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日蓮大聖人御書講義281284〜1303
1284〜1284 諸人御返事
1284〜1284 小蒙古御書
1285〜1285 さだしげ殿御返事
1285〜1285 霖雨御書
1286〜1286 玄性房御返事
1286〜1287 智妙房御書(八幡天上由来)
1286:01〜1286:03 第一章 鎌倉の大火に心痛まれる
1286:04〜1287:04 第二章 八幡大菩薩に対する世間の迷妄を示す
1287:14〜1287:15 第三章 神天上を示し、謗法を戒む
1288〜1288 十住毘婆沙論尋御書
1288〜1289 武蔵殿御消息
1289〜1294 破良観御書
1289:01〜1289:11 第一章 釈迦在世と現当の三逆罪を明かす
1289:12〜1290:07 第二章 現当は法華経への三逆なるを示す
1290:08〜1290:09 第三章 故弥四郎の成仏を確証
1290:10〜1290:16 第四章 真言の邪義と堕獄の理由
1290:17〜1290:18 第五章 弘法等三大師の邪義
1291:01〜1291:06 第六章 善無畏の堕獄の相を示す
1291:07〜1291:15 第七章 法華経と真言三部経の勝劣
1291:15〜1292:11 第八章 真言の元祖等の誑惑を破す
1292:11〜1292:16 第九章 真言堕地獄の現証を示す
1292:17〜1293:08 第十章 宗祖自らの修学時代を回顧
1293:09〜1293:16 第11章 立教開宗後の諸宗破折を述べる
1293:17〜1294:06 第12章 諸宗による迫害の実情
1294:06〜1294:10 第13章 松葉ヶ谷法難・伊豆流罪
1294:11〜1294:14 第14章 忍難弘通の御覚悟を述ぶ
1294〜1295 檀越某御返事
1294:01〜1295:06 第一章 値難への不退の決意を述ぶ
1295:06〜1295:10 第二章 宮仕えは法華経なるを教示
1294〜1295 檀越某御返事 2015:12月号大白蓮華より。先生の講義
1296〜1296 法衣書
1296:01〜1296:08 第一章 衣の供養を謝し功徳を例示する
1296:09〜1296:16 第二章 法華経の女人成仏の教えを説く
1297〜1297 慧日天照御書
1297〜1297 釈迦所領御書
1298〜1298 大果報御書
1298:01〜1298:06 第一章 苦境の中の供養の志を賞される
1298:07〜1298:09 第二章 正法流布の必然を示す
1298〜1298 除病御書
1299〜1299 根露枝枯御書
1299〜1299 南無御書
1300〜1300 題目功徳御書
1300〜1300 大悪大善御書
1300〜1301 来臨曇華御書
1301〜1301 常楽我浄御書
1301〜1301 帰伏正法御書
1302〜1302 現世無間御書
1302〜1302 衣食御書
1303〜1303 釈迦如来御書
1303〜1303 破信堕悪御書
1284〜1284 諸人御返事top
| 1284 諸人御返事 01 三月十九日の和風並びに飛鳥同じく二十一日戌の時到来す、 日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむ 02 るか、 将又五五百歳の仏記宛かも符契の如し、 所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日 03 本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、 我が弟子等の出家は主上・ 上皇の師と為らん在家は左右の臣下に列ならん、 04 将又一閻浮提皆此の法門を仰がん、幸甚幸甚。 05 弘安元年三月二十一日 日 蓮 花 押 06 諸人御返事 −−−−−― 三月十九日の使いと便りは、二十一日の夜の八時ごろ着いた。 日蓮が、これまで一生の間に祈念し、願ってきたことはたちまちに成就することであろう。はたまた、五五百歳に、全世界に法華経が広宣流布するとの仏の予言があたかも符合することはあたかも割符のようである。所詮、真言・禅宗等の謗法の法師等を召し合わせ、日蓮と対決させ、法門の是非を決せられるならば、日本国は一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等の出家は天皇や上皇の師となり、在家は左右の大臣に連なるであろう。はたまた、全世界の人びとが皆この法門を仰ぐようになるであろう。喜ばしいことである、喜ばしいことである。 弘安元年三月二十一日 日 蓮 花 押 諸人御返事 |
和風並びに飛鳥
使いの者と手紙のこと。「風」は告げるという意もあるが、「和風」で使い、「飛鳥」を、「ふみ」として用いる。
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祈請
神仏に祈り請うこと。
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所願
願っていることがら。
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五五百歳
釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
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仏記
仏の未来記。予言する経文。
符契
割符のこと。木片に文を書き、引証を中央に押してこれを二つに割ったもの。一片を相手に与えて一片を自分の手元にとどめおき、合わせて後日の証とした。
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真言
真言宗の事。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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出家
@家を出て仏門に入ること。仏門に入った人。
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在家
@在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。A民家、在郷の家、田舎の家。B中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-?dv?pa Jamb?)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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本抄は、公安元年(1278)3月21日に、日蓮大聖人が身延で著され、「諸人御返事」と宛名されているように、鎌倉在住の弟子檀那に与えられた御消息である。御真筆は千葉県松戸市の本土寺にある。
本抄を御述作になった背景には、そのころ鎌倉で日蓮大聖人一門と真言・禅などの諸宗の僧を公場で対決させようとする動きがあったようである。そのことを鎌倉から身延の大聖人のもとへ急使をもってお知らせしたことに対して認められた御返事が本抄である。
冒頭に「三月十九日の和風並びに飛鳥同じく二十一日戌の時到来す」と、差し出しの日と到着の日時まで詳しく記されているところから、その報告の内容がかなり切迫していたものだったことがうかがえる。
当時は、鎌倉から身延まで4日から5日かかるというのが普通の行程だったので、出発した時刻は分からないが、3日目の夜8時に身延に着いたということは、使いの者が馬を飛ばして駆け続けたものであろう。それは、鎌倉での公場対決が目前に迫っていると思われる情勢があったことを物語っている。
その報いを受けた大聖人は、今こそ一生の間に祈請し祈念してきたこと、すなわち立正安国・広宣流布が一挙に現実するであろうと喜ばれ、それはまた法華経薬王菩薩本事品第二十三の「我が滅土の後・後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむこと無かれ」との仏記に符合するものであると述べられている。
広宣流布・立正安国の実現こそ、日蓮大聖人の大願であられ、そのためには爾前迹門の諸宗の邪義謗法を明らかにしなければならず、当時の社会体制においては、公場対決という権力者の前での破邪顕正が必要だったのである。
そして「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん在家は左右の臣下に列ならん、将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」と述べられ、公場対決をすればその結果は明白で、邪正が決せられて、日本の上下が一同に日蓮大聖人の門下となり、更には全世界が末法唯一の正法として大聖人の法門を仰ぐであろう、と御断言になっている。
公場対決について
公場対決とは、公の場所で、相対して正邪・善悪・勝劣を決定することをいう。古来から仏法の正邪・勝劣・浅深を判定する場合には、しばしば国王や大臣などが列席する場で、諸宗の学僧が法論対決をしている。
例えば、撰時抄に「南北の諸師・陳殿にして天台大師にせめおとされて御弟子となりしがごとし」(0264-01)と述べられており、報恩抄には
09 「其の時・南北の諸師はちのごとく蜂起しからすのごとく烏合せり、智法師をば頭をわるべ
10 きか国ををうべきかなんど申せし程に 陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて 我と列座してきかせ給
11 いき、法雲法師が弟子等の慧栄.法歳・慧曠.慧ゴウなんど申せし僧正・僧都.已上の人人.百余人なり各各・悪口を先
12 とし眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたく、而れども智法師は末座に坐して色を変ぜず言をアヤマらず威儀
13 しづかにして 諸僧の言を一一に牒をとり言ごとに・せめかえす、 をしかへして難じて云く抑も法雲法師の御義に
14 第一華厳・第二涅槃・第三法華と立させ給いける証文は何れの経ぞ 慥かに明かなる証文を出ださせ給えとせめしか
15 ば各各頭をうつぶせ色を失いて一言の返事なし。
16 重ねてせめて云く無量義経に正しく次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空等云云、仏我と華厳経の名をよびあ
17 げて無量義経に対して 未顕真実と打ち消し給う法華経に劣りて候・無量義経に 華厳経はせめられて候ぬいかに心
18 えさせ給いて華厳経をば 一代第一とは候けるぞ各各・御師の御かたうどせんとをぼさば 此の経文をやぶりて此れ
01 に勝れたる経文を取り出だして御師の御義を助け給えとせめたり。
02 又涅槃経を法華経に勝るると候けるは.いかなる経文ぞ涅槃経の第十四には華厳.阿含・方等・般若をあげて涅槃
03 経に対して勝劣は説れて候へども まつたく法華経と涅槃経との勝劣はみへず、 次上の第九の巻に法華経と涅槃経
04 との勝劣分明なり、 所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・ 記Fを受くることを得て大菓
05 実を成ずるが如き秋収冬蔵して 更に所作無きが如し」等云云、 経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華
06 経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始クン拾の位と
07 定め給いぬ、 此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ、法華経の文には已説・今説・当説と申して此の
08 法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず 後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う、 すでに教主釈尊かく
09 定め給いぬれば疑うべきにあらねども 我が滅後はいかんかと疑いおぼして 東方・宝浄世界の多宝仏を証人に立て
10 給いしかば多宝仏・大地よりをどり出でて妙法華経・皆是真実と証し十方分身の諸仏 重ねてあつまらせ給い広長舌
11 を大梵天に付け又教主釈尊も付け給う、 然して後・多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各各本土にかへらせ給い
12 て後多宝分身の仏もおはせざらんに 教主釈尊・涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば 御弟子等は信ぜさせ給
13 うべしやとせめしかば 日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく 漢王の剣の諸侯の頚にかかりしがごとく両眼を
14 とぢ一頭を低れたり、 天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり、
15 かくのごとくありしかば・さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと 震旦一国に流布するのみならず
16 かへりて五天竺までも聞へ月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず 教主釈尊・両度出現しましますか仏教二
17 度あらはれぬとほめられ給いしなり。」(0299-09)
と、天台大師が南三北七の諸師を公場で論破した模様が述べられている。
また、伝教大師も南都六宗、七大寺の高僧を高尾寺で論破して、法華最勝の義を宣揚しており、そのことを報恩抄には「最澄上人は六宗の人人の所立.一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり、」(0303-03)と述べられている。
そのように、古来、公場において仏法の正邪を明らかにするこによって、正法正義が宣揚され、国の上下に尊崇されて流布していくという一つの方程式があった。天台大師・伝教大師による迹門の法華経の広宣流布は、まさにそのようにして行われるのである。
日蓮大聖人も、鎌倉幕府が政治の実権を握っていた当時の社会体制のなかで、事実上の国主であった北条時頼や時宗に対して、禅・真言等の諸宗への帰依をやめて正法正義に帰依することこそ国を安んじ民を安ずる唯一の方途であるとを、立正安国論・北条時頼の御状等をもって諫められたのである。
文応元年(1260)7月16日に北条時頼に与えられた立正安国論では「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」(0032-14)と述べられ、謗法への信を改めて正法に帰依するよう強く諫められた。だが、時宗はそれを用いようとしなかったのである。
それから8年後の文永5年(1268)正月に蒙古の国書を持った高麗の使者が九州の太宰府に着いた。国書は幕府から朝廷へ回され、日本の服属を求め、来貢しなければ武力で討つという威嚇的な内容を無礼として、返答せずと決定した。そのため蒙古軍の来襲を覚悟せざるをえなくなった幕府は、全国の社寺に蒙古調伏の祈?を命ずる一方、西国在住の御家人に対して夷狄襲来に備えるよう命じている。更に高齢の執権・北条正村に代わって、18歳の北条時宗が執権につき、国難に対処することにした。
この蒙古の国書到来は、大聖人が立正安国論で予言され警告された「他国侵逼難」が実現のものとなって現れた事件だった。そのことを文永6年(1269)12月の立正安国論奥書に「文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て西方大蒙古国自り我が朝を襲う可きの由牒状之を渡す、又同六年重ねて牒状之を渡す、既に勘文之に叶う」(0033-04)と述べられている。
大聖人は蒙古の来牒を聞かれるや、同年4月5日に安国論御勘由来を著され、幕府の要人と思われる法鑒房に送られて、蒙古からの来牒によって安国論の予言が的中したことを指摘され、この難を対治できるのは日蓮一人のみであることを述べられ、幕府の反省を促された。
しかし、なんの反応もなかったため、8月21日に宿屋左衛門入道に書状を送り、大聖人のみが西戎を調伏すべき人であることを執権北条時宗に内奏するよう諫められている。
こうした再三の諫言に対して幕府はなんの反応も示さなかったため、大聖人は極楽寺良寛・建長寺道隆等が陰で画策いているものと察せられ、このうえは公場において正邪を決する以外にないとして、同年10月11日に執権北条時宗をはじめ、平左衛門尉時綱・宿屋左衛門入道・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良寛・大仏寺別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺にあてて、11通の諫状を送られたのである。
北条時宗の御状では、
18 「速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、 彼を調伏せられ
01 ん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、 諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、 国
02 家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
03 夫れ此の国は神国なり神は非礼を稟けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明
04 なり、 然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、 法華経に云く諸仏救世者・大神通に住して衆生を悦ばし
05 めんが為の故に無量の神力を現ずと、 一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、 仁王経に云く「一切の聖
06 人去る時七難必ず起る」と、 彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し・桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす、今日
07 本国既に蒙古国に奪われんとす 豈歎かざらんや豈驚かざらんや、 日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る
08 可し、 日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、 三世諸仏の事と
09 は法華経なり、 此の由方方へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予かる可く候、 所詮は万祈を抛つ
10 て諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え」(0169-04)
と述べられ、公場対決により仏法の正邪を決することを求められ、そのうえで大聖人に帰依して国家を安泰に導くよう強く訴えられたのである。
また北条弥源太にも「日本亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起れり諸宗を召し合せ諸経勝劣を分別せしめ給え」(0171-06)と公場対決の実現を図るよう求められている。
極楽寺良観に対しては「三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」(0174-05)と破折れたうえで「所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」(0174-07)と対決を迫られている。建長寺道隆や寿福寺・浄光明寺へも「対決の時を期す」(0173-12)、「一処に集りて対決を遂げしめ給え」(0176-01)等と申しやられている。
こうした11通の諫状は「敢て諸宗を蔑如するに非ず但此の国の安泰を存する計りなり」(0177-06)との仰せのように、蒙古襲来という国難にあたって、ひたすら一国の安泰を願われる大聖人の大慈悲の現れだったが、この至誠の諫言に対して幕府や諸宗側は、全く耳を傾けようとせず、黙殺したのである。
文永8年(1271)6月、旱魃のため幕府から雨乞いの祈?を命ぜられた極楽寺良観に対し、大聖人は祈雨の勝負を挑まれた。良観は必至に祈雨の修法を行ったが、雨は降らず、大悪風が吹き荒れ、良観の完敗に終わった。良観は大聖人の門下となずはずの約束を守らなかったばかりか、怨憎の念をますますつのらせて、行敏という念仏僧に命じて大聖人と対論させようとしたのである。
大聖人は行敏からの「所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は 皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、 仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す」(0179-01)との論難に対して「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か」(0179-01)と返答され、「私の問答」ではなく、幕府へ上奏したうえで公場対決すべきであると一蹴されたのである。
そのため行敏との問答によって大聖人を陥れようとした策謀が外れた良観等は、問註所に大聖人を誹謗した訴状を提出した。その一方で、北条一門やその夫人達に讒言を吹き込んで、大聖人を処罰するよう迫った。そのため、大聖人は9月10日に幕府へ召喚されて侍所所司の平左衛門尉の尋問を受け、12日には竜の口の法難を受けられるに至ったのである。
その後、2年半を流罪の地・佐渡で過ごされ、文永11年(1274)3月に鎌倉に帰られた大聖人は、4月8日に平左衛門尉ら幕府の要人と対面され、今年中に蒙古軍の襲来は必至であると断言され、真言僧等に祈?・調伏を命じるならば日本は必ず敗れることになるので、直ちに諸宗の僧の首を切って謗法の根を断ち、正法に帰依するよう厳しく諫められたのである。しかし、三度にわたる諫言を幕府が用いようとしなかったため、大聖人は古賢の例にならって鎌倉を去る決心をされ、同年5月に甲斐国身延へ入られた。
その後、建治2年(1276)正月に著された清澄中大衆中のなかで、大聖人は経巻や論釈の借用を依頼されて「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893-04)と述べられ、そのころの真言師が蜂起したことによって公場対決が実現し、仏法の正邪が明らかになるような状況にあったことを示唆されている。
それから半年後の同年7月報恩抄送文にも「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに 十方にわかて経論等を尋ねしゆへに」(0330-05)と述べられており、当時は宗論のうわさが広く流れていたため、大聖人は弟子達を諸方に派遣して経論を集め、その準備をされていたことがうかがわれる。だが、真言宗の蜂起と宗論はうわさにとどまり、うやむやになったようである。
そして、弘安元年(1278)春に、再び公場対決が実現するような兆しがあったため、そのことを鎌倉在住の門下からご報告したことに対する御返事が本抄である。しかし、それも実現することなく終わっている。
なお、弘安2年(1279)9月に起きた熱原法難の際に、大聖人は幕府へ提出する滝泉寺申状を自ら草案されたが、そのなかでも「此等の子細御不審を相貽さば高僧等を召され是非を決せらる可きか、仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本の先例なり、今明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや」(0852-08)と公場対決によって法の正邪勝劣を決うるよう訴えられている。
このように、大聖人は一貫して公場対決を主張され、破邪顕正のうえでの広宣流布の実現を願われたのである。しかし良観や道隆をはじめ諸宗の僧は、大聖人と対決すれば論破され敗北することが明白なために、徹底して対決を避け続け、幕府も大聖人の讒言を用いなかったため、ついに公場対決の機会が訪れることはなかったのである。
なお、現代は鎌倉時代と違って主権在民であり、公場対決によって一挙に広宣流布が実現するということはない。一対一の折伏弘教によって一人でも多くの民衆が正法を信受することが広宣流布の推進になるのである。しかし、大聖人が幕府と諸宗に対して、一国の安泰と民衆の幸福のために法の正邪を決せよと身命を賭して叫ばれた死身弘法の精神こそ、いつの時代にあっても失ってはならない信心の根本なのである。
1284〜1284 小蒙古御書top
| 小蒙古御書 01 小蒙古の人・ 大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可か 02 らず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり。 03 弘安四年太歳辛巳六月十六日 花 押 04 人 人 御 中 −−−−−― 小蒙古の人が大日本国に攻め寄せくるのことについて、我が門弟や檀那等のなかに、もし他人に向かって、あるいはまた自らも、日蓮の諌言を用いないで罰であるなどという言葉をはいてはいけない。もしこの旨に違背するならば門弟を離すということを承知しておくように。この旨を弟子門下に示すべきである。 弘安四年太歳辛巳六月十六日 花 押 人 人 御 中 |
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、d?napati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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本抄は、弘安4年(1281)6月16日、第2回蒙古襲来の報に触れられた日蓮大聖人が、門下一同に対して蒙古襲来のことを人に語ってはならないと厳しい訓戒を与えられた御状である。御真筆は現存しない。
文永11年(1274)10月文永の役で、蒙古軍はいったん九州から撤退したが、蒙古のフビライ汗は日本遠征をあきらめたわけではなかった。翌建治元年(1275)月からは杜世忠を宣諭使として派遣し、改めて日本に服属・入貢を迫っている。
それに対して幕府は、杜世忠ら蒙古からの使者五人を竜の口で処刑し拒否の姿勢を示した、その一方で、九州地方の防衛体制を強化するために北条一族を派遣したり、蒙古軍の上陸をはばむために博多湾沿岸十数`にわたって石築地を築いている。
その間、蒙古は南栄攻略に力を注いでおり、建治2年(1276)1月に南栄の首都臨安を陥落させ、弘安2年(1279)には最後の抵抗もやんで、300年の歴史をもった栄は完全に滅び、中国大陸はすべて蒙古の支配下に帰した。南栄を滅ぼすとフビライは目を日本攻略に向け、多数の軍船の建造を命じている。また栄の降将・笵文虎がフビライの意を受けて部下の周福らを日本への使者に立て、蒙古への服属を勘めさせた。しかし、弘安2年(1279)6月に対馬に上陸した使者を、幕府は博多で斬首している。
そのため、外交交渉をあきらめた蒙古は、弘安3年(1280)に征東行省を創設し、日本遠征を具体化していった。そして、弘安4年(1281)5月3日、四万の東路軍が900の軍船で朝鮮の合浦を進発、5月21日に対馬に上陸し、6月6日には博多湾に現れ、志賀島を襲っている。
大聖人は、直ちに「人人御中」と宛名されて弟子檀那一同に対し、他人に対してはもとより、たとえ私語のなかでも、蒙古の襲来を話題にして、大聖人の予言の的中を誇ったり、語ったりしてはならないと厳しく戒められ、これに背いたものは破門にする、と戒告されたのである。
同年8月に著された光日房上人御返事では「此の弘安四年五月以前には日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる」(0933-03)と述べられており、また「日蓮が申せし事はあたりたり・ばけ物のもの申す様にこそ候めれ」(0933-09)と大聖人に対する当時の人々の心情を述べられている。
大聖人が立正安国論の上呈以来、一貫して他国侵逼難を予言され、蒙古の襲来を為政者に警告されたのも、謗法を捨てて正法を信受されるための忠言、諫言であって、一国が滅びることを座視されるものでないことはいうまでもないであろう。大聖人が日本の安穏と民衆の幸福を心から祈られていたことは「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-16)との御金言からもうかがうことができる。
そのことは「小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事」との仰せからも拝することができる。当時、フビライ汗は蒙古・満州・チベット・中国全土を支配しており、ジンギス汗の築いたアジア・ヨーロッパにわたる世界史上空前の大帝国の中心をなしていた。その国土や国力からいえば大蒙古であり、日本は小国にすぎなかった。
しかし、顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり、問うて云く月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり、問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-04)と述べられているように、中国にはすでに仏法が滅尽しており、日本こそ末法流布の大白法が興隆すべき妙国で、仏法のうえでは日本こそ大乗の国であり、大国となるのである。
なお「日本」という国名の意義について日寛上人は依義判文抄で「能弘の人を表して日本と名づくるなり、謂く日蓮の本国なるが故なり(中略)本門の広布の根本を表して日本と名づくるなり、謂く日は即文底独一の本門三大秘法なり、本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり故に日本と云うなり(中略)然れば則ち日本国は本因妙の教主日蓮大聖人の本国にして本門三大秘法の広宣流布の根本の妙国なり」と明かされている。
そのような深義と御確信のうえから「大日本国」に仰せになったのであり、大聖人の御境界からすれば「小蒙古」にすぎなかったのである。
門下一同に対して、日蓮の予言が的中した等と口外してはならないと戒められたのは、大聖人とその一門が蒙古軍の襲来を喜んだり、日本が滅びることを願っているように世間に思わせることを憂えられてのことであろう。
建治2年(1276)後3月24日に著された南条殿御返事に「日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり」(1534-17)と述べられており、文永の役の際にもそうした世間の風評があったことうかがえるのである。
そのように思われることは全く大聖人の御本意でないうえ、正法を誤解させその弘通を妨げる恐れがあったため、背く者は破門するとまで厳しく戒告されたのであろう。今は予言の的中をうんぬんすべき時ではなく、大聖人門下は一層の信心に励むことが肝要であると教えられたと拝せられる。
その後、3500隻10万からなる江南軍と合流した蒙古軍は、7月下旬に肥前の伊万里湾口の鷹島に結集した。その矢先、7月30日の夜半から翌閏7月1日の暁にけて北九州地方を猛烈な暴風雨が襲ったため、蒙古の軍船の大判が沈んだり破損し、陸へ打ち上げられた敗残兵はことごとく殺され、本国へ逃れ帰った者はわずか3万であったという。
蒙古の軍船が暴風雨によって壊滅すると、蒙古調伏していた寺院や神社のなかには、その祈?の効験であるとして朝廷や幕府に恩賞を請求するところまで現われた。
それに対して大聖人は「今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず」(0994-15)と破折されている。
当時の世評で、極楽寺良観の師である奈良・西大寺の叡尊等の祈?によって、蒙古軍が滅びたとされていたのはなんの根拠もなく、毎年やってくる台風のために敵船が破損しただけのことであって、大将軍を生け捕りにしたわけでもなく、蒙古の大王の頸を取ったわけでもないのだから、禍の根が絶たれたのではないと、きびしく指摘されているのである。
大聖人の御心は、他国侵逼難によって苦悩と悲嘆にあえぐ民衆のうえに広く深く注がれていたのである。
1285〜1285 さだしげ殿御返事top
| 1285 さだしげ殿御返事 01 さきざきに申しつるがごとし、世間の学者・仏法を学問して智恵を明めて我も我もとおもひぬ、一生のうちに・ 02 むなしくなりて・ゆめのごとくに申しつれども唯一大事を知らず・よくよく心得させ給うべし、 あなかしこ・あな 03 かしこ。 04 十二月二十日 日 蓮 在 御判 05 さだしげ殿御返事 −−−−−― 前から申し上げているとおりである。世間の学者は仏法を学問して、我も我も智慧を得たと思っている、一生を無駄にして、夢のようなことを言っているが、唯一大事の法門を知らない。このことをよくよく心得られるべきである。あなかしこ・あなかしこ。 十二月二十日 日 蓮 在 御判 さだしげ殿御返事 |
唯一大事
一大事とは、これ一つしかない究極の大事との意で、諸仏がそのために世に出現したところの秘密の大法を一大事の秘法という。唯とはそりより他にないということ。文底独一本門の三大秘法をさしている。
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本抄は、日付けしか記されておらず、御述作の年代は不明であるが、古来、建治2年(1276)12月20日、身延でしたためられた書とされている。門下の「さだしげ殿」に仏法を学ぶ真の目的は、唯一大事の法門、すなわち、事の一念三千の南無妙法蓮華経を知ることにあると示されている。
本抄をいただいた「さだしげ殿」については、生没年、事跡等、詳細は不明であるが、大聖人より唯一大事の法門を示唆されるほどの人であるから、仏法にかなりの研鑽を積んでいる人であったと推測される。御真筆は京都・頂妙寺にある。
「さきざきに申しつるがごとし」については、何のことについていわれているのか、短い文面からは解釈がし難い。
「一大事」については、御義口伝に
05 「一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる
06 珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、
07 又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此
08 の大事を釈迦如来四十余年の間隠密したもうなり 今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世
09 したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時即身成仏するなり、 開とは信心の異名なり信心を以て
10 妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、
11 示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、 悟る当体直至道場なるを入仏知見と
12 云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを
13 入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入る
14 なり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法
15 なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う
01 に仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏
02 知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の
03 己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云、又云く四仏知見とは八相なり開と
04 は生の相なり入とは死の相なり中間の示悟は六相なり下天託胎等は示仏知見なり出家降魔成道転法輪等は悟仏
05 知見なり、 権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり、今経の時生死の二法は一心の妙
06 用有無の二道は本覚の真徳と開覚するを四仏知見と云うなり、 四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し
07 世に出現したもうなり、此の開仏知見の法華経を法然は捨閉閣抛と云い弘法大師は第三の劣戯論の法とののし
08 れり、五仏道同の舌をきる者に非ずや、慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者に非ずや
09 云云、又云く一とは中諦.大とは空諦.事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此
10 の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」(0716-05)
と述べられている。日寛上人は文底秘沈抄に「一は謂く本門の本尊なり、是れ則ち一閻浮提第一の故なり、又閻浮提の中に二無く亦三無し、是の故に一というなり、大は謂く本門の戒壇なり、旧より勝るるが故なり、又最勝の地を尋ねて建立するが故なり、事は謂く本門の題目なり、理に非ざるを事と曰う是れ天台の理行に非ざる故なり、又事を事に行ずるが故に事と言うなり」と述べて、三大秘法に配している。すなわち、一大事とは、仏がこの世に出現して説く極理をいい、南無妙法蓮華経そのものを指すのである。
大聖人が指摘されている「世間の学者」とは、当時の仏教会の僧侶一般を指していると思われるが、念仏者の念阿・禅宗の道隆・律宗の良観などは、身には賢者をよそおい、心に貧嫉をいだき、権力と結託して大聖人、及び門下を迫害し、真実の仏法を追及するどころではなかった。
法華経観持品第十三には「悪世の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」と説かれ、涅槃経には「像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貧嗜してその身を長養し袈裟を著すと雖も、猶漁師の細視して徐行するが如く、猫が鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん、我羅漢を得たり」と。未来の比丘の姿を予言されているが、まさに彼等はそのこおりの姿であった。
こうした邪智と慢心にとらわれた世間の学者を指摘され、門下の「さだしげ殿」に、このような邪法の僧に惑わされることのないよう戒められたのである。
1285〜1285 霖雨御書top
| 霖雨御書 01 山中のながきあめつれづれ申すばかり候はず、えんどうかしこまりて給い候いし、 ことに・よろこぶよし玄性 02 房申しあげさせ給い候へ、恐恐。 03 五月廿二日 日 蓮 在 御 判 04 御 返 事 −−−−−― 山中の長雨で、たいくつなことはいうまでもない。えんどうをつつしんで頂戴した。特にうれしく思った旨を、玄性房から申し上げてほしい。恐恐。 五月廿二日 日 蓮 在 御 判 御 返 事 |
玄性房
生没年不明。大聖人御在世当時の弟子で、「玄性房御返事」をいただいているが、事跡は不詳。
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本抄は、日蓮大聖人の御消息の一部で、5月22日と記されているだけで、御述作の年代、宛名とも不明でるが、御真筆が京都・妙満寺にあり、弘安元年(1278)5月22日、身延でしたためられた書とされている。
弘安元年(1278)は降雨の多い年で、特に5月から9月にかけて身延に長雨があったことが、他の御書にもみられる。弘安元年(1278)5月3日の窪尼御前御返事に「ながあめふりてなつの日ながし」(1478−09)、同年7月7日の種種物御消息に「いわうや・たうじは・あめはしのをたてて三月におよび・かわはまさりて九十日」(1549-01)、同年9月19日の上野殿御返事に「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし」(1551-04)と記されている。
長雨の続く身延山中にあって、門下のことに思いをはせながらも、無聊の日々を送られる大聖人の御様子が、短いお便りのなかにうかがえる。弘安元年(1278)は、大聖人が身延に入られてから4年を経ており、各方面の折伏も活発な展開をみせていた。特に駿河国富士方面では文永11年(1274)のころから、日興上人の折伏弘経によって、実相寺の筑前房・豊前房、四十九院では賢秀・承賢らが入信、建治元年(1275)ごろには滝泉寺の日秀・日弁・日禅らが日興上人に帰依している。こうした妙法弘通の動きに、実相寺の院主・道暁、四十九院の厳誉、滝泉寺の院主代・行智らが反発、日興上人をはじめ日秀・日弁らが住房を追われ、田畑を取り上げられるなど、さまざまな迫害が起こっていた。一方、身延山中における大聖人の御生活もかなり逼迫していたと思われる。そうした折の門下からの御供養であったと思われる。その喜びを即座に返書にしたため、使いの者に託されたのであろう。
「えんどう」については、「えんとう」「ひんどう」とも読めるが意味につては不明。執筆の時期からみて、「エンドウ豆」かも知れない。玄性房についても生没年・事跡等も不明で詳細については分からないが、大聖人にたびたび御供養の品々をお送りしていることから、信心の厚い人であったと思われる。
1286〜1286 玄性房御返事top
| 1286 玄性房御返事 01 いやげんだ入道のなげき候いしかば・むかはきと玄性御房このよしをかみへ申させ給い候へ、恐恐。 ・ 02 七月十八日 日蓮花押 03 玄性御房 −−−−−― 弥源太入道が嘆かれているので、むかはきと玄性御房がこのことを申し上げてほしい。恐恐。 七月十八日 日蓮花押 玄性御房 |
本抄は、日蓮大聖人御消息の最後の部分と思われ、7月18日と日付が記されているだけで、御述作の年代は明確ではないが、建治2年(1276)7月18日、身延でしたためられた書とされている。御真筆は京都・妙連寺にある。
玄性房に宛てられ、何かことずけを依頼されている様子がうかがえるが、「かみ」がだれなのか、どのような内容なのか、この書面からはうかがい知ることができない。
「いやげんだ入道」は信徒の北条弥源太のことを指いていると思われる。本抄御述作を建治2年(1276)とすれば、この当時、大聖人、及びその門下に対する迫害がいよいよ激しさを増しており、北条一門であった弥源太も、その板ばさみで苦境に立たされていたと思われる。その苦衷を身延におられた大聖人が思いやられ、玄性房にしかるべき筋へ申し開きするよう依頼されたのであろう。
身延山中の不自由な御生活を顧みず、妙法弘通に活躍する門下に思いをはせられ、心をくだかれている大聖人の御様子に、御本仏の深い慈愛を痛感うる。
なお、御文のなかでは、「むかはき」は、「むかはぎ」とも読めるが意味についてはよく分からない。
1286〜1287 智妙房御書(八幡天上由来)top
1286:01〜1286:03 第一章 鎌倉の大火に心痛まれるtop
| 智妙房御返事 弘安三年十二月 五十九歳御作 01 鵞目一貫・送り給いて法華経の御宝前に申し上げ了んぬ。 02 なによりも故右大将家の御廟と故権太夫殿の御墓との・やけて候由承わりてなげき候へば・又八幡大菩薩並びに 03 若宮のやけさせ給う事いかんが人のなげき候らむ。 ―――――― 銭一貫文を送っていただいて、法華経の御宝前に申し上げた。 なによりも故右大将源頼朝の御廟と御墓が焼けてしまったことを承わって嘆いていたのに、また八幡大菩薩ならびに若宮の焼失されたとのこと、どんなにか人々が嘆いていることであろう。 |
鵞目一貫文
銭一貫文に同じ。銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1000文にあたり、当時の物価で米150sに相当した。
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右大将
(1174〜1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
権大夫
鎌倉幕府第二代の執権・北条義時(1162〜1244)のこと。元久2年(1205)、父の時政が失脚したあとを受けて執権となった。承久3年(1221)、後鳥羽上皇(1180〜1239)を中心とする朝廷方が討幕の挙に出るや、大軍を進めて京都を占領した。ついで、後鳥羽上皇の院政を廃止し、上皇を隠岐に遷した。この承久の乱の結果、皇室は全く権力を失い、北条氏による執権政治が確立された。
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
若宮
@幼少の皇子や皇族の子。A本宮の祭神を勧請して祭った神社。鎌倉の若宮とは、京都の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮をいう。鶴岡八幡宮は、もと源頼義が奥州鎮定の際に由比郷鶴岡の地に石清水八幡宮の分霊を祭ったのにはじまり、これを源頼義が治承4年(1180)小林郷北山に移し、鶴岡八幡宮若宮と称した。その後、建久2年(1191)の大火によって類焼したため、改めて石清水八幡宮を招請して本宮を建て、その下に摂社として若宮を造立した。以後、本宮は鶴岡八幡宮と称し上宮と呼ばれ、鶴岡若宮は下宮と称されたが、鶴岡八幡宮や若宮の名称は鶴岡全体を指して用いられた。
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本抄は、公安3年(1280)12月18日、鎌倉に住んでいたと思われる智妙房から銭一貫文の御供養と鶴岡八幡宮の炎上の報告を受けたことに対する御返事である。御真筆は中山法華経寺にある。智妙房いついては事跡等が明らかでなく、詳しいことは分かっていない。
本抄の大意は、最初に御供養の受領について述べられ、次いで鶴岡八幡宮が焼失したことをとおして八幡大菩薩の本地を明かされ、八幡大菩薩は人々の謗法のために天に昇ってしまったのであり、日本国は他国から責められることになろうと戒められている。
本章にあるように、弘安3年(1280)、鎌倉に大火災が発生している。まず、10月28日、中の馬橋付近から起こった火事が燃え上がり、鶴岡八幡宮の東側の大蔵幕府後方の丘陵中腹にあった源頼朝の廟所と、そこから東に少し離れたところにあった北条義時の墓も類焼したものと思われる。この時の火事によって鎌倉の町の中心部が焼けてしまったようである。大聖人はこの報を聞かれて、鎌倉の人々のことを大変に心配されていたことであろう。
この時には鶴岡八幡宮は、その境内にあった神宮寺と千体堂が焼けただけですんでいる。しかし、11月14日に再び起こった火事によって、上・下宮はじめ境内の建物がことごとく焼け落ちてしまった。ときあたかも、再び蒙古の来襲の動きがあり、社会に不安と動揺を与えていた。先には幕府を創建した源頼朝の廟所と承久の乱で実質的に武家政権による支配体制を確立した北条義時の墓が焼け、今また鎌倉の人々の守護神として敬信されてきた鶴岡八幡宮が焼失してしまったのである。武士も庶民も、いいしれぬ不安をつのらせたにちがいない。大聖人は、こうした心情を思いやられてどんなにか人々が嘆き悲しんでいることであろう、と述べられているのである。
1286:04〜1287:04 第二章 八幡大菩薩に対する世間の迷妄を示すtop
| 04 世間の人人は八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申ぞ、それも中古の人人の御言なればさもや、 但し大隅の正八 05 幡の石の銘には一方には八幡と申す二字・ 一方には昔霊鷲山に在つて妙法蓮華経を説き 今正宮の中に在つて大菩 06 薩と示現す等云云、 月氏にては釈尊と顕れて法華経を説き給い・ 日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二 07 字を誓いに立て給う、教主釈尊は住劫第九の減・人寿百歳の時・四月八日甲寅の日・中天竺に生れ給い・八十年を経 08 て二月十五日壬申の日御入滅なり給う、 八幡大菩薩は日本国・第十六代・応神天皇・四月八日甲寅の日生れさせ給 09 いて・御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う、釈迦仏の化身と申す事は・たれの人か・あらそいをなすべき、 1287 01 しかるに今日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生・善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされ 02 て・ 釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす、 あまりの物のくるわしさに 十五日を奪い取つて阿弥陀仏の日とな 03 す・ 八日をまぎらかして薬師仏の日と云云、 あまりにをやをにくまんとて 八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云 04 云、大菩薩を・もてなすやうなれども八幡の御かたきなり、 −−−−−― 世間の人々は八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身といっている。それも中古の人々の言であるならば、そういうこともあろうか。 ただし大隅の正八幡宮の石の銘文には、一方には八幡という二字があり、一方には昔霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今正八幡宮の中にあって八幡大菩薩と示現している等と記されている。インドにおいては釈尊として現われて法華経を説かれ、日本国においては八幡大菩薩と示現して正直の二字をたもつものを守護するとの誓いを立てられたのである。教主釈尊は住劫第九の減劫の中、人寿が百歳の時代の甲寅四月八日中インドに誕生され、八十年を経て壬申二月十五日御入滅なられている。八幡大菩薩は日本国第十六代の応神天皇として甲寅四月八日に誕生されて、御年八十歳の壬申二月十五日に崩御されている。釈迦仏の化身であるということは、だれびとが言い争うことができよう。しかしながら、今日本国の四百五十八万九千六百五十九人の一切衆生は善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぶらかされて釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊としている。あまりにものにとりつかれて生気を失って、釈尊入滅の二月十五日を奪い取って阿弥陀仏の日となし、釈尊誕生の四月八日を紛かして薬師仏の日と言ったり、あまりにも親である釈尊を憎く思って八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身であると言ったりしている。これは八幡大菩薩を大事にしているようであるけれども、八幡大菩薩の御敵となっいるのである。 |
阿弥陀仏の本願
無量寿経に説かれており、阿弥陀仏が過去世に法蔵比丘であったとき、世自在王仏のもとで立てた四十八の誓願のこと。ここではその四十八の誓願中の第十八願をさす。「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。
―――
化身
仏や菩薩が衆生を救うために様々に身を変化して、出現した身影のこと。
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大隅
九州、鹿児島県南東部、大隅半島の一帯をいう。
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正八幡の石の銘
鹿児島県姶良郡隼人町の正八幡宮にあったあと伝えられる。「石文御託宣」ともいわれる。その石は現存しないが、平家物語には「御本地の事石体に現はれ給へり、石体の文は深さ八寸ゑり入たる、金銘云、昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現大菩薩、となり此ことは御本地は釈尊と覚えたり(中略)中にも正宮は石体にとどまれり、されば大隅を正八幡とは号す」とあり、南浦文集に「正八幡大菩薩霊廟艮方有石体、石体有四句刻文、文曰昔於霊鷲山説妙法華経、今在正宮中、示現大菩薩、竊聞正八幡大菩薩釈迦牟尼世尊云云」とある。
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霊鷲山
中インド摩竭提国(ベンガル地方)の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
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住劫第九の減
住劫の中の9番目の減劫のこと。住劫とは世界の成立から消滅までを成住壊空の四劫に分けたな住をいう。成立した世界が安定継続している時期。この住劫は20小劫からなり、人の寿命が無量歳から100年に一切を減じて10歳になるまでを第一減劫といい、次に10歳から100年ごとに一切増加しては八万歳になるのを第二増劫、以下第二減劫、第三増劫となり、第二十小劫は増劫のみとなり、この期間を一中劫という。このうち釈迦仏が出現したのは、第九減劫の人寿100歳の時とされている。
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中天竺
インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。
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応神天皇
名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。
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四十五億八万九千六百五十九人
当時日本全国の男女の総人口数。当時の億はいまの10万の位に当たる。したがって、4,589,859人となる。大聖人のもちいられたものは、8世紀の統計によると思われる。
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善導
(0613〜0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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慧心
(0942〜1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流天台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
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永観
(1033〜1111)。平安末期、三論宗の僧。京都の人。11歳の時、禅林寺深観について出家。密教を学び、密教灌頂を受けた。次いで東大寺で具足戒を受け、三論宗を学び、華厳・法相をもきわめた。著書には「往生十因」十巻、「弥陀経要記」一巻、「往生講式」一巻などがある。
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法然
(1133〜1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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大天子
魔天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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薬師仏
梵語( Bhai?ajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
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ここでは八幡大菩薩を阿弥陀の化身とする世間の捉え方の誤りを指摘され、それが八幡に敵対する行為であることを示されている。
当時からみて中古にあたる平安時代に石清水八幡宮を建てたといわれる行数が宇佐八幡宮に参詣したおり、八幡神の本身を見たいといって祈ったところ、弥陀と観音と勢至の像が袈裟の上に現われたというようなことが言われており、また八幡宮付属の寺院で、仏・菩薩が神社を守護するという意味で建てられた八幡寺の山号に「八幡山阿弥陀院」と称したものがあったことが知られる。
こうしたことを考え合せてみると、当時、世間では、神仏習合による本地垂迹説と同時に念仏信仰の蔓延によって、八幡大菩薩は弥陀仏の化身、すなわち八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏であると思われたようである。
これは確たる根拠があってのことではなく、念仏宗が広まるにつれて、すべてを阿弥陀仏に結びつけて考えていった結果である。大聖人は、本抄と同じ時期にしたためられた四条金吾許御書の中で、そうした考えをあげて「此れはをのをの心の念仏者にて候故にあかき石を金と思いくひせをうさぎと見るが如し」(1195-08)と打ち破られている。
そして、次に八幡大菩薩の本地は釈尊であるとして、文証を挙げて述べられているのである。
文証としては、鹿児島県の大隅半島の正八幡宮にあったとされる石の銘文を挙げられている。この石は、一つの石が割れて二つになったもので、片方の石には「八幡」という二字が記されており、もう一方の石には「昔、霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現した」とあったというのである。
また、釈尊と八幡大菩薩には次のような不思議な一致があるとされている。すなわち、インドでは釈尊として現れ、法華経を説いて「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と述べられ、日本国においては八幡大菩薩と現てて「正直の頭に宿る」と誓われている。そしてまた、釈尊と、八幡大菩薩と現れるとされる応神天皇の生没の太歳暦の年と月日が一致しているとしている。ここで挙げられている応神天皇の生没の年月日は、日本書記に記載されているものとは異なるが、当時の資料には大聖人が用いられたような記述のものがあったのであろうと考えられる。いずれにしても、これらのことから八幡大菩薩の化身であることは言い争う余地がないと結論されている。
しかしながら、日本の国の一切の人々は浄土宗の法門を説いた善導や慧心や永観や法然等に誑かされて、教主である釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊として崇めている。そればかりでなく、釈尊の入滅の日である2月15日を阿弥陀仏入滅の日としたり、釈尊の誕生の日である4月8日を薬師仏の誕生の日としたりしている。なお、薬師仏については、八幡宮の神宮寺の本尊として安置されている。
こうして、親である釈尊を憎んで、八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身であるとしている。これは、八幡大菩薩をもてなしているようであるけれども、その実、八幡大菩薩の敵となっているのであると指摘されている。
そのもののためと思ってなしたことであっても、なまじっか判断による評価というものは、かえってそのものを誤って受け止めさせて、真実を隠してしまう。その意味で、たとえ賛嘆していたとしても、それが中途半端なものであったり、真実と違っていれば、そのものの正しい姿を見失わせてしまうことからすると、結果的には誹謗であり、敵対していることになるのである。
そのいい例が、慈恩の法華玄賛に対して、伝教大師が法華秀句の中で「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」と破折した文である。法華経の真意を知らずに、その心にかなわないで、いくら解釈し賛嘆したとしても、かえってその真意を覆い隠してしまうことになるがゆえに、それは法華の心を殺す敵対行為になるというのである。
ここでは、八幡大菩薩を、阿弥陀仏の化身であるとすることは、一見すると八幡大菩薩の立場を高からしめているように受け止められるけれども、それは結局のところ阿弥陀仏の根本の仏である釈尊の化身ということを隠してしまうがゆえに、八幡大菩薩の敵となっていると言われているのである。
1287:14〜1287:15 第三章 神天上を示し、謗法を戒むtop
| 04 知らずわ・さでもあるべきに・日蓮此の二十八年が間・ 05 今此三界の文を引いて此の迷をしめせば信ぜずは・さでこそ有るべきに・いつきつ・ころしつ・ながしつ・おうゆへ 06 に八幡大菩薩・宅をやいてこそ天へは・のぼり給いぬらめ日蓮が・かんがへて候し立正安国論此れなり、 あわれ他 07 国よりせめ来りてたかのきじをとるやうに・ ねこのねずみをかむやうに・せめられん時、あまや女房どもの・あわ 08 て候はんずらむ、日蓮が一るいを二十八年が間せめ候いしむくいに・或はいころし・切りころし・或はいけどり・或 09 は他方へわたされ・宗盛がなわつきてさらされしやうに・ すせんまんの人人のなわつきてせめられんふびんさよ、 10 しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば・ かくせめられんをば天も悦び仏もゆるし給はじ、 あわれ・ 11 あわれはぢみぬさきに阿闍世王の提婆を・いましめしやうに.真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて.すこし・ 12 つみをゆるくせさせ給えかし、あらをかし・あらふびん・ふびん・わわくのやつばらの智者げなれば・まこととて・ 13 もてなして事にあはんふびんさよ、恐恐謹言。 14 十二月十八日 日蓮花押 15 ちめう房御返事 −−−−−― 知らなければそのまま済んだであろうが、日蓮がこの二十八年間、法華経の譬喩品第三の「今此三界」の文を引いてこの迷妄を示したときに、信じないにしてもそれなりの対応があるべきなのに、射たり、切ったり、殺したり、流したり、追放したりするがゆえに、八幡大菩薩は住所を焼いて天へ昇られたのであろう。日蓮が考えて著した立正安国論の中に述べているのは、これである。かわいそうに、他国から攻めてきて、鷹が雉を捕えるように猫が鼠を噛むように責められるとき、尼や女房どもがあわれなことであろう。日蓮が一門を二十八年の間、責めてきた報いとして、あるいは射殺され、切り殺され、あるいは生け捕りにされ、あるいは他の所に連れて行かれ、平宗盛が縄に縛られて晒されたように数千万の人々が縄に縛られて責められるであろう。なんと、かわいそうなことか。しかしながら日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なので、そのように責められるのを天も悦び、仏も許されることはないであろう。哀れなことである、哀れなことである。恥をみないうちに、阿闍世王が提婆達多を戒めたように真言師や念仏者や禅宗の者達を戒めて、少しでも罪を緩くするようにすればと思うのである。人々を誑かし惑わす輩達が智者みたいであるので本当であると思ってもてなしているのは、おかしなことであり、そのためにそうしたかなしい目にあうのはなんとも哀れなことである。恐恐謹言。 十二月十八日 日蓮花押 ちめう房御返事 |
今此三界
譬喩品の文「『今此の三界は』皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸々の患難多し、唯我れ一人のみ能く救護を為す」とある。
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三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの、欲界は種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界と天界の一部をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた諌暁の書。客と主人の問答形式で、10問9答からなっている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である諸宗の謗法を禁じて正法に帰依すべきことを主張されている。そうでなければ、まだ起こっていない自界叛逆の難と他国侵逼の難が競い起こるであろうと予言されている。
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宗盛
(1147〜1185)。平宗盛のこと。平安時代の武将、平清盛の第三子。養和元年(1181)清盛の死後、平氏の家督を継ぎ、権大納言・内大臣を経て従一位に叙せられた。寿永2年(1183)木曽義仲と戦い、敗れて安徳天皇等を奉じて太宰府に逃れた。その後、一の谷・屋島で源氏の軍と戦って敗れ、壇ノ浦で大敗を喫した。宗盛は捕らえられて鎌倉に送られ、京都に送還される途中、近江の篠原(滋賀県近江八幡市篠原町)で斬殺された。
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五逆罪
理に逆らうこと甚だしい五種類の重罪のこと。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業ともいう。五逆罪には、三乗通相の五逆と、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などがあるが、代表的なものは?舎論に説かれる三乗通相の五逆罪である。以下それを示す。殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧のことをいう。阿羅漢とは声聞の四果の最上で阿羅漢果を得た者のこと、出仏身血とは、仏の身に傷をつけて血をだすことである。提婆達多は大石を崖の上から投げて釈尊の足を傷つけ、この罪を犯した。末法の御本仏大聖人は、文永元年(1264)11月11日下総国・小松原で東条景信によって、眉間に傷を受けられている。
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阿闍世王
阿闍世は梵語アジャータシャトゥル(Aj?ta?atru)の音写。漢訳して未生怨という。釈尊在世当時の中インド・マガダ国の王。父は頻婆娑羅王、母は韋提希夫人。太子であった時、提婆達多と結び、仏教の外護者であった父王を監禁し、獄死させて王位についた。釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行なった。後、身体に悪瘡ができたことによって仏教に帰依し、釈尊滅後、第一回仏典結集を外護した。
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提婆
提婆達多のこと。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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ここでは、仏法の道理のうえから世間の迷妄を教示された大聖人を日本中の人々が迫害するがゆえに、八幡大菩薩は住み家を焼いて天に昇ってしまい、その結果、日本は他国から攻められて人々が苦しむであろうことを嘆かれ、謗法を訶責して罪を軽くするよう促されている。
日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日に立教開宗されて以来、公安3年(1280)までのこの28年間、法華経譬喩品第三の「今此の三界は皆是れ我が有なり」といった経文を引いて、釈尊こそが娑婆世界の主であり、阿弥陀仏等を立てることの誤りを指摘されている。
それに対して、人々は迫害をもって応じたのである。大聖人は、文永元年(1264)11月11日には安房の小松原において、東条景信を中心とした念仏者に襲われて、矢を射られ、太刀で切り付けられている。文永8年(1271)9月12日には鎌倉の竜の口で頸を切られて死罪に処せられようとしている。弘長元年(1261)5月には伊豆に流され、文永8年(1271)10月には佐渡に流されている。そして、文応元年(1260)8月27日には鎌倉松葉ヶ谷の草庵を襲撃され、所を逐われている。
法華経の行者である大聖人に対する、こうした迫害のゆえに八幡大菩薩は住み家を焼いて天へ昇られたのであると、鎌倉八幡宮の炎上を仏法のうえから、その意味を示されて神天上の法門を教えられている。
これは、すでに立正安国論で詳しく述べられている法門である。すなわち立正安国論には「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-12)と説かれ、新池御書には「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く」(1440-18)と述べられている。
しかし、どんなにかわいそうに思っても、仏法の道理ははずすことはできないゆえに、日本国の一切の人々は父である釈尊を捨て去るという五逆罪を報いとして、そのような苦しみを受けざるを得あないのである。謗法の者を治罰するという誓いを立てた諸天もそれを喜び、仏も許されることはないと仏法の因果の厳しさを御教示されている。
あわれ・あわれはぢみぬさきに阿闍世王の提婆を・いましめしやうに.真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて.すこし・つみをゆるくせさせ給えかし
日本国の人々に対し、謗法の罪の報いが現実のものとなって起こってくるまえに、謗法の者を戒えて罪を軽くするようにしなさいと言われている御文である。
阿闍世王は初め提婆達多にそそのかされ、仏教の外護者であった父の頻婆娑羅王を殺し、酔った象を放って釈尊とその弟子達を踏み殺させようとしたが、後に悔い改めて仏教に帰依し、提婆達多を戒めたといわれる。
この阿闍世王の例を挙げて、日本国の人々が真言宗や念仏宗や禅宗の僧等に誑かされて謗法を犯しているのであるから、かえってそれらの邪宗の者達の謗法を戒めることによって少し罪を軽くすることができるというのである。
ここに謗法を訶責する破折の重要な意義があることを知らなければならない。すなわち、私達折伏の実践によって、過去からの謗法の罪が少し軽くなるということであり、転重軽受することができるというのである。因果の理法は厳しいがゆえに、罪を犯しておいて何も報いを受けないということはない。しかし無始以来の謗法が深重であることを考え合せてみると、この重き罪業を転じて軽く受けることができるというのは、何よりもありがたいといわなければならない。
佐渡御書には、示同凡夫のお立場から、大聖人が過去に法華経の行者ならびに法華経を誹謗したがゆえに八種の大難にあっているとして「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり」(0960-07)と述べられている。また、転重軽受法門には「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」(1000-03)と明かされている。
これらの御文を拝するとき、転重軽受をなさしめる折伏の功徳力の絶大であることを感じないではおられない。日々の勤行とともに、たゆみなき折伏の実践が大事である。
1288〜1288 十住毘婆沙論尋御書top
| 1288 十住毘婆娑論尋出御書 01 昨日武蔵前司殿の使として念仏者等召相せられて候いしなり、又十郎の使にて候はんずるか、 十住毘婆娑論を 02 内内見る可き事候、万事を抛ちて尋ね出だし給い候え。 03 十月十四日 日 蓮 在 御 判 04 武蔵公御房 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 −−−−−― 昨日、武蔵前司殿の使によって、念仏者等と召し合わせたれた。また、十郎の使いであったろうか。十住毘婆娑論を内々見たことがある。万事を差し置いて探し出していただきたい。 十月十四日 日 蓮 在 御 判 武蔵公御房 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 −−−−−― 01 十住毘婆娑論十四巻拝上せしむ、今一巻は求め失せ候なり、御要以後は早早返し給わる可く候、愚身も必 ず必 02 ず参り候いて 承わる可く候、 昨日の論談=五十展転の 随喜誠に以て有難く候、 又袴品賜わる可し、 穴賢 03 穴賢、恐恐。 04 十月十一日 判 05 日蓮阿闍梨御房 −−−−−― 十住毘婆娑論十四巻をお送りします。あと一巻は手に入りませんでした。お使いになった後は、早々にお返しください。私も必ず参りまして承りたいと思います。昨日の論談=五十展転の随喜は実に有り難いことです。また袴品を賜わりたいと思います。穴賢 穴賢、恐恐。 十月十一日 判 日蓮阿闍梨御房 |
武蔵前司
武蔵国の前の国司のこと。武蔵国は現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。鎌倉時代には幕府の重臣が国司となっていた。北条家では泰時・朝直・経時・長時・宣時・義政などが国司の任についている。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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十郎
詳細は不明。種種御振舞御書に出てくる「十郎入道」とすれば、幕府の内情に通じていた北条家の直参と思われる。佐渡御書に出てくる「大蔵たうのつじ十郎入道」は別人と思われる。
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十住毘婆沙論
竜樹の造。羅什の訳で十七巻からなる。華厳経十地品の初地、二地を釈したもので、難行道・易行道の文は第五巻「易行品」にある。爾前経について難易を論じたもので法然のごとく法華経までいわれたものではない。
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五十展転
法華経を聞いて随喜した人が次々に他人に語り伝え、50人目になってもその功徳があるということ。随喜功徳品には「是の如く第五十人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり」とある。展転とは、ころがる、めぐるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この50番目の人が法を聞いて、随喜する功徳は、400万億阿僧祇の世界の衆生に80年にわたり楽具、珍宝等を供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれていると説いている。化他の功徳を欠く50番目の者さえ功徳が絶大であることを説いて、一番目の自行・化他を具足する者の功徳がいかに大きいかをあらわしている。
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本抄は、武蔵公御房という人に十住毘婆娑論を探すよう依頼された御手紙である。御真筆は現存しない。
武蔵公という人についても不詳で、御執筆時期についても「十月十四日」とあるだけで、年次の記載はない。ただし、本抄にお述べになっている内容、また他の御抄との関連のうえから、正元元年(1259)と推定される。
この御手紙で大聖人は、念仏の破折に関連して十住毘婆娑論を求められている。大聖人は諸御抄で念仏の破折をされているが、特に守護国家論でこれを用いて破折されている。守護国家論は正元元年(1259)の御述作なので、同時期の書と考えられるのである。これは次の武蔵殿御消息と一連をなすものと考えられる。
まず、最初に、武蔵前司の使いによって念仏者を召し合わせられたことが述べられている。ここでいわれている武蔵前司とは北条朝直であろう。
大聖人の時代に武蔵の国主となり、職を退いた後、前司と名乗った人は泰時・朝直・宣時の三人であるが、泰時は大聖人が立宗される以前に亡くなっており、また宣時が武蔵前司と呼ばれたのは文永10年(1273)以後で、大聖人が佐渡流罪中以降であるから、問答対論の機会はなく、また宣時は種種御振舞御書等によると、御教書を偽造して大聖人を亡き者にしようとしたくらいであるから、念仏者と対論させるなどという公平なことはしなかったであろう。とすると、朝直ということになる。朝直も念仏を信仰していたので、念仏者と対論させようとしたことは、類推できる。
この朝直が武蔵前司と称していた期間は、康元元年(1256)から文永元年(1264)までであり、このことからも、本抄御執筆と推定できる正元元年(1259)の期間と符号する。また本抄中に出てくる「十郎」についても末詳であるが、幕府の役人であったのではなかろうか。
さて、大聖人は建長5年(1253)の立宗以来、特に念仏を中心に強く破折された、そこでこのころ、念仏者との対論も多かったのであろう。大聖人がどれほど一切経に精通しておられたかを知らない諸宗の者達は、大聖人何するものぞと、たかをくくっていたのかも知れない。
大聖人は今後、本格的な対論の機会もあるかもしれないとお考えになり、守護国家論、さらには立正安国論の御述作に進まれたものと拝される。
ここで本抄で触れられている十住毘婆娑論について、守護国家論を中心にして、少し述べておきたい。十住毘婆娑論は、竜樹の造とされており、華厳経の十地品の解釈の書である。
この十住毘婆娑論のなかに、易行について述べられた箇所がある。菩薩の行に難行と易行があるとし、仏・菩薩の名号を称えて祈念することにより不退の位に入ることを述べている。ここでは一切諸仏、諸菩薩であって、特定の仏を念ずることをのべたのではないが、中国浄土教の一人・曇鸞は、その著・往生論註において阿弥陀仏を易行としたのである。その後道綽は同じくその意を受けて聖道門と浄土門の立て分けをしていた。
大聖人は守護国家論で十住毘婆娑論でこうした構成を述べられた後曇鸞や道綽の修行を難行・易行や聖道・浄土道綽に分けたが、ともに法華・涅槃をこの両者に含めないことを指摘されている。つまり、十住毘婆娑論の立て分けは法華・涅槃以前の経について難行・易行を立てたものであるということである。
そうであるのに、日本の法然は選択集でこれらの論をさらに拡大解釈して、法華・涅槃をも雑行・聖道門の教えにしてしまった。選択集に「之に準して之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、密大乗経や実大乗経まで雑行のなかに入れてしまったのである。
しかし、これは誤りであり、そのことは十住毘婆娑論に二乗作仏を許してないことから明白であり、「若し二乗地に堕すれば畢境して仏道を遮す」等の文がそうであると仰せである。
大聖人は、法然が十住毘婆娑論を援用し、また曇鸞や道綽の教えを用いながら、実は己義をまじえて邪見を展開したことを、十住毘婆娑論の文証を引用して破折されているのである。
念仏者達は、盛んに十住毘婆娑論を援用し、曇鸞や道綽等の義を借りて念仏の正当性を主張していた。その根源は法然の邪義にある。大聖人は十住毘婆娑論の確かな証拠をもって、念仏、なかんずく法然の邪義を破折するため十住毘婆娑論の収集を武蔵公に依頼して求められたのであろう。
なお、武蔵公については不詳ではあるが、本抄で十住毘婆娑論の収集を依頼されていることや、次の御抄「武蔵殿御消息」で法華八講をいつ行うのか尋ねられていることから考えると、天台の学僧ということも考えられる。また、兵衛志殿御返事に「鵞目二貫文・武蔵房円日を使にて給び候い畢んぬ」(1089-01)とあり、もし、この「武蔵房日円」と同一人物であるとすれば、池上家と姻戚か縁故の人であったことも考えられる。
後半は武蔵公の返書であろうと思われる。すなわち、大聖人から依頼のあった十住毘婆娑論を14巻拝上する旨を述べている。1巻だけは不足していたものか。十住毘婆娑論は現在大正新脩大蔵経に収められているものは17巻であるが、他に16巻・15巻のものがあり、武蔵公が所持していたものは全16巻のうちの15巻であろう。大聖人が御覧になった後は草々に返却してほしい旨依頼されていることから考えると、よほど貴重な資料であったのだろう。
昨日の論断を大変にありがたく思ったと述べ、五十展転の随喜であると語っている。五十展転の功徳は直接聞いた者の功徳でなく、人づてに聞いた者の随喜の功徳であるから、武蔵公も又聞きだったのかもしれない。
「昨日」の「論談」が大聖人が仰せの念仏者との対論であるのか、全く別のことであるかは、明確でない。対論が頻繁に行われたとは考え難いから、法門に関する説法とも考えられる。袴品を賜りたいとのべているが、袴品が何を意味するかも不明である。
また大聖人の御手紙に「十月十四日」とあるのに対し武蔵公の返書が「十月一日」とあり、矛盾が生じるが、当時の暦からすると正元元年十月には閏月があり、武蔵公の返書は閏十月一日であったかもしれない。
1288〜1289 武蔵殿御消息top
| 武蔵殿御消息 01 摂論三巻は給候へども釈論等の各疏候はざるあひだ事ゆかず候、をなじくは給い候いてみあわすべく候、 見参 02 の事いつにてか候べき、仰をかほり候はん。 1289 01 八講はいつにて候やらん。 02 七月十七日 日蓮在御判 03 武蔵殿御房 −−−−−― 摂大乗論三巻はいただいたけれども、摂大乗論釈論等の各注釈書がないので事がすすまない。同じく送っていただいて、見合わせたいと思う。お目にかかれるのがいつになるか、お知らせいただきたい。法華八講はいつであろうか。 七月十七日 日蓮在御判 武蔵殿御房 |
摂論
摂大乗論のこと。漢訳に三種ある。@中国・北魏の仏陀扇多訳・二巻A中国・梁代の真諦訳・三巻B中国・唐代の玄奘訳・三巻。大乗阿毘達磨経の摂大乗品を解釈し、大乗の勝れている点を十種あげて論じたもの。
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訳論
摂大乗論訳論のこと。摂大乗論の注釈書。天親の釈で、漢訳に三種ある。@中国・梁代の真諦訳・十五巻A中国・隋代の達磨笈多、行炬等訳10巻B中国・唐代の玄奘訳・十巻。また、天親の釈の他に無性の釈で、玄奘訳の十巻がある。なお、大智度論、釈摩訶衍論を「釈論」というばあいもある。
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疏
障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
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八講
法華八講のこと。法華経八巻を八座に分けて、一座に一巻ずつ講ずること。わが国では平安時代以降、中世にかけて盛んに行われた。金光明最勝王経を八座に分けて講ずるものをいうこともある。
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本抄は武蔵殿御房という人に摂大乗論釈論などを送ってくれるよう依頼されたお手紙である。武蔵殿は御書全集で本抄の前に収められている十住毘婆沙論尋出御書に出てくる「武蔵公御房」と同一人物であると考えられる。前出の御書では十住毘婆沙論を求められ、本抄では摂大乗論釈論を求められていることからも、同じ人である可能性が強く、また両書とも念仏の破折に欠かせない書であるので、守護国家論における念仏破折の資料と考えられ、本抄には御述作の年月日が「七月七日」の月日の記載しかないが、御述作年については守護国家論と同じ正元元年(1259)とされている。
本抄の御真筆はかつて身延にあったが、明治8年(1259)1月の火事で焼失している。
摂大乗論は無著の著で、大乗阿毘達磨経摂大乗品の釈論である。小乗に対して大乗が勝れている点を十種あげている。これを天親が注釈したものが摂大乗論釈論である。訳は真諦のものと玄奘のものとがある。
摂大乗論には四意趣が説かれている。四意趣とは、仏が説法するときに四つの意向があるということで、平等意趣・特別意趣・別義意趣・衆生意楽意趣である。そのなかの別時意趣では、多宝如来の名を誦する者は無上菩薩を得るのであり、ただ発願するのみで極楽世界に往生することができると説いている。この別時意趣の意義を摂大乗論釈論では次のように解説している。
「この意趣は嬾惰なる者をして、彼々の因に由りて彼々の法に於いて精勤修習せしめ、彼々の善根をして皆増長することを得しむ。此の中の意趣は多宝如来の名を誦するの因を顕す。是れ精進の因にして、唯名を誦するのみにて、便ち無上正等菩提に於いて已に決定することを得るには非ず。説いて言える有るが如し、一の金銭に由りて千の金銭を得るには、豈一日に於いてならんや、意は別時に在り。一の金銭は是れ千を得る因なるに由るが故に此の説を作す。此も亦是の如し、唯発願するのみに由りて便ち極楽世界に往生するを得とは、当に知るべし亦爾前なり」と。
すなわち、摂大乗論で解釈している別時意趣で、多宝如来の名を唱えるだけで成仏するというのは、あくまでも仏道修行に怠惰な者を導くため、それだけで成仏できるかのように説いたものであって、真実は、それのみで成仏できるのではなく、仏の真意は別時にある。つまり、それによって仏道修行を積む心を起させ、将来に成道させることがねらいなのである。たとえば一の金銭で千の金銭を得ることができるといっても、たった一日で得られるわけではない。一の金銭が千の金銭を得る因となるという意味であって、あとあと得られるという「別時」が真意なのである。発願するのみで極楽世界に往生するというのも同じである、と。
この摂大乗論と摂大乗論釈論に依処にして立てられたのが摂論宗である。中国十三宗の一つであったが、法相宗に押されて勢いを失い、日本には伝えられていない。
この摂大乗論および同釈論の別時意趣と浄土の教えとは相容れない。浄土宗は阿弥陀を念ずるのみで往生世界に往生できると説くからである。摂論師達は、摂大乗論、及び同釈論の思想をもって浄土教の弥陀称名は別時意趣であると批判した。摂論師は法華経方便品にある「一称南無仏皆成仏道の文なども別時意趣であると批判し、一切経は別時意趣であり、諸行を積んで初めて往生できると説いた。
中国浄土宗の祖の一人・善導は、この摂論師を批判するのに、摂論師のいうごとく、諸行を行じて初めて往生できると説うのは、浄土教の順次往生の功徳を賊するので、雑行であり、浄土の教えは正行であると主張したのである。守護国家論で大聖人は次のように仰せである。
「善導和尚は亦浄土の三部経に依つて弥陀称名等の一行一願の往生を立つる時・梁・陳・隋・唐の四代の摂論師総じて一代聖教を以て別時意趣と定む、善導和尚の存念に違するが故に摂論師を破する時・彼の人を群賊等に譬う順次生の功徳を賊するが故に其の所行を難行と称することは必ず万行を以て往生の素懐を遂ぐる故に此の人を責むる時に千中無一と嫌えり、是の故に善導和尚も雑行の言の中に敢えて法華真言等を入れず」(0049-11)と。
すなわち、善導が仏道修行を雑行と正行に分けて雑行を千中無一と破折したのは、摂論師達の一切経別時意趣との非難に対して、摂論師の諸行往生では千人に一人も成道できないと主張したのであって、決して法華経などを雑行としたのではない。このことは、摂論師達との論争の経緯をみれば分かるのであり、法然が善導は法華経をも含めて雑行としたというのは、大変な邪義なのである。この事実を大聖人は、摂大乗論、同釈論の原典にかえって明らかにされようとしたのである。
先の十住毘婆娑論尋出御書で、大聖人は十住毘婆娑論を求められたが、これは同じく中国浄土教の祖である曇鸞・道綽が十住毘婆娑論によって雑行・易行・聖道門・浄土門を立てたが、そこは決して法華・涅槃を雑行・聖道門と批判していないことを原点にあたって証明され、法然の邪義を明らかにされるためであったとの軌を同じじくするものであり、その意味でも二つの御書は同一時期にあらわされたと考えられるのである。
こうしてみると、中国浄土教の三人の祖はそれぞれ浄土の教えを宣揚するにあたって雑行・易行・聖道門・浄土門・雑行・正行を立てたが、それらのいずれでも法華経を非難してはいないのである。にもかかわらず法華経を難行・聖道行・雑行に含めたものはすべて法然の我見であり、しかも、あたかも中国浄土教の祖がそう述べているかのように主張して、自己の邪説を正当化しようとしたのである。大聖人は守護国家論で各種文証を用いられて法然の我見を明快に破折されている。
大聖人が摂大乗論は受け取ったけれども、釈論等がないと事が進まない。それを見合わせたいとおおせになっているのは、このように守護国家論等の引用・主張を拝するとよく理解できるのである。
なお文末に法華八講がいつになるか問い合わせておられる。法華八講は、法華八巻を一座ずつ講ずるものであり、このことから武蔵殿は天台の学僧ではなかったかと推量される。
1289〜1294 破良観御書top
1289:01〜1289:11 第一章 釈迦在世と現当の三逆罪を明かすtop
| 破良観等御書 01 良観.道隆・悲願聖人等が極楽寺・建長寺・寿福寺.普門寺等を立てて叡山の円頓大戒を蔑如するが如し、此れは 02 第一には破僧罪なり・二には仏の御身より血を出だす、 今の念仏者等が教主釈尊の御入滅の二月十五日を・をさへ 03 とり・阿弥陀仏の日とさだめ 仏生日の八日をば薬師仏の日といゐ、 一切の真言師が大日如来をたのみて教主釈尊 04 は無明に迷える仏・ 我等が履とりにも及ばず結句は潅頂して釈迦仏の頭をふむ、 禅宗の法師等は教外別伝とのの 05 しりて一切経をば・ほんぐには・をとり我等は仏に超過せりと云云、 此は南印度の大慢ばら門がながれ出仏身血の 06 一分なり、 第三に蓮花比丘尼を打ちころす・これ仏の養母にして阿羅漢なり、 此れは阿闍世王の提婆達多をすて 07 て仏につき給いし時いかりをなして大火・ムネをやきしかば・はらをすへかねて此の尼のゆきあひ候たりしを打ち殺 08 せしなり、 今の念仏者等が念仏と禅と律と真言とをせめられて・のぶるかたわなし、 結句は檀那等をあひかたら 09 ひて日蓮が弟子を殺させ・予が頭等にきずをつけ・ざんそうをなして二度まで流罪・あわせて頚をきらせんと・くわ 10 だて・ 弟子等数十人をろうに申し入るるのみならず、 かまくら内に火をつけて日蓮が弟子の所為なりとふれまわ 11 して一人もなく失わんとせしが如し。 −−−−−― 良観・道隆・悲願聖人等がそれぞれ極楽寺・建長寺・寿福寺.普門寺等を立て、比叡山の円頓大戒を蔑如するようなものである。これは提婆達多の三逆罪でいうならば第一の破僧罪にあたるといえる。 三逆罪の第二は仏の御身より血を出すことである。これは今の念仏者等が教主釈尊の御入滅になられた二月十五日を勝手に阿弥陀仏の日と定め、仏の誕生された日の八日を薬師仏の日いっていることにあたる。また、一切の真言の法師等が大日如来を崇めて教主釈尊は無明に迷う仏であるとして、我等が履取りにも及ばないと言い、あげくは潅頂のときには敷曼荼羅の上で釈迦仏の頭を踏んでいるのがそれである。禅宗の法師等は教外別伝と主張し、一切経は使い古しの紙にも劣り、我等は仏に超過していると言っている。これは南インドの大慢婆羅門の末流であり、出仏身血の一分なのである。 三逆罪の第三は提婆達多が蓮花比丘尼を拳で殴殺したことである。蓮花比丘尼は釈尊の養母であり、また阿羅漢である。これは阿闍世王が提婆達多を捨てて釈尊に帰依したので、提婆達多は怒りの炎が胸を焼き焦がすほど腹にすえかね、ちょうどこの比丘尼に行き遭ったので、怒りにまかせて拳で打ち殺してしまったのである。今の念仏者等が念仏と禅と律と真言等の自分達の法義を日蓮から責められて返答しようもないので、結句は檀那等に言い含めて、日蓮が弟子を殺させ、日蓮の頭等に刀で疵をつけ、讒奏によって伊豆・佐渡と二度までも流罪にあわせ、頚まで斬ろうと策謀し、弟子等数十人を牢に入れただけではなく、鎌倉の町に火を付けて、それを日蓮の弟子の仕業だと触れ回って弟子を一人もなく始末してしまおうとしたようなものである。 |
良観
(1217〜1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈?、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
―――
道隆
鎌倉時代の禅僧(1213〜1278)。蘭溪道隆のこと。中国西蜀培江の人。姓は冉氏。諱は蘭渓。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)、紹仁と共に九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に留まり、のちに北条時頼(1227〜1263)の帰依を受け、時頼が建長5年(1253)建長寺を建立すると、迎えられて開山一世となった。門下に告げ口されて前後2回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(1278)7月24日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に師敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永5年(1268)10月、立正安国論に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状到来で的中した旨を、十一通の書状に認めて北条時宗をはじめ、時の権力者に諫暁をなされたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永8年(1271)9月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下より出たことから考えても明らかである。
―――
悲願聖人
(1194〜1277)鎌倉時代の臨済宗の僧。本朝高僧伝巻十九等によると、字は蔵叟。長楽寺を開創した栄朝の弟子となった。正元年間に長楽寺から寿福寺に移り、晩年に再び長楽寺に戻った。吾妻鏡の正嘉2年(1258)3月23日の条には「故武州十三年の仏事として、佐佐目谷の塔婆を供養せらる。導師は寿福寺の長老悲願房朗誉」とある。
―――
極楽寺
神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈?を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
建長寺
神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
普門寺
宗旨末詳。現在は廃寺になっている。
―――
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
―――
円頓大戒
伝教大師が提唱した法華経の義から導き出された大乗戒のこと。弘仁10年(0819)3月15日に著された天台法華年分度者小向大式には「凡そ仏戒に二あり。一には大乗大僧戒。十重、四十八軽戒を制して、以って大僧戒と為す(中略)凡そ仏受戒に二あり。一には大乗戒。普賢経に依りて三師証等を請す。釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す。文殊師利菩薩を請して菩薩戒の羯磨阿闍梨と為す。弥勒菩薩を請して菩薩戒の教授阿闍梨と為す。十方一切の諸仏を請して菩薩戒の証師と為す。十方一切の諸菩薩を請して同学等侶と為す。現前ひとりの伝戒の師を請して以って眼前の師と為す。若し伝戒の師無くんば千里の内に請す。若し千里の内に能く戒を授くる者無くんば、至心に懺悔して必ず好相を得、仏像の前に於いて自誓受戒せよ。今、天台の年分学生並びに回心向大の初修行の者には、所説の大乗戒を授けて将に大僧と為さん」と円頓戒について記している。この大乗戒は、南都七大寺が採っていた小乗戒と相容れないものであった。小乗戒とは「小乗律に依り、師には眼前の十師を請して白四羯磨す。清浄持律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」である。この伝教大師の上表は南都七大寺の高相によって拒否されたため、伝教大師の生前には、大乗戒壇の勅許はおりなかった。
―――
此れは第一には破僧罪なり(28・破良観等御書1)
提婆達多の三逆罪を挙げられている。法華文句巻八下には「提婆達多亦達兜と言う。此には天熱と翻ず、其の僧を破し五百の比丘を將て去る。身子之を厭い眠り熱せしめ、目連は衆を撃て将いて還る。眠り起こって誓いを発して、此の怨に報ぜんことを誓う。三十肘の石の広さ十五肘なるを捧げて仏に擲つに、山神手もて遮り、小石迸て仏足を傷つけ、血出づ。闍王に教えて酔象放ち仏を?ましむるに、花色比丘を拳にて死す。毒を十爪に安じて、仏足を礼して仏を中傷せしめんと欲す。是れを五逆罪と為す。若し三逆と作さば、教王と毒爪と並に害仏の摂なり」とある。五逆罪のうち、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢を三逆罪という。
―――
第一には破僧罪(28・破良観等御書1)
提婆達多の三逆罪の一つ。和合僧を破ったこと。法華文句には「其の僧を破し五百の比丘を將て去る」とある。
―――
二には仏の御身より血をだす(28・破良観等御書1)
提婆達多の三逆罪の一つ。仏を殺害しようとして仏身から血を出させたこと。発句文句には「三十肘の石の広さ十五肘なるを捧げて仏に擲つに、山神手もて遮り、小石迸て仏足を傷つけ、血出づ」とある。
―――
念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
入滅
仏の死をいう。涅槃・入涅槃ともいう。
―――
二月十五日
釈尊が入滅した日。釈尊の入滅月日には所説あるが、日蓮大聖人は諸御書で2月15日入滅説を採用されている。
―――
阿弥陀仏
梵語アミターバ(Amit?bha)の音写で、無量光仏、無量寿仏と訳す。娑婆世界には縁のない西方極楽世界の教主。
―――
阿弥陀仏の日
日蓮大聖人御在世当時、念仏宗では、釈尊入滅の15日を阿弥陀仏の日としていたようであるが、詳細は不明
―――
仏生仏の八日
釈尊の誕生月日には諸説あるが一般的には4月8日といわれている。
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薬師仏
梵語( Bhai?ajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
―――
薬師仏の日
日蓮大聖人御在世当時、釈尊の生誕8日を薬師仏の日とした宗があったのであろう。詳細は不明。
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真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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大日如来
大日は梵語(mah?vairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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無明に迷える仏
弘法が立てた邪義。弘法は秘蔵宝鑰で十住心を立て、第十秘密荘厳住心の大日如来に対し、釈尊は第八一道無為住心で、無明の辺域に過ぎないとしている。
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我らが履とりにも及ばず
覚攪の立てた邪義。彼の著、舎利供養式のなかには「崇高なる不二摩訶衍の仏、露牛の三身は車を扶くすることあたはず。秘奥なる両部曼荼羅の教、顕乗の四法も履を採るに堪えず」とある文を指す。不二摩訶衍の仏とは、唯一最高の教えを説く大日如来、露牛の三身とは釈尊、車は仏の車乗すなわち衆生を仏道に導く乗り物、顕乗の四法とは顕教のうち四つの大乗の教法で、法相・三論・天台・華厳の四宗を指す。すなわち、大日如来が最も尊高であって、釈尊は衆生を救う助けとはならず、また法華経等は、大日経の履取にも及ばないとの意。このことから、釈尊を履とりにも及ばないとしている。
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灌頂
頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。@もとインドの国王即位や立太子の際に行った。A大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。B密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。
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釈迦仏の頭をふむ
密教では灌頂の時、壇上に曼荼羅を敷く。この曼荼羅を敷曼荼羅と称している。元来は、土壇上に仏・菩薩を描いていたが、木壇になってからは既成の敷曼荼羅を用いるようになった。種々の作法の後に、受灌の弟子が、花を敷曼荼羅に向かって投げ、その落ちた仏・菩薩によって、受灌の弟子の過去の因縁、法門の善知識を得るとされる。「釈迦仏の頭をふむ」と述べられているのは、灌頂の時に敷曼荼羅に描いた釈迦像を踏みつける行軌作法と思われるが、詳細は不明。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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教外別伝
禅宗の教義で、仏法の真髄は経の外にあり、それは釈迦から迦葉に、文字によらずひそかに伝えられ、それを伝承したのが禅宗であると説く。文字を立てず自身の心を師とする等、仏典を曲げて解釈するので天魔の教えといわれる。
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一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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ほんぐには・をとり
「ほんぐ」とは「ほぐ」で、反古、反故と書き、書画などを書き損じて不要となった紙をいう。そこから転じて、不要になったもの、役にたたなくなったものの意。円覚修多羅了義経には「修多羅の経は月を標する指の如し。若し復月を見れば、所標は畢竟して月にあらざることを了知す」とある。「教外別伝・不立文字」を立てる禅宗では、月を見ればその指が無用であるように、坐禅によって悟りを得れば経文は反古と同じで不要であるとする。
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我等は仏に超過せり
達磨大師血脈論に「若し本性を見れば、十二部経は総て是れ閑文字、千経万論ただ是れ心を明かすなり。言下に契会せば教何をもってか用いん」とあるように、仏説を下す禅宗の増上慢を諸経論から取意されたと思われる。
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大慢ばら門
南インドのマロウバ国の婆羅門。大唐西域記巻十一によると、内外典・暦法等に通じ、国王・国の人々に尊敬されていたが、慢心を起こし、外道の三天と釈尊像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。しかし、西インドからきた賢愛論師との法論に敗れて名声を失い、論師を深く恨み、なおも大乗を誹謗してやまなかったので、大地が裂け、生身のまま地獄に堕ちたという。
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第三に蓮華比丘尼を打ちころす
提婆達多の三逆罪の一つで、殺阿羅漢にあたる。
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蓮華比丘尼
蓮華色比丘尼・華色比丘尼ともいう。釈尊在世の弟子、四分律巻六等によると、欝禅国に嫁した蓮華色は、懐妊して一女をもうけるが、その時、夫は母と交わり、それを知った蓮華色は家を去って波羅捺城に行った。そこで長者と出会い、夫人となって暮らしていた。夫の長者は財を蓄え、かって蓮華色が嫁した欝禅国に行き、節会という娘を連れて帰ってきた。蓮華色はその女性が自分の娘だと分かったとき、自らの人生を嘆き、家を去った。羅閲城迦蘭陀竹園にきたとき、釈尊に値い、すすんで仏弟子となった。蓮華色は、阿難に連れられて摩訶波闍波提の下で出家し、修行に励んで阿羅漢果を得、神通力第一となった。後、釈尊を怨む提婆達多に殴殺された。
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仏の養母
多くの経典では仏の養母は摩訶波闍波提である。養母を蓮華比丘尼とする説の典拠は不明
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阿羅漢
羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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阿闍世王
梵語(Aj?ta?atru)未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マカダ国をインド第一の帝国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪行を行い、後に身体中に悪瘡ができて、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の経典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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律
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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真言
真言宗の事。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、d?napati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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日蓮が弟子を殺され
小松原法難のことと思われる。大聖人御一行は文永元年(1264)11月11日安房国東条小松原(千葉県鴨川市)で、地頭の東条景信に要撃された。これは大聖人の御母の病気平癒のため、安房に還られた際、門下の工藤吉隆の招きを受け、同屋敷に花房の蓮華寺を出て、工藤邸に向かわれていた道中の出来事である。景信に率いられた暴徒が大聖人一行を襲った。この襲撃によって、弟子の鏡忍房は打ち殺され、急の知らせを受け駆け付けた工藤吉隆も重傷を負い、それがもとで死去したと伝えられている。
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予が頭等にきずをつけ
文永元年(1264)11月11日安房国東条小松原(千葉県鴨川市)で襲撃を受けた法難をさす。このとき、大聖人は東条景信の切りつけた太刀によって右の額に深手の傷を受け左手を骨折されている。聖人御難事には「文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189−13)とある。
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ざんそう
讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。
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二度まで流罪
日蓮大聖人は@弘長元年(1261)5月11日〜弘長3年(1263)2月22日までの1年10ヵ月間の伊豆の伊東(静岡県伊豆市伊東)への流罪=伊豆流罪A文永8年(1271)10月10日〜文永11年(1274)3月13日までの2年5ヵ月間の佐渡(新潟県佐渡市)への流罪=佐渡流罪。に遭われている。
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流罪
罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
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頸をきらせんと
文永8年(1271)9月12日、北条執権の内管領で侍所司でもある平左衛門尉頼綱は武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲って日蓮大聖人を捕らえ、夜半、竜の口刑場で頸を刎ねようとしたが、果たせなかった法難。種種御振舞御書にくわしい。
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ろうに申し入るる
竜の口の法難の直後、大聖人門下である日朗・日心・坂部入道・伊沢入道・得業寺入道の5人が土籠に入れられた。五人土籠御書には「今月七日さどの国へまかるなり、各各は法華経一部づつ・あそばして候へば我が身並びに父母・兄弟・存亡等に回向しましまし候らん、今夜のかんずるにつけて・いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし、 ろうをいでさせ給いなば明年のはるかならずきたり給えみみへ・まいらすべし、せうどのの但一人あるやつを・つけよかしとをもう心・心なしとをもう人一人もなければしぬまで各各御はぢなり」(1212-03)とある。
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火をつけて
竜の口法難後、執権北条時宗は大聖人を無罪放免しようとしたが、念仏者たちは、それを許すまいとして、鎌倉市内で放火事件を起こし、大聖人門下の仕業であるとデマをながしたこと。種種御振舞御書に詳しい。
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本抄は、前後が欠けているため、執筆年次、いただいた人も不明であるが、内容に「故弥四郎殿」云云とあるところから、安房国清水山下の天津の光日房に与えられた御消息とされている。
また「二度まで流罪」とある御文や、弥四郎の死去に触れていることから推察して、身延入山後の御述作と思われ、一説には建治2年(1276)12月としている。御真筆は現存していない。
光日房については詳細は不明であるが、日蓮大聖人と同郷の人で、初めに子の弥四郎が大聖人門下となり、その弥四郎の勧めによって昔から尊敬していた大聖人を慕って法華経に帰依したようである。
大聖人が佐渡流罪の折には、ある人に託して衣をお送りしている。また、大聖人と旧知の間柄とか、民部日向の母、あるいは伯母、男金藤四郎実信の妻ではないか等、種々の説があるが、確かな文献はない。
本抄のほかに、種種御振舞御書、光日房御書、光日上人御返事、光日房御返事など四編を賜っている。
本抄の内容は、釈尊在世と当今の三逆罪を明かしその相違を示し、問答形式で真言宗の邪義について、法華経と真言三部経との勝劣、真言師の誑惑とその悪報を挙げられている。
そして立教開宗前後の御様子を回顧されながら、諸宗の日蓮大聖人並びに門下の迫害について述べられている。
題号は本抄の書き出しに即して破良観等御書と後代に付されたものである。
初めに、釈尊在世に三逆罪を犯した提婆達多と比較して、いま法華経迹門の円頓戒壇を蔑如し、釈尊を下して日蓮大聖人及びその門下を迫害している念仏・禅・律・真言の諸宗が提婆の三逆罪に超過することを示されている。
釈尊在世に提婆達多が犯した三逆罪とは、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢である。
すなわち、破和合僧は、大衆に囲繞されたことが仏と等しいと提婆は考え、釈尊をねたむあまり、和合僧団を破って五百人の仏弟子をたぶらかした。
出仏身血は、釈尊を殺そうとして、耆闍崛山の上から大石を落したが、地神が受け止めたため、その砕石が飛び散り、釈尊に当たって小指から血をだしたこと。
殺阿羅漢は、阿闍世王が釈尊についてしまったので怒り心頭に発していた提婆は、更に蓮華比丘尼に非を責められて激怒し、比丘尼を拳で殴打し殺したことを指す。
この提婆達多の三逆罪と対比して、大聖人は当今の諸宗の僧がそれにも劣たない重罪を犯していることを指摘されている。
一に破和合僧
日蓮大聖人は極楽寺良観、建長寺道隆、普門寺悲願房等の鎌倉仏教の高僧達が伝教大師の法華円頓戒壇をないがしろにしていることを破僧罪にあたるとされている。
二には出水身血
今の念仏宗は教主釈尊の誕生の日の八日を奪って薬師仏の日とし、入滅の日である十五日を阿弥陀仏の日としている。これは主師親の三徳ある釈尊の恩を忘れて反逆している行為にほかならない。
一方、真言師達は大日如来を本尊として、釈尊を、無明の辺域であって明の分位ではないと主張し、釈尊は大日如来の履取りにもおよばない等とさげすみ、あげくは真言の灌頂の儀式で、釈尊等を描いた曼荼羅を足で踏ませるなどさえしているのである。
禅僧等は「教外別伝・不立文字」の己義を構え、仏の本意は言葉や文字によらず心を以って心に伝えられたと唱えて一切経を劣視「我等は仏に超過せり」と釈尊を冒?している。
いずれも、仏説に背く邪見であり、教主釈尊を蔑視する増上慢も甚だしい邪義である。
これらを大聖人は一括して「南印度の大慢婆羅門の流れ」とされ「出仏身血の一分」として厳しく指弾されている。
ちなみに「大慢ばら門」とは、大唐西域記のよると、彼は博学で千余人の弟子を有していたが、大自在天・毘紐天・那羅延天・釈尊の四つの像をもって自分の高座の四足にして「我が徳は四聖よりもすぐれている」と称し、説法していた。
ところが賢愛論師との法論に敗れ、国王から死罪を命じられたが、論師の助言で救われたにもかかわらず、彼は恥じて吐血し、しかも見舞いにきた論師を逆恨みし、大乗を誹謗した。その言葉が終らないうちに地獄に堕ちたといわれる。
大聖人は、邪智高慢の良観等を大慢婆羅門の末流と断じられているのである。
三に殺阿羅漢
日蓮大聖人の痛烈な破折と指摘に、反論できなかった良観など諸宗の徒輩は、陰でひそかに結託して謀議をこらした。そして種々の讒言や奸策を用いて、無知な為政者や大衆をそそのかし、大聖人及び弟子門下を抹殺しようと計ったのである。
すなわち、「日蓮が弟子を殺させ」は小松原の法難で、門下の鏡忍房、工藤吉隆などが殺されたこと、「予が頭等にきず」は、同じく、大聖人御自身、額に傷を受けられ、左腕を骨折されたことを指す。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていた大聖人は、壇越の工藤吉隆の招待を受け、華房の蓮華寺から工藤邸へ向かわれていた。その途中の東条郷の小松原で東条景信の襲撃を受け、鏡忍房はその場で討ち死に、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負って死んだ。大聖人御自身、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折されている。
「二度まで流罪」とは、一度は伊豆への流罪。弘長元年(1261)5月12日、大聖人は念仏者によって幕府に訴えられ、伊豆国伊東へ流された。
二度目は佐渡への配流。文永8年(1271)9月12日竜の口の法難のあと、相模の依智を経由して佐渡へ流罪されたことである。
「あわせて頸をきらんと」は、竜の口法難のことである。大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同日深夜、鎌倉のはずれ竜の口で斬首の刑にあおうとされた。しかし“光り物”が夜空に現れ、恐れおののいた平左衛門尉らは斬首をはたせなかった。
「弟子等数十人をろうに」は、日朗ら門下の土牢幽閉を指している。また「ろうにある弟子共をば頸はねらるべしと聞ふ」(0916-02)とも仰せられているところから、斬首の危機が弟子達にも及んでいたことがうかがえる。
「かまくら内に火をつけて」とは、竜の口法難のあと、執権・北条時宗は大聖人を無罪放免にする意向であったが、巻き返しを図った念仏者等が、鎌倉市内で放火事件を起こし「日蓮が弟子の所為なり」と讒言したことをいわれている。
これらの種々の迫害・弾圧は「殺阿羅漢」の逆罪に相当する。
1289:12〜1290:07 第二章 現当は法華経への三逆なるを示すtop
| 12 而るに提婆達多が三逆罪は 仏の御身より血をいだせども爾前の仏・久遠実成の釈迦にはあらず、殺羅漢も爾前 1290 01 の羅漢・法華経の行者にはあらず、破和合僧も爾前小乗の戒なり・法華円頓の大戒の僧にもあらず、 大地われて無 02 間地獄に入りしかども 法華経の三逆ならざればいたうも深くあらざりけるかのゆへに・ 提婆は法華経にして天王 03 如来とならさせ給う、今の真言師・念仏者・禅・律等の人人・並に此れを御帰依ある天子並びに将軍家・日本国の上 04 下万人は法華経の強敵となる上・ 一乗の行者の大怨敵となりぬ、 されば設い一切経を覚り十方の仏に帰依し一国 05 の堂塔を建立し一切衆生に慈悲ををこすとも・ 衆流大海に入りかんみとなり衆鳥・ 須弥山に近ずきて同色となる 06 がごとく、 一切の大善変じて大悪となり七福かへりて七難をこり 現在眼前には他国のせめきびしく・ 自身は兵 07 にやぶられ妻子は敵にとられて後生には無間大城に堕つべし。 −−−−−― たしかに提婆達多が三逆罪は、仏といってもの爾前経の仏であり、本門に説かれる久遠実成の釈尊ではない。殺阿羅漢といっても爾前経の阿羅漢であって、法華経の行者ではない。破和合僧といっても爾前経の小乗戒を持つ僧団であって、法華経による円頓止観の和合僧団ではない。提婆達多は大地がわれて無間地獄に入ったが、法華経の三逆罪ではないので、それほどには深くなかったのであろう。だから提婆達多は法華経によって天王如来となったのである。 今の真言師・念仏者・禅宗・律宗等の人々、及びこれらの僧に帰依している天子、ならびに将軍家、そして日本国の上下万人は法華経の強敵となったうえ、さらに法華一乗の行者の日蓮の大怨敵となったのである。それゆえ、一切経を覚り、十方の仏に帰依し、国中の寺院を建立し、一切衆生に慈悲を施したとしても、衆流が大海に入って鹹味となり、衆鳥が須弥山に近づいて金色となるように、一切の大善根が変じて七難が起こっているのである。 今、眼前には蒙古国からの責めが厳しく、自身は兵に破られて、妻子を敵に捕えられ、後生には無間大城に堕ちるのである。 |
久遠実成の釈尊
法華経如来寿量品で五百塵点劫成道の本地を顕した釈尊をいう。この釈尊は爾前経および法華経迹門までの始成正覚の仏を破している。
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小乗の戒
小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師、、現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
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大地われて無間地獄
大智度論巻十四には「三逆罪を作り、悪邪の師富蘭那外道等と親厚を為し、諸の善根を断じて心に槐悔なし。復た悪毒を以って、指爪の中に著け、仏を礼するに因みて、以って仏を中傷せんと欲す。去らんと欲して末だ王舎城の中に至らざるに、地自然に破裂し、火車来り迎えて、生きながら地獄に入れり。提婆達多は身に三十相あって、而も其の心を忍伏すること能わず、供養の利の為の故に、而も大罪を作り、生きながら地獄に入る」とある。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avici)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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天王如来
法華経提婆品で、提婆達多が釈尊から未来成仏の記別を受けた時の名号。経文には「諸の四衆に告げたまわく、提婆達多、却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号を天王如来、応供、正遍知、明行足。善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏。世尊と曰わん。世界を天道と名づけん。時に天王仏、世に住すること二十中劫、広く衆生の為に、妙法を説かん。恒河沙の衆生、阿羅漢果を得、無量の衆生、縁覚の心を発し、恒河沙の衆生、無上道の心を発し、無生忍を得て、不退転に住せん。時に天王仏、般涅槃の後、正法世に住すること二十中劫、全身の舎利に、七宝の塔を起てて、高さ六十由旬、縦広四十由旬ならん。諸天人民、悉く雑華、抹香、焼香、塗香、衣服、、瓔珞、幢幡、宝蓋、妓楽、歌頌を以って、七宝の妙塔を礼拝し供養せん。無量の衆生、阿羅漢果を得、無数の衆生、辟支仏を悟り、不可思議の衆生、菩提心を発して不退転に至らん」とある。
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帰依
帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
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天子
天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
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将軍
征夷大将軍のこと。本来は蝦夷征伐のため任命された臨時の官職。延暦13年(0794)に大友弟麻呂が補せられたのが最初で、以下坂上田村麻呂・文屋錦麻呂などがつづいた。建久3年(1192)源頼朝が補任された時には、本来の意味はなく、武士団を棟梁を示す要職・幕府の首長職に変ぼうしていった。御書に出てくる代表的な将軍としては5代将軍北条時頼と8代将軍北条時宗である。
―――
一乗
一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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十法の仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
堂塔
堂宇・塔廟・寺院のこと。
―――
慈悲
一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
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衆流大海に入り
河水、雨水などが大海に入るとすべて同一の塩味となること。大海とは法華経のこと。薬王品得意抄には「諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず」(1499-11)とある。
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衆鳥・須弥山に近ずきて
本尊供養御書には「大海に入りぬる水は皆鹹し、須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ、蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し」(1536-03)
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須弥山
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼・蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでいるとする。
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七福かえりて七難をこり
仁王経の「七難即滅七福即生」ご語を裏返された語。仁王経の七難とは、@日月失度難A衆星変改難B諸火梵焼難C時節返逆難D大風数起難E天地亢陽難F四方賊来難。七福は@悪竜鬼を鎮める徳A人の所求を遂げる徳B輪王意珠の徳C竜甘雨を降らせる徳D光天地を照らす徳E能く一切諸仏法等を出生する徳F能く一切国王無上の法等を出生する徳
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他国のせめ
他国侵逼難をいう。大聖人御在世当時の他国の責めとは、蒙古襲来を意味する。
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後生
過去・現在・未来のなかの未来生。
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無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
――――――――― 同じ三逆罪でも、その対象によって罪科に軽重があり、大聖人当時の人々が犯している三逆罪は提婆達多のそれに比べてはるかに重いことを述べられている。
すなわち、提婆達多が犯した三逆罪は、出仏身血といっても、その仏は爾前小権の釈尊であり、法華経の久遠実成の釈尊ではない。「久遠実成の釈尊」とは、再往、日蓮大聖人の御事である。
殺阿羅漢も爾前小権の阿羅漢であって、皆成仏道の法要を受持している法華経の行者ではない。
破和合僧も爾前小乗の戒を持った僧であり、法華円頓の大戒を持った和合僧団ではなかった。
提婆達多はこの悪業のため、生きながらにして地獄に堕ちたといわれる。法華経に対する三逆ではなかったので、その罪は深いようであってもまだ浅いといえる。それゆえに、法華経の会座では天王如来という未来成仏の記別を与えられたのである。
なお提婆が生身のまま地獄に堕ちたことについて、大聖人は刑部左衛門尉女房御返事で「不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり」(1398-10)と、不孝の者は、その罪業の重みのために大地がこれを支え切れずに、常に揺れ動いていると述べられ、ついに大地が支えきれず、割れて地獄へ堕ちた典型的な例が提婆であるとされている。
しかし、「所対によりて罪の軽重はありけるなり」(1080-14)と御教示されているように、同じ三逆罪であっても、相手・対象によって罪の軽重が異なる。
例えば同じ殺人でも、自分を殺そうとして襲ってきた悪人を殺した場合は正当防衛になるが、善人を殺せば全く逆となって罪は重い。
今の真言等の諸宗は僧並びにこれに帰依している日本の上下万民は、一代聖教の肝心であり骨髄である「法華経」と「一乗の行者」を対象に、三逆罪を犯しているのであるから、これは極重業といわなければならない。
ここで仰せの「法華経」とは、すなわち法華寿量文底秘沈の大法、三大秘法の南無妙法蓮華経であり、「一乗の行者」とは、その大法を本来所持される久遠元初自受用報身如来、すなわち御本仏日蓮大聖人であられる。これは人法体一の深義を表していると拝せよう。
それゆえに犯した三逆罪の罪科はこの上なく重く、これに相対すれば、提婆の三逆罪は比較にならないほど軽いといえる。大聖人も曾谷二郎入道度の御返事で「提婆が三逆罪は軽毛の如し」(1086-18)また「軽罪中の軽罪なり」(1086-15)と説かれている。
たとえ一切経に通達している智者、十方の仏に帰依する篤信の人であれ、極楽寺・建長寺のような立派な堂塔を寄進する人であれ、更に一切衆生に対して慈悲を施すなど“大善”の行為を尽くしても、法華経並びに法華経の行者の大怨敵となれば、ことごとく“大悪”と変じてしまい、“七福”も“七難”となってしまうのである。
所詮、大善に敵対すれば大悪となる。至高善に背けばすべて極大悪となる道理である。
更に大聖人は、立正安国論で予言した他国侵逼難が、蒙古襲来をもって的中したことを挙げられ、しかも正法に背く人々の苦報は現世にとどまるのみでなく、死後は無間地獄というはるかに大きい苦しみにあわなければならないことを示されている。
1290:08〜1290:09 第三章 故弥四郎の成仏を確証top
| 08 此れをもんてをもうに故弥四郎殿は設い大罪なりとも 提婆が逆にはすぐべからず、何に況や小罪なり法華経を 09 信ぜし人なれば無一不成仏疑なきものなり。 −−−−−― このことから思うに、故弥四郎殿はたとえ大罪はあっても、提婆達多の三逆罪には勝ることはない。提婆達多に比べベるならば小罪であり、まして法華経を信ずる人であるから、無一不成仏は疑いないのである。 |
弥四郎
(〜1274)安房国天津(千葉県鴨川市天津)の人。光日房の子。若いころ日蓮大聖人の弟子になり、両親をきえさせたが、なんらかのことで人を殺害し、弥四郎も死去した。光日房御書には「人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん」(0931-06)とある。
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無一不成仏
方便品の文「一りとして成仏せずということ無けん」と読む。法華経を聞いた衆生は、一人として成仏しない人はいないという意味。
―――――――――
光日尼の子息・弥四郎が若くして死去したことについて、前章との関連の上から提婆の逆罪にくらべればまだ小罪であると述べられ、しかも妙法を信仰したのであるから、弥四郎の成仏は間違いないと断定されている。
弥四郎は、建治2年(1276)3月御述作の光日房御書から拝察すると、日蓮大聖人が身延へ入山された直後、何かやむにやまれぬ事件に遭遇したらしく、人を殺め、また自らも横死したようである。
光日尼はこの事件を大層悲しみ「人をも・殺したりし者なればいかやうなる・ところにか生まれ候らん」(0930-03)と、弥四郎の後生を心配して尋ねている。
大聖人はそれに答えて「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(0930-06)と説き、現証として、大罪を犯した極悪非道の阿逸多や阿闍世王が仏に懺悔して罪をけすことがえきた例を挙げられている。
しかも弥四郎は法華経を信じ、母にも法華経を勧めたひとであるから、いかなる罪も消えるわけがないと励まされている。
更に「人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり」(0931-06)と母の強盛な信心によって救われることを教えられている。
我が子に先立たれた悲しみはいまだ消えやらぬ光日尼の心情を思いやれれる大聖人は、本抄においても、所対によって罪の軽重がある道理から弥四郎の罪は提婆の逆罪に比べれば小罪であるとし、しかも法華経を信じた人であるから成仏は疑いないと、重ねて激励されているのである。
本文の「無一不成仏」は法華経方便品の文で「一りとして成仏せずということ無けん」と読む。「皆成仏道」と同義である。
1290:10〜1290:16 第四章 真言の邪義と堕獄の理由top
| 10 疑て云く今の真言師等を無間地獄と候は心へられぬ事なり、今の真言は源弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証 11 大師此の四大師のながれなり、 此の人人・地獄に堕ち給はずば今の真言師いかで堕ち候べき、 答えて云く地獄は 12 一百三十六あり 一百三十五の地獄へは堕つる人雨のごとし 其の因やすきゆへなり、 一の無間大城へは堕つる人 13 かたし・五逆罪を造る人まれなるゆへなり、 又仏前には五逆なし但殺父殺母の二逆計りあり、 又二逆の中にも仏 14 前の殺父・殺母は決定として 無間地獄へは堕ちがたし畜生の二逆のごとし、 而るに今日本国の人人は又一百三十 15 五の地獄へはゆきがたし、 日本国の人人・形はことなれども同じく法華経誹謗の輩なり、 日本国異なれども同じ 16 く法華誹謗の者となる事は源伝教より外の三大師の義より事をこれり。 −−−−−― 疑って言う。現在の真言師等を無間地獄とは納得のいかないことである。今の真言宗はその源をたどれば弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師この四大師門流である。この人々が地獄に堕ちていないのなら今の真言師がどうして地獄に堕ちることがあろうか。 答えて言う。地獄には一百三十六の地獄がある。一百三十五の地獄に堕ちる人は雨が大地に落ちるように多い。それは堕獄の因を犯しやすいからである。残りの一つの無間地獄に堕ちる人は少ないのである。それは五逆罪を造る人はまれだからである。また釈尊以前には五逆罪はなく、ただ殺父・殺母の二逆あっただけである。しかも釈尊以前の殺父・殺母の二逆では無間地獄に堕ちるようなことはなかった。それは畜生の二逆のようなものだからである。 ところが今、日本国の人々は一百三十五の地獄へ行くこたはありえない。日本国の人々は形は異なってはいても、みな一様に法華経誹謗の輩である。日本の人々が各人異なっていても同じく法華誹謗の者となるということは、源をたどれば伝教大師を除いた他の弘法・慈覚・智証の三大師の邪義から起こったことである。 |
弘法大師
(0774〜0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
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伝教大師
(0767〜0822)伝教のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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慈覚大師
(0794〜0864)。日本天台宗の第三祖。諱は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和5年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
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智証大師
延暦寺第5の座主、円珍。智証派の祖である。母が弘法の姪であるとも、彼自身が弘法の甥であるともいわれる。弘仁5年(0814)、讃岐国那珂郡に生まれ、14歳で叡山に登って、座主・義真の弟子となる。嘉祥元年(0848)、大極殿の吉祥会で法相宗の義虎知徳と法論し、これを破して名声をあげた。仁寿年中に入唐し、長安青龍寺の法全から密教を学んで天安2年(0858)に帰朝した。貞観元年(0859)、三井園城寺を再興して唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。八年に止観・真言両宗弘伝の公験を賜り、10年に延暦寺の座主となった。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平3年(0891)10月、78歳で没す。
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地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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地獄は百三十六
八熱地獄にそれぞれ十六の別処があるところから合わせて百三十六となる。
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五逆罪
理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
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畜生
飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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誹謗
ほ誹謗正法のこと。ただしい仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。また、正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせることも謗法となり、これらは無間地獄に堕ちる業因である。
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第二章に「今の真言師・念仏者・禅・律等の人人・並に此れを御帰依ある天子並びに将軍家・日本国の上下万人は法華経の強敵となる上・一乗の行者の大怨敵となりぬ、されば設い一切経を覚り十方の仏に帰依し一国の堂塔を建立し一切衆生に慈悲ををこすとも・衆流大海に入り鹹味となり衆鳥・弥山に近ずきて同色となるがごとく、一切の大善変じて大悪となり七福かへりて七難をこり現在眼前には他国のせめきびしく・自身は兵にやぶられ妻子は敵にとられて後生には無間大城に堕つべし」と言われたことに関し、諸宗のなかでも、別して真言宗の邪義と、それを信ずる僧俗の堕地獄の所以を明示されていくのである。
まず、真言堕地獄の主張は納得だきない。今の真言宗は弘法等の四大師を源とし、その流れを汲んでいるのであり、学徳の誉れ高い四大師が堕獄するわけがないのであるから、今の僧俗がどうして地獄へ堕することがあろうか、と反論が挙げられている。
真言宗は、他の念仏や禅、律の諸宗とは比較にならない権威と伝統をもち、その開祖である弘法、また台密の祖である慈覚・智証は並ぶ者のない高僧と仰がれていた。その流れを汲む真言師らが極苦の無間地獄へ堕ちるとは、とうてい納得できないというのは、当然の疑問であったといえる。なお、伝教大師も並べられているのは、台密の人々は伝教大師も真言を認めていたと理解していたからである。
地獄の地とは最低、獄とは束縛された不自由な境涯を意味する。あわせて十界の最低部であり、極度の苦悩の境界をいう。地獄の分け方は経文によって異なるが、本章では?舎論で説く百三十六地獄を用いられている。
また無間地獄に堕ちる業因は、五逆罪と、正法誹謗とされる。
一般に、正法誹謗を別にすれば、五逆罪を犯すのはよほどのことで、まれである。したがって、無間地獄に堕ちる者はまれであり、他の百三十五の地獄に堕ちる者のほうが圧倒的に多いことになる。特に仏教出現以前は仏身は存在せず、阿羅漢も和合僧もないから、五逆罪といっても殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の罪は起こりようがない。ただ殺父・殺母の二つがあるだけであった。しかも仏教以前は人間が畜類とそれほど変わりがなかったこともあって、そのこと自体、無間地獄の業因とはなりえなかったのである。
しかし当今の日本国の人々は、一同に無間地獄へ堕ちることが必定であるといわれている。
なぜなら、各人がそれぞれ違っていても、一様に、正法たる法華経を誹謗しているからであり、法華経譬喩品に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれているように無間地獄に堕ちる因だからである。
このように日本中の人が法華経誹謗の者と化したのは、先の四人の中では伝教大師を除いた、弘法・慈覚・智証の三大師の邪義がその元凶であると指摘されている。その流類である僧俗であれば、決定して無間地獄を免れえないのは当然なのである。
1290:17〜1290:18 第五章 弘法等三大師の邪義top
| 17 問うて云く三大師の義如何、 答えて云く弘法等の三大師は其の義ことなれども同じく法華経誹謗は一同なり、 18 所謂善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なり。 −−−−−― 問うて言う。弘法・慈覚・智証の三大師の義はどうか。 答えて言う。弘法等の三大師は、そのたてている義は異なっていても、法華経を誹謗していることは同じであり、それらの源は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なのである。 |
善無畏三蔵
(0637〜0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智三蔵
(0671〜0741)中国・唐代の真言密教の僧。三三蔵の一人。中インドの王族に生まれ、10歳の時那爛陀寺で出家。寂静智に師事し、20歳で具足戒を受ける。31歳から7年間、竜智のもとで金剛頂経などの真言の諸経論を就学した。開元7年(0720)唐の洛陽に入り、玄宗皇帝に迎えられ慈恩寺に住し、その後長安の薦福寺に移った。「金剛頂瑜伽中略出念誦経」4巻など多くの密教の諸経論を訳出。弟子に一行、不空などがいる。
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不空三蔵
(0705〜0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。のちにスリランカに行き密教経典を集め、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など110部百433巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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次に弘法ら三大師の立義について「其の義ことなれども同じく法華経誹謗は一同なり」とし、いずれも中国真言の祖・善無畏ら三三蔵の邪義に基ずくものであると断じられている。
すなわち弘法は十住心論のなかで、凡夫が善悪を知らず、本能に従って生きる異生羝羊住心を第一に挙げ、以下次第に高い住心を説くなかで、法華経の一仏乗による住論は第八の一道無為住論であるとし、そのうえに究極の無自性を説く華厳経の極無自性従心があるとして第九に置き、究極・秘密の真理を説く大日教の秘密荘厳従心が第十で、最も勝れていると主張したのである。
加えて「法華経は戯論の法」「五味に譬えれば法華は第四の熟蘇味」等といい、更に顕密二教の勝劣を主張したのである。
つまり大日教は大日如来の秘密の教えであり、最高の教えであるが、法華経などは顕教の低い教えであるとして、密教の大日経は勝れ、顕教の法華経は劣るとしたのである。
一方、慈覚は、比叡山延暦寺の第三代座主でありながら「真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なり」(0281-03)という理同事勝の邪義を構えたのである。
智証も、やはり延暦寺第五代座主になりながら、慈覚の主張を承けて円劣密勝を立て、法華経の顕教に対し、密教が勝れると公言してはばからなかったのである。
以上のことから明らかなように、真言宗の邪義には二つの形態があることが分かる。いわゆる東密と台密である。
東密とは、京都の東寺を中心にした、弘法の真言密教のことである。先にも触れたように、法華経を釈迦応身仏の説いた顕教の中に入れ、大日法身の説いた密教に比べてはるかに劣ると、あからさまに下している。
これに対して密教は、日本天台宗の立てた密教である。最初、伝教大師は法華経を根本に、絶対妙の立場から密教を取り入れたが、第三代座主の慈覚・第五代座主智証は、法華経と大日経は円理において一致するが、事相においては大日経のほうが勝れていると主張したのである。
大聖人は、このように多少の違いはあっても、法華経を大日経より劣るとしている点では同じで、その法華経誹謗の根源は、中国へ真言宗を伝え、弘めた善無畏・金剛智・不空の三三蔵の邪義であると指摘されている。
ここで中国の真言宗について略述しておきたい。
善無畏は東インド烏仗那国・仏手王の子で出家修行の後、唐の長安にやってきて、玄宗皇帝に国師として迎えられたのが開元4年(0716)とされ、天台大師滅後119年にあたる。中国に初めて密教を伝え、大日経7巻など種々の密教教典を訳出した。同時代の金剛智・不空とともに三三蔵と呼ばれる。
善無畏が大日経を訳出したところ、中国の仏教界では中国の天台宗の一念三千の法門がすでに確立されていた。
そのため善無畏は、元天台宗の学僧だった一行をそそのかし、巧みに利用して、大日経の注釈、いわゆる大日経疏を書かせたのである。
そのとき、善無畏が一行に吹き込んだ内容について大聖人は撰時抄に次のように記されている。
「漢土にては 法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩タに向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にして これを見る、されば汝がかくべきやうは 大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」(0276-02)と。
そして、このようにともに一念三千を説いているから、法華経と大日経は、“理”のうえでは同じだが、印と真言を説く大日経は“事”のうえで勝れている。これはあたかも将軍が鎧・兜を着け、弓矢を横たえ、太刀を着しているようなものである。それに対して、法華経は赤裸の将軍のようなものである、といって一行を欺いたのである。
もとより、これは全くの作り事であったから、大日経疏ができた当初は、さすがに天台・真言の勝劣について盛んに論争が行われたが、時が経につれて、天台宗に天台大師ほどの知者が現れなかったこともあって、善無畏ら真言の勢力が強くなり、年々拡大していったのである。
日本の弘法ら三大師はそれぞれ渡唐して、この善無畏らの邪義を学び、これを日本に弘めたのである。
1291:01〜1291:06 第六章 善無畏の堕獄の相を示すtop
| 1291 01 問うて云く三大師の地獄へ堕つる証拠如何、 答えて云く善無畏三蔵は漢土日本国の真言宗の元祖なり彼の人す 02 でに頓死して閻魔のせめにあへり、 其のせめに値う事は他の失ならず 法華経は大日経に劣ると立てしゆへなり、 03 而るを此の失を知らずして 其の義をひろめたる慈覚・智証・地獄を脱るべしや、但し善無畏三蔵の閻魔のせめにあ 04 づかりし故をだにも・ たづねあきらめば此の事自然に顕れぬべし・善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は大日経 05 の疏に我とかかれて候上・日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり、 此れをもつて慈覚・智証等の失を 06 ば知るべし。 −−−−−― 問うて言う。弘法等の三大師が地獄に堕ちているという証拠はあるのか。 答えて言う。善無畏三蔵は中国・日本国の真言宗の元祖であるが、彼は頓死した時に地獄で閻魔王の責めにあったのである。善無畏が責められたのは、他の罪ではなく、法華経は大日経に劣るとの義を立てたからである。 そうであるのに、この失を知らないでその義を弘めた慈覚・智証も、地獄を免れるわけがない。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあった理由を少しでも明らかにしていくなら、三大師が地獄に堕ちたことは自然に明らかになる。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあって鉄縄七筋で縛られたことは大日経の疏に自分で書いているうえ、日本の山城醍醐の閻魔堂、相州鎌倉の閻魔堂に懸かっている画に明らかである。このことによって、その流れをくむ慈覚・智証等の失をしるべきである |
閻魔
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・?魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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大日経の疏
20巻。中国・唐代の善無畏述・一行記。大毘盧遮那成仏経疏という。略して大日経疏。開元13年(0725)に成る。善無畏の大日経翻訳後に一行に同経を講義した内容を筆記したもので、大日経7巻36品中、前6巻31品についての注釈である。大日経を中国仏教の立場から理解し、密教思想を組織立てたもので、権威ある密教理論の書とされた。日本において、東密では、弘法の伝えた大日経疏を用い、台密では慈覚・智証の伝えた大日経義釈を用いている。
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日本醍醐の閻魔堂
京都市伏見区にある醍醐派総本山の醍醐寺の閻魔堂のこと。閻魔堂は十王信仰の中心である?魔をまつる堂。宣陽門院親子の御願寺で、醍醐寺第11世成賢の建立。仏師・安阿弥作の閻魔象を本尊としている。
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相州鎌倉の閻魔堂
もと鎌倉の由比ヶ浜にあった新居の閻魔堂のこと。現在の円応寺。宝永元年(1704)に現在の地鎌倉市山ノ内に移った。閻魔象があり、その頭部は鎌倉時代の作とされている。寛永13年(1674)閻魔像修理の際、胎内の文書が発見され、それには、「建長二年(1250)出来、永正17年(1520)再興、仏師下野法眼如円、建長役人徳順判」とあったという。
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閻魔堂にあらわせり
善無畏の大日経疏巻5にあるように、閻魔王に呵責され、鉄の縄の跡がついている様子が描かれた絵がかかっていたと思われるが、詳細は不明。
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日本真言宗の元祖である弘法ら三大師が無間地獄に堕ちているというが、その証拠を示せとの問いに答え、弘法らの元祖というべき中国真言宗の善無畏三蔵が、地獄で閻魔大王の責めを受けたことを挙げられている。
このことは善無畏自から記していることであり、その理由を尋ね明らかにしていくならば、弘法ら三大師が地獄に堕ちたことはおのずから分かるであろうと説かれている。
本文で「彼はすでに頓死して閻魔のせめにあへり」と仰せられているのは、善無畏はあるとき、一時に頓死して、再び生き帰って語るには、地獄に堕ちて、二人の獄卒に鉄縄で七重に縛られ、閻魔大王の前に連れていかれた。そのとき、これまで修行した真言を思い出して唱えたが、獄卒の責めはますます激しくなるばかりだった。かろうじて、法華経の題目を念じたところ、首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品第三の「今此三界」の文を声高く唱えたところ、鉄縄が切れ、この世に帰されたというのである。
このことを大聖人は善無畏三蔵抄で「而るに此の三蔵一時に頓死ありき 数多の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり 閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり」(0886-18)と述べられている。
この話は、真言の教えによっては救われず、法華経こそ地獄の苦から救う法でることを示しているとともに、彼ほど仏教を修行した高僧がなぜ地獄に堕ちなければならなかったのを明かしている。
この善無畏が閻魔王の責めにあった理由は「他の失ならず法華経は大日経に劣ると立てくゆへ」だった。釈尊が説いた一代の諸教典中、最第一の法華経より大日経のほうが勝れているとし、法華経を下した謗法のためだったのである。
しかし、その後も密教を弘めた善無畏の臨終の様子は、彼の弟子の記録によると、身がふやけ、小さく縮まって、色が黒くなり、骨が現れたとある。
この善無畏の“失”を知らずして天台宗に取り入れ、理同事勝の邪義を弘めた慈覚・智証も、同様に堕地獄を免れることは不可能である。
ましてや弘法の場合は、大日経を法華経に比べて三重に劣ると誹謗したのであるから、その罪の大きさはひときわであることを知らねばならない。
善無畏が閻魔の責めにあったことは、本文で「大日経の疏に我とかかれて候」と述べられているように、ほかならぬ善無畏自らが大日経疏巻五のなかで告白していることなのだから、真言宗の側としても否定のしようがない。
このことは鎌倉時代、世間にかなり広く知られた話だったらしい。「日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」の御文、及び下山御消息の「閻魔堂の画を見よ」(0361-10)との仰せから推察すると、当時、京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした絵が掲げられていたのではないかと思われる。
こうした事実からも善無畏の流れをくむ弘法・慈覚・智証等の堕地獄は全く疑いをはさむ余地はないと言われているのである。
特に三大師のなかでも「慈覚・智証等の失をば知るべし」と訶責されているのは、比叡山延暦寺の座主でありながら、真言の邪義にかぶれて、伝教以来の天台法華宗の清流を真言の濁流に変えてしまった張本人だからであろう。教義的には弘法のほうが誹謗の度が重いが、立場からいうと慈覚・智証のほうが責任重大である。
大聖人は、彼らを善無畏・弘法・聖覚房に比べて「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279−12)と仰せられ、「されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず」(0279-18)として「師子の身の中の虫の師子を食う」(0280-04)ものであると断じられている。
1291:07〜1291:15 第七章 法華経と真言三部経の勝劣top
| 07 問うて云く法華経と大日の三部経の勝劣は経文如何、 答えて曰く法華経には諸経の中に於て最も其の上に在り 08 と説かれて此の法華経は一切経の頂上の法なりと云云、 大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻・已上十三巻の 09 内・法華経に勝ると申す 経文は一句一偈もこれなし、 但蘇悉地経計りにぞ三部の中に於て此の経を王と為すと申 10 す文候、 此れは大日の三部経の中の王なり全く一代の諸経の中の大王にはあらず、例せば本朝の王を大王といふ・ 11 此れは日本国の内の大王なり・全く漢土・月支の諸王に勝れたる大王にはあらず、 法華経は一代の一切経の中の王 12 たるのみならず・三世十方の一切の諸仏の所説の中の大王なり、 例せば大梵天王のごときんば諸の小王・転輪王・ 13 四天王・釈王・魔王等の一切の王に勝れたる大王なり、金剛頂経と申すは真言教の頂王・最勝王経と申すは外道・天 14 仙等の経の中の大王・全く一切経の中の頂王にはあらず、 法華経は一切経の頂上の宝珠なり、論師・人師をすてて 15 専ら経文をくらべば・ かくのごとし、 −−−−−― 問うて言う。法華経と大日経等の真言三部経との勝劣は、どのようなものか。 答えて言う。法華経には安楽行品第十四に「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」と説かれて、この法華経が一切経のなかで頂上の法であると述べられている。大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻の以上十三巻のなかに、法華経に勝るという経文は一句一偈もないのである。 ただ蘇悉地経だけに、三部経の中に於いて此の経を王とするという経文がある。これは大日経の三部経のなかでの王ということであって、釈尊一代の諸経のなかでの大王ということではない。例えば、日本国の王を大王という。これは、日本国の中の大王ということであって、中国・インドの諸王に勝った大王ということでは全くない。 法華経は釈尊一代の一切経のなかの王であるのみならず、三世十方の一切の諸仏のなかの大王であるようなものである。たとえば大梵天王が、あらゆる小王・転輪聖王・四天王・帝釈天王・魔王等の一切の王の中で最も勝れたる大王であるようなものである。 金剛頂経というのは真言教のなかの頂王であり、最勝王経というのは外道・天仙等の経の中の大王であり、一切経のなかでの頂王ではない。法華経は一切経の頂上の宝珠である。論師・人師の説を捨てもっぱら経文を比べるならばこのように明白なのである。 |
金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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一句一偈
経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432)とある。
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大梵天王
梵語マハーブラフマン。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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転輪王
転輪聖王のこと。インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
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四天王
四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由?陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
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釈王
帝釈天のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラの訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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魔王
第六天の魔王・他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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最勝王経
中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
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天仙
二天と三仙のこと。@二天とは、もとはインドのバラモン教の神で、シヴァとヴィシュヌのこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。A 三仙とは、インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・?楼僧?・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派の開祖。?楼僧?は、同じくインド六派哲学の一つ、勝論学派の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道の開祖であるといわれている。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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法華経と真言三部経との勝劣を説いた経文はあるのかとの問いに答えられている。
まず、法華経が一切経の頂王の法である証文として、法華経安楽行品の文を挙げられている。
すなわち同品には「諸教の中に於いて、最も其の上に在り」とある。他に同趣旨の文として薬王品には「諸教の中に於いて、最も為れ其の上なり」「此の経も亦復是の如し、諸教の中の王なり」とある。
更に法師品には「我が所説の経典、無量千万憶にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。
このように已今当の一切経のなかで法華経が最第一であると宣言されているのである。
これに対し、真言三部経が一切経が法華経に勝るとの文はどこにもない。ただ蘇悉地経だけに「三部の中に於いて此の経を王と為す」という文がみられる。それも蘇悉地経そのものの文ではなく、蘇悉地羯羅経略疏巻一という慈覚の釈の文である。
これは「三部の中に於いて」と断わられているように、真言三部経の中での王であって、一切経の中の王でないことは明らかである。
それに対して法華経は先述の経文が示すように、釈尊一代諸教中の王であるのみならず、三世十方の諸仏所説の大王なのである。
金剛頂経についても、真言宗では胎蔵界の大日経に対して金剛界の大経としているが、あくまで「真言教の頂王」にすぎない。
最勝王経もまたしかりである。正しくは今光明最勝王経というのが外道や天人・仙人等の所説の経と相対したうえでの最勝王というにすぎない。
法華経以外の経典は、文中でたとえ王であると言っても、それはある範囲内の王であるにすぎず、部分的なものでしかない。法華経のように一切経すべてと自経を比較して「頂王」であると説いた経文は他経には全くないのである。
このように経文自体を直接に検討し比較すれば明白なのであるが、諸宗の人々は論師・人師の説に振り回されて正しい判断ができないのである。
もとより仏法は「依法不依人」と涅槃経に説かれているように、善無畏や三三蔵や弘法などの論師・人師の主張や所論を捨ててもっぱら経文を根本として判釈すべきなのである。
1291:15〜1292:11 第八章 真言の元祖等の誑惑を破すtop
| 15 而るを天台宗・出来の後・月氏よりわたれる経論並に天竺・漢土にして立て 16 たる宗宗の元祖等・ 修羅心を・さしはさめるかのゆへに或は経論にわたくしの言をまじへて事を仏説によせ・或は 17 事を月氏の経によせなんどして・ 私の筆をそへ仏説のよしを称す、 善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定 18 むるに理同事勝と云云、 此れは仏意にはあらず、 仏説のごとくならば 大日経等は四十余年の内・四十余年の内 1292 01 にも華厳・般若等には及ぶべくもなし、 但阿含・小乗経にすこしいさてたる経なり、 而るを慈覚大師等は此の義 02 を弁えずして善無畏三蔵を重くをもうゆへに 理同事勝の義を実義とをもえり、弘法大師は又此等には・ にるべく 03 もなき僻人なり、 所謂法華経は大日経に劣るのみならず華厳経等にも・ をとれり等云云、而を此の邪義を人に信 04 ぜさせんために 或は大日如来より写瓶せりといゐ或は我まのあたり霊山にして・ きけりといゐ或は師の慧果和尚 05 の我をほめし 或は三鈷をなげたりなんど申し種種の誑言をかまへたり、 愚な者は今信をとる、又天台の真言師は 06 慈覚大師を本とせり、 叡山の三千人もこれを信ずる上・堕つて代代の賢王の御世に勅宣を下す、 其の勅宣のせん 07 は法華経と大日経とは同醍醐・譬へば鳥の両翼・人の左右の眼等云云、 今の世の一切の真言師は此の義をすぎず、 08 此等は螢火を日月に越ゆとをもひ 蚯蚓を花山より高しという義なり、 其の上一切の真言師は潅頂となづけて釈迦 09 仏を直ちにかきてしきまんだらとなづけて 弟子の足にふませ、 或は法華経の仏は無明に迷える仏・人の中のいぞ 10 のごとし真言師が履とりにも及ばずなんどふみにつくれり、 今の真言師は此の文を本疏となづけて 日日・夜夜に 11 談義して公家武家のいのりと・がうして・ををくの所領を知行し檀那をたぼらかす、 −−−−−― しかるに、中国に天台宗が成立した後に、インドから渡ってきた経論ならびに、インド・中国で開かれた諸宗の元祖等は、 修羅心をさしはさんだのであろう。あるいは経論に自らの言葉を加えながら、事を仏説に寄せ、あるいは事をインドの経に寄せなどして、自分の説を付け加えて仏説にあるなどと称したのである。善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定めるのに理同事勝と言った。しかし、これは仏意ではない。仏説のとおりに従えば大日経等は四十余年の内の経教であり、四十余年の経教のなかでも、華厳経・般若経等にも及ばない教えなのである。ただ阿含経の小乗経には少し勝れている程度の経である。それを慈覚大師等はこのことをわきまえずに、善無畏三蔵を重んじて理同事勝を実義と思い込んだのである。 弘法大師はまた慈覚等とは全く比べることもできないほどの僻人である。弘法は「法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にも劣る」と言っている。そのうえこの邪義を人々に信じさせるために、あるいは大日如来から相承した法門であるとか、あるいは霊鷲山でまのあたりに聴いた法門であるとか、あるいは慧果和尚が自分を褒めたとか、あるいは唐から日本に投げた三鈷の金剛杵が高野山にあった等のさまざまな嘘の話をつくったのである。それを愚かな人々は今でも真実であると思っているのである。 日本の天台宗のなかの真言師等は慈覚大師を源としている。比叡山の三千人の大衆が慈覚を信じたのみならず、代々の天皇もその治世に勅宣を下した。その勅宣の所詮の意は「法華経と大日経とは同じ醍醐味の教えであって、たとえば鳥の二つの翼、人の左右の眼のようなものである」ということである。現在の世の中の一切の真言師はこの義を出ないのである。これはあたかも螢を日月より明るいと思ったりミミズの作る山が華山より高いと思うのと同じ義である。そのうえ一切の真言師は潅頂と名づけて、釈迦仏を描き、敷曼荼羅と名づけて弟子の足で踏ませるのである。あるいは「法華経の仏は無明に迷う仏にすぎず、人のなかでいえば夷のようなものであり、真言師の履取りにも及ばない」と書いたのである。現在の真言師はこの文を本疏と名づけて日夜に談義し、公家・武家のために祈?するといって多くの領地をもらい檀那をたぶらかしているのである。 |
経範(1032〜1104)の著した「大師御行状集記」にある。弘法が青竜寺東塔院の慧果を訪れたとき、慧果は「和尚、見ながら笑みを含め、歓喜していわく『我、先に汝の来るを知れり、相待つこと久しき、今日相見ゆ』」と弘法こそ法を付嘱するひとであると喜び、また、灌頂のとき、胎蔵界漫荼羅の大日如来の上に花が落ちたことを見て再三にわたって弘法を賛嘆したという。
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慧果和尚
(0746〜0806)。中国唐代の僧。照応。陝西省臨潼県の人で、俗姓を馬という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(0805)弘法に教えを伝えた。
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三鈷をなげたり
経範(1032〜1104)の著した「大師御行状集記」にある。「伝に曰く、本朝に赴くに、船を泛るの日、海上において祈願発願して曰く、所学の教法、秘蔵に依って処を択び、我が朝において若し感応の地有らば、此の三鈷点に到るべしと、日本の方に向かって三鈷を抛げ上ぐなり。遥かに飛んで雲の中に入る」とあり、帰朝後、高野山に登山した時に山の中心と思われる所に三鈷があったとして「彼の海上に抛げし三鈷、今、此処に在り、これに因って、仏法興隆の地、此の外にあらざるを知るなり」と記している。
―――
三鈷
三鈷杵のこと。真言密教の祈?に用いる道具。鈷とはもと古代インドの武器で、仏教では法具となり、煩悩を破るとの意を持つ。金剛杵の一種で、手杵の形に似ており、両端に各三峰のあるものを三鈷という。三鈷は仏・連・金の三部、又は身・語・意の三密等三法の法門を表すとしている。
―――
誑言
でたらめな話。誑はいつわる・たぶらかすこと。「きょうげん」とも読む。
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叡山の三千人
比叡山延暦寺の僧の数。数字は「平家物語」等による。
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勅宣
勅命と宣旨。天子の命令、みことのり。
―――
法華経と大日経は同醍醐
智証の立てた邪義。日本三代実録巻13清和天皇定観8年6月3日の項に「止観・真言、その業異なりと雖も仏法を説尽し実教を究竟するに至っては其の一に致るなり。是を以って故に伝燈大法師位最澄、詳しく両業の一味を知り、誓って国を護らんとす。彼此の兼行、譬えば人の両目、鳥の両翼の如きものなり」と。また本朝高祖伝巻七円珍伝に詔勅として引用されている「真言止観両教の宗は同じく醍醐と号し、?に密秘と称す」の文などがある。
―――
醍醐
五味の一つ醍醐味のこと。@蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。A天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。
―――
しきまんだら
密教の灌頂のとき、壇上に敷く曼荼羅のこと。
―――
公家
朝廷に仕えるもののこと。本来は天皇・朝廷をさすが、武家に対して朝廷に仕えた貴族・官人の総称となった。
―――
武家
武士の家筋、幕府及び将軍家。およびそれに仕える守護・地頭・御家人以下の武士の総称。
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大日経等は小乗阿含経に少し優れているという程度の、大乗経のなかでは最も劣った経であるにもかかわらず善無畏が法華経に比べて理同事勝と立てたのは全く我見にすぎない。
ところが慈覚はこれを鵜呑みにし、次いで叡山の三千も皆これに同じたため、日本歴代の天皇もこれを信じてしまったことを述べられている。弘法はこれにいやます邪見で種々の妄説を構え、人々を欺いてきたと、その誑惑ぶりを破されている。
法華経は後秦の弘始8年(0406)に羅什三蔵が訳したものであり、大日経は唐の玄宗皇帝の開元4年(0714)に善無畏三蔵が天竺から伝えたもので300年もの次代差がある。
しかしその間、隋代に天台智が出現し、法華経を依経として天台宗を開創、釈尊一代の諸経を教相の上で五時八教に立て分けて法華経が釈尊一代の極説であることを明瞭にし、観心の法門として一念三千を説いている。
それゆえに大日経などは「天台宗・出来の後・月氏よりわたれる経論」なのである。
並びに「天竺・漢土にして立てたる宗宗の元祖」達は「修羅心を・さしはさめるかのゆへ」にと仰せのように、勝他の念盛んなところから「経論にわたくしの言をまじへて事を仏説によせ・或は事を月氏の経によせなんどして・私の筆をそへ」て、自らの所依の経典を、さも仏説であるかのように詐称してきたのである。
とりわけ善無畏らは法華経と大日経との勝劣を判釈するのに「私の筆をそへ」て理同事勝の釈をつくり、一念三千の理は法華経も大日経も同じであるが、法華経には印と真言がないので、事法では大日経に劣っているとしたのである。
まさしく「此れは仏意にあらず」で、己義以外のなにものでもない。しかも「理同」とするのは、天台大師の一念三千の法門を盗み入れたのであった。
大日経等には二乗作仏・久遠実成が説かれていないのであるから、一念三千の法理など、もともと存在しないのである。
このことを大聖人は、開目抄で「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて」(0215-18)と述べられている。
したがって「理同」などというのは、おこがましいかしりであり「天下第一の僻見なり此れ偏に修羅根性の法門」(1007-7)にほかならないのである。
また大日経には印と真言があり、法華経にはないから勝れているとする「事勝」についても、善無畏三蔵抄では「法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり」(0888-05)と簡単に退けられている。
印とは仏・菩薩の悟りの内容を表示する手つきや器具のことで、真言とは仏・菩薩の誓いや徳を示す秘密語である。
たしかに大日経には印・真言が数多く説かれているが、それは法華経の荘厳として説かれているものにすぎないのである。
更に法華真言勝劣事では「法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり」(0123-17)として、二乗作仏・久遠実成を説かない大日経には成仏の義が成立しないことになり、印・真言の事相があるといっても、所詮は虚妄であり、内容のない飾り物にすぎないと喝破されている。
むしろ、逆に印・真言があるということによって、仏教本来の精神から離れ、修行が形式的になったり、呪術的になるという弊害が生じたといっても過言ではないだろう。
事実、真言が密教として仏教に秘密の色彩を与え、真言の興隆によって仏教会全体に教義の合理的把握や実践の追究が薄れていったのは、後代の歴史が示すところであり、その責任ははなはだ重いといわなければあらない。
仏説に従うならば、無量義経で「四十余年には末だ真実を顕さず」と説かれているように、大日経等は爾前の方便権教に属し、また「四十余年」の経教の内でも華厳経や般若経にも及ばない経であり、ただ阿含小乗経と比べて、わずかに勝れている程度の経でしかないのである。
にもかかわらず、日本天台宗の座主・慈覚や智証等は、善無畏をあまりにも重視・重要したために、理同事勝という謬釈を真実義と信じ込んでしまい、叡山の大衆もこれにしたがったので、歴代の天皇も、この邪義を正しいと信じて勅宣にこれを謳うに至ったのである。
弘法大師空海の誑言
大聖人は「此等には・にるべくもなき僻人なり」として、日本真言宗の開祖・弘法大師空海が慈覚等よりはるかに邪悪な師であると指摘され、その種々の誑言を挙げられている。
すなわち「法華経は大日経に劣るのみならず華厳経等にも・をとれり」とか、彼が自著の「十住心論」のなかで、大日経の十住品によって十住心を論じ、第八法華・第九華厳・第十真言と立てたことをいう。
しかも彼は、この邪義を人々に信じさせるためにさまざまな虚言を構え、さも自分が大徳ある人物であるかのように画策したのである。
「大日如来より写瓶せり」とは、瓶の水を他の瓶に移し替えるように、大日如来から真言の秘法を直接伝承されたと吹聴したことをいう。
「我まのあたり霊山にして・きけりと」とは、自著「般若心経秘鍵」のなかで、「昔予鷲峰説法の筵に陪して、親りその深文を聞く」といった妄想を指す。
「師の慧果和尚の我をほめし」とは、入唐の修学の師である長安・青竜寺の慧果から「褒められた」と自賛したことである。
「三鈷をなげたり」とは、経範の著した「大師御行状集記」に「伝に曰く、本朝に赴くに、船を泛るの日、海上において若し感応の地有らば、此の三鈷点に到るべしと、日本の方に向かって三鈷を抛げ上ぐなり、遙かに飛んで雲の中に入る」と」あることをいわれている。
三鈷とは真言密教の祈?に用いる道具で、三鈷杵のこと。鈷は古代インドの武器であったが、仏教では煩悩を破るとの意義から法具とされた。手杵の形に似て先端が三つに分かれている。
弘法は、漢土から日本へ帰るとき、この三鈷を日本の方角へ投げたところ、三鈷がはるかに雲の中に隠れ、後日、紀州の高野山でそれが発見され、高野山こそ感応の地であるとして寺院を建立したという、まことにたわいない戯言のことである。
日蓮大聖人は「又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん」(0321-04)とそのからくりを指摘し、覆されている。
「愚な者は今信をとる」と仰せのように、宗教に無知な後世の人々は弘法のこうした誑言にたぶらかされて、俗に“大師といえば弘法”といわれるように、弘法を生き仏のごとく尊敬してきた。
現代でも真言宗の実態に無知なまま、四国四十八ヵ所巡りなど真言寺院へ足を運ぶ人が少なくない現状をみると、折伏による覚醒の必要性を痛感せずにはいられない。
慈覚・智証の真言転落
日本天台宗が真言密教に堕したのは、第三代座主・慈覚以降である。
法華経を大日経より劣るとの邪義を唱える真言宗に対して、本来ならば天台宗は厳然と破折すべきであるのに、逆に天台宗の座主自ら、真言は法華経に勝ると、邪義に同調したのであるから、その影響は甚大である。
比叡山延暦寺の三千人の学僧等が、その邪義に帰伏したのも当然のなりゆきであろう。
日蓮大聖人は三大秘法抄で「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023-01)とその汚濁ぶりを嘆かれている。
しかも、慈覚は時の第54代任明天皇に対し、鎮護国家の法を、これまでの法華経等の三部経を捨て、真言の三部経とする旨の奏問をし、真言密教の全国流通を企図したのである。
しかし慈覚はまもなく疫病にかかって死んだ。「代代の天皇の御世」とは第55代文徳天皇・第56代清和天皇と続くが、第五代座主・智証は慈覚に強い影響を受けたこともあり、慈覚の遺言にしたがって戦旨を願い、允可されて下されたのが「法華経と大日経は同醍醐・譬へば鳥の両翼・人の左右の眼等云云」という内容の勅宣だったという。
智証はまた弘法の甥でもあったから、弘法の教えにも相当影響されたと考えられる。
宣旨にみられる「法華経と大日経とは醍醐味」とは、弘法が顕密二教論で、爾前の六波羅蜜経によって五蔵教判を立て「総持を醍醐と称し四味を四蔵に譬う」と僻見にもとづくものであろう。
法華経を醍醐味とするのは、天台大師が涅槃経聖行品において、五時を五味にたとえ、五時八教の教判を立てるなかで、法華・涅槃経を醍醐味なりと決定したのであり、仏説である。
それを弘法は「振旦の人師等諍って醍醐を盗み各自宗に名づく」と、天台大師があたかも真言宗から盗み取ったかのように主張したのである。
事実は逆で、真言宗が盗人なのである。大聖人は諸御抄で、天台大師は陳隋の時代の人であり、六波羅蜜経の渡来は天台大師入滅192年後の唐の時代であって、まだ渡来していない経典から、どうして盗むことができようかと指摘されている。
慈覚は貞観6年(0864)智証は寛平3年(0891)の没とされているから、大聖人御出現時には、すでに400年を経ていることになるが、当今の一切の真言師は「此の義をすぎず」といわれているように、慈覚・智証の義を妄信していたのであった。
このように慈覚らは天台宗を堕落させてしまっただけでなく、日本全体に真言の邪義を弘める素地をつくった点で、この上ない大罪を犯したといえるのである。
真言の灌頂の儀式
「其の上一切の真言師は潅頂となづけて」といわれている潅頂とは、頂上に水を灌いで一定の資格を得たことを証明する儀式のことである。
真言密教では結縁灌頂と称し、仏縁を結んで印と真言を授け、頭から水を灌ぐ儀式を行う。この儀式の際、壇上に「敷曼荼羅」と称するものを敷く。
それは「釈迦仏を直ちにかきて」と述べられているように、釈尊等の一切の仏を集めて描いた曼荼羅で、これを敷いて弟子達の足で踏ませたのである。
高橋入道度のご返事には「一切の真言師は潅頂と申して釈迦仏等を八葉の蓮華にかきて此れを足にふみて秘事とするなり」(1462-07)と述べられている。
更に弘法は秘蔵宝鑰のなかで「法華の心」すなわち釈尊は「無明に迷える仏」であると下し、新義真言宗の祖である聖覚房は、密厳諸秘釈「舎利供養式」で、大日如来に対すれば釈尊は「真言師が履とりにも及ばず」と蔑んでいる。
これらの文書がいずれも経文に根拠のない邪説にすぎないことはいうまでもない。
当今の真言師はこの文書を本疏、すなわち一宗の根本とする疏として信奉し、日夜に談論しているのだから哀れとしかいいようがない。
しかも朝廷や将軍家等の武士階級に取り入り、へつらい、天下泰平・国土安穏の祈?と称して、多くの布施・所領をまんまとせしめ、その威光をかさに無知な壇信徒を巧みにたぶらかしてきたと、真言師の実態を糾明されている。
1292:11〜1292:16 第九章 真言堕地獄の現証を示すtop
| 11 事の心を案ずるに彼の大慢ば 12 ら門がごとく無垢論師にことならず、 此等は現身に阿鼻の大火を招くべき人人なれども 強敵のなければ・さてす 13 ぐるか、而りといへども其のしるし眼前にみへたり、 慈覚と智証との門家等・闘諍ひまなく・ 弘法と聖覚が末孫 14 が本寺と伝法院・叡山と薗城との相論は修羅と修羅と猿と犬とのごとし、 此等は慈覚の夢想に日をいるとみ・弘法 15 の現身妄語のすへか、 仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く 正法の者は爪上の土よりすくなかるべ 16 し、仏語まことなるかなや今日本国かの記にあたれり。 −−−−−― このことを考えてみると、真言師の姿は、外道の三神と釈迦像とを高座の足に作って我が徳は四聖よりも勝れていると言った大慢婆羅門や、世親菩薩を誹謗した無垢論師と同じである。真言師等は生きながら阿鼻地獄の大火に焼かれるべき人々であるが、強敵がいないのでその謗法の罪があらわれずに無事にいるであろうか。しかし、彼らが阿鼻地獄に堕ちる証拠は眼前にある。 慈覚と智証との門家等・闘諍がたえず、弘法が開いた高野山金剛峯寺と聖覚房覚?の開いた根来伝法院、比叡山と薗城寺との争いは、ちょうど修羅と修羅、猿と犬の闘争のようなものである。これらのことは慈覚が夢に日輪を射たことや、弘法が在世中に妄語を続けたからであろうか。 仏はこうした末代悪世を予言して「謗法の者は大地微塵より多く、正法を信ずる者は爪上の土よりも少ないだろう」と説いている。仏語まことなるかな、今、日本国はまさしくこの仏記に合致している。 |
無垢論師
5・6世紀ごろの人で小乗教の論師。梵名はヴィマラミトゥラといい、無垢友と訳す。大唐西域記
四によると、インドの迦逕弥羅国の人。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親の?舎論に論破された衆賢の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その請願が終わらぬうちに舌が五つに裂け、後悔しながら地獄に堕ちたという。
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現身
@現世に生きている身、現在の身。A仏・菩薩が衆生救済のために種々の身を化現することをいう。
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阿鼻の大火
阿鼻地獄のだいかのこと。阿鼻地獄は、 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大?熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大?熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て?慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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闘諍
戦い争うこと。
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聖覚
(1095〜1134)聖おき覚房覚鑁のこと。諡は興教大師。肥前藤津郡(佐賀県藤津郡)の人。幼少より仏道を志し、法相・三論を学び仁和寺の寛助僧正について得度し、密教の奥義を学ぶ。天承元年(1131)高野山に大伝法院を建立。長承3年(1134)鳥羽上皇の命を受けて大伝法院の座主となり、金剛峰寺を兼摂した。のち、金剛峰寺衆徒と対立し、ついに一門を率いて根来山に移り円明寺を建立した。死後、その門流が大伝法院を根来山に移し、新義真言宗として分立、覚鑁はその開祖とされる。覚鑁は密教の即身成仏を基にして浄土思想を取り入れて理論的に統一した。著書には「五輪九字明秘密釈」「密厳諸秘釈」10巻などがある。
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本寺と伝法院(の抗争)
真言宗総本山である金剛峰寺と伝法院との抗争をいう。長承元年(1132)小伝法院を改築して大伝法院を建立し、また密教院の落慶供養があった。この時、鳥羽上皇の宣院で紀伊の石出・弘田・岡田・山東・相賀・志富田の荘園の寄進があったが、このうち、相賀・志富田は古くから高野山の領地ではないかと批判が起こり、歴応年間(1338〜1341)まで抗争が続いた。長承3年(1134)5月8日、官符で大伝法院と密厳院を御所領としたことから、金剛峰寺側の反発を起こした。同年12月22日の宣院をもって、覚鑁が伝法院の座主と金剛峰寺の座主を兼任した。先例によって東寺の長者と金剛峰寺の座主を兼務していたことから金剛峰寺の座主職を削られた。この院宣に対して、東寺と金剛峰寺から反対の声があがり、これに相賀・志富田の所領問題、伝法院の興隆への反発力が加わった。翌長承4年(1135)2月、覚鑁は両座主を真誉に譲り、後に密厳院に閉居した。同年12月、金剛峰寺方は、相賀庄の問題に事をよせて兵を集め、伝法院、密厳院を急襲、伝法院側も院僧が甲冑を帯びて争ったが、敗れて覚鑁は密厳院を追われ、根来に逃れた。この時、本寺側は本院80余坊を破壊し、600余の住僧を追い出した。しかし、両寺の対立は続き、弘安9年(1286)、同10年と戦いが起こり、正応元年(1288)3月、伝法院・密厳院は根来の一乗山に移転し、金剛峰寺と分派した。
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本寺(真言宗)
金剛峰寺のこと。和歌山県伊都郡高野町にある真言宗の総本山。山号は高野山。日本真言宗の開祖・弘法が中国から帰朝後、弘仁10年(0819)に金堂を建立したのがその始まり。創建の当初は大塔・金堂・経蔵・食堂・僧房・穀屋・鐘楼などの名称であったが、平安中期の奥の院の建立、院政期の別所の乱立、さらに高野三方だけでなく、隠遁者の住所を含めた金剛峰寺と称した。現在では、女人堂をはじめ、薬師如来を本尊とする薬師堂、金輪仏頂等を本尊とする金輪堂、弘法の像を本尊とする主殿など多くの堂宇を擁し、真言密教の根本道場となっている。
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伝法院
和歌山県那賀郡岩田町根来にある真義真言宗の総本山、大伝法院のこと。根来寺ともいう。開基は覚鑁、本尊は胎内に鳥羽天皇修髪と伝えられる大日如来。大治5年(1130)覚鑁が高野山伝法院が建立し、天承元年(1131)勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)鳥羽上皇の勅願により、大伝法院の座主が金剛峰寺の座主を兼務すべしとの勅宣を受けた。以後、金剛峰寺との抗争が生じ、紛争が続くなかで、正応元年(1288)頼瑜は大伝法院と覚鑁の住房であった密厳院を根来に移した。これが新義派の起源となった。
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叡山と園城の相論
日本天台宗内での比叡山延暦寺と園城寺の抗争対立をいう。伝教大師滅後、第18代座主・慈覚大師良源(0912〜0985)が出て天台宗を興隆させた。良源は慈覚の流れをくむが、智証の流れをくむ園城寺の余慶(〜0991)も俊英の誉れが高かった。天元元年(0981)山門の末流が座主となっていた法性寺の座主に余慶が就任したことから山門と寺門の確執が表面化した。良源没後、山門側の尋禅(〜0990)が第19代座主となったが、第20代座主に余慶が就いたことから山門の大衆は朝廷からの使者を拒むなどの反対運動に出て、余慶はわずか3ヵ月で座主を下りた。正暦4年(0993)余慶の創立した岩倉大雲寺観音院の徒と山徒との紛争によって、山徒が山手院を焼き、房舍を毀したことから山門と寺門の対立が決定的となった。以後、永保6年(1081)山門が園城寺を焼き、堂宇20、塔一基、経蔵5ヶ所、神社9ヶ所、僧房182、経巻20,000余りが灰燼に帰した。その後、建保2年(1214)までの間に、山徒が園城寺を焼くこと5回に及んだ。
―――
園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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慈覚の夢想
慈覚大師伝によると、斉衡2年(0855)慈覚は蘇悉地経疏7巻等を造ったが、この注釈が果たして仏意に通じているかどうか迷った時、経疏を仏像の前に置き、七日七夜の間、祈願勤修した。五日の五更に夢を見た。「日輪を仰ぎ見るに、弓を以って之を射る。其の箭日輪に当たり、日輪即ち転動す。夢覚めての後、仏意を通達し、後世に伝うべきことを深悟す」とある。即ち、慈覚は自らの経疏が仏意に叶ったものであることを夢に見たことをいう。日蓮大聖人は報恩抄で、慈覚の夢想について次のように破折されている。「慈覚大師の夢に日輪をいしと弘法大師の大妄語に云く弘仁九年の春・大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云、成劫より已来・住劫の第九の減・已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし、慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事有りやいなや、修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、殷の紂王は日天を的にいて身を亡す、日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、命の云く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・かをほれりと云云、阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、我国は殊にいむべきゆめなり神をば天照という国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり、慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり」(0317-06)
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弘法の現身妄語
弘法が生きている間についた嘘を指す。三鈷のことなど、弘法の妄語は多いが、その中でも、般若心経の序には弘仁9年(0818)の春に大疫があり、この調伏のために祈願した時、夜に日輪が出現したと記されているが、夜中に太陽が出たという史実はない。
―――
妄語
偽りの言葉。嘘のこと。妄言ともいう。十悪のひとつ。四重禁のひとつ。
―――
謗法の者は大地微塵より多く
涅槃経33の文。「爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言わく、『是の土多きや、十方世界の地土多きや』迦葉菩薩、仏に白して言さく、『世尊・爪上の土は十方所有の土に比せざるなり』『善男子、人有り身を捨てて還つて人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くることを得、諸根完具して中国に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、解脱を得已りて能く涅槃に入るは、爪上の土の如く、人身を捨て已つて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱・常・楽・涅槃を得ざるは、十方界の所有の地土の如し。善男子、禁戒を護持して精勤を懈らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧 鬘 物用いず、一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是くの如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪を作り、僧 鬘 物を用い、一闡堤と作り、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し』とある。
―――――――――
弘法の流れを引く東密にせよ、慈覚・智証のながれを汲む台密にせよ、法華経誹謗の真言密教の僧らが無間地獄に堕ちる瑞相として、修羅闘諍に明け暮れている現状を指摘されている。
日蓮大聖人は真言の大謗法を見極められたうえで、真言師は古代インドにおける大慢婆羅門や、小乗をもって大乗をそしり、天親菩薩を排そうとして狂乱し、舌が八つに裂けたとされる無垢論師と同一であるとされている。
彼らが生身に堕獄したように、真言師らも「現身に阿鼻の大火を招くべき人人」だが、これまでその非法を糾弾する人がいなかったから、謗法の罪科が明らかにされないままでいたといわれる。
しかし「其のしるし眼前にみへたり」と、真言末流の間断なき対立・相克・闘諍の様相を示し、歴然たる現証とされているのである。
慈覚と智証門家の闘諍
その一つは慈覚門家と智証門家との争乱である。
園城寺は今の滋賀県大津市三井町にあり、地名から三井寺ともいわれている。智証がこの寺の出身だったため、比叡山と長年にわたって勢力争いが続き、兵戦や焼き打ちをたびたび繰り返した。
発端は第64代円融天皇文元4年(0981)に、比叡山第19代の尋禅座主が引退し、第20代座主に智証系の余慶が任命されたことに、慈覚門下が怒って讒訴したことによる。
以来、まさに「闘諍ひまなく」、おもに比叡山側から三井寺焼き打ちなどが続いた。そのため「園城寺をやき叡山をやく」(0311-01)始末を招き、慈覚と智証の本尊も焼失してしまったのである。
本寺と伝法院の抗争
もう一つは弘法と聖覚房の末孫にある本寺・金剛峯寺と根来の伝宝院との不和・対立である。
本寺の高野山金剛峯寺は、弘法が弘仁10年(0819)に金堂を建てたのが始まりで、真言密教の根本道場となってきた。
伝法院とは聖覚坊覚鑁が建立した寺院、現在の和歌山県岩出市根来にあり、地名から根来寺ともいう。天承元年(1131)に聖覚房が鳥羽上皇の勅許を得て高野山に開基した伝法院が始まりである。
聖覚房ほここで伝法会を修していたが、長承3年(1134)に金剛峯寺を兼任したため、金剛峯寺衆徒の反対にあい、保延6年(1140)焼き打ちにあい、現在の根来に逃れた。
両者の抗争はその後も続き、根来の衆は鎌倉中期に独立して新義真言宗を立てた、ここにいわゆる真言宗古義派と新義派の分裂が生じ、現在では古義が七派、新義は二派に分かれている。
このように台密のほうは山門と寺門、東密のほうは本寺と伝法院というように内部抗争を繰り返し、まさに「修羅と修羅と猿と犬」のごときありさまであった。これを、大聖人は報恩抄で「現身に無間地獄をかんぜり」(0311-02)といわれている。そして「此等は慈覚の夢想に日をいるとみ・弘法の現身妄語のすへか」と、元祖の非法ゆえの当然の結末であろうとされている。
慈覚の夢想に日をいる
「慈覚の夢想に日をいる」といわれている意味は、慈覚は漢土から帰国して、真言三部経のなかの金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経七巻の計十四巻を著したが、中身は理同事勝の邪義で、漢土における善無畏らの邪説を下敷きにしたものにすぎなかった。
この十四巻が慈覚自身にも、はたして仏意にかなうものなのか否かに自身がなかったらしく、比叡山東塔の総持院の本尊・大日如来の前に安置し「此の疏仏意に叶へりやいなやと」(0358-11)と祈ったのである。
するとある夜、太陽を矢で射落とした夢を見て「深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」(0281-09)と決意したという説を指しているといわれている。
日輪を射落とすというのは、ふつうは凶夢とされるが、慈覚は自分の智慧が大日如来の心に通じたものと解釈して吉夢とし、この夢をもって真言が法華経より勝れているという確信を得たというのである。
慈覚が夢を判断の根拠にしたことについて、日蓮大聖人は諸御抄で、日輪を射たのは諸仏に弓を引いたもので、亡国の先兆となる凶夢にほかならないとされ依法不依人の金言を引かれ「夢を本にはすべからず ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」(0282-01)と仰せになっている。
そして「日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか」(0282-08)と難じられ、いにしえの数々の事例を挙げて「此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて」(0282-15)と破折されている。
弘法の現身妄語
「弘法の現身妄語」は多くあり、第八章でも述べたが、それ以外では、弘仁9年(0818)の春、国中に疫病が流行したとき、弘法が般若心経で祈ったところ、疫病がやんだとともに、夜中に太陽が赫々と輝いたなどといっている。
弘任9年(0818)に疫病が流行したという歴史の記録はなく、まして夜中に太陽が出たという記録などどこにもない。もしこれが事実なら、万人が見たはずであり、歴史の記録に載せられないわけがないのである。
また弘法が中国から帰って真言宗を開こうとしたとき、朝廷に各宗の僧を集め、智拳の印を結んで南方へ向かったところ、面門が俄かに開いて金色の毘廬遮那になったという。
面門とは口のことであり、口を開けたら法身如来になったなどということは全く意味がなく、大聖人は、おそらく眉間白毫がにわかに開いて成仏の姿を現したと書くつもりで、誤って“面門”と書いたのであろう。「ぼう書をつくるゆへに・かかるあやまりあるか」(0320-11)と虚事たる所以を指摘されている。
結論として「いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし」(0321-05)とされ、そうした妄語・妄説は仏意にかなう証拠とはとうていできないと断じられている。
涅槃経には、魔が仏の形を現し、世間の人を信用させておいて、しかも仏法を破ると説かれているが、まさしく弘法・慈覚らはこれにあたるといえよう。
結局、慈覚・智証以後、叡山における法華経の正義は完全に失われ、真言密教の邪義に汚染されて「此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」(0309-06)という事態となったのである。
このことを本文で「仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く」と仰せられている。法華経流通分である涅槃経で、釈尊は滅後末法濁世の姿を「是等の涅槃経典を信ずる者は爪上の土の如く(中略)是の経を信ぜざるは十方界所有の地土の如し」と予言しているが、仏語に虚妄はなく「かの記」すなわちこの涅槃経の未来記どおり、一国謗法と化した日本の現状は、まさしくそれに符合するといわれている。
1292:17〜1293:08 第十章 宗祖自らの修学時代を回顧top
| 17 予はかつしろしめされて候がごとく 幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本 18 第一の智者となし給へ、 十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし、其の後先ず浄 1293 01 土宗・禅宗をきく.其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども.我が身の 02 不審はれがたき上・ 本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現 03 前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、 又法門によりては設い王のせめ 04 なりとも・はばかるべからず・何に況や其の已下の人をや、 父母・師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不 05 信はしらず・ ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに・三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等をば天 06 台・妙楽.伝教等は無間地獄とせめたれども.真言宗の善無畏三蔵・弘法大師.慈覚・智証等の僻見は・いまだ.せむる 07 人なし、善無畏・ 不空等の真言宗をすてて天台による事は 妙楽大師の記の十の後序並に伝教大師の依憑集にのせ 08 られたれども・いまだ・くはしからざればにや慈覚・智証の謬ゴは出来せるかと強盛にせむるなり。 −−−−−― 日蓮はこのことを、よくご存知のとおり、幼少のころから学問に心がけて、そのうえ十二歳の時から大虚空蔵菩薩の御宝前で「日本第一の智者とならし給え」と願をかけてきたのである。その願いはさまざまな理由があるが、今は詳しく書くことができない。その後まず浄土宗・禅宗の法門を聴聞し、さらに比叡山延暦寺・薗城寺・高野山で研鑚し、京の都や田舎などを巡って修行して自宗・他宗の法門を修学したが、我が身の不審は晴れなかった。 もともとの願いに「諸宗のいずれの宗にたいしても偏った心や執着はもつまい。いづれの宗であっても仏説に証拠があって、道理が分明であるものを用いよう。論師・訳者・人師によってはならない。ひたすら仏の経文を第一としよう。また法門の上では、たとえ国王の責めを受けてもはばかることはない。まして、それより以下の人々をや、父母・師兄等の教訓であっても用いることはない。人の信ずるか信じないとかにかかわらず、ただ経文のままに言い通していこう」と誓状を立てたのである。 そして三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等については天台大師・妙楽大師・伝教大師等が無間地獄と責めたけれども、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見については、いまだに責める人がいない。善無畏・不空等が真言宗を捨てて、天台大師の法門によったことは、妙楽大師の法華文句記の巻十の後序ならびに伝教大師の依憑集に載せられているが、いまだ詳しくはないので伝教大師の末流から慈覚・智証の誤りがでてきたのであろうかと、日蓮は強盛に責めているのである。 |
幼少の時より学問に心をかけし
日蓮大聖人は、天福元年(1233)御聖誕の地・小湊に近い清澄寺に登って修学された。本尊問答抄には「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」(0370-08)とある。
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虚空蔵菩薩
智慧と福徳を蔵することが大空にも似て広大無辺であるがゆえに、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すのに尽きることがない菩薩であるがゆえに虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に坐して五智宝冠をいただき、右手に智慧の利剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠を持っている等さまざまである。密教では胎蔵界漫荼羅虚空院の中尊とされている。大聖人が修学、出家された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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嘉祥
(0549〜0623)中国・隋代から唐代の人で、三論宗再興の祖。祖父または父がバルキア人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学ぶ。その後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」1巻、「中観論疏」10巻、「大乗玄論」5巻、「法華玄論」10巻、「法華遊意」1巻などがある。後年には、天台大師に帰依したといわれている。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道?が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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澄観
(0738〜0839)中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
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法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄ムが入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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慈恩
(0632〜0682)中国・唐代の法相宗の事実上の開祖。窺基のこと。姓は尉遅、慈恩寺に住んでいたので慈恩大師といわれ、大乗基とも呼ばれる。玄奘の弟子となり訳経に従事した。「成唯識論」を訳出し、また瑜伽論を学んだ。著書に「法華経玄賛」10巻、「大乗法苑義林章」7巻などがある。
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妙楽
(0711〜0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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記
妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
―――
記の十の後序
法華文句記巻十下の文。「敵、江准の四十余僧と往きて台山に礼す。因りて不空三蔵の門人含光の勅を奉じ、山に在りて修造するを見る。云わく、不空三蔵と親しく天竺に遊ぶ、彼に僧あり。問うて云く。大唐に天台の教迹あり、最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたりと。能くこれを訳して此の土に将至すべけんや。あに中国に法を失いてこれを四維に求むるに非ずや。而も此の方識ることあるもの少し、魯人の如きのみ。故に徳に厚く道に向かうものこれを仰ぎ敬わざるはなし、願くは、学者、力に随って称賛せよ」とある。
―――
依憑集
伝教大師が弘仁4年(0813)に著した書。本文は13章からなる。
内容は天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・華厳・三論・法相宗などが仏法の正義からはずれていることを破している。
―――
謬?
あやまり、間違い、誤謬のこと。
―――――――――
これまで展開されてきた真言宗の破折に関連して日蓮大聖人御自身の御半生を回顧されている。
日蓮大聖人が幼少の時に「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ」と回顧された御文は、本抄の他に二編ある。
すなわち清澄寺大衆中に「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(0893-06)と述べられている。
善無畏三蔵抄には「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき」(0888-09)と仰せである。
虚空蔵菩薩とは、その智慧・功徳・慈悲が虚空のように無尽蔵にあり、すべての衆生が求めるところのものを自在に与える能力を所有するところからこの名があるといわれる。
大聖人が修学のため天福元年(1333)「十二のとし」より登られた千光山清澄寺には、この寺の創建者・不思議法師の刻印と伝えられる虚空蔵菩薩が安置されていた。
その菩薩に「日本第一の知者となし給へ」と祈願されたところ、明星のような智慧の法珠を授かるという不思議な体験をなされたのである。
「其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」と仰せられているが、これについて日蓮大聖人伝には「この事実は一切衆生を救わんとされる蓮長の誓願と、本然にそなわるところの智慧が内薫してもたらされた法界の妙用」と拝される。
そして修学と思索に努めるなかで、いくつかの不審にぶつかる。それは諸御抄によれば、
@鎮護国家の大法とされた真言密教をもって祈?しながら、なぜ承久の乱で朝廷側が臣下である鎌倉幕府に敗れ、三上皇が遠島流罪されたのか。祈りとは逆の現象が出ている。
A念仏宗等の行者らが、なぜ臨終に悪相を現ずるのか。
B真言等の諸宗はそれこそ「我が宗こそ仏意にかなえり」としているが、釈尊所説の本意にかなう宗旨は一つであり、最勝の経はただ一経のはずである。
等々の疑念であった。
しかし清澄寺は安房第一の名刹といっても「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」(0370-09)という状態で、所蔵の経釈も十分になく、指導を受けるべき学匠もいなかったようであり、師の道善房も「愚癡におはする上念仏者」(0888-18)で、それらの根本的不審を晴らす力は到底なかったのである。
その不審を晴らすべく、鎌倉をはじめ諸国遊学の旅に発たれたのである。延応元年(1239)の春、御年18歳であられた。
そのころの鎌倉は、すでに仏教隆昌の機運が盛んで、諸宗諸派が競い合い、大寺巨刹が相次いで建立されつつあった。
「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく」と仰せのように、大聖人が初めに着目されたのは浄土宗と禅宗の法義であった。浄土宗は庶民の間に、禅宗は武士階級に最も盛んに信仰されていたからである。
鎌倉での4年の遊学を終えた後、更に諸宗諸教の勝劣浅深を確かめ、仏法の奥義を見極めるために、仁治3年(1242)21歳の御時、日本仏教の中心ともいうべき比叡山延暦寺へ向かわれたのである。
それはたんに台家を修学するだけではなく、法華一乗の奥旨と経証を確認し、あわせて当時の叡山の実態をありのままに知見するためであった。
更に叡山を、いわば拠点として諸宗の肝要を修学すべく、近国の諸宗の諸寺を歴訪されている。本文に「其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども」といわれているとおりである。
こうして真剣な修学研鑽に精励されたのも、諸宗の法義では「我が身の不審はれがたき上」といわれているように、おおむね予測なされていたこととはいえ、大きな失望を覚えられたことがうかがえる。
修学にあたっては本来の誓願として、次のごとく決意されたことがうかがえる。
@いずれの宗に対しても、偏った執心をもたない。
Aいずれの宗であれ、経証が明らかで道理が判然としているものを用いる。
B論師・訳者・人師等の言説によらず、もっぱら釈尊の説いた経文を根本とする。いわゆる依法不依人の金言を依処とされた。
C法門の正邪・勝劣に関しては、たとえ国王の責めを受けても屈しない。迎合しない「其の已下の人」においてはなおさらである。
D同様に大恩ある父母・師兄等から翻意を促す教訓があっても用いない。
E人々が信ずると否とにかかわらず、ただ真実をありのままに説く。
この御誓言には、仏法者の基本姿勢である「仏説・経典を根本の依処とする」との厳然たる態度が拝される。
既成・新興を問わず諸宗諸派が乱立する現代社会にあっても、正法正義を選択するうえで、これにまさる明快な基準・原理はない。また毅然として揺るぎない正法受持の姿勢を教示されているともいえる。
日蓮大聖人がこの20年間にわたる修学研鑽によって自得されたことは、一つには「後五百歳白法隠没」の的中と「法華最為第一」の確信であった。
つまり叡山は真言の邪義に誑惑されて、開祖伝教大師の本意たる法華一乗の正義を滅失し、真言は歴代天皇の庇護のもと、加持祈?のみに執して、主師親の三徳具備の釈尊を否定する悪法を世間に定着させつつある。
その他の諸宗はことごとく時機を忘失し、いずれも釈尊の本義に違背している。これらの邪法邪義の横行が一切の災禍の根源であり、安国への道は釈尊出世の本懐たる唯一無上の法華経の広宣流布以外にないということであった。
二つは、大聖人御自身こそ、法華経に予言された本化上行菩薩の再誕であり、法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘通する使命をもつ者であるとの自覚に、深く立たれたと拝される。
諸宗への破折は、過去の像法時代において、正師である天台・妙楽・伝教大師等が、三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩・南都六宗の碩学等に対して、諸宗は無間地獄の業因として厳しく責め、なかには法華の正義に帰伏した者もいたが、善無畏らの僻見についてはこれまで「いまだ・せむる人なし」だったのである。
ただ、妙楽大師の「記の十の後序」と、伝教大師の「依憑集」のなかに、真言宗を捨てて天台法華宗によるべきことが記述されているが、真言が一宗として成立していなかった時代背景もあり、わずかに勝劣に触れる程度だったのである。
そうした事情から「いまだ・くはしからざればにや」といわれ、そのために「慈覚・智証の謬?は出来せるか」と、大聖人はその実態を見極められたのである。
妙楽・伝教大師の真言破折
妙楽大師の法華文句記巻十の末の内容というのは、中国真言の三三蔵の一人である不空の弟子含光が、真言宗は天台宗には及ばないと悔いたという話を書き記していることをいわれる。
この含光の話は「宋高僧伝」に大要次のようにでている。
含光は不空三蔵の弟子となり、不空が西域に帰るとき従ったが、後に不空とともに再び中国へ帰った。たまたま妙楽大師と会った時に、西域での求法の状態を尋ねられ「彼の国の僧らは天台の教法を慕っており、『縁があって再びくることがあれば、天台の教法を翻訳して持ってきてもらいたい』と、大変丁重に頼まれた」と答えた。
この含光の内容を、伝教大師は依憑集という書で引用しているのである。
伝教大師は南都六宗を破して、法華経が諸教のうちで第一であることを明らかにしたが、それだけでは世界の人々の疑いを晴らすことができなかったので、延暦23年(0804)に中国に渡り、天台宗の奥義を受け、真言の教義を学んで帰朝し、天皇には法華経の極理を授け、六宗の僧には真言を習わせている。しかし、理同事勝というのは善無畏の誤りであることを以前から見抜いていたので、天台宗が勝れ、真言が劣るということを明らかにして依憑集を著したのである。
この依憑集は依憑天台集といって、天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・三論・華厳・法相などの諸宗が仏法の正義からはずれていることを示したものであり、その序文においても「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す」と破折している。
この「筆授の相承を泯し」とは、元天台僧であった一行の著した大日経疏は、天台法華宗の立場で大日経を解釈して、大日経と法華経の理は同じものであり、日本の真言宗が大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立てることは、この筆授の相承を無視し、背いていることになるとの意味である。もとより大日経疏も誤りだが、弘法はそれに輪をかけて誤りを広げたわけである。
伝教大師はそれのみならず、真言宗の“宗”の一字を削って一宗として認めることはせず、真言を天台の一分科としたのである。
このことについては聖密房御書に「伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と 正くのせられて真言宗の名をけづられたり」(0899-10)と仰せである。
伝教大師が真言宗をはっきり破折しなかったのは報恩抄によると、一つには当時・出世の大事たる大乗別受戒の大戒壇を我が国に建立するため、これをめぐって、諸宗との諍論が激しい時代であったこともあり、真言との争いにかかっていては、大事な目的である円頓戒壇の建立に支障をきたす恐れがあるとかんがえられたのであろうか。天台・真言の二宗の勝劣については、弟子達にもはっきり教えなかったようである。二つには末法の時代に譲られたものと思われる。
1293:09〜1293:16 第11章 立教開宗後の諸宗破折を述べるtop
| 09 かく申す程に年卅二・建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真言宗等をせむるほどに・念 10 仏者等始にはあなづる、 日蓮いかに・かしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等には・すぐべからず、彼の人人 11 だにもはじめは法然上人をなんぜしが 後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、 日蓮は・かれがご 12 とし我つめん我つめんとはやりし程に、 いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽等をせめず、 又経の権実 13 を・いわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、 今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部 14 経を法華経に・をしあはせて・せむるゆへに、螢火に日月・江河に大海のやうなる上・念仏は仏のしばらくの戯論の 15 法・実にこれをもつて生死を・ はなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり・大山をになて嶮難を越ゆるがご 16 としと難ぜしかば・面をむかうる念仏者なし。 −−−−−― このようにして日蓮は三十二歳の時、建長五年の春のころから、念仏宗と禅宗を責め始めて、後に真言宗等を攻めたてたのである。念仏者等ははじめは侮って「日蓮がいかに賢くとも、明円房・公胤僧上・顕真座主等には及ぶはずがない。彼の人々さえも初めは法然上人を非難したが、後にはみな法然上人の弟子となり、あるいは門家となったのである。日蓮もそうなるであろう」といって、我も我もと日蓮を難じ詰めようとしたのである。しかし、昔の人々はただ法然を非難して、その源である善導・道綽等を責めず、また経の権実を言わなかったので、かえって念仏者が驕り高ぶったのである。そこで、日蓮は善導・法然等をば無間地獄に突き落とし、浄土三部経を法華経に引き合わせて責めたので、あたかも螢火に日月、江河に大海をつき合せたようなものであった。そのうえ、念仏は仏の方便の教えである。この教えで生死を離れようとするのは、大石で造った船で大海を渡り、大山を背負って嶮しい坂を越えるようなものである、と論難したところ、日蓮に面を向けてくる念仏者は一人もなかったのである。 |
建長五年の春の此
建長5年(1253)4月28日、日蓮大聖人が32歳の御時、立教開宗されたことをいう。このことについて、清澄寺大衆中には「建長五年四月二十八日安房の国東条の郷 清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」(0894-04)とあり、聖人御難事にも「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや 今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり」(1189-01)とある。
―――
明円房
平安末期から鎌倉初期の僧。天台宗と思われる。円行大師行状画図翼賛巻17によれば、上野国の僧。遊行聖が来て念仏をひろめていったある日、京都安居院の聖覚法院が夢に現れ、極楽往生の次第について語った。明円はこのことを鎌倉の鶴岡八幡宮の真智房隆宣に確かめに鎌倉にのぼった。隆宣から聖覚について聞き、さらに京都の安居院の旧跡をたずね、嫡弟の憲実法印にあって夢にあらわれた聖覚の行状が真実であったと知り、専修念仏に帰依し、聖覚の墓に毎年詣でたという。
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公胤僧上
(1145〜1216)平安末期から鎌倉初期の天台宗・園城寺の学僧。本朝高祖伝巻13によると、中院右少将憲俊の子。園城寺に投じ、明王院に住して研鑽に励み、権僧正に任じ、長吏となる。法然の選択集を批判し、「決疑抄」3巻を著した。この書を弟子の学乗房に渡すが、「浄土門の意は観経前後の諸大乗経をすべて往生の行に摂するのであって、法華経を捨てるのではない」と反駁され、念仏に帰したという。
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顕真座主
(1130〜1192)比叡山延暦寺第61代座主。本朝高僧伝12によると、美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、秘密灌頂の法印実相を受ける。文治2年(1186)顕真は法然を大原の勝林院に招いて、専修念仏の義を問い、道綽・善導の釈義を用いて答える法然を信じ、余行を捨てて念仏に帰したという。
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法然上人
(1133〜1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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善導
(0613〜0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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道綽
(0562〜0645)浄土宗七祖の第四祖。中国唐代の僧で、14歳で出家し、讃禅師に師事して空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門にきえした。貞観2年(0645)84歳で死去した。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として、釈迦一代仏教を誹謗した。
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浄土の三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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権実
権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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戯論
児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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日蓮大聖人は叡山等で修学を通じて万全の準備をされたうえで御年32歳の建長5年(1253)4月28日、安房国清澄寺で立教開宗された。以来、最初は新興の念仏宗・禅宗を責め、後に真言宗等を破されたのである。大聖人の御化導の順序は、守護国家論、立正安国論など、宗旨建立間もない御書にみられるように、主として念仏宗から始まって禅宗と続き、真言宗に対する全面的な破折は佐渡以降である。
念仏者らは立教当初の日蓮大聖人を侮っていた。それというのも、過去に念仏の教義に伏したといわれる明円房・公胤僧正・顕真座主といった高僧と比べれば、大聖人がいかに才智あるといっても、まだ劣るだろうと過少評価していたからである。
これらの高僧も、最初は浄土宗の開祖・法然に敵対し、念仏を非難したが、後には専修念仏の義に信順するようになったのだから、大聖人も「かれがごとし」と軽視したのも無理なからぬことだったのであろう。
しかし、過去に高僧といわれる人々が念仏を責め切れなかったのは、彼らがただ法然だけを責めて、その本源である中国の善導等の邪見を破らなかったからであり、また浄土三部経と法華経との権実を判じなかったかたである。
日本の念仏宗は、中国の曇鸞・道綽・善導の誤りを受け継いだ源空法然によって弘まった。
念仏の要義である聖道門・浄土門の名目を立てたのは道綽であり、竜樹菩薩の立てた雑行道・易行道を聖道門・浄土門に配したのは曇鸞である。正雑二行を立て、雑行の者は千中無一であり、正行の者は十即十生と唱えたのが善導である。
建久9年(1198)3月、法然がこれらの人師の邪義をすべて取り入れて選択集を完成して発表し、これが専修念仏が国中に弘まっている根源となったのである。
法然の念仏が仏法破壊の邪義であることは、当時の人々も気づいた。ゆえに天台宗の僧等のなかには、これを制止しようと運動した人もいたほどである。また歴代の天皇による念仏停止の宣旨や将軍家の御教書に出されたりした。だが、当時の末法思想と世の混乱からくる無常観・厭世観に乗じ、また先述の明円房等の現出もあってますます弘まり、ついには天皇まで念仏を信じるようになってしまったのである。
この念仏に対して、日蓮大聖人は経文を鏡として、天台大師・伝教大師の用いた教判である権実相対によって、善導等の人師と法然とを一括し、彼らの依経である浄土三部経を方便権教であり、無得道の教えであると師子吼されたのである。
その結果「面をむかうる念仏者なし」と仰せのように、大聖人と対論できる念仏者は皆無となった。
このことは念仏者にかぎらず、あらゆる邪悪な宗教についてもいえることだが、あくまで経文を根本として、元祖である人師論師の誤りを打ちやぶらなければ、その邪法を断つことはできないという原理を教えられたものと拝される。
1293:17〜1294:06 第12章 諸宗による迫害の実情top
| 17 後には天台宗の人人を.かたらひて・どしうちにせんと・せしかども.それもかなはず、天台宗の人人も・せめら 18 れしかば在家出家の心ある人人・少少念仏と禅宗とをすつ、 念仏者・禅宗・律僧等我が智力叶わざるゆへに諸宗に 1294 01 入りあるきて種種の讒奏をなす、 在家の人人は不審あるゆへに 各各の持僧等或は真言師 或は念仏者或はふるき 02 天台宗或は禅宗或は律僧等をわきにはさみて 或は日蓮が住処に向い或はかしこへよぶ、 而れども一言二言にはす 03 ぎず・迦旃延が外道をせめしがごとく徳慧菩薩が摩沓婆をつめしがごとく・せめしゆへに其の力及ばず、 人は智か 04 しこき者すくなきかのゆへに 結句は念仏者等をば・つめさせてかなはぬところには・ 大名して・ものをぼへぬ侍 05 どもたのしくて先後も弁えぬ在家の徳人等挙て 日蓮をあだするほどに・或は私に狼藉をいたして日蓮が・かたの者 06 を打ち或は所ををひ或は地をたて・或はかんだうをなす事かずをしらず、 −−−−−― その後、天台宗の人々を味方にして日蓮と同士打ちをさせようとした者もいたけれども、それもできなかった。天台宗の人々も日蓮に責められたから、在家・出家である人々が少しは念仏宗と禅宗を捨てたのである。 このようにして、念仏者・禅宗・律僧等は自らの智慧では日蓮にかなわないので、諸宗の人々を誘ってさまざまな讒奏をしたのである。 在家の人々は、この不審を晴らそうと、それぞれの帰依する真言師や、あるいは念仏者、あるいは古い天台宗、あるいは禅宗、あるいは律宗の僧をつれて日蓮が住処にきて法論したり、あるいは自分のところへ日蓮を呼んだりした。しかし、彼らは、一言か二言で言葉が詰まってしまうのである。あたかも迦旃延が外道を訶責したように、徳慧菩薩が摩沓婆外道を問い詰めたように破折したので、彼らの力が及ぶことはなかった。 人々のなかに智慧の賢い人が少ないせいか、結局は念仏者等に論議させて日蓮にかなわないときは、名ばかりで道理をも知らない侍等、面白半分で前後を考えない有力者等を誘って、日蓮に怨をしたのである。そうして、あるいはひそかに日蓮の味方を打ったり、あるいは居所を追ったり、あるいは領地を奪ったり、あるいは勘当をしたりすること等が数を知れないのである。 |
在家
家に在るの意味。出家に対する語。自ら生計を立てて生活する人のこと。
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出家
世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
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迦旃延
梵語カーティヤーヤナ(katy?y?na)の音写で、迦多衍那・迦底耶夜那とも書く。尊称して摩訶迦延。好眉・文飾・扇縄などと訳す。釈尊声聞十大弟子の一人で、よく外道を論破し論議第一といわれる。
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徳慧菩薩
5世紀ごろの南インドの学僧。唯識十大論師の一人。瞿那末底・求那摩諦と漢訳する。大唐西域記巻は8によれば、マカダ国で外道の摩香婆を論破し、国主の帰依を受けたという。後に那爛陀寺に住して、学識・名声が高かった。著書に「唯識三十頌釈」などがある。
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摩沓婆
5世紀ごろマカダ国の経論派の外道。大唐西域記巻8によると、高才な学者であったが、国主・大臣・士庶・豪族等の前で徳慧菩薩に論破されて、6日目に血を吐いて死んだという。
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徳人
@裕福な人・財産家・金持ちA徳の備わった人。
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狼藉
@乱暴なさま、散らかっているさま、狼が草を敷いて寝た跡。A無法な行為、乱暴。
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かんだう
@勘えあてること、調査してけっていすること。A罪を勘案し、刑をあてること。B譴責すること、されること。C親子・主従関係を断つこと。
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法論では日蓮大聖人にかなはないと知った念仏者らが、在家の有力者をそそのかして大聖人一門に迫害を加えてきたことを述べられている。
まず、日蓮大聖人に摧破された念仏者がその後に画策したことは、天台宗の学者をたぼらかして味方にし、法華経を依経とする大聖人と“同士打ち”させることだったが、この企画も失敗に終わっただけでなく、大聖人から逆に破折された僧侶のなかでも心ある人々は、少々だったが念仏や禅宗を捨てて正法に帰依したのである。
おそらくこの「心ある人人」とは、立宗直後入信した、僧では天台僧だった日昭、俗では富木常忍、四条金吾頼基も含まれていると思われる。
そこで念仏・禅・律等の僧は、自分たちの智力では到底対抗できないので、諸宗の間を渡り歩き、いわば連合して讒奏を試みたのである。
在家の人々は自らの不審を晴らそうとして、それぞれが諸宗の僧などを伴い味方にして、大挙して大聖人の草庵に押し寄せ、あるいは呼び寄せるなどして、問答対論し、大聖人を摧破しようとしたが、かえって「一言二言」で、大聖人によって打ち破られてしまったのであった。
そのありさまは、あたかも釈尊十大弟子の一人で、議論第一といわれた迦旃延が外道を責めたように、また5世紀ごろ、南インドの学僧で、唯識十大論師の一人といわれた徳慧菩薩が摩沓婆を論破したように、実に明快痛烈なものだったから、彼らのもくろみも挫折し失敗に終わったのである。
そこで結局は暴力を頼ることになり、厚顔無恥で貞操のない者達を誘って、なりふりかまわず、寄ってたかって大聖人に迫害を加えたのである。
しかも「私に狼藉をいたして」といわれるように、ひそかに乱暴して大聖人門下を打ったり、あるいは住居を追ったり、あるいは所領を奪ったり、あるいは勘当したりするなど「かずをしらず」というほどの狼藉が相次いだのである。
1294:06〜1294:10 第13章 松葉ヶ谷法難・伊豆流罪を述ぶtop
| 06 上に奏すれども人の主となる人は・さす 07 が戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・ なされざりしかば・きりものども・よりあひ 08 てまちうど等をかたらひて 数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わんとせしほどに・ 十羅刹の御計らいにてやあ 09 りけん日蓮其の難を脱れしかば・両国の吏・ 心をあわせたる事なれば殺されぬを・とがにして伊豆の国へながされ 10 ぬ、最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ。 −−−−−― また日蓮を幕府に訴えたけれども、さすがに人々の主君となって政治を執る人は、威徳といい、福徳といい、何か子細あるにちがいないと思われて、軽率に処刑されることがなかったのである。そこで権力を誇る人々が寄り集まり、町人等を集めて、数万人の人々が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を殺そうとしたのである。しかし十羅刹の御計らいであろか、日蓮はその難をのがれたのである。そこで、相模と伊豆の両国の役人等が示し合わせ、日蓮が殺されなかったことをとがにして伊豆国に流罪したのである。しかし最明寺殿だけは、この流罪は何か子細あると思われて、二年後には赦されたのである。 |
戒力
戒を持って得た力。功徳力。
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福田
@福徳を生ずる田、仏・僧侶にあたる。田畑が作物を実らせるように、仏や僧侶を恭敬し、供養することによって、福徳を生ずることが田のようであるから、こういう。A善事を行うこと。B人に幸福になる素質があることを田にたとえる。
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きりもの
主君に寵愛されて権勢をもつもの。きりびとともいう。
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まちうど
町に住む職人や商人のこと。町民。
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数万人の者をもって夜中にをしよせ(28・破良観御書13)
文応元年(1260)8月27日の松葉ケ谷の法難をいう。立正安国上呈の40日あまりの後に起こった法難。念仏者を主とする暴徒が夜半に松葉ケ谷の草庵を襲撃した。幕府の重臣である北条重時も領解していたと思われる襲撃であったが、大聖人は諸天善神の計らいによって、虎口を脱したのである。下山御消息には「国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ」(0355-04)とある。
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十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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伊豆の国へながされぬ
伊豆流罪のこと。弘長元年(1261)5月12日〜弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。
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最明寺殿
北条時頼(1227〜1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
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念仏者が幕府に働きかけて大聖人を弾圧しようとしたが、用いられなかったので暴徒をかたらって松葉ヶ谷の御草案を襲ったこと、その後、ようやく大聖人を流罪したが、時頼がこれを赦免にした経緯について述べられている。
「上に奏すれども」とは、大聖人が立証安国論を上呈されたことに対し、念仏者らが大聖人を処刑するよう幕府に意見を具申したことであろう。
「人の主となる人」とは北条時頼のことである。時頼は康元元年(1256)11月に第5代執権の地位を退いて最明寺に出家し、最明寺入道と呼ばれていた。
第6代執権には北条長時がついたが、実質的な権力は、依然として得宗である時頼が握っていたのである。
時頼はさすがに他者とは異なり讒奏があっても、胸中では「子細あるべきかとをもひて」軽率に刑罰には踏み切らなかったのである。
そこで「きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて」と仰せのように、権力者や町人等が寄り集まり、大聖人を亡き者にしようと、松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのである。文応元年(1260)8月27日夜の松葉ヶ谷の法難がそれである。
その「きりものども」とは、執権北条長時の父・極楽寺入道重時であり、大仏朝直などの権力者だった。特にその中心人物でる重時は、信仰上、大聖人に怨恨を抱いていたのみでなく、安房国東条郷の地頭・東条景信に通じており、景信からも大聖人の悪口を耳にいていたと考えられる。
夜のしじまを破って松葉ヶ谷の草庵に殺到した念仏者たちは、その数「数万人」と表現されるほどの大勢であった。
しかし「日蓮が未だ生きたる不思議なり」(0355-07)と仰せのように、大聖人を殺害することはできなかった。大聖人はおそらく名越の山道を通って難をさけられたのであろう。
このように大勢の暴徒によって、殺害を目的として襲われた場合、生きて脱出することは至難だったであろう。
それゆえに本文で「十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れし」と仰せになっているのである。
下総の富木常忍は、草庵襲撃の知らせを聞き、急いで使いの者を派遣し、海路、大聖人を葛飾郡八幡庄の自邸にお迎えしたといわれる。
松葉ヶ谷の草庵襲撃によって、日蓮大聖人は亡くなられたものと鎌倉の人は思っていた。ところがその大聖人が再び鎌倉へ戻られて弘経を開始されたのである。
執権長時は、今度は自らが命じて大聖人を捕えて、理不尽にも伊豆流罪を決定したのである。「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」と、大聖人は仰せになっている。
長時は、大聖人を伊豆流罪にする法的根拠を、おそらく「貞永式目」の第12条「悪口の咎の事」に求めたと思われる。しかしその条文は所領の訴訟に関するものであり、告訴者と被告訴者との間の悪口に対して定めたものであった。
「理不尽の政道出来す」(0351-18)「御式目をも破らるるか」(0355-08)といわれているとおり、全くおのれの都合のいいように法を解釈したものだった。
いずれにせよ、伊豆流罪は憎悪から発した処置だったことは確かである。
流罪の日は、弘長元年(1261)5月12日、大聖人40歳であられた
伊豆流罪は1年9ヵ月後の弘長3年(1263)2月22日、北条時頼の処置によって赦免状が発せられた。
もともと伊豆流罪は北条重時・長時父子と念仏者らの策謀による全くの冤罪であったが、その張本人である極楽寺重時は、大聖人を流罪に処した翌月、にわかに病に倒れ、夜ごと発作が高じて発狂状態となり、弘長元年(1261)11月、64歳で死んでいる。この重時の狂死した事実を幕府は深刻に受け止めざるをえなかったであろう。また時頼自らが赦免の処置をとったことを「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ」と仰せになっている。
1294:11〜1294:14 第14章 忍難弘通の御覚悟を述ぶtop
| 11 さりし程に最明寺入道殿隠れさせ給いしかば・いかにも此の事あしくなりなんず、 いそぎかくるべき世なりと 12 は・をもひしかども・これにつけても法華経のかたうど・ つよくせば一定事いで来るならば身命を・すつるにてこ 13 そ・あらめと思い切りしかば讒奏の人人いよいよ・かずをしらず、 上下万人・皆父母のかたきとわりをみるがごと 14 し、不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがう事なし。 −−−−−― そのうちに最明寺入道殿が死去されたので、日蓮に不利になるであろうから、早く山林に退こうとも考えたが、むしろ、ますます強く法華経の味方ををするならば、必ず大きな難が起こるであろうから、そのときに身命を捨てることにしようと心に決めたのである。すると、讒奏する人はますます増え、上下万人のあらゆる人々が日蓮を父母の敵か、あるいはとわりのように憎むようになった。そのありさまは不軽菩薩が出現した威音王仏の末世と少しも違うことはなかった。 |
かたうど
@歌合・スポーツなどで左右に分かれて争う場合その一方を応援する人。A味方・仲間。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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威音王仏
不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。
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大聖人にやや理解を示したかに思われた北条時頼も、弘長3年(1263)11月、37歳で世を去った。
「いかにも此の事あしくなりなんず」といわれているのは、時頼なきあと政道の悪化にともなう険悪な情勢を憂慮されたということであろう。
翌文永元年(1264)8月には、長時も35歳の若さで死去し、次の執権には当時60歳で長老格であった北条政村がついている。
長時と政村は、時頼の子・時宗が成長するまでの、いわば、中継ぎの役割といった立場で執権についたようで、文永5年(1268)時宗が18歳になると、政村は執権職を時宗に譲っている。
時頼死後の情勢悪化を見抜かれた大聖人は「いそぎかくるべき世なりとは・をもひしかども」と、ふつうの人間なら頓世を考えたであろうけれども、と仰せられ、ますます強盛に法華経の「かたうど」をして弘めていこう、それによって「一定事いで来るならば」と、大難は必定であるから、そのために身命を捨てることこそ本望であると覚悟されたことを述べられている。
それは法華経勘持品に「諸の無智の人の、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん」「国王大臣・婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」「数数擯出せられ塔寺を遠離せん」等と、末法の法華経の行者への三類の強敵による値難が説かれているからである。
日蓮大聖人にとって、難に遭うことはとりもなおさず法華経を身読することであり、御自身が末法の法華経の行者であるとの証明にほかならない。
それゆえに、勘持品の「我身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」、寿量品の「自ら身命を惜しまず」の経文にまかせて、法華経の忍難弘通の戦いを断固進められる御覚悟を「身命を・すつるにてこそ・あらめと思い切」ったと仰せられている。
はたせるかな「讒奏の人人いよいよ・かずをしらず、上下万人・皆父母のかたきとわりをみるがごとし、不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがう事なし」と述べられている。
不軽菩薩の威音王仏のすへ
不軽菩薩とは法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている菩薩で、正しくは常不軽菩薩という。
同品によると、威音王仏の滅後、像法時代の末に出現し悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、一切衆生に仏性が具わっているとして「二十四文字の法華経」すなわち「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と説いて、一切衆生を礼拝した。常にあらゆる人々を軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去世の姿の一つとされる。
また不軽を軽賤し、迫害を加えた者はその罪によって一度は地獄に堕ち、大苦悩を受けたが、再び不軽の教化にあい、救われた、釈尊はこの不軽菩薩の修行を通し、滅後弘教の方軌と逆縁の功徳を示したのである。
「不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがうことなし」との仰せは、不軽菩薩を迫害した、威音王仏の像末の人々のありさまと少しも変わりがないという意味である。日蓮大聖人は御自身の実践が正しいことの証拠として、この不軽の姿との合致をしばしば強調される。顕仏未来記にも「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507-06)と仰せであり、そこには、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、大白法を建立して弘通される御本仏であるとの大確信が込められているのである。
294〜1295 檀越某御返事top
1294:01〜1295:06 第一章 値難への不退の決意を述ぶtop
| 檀越某御返事 弘安元年四月 五十七歳御作 01 御文うけ給わり候い了んぬ、 日蓮流罪して先先にわざわいども重て候に 又なにと申す事か候べきとは・をも 1295 01 へども人のそんぜんとし候には不可思議の事の候へば・ さが候はんずらむ、 もしその義候わば用いて候はんには 02 百千万億倍のさいわいなり、 今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多 03 宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし、雪山童子の跡ををひ 04 不軽菩薩の身になり候はん、 いたづらに・やくびやうにや・をかされ候はんずらむ、をいじににや死に候はんずら 05 むあらあさましあさまし、 願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや、天照太神・正八 06 幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい今度心み候わばや、 −−−−−― お便りの件、承りました。日蓮を流罪してこれまで種々の災難が重なっているのに、また何かと言われているようなことがあるとは思えないが、しかし、人の滅びるような時には、考えられないようなことをするもので、そのようなことがないとはかぎるまい。しかし、もしそれがあれば、用いてもらうよりも百千万億倍も幸いである。今度で三度になる。法華経も、よもや日蓮を怠慢な行者とは思われないであろう。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の諸菩薩の御加護を今度こそ見極めたいものである。ぜひとも、言われているようなことが起こることを願っている。雪山童子の跡を継ぎ、不軽菩薩のような身になりたいものである。いたずらに疫病にかかって倒れるか、年老いて死んでしまうかである。嘆かわしいことである、嘆かわしいことである。願わくば法華経のために国主に憎まれて、今度・生死の縛を離れたいものである。天照太神・正八幡大菩薩・日月天・帝釈・梵天王等の仏前の誓約を今度こそ試みたいものである。 |
十方の諸仏
十方とは、東西南北の四方と東南・東北・西南・西北の四維に上下の二方を加えたもので、十方の諸仏とは、その十方のあらゆる国土に住する仏。すなわち全宇宙の仏のこと。
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地涌千界
地涌は地より涌き出る意で、法華経従地涌出品第十五に説かれる地涌の菩薩のこと。千界は千世界微塵のことで、数の多いことをあらやす。
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利生
利益衆生の略。衆生を利益すること。
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雪山童子
釈尊が過去世で修行していたときの名。涅槃経巻十四等に出てくる。釈尊は過去の世に雪山で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。一方、不軽を軽賎・迫害した者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
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本抄は弘安元年(1278)4月、日蓮大聖人が57歳の御時、身延において述作された書と推定されている。御真筆は下総中山(千葉県市川市)の法華経寺に現存する。
御真筆には宛名が記載されていないため、檀越某御返事と名づけられてきたのであるが、内容から推察して、四条金吾へ賜った書との説が有力である。
御述作年代については、他に建治2年(1276)説などの異説があり、また、もとは和紙4枚にしたためられていたのが、途中で第二紙が欠けたのであろうとの説もある。しかし文意は現存のままでも十分解読できる。
内容は、本抄御述作の当時、日蓮大聖人をまたもや流罪にしようとする動きがあったらしく、前半ではそのことに対して、法華経の行者として難にあうことは仏法の道理であり、喜んで大難を受けていこうと、揺るぎない決意を述べられている。
後半では弟子門下に対して、信心に反対されている環境にあっても、法華経の信仰を実生活と切り離して考えることは誤りであり、仏道修行はあくまでも「信心即生活」であって、日常生活のなかで実践されていくべきことを教示されている。
当時、幕府が日蓮大聖人をまたも流罪にするといううわさが、鎌倉中に流れていたようで、某檀越が心配し、そのことを大聖人にご報告申し上げたようである。
もし、それが現実となると、伊豆・佐渡に続いて三度目の流罪となる。当時、配流の地は京から配所までの距離によって、近・中・遠の三種に分けられていた。遠流は伊豆・佐渡の他に、安房・常陸・隠岐・土佐。中流は信濃・伊予。近流は越前・安芸があった。
幕府は日蓮大聖人を流罪したことによって諸天の治罰を被り、国中にさまざまな災厄を招いている。それにもかかわらず、またも大聖人を流罪に処するなどとは、もはや正気の沙汰ではない。しかし、人が破滅するまえには何かしでかすかわからないから、三度目の流罪も考えられぬことではないと仰せられている。
「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(0200)と述べられているように、大聖人はこれまで数々の値難によって、御体を痛めておられたと拝される。
それでも三度目の流罪が本当なら、なまじ大聖人の御意見を幕府が用いるより「百千万億倍のさいわい」であるとまでいわれ、堅忍不抜の御覚悟を披瀝されている。
それゆえに「法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ」と、法華経の真文を身読された法悦とあわせ「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん」と、末法御本仏としての大確信を述べられている。
釈迦・多宝等の御利生とは南無妙法蓮華経の妙用ということにほかならない。そして「あわれ・あわれ・さる事の候へかし」と過酷な試練をまえに、大聖人はあえて流罪されることを望まれ、それを喜びとされているのである。
終始一貫、法華経の行者として生涯を送ろうとされている大聖人の毅然たる御姿に、信心の厳しさと云うものを痛感せずにいられない。
あわせて大聖人門下に連なる身であれば、あくまでも安逸と惰性を排し、自己に厳しく、日々仏道の実践に励んでいきたいとの決意が心底からわいてくるのである。
更に法華経のために身命を捨ててこそ仏道を成ずることができることを示されるために「雪山童子の跡ををひ不軽菩薩の身になり候はん」と仰せられている。
雪山童子と不軽菩薩
雪山童子とは釈尊が過去世で修行していた時の名である。雪山大士ともいう。
涅槃経巻十四によると、釈尊は過去の世に、雪山で修行していた。そこで木の実を食べ、坐禅を組んで思惟すること無量歳に及んだ。
あるとき、帝釈天が羅刹に化身して現われ、童子に向かって、過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけ述べた。
偈とは韻文形式を用いて、仏の徳を賛嘆したり、法理を述べたものをいう。
この半偈を聞いた童子は、喜ぶとともに、残りの半偈を聞きたいと願い、羅刹の求めるとおり、その身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して「生滅滅已・寂滅為楽」の半偈を聞くことができた。
童子はその偈を所々に書き付けてから高い木に登り、我が身を投げた。羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏すると説き、姿を消したという。
大聖人は諸御抄で、世にいう施身聞偈のこの故事を引かれ、不惜身命の求道心の大切さを説かれているが、特に松野殿御返事に詳しい。
同抄で「後世を願はんには彼の雪山童子の如くこそ・あらまほしくは候へ、誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば我が身命を捨て仏法を得べき便(たより)あらば身命を捨てて仏法を学すべし」(1386)と教えられている。
したがって「雪山童子の跡ををひ」とは、雪山童子が鬼神に身を捨てて法を求めたように、仏法の悟りは不惜身命の実践のなかに体現できることを教示されたといえる。
不軽菩薩については法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている。
同品によれば、過去世に威音王仏という仏がいた。その威音王仏の滅後、像法時代の末に一人の菩薩が出現した。その人の名を常不軽菩薩といった。
不軽菩薩は比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆に向かって「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱えて、但礼拝行を行じた。
ところが上慢の四衆は不軽菩薩を軽蔑し、杖木瓦石をもって迫害したが、不軽菩薩は決して礼拝行をやめなかった。
その功徳によって不軽菩薩は六根清浄を得て成仏した。またこのとき、不軽菩薩を迫害した四衆も、一度は地獄に堕ちたが、再び不軽菩薩の教化を受けることができて救われた。これを逆縁の功徳という。
この不軽菩薩もやはり釈尊の過去世の姿であり、また上慢の四衆も、法華経説法の会座に列なった跋陀婆羅(ばつだばら)などの過去の姿であったと説かれている。
不軽菩薩と日蓮大聖人の関係は、ともに法華経の行者として、不軽菩薩は二十四文字の法華経を、大聖人は妙法の五字を幾多の大難を受けながら弘められた。
大聖人は、顕仏未来記で「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507)といわれ、聖人知三世事には「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん」(0974)と述べられている。
時代は異なっても、弘教の方軌は同じであり、同じ原理で、同じ行動をするゆえに、成仏得道の結果もまた同じである。その意味から「不軽菩薩の身になり候はん」と仰せられているのである。
「いたづらに・やくびやうにや・をかされ候はんずらむ」と仰せの背景には、本抄御述作の弘安元年(1278)4月当時、大聖人は御病気がちであられたことがある。
前年の建治3年(1277)末から6月まで激しい下痢で悩まれ、四条金吾の調合した薬と真心からの看護により、快方に向かわれたことが弘安元年6月御述作の中務左衛門尉殿御返事(1179)にみられる。
また同抄に「今の日本国去今年の疫病は四百四病にあらざれば華陀・偏鵲が治も及ばず」(1179)と仰せのように、国内には疫病が流行していた。
こうした事情をふまえられたうえで、無為に日々を送り、疫病にかかって倒れたり、年老いて死ぬようなことがあれば、それはじつに見苦しいことである。むしろ、法華経のゆえに国主にあだまれ、再び流罪にあうことこそ本望であり、それによって生死の苦悩を断ち切りたいと仰せられている。
「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(1173)との御教示があるように、人間の価値は、どれだけ長く生きたかではなく、どのように生きたかが肝要であり、仮に短くとも、それをいかに内容あらしめるものにするかが大切である。
「法華経のゆえに……」の御文に、仏法を自身の内に体得するところに、人間としての最高の生き方と、揺るぎない幸福があることが示されている。
だれびとも、日々刻々流れゆく歳月はとどめることができないが、同じ時間の経過であっても、御本尊を受持し、広宣流布に生きていく人生は、他の人よりも何倍もの価値ある日々を生きているのであり、生涯、妙法弘通の尊い人生を送れることを、このうえない栄誉とし、また感謝していきたい。
「天照太神・正八幡……仏前の御ちかい今度心み候わばや」とは法華経安楽行品に「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し」とあり、諸天善神が法華経の行者の守護を誓っていることから、法華経のために国主にあだまれるならば、諸天善神の誓言が本当かどうかを確かめることができると述べられている。
妙楽大師の止観輔行伝弘決に「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」とあるように、諸天善神といっても、主体者の御本尊を信ずる強い一念があるとき、自身を取り巻く環境はもちろん、大宇宙のいかなる働きであれ、その強き一念に動かされ、幸福の方行へと動き、働くことを意味している。
1295:06〜1295:10 第二章 宮仕えは法華経なるを教示top
| 06 事事さてをき候いぬ、各各の御身の事は此れより申 07 しはからうべし、 さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ、あなかしこあなかしこ、 御 08 みやづかいを法華経とをぼしめせ、 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり、かへす・がへす 09 御文の心こそ・をもいやられ候へ、恐恐謹言。 10 四月十一日 日 蓮 花 押 −−−−−― 以上述べたことはさておいて、各々の御身のことはこれより申し上げる。そのままおられることこそ、法華経を十二時に修行されていることになるのである。あなかしこ、あなかしこ。宮仕えを法華経の修行と思いなさい。経に「一切世間の治生産業は皆、実相と違背しない」と説かれているのはこのことである。くれぐれもお便りのご配慮のこと、承知しております。恐恐謹言。 四月十一日 日 蓮 花 押 |
十二時
一昼夜のこと。当時は、一日が十二の時刻に区分されており、十二時≠ナ一昼夜、二十四時間になる。なお、区分された十二の時刻には、十二支が配された。
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御みやづかい
みやづかえともいう。@宮中に仕えること。A貴人の家に仕えること。仕官。奉公。B主君、主人や目上の者などの身のまわりの世話をすること。奉仕してかいがいしく尽くすこと。C神仏に奉仕すること。ここではAの意。
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治生産業
世間の日常生活のすべてのこと。治生は生活の方途を立てることをいう。
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法華玄義卷一の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せざるが如し」の文をとおし、信仰生活と社会生活の関係について触れられて「信心即生活」「仏法即社会」の原理を我が身にあてて実践するよう「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と激励されている。
「事事さてをき候いぬ……」と、他事はさておき、各々の身の上については、大聖人から諸天善神に守護するよう申しつけておこうと仰せられている。
そして、日々、出仕していることは、法華経を十二時、つまり昼夜に修行していくことになると教えられている。
「檀越某」を四条金吾とすれば、四条金吾は、一時、入道して遁世したいとの考えをもったことがあり、この一節は、そのことへの御指導とも拝される。
建治2年(1276)7月御述作の四条金吾釈迦仏供養事(1144)の末段の文と関連づけて拝すると、こうした事情が浮き彫りにされる。
当時、四条金吾は主君江間氏の仕打ちに憤慨して、江間氏に仕えることをやめたいと考え、大聖人に御指導を仰いでいる。
大聖人は、江間氏のおかげで今日があること、更に父母の孝養のためにも江間氏の恩を忘れてはならないと、金吾の考えの誤りを指摘されている。
そのうえで「おもひのままに入道にもなりておはせば・さきさきならばくるしからず」(1148)と、心のままに入道するということは、もっと先であればよいであろう、と諭されている。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」の御教示も、これをふまえてのことと拝されるのである。
「御みやづかい」とは、自分の職業・仕事を指し、法華経とは御本尊のことである。自分の職業を御本尊のように考え、法華経の修行だと思って、真剣に取り組んでいきなさいと、信心即生活の原理を教えられている。
現実の生活のなかに信心で得た智慧と力が生き生きと脈動してこそ、本当に仏法を実践している姿といえるからである。
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは、法華経法師功徳品に「諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆な実相と相違背)せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん」とある文を、天台大師が法華玄義巻一上で「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せざるが如し」と釈している。
大聖人はこの文を引用されて、法華経の文とされたものと思われる。
治生産業とは、社会において行われているあらゆる営みを指す。治生は生活の方途を立てることをいう。実相はありのままの姿。法性・真如・不変の理等の意味をもつ。諸法実相抄に「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり」(1359)と仰せのように、実相とは妙法を指している。
ここでは社会のすべての営みが南無妙法蓮華経の御本尊の一法に含まれていることを示されている。
世間法と仏法について
白米一俵御書に「まことの・みちは世間の事法にて候」(1597)と仰せのように、真実の仏道は世間の事法、すなわち現実の万象を別にして存在しないことを説かれる。つまり世間の法が即仏法の道理である。
したがって、同抄では「やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(1597)とも仰せである。
特に法華経は万法を包含する実相を明かし、仏法も世間法も、この実相の現れであり、ともに実相を体とすることにおいて一体であるとする。
法華経方便品の「諸法実相」の文は、それを端的に説いた一句であり、一念三千の法理はこれを見事にとらえたものである。
すなわち、仏界が仏法、九界が世間法、仏界即九界で、一念の全体に含まれるのである。仏法を悟った究極からいえば、仏法も世間法も全く差別のない一体不二の関係にあることを言い表している。
もう少し分かりやすくいえば、世間法と仏法は、一応は分けられる。しかし、例えば世間法のうえで生活に汗を流している自分も、仏法のうえで勤行したり、広布の活動をしている自分も、同じ自分である。この世間法・仏法を包含した自分というものを説き明かしたのが妙法である。それゆえに妙法のうえからいえば、世間法・仏法は一体なのである。
ただ世間の法が仏法の全体だからといって「仕事をすれば、それが勤行となる。だから勤行は必要ない」とか「勤行したから今日の仕事はしなくてよい」とはならないのと同様、勤行も仕事も両立して精励することは理の当然である。
したがって、法華経にあっても、仏法の世界と世間法の世界を、現象面でとらえれば、相互依存性はあっても別個のものであるとしていることはいうまでもない。
それゆえに信仰者の具体的実践、修行の立場では、仏法は大地、世間法は草木、という関係性になり、仏法を根本に、世間法の次元での努力、尽力を怠ることなく、現実生活のうえで妙法の功徳を見事に実証していくことが大切となろう。
そのことを日蓮大聖人は「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992)「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(0254)と述べられているのである。
結文で「かへす・がへす御文の心こそ・をもいやられ候へ」と、くれぐれも法師功徳品に説かれた真実を酌んでいくよう勧誡されている。
真実の仏法は、天国や、西方極楽世界へ生まれると説くような非現実的なものではなく、また、いわゆる感傷的、精神主義的なものでもない。あくまでも現実の生活と社会と自身の人生のなかに息づいていくものであるから、現実生活から遊離した信仰は、もはや正信とはいえないことを知るべきであり、「かへす・がへす」と念を押されている御真意を心肝に染めていく必要があろう。
崇峻天皇御書に「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」(1173)との御教示があるが、信仰者としての主体性と誇りをもち、行動、態度のうえから人々に信頼されていくところに信仰勝利の顕証がある。
かりそめにも身近にみる信仰者の生活態度がいいかげんなものであったなら、偉大な法理もたちまち色あせ、法を下げる結果を招来しかねない。
信仰のための信仰≠フような極端な偏りや執着を厳に戒めて、どこまでも現実社会という大地に強く根を張り、それぞれの家庭、職場で立派な信仰の実証の花を咲かせていくことが、とりもなおさず妙法の偉大さを宣揚し、広布の歴史を末永く刻んでいくことになることを、本抄の御教示をとおして深く銘記していきたいものである。
1294〜1295 檀越某御返事 2015:12月号大白蓮華より。先生の講義top
世界を照らす 太陽の仏法
信心即生活――朗らかに現実社会で勝利を
天空に雲ありて
風吹けど
太陽は 今日も昇る
午前八時の青年の太陽(かれ)は
無限の迫力を秘めて
浸透しつつ 正確に進む
1970年(昭和45)の12月5日、若き友に贈った「青年の譜」の冒頭です。
現実社会の怒濤の中で、いかにわが信念の道を堂々と貫き通していくか。眼前の労苦に雄々しく挑む青年たちに、「仏法即社会」「信心即生活」の正道を、断じて力強く、そして粘り強く歩みゆけとの心情で綴ったものです。
これは恩師・戸田城聖先生の教えでした。先生は語られました。
「広宣流布の戦いというのは、どこまでも現実社会での格闘である。現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。それ自体が仏法の真実の証明であり、避けることなど、断じてできない。どんな難が競い起ころうが、われわれは、戦う以外にないのだ」
社会貢献の人材を陸続と輩出
荒れ狂う嵐の中で、この年の春、私は宣言しました。
「学会がどうなるか、21世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が、必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
今、まぎれもなく、人類社会に貢献する青年たちが世界中に躍り出ています。後継の未来部も世界五大州に育っています。今、各国のあの地でも、この地でも、わが同志が「良き市民」として活躍し、「創価の太陽」が地域と社会を照らす時代を迎えているのです。
そして、仏法を基調とする平和と文化と教育の運動は、社会の模範として信頼され、SOKAという言葉は、「人材育成」と「社会貢献」の代名詞になっています。
日蓮大聖人は現実社会の中で格闘する四条金吾に、たびたび、「一切衆生の口にうたはれ給へ」(1118-02)人々の口にうたはれ給へ」(1173-15)と激励されました。
一人一人が厳然と立ち上がり、地域や職場で輝きを放っていけば、信頼と尊敬が広がり、広宣流布の環境は大きく変わっていきます。
今回は「檀越某御返事」を拝し、民衆の中でこそ「太陽の仏法」は輝いていくことを、仏法即社会、信心即生活の原理を通して、学んでいきましょう。
| 01 もしその義候わば用いて候はんには 02 百千万億倍のさいわいなり、 今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多 03 宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし、雪山童子の跡ををひ 04 不軽菩薩の身になり候はん、 いたづらに・やくびやうにや・をかされ候はんずらむ、をいじににや死に候はんずら 05 むあらあさましあさまし、 願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや、 −−−−−― また何かと言われているようなことがあるとは思えないが、しかし、人の滅びるような時には、考えられないようなことをするもので、そのようなことがないとはかぎるまい。しかし、もしそれがあれば、用いてもらうよりも百千万億倍も幸いである。今度で三度になる。法華経も、よもや日蓮を怠慢な行者とは思われないであろう。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の諸菩薩の御加護を今度こそ見極めたいものである。ぜひとも、言われているようなことが起こることを願っている。雪山童子の跡を継ぎ、不軽菩薩のような身になりたいものである。いたずらに疫病にかかって倒れるか、年老いて死んでしまうかである。嘆かわしいことである、嘆かわしいことである。願わくば法華経のために国主に憎まれて、今度・生死の縛を離れたいものである。 |
百選億倍のさいわいなり
本抄は弘安元年(1278)4月11日、「檀越某」すなわち、ある在家門下に宛てられたお手紙です。どのような背景であったかも具体的にわかっていません。
ただ、本抄の内容から推察すれば、幕府の動きを知り得る立場にあった門下で、「宮仕え」とあることから、主君に仕える武士と考えられます。
大聖人が佐渡流罪を赦免になって身延に入られて5年目、各地で弘教が広がる一方、障魔が競い起こっている状況でもありました。
そうしたなかで、権力の魔性の蠢動を、いち早くつかんだ門下が、大聖人に、伊豆流罪、佐渡流罪に続く、三度目の流罪の危機が迫っているという情報をお知らせしたのです。それに対する御返事が本抄です。
しかし大聖人は、三度目の流罪が現実になるなら「百千万億倍のさいわい」であると、悠然と認められています。理不尽な迫害は、むしろ正義の誉れなりと、断言されたのです。
「大願よ、望むところだ!」――まさに威風堂々たる人間王者のお姿が、髣髴と目に浮かびます。
門下の心を蝕まんとする、恐れや臆病といった魔を、決然と打ち破られる師子吼です。信心の確信を打ち込む大音声です。
大難を大躍進の因に
大聖人の御生涯を拝すると、大難に遭うごとに、新たな境地を開き顕され、次の大展開への飛躍を遂げられています。
「立正安国論」を著して、人々を不幸に陥れる元凶を暴き、幸福と平和への道を明されたがゆえに、松葉ケ谷の法難が起こります。しかし、それによって経文通りの「法華経の行者」であることを示されていきました。
さらに、蒙古の国書到来に際して、公場対決を求めて幕府の中枢や高僧たちに書状を送り、その結果、竜の口の法難・佐渡流罪に遭われます。しかし、これを機に、発迹顕本して、末法の御本仏の境地を顕されることで、ついに三大秘法を説き示され、広宣流布の礎を固められていったのです。
大難が起こるのは、正義の前進を阻止しようとする魔の反動です。それゆえ、大難は正義の証しであり、大難を乗り越えてこそ、大躍進があるのです。
大聖人の仏法の正統である学会の発展も、同じ方程式でした。近年は、大聖人の御精神と御遺命を破壊しようとした魔の蠢動を、正義の言論戦で勝ち越えたゆえに、学会がいよいよ世界宗教として大きく飛翔できたことはよくご存じの通りです。
この原理は、各人にあっても同じです。私たちの人生には、宿命の嵐が吹き荒れることもあります。その時こそ、“自分が大きく成長できるチャンスだ”“深い人生を歩むため、同じ悩みを抱える人を救うための試練である。望むところだ!”と、勇敢に苦難と挑んでいくことです。わが胸中に、信心の炎を燃やしていくことです。
その揺るがぬ雄姿こそが、同志に、地域に、勇気と希望の光を送ります。そして、難と戦うたびに自分の境涯が大きく開かれ、自分を取り巻く世界が、晴れやかに広がるのです。
民衆救済の生きた宗教
法華弘通のゆえに、経文通りに幾多の大難に遭われたのは、大聖人しかいません。
「」(0200-)と仰せの通り、大聖人は、国家権力による命に及ぶ大難を二度も受けられました。
ゆえに、三度目の流罪があるなら、「法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ」「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん」と仰せなのです。
“さらなる大難は、「ゆるき行者」ではなく、本物の法華経の行者の証しなのだ。必ず諸仏・諸天の厳然たる加護がある。その証明の好機ではないか”との大確信のお言葉です。
大聖人は、すでに立宗宣言の時、迫害を覚悟の上で民衆救済の不退の誓願に立ち、ただお一人から戦いを開始されました。
仏法は、民衆のための生きた宗教です。
反対に民衆救済を放棄した宗教は、死せる宗教です。
ハーバード大学のクリストファー・クイーン博士は語っています。
「現実社会の真っ只中に入り、自らの主張と行動を明らかにする。よき社会の建設のために戦うとの生き方を堅持し、社会に価値を創造する――こうした生き方こそ、本来の仏教に根差したものであります。また、そうでなければ、宗教は社会から遊離し、やがては“精神の死”を迎えることになるでしょう。
博士は、また、「創価学会の思想と行動の源」となった日蓮大聖人は、民衆救済を忘れた、当時の権力者、宗教者に対して、ただ一人「言論の力を持って」戦われたことを強調されています。
何のための一生か
大聖人は、民衆救済の不惜の闘争を貫き、法を求め抜いた雪山童子、礼拝行を貫き通した不軽菩薩のように、戦い抜かんと仰せです。
雪山童子は、羅刹の姿をしていた帝釈天に我が身を捧げて法を求め、後世の人々に伝え残し、後に仏になりました。
また、不軽菩薩は、いかなる迫害にあっても礼拝行を止めることなく仏道を歩み抜き、釈尊という仏に成ったのです。
私たちの生命は、広い宇宙に敷き詰められた無量の財宝よりも尊い、最高の宝です。だからこそ、その価値ある命を、何のために捧げるか。どのように生かしきるのか――これが何よりも大事です。
本抄ご執筆の当時は、疫病が蔓延していました。誰もが疫病にかかって倒れる危険にさらされ、明日の命の保証もありませんでした。また、たとえ、疫病にかからなくても、誰人も生まれてきた限り、死ぬことは必定です。
だからこそ、人生の根本の大目的に命を使い、自らの使命を果たして成仏することなく、空しい一生を終わってしまっては、実に残念なことであると仰せなのです。
いうまでもなく大聖人は、命をおろそかにしていいと仰せではありません。不惜身命とは、妙法に生き抜くことであり、それこそが、最高に尊い命の使い方であり、その功徳は今世のみならず、未来永遠に続くことを教えられているのです。
| 06 各各の御身の事は此れより申 07 しはからうべし、 さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ、あなかしこあなかしこ、 御 08 みやづかいを法華経とをぼしめせ、 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」 −−−−−― 各々の御身のことはこれより申し上げる。そのままおられることこそ、法華経を十二時に修行されていることになるのである。あなかしこ、あなかしこ。宮仕えを法華経の修行と思いなさい。経に「一切世間の治生産業は皆、実相と違背しない」と説かれているのはこのことである。 |
生活の場が修行の場
大聖人は、自らの不惜身命の弘通を通して、一生成仏、現世安穏の根本の道を教えられました。
その上、さらに、“あなたがたお一人お一人のことは、私から諸仏・諸天に守護をお願いします”と、弟子一人一人のために、御本仏自ら祈っていきますとも仰せです。何とありがたい師匠でしょうか。
前述したように、本抄の対告衆である門下は、襲いかからんとする迫害の兆しを知り得る立場にいたのではないかと考えられます。もしかすると、弾圧を加えようとしている権力者の近くで勤める立場であったかもしれません。
いずれにせよ、大聖人の門下であることが原因で重大な危険にさらされかねない状況の中、日々、真面目に誠実に勤務していたのだろうと想像できます。
だからこそ、大聖人は、その門下にきっぱりと言い切られています。
「さて・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにてや候らめ」
日々、真剣に仕事を果たすことが、そのまま一日中、常に、法華経の修行をしていることになると仰せなのです。
「信心」は即「生活」であり、「仏法」は即「社会」なのです。また仏法は勝負です。
一番、真面目に信心をし抜いた人が、最後は必ず勝つのです。
「職業を御本尊と思え」
戸田先生は、「檀越某御返事を、目や頭で読まずに、体で読んでほしい」と、常々、語られていました。
私も若き日、戸田先生のもとでお仕えしましたが、本当に厳しい薫陶の連続でした。学会活動を理由に、仕事を疎かにすることなど、断じてゆるされませんでした。「信心は一人前、仕事は三人前」と、信仰者としての姿勢を、厳格に教えられました。
少々、長くなりますが、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」を拝した、戸田先生のご指導を紹介しておきます。
「自己の職業に、人一倍打ち込もうともせず、ただ漠然として信心していけば功徳があらわれて、なんとか成功するであろう、などと考えるのは、これ、大いなる誤りである」
「わが職業に歓喜を覚えぬような者は、信心に歓喜なき者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人としての成功はあり得ようがない」
「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである。また、会社やその他への勤め人は、自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である」
「学会員は、わが職業を御本尊と思い、それに恋慕し、心に渇仰を生じなくてはならない。かかる人こそ、信心の透徹した人といわなくてはならない」
もちろん、仕事を取り巻く環境は、当時とは変わっています。しかし、信仰者としての生き方の根本の精神は、いささかも変わりません。否、変わってはいません。
仏になりゆく生命の正道
どんな仕事でも、どこの職場でも、真剣勝負で働いて、信頼を勝ち得てきたたことが、私の青春の誉れです。
「御みやづかい」の御文の後には、法華経の文の趣旨や天台大師が説明した「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の言葉がきされています。
これは法華経を持った人の功徳を述べた一節で、「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、すべて実相と相反することはない」と教えられています。
他の御書にも「一切の法は皆是れ仏法なり」(0564-10)、「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(1466-14)とあります。仏法の理念と、政治や経済が本来目指すべき目的観は、基本において一致していると仰せなのです。
もとより、政治といい、経済といっても、それは全て「人間のため」のものでなければならない。人間の幸福こそ、あらゆる社会の営みの、最高・究極の目的だからです。
妙法は、この幸福を築きあげるために、人間一人一人の生き抜く力を開き顕します。誰もが自身の内に仏という無限の力を秘めている。その力を顕現させるのが、妙法です。
妙法の信心は、困難に立ち向かう勇気や、智慧や忍耐力をもたらす本源の力です。
ゆえに、信心を根本とした私たちの行動は、全て妙法の光明に照らされて、希望と幸福の方向へと価値創造していけるのです。
どんな職場、どんな立場であっても、自分らしく、人のため、社会のために行動していく。そして、「あの人はさわやかだ」「あの人は信頼できる」「あの人は頼りになる」と賞讃されていく、これでこそ、「信心即生活」「仏法即社会」の姿です。
世界広布の伸展
戸田先生は「そもそも宗教とは『生活の法則』であり、生活そのもののなかに存在しなければならない」と、妙法を社会に根付かせる必要性を訴えられていました。
世界広布といっても、国や民族によって言葉はもちろん、文化や習慣も違います。
55年前の海外初訪問の折、私は、日本からアメリカに嫁いで広布の草創期を担った女性たちに、三つの指針を贈りました。
一、市民権を取得し、良きアメリカ市民に
一、自動車のライセンスの取得
一、英語をマスターすること
一見、信心とは無関係に感じられるかもしれません。しかし、堅実な生活を営み、社会に地域に根を張ることが、もっとも確実な広宣流布の方程式なのです。
今、世界各国で、そうした草創期に奮闘された同志の、お子さんやお孫さんたち、後輩の方々が立派に成長し、広布の第一線でも、社会の中でも大活躍しています。
来る日も、来る日も、自他共の幸福のため、無理解と偏見のまなざしの中で、懸命に題目をあげて妙法を弘め、戦い抜いてこられた同志の力があったからこそ、今日の世界広布新時代が開かれたのです。
「生きる」という現実を何よりも重視し、真実の「生」を探究したスペインの哲学者オルテカは綴っています。
「真の生の充実とは、満足や達成や到達にあるのではない」「生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を現実させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動を引き起こすものなのだ」
「午前八時の青年の太陽」たれ
私のもとへは、毎日、日本中、世界中の青年たちの奮闘の様子が寄せられます。世界広布新時代の行進の足音が、いやまして力強く響いてきます。
この勝利の前進を担っているのは、華々しい英雄ではありません。無名の庶民であり、そのなかには、病と闘う友、宿命に悩む友、仕事で苦戦する友、転職を余儀なくされる友など、現実の人生と社会で格闘されている方々が、多くおられることも、よく存じ上げています。私も、同じ労苦の青春を戦い抜いてきました。
大事なことは、断固として、わが胸中に、妙法の太陽を昇らせることです。
人や環境ではない。自分が変わることです。自分の胸中に妙法の太陽を昇らせれば、雨や嵐の日があっても、やがて、雲間から豁然とまばゆい陽光が差し込んでくるように、わが人生を無限の希望と勇気の光に照らすことができます。そして、人々に、地域に、社会に、世界に、未来に、偉大な人間革命の光を贈っていけるのです。
さあ、今日も溌剌と、明るく、己の確かなる成長の軌道をまっすぐに、そして朗らかに、前進していきましょう。
生き生きと若々しく、わが生命の「青年の譜」を轟かせながら!
午前八時の
青年の太陽(かれ)は、今日も昇りゆく!
青年の鼓動にあわせて昇りゆく!
1296〜1296 法衣書top
1296:01〜1296:08 第一章 衣の供養を謝し功徳を例示するtop
| 1296 法衣書 01 御衣布並に単衣布給候い了んぬ、 抑食は命をつぎ衣は身をかくす、 食を有情に施すものは長寿の報をまねぎ 02 人の食を奪うものは短命の報をうく、 衣を人にほどこさぬ者は世世・存生に裸形の報をかんず、六道の中に人道・ 03 已下は皆形裸にして生る天は随生衣なり、 其の中の鹿等は無衣にして 生るのみならず、 人の衣を・ぬすみしゆ 04 へに身の皮を人に・ はがれて盗し衣をつぐのうほうをえたり、 人の中にも鮮白比丘には生ぜし時・衣を被て生れ 05 ぬ、仏法の中にも裸形にして法を行ずる道なし、 故に釈尊は摩訶大母比丘尼の衣を得て正覚をなり給いき、 諸の 06 比丘には三衣をゆるされき、 鈍根の比丘は衣食ととのわざれば阿羅漢果を証せずと・みへて候、 殊に法華経には 07 柔和忍辱衣と申して衣をこそ本として候へ、 又法華経の行者をば衣をもつて覆せ給うと申すも・ ねんごろなるぎ 08 なり。 −−−−−― 御衣の布と単衣の布をたしかにいただいた。 さて食物は命をつなぎ、衣は身を覆うものである。食物を有情に施す者は長寿の報いを受け、人の食物を奪う者は短命の報いを受ける。衣を人に施さない者は世々存生に裸形の報いを受けるのである。六道のなかで人間界以下の衆生は皆裸形で生まれ、天界の衆生は随生衣である。其の中の鹿等は無衣で生まれるばかりでなく、前世で人の衣を盗んだために、人に身の皮をはがれて、盗んだ衣を償うという報いを得るのである。人のなかでも鮮白比丘尼は生まれる時に衣を被て生まれた。 仏法のなかでも裸形で法を修行することはない。ゆえに釈尊は摩訶大母比丘尼の衣を得て正覚を成ぜられたのであり、諸々の比丘には三衣を着ることが許されたのである。鈍根の比丘は衣食がととのわなければ阿羅漢果を得ることができないといわれている。特に法華経には「柔和忍辱衣」といって、衣を根本としている。また仏が法華経の行者を衣をもって覆われるとあるが、懇ろな義である。 |
単衣
単物のこと。裏地のついていない一重の衣服をいう。夏季とその前後の季節に着るもの。本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであったが、後に肌着の小袖の上に着るようになった。
―――
随生衣
生まれながらに身についていて、成長するに随って自在にのびる衣服のこと。天界の衆生の衣服は随生衣といわれる。付法蔵因縁伝巻二には、付法蔵第三の商那和修は過去世に重病の辟支仏に衣服を供養した功徳によって衣を着たまま生まれたとある。
―――
鮮白比丘に
釈尊の弟子、白淨比丘尼ともいう。撰集百縁経等によると、迦毘羅衛国の長者・瞿沙の娘。この女児は生まれた時、白淨の衣を着けており、成長するにしたがってその衣も大きくなり、出家すると、その衣も袈裟になったという。
―――
摩訶大母比丘尼
釈尊の姨母・摩訶波闍波提比丘尼のこと。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で成仏の記別を与えられ、一切衆生憙見如来の号を受けた。大智度論巻二十二には「復た摩訶?曇弥有り、金色の上下の宝衣を以て仏に奉れり」とあり、また雑宝蔵経巻四等にも摩訶波闍波提比丘尼が衣を仏に捧げたことは説かれているが、釈尊が尼の奉った衣を着て成道したとの出典は不明。
―――
三衣
僧侶が着用する三種の法衣のこと。三衣については諸説あるが四分律資持記等では@僧伽梨、A鬱多羅僧、B安陀会とある。
―――
阿羅漢
梵語アルハト(Arhat)の主格アルハン(Arhan) の音写。応供等と訳す。小乗の声聞が修行によって到達できる最高の悟りの境地。またそれを得た聖者のこと。三界の見惑・思惑を断じ尽くしているゆえに殺賊、修学を成就して学ぶべきものが無いゆえに無学、世の尊敬・供養を受ける資格があるゆえに応供、この生が尽きると無余涅槃に入り、再び三界には生じないゆえに不生等とも訳される。
―――
本抄は他の御消息の断片に比べて、前後整い、一貫しているが、御述作の年月日や宛名が欠落しているので、その背景や由来については不明である。しかし、内容から、与えられた人は女性信者であったと推測されるとともに、その女性信徒が日蓮大聖人に衣の御供養をしたのに対して与えられた書であったと思われる。
なお、御述作の年代については、文永10年(1273)、弘安3年(1280)等の説がある。
この段では、最初に衣の御供養を受け取られた旨を述べられた後、衣を布施する功徳の大きさに説き及ばれるとともに、逆に衣の布施を怠った者の悪報をも説かれている。
「食は命をつぎ衣は身をかくす」
本抄を与えられた人が衣を大聖人に御供養したことに対して、まず、人間の生命にとって、食と衣の二つが不可欠なものであることを明かされているところである。
日蓮大聖人は在家信徒からの食や衣の御供養に対し、それがいかに尊いかを生命とのかかわりから強調されている。
例えば白米一俵御書では冒頭で次のように説かれている。
「人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり、経に云く『有情は食に依つて住す』と云云文の心は生ある者は衣と食とによつて世にすむと申す心なり」(1596)と。
また食物三徳御書では、食に三つの徳があると、次のように説かれている。
「一には命をつぎ・二にはいろをまし・三には力をそう、人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬へば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(1598)と。
更に衣食御書には「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ、ころもは・さむさをふせぎあつさをさえ・はぢをかくす、人にものをせする人は人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり」(1302)と仰せである。
このように、食と衣とは生命を維持する不可欠のものであるだけに、次の文に「食を有情に施すものは長寿の報をまねぎ人の食を奪うものは短命の報をうく、衣を人にほどこさぬ者は世世・存生に裸形の報をかんず」と仰せられているのである。
「法華経には柔和忍辱衣と申して衣をこそ本として候へ」
「柔和忍辱衣」とは柔和≠ヘ素直で柔軟な心で正法を受持することをいい忍辱≠ヘいかなる侮辱、屈辱、迫害などにも堪え忍ぶことをいい、そのような心構えを衣≠ノたとえたものである。
これは法華経の法師品第十に出てくる衣座室の三軌の一つであり、三軌とは、法華経を弘通するための軌範の一つである。
今、それを法華経法師品から引用してみよう。
「薬王よ。若し善男子・善女人有って、如来の滅後に四衆の為めに是の法華経を説かんと欲せば、云何んが応に説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為めに、広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは、一切法空是れなり」と。
仏滅後に法華経を弘通する行者の心構えを示したもので、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、弘教せよということである。
ちなみに、如来の室に入るとは、一切衆生に対して慈悲心をもって接することをいい、如来の座に坐るとは、一切法が空であると悟る境地に立つことをいう。そして、如来の衣を著るとは、前述したように、柔和忍辱の心をもつことである。つまり、ここでの衣は実際に身体の外側から身に付ける着物ではない。しかし、身体を外側から防護するという着物の働きにたとえて柔和忍辱の心≠ェ迫害や難、屈辱という外側からの攻撃から清浄にして純粋な心を防護するという意味で衣≠ニしているのである。
その清浄にして純粋な心とは、法華経を信じ、他の人々をも法華経によって救っていこうとする菩提心である。
私達にあっては、御本尊を信じ抜く心であり、一生成仏と広宣流布、更には自行と化他を推進していく心である。
その心をもって法華経弘通に励んでいく過程にあって、侮辱、迫害など他者からの攻撃を受けたときに、これを堪え忍ぶ力をもっていないと、肝心の信心まで失ってしまうことになる。その際に、柔和忍辱の心をもって、それらの攻撃に対して清浄な信心、純粋な命を防護することができたとき、それが衣≠ニなるのである。
ゆえに、末法に法華経を弘通する者は必ず、柔和忍辱の衣を着なければならないのである。
御衣並単衣御書に「法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし」(0971)とは、このことを仰せられている。
1296:09〜1296:16 第二章 法華経の女人成仏の教えを説くtop
| 09 日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に天これをにくませ給いて食衣ともしき身にて候、 しかりといえども法華 10 経を口に誦し・とき・どき・これをとく、 譬へば大チの珠を含みいらんよりせんだんを生ずるがごとし、いらんを 11 すてて・ せんだん・まいらせ候・チ形をかくして珠を授けたてまつる、 台大師云く「他経は但男に記して女に記 12 せず」等云云、 法華経にあらざれば 女人成仏は許されざるか、 具足千万光相如来と申すは摩訶大比丘尼のこと 13 なり、 此れ等もつてをしはかり候に女人の成仏は法華経により候べきか、 要当説真実は教主釈尊の金言・皆是真 14 実は多宝仏の証明・舌相至梵天は諸仏の誓状なり、 日月は地に落つべしや須弥山はくづるべしや・大海の潮は増減 15 せざるべしや大地は飜覆すべしや、 此の御衣の功徳は法華経にとかれて候、 但心をもつて・をもひやらせ給い候 16 へ、言にはのべがたし。 −−−−−― 日蓮は無戒の比丘であり、邪見の者である。ゆえに天がこれを憎んで衣食に乏しい身となったのである。そうではあるが、法華経を口に誦し、時々これを説いている。このことは例えば大蛇が珠を含み、伊蘭の林の中から栴檀が生ずるようなものである。伊蘭を捨てて栴檀を差し上げるのである。大蛇の形を隠して珠を授けるのである。天台大師は「法華経以外の経は但だ男子にのみ授記して女子には授記しない」と言われている。法華経でなければ、女人成仏は許されないのである。具足千万光相如来というのは、摩訶大比丘尼のことである。これらのことをもって考えてみれば、女人の成仏は法華経によるべきであろう。「要ず当に真実を説きたもうべし」とは教主釈尊の金言であり、「皆是れ真実なり」とは多宝仏の証明であり「舌相梵天に至り」とは諸仏の誓状である。日月が地に落ちることがあろうか。須弥山が崩れることがあろうか。大海の潮が増減しないことがあろうか。大地が覆ることがあろうか。この御衣を御供養された功徳は法華経に説かれている。ただ信心をもって推し測りなさい。言葉で述べることが難しいからである。 |
いらん
梵語エーランダ(Eranda)の音写。トゥゴマ属の植物。悪臭を放つ木。茎の高さは約2b、葉の直径はおよそ50a、色は緑色または赤色を帯び、楓のように七つに裂け、花は総状で雄蕊は上部、雌蕊は下部にある。種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。
―――
せんだん
インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のこと。センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六bに達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬の広さにわたって伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
天台大師
(0538〜0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱は智。字は徳安。姓は陳氏。智者大師ともいう。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。
―――
摩訶大比丘尼
釈尊の出家以前、太子の時の正妃である耶輸陀羅女のこと。羅?羅の母。仏本行集経等によると、釈迦族の摩訶那摩大臣の娘で、才色ともに極めてすぐれていたという。釈尊が成道して12年目に迦毘羅衛国に帰った時、化導されて比丘尼となった。法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
―――
要当説真実は教主釈尊の金言
法華経方便品第二に「要ず当に真実を説きたまうべし」とある。仏がこの法華経に真実の教えを説くと宣言したこと。金言とは、仏の言葉のこと。不変の特質をもつ黄金をもって仏の常住不変の言説にたとえたもの。
―――
皆是真実は多宝仏の証明
多宝仏とは東方宝浄世界に住む仏。いずこであっても、法華経が説かれる所へ出現して、それが真実であることを証明するという。法華経見宝塔品第十一には「爾の時、宝塔の中より大音声を出して、歎めて言わく……釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」(0373)とある。多宝如来が、東方宝浄世界から法華経の会座に出現して、釈尊の説く法華経が真実であると証明したことが示されている。
―――
舌相至梵天は諸仏の誓状なり
法華経如来神力品第二十一に「諸仏救世者は大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為めの故に、無量の神力を現じたまう。舌相は梵天に至り……」とある。釈尊および十方の諸仏が、天上界の最上の梵天まで舌を届かせて仏の説法の真実であることを証明したことが説かれている。
―――――――――
この段では、御謙遜の立場で大聖人御自身が無戒の比丘、邪見の者であるため、衣、食ともに乏しい身であると述べられ、しかし女人成仏の唯一の経である法華経を弘めている大聖人に衣を供養した功徳は言葉で尽くせない、と本抄をいただいた方の信心の真心を称賛されている。
「日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に……」
先に挙げられた鮮白比丘尼に対し、大聖人は「食衣ともしき身」であられることから、それは無戒・邪見であるため、天が憎んで、このような苦を味わわせているのであろう、との仰せである。しかし、次下の段で「しかりといえども法華経を口に誦し・とき・どき・これをとく」と、法華経を自行化他にわたって行じている法華経の行者であることを述べられている。
このことは佐渡御書に「日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し」(0957)と仰せのように、また「法妙なるが故に人貴し」(1578)の原理のように、仏法上、最高に尊い御立場であることを暗示されている。
しかも、法華経こそ唯一の女人成仏の経であるから、法華経の行者である日蓮大聖人に衣食を御供養する女人は、即身成仏の大功徳を得るのである。このことを「此の御衣の功徳は法華経にとかれて候、但心をもつて・をもひやらせ給い候へ、言にはのべがたし」と仰せられているのである。
ただ、この段のなかで「譬へば大?の珠を含みいらんよりせんだんを生ずるがごとし、いらんをすてて・せんだん・まいらせ候・?形をかくして珠を授けたてまつる」の御文について説明を加えると、大?・伊蘭は「無戒の比丘・邪見の者」としての凡夫僧のお姿をたとえられたものであり、珠・栴檀は法華経にたとえられている。
大聖人は末法の一切衆生のために、凡夫僧としての御立場から、一切衆生皆成仏道の法華経の大功徳を授与されようとしていることを、このように仰せになっているのである。
1297〜1297 慧日天照御書top
| 1297 慧日天照御書 01 もつて一閻浮提の者の眼を抉るべきか、釈迦仏の御名をば幼稚にては日種という、 長大の後の異名をば慧日と 02 いう、此の国を・日本という・主をば天照と申す。 −−−−−― もって全世界の人々の眼を抉ることになるだろう。釈迦仏の御名をば幼稚には日種といい、成道されてからは慧日という、この国を日本といい、主をば天照と申いう。 |
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-?dv?pa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
日種
釈尊5姓のひとつで釈尊の幼名。撰時抄には「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う、かるがゆへに仏のわらわなをば日種という」(0282-12)とある。
―――
慧日
@仏の智慧を日にたとえた言葉。A釈尊の尊称の一つ、慧日大聖尊のこと。
―――
天照
天照太神のこと。日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日?貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――――――――
本抄は前後が欠落した御消息の断片で、御真筆の存在も不明である。そのため、御述作年代、本抄を与えられた人などは分からない。
最初の「もつて一閻浮提の者の眼を抉るべきか」との仰せは何を指摘された御言葉であるのか分からない。だれが邪義を唱える者の所行を破折されているのであろう。大聖人は諸御抄でこうした表現を用いられている。例えば次のような仰せもある「法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり」(0841-01)と。法華経の信仰を妨げて真言を勘めるのは眼をくじることであり、法華経を捨閉閣抛というのは眼を閉じることである。
そこでこの御文の後の仰せと関連のあるものとすると、撰時抄に類似の御文がある。
「師慈覚の伝に云く「大師二経の疏を造り功を成し已畢つて心中独り謂らく此の疏仏意に通ずるや否や若し仏意に通ぜざれば世に流伝せじ仍つて仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企し祈請を勤修す五日の五更に至つて夢らく正午に当つて日輪を仰ぎ見弓を以て之を射る其の箭日輪に当つて日輪即転動す夢覚めての後深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」等云云」(0281-06)
「修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいたてまつる、夏の桀・殷の紂と申せし悪王は常に日をいて身をほろぼし国をやぶる、摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う、かるがゆへに仏のわらわなをば 日種という、日本国と申すは天照太神の日天にてましますゆへなり、されば此のゆめは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ二部の疏は候なれ、日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず但此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候」(0282-11)すなわち慈覚が金剛頂経の疏と蘇悉地経の疏をつくった際、それが仏意にかなうかどうかを判ずるのに、太陽を射た夢を見てそこで仏意にかなったと確信したという話であるが、大聖人は過去の例をあげながら、これこそ仏をないがしろにすることを示した夢であると破折されている。
本抄の仰せが慈覚を指すかどうかは分からないが、撰時抄の仰せと軌を同じくしているとすれば、慈覚の所行はまさに一閻浮提の衆生の眼を抉るものであることは疑いないといえよう。
なお、文中、日天を仏の代名詞であると教えられている。釈尊の幼名を日種というのは、撰時抄に摩耶夫人が日をはらんだ夢を見たゆえであると教えられている。ただし、釈迦氏譜には、日種は父の姓を指すとしている。釈尊は成道後は慧日大聖尊と呼ばれた。法華経方便品に「慧日大聖尊、久しくあって乃し是の法を説きたもう」等とある。
しかし、更にいうならば、日は末法の御本仏・日蓮大聖人の仏法をあらわすのである。釈尊の仏法は大聖人の仏法に対すれば、月にあたるのである。
まず、この国は日本国である。このことについて諌暁八幡抄には「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(0588-18)と。
次いで、日本の主を天照太神であると仰せである。先に挙げた撰時抄の御文にもそのことを示されている。
しかし、本抄には触れられていないが、大聖人の「日蓮」の御名乗りこそ、大聖人の仏法の根本を示すものであることを想起しなければならない。大聖人はお手紙を与えられた信心によって、あえて触れなかったと思われる。大聖人の「日蓮」という宝号について、産湯相承事には、次のようにある。「国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり」(0879-10)「日蓮の日は即日神・昼なり蓮は即月神・夜なり」(0879-16)。
1297〜1297 釈迦所領御書top
| 釈迦御所領御書 01 「是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾子なり」等云云、 この文のごとくならば・この三界は皆釈迦如来 02 の御所領なり、 寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」等云云、 この文のごとくならば乃至過去五百塵点劫 03 よりこのかた此の娑婆世界は 釈迦菩薩の御進退の国土なり、 其の上仏の滅後一百年に 阿育大王と申す王をはし 04 き・此の南閻浮提を三度まで僧に付属し給いき、 又此の南閻浮提の内の大日本国をば 尸那国の南岳大師・此の国 05 の上宮太子と生れてこの国の王となり給いき、 しかれば聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり、 桓武天王 06 已下の諸王は又山王。 −−−−−― 法華経譬喩品第三には「これ我が有するところのものである。その中の衆生は悉くこれ吾が子である」と説かれている。この文のようであるならば、この三界は皆釈迦如来の御所領である。法華経如来寿量品第十六には「我は常にこの娑婆世界にあり」等と説かれている。この文のようであるならば、過去五百塵点劫以来この娑婆世界は釈迦菩薩が自由に支配された国土である。そのうえ、仏滅後一百年に阿育大王という王がおられ、この南閻浮提を三度まで付嘱された。この南閻浮提の内に大日本国においては中国の南岳大師がこの国の上宮太子と生まれて、この国の王となられた。それゆえ聖徳太子以後の諸王は、みな南岳大師の子孫である。桓武天皇以下の諸王は、また山王。 |
三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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寿量品に無作の三身と説きたるなり(口伝・方便6)
御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)「然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(0754-07)等とあり類文は多い。我等衆生が総じて無作三身の如来であるが、別して日蓮大聖人のみが無作三身の仏であらせられる。
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我常に此の娑婆世界に在り
寿量品の文。「我成仏してより已来、復此に過ぎたること百千万億那由佗劫なり。是より来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」とある。
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五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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阿育大王
前3世紀頃の人阿育は梵語アショーカ(A?oka?)の音訳。阿輪迦・阿恕迦・阿恕伽等とも書き、無憂と漢訳する。また大愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝の第三代王、祖父チャンドらグブタがナンダ朝を倒して、マイリア王朝を建て、阿育王は治世の前半を征服戦に費やし、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設した。後半は篤く仏教を信じて諸僧を供養するとともにその慈悲の精神を施政に反映した。さらに、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。遠くギリシャ・エジプトの地にも使者を派遣して平和の精神を訴えた。
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南閻浮提
須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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尸那国
外国人が中国を指して呼んだ名。尸那は中国の王朝名である秦がなまって伝えられ、それが漢訳されたといわれる。インドではチーナとよばれていた。
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南岳大師
(0515〜0577)中国北朝時代の僧、天台大師の師。字は慧思、姓は李。河南に生まれる。15歳で出家し法華経を学んだ。20歳の時に妙勝定経を読んで観じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。34歳の時、対論した僧に毒を盛られ死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。41歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まりに来たった天台大師等の弟子の育成にあたった。陳の光大2年(0568)戦乱を避けて南岳に移り、ここで晩年を過ごして大建9年(0577)に没した。なお、日本にあっては奈良時代以降、南岳大師の生まれ変わりが聖徳太子であると信じられていた。
上宮太子
(0574〜0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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聖徳太子
(0574〜0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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桓武天皇
(737〜806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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山王
山王権現のこと。総じて滋賀県大津市にある日吉神社のこと。比叡山の守護神であり、延暦寺が創建されると神仏習合思想の影響を受けて法華経守護の神とされた。天台宗の興隆にともなって平安時代から栄え、平安末期には延暦寺の僧が日吉の御輿をかついで、京へ押しかけている。
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本抄は、前後の御文が欠失していて、御述作年月・与えられた人ともに不明である。文永3年(1266)御述作との説もあるが、明確ではない。御真筆は京都・妙蓮寺および名古屋・円頓寺に分在している。
内容は、法華経譬喩品第三・如来寿量品第十六の経文を引いて、釈尊が娑婆世界の君主であること、また特に日本については南岳大師が聖徳太子と生れて国を治めたことを述べられている。
初めの法華経の譬喩品に説く「今此三界」の文は、この三界が仏の所有する世界であり、そのなかの一切衆生は仏の子である等と三徳を示したものである。
この譬喩品においては、釈尊は始成正覚の仏であるから、その三界に対する主題は今世だけに限られているが、次の如来寿量品第十六には、過去五百塵点劫以来、本有常住の仏として、娑婆世界において常住し、一切衆生を説法教化してきたことが明かされている。
「此の娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり」といわれているのは、寿量品に「我本行菩薩道所成寿命今猶末尽復倍上数」とあるように、久遠五百塵点劫に成仏したが、菩薩としての寿命も尽きておらず、十界具足の立場で、あるときは仏身を示し、あるときは菩薩の道を示し等して、衆生を教化したと述べられているからである。
いずれにせよ、この娑婆世界は、譬喩品に示されているように、ただインド応誕以後だけでなく、久遠五百塵点以来、釈尊の所領であり、仏の慈悲に包まれた世界であるということである。
このことを大聖人がいわれているのは、釈尊がこの娑婆世界の君主であり父母・師匠であるにもかかわらず、他方の仏である阿弥陀如来にあこがれ、その極楽浄土へ往生することを願う念仏信仰の誤りを指摘しようとされたのではないかと推察される。
主師親御書には「釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり一人してすくひ護ると説き給へり、阿弥陀仏は我等が為には主ならず親ならず師ならず、然れば天台大師是を釈して曰く「西方は仏別にして縁異なり仏別なるが故に隠顕の義成ぜず縁異なるが故に子父の義成ぜず、又此の経の首末に全く此の旨無し眼を閉じて穿鑿せよ」と実なるかな」(0385-01)と述べられている。
また曾谷殿御返事には「例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(1055-2)と仰せられている。
次に、この娑婆世界のなかでも南閻浮提は阿育大王以来、仏法流布の世界であり、大王は三度にわたって、この南閻浮提を仏法の僧に付嘱したといわれる。
また更に、日本はこの南閻浮提の内にあるが、上宮太子すなわち聖徳太子が仏法を国の根本と定めて以来、仏教国としての歴史を歩んできた。聖徳太子は法華経・維摩経・勝鬘経を特に重んじ、これを解説した「三経義疏」を遺しており、中国・南岳大師の再誕とされる。南岳大師は、法華三昧を証得して天台智者大師の師となった人であり、観音菩薩との示現ともいわれた。したがって、日本は、法華有縁の南閻浮提のなかでも、とりわけ法華経に縁のある国なのである。
つまり「聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり」云々といわれているのは、日本の歴代天皇は、聖徳太子の精神を継いで、法華経を重んずべきであるとの御心であろうと推察されるのである。
「桓武天王已下の諸王は又山王」以下の文は欠損のため、何を仰せられようとしたのかは不明であるが、今までの流れから推察すれば、権実相対の立場で、権経の念仏等を日本中で挙げて信仰する大聖人当時の現状を、こうした歴史的な視点と、人間としての当然の倫理から破折されているのではなかろうか。
1298〜1298 大果報御書to
1298:01〜1298:06 第一章 苦境の中の供養の志を賞されるtop
| 1298 大果報御書 01 者どもをば少少はをひいだし・或はきしやうかかせて・はうにすぎて候いつるが・七月末八月の始に所領かわり 02 一万余束の作毛をさへ・かられて山やにまとひ候ゆへに・日蓮なを・ばうじつるゆへかと・ののしり候上・御かへり 03 の後七月十五日より上下いしはいと申す虫ふりて 国大体三分のうへそんじ候いぬ、 をほかた人のいくべしともみ 04 へず候、これまで候をもい・たたせ給う上なに事もと・をもひ候へども・かさねての御心ざしはうにもすぎ候か。 −−−−−― ?の者どもをは少々追い出し、あるいは起請文を書かせて、法に過ぎた処置であったが、七月末から八月初めに所領がかわり、一万余束の作物さえも刈り取られて、山野に彷徨ったため、日蓮をなを誹謗しているからであると主君に言い切ったというが、貴殿が御帰りになった後、七月十五日から上も下も石灰という虫が降って、国の大体三分の一は飢饉に陥った。大方の人は生きていけるかどうかも分からない。これまで気をつかっていただいたうえは、もうどのようなものであっても不可能と思っていたけれども、かさねてのお志は法に過ぎることである。 −−−−−― 05 なによりもおぼつかなく候いつる事は・とののかみの御気色いかんがと・をぼつかなく候いつるに・なに事もな 06 き事申すばかりなし。 −−−−−― 日蓮がなによりも気掛かりなことは、貴殿の主君のご機嫌がどうであるかと気になっていたが、何事もなかったことは、大変喜ばしいことである。 |
きしよう
祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
いしはい
蝗など、稲を好んで食するバッタ科の害虫と思われるが、詳細は不明。
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本抄は前半が欠けており、ご述作年月日、宛名ともに明らかでない。一説では文永10年(1273)9月、四条金吾に与えられた御書ともいわれている。
文永10年(1273)9月御述作の根拠といわれるのは、本抄に「七月十五日より上下いしはいと申す虫ふりて」と述べられており、これは文永10年(1273)11月の御消息とされる土木殿御返事に「今年日本国一同に飢渇の上佐渡の国には七月七日已下天より忽ちに石灰虫と申す虫と雨等にて一時に稲穀損し」(0946-03)と述べられているのに符合することによる。したがって、石灰虫が降ったとされる文永10年(1273)8月に佐渡まで大聖人を訪れた信徒に与えられたものと考えられるからである。
初めの部分は、詳細は明らかではないが、大聖人の門下が迫害されたり、あるいは信心を捨てるとの起請文をかかせられたりといった迫害を受けたが、その迫害した人が7月末から8月末にかけて所領が代えられ、一万束という稲を刈り取られたために山野に迷う事態になった。と述べられているが、だれを指していたかは明らかではない。本抄をいただいたのが四条金吾とすれば江間氏ということになる。江間氏とすれば、前年の文永9年(1272)2月の北条時輔の乱の際、一族の名越教時・時章の一味として滅ぼされており、江間氏も一味かと疑われたことがあるので、それに関した処置とも思える。
「日蓮なを・ばうじつるゆへかと・ののしり候」と述べられている御文の意味はとくにわかりにくいが、大聖人を誹謗したから所領を代えられたと主君に対して言い切ったという意か。
大聖人のもとから帰った後、7月15日から、石灰虫が降って佐渡の国の三分の一以上の民が飢饉に陥ったと述べられているが。石灰虫の正体はよくわからない。一説ではいなご類が大量に飛来したものではないかとされている。そうだとすれば、佐渡だけでなく、日本の各地に大きな被害が出ていたと思われる。そこから「をもひ候へども・かさねての御心ざしはうにもすぎ候か」と述べられていたものであろう。
日本一国が飢饉の状態にあるとき、少しも変わらず大聖人へ御供養した志を「はうにもすぎて候か」と最大におほめになっているのである。
そして、何よりも心にかかることは、主君の機嫌がどうかと心配していたところ、何事もなかったと知ってこれ以上の喜びはないと仰せであり、信徒の身を思われる大慈悲の御心の一分をうかがうことができる。
大聖人が心配されたのは、主君を破折したことと、佐渡まで大聖人を訪れたことに対して主君がどう思ったかということであろう。
1298:07〜1298:09 第二章 正法流布の必然を示すtop
| 07 かうらいむこの事うけ給わり候ぬ、なにとなくとも釈迦如来・法華経を失い候いつる上は・大果報ならば三年は 08 よもとをもひ候いつるに・いくさ・けかち・つづき候いぬ、国はいかにも候へ法華経のひろまらん事疑なかるべし。 09 御母への御事・経をよみ候事に申し候なり、此の御使いそぎ候へば・くはしく申さず候、恐恐。 −−−−−― 高麗や蒙古のことは承った。なにはなくとも釈迦如来・法華経を失ったからには、大果報があったとしても三年はよもやもつまいと思っていたが、戦争や飢饉が続いた。我が国がどのようになるかはとにかくとして、法華経の弘まることは疑いないことである。 御母のことは、法華経を読誦することにします。この御使いが急ぐので、詳しくは申し上げない。恐恐。 |
かうらい
能登半島の王朝(0918〜1392)。開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗と称した。さらに0953に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の侵略を受けて属国となり、1392年に滅びた。
―――
むこ
13世紀の初め、ジンギス汗によって統一されたモンゴル族の国家。東は中国・朝鮮から、西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、後に四汗国が成立した。本国の中国では五代フビライが1271年に国号を元と称し、1279に南栄を滅ぼして中国を統一した。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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大果報
大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。
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この段で、蒙古軍の襲来が必然とみられていた当時の世情は、一国が正法に背いているからであり、そのために国が滅びることがあっても、正法が流布することは疑いないと大確信が述べられている。
「かうらいむこの事」とは文永9年(1272)5月に高麗の国使が蒙古の国書を携えてきており、文永10年(1273)3月には蒙古の使者・趙良弼が太宰府にきたが、いずれも返書を与えられずに帰国しているので、そのことを指したものと思われる。
趙良弼の携えた国書は「たびたびの国書に返書がなかったが、きたる11月を期限に兵船を準備するから、それまでに返書を請う」という内容の、最後通?ともいえるものだったのである。
蒙古の襲来が眼前に迫ったことを知らされた大聖人は、それを釈迦如来・法華経を失ったためであり、大果報があったとしても三年はよもやもつまいと思っていたところ、内乱や飢饉が続き、今や蒙古の責めにあって国が滅びようとしていると指摘されているのである。ここで「釈迦如来・法華経を失い候いつる」と述べられているのは、特に文永8年(1271)9月12日の竜の口で日蓮大聖人の頸を刎ねようとしたことを指すと考えられる。
竜の口の法難に際し、大聖人は平左衛門尉に対して「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと」(0911-10)と厳しく諌めらあれたのである。
そして、その御予言のとおり、翌文永9年(1272)2月には執権北条時宗の異母兄で六波羅探題の北条時輔が謀叛の疑いで討伐されるという自界叛逆難、北条一族が殺し合う内乱が起こっている。「いくさ」とはこのことを指したものであろう。
「けかち」とは、旱魃による飢饉を指し、当時は毎年のように起きていた。それらはまさに一国の福運が尽きた姿だったのである。
しかも、蒙古が襲来するとすれば、世界最強の蒙古軍を撃退することはとうてい不可能と思われ、日本の亡国は目前と当時の人々は恐怖におののいていたのである。
しかし大聖人は、国がどのようになっても、法華経が広まることは疑いないであろう、と断言されている。これは、決して国が滅びることを願われたものでないことは言うまでもない。
異体同心事には「もうこの事すでにちかづきて候か、我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん、譬へば灸治をしてやまいをいやし針治にて人をなをすがごとし、 当時はなげくとも後は悦びなり」(1463-11)と述べられている。
すなわち、他国侵逼難の予言が的中して蒙古の責めが起きないなら、日本国中の人々がますます正法を誹謗して地獄に堕ちつことになる。蒙古が強く責めるならば、たとえ国が滅びることはあっても、謗法の罪は軽くなるであろう。たとえていえば、灸やハリは一時的に熱や痛みで苦しいが、それによって病気が治るのであるから、その時は苦しくても、後になってみれば喜びとなるのである。との意である。
蒙古襲来というのは日本にとっては未曾有の国難が、大聖人の立正安国論の御予言どおりに的中して起きたことによって、大きな動執生疑となり、一時的には日本の国土が蒙古に蹂躙されるようなことがあったとしても、それによって人々が正法に目覚めて、謗法を捨てることになれば、国は滅びても謗法の罪は軽くなり、正法を根本にした立正安国の国土が出現することになる。との御確信であると拝される。ゆえにこの異体同心事の御金言は、本抄と同じ趣旨と拝することができるのである。
最後に、あなたの母上のことは御本尊を読経し申し上げておいたとされている。その内容については、本文だけでは不明である。
1298〜1298 除病御書top
| 除病御書 01 其の上日蓮の身並びに弟子又過去謗法の重罪 未だ尽きざるの上現在多年の間謗法の者と為り 亦謗法の国に生 02 る、当時信心深からざらんか豈之を脱れんや、 但し貴辺此の病を受くるの理或人之を告ぐ 予日夜朝暮に法華経に 03 申し上げ朝暮に青天に訴う除病の由今日之を聞く喜悦何事か之に過ぎん、事事見参を期せん、恐恐。 −−−−−― そのうえ、日蓮の身、並びに弟子は過去世の謗法の重罪が未だ尽きていないうえに、現世では、多年の間謗法の者となり、また謗法の国に生まれた。当時信心が深かったのであろう。どうしてその罪を脱れることができようか。ただし貴辺がこの病に罹ったことをある人から聞いたので、病気平癒を日夜朝暮に法華経を申し上げ、朝暮に青天に訴えてきたが、病気が治ったことをきょう聞いた。これ以上うれしいことはない。詳しいことはお会いしたときに申し上げよう。恐恐。 |
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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晴天
@晴れた空のこと。A妙法受持のものを守護する諸天善神、特に日月天の働きが満ち溢れているさま。
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本抄の御真筆は存していないが、写本は漢文体の御消息で、御書全集の文は、漢文体からの書きおろし文である。内容は前半が決失しており、御述作年代も与えられた人も不明であるが、建治元年(1275)に太田入道に与えられたものと推定されている。太田入道が病に倒れたことを聞かれ、日蓮大聖人が法華経に除病のため謗法の罪抄消滅を祈ったところ、治癒したとの報を受け、大変に喜ばれている。
大聖人は、我が身も弟子も、過去世の法華経誹謗の深重の罪業が、生命に染みついていること、それゆえにこそ現在世において、謗法の国に生まれ、多年の間、邪法を行ずる謗法の者であったことを述べられている。そうした身なればこそ、今生に信心強盛に励まなければならないのである。
大聖人は、幼少にして安房の清澄寺に登り、念仏僧の道善房を師に出家・修学し、念仏の邪法に縁された。この謗法を厳しく省みられて、佐渡御書に「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや」(0959-04)と仰せられ、今生のわずか数年間の謗法の罪ですら消し難く、過去世にあって生命に深く染めてきた罪業においては、なおさらのこと消し難いといわれ、宿業の深重であることを示されている。
このように、御自身について「謗法深重の身」と示されたのは示同凡夫の御立場からの仰せであることはいうまでもない。
次に「但し貴辺此の病を受くるの理」以下は、門下の病苦をお聞きになって真剣に祈られたところ、病気が治り、健康になったことを聞かれ、心から喜ばれている。
妙法を信受する者は、常に御本仏の大慈悲に身守られていることを確信し、どこまでも勇気ある仏道修行をしていくことが大切である。
1299〜1299 根露枝枯御書top
| 1299 根露枝枯御書 01 三論宗も分別ならざる証文をもつて立てたりしかば・盲目の衆生に値うて誑惑せしかども・明眼の智者に値うて 02 邪義顕れぬ、 此れ即根露るれば枝枯れ源乾けば流竭く自然の道理なり、 念仏宗・禅宗と真言とは其の根本謬ゴを 03 本とし誑惑を源とせり、 其の根源顕れなば設い日蓮はいやしくとも 天のはからひ大法流布の時来るならば・彼の 04 悪法やぶれて此の真実の法立つ事疑なかるべし。 05 すでに此の悪法消えんとするは汝知るやいなや、日蓮をいやしみて・さんざんとするほどに\/。 −−−−−― 三論宗も明らかでない証文をもって宗旨を立てているので、盲目の衆生にあっては誑惑したけれども、明らかな眼をもった智者に値っては、邪義が顕れたのである。これはすなわち根が露れると枝は枯れ、源が乾けば流れがつきるとうい自然の道理である。念仏宗・禅宗・真言宗とは、その根本は謬りを本とし誑惑を源としている。その根源が顕れるならば、たとえ日蓮は卑しいみであっても、天の計らいで大法の流布する時がくるならば、彼の悪法は破れて、この真実の法が確立されることは疑いないであろう。 既にこの悪法が消えようとしていることを、あなたは知っているかどうか。日蓮をいやしんで、さんざんに迫害するうちに\/。 |
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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根露るれば枝枯れ源乾けば流れ竭く
淮南子巻17にある文。「其の源を塞げば竭き、其の本を背せば枯る」とある。摩訶止観巻4上にも「根露るれば篠枯れ、源乾けば流れ竭く」とある。
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念仏宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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真言
真言宗の事。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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本抄は、前後が欠落していて、御述作の年月日、宛名が記されていないが、弘安元年(1278)の御述作とされている。御真筆の有無も明確でない。
しかし、のこされた断片の本文から、三論宗・念仏宗・禅宗・真言宗の教義を破折され、法華経の大法が流布すべき時であることをのべられたものと推察できる。
根露るれば枝枯れ源乾けば流竭く自然の道理なり
亭々として緑したたる葉を茂らせてそびえ立つ大木であっても、その根が地上に露出してしまえば枝葉が枯れてしまう。また、どんな大河であっても、その源が乾いてしまうと、流れは尽きてしまう。これは自然の道理である。それと同じく、どんなに栄えているように見える宗教でも、その教えの根幹部分が誤りで根が浅ければ、その根を破折して、誤りをあからさまに指摘する智者が出現すると、一挙に衰退することになる。
本文で、三論宗についてこのようにいわれているのは、南都六宗が伝教大師最澄によって打ち破られたことをおおせられている。
三論宗は竜樹の中論・十二門論と、提婆菩薩の百論という三つの論を基礎として立てられた宗旨である。この宗に対し、大聖人は「分別ならざる証文をもつて立てたりしかば・盲目の衆生に値うて誑惑せしかども・明眼の智者に値うて邪義顕れぬ」と仰せられている。
つまり、三論宗そのものがあまり明瞭でない文証をもって立てられた宗であるにもかかわらず、何も仏教のことを知らない衆生をだますことはできた。しかし、明眼の智者である伝教大師に、その教義の根本の誤りと矛盾を指摘されて、邪義があらわになった、と仰せられている。
念仏宗・禅宗・真言宗は、伝教大師以後に現れ広まった宗派である。これらについては、日蓮大聖人御自身が、その根源の誤りを破折して、邪法の根をあらわになったと述べられている。
そして、念仏・禅・真言の諸宗の根本的な誤謬を白日の下にさらしたので、たとえ大聖人は身分は卑しくとも、諸天善神のはからいで、法華経の大法が流布する時が必ずくるのであり、その時はこれらの悪法はことごとく破れ去って法華経の正法が立つことは間違いないと仰せられている。
前後が欠落した短い御文であっても、末法の御本仏・日蓮大聖人の烈劣たる邪法破折の御精神と三大秘法広宣流布への不抜の御確信がひしひしと伝わってくる御抄である。
1299〜1299 南無御書top
| 南無御書 01 堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを法華経にまいらせんとをもし、 三世の仏 02 は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、 此の故に一切の仏の始には南無と申す・南無と 03 申すは月氏の語・此の土にては帰命と申すなり、 帰命と申すは天台の釈に云く「命を以て自ら帰す」等云云、 命 04 を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、日蓮今度命を法華経にまいらせて。 −−−−−― 堂塔を造らず、布施も奉っていない。惜しむのは命だけである。これを法華経に奉ろうと思った。三世の仏は皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのである。このゆえに一切の仏の上には南無というのである。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのである。帰命というのは、天台大師が「命を以って自ら帰す」と釈している。一切の仏は命を法華経に奉って仏に成ったのである。日蓮も今度、命を法華経に奉って。 |
布施
物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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凡夫
仏法の道理を末だ理解せず迷っていること。
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南無
梵語ナマス(namas)の音訳。南謨・那摸・那摩ともいう。帰命・帰礼・恭敬・信従・帰趣・稽首・救我・度我などと漢訳する。絶待の信をもって仏および教説に帰依することをいう。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
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天台
(0538〜0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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命を以て自ら帰す
摩訶止観巻二上に「当に専ら一仏の名字を称し、慚愧懺悔して命を以て自ら帰すべし。十方の仏の名字を称うる功徳と正しく等し」とある。
――――――――― 本抄は、前後が欠落しているために、全体の内容、御述作年月日、宛名など不明であるが、御真筆は京都・妙蓮寺にある。
断片の短い御文であるが、御自身の命をなげうって法華経を弘められている御心境が拝される。
南無・帰命
本文に「三世の仏は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す・南無と申すは月氏の語・此の土にては帰命と申すなり」と仰せである。ここで南無とは月氏の語、すなわちNamasの音訳であることが明かされ、更に、その意味が「帰命」であると説かれている。
帰命とは天台大師が「命を以て自ら帰す」と釈しているように、自らの命をなんらかの対象に帰一させていくことである。
一般の世間の事柄においても、ある思想・信念に自らの命をかけたり、ある人間に自己を捧げたりして、仏法でいう「帰命」に類似した状態が現れる場合もあるが、仏法の「帰命」とは全く似て非なるものである。
そのうえ決定的な相違は、前者が世欲的、相対的、目に見える現象的な対象であるのに対し、後者は世欲を超えた目に見えざる絶対的な法としての「法華経」を対象としているということである。
たとえ、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩などのように、一見、人格的な対象に帰命するかのように思える場合でも、仏法の場合は、その人格の奥に貫かれている見えざる“法”に、信仰者が自らを帰一しているのである。
この点があいまいになると、“法”を無視した単なる人格的信仰に陥ってしまい、仏法にあらざる外道となってしまうのである。
末法の御本仏・日蓮大聖人は、このあいまいさを徹底的に除かれ、“法”に帰命すべきことを主張されたことは、本抄にも明らかである。
すなわち「三世の仏は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す」と仰せである。「一切の仏の始には南無と申す」とは、例えば南無釈迦牟尼仏・南無薬師如来・南無阿弥陀仏などという表現を指しておられる。
通常ならば、信者が釈迦牟尼仏・薬師如来・阿弥陀仏などを対象として自らを帰一していくことを指するのであるが、ここでは、それぞれの仏自身、自分が凡夫であったときに命を法華経に奉って成仏したのであり、そのゆえに仏の名前に「南無」を冠すといわれている。
これは南無・帰命、の考え方について、法華経を中心とすべきことを明確にされたものといえるであろう。
言葉換えていえば「南無釈迦牟尼仏」も「南無薬師如来」も「南無阿弥陀仏」もすべて「南無妙法蓮華経」と唱える中に含まれるのであり「南無妙法蓮経」を忘れて、他の仏・菩薩に南無と唱えるのは、根本を忘れて枝葉を重んじている?倒のいき方となっていることを知らなくてはならない。
ここに、帰命の意味は、凡夫と法華経との間に関係があるとの考え方が明確に打ち出され、凡夫と法華経との間に、仲介的な人格的対象の介在することを排除されることにより、一切衆生皆成仏道という絶対平等の仏法精神を完全に発揮されたというべきであろう。
そして、ここでいう法華経が、文底独一本門である南無妙法蓮華経の大御本尊であることはいうまでもない。
なお、南無・帰命については「白米一俵御書」「御義口伝・南無妙法蓮華経の事」の講義に詳しいので参照されたい。
1300〜1300 題目功徳御書top
| 1300 題目功徳御書 01 功徳は先の功徳にたくらぶれば・前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、 先 02 の功徳は一Hの水のごとし・題目の功徳は大海のごとし、 先の功徳は瓦礫のごとし・題目の功徳は金銀のごとし、 03 先の功徳は螢火のごとし・題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり。 −−−−−― 法華経の題目の功徳を、爾前経の功徳と比べるならば、爾前権経の功徳は爪上の土のようであるのに対し、法華経の題目の功徳は十方の土のようである。爾前権経の功徳は一しずくの水とすると、法華経の題目の功徳は大海のようである。爾前権経の功徳は瓦や小石のようなものとすると、法華経の題目の功徳は金銀のようなものである。爾前権経の功徳は螢の光のようなものとすると、法華経の題目の功徳は日月のようであるという経文である。 |
瓦礫
瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
―――
蛍火
「ほたるび」とも読む。日月等にたいして、ごく微細なひかりのこと。
―――――――――
本抄の御真筆は京都・本隆寺にあるが、前後の御文が欠損しているため、御執筆年月日および与えられた人ともに不明である。内容は爾前権経に対して法華経の題目の功徳がいかに広大で勝れているかを述べられている。
御文では「先の功徳」すなわち爾前権経の功徳と「法華経の題目」の功徳との相違が、爪上の土と十方の国土、一Hと大海、瓦礫と金銀、蛍火と日月のようであると述べられ「申す経文なり」と、何かの経文の取意とされている。おそらく、この前文にその引用が示されているのであろうが、欠損しているため、どの経文か分からない。
これに類似した経文としては、法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩がある。そこでは法華経が一切経に勝れているさまを並べられている。すなわち、
@衆川と大海
A衆山と須弥山
B衆星と日月
C闇と日月
D諸王と転輪聖王
E三十三天と帝釈
F一切衆生と大梵天王
G凡夫と四果・辟支仏
H二乗と菩薩
I諸法と仏
であるが、本抄の対比は、この薬王品の対比よりはるかに懸隔が甚だしい。
それは、おそらく薬王品では、一切経と法華経との勝劣を述べたのに対し、本抄で示されているのは、爾前一切経と法華経の題目、すなわち法華経文底独一本門の三大秘法の南無妙法蓮華経との勝劣であるからであろうと思われる。
「爪上の土と十方の国土」という本抄の譬喩は、薬王品の「衆山と須弥山」を踏まえられたものと考えられる。一切経と法華経とでは、衆山と須弥山という相違であるが、権教と法華経の題目となると、権経を“衆山”よりずっと小さな「爪上の土」に置き換えても、法華経の題目は“須弥山”よりはるかに大きい「十方の国土」にたとえなければならないほど広大なのである。
「一Hの水と大海」の譬喩は、薬王品の「衆川と大海」に対応する。水で最大のものは大海で、それ以上はないから「法華経の題目」の功徳を「大海」にたとえられ、その代わり、権経の功徳を一切の川よりはるかに微少な「一Hの水」になぞらえて、その差の大きさを教えられているのである。
以上の二喩は、功徳の広大さの違いをのべたものである。それに対し、次の「瓦礫と金銀」「螢火と日月」の二喩は、質の相違を示されたものと拝せよう。
「瓦礫と金銀」のたとえは、薬王品のたとえに直接あてはまらないが、あえていえば衆山が瓦礫からなっているのに対し、須弥山が金銀からなっているとされたことに関連づけられている。それが質、価値において、雲泥の相違であることは説明するまでもない。
「螢火と日月」のたとえは、薬王品の「衆星と日月」のたとえにつながっている。衆星と日月は、その光の大小、強弱という量的相違にとどまるが、「螢火」と「日月」となると、量の面だけでなく、その質においても全く異なるといわなければならない。
また、十方の土や大海が、あらゆる有情を生息させ、これを育くんでいけるのに対し、爪の上の土や一Hの水は、微生物は別にして、通常の生命を支えることはできない。金銀は、それ自体、美しく、人の心を喜ばせ、高い交換価値をもつのに対し、瓦礫は、人の心をよろこばせもせず、交換価値もない。日月はその光によって、正しい智慧を与え、特に太陽は巨大なエネルギーによって、生命の源泉となっている。それに対し、蛍火は、生命を育む力をもたない。
ここに、衆生を利益する力をもたない爾前権経と、一切衆生を利益し、成仏という無上の幸福をもたらす「法華経の題目」すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経との相違が、明確に御教示されているのである。
1300〜1300 大悪大善御書top
| 大悪大善御書 01 大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、 各各なにを 02 かなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、 03 上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、 普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり、 04 事多しといへども・しげきゆへにとどむ、又又申すべし。 −−−−−― 大事の起こる前には小さな瑞相はない。大悪が起これば必ず大善がくる。既に大謗法が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるであろう。おのおのは何を嘆くことがあろうか。迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から涌出したときには、踊り出られたのである。普賢菩薩がこの土にきたときには、大地を六種に動かしたのである。申し上げたいことは多くあるけれども、多繁のためにこれでとどめておく。またまた申し上げる。 |
迦葉
迦葉は梵語マハーカーシャパ(Mah?k??yapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後二十年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。なお、法華経信解品第四には「爾の時、慧命須菩提・摩訶迦栴延・摩訶迦葉・摩訶目ノ連は、仏従り聞きたてまつれる所の未曽有の法と、世尊の舎利弗に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたまうとに、希有の心を発し、歓喜踊躍して」とあり、迦葉などの四大声聞が、三車火宅の譬をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことをまのあたりにし、歓喜踊躍したことが説かれている。
―――
舎利弗
梵語シャーリプトラ(??riputra)の音写。身子・?鷺子等と訳す。釈尊の声聞十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。法華経譬喩品第三で未来に華光如来になるとの記別を受けている。なお、法華経譬喩品第三には「爾の時、舎利弗は踊躍歓喜し、即ち起ちて合掌し、尊顔を瞻仰して、仏に白して言さく、『今、世尊従り此の法音を聞き、心に踊躍を懐き、未曾有なることを得たり』」とあり、舎利弗が諸法実相の妙理を領解し、踊躍歓喜したことが説かれている。
―――
上行菩薩
法華経従地涌出品第十五で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。上行は四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。
―――
普賢菩薩
梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩とともに迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。普賢は六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、而も善なることをあらわした名号である。なお、法華経普賢菩薩勧発品第二十八には「爾の時、普賢菩薩は、自在なる神通力、威徳、名聞を以て、大菩薩の無量無辺不可称数なると東方従り来る。経る所の諸国は、普く皆な震動し……」とあり、普賢菩薩が出現した時に大地が震動したことが説かれている。
―――――――――
本抄は、長い御消息の一部なのか、あるいは、これだけで全文なのかは明らかでない。御述作年月、宛名も不明だが、文永12年(1275)2月の御述作とする説がある。御真筆は堺・妙国寺に現存する。
大事には小さな瑞相はなく、大悪が起こったときにこそ大善がきたるのであると述べられて、すでに日本が大謗法になっているということは、大正法が必ず広まる瑞相である、と仰せられている。
ここでいわれている「大悪」「大謗法」が何を意味するか。次に「各各なにをかなげかせ給うべき」と仰せられていることから、大聖人一門に降りかかった迫害とも推測される。いま起こっている苦難は、正法が必ず広まるという大善≠フための瑞相なのだから、嘆く必要はない。むしろ、喜んで、踊躍していきなさい、との仰せと拝せられる。
人々が正法に激しく敵対すればするほど、それは逆縁を結んでいるのであり、罰の現証を通じて、正法の偉大さに目覚めるときが早くくるのである。
だからこそ「各各なにをかなげかせ給うべき」と仰せになり、諸難にあうことを嘆くことなど少しもないとされているのである。むしろ、迦葉尊者のように舞をも舞い、舎利弗のように立って踊るべきであると仰せである。
舎利弗・迦葉が立って踊り、舞ったと仰せられているのは、経文に「歓喜踊躍」とあることによる。踊躍とは、踊り、舞うことだからである。彼らが踊躍したのは、成仏得道の大法を得た喜びのゆえである。
また上行菩薩が涌出したときには大地から踊り出たのであり、普賢菩薩がくるときには大地を六種に動かしたとある、と述べられている。
これは、未曾有の大正法をもって世界に広宣流布する大歓喜の姿をあらわしているといえよう。
諌暁八幡抄に「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」(0589)と述べられ、末法には、太陽の仏法である大白法が、世界へ流布しゆくことが示されている。
上行菩薩が末法に三大秘法の大法を広宣流布する本化地涌の菩薩の上首であり、この妙法流布の主体者であるということは、いうまでもないところである。
これに対し、普賢菩薩は、法華経普賢菩薩勧発品第二十八で「我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」と誓っている。
日蓮大聖人は御義口伝に「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」(0780)と仰せである。したがって、普賢菩薩とは妙法弘通を守護する働きを象徴したものといえる。
1300〜1301 来臨曇華御書top
| 来臨曇華御書 01 追つて申す、御器の事は越後□□房申し候べし、御心ざしふかき由・内房へ申させ給い候へ。 1301 01 春の始の御悦び 自他申し篭め候い畢んぬ、 抑去年の来臨は曇華の如し、 将又夢か幻か疑いまだ晴れず候処 02 に。 −−−−−― 追申。御器のことについては、越後□□房が申し上げるであろう。御志の深いことであると内房殿へ伝えていただきたい。 春の初めの御悦び、お互いにお祝い申し上げる。そもそも、あなたが去年へみられたことは、優曇華の花の咲いたのに値ったようである。あるいはまた、夢か幻か、いまだにその疑いが晴れないでいるところに、 |
内房
日蓮大聖人御在世当時の信徒。駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮市内房)に住んでいたので、こう呼ばれた。弘安3年(1280)8月14日の内房女房殿御返事には、亡父の100ヵ日忌に追善のため布施領10貫文を大聖人に御供養し、その際の願文に「読誦し奉る妙法蓮華経一部読誦し奉る方便寿量品三十巻読誦し奉る自我偈三百巻唱え奉る妙法蓮華経の題名五万返」(1420-02)「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」(1421-02)とあることから、信心強盛な女性で、姓は大中臣氏であったことがわかる。なお三沢抄に出てくる内房尼とは別人であろう。一説には内房尼は内房の姑であったとの説もある。
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曇華
優曇華のこと。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。
@インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。
Aクワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。
B芭蕉の花の異名。
Cクサカゲロウの卵が草木等についたもの。
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本抄は御真筆が堺の妙国寺に存しているものの、お手紙の最初と思われる部分であって、あとは欠失しているため、御執筆年月や本抄をいただいた人の名は、全く不明であるとされていたが、その後の研究で、東京・日暮里の本行寺にある御手紙との分蔵であることがわかり、始末整足して一編の御書となった。その全文は、次のようになる。
来臨曇華御書(内記左近入道殿御返事)
追つて申す、御器の事は越後□□房申し候べし、御心ざしふかき由・内房へ申させ給い候へ。
春の始の御悦び 自他申し篭め候い畢んぬ、 抑去年の来臨は曇華の如し、 将又夢か幻か疑いまだ晴れず候処
に。今年之始の深山の栖、雪山の室えを経て御使、山路をふみわけられて候に、去年の事はまことなりけるやまこと
なりけるやとおどろき覚え候へ。他行之子細。越後公御房の御ふみに候也。
正月十四日 日蓮花押
内記左近入道殿御返事
したがって、本抄を与えられた人は、内記左近入道ということになるが、内記左近入道の名は他の御書のどこにも名前がでてこないため、詳細は不明であるが、本抄中に内房の名があり、内房女房殿ではないかと思われることから、内房女房に縁のある人で、静岡県富士宮市芝川近辺に住んでいた人ではなかろうかと推測できる。
最初に「追って申す」とあることは、最初の部分の余白に書かれたものであろう。
本文の内容は、最初に新春の祝いを述べられた後に、昨年身延の草庵にこられたことは、あたかも優曇華の花の咲いたのに値ったようであったと仰せである。優曇華の花は3000年に一度咲くとされ、非常に珍しいことの譬喩に用いられているが、それとともに、貴重で素晴らしいことの意として、称賛されているのである。去年のみなら、まだそれがはたして本当のことだったのかと疑わしいが、今年また使いをもって身延の地まで訪ねてこられたことはまことに素晴らしいことであり、去年のことはやはり本当のことであったのかと喜ばれている。門下の信心の前進を心からほめたたえられているのである。
追伸の部分で「越後□□房申し候べし」の□□の難読文字は、本文から推察して「公御」ということになり、「御器」については日弁が申し上げるが、内記左近入道が何かの器を御供養したことに対し、その意義について日弁が大聖人の教えを伝えたのであろうか。器の供養に関連して、四つの失を示しながら法華経の信心を教えられた秋元御書に出てくるように、覆・漏・?・雑を挙げ、信心も同じで、正しい教えを知りながら耳を覆ったり、捨てたり、ほかの教えを混ぜたりすれば大きな失とあるとされ、この四つの失のない、正しい信行に励めば、仏の平等大慧の智水は乾くことはないと教えられている。いま内記左近にもこのことを日弁を通じて御教示されたのであろう。
「御心ざしふかき由・内房へ申させ給い候へ」と仰せになっているのは、内記左近と一緒に、内房殿からの御供養があったのであろうか。もしかすると御器の御供養は内房殿からのものであったのかも知れない
1301〜1301 常楽我浄御書top
| 常楽我浄御書 01 出でさせ給いて諸大乗経をかんがへ出し十方の浄土を立て一切の諸法は常楽我浄と云云、 其の時・五天竺の十 02 六の大国・五百の中国・十千の小国・ 無量の粟散国の諸の小乗経の無量無辺の寺寺の衆僧・一同に蜂のごとく蜂起 03 し・蟻のごとく聚集し・雷のごとくなりわたり、 一時に聚集して頭をあわせて・なげいて云く仏在世にこそ五天の 04 外道は我等が本師・教主釈尊とわ・あらそいしが・仏は一人なり・外道は多勢なりしかども・外道はありのごとし・ 05 仏は竜のごとく・師子王のごとくましませしかばこそせめかたせ給いぬ、 此れはそれには・にるべくもなし、馬鳴 06 は一人なれども・我等は多人なれども・代すへになれば・悪はつよく善はゆわし 、仏の在世の外道と仏法とは水火 07 なり。 −−−−−― 出現されて、諸大乗経を勘え出し、十方浄土を立て、一切の諸法は常楽我浄であると宣言された。 その時、全インドの十六の大国・五百の中国・一万の小国・かぞえきれないほどの粟散国にある諸の小乗経の無量無辺の寺々の衆僧が蜂のように蜂起し、蟻のように群がり集まり、雷のように鳴りわたって、ある時、一所に集って頭を合わせて嘆いて言った。「仏の在世であったから、全インドの外道が、我らの本師である教主釈尊と争ったが仏は一人であり、外道は多勢であったけれども、外道は蟻のようなものであり、仏は竜のようで、また師子王のようであられたので、責め勝たれたのである。我々は仏には似るべくもないので、馬鳴は一人で我等は多勢であるが、代が末になっているので、悪は強く善は弱いのである。仏の在世の外道と仏法とは水火の違いがあった。 |
大乗経
仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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十方の浄土
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。浄土とは穢土に対する語で五濁に染まっていない清浄な国土をいい、声聞・縁覚・菩薩。仏の四聖の住処とされる。
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常楽我浄
四徳。また四徳波羅蜜という。仏の境地や大乗の涅槃にそなわる四つの徳をいう。常徳は仏の境地、涅槃が永遠に不変不改であること。楽徳は無上の安楽であること。我徳は自我の生命が自由自在で他からなんの束縛を受けないこと。浄徳は煩悩のけがれをうけないこと。
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五天竺
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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十六の大国
大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。?薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩?弥国、鳩留国、?賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、ノ崛闍国、波提国、なお十六大国については、経によってさまざまな説がある。
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五百の中国・十千の小国・無量の粟散国
大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000〜10,000人の国を中国、700〜3,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。
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小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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竜
梵語ナーガ(N?ga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。
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師子王
ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。
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馬鳴
馬鳴菩薩のこと。二世紀ころ、中インドに出現したといわれる大乗の諭師。付法蔵の代十二祖・アシュヴァゴーシャ(A?vagho?a)のこと。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば「舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰伏した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「?稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。
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本抄は、前後が欠けているために、御述作の年月日、場所、宛名ともに全く不明である。建治年間に御述作との説もある。
しかし、信徒に与えられた御消息の一つであったと推測される。御真筆は京都・妙顕寺にある。
本文の内容は、馬鳴菩薩が大乗仏教を興隆したときに、小乗教を奉ずる僧達が激しく対立した様子を述べられている。
馬鳴菩薩が説いた大乗教の内容は「十方の浄土を立て一切の諸法は常楽我浄」というものであった。これに対し、小乗の僧達は、仏は十方世界のなかで釈迦一仏しかなく、一切法は無常・苦・無我・不浄である、と主張したのであった。
諸大乗経をかんがへ出し十方の浄土を立て一切の諸法は常楽我浄と
馬鳴菩薩が唱えた大乗仏教の教えの一端が説かれている。
この教えが、なぜ、既成の小乗仏経徒を嘆かせ狼狽させ、はては、馬鳴を外道・悪人とまで非難させたかということであるが、それは、大乗諸経典の教えが彼ら小乗経徒の信奉していた阿含経とは、表面的にとらえると正反対で、外道に近接した教えであると錯覚されたことになる。
日蓮大聖人は一代聖教大意において、小乗阿含経の教えに関して「此の教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へども横に十方に並べて仏有りとも云わず」(0390-03)とも「外道は常心楽受我法浄身仏は苦.不浄.無常巻無我と説く」(0392-01)とも述べられている。最初の御文で「此の教」とは阿含経である。
すなわち、阿含経の教えは、この三界の世界以外に浄土にあるとは説かず、また、仏に関しても、過去の六仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒仏、というように、時間的には三世に次第して出世すると説くけれども、空観的に、十方のあらゆる場所に、同時に、多数の仏がいるとは述べなかった。また、外道が、現実の世界は常・楽・我・浄であると主張したのに対し、阿含経での釈尊は、逆に苦・不浄・無常・無我と破折したのである。
このような阿含経の教えを護持していた小乗教徒が、十方に浄土があると立て、一切諸法は常楽我浄であるとする馬鳴菩薩が出現したとき、かえって釈尊と外道との論争が再び蘇ったのも無理はなかったであろう。これは多分に、小乗教徒側の誤解に端を発しているのである。
まず、十方に浄土が存在するとの考え方について。
先の一代聖教大意からも明らかなように、阿含小乗経の教えは、過去・現在・未来の三世に次第して、それぞれに出現する仏は決まっているとする。過去の仏については、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含仏・迦葉仏の六仏があり、現在仏の釈迦仏を加えて過去七仏ともいう。
未来の仏については弥勒仏が決定している。
釈迦仏は、滅後においても56億7000万歳を経て出現する弥勒仏までの間、衆生救済の働きをするとされているので、現在仏でもある。
このように、過去・現在・未来と順次に仏が三界六道の娑婆世界に出現して衆生を救うことになっているので、娑婆世界以外の十方世界に浄土があると説く必要はなかったといえる。また、このように、仏は三世に決まっているから阿含小乗教を信奉する弟子達は“仏に成る”とは考えずに、ただ仏の教えを聞いて、解脱して阿羅漢に成ることのみを目指して修行したのである。それゆえ、彼らは声聞と呼ばれる。そして後に、縁覚を加えて二乗と呼ばれることになる。
これに対し、大乗経典では、それまでの阿含経の教えで、自分の解脱のみを考えて衆生の救済を行わなくてよいという考え方に陥った弟子達を破折して、これを「小乗」あるいは「二乗」と位置づけたのである。
諸大乗教にあっては、仏の真意はだれびとをも仏にするところにったことを述べ、その理論的裏づけとして、だれびとも菩薩であるとともに、だれびとも仏性があると説いたものである。そして、仏になるためには、自らが仏性を有する存在であることを禅定により深く信じていくと同時に、菩薩として衆生救済の行に励まなければならないとする。
このように、だれびとも菩薩であり、仏になることができることから、必然的に、いつ、いかなる場所にも、菩薩や仏が存在していることになるのである。逆にいえば、いつ、どこにでも、仏・菩薩が存在すると説いてこそ、だれびとも菩薩であり、仏に成り得るとの教えが説得力をもつことになる。そして、その十方の仏・菩薩の住処が浄土であり、仏国土である。例えば、東方歓喜国の阿?仏、西方極楽世界の阿弥陀仏、東方浄瑠璃世界の薬師如来などはその代表的な例であろう。いずれも浄土であり、それぞれ、菩薩道を行じ衆生を救済しきって仏と成り、それぞれの場所に浄土・仏国土を建設しているとされる。
これが、馬鳴の唱えた、十方の浄土があるとの諸大乗教の教説である。
しかし、この十方浄土説は、あくまで、だれびとも仏性をもち、だれびとも菩薩であり、すべての人が仏に成り得るということを強調するためのものであった。しかも、仏に成るには、菩薩としてあらゆる悩める衆生を救済して自らが苦悩満つる世間、国土を清浄にしていく、という積極的でたくましい建設精神が必須の条件であった。
西方に浄土を建設した、と説かれる阿弥陀仏などは、以上のような菩薩精神の典型的な規範として述べられたものであって、実際に西方に阿弥陀仏が存在するわけではない。
しかし、後世になると、この教えをも、自らが菩薩として主体的な浄土を建設するという積極的な精神を忘却して、ただ虚構の阿弥陀仏や薬師如来などにすがり、自らが救済されることのみを願う他力信仰に陥っていく。本来、たくましい建設精神に満つ主体的な菩薩道を説く教えが、逆に主体的で、他力的、かつ自らの救済を願う自利的、エゴイスティックな受け取り方をされえいくのである。ここに諸大乗教典が「権大乗」と位置ずけられた理由の一端がある。
もちろん、もっと大きな理由として、釈尊の出世の本懐とされる法華経に説かれる二乗作仏と久遠実成の教説が結如していること、また、歴劫修行のみを説いて即身成仏を明かされたことなどが挙げられるのはいうまでもない。
次に、一切の諸法は常楽我浄であるとの教説について。
前述べしたように、この経説が小乗経徒達をして、馬鳴を外道と錯覚させたものである。なぜなら、釈尊が論争し、破折した外道が、常楽我浄の教説を立てていたからである。
では、外道の常楽我浄と馬鳴菩薩の説いた大乗仏教とそれとの間に、どのような相違があるのだろうか。
これについては、釈尊の入滅直後に説かれたとされる大涅槃経において明確に明かされているので紹介しておこう。
そこでは「二種の四倒見」として、この問題に触れている。
まず第一の四倒見が外道の常・楽・我・浄である。“倒見”とは、人生と世界の真実相に対して、逆立ちした見解のことである。
すなわち、現実の世界が変化しつづける無常なるもので、常住なる実体をもたず。苦に満ち、不浄であるにもかかわらず、外道は、この世の中に、常住して不変の実体を追い求め、楽なるものや浄なるものを追及してやまない、これが?倒の見解である。釈尊はこの四倒見を破折するために、小乗阿含経で、現実の世界と一切諸法は「無常・無我・苦・不浄」であると説いたのである。
しかし、仏滅後、小乗経徒達は、釈尊の説いた、この「無常・無我・苦・不浄」の教えに固執死過ぎたために、今度は厭世的で虚無的な見解に陥り、はては灰身滅智することを究極の目標とするまでになってしまったのである。すなわち、釈尊の真意から大きく逸脱してしまったといえる。これが第二の四倒見といわれる。
そこで、これらを破折するために、大乗経典では「常・楽・我・浄」と説いたのである。
さて、外道の常・楽・我・浄との違いであるが、涅槃経に「世間にも常・楽・我・浄あり、出世間にもまた常・楽・我・浄がある。しかし、世間の法は字あって義なく、出世間には字あり義がある」とある。
すなわち、ここでは、外道の常・楽・我・浄は世間すなわち現実世界をそのまま常楽我浄としたものであり、それに対し、大乗経典の「常・楽・我・浄」は出世間の立場であり、現象次元の奥底にある生命の悟りの境地についていったものである。ここに、双方の間の相違がはっきり示されている。
1301〜1301 帰伏正法御書top
| 帰伏正法御書 01 上一人下万民一同に帰伏する正法なり始めて勝劣を立てて 慈覚智証弘法そむかんとをほせある○べかりしとを 02 ぼすか強敵を仏法の中に あらそい出来すべきたね国のみだるべきせんてうなりいかなる聖人の 御ことばなりとも 03 用ゆべからず各各日蓮をいやしみて○真言宗と法華経宗と叡山東寺薗城なら。 −−−−−― 上一人から下万民にいたるまで、一同に帰伏する正法である。はじめて勝劣を立てて、慈覚・智証・弘法に背かんとおおせられるのは(○)べきであると思われるか、強敵を…仏法のなかに争いが起きる種、国が乱れるようになる先兆である。どのような聖人の言葉であっても用いてはならない。日蓮を卑しんで(○)真言宗と法華経宗と比叡山・東寺薗城・奈良。 |
上一人
最も高い位にある人。天皇・執権・君主。
―――
帰伏
心から信じて従うこと。帰とはかえる、もとに戻る、身を寄せる、まかせるの意で、伏とは身を低くして、従うという意がある。
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正法
正しい法。邪法に対する語。
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せんてう
事が起こる兆し。前兆。前ぶれ。
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慈覚
(0794〜0864)。日本天台宗の第三祖。諱は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和5年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
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智証
(0814〜0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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弘法
(0774〜0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。讃岐(香川県)に生れる。延暦12年(0793)勤操にしたがって出家したといわれる。延暦23年(0804)入唐し、青竜寺の慧果について密教を学んだ。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘仁14年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻などがある。
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聖人
世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。妙密上人御消息(1240)には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」とある。
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真言宗
三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
法華経宗
法華経を依経とする宗派。
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叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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東寺
教王護国寺ともいい、古義真言宗東寺派の大本山。平安京奠都とともに延暦15年(0796)羅城門の東に左京・東国の鎮護として造営された。弘仁14年(0823)嵯峨天皇が空海に賜って以後、真言密教の道場となった。
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園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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本抄は、御書全集発刊後、御真筆が京都・本禅寺にあることがわかった。
古来、本抄は本文のように伝えられていたが、御真筆の発見により、前後の入れ替わりや、解読不明部も明らかになたので、その全文を掲載する。
仏法のの中にあらそい出来すべきたね、国のみだるべきせんおぺうなり。いかなる聖人の御ことばなりとも用う
べからじ、各各日蓮をいやしみて云く、真言宗と法華経宗とは叡山・東寺・薗城・なら、上一人・下万民一同に帰伏
する正法なり。始めて勝劣を立て慈覚・智証・弘法そむかんとをほせあるはいかんとをぼすか。強敵を
このように前後がそっくり入れ替わっている。このように順序が変わって伝えられたのは、御真筆の存在がわからず、写本が2枚以上になっていて、順序が入れ替わったものであろう。当講義は、御真筆の順序にそって拝読していく。
本抄をいただいた人の名も、御真筆の年月日もこの御文だけでは確定できない。ただ、本抄の内容を拝すると、大聖人が法華経と真言に勝劣を立てらて、弘法・慈覚・智証を破折されたことに、非難の声が上がっていることを述べられているので、大聖人の御一生では後期の御手紙であろうと推察されるのである。大聖人の諸宗破折は、最初、念仏に重点が置かれ、次いで禅・律を破折され、真言に対しては、慎重にされている。特に慈覚・智証の台密の破折は文永末からであり、したがって、本抄もその時期以降であると考えられるのである。このことから、本抄御述作の年については、文永末、また弘安2年(1279)との説もある。
内容に入って、まず、何かが仏法のなかで争いの起こる種であり、国が乱れる先兆であって、どのような聖人の言葉であるにしても、用いてはならない、と述べられている。このことが、大聖人の仰せの部分であるのか、それとも大聖人に対して批判して言っていることばなのか判然としない。ここには二つの解釈を挙げておきたいと思うが、いずれも次の「日蓮をいやしみて」の仰せとの関連が問題になる。
「各各」は大聖人門下の一部で大聖人の強折に批判的な人々であろうと思われるが、その人達が、真言宗と法華経とは、比叡山、東寺、園城、奈良で、これらは一同に帰伏する正法であるから、それらに勝劣を立て、慈覚・弘法・智証に背こうと仰せになっているものは、いかがなものか、強敵を相手に回すようなものではないか、とのべているということであろう。その関連で、冒頭の言葉は彼らが「そんなことは仏法の争いを起こし、国の乱だれる原因となるものである」と批判している言葉である。と推定するのが一つである。
なお、文中の「なら」が何を指すかは不明である。あるいは南都七大寺か。これは諸宗の寺であるが、諸御抄では真言密教と同じだと指摘されている。撰時抄には次のように仰せである。「伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺日本一州一同に真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万人にいたるまでをぼしめしをもえり」(0264-10)と。また「なら」を「なり」と読む説もある。
もう一つの解釈は、これを大聖人の仰せとすると、内容を類推することはまことに恐れ多いが、弘法が法華経を三重の劣と非難したのは当然邪義であるとして、特に慈覚・智証が、大日経は法華経と比較すると理同事勝であると述べた己義こそ、天台宗の教えを汚し、人々に疑いを起させる邪義で、仏法を混乱させ、国を滅ぼす事となる、と仰せになっていると考えられる。それに対して、人々が「わざわざ敵をつくることはない」と大聖人を卑しんで言っている、という御文につながるのである。
いずれにしても、慈覚・智証らが天台宗でありながら真言の邪義に引きずられて、事実上法華経を捨てたことが、その基となった弘法とともに、人々に大きな誤りを起させた元凶であった。この弘法・慈覚・智証の邪義については、「破良観等御書」に詳しいので参照されたい。
本抄で仰せの「各各」を大聖人の門下と仮定すると、大聖人門下のなかで、大聖人の真言破折、特に台密破折に批判的な者がいたことになる。台密に心を動かされていたのであろう。このことは、日興上人の富士一跡門徒存知の事、五人所破抄を拝すると明瞭である。
「五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ」(1602-09)
08 五人武家に捧ぐる状に云く未だ公家に奏せず。
09 天台の沙門日昭謹んで言上す。
10 先師日蓮は忝くも法華の行者と為て専ら仏果の直道を顕し天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云云。
11 又云く、 日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る、已
12 に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや詮を取る。
13 天台沙門日朗謹んで言上す。
14 先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実経を弘通せしむるに、 最要未だ上聞に達せず愁欝を
15 懐いて空しく多年の星霜を送る玉を含みて寂に入るが如く 逝去せしめ畢んぬ、 然して日朗忝くも彼の一乗妙典を
01 相伝して鎮に国家を祈り奉る詮を取る。
02 天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。(1610〜1611)
大聖人の台密破折にもかかわらず、五老僧は天台沙門と名乗り、大聖人の御真意に背いてしまったのである。本抄御真筆のときすでに、その動きは牢固としてあり、大聖人はそれを知っておられて、このように仰せになったものであろう。大聖人の身近にいながら、その教えを正しく信ずることができず、世間の軟風に侵される五老僧の轍を我々は踏まないように戒めなければならない。
1302〜1302 現世無間御書top
| 1302 現世無間御書 01 或はくびをきり或はながさればととかれて 此の法門を涅槃経守護経等の法華経の流通の御経にときをかせ給い 02 て候は此の国をば 梵王帝釈に仏をほせつけてよりせめさせ給うべしと とかれて候されば此の国は法華経の大怨敵 03 なれば現世に無間地獄の大苦すこし心みさせ給うか 教主釈尊の日蓮がかたうどをしてつみしらせ給うにや よもさ 04 るならば天照太神正八幡等は 此の国のかたうどにはなり給はじ 日蓮房のかたきなりすずにてなをわかし候はんと 05 ぞはやり候らむいのらばいよいよあしかりなんあしかりなん、恐恐謹言。 06 二月十三日 日蓮在御判 07 御返事 ―――――― 「あるいは首を切られあるいは死罪にされる」と説かれて、この法門を法華経の流通分である涅槃経・守護経等の御経に、説き置かれていることは、この国を大梵天王・帝釈天王に仏が命じて、他国から攻めさせる、とある。したがって、この国は法華経の大怨敵であるから、現在世に無間地獄の大苦悩を少し試されたのであろうか。また、教主釈尊が法華経の行者である日蓮の味方をして厳しく知らされたものであろうか、もしそうであるならば、天照太神・八幡大菩薩等はこの日本国の味方にはなられないであろう。日蓮房の敵だ、と錫で湯を沸かすように勇み立っていることであろう。したがって邪法で祈るならば、ますます悪いことになるであろう、悪いことになるであろう。恐恐謹言。 二月十三日 日蓮在御判 御返事 |
或はくびをいり或はながされば
くびをきりは文永8年(1271)9月12日の竜の口法難。ながされは弘長元年(1261)5月12日〜弘長3年(1263)2月22日での伊豆流罪、文永8年(1271)10月10日〜文永11年(1274)3月13日までの佐渡流罪のこと。勧持品には「諸の無智の人、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらん」「悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」とある。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。
小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻
大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻
栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻
「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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守護経
中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。
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流通
流通分のこと。流通とは流れ通わしめることで、流通の義をもって説かれた教説の部分をいう。経を釈する場合、一部を三分する三分科経の一つ。
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梵王
梵王大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(?akra-dev?n?m-indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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現世
過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(Av?ci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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かたうど
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日?貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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正八幡
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
すず
金属の一種。加工しやすく熱伝導がいいことから、台所用品などとして、古くから用いられていた。
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本抄は、前の方が欠けており、また、2月13日の日付のみで御述作の年は記されていないが、建治3年(1277)とされる。宛名は不明である。御真筆は京都・本能寺にある。
前の部分が欠けているために全体の内容は不明であるが、日本国が大聖人を迫害しているために他国から攻められて現世に無間地獄の大苦にあっていること、謗法で祈れば、いよいよその苦悩が増すことを明かされている。
「或はくびをきり或はながさればととかれて」と述べられているのは、まさに竜の口法難と佐渡流罪のことであり、それが説かれている経文とは法華経勧持品第十三の文を指していると思われる。
開目抄に「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん」(0202-11)と述べられているように、日蓮大聖人は勧持品に説かれている刀の難と流罪の難にあわれているのである。
そして、法華経の行者をそのように迫害し正法に背く国を、法華経の流通分である涅槃経や守護経には、仏が梵天・帝釈に命じて他国から攻めさせると説かれていると述べられてる。
涅槃経の文とは、第三の寿命品第一に「我涅槃し已りて、其の方面に随いて、持戒の比丘あり、威儀具足し、正法を護持して、法を壊す者を見て、即ち能く駆遣し呵責し徹治せば、当に知るべし、是の人福を得ること無量にして称計すべからず。善男子、譬えば王有りて専ら暴悪を行じ、会重病に遇うこと有らん。隣国の王有り、其の名声を聞きて、兵を興して来たり、規して殄滅せんと欲す。是の時、病王力勢無きが故に、方に乃ち恐怖して、心を改めて善を修す。而して是の隣王は、無量の福を得るが如し」とある文を指したものであろう。
守護経については、卷十の如来嘱累品第十一に「而の時に、護世四天王、倶に座より起って合掌して同声に仏に白して言さく、世尊、我、如来に対して、深重の願を発す。未来世に於いて、是の経及び諸の国王・大臣・長者一切人民の経を受持する者を擁護せんと。偈を説いて言わく『此の経を説く処、及び聴法の衆会に随って、我、諸の眷属とともに、皆当に之を守護すべし。若し勤めて受持し、及び菩提意を発することあらば、当に四方に於いて面り、擁護して常に離れざるべし』」等と、梵天・帝釈の諸天が正法及び護持の人を守護することを誓った文がある。
また瑞相御書に「守護国界経と申す経あり法華経以後の経なり阿闍世王・仏にまいりて云く我国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病・年年に起る上他国より我が国をせむ、而るに仏の出現し給える国なり・いかんと問いまいらせ候しかば・仏答えて云く善き哉・善き哉・大王能く此の問をなせり、汝には多くの逆罪あり其の中に父を殺し提婆を師として我を害せしむ、この二罪大なる故かかる大難来ることかくのごとく無量なり、其の中に我が滅後に末法に入つて提婆がやうなる僧・国中に充満せば正法の僧一人あるべし、彼の悪僧等・正法の人を流罪・死罪に行いて王の后・乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば国中に種種の大難をこり後には他国にせめらるべしと・とかれて候」(1141-05)と述べられているのと同趣旨と思われる。
なお、立正安国論には、金光明経、薬師経、仁王経などの文を引かれて、正法に背いた謗法の国土が他国から攻められることが明かされている。本抄では「法華経の流通の御経」として、法華経以後に説かれた経に文証を求められている。
当時の日本は、念仏・禅・真言などの邪義謗法を信ずるばかりか、大聖人を弾圧・迫害し、正法の大怨敵となっていたゆえに、蒙古の責めを招きよせたのである。蒙古襲来によって悲惨な被害にあった北九州地方の民衆だけでなく、日本一国が恐れおののいていたことなどを指して「無間地獄の大苦すこし心みさせ給うか」と仰せになっているのである。
兄弟抄に「かのうてに向かいたる人人のなげき老たるをやをさなき子わかき妻めづらしかりしすみかうちすてて・よしなき海をまほり雲の・みうればはたかと疑い・つりぶねの・みゆれば兵船かと肝心をけす、日に一二度山えのぼり夜に三四度馬にくらををく、現身に修羅道をかんぜり、各各のせめられさせ給う事も詮するところは国主の法華経の・かたきと・なれるゆへなり、国主のかたきと・なる事は持斎等・念仏真言師等が謗法よりをこれり」(1084-01)と文永の役の後の人々の苦悩のありさまと、その原因があることを述べられている。
しかし、そうした世間の苦悩は、無間地獄の大苦の一分にしかすぎないのであり、これは教主釈尊が、日本の人々に反省を起こさせ、邪法邪義を捨てて正法に帰依させるために、日蓮大聖人を助けているであろうとされ、「教主釈尊の日蓮がかたうどをしてつみしらせ給うにや」と述べられているのである。
したがって、蒙古襲来にあって日本一国が天照太神や八幡大菩薩の加護を祈っても、諸天善神は正法に背く者を守らないわけがないのである。
そればかりでなく、諸天善神は“日蓮大聖人の敵となっている日本国の人々を処刑して目覚めさせよう”と、ちょうど錫の酒器で湯を沸かすと、すぐに湯が沸くように、ますます災いを激しくしてくるであろうと述べられている。当時、錫の酒器は土器の酒器よりも早く湯が沸くので重宝されていたのである。
したがって、邪義邪法によって蒙古調伏を祈るならば、かえって悪い結果になるであろうと、大聖人は厳しく指摘されて本抄を結ばれている。
当時、文永の役で一度は蒙古軍が撤退したものの、その後も蒙古からの服属を求める使者がたびたび派遣されてきており、蒙古の再度の襲来は必至とされていた。
大聖人は、そうした事態の本質を、謗法に祈っているところにこそ現世に無間地獄を招き寄せる根本原因があると指摘され、謗法で祈れば祈るほどかえって災禍を増すことを示して、諌められているのである。
1302〜1302 衣食御書top
| 衣食御書 01 尼御前へ参る 02 鵞目一貫.給い畢んぬ、それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ、ころもは.さむさをふせぎあつさ 03 をさえ・はぢをかくす、人にものをせする人は人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり。 尼御前へ差し上げます。 −−−−−― 鵞目一貫をいただきまじた。 食物は体の色つやを増し、力をつけ、命を延ばします。衣は寒さを防ぎ、熱さをくいとめ、恥を隠します。人に物を施す人は、その与えた人の色つやを増し、力をそえ、命をつなぐことになるのです。 |
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
一貫
貫は銭を数える単位。一貫は、銭を一つなぎにしたものの意で、時代によって異なるが、普通、一文銭千枚のことをいった。
―――
じき
じき「食」の音読み。食べ物・食物の事。
―――
色
顔艶のこと。
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せ
施 布施のこと。人に物を与えること。
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本抄の御真筆は京都・妙蓮寺にあるが、冒頭の部分のみで、あとは欠失しており、与えられた尼御前の名、御述作年月も不明である。しかし、近年、西山本門寺や京都本蓮寺等に散逸していた御真筆と併せて、弘安2年(1279)御述作の上野殿御家尼御前御返事の一部であると考えられるようになった。最初に少し長くなるが、本抄に続くと思われる部分を引用しておこう。。
衣食御書(上野殿尼御前御返事)
尼御前へ参る
鵞目一貫・給い畢んぬ、それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ、ころもは.さむさをふせぎあつさ
をさえ・はぢをかくす、人にものをせする人は人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり。
人のために火をともせば人のあかるきのみならず、我身もあかし、されば人のいろをませば我いろまし、人のちか
らをませば我ちからまさり、人のいのちをのぶれば我いのちののぶなり。法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、
如来の御いのちなり。やまいある人は、法華経をくやうすれば身のやまいうすれ、いろまさり、ちからつきてみればと
のもさわらず。ゆめうつヽかわずしてこそをはすらめ、そひぬべき人のとぶらわざるも、うらめしきこそをはすらめ、
女人の御身として、をやこのわかれにみをすて、かたちをかうる人すくなし、をとこのわかれは、ひゞ、よるよる・つ
きづき・としどしかさなれば、いよいよこいしくまさり、をさなき人もおはすなれば、たれをたのもてか人ならざらん
と、かたがたさこそをはすらんれば、わがみもまいりて心をもなぐさめたてまつり、又弟子をも一人つかわして御はか
の
これも途中までで、あとは不明である。しかし、続きの御文によって、最初の御文の意味がかなりはっきりしてくる。
はじめに尼御前が鵞目一貫を御供養したことに対し、それによって購う食物や衣服が人の命にとって貴重な働きをもっていることをとおして、尼御前の供養の尊さを賛嘆されている。
「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ」と仰せは、食物三徳御書のそれと同じである。「一には命をつぎ.二にはいろをまし・三には力をそう」(1598-01)と。「いろをまし」の「いろ」とは、顔や体全体の色艶をいうと思われる。食物は体の色艶を増す働きがあるということである。次の「ちからをつけ」は、エネルギー源なることである。体力をつけることを意味している。「いのちをのぶ」とは、したがって、生命を維持し、延ばすことである。食物がなければ、いかなる人であっても、生きていくことはできない。食物によって生命をたもち、色艶も増して生き生きと活動できるのである。
衣も同様に重要である。「ころもは.さむさをふせぎあつさをさえ・はぢをかくす」と、衣にも三つの働きがあると説かれている「さむさをふせ」ぐことである。第二に「あつさをさえ」ること、すなわち暑さを防ぐことである。衣服は寒さを防ぐ働きに注目されるが、暑さをも防ぐのである。日光の直射を避け、体内の水分の失われるのを防ぐ働きがあり、インドなどで衣を着たのはこの意味も強かったのである。第三は「はぢをかくす」ことである。これには説明の要はないであろう。
日蓮大聖人は、人間が生活するうえで最も基本的な衣食住のうち「住」については、身延では草庵に住まわれていたため、一往不自由なかったが、食と衣については不自由な生活を送られていた。法衣書には「日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に天これをにくませ給いて食衣ともしき身にて候」(1296-09)と仰せである。したがって尼御前の鵞目一貫文の御供養は、大聖人及びその門下の貴重な食と衣を購うかてとなり、尼御前は大聖人に食と衣を布施し命をお守り申し上げていたことになるのである。
人に食物を布施する人は人の色艶を増し、力を添え、命を維持させる働きをすることになる。しかし、それは決して人のためだけではない。人のためにすることは、自分のためにもなっているのである。と本抄に続く部分で大聖人は仰せになっている。人のために明かりをともせば人が明るいだけでなく、自分の周りも明るくなる。したがって、人の色艶を増せば、自分の色艶も増すのである。人の力を増せば自分の力も勝ってくる、人の命を延ばせば、自分の命ものばすことになるのである、と。
しかも、尼御前が御供養申し上げた相手は、法華経の行者であり「法華経」そのものである。法華経は三世十方の諸仏が成道するにあたって修行した根底の法であって、法華経こそ釈迦仏をはじめ一切の仏にとって「食」なのである。その法華経に供養したのであるから、あらゆる仏に「食」を供養したことになり、その功徳はたとえようのないほど広大である。当時、上野尼は決して順風の状態ではなかったと察せられるが、大聖人のこの激励にどれほどか感動し信心の決意を固めたことであろう。
1303〜1303 釈迦如来御書top
| 1303 釈迦如来御書 01 釈迦如来は正しく法華経に「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云、善導云く千中無一等云云、 いづれを 02 信ずべしや、 又云く日蓮がみる程の経論を善導・法然上人は御覧なかりけるかと申すか、 若しこの難のごとくな 03 らば・昔の人の謬をば後の人のいかに・あらわすべからざるか。 −−−−−― 教主釈尊は、正しく法華経分別功徳品に「悪世末法の時、能く是の経を持つ者は」と説かれている。善導は「千人中一人も無し」とのべている。いづれを信ずべきであろうか。また、いわく「日蓮が見るくらいの経論を善導・法然上人は御覧になっていないはずはない」というのか。もしこの疑難によるならば、昔の人の後謬を後世の人はなにはどうであれ明確にしてはいけないのか。 |
悪世末法の時能く是の経を持つ者
分別功徳品に「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」とある。
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善導
(0613〜0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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経論
三蔵の中の経蔵と論蔵のこと。経とは、仏が説いた教法。論とは仏自ら論議した法理。また仏弟子が教法を論じ注釈したもの。
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法然
(1133〜1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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本抄の御真筆は京都・本圀寺にある。しかし前後が欠落した断片であるため、本抄を与えられた人の名や御述作年月日については不明である。だだ御執筆の内容から文永年間といわれており、更に文永3年(1266)と説もある。
内容は念仏破折の御文である。最初に釈迦仏の言葉と善導の言葉を引用・比較されている。そのまえに「釈迦仏にはすぐべからず」と仰せであるのは、一切の言葉のなかで仏の言葉に過ぎるものはないと、大前提を示されているのであろうか。その釈迦仏が、出世の本懐たる法華経の分別功徳品に、悪世末法の時に、よくこの経を受持する者は諸の供養を具足する者であると説いている。それに対して善導は、千人のうち一人も成仏できないと主張している。成仏できるという仏の言葉か、成仏できないという人師の言葉か、どちらの言葉を信ずるべきか、と仰せである。仏の言葉と人師の言葉ではおのずから明らかではないかと、明証をもって示されているのである。
これは念仏者が、千中無一という善導の言葉を拠り所に、法華経を誹謗していることに対する破折であろう。法然をはじめ念仏者が根拠としたのは曇鸞・道綽・善導といった人師の言葉であった。それに対して大聖人は、法の浅深・高低を定めるには、仏の金言を仰ぐべきであると教えられ、仏の言葉でもって破折されたのである。このことは、大聖人が諸御抄で強調されているところである。
次に念仏者達の主張として、大聖人が用いられた経論を善導・法然ほどの人が見ていないわけがない、それらの経文は承知のうえで、千中無一等とのべているのであろう、との意見を挙げられている。それに対して大聖人は、もしその論理が正しいとすれば、昔の人は何一つ誤りはなかったことになり、後世の人は一切その誤りを指摘できないことになるではないか、と反論されている。
念仏者の主張の奥には、善導・法然らは大学僧であり、日蓮ごときに何が分かるかという傲慢も潜んでいたであろう。それに対して大聖人が鋭く反駁されたのである。
この仰せのあとには「若し爾らばなんぞ」との御言葉が続いている。大聖人は更に念仏者らの考えの誤りを指摘されているのであろう。
なお、ここで大学僧等の例として挙げられている善導が、実は念仏を修するに至った動機として、経蔵で眼を閉じて手探りで得た経が観無量寿経であり、以後念仏を修めたという故事の持ち主であることが、なんとも皮肉である。最蓮房御返事には次のように仰せである。
「善導和尚と申す人は漢土に臨シと申す国の人なり、幼少の時・密州と申す国の明勝と申す人を師とせしが・彼の僧は法華経と浄名経を尊重して我も読誦し人をもすすめしかば善導に此れを教ゆ、善導此れを習いて師の如く行ぜし程に過去の宿習にや有りけん、案じて云く仏法には無量の行あり機に随いて皆利益あり・教いみじと・いへども機にあたらざれば虚きがごとし、されば我れ法華経を行ずるは我が機に叶はずは・ いかんが有るべかるらん、教には依るべからずと思いて一切経蔵に入り両眼を閉ぢて経をとる観無量寿経を得たり、披見すれば此の経に云く「未来世の煩悩の賊に害せらるる者の為清浄の業を説く」等云云、華厳経は二乗のため法華経・涅槃経等は五乗に・わたれども・たいしは聖人のためなり、末法の我等が為なる経は唯観経にかぎれり」(1431-01)と。
経蔵に入って両眼を閉じて手を伸ばしたところ、たまたま手に当たった経が観無量寿経であったのである。しかもそれには煩悩に染められた者のために説くとあったものだから、これこそ自分にとっての最適の経だと喜んだのである。一切経を冷静に比較検討し、選んだものではない。仏道修行の肝心をくじ引きのような手段で決めたのであり、念仏者達が善導を大変な学者だと思っているが、大聖人からすれば笑止千万なのである。なお、法然は善導ほどひどくなかったようだが、意に染まる経典がなかったところ、43歳に至って偶然、善導の主張を知り、感ずるところあって念仏に入ったというのである。大同小異というべきであろう。
1303〜1303 破信堕悪御書top
| 破信堕悪御書 01 かたきはををく.かたきは・つよく、かたうどは.こわくして・しまけ候へば.悪心ををこして.かへつて法華経の 02 信心をも・やぶり悪道にをち候なり、 あしきところをば・ついしさりてあるべし、釈迦仏は三十二相そなわつて身 03 は金色・面は満月のごとし、しかれども或は悪人はすみとみる・或は悪人ははいとみる・或は悪人はかたきとみる。 −−−−−― 敵は大勢で強く、味方はきびしくてついていけないので、悪心を起こして、かえって悪道へ堕ちてしまう。人間は、悪い所は、つい、避けようとするものである。 釈迦仏は三十二相がそなわつていて、身は金色に輝き、顔は満月のようである。しかし、その釈尊を、ある悪人は灰と見る。あるいは悪人は敵とみるのである。 |
かたうど
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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三十二相
応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。
1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)
2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)
3 長指相(指が繊細で長い)
4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)
5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)
6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)
7 足趺高満相(足の甲が高いこと)
8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)
9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)
10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)
11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)
12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)
13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)
14 金色相(皮膚が金色をしていること)
15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)
16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)
17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)
18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)
19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)
20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)
21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)
22 四十歯相(歯が四十本あること)
23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)
24 牙白相(牙があって白く光ること)
25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)
26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)
27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)
28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)
29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)
30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)
31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)
32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)
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本抄の御真筆は京都・本圀寺にあるが、前後が欠落した断片で、御執筆年月日もだれに与えられたものかは不明である。弘安年間御述作との説もあるが、確定的ではない。
破信堕悪御書という題名も、後人の誰かが付けたものであろう。本抄の最初の部分に「法華経の信心をも・やぶり悪道にをち候なり」と仰せになっているところから付けられたものであろう。
まず最初の部分は、末法今時に日蓮大聖人の仏法を信ずる者には敵が多いことを述べられている。一国謗法の世である。敵の数は圧倒的に多い、それだけではない、その敵は権力をもっている、あるいは権力の側にとり入っている。「かたきは・つよく」である。
それに対して、みかたはどうか、日蓮大聖人の教えを信ずるものは、ほんの一握りの人達である。しかも、その信心は謗法を排し厳格なものであるから、心の弱い人は周囲に負けて「かへつて」退転してしまうことにもなりかねない。
そういうことにでもなれば、最初から信心していない人よりも、なお大きな罪を犯すことになり「悪道」なかんずく無間地獄に堕するのである。
大聖人は、人間というものは「あしきところをは・ついしさりてあるべし」と、つい避けたくなるものだと仰せになっている。「あしきところ」とは、社会全体が正法に反対しているから、信心を続けていくには勇気が必要であるうえ、指導も厳しいのでたえられなくなるということである。
続いての御文では、三十二相八十種好という立派な姿で釈迦仏ほどの仏でも、悪人はさまざまに見るものであることを述べられている。
釈迦仏は色相荘厳の姿をしており、普通の衆生なら、その前にかぎりない尊敬をいだき、信受の心を起こすのである。
しかし、そのような仏であっても、ひねくれた悪人の心は、そうは見えない。ある場合は「すみ」と見る。これは「炭」であるのか「墨」であるのか判然としないが、あとの「はい」はすなわち「灰」との関連からみると「炭」であろうか。いずれにせよ「金色」を「黒色」と見るというのである。「灰」とみるというのは、もはやなんの力もない残滓と見るということであろう。「かたき」と見るというのは、このうえない荘厳の姿で一切衆生皆成仏道の教えを説く仏教の教えを説く仏法の教えに対して憎しみを抱くということである。
ここで本抄は途切れている。しかし、当然、そのあとは、金色荘厳の釈迦仏でさえひねくれた目で見、迫害を加える者がいたのであるから、ましてや、三毒強盛の末法に凡夫僧の御姿をされている日蓮大聖人に対しては、比較にならないほどの迫害の度合いが増すのは道理であると述べられ、本抄をいただいた人に、決定の信心を促されている。