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日蓮大聖人御書講義2上0078~0096
0078~0085 災難対治抄
0078:01~0078:01 第一章 災難対治の方途を勘える
0078:02~0080:04 第二章 五経から七文を挙げる
0080:05~0080:15 第三章 仏言が虚妄との疑問を出す
0080:16~0081:05 第四章 悪比丘が破国の因と明かす
0081:06~0081:10 第五章 悪比丘は仏弟子の中から出来
0081:10~0081:13 第六章 仏法をもって仏法を破る
0081:14~0082:04 第七章 仏弟子が謗法を破る証拠を示す
0082:05~0083:13 第八章 選択集の一凶たる所以を明かす
0083:14~0083:16 第九章 選択以前は五常破り災難起こす
0083:16~0084:02 第十章 今の世の災難は選択の失と示す
0084:02~0084:04 第11章 法華以前の災難の因を追及
0084:04~0084:12 第12章 五常は仏誓に基づく
0084:13~0084:16 第13章 法華等の行者の値難の理由
0084:08~0085:04 第14章 謗法者の難に値わない理由
0085:05~0085:06 第15章 災難対治の方法を示す
0085:06~0085:09 第16章 布施を止めて災難を対治
0085:09~0085:11 第17章 謗法苦治に罪があるかを問う
0085:12~0086:03 第18章 仏法中怨を免れるために謗法破折
0086~0096 念仏者・追放せしむ宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状
0086:01~0087:03 第一章 念仏停止の宣旨等を集めた趣旨明かす
0087:04~0088:03 第二章 念仏を弾劾した興福寺の奏上を引く
0088:04~0089:04 第三章 延暦寺の念仏呵責の奏上を引く
0089:05~0092:11 第四章 念仏者追放の宣旨等を挙げる
0092:12~0094:09 第五章 専修念仏禁止の院宣等を挙げる
0094:10~0096:09 第六章 延暦寺の下知状・申状を挙げる
0096:10~0096:18 第七章 念仏を禁止すべきことを訴える
0078~0085 災難対治抄top
はじめに
本抄は正元2年(1260)、鎌倉で著された御書である。御真筆は中山法華経寺に現存している。本抄が正元2年(1260)に著されたということについての直接の明記はないが、本文中に「今此の国土に種種の災難起こることを見聞するに所謂建長八年八月自り正元二年二月に至るまで大地震非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず大体国土の人数尽く可きに似たり」と、正元2年(1260)2月までの災難が挙げられていることから、2月後半から3月とし、以下、御文を拝していきたい。
正元2年(1260)4月には改元されて文応元年(1260)となった年であり、この年の7月16日に大聖人は立正安国論を時の権力者・4北条時頼にあてて上呈されている。すなわち、本抄は国主諌暁の書である立正安国論上呈の数か月前に著筆された御抄であり、しかも、前年の正元元年(1259)には、守護国家論を著されている。つまり、本抄は守護国家論と立正安国論の間に著されており、内容においても、その中間に位置する御抄となっている。これについては、追い追いみていくこととする。
古来、本抄は立正安国論の草案と捉えられているが、草案と言うよりも、これ自体完成した勘文の体裁になっている。また、後にみるように、立正安国論では明らかに時頼を意識した内容になっているのに対し、本抄では直接、そうした表現はつよく表れていない。このことから考えられることは、大聖人は本抄を、幕府全体を諌暁するための勘文として認められたが、その後、具体的に諌暁の相手を時頼と定められ、その道筋が開けたことから、時頼に焦点を当てた立場で内容を書きあらためられたものが立正安国論ではないかと考えられる。
さらに本抄に極めて関連の深い御抄が残されている。それが災難興起由来である。災難興起由来は創価学会版日蓮大聖人御書全集には収録されていないが、大聖人の御真筆が中山法華経寺に現存している。内容は、本抄に極めて近いものであり、しかも、災難興起由来には「正元二年太歳庚申二月上旬之を勘う」とあり、恐らく本抄前後に執筆されたものと推察される。これらを総合すると、正元元年(1259)に守護国家論を著され、正元2年(1260)2月に災難興起由来を著され、直後に本抄を著された後、その数か月後に立正安国論を完成され、上呈されたという流れが浮かび上がってくる。
この災難興起由来の前半は残っていない。何かの問いに対して、そのとおりであり、夏の桀王、殷の紂王、周の幽王等の世がそうである、と答答えられている部分からである。その問いは、後の問答からすれば、過去に法を破ることによって、国を滅ぼした例があるという設問に対して、桀王、紂王、幽王の例を挙げられたと推察される。なお、この三王の名は本抄では第11問答にあげられており、本抄の内容と共通している。その後、9問9答が交わされている。
その内容をいかにかいつまんで説明しておこう。
第1問答
問い 夏の桀王や殷の紂王の時代には仏法がなく、謗法もなかった。なにによって国を滅ぼしたのか。
答え 五常に基づいて治められた時代であり、王がそれに背いたから災難が起こり、国が滅びた。
第2問答
問い 災難が五常を破って起こるならば、選択集の流布が災難の原因だといえないではないか。
答え 仏法が広まるまえは五常は仏法における五戒にあたる。昔の王は五常を破ったようであるが、五戒を破ったことになり、そのゆえに天変地夭が起こったのである。現在は選択集を信ずることによってすべての仏に背を向けているから災難が起こるのである。
第3問答
問い 仏法以前の五常が五戒にあたるとどうして言えるのか。
答え 諸経典に、世の法はすべて仏法から出ているとある。仏は中国に仏法を弘めるために聖人を遣わして五常の教えを仏法の初門としたのである。
第4問答
問い 選択集を信ずる謗法の者のなかに災難にあわない者がいるのはなぜか。
答え 現世に果報を受ける者と後世に果報を受ける者がいるゆえである。
第5問答
問い 法華経等を信ずる者で災難にあうのはなぜか。
答え 罪のない者も巻き添えにされることがある。また修行が浅く、信心も薄い者は過去の罪を消しさることができないことがある。
第6問答
問い 災難を止める方法は。
答え 謗法の書と謗法の人を取り除くことである。
第7問答
問い 謗法を断ち切る方法は。
答え 謗法への供養を経つことである。
第8問答
問い 施しをやめ、苦しませる罪にならないのか。
答え 謗法の者は善根を断ち切っているがゆえに罪にならない。
第9問答
問い 僧の罪を指摘するのは、四衆を誹謗しれはならず三宝を謗ってはならないという罪にあたるのではないか。
答え 謗法を見過ごすことこそ仏法の怨敵である。王たる者、謗法を根絶しなければ必ず災難が起こる、と諸経典にある。必ず国土の乱れは起こるであろう。災難の興起する由来と根絶の方法についての私の考えは以上のとおりである。
取捨選択は人の心に任せることとする。
以下、これらの諸御書を比較しながら、大聖人がいかなる動機でこれらの御書を著されたのか、そこでいかなる内容を御教示されているかを拝察し本抄の位置をみていきたい。
問い 僧の罪を指摘するのは、四衆を誹謗しれはならず三宝を謗ってはならないという罪にあたるのではないか。
答え 謗法を見過ごすことこそ仏法の怨敵である。王たる者、謗法を根絶しなければ必ず災難が起こる、と諸経典にある。必ず国土の乱れは起こるであろう。災難の興起する由来と根絶の方法についての私の考えは以上のとおりである。
取捨選択は人の心に任せることとする。
以下、これらの諸御書を比較しながら、大聖人がいかなる動機でこれらの御書を著されたのか、そこでいかなる内容を御教示されているかを拝察し本抄の位置をみていきたい。
本抄・災難興起由来・立正安国論の問答の比較
本抄は最初に経典を引かれた後、17問17答が設けられている。災難興起由来および10問9答からなっている立正安国論との問答を比較すると以下のようになる。
第1問答、打ち続く災難に、さまざまな祈りをしているのに一向にききめがないという問いに対し、衆生が正法をすてるゆえに守護の善神が国を去って、いなくなるゆえに災難が起きる「神天上の法門」。立正安国論の第1問答にあたる。
第2問答、なぜ正法を捨てるようになるのか、という質問に対して、それは悪比丘によると仰せられている。これは法然の選択集を破折される前提となるもので、立正安国論の第3問答にあたる。立正安国論ではその間に第2問答、「神天上の証文」を挙げられているが、本抄では問答に入る前の序論の中で示されている。
第3問答、悪比丘について、それが仏弟子か否か。第4問答、謗法は相似の法によるか否か。第5問答、「文証」が論じられているが、立正安国論ではこれらの項目は略されている。
第6・第7問答、だれが悪比丘であるかが論じられ、法然こそ悪比丘であり、その著・選択集が元凶であると示されている。立正安国論の第四問答部分である。
ここまでは災難興起由来にはないが、これは同抄の前半・欠落部分ではなかろうかと推察できる。
第8問答、選択集の前にも災難があったかいなか。=災難興起由来第1問答。
第9問答、それらは選択集の責任であるかどうか。=災難興起由来第2問答。
第10問答、仏法以前の災難は謗法のゆえか否か。=災難興起由来第3問答。
第11問答、その文証について。=災難興起由来第3問答。
第12問答、法華経の行者が難にあうのは何故か。=災難興起由来第5問答。
第13問答、謗法者であっても難にあわない者がいる理由。=災難興起由来第4問答。
となっており、これらの問答は災難興起由来と一分内容が前後しているもののおおむね一致しているが、立正安国論にはなく、逆に立正安国論にある第5問答、和漢の例を挙げて念仏亡国を示す、第6問答、念仏禁止の勘状の奏否を明かす、の2問答は両御書にはない。北条時頼への諌暁に際し、必要に応じ加筆・省略されたのであろう。
第14問答、災難を止める方法は謗法対治に尽きるのか、=災難興起由来6問答=立正安国論第7問答。
第15問答、謗法対治は布施を止めることである。=災難興起由来第7問答=立正安国論第8問答。
第16問答、念仏者への布施を止めることは謗法ではないか。=災難興起由来第第8問答。
第17問答、念仏僧の弾劾は罪ではないか、=災難興起由来第9問答。
以上で本抄及び災難興起由来はとじられているが、立正安国論ではさらに、第9問答、正法に帰して立正安国を論ず。第10問、決意の表明が述べられている。
これらから判断すると、本抄や災難興起由来は、法門上の議論に重点を置いて、問答を設定されたのに対し、立正安国論では、北条時頼の諌暁に主眼を置いて著されたため、立正安国論では余分と思われる部分を省略され、逆に、安国論では亡国の例を挙げるにしても、中国のみならず、日本の例を挙げられていること、過去に念仏禁止の勘状が提出された例があると述べられていること、苦治の例として仙予国王・有徳王の例を挙げられるなどの相違がある。
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災難対治抄 |
災難興起由来 |
立正安国論 |
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打ち続く災難に、さまざまな祈りをしているのになぜ効き目がないか |
第1問答 |
―― |
第1問答 |
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災難由来の経証を示す |
―― |
第2問答 |
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なぜ正法を捨てるようになるのか |
第2問答 |
―― |
第3問答 |
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悪比丘について、それが仏弟子か否か |
第3問答 |
―― |
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|
謗法は相似の法によるか否か |
第4問答 |
―― |
|
|
その文証 |
第5問答 |
―― |
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|
誰が悪比丘か |
第6問答 |
―― |
第4問答 |
|
法然こそ悪比丘である |
第7問答 |
―― |
第4問答 |
|
選択集の前にも災難があったかいなか |
第8問答 |
第1問答 |
|
|
それらは選択集の責任であるかどうか |
第9問答 |
第2問答 | |
|
仏法以前の災難は謗法のゆえか否か |
第10問答 |
第3問答 |
|
|
その文証について |
第11問答 |
第3問答 |
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|
法華経の行者が難にあうのは何故か |
第12問答 |
第5問答 |
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謗法者であっても難にあわない者がいる理由 |
第13問答 |
第4問答 |
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和漢の例を挙げて念仏亡国を示す |
第5問答 |
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念仏禁止の勘状の奏否を明かす |
第6問答 |
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念仏禁止の勘状の奏否を明かす |
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災難を止める方法は謗法対治に尽きるのか |
第14問答 |
第6問答 |
第7問答 |
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謗法対治は布施を止めることである |
第15問答 |
第7問答 |
第8問答 |
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念仏者への布施を止めることは謗法ではないか |
第16問答 |
第8問答 |
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念仏僧の弾劾は罪ではないか |
第17問答 |
第9問答 |
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正法に帰して立正安国を論ず |
第9問答 |
||
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決意の表明 |
第10問 |
なお災難興起由来は御書全集に収録されていないので、全文を記載しておく。
| 災難興起由来 答えて曰く、爾なり。謂く、夏の桀・殷の紂・周の幽等の世是れなり。 難じて云く、彼の時、仏法無し。故に亦、謗法の者無し。何に依るが故に国を亡ぼすや。 答えて曰く、黄帝・孔子等、治国の作方は五常を以ってす。愚王有って、礼教を破る故に災難出来するなり。 難じて云く、若し爾らば、今の世の災難、五常を破るに依らば、何ぞ選択流布の失と云わんや。 答えて曰く、仏法末だ漢土に渡らざる前には黄帝等、五常を以って国を治む。其の五常は仏法渡って後に之を見れ ば、即ち五戒なり。老子・孔子等も亦、仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめんが為に遣わすところの三 聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等、五常を破って国を亡ぼすは、即ち、五戒を破るに当たるなり。亦、人身を受け て国主と成るは、必ず五戒十善に依る。外典は浅深の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずと雖も、五戒十善を持っ て国主と成る。故に人五常を破ること有らば、上天変の頻に顕れ、下地妖、間に侵す者なり。故に今の世の変災も亦 、国中の上下万人、多分に選択集を信ずる故なり。弥陀仏より外の他仏他経に於いて拝信を致す者に於いては、面を 背けて礼儀を致さず、言を吐いて随喜の心無し。故に国土人民に於いて殊に礼儀を破り、道俗、禁戒を犯す、例せば 阮阮藉に習う者は礼儀を亡じ、元嵩に随う者は仏法を破るが如し。 問うて曰く、何を以って之を知る。仏法末だ漢土に渡らざる已前の五常は仏教の中の五戒たること如何。 答えて曰く、金光明経に云く「一切世間の所有の善論は皆、此の経に因る」、法華経に云く「若し俗間の経書、治 世の語言、資生等を説くに、皆、正法に順ず」、普賢経に云く「正法をもって国を治め、人民を邪枉せず。是れを第 三の懺悔を修すと名づく」、涅槃経に云く「一切世間の外道の経書、皆是れ仏説にして外道の説に非ず」、止観に云 く「若し深く世法を識るは即ち是れ仏法なり」、弘決に云く「礼楽先に駈せて真道後に啓く」、広釈に云く「仏、三 人を遣わして且く真旦を化す。五常以って五戒の方を開く。昔、大宰、孔子に問うて云く『三皇五帝は是れ聖人なる か』、孔子答えて云く『聖人に非ず』、又問う『夫子は是れ聖人なるか』、亦答う『非なり』、亦問う『若し爾らば 誰か是れ聖人はる』、答えて云く『吾聞く、西方に聖有り、釈迦と号す』」、周書異なる記に云く「周の昭王二十四 年甲寅の歳四月八日、江河泉池、忽然として浮張し、井水並びに皆、溢れ出づ。宮殿人舎山川大地、みな悉く震動す 。其の夜、五色の光気有り、入って太微を貫き、四方に遍じて、昼、青江色と作る。昭王、大師蘇由に問うて曰く『 是れ何の怪ぞや』、蘇由対えて曰く『大聖人有り、西方に生まる。故に此の瑞を現ず』、昭王曰く『天下に於いて如 何』、蘇由曰く『即時に化無し。一千年の外、声教此の土に被及せん』、昭王即ち人をコウ門に遣わして、石に之を 記して埋めて西郊天祠の前に在く。穆王五十二年壬申の歳二月十五日平旦に暴風忽ちに起こって人舎を発損し、樹木 を傷折し、山川大地、皆悉く震動す。午後、天陰り雲黒し。西方に白虹十二道あり。南北に通過して連夜滅せず。穆 王大史扈多に問う『是れ何の徴ぞや』対へて曰『西方に聖人有り。滅度の衰相現るのみ』」已上。 今、之を勘うるに、金光明経に「一切世間の所有の善論は皆、此の経に因ると。仏法末だ漢土に渡らざれば、先づ 黄帝等、玄女の五常を習う。即ち玄女の五常に久遠の仏教を習い、黄帝に国を治めしむ。機末だ熟さざれば五戒を説 くも過去未来を知らず。但、現在に国を治め至孝至忠をもって身を立つる計りなり。余の経文、以って亦是くの如し 。亦、周書異記等は仏法末だ真旦に被らざる已前一千余年に、人、西方に仏あること之を知る。何に況んや老子は殷 の時に生まれ、周の列王の時に有り。孔子、亦、老子の弟子、顔回、亦、孔子の弟子なり。豈周の第四の昭王・第五 の穆王の時、蘇由・扈多記するところの「一千年の外、声教此の土に被及せん」文をしらざらんや。亦、内典を以っ て之を勘うるに、仏慥に之を記したもう。「我、三聖を遣わして彼の真旦を化す」と。仏、漢土に仏法を弘めんが為 に先に三菩薩を漢土に遣わし、諸人に五常を教え仏教の初門となす。此等の文を以って之を勘うるに、仏法已前の五 常は仏教の内の五戒なることを知る。 疑うて云く、若し爾らば、何ぞ選沢集を信ずる謗法の者の中に此の難に値わざる者之有るや。 答えて曰く、業力不定なり。現世に謗法を作し、今世に報いる者有り。即ち、法華経に云く「此の人、現世に白癩 の病乃至諸の悪重病を得ん」、仁王経に云く「人、仏教を壊らば、復孝子無く、六親不和にして天神祐けず、疾疫悪 鬼、日に来たって侵害し、災怪首尾せん」、涅槃経に云く「若し是の経典を信ぜざる者あらば○若しは臨終の時、荒 乱し、刀兵競い起こり、帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん」已上。順現業なり。法華経に云く「若し人信ぜず して此の経を毀謗せば○其の人命終して阿鼻獄に入らん」、仁王経に云く「人、仏教を壊らば○死して地獄・餓鬼・ 畜生に入らん」已上。順次生業なり。順後業等を略す。 疑って云く、若し爾らば、法華・真言等の諸大乗経を信ずる者、何ぞ此の難に値うや。 答て曰く、金光明経に云く「枉げて辜無きに及ばん」、法華経に云く「横まに其の殃に羅る」等云云。止観に云く 「似解の位は因の疾少軽にして道心転熟すれども、果の疾猶お重くして衆災を免れず」、記に云く「若し過現の縁浅 ければ微苦も亦徴無し」已上。此れ等の文を以て之を案ずるに、法華・真言等を行ずる者も、末だ位深からず、縁浅 くして、口に誦うれども其の義を知らず、一向に名利の為に之を読む。先生の謗法の罪、末だ尽きず。外に法華等を 行じて内に選沢の意を存す。心に存せずと雖も世情に叶はん為に在俗に向かって法華経は末代に叶ひ難き由を称すれ ば、此の災難免れ難きか。 問うて曰く、何なる秘術を以って速やかに此の災難を留む可きや。 答えて曰く、還って謗法の書並びに所学人を治す可し。若し爾らざれば、無尽の祈請ありと雖も、但、費えのみ有 りて験無からんか。 問うて曰く、如何が対治すべき。 答えて曰く、治方、亦、経に之有り。涅槃経に云く「仏、言く『唯一人を除いて、余の一切に施せ○正法を誹謗し て是の重業を造る。○唯此くの如き一闡提の輩を除いて其の余の者に施さば、一切讃歎すべし』」已上。此の文より 外にも亦、治方有り。具に載するに暇あらず。而るに当世の道俗、多く謗法の一闡提の人に帰して讃歎供養を加ふる 間、偶謗法の語を学ばざる者をば、還って謗法の者と称して怨敵を作す。諸人、此の由を知らざる故に正法の者を還 って謗法の者と謂えり。此れ偏に法華経勧持品に記するところの「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に○好んで 我等が過を出さん○国王大臣婆羅門居士に向かって○誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂 わん」の文の如し。仏の讃歎するところの世中の福田を捨てて、誡むるところの一闡提に於いて讃歎供養を加う故に 、弥貪欲の心盛んに、謗法の音天下に満てり。豈に災難起らざらんや。 問うて曰く、謗法者に於いて供養を留め苦治を加うるに罪ありやいなや。 答えて曰く、涅槃経に云く「今、無上の正法を以って諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属す〇正法を毀る者は 王者・大臣・四部の衆、応当に苦治すべし○尚お罪あること無し」已上。一切衆生、螻蟻蚊虻に至るまで必ず小善有 り。謗法の人に小善なし。故に施を留めて苦治を加うるなり。 問えて曰く、汝、僧形を以って比丘の失を顕すは、豈不謗四衆と不謗三宝の二重の戒を破らざるに非ずや。 答て曰く 守涅槃経に云う。「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべ し 、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」の文を守って記す。 若し此の記、自然に国土に流布せしむる時、一度、高覧を経ん人、必ず此の旨を存ずべきか。若し爾らざれば、大集 並びに仁王経の「若し国王有って我が法の滅せんを見て捨てて擁護せざれば○其の国の内に三種の不祥を出さん。乃 至命終して大地獄に生ぜん。若し王の福尽きん時○七難必ず起こらん」の責めを免れ難きか。此の文の如くんば、且 つ万事を閣いて、先づ此の災難の起由を慥かむべきか。若し爾らざれば、仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、 鬼神乱るるが故に万民乱る」の文を見よ。当時、鬼神の乱れ、万民の乱れあり。亦、当に国土乱るべし。愚勘、是く の如し。取捨、人の意に任す。 正元二年太歳庚申二月上旬之を勘う。 |
また、前年に御執筆の守護国家論については、大部の御書であるため、個々には比較しないが、同書に次のように示されている大要によって本抄等との関係を知っておきたい。
「分ちて七門と為す、一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明し、二には正像末の興廃を明し、三には選択集の謗法の縁起を明し、四には謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し、五には善知識並に真実の法には値い難きことを明し、六には法華涅槃に依る行者の用心を明し、七には問に随つて答うることを明す。」(0037-07)
このうち、法然の選択集が謗法の根源である理由を明らかにされる第三門、謗法対治こそ仏弟子の義務であることを示される第四門は、本抄等にも述べられているが、釈尊が権教と実教を区別したことを明らかにされる第一門、末法は実教流布の時代であることを明かされた第二門、法華経こそが真実の法であることを示される第五門、日本は法華有縁の国であり法華経の行者の住む所こそ真実の浄土であることを明かされる第六門、質疑応答によって諸宗からさまざまな疑難を破られて正法への信を勧められている第七問は、本抄や災難興起由来、立正安国論には述べられていない個所である。これは直接に国主を諌暁する書としてではなく、法理を立て、文証を整えることを主眼にされたためと考えられる。この守護国家論を基礎にして、諸宗の僧からの反論を前提として内容を抽出して著されたのが本抄や災難興起由来であり、これに対し、時の権力者である北条時頼への諫暁書として認められたのが立正安国論ということになると思われる。
そして同書を著された元意を「予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す」(0037-04)と、まさしく選択集破折の書であるとを明記されている。「此の事」とは、選択集の謗法の根源をあらわしたものがないため、悪法を増長ささていることである。
0078:01~0078:01 第一章 災難対治の方途を勘えるtop
| 0078 災難対治抄 正元二年 三十九歳御作 01 国土に大地震.非時の大風・大飢饉.大疫病・大兵乱等の種種の災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文。 -----― 国土に大地震、時節はずれの大風・大飢饉・伝染病の大流行・大戦乱等の種々の災難の起こる根源の因を知って、いかにすれば対治できるかということについて考え記した文。 |
非時の大風
季節外れの暴風。
―――
大疫病
悪性の伝染病。
―――
大兵乱
大規模な戦争、内乱。
―――
対治
①智慧によって煩悩を滅すること。②害をなすものを打ち破ること。
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勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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種種の災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文
本抄の題号は冒頭に記されている「災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文」の御文に由来している。
大聖人の御真筆を拝すると、災難興起由来は数々の書き直しがあり、また余白に横に書き込まれている個所もあって、草稿の感が強い。それに比べ、本抄は清書されており、公に提出される文書の体裁をなしている。したがって、御真筆の時期を考え合わせると、災難興起由来は本抄の草稿であった可能性がある。特に本抄で、選択集が著される以前にも種々の災難が起きているが、それはいかなる理由によるものであるかについて論じた個所からあとは、本抄と災難興起由来とは、表現の違いはあるが、論の進め方はほとんど同じである。しかも、災難興起由来はその前が失われており、整足したものは、内容的には同じであったことが十分考えられる。
さて冒頭に、国土に災難が起こる原因は何であるかを知り、どうすれば対治できるかを勘えた文であると断られている。勘文は「かんがえぶみ」で、普通は朝廷などからの諮問をうけた儒家・陰陽師などが、種々の資料や占いをもとに具申した意見書をいう。大聖人の場合、幕府などから要請があったわけでは当然ないが、国主・為政者の諌暁を前提に考察された文の意でこの語を用いられたと拝される。
大聖人が災難の根源を知り対治する方途を考えられた所以は、立正安国論の冒頭に「近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、然る間或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」(0017-01)あるように、この時代、さまざまな災厄が起こっていたことにある。その災難の模様は、詳しくは、文永5年(1268)の安国論御勘由来や文永6年(1269)の立正安国論奥書に記されている。
安国論御勘由来に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ、而る間国主之に驚き内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り、爾りと雖も一分の験も無く還つて飢疫等を増長す。日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く還つて凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ、終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す」(0033-01)と。
立正安国論奥書には、更に、立正安国論上呈の直接のきっかけが正嘉元年(1257)の大地震であったと明記されている。
「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-01)
これらの御書を拝すると、正嘉の大地震による惨禍を見られた大聖人は、災難対治の方途を国主に教えることが緊要であると考えられて、翌正嘉2年(1258)、執筆準備のために、当時、関東随一の経蔵があった駿河国岩本実相寺に入られ、経典を閲覧して「凶悪を増長するの由道理文証」を整えられる。その翌年、正元元年(1259)に著された守護国家論はこれにあたるといえよう。翌年正元2年(1260)初め、勘文の草案として災難興起由来を著され、更に本抄、災難対治抄の御述作で勘文としての体裁を整えられた後、時頼の諌暁のために推敲を加えて、立正安国論を著されたと拝察される。
正嘉の大地震については、幕府の公式文書である吾妻鏡の正嘉元年(1257)の項に、当時の悲惨な状況が記されている。
「八月二十三日、乙巳、晴る。戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒氏し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々。二十五日丁未、雨降る。地震小動五六度。筑前次郎左衛門尉行頼奉行として、地震によって御祈禱を致すべきの由、御持僧ならびに陰陽道の輩に仰せ下さる。九月四日、乙卯、小雨振る。申の尅、地震、去月二十三日の大動以後、今に至るまで小動休止せず。これによって、為親朝臣、天地災変祭を奉仕す。九月二十四日、乙亥、晴る。地震によって、御所南方、東方の築地壊るるなり。十一月八日、己未、大地震、去ぬる八月二十三日のごとし」
大聖人が災難の起こる原因を明らかにし対治の方途を示そうと決意した動機が、この正嘉の大地震にあったことは前述したとおりであるが、その後も災難は毎年のようにあった。先に引いた安国論御勘由来の後半に「日蓮正嘉の大地震同じく大風同じく飢饉・正元元年の大疫等を見て記して云く他国より此の国を破る可き先相なりと、自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊せば復た仏法の破滅疑い無き者なり」(0035-07)と、特に正元元年(1259)の大疫病を見て、国主諌暁を急がれたと思われる御記述がみられる。
この御文で注目すべきは、これらの災難が、単にそれにとどまらず、他国から日本が攻められるという未曾有の大災難の先相であると言わわれていることである。本抄の冒頭の一節にも大地震・大風・大飢饉・大疫病と並んで「大兵乱」が挙げられている。立正安国論では具体的に自界叛逆・他国侵逼の両難を予言されているが、最も大聖人が憂えられるのは、このまま放置すれば、やがて必ず戦乱が勃発することであった。それによってもたらされる人々の苦しみは最も甚だしいものとなる。それを防ぐために、災難のよってきたる原因を明らかにし、どうすれば災難を対治できるかの方途を訴えられたのである。本抄の冒頭の短い一節のなかに、大聖人の、深く国を憂え人民を憂えられての勘文であることが拝されるのである。
0078:02~0080:04 第二章 五経から七文を挙げるtop
| 02 金光明経に云く 「若し人王有りて其の国土に於て此の経有りと雖も未だ嘗て流布せず捨離の心を生じて聴聞せ 03 んことを楽わず亦供養し尊重し 讃歎せず四部の衆の持経の人を見て亦復 尊重し乃至供養すること能わず遂に我等 04 及び余の眷属無量の諸天をして 此の甚深の妙法を聞くことを得ず 甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力 05 有ること無らしむ悪趣を増長し 人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に背かん、 世尊・我等四王並に諸の眷属 06 及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて 擁護の心無けん但我等是の王を捨棄するのみに非ず 亦無量の国 07 土を守護する諸天善神有らんも 皆悉く捨去せん既に捨離し已れば 其の国に当に種種の災禍有つて国位を喪失すべ 08 し、一切の人衆皆善心無けん 唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて 辜無きに及ばん、疫病流行し彗 09 星数ば出で両日並び現じ 薄蝕恒無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節 10 に依らず常に飢饉に遭い 苗実も成らず 多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し 人民諸の苦悩を受け土地に所楽の処 11 有ること無けん」と。 -----― 金光明経には次のように説かれている。 「もし人王がいて、その国土にこの経があっても 未だかって流布せず、この経を捨て去る心を起こして、聞くことを願わずに、また供養し尊重し讃歎することをせず、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四部の衆としてこの経を持つ人を見てもまた尊重したり供養したりすることをしない。 そのため、我らおよびその眷属や無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞くことができないようにして、甘露の味を得させず、正法の流れに浴させず、威光および勢力をなくさせてしまう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の衆生が次第に増え、人界・天界の衆生は次第に減り、生死の迷いの河に墜ちて、涅槃の悟りの道に背くであろう。 世尊よ、我ら四天王ならびにもろもろの眷属および薬叉等は、そのようなことを見て、その国土を捨てて擁護する心を無くしてしまうであろう。ただ我らがこの王を捨て去るだけでなく、また国土を守護する無量の諸天善神もみな悉く捨て去るであろう。 既に捨て去ってしまったときには、その国に必ず種々の災禍があって、国王の地位を失うであろう。一切の人々はみな善心が無く、ただ縛り殺害し争うのみで、互いに権力者に讒言し諂い、法をまげて無実の者にまで罪をきせるであろう。 伝染病が流行し、彗星がしばしば出て、二つの太陽が並んで現れ、日蝕や月蝕など太陽や月の光が薄くなることが通常どおりでなく黒色と白色の二つの虹が出て不吉の相を表し、星が流れ、地が揺れ動き、井戸の中から音響を発する。また、暴雨や暴風が時節によらずに起こり、常に飢饉にあって苗や実も育たず、他国の多くの怨賊が国内を侵略し、人民は諸の苦悩を受け、国土に安楽の場所は無くなってしまうであろう」と。 -----― 12 大集経に云く 「若し国王有つて我が法の滅せんを見て擁護せずんば無量世に於て施戒慧を修すとも悉く皆滅失 13 して其の国の中に三種の不祥の事を出さん、乃至命終して大地獄に生ぜん」と -----― 大集経には、つぎのように説かれている。 「もし国王がいて、我が正法の滅びようとしているのを見て擁護しないならば、量り知れないほどの世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、その功徳善根は悉くみな失われて、その国の中に三種の災いが起こってくるであろう。…命終えて大地獄に生ずるであろう」と。 -----― 14 仁王経に云く「大王・国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、亦云く大王・我今五眼をもつ 15 て明に三世を見るに一切の国王は 皆過去世に五百の仏に侍うるに由つて 帝王主と為ることを得たり、是をもつて 0079 01 一切の聖人羅漢而も為に 彼の国土の中に来生して大利益を作さん 若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨て去るこ 02 とを為さん若し一切の聖人去らん時は七難必ず起る」と。 -----― 仁王経には「大王よ、国土が乱れる時は、まず鬼神が乱れ、鬼神が乱れるために万民が乱れるのである」と説かれ、また「大王よ、私が今五眼をもって明らかに三世を見てみると、一切の国王はみな過去の世に五百の仏に仕えたことによって帝王主となることができたのである。これによって、一切の聖人や阿羅漢は王のためにその国土の中に生まれて来て大利益をなすであろう。若し王の福徳が尽きる時は、一切の聖人はみな捨て去るであろう。もし一切の聖人が去る時は、七つの難が必ず起こるであろう」と。 -----― 03 仁王経に云く「大王吾今化する所の百億の須弥・百億の日月・一一の須弥に四天下有り其の南閻浮提に十六の大 04 国五百の中国十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一 切の国王是の難の為の故に、 云何なるを難 05 と為す日月度を失い 時節返逆し或は赤日出で黒日出で 二三四五の日出づ或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四 06 五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星.彗星.輪星.鬼星.火星.水星・風星.トウ星・南斗.北斗.五 07 鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火・国を焼き万姓焼 08 尽し或は鬼火.竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水.百姓を漂没 09 して時節返逆し冬雨ふり夏雪ふり冬時に雷電霹靂し六月に冰霜雹を雨らし赤水・黒水・青水を雨らし・土山・石山を 10 雨らし沙礫石を雨らし江河逆まに流れ 山を浮かべ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、 大風万姓を 11 吹殺し国土の山河樹木.一時に滅没して非時の大風.黒風・赤風・青風.天風・地風・火風・水風.是くの如く変ずる時 12 を五の難と為すなり、 天地国土亢陽し炎火洞然として百草亢旱し五穀登らず 土地赫然として万姓滅尽せん是くの 13 如く変ずる時を六の難と為すなり、 四方の賊来りて国を侵し内外の賊起り火賊・水賊・風賊・鬼賊あつて百姓荒乱 14 し刀兵劫起せん是くの如く怪する時を七の難と為すなり」と。 -----― 仁王経には、また次のように説かれている。 「大王よ、私が今教化する世界には、百億の須弥山と百億の日月があり、一つ一つの須弥山の四方に四天下があり、その一つの南閻浮提に十六の大国と五百の中国と一万の小国がある。その国土の中に七つの恐るべき難がある。一切の国王はこの難の為のために…どのようなことを難とするかというと、太陽や月が平常の運行から外れ、時節が逆になり、あるいは赤い太陽が出たり、黒い太陽が出たり、二つ・三つ・四つ・五つの太陽が出たり、あるいは日蝕で太陽の光が無くなったり、あるいは太陽の輪が一重・二重・三重・四重・五重に現ずる。…これを一の難とするのである。 二十八宿の星座が平常の運行から外れ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・トウ星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星などのもろもろの星がそれぞれ異常な現れ方をする。…これを二の難とする。 大火が国を焼いて万民を焼き尽くし、あるいは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火というような怪げな異変が起こる。…これを三の難とする。 大水が万民を漂わせ没める。時節は逆転して、冬に雨が降り、夏に雪が降り、冬期に稲妻が光って雷が鳴り、夏の六月に冰や霜や雹が降る。赤水・黒水・青水が降り、土の山や石の山が降り、砂や礫や石が降り、河は逆流して山を浮かべ石を押し流す。このように異変が起きる時。…これを四の難とする。 大風が万民を吹き殺し、国土の山河や樹木は一挙に滅び没する。時節はずれの大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風が吹く。このように異変が起きる時。…これを五の難とする。 天地・国土が日照りで炎に包まれたように熱せられて多くの草は枯れ、五穀は実らず、土地は焼けただれて万民は滅び尽きるであろう。このように異変が起きる時。…これを六の難とする。 四方の他国の賊が襲って来て国を侵略し、内外の賊が蜂起する。火賊・水賊・風賊・鬼賊が横行して民衆は荒れて乱れ、戦乱に脅かされるであろう。このように異変が起きる時。…これを七の難とする」と。 -----― 15 法華経に云く「百由旬の内をして諸の衰患無からしめん」と。 16 涅槃経に云く「是の大涅槃微妙の経典・流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是れ金剛なり 是の中の諸 17 人亦金剛の如し」と。 -----― 法華経陀羅尼品第二十六には「百由旬の内において、もろもろの衰え患うことが無ようにさせる」と説かれている。 涅槃経には「この大涅槃微妙の経典が流布される所、その地はすなわち金剛であり、この中の人々はまた金剛のようである」と説かれている。 -----― 18 仁王経に云く「是の経は常に千の光明を放ちて千里の内をして七難起らざらしむと、 又云く諸の悪比丘多く名 0 01 利を求め国王・太子・王子の前に於て 自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く 其の王別えずして此の語を信聴し横 02 に法制を作り仏戒に依らず是を破仏破国の因縁と為す」と。 -----― 仁王経には「この経は常に千の光明を放って、千里の内において七難が起こらないようにさせる」と説かれ、また「もろもろの悪比丘が多く名誉や利益を求めて、国王・太子・王子の前でに自ら仏法を破壊し国を破壊する因縁となる教えを説く。その王は弁えずにこの言葉を信じ聴き、道にはずれて法制を作り、仏の戒法に依らない。これを仏法の破壊・国の破壊の因縁とするのである」と説かれている。 -----― 03 今之を勘うるに 法華経に云く「百由旬の内諸衰患なからしむ」と仁王経に云く「千里の内に七難不起らしむ」 04 と、涅槃経に云く「当に知るべし其の地は即ち是れ金剛、是の中の諸人亦金剛の如し」と文。 -----― 今、これらの経文を考えてみると、法華経には「百由旬の内において、もろもろの衰え患うことの無いようにされる」と説かれ、仁王経には「千里の内において七難が起こらないようにさせる」と説かれ、涅槃経には「まさに知りなさい。その地はすなわち金剛であり、この中の人々はまた金剛である」と説かれている。 |
金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
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未だ甞て流布せず
「国王が此の経を流布させなかったら」という意。大聖人御在世事は、鎌倉幕府が大聖人の諌暁を用いなかったばかりか、却って仇をなして迫害した。以後700年間、日本の国土は、邪法に迷って正法を流布せしめず、民衆に塗炭の苦しみをなめさせてついに亡国を招いた。今、この正法を世界に広宣流布しなければ、世界の民衆を苦悩の底から救い出すことはできないのである。日寛上人の分段には「かくのごとく点ずべし……末だ国王、この経を流布せしめずなり」と申されている。
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捨離
捨て去ること。御書では諸天善神が国を捨て去ることとして用いられている。
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供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596-14)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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四部の衆
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のこと。比丘は梵語で(bhikșu)仏門に帰依して具足戒を受けた男子、僧である。乞士、慧命。比丘尼は(bhikșuņi) 出家して具足戒を受けた女子、尼僧、除女、熏女と訳す。優婆塞は(upāsaka)俗家であって仏法を信行する男子、清信子、近事男。優婆夷は(upāsika)仏門に入った在家の女子。俗家にあって仏法僧に近事し、諸の善法に親近して修習し、過去の罪業を離れて清く、しかもよく仏道に入る信を立て、破戒を離れる女性をいう。清信女、近事女。いずれも正法を保つ人々。
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持教の人
仏経をたもつ人。正しい仏法を信じ、身口意の三業に精進する人。末法において、別しては御本仏・日蓮大聖人、総じては日蓮大聖人の三大秘法を保つ正法信者。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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諸天
諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
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甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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正法
正しい法。邪法に対する語。
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悪趣
趣とは境界の意で、十悪・五逆・謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。地獄とは苦しみ、餓鬼は食物はじめいっさいの物について、求めて得られない状態、畜生は弱い者には威張るが、強い者には媚びて恐々としている状態、修羅は争いに明け、争いに暮れる状態である。日寛上人の分段には「これはこれ四悪趣なり、『生死の河に堕ち』とは上の六凡をもって通じて生死となし四聖をもって用いて涅槃となすなり、性抄に『分明ならざるに似たり』と云云」とある。
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生死の河
煩悩に支配された迷いの生活、地獄から天界までの六道を輪廻する生活である。生死とは生老病死、人生の根本的な苦しみをいう。煩悩を火にたとえるのに対し、生死を大海、河等、水にたとえる。
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涅槃の路
涅槃とは梵語(nirvāna)で、滅、滅度、滅寂、解脱、円寂等と訳す。衆苦を断じて、いっさいの煩悩の火を滅ぼし、不生不滅の法性を証験した成仏の境地をいう。それは自由・清浄・平和・永遠等を備えた幸福境で、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備した理想的境涯である。この境地を会得するのに、小乗教は、煩悩を断じ灰身滅智せよと教えたが、日蓮大聖人の仏法では、御本尊を受持し、信ずることによって、そのまま即座に生死即涅槃となるのである。ここでは、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖をもって、用いて涅槃となしている。ヤシャ
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世尊
世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。
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四王
四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
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耶輪
耶輪陀羅比丘尼のこと。釈尊の太子時代の妻で羅睺羅の母。釈迦成道後は釈尊の弟子となり、勧持品で具足千万光相の記莂を受けた。
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諸天善神
法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
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繋縛
つなぎしばり、拘束すること。六道輪廻の迷い、四苦八苦の苦しみ、煩悩に心身が縛られていること。
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瞋諍
瞋りと諍い。
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枉げて辜無きに及ばん
法を曲げて、罪をない者までおとしいえるようになるであろうとの意。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経に五種の懺悔の法を説いたなかに「第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、是れを第三の懺悔を修すと名づく」とある。これについて御義口伝には「末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く『若し此の法に依れば即ち天下泰平』と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」(0786-第五正法治国不邪枉人民の事)とある。大聖人が種々の大難を受けられたこと、戦時中の軍部政権による牧口初代会長、戸田二代会長、第三代池田会長があわれた大阪事件はこれにあたる。
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彗星
ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
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両日並び現じ
太陽が二つ、三つと同時に並んで出ること。もちろん、一つだけが実物で、他は幻の太陽である。これは、大気中の氷の結晶などの浮遊物によって生じる暈が正体で、その交差するところが輝いて、太陽が並び出たかのように見えるのである。陰陽道では、両日が並び現ずることを、国に二王が並び立ち、世の中が乱れる瑞相であるとした。報恩抄には「仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれ」(0319)とある。
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薄蝕恒無く
薄とは、太陽や月が出ていながら、その光を失うこと。触は、月蝕・日蝕である。太陽や月が光を失う例については、もやがかかったり、塵埃が光をさえぎったりする等が考えられる。日蝕については、太陽と地球の間に月が位置してそのため太陽が欠けたように見える現象。月蝕は太陽と月の間に地球が入り、月面が地球の影で隠れること。仏法ではこれらを天変地異の瑞相としている。
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黒白の二虹
七色の虹と異なり、黒ないし白色の虹。黒虹は急激な気候の異変によって生じる悪気流によるもの。白虹は、霧雨のように細かい雨滴が光にあたってできる。幻日環の時に現れる光弧とも考えられる。昔の中国では、白虹は革命や戦乱の前兆として恐れられていた。
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不祥の相
病気や事故をはじめ、広くは天変地異という人間生命をおびやかすすべての現象。
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井の内に声を発し
地震の時などに、井戸水や温泉の涌水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したりして、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が空気を振動させることによって生じるものである。井の内に声を発するとは、そのような地殻変動に関係するものと思われる。日寛上人の分段には「蒙の一義にいわく『地動に由り水声を発す』云云、『この義・美からず』と云云」とある。
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大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳④大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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無量世
生まれてから死ぬまでの一生を一世といい、数えられないほどの多くの生死生死を重ねることを無量世という。
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施戒慧
布施・持戒・智慧の略で、六波羅蜜の修行である。波羅蜜とは梵語(Pāramitā)で、度彼岸、到彼岸等と訳す。布施・持戒・忍辱・精進・禅・智慧の六つあるので六波羅蜜という。釈尊は通教時において、菩薩がこの六法を修行すれば、生死の此岸より、その涅槃に至ることができると教えた。法華時の説法では、開経の無量義経で「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説き、妙法を信行する功徳に一切が含まれ、六度の修行は不要となると説く。
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三種の不祥の事
三種類のめでたくないこと。三災。
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仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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鬼神
鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
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五眼
物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五つをいう。①肉眼は人間の肉体に具わった眼。②天眼は昼夜遠近を問わず見ることのできる天人の眼。③慧眼は空理を照見する二乗の眼。④法眼は衆生を救うために一切の事象・法門に通達する菩薩の眼。⑤仏眼とは前の四眼をことごとく具足して、遍く万法の真実を照了する仏の中道の眼。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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羅漢
阿羅漢のこと。声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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須弥
須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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四大下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
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南閻浮提
須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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十六の大国
大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、なお十六大国については、経によってさまざまな説がある。
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日月度を失い
日寛上人の分段には「仁王吉蔵疏にいわく『常道に依らざるを度を失うと名づく』と。建にいわく『日月行土の道は百八十あり』と云云。その日の行度を失うときあるいは高くあるいは低くあるいは遅くあるいは早し等なり。所詮常に異なるなり、二十八宿またしかなり、ゆえにあるいは非処に出ず等となり」と。
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時節返逆し
四季の移り変わりに異変が生じ、春夏秋冬の季節が逆になったりしること。
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赤日
太陽の色が赤く変ずることで、空に舞い上がった火山灰等が日光をさえぎるために起きる現象であろう。日本後期には「大同三年三月丙戌、日赤く光なし」。三代実録の貞観14年9月16日癸未の項にも「日光なし、月、元氐に宿る」とある。気象に大きな影響を与えるため、大災害の起こる前兆とされている。
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黒日
太陽が黒色に変わることで、部分的な日蝕ではなく、皆既日食かそのほかの現象によるものと考えられる。気象に大きな影響を与えるため、大災害の起こる前兆とされている。
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二三四五の日
ひとつは本当の太陽で残りは幻日であろう。天暦2年6月7日に二つの太陽、昌泰4年2月1日に三つの太陽が出たとの記録がある。異常気象によるもので大災害の前兆といわれている。
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日輪一重二三四五重輪
太陽の周囲に環状の暈ができること。光環ともいい、大気中に微細な氷の結晶や水滴が多量に浮遊したとき、光が屈折して起こる現象ともいわれている。
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二十八宿
日月や五星の位置および運動をあらわすために、黄道および赤道付近の周天に、その標準として立てられた28の星宿。五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。各星宿の標準としてとった星を距星というが、各距星の間隔は等しくない。古代中国においては、この二十八宿に関連して部位を示すために、東西南北の四宮・四陸にわけ、これを四獣に配し、さらに二十八宿に配した。この関連性を爾雅・左伝・国語・史記などによって示すと、次のようになる。東宮――東陸――蒼竜――角 亢 氐 房 心 尾 箕。北宮――北陸――玄武――斗 牛 女 虚 危 室 壁。西宮――西陸――白虎――奎 婁 胃 昴 畢 觜 参。南宮――南陸――朱雀――井 鬼 柳 星 張 翼 軫
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輪星
輪状のかさをもった星で日月五星が輪星の中央を破ると国土が分散し、右を回れば国土安穏、左へいけば、よくないことがあるとされるが、現在の天文学では太陽惑星の中に、肉眼で見えるこのような星は存在していない。
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鬼星
二十八宿の一つで南方に位置する星。光の衰えるのが不作の兆しといわれている。蟹座の中の星
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風星
二十八宿では昴・箕ともいわれているが、詳らかではない。八風をつかさどり、井に宿れば、風雨の変があるといわれる。
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刁星
刁とは、昔の中国で、陣営において用いられた銅製の器具。形は漏斗に似て、昼は飲食を焚き、夜は警備用のドラとして用いた。刁星とはこの星座の図形が似ているためと思われる。
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南斗
二十八宿のなかで北宮に位置する斗のこと。六星からなる星座。古来の中国では、南斗の光が盛んであれば、王道が栄え、天下は和平であり、暗ければその反対であるとされた。天の位置は北宮であるが、夏から秋にかけて南方に見えるので南斗の名前がある。
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北斗
北斗七星のこと。北天の大熊座のしっぽにあたる。古来、北斗星の光が明らかであれば国が栄え、反対には衰えるといわれていた。周りに傍星が多い時は国は安泰で、少ない時は訴訟が多く、傍星が大きくなって北斗と合するようなことがあれば、兵乱がおこるともいわれていた。
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五鎮の大星
太陽系の惑星である歳星=木星、熒惑星=火星、太白星=金星、辰星=水星、鎮星=土星をいう。鎮星を中心に他の四星がこれを輔けているような配置をしているので、総称して五星という。中国人はこれを天の五気、地の五行と考えた。すなわち准南子の天文訓に次のような記述がある。「何をか五星と謂う。東方は木なり、其の帝は太暭、其の佐は勾芒、規を執りて春を治む、其の神を歳星と為す、其の獣は蒼竜、其の音は角、其の日は甲乙。南方は火なり、其の帝は炎帝、其の佐朱明は、衡を執りて夏を治む、其の神を熒惑と為す、其の獣は朱鳥、其の音は微、其の日は丙丁。西方は金なり、其の帝は少旲、其の佐は蓐収、矩を執りて秋を治む、其の神を太白と為す、其の獣は白虎、其の音は商、其の日は庚辛。北方は水なり、其の帝は顓頊、其の佐は玄冥、権を執りて冬を治む、其の神を辰星と為す、其の獣は玄武、其の音は羽、其の日は壬癸。」とある。
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国主星
地上における国主が天上に反映し、その運命を象徴すると考えられた星。大集経月蔵分護持品に、二十八宿と五星を須弥山および四衆に反映し、その国を守らしめることが説かれている。古来中国においても、二十八宿、五星が司る諸国の配分が繰り返し議論された。これを分野説といって、春秋・戦国・漢代と、時代によって種々の説が立てられた。もとより定説というものは存在しない。日寛上人の分段には「国主を守る星等なり」とある。
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万姓
民衆・万民のことすべての民をいう。「万」は多数「姓」はかばねの意味。
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鬼火
一般には、湿地に小雨が降る闇夜などに燃え出て、空中に浮遊する青い火、これは燐化水素の燃焼であるとの説があるが不明である。また、鬼火とは衆生の乱れを鬼が怒って起こす原因不明の火事をさす。中国の吉蔵の疏には「鬼衆生を離れば、悪人夜起らしめ、亦人をして熱病せしむ」とあり、日寛上人の分段には「鬼火とは、鬼・衆生を瞋れば、悪火・夜起こる」とある。
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竜火
竜の怒りによって起こされる火。竜は水から火を吹く等といわれ、恐れられた。落雷によって起こる火災を指したものか。日寛上人の分段には「竜火とは霹靂火を起こす」とある。
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天火
天によって起こると考えられた火災。
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山神火
神仙の怒りによって起こるとされた火災。火山の爆発によるものか。日寛上人の分段には「山神火とは仙人瞋れば、火・瞋りに従って生ずと云云」とある。
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樹木火
日照りが続いて空気が乾燥しているとき、樹木同士の摩擦によって起こる火災。日寛上人の分段には「樹木火とは亢陽・時に過ぎ樹木・火を起こす」とある。
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賊火
盗賊の放火による火災。日寛上人の分段には「賊火とは賊・火を起こす」とある。
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百姓
百姓とは各種産業に従事する一般市民をいうが、転じて農民を指すようになった。安国論に「衰亡し」とあるのは、国内の乱れ、また他国の他国侵逼のため、多くの民衆が殺されたり、家を焼かれたり土地を荒れされること。流浪の民になることをいう。
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雷電霹靂
「雷電」は大気中に起こる放電現象で雷と稲妻。「霹靂」激しく雷がなること。
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赤水・黒水・青水
大雨のため、通常は考えられない泥水がでること。
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江河
大きな河のこと。②揚子江のこと。③黄河のこと。
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黒風・赤風・青風
暴風雨により砂ぼこりを巻き上げた風。
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天風・地風
天風は天を吹く風。地風は地を吹く風。
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火風・水風
「火風」は乾燥した熱気。地風はみぞれ交じりの寒風。
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亢陽
激しい日照りのこと。
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炎火洞燃
熱した空気が、炎が燃え上がるように、大地から昇る状態。
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五穀
主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
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土地赫然
大地が高温に熱せられること。
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四方の賊
国を侵略する外国勢力。
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内外の賊
内は父方・外は母方(逆もある)の親戚。同族間の争い。自界叛逆難がこれにあたる。
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火賊・水賊・風賊
害に乗じて悪事を働く賊。
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荒乱
①荒れ乱れること。②飢饉のこと。
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刀杖劫
戦乱に依る脅威「劫」はおびやかすの意。
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法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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金剛
①金剛石・ダイヤモンドのこと。②金剛杵のこと。③執金剛のこと。
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悪比丘
比丘とは梵語で、仏法に帰依して具足戒を受けた男子。悪比丘とは、名利のために形ばかり比丘となり、邪法を説く輩。出典は仁王般若波羅蜜経嘱累品。
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名利
名誉と利益。
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因縁
果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
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仏戒
仏のいましめ。
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初めに五経の文を引かれている。そのうち、金光明経、大集経、法華経、涅槃経からは、それぞれ一文ずつ、仁王経から三文を引かれている。
このように、災難が起こる原因、またそれを対治する方法を示されるにあたり、まず経典の文を引かれているのは、立正安国論にも共通している。災難興起由来にはないが、同抄には最初の部分がかけているから、そこに含まれていたことは十分考えられる。大聖人は、仏典という“原典”に基づいて一国に災難が起こる原因を明かされているのである。大聖人は立正安国論や本抄のような災いという問題についてのみでなく、特に法の正邪を明かされるに当たっては判定の論拠を必ず経典にさかのぼられている。他宗を破折される際にも、彼らの教義が経典によったものであるか否かを常に問われている。大聖人はあくまで仏法ものとして仏法に関しては仏説である経典に基づいて判断されたのである。途中の人師・論師は凡夫である以上、誤っている可能性があり、誤った主張に基づいて議論してもナンセンスだからである。したがって、大聖人はまず経典という共通の基盤に立って議論すべきことを常に主張され、自らもその行き方を貫かれたのである。
さて、引用されている経文は、初めの三経四文と、後の三経三文とでは、そのテーマに違いがある。初めの引用は、正法に背くならば、国に災難が起こることを示した経文である。後の引用は、正法に背くならば、国に災難が起こることを示した経文である。後の引用は、正しい教えを用いれば災難を免れることを説いた経文である。
金光明経に云く
最初の三経四文であるが、これは立正安国論でも引用されている経文である。立正安国論ではこのほか薬師経を加えて四経の文が引用されている。これら引用の経文のうち金光明経と仁王経は古来、法華経を加えて鎮護国家の三部経として用いられたものである。
金光明経は詳しくは金光明最勝王経、金光明帝王経などと呼ばれ、正法を護持する者は多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王はじめ一切の諸天の加護を受け、王が正法を護持すれば国全体が加護をうけることがとかれているため、護国の経典として珍重されたものである。
金光明経は遠く飛鳥時代、奈良時代から重んじられ、諸国で金光明経が読誦されている。法華経と金光明経の読誦が得度の資格と定められ、各地で建立された国分寺には金光明最勝王経が安置されたことから、国分寺は正しくは、金光明四天王護国之寺といった。平安時代に入っても、国家の安泰を祈って同経を購読する最勝会、最勝講が行われるなど、護国の経典として最も重んじられた。
ところで、この金光明経には、逆に国王が正法を護持しなければ、諸天が国を捨てて国に災難が起こることも説かれている。大聖人が本抄で引かれているのはこの部分である。つまり、この経には国主が正法を重んじれば諸天は国を守護し安泰にするが、国主が正法を捨てれば、諸天はこの国をすてることが説かれているのである。
もとより、災難が起きる原因はさまざまな次元があり、正しい原因をつきとめ、そこから正せば無くすことができるのである。もしこの経が示しているように人々の信仰している法に誤りがあり、そのための生命の歪みが原因である場合は、この信仰の誤りを正さなければならないのである。
ただし、この金光明経などの文で誤解してならないのは、金光明経の文を読誦したり購読すればいいというのでないということである。金光明経は、いうならば効能を記した経であって、法体としての経、喩えでいえば薬自体ではない。いかなる法が正法すなわち薬であるのかを弁えることが大事となるのである。
大集経は金光明経や仁王経と異なり鎮護国家の経として用いられることはなかったが、やはり滅後の様相について述べられており、特に五箇の五百歳について述べられた個所は諸御書に多く引用されている。本抄で引用されているのは三災を予言している個所だが、なぜか「三種の不祥の事を出さん」の部分だけで、その直後の「一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり」と三災の名を挙げている部分は略して引用されている。
次に仁王経は、詳しくは仁王般若波羅蜜経といい、これも鎮護国家の三部経の一つとして盛んに用いられた経典である。仁徳ある国王が般若波羅蜜経を受持して政治を行えば、災難は起こらず、国土は安穏になると説いている経典である。正法が滅して人々の思考が乱れると、悪業のため種々の災難を受けるとし、それを免れるために般若を受持すべきことを説いているのであるが、特に災難の内容を七種挙げて説いており、本抄でもそれが引用されている。
仁王経が、鎮護国家、息災延命の祈願によく用いられた経文であることは、立正安国論等にもみえる。立正安国論には、当時の朝廷等で災害を防ぐために同経によって「百座百講の儀」が調えられたことが述べられている。これは護国品に、護国のために百の高座を敷き、百の法師を請じて般若を講ずれば、国土が護られるとある文によって行われていたもので、日本においては、斉明天皇の時代に行われたのが最初である。その後、仁王会として定着し、金光明経の最勝会とともに公式行事として頻繁に行われていたのである。
なお、立正安国論では、薬師経が引用されているが、本抄では同経の引用はない。立正安国論では自界叛逆・他国侵逼の二難の予言がこの薬師経の文によって行われたことから、必要欠くべからざる位置を占めているが、本抄でそれを引いておられないことは、まだこの段階では直接、二難を予言することを控えておられたものと拝することもできる。
すでに述べたように、安国論御勘由来にとると、大聖人は、本抄御執筆の前年・正元元年(1259)の疫病等をみて、このままでは他国からこの国が攻められるという難が起こることを看破されていたのであるが、自界叛逆・他国侵逼の二難は、特に為政者にとって深刻な災いであることから、最高権力者への諫暁書である立正安国論において初めてこれを明記され、覚醒を促されたと考えられる。
次に、引用の経文の内容に入ると、最初に引かれている金光明経の文は、王があって、この経が存在しているのにそれを捨てて用いようとしないならば、諸天が威光勢力を失って、その国に種々の災難が起こることを述べた経文である。
大聖人は立正安国論で、人々が正法に背くと神がこの国での守護の働きを放棄し天界に戻ってしまい、それに代わって、神社等には悪鬼が住んで、国土に災難が起こるという「神天上の法門」を説かれるが、その内容はこの金光明経にしめされている。
このなかで大切なのは、王が「此の経」を捨てたならば災難が起こる、と述べている個所である。前述したように金光明経はいわば効能所のような経であり、文中に「正法の流れを失い」とあるように、「此の経」とは、その時と機に適って流布されるべき正法をさしているのである。もし金光明経を受持していても、その時の正法を謗っていれば、かえって「捨離の心を生じて」の文にあたるのである。最勝会などを開いて金光明経を読む人々は、それでこの経のとおりに讃嘆しているのであるから、決して護国の祈りとなっているはずだと思っていたのであるが、法華経を謗る密教等を信仰しているのであるから、決して護国の祈りにはならず、逆に正法の流れを失わしめていた。大聖人はそのことを教えるために文証として同経を引かれているのである。金光明経の読誦・講会は盛んに行われていたからである。「既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし一切の人衆皆善心無けん唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん、疫病流行し」(0062-03)の文は、まさにその当時の世相そのものであったろう。
大集経の文は、三災を予言した経文であるが、ここでは、国王が正法を滅するのを見ながら擁護しないならば、たとえ無量の過去世に布施・持戒・智慧を修してきていても、その福徳はたちまちに失われて、国に不祥事が起きると説いている。
ここで「擁護せずんば」の「擁護」とは、正法が滅ちょうとしている時、正法を守り、また正法を護持している者を擁護することである。
またここでは、「施戒慧を修すとも悉く皆滅失して」の文にも注目したい。「施戒慧を修すとも」の施戒慧とは、布施・持戒・智慧で、仏法の修行である六波羅蜜のうちの三つである。つまり、たとえ仏法を修行していても、という意味になる。仏道修行においては、何でも修行すればよいというのではなく、何が正しい教えかを見極めることが先決で、たとえ形の上では仏法を受持しているようであっても、実際には正法に背いて「我が法」すなわち正法を滅びさせているならば、国に不祥事が起きると説いているのである。極言すれば、仏教と名がつけば何でも重んじ修行していればよいのでなく、仏の正意が何であり、何が正法であるかを判別しなければならない。仏教に祈っているのに、飢饉・疫病・戦争が起こっている場合は、そこに誤りがある証拠であると考えるべきで、もし、そのまま一生を過ぎれば死後は、「大地獄に生」ずることになるのである。
仁王経の文は国土が乱れる因果関係を示したものである。まず鬼神が乱れ、鬼神が乱またれるゆえに万民が乱れ、そのゆえに国土が乱れるという順序で災難が起こるとしている。また国王は過去世の善業のゆえに聖人が現れ守ってくれるが、王の福が尽きると聖人は去り、一切の聖人が去ったときには七難がおこるとして、その七難を詳しく説いている。
ここで説いている鬼神とは、目に見えない超人的な働きをするものを総称した言葉で、仏法では夜叉や羅刹・阿修羅などが説かれている。本来、国土を護る鬼神も、これが乱れれば人の生命のなかに入ったりして生命を奪ったり、精気を奪ったりすると考えられた。これを今で考えれば、人の心の中に忍び込む狂気や誤った思考などもそれに当たるだろう。すなわち鬼神が乱れるとは、思考が乱れたり、精神が頽廃したり、あるいは生命力が衰えたりすることを意味すると考えられる。また、万民が乱れるとは、社会全体が混乱し、衰退していくことを意味するだろう。つまり仁王経のこの文は、第一段階として思考・精神の乱れ、衰退があって、それが社会に波及していくのが第二段階、さらにそれが国土全体の頽廃につながっていくのが第三段階であると説いているのである。この鬼神の乱れは聖人が去ることに依り起きるのである。
法華経に云く
ここからは正しい教えを用いることにより、災難を免れることを説いた経文を挙げておられる。この三経三文のうち、初めの法華経および涅槃経の文は、立正安国論では引用されていない。
立正安国論は立正よりも破邪に重きを置かれ、謗法を断じるべきことを強調されている。これは本抄や災難興起由来も同様である。しかし、本抄では権実相対を明確にされ、法華経を実教として位置づけながら、権教の代表として念仏を挙げて破折されている。したがって、第一章でみたように、本抄中で“法華経を信ずる者でも災難にあう者がいるではないか”等の問いも設けられているのである。それに対し、立正安国論ではひとまず法華経が正法であることは言及されず、まず一凶を禁ずることを先決とされている。それが頻繁な法華経や涅槃経の文の引用を立正安国論では控えられている理由であるとも拝される。
法華経の文は陀羅尼品第26で毘沙門天王が法華経受持の者を守護することを誓っている個所である。法華経を受持する者には百由旬の中において、さまざまなわずらいから守ることを保証しているのである。百由旬といえば、種々の説があるが、大まかにいって、ほぼ日本全域をさすぐらいの広さであろう。つまり日本全域に及ぶほどの広さにわたって、災難から守護するという文である。
また涅槃経では「大涅槃微妙の経典」が流布する「地」は金剛のように堅固で安全であると説いている。これもまた、正法護持の国が、災難に侵されることがないことを示した文である。
最後に仁王経は本抄引用の部分の後半が立正安国論でも引用されている。すなわち、王が悪比丘に乗ぜられて、その言葉を用いるゆえに破仏破国の因縁をつくってしまうことを述べたくだりで、立正安国論では悪比丘が仏法を乱す元凶になっていることを示される文証として用いられている。それに対して本抄のここでの引用の主眼は前半部分にある。すなわち「是の経は常に千の光明を放ちて千里の内をして七難起らざしむ」と、「是の経」すなわち正法を受持すれば七難を防ぐことを示されるにある。
しかし、大聖人がこの仁王経の文の後半部分を挙げられているのは、国土がこのように乱れるのは仏教が乱れているからであり、それは「悪比丘」が名利のために「自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く」ことに根本の因があり、国王がそれを見極め対処していないことが災難を起こす元凶であることを暗示されるためにあるといえよう。
大聖人は以上の五経七文を挙げられた後「今之を勘うるに」と言われて、もう一度、後半の法華経、仁王経、涅槃経の文を略した形で挙げられている。最初の三経四文で災難が起きる原因が正法を捨てることにあることを示され、後半では正法を受持すれば災難は起こらないという文を明示されて、日本の人々に、今、世に行われている仏教への正邪について眼を開くよう促されているのである。すなわち、国中に仏教は熱心に信仰されているのであるから、本来なら、この日本国は「衰患」がなく「金剛」の地であり、「七難」が起こることはないはずであるのに、現実はそれらの難が競い起こっている。その原因は、今、日本の人々が信仰しているのが正法ではないことにある。そのことに気づかせようとしているのである。
0080:05~0080:15 第三章 仏言が虚妄との疑問を出すtop
| 05 疑つて云く 今此の国土に種種の災難起ることを見聞するに所謂建長八年八月自り正元二年二月に至るまで大地 06 震非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として 今に絶えず大体国土の人数尽く可きに似たり、之に依つて 07 種種の祈請を致す人之多しと雖も其の験無きか、 正直捨方便・多宝の証明・諸仏出舌の法華経の文の令百由旬内・ 08 雙林最後の遺言の涅槃経の其地金剛の文、仁王経の千里の内に七難不起の文皆虚妄に似たり如何。 -----― 疑っていう。今、この国土に種々の災難が起こっているのを見聞してみると、いわゆる建長八年八月から正元二年二月に至るまで、大地震・時節はずれの大風・大飢饉・伝染病の大流行など種々の災難が連続して今も絶えることがない。ほとんど国中の人が死に絶えるかのようである。これによって種々の祈りを行う人は多いけれども、その効験は無いのであろうか。 釈尊が「正直に方便を捨てて」と説かれ、多宝如来が真実であると証明だれ、諸仏が舌を出して嘘でないことを示された法華経の「百由旬の内において、もろもろの衰え患うことの無いようにさせる」の文、沙羅双樹林での最後の遺言である涅槃経の「その地はすなわち金剛であり、この中の人々はまた金剛のようであることを知るべきである」の文、仁王経の「千里の内において七難が起こらないようにさせる」の文はみな偽りとなったように見えるがどうか。 -----― 09 答えて云く今愚案を以て之を勘うるに 上に挙ぐる所の諸大乗経・国土に在り而も祈請と成らずして災難起るこ 10 とは少し其の故有るか、 所謂金光明経に云く其の国土に於て此の経有りと雖も 未だ嘗つて流布せず捨離の心を生 11 じて聴聞せんことを楽わず 我等四王皆悉く捨て去り其の国当に種種の災禍有るべし、 大集経に云く「若し国王有 12 つて我が法の滅せんを見て 捨てて擁護せざれば其の国内三種の不祥を出さん」と、 仁王経に云く「仏戒に依らざ 13 る是を破仏破国の因縁と為す若し一切の聖人去る時は七難必ず起らん」已上、 此等の文を以て之を勘うるに法華経 14 等の諸大乗経・国中に在りと雖も一切の四衆 捨離の心を生じて聴聞し供養するの志を起さざる故に 国中の守護の 15 善神・一切の聖人此の国を捨て去り守護の善神聖人等無きが故に出来する所の災難なり。 -----― 答えていう。今、愚かな自分の頭でこれを考えてみると、先に挙げた諸大乗経は国土にありながらそれでもなお祈りが叶わずに災難が起こるということは、少しその理由があるのであろうか。 いわゆる金光明経には「その国土にこの経があっても未だかって流布せず、この経を捨て去る心を起こして聞くことを願わず…我ら四天王…皆ことごとく捨て去り…その国に必ず種々の災禍があるであろう」と説かれ、大集経には「もし国王がいて、我が正法が滅びようとしているを見て捨てて擁護しなかったならば、…その国の中に三種の災難が起こってくるであろう」と説かれ、仁王経には「仏の戒法に依ろうとしない。これを仏法破壊・国破壊の因縁とするものである」「もし一切の聖人が去ってしまう時は七つの難が必ず起こるであろう」と説かれている。 これらの文によってこれを考えてみると、法華経等の諸大乗経が国中にあるといっても、一切の四衆は捨て去る心を生じて聴聞し供養する志を起こさないために、国中の守護の善神や一切の四衆は捨て去る心を生じて聴聞し供養する志を起こさないために、国中の守護の善神や一切の聖人はこの国を捨て去り、守護の善神や聖人等がいないために起こってきている災難なのである。 |
正直捨方便
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
多宝の証明
「多宝」とは多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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雙林
拘尸那掲羅国跋提河のほとりの沙羅双樹の林のこと。釈尊は沙羅双樹に四方を囲まれたこの林において80歳の2月15日に入滅した。その時、沙羅双樹がことごとく白くなり、沙羅林は白一色につつまれ、あたかも白鶴のように美しかったという。このため、沙羅林を鶴林ともいう。
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諸大乗経
もろもろの大乗を説く経典のこと。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
―――
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――――――――
さて、ここから問答形式で論を進められる。まず当時の日本には災難が続いており、さまざまな祈禱をしているが一向にききめがなく、災難をとどめるとの法華経の文が虚妄に近いものとなっている、との問いを設けておられる。
建長八年八月自り正元二年二月に至るまで大地震非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず大体国土の人数尽く可きに似たり
ここで「建長八年八月自り正元二年二月に至る」まで災難が連続していると言われているが、現在残されている史料によっても、当時、災難が頻発していたことが分かる。おもなものを挙げると以下のごとくである。
建長8年(1256)8月、鎌倉を中心に大雨・洪水・山崩れがあり、死者が多く出た。災害に対して多大な食糧が流出したという。そのほか、飢饉のため、各地に盗賊が横行したことが記録されている。伝染病の赤痢が流行している。
正嘉元年(1257)2月、京都の大地震、大雨・洪水が起きている。鎌倉では6月・8月・10月・11月に大地震があった。特に8月の大地震のひどさはすでに記した通りである。疫病・飢饉の記録もあり、餓死者は数え切れないほどであったと伝えられている。
正嘉2年(1258)1月、鎌倉で大火、寿福寺・鶴岡八幡宮が延焼している。2月大風・大雨。4月地震。8月大風・大雨。10月大雨・洪水。12月地震。京都では8月大風雨、安嘉門が倒壊、穀類が多量に損出したとある。
正嘉3年・正元元年(1259)3月に改元。疫病の大流行、全国的に疫病を払うための祈禱が頻繁に行われるがしるしなし。京都では死者の肉を食べる尼が出たとある。
このほか、火事や旱魃も多く記されている。建築技術・灌漑技術・医療技術が現代とは格段に異なる当時では、少しの災害でも多くの死者が出たのであり“大半が死んだ”との表現も、あながち誇張とはいえないのである。
しかも、これらの史料は、どうしても鎌倉や京都に偏りがちであり、地方においてもかなりの災害が起こっていたことは十分考えられる。建長8年(1256)から文応元年(1260)の4年間に、康本・正嘉・正元・文応と、実に4回の改元が行われている。改元は打ち続く災害を払うために行われることが多く、この改元の多さは、いかに災害が頻発していたかを示している。
これらの災難を除くために、朝廷でも幕府でも、また各寺社でも、種々の祈禱が行われた。史料によれば、この時期、ほとんど毎日といってよいほど、祈禱を行っていたことが分かる。
このことを、立正安国論では、冒頭に詳しく述べられている。
「或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」(0017-02)
正直捨方便・多宝の証明・諸仏出舌の法華経の文の令百由旬内・雙林最後の遺言の涅槃経の其地金剛の文、仁王経の千里の内に七難不起の文皆虚妄に似たり
このように、祈禱にききめがないということは、経文にとくところが虚妄ではないかと、先に挙げた法華経・涅槃経・仁王経を引かれている。
なお、法華経の「令百由旬内」の文を引用されるにあたって「正直捨方便・多宝の証明・諸仏出舌の法華経の文」と、この三仏が「真実なり」と証明された法華経の文であると断っておられる。
これは、法華経が真実の正法であることを示唆されているとともに、このように三仏が証明した法華経の文に明言されているにもかかわらず、そのとおりになっていなのはなぜかという疑問を設けられることによって、仏教そのものへの信頼感の揺らぎの深さを示しておられるのである。
諸大乗経・国土に在り而も祈請と成らずして災難起ることは少し其の故有るか
この疑問に対して大聖人は、祈りがかなわないのには、それなりの理由があるはずだとして、先に引いた金光明経・大集経・仁王経を再度、要点をとって挙げておられる。
大聖人が挙げられている個所で共通しているのは「捨離の心を生じて聴聞せんことを楽わず」、「我が法の滅せんを見て捨てて擁護せざれば」、「仏戒に依らざる是を破仏破国の因縁と為す」である。すなわち、仏教を大事にしているようでありながら、実は仏法を「捨てて」いるのであると仰せられているのである。そのゆえに「我等四王皆悉く捨て去り」、「一切の聖人去る」と、諸天善神がこの国を捨てて守護しなくなっていると仰せられているのである。
この経文を引いて、「此等の文を以て之を勘うるに法華経等の諸大乗経・国中に在りと雖も一切の四衆捨離の心を生じて聴聞し供養するの志を起さざる故に国中の守護の善神・一切の聖人此の国を捨て去り守護の善神聖人等無きが故に出来するの災難なり」と結論されている。すなわち「法華経等の諸大乗経」こそ、引用の諸経のいう「是の経」すなわち“正法”であり、この正法に背いているうえに善神・聖人が去って災難が起きているのである、と。
これはいわゆる「神天上の法門」であり、立正安国論でも示されているところである。
この法理は、
①人々が正法に背く
②諸天善神が国を去る
③そこに悪鬼が入り込む
④災難が起こる
という順序で災難が起こることを示したものである。すなわち、災難の原因は一にかかって一国が正法に背いていることにある、と大聖人は仰せられているのである。
0080:16~0081:05 第四章 悪比丘が破国の因と明かすtop
| 16 問うて曰く国中の諸人・諸大乗経に於て捨離の心を生じて供養する志を生ぜざる事は何の故より之起るや。 17 答えて曰く仁王経に曰く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因 18 縁を説かん其の王別えずして此の語を信聴し 横に法制を作りて仏戒に依らず」と、 法華経に云く「悪世の中の比 0081 01 丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるをこれ得たりと謂い 我慢の心充満せん是の人悪心を懐き国王・大臣・婆羅門・ 02 居士及び余の諸の比丘に向つて誹謗して 我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん 悪鬼其の身に 03 入る」等と云云。 -----― 問うていう。国中の人々が諸大乗経に対して捨て去る心を生じて供養する志を生じないということは、どのようなことから起きるのか。 答えていう。仁王経には「諸の悪比丘が多分に世間の名誉や利益を求めて国王・太子・王子の前で自ら仏法を破壊し国を破壊する因縁となる教えをとくであろう。その王は弁えずにこの言葉を信じ聴き、道にはずれて法制を作り、仏の戒法に依ろうとしない」と説き、法華経勧持品第13には「悪世の中の比丘は邪智で心が諂い曲がっていて、未だ悟りを得ていないのに得たと思い、おごりの心に満ちている。…この人は邪悪の心を懐き、…国王・大臣・婆羅門・居士およびその他の諸の比丘に向かって、法華経を弘める私を誹謗して私の悪行を言い立てて『これは邪見の人であり、外道の説を説いてる』と言うであろう…悪鬼がその身に入って」等と説かれている。 -----― 04 此等の文を以て之を思うに 諸の悪比丘国中に充満して破国・破仏法の因縁を説く国王並に国中の四衆弁えずし 05 て信聴を加うるが故に諸大乗経に於て捨離の心を生ずるなり。 -----― これらの文によってこれを思案してみると、もろもろの悪比丘が国中に充満して国を破り仏法を破る因縁となる教えを説くとき、国王ならびに国中の四衆が弁えずに信じ聴くために、諸大乗経に対して捨て去る心を生ずるのである。 |
邪智
よこしまな知恵にたけていること。
―――
邪智
よこしまな知恵にたけていること。
―――
我慢
自分を恃みたかぶって、他をあなどること。我意を張り他に従わぬこと。
―――
婆羅門
インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
―――
居士
梵語で(grha-pati)といい、家長・長者と訳す。出家しないで仏門に帰依した男子。
―――
誹謗
悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。
―――
邪見
仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
―――
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
悪鬼
悪鬼とは奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――――――――
災難の原因は一国が正法に背いているところにある、という前章の指摘に対して、ではいったいそういう事態を引き起こす原因は何か、という疑問を設けておられる。
それに対して大聖人は、まず仁王経、法華経の経文を引かれている。これらの経典で述べているところは「諸の悪比丘」、「悪世の中の比丘」が破仏法・破国の因縁となるべき邪義を説き、人々がその邪説を鵜呑みにすることにあるということである。
特に法華経の文は勧持品第13の、三類の強敵のうち第三・僭聖増上慢について説いた個所で、世間から尊敬されている高僧が、正法の行者を誹謗する元凶となっていることをよげんしている。これは、日本浄土宗の開祖である法然に当てはめるとともに、当時、北条時頼に招かれて来ていた建長寺の蘭渓道隆らをも視野に置いての引用と思われる。
この二文に共通している記述として“悪比丘が「国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法・破国の因縁」を説き、「国王・大臣・婆羅門・居士及び諸の比丘に向つて」正法の行者をひぼうする”とあって、ともに国王等に取り入って誤った考えを吹き込むと述べていることが挙げられる。この経典を引かれて大聖人は、悪比丘が国中に充満して国王等に取り入って破仏法・破国の説を説き、しかも国王や一切衆生は仏法に対する認識がなく、彼らの言葉を信じ込んだために、仏法を捨てる仕儀となってしまったと仰せられている。
当時、鎌倉幕府は盛んに寺院を建立し、京都や奈良から高僧を招いて優遇していた。その頂点にあったのが道隆である。これより少し遅れて律宗の忍性良観もこれに加わる。彼らは幕府の要人に取り入り、法華経をないがしろにする謗法の教えを説き、まさにこの経文のとおりの姿をあらわしていたのである。
正元2年(1260)本抄御執筆の時点では、まだ大聖人に対いて大難というほどの難は起こっていなかったが、既に建長5年(1253)4月28日の立宗宣言において、安房・東条郷の地頭・東条景信は激怒して大聖人を捕えようとしたことがあり、東条景信が北条重時などに大聖人の悪口を吹き込んでいたことは十分考えられる。大聖人の迫害が本格化するのは立正安国論による諌暁以後であり、安国論上呈の一か月後の文応元年(1260)8月27日には暴徒が大聖人の草案を襲った松葉ケ谷の法難が起こっている。ただし、鎌倉での弘教開始から、さまざまな迫害・誹謗があったことは、十分考えられることである。
しかも、聖人御難事において、「余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-04)との仰せのとおり、立宗の当初から大難の連続であられたのである。
なお、大聖人がこの問答において「諸大乗経に於て捨離の心を生じ」と」仰せられているのは、前問における「法華経等の諸大乗経・国中に在りと雖も一切の四衆捨離の心を生じて」と承けて言われており、別しては人々が法華経に対して捨離の心を生じていることに災難興起の根源があるという点に本意があるのはいうまでもない。
0081:06~0081:10 第五章 悪比丘は仏弟子の中から出来top
| 06 問うて曰く 諸の悪比丘等国中に充満して破国・破仏戒等の因縁を説くことは仏弟子の中に出来す可きか外道の 07 中に出来す可きか。 -----― 問うていう。もろもろの悪比丘等が国中に充満して国を破り仏の戒法を破る等の因縁となる教えを説くということであるが、それは、仏弟子の中に出てくるのであろうか。外道の中に出てくるのであろうか。 -----― 08 答えて曰く 仁王経に云く「三宝を護る者にして転た更に三宝を滅し破らんこと師子の身中の虫の自ら師子を食 09 うが如し外道には非ず」文。 10 此の文の如くんば 仏弟子の中に於て破国破仏法の者出来す可きか、 -----― 答えていう。仁王経には「仏・法・僧の三宝を護る者が、転じて更に三宝を滅ぼし破るのであり、これは師子の身中の虫が自ら師子を食うようなものである。三宝を滅ぼすのは外道ではない」と説かれている。 この文のとおりであれば、仏弟子の中に国を破り仏法を破る者が出てくるであろう。 |
三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
師子身中の虫
師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
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もろもろの悪比丘が国中に充満して仏の戒法を破るということであるが、それは、仏弟子の中からそういう者が出てくるのか、または外道の中から出てくるのかという問いを、次に設けられている。
比丘は日本や中国では普通、出家剃髪して仏法を修行する者をさすが、インドにおいては本来、比丘とは「食を乞う者」の意であり、バラモン教で使っていた言葉である。バラモン教で人生を四期に分けたなかの第四期において遍歴修行する者を比丘といった。後に仏教でこれを取り入れ、出家剃髪して修行する者をさすようになり、これが一般化して僧侶をさすようになったのである。
ここでは仏教を破壊する者は仏弟子の中から出てくるなか、仏教外の外道の中からでてくるのかという問題を取り上げられているのである。
これに対して大聖人は仁王経の文を引かれている。この仁王経の文は、仏の滅後において三宝を護持する立場にありながら、逆に三宝を破る者が出ると説き、それはあたかも師子の身の中にいる虫がその肉を食うようなものであると述べ、「外道には非ず」と明言している。
師子は百獣の王と称され、いかなる敵も破られることはないが、身中に巣くう虫には破られてしまう。それと同じく、仏法もまた、外道によって破られることはないが、内側の仏弟子の中から出てくる敵こそ最も恐れなければならないことを、釈尊は諸経典で繰り返し強調している。仁王経の文はその一つであり、大聖人はこれを引用して、仏教の看板を掲げながら仏の正法に背く邪義を説く者こそ仏教破壊の元凶であることをしめされるのである。
この問答を設けておられる所以は、国を破り仏法の教えを破るのは、はっきり敵と分かる姿をしているのではなく、同じ仏の法を説き、同じ仏法を修行している姿をしている者であり、その本質を見破るのは極めて難しいことを示されているところにある。
これは、次の、相似の法をもって破るのが悪法をもって破るのかという問答とも関連しており、説く人が仏弟子の姿をしており、しかも説く内容も正法に相似しているので、二重に見分けがたいのである。例えばそれを説く者が、日本では神道に従事する者や、あるいは仏法に無智な一般大衆であれば、その説いていることが仏説だなどとだまされることはない。しかし、出家剃髪した僧侶が説いている場合は、仏教を学んでいる人が言っていることだからと思って、邪義であっても信じて聞きがちになるのである。
この問答の元意は、仏教を破壊する者は仏弟子の外形をしていて見分けにくいということである。したがって、更にいえば、同じ仏弟子であっても、一見して僧に値しないとわかる破壊の僧よりも、一般大衆から尊敬されるような僧、高僧である場合のほうが、仏教を破壊する働きは強くなるのである。仁王経の文に「三宝を護る者にして」とあるところから、破壊の僧でないことは明確である。そのような僧のなかから、法華経の正しい実践者のことを「仏教のことなら私のほうがよく知っている。彼の説いていることは外道の教えである」と言って誹謗する者が出てくる。そのように分け知り顔に説く者こそ、仏法を破壊するものであると、大聖人はあらかじめ注意を喚起されているのである。
0081:10~0081:13 第六章 仏法をもって仏法を破るtop
| 10 問うて曰く諸の悪比丘正法を壊るに相似 11 の法を以て之を破らんか 当に亦悪法を以て之を破るべしとせんか、 答えて曰く 小乗を以て権大乗を破し権大乗 12 を以て 実大乗を破し師弟共に謗法破国の因縁を知らざるが故に 破仏戒・破国の因縁を成して 三悪道に堕するな 13 り。 -----― 問うていう。諸の悪比丘は、正法を破るのに似たような法をもって破るのか、また悪法をもって破ろうとするのか。 答えていう。小乗教で権大乗教を破し、権大乗教で実大乗教を破すのであり、しかも師弟ともにこれが謗法であり国を破る因縁となることを知らないために、仏の戒法を破り国を破る因縁を成して地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるのである。 |
相似の法
①相似ている法のこと。②似ているけれども本当のものとは違う法のこと。
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小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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実大乗
権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
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謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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前章に続いて、ここでは“正法を破るのはいかなる法をもってするか”との問いを設けられている。つまり正法を破るのは「相似の法」をもってするか「悪法」をもってやぶるのかという問いである。「相似の法」とは「似ている法」ということであるが、似ているということはまた別のものということである。すなわちこの問いは、正法と一見したところ似ているが正法ではない法で正法を破るのか、悪法で破るのかという問いである。したがって、この「悪法」には“一見して誤った法であることが分かる法”という意味合いがある。
この問いに対して大聖人は「小乗を以て権大乗を破し権大乗を以て実大乗を破し」と仰せられている。これは「相似の法」をもって正法を破ることである。言葉を換えて言えば、仏法をもって仏法を破るということであり、仏法の中でも、それに近いか劣っている法をもって勝れた法を破ることである。
大聖人当時で「小乗を以て権大乗を破し」に当たるのは、この正元2年(1260)の時点ではまだそれほど名を成していなかったが小乗律宗の良観、「権大乗を以て実大乗を破し」には他の諸宗、念仏・真言・禅の各宗が当たる。
これに対し「悪法を以て之を破る」の「悪法」とは、世法からも仏法からも明白に背いていると分かるもので、仏法に無智な者が悪口したり暴力をもって迫害することがこれに当たる。本抄のこのあとでは「十悪五逆を挙げておられる。
憎しみ、怒りにとらわれて害を加えることは、世法上からも仏法上からも一見して分かる「悪」だから、それを見て「悪」に同調する人は比較的少ない。
法華取要抄に「正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり」(0337-15)と、正像と末法を対照して仰せられている。
同じように仏法を滅失しようとしても、外道は仏法の内容を破ることはできず、ただ寺塔を焼くなどの外形にとどまる。
しかるに仏法の中から出てきた仏法滅失の働きは仏法の正しい精神を人々から失わせる。本抄の御文でいえば「悪法」をもってする滅失は外面にとどまるのに対し「相似の法」をもってするのは心の内面を破壊する。ゆえに後者のほうが罪は重いし、仏教の破壊はより決定的である。ここに「末法」たるゆえんがあるともいえるのである。
大聖人は続いて「師弟共に謗法破国の因縁を知らざるが故に破仏戒・破国の因縁を成して三悪道に堕するなり」と仰せである。ここで「師弟共に」と言われているのは、そうした邪義を説いているほうの「師」も、それを聞く「弟子」も、これが実は「破法破国の因縁」であることを知らねばならないということである。
法華経勧持品第13に「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、末だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん」とあるように、仏法の真の悟りを得ていないのに自分は得たと思い、自ら驕り他を軽んじる我慢の心が強いのが悪世末法の比丘の姿であると述べている。このような師を信ずるゆえに、弟子もまた地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちると仰せられている。
なお、この問答の先の“仏弟子が破るのか外道が破るのか”という問答は立正安国論では設けられていないが、「仏教は日本において盛んであるのに仏教をないがしろにしているとは納得できない」との客の反論に仁王・涅槃・法華の経文を挙げて「悪比丘」が仏法を破壊することを示された第3問答でこの趣旨は尽くされていると考えることができよう。
0081:14~0082:04 第七章 仏弟子が謗法を破る証拠を示すtop
| 14 問うて曰く其の証拠如何、 答えて曰く法華経に云く仏の方便・随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数 15 擯出せられんと。 -----― 問うていう、その証拠はどうか。 答えていう。法華経勧持品第十三には「濁世の悪比丘は、自分の持つ方が、仏の方便として衆生の機根に随って説かれた法であることを知らずに、法華経を弘める者に対して悪口して顔をしかめて非難し、たびたび所を追うであろう」と。 -----― 16 涅槃経に云く我涅槃の後 当に百千無量の衆生有つて誹謗して是の大涅槃を信ぜざるべし三乗の人も亦復是くの 17 如く無上の大涅槃経を憎悪せん已上。 -----― 涅槃経には「私が死んだ後、必ず数多くの量り知れないほどの衆生が、この大涅槃経を誹謗して信じないであろう。…声聞・縁覚・菩薩の三乗の人もまた同じように最高の教えである大涅槃経を憎むであろう」と説かれている。 -----― 18 勝意比丘の喜根菩薩を謗じて 三悪道に堕ちし尼思仏等の不軽菩薩を打つて阿鼻の炎を招くも皆大小権実を弁え 0082 01 ざるより之起れり十悪五逆は愚者皆罪為ることを知る故に輙く破国・破仏法の因縁を成ぜず、故に仁王経に云く 02 「其の王別えずして此の語を信聴す」と、 涅槃経に云く「若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて 是くの如き重 03 事を犯すと知り而も心に初より怖畏・懺悔無くして肯て発露せず」已上。 04 此くの如き等の文は謗法の者は自他共に子細を知らざる故に重罪を成して国を破し仏法を破するなり。 -----― 勝意比丘が喜根菩薩を謗って三悪道に堕ち、尼思仏などが不軽菩薩を打って阿鼻地獄の炎に焼かれて大苦悩を受けたのも、みな大乗と小乗・権教と実教を弁えないことから起こったのである。十悪業や五逆罪は愚者もみな罪であることを知っているために、容易に国を破り仏法を破る因縁を成すことはしない。 ゆえに仁王経には「その王は弁まえずにこの言葉を信じ聴き」と説かれ、涅槃経には「もし四重禁戒を犯し、五逆罪を作り、自らはっきりとこのような重罪を犯したことを知っていて、しかも心に初めから怖れや懺悔が無く、あえて起こし表そうともしない」と説かれている。 このような文によれば、謗法の者は自他ともに子細を知らないがために、重罪を犯して国を破り、仏法を破るのである。 |
数数擯出せられん
数数とは、一度ではないこと。擯出とはしりぞけ、のけもの、居所を追い出すこと。伊豆・佐渡流罪がそれにあたる。伊豆流罪 弘長元年(1261)5月12日~同3年(1263年)2月22日。佐渡流罪 文永8年(1271)10月10日~同11年(1273)3月8日。勧持品には、「数数見擯出遠離於塔寺」とあるが、大聖には何故諸御書に、「数数見擯出」のみを強調され「出遠離於塔寺」は省略されているのか。推測の域を出ないが、大聖人の一生において「塔寺」なるものに安住されていない(大聖人の居所は鎌倉・名越領の松葉ケ谷の草庵と甲斐・南部郷の波木井の草庵で搭寺といえるものではない)ためではなかろうか。
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百千無量
はかり知れないほど数が多いこと。無数を強調する言い方。
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三乗
十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。
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勝意比丘
諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
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喜根菩薩
過去、師子吼鼓音王仏の滅後六万歳の世にあって諸法実相を説いて衆生を教化した比丘のこと。東方十万億の仏土をすぎたところの宝在厳という国にいる勝日光明威徳王如来の過去世の姿とされる。諸法無行経によれば、喜根比丘の説く諸法実相は邪見であるとして、勝意比丘から誹謗されたが、もろもろの偈を説いて多くの人々を解脱させたという。
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尼思仏
法華経の会座にいた一人の在家の男性信者の名。
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不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
阿鼻
阿鼻地獄のこと。阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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大小
大乗教と小乗教のこと。「乗」とはのせる、の義で小乗教は俱舎宗・成美宗・律宗など。阿含の四経をよりどころとして、小乗の戒律を立てる教えで、少ない範囲の人を、わずかな期間救おうというものである。大乗教とは華厳・方等・般若・法華をいい、小乗教より教えが高慢であり、多くの民衆を長い期間にわたって救おうというものである。大乗と小乗は相対的なものであり、文底下種の南無妙法蓮華経に対すれば諸教はみな小乗となる。
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権実
権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
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十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
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五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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四重
四衆のうち、比丘の極重罪のことで、十悪業のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語の四つをいう。また四重禁戒といって、一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不邪淫戒、四に不妄語戒で、これを犯せば教団を放逐される。出家としての最重罪である。
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懺悔
過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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発露
犯した悪事を告発すること。心の中に秘めていた犯した罪などを申しあらわすことをいう。
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ここでは、仏法の中でも相似の法をもって仏法を破るという大聖人の仰せに対して、その証拠を求める問いを設けられている。それに対して、まず法華経勧持品第13の文。涅槃経如来性品の文を挙げられている。
最初の文は20行の偈に三類の強敵を示す中の、僭聖増上慢を明かす部分である。そこでは大要、次のような姿が描かれている。
人里離れた静かな所にいて、自らは真の道を行ずると思って人々を軽蔑している者がいる。名聞・利益に執着して法を説いては人々から尊敬されるが、悪心をいつも抱いており、しかも自分の立場を利用して、国王・大臣等に向かって八十万億那由佗の菩薩を誹謗しており「彼らは利益を貪って外道の義を説いている。自分で経典を作って世間を惑わしている。名誉を求めて法を説いている」と言う。悪世の中には多くの恐るべきことがあり、悪鬼が彼らの身に入って我々を罵詈するだろうが、我々はこの経を説くために忍辱の鎧を着てこれらの難を忍ぶであろう。我々は身命を惜しまず無上道を惜しんで仏から託されたことを護持していく。悪比丘は、仏の方便・随宣の所説を知らないで、我々を悪口し、そのため我々はしばしば所を追われるであろうが、仏の命令を思ってこれを耐え忍んでいく。仏よ、どうか心配されないように。
このなかにある「仏の方便・随宣所説の法を知らずして」の部分を引用されている。方便とは、仏が衆生を教化するために用いる仮の教えをいい、随宣とは「宣しきに随う」意で、「随宣所説の法」とは衆生の機根に合わせて説いた法ということである。すなわち、仏が衆生を導くための方便として、彼らの機根に合わせて仮に説いた法を「方便・随宣所説の法」という。彼ら僭聖増上慢は、自ら受持している法が、この方便・随宣所説の法であることを知らずに、正法を受持している行者を悪口し、顰蹙すると説いているのである。この法華経の文は、彼らが受持している法が「仏の方便・随宣所説の法」であり「相似の法である。「小乗」「権大乗」であることを示している。しかも、この文で、彼らがそのことを「知らず」に正法の行者を誹謗していると述べていることは「師弟共に謗法破国の因縁を知らざるが故に」と仰せられていることと符合しているのである。
次に涅槃経の文を挙げられている。この文は、仏の涅槃の後、無量の衆生がこの涅槃経を誹謗するであろうと予言している個所である。この中に「三乗の人も亦復是くの如く無上の大涅槃を増悪せん」とあり、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という仏の教えを受持する人が誹謗すると説いているゆえに、文証となるのである。 この二文の後、勝意比丘と尼思仏の例を挙げられている。勝意比丘は師子吼鼓音王仏の滅後六万歳の時代に出た比丘である。禁戒を固くたもち、頭陀を行っていたが、同時代に出た機根菩薩はこうした禁欲主義にしばられることなく、諸法実相のみを説いた。これを見た勝意比丘は、機根菩薩は間違った教えをもって人々を化導していると非難し、機根菩薩の弟子と論争したが敗れ、ますます誹謗を重ねた。機根菩薩は菩薩道の勝れていることを説き、勝意比丘はそれを妨げる罪を犯していると指摘した。勝意比丘はその後、大地獄に堕ちたと説かれている。
尼思仏は法華経の会座に加わっていた優婆塞の名で、法華経常不軽菩品第20にその名が出ている。常不軽品では、不軽菩薩が一切衆生に仏性ありという24文字の法華経を衆生に説いたが、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷らは軽蔑して迫害した。不軽菩薩はこの迫害を受けることにより罪障を消滅して六根清浄を得たが、それを見て彼らは信伏随従したものの誹謗の罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちたという。不軽品ではこの故事を引いた後、「今此の会中の跋陀婆羅等の五百の菩薩、師子月等の500の比丘尼、思仏等の500の優婆塞の、皆阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せざる者是れなり」と、法華経の会座に参列している人々の過去世が不軽菩薩を迫害して逆縁を結んだ人々であることを述べている。この中の「思仏」とあるのが尼思仏である。
これらは「皆大小権実を弁えざるより之起れり」の例であると仰せである。勝意比丘は大小をわきまえなかった例、尼思仏は権実をわきまえなかった例としてひかれていると思われる。すなわち、戒律を固く受持していた勝意比丘は小乗を代表している。それらを否定して、もっぱら諸法実相を説き、菩薩道を行じた機根菩薩は大乗をあらわしている。したがって、勝意比丘は小乗をもって大乗を誹謗したことにあたるのである。
これらはともに、仏法をもって仏法を誹謗するゆえに、人々にはその判別が困難である。それに対し、十悪や五逆の行為は、たとえ愚かな者でもそれが罪であることを知っているため、それが原因で国を破り、仏法を破る因縁をなすことはないと仰せられている。十悪には殺生などの身の悪、悪口などの口の悪、瞋恚などの意の悪がある。また五逆罪とは阿羅漢を殺す、和合僧を破る、仏身から血を出すなどの逆罪である。これらをもって仏法を破ろうとしても、これらが罪であることを人々は知っているため、それに同調して破国・破仏法の原因となることはない。しかし、仏弟子が仏法の教えをもって正法を誹謗する時は、その誤りを容易に知ることができないため、大勢の人が紛動され同調して破国・破仏法の原因となるのである、と仰せられている。
この故事を引かれた後、大聖人は仁王経嘱累品の文と涅槃経一切大衆所問品の文を引かれている。このうち、仁王経の文は「悪比丘」が仏法をもって仏法を誹謗している場合は、「王」はそれが誤りであることを分別するのは困難であるという文証であり、涅槃経の文は、その反対に、四重禁や五逆といった悪行は、それが悪であることを分別しやすいことを示した文証である。
仁王経の文は既に、本抄の初めの文証を示す段、および第二の問答で引用されているもので、悪比丘が国王の前で破仏法・破国の因縁を説いても、王はそれを正しくわきまえることができないで信じてしまうことを説いている。次の涅槃経の文は、仏が一闡堤について説いている個所である。すなわち、十重禁戒、五逆罪を犯して、悪いこととしっていながら懺悔がない者を一闡堤というと説いている。ここで大切なのは「是くの如き重事を犯すと知り」とある個所である。すなわち、これらの罪は悪いことであると、だれでもが分かるものであることをしめしているからである。
これらの文を引用された後、大聖人は謗法は「自他共に子細を知らざる故に重罪を成」すものであると指摘され、謗法が日本中に瀰漫し、それが災いの根源となっていること、そして、この子細を知っているのは末法においては大聖人のみであることを言わんとされているのである。
0082:05~0083:13 第八章 選択集の一凶たる所以を明かすtop
| 05 問うて曰く 若爾らば此の国土に於て権教を以て人の意を取り実教を失う者之有るか如何、答えて曰く爾なり、 06 問うて曰く 其の証拠如何、 答えて曰く法然上人所造等の選択集是れなり 今其の文を出して上の経文に合せ其の 07 失を露顕せしめん 若し対治を加えば国土を安穏ならしむ可きか、 選択集に云く 「道綽禅師・聖道浄土の二門を 08 立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文・初に聖道門とは之に就て二有り 一には大乗二には小乗なり 大乗の中 09 に就いて顕密・権実等の不同有りと雖も 今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す 故に歴劫迂回の行に当る之に準 10 じて之を思うに密大及以び実大を存すべし、然れば則ち今真言.仏心・天台・華厳・三論・法相.地論・摂論此等の八 11 家の意正しく此れに在るなり、 曇鸞法師の往生論の注に云く 「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く 菩 12 薩・阿毘跋致を求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、 此の中に難行道とは即ち 是れ聖道門なり 13 易行道とは即ち是れ浄土門なり、 浄土宗の学者先ず須く此の旨を知るべし 設い先ず聖道門を学する人と雖も 若 14 し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てて 浄土に帰すべし」文、 又云く 「善導和尚正雑二行を立て雑 15 行を捨てて正行に帰するの文、 第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外・大小乗・顕密の諸経 16 に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、 第三に礼拝雑行とは 上の弥陀を礼拝するを除いて已外一切諸余の仏 17 菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く」 -----― 問うて言う。もしそうであるならば、この国に権教をもって人の心を捉え、実教を滅ぼす者がいるのか。 答えて言う。そのとおりである。 問うて言う。その証拠はどうか。 答えて言う。法然上人が著した選択集が証拠である。今、その文を抜き出して先の経文に照らし合わせ、その失をあらわにしよう。もしこれに対治を加えるならば、国土を安穏にすることができるであろう。 選択集には次のようにある。 「道綽禅師が聖道門・浄土門の二門を立てて、聖道門を捨てて正しく浄土に帰すことを説いた文、…初めに聖道門とは、これに二つがあって、一つには大乗教で二つには小乗教である。大乗教の中に顕教・密教・権教・実教等の違いがあるけれども、今この安楽集の意はただ顕大乗教および権大乗教にあるゆえに、歴劫迂回の修行の教えにあたる。これに準じて考えてみると、密大乗教および実大乗教も含めるべきである。したがって、すなわち今の真言・禅・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論等の八宗の説くところは、正しく聖道門なのである。…曇鸞法師の往生論の注には『謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を読み考えてみると、菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道があり、一には難行道で、二には易行道である』とある。…この中に難行道とはすなわち聖道門であり、易行道とはすなわち浄土門である。…浄土宗を修学する者はまず当然このことを知らなければならない。たとえ聖道門を修学する人であっても、もし浄土門に対して就学の志がある者は、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきである」と。 また、次のようにある。 「善導和尚が正・雑二行を立て、雑行を捨てて正行に帰すべきであるとのべた文、…第一に読誦雑行とは、先の観無量寿経等の往生浄土を説いた経を除いて、それ以外の大乗教や小乗教・顕教や密教の諸経を受持し読誦するのを悉く読誦雑行と名づけるのである。…第三に礼拝雑行とは、先の阿弥陀仏を礼拝するのを除いて、それ以外の一切もろもろの仏菩薩等およびもろもろの世天等に対して礼拝う敬うのを悉く礼拝雑行と名づけるのである」 -----― 18 私に云く此の文を見るに 須く雑を捨てて専を修すべし 豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑 0083 01 行を執せんや行者能く之を思量せよと。 -----― 善導の考えは次のようである。この往生礼讃の文を見るのに、当然のこととして雑行を捨てて専ら正行を修するべきである。どうして百人が百人とも極楽へ往生できる専修正行を捨てて、千人のうち一人も成仏できない雑修雑行を執着することがあろうか。仏道を修行する者は、」よくよくこのことを考えるべきである」と。 -----― 02 又云く 貞元入蔵録の中・始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで 顕密の大乗経 総じて六百三十七部二 03 千八百八十三巻なり 皆須く読誦大乗の一句に摂すべし当に知るべし 随他の前には暫く定散の門を開くと雖も随自 04 の後には還つて定散の門を閉づ一たび開きて以後永く閉じざるは 唯是れ念仏の一門なり文、 又最後結句の文に云 05 く「夫れ速に生死を離れんと欲せば 二種の勝法の中に且く聖道門を閣て 選んで浄土門に入れ 浄土門に入らんと 06 欲せば正雑二行の中に且く諸の雑行を抛て選んで正行に帰すべし、」已上選択集の文なり。 -----― また、次のようにある。 「貞元入蔵録の中には大般若経六百巻から始まって法常住経に終わるまで顕教・密教の大乗経は全部で六百三十七部二千八百八十三巻ある。これらみな当然、読誦大乗の一句に摂めるべきである。…まさに知るべきである。随他意の法門のときには暫く定善・散善の諸行の門を開くけれども、随自意の法門を説いたのちには反対に定善・散善の門を閉じるのである。一度開いて永く閉じないのは、ただ念仏の一門のみである」と。 また最後の結びの文には次のようにある。 「それ速やかに生死の苦しみを離れようと欲するならば、二種の勝れた法のうち、しばらく聖道門を閣いて浄土門に入りなさい。浄土門に入ろうと欲するならば正・雑二行のうち、しばらくもろもろの雑行を抛って選んで正行に帰すべきである」以上は選択集の文である。 -----― 07 今之を勘うるに日本国中の上下万人深く法然上人を信じて此の書をモテアソぶ故に無智の道俗此の書の中の捨閉 08 閣抛等の字を見て浄土の三部経.阿弥陀仏より外は諸経・諸仏・菩薩.諸天善神等に於て捨閉閣抛等の思を作し彼の仏 09 経等に於て供養受持等の志を起さず 還つて捨離の心を生ず故に 古の諸大師等の建立せし所の鎮護国家の道場零落 10 せしむと雖も護惜建立の心無し 護惜建立の心無きが故に 亦読誦供養の音絶え守護の善神も法味を嘗めざるが故に 11 国を捨てて去り四依の聖人も来らざるなり、 偏に金光明・仁王等の一切の聖人去る時は七難必ず起らん 我等四王 12 皆悉く捨去せん既に捨離し已れば其の国当に種種の災禍有るべしの文に当れり 豈諸悪比丘多く名利を求め、 悪世 13 の中の比丘は邪智にして心諂曲の人に非ずや。 -----― 今これを考えてみると、日本国中の上下万人は深く法然上人を信じて、この書を身近に置いて重んじている。ゆえに無智の道俗はこの書の中の「捨・閉・閣・抛」等の字を見て、浄土の三部経と阿弥陀仏以外の諸経・諸仏・菩薩.諸天善神等に対して捨てる・閉じる・閣く・抛つ等の思いを抱き、それらの仏や経等に対して供養や受持等の志を起こさず、逆に捨て去る心を生ずるのである。そのために昔のもろもろの大師等が建立した鎮護国家の道場が荒廃していても護惜建立の思いはない。護惜建立の思いがないゆえにまた経を読んで供養する声は絶え、守護の善神も法味を食さないがゆえに国を捨てて去り、人々の拠りどころとなる聖人も帰ってくることがない。 まったく金光明経や仁王経等の「一切の聖人が去るときは、七つの難が必ず起こるであろう」「我ら四天王…皆ことごとく捨て去るであろう。既に捨て去ってしまったときには、その国に必ず種々の災禍があるであろう」という文に当たっている。まさに法然こそ「もろもろの悪比丘が多分に世間の名誉や利益を求め」「悪世の中の比丘は邪智で心が諂い曲がって」と説かれている人ではないか。 |
権教
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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実教
真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
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法然上人
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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選択集
法然の代表的著作で、選択本願念仏集という。当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)選述し、浄土宗の教義を十六章に分けて明かしている。その内容は、念仏以外の一代仏教を捨閉閣抛せよという破仏法の邪義で、当時においてすら並榎の定照から「弾選択」、栂尾の明慧から「墔邪輪」「荘厳記」をもって破折されている。
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道綽禅師
(0562~0645)浄土宗七祖の第四祖。中国唐代の僧で、14歳で出家し、讃禅師に師事して空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門にきえした。貞観2年(0645)84歳で死去した。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として、釈迦一代仏教を誹謗した。
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聖道浄土の二門
聖道門・浄土門の二門のこと。聖道門とはあくまでも、この娑婆世界で悟りを開き、成仏するために説いた教えであり、浄土門とは、この娑婆世界を穢土と嫌い、他方に極楽浄土があるとして、そこへ往生することを目的として修行することを教えた権の教え。道綽が爾前40年についてこの二門を立てたのを、法然は法華経まで我見で含めてけなしている。
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顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
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顕大
顕大乗教のこと。顕に説かれた大乗の経。密大に対する語。真言宗では大乗教を顕教と道教に分け、法華経等を顕教として、密教より劣るとしている。
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権大
権大乗教のこと。権に説かれた大乗の教え。実大に対する語。大乗教に権教と実教があり、法華経以外の諸大乗教を権教とする。
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歴劫迂回の行
長い道程を経ること。速疾頓成・即身成仏に対する語。爾前の諸経では菩薩や二乗は、数えきれないほどの長遠の期間にわたっての修行を経て得道するとされている。初発心から得道まで、二乗の菩薩は三阿僧祇劫、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多俱低劫など長時の修行を要すると説かれる。
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密大
密大乗教のこと。顕大に対する語。真言宗では大乗教を顕教と道教に分け、法華経等を顕教として、密教より劣るとしている。
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実大
実大乗教のこと。大乗教に権教と実教があり、法華経以外の諸大乗教を権教とし、法華経のみを実大乗教と立てる。
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真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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仏心
禅宗の事。涅槃経にある「正法眼蔵、涅槃の妙心・実相無相、微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付嘱す」との経文どおりに伝承して、第二祖阿難、第三祖商那和集と、代々相付して第二十八祖の達磨にいたったという邪義を立てる。戒定慧の三学のうち、とくに定の部分のみ強調し、仏教の神髄は複雑な教理の追及でなく、座禅入定によってのみ自証体得できると説く。仏心を月にたとえ、経文を月をさす指にたとえて経文の不要を主張する。教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏等の邪義がそれである。しかし、その半面、楞伽経や像法決疑経を用いているのは、これらが方便権教であることはもちろんである。明らかに前の主張に相違するのである。わが国では栄西(1141~1215)、道元(1200~1253)が曹洞宗を、隠元(1592~1673)が黄檗宗を始めた。
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天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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地論
地論宗の事。天親菩薩の「十地経論」によって立てられた宗派。開祖は慧光。のちに華厳宗に吸収された。日本には伝承されていない。
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摂論
摂論宗のこと。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てられた宗派で、中国陳隋の世に広まったがのちに法相宗に包含された。日本には伝承されていない。
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曇鸞法師
(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。
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往生論の注
無量寿経優婆提舎願生偈註2巻のこと。中国・北魏代の曇鸞の著。往生論註・浄土論註・論註ともいう。菩提流支が漢訳した世親の往生論を注解したもの。難易二道のうち、易行道が浄土門にあたることを説き、十悪・五逆の悪人でも往生できるとする。浄土に往生する本因は阿弥陀仏の本願によるとする他力本願思想を説いて、弥陀への正信を強調した。本書はその後の浄土思想の展開に大きな影響を与えた。
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竜樹菩薩
付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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十住毘婆沙
全17巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。
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菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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阿毘跋致
梵語(avivarika)。意訳して「不退転」。仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても退転しない境涯になること。天台大師は菩薩の五十二位のうち、初住のくらいをもって不退としている。これをさらに三段に分け、①位不退、別教の第七住、円教の第七信であって見惑・思惑を断じ、二死を離れる位として退転しない位であるので、位不退という。②行不退、別教の第八住。円教の第八信に登れば塵沙の惑を断じ、化他に出ずるのである。化他においてはいかなる難があっても退転しないので行不退という。③念不退、別教の初地。円教の初地にいたれば無明惑を断じ、一分の中道の理を証し、その心は常に中道実相を離れないゆえに念不退と名づける。この念不退に位不退、行不退を含めて、円教の初住に三不退を具すると説いている。羅什は訳語として阿鼻跋致を用い、十住毘婆沙論の訳以後、法華経の訳には阿惟越致と訳語として用いているが、同義語である。大智度論では無生法忍を同じ意味で用いている。
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難行道
易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。
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易行道
難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。
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浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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善導和尚
(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
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正雑二行
浄土教で、阿弥陀仏の浄土に往生するための行為、または修行を正行と雑行 に分類したもの。正行には、浄土経典の読誦、阿弥陀仏の容姿を念想すること、阿弥陀仏を礼拝すること、阿弥陀仏の名を称えること、阿弥陀仏をほめたたえ供養すること、の5種があり、それ以外を雑行という。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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往生浄土の経
極楽世界に往生する教法と行法。往生極楽はこの世を去って阿弥陀仏の西方極楽浄土に往き生まれること。往生浄土ともいう。なお、この現実世界を穢土といい、仏の住む清浄世界を浄土というが、浄土といってもこれは十方の浄土といわれるように仏によってさまざまに説かれている。しかし一般に浄土という場合は、浄土宗の立てる西方浄土をいう。
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弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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世天
世間の諸天のこと。諸天善神をさす。
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百即百生
阿弥陀仏を念じ、その名号を唱えれば、百人が百人ともに、極楽往生へ往生できるという善導の邪義。
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専修正行
もっぱら念仏の正行を修する意で、自力を離れてただ念仏をする浄土真宗の宗義をいう。これは邪義である。
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千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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雑修雑行
念仏宗で説く邪義。「雑行・雑修・自力の心」を捨てなければ、阿弥陀仏の救済はないと説く。
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思量
思いはかり、考えること。
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貞元入蔵録
唐の徳宗が貞元年中に、僧・円照が勅命によって選んだ経巻の種目。
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大般若経
般若経のこと。大品・光讃・金剛・天王門・摩訶の五般若からなり、仁王般若を結経とする。釈尊が方等部の説法を終わり、法華経を説くまでの間に説いた経文で、説処は鷲峰山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」四十巻と玄奘三蔵の「大般若経」六百巻がある。前者を旧訳・後者を新訳という。般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称で般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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法常住経
法の常住について説いた経。法は仏の有無にかかわらず常に存在するが、如来の出現によってその深義が明らかにされると説かれている。
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六百三十七部二千八百八十三巻
大蔵経に収められている経巻の総数。他説もある。
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読誦大乗
大乗経典を読誦すること。
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随他の前
随他意の教えが説かれている前の段階。仏が衆生の好みに随って説法し、真実の法門に誘引すること。またその方便の教え。
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定散の門
法然は観無量寿経で、極楽浄土へ往生する方法として、十六種の観法と三福の修行を説く。この十六観のうち、前の十三観を定善といって、浄土の荘厳な仏菩薩の相好を諦観するので入定凝念を必要とする。のちの三観および三福は、散乱の心のままで念ずることができるので散善という。しかし、この定散ともに、仏の随他意の教えで末法のためではなく、念仏の一行のみが仏の随自の教えで末法のための教えであるとの邪義を構えた。
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随自の後
随自意が説かれた段階の意。法然は念仏をもって仏の随自意の教えとし、念仏が説かれた後は他の自力による悟りの道は無意味になったとしている。ただし、真の随自とは衆生の機根にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説き示すこと。またその真実の教えをいい、法華経こそ一切経の中での随自意の教えである。
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念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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二種の勝法
二種の勝れた法門のこと。聖道門・浄土門をさす。中国浄土教の祖師・道綽の説で、法然も取り入れている。今世で聖者となり悟りを開く道を聖道門、阿弥陀仏の功力で浄土に往生して悟りを開く道を浄土門としたもの。
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無智
仏法を理解していない在家の人。
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道俗
出家と在家のこと。
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捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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浄土の三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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大師
①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
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鎮護国家の道場
国難を鎮め、国家の安穏を目的として建立された寺院。
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護惜建立
正法を護り、惜しみ、これを建立して令法久住せしめること。
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法味
妙法の慈悲のことを味にたとえた語。
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四依
「四依」には、法の四依と人の四依があり「菩薩」という場合は人の四依である。小乗・大乗・迹門・本門により、菩薩の位は異なるが、末法の四依は折伏を行ずる地涌の菩薩であり、別して日蓮大聖人のこと。
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これまで災難の根源は仏法の衰減であり、それをもたらすのは外道ではなく仏弟子であることを示され、ここでは、なかんずく権教をもって実教を滅ぼす元凶となったのが、日本浄土宗の開祖・法然であることを明かされるのである。
初めに「もしそうなら“此の国土”において“権教を以て人の意を取り実教を失う者”がいるのか」との問いを設けられている。“此の国土”とは、この場合、日本のことをさしておられることが明らかである。
“権教を以て人の意を取り”とは権教をもって日本中の人々の心を惑わしているという意味である。大勢の人々を惑わせなければ“実教を失う”にはいたらないからである。
大聖人は法然の選択集が「権教を以て人の意を取り実教を失う」根源であることを、具体的に選択集の文を引用しながら、その誤りを指摘しようと仰せられている。
法然は美作国の生まれで、幼くして父母を失い、天台宗寺院で出家し、比叡山に登って天台三大部を学ぶうち、恵心僧都源信の往生要集等に心を引かれて念仏の傾斜を深め、善導の観無量寿経疏を学ぶに至って専修念仏に帰依、承安5年(1174)には浄土宗を開創している。
法然の念仏は中国の浄土教や法然以前の念仏のように、他の修行と併せて行うものではなく「専修」という言葉の示すように、もっぱら念仏のみを行い、他の修行を排する排他的な修行であった。しかし、一切の学問を不要とし、たとえ一字を読めなくても念仏さえ称えていれば極楽浄土に往生できるという教えは、当時広がっていた末法思想・既成仏教の堕落、相次ぐ内乱と天変地夭による人々の不安に乗じて、爆発的な流行を示した。
このため、法然を仏法の怨敵として専修念仏の停廃を訴える動きが激しくなり、建永2年(1270)、法然の弟子が官女を出家させたことが後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏は禁止、法然は還俗せられて土佐に流罪された後、流罪は許されたが、法然死後も専修念仏への弾圧は激しく、法然の墓があばかれるなど、迫害が続いた。しかし、逆にいうとそれほど専修念仏の流行は激しかったわけで、武士階級も例外ではなかった。鎌倉時代は平安の貴族社会に終わりを告げて、武士が天下をとった時代である。それは戦乱の世の始まりでもあった。武士たちの多くが信じた宗旨はおもに禅宗であったが、念仏も劣らず強い影響を与えていった。武士には殺生がつきものである。殺生は仏教では強く禁じられており、殺生を犯す者は地獄に堕ちると説いている。したがって、戦乱の世にあってやむをえないこととはいえ、殺生を犯す武士にとっては、死後、地獄に堕ちることは恐ろしいことであった。そこで、特に死後、極楽世界に往生できると説く念仏思想は、武士にとって免罪符のごとき恩恵を与えていたといえる。武士たちは現世の処世訓としてではなく、死後に希望をもたらす教えとして念仏を信仰していたのである。
専修念仏を追放せよとの諸宗の訴え、これに応じて出された朝廷の宣旨等については、「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」の項に詳しく示されてあるので、そちらの講義を参照されたい。「浄土往生」自体、まさに方便として説かれた権教であり、人々がそれに惹かれたことは「人の意を取り」にあたるのであるが、それが「実教を失う」ものであるかと。教勢的に実教の宗派を滅ぼすだけでなく、その教義の上で実教を否定するものであることを、大聖人は具体的に選択集の文を挙げて示されるのである。
道綽が聖道門・浄土門を立て、聖道門を捨てて浄土門に帰することを説いた文で、このうち聖道門は、これに大乗と小乗があり、大乗には顕教・密教・権教・実教等の違いがあるなか、道綽の安楽集の意は顕大乗および権大乗が聖道門にあることにある。これに準じて考えると密大乗および実大乗をも聖道門に含めるべきである。曇鸞の往生要集の注には“竜樹の十住毘婆沙論を読んで考えると、不退転を求めるのに難行道と易行道がある”と説いており、この難行道が聖道門、易行道の法門である。
善導が正・雑二行を立て、雑行を捨てて正行に帰すべきことを述べた文で、読誦雑行に関しては観経等の往生浄土の経を除いて大小乗・顕密の諸経を読誦すべきを読誦雑行という。礼拝雑行に関しては阿弥陀を礼拝するのを除いてそのほか一切の仏菩薩および世天を礼拝するのを礼拝雑行という。この善導の往生礼讃の文を見ると雑行を捨てて専ら念仏を修すべきである。
顕教・密教の大乗はすべて読誦大乗に含めるべきである。随他意の法門では定善・散善の法門を開くが、随自意の法門では定善・散善の法門を閉じ、念仏の一門だけを閉じないのである。
生死の苦しみを離れようと思えば聖道門を閣いて浄土門に入るべきである。浄土門に入ろうとするならば、雑行を抛って正行に帰すべきである。
文中、曇鸞の往生論註の文として引用しているのは「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く菩薩・阿毘跋致を求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり」(0082-11)までで、そのあと「『此の中に難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ず須く此の旨を知るべし設い先ず聖道門を学する人と雖も若し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てて浄土に帰すべし』文、又云く 『善導和尚正雑二行を立て雑行を捨てて正行に帰するの文、第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝雑行とは上の弥陀を礼拝するを除いて已外一切諸余の仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く』」(0082-12)は法然の主張である。」また、「私に云く此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや行者能く之を思量せよと。又云く貞元入蔵録の中・始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり 皆須く読誦大乗の一句に摂すべし当に知るべし随他の前には暫く定散の門を開くと雖も随自の後には還つて定散の門を閉づ一たび開きて以後永く閉じざるは 唯是れ念仏の一門なり」(0082-18)も法然の主張をあらわす文であるので、これらを踏まえて講義することにする。
選択集の印用の前半は、曇鸞・道綽・善導の難易・聖浄・正雑の立て分けの義を用い、法然が法華経や真言を、そこで否定されている難行道・聖道門・雑行を含めている文証であり、後半は法然が結論として法華経等を捨・閉・閣・抛せよと主張し、正法を誹謗していることの文証である。
これらの文を挙げられた後、大聖人は、日本国中の人々がこの選択集の中の捨閉閣抛の字を見て、浄土の三部経以外をすべて捨てることになり、そのゆえに守護の善神は国を捨て去り、国に種々の災難が起きる仕儀になったと仰せられているのである。
法然は、道綽の聖道門・浄土門、曇鸞の難行道・易行道、善導の正行・雑行を根拠にして念仏以外の諸経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。本抄はこの選択集の文を挙げられているのみであるが、前年著された守護国家論では、曇鸞・道綽・善導らは捨てるべき教えに法華経などを含めるとは明言しなかったのに対し、法然は選択集で「之に準じて之を思うに」と、それを拠りどころとするように見せながら「密大及び実大を存すべし」と、法華・真言を名指しで聖道門に入れ、また私かに難行道・雑行に含める拡大解釈を行い、それとともに法華経を誹謗していることを指摘され、「準之思之」の文を挙げて、この四文字こそ謗法の根源であると述べておられる。
「『之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし』已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦 私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな」(0052-11)
では、道綽・曇鸞・善導が実際に何を聖道門・難行道・雑行に入れ、どの程度法華経を誹謗していたかを次にみてみよう。
三人のうち最初に出たのが曇鸞であるが、この曇鸞の往生論註の中に“竜樹は十住毘婆沙論で雑行道と易行道を立てている”と述べている。そこでまず、竜樹の十住毘婆沙論をみると、そのなかの易行品において易行道が示されている。易行道のなかで曇鸞が述べているのに該当する個所の内容は大要、次のようなものである。
問うていう。不退転の境地に至るには長い間の雑行を経なければならない。その間に声聞地や辟支仏地に堕することがあれば、菩薩の死になってしまう。地獄へ堕ちても仏に成ることもあるが、二乗地に堕すると仏道を遮ってしまうからである。そこで、易行道で、早く不退転の境地に至る方便はないのであろうか。答えていう。易行の道で不退転の境地に至ろうというのは、全く「忶弱下劣」の言である。「大人志幹」の説ではない。悟りを求めようとする者は、まさに身命を惜しまず、昼夜に精進しなければならない。しかし、方便として聞きたいのであれば、説こう。もし方便をもって易行にして不退転に至ろうとするならば、十方の仏の名を称えよ。
このように説いた後、十方の仏世界のそれぞれを示している。更に、その後“このほかの仏菩薩の名を称えて不退転に至ることができるものはあるのか”との問いを設け、それに対して「阿弥陀等の仏よび諸の大菩薩があり、名を称えて一心に念ずればまた不退転を得る」と説いているのである。
さて、曇鸞は往生論註で、この十住毘婆沙論の文を挙げて、難行道とは、無仏の世において不退転の境地を得るのは困難であることをいい、易行道とは、仏を信じ仏の願力に乗じて浄土に往生できることである、と述べている。元の十住毘婆沙論の内容を見ても分かるように、曇鸞は竜樹の説に依るとしながら、自分の都合のよいように内容を変えている。
まず、竜樹菩薩の十住毘婆沙論には「易行道」の言葉はあるが「難行道」の言葉はない。なぜなら、仏道を求めるのは本来、難行であって、最初から二つあるのではないからであり、易行道に至る前の三品はすべて難行を説いているのはこんためである。ただし“どうしてもそれができない者のために、易行の道はないのか”との問いに対し「忶弱下劣の言忶なり、是れ大人志幹の説に非ず」と指摘し、あくまでも「方便」と断ったうえで、十方の仏の名を称えることを教えているのである。しかもその中には忶阿弥陀の名はなく、それ以外の名を問うたのに対して阿弥陀が他の仏菩薩の名を称えることを示しているのである。
また竜樹の十住毘婆沙論では易行を「阿惟越到地」に至る方便であるとしているのに対し、曇鸞は浄土に往生することを目的とする行いに変えている。
更にいうならば、竜樹が不退転を求める道に難行と易行があるとしたのは、爾前諸経における修行の中でのことであって、二乗作仏と速疾頓成を明かした法華経は、この中には含まれない。それは、十住毘婆沙論で二乗地が仏種を断ずるものであることを述べていること、すなわち二乗を永不成仏としていることからも分かる。また易行道について「阿惟越到地は是の法甚だ難し。久しうして乃ち得べし」と述べているのは、まさにそれが歴劫修行であることをあらわしている。 なお、曇鸞の往生論註に関して、その元の書である往生論は世親の著とされているが、インドで唯一、浄土に触れた書であるにもかかわらず、インドではほとんどそれについて論及されておらず、インドで成立したということで、世親の著ということ自体について疑問視する学者もいることを付記しれおく。
さて、曇鸞は、竜樹の説を歪曲しているとはいえ、まだ、両道を併記しているのみであって、難行道を排除されるべきものとしているのではない。まして、実大の法華、密大の真言をこれに含めて捨てるよう説くことはない。本来、曇鸞の説は難易の二行を立てて一切経を峻別する教判に主眼があったのではないから、浄土以外の経を誹謗することもなかったのである。
次に道綽である。道綽は安楽集で聖道門と浄土門を分け、聖道門をもって悟りを証すことは困難であるから、浄土門に帰すべきであると説いている。安楽集は観無量寿経を解釈して仏教を聖道門と浄土門に分け、末法の衆生は西方の阿弥陀仏に帰依する浄土を行じて安楽世界に住すべきことを説いた書である。まず聖道門と浄土門について述べた安楽集の文の大要はつぎのとおりである。
問うていう。遠い昔から多くの仏にあっているのに、いたずらに生死を流転するのはなぜか。答えていう。二つの勝れた法によって生死をはらうことをしなかったのである。二つの勝法とは聖道門と往生浄土であり、今時は、聖道門をもって証すことは困難である。その理由は、第一に仏が入滅してから遥かに時が経っているからであり、第二に聖道門は理が深くわずかにしか理解できないからである。このゆえに大集月蔵経には「末法において数え切れない修行をしても、末だ一人も得る者はいない。今は末法五濁悪世であり、浄土の一門のみが通入すべき道である」とある。
この安楽集を引用して法然は“聖道門には大乗と小乗があり、大乗の中には顕密・権実の異なりがあるが、安楽集では顕大乗および権大乗を意味している。ゆえに歴劫迂回の行にあたる。これに準じて考えると密大乗および権大乗をも含めるべきであり、真言・禅・天台等の八宗の説は聖道門にあたる”と述べているのである。安楽集は、観無量寿経を用いて念仏の思想を説いたものであるが、同経の文々句々を解釈したものではなく、他の経・論・釈も用いながら自身の考えを述べたものであるが、この聖道門・浄土門の説を曇鸞の難行道・易行道の説と一致するものとして法然は「難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり」と述べているのであるが、聖道門というのは自らの力で悟りへと進む道であり、浄土門とは阿弥陀の慈悲の力にすがって往生を願う道とうことで、いわば自力と他力の違いであり、その意味で難行道と易行道の違いに通じるものはある。しかし、曇鸞の説は修行の難易に関してのものであったのに対し、道綽の場合は、経門についての違いを立てたものなのである。
このなかで道綽は聖道門をもって証すことが困難である理由の第一として“仏が入滅してから遥かに時が経っているから”というのが、先の竜樹の言のとおり、権教の経典では在世におけると否とにかかわらず、仏道修行はことごとく困難であるといわなければならない。
第二に、理深解微ということも、それ自体は当然である。聖道門が権経とすれば、容易に行じ証せるものでないことは「歴劫修行」という点からも明白だからである。ただし、だからといって、仏説が深く理解が困難であるから修行してはならないと述べた経典はなく、彼が依った無量義経にもそれはない。道綽はこの論拠として大集経の文を引いているが、このような文は大集経にはなのである。
いずれにせよ、道綽は一往、聖道門を深いとたたえながら、無益であるとし、それに対して浄土門こそ凡夫に適しているとしたのである。この説は後年念仏の側から既成仏教に対して盛んに主張されたものであり、その意味でも道綽の邪見は大きい。
法然は道綽の文を用いながら聖道門に法華経を含めて我見を展開したのである。その第一は、道綽の意として、聖道門を捨てよと述べていることである。道綽は浄土門を勧めはしたが、浄土門を捨てよとまでは明言していない。道綽の安楽集での論調は、聖道門はそれほど難しいものだから、易しい浄土門を用いよと主張しているのであって、法然の捨閉閣抛の意味合いは少ない。例えば、浄土を願わない者を非難する個所においても、穢土に住するのは不退の者ならばできるが、凡夫は途中で挫折するからできない等と述べており、聖道門に対する攻撃的色彩は薄い。
なによりも法然の曲解は、道綽の聖道門・浄土門に敷衍し、法華真言を含めたことである。すなわち道綽の安楽集の文に寄せて「之に準じて之を思うに密大及以び実大を存ずべし」と述べている点にあり、大聖人が厳しく破折されているところである。
本来、難行道とか聖道門というのは、法華経以前の爾前経に関して立てられたものでそれに法華経を入れるのは誤っている。もとより法華経にも「難信難解」とあるが、「以信得入」で速やかに成仏するのであるから、権大乗教の歴劫修行の「解微」とは全く異なる。ゆえに法華経の開経である無量義経に、この経を聞かない者について「菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に」と述べ、この経を信ずる者は「衆をして疾く無上菩提を成せしむるが故に…大直道を行じて留難なきが故に」と、権教の者は「行於険径多留難故」であるのに対し、法華経を受持する者は「行大直道無留難故」であると説いているのである。
大聖人はこのことを守護国家論で次のように端的に述べられている。
「若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり」(0053-16)
すなわち、修行とその功徳という点からも、法華経こそ最も成仏への易行の教えであり、それに対し、念仏は難行の中の難行になると仰せられているのである。
選択集で挙げている善導の正雑二行説は四帖疏にある。四帖疏は詳しくは観無量寿経疏というように、観無量寿経を解釈したものであり、道綽の安楽集の影響を強く受けている。善導は観無量寿経のなかに「若し衆生有って、彼の国に生ぜんと願ぜん者は、三種の心を発して即便ち往生す、何等をか三と為す。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり、三心を具する者は必ず彼の国に生ず」の文のうち「深心」について解釈するなかで、「行に就いて信を立つとは、然るに行に二種あり、一には正行、二には雑行なり。正行と言うは専ら往生経に依って行を行ずる者、是れを正行と名づく。何者か是れなる。一心に専ら此の観経・阿弥陀・無量寿経等を読誦し、一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想・観察・憶念、若し礼するには即ち一心に専ら彼の仏を礼し、若し口に称するには即ち一心に専ら彼の仏を称し、若し讃歎供養するには即ち一心に専ら讃歎供養す。是れを名づけて正と為す…此の正助二行を除き已外自余の諸善を悉く雑行と名づく」と、五種の正行を立てているのである。しかし、法然が挙げている雑行についての文はない。
法然の選択集の五種の雑行の文を見るならば、「一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。第一に読誦雑行とは、上の『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦するを、雑行と名づく。第二に観察雑行とは、上の極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行とは、上の弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称するを、ことごとく称名雑行と名づく。第五に讃歎供養雑行とは、上の弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行と名づく。この外にまた布施・持戒等の無量の行有り。皆雑行の言に摂尽すべし」と繰り返し、阿弥陀以外を本尊として礼拝すること、浄土経典以外を読誦することをすべて排斥する言葉を羅列している。善導はそこまであからさまな排斥はいていないのである。法然と中国三師との違いは、法然が口を極めて法華経を誹謗していることにある。大聖人も当世念仏者無間地獄事において「浄土の三師に於ては書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り、然りと雖も法然が如き放言の事之無し」(0109-14)と、その違いを指摘されている。
総じて曇鸞・道綽・善導の3人は浄土門を勧めこそすれ、他を捨てよということは強調してはいない。しかもそこに法華経を含めようとするならば、彼らのいう難・聖・雑に法華経等が該当するかどうかを改めて検討しなければならない。それらをしないで、単に「準之思之」を敷衍するのは大きな誤りである。
そして、これが結論の一連の捨閉閣抛の言葉につながるのである。この捨閉閣抛は一連の文ではなく、「雑を捨てて専を修すべし」「随自の後には還って定散の門を閉ず」「聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ」「諸の雑行を抛ちて、選んでまさに正行に帰すべし」をあわせたものである。つまり法然が、選択集の所々で「捨てよ」「閉じよ」「閣け」「抛て」と述べていることをまとめたものである。法華経は釈迦・多宝・十方諸仏によって「後五百歳」「末世」に広宣流布すべきことが定められた経であるにもかかわらず、これを末法には不要であるとして「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いた法然の選択集は、まさに仏に敵対し正法を隠没する邪教といわなければならない。
本抄で大聖人は、選択集の文を引かれた後、日本中の「無智の道俗」が捨閉閣抛の四字に目を奪われて「浄土の三部経・阿弥陀仏より外は諸経・諸仏・菩薩・諸天善神等に於て」すべて捨ててしまったと仰せられている。その結果、守護の善神は国を捨て去って災難が起こるとの経文に符合する事態となった。まさしくその元凶は法然の選択集にあると仰せられているのである。
0083:14~0083:16 第九章 選択以前は五常破り災難起こすtop
| 14 疑つて云く国土に於て選択集を流布せしむるに依つて災難起ると云わば 此の書無き已前は国中に於て災難無か 15 りしか、 答えて曰く彼の時も亦災難有り云く五常を破り仏法を失いし者之有りしが故なり 所謂周の宇文・元嵩等 16 是なり、 -----― 疑っていう。国に選択集を流布させたことによって災難が起こるというならば、この書のなかった以前の時代には国中に災難がなかったのか。 答えていう。その当時もまた災難はあった。すなわち、仁・義・礼・智・信の五常を破り、仏法を滅ぼした者がいたからである。いわゆる中国・北周の宇文邕や衛元嵩などがこれである。 |
五常
儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
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宇文
匈奴系鮮卑の一部族で、宇文莫圭のときに強盛となった。南北朝時代にはその子孫が北周を建てた。宇文部の出自は、黄帝に滅ぼされ朔野に移り住んだ神農氏の子孫で、葛烏菟という者が最初に大人となったのが始まりとされる。部族名の由来は、葛烏菟の次に大人となった普回が、狩りの途中で「三紐の玉璽」を拾った際、これを天授だと思い、「天を謂いて宇と曰く、君を謂いて文と曰く」とし、国号と氏を宇文としたという。また、『資治通鑑』巻81太康6年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、炎帝が草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とある。
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元嵩
中国、南北朝時代の北周の人。初め僧でのち還俗。天和2年 (0567) 年道士張賓とともに、武帝に仏教が治国に害があることを説き、廃仏を起させるきっかけをなした。大成1年 (0579) にも『破仏議』6条を奏したが、このときはいれられなかった。
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法然の選択集の邪義が広まったために国に七難が起こったというならば、では選択集以前の世には災難は無かったこというのか、という疑問を提起されている。
これに対して大聖人は、選択集以前にも当然、災難はあったが、それらは法然のように権教をもって実教を破ったのではないが五常を破り仏教を破ったために起きたものであったと答えられ、その例として周の宇文・元嵩を挙げられている。宇文は部族の名であるが、ここでは北周の武帝をさす。元嵩は武帝の時代の廃仏論者・衛元嵩である。
中国には、北魏の武帝、北周の武帝、唐の武帝および後周の世宗による仏教弾圧・廃仏毀釈があるが、このうち北周の武帝による仏教弾圧を挙げられているのである。衛元嵩はその時、帝に勧めて廃仏を行わせた張本人である。
中国では、道教との対立から行われた仏教弾圧は数多いが、このなかでも三武一宗の法難は四大法難として数えられる大規模な法難である。
北魏の武帝の廃仏は0446年から数年間行われ、一切の仏像・経典を焼却し、僧は老若すべて眷属させたと言われている。これは、司徒であった催浩と道士の寇謙之の策謀によるといわれる。
北周の武帝の廃仏はそれから約120年後、0574年から数年間行われた。仏像・経典を焼いただけでなく、寺院を王侯の屋敷とし、財産はすべて没収、僧を眷属させて軍隊に編入させたりした。この時、還俗させられた僧尼の数は400万人にものぼったという。この時は道士の張賓と元は僧でありながら道教にひかれて還俗し、廃仏論者となった衛元嵩の策謀があった。
第三の唐の武宗の廃仏は、更に約170年経った0842から数年間行われ、仏教の絶滅を期した武宗は、仏寺を破壊し、僧尼を還俗させ寺院の所有していた土地はすべて没収、仏像や仏具は改鋳して貨幣や農具にしたという。この廃仏は年号の名をとって会昌の法難とわれる。この時も道士の趙帰真が裏で策謀をめぐらした。この時期、チベットやウイグルの反乱が続き、武宗がその原因を趙帰真に問うたところ、仏教を弘めさせたことが原因だと奏上したのである。武宗はもともと仏教を信じ、立正安国論に慈覚の入唐巡礼記を引かれて示されているように浄土教に肩入れしていたが、趙帰真にそそのかされて仏教を弾圧するに至った。しかし国内は治まるどころか、ますます騒然とし、皇帝自身も強度の神経衰弱等のため4年後、悶死したという。
それから約100年後の0955年から行われた後周の世宗の廃仏でも、寺院の廃止3336ヶ所、仏像等は改鋳されて通貨とされたという事態が起こっているが、これは逼迫した財政を改善するために行われた合理化の意味合いが大きく、道教との対立が原因ではなかったという。
世宗の廃仏を除いて、これらに特徴的なのは、いずれも道士が帝と結びついて廃仏を断行させたという点である。宗教にうとい俗人にとっては宗教の優劣の判断はつきにくい。そこで宗教者がまことしやかに吹き込めば帝王たりといえども容易に信じてしまう。中国の廃仏毀釈は道教と仏教の対立で、大聖人の場合と内容を異にするが、宗教の指導的立場にある人間が策略をめぐらして権力者に訴え、相手を迫害するという様相は同じである。宗教者は知識人としての役割をもっていたから、その影響は大きく、それだけに誤った方向へ導くことの罪は大きいといわなければならない。
大聖人は、当時においても建長寺道隆ら高僧といわれる人々が裏で暗躍して国を滅ぼす原因をつくっていることを最も厳しく指摘されており、幕府に対して、そのことを示唆するためにこれらの中国の先例を挙げられたと拝することもできよう。
大聖人が宇文・元嵩の例を挙げられているのは「五常を破り仏法を失いし者」としてである。五常とは、儒教の仁・義・礼・智・信で、人が踏み守るべき五つの道である。人間としての道、社会秩序を維持するための生活規範等を守ることを説いているのであるが、権力にものをいわせて仏教を弾圧することの根底に五常の違背があることは疑いない。特に仏教徒でありながら還俗して反逆し、迫害を加えた衛元嵩は、この五常に背いた代表的存在であるから、この名が挙げられたと拝することができる。
この武帝・衛元嵩が倫理を踏み外して仏教を弾圧した結果、周は、武帝の死後わずか3年にして、隋の文帝によって滅ぼされた。北周滅亡という災難の原因が、五常を破り仏法を失わせたことによると仰せられているのである。
なお、この問答における災難興起由来と立正安国論の問答を対照してみると、災難興起由来では、夏の桀王、殷の紂王、周の幽王の例を挙げられ、彼らが五常に背いたゆえに災難が起こり国が滅びたとのべられている。
また序講でも触れたが、本抄でのここからの問答を立正安国論では省略されている。代わりにこれに類似した「近年の災を以て聖代の時に課せ」る罪を指摘する問いを設け、それに対して、
①周の末に礼が失われたことが周の滅びる兆しであったこと
②西晋の時代に阮藉に倣って礼儀を軽んずる風潮がはびこったのが司馬氏滅亡の相であったこと
③唐の武宗がはじめ念仏を信じたゆえに外敵が侵入し、かつ後に仏教を弾圧したために滅びたことなどを慈覚が述べた
ことなどの事実を挙げるにとどめられている。
しかし、①の周末と②の西晋の史実はともに「五常を破り」と述べられているものと同じく倫理をおもんじなくなったゆえに世が滅びたのであり、また③の、唐の武宗が初めは念仏を用いたゆえに、外国から攻められ、後にかえって仏教を激しく弾圧して国を滅ぼしたことを挙げられているのは「仏法を失いし」に通じるといえるだろう。立正安国論では諌暁の相手を考えに入れて、五常と仏教の関係に触れずに、これら歴史の記述にとどめられたのであろう。
0083:16~0084:02 第十章 今の世の災難は選択の失と示すtop
| 16 難じて曰く 今の世の災難五常を破りしが故に 之起ると云わば 何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らん 17 や、 答えて曰く仁王経に云く「大王・未来の世の中に諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘横に法制を作りて仏戒に 18 依らず亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず七難必ず起らん」と、 金光明経に云く「供養し尊重し讃歎 0084 01 せず其の国に当に種種の災禍有るべし」 涅槃経に云く「無上の大涅槃経を憎悪す」等と云云、豈弥陀より外の諸仏 02 諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名くると云うに当らざらんや、 ―――――― 難詰していう。五常を破ったゆえに起こるというならば、今の世の災難がどうして必ずしも選択集が流布したための失によるといえようか。 答えていう。仁王経には「大王よ、未来の世の中に諸の小国の王、四部の弟子、…諸の悪比丘が…道にはずれて法制を作って仏の戒法に依らず…またまた仏像の形や仏塔の形を造ることを許さない…七つの難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「供養し尊重し讃歎することをしない…その国に必ず種々の災禍があるであろう」と説かれ、涅槃経には「最高の大涅槃経を憎む」等と説かれている。どうして阿弥陀仏と浄土の三部経以外の諸仏や諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名づけるという選択集の主張に当たらないことがあろうか。 |
四部の弟子
四衆のこと。比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。弟子檀那のこと。
―――――――――
五常を破ったために災難が起こったというならば、今の世の災難も必ずしも選択集によるものとはいえないのではないか、という質問である。すなわち、今の世の災難も、五常を破ったゆえに起こっている可能性があるではないか、という疑問である。それに対する答えとして日蓮大聖人は、仁王経・金光明経・涅槃経の文を挙げられている。
最初の仁王経の文は、同経嘱累品・受持品にある三つの文を繋いだものである。そのうち「横に法制を作りて仏戒に依らず」の」部分と「七難必ず起らん」の部分については、本抄で既に引用されている。「亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず」の部分はここで初めてひかれている。
「横に法制を作りて仏戒に依らず」については元の仁王経では「王」の行為としているが、大聖人はここでは「諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘」の行為として引用されている。「王」の行為といっても仁王経では悪比丘が国王等の前で誤った法を説き、それを信じた王が「横に法制を作」るとしているから、その意を取ってこのような形で引用されたのであろう。
また仁王経の「亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず」の部分の前には、比丘・比丘尼・四部の弟子や国王が仏法を滅破し「明らかに法制を作りて我が弟子の比丘・比丘尼を制し、出家して道を行ずることを聴かず」とある。いずれにしても、この仁王経の文は、悪比丘が、
① 横に法制を作る
② 仏像や仏塔を許さない
その結果、七難が起きることを説いたのである。
仁王経の文の「横に法制を作り」とは、道理に反して法制を作ることで、これは五常の仁や義に反する行為といえる。また、仏を崇めるとは尊貴の存在に礼を尽くすことであり、正法を信じ学ぶことは五常の信・智にあたる。しかるに法然は「仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず」の文のごとく、選択集で「弥陀を礼拝するを除いて已外、一切諸余の仏菩薩等および諸の世天等に於いて礼拝恭敬することを悉く礼拝雑行と名づく」と述べて、阿弥陀以外の仏像等を否定し排斥したのである。このことから、人々は五常についても根本的に破る生き方へと堕していったといえる。
次の金光明経の文は、本抄の初めに引かれているものを省略して再度引用されている。ここでは正法に対して「供養し尊重し讃歎」しないゆえにその国に種々の災難が起こることを端的に示した文として引用されている。
これらに対し、次の涅槃経の文も既に本抄で示されたものを略して引用されているのであるが、これは災いの原因として正法への増悪を指摘した文で、法然の所説はまさに正法への増悪を駆り立てる内容であることを示すために引かれている。
涅槃経の文で「無上の大涅槃経を増悪す」と言われているのは“正法を増悪する”ことであり、法然が浄土を除いて一切の諸経や諸仏に対して礼拝したり供養したりすることは雑行としているのは、まさしく人々に“正法を増悪する”心をそそのかしていることになる。法然は曇鸞・道綽・善導の説を利用して、浄土以外のすべてを「捨閉閣抛」せよといっているのであり、これは“増悪”以外の何者でもないのである。
この一連の問答を要約していうと、法然の邪説が災難興起の原因であるが、では法然以前は災難がなかったかというと、もとよりさまざまな難が起きていた。それは五常で示される倫理に背いたことによるのであり、法然の邪義が災いの根源であるというのも、法然の説が根底から人々を五常に背く道に陥れたからであるということになる。
0084:02~0084:04 第11章 法華以前の災難の因を追及top
| 02 難じて云く 仏法已前国に於て災難有 03 るは何ぞ謗法の者の故ならんや、 答えて云く 仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり 04 礼義を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり、 -----― 難詰していう。仏法が広まる以前に災難があったのは、どうして謗法のゆえであろうか。 答えていう。仏法が広まる以前に五常をもって国を治めたのは、根本的には仏道における誓いをもって国を治めたのである。礼義を破るのは、仏が説き示された五戒を破ることになるのである。 |
仏誓
仏道における誓いのこと。仏道を修行する際に立てる戒。
―――
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
―――――――――
ここでの問いは、仏法以前の災難が謗法の故であるはずがないではないかというものである。謗法とは正法を誹謗することであるから、誹謗すべき正法が出ていない時代において謗法があるわけがない。したがって、その時代の災難が謗法によって起こるはずがない、と非難しているのである。
それに対して大聖人は“五常をもって国を治めたのは、根本的には仏道における持戒の誓願をもって治めたのであるがゆえに、五常を破れば仏の戒めを破ったことになる。礼儀を破るというのは、仏法の五戒を破ったことにあたり、したがってそれは謗法となる”と答えられ、五常と仏法の関係を示されている。
すなわち、仏法が広まる以前は普遍的な人倫の範囲である五常をもって国が治められているのであるが、この五常は仏道の誓願に基づいていると仰せられている。
五常をもって国を治めることが仏誓に基づいているとおおせられているのは、奇異な感じがしないでもない。なぜなら常識的に考えれば、仏法が渡来する以前の思想が、仏道における誓願に基づいているというのは理解しがたいことだからである。
しかしこれは、決して通常の歴史の因果関係からいわれているのではない。世間のあらゆる思想は仏法の枝葉であり、仏法以前においても、仏法の思想に通じる教えによって世の中が治められ、やがて仏法が広まる素地を作りだしているのであって、それは仏の遠い昔からの計らいによるのであるという、仏法独特の歴史館なのである。
それはまた、もう一面から言えば、仏教は人間としての普遍的な道を説いたものであるゆえに、中国の儒教において倫理の道として説かれた五常とも相通じているのである。
不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒の五戒は、仏教の最も基本的な戒律である。生き物を殺してはいけないとか、人の物を盗んではいけない、嘘をついてはいけないなどの戒めは、仏法の法理の上から説いていることではあるが、道理に普遍的な道徳律でもある。仏道修行をしていくうえにおいて、最も基本的なこととして、人倫を踏み外さないことを教えたのが、五戒であるともいえよう。
釈尊はまず、五戒という基本をもって、人々の仏教の深遠な教えを受け入れるに足る精神的状況に引き上げることから始めたのである。そのいみからすれば、この五戒は、同じく道徳の基本ともいえる五常と、決して無縁とはいえない。むしろ共通した理念にたっているともいえるのではなかろうか。
摩訶止観では五常の義は五戒に似ているとして、仁を不殺生戒に、義を不偸盗戒に、礼を不邪婬戒に、智を不飲酒戒に、信を不妄語戒に配している。「仁」は人を愛する等の人間らしい徳をいうが、生き物を殺すことを禁じた「不殺生戒」に通じていることはいうまでもない。また「義」は人間としての道をいうが、他人の物を盗む行為が人の道に外れていることは当然で、それを戒めた不偸盗戒に通じる。「礼」は社会秩序を維持する規範であり、妻や夫以外の者と通じる邪婬は礼を失うものである。飲酒は理性・判断力を失わせるのであり、それにおぼれることは「智」を失う行為でもある。更に、「信信」は本来、うそをつかないことであり、また、信頼という義からいえば、妄語がその信を裏切る行為であることはいうまでもない。この個々の対応関係はさておき、最も重要なのは、倫理を踏み破ることが社会・個人を堕落させ混乱させる原因となることを示していることにあろう。
五常が社会にきちんと行われていれば、社会は安穏であり、それに背く人が増えてくると社会は乱れ、国が滅びるゆえに儒教では五常を重んじたのである。仏教の場合、生命の因果の法のうえから五戒を破ることが悪道に堕ちる因であると説くことによって、各人が自ら制するよう促したのである。
したがって、人間としての普遍的規範という点では相通じるものがあるが、そこに儒教の五常と仏教の五戒との違いがあり、あくまで人間生命の基盤を掘り下げた仏法が根本とされるのである。
0084:04~0084:12 第12章 五常は仏誓に基づくtop
| 04 問うて云く其の証拠如何、 答えて曰く金光明経に云く「一切世 05 間の所有る善論は皆此の経に因る」と、 法華経に云く「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正 06 法に順ず」と 普賢経に云く「正法をもつて国を治め人民を邪枉せず是れを第三懺悔を修すと名く」と、 涅槃経に 07 云く 「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず」と、 止観に云く「若し深く世法を識れば即ち是 08 れ仏法なり」と、弘決に云く「礼楽前に駈せて真道後に啓く」と、広釈に云く「仏三人を遣して且く震旦を化す五常 09 以て五戒の方を開く昔は大宰・孔子に問うて云く 三皇五帝は是れ聖人なるか孔子答えて云く 聖人に非ず又問う夫 10 子是れ聖人なるか亦答う非なり又問う若し爾らば誰か聖人なる、答えて云く吾聞く西方に聖有り釈迦と号く」文。 -----― 問うていう。その証拠は、どうか。 答えていう。金光明経には「一切世間のあらゆる善法を説いた論は、みなこの経に依っているのである」と説かれ、法華経法師功徳品第十九には「若し俗世間の経書の教えや世を治めるうえでの言論や生活の助けとなる行為などを説いても、みな正法に順っている」と説かれ、普賢経には「正法をもって国を治め、人民を邪に虐げない。これを第三の懺悔を修すると名づける」と説かれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書の教えはみな仏説であり、外道の説ではない」と説かれ、摩訶止観には「もし深く世法を知るときには、それはそのまま仏法である」とあり、止観輔行伝弘決には「礼義と音楽が先駆けて広まり、真の道が後に開ける」とあり、普通授菩薩戒広釈には「仏は老子・孔子・顔回の三人を派遣して、しばらく中国を教化した。五常をもって五戒の一面を明かしたのである。昔、大宰が孔子に『三皇五帝は聖人であろうか』と問うと、孔子は『聖人ではない』と答えた。また『あなたは聖人か』と問うと、また『そうではない』と答えた。また『もしそうであるならば、誰が聖人か』と問うと、『私が聞くところでは、西方に聖人がいて、釈迦と称する、ということである』と答えた」とある。 これらの文をもってこれを考えてみると、仏法が広まる以前の三皇五帝は五常をもって国を治め、夏の国の桀王や殷の国の紂王・周の国の幽王などが礼義を破って国を滅ぼしたのは、根本的には仏道における誓いの持破と同じになるのである。 ―――――― 11 此等の文を以て之を勘うるに仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破り 12 て国を喪すは遠く仏誓の持破に当れり。 ―――――― これらの文をもってこれを考えてみると、仏法が広まる以前の三皇五帝は五常をもって国を治め、夏の国の桀王や殷の国の紂王や周の国の幽王などが礼儀を破って国を滅ぼしたのは、根本的には仏道における誓いの持破と同じになるのである。 |
善論
理にかなった正しい論。
―――
俗間の経書
俗世間の経や書。道徳・思想などの経説。
―――
治世の語言
世を治める上での言論。政治上の言論・活動。
―――
資生の業
生活の助けとなる行為のこと。仕事・事業のありかた。
―――
普賢経
曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
―――
邪枉
よこしまに虐げること。
―――
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
弘決
天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。
―――
礼楽
行為を慎ませる礼儀と心を和ませる音楽のこと。
―――
真道
人の踏むべき真の道のこと。仏道・仏の教え。
―――
広釈
普通授菩薩戒広釈3巻のこと。天台宗の僧・安然の著。妙楽の授菩薩戒儀に基づいて12門に分け、菩薩戒を授ける儀式を解説している。
―――
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
大宰
古代中国の管制の最高職。百官の長。
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孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
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三皇五帝
中国古代の伝説上の天子。「三皇」①伏羲・神農・黄帝②燧人・伏羲・神農③天皇・地皇・人皇(所説あり)「五帝」①少昊・顓頊・帝嚳・尭・舜②黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜(他説あり)。これらの人々によって、中国における人倫の道が確立され、理想郷が実現したとされている。
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夫子
①孔子の尊称。②知識や徳に優れた年長者。③昔の中国で大夫以上の位にある者の敬称。⑤先生。⑥妻が夫を呼ぶ称。
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釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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夏の桀
夏の桀王のこと。夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
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殷の紂
殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
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周の幽
幽王のこと。王の前の王で、西周最後の王であり、在位11年で亡びた。山川くずれ等は史記に出ている。「幽王の2年・西周の山川皆震う。伯陽哺が曰く『周将に亡びんとす』夫れ天地の気其の序を失せず、若し序を過つ時は民之れ乱るるなり。乃至夫れ国は必ず山川に依る。山崩れ川竭るは亡国の徴なり。川竭る時は必ず山崩る。若し国の亡ぶる十年に過ぎざるは数の紀なり」とある。
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持破
持つことと破ること。
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五常をもって国を治めることは、根本的・究極的には仏道の誓いに基づいて治めるということになるというのは、いかなる証拠から言うのかという問いに対して、金光明経・法華経・普賢経・涅槃経・摩訶止観・止観輔行伝弘決、および安然の普通授菩薩戒広釈を引いて答えられている。
これらの文証に共通するのは、世間の法は仏法に違わないと説いていることである。このうち、初めの五つの経釈と後の止観輔行伝弘決・広釈の文とは、文証の内容を異にする。初めの五つの内容を簡略に示すと次のとおりである。
金光明経 世間の法は皆、正法の教えに依っている
法 華 経 世間の法は皆、正法に順じている
普 賢 経 正しく国を治めることが仏法への懺悔でもある
涅 槃 経 世間の法は皆、仏説である
摩訶止観 世間の法を深く知れば仏法である
このように、それぞれの意味するところは若干のニュアンスの違いはあるが、大要は仏法と世間の法とが無関係ではないことを述べている。
このように世間の法の根源にあるのが仏法であるゆえに、世間法である五常を守るか背くかが仏法に信順するか相違するかと同じになるのである。普賢経の文は、居士が行うべき五種の懺悔の法を説くなかのものである。
五種の懺悔とは、
①甚深の経法を思う
②父母に孝養を尽くし師を敬う
③正法をもって国を治め
④不殺を行ぜしめる
⑤因果を信じ仏は滅しないと知る
の、五つである。この文は、その第三に関する部分である。この文は、特に王が五常をもって国を治めることが相対的な文証となっている。
止観輔行伝弘決と普通授菩薩戒広釈の二つの文は、仏法以前の中国における治世の法は、仏法流布の前段階としての意義があることを述べた文である。
弘決の文は、礼儀や音楽が先駆けて広まり、真の道が後に開けることを説いている。摩訶止観には「礼儀、前に開けたり、大小乗教、然る後に信ず可し」とあり、止観輔行伝弘決の文はこの止観の文に関連して述べられたものである。「礼楽」は「礼儀」の文に対応しており、「礼儀」が仏法の「五戒」の先駆けであるとの文証となっている。
広釈では、具体的に3人の賢者を派遣して、五常をもって中国を導かせたと述べている。「三人」とは老子・孔子・顔回である。中国の儒教・道教の祖として仰がれる存在であり、古代中国において社会の思想的基盤をなした人々である。此の3人は中国に仏教が広まる以前、とりあえず仏が派遣して治めさせた人々でるということは、彼らの教えと仏教とが相通じていると言わんがためである。
同趣旨のことは、天台大師の摩訶止観に「我、三聖を遣わして彼の真丹を化せしむ」と述べており、妙楽大師はこれについて「清浄行法経に云く、月光菩薩彼には顔回と称し、光浄菩薩彼には仲尼と称し、迦葉菩薩には老子と称す、と」釈している。広釈はこの文は、日本天台宗の安然がこれらを承けて記したものであろう。
「五常以て五戒の方を開く」とは、五常と五戒を全く一体としているのではなく、五常を仏法の五戒が受け入れられるための準備的なものと位置づけているといえよう。
この儒教と仏教との勝劣の違いを更に強調しているのが「中国の三皇五帝は“聖人”ではない。西方の釈迦こそ“聖人”である」と孔子がのべたというエピソードである。これについて、はたして孔子は釈尊を知っていたのかなどという歴史的事実への疑問をうんぬんするのは意味がないだろう。仏法では孔子を釈尊の“つゆならい”と捉えているとおうことである。
なお、災難興起由来では、この問答に関して、前掲の経釈はすべて引用されているが、それに加えて、周書異記の文が挙げられている。大要は以下の如くである。
周の昭王24年4月8日に大地が震動し五色の光が満ちた。王がその所以を大史蘇由に問うたところ、西方に“大聖人”が生まれたと述べ、千年すればその教えが伝わるであろうと予言した。また穆王52年2月15日に暴風が起こり大地が震動し、西方に白い虹が出て、連夜、滅しなかった。王が大史扈多に問うたところ、西方の聖人が滅した、と答えた。
この周書異記の文は、釈尊の入滅年代に関わる記述として用いられてきた。周書異記は現在では消失しており、またその信憑性も疑問視されているが、古来、この記述が広く用いられていたことは確かである。災難興起由来では、中国に仏教が伝わる千年以上も前に仏の出現を知っているのであるから、その後の老子・孔子・顔回などが知らないはずがないという意味で用いられている。本抄では、この周書異記は略されている。
大聖人はこれらの経釈を引用された後「仏法以前の三皇五帝は五常をもって国を治めたが、夏の桀王、殷の紂王、周の幽王等は、礼儀を破って国を滅ぼしてしまった。この、五常の持戒というのが、究極的には仏道の誓願と持破と同じになるのである」と結論されているのである。
0084:13~0084:16 第13章 法華等の行者の値難の理由top
| 13 疑つて云く若し爾らば法華真言等の諸大乗経を信ずる者は何ぞ此の難に値えるや、 答えて曰く金光明経に云く 14 「枉げて辜無きに及ばん」と、 法華経に云く「横に其の殃に羅る」等と云云、此等の文を以て之を推するに法華真 15 言等を行ずる者も未だ位深からず 信心薄く口に誦すれども其の義を知らず 一向名利の為に之を誦す先生の謗法の 16 失未だ尽きず 外に法華等を行じて内に選択の心を存す 此の災難の根源等を知らざる者は此の難を免れ難きか。 -----― 疑っていう。もしそうであうならば、法華や真言等の諸大乗経を信ずる者が、どうしてこの災いによる難にあうのか。 答えていう。金光明経には「法をまげて無実の者にまで罪をきせるであろう」と説かれ、法華経譬喩品第三には「不当に災難となってふりかかるであろう」等と説かれている。これらの文をもってこれを推察すると、法華や真言等を行ずる者も未だ修行の位が深くなく、信心が薄く、口に唱えていてもその意味を知らずに、ひとえに名誉や利益のためにこれを唱えていて、過去世の謗法の失が未だ尽きず、 外面は法華等を行じて、内面は選択集の考えを抱いて、この災難の根源等を知らない者は、この難を免れがたいということであろうか。 |
ここで一転して、今日において法華真言等を信仰している人も、謗法のために起きた災いの被害を受けているのはなぜかという問いを設けられている。
この問答で「真言」を「法華」とともに挙げられていることについては、二つの理由が考えられる。
一つは、しばらく念仏を一凶として強く破折するために真言破折を控えられたのであろうということである。大聖人は立宗以来、四箇の格言をもって諸宗を破折されたが、その初期においては特に念仏の破折に力を注がれた。真言宗の破折を表面に立てられるのは佐渡期以後である。当時、新興勢力として流行していた念仏を破折することが急務であると判断されるとともに、真言を破折するためには、真言を取り入れた天台宗を破折することが必要となるところから、初期のころは控えられたと考えられる。
もう一つは、法然が選択集で「密大及び実大を存すべし」と法華と真言を難行道・聖道門・雑行に入れて誹謗しているところから、法華と真言をあわせてここで議論されているとも考えられる。
この問いに対して大聖人は、まず金光明経と法華経の文を引かれている。金光明経の文は、本抄の初めにひかれているものの一部であるが、人々が正法を捨て国に災難が起こる時、衆生に善心がなく互いに讒言しあい、その結果、罪のない人も罪過を問われることがあると述べた部分である。法華経の文も法華経誹謗の者が受ける報いを述べた部分で、他人の反逆や盗み等の罪が、不当にふりかかってくると説いている。いずれも、無実の罪を着せられる難といえる。
これらは、時代が乱れているゆえに、その影響を受け、たとえ無実であっても苦難にあう場合があることの文証として挙げられているのである。これらの文で「枉げて」「横に」との表現は、それが不合理の受難であることを示唆されていると考えられる。
この両文で、たとえ法華等を信仰している人であっても、社会そのものが乱れている場合は、その影響を受けて難にあうことがあることを示された後、これらの文をもとに、そのように法華真言等の行者が難にあう理由を推測されている。
一国が謗法に陥っている時は、法華経の行者であっても不当に災難にあることは、これらの文で分かったとしても、なぜ難にあわなければならないかという問題は、以前として残る。それはやはり、行者自身に原因がなければならない。その理由を大聖人は以下に推測されていくのである。
大聖人が理由として挙げられている第一は、行者自身の修行の位が深くないということでる。“位が深くない”とは、宿業深重の凡夫としての面を強く持っているということである。“位が深い”とは修行の積み重ねによる菩薩界・仏界の生命が強くなり、その分、凡夫としての宿業深い生命は弱く小さくなるから、難にあうことはなくなるということであろう。
“位が深くない”がこれまでの修行の積み重ねの結果でるのに対し、今の修行実践が弱い例として仰せられるのが「信心薄く」以下の文である。内容は、まず根本的に「信心薄く」。“信心が薄い”ということである。そして「口に誦すれども其の義を知らず一向名利の為に之を誦す」である。「其の義を知らず」の「其の義」が、ここでは法華経の義をさすことはいうまでもない。法華経の義とは、総じて一念三千の法理であるが、大聖人の仰せは、特に“法華経のみが釈尊の出世の本懐の経であり、正法である法華経を誹謗することは、一国の災難の根源となること”を意味しておられると拝する。それは次下に「外に法華等を行じて内に選択の心を存す此の災難の根源等を知らざる者は此の難を免れ難きか」と仰せられているからである。この「内に選択の心を存す」とは、たとえ法華経等を誹謗している意図はなくても、選択集の主張を容認し、その一凶を禁じようとしないのは、内に選択集の心を存しているという意味であり、そのことを「選択の心を存す」と仰せられていると拝される。
法華経を行ずるとは、単に「口に誦す」ることではない。災難の根源が念仏等の謗法の宗にあることを知り、破折していくことこそ、「其の義」を知ることになるのである。その意味では、「口に誦す」るのみでよしとするのは、厳密にいえば法華経の行者ではない。「一向名利の為に之を誦す」に至っては、いわずもがなである。
そうした法華経等の行者は結局、自身の「先生の謗法の失」を消滅させることはできず、そのため、法華経を信仰していても、一国謗法による災いの影響をまぬかれない、と仰せられているのである。
0084:08~0085:04 第14章 謗法者の難に値わない理由top
| 17 疑つて云く 若し爾らば何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に此の難に値わざる者之有りや、 答えて曰く業力不定 18 なり順現業は法華経に云く此の人現世に白癩の病乃至諸の悪重病を得んと、 仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子 0085 01 無く六親不和にして天神祐けず 疾疫悪鬼日に来りて侵害し災怪首尾し連禍せん」と、 涅槃経に云く「若し是の経 02 典を信ぜざる者有らば若は臨終の時或は荒乱に値い刀兵競い起り帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん」已上、順 03 次生業は法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば 其の人命終して阿鼻獄に入らん」と、 仁王経に云く 04 「人仏教を壊らば死して地獄餓鬼畜生に入らん」已上、順後業等は之を略す。 -----― 疑っていう。もしそうであるならば、どうして選択集を信ずる謗法の者の中にこの難にあわない者がいるのか。 答えていう。宿業が果報をもたらす力は一定ではない。順現業は、法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「この人は現世に白癩の病を得るであろう。…諸の悪く重い病気にかかるであろう」と説かれ、仁王経には「人が仏教を破壊するならば、また孝行の子はいなくなり、親族は仲が悪く、天神も助けない。病気や悪鬼によって日々、悩まされ、異常な災難が絶えることなく、禍が連なるであろう」と説かれ、 涅槃経には「もしこの経典を信じない者がいるならば…臨終の時、世の中は荒れて乱れ、戦乱が競って起こり、帝王の暴虐や怨敵との仲たがいによって侵されるであろう」と説かれている。 順次次生業は、法華経譬喩品第三に「もし人が信じずにこの経を謗るならば…その人は命終えてのち阿鼻地獄に入るであろう」と説かれ、仁王経には「人が仏教を破壊するならば…死んでのち地獄界・餓鬼界・畜生界に入るであろう」と説かれている。順後業等は省略する。 |
業力不定
「業力定まらず」と読む。身口意の所作が業で、善業には善果を生ずる力用があり、悪業には悪果を生ずる力用がある。しかしながら、因となって果報を引き起こす業の力が一定でない。そのことによって、引き起こされる果報の時期が現世であったり、死後・来世であったりというように異なるとされる。
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順現業
順現受業のこと。現世でなした業因による果報が同じく現世に現れる業をいう。順現報受業ともいう。三時業のひとつ。
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白癩
癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
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六親
妻(夫)・父母・子供・兄弟等。一般には六親等までの血縁者。
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災怪
災いや異変のこと。
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怨家
自分に対して怨をなす敵人のこと。互いに怨みあっている者。
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讎隙
仲たがい・不仲。
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侵逼
侵しおいつめること。
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順次生業
現世でなした業因による果報が現世のすぐ次の世で現れる業のこと。順生業・順次生受業ともいう。三時業のひとつ。
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毀謗
誹謗と同意。破りそしること。
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阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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畜生
飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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ここでの問いは、前問とは逆に、選択集を信ずる者、すなわち謗法を犯していながら今世に難にあわない者がいるのはなぜか、というものである。これに対し大聖人は「業力不定」によると仰せられ、「順現業」「順次生業」「順後業」の三時業によって、それぞれ難の受け方が異なっていると仰せである。
順現業は現世で造った業因が現世で果報となってあらわれるような業、順次生業は、現世で造った業が現世のすぐ次の世に果報となってあらわれるような業、順後業は現世で造った業が次の次の果報となってあらわれてくるような業をいう。
大聖人は本抄で特に順現業と順次生業の文証を挙げられている。最初の順現業の文証としては法華経、仁王経、涅槃経を挙げられている。法華経には「現世に」とあり、順現業をさすのは明らかである。また仁王経の文は、本抄に挙げられている文のあとに「死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」とあるので、本抄引用の部分は現世に受ける果報であることが分かる。また涅槃経の文も「臨終の時」「荒乱」等の災難を受けると説いているから現世の果報であることが分かる。なお、この涅槃経の文は、中間の省略されている部分にも「現身」に病苦や人々の悪口罵詈を受ける現世の果報を説いているが、現世の中でも特に臨終の時により重い刀兵・侵逼等の報いを受けることを説いた個所を挙げられている。
次の順次生業の文証は法華経、仁王経から引用されている。「命終して」「死して」等の記述から、順次生業であることは明らかである。なお仁王経の文は、先の同経の順現業の文に続くものである。
大聖人はこの三時業を挙げられ、臨終に至るまでの現世において果報を受けることがあること、また、すべて現世で果報となってあらわれるのではなく、次の生、次の次の生に果報となってあらわれるものがあることを明かされている。選択集を信じ謗法を犯していながら今世に果報を受けない者は順現業ではなく、順次生業、順後業であることが考えられるのである。大乗阿毘達磨雑集論では三時業のうち順次生業として五無間業を挙げている。また大乗義章では、順次生業の場合、現世に報いを受けないことについて「此の報重き故に、現に受くることを得ず。何が故に是くの如くなる。身、小なるを以っての故に則ち大苦無く、命、促なるを以っての故に便ち久悩無し。是の故に現在に重報を受けず」と説いている。すなわち、現世の身では重報を受けきれないためであると説いているのである。
これと相通じる問題として、開目抄では、末法の法華経の行者である大聖人を迫害する者に現罰がないのはなぜか、という問いを設けられ、それについて三つの理由を挙げられている。第一に、迫害されている正法の行者に前生の罪がない場合は、迫害する者にすぐ罰が出るが、行者が前世に罪がある場合は、迫害する者に直ちには罰が出ない。第二に順次生に地獄に堕ちると確定している者には現罰がない。第三に諸天善神が国を捨てるゆえに現罰がない、である。この第二については「上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし」(0231-14)と仰せである。すなわち、法華不信の者は仏種を断じているゆえに順次生に無間地獄に堕ちることが決定しているから、現世では罰が出ないと仰せられているのである。
これらの仰せを拝すると、現世に罰がでないことは、逆に、その者の犯した罪が大きいことのあらわれであるということなのである。
0085:05~0085:06 第15章 災難対治の方法を示すtop
| 05 問うて曰く如何にして速かに此の災難を留む可きや、 答えて曰く速に謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽 06 の祈請有りと雖も災難を留む可からざるなり、 -----― 問うていう。どのようにして速やかにこの災難を止めるべきであろうか。 答えていう。速やかに謗法の者を対治すべきである。もしそうでなければ、数えきれないほどの祈請を行っても災難を止めることはできない。 |
この段に至って、災難対治の方法についての問答に入る。災難をとどめる方法を問うたのに対し、大聖人は「謗法の者を治す可し」と簡潔に答えられている。「治す」とは対治で、誤っている者、害をなすものを打ち破ることをいう。「治」は治すの意であるが、相手の誤りを打ち破ることによって治すのである。したがって、災難をとどめるには、謗法を打ち破り謗法者を正すことが先決であると仰せられているのである。
大聖人は、謗法の者を治すことを「速かに」すべきであると仰せられている。これは一国に災難が差し迫っていることを示唆されている言葉である。本抄では、立正安国論のごとく自界叛逆難・他国侵逼難の二難の名を挙げての予言はしておられないが、自然災害が頻発し、ますます悲惨さを増している状況をみるならば、そして一方、謗法が野放しにされている以上は、更に大きな災害が起こることは、当然予想される。それを防ぐために「速かに」謗法の者を治すことが不可欠であるとして、このように仰せられているのである。
続いて「無尽の祈請有りと雖も災難を留む可からざるなり」と警告を発せられている。立正安国論に「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024-03)と仰せられているように、いかに多くの祈りをなしても謗法を放置したままならば、その効果は全くない。そればかりか、現実には謗法の邪法によって起請をしているのであるから、かえって災難は増すばかりである。経典のなかの、災難を防ぐ文だけを頼りにして、何が正法か、また正法を誹謗していることはないのか等を検証せず、自ら謗法を犯している諸宗の在り方、またそれを無批判に受け入れる社会の風潮を厳しく指摘されているのである。
0085:06~0085:09 第16章 布施を止めて災難を対治top
| 06 問うて曰く如何が対治す可き、答えて曰く治方亦経に之有り涅槃 07 経に曰く仏言く 唯一人を除いて余の一切に施せ正法を誹謗して是の重業を造る 唯此くの如き一闡提の輩を除いて 08 其の余の者に施さば一切讃歎すべし已上、 此の文の如んば施を留めて対治す可しと見えたり此の外にも亦治方是れ 09 多く具に出すに暇あらず、 -----― 問うていう。どのように対治すべきであろうか。 答えていう。対治の方法はまた経文にある。涅槃経に「仏は『ただ一人を除いて、その他の一切の衆生に施しなさい。…正法を誹謗してこの重い罪業を造るといった…一闡提の輩を除いて、その他の者に施すならば、すべて讃歎すべきである』といわれた」と説かれている。この文によれば、謗法に対しては布施を止めて対治すべきであると思われる。この他にもまた対治の方法は多く、すべてを出す余裕はない。 |
重業
重い罪業。正法誹謗の罪。
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一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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前問で災難をなくす方法は謗法を対治することであると答えられたのに対して、その「対治」の方法を問うている。大聖人は「治法」として涅槃経の文を引いて示される。涅槃経でといているのは、ただ一人を除いて他の一切に施すべきだということである。文としては施すことをほめたたえている勧門であるが、一闡堤に施してはならないとの誡門として引かれているのはいうまでもない。
除くべき「唯一人」とは一闡堤である。一闡堤は不信の者の意であるが、涅槃経のこの文中には、いかなる者を一闡堤というかについて記述している。
①悪言を発して正法を誹謗しながら慚愧の心のない者
②五逆罪を犯して慚愧の心がなく正法を護惜建立の心がない者
③仏法僧がないと説く者
を示している。章安大師はこれを
①犯重闡堤
②撥無闡堤
③謗法闡堤
に分類したが、本抄に挙げられているのは、このうちの犯重の一部である。しかし「正法を誹謗して」の部分を引用されているところから、謗法に主旨があり、大聖人は一闡堤を謗法として、これに施してはならないとされていたのである。
前章で述べたように、謗法を対治するのは、謗法の邪義を破折することである。これは仏法について学び通達している人に当てはまる実践である。では仏法について理解していない世俗の人はどうすればよいのか。それがここで示されている布施を止めることなのである。
当時の社会は災難の除去を祈ってもらうため、かえって謗法の諸宗に、さまざまな供養をしていた。大切なのは謗法への供養を止めることであるのに、その謗法に供養していたのであるから、まさしく正反対のことを行っていたわけである。そのことを大聖人はきびしく指摘されたといえよう。
災難興起由来では、涅槃経の引用の後、「世俗の道俗」が謗法一闡堤に供養するのみならず、謗法の教えを修しない大聖人を逆に謗法の者であると言って、世間の人々を誤った考えに堕としめていると指摘されている。そして、これこそ法華経勧持品の「悪世の中の比丘は、邪智にして…誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」のとおりの姿であると仰せられ、「仏の讃嘆するところの世中の福田をすてて、誡むるところの一闡堤に於いて、讃歎供養を加えるゆえに、弥貪欲の心盛んに、謗法の音天下に満てり、豈災難おこらざらんや」と結論されている。
なお、本抄の御文で大聖人は「此の外にも亦治方是れ多く具に出すに暇あらず」、災難の対治の方法がこのほかにもあるが略すと仰せられている。このはかの「治方」に当たるものは、立正安国論で引かれている仙予国王や有徳王の故事に関する涅槃経の文、また波斯匿王に仏が告げた守護付嘱の文などにあらわれていると考えられる。すなわち、安国論の問答で大聖人はまず、本抄で引かれている涅槃経の文を詳しく挙げられた後、仙予国王が、婆羅門が正法を誹謗するのを聞いてその命を断ち、その因縁で、以後、地獄に堕ちなかったと説いている涅槃経の文を示されている。そして殺に上・中・下があるが、一闡堤を殺すものはこの殺の中に入らないと経文等を挙げられている。
そのほか、有徳王が正法を受持する者を命をかけて守った王であること、その王が釈尊自身であることを示した経文を挙げられており、国王たる者、正法を受持する大聖人を守護してこそ災難を止めることができると言われているのである。この、謗法の命を断つこと、正法の行者を守ることを災難対治の方法として示された後、命を断つといっても、それは「釈迦の以前」のこと、すなわち遠い過去世のことであって「能忍の以後」すなわち現実においては謗法への布施を止めることが罪を斬ることに当たると仰せられているのである。安国論で仙予国王の故事に関わる文を示されたのは、それだけ事態の切迫さを北条時頼に知らせるためであったと拝されよう。
0085:09~0085:11 第17章 謗法苦治に罪があるかを問うtop
| 09 問うて曰く謗法の者に於て供養を留め苦治を加うるは罪有りや不や、 答えて曰く涅槃 10 経に云く、今無上の正法を以て諸王.大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属す正法を毀る者は王者.大臣・四部の衆当に苦 11 治すべし尚罪有ること無けん已上。 -----― 問うていう。謗法の者に対して供養を止め、厳しい対治を加えるのは罪になるか、どうか。 答えていう。涅槃経に「今、最高の正法を諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属する。…正法を毀る者に対しては、王者・大臣・四部の衆は必ず厳しく対治をすべきである。…この人々が罪になることはない」と説かれている。 |
宰相
①中国の官制。天子を補佐し国政を行うもの。②参議の唐名。奈良時代に設けられた令外の官で、大納言・中納言に次ぐ重職。③総理大臣・首相のこと。
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比丘尼
ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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法然の選択集の邪見にしたがっている謗法の者への供養をやめて厳しい対治を加えることは罪にならないのか、との問いを設けておられる。出家者への布施・供養をやめることは路頭に迷わせることになるから、これ自体「苦治」といえるのである。この問いに対して大聖人は、涅槃経の文を挙げて答えとされている。涅槃経の文は王や比丘等は正法を破る者に対して苦治すべきであり、それは決して罪にはならないと説いている。この文は、仏が無上の正法を王・大臣や出家在家に付属すと述べ、王・大臣らは真剣に仏法を学ぼうとする人を大事にすべきで、もし怠けてこれを学ぼうとせず正法を破る者があれば「苦治」すべきであると説いているものである。そのように説いてきた仏は、このように懈怠・破壊の者を苦治することは罪に成るか否かと大衆に問い、それに対して大衆は「不なり、世尊」と明確に否定する。それを承けて仏は、このような者を苦治することは罪にならないと断言している。仏はここで、自身のみでなく大衆に答えさせることによって、彼らに滅後の謗法者を苦治すべきことを託しているのである。
苦治とは厳しく対治することである。布施を止めるのが苦治であることはいうまでもないが、守護国家論では、この涅槃経の「苦治」の文を挙げ、それと並べて仙予国王の故事をひかれており、正法誹謗の者の命根を断つことも苦治として挙げられている。災難興起由来では、この涅槃経の文を挙げられた後、「一切衆生、螻蟻蚊虻に至るまで必ず小善有り、謗法の人に小善無し。故に施を留めて苦治を加うるなり」と仰せられている。螻蟻蚊虻のようなわずかな存在でも、なんらかの「小善」がある。しかし、謗法の者はそうした小善すらない、と仰せである。
これは謗法者たちは全く善を行っていないということではなく、法華経の大善を誹謗しているゆえに、小善は行っていてもすべて消滅し、ただ大悪となるということであると拝される。更に千日尼御前御返事には「弥陀念仏の小善をもつて法華経の大善を失う・小善の念仏は大悪の五逆にすぎたり」(1312-12)と、弥陀念仏を小善と認めても、法華誹謗という大悪で差し引さ切れて、かえって大悪となっていることを指摘されている。また南条兵衛七郎殿御書にも「善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり・すたれあばるれども念仏堂にあらずといひて・すてをきて・そのかたはらにあたらしく念仏堂をつくり彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす、此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしとみへはべり、これらをもつてしるべし善なれども 大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし」(1495-10)と仰せられている。諸宗の高僧らは、世間の人よりも小善はおおいであろう。仏道を行じていると思うだけで「善は但善を思ふ」のである。しかし、謗法の大悪のためにすべて消えて「大悪」になっている。そのゆえに大聖人は「小善無し」と仰せられているのである。したがった「苦治」を加えても罪にならないのである。当然のことながら、謗法の者に苦治を加えるのは謗法に目覚めさせ救うためであるから、その慈悲の行為はむしろ功徳となるのである。
0085:12~0086:03 第18章 仏法中怨を免れるために謗法破折top
| 12 問うて曰く汝僧形を以て比丘の失を顕すは罪業に非ずや、 答えて曰く涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊 13 る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せざれば当に知るべし 是の人は仏法の中の怨なり 若し能く駈遣し呵責し挙処 14 せば是れ我が弟子真の声聞なり」已上、 予此の文を見るが故に仏法中怨の責を免れんが為に見聞を憚からずして法 15 然上人並に所化の衆等の阿鼻大城に堕つ可き由を称す、 此の道理を聞き解く道俗の中に 少少は廻心の者有り若し 16 一度高覧を経ん人は上に挙ぐる所の如く之を行ぜずんば 大集経の文の若し国王有つて 我が法の滅せんを見て捨て 17 て擁護せざれば 無量世に於て施戒慧を修すとも 悉く皆滅失して其の国の内に三種の不祥を出さん 乃至命終して 18 大地獄に生ぜんとの記文を免かれ難きか、 仁王経に云く「若し王の福尽きん時は七難必ず起らん」と、 此の文に 0086 01 云く「無量世に於て施戒慧を修すとも 悉く皆滅失す」等と云云、 此の文を見るに且く万事を閣いて 先ず此の災 02 難の起る由を勘う可きか若し爾からざれば弥亦重ねて災難起る可きか、愚勘是くの如し取捨は人の意に任す。 -----― 問うていう。汝自身が僧の身でありながら、比丘の罪をあばくのは、罪となる行為ではないか。 答えていう。涅槃経に「もし善比丘がいて、正法を破る者を見てそのままにして置いて、叱り責め、追い払い、罪を挙げて処断することをしなければ、この人は仏法の中の怨敵であると知るべきである。もしよく追い払い、叱り責め、罪を挙げて処断するなら、この人は我が弟子であり、真に仏の声を聞く者である」と説かれている。私はこの文を見て「仏法の中の怨なり」の責めを免れるために、周囲の目や耳を気にかけずに、法然上人ならびにその門下の人々は阿鼻地獄に堕ちるであろうと言っているのである。この道理を聞いて理解する僧俗の中に少しは改心する者もいる。 もし一度この考え記した文を御覧になった人で、先に挙げた経文のとおりに行わないならば、大集経の文の「もし国王がいて、我が正法が滅びようとしているのを見て捨てて擁護しないならば、量りしれないほどの世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、その功徳善根は悉くみな失われて、その国の中に三種の災難が起こってくるであろう。…命終えてのち大地獄に生ずるであろう」との予言を免れることはできないであろう。 仁王経に「もし王の福徳の尽きる時は…七つの難が必ず起こるであろう」と説かれ、この大集経の文には「量り知れないほどの世において布施・持戒・智慧を修してきたとしても、その功徳善根は悉くみな失われて」等と説かれているのである。この文を見ると、しばらく万事を差し置いて、災難の起こる由来を考えるべきであろう。もしそうでなければ、ますます災難が起こるであろう。 愚かな自分の考えは以上のとおりである。取り上げるか捨て去るかは、その人の意に任せる。 |
罪業
罪悪の業。苦しみを招く因となる悪の行為。福業・善業・浄業に対する語。涅槃経巻二十に「一切衆生の所作の罪業に凡そ二種あり、一つには軽、二つには重なり、若し心口の作は則ち名づけて軽と為し、身口意の作は則ち名づけて重と為す」とある。罪業の中でも謗法は最も重い罪業で、無間地獄に堕ちる因となる。
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呵責
叱り、責めること。相手の罪禍を追求し責め立てること。
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駆遣
追い払うこと。駆は追う、遣は追う・はなつ等の意。仏教では、破仏法・正法誹謗の者を追放することをいう。
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挙処
その罪を検挙し、世を挙げて処分すること
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声聞
十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
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見聞
見たり、聞いたりすること。
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所化
能化に対する語。弟子のこと。能化を受ける人、化とは教化の義であり、教化する人を教化といい、教化される人を所化という。所とは能動に対して受け身の意味を持つ。仏に対して一切衆生を所化という。
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阿鼻大城
阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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廻心
改心のこと。悪心を転じて善心を起こすこと。
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最後に、自身が僧侶の身でありながら比丘の罪をあらわすのは罪にならないのか、という問いを設け、それに答えられるかたちで、大聖人がなぜ、あえて謗法の僧の誤りを明らかにするかを示して本抄を締めくくられている。この「自分が僧でありながら比丘の失を顕すのは罪業ではないか」との質問には、僧であるなら同じ仏教界の問題を摘発すべきでない。そうした行為は仏教そのものへの人々の信頼を傷つけるという考え方がある。この問いに対して、大聖人は比丘の罪を明らかにすることこそ、僧としての正しい行き方であることを説いた涅槃経の文を示されている。この文の底流にあるのは、仏法の正義と清流を守ることが仏法者の義務・責任であって、仏教集団を守ることや同じ僧としての権威を守ることではないというものでもある。もし、正法誹謗の者を見ながら「呵責し駈遣し挙処」しなければ、「仏法の中の怨」となることは、この点についての厳しい戒めなのである。この仏法中怨の責めを免れるために大聖人は、法然らが無間地獄に堕ちると言っているのである。と、すなわち“言わないことが逆に、僧として、罪になる”ことを示されているのである。
先に指摘されたように、仏教を滅ぼすのは仏弟子の中から仏の真意に背く我見・邪見を立てる者である。したがって仏教を守るためには、こうした敵、獅子身中の虫を打ち破ることであって、そうした者の存在を知りながらこれを「苦治」しないでいるのは、仏教破壊の手助けをしているのと同じになるのである。大聖人は、仏法中怨たることを免れるために折伏するということを書御抄で述べておられる。立正安国論には「余・善比丘の身為らずと雖も『仏法中怨』の責を遁れんが為に唯大綱を撮つて粗一端を示す」(0026-07)と仰せられ、聖愚問答抄には「仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り 慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす」(0496-08)また阿仏房御尼御返事には「日蓮は種種の大難に値うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。」(1307-07)更に曾谷殿御返事には「仏法中怨・倶堕地獄等のせめをおそれて粗国主にしめせども、かれらが邪義にたぼらかされて信じ給う事なし還つて大怨敵となり給いぬ」(1064-11)等々と仰せである。
大聖人はこれらの御抄で、涅槃経の文を引いて、大聖人が私心をもって言っているのではないこと、迫害されるのを恐れているのではないこと、言って迫害を受けるより言わないで仏法の罪を受けることのほうこそ恐れるべきこと、そして何より、これを言わなければ日本国を災いから救うことができないゆえに一身を顧みずに言っているのであると仰せられているのである。
この大聖人の「道理」を聞いて「道俗の中には少少は廻心の者有り」と仰せられている。「廻心の者」とは悪い心を廻らして善の心を起こすことで、直接的には大聖人の門下になることである。「道」とは出家者で、日昭・日朗らがこの時既に大聖人の弟子となっていた「俗」としては富木常忍・四条金吾・池上兄弟・工藤吉隆らが既にこの時期には入信していた。
また、入信はしていなくても、大聖人は協力的な「道俗」もいた。大聖人の立正安国論の上呈の際、協力したといわれる大学三郎熊本・宿屋左衛門光則などがそうである。
「若し一度高覧を経ん人は上に挙ぐる所の如く之を行ぜずんば」以下のくだりは、もし大聖人の教えを聞いても用いなければ、国に災難が起こるばかりか自身は地獄に堕ちるということで、厳しい戒めの御文である。そして「万事を閣いて先ず此の災難の起る由を勘う可こか」と仰せられ、そうしなければ、災難はいよいよ激しくなるばかりであろうと結論されて、「取捨は人の意に任す」と締めくくられている。
大聖人はあくまで、厳しい仏法の法理を示し早く一国の謗法を断ち、災難を防ぐべきであると諌められながら、しかし、それを用いるか否かは「人の意」によるとされ、決断はそれぞれの責任であり、主体性の問題であるとの姿勢を貫かれているのである。
0086~0096 念仏者・追放せしむ宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状top
はじめに
本抄は、御執筆の年月日が記されていないが、本文中に「正嘉二年二月十日評定」の記述があるので、それ以後に記されたことは明らかである。翌正嘉3年が3月に改元されて正元元年(1259)でこの年に鎌倉において御述作されたと推定されている。
正元元年(1259)は、日蓮大聖人が、建長5年に立宗されて、鎌倉の松葉ケ谷の草庵を拠点にして、末法の正法の弘通を開始されてから6年後にあたる。大聖人は御年38歳であられた。
安国論御勘由来に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風.同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申 四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033-01)と述べられているように、正嘉3年(1259)の春に大飢饉が起きたため、3月に改元され正元となったが、その後も、更に疫病が大流行している。
当時の世相は、ここに述べられているように、連年、大地震・飢饉・疫病と大災害が相次ぎ、民衆は苦悩に打ちひしがれていた。
大聖人は、何ゆえにこのような災難が連発して起こるのか、その根本的な原因を明らかにし、平和で安穏な社会を実現する方途を探るために、正嘉2年(1258)2月、駿河国・岩本実相寺の経蔵に入られ、一切経を閲覧されている。
岩本実相寺において、当時近くの天台宗寺院・四十九院で修学されていた日興上人がお側で給仕をし、願って大聖人の弟子となっている。
一切経の閲覧を終えられた大聖人は、翌正元元年(1259)には鎌倉に帰られて守護国家論を著述されている。守護国家論は、災難の原因の解明を、理路整然とした著述の形式で展開された、最初の著述といえる。
当時の日本が国を挙げて国土の安穏を祈りながら、ますます災難が起こっているのは、国を喪失させる悪法があるからであると述べられ、悪法とは法然の選択本願念仏集であると、断定されている。その内容は、翌文応元年(1260)7月16日鎌倉へ提出した立正安国論と同趣旨であり、安国論を執筆される準備段階として著されたものと拝することもできる。
一方、本抄は、仏法破壊の因である法然の専修念仏を破折し、対治される目的から、大聖人の2・3歳頃の過去に念仏宗の邪義たることを訴えて延暦寺等から出された奏上、それに応じて出された宣旨等を資料として書写し整理されたものである。
念仏の流行に対しては、早くからその教義的な誤りが諸宗によって指摘され、また、社会の混乱を招く事例が多発したことから、朝廷や幕府から、専修念仏の停止を命ずる宣旨や御教書等が何回も出されていた。大聖人はそれらをまとめることによって、念仏が亡国の邪法であることが社会的にも指摘、糾弾されていることを明らかにされ、そうした邪教を捨てて正法に帰するよう勧める一助としようとされたものと拝される。
「念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状」という題号は、念仏者の追放を命じた宣旨・御教書・諸寺の奏状、山門の下知状・申状等を勘えた書という意味であり、略して念仏追放宣旨事ともいう。
なお、五篇については、挙げられた宣旨・御教書・相承等の内容を五篇とされたものの、本抄中に「奏上篇」「宣旨篇」のみがあげられて、他の三篇は略されたものか、明らかではない。
本抄の内容は、初めに、大聖人が念仏停止を命じた宣旨等を集められた趣旨を述べられている。次に奏状篇として、南都と山門の奏状を挙げられている。また、宣旨篇として、宣旨ならびに御教書等を挙げ、最後に山門の下知状と申状を挙げられている。最後に結論として、専修念仏を停止し、廃すべきことを述べて、本書を結ばれている。
0086:01~0087:03 第一章 念仏停止の宣旨等を集めた趣旨明かすtop
| 念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状 正元元年 三十八歳御作 01 夫れ以みれば仏法流布の砌には天下静謐なり神明仰崇の界には国土豊饒なり、 之に依つて月氏より日域に覃ん 02 で君王より人民に至るまで此の義改むること無き職として然り。 -----― そもそも、よく考えてみると、仏法が流布したときは世の中は平穏であり、神を崇めるところは国土が豊かである。これによって、インドから日本にかけて君王から人民に至るまで、この義は改めることなき心理とされている。 -----― 03 爰に後鳥羽院の御宇に源空法師と云う者あり 道俗を欺くが故に専修を興して 顕密の教理を破し男女を誑かす 04 が故に邪義を構えて仏神の威光を滅し常に四衆を誘うて云く、 浄土三部の外は衆経を棄置すべし唱名一行の外は余 05 行を廃退すべし 矧んや神祇冥道の恭敬に於ておや 況や孝養報恩の事善に於ておや之を信ぜざる者は本願を疑うな 06 りと、 爰に頑愚の類は甚深の妙典を軽慢し無智の族は神明の威徳を蔑如す、 就中止観・遮那の学窓に臨む者は出 07 離を抑ゆる癡人なり三論・法相の稽古を励む者は菩提を塞ぐ誑人なりと云云。 -----― さて、後鳥羽院の御代に源空法師という者がいた。専修念仏を興し顕密の教えを破して道俗を欺き、男女を誑かす邪義を構えて仏神の威光を滅し、四衆に呼びかけて「浄土の三部経以外はすべての経を捨て置くべきである。阿弥陀仏の名号を称える修行以外の行を廃し退けるべきである。ましてや天神・地祇や闇の世界の鬼神に対する恭敬は廃すべきであり、ましてや孝養や報恩といった善行はなおさら退けるべきである。これを信じない者は阿弥陀仏の本願を疑っているのである」といっていた。それゆえ、かたくなで愚かな人々は甚深の妙典を軽んじ、無智の輩は神の威徳を蔑ろにした。とりわけ「止観業や遮那業を学ぶ者は迷いを離れることを抑える愚か者である。三論や法相の修行を励む者は悟りを塞ぐ狂人である」と言う者もいた。 -----― 08 之に依つて仏法・日に衰え迷執・月に増す然る間・南都北嶺の明徳・奏聞を経て天聴に達するの刻・源空が過咎遁 09 れ難きの間・遠流の宣を蒙むり配所の境に赴き畢んぬ、 其の後門徒猶勅命を憚からずして 弥専修を興すること殆 10 ど先代に超えたり違勅の至り責めても余り有り 故に重ねて専修を停廃し 源空の門徒を流罪すべきの由・綸言頻に 11 下る又関東の御下知・勅宣に相添う。 -----― これによって、仏法は日ごとに衰え、迷いの執着は月ごとに増したのである。そこで、奈良興福寺と比叡山延暦寺の高僧が上奏して天皇のお耳に入れたので、源空は咎逃れがたいとされ遠流の命を受け、流罪の地に赴いたのであった。その後、源空の門下はなおも勅命を恐れ慎むことなく、ほとんど前よりも専修念仏を興したのである。勅命に違反sることこの上なく、いくら責めても責め足りるものではない。ゆえに重ねて専修念仏を停め、源空の門下を流罪に処すべきであるとの仰せが、頻りに下されたのである。また、鎌倉幕府の命令も勅宣にそって出された。 -----― 12 門葉等は遁るべきの術を失い或は山林に流浪し或は遠国に逃隠す、爾してより華夷・称名を抛ちて男女・正説に 13 帰する者なり然るに又近来先規を弁えざるの輩・仏神を崇めざるの類・再び専修の行を企て猶邪悪を増すこと甚し。 0087 01 日蓮不肖なりと雖も 且は天下の安寧を思うが為・且は仏法の繁昌を致さんが為に強ちに先賢の語を宣説し称名 02 の行を停廃せんと欲し 又愚懐の勘文を添え頗る邪人の慢幢を倒さんとす、 勘注の文繁くして見難し知り易からし 03 めんが為に要を取り諸を省き略して五篇を列ぬ、委細の旨は広本に在くのみ。 -----― 門下等は逃げる方法を失い、山林をさすらったり、遠国に逃げ隠れした。そのため都や田舎にあっても称名念仏をなげうち、男女が正しい教説に帰すようになったのである。しかしながら、また近頃、先の法規を弁えない輩や仏神を崇めない連中が、再び専修念仏の行を企て更に邪悪の行為を増すこと甚しいものがある。 日蓮は未熟であるけれども、世の中の安穏を願うがために、一方では仏法を繁栄させんがために、ひたすら昔の賢人の言葉を説きのべて称名念仏の行を停め廃しようと思い、また凡遇な自分の考えたところの文を添えて、いささか邪人の慢心の幢を倒そうと思う。考え記された文は繁多であって、その趣旨を見いだすのが難しい。判りやすくするために、要点を取り出して他のもろもろを省き、略して五篇を列挙した。詳しい内容は広本にある。 |
静謐
平穏・泰平・世の中が穏やかに治まること。
―――
神明
神・神祇のこと。
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豊饒
「ほうじょう」とも読む。作物の実りが豊かであること。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
日域
日本のこと。
―――
後鳥羽院
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
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御宇
ひとりの天子の時代。
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源空法師
(1133~1212)。わが国浄土宗の元祖法然のこと。伝記によると、童名を勢至丸といい、母が剃刀をのむ夢をみて源空をはらんだという。15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。承元元年(1207)2月、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、法然は還俗させられて土佐国に流罪され、弟子の住蓮と安楽は処刑された。翌年、許されて京都に戻り、建暦2年(1212)80歳で没した。
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道俗
出家と在家のこと。
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専修
五種の正行の一つである正行を専ら修すること。専修は雑修に対する語。法然の選択集では、浄土往生を願うならば、ただひたすら称名念仏を修すべきことを説いている。
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顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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浄土三部
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
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唱名一行
阿弥陀仏の名号を称えることのみを行う修行のこと。
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神祇
天神地祇のこと。天の神と地の神をいう。
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冥道
①闇の世界のこと。冥界ともいう。地獄・餓鬼・畜生の三悪道。または特に地獄界をさす。②冥界を支配する鬼神・冥官・冥衆のこと。
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本願
仏・菩薩が過去世に衆生済度のために起こした請願。
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甚深の妙典
はなはだ深い妙なる法。①深遠微妙な正しい法。②南無妙法蓮華経のこと。
―――
憍慢
自らおごり高ぶって正法をあなどること。十四誹謗の第一。
―――
蔑如
ばかにし、軽蔑すること。「蔑」はないがしろにする。あなどるの意。
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止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
遮那
大毘盧遮那経業のこと。大毘盧遮那経を修習する天台密経の学行。
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出離
三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着すること。
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三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
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法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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菩提
菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
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南都
奈良のこと。京都(平安京)に対して南に位置するので、都であった奈良をこのように呼ぶ。
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北嶺
比叡山延暦寺のこと。
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明徳
聡明な徳。またそれを備えた人のこと。
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過咎
過ち・間違い・とが。
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遠流
都から遠いところに流罪すること。
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宣
宣旨のこと。天皇の詔や太政官の命令書。
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配所
流罪に処せられて送られる場所。
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門徒
①門人、教え子。②一宗・一門の出家・在家の信徒。③浄土真宗でいう在家の信徒「門徒宗」のこと。
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勅命
天皇の命令。詔。
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綸言
天子の言葉のこと。綸は組み糸のこと。天子の言葉はそのもとは糸のように細いが、ひとたび出て天下に達する時には綸のように太くなるとの意。
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関東
鎌倉の北条執権のこと。
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御下知
命令を下に伝え知らせること。指図・命令・指揮書など。
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門葉
一門の枝葉・末流の意で、一宗一派の流れを汲んだ者。
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遠国
律令制では、諸国を都からの距離によって近国・中国・遠国の三種類に分けていた。このうち遠国には、関東以北、越後(新潟県)以北、安芸(広島県の西部)・石見(島根県の西部)以南の各国、および土佐国(高知県)が含まれた。日蓮大聖人御誕生の地である安房国(千葉県の南部)も遠国の一つにあたる。
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華夷
中華・夷のこと。政治の中心から離れたところ。
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称名
仏の名を称えて、仏を心に念ずること。浄土宗では、ひたすら阿弥陀仏の名号を称えることをさす。
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勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
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慢幢
おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。
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勘注の文
物事を調査し意見を書き注した文章。
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広本
詳細な内容が記された書物。
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夫れ以みれば仏法流布の砌には天下静謐なり
初めに、仏法が流布した時には、世界は安穏であり、乱れることなく静かに治まったことは歴史的事実であり、インドから中国、日本に至るまで、為政者より庶民までもが、改むることなき事実として知られているところであると述べられている。
しかるに、日本では後鳥羽上皇の治世に、法然房源空が出て、専修念仏の邪義を唱え、浄土三部経以外の諸経はすべて捨てよ、称名念仏以外の修行をやめよ等と主張し、仏法に無知な人々を誑かしたと、念仏の流行が仏法を破壊した事実を指摘されている。
「専修を興し」とは、法然がその著・選択本願念仏集で、浄土往生を願うならば、ただひたすら念仏を修行すべきである、と説いたことをいう。浄土三部経以外の諸経による諸の修行を「雑行」として拝し、専ら念仏を称えることのみが「正行」であると主張したので、「専修」といわれた。
「顕密の教理を破し」とは、法然の専修念仏の主張が、顕教と密教、すなわち念仏以外の諸経をすべて否定して、「浄土三部の外は衆経を棄置すべし唱名一行の外は余行を廃退すべし」と主張したことをさしている。
法然は選択集に、「雑を捨て…定散の門を閉じ…聖道門を閣き…諸雑行を抛ち」と説いている。すなわち、浄土三部経に依る浄土宗を浄土門・易行道・正行とし、それ以外の諸経に依る諸宗を聖道門・定散門・難行道・雑行と呼び、そのすべてを「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と否定したのである。
しかし法然の主張は、中国・浄土教の祖である曇鸞・道綽・善導が立てた己義を、更に拡大し、こじつけたもので、経典にはなんの根拠もない邪義にすぎない。
立正安国論には「之に就いて之を見るに曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』の誡文に迷う者なり、是に於て代末代に及び人・聖人に非ず・各冥衢に容つて並びに直道を忘る・悲いかな瞳矇をたず痛いかな徒に邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えり」(0023-05)と指摘されている。
更に、浄土宗では、上のように仏教の信仰ばかりでなく、天神地祇を恭敬すること、父母への孝養、報恩などの世間の善行さえも否定して、この法然の教えを信じないものは弥陀の本願を疑う者であり、浄土に往生することはできない、と脅したのである。「弥陀の本願」とは無量寿経に説かれている阿弥陀如来の48種の誓願をいうが、特に第18願の「念仏を称える衆生を等しく浄土に往生させる」という願いをさした。
念仏者の主張を、唱法華題目抄には「只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て 阿弥陀如来・観音勢至等の法華経を説き給わん時聞いて悟を得んには如かじ然るに弥陀の本願は有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒等をも択ばず只一念唱うれば臨終に必ず弥陀如来・本願の故に来迎し給ふ」(0002-07)と述べられている。
法然の邪義に誑かされた人々は、法華経等の大乗経典を軽んじ、古来から崇められてきた神の威徳を軽視するようになり、また、比叡山等で顕教を学ぶ者は癡人であり、三論や法相の学者は誑人である等と誹謗したため、旧来の仏法各派は急速に衰え、念仏への迷執はいよいよ盛んになっていった。
そこで、奈良の興福寺や比叡山延暦寺等から、法然の専修念仏の主張が邪義であると指摘した奏上が朝廷に届けられ、これを承けて朝廷からは、法然を遠流するとの宣旨が出された。
具体的にいうと、元久元年(1240)に延暦寺の宗徒が念仏禁止を座主に迫ったため、法然は「七箇条起請文」と呼ばれた制誡を著して、門下に他宗を批判することを禁じ、門下190人に署名させ、それを叡山に示して難を免れたという事実がある。しかし翌元久2年(1241)10月には、興福寺の宗徒が、法然とその一派が念仏を称えて他宗を誹謗したことを挙げ、念仏停止を訴えた奏状を朝廷に提出したため、翌元久3年(1242)2月に院宣によって法然の弟子行空・遵西が捕えられて、流罪されている。
更に、建永2年(1207)2月、法然の弟子、安楽と住蓮が、院の女房と密通したとして後鳥羽上皇の怒りを招き、2人は処刑され、専修念仏は風俗を乱す邪教であるとの理由で禁止された。法然も僧籍を剥奪され、俗名藤井元彦として土佐に流罪されている。
この安楽と住蓮は、中国・浄土教の祖・善導の「往生礼讃」の中にある、昼夜六時に阿弥陀仏を礼讃する「六時礼讃」の偈文に節をつけ、僧俗で合唱することを始めた人々で、その哀調を帯びた六時礼讃の声は、特に女性に強い感動を与えたようで、庶民ばかりでなく、朝廷や院に仕える女房や局たちまでが念仏に帰依したという。2人は風紀を乱した罪で処刑され、法然も連座して流罪に処せられたのである。
念仏無間地獄抄には、「承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え 忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ」(0101-06)と述べられている。
なお、当時は院政が行われていた時代で、政治の実権は時の天皇ではなく、上皇が握っていたのである。
その後、順徳天皇の健保7年(1219)、後堀河天皇の元仁元年(1224)と嘉禄3年(1227)と安貞3年(1229)四条天皇の文暦元年(1234)と、ほぼ5年おきに念仏停止の宣旨が出されているが、このことは、本抄に仰せのように一時的には勢いは弱まっても、たちまち、それ以上に激しく拡がり全体的には年を追って拡大していったことを物語っている。鎌倉幕府も、宣旨を受けて、念仏停止を命じた御教書をしばしば出しているが、一向に効果がなかったようである。
大聖人は、近来、念仏の宗徒が、再び専修の行を企てて、いよいよ邪悪を増すことが甚だしいと指摘され、天下の安穏のため、仏法の繁盛のために、念仏を停止し、廃絶させたいと願い、自らの勘文を添えて、念仏の邪人の我慢の幢を倒そうとするものである、とされている。
なお、“引用した内容は、要旨のみをとって、必要のない部分は省略し、五篇をならべたもので詳細は広本にある”と述べられている。この場合の広本とは、原典という意味で、宣旨等をまとめて大聖人が書かれた「広本」があったわけではないと思われる。
0087:04~0088:03 第二章 念仏を弾劾した興福寺の奏上を引くtop
| 04 奏状篇詮を取りて之を注す委くは広本に在り。 05 南都の奏状に云く。 06 一、謗人謗法の事 07 右源空・顕密の諸宗を軽んずること土の如く沙の如く智行の高位を蔑ろにすること蟻の如く螻の如し、 常に自 08 讃して曰く広く一代聖教を見て知れるは我なり 能く八宗の精微を解する者は我なり 我諸行を捨つ況や余人に於て 09 おやと、愚癡の道・俗・之を仰ぐこと仏の如く弟子の偏執遥に其の師に超え 檀那の邪見弥本説に倍し一天四海漸く 10 以てアマネし事の奇特を聞くに驚かずんば有る可からず其の中殊に法華の修行を以て専修の讐敵となす、或は此の経 11 を読む者は皆地獄に堕すと云い 或は其の行を修せん者は永く生死に留まると云い 或は僅に仏道の結縁を許し或は 12 都て浄土の正因を嫌う、 然る間・本八軸十軸の文を誦し 千部万部の功を積める者も永く以て廃退し剰え前非を悔 13 ゆ、 捨つる所の本行の宿習は 実に深く 企つる所の念仏の薫習は 未だ積まず 中途に天を仰いで歎息する者多 14 し、此の外・般若・華厳の帰依・真言・止観の結縁・十の八九皆棄置す之を略す。 -----― 奏状篇。要点を取ってこれを記す。詳しく広本にある。 奈良、興福寺の奏状に次のように述べられている。 一、人を謗り、法を謗っている事。 右の条項についていえば、源空は顕密の諸宗を土や沙のように軽んじ、智慧と修行を備えた高位の僧を蟻や螻のように蔑ろにしている。そして、常に自讃して「広く釈尊一代の聖教を見て知っているのは私である。よく八宗の微細な点まで詳しく理解している者は私である。その私が諸行を捨てるのである。ましてや、他の人にあっては、なおさらそうすべきである」と言っている。愚かな僧俗が源空を仰ぐことは仏に対するようであり、弟子の偏った執着はその師を遥かに超え、檀那の邪悪な考えは本の教説よりもますます倍加し、世の中に次第に広まっている。言っている事の奇妙さを聞くと驚かずにはいられない。その中でも特に法華経の修行を専修念仏の仇敵としており、「この経を読む者は皆地獄に堕ちる」と言い、あるいは「その行を修する者は永く生死の苦しみに留まる」と言い、あるいは僅かに仏道の結縁を許し、あるいはすべての浄土への往生の正因を妨げるとしている。そのために、もと法華経八巻・それに開結を含めた十巻の文を千部万部と読誦して功徳を積んできた者も永く廃し退き、そのうえ、それまでの実践が間違いだったと悔いている。捨てたところの、もとの修行による悪業の宿習は実に深く、やろうとしているところの念仏の善業の熏習は未だ積んであないとして、中途に天を仰いでため息をつく者が多い。この他、三論宗・華厳宗の帰依や、真言宗・天台宗への結縁は、十人のうち八・九人はみな棄て置いている。以下これを略す。 -----― 15 一、霊神を蔑如する事 16 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔を承けて四海其の加護を仰ぐ、 而るに専修の輩永く神明を別えず権化 17 実類を論ぜず宗廟・祖社を恐れず若し神明を憑まば魔界に堕すと云云。 -----― 一、霊神を蔑ろにしている如事 右の条項についていえば、我が国はもともと神国である。百代の王は神の血筋をうけて、世の中はその加護を受けている。ところが、専修念仏の輩は永く神を弁えず権化か実類かを論ずることなく、天皇の祖先の霊を祀った社を恐れず、「もし神をを頼むならば魔の境界に堕ちる」と言っている。 -----― 18 実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹に至つては既に是れ大聖なり、 上代の高僧皆以て帰伏す行教 0088 01 和尚・宇佐の宮に参るに釈迦三尊の影・月の如くに顕れ仲算大徳・熊野山に詣るに飛滝千仭の水・簾の如くに巻く、 02 凡そ行基・護命.増利・聖宝・空海・最澄.円珍等は皆神社に於て新に霊異を感ず是くの若きは源空に及ばざるの人か 03 又魔界に堕つ可きの類か之を略す。 -----― 実類の鬼神については、さて置いて論じないとしても、権化の垂迹についていえば、まぎれもなくこれは大聖であり、昔の高僧はみな帰伏したのである。行教和尚が宇佐の神宮に参詣したときは、釈迦三尊の姿が月のように輝いて現れ、仲算大徳が熊野山の神社に詣でたときには那智の滝の千仭の水が簾のように巻き上がり観音菩薩が現れたという。だいたいのところ、行基・護命・増利・聖宝・空海・最澄・円珍等は皆神で新たに不思議な現象を感じている。このような人々は源空に及ばない人であろうか。また魔の境界に堕ちる者であろうか。以下、これを略す。 |
奏状
天皇に上申する内容を記した文書。
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南都の奏状
元久2年(1205)10月、興福寺の僧綱等が法然の専修念仏に9箇条の失があるとして上奏した興福寺の奏状。
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智行
智慧と修行、または知識と徳行。
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一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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一天四海
古代インドの世界観で、須弥山のまわりの四州を四天下といい、一天とは一閻浮提・全世界のこと。
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生死
生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
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結縁
仏法に縁を結ぶこと。成仏・得道の縁を結ぶこと。
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浄土の正因
浄土に往生する因のこと。浄土宗では浄土の三部経による修行を正行とし、それ以外の修行を雑行とした。法然は正行を浄土往生の要行として取り、雑行を捨てるべきであると説いた。
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八軸十軸
八軸は妙法蓮華経8巻のこと。開経の無量義経・結経の普賢菩薩行法経を加えて10巻。軸とは巻のこと。
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本行
①仏の悟りを開くための本となる修行。②行ってきた本の修行。
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宿習
宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
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念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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薫習
香気のない衣服も香をたけば次第に香気が沁み移るように、あるものが他のものに性を移すこと。熏習とも書く。小乗教の教量部では、色と心が互いに薫習するとして薫を説く。法相宗では、自己の身・口で起こす善悪の行動と意で起こす善悪の思想がその潜在的な力を第八識に残しとどめ、種子は更に現行を生じて薫習を繰り返すと説く。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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霊神
人や社会に加護をしたり治罰したりする不思議な力。
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神国
神が基を開き、また神明が加護する国のこと。日本国・神州ともいう。
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百王
『豊受皇太神御鎮座本紀』に神の託宣として「百王の鎮護孔だ照かなり」(続群1上ー46)とあり、百代の皇孫まで守護されるということが記されており、『立正安国論』が著されたのは、第90代亀山天皇の時であるから「百王未だ窮まらざるに」とある。また諌暁八幡抄には「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢(おわ)んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願破るるがごとし」(0587-10)とある。
―――
苗裔
末の血筋・遠い子孫・末裔・末孫。
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権化
権現・応化・灰身ともいい、権はかり、化は変革を意味する。仏・菩薩が衆生救済のために、通力をもって種々の身を仮に化身すること。
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実類
実際の業因によって果報を受けた衆生類のこと。権化に対する語。通力によって種々の姿を権に示現したのが権化であるのに対して、実類は業因のまま現れたものをいう。
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宗廟・祖社
ともに、先祖の霊を祭った宮殿のこと。
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魔界
魔の境界のこと。魔の住むところ、魔道ともいう。
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垂迹
「迹を垂れる」と読む。仏・菩薩が衆生を利益するために、種々の所にさまざまな身に姿を変えて現れること。またその身をいう。本地に対する語。もとの仏・菩薩が本地から真実身を隠して化現した姿が垂迹であり、それは本体と影・天月と地月の関係にたとえられる。
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大聖
偉大な聖人。智慧が広大無辺で徳が高く、三世を見通して誤りのない人。
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行教和尚
平安時代の大安寺の僧侶。父は山城守紀魚弼。仁和寺益信とは俗兄弟で、石清水八幡宮別当安宗の叔父にあたる。出家前の半生はよく分からない。大安寺で法相・三論・密教を学び、また日本天台宗の祖最澄の師行表や、真言宗の宗叡に師事したともいう。天安2年(0858)真雅の推挙により、藤原良房の外孫惟仁親王の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。しかし、親王がまもなく即位したことから、翌貞観元年(0859)改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭した。このとき神託を受け、翌貞観2年(0860)宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建した。貞観5年(0863)には伝燈大法師位に任じられた。
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宇佐の宮
大分県宇佐市にある神社。式内社、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。
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釈迦三尊
釈迦如来像を中尊とし、その左右に両脇侍像を配した造像・安置形式を釈迦三尊と称する。両脇侍として配される尊像の種類は一定ではなく、文殊菩薩と普賢菩薩、梵天と帝釈天、薬王菩薩と薬上菩薩、金剛手菩薩と蓮華手菩薩などの例がある。金剛手菩薩・蓮華手菩薩を配する例は、インドのアジャンター石窟群第1窟などにみられる。日本では左脇侍に騎獅の文殊菩薩、右脇侍に乗象の普賢菩薩を配する例が多い。
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仲算大徳
平安時代中期の法相宗の僧。奈良興福寺の空晴に師事。応和3年(0863)の法華経講論では南都仏教側の代表として北嶺天台宗の代表良源を屈服させた。安和2年(0986)熊野の那智に赴き、その年に没したとも、貞元元年(0976)に没したとも伝えられている。
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熊野山
和歌山県東牟婁郡にある熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社の三社をさす。熊野三社ともいう。主神には、本宮は家都御子神、新宮は熊野速玉神、那智は熊野夫須美神他をそれぞれ祭る。代々の天皇の尊崇はもとより、民間の信仰も厚かった。
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仭
高さや深さを測る単位。約90㌢。
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行基
(0668~0749)。奈良薬師寺の僧。和泉国大鳥郡の百済系渡来人の豪族・高志氏の出身。15歳で出家して法相宗を学んだのち、諸国を遊歴して衆生を教化し、多くの帰依者を得たという。朝廷は、その動きに不安を感じ、民心を惑わす者として弾圧したが、のちに公認した。天平15年(0743)の大仏建立誓願には全国的に勧進を行い、同17年(0745)に大僧正に任じられた。諸国遊歴の時、要害の地に橋をかけ、堤を築き、路を修し、開墾や水利に尽くして民利をはかったので、行基菩薩と呼ばれた。本朝法華験記には行基菩薩が日本第一の法華の持者であり、過去二万億日月燈明仏の時に妙光法師として法華経を受持していたとの記述がある。
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護命
(0750~0834)。護命僧都のこと。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学んだ。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著書に「法相研神章」などがある。
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増利
(0836~0928) 平安時代前期-中期の僧。承和3年(0836)生まれ。法相宗。紀伊の人。大和(奈良県)興福寺の学僧。興福寺で法相を、大安寺で真然に密教をまなぶ。延喜3年維摩会の講師。
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聖宝
(0832~0909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。
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空海
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
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最澄
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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霊異
すぐれて不思議な現象のこと。神仏などによって起こされる不思議な現象をいう。
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奏上篇には、南都と、山門が、浄土宗の祖・法然の謗法を弾劾した奏状が要約・抜粋して挙げられている。奏状とは、臣下あるいは民間にある人が政治上の意見を天皇に上申した文書のことである。
最初に挙げられているのは、元久2年(1205)10月に、奈良興福寺の僧綱大法師等の名で、法然の勧める「専修念仏の宗義を糺改せられんことを請うの状」として、専修念仏の誤りを9箇条に渡って挙げた、興福寺奏状である。
南都とは、京に都が遷されてから、かつての都であった奈良が南方にあたるので、奈良をさすのに使われた呼称である。それが仏教修学の中心として重きをなした比叡山延暦寺を北嶺というのに対して、奈良七大寺をさしていう場合が多くなった、この場合は、七大寺の中でも特に興福寺をさしている。
興福寺は、もともと藤原氏の氏寺であり、平安時代には、延暦寺に次ぐ広大な荘園と多数の僧兵を持ち、互いに争い合ったり、またその強大な力で京の朝廷に圧力をかけたりした。平安末期には平清盛に反抗したため、治承4年(1180)12月に平氏軍の攻撃を受け、興福寺は東大寺などとともに焼失した。その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝の援助を受けて再建された後も、興福寺の宗徒は、朝廷に強訴したり、武力をもって蜂起し、幕府とも抗争するなど、横暴な振る舞いが続いている。
法然の専修念仏の流行についても、延暦寺とともに強く反発しており、その表れが念仏弾劾の奏状となって、朝廷に提出されやものである。
興福寺の奏状を起草したのは、当時の南都仏教を代表する学僧といわれ、後鳥羽上皇の信頼が篤かった解脱房貞慶であろう、とされている。この奏状の提出を受けて、朝廷は法然門下への禁圧を決定している。
この奏状は、その末尾に「八宗同心の訴訟」とあるように、単に興福寺だけの意見ではなく旧仏教の俱舎・成実・律・華厳・三論・法相・天台・真言の八宗全体の意見をまとめたものであった。
現在、伝わっている興福寺奏状では、第一に新宗を立つるの失、第二に新像を図するの失、第三に釈尊を軽んずるの失、第四に万善を防ぐるの失、第五に霊神に背くの失、第六に浄土に暗この失、第七に念仏を誤れるの失、第八に釈衆を損ずるの失、第九に国土を乱すの失、の9箇条にわたって、法然の専修念仏が弾劾されている。
一、謗人謗法の事
「謗人謗法の事」の内容は、興福寺奏状の「第四に万善を防ぐるの失」にあたる部分と思われる。前半の文章は異なっているが「本八軸十軸」以下の文はほとんど同じだからである。大聖人が前置きの御文で「勘注の文繁くして見難し知り易からしめんが為に要を取り諸を省き」と仰せのように、理解しやすくするために若干、文章も変えられたと考えられる。
謗人謗法の事とは、法然の専修念仏の主張が、諸宗の人と法を誹謗し、廃れさせるものである、と弾劾しているので、その内容から付けられたものであろう。
初めに源空が、諸宗を軽んじ、高僧を蔑ろにし、八宗の奥義を知る者は我のみとする傲慢さを指摘している。
これは、既存の仏教宗派を否定し新しい信仰を興した法然としては、当然のことであったと思われる。
大聖人も守護国家論で「選択集は法華真言等の正法を定めて雑行難行と云い末代の我等に於ては時機相応せず之を行ずる者は千が中に一も無く仏還つて法華等を説くと雖も法華真言の諸行の門を閉じて念仏の一門を開く末代に於て之を行ずる者を群賊等と定め当世の一切の道俗に此の書を信ぜしめ此の義を以て如来の金言と思えり」(0069-11)と述べられているように、独断的な法然の主張は門下をますます過激な言動へ走らせた。
奏状には「愚癡の道・俗・之を仰ぐこと仏の如く弟子の偏執遥に其の師に超え 檀那の邪見弥本説に倍し一天四海漸く以て徧し事の奇特を聞くに驚かずんば有る可からず」とあるように、法然の主張が傲慢であればあるほど、それを信ずる弟子・門下は熱狂的な心酔を示し、それに輪をかけた邪見に暴走していったのである。
既存の八宗が基盤としたのは貴族階級であったが、平安末期はその貴族の体制が大きく揺らぎ崩壊して言った時代であった。諸宗の諸行を否定し、諸宗の行者を誹謗する専修念仏が庶民の支持を得て興隆を示していったのに対し、旧仏教の各宗派が衰退するのは当然であった。そうした時代の転換も絡んで危機感にかられた旧仏教側が、権力を動かして専修念仏を弾圧しようとしたのが、この奏状の目的だったのである。
奏状には、念仏者が、特に法華経を修行する者を敵視し、地獄に堕ちるとか、生死を離れられないなどと誹謗し、与えていう場合でも、法華経を行ずることはわずかな仏道との結縁にすぎないとし、浄土往生の正しい因とならないと唱えたことが挙げられる。
法然は、初め比叡山延暦寺に登って、天台の教学を学んだのであるから、法華経の最第一たることを知っていたはずである。しかも天台宗は、旧仏教のなかで最高の権威をもっていた。このことからも法然は法華経を下すことを不可欠と考えて、特に法華経を敵視し、誹謗したともいえよう。
開目抄に「道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと」(0200-07)と述べられているように、法然は法華経は理が深く末法の機根には合わないゆえに法華経を行じても一人として成仏する者はいない、と説いて人々に法華経を捨てさせ、念仏信仰に引き込んだのである。
このように法華経を讃めているようでありながら無益であるとしたのは明らかに誹謗であり、これこそ、法然のもっとも大きな罪なのである。しかも、それを信じこんだ念仏宗の人々は「法華経を信仰している者は地獄に堕ちる」などの極論まで吐くに至ったのである。これは法華経譬喩品の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん。其の人命終して、阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん」との仏説に真っ向から反するのである。
大聖人は、あくまで仏の金言をもとに一切衆生成仏と説かれた法華経を信ぜず無益なものと誹謗している念仏の輩こそ無間地獄に堕ちるとされ、「無間地獄」と破折されたのである。
また、法華浄土問答抄に、「日蓮管見を以て一代聖教並びに法華経の文を勘うるに未だ之を見ず、法華経の名を挙げて或は之を抛ち或は其の門を閉ずる等と云う事を、若し爾らば法然上人の憑む所の弥陀本願の誓文並びに法華経の入阿鼻獄の釈尊の誡文・如何ぞ之を免る可けんや、法然上人・無間獄に堕せば所化の弟子並びに諸檀那等共に阿鼻大城に堕ちんか」(0119-16)と法然を破されている。
奏状では、以上のような法然及びその門下の説を信じて、もとは法華経の一部八巻、または法華経八巻と開経の無量義経、結経の普賢経の二巻を読誦し、または法華経一部を千回・万回と繰り返し読誦して功徳を積んだ人々が、永久に法華経を読まないと法華経信仰を廃し退したうえ、法華経を読誦してきたことを深く悔いているという状態であること、なかには「これまでの法華経信仰の悪業による宿習は実に深く、念仏を修行した薫習は末だ積んでいない」として中途で天を仰いで嘆息する者までいることを指摘している。
その外、般若・華厳・真言・天台等の諸宗に帰依した者のうち、10人中8・9人は元の信仰を捨てて念仏に帰依した、といっている。奏状の性質から、誇張していっていることもあろうが、専修念仏の流行によって、諸宗が衰退したことは事実であろう。
一、霊神を蔑如する事
興福寺奏状の「第五に霊神に背くの失」にあたると考えられる。その内容・表現がほぼ同じだからである。
法然の門下が、仏教の諸宗派を否定しただけでなく、日本の伝統的な神への尊崇まで否定した事実が弾劾されている。
初めに、我が国は神国であり、100代の天皇は天照太神の末裔として国を治め、国中の神が加護を仰いできたにもかかわらず、専修念仏の輩は神の尊さを弁えず、仏・菩薩の権化である神と果報の結果の神について議論することなく、天皇の先祖を祀った社も恐れようとはせずに、もし神を頼むならば魔界に堕ちるであろうと誹謗している、と述べている。
更に、夜叉や鬼神等についてはさておいて、仏・菩薩が衆生を利益するために仮の姿をとって現れた神々は、もともと仏・菩薩や二乗などの大聖であり、過去の僧も皆、帰伏した対象であるにもかかわらず、念仏宗はこれらの神々をないがしろにしている、と指摘している。
仏や菩薩が、衆生を救済するために、種々の姿をとって現れるとみることを、本地垂迹説という。本地とは仏・菩薩の本来の身をいい、垂迹とは本地から迹を垂れることで、本地の真実の身を隠して仮の姿を現すことをいった。権化も、仏・菩薩が衆生を救済するために、通力によって種々の身を権に現することをいう。「権化の垂迹」とは、仏・菩薩が権化であり、垂迹の身である神、という意味で、日本では、我が国固有の信仰である神を、仏・菩薩の垂迹あるいは権化であると位置づけて崇めたのである。
そして、具体的な先例として奈良・大安寺の僧・行教が、宇佐八幡宮で託宣を受けた際、八幡の正体として釈迦三尊の姿を見たことや、法相宗の学僧仲算が、熊野山の那智滝の下で般若経を講じた時に、千手観音像が現れたことを挙げている。これらは伝説といえば伝説であるが、八幡の本地を釈尊とし、熊野の神の本地を観音として崇める根拠となっていったのである。奏状は、こうした、仏・菩薩の垂迹とされる神でさえ尊崇しない専修念仏徒を、弾劾しているのである。
また、奈良・薬師寺の僧・行基や、元興寺の護命、興福寺の増利、醍醐寺の聖宝、真言宗の祖・空海、天台宗の祖・最澄、延暦寺の五代座主・円珍なども、皆、神社において不思議な現象を感じたとされていることを挙げ、これらの人々は源空に及ばないというのか、また魔界に堕ちるべき人たちだというのか、と批判している。
当時、世間的に尊敬を集めていた諸宗の高僧の名を挙げて、彼らさえ尊崇している神を崇めないばかりか、否定しているのはおかしいではないかと専修念仏を弾劾しているのである。
0088:04~0089:04 第三章 延暦寺の念仏呵責の奏上を引くtop
| 04 山門の奏状に云く。 05 一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事。 06 右我が朝は神国なり神道を敬うを以て国の勤めと為す 謹んで百神の本を討ぬるに諸仏の迹に非ること無し、所 07 謂伊勢大神宮・八幡.加茂・日吉・春日等は皆是れ釈迦・薬師・弥陀.観音等の示現なり各宿習の地を卜め専ら有縁の 08 儀を調う乃至其の内証に随いて彼の法施を資け 念誦・読経・神に依つて事異なり世を挙げて信を取り人毎に益を被 09 る、 而るに今専修の徒・事を念仏に寄せて永く神明を敬うこと無し、 既に国の礼を失い仍神を無するの咎あり、 10 当に知るべし有勢の神祇定めて降伏の眸を回らして睨みたまわん之を略す。 -----― 延暦寺の奏状には次のように述べられている。 一、一向専修念仏の一党が神に背くのは不当であるという事。 右の条項についていえば、我が国は神国である。神道を敬うことを国の勤めとしている。謹んでもろもろの神々の本源を尋ねてみると、諸仏の垂迹でないものはない。いわゆる伊勢大神宮・八幡神社・加茂神社・日吉神社・春日神社の祭神は、みな釈迦仏・薬師仏・阿弥陀仏・観音菩薩等が身を変えて現れたものである。それぞれが前世からの習いによって定まった地を住所とし、自らの結縁を果たしたし、または、その内証にしたがって本地の仏の法施を助けているのである。念誦や読経などの所作は神によって異なるが、世を挙げて信じており、人はみな利益を受けているのである。ところが今、専修念仏の輩は念仏のみを重んじて永く神を敬うことがない。既に国の礼を失し、それに加えて神を蔑ろにする咎がある。勢力のある神祇はきっと降伏しようと眸んでおられるであろうことを知るべきである。以下、これを略す。 -----― 11 一、一向専修和漢の例快からざる事 12 右慈覚大師の入唐巡礼記を按ずるに云く 唐の武宗皇帝会昌元年章敬寺の鏡霜法師に勅令して 諸寺に於て弥陀 13 念仏の教を伝え寺毎に三日巡輪して絶えず 同じく二年廻鶻国の軍兵等・唐の界を侵す同じく三年河北の節度使・忽 14 ち乱を起す 其の後大蕃国更に命を拒む廻鶻国重ねて地を奪いぬ、 凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に起る 15 何に況や武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す撥乱すること能わずして遂に以て事有り已上取意、 是れ則ち恣に浄土 16 の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり 而るに吾朝一向専修を弘通してより以来・国衰微に属し俗多 17 く艱難す已上之を略す、又云く音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和 18 げばなり乱世の音は怨んで以て怒る 其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなりと云云、近代念 0089 01 仏の曲を聞くに理世撫民の音に背き已に哀慟の響を成す是れ亡国の音なる可し是四、已上奏状。 -----― 一、一向専修念仏は日本・中国の例からみて快くないという事。 右の条項についていえば、慈覚大師の入唐巡礼記を調べてみると「唐の武宗皇帝は会昌元年に章敬寺の鏡霜法師に命じて、諸寺に阿弥陀浄土念仏の教えを伝えさせた。寺ごとに三日ずつ巡り、絶えることがなかった。同二年に廻鶻国の軍兵等が唐の境界を侵した。同三年には河北の節度使が突然、反乱を起こした。その後、大蕃国が重ねて命令を拒み、廻鶻国は再び唐の領地を奪った。総じて兵乱は秦の項羽の時代と同様で、火災は村里あたりにまで起った。ましてや武宗は大いに仏法を破壊し、多くの寺塔を壊滅したのである。乱を治めることができずに、ついに滅びてしまった」という。以上は取意である。 これは則ち勝手気ままに浄土の教えを信じて護国の諸教を敬わなかったことによるのである。しかるに、我が国では一向専修念仏が弘通して以来、国は衰微の状態にあり、世間の多くの人が苦しみにあっている。以上これを略す。 また、音の哀楽で国の盛衰を知ることができる。諸経の序には「よく治まった世の音は安らかさがあって楽しさに溢れている。それはその政治が道に和していているからである。亡びる国の音は哀しみを含んで思いに沈んでいる。それはその国民が苦しんでいるからである」とある。近来の代の念仏の曲を聞いてみると、それは世を治め民を安んじる音に背き、既に哀しみ嘆きの響きを成している。これ亡国の音というべきである。これが四つ目である。以上が奏状である。 -----― 02 山門の奏状詮を取る此の如し。 03 又大和の荘の法印俊範.宝地房の法印宗源.同坊の永尊竪者後に僧都と云う並に題者なり等源空が門徒を対治せんが為に各 04 各子細を述ぶ其の文広本に在り、又諸宗の明徳面面に書を作りて選択集を破し専修を対治する書籍世に伝う。 -----― 延暦寺の奏状の要点を取ると以上のとおりである。 また、大和の荘の法印である俊範・宝地房の法印である宗源・同坊の永尊竪者(後に僧都となったという。ならびに題者であった)等が源空の門下を対治するために、各々がその子細を述べている。その文は広本にある。また諸宗の高僧がそれぞれに書を作って選択集を破折し、専修念仏を対治した書も伝えられている。 |
山門の奏状
貞応3年(1224)5月17日、延暦寺の3000の大衆法師等が、一向専修念仏の停止を求めて、その濫行を子細に述べた奏状のこと。内容は、弥陀念仏を以って別に宗を建つべからざる事・一向専修の党類神明に向背する不当の事・一向専修倭漢の例快からざる事・諸州の修行を捨て専ら弥陀仏を念ずる広行流布の時節末だ至らざる事・一向専修の輩経に背き師に逆らう事・一向専修の濫悪を停止し護国の諸宗を興隆せらるべき事、の6項目よりなっている。
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山門
三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
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一向専修
ひたすら称名念仏のみを修行すること。浄土宗の依経である無量寿経に「一向専念無量寿仏」とあるが、これを受けて法然が受けた教説で、余行を選び捨て、ただ一途に称名念仏の一行を修めよとの意。
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神道
日本固有の民族的信仰。「かんながらの道」ともいう。古代の氏族社会では祖先神を祭って氏族・部族の神として信仰し、更に大和朝廷の国家統一による社会活動の拡大にともない、氏神が整理されて国家の衆経として発達した。以後、仏教などの大陸思想の影響を受け、理論体系が整えられていった。奈良時代には仏教が重んじられるようになり、平安時代には自らの社会的位置づけのため民俗信仰と結び、仏が本地で、衆生救済のために日本に遣わしたのが神々であるとする本地垂迹説となった。しかし、鎌倉時代になると、蒙古襲来などによって神国思想がひろまるにつれ、反本地垂迹の考え方が強まり、伊勢新道が確立されていった。
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百神
多くの神のこと。
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迹
①本地に対する垂迹。②本仏に対する迹仏。③本門に対する迹門。
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伊勢太神宮
三重県伊勢市にある神社。内宮といわれる皇大神宮と外宮といわれる豊受大神宮とから成り、両宮のそれぞれに別宮・摂宮・末社などの所属の宮社を持つ。内宮は天照坐皇大御神、外宮は豊受大御神を祭神としている。
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八幡
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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加茂
京都市北区にある賀茂別雷神社(上社)と賀茂御祖神社(下社)神社のこと。
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日吉
滋賀県大津市にある日吉神社のこと。延暦寺の守護神。伝教大師が延暦寺を創建した時、法華守護のため三輪神を勧請して日吉大宮(大比叡)として祀り、従来の守護神であった大山咋神を二宮として祀ったことに始まる。
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春日
春日神社のこと。奈良県奈良市春日野町にある。藤原氏の氏神で興福寺の鎮守。
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薬師
薬師とは梵語( Bhaiṣajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
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弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
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観音
観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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内証
生命の奥底の悟り。外用に対する。
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法施
法の施しのこと。法布施ともいう。三施のひとつ。清浄な心をもって人のために仏法を説いて聞かせることをいう。
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念誦
仏の名や経文などを心に念じ、口に誦えること。
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読経
声を出して、経文を読むこと。
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有勢
勢力があること。人が自然のうちに畏れ敬い、従っていこうとする勢いと力を備えていることをいう。
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降伏
①戦いに負けて敵に従うこと、受動的意味。②威力をもって種々の魔や悪などを降し伏することで、能動的意味。
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慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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入唐巡礼記
慈覚著作の書。「入唐求法巡礼行記」四巻のこと。承和5年(0838)6月13日、太宰府を出帆して承和14年(0847)7月、筑前に入港するまでの10年間の紀行文。彼が入唐したのは文宗の開成3年で、武宗皇帝が即位した会昌元年はその4年後である。また帰朝したのは武宗崩御の翌年である。
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唐
(0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
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武宗皇帝
(在位0841~0847)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088)と述べられている。
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会昌
中国・唐の15代皇帝・武宗の治世の年号(0841~0846)この時期に仏教弾圧が行われた。三武一宗の法難の一つ。「会昌の廃仏」といい、以後仏教は衰微の一途をたどっている。
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章敬寺
中国の長安の通化門の東側にあった寺院。章敬皇太后のために建立したと伝えられる。
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鏡霜法師
中国・唐代後期、章敬寺に住していた浄土念仏の僧。
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回鶻国
(Uigur,Uighur)回紇とも書く。栄から元にかけて、蒙古・甘粛・新疆方面で活動したトルコ系の部族。唐代の中頃、突厥に代わって蒙古の覇を制した。はじめ唐の支配下に属していたが、のちにそむいてしばしば漢民族をおびやかした。現在のシベリアにいたキルギスに敗れ四散し一部は中国に遷って現在の新疆住民になったといわれる。
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河北の節度使
河北とは黄河の北方、後の山西省・山東省。節度使とは唐朝が辺境の異民族の侵入を防ぐために大軍を配置したが、その軍管司令官として置いたのが節度使である。しかるに、その節度使が地方の監察官を兼任し、やがて武力を背景に、一切の行政権・財政権を握り、軍隊を私兵化し、中央に脅威を及ぼすようになった。有名な玄宗皇帝が時の安禄山も河北・山東を地盤とする節度使であり、最後に唐朝を倒した朱金思も汴州宣武軍の節度使であった。
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大蕃国
吐蕃ともいい、チベットに対する唐宋時代の呼称。吐蕃は太宗・高宗時代の唐朝初期に唐の属国となり、則天武后、韋氏の唐朝混乱に乗じて離反、玄宗の開元の治を経てふたたび唐の規律がゆるむと、それに応じて離反している。ちょうど武宗即位前、チベットは廃仏派のダルマ王が暗殺され、混乱のなかから仏教と民間信仰のボン教が融合してラマ教が生まれようとしていた。巡礼記の「大蕃国名を拒み」とは、こうした民族意識の高まりによるものと思われる。
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秦項の代
秦は周代の末の春秋時代に覇を争った列国の一つであるが、政王のときに周および六国を滅ぼし統一を成し遂げた。これが秦の始皇帝である。しかし秦は三世王の世、建国16年で滅ぼされた。秦の後の天下を8年間にわたって争ったのが漢の沛公と楚の項羽で沛公の劉邦が勝って漢王朝を創建した。この間戦乱絶え間なく、民衆が困窮のどん底に陥ったのが「秦項の代」である。
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邑里
村里・集落
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浄土の一門
現実世界を穢土として嫌い、念仏によって死後の極楽浄土に往生を説く法門のこと。
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護国の諸教
国を護るのに効験があるとされた諸教のこと。古来、法華経・仁王般若経・金光明最勝王経を護国の三部経といおった。
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理世撫民
世を治め国を安らかにすること。
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大和の荘
比叡山の麓、東坂本にあった荘の名前。延暦寺71代の座主・慈円の臨終の場所となった小嶋房は、この地にあったといわれている。
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法印
①不変の真理である妙法という印。妙法という証明となるもの。②小乗教では三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂滅)、大乗教では諸法実相を法印とする。③僧位の最高位。法印大和尚位の略。
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俊範
鎌倉時代の天台宗の僧。奈良で法相をまなび、比叡山の範源に師事して天台学をおさめる。承久3年(1221)僧都、探題となる。後嵯峨上皇に止観をさずけ、近江(滋賀県)大和荘で静明、俊承らの後進をそだてた。通称は大和荘法印。著作に「肝心抄」など。
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宝地房
平安後期-鎌倉時代の天台宗の僧。証真ともいう。比叡山で隆慧、永弁らに師事。天台の伝統的教学の復興につとめる。竪者、探題などを歴任し、承元元年(1207)総学頭に任じられた。学問と著述に没頭し、源平の争乱を知らなかったという。号は宝地房。著作に「法華三大部私記」など。
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宗源
鎌倉時代初期の天台宗の僧。宝池房の弟子。
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永尊
鎌倉時代初期の天台宗の僧。宝池房に住し、後に僧都となり題者となった。
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竪者
比叡山延暦寺や奈良の興福寺などの大寺院で行われる経典の論義の席上,問者の反論に解答する役目の僧
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僧都
僧官の一つ。僧綱のなかの第2位。日本では推古 32 年(0624) にこの官位が設けられ,のち大,少,権大,権少の4種の階級に分けられた。正五位または正四位に叙された。
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題者
宗論等の論議に際し、その論題を選定し、問答の可非を判定する僧。
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選択集
法然の代表的著作で、選択本願念仏集という。当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)選述し、浄土宗の教義を十六章に分けて明かしている。その内容は、念仏以外の一代仏教を捨閉閣抛せよという破仏法の邪義で、当時においてすら並榎の定照から「弾選択」、栂尾の明慧から「墔邪輪」「荘厳記」をもって破折されている。
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山門とは、天台宗で園城寺を寺門というのに対し、比叡山延暦寺をこう呼んだ。第五代座主・円珍のころから、智証の門下と第三代座主・円仁の門流との分派対立が始まっている。中興の祖とされた第18代座主・良源の死後に、後任の座主をめぐって慈覚門下と智証門下が激しく対立した結果、正暦4年(0993)に智証門下が比叡山を下りて園城寺に入った。それ以後、延暦寺は山門、園城寺は寺門と呼ばれ、激しい対立抗争を繰り返した。一時、園城寺が興福寺と協力して、延暦寺と対抗したこともあった。
山門からの奏状は、貞応3年(1224)5月に延暦寺から専修念仏の停止を上奏して出されたものの抜粋である。なお、嘉禄3年(1227)10月にも、延暦寺の僧綱から念仏停止の訴状が提出された、という記録がある。
帝応3年(1224)は、興福寺から奏状が提出された元久2年(1205)から19年後にあたり、源空の死後、12年たっている。ただし、宣旨篇に建保7年(1219)の院宣があるように、この間も何度か上奏があったと考えられる。延暦寺の宗徒は嘉禄3年(1227)6月に法然の墓を破壊しており、10月には法然の著作・選択集の板木を焼いている。法然の死後も、念仏の流行が少しも衰えないことに、延暦寺側がいらだって、こうした一連の行動に出たものと思われる。
この事件のことは立正安国論にも触れられているが、念仏無間地獄抄には「法然房死去の後も 又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」(0101-09)と述べられている。
一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事
延暦寺の奏状のうち、専修念仏の輩が神明に違背しているのは不当である、と非難した文が引かれている。前に引かれた興福寺の奏状の「霊神を蔑如する事」と、表現は異なるが、その趣旨は共通しているといえよう。この奏状では、我が国は神国であり、神道を敬うことを国の務めとしてきたと述べ、神々の本地を尋ねれば諸仏の垂迹でないものはなく、伊勢の大神宮や八幡大明神・加茂明神・日吉明神・春日明神などは、皆、釈迦如来・薬師如来・観世音菩薩などが神の姿に身を変じて現れたものである。と述べている。このように天照太神・八幡を釈尊等の垂迹とする説は大聖人も用いて諸御書で述べられている。日眼女造立釈迦仏供養事には、「一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」(1187-04)と述べられている。
奏状では、それらの神々が、それぞれに宿習の地を選び、有縁の人々を守っているのであり、または、その本地の仏・菩薩を助けて法を人々に施す働きをしていると述べている。しかるに、専修念仏の輩は、阿弥陀如来のみを信ずべきだとして、これらの神々をいっさい敬わず、日本固有の礼を失い、神々を無視する罪を犯している。力ある神々は、さだめて悪を降伏する厳しい眼をもって、彼らを睨んでおられることであろう、と批判している。
一、一向専修和漢の例快からざる事
専修念仏が流布した場合、漢土においても、にほんにおいても、よからぬ結果を招いているとの歴史的事実を挙げて、念仏を弾劾している。初めに、延暦寺の第三代座主・円仁が、遺唐使・藤原常嗣に従って承和5年(0838)に唐に入り、同14年(0847)に帰国するまでに、唐の各地を旅行して見聞したことを記録した。入唐求法巡礼行記が引かれている。
それによれば、唐の武宗皇帝の会昌元年(0841)に武宗が章敬寺の僧・鏡霜法師に命じて、諸寺において阿弥陀仏の教えを弘めさせ、寺ごとに3日ずつ巡回させるなどして、念仏を重んじた。ところが、翌年の会昌2年(0842)にはウイグルの軍勢が唐の国境を侵略し、同3年(0843)には中国北部の河北の節度使が謀叛を起こした。その後も、チベットが唐の命を拒み、ウイグル国が唐の領土を奪うなど、かつての戦乱の時代のように国は揺れ、民衆は兵火に苦しめられた、その上に、武宗は晩年、仏法を憎むようになり弾圧して多くの寺塔を破壊したが、結局、平和の回復はならず、ついに滅びてしまった、と記している。
中国・唐王朝の第15代皇帝・武宗は、即位後、初めは念仏を重んじていたが、次第に道教に心を移し、道教を保護する一方で、会昌5年(0845)に大規模な仏教の弾圧を行い、多数の仏教寺院を破壊させ、大量の僧尼を還俗させた。これを「会昌の廃仏」といい、それ以後、中国仏教は衰微していった。
武宗が仏教を弾圧した理由は、仏教教団の腐敗堕落と、寺塔を建立するための費用が国家財政を疲弊させたためだとされている。奏状では、唐の衰微を浄土往生を説く法門を信じて、法華経等の護国の諸経を仰がなかったためであるとし、我が国においても一向専修念仏が弘通されてからは、国は衰微し、民衆は多くの難にあっている、と指摘している。法然が浄土宗を開いたのは、承安5年(1175)である。その後、この奏状が書かれた貞応3年(1224)までのわずか50年の間に、源平の合戦、平家の滅亡、鎌倉幕府の成立、奥州藤原氏の滅亡、源氏の将軍が3代で断絶、承久の乱による3上皇の配流など大変動が続いて、政治の実権が京都の朝廷から鎌倉幕府へ移り、「武士の世」が到来している。まさに政治の実権が関東に移ったことは度重なる天災地変による深刻な被害を別にしても、朝廷・貴族をよりどころにしてきた山門の人々にとっては「国衰微に属し」であったにちがいない。
しかも、この間の戦乱、洪水、地震、暴風雨、旱魃などの災害の連続は、民衆を苦悩に陥れた。奏状は、これらを「俗多く艱難す」として、その原因が専修念仏の弘通にあると弾劾しているのである。
なお、大聖人は、立正安国論で、延暦寺の奏状と全く同じ慈覚の入唐順礼記の文を引かれた後に、日本における先例として「此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(0025-16)と述べられている。
唐の武宗は、念仏を流布させた結果、国を傾けたが、我が国でも法然が専修念仏を弘通しはじめた時期の国主だった後鳥羽上皇が朝廷の衰微の悲運を味わったのである。すなわち上皇は、鎌倉幕府の3代将軍・源頼朝が暗殺されたことを好機として、承久3年(1221)5月に執権・北条義時を追討する宣旨を発したが、かえって幕府の大軍に破られ、流罪された隠岐の地で寂しく死んでいる。大聖人は後鳥羽上皇の現証を、武宗の例と同じで、念仏を流布させた害毒による、と指摘されている。
武宗は、また、そお時代に流行する音の響きが国の盛衰をあらわしているとして、詩経の序分に、治まっている世の音が安らかで楽しいのは、その政が和らいからであり、乱れた世の音が怨みと怒りに 満ちているのは、そお政が乖だからである。亡国の音は哀れであり、それは民衆が苦しんでいるからである等と述べていることを、その例証としている。そして、最近、流行の念仏を唱える声を聞くと、世を治め民を安んずる音ではなく、悲しみ嘆くような響きがあり、世をはかなみ、身の不幸を嘆く悲しい調子を帯びているのは、亡国の音だからであろう、と批判しているのである。なお、大聖人は、上野殿御返事では、「念仏宗と申すは亡国の悪法なり、このいくさには大体・人人の自害をし候はんずるなり、善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509-08)と、念仏が亡国の悪法であるとともに、浄土を求めて自害の心を起こさせ、自身を滅ぼす法である、と指摘されている。
大聖人は、山門の奏状の要旨を紹介した後に、天台宗の俊範、宗源、永尊等が、源空門下を対治するために著した論文があり、その他の諸宗の学匠たちも、選択集の内容を破り、専修念仏を批判した著著があることを紹介されている。
俊範・宗源・永尊等が念仏を弾劾した文については、大聖人の弟子・日向の著、金網集にその一部が紹介されているのみで、詳しい内容は不明である。その他、専修念仏を批判した書には、華厳宗の高弁の墔邪輪、天台宗・園城寺の公胤の浄土決疑抄、延暦寺の定照の弾選択などがある。
このように諸宗の高僧たちが法然破折の書を著したが、浄土宗の勢いを止めることはできなかった。それは、大聖人が守護国家論で「此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り所謂・浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり、此の書を造る人・皆碩徳の名一天に弥ると雖も恐くは未だ選択集謗法の根源を顕わさず故に還つて悪法の流布を増す、譬えば盛なる旱魃の時に小雨を降せば草木弥枯れ兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し」(0037-01)と述べられているように、法然の邪義を根底から破折しきれていなかったからである。
0089:05~0092:11 第四章 念仏者追放の宣旨等を挙げるtop
| 05 宣旨篇 06 南都北嶺の訴状に依つて専修を対治し行者を流罪す可きの由 度度の宣旨の内今は少を載せ多を省く委くは広本 07 に在り。 08 永尊竪者の状に云く 弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を 09 謗ず法然上人の墓所は 感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、 七 10 月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く 清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩 11 身を容れし草菴に於ては 悉く破郤せしめ畢んぬ 其の身に於ては使庁に仰せて 之を搦め取らるるの間・礼讃の声 12 黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、 張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず 山門今に 13 訴え申し候なり。 14 此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり 天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持 15 並に其の印板を大講堂に取り上げ 三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由 奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下さ 16 れ候か、恐恐。 17 嘉禄三年十月十五日 -----― 宣旨篇 奈良興福寺と比叡山延暦寺の訴状によって、専修念仏を対治しその行者を流罪すべきであるとの宣旨が度々出されたが、そのうち、今は少しを掲載して多くは省略する。詳しくは広本にある。 永尊竪者の状には次のように述べられている。 「弾選択等を上奏された後、比叡山延暦寺の大衆に披露したところ、弾選択に対しては誰もがこれを賞賛し、顕選択は多くの人がこれを誹謗した。法然上人の墓所は感神院の犬神人に命じてこれを破壊させた。このことについては、その後、天皇に申し上げて裁許を受けた。七月の上旬に法勝寺の御八講が行われた際、延暦寺より興福寺に次のように告げた『清水寺や祇園社のあたりの、興福寺と延暦寺の末寺の地所で専修念仏の輩が居住している草庵はことごとく破壊させ、それらの輩の身柄は検非違使庁に命じてこれを捕縛させた。これにより、阿弥陀仏を礼讃する声や念仏僧の黒色の衣は京都のなかですべて制止した。張本人の三人は流罪と決定したけれども、逃走してしまったため末だ流罪地に向かっていない。延暦寺は今もそのことについて訴え出ている』と。 この十一日の延暦寺の評議では『法然房が造った選択集は謗法の書である。これを世の中に留め置いてはならない。よって、あちこちで所持している選択集ならびにその印刷の版木を大講堂に取り上げて、三世の仏恩を報ずるために焼失すべきである』ということになり、その旨を天皇に申し上げた。重ねて命を下されるであろう。恐恐。 嘉禄三年十月十五日」 -----― 18 専修念仏の張本成覚法師.讃岐の大手嶋に経回すと云云実否分明ならず慥にタシカ知を加えらる可きの由.山門の人 0090 01 人申す相尋ね申さしめ給う可きの由殿下の御気色候う所なり仍つて執達件の如し。 02 嘉禄三年十月二十日 参議範輔在り判 03 修理権亮殿 -----― 専修念仏の張本人である成覚法師が讃岐の大手嶋方面を回っていると言われる。事実か否か明らかではない。明確に調査を行うべきであるということを延暦寺の人々が言っている。調べて報告させるようにというのが殿下の御意向である。よって以上のとおり通達する。 嘉禄三年十月二十日 参議範輔在り判 ・ 修理権亮殿 -----― 04 関東より宣旨の御返事 05 隆寛律師の事、 右大弁宰相家の御奉書披露候い畢んぬ、 件の律師去る七月の比・下向せしむ鎌倉近辺に経回 06 すると雖も京都の制符に任せ念仏者を追放せらるるの間奥州の方へ流浪せしめ畢んぬ云云、 早く在所を尋ね捜して 07 仰せ下さるるの旨に任せ対馬の嶋に追遣可きなり、 此の旨を以て言上せしむ可きの状 鎌倉殿の仰せに依つて執達 08 件の如し。 09 嘉禄三年十月十五日 武蔵守在り判 10 相模守在り判 11 掃部助殿 12 修理亮殿 -----― 宣旨に対する関東からの御返事。 隆寛律師の事について、右大弁宰相家の御奉書を拝見した。上記の律師は去る七月頃、都より下ってきて鎌倉近辺を回っていたけれども、京都からの念仏禁制の命令に従って念仏者を追放したために、奥州の方へ流浪してしまったということである。早急に居場所を捜し出して、命じられた趣旨に従って対馬の嶋に追いやるであろう。この旨を申し上げるようにとのこと、鎌倉殿の仰せによって以上のとおり通達する。 嘉禄三年十月十五日 武蔵守在り判 相模守在り判 掃部助殿 修理亮殿 -----― 13 専修念仏の事、 停廃の宣下重畳の上偸かに尚興行するの条更に公家の知しめす所にあらず偏に有司の怠慢たり 14 早く先符に任せて禁遏せらる可し、 其の上衆徒の蜂起に於ては 宜く制止を加えしめ給うべし天気に依つて言上件 15 の如し、信盛・頓首恐惶謹言 16 嘉禄三年六月二十九日 左衛門権佐信盛奉 17 進上 天台座主大僧正御房政所 -----― 専修念仏を停め廃すべしとの宣旨が度重ねて下っているのに、なおも密かに行われているということであるが、これは、全く公家の関知するところではない。ひとえに所轄の役人の怠慢である。早く先の命令に従って禁止させるべきである。そのうえ、宗徒の蜂起に対しては、ぜひとも制止を加えられるべきである。天皇の御意向によって以上のとおり申し上げる。信盛・頓首恐惶謹言 嘉禄三年六月二十九日 左衛門権佐信盛奉 進上 天台座主大僧正御房政所 -----― 18 右弁官下す 延暦寺 0091 01 早く僧の隆寛・幸西・空阿弥陀仏の土縁を取り 進すべき事の書・権大納言源朝臣雅親勅を宣奉するに件の隆寛 02 等の坐せらるること配流宜く 彼の寺に仰せて度縁を取り進せしむ可し、 者れば宜く承知して宣に依つて之を行う 03 べし違失ある可からず。 04 嘉禄三年七月六日 左太史小槻宿禰在り判 05 左少弁藤原朝臣在り判 -----― 右弁官下す 延暦寺 早く僧の隆寛・幸西・空阿弥陀仏の僧尼許可証を取り上げるべきことについての書。 権大納言・源朝臣雅親が奉勅を宣する。上記の隆寛等の罪科は配流であり、すべからく、彼の寺に命じて僧尼許可証を取り上げるべきである。というわけで、よろしく承知のうえ宣旨に従って、間違いなくこれを実行すべきである。 嘉禄三年七月六日 左太史小槻宿禰在り判 左少弁藤原朝臣在り判 -----― 06 大政官の符・五畿内の諸国司まさに宜く専修念仏の興行を停廃し早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟の留まる 07 処に禁法を犯す所の輩を捉え搦むべきの事。 08 弘仁聖代の格条眼に在り左大臣勅を宣奉し宜く五畿七道に課せて 興行の道を停廃し違犯の身を捉え搦むべし、 09 者れば諸国司宜く承知して宣に依つて之を行え符到らば奉行を致せ。 10 嘉禄三年七月十七日 修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣 11 修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰 -----― 大政官の符 五畿内の諸国司は必ず専修念仏の行為を停め廃し、早急に隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟の留まる所にあって禁制の法を犯している輩を捕縛すべきであるとのこと。 弘仁の御代の格の条文は眼前にあるように明らかである。左大臣が奉勅を宣する。必ず五畿七道に命じて念仏を興す行為を停め廃し、違犯する者の身柄を捕縛すべきである。というわけで、諸国司はよろしく承知のうえ宣旨に従っておれを実行せよ。符が到着したならば実行せよ。 嘉禄三年七月十七日 修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣 修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰 -----― 12 専修念仏興行の輩停止す可きの由五畿七道に宣下せられ候い畢んぬ、 且つは御存知有る可く候、 者れば綸言 13 此の如し之を悉にせよ、頼隆・誠恐頓首謹言。 14 嘉禄三年七月十三日 右中弁頼隆在り判 15 進上 天台座主大僧正御房政所 -----― 専修念仏を行う輩を停止すべきであるとの宣旨を五畿七道に下された。それとともに御存知になるであろう。というわけで、天皇の御言葉はこのようである。これを承知されるべきである。頼隆・誠恐頓首謹言。 嘉禄三年七月十三日 右中弁頼隆在り判 進上 天台座主大僧正御房政所 -----― 16 隆寛対馬の国に改めらる可きの由宣下せられ畢んぬ、 其の由御下知有る可きの旨仰せ下さる所に候なり此の趣 17 を以て申し入れしめ給う可きの状件の如し。 18 右中弁頼隆在り判 0092 01 中納言律師御房 -----― 隆寛の流罪地は対馬の国に改められるべきであるとの宣旨が下され、そのことを知らせようにとの旨を仰せ下された。この趣旨をもって申し入れさせるべき書状は以上のとおりである。 右中弁頼隆在り判 中納言律師御房 -----― 02 隆寛律師専修の張本たるに依つて 山門より訴え申すの間・陸奥に配流せられ畢んぬ而るに衆徒尚申す旨有り仍 03 つて配所を改めて対馬の嶋に追い遣らる可きなり、 当時東国の辺に経回すと云云 不日に彼の島に追い遣らる可き 04 の由関東に申さる可し、者れば殿下の御気色に依つて執達件の如し。 05 嘉禄三年九月二十六日 参議在り判 06 修理権亮殿 -----― 隆寛律師は専修念仏の張本人であり、延暦寺より訴えがなされたため、陸奥に流罪に処された。しかしながら衆徒よりなお申し入れがあり、流罪地を改めて対馬の島に追いやられるべきである。現在、東国のあたりにいるといわれる。日を置かずに彼の島に追いやられるべきであるとの趣旨を関東の鎌倉幕府に申し上げていただきたい。というわけで、殿下の御意向によって以上のとおり通達する。 嘉禄三年九月二十六日 参議在り判 修理権亮殿 -----― 07 専修念仏の事、 京畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、 而るに諸国に尚其 08 の聞え有りと云云、宣旨の状を守りて沙汰致す可きの由・地頭・守護所等に仰付けらる可きの由・山門訴え申し候御 09 下知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可きの由殿下の御気色候所なり、仍つて執達件の如し。 10 嘉禄三年十月十日 参議在り判 11 武蔵守殿 -----― 専修念仏の事について、京畿七道に命じて永く停止されるべきとの宣旨を、先日、下された。しかしながら、諸国になお専修念仏を行う者がいるといううわさがある。宣旨の状を守って取り裁くべきとの旨を地頭・守護所等に申し付けられるべきであるとの延暦寺の訴えが出ている。その旨、指図していただきたい。この趣旨を通達せよというのが殿下の御意向である。よって以上のとおり通達する。 嘉禄三年十月十日 参議在り判 武蔵守殿 |
宣旨
天皇の詔。朝廷から出される詔文書。
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弾選択
①並榎堅者・定照の著・1巻。②仏頂房隆真の著・2巻。いずれも法然の選択集を弾呵した書。
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山上
①山頂のこと。②比叡山延暦寺のこと。
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顕選択
法然の弟子・隆寛が著した書。並榎の堅者・定照が弾選択を造って選択集を非難したのに対し、反論した書。
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法然上人
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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感神院
祇園神社の別号で八坂神社のこと。貞観18年(0876)神託と称し播磨国広峰から牛頭天王のを移したのがはじめで、観慶寺感神院と号し、興福寺の所管に属した。天延2年(0974)3月、延暦寺別院、日吉社の末社となった。祇園祭の宮司社として有名。
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犬神人
平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、祭儀その他の雑務を努めた人。祇園社の犬神人の場合は、境内の掃除をして不純物を捨てたり、靴や弓矢を作って行商していた賎民である。祭りの前には、神輿の前を行って道路の清掃などもした。一説には蝦夷討伐で捕らえた人を神社が買い取り、奴隷として扱ったともいわれている。
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奏聞
奏上のこと。天子や君主に進言すること。
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法勝寺
平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河にあった、六勝寺のひとつである。白河天皇が承保3年(1076)に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。
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御八講
法華八講のこと。法華経八巻を八座に分けて、一座に一巻ずつ講ずること。わが国では平安時代以降、中世にかけて盛んに行われた。金光明最勝王経を八座に分けて講ずるものをいうこともある。
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清水寺
京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
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祇園
京都市東山区にある祇園社。およびその周辺。
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使庁
検非違使庁のこと。検非違使が執務を行う役所。衛門府内に置かれた。使の庁。靫負の庁
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礼讃
① ほめたたえること。ほめ尊ぶこと。 「先人の業績を-する」 「 -者」 ② 仏を拝み,その功徳をほめたたえること。
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黒衣
① 黒い色の衣服。② 僧侶や尼僧の着る墨染めの衣。
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京洛
都・京都のこと。
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逐電
逃げ去って、行方をくらますこと。
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僉議
多人数で評議すること。また、その評議。衆議。
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印板
昔、文書や図画などを印刷するのに木板に彫刻して紙とすり合わせた印刷方式の原板。材料は主に桜や黄柳。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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成覚法師
(1133~1247)成覚房幸西のこと。正確には生没年不詳。姓は物部氏。はじめは比叡山西塔南谷鐘下房におて天台の経疏を学んだが、弟子の死にあって無常を感じ、法然をたずねて弟子入りした。36歳の時という。その後、承元元年(1207)法然が土佐に流されたときには阿波に流された。嘉禄3年(1227)にも伊豆に流されたという。また一念義を主張したために、法然からも附仏法の外道と責められて擯出させられたともいう。一念義とは、一度、念仏を唱えれば、それで往生は決定してしまうのだから、多く唱える必要はないという説。それに対して、できるだけ多く唱えて弥陀に恩を報ずべきだというのが念仏で、法然自身、日に六万遍唱えたといっている。すでに法然の在世中から批判する弟子は跡をたたなかったのである。
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讃岐の大手嶋
香川県丸亀市にある手島。からさらに南西1.3㌔のところにある島を小手島ということから、手前の手島を大手島といったものと思われる。
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殿下
①太皇太妃・皇太后・皇妃の敬称。②摂政・関白・将軍の敬称。
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御気色
①.顔色。表情。機嫌。 出典平家物語 三・足摺。② 意向。意図。
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執達
上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。
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参議
律令制のもとで設けられた朝廷の官職名。令外の官。その地位は大臣,納言の次に位する重要なもので参議以上が公卿と呼ばれた。大宝2 年(0702) 5月に初見し、のち一時廃止されたが、弘仁元年 (0810) に再び設けられたとき,定員は8人と決められた。
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範輔
(1192~1235) 鎌倉時代の公卿。建久3年生まれ。平親輔の子。蔵人頭、右大弁などを歴任して嘉禄2年参議。寛喜4年正三位となり、文暦元年権中納言。文暦2年7月25日死去。44歳。
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隆寛律師
(1148~1228)。平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての浄土宗の僧。父は少納言藤原資隆。字は皆空無我・道空無我。浄土宗長楽寺流の祖。多念義を説く中心人物。
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右大弁宰相
右大弁を兼任した参議の職にある者のこと。
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制符
禁止・制約すべき事柄を書いた文書。
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奥州
東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。
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対馬
日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。対馬の大半を占める主島の対馬島のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国や対州、また『日本書紀』において対馬島と記述されていた。旧字体では對馬。
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武蔵守
(1242~1282)北条義政のこと。初名は時景。文永2年(1265)に引付衆、同4年に評定衆、同7年に引付頭人を経て同10年(1273)に執権北条時宗を補佐する連署となる。だが建治3年(1277)には連署職を辞して出家。信濃国(長野県)に赴き、その所領・塩田で没する。行年40歳。
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相模守
相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
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掃部助
律令制で、宮中の掃除や、儀場の設営などをつかさどる役所。また、その職員。弘仁11年(820)、宮内省の内掃部司と大蔵省の掃部司とを併合して掃部寮とし、宮内省に属した。かもりづかさ。かもんづかさ。
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修理亮
平安時代に設置された令外官。和名は「をさめつくるつかさ」。
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公家
朝廷に仕えるもののこと。本来は天皇・朝廷をさすが、武家に対して朝廷に仕えた貴族・官人の総称となった。
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有司
官僚が独断的に事を取り計らうこと。明治初期、自由民権派が藩閥政府による専制的政治を非難したときに用いた語。
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先符
以前に発令された官符・制符。
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禁遏
禁じて押しとどめること。
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天気
①気象の状態。②天皇や主君の気持ち。
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信盛
(1193~1270)鎌倉時代前期の公卿(参議)。 非参議藤原盛経の長男。
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頓首
①中国の礼式。両手を組んでひざまずき、頭を下げて地面を叩くようにする敬礼。②書簡などの末尾に書いて、相手に敬意をあらわす言葉。
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恐惶謹言
恐れかしこみ謹んで申し上げるとの意で、手紙の最後に書く丁寧な挨拶の言葉。
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左衛門権佐
衛門府とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(0808)に左右衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(0811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。権佐は次官を意味する。
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天台座主大僧正御房政所
比叡山延暦寺を統括する天台座主が所轄の事務を司った所の事。大僧正は僧官の最高位。
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右弁官
律令制における官司の一。太政官に直属して左弁官と並び、八省のうち兵部・刑部・大蔵・宮内をつかさどる。右大弁・右中弁・右少弁からなる。
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延暦寺
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(0767~0822)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。寺紋は天台宗菊輪宝。
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幸西
(1163~1247)。鎌倉時代前期の浄土宗の僧。房号は成覚房。一念義を説く中心人物。始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と称して、天台を修学した。建久9(1198)に遁世して法然門下となった。元久元年(1204)の「七箇条制誡」では15番目に署名をしている。建永元年(1206年)の興福寺が院に訴えた中にも、幸西の名が挙げられているなど、法然門下として活発な活動をした。結局、承元元年(1207)法然が土佐に流罪となった建永の法難では阿波に流罪となった。しかし、慈円の預かりで流罪は免れたともいわれる。さらに、法然没後の嘉禄3年(1227)におこったいわゆる嘉禄の法難では、枝重と改名して壱岐に配流となった。これについても、壱岐には弟子を遣わし、幸西自身は讃岐にあったとも伝えられている。その後赦され下総国栗原で念仏を布教したという。幸西は、一声の称名または一念の信で往生が成就するという一念義を主張した。
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空阿弥陀仏
(1155~1228)。)平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての僧。同時代の僧侶明遍と同じく「空阿弥陀仏」の号を持つが、別人である。両者を区別するにあたっては、本稿の空阿弥陀仏を指して「法性寺の空阿弥陀仏」と呼ぶ例が見られる
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土縁
古代に僧尼の出家に際して官符が発した免許証。度縁。
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権大納言
太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。
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源朝臣雅親
(1180~1249)。鎌倉時代、朝廷に仕えた貴族。権大納言・通資の子。建仁2年(1202)参議となり、承久2年(1220)に権大納言に任じられている。寛喜3年(1231)には大納言になった。
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度縁
古代に僧尼の出家に際して官符が発した免許証。土縁。
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左太史
太政官の主典にあたる官職のひとつ。左弁官の下に左大史と左少史とがあり、書記の役目をした。位は正六位上。
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小槻宿禰
小槻は平安時代から江戸時代末まで官務を世襲した氏族。垂仁天皇の皇子於知別命の後といい,近江国栗太郡の豪族小槻山公より出る。貞観15年(0873)今雄が本居を左京に移し,ついで阿保朝臣と改姓したが,その子当平が再び小槻宿禰と改め,以後永くこの姓を称したので,禰家ともよばれた。平安時代初めころより算道出身の官人を輩出し,ついで今雄が右大史兼算博士に任ぜられてからは,代々太政官の史と算博士を世襲したが,さらに今雄の玄孫奉親が大夫史。
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左少弁
律令制で、太政官左弁官局の第三等官。正五位下相当。
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藤原朝臣
天武天皇13年(0684)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓で、上から二番目に相当する。一番上の真人は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。
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大政官の符
日本の律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書。官符とも言う。符とは、元来官庁が自己の管轄下にある下位の官庁に出す命令文書を指し、太政官以外の官庁でもこれを出すことが出来たが、太政官は原則として他の全ての官庁に対して符が出せたこと、格のような重要な法令も太政官符の書式を用いて出されることがあったことから、極めて重みを有した。
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五畿内
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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国司
古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守、介、掾、目等を指す。守の唐名は刺史、太守など。
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弘仁聖代の格条
弘仁格の条文のこと。法令の補正のために弘仁10年(0820)に編纂された法令集。
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。
―――
五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
―――
七道
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。
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修理右宮城使
宮城の修理の任にあたった官職のひとつで、その長官のこと。令外の官。弁官などが兼任した。修理宮城使は左・右に分かれ、それぞれの下に判官・主典がいた。
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正四位下行右中弁
正四位は官位であり、右中弁は太政官の判官にあたる官職で正五位の位に相当した。自分の官位よりも下位に相当する職についた場合、官位と官職の間に「行」という文字を記入した。
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右中弁
律令制で、太政官右弁官局の次官。
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修理東大寺大仏長官
東大寺大仏の修理のため、臨時に設置された官職と思われる。律令制下では造東大寺使が置かれて東大寺の造営などを司っていた。
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備前権介
備前国の国司の次官の権官。備前国は律令制で国を四等級に分けたうちの第二位の上国。
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宣下
天皇が宣旨を下すこと。また、 宣旨が下ること。
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頼隆
平安時代末期、鎌倉時代初期の河内源氏の武将。 源義家の七男・陸奥七郎義隆の三男。父義隆が相模国毛利庄を領していた事から、 毛利頼隆とも呼ばれる。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する
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誠恐
心から恐れ入ること。多く、手紙文などで用いる。「 誠恐謹言」「誠恐誠惶」。
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中納言律師御房
中納言の官職にある父をもった律師のこと。律師は僧尼を統括した僧綱の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。
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陸奥
日本 の令制国の一つ。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部に相当する。
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衆徒
①出子・檀那・信者。②僧兵。
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東国
近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷や陸奥と呼ばれていた。
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京畿
漢字文化圏で京師および京師周辺の地域のこと。 日本 における京畿. 畿内の別称→畿内、 近畿の別称・近畿地方 · 中国大陸における京畿. 唐 代の行政区分→京畿 · 宋代の行政区分→京畿路 · 朝鮮半島における京畿
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沙汰
① 物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。また、裁決・裁判。「地獄の―も金次第」。②決定したことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。「―があるまで待て」「―を仰ぐ」「詳細は追って―する」。③便り。知らせ。音信。「このところなんの―もない」「音―」「無―」。④話題として取り上げること。うわさにすること。「事件の真相たるや、世間であれこれ―するどころの話ではない」「取り―」。⑤問題となるような事件。その是非が問われるような行為。「正気の―ではない」「表 ―」「色恋―」「警察―」
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地頭
鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
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守護所
中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。
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前に挙げられた、興福寺や延暦寺から提出された奏状を承けて、審議の末、朝廷から出された専修念仏禁止に関する宣旨や御教書の幾つかが紹介されている。
宣旨には天皇の命である勅命と太政官の上卿の命を通達するものであったが、勅命の場合は文中に「奉勅」の語が入っている。
本抄では宣旨として、弁官の出す下文である「官宣旨」と太政官が所轄の官庁に出す「太政官符」が挙げられている。
また、御教書は平安時代に三位以上の公卿の仰せを奉じた文書のことをいい、初めは私的なものであったが、摂関政治以後、公的性格を帯びて公文書の役割を果たした。中世には将軍の仰せを奉じた文書をさしていった。御教書は、その仰せの主体によっていろいろに区分され、名称がつけられている。本抄に挙げられている御教書についてみると、天皇の仰せによるものは「綸旨」、上皇の仰せによるものは「院宣」、関白の仰せによるものは「殿下御教書」、鎌倉幕府将軍によるものは「関東御教書」と称されている。
永尊竪者の状に云く
初めに、嘉禄3年(1227)10月に、延暦寺の学僧・永尊の書状が紹介されている。それは、当時、念仏停止の宣旨等が発せられた事情が述べてあるからである。
永尊の書状には、選択集を非難した定照の著・弾選択が比叡山内に披露されると、人々から喜ばれたが弾選択の反論として書かれた、法然の弟子・隆寛の著・顕選択に対しては、謗らない者はなかったという。そうした山内の一致した意志とともに、まず法然の墓所が、延暦寺の別院である感神院の犬神人によって破壊され、その後に天皇の裁許を得たことが述べられている。法然の死去は建暦2年(1212)であるから、死後15年のことである。
更に7月上句に、延暦寺より興福寺等へ触れ出して興福寺や延暦寺の末寺の所などで、専修念仏の行者が住む草庵はすべて破壊し、行者は検非違使によって捕えられたため、阿弥陀仏を礼讃する声はやみ、黒衣を着た念仏者の姿は京の都からは見られなくなった、と述べている。そして、念仏の張本人である隆寛・成覚・空阿の3人は流罪されることになったが、逃亡して行方が分からないので、延暦寺としては今も処分を訴えている、と述べている。そして、10月11日の延暦寺の大衆による評議では、法然房の著作である選択集は正法を誹謗した悪書であり、天下に留めて置くべきでないとされ、人々の所持している選択集や、その印版を延暦寺の大講堂の前に集めて、三世の仏恩に報いるために焼き払うべきである、と朝廷に奏聞しており、これについては「重ねて仰せ下され候か」と言っている。つまり許可を待っているということであろう。
念仏無間地獄抄には、嘉禄3年(1227)7月5日の延暦寺に下された綸旨の内容が「専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候」(0101-17)と記されている。延暦寺の衆徒が、専修念仏の禁止と中心者の流罪を迫り、朝廷がそれを受け入れて処分を約束し蜂起しようとした衆徒を慰留したことがうかがえる。。
また、同7月13日延暦寺に下された綸旨には、「専修念仏興行の輩停止す可きの由五畿七道に宣下せられ候い畢んぬ、且つは御存知有る可く候」(0091-12)とあり、念仏停止の正式な宣旨を下したことが通知されている。
この宣旨を受けて、延暦寺の衆徒は、念仏者の住所を破壊し、念仏者を逮捕させるという弾圧を行ったのである。そのうえ、10月には、法然の著作である選択集を、正法誹謗の悪書として根絶することの許可を朝廷に求めたうえで、その印版を焼却している。
嘉禄三年十月二十日殿下御教書
永尊の書状の次に、嘉禄3年(1227)10月20日の殿下御教書が挙げられている。それによれば、専修念仏の張本として流罪されるはずの成覚が、逃亡して讃岐の大手島あたりにいるということであるが、その真偽を確かめるように延暦寺の人々がいうので、取り調べよ。との関白・藤原家実の意向が、参議・平範輔から修理権亮、すなわち幕府の北六波羅探題・北条時氏に伝えられたのである。
関東より宣旨の御返事
次に、宣旨を受けて出された、鎌倉幕府の関東御教書が挙げられている。
鎌倉幕府の執権・北条武蔵守泰時と、連署の北条相模守時房が署名して、京都の南六波羅探題・北条掃部助時盛と、北六波羅探題・北条修理亮時氏にあてた通知である。
これは法然の弟子・隆寛に関するもので、隆寛は最初は奥州への流罪と決められていて、鎌倉の近辺にいたのを、幕府が奥州へ追放したが、朝廷方で隆寛の流罪地を対馬に改めて通知してきたので、すぐに住所を捜しだし、勅命のままに捕らえて対馬に流すことにした。このことを朝廷に言上してほしいという鎌倉殿の仰せを伝える、との趣旨である。
隆寛は、天台宗の定照の著・弾選択に反論して、選択集に誤りはないとした顕選択を著した人物で、特に延暦寺から目をつけられていたのであろう。対馬へ遠流と改められたのである。なお、この御教書は、後に挙げられている嘉禄3年(1227)9月26日の殿下御教書に対する幕府の回答と思われる。
嘉禄三年六月二十九日の綸旨
次に嘉禄3年(1227)6月29日に、天台座主・円基へ下された後堀河天皇の綸旨が挙げられている。
専修念仏を停止するとの宣旨が度々出されているにもかかわらず、なお、ひそかに念仏を行ずる者がいるのは、朝廷の責任ではない。ひとえに、関係の役人たちの怠慢である。早く先に発令された宣旨に任せて、念仏を禁止すべきである。そのうえに、衆徒の蜂起に対しては、よろしく制止すべきである。天皇の御意によってつたえるものである。との趣旨である。
第73代の天台座主・円基にあてたこの綸旨は、延暦寺の衆徒が専修念仏を禁止せよと言って騒ぎ朝廷へ強訴しようとする動きがあったので、これを制止するために出されたもののようである。念仏の流行が止まらないのは、朝廷の責任ではなく、関係の官権の怠慢によるとして、延暦寺の衆徒の矛先が朝廷に向かってくるのをかわそうとした意図がうかがえる。綸旨を伝えたと左衛門権佐信盛とは藤原信盛のことである。
なお、前に述べたように、この綸旨の後、更に7月5日と7月13日にも延暦寺へ綸旨が下っている。この6月29日の論師の内容に、比叡山の衆徒が納得せず、朝廷の責任を追及しようとする姿勢を崩さなかったので、次々と綸旨を発して、衆徒の蜂起を止めようとしたものと考えられる。
嘉禄三年七月六日の右弁官下文
次に、同年7月6日の後堀河天皇の宣旨が挙げられている。右弁官下文は、犯罪人の逮捕などを命ずる時に出されるものである。
同年7月5日に延暦寺に下された綸旨の中で「隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり」と約束しているように、法然の高弟、隆寛・幸西・空阿弥陀仏について、流罪を執行するとともに度牒を取り上げることを命じた宣旨である。先に引かれている同年10月15日の永尊の状に、「張本三人流罪に定めらると雖も逐電間末だ配所に向わず」とあるのは、この宣旨によって流罪と定められた3人が、逃亡して行方不明となったことを示している。
嘉禄三年七月十七日の太政官符
太政官符とは、当時の国政の最高機関である太政官から、管轄下の官庁に下される公文書をいい、その公式な命令を伝達したものである。
この後堀河天皇の宣旨は、京都周辺の山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヶ国をはじめ、諸国の国司に対して出されたものである。専修念仏を停止・廃止して、早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の法然の遺弟を匿った者や、禁を犯して念仏を行ずる者を捕えるべきであると命じ、その根拠は弘仁年間に編纂された格式の条文に明らかである、としている。そして、左大臣・藤原良平が勅命を承ったので、近畿5ヶ国と全国7道に、専修念仏の道を停止・廃止することを徹底し、違反する者は捕えるべきである。諸国の国司はこの旨を承知して、宣旨の通り実行せよ。という趣旨である。
ここにあるように、専修念仏を禁止する法的な根拠は、律令を補うために弘仁11年(0820)に編纂された法令集である弘仁の格式の条文によった。「弘仁聖代の格条眼に在り」とは、弘仁格の中の延暦2年(0783)11月6日に発せられた太政官符である。「僧尼悔過用音事」の条文をさしている。そのことは、民経記という公家の日記の中にこの宣旨の文が記録されていることから明らかである。すなわち「僧尼、懺座にて妄りに哀音を発し、蕩逸にして高叫す、但、俗中の耳を厭うのみに非ず、抑亦、真際の趣に乖く。如改正せずば、何んが法門を粛まん」とある条文によって、専修念仏が禁止されたのである。
嘉禄三年七月十三日の綸旨
天台座主・円基にあてて出された後堀河天皇の綸旨であり、同7月17日太政官符の内容を通告したものと思われる。
専修念仏を行う者たちを停止すべきであるとの宣旨が、近畿5ヶ国と全国7道に下された。天皇の仰せはこのようであり、このことをよく理解すべきである。という趣旨である。その旨を、延暦寺の衆徒に徹底するように、との朝廷の意向から、このような綸旨が天台座主あてに出された者と思われる。
右中弁・藤原頼隆が、勅命を受けて伝えた、という形式になっている。
隆寛の対馬への配流の綸旨
法然の弟子・隆寛を、対馬国への流罪に改めるとの宣旨が下り、そのことを通知せよとの仰せなので、人々に披露すべきである。との趣旨である。
宛名は中納言律師御房は延暦寺の僧と思われるが、詳細は不明である。
嘉禄三年九月二十六日の殿下御教書
法然の弟子・隆寛を、奥州流罪から対馬への流罪に変更することを、鎌倉幕府へ伝えるよう通知したもので、関白・藤原実家の意向が参議の平範輔から北六波羅探題・北条時氏へあてて通達されている。
隆寛は専修念仏の張本として、延暦寺より訴えがあり、陸奥の国へ流罪されたが、延暦寺の衆徒がなおも申し立てるので、配所を改めて対馬の島に追いやられるべきである。現在、東国あたりに立ち回っていると聞くが、一日も早く対馬へ追いやられるべきであると、幕府へ申し伝えよ。との趣旨である。
この殿下御教書に対する回答が、先に「関東より宣旨の御返事」として挙げられた、執権と連署の名による嘉禄3年(1227)10月15日の関東御教書であろう。
嘉禄三年十月十日の殿下御教書
専修念仏の停止を全国の守護・地頭に徹底し、守らせるように、との通達で鎌倉幕府の執権・北条武蔵守泰時に直接あてたものである。
全国の国司に対して、専修念仏を永く停止せよと、先日、宣旨を下した。ところが、諸国でなお念仏が行われているということである。宣旨の状を守って処置すべきであると、全国の守護・地頭に命じてもらいたい、という訴えが延暦寺から出ているので、そのように命じてもらいたい。との趣旨である。
念仏停止を命じた宣旨とは、7月17日の太政官符のことで、全国の国司に徹底されている。それにもかかわらず、専修念仏停止の効果が上がらず、諸国で念仏を行ずる者が絶えなかったので、延暦寺の衆徒が朝廷に迫って、この幕府への通達となったものであろう。
ここに挙げられた嘉禄3年(1227)の一連の宣旨と御教書の内容から、専修念仏停止の要求は、延暦寺の衆徒から出されたもので、朝廷は衆徒が蜂起することを恐れて要求を入れ、念仏停止と法然の高弟の流罪を命じたことがうかがえる。
0092:12~0094:09 第五章 専修念仏禁止の院宣等を挙げるtop
| 12 嵯峨に下されし院宣 13 近頃破戒不善の輩厳禁に拘わらず猶専修念仏を企つるの由其の聞え有り、 而るに先師法眼存日の時・清涼寺の 14 辺に多く以て止住すと云云、 遺跡を相継ぎて若し同意有らば 彼の寺の執務縦い相承の理を帯すとも免許の義有る 15 可からざるなり、早く此の旨を存して禁止せしめ給う可し院宣此くの如し仍つて執達件の如し。 16 建保七年二月四日 按 察 使在り判 17 治部卿律師御房 -----― 嵯峨に下された院宣。 近頃、破戒・不善の輩が厳しい禁止にもかかわらず、なお専修念仏を行おうとしているとのうわさがある。ところで、先師の法眼が存命のとき、清涼寺あたりに多くのそうした輩がとどまり住していたといわれる。彼の寺の執務が継いでも同じ考えであるならば、たとえ相承の理を帯していても免許してはならない。早急にこの旨を心得て禁止させるべきである。院宣はこのようである。よって以上のとおり通達する。 建保七年二月四日 按 察 使在り判 治部卿律師御房 -----― 18 謹んで請う 院宣一紙 0093 01 右当寺四至の内に破戒不善の専修念仏の輩法に任せて制止ある可く候更に以て芳心有る可からず候、 若し猶寺 02 家の力に拘わらずんば事の由を申し上ぐ可く候、謹んで請くる所件の如し。 03 建保七年閏二月四日 権律師良暁 -----― 謹んで請ける 院宣一紙。 右の院宣のとおり、当寺の境内にいる破戒・不善の専修念仏の輩については法に基づいて制止されるであろう。絶対に親切心を加えることはしない。もし、なお寺当局で制約できないときは、そのわけを申し上げるであろう。以上のとおり謹んで請けた。 建保七年閏二月四日 権律師良暁 -----― 04 左弁官下す 綱所 05 まさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断せしむべき事。 06 右・左大臣勅を宣奉す、 専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、仍つて去る建永二年の春厳制五箇条の裁許を以て 07 せる官符の施行先に畢んぬ、 傾く者は進んでは憲章を恐れず 退いては仏勅を憚からず或は梵宇を占め或は聚洛に 08 交わる破戒の沙門・党を道場に結んで偏に今按の佯を以てす 仏号を唱えんが為に 妄りに邪音を作し 将に蕩して 09 人心を放逸にせんとす、見聞満座の処には賢善の形を現ずと雖も 寂寞破ソウの夕には流俗の睡りに異ならず是れ則 10 ち発心の修善に非ず濫行の奸謀を企つるなり豈仏陀の元意僧徒の所行と謂わんや。 11 宜しく有司に仰せて 慥に糾断せしむべし若し猶違犯の者は罪科の趣き一に先符に同じ但し道心修行の人をして 12 以て 仏法違越の者に濫ぜしむること莫れ 更に弥陀の教説を忽せにするに非ず 只釈氏の法文を全からしめんとな 13 り、 兼ては又諸寺執務の人・五保監行の輩聞知して言わずんば与同罪曾つて寛宥せざれ、 者れば宜しく承知して 14 宣旨に依つて之を行うべし。 15 建保七年閏二月八日 太史小槻宿禰在り判 -----― 左弁官下す 綱所 必ず諸寺の執務人に命じて専修念仏の輩を糾断させるべきこと。 右の条項について、左大臣が奉勅を宣する。専修念仏の行は諸宗衰微の基である。よって去る建永二年の春、厳禁制止の五箇条の裁断を内容とした太政官符の施行が先になされたのである。専修念仏に傾倒する者は、進んで法律を恐れず、退いては仏のおおせを憚らず、あるいは寺院を居所とし、あるいは村里や都に隠れ住んでいる。破戒の僧侶は道場に集結して、専ら勝手に考え出した偽りごとをなしている。阿弥陀仏の名号を称えるために、みだりに邪な言を弄し、まさに人心を堕落せしめ乱脈ならしめている。大勢の人が見たり聞いたりしている前では賢人や善人の格好をしているけれども、誰も居ない。しっそりとした夕方には、俗人がだらしなく眠りこけている姿と異なるところがない。これは取りも直さず、菩提心を起こして善行を修しているのではなく、みだりな行いの悪だくみを企てているのである。どうして仏の元意にかなった、僧侶の振る舞いといえようか。 必ず所轄の役人に命じて、間違いなく糾断させるべきである。もし、それでもなお違反する者については先の符のとおり罪科に処すべきである。ただし、道心をもって修行している人を、仏法に違反する者と混乱してはならない。全く阿弥陀如来の教えをおろそかにするのではない。ただ、釈尊の仏法を経文を失わしめないためである。あわせてまた、諸寺の執務する人や五保を監督する輩が聞き知って言わなかったならば、その与同罪を許してはならない。というわけで、よろしく承知のうえ宣旨に従ってこれを執行すべきである。 建保七年閏二月八日 太史小槻宿禰在り -----― 16 謹んで請く 綱所 17 宣旨一通載せらるるはまさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断せしむべき事。 ・ 18 右宣旨の状に任せ諸寺に告げ触る可きの状謹んで請くる所件の如し。 0094 01 建保七年閏二月二十二日之を行う。 -----― 謹んで請ける。 綱所 宣旨一通に記載されているのは、必ず諸寺の執務人に命じて専修念仏の輩を糾断せしむべきであるとのこと。 右の宣旨の状に基づき諸寺に告げ知らせるべしとの通達、謹んで請けた。 建保七年閏二月二十二日これを執行した。 -----― 02 頃年以来無慚の徒・不法の侶・如如の戒行を守らず処処の厳制を恐れず 恣に念仏の別宗を建て猥りに衆僧の勤 03 学を謗ず、 しかのみならず内には妄執を凝らして仏意に乖き 外には哀音を引いて人心を蕩かす 遠近併ら専修の 04 一行に帰し緇素殆んど顕密の両教を褊す仏法の衰滅而も斯に由る自由の奸悪誠に禁じても余り有り。 05 是を以て教雅法師に於ては本源を温ねて 遠流し此の外同行の余党等慥かに 其の行を帝土の中に停廃し悉く其 06 の身を洛陽の外に追郤せよ 但し或は自行の為 或は化他の為に至心専念・ 如法修行の輩に於ては制の限りに在ら 07 ず。 08 天福二年六月晦日 藤原中納言権弁奉る 09 天福二年文暦と改む四条院の御宇後堀河 10 院の太子なり、武蔵前司入道殿の御時。 -----― 近年来、恥を知らない輩や法に背く連中が仏教本来の戒行を守らず、たびたびの厳しい禁制を恐れず、勝手に念仏を行ずる別の宗を建て、修行に励む僧侶をみだりに誹謗している。そればかりでなく、内心にはみだりな執着にとらわれて仏の本意に背き、外面は哀れげな声をしのばせて人々の心を惑わしている。国中、到るところ専修念仏の修行のみに帰依し、僧俗はほとんど顕密二教をさげすんでいる。仏法の衰滅の原因はここにある。この邪な悪行は、どのように禁じてもしすぎるということはない。 これによって教雅法師に関してはおおもとであることを問いただして遠流に処し、このほか仲間の残党等については専修念仏の行を停め廃し、悉くその身柄を京都の外に追放せよ。但し、自分自身の修行のため、あるいは他人の化導のために心から一心に仏を念じて教法どおりの修行をしている輩については制止の限りではない。 天福二年六月晦日 藤原中納言権弁奉る 天福二年に文暦と改元する。後堀河院の太子である四条天皇の時代である。武蔵前司入道殿の執権の時代である。 |
嵯峨
京都市右京区の一地区。旧町名。 1931年京都市に編入。保津川が京都盆地へ流れ出て桂川となる地点の左岸に位置し,河岸の沖積平野とその北の広い洪積台地とにまたがる。この地に清凉寺があったといわれている。
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院宣
上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。
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破戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
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不善
善でないこと。悪行をなすこと。正理に背き、道にはずれること。
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法眼
①僧位のひとつ。法眼和尚位またその略称。②菩薩が衆生 を救うために一切の法門を照見する眼。五眼 の一つ。
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清涼寺
京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山と称する。嵯峨釈迦堂の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算である。
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遺跡
①古い時代に建てられた建物、工作物や歴史的事件があっ たためになんらかの痕跡が残されている場所。②故人の遺した領地や官職。
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執務
業務についていること。また、事務を取り扱うこと。
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相承
相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。
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按察使
地方行政を監督する令外官の官職。数カ国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。奈良時代の養老3年(0719)に設置された。平安時代以降は陸奥国・出羽国の按察使だけを残し、納言・参議などとの兼任となり実体がなくなった。
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治部卿律師御房
治部卿の官職にある父をもった律師のこと。
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四至
古代・中世における所領・土地の東西南北の境界を指して呼んだ呼称である。転じて境界そのものを指すようになった。
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芳心
① 他人を敬って、その親切な心をいう語。芳志 。芳情。② 他人に親切をつくすこと。
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寺家
①てら。寺院。② 寺の者。また、僧侶。
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権律師
日本の律令制における僧官の役職の1つである律師のうち最も低い地位の役職のこと。中律師の下。
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良暁
鎌倉時代の嵯峨清涼寺の僧。詳細不詳。
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左弁官
律令制における官司の一。太政官に属し、八省のうち中務・式部・治部・民部をつかさどった。左大弁・左中弁・左少弁からなる。
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綱所
僧綱が職務を行い,またその任官の式を行う事務所。
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ・ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。
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厳制五箇条の裁許
建永2年(1207)の春に法然の弟子安楽房遵西と住蓮房が斬首に処せられたが、また法然が流罪になっている。この時に専修念仏を厳しく制止する裁断がなされたものと思われるが、その内容は明らかではない。
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憲章
①重要で根本的なことを定めた取り決め。特に、基本的な方針や施策などをうたった宣言書や協約。②憲法の規則、典章。
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仏勅
仏の勅命。仏のおおせのこと。
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梵宇
寺院のこと。
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聚洛
村里と都のこと。
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沙門
梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
―――
今按の佯
経論によらず勝手に考え出した偽りごと。「今按」は今案、「佯」は外面を飾る偽り。
―――
仏号
仏の名号のこと。
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放逸
法に則らず自分勝手で気ままに振る舞うこと。正法への放逸。謗法。
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寂寞破ソウ
誰もいないでひっそりしているさまのこと。「寂寞」はもの寂しいしずかなさま、「破ソウ」は破れた窓。
―――
流俗の睡り
俗人がだらしなく眠りこけているさま。
―――
発心
発菩提心のこと。菩提心を発すこと。衆生が無上菩提を願う心を発し、成仏を願うことをいう。
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修善
善行を修めること。
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濫行の奸謀
みだりな行いをする悪だくみのこと。「濫行」は乱れた行為、「奸謀」は邪悪なはかりごと。
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違越
違反すること。
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釈氏
①釈迦のこと。②仏家・僧侶のこと。③
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五保
律令制村落内部の隣保組織。唐制の模倣。近隣の五家をもって一保を編成したので五保と称する。50戸から成る里の下部組織とされ,治安維持・相互扶助・納税・債務弁済などに共同責任をとらされた。
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監行
調べ行うこと。「監」は観察する・統御するの意。
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与同罪
共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
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閏
暦において一年の日数や月数が普段の年よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。
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太史
古代の官名。天文・暦法、また、国の法規や宮廷内の諸記録のことなどをつかさどった史官および暦官の長。
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無慚
①残酷なこと、いたましいこと。②罪を犯しながらみずから恥じる心のないこと。
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如如
ありのままの姿。仏法に適った真実のあり方。
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戒行
戒律をたもって実践修行すること。
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勤学
学問につとめはげむこと。
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妄執
迷妄な執着。
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仏意
仏の心・本意のこと。
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遠近
①あちらこちら。②将来と現在。
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緇素
僧侶と俗人のことを緇素という。緇は黒色、素は白色のことで、インドでは僧侶は黒衣を著し、俗人は白衣を着していた。
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教雅法師
鎌倉時代の専修念仏の僧。中納言・藤原家経の子。天福2年(1234)7月に流罪に処せられた。
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同行
①一緒に道ゆきすること。②信仰や修行を同じくする者。
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帝土
帝王の治める土地。天皇の住むところ。日本全土のこと。
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洛陽
①中国河南省北西部の都市。洛河北岸にある。西周時代に都として建設され洛邑とよばれ、漢代に改称、北魏・晋・隋・後梁・後唐などの首都。唐代には長安に対して東都とよばれ、経済・文化の中心として繁栄した。②平安京のこと。③京都のこと。
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自行
①自分自身が法の利益を受けるため修行すること。②仏の教えそのものを説いた随自意の教法。
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化他
自行に対する語。修行に約す場合と法体に約す場合がある。修行に約す場合は他人を教化・化導すること。法体に約す場合は九界の衆生の機根に応じて説いた随他意の教えのこと。
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至心専念
まごころから一心に仏を念ずること。
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如法修行
仏の説いた教法どおりに実践修行すること。
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晦日
太陰太陽暦の暦法である中国暦、和暦の毎月の最終日のことである。具体的には、小の月では29日、大の月では30日となる。翌月の朔日の前日となる。
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中納言
太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。
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権弁
権右中弁のこと。右中弁の権官をいう。
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四条院
(1231~1242)。第87代天皇。後堀川天皇の第一皇子。
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後堀河院
(1212~1234年8月31日)。鎌倉時代の第86代天皇諱は茂仁
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武蔵前司入道
北条泰時(1183~1242)のこと。北条幕府第三代執権。泰時は承久元年(1219)から暦仁元年(1238)まで武蔵守を務めた。以後、武蔵前司と呼ばれ、没する前年の仁治3年(1242)には出家して観阿と名のったので、死後、武蔵前司入道と称された。
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専修念仏を禁止する命令が出ているにもかかわらず、なおも従わないで念仏を行ずる者を厳しく処罰するよう命じた健保7年(1219)の院宣・左弁官下文ならびにその請け書、それと宣旨が挙げられている。
院宣とは、上皇や法皇の命を受けて、院の役人が出す文書のことで、当時、院政をしいていたのは後鳥羽上皇である。上皇とは、原則的に天皇を退位した後になるもので、なかでも幼少の天皇を補佐しながら、実質的に政治を支配するのが院政であり、天皇に対して「治天の君」と呼ばれた。
後鳥羽上皇は、安徳天皇が平氏とともに都を去ったあと寿永2年(1183)に践祚したが、建久9年(1198)に4歳の第一皇子・為仁に譲位して、19歳で上皇になり、院政を開始した。
この間、文治元年(1185)に平氏が滅亡して、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことから、西国は院政が支配し、東国は幕府が支配するという院政と武家政治が並立する状態が続いた。
後鳥羽上皇は、三代将軍・源実朝が暗殺されて、源氏の正統が絶えたのを好機として、朝廷方に権力を取り戻そうと、承久3年(1221)5月に北条義時追討の院宣を発した。しかし、幕府方は直ちに大軍を上京させ、朝廷側の軍勢を粉砕した。幕府は、後鳥羽上皇の院政を止めて隠岐へ流した。上皇は、出家し、延応元年(1239)隠岐で亡くなったので、隠岐の院・隠岐の法皇とも呼ばれた。
嵯峨・清涼寺の院宣
京都の嵯峨の地にあった清凉寺に下された後鳥羽上皇の院宣が挙げられている。院政の影響下にあった当寺へ、院宣をもって専修念仏の停止を命じたものであろう。
最近、専修念仏が厳禁されているにもかかわらず、なおも破壊不善の輩がこれを行じているという風聞がある。しかも、清凉寺の先師の法眼が生存のころに、清凉寺の近辺に念仏者が多く住んでいたとうが、その跡を継いだ清凉寺の執務が念仏に同意することがあるならば、たとえ相承の手続きを踏んでいたとしても、許可を与えてはならない。この旨を承知して、念仏を禁止すべきである。との趣旨である。
按察使とは、後鳥羽上皇に仕えた藤原光親のことで、治部卿律師御房とは、清凉寺の良暁をさしている。
清凉寺は、本来は東大寺の系統で、中国から伝来した釈迦像を模した仏像が安置されていたため、釈迦堂とも呼ばれていた。当時は念仏者が多く止住していたため、こうした院宣が出されたものであろう。
なお、院宣は建保7年(1219)2月4日の日付になっているが、次の請け書が閏2月4日となっており、院宣を受けてから一か月も後に請け書が出されるのは不自然である。院宣の日付を「後二月四日」とする本もあるので、院宣は「閏二月四日」に下されたとするのが正しいと思われる。
嵯峨からの院宣の請け書
前の院宣の請け書であり、清凉寺の良暁が出したものである。院宣を受けて、直ちに書かれたものであろう。
清凉寺の境内の中では、破壊不善の専修念仏の輩は、法のとおり制止するであろう。決して念仏者に親切にしていることはない。もし、寺僧の手におえなければ、その理由を御報告するであろう、との趣旨である。
綱所への左弁下文
建保7年(1219)閏2月に下された、綱所の順徳天皇の宣旨である。綱所とは、僧綱所ともいい、全国の僧や尼を取り締まり、諸寺の管理等を司る僧綱が法務を行う役所をいった。
「左弁官下文」は、太政官の中で行政の中心にあった官職の左弁官から、通常の事件に対して出された文書を意味していた。
内容は、諸寺の執務人に命じて専修念仏の輩を糾弾させるべきであるとの勅宣を、左大臣が承った、専修念仏の行は、諸宗が衰微する基である。そのため、去る建永2年(1207)の春に、専修念仏を厳しく制止する五箇条の裁許による太政官符が出されて施行された。それでもなお、念仏に心を傾ける者は、国法を恐れず、仏の教勅を憚らず、寺院に居を占め、村落に交わっている。破戒の僧侶は念仏の道場で党を組み、経論によらない偽りの新義を立て、阿弥陀の仏号を唱えるために邪音を発し、人々の心をとろかして破法へ導いている。彼らは公衆の前では賢人・善人の姿を見せているが、私生活においては、だらしない俗人と異ならない。これは、菩提を求める心からの修行者ではなく、勝手な乱行をするための邪悪な策謀を企てているからである。これが仏の元意であり、出家の行といえるだろうか。よろしく、関係の役人に命じて、明確に糾弾させるべきである。もし違反する者がいたら、先に出された太政官符に照らして処罰すべきである。ただし、正しい求道心で修行する人を、仏法に違背する者と混同してはならない。また、これは弥陀の教えをおろそかにすることではなく、釈尊の経文を守るためである。なお、諸寺の執務人や五戸の長などが、破戒の念仏者のいることを知りながら指摘しないならば、与同罪であり、決して許してはならない、との趣旨である。当時、念仏者たちが、諸宗の寺院にも入り込み、また各地に念仏道場を開いて、跋扈していたようすがうかがえる。
第一章でも述べたように、建永2年(1207)2月に、法然門下の安楽・住蓮が処刑され、法然も流罪され、専修念仏禁止の宣旨が出ているが。それでも念仏の流行が止まらなかったため、12年後の建保7年(1219)に、改めて念仏禁断の宣旨が出されたのである。この宣旨は、諸寺や僧尼を監督する綱所をとおして諸寺に通達され、念仏者を厳重に取り締まるように命じている。
綱所からの請け書
前の宣旨に対する、綱所からの請け書である。
諸寺の執務人に通達して専修念仏の輩を糾弾せよ、との宣旨をそのとおりに諸寺に告げて徹底せよとの状を、謹んでお請けした、との趣旨である。
「建保七年閏二月二十二日之を行う」とあるので、単なる宣旨の請け書ではなく、閏2月8日に下された内容を、22日までに諸寺に通達し、徹底を終わった、との報告とも思われる。
天福二年六月晦日の宣旨
天福2年(1234)6月に出された四条天皇の宣旨である。末尾の注釈は、天福2年(1234)は11月に文暦と改元され、後堀河上皇の太子だった四条天皇の代であり、鎌倉幕府の第三代執権・北条泰時の時にあたる、との意である。
建保7年(1219)から15年後、嘉禄3年(1227)から7年後に出された、専修念仏停止の宣旨である。
近年、自らを慚じる心もない不法の僧侶が、法のとおりの戒行を守らず、厳しい禁制を恐れずに、勝手に念仏の別宗を立てて、修学に励む諸宗の僧をみだりに誹謗している。そのうえ、内には念仏に執着して仏の本意に背き、外には念仏の哀音をもって人の心を蕩かしている。日本中に、専修念仏の一行に帰依する者が出て、僧も俗もことごとく顕密の二教を蔑視している。仏法の衰微の因はここにある。彼等の勝手な奸悪は、いかに厳しく禁じても、しすぎることはない。このため、中心者である法然の弟子・教雅法師については遠地へ流罪にし、その外の同行の者たちに対しても、専修念仏の修行を禁止し、念仏の行者を都の外へ追放せよ。ただし、自行のためや化他のために、法のとおり正しい修行に励む者については、これを禁制するものではない、との趣旨である。
教雅法師とは、専修念仏の僧で、この宣旨のとおり、天福2年(1234)7月に流罪されている。
なお、鎌倉幕府は、翌文暦2年(1235)7月に専修念仏禁止を指示しており、念仏禁止の宣旨や御教書が繰り返し出されているにもかかわらず、念仏信仰が衰えることはなかったことを示している。
0094:10~0096:09 第六章 延暦寺の下知状・申状を挙げるtop
| 11 祇園の執行に仰せ付けらるる山門の下知状。 12 大衆の僉議に云く専修念仏者・天下に繁昌す 是れ則ち近年山門無沙汰の致す所なり、件の族は八宗仏法の怨敵 13 なり円頓行者の順魔なり、 先ず京都往返の類・在家称名の所に於ては 例に任せ犬神人に仰せて宜しく停止せしむ 14 べし云云、 者れば大衆僉議の旨斯くの如し 早く先例に任せ犬神人等に仰せ含めて専修念仏者を停止せしめ給う可 15 し云云、恐恐謹言。 16 延応二年五月十四日 公文勾当審賢 17 四条院の御宇武蔵 18 司殿の御時。 19 謹上 祇園の執行法眼御房 20 遂つて申す、 去る夜・大衆僉議して先ず此の異名に於て殊に犬神人に付けて之を責む可きの由仰せ含めぬ仍つ 0095 01 て実名之を獻ず、専修念仏の張本の事.唯仏.鏡仏.智願・定真.円真.正阿弥陀仏.名阿弥陀仏・善慧.道弁.真如堂狼藉 02 の張本なり已上、唐橋油小路並に八条大御堂六波羅の総門の向いの堂・已上・当時興行の所なり。 -----― 祇園社の執行に仰せつけられた延暦寺からの下知状。 大衆の評議は「専修念仏者が世の中にはびこっている。これは取りも直さず、近年、延暦寺が処置しないでおいた結果である。上記の輩は八宗の仏法の怨敵であり、円頓の行者の順魔である。先ず京都を行き来する連中や在家で念仏を称える所は先例に従って犬神人に命じて、必ず停止させるべきである」ということである。というわけで、大衆の評議の趣旨は以上のとおりである。早急に先例に従って犬神人等に言い含めて専修念仏者を停止させるべきである。恐恐謹言。 延応二年五月十四日 公文勾当審賢 四条天皇の御代であり、武蔵前司殿が執権の時代である。 謹上 祇園社の執行・法眼御房 追伸。先日の夜、大衆が評議して先ず専修念仏について特に犬神人に命じて責めるべきであるということを確認しあった。よって実名を提出する。専修念仏の張本人の問題については、唯仏・鏡仏・智願・定真・円真・正阿弥陀仏・名阿弥陀仏・善慧・道弁が真如堂での狼藉の張本人である。唐橋油小路ならびに八条大御堂、六波羅の総門の向いの堂、以上が当時、専修念仏を行っていた所である。 -----― 03 延暦寺 別院雲居寺 04 早く一向専修の悪行を禁断す可き事 05 右頃年以来、愚蒙の結党・カンの会衆を名けて専修と曰いテイ閭に旁ねし心に一分の慧解無く口に衆罪の悪言を 06 吐き言を一念十声の悲願に寄せて 敢て三毒五蓋の重悪を憚からず 盲瞑の輩是非を弁えず唯情に順ずるを以て多く 07 愚誨に信伏す、 持戒修善の人を笑うて之を雑行と号し 鎮国護王の教を謗りて之を魔業と称す諸善を擯棄し衆悪を 08 選択し罪を山岳に積み報を泥梨に招く 毒気深く入つて禁じても改むること無く 偏に欲楽を嗜んで自ら止むこと能 09 わず、 猶蒼蝿の唾の為に黏さるるが如く、 何ぞ狂狗の雷を逐うて走るに異ならん、恣ままに三寸の舌を振いて衆 10 生の眼目を抜き五尺の身を養わんが為に 諸仏の肝心を滅す、 併ら只仏法の怨魔と為り 専ら緇門の妖怪と謂う可 11 し。 12 是を以て邪師存生の昔は永く罪条に沈み、 滅後の今は亦屍骨を刎らる其の徒・住蓮と安楽とは死を原野に賜い 13 成覚と薩生とは刑を遠流に蒙りぬ 此の現罰を以て其の後報を察す可し、 方に今且は釈尊の遺法を護らんが為 且 14 は衆生の塗炭を救わんが為に宜く諸国の末寺・荘園・神人・寄人等に仰せて重ねて彼の邪法を禁断すべし縦い片時と 15 雖も彼の凶類を寄宿せしむ可からず 縦い一言と雖も其の邪説を聴受す可からず、 若し又山門所部の内に専修興行 16 の輩有らば永く重科に処して寛宥有ること勿れ、者れば三千衆徒の僉議に依つて仰す所件の如し。 17 延応二年 -----― 延暦寺 別院雲居寺 早急に一向専修の悪行を禁断すべき事。 右の条頃については、近年来、専修念仏と称して愚かで道理にくらく、心がねじけてよこしまな者たちが、都会にも田舎にまでもはびこっている。心に僅かの智慧による理解も無く、口に多くの罪業となる悪言を吐き、阿弥陀仏の悲願により一念十声によって極楽往生できるなどと言って、三毒・五蓋の煩悩の重い悪業も一向に恐れ慎まない。是も非も弁えず道理の分からない輩が、ただ情に従うことによってこの愚かな教えに信伏している。そして戒律を持ち善行を修している人を笑ってその修行を雑行と名付け、鎮国護王の教法を謗ってその行為を魔業と称している。善行を斥け捨てて、悪行を選び取り、悪業を山のように積み、報いとして地獄の苦を招いている。毒気が奥深く入っているため禁じても改めることなく、ひたすら欲望や悦楽を好んで、自ら止めることができない。あたかも蒼蝿の唾のねばねばにとらわれて離れることができないようなものであり、狂った犬が雷を追って走るのと異なるところがない。勝手放題に三寸の舌を振るって衆生の成仏のための修行抜き去り、五尺の身を養うために諸仏の肝心である成仏の教法を滅して、まさに、仏法の怨敵・魔となっており、専ら仏門の妖怪というべきである。 これによって邪師・源空は存生中は永く罪科に処せられ、滅後の今はまた遺骨を暴かれたのである。その門下の住蓮と安楽は原野で死刑に処せられ、成覚と薩生は遠流の刑をうけたのである。この現世の罰によって後世の報いを察するべきである。まさに今、釈尊の遺された教法を護るためにも、衆生の塗炭の苦を救うためにも、必ず諸国の末寺・荘園・神人・寄人等に命じ重ねて彼の邪法を禁断すべきである。たとえ片時であっても彼の凶悪な一味を寄宿させてはならない。たとえ一言であってもその邪説を聴聞してはならない。もしまた、延暦寺の管轄内に専修念仏を行う輩がいたならば、永く重科に処して許してはならない、というわけで、延暦寺三千人の衆徒の評議に従って以上のとおり通達する。 延応二年 -----― 18 山門申状 0096 01 近来二つの妖怪有り人の耳目を驚かす所謂達磨の邪法と念仏の哀音となり。 02 顕密の法門に属せず王臣の祈請を致さず 誠に端拱にして世を蔑り暗証にして人を軽んず小生の浅識を崇めて見 03 性成仏の仁と為し耆年の宿老を笑うて螻蟻モンモウの類に擬す論談を致さざれば才の長短を表さず決択に交らざれば 04 智の賢愚を測らず、 唯牆壁に向うて独り道を得たりと謂い 三衣纔に紆い七慢専ら盛なり 長く舒巻を抛つ附仏法 05 の外道吾が朝に既に出現す、 妖怪の至り慎まずんばあるべからず 何ぞ強ちに亡国流浪の僧を撰んで伽藍伝持の主 06 と為さんや。 07 御式目に云く右大将家以後・代代の将軍並に二位殿の御時に於ての事・一向に御沙汰を改ること無きか、追加の 08 状に云く嘉禄元年より仁治に至るまで 御成敗の事・正嘉二年二月十日評定、 右自今以後に於ては三代の将軍並に 09 二位家の御成敗に準じて御沙汰を改むるに及ばずと云云。 -----― 延暦寺の申状 近年、二つの妖怪があり、人の耳目を驚かしている。いわゆる達磨の邪法と念仏の哀音である。 顕密二教の法門に属さず、王臣の祈りを致さず、じっと何もしないで世を侮り、証得もしていないのに人を軽んじている。小僧の浅い知識を崇めて見性成仏の仁であるとし、長年修行を積んできた長老をあざ笑って螻や蟻・蚊・虻の類になぞらえている。論議をしないので才能が優れているのか劣っているのかはっきりせず、宗教の判断の場に交わらないので智慧が賢いのか愚かなのか分からない。ただ壁に向かって独り仏道を得たといい、三依を身につけているだけで、七種の慢心がひたすら強盛である。経巻を紐解くこともしない。附仏法の外道が我が国に出現したのである。妖怪の極みであり、気をつけなければならない。どうして、不合理に亡国の流浪の僧を選んで伽藍を伝持する主としてよいものであろうか。 御成敗式目には「右大将家以後、代々の将軍ならびに二位殿の時代の事は、全く御判決を改めることはない」とあり、追加の条には「嘉禄元年から仁治に至るまでの御成敗の事。正嘉二年二月十日に評議し決定、右の条項について、今より以後にあっては、三代の将軍ならびに二位家の御成敗に準じて、御判決を改めてはならない」とある。 |
執行
①とりおこなうこと。実際に行うこと。②法律・命令・裁判・処分などの内容を実際に実現すること。
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下知状
上意下達を目的として下位の機関もしくは個人にあてて出された、命令文書の古文書形態の一種。
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大衆
①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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円頓行者
円頓は円満にして徧よらず、一切衆生を速やかに成仏させる教法のこと。円は円融、円満、頓は頓極、頓足の意。末法における円頓の教とは、寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経である。行者とは法華経を修行し実践する者。
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順魔
正面では正法を持っているように見えるが、その実は正法を破る働きをなすもののこと。一見したところ仏法に従っているかのように見えるゆえに「順」といい、実際は功徳を奪い、成仏を妨げるゆえに「魔」という。
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公文勾当
公文書を扱う事務を担当する役職のこと。
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審賢
鎌倉時代の延暦寺の僧。詳細不詳。
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武蔵前司
武蔵国の前の国司のこと。武蔵国は現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。鎌倉時代には幕府の重臣が国司となっていた。北条家では泰時・朝直・経時・長時・宣時・義政などが国司の任についている。
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唯仏・鏡仏・智願・定真・円真・正阿弥陀仏・名阿弥陀仏
いずれも鎌倉時代の浄土宗の僧であるが、詳細は不明である。
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善慧
(1177~1247)。西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖。法然の高弟であり、はじめ解脱房、のちに善恵房と号した。諡号は弥天、鑑知国師。
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道弁
鎌倉時代初期の御家人・浄土宗僧侶。俗名は渋谷 七郎。相模国大庭御厨石川郷の出身と伝えられるが、記録上石川郷があったのは、隣の渋谷荘であったこと、渋谷荘の支配者である渋谷重国の子重助の子孫が「石川氏」と名乗ったとされていることから、道弁も渋谷荘石川郷の渋谷氏の一員であったと見られている。
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真如堂
真正極楽寺のこと。京都市左京区にある天台宗寺院。永観2年(0984)東三条院藤原詮子が延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を京都神楽岡の東の離宮に祭ったのが始まりで、正歴3年(0992)に戒算が離宮を寺としたという。
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唐橋
平安京の八条大宮と九条大宮の中間を東西に走っている通りである九条坊門小路のこと。その東側の鴨川に唐橋がかかっていた。
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油小路
京都市の主要な南北の通りの一つ。平安京の油小路にあたる。北は武殿南通から南にのびる。途中紫明通から上立売通まで中断する。
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八条
京都市の東西の通りの一つ。
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大御堂
仏像を安置した堂を御堂という。詳細不詳。
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六波羅
京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。天暦5年(0951)空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれているとされる。
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総門
外構えの大門のこと。
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別院
本寺と別に建てられた本寺所属の寺院。
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雲居寺
京都市東山区の、現在の高台寺附近にあった天台宗の寺院。
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愚蒙
愚癡蒙昧のこと。愚かで道理を知らない者をいう。
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一念十声
一遍、また十遍念仏を称えることにより、大利益を得て極楽浄土に往生するという浄土宗で説く教え。「一念」とは浄土宗の依経である無量寿経の「その名号を聞いて信心歓喜して乃至一念」の一念をさし、法然はこの一念を一声の称名念仏としている。「十声」とは無量寿経の「十念」を善導が十声と訳したもの。
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三毒
貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
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五蓋
瞑想修行を邪魔する5つの煩悩、「5つの障害」の総称。「蓋」ニーヴァラナ(nīvaraṇa)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。①貪欲・ 渇望・欲望②瞋恚・悪意・憎しみ③惛沈睡眠・倦怠・眠気④掉挙悪作・心の浮動・後悔⑤疑・疑い。
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愚誨
愚かな教えのこと。
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持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
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雑行
浄土宗の教義で、善導の観無量寿経疏正宗分散善義巻四に典拠をもつ。同書のなかに「行き就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」とある。修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行と名づくとしている。五種の正行とは、浄土宗の教義。極楽浄土に往生するための五種類の正行のこと。五種の雑行に対する語。①読誦正行。専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」ること。②観察正行。専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」ること。③礼拝正行。専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」ること。④称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」ること。⑤讃歎供養正行。専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」ること。この中で称名正行を第一の正行、他の四つをその助行とする。この五種の正行の説をふまえて法然は浄土三部経の修行を正行、それ以外の経教の修行を雑行として排した。なお、五種の雑行とは浄土宗の教義で、極楽浄土に往生することができない五種類の修行のことで、選択本願念仏宗にある。⑥読誦雑行。『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦すること。⑦観察雑行。極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行という。⑧礼拝雑行。弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬すること。⑨称名雑行。弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称すること。⑩讃歎供養雑行。弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行という。
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鎮国護王の教
国の災難を鎮め、王を護るために効験があるとされた諸教。古来、法華経・仁王般若経・金光明最勝王経を護国の三部経といった。
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魔業
魔のしわざのこと。
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泥梨
地獄や奈落のことを指す。
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衆生の眼目
衆生が仏の悟りを得るための肝要な修行のこと。
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諸仏の肝心
諸仏が衆生を成仏させるために説き明かした特に大事な教えのこと。
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緇門
仏門のこと。「緇」は黒色の衣の意で、転じて僧侶を意味する。
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屍骨
死者の骨。遺骨のこと。
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薩生
はじめは天台を学んだが、成覚房幸西に従って専修念仏帰依した。証空から西山派の修行を教わり、鎌倉に出て独自の宗派を作った。生没年不詳
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塗炭
①泥水まみれ、火に焼かれるように、大変苦しむこと。②きわめて汚いもののたとえ。
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荘園
奈良・平安時代から室町時代にかけて見られた私有地のこと。8世紀には、それまで行われてきた土地公有制に基づく班田制が有名無実化し、公家や社寺による大規模な開墾地が私有地と認められた。9世紀半ばからは国家権力を介入させない不輪不人の権利を得、11世紀以後はそうした荘園が一般的になった。地方豪族は名目上、中央の権力者に寄進した形をとって不輪不入権を得てその私有地を領有している。
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神人
日本の神職。
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寄人
平安時代以後中世にかけて用いられた一定の人々に対する呼称であるが、複数の意味がある
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寛宥
寛大さをもって罪や過ちを許すこと。
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三千衆徒
比叡山延暦寺の3000人の僧侶のこと。
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申状
①朝廷などに上申する文書。②訴訟における原告の訴状。
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達磨の邪法
菩提達磨が説いた邪悪な法で、禅宗の教え。
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端拱
①姿勢を正して手をこまねいていること。②じっとして何もしないでいること。
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暗証
証得に暗いこと。禅宗の徒は、経論の理解や教理の追及もしないで、ただ座禅修行によって仏の悟りを証得できると思ったことをいう。
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小生
①他人を卑しんでいうときに使う言葉。②男子がへりくだっていう語。
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浅識
知識が浅いこと。またその人のこと。
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見性成仏
禅宗の根本精神を簡潔に表明した句。自分に本来そなわっている「仏となりうる性質」を発見して、悟りを開き、仏となること。ただちに迷いや疑いを去って、自己の本来の姿を悟り実現すること。
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耆年
年寄り、老人のこと。
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宿老
①多くの経験を積んで道理に通じた老人。②鎌倉幕府の評定衆・引付衆。
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螻蟻モン蝱
取るに足りない小さなもののことでケラ・アリ・カ・アブ。
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決択
択び決すること。事の正否を決めて理を明らかにすること。仏法では広く宗義の正邪を判断して疑いを晴らすこと。
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牆壁
垣と壁のこと。また囲い壁のこと。
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三衣
僧が着る3種の袈裟 。僧伽梨 (大衣・九条)・鬱多羅僧(上衣・七条)・安陀会 (中衣・五条)。僧の質素な生活をあらわすさまである。
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七慢
七種の慢のこと。慢・過慢 ・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢。
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舒巻
①のばし広げることとまき固めること。転じて,時勢に応じて身を処すこと。 ②書物を開くこと。
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附仏法の外道
仏法の教えを混入して教義を立てた外道のこと。一見すると仏法の教義のようであるが、その実、仏法とはかけ離れた教え、またそれを説く者。
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伽藍
梵語サンガアーラーマ(saṁghārāma)の音写。僧伽藍摩の略。僧園・衆園などと訳す。僧宗の住む庭園の意から、比丘衆が集まって修道する清浄閑静な場所をいう。後に寺院の建築物を指すようになった。宗派・時代等によって建物の配置や名称は変遷・差異が見られる。
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御式目
御成敗式目のこと。鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに、制定された武士政権のための法令のことである。貞永元年(1232)に制定されたため、貞永式目ともいう。ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
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右大将家
(1174~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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二位殿
北条 政子のこと。(1157~1225)。平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台と呼ばれた。法名を安養院といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。
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御成敗
①政治を行うこと。②処置すること。③裁決すること。④処罰すること。
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三代の将軍
鎌倉幕府の三代にわたる源氏の将軍。源頼朝・源頼家・源実朝のこと。
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比叡山延暦寺の大衆が、専修念仏停止の方針を詮議し決定し、末寺等に通告した下知状と、延暦寺から幕府に提出された申状が挙げられている。
延暦寺から祇園への下知状
祇園とは、京都にある祇園社=八坂神社のことで、感神院ともいった。初めは春日大社の末社で興福寺の管下にあったが、後に天台宗延暦寺の別院となり、日吉大社の末社となっている。
祇園社に所属していた下級の神人を犬神人といい、祭礼の際には清掃、神輿かつぎ、警護などの雑役を行い、死人や死んだ獣の取り方付けなどもした。
延暦寺の大衆が京都における念仏者に対する処分を評議・決定し、その実行を祇園社の事務を執る執行に命じた延暦寺からの命令書である。末尾の注釈は「延応二年五月十四日に対してつけられたもので、四条天皇の代であり、鎌倉幕府の第三代執権・北条泰時の時であることが記されている。
延暦寺では、しばしば大衆が集まって評議し、その結論によって朝廷に訴えたり、園城寺や興福寺を攻撃するなどの行動が起こされた。
このとき延暦寺の大衆が評議した結論は、専修念仏者が天下にはびこったのは、延暦寺の怠慢のためである。念仏の輩は、仏法の八宗派の怨敵であり、大乗の行者の成仏を妨げる魔である。そこで、まず、京都を往復する念仏車や、在家で念仏を称える者は、先例により、祇園社の犬神人に命じて、念仏を禁止させるべきであると。叡山大衆の詮議は以上のとおりであるから、すみやかに犬神人に命じて、専修念仏者を禁止すべきである、との趣旨である。
公文勾当とは、公文書を扱う事務を担当する役職で、大寺院では別当の下で事務を執る者をいった。審賢は、当時、延暦寺で公文勾当の役にあたったものであろう。
「逐つて申す」とは、追伸ということで、念仏者を呵責すべき本文に続いて、専修念仏の張本人として具体的な人名を挙げている。また「唐橋油小路並びに八条大御堂六波羅の総門の向かいの堂」と、念仏者たちの活動の場所を挙げて、特に厳重に取り締まるよう指示している。いずれも京の都では当時、場末であったところで、こうした一帯に多くの念仏者がいたことがうかがえる。
専修念仏の者が、真如堂で狼藉を働いた具体的な事実は明らではない。真如堂が阿弥陀如来を本尊としていたので、念仏者がそこに住みつくなどして、専修念仏を行じていたと考えられる。
延暦寺からの下知状
その内容から、朝廷への申状ではなく、延暦寺から鎌倉幕府へ提出されたものと考えられる。また、専修念仏よりも、禅宗を厳しく批判しており、鎌倉幕府の要人の間で禅宗を尊ぶ者が増えている。それを延暦寺が危惧していたことがうかがえる。
初めに、近年、二つの妖怪があるとし、「達磨の邪法と念仏の哀音」がそれである、と断じている。しかし、このあとの内容は、念仏については触れず、もっぱら禅宗の非を指摘している。
すなわち、禅宗は、経文を用いずに坐禅によって悟るとし、修学もろくにしない若輩を見性成仏の人と崇めて、修学を重ねた長老を軽蔑し、ただ壁に向かって座禅を組んで勝手に悟ったとしており、僧衣をまとっているだけで慢心の心が強い。経巻を捨てて用いないという、仏法のようで仏法とかけ離れた外道が、既に我が国に出現している。まさに妖怪であり、用心しなければならない。なぜ、栄という亡びかかった国からきた流浪の僧を、わざわざ選んで大寺院の住職にするのか、と述べている。
ここに「亡国流浪の僧」をなぜ大寺院の主にする必要があるのかと批判しているのは、北条時頼が、寛元4年(1246)に南栄から蘭渓道隆を招き、本格的な禅宗寺院として建長寺を建てたことをさしているのであろう。
また、このあとも文応元年(1260)には兀庵普寧が、弘安2年(1279)には無学祖元が、中国から日本に来ている。彼等は、すでに栄の国が蒙古に圧迫されて滅亡寸前であったため、日本へ逃れてきた亡命僧だったのである。祖元は、鎌倉に円覚寺を開創し、普寧は建長寺の第二世になっている。
幕府は、新興の禅宗を取り入れ、禅僧を用いることによって、鎌倉を京都の朝廷に対抗できる文化都市としたのであろう。幕府が盛んに栄僧を招いたのは、坐禅によって身心の鍛錬ができるからというよりも、京都文化の下風に立つことを嫌い、栄から先進文明を採り入れるためであったと考えられる。
なお、大聖人は、「禅宗云く教外別伝不立文字、答えて云く凡そ世に流布の教に三種を立つ、一には儒教此れに二十七種あり、二には道教此れに二十五家あり、三には十二分教・天台宗には四教・八教を立つるなり此等を教外と立つるか、医師の法には本道の外を外経師と云う人間の言には姓のつづかざるをば外戚と云う 仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、涅槃経に云く『若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり』云云」(0152-15)と仏説を否定した禅宗の誤りを指摘され「禅は天魔の所為」と厳しく破折されている。
御式目に云く
次に、鎌倉幕府の基本法典である貞永式目について触れている。
この部分が、延暦寺の申状の一部なのか、大聖人が引かれたものなのかは、明確でない。申状が幕府へ提出されたものであれば、その中で式目について述べられても不思議ではない。
式目とは、「御成敗式目」のことで、幕府の第三代執権・北条泰時を中心に、評定衆によってまとめられ、貞永元年(1232)8月に施行されたので、その年号をとって「貞永式目」とも呼ばれ、ただ「式目」「式条」ともいわれた。
式目は、北条泰時が、「武家の人へのはからひのため」と述べているように、武家の間の紛争や問題を解決するための武家法を確立する目的で、源頼朝以来の慣例法を法制化したものであった。したがって、源頼朝・頼家・実朝の代々の将軍と、実朝が暗殺された後、幕府の実権を握って尼将軍となった頼朝の夫人・政子による、裁決の先例が重視され、基本とされた。
そのため、式目の第7条に、代々の将軍と二位殿時代の判例は、今後とも変更してはならない、という規定が明記されていた。また、正嘉2年(1258)10月の第6代執権・北条長時の代には、式目の追加の条として、「嘉禄元年より仁治三年に至る御成敗」すなわち第3代執権・北条泰時の治政の裁断を、「自今以後に於いては、三代の将軍並びに二位家の御成敗に准じて、沙汰を改むるに及ばず」と定めている。今後、泰時の裁定は、3代の将軍および北条政子の裁断に順じて改めてはならない、としているのである。
式目は51条からなり、1・2条が神事・仏事に関すること、3~6条までが幕府と朝廷の関係、7・8条が裁判の原則、9~17条までが刑事事件に関する規定、18~27条までが家庭内の紛争に関する規定、28~31条が訴訟手続きの規定、32条以下はその他の雑事、という構成になっている。
式目の末文には、違犯した者は神罰・冥罰を蒙るであろう、と公平な運用を神々に誓った祈請文が記されている。源頼朝時代の先例を重視しながら、道理を重んじ、公平な裁判を行うための基準を定めたのが式目だったのである。当時は、所領の帰属をめぐる裁判が最も多かったようだが、裁定は、式目によって下されたのである。
この式目の適用範囲は、本来は幕府の支配下にあった地域の御家人や人民が対象だったが、後には公家や寺社にも適用されるようになっていった。
ここで、代々の将軍の先例を改めない文が引かれているのは、禅宗も専修念仏も伝統的な神事・仏事をないがしろにし、仏神を軽んじるので、式目の1・2条に反するからである。
幕府は、念仏については、それが広まり始めた初期のころはしばしば禁止している。正治2年(1200)5月、2代将軍・源頼家の代に、念仏禁止令が出され、鎌倉では、将軍の命を受けた御家人が、念仏僧14人の袈裟・衣を剥いで焼き捨てて追放した、と吾妻鏡に記されている。したがって、幕府がこの先例を守るならば、念仏を禁止しなければならないはずで、申状はこのことを知っていて禅・念仏の禁止を訴えたものと考えられる。
なお式目に関しては、大聖人も、下山御消息で、「何事も両方を召し合せてこそ勝負を決し御成敗をなす人のいかなれば日蓮一人に限つて諸僧等に召合せずして大科に行わるるらん是れ偏にただ事にあらずたとひ日蓮は大科の者なりとも国は安穏なるべからず、御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに起請文を書載せたり、第一・第二は神事・仏事・乃至五十一等云云、神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を讒人等に召合せられずして彼等が申すままに頚に及ぶ然れば他事の中にも此の起請文に相違する政道は有るらめども此れは第一の大事なり、日蓮がにくさに国をかへ身を失はんとせらるるか魯の哀公が忘事の第一なる事を記せらるるには移宅に妻をわすると云云、孔子の云く身をわするる者あり国主と成りて政道を曲ぐるなり」(0356-14)と述べられ、幕府が大聖人を逮捕し処分したやり方は、式目の条文に背き、公平を誓約した祈請文に違背するものであると糾弾されている。
0096:10~0096:18 第七章 念仏を禁止すべきことを訴えるtop
| 10 念仏停廃の事、宣旨御教書の趣き南都北嶺の状粗此くの如し、日蓮オウ弱為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守り 11 て偏に南北明哲の賢懐を述ぶ猶此の義を棄置せらるるに非ずんば 綸言徳政を故らる可きか将た御下知を仰せらるる 12 可きか、 称名念仏の行者又賞翫せらると雖も 既に違勅の者なり 関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず 何ぞ恣に 13 関東の近住を企てんや、 就中武蔵前司殿の御下知に至りては 三代の将軍 並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を 14 改むること有る可からずと云云。 15 然るに今念仏者何の威勢に依つてか宣旨に背くのみに非ず 御下知を軽蔑して重ねて称名念仏の専修を結構せん 16 人に依つて事異なりと云う此の謂在るか、何ぞ恣に華夷縦横の経回を致さんや。 17 勘文篇 18 念仏者追放宣旨御教書の事 -----― 念仏を停め廃することについて、宣旨と御教書の趣旨や奈良・興福寺と比叡山延暦寺の状はおおよそ以上のとおりである。日蓮は力なき身ではあるけれども、勅宣並びにご命令の趣旨を守って、ひとえに奈良と比叡山の聡明な人々が考慮の末に出されたところを述べた。なお、この義を棄て置かれるのでないならば、天皇の御命令を下されるべきであろう。称名念仏の行者を賞賛されているが、彼らは既に勅宣に違反している者であり、鎌倉幕府の御咎めも末だ許されたわけではない。どうして勝手に関東の近くに住むことを企てられようか。とりわけ武蔵前司殿の御命令にいたっては「三代の将軍ならびに二位家の御成敗に準じて、御判決を改めることがあってはならない」ということである。 ところが今、念仏者は何の威勢によってか、宣旨に背くだけでなく、御命令を軽んじ蔑ろにして、重ねて称名念仏を専ら修することを企んでいる。人に依って処置が異なるという。このようないわれがあろうか。どうして勝手に都や田舎を好き勝手に歩き回ることができようか。 勘文篇 念仏者追放宣旨御教書の事 |
御教書
摂関政治のころから始まった公文書の一つで、三位以上の公卿において家司が上位を奉じて出すという形式をとる。のち、鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権・管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執建状ともいう。行政が出す公文書がこれにあたる。
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尫弱
① 体力・気力などが弱々しいこと。また、そのさま。柔弱。②貧しいこと。また、そのさま。
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明哲
聡明で物事の道理に通じていること。また、そのさまや、その人。
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徳政
人民に恩徳を施す政治で、免税や恩赦や物を施すこと天皇や執権、宰相、国守等が、自らの財を貧民に施したり、あるいは富豪にすすめて慈善を行わせること。たとえば正元元年(1259)の大飢饉にさいして、2月10日、幕府は山野河海の領有法を定め、陸奥国の地頭に命じて、窮民を救済させた等の記録がある。 その他、徳政の顕著な例としては、元寇の諸国御家人の窮乏を救うために発せられた永仁5年(1297)の徳政令がある。これは没落していく御家人を救うためのもので、一般民衆にまでは及ばなかった。
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御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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御免許
許可すること。
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結構
①計画・たくらみ。②組み立ててつくること・構え。③見事な・よいこと。④これ以上望まぬこと・たくさん。
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今までに挙げた宣旨等の趣旨を踏まえ、本抄の結びとして大聖人のお考えを述べられている。
専修念仏の禁止を命じた宣旨や御教書、興福寺や延暦寺の奏状や下知状等の趣意は、今までに挙げたとおりであり、日蓮は力なき身であるが、これらの趣旨を守って、南都・北嶺の明哲の人々が深く考察したうえで著されたことを述べたのである、と仰せである。すなわち、大聖人が念仏宗に厳しい破折を加えているのは、以上の宣旨・御教書・奏状の趣旨と合致しているのであるということである。
そして、もし、宣旨や御教書を軽んじ捨て置こうというのでないかぎり、宣旨等のとおりに計らうべきであり、また各地の地頭等へもその旨を命令すべきであろう、と仰せである。
また、専修念仏の行者を尊ばれているようだが、彼等は天皇の命に背いている者であり、幕府からの咎めを許されたわけでもないのに、なんで好き勝手に鎌倉の近辺に住もうとしているのか、と指摘されている。
なかでも第3代執権・北条泰時殿の裁定は、源氏三代の将軍と北条政子の裁断に準じて、それを改めてはならないと定められているではないかとされ、幕府の既定方針のとおりに、念仏を禁止すべきではないか、と諌められている。
ところが、今の念仏者が、宣旨に背くだけでなく、幕府の下知も軽蔑して、更に専修念仏を盛んにしようとしているのは「何の権威に依つて」であるかと言われている。これは、念仏が北条重時を背後に、その威光のかげで、朝廷からも幕府からも禁じられているにもかかわらず、平気で弘めていることを糾弾されているのである。そして「人に依つて事異なりと云う此の謂在るか」と、公的に法として定められている以上、人によって勝手に許されたりするようなことがあってはならない、と法の厳格を求められている。幕府が念仏禁止の法どおりに執行すれば、念仏者たちが都や田舎の間を自由に横行することなどできないはずである。
こうした趣旨からすると、本抄は幕府の為政者に対して、宣旨や幕府の念仏禁止の令を実行するよう、強く訴えるために著されたものとかんがえられるのである。
朝廷や幕府から、たびたび禁止令が出されたにもかかわらず、専修念仏の流行が一向におとろえなかったのは、公家の中にも、幕府の要人にも、自らこの禁に背いて念仏を進行する者が多かったため、取り締まりがウヤムヤにされていたからであろう。
例えば、天台座主の慈円が座主に在職中は、延暦寺の衆徒による専修念仏に対する迫害が行われていないのは、兄の九条兼実が法然に帰依していたためであろう、と推されている。慈円自身も、法然の弟子・証空を臨終の善知識としたことは有名である。
鎌倉でも、源頼朝の夫人・政子が建立した安養院、第6代執権・北条長時による浄光明寺、名越一門による長楽寺、北条経時による光明寺など、浄土宗の寺院が幕府の有力者によって次々と建立されているのである。
本抄を著された翌年の文応元年(1260)7月に国主諌暁の書として北条時頼に提出された立正安国論において、大聖人は「法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨て並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0023-16)と厳しく念仏を破折されている。
法然が選択集で主張した専修念仏の邪義こそが、当時の人々を苦悩の底に沈めた、三災七難の根源の一凶であると指摘され、この念仏の邪義を禁ずることこそ、国土と社会を安穏にする道である、と強く諌められたのである。
大聖人は、災難を無くし国家・社会を安んずる方途が法然の邪義を広める念仏の輩への布施を止めることにあると明かされたのである。
最後に「勘文篇」と項目を挙げられて終わっている。これは以上を勘文篇とされた意味か、あとを略されたのか、続文があったものなのか、はきりとしない。