は迹となります。家庭の主婦、サラリーマン、学生といった姿は、ことごとく迹である。さらに、永遠の生命を本とすれば、現在、こうして人間として存在していることさえ、迹となりましょう。
 これらはすべて、本体が落とす影のように無常の存在にすぎないのです。このような生滅流転の人間存在の内奥に脈々と躍動する常住不滅の名字の妙法、南無妙法蓮華経の体であり、本となるのであります。
 己己の当体に本迹を「顕す」とは、迹の振る舞いのうえに、本の妙法の働きを顕現させることを意味しております。そのとき、生命の諸活動は、本体に照らされた迹として、本然の力用を最高度に発揮するに違いありません。
 これを現代の言葉でいえば、人間革命というのであります。
 次に、動物、いいかえれば依報における本迹でも究極の本は妙法以外にはありえません。有為天変の現象が迹であり、その営みを貫く不滅の当体が本となる。その本を覚知して、妙法による環境革命をなしゆくことが、物物において本迹を顕す者となることであります。
 妙法という蘇生の清水を得て、依報もまた、生き生きと常寂光の国土へと蘇ってくるのでありましょう。
 さらに、事事において本迹を顕すとは、現実生活のあらゆる場面が、そのまま本迹を顕す場であるということであります。自己自身の生活を取り巻く小さな「出来事」でも一つ一つ妙法の力によって乗り越えていくという着実な実践が、事事にいて本迹を顕すことにほかならないと思うのです。
 例えば、一人の悩んでいる人に出会ったとする。その出会いということ自体は生命の一つの現象であり、迹である。しかし、そうした出会いをとらえて、共に悩みつつも相手の人の生命の内奥から仏界の力強い生命力を顕現させることができたとする。悩める人の生命にわき上がる妙法は、いかなる苦悩をも打ち破るエネルギーを、満々とたたえていくことでしょう。ここにおいて、その出会いは、単なる迹の姿ではなくなってしまうのであります。
 一つの出会いの場に妙法の力が波打ち、生命と生命が感応し、妙法の光明に照らされた本然の「出来事」となるのであります。いかしその「本」は、「出会い」という「迹」によらなければ絶対に顕れない。迹のうえに本を顕すというのはそういうことです。
 ここで本文の前半を要約すれば、己己において本迹を顕すとは人間革命、動物において本迹を顕すとすれば妙法による環境革命、事実において本迹を顕すとは、人間革命・環境革命をなしゆく場、出会いをいうのであります。
 波乱の現実社会の真っ只中にあって、妙法を体得した者は、自己の生命活動はもとより、万物の営み、あらゆる生活場面の奥底に、常住にして不滅の一法を覚知することができる。その根源の法を体現することによって、自己の生命変革のみならず、依報の変革、社会変革を成し遂げていく主体者になりうるのであります。
 さらにいえば「己己・物物・事事」とあるように、瞬間・瞬間の生命変革であり、環境革命であり、生活・文化・社会の連続革命を指し示していると、拝せられるのです。
法華経を色読された大聖人
 本文の後半に入って「又今日の二十八品・品品の内の勝劣は通号本なり・別号は迹なり劣なり云云」と記されております。
 この文は、法華経二十八品につて本迹を論じたものであります。ここにいう通号とは、各品が妙法蓮華経方便品・妙法蓮華経如来寿侶品というふうになっておりますが、その表題に共通する「妙法蓮華経」であります。別号とは、各品の内容を示す表題の部分です。例えば「方便品」「如来寿量品」等が別号に相当します。
 「妙法蓮華経」の元意について日寛上人は「報恩抄文段」において「如是我聞の上に妙法蓮華経の五字は即ち本因所証の妙法なり、この本因所証の妙法に通じて一部八巻を収む」と教えておられます。
 すなわち、妙法蓮華経とは、久遠元初の自受用身如来の証得された南無妙法蓮華経を指すのであります。
 また「方便品」等の別号は、各品それぞれに説かれた法門の内容を表示するものと考えられましょう。
 さて、南無妙法蓮華経と各品の法門との関係を「御義口伝」には次のように説かれています。
 「品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや、此の法門秘す可し秘す可し、天台の「綱維を提ぐるに日として動かざること無きが如し」等と釈する此の意なり、妙楽大師は「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と」(0766-第十五於如来滅後等の事-04)と記されています。
 ここに明記されているように、南無妙法蓮華経が体であり、各品の法門は用であります。法華経二十八品の法門は、ことごとく体である妙法から説きあらわされたものにほかなりません。故に、題目のなかに二十八品の全体が包含されるのであります。
 天台のたとえを借りれば、題目が網維、すなわち大網であり、二十八品を網の目と表現することもできましょう。
 このような理由から、現文では、通号が本であり勝である。そして別号が迹であり劣であると述べられているのです。
 つまり、この場合の本と迹は、体と用の関係であります。当然、本体である妙法が勝れ、その妙法の働き、作用面を解明した二十八品の各品の別号が劣ることになりましょう。
 日蓮大聖人は、本体である南無妙法蓮華経と、その力用を説いた二十八品とを、明確に立て分けられました。さらに、妙法という本体によって、迹の法華経を生かし、活用することを教えられたのであります。これ法華経において、本迹を顕すことにほかなりません。
 しかも、その「教える」というのは、理として説いたことではない。大聖人御自身の生涯にわたる生命活動、色読のうえに、事実として証明されたのであります。
 すなわち、通号は本、別号は迹ということを、大聖人ご自身の生命、実践に約して述べれば、久遠元初自受用報身如来たる大聖人が妙法蓮華経の当体であるということが本、二十八品のことごとくを色読されたことが迹となるということであります。
 日蓮大聖人の、一切の苦悩の民衆を救済する振る舞いは迹であります。その振る舞いそのものが、法華経二十八品の色読となっていたのであります。しかし、大聖人の、第六天の魔王と戦う振る舞いの上には、久遠の妙法蓮華経が大潮流となって、脈打っていた。本仏の色法のうえに光輝を放ち続ける妙法が本となるのであります。
 行動する色法に妙法を顕現させた生命が、法華経を自由自在に駆使して、末法万年の民衆を救済するために、横暴なる権力に挑戦し、身命に及ぶ大難にあうことも潔しとされたのです。
 ここにおいて、迹の法華経はことごとく大聖人の色法に展開する法華経、すなわち本体である南無妙法蓮華経の力用として、本来持っている機能を最大限に発揮できたのであります。
 大聖人が赴かれるところ、いかなる場であっても、歓喜の嵐が巻き起こったにちがいありません。たとえ、寒風吹きすさぶ荒廃の場所であっても、元初の陽光が春風に映える寂光の都へと変転したものでありましょう。御本仏の言説にして庶民の苦悩を根底から抜き取らない一言一句もなかったはずであります。また、久遠の大生命に触れ得た人は、ことごとく未来を生きる勇気と希望と不屈の意志を与えられたと思う。
 まさしく大聖人は作々発々と振る舞う生命自体が「己己・物物・事事・本迹を顕す者」であられたのであります。
 私たちもまた、大聖人の直弟子として、御本尊と境智冥合することによって、わが色法のうえに妙法を顕現させ、瞬間瞬間の活動が自己の生命変革であり、依法の蘇生であり、また社会の変革に貢献する栄光の生涯を貫きたいものであります
元始の遠近を尺度に勝劣を判ず
01     妙楽疏記九に云く故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり、籤十に云く、今日は初成を以て元始と為し爾前迹
0863
01     門は大通を以て元始と為し迹門本門は本因を以て元始と為す本門。
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 妙楽大師の疏記の九には「故に、迹門に説かれた真実の法門は、本門に対すれば末だ虚妄にすぎない、ということを知ることができる」とある。同じく妙楽の籤十には、次のように説かれている。「爾前経では、釈迦在世は三十成道をもって根本の始まりとし、迹門では大通智勝仏の過去三千塵点劫をもって始まりとし、本門では久遠五百塵点劫成道のために釈迦が行じた本因の菩薩道をもって元始とするのである」と。
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02     此の釈は元始本迹遠近勝劣を判ずるなり、本果妙は然我実成仏已来猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり、
03     本因妙は我本行菩薩道真実の本門なり、本の迹は迹に非ず云云、我が内証の寿量品は迹化も知らず云云、重
04     位秘蔵の義なり本迹と分別する上は勝劣は治定なれども末代には知り難き故云云。

 元始をどこに置くかについて本迹を立て分け、その遠近をもって勝劣を論じているのである。
 この方式を受量品の本果妙の文と本因妙の文との相対にあてはめてみれば、本果妙は本門寿量品の「然我実成仏已来」の文に明かされた。釈迦の久遠五百塵点劫成道を本果とするのである。しかし、久遠元初の自受用報身如来の成道を元始とする独一本門に対すれば、なお迹門にすぎない。
 それ故に、釈迦仏法における「我実成仏」の本門は、どこまでも“迹”の域を出ないのである。
 これに対して、本因妙は、寿量品に説かれた「我本行菩薩道」の文を指すのであるが、その本因初住の文底に見いだされたのが、真実の独一本門・南無妙法蓮華経なのである。この独一本門を開顕した「我本行菩薩道」の文は文底が顕れた後の迹であるから体内の迹であり、もはや文上の釈迦仏法としての文意の迹ではないのである。
 この文底独一本門を開顕した寿量品、すなわち日蓮大聖人内証の寿量品は、迹化の菩薩の夢にも知り得なかった御本仏の悟りの法門である。
 したがって、重々の底に位置する、仏が秘して説かなかった甚深秘奥の法門なのである。
 主文において本因妙の仏法を本、本果妙の仏法を迹と分別したうえは、その勝劣は明らかに定まっているのであるが、仏法雑乱の末代にあっては、知り難い故に、後世のために迹を加えておくものである。
大聖人の仏法は本因妙の法
 本文全体は「妙楽疏記九に云く故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり、籤十に云く、今日は初成を以て元始と為し爾前迹門は大通を以て元始と為し迹門本門は本因を以て元始と為す本門。此の釈は元始本迹遠近勝劣を判ずるなり」の前半と、「本果妙は然我実成仏已来猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり、本因妙は我本行菩薩道真実の本門なり、本の迹は迹に非ず云云、我が内証の寿量品は迹化も知らず云云、重位秘蔵の義なり本迹と分別する上は勝劣は治定なれども末代には知り難き故云云」の後半からなっています。
 前半の中心は、法華経文上の本文と迹門の勝劣を、元始の遠近によって判じておられる。つまり、迹門の元始が大通三千塵点劫にさかのぼるのに対し、本門の元始はさらに遠く釈迦の五百塵点劫成道以前の本因にさかのぼっている故に、本門は勝れ、迹門は劣ると判じているのであります。
 後半は、この前半の法華文上における本迹勝劣をうけて、元始の遠近という尺度を、寿量品の本果妙の文と本因妙の文にあてはめ、そこから一挙に、釈迦仏法を迹門、日蓮大聖人の仏法を本門とする本迹勝劣が判ぜられていくのであります。
 まことに、見事な判釈というほかありません。
迹の本は本に非ざるなり
 本果妙は寿量品に「我実に成仏してより已来」とある通り、釈尊の久遠五百塵点劫の成道を指している。この五百塵点劫は、釈迦仏法において、その最も遠い過去にまでさかのぼったものであるけれども、しかし、この五百塵点劫の本果も、久遠元初の自受用身如来の成道からみれば、なお迹門にすぎないということである。
 つまり、日蓮大聖人の仏法からみれば、釈迦仏法全体が迹門となり、本果妙は、その迹門のうえにおける本門にすぎないのです。
 「迹の本は本に非ざるなり」とは、たとえ本果妙が釈迦仏法における本であっても、日蓮大聖人の独一本門の本ではないということであります。故に、本果妙を究極とする釈迦仏法を「本果妙の仏法」と称するのです。
本の迹は迹に非ず
 これに対して本因妙は、同じく寿量品に「我本菩薩の道を行じて」とある通り、五百塵点劫の本果を得るために衆生が行じた本因の菩薩道のことであります。
 しかし、この本因の菩薩道の文底に、南無妙法蓮華経が秘沈されていたことは、これまで何回も述べてきた通りであります。
 日蓮大聖人は釈迦が行じた本因の菩薩道における五十二位の段階のうち十信を経て十行の最初の位である初住位において、釈迦は南無妙法蓮華経を覚知して不退の境涯に入ったのであると洞察されております。すなわち「我本行菩薩道」の本因妙は、その文底に妙法を秘沈しているが故に、真実の本門、文底独一本門のうえの迹となると教えられているのです。
 同じ「我本行菩薩道」の本因妙の文を、五百塵点劫の本果のための本因妙と捉えれば「迹」にすぎない。だが、文底の南無妙法蓮華経を秘沈した文と捉えれば、独一本門の「本」に基づいた「迹」となるが故に「本の迹」となるのであります。
 これは、もはや単なる迹の域ではなく、本の迹となるとの意であります。
 それ故に、寿量品の本因妙を文底に見いだされた日蓮大聖人の仏法を「本因妙の仏法」というのであります。
我が内証の寿量品
 文上寿量品の本因妙の文たる「我本行菩薩道」の文底に見いだされた独一本門・南無妙法蓮華経ことであります。
 したがって、寿量品といっても、南無妙法蓮華経体内の寿量品、逆にいえば、妙法により開会された寿量品であります。
 この「我が内証の寿量品については、いずれ「下種の法華経教主の本迹」のところで、詳しく展開していきたいと思います。

第七回top

本仏の本因の振る舞いを判別
01   久遠従果向因の本迹         本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩・久遠の妙法は果・今日の寿量品は
                      花なるが故に従果向因の本迹と云うなり。

 まず表題の「久遠従果向因」について考えてみたい。ここでいう久遠とは、もはや久遠本果ではない。久遠元初の意味であります。
 したがって従果向因の「果」とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の本果たる御内証の境地をいい、「因」とは民衆救済のためにあらわされた九界の本因の振る舞いをいうのであります。
 すなわち、久遠元初の仏は九界の因を積んで果を得た仏ではなく、逆に、仏果を根底にしつつ苦悩の民衆を救わんがために、九界の凡夫の振る舞いを行ずるのであります。
 それ故「久遠従果向因の本迹」とは、久遠元初の仏が、本果の悟りから本因の振る舞いを行ずつというダイナミックな姿を、本と迹に立て分けて論じようとされているのであります。
 本文に入って「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩・久遠の妙法は果・今日の寿量品は花なるが故に従果向因の本迹と云うなり」とあります。
 この文に明らかなごとく「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩」は人に約し「久遠の妙法は果・今日の寿量品は花」は法に約して、人と法の二つの側面から論じられていることがわかる。
 初めに「本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩」とは、久遠元初の仏たる日蓮大聖人の一身の当体に具わる本果妙・本因妙を指しておられる。したがってここでいう釈迦仏とは、文上の釈尊ではない。文底の釈尊の意であります。
 すなわち、本果妙とは、日蓮大聖人の御内証の境地たる久遠元初の自受用報身如来であり、本因妙は外用としての上行菩薩の振る舞いを指しているのであります。いいかえれば、久遠元初の自受用報身如来という本果の姿が本因となってあらわれたのが上行菩薩なのであります。
 端的にいえば久遠元初の仏の九界の振る舞いが上行菩薩であり、これを逆にいえば上行菩薩の振る舞いのなかに久遠元初の自受用身の仏の証得が貫かれているということなのです。
 御本仏日蓮大聖人を「本因・本果の主」と表現されているように、この外用上行の「本因」の御内証たる「本果」とは、因果俱時の大聖人の御生命そのものの姿を表しているのであります。
 しかしながら、御内証の久遠元初の仏の本果から本因があらわれると捉えるのが日蓮大聖人の仏法における従果向因であり、本迹に立て分ければ内証の本果が「本」、外用の上行菩薩の振る舞いが「迹」となるのであります。
大聖人の行動こそ従果向因の姿
 次に「久遠の妙法は果・今日の寿量品は花」とは、日蓮大聖人の御生命に脈打つ南無妙法蓮華経の根源の一法に約して述べられているところである。「今日の寿量品は花」の「花」とは「因」のことを表現されていることはいうまでもありません。「今日の寿量品」とは法華経文上の寿量品であり、総じて法華経全体を指しているのであります。
 日蓮大聖人は末法に御出現になって、勧持品をはじめ法華経のあらゆる経文をことごとく身読され、それはまさに、法華経を譲り受けられた上行菩薩の振る舞いそのものであったといえよう。逆にいえば、日蓮大聖人の振る舞いこそが法華経そのものなのであります。
 したがって南無妙法蓮華経という久遠の妙法の果を内証として秘められつつ、外用上行の振る舞いとして法華経を身読された日蓮大聖人のお姿こそ、まさに従果向因となるのであります。
 この場合「久遠の妙法」が「本」、「今日の寿量品」が「迹」となることはいうまでもありません。
 ともかく日蓮大聖人の民衆救済は、その御内証たる久遠元初の自受用報身如来の生命の絶えざる発現としてなされたものであった。大聖人が数多くの御手紙を通して弟子檀那を思いやられた慈愛の数々は、まさに久遠の仏の生命にみなぎる慈悲の発露であったといえるでしょう。
 人をやさしく包む言葉もあれば、人をして勇気ある行動へと駆り立てる言葉もあろう。また希望を与える言葉もある。しかし日蓮大聖人の言葉は、言葉を通して人々に本仏の生命の脈動が伝えられるようであります。
 たとえ一言であても、あるときは滝のごとく激しく、あるときは田園のごとく豊かに、あるときは静かな山のたたずまいにも似た趣をもって、さまざまな愛情を込めながら人々に伝わっていく、その響きの体はまさに、久遠の仏の生命であったのであります。
 日蓮大聖人の振る舞いは、久遠元初という究極の生命に支えられた生命の回転であった。あふれてやまない生命力のしぶきと、その根源に脈打つ妙法の大リズム、この本然の妙と辛労を尽くした社会への律動の冥合 これが日蓮大聖人の従果向因の尊き姿であったのです。
 さて、このことに関連して、従果向因と従因至果との関係の上から少々論じておきたい。それはひとえに、これまで論じてきた日蓮大聖人の仏法における従果向因の法門をよくよく理解するためであります。
 端的にいえば、従因至果とは「因従り果に至る」ということであり、従果向因とは、逆に「果従り因へ向かう」ということであります。
 まず、釈迦仏法は九界の衆生が仏界を求めてかぎりなく修行を続けていく仏法であります。しかも、その目標とすべき仏界にいつ到達できるかわからないといった、非常に不安定な因果俱時の仏法である。
 それ故に、九界の衆生にとっては、仏界の界を限りなく求め続ける歴劫修行の行き方となり、生活、社会のうえに仏法の力を示していくような余裕はない。むしろ彼方の真理を求めて現実から邁進しつつ修行のさすらいの旅を続けざるをえない。
 これに対し日蓮大聖人の仏法は、従果向因の仏法であります。それは、九界の衆生が御本尊にひとたび唱題すれば、仏界の生命が直ちに達することのできる因果俱時の仏法であります。
 御本尊への唱題によって瞬時に仏界の果が得られる故に、この湧現した仏界を根底にしつつ、今度は、民衆救済のために社会や生活の九界の場に向かうことができるのでありあす。
 以上のことから、従因至果は「理」、従果向因は「事」ともいえるでありましょう。
従果向因を実践した戸田前会長
 ところで日蓮大聖人の従果向因の行き方を現代において、ありのままに実践されたのが、恩師戸田先生の悟達であったといえるのでありましょう。
 戸田先生は当時興隆しつつあった仏教学の経典の捉え方を、十分に知っておられながらも、決してこの学問の研究方法によられなかったのであります。それは、仏教を歴史的、発展的に捉えていく従因至果的な仏教学の行き方によっては決して真髄を捉えられないことを見抜かれていたからであります。
 戸田先生はあくまで、日蓮大聖人の御書にのっとり、大御本尊への唱題の行を持続させながら、久遠の仏法によって法華経を読みきられたのであります。まさにあの「仏とは生命である」との悟達は、この従果向因の行き方から生まれたのであります。
 そしてその悟達をもとに、法華経並びに一切の経典を生命論の立場から捉え直され、仏教を現代的に開く画期的な展開をされたのもまた、従果向因であります。ここに未曾有の創価仏法運動の原点があったことは、もはや申すまでもありません。
 今日まで世界の多くの人々が幸福を語り、平和を語り、勇気や希望を語ってきた。しかしながら、はたしてそれらの言葉のなかに、生命の奥に光る真実の悟達があったであろうか。否、それらはことごとく無明の闇に閉ざされ、迷いの暗雲に覆われた力弱い哀音にすぎなかったといえる。
 所詮は、悟達からほとばしりでる従果向因の発言ではない。絶えず九界の迷いのなかに浮沈するうたかたのごときものであった。まさにそれは、なんらかの方向性をももたず流れに漂う、悟達の主人なき船にたとえることができる。
 それに対しいて私たちの哲学には、その淵源なる末法御本仏・日蓮大聖人の悟達がある。すなわち、創価学会の仏法運動が、地道な道程を歩みながらも力強き建設の足音を高く前進しているのは、ひとえに従果向因の革命的な運動であったからであります。
 また、今度は私たちの信心と実践に展開するならば、私たちの日々の勤行・唱題は、一往は九界から仏界に至るための修行であり、従因至果といえます。しかし再往考えるならば、それ自体が即仏界であり、社会・生活への妙法の湧現活動になっていく。これ、従果向因であります。
 また私たちの勤行・唱題において御本尊に帰していく、すなわち妙法に帰していく姿は、従因至果であります。しかし同時に、因果俱時に仏界を湧現して妙法の智慧に命いていく姿は、従果向因といえるでありましょう。
 すなわち帰命の二字のなかに従因至果・従果向因の二方向が同時に包含されているところに、日蓮大聖人の仏法の卓越性があるのであります。
 ともかく、毎日の御本尊に唱題し、学会の諸活動に邁進している事実自体、内証は日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩としての久遠元初の本地に住しているのであり、その元初の本地から、外用の振る舞いとして民衆救済の活動を展開していくのであると捉えて、久遠の流れに棹さして前進していきたいものであります。それが「久遠従果向因」を身で読みきっていく実践なのであります。
本因の妙法弘通を本迹に立て分け
02   本因妙法蓮華経の本迹          全く余行に分たざりし妙法は本・唱うる日蓮は迹なり、手本には不
                        軽菩薩の二十四字是なり、又其の行儀是なり云云。

 表題の「本因妙法蓮華経」とは、法華経寿量品の文底に秘沈された本因下種の南無妙法蓮華経のことです。南無妙法蓮華経は一切衆生が成仏するための本源の種子である故に、本因の妙法と称するのであります。
 この法は久遠元初自受用報身如来の大生命に脈打つ宇宙生命の根本法則であり、末法今時においては、日蓮大聖人の所持し弘通されていく一法なのであります。
 故に「本因妙法蓮華経の本迹」とは、末法において日蓮大聖人が、本因の妙法である南無妙法蓮華経を弘通されることに関して、本迹を立て分けるとの意味であります。
 末法に入って、まず「全く余行に分たざりし妙法は本・唱うる日蓮は迹なり」と記されている「全く余行に分たざりし妙法」とは、成仏本果の種子である久遠元初の一法を、全く余行に分かつことなく、そのまま末法へと移した南無妙法蓮華経のことです。
 この場合「全く」とは「少しも」という意味である。少しも余行に分割していないことが肝要だというのです。たとえ少しでも、妙法という根源の当体を分かち、余行を交えれば、それはすでに一切衆生を成仏せしめる本因の直体ではなくなってしまうからであります。
 すでに述べてきたように、本果妙の仏つまりインドの釈尊は四教八教にわたって法を説きました。つまり、妙法を直ちに説くことができず、これを間接的に示すために、四教八教、迹本二門として説かざるを得なかったのです。
 これらの法門は、妙法という宇宙生命の当体を分かつ故に、妙法の絶対なる働きを部分的に説明する「部分的真理」ではありえても、成仏本因の当体にはなりえないのです。
 それに対して、久遠元初の自受用報身如来の再誕であり本因妙の教主である日蓮大聖人は、久遠本因の妙法を直ちに末法の衆生に与えられた。宇宙生命の当体を直ちに示されたが故に、宇宙大の力用によって凡夫の色心を本源的に変革することが可能なのです。
 末法の衆生にしてみれば、宇宙生命の直体である御本尊を信受し妙法を唱えることにより、即身成仏が可能にあったのであります。
 言い換えれば、余行に分かたぬ妙法を日蓮大聖人が弘通された仏法は、余行に分かたぬ妙法であるからこそ、この大聖人の仏法のみが直達正観の仏法と呼びうる力を得たのであります。
 さて、末法に出現された日蓮大聖人は、妙法を弘通する立場では、上行菩薩の再誕という姿をとられました。これ、大聖人の外用のお姿であります。
 しかし、いうまでもなく大聖人の本地は久遠の本仏です。その偉大なる生命には、本因妙の妙法である南無妙法蓮華経が脈動していた。これ、大聖人の内証の悟りにほかなりません。したがって大聖人の生命に脈打つ妙法を「本」とすれば、上行菩薩の再誕としての外用のお姿は「迹」になります。
 このような理由から、現文には妙法が本、唱うる日蓮が迹と記されているのです。
生命内在の仏性を礼拝した不軽
 次に、本文の後半には「手本には不軽菩薩の二十四字是なり、又其の行儀是なり云云」と述べられている。
 周知のごとく、法華経の常不軽品には、威音王仏の像法の末に、不軽菩薩が二十四字の法華経を唱え、但行礼拝の行をなし、上慢の四衆は悪口罵詈・杖木瓦石の難を受けたと記されております。
 現文にある「不軽菩薩の二十四字是なり」とは、不軽が「我深く汝等を敬う」等の二十四字を唱えたことを指します。また「其の行儀是なり」とは但行礼拝の行相を意味することでありましょう。
 この二十四字の法華経並びに但行礼拝の行いついて「御義口伝」には次のように明言されております。
 まず二十四文字の法華経については「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(0764-第五我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事)と述べられています。
 法華経には広略要の三種がある。広説の法華経とは一部八巻二十八品の法華経であり、略説の法華経とは方便・寿量等であり、要説の法華経とは五字七字の南無妙法蓮華経になります。二十四文字の法華経にも略法華経であるといわれているわけですが、不軽菩薩が唱えた二十四文字のあらわす究極の意は、まさしく南無妙法蓮華経にほかならなかったのであります。
 また但行礼拝については「御義口伝に云く礼拝とは合掌なり合掌とは法華経なり此れ即ち一念三千なり、故に不専読誦経典但行礼拝と云うなり」(0764-第六但行礼拝の事)とあります。
 ここで明らかなように、礼拝とは合掌である。事の一念三千の御本尊に合掌するとき、我が身がそのまま事の一念三千の合掌の姿となるのです。
 故に、不軽菩薩の但行礼拝の行義は所詮、大聖人の仏法において妙法の当体たる御本尊に合掌することをあらわしていたのであります。
 だが不軽菩薩の事実のうえに一念三千の当体をあらわすことができず、ただ、一切衆生の生命に脈打っている仏性を礼拝せざるをえなかったのです。
 それにしても、衆生の生命に内在する妙法の当体に合掌することが、不軽の修行であり、但行礼拝の意味だったのであります。
 このような不軽菩薩の修行において本と迹を論ずれば、不軽が二十四文字の法華経を唱え但行礼拝をなす行儀の姿は迹でありましょう。しかし不軽の口唱する二十四文字の究極の意、元意であり、同時に不軽が礼拝したところの、一切衆生の生命の内奥に実在する南無妙法蓮華経それ自体は体の本となるのでありあす。
心底を揺さぶった実践を手本に
 ところで「百六箇抄」の現文では、大聖人の妙法弘通の文と不軽の修行を示す文のあいだに「手本には」記されております。
 すなわち大聖人の本因の妙法を弘通するにあたって、不軽の修行を「手本」にすべきであるとの仰せと拝せる。「手本には」とは、そこから学ぶべきであるとの意味であります。不軽の言動をそのまま末法の実践として取り入れるとうことではありません。
 ちなみに不軽菩薩は、迹仏である釈尊の過去因位の修行の姿にすぎません。故に、不軽が事実のうえに妙法の当体をあらわすことができず、ただ理として衆生に内在すする仏性を礼拝せざるをえなかったことは、今述べたとおりであります。
 日蓮大聖人とは仏としての力も資格も全く違っております。それにもかかわらず、不軽の修行から何を学び取れと仰せなのでしょうか。
 それは一言にしていえば、不軽菩薩が、種々の迫害にもかかわらず、上慢の衆生の生命に内在する仏性、妙法蓮華経に直接的に肉薄しようとした事実であります。
 常不軽という名前自体が、一切の衆生の生命は三世常住の妙法の珠を包んだ尊極なる当体であり、決して軽んずべきではない、という内容をはらんでおります。
 不軽菩薩は、その名前のとおり、但行礼拝をなしつつ人々の生命に内在する仏性に肉薄し、相手の心を奥底から揺さぶり続けたのであります。
 たとえ仏法を求めない衆生の心底の元品の無明を激発させることがあっても、またそれ故に迫害を被ることがあっても、衆生の仏性を開発し、妙法による生命変革を成し遂げさせずにはおかないという不退の決意が、不軽菩薩の実践に脈々と流れていたと思うのです。まさしく折伏という仏法弘通の方軌にほかなりません。
 日蓮大聖人の本因の妙法を弘通する方軌も、勧持品に説かれるように、折伏の行相を根本としております。ここに日蓮大聖人と不軽の姿は全く一致するのであります。
 故に「手本には」とは、本因の妙法の弘通において衆生の仏性そのものに直接的に肉薄し、その生命を根底から揺さぶった不軽菩薩の修行の在り方に学ぶべきであるとの意味と拝せましょう。
 いうまでもなく大聖人の仏法においては、事の一念三千の直体である御本尊の受持により、我が生命の内奥から妙法の血潮を顕現させることができます。また誰人であれ、御本尊の受持により直達正観が可能なのであります。
 大聖人の仏法は本因の妙法を直ちに行ずる大仏法であるからこそ、なおさらのこと、一切衆生の生命の底に脈打つ仏性に迫り、尊極たる当体を輝かせる折伏行を実践の根本にすべきなのであります。
 いかなる人とえども、妙法の珠をいただいた生命である。たとえ煩悩・無明の埃におおわれていても、その埃をぬぐいされば、まばゆいばかりの光明を放つ当体へと変革しうるはずです。
 衆生の心に堆積した無明の障壁を突き抜けて、その底流に脈動する妙法の当体に肉薄するには、それこそ不屈の決意と、血と汗の戦いが要請されるでありましょう。一人の人間の心底を電撃的に揺さぶる行為は、決して簡単なことではありません。不撓不屈の不軽の実践を手本とするとは、まさしくこの大実践をいうのであります。

第八回top

本因下種の妙法を直ちに修行
03   不渡余行法華経の本迹           義理上に同じ直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり、今日蓮が修
                         行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。

 まず表題の「不渡余行法華経」について考えてみたい。ここでいう法華経とは、もはや文上脱益の法華経ではない。寿量文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。
 前回にも述べたように、同じく法華経といっても、広・略・要の三種があります。広説の法華経が一部八巻二十八品であり、略説の法華経が方便・寿量品であるのに対し、要説の法華経とは五字七字の南無妙法蓮華経のことをいいます。そのうち広説・略説の法華経が文上、要説の法華経が文底となります。
 表題の「法華経」とは、要説の法華経 南無妙法蓮華経 を意味しております。しかも、この法華経は「不渡余行」なのであります。
 「不渡余行」とは「余行に渡さず」と読む。「余行」とは、具体的には本果妙の仏、つまりインドの釈尊が説き示した四教八教の修行をいいます。すでに述べたように、本果の仏は、妙法を直ちに説くことができず、これを間接的に示すために、四教八教、迹本二門として説かざるをえなかった。これは余行の法門は、本因下種の法体たる妙法の部分部分を取り出して説いた教えにすぎないため、衆生成仏の本源の種子とはなりえないのであります。
 したがって広説・略説の二種の法華経も、要説の法華経よりみるならば、末だ本迹二門というように本因下種の妙法を部分に分かって説いたものであり、そこに立てられた行であるが故に「余行」となるのであります。
 「余行に渡さず」とは、仏道修行においてこれら余行の法門に渡らない、すなわち全く行じないということであります。
 それ故に表題の「不渡余行法華経の本迹」とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人が本因下種の妙法を、余行を交えずに直ちに行じられた修行のお姿を、「本」と「迹」に立て分けて論じられているのであります。
 本文に入って「義理上に同じ」とあります。「義理」とは意味や内容のことであり、本項の意味内容が前項の「本因妙法蓮華経の本迹」と同じであるとの仰せです。
 では、いかなる点で義理が同じなのでありましょうか。
 「本因妙法蓮華経の本迹」においては、本因下種の法体としての妙法蓮華経の本迹を述べているのに対し、ここではその下種の妙法を修行する立場における本迹を論じられているのであります。
 妙法は本因の下種を明かす故に四教八教の余行を説く必要は全くない。それが前項の「全く余行に分たざりし妙法」ということであり、すでに学んだところであります。その下種の法体たる妙法を修行するうえにおいても、やはり余行に渡る必要は全くない。まさに直達正観である。このように、下種の法体に約しても、また修行に約しても、ともに余行に渡ることはないのであります。そのことを「義理上に同じ」といわれているのであります。
妙法は諸仏が直達した究極の法
 次に「直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり」とある。
 「直達の法華」とは直達正観の文底の法華経・南無妙法蓮華経のことであります。「本因妙抄」に「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず 直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(0877-04)とお示しの通りであります。「直達正観」とは直ちに正観に達することであり、速疾頓成・即身成仏」と同じ意味であります。
 その直達の妙法が「本門」であるとの仰せなのです。それに対して、妙法を唱うる釈迦は「迹」となる。ここで「釈迦」といわれているのは文底の釈尊、すなわち久遠元初の自受用報身如来のことであります。
 久遠元初の修行における人と法とを本迹に立て分けて論じられているが故に「釈迦」と表現されているのであります。そのことは「総勘文抄」の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)との表現や、同じ「百六箇抄」の「久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり」の表現など、これまで学んできた文に照らして明らかでありましょう。
 さて、この場合の本迹の立て分けが、久遠元初自受用報身如来の生命にはらまれた内証と外用の立て分けであることは、もはや論ずるまでもありません。
 妙法を唱うる釈迦、とはまさに久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の外用の姿であり、振る舞いであります。それ故に「迹」となる。だがその内証には、直達の法華すなわち宇宙と生命の究極、南無妙法蓮華経の一法が脈打っているのであり「本門」となるのであります。
 では、何故に南無妙法蓮華経を「直達の法華」といわれたのでありましょうか。
 それは妙法が、三世諸仏が直立したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生が直達したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生に直達の正観を得させる力を内包されているからであります。
 「当体義抄」に「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(0513-04)とあります。
 すなわち、妙法は因果俱時・不思議の一法であるとの仰せである。それ故、この妙法を行ずるとき、仏因・仏果同時に得ることができるのであります。
 久遠元初における日蓮大聖人は、名字凡夫の姿のまま妙法を唱えられると同時に、直ちに正観に達せられたのであります。まさに「直達の法華」とは、妙法にはらまれた、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙なる力を指しているのであります。それはまた、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の生命に脈打つ一法でもある。
宇宙生命の根源に直接触れる
 このことは、私たちの立場にもそのままあてはまるのであります。
 私たちが御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えるとき、直接、宇宙生命の根源に触れることができ、それを基点として生活や社会の場に打って出ることができるのであります。
 これは私たちに約した直達正観であります。そこでこの直達正観の「直達」について少々考えてみたい。
 「直ちに達する」の「直ちに」は、さまざまな意義が考えられるが、まず「速やかに」とも表現されるように、時間的な速さを意味しております。先にあげた「速疾頓成」も、また法華経如来寿量品の「速成就仏身」も、共に速やかに成仏する、との意味であります。これは長遠な時間を要する歴劫修行に対する意義であります。
 歴劫修行の場合は、仏因と仏果の間が因果異時である。九界の衆生ははるか彼方に仏界の到達点を目指しながら、限りなく修行を積み重ねていかなければなりません。そこに漂うものは、果てしなき仏道修行の道程に対する嘆息であり、あるいは絶望的な悲嘆かもしれない。しかし歴劫修行には、必ず仏果に到達するとの保証はどこにもないのであります。
 これでは、いかに仏法が民衆救済を叫んでも、現実に衆生を救い得る力とはなりえない。ここに直達の正観すなわち速疾頓成を説く法華経、なかんずく日蓮大聖人の仏法が、出現したことのありがたさがあるのであります。
 衆生の生命の奥底には久遠元初以来、仏因と仏果とを因果俱時ならしめる妙法が厳然と貫かれていた。この妙法を唱えるとき、九界の衆生の仏因は速やかに仏果に達するのであります。
 爾前経においては、この衆生の生命の奥底に貫かれた因果俱時・不思議の妙法をあらわしていない。修行の目標としての民衆を生命の外側に置かざるをえなかったし、その故にそこに到達するための修行として歴劫修行を説かざるをえなかったのであります。
 これに対して法華経は、仏果を凡夫の生命の内側に脈打つ実在と捉えた。だがそこにはこの仏果の体を説きあらわさず、文底に秘沈されていた。これを日蓮大聖人は初めて取り出してあらわされ、三大秘法の仏法として樹立されたのであります。それ故に大聖人の仏法においては、いかなる人も速やかに成仏することができることとなったのであります。「成仏」とは「仏に成る」ことではなく「仏と成る」と読まれたのも、まことにここに由来するのであります。
 この歴劫修行と直達正観との相違を明らかにするために、今、一つの身近なたとえを述べてみよう。
 ありえないことだが「悲しみ」を知らない人が仮にいたとしよう。それを生命の外にある対象とし、悲しみはいかなる精神現象か、何を縁として起きるか、それに伴う肉体的な現象は何かなどを研究しようとする。あらゆるケースを分析し、認識し、理解したとしても、なおかつその悲しみそのものに迫ることは難しいでありましょう。それはまさに歴劫修行にも等しいと思う。
 ところがひとたびその人が、愛するものを失うなど悲しみを体験したとき、探し求めてきたものを即座に悟るのであります。思い描いたものと異なるかも知れないし、似たものであるかもしれない。しかし、いかなる分析や認識とも違った圧倒的な実感をもって「悲しみ」の本体を知るでありましょう。そのとき、もっとも自分の生命の内にあった「悲しみ」の感情が実際に現れたことを知るにちがいない。これが直達の正観にあたるといえないであろうか。
 成仏の問題は、このたとえよりももっと深遠で重大であります。しかし直達の正観も、所詮は自らの内に脈打つ妙法に直接触れ、我が身即妙法の当体であることを実感することに尽きるのであります。
民衆と妙法を直結させる仏法
 ともかく「直ちに」は、時間的な速さを意味するのであります。だがそればかりではない。「直ちに」はまた、すでにこれまでにも触れたごとく、直接、直結の意味がある。
 この意味では極めて重大であります。すなわち日蓮大聖人の仏法は、私たちを妙法と直ちに結ぶことを説く、言い換えれば法と人との直結を説くのであります。それは同時に、御本尊と私たちの間にはいかなる媒介物も存在しないということを表すのであります。
 中世キリスト教において、神と人間との間に、双方を仲介する教会や牧師が存在していたことは周知のことでしょう。本来、神と人間との間に絶対の断絶を置くキリスト教にあっては、両者の仲介役たる牧師や教界が存在する必要性は十分にあったのですが、しかし次第にそれらの権威や力が大きくなり、遂に民衆を隷属させるに至ったことは歴史的事実であります。
 近世初頭におけるルネサンス及び宗教革命運動は、根本的にいって教会や牧師の仲介を取り払い、民衆を直ちに神に直結させようとした試みであったともいえましょう。その結果、人間復興といわれる一つの特色をもったのであります。しかしながら、いかに人間を神に直結させようとしても、神を創造主、人間を被造物と説くキリスト教にあっては、おのずからそこに隔絶があるのもまた道理であります。結局、人間は神の権威の前に奴隷のごとく伏せざるをえないのであります。
 日蓮大聖人の仏法は、民衆と妙法を直結させた仏法であります。しかもその妙法は、民衆の生命の内に脈打つ実在である。これほど権威を否定し、人間の存在の尊厳性を高らかに謳い上げた宗教はない。私たちは、人間主義の宗教である偉大なる日蓮大聖人の仏法に巡り会えたことを深く感謝しつつ、日々の行学に励みたいものであります。
 妙法即御本尊と私たちが直結することこそ仏法の根本であり、極意であります。それはまた、あらゆる人々が御本尊と自分との関係に生きるということでもある。たしかに、妙法広布を推進する組織はなければなりません。だが御本尊と自分との直結という仏法の極意、本義に立つならば、組織はあくまで、この直結をより深くするという根本目的のための手段といっても過言ではないでしょう。この目的と手段をはきちがえるとき、その組織はたちまち権威主義とドグマに囚われ、民衆を苦しめる魔物と転化するのであります。
厳たる軌跡描く妙法根底の人生
 さて、本文の最後に「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」とある。「芥爾計も違わざるなり」の「芥爾計も」とは、「少しも」との意である。言い換えれば「そおまま」ということであります。
 また「久遠名字の振舞」とは、名字即の凡夫のままで仏の振る舞いを行じられた久遠元初の自受用報身如来の姿を表されているのであります。
 したがってこの文は、末法今時の日蓮大聖人の修行は、久遠元初の自受用身の振る舞いをそのまま行じたものであるとの仰せであります。その元意は、久遠元初も南無妙法蓮華経、今も南無妙法蓮華経であるということであり、永遠に南無妙法蓮華経は宇宙と生命の根源に脈打つ直体ということであります。
 時代・社会に制約されることなく、時代・社会を超越しつつ、しかも常に時代・社会にその力用を現す普遍の妙法・日蓮大聖人はこの久遠元初の妙法を御本尊として図顕され、私たち末法の衆生に与えて下さったのであります。
 故に私たちが御本尊に向かって余行を渡さずに直ちに題目を唱えるとき、もったいなくも日蓮大聖人の生命に直ちに触れることができたのであります。しかもそれは、日蓮大聖人から、その命を部分に分かつことなく命全体をそのまま受け継いでいくことになるのであります。
 私たちが御本尊即妙法と直結するということは、まさに、宇宙生命の根源に帰することであります。
 日蓮大聖人の仏法は、変化し移ろいゆく無常流転の哲理ではない。元初の時より無始無終に南無妙法蓮華経の一法は常住の法として宇宙に脈打ち、生命の奥底に脈々と流れているものであります。
 故に、南無妙法蓮華経の一法に帰し、そこから発する人生こそ強く確固たるものはありません。
 その人生はもはや、激風や暴風のなかにあってもろくも散りゆく木の葉のごときものではない。否、むしろ妙法根底の人生は、劇風や暴風を自らの飛躍のための土台としていくような逞しくも強靭な旅路となるに違いない。
 厳とした、この妙法の一法が胸中の肉団に輝いているかぎり、わが人生もまた厳たる軌跡を描いていくことは必定であります。
 どうか皆さん方は、片時も仏法の真髄が御本尊と自分との直結にあることを忘れないでいただきたい。

第九回top

大聖人内証の大生命を明示
04   下種の法華経教主の本迹          自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益
                         寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。

 表題に記された「下種の法華経」とは下種仏教の法華経であり、脱益寿量品の文底に秘沈された本因妙の南無妙法蓮華経のことを意味しております。この一法は、一切衆生を成仏せしめる根源の種子である故に、下種益の法華経となるのであります。
 それに対して文上の法華経二十八品は、本果妙の教主である釈迦の脱益の法華経であり、また像法出現の天台の説いた摩訶止観の熟益の法華経であることはすでに述べた通りであります。
 さて、南無妙法蓮華経は、久遠元初の自受用報身如来の大生命に脈動する一法であり、同時に、末法御出現の本因妙の教主である日蓮大聖人が所持され、弘通された根源の法であります。
 故に「下種の法華経の教主」とは、久遠元初自受用報身如来、即末法の御本仏・日蓮大聖人のことを意味するのであります。
 今、下種の法華経を弘通される教主、つまり日蓮大聖人の大生命について、本と迹とで論じていくのが、表題の主旨であります。
実践の尊さを示した外用の姿
 「百六箇抄」の文については、日寛上人が「当流行事抄」のなかで取り上げて論じておられますので、それにしたがって解明していくことにしたいと思います。日寛上人はこの本文全体を、まず二つの大段に立て分けて論をすすめておられます。
 「当流行事抄」には「文に二段あり初めは是れ従本垂迹なり、次は是れ本迹顕本なり。故に其の教主は某なりと云うなり。故に知んぬ蓮祖は即ち是れ自受用身なり。是の故に応に知るべし下種の教主は但是れ一人なり、謂く久遠元初の教主にも自受用身・末法今時の教主も自受用身なり。久末一同之を思い合わすべし」と記されております。
 「初めは是れ従本垂迹」とは「自受用身は本・上行日蓮は迹」の御文のことを言われております。従本垂迹とは、本従り迹を垂れる。という意味であります。
 末法において、日蓮大聖人は、法を弘める立場では、上行菩薩の再誕という姿をとられました。しかし、この上行日蓮としての外用の振る舞いは、あくまで、本地自受用身報身如来の大生命が脈打っていました。大聖人は、本地である久遠元初の血脈を内奥にたぎらせつつ、上行菩薩としての振る舞いを現じられたのであります。これが日蓮大聖人における従本垂迹の姿であります。
 しかし日蓮大聖人は、竜の口法難において外用上行の迹をはらって、内証の境地たる久遠元初の自受用報身として、本を顕されました。「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)とある通りであります。ここに記された魂魄とは、久遠元初の自受用報身という大聖人の内証の生命それ自体であることはいうまでもありません。
 竜の口の頸の座を通じて、凡夫をなげうち、久遠元初の本地を開顕された厳粛なる事実こそ、まさに、末法御本仏における発迹顕本であると拝すべきであります。
 なぜ大聖人は、外用の姿をひとまずとらえられたのであろうか。それは、経文に即して、どこまでも経文通りの実践をしきった姿を人々に知らせるためでられた。すなわち、実践の尊さ、強さ、偉大さを示すためであられた。
 だが、もしその大聖人の外に顕れた姿のみに終始し、内なる元初の光線を弟子たちに知らしめなければ、また、後世にとどめておかなければ、大海の表面のさざ波に人々は目を向けるだけであろう。その奥に広がる大海の心、すなわち内証に脈打つ生命というものを知らしめる必要があった。その外用から内証への回転劇こそ、竜の口法難であったのです。また、この「百六箇抄」の文において、大聖人の御内証を明かしてくださったのであります。まことにありがたいことではありませんか。
末法の御本仏を説いた寿量品
 「百六箇抄」では、第二段から発迹顕本をあらわしております。「我が内証の寿量品と脱益寿量の文底の本因妙の事なり、その教主は某なり」の御文がそれであります。
 この御文を通して大聖人は、自らが本因妙の教主であり、自受用報身如来であられることを、一切衆生に向かって宣言されております。故に「其の教主は某なり」と断言されておりますが、私は、この第二段全体を解明するにあたって、次の順序で論を進めていきたいと考えております。
 まず最初に、内証の寿量品ということについて、少々解説を加えておきたい。次に、発迹顕本の御文の前半、つまり「我等が内証の寿量品とは、脱益寿量の文底の本因妙の事なり」を通して、内証の寿量品と南無妙法蓮華経との関係性を論じていくことにいたします。そして、最後に「其の教主は某なり」との御文を中心に第二段全体を拝したいと思います。
 さて、第一の項目について述べてまいりますが、周知のごとく、寿量品の最も重要な意義は、発迹顕本にあります。しかしながら、ひとことに顕本といっても、そこにあらわれた本地がいかなるものかによって、異なってくる。故にこれを文上顕本と文底顕本に立て分けるのであります。
 文上顕本とは五百塵点劫成道という本地を顕したことであり、文底顕本とは久遠元初という本地を顕したことであります。つまり、寿量品第十六を五百塵点劫成道の釈尊の顕本の品として理解していくことを、文上の寿量品といいます。それに対し、同じ寿量品を、久遠元初の自受用報身の顕本の品であると理解していくのが、日蓮大聖人の内証の本地を顕した品としての読み方であり、故に、内証の寿量品と称するのであります。
 例えば「我実成仏」という文を、その文のままに読めば、ということは文上の寿量品で読めば、五百塵点劫の成道を指し、て「我実成仏」と説いたのであり、それは文上顕本になります。もし、久遠元初の成道を指して「我実成仏」と説くというのならば、これは文底顕本であり、文底の寿量品、内証の寿量品の読み方となります。
 日蓮大聖人は「御義口伝」において、寿量品の説法をされていますが、そこでは、文上の寿量品としてではなく、文底の寿量品、内証の寿量品としてこれを読まれております。また、恩師戸田先生が、寿量品講義に際して、文上と文底の両様の読み方を懇切に教えられたのも、その正意は、内証の寿量品を説かんがためでありました。私どもが勤行において寿量品を読む正意も、文上脱益の寿量品をよむのではない。まさしく、寿量品の2000余文字の経文を、日蓮大聖人の仏法の説明として読んでいくのであり、このことを文底下種の寿量品、内証の寿量品として読む、ということであります。
 「百六箇抄」の現文によれば、内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙、すなわち南無妙法蓮華経のことである。と説かれております。すなわち、内証の寿量品と南無妙法蓮華経とは不二なのであります。
 しかし、この内証の寿量品と妙法五字を、更に厳密に立て分ければ、それは能詮と所詮の関係にある。つまり、内証の寿量品の2000余字が能詮で、南無妙法蓮華経の七字が所詮となります。この場合、能詮・所詮の詮は、事理をよく説き明かすという意義を含んでおります。したがって、内証の寿量品と妙法が能詮・所詮の関係にあるということは、内証の寿量品の説明する体こそが、南無妙法蓮華経であるという意味になるのであります。
 すなわち、内証の寿量品とは、久遠元初の本地を顕現された日蓮大聖人の内なる生命を顕し、それを述べた経文ということであります。
 それは、大聖人の悟りに即して寿量品をみたとき、その言々句々ことごとくが、久遠元初の自受用報身、即末法の御本仏の大生命、振る舞いを説き明かした経文となるのであります。故に、寿量品の一文一句にして、大聖人の生命に躍動する宇宙生命の当体、南無妙法蓮華経の説明にならないものは何一つないのであり、寿量品に説かれるものは、すべて大聖人の一仏、妙法の一法以外の何ものでもないのであります。
下種の教主は”ただ一人”の大確信
 さて「百六箇抄」の現文では、以上に述べてきた論旨を踏まえて、大聖人は自ら「其の教主は某なり」とおおせであります。
 つまり、脱益寿量品のその文底に秘沈された妙法を説く仏、本因妙の教主は、大聖人ご自身であるとの宣言であります。
 第二段全体の御文が、脱益寿量の“迹”を打ち破って、文底本因妙の“本”を顕わしている。すなわち「発迹顕本」になっていることは明らかでありあす。
 では最後に、大聖人は何故に「其の教主」つまり、本因妙の教主は「某なり」といわれたのでしょうか。いいかえれば、何故に、ほかならぬ「某」という言葉を選ばれたのでしょうか。私は、この言葉のなかに本因妙の教主、下種の教主は、大聖人ただ一人であり、他の誰人もありえないという確固たる大確信がみなぎっていることを観ずるのでありあす。
 論理的に言えば「その教主は日蓮なり」というと、冒頭の「上行菩薩は迹」という御文とつながり、大聖人御自身は“迹“の面だけの存在ととられるおそれがある。「某なり」といわれていることによって、本地自受用身垂迹上行を含んだ全体が、末法本因妙の仏法の教主であることが明らかとなるのであります。
 大聖人は、人々の信心の眼を外用から内証へと開かしめるために「某」を第一人称と選ばれたのではないでしょうか。私には「某」という表現のなかに、大聖人が大宇宙をも動かす久遠の原動源を内に感じつつ叫ばれているとの、何にもまして強い響きを感じないわけにはいかないのであります。
 なお、教主ということに関して申し上げれば、法律の大家はいわば法律の教主であり、経済の大家は経済の教主であります。医学のことは医師がその教主となる。
 だがこれは、いわば世間の分々の一つの教主の姿ということができよう。日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経という宇宙と生命の根源に脈打つ根本法則を体達された教主であります。故に、我が生命と宇宙に流れている究極の法則は日蓮大聖人御自身がすべて御存知でられる。「其の教主は某なり」の一言のなかに、末法今時において、生命の根本解決の法、仏法についてはだれの言をきくべきかを明確に宣言された、大確信と大慈悲のお心と感じるのであります。
真実の三徳を具備した大聖人
05   下種の今此三界の主の本迹          久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日
                          は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり。

 まず表題に掲げられた「下種の今此三界の主」とは、下種仏法における主師親三徳具備の仏、すなわち久遠元初の自受用報身如来即末法の御本仏・日蓮大聖人を表しております。
 いうまでもなく「今此三界」は文上法華経の譬喩品に記された有名な偈頌の冒頭の言葉であります。
 その偈は「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」というものでありましょう。
 この文が、釈尊自ら主師親の三徳を具備した仏であることを初めて宣言した文でることは、改めて論ずるまでもないでしょう。
 そして、ここでは、主の徳を表す「今此三界皆是我有」つまり「三界の主」をもって、三徳を代表として仏の異名とされているのであります。なぜなら、主の徳とは眷属を守り利益する力を意味します。仏はまず、迷い、懊悩する衆生が住む三界六道の世界の主でなければならないということであります。三界の主であって初めて衆生を慈愛で包む親としての働きも、衆生を教化し導く師匠としての働きも十全に発揮することができるのであります。
 阿弥陀仏のごとく、三界の現実世界を遠く離れた西方浄土に存在する仏では衆生を救済することができないのは明らかでありましょう。また大日如来や華厳経の仏のように、単なる理想上の架空の仏であってはならない。
 ともかく、衆生を済度する仏は、どこまでも、苦悩する民衆が生活し、矛盾や不合理の渦巻くこの三界という現実世界の主であるべきことを謳い上げたのが、譬喩品の「今此三界」の文であったのです。
 しかしながら、どれだけ釈尊が自ら主師親三徳の仏であることを説き「今此三界の主」であることを宣言しても、所詮、それは脱益の法華経にすぎない。
 真実にして究極の「今此三界の主」は、寿量品文底の仏、すなわち日蓮大聖人であることはいうまでもありません。
 それ故に、表題の「下種の今此三界の主の本迹」は、真実究竟の主師親三徳の仏である日蓮大聖人のご生命を「本」と「迹」とに立て分けて論じようとされているところであります。
民衆を厳護される崇高な一念
 本文に入ってまず「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」とあります。
 これは、表題の「下種の今此三界の主」を受けて、日蓮大聖人こそが末法の御本仏であり、宇宙におけるただ一人の「今此三界の主」であることを宣言された有名な御文であります。
 私はこの御文に接するたびに、日蓮大聖人の民衆を厳護され、慈愛される一念の崇高さに、込み上げてくる感動を禁じ得ないのであります。更に、この御本仏の内なる境涯の無限の広さと雄大さに触れて、己が生命に歓喜の炎が燃え上がらない人があるでしょうか。
 文中の、久遠元始とは久遠元初のことであることはいうまでもありません。
 また「天上天下・唯我独尊」とは、釈尊誕生のとき、七歩歩いて唱えたという伝説と共に、誕生偈としてよく知られた言葉であります。
 その意味は「天上天下、すなわち全宇宙において、仏のみ独り尊き存在であるということであり、そこから仏界の生命、仏性というものの尊さを最大限に称えた言葉となるのであります。
 ところで、常識からいって、いかに釈尊といえども、生まれた直後のときに、こんな言葉をいうはずはありません。その意味するところは、おそらく、釈尊がこの世に仏陀となるべき使命をもって生まれてきた人であることを示そうとしたものでありましょう。そして、更にいえば、この世で最も尊き価値を有するものは、人間の生命であることを述べようとしたものでありましょう。
 「唯我独尊」というと、なにかただ己一人のみ尊いという独善のように聞こえるが、ここでいう意味ではそうではない。恩師戸田先生が「仏とは生命である」と叫ばれたことを、想起していただきたいものであります。
 この世で至上の価値をもつものは生命以外にはないという仏法の究極の結論なのであります。
 生命に勝る価値はない。生命を無上のものとし、至極のものとする考え方が、そこににじみ出ているのであります。
 これに比べれば、国家の権威も、資本の価値も、また権力に付与されるいかなる価値もものの数ではない。それが真実の法華経という仏法の思想なのであります。
 しかし、生命がいかに尊いと説かれても、それだけでは現実には納得いかないのも事実であります。
 その生命の光を発揮させるものは何か。
 それを日蓮大聖人は、釈迦仏法よりもより根本的に、南無妙法蓮華経以外にないと決定されたのです。
 久遠元初以来、無始無終の大宇宙に脈打つ南無妙法蓮華経 これこそが、まさしく「唯我独尊」であることを明言されたのであります。日蓮大聖人が、あの流罪の地・佐渡で「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(0223-02)と仰せられた、大確信の御言葉を思うべきであります。
 日蓮大聖人は、この言葉を文底下種仏法の立場から読まれて、久遠元初以来、真実に「唯我独尊」なるものは、大聖人の御生命に脈打つ、自受用身即事の一念三千の直体であると述べられているのであります。
 「唯我独尊」の「我」とは、これまでに何度も述べてきたように、久遠元初の自受用報身如来の生命であり、宇宙と生命の根源に脈打つ一法、南無妙法蓮華経それ自体であります。
 これを国土世間の側から捉えるとき、日蓮大聖人が久遠元初以来「今此三界の主」であり「唯我独尊の御本仏」であられたということは、全世界地球全体が、本来、妙法の脈打つ寂光土であり、久遠元初の仏の常住の浄土であるということを意味しているのであります。
 また「天上天下・唯我独尊」とは、これまで論じてきたように、別しては末法の御本仏・日蓮大聖人ただ御一人でありますが、今度は、日蓮大聖人の生命即御本尊を受持し、信心修行に励む私たちの生命もまた、総じては「唯我独尊」となるのであります。私たちが三大秘法の御本尊に向かって妙法を唱えるとき「我が身即ち一念三千の本尊・蓮祖聖人なり」と日寛上人の仰せのごとく、私たちの生命もまた、日蓮大聖人の御生命と顕れるのであります。これすなわち、私たちに約した「唯我独尊」とは、であり、なんとありがたいことではありませんか。
最高の尊厳性を確立する法
 そこで「唯我独尊」の意味するものにつて、少し広く考えてみたい。
 まず「唯我れ独り尊し」というのは、先ほど申し上げたように決して傲慢や思い上がりの言葉ではないということであります。こうした傲慢や貪欲の殻をつき破って、真実の「我」というものを知り得た人にして初めて言える言葉であるように思う。
 ある哲人は、人間を、本当の自分、真実の我に出会うために彷徨する旅人にたとえ、素晴らしいたとえであると私から願っております。
 人間が織りなす、さまざまな人間模様において、本来の己、真実の我というものをつかみえた人は幸せであり、そうでない人は不幸にちがいない。
 どんなに社会的に有名であっても、また、大きな権力を掌中にしても、真実の我を把握しえない人は、孤独地獄の暗闇で悶え続けねばならないのであります。このことは、具体的に例をあげるまでもなく、明白な事実であります。
 逆に、無明の庶民であっても、本来の我に到達した人は無上の幸せを満喫し、堂々たる人生道を、悠々と歩むのであります。
 その意味では、人間だれしも「天上天下・唯我独尊」と胸中から発することのできる境地を探し求めているといえるのでありましょう。
 だが、この「我」は、単なる理性による思索や認識によって把握できるものではない。あくまでも信を根本に、体験的に体得する以外にないのであります。
 ここに、人間にとっての宗教の必要性が起こってくるのであります。
 しかし、その宗教においても、真実の我に出会うためと称し、いたずらに「無私」や「無心」を説いて、自己犠牲による他人への奉仕を勧めるものが多い。これでは、かえって主体性を喪失し、人間としての誇りも品位も失ってしまうことは火を、見るよりも明らかであります。釈迦仏法はおおむね、この経過をたどってきたことは論ずるまでもありません。
 日蓮大聖人の仏法は、人類一人一人が希求してきた、真実の「我」を、宇宙生命たる南無妙法蓮華経の大生命に捉えたのであります。この大生命こそ、無始無終にわたって常住しつづけ、リズムを打って宇宙に脈打つとともに、私たち衆生の存在の源底を貫く直体なのであります。
 先ほども述べたごとく、南無妙法蓮華経即御本尊に私たちが妙法を唱えるとき、我が存在の奥底より、真我とも大我ともいうべき宇宙生命が、あふれるように湧き上がり、真実の我に到達した者のみが知る歓喜と充実感を得ることができるのであります。
 そのとき、私たちはもはや、かの哲人が語ったような、真実の我を求めて彷徨する不安定な旅人ではない。瞬間瞬間、我が生命の奥底より泉のごとくあふれる真我を根底に、障魔の荒れ狂う現実の真っ只中で、逞しく自己変革をなしゆく不動の主体者となっているのであります。
 真実の宗教は、自己を没却してくものではない。唯我独尊とあるごとく、最高の尊厳性を確立することであり、仏は「今此三界の主」とあるごとく、この自身の大慈悲をもって世界全体、否、宇宙全体を包んでいくのであります。
 一人の人間を救うことのできる喜びは、自分一人の喜びよりも、はるかに偉大な歓喜であります。
 もはや、真実の信仰者は、この荒れ狂う怒涛のなかに没しゆく、悲しき運命の人ではない。
 その怒涛の最先端に立ちながら、自らの生命の光によって希望の未来を開きゆく、勇気ある実践者であります。
諸仏は久遠の本仏から生じた影
 次に、本抄の文は「久遠は本・今日は迹なり」と続いております。これは表題に掲げられた「下種の今此三界の主」たる日蓮大聖人の生命を「本」と「迹」とに立て分けられているところです。すなわち、久遠元初の自受用報身如来が「本」であるのに対して、3000年前に出現したインド応誕の釈迦仏は「迹」であるということであります。
 ここにおける「本」と「迹」の関係は、従本垂迹であります。つまり、インド応誕の今日の仏は、久遠元初の自受用報身如来から出生した影の仏であるということです。更にいえば、久遠元初の自受用報身如来を「体」とすれば、今日の釈迦は「用」となるのであります。
 否、単に今日の釈迦のみならず、五百塵点劫本果第一番成道道の釈迦をはじめ三世十方の諸仏すべてが、久遠元初の自受用報身如来の「用」の仏となるのであります。
 日寛上人は、この関係を「当流行事抄」において、玄文第意七の「三世乃ち殊なれども毘廬遮那一本異らず。百千枝葉同じく一根に趣くが如し」の文を引いて「若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受用身は天の一月の如く木の一根の如し、故に余仏無し、当に知るべし余仏は皆是れ自受用の垂迹なり」と、明快に論じられている。
 更に「横に十方に徧し竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」ともいわれています。
 すなわち日蓮大聖人は、あらゆる仏の本種である南無妙法蓮華経を所持された根源の御本仏ということであります。
 しかも、日蓮大聖人は、あらゆる仏を出生させた根源仏であるが故に、もはや脱益本果の釈迦仏のごとく、我が身を飾り、色相を荘厳する必要はないのであります。
凡夫の姿で人々を救う末法の仏
 後の文である「三世常住の日蓮は名字の理生なり」とは、まさに、諸仏能生の根源法たる久遠元初自受用身即日蓮大聖人が我が身を飾らず、ありのままの凡夫として、一切衆女を救われているところであります。
 「三世常住の日蓮」とは、御本仏・日蓮大聖人こそ、久遠元初の自受用報身如来であり、三世にわたって常住する根源の仏であるということです。
 これを生命論で述べるならば、宇宙と生命の根源・南無妙法蓮華経の一法が無始無終に躍動し、その力用を、生きとし生けるものすべてに及ぼしていることを表しているのでありあす。したがって、私たちが妙法を唱えつつ、苦楽の交差のなかで生活している今ここに妙法の慈悲と智慧の力用は脈々とあらわれているのであります。
 まさに、如々として来たっているか、三世常住の南無妙法蓮華経の如来なのです。
 この如来が、700年前に日蓮大聖人と顕現され、名字即極のお姿のまま、暗闇の末法の悩みに打ち沈む衆生を救済された。そのお姿こそ「名字の利生」になるのであります。
 そして、今日において、私たちが妙法即御本尊に題目を唱えたとき、凡夫そのままの我が生命の奥底から、宇宙生命がふつふつと湧き上がり、我が身即南無妙法蓮華経如来とあらわれたとき、その瞬間、日蓮大聖人の「名字の利生」の功徳に浴したことになるのであります。
 もったいないことに、私たちは日夜、御本尊を縁として、三世常住におわします日蓮大聖人の「名字の利生」にあずかっているのであります。今度は、私たちが妙法即御本尊を根底に、名字即の凡夫の姿のままで、人々を利益し、救っていくことが、私たちの「名字の利生」になっていく、それはすなわち、三世常住の日蓮大聖人の御生命を一切衆生に継がしめる崇高な活動なのであります。
 私たちは今日もまた、日蓮大聖人の「名字の利生」を担うため、輝ける地涌の菩薩の使命をはたしゆくことを、ともどもに誓い合おうではありませんか。

仏教哲学大辞典よりtop

はじめに
 本書は、弘安3年(1280)1月1日、日蓮大聖人から御弟子日興上人に授けられた種脱相対106箇条の相伝である。日蓮大聖人の出世の本懐は、宗教の五網、宗旨の三秘であるが、すでに諸宗諸門においても、内外・大小・権実・本迹等の相対は一分これを述べ、あるいは三大秘法の名目はこれを喋喋する者はあるが、肝心の種脱相対は知らないのである。種脱相対の深義は開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と判じ、観心本尊抄には「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)文底下種三段を立てて明らかにされているが、それは日寛上人が三重秘伝抄で仰せのように「末学の短才何ぞ容易く之を解せん」である。実に種脱相対こそ、弘安2年(1279)10月12日、大御本尊を建立して出世の本懐をとげられてから、唯授一人の口伝相承として日興上人に授けたもので、「本因妙抄」とともに、両巻相承または両巻抄として秘伝されたもっとも重要な御相伝書である。
 本書は別名を「血脈抄」と読んでいるが、それは首分に「法華本門宗血脈相承」とあり、末文には「右此の血脈は本迹勝劣」とあるところから、このように称せられたものであるが、この首分と末文は、後人の添加したものもあり、創価学会版御書全集には削除されている。いま日亨上人著の「富士宗学要宗」より伝持の由来をみると次のとおりである。
    弘安3年(1280)日蓮大聖人より日興上人へ
    正和元年(1312)日興、日尊に之を示す
    康永元年(1342)日尊、日大・日頼に之を示す
 このことは、同書(富士宗学要宗)の日尊伝に「然るに日興一百六箇の本迹血脈書を以て日尊に付属して云く、右件口決結要の血脈は聖人出世の本懐衆生成仏の直路なり」と。また同じ日尊伝に、日大と日頼に付属したことが記されている。
 また同書(富士宗学要宗)大石寺18世日精上人の富士門家中見聞上の日興伝の項に日興上人から血脈抄の相伝を日目・日代・日順・日尊の4人が受けたことになっており、この4人のうち日尊系のものが伝承され、現存する写本は要法寺日辰と、妙本寺日我のものがあり、大石寺には第22世日俊の貞亨2年(1685)11月10日の写本がある。
 百六箇抄は、脱に50箇・種に56箇の本迹を立て分けている。本稿では、脱の50箇ごとに章をたて、これに相対する種の項を並べ掲げ同時に解説し、重複を避けることにした。解説は①が脱②が種である。なお、相対できない項目3箇を第51章としてまとめた。

第一章(種1.40)
    (本迹)     (本迹)
01   理の一念三千・一心三観本迹          三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義理の三千は釈迦諸仏の仏
                           心と妙法蓮華経の理観の一心とに蘊在せる理なり。
-----―
01   事の一念三千・一心三観の本迹         釈迦三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり、南無
                           妙法蓮華経は本なり。
-----―
09   下種人天の本迹         久遠下種の妙法は本なり、已来の人天は迹なり。           ・

 ①一念と一心は本、三千と三観は迹なりとの注になっている。「三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義」とは、三世十方のいっさいの諸仏が、出世成道して出世の本懐たる文上の寿量品を説くこと、その文上の脱益の寿量品の理の一念三千は、釈迦諸仏の仏心と、妙法蓮華経の理観の一心とに、蘊まっているところの理である。
 ②釈迦をはじめ諸仏のいっさいの大衆の唱えるのは迹であり、南無妙法蓮華経だけが本である。
 ③「事の一念三千・一心三観の本迹」と、「下種人天の本迹」とは、ともに久遠下種人天の本迹下種の南無妙法蓮華経を本とし、久遠いらい題目を唱える仏も人天ことごとく迹であるとの意、ここは法勝人劣である。

第二章(種2)
    (本迹) (経の本迹常の如し) 
02   大通今日・法華本迹           久遠名字本因妙を本として中間今日下種する故に久成を本と為し中
                        間今日の本迹を倶に迹と為る者なり。
-----―
02   久遠元初直行の本迹          名字本因妙は本種なれば本門なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の
                       迹なり、久遠釈尊を口唱を今日蓮直に唱うるなり。

 ①「久遠名字本因妙」とは、久遠元初の南無妙法蓮華経である。「中間今日下種」とは、観心本尊抄に「大通十六の時仏果の下種を下し進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発等の一分なり、二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、又在世に於て始めて八品を聞く」(0248-14)とある。
 日寛上人は観心本尊抄文段に「始めて八品を聞く」とは「発心下種なり」と釈されている。また「中間今日の本迹を倶に迹と為る」とは、当流行事抄に「若し体内の寿量品は、天台が常に解釈したとおりであるが、体内の寿量品とは久遠名字本因妙を本となすのである。
 ②久遠元初名字本因妙の直達正観、本果妙は余行に渡るゆえに迹となる。久遠元初の本仏の南無妙法蓮華経を、末法において直ちに唱えるのである。

第三章(種3.4)
03   応仏一代の本迹           久遠下種霊山得脱妙法値遇の衆生を 利せん為に無作三身寂光浄土従り三
                    眼三智をもつて九界を知見し迹を垂れ権を施す後に説く妙経の故に今日の本
                    迹共に迹と之を得る者なり。
-----―
03   久遠実成直体の本迹          久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり我本行菩
                       薩道是なり、日蓮が修行は久遠を移せり。
-----―
04   久遠本果成道の本迹          名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり 直に唱え奉る我等は迹なり。

 ①「応仏一代」とは、インド応誕の釈迦一代の説法をいう。五百塵点劫成道の無作三身が、九界を知見して迹を垂れ、権を施して後に説いた妙法蓮華経のゆえに、釈迦の説いた法華経は本迹ともに迹である。
 三眼とは仏眼・法眼・慧眼、三智は一切智・道種智・一切種智である。
 ②「直体」とは直達の当体で、久遠名字の妙法である。「名字童形の位、釈迦」とは、次の文の「聖人」に当たり、妙法五字を師として修行する名字童形の位、釈迦弟子の釈迦である故に迹である。当体義抄に「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」(0513-04)と。このように法本人迹と立てられるが、その究極においては人法一箇である。すなわち人即法・法即人である。

第四章(種6)
04   迹門為理円の一致の本迹           松柏風波万声一如諸法実相の理上の観心は応仏の域を引かえた
                          る故に本迹とは別れども唯理の上の法相なれば本迹理観の妙法
                          と顕す、迹化は付属無きが故に之を弘めず。
-----―
06   久成本門為事円の本迹         上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば 事理倶勝の本なり、
                       日蓮並に弟子檀那等は迹なり。

 ①為理円と為事円については、玄義序王の段に「又衆聖の権巧を発し、本地の幽微を顕わすなり。故に増道損生して位大覚に隣り、一期の化導事理倶円にして、蓮華の譬えの意斯に在り」とある。「松柏風波」とは松と柏と風と波の音で宇宙の森羅万象に語言音声を表わす。
 ②「久成本門」とは久遠元初名字の妙法。「上行所伝」とは、本因妙抄に「釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり」(0872-11)と。また法華取要抄に「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(0336-08)とある。上行の人勝をもって法勝を顕わす。
 ③「弟子檀那等は迹なり」とは、観心本尊抄に「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と。日寛上人の観心本尊抄文段下に「妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裹む」とある。

第五章(種7)
    (母の義なり)(地の義なり) 
01   心法即身成仏の本迹         中間・今日も迹門は心法の成仏なれば華厳・阿含・方等・般若法華の安
                      楽行品に至るまで円理に同ずるが故に迹は劣り本は勝るる者なり。
-----―
07   色法即身成仏の本迹          親の義なり父の義なり、 涌出品より已後我等は色法の成仏なり不渡
                       余行の妙法は本・我等は迹なり。

 ①法華経は本迹二門ともに即身成仏を明かす。ただしはじめの華厳から法華経迹門の安楽行品までは、円理で心法の成仏、本門湧出品からは色法の成仏を説く。色心は而二不二であるが、たとえば三業相応という場合に、口には本因修行、意に観念観法の業、身に合掌散華棒水揚香の業という時は、身口の二業は色身有相の成仏、意業は心法の成仏となる。
 「心法」の注に母の義なり、「成仏」の注に父の義なるとあるが、「色法即身成仏」は、親の義なり父の義なりとある。御義口伝には「一地とは迹門の大地一雨とは本門の義天」(0729-第三雖一地所生一雨所潤等の事-05)とある。
 ②「我等は迹なり」は第四章参照

第六章(種5.8)
    (女の義なり)  
02   心法妙法蓮華経の本迹        山家云く一切諸法・従本已来・不生不滅・性相凝然・釈迦口を閉ぢて身
                      子言を絶す云云、 方便品には理具の十界互具を説く 本門に至つて顕
                      本理上の法相なれば 久遠に対して之を見るに 実相は久遠垂迹の本門
                      なる故に色法に非るなり。
-----―
05   久遠自受用報身の本迹         男は本女は迹知り難き勝劣なり。
-----―                
08   色法妙法蓮華経の本迹       男子と成つて 名字の大法を聞き己己・物物・事事・本迹を顕す者なり、
                     又今日の二十八品・品品の内の勝劣は 通号の本なり 勝なり・別号は迹
                     なり劣なり云云。

 ①心法は女の義なりとの注があり、色法の項は「男子と成って名字の大法を開き」とある。山家云くは、伝教大師の三大章疏七面相承口伝の文。本因妙抄の「釈迦閉口・身子絶言云云、是は迹門天台・止観の内証なり、本門日蓮の止観は釈迦は口を開き文殊は言語す」(0875-02)とある。
 ②御義口伝に「釈迦閉口・身子絶言云云、是は迹門天台・止観の内証なり、本門日蓮の止観は釈迦は口を開き文殊は言語す」(0798-勧持品-02)とある。
 ③釈迦仏法においては法華経にいたってはじめて女人成仏を明かす。開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす」(0223-06)と。日蓮大聖人の仏法においては、諸法実相抄に「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360-08)とある。また日寛上人の当体義抄文段には「当流の女人は外面は是れ女人と雖も内心は即ち是れ男子なり」とある。

第七章(種9)
03   従因至果・中間今日の本迹         像法の修行は天台・伝教・弘通の本迹は中間・今日の迹門を因と
                         為し本門修行を果と為るなり。
-----―
01   久遠従果向因の本迹         本果妙は釈迦仏・本因妙は上行菩薩・久遠の妙法は果・今日の寿量品は
                      花なるが故に従果向因の本迹と云うなり。

 ①従因至果とは始成正覚の仏が、爾前権門の九界の因を説き、その因にいたって、本門の仏界果をあらわすことをいう。
 ②従果向とは、本門寿量品に説きあらわした本果第一番の成道より、我本行菩薩道の本因に向かうこと。しかして御義口伝に「一地とは従因至果・一雨とは従果向因、末法に至つて従果向因の一雨を弘通するなり一雨とは題目に余行を交えざるなり」(0729-第三雖一地所生一雨所潤等の事-06)とある。

第八章(種10)
04   本果の妙法蓮華経の本迹         今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり、寿量の脱益・
                        在世一段の一品二半は舎利弗等の声聞の為の観心なり、 我等が為
                        には教相なり、 情は迹劣本勝なり、 又滅後像法相似観行解了の
                        行益も以て是くの如し、南岳・天台・伝教の修行の如く末法に入つ
                        て修行せば帯権隔歴の行と成つて 我等が為には虚戯の行と成る可
                        きなり、日蓮は一向本・天台は一向迹・能く能く之を問う可し。
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02   本因妙法蓮華経の本迹          全く余行に分たざりし妙法は本・唱うる日蓮は迹なり、手本には不
                        軽菩薩の二十四字是なり、又其の行儀是なり云云。

 ①今日の本果が、本の本果が劣ることは、末法相応抄に「今日の本果は迹の因門を開して本の本果を顕す、所顕の本果を若し本因に望むれば仍本の上の迹なる故に今日の本果は劣るなり」とある。また舎利弗等の観心については観心本尊抄に略して本尊を明かすの段の、第二本門脱益本尊を明かす文に「己心の三千具足」とあるのを、日寛上人は観心本尊抄文段下に「次に在世の観心を明かす…此れ即ち身子等が己心の三千具足三種の世間なり」と述べている。
 ②不軽菩薩の二十四字については御義口伝に「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(0764-第五我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事)とある。また「妙法は本・唱うる日蓮は迹なり」とは、佐渡御書に「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(0958-08)とある。

第九章(種11)
01   余行に渡る法華経の本迹          一代八万の諸法は本因妙の下種を受けて説く所の教なるが故に一
                         部八巻乃至一代五時次第梯 ・は名字の妙法を下種して熟脱せし
                         本迹なり。
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03   不渡余行法華経の本迹           義理上に同じ直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり、今日蓮が修
                         行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。

 ①一代八万の諸法も、一部八巻乃至一代五字も、すべて久遠元初の名字の妙法を下種して、熟し脱したものである。名字の妙法のみが余行に渡さず、そのほか一切の法は余行に渡るのである。
 ②不渡余行とは本因妙抄に「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(0877-04)とある。

第十章(種14)
02   在世観心法華経の本迹          一品二半は在世一段の観心なり天台の本門なり、日蓮が為には教相
                        の迹門なり云云。
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06   下種得法観心の本迹          久遠下種の得法は本なり、今日中間等の得法観心は迹なり、分別功徳
                       品の名字初随喜の文の如し云云。

 ①在世一段の観心」については、(脱8)と同趣旨である。本因妙抄に「彼の観心は此の教相」(0875-09)とある。
 ②得法は仏法を悟ること、無量義経十功徳品第三に「在世一段の観心在世一段の観心衆生聞き已って得法、得果、得道す」とある。法華経分別功徳品の初随喜の文とは、同品に「若し是の経を聞いて毀訾せずして随喜の心を起さん」とある。

第十一章(種11)
03   脱益の妙法の教主の本迹          所説の正法は本門なり能説の教主釈尊は迹門なり、法自ら弘まら
                         ず人法を弘むる故に人法ともに尊し。
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04   下種の法華経教主の本迹          自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益
                         寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。

 ①「教主釈尊は迹門」とは応身に約す。「人法ともに尊し」とは、折伏を行ずる者が広宣流布の主体者である。持妙法華問答抄に「一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賎しと云はんやとこそ釈して御坐候へ、されば持たるる法だに第一ならば 持つ人随つて第一なるべし」(0465-17)とある。
 ②「我等が内証の寿量品」とは、本因妙抄の「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず」(0877-04)の文と同じ。また当流行事抄には「我が内証の寿量品」を能詮・所詮の二意に判じられている。すなわち「能詮の辺・二千余字是れを我が内証の寿量品と名づくるなり、今所詮を以て能詮に名づく、故に内証の寿量品とは本因妙の事なりと云うなり」と。また観心本尊抄には本化付嘱の辺から「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず」(0250-09)とある。また三位日順の本因妙口決には「久成の名字即の我等の修行は内証の寿量品なれば本なり、是れ則ち文底の法門・自受用報身真実の所説・久遠一念の南無妙法蓮華経是れなり」とある。
 ③「其の教主は某なり」とは、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身すなわち末法の本仏であらせられると断言なされた文である。

第十二章(種13)
04   脱益の今此三界の教主本迹           天上天下唯我独尊は迹身門・密表寿量品の今此三界は即本身
                           門なり。
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05   下種の今此三界の主の本迹          久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日
                          は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり。

 ①此三界とは法華経譬喩品第三にある主師親三徳の文のうち、主君に当る文で「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」とある。産湯相承事には、譬喩品の此の文を「今久遠下種の寿量品に云く」として引かれている。これは密表寿量品の意で、文句記涌出品の項に「秘表寿量とは、今菩薩歎じて尚是れ古仏なりとは、密に今仏の今成に非ざるを表するなり。若し今成に非れば必ず遠本有り…密開寿量是れ第一義とは、即ち此れ一部最極の理なり。豈第一に非ずや」とある。また類聚翰集私には「宝搭品は密表寿量・宝搭涌現分身の遠集是れなり」とある。
 ②「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」は、日蓮大聖人が本仏なりと名のられた文。ゆえに三世常住の日蓮大聖人が、名字の理生を具えられている。

第十三章(種16)
05   脱益像法時剋弘経の本迹          天台の本迹は倶に日蓮が迹門なり時剋亦天地の不同之在り。
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02   末法時刻の弘通の本迹          本因妙を本とし今日寿量の脱益を迹とするなり、久遠の釈尊の修行
                        と今日蓮の修行とは芥子計も違わざる勝劣なり云云。

 ①仏法は時によって異なり、正像は劣り、末法は勝れている。撰時抄に「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256-01)と。報恩抄には「世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり」(0328-11)と。如説修行抄には「末法今の時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり」(0501-03)と。同抄には「されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず」(0503-08)とある。また天台と日蓮大聖人の相違は、治病抄に「天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候」(0998-15)とある。
 ②脱益と下種を相対し、久遠元初と末法の時が勝れることを明かす。

第十四章(種17)
06   脱益迹門修行の本迹          正法一千年の修行の徳より像法一日の徳は勝れたるなるべし。
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03   本門修行の本迹         正像二千年の修行は迹門なり、末法の修行は本門なり、又中間今日の仏の修
                    行より日蓮の修行は勝るる者なり。

 ①正法と像法とを相対している。報恩抄には「されば内証は同じけれども 法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ 天台よりも伝教は超えさせ給いたり」(0328-10)とある。
 ②報恩抄に「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳」(0329-05)とある。

第十五章(種15)
07   脱益迹門自解仏乗修行の本迹          熟益は迹・脱益は本なり之に就いて之を思惟す可し。
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01   下種自解仏乗の本迹          名字の妙法を上行所伝と聞き得る方は自解仏乗の本なり、聞き得て後
                       受持する我等は迹なり、故に伝教より日蓮は勝るなり云云。

 ①自解仏乗とは、法華私記縁起に「大法東漸より僧史に載する所、詎幾人か曾て講を聴かずして自ら仏乗を解する所有りや」とある。これは天台であるが、日蓮大聖人の自解仏乗は、寂日房御書に「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」(0903-02)とある。
 ②「上行所伝と聞き得る」ことは、文底下種の寿量品を信ずるゆえに本である。

第十六章(種18)
08   脱の五大尊の本迹          他受用応仏は本・普賢・文殊・弥勒・薬王は迹なり。
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04   本門五大尊の本迹        久遠本果の自受用報身如来は本なり、上行等の四菩薩は迹なり。    ・

 ①五大尊は真言密経の五尊で五大明王とも称す。金剛界五部の教主たる五仏から出た五菩薩から出た五大尊である。すなわち不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王である。
 ②脱益仏法における五大尊として、他受用応仏の釈迦と普賢・文殊等の四菩薩、文底下種仏法においては、久遠元初の自受用身と上行等の四菩薩が五大尊となる。

第十七章(種19)
    (本迹天台)  
01   脱の真俗二諦の本迹         天台大師弘通の本迹前十四品は迹門に約し後十四品は本門に約す云云、
                      是法住法位世間相常住文。
-----―
05   日蓮本門弘通の本迹       本因妙は本なり我本行菩薩道は迹なり云云。             ・

 ①真俗二諦とは、多くの経典に二諦を説き、真諦はまた勝義諦・第一義諦ともいい、俗諦は世諦・世俗諦ともいう。天台は玄義に七種の真俗二諦を説いているが、一般には真諦は仏法、俗諦は世間法と区別する。是法住法位世間相常住の文について、御義口伝では、是法が真諦で迹門とし、世間相が俗諦で本門なりとされている。
 ②この項は一見して相似の点がないようであるが、釈迦仏法における脱の真俗二諦と、日蓮大聖人の下種本門における真俗二諦として、ここに掲げておく。

第十八章(種21)
02   前十四品悉く流通分の本迹           如来の内証は序品より滅後正像末の為なり、薬王菩薩は像法
                           の主天台是なり、密表の法師品に云く今此三界文。
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07   後十四品皆流通の本迹         本果妙の釈尊本因妙の上 行菩薩を召し出す事は 一向に滅後末法利
                       益の為なり、然る間日蓮修行の時は後の十四品皆滅後の流通分なり。

 ①流通については四信五品抄に「流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし」(0338-05)とある。そして前十四品の迹門においては観心本尊抄に「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、再往之を勘うれば凡夫・正像末を以て正と為す」(0249-10)と。法華取要抄には「方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(0333-16)と。また、「密表の法師品」とは密は法師品を表すという意である。また「今此三界」は譬喩品の文であるが、迹門の流通分たる法師品において、滅後の流通を勧め、とくに法師品では、弘教の人法と、弘教の方軌をしめしている。薬王菩薩は法師品で、八方の大士を代表して対告衆となっているが、薬王の再誕たる天台が像法の主であると本文に述べられている。
 ②後十四品の本門については、観心本尊抄に「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す」(0249-14)とある。また同抄に「寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり」(0250-17)とあり、法華取要抄に「本門に於て二の心有り一には涌出品の略開近顕遠は前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり、二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く一向に滅後の為なり」(0334-04)とある。

第十九章(種20)
03   脱益理観一致の本迹         本迹殊なりと雖も不思議一と云うは今日乃至中間の本迹は本迹と分別す
                      れども本因妙を下種として説く所の本迹なれば迹の本は本に非ず云云。
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06   本化事行一致の本迹          本迹殊なりと雖も不思議一云云、本因妙の外に並に迹とて別して之無
                       し故に一と釈する者なり、真実の勝劣の手本の義なり云云。

 ①「本迹殊なりと雖も不思議一」とは、天台が玄義巻七に六重本迹を明かすなかに説いている。天台の教学の究極は理に在り、迹門の理と本門の理が一致であるとする。釈籤には「今此の本門は身に約し事に約す。身事を開すと雖も猶須く理を開すべし」とある。日蓮大聖人は本因妙抄に「天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり、其の故は教相も観心も相似観行解了の人師・時機亦像法なり」(0873-02)と判ぜられ、ついで「予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり、若し本迹一致と修行せば本門の付属を失う物怪なり」(0873-05)と述べられている。また次の文に「迹の本は本に非ず」とは、当流行事抄に「若し体内の寿量品は血脈抄に本果を迹と名づくるが如し」とあるのと同意である。
 ②「本因妙の外に並に迹とて別し」とは、一切の法が悉く南無妙法蓮華経の一法に帰することをいう。総勘文抄に「自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用を顕す」(0571-18)と。また同抄に「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり」(0563-01)とある。

第二十章(種22)
04   脱益戒体の本迹          爾前迹門熟益の戒躰を迹とし脱益の戒躰を本と為るなり、迹門の戒は爾前
                     大小の戒に勝れ本門の戒は爾前迹門の戒に勝るるなり。
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08   下種戒体の本迹            爾前迹門の戒躰は権実雑乱、本門の戒躰は純一無雑の大戒なり。
                       勝劣天地水火尚及ばず具に戒躰抄の如し云云。

 ①戒体とは戒の四別の一、四別とは戒法・戒体・戒行・戒相である。すなわち戒体とは、戒法を受け、その戒法が受戒した人の生命に収まって防非止悪の働きをする状態になった時をいう。戒法は爾前、迹門、本門、文底によって相違するように、戒体もまた異なる。
 ②この本門の戒体は、文底下種独一本門の三大秘法を受持するにある。教行証御書に「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)とある。日興上人の上行所伝三大秘法口訣に「受持即持戒なり」とある。

第二一章(種23)
05   脱の迹化七面の本迹          像法には理観を本と用うるなり故に天台は迹を本と為し本を迹と行ず
                       るなり。
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09   本化七面の本迹         末法には事行を本とし在世と像法とには理観を本とするなり、天台の本書は
                    理の上の事なれば一向迹門の七決、我家の本書は事の上の本なり。

 ①天台の説いた玄義・文句・止巻の三大部を、伝教が七面・七重の口決をもって治定した。玄義の七面は、依名判義・仏意機情・四重浅深・八重浅深・還住当文・但入己心・出離生死の七、文句の七面は依名・感応・四教・五時・本迹・体用・入己心の七、止観の七面は依名判義・附文元意・寂照一相・教行証・六九二識・絶諸思慮・出離生死の七である。
 ②天台の究極は理であり、日蓮大聖人は天台の理を破して事行を立てられた。
 ③「天台の本書」とは三大章疏七面相承決。「我家の本書」は本因妙抄をさす。

第二二章(種25)
06   脱の迹化本尊の本迹         一部を本尊と定むるに前十四品は迹・後十四品は本と云云、是は一部八
                      巻なり云云。
-----―
02   本化本尊の本迹         七字は本なり・余の十界は迹なり、諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上
                    の大曼荼羅なり。

 ①法華経は仏像や菩薩像を本尊としていない。法師品第十に「若し経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし、復、舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す」とある。ゆえに天台は法華経一部を本尊としたことは本尊問答抄に「天台大師の法華三昧に云く『道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け』等云云」(0365-06)とある。
 ②日蓮大聖人の本尊は、人即法、一念三千即自受用身の大曼荼羅である。すなわち報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(0328-15)等の文、つぎに法は本尊問答抄に「法華経の題目を以て本尊とすべし」(0356-01)と。観心本尊抄に「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し」(0247-16)等の文がこれである。
 ③「七字は本なり・余の十界は迹なり」とは、すでに述べられた法本人迹の意である。しかもその極意においては人法一箇である。観心本尊抄文段に「妙法蓮華経の左右に文字を書き顕わす仏菩薩等と色相荘厳造立の仏菩薩等と何の異有りや。答う種本脱迹、天地雲泥なり。謂く文字に書き顕わす仏菩薩等は本地自証の妙法無作本有の体徳なり」とある。また同文段に「問う、報恩抄に云く、『日本乃至一閻浮提、一同に本門の教主釈尊を本尊と為すべし、所謂宝搭の中の釈迦多宝已下の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし』等云云。此の文如何。答う亦是れ人法体一の深旨を顕わす明文なり」とある。

第二三章(種26)
07   脱益守護神の本迹         守護する所の法華は本・守番し奉る処の神等は迹なり、本因妙の影を万水
                     に浮べたる事は治定と云云。
-----―
03   下種守護神の本迹          守護し奉る所の題目は本・護る所の神明は迹なり、諸仏求世者現無量神
                      力云云。

 ①守護神とは、ある個人や土地・氏族・民族を守護する神をいう。これらの神は法華経において、法華経の行者を守護することを誓っている。諌暁八幡抄に「法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり」(0588-14)とある。また日眼女造立釈迦仏供養事には「東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天.月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」(1187-02)とある。
 ②「守護し奉る所の題目」とは、陀羅尼品第二十六に、「仏、諸の羅刹女に告げたまわく、善い哉善い哉、汝等但能く、法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず」とある。また諸仏救世者は、神力品第二十一の文で、「諸仏救世者、大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現じたもう」とある。御義口伝に「神力とは上の寿量品の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る所の題目なり此の十種の神力は在世滅後に亘るなり然りと雖も十種共に滅後に限ると心得可きなり」(0770-第一妙法蓮華経如来神力の事-05)と。また諌暁八幡抄に「諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり」(0588-07)とある。

第二四章(種27)
08   脱益山王の本迹        久遠・中間に受くる処の法華は本・夫れより守り来る所は垂迹なり、下種は本
                   因妙なり云云。
-----―
04   下種山王神の本迹         久遠に受くる所の妙法は本・中間・今日・未来までも守り来る所の山王明
                     神は即迹なり。

 ①山王とは日吉山王をいう。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山延暦寺の守護神である。
 ②久遠元初の本仏本法より、あらゆる神が迹を垂れて出現したことは前項のとおり。

第二五章(種28)
01   脱迹十羅刹女の本迹         久遠・中間・今日の理事は本・中間・大通・今日出世冥守する処は垂迹
                      なり、下種は前の如し云云。
-----―
05   下種十羅刹女の本迹         此の義理上に同じ唯神明と十女を本迹に対する時・十羅刹女は本・神明
                      は迹なり。

 ①十羅刹女については、陀羅尼品第二十六に「説法者を悩乱せば頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」と守護を誓ったのに対して、同品に「善い哉善い哉、汝等但能く、法華の名を守護せん者を擁護せんすら、福量るべからず」と説いている。このように悪鬼が法華を守護することについては、御義口伝に「流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」(0778-第三鬼子母神の事-02)と。このほか多くの御書に鬼子母神・十羅刹について述べられているが、経王殿御返事には「鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」(1124-07)と。日女御前御返事には「十羅刹女と申すは十人の大鬼神女・四天下の一切の鬼神の母なり・又十羅刹女の母あり・鬼子母神是なり、鬼のならひとして人を食す」(1246-08)とある。

第二六章(種29)
02   脱迹付属の本迹          脱益の迹化付属は中間大通を本とし今日初住の終を迹とするなり、受くる
                     正法は本持つ方は迹なり。
-----―
06   本門付属の本迹        久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり、久遠元初の結要付嘱は日
                   蓮今日寿量の付属と同意なり云云。

 ①迹化菩薩とは法華経嘱累品第二十二における一切の菩薩の付嘱をいう。これを総付嘱といい、総付嘱を受けた迹化他方の菩薩は、正像2000年に弘通した。「初住」とは不退の位に入ることをいう。在世に法華経を聞いて不退位に入った。
 ②久遠名字の時受くる所の妙法なるゆえ、下種本門の付嘱をいう。久遠元初の結要付嘱と、末法日蓮大聖人の血脈付嘱とまったくおなじであり、日興上人への不嘱がこれである。

第二七章(種30)
03   脱迹開会の本迹           大通の初を開と云い今日初住の終りを会と云うなり、本は大通迹は初住
                      なり、初顕を開と云い終合を会と云う云云、案位も理上の案位なり。
-----―
07   本門開会の本迹        久遠の本会を本と為す、今日寿量の脱を迹と為るなり。
                             妙楽云く始顕を開と云い終合を会と云う文。

 ①開はひらく、会は合わせる、開会とは開顕会融または開顕帰依の意。一代聖教大意に「絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す」(0404-01)とある。
 ②案位とは、開会に対する語。また機根を改めず、開会されない状態をいう。

第二八章(種31)
04   脱益成仏の本迹         寿量品は本応仏は迹なり、無作三身寂光土に住して三眼・三智をもつて九界
                    を知見す云云。
-----―
08   下種成仏の本迹         本因妙は本・自受用身は迹成仏は難きに非ず此の経を持つこと難ければなり
                    云云。

 ①(脱5)には心法即身成仏をいい、(種7)には色法即身成仏を明かす。しかして爾前迹門は心、本門は色であるが、その究極においては色心不二である。なお三眼・三智は(脱3)応仏一代の本迹にある。無作三身が九界を知見するのは従果向因である。
 ②即身成仏は法華経に限るが、迹門は熟益・本門は脱益の一念三千であって、真実事行の一念三千の即身成仏は、本門寿量品の文底秘沈の三大秘法である。当体義抄に「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-09)と。

第二九章(種32)
05   脱迹三種教相の本迹        二種は迹・無開会・一種は本有の開会なり、一種は開顕・二種は不開会・
                     所従眷属の教相なり云云。
-----―
01   下種三種教相の本迹          二種は迹門・一種は本門なり、本門の教相は教相の主君なり、二種は
                       二十八品一種は題目なり、題目は観心の上の教相なり。

 ①天台の三種の教相とは、第一は根性の融不 融の相・第二は化導の始終不始終の相・第三は師弟の遠近不遠近の相である。しかして第一・第二は迹で無開会、また第三が本有の開会である。また第三が開顕、第一・第二は不開会で、初従眷属の教相となる。
 ②天台の三種の教相のうち、第一・第二は方便品と化城喩品でともに迹門、第三は寿量品で本門である。この本門の教相が主君である。また二種は二十八品で、一種は題目となり、題目は観心の上の教相である。
 ③日蓮大聖人の仏法においては、常忍抄に「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり」(0981-08)とある。これは天台の第一・第二をもとに権実相対を第一法門とし、天台の第三を本迹相対の第二法門とし、いまだ天台・伝教の弘通することのできなかった種脱相対をもって第三法門となすのである。

第三十章(種33)
06   脱の五味所従の本迹            天台・伝教の五味は横竪ともに所従なり、五味は本修行の人は迹
                         なり、在世以て此くの如し云云。
-----―
02   五味主の中の主の本迹           日蓮が五味は横竪共に五味の修行なり、五味は即本門修行は即迹
                         門なり。

 ①五味は乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味で、涅槃経等に説かれている。天台はこの五味を、華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に配して判釈したが、これを竪という。また横に化儀および化法に約して、各々にその四教を立てわけて釈した。
 ②法華経は五味の中にあるとする説と、五味の主なりとする説がある。曾谷殿御返事に「『故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主』等云云、此の釈は正く法華経は五味の中にはあらず此の釈の心は五味は寿命をやしなふ寿命は五味の主なり、天台宗には二の意あり一には華厳・方等・般若・涅槃・法華は同じく醍醐味なり、此の釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり世間の学者等此の筋のみを知りて法華経は五味の主と申す法門に迷惑せるゆへに諸宗にたぼらかさるるなり、開未開・異なれども同じく円なりと云云是は迹門の心なり、諸経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり」(1059-08)とある。
 ③しかし法華経が五味の主となることは、三大秘法抄に「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)の御文とおり、三大秘法こそが諸経の中の大王であり、本源である。

第三一章(種35)
07   脱迹父子の本迹         応仏は本・迹仏は迹なり、子父の法を弘むるに世界の益ありと云云。
-----―
04   本種父子常住の本迹         義理上に同じ、 久遠の名字即の俗諦常住の父子は 今日蓮が修行に殊
                      ならず、世間相常住是なり。

 ①法華経に多くの父子の譬えがある。譬喩品第三には「長者の諸子、若しは十、二十、或は三十に至るまで、此の宅の中に在り」と。信解品第四に、「譬えば人有って、年既に幼稚にして、父を捨てて逃逝し、久しく他国に住して、或は十、二十より五十歳に至る」と。また同品「此れ実に我が子なり、我実に其の父なり」と。従地湧出品第十五に「此等は是れ我が子なり」と。妙楽は釈して文句記第九に「子父の法を弘むるに世界の益有り」と。如来寿量品第十六に「譬えば良医の智慧聡達…諸の子息多し、若しは十、二十、乃至百数なり」とある。
 ②俗諦常住と世間相常住是は(脱17)参照。

第三二章(種34)
08   脱迹師弟の本迹         義理共に上に同じ是れ我が弟子応に我が法を弘む可し弘む可し云云。
-----―
03   本種師弟不変の本迹         久遠実成の自受用身は本・上行菩薩は迹なり、三世常恒不変の約束なり

 ①仏教では師弟の道が根本であり、天台の三種の教相も第三が師弟の遠近不遠近である。報恩抄には「是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず」(0293-06)とある。「是れ我が弟子」とは、天台の文句巻第九の上の文で、湧出品の「下方を召し来たるに亦三義有り」の第一が「是れ我が弟子応に我が法を弘うべし」とある。
 ②「久遠実成の自受用身は本・上行菩薩は迹」とあるが、末法においては諸法実相抄に「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(1358-13)と。また御義口伝に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(0765-第十三常不値仏不聞法不見僧の事-03)とある。すなわち法華経文上における上行菩薩の迹であって、その内証の深秘においては、久遠元初の自受用身である。

第三三章(種37)
09   脱益感応の本迹         久遠の天月の影を中間・今日の脱益の水に移すなり、衆生久遠に仏の善巧を
                    蒙るとは是なり
-----―
06   下種感応日月の本迹       下種の仏は天月・脱仏は池月なり。天台云く不識天月但観池月云云。

 ①感応とは御義口伝に「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。ゆえに久遠の天月からは応を、衆生久遠からは感を示す。また善巧とは、善巧方便、善権方便ともいう。仏・菩薩が衆生の機根に応じて、種々の法をもって化導し、解脱し得せしめる巧妙な智用をいう。
 ②天月と地月は、脱益・下種ともに原理は同じである。法華経本門寿量品の文上顕本の辺は、久遠実成の本仏が垂迹するのに対し、文底顕本の辺においては、法華経如来神力品第二十一「日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く」とあり、また諌暁八幡抄には、日を本仏日蓮大聖人、月を迹仏釈迦に譬えて、勝劣を判じられている。

第三四章(種44)
01   脱益寂照の本迹         理の上の寂照は妙覚・乃至観行等の解了なり、理即の凡夫は無躰有用の本迹
                    なり。
-----―
03   下種寂照・実事体用無上の本迹           生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり
                             云云。

 ①寂照とは伝教の三大章疏七面相承口決に「若し法寂なりといわば是れ一切の諸法は本従り来た不生不滅にして性相凝然なり、釈迦は口を閉じ身子言を絶つ…若し法照なりといわば即ち法に寂の相無し、三千常住にして十界の性相教観全く闕滅無く、始め華厳より終わり法華に至るまで止観の内教に非ざるは無し」とある。御義口伝には「釈に云く随縁不変一念寂照」(0708-04)とある。
 ②妙覚乃至観行等の解了するのは、理の上の寂照である。理即の凡夫は、寂照の体が無いゆえに無体、しかし、その理性には、本来具足しているゆえに有用である。
 ③体用とは、体は寂、用は照である。本門においては九界の衆生と仏界と一如の本覚の寂照である。
 ④「一念寂照」の一念とは、唯識論的な単なる心という意味ではない。色心ともに具足した一念であり、瞬間瞬間に存在している生命のことである。この一念が十界・十如・一念三千の当体である。

第三五章(種38)
02   脱益随縁不変の本迹          在世と像法と之同じ真如の義理なり、随縁も不変も共に理の一段の本
                       迹なり。
-----―
07   下種随縁不変の本迹       体用同時の真実・真如・一口の首題なり、 本有の迹・ 本有の一念三千是
                    なり、随縁不変一念寂照の本迹なり。

 ①随縁不変とは、御義口伝に帰命を訳して「帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり 命とは本門随縁真如の智に命くなり」(0708-03)とある。文上の法華経においては、本迹ともに理の一段とある。
 ②随縁不変一念寂照については、前項の御義口伝のほかに、立正観抄に「伝教大師の血脈に云く『夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法茲に達し一代の修多羅一言に含す」」(0531-15)と。また同抄に「目を開いて妙法を思えば随縁真如なり目を閉じて妙法を思えば不変真如なり此の両種の真如は只一言の妙法に有り」(0533-04)とある。

第三六章(種39)
03   脱益九法妙の本迹         三法妙に各三法妙を具すれば九法妙なり、法中の心法妙より起る所の生仏
                     二妙なり本迹知るべし。
-----―
08   下種九法妙の本迹        久遠下種の妙法は本・已来の九法は迹なり。

 ①三妙法とは心法妙・仏法妙・衆生法妙の三つである。天台は玄義巻第二に、法華経の文を引いて、三妙法を示している。その一文ずつをげると、まず心法妙は、法華経安楽行品第十に「閑かなる処に在って其の心を修摂せよ…一切の法を観ずるに空なり」と。仏法妙は方便品第二に「唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と、衆生法妙は同品に「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめん」等とあるのがこれである。また「心法妙より起る所の生仏二妙」とは玄義巻第二に「若し己心を観じて衆生心仏心を具せざれば是れ体狭なり。具すれは是れ体広なり」等とある。また法華経題目抄には「迹門の十妙本門の十妙合せて二十妙、迹門の三十妙・本門の三十妙合せて六十妙、迹門の四十妙・本門の四十妙・観心の四十妙合せて百二十重の妙なり」(0944-04)とある。
 ②久遠下種の妙法が本で、九法は迹となる。

第三七章(種41)
04   脱益八相八苦習合の本迹         八相は本・八苦は迹・同躰の権実是なり。
-----―
10   下種八相八苦習合実勝の本迹          脱の八相は迹・種の八相は本・脱の八苦は迹・種の八苦は本
                           なり煩悩即菩提・生死即涅槃・常在此不滅と云えり。

 ①八相は下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃であり、八苦は生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得道・五盛陰苦の八つである。
 習合は、相異ものを折衷、調和することである。したがって「八相は本・八苦は迹」とあるように、八相と八苦は同体であり、同じ生命が八苦と現われる時には九界の権、八相と現われる時には仏界の実となる。御義口伝には「法華に来つて生老病死の四相を四大声聞と顕したり是れ即ち八相作仏なり」(0731-第一授記の事-01)とある。
 ②また同じ八相でも「脱の八相は迹・種の八相は本」となり「脱の八苦は迹・種の八苦は本」となる。これは「煩悩即菩提・生死即涅槃」であり「常在此不滅」であると同じに、八相八苦も「常在此不滅」である。

第三八章(種42)
05   脱益潅頂等の本迹        潅頂とは至極なり後世・仏・菩薩の潅頂は法華経なり、迹門の潅頂は方便読
                    誦.欲令衆生開仏知見なり、本門の潅頂は寿量品読誦.然我実成仏已来なり。
-----―
01   下種最後直授摩頂の本迹          久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本・
                         人は迹なり。

 ①灌頂とは水を頂に注ぐことであるが、仏教では仏位受灌の義である。すなわち永年の修行を演じて最後に極理の法門を授けられることをいう。しかして、法華経の迹門の灌頂は方便品、本門は寿量品の読誦にあるとなされて、各一文を挙げられている。これについて三大秘法抄に「方便品に云く『諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見』等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く『然我実成仏已来・無量無辺』等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」(1023-08)とある。
 ②摩頂は法華経嘱累品第二十二に「爾の時に釈迦牟尼仏…右の手を以って無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて」とある。いま末法の摩頂は、三大秘法の本尊を信じ、自行化他にわたりて南無妙法蓮華経と唱えることでる。

第三九章(種43)
                   (事戒)   (理戒)
06   脱益説所戒壇本迹       霊山は本・天台山は迹・久遠と末法とは事行の戒・事戒・理戒・今日と像法と
                   は理の戒躰なり。
-----―
02   下種弘通戒壇実勝の本迹          三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。
                            (上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云)

 ①戒壇とは仏法に帰依した者が定められた戒律を受持することを誓う道場である。したがって小乗教・大乗経・法華経によって立てられる戒が、それぞれ異なることによって戒壇も異なる。釈迦在世と像法時代は理戒で、末法において建立される三大秘法のみが唯一最高の戒壇である。天台は円定円慧の広宣流布を成しとげたが、円戒はいまだ建立せず、日本の伝教がはじめてこれを叡山に建立した。叡山の円頓戒壇とは、天台法華宗学生書式によると、①法華経の一乗戒・②三如来室衣座の戒・③身口意誓願の四安楽行・④普賢四種の戒、また・⑤普賢経の三師諸証同学により、さらに傍には・⑥梵網の十重四十八戒・⑦瓔珞の十波羅夷等。撰時抄には「天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給うのみならず法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒尸那一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる」(0264-02)とある。
 ②末法に入っては迹門の理戒には功徳がなく、三大秘法抄に示された法華本門の事戒によってのみ即身成仏できる「受持即観心」である。「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022-15)とある。
 ③仏智測りがたしである。

第四十章(種45)
07   脱益三世三仏利の本迹          世世番番の教主は本・所化の衆生は迹なり、世世已来常に我が化を
                        受け番番に出世し師と倶に生ず。
-----―
04   下種三世・三仏実益の本迹        日蓮は下種の利益・三世・九世・種熟脱・本有一念の利益なり、天
                        台云く若しは破若しは立皆是法華の意の修行の利益なり。

 ①三世は過去・現在・未来の三世、三仏は釈迦・多宝・分身の三仏、世世番番については当体義抄、総勘文抄等にある。「師と倶に生ず」は、秋元殿御返事に「師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、『在在諸の仏土常に師と倶に生れん…』」(1070-14)とある。
 ②九世とは、三世の各々に三世があるとして九世となる。しかしてこの九世が、たがいに相即して、相入して総じて一念となると説く。観心本尊抄に「『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り…』」(0238-02)と。日寛上人は観心本尊抄文段に「此の三千一念の心に在り等とは、一念三千の本尊は全く余処外に在るなし、但我等衆生の信心の中に在す。故に此の三千一念の心に在りと云うなり」と述べられている。

第四一章(種46)
08   脱益証明・多宝仏塔の本迹         妙法蓮華経皆是真実は本・多宝仏は迹・迹門八品乃至本門之を指
                         すなり云云。
05   下種証明・多宝仏塔の本迹        久遠実成・無始無終・本法の妙法蓮華経皆是真実は本なり、 久遠
                        の本師は妙法なり、本有実成釈迦多宝は迹なり。

 ①多宝の証明については、法華経見宝搭品第十一に「爾の時に仏前に七宝あり。高さ五百由旬」と。また同品に「爾の時に宝搭の中より、大音声を出して歎じて言わく。善い哉善い哉…釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」とある。阿仏房御書に「天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、 証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・開塔は本門・是れ即ち境智の二法なり」(1304-04)とある。
 ②久遠実成とは、御義口伝に「此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり」(0759-第廿三 久遠の事)とある。
 ③しかし証道観心の時は、宝搭とはわれらの五大である。御義口伝に「宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり」(0797-02)と。阿仏房御書に「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(1304-09)とある。すなわち、多宝仏の証明とは、折伏を行ずる時に必ず法華経は真実なりと証明する人ができることにもなり、また、信心に励む者はわが身にだい福運を証明することができることにもなるのである。

第四二章(種47)
08   脱益証明・多宝仏塔の本迹         妙法蓮華経皆是真実は本・多宝仏は迹・迹門八品乃至本門之を指
                         すなり云云。
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05   下種証明・多宝仏塔の本迹        久遠実成・無始無終・本法の妙法蓮華経皆是真実は本なり、 久遠
                        の本師は妙法なり、本有実成釈迦多宝は迹なり。

 ①多宝の証明については、法華経見宝搭品第十一に「爾の時に仏前に七宝あり。高さ五百由旬」と。また同品に「爾の時に宝搭の中より、大音声を出して歎じて言わく。善い哉善い哉…釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」とある。阿仏房御書に「天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、 証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・開塔は本門・是れ即ち境智の二法なり」(1304-04)とある。
 ②久遠実成とは、御義口伝に「此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり」(0759-第廿三 久遠の事)とある。
 ③しかし証道観心の時は、宝搭とはわれらの五大である。御義口伝に「宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり」(0797-02)と。阿仏房御書に「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(1304-09)とある。すなわち、多宝仏の証明とは、折伏を行ずる時に必ず法華経は真実なりと証明する人ができることにもなり、また、信心に励む者はわが身にだい福運を証明することができることにもなるのである。

第四三章(種48)
01   脱益摂受折伏の本迹          天台は摂受を本とし折伏を迹とす、其の故は像法は在世の熟益冥利の
                       故なり福智具足の故と云えり。
-----―
07   下種摂折二門の本迹         日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む法華折伏破権門理とは是なり。

 ①摂受とは摂引容受の義、折伏とは破折屈服の義で、止巻には「夫れ仏に両説あり一には摂・二には折」であり、また弘決には「一切の経論此の二を出でず」とある。ゆえに日蓮大聖人も多くの御書にこのことを述べられている。開目抄に「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235-09)と、如説修行抄に「凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず」(0505-07)と、佐渡御書に「仏法は摂受・折伏時によるべし」(0975-02)とある。
 ②像法の天台は摂受を行じ、末法の日蓮大聖人は折伏を正意とする。本因妙抄に「彼は安楽普賢の説相に依り・此れは勧持不軽の行相を用ゆ・彼は一部に勝劣を立て・此れは一部を迹と伝う・彼は応仏のいきをひかう・此れは寿量品の文底を用ゆ」(0875-16)と。五人所破抄一覧には「台家は摂受を面とし当家は折伏を面とする行相各別なり」とある。さらに日寛上人は折伏に二義あるとして、観心本尊抄文段に「一には法体の折伏、二には化儀の折伏、謂く涅槃経に云く正法を護持する者は五戒を受けず意義を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持つべし」とある。今創価学会の広宣流布の戦いこそ、折伏のなかの折伏である。

第四四章(種49)
02   脱益二妙の本迹        相待妙は迹・絶待妙は本・妙法の外に更に一句の余経無し云云、独一法界の故
                   に絶待と名くるの釈之を思う可し。
-----―
08   下種二妙実行の本迹         日蓮は脱の二妙を迹と為し種の二妙を本と定む、然るに相待は迹・絶待
                      は本云云。

 ①二妙については玄義巻第二の上に「通に又二と為す、一には相対、二には絶対なり、此の経は唯二妙を論じて、更に非絶非待の文無し」とある。一代聖教大意には「相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す」(0403-18)とある。また開目抄には「弘決に云く「邪は即ち是れ悪なり是の故に当に知るべし唯円を善と為す、復二意有り、一には順を以つて善と為し背を以つて悪と為す相待の意なり、著を以つて悪と為し達を以つて善と為す相待・絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや」等云云、外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり、爾前の円は相待妙なり、絶待妙に対すれば猶悪なり」(0227-07)とある。また十法界明因果抄には「法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり」(0435-13)とある。
 ②本抄では本迹を相対し、種脱を相対いて判じてきたが、ここにおいて下種の相対・絶対の二妙を本と定め、しかもその中においてなお、相対妙は迹、絶対妙こそ本中の本である。本因妙抄に「彼は相対開会を表と為し・此れは絶対開会を表と為す」(0875-11)とある。

第四五章(種50)
03   脱益十妙の本迹         本果妙は本・九妙は迹なり在世と天台とは機上の理なり、仏は本因妙を本と
                    為し所化は本果妙を本と思えり。
-----―
09   下種十妙実体の本迹          日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の
                       法門なり。

 ①十妙とは本迹の十妙または本迹二十妙をいう。天台が法華玄義に心・仏・衆生の三妙法を説く時、とくに仏妙法を明かすのに、迹門の十妙と、本門の十妙を論じている。そのなかで本門の十妙とは、一に本因妙・二に本果妙・三に本国土妙・四に本感応妙・五に本神通妙・六に本説法妙・七に本眷族妙・八に本利益妙・九に本涅槃妙・十に本寿妙である。
 ②「日蓮は本因妙を本と為し」とは(種12)の文を参照。また御講聞書に「日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、仍て本因とは慧の因にして名字即の位なり」(0808- 一蓮華―04)とある。また本因本果の法門は開目抄に「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」(0197-15)とある。

第四六章(種51)
04   脱益六重所説の本迹          已今を本と為し余は迹なり本迹殊なりと雖も不思議一と云云、理具の
                       本迹なれば一部倶に迹の上の本迹なり。
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01   下種六重具騰の本迹          日蓮は脱の六重を迹と為し、種の六重を本と為るなり云云。

 ①天台は玄義巻七に本門の十妙を明かすにあたり、六重の本迹を説いた。その六重とは、一に理事・二に理教・三に教行・四に体用・五に実権・六に今已である。しかし天台の本迹は、理具の本迹でともに迹となることは注の文に示されたとおりである。それは釈籤に「四味及以迹門を已と為し長遠寿を開するを今と為す」とある。
 ②具謄とは文句記巻第一の「脱は現に在りと雖も具に本種を謄ぐ」の意。

第四七章(種52)
05   脱益六即所判の本迹      妙覚は本余は迹なり。
                   玄九に云く初の十住を因と為し十行を果と為す十行を因とし十廻向を果とし十
                   廻向を因とし十地を果とし十地を因と為し等覚を果とし等覚を因とし妙覚を果
                   と為す云云。
-----―
02   下種六即実勝の本迹      日蓮は脱の六即を迹と為し種の三世一即の六即・案位の理即は開会の
                   妙覚・開会の理即は本覚の極果を本と為るなり。

 ①六即とは天台が円教の次位を判じたもので、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即である。妙覚は五十二意の極意、五十二位とは別教の菩薩の位で、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚である。
 ②案位とは、位を案ずるという意で、まだ開会されない状態をいう。すなわち案位の理即は、最下位の凡夫である。開会の妙覚は最高の位。

第四八章(種54)
06   脱益十不二門の本迹          理の上の不変の不二にして事行の不二門には非るなり。
-----―
04   下種十不二門の本迹          日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり。     ・

 ①天台が玄義で説いた本迹十妙を、妙楽は統合して釈籤に十不二門とした。それは色心十不二門・内外十不二門・修性十不二門・因果十不二門・染浄十不二門・依正十不二門・自他十不二門・三業十不二門・権実十不二門・受潤十不二門である。
 ②脱益が理上の不二に対して、下種は事理一躰用の不二門である。ゆえにこの十不二門も日蓮大聖人の下種仏法においては、はじめて真実の十不二門となり、最高の哲学となる。その第一の色心不二にしても、唯心論か唯物論かというような哲学上の基本問題を、仏教においては、すでに3000年前に解決している。御義口伝に「色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと」(0708-04)とある。

第四九章(種55)
07   脱益十界互具の本迹          理具の十界互具にして事行の互具には非ざるなり、九界の理を仏界の
                       理に押し入るる方ならでは脱せざるなり。
-----―
05   下種十界互具の本迹         唱え奉る妙法・仏界は本・唱うる我等九界は迹なり、妙覚より理即の凡
                      夫までなり、実の十界互具の勝劣とは是なり。

 ①十界互具とは、地獄界より仏界にいたる十界に、各々十界を具していくことである。観心本尊抄には、法華経の文を引いて、つぎのように示されている。方便品第二に「衆生をして、仏知見を開かしめ」は九界所具の仏界。如来寿量品第十六に「我本、菩薩の道を行じて」は仏界所具の九界等である。しかしいずれも文上脱益法門においては真理である。
 ②文底下種法門における真実の十界互具は、唱えたてまつる南無妙法蓮華経が本で、唱える我等が迹である。御本尊七箇の相承に「二、真実の十界互具は如何、師曰く唱え奉る我等衆生は九界なり」とある。また当体義抄文段に「当に知るべし蓮祖は是れ本果妙の仏界なり、興師は是れ本因妙の九界なり」とある。

第五十章(種53)
01   脱益十二因縁四諦の本迹          経に云く無明乃至老死云云、苦集滅は迹なり道諦は本なり。脱益
                         三土の本迹 報土は本同居方便は迹なり。
-----―
03   下種十二因縁の本迹          日蓮は応仏所説の十二因縁を迹と為し、久遠報仏所説の十二因縁を本
                       と定むるなり。

 ①十二因縁、四諦ともに爾前の教えである。法華経序品第一に「声聞を求むる者の為には、応ぜる四諦の法を説いて…辟支仏を求むる者の為には、応ぜる十二因縁の法を説き、諸の菩薩の為には、応ぜる六波羅蜜を説いて」とある。四諦とは苦・集・滅・道であり、十二因縁は無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死である。「経に云く無明乃至老死」とは化城喩品第七の文である。なお、ここで脱益三土の本迹を別項に立てている古写本もある。
 ②同じ十二因縁といっても、名同義別のあることを知らなければならない。釈迦仏法における十二因縁は縁覚のために説いた権経であるが、その生命流転の原理は、下種仏法においても、序分または流通分として用いられるのである。

第五一章(種脱相対せざる項目)(種24.36.56)
01   下種三種法華の本迹         二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華・本門は根本法華・迹本文
                      底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり。
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05   四土具足の本迹         三土は迹・常寂光土は本なり、四土即常寂光寂光即四土の浄土は唯本門弘経
                    の道場なり。
-----―
06   下種境智倶実の本迹         脱の境智は迹・種の境智は本なり、名字即の境智は境智倶に本・観行即
                      の境智は境智倶に迹なり云云。

脱24
 三種の法華については御義口伝に「惣じて三種の法華の合掌之れ有り今の妙法蓮華経は三種の法華未分なり、爾りと雖も先ず顕説法華を正意と為すなり」(0722-08)とある。伝教大師の守護国界抄巻上の上には「於一仏乗とは顕教の法華経なり、妙法華の外更に一句の経なく、唯一乗の外更に余乗等無し」とある。
脱36
 三土という場合には、実報土が本で、方便土、同居土は迹となる。いま四土となると、寂光土が本で実報土・方便土・同居土の各土は迹となる。しかも、文底仏法においては、四土即寂光・寂光即四土となる。観心本尊抄には爾前迹門の国土について「華蔵・密厳・三変・四見等の三土四土は皆成劫の上の無常の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養・浄瑠璃・密厳等なり能変の教主涅槃に入りぬれば所変の諸仏随つて滅尽す土も又以て是くの如し」(0247-09)と破している。次下に本門の国土は「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり(0247-12)と、この本門寿量品の本国土を、天台は法華宗伝法偈に「霊山の一会儼然として末だ散らず」と説いた。しかし日蓮大聖人は御義口伝に「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(0757-第十四時我及衆僧倶出霊鷲山の事-06)と末法の本国土を明かされている。ゆえに総勘文抄に「寂光をば鏡に譬え同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う」(0573-18)とある。
脱56
 境智の二法を示している項である。曾谷殿御返事に「仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」(1055-02)と。総勘文抄の「我が身は地水火風空なりと知しめして」(0568-13)の文を釈して、日寛上人の当流行事抄には「知とは即ち是れ能称如々の智なり・我が身は是れ能称如々の境なり・境智相称う豈自受用報身に非ずや」とある。
 此の境智にも種脱の二種・妙字即と観行即の相違がある。本因妙抄に「仏意は観行・相似を本と為し機情は理即・名字を本と為す」(0870-11)とある。