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日蓮大聖人御書講義140881~0908

0881~0890    善無畏三蔵抄
           はじめに
  0881:01~0881:03 第一章 法華経最第一を明かす
  0881:03~0881:13 第二章 諸宗の邪義を挙げる
  0881:14~0882:05 第三章 誤りの所以を示す
  0882:05~0882:14 第四章 天台・伝教の例を引く
  0882:15~0883:04 第五章 真言の邪義を破す
  0883:04~0883:12 第六章 念仏の邪義を破す
  0883:13~0884:04 第七章 題目の勝妙なるを教える
  0884:04~0885:09 第八章 教主釈尊の三徳を顕す
  0885:09~0885:16 第九章 釈尊を本尊とすべきを説く
  0885:17~0886:13 第十章 他仏を本尊とする誤りをつく
  0886:13~0887:08 第11章 善無畏の堕獄を示す
  0887:08~0887:17 第12章 善無畏の堕獄の理由を明かす
  0887:17~0888:08 第13章 善無畏以後の誤りを破す
  0888:09~0888:16 第14章 立宗以来の折伏を述べる
  0888:16~0890:15 第15章 真言開眼の邪義を示す
0891~0891    佐渡御勘気抄
  0891:01~0891:05 第一章 値難の悦びを述べる
  0891:05~0891:07 第二章 先人受難の例を引く
  0891:07~0891:11 第三章 故郷の人々を励ます
0892~0893    義浄房御書(己心仏界抄)
  0892:01~0892:03 第一章 法華経の功徳甚深を示す
  0892:03~0892:06 第二章 伝教所伝の今経の所詮を示す
  0892:06~0892:13 第三章 寿量の文に己心の仏界を顕す
  0892:13~0893:02 第四章 不惜身命を勧む
0893~0895    清澄寺大衆中
           はじめに
  0893:01~0894:12 第一章 亡国の悪法・真言を破す
  0894:12~0895:04 第二章 清澄寺の大衆に重恩を教える
  0895:05~0895:14 第三章 法華経の行者への帰依を勧む
0896~0902    聖密房御書
  0896:01~0896:06 第一章 真言開祖等の主張を挙ぐ
  0896:07~0897:07 第二章 華厳・真言の法盗人を示す
  0897:08~0897:18 第三章 理同事勝の邪義を破す
  0897:18~0898:13 第四章 大日経等に記小久成なきを示す
  0898:13~0898:17 第五章 空海の亀化兎角の妄論を破す
  0898:18~0900:07 第六章 法華経が仏意の宗なるを示す
0900~0901    華菓成就御書
0901~0902    別当房御返事
0902~0903    寂日房御書
  0902:01~0903:07 第一章 上行再誕の確信を述べる
  0903:07~0903:18 第二章 華厳・真言の法盗人を示す
0902~0903    寂日房御書(2008:11月号大白より 先生の講義)
0904~0907    新尼御前御返事
  0904:01~0904:14 第一章 甘海苔の供養に故郷を想う
  0904:15~0905:11 第二章 御本尊の前代未聞なるを述ぶ
  0905:12~0906:08 第三章 上行付嘱・末法弘通を明かす
  0906:09~0906:15 第四章 東条郷が日本の中心なるを示す
  0906:16~0907:12 第五章 御本尊受持の信心を正す
0904~0907    新尼御前御返事(2012:08月号大白より 先生の講義
0908~0908    大尼御前御返事

0881~0890    善無畏三蔵抄top
         はじめにtop

 本抄は、文永7年(1270)、日蓮大聖人が49歳の時に著された書である。
 御述作の動機については、この年の大聖人の行跡を示す明らかな文献がないので明確な断定はできない。しかし、本抄の最後の部分で、大聖人の清澄寺時代の旧師・道善房が、法華経を受持したことと釈迦仏を造立したこととを殊のほか喜ばれているところから推察するに、この文永七年のある時点で、道善房が大聖人のかねてからの教導にしたがって、不十分ながら阿弥陀仏信仰を捨て、法華経と釈迦仏とを立てるに至ったのであろうと思われる。この道善房の改宗の模様は、おそらく、同じ清澄寺の義浄房、浄顕房を通じて日蓮大聖人の処に知らされたに違いない。
 郎報を聞かれた日蓮大聖人は、旧師への報恩の誠意が通じたことを率直に喜ばれるとともに、師の法華経・釈迦仏への信心が持続し、ますます強盛になっていくことを願われて、本抄を執筆されたものと思われる。
 宛て名が、道善房ではなく、義浄房、浄顕房になっているのも、旧師の改心の模様がこの二人により大聖人に知らされたことをうかがわせるとともに、大聖人の旧師に対する報恩の気持ちを伝えるのに最もふさわしい仲介者と考えられたからであろう。このあたりにも、大聖人の旧師への細かい配慮が拝せられ、古来、本抄の別名を「師恩報酬抄」と呼びならわされてきたことも、十分うなずけるのである。
道善房の釈迦仏造立について
 本抄で日蓮大聖人は、旧師・道善房が法華経を持ったのみならず、釈迦仏を造ったことに対して大きな称賛をもって迎えておられるが、この点について一言しておきたい。
 末法の御本仏日蓮大聖人の一代の御化導の究極は、大聖人の御図顕された人法一箇の御本尊であることは改めていうまでもない。
 にもかかわらず、本抄で、道善房の釈迦仏造立を称賛されているのには、それなりの理由がある。
 ちなみに、日蓮大聖人が、門下の釈迦仏造立を称賛されている御手紙は、本抄の他にも数編ある。
 例えば、本抄と同じく文永7年9月の真間釈迦仏御供養遂状には「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、『欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来』は是なり」(0950-01)とある。
 また、建治2年(1276)7月の四条金吾釈迦仏供養事では「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云(中略)されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし(中略)此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ」(1144-01)と記されている。さらに、弘安2年(1279)2月の日眼女造立釈迦仏供養事には「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(中略)一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべし(中略)今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」(1187-01)とある。
 このように、日蓮大聖人が釈迦仏の造立を認められ、その行為を賛嘆されている御文が数編あるところから、大聖人滅後の五老僧が、大聖人の出世の本懐たる御本尊を無視して、釈迦如来を本尊として崇拝する誤りを犯したことは、日興上人の富士一跡門徒存知の事に明らかである。すなわち「五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり(中略)日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1605-16)と。
 ここで明らかに日興上人は、釈迦如来を本尊とする五老僧の立場を、末法の御本仏日蓮大聖人の真意を知らぬために誤りに堕した、と破折されているのである。
 では、何故に日蓮大聖人は、御書の各所で釈迦仏の造立を賛嘆され、釈迦如来を本尊とすることを認められたのであろうか。この問題については、日寛上人が末法相応抄において、三点にわたり明快に論じられている。
 「今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も、而も之を称歎する。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり。是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す。然るに彼の人適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には、一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」。
 三点の理由の中で、本抄の旧師・道善房の場合は、とくに第二の理由が最もよくあてはまるのではなかろうか。本抄の中で、日蓮大聖人が師・道善房を折伏された時、道善房は「世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし」(0889-02)と答えて、大聖人の仏法を受け入れることを拒否するくだりがある。この時の道善房のことばにもあるように、当時、猛烈な勢いで日本国全体に阿弥陀仏信仰が弘まっていたため、人々は本心からではなくとも、世間に弘まっているという理由だけで、阿弥陀仏を本尊としていたのである。この風潮のなかで、日蓮大聖人は文底深秘の法門を説かれる前段階として、まず娑婆世界における仏教の開祖であり、法華経を出世の本懐として説いた釈迦如来を立て、釈迦仏を本尊とすることを弟子檀那にすすめられたのである。
 しかし、日蓮大聖人の元意は、どこまでも〝一念三千即自受用の本仏〟すなわち、大曼荼羅本尊にあられたことはいうまでもない。
 その意味で、本抄を拝読するにあたって、究極的には「法華経」は寿量文底の南無妙法蓮華経を、「釈迦如来」は久遠元初の自受用身如来をそれぞれ表していると拝していくべきであろう。
本抄の大意
 本抄は、大別して五段に分かれる。
 第一段は冒頭から「終(つい)に九十五種の外道とこそ捨てられしか」(第四章)までで、法華経が無数の経典群の中で、最第一の経典であり、最も正しく仏意を表していることを主張されている。同時に、仏意に通じないインド、中国、日本の人師・論師が、いかに正法たる法華経を下し、邪義をかまえてきたかを論断されている。そして、天台大師、伝教大師にならって、いかに迫害があろうとも、人師・論師の説によらず、あくまで経文と道理に依って邪義を破折し、法華経の独勝性を宣揚すべきことを述べられている。
 第二段は「日蓮八宗を勘へたるに法相宗……」(第五章)から「叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり」(第七章)までである。前段でインド、中国、日本三国にわたる人師・論師の邪義を指摘されたのに対し、この段では、とくに日本の八宗に限定され、その誤りを指摘されるのであるが、なかでも破折の鋭鋒を、真言宗と浄土宗に向けられている。これは、旧師・道善房が法華経、釈迦仏に帰依した後の信心不動なるを願われて、旧師のこれまでの宗旨である真言・念仏を改めて破折されたのであろう。
 つぎに、末法に衆生が立てて修行すべき正法として南無妙法蓮華経の題目を明かされている。
 第三段は「又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり」(第八章)から「悪道を免るべからずと思食(おぼしめ)すべし」(第十章)までである。
 ここでは、釈迦如来こそが娑婆世界に住む一切衆生の有縁の仏であることを論じられている。その理由として、釈迦如来が娑婆世界の一切衆生の尊主であり(主)、父母であり(親)、本師である(師)と、主・師・親三徳を具備した仏であることを述べられ、娑婆世界の衆生がいかに釈迦如来と縁が深く、かつ、その厚い大恩を受けているかを説かれている。
 第四段は「例せば善無畏三蔵は……」(第十一章)から「劣る経に説く法門は勝れたる経の得分と成るべきなり」(第十三章)までである。ここでは、大恩ある釈迦如来に違背し、法華経を下せば、いかに八万法蔵を究め十二部経を誦んずるような智者であっても、悪道に堕すことを、真言宗の開祖・善無畏三蔵を例として説かれている。本抄の善無畏三蔵抄の題号は、この段からとられたのである。そして、善無畏三蔵の例を挙げられることにより、真言宗に堕していた清澄寺の邪法を間接的に破折されたのである。
 第五段は「而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり」(第十四章)から最後までである。ここでは、日蓮大聖人が、建長5年(1253)の立教開宗から、本抄を著された文永7年(1270)年までの17年間、法華経・釈迦仏を根本に立て、諸宗・諸経・諸論の誤りを折伏してきたのは、ひとえに、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の御恩である、と述べられている。とともに、17年間にわたる破邪顕正の実践の根底には、師の恩に報いようとする至誠の一念が貫かれていたことを明かされている。そして、道善房が法華経に帰依し、釈迦仏を造立するに至ったことを、師への報恩の心が酬いられたとして喜びを表明されるとともに、仏意の上からの強言が大切なことを述べられている。
本抄の系年について
 本抄が文永7年(1270)に述作されたことは、本文中に「建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに……」(0883-11)「殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に……」(0888-11)とある文から明らかである。しかし、具体的な月日については不明である。
 また、本抄の御真筆は現存しないが、旧師・道善房への報恩を語られるくだりは、報恩抄をまのあたりに拝するような筆致が見られるところから、間違いなく、大聖人の御筆になるものと拝察される。

0881:01~0881:03 第一章 法華経最第一を明かすtop
0881
善無畏三蔵抄   文永七年    四十九歳御作   与義浄房・浄顕房    於鎌倉
01   法華経は一代聖教の肝心.八万法蔵の依りどころなり,大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は震
02 旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教恒沙塵数なり、大海を硯の水とし三千大千世界の草木を筆とし
03 ても書き尽しがたき経経の中をも或は此れを見 或は計り推するに法華経は最第一におはします、
――――――
 法華経は一代聖教の肝心であり、八万法蔵の依りどころである。仏法には大日経・華厳経・般若経・解深密経等の、諸の顕経・密経の経典がある。それらの経典は、中国・インド・竜宮城・天上界にまで弘められ、十方世界の国土における諸仏が説いた教法はガンジス河の沙塵のように無数である。これらの、大海を硯の水とし、三千大千世界の草木を筆としても書き尽くしがたいほどの経々の中において、あるいはこれらの諸経を見、あるいはその内容を計り推考してみても、法華経は諸経の中で最第一の位置にあるのである。

法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
―――
一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
八万法蔵
 煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
深密経
 解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
顕密の諸経
 顕教・密教を説いている種々の経典のこと。真言宗の教判で、大日の三部経を法身仏を説く密教の経典とし、それ以外の一切の経典を報身・応身仏である釈尊が衆生の機根に応じて説いた顕教の経典とするもの。
―――
震旦
 中国の歴史的呼称。真丹・真旦とも書く。梵語チーナ・スターナ(Cīna₋sthāna)の音写。チーナは秦の音写で「支那」の語源という。スターナは地域・場所の意。玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。おもに仏典の中で用いられた。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
竜宮
 水底、または水上にあるとされる竜族の王城。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。また竜樹菩薩伝によると、竜樹菩薩が大竜菩薩から仏法の奥義を授けられた模様が記されている。「大竜は菩薩の、その是の如くなるを見、惜んで之を愍み、即ち之を接して海に入り、宮殿の中に於て、七宝の蔵を開き、七宝の華函を発き、諸の方等深奥の経典、無量の妙法を以て之に授け」と。
―――
天上
 天上界のこと。十法界のひとつで三界二十八天に細別される。三界とは欲界・色界・無色界をいい、欲界に四天王、忉利天・耶摩天・兜率天・化楽天・他化自在天の六欲天、色界に初禅の三天、二禅の三天、三禅の三天、四禅の九天の十八天、さらに無色界に空処、識処、無所有処、非想非非処の四色天があり、全部で三界二十八天となる。
―――
十方世界
 「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
―――
恒沙塵数
 恒沙とは恒河沙の略で、ガンジス川の砂のこと。塵数とは塵の数のこと。ともに数えることができない数字を示した語。
―――
三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――――――――
 法華経は一代聖教の肝心であり、八万法蔵の依拠とすべき経典であり、十方世界の諸仏の説かれた経々の中で最第一であることをまず述べられている。
 日蓮大聖人が、本抄冒頭に、法華経こそが最勝の経典であることを標示されたのは、師匠の道善房が法華経の信仰に目覚めはじめたことを義浄房・浄顕房の報告から聞かれて、道善房の法華経への信心をさらに強固にしたいという報恩の一念のためであったと思われる。
 さて、釈尊の説かれた一代聖教は、八万法蔵と呼ばれ、膨大な量にのぼる。そのなかには、大日経、華厳経等の顕密の諸経があり、中国、インドから竜宮、天上界にまで流布された。さらに十方世界の諸仏の説かれた経典にいたっては恒沙塵数であるが、これらの無量無辺の経々を、あるいは直接に見、あるいは推察しても、法華経に勝る経典はないと断言されている。
 いま本文で「顕密の諸経」と述べられているのは、一往は、一般的な顕密の立てわけである真言密経の教判を用いられたと考えられる。しかし、密経の根本的な意味は、仏のみが知る悟りの教えということであり、権実相対の立場からいえば、「顕経」とは法華経以外の経々をさし、「密経」とは釈尊内証の秘密の法門を説いた法華経である。
 さらに、種脱相対を明かす日蓮大聖人の元意からすれば、真実の「密経」は、法華経の寿量文底に秘沈された大法であり、成仏根源の一法である三大秘法の南無妙法蓮華経であることを知らねばならない。
 この御書は佐渡以前でもあり、また、道善房がようやく念仏を捨てて法華経に目覚めたところでもあるので、権実相対の立場で法華最第一を主張するにとどまり、本迹、種脱という真実の「密経」にまでは説き及んでおられないのである。
 つぎに本文には、「顕密の諸経は震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教恒沙塵数なり……或は此れを見或は計り推するに法華経は最第一におはします」と記されている。
 この御文について、中国、日本に渡来した経典の中では、日蓮大聖人が読まれ、判断されたように、たしかに法華経が最第一であるかもしれないが、竜宮や、天上界、十方世界には法華経よりも勝れた経典があるのではないかという疑問を起こす人も当時いたのであろう。
 本文では、簡単に「或は計り推するに」と述べるにとどめておられるが、日蓮大聖人は報恩抄で、こうした疑問に対して、次のように詳細な解答を示されている。
「或る人疑つて云く漢土・日本にわたりたる経経にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも月氏・竜宮・四王・日月・忉利天・都率天なんどには恒河沙の経経ましますなれば其中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん、答て云く(中略)法華経の法師品に釈迦如来金口の誠言をもつて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く『我所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説ん而も其の中に於て此法華経は最も為難信難解なり』等云云、此の経文は但釈迦如来・一仏の説なりとも等覚已下は仰いで信ずべき上多宝仏・東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ、已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏の御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給い各各・又自国に還らせ給いて我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子等信用すべしや」(0295-13)。
 この御文に明瞭なごとく、法華経法師品に説かれる〝已今当〟の三字は、多宝如来が〝真実〟と証明を加え、十方分身の諸仏が広長舌を出して証明されたところであって、釈尊五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を一字一句も残さず集めて、法華経と比べられた金言なのである。
 したがって、法華経は、釈尊の説かれたあらゆる経典、並びに、十方三世の諸仏の説いた経々の中で、最も難信難解であり、最第一の経典であることが明らかである。
 なお、報恩抄では、この御文に引きつづいて、梵天、帝釈、日月、四天、竜王等も法華経の会座に連なっていたのであるから、月氏、竜宮、四天、日月等の宮殿にも法華経に勝れたる経典はありえないと強調されている。

法華経は一代聖教の肝心・八万法蔵の依りどころなり

 この御文に、法華経の一代聖教の中で占める位置が示されている。同時に、釈尊が法華経を出世の本懐とされたゆえんが明かされている。
 釈尊は五十年間の説法の中で、四十二年間は爾前経を説き、最後の八年間に法華経を説いたといわれる。
 今、爾前経と法華経とを法体の面から比較してみると、爾前経は部分的・表面的真理を説いているのに対して、法華経は全体的・根本的真理を説いている。
 まず、爾前経は、蒙古使御書に「己心の法を片端片端説きて候なり」(1473-08)と述べられているように、生命の法理を種々の角度から説いたものである。八万法蔵といわれるように、人間の持つ煩悩を打破する法を、さまざまな法理として展開されたのが爾前経である。
 それに対して、法華経は、生命の全体像を示し、また生命の全体を包括する本源的な法理が説かれている。
 法華経の開経とされる無量義経に「無量義とは、一法従り生ず」とあるが、生命のあらゆる現象、すなわち無量義は本源をたずねると一法に収斂していく。その一法を説き示そうとしたのが法華経である。
 法華経は、生命の根源の一法を示そうとしているが故に、一代聖教の肝心であり、肝要の経典となるのである。また、法華経は、生命の全体的真理を説いているが故に、他のあらゆる経典の依拠となるべき位置を占めることになる。
 部分的真理は、それ自体では、生きた真理としては働かない。全体的真理の中に位置づけられ、全体を貫く本源の一法を依りどころとしてはじめて、真理としての生きた働きを発現させるのである。
 例えば、人間の身体は、種々の器官や組織から成り立っている。だからといって、これらの部分を寄せ集めたとしても、人間身体としての営みは生じてこない。
 人間一個の身体という全体の働きのなかに位置づけられ、人間全体の生命の本源力に生かされてはじめて、各部分は本来の働きをなすことができるようなものである。
 法華経の全体的・根源的真理の中で、はじめて、爾前経の部分的・表面的真理は、生きた法理として働くことができる。故に、八万法蔵といわれる一切経は、法華経を拠りどころとしなければならないのである。
 だが、法華経が一切経の根本であり、依拠となりうるのは、あくまで、法華経という経典が、生命全体を包括し、貫く根源の一法を説き示しているが故である。この根源の一法こそ、日蓮大聖人の説かれる三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。
 日蓮大聖人は三大秘法抄に「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)と述べられている。
 つまり、三大秘法こそが、釈尊をはじめとする諸仏が覚り、出世の本懐とした〝一大事〟の法であり、法華経の説こうとした根源の一法なのである。
 したがって、法華経が、一代聖教の肝要の経典となり、八万法蔵の依拠の経典となりえたのは、その文底に、三大秘法の南無妙法蓮華経を秘沈している故であることを知らねばならない。

0881:03~0881:13 第二章 諸宗の邪義を挙げるtop
03                                              而るを印度等の
04 宗・日域の間に仏意を窺はざる論師・人師多くして或は大日経は法華経に勝れたり、 或る人人は法華経は大日経に
05 劣れるのみならず華厳経にも及ばず、 或る人人は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る、或る人人は辺辺あ
06 り互に勝劣ある故に、 或る人の云く機に随つて勝劣あり時機に叶へば勝れ叶はざれば劣る、 或る人の云く有門よ
07 り得道すべき機あれば 空門をそしり有門をほむ余も是を以て知るべしなんど申す、 其の時の人人の中に此の法門
08 を申しやぶる人なければ・おろかなる国王等深く是を信ぜさせ給ひ 田畠等を寄進して徒党あまたになりぬ、 其の
09 義久く旧ぬれば 只正法なんめりと打ち思つて疑ふ事もなく過ぎ行く程に 末世に彼等が論師・人師より智慧賢き人
10 出来して、 彼等が持つところの論師・人師の立義・一一に或は所依の経経に相違するやう或は一代聖教の始末・浅
11 深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時、 各各・宗宗の元祖の邪義扶け難き故に陳し方を失ひ、 或は疑つ
12 て云く論師・人師定めて経論に証文ありぬらん 我が智及ばざれば扶けがたし、 或は疑つて云く我が師は上古の賢
13 哲なり今我等は末代の愚人なりなんど思う故に・有徳・高人をかたらひ・えて怨のみなすなり。
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 法華経が一代聖教中で最第一であるのを、インド等の宗派や日本の仏教界には、仏の本意を正しく知らない論師や人師が多くいて、ある者は大日経は法華経より勝れているといい、ある人々は法華経は大日経に劣るばかりでなく華厳経にも及ばないといい、ある人々は法華経は涅槃経や般若経や解深密経等よりも劣るといっている。またある人々はそれぞれの面で特色があり、互いに勝劣があるのだから視点を定めて経文の勝劣を判じなければならないという。そして、ある人は衆生の機根に随って勝劣があるのであり、時と機根とに叶えば勝れた経であり、時機に叶わなければ劣る経であるという。ある人は有門の教説によって得道する機根であれば、空門をそしり有門をほめて有門が勝れているとするのであり、その他のこともこのことをもって知るべきである等といっているのである。
 その時代の人々のなかに、これらの法門を破折する人がいなかったから、愚かな国王等は深くこれらの法門を信奉されて田畠を寄進し、帰依する信徒も多くなった。
 そしてそれらの法門が、時を経て古いものとなると、人々はそれらの法門がきっと正法なのだろうと思ってしまい疑うこともなくなって過ぎていくうちに末世となった。そのとき彼等が帰依した論師や人師よりも智慧の賢い人が出現して、彼等が持つ論師や人師の立義の一つ一つについて、あるいはその立義が依所とする経々と相違しているさまを責め、あるいはその立義が一代聖教の順序や浅深等を弁えていないため、もっぱら経文によってそれらの立義を責め立てたところ、彼等はおのおのの宗派の元祖の邪義を扶けることができないので、返答のしようがなく、ある者は疑って「論師や人師の説は必ず経論にその証拠の文があったのだろう。しかし私の智慧が及ばないから扶けることができない」といい、あるいは疑って〝私の師は上古の賢哲である。いまの私達は、末代の愚人である〟等と思う故に、徳のある人や身分の高い人を味方にして、法華経の行者に対して、怨嫉だけをするのである。

日域
 日本国の異称。「じちいき」とも読む。日の出る国。
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論師
 阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――
人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
或る人の云く機に随つて勝劣あり……叶はざれば劣る
 時機相応を教相判釈の基準とする説。浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を依経とする法然等の主張。
―――
或る人の云く有門より得道……余も是を以て知るべし
 有門によって成仏する機根があれば空門をそしって有門をほめるように、機にしたがって勝劣があるという意。有門と空門については次項参照。六世紀ごろ南インドに無著、世親系統の大乗の有を宣揚した護法と、竜樹の系統を受け継いで大乗の空門を宣揚した清弁との論争があった。これを「護法清弁有空の争い」という。
―――
有門
 釈尊の教説中で、諸法は有であると見ることによって、衆生を悟りに導こうとした教門。四門の一つ。門とは能通を意味し、仏教の真理に入るための門ということ。倶舎論・唯識論などが有門にあたる。
―――
空門
 すべての存在に固定的な実体はなく、一切が空であると観ずることによって、悟りへ導く法門のこと。四門の一つ。
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有徳
 徳行のすぐれた人。富み栄えていく人。
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高人
 高貴な人。身分の高い人。
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 この章は大別して、前後二段に分かれる。
 前半の部分では、インド・中国・日本の釈尊の本意を知らない人師・論師の邪義が挙げられ、後半ではその時代の人のなかに彼等の邪義を破る人がいなかったので、愚かな国王や人々が深く信じて信徒となってしまったことが示されている。
 さて、法華経最勝という釈尊の本意を知らぬ人師・論師の邪義は、二つの側面から生じたことがわかる。一つは、教法の観点からの邪義であり、他は、機根の観点からの邪義である。
 教法の立場からの邪義は、いずれも、自らの所依とする経典が法華経に勝ると主張するものである。
〝大日経は法華経に勝る〟との主張は、東密・台密に共通するものであるが、ここでは主として台密をさしていわれている。それは、慈覚・智証の理同事勝の教判である。また、善無畏三蔵も同様の説を立てている。
 つぎの「法華経は大日経に劣れるのみならず華厳経にも及ばず」とは、東密の弘法大師空海の邪説である。
 顕謗法抄で、日蓮大聖人は、次のようにいわれている。「真言宗には日本国に二の流あり東寺流は弘法大師・十住心を立て第八法華・第九華厳・第十真言・法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり、天台の真言は慈覚大師等・大日経と法華経とは広略の異・法華経は理秘密・大日経は事理倶密なり」(0454-05)。
 この御文に示されるように、東密の弘法は、十住心をもって一代の教法を判じようとして、第八法華、第九華厳、第十真言という教判を立てた。これに対し、天台の真言、すなわち台密は、法華経は理秘密、すなわち諸法実相の理のみが秘密の教であるが、大日経は、理も真言の事も秘密であり、理秘密とともに、印と真言等の事秘密をも説く故に、大日経が勝る、という理同事勝を主張したのである。
 さらに「或る人人は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る」とあるのは、法雲、慧観、吉蔵、窺基等のことである。教機時国抄には「但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う」(0440-02)と記されている。
 以上のように、所依の経典を、その教法のうえで法華経に勝るという者に対して、それとは別に「辺辺あり互に勝劣ある故に」と主張する人師、論師もいた。
 つまり、彼等は「それぞれの経典には、他の経典にはない長所があるから、長所とする点では他の経典に勝る。しかし、他の経典の長所とする点では、この経のほうが劣るというように、互いに勝劣があるのである」と主張する。それぞれの経典の長所を互いに尊重しあうべきであるとの言説であるが、これらも一代聖教の高低浅深をおおい隠す邪義であることに変わりはない。
 その一例として、機根を中心とする立場からの邪義が挙げられている。或る人は「機に随つて勝劣あり時機に叶へば勝れ叶はざれば劣る」といって、その時代の機根を中心に法を弘めよと主張する。念仏こそ末法の時機相応の教法であると主張する法然等の所説をさしていわれたのであろう。
 彼等は、末法という時代の衆生の機根は愚鈍であるから、聖道門である法華経を修行しても成仏ができるはずがないから法華経を捨てよといい、ただ浄土門の念仏を称えて往生することをすすめる。すなわち、理深解微の主張である。そして「念仏は末法の衆生の機根に合っているから勝れており、易行道でもある。それに対し、法華経は難行道であり、鈍根の衆生では理解し難い故に劣っている」と人々をたぶらかして、念仏を弘めたのである。
 同じく機根中心の主張例が挙げられている。「或る人の云く有門より得道すべき機あれば空門をそしり有門をほむ」というのがそれである。
 有門によって得道する機根の者には、空門をそしって有門を讃するのであり、逆に空門によって得道する機根の者には空門を讃して有門をそしるのであるという。
 機根によって勝劣は違ってくるという考え方は、顕謗法抄にも、諸宗の主張として挙げられている。「或は衆生多く小乗の機あれば大乗を謗りて小乗経に信心をまし或は衆生多く大乗の機なれば小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす……或は衆生多く華厳経に縁あれば諸経をそしりて華厳経をほむ」(0456-05)等々と。
 以上、教法の立場からにせよ、機根中心の立場からにせよ、法華経を他経に劣るとしたり、あるいは同等としたインド・中国・日本の人師・論師の説は、いずれも仏の本意に背く邪義といわなければならない。
 後半の部分では、これらの邪義が弘まり、年久しくなったので、人々が盲目的に正法であろうと信じるようになった末代の世に、人師・論師よりも智慧賢き人が出現して、彼等の立義を破ることが記されている。その智人が日蓮大聖人御自身であることはいうまでもない。
 邪義を破折された諸宗の人々は、あわてふためき、弁解し、ついには、有徳者や高位の人をかたらって、智者を怨み迫害するのである。
 末代の智人、すなわち日蓮大聖人の諸宗に対する破折は、経文を根本としてなされるが、内容は次の二点に要約される。第一点は、彼等の立義が、彼等自身の所依とする経典に相違していることである。第二点は、一代聖教の前後始終ならびに浅深勝劣をわきまえていないことである。
 そして、日蓮大聖人によって、元祖の立義をこのように責められた諸宗の末学等の態度は、次の三とおりに分けられると仰せである。
 ある者は、元祖の邪義を大聖人に破折しつくされて、たすけることもできず、全く方途を失ってしまった。
 つぎにある者は論師・人師はきっと経や論に何らかの証拠があって義を立てたのであろうが、自分のような者には知ることもできず、先師をたすけえないと嘆き、断念する者である。
 第三番目の者は、自分たちの先師は上古の賢人で哲人であり、一方、我々は末代の愚人であるから、どうして、先師の立義をけなすことができようか、ただ、信ずべきのみではなかろうかといって、大聖人の訶責(かしゃく)から逃れようとする。すなわち、時代にことよせて、逃げ道をつくろうとする者である。

0881:14~0882:05 第三章 誤りの所以を示すtop
14   しかりといへども 予自他の偏党をなげすて論師人師の料簡を閣いて専ら経文によるに法華経は勝れて第一にお
15 はすと意得て侍るなり、 法華経に勝れておはする御経ありと申す人・出来候はば思食べし、 此れは相似の経文を
0882
01 見たがえて申すか 又人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か、 智慧おろかなる者弁へずして仏説と号
02 するなんどと思食すべし、慧能が壇経・善導が観念法門経・天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多
03 し、 其の外私に経文を作り 経文に私の言を加へなんどせる人人 是れ多し、 然りと雖も愚者は是を真と思うな
04 り、 譬えば天に日月にすぎたる星有りなんど申せば 眼無き者は・さもやなんど思はんが如し、我が師は上古の賢
05 哲・汝は末代の愚人なんど申す事をば 愚なる者はさもやと思うなり、 
――――――
 しかしながら、私は自他への執着や偏りをなげすて、論師・人師の考えを閣いて、もっぱら経文によってみるに、法華経は他の経より勝れて第一であると心得たのである。もし法華経より勝れている経があるという人が出てきたならば、つぎのように考えるべきである。この人は法華経によく似た経文を見誤っていうのであろうか。また人が自分で勝手に経文をつくり、仏説にことよせているのを、智慧の足りない者が、真偽を弁えずに仏説であるといっているのである等と思うべきである。たとえば慧能の壇経、善導の観念法門経等、インド・中国・日本国に自分勝手に経を説いた邪師の数は多い。そのほか自分で経文を作り、経文に自分のことばを加えるなどする人々がこれまた多い。
 しかしながら、愚者はこれらを真実の経文であると思うのである。たとえば、天に日月よりまさる星があるなどといえば、盲目の人はそのとおりかもしれないなどと思うようなものである。我が師は上古の賢哲であるが、あなたは末代の愚人ではないか等ということを、愚かな者はそのとおりであると思うのである。

料簡
 思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
相似の経文
 法華経が一切経に勝れているというのと相似して他経も勝れていると説く経文のこと。密厳経の「十地花厳等、大樹と神通と、勝鬘及び余経は、皆この経より出ず。是くの如く密厳経は、一切経の中に勝れたり」、涅槃経巻十四の「この諸の大乗方等経典は……仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す」等々、その一例である。
―――
慧能が壇経
 慧能の言行録である六祖大師法宝壇経のこと。一巻。慧能(0638~0713)は中国禅宗の第六祖。曹渓の宝林寺に住したので曹渓大師とも呼ばれた。第五祖・弘忍に法を受け、広東省付近を中心に弘教し、禅宗南派の基礎を築いた。壇経は慧能が韶州の大梵寺の檀上で説法したものを、後に門人が集録した。〝経〟と呼ぶのは、後人が慧能を尊んで付けたもの。慧能の生涯の行業と語録が収められているが、後人が付加した部分もある。
―――
善導が観念法門経
 善導著の観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門のこと。一巻。善導(0613~0681)は中国浄土教の大成者。終南大師とも呼ばれた。道綽に師事して観無量寿経を学び、30年間、称名念仏の弘教に努めた。観念法門経は三段から成り、阿弥陀仏を観念することの行相・作法と、その功徳について述べ、観念を越えるものとして、称名念仏による修行を勧めている。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
邪師
 邪な師匠。仏法を正しく伝えず、邪義・邪見をもって衆生を不幸に導き入れる者。
―――
経文に私の言を加へ
 報恩抄に「玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき」(0307-13)とあり、宝法師は玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に私語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。
―――――――――
 法華経最第一の正義に反している諸宗の誤りがどこから生じたかを指摘された段である。
 本章はまず最初に、日蓮大聖人はもっぱら経文によって諸経を判釈し、法華経こそが最第一であるとの結論を得られたことを示される。
 つぎに、これに対し、法華経よりも勝れた経典があるなどという邪義をとなえる人々は、正しく経文をわきまえなかったり、偽経にたぼらかされているのであると、その誤りの根源を衛かれている。
 法華経最第一を否定している邪義の生じた根源には、次の三とおりがあるとされる。
 第一は、相似の経文に迷って、自らの所依の経典が法華経より勝れていると錯覚するのである。
 つまり、法華経所説中の文と似かよった文が他の経典にもあるから、それを見誤って、法華経より勝ると判断してしまうのである。
 法華経最第一の文を挙げると、法華経薬王菩薩本事品には「諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」、「此の経も亦復た是の如く、諸経の中の王なり」、等の文がある。また、法師品には「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」の文がある。
 これらの法華経の文と、他経の相似の文を見誤るのである。例えば、語訳に示したように、密厳経には「是(かく)の如く密厳経は、一切経の中に勝れたり」とあり、ここから密厳経は一切経の中の王であると誤認してしまうのである。
 しかし、密厳経のこの経文の意味は、華厳、勝鬘等の、それ以前の経に対しての〝勝〟であり、〝王〟であって、そこには法華経は含まれていないのである。法華経の薬王品や法師品の〝已今当〟の文に及ぶはずがないのである。
 また、これも語訳に示すように、涅槃経にも、涅槃最勝をあらわすかのような文が記されている。しかし、涅槃経の方が勝るとする諸大乗経には、十二部経、修多羅、方等経、般若波羅蜜経等が列挙されているが、法華経は挙げられていない。つまり、法華経を除く諸大乗経の中では、涅槃経が最勝であり、王であるといっているにすぎないのである。
 その他、阿弥陀経や大日経等にも、相似の経文はあっても、法華経のように、釈尊一代の経典すべてと自経とを比較して、大王であり、最勝であると説いたものは全くないのである。
 他の経典が、たとえ王であるといっても、それは、ある範囲内での王であるにすぎず、部分的なものである。
 それに対し法華経は、すべての諸経の大王であり、釈尊所説の経のみならず三世十方の諸仏の一切経に比して最勝なのである。
 法華取要抄にも、相似の経文を引用されて次のように記されている。
 「所謂金光明経の『是諸経之王』密厳経の『一切経中勝』六波羅蜜経の『総持第一』大日経の『云何菩提』華厳経の『能信是経・最為難』般若経の『会入法性・不見一事』大智度論の『般若波羅蜜最第一』涅槃論の『今者涅槃理』等なり、此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり・然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり或は小乗経に相対すれば諸経の中の王なり或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず」(0332-02)。
 このような明瞭な違いがわからず、ただ、法華経の御文と似た文が他経にあるからといって、法華経最勝への説の疑難をなすのは全く愚かといわなければならない。
 第二に、愚癡の故に誤ったのではなく、経文を偽作して、仏説であると詐称する者がいる。全く悪質な詐術であるが、それ等の人師・論師の邪義を聞いた愚者は、この事を弁えずに、かえって、仏説であるといわれれば、そのまま信じてしまうのである。
 偽経の実例として、日蓮大聖人は、慧能の作である壇経、善導の作である観念法門経を挙げられている。
 第三に、偽経とまではいかなくても、経典の中にある文を自分勝手に作ったり、そこに自分の意見を加えたりした人も、少なくないのである。
 こうして、彼等は、経典の文を書き換え、経典の真意を失わせてしまったのである。ところが、愚かな者は、人師・論師が書き加えた文に惑わされて、法華経に勝る経典があるなどと信じてしまっている。
 このように、法華経最勝を否定し背いている教説はいずれも正当な根拠のないものであり、愚癡か邪見の故の誤りであることを知らなければならない。

0882:05~0882:14 第四章 天台・伝教の例を引くtop
05                                  此の不審は今に始りたるにあらず陳隋の代
06 に智顗法師と申せし小僧一人侍りき 後には二代の天子の御師・天台智者大師と号し奉る、 此の人始いやしかりし
07 時・但漢土・五百余年の三蔵・人師を破るのみならず月氏・一千年の論師をも破せしかば南北の智人等・雲の如く起
08 り東西の賢哲等・星の如く列りて 雨の如く難を下し風の如く此の義を破りしかども 終に論師・人師の偏邪の義を
09 破して天台一宗の正義を立てにき、 日域の桓武の御宇に最澄と申す小僧侍りき後には伝教大師と号し奉る、 欽明
10 已来の二百余年の 諸の人師の諸宗を破りしかは 始は諸人いかりをなせしかども 後には 一同に御弟子となりに
11 き、 此等の人人の難に我等が元祖は四依の論師・上古の賢哲なり 汝は像末の凡夫愚人なりとこそ難じ侍りしか、
12 正像末には依るべからず 実経の文に依るべきぞ人には依るべからず 専ら道理に依るべきか、外道・仏を難じて云
13 く「汝は成劫の末・住劫の始の愚人なり 我等が本師は先代の智者・二天・三仙是なり」なんど申せしかども終に九
14 十五種の外道とこそ捨てられしか。
――――――
 この不審は今に始まったことではない。陳・隋の代に智顗法師という小僧が一人いた。後には二代の天子の御師となり、天台智者大師といわれたのである。この人が初め身分の低かったころ、ただ中国の五百余年間の三蔵や人師を破折しただけではなく、インド一千年間の論師をも破折したので、南北の智人等は雲の如く起こり、東西の賢哲等は星の如く列なって、雨のように非難をあびせ、風のように智顗の義を破ろうとしたけれども、終に智顗は論師・人師の偏頗な邪義を破して天台一宗の正義を立てたのである。
 また日本の桓武天皇の御宇に最澄という小僧がいた。後には伝教大師といわれた人である。彼は欽明天皇以来の二百余年間の諸の人師の立てた諸宗の邪義を破折したので、初めは諸人が怒りをなしたが、後には諸人一同に最澄の弟子となった。
 この天台・伝教を非難した人々は「我等の元祖は四依の論師・上古の賢哲である。しかるに、汝は像法の末の凡夫であり愚人ではないか」といった。しかし主張の邪正は正法・像法・末法という時代には依るべきではない。実経の文に依るべきである。人には依るべきではない。もっぱら道理に依るべきであろう。外道は仏を非難して「汝は成劫の末・住劫の始めの愚人である。我らの本師は先代の智者・二天・三仙である」などといったけれども、終に九十五種の外道といわれて捨てられたのであった。

陳隋
 中国の王朝である陳王と隋王のこと。陳朝は0557~0589、隋朝は陳朝を滅ぼして南北に分裂していた中国を統合した。(0589~0619)。
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智顗法師
 (0538~0597)。天台大師のこと。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。智顗は諱字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
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天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
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三蔵
 ①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
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南北の智人
 南北の十師をいう。中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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東西の賢哲
 東西の賢人・哲人のこと。
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桓武
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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最澄
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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欽明
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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四依の論師
 仏滅後、正法を護持し、衆生の拠り所となる論師のこと。人の四依ともいう。涅槃経巻六には、①具煩悩性の人(三賢の位にある声聞)。②須陀洹・斯陀含の人(声聞四果のうち初果、二果を得た人)。③阿那含の人(声聞四果のうち三果を得た人)。④阿羅漢の人(声聞四果の最高位で見思惑を断じ尽くした人)とある。
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正像末
 仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
実経
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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成劫
 仏教では世界が成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫を循環すると説く。ただし俱舎論等の説である。
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住劫
 四劫のひとつ。そこにもろもろの有情が誕生し、存続する期間をいう。
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二天
 もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、マヘシバラ(Maheśvara)と音写し大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写し遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
―――
三仙
 インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派の開祖。漚楼僧佉は、同じくインド六派哲学の一つ、勝論学派の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道の開祖であるといわれている。
―――
九十五種の外道
 釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。
―――――――――
 末代の智慧賢き人として出現された日蓮大聖人が、経文を根本に法華経第一の正義を立てたのに対して、諸宗は種々の迷見、邪義をかまえて言い逃れをしたり、また弁解しようとする。
 彼らが自己正当化の根拠としたのは、我が師は上古の賢哲・汝は末代の愚人ということであり、時代の上下をもって、自宗の師を権威づけることであった。
 そこで、日蓮大聖人は、この章で、このような誤りは今に始まったことではないといわれ、天台大師、伝教大師が同じような非難を浴びながら、経文を根本として諸宗の邪義を論破した実例を挙げられる。
 そして、天台大師、伝教大師のごとく、法華経の文を明鏡として、諸宗の邪義を破折されている日蓮大聖人こそ、末代の智者であり、末法の法華経の行者であることを立証されるのである。
 まず最初に、中国の陳・隋の時代に現れ、国主の御師とあおがれた天台大師の事例が述べられている。
 この人がまだ身分の低かった小僧のころ、漢土に仏法が伝来してから五百余年の間に現れたあらゆる三蔵や人師等の所説を研究し多くの誤りがあることを発見した。
 そこで天台大師は、彼等を破折したばかりではなく、さらに、インド一千年間の論師等の所説にも破折を加えられたので、南北の諸師が雲のごとく起こって天台大師の論説を非難、攻撃した。しかし、ついに天台大師は彼等の偏見や邪義を破って、その誤りを明らかにし、正義を興隆したと述べられる。
 つぎに、伝教大師の例が挙げられている。日本の桓武天皇の時代に伝教大師最澄はまだ有名でなかったころ、欽明天皇の当時に渡来して以来の二百余年間に流布していた諸の人師の諸宗を破折された。それに対して諸宗の人々は、はじめは怒り、伝教大師を憎んだが、後には皆、伝教大師に帰依したのである。報恩抄には、伝教大師の諸宗との公場対決の様子を、次のように記されている。
 「而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あつて七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ」(0303-06)。
 このような天台大師・伝教大師の諸宗破折のときも、諸宗の僧たちは「我等が元祖は四依の論師であり、上古の賢人であり哲人である。しかるに、汝は像法の中末の愚人ではないか」と難じた。
 だが、教法の正邪は、あくまで、真実の経にどのように説かれているかを根本にすべきであり、また、弘める人に依るのではなく、あくまでも道理に依るべきである。
 天台大師・伝教大師も、上代の人師・論師の言説に左右されることなく、法華経の道理をもって訶責されたので、無数の疑難も破れ、正義があらわれたではないか、との仰せである。
 諸宗のあおぐ人師・論師等が賢哲ではなく、暗師であり、愚人であることについては、曾谷入道殿許御書でも次のように述べられている。
 「漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」(1034-16)。
 本章で、日蓮大聖人は、釈尊も時代の上下をもって外道から非難された例を挙げ、しかし、正しい教えが勝利を得ることを強調されている。すなわち、外道が、いかに「自分の本師は先代の賢者であり、二天・三仙といわれる聖者であるのに対して、釈尊は成劫の末、住劫の始めに出現した愚人である」などと釈尊をののしっても、釈尊の説かれた仏法が勝利を収め、外道はことごとく破れ去り、捨て去られたのである。
 このように、教法の正邪は、上古の人の説だから正しく、後代の人の説は劣り誤るのではなく、あくまで法の内容によって決定されるというのが日蓮大聖人の御確信である。
正像末には依るべからず実経の文に依るべきぞ人には依るべからず専ら道理に依るべきか
 教法の正邪を判釈するには、何によるべきかの基準を述べられた御文である。
 時代が釈尊在世に近いから、その時の人師・論師の説が正しいとは限らない。また、逆に釈尊在世から遠く離れた像末や末法の時代の人だからといって誤りであるときめつけることはできないのである。
 日蓮大聖人は、星名五郎太郎殿御返事で、次のように述べられている。
 「其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず」(1206-11)。
 すなわち、世人はその常として遠きことを貴び近きことを賎む傾向があるが、それは愚者の考え方である。もし、昔の人師・論師の説いたことでも、道理に反するものであれば、これを破折しなければならない。逆に、末代の人の説いたことでも、正理であれば、これを用いるべきであるとの仰せである。
 では、道理に反するか否かは、どのようにして判断するのかといえば、それは、釈尊の悟りをあらわされた経典、すなわち、真実の経、法華経の文に依るべきなのである。
 聖愚問答抄には、涅槃経の文、天台大師、伝教大師の文を引かれて、次のように述べられている。
 「されば我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門を説き給ふとも経文を手に把らずば用ゐざれとなり、天台大師の云く『修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず』文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』文、前の釈と同意なり、竜樹菩薩の云く『修多羅白論に依つて修多羅黒論に依らざれ』と文、意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり」(0481-17)。
 ここに述べられたように、人師・論師ではなく経文に依るべきであり、その経文も方便権経でなく実経の文でなければならない。
 涅槃経に説かれる法の四依は「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」の四句で表現されている。
 このうち、法に依りて人に依らざれ、とは、人の説に依らず、法、すなわち仏法に依るべきだということである。
 第二の、義に依りて語に依らざれ、とは、ことばの表面にとらわれず、仏の説かんとされた義に依るべきであるということである。
 第三に、智に依りて識に依らざれ、とは、菩薩以下の識ではなく、仏の智慧に依るべきことを示している。
 第四は、仏の智慧は了義経に顕れるが故に、不了義経ではなく、了義経に依らなければならないというのである。了義経とは、仏が自らの真意を余すところなく説き示した経ということである。
 故に、日蓮大聖人は、報恩抄に涅槃経の法の四依を明かした後、「されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか」(0294-14)といわれるのである。
 本文において、日蓮大聖人は、正像末という時代にとらわれ、上代の人師・論師の説をそのまま信じるのは愚人のすることである。賢者ならば、人の説を捨て去って仏法の道理に依るべきである。しかし、真実の道理は、仏の悟りにのみあらわれ、それを説く経典が法華経である故に、法華経の文に依って、教法の正邪を知ることができるのである。それこそ、邪師の邪義にまどわされない賢者の道である、と仰せられているのである。

0882:15~0883:04 第五章 真言の邪義を破すtop
15   日蓮八宗を勘へたるに法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依つて或は実経に同じ或は実経を下せり、是れ論師人
16 師より誤りぬと見えぬ、 倶舎・成実は子細ある上・律宗なんどは 小乗最下の宗なり、人師より論師・権大乗より
17 実大乗経なれば真言宗・大日経等は未だ華厳経等に及ばず 何に況や涅槃・法華経等に及ぶべしや、 而るに善無畏
18 三蔵は華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時・理同事勝の謬釈を作りしより已来 或はおごりをなして法華経は華
0883
01 厳経にも劣りなん何に況や真言経に及ぶべしや、 或は云く印・真言のなき事は法華経に諍ふべからず、 或は云く
02 天台宗の祖師多く 真言宗を勝ると云い世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり、 日蓮此の事を計るに人多
03 く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり、 粗余処に注せり見るべし又志あらん人人は 存生の時習い伝ふべし人の
04 多く・おもふには・おそるべからず、 又時節の久近にも依るべからず専ら経文と道理とに依るべし、
15   日蓮八宗を勘へたるに法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依つて或は実経に同じ或は実経を下せり、是れ論師人
16 師より誤りぬと見えぬ、 倶舎・成実は子細ある上・律宗なんどは 小乗最下の宗なり、人師より論師・権大乗より
17 実大乗経なれば真言宗・大日経等は未だ華厳経等に及ばず 何に況や涅槃・法華経等に及ぶべしや、 而るに善無畏
18 三蔵は華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時・理同事勝の謬釈を作りしより已来 或はおごりをなして法華経は華
0883
01 厳経にも劣りなん何に況や真言経に及ぶべしや、 或は云く印・真言のなき事は法華経に諍ふべからず、 或は云く
02 天台宗の祖師多く 真言宗を勝ると云い世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり、 日蓮此の事を計るに人多
03 く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり、 粗余処に注せり見るべし又志あらん人人は 存生の時習い伝ふべし人の
04 多く・おもふには・おそるべからず、 又時節の久近にも依るべからず専ら経文と道理とに依るべし、
――――――
 日蓮が八宗を考察してみるに、法相宗・華厳宗・三論宗等は権経を依経として、あるいは権経は実経と同じであるとしたり、あるいは実経を権経より低い教えであると下している。これは論師・人師から誤ったものと思われる。倶舎宗・成実宗は子細があるうえ、律宗などは小乗教の中でも最も低い宗である。人師より論師が勝れ、権大乗経より実大乗経が勝れるのであるから、真言宗とその依経である大日経等は、いまだ華厳経等にも及ばない。まして涅槃経・法華経等に及ぶはずがないのである。ところが善無畏三蔵が華厳経・法華経・大日経等の勝劣を判定した時、理同事勝の誤った解釈を作って以来、あるいは思い上がって「法華経は華厳経にも劣るであろう。まして真言経に及ぶことがあろうか」、あるいは「法華経に印・真言のないことは争う余地もないことである」といい、あるいは「天台宗の祖師の多くも真言宗が勝れているといい、世間の人々も真言宗が勝れているのであろうと思っている」という。日蓮はこの事を考えるにあたり、多くの人々が迷うことなので事細かに考えたのである。大略は他の書に記しておいたので見ておきなさい。また志がある人々は、存生の間によく習い伝えるべきである。
 多くの人が思っているからといって、おそれてはいけない。また、その教義が立てられて年を経ているとか、新しいとかに依るべきでもない。ただ経文と道理とに依るべきである。

八宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
―――
法相宗
 南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、諸法はすべて衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の邪説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉4年(0653)道昭が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。
―――
華厳宗
 南都六宗の一つ。華厳経を所依とする宗派のこと。中国・唐代の杜順によって開かれ、法蔵によって大成された。日本には天平8年(0736)、唐の道璿により華厳経典が伝来し、天平12年(0740)新羅の審祥が講経し、その教えを受けた良弁が東大寺で宗旨を弘めた。教義は、一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという全宇宙を統一する理論である法界縁起を立て、これによってすみやかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。
―――
三論宗
 南都六宗の一つ。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。日本には推古天皇33年(0625)1月1日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。
―――
権経
 権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
倶舎
 倶舎宗のこと。南都六宗の一つ。4~5世紀頃のインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、訳して付法蔵という。教義は、小乗有門(我空、法有)の思想を根拠とする。中国では、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に大いに研究されたが、一宗派を形成するにはいたらなかった。
―――
成実
 成実宗のこと。南都六宗の一つ。4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。5世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。教義は、自我も諸法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七(二十七賢聖)に分け、煩悩から脱することを説いている。日本へは三論宗とともに渡来して南都六宗の一つとされたが、一宗を成すに至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
―――
律宗
 南都六宗の一つ。戒律を受持する実践によって涅槃の境地を得ようとする。中国では代表的なものとして、唐代初期に道宣が四分律を依拠として南山律宗を開いた。日本へは、道宣の孫弟子である鑑真が天平勝宝5年(0753)薩摩(鹿児島県)坊津に到着、翌年入京して伝えた。鑑真は天平宝字3年(0759)唐招提寺を開いた。
―――
小乗最下の宗
 小乗教のなかでも最も劣った宗。
―――
権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
―――
真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
善無畏三蔵
 (06378~0735)。中国・唐代の僧。中国に密教を伝えた最初の人といわれる。宋高僧伝巻二によれば、もと中インドの人で、王子として生まれた。王位についたがすぐ兄に位を譲って出家し、マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従い密教を学ぶ。開元4年(0716)に中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」七巻などを翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。とくに、大日経疏において、天台大師の一念三千の義を盗み入れ、大日経は法華経に対し理同事勝であるとの邪義を立てた。金剛智、不空と合わせて三三蔵と呼ばれた。
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理同事勝
 真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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真言経
 大日経・蘇悉地経・金剛頂経、真言三部経をいう。
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印・真言
 印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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 本章から日本において歴史と伝統を誇ってきた八宗の検討に入られるのである。本章では、最初に、八宗中でも奈良仏教の六宗について述べられている。
 法相宗・華厳宗・三論宗の三宗は、ともに大乗仏教として伝来したものである。これらの諸宗は、解深密経・華厳経・般若経等の権大乗経を依経とし、それぞれの依経は或は法華経に同じであるといったり、或は法華経に勝れるなどといっている。
 このような邪義の根源は、論師・人師等が誤って立てたところにあり、経文を正しく検討すれば、その誤りは明白である。この三宗の教義については、顕謗法抄に明快に述べられている。
 「華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす、南三・北七・並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師・此の義なり、法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり、三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり」(0454-01)。
 華厳宗の法蔵は、五教教判を立て、華厳経と法華経とはともに円経であるが、そのなかでも三乗に同じて説いた同教一乗である法華経は劣り、三乗とは別にただ一乗を説く別教一乗、すなわち華厳経が勝れるとする。
 法相宗では、有教・空教・中道教の三時教判を立てる。中道教は最も勝れた了義経で、その中に解深密経と法華経が含まれるが、法華経は五性各別を明かさざる故に不了義経であり、解深密経はこれを明かす故に真実の了義経であるという邪義を立てる。中国の法相宗の開祖、慈恩等は、この説をとっている。
 三論宗では、声聞蔵、菩薩蔵の二蔵説、または心境俱有(小乗経)、境空心有(法相大乗経)、心境俱空(無相大乗経)の三時教判を立てる。三時教判は、智光の立てたものである。この三時のうち、第三時教を中道教と名づけ、法華経と般若経はともにこの中に含まれるとする。しかし、そのなかでも般若経は、八不中道畢竟空を説くから第一であるとする。三論宗は、中国の吉蔵によって作られた宗派である。
 ともあれ、華厳の法蔵、法相の慈恩、三論の吉蔵等の人師・論師は、いずれも自宗の依りどころとする権大乗経を実大乗経の法華経よりも勝れるとの邪義を立てたのである。
 つぎに、俱舎・成美・律の各宗は小乗宗である。このうち、俱舎・成美の二宗についてはここで「子細ある上」といわれるのみである。
 これは、俱舎・成美の二宗が、日本では学問の宗として取り入れられたが、独立した宗派を形成せず、俱舎は法相宗の、また成美は三論宗の付宗とされてきたことからこういわれたのであろう。
 律宗は、日本において、独立した宗派を形成したが、これは小乗最下の宗である故に、とりたてて論ずるほどのこともないとの仰せである。
 さて、大日経ははるかに法華経に劣るにもかかわらず、これを曲げて、法華経より大日経が勝れるとの邪義を立てたのが真言宗であった。真言宗の邪義は、善無畏三蔵が理同事勝の謬釈を作ったことから始まる。
 善無畏三蔵については、本抄の後半で、その理同事勝の邪義を破するとともに、彼が頓死して地獄に堕ちたことにふれられている。この章では、善無畏三蔵が理同事勝を立てて以来の真言宗の経過を述べるにとどめられている。
 善無畏三蔵が、大日経は法華経に対して理同事勝であるという邪義をつくりあげた経緯については、開目抄や撰時抄等の諸抄に述べられている。
 開目抄には「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり」(0215-18)とある。
 大日経には、二乗作仏も久遠実成も説かれていず、したがって一念三千の理がないにもかかわらず、善無畏三蔵は、大日経の「心実相」「我一切本初」の文が、一念三千・久遠実成に相当するとして、天台の法義を盗み入れて真言宗の肝心とした。のみならず、そのうえに印と真言は法華経にはなく大日経にあると主張して、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理は両方とも一念三千であるが、印と真言という事相において真言が勝れていると主張したのである。これが、善無畏三蔵の立てた理同事勝の邪義である。
 日本の真言宗は、この邪義をさらに進めて、法華経は華厳経にも劣る、まして真言経にははるかに及ばない等の大謗法の悪義を立てたのである。
 また、印と真言が法華経にないことは確かであるから、この点では真言経と諍えないであろう、という者もいる。あるいは、天台宗の開祖も、真言宗が勝れているといっており、世間の人々もそのように思っているようである、という者もいる。
 いまここで挙げられた、法華経は大日経よりも三重の劣であるとの邪見を立てたのは日本の弘法であった。彼は、大日経の住心品によって十住心を立てて顕密両教の勝劣を判じたのであるが、しかし、住心品には全く法華経が華厳経に劣るなどということは説かれていないのである。この点について、日蓮大聖人は、法華真言勝劣事の中で詳しく破折されている。
 ここで「天台の祖師」というのは、慈覚、智証等のことである。彼らは、善無畏三蔵の理同事勝の邪義をそのままとり入れたのである。座主自ら、なぜこのような重大な誤謬に陥るにいたったか、不可解という以外にないが、それだけ天台仏法は難解であったといえるし、またより根本的には正法を伝えることが至難であるということでもあろう。
 これらの真言の邪義破折については「粗余処(ほぼよそ)に注せり見るべし」といわれているのであるが、その著作とは、前引の法華真言勝劣事をはじめとして、真言七重勝劣事、真言天台勝劣事等の諸抄を意味されていると思われる。

0883:04~0883:12 第六章 念仏の邪義を破すtop
04                                                浄土宗は曇
05 鸞・道綽・善導より誤り多くして多くの人人を邪見に入れけるを 日本の法然・是をうけ取つて人ごとに念仏を信ぜ
06 しむるのみならず天下の諸宗を皆失はんとするを叡山・三千の大衆・南都・興福寺・東大寺の八宗より是をせく故に
07 代代の国王・勅宣を下し将軍家より御教書をなして・せけどもとどまらず、弥弥繁昌して返つて主上・上皇・万民・
08 等にいたるまで皆信状せり。
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 浄土宗は曇鸞・道綽・善導から誤りが多くて、多くの人々を邪見に入れてしまったのを、日本の法然はこの浄土宗を受け取って、人ごとに念仏を信じさせただけでなく、国中の諸宗を皆滅ぼそうとした。そこで、比叡山の三千の大衆や奈良の興福寺、東大寺などの八宗がこれを防いだので、代々の天皇は勅宣を下し、将軍家からは御教書を下して防いだけれども止められず、ますます繁昌して、かえって天皇、上皇、万民等にいたるまでみな信状するようになった。
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09   而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず、なににつけてか南都・北
10 嶺のとどめがたき 天子の虎牙の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども 経文を亀鏡と定め天台・伝教の指
11 南を手ににぎりて建長五年より今年・文永七年に至るまで 十七年が間・是を責めたるに日本国の念仏・大体留り了
12 ぬ眼前に是れ見えたり、 又口にすてぬ人人はあれども心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ、
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 ところが日蓮は安房の国・東条の片海の磯に住む賎民の子である。威徳もなく有徳の者でもない。奈良や叡山が防ぎ止めることができず、さらに天皇の威力によっても制止できない念仏を、どうして防ぐことができるだろうかとは思うけれども、経文を亀鏡と定め、天台・伝教の指南を手にして建長五年から今年・文永七年に至るまで十七年の間、念仏を責めたので、日本国の念仏はだいたい防ぎ止め終わった。このことは眼前に見えるところである。また口には念仏を捨てていない人はあっても心の中では念仏は生死を離れる道ではなかったのだと思っている。

浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じその名号を称えることによって、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山の慧遠流・道綽善導流・慈愍流の三派に分かれるが、南北朝時代の曇鸞、唐代の道綽、善導によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)と浄土論の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。法然の専修念仏が世に弘まるにつれ、延暦寺・興福寺などの訴えによって、建永2年(1207)2月、念仏禁止の宣旨が出された。
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曇鸞
 (0476~0542)。中国浄土教の祖師の一人。北魏代の人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽でインドから来た訳経僧の菩提流支に会い、観無量寿経を授かり浄土教に帰した。竜樹の十住毘婆沙論にある難行道・易行道を解釈し、念仏を易行道とし、その他の自力の修行を難行道として排した。汾州(山西省)の玄中寺に住み、平遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」2巻、「略論安楽浄土義」1巻、「讃阿弥陀仏偈」1巻等がある。
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道綽
 (0562~0645)。中国の隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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善導
 (0613~0681)。中国浄土教善導流の大成者。唐代の人。幼くして出家し、貞観年中に道綽のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
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法然
 (1133~1212)。平安時代末期の人。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学び、再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)に流された。同年12月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であり浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛すべきと説いた「選択集」2巻をはじめ、「浄土三部経釈」3巻、「往生要集釈」1巻等がある。
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叡山・三千の大衆
 比叡山延暦寺の僧の数。数字は「平家物語」等による。一説には僧兵を合わせて一万人ともいわれている。
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南都
 奈良のこと。京都(平安京)に対して南に位置するので、都であった奈良をこのように呼ぶ。
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興福寺
 法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。
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東大寺
 聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
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勅宣
 天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
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御教書
 摂関政治のころから始まった公文書の一つで、三位以上の公卿において家司が上位を奉じて出すという形式をとる。のち、鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権・管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執建状ともいう。行政が出す公文書がこれにあたる。
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主上
 天皇を敬っていう語。 至尊。
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上皇
 譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号。または、その尊号を受けた天皇である。上皇と略することが多い。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。また、出家した上皇を、太上法皇(法皇)と称する。ただし「法皇」は通称であり、法的な根拠のある身位ではない。太上法皇も太上天皇に含まれる。
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安房の国
 千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。
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東条
 安房の国長狭軍東条郷(千葉県鴨川市広場)のこと。
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北嶺
 比叡山延暦寺のこと。
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天子の虎牙
 天子は天に代わって国を統治する者。天命を受けて国民を治める者のこと。虎牙は牙のことであるが、転じて勇士・将軍・権力を意味する。天皇の権力。
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亀鏡
 亀と鏡で模範・手本の意。亀の甲は吉凶を占うために用いられ、鏡はものの姿を映すものであるところからこの意となる。
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指南
 教え示すこと。導くこと。師範の意味。中国唐代の「指南書」の故事によるものとされている。
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生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
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 本章では、仏教破壊の浄土宗に対して、これまでとどめようがなかったのを大聖人が破折し、人々を目覚めさせたことを述べられている。
 浄土宗は、中国の曇鸞・道綽・善導の誤りを受けついだ法然によって弘まった。それは仏教破壊の邪義であったので、八宗の人々がこれを制止しようと運動し、歴代の天皇の念仏停止の宣旨や将軍家の御教書が出されたが、効きめがなく、ますます弘まって、ついには、主上、上皇まで念仏を信じるようになってしまった。
 それに対し、日蓮大聖人が経文を鏡とし、天台大師・伝教大師の指南を手に、破折し責めたことによって日本国の念仏の勢いをその本源から止めることができたと述べられている。所詮、信仰は権力によって止めたり消滅させることはできないのであって、その邪義を打ち破り、人々を正法に目覚めさせる以外にないのである。
 さて、浄土宗は、善導等の誤謬を法然が取り入れて邪義をつくり、日本国に弘めたものである。
 日蓮大聖人は、当世念仏者無間地獄事で、法然の選択集の内容を次のように述べておられる。
 「後鳥羽院の治天下・建仁年中に日本国に一の彗星出でたり名けて源空法然と曰う選択一巻を記して六十余紙に及べり、科段を十六に分つ第一段の意は道綽禅師の安楽集に依つて聖道浄土の名目を立つ(中略)又曇鸞法師の往生論註に依つて難易の二行を立つ第二段の意は善導和尚の五部九巻の書に依つて正雑二行を立つ(中略)下の十四段には或は聖道・難行・雑行をば小善根・随他意・有上功徳等と名け念仏等を以ては大善根・随自意・無上功徳等と名けて、念仏に対して末代の凡夫此れを捨てよ此の門を閉じよ之を閣けよ之を抛てよ等の四字を以て之を制止す」(0104-04)。
 聖道門・浄土門の名目を立てたのは道綽である。また、竜樹の立てた難行道・易行道を、聖道門・浄土門とに配したのは曇鸞であり、正雑二行を立て、雑行の者は千中無一であり、正行の者は、十即十生と唱えたのは善導である。
 法然は、選択集の中に、これらの邪義をすべて取り入れて、念仏以外の聖道門を捨閉閣抛すべきことを主張したのである。
 法然が選択集を完成し、発表したのが、建久9年(1198)3月である。この選択集をもとに、法然の専修念仏門は当時の末法思想と世の混乱からくる無常観、厭世間に乗じて、みるみる広がっていった。
 そこで、元久元年(1204)には延暦寺衆徒が蜂起して、専修念仏の禁止を天台座主に要求している。
 元久2年(1205)には、興福寺衆徒が、念仏禁止を後鳥羽院に訴えている。
 元久3年(1206)2月にも、興福寺衆徒が、法然の念仏を訴える。法然の弟子、行空・遵西(じゅんさい)ら即日配流となる。
 建永2年(1207)2月、専修念仏を風俗壊乱の理由で禁じ、遵西・住蓮の二人は死刑にされ、法然は流罪になった。その後、法然は赦免になるが、建暦2年(1212)1月、死亡する。一時、念仏の勢いはとどまったかに見えたが、ふたたび勢力を強めはじめた。
 建保5年(1217)三3月、叡山の衆徒が蜂起し、念仏禁止を訴え、貞応3年(1224)8月、専修念仏者禁止の令が出されている。
 嘉禄三3年(1227)には、最大規模の弾圧が行われ、法然の墓は破壊され、念仏僧隆寛・空阿弥陀仏らは流罪に処せられている。
 その後も、念仏禁止の宣旨が出されているが、念仏の弘まる勢いを止めることはできなかった。
 それに対し、日蓮大聖人は、東条片海の石中の賤民の子として生まれられ、その生活からも、家柄からもなんらの威徳もなく有徳でもない立場であったが、経文を鏡とし、天台大師・伝教大師の指南をもって十七年間にわたって訶責したところ、日本国の念仏宗の勢いを止めることができた、と仰せである。口では念仏を称えていても、心の中では疑念を生じ、念仏は生死の苦悩を離れる道ではないと思うに至っている者も多い、と仰せである。
 日蓮大聖人が念仏の勢いを止めえたのは、経文を根本とし、また、天台大師の立てた教判を用いて、その邪義を破折したからである。
 破良観等御書には、日蓮大聖人の邪宗破折が次のように記されている。
 「かく申す程に年卅二・建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真言宗等をせむるほどに・念仏者等始にはあなづる、日蓮いかに・かしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等には・すぐべからず、彼の人人だにもはじめは法然上人をなんぜしが後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、日蓮は・かれがごとし我つめん我つめんとはやりし程に、いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽等をせめず、又経の権実を・いわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部経を法華経に・をしあはせて・せむるゆへに、螢火に日月・江河に大海のやうなる上・念仏は仏のしばらくの戯論の法・実にこれをもつて生死を・はなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり・大山をになて嶮難を越ゆるがごとしと難ぜしかば・面をむかうる念仏者なし」(1293-09)。
 ここに述べられているように、いかに高僧といわれる人々が念仏を責めても、念仏宗の勢いを弱めさせることができなかったのは、彼等が、ただ法然だけを責めて、その本源である善導等の邪見を破らなかったからであり、また、浄土三部経と法華経との権実を判じなかった故である。
 日蓮大聖人は、善導等の人師と法然を一括して破折し、さらに彼等の依経である浄土三部経を権経であり無得道の経典であると訶責(かしゃく)され、法華経のみが真実の経典であり、成仏得道の教えであると正義を立てられたのである。すなわち、天台大師・伝教大師等の使用した教判である権実相対によって、念仏の依経そのものを打ち破ったのである。
 念仏の邪義は、当時の高僧といわれた人によっても、また権力によっても制止しえず、むしろますます勢いを盛んにして弘まっていった。あくまで経文を根本として、人師・論師の誤りを打ち破らなければ、その根源を断つことはできなかったのである。これは、念仏に限らず、あらゆる邪悪な宗教についても共通する原理を教えられたものと拝すべきであろう。
而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず
 日蓮大聖人は、公家でも武士でもない。安房の国、東条片海という辺地の平凡な庶民の家に生まれられ、世間的な意味では何の威徳もなく、有徳の立場でもなかったが、南都、北嶺の高僧も止めえず、天皇の威力も効果を発揮しなかった念仏の邪義が弘まるのを、経文を根本に破折することによって見事に止められたのである。
 ここに、一往、天台大師・伝教大師の後をついで、釈尊の本意である法華経の正義を興隆される日蓮大聖人の立場が明確に示されている。
 念仏無間地獄抄には「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤・大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む」(0101-02)と述べられている。
 こうした希代の学僧や智人といわれた人々が、念仏の邪義を破し、これが弘まるのを止めようとしたが、効果がなかった。
 これに対し、日蓮大聖人は、威徳もなく有徳でもない立場でありながら、善導の再誕と仰がれ天下無双の智者、山門第一の学匠といわれた法然の選択集をことごとく打ち破られ、のみならず、この邪義が弘まるのを止められた。すなわち、現実に念仏を信仰していた多くの人々を正法に帰させたのである。
 再往、日蓮大聖人が賤民の子であり、威徳もなく有徳でもない凡夫僧のお姿で正法を弘められたということは、日蓮大聖人の仏法が、下根下機の末法の民衆を救う大法であることをあらわすと拝せられる。
 日寛上人が、開目抄愚記で、日蓮大聖人が下賤の家に生まれられた理由の一つとして「また悲門は下を妙と為す、即ちこれ慈悲の極なり」と述べられているように、日蓮大聖人の仏法が下賤の一切衆生を救うところを妙とするが故に、あえて、凡夫のお姿で下賤の人々の中に御聖誕されたのであり、また、御自身それを誇りとされたのである。

0883:13~0884:04 第七章 題目の勝妙なるを教えるtop
13 禅宗以て是くの如し 一を以て万を知れ真言等の諸宗の誤りをだに留めん事手ににぎりておぼゆるなり、 況や当世
14 の高僧・真言師等は其の智牛馬にもおとり螢火の光にもしかず 只死せるものの手に弓箭をゆひつけ・ねごとするも
15 のに物をとふが如し、 手に印を結び口に真言は誦すれども其の心中には義理を弁うる事なし、 結句・慢心は山の
16 如く高く欲心は海よりも深し、 是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り祖師の誤りをたださざるによるなり、 所
17 詮・智者は八万法蔵をも習ふべし 十二部経をも学すべし、 末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて
18 一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし、 日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大
0884
01 光を備へ給へる故なり、 螢火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、 瓦石は財
02 をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。
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 禅宗もこれと同じである。一事をもって万事を知りなさい。真言宗等の諸宗の誤りを制止することさえ思うがままである。まして当世の高僧や真言師等は、その智慧は牛馬にも劣り、螢火の光にも及ばない。まさに死者の手に弓箭を結びつけ、寝言をいう者にものをたずねるようなもので、じつにはかないことである。手に印を結び、口に真言をとなえてはいるけれども、その心中には法門の義理をわきまえていない。そればかりか、慢心は山のように高く、欲望の心は海よりも深い。これは、皆、自らが経論の勝劣に迷うことから起こり、祖師の誤りをたださないことから起きるのである。
 結局、智者は八万法蔵をも習うべきであり、十二部経をも学ぶべきである。しかし末代濁悪世の愚人は念仏等の難行道・易行道等の義を抛って、ただひたすらに法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱えるべきである。太陽が東方の空にのぼったならば、南閻浮提の空は皆明るくなる。太陽が大光を備えているからである。螢火は一国土でさえ照らすことができない。また、宝珠を懐中に持っていれば、どんなものでも降らすことができるが、瓦や石は財宝を降らすことはできない。念仏等は、法華経の題目にくらべれば、瓦石と宝珠、螢火と日光とのようなものである。
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03   我等が昧き眼を以て 螢火の光を得て物の色を弁ふべしや、 旁凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権教
04 なり、
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我等のような昧い眼の者が螢火の光によって物の色をわきまえることができようか。いずれにしても、凡夫の成仏が叶いがたい教法は、念仏・真言等の小乗教・権教である。

禅宗
 菩提達磨所伝の禅定観法によって悟りに至ろうとする宗派。仏法の真髄は教理の追求ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を立てている。大聖人御在世当時は、大日房能忍と弟子の仏地房覚晏の弘めた臨済禅の流れで、楊岐派に属す大慧派の拙庵徳光から印可された看話禅が盛んであった。能忍の死後、鎌倉時代に栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、江戸時代には明僧隠元が黄檗宗を開いた。
―――
十二部経
 十二部とも十二分経ともいう。一切経を形式・内容から十二種に分類したもの。①修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経(かいきょう)という。長行のことで、長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。②祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。③伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。④尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。⑤伊帝目多。伊帝目多伽とも。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事とも如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。⑥闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。⑦阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。⑧婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。仏弟子や敬虔な信者の過去および現在の物語に取材する譬喩物語。⑨優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。⑩優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。⑪毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。⑫和伽羅。和伽羅那とも。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
―――
難行
 難行道のこと。易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
―――
易行
 易行道のこと。難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。
―――
南浮
 南閻浮提のこと。須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
―――
宝珠
 如意宝珠のこと。意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
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 本章では諸宗破折を締めくくられて、末法の凡夫の行ずべき唯一の正法は法華経の題目・南無妙法蓮華経を唱えること以外にないと示されている。
 本章の前半では、前章での真言宗と浄土宗破折を受けて禅宗も同様であると一言で片づけられている。禅宗については、本抄ではこれ以上はふれられてはいない。
 これらの各宗の邪義は、いままで述べてこられたと同じ誤謬から生じている。すなわち、一つは、経論の勝劣に迷っていることであり、第二には、祖師の誤りを後世の人が正さないことである。
 故に、ここで、禅宗について事新しくいうまでもないのであって、「一を以て万を知れ」といわれているのである。
 一往、真言宗といえば、当時の諸宗の中でも最も権威を誇った宗であるから、真言宗を破れば、それよりはるかに劣る禅宗等はいうまでもないことになる。しかも、そのように権威を誇っている真言師等も、その智慧は蛍火にも及ばぬほどで、手に印を結び、口に真言を誦してはいるが、心では、その義理を少しもわかってはいない。ただ、慢心、欲心のみが盛んである等と破折されている。
 日蓮大聖人が、このように本抄で真言と念仏をとくに詳しく破折された理由の一つは、清澄寺の人々、とくに道善房に対して著された書だからであろう。当時、清澄寺は台密であり、その後さらに東密に移ったともいわれている。また、流行の念仏信仰も盛んで、道善房はことに念仏に心を惹かれていた。
 つぎに、本章の後半では末法の正しい仏道修行を示されている。
 智者ならば、八万法蔵、十二部経を習い学ぶのもよかろうが、末法の濁悪の世の愚人は念仏等のような権宗の修行をなげうって、一向に仏法の極理である法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱えるべきであり、末法は、唱題だけが唯一の正しい仏道修行であるとの仰せである。
 ここに「念仏等の難行・易行」といわれているのは、一往、念仏の主張する難易二行の教判を用いて、爾前権教全体をさしていわれたと考えられる。元来、浄土宗は八万法蔵・十二部経を学ぶことを目指した天台宗・真言宗等の八宗に対して、末法の愚人は耐えられないといって専修念仏行を立てたのであった。したがって、いまこの御文は、そうした念仏宗をとくに意識して、このように述べられたのであろう。
 つまり、権経の題目、権仏の名号に対して法華経の題目を挙げられ、念仏等を捨てることを示されているのである。
 しかし、法門的には、本抄で力点を置かれているのは権実相対の次元であって、本迹相対から種脱相対という、妙法の深意を開示するには至っていないことはいうまでもない。
 その一つの理由は、権経、権仏の名号を唱えても、法華経の題目を唱えても、その功徳は同じであるという邪見を打ち破ろうとするためであり、さらには日本国における念仏の流布を、法華経の題目の流布の序分であるととらえられて、まず、権実相対の立場から、念仏を簡び、法華経の題目を顕示されたのである。
 撰時抄には、このことが明瞭に示されている。
 「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、心あらん人は此れをすひしぬべし、権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし」(0284-03)。
 しかし、一往は、権実相対の立場で述べられていても、後に述べるように再往、「法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし」といわれる御文の中に、本迹、種脱相対して、成仏根源の種子である南無妙法蓮華経を顕示されようとする日蓮大聖人の元意をうかがうことができるのである。
 最後の部分は、譬喩をもって、法華経の題目の功徳の大きさを示され、凡夫は念仏・真言等の小乗権経では成仏できず、法華経の題目を唱えることによってのみ成仏が可能であることを教示されている。
 法華経の題目と念仏等との勝劣を示すのに、ここで大聖人は二つの譬喩を用いられている。一つは、太陽と蛍火の相対であり、他は如意宝珠と瓦石との相対である。
 太陽の光が法華経の題目をたとえ、蛍火が念仏等をたとえていることはいうまでもない。太陽が東に出れば、一閻浮提の空全体が明るくなる。しかし、蛍の火は、一国土すら照らしえない弱いものである。
 末法の凡夫の眜い眼は、太陽の光明をえてこそ、物の色を判別できるが、蛍火では全く不可能であるといわれている。
 法華経題目抄にも、法華経を日月にたとえて、次のように記されている。
 「譬えば大地の上に人畜・草木等あれども日月の光なければ眼ある人も人畜・草木の色形をしらず、日月・出で給いてこそ始めてこれをば知る事なれ、爾前の諸経は長夜の闇の如く法華経の本迹二門は日月の如し、諸の菩薩の二目ある二乗の眇目なる凡夫の盲目なる闡提の生盲なる共に爾前の経経にてはいろかたちをばわきまへずありし程に、法華経の時・迹門の月輪始めて出で給いし時・菩薩の両眼先にさとり二乗の眇目次にさとり凡夫の盲目次に開き生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ是れ偏に妙の一字の徳なり」(0943-17)。
 この御文について、日寛上人の文段には、次のように解説されている。
 「一、人畜・草木等文。これ法体の本妙に譬うるなり。『日月の光なければ』とは、爾前の間は衆生の眼を閉じて、法体の本妙を見せしめざるに譬うるなり。次に『日月・出で給いて』等とは、法華の時は衆生の眼を開いて、法体の本妙を見せしむるに譬うるなり」。
 また日月の徳について「一には世人の眼を開くの徳。二には人畜等の色形を見せしむるの徳なり」とある。
 太陽の徳は、人々の眼を開き、物の色形を見せしむることである。故に、法華経の題目は、末代の眜き凡夫の眼を開いて、物の色を見えるようにする功徳をそなえているのである。蛍火にたとえられる権経の題目では、凡夫の眼を開くことも、物を見させることもできないのである。そして、本抄でいわれる物の色とは、法華経題目抄での「人畜・草木等」に相当する故に、このたとえは、法体の本妙を意味していることがわかる。法華経の題目という太陽の光によってはじめて、凡夫の眼が開き、法体すなわち宇宙根源の法の当体にそなわる妙力を知ることができるのである。
 つぎに、如意宝珠と瓦石の譬喩についてみよう。
 如意宝珠があらゆる財宝を生ずるように、法華経の題目はあらゆる福徳を生ずる。それに対して念仏等は瓦石のように、なんの功徳も生じない。
 法華経題目抄では、妙法五字に具わる功徳を、如意宝珠にたとえて示された後に、次のように述べられている。
 「妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並に仏界を納む、十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む」(0942-11)。
 妙法の法華経の題目には、十界の依正をことごとく納めているが故に、これを受持すれば、如意宝珠のごとく、万法を降らさぬということはない。すなわち、十界のあらゆる功徳が、妙法より顕れているのである。法華経の題目、すなわち南無妙法蓮華経という宇宙根源の法体には十界の依正がすべてそなわり、凡夫を仏にする妙力を具している。故に、末代の眜き眼の凡夫も、妙法を唱えれば、題目の光明に照らされて眼が開き、宇宙根源の法体である南無妙法蓮華経の本妙に目覚め、その妙力によって成道することができるのである。
 〝日光〟の譬えは仏智をあらわされており、〝宝珠〟の譬えは福徳をあらわされている。「所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」(0792-04)と仰せのように、法華経の題目・三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳は、福と智を兼ね具えておられるのである。
所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛(なげう)つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし
 この御文で仰せの〝智者〟とは、〝末代濁悪世の愚人〟との対比で明らかなように、正像時代の智者をいわれている。正法・像法の智者ならば、八万法蔵を広く学び、また十二部経を深く習学することによって、釈尊の本意を知り、法華経に説き示される宇宙根源の法を覚知して成仏することが可能であるということである。その例が竜樹・天親・天台・伝教等である。
 しかし、下根下機の末代の凡夫は、一代聖教の習学に堪えられないし、かりに習学しても、そこから南無妙法蓮華経という成仏根源の法にまで至ることは不可能である。
 在世や正像時代の利根の人々は、過去世において釈尊に結縁し、妙法という種子を植えられ、種々の善根を積んできた本已有善(ほんいうぜん)の衆生である。だからこそ、智者と生まれたのであり、しかも並みなみならぬ修学・修行によってその善根を啓発しつつ、法華経の文底に秘沈された妙法を覚知することができたのである。
 だが、末法濁悪世に生を受けた愚者は、本未有善の衆生であり、過去世に、いかなる善根をも積んでいない。だから、下根下機の衆生として生を受けたのであり、こうした末代の本未有善の衆生は、一切経を修学・修行すること自体至難であるし、かりに一切経を習得しようとも、そこから、その本源にある妙法を覚知する〝智〟をもっていないのである。釈尊の説いた文上の法華経も、それだけでは成仏根源の種子ではなく、まして、権経をどのように習学しても、権経・権仏の名号を唱えても、成仏など思いもよらないのである。
 本未有善の衆生は、南無妙法蓮華経という成仏根源の種子を直接、生命に植えつける日蓮大聖人の下種仏法によってはじめて成仏することができるのである。この法華経の題目とは、たんなる法華経という経典の名題ではなく、法華経の体であり、心なのである。
 曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり(中略)所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候」(1058-08)等と仰せのとおりである。
 本抄では、題目の弘通を説いてはおられるが、題目の当体である末法出現の御本尊の実義を顕されず、一往、法華経二十八品と所弘の妙法とを通同の上に示されている。しかし、曾谷入道殿御返事にも記されているように、日蓮大聖人の元意からすれば、法華経の題目は法華経の本体であり、心なのである。法華経それ自体の本体とは、日蓮大聖人のあらわされた三大秘法総在の御本尊にほかならないのである。
 故に「一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし」との御文も、日蓮大聖人の元意では、末代の本未有善の愚人は、ただ法華経の本門寿量文底下種の本尊を信じて、本門寿量文底下種の題目を、南無妙法蓮華経と唱えるべきである、と拝すべきである。

0884:04~0885:09 第八章 教主釈尊の三徳を顕すtop
04    又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、 此の娑婆・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切
05 衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、 東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教なるべし、譬えば皇帝已前は人・父をしら
06 ずして畜生の如し、 尭王已前は四季を弁へず牛馬の癡なるに同じかりき、 仏世に出でさせ給はざりしには比丘・
07 比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき、 今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下
08 し念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて 釈迦如来を抛てたるも 教主釈尊の比丘・比丘尼なり元祖が誤を伝え来るな
09 るべし
-----―
 また、我が師釈迦如来は、一代聖教・八万法蔵を説かれた仏である。この娑婆世界の仏のいない世に、最初に出現されて一切衆生の眼目を開かれた御仏である。東西十方の諸仏・菩薩も皆この仏が教えられたのである。たとえば、三皇五帝以前は、人間は父を知らないで畜生のようであった。堯王以前には、四季をわきまえず、愚かな牛馬と同じであった。同様に、仏がこの世に出現されなかったときには、比丘・比丘尼の二衆はなく、ただ男女の区別があるだけであった。今、比丘・比丘尼の真言師等が大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏のみを一向に持って釈迦如来を抛てているが、その者も教主釈尊の比丘・比丘尼である。にもかかわらず、本師に背くのは、各宗派の元祖の誤りを伝えてきたからであろう。
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10   此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、 一には此
11 の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、 阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず 釈迦仏は譬えば我が国の主上
12 のごとし先ず此の国の大王を敬つて 後に他国の王をば敬ふべし、 天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり迹化
13 の後・神と顕れさせ給ふ、此の神にそむく人・此の国の主となるべからず、 されば天照太神をば鏡にうつし奉りて
14 内侍所と号す、 八幡大菩薩に勅使有つて 物申しあはさせ給いき、 大覚世尊は我等が尊主なり先づ御本尊と定む
15 べし、 二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり、 先づ我が父母を孝し後に他人の父母には及ぼすべし、
16 例せば周の武王は父の形を木像に造つて 車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ、 舜王は父の眼
17 の盲たるをなげきて涙をながし手をもつて・のごひしかば本のごとく眼あきにけり、 此の仏も又是くの如く我等衆
18 生の眼をば開仏知見とは開き給いしか、 いまだ他仏は開き給はず、 三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師な
0885
01 り、此の仏は賢劫第九・人寿百歳の時・中天竺・浄飯大王の御子・十九にして出家し三十にして成道し五十余年が間
02 一代聖教を説き八十にして御入滅・舎利を留めて一切衆生を正像末に救ひ給ふ、 阿弥陀如来・薬師仏・大日等は他
03 土の仏にして 此の世界の世尊にてはましまさず、 此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処・譬えば此の国土の中
04 の獄門の如し、十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪の者を諸仏如来・擯出し給いしを釈迦如来・此の
05 土にあつめ給ふ、 三悪並びに無間大城に堕ちて其の苦をつぐのひて人中天上には生れたれども 其の罪の余残あり
06 てややもすれば正法を謗じ智者を罵り罪つくりやすし、 例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、 畢陵は
07 見思を断ぜしかども慢心の形みゆ、 難陀は婬欲を断じても女人に交る心あり、 煩悩を断じたれども余残あり何に
08 況や凡夫にをいてをや、 されば釈迦如来の御名をば能忍と名けて 此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめず
09 よく忍び
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 この釈迦如来は三つの理由があって他仏に代わって娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となられたのである。
 第一には、この娑婆世界の一切衆生の世尊であられる。阿弥陀仏はこの国の大王ではない。釈迦仏は、たとえば我が国の主上のようなものである。まずこの国の大王を敬って後に他国の王を敬うべきである。天照太神・正八幡宮等は我が国の本主であるが、釈迦仏が迹化の後、神と顕れたのである。この神にそむく人はこの国の主となることはできない。それゆえに、朝廷では、天照太神を鏡にうつし祭って、そこを内侍所と称し、また八幡大菩薩へ勅使を遣して神の託宣を受けられたのである。大覚世尊は我等が尊主である。まず御本尊と定むべきである。
 第二には、釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母である。まず我が父母に孝行し、後に他人の父母に孝を及ぼすべきである。例えば周の武王は、父の形を木像に刻んで車にのせて戦の大将と定め、天の感応を受けて殷の紂王を討った。舜王は父が盲目となったことを嘆いて涙を流し、手をもって父の目を拭ったところ、もとのように眼が開いたという。この仏もまたこのように我等衆生の眼を「開仏知見」と開かれた。いまだかつて他仏が開かれたことはない。
 第三には、この仏は娑婆世界の一切衆生の本師である。この仏は賢劫第九の減・人寿百歳の時・中天竺に浄飯大王(じょうぼんだいおう)の御子として誕生、十九歳で出家し三十で成道し、以後五十余年の間、一代聖教を説いて八十歳で入滅された。そして舎利を留めて一切衆生を正像末の三時にわたって救われた。阿弥陀如来・薬師仏・大日如来等は他士の仏であってこの世界の世尊ではないのである。
 この娑婆世界は十方世界の中の最下の場所であり、たとえばこの国土の中の獄門のような所である。十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪を犯した者を諸仏如来がおのおのの世界から追い出されたのを、釈迦如来がこの土に集められたのである。三悪道ならびに無間大城に堕ちて罪の償いを終え、人界・天上界に生まれたけれども、その罪の余残があってややもすれば正法を謗じたり、智者を罵ったりして罪をつくりやすい。たとえば、身子(舎利弗)は阿羅漢であるけれども瞋恚の気色があり、畢陵は見思惑を断じたけれども慢心の様子が見え、難陀は婬欲を断じても女人と交わる心があった。これらの声聞ですら煩悩を断じたといってもその余残がある。ましてや凡夫においてはなおさらのことである。それ故、釈迦如来はその御名をば能忍と名づけてこの土に出現されたわけであるが、それは一切衆生の誹謗の罪をとがめず、よく忍ばれる故である。これらの秘術は他の仏には欠けているところである。

娑婆
 雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。
―――
東西十方の諸仏・菩薩
 全宇宙の諸仏・諸菩薩のこと。
―――
皇帝
 三皇五帝のこと。中国古代の伝説的な理想的帝王で、人間に技術・知恵・人倫を教えたとされる。
―――
尭王
 中国神話に登場する君主。姓は伊祁、名は放勲。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
―――
大日如来
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
―――
阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
―――
世尊
 世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
―――
主上
 天皇を敬っていう語。 至尊。
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天照太神
 「あまてらすおおみかみ」といい、大日孁貴・日の神とも呼ばれる。日本書紀、古事記等によると、高天原の主神で、伊弉諾・伊弉冉の二神の第一子とされる。皇室の祖神として、伊勢皇大神宮に祀られている。仏法上では守護神の一つとされる。
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正八幡宮
 八幡宮の祭神である正八幡大菩薩のこと。古くは農耕・銅産の神で広い信仰を集めた。日本の鎮守神で、百王を守護する誓願を立てたと伝えられる。貞観元年(0859)行教によって山城国(京都)石清水に勧請された(石清水八幡宮)ころから皇室の祖先とされる一方、武士の守護神としても崇拝されるようになり、以後、全国に八幡信仰がひろまった。仏法上では諸天善神の一つとされる。
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迹化
 迹化の菩薩のこと。本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。
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 三種の神器のひとつ。八咫鏡のこと。
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内侍所
 三種の神器の一つ・八咫鏡を奉安する宮殿のこと。内侍(女官の職名)が守護していたので内侍所という。また畏み敬うべきところの意から、賢所とも称される。転じて八咫鏡の別称となった。
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大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
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周の武王
 生没年不明。中国古代の周王朝創始の王。父の文王の遺志を継ぎ、殷の紂王を破り、天下を統一した。 
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殷の紂王
 殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
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舜王は父の眼の盲たるを……眼あきにけり
 舜王は、中国古代の伝説上の皇帝で、儒家で堯王とともに理想的帝王とされた。三皇五帝の一人。平民であった父は異母弟の象を偏愛して舜を虐待したが、よく両親に仕え孝養を尽くしたとされる。堯は舜を登用し、天下を摂政させ、のち舜に禅譲した。
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開仏知見
 開示悟入・四仏知見のひとつ。開とは信心のことである。信心をもって妙法を唱え奉れば、やがて仏知見を開くことができるのである。信心の異名である。
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本師
 ①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
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賢劫第九の減・人寿百歳
 「劫」とは一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。 この一小劫を20あわせたものを中劫といい、中劫は成住壊空の四中劫からなる。賢劫とは現在の住劫のとで、住劫の第九番目の減劫の人寿100歳の時に釈尊は出世したと経論にはある。
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中天竺
 インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。
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浄飯大王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
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舎利
 梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
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薬師仏
 梵語( Bhaiṣajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
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十方世界
 「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
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十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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誹謗正法
 謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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三悪
 三悪道・三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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身子
 舎利弗のこと。釈尊十大弟子の一人。身子とは梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の訳。マガダ国・王舎城外のバラモンの家に生まれる。八歳の時に、王舎城の諸学者と議論して負けなかったという。目連とともに六師外道の一人、刪闍耶に学んだが、その後、釈尊の弟子となった。声聞衆の中で智慧第一と称される。大智度論巻二には「阿羅漢・辟支仏は三毒を破ると雖も気分を尽さず……舎利弗の如きは瞋恚の気残り、難陀は婬欲の気残り、畢陵伽婆蹉は慢の気残れり」とある。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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瞋恚
 怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
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畢陵
 畢陵伽婆蹉のこと。梵語ピリンダ・ヴァスタ(Pilinda-vasta)の音写。悪口・余習と訳す。阿羅漢の一人。バラモンの出身。他人を軽賤するなど性格は憍慢であった。呪術を用いて名声を得るが、後、釈尊に会って呪術の力を失い、仏弟子となった。
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見思
 見思惑のこと。三惑の一つで見惑と思惑に分かれる。惑は煩悩の異名、迷妄の心・対境に迷って事理を顚倒することをいう。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。爾前経では、この見思を断ずることによって、涅槃が得られ、三界の生死を免れることができるとした。そして、これを断ずる順序があって、まず見惑を断じ、次に思惑を断ずるとし、見惑を断ずる位を見道といい、思惑を断ずる位を修道といった。声聞・縁覚は見思惑を断じて阿羅漢となり、三界の生死を免れて涅槃を得ることができるとする。更に菩薩は後の二惑を断じていく。また見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗に通ずる故に通惑ともいい、塵沙惑・無明惑を別惑という。
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難陀
 孫陀羅難陀のこと。梵語スンダラナンダ(Sundara-nanda)の音写。釈尊の弟子。摩訶波闍波提の子で、釈尊の異母弟にあたる。容姿端正三十相を具足していたとされる。美しい妻・孫陀利を娶り、出家した後も妻を忘れられず、釈尊にたびたび教誡を受けた。後、諸根を調伏すること第一といわれた。 
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煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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能忍
 釈迦如来のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗・迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。善無畏三蔵抄には「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(0885-08)。
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 これまでの段で、根本とすべき正法が南無妙法蓮華経であることを示しおえたので、本章から根本とすべき〝仏〟を教示されるのである。
 つまり〝法の本尊〟に次いで、本章より〝人の本尊〟、一切衆生の信ずべき仏について説かれるのである。しかし、法の場合と同じく、仏を顕されるにあたっても、阿弥陀仏、大日如来等の権仏を対破されることに主眼をおかれているため、権実相対の立場で論じておられ、日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法との種脱相対にまでは至っていない。
 本章は大別して、三つの部分より成り立っている。第一に、我等衆生の教主は、釈尊であることを示され、第二に、その教主釈尊に具備した主師親の三徳を述べられている。そして、第三に、釈尊こそ、娑婆世界の有縁の仏であることを結論されるのである。
 まず、この娑婆世界の我々にとって、仏法を知り、仏の尊さを知り得たのは釈迦如来のおかげであり、釈尊こそ娑婆世界の一切衆生にとって本師であることを述べられている。
 私たち、すなわち、この地球上の人類が仏法を知るのは八万法蔵といわれる仏教経典によってである。この一切経を説かれた教主が釈尊である。釈尊こそ、未だ仏の出ておられなかったこの世界に最初に出現されて、仏法への眼を開いてくださった本師である。
 十方世界におられる仏や菩薩のことを教え、娑婆世界の衆生に仏道修行をしようという心を起こさせてくださったのも釈尊である。釈尊に教えていただいたが故に、ちょうど、三皇五帝以前は父というものを知らないで畜生と同じであったのが、人倫の道を教わり人間らしくなったように、また堯王以前は四季の変化の法則を知らず牛馬のように愚かであったのが知恵を得たのと同じように、仏・菩薩の尊さを知り、仏道を求める心を起こすようになったのである。
 いわゆる比丘・比丘尼という仏法修行の人は、釈尊の教えあっての比丘・比丘尼なのである。にもかかわらず、いま、そうした比丘や比丘尼が、大恩のある釈迦如来を忘れて、他方の国土の仏である阿弥陀如来や、架空の仏である大日如来を本尊としていることは、大なる誤りである。その誤りの根源は、彼らの宗の元祖にある、と指摘されるのである。
 そして、このことから、釈迦如来がなぜこの娑婆世界有縁の仏となられたかを第二段で示される。逆にいえば、これは、なぜ阿弥陀如来や大日如来を根本にしてはならないか、ということでもある。「他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ」と仰せられている言葉は、他仏である阿弥陀如来や大日如来は娑婆世界の一切衆生にとって無縁の仏であるということを意味しておられる。
 釈尊が娑婆世界の衆生にとって有縁の仏であるのは、娑婆世界の衆生に対して主師親の三徳を具えておられるからである。
 三徳の第一は主徳である。主徳とは、自らの眷属を守護し、外敵から守る働きをさす。教主釈尊は、この娑婆世界の一切衆生を守護する徳をそなえた仏であるから、一切衆生の世尊といわれるのである。
 それに対して、阿弥陀仏は、この娑婆世界とは別の国土、すなわち、西方十万億土のかなたにある極楽世界の主である。だから、阿弥陀仏を先にして、釈尊を後にするのは、忘恩の人である。大覚世尊が、娑婆世界の尊主であるから、まず、釈尊を本尊と定むべきであると述べられている。
 この道理をわかりやすくするために、一国の王との譬えや天照太神、八幡といった神を事例に挙げられている。
 三徳の第二は、親徳である。父母の徳は、悪を除き、諸の苦患を救う慈愛の働きをさしている。
 釈尊は、娑婆世界の一切衆生の苦悩を取り除き救う父母の徳をそなえておられる。法華経方便品にあるように衆生の「仏知見」を開いてくださったのは、衆生の苦悩を取り除き救わんとする慈愛以外の何ものでもない。他仏は、衆生の仏知見、すなわち仏性を開示し、苦悩を救うことはできないのである。
 だから、まず、自分の父母である釈尊に孝養すべきであると説かれる。孝養の手本として、武王と舜王の事例を挙げられるとともに、舜王の話は盲目を開くことが苦悩から救うことになった例として「開仏知見」へ関連させられている。
 三徳の第三は師徳である。師徳とは、衆生を導き教化していく働きであり、正法を教えていく智慧の働きをさす。
 釈尊は、現実に、この世界に応誕され、一代聖教を説かれた娑婆世界の本師である。80歳で入滅されてからも、その法身の舎利、つまり教法は正像末の三時にわたって衆生救済の力をあらわされたのである。末法と記されたのは、法華経を説き、その文底に南無妙法蓮華経を秘沈したからである。
 ところが、阿弥陀仏、薬師如来、大日如来等は、この娑婆世界に現実に応誕され、衆生を救った仏ではない。あくまで、現実のわれらとは縁のない仏である。
 さて、最後に、娑婆世界の一切衆生の様相を述べ、衆生の誹謗を堪え忍んで釈尊が救おうとされたことが示されている。
 この娑婆世界は穢土であり、十方世界中でも最も劣っている所であり、あたかも国土中の最悪所である獄門のような所であるといわれている。
 その理由は、十方世界の諸仏が十悪五逆を犯した者、誹謗正法の者を追い出したのを、釈尊はこの土に収容して救おうとされたからである、と。このような衆生であるから、三悪道や地獄に堕ちて罪をつぐなってから、この世界に生を受けたのであるが、前罪の余習があるために、ともすれば正法を謗じたり、智者を罵ったりして、また重罪を作りやすい傾向をもっている。身子(舎利弗)等の阿羅漢でさえ煩悩の余習が抜けきれないのであるから、凡夫が罪を犯しやすいのは当然であり、このため、ともすれば釈尊に対しても誹謗の心を起こすのである。
 このような衆生の住む娑婆世界に出現され一切衆生の誹謗をもとがめず、凡夫の悪業をよく忍んで救済されるので、釈尊を能忍と申し上げるのである。
 娑婆世界の衆生と釈尊とは、以上のような深い関係がある。
 日蓮大聖人が、この点を強調されるのは、阿弥陀仏の極楽世界や薬師如来の浄瑠璃世界と対比され、苦悩の充満する娑婆世界こそが、釈尊に有縁の国土であることを示すためであり、したがって、ここでは穢土である娑婆世界の衆生にとって尊崇すべき仏が釈尊であることを示すにとどめられている。しかしながら、末法一切衆生にとって、究極の主師親三徳を具備された御本仏が久遠元初自受用報身であられる日蓮大聖人御自身であることは、開目抄等で明らかにされるとおりである。

0885:09~0885:16 第九章 釈尊を本尊とすべきを説くtop
09                                 阿弥陀仏等の諸仏世尊・悲願をおこさせ給い
10 て心にははぢをおぼしめして還つて此の界にかよひ 四十八願・十二大願なんどは起させ給ふなるべし、 観世音等
11 の他土の菩薩も亦復是くの如し、 仏には常平等の時は一切諸仏は差別なけれども 常差別の時は各各に十方世界に
12 土をしめて有縁無縁を分ち給ふ、 大通智勝仏の十六王子・十方に土をしめて一一に我が弟子を救ひ給ふ、 其の中
13 に釈迦如来は此土に当り給ふ 我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ、 いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず
14 而りといへども 人皆是を知らず委く尋ねあきらめば 唯我一人能為救護と申して釈迦如来の御手を離るべからず、
15 而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば 必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして 御本尊
16 と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし。
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 阿弥陀仏等の諸仏世尊は悲願を起こされて、心中では恥ずかしく思われたのであろうか、還ってこの娑婆世界にかよい、四十八願や十二大願などを起こされたのであろう。観世音菩薩等の他土の菩薩もまた同様である。仏には常平等の時は一切諸仏には差別がないけれども、常差別の時はおのおのの仏が十方世界に自分の国土を定めて有縁・無縁を分けられるのである。大通智勝仏の十六人の王子は十方世界におのおのが国土を定めてそれぞれ自分の弟子を救われるのである。その中で釈迦如来はこの土(娑婆世界)にあたったのである。我等衆生もまた生をこの娑婆世界に受けた。なんとしても釈迦如来の教化から離れるべきではないのである。ところが、人は皆、このことを知らない。委く尋ねて明らかにすれば、法華経譬喩品第三に「唯我れ一人だけが能く衆生を救い護る」とあるように、我等衆生は釈迦如来の御手を離れるべきではないのである。そうであるから、この土の一切衆生は、生死の苦をきらい、御本尊を崇めようと思うならば、かならずまず釈尊を木画の像に顕してこれを御本尊と定め、その後、力があるならば阿弥陀仏等の他仏にも及ぶべきである。

四十八願
 阿弥陀仏が法蔵比丘として因位の修行をしていた時、自らの仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏によって示された二百十億の仏国土から選びとって立てた四十八種の誓願をいう。無量寿経巻上に説かれる。
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十二大願
 薬師如来が過去に浄瑠璃世界で菩薩道を行じていた時、衆生救済のために立てた十二の誓願。薬師瑠璃光如来本願功徳経に、自身の光明で無辺の世界を照らし、三十二相八十種好でその身を荘厳し、衆生を自分と同じ境界にさせる等、十二の誓願が説かれている。
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観世音
 観世音菩薩のこと。梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokite śvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。
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大通智勝仏の十六王子
 大通智勝仏は三千塵点劫の昔、大相劫、好成国に出現し、法華経を説いた仏。法華経化城喩品に説かれる。出家以前に十六人の王子がいたが、成道後、四諦・十二因縁の法を説き、十六王子も出家した。二万劫の後、十六王子の請いによって八千劫の間、法華経を説く。この時、法華経を信受したのは十六王子と少数の声聞のみであり、ついに静室に入り八万四千劫の間、禅定に入った。その間、十六王子は八方に散って法華経を説き、おのおの六百万億那由侘恒河沙等の衆生を信解させた。これを大通覆講といい、この時、法を聞いた衆生は大通結縁の衆という。この十六王子の第十六番目が釈尊である。
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唯我一人能為救護
 譬喩品に「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」とある。日蓮大聖人が末法の救世主として、一切衆生を救おうと思われる大慈悲である。
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 本章では、阿弥陀如来等の他土の仏・菩薩に対して、此土の娑婆世界有縁の仏である釈尊をこそ、本尊として尊崇すべきことを述べられている。
 最初に、阿弥陀仏等の他仏が、「心にははぢ(恥)をおぼしめして還つて此の界にかよひ……」とは、例えば、阿弥陀仏の住する極楽浄土は、この娑婆世界から西方十万億土を過ぎたところにあるとされるが、その国の衆生は一切の苦悩がなくて楽しみのみを受けているから極楽と呼ばれているのである。
 また、薬師如来の住する浄瑠璃世界は、浄瑠璃浄土ともいい、娑婆世界から十恒河沙の仏土を過ぎた東方にあるという。その国土は清浄であり、もろもろの欲悪を離れているとされる。
 したがって、それらの国土には救うべき苦の衆生がいないわけである。そこで、やむなく恥をしのんで娑婆世界に来て、四十八願、十二大願等の悲願を起こされ、それをかなえようとされたのである。
 この精神のうえからは、この娑婆世界の衆生に対しても差別はなく「常平等」であるが、実際に救済しうるか否かということでは有縁・無縁によって差別が生ずる。とくに娑婆世界に生まれてくる悪業を背負った衆生は、阿弥陀仏等には全く縁がないうえに、仏の方も衆生の悪業に耐えられない。故に、たとえ、衆生が阿弥陀仏の悲願を頼りに、念仏を称え、浄土に往生しようとしても、阿弥陀仏はその願いをかなえさせることが不可能なのである。
 阿弥陀仏が法蔵比丘の菩薩行の時に立てた四十八の誓願を頼りにしても、たしかに、その第十八願には念仏往生が説かれ、第十九願には来迎引接(らいごういんじょう)が説かれてはいるが、その十八願には「但、誹謗正法と五逆の者は除く」と明瞭に記されている。
 この〝正法〟が阿弥陀信仰ではないことは、いうまでもない。なぜなら、この戒めは阿弥陀の名号を称えている人に、もし阿弥陀の名を称えても、正法誹謗の者は救えないといっているからである。〝正法〟とは法華経であり、末法においては三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 また、薬師如来の十二大願には、一切衆生の病気を治し、医薬を与えるという誓願が入っている。しかし、薬師如来も、この世界には無縁の仏であるから、娑婆世界の衆生に関してこの大願をかなえることは不可能なのである。
 こうした仏だけでなく、観世音菩薩等の他土の菩薩についても同様である。彼らがどのようにこの娑婆世界の衆生を救おうとの誓願を立てようとも、娑婆世界の有縁の仏である釈迦如来にそむいている衆生を救うことはできない。他方の仏・菩薩は、娑婆世界においては、娑婆世界の仏である釈迦如来の行化を助けるという意味においてのみ、その力をあらわすのである。
 法華取要抄に「有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く無縁の仏と衆生とは譬えば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向うが如し」(0333-07)とあるように、有縁の仏でなければ、その国土の結縁の衆生を救いえないのである。
 釈尊も阿弥陀仏も同じく仏であるから、どの仏に願っても、衆生の苦しみを抜いてくれるのではないか、というのは謬見であることを知らなければならない。
 仏には常平等と、常差別ということがあり、常平等とは、その本体としての真理は常に平等であるということである。いいかえると、諸仏の本体は、平等にして不変の真理それ自体であり、十方三世の諸仏に全く差別はない。しかし、これは、仏の普遍的側面だけであって、具体的に衆生を救済される面では、個別性があらわれてくる。仏であれば、釈尊でも阿弥陀仏でも同じであるという謬見は、仏の個別的側面を無視した観念論であり、暴論である。
 諸仏は、現象世界では、それぞれの使命、力用に応じて個別性を発揮し、差別の法を説かれる。それぞれの世界の教主として、自分の世界の有縁の衆生と、他土の無縁の衆生とを差別されるのである。
 その事例として、法華経化城喩品に説かれる大通覆講が挙げられている。大通智勝仏の十六人の王子は平等に法華経を聞いた。これは常平等の時である。
 しかし、十六王子は、それぞれの国土におもむいて、その国の衆生を教化した。例えば、そのなかで、十六王子の九番目の王子は、西方におもむいて教化し、極楽世界の教主・阿弥陀如来となった。第十六番目の王子が、のちの釈迦如来で、この娑婆世界を担当され、教化した。したがって、娑婆世界の衆生である我々にとっては、釈迦如来が一貫した師となる。
 法華経譬喩品に記されているように、釈尊は「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」と宣言されて、宿業深い衆生を救済される仏であるから、娑婆世界の衆生は、釈尊を離れるわけにはいかないのであると仰せである。
 法華取要抄にも「釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり、此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し」(0332-15)と述べられている。また天台大師の法華文句巻六上にも、娑婆世界の衆生と阿弥陀仏との関係について「西方は仏別に縁異なり、仏別なるが故に隠顕の義成せず、縁異なるが故に子父の義成ぜず」といい、それを受けて、妙楽大師は法華文句記巻七上に「弥陀・釈迦二仏、既に殊なる……況や宿昔の縁別にして化道同じからざるをや」と釈している。
 以上のことから、この世界の一切衆生が、生死の苦しみを克服しようと願い、本尊を崇仰しようと思えば、まず、阿弥陀等の他仏でなく、釈尊を木画の像に造って御本尊とすべきであり、その後に、もし余力があれば阿弥陀仏等の他仏に及ぶべきである、といわれているのである。
 しかし、「其の後力おはしまさば」といわれたからといって、阿弥陀仏等の造立を許されたわけではけっしてない。根本的にいかなる仏を本尊とすべきかについては、観心本尊抄等で明らかにされているのであって、本抄では、道善房の阿弥陀への執着を考慮されてこのように述べられたのである。したがって表現は、一往、阿弥陀の造立を許されているようでありながら実質は制止されていると考えなければならない。
 本抄の後の個所にも記されているように、道善房は、阿弥陀仏を造り、その罪によって無間地獄に堕するかどうかを、日蓮大聖人に質問したことがある。地獄に堕ちることにおびえながらも念仏への執着が断ちきれなかったが、今ようやく、釈尊を崇めるようになったという。
 そうであるならば、道理をつくして、釈尊への信仰を深めさせていけば、ふたたび、道善房は、無間地獄の悪業を積むとわかっている阿弥陀仏の造立などしないであろうという日蓮大聖人の御確信のことばと拝することができる。今後、退転することがないように、また、正法への信仰を一段と深めることができるようにとの、日蓮大聖人の旧師をおもう真心が、この御文のような表現をとらせたのではないかと拝察される。
而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし
 本尊とは根本として尊敬するという意味であるから、それは、宗教において信仰の心を寄せる根本の対象となる。
 日寛上人は、文底秘沈抄で「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く」といわれている。
 故に、いかなる本尊を立て、信じるかということが、それぞれの宗派にとって最重要の課題になる。
 日蓮大聖人の仏法における本尊は、久遠元初の自受用身如来即事の一念三千の南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇の大曼荼羅の他にはないのである。
 「其の後力おはしまさば」と仰せられている弥陀造立のことについては、すでに述べたとおりであるが、では釈迦像を本尊とすることについてはどうか。大聖人の御正意はあくまでも曼荼羅の御本尊にあるが、佐渡以前においては、暫用還廃としての御教示があるのである。すなわち、相手の機根によって、しばらく釈尊の造像等を許されることはあるが、これは釈尊の爾前経と同じであり、後にはこれを廃するのである。
 末法相応抄に記されているように「此れは是れ且く一機一縁の為なり、猶継子一旦の寵愛」のようなものであり、日蓮大聖人の御本意ではないのである。
 本抄のこの御文も、権実相対の立場で阿弥陀仏を対破されるために、しばらく、釈尊の造像を許されたのであって、暫用還廃の意味は明らかであろう。
 前述したように、道善房がこれまで阿弥陀仏を崇めてきたのを、今、ようやくその執着を断ち切って釈尊に帰依したので、その善根を称讃され、そのことによって師の信仰を一段と深めたいという日蓮大聖人の真心であったであろう。
 また、日蓮大聖人の御境界からすれば、一体仏の当体も、一念三千即自受用身の本仏となっていることは、いうまでもない。
 しかし、釈尊像の造立が日蓮大聖人の御本意でないことは、法華経本門寿量の教主である釈尊は、本已有善の衆生のための脱益の仏であり、末法の衆生は、釈尊とは結縁のない本未有善の者ばかりであるから、釈迦仏によっては救われないのである。故に、末法においては、釈尊を造立して本尊とはしないのである。
 主師親三徳の縁の深い仏を本尊として崇めてはじめて救済されるのであるから、末法においては、久遠元初の自受用身が三徳具備の仏であられ、その御当体である事の一念三千の大曼荼羅のみを本尊とすべきなのである。

0885:17~0886:13 第十章 他仏を本尊とする誤りをつくtop
17   然るを当世聖行なき此の土の人人の仏をつくりかかせ給うに 先ず他仏をさきとするは其の仏の御本意にも釈迦
18 如来の御本意にも叶ふべからざる上 世間の礼儀にもはづれて候、 されば優填大王の赤栴檀いまだ他仏をば・きざ
0886
01 ませ給はず、 千塔王の画像も釈迦如来なり、 而るを諸大乗経による人人・我が所依の経経を諸経に勝れたりと思
02 ふ故に教主釈尊をば次さまにし給ふ、 一切の真言師は大日経は諸経に勝れたりと思ふ故に 此の経に詮とする大日
03 如来を我等が有縁の仏と思ひ 念仏者等は観経等を信ずる故に 阿弥陀仏を娑婆有縁の仏と思ふ、 当世はことに善
04 導・法然等が邪義を正義と思いて浄土の三部経を指南とする故に 十造る寺は八九は阿弥陀仏を本尊とす、 在家・
05 出家・一家・十家・百家・千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀なり、其の外木画の像・一家に千仏万仏まします大
06 旨は阿弥陀仏なり、 而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只
07 称美讃歎の心のみあり、 只一向悪人にして因果の道理をも弁へず 一仏をも持たざる者は還つて失なきへんもあり
08 ぬべし、 我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげま
09 せ給ふ、 其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し、 二つの眼をぬいて仏前に空の星の
10 数備ふとも 身の皮を剥いで百千万・天井にはるとも涙を閼伽の水として千万億劫・仏前に花を備ふとも身の肉血を
11 無量劫・仏前に山の如く積み大海の如く湛ふとも此の仏の一分の御恩を報じ尽しがたし。
-----―
 それなのに、今の世、聖行のないこの土の人々が仏像を造り画くのに、まず他仏を先にしているのは、その仏の御本意にも、また釈迦如来の御本意にも叶うはずがないうえ、世間の礼儀にもはずれている。それ故、優填大王が赤栴檀の木で刻んだのは釈迦如来の像であり他仏の像ではなかった。千塔王の画像も釈迦如来であった。
 それなのに諸大乗経に依る人々は、自分の所依の経々が諸経に勝れていると思う故に、教主釈尊を二の次にするのである。一切の真言師は大日経は諸経に勝れていると思う故に、大日経で究極の仏として説く大日如来を我等の有縁の仏と思い、念仏者等は観無量寿経等を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆世界に有縁の仏と思うのである。
 当世はとりわけ善導・法然などの邪義を正義と思って浄土の三部経を指南とする故に、十の寺を造れば八、九の寺は阿弥陀仏を本尊とする。在家・出家を問わず、一家・十家・百家・千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀仏である。そのほか木画の像は一家に千仏、万仏もあるうち、大部分は阿弥陀仏である。それなのに、当世の智者と思われる人々はこれをみても、禍とは思わないで、自分の意に叶っている故にただ称美讃歎(しょうびさんだん)する心のみである。ただ全くの悪人で因果の道理をもわきまえず一仏をも受持しない者は、かえってこうした仏法の失(とが)をまぬかれることもあるかもしれない。
 我等の父母である釈尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に遠ざけられた我等を「唯我れ一人だけが能く衆生を救い護る」と励まされるのである。その恩は大海よりも深い。大地よりも厚い。その恩は虚空よりも広いのである。二つの眼をくりぬいて仏前に空の星の数ほどそなえても、身の皮をはいで百千万枚、天井に張っても、涙を水として千万億劫の間、仏前に花をそなえても、身の肉と血を無量劫の間、仏前に山のように積み大海のように湛えても、この仏の御恩の一分も報じ尽くすことは難しい。
-----―
12   而るを当世の僻見の学者等・設ひ八万法蔵を極め十二部経を諳んじ 大小の戒品を堅く持ち給ふ智者なりとも此
13 の道理に背かば悪道を免るべからずと思食すべし、
-----―
 それなのに、当世の僻見の学者等が、たとえ八万法蔵を究め、十二部経を暗誦し、大乗・小乗の戒律を堅く持つ智者であっても、この道理に背けば悪道をまぬかれることはできないと思うべきである。

聖行
 涅槃経巻11に説かれる菩薩が修行すべき五種の行法のひとつ。戒・定・慧の三学によって修する行をいう。
―――
優填大王の赤栴檀
 優填大王は釈尊在世の憍賞弥国の王。妃の教化によって釈尊に帰依した。赤栴檀は南インドの摩羅耶山に産するとされる赤銅色の栴檀。牛頭栴檀ともいう香木である。増一阿含経巻二十八には、ある時釈尊が母・摩耶夫人に説法するために三十三天に赴き、久しく閻浮提に帰らなかった。そのため王は悲しんで病気になったが、家臣に命じて牛頭栴檀で五尺の釈尊の形像を作ったところ、たちまち病気が治癒したとある。造仏の最初とされている。
―――
千塔王の画像
 マガダ国王舍城の影勝王が宝物の礼として千塔王のもとに釈尊の絵を描いて贈った故事。千塔王とは、古代インドの王で、根本說一切有部毘奈耶などに見られる勝音城の仙道王のこと。同経巻四十五には、ある時、仙道王が影勝王に宝甲を贈ったが、返礼とすべき宝に困った影勝王が行雨大臣と相談し、世界の宝であるとして釈尊の絵を描いて贈り物とした。はじめ仙道王は大いに怒ったが、後にそれが仏の像であることを知った王は、深く悔恨し、仏法に帰依するようになったとある。
―――
観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
浄土の三部経
 念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
―――
在家
 ①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
―――
出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
―――
持仏堂
 日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。持仏堂
―――
主師親の三徳
 一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
―――
閼伽の水
 閼伽は梵語アルガ(Argha又はArghya)の音写で水のこと。功徳水等と訳す。仏に供える水。「閼伽の水」と重ねていうことが多い。
を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげま
―――
千万億劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――
無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――
僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
―――
大小の戒品
 大乗教と小乗教の戒律のこと。
―――
悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
―――――――――
 これまでの段で、末法における正法を示されるとともに、娑婆世界の一切衆生を救う三徳具備の仏を示されたのであるが、そこで今度は、諸宗が本尊に迷う姿を訶責されるのである。
 すなわち、当世の状況をみると、大部分の人が釈迦仏を忘れて他仏を造像して本尊にしているが、これは、その仏の本意にも、釈尊の本意にも叶わないことであり、しかも世間の礼儀にもはずれていることであるといわれる。
 釈尊を崇めないことが、釈尊自身の本意に背くことはいうまでもない。だが、そのことが、他仏の意にも叶わないとは、他仏にしても、この世界の衆生とは無縁であり、救済できないのだから、本尊として尊敬されても困惑するだけである。此土有縁の仏である釈尊を本尊にすることが、他仏の心にも叶うのである。
 また、世間の礼儀にも反するとは、前述したように、まず自分の父母に孝養し、後に他人の親に孝養するのが順序である。国主の場合も同様である。そうした世間的常識からしても、この娑婆世界の三徳具備の仏を崇めるのが当然であるとの仰せである。そしてその例証として優填大王が釈尊の木像を造り千搭王が画像を贈られたことを挙げられている。
 つぎに、これらの道理から当然、明白であるにもかかわらず、当世の人々が、依りどころとすべき経典に迷うが故に、本尊を誤ってしまっていることを指摘されている。
 経典に迷う故に仏に迷い、真言師は大日如来を自分等の有縁の仏と思い、念仏者等は阿弥陀仏こそ、娑婆有縁の仏であると信じてしまっているのである。
 とくに、善導や法然等の念仏の邪義がはびこり、浄土の三部経を指南とし、寺の本尊も、在家・出家が安置する持仏堂の仏も、ほとんど阿弥陀仏であり、その他、木画の像で一家に所有するものはほとんど阿弥陀仏であると、その誤りがいかに広く深く浸透しているかを指摘されている。
 しかも、そうした誤りを正そうとせず、かえって称美讃歎している諸宗の邪見の学者の非を呵責され、深厚広大な釈尊の恩徳に報いるべきこと、それを忘れ、背いているならば、いかに仏法を学び修行しようとも悪道はまぬかれないと厳しく戒められている。
而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり云云
 世間の人々の誤りをいさめ、正しい仏法の修行へ導くのが、智者といわれる者の役割であるのに、逆に、彼等は、このことが世の大きな禍根であると思わず、ただ自分の意に合致しているということから称讃さえしているのである。
 これらの智者と比べると、「一向悪人」つまり仏法を求める心もなく、仏など崇めもしない人間の方が、かえって罪はないのである。仏法を知らず、また求めもしない悪人の犯す悪は、世間的な悪行であって、釈尊への反逆ではない。つまり、たとえ五逆罪を造るような悪人でも、誹謗正法の罪は犯していないのである。
 それに対して、智者、学者であっても、本尊に迷うなら、自ら地獄の悪業を造るのみならず、世の人々をも迷わして、無間地獄の業を造らせてしまうからである。
 釈尊は、他仏によっては救われない衆生を、法華経譬喩品に記されるように「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」との大悲願をおこされて救済される主師親三徳具備の仏である。故に、この娑婆世界の衆生にとって、釈尊の深恩は絶大であり、たとえ、我が生命をなげうって仏に仕えても、その深恩に報い切れないほどである。したがって、八万法蔵を究め尽くし、十二部経をそらんじ、また大小乗の戒律を持つほどの智者であっても、この三徳有縁の釈尊に反するならば、堕悪道はまぬかれないとの仰せである。
 不知恩の輩は、人間の心をもたぬ畜生と同じであり、悪道はまぬかれえないのである。開目抄に、日蓮大聖人が「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」(0215-09)と仰せのごとく、智者と思われる邪師は「才能ある畜生」となってしまっている。
 末法における成道は、ただ南無妙法蓮華経の一法によるほかはないのである。
 したがって、本抄の御文も、日蓮大聖人の元意からすれば、末法の衆生にとって三徳を具備された仏、すなわち日蓮大聖人の深恩を知らず、日蓮大聖人に反逆する諸宗の学者は、誹謗正法の重罪によって無間地獄をまぬかれないとの厳誡と拝すべきである。

0886:13~0887:08 第11章 善無畏の堕獄を示すtop
13                         例せば善無畏三蔵は真言宗の元祖・烏萇奈国の大王・仏種王の
14 太子なり、 教主釈尊は十九にして出家し給いき此の三蔵は十三にして位を捨て月氏・七十箇国・九万里を歩き回り
15 て諸経・諸論・諸宗を習い伝へ北天竺・金粟王の塔の下にして 天に仰ぎ祈請を致し給えるに虚空の中に大日如来を
16 中央として 胎蔵界の曼荼羅・顕れさせ給ふ、 慈悲の余り此の正法を辺土に弘めんと思食して 漢土に入り給ひ玄
17 宗皇帝に秘法を授け奉り 旱魃の時雨の祈をし給いしかば 三日が内に天より雨ふりしなり、此の三蔵は千二百余尊
18 の種子・尊形三摩耶・一事も・くもりなし、当世の東寺等の一切の真言宗・一人も此の御弟子に非るはなし、而るに
0887
01 此の三蔵一時に頓死ありき 数多の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり 閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり、
02 いかなる罪あつて 此の責に値い給ひけるやらん、 今生は十悪は有りもやすらん五逆罪は造らず過去を尋ぬれば大
03 国の王となり給ふ事を勘うるに 十善戒を堅く持ち五百の仏陀に仕へ給ふなり 何の罪かあらん、其の上十三にして
04 位を捨て出家し給いき閻浮第一の菩提心なるべし、 過去・現在の軽重の罪も滅すらん・其の上月氏に流布する所の
05 経論諸宗を習い極め給いしなり何の罪か消えざらん、 又真言密教は他に異なる法なるべし 一印一真言なれども手
06 に結び口に誦すれば 三世の重罪も滅せずと云うことなし、 無量倶低劫の間作る所の衆の罪障も此の曼荼羅を見れ
07 ば一時に皆消滅すとこそ申し候へ、 況や此の三蔵は千二百余尊の印真言を諳に浮べ 即身成仏の観道鏡に懸り両部
08 潅頂の御時・大日覚王となり給いき、 如何にして閻魔の責に豫り給いけるやらん、
――――――
 たとえば、善無畏三蔵は真言宗の元祖であるが、もと北インド・烏萇奈国の大王である仏種王の太子であった。教主釈尊は十九歳で出家されたが、この三蔵は十三歳で太子の位を捨てて出家し、インド七十箇国、九万里を歩き回って諸経・諸論・諸宗を習学した。そして、北インドの金粟王が建てた法塔の下で天を仰いで祈り願ったところ、虚空の中に大日如来を中央とする胎蔵界の曼荼羅が顕れたのである。三蔵は、その慈悲心が盛んなあまり、この正法を辺土に弘めようと思い、中国に渡って玄宗皇帝に真言の秘法を授け、旱魃の時降雨を祈ったところ、三日のうちに雨が降ったのである。この三蔵は千二百余尊の種子と尊形と三摩耶について、一つとして明らかでないものはなかった。当世の東寺等の一切の真言宗の人々は一人としてこの三蔵の御弟子でない者はいないのである。
 ところが、これほどの三蔵がある時、頓死した。すると数多くの獄卒が来て、鉄の繩を七重にかけ、閻魔王の宮殿に連れて行った、という。この事が第一の疑問である。どのような罪があって、この責めに値ったのであろうか。今生では十悪を犯したかもしれないが五逆罪は造ってはいない。過去を尋ねてみれば、大国の王となるべく生まれてきたことを考えてみると、十善戒を堅く持ち、五百の仏陀に仕えていたことになる。その人にどのような罪もあろうはずがない。そのうえ、十三歳で位を捨てて出家したことは、一閻浮提第一の菩提心というべきである。この一事をもってしても、過去、現在の軽重の罪は滅するであろう。そのうえ、インドに流布している経論、諸宗を習い究めたのであるから、どのような罪も消えないことがなかろう。
 また真言密教は他の仏教と異なる法であって、手に一つの印を結び、口に一つの真言を唱えれば、それだけで、三世にわたる重罪も、滅しないということはないのである。さらに、無量倶低劫の長きにわたって作った種々の罪障も、この曼荼羅を見て祈れば一時に皆消滅するとさえいっているのである。まして、この三蔵は千二百余尊の印・真言を諳んじ、即身成仏を遂げる観法の道も鏡に映すように明らかに知っており、両部潅頂の時、大日覚王となったのである。このような人が、どうして閻魔王の責めにあうことになったのであろうか。

善無畏三蔵
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。宋高僧伝によれば、もとインドの烏萇奈国に王子として生まれ、いったん王位についたが、すぐ兄に位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従って密教を学んだ。開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」7巻、「蘇悉地羯羅経」3巻等を翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。
―――
烏萇奈国
 梵語ウディヤーナ(Udyāna)の音写。烏仗那・烏長那とも書き、園と訳す。北インド健駄羅国の北方にあった国。現在のスワート川流域にあたる。七世紀ごろには、スワート川をはさんで、千四百の伽藍と僧徒一万八千の多きを数えたといわれる。なお、大唐西域記巻一には烏仗那を訛って烏荼といったことが記されている。
―――
仏種王
 善無畏三蔵和尚碑銘によると、7世紀ごろの烏茶国の王。仏手王とも書く。真言宗の祖師・善無畏三蔵の父。釈尊の叔父。甘露飯王の後裔でもある。もと中インドの人であったが困難を避けて烏茶国に入り王となった。とある。
―――
北天竺
 インドの北部をいう。
―――
金粟王
 北インドの国王で、詳細は不明。一説には迦膩色迦王ともいわれる。大毘盧遮那経供養次第法疏巻上によると、善無畏が北天竺の乾陀羅城に入った時、この国の王が善無畏に帰依し、とくに供養法を聞いたので、善無畏は金粟王が建てた塔の辺で祈ったところ、たちまちにその供養法が空中にあらわれたという。そこで、善無畏はこの法を写して、一本を国王に、一本は自ら所持した、とある。
―――
胎蔵界の曼荼羅
 親近密教の根本である両界漫荼羅の一つ。胎蔵界を図顕した漫荼羅をいう。金剛界曼荼羅の智性に対して理平等実相法性を表したもの。大日経にもとづき、大日如来の菩提心が、母の胎内にたとえられる大悲によって増長し、一切衆生を救済する意味を図示したもの。漫荼羅や形式は多くの説があるが、現在、日本に流布しているものは、弘法が伝えたもの。大日如来が定印を結んで座す中台八葉院を中心として十二大院からなり、前後に四重、左右に三重の大院がある。
―――
辺土
 片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
―――
千二百余尊
 真言宗の本尊のこと。胎蔵界に500余尊、金剛界に700余尊があり、あわせて1200余尊となる。
―――
種子
 真言密教で、おのおのの仏・菩薩を梵語の一文字で表現したもの。一字一字に意味を持たせ、阿等の一字が無量の義を生ずるものを、草木の種子にたとえた語。諸尊に各種子があり、所具の徳をあらわしている。
―――
尊形三摩耶
 尊形とは尊貴なる人の形体という意で、諸仏・菩薩の尊い姿、尊容のこと。三摩耶は梵語サマヤ(samaya)の音写。三昧耶とも書く。真言密教で、平等・本誓・除障・驚覚と釈している。
―――
東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
―――
獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
―――
閻魔王宮
 閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦広六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。
―――
十善戒
 正法念処経巻二に説かれている十種の善業道。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。十善戒とは、身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で十善道ともいう。即ち受十善戒経には「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破り、上、天上に生じ、梵天王となり、下、世間に生まれて転輪王となり十善を教化す」とある。
―――
菩提心
 悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある
―――
無量倶低劫
 数えることのできないほどの長時をいう。無量ははかることができないこと。倶低は梵語コーティ(koṭi)の音写で、倶胝とも書く。数の単位で、千万・億または京と訳す。劫は梵語カルパ(kalpa)の音写で、劫波、劫跛とも書く。長時・大時等と訳し、きわめて長い時間の意。長遠の時間を示す単位として用いられる。
―――
即身成仏
 凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――
観道
 観法の道のこと。真理を観ずる道。悟りを求める修行。
―――
両部潅頂
 金剛界・胎蔵界の両部の灌頂のこと。灌頂とは水を頭の頂に注ぐという意。元来は,インドの王の即位,立太子にあたり,大海の水を注ぐ儀式のこと。それが仏教に取入れられ,菩薩が最上の境地に入ろうとするとき,諸仏が智水を菩薩の頭に注ぎ,最上の位に達したことを認めること。
―――
大日覚王
 大日如来のこと。
―――――――――
 前章では、娑婆世界の一切衆生にとって、教主釈尊ほど縁が深く、大恩のある仏はいないことを明かされるとともに、当時の人々が法華経を根本にしないために、大日如来や阿弥陀仏等の他仏を本尊として、いかに教主釈尊の大恩を忘れているかを鋭く指摘された。
 それを受けて本章では、教主釈尊を本尊とし、法華経を最第一とするという道理に背くならば、どれほど偉大な智者であっても、悪道に堕すことは間違いないと断言され、その典型的な実例として、真言宗の元祖である善無畏三蔵が獄卒に責められたことを挙げられている。ここでは、善無畏三蔵が頓死するまでの、常人の及ばぬ数々の事蹟と類まれな智者ぶりを紹介されていきながら、それだけの人物が何故に、頓死後に、獄卒より閻魔王宮に連れていかれ、獄卒の責め苦にあったのかと、疑問を述べられている。
 この疑問に対する大聖人の答えは、次の章で明らかにされる。

0887:08~0887:17 第12章 善無畏の堕獄の理由を明かすtop
08                                        日蓮は顕密二道の中に勝れさ
09 せ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候いて 真言の秘教をあらあら習ひ 此の事を尋ね勘うるに一
10 人として答をする人なし、 此の人悪道を免れずば当世の一切の真言 並びに一印一真言の道俗・三悪道の罪を免る
11 べきや。
-----―
 日蓮は顕教・密教の二道の中で勝れていて、我等衆生がやすやすと生死を離れることのできる教えに入ろうと思って、真言の秘教を大体習い、このことを考え尋ねたとき、一人として答えられる人はいなかった。もし、この人が悪道をまぬかれないならば、どうして当世の一切の真言師、ならびに一度でも手に印を結び、口に真言を唱えたことのある出家・在家の人が三悪道の罪をまぬかれることができようか。
-----―
12   日蓮此の事を委く勘うるに二つの失有つて閻魔王の責に予り給へり、 一つには大日経は法華経に劣るのみに非
13 ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を 法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は
14 釈尊の分身なり 而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり、 此の謗法の罪は無量劫の間・千二百余
15 尊の法を行ずとも悪道を免るべからず、 此の三蔵此の失免れ難き故に諸尊の印真言を作せども 叶はざりしかば法
16 華経第二・譬喩品の今此三界.皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処多諸患難.唯我一人・能為救護の文を唱へて
17 鉄の繩を免れさせ給いき、
-----―
 日蓮がこの三蔵の事を詳しく検討してみると、二つの誤りがあって閻魔王の責を受けたのである。一つには、大日経は法華経に劣るだけでなく、涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばない経であるのに、法華経より勝れているとした謗法の誤りである。二つには、大日如来は、釈尊の分身であるにもかかわらず、大日如来は教主釈尊に勝れていると思った僻見である。この二つの謗法の罪は、たとえ無量劫の間、千二百余尊の法を修行したとしても悪道をまぬかれることのできない重いものである。
 それで、善無畏三蔵は、諸尊の印を結び真言を唱えても、この謗法の罪をまぬかれることができなかったので、法華経巻第二の譬喩品の「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護」という文を唱えて鉄の繩をまぬかれることができたのである。

顕密二道
 顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
真言の秘教
 真言宗の秘密の教え。大日如来を教主とする密教の教え。
―――
閻魔王
 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
―――
分身
 仏の化導する衆生はあまりに多く、一つの国土に収めきれない場合、他の国土に移し、仏自身も身を分かって、そこで化導する。これを分身散体の原理という。宝塔品の儀式において、仏は法華経の証明のために、多宝如来の十方の分身の諸仏がおのおの一人の大菩薩を率いて参集し広長舌相をもって法華経を証明するのである。
―――
無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――――――――
 善無畏三蔵が閻魔の責めにあった理由を、教法(法)と仏(人)の二つの観点から明らかにされている。
 その一つは、大日経は、涅槃経や華厳経、般若経等にさえ及ばない劣った経であるにもかかわらず、諸経典中最第一の法華経より大日経の方が勝れているとし、法華経を下した謗法のためである。これは「謗法の失」と仰せのように、正法たる法華経を誹謗した罪であり、教法の立場からの指摘である。
 二つは、本来、教主釈尊の分身にすぎない大日如来を、教主釈尊より勝れた仏として立てるという本末転倒の誤れる見解を抱き弘めた罪である。これは、仏(人)の立場からの指摘である。
 この二つの謗法の罪は、主・師・親三徳具備の教主釈尊を倒すとともに、その教主釈尊の出世の本懐を説いた法華経を下すのであるから、無間地獄に堕ちること間違いなき重罪である。顕謗法抄にも示されているように、五逆罪と誹謗正法(謗法)の二つが無間地獄に堕ちる極重罪である。なかでも、誹謗正法は、五逆罪よりはるかに重い罪であり、同抄で「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448-13)と、謗法の恐ろしさを述べられている。
 善無畏三蔵が五逆罪を造らなかったことは、前章で「今生は十悪は有りもやすらん五逆罪は造らず」(0887-02)と述べられているとおりである。したがって、最も重い誹謗正法こそが、善無畏三蔵の犯した罪ということになる。
 法華経の譬喩品には「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……若しは仏の在世 若しは滅度の後に 其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん 経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん 此の人の罪報を 汝今復(ま)た聴け 其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん……」と、法華経誹謗の罪業が無数劫もの間、阿鼻獄(無間地獄)に沈む報いを受けることを述べている。この譬喩品の金言どおり、善無畏三蔵は頓死した後、閻魔王宮で獄卒に責められたのである。
 ところで、日蓮大聖人が挙げられた二つのこと、すなわち、正法たる法華経を下したことと教主釈尊を仏として立てなかったことの二つは、結局は法華経誹謗の一つの罪に収まるとも考えられる。それは、本文中で、法華経を下したことを「謗法の失」といわれたのに対し、教主釈尊を大日如来より劣るとしたことを「僻見」といわれて、一往、区別されている。しかし、そのすぐ下の文で、二つの理由をまとめて「此の謗法の罪」とされているのも、ここからうなずけるのである。
 そして、本抄の第十章の御文でも「而るを諸大乗経による人人・我が所依の経経を諸経に勝れたりと思ふ故に教主釈尊をば次さまにし給ふ」(0886-01)と述べられているように、結局、教主釈尊を本尊として立てるか、大日如来や阿弥陀仏を立てるかは、いかなる経をその依りどころとするかによって必然的に決まってくる。善無畏三蔵の場合は、まず、法華経より大日経の方が勝れているとの誹謗正法の罪を犯したために、必然的に、大日経の教主、すなわち、大日如来を仏として立てる結果になったというべきであり、この関係は、念仏宗も全く同じである。
 ここから、日蓮大聖人が本抄において、冒頭から、まず法華経という経法の最高唯一性を力強く訴えられた後に、主・師・親三徳を具えた教主釈尊を本尊として立てるべきことを述べられた理由がわかるのである。
法華経第二・譬喩品の今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護の文
 善無畏三蔵は、獄卒の訶責の中でこの文を唱えて鉄縄の責め苦をまぬかれたという。
 何故に、この文を唱えて苦をまぬかれたかといえば、この文を唱えることは、法華経・釈迦仏に帰依することを表しているからである。
 この文は、教主釈尊が自ら娑婆世界の一切衆生にとって主・師・親三徳を具備した仏であることを宣言したものとして著名である。すなわち「今此の三界は 皆な是れ我が有なり」の文が、釈尊の主の徳を、「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」の文が、親の徳を、「而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」の文が、師の徳を、それぞれ表している。
 善無畏三蔵が、獄卒に責められる中で、この文を唱えて責め苦をまぬかれたということは、彼ほどの真言宗の大家でも、自らの立てた大日如来によっては救われなかったのであり、主・師・親三徳を具えた教主釈尊により救われたことを示すものである。それはまた「地にたう(倒)れたる人は・かへりて地よりをく」とあるように、教主釈尊を倒した誤りが原因で苦の世界に堕ちたのであるから、そこから逃れる道は、ただ誤りを正して教主釈尊に帰依する以外にないことを善無畏は身をもって示したといえるのである。
 なお、この譬喩品の文は、日蓮大聖人の元意の辺から読むならば、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人こそ主・師・親三徳を具えられた末法の御本仏であることを表しているのである。開目抄の「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)の御文と併せて確認しておきたい。

0887:17~0888:08 第13章 善無畏以後の誤りを破すtop
17              而るに善無畏已後の真言師等は 大日経は一切経に勝るるのみに非ず 法華経に超過せ
18 り、 或は法華経は華厳経にも劣るなんど申す人もあり此等は人は異なれども其の謗法の罪は同じきか、 又善無畏
0888
01 三蔵・法華経と大日経と大事とすべしと深理をば 同ぜさせ給いしかども 印と真言とは法華経は大日経に劣りける
02 とおぼせし僻見計りなり、 其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり、 印真言は又申すに及ば
03 ず謗法の罪・遥にかさみたり、 閻魔の責にて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず直に阿鼻の炎をや招くらん、 大日経
04 には本・一念三千の深理なし此の理は法華経に限るべし、 善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給
05 いしを盗み取つて大日経に入れ 法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、 理も
06 同じと申すは僻見なり 真言印契を得分と思ふも邪見なり、 譬えば人の下人の六根は主の物なるべし而るを我が財
07 と思ふ故に多くの失出で来る、 此の譬を似て諸経を解るべし劣る経に説く 法門は勝れたる経の得分と成るべきな
08 り。
――――――
 ところが、善無畏三蔵以後の真言師等は、大日経は一切経に勝れているだけでなく法華経にも超過しているといい、或は法華経は華厳経にも劣るなどという人もある。此等は人は異なってもその謗法の罪は同じといえよう。また善無畏三蔵は、法華経と大日経とはともに大事にすべき経典であり、その深理においては同じものであると考えたが、印と真言については、法華経は大日経に劣っていると思った僻見だけであった。それ以後の真言師等は、その大事の深理についても法華経が大日経に劣っていると思っている。印・真言について勝劣を立てることは、いうに及ばない。こうして、彼等の謗法の罪は、ますます積み重なっていった。閻魔の責によって堕地獄の苦を延期できるとも思えない。ただちに阿鼻の炎を招くであろう。
 大日経には、もともと一念三千の深理は説かれていない。この深理は法華経に限るのである。善無畏三蔵は、天台大師が法華経を読んで取り出された一念三千の深理を盗み取って大日経に取り入れ、法華経を荘厳するために説かれた大日経の印・真言を、大日経の勝れた部分であると思ったのである。したがって理についても、法華経と大日経とは同じであるというのは僻見である。真言・印契は大日経の勝れた部分であると思うのも邪見である。たとえば、下人の六根は主人のものであるべきである。それを自分の財産と思う故に、多くの誤りが出てくる。この譬えによって諸経を理解すべきである。劣る経に説かれている法門は勝れている経の得分となるべきなのである。

阿鼻
 阿鼻地獄のこと。阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
一念三千
 仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
―――
真言
 真言宗で立てる真言のこと。真言は梵語マントラ(Mantra)の訳。密呪・密語とも訳す。仏の真実のことばの意。諸仏の本誓・徳・梵名などを示す秘密語。梵語で表したもので、これを唱えれば不思議の功徳があるという。三密のなかの語密にあたる。
―――
印契
 真言宗で立てる印契のこと。印契は梵語ムドラー(Mudrā)の訳。印相とも、たんに印ともいう。手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の悟りや誓いを表したものをいう。三密のなかの身密にあたる。善無畏三蔵は、印・真言があるから真言宗が天台法華宗に勝れているとの説を立てた。
―――
六根
 目・耳・鼻・舌・身・意のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。六根の対境にあたるものが、六境または六塵で、六根が六境と関係して生ずる感覚を六識という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。また生命には意根があるから、こわいとか楽しい等の意識を生ずるのである。
―――――――――
 本章は、善無畏三蔵以後の真言師達が、善無畏三蔵の謗法の罪に加えて、ますます、謗法罪を重ねていることを述べられているとともに、併せて、真言宗の邪義を破折されている。
 真言宗の邪義には、前述したように、東密と台密という、二つの形態があり、ここでは、台密を主として破折されている。
 東密とは、弘法大師空海が東寺と高野山を中心に立てた真言密経のことで、法華経を釈迦応身仏の説いた顕教の中に入れ、大日法身の説いた密経に比べてはるかに劣るとあからさまに下すものである。それは、空海が、法華経を「無明の辺域」「戯論」と嘲笑したことにも明らかである。
 これに対して、台密は、日本天台宗の立てた密教である。最初、伝教大師最澄は法華経を根本に、絶待妙の立場から、密経をとり入れたが、円仁、円珍、安然と下るにともない、法華経と大日経は円理において一致するが、事相において大日経の方が勝れていると、〝理同事勝〟を主張し始め、さらに時代が下るにしたがい、ついには、理も事も大日経の方が勝れていると主張して、全く東密の考えと同じになっていくのである。本章で、大聖人が主として、台密の〝理同事勝〟の邪義を破折されているのは、旧師・道善房のいる清澄寺が円仁(慈覚)の再建になる房総第一の天台宗の名刹であり、台密の系統に連なる寺であったためと考えられる。
理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり
 真言宗で説く〝理同事勝〟の邪義を端的に破折された御文である。
 「理も同じと申す」とは〝理同〟のことで、法華経に説かれている二乗作仏・久遠実成・一念三千などの法理は大日経にも同じく説かれている、という主張である。
 しかし、日寛上人が三重秘伝抄で破折されているように、例えば、二乗作仏についてみると、真言宗では「大那羅延力」の語を、こじつけて二乗作仏の依文としているのみである。ここには未来成仏の記別に必要な劫・国・名号がない。故に、二乗作仏が説かれているといっても全く実体がないのである。また、久遠実成についても大日経の「我一切本初」という文の〝本初〟を、寿量の義であるとしている。しかし、ここでいう一切の本初である「我」とは、隔歴の単法身 (法・報・応の三身が別々に説かれた中の法身)にしかすぎず、法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の仏が三身円融・三身即一身の法身であるのに対して、歴然とした違いがある。こうして大日経には二乗作仏・久遠実成が説かれていないのであるから、一念三千の法理がないことは明らかである。
 にもかかわらず、大日経にも一念三千の義があると主張したのは、盗作したからにほかならない。大聖人が、本章で「善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ」と述べられ、開目抄でも「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて」(0215-18)と述べられているとおりである。 
 このゆえに〝理同〟の義は全く僻見でしかないのである。
 つぎに「真言印契を得分と思ふ」とは〝事勝〟のことで、大日経には、法華経にはない印契(印)と真言の事相が得分としてあるから、この点で大日経の方が勝れているとする邪義である。
 これに対して、大聖人は「法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言」と簡単にしりぞけられている。印とは、仏・菩薩の悟りの内容を表示する手つきや器具のことで、真言とは、仏・菩薩の誓や徳を示す秘密語である。たしかに、大日経には印・真言が数多く説かれているが、それは、法華経の中に説かれていたものを荘厳するためのたんなる飾りにすぎない、と大聖人は破折されている。
 さらに、文永元年(1264)の法華真言勝劣事では「法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり」(0123-17)として、二乗作仏・久遠実成を説かない大日経には成仏の義が成立しないことになり、印・真言の事相があるといっても、所詮、虚妄であり、内容のない飾り物にすぎないと破折されているのである。

0888:09~0888:16 第14章 立宗以来の折伏を述べるtop
09   而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智
10 者となし給へと云云、 虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて 明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其の
11 しるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ、 殊には建長五年の比より今文永七年に至る
12 まで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に 禅宗・念仏宗の学者・蜂の如く起り雲の如く集る、是をつむ
13 る事・一言二言には過ぎず 結句は天台・真言等の学者・自宗の廃立を習ひ失いて我が心と他宗に同じ在家の信をな
14 せる事なれば彼の邪見の宗を扶けんが為に天台・真言は念仏宗・禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり、 此
15 れは日蓮を破する様なれども我と天台・真言等を失ふ者なるべし能く能く恥ずべき事なり。
16   此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。
――――――
 さて、日蓮は安房の国・東条の郷にある清澄山の住人である。幼少の時から虚空蔵菩薩に願いを立て「日本国第一の智者にしてください」と祈っていたところ、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ、明星のような智慧の宝珠を授けてくださったのである。その証拠であろうか、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗などの教義の大綱をほぼうかがい知ることができた。
 建長五年のころから今年文永七年に至るまでのこの十六、七年の間は、なかでもとくに禅宗と念仏宗とを非難してきたので、禅宗・念仏宗の学者達が蜂のように群がり起こり、雲のように集まって騒ぎ立て攻めてきた。だが、これを論詰するのに一言二言で十分すぎるほどであった。
 最後には、天台宗や真言宗の学者達までが、自宗の依って立つ教義における廃立の立て分けを忘失して、自分からすすんで他宗(念仏宗・禅宗)に同意し、あるいは在家の人々が信仰していることだからといって、念仏・禅の邪見の宗を助けようとして、思案をめぐらし「天台・真言は念仏宗・禅宗と同じである」などといって、日蓮を破ろうとするのである。しかし、真言宗・天台宗の学者たちのやり方は、日蓮を破るように見えるけれども、その実、自分自身の手で天台・真言の立場を失う者となっているのである。まことにまことに恥ずべき行為である。
 このように、諸経・諸論・諸宗の誤りを弁え理解することができた事は、ひとえに、虚空蔵菩薩の御利益であり、旧師・道善御房の御恩なのである。

安房の国
 現在の千葉県南端部にあたる古地名。房州とも呼ばれた。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の4郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同六6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。
―――
東条の郷
 東条郷は安房国長狭郡の内の一郷である。後、東条氏の興隆によって独立した一郡となったようである。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海に誕生された。
―――
清澄山
 千葉県安房郡天津小湊町(現在の千葉県鴨川市)の山。妙見山ともいい,標高は380㍍余り。安房国と上総国の境をなしていた。山上に清澄寺があり、日蓮大聖人はここで剃髪し、鎌倉、叡山等で修学後、建長5年(1253)にこの地で立教開宗された。
―――
虚空蔵菩薩
 梵語アーカーシャガルバ(Âkâśagarbha)の訳。智慧と福徳の二蔵が虚空のように広大無辺であるところから名づけられた菩薩。形像には諸説があり、その一つは蓮華座に坐して五智宝冠を戴き、右手に智慧の利剣、左手には福徳の蓮華と如意宝珠を持って描かれている。
―――
念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
廃立
 釈尊一代聖教を説法の順序・説教の浅深などによって分類し、体系づけて勝劣を判別し、仮を廃捨して真実を建立すること。
―――
御利生
 衆生を利益すること。利益衆生の意味。
―――
道善御房
 (~1276)。安房国東条郷清澄寺の住僧。日蓮大聖人出家剃髪の師である。しかし、臆病であり小心であったようで、大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年には法華経に帰依したが、地頭の権威を恐れて、念仏を捨て切れずに一生を終わったようである。死後、大聖人は師の恩を報ずるために報恩抄をしたため、同門の兄弟子である浄顕房・義浄房のもとへ送られている。
―――――――――
 本抄は、前章までに展開されてきた真言宗の破折に関連して、本抄を執筆された文永7年(1270)に至るまでの日蓮大聖人の御半生を簡潔に回顧されている。そして、そのすべては、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の御恩の賜物であると述べられ、次の最終章で、師への報恩を諄々と語られるのである。
幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云
 日蓮大聖人が幼少の時に虚空蔵菩薩に祈願されたことを回顧された御文は、本抄の他に二つある。すなわち
 「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(0893-06)。
 「幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ」(1292-17)。
 さて、虚空蔵菩薩とは、原名をアーカーシャガルバ(Âkâśagarbha)といい、その智慧、功徳、慈悲が虚空のように無尽蔵にあり、すべての衆生が求めるところのものを自在に与える能力があるところからこの名があるという。
 日蓮大聖人が12歳の時に登られた清澄山の清澄寺には、この寺の創建者・不思議法師の彫刻と伝えられる虚空蔵菩薩が安置されていた。その菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と請願されたところ、明星のような智慧の宝珠を授けられ、それより一切経を拝見されたところ、一切経と日本国の八宗の勝劣をほぼ知ることができたと述べられている。この大聖人の幼少時の不思議な体験については、大聖人御自身、「十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」(1292-18)と述べられていることでもあり、私達凡愚の知る能わざるところである。
 ただ、私達としては、十二歳という幼少時において「日本第一の智者となし給へ」と祈願された大聖人の仏法求道における目的感・使命感の壮大さに、末法の御本仏の御内証を拝するばかりである。

0888:16~0890:15 第15章 真言開眼の邪義を示すtop
16                                             亀魚すら恩を報ず
17 る事あり何に況や人倫をや、 此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、 而る
18 に此の人愚癡におはする上念仏者なり 三悪道を免るべしとも見えず、 而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、
0889
01 然れども文永元年十一月十四日・ 西条華房の僧坊にして見参に入りし時 彼の人の云く我智慧なければ 請用の望
02 もなし、 年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず 世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、
03 又我が心より起らざれども事の縁有つて 阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、 此の科に依つ
04 て地獄に堕つべきや等云云、 爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども 東条左衛門入道蓮智が
05 事に依つて此の十余年の間は見奉らず 但し中不和なるが如し、 穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれと
06 は思いしかども 生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、 此の人の兄道義房義尚此の人に向つて
07 無間地獄に堕つべき人と申して有りしが 臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、 此の人も又しかるべしと哀
08 れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、 阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし 其の故
09 は 正直捨方便の法華経に釈迦如来は 我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、 我が伯父をば五体まで作り供
10 養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、 中中・山人・海人なんどが東西をしらず
11 一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、 当世の道心者が後世を願ふとも 法華経・釈迦仏をば打ち捨て阿
12 弥陀仏念仏なんどを 念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、 打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨て
13 て他人につく失免るべしとは見えず、 一向悪人はいまだ仏法に帰せず 釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ず
14 る辺もや有らんずらん、 善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す
15 人人は多生曠劫をふるとも 此の邪見を翻へして釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず、 されば雙林最後の涅槃経
16 に十悪・五逆よりも過ぎて おそろしき者を出ださせ給ふに 謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒
17 へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば 此の人もこころえずげに 思いておはし
18 き、 傍座の人人もこころえずげに・をもはれしかども 其の後承りしに法華経を持たるるの由承りしかば此の人邪
0890
01 見を翻し給ふか善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に 又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし、 当座には強なる
02 様に有りしかども 法華経の文のままに説き候いしかばかうおれさせ給へり、 忠言耳に逆らい良薬口に苦しと申す
03 事は是なり。
――――――
 亀ですら恩を報ずることがある。まして人間においてはなおさらである。この師恩を報ずるために清澄山において仏の正法を弘め、道善御房を導こうと願ったのである。ところが、この人は愚癡であるうえに、念仏者である。とても、三悪道からまぬかれるとは思えない。しかもまた、日蓮の教訓を受け入れてくれる人ではない。そうではあるけれども、文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にてお会いした時、かの人(道善房)がいうのには「私は智慧がないので、高い地位に登用されることを望んでもいない。年老いて名聞を求めようとすることもないので、念仏の名僧をも師匠に立てない。世間に弘まっていることであるから、ただ南無阿弥陀仏と申しているだけである。また、私の心から起こったのではないけれども、何かの縁があって、阿弥陀仏を五体までもお作りした。これもまた、過去の宿習であろう。その罪によって地獄に堕ちるであろうか」と。
 その時に、日蓮が心に思うには、師とあえて仲違いするつもりはないけれども、東条左衛門入道蓮智の事件によって、この十余年の間は、お会いすることはなかったので結局、仲違いしているようなものであるから、穏便の義をもって、穏やかに申し上げることこそ礼儀であるとは思ったけれども、生死の世界の習いは老少不定である。また二度とお会いすることも難しいだろう。私は、この人の兄の道義房義尚に向かっても無間地獄に堕ちるべき人といっておいたが、臨終はやはり思うようにいかなかったらしい。この人もまたそうなるであろうと哀れに思ったから、思い切って強く申し上げたのである。
 「阿弥陀仏を五体作られたことは、五度無間地獄に堕ちなければならない。その理由は、正直捨方便といわれた法華経に、釈迦如来は我らの親父、阿弥陀仏は伯父であると説かれている。我が伯父を五体までも作り供養されながら、親父を一体も造られないのは、まことに不孝の人としかいいようがない。むしろきこりや海人などのように、東西を知らず、一善をも修しない者の方がかえって罪の浅い者なのである。今の世の道心のある者が後世を願いながら、法華経・釈迦仏を打ち捨てて、阿弥陀仏・念仏などは一瞬も捨てずに念じているのは、どういうものであろうか。ひとめ見たところは善人に見えるけれども、親を捨てて他人につくあやまちはまぬかれられるとは思えない。全くの悪人は、いまだ仏法に帰依していない一方、釈迦仏を捨てるようなあやまちもない。したがって縁があれば信ずることもあるだろう。善導・法然、ならびに今の世の学者等の邪義について、阿弥陀仏を本尊としてもっぱら念仏を称える人々は、多生曠劫を経たとしても、この邪見をひるがえして釈迦仏・法華経に帰依するとは思えない。それゆえ、釈尊が沙羅双樹の下で最後に説かれた涅槃経には、十悪・五逆罪よりもはるかに恐ろしい罪の者をとり挙げているが、それは、謗法闡提といって、二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒っている智者達の中にこそいるのであると説かれております」。
 このように、こまごまと申し上げると、この人はあまり理解できないという様子でおられた。また、傍にいた人々もよくわからないという様子であったけれども、その後承ったところでは法華経を持つようになった旨聞いたので、この人は邪見を翻されたのであろうか。とすれば善人になられた、と悦んでいたところに、また、この釈迦仏を造られた事は、口ではいえぬほどの喜びである。その当座には厳しいように思えたけれども、法華経の文のとおりに説いたので、このように心を従われたのである。忠言耳に逆らい、良薬口に苦しというのはこのことである。
 今やすでに日蓮は師の恩を報じた。きっと仏神もこれを納受してくださるであろう。おのおのこのことを道善房に申し聞かせてください。たとえ強い言葉であっても人をたすければ実語・輭語である。たとえ輭語であっても人を誤らせれば妄語・強言である。今の世の学者等の法門は輭語・実語と人々は思っているけれども、すべて強言・妄語である。仏の本意である法華経に背くからである。
 日蓮が「念仏を申す者は無間地獄に堕ちる。禅宗・真言宗もまた誤った宗である」などというのは一見、強言のように思えるけれども実語・輭語なのである。たとえばこの道善御房が法華経を信受し釈迦仏を造られた事は日蓮の強言から起こったのである。日本国の一切衆生もまた同様である。今の世でこの十余年以前までは、もっぱら念仏者であったが、今では十人のうち一、二人はもっぱら南無妙法蓮華経と唱え、二、三人は両方唱えるようになり、またもっぱら念仏を申す人も疑いを抱いて、心の中では法華経を信じ、また釈迦仏を書いたり、造るようになった。これもまた日蓮の強言から起こったのである。たとえば栴檀は伊蘭(いらん)より生じ、蓮華は泥より生え出るようなものである。
 しかるに「念仏は無間地獄に堕ちる」といったことに反発して、今の世の牛馬のような智者達が日蓮の法門をかりそめにも毀る姿は、糞犬が師子王を吠え、癡かな猿が帝釈を笑うのに似ている。
  文永七年              日 蓮  花 押
   義浄房浄顕房

亀魚すら恩を報ずる事あり
 中国・晋代の軍人であった毛宝が昔助けた亀に命を救われたという故事。晋書毛宝伝等にある。毛宝が、ある日、市場で白い亀を買い、しばらく大切に育てた後、川に放してやった。後、予州の刺史となって邾城を守っていた時、大軍に攻められ、城は陥落した。河岸へ逃がれ、河中に入って逃げようとした時、多くの者は皆沈んでしまったが、毛宝のみは、思い鎧を着ていたにもかかわらず、昔、放った亀があらわれて助けてくれたので、無事対岸までたどり着けたという。
―――
西条花房の僧房
宿習
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東条左衛門入道蓮智
 東条景信のこと。生没年不明。大聖人御在世当時の安房国長狭郡東条郷の地頭。強信な念仏者であった。大聖人の立教開宗以来、ことごとく大聖人に敵対した。文永元年(1264)11月11日、故郷へ帰られた大聖人を小松原で襲い、弟子を殺害し、大聖人にも疵を負わせた。
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生死界
 悩み・苦しみの世界のこと。生死は一切衆生が繰り返す生・滅のこと。生死輪廻して解脱することのできない苦の境界をいう。
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道義房義尚
 生没年不明。大聖人御在世当時の安房国・清澄寺の住僧。道善房の兄、あるいは法兄といわれる。西堯房、円智房とともに大聖人に敵対した。
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正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
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山人
 山中に住む賤しい身分のもの。きこり・やまびと・猟師。
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海人
 海や湖で魚介類を取ることを職業とする人。漁師。
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多生曠劫
 何回もこの世に生まれては死に、死んではまた生まれるというように、多くの生を受けて長い劫数を経ること。曠劫とは遠く久しき時間をいい、とくに過去に長い時間をいう。
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雙林最後の涅槃経
 雙林とは拘尸那城跋堤河のほとりの沙羅雙樹の木のこと。沙羅とは梵語で樹名、釈迦は一木二双四方八株の沙羅雙樹に四方を囲まれた中において八十歳の年の二月十五日に入滅した。そのとき沙羅雙樹がことごとく白くなり、あたかも白鶴のように美しかったという。それで沙羅林を鶴林ともいう。釈迦の入涅槃の時と処を象徴して、雙林最後といい、そのときの説法である涅槃経を雙林最後の涅槃経というのである。涅槃経は法華経の流通分にあたる。
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謗法闡提
 「謗法」とは、誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。「一闡提」とは、梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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三衣一鉢
 僧が身につける三種の法衣と、物を乞う時に用いる鉄鉢一個のこと。僧のあるべき姿・行儀をいう。僧の生活が質素であるべきことを表示しており、僧の所有すべき限度をさす。なお三衣については経論によって諸説があるが、四分律資持記巻下等には①僧伽梨(大衣)、②鬱多羅僧(上衣)、③安陀会(中衣)とある。
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実語・輭語
 実語とは真実の言葉。妄語に対する語。輭語とはやわらかい言葉。意を尽くしている語。麤語、また強言に対する語。法華経方便品第二に「如来は能く種種に分別して、巧みに諸法を説き、言辞は柔軟にして、衆の心を悦可せしめたまう」とある。
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栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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伊蘭
 梵語エーランダ(Eranda)の音写。トウゴマ(唐胡麻)の一種。屍のような悪臭を放ち、その臭気は四十由旬の遠方にも及ぶといわれる。種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。
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師子王
 ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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義城房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。
―――
顕房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。
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 日蓮大聖人の破折顕正の折伏弘教の活動が、旧師・道善房への報恩のためであることを述べられるとともに、旧師が法華経・釈迦仏に帰依したことにより、報恩が成就したことを心から喜ばれている。本抄の別名「師恩報酬抄」は、この大聖人の旧師を思う報恩の姿から付けられたものである。
 前章で、大聖人は、とくに念仏宗・禅宗を中心に諸宗を論破されてきた建長5年(1253)より文永7年(1270)までの16、7年間を回顧されて、それがひとえに、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の報恩の賜物(たまもの)であると述べられたが、本章では、旧師への報恩についてのみ記されている。それは、虚空蔵菩薩の御利生への報恩は、ある意味では、諸宗折伏によって法華経の正法を宣揚された不惜身命の実践の中で尽くされているからではなかろうか。なぜなら、虚空蔵菩薩が大聖人に授けた明星のような智慧によって、一切経と八宗の勝劣が明らかになったのであり、諸宗の勝劣を日本の既成仏教界に宣明することが、そのまま、虚空蔵菩薩の御利生を生かす道であったからである。それに対して、幼少時の大聖人を仏教に導き、虚空蔵菩薩にひき合わす縁になった旧師・道善房の場合は、道善房自身が謗法の邪義に迷っている凡夫である。
 故に、大聖人は、その仏法上の誤りに目覚めさせ、成仏への正しい道へ導くことが、真実の報恩の行為であると深く確信されたのである。本章に「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」と、述懐されているとおりである。
 後に著された報恩抄では「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず……内典の仏経に云く『恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり』等云云」(0293-05)と、明確に、父母・師匠・国主の恩に報いる真実の道を述べられている。つまり、正法を究めるまでは、恩ある父母・師匠・国主等の心に随わず、世俗的な恩を捨てるほどの決意がなくてはならないし、そのようにして正法を究めたのちに、その正法の下に、父母・師匠・国主を導いていくのが、真実の報恩の道であるというのが、日蓮大聖人の終生変わらぬお考えであった。
 どこまでも、出世間の仏法の真理を第一義にされ、そのうえで世間的な恩を大切にされる日蓮大聖人の厳しいまでの報恩の在り方に、私たちは信仰者としての生き方を学んでいきたいものである。
 なお、本章で、日蓮大聖人が、文永元年(1264)11月14日、西条花房の僧坊で、旧師・道善房に対面された場面を回想されているくだりがある。日蓮大聖人は、弘長3年(1263)に伊豆流罪を赦免になられて後、翌文永元年(1264)の10月には故郷・安房に帰られ、母親の重病を治されている。しかし、同11月11日に、小松原で東条景信の襲撃を受けられて、門下の鏡忍房、工藤吉隆が討ち死にし、ご自身も額(ひたい)に傷を負われるという難にあわれた。
 道善房との対面は、この小松原法難の直後のことであり、おそらく、西条華房の僧房に難を避けられ、傷を癒されていた大聖人を、師・道善房が見舞ったことにより久方ぶりの対面となったのであろう。
 この時の対面で、大聖人は、阿弥陀仏信仰が堕地獄の因であること、法華経・釈迦仏を立てこれに帰依してはじめて救われることを、かなり厳しく道善房に諌言されている。大聖人御自身、〝強言〟といわれているように、厳しいものであったが、道善房を無間地獄に堕としてはならない、との深い慈悲と真実の報恩の一念から発せられたのであった。ついに、この大聖人の師を思う心に動かされて、道善房も、後に、法華経を受持し、釈迦仏を造立するに至るのである。このことを、日蓮大聖人は「今既に日蓮・師の恩を報ず定めて仏神・納受し給はんか」と喜ばれているのである。
仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ・輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり
 強言は、強く厳しく相手に訴えていることばであり、輭語は、軟語で、柔らかくやさしいことばである。しかし、大聖人は、ことばが強いか柔らかいかは、たんに形式の上の事で判断すべきものではなく、あくまで、ことばにこめられた内容とそれを語る人の心によって決まるものであることを、ここで述べられている。
 どれだけ強く相手の非を責めることばであっても、相手を深く思い、相手を救おうとする慈悲の一念から発せられたものは嘘のない実語であり、真の意味で、やさしく柔らかい軟語になるのである。
 逆に、表面的には、いかにやさしく柔らかそうなことばで語っていても、相手を思う慈悲の心ではなく、無責任な冷酷な心から出たものであれば、結局、相手を傷つけ、不幸に陥れることになり、これほどの強言もないことになるのである。すなわち、大聖人のいわれる強言とは、相手の人生を狂わせ、不幸にすることばを指し、逆に、軟語とは、人を救い、地獄の責め苦を免れさせる慈悲のことばを指しておられるのである。故に「日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし」と仰せなのである。
 ここから、私達は、大聖人の仏法における折伏の本義の一端をうかがい知るとともに、偽りの〝軟語〟の中に真実を見失い、人間不信を深めゆく現実世界にあって、慈悲の心で結ばれた、信頼の絆の確立を目ざしていきたいものである。

0891~0891    佐渡御勘気抄top
0891:01~0891:05 第一章 値難の悦びを述べるtop
0891
佐渡御勘気抄    文永八年十月    五十歳御作   与円浄房    於佐渡
01   九月十二日に御勘気を蒙て 今年十月十日佐渡の国へまかり候なり、 本より学文し候し事は仏教をきはめて仏
02 になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、 仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・
03 をしはからる、 既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経を
04 よむにて候らめと、 いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、 死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつる
05 べし、
――――――
 九月十二日に幕府からのとがめを受けて、今年十月十日に依智をたち、佐渡の国へ出発する。
 もともと、学問をしたのは仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからである。仏になる道は、かならず命を捨てるほどのことがあってこそ仏になるであろう、と思われる。すでに法華経の経文に「この経を弘める者は悪口され、ののしられ、刀で斬られ、杖で打たれ、瓦や小石を投げつけられ、たびたび所を追われる」と説かれているとおり、このような目にあうことこそ法華経を身に読むことであろうと、いよいよ信心も起こり、後生のこともたのもしい思いである。私が死んだならば、かならずあなた方をもお助けするであろう。

御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
―――
学文
 学問のこと。
―――
悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出
 法華経勧持品第十三の二十行の偈の中に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん(中略)数数擯出せられ 塔寺を遠離せん」とある。また法華経常不軽菩薩品第二十には「四衆の中に、瞋恚を生じて、心不浄なる者有りて、悪口・罵詈して言わく(中略)或は杖木・瓦石を以て、之れを打擲すれば」とある。これらは法華経の行者が受けるであろう難を示したものである。日蓮大聖人があわれた難のおもなものを挙げれば次のとおりである。杖の難としては、文応元年(1260)8月27日、大聖人が鎌倉松葉谷の草庵で捕えられる時、少輔房に法華経第五の巻で顔を打たれたこと。刀の難としては、文永元年(1264)11月11日、安房国東条郷小松原で地頭の東条景信の一行に襲われ、頭に傷を受けたことや、文永8年(1271)9月12日、鎌倉の竜の口で幕府の兵士によって斬首されようとしたこと。数数見擯出という二度以上にわたって所を追われる難は、弘長元年(1261)5月12日、伊豆伊東に流されたことと、文永8年(1271)10月10日の佐渡流罪である。
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――――――――
 本抄は文永8年(1271)10月、日蓮大聖人が50歳の御時、佐渡へ御出発の直前、相模国依智から安房清澄寺の知人へ与えられた書で「与清澄知友書」ともいわれる。
 「九月十二日に御勘気を蒙て」の書き出しで始まるように、文永8年(1271)9月12日の午後、日蓮大聖人は、平左衛門尉頼綱や極楽寺良観など諸宗の怨嗟と憎悪の念による策謀で、罪状もなく不法に逮捕され、正当な裁判もないまま即座に「佐渡流罪」の判定を下された。身柄は「武蔵守殿御あづかり」となったのである。
 しかし、それは表向きにすぎなかった。「外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべし」(1413-11)と、平左衛門尉らは、同日の深夜、竜の口での処刑を図ったのである。しかし、いかなる権力も、武力も、大聖人の光輝に満ちた、清浄で、力強い御本仏の御生命を破壊することはできなかった。
 日蓮大聖人はこの竜の口の法難のあと「午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ」(0914-10)と述べられているように、北条宣時の家人であった相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の館へ入られたのである。依智は現在の神奈川県厚木市の北部にあり「依知」と書く。
 「依智にして二十余日」とどめ置かれた末、冬の北風が吹き渡る10月10日、大聖人は佐渡へと旅立たれた。随行するのは日興上人はじめ数人の弟子のみだった。なお本間重連は佐渡の国の守護代でもあった。
 文永8年(1271)10月28日、大聖人は佐渡・松ケ崎に着かれ、11月1日に、配所の塚原三昧堂へ入られている。本抄は「十月 日」と日付不詳であるが、「十月十日佐渡の国へまかり候なり」の御文意から依智を御出発になる直前におしたためのお手紙であろう。
 本抄は、もとより御消息であるから、題号の「佐渡御勘気抄」は、こうした一連の事情を背景とした内容に即して、後世に付されたものである。御真筆は現存していない。
 本書をいただいた人についてはつまびらかではないが、本抄の文中で、旧師・道善房や領家の尼へよろしくと仰せられているところから、清澄寺大衆中のおもだった一人であったと思われ、円浄房ともいわれる。
 なお、本抄を佐渡へ御到着直後の御述作とする説もある。
 本章では、仏になるためにはかならず身命におよぶほどの大難があり、いま日蓮大聖人が佐渡流罪など数々の大難にあわれているのも、みな法華経の故であり、法華経を色読している証明にほかならないことを述べられている。
 当時の佐渡への流罪は、死罪に次ぐ重罪であった。師のこの値難に、弟子檀那の中には臆病になり、難がふりかかってくることを怖れて、退転するものも出た。退転者の心に共通していた疑いは「大聖人は真実の法華経の行者なのであろうか」という大聖人御自身に対する疑いであった。
 すなわち、大聖人が正しい法華経の行者であるなら、諸天の加護があるはずであり、流罪になるわけもないという疑いであった。
 こうした弟子檀那の心中に広がりゆく疑いの暗雲に対し、意を尽くして答えられたのが、3か月後の翌文永7年(1270)2月御述作の開目抄であるが、本抄も短文ではあるが同趣旨のものである。
 「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136-05)と仰せのように、仏道を全うすることはまことに厳しく、平坦ではない。「身命をすつるほどの事ありてこそ」とあるごとく、不惜身命の信心が望まれるからである。
 日蓮大聖人の御一生は立宗から後入滅になるまで、受難の連続であった。「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(0200-17)という忍難の歴史であり、それも身命におよぶような大難ばかりであった。
 その数々の大難は、待っていて自然に訪れたのではなく「睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233-05)と仰せのように、大聖人みずからが積極的に謗法を訶責し、呼び起こされた難なのである。
 「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に」(1056-13)と諸宗の誤りの本源を鋭く指摘し、強折した結果、反論できない諸宗の僧が権力と結託して加えてきた迫害である。
 邪義を根底に権威を築き上げ、栄華を誇っているものに、その邪義を土台に打ち砕こうとするならば、反動が起こるのは理の当然といえよう。
 日蓮大聖人は、もとより受難を覚悟のうえのことであられた。末法の法華経の行者の出現を予言した未来記・法華経の文々句々ことごとく身業読誦している大確信に立たれていたからである。
 とりわけ、勘持品の二十行の偈を身をもって読まれたのは、大聖人御一人であられた。大聖人の御出現がなければ、釈尊の予言はことごとく妄語になるところであった。
 開目抄に「今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」(0202-13)と。
 また「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-17)と仰せのとおりである。
 右の御文にお示しのごとく、釈尊の法華経の文と日蓮大聖人の御振る舞いとが符合することをもって、我が身が法華経の行者、すなわち末法の本仏であるとの証拠とされているのである。
 また、身業読誦は、仏説を色心ともに読む、つまり実践的体験の大切さを強調し、口やことばのみの読誦を戒められたとも拝せる。
 我々は、この御本仏日蓮大聖人みずから身をもって示された死身弘法、不惜身命の信心を学びとり、自己の血肉としていかなければならない。

0891:05~0891:07 第二章 先人受難の例を引くtop
05     天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頚をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、 漢土に竺の道生と
06 申せし人は蘇山と申す所へながさる、 法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、 是れ皆法
07 華経のとく仏法のゆへなり、
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 インドにおいて、師子尊者という人は檀弥羅王に頚をはねられ、提婆菩薩は外道に突き殺されている。中国においては、竺の道生という人が蘇山という所へ流されている。法道三蔵は顔に火印をあてられて江南という所へ流された。これはみな法華経の徳、仏法のためである。

天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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師子尊者
 師子比丘ともいう。6世紀ごろの中インドの人で、付法蔵の最後の伝灯者。付法蔵因縁伝巻六によると、師子尊者は北インドの罽賓国で法を説き弘めたが、国王檀弥羅は邪見の心が盛んで敬信せず、塔寺を壊し、衆僧を殺害した。景徳伝灯録巻二によると、檀弥羅王は師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ち、7日の後に命が終わったという。
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檀弥羅王
 付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
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提婆菩薩
 迦那提婆のこと。迦那とは片目の意。三世紀ごろの南インドの伝灯者で付法蔵第14祖。提婆菩薩伝によると、バラモン出身で竜樹菩薩の弟子となった。昔、大自在天の請いによって一眼を供養したため片目となったという。南インドで外道に帰依している王を救うため、外道の論師を多く破折したが、彼らの弟子の一人に恨まれて殺された。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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竺の道生
 中国・東晋代の僧。高僧伝巻七によると、竺法汰にあって出家し、のちに鳩摩羅什の弟子として修行、羅什門下四傑の一人となる。法華経の義によって頓悟成仏の説を立て、「二諦論」「仏性当有論」等を著わし、これに反対する守文の徒と論争した。さらに法顕訳の「般泥洹経」を学び、闡提成仏の義を立てたことにより、衆僧に怨嫉・擯斥されて蘇州の虎丘寺へと去った。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
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蘇山
 中国・江蘇省東南部蘇州城にある虎丘山ことと思われる。
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法道三蔵
 中国・宋代の僧。初め永道と称した。仏祖統紀巻四十六によると、宣和元年(1119)、北宋第八代の徽宗皇帝が、詔を下して仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称を用いるとして、道教を庇護し仏教を弾圧した。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。法道は宣和7年(1125)に許されて帰ったが、徽宗は靖康2年(1127)、家族とも金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
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かなやき
 鉄の焼き印。
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江南
 中国の揚子江以南の地域をいう。
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 本章では、仏法流布のために難にあったインド・中国の先人の例を挙げ、正法流布には受難は不可避であり、不惜身命の実践の大切さを御教示されている。ここに挙げられている四人は直接、法華経を宣揚した人ではないが、その時代にあって正法をたもち守ったことは究極的には法華経を守ったことにつながり、その意味から「法華経のとく」といわれているのであろう。
 いずれの時代にあっても、先駆的な思想に受難は常のことであった。まして人間の平等の尊厳と、生き方の根本を教える仏教が、とくに差別意識の強い時代、国土に弘まるなかで、強い圧迫を受けるのはやむをえなかったことであろう。
 東洋史をたどってみても、国のほとんどが専制主義であっただけに、主君は、しばしば仏教徒を迫害している。
 本章にみられる師子尊者を殺害した壇弥羅王や、法道三蔵を流罪した徽宗皇帝、またいわゆる「会昌の廃仏」を断行し中国仏教を壊滅的に弾圧した唐の武宗等がそれである。しかも仏教迫害の陰には、バラモンないしヒンズー教、儒教・道教の僧、修道者が、時の権力者を籠絡している事実が認められるのである。
 まして法華経の法理は、一切の人々の根本的平等と、絶対的な尊厳を主張し、階級打破を唱えたものであり、また「法華折伏・破権門理」の仏意のまま邪法邪義を破折し、謗法の者と戦っていけば、どうしても怨嫉による受難はまぬかれないのである。
 哲学的裏づけや正当性のない宗教ほど、政治権力と結託し、正法に圧迫を加えてきたといえる。
 日蓮大聖人御在世の時代においては、極楽寺良観、建長寺道隆などの諸宗の僧が、保身と勢力拡大欲から幕府の権力の庇護を欲し、結託していた。
 彼等は鎌倉時代の激動期にあって、わずかの仏法の知識をふりかざし、巧みに法を説いて人々の歓心を買い、生き仏のごとく尊敬されて、得意然としていた。それに対して大聖人は破邪顕正の強折を加えられたのである。何一つ反論できない彼らはあわてふためき、「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911-03)、「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416-16)と仰せのごとく、卑劣な策謀をめぐらして幕府権力者を動かし、大聖人を迫害したのである。

0891:07~0891:11 第三章 故郷の人々を励ますtop
07              日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身
08 を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、 各各なげかせ給うべからず、 道善の御房
09 にも・かう申しきかせまいらせ給うべし、 領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども先かかる身のふみなれば・なつ
10 かしやと・おぼさざるらんと申しぬると便宜あらば各各・御物語り申させ給い候へ。
11       十月 日                                  日蓮花押
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 日蓮は日本国の東国の片田舎の者で、安房の国東条の郷・海辺の旃陀羅の子である。むなしく朽ちるであろうこの身を法華経のために捨てることができるのは、ちょうど石を金にかえるようなものではないか。あなた方は、嘆かれてはならない。道善の御房にも、このように申し聞かせてください。領家の尼御前にも御手紙をと思ったけれども、まずこのような身の上での手紙であれば、懐かしいとお思いにならないであろうと申していた、と機会があればあなた方から話していただきたい。
  十月 日               日 蓮  花 押

東夷・東条・安房の国
 東夷は東方の夷の意で、京の都から東に遠く離れて開けない土地のこと。東条は安房国長狭郡(千葉県鴨川市)東条のこと。安房の国は東海道15ヵ国のひとつ。現在の千葉県南部。
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旃陀羅
 梵語チャンダーラ(caṇḍāla)の音写。暴悪・屠者・殺者などと訳す。インドのカースト制度における四姓外の賤民。狩猟・屠殺などを業とし、最も賤しい者とみなされ、蔑視、嫌悪された。
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道善の御房
(~1676)。安房国東条郷の清澄寺の住僧で、日蓮大聖人出家剃髪の師である。建長5年(1253)4月28日の大聖人立宗の後は、心中では大聖人にひかれるものがあったが、地頭・東条景信の迫害を恐れて正面きって信じていくことができず、念仏を離れることもできなかった。しかし、大聖人の強い諌めもあり、晩年は法華経への信を立てたようである。
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領家の尼御前
 安房国東条郷の領家の尼御前。大尼御前ともいう。日蓮大聖人御在世当時の信者で、大聖人の御両親も世話になるなどの恩のある人であったが、信心は不安定で竜の口の法難のとき退転した。後に改めて大聖人に御本尊の授与を願ったが、許されなかった。名越朝時の妻とされる名越の尼と同一人物ともいわれている。
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 本章では、日蓮大聖人御自身が、名誉も財産も地位もない貧賤の漁師の家の出生であり、いま法華経の行者として、法華経のために身命を捧げることは、あたかも石を金に換えるような無上の栄誉である。少しも嘆くことではないと、大聖人の流罪の身を案じる清澄寺の人々の心情を思いやりながら毅然といいきり、一切衆生救済の烈々たる気迫と大慈悲を述べられている。
 旃陀羅とは、古代インドの階級社会において最下層とされた殺生を業とする者の総称である。大聖人の慈父が漁師であったところから「旃陀羅が子」と仰せになったのである。
 これは御自身が民衆の側に立ち、その教えが民衆を救済される仏法である一つの証である。
 ちなみに、中世において、新宗派を開いた人を見ても、浄土宗の開祖・法然は美作(岡山県)の豪族の子であり、浄土真宗の親鸞は下級貴族・日野氏の子であったとされている。禅宗の道元は名門貴族・久我家に生まれ、同じく栄西は備中(岡山県)の名族の出である。時宗の一遍は四国の豪族・河野家に生まれている。いずれも西国の公卿や武士階級の出身であった。
 これに対して日蓮大聖人は「然るに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」(1332-07)と、東国の辺地、庶民の中からの出生であることを、誇らかに宣言されているのである。
 仏法の骨髄・南無妙法蓮華経の大法理を覚知された大聖人にとって、氏素姓などは全く問題にならなかったことであろう。御本仏の下種の大仏法は大慈悲となって、つねに末法の下根下機の民衆の上に注がれているのである。そこにこそ法華経ならではの一切衆生皆成仏道の意義があるといえよう。
いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず
 仏道修行にあって、不惜身命の実践、つまり「法華経の御故に」自分の生命を帰していく生き方、信心にのみ、成仏の道が開かれることを示されている。
 もとより法華経は生命を捨てることを賛美した教えではない。命を粗末にし、簡単に命を捨てればよいというものではまったくない。
 生命はこの上なく尊厳である。この尊い生命を「大願とは法華弘通なり」(0736-第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事-02)という最高の目的観に立って、世のため、人のために、生きぬいて、完全燃焼させていくことである。法華経で「不自惜身命(自ら身命を惜しまざれば)」「我不愛身命但惜無上道(我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ)」と強調される意もここにある。
 現代は民主主義の世の中であり、日蓮大聖人御在世のように、身命に及ぶような受難はありえないとしても、各人がそれぞれの立場で、正法のために大なり小なり難を受けるのは当然であるとする、不惜の志念堅固でなければ、成仏への信心とはいえない。
 しかも、御本尊を受持したうえで受ける難は「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候」(1083-11)の法理により、自身の罪障消滅のためであり、それによって転重軽受されるのである。苦難によって、罪業深き身に福運が輝き、まさしく「石に金を・かふる」大功徳に転じていけるのである。
 一般的にいっても、幾多の困難・試練との戦いをとおしてこそ、自らの人間的成長もあり、力や才能も発揮されてくることは、「艱難(かんなん)汝を玉にす」といわれるように、すべてに通じる道理である。苦難から、逃避しようとしていては、いつまでたっても人間の器は大きくはならない。
 「石に金を・かふる」とは変毒為薬である。煩悩・業・苦の三道具縛の身が、法身・般若・解脱の三徳という金剛不壊の宝器へと転じることであり、それはとりもなおさず法華経のもつ妙用によるのである。換言すれば、我が生命のうちに顕現される凡夫即極、即身成仏の姿である。
 「仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(0288-06)の御金言を胸奥に刻みながら、喜びにも悲しみにも御本尊第一と、命の限り不屈の信心を貫き、生涯を広宣流布にかけていくことこそ、最高の人生であり、真実の不惜身命であると確信したい。

0892~0893    義浄房御書(己心仏界抄)top
0892:01~0892:03 第一章 法華経の功徳甚深を示すtop
0892
義浄房御書
01   御法門の事委しく承はり候い畢んぬ、 法華経の功徳と申すは 唯仏与仏の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ば
02 ざるかの内証なり、 されば天台大師も妙の一字をば妙とは妙は不可思議と名くと釈し給いて候なるぞ 前前御存知
03 の如し、 
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 御法門の事についてのお尋ねは、委しく承った。法華経の功徳というのは、唯仏と仏とのみ究められている境界であって、十方分身の諸仏の智慧でも及ぶか及ばないかといった仏の内心の悟りである。したがって天台大師も、妙法蓮華経の妙の一字を「妙とは妙は不可思議と名づける」と釈されているのである。前々から御存知のとおりである。

唯仏与仏
 方便品の文。「唯、仏と仏と、乃し能く究尽したまえり」とある。諸仏の智慧のみが能く諸法の実相を究め尽くしており、菩薩・二乗の及び得ないものでああるということ。
―――
十方分身
 中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。
―――
内証
 生命の奥底の悟り。外用に対する。
―――
天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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 本抄は文永10年(1273)5月28日、日蓮大聖人が52歳の御時、配流先の佐渡・一の谷から、房州(千葉県南部)清澄寺の義浄房に賜った書である。御真筆は現存していない。
 本抄を述作される前年の2月には人本尊開顕の開目抄を、また一か月前のこの年の4月には法本尊開顕の観心本尊抄を著され、さらに諸法実相抄、如説修行抄、顕仏未来記、当体義抄など、日蓮大聖人の仏法の骨格をなす重要な法義を述べられた重書が当時続いてしたためられている。
 この一連の御書と照合しつつ本抄を拝すると、御文は短いが、種脱相対に立っての甚深の法門が拝される。とくに観心本尊抄と前後し著されているところから、同抄の内容を簡潔に記された書ともなっている。
 清澄寺はもともと天台宗の古刹であり、義浄房も永年の研学により、天台教学には少なからず通暁していたと思われる。本抄は、義浄房が寄せた法門に関する質問に答える形で、天台の行法よりも一重深い事行の一念三千の法門を明確にされている。
 とくに寿量品自我偈の「一心欲見仏不自惜身命」の文によって「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり」とされていることは、まさしくこの経文を身にあてて読まれた竜の口での発迹顕本を指していわれたものと拝せられる。
 すでに久遠元初の自受用報身如来の御境界に立たれている故に、御一身の当体がそのまま寿量文底秘沈の三大秘法を成就されていることを述べられており、本抄を別名「己心仏界抄」と称するゆえんもここにある。
 本抄をいただいた義浄房は、清澄寺の道善房の弟子である。日蓮大聖人は12歳で道善房を師として清澄山に登り、16歳で出家得度されたが、義浄房は兄弟子にあたる。
 建長5年(1253)4月28日、大聖人が清澄寺で立教開宗された際、地頭・東条景信が早速迫害を加えてきたとき、浄顕房とともに一身を賭して大聖人をお守り申し上げた。
 以来、身は謗法の清澄寺にありながら、心は深く大聖人に帰依し、つねに求道の交信を絶やさなかった。
 建治2年(1276)7月には「御本尊図して進候」(0330-01)とあるので、浄顕房は御本尊を授与されており、義浄房もいただいていたものと推察される。
 本抄では、最初に法華経の功徳について述べられている。功徳といっても修行があっての功徳である。しかもその修行は、末法の機法相応の如説修行でなければならない。
 功徳とは功能福徳の意である。日蓮大聖人は「功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(0762-第一法師功徳の事-02)と述べられている。
 仏道修行の究極の目的は成仏であり、この成就こそ、最高最大の功徳である。現世における物心両面の一切の福徳も、すべて、ここに含まれることはいうまでもない。
 この成仏を三世の諸仏は何によって成就したのか、その本源的な原動力は何であったのか。それが南無妙法蓮華経なのである。秋元御書に「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-04)と説かれているとおりである。
 この本地難思境智の妙法蓮華経を本種として成仏する功徳は、本文に「唯仏与仏の境界」とあるように、仏と仏のみが究め尽くしている甚深の境界である。十方分身の仏の智慧でさえ、及ぶか及ばないかというほどの深い内証の境界であるから、まして凡下の衆生には、とうてい知り難い境界といえる。まさに妙法であり、深遠微妙の法といわれるゆえんである。
 それ故に像法の正師である天台大師は法華玄義の序王の中で「妙とは、妙は不可思議と名づく」と釈しているのである。不可思議とは、思義すべからずと読み、言語・思慮ではかることができないとの意である。
 法華玄義では、妙法蓮華経について縦横に説き尽くしているが、とりわけ妙法については、そのほぼ三分の二の分量を尽くして論じている。さらに妙については詳細を極め、前代に比類のない法理を展開しているのである。
 とはいっても、天台大師の法門はあくまで理観・理行である。立正観抄に「唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず」(0531-05)と、おのずからそこに分限のあることを示されているのである。
 ちなみに「唯仏与仏乃能究尽」は法華経方便品の文である。教相では「唯仏」の仏は釈尊であり、「与仏」の仏は多宝如来である。観心の立場では、究尽の体は三世諸仏能生の根源である事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、それは日蓮大聖人のみ、よく知るところの深秘の法門となる。

0892:03~0892:06 第二章 伝教所伝の今経の所詮を示すtop
03      然れども此の経に於て重重の修行分れたり天台・妙楽・伝教等計りしらせ給う法門なり、就中く伝教大師
04 は天台の後身にて渡らせ給へども 人の不審を晴さんとや思し食しけん大唐へ決をつかはし給ふ事多し、 されば今
05 経の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゆしき大事にては候なれ、 此の法門は摩訶止観と申す文
06 にしるされて候、 
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 しかしながら、この法華経においては幾重もの段階の修行が分かれている。天台大師、妙楽大師、伝教大師等の方々だけが、知られている法門である。なかでも伝教大師は天台大師の生まれかわりであられたけれども、人々の不審を晴らそうと思われたのであろう。中国へはっきりと決まった答えを得るために人を派遣されることが多かった。さて法華経に説かれた法門は十界互具・百界千如・一念三千ということこそ、非常に大事なのである。この法門は摩訶止観という書に記されている。

妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
後身
 後の身のこと。生まれかわった身。伝教大師が天台大師の後身であるということについては道邃和尚付法文に「『昔、天台大師は弟子たちに、自分が死んで二百余年後、東国に生まれて仏法を興隆すると語ったと言われるが、今その言葉のとおり伝教大師に遇った』と道邃が伝教大師に告げた」(取意)とある。
―――
大唐
 隋に続く中国統一の王朝。隋末の群雄の一人、李淵が建てた王朝。都は長安。次の太宗の時に中国の統一が完成されて唐朝の基礎が築かれた。ただし、天台大師は唐朝成立前に亡くなっている。
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 決答の略。はっきりと決まった答の意。伝教大師等の法華三大部等に関する質問に唐の道邃などが答えたものを唐決といった。
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所詮
 言葉や文字によってあらわされるもの。
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十界互具
 地獄から仏界にいたる十界のおのおのに十界を具していること。方便品では、凡下の衆生に仏知見がそなわっていると説き、寿量品では三妙合論して仏界常住を説く。この十界互具・百界は、それぞれに十如是を具し、さらに三世間を具して、一念三千となる。ゆえに開目抄には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189-04)と仰せである。ただし、末法における真実の十界互具については、われわれが唱える題目・御本尊を仏界として、唱え奉るわれら衆生は九界であり、この境智冥合をもって十界互具というのである。
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百界千如
 法華経迹門を与えていえば、理の一念三千であるが、奪っていえば百界千如に過ぎない。
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一念三千
 仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
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摩訶止観
 天台三大部の一つ。天台教学の原典。天台大師が隋の開皇14年(0594)、一夏九旬にわたって講説したものを、章安が筆録し一部十巻になした書。内容は五略十広にわたっているが、そのなかに天台教学の極説一念三千が説かれている。
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 本章では、先に述べられた「法華経の功徳」を得るための修行が重々に分かれていること、それを明らかに知っていたのは天台・妙楽・伝教大師等だけであったこと、その究極が摩訶止観に示されている十界互具・百界千如・一念三千であることを述べられている。
 すなわち「法華経の功徳」である即身成仏は、まさに仏と仏とのみが知っておられる甚深の境界であって、そこへ到達するのは容易なことではない。一往、基本的に法華経に説かれている修行法は「受持・読・誦・解説・書写」の五種法師であるが、法華経の秘めている法が甚深微妙であるが故に、単純にこの五種法師を修すれば得道できるというものでもない。そこで、天台大師は、法華経の五種法師を根本としつつも、具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・近善知識の五縁を具する)、呵五欲(色・声・香・味・触の五欲を呵する)、棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五蓋を棄てる)、調五事(飲食・眠・身・息・心の五事を調える)、行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五法を行ずる)という、いわゆる二十五法を示し、身心を調えることを教えた。
 しかも、そのようにして、五種の修行で法華経を心肝に染め、身心を調えたうえで、観念観法をし、究極するところ、十界互具・百界千如・一念三千を悟ることを目的としたのである。「されば今経の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゆしき大事にては候なれ」と仰せられているのは、観念観法によって、我が生命を一念三千の当体と覚知するところに、法華経修行の究極があったということである。
 ただし、天台大師が説き明かした一念三千は、法華経方便品の「諸法実相・十如是」を根本とし、それに寿量品の三妙合論によって明らかになった三世間の法理を援用して立てられたもので、あくまで迹門が表で、本門は裏に用いられているにすぎない。
 いいかえると、天台大師が立てた一念三千は、凡夫の生命に理として具わる三千の法を示したのであって、現実に仏の一身に体現されている「事の一念三千」ではない。それは天台大師自身、あくまでも釈尊という仏のもとでの菩薩・凡夫の立場であり、仏の内証の境地を事の上で説いた本門を中心に論ずることはできなかったということであろうと推察される。
 ともあれ、天台大師の一念三千は、理論的には精緻を極めたものの、一念三千の体については示唆と説明だけにとどまったといわなければならない。日蓮大聖人が観心本尊抄に「一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて」(0253-12)と述べられているとおりである。しかも、前述したように、五種の修行、二十五法といった前段階的な複雑な修行を必要とするばかりでなく、観念観法によって悟るということ自体、よほど恵まれた思考能力の人でなければ不可能である。この甚深微妙な法を理解できる上根上機の限られた人々にしか効力を発揮しなかったのである。
 これに対して、日蓮大聖人の仏法は次章にそれを示されるのであるが、本面迹裏である。本門を表とし、迹門を裏として、本地自行の法門を立てられたのである。
 しかも、治病大小権実違目の「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり……彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなり」(0998-15)との御文に明白なように、日蓮大聖人の事の一念三千こそ真実の法門であり、それに対すれば、法華経文上の本迹二門は通じて〝迹門〟になるのである。
 この御文に仰せの本門の一念三千こそ、三大秘法の南無妙法蓮華経であり、真の事の一念三千である。
 日蓮大聖人は一切衆生救済のためその法体を御本尊として御図顕あそばされた。「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(1339-13)の仰せが如実に示すとおりである。
 そして、この御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉ることによって、直ちに三毒は三徳と顕れて即身成仏を遂げることができるのである。
 末法今時において、この修行の選択を誤れば、成仏は思いもよらず、むしろ堕獄の因をつくってしまうことになるのである。

0892:06~0892:13 第三章 寿量の文に己心の仏界を顕すtop
06          次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし、 天台・伝教等も粗しらせ給へど
07 も言に出して宣べ給はず 竜樹・天親等も亦是くの如し、 寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲
08 して自ら身命を惜しまず」云云、 日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、 其の故は寿量品の事の一念三
09 千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、 叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処な
10 り、 一とは一道清浄の義心とは諸法なり、 されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日
11 蓮云く一とは妙なり心とは法なり 欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、 此の五字を弘通せんには不自惜身命
12 是なり、 一心に仏を見る心を一にして 仏を見る一心を見れば仏なり、 無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは
13 天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり、
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 つぎに法華経如来寿量品第十六に説かれている法門は、日蓮の身にとって頼みになることである。天台大師・伝教大師等もあらあら知っておられたけれども、ことばに出しては述べられなかった。竜樹・天親等もまた同様である。如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とある。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕すのである。そのわけは、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。このことは秘しておきなさい。
 比叡山の伝教大師が唐(中国)に渡って、この経文の注釈を相伝されたところによると、「一心欲見仏」の「一」とは一道清浄の義であり、「心」とは諸法である、という。だから、天台大師は「心」の字を解釈して「一月三星・心果清浄」といっている。日蓮が解釈していうには、「一」とは妙であり、「心」とは法であり、「欲」とは蓮であり、「見」とは華であり、「仏」とは経である。この妙法蓮華経の五字を弘通しようとするためには身命も惜しまないというのが「不自惜身命」である。「一心欲見仏」とは「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」「一心を見れば仏である」ということである。無作の三身という仏果を成就するということは、おそらくは天台大師・伝教大師にも越え、竜樹・迦葉にも勝れているのである。

竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
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事の一念三千
 文底独一本門の三大秘法の大御本尊のこと。理の一念三千に対する語。一念三千は生命の本質を十界互具・百界千如・三千世間と開いて、余すところなく説き明かした仏法の極理である。釈尊はこの哲理を法華経とし、天台は摩訶止観で一念三千を体系づけた故に理である。日蓮大聖人は法華経本門寿量品文底に秘沈した三大秘法の南無妙法蓮華経を説かれ、一切衆生成仏の大御本尊を建立されたがゆえに事である。
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三大秘法
 日蓮大聖人が建立された宗旨で、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇をいう。この本尊とは法華経の本門ではなく、文底独一本門の意味。したがって本門の本尊とは、文底独一本門・事の一念三千の妙法が顕された本門戒壇の御本尊をいう。本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目、本門の戒壇とは、本門の本尊の御安置の場所をいう。
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叡山の大師
 伝教大師の伝教大師の伝教大師のこと。(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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一道清浄
 一道とは衆生を悟りへおもむかせる唯一の真実の法理。清浄とは浄らかで煩悩の穢れをはなれているとの意で、あらゆるものの中に普遍的に存在している清浄無垢の仏性をさす。したがって一道清浄とはあらゆるものの中に清浄な生命の仏性があるという十界互具・一念三千の意義を含めた実相のこと。
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一月三星・心果清浄
 天台大師のいずれの文か明らかでない。一月三星とは「心」の字の下の一画を一月に、そして上の三点を三星に配したもので「心」の字形を示している。一月は一身、三星は三身に配せられ、一身即三身、三身即一身の義をあらわすと考えられる。心果清浄とは、久遠の本果に住せられている無作三身如来の境地が月と星の輝くように澄みわたって清浄であるとの意。
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不自惜身命
 寿量品に「(一心に仏を見たてまつらんと欲して)自ら身命を惜しまず」の文をさす。信心の基本姿勢を示す文である。勧持品に同意の文がある。「是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん、我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」。
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無作の三身
 無作とは有作に対する語で、作為のないありのままの意。三身とは仏についての三つの身体で、法身(仏の理体)・報身(仏の智慧)・応身(仏の肉体)のこと。無作の三身とは、修行して仏になったというのではなく、ありのままの姿で本来おのずから法・報・応の三身を具えた仏のこと。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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 本章では、寿量品の法門をとおして事・理の一念三千を相対しながら「一心欲見仏不自惜身命」の文をもって、日蓮大聖人己心の仏界たる事の一念三千の南無妙法蓮華経の体を明らかにされている。
 いうまでもなく寿量品は一切経の肝要である。寿量品得意抄にいわく「されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-18)と。寿量品は釈尊一代五十年の生命であり、究極であり、眼目である。
 寿量品がこれほどまでに重要なのは何故なのか。本因・本果・本国土の三妙合論して、仏の久遠常住が明かされたところに、その卓越性があるとされるが、それはまだ文上の領域である。より一重立ち入って論ずれば、この久遠の成道の本因として、事行の一念三千の南無妙法蓮華経がこの寿量品の文底に秘沈されているからである。
 三大秘法抄に「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)と。また開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と説かれるとおりである。
 本文で「寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし」と仰せられたのは、この寿量品の文底に秘沈された事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ、久遠元初の自受用報身である日蓮大聖人の御生命にほかならないからである。御義口伝巻下には「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」と記されて「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」(0752-04)また「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)と仰せである。
 三大秘法といい、一念三千といっても、御本仏日蓮大聖人の己証の法体ゆえに、まことに「たのみあること」なのである。
 また「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」(0254-08)を明かされた観心本尊抄の送状にも「此の事日蓮身に当るの大事なり」(0255-観心本尊抄送状-01)とある。末法の御本仏日蓮大聖人の一身の当体が閻浮第一の本尊である故に「日蓮身に当るの大事」と仰せなのであり、本抄の御文と同意である。
 天台大師も伝教大師も、また竜樹・天親も内心にはこの深秘の法門を覚知していたが、外面は時にかなった相対差別の法を説いたのである。いわゆる内鑑冷然であり、外適時宣(外には時の宣しきに適う)である。
 その理由については、諸法実相抄など諸抄に明らかである。すなわち、一には自身堪えざる故に、二には所被の機なき故に、三には仏より譲り与えられざる故に、四には時の来たらざる故に、である。
寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し
 法華経の身読、なかんずく寿量品を身読されたのは日蓮大聖人御一人であられる。その法華経の行者としての証明は、命におよんだ四度の大難である。
 とりわけ、文永8年(1271)9月12日の竜の口の頸の座をもって、凡夫の迹を払い、久遠元初自受用報身如来としての本地を顕されたのであった。まさに「一心欲見仏不自惜身命」の経文の身業読誦である。故に「己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり」と仰せになっているのである。
 その理由として、この経文には三大秘法を成就した深意を含んでいるからであると仰せであるが、この〝成就〟には二つの意味があると拝したい。
 一には、先述した竜の口における発迹顕本である。開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223-16)と。また上野殿御返事には「三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり」01558-04)とある。
 すなわち、この久遠元初自受用報身如来の御内証を顕されたところに〝成就〟の意があるのである。
 二には、日蓮大聖人が己心に証得せられた久遠元初自受用報身如来の御境界を、大曼荼羅として御図顕されることである。
 本抄の御述作は文永10年(1273)であるから〝成就〟の意は前者にあるが、すでに発迹顕本された日蓮大聖人の色心は、そのまま本門の本尊であり、唱えられる題目は本門の題目であり、大聖人まします住処は本門の戒壇である。したがって、日蓮大聖人の御身において事の一念三千の三大秘法の〝成就〟は明々白々なのである。
 日寛上人は、依義判文抄で「一心欲見仏不自惜身命」の文を、信行具足の本門の題目に約されて「日蓮が己心の仏果等とは、即ち是れ事の一念三千、三大秘法総在の本尊なり。此の本尊は本門の題目に依って顕るる故に、此の文に依って顕る等と釈し給えるなり。事の一念三千の三大秘法とは、日蓮が己心の仏果なり。久遠元初の自受用報身、報中論三の無作三身を成就せること、但是れ本門の題目なり、故に此の文と云うなり」と教示されているのである。
日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり
 日蓮大聖人は「一心欲見仏」の五字を、御自身の観心の立場から、妙法蓮華経の五字に配されている。
 この御境地は重々無尽、凡智の計りしるところではないが、時々念々作々発々の振る舞いのなかに、ひたすら仏を見んとする一心が仏(妙法蓮華経の当体)であると仰せられたものと拝せる。
 この妙法の五字七字を弘通することは不自惜身命の信心と実践が不可欠であり、それは大聖人御自身の実践修行がおのずから示すところである。
 また、ここで大事な点は「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」とされていることであろう。「一心欲見仏不自惜身命」の一句は、元来「仏を見る」すなわち己心の仏界を悟るために「不自惜身命」たれ、という意である。しかるに大聖人は「一心欲見仏」の心すなわち、御本尊を信じ受持するその信心がすでに「妙法蓮華経」であるとされ、「不自惜身命」は「此の五字を弘通せん」うえでの根本姿勢とされているのである。
 因果俱時の妙法であるが故に「一心欲見仏」という因の中に果は俱時にあるのであって、その妙法を〝弘通〟するという自行化他のうえに「不自惜身命」の精神が肝要となるとの仰せと拝せられる。まさに、ここに事行の仏法たる所以(ゆえん)があるといえよう。
無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり
 前文において「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり」、また「寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就」と仰せられたうえで、「無作の三身の仏果を成就」すると述べられたことは、日蓮大聖人がまさしく末法の御本仏であるとの明言である。
 御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752-06)と。ここに説かれる「寿量品の事の三大事」とは三大秘法にほかならない。
 さらに「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」(0752-11)との仰せを思い合わせるとき、日蓮大聖人が真実究竟の無作三身であり、南無妙法蓮華経の御当体であること明々白々である。本文に「無作の三身の仏果を成就」と仰せられたのもそのためである。
 無作の三身は自受用報身の一体三身の徳である。本因の四義との関連でいえば、智は能成の智で、無作の報身である。境は所成の境で、無作の法身である。境智妙合するとき生ずる慈悲の起用は、無作の応身である。位はいうまでもなく名字凡夫位である。
 無作とは有作に対することばである。日蓮大聖人は無作について、働かさず、繕わず、本の儘の意であると説かれている。
 御義口伝巻下に「無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の儘なり」(0759-第廿三 久遠の事-01)と、本地無作の三身の相貌について述べられている。
 その仏の姿は色相荘厳の仏ではなく、尊形を出でた凡夫の当体、本有の姿で、そのまま究竟の真仏であるとの意である。したがって、無作の三身は真実の仏果であり、これよりほかに究竟の仏果はないのである。
 この仏果を成就された御本仏日蓮大聖人の御境界は広大無辺、甚深無量であられる故に「天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり」と仰せになっているのである。
 我々の信心に約するとき、この無作の三身の仏果の成就は、ただひとえに御本尊への信の一字に帰するのである。「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(0753-03)の御金言を肝に銘じていきたい。

0892:13~0893:02 第四章 不惜身命を勧むtop
03                      相構へ相構へて心の師とはなるとも 心を師とすべからずと仏は記し
14 給ひしなり、 法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり、 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮
15 華経。
0893
01       文永十年五月二十八日日蓮花押
02     義浄房御返事
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 かならず、心の師とはなっても心を師としてはならない、と釈尊は経文に記されている。法華経のためには身をも捨て、命をも惜しまないようにと強盛にいってきたのは、このことである。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
  文永十年五月二十八日        日 蓮  花 押
   義浄房御返事

心の師とはなるとも心を師とすべからず
 涅槃経巻二十八、六波羅蜜多経巻七に説かれている。
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 本章は不惜身命の信行を勧めて結ばれる段である。
 まず「心の師とはなるとも心を師とすべからず」とは六波羅蜜経の文である。
 凡夫の心は微妙であり、時に随って移り、外縁に随って動く。しかも内なる煩悩に支配されやすい。こうした揺れ動く心を「師」としていては、成長も前進もありえない。故に「心を師とすべからず」なのである。
 この自分自身ではどうしようもない心を正しく位置づけるには、どうしても「師」が必要不可欠である。すなわち、仏の金言を「師」として仏道修行に励むことである。われわれの信心に約せば、御本尊を無二に信じ、そこに人生を帰していくことが「心の師」にあたる。
 したがって、色(体)の行動面で妙法を師とし、大聖人の教えを実践していくとともに心も妙法を根本とし、大聖人の教えに信順していくのでなければならない。
 義浄房をとりまく環境はことのほか厳しい。師の道善房は日蓮大聖人の教えが正しいと思いながらも、臆病で小心なところから、地頭の権威を怖れて、清澄寺住僧の保身にきゅうきゅうとし、念仏を捨てきれずにいた。自身の弱い心を師としたのである。
 義浄房は大聖人の教えに帰依はしているものの、魔の重圧下にあるだけに、正信の心が動かないとも限らない。義浄房の今後を思いやられての御教示と拝するのである。
 「法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれ」は、先の「一心欲見仏不自惜身命」を受けて仰せである。
 日蓮大聖人の教えを受持し、正信を貫こうとすれば、三障四魔、三類の強敵が競い起こることは必定である。それ故に「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」(1193-02)と仰せのように、不自惜身命の強盛な信心が望まれるのである。
 立宗の際の大聖人に対する地頭の迫害を目前にしている義浄房である。また、その後、相次ぐ大聖人の値難を伝聞して、法華経の持者に受難は当然と心得、覚悟もできていたことであろう。
 そのうえで重ねて不惜身命の信心を強調されたことは、不惜の信心なくしては、即身成仏の大功徳は得られないからである。
 われわれも日蓮大聖人の大仏法を持った以上、障魔との戦いに心がひるみ、広宣流布の道を進むのに臆したり目先の利欲に迷ったりしてはならない。「相構へ相構へて」と仰せのように、よくよく心して、妙法弘通のために自己を帰していく師子王の信心で、誉れの人生を歩んでいきたいものである。

0893~0895    清澄寺大衆中top
         はじめにtop

 本抄は、建治2年(1276)正月十一日、日蓮大聖人が55歳の時、身延から安房国の清澄寺大衆に与えられた御書である。
 はじめに「真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に」とあるのは、前年の建治元年(1275)12月26日、真言僧強仁より勘状が届き、法論対決を迫ったのに対し、大聖人が「世・出世の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり(中略)速速天奏を経て疾疾対面を遂げ邪見を翻えし給え」(0184-04)と答えられたことから、真言宗と公場において対決する可能性が生じ、それに備えて天台・真言の疏釈を借用するために本抄をしたためられ、あわせて清澄寺の大衆を教導されたものであろう。
 本抄をいただいたのは、清澄寺の住僧の一人とも思われるが、「安房の国清澄寺大衆中」と宛名されており、また御文の中で「清澄山の大衆」「大衆」と二度まで呼びかけられ、追伸で重ねて「大衆ごとに・よみきかせ給へ」と仰せなので、佐渡房日向および助阿闍梨を通じて清澄寺一山の大衆に与えられたものと考えることができる。
 本抄の大意は、はじめに新春の挨拶と真言・天台の疏釈の借用を依頼され、「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」と、真言宗との公場対決を期されたうえ、大聖人が流罪・死罪等の大難にあわれたのは、生身の虚空蔵菩薩より大智慧をたまわって諸宗の勝劣・邪正を知り、真言・禅・念仏等の僻見を責めたためであると述べられている。しかし、いかに怨まれ諸難にあうとも、立正安国論の予言が事実となって自界叛逆難・他国侵逼難に日本の国があったのは「仏法が一国挙りて邪なるゆへ」であり、日蓮大聖人の教えに随って、邪法を排し正法を用いるしかないことを強く叫ばれている。
 つぎに、とくに清澄寺の大衆は、大聖人から重恩を蒙っていることを述べられ、大聖人を父母とも三宝とも思わなければ今生には貧窮の身となり後生には無間地獄に堕ちるであろうと厳しく戒められている。また、領家の尼御前の愚癡多く信心弱き姿を憐れまれ、我が父母に恩のある人なので後生に悪道に堕とすまいと祈っているとの心情を述べられている。
 最後に、過去・未来のことを正しく明かしているのが法華経であり、そのとおりに、蒙古の襲来を未萠に知った大聖人こそ法華経の行者であることを述べられ、清澄寺の大衆の正法への覚醒を強く促されているのである。
 本抄は、旧縁ある清澄寺の人々に対する大聖人の深い御慈愛があふれており、また、生身の虚空蔵菩薩より大智慧をたまわったことへの、尽きせぬ感謝と報恩の御一念に貫かれている。
日蓮大聖人と安房・清澄寺
 ここで、大聖人と安房・清澄寺の関係について述べてみよう。
 貞応元年(1222)2月16日、安房国東条郷小湊の地で三国の太夫、梅菊女を父母として聖誕された日蓮大聖人は、幼名を善日麿といわれた。「幼少の時より学文に心をかけ」(1292-17)との仰せから、幼少の時から学問を好まれていたことがうかがえる。そのすぐれた資質を見ぬかれた父母のはからいで、天福元年(1233)、12歳の時、清澄寺へ登られ、道善房のもとで仏法修学の第一歩をふみ出されたことは「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」(0370-08)との仰せから明らかである。
 出家剃髪されるまでの間、寺内にあって、師匠への給仕や仏事法要に参加する一方、勉学に精進されたことであろう。道善房に師事して修学する善日麿を教導したのが、法兄である浄顕房、義浄房の二人である。大聖人は後に「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし」(0324-01)と述べられているように、仏教修学の基礎をこの二人から手ほどきされたのである。
 清澄寺は、安房でも有数な大寺で、宝亀2年(0771)に不思議法師という僧が、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂を建てて安置したことに始まるといわれている。のち、承和年間に慈覚大師がこの地に十二僧坊を建てて以来、天台系真言密経の道場として栄えていたようである。
 善日麿は「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ」(1292-17)と、清澄入山の当初から大願を立てて、本尊の虚空蔵菩薩に祈請されていたのである。
 「虚空蔵菩薩から智慧の珠を受け取った」といわれることがあったのがいつのことかは明らかでないが、嘉禎3年(1237)、16歳になった善日麿は、道善房を師として剃髪し、是聖房蓮長と名乗られる。出家後、さらに修学と思索に努めるなかで、いくつかの疑問にぶつかる。それは、諸御書によれば
   ① 鎮護国家の大法とされた真言密経をもって祈禱しながら、なぜ平家が源氏に破れて安徳天皇が西海に身を投じられたのか、なぜ承久の乱で朝廷側が破れて三上皇が臣下である鎌倉武士によって流罪されるようなことになったのか。
   ② 念仏宗等の行者等がなぜ臨終に悪相を現ずるのか。
   ③ 真言・念仏・禅等の多くの宗々が「我が宗こそ一代の心を得たり」としているが、釈尊所説の本意に適う宗旨は一つであり、最勝の経はただ一経のはずではないか。
 等の疑いであった。
 しかし、清澄寺は「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」(0370-09)という状態で、所蔵の経釈も十分にはなく、指導を受けるべき学匠もいなかったようであり、師匠である道善房も「愚癡におはする上念仏者」(0888-18)で、それらの根本的な疑問をはらす力はとうていなかった。
 「此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候」(1407-14)と仰せのように、その疑問を晴らすため、諸国・諸大寺に遊学されたのである。
 そして、本抄にも「建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」と述べられているように、末法の大正法たる三大秘法の南無妙法蓮華経を弘宣し諸宗破折の第一声を放たれ、立教開宗を宣言されるとともに、日蓮と名乗りを改められた。
 大聖人が、清澄寺で正法流布の弘教を開始されたのは、一つには本抄に「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために」とあるように、日本第一の智者としてくださった虚空蔵菩薩への報恩感謝のためであり、二つには「諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし……此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」(0888-16)と仰せのように、剃髪の師たる道善房と広くは所縁の清澄寺の大衆並びに父母や故郷安房の人々をまず正法に導こうとされた故であり、三つには「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり……此の太神は……安房の国東条の郡にすませ給うか」(0906-09)と、安房東条の郷こそ日本の中心との意義をこめられたものであろう。
 しかし、念仏無間と破折をもって始められた正法弘宣の第一声は「怨多くして信じ難し」の経証のとおり、たちまちに世間の怨嫉を招き、伝え聞いた念仏者の地頭・東条景信の怒りをかつて、大聖人の身に早くも危機が迫った。
 そのとき、大聖人をかくまって、清澄寺から西条華房の蓮華寺まで無事に逃れる手引きをしたのが、義浄房と浄顕房であった
 大聖人は二人に対して「日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0324-02)、「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373-14)等とその功を称賛されている。
 なお、地頭の東条景信は、本抄に述べられているように、清澄の飼鹿を狩りとり、清澄・二間の二か寺を念仏に改宗させようとした。この景信の理不尽な策謀に対して、大聖人は領家の味方となって所領争いの裁判を勝訴させ、二か寺を景信の毒手から救ったことがあった。これもまた景信の大聖人への憎しみをかきたてたにちがいない。領家の尼御前が大聖人の法門を信じ仰ぐようになったのは、これを縁としてであったろうと考えられる。
 大聖人は、ふたたび清澄の地を踏まれることはなかった。「地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり」(1413-09)と仰せのように、執権北条長時の父・極楽寺重時を後ろだてにした東条景信に制止されたために、その後、故郷の東条郷へ入ることもできず、正嘉2年(1258)に亡くなられた御父の墓参も心にまかせなかった。
 そして、大聖人がふたたび安房の国に入られたのは、文永元年(1264)秋、御母の病を見舞われたときであり、じつに12年ぶりのことであった。母の病気平癒を祈って回復させただけでなく、4か年の寿を延ばされた大聖人は、その後も華房の蓮華寺を拠点にして、安房方面の弘教にあたられた。そして、文永元年(1264)11月11日、天津の領主工藤吉隆の招きによって、大聖人と門下の一行が東条郷の小松原にさしかかったとき、東条景信の指揮する数百人の念仏者に襲われたのである。
 「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189-13)、「弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり」(1498-06)と述べられているように、大聖人御自身も傷をうけられ、鏡忍房と工藤吉隆が乱戦の中で討ち死にしている。
 小松原法難から3日後の11月14四日、大聖人は華房の蓮華寺で旧師・道善房と12年ぶりで再会された。その時の模様は善無畏三蔵抄に詳しい。大聖人はふたたび見参することもないであろうと「思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0889-08)と強折され、正法への帰依を訴えられた。愚癡で臆病な道善房も、大聖人の強言によって少しは目覚めたようだが、結局は頼りない信心のまま、本抄から2か月後の建治2年(1276)3月16日に没している。
 大聖人は師恩報謝のために報恩抄をしたためられたが、その中で「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり……いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323-08)と述べられていることから、道善房の信心をうかがうことができる。
 一方、浄顕房・義浄房は、幼少の大聖人を教導した法兄ながら、後に大聖人の門下となって常にその教えを仰ぎ、道善房をもいさめていたことが、本抄をはじめ数編の賜書や、報恩抄送状などからうかがえる。また、聖密房など清澄寺の大衆の中にも大聖人門下となった者がいたようである。
 しかし、道善房の死去の報を聞かれた大聖人は「彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども……まいるべきにあらず」(0323-15)と旧師を思う心情を吐露され、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし(中略)此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-03)とされた報恩抄を「嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍」(0330-09)読ませて、報恩の誠をささげられたのである。
 なお、故郷安房に対する大聖人の切々たるお心を物語る御文に「本国にいたりて今一度・父母のはかをも・みんと・をもへども・にしきをきて故郷へは・かへれといふ事は内外のをきてなり、させる面目もなくして本国へ・いたりなば不孝の者にてや・あらんずらん……其の時父母のはかをもみよかしと・ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども・さすがこひしくて吹く風・立つくもまでも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ庭に立ちてみるなり、かかる事なれば故郷の人は設い心よせにおもはぬ物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべる」(0928-07)という、建治2年(1276)3月、安房の天津の住人・光日房にあてた御抄の一節がある。
 このように、安房と清澄寺は、大聖人にとって成長し修学された終生忘れることのできない旧縁の地であり、有縁の人々へ正法による報恩を思われぬ日とてなかったのである。

0893:01~0894:12 第一章 亡国の悪法・真言を破すtop
清澄寺大衆中    建治二年正月    五十五歳御作
01   新春の慶賀自他幸甚幸甚、去年来らず如何定めて子細有らんか、抑参詣を企て候わば伊勢公の御房に十住心論・
02 秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、 是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、 又止観の第一・第二・御随
03 身候へ東春・輔正記なんどや候らん、 円智房の御弟子に 観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ、 それのみ
04 ならずふみの候由も 人人申し候いしなり早早に返すべきのよし申させ給へ、 今年は殊に仏法の邪正たださるべき
05 年か・浄顕の御房・義城房等には申し給うべし、 日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎
06 られんとせし事は別に世間の失に候はず、 生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、 日本第一の智者と
07 なし給へと申せし事を不便とや思し食しけん 明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に 一切経
08 を見候いしかば 八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ、 其の上真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず
09 序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ、 其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且らく之を置く 日本国の法華
10 経の正義を失うて一人もなく 人の悪道に堕つる事は真言宗が影の身に随うがごとく 山山・寺寺ごとに法華宗に真
11 言宗をあひそひて如法の法華経に十八道をそへ 懺法に阿弥陀経を加へ天台宗の学者の潅頂をして 真言宗を正とし
12 法華経を傍とせし程に、 真言経と申すは爾前権教の内の華厳・般若にも劣れるを慈覚・弘法これに迷惑して或は法
13 華経に同じ或は勝れたりなんど申して、 仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに 日本
0894
01 国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ、 結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす 仏像となりぬ王法の尽きんとす
02 るこれなり、此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。
-----―
 新春を喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったのであろう。さて、参詣をしようと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論、秘蔵宝鑰、二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また、摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人人がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。
 浄顕の御房や義城房等には言ってください。日蓮が、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、べつに世間の罪によるのではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところ八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができた。
 そのうえ、真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事であるので、まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけは、インドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々、寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおりの法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養をするために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない、眼のないものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。
 これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩が杖木等の難にあったと聞く。今は、日蓮が刀剣の難にあうことを見る。
 日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「我が国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からあるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天、帝釈天が他国にいいつけて攻められるのである。日蓮を用いないでいる間は、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。 新春を喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったのであろう。さて、参詣をしようと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論、秘蔵宝鑰、二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また、摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人人がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。
 浄顕の御房や義城房等には言ってください。日蓮が、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、べつに世間の罪によるのではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところ八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができた。
 そのうえ、真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事であるので、まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけは、インドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々、寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおりの法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養をするために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない、眼のないものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。
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03   其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、 此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと
04 存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために 建長五年四月二十八日安房の国東条の郷 清澄寺道善の房持
05 仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す、 或
06 は所を追い出され或は流罪等、 昔は聞く不軽菩薩の杖木等を今は見る日蓮が刀剣に当る事を、 日本国の有智・無
07 智・上下.万人の云く日蓮法師は古の論師・人師・大師.先徳にすぐるべからずと、日蓮この不審をはらさんがために
08 正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云く我が朝に二つの大難あるべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、 自
09 界は鎌倉に権の大夫殿・御子孫どしうち出来すべし、 他国侵逼難は四方よりあるべし、其の中に西より・つよくせ
10 むべし、是れ偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし。
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 そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。
 これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩の杖木等の難にあったと聞く。今は日蓮が刀剣の難にあうことを見る。
 日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「我が国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からあるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天、帝釈天が他国にいいつけて攻められるのである。
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11   日蓮をだに用いぬ程ならば将門.純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍.百千万人ありとも叶ふべからず、これ
12 まことならずば 真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候いき、
-----―
 日蓮を用いないでいる間は、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。

十住心論
 秘密曼陀羅十住心論の略。十巻。弘法大師空海の著。大日経住心品、菩提心論に衆生の心相を十種に分けて説かれていることに依拠して十住心を立て、顕密二教・世間出世間の衆生の境界を判じ、真言密教が仏の真実の教法であるとしている。
―――
秘蔵宝鑰
 三巻。弘法大師空海の著。秘密曼陀羅十住心論の要点をまとめたもの。真言宗開創のゆえんも述べている。
―――
二教論
 弁顕密二教論の略。二巻。弘法大師空海の著。顕密二教を比較対照して、その勝劣浅深を判じ、真言密教が真実であるとしている。
―――

 障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
―――
止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
東春
 法華経疏義纉のこと。中国・唐代の智度述。智度が東春に住んでいたところから、その人と書を「東春」と呼んだ。天台大師の法華文句の註釈書であるが、その内容は初めに法華玄義によって五重玄を概説し、つぎに法華経の本文、法華文句記等にわたって懇切に注釈し、自己の見解を主張している。
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輔正記
 法華文句輔正記の略。中国・唐代の道暹述。法華文句記を主として、ところどころに法華経や法華文句の文を選び、唐代の天台教学の解釈に忠実にしたがって、丁寧に字義の説明をした書。
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円智房
 清澄寺の住僧。詳細は不明だが、種種御振舞御書、報恩抄、四信五品抄に出てくる。それらによると、学問はあって人から崇められていたが、日蓮大聖人に敵対し、罰を受け惨死したことがうかがわれる。
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観智房
 清澄寺の住僧。詳細不詳。種種御振舞御書・報恩抄・四信五品抄に出てくる。
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宗要集
 一宗の教義を討究するため、宗義の要目を集め編纂した書。真言宗や浄土宗にもあるが、ここでは天台宗のものをさしていると思われる。
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浄顕の御房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。
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義城房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。
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生身
 ①衆生の肉親をいう。②二身のひとつ。生身仏・父母生身ともいう。
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虚空蔵菩薩
 智慧と福徳を蔵することが大空にも似て広大無辺であるが故に、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すに尽きることがない菩薩であるが故に虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に座して五智宝冠をいただき、右手に智慧の利剣、左手には福徳の蓮華と如意宝珠を持っているもの等いろいろある。密教では胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の中尊等とされている。大聖人が出家・修学された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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序分
 経典等の序論となる部分。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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僻見
 偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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十八道
 密教の修法。
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懺法
 ①犯した罪を告白し、悔い改め、許しを請うという懺悔の修行法・儀式。②法華経を読誦して罪障を懺悔する法華懺悔のこと。
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阿弥陀経
 鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
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灌頂
 頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。①もとインドの国王即位や立太子の際に行った。②大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。③密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。
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爾前権教
 「爾前」とは爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。「権教」は実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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開眼
 眼目を開くということ。新たに彫刻し、鋳造し、書写した仏像等を法をもって供養し、心を入れ、生身の仏・菩薩と同じにすること。またはその儀式で開眼供養ともいう。本尊問答抄(0366)に「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」とある。
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仏眼大日
 大日経で説かれる仏眼尊と大日如来のこと。仏眼尊は仏眼仏母ともいい、仏を出生させる徳があるとされる。大日如来は森羅万象の真理・法則を仏格化した根本仏で、すべての仏・菩薩を生み出すとされる。
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印・真言
 印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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天魔
 天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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安房の国東条の郷
 地名。現在の千葉県鴨川市広場付近と思われる。
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清澄寺
 くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233)5月12日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253)4月28日に立教開宗を宣せられる。
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道善の房
 (~1276)安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の住職。日蓮大聖人幼少の剃髪の師。日蓮大聖人は天福元年(1233)12歳の時、道善房の弟子となり、16歳で出家剃髪。以後、鎌倉に数年間修学、さらにいったん清澄寺に帰られて後、京都に出て比叡山・奈良・高野山に回って研学に務められた。建長5年(1253)32歳の時、故郷に帰り、4月28日、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、初めて南無妙法蓮華経を説かれて立教開宗された。その時、念仏の強信者であった地頭・東条景信の迫害にあって、清澄寺を脱出され、鎌倉で布教を開始された。道善房は大聖人を思いながらも東条景信と争うこともできず、大聖人に帰依することもできなかった。文永元年(1264)11月14日、小松原法難の直後に西条・華房で、大聖人は道善房と再会された。その時、道善房は大聖人に対して成仏できるかどうかを質問している。それに対して道善房が阿弥陀如来像を五体も造ったことから、五度無間地獄に堕ちると答えられ、真心込めて正法への帰依を勧められた。その後、道善房は少し信心を起こしたようだが、改宗までに至らず一生を終わった。
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持仏堂
 日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。持仏堂
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浄円房
 安房の国の蓮華寺に住んでいたと思われる僧。詳細不明。当世念仏者無間地獄抄に出てくる。
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大衆
 ①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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論師
 阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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大師
 ①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
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先徳
 徳望の高い人を尊敬していう言葉。
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正嘉・文永の大地震・大長星
 正嘉元年(1275)8月の大地震と、文永元年(1264)6月~8月にかけて現れた大彗星のこと。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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他国侵逼難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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権の大夫
 (1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総に勢力をもっていたが、延長9年(0931)父の遺領問題等から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香(を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県の大部分)国府を侵し、さらに下野・上野両国府を得た。みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。しかし天慶3年(0940)藤原秀郷の援けを得た平貞盛によって滅ぼされた。
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純友
 (~0941)。藤原純友のこと。平安中期の貴族。大宰少弐藤原良範の子。承平6年(0936)ころ、当時、瀬戸内海に横行していた海賊の追捕に加わったが、やがて自ら海賊の棟梁となり、伊予(愛媛県)の日振島を根拠地として略奪を行った。瀬戸内海のほぼ全域にわたって勢力を伸ばしたが、天慶3年(0940)小野好古等の追捕使に敗れ、九州の大宰府に逃れた。しかし翌年、警固使橘遠保に滅ぼされた。
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貞任
 (1019~1062)。安倍貞任のこと。平安後期の陸奥の豪族。頼時の子で岩手郡を譲られ支配した。前9年の役では天喜5年(1057)朝廷軍の源頼義・義家と戦った。康平5年(1062)出羽の豪族・清原光頼・武則兄弟と同盟した朝廷軍に厨川柵(岩手県盛岡市)で滅ぼされた。
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利仁
 藤原利仁のこと。生没年不詳。平安中期の人。鎮守府将軍時長の子。延喜15年(0915)鎮守府将軍となる。沈着で軍略に富み、飛ぶような軽捷さがあったといわれる。下野(栃木県)の高蔵山に群盗が結集して関東の調庸を略奪した時、命を受けてこれを平定し、武名をあげたと伝えられる。
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田村
 (0758~0811)。坂上田村麻呂のこと。平安初期の武将。苅田麻呂の子。蝦夷征伐に力を発揮し、延暦16年(0797)征夷大将軍になった。陸奥の地の平定や弘仁元年(0810)の薬子の乱の鎮定に功を立てた。その優れた武才と人格とによって、模範的武将として後世の武士に尊崇された。

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 本抄では、最初に清澄寺の住僧の一人に対して、身延へ参詣する機会があるなら、寺内の伊勢公から真言の論釈を借用してくるよう依頼され、また摩訶止観や東春、輔正記などの天台宗の論釈や宗要集などの借用も申し入れられている。清澄寺は天台系の真言密教の道場であったから、そうした天台・真言の論釈があったのであろう。
 借用の理由は、前述のように、前年末に真言僧の強仁との交渉があり、また真言僧が蜂起して法論対決が行われるとの風評があったため、万全を期して天台や真言の経文や論釈を収集されていたものである。
 同年七月の報恩抄送文にも「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに十方にわかて経論等を尋ねしゆへに国国の寺寺へ人をあまたつかはして候」(0330-05)と記されており、当時、各所に人を派遣して資材を集め、宗論に備えられていたことがうかがえる。
 大聖人は強仁状御返事において「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来・叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き神護七大寺は弘法の僻見に随う其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す(中略)悪法は弥貴まれ大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす」(0185)と、法華経を大日経より下した弘法・慈覚の大謗法こそ災難の根源であり亡国の因であると破折され、最後に「書は言を尽さず言は心を尽さず悉悉公場を期す」(0185-15)と、公場において邪正を決せんことを主張されている。それが実現することを予想されて「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」と仰せになっているものと思われるのである。
 本抄においても、同趣旨の真言の破折が述べられているが、それは清澄寺が台密であるため、慈覚・弘法の邪義を破して亡国の悪法であることを明かし、清澄寺の大衆の迷妄を晴らそうとされたものであろう。
 生身の虚空蔵菩薩より智慧の宝珠をたまわり、日本第一の智者となられたとあるのは、善無畏三蔵抄の「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき」(0888-09)の御文と同意なので、同抄の講義を参照されたい。
 大聖人は、生まれながらの明智をおもちだったが、宇宙法界を貫く妙法の大智慧を自得されて、八宗並びに一切経の勝劣を明らかにされ、その邪義僻見を責めたが故に「度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られん」としたのである。
 その後に、真言宗が悪法である理由を「法華経を失う宗」だからであると指摘され、具体的には「法華宗に真言宗をあひそひ」「真言宗を正とし法華経を傍とせし」「真言経……或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申し」等という弘法・慈覚ら真言師の邪義の根本を端的に示されている。
 日本真言宗の祖である弘法大師の立義については報恩抄に「弘仁十四年より弘法大師・王の御師となり真言宗を立てて東寺を給真言和尚とがうし此より八宗始る、一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐という」(0305-09)と記されている。
 また、慈覚大師においても同抄に「慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず(中略)されば叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん、天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり(中略)慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり(0308-07)と述べられている。
 こうした、仏説に背いて法華経と釈尊を下し、天台宗を真言の土泥にまみれさせた邪義が「かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす」るからこそ、大聖人は真言を強折し、真言師を蜂起させて公場での対決を迫ろうとされたのである。
 なお「仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ」との御文については、四条金吾釈迦仏供養事に次のように述べられている。
 「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし……草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり……然るに天台以後二百余年の後・善無畏・金剛智・不空等・大日経に真言宗と申す宗をかまへて仏説の大日経等には・なかりしを法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば皆人此の事を知らず一同に信伏して今に五百余年なり、然る間・真言宗已前の木画の像は霊験・殊勝なり真言已後の寺塔は利生うすし」(1144-14)。
 このように、一念三千・草木成仏の法理をもたない真言による開眼供養は、全く無意味なばかりでなく「天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像」となるのである。
 そして、法華経の法理を盗み入れて巧妙に立てる真言に比べれば、禅宗や浄土宗の教義などは、じつにはかなく浅薄なものといえる。
此れを申さば必ず日蓮が命と成るべし……今は見る日蓮が刀剣に当る事を
 「此れを申さば」とは、末法の成仏の直道は法華経本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経以外にないと、諸宗の謗法を強く訶責することであり、「命と成るべし」とは、一度それを言い出せば、三類の敵人が競い起こり、身命に及ぶ大難が雨のごとくふりかかることが、法華経勧持品等に明白に説かれていることをいう。
 だが、大聖人は末法の一切衆生を苦悩の闇より救い出さんとの大慈悲の請願から、建長5年(1253)4月28日、正法弘宣の第一声を放たれたのである。当時の御心境を、後に開目抄のなかで、次のように述懐されている。
 「これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200-11)。
 清澄寺の大衆を前にして、はじめて下種の題目を唱え出され、念仏無間と強折された大聖人の大師子吼は、たちまち地頭・東条景信の怨嫉と憎悪を招き、清澄寺を追われ、生命の危険を招いた。浄顕房・義浄房の助けで清澄山を出られた大聖人は、その後、鎌倉・松葉ヶ谷に草庵を構えて、折伏・弘教を開始される。ここでも、以後、俗衆・道門・僭聖の三類の強敵が相次いで出現し、三障四魔は紛然と競って「此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(0200-17)という大難の連続だった。
 本抄で「其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等」と述べられているように、大聖人が伊豆流罪・小松原法難・竜の口法難・佐渡流罪など、不軽菩薩の杖木瓦石の難をはるかに越える刀剣の難を忍ばれたのは、「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と仰せのごとく、末法の衆生を不幸と悲惨から救い出し、衆生所遊楽の平和世界を実現せしめんとの大慈悲の故なのである。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と。
 また「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と。
 いま私達が、あい難き妙法に巡りあい、末法の唯一の正法たる三大秘法の大御本尊を信受することができたのも、立教開宗され、生涯、多くの大難を忍びながら南無妙法蓮華経を下種してくださった、御本仏の大慈悲のたまものであることをけっして忘れてはならないのである。
 本章の最後で、大聖人は立正安国論で自界叛逆・他国侵逼の二つの大難が起こると予言されたことを述べられ、とくに他国侵逼難について「偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし」と、日本一国がこぞって邪義謗法におおわれたことにより自ら招いた災難であり、諸天の怒りであるとされている。
 当時は、文永9年(1272)2月の北条時輔の乱、文永11年(1274)10月の蒙古軍の九州襲来によって、大聖人の予言はすでに事実となって現れており、蒙古軍の再襲来も必至という情勢にあった。
 本抄御述作の前年の文永12年(1275)4月、蒙古の使者杜世忠らが長門(山口県)に着き、ふたたび入貢をして服属すべしと勧告してきたが、幕府は蒙古の使者五人を、同年九月に竜の口で処刑して強硬姿勢を示す一方、北条一門をはじめ関東の御家人を九州へ下らせ、また筑紫(福岡県)の海岸数里に防塁を築くなど、防備を固めることに懸命になっていた。
 しかし、大聖人は「日蓮をだに用いぬ程ならば将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍・百千万人ありとも叶ふべからず」と、いかなる勇将・猛将が何万人集まろうとも、謗法によって招いた他国侵逼の大難に勝利することはできないと断言され、御本仏日蓮大聖人を仰ぎ信じ、正法に帰する以外にないと叫ばれているのである。

0894:12~0895:04 第二章 清澄寺の大衆に重恩を教えるtop
12                                   就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝
13 にも・をもひをとさせ給はば 今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんと
14 なれば東条左衛門景信が悪人として 清澄のかいしし等をかりとり 房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせし
15 に日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、 せ
16 いじやうの起請をかいて 日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて 一年が内に両寺は 東条が手をはなれ候いしな
17 り、此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給うべき、 大衆も日蓮を心へずに・をもはれん人人は天にすてられ・
18 たてまつらざるべしや、 かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし 後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申す
0895
01 なり。
-----―
 なかでもとくに清澄山の大衆は、日蓮を父母にも、仏・法・僧の三宝にも劣ると思われるならば、今生には貧しい乞者の身となり、後生には無間地獄に堕ちられるであろう。なぜならば、東条左衛門景信が悪人で清澄寺で飼っている鹿等を狩り取り、各房の法師等を念仏者の従者にしようとした時に、日蓮が反対をして領家の味方となり、清澄・二間の二つの寺が東条方につくならば日蓮は法華経を捨てよう、と真心からの起請文を書いて、日蓮が御本尊の手に結びつけて祈り、一年の内に両寺は東条方の手を離れたのである。このことは虚空蔵菩薩もどうして捨てられるだろうか。清澄寺の大衆も日蓮を信じようとしない人々は、諸天に捨てられないことがあろうか。こういえば愚かな者は、自分を呪っている、というであろうが、後生に無間地獄に堕ちるのがかわいそうなのでいうのである。
-----―
02   領家の尼ごぜんは女人なり愚癡なれば人人のいひをどせば・さこそとましまし候らめ、 されども恩をしらぬ人
03 となりて 後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども 又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれ
04 ばいかにしても後生をたすけたてまつらんと・こそいのり候へ、 
-----―
 領家の尼御前は女性であり、愚かなので人々がいろいろといって嚇すと、そうかと思っておられるのであろう。けれども恩を知らない人となって後生に悪道に堕ちられることがかわいそうであるし、また一つには日蓮の父母等に恩を施された人であるので、なんとしても後生を助けてさしあげようと祈っている。

三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
貧窮の乞者
 貧しく生活に困る乞食の身。
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
東条左衛門尉景信
 生没年不明。鎌倉時代の武士。安房国長狭郡東条郷の地頭。念仏の強信者であったらしく、建長5年(1253年)4月、清澄寺での立教開宗の時には日蓮大聖人を害しようとし、以後ずっと敵対した。文永元年(1264)11月、大聖人とその門下を東条郷小松原で襲い、門下を殺傷し、大聖人にも傷を負わせた。
―――
領家
 中世の荘園制度ににおける荘園の領主のこと。
―――
二間
 日蓮大聖人御在世当時、安房国長狭郡東条郷内にあったと思われる寺。清澄寺の東から南の方へ流れる二間川の近くにあったのではないかと考えられるが、明らかではない。
―――
せいじやう
 まごころ。
―――
起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
領家の尼ごぜん
 安房国東条郷の領主・名越家の尼御前すなわち名越朝時の妻ともされる。大尼御前ともいう。日蓮大聖人の両親も世話になるなどの恩のある人で、大聖人の信者であったが、信心は不安定で竜の口法難のとき退転した。後に改め、大聖人に御本尊の授与を願ったが許されなかった。
―――――――――
 本章では、清澄寺の大衆が日蓮大聖人に重恩を受けていることを述べられ、大聖人を父母とも三宝とも仰ぐべきであり、そうでなければ今生には貧窮の身となり、後生には無間地獄に堕ちるであろうと、厳しく戒められている。
 その大恩とは、東条郷の地頭・東条左衛門尉景信が、領家の権利を侵し、清澄・二間の両寺をその支配下におき、念仏を改宗させようとはかったのを、大聖人が世法・仏法の両面から尽力されて、その野望をくじかれたことをさしている。
 景信の策謀については「度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられし」(1413-10)と述べられている御文もあり、問注沙汰、つまり領有権が裁判で争われ、武力抗争も起こったようである。しかも景信には時の執権北条長時の父・極楽寺重時がついて、法を曲げてまでも景信に有利なようにはかっていたことがうかがえる。なお、景信は重時の家人だったという説もある。
 もともと、東条氏は源頼朝が鎌倉に幕府を開く前から安房に勢力を張っていた豪族であり、頼朝が石橋山の合戦に破れて安房に逃れた時には反抗したともいわれている。頼朝が後に東条郷の一部を伊勢神宮の神領として寄進したことから、当時の領主は頼朝であったと推される。源家が三代で滅びると、その遺領は北条一門に配分されたのであろう。
 領家の尼とは、名越の尼と同一人で、北条朝時の未亡人と考えられているが、朝時は頼朝の夫人・政子の弟で二代執権だった北条義時の二男であったことから、安房・東条の領主となったのであろう。北条朝時は、仁治3年(1242)に北条一門の権力紛争から出家して寛元3年(1245)に没しており、朝時の死後、領家職が朝時未亡人のものとなったものだろう。
 朝時の子光時も、寛元4年(1246)に前将軍頼経とはかって執権時頼の追放を企てたとの疑いをかけられ、出家して謝罪し伊豆国江間に蟄居している。光時は後に許されて鎌倉に帰るが、家督をその子親時に譲っている。このように、名越家は、北条一門でも得宗家に次ぐ家柄でありながら、得宗家と争ったために評定衆等幕府の要職者を出すこともなく、衰運にあったといえる。
 そのため、東条景信は、名越家を軽視し、領家を女とあなどって、極楽寺重時など幕府の有力者をバックに、領家の権力を侵そうとしたのである。鎌倉時代には、武力をもった地頭達が、領家の権利を侵害する風潮が強く、裁判で争っても、多くの場合は地頭に有利だったようで、しかも東条景信の場合「極楽寺殿の御方人理をまげられし」という状態のもとで領家側が勝つことは困難だった。
 本抄に「一年が内に両寺は東条が手をはなれ」とあることは、一時、清澄・二間の両寺が東条の支配下に入ってしまったが、急転して領家の手に戻ったことを示しており、裁判で領家側が勝ち、東条方が手をひかざるをえなくなったのであろう。それは、大聖人が領家の味方となって、東条方が勝つなら法華経を捨てるとの最大の誓願を立てて祈られた結果であり、また裁判においても東条方を破るために智慧と力を貸されたためであろう。
 大聖人が清澄の大衆に、父母とも三宝とも仰がれなければ無間地獄に堕ちると厳戒されているのは、一応は清澄寺を東条景信の手から救い、念仏に堕ちることを防がれた大聖人の恩を忘れることになるからとの趣旨であるが、その元意はそれにことよせて、大聖人を末法の主師親と仰ぐべきことを示されていると拝すべきであろう。
 なお領家の尼御前の信心については、新尼御前御返事に「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき」(0906-17)と述べられているように弱く不安定で、大聖人は深く心配されていたのである。

0895:05~0895:14 第三章 法華経の行者への帰依を勧むtop
04                               法華経と申す御経は別の事も候はず我は過去・五
05 百塵点劫より先の仏なり、 又舎利弗等は未来に仏になるべしと、これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし、 我
06 のみかう申すにはあらず多宝仏も証明し十方の諸仏も舌をいだして.かう候、地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈.日
07 月・四天・十羅刹・法華経の行者を守護し給はんと説かれたり、されば仏になる道は別のやうなし過去の事・未来の
08 事を申しあてて候が・まことの法華経にては候なり。
-----―
 法華経というお経は、べつのことを説いているのではない。「我(釈尊)は過去の五百塵点劫より昔からの仏である。また舎利弗等は未来に仏になるであろう」と、「これを信じない者は無間地獄に堕ちるであろう。自分だけがこういうのではない。多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌を出して証明し、こういっている。地涌千界の菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、梵天、帝釈天、日天、月天、四天王、十羅刹女等は法華経の行者を守護するであろう」と説かれている。それ故、仏になる道にはべつの方法はない。過去の事、未来の事をいい当てているのが、まことの法華経なのであり、それを信ずることである。
-----―
09   日蓮はいまだ・つくしを見ずえぞしらず、一切経をもつて勘へて候へば・すでに値いぬ、もし.しからば各各.不
10 知恩の人なれば 無間地獄に堕ち給うべしと申し候はたがひ候べきか、 今はよし後をごらんぜよ日本国は当時のゆ
11 き対馬のやうに なり候はんずるなり、 其の時安房の国にむこが寄せて責め候はん 日蓮房の申せし事の合うたり
12 と申すは偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり。
13       正月十一日 日蓮花押
14     安房の国清澄寺大衆中
15   このふみはさど殿と・すけあさり御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ。
-----―
 日蓮は未だ筑紫(九州)を見たことはないし、蒙古も知らない。一切経によって考えて述べたところが、その予言はすでに的中した。もしそうならば、あなた方は不知恩の人となるならば無間地獄に堕ちられるであろう、といったことが違うことがあろうか。
 今はいいとしても、後をご覧なさい。日本国は現在の壱岐・対馬のようになるであろう。その時、安房の国に蒙古が寄せてきて責めるとき、日蓮房のいっていたことが合った、といいながら、邪法の法師等が口をすくめて無間地獄に堕ちるであろうことは、かわいそうでならない。
  正月十一日             日 蓮  花 押
   安房の国清澄寺大衆中
 この手紙は佐渡殿と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で清澄寺の大衆の皆に読んで聞かせなさい。

五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
地涌千界
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
―――
つくし
 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
―――
えぞ
 北海道や樺太等の未開の地をいう。
―――
ゆき対馬
 朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
―――
むこ
 蒙古国のこと。十三世紀はじめ初祖テムジンは十八歳で近隣の部族を統一し、自らチンギス汗と称した。その後全蒙古を統一し、東方の金、南方の西夏などを攻め、アジア大陸の東西にわたる大帝国となった。第二代オゴタイ汗のときにはヨーロッパにも遠征、ついに世界空前の大帝国を建設したが、内部の分裂により、四汗国と中国に基礎をおく元朝とに分裂した。その後、元は、世界制覇の気運にのってわが国にも、文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)5月と二度にわたって攻めてきたが、日本軍の奮戦と、おりからの大風によって、蒙古軍は大半が壊滅した。
―――
偏執
 偏ったものに執着すること。偏った考えに固執して正邪・勝劣をわきまえないこと。
―――
さど殿
(1253~1314)。民部阿闍梨日向のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子で、六老僧の一人。佐渡公、佐渡房ともいわれる。安房国長狭郡に生まれ、13歳で大聖人に帰依したといわれる。大聖人滅後は軟風におかされ、弘安8年(1285)ころ身延の日興上人のもとで学頭職についたが、後に地頭の波木井実長の謗法を許すなどして日興上人に違背した。正和2年(1313)上総国(千葉県中央部)藻原に移るまで身延に住し、翌3年9月没した。
―――
すけあさり御房
 安房国(千葉県南部)に住した僧と思われるが、詳細は不明。新尼御前御返事によると、安房国長狭郡東条郷の領家と往来があったようである。また大聖人からお手紙をいただいているようであるが、御書として残っていない。清澄寺の高僧という説もある。
―――――――――
 本抄の最後で大聖人は、過去・未来のことを明かしたのが法華経であり、未萠を知る大聖人こそ真実の法華経の行者であることを明かされて、清澄寺の大衆も大聖人の恩を忘れたならば、無間地獄に堕ちることは間違いないと警告されて、本抄を結ばれている。
 大聖人は「法華経と申す御経は別の事も候はず」と法華経の教えのすぐれているゆえんを、過去の五百塵点劫の成道を明かしたことと、舎利弗等の二乗が未来に成仏すべきことを説いていることであると述べられている。
 開目抄にも「前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我が身にも・さもやと・うちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし」(0190-18)とあるように、二乗作仏と久遠実成が説かれていることこそ、法華経が爾前経と根本的に異なる点であり、二乗不成仏の権経を廃し始成正覚の迹を払って明かされた真実のなかの真実なのである。したがって、もし、法華経を信じないで毀謗するならば無間地獄に堕ちると定められているのである。このことは、多宝如来・十方分身の諸仏も証明を加えているのであり、「地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日月・四天・十羅刹・法華経の行者を守護し給はんと説かれたり」とあるように、あらゆる菩薩や諸天善神が、この正法を説き実践する人を守るのである。
 このように三世のことを正しく説いているのが法華経である故に、法華経の正しい行者は、三世を見通して誤りがない。三世を正しく知っていることは仏たる証拠でもあるのである。
 なお、本抄の御真筆は現存していないが「過去の事……」の御文は「過去の事・未来の事を申しあてて候が・まことの法華経の行者にては候なり」とする説もある。
日蓮はいまだ・つくしを見ず……無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり
 大聖人が、他国侵逼の大難が起こることを予言されたのは、九州を知っていたためでも、蒙古の事情に通じていたためでもなく、仏法に通達された仏だからであり、一切経に示されている法理から導き出された結論なのである。
 立正安国論では「薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり」(0031-11)と、薬師経・大集経・金光明経・仁王経の四経の明文を引いて論じられ「先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031-15)と為政者を諌められたのである。しかも、その予言はすでに事実となって的中している。
 撰時抄に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287-08)と仰せのように、未来を明らかに知られた日蓮大聖人こそ、聖人であり末法の御本仏なのである。
 清澄寺の大衆もこの大聖人の大恩を忘れ背くならば、無間地獄に堕ちることは必定であると断言され、やがて蒙古の大軍が攻め寄せて大苦悩に沈んでから後悔することのないよう戒められている。
 撰時抄にも「あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ……いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや(中略)今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0286-16)との同趣旨の御文がある。
 撰時抄は建治元年(1275)の御執筆であり、本抄が翌年正月の御抄であることから、前にも述べたように、当時は第二次の蒙古襲来の切迫に日本中が恐怖していたことがうかがわれる。だからこそ、大聖人は亡国の悪法たる真言を強く責められているのであり、とくに、旧縁ある清澄寺の人々の妄執を破って、正法に伏さしめ、阿鼻の苦悩から救おうとして本抄をしたためられたものと拝されるのである。
 「清澄寺大衆中」とあて名され、また「虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ」と念注されているのも、そうした大慈悲のあらわれであろう。

0896~0902    聖密房御書top
0896:01~0896:06 第一章 真言開祖等の主張を挙ぐtop
0896
聖密房御書    建治三年    五十六歳御作
01   大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云く「大日経の理と法華経の理とは同じ事なり但印と真言とが法華経
02 は劣なり」と立てたり,良ショウ.和尚.広修.維ケンなんど申す人は大日経は華厳経.法華経.涅槃経等には及ばず但方
03 等部の経なるべし、日本の弘法大師云く「法華経は猶華厳経等に劣れり まして大日経には及ぶべからず」等云云、
04 又云く「法華経は釈迦の説・大日経は大日如来の説・教主既にことなり・又釈迦如来は大日如来の御使として顕教を
05 とき給う これは密教の初門なるべし」或は云く「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては 仏なれども密
06 教に対すれば具縛の凡夫なり」と云云。
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 大日経についての善無畏・不空・金剛智等の義は「大日経の理と法華経の理とは同じことである。ただ印と真言とが法華経は劣っている」と立てている。
 良ショウ・和尚・広修・維ケンなどという人は「大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばない。大日経は方等部の経にすぎない」と述べている。
 日本の弘法大師は「法華経は華厳経にさえ劣っている。まして大日経には及ぶべくもない」といっている。また「法華経は釈迦如来の説であり、大日経は大日如来の説である。教主がすでに異なっている。また釈迦如来は大日如来の御使いして顕教を説かれた。これは密教の初門なのである」といっており、あるいは「法華経の肝心である寿量品の仏は顕教のなかでは仏であっても、密教にくらべれば煩悩を具えた生死の苦に縛られている凡夫なのである」と説いている。

大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
―――
金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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印と真言
 印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
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良諝和尚
 生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。良湑とも書く。天台大師から第九代の伝法弟子。開元寺に住み、後に日本天台宗第五代になる智証が嘉祥4年(0851)にこの寺を訪れた時、天台宗旨を講述した。和尚は弟子から呼ぶ師匠の称。なお禅宗では「おしょう」、天台では「かしょう」、真言、律宗では「わじょう」と読む。
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広修
 (0771~0843)。中国・唐代の天台宗の僧。広脩とも書き、至行尊者ともいわれる。道邃和尚の弟子となり、天台山禅林寺で天台の教観を学び、法華経・維摩経・金光明経等を日々読誦したといわれる。後に、請われて台州に行き、学堂で止観を講じた。円澄の「延暦寺未決三十条」の問いに対して、開成5年(0840)弟子の維蠲とともに答えている。
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維蠲
 中国天台宗、天台山広脩座主の高弟。妙楽大師の法曽孫。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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方等部の経
 方等部に説法した種々の経典の総称。小乗を弾呵し一切衆生に広く平等に教法を説きしめしたもの。
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弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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釈迦
 釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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大日如来
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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顕教
 「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
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密教
 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
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密教の初門
 弘法が顕教をさした言葉。釈尊は大日如来の使いとして顕教を説いたが、それは密教に導き入れるための入口であるとする邪義。
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寿量品
 如来寿量品大16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
具縛の凡夫
 煩悩をそなえて生老病死などの四苦・八苦などに縛られる凡夫のこと。
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 本抄は建治3年(1277)、日蓮大聖人が56歳の時、身延から安房国・清澄寺の聖密房に与えられたものである。
 聖密房については詳しいことはわからないが、本抄末尾の「これは大事の法門なり、こくうざう菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし」の御文と、別当御房御返事の「聖密房のふみに.くはしく・かきて候よりあいて.きかせ給い候へ、なに事も二間清澄の事をば聖密房に申しあわせさせ給うべく候か、世間のりをしりたる物に候へばかう申すに候」(0901-01)の御文から、清澄寺の住僧と思われ、世俗の道理もよく心得ていたため、浄顕房と思われる別等房に相談相手にするようすすめられたものと拝される。もちろん、大聖人の門下となっており、たびたび御指南を仰いでいたものであろう。
 本抄の大意は、真言宗を徹底的に破折されたもので、はじめにインド・中国・日本の三国にわたる真言師が法華経を大日経に劣るとした文証を挙げ、つぎにそれらの邪教を天台大師が立てた一念三千の法門の有無によって破折され、とくに理同事勝を破折し、一念三千の法門を盗み入れて「理」において同じとしたのは法盗人であり、因と真言があるから事において勝れているというのも法華経の二乗作仏・久遠実成の「事」に比べれば劣謂勝見の外道であると断じられている。
 つぎに真言・華厳の各宗の謗法の義を挙げ、最後に伝教大師による諸宗の破折と真言に対する態度を明かされ、理において劣る大日経が弘まったのは論師・人師のためであるとして、聖密房のことを思う故にこれらのことを記して学ぶようすすめられている。
 清澄寺は天台密経であり、長い間そのなかで学んできた聖密房に対して、法華最第一の正義を認識させ不退の信を確立させるために、あらゆる角度から真言の邪義を破折されたのであり、大聖人の深い御自愛が拝せられる御抄である。
 本抄の最初には、大日経と法華経の勝劣をどうとらえているか、中国真言宗の善無畏・不空・金剛智の三三蔵の義と、広修・良ショウなど中国天台宗の諸師の判釈、さらに日本真言宗の祖・弘法大師の教説を挙げられている。
 インドより中国へ渡り真言宗の開祖となった三三蔵は、大日経と法華経とを比較すると、所詮の理は同じだが、法華経には印と真言とが説かれていないので大日経に劣る、と理同事勝の義を立てた。
 それに対して、中国天台宗の第11代広修、及びその弟子良ショウ、維ケンは、大日経は法華経はおろか華厳経、涅槃経にも及ばない方等部の経であると明確に判釈している。
 これは、真言見聞に「遣唐の疑問に禅林寺の広修・国清寺の維ケンの決判分明に方等部の摂と云うなり、疑つて云く経文の権教は且く之を置く唐決の事は天台の先徳・円珍大師之を破す、大日経の指帰に『法華すら尚及ばず況や自余の教をや』云云、既に祖師の所判なり誰か之に背く可きや、決に云く『道理前の如し』依法不依人の意なり但し此の釈を智証の釈と云う事不審なり、其の故は授決集の下に云く『若し法華・華厳・涅槃等の経に望めば是れ摂引門』と云へり」(0143-04)とあるように、法華経と大日経の勝劣について義真・円澄などが中国に判決を仰いだことに対する回答であり、また授決集には智証の疑問に対する回答の記録である。
 ところが、日本真言宗の祖、弘法大師空海は、
   ①法華経は華厳経にも劣り、まして大日経には及ばない。
   ②法華経は釈尊の説、大日経は大日如来の説であり、教主が異なる。
   ③釈尊は大日如来の使いとして顕教を説いたもので、密経に入るための初門である。
   ④法華経の肝心である寿量品の仏は顕教の中では仏でも、密教からみれば煩悩に縛られた迷いの凡夫である。
 等の説を、十住心論・二教論・私蔵宝鑰などの著書で主張しているのである。
 ここに真言七重劣に「戸那・扶桑の人師一代聖教を判ずるの事」(0192-01)として、諸宗の人師が諸経の勝劣をどう判じていたかが示されているので挙げてみたい。
  法華経第一 ┐ 南岳の御弟子なり。
  涅槃経第二 ┼天台智者大師の御義 陳隋二代の人なり。
  大日経第一 ┐
  法華経第二 ┼善無畏・不空等の義 唐の末・玄宗御宇の人なり。
  諸経 第三 ┘
  法華経第一 ┐
  涅槃経第二 ┼伝教の御義 人王五十代桓武の御宇及び平城・嵯峨の御代の人、比叡山延暦寺なり。
  諸経 第三 ┘
  大日経第一 ┐
  華厳経第二 ┼弘法の義 人王五十二代嵯峨・淳和二代の人、東寺・高野山なり。
  法華経第三 ┘
  大日経第一 ┐
  法華経第二 ┼滋覚の義 善無畏を以て師と為す、仁明・文徳・清和の三代、叡山講堂総持院なり。
  諸経 第三 ┘     智証之に同ず、園城寺なり。  華厳経第三 ┘ 妙楽之を
 このように、弘法の所説は、善無畏等の理同事勝の邪義をさらにすすめて、法華経と釈尊を卑しめているのである。
 大聖人は「弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云、而も仏身を現ず此れ涅槃経には魔・有漏の形をもつて仏となつて我が正法をやぶらんと記し給う、涅槃経の正法は法華経なり故に経の次ぎ下の文に云く「久く已に成仏す」、又云く「法華の中の如し」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して「法華経は真実・大日経等の一切経は不真実」等云云、弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して「法華経は戯論」等云云、仏説まことならば弘法は天魔にあらずや」(0320-18)等と諸御抄で厳しく破折されている。

0896:07~0897:07 第二章 華厳・真言の法盗人を示すtop
07   日蓮勘えて云く大日経は新訳の経・唐の玄宗皇帝の御時・開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る、法華経は旧訳
08 の経・後秦の御宇に羅什三蔵もて来る其の中間三百余年なり、 法華経亘て後百余年を経て天台智者大師・教門には
09 五時四教を立てて 上五百余年の学者の教相をやぶり観門には一念三千の法門をさとりて始めて 法華経の理を得た
10 り、 天台大師已前の三論宗・已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず 一念三千の法門をば立つべきやうなし、
11 華厳宗は天台已前には 南北の諸師・華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども華厳宗の名は候はず、 唐の代に
12 高宗の后・則天皇后と申す人の御時・法蔵法師・澄観なんど申す人・華厳宗の名を立てたり、此の宗は教相に五教を
13 立て観門には十玄・六相なんど申す法門なり、 をびただしきやうに・みへたりしかども澄観は天台をはするやうに
14 て・なを天台の一念三千の法門をかりとりて 我が経の心如工画師の文の心とす、 これは華厳宗は天台に落ちたり
15 というべきか 又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか、 澄観は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれ
0897
01 ども一念三千の法門をば・ぬすみとれり・よくよく口伝あるべし、 真言宗の名は天竺にありや・いなや大なる不審
02 なるべし、 但真言経にてありけるを 善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし、 就中
03 善無畏等・法華経と大日経との勝劣をはんずるに理同事勝の釈をばつくりて 一念三千の理は法華経・大日経これ同
04 じなんどいへども 印と真言とが法華経には無ければ 事法は大日経に劣れり、 事相かけぬれば事理倶密もなしと
05 存ぜり、 今日本国及び諸宗の学者等並びにことに用ゆべからざる天台宗共にこの義をゆるせり 例せば諸宗の人人
06 をばそねめども 一同に弥陀の名をとなへて自宗の本尊をすてたるがごとし 天台宗の人人は一同に真言宗に落ちた
07 る者なり。
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 日蓮が考えるには、大日経は新訳の経であり、中国の玄宗皇帝の御時、開元四年にインドの善無畏三蔵がもってきた。法華経というは旧訳の経であり、後秦の時代に羅什三蔵が伝来したものである。法華経と大日経が伝来した時代の差は三百余年である。
 法華経が中国に渡ってから百余年過ぎて天台智者大師が出現され、教門には五時四教の教判を立て、それまでの五百余年の間の学者の教相を破り、観門では一念三千の法を悟られ、はじめて法華経の極理を体得されたのである。
 天台大師出現以前の三論宗や、出現以後の法相宗では八界を立てて十界を論じていない。したがって一念三千の法門は立つはずがない。
 華厳宗は天台大師の出現以前に南三北七の諸師が「華厳経は法華経に勝れている」といっていたけれども華厳宗の名はなかった。唐の第三代皇帝高宗の后・則天皇后という人の御時に法蔵法師・澄観などという人が華厳宗の名を立てたのである。
 この宗は教相に五教、観門には十玄・六相などと立てている法門である。いかにも深遠な教えのように見えたけれども、澄観は天台を破しているようで、じつはは天台の一念三千の法門を借り用いて、華厳経の「心は工なる画師の如し」の文の心としたのである。これは華厳宗は天台に敗れたというべきか、あるいは一念三千の法門を盗みとったというべきであろうか。澄観は持戒の人であり、大乗・小乗の戒律を一塵ほども破ることはなかったけれども、一念三千の法門を盗み取ったのである。このことをよくよく口伝しなくてはならない。
 真言宗の名がインドにあるか否かは大きな疑問である。たんに真言経であったのを、善無畏等が中国に来た時に、宗の名をつけたかどうか、よくよく知らなくてはならない。
 とりわけ善無畏等は法華経と大日経との勝劣を判釈するのに、理同事勝の釈をつくって一念三千の理は法華経も大日経も同じであるが、法華経には印と真言とがないので、事法では大日経に劣っており、事相が欠けているので事理倶密の法門もない、としたのである。
 今日本国および諸宗の学者等、ならびにそのなかでもとくに用いてはならない天台宗が、ともにこの理同事勝の義を許している。たとえば諸宗の人々が念仏を称える人を嫉みながら、一同に阿弥陀仏の名を称えて、自宗の本尊を捨てているようなものである。天台宗の人々は一同に真言宗になってしまった人々なのである。

新訳
 像法の前500年は、中国に仏法が流布し、さかんに翻訳が行われている。竺法蘭・鳩摩羅什などである。これらの経典を旧訳といい、像法の後の500年を新訳という。玄奘三蔵・善無畏三蔵に代表される。一般に新訳は訳者の自我が多い経典とされ、真言宗の善無畏が立てた理同事勝などは代表的な例である。
―――
旧訳
 漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳という。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人とある。
―――

 (0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
―――
玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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後秦
 (0384年~0417)。中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦とも呼ばれる。
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羅什三蔵
 (0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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天台智者大師
 (0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
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教門
 仏の教説、教法のこと。仏の教えは生死解脱の道に入る能入の門である。
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観門
 観心門のこと。己心を内観して、仏法の真理を証得しようとする実践的修行方法。
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五時四教
 「五時」釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、説法の順序から五種に分類したもの(華厳・阿含・方等・般若・法華)。で「四教」には化儀の四教と化法の四教があるが、通常四教という場合は化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)をいう。
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教相
 ①仏の教説に解釈を施し、分類して系統的・組織的に秩序づけること。天台の五時八教・法相の三時教・真言の顕密二教など。②経文の元意を己心に観ずる観心に対し、教法を分別し、釈すること。日蓮大聖人の文底秘沈の仏法を根幹としていく立場を観心といい、それに対して、釈尊の経文どおりに読んでいくいき方を教相という。③真言密教では灌頂・修法などの具体的な法を事相というのに対して教義面の理論的解釈を教相という。
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一念三千の法門
 三大秘法のご本尊のことをいう。理に約せば一念に三千種の生命活動を具すとの哲理で、中国の天台大師が摩訶止観において、この法門を明かした。釈尊は法華経28品をもって、これを説いたのでああって、このゆえに、天台大師は“小釈迦”ともいわれた。天台の一念三千の法門は“像法の法華経”という。しかしその天台大師のあらわしたものの実体は、末法御本仏・日蓮大聖人が南無妙法蓮華経として示されたのである。ゆえに天台大師の一念三千の法門を“理の一念三千の”といい、日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を“事の一念三千”というのである。“事の一念三千”の御本尊こそ、釈尊ならびに天台大師が説かんとした極説中の極説の当体であり、仏法の究極なのである。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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八界
 三論宗と法相宗は通教に属する教えであり、通教は菩薩といっても二乗と同じく空理を悟ことを至極とし、まだ無明惑を断じず、中道実相を証得していないので二乗に包摂され、したがって菩薩・仏の二界を明かしていないゆえに八界となる。また、三論・法相の両宗は二乗作仏の義がないから、十界から声聞・縁覚を除いて八界とする説もある。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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則天皇后
 (0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
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法蔵法師
 (0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
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澄観
 (0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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五教
 華厳宗の教判で、釈尊一代の教説を形式・内容等によって五種に分類し、華厳経が最高の経典としている邪義。これには二種がある。①華厳宗第三祖・法蔵の説。小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教とし円教のうち華厳経を円融不思議の法門を開示するものとし、三乗を同じて説いた法華経より勝れたとするもの。②華厳宗第五祖・宗密の説。人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教・一乗顕性教とし、華厳経を一乗顕性教と立てる。
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十玄
 華厳宗ではその根本原理を十にわけている。これを十玄という。智儼の釈によるものと、法蔵の釈によるものとがある。
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六相
 華厳経の十地品に説かれているもので、華厳の円理を説く法相。世親・至相・賢首等の論釈に明らかにされている。総相・別相・同相・異相・成相・壊相の六相が一切の法に具足しているが、これらは凡夫にはおのおの別々に見えるけれども、じつは六相融であるというものである。
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心如工画師
 華厳経に「心は工なる画師の如く、種種の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざることなし」とある。これは、われわれの一心が、あらゆる諸法を形づくるのを、あたかも、巧みなる雅師が種々の画を描いて、あらゆる場合を表現するようなものであると文である。華厳宗の澄観は天台の一念三千の法門を盗み取って、この文は一念三千の依処であると主張した。
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持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
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口伝
 ①口移しに伝えること。言葉で伝えること。②奥義などの秘密を口移しに伝授すること。③奥義を伝えた書物。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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真言経
 大日経・蘇悉地経・金剛頂経、真言三部経をいう。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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理同事勝
 真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
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事相
 真言でいう言葉である。顕密二教ならびに十住心などの教理を教相といい、三密の実践的行法を事相といっている
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事理倶密
 事密・理密が俱に備わっていること。天台密教の教判用語。慈覚は蘇悉地経疏巻一等で、顕示教・秘密教に分け、秘密教をさらに理秘密・事理秘密に分類した。顕示教は世俗と勝義の円融を説かない。理秘密教は、真俗二諦の円融を説くが、事相を明かしていない。事理俱密教は、真俗円融不二を説き、さらに身語意三密の行相を説く故に勝れているとする。
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弥陀
 阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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本尊
 根本として尊敬するもの。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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 本章では、天台大師の立てた一念三千の法門を盗み入れて、法華経と大日経は一念三千の「理」は同じであり、印と真言の事法において法華経が劣るとした真言宗のずる賢さを指摘されている。
 はじめに、法華経と大日経との渡来の先後にいついて法華経は旧釈の経である後秦の弘始(0406)に羅什三蔵が訳したが、それに対して大日経は新訳の経で唐の玄宗皇帝の開元4年(0716)に善無畏三蔵がインドから中国へ伝えたもので300余年も遅れていることを述べられている。
 しかも、その間に天台智者大師が出現し、教相の上では五時四教を立て、観心の法門として一念三千を説き、法華経が一代の極説であるとを明らかにしたのである。
 五時四教とは、釈尊50年の説法を分類して、説法の順序にしたがって五時に、教えの内容から四教とした教判である。五時とは、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時であり、最後の8年間に説かれた法華経と涅槃経こそ実大乗経であり、醍醐味とされるものである。四教とは、蔵経・通教・別教・円教の4つで、法華経は三諦・十界互具・一念三千の諸法が円融円満なので円教と名づける。なお教説の内容で分類した化法の四教のほかに、化導の形式によって頓・漸・秘密・不定の4つに分類した化儀の四教もあり、合わせて五時八教という。この天台大師の教判によって、釈尊一代の諸教の体系とともに勝劣が明らかになったのである。「南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり」(0262-03)と。
 それだけでなく、天台大師は摩訶止観において一念三千という観心の法門を確立し、一代仏教の肝心である法華経の極理を明確にしたのである。
華厳宗が一念三千の法門を盗む
 三論宗や華厳宗では八界までしかなく十界を説かないので一念三千の法門など立つはずがなかったが、天台大師以後に成立した華厳宗では、一方は天台大師に反論しながら、他方では、その一念三千の法門を盗んで、華厳経の「心如工画師」の文をその依文としたのである。このことを指摘された大聖人は、本抄で、華厳の澄観は持戒を誇った僧だが、一念三千の法門を盗んだではないかと破折されている。
 「心如工画師」の文とは、華厳経に「心は工なる画師の種々の五陰を画くが如く、一切世界の中に法として造らざること無し」とあることをいう。
 華厳宗の澄観は、華厳疏鈔のなあで、この文を一念三千の法門をあらわしているといい、華厳経にも一念三千の法門はあると主張したのである。
 なお、天台大師は摩訶止巻五上の中でこの文を引いて「善画の其国郭を図するが如し、像を写すこと真に偪って骨法精霊、生気飛動す」と述べ、また「界内・界外一切世間の中、心従り造らざるは莫し」と、心が万法の主体であること、一念に三千の生命状態を具足していることを説明している。
 しかし、華厳経に一念三千の法門が説かれていないのなら、一念三千を説明するのになぜ天台大師は「心如工画師」の文を用いたか、という疑問が起きてくる。
 華厳経にも一念三千はあるのではないかという疑問に対して、日寛上人は三重秘伝抄の中で、「答う彼の経に記小久成を明さず何ぞ一念三千を明さんや」と断破され、天台大師が華厳経を引用した意味については「若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云。また古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活の法門なり』云云、彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う…若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」と述べられている。
 二乗作仏・久遠実成は一念三千が成り立つための不可欠な前提であり、華厳経にはそれが説かれていない以上、一念三千も明かされているとするわけにはいかないのが当然であり、華厳経にいかに一念三千に通ずる文があっても、一念三千の実義はない。ゆえにそうした相通ずる文はあっても、有名無実であり、死の法門といわなければならない。だが、法華経の実技を説明するために会入して用いるならば、それなりに生き、死の法門であった華厳経の生命も蘇って、法華経の証明として用いることができるのである。
 つぎに真言宗について、善無畏等が華厳宗を立て、法華経と大日経の勝劣を判ずるのに、一念三千の理は同じだが、印と真言がないので法華経は事法において大日経に劣ると立てたため、天台宗の人々までその義を信じて、真言宗に堕ちてしまったことを述べられている。
 理同事勝の破折は、次章にされていくのであるが、されに詳しくは善無畏三蔵抄に「善無畏三蔵・法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給いしかども 印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見計りなり、其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり、印真言は又申すに及ばず謗法の罪・遥にかさみたり、閻魔の責にて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず直に阿鼻の炎をや招くらん、大日経には本・一念三千の深理なし此の理は法華経に限るべし、善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり」(0887-18)と破折されているので参照されたい。

0897:08~0897:18 第三章 理同事勝の邪義を破すtop
08   日蓮・理のゆくところを不審して云く 善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは天
09 台大師の始めて立て給へる一念三千の理を 今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる条ゆるさるべしや、 例せば
10 先に人丸が・ほのぼのと・あかしのうらの.あさぎりに・しまかくれゆく・ふねをしぞをもう.とよめるを、紀のしく
11 ばう源のしたがうなんどが判じて云く「此の歌はうたの父・うたの母」等云云、 今の人我うたよめりと申して・ほ
12 のぼのと乃至船をしぞをもうと 一字をもたがへず・よみて 我が才は人丸にをとらずと申すをば 人これを用ゆべ
13 しや、 やまかつ海人なんどは用ゆる事もありなん、 天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父・仏の
14 母なるべし、 百余年・已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて大日経と法華経とは理同なるべし、 理同と申
15 すは一念三千なりと・かけるをば智慧かしこき人は用ゆべしや、 事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大
16 日経・法華経の勝劣か漢土の法華経・大日経の勝劣か、 不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳
17 せり、 仁王経にも羅什の訳には印・真言なし不空の訳の仁王経には印・真言これあり、此等の天竺の経経には無量
18 の事あれども月氏.漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく.もちて来がたければ経を略するなるべし、
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 日蓮が道理の趣くところを疑っていうには、善無畏三蔵が法華経と大日経とは理は同じであっても、事相は大日経が勝れていると立てるのは、天台大師がはじめて立てられた一念三千の理を大日経に取り入れて、法華経と大日経と同じと勝手に判断することであり、許されるであろうか。
 たとえば、昔、柿本人麻呂が「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」と詠んだのを紀淑望や源順などが判定して「この歌は歌の父・歌の母である」と称えた。それを今の世の人が自分は歌を詠んだといって「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」と一字も違えず読んで「私の才能は人麻呂に劣らない」といったとしたら、人々はそのことを用いるだろうか。歌のことなどに無知な樵や魚夫なら用いることもあるだろうが。
 天台大師がはじめて立てられた一念三千の法門は、仏の父・仏の母なのである。天台大師が出生してから百年以後に中国に渡ってきた善無畏三蔵が一念三千の法門を盗み取って「大日経と法華経とは理は同じである。理が同じというのは一念三千である」と書いてあるのを、智慧ある人は用いるだろうか。
 また、大日経が事において勝れるというのは法華経には印と真言がないからだというのは、インド語の大日経と法華経の勝劣をいうのか、それとも中国語の法華経・大日経の勝劣なのか。
 たとえば不空三蔵の成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌には法華経に印と真言を添えて訳している。仁王経にも羅什訳には印と真言はなく、不空訳の仁王経には印と真言がある。
 これらのインドの経々には無量の事相はあっても、インドと中国は国を隔てて遠く、すべてを持ってくるのは難しいので、漢訳する際に省略したものであろう。

人丸
 飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
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紀のしくばう
 (~0919年)は、平安時代中期の貴族・儒者・歌人。中納言・紀長谷雄の長男。官位は従五位上・大学頭。
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源のしたがう
 (0911~0983)。平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙の次男。官位は従五位上・能登守。
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やまかつ
 猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。
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海人
 海や湖で魚介類を取ることを職業とする人。
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法華経の儀軌
 詳しくは「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」といい、法華経観智儀軌、成就法華儀軌、法華儀軌とも略称する。不空三蔵の釈した書。
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仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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 本章では、真言宗の理同事勝の義について、理は同じとするのは天台大師の一念三千の理を盗み入れたものであり、印と真言があるから事において勝れるとするのも、印と真言の訳経のとき、取捨されたものなので経の勝劣を論ずるには足りないことが明かされている。
 大聖人は善無畏三蔵が天台大師の立てた一念三千の法理を法華経に取り入れて理が同じであると主張しているのを、和歌の例をあげて破折されている。
 ここに引かれている「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」の一首は、古今和歌集の羇旅歌の部に収められており、歌人知らずとされているが、古くから柿本人麻呂の作と伝えられてきたもの、人麻呂は万葉集の代表歌人であり、和歌史上の第一人者として歌聖とも仰がれてきた。この歌も、新撰和歌集、和漢朗詠集、源氏物語、今昔物語、今鏡、平家物語、増鏡、今昔著聞集などにもひかれており、旅情のあらわれを詠んだ名歌と評価されている。この歌を、古今和歌集の序を書いた紀淑望、後撰和歌集を撰んだ源順などの和歌の道に通じた人々が「此のうたはうたの父、うたの母」と絶賛したという。
 それほど著名な歌を、後人が一時も違えず盗作して「我が才は人丸にをとらず」と誇ったとしても誰が用いるだろうか、とした大聖人は、それと同様に「仏の父・仏の母」ともいうべき天台大師の一念三千の法門を盗みとったうえで、大日経と法華経は理が同じであるとした善無畏等の邪見を「智慧かしこき人は用ゆべしや」と破折されているのである。
 理同事勝の、理は同じという義が一念三千を盗んだものであることを明かされた大聖人は、次に事勝という義も全く根拠のないことを示されている。
 大日経に印と真言があり、法華経にはないから勝れているというのが、それはインドの原典についていうのか、漢訳された経典についていうのかと反論され、漢訳の経における比較ならば、印・真言の有無は翻訳者の意向によって取捨撰択されるものなので、経の勝劣を決定するような重大な問題ではないとしりぞけられている。
 そして、その例として、羅什三蔵訳の妙法蓮華経には印・真言はなくても、不空三蔵の法華経の儀軌、正しくは成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌には印と真言が説かれているし、法華経以外でも、羅什訳の仁王経には印真言はないが、不空訳の仁王経には印と真言があるではないかと指摘され「天竺の経経には無量の事あれども月氏・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし」、すなわち法華経に印・真言がないのは、さして重要ではないために省略されたにすぎないとされているのである。
 なお真言見聞にも「抑も唐朝の善無畏金剛智等法華経と大日経の両経に理同事勝の釈を作るは梵華両国共に勝劣か、法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども流沙・葱嶺等の険難・五万八千里・十万里の路次容易ならざる間・枝葉をば之を略せり、此等は併ながら訳者の意楽に随つて広を好み略を悪む人も有り略を好み広を悪む人も有り、然れば則ち玄弉は広を好んで四十巻の般若経を六百巻と成し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり、印契・真言の勝るると云う事是を以て弁え難し、羅什所訳の法華経には是を宗とせず不空三蔵の法華の儀軌には印・真言之有り、仁王経も羅什の所訳には印・真言之無し不空所訳の経には之を副えたり知んぬ是れ訳者の意楽なりと、其の上法華経には『為説実相印』と説いて合掌の印之有り、譬喩品には『我が此の法印・世間を利益せんと欲するが為の故に説く」云云、此等の文如何只広略の異あるか、又舌相の言語・皆是れ真言なり』(0145-17)と同趣旨の破折がある。

0897:18~0898:13 第四章 大日経等に記小久成なきを示すtop
18                                                 法華経に
0898
01 は印・真言なけれども二乗作仏・劫国名号・久遠実成と申すきぼの事あり、大日経等には印・真言はあれども二乗作
02 仏・久遠実成これなし、 二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり、四十余年の経経には二乗は敗種の人と
03 一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、 法華経には・これを破して二乗作仏を宣べたり、いづれの経経にか印・
04 真言を嫌うことばあるや、 その言なければ又大日経にも其の名を嫌はず 但印・真言をとけり、印と申すは手の用
05 なり手・仏にならずは手の印・仏になるべしや、真言と申すは口の用なり口・仏にならずば口の真言・仏になるべし
06 や、 二乗の三業は法華経に値いたてまつらずは無量劫・千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず、勝れ
07 たる二乗作仏の事法をば・とかずと申して劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは 理によれば盗人なり
08 事によれば劣謂勝見の外道なり、 此の失によりて閻魔の責めをば・かほりし人なり、 後にくいかへして天台大師
09 を仰いで法華にうつりて悪道をば脱れしなり。
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 法華経には印・真言はないけれども、二乗作仏が説かれ、その劫・国・名号が記されており、さらに釈尊の久遠実成というすぐれた点がある。大日経等には印・真言はあっても二乗作仏・久遠実成がない。
 二乗作仏と印・真言を比較すれば、天と地ほどの勝劣がある。四十余年の爾前の経々には二乗は敗種の人で成仏できないと、一字二字だけでなく無量無辺の経々に嫌われている。法華経は二乗の永不成仏を破って二乗作仏を説いている。
 ところで印と真言をいづれの経々で嫌ったことがあるだろうか。そのことがなければ、大日経もまたその印・真言を嫌わないで説いているのにすぎない。
 印というのは手の働きである。手が仏にならなくては手で結ぶ印が仏になるだろうか。真言というのは口の働きである。口が仏にならなければ口で唱える真言が仏になるだろうか。二乗の身・口・意の三業も法華経に値わなければ、無量劫の間、真言密経の本尊である千二百余尊の印と真言を行じたとしても仏になることはできないのである。
 勝れている二乗作仏の事法を説かないからといって、劣っている印と真言を説いている事法が勝れているというのは、理についていえば法の盗人であり、事相についていえば劣謂勝見の外道である。この失によって善無畏三蔵は閻魔法王の責めを受けた人なのである。後になって悔いて天台大師を師と仰いで法華経に帰依して悪道をまぬかれたのである。
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10   久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず、 久遠実成は一切の仏の本地・譬へば大海は久遠実成・魚鳥は千
11 二百余尊なり、 久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし 夜の露の日輪の出でざる程なるべし、天
12 台宗の人人この事を弁へずして 真言師にたぼらかされたり、 真言師は又自宗の誤をしらず・いたづらに悪道の邪
13 念をつみをく、 
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 久遠実成にいたっては大日経には思いもよらない教えである。久遠実成は一切の仏の本地である。たとえば大海は久遠実成であり、海に住む魚や空を飛ぶ鳥は千二百余尊である。久遠実成がなければ千二百余尊は浮き草の根がないようなものであり、太陽が出る前の夜露のようなものである。
 天台宗の人々は、このことを知らないで真言師に誑かされたのである。真言師もまた自宗の誤っていることを知らないで、いたずらに、悪道に堕する邪念を積んでいる。

二乗作仏
 「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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劫国名号
 仏が二乗に成仏の記別を与えた際に述べられたもの。劫は成仏する際の劫の名とその長さをいい、国は住する仏国土の名、名号とは名乗る仏名のこと。
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久遠実成
 釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
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二乗は敗種の人
 敗種とは腐敗した種子のこと。敗根・焦種・焼種と同意。爾前の諸教では声聞・縁覚の二乗は永不成仏であるとし、芽のでることがない腐敗した種子にたとえている。
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三業
 身口意の三業のこと。十種の悪の業因で身の三悪、口の四悪、意の三悪がある。身の三悪は殺生・偸盗・邪婬、口の四悪は妄語・綺語・悪口・両舌、意の三業は貪欲・瞋恚・愚癡。この十悪業によって受ける果報は以下の通り。殺生の報い=短命・多病。偸盗の報い=貧困・破産。邪淫の報い=不貞・子供の不良。妄語の報い=誹謗・詐欺にあう。綺語の報い=言語不明瞭。悪口の報い=悪事が耳に・いい争いが絶えない。両舌の報い=家族や仲間に欺かれる。貪欲の報い=満足を得られず・欲に翻弄される。瞋恚の報い=周囲の事で悩み、命を奪われる。愚痴=性格が捻くれる。とある。
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千二百余尊
 真言宗の本尊のこと。胎蔵界に500余尊、金剛界に700余尊があり、あわせて1200余尊となる。
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劣謂勝見
 「劣を勝と謂う見」と読む。自己の見解に執着し、増上慢を起こして、劣っているにもかかわらず勝れているという考え方。五利使・辺見・邪見・見取見・戒禁取見のうちの見取見と同義。倶舎論巻十九に「劣に於いて勝と謂うを、名づけて見取と為す」とある。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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閻魔
 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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本地
 現れたところの化身に対し、それを現わす本身を本地という。大地が万物のよりどころとなるように、種々の外相も真実相を根本としている。また天月を本地、池にうつった月を垂迹にたとえることもある。一般には、仏菩薩が衆生を済度するために、仮の姿で現れた垂迹に対して、その真実身である仏菩薩をいう。天台の本地は釈尊であり、日蓮大聖人の本地は久遠元初自受用報身如来であり、天台を薬王如来の再誕、日蓮大聖人を上行菩薩の再誕といわれているのは、垂迹の姿である。
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真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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邪念
 邪な念。正しくない考え。悪い考え。
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 本章では、法華経には印・真言こそないが、二乗作仏・久遠実成という爾前の諸経に勝れた法理が説かれており、勝れた二乗作仏を説かずに劣った印・真言を説いた大日経を事法において勝れているというのは、理に関していえば盗人であり、事に関していえば劣謂勝見の外道であり、まして久遠実成など思いもよらない、と破折されている。
 法華経に説かれた二乗作仏・久遠実成と、大日経に説かれた印・真言を比較すると、天と地のような勝劣がある。法華経以前の諸経では一貫して二乗は永不成仏と嫌われたが、法華経に至ってはじめて二乗作仏が説かれ、劫・国・名号を明示して未来成仏の記別が与えられているのである。それに対して、印と真言は、他のどの経でも嫌われたわけではないので、大日経でも説かれたものにすぎない。すなわち、二乗作仏・久遠実成は法華経独自の、しかも諸経に超越した法門であるのに比して印・真言などは大日経独自の法ではなく、諸教に共通したものにすぎず、その勝劣は明らかなのである。
 まして、二乗は身・口・意の三業にわたって法華経によらなければ成仏できないのであり、印で手を結ぶのだから手が仏にならない限り印によって成仏することはできず、真言は口で唱えるのだから、口が成仏しないかぎり真言によって成仏することができないことになり、どれほど印・真言によって修行しても、成仏はかなわないのである。
 なお、もし二乗が成仏しないならば、十界の衆生がことごとく成仏できないことになる。このことを日寛上人は三重秘伝抄で「若し二乗作仏を明かさざる則は菩薩・凡夫も仏に作らず、是れ菩薩に二乗を具うれば所具に二乗・仏に作らざる則は能具の菩薩・豈・作仏せんや、故に十法界抄に『然るに菩薩に二乗を具うる故に二乗の沈空尽滅するは即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり』云云、菩薩既に然り、凡夫も又然なり、故に九界も同じく作仏せざるなり、故に九界即仏界の義なき故に一念三千も遂に顕わるることを得ざるなり、若し二乗作仏を明す則は永不成仏の二乗・尚・成仏す何に況んや菩薩凡夫をや、故に九界即仏界にして十界互具・一念三千其の義炳然なり」と述べられている。
 二乗作仏が説かれていないのに一念三千の理は同じであるとしたから「理によれば盗人なり」と断ぜられ、劣れる印・真言をもって法華経より事法において勝れるとしたから「劣謂勝見の外道」と定められたのである。
 ここに、善無畏等の理同事勝の邪義は完膚なきまでに打ち破られ、その虚構性が白日の下にさらされたともいえよう。
 このような邪義によって法華経を下した大罪によって、善無畏は地獄に堕ちて、閻魔王に責められ、法華経の「今此三界」の文を唱えてはじめて、地獄の苦をまぬかれることができたのである。
 善無畏の堕獄については、善無畏三蔵抄に詳しいので、その講義を参照されたい。
 法華経迹門で説かれた二乗作仏が説かれていない大日経にとって、本門で説かれた久遠実成など思いもよらない法門なのである。久遠実成は三世十方のあらゆる仏の本地を説かれたものであり、譬えていえば久遠実成を大海とすれば真言の千二百余尊の仏菩薩はそこに住む魚や鳥のようなものであり、久遠実成が明かさなければ、千二百余尊は根のない浮き草か、太陽の出る前の夜の露のように、はかないものである。
 開目抄に「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば 四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし」(0197-10)と述べられているのもこのことである。

0898:13~0898:17 第五章 空海の亀化兎角の妄論を破すtop
13         空海和尚は此の理を弁へざる上・華厳宗のすでにやぶられし 邪義を借りとりて法華経は猶華厳経
14 にをとれりと僻見せり、 亀毛の長短・兎角の有無・亀の甲には毛なしなんぞ長短をあらそい兎の頭には角なし・な
15 んの有無を論ぜん、 理同と申す人いまだ閻魔のせめを脱れず、 大日経に劣る華厳経に猶劣ると申す人・謗法を脱
16 るべしや、人は・かはれども其の謗法の義同じかるべし、 弘法の第一の御弟子かきのもときの僧正・紺青鬼となり
17 し・これをもつてしるべし、空海悔改なくば悪道疑うべしともをぼへず其の流をうけたる人人又いかん。
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 空海和尚はこの理を弁えないばかりか、すでに破折されている華厳宗の邪義を借りとって、法華経は猶華厳経よりもなお劣るとの僻見を立てたのである。これは亀毛の長短を論じ、兎の角の有無を論ずるようなものである。亀の甲には毛がないのに、なんでその長い短いを争い、兎の頭には角はないのに、なんで角の有無を論ずるのだろうか。
 法華経と大日経とは理は同じといった善無畏でさえも閻魔の責をまぬかれなかったのである。大日経より華厳経は劣り、その華厳経よりも法華経はなお劣るという人が、謗法の罪を脱れることができるだろうか。人は変わっても、その謗法の義は同じであろう。弘法の第一の弟子の柿本紀僧正が紺青鬼となったわけも、このことから知るべきである。空海が悔い改めなければ悪道に堕ちることは疑うべくもない。空海の流れをうけた人々もまた同様であろう。

空海和尚
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
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毛の長短・兎角の有無
 亀の毛の長短と兎の角の有無のこと。現実にないものについて論議する愚かさをいうのに用いられる。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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かきのもときの僧正
 (0800~0860)は、平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。空海十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。
―――
紺青鬼
 紺青色をした鬼のこと。仏法では鬼とは夜叉・羅刹・餓鬼などの餓鬼界に住する禽獣・変化をいう。乱暴でいかめしい姿をしており、人の功徳や生命を奪うものとされる。
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 本章では、弘法大師空海が理同事勝の邪義たるを知らず、そのうえ法華経にも劣るとした謗法の罪を挙げ、必ず悪道に堕すべきことを強調されている。
 日本の真言宗の祖・弘法大師空海の僻見については、撰時抄の次の御文に詳しい。
 「弘法大師は同じき延暦年中に御入唐・青竜寺の慧果に値い給いて真言宗をならはせ給へり、御帰朝の後・一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候、此の大師は世間の人人もつてのほかに重ずる人なり、但し仏法の事は申すにをそれあれども・もつてのほかにあらき事どもはんべり、此の事をあらあら・かんがへたるに漢土にわたらせ給いては但真言の事相の印真言計り習いつたえて其の義理をばくはしくもさはぐらせ給はざりけるほどに日本にわたりて後大に世間を見れば天台宗もつてのほかに・かさみたりければ、我が重ずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに本日本国にして習いたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり、それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん・すこしいろをかえて此れは大日経・竜猛菩薩の菩提心論・善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども天台宗の人人いたうとがめ申す事なし」(0276-18)
 このように、弘法が理同事勝の悪義によって、法華経を大日経に劣るとしただけではなく、大日経に劣る華厳経にもなお劣るとしたことを、大聖人は「人は・かはれども其の謗法の義同じかるべし」と破され、「空海悔改なくば悪道疑うべしともをぼへず其の流をうけたる人人又いかん」と責められている。
 善無畏等の理同事勝の邪義をそのまま日本に伝え、法華経の第三の戯論と下した弘法大師の大謗法たる理由を簡潔に述べ、その流れをくむ真言師が、改悔して正法に帰さなければ悪道に堕ちると戒められているのである。

0898:18~0900:07 第六章 法華経が仏意の宗なるを示すtop
18   問うて云わく法師一人此の悪言をはく如何、 答えて云く日蓮は此の人人を難ずるにはあらず但不審する計りな
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01 り、いかりをぼせば・さでをはしませ、 外道の法門は一千年・八百年・五天にはびこりて輪王より万民かうべをか
02 たぶけたりしかども 九十五種共に仏にやぶられたりき、 摂論師が邪義・百余年なりしもやぶれき、 南北の三百
03 余年の邪見もやぶれき、 日本・二百六十余年の六宗の義もやぶれき、 其の上此の事は伝教大師の或書の中にやぶ
04 られて候を申すなり、日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成実・律宗な
05 り、真言.華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定.慧の
06 三学を備へたる物なり、 其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真
07 言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに 東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此
08 等の宗は小乗の宗なるべし、 比叡山には天台宗・真言宗の二宗・伝教大師習いつたへ給いたりしかども天台円頓の
09 円定・円慧・円戒の戒壇立つべきよし申させ給いしゆへに 天台宗に対しては 真言宗の名あるべからずとをぼして
10 天台法華宗の止観・真言とあそばして公家へまいらせ給いき、 伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には 天台
11 法華宗の止観・真言と 正くのせられて真言宗の名をけづられたり、 天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられ
12 て候、真言宗の真言は当分の宗・論師・人師始めて宗の名をたてたり、 而るを事を大日如来・弥勒菩薩等によせた
13 るなり、 仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども但所詮の理は無常の一理
14 なり、法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・
15 無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり、 此れは大乗の空有の一分か、華厳宗・真言宗あがらば但中・
16 くだらば大乗の空有なるべし、 経文の説相は猶華厳・般若にも及ばず 但しよき人とをぼしき人人の多く信じたる
17 あいだ、下女を王のあいするににたり、 大日経等は下女のごとし理は但中にすぎず、論師・人師は王のごとし・人
18 のあいするによて・いばうがあるなるべし、 上の問答等は当時は世すえになりて人の智浅く 慢心高きゆへに用ゆ
0900
01 用ゆる事はなくとも、聖人.賢人なんども出でたらん時は子細もやあらんずらん、不便にをもひ.まいらすれば目安に
02 注せり、御ひまにはならはせ給うべし。
03       これは大事の法門なり、こくうざう菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし。
04     聖密房に之を遣わす                     日蓮花押
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 問うて言う。なぜ日蓮法師一人だけがこの悪言を吐いているのか。
 答えて言う。日蓮は善無畏や弘法等の人々を非難するのではない。ただ疑問のところを挙げているのである。それを怒るなら、そうされるがよい。インドの外道の法門は八百年あるいは千年の間、インド全体に広まり、上は天輪聖王から下は万民まで帰依したけれども、九十五種の外道はすべて釈尊に破られてしまった。中国では摂論師が邪義が陳・隋代の百余年のあいだ流布したが、玄奘が出るに及んで破られた。南三北七の邪見も三百余年栄えたが、天台大師の出現によって破られたのである。日本においては、仏教伝来から二百六十余年栄えた南都六宗の義も、伝教大師によって破られた。そのうえ、このことは伝教大師が或書の中で破られていることをいっているのである。
 日本国には大乗は五宗ある。法相・三論・華厳・真言・天台宗である。小乗に三宗ある。倶舎・成実・律宗である。真言・華厳・三論・法相宗は大乗から出たといっても、詳しく論ずるなら、みな小乗の宗である。
 宗というのは、戒・定・慧の三学を備えているものである。三学のなかで定と慧はひとまずおく、戒をもって大乗・小乗の境を明らかにするものなのである。
 東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇堂がないので、東大寺の戒壇によって小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を受けている。したがって戒を論ずるならば、これらの宗は小乗の宗となるであろう。
 比叡山延暦寺には天台宗・真言宗の二宗を伝教大師が習い伝えられたけれども、天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇を建立すべきことを主張されたため、天台宗に対しては真言宗の名はあってはならないと思われて、天台法華宗の止観業・遮那業と書かれて朝廷に上表されたのである。伝教大師から慈覚が賜った誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正しく載せられて、真言宗の名は削られている。
 天台法華宗は仏立宗といい、釈尊の時から立てられたものである。真言宗の真言は凡夫の立てた宗で、論師・人師がはじめて宗の名をつけたのである。それなのに事を大日如来・弥勒菩薩等によせているのである。釈尊が御存知の御意にかなうのは、ただ法華経による一宗だけなのである。
 小乗には二宗・十八宗・二十宗とあるけれども、その究極の理は無常の一理である。
 法相宗の究極の理は唯心有境である。大乗宗に無量の宗があっても、所詮は唯心有境というならば、ただ法相宗の宗となる。三論宗は唯心無境である。大乗宗に無量の宗があっても、所詮が唯心無境であるならば、但三論宗一宗となる。これは大乗の空有の一分であろうか。
 華厳宗・真言宗は与えていえば但中であり、奪っていえば大乗の空有なのである。経文に説かれた内容はなお大日経は華厳経・般若経にも及ばない。ただ立派と思われる人々が多く信じているのは、下女を王が愛しているように似ている。大日経等は下女のようのものである。その所詮の理は但中の理にすぎない。論師・人師は王のようなものである。人々が敬愛するので威望があるのである。
 以上の問答等は、現在は世も末となって人の智慧が浅く慢心が高いゆえに用いられることはなくても、聖人・賢人などが出現した時には事の子細も明らかになるであろう。あなたを不便と思うので目安として書き注したのである。時間があるときに学んでいきなさい。
 これは大事の法門である。虚空蔵菩薩に詣でて、つねに読まれるがよい。
     聖密房にこれを書き送る                     日蓮花押

法師
 よく仏法に通じ清浄な行を修して人の師となる者のこと。
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五天
 五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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輪王
 転輪聖王または転輪王ともいう。仏教で説く理想の君主で、即位するとき天より輪宝を感得し、その輪宝を転じて四方を制するのでこの名がある。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、感得する輪宝によって、それぞれ金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王とよばれる。
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九十五種
 釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。
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摂論師が邪義
 摂論宗の法師おのこと。摂論宗は中国13宗のひとつ。無着の摂大乗論を所依とし、真諦三蔵を祖とする流派。梁・陳の時代に真諦が無著の摂大乗論と世親の摂大乗論釈を中国に伝え、漢訳して以来、弟子たちによって弘められ一派をなして盛んであったが、唐代に玄奘が新訳を伝え、法相宗ができてから次第に勢力を失った。日本には伝えられていない。教義は九識を立て阿頼耶識以下の八識は迷いであり、これを去って第九識の阿摩羅識の真如に入ることを説いている。邪義とは真諦の教義の相対的誤りをいう。
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南北の三百余年の邪見
 中国の天台大師以前の300余年間に盛んであった南三北七の諸説の誤りをいう。天台大師はこれらの邪義を打ち破り、五時八教の教相判釈をもって、法華経が最勝であることを説いた。
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六宗の義
 南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。これらは仏説である経を所依とせず、論・釈を所依としたものが多く、釈尊の本意である法華経を立てていなかった。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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天台
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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倶舎
  倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
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成実
 四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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戒・定・慧の三学
 戒は戒律、防非止悪。定は禅定、心を静めて悟りを開くこと。慧は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。日蓮大聖人の仏法においては、定を本門の本尊、戒を本門の戒壇、慧を本門の題目とし、三学を三大秘法とする。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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戒壇
 受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。
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東大寺
 聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
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驢乳・臭糞の戒
 驢乳はロバの乳。牛乳と同じ色であるが、味は不味で飲みにくい。臭糞は汚物のこと。戒律が多く、少しの悟りも得られない小乗戒を取るに足りない驢乳・臭糞にたとえたもの。
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比叡山
 延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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止観・真言
 伝教大師が山家学生式で日本天台宗の修行を止観業と遮那業(真言)の両業と定めたこと。
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公家
 朝廷に仕えるもののこと。本来は天皇・朝廷をさすが、武家に対して朝廷に仕えた貴族・官人の総称となった。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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仏立宗
 仏の立てた宗。法華宗のこと。
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論師
 阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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弥勒菩薩
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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小乗には二宗・十八宗・二十宗
 インドにおける教理上の分派のこと。二宗は紀元前4世紀ごろ、大天が異議を唱えたことによって分裂した大衆部と上座部。十宗とは大衆部が分かれて八部となり、上座部が分かれて十部になったものの総称。二十宗とは先の十八部に根本の大衆部・上座部を合わせて二十宗とする。
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無常の一理
 無常とは常に生滅変化して移り変わり、瞬間も同じ状態にとどまらないことをいう。小乗部は部派は多くとも、その究極の理は世間の無常無我を悟り、色心の煩悩を断じ尽くす無余涅槃の空理に帰すことにある。
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唯心有境
 ただ心のみが一切法の根本であり、しかも心が縁して識を生じさせる対境は有であるとみること。大乗のうちの無著・世親の系統の主張を引く法相宗では境空心有(唯心有境)をその究極の理とする。
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唯心無境
 ただ心のみが一切法の根本であり、しかも心が縁して識を生じさせる対境は無であるとみること。大乗のうち
で諸法皆空を説く竜樹・提婆系統の主張を引く三論宗では心境俱空(唯心無境)をその究極の理とする。
―――
大乗の空有
 天台大師によると蔵教の空は色を細かく分析していくと空となるとする。これを折空という。通教の空は諸法は因縁所生であるとして、存在そのものに空をみるので体空、別教の空は仮諦・中諦とは隔歴した空諦をみるので偏空といい、仮諦・中諦と相即した空諦を円空とする。ここでは通教の空をいい、小乗の有は無常を免れないが、大乗の有とは他縁に依らない円理をいう。三論宗は大乗の空の立場であり、法相宗は有の立場である。
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但中
 別教における隔歴の三諦における中諦をいう。すべては因縁によって仮に存在しているのに過ぎないゆえに空であり、空という固定的な体もまたないゆえに空もまた空である。したがって仮と共に否定して偏執のないところに真実があり、これを中という。ただし、別教の中諦は空・仮を超越して隔歴を立てるから但中という。
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説相
 経文や論・釈等の所説や内容。言説や文章にどう述べられているかという事。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
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こくうざう菩薩
 智慧と福徳を蔵することが大空にも似て広大無辺であるがゆえに、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すのに尽きることがない菩薩であるがゆえに虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に坐して五智宝冠をいただき、右手に智慧の利剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠を持っている等さまざまである。密教では胎蔵界漫荼羅虚空院の中尊とされている。大聖人が修学、出家された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。
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 本章は、南都六宗は悉く伝教大師によって破折されたこと、真言については、伝教大師は法華宗の一分としたことを述べられ、仏の本意はただ法華経一宗に限ること、また大日経は、別教の隔歴の理で法華経の円融の理に及ばないことを述べ、妙密房に対して、これらの点をしっかり学ぶようすすめて本抄を結ばれている。
 はじめに、このように他宗破折の言をなすのは大聖人一人ではないか、という疑問に対して、釈尊がインドのバラモン95流をすべて破られたこと、唐の玄奘三蔵が梁の真諦三蔵が伝えた摂論宗を破折したこと、天台大師は南三北七の邪義を破られた等の先例を挙げて、真言の破折もすでに伝教大師がある書のなかでされていることであると答え、正義によって、真言の邪義を破るのは当然であると示されている。
伝教大師の真言破折
 「此の事は伝教大師の或書の中にやぶられて候」の御文については、報恩抄に「真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・涅槃等の例とせり、而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわずらはしきに依りてや真言・天台の二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給わざりけるか、但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり」(0304-10)とあるところから、依馮集の記述を指すものと思われる。
 伝教大師の著された依馮集は、依馮天台宗といって、序分の「天台の伝法は諸宗の明鏡なり」から始まって、仏教の各宗派が天台に依馮して宗を立て義を立てていることを明かしたものであり、その中に「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の規模を隠す」とある。この「筆授の相承を泯し」とは、もともと天台僧であった一行阿闍梨の大日経疏は、天台法華宗の立場で大日経を解釈したものであるが、弘法はそれを用いながら、法華経を大日の三部経に劣るとして一行の相承を無視した、との意味である。そのように伝教大師は、真言宗が天台の正義を盗み入れたうえで大日経が勝れたりとした誤りを指摘して破られているのである。
 つぎに大聖人は、戒という面から考察されて真言・法相・三論・華厳の各宗は、名は大乗であっても、東大寺の小乗の戒壇をふみ、小乗の戒を受け持っている以上、「戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし」と断ぜられ、真言も小乗宗であるとされている。
 なお本抄と同意の御文が、法門申さるべき様の事に「法相・三論・華厳・東寺の真言等は大乗宗・設い定慧は大乗なれども東大寺の小乗戒を持つゆへに戒は小乗なるべし」(1270-06)とある。
 また、伝教大師は、唐に渡って天台宗・真言宗の二宗の教義を学び伝えたが、比叡山に法華経迹門の円頓の戒壇の建立を発願し、天台法華宗のほかに真言宗の名があってはならないと宗の名を削り「天台法華宗の止観・真言」と真言を法華経の傍依の経との立場を定められたのである。
 なお、伝教大師が真言宗を破られていた点は、報恩抄によれば、
    一、真言には宗の名をつけず、天台法華宗と称したこと
    二、守護章に大日経を傍依の経としたこと
    三、依馮集で真言を破していること
    四、真言の祖・不空を無智な「魯人」とよんでいること
    五、そのような含光の物語を書き載せていること
 などが挙げられる。
 このように、伝教大師の本意は「仏御存知の本意は但法華経一宗なるべし」であり、天台法華宗こそ仏のたてた「仏立宗」とされたのである。
 真言破折の最後に、大聖人は「華厳宗・真言宗あがらば但中・くだらば大乗の空有なるべし」と教理の内容から論じられ、法華経はもちろん、華厳経・般若経にも及ばない低い法理の真言宗がこれだけ尊信され流布したのは「よき人とをぼしき人人の多く信じたる」ためであり「論師・人師は王のごとし・人のあいするによて・いばうがあるなるべし」と、インドから中国へ渡った善無畏等や、入唐して学び朝廷に用いられた弘法など、立派そうに見える人師・論師によって弘められたからであることを指摘されている。
 もとより仏法は「依法不依人」の戒めどおり、法の内容によって判ずべきである。真言に説かれる法理は、与えていっても「但中」すなわち三諦のうち空諦・仮諦を否定して立てる中諦にすぎず、法華経の説く円融の三諦にはるかに及ばないのである。また奪って論ずれば、通教の空と有と同じで、三論宗や法相宗の所説と異ならない浅理にすぎないのである。それを法華経と理が同じなどというのはおこがましいかぎりといわなければならない。
 こうして、冒頭に挙げた真言の邪義のうち、一貫して理同事勝を破折されているのは、清澄寺が台密であり、聖密房がその邪義に長く染まっていることを考慮されたものであろう。「不便にをもひ.まいらすれば目安に注せり」の御文に、妙密房の心中の謗法を打ち破らんとの大慈悲を感ずることができる。
 本抄の最後に「これは大事の法門なり、こくうざう菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし」とされていることは、清澄寺大衆中で「虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ」(0895-15)と仰せのように、清澄寺の大衆にも聞かせ、覚醒させたいとのお心と拝せられる。

0900~0901    華菓成就御書top
華果成就御書    弘安元年四月    五十七歳御作   浄顕房・義浄房    於身延
01   其の後なに事もうちたへ申し承わらず候、 さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を
02 嵩が森にて よませ給いて候よし悦び入つて候、 たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、 源に水あれば流かはか
03 ず、火はたきぎ・かくればたへぬ、 草木は大地なくして生長する事あるべからず、日蓮・法華経の行者となつて善
04 悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる 此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、 日蓮は草木の如く師匠
05 は大地の如し、 彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、 一名上行乃至四名安立行菩薩云云、 末法には上行・
06 出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか、 さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、
07 故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、 日蓮が法華経を弘むる功徳は 必ず道善房の身に帰すべしあらたう
08 とたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、
09 師弟相違せばなに事も成べからず 委くは又又申すべく候、 常にかたりあわせて出離生死して 同心に霊山浄土に
10 てうなづきかたり給へ、 経に云く「衆に三毒有ることを示し 又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生
0901
01 を度す」云云、前前申す如く御心得あるべく候、穴賢穴賢。
02       弘安元年戊寅卯 月 日                 日蓮花押
03     浄顕房
04     義浄房
-----―
 その後は一向にご様子もうかがわないが、お変わりありませんか。
 去る建治のころ、故道善房聖人のために報恩抄二巻を書いて送って差し上げたのを、嵩が森で読まれたことを、悦んでいる。
 たとえば根が深ければ枝葉は枯れず、源に水があれば流れは涸れることはない。火は薪がなくなれば消える。草木は大地がなければ生長することができない。日蓮が法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房・日蓮房と呼ばれるようになったことは、此の御恩さながら故師匠道善房のおかげである。たとえば日蓮は草木のようであり、師匠の道善房は大地のようなものである。
 法華経従地涌出品で出現された地涌の菩薩に四人の上首がいる。経には「第一を上行菩薩と名づけ(乃至)第四を安立行菩薩と名づく」と説かれている。末法の世に上行菩薩が出られるならば安立行菩薩も出現されるはずであろう。
 稲は花を咲かせて果を実らせても、米の精は必ず大地に還る。故に一度刈り取った後に芽が出てふたたび花や果を結ぶのである。日蓮が南無妙法蓮華経を弘める功徳は必ず道善房の身に帰るであろう。まことに貴いことである。
 よい弟子をもてば師弟はともに成仏をし、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。委しくはそのうちに申し上げる。
 つねに語り合って生死を離れ、同心に霊山浄土に行ってうなずき合って話されるがよい。法華経の五百弟子受記品第八には「衆生に貧・瞋・癡の三毒があることを見せ、また邪見の相を現ずる。我が弟子はこのように方便をもって衆生を救済する」と説かれている。前々に申し上げたとおり、よく心得ていきなさい。穴賢穴賢。
       弘安元年戊寅卯 月 日                 日蓮花押
     浄顕房
     義浄房

道善房聖人
 (~1276)安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の住職。日蓮大聖人幼少の剃髪の師。日蓮大聖人は天福元年(1233)12歳の時、道善房の弟子となり、16歳で出家剃髪。以後、鎌倉に数年間修学、さらにいったん清澄寺に帰られて後、京都に出て比叡山・奈良・高野山に回って研学に務められた。建長5年(1253)32歳の時、故郷に帰り、4月28日、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、初めて南無妙法蓮華経を説かれて立教開宗された。その時、念仏の強信者であった地頭・東条景信の迫害にあって、清澄寺を脱出され、鎌倉で布教を開始された。道善房は大聖人を思いながらも東条景信と争うこともできず、大聖人に帰依することもできなかった。文永元年(1264)11月14日、小松原法難の直後に西条・華房で、大聖人は道善房と再会された。その時、道善房は大聖人に対して成仏できるかどうかを質問している。それに対して道善房が阿弥陀如来像を五体も造ったことから、五度無間地獄に堕ちると答えられ、真心込めて正法への帰依を勧められた。その後、道善房は少し信心を起こしたようだが、改宗までに至らず一生を終わった。
―――
嵩が森
 清澄寺境内にあった。現在の旭日の森にあたる。
―――
法華経の行者
 法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
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地涌の菩薩
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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ひつぢ
 刈り取った稲株からまた生える稲。
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法華経を弘むる功徳
 功徳とは功能福徳の意。福利を招く功能が善行の徳としてそなわっていることを功徳という。徳は得の意で功を修めることによってえるところの功徳をいう。安楽行品には「我が滅度の後に、若し比丘有って、能く斯の 妙法華経を演説せば(中略)其の人の功徳は、千万億劫に、算数譬喩をもって、説くとも尽くすこと能わじ」と、法華経を説き弘める功徳が説かれている。
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仏果
 成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。
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地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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出離生死
 生死を出離すること。生死は苦しみ・煩悩・迷いのこと。出離は迷い・苦しみを明らかにしていくこと。三界六道の迷いや苦しみから出で離れ、涅槃・菩提の境地に至ること。生死即涅槃と同義。
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霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
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邪見の相
 因果の道理を無視する妄見を「邪見」という。低級思想・邪宗教に迷う姿のこと。
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方便
 悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
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衆生
 梵語サットヴァ(sattva)の音写。薩埵と訳す。この世に存在するもの、生けるもの。主として人間をさす場合が多いが、感覚をもつ生き物すべてをいう。
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浄顕房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。
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義城房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。
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 本抄は、日蓮大聖人の清澄時代の旧師・道善房が死去してから2年後の弘安元年(1278)4月、浄顕房と義浄房に出されたお手紙である。道善房、浄顕房、義浄房についてはすでに清澄寺大衆中に触れられているので略すが、道善房の死去については、建治2年(1276)3月との説がある。また同年7月26日の報恩抄の送文に「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候」(0330-03)とあることから、少なくとも6月以前であることがわかる。
 したがって、本抄を著された弘安元年(1278)4月は道善房の3回忌にあたるところである。たぶん大聖人は師の3回忌を営まれ、十分に回向されて、その際、浄顕房と義浄房にあてて本抄をしたためられたものであろう。
 報恩抄における師恩・報恩の御心は、本抄にもそのまま拝せられる。
 報恩抄にいわく「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329-13)と。
 本抄にいわく「さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと」と。
 この部分が本抄の題号の由来でもあるが、まさしく報恩抄の最後の部分と表現を同じくされている。また道善房生前中の善無畏三蔵抄にも「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、 此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」(0888-16)とある。道善房は心中では大聖人に帰伏しながら謗法を断つことができず、その謗法に対しては「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0889-08)と、厳しく断訶されているが、その旧師としての恩については終生変わらぬ感謝の念を披歴されているのである。
 のみならず、本抄においては「末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか」と、道善房を安立行にも配されているようである。これは前の「日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」とある御文をうけている。すなわち御義口伝に「火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり」(0751-07)とあり、安立行は草木を生ずる大地にたとえられているからである。したがって、道善房が地涌の上首四菩薩の一人・安立行であるといわれているというよりも、上行を世に送り出した大地のごとき働きをしたという意味からいわれていると拝すべきであろう。
 とすれば、日蓮大聖人が自ら上行菩薩の最誕であることを述べられるところに、この御文の元意があると拝すべきである。日蓮大聖人は内証は久遠元初自受用報身如来の最誕であられ、外用は上行菩薩の最誕であられる。したがって、上行菩薩であられること自体、末法の御本仏であることの、明確なる宣言であると拝されるのである。
 道善房は謗法を捨て切れず一生を終えているのであり、その意味では地涌の上首の一人であるとは考え難い。しかし、かりにも末法の御本仏との師弟の縁を結んだということは、深厚なる宿縁であり、その功力によって、かならず未来において仏道を成ずるであろう。そのことは大聖人の「にひつぢおひいでて二度華果成就するなり」の御文で明らかである。大聖人という稲を生み出した道善房の大地には、大聖人の米の精がおさまり、そこからふたたび苗が出生するのであり、道善房が成仏することは疑いないとの御心と拝することができる。
 また「建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」とあるのは報恩抄であるが、報恩抄送文に「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては 此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ」(0330-09)とあるところから、大聖人は「此の御房」すなわち民部阿闍梨日向に読んでもらいなさいといわれたのを、実際には二人で嵩が森で拝読したのではないかと思われる。その真心を深く喜ばれているのである。
 なお、本抄については、偽書説もあるが、報恩抄との合致から、仏法の重要な法理が述べられた書であることに疑問はない。
よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず 
 この御文が前の「日蓮が法華経を弘むる功徳は 必ず道善房の身に帰すべし」をうけて述べられていることはいうまでもない。
 道善房は師ではあったが正法を究めた師ではなく、念仏の邪法に迷い、信心弱いままで生涯を終った。しかし、日蓮大聖人というすぐれた弟子をもつことにより、大聖人の広大な功徳の回向を受けて、やがては仏果に至ることができる。すなわち、よき弟子をもつことによって、師弟ともに仏果にいたることができるのである。
 しかし、逆に、弟子も邪法に迷った“あしき弟子”であるなら、正法の功徳が回向されないばかりか、悪法の回向を受けることになって、ますます地獄の苦に沈むのみであろう。
 仏法をともに求める師と弟子の関係は、師自身が仏法の極理を究めることができなかったとしても、その志を継いだ弟子によってそれが成し遂げられらば、弟子からの回向によって師弟ともに仏果にいたることができる。このように相い扶け、相い補って仏道を求めるのが師弟であり、それが相違すれば、仏道の成就はできない。故に「師弟相違せばなに事も成べからず」と仰せられているのである。
 その意味で、ここにいわれている“師”とは、まだ正法を究めてない一般的な立場での師である。すでに正法を究めている師の場合は、その弟子がかりに迷って“あしき弟子”になったとしても、そのために地獄に堕ちるということはない。なぜなら、成仏の可否が決まるのは、信受する法によるからである。
 さらに、ここで師弟の重要性について、令法久住という観点から考えてみたい。
 法華経の説法の座において諸仏が来集した理由として「令法久住」とある。法華経の説法は在世衆生の記別もさることながら、滅後の弘法を期することに一層の重点が置かれている。そしてそれは、地涌の菩薩の出現によって成就されるのである。ただ、地涌の菩薩が釈尊の久遠からの弟子というのは文上でおいてであって、地涌の菩薩の本地の内証は久遠元初自受用報身如来であり、釈尊はかえって迹仏になるということはいうまでもない。
 仏法それ自体勝れている故に、それが後世に永く伝わっていくことは当然としても、具体的に釈尊が神力品において別付嘱し、嘱累品において諸菩薩に総付嘱して初めて、釈尊の教えの滅後久住が確実とあったのである。
 この意味からすれば、師匠の重要さはいうまでもないものの、弟子の使命もまだ計り知れないものがあるといえよう。妙楽大師いわく「子父の法を弘む世界の益あり」と。師の教えが弟子によってたんに受持されただけでなく、空間的には一閻浮提に弘められ、時間的には永遠に伝えられ、ますます盛んならしめてこそ、令法久住といえるのである。
 よい弟子をもつか否かによって、師弟ともに、将来が定まるということは、それだけ師がいかに弟子を薫育するかの責任が重いということもあろう。師は弟子のために存在することであり、自らの解脱のみを求めるのであっては師とはいえない。「衆生にこの機有って仏を感ず。故に名ずけて印と為す。仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて縁となす」と仏とは衆生のために、応じて出現したのである。
 なかんずく、釈尊の法華経の説法は、滅後の弘法、令法久住のためであった。もし滅後に弘通するものがいず、仏法を断絶してしまったならば、釈尊は何のために出現したかという「一大事因縁」が失われてしまう。しかるに、仏滅後、厳密に法華経の教えどおりに弘教した人は、日蓮大聖人以外にないといってよい。なぜなら、天台大師や伝教大師は、怨嫉を受けたが「況滅度後」ではなかったからである。すなわち、末法の御本仏日蓮大聖人の出現によって、初めて釈尊の説いた法華経は、真実となったといっていいのであり、その意味では、釈尊は初めて実語の人となったといえる。
 「師弟相違せばなに事も成べからず」と。師一人のみでは令法久住の根本は据えることはできても、成就はできない。それは一に受けついでいく弟子にかかっている。日蓮大聖人は、あくまでも道善房に対して弟子の立場に自らを置かれて、その使命を述べられているが、同時に、この御文をとおして、浄顕房、義浄房にも、仏法伝灯の強い自覚をもつべきことを教えられていると拝される。
「衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云
 この御文は、釈尊が五百弟子授記品にいて声聞の弟子に対し、内心に尊い生命を秘していることを示したものである。
 「内に菩薩の行を秘し、外に是れ声聞なりと現ず、少欲にして生死を厭えども、実には自ら仏土を浄む、衆に三毒有りと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く、方便して衆生を度す」
 外面においては声聞の姿を示し、生死を離れゆくことを願うようであっても、それは衆生を救うための方便の姿であって、内には菩薩の行を秘しているのであると述べているのである。この文をとおして大聖人は、浄顕房・義浄房の二人に対して、今はいかなる立場にあろうとも、二人が団結して信心していくことが尊い行為であることを教え激励されているのである。
 浄顕房、義浄房は内に大聖人への信を確立してはいたが、外には末だ清澄寺の中にあり、まさしく「邪見の相」を示している。その二人に対し、その中で信心を貫く姿こそ、衆生を救済していく偉大な行為に連なることを教え、その使命の重大さを教えられたのである。
 貧瞋癡の三毒を持っている姿を示し、さらには邪見の相を示すことが衆生を導くための方便であるとは、現実に三毒に沈み、邪見にとらわれている衆生を救うには、自らその姿を示し、ともに打開していく以外にないということである。その意味では、衆生救済のあり方を教えた重要な経文であるといえよう。
 もしも三毒や邪見をもたない姿で法を教えようとしても、衆生はそのような人に対し、自分とは全く違うのだから、縁のないことだと感じ、法を信じようとはしないにちがいない。そうすれば、たとえ尊敬されることはあっても、衆生との間にますます縣隔をつくって衆生救済の目的は達せられなくなるのである。
 三毒強盛な、欠点多い同じ人間として生きつつ、そこから仏道に入っていく姿を示すことにより、衆生を教化することができるのである。人々にこの仏法を教えるためには、自らすすんで泥沼に入り、そのなかから清浄な花を咲かせる姿を示さなければならないのである。
 我々が、邪宗の家に生まれ、三毒強盛の悪人として生をうけたのも、仏の弟子の一分として衆生を化すためであると教えていると同時に日常生活にあっても、自ら求めて困難の中へ、また泥沼の中へ分け入っていく勇気がなくてはならないことを説いているようである。
 これは同苦の姿勢である。いかなる革命であっても、指導者が特権意識をもつたり、差別意識をもっていては、大衆は心服しない。現実社会に渦巻く苦悩の荷物を、ともに担いながら進んでこそ、大衆は胸襟を開くのである。職業革命家が、口にいかなる平等を唱え、自ら大衆であることを標榜しても、いつのまにか大衆と遊離してしまい、民衆の生活実感ほど遠い革命理論に堕してしまうのは、革命を職業とし、自らの生活を特別化してしまう故にほかならない。我々の仏法流布は、最も崇高な社会・生命の変革作業である。である故にこそ、この点に最も留意し、生活に密着した変革を遂行していかなければならない。
 またこの御文は、いかなる外面をもとうと、そのなかには大乗流布の精神を赤々と燃やし続けていかなければならないことも教えている。社会の泥沼の中に入っていくことは重要であるが、そこに染まってしまい、本来の大目的を忘れ去ってしまったならば、いかなる努力も水泡に帰してしまうであろう。大聖人は兄弟子だった二人に対し、謗法の真っ只中に住むからこそ、そこに流されることのないよう、いよいよ信心を強盛に持つべきことを、この文をとおして教えられているようである。蓮華に「於泥不染の徳」と。また「出水の義」と。いかなる所にあっても、大聖人の門下たる矜持だけは厳然とたもたなければならない。

0901~0902    別当房御返事top
別当御房御返事
01   聖密房のふみに・くはしく・かきて候よりあいて・きかせ給い候へ、なに事も二間清澄の事をば聖密房に申しあ
02 わせさせ給うべく候か、 世間のりをしりたる物に候へばかう申すに候、 これへの所当なんどの事は・ゆめゆめを
03 もはず候、 いくらほどの事に候べき、但なばかりにてこそ候はめ、又わせいつをの事をそれ入つて候、 いくほど
04 なき事に御心ぐるしく候らんと・かへりてなげき入つて候へども・我が恩をば・しりたりけりと・しらせまつらんた
05 めに候、 大名を計るものは小耻にはぢずと申して、 南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ震旦高麗までも及ぶ
06 べきよしの大願をはらみて其の願の満すべきしるしにや、 大蒙古国の牒状しきりにありて 此の国の人ごとの大な
07 る歎きとみへ候、 日蓮又先きよりこの事をかんがへたり閻浮第一の高名なり、先きよりにくみぬるゆへに・ままこ
08 のかうみやうのやうに 専心とは用い候はねども・終に身のなげき極まり候時は 辺執のものどもも一定とかへぬと
09 みへて候、 これほどの大事をはらみて候ものの少事をあながちに申し候べきか、 但し当時・日蓮心ざす事は生処
10 なり日本国よりも大切にをもひ候、 例せば漢王の沛郡を・をもくをぼしめししがごとし・かれ生処なるゆへなり、
0902
01 聖智が跡の主となるをもつてしろしめせ、 日本国の山寺の主ともなるべし、 日蓮は閻浮第一の 法華経の行者な
02 り・天のあたへ給うべきことわりなるべし。
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 聖密房の手紙に詳しく書いておいたから、寄り合って聴聞されるがよい。二間寺、清澄寺のことは、なにごとも聖密房にお話しされるがよい。妙密房が世間の道理をよくわきまえている者だから、このようにいうのである。
 私に対する心配りのことなど夢にも思ってはいない。どれほどの手当になるか、ただ名ばかりのことでよいだろう。
 また(わせいつを=意味不明)のことは、恐れ入っている。わずかのことについてご迷惑であろうとかえって嘆いているが、日蓮が恩を知っていたことをお知らせするためである。
 大いなる名声を計るものは小さな恥にとらわれないといって、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、中国・朝鮮にまでも弘めようとする大願を懐いているが、その願いを満たすべき前兆であろうか。大蒙古国からの国書がたびたびあって、日本の国のすべての人の大きな歎きになっているとみえる。日蓮は以前からこの他国侵逼難があると考えていた。予言の的中は閻浮第一の高名である。
 しかし、これまで人々は日蓮を憎んでいるので、継子の功名のように心から用いることはないが、ついに身の嘆きが極まった時には、邪義に執着している人々も必ず悔い改めると思われる。これほどの大事を懐いている者が、二間・清澄寺のような小さな問題のことを強くいうのであろうか。
 ただし、いま日蓮が心に願うことは生まれた土地のことである。日本の国よりも大切に思っている。たとえば漢の高祖劉邦が沛郡を重くみられたようなものである。それは沛郡が高祖の生地だからである。
 聖人智人の跡は、将来中心となるのが通例であり、このことによって知られるがよい。清澄寺が日本国の寺々の主ともなるであろう。
 日蓮は閻浮第一の法華経の行者である。それは天が与えてくれた理なのである。
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03   米一斗六升.あはの米二升・やき米はふくろへ・それのみならず人人の御心ざし申しつくしがたく候、これは.い
04 たみをもひ候、 これより後は心ぐるしく・をぼしめすべからず候、よく人人にしめすべからず候、 よく人人にも
05 つたへさせ給い候へ。
06   乃 時
07     別当御房御返事
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 米一斗六升・粟二升・焼き米は袋でいただき、そればかりでなく、人々の御志は申し尽くしがたい。心に痛み入る思いである。これから後は、心苦しく思ってはならない。人々にお話ししないように、また人々にくれぐれもよろしくお伝えください。
   乃 時
     別当御房御返事

二間
 日蓮大聖人御在世当時、安房の国(千葉県)にあった寺。
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清澄
 くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233)5月12日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253)4月28日に立教開宗を宣せられる。
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震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
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高麗
 朝鮮半島古代の王国。高句麗ともいう。
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大蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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牒状
 まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
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閻浮
 一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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ままこのかうみやう
 ままこは血のつながりがない子、こうみょうは手柄をたてること。継子が功名を立てたとき、継父はその功を認めても、表面上は無視することをいう。
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生処
 ①仏の生まれたところ。②生まれたところ。③死後に赴く楽土。
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漢王
 漢(中国)の王のこと。
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沛郡
 中国にかつて存在した郡。現在の中華人民共和国江蘇省徐州市沛県一帯に比定される。劉邦の生地といわれている。
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山寺
 寺院のこと。
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法華経の行者
 法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
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 本抄は、宛名にある別当御房がいかなる人物か、また述作の年次はいつか、どこで執筆なされたものか、いずれも明らかではない。ただ冒頭に「聖密房のふみに・くはしく・かきて候よりあいて・きかせ給い候へ」とあるから、着地は清澄であることが判明している。
 また、文中の「聖密房のふみ」というのが聖密房御書をさすものとすると、執筆年次は建治3年(1277)56歳の時と推察できる。
 聖密房は清澄寺の住僧と思われるが、大聖人に深く心を寄せていた。その妙密房への文を「よりあいて・きかせ給い候へ」といわれているこころから、別当御房とは清澄寺の住職をさすものと思われる。この書状が建治3年ごろの述作とみると、報恩抄送文に「清澄御房」とあり、道善房亡き後、義浄房が清澄寺を取りしきっていたらしいことから、本抄の宛名である別当御房とは浄顕房であろうとする説が生まれるのである。
 本抄で、二間・清澄寺の件について、世間の道理をよくわきまえている聖密房に相談するがよい、といわれるのは、詳細は不明であるが、この両寺を地頭の東条景信が念仏寺にしようと画策していたことをさすと思われる。それに対して大聖人は、ゆかりの深い清澄寺に味方して心をくだかれていた。
 その次に「これへの別当」や、また「わせいつをの事」が何をさすかも明らかではない。ただ、推察されることは、清澄寺の僧侶が身延の大聖人のもとにきて学門修行していたことへの謝礼、あるいは扶持米についての御礼をいわれているのだろうか。
大名を計るものは小耻にはぢず
 日蓮大聖人は末法の御本仏として、日本国中だけでなく、中国朝鮮にまで弘まるべき南無妙法蓮華経の五字七字の題目を説き弘められている。全人類を救おうとの大願をいだく者が、二間寺や清澄寺の小事にこだわっているように受け取られては不本意だが、と仰せであろう。
 事実、蒙古からの牒状が度々あって、人心は動揺し、危急存亡の秋に、あくまで大聖人の心配されていたことは、日本国の民衆の将来である。
 人々が一国こぞって邪法を信仰しているが故に、大聖人が先々より予言されているように、自界叛逆難・他国侵逼難が現実のものとなってきたのである。これ自体は嘆かわしいことであるが、人々はその歎きのなかで、大聖人の仏法に対する辺執を改める可能性がある。ここから、大聖人は、正法が弘まるべき瑞相として「其の願の満すべきしるしにや」と、御覧になっているのである。
但し当時・日蓮心ざす事は生処なり日本国よりも大切にをもひ候
 「大名を計るものは小耻にはぢず」という道理があるが、しかし、現在の所、何よりも大事に思うのは、自分の故郷のことである、との意である。「日本国よりも大切にをもひ候」とは一見、矛盾するような表現であるが、「当時」つまり今さしあたって、との意味であり、大聖人は日本国の将来に誰よりも心を痛められていた。したがって日本国のことを大切に思わないというのではない。反論的な強めの表現であろう。
 また「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり・天のあたへ給うべきことわりなるべし」ともいわれている。まさしく大聖人が末法の御本仏であることは道理のうえから明らかである。してみれば、その生処は「聖智が跡」となろうし、かつは大聖人有縁の清澄寺が「日本国の山寺の主」となってもおかしくはない、との仰せである。
 末尾には、御供養の品々に対する御礼が述べられている。しかし、今後はこのような心配は無用であるといわれている。「乃時」とあるから、おそらく清澄寺からの使いの者に即刻、この御返事を持たせて返されたのであろう。二言・三言、文面にはないことばにも使者にかけられているのかもしれない。

0902~0903    寂日房御書top
0902:01~0903:07 第一章 上行再誕の確信を述べるtop
寂日房御書    弘安二年九月    五十八歳御作    与寂日房日家    於身延
01   是まで御をとづれかたじけなく候、 夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひ
02 がたきは仏法・是も又あへり、 同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、 まこ
03 とにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。
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 ここ(身延の山中)まで使いを遣わされ、便りをくださり、かたじけなく思う。およそ人身を受けることはまれなのである。すでにまれな人身を受けている。また、あいがたきは仏法であるが、これにもまたあうことができた。同じ仏法のなかでも法華経の題目にあいたてまつり、結局、南無妙法蓮華経の題目の行者となった。まことにまことに過去世で十万億の諸仏を供養した方であろう。
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04   日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、 八十万
05 億那由佗の菩薩は口には宣たれども 修行したる人一人もなし、 かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国
06 の一切衆生の中には大果報の人なり、 父母となり其の子となるも必ず宿習なり、 若し日蓮が法華経・釈迦如来の
07 御使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し、釈迦多宝の二仏・日蓮が父
08 母と変じ給うか、 然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、 又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に
0903
01 覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。
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 日蓮は日本第一の法華経の行者である。法華経勧持品の二十行の偈の文はすでに日本国のなかでは日蓮一人が読んだのである。八十万億那由佗の菩薩は、口では宣べたけれども修行した人は一人もいない。このような不思議な日蓮を生んだ父母は日本国の一切衆生の中では大果報の人である。父母となりその子となるのもかならず宿習なのである。もし日蓮が法華経と釈迦如来の御使ならば、父母にもどうして深い宿縁がないことがあろうか。
 例えば妙荘厳王・浄徳夫人と浄蔵・浄眼のようなものである。釈迦・多宝の二仏が、日蓮の父母と変じられたのであろうか。そうでなければ八十万億の菩薩が生まれ変わられたのであろうか。また、上行菩薩等の四菩薩のなかの垂迹であろうか。不思議に思えるのである。
 およそ一切の物にわたって名は大切なものである。それだからこそ天台大師は五重玄義の初めに名玄義を解釈されている。私が日蓮と名乗ることは自解仏乗ともいうべきである。このようにいえば利口げに聞こえるけれども、道理の指すところそういうこともあるであろう。法華経如来神力品第二十一に「日月の光明が能く諸の幽冥を除くように、斯の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅する」とある。この文の意をよくよく考えなさい。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩が末法の初めの五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字七字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇を照らすであろうということである。日蓮がこの上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経を受け持つようにと勧めてきたのはこのことである。この山に入っても怠ってはいない。この経文の次下にには「我が滅度の後においてまさに此の経を受持すべきである。この人は仏道において必ず成仏することは疑いない」と説かれている。

おとずれ
 ①訪ねてくること。②便り、手紙。
―――
法華経の題目
 ①妙法蓮華経のこと。②三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
題目の行者
 三大秘法の南無妙法蓮華経を信受し、実践修行する者のこと。
―――
法華経の行者
 法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
―――
勧持品の二十行の偈
 法華経勧持品の20行400文字からなる偈文。三類の強敵を明かしている。
―――
八十万億那由佗の菩薩
 勧持品で、八十万億那由佗の不退の菩薩が八十万億那由佗の菩薩が仏に末法弘通の告勅を願い、いかなる難をも忍ぶと誓って、20行の偈を述べたものである。
――
大果報の人
 大果報とは大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。俗に幸福な人。運のよい人をいう。
―――
宿習
世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
―――
法華経・釈迦如来の御使
 日蓮大聖人が釈尊の法華経神力品において、滅後の弘通を付嘱した地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であるとの意。
―――
妙荘厳王
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
―――
浄徳夫人
 妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で淨蔵・淨眼の母。二子が婆羅門の父妙荘厳王を救うのを助けた。過去世においては妙荘厳王、浄徳夫人、淨蔵、淨眼は、共に仏道修行をしている友人同士であったが、うち一人が家事を行ない、他の三人は仏道修行に励んで成仏した。家事を行なった一人は成仏することはできなかったが、修行者をたすけた功徳により生まれ変わるたびに王となる果報を得た。成仏した三人のうち一人はその夫人、二人はその子供となり、父の妙荘厳王を救ったのである。
―――
浄蔵・浄眼
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王、その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。この二子は、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家して、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父の前でいろいろな神通力を現じてみせ、ついに仏の教えに帰依させることができた。この二人の姿こそ、真の親孝行であり、大善を意味する。さらに、その因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者がその功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と、二人の王子に生まれて、王を救うことを誓った。これが浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼の二人の子供で、三人で妙荘厳王に仏道を得さしめ、過去世の恩を返したのであった。
―――
釈迦多宝の二仏
 釈迦牟尼仏と多宝如来のこと。法華経見宝塔品~嘱累品において二仏並座の儀式が行われる。
―――
垂迹
 「迹を垂れる」と読む。仏・菩薩が衆生を利益するために、種々の所にさまざまな身に姿を変えて現れること。またその身をいう。本地に対する語。もとの仏・菩薩が本地から真実身を隠して化現した姿が垂迹であり、それは本体と影・天月と地月の関係にたとえられる。
―――
天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
―――
五重玄義
 五重玄、五玄、五章ともいう。天台大師が法華玄義に説いた、釈名・ 弁体・明宗・論用・判教のことで、妙法蓮華経を五面から釈したもの。釈名とは経題を解釈すること。弁体とは一経所詮の理を審らかにすること。明宗とは一経の宗要を明かすこと。論用とは一経の功徳・力用を論ずること。判教とは一経の教相を判釈すること。
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名玄義
 五重玄義の第一。経題を解釈すること。法華玄義巻一から巻八の釈名章では、法華経の経題である妙法蓮華経が詳しく釈されている。
―――
自解仏乗
 「自ら仏乗を解す」と読む。教えを受けることなく、自ら法華経の義を悟ることをいう。法華玄義の法華私記縁起に「大法東漸してより僧史に載する所、詎に幾人か曾て講を聴かずして自ら仏乗を解する者あらんや」とあり、師伝を受けずに自ら法華の義を悟った天台大師の自解仏乗を章安大師が賛嘆したことば。天台大師は大蘇山において法華三昧を証得し、仏乗を自解したといわれる。
―――
末法の始の五百年
 法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等猶お我が法に於て、解脱堅固なり、次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦・多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於て、多くの塔寺を造りて、堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於て闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。
―――
無明煩悩の闇
 無明惑のことで、三惑の一つ。成仏を妨げる一切の煩悩の根本で、別教では十二品、円教には四十二品を立てている。四十二品のうち最後の無明惑を元品の無明という。
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 本抄は、日蓮大聖人が58歳の時、身延においてしたためられ、寂日房日家に与えられた御書といわれる。日付は、たんに「九月十六日」とあるのみだが、弘安2年(1279)の御述作と推定されている。末尾に「此の事寂日房くわしくかたり給へ」とあることから、寂日房をとおして房州のある婦人に与えられたものとも考えられる。
 この御書は「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」との一節から「自解仏乗書」とも呼ばれ、さらに「与日家書」ともいわれたが、一般的には「寂日房御書」という呼び方が用いられてきたようである。御真筆は現存しない。
 寂日房は、諱を日家といい、大聖人御在世当時の弟子の一人である。上総国(千葉県中央部)夷隅郡興津の領主、佐久間兵庫亮重吉の第三子で、幼名を竹寿麿といった。文永2年(1265)年に大聖人が常総地方を教化された際、佐久間氏は一家をあげて帰依している。その時、竹寿麿の長兄重貞が一子長寿麿を大聖人の弟子としたのをみて、竹寿麿は自ら出家を願い、ともに弟子となったといわれる。二人は叔父と甥の関係にあたるが、ともに出家した時は7歳で長寿麿は後に帥房美作公と称し、諱を日保と賜った。大聖人の晩年には、二人は協力して房総方面の教化に励み、御聖誕の地、安房小湊に一寺を建立している。今の誕生寺である。
 さて、本抄の冒頭において「是まで御をとづれかたじけなく候」と述べられ、また末尾においても、「度度の御音信申しつくしがたく候ぞ」と、重ねて音信の御礼を述べておられる。このとき手紙を携えていった人がだれであったかは明らかではないが、おそらく郷里の房総方面からは、たびたび身延の大聖人のもとに使いが行っていたのであろう。しかも、本抄全体の文意からすると、寂日房は大聖人の生家のある安房小湊方面で弘教の中心的存在であったことが知られる。
夫れ人身をうくる事はまれなるなり
 仏法においては、六道輪廻が説かれ、そのなかで人間として生まれることは非常に稀であると説かれる。例えば、涅槃経巻二十三には「人身の得難きことは優曇花の如きに、我今已に得たり。如来の値い難きことは優曇花に過ぐるに、我今已に値いたてまつる。清浄の法宝は見聞を得ること難いに、我今已に聞く。猶盲亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。
 ここにいう優曇花とは、仏典に出てくる想像上の植物で、三千年に一度開花するという。この花が咲けば、金輪王や仏が出現するといわれ、人身を得るのが稀であるばかりでなく、仏の出現にはさらにあいがたきをたとえている。また、盲亀の浮木のたとえも、大海にすむ一眼の亀が広大な海の中で我が身を癒す栴檀の浮木にあいがたいことを述べて、人間に生まれることの難しさ、さらには正法を聞くことの稀なことを示しているのである。
 このようにして、すでに稀な人身を得たうえに、また値いがたき仏法にあうことができた。そのうえ、同じ仏法の中でも法華経の題目、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経を信ずることができたのは、まことに千万分の一の幸運といってよい。日蓮大聖人の門下として、法華経の題目を信じ、実践修行することができるのは、まさに過去十万億の諸仏を供養した功徳と等しい、といわれる。
「過去十万億の諸仏を供養する者」とは、法華経の法師品第十の文による。法華経の一偈をも受持、読誦し、解説、書写し、この経巻を敬い視ること仏の如くして種々の珍宝をもって供養し、合掌恭敬する諸人等は、すでに十万億の仏を供養し、大願を成就していながら、なお衆生を愍むが故に、この人間世界に生まれているのだ、という。
 この経の文からしても、末法において日蓮大聖人の門下として法華経の題目の行者となった者は、絶大なる果報をもった身であることを確信すべきであろう。
日蓮は日本第一の法華経の行者なり
 日蓮大聖人が御自身、末法の御本仏であることを明かされている。ここは、きわめて重要な一節といってよい。
 まず「すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」といわれている。ここで「よめり」とは、ただたんに口で誓言を発したのでなく、身・口・意の三業をもって経文どおりに読み、修行されたことをいわれている。これに対して、法華経の会座において勧持品の二十行の偈を説いたもろもろの迹化の菩薩達は、「口には宣たれども修行したる人一人もなし」である。
 法華経の行者とは、法華経の教説に従い、身をもって修行し、法華経を弘通する人のことである。そのことを具体的に法華経の勧持品第十三の文と引きくらべて「日蓮一人よめり」といわれる理由を示そう。
 勧持品の二十行の偈では、仏の滅度の後、恐怖悪世の中において法華経を広く説く時、〝三類の強敵〟があらわれることが説かれている。その一、俗衆増上慢とは「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし」との箇所にあたっている。妙楽大師がこの文を釈した「初めの一行は通じて邪人を明す。即ち俗衆なり」との文を引き、大聖人は「此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり」と述べられている。
 第二、道門増上慢とは「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂(おも)いて得たりと為し 我慢の心は充満せん」との文にあたる。これについて大聖人は「文の心は悪世末法の権教の諸(もろもろ)の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり」と示されている。具体的には、大聖人の時代、鎌倉の権教各派の比丘等が、法華経を行ずる大聖人とその門下を迫害したことが、これにあたっている。
 第三、僭聖増上慢とは「或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賤する者有らん(中略)常に大衆の中に在って 我れ等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の 外道の論議を説くと謂わん」との文である。この文についての妙楽の釈を引き、大聖人は「経に釈の心は悪世の中に多くの比丘有つて身には三衣一鉢を帯し阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく在家の諸人にあふがれて一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために国王大臣等に向ひ奉つて此の人は邪見の者なり法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり」と述べられている。
 日蓮大聖人は、建長5年(1253)4月28日に立教開宗されて以来、弘安2年(1279)10月12日に出世の本懐を遂げられるまでの27年間、まさに法華経の勧持品二十行の偈にあるようなさまざまな大難の連続であった。
 聖人御難事に「日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(1189-13)とあるとおりである。故に「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1190-01)とも仰せなのである。
 また、勧持品の二十行の偈の文には「数数見擯出」とある。末法悪世の中には、多く諸の恐怖すべきことがあり、悪鬼入其身の輩が法華経の行者を罵詈毀辱する。そのために数数擯出せられるような事態になっても、われら八十万億那由陀の菩薩は当に是の事を忍ぶであろう、との文である。
 この「数数」の二字についても大聖人は「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202-17)といわれる。「度度ながされ」とは伊豆の流罪、佐渡への配流と、二度の留難をさしている。
 こうして大聖人は、末法において法華経の勧持品の二十行の偈文を、身をもって読まれたが故に「日本第一の法華経の行者」といわれたのである。このことは、また、大聖人が末法の御本仏であることを宣言されたものでもある。
かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり
 日本第一の法華経の行者であり、末法の御本仏たる日蓮大聖人を生み出された父母は、まことに宿縁深厚なる大果報の人である。その不思議な関係を、次に述べられている。
 仏法の眼からすれば、父母となり、その子となって親子の関係を結ぶということは、すでに前世からの宿習による。したがって大聖人が法華経・釈迦如来の御使であるならば、その父母にも深い因縁がないはずはない、との仰せである。
 ここで「法華経・釈迦如来の御使」といわれるのは、大聖人が法華経の如来神力品第二十一において滅後の弘通を付嘱された地涌の菩薩の上首、上行菩薩の再誕であるとの意味からである。しかし、それは外用の辺を示されたもので、内証の辺からいえば、大聖人は本地・久遠元初の自受用身の再誕であり、末法の主師親三徳具備の御本仏なのである。
 このようにして大聖人と、その父母との関係は、例えば妙荘厳王と浄徳夫人、その子の浄蔵・浄眼のようなものであるといわれる。これは法華経の妙荘厳王本事品第二十七において説かれている話で、いま、その大要を示せば、過去無量無辺不可思議阿僧祇劫において、浄蔵・浄眼の二王子がいた。この二人は、雲雷音宿王華智仏のもとで菩薩行を修し、三昧を得ている。二人は、母親の浄徳夫人にも仏の所に詣でることを勧めたが、夫人はまず父王である妙荘厳王を婆羅門から解き放ち、仏門に帰依させることを命じた。そこで、浄蔵・浄眼の二人は、種々の神変を父王に見せ、仏法を信解する心を起こさせる。やがて父王は群臣眷属とともに、また浄徳夫人は後宮の眷属とともに、そして浄蔵・浄眼の二子は四万二千人の大衆とともに仏所に詣でた。この妙荘厳王とは、法華経の会座にいる華徳菩薩であり、浄蔵・浄眼の二子とは薬王・薬上菩薩であるという。
 この話は、値いがたき仏法にあった父母と子は、まことに宿縁深厚にして三世にわたる深いえにしで結ばれていることをあらわしている。いま、日蓮大聖人が勧持品の二十行の偈を身をもって実践された日本第一の法華経の行者である以上、その父母も法華経と深い縁があったはずであると仰せられ、あるいは釈迦・多宝の二仏の生まれかわりであろうか、あるいは、法華経の会座において弘教を誓った八十万億那由佗の菩薩の生まれかわりであろうか、はたまた、大聖人が、その上首である上行菩薩の再誕である以上、その縁者は四菩薩の垂迹であろうか、といわれている。このように御父母のことを本抄で述べられているのは、このお手紙をいただいた寂日房、あるいは寂日房から詳しく話してあげなさいといわれている婦人と思われる人が、大聖人の御両親と何らかの縁故の人であったのではないかと推察される。
日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし
 一切のものにわたって名前というのは大切なものである。「名は体をあらわす」ともいわれる。天台大師が諸経を解釈するのに、名・体・宗・用・教の五重玄義を立て、その第一に名玄義を挙げているのも、いかに名前が大切であるかを示している。例えば、妙法蓮華経について釈した法華玄義では、まず、その妙法蓮華経の名について釈名章で詳しく論及し、法華経が最高の経典であることが明かされている。大聖人の仏法においては、この五重玄義から、三大秘法の宗旨が宣明されているのである。
 さて「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」といわれる。「自解仏乗」とは、自ら仏の境界を解ることで、もとは天台大師が師伝を待たずに法華三昧を証得したことをさしていわれたことばであるが、日蓮大聖人も自ら久遠元初自受用報身の再誕であることを覚られたが故に「日蓮」と名乗られたのである。このようにいうと、世間の人は賢ぶっているように思うかもしれないが、道理の示すところからも、そのとおりではないかと、経文を挙げて述べられるのである。
 法華経の如来神力品第二十一には「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」とある。この文は、法華経の会座において結要付嘱がなされたあと、上行菩薩を称歎している部分である。「斯の人世間に行じて」の五の文字は、まさに上行菩薩が末法の始めの五百年に出現して、日月の光明の如くに衆生の無明煩悩の闇を照らすという意味であり、大聖人の「日蓮」との御名はこれと合致しているといわれているのである。
日蓮は此の上行菩薩の御使として云云
 日蓮大聖人は、御自身では地涌の菩薩の上首、上行菩薩の再誕であるとは、普通の御書では、明言されていない。かならずご謙遜されて「上行菩薩の御使」とか「地涌の菩薩のさきがけ」(1359-13)等と表現される。しかし、現実に法華経の肝要である妙法蓮華経の五字七字の題目を弘めているのは大聖人であり、それは地涌の菩薩の上首たる上行菩薩の再誕でなければならない。大聖人は、まさにこの御自覚のうえから「日本国の一切衆生に法華経をうけたもて」と勧められ、そのために幾多の大難にあわれたのである。
 そして「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」(0923-01)と身延山へ入られたのであるが、「此の山にしてもをこたらず候なり」と仰せになっている。日本国の一切衆生が妙法を受け持つまで、この戦いを続けるとの御決意と拝せよう。日蓮大聖人の門下であるならば、この御精神を我が身に受けついでいかなければならない。
 その次に引かれた経文は、前の神力品のすぐ後の部分で、釈尊滅後においては、上行菩薩に結要付嘱された法華経をこそ受持すべきであり、この人は仏道において悟りを得ること疑いのないところである、ということである。そのとおりに末法において大聖人が弘通されている法こそ、法華経寿量品の文の底に秘沈されていた三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。

0903:07~0903:18 第二章 華厳・真言の法盗人を示すtop
07                                                かかる者の
08 弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて 日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、 法華経の行者といはれぬる事
09 はや不祥なりまぬかれがたき身なり、 彼のはんくわいちやうりやうまさかどすみともといはれたる者は 名を・を
10 しむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、 同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ
11 後生のはぢこそ大切なれ、 獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道
12 場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。
-----―
 このような日蓮の弟子檀那となった人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じように法華経を弘めるべきである。法華経の行者といわれていることは、もはや不祥なことであり、まぬかれ難い身である。あの樊噲や張良、平将門、藤原純友などは名声を惜しみ、恥を思うために最後まで臆病な振る舞いをしたことはなかった。しかし、同じ恥であっても今生の恥はたいしたことではない。ただ後生の恥こそ大切なのである。獄卒や奪衣婆や懸衣翁に三途の河のほとりで衣装をはがされる時の恥を思い合わせて、法華経の道場に参られるべきである。法華経は後生の恥をかくす衣である。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「裸者が衣を得たようなものである」とある。
-----―
13   此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子の
14 さむさをあわれまざるをやあるべしや、 釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・
15 今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、 昨日は人の上・今日は我が身の上なり、
16 花さけばこのみなり・よめのしうとめになる事候ぞ、 信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、 度度
17 の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。
18     九月十六日                         日蓮花押
――――――
 この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装であるからよくよく信心されるべきである。夫の膚をかくそうとしない妻がいるだろうか。子供の寒さをあわれと思わない親がいるだろうか。釈迦仏・法華経は妻と親のようなものなのである。
 日蓮に供養し、身をたすけてくださることは、私の今生の恥をかくしてくださる人であるから、後生は日蓮があなたの恥をおかくしするだろう。昨日は人の上、今日は我が身の上である。花が咲けば必ず実がなり、嫁はやがて姑になることは疑いないことである。信心を怠らずに南無妙法蓮華経とお唱えなさい。たびたびお便りをくださり、いい尽くせない思いです。このことについて寂日房から詳しく語ってあげなさい。
  九月十六日             日 蓮  花 押

弟子檀那
 「弟子」は師に従って教えを受け、かつ師の意思を承けて実践しそれを伝える者。「檀那」は布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。総じて門下のこと。
―――
宿縁
 宿世につくった因縁のこと。
―――
はんくわい
 (~前0189)。中国・前漢の建国の功臣。沛(江蘇省沛県)の出身。史記巻九十五によると、低い身分の出身で、早くから沛公に仕え、沛公の漢朝建国を助けた。とくに鴻門の会では、范増の計略から沛公の危機を救っている。沛公が皇帝即位後も韓信、盧綰等の内乱を平定し、武功をあげ、舞陽侯に封ぜられた。
―――
ちやうりやう
 (~前0168)。中国・前漢の建国の功臣。字は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
―――
まさかど
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で、鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県の北部と茨城県の一部)に勢力をもっていたが、延長9年(0931)父の遺領問題等から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県の大部分)国府を攻め、更に下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――
すみとも
 (~0941)。藤原純友のこと。平安中期の貴族。大宰少弐良範の子。承平年間、伊予掾となって南海道に横行する海賊追捕の任についたが、賊を平定した後、任期が終わっても帰京せず、伊予国(愛媛県)日振島を根拠地とし、瀬戸内近海を通る船を襲って掠奪を行った。天慶2年(0939)ついに反乱を起こし、朝廷の追捕使と争ったが、同4年(0941)伊予国警固使橘遠保に攻め滅ぼされた。
―――
今生のはぢ
 今生とは現在世をさす。今世で味わう恥という意味。現在の人生のさまざまな困難や苦しみをさしている。
―――
後生のはぢ
 後生とは死後または来世の意。死後の世に獄卒や奪衣鉢に衣装をはがされる時の恥。悪道に堕ちる苦しみをたとえている。
―――
獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
―――
だつえば・懸衣翁
 死者の衣を奪う鬼。奪衣鬼ともいう。三途の川のほとりにいて、奪衣婆が罪人の衣服を奪い取り、樹上にいる懸衣翁に渡すと伝えられる。十王経に「官前に大樹有り、衣領樹と名づく。影に二鬼住し、一は奪衣婆と名づけ、二は懸衣翁と名づく……婆鬼は衣を脱せしめ、翁鬼は枝に懸けて、罪を低昂に顕して、後の王庁に与う」とある。
―――
三途河
 三瀬川、渡り川、葬頭河ともいう。人が死んで二七日に初江王の所へ詣る道にある大河で、三つの渡りがある。上にある渡は山水瀬、中にある渡は有橋渡、下にある渡は江深淵と説かれる。この川の岸に衣領樹という大樹があり、その陰に奪衣婆、懸衣翁の二鬼がいて、河を渡り終えた死者の着物を奪い、樹にかけ、枝の垂れ方の高下によって罪の軽重をはかるとされる。
―――
法華経の道場
 法華経の信仰に励む場所。
―――
冥途
 冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。
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 前章において、日本第一の法華経の行者であり、末法の御本仏である日蓮大聖人御自身の立場について述べられた後、本章では、門下の弟子檀那も大聖人と同じく法華経を弘通すべきであると勧められている。
かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり
「かかる者」とは、大聖人が地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であり、内証の辺においては久遠元初の自受用報身如来であるということである。その弟子となり、檀那となる人の宿縁は、まことに深い。
 およそ仏法の師弟の関係は、今世だけのものではなく、久遠の昔より未来永遠にわたる。いま、日蓮大聖人の弟子・檀那となったということは、その淵源をさかのぼると、久遠元初の仏の本眷族につらなっていたということである。それ故にこそ、法華経の会座においても、地涌の菩薩の上首・上行菩薩の眷属として、末法に法華経を弘通するという使命を誓い付嘱を受けているのである。
 このような深い宿縁があるのだと自覚して、不退の精神で大聖人と同じく法華経を弘通していきなさい、との仰せである。ここで「日蓮と同じく」とは、いかなる大難にあおうとも一歩も退かず、広布弘教の生涯を貫いていくことであろう。したがって、逆にいえば、どんな苦難にあっても三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通していく人こそ、大聖人の弟子檀那となることができるのである。
法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり
 不祥とは、災難、不運といった意味をもつが、ここで大聖人は、法華経の行者といわれることを嘆くべきことといわれているのではない。むしろ無上の名誉と考えられていることは、本抄の記述からも明らかであろう。
 しかしながら、世間的には何の罪科も犯していないのに、法華経を持った故に種々の難を受け、時には生命にも及ぶ迫害を受けるということがある。それを一般的な人情の上から「不祥」といわれ、あわせて、そのことが法華経の行者である以上避けられない道筋であるとすれば、いかなる難とも敢然と挑戦する以外にないとの不動の決意を促して、このように仰せられているのである。
同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ
 はぢ=恥ということについて、二つの側面から述べられている。一つは今生の恥で、世間の人々から悪口をいわれたり、物笑いにされること。もう一つは後生の恥で、これは三世にわたり自己の生命に刻みつけられる罪業のことを指している。
 しかし、同じ恥という表現ながら、その内容は全く違うといってよい。ここで漢の樊噲や張良、日本の平安期における武将の将門、純友の例を挙げられて、いずれも武士としての今世の恥を思い誇りを貫いた例とされているが、今生の恥とは、あくまで他人や世間がどう見るかということにある。
 それに対して後生の恥とは、恥というよりも、生命の因果をいっておられると考えられる。他人を意識してのものではなく、自らに対してであり、仏法上の罪福ということである。これは、永遠の生命の法に照らして、今生ばかりでなく、来世にも消えるものではない。しかも、自身の生命に刻印されるので、ひとたび仏法に背いて法華経を捨てるならば、末永く自身の恥として苦しまなければならない。本抄では一往、わかりやすく、獄卒や奪衣婆・懸衣翁の例を出しておられるが、根本的には、生命の法に対する姿勢をいわれているのである。
法華経は後生のはぢをかくす衣なり
 法華経の薬王菩薩本事品第二十三において「裸なる者の衣を得たるが如く」と説かれているのは、法華経の無上の功徳を述べられた部分の一節である。次の「此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ」の仰せと関連するので、その前後を引用しておく。
「宿王華よ。此の経は能く一切衆生を救いたまう者なり。此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしめたまう。此の経は能く大いに一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたまう。
 清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復た是の如く、能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」。
 このように述べられていることから、本抄は、このお手紙の相手である婦人に御本尊を授与されるにあたって書かれた書ではないかと推察される。末尾に「此の事寂日房くわしくかたり給へ」と仰せられているのは、この御本尊の功力と信心の心構えについて、寂日房から詳しく話してあげてほしいということであろう。
 また「日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり」といわれている。おそらく、この婦人は、大聖人に衣服を御供養申し上げたことがあるかもしれない。「昨日は人の上・今日は我が身の上なり」との仰せは、人のために施せば今度は自分が助けられる、との生命の因果を仰せられている。
 最後に「信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし」と指導され、御本尊を受持して生涯、怠ることなく、信心をまっとうして唱題していくよう励まされ、本抄を結ばれている。

0902~0903    寂日房御書(2008:11月号大白より 先生の講義)top

師弟共戦「精神の大光」で衆生の闇を照らせ!
「使命の人生」を深く、朗らかに!

 「人生の目的」とは何か。
 それは、幸福になることです。
 それでは、「真の幸福」とは何か。
 それは、妙法を受持することによって、生死にわたって崩れることのない、「常楽我浄」の尊極の生命を我が胸中に確立することです。
 その「生命の鍛錬」にこそ、仏法の真髄があります。そして、我が生命を鍛え、真の幸福への道へ人々をリードするのが「地涌の菩薩」です。
 地涌の菩薩が歩む生命鍛錬の道は、そのまま「自他ともの幸福」を実現しゆく「自行化他の道」であり、広宣流布に向かって進む「使命の道」に他ならない。
 「寂日房御書」は大聖人が地涌の菩薩の棟梁たる上行菩薩であることを示され、師弟ともに妙法弘通に生き抜く尊さを教えられている御書です。
 本抄は、弘安2年(1279)9月16日、弟子の寂日房を介して在家の門下に送られたお手紙です。
 御書の内容から、お手紙をいただいた人は、大聖人の御両親とも縁がある女性門下であると推定されます。その縁故からさらに推察すると、この女性は、大聖人の故郷の安房の人である可能性が高いといえます。
 また、本抄の最後には「此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ」と言われて、御本尊の現当二世にわたる功徳を説かれています。
 このことから、大聖人は御本尊を女性門下に授与されるに際し、本抄を送られたと拝察することができます。
 この女性門下に対して、大聖人は「日蓮と同じく法華経を弘めていきなさい」「法華経の行者として生き抜いていきなさい」と仰せられています。御本尊を授与されるに当たり、地涌の菩薩としての本格的な信心を教えられていると拝察されます。
01   是まで御をとづれかたじけなく候、 夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひ
02 がたきは仏法・是も又あへり、 同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、 まこ
03 とにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。
-----―
 身延の山中まで使いを遣わされて、お便りをくださり、かたじけなく思う。およそ人身を受けることはまれなのである。すでにまれ人身を受けている。また、ありがたきは仏法であるが、これもまたあうことができた。同じ仏法のなかでも法華経の題目にあいたてまつり、結局、南無妙法蓮華経の題目の行者となった。まことにまことに過去世で十万億の諸仏を供養した方であろう。
-----―
04   日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、 八十万
05 億那由佗の菩薩は口には宣たれども 修行したる人一人もなし、
-----―
 日蓮は日本第一の法華経の行者である。法華経勧持品の二十行の偈の文はすでに日本国のなかでは日蓮一人が読んだのである。八十万億那由佗の菩薩は、口ではこの偈を宣べたけれども修行した人は一人もいない。

「題目の行者」は大果報の人
 本抄は、私たちが人間として生まれることが、いかに稀なことであるかという点から説き起こされていきます。
 大聖人は、こう言われています。
 「あなたは、すでに受けがたき人身を受けられた」
 「しかも、あい難き仏法にもあわれた」
 「そして、仏法の中でも、南無妙法蓮華経を唱え弘通する『題目の行者』になられた」。
 そして結論として、こう仰せです。
 「妙法を唱え弘める『題目の行者』の人生は、過去十万億の諸仏に供養した果報であることは間違いない」
 法華経の法師品第十には、過去十万億の諸仏に供養した大果報の人が、苦悩する衆生を救うために、法華経を自行化他にわたって実践する「法師」として、あえて人間社会に生まれてくると説かれています。
 法華経に説かれる「法師」とは、自ら法を実践し、人にも法を弘めていく自行化他の人です。大聖人は、自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱えていく「題目の行者」の姿こそが、大果報の人に相応しい生き方と言われているのです。
常楽我浄の尊極の生命へと鍛え上げる
 「題目の行者」とは、自行化他にわたる題目の実践で、我が生命を「常楽我浄」の尊極の生命へと鍛え上げていく人です。
 大聖人は「御義口伝」に仰せです。
 「我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら四徳の香を吹くなり、南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜なり」(0740-第三四面皆出の事-02)
 南無妙法蓮華経の題目は、「生老病死」の四苦に覆われた生命を、「常楽我浄」の四徳の香りが吹く尊極の生命へと転換する修行です。
 「楽波羅蜜」とは、真実の安楽の確立です。
 「南無」とは妙法に帰命する信の力によって、苦悩と迷いの根源である無明を打ち破っていくことですから、「楽波羅蜜」に当たります。
 大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(1143-01)と仰せです。
 「我波羅蜜」とは、真実の主体性の確立です。
 題目の修行は、小我のエゴや我執を打ち破って、「妙法」と一体の大我を開きます。ゆえに「妙法」が「我波羅蜜」に当たります。
 「浄波羅蜜」とは、煩悩即菩提という真実の清らかな生命の確立です。
 「蓮華」は、「如蓮華在水」といわれるように、煩悩の泥水から清浄無比なる智慧の蓮華を開花させる妙法の力を譬えています。
 そして「常波羅蜜」とは生死即涅槃という真実の永遠性を生命に確立していくことです。題目によって、永遠なる不変真如の理に帰し、瞬間瞬間の随縁真如の智にもとづいて生きていく生命の姿を現していけるのです。
 「経」という文字は、三世を貫く永遠性を表しており「常波羅蜜」に当たります。
 まさに「題目の行者」こそ、「生老病死」の無常の生命の姿のままでありながら、その人間性において「常楽我浄」の四徳を香らせていけるのです。
 そして、この「常楽我浄」の生命の確立こそが受けがたい人間としての生を存分に輝かせきっていくことを意味するのであり、「人生の完成」「一生成仏」に通ずるのです。
 本抄では「題目の行者」としての人生を全うしていくためには、「法華経の行者」であり「上行菩薩」の出現に当たる日蓮大聖人を師として、師弟不二の信心を貫くべきであることを教えられていきます。
 大聖人が求道を貫く門下に御本尊を授与されたのは、師弟不二の信心をさらに深めさせていくためであると拝することができます。
 御本尊には、大聖人が成就された常楽我浄の尊極の生命があらわされています。
 この御本尊を人生の根本として拝し、師である大聖人の勝利の御生涯を鑑とし、拠り所としていくところに、師弟不二の信心があります。
 なお、本抄の最後の段には「後生」すなわち死後における御本尊の功徳が説かれています。
 受けがたい人間としての「生」を全うしていく道を説いた本抄が、後生における御本尊の功徳で結ばれます。
 これは、本抄が全体として、生死不二の妙法の功徳を明かされていくことを象徴されています。
第六天の魔王をも打ち破る「不思議の日蓮」
 師弟不二の信心を教えられるにあたり、大聖人はまず「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と仰せられ、御自身の正しき実践を示されていきます。
 これは、「師」とは自らが実践する人であることを教えておられると拝することができます。
 大聖人が「日蓮は日本第一の法華経の行者」であることの根拠として、日本国では大聖人ただお一人だけが、法華経勧持品第十三の「二十行の偈」は、法華経の会座に連なった八十万億那由陀の菩薩たちが、たとえ滅後における法華経弘通にあって、社会全体がこぞって迫害を加えてくる大難をうけたとしても、私たちは「我不愛身命」の精神で必ず耐え抜きます、との誓いを述べた経文です。
 その中に、悪世において法華経を弘通する人を迫害する俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢の三類の強敵が説かれます。
 この「三類の強敵」の本質とは何か。
 それは、迫害者の生命に巣くう「無明」です。
 経文に「悪鬼入其身」と断じられているように「無明」が第六天の魔王の働きとして現れるのです。強力な魔性の力を現す魔王を打ち破れるのは、法華経の行者の「不自惜身命」の信心しかありません。
 なぜならば、いかに強い魔性を現したとしても、魔王の正体は「無明」であり、要するに妙法に対する「無智」にすぎないからです。
 ゆえに「以信代慧」の原理により、身命を惜しまぬ強い信心によって現れる妙法の智慧が、魔王の働きを打ち破っていくことができるのです。
 大聖人は、末法に生きる凡夫のお姿を示されながら「妙法の智慧」を現し、「底知れぬ魔性」との戦いに勝たれたのです。
 いわば、「仏と魔との極限の戦い」に勝たれたのです。
 ゆえに本抄では、御自身を「不思議の日蓮」と言われていると拝されます。大聖人は「八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし」と仰せられ、「決意の言葉」よりも、実際には魔性を打ち破っていく「行動」を強調されています。
 魔性に打ち勝って仏智を現していく実践こそが、末法における「仏法の師」の要件なのです
02   日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、 かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあら
03 ん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」と此の文の心
04 よくよく案じさせ給へ、 斯人行世間の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の
05 光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、 日蓮は此の上行菩薩の御使として 日本国の一切衆
06 生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、 此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下に説いて云く「我
07 が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし 是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、
-----―
 私が日蓮と名乗ることは自解仏乗ともいうべきである。このようにいえば利口げに聞こえるけれども、道理の指すところそういうこともあるであろう。法華経如来神力品第二十一に「日月の光明が能く諸の幽冥を除くように、斯の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅する」とある。この文をよくよく考えなさい。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩が末法の初めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字七字の光明をさしいだし、無明煩悩の闇をてらすであろうということである。日蓮はこの上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経を受け持つようにと勧めてきたのはこのことである。この身延の山に入っても怠ってはいない。この経文の次下には「我が滅度の後においてまさに此の経を受持すべきである。この人は仏道において必ず成仏することは疑いない」と説かれている。

上行菩薩の本質を示す「日蓮」の御名乗り
 次に、大聖人が御出現された仏法上の意義が、「上行菩薩の御使」として明かされていきます。
 しかし、その内容は、「御使」というよりも、大聖人こそが、末法における法華経弘通の先駆者であられ、主体者として法華経に予言されていた上行菩薩その人に他ならないと仰せです。
 ここでは、日蓮大聖人が末法における上行菩薩の出現に当たることを、法華経神力品の二つの経文に引かれて示されています。
 第一に、大聖人が自ら「日蓮」と名乗られたことは「自解仏乗」であると言われて、「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」との経文を引かれております。
 この経文の中に、上行菩薩が末法に具体的に実践する行動と、その意義が端的に示されています。
 上行菩薩が果たすべき使命は何か。
 それは、太陽と月が一切の闇を照らす光明のように、末法の万人の「衆生の闇」を照らすことであると仰せなのです。
 「衆生の闇」とは「無明煩悩の闇」のことです。
 妙法と生命への根本的な無知である「無明」と、その無明から生じる「煩悩」こそが、人間社会における一切の迷いと不幸の根源となります。
 誰もが胸中に、この無明を持っています。あらゆる苦悩の根源の因となるこの無明を打ち破らない限り、真の幸福の実現はありません。この「無明煩悩の闇」を晴らしてこそ、はじめて末法の人々を救済することが可能となります。
 衆生の闇を照らす光とは、仏の智慧です。
 その仏の智慧の光源こそが南無妙法蓮華経であり「南無妙法蓮華経の五字の光明」と仰せなのです。
 南無妙法蓮華経は三世諸仏の成仏の根源であり、万人成仏の法です。
 ゆえに、一切衆生の無明の闇を照らす大光なのです。
 その力用は、太陽や月の光明が万物に降り注ぎ、世界の一切の闇を除くことに似ています。したがって、上行菩薩の滅後の弘通の力用を表す「日月の光明」との経文を踏まえられ、大聖人は、「日」の文字を「上行」の本質を端的に示す文字として、選ばれたと拝されます。
 また、同経文に「斯人行世間」とあります。
 上行菩薩の実践は、煩悩で汚れた汚泥のような現実の世間の中で、清らかな成仏の花を咲かせていくことですから湧出品で説かれた「如蓮華在水」の姿そのものです。
 その意味で「蓮」は上行菩薩の象徴なのです。
 さらに、上行菩薩は現実の世間にあって、人々に「因果俱時の成仏」の法を説きます。「因果俱時」は蓮華によって譬られます。
 万人成仏の因果の理法である南無妙法蓮華経を現実社会の一人一人に弘通するという意味でも、上行菩薩の実践は、「蓮」によって象徴されます。
仏とは「永遠に戦い続ける人
 さらに大聖人は、神力品から、もう一つの経文を引かれています。
 「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」
 この経文は、上行菩薩の弘通する法華経受持の実践によって、末法の万人の成仏が間違いないと断じられている一節です。
 仏の側から見れば、仏の予言のままに、末法のすべての人を必ず救わんとの決意と責任を示す一節となります。
 「悪世末法において、万人を必ず仏にする」この深き決意と誓願があってこそ、上行菩薩の崇高な行動が成立します。
 日蓮大聖人は、この南無妙法蓮華経の弘通を、立宗宣言のその日、ただお一人から始められ、27年の魔軍との闘争を経て、この身延の山中においても一歩も退くことなく、繰り広げてこられたと仰せです。
 「此の山にしてもをこたらず候なり」世間では多くの人が、大聖人の身延入山は隠遁であると思っていたことでしょう。
 しかし、大聖人はどこまでも、広宣流布の旗を高く掲げられ、万人成仏の御一念と行動は微塵も揺らいでおられない。
 身延へ入られても、広宣流布のために最後まで戦い抜かれるとの「不退のお心」が伝わってきます。
 仏とは、「永遠に戦い続ける人」の異名です。
 釈尊は、最後まで弘教の旅を続けました。
 大聖人も身延で指揮をとられ、池上で入滅されるまで不惜の大闘争を貫き通されました。
 牧口先生も獄中で権力に対して一歩も退くことなく戦い続けられた。
 獄中の尋問に対しても堂々と大聖人の正義を主張された。
 尋問調書には、法華経と大聖人の関係を問われた牧口先生が、「日月の光明の能く」の一節を引いて厳然と叫ばれたことが記されています。
 濁悪の末法の世における人々を救済するために聖誕されたのが日蓮大聖人であられます。「広宣流布」とは、末法の時代、いわゆる現世の如き濁悪の時代にその濁悪の時代思想を南無妙法蓮華経の真理によって浄化することです。
 このように牧口先生は最後まで師子吼を続けられ、尊い生涯を終えられています。
 戸田先生も最後の最後まで指揮をとり続けられた。
 そして、後に続く青年の成長を最大の楽しみとして戦う中で、生涯を閉じられました。その姿を通して、戦い続けることの中にこそ真の自受法楽の境地があることを教えてくださったのです。
 民衆救済の大願を掲げる地涌の菩薩の闘争は、永遠に止むことはありません。本抄の一節一節から、その崇高な大聖人の御精神が伝わってきます
07                                                かかる者の
08 弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて 日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、 法華経の行者といはれぬる事
09 はや不祥なりまぬかれがたき身なり、 
-----―
 このような日蓮の弟子檀那となった人々は宿縁が深いと思って、日蓮と同じように法華経を弘めるべきである。法華経の行者といわれていることは、もはや不祥なことであり、まぬかれ難い身である。

仏法の師弟は三世の「宿縁」
 本抄の前半で大聖人は「法華経の行者」として、また「上行菩薩」として戦い抜き、勝利を築いてこられた軌跡を簡潔に述べられております。
 末法における「仏法の師」として、御自身のお立ち場を示されているのです。
 それを受けて後半では、大聖人に連なる宿縁深き門下が、絶対勝利の悔いない人生を送っていけるように「師弟不二の実践」を勧めておられます。
 「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」
 ここで「宿縁ふかしと思うて」と言われております。
 あらゆる魔性に打ち勝ってこられた日蓮大聖人との「宿縁」に目覚めていきなさいと呼びかけられているのです。
 そして「法華経の行者」として立ち上がれ!仏勅の広宣流布に不惜身命で戦い抜け!
 上行菩薩とともに法華経の会座に列なって、末法弘通を誓った地涌の菩薩としての使命を思い起こせ!と促されているのです。
 門下にとって、師である大聖人から、“貴女も宿縁を自覚して、法華経の行者としてたちあがりなさい。地涌の使命を全うしなさい”と言われたことは、驚きであるとともに、無上の「生命の称号」を賜ったことに他ならないでしょう。
 この女性門下は深く感銘したのではないかと推察されます。
 しかし、何よりも大事なことは「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と仰せです。宿縁の深さと自覚とは、決して過去に浸ることではありません。
 師と同じ実践には、今この時、勇んで立ち上がること以外の何ものでもありません。
 大切なのは「今」です。
 「今」「何を」実践するかです。
 「師とともに、今の時に適った実践に取り組んでいるかどうか」です。
 ゆえに大聖人は、門下が、今、立ち上がる勇気を持てるように「法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり」と仰せです。
 「不祥」とは「不運」という意味です。
 世間一般の価値観から言えば「法華経の行者」の実践にたちあがることは苦難の連続かもしれません。
 しかし、仏法のうえから宿縁の深さを考えたときには、地涌の菩薩として、大聖人とともに戦う以上に名誉なことではないか。それは、まぬかれようのないことであり、心を定めよと、呼びかけられているのです。
 「まぬかれがたき身」とは、言い換えれば、避けて通ることのできない「使命深き身」という意味です。
 戸田先生は、よく、学会員に対して「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれていたかいのあるものであります」と語られていました。
 ある時は、関西の同志に対して「日本国の大惨敗の、この時に生まれ合わせたのは、いかなる身の不幸でありましょうか。さりながら、仏勅によって与えられた、広宣流布のこの日にめぐりあっているわれらの喜び、誇りは、これ以上のものはないのであります」「断じて、断じて、広宣流布の大行進には、遅れてはなりません」と師子吼されました。
 思えば、戸田先生が会長に就任されたのは、1951年(S26)5月3日、日蓮大聖人の立宗700年の直前に当たります。
 700年の歳月を経て、本格的な化儀の広宣流布が開始されたことになります。不思議な仏勅としか言いようがありません。
 戸田先生自身、「末法大聖人様立宗七百年にめぐりあい、広宣流布の仏勅をうけているということは、私の喜びであります」と、「時」にめぐりあう喜びを語られていました。
 今、立宗750年を経て、世界広宣流布の大河の如き前進しゆく時代になりました。世界広布を担う「法華経の行者」「地涌の菩薩」が地球の至るところで誕生しています。
 その一人一人が、偉大な仏勅を帯びた不思議なる宿縁と使命の存在であることは、法華経の神力品に照らしても、間違いない。この「寂日房御書」に照らしても、絶対に間違いありません。
 戸田先生が「いよいよ、偉大な地涌の青年たちが世界中に踊り出ているじゃないか」と呵々大笑して喜ばれている姿が目に浮かびます。
 192ヵ国・地域・宿縁深き地涌の陣列が揃いました。
 この激動の時代にあえて「まぬかれがたき身」として、久遠の使命を果たすために願って躍り出た私たち一人一人です。
 これ以上の喜びはありません。
 いよいよ、これからです。いよいよ使命の大道を朗らかに前進してまいりましょう
13   此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子の
14 さむさをあわれまざるをやあるべしや、 釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・
15 今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、 昨日は人の上・今日は我が身の上なり、
16 花さけばこのみなり・よめのしうとめになる事候ぞ、 信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、 度度
17 の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。
-----―
 この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装であるからよくよく信心されるべきである。夫の膚をかくそうとしない妻がいるだろうか。子供の寒さをあわれと思わない親がるだろうか。釈迦仏・法華経は妻と親のようなものなのである。
 日蓮に供養し、身をたすけてくださることは、私の今生の恥をかくしてくださる人であるから、後生は日蓮があなたの恥をお隠しするだろう。昨日は人の上、今日は我が身の上である。花が咲けば必ず実がなり、嫁はやがて姑になることは疑いないことである。信心を怠らず南無妙法蓮華経とお唱えなさい。たびたびのお便りをくださり、いい尽くせない思いです。このことについて寂日房に詳しく語ってあげなさい。

広布に励む人こそ最高に尊貴な存在
 最後に、大聖人は女性門下に対して、現当二世にわたる御本尊の功力を強調されるとともに、大聖人を守り支える功徳によて自身が荘厳されることは間違いないと仰せになられております。
 ここで、御本尊には「後生の恥」を隠してくださる功徳があると仰せです。
 「後生の恥」とは、煩悩・業・苦にまみれた生命のことです。
 三悪道・四悪趣の境界に苦しむ後生です。
 この恥を隠してくださるのが御本尊の功徳です。
 御本尊には、大聖人の成就された常楽我浄の尊極の御生命があらわされます。
 この尊極の生命を、生前の信心によって確立した人は、三悪道・四悪趣の恥は冥伏し、現れないのです。
 広宣流布に励む人こそ、最高に尊貴な存在です。
 「法」のために戦う人を、御本尊が守らないわけがありません。釈迦仏・法華経が守護されないわけがありません。
 本当に偉大な人とは「法」に徹して生き抜く人です。
 最高の法である仏法を持ち、仏が説いた如く実践する人です。
 「されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」(0465-18)
 最高の生命の法を持っている人こそ、最高の人生を送ることができます。
 たとえ、わずかでも仏法に縁を結べば、その福徳は永遠に消えることがないからです。ですから、大事なことは、「法」を持ち弘通している仏法の師匠と、どこまでも、我が「心」を合わせることです。
 大聖人は「日蓮と同じく」「日蓮が如くに」と繰り返し強調されています。
 師匠と同じ共戦の行動を貫いてこそ、真の法華経の行者となります。そうなれば、大聖人と同じく尊極なる御生命が我が胸中に湧現するのです。
 私たちの立場で拝すれば、決定した仏法の師匠と同じ人生の目的と使命と行動を共有した時に、自身の人生が最大に荘厳されると捉えることができます。
 師恩・戸田先生が幾たびも語られていた言葉が私の脳裏に刻まれて離れません。
 「われら学会員こそ、如来につかわされた尊い身であると確信すべきであります。自分を卑しんではまりませぬ。大聖人の分身なのであります」
 「学会員は皆、偉大な使命をもって生まれた。怠惰や臆病な人間などいてはならない。広宣流布のために戦う地涌の菩薩であるからだ!」
 「何よりも大事なことは、大聖人御遺命の広宣流布である。一日も遅らせてはならない。我が創価学会こそ、その御遺命を達成する唯一の団体なのだ!」

0904~0907    新尼御前御返事top
0904:01~0904:14 第一章 甘海苔の供養に故郷を想うtop
0904
新尼御前御返事    文永十二年二月    五十四歳御作
01   あまのり一ふくろ送り給び畢んぬ、 又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の嶽と申す駿
02 河の国は南にあたりたり 彼の国の浮島がはらの海ぎはより 此の甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺へは百余里に及
03 ぶ、余の道・千里よりもわづらはし、 富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高
04 山なり谷深く左右は大石にして 高き屏風を立て並べたるがごとくなり、 河の水は筒の中に強兵が矢を射出したる
05 がごとし、 此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく 石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所を
06 すぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、 東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺なり、高き屏
07 風を四ついたてたるがごとし、 峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音・
08 山に充満し マ猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく 蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の
09 菓は冬になる、 たまたま見るものは・やまかつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、 彼
10 の商山の四皓が世を脱れし心ち 竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、 峯に上つて・わかめやをいたると
11 見候へば・さにてはなくして・わらびのみ並び立ちたり、 谷に下つてあまのりや・をいたると尋ぬれば、あやまり
12 てや・みるらん・せりのみしげり・ふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候い
13 てよしなき心をもひいでて・うくつらし、 かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色
14 形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし。
-----―
 あまのりを一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。
 この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国、波木井の郷の身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士川という日本一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高い屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。
 この川の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵になってしまう。このような所を過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺、南は鷹取りの嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峰に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまがつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人はといえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。
 峰に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなくてわらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているのか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このように故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このあまのりを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことである。片海、市川、小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまわれたのだろうと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。

あまのり
 浅草のりや佃煮の原料となる紅藻ウシケノリ科アマノリ属の総称名で,主な種類にアサクサノリ、スサビノリなどがある。熱帯域を除く世界各地の沿岸に分布する。体は膜質,紅紫色で、形はササの葉の形や不規則な円形のものなどが多い。大きさは種類によりまちまちであるが、10~20cmのものが多く、また20cm以上になるものや、5cm以下のものもある。日本沿岸には約20種類が生育し,体が1層の細胞からできている種類と2層の細胞からできている種類がある。
―――
大尼御前
 生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。大聖人の御聖誕地・安房国長狭郡東条(千葉県安房郡・鴨川市の一部)の領主・名越遠江守朝時の妻とされる。領家の尼、名越の尼ともいう。大尼は大聖人に帰依し、大聖人や御両親を世話した。しかし信心は不安定で竜の口法難の際、退転した。
―――
身延の嶺
 山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
駿河の国
 東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
―――
浮島がはら
 静岡県東部。愛鷹山南麓、沼津市原から富士市鈴川に及ぶ一帯。
―――
甲斐の国
 甲州ともいう。山梨県のこと。
―――
波木井の郷
 山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
冨士河
 冨士川のこと。山梨県釜無川・笛吹川を源流とし、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾にそそぐ川。全長129㌔。日本三大急流のひとつ。
―――
天子の嶺
 天子ヶ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。
―――
鷹取りの嶺
 鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。七面山の東、身延山の南にある。
―――
七面の嶺
 七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある高山。頂上部の東面に「なないたがれ」と呼ばれる七つの断崖があるところから七面山という。
―――
大狼
 イヌ科イヌ属に属する哺乳動物。広義には近縁種も含めることがあるが、通常はタイリクオオカミ(Canis lupus)一種を指す。多数の亜種が認められている。同属の近縁種としてアメリカアカオオカミ、コヨーテ、アビシニアジャッカルなどがいる。
―――
猨猴
 さるのこと。
―――
やまかつ
 猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。
―――
同朋
 なかま、どうほう。
―――
商山の四皓
 商山は商洛山のことで、中国陝西省商県の南部にある山。秦代の末に国乱を避け、この商山に入った東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生の四人の隠士のこと。四人とも髪と眉が皓白の老人であったところから四皓と称された。
 漢の高祖・劉邦は性格の柔弱な盈太子に譲位しないで、戚夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡をやめ、帝位を譲り、第二代恵帝とした。
―――
竹林の七賢
 中国・三国時代の魏に集まった七人の賢者。阮籍、嵆康、山濤、阮咸、向秀、劉伶、王戎のこと。世間に絶望して、老荘と神仙の超越的な世界にあこがれた七人が、河南省の竹林に集まって酒と音楽と清談に興じたといわれる。しかし、これら七人が一堂に会したことはないものと思われ、後世の創り話とされる。
―――
わかめ
 日本海側では北海道以南、太平洋岸では北海道南西部から九州にかけての海岸、朝鮮半島南部の両岸の、低潮線付近から下に生育する。根状の部分で岩などに固着し、葉状部を水中に伸ばし、長さは2mにも達する。葉状部の中心には主軸があって、それを中心に左右に広く伸び、大きく羽状に裂ける。広がった葉の基部には、とても厚くなった葉状部がちぢまり、折れ重なったような部分がある。これをメカブと呼び、生殖細胞が集まっている部分である。
―――
わらび
 シダ植物の1種。コバノイシカグマ科。かつてはイノモトソウ科に分類されていた。草原、谷地、原野などの日当たりのよいところに群生している。酸性土壌を好む。山菜のひとつに数えられている。
―――
せり
 湿地やあぜ道、休耕田など土壌水分の多い場所や水辺の浅瀬に生育することもある湿地性植物である。高さは30cm程度。泥の中や表面を横に這うように地下茎を伸ばす。葉は二回羽状複葉、小葉は菱形様。全体的に柔らかく黄緑色であるが、冬には赤っぽく色づくこともある。花期は7~8月。やや高く茎を伸ばし、その先端に傘状花序をつける。個々の花は小さく、花弁も見えないほどである。北半球一帯とオーストラリア大陸に広く分布する。
―――
古郷
 こきょうのこと。
―――
よしなき心
 理由のない、わけのわからないことを思いやること。
―――
かたうみいちかはこみなと
 安房国の東条郷にあった地名。大聖人の御聖誕の地であり、幼年期を過ごされた地である。大聖人御在世当時は安房国長狭郡東条郷の漁村であり、東条景信が地頭職にあった。なお、かたうみ、いちかはの地は、ともに明応・元禄の両度にわたる地震と津波で海中に没したといわれている。
―――
かたちがへなる・うらめしさ
 方向違いの恨み、見当違いの思い。
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 この御手紙は、文永12年(1275)2月16日、御年54歳の時、身延においてしたためられた。内容は、新尼から、大尼の御供養の甘海苔も添えて送り、御本尊の授与を願い出たことに対する御返事である。
 日蓮大聖人は、文永11年(1274)5月、「本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」(0932-01)と仰せられ、奥深き身延の山中に入られた。以来約九か月、訪う人もまれな山中の大聖人のもとへ、新尼から便りが届き、故郷である安房東条郷の海の香りをただよわす甘海苔の御供養が送られてきた。本抄は、まず、この甘海苔によって喚起された故郷への思慕の情を切々と述べられている。
 身延の模様を語られた御書はいくつかあるが、入山後、本抄が最初である。身延への道のり、周囲のけわしい山々、そして山中の日々について、詳しく語られている。身延山中での御生活と対比されて、海浜の地である故郷を懐かしみ、父母を想われるおさえがたい真情が拝される御文である。

0904:15~0905:11 第二章 御本尊の前代未聞なるを述ぶtop
15   此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は
0905
01 此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にも しるしをかせ給
02 はず、 西域慈恩伝・伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊・皆しるし尽して渡す、又漢土よ
03 り日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、 寺寺の御本尊皆かんがへ尽し・日本国最初の寺・元
04 興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、 日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば 其の
05 寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊は・あへてましまさず。
-----―
 それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事を仰せつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国から月氏の地に入った人々のなかにも書き残されていない。西域記や慈恩伝、伝燈録などの書を開いてみれば、五天竺の諸国の寺々の本尊は、皆ことごとく記されて伝えられている。また中国から日本に渡った聖人、日本から中国に入った賢者等が記された寺々の本尊を皆調べてみた。日本国の最初の寺、元興寺や四天王寺等の多くの寺々の日記や、日本紀という書をはじめとして多くの日記に残りなく記されているから、その寺々の本尊もまた明らかである。それらのなかに、この御本尊はいっこうに記されていない。
-----―
06   人疑つて云く経論になきか・なければこそ・そこばくの賢者等は画像にかき奉り木像にも・つくりたてまつらざ
07 るらめと云云、 而れども経文は眼前なり 御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ、 前代につくりかかぬを
08 難ぜんと・をもうは僻案なり、例せば釈迦仏は悲母・孝養のためにトウ利天に隠れさせ給いたりしをば一閻浮提の一
09 切の諸人しる事なし、 但目連尊者・一人此れをしれり此れ又仏の御力なりと云云、 仏法は眼前なれども機なけれ
10 ば顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり、 例せば大海の潮の時に随つて増減し 上天の月の上下
11 にみちかくるがごとし。
-----―
 人は疑っていう。「それは、経論にないからこそ、多くの賢者等は画像にもかかれず、木像にも造立されなかったのであろう」と。しかし、経文には明らかである。不審に思う人々は経文に有るか無いかをこそ尋ねるべきである。前代に造りかいてないのを非難しようと思うのは僻案である。たとえば、釈迦仏は、御母の孝養のために忉利天に隠れられたのを一閻浮提の一切の人々は知る事がなかった。ただ目連尊者一人がこれを知っていた。このように人々に分からないようにしたのは、仏の御力によるといわれている。仏法は眼前であっても、機根がなければ顕れず、時が至らないと弘まらないことは、法の道理である。たとえば大海の潮が時にしたがって増減し、天の月が時にしたがって上下に満ち欠けるようなものである。

大尼御前の御本尊の御事
 大尼御前が、大聖人に御本尊の授与をお願いしてきたこと。大尼御前は竜口の法難の際、退転したが、再び信心を始めたのであろう。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
三蔵
 ①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
―――
月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前二世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
西域
 西域とは、中国から見て西の地域をいう。ただし、ここでは西域を旅行し、インドまで仏法を求めた玄奘の見聞記「大唐西域記」十二巻をさす。
―――
慈恩伝
 玄奘三蔵の伝記で全十巻。唐の慧立の伝本五巻に対し、彦悰が箋し、完成したものといわれる。正しくは「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」。前五巻は西域・インド紀行の事跡が記され、後の五巻には帰国後の訳経、講述などの事跡が記されている。
―――
伝燈録
 景徳伝燈録のこと。三十巻。中国・宋代の禅僧・道原の撰と伝えられる。毘婆尸仏、釈迦牟尼仏等の七仏、摩訶迦葉、阿難等の天竺十四祖から法眼文益に至るまでの禅宗5家52世1701名に及ぶ伝記と歴史が詳述されている。
―――
五天竺
 インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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漢土より日本に渡る聖人
 中国から日本に渡ってきて多くの仏典を伝えた僧侶。
―――
日域より漢土へ入る賢者
 日本から中国に渡って仏典を日本に持ち帰った僧侶。
―――
元興寺
 奈良市にある華厳宗の寺院。飛鳥寺のこと。南都七大寺のひとつ。曽我馬子の発願によって飛鳥の地に建立された。
―――
四天王寺
 天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
―――
日本紀
 日本書紀のこと。単に紀ともいう。全三十巻。舎人親王編。養老4年(0720)に完成した勅撰の正史で、六国史の第一番目。古事記と並ぶ日本最古の古典の一つ。
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経論
 三蔵のうち経蔵・論蔵をいう。経は仏が説いたところの教法。論は仏みずから問答論議して理を弁じたもの。また仏弟子が仏語を論じ、法相を講じたもの。
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画像
 絵像・絵画に書いた仏・菩薩像。
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木像
 木に彫られた仏・菩薩の像。
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僻案
 誤った教えや見解のこと。
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忉利天
 梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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目連尊者
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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機なければ顕れず
 機は仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の可能性。衆生に仏法を聞く機根がなければ、仏法は仏によって説かれず顕われないということ。
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法爾の道理
 法爾とは本来あるがままのすがたをいう。すなわち自然のことわりの意。
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 ここから終わりの章までは、大尼御前から御本尊を授与してほしいとの申し出があったことに対して、大尼御前には御本尊を授与するわけにいかないので困っていると仰せられ、授与できないその理由として御本尊の甚深の義について述べられるのである。
 そこで、御本尊の授与を安易に許さない理由として、まず御本尊のかぎりない尊厳を明かし、つぎに御本尊を受持していくうえでの信心の姿勢を御教示されているのである。
 仏法流布の歴史は、インドに始まり、西域、中国、日本へと、二千年をこえる重厚なる伝統がある。その歴史は、優れた多くの人々の貴重な記録文献によって辿ることができる。
 大聖人は、インド・西域について記録された玄奘三蔵の有名な「大唐西域記」をはじめとして、中国、日本について記録されたすべての文献をもひもとかれたが、大聖人が顕された南無妙法蓮華経の御本尊に関しては、インドにも、中国にも、日本にも、全く記録が見当たらない。つまり、いまだ誰も顕したことのない御本尊であると断言されたのである。
 このように、大聖人の「此の御本尊」が未曾有の御本尊であることを述べられた真意は、大聖人がこの御本尊を顕されることに容易ならざる意義があることを示唆されているのである。
 本尊とは教法の骨髄、宗旨の根源を顕示するものであり、信仰者にとって絶対帰依の当体である。故に、大聖人にあっても、末法万年のために御本尊を顕すことに一期弘法の究極、出世の本懐があった。しかも、大聖人が御本尊を顕し始められたのは、竜の口法難によって発迹顕本され、末法の御本仏の御境界を開顕されて以後である。
 大聖人は、この竜の口、および佐渡の難を基点とされて以前と以後とに一線を画し、重要な教判を示されている。すなわち、三沢抄に「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)と仰せられ、佐渡以前の法門は爾前経のようなものであり、佐渡以後に大聖人究竟の文底下種の仏法が展開されていることを明示されたのである。
 文永9年(1272)2月20日、最蓮房に与えられた草木成仏口決に「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず」(1339-13)と。
 また、文永10年(1273)8月15日、四条金吾夫妻に与えた経王殿御返事には、授与された御本尊について「其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり」(1124-03)とあり、さらに「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124-11)と。
 さらに、千日尼への妙法曼陀羅供養事にも「此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(1305-04)と仰せである。
 これらの御文は、大聖人の御本尊の御図顕が過去二千年の釈尊の仏法と根本的に異なる末法の大白法であることを示されたものといえよう。
 しかしながら、このように「此の御本尊」は前代未顕ではあるが、釈尊の悟りの究極にあったものであり、仏法の正統であることを明らかにされる。
 そのために、まず、前代に顕されていないことについて経論に説かれていないからこそ、だれも顕さなかったのではないかという世人の疑問を挙げられている。すなわち、この疑問には、過去に多くのすぐれた仏法の智者・学者がいたにもかかわらず、その誰も顕さず述べてもいないということは、それが経論にないからであり、大聖人は勝手に我見をもって本尊を顕したのではないか、という疑惑、非難が込められているのである。
 だが、大聖人は、こうした考え方に対して、経文の有無をこそ問うべきであると、破折されている。この短い御言葉に仏法者の基本姿勢である〝仏説・経典を根本の依所とする〟との厳然たる態度を拝することができる。
 釈尊は、滅後の仏法者に遺言として、涅槃経に「依法不依人」――法に依って人に依らざれ――等と戒めているように、仏法者であれば、だれびとたりとも仏説・経典を根本とすべきである。ゆえに、大聖人御自身、開目抄にも「普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」(0219-07)と仰せられ、また天台大師の文を引いて「文無く義無きは信受すべからず」と戒め、伝教大師の文を引いて「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」と述べているのである。
 したがって、前代未聞の御本尊について、不審をいだく人、納得できない人は、まずはじめに経文の有無を問いただすべきなのである。しかるに前代の論師・人師が述べず顕さなかったから経文にないのだときめつけるのは、本末転倒である。原典の経文・仏説を根本とせず、論師・人師の説を根本としたところに、諸宗が邪義に陥った最大の因があったのである。また、数の多少を判断の基準にして、日蓮大聖人ただ一人だから間違っていると非難するのは、全くの誤りである。
 たとえ一人であっても、正見の人がいる場合がある。その例を仏典に依って示されている。昔、釈尊が悲母・摩耶夫人の孝養のために忉利天へ昇ったことを、人々は皆知らなかった。そのことを、目連尊者一人だけが知っていた。このように、人々に見抜けなかったのは仏の神通力によると説かれているのである。
 大聖人は、目連尊者のみが釈尊の忉利天訪問を知っていたとの例に託されて、釈尊が滅後末法のために「此の御本尊」を説き示しているにもかかわらず、ただ日蓮大聖人御一人がそれを知って顕されたことを示されたのである。
 なお、この大聖人御一人が知っておられるということは、次に末法弘通の使命が本化上行菩薩に託されたことを述べられる伏線ともなっているのである。
 そして、この御本尊が前代未顕である理由を示して「仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり」と仰せられている。
 仏法弘通の条件には、四つの義がある。迦葉・阿難等が大乗仏法を知ってはいたが弘めなかった理由として、曾谷入道殿許御書に「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028-16)と仰せである。これは、末法弘通の法についてもあてはまる条件である。
 自身が堪えられない、仏から譲り与えられていないとの二つは、仏法を弘通する人の主体的条件であり、衆生の機がない、時が来ていないとの二つは、仏法を受け容れる側の客観的条件である。厳密にいえば、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台・伝教等は、御本尊について知ってはいたが、弘めなかったし顕すこともしなかった。それは、これらの理由からであったのである。

0905:12~0906:08 第三章 上行付嘱・末法弘通を明かすtop
12   今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又
13 法華経の中にも迹門はせすぎて 宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが、 金色
14 世界の文殊師利・兜史多天宮の弥勒菩薩・補陀落山の観世音・日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我
15 もと望み給いしかども叶はず、 是等は智慧いみじく才学ある人人とは ・ひびけども・いまだ法華経を学する日あ
16 さし学も始なり、 末代の大難忍びがたかるべし、 我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此
17 れにゆづるべしとて、 上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、 法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆ
18 づらせ給いて、あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗
0906
01 法の法師一閻浮提に充満して 諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、 大旱魃・大
02 火.大水・大風.大疫病・大飢饉.大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人.各各・甲冑をきて弓杖を手に
03 にぎらむ時、 諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごと
04 く・しげからん時・此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、 乃至後生の大
05 火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ、而るに日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩
06 薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、 此の法門弘通せんには如来現在猶多怨嫉・況滅度後・一切
07 世間・多怨難信と申して第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等なり、此れ又第二第三の僧侶が・う
08 つたへに・ついて行者を或は悪口し・或は罵詈し・或は刀杖等云云。
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 今、この御本尊は、教主釈尊が五百塵点劫の昔より心中におさめられ、世に出現されても四十余年の間は説かれず、法華経の中でも迹門では説かれず、宝塔品より事が起こり、寿量品で説き顕し、神力品・属累品で事が終わったのである。そこで金色世界の文殊師利菩薩、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音菩薩、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の多くの菩薩が我も我もと望んだけれどもかなえられなかった。これ等の菩薩は智慧もすぐれ、才学のある人々と名高いが、いまだ法華経を学んで日も浅く、学も浅識で、末代の大難を忍ぶことはむずかしいであろう。自分には、五百塵点劫より大地の底にかくし置いた真の弟子がある。これに譲ろうといって涌出品で上行菩薩等を召し出されて、法華経の本門の肝心である妙法蓮華経の五字を譲られて「我が滅後正法一千年、像法一千年には弘通してはならない。末法の始めに、謗法の法師が一閻浮提に充満し、諸天が怒って彗星が天に現れ、大地は大波のようにおどり動くだろう。大旱魃、大火、大水、大風、大疫病、大飢饉、大兵乱等の数々の大災難が一時に起こり、一閻浮提の人々が、おのおの甲冑をつけ、弓や杖を手にするであろう時、諸仏、諸菩薩、諸大善神等の御力の及ばない時、諸人が皆死んで無間地獄に堕ちるのが雨の降るように多い時、この五字の大曼荼羅を身に持ち、心に信ずれば、諸王はその国を助け、万民は災難をのがれ、また後生の大火炎をのがれることができるだろう」と仏は記しおかれたのである。
 さて、日蓮は、上行菩薩ではないけれども、以前からほぼこの事を知ることができたのは、上行菩薩の御計らいかと思って、この二十余年の間、この事を語ってきた。この法門を弘通しようとすれば法華経法師品第十に「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と、また安楽行品第十四に「一切世間に怨多くして信じ難し」と説かれているように、第一の敵は国主並びに郡郷等の地頭や領家、万民等である。これはまた、第二、第三の敵である僧侶が訴えるのについて、彼らは法華経の行者をあるいは悪口し、あるいは罵詈し、あるいは刀杖等で迫害するのである。

教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
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五百塵点劫
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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四十余年
 釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
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迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
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宝塔品
 妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
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寿量品
 如来寿量品大16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
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神力品
 妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。
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属累
 仏が教法の流布を弟子に託すこと。付嘱ともいう。教えを付与し、流布させること。法華経には人力品で結要付嘱・嘱累品で摩頂付嘱が説かれている。
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金色世界
 文殊師利菩薩の住む浄土の名。華厳経巻十二に「東方十仏刹微塵数の世界を過ぎて世界有り金色と名け、仏を不動智と号す。彼の世界の中に菩薩有り、文殊師利と名け……」とある。
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文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。迹化の菩薩の上首。普賢菩薩とともに釈尊の脇士として智・慧・証の徳を司り、普賢が理を表すのに対し、文殊は智を表す。沙竭羅竜王の王宮に行き、八歳の竜女を化導し、法華経の会座に伴ってあらわれた。
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兜史多天宮
 兜史多天の内院にある宮殿のこと。宮殿は四十九あって弥勒菩薩が住んでいる。
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弥勒菩薩
 梵語マイトレーヤ(Maitreya)の音写。慈氏と訳し、姓を示す。名は阿逸多といい無能勝と訳す。来世に釈尊の仏位を継ぐ補処の菩薩といわれる。釈尊に先立って入滅し、現在は兜率の内院で天人のために説法しているが、五十六億七千万歳ののち、ふたたび人界に下って釈尊の教化にもれた衆生を済度すると菩薩処胎経巻二等に説かれている。
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補陀落山
 インド南海岸にあるという山の名。補陀落迦とも書き、海島・光明と訳す。観世音菩薩の住所とされ、華厳経巻六十八には、遊行していた善財童子がこの山で観世音菩薩にあったとある。
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観世音
 観世音菩薩のこと。阿縛盧枳低湿伐羅(Avalokiteśvara)の意訳。光世音、観自在、観世自在、蓮華手菩薩、施無畏者とも訳す。略して観音、異名を救世菩薩という。
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日月浄明徳仏
 薬王菩薩本事品で説かれる仏。汚れなき月と太陽の光に照らされる徳ある者、の意。無量恒河沙劫という遥か昔にいたとされる仏。その寿命は四万二千劫とされる。薬王菩薩が過去世に一切衆生喜見菩薩として、菩薩幢を修行していた時の師である。
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薬王菩薩
 法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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大士
 ①祭祀を司る人。②道徳の高い優れた人。③位階、権威のある人。④大菩提心を起こした人。菩薩の通称。
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末代の大難
 末法の時代に法華経を弘める者が受ける大きな難。
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上行菩薩等
 法華経従地涌出品第十五で、釈尊の滅後末法の弘通を勧める呼びかけに応えて、大地の底から涌出した地涌の菩薩のこと。上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩を上首とする。釈尊は如来神力品第二十一で、上行等の地涌の菩薩に妙法を付嘱し、末法の弘通を託している。
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本門
 仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。
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妙法蓮華経の五字
 久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。
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正法一千年
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時のこと。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。仏滅後1000年までの期間。
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像法一千年
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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末法の始
 釈迦滅後2000~2500年間。久遠元初の自受用身如来御出現の時。
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謗法の法師
 権教である爾前の所説に執して、真実の法華経を誹謗する法師。
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諸天
 諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
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彗星
 彗星のこと。細長い楕円軌道を描いて太陽を回り、太陽に接近すると太陽と反対方向に尾を出す。尾の形が箒に似ることから箒星の名がある。中国や日本では古くから妖星とされ、その出現は凶兆とみなされた。
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甲冑
 ヨロイとカブト
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弓杖
 ユミとツエ
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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五字の大曼荼羅
 日蓮大聖人が弘安2年(1279)10月12日に御図顕された出世の本懐たる一閻浮提総与の大御本尊のこと。
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後生の大火炎
 後生は未来世・後の世のこと。無間地獄の最極の苦しみをたとえて大火炎という。
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如来現在猶多怨嫉・況滅度後
 法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
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一切世間・多怨難信
 安楽行品の文。末法の法華経の行者には怨嫉が多くて、一切衆生は信じがたいというということを予言した文。
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地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
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第二第三の僧侶
 三類の強敵のうちの第二・道門増上慢と第三・僭聖増上慢のこと。
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 本章は、前章の「仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり」の御文を受けて、では御本尊が釈尊の説法の何処で明らかにされ、滅後の弘通については、どのように説かれ、誰に託されたかをわかりやすく明示されるのである。
今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが云云
 この御文は、日蓮大聖人御建立の御本尊が、釈尊の心中に久遠五百塵点劫以来、秘されたものであるが、インドに出世されてからも、四十二年間の爾前権経、そして法華経の迹門、法師品第十の説法に至るまで説かなかった一大秘法であることを示されている。それは、法華経の中でも虚空会の儀式が始まる宝搭品から起こり寿量品で説き顕され、神力、嘱累品で終わると述べられている。
 すなわち、「宝搭品より事をこりて」とは、虚空に涌現した宝搭の中に釈尊と多宝仏の二仏が座を並べ、十方分身の諸仏が来集して、一座の大衆に滅後弘教をうながす。これは、後に本門で地涌の菩薩が出て、寿量品が説かれるための遠序となっているということである。つぎに「寿量品に説き顕し」とは本門のはじめの涌出品の時、本化付嘱の人である上行等の地涌の菩薩を出現させ、寿量品に至って久遠の成道を明かすなかに付嘱の正体である御本尊が説き顕されたことを示す。そして「神力品・嘱累に事極り」とは、神力品でこの御本尊を上行菩薩に別付嘱し、嘱累品で総付嘱するや宝搭は元へ還り地涌の菩薩も帰って虚空会の儀式が終わることをいったのである。
 以上のように、御本尊を説き顕した寿量品を中心にして、滅後末法のための本尊付嘱の儀式が説かれたことは、次の御文によっても明らかである。
 御義口伝巻下に「惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(0770-第一妙法蓮華経如来神力の事-03)とあり、また「結要五字の付属を宣べ給う時・宝塔品に事起り……さて二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う」(0782-16)と仰せである。
 さて、「今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて」云云との御文は、仏法の究極がまさしくこの御本尊であることを示されており、寿量品の文上顕本と文底顕本の二意を含んでいるのである。
 文上顕本とは、五百塵点劫の久遠本果を本地の自行とし、釈尊自身の久遠の悟りを顕すのであり、文底顕本とは、久遠元初の成道を本地の自行とし、久遠元初の悟りを顕すのである。
 したがって、この御文を文上顕本の意で拝せば、釈尊が久遠本果の成道において、胸中の内証に「此の御本尊」を悟っていたことを明かしており、文底顕本の意で拝せば、釈尊が久遠元初の成道において悟った御本尊であることを明かしているのである。
 文上顕本にまた、体外体内の二意がある。文底顕れる以前を、体外の文上顕本といい、文底の天月を識らず、ただ文上の池月を観じているようなものである。文底顕本の後に立ち還ってみるのを体内の文上顕本といい、文上の池月を文底の天月の影と知って見ることである。
 故に、体外の意にもとづけば、久遠本果の成道を究極とし、文上寿量品の釈尊を本仏とすることになる。しかし、体内の意にもとづけば、久遠本果の成道は、久遠元初の本地より迹を垂れた迹中最初の化他の成道となり、久遠本果の釈尊は迹仏となるのである。
 総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して……」(0568-13)と仰せられている。
 この御文は、初めに久遠元初・本地の自行を明かし、「後に化他の為に……」からは垂迹化他を明かしている。五百塵点劫とは久遠、当初(そのかみ)の二字は元初を示しているのである。
 以上、述べてきた意義をふまえて、はじめの御文を拝するならば、体内の文上顕本の意で読むべきことがわかる。すなわち、釈尊が久遠元初において自ら修行したのが下種の南無妙法蓮華経であるが、最初の久遠、五百塵点劫の本果の成道の時から、釈尊は迹中化他のために、自行真実の内証として胸中に秘めていたと拝するのである。
 では「寿量品に説き顕し」とは、寿量品にどのように明かされているということであろうか。
 寿量品に「皆な今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たと謂えり」と人々が釈尊はインドに出世し修行して仏の悟りを得た始成正覚の仏であると信じているが、これは真実の仏の姿ではないと打ち破って、次のように説く。「然るに善男子よ。我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して(中略)一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり。是れ自従り来、我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」と。
 すなわち、釈尊は久遠五百塵点劫に成道し、それ以来、常に娑婆世界で説法教化しているというのである。この、釈尊の久遠の本果、久遠の本地を説き明かした文上の寿量品を聞いて、在世の衆生は得脱する故に、脱益の寿量品というのである。
 したがって、久遠五百塵点劫を本地とする文上の意で寿量品を読めば、久遠本果の釈尊が脱益の本尊となる。しかし、大聖人の御本尊は、それとは根本的に相違するものである。
 大聖人が「寿量品に説き顕し」と仰せられたのは、寿量品を一重立ち入って、文底の意で読まれたのである。文底の意とは、久遠元初の南無妙法蓮華経を本地とする立場である。妙楽大師の言に「脱は現に在りといえども、具に本種を騰ぐ」とあるように、経文に説かれている諸仏の成仏得脱といっても、その根本は久遠元初の南無妙法蓮華経を本種とするのである。故に、秋元御書には「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と仰せられたのである。
 したがって、久遠実成の釈尊は久遠元初の南無妙法蓮華経を本種として修行し、成仏したのであるが、文上の寿量品では久遠実成以後の化他を説き、釈尊自身が成仏するために修行した自行の法については文底に秘沈し、「我れは本菩薩の道を行じて」としか説かなかったのである。開目抄に「本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられたゆえんである。
 この文底秘沈の大法・久遠元初下種の南無妙法蓮華経が根本であることを知り、この根本から立ち還って文上脱益の寿量品を読むとき、経文の上に「此の御本尊」が明らかに説き顕されていることがわかるのである。
 寿量品は文上に脱の義をあらわし、文底に種の義を沈めている。文底の種は文上によく脱の義を現じ、文上の脱は文底の種を志向し帰入する。種、脱の両義とも寿量品の経文によって得られるのである。故に文底の意によって寿量品の文を読めば、経文の上にこの御本尊は明らかとなるのである。これがすなわち依義判文――義に依って文を判ずる――である。撰時抄に「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272-16)と仰せられたのも、文底の意で依義判文することを示されたのである。
 それでは、この御本尊を説き顕している寿量品の依文と、その経文について述べられた大聖人の御文を挙げてみよう。
 寿量品にいわく「如来秘密・神通之力」と。
 御義口伝に「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(0760-第廿五建立御本尊等の事)と。
 諸法実相抄に「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」(1358-11)と。
 三大秘法抄に「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、寿量品に云く『如来秘密神通之』等云云」(1022-08)と。
 寿量品にいわく「是好良薬、今留在此」と。
 観心本尊抄に「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず何に況や他方をや」(0251)と。
 御義口伝に「是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり」(0756-第十是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事-01)と。
 寿量品にいわく「時我及衆僧倶出霊鷲山」と。
 御義口伝に「本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、(中略)其の故は時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊・及は菩薩・衆僧は二乗・倶とは六道なり・出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云」(0757-03)と。
 以上、寿量品に説き顕された「此の御本尊」の依文を三つ挙げたわけであるが、それを経文上だけで読めば、御本尊が顕されているとは見えない。釈尊は久遠実成以来、胸中に秘して御本尊そのものを顕さないのである。なぜ顕さなかったのか。
 要するに、久遠実成・本果の釈尊とは、久遠元初の本地・本仏たる南無妙法蓮華経を信じ行じて成仏した垂迹の仏の立場である。久遠元初の下種妙法と人法体一であられる久遠元初自受用報身によってのみ、御本尊は顕されるのである。この御本尊の建立は御本仏の所顕によるものであって、迹仏の顕すあたわざる尊厳きわまりない御本尊なのである。ゆえに、迹仏たる釈尊は久遠元初の南無妙法蓮華経を悟ってはいても胸中に秘し、化他のためには方便権経を施して衆生を誘引し、やがて時至るを感じ法華経の本門・寿量品を説いて文底に秘沈せしめ、文上脱益の教相によって、脱は久遠下種の妙法を志向し帰入する意義を含めたのである。
 しかも、釈尊は文底秘沈の大法・下種の南無妙法蓮華経の御本尊の建立と弘通を、釈尊の化導が終わる滅後の末法に託して、付嘱の儀式を行った。この儀式の教相に、この御本尊がいかに尊貴なる当体であるかがよくあらわれている。すでに、宝搭品から始まり神力、嘱累品で終わる儀式の概略については前述してあるが、いま少し大事な点について述べてみよう。
 虚空会の儀式は宝搭品から始まる。宝搭が大地から涌現し虚空に起った。そして中から法華経の説法を真実なりと多宝仏が証明する。次いで十方の分身の諸仏が来集するなかで釈尊が宝搭を開き、宝搭の中に釈尊と多宝の二仏が並座し、会座の大衆も虚空に並ぶのである。これは、爾前の諸経ではとうていみることのできない、雄大荘厳な儀式である。
 しかし、この時はまだ釈尊は始成正覚の仏という立場である。悟りを開いて四十余年である釈尊に、所化の弟子が十方に充満するわけがない。しかるに、十劫等の昔にすでに成道した十方の諸仏を集めて、我が分身であると説いた。これは、釈尊の成仏が久遠にあること、また付嘱の法体が容易ならざる御本尊であることを示唆するもので、後に説き顕す本門寿量品、さらに文底下種の大法を証する遠序たるゆえんである。こうして付嘱の儀式の場が荘厳されたのである。
 この宝搭涌現は儀式の始まりであるが、文底下種の御本尊から立ち還ってみるとき、宝搭が虚空に起ち、釈尊と多宝仏の二仏並座、分身の来集、会座の大衆等の儀式の教相は、大聖人が顕される末法下種の御本尊を表している。
 但し、この依義判文は寿量品の依義判文と違い、迹門宝搭品の文を借り文底の義によって判ずるのである。
 宝搭は本国土妙、釈尊は智を表す報身、多宝仏は境を表す法身、分身の諸仏は境智合して慈悲の具現を表す応身で、この三仏は本果の三身、会座の大衆等は本因の九界を表している。この三妙は即事の一念三千の御本尊を表すのである。故に「今此の御本尊は……宝塔品より事をこり」と仰せられたのである。
 また、釈尊と多宝の二仏並座は境智の二法を表す。釈尊は智・報身を表し、多宝は境・法身を表す。この境智、冥合するところに慈悲あり、機に随って応ずる。すなわち分身は応身を表す。ゆえに、二仏並座、分身来集は、久遠元初の無作三身を表すのである。
 滅後の弘通については、釈尊の呼びかけに応えて迹化の菩薩が誓願を立てるのであるが、釈尊はそれを退けて本化の菩薩を召し出して滅後の弘通を託した。
 なぜ、迹化の菩薩の願いを止めて、本化の菩薩に付嘱したのであろうか。
 その理由について、日寛上人は三重秘伝抄に、迹化と本化とそれぞれに三つの理由を示されている。
 第一に、迹化の菩薩は、釈尊の初発心の弟子でないからである。観心本尊抄に「迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり」(0250-11)と仰せである。文殊師利、弥勒、観世音、薬王等は元来が他方の仏の眷属である。すなわち、文殊師利は東方金色世界の不動仏の弟子であり、観世音は西方無量寿仏の弟子、薬王は日月浄明徳仏の弟子、普賢は東方浄妙国の宝威仏の弟子である。これらの他方の仏の弟子が一往釈尊の行化をたすけるために娑婆世界にやって来たのである。最初から釈尊のもとで発心し、釈尊によって化導されてきた菩薩ではないから釈尊との縁も浅く、薫陶が薄いのである。
 第二に、迹化の菩薩は、釈尊のもとで修行を積み、功を積むことの日が浅いために制止されたのである。御文に「是等は智慧いみじく才学ある人人とは・ひびけども・いまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし」と仰せである。文殊・弥勒等は、大乗の法理をある程度悟っており、釈尊の四十二年の爾前権経は説法以前に知っていた。法華経以前の説法は、これらの菩薩の知っている所であるため、釈尊によって教わるものはなく、したがって、弟子ではなかった。法華取要抄に「法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞いて此等の人人は弟子と成りぬ」(0334-10)と仰せである。未聞の法とは諸法実相・一念三千の法門であり、方便品に「菩薩は是の法を聞いて 疑網は皆な已に除く」とある。また譬喩品に「我れ等は昔従り来、数世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是の如き、深妙の上法を聞かず」と、菩薩の領解が示されている。このように、これらの菩薩が化導を受けた釈尊は、始成正覚の仏であり、久遠実成の本仏に対して迹仏である。ここに、文殊、弥勒等の菩薩が迹化の菩薩といわれるゆえんもある。いかに智慧はすぐれていても、釈尊のもとで法華経の説法を聞き、それを学んだ日は短い。したがって、末法の悪世、謗法充満し、三類の強敵による大難に耐えることができないのである。迹化は「自身堪えざる故に」末法弘通を止められた。
 第三に、迹化の菩薩は、末法の衆生を利益することが少ないから止められたのである。法華初心成仏抄には「又薬王菩薩・薬上菩薩・観音勢至の菩薩は正像二千年の御使なり此等の菩薩達の御番は早過たれば上古の様に利生有るまじきなり、されば当世の祈を御覧ぜよ一切叶はざる者なり」(0550-13)と仰せである。
 像法期に出現した中国の南岳大師は観音の化身といわれ、天台大師は薬王の化身といわれている。霊山・虚空会の時、本門寿量の説を聞いて内には悟っているわけであるが、出現の時が像法である故に、広く化他のためには妙法の名字をかえて止観といい、一念三千、一心三観の修行を示したのである。ただし、自行真実の内証としては南無妙法蓮華経と唱えたのである。
 つぎに、本化に付嘱した理由を示す。
 第一に、本化の菩薩は釈尊の初発心の弟子だから、末法弘通を託したのである。従地涌出品に「我れは久遠従り来、是れ等の衆を教化せり」と説き、観心本尊抄に「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(0253-17)と仰せである。すなわち、本化とは、釈尊の久遠名字即の初発心以来の弟子なのである。釈尊の久遠名字即の初発心とは、先に挙げた総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)と仰せられ、凡夫の時とは名字即といい、我が身とは境・無作の法身、知るとは智・無作の報身、この境智冥合して無作の応身を顕すのである。故に、久遠元初に、釈尊が凡夫即極本有無作の三身を顕された時の弟子が本化の菩薩なのである。三大秘法抄に「所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり、かかる砌なれば久遠称揚の本眷属・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う」(1021-06)と仰せである。久遠元初の仏と、その所化の弟子たる本化の菩薩は同体なのである。本尊抄には「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり(中略)地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」(0247-05)と仰せである。ゆえに、久遠元初の南無妙法蓮華経を本果で示せば本有無作の三身であり、本因で示せば地涌の菩薩である。だから本法所持の人なのである。
 この偉大な地涌の菩薩が、寂光の大地の底から突如出現するに及んで、迹化の菩薩は驚く。釈尊よりも立派であり、いまだ見たことも聞いたこともないと。本有無作の三身を顕さんがための涌出である。一往、文上顕本を助けて久遠の釈尊の弟子として出現するが、再往、本化の出現は久遠元初の自受用身の垂迹であり、それ故に文底下種の大法を付嘱され末法弘通を託されるのである。
 第二に、本化の菩薩は、久遠以来、深く修行をし功を積んできたからである。本化の菩薩は、もともと妙法を身に持っているが故に、末法の弘通に耐える力を持っているのである。御義口伝に「此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」(0751-13)と仰せである。故に、曾谷入道殿許御書に「此等の大菩薩末法の衆生を利益したもうこと猶魚の水に練れ鳥の天に自在なるが如し」(1033-13)と仰せられ、久遠以来、妙法を持ち修行を積んでいるから、自由自在に化導できる力をもち、いかなる大難にも耐え乗り越えていくことができるのである。本化は「自身能く堪える故」に末法弘通を託された。
 第三に、本化の菩薩は、末法の衆生を利益すること盛んであるためである。法華初心成仏抄に「末法当時は……法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」(0548-16)、また「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり」(0550-15)と仰せである。
 「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」とは、正しく本化に付嘱するところの本尊を示された御文である。
 「法華経の本門」とは、熟益迹門の本尊を簡び、「肝心」の二字は文上脱益の本尊を簡ぶのである。故に「法華経の本門の肝心」とは文底下種の本尊を顕しており「妙法蓮華経の五字」によって、文底下種の本門事の一念三千の大御本尊を明かされているのである。
 この御本尊は、神力品において、別して上行菩薩に付嘱されたのである。
 神力品には「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」、と四句の要法が説かれている。この文は結要付嘱を示しており、本尊の付嘱をあらわしている。「此の経」とは妙法蓮華経の御本尊をいう。故に、この文意は、如来の一切の名体宗用を皆、この御本尊の妙法蓮華経の五字において宣示顕説するというのである。これが寿量品の肝要、名体宗用教の南無妙法蓮華経である。この御本尊をもって、別して上行菩薩に付嘱するから「総じて一経を結するに、唯四のみ、その枢柄を撮って而して之を授与す」と、すなわち結要付嘱というのである。今は末法の時に当たるが故に、これを〝本尊付嘱〟と明言するが、天台大師の場合は像法の時であるから〝結要〟等と示し、あらわにいわなかったのである。
 なお、嘱累品では本化・迹化に通ずる総付嘱が行われた。この総付嘱は法華経の一経だけでなく、前後一代の一切経にわたる。一代の諸経を付嘱するについて、体外の辺、すなわち顕本以前の一切経は迹化等に付嘱したもので、これにまた二意がある。一には正像二千年の機のため、二には末法弘通の序分のためである。また一代諸経の体内の辺、顕本以後の諸経は本化に付嘱して文底仏法の流通としたのである。故に、神力品では正しく本尊を付嘱し、嘱累品では流通を付嘱しているから「神力品・属累に事極りて」等と仰せられたのである。
本化出現の時節を明かす
 釈尊は「此の御本尊」が弘通する時を定めて、滅後の正像二千年を過ぎた末法であることを明記している。その未来記は、法華経の薬王品に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して、……便を得せしむること無かれ」と示されてる。〝後の五百歳〟とは末法の始めを指したものである。
 また、大集経に末法を記して「我が滅度に於いて(中略)我が法の中に於いて闘諍言訟して白法穏没せん」と示している。〝我が法の中〟とは、釈尊の仏法の中ということであり、仏法が乱れ、互いに我見・自説に固執して論争し、白法すなわち、釈尊の仏法は指導力を失い滅びると説いているのである。
 この末法の時、釈尊の仏法にかわって、下種の御本尊が広宣流布するのであるが、薬王品に「悪魔・魔民……等に其の便を得しむること無かれ」と記しているように、邪法、邪義を説く謗法の者が国中に充満する。
 この末法濁悪世の様相を、仏は記して、前代未聞の天変、地夭、三災七難が起こり、世界中が戦乱の巷となる。また諸仏、諸天等は守護の力を失い、皆、死して無間地獄に堕ちると。
 この仏の記文とは、金光明最勝王経巻八に「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」と、また「三十三天の衆、威忿怒の心を生じ(中略)変怪流星堕ち二の日俱時に出で他方の怨賊来りて、国人喪乱に遭わん」と説いている。法華経の譬喩品には「経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賎増嫉して、結恨を懐かん……其の人は命終して、阿鼻獄に入らん」と説いている。
 さらに、仏の記文を説いた経典を挙げるならば、仁王経、大集経等にも、謗法によって天神地祇が怒りをなし、天変地夭、三災七難の起こることが説かれているのである。
 このような、末法濁悪の様相を呈する時、上行菩薩の出現を得て、この下種の妙法蓮華経の御本尊が広宣流布するならば、現世の災難を払い、後生の大苦をのがれると、仏は記している。すなわち、仁王経に「千里の内をして七難起らざらしむ」と、法華経に「百由旬の内に、諸の衰患無からしむべし」また「現世安穏後生善処」等と説いているのである。
 まさに末法にいたって、これらの仏の記文どおりの様相が現実のものとなった。念仏・真言・禅・律等の大謗法が国中に充満し、未曾有の大災難が起きたのである。この現象こそ本化上行菩薩の出現と末法下種の大仏法が広宣流布することを示唆しているのである。
 顕仏未来記に「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか(中略)而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508-11)と仰せである。
 さらに、法華取要抄に「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0338-02)とも仰せである。
上行の再誕即日蓮大聖人
 日蓮大聖人は、一往、謙遜されて上行菩薩の再誕ではないがといわれているが、立宗以来、文永12年(1275)にいたる二十余年間、南無妙法蓮華経こそ末法における唯一の正法であることを叫ばれ、しかも、経文どおりの大難にあわれたことは再往、全く上行の再誕以外のなにものでもない。
 しかも、上行の再誕とは、大聖人の外用の辺すなわち法華経を身読された妙法弘通の御振る舞いの面からの御姿であり、その内証の辺すなわち胸中の御境界を拝するならば、久遠元初の自受用報身如来の再誕、末法の御本仏であられるのである。故に日蓮大聖人は末法の御本仏としてその御生命を南無妙法蓮華経の御本尊として顕示あそばされたのである。
 日寛上人は、文底秘沈抄に「若し外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり」と述べられている。
 つぎに、末法の仏法弘通にあたって、受難の経証を挙げ、これらの経文を大聖人が色読されたことによって、上行の再誕であることを確証しておられるのである。
 「而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と、法師品第十に説かれている。「況んや滅度の後をや」とは、滅後正・像・末の三時に読みわけ、仏の在世よりも正法、正法よりも像法、像法よりも末法と、次第に怨嫉が多くなり、滅後末法はとくに怨嫉が多いとの意である。
 また「一切世間に怨多くして信じ難く」とは、安楽行品第十四の文である。法華経があまりにも偉大な経典であり、深遠なる教えが説かれているために、一切世間から怨嫉が多く信じ難いとの意である。
 このように、法師品、安楽行品等には、文底下種の仏法を弘通しようとすると〝怨嫉を受ける〟とのみ説かれているのであるが、その怨嫉の姿をさらに具体的に教示されたのが、勧持品第十三の「三類の強敵」である。
 第一は俗衆増上慢である。いわく「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん」と。仏法に無智な人々が、法華経の行者を迫害することである。仏法に無智な人々とは、一般大衆のみを指すのではなく、出家の僧以外のすべての人々を指し、本文に「国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等」と示しているのである。
 第二は道門増上慢である。出家の僧を指す。邪智で臆病で、悟ってもいないのに悟ったような顔をして、我見をかまえ、法華経の行者を誹謗する邪法の僧である。
 第三は僭聖増上慢である。出家の僧の中でも、仏か聖人のごとく敬われている邪智謗法の僧を指す。とくに、法華経の行者を誹謗迫害するために、権力者・指導者と結託して、その力を動かすのである。
 以上が、三類の強敵であるが、結局、第一類の俗衆増上慢である権力者から一般大衆にいたるすべての人々が、法華経の行者を迫害するのは、第二道門、第三僭聖増上慢の邪法の僧達が法華経の行者を非難中傷し、第一類の俗衆を煽動する故に悪口・罵詈・刀杖等の害をなすのである。大聖人は、これらの経文どおりに難を受けられたのであり、そこに「法華経の行者」であり外用・上行の再誕、内証・久遠元初自受用報身如来の再誕たるゆえんがある。

0906:09~0906:15 第四章 東条郷が日本の中心なるを示すtop
09   而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊
10 勢の国に 跡を垂れさせ給いてこそありしかども、 国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅か
11 りしかば、太神・瞋りおぼせし時・源右将軍と申せし人・御起請文をもつて・あをかの小大夫に仰せつけて頂戴し・
12 伊勢の外宮にしのび・をさめしかば 太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手ににぎる将軍となり給いぬ、
13 此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、 されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず 安房の国東条の
14 郡にすませ給うか、 例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国・男山に移り給い、 今は相
15 州・鎌倉・鶴が岡に栖み給うこれも・かくのごとし。
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 ところで、安房の国の東条の郷は辺国であるけれども、日本国の中心のようなものである。そのわけは天照太神がこの地に跡を垂れたからである。昔は伊勢の国に跡を垂れておられたが、国王は八幡大菩薩や加茂の明神の御帰依が深く、天照太神の御帰依が浅かったので太神がお瞋りになっていたとき、源右将軍頼朝という人が御起請文を書いて会加の小大夫に申し仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのであろう。日本を手中におさめる将軍となった。その源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められた。そのため、この太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのであろう。例えば八幡大菩薩は昔は西府においでになったが、中ごろは山城の国の男山に移り、今は相州鎌倉の鶴が岡に栖まわれているのと同様である。

安房の国
 千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。
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東条の郷
 安房の国長狭軍東条郷(千葉県鴨川市広場)のこと。
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天照太神
「あまてらすおおみかみ」といい、大日孁貴・日の神とも呼ばれる。伊弉諾・伊弉冉二神の第一子で、大和朝廷の祖先神とされ、日本書紀、古事記などでは主神となっている。仏法上では守護神の一人とされる。
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伊勢の国
 東海道15ヵ国のひとつ。古くから皇大神宮の鎮座地として開け、大化の改新で一国となる。現在の三重県。
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八幡
 天照太神と並んで広く崇拝された神で、古くは農耕を守る神であったが、日本国百代の王を守護する請願を立てたと伝えられる。仏教との混淆のなかで正八幡大菩薩とも呼ばれるようになった。また、武士の台頭とともに、武士の守護神とされ、とくに源氏に厚く信仰された。仏法においては、諸天善神の一人とし、法華経の守護神としている。
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加茂
 京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社と同市左京区下鴨泉川にある賀茂御祖神社とを総称して賀茂神社という。両社はそれぞれ賀茂川の上流と下流にあり、それぞれ上賀茂社・下賀茂社、または上社、下社などと呼ばれる。上社の祭神は賀茂別雷命で、下社はその母・玉依姫命と外祖父・賀茂建角身命を祭る。社伝によると、社殿の創建は天武天皇の6年(0678)とされ、この地方の豪族賀茂氏が奉斎していた。平安遷都の後はとくに皇室の崇拝をうけ、王城鎮護の神とされ、伊勢神宮に準ずる規模と待遇を誇った。
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源右将軍
 (1123~1160)。源義朝のこと。平安時代後期の武将。為義の子で頼朝の父。保元の乱の時に、平清盛とともに後白河天皇方に味方して勝利し、崇徳上皇方についた父の為義を斬った。その後、平清盛の進出に不満をもち、藤原信頼と結んで挙兵した。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅に移動したため、一転して賊軍となった義朝は戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
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御起請文
 誓約書のこと。
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あをかの小大夫
 会賀の小大夫とも書く。会賀次郎大夫生倫のこと。東条御厨の神主。吾妻鏡巻三には「安房国東条御厨、会賀次郎大夫生倫に付せられ訖」とあり、源頼朝より東条御厨の神主として委託された人。
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伊勢の外宮
 伊勢神宮の豊受大神宮のこと。
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西府
 律令制下に西海道(九州)総管と大陸に対する外交折衝のうえで重要な役割をもっていた九州・筑前の大宰府のこと。この近くの宇佐八幡宮が八幡信仰の最古の中心で総本社とされる。
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山城の国
 京都府の南半部の旧名。畿内の一国。上国。奈良時代には山背国、山代国と書いた。奈良京から「山のあなた」とされたところ。古くから文化が開け、秦氏や高麗氏らの帰化人が住んだ。京都市太秦の広隆寺は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を安置した寺と伝え、木津川市に高麗寺跡があることはこれを物語る。
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男山
 京都府綴喜郡にある、標高143㍍。この地に石清水八幡宮がある。
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相州・鎌倉・鶴が岡
 相模国(神奈川県)の鎌倉にある鶴岡八幡宮のこと。康平6年(1063)に源頼義が安倍貞任征伐に向かった時、京都の石清水八幡宮の分霊を由比郷の鶴岡に祀ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。以後、鎌倉幕府の庇護を受けて栄えた。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。
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 日蓮大聖人の御聖誕の地であり、しかも、末法の大白法たる南無妙法蓮華経の第一声が放たれた安房の国・東条郷が、日本民族にとって深い意義を持った地であることを述べられている。
而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし
 東条郷について、政治や文化が栄え日本の中心とされている京・鎌倉からみれば、はるかに未開の辺地であり、遠国であるが、日本の民族の祖先神とされる天照太神を中心にみた場合は、安房・東条の郷こそ「天照太神・跡を垂れ」ている地であるが故に日本の中心といえる、と仰せである。
 天照太神は八幡大菩薩と並んで、日本古来の民族信仰の対象として、最も権威ある地位を占めていた。八幡が衣食等の国土の恵み、物資の生産力を象徴するのに対し、天照太神は民族の祖先神と考えられる。
 この天照太神は、昔、伊勢の国に神社があって祀られていたのである。この神社への供物を確保するための所領を神領とも御厨ともいい、権力者・勢力家がそれぞれの分に応じて、古来、御厨を寄進した。源頼朝は平氏を滅ぼし権力をめざすにあたり、起請文を書き、天照太神を奉じて、伊勢の外宮に納めた。このことが天照太神の心に叶ったのであろうか、日本の政権を握る征夷大将軍となったのである。そこで、頼朝は東条郷を御厨として寄進し、天照太神のすみかと定めたのである。
 このことは、聖人御難事にも「安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり」(1189-01)と仰せられており、はじめは東条郷の御厨は日本の中でも第二の神領であった。これは、頼朝が平氏に代わって実権を握ったものの、まだ朝廷の権威には従わなければならず、それを超える御厨を寄進することはできなかったからである。
 しかるに承久の乱(1221)によって、鎌倉幕府は朝廷方を打ち破り、気兼ねなく第一の御厨を寄進できることとなった。「今は日本第一なり」と仰せられるゆえんである。
 ともあれ、神がその座を遷されるということは他にもあることで、八幡大菩薩の場合もこれと同じことがいえる。昔は九州筑前の太宰府に近い宇佐八幡宮にいたが、次いで山城の国・男山の石清水八幡宮に移り、今は幕府の所在地である鎌倉の鶴岡八幡宮をすみかとしているのである。
 神は「正直の頭」に宿るのであって、この原理から、天照太神も八幡も、謗法に毒されることの少なかった東国に遷ったのである。しかし、今や、その東国も邪智謗法に毒されて〝不正直〟となってしまったため、神はこの国を去って天に上り、故に、年々に災害に見舞われる不幸な国となってしまったというのが「立正安国論」で示される〝神天上の法門〟である。今日においては、正法を行ずる人が「正直の人」であり、そこにのみ諸天善神は宿り加護をなすのである。

0906:16~0907:12 第五章 御本尊受持の信心を正すtop
16   日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼
17 の者すでに半分ほろびて今半分あり、 領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御
18 勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、 日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、 日
0907
01 蓮が重恩の人なれば 扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば 十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼし
02 めされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・
03 しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん、 此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ召して 尼御前の見参
04 に入れさせ給うべく候。
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 日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡でこの正法を弘通し始めた。これに対して地頭が敵となったが、彼等はすでに半分亡びて半分を残すだけである。領家は偽りおろかで、あるときは信じ、あるときは破る、というように定まらなかったが、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前からお目にかかるごとに「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこのことである。日蓮にとって重恩の人であるから、助けてあげようとこの御本尊をしたためてさしあげるならば、十羅刹はきっと日蓮を偏頗の法師と思われるであろう。また経文に説かれているとおりに、不信の人に御本尊をさしあげないならば、日蓮は偏頗はないけれども、大尼御前は自身の失を知られず、日蓮を恨まれることであろう。その事は詳しく助阿闍梨の手紙に書いておいたので、呼ばれて尼御前にお目にかけていただきたい。
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05   御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、 さどの国と申し此の国と申し度度の御志あ
06 りてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり、それも終には・いかんがと・をそれ
07 思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし、 くはしくは又又申すべく候、それのみならず・かまくらにも御勘気の時・
08 千が九百九十九人は堕ちて候人人も ・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候へども・此
09 れはそれには似るべくもなく・いかにも・ふびんには思いまいらせ候へども 骨に肉をば・かへぬ事にて候へば法華
10 経に相違せさせ給い候はん事を叶うまじき由いつまでも申し候べく候、恐恐謹言。
11       二月十六日                       日蓮花押
12     新尼御前御返事
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 新尼御前は大尼御前とご一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心尽くしといい、この国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。詳しくは、また申しあげよう。それだけでなく、鎌倉でも御勘気のとき、千人のうち九百九十九人が退転してしまったが、それらの人々も今は世間も和らいできたためか、後悔している人人もあるということである。大尼御前はそれらの人々と全く違っているので、いかにもかわいそうだとは思うが、骨に肉を換えられない道理であるから、法華経に違背された人に御本尊をさしあげることはできないと、どこまでもお伝えください。恐恐謹言。
  二月十六日             日 蓮  花 押
   新尼御前御返事

此の正法
 久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。
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地頭敵となる
 安房国長狭郡東条郷の地頭が大聖人立宗宣言以来、ことごとく敵対したこと。
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領家
 中世の荘園制度ににおける荘園の領主のこと。
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難信難解
 法師品には「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。信じがたく解しがたいとで、法華経の信解は及びもつかないほど甚深の義があることを言いあらわしている。易信易解に対する語。
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十羅刹
 仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。
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偏頗の法師
 かたよった不公平の僧。
―――
不信の人
 正法を正しく信仰しない人。
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助阿闍梨
 安房国長狭郡東条郷の領家に親しく出入りしていた人であろうと思われるが、詳細は不明。大聖人の御弟子と思われるが、清澄寺の高僧であるという説もある。
―――
さどの国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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 本抄は、新尼と大尼が御本尊の授与を願い出たことに対する御返事として、前章までのところで、大聖人の顕されたこの御本尊は仏法が説き顕した生命の究極、御本仏の尊極きわまりない当体であることを教えられた。
 本章では、この御本尊の授与について、大尼の信心の姿勢をきびしく問い、大尼には授与を許さず、新尼には許すとの結論を示されているのである。
 大尼御前について、御書の中で日蓮大聖人は〝領家〟あるいは〝領家の尼〟(0891)と呼称されている。この領家というのは、一定の地域の土地を領有している主家の意で、大尼は安房の国・東条郷を領していた領主の後家尼であったことから、領家の尼というのである。
 また〝大尼〟とは、尼の子に嫁をめとらせたが、子が早く死んで嫁もまた後家尼となってしまったような場合、二人の後家尼を呼びわけるため、母尼を大尼、嫁尼を新尼と称したのである。なお、新尼は孫の妻であるともいわれている。
 この領家と大聖人との関係は、大聖人の御生家が東条郷の片海の漁人であったことから種々あったと考えられるが、それも、領地内のただの住人という関係でなく、御書に「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(0895-03)、また「日蓮が重恩の人」等と仰せられているように、領家は大聖人の御両親に特別の恩願をかけていたようである。
 東条景信は、領家を未亡人とあなどってか、執権北条長時の父・極楽寺重時をうしろだてにして武力で圧迫し、領内を支配下において自由にしようとした。
 こうした状況下で起きたのが、清澄・二間の二か寺の支配にかかわる対立抗争である。この時、大聖人は領家に味方され、景信の野望を打ちくだいて、二か寺を領家に取り戻している。詳しくは、清澄寺大衆中に語られているので、同抄の講義を参照されたい。
日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり
 東条の地から弘通を開始された大聖人の仏法が、一閻浮提に波及していく世界の大仏法であることを示されたものと拝するのである。
 したがって、受難もまた初めて下種仏法のくさびを打ち込んだ東条の地から始まっている。立教開宗とともに、地頭の東条景信が、第一の敵となったのである。彼は建長5年(1253)から文永12年(1273)に至る20余年の間に、さまざまな迫害を加えているが、とくに大聖人が伊豆流罪から帰られて、悲母の御病気を心配され安房に帰郷された文永元年(1264)の11月11日、兵を率いて、東条の小松原の地に大聖人を襲撃した。大聖人は身に傷をこうむり、大聖人を守っていた御門下の鏡忍房、工藤吉隆等は殉死している。小松原の法難である。景信はその後まもなく狂死したと伝えられている。
 大尼は「いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なり」と指摘されているように、不安定な状況を続けてきたあげく大聖人の竜の口法難から佐渡流罪という大難の時に、一度退転してしまったのである。故に、たとえ世法のうえで「重恩の人」であろうと、仏法の道理のうえから不信退転の人には、御本尊の授与はできないと仰せられたのである。
 つぎに新尼の信心について、大勢の不信の人にとりかこまれているけれども「御信心は色あらわれて候」と、求道心が実践によくあらわれていることを認められ、佐渡御流罪中も身延御入山後も退することなく持続している故に、御本尊を授与すると仰せられているのである。
 さらに、大聖人は御本尊を受持してからの信心について「それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし」と、生涯求道の決意がなければ御本尊を受持できないことを心配され、うすい氷の上を踏み太刀に向かうような思いであると仰せられている。御本尊を受持してからが本格的な信心の始まりであり、生涯にわたって難を乗り越える信心の決意を固めよとうながされているのである。
 ここに、新尼と大尼の信心の姿勢を相対させながら仰せられた、御本尊を受持するうえでの厳格な信心の御教示こそ、今日における信心の源流であり、また永遠にわたる信心の規範として継承していかなければならない。

0904~0907    新尼御前御返事(2012:08月号大白より 先生の講義top

万人の「幸福の大道」開く「信心の御本尊」
 8月を迎えると、私は、今も、わが故郷である東京・大田区の座談会で、初めて恩師・戸田城聖先生にお会いした日を懐かしく思い出します。
 1947年(昭和22年)の8月14日、私はまだ、19歳の青年でした。終戦記念日の前日、民衆を苦悩のどん底に陥れた、あの戦争が終わって、ちょうど2年が過ぎようとしていました。敗戦後の混乱の中、私は結核を病み、間近に死の影を感じながら、人生の目的は何か、正しい人生はあるのかと、深く悩み抜いていました。
 その時、戸田先生は、初対面の若い私にまるで旧知のように接し、広布の大理想に生き抜く人生を教えてくださいました。この師を信じて8月24日、私は入信したのです。
 広宣流布とは、一言でいえば、自らの人間革命を原動力として自他共の幸福を確立し、世界の平和を築いていくことです。
 では、どうすれば、私たち一人一人が、もれなく幸福になり、人類の平和の大理想に向かって正しく進んでいけるのか。
 日蓮大聖人は、乱世に生きる私たちが、一人ももれなく、自身に内在する、仏と等しい生命を開き、絶対の幸福境涯を確立するための方途として、御本尊をあらわし、末法の全民衆に与えてくださいました。
 正しい信心があれば、誰が唱えても広大な功力を湧現させ、必ず幸福になることは間違いない。このことは、仏法の法理に照らして明確であります。この御本尊の偉大な力を戸田先生はよく、“もったいないことだが”と前置きされながら、分かりやすい表現として「幸福製造機」に譬えられていました。
私たちは仏法の最高哲学を実践
 戸田先生は明快に指導されています。
 「この御本尊は、仏法の最高理論を“機械化”したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を“機械化”した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段である。
 されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるにあって、この実践行動によって、人生は幸福になりうるのである。
 この御本尊は「信心の御本尊」です。受持した我らの信力・行力によって、仏力・法力があらわれ、一人一人が自らの可能性と使命に目覚め、人生の勝利を築いていくのです。そこに真の世界の平和実現の基盤もあります。ゆえに戸田先生は、この御本尊を流布することを、民衆の幸福拡大の指標とされたのです。
 今回は「新尼御前御返事」を拝して、広宣流布に生き抜く「信心の御本尊」根本の人生を学んでいきましょう。
0904
新尼御前御返事    文永十二年二月    五十四歳御作
01   あまのり一ふくろ送り給び畢んぬ、 又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の嶽と申す駿
02 河の国は南にあたりたり 彼の国の浮島がはらの海ぎはより 此の甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺へは百余里に及
03 ぶ、余の道・千里よりもわづらはし、 富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高
04 山なり谷深く左右は大石にして 高き屏風を立て並べたるがごとくなり、 河の水は筒の中に強兵が矢を射出したる
05 がごとし、 此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく 石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所を
06 すぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、 東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺なり、高き屏
07 風を四ついたてたるがごとし、 峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音・
08 山に充満し マ猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく 蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の
09 菓は冬になる、 たまたま見るものは・やまかつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、 彼
10 の商山の四皓が世を脱れし心ち 竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、 峯に上つて・わかめやをいたると
11 見候へば・さにてはなくして・わらびのみ並び立ちたり、 谷に下つてあまのりや・をいたると尋ぬれば、あやまり
12 てや・みるらん・せりのみしげり・ふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候い
13 てよしなき心をもひいでて・うくつらし、 かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色
14 形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし。
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 あまのりを一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。
 この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国・波木井の郷・身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士河という日本第一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高き屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。
 この河の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵となってしまう。このようなところを過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峯に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまかつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人といえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。
 嶺に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなく、わらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このような故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このありさまを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことではある。片海・市川・小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまったのであろうかと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。

安房の門下から甘海苔が届く
 文永12年(1275)2月、身延の地に海の幸「甘海苔」が届けられました。故郷の安房の国在住の女性門下、新尼御前からの御供養でした。春早くに、まだ冷たい海で採れたばかりの、潮の香り漂う甘海苔だったのではないでしょうか。
 この新尼御前の便りとともに、大尼御前という女性からも、甘海苔の御供養が届いていました。新尼・大尼という呼称から、二人は嫁と姑の関係と考えられます。
 大聖人は、大尼御前に対しては「畏こまり入って候」と少々改まった言葉遣いをされています。本抄の後段に「領家」とあることから「領家の尼」とよばれている女性と同一人物と思われます。「日蓮が重恩の人」(0906-18)「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(0895-03)とのお言葉と考え合わせると、大尼御前は、安房の国長狭郡に領地を持ち、おそらく、大聖人のご両親にとって何らかの恩義があった人物と推察されます。
故郷の懐かしき思いを語る
 前年文永11年(1274)5月、大聖人は身延に入山されました。以来9ヵ月、この間の御消息に、身延での暮らしぶりなどは、特に記されていません。懐かしき安房の人たちへ、海浜の風土と全く異なる山中のご様子が綴られています。
 「筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし」と譬られている富士川の急流「高き屏風を四ついたてたるがごとし」と形容されている峻厳な四方の山々、あたりに響くのは狼や猿、鹿、そしてセミの声、たまに人影を見かければ木こりが薪を拾う姿であり、時々、訪ねてくるのは、昔から親しい同朋ぐらいである。峰に上がった時に、どうしてワカメがここに、と目を凝らせばそれはワラビであり、谷に下って、甘海苔かと思えばセリが水際に茂り伏している。
 そこへ届いた甘海苔から、懐かしい故郷への連想が広がります。大聖人は、文永年間の初めに安房国に戻られ、病床のお母様を見舞われて、更賜寿命を祈られるなど、故郷に重要な足跡を残されます。しかし、その後は大難の嵐の激動のなかで、一度も故郷に帰られることはありませんでした。
 故郷の甘海苔は、かつて味わった時と変わらないのに、すでに父も母も世を去ってしまった。涙を耐えがたい。そうしたお言葉からは、御自身が育んだ父母の恩、故郷への愛惜が滲むようです。
 この故郷を思う大聖人の御心情は、誰人にも深く胸に染み入るのではないでしょうか。
 なお、海苔の歴史を研究するうえでも、御書の記述は重要な文書とされています。次元は異なりますが、私の実家は、東京・大森の海で海苔養殖・製造を営んでいましたので、私も、海苔の香りは生まれ故郷の故郷や父母の思い出と重なります。
15   此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は
0905
01 此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にも しるしをかせ給
02 はず、
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 それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事をおおせつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国からインドの地に入った人々のなかにも書き残されていない。

前代に未曾有の曼荼羅
 新尼御前がいつごろ、妙法の信仰を始めたかは不明ですが、大聖人の佐渡流罪中も、身延入山後も純粋な信心を貫き、たびたび御供養をお届けしていました。その強盛な信心に対して、大聖人は既に新尼御前に御本尊を授与されていたか、あるいは、このたびの御返事とともに受与されたと拝察されます。
 一方、大尼からも「御本尊の御事」つまり「自分も御本尊を頂きたい」との要望が添えられていました。これについて大聖人は、「おもひわづらひて候」と綴られています。実は後段で、結論として大尼御前には授与できない旨を伝えたれているのですが、その理由を説明するにあたって、大聖人は、御本尊の甚深の意義を明かされています。
 まず最初に、御自身があらわされた南無妙法蓮華経の御本尊は、インドから中国、日本へと伝来した長い歴史の中で、全く前代未聞の御本尊であったことを明かされています。例証として、諸国の寺々の本尊は、その由来などさまざまな記録が残されているが、大聖人があらわされた御本尊についてはどこにも見当たらないことが挙げられています。
 「此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(1305-04)とも仰せの如く、正法・像法時代には未曾有の御本尊なのです。
 続けて大聖人は、この御本尊について、本当は「経文は眼前なり」と文証のうえからも明瞭である。ただし、これまでは「機」がなく、「時」が至っていなかったために、誰人もあらわさなかったと示されています。この論拠として、次の段で、この御本尊は、釈尊一代の説法のなかで法華経寿量品に説きあらわされていること、そして、それを、滅後悪世のために神力品で上行菩薩に託されたことを明かされていきます。
12   今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又
13 法華経の中にも迹門はせすぎて 宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが、 金色
14 世界の文殊師利・兜史多天宮の弥勒菩薩・補陀落山の観世音・日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我
15 もと望み給いしかども叶はず、 是等は智慧いみじく才学ある人人とは ・ひびけども・いまだ法華経を学する日あ
16 さし学も始なり、 末代の大難忍びがたかるべし、 我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此
17 れにゆづるべしとて、 上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、 法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆ
18 づらせ給いて、あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗
0906
01 法の法師一閻浮提に充満して 諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、 大旱魃・大
02 火.大水・大風.大疫病・大飢饉.大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人.各各・甲冑をきて弓杖を手に
03 にぎらむ時、 諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごと
04 く・しげからん時・此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、 乃至後生の大
05 火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ、而るに日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩
06 薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、
-----―
 今、この御本尊は、教主釈尊が五百塵点劫の昔より心中におさめられ、世に出現せれても四十余年の間は説かれず、法華経の中でも迹門では説かれず、宝塔品より事が起こり、寿量品で説き顕し、神力品・属累品で事が終ったのである。そこで金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音菩薩、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の多くの菩薩が我も我もとこの御本尊を弘めることを望んだけれどもかなえられなかった。仏は、これ等の菩薩は智慧もすぐれ、才学ある人々と名高いが、いまだ法華経を学んで日も浅く、学も浅識で、末代の大難を忍ぶことはむずかしいであろう。自分には、五百塵点劫より大地の底にかくし置いた真の弟子がある。これに譲ろうといって湧出品で上行菩薩等を召し出されて、法華経の本門の肝心である妙法蓮華経の五字を譲られて「この御本尊は我が滅後、正法一千年・像法一千年に弘通してはならない。末法の始めに、謗法の法師が一閻浮提に充満し、諸天が怒って彗星が天に現れ、大地は大波のようにおどり動くだろう。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の数々の大災難が一時に起こり、一閻浮提の人々が、おのおのの甲冑をつけ、弓や杖を手にするであろう時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばない時、諸人は皆、死んで無間地獄に堕ちる者の雨の降るように多い時、この五字の大曼荼羅を身に持ち、心に信ずれば、諸王はその国を助け、万民は災難をのがれ、また後生の大火炎をのがれることができるだろう」と仏は記しおかれたのである。
 さて日蓮は上行菩薩ではないけれども、以前からほぼこの事を知ることができたのは、上行菩薩の御計らいかと思って、この二十余年の間、このことを語ってきた。

釈尊の真意は法華経の虚空会に
 日蓮大聖人があらわされた「此の御本尊」とは、釈尊が五百塵点劫に成道して以来、心中に所持していた御本尊にほかならないと明かされています。そして、そのことは、法華経の虚空会の儀式として、厳然と説きしめされていると仰せです。
 そこで、この虚空会の意義をあらためて確認しておきましょう。
 法華経宝搭品第11では、突然、巨大にして荘厳な宝搭が空中に出現します。釈尊は、三世十方の分身の仏を呼び寄せ、その搭中に住する多宝如来と並び座すると、それまで霊鷲山にいた衆生を空中に引き上げて虚空会の儀式が始まるのです。
 そこで釈尊は開口一番、わが滅後に、この娑婆世界で法華経を弘通する弟子はいないかと呼びかけます。師匠の願いに応えて、滅後悪世の広宣流布の戦いに立ち上がる真実の弟子は誰なのか、この誓願の弟子に、永遠なる仏の生命そのものである妙法を託す。それが虚空会の最大のテーマです。
 この師弟継承の大儀式は、宝搭品の遠序として始まり、寿量品第16で釈尊の久遠の生命が明かされます。そして神力品第21と嘱累品第22に至って、久遠の仏が覚知し、所持している法のすべてが後継の弟子に付託されて、虚空会は幕を閉じるのです。まさに「宝搭品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極まりて候いし」と仰せの通りです。この経文によって、大聖人があらわされた御本尊が仏法の正統であることは明瞭なのです。
上行菩薩に妙法五字を付嘱
 さて、滅後の弘通を考えるにあたって、一番の焦点は、仏滅後の娑婆世界とは五濁悪世だということです。そこで正法を弘めれば大難が競い起こることは間違いない。本抄では、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩など錚々たる菩薩たちであっても、彼らが望んでいるにもかかわらず、釈尊は悪世の弘通を譲らなかったと仰せです。
 その理由を、大聖人は「まだ法華経を学び始めて日が浅い」「末代の大難に耐えられない」と述べられています。
 では、いったい誰が、釈尊の真実の後継者として、末法の娑婆世界で大難を忍び、広宣流布をするのでしょうか?
 「我五百塵点劫より大地の底にかくしきたる真の弟子あり」 この釈尊の全幅の信頼に応える者として、大地の底から呼び出されたのが上行菩薩ら地涌の菩薩です。
 地涌の菩薩は「我は久遠従り来、是れ等の衆を教化せり」と説かれているように、釈尊が遥か久遠より指導育成してきた、最も縁深い本化の弟子です。誰よりも師匠と同じく、末法流布への思いを共有した弟子であり、誰よりも師匠の訓練を受け切った弟子であるともいえます。
 地涌の菩薩について「能く能く心をきたはせ給うにや」(1186-07)と言われているのも、一番困難な末法広宣流布を担い立つには、鍛え抜いた心をもっていなければならないからでしょう。
 そして釈尊が、上行菩薩から末法弘通のために譲られた法こそ、「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」なのです。
 この趣旨は、「観心本尊抄」にも「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250-10)と示された通りです。
 「久遠の仏」が所持する大法は、十界互具の生命を明かし、永遠に万人を等しく成仏させゆく妙法です。その妙法の御本尊を、仏に代わって悪世末法に弘通する大使命を担うのが、三世永遠の師弟の絆で結ばれた「久遠の弟子」なのです。
苦悩にあえぐ悪世の民衆の中へ
 それでは、「末法の始」の時とは、いかなる様相を呈しているのか。
 御文では、正法誹謗の悪僧らが社会に充満し、やがては天変地異をはじめ、旱魃、疫病、飢饉、戦争などが起こり、民衆が塗炭の苦しみに苛まれる時代が示されています。
 この苦悩に喘ぐ民衆の中に飛び込み、平和と幸福を実現するために戦いを起こすのが地涌の菩薩です。その師弟誓願の「法華弘通のはたじるし」(1243-08)こそ御本尊です。
 本抄では仏の願いとして「此の五字の大曼荼羅を身に対して心に存せば」と仰せです。すなわち、御本尊を色心共に信受して離れることなく、守り抜いていくことが勧まられています。
 仏から見て、苦難を避けることのできない闘諍の時代を、どう救うのか。地上から悲惨と不幸をなくす方途とは何か、それは、乱世に生きる民衆の一人一人を強く賢くするしかない。いかなる苦難をも打ち返す仏界の生命力を触発するしかありません。
 そこで、生命根源の力を直ちにあらわすために、御本尊が必要となるのです。本抄では、一人一人が御本尊を信受する実践の中に「現世安穏・後生善処」の大功徳があることを約束されています。濁悪のこの世に生きる民衆のための御本尊であることを明確に仰せなのです。
 そして、大聖人は悪世末法を救う大仏法を弘通したがゆえに「三類の強敵」と戦い、その大難を忍び、勝ち越えて、御本尊をあらわされました。いかなる大難をも撥ね返し、法華経を弘通する姿、それこそが、大聖人が末法流布の使命を自覚された上行菩薩でることの証明となるのです。
16   日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼
17 の者すでに半分ほろびて今半分あり、 領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御
18 勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、 日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、
-----―
 日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡で、この正法を弘通し始めた。これに対して地頭が敵となったが、彼等はすでに半分亡びて半分を残すだけである。領家の大尼は偽りおろかで、あるときは信じ、あるときは破る、というように定まらなかったが、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前からお目にかかるごとに「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこのことである。

峻厳なる信心の姿勢を示される
 大聖人は、この一節の前に、「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし」と仰せです。一閻浮題のなかでも、ほかならぬ、日本の安房国・東条郷から、正法弘通の戦いを開始されました。
 この正義の法戦ゆえに、「猶多怨嫉・況滅度後」等の方程式の通り、この地の「地頭」である東条景信が敵対し、さまざまな迫害を加えてきました。大聖人の立宗宣言後の反発も、文永元年(1264)の小松原の法難もそうです。
 また、景信は、大尼御前の領内で傍若無人に振る舞い、二つの寺を奪って自分の支配下に置こうとしました。そうした横暴な事件に際して、大聖人が領家の側に立って味方され、景信の野望を打ち砕かれたことも御書に記されています。
 小松原の法難の直後、景信自身は急死したとも言われています。攻防戦はなお続きますが、本抄にあるが如く、仏罰は厳然であり、今や敵の勢力は半減するに至ったようです。
 ともあれ、法華経の行者にとって、迫害の苦難は、最高の誉れであり、正義の証しであるはずです。ところが大尼御前は、この信心の真髄がわからなかった。
 「いつわりをろか」であるとは、世間的、表面的な風評や体裁に紛動され、何が真実で何が正義かを見極めることができないことといえるでしょう。いい時は信じる様子を見せるが、何かあるとすぐに不信にとらわれる。
 大聖人が、竜の口法難・佐渡流罪という大難に遭われた時には、大尼御前は法華経を捨ててしまった。以前から、面会するたびに、法華経は「難信難解」である。大難が起こるゆえに信心を貫くのは難しいと誡められてきたにもかかわらずです。
 したがって、この大尼御前の信仰の心根を、大聖人は心配されているのです。
 もし、お世話になったからという恩情で、信心のない人に御本尊を授与すれば、正しい法義を曲げることになり「法」中心でない「偏頗な法師」になってしまいます。
 ところが、信心がわからない大尼御前は、反対に「なぜ私は頂けないのか」と恨むであろう。大尼御前の心の動きを、手に取るように見通されながら、弟子を介して伝えようと、こまやかな配慮を巡らされています。
05   御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、 さどの国と申し此の国と申し度度の御志あ
06 りてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり、それも終には・いかんがと・をそれ
07 思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし、
-----―
 新尼御前は大尼御前と御一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心つくしといい、この身延の国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。

信心を貫き通した新尼を賞讃
 一方、新尼御前は、大尼御前と「御一味」万事、一緒のように見えるけれども、信心の姿勢は違っていました。
 「心こそ大切なれ」(1192-14)です。人の一念はまことに微妙であり、ある意味でタッチの差ほどの違いですが、大きな人生の分かれ目となる場合もあります。
 大聖人は、たとえ家族であっても、決して一律に捉えられていません。一人一人の顔が違うように、一人一人の異なる心をみつめて指導されています。その一人一人の胸中に、いかにして御本尊への強盛な信心を打ち立てるか。この一点をないがしろにして、真の「人間のための宗教」はありません。
 では大聖人にとって、新尼御前と大尼御前に対して、御本尊授与を決める信心の境目とは、一体、いずこにあられたのでしょうか。
 まず、前提として「末法広宣流布のための御本尊」ということを確認しておきたい。
 本抄では、大聖人御自身の悪世に難を忍び妙法を弘通する使命に立ち上がって、20数年の間、戦ってきたと語られています。私は、この意義を深く拝したいと思います。すなわち、諸仏の願いは末法広宣流布です。悪世にあって、妙法五字の御本尊を「身に帯し心に存」して戦う勇者が出現しなければ、悪世を変革することはできません。
 大聖人は、上行菩薩として先駆するお姿を満天下に示されました。自他共の幸福を実現する菩薩行の振る舞いを通して、一人の人間が宇宙大の尊極な生命を顕現し得ることを証明されたのです。そして大聖人は、この永遠の無限大の御自身の生命を一幅の曼荼羅としてあらわされました。私たちは、この御本尊を信受することで、自身の胸中にある宇宙大の生命を開き、あらわすことができます。
 「一人」からまた「一人」へ。この人間の内なる可能性を開く実践がひろがることが「広宣流布」です。それを実現するための御本尊です。まさに「人間のための御本尊」であり、「広宣流布のための御本尊」なのです。
「師弟共戦」こそ仏法実践の最重要
 ゆえに、この御本尊を拝するにあたって、大聖人と戦うお姿を素直に信じることが肝要となります。共に戦い、広宣流布に連なる決意がなければ、わが胸中に尊極な仏の生命は力強く湧現していません。日蓮仏法の信仰とは、広宣流布に戦う師匠との共戦です。
 大聖人は、新尼御前の信心に“大聖人と共に”という心があることを感じとられた。それゆえに、大聖人が竜の口の法難・佐渡流罪という大難に遭われる中にあっても、また、この身延にあっても、新尼御前の信心は変わらなかったことを強調されているのです。まさしく、「度度の御志」を明言される如く、新尼御前が、大聖人を求め、御供養を届け、支え申し上げる信心を貫き通したのです。
 言い換えれば、大難を受けながら民衆のために戦う大聖人のお姿に、新尼御前は人間として素直に触れて、そこに深い感謝と感動があり、共戦の決意が湧き出ていた。その信心に立つことで、自身の胸中の肉団におわします御本尊が湧出してくるのです。この共戦の拡大、すなわち地涌の広がりがあってこそ、末法の広宣流布は現実のものとのとなります。
 今日で言えば、常に仏意仏勅の学会と共に戦うという師弟共戦の信心です。そのための「広宣流布の御本尊」です。
 信心があれば、御本尊の絶対の功力は無限です。いついかなる時も、私たちが絶対の幸福境涯を開きゆく力を湧き立たせることができます。それゆえに、大事なのは不退転です。大聖人は新尼御前に対して、生涯、広宣流布に戦う信心を確立してほしいがゆえに、「それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄氷をふみ太刀に向うがごとし」と厳しく仰せられていると拝されます。
 門下の一人一人が、最後まで信心を貫き通して真の幸福と安穏を確立してほしい。この大聖人の願いは、本抄の最後でも示されています。竜の口の法難の直後、門下への大弾圧が続いた時、鎌倉では「1000人のうち999人が退転した」が、時が移って後悔している様子を綴られ、何があっても信心を全うするよう、深い厳愛を注がれています。
「人は変われどもわれは変わらじ」
 現代にあっては、大聖人直結の「師弟共戦」の信心は、創価学会の中にしかありません。牧口先生・戸田先生が教えてくださったのです。私も、ひたぶるに実践してきました。
 入信以来、私は、師匠と共に、広宣流布の人生を生き抜く覚悟を貫き通してきました。
 恩師の事行が危機に瀕するなか、多くの弟子たちの心が揺れ動き、師を裏切り、師から離れていった時もありました。しかし、私は戸田先生が自分の師匠だ、広宣流布の師匠だと一心不乱に戦い抜きました。
 そのころ、私はこう詠んで、戸田先生におとどけしました。
 「古の、奇しき縁に、仕えしを、人は変われど、われは変わらじ」
 私たち創価学会の師弟の絆は、この苦悩の充満した娑婆世界で、広宣流布の大ロマンに生き抜く誓願にあります。
 悩める友に、苦しむこの友にと、勇気と慈悲の対話で「信心の御本尊」を流布してきたのが、創価の民衆のスクラムです。
 日本中、世界中のあの地この地で、妙法の御本尊を信受して、わが地涌の同志は、宿命の嵐を乗り越え、自他共の幸福と勝利の旗を高らかに掲げて前進していきます。
 創価学会には、地涌の自覚と誇りがあります。民衆勝利の凱歌を、末法の全ての人に享受させたい。この地涌の使命に立ち上ったのが、わが誉れの学会員です。まさに真の仏弟子であり、尊い仏の使いです。
 「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいのあるものであります」と、恩師は教えてくださいました。
 今、「大法弘通慈折広宣流布の」の旗が林立する時代が到来しました。この潮流は、もはや誰人も止めることはできません。
 壮大なる人間勝利の大行進を、いよいよ足取り軽く威風堂々と広げ、わが「地涌と尊き使命」を果たし抜いていこうではありませんか。
     私と共に!
     同志と共に!
    故郷にて恩師と値いて
    65年の佳節に
    我が共戦の友と拝す

0908~0908    大尼御前御返事top
0908
大尼御前御返事
01   ごくそつえんま王の長は十丁ばかり面はすをさし・眼は日月のごとく・歯はまんぐわの・ねのやうに・くぶしは
02 大石のごとく・大地は舟を海にうかべたるやうに・うごき・声はらいのごとく・はたはたと・なりわたらむにはよも
03 南無妙法蓮華経とはをほせ候はじ、日蓮が弟子にもをはせず・よくよく内をしたためて・をほせを・かほり候はん、
04 なづきをわりみをせめて・いのりてみ候はん、たださきの・いのりと・をぼしめせ、これより後は・のちの事をよく
05 よく御かため候へ、恐恐。
06       九月二十日                              日蓮在御判
07     大尼御前御返事
-----―
 獄卒や閻魔王の身の長は十丁ほどで、顔面は朱を注いだようで、眼は日月のように、歯はまんぐわの根元のようで、拳は大石のようである。彼等が歩くと大地は舟を海に浮かべたように動き、彼らの声は雷のようであり、はたはたと鳴りわたる。彼らに責められた時には、よもや南無妙法蓮華経と仰せになれないだろう。日蓮の弟子ではない。内をよくよくしたためて、仰せを承ることとしましょう。頭を破り、身を責めて祈ってみよう。ただ、これからさきの祈りと思いなさい。これより後は、後生の事をよくよくかためられることが肝要であろう。恐恐。
  九月二十日             日 蓮 在御判
   大尼御前御返事

ごくそつ
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して琰魔の卒と作る」と、獄卒となる因を明かしている。
―――
えんま
 梵語ヤマラージャ(Yamarāja)の音訳。炎魔・琰魔・閻魔羅社とも書く。訳して、縛、双王、双世、遮止、静息、平等王という。悪の恐ろしさを知らせる死後の世界の大王で、仏教では、餓鬼界・地獄界の主となり地獄に住み、十八の将官と八万の獄卒を従え、死んで地獄へ堕ちた人間の生前の善悪を審判懲罰する大王とされている。
―――
まんぐわ
 馬鍬の変化した語。「まんが」とも書く。土を耕すのに用いる鉄製の道具。
―――
くぶし
 こぶし・にぎりこぶしのこと。
―――
さきの・いのり
 後生善処の祈り、未来世の幸福のための祈り。
―――
のちの事
 後生善処のこと、未来世の成仏のこと。
―――――――――
 本抄は、身延から安房・東条郷の大尼御前に送られたお手紙の断簡である。御真筆は、京都頂妙寺にあり、お手紙最後の第二十二紙十四行の御文がしたためてある。御述作の年次は9月20日とあるだけで不明である。
 内容の要旨は、大尼の謗法退転を地獄の業であり、死後、かならず恐るべき閻魔王の責め苦を受けると戒め、「大尼は日蓮の弟子でもない」ときびしく仰せられながら、もし信ずる本心があるならば、後生の成仏のために、しっかり信心をしていくことが大事であると教訓されている。
 はじめに、獄卒・閻魔王の怪奇な形相等を示し、地獄に堕ちた者が閻魔王の前に立ったとき恐怖のあまり声を失い、まさか南無妙法蓮華経とは唱えられないであろうと仰せである。
 大尼は、かねてから信心が弱く不安定で、信じたり信じなかったりというような状態であった。とくに、大聖人の竜の口、佐渡流罪という幕府権力による大法難が起きた時には、ついに法華経を捨て退転してしまったのである。その後、大聖人が赦免となり、世間が和らいでくると、ふたたび信心を取り戻し、大聖人に御本尊の授与を願うのであるが、御本尊の授与は許されなかった。さらにその後も大聖人は大尼の動揺しやすい信心に対して、しばしば注意されていたようである。
 本抄は、このような大尼に対して、閻魔王や獄卒の恐ろしさを説かれ、後生の地獄の恐ろしさや大苦を思うなら、真剣に信心に励むべきであると仰せられたのである。
 開目抄に「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(0232-02)と仰せのように、いかなる理由があろうと、法華経を捨てることは、地獄の業であり、かならず後生は地獄に堕ち、今生では想像もおよばない恐怖と大苦を受けるのである。
 地獄とは、たんなる絵空事ではない。人間生命が瞋りと恐怖の極限に繰り広げる大苦の世界が地獄である。戦争はこの現実に閻魔の責め苦が現じられている瞋りと恐怖の世界であるが、死後の地獄はさらに強大な苦しみを生命に感ずると、仏法は教えているのである。閻魔王とは、難解な生命因果の法理を教えるため、擬人化して示したものといえる。
 つぎに、大聖人は、大尼に「今のあなたは、日蓮の弟子でもない」と、きっぱりと仰せである。そして、弟子でもない大尼からなにをいってこようとそれを受けるわけにはいかない、という言外の含みが拝される。まことにきびしい御言葉であり、非情のように思えるが、大聖人の御胸中は大尼をなんとか目覚めさせ後生を助けてあげたいとの御一念であられたのである。
 大尼の心の中には、大聖人に対して、御両親との関係もあって、世法上の親しみとわがままがあったと思われる。だから、大聖人の教えを素直に、信心で受けとめられず、愚痴と怨嫉を続けていたのであろう。その大尼の生命の無明を断破する御言葉であったと拝される。
 ひとたびは大尼を突き放したうえで、もし法華経を信ずる心があるならば、今までのように、信ずるような格好だけをみせるのではなく、「よくよく内をしたためて」と、本当の心の内を書いてよこしなさいとの仰せである。その本心を確かめたうえで「をほせを・かほり候はん」と、大尼からの〝御祈念の頼み〟を受けることにしようと仰せである。
 そして、そのうえでならば、大聖人としても「なづきをわりみをせめて・いのりてみ候はん」と、大尼のために命がけで仏天に御祈念してみようと仰せられているのである。
 祈りが叶うためには、本人自身が真剣な信心でなければならない。この信心が御本仏大聖人のお心と一つになって祈りも叶うのである。同様の指導として弁殿御消息には「なづきをくだきて・いのるに・いままで・しるしのなきは・この中に心の・ひるがへる人の有ると・をぼへ候ぞ、をもいあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき空にいゑを・つくるなり」(1225-12)と仰せである。大聖人が、きびしく大尼の信心をただしたのはこのためである。信心のない人のために祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を造るのと同じで、無理であり不可能だからである。
 最後に、祈りについて、なにをめざすべきかを明示されている。「たださきの・いのりと・をぼしめせ」と、ひたすら未来のための祈りであることを自覚していきなさいと仰せられ、これからは「のちの事」、後生の成仏のために、真剣に信心を深め励むよう戒めて結ばれている。
 現世の安穏、今生の幸せのみに執着する浅い生き方では、思わぬ障害や困難にあったときに、驚き、恐れ、疑い、退転してしまう場合が少なくない。大尼のこれまでの信心がそうであったのであろう。
 他の御抄でも「先臨終の事を習うて」(1404-07)と教えられているように、未来の不壊の幸せをめざし、着実な信行に励むこと、これが「さきの・いのり」である。そこに、いかなる難をも乗り越える信心、宿業転換の信心ができるのである。これは、ひとり大尼御前だけの問題でなく、仏道修行・仏法の信仰に入った全ての人に通ずる根本問題といえよう。
 なお、「さきの・いのり」を過去の謗法退転、罪障消滅のための祈りとし、「のちの事」を後生の成仏と解釈する説もある。