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日蓮大聖人御書講義321402~1444

1402~1403    妙法尼御前御返事(一句肝心事)
  1402:01~1402:06 第一章 尼の信心を称賛される
  1402:06~1403:02 第二章 題目こそ法華経の肝心であるを明かす
  1403:02~1403:08 第三章 仏法に惑う当世衆生の愚癡を嘆く
  1403:09~1403:16 第四章 仏法の御法の力教え夫を励ます
1404~1405    妙法尼御前御返事(臨終一大事)
  1404:01~1404:12 第一章 臨終の大事を明かす
  1404:13~1404:16 第二章 白色の相の果報を推す
  1404:16~1405:08 第三章 法理のうえから題目の功力を述べる
  1405:08~1405:18 第四章 妙法による成仏の確かな事を明かす
1406~1419    妙法比丘尼御返事(亡夫追善御書)
  1406:01~1406:02 第一章 妙法比丘からの手紙の内容を挙げる
  1406:03~1407:06 第二章 商那和修の因縁を語る
  1407:07~1407:16 第三章 大聖人御自身の経過を明かす
  1407:16~1408:13 第四章 「一」の不思議の内容を示す
  1408:14~1409:13 第五章 念仏・真言・禅の謗法
  1409:14~1410:18 第六章 念仏宗の謗法の理由を明かす
  1411:01~1411:07 第七章 真言宗・禅宗の謗法の理由を明かす
  1411:08~1411:13 第八章 謗法の宗旨を信じた現証を明かす
  1411:14~1412:01 第九章 蒙古襲来の原因が謗法にあると示す
  1212:01~1412:15 第十章 進言の前の思索
  1412:16~1413:15 第11章 日蓮大聖人の諌暁ゆえの大難
  1413:16~1414:14 第12章 佐渡・身延山の状況
  1414:14~1415:13 第13章 李如暹に比したご自身の立場
  1415:13~1416:13 第14章 不軽菩薩を超える大聖人の大難
  1416:14~1417:07 第15章 諸宗の人師等の大悪心を明かす
  1417:07~1418:01 第16章 法華経の行者への供養をたたえる
  1418:02~1419:01 第17章 結語
1419~1420    妙法比丘尼御前御返事
  1419:01~1419:02 第一章 迫害に動ぜぬ尼の信心をたたえる
  1419:02~1419:09 第二章 摩訶波闍波堤記別の経緯を述べる
  1419:09~1419:14 第三章 滅後弘通を辞した摩訶波闍波堤を嘆く
  1420:01~1420:11 第四章 尼を一切衆生喜見仏と賛嘆する
1420~1425    内房女房殿御返事(白馬白鳥御書)
  1420:01~1421:02 第一章 内房女房の願文を挙げる
  1421:03~1422:08 第二章 題目に法華経の功徳を収めるを明かす
  1422:08~1423:10 第三章 正法に導くことこそ孝養と称える
  1423:11~1424:04 第四章 輪陀王と馬鳴の故事を引く
  1424:05~1425:01 第五章 真言亡国を示し信心を励まされる
1425~1426    治部房御書
  1425:01~1425:03 第一章 白米の御供養への謝辞
  1425:03~1426:04 第二章 第六天の魔王の障礙を説く
  1426:04~1426:14 第三章 法華経信受の功徳を明かす
1427~1430    盂蘭盆御書(治部房祖母への書)
  1427:01~1428:13 第一章 盂蘭盆の起源を示さる
  1428:14~1429:06 第二章 目連が母を救えなかった理由
  1429:07~1430:06 第三章 正法による親子同時の成仏を明かす
  1430:07~1430:16 第四章 妙法ゆえの成仏を約し激励される
1431~1435    浄蓮房御書
  1431:01~1431:01 第一章 供養への謝辞を述べる
  1431:01~1431:06 第二章 善導が観経を選んだ経緯を示す
  1431:07~1432:08 第三章 念仏に執して法華経を捨つるを述べる
  1432:08~1433:03 第四章 浄土宗の肝心を示す
  1433:04~1433:16 第五章 善導の浄土法門を破折する
  1433:16~1434:15 第六章 浄土六師が謗法であることを述べる
  1434:15~1435:05 第七章 法華経廻向の功徳述べる
1435~1438    新池殿御消息(法華経随自意事)
  1435:01~1436:03 第一章 阿育・阿那律の例を挙げる
  1436:04~1437:05 第二章 日本国の仏教の迷乱を挙げる
  1437:05~1438:05 第三章 法華経が随自意の経であると示す
  1438:16~1438:17 第四章 険路の中の参詣の志を讃える
1439~1444    新池御書
  1439:01~1439:13 第一章 仏道への精進を勧む
  1439:14~1440:07 第二章 最後まで成就することの大切さを示す
  1440:08~1441:02 第三章 名聞名利の邪心戒め、三宝供養を勧む
  1441:03~1441:10 第四章 謗法の供養を天は受けないことを述ぶ
  1441:11~1442:06 第五章 正法の善知識を仏と仰ぐべきこと
  1442:06~1443:01 第六章 善神去って悪鬼のすみかなるを示す
  1443:02~1443:13 第七章 即身成仏の道を示す
  1443:14~1444:03 第八章 成仏の要諦は「信」なるを明かす
  1444:04~1444:10 第九章 禅僧の天魔の振舞いを弾呵
  1444:11~1444:17 第十章 いよいよの聴聞と深信を勧む

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1402:01~1402:06 第一章 尼の信心を称賛されるtop

1402
妙法尼御前御返事
01   先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候、 須弥山を他方の世界へつぶてに
02 なぐる人よりも・ 三千大千世界をまりの如くにけあぐる人よりも 無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴
03 聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、 末法のけふこのごろ 法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありが
04 たし、 此の趣を釈し給いて人の御不審をはらさすべき僧もありがたかるべしと、 法華経の四の巻・宝塔品と申す
05 処に六難九易と申して大事の法門候、 今此の御不審は六の難き事の内なり、 爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成
06 仏の人なるべし、
-----―
 まず法華経について、疑問をたて、その趣旨を尋ねられたことは、尊い大善根であります。
 須弥山を他方の世界へ小石のように投げる人よりも、三千大千世界を鞠のように蹴り上げる人よりも、無量の経典を受け持って、人に説き聞かせ、聴聞した道俗に六神通を得させる人よりも、末法の今日において、法華経の一句一偈の意義を尋ね問う人は稀である。またこの趣旨を説き聞かせて、人の疑問を晴らすことのできる僧も稀であると、法華経の第四の巻の宝塔品というところに、六難九易といって大事の法門が説かれています。いま貴女が疑問を尋ねられたことは、この六つの難しいことの中の一つであります。それゆえ、もし法華経を持っていくならば、その人は即身成仏することができる人なのであります。

善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――
須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
六神通
 六種の神通力。天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのである。
―――
一句一偈
 経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。
―――
宝塔品
 妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
―――
六難九易
 法華経見宝塔品第十一に説かれる六つの難しいことと九つの易しいこと。仏滅後、法華経を受持することの難しさを、六難と九易とを対比することによって説き示したもの。九易は普通は大難事ではあるが、法華経受持に比較すれば容易なことであるとされる。
 六難とは、
   ①  仏の滅後に悪世の中で法華経を説くこと。
   ②  仏の滅後に法華経を書き、あるいは人に書かせること。
   ③  仏の滅後に悪世の中でしばらくの間でも法華経を読むこと。
   ④  仏の滅後に法華経を持ち、一人のためにも説くこと。
   ⑤  仏の滅後に法華経を聴受してその義趣を質問すること。
   ⑥  仏の滅後によく法華経を受持すること。
 九易とは、
   ①  法華経以外の無数の経を説くこと。
   ②  須弥山を接って他方の無数の仏土に擲げ置くこと。
   ③  足の指で大千世界を動かして遠く他国に擲げること。
   ④  有頂天に立って無量の余経を演説すること。
   ⑤  手に虚空・大空を把って遊行すること。
   ⑥  大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること。
   ⑦  枯草を負って大火に入っても焼けないこと。
   ⑧  八万四千の法門を演説して聴者に六神通を得させること。
   ⑨  無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通をそなえさせること。
―――――――――
 本抄は、弘安元年(1278)7月3日、日蓮大聖人が聖寿57の御時、身延で著され、妙法尼に与えられた御消息である。法華経に関する妙法尼の質問に対する御返事である。御真筆は現存していない。
 本抄を与えられた妙法尼については、詳しいことは分かっていない。古来から、妙法尼と呼ばれた婦人は、四人いたといわれている。一は、駿河国岡宮の人。二は、四条金吾の母。三は、佐渡中興に住む中興入道の母で、大聖人が佐渡御流罪中に帰依し、身延入山後もしばしば音信を寄せていたといわれる。四は、日目上人の父・新田五郎重綱の母である。
 本抄の妙法尼は、駿河国岡宮に住んでいた婦人といわれている。弘安元年七月に夫に先立たれたが、その後も純真な信仰を貫き、大聖人から深く信頼されていたことがうかがわれる。弘安5年(1282)2月22日に死去し、その後、屋敷跡に妙法寺が建立されたと伝えられる。本抄をしたためられた11日後の妙法尼御前御返事(1404)を拝すると、妙法尼の夫が題目を唱えつつ亡くなったことが記されている。そうしてみると、本抄は、病の重い夫が亡くなる直前に、「南無妙法蓮華経と唱えるだけで、即身成仏ができるのかどうか」と大聖人に尋ねてほしいと言ったのを、妙法尼が夫に代わって、お手紙で質問したのに対する御返事と思われる。本抄の末尾に「見参に入り候て申すべく候と申させ給え」との仰せは、夫に対してのものであろうと推察される。
 内容は、最初に、妙法尼が質問をしたこと自体をほめられている。すなわち、法華経について疑問を立て、質問したことに対し、末法の世に法華経の一句一偈のいわれについて尋ねることは、極めて稀なことであると、法華経見宝塔品第十一に説かれる六難九易の法理を引いて述べられている。次に、法華経を受持する人は即身成仏ができる人であると述べられ、南無妙法蓮華経は一句一偈であるが、同じ一句のなかにも、一切経の肝心であり、眼目であり、したがって、南無妙法蓮華経の題目の中には、一切の功徳が漏れなく含まれていると述べられ、文証を挙げて、法華経こそ信ずべきであると説かれている。このような明文があるにもかかわらず、日本、中国、インドの謗法の学者は、学びそこない、小乗、権教に執着しており、世間の人もそうした謗法の邪義をべつに疑わずに信用しているため、法華経の敵となり、無間地獄に堕ちることは免れない。この法華経は、女人も悪人も、そのままの姿で即身成仏できる妙経であるから、御本尊を信じて題目を唱えれば、即身成仏は疑いないと激励されて御手紙を結ばれている。
 最初に触れられている六難九易の法理は、釈尊が宝塔品で滅後の弘教を勧めるなかで、滅後弘教の難事であることを示したものである。九易といっても、難事中の難事であることはいうまでもない。本抄に触れられている以外でも「劫焼に、乾ける草を担い負って、中に入って焼けざらんも、亦未だ難しと為ず」など、とうてい不可能であると考えられることや、「諸余の経典、数恒沙の如し。此等を説くと雖も、未だ難しと為すに足らず」など正像摂受の修行の難事中の難事を挙げ、それらは六難に比較すれば、まだ難事ではないと説いているのである。その六難は、滅後弘教の難事であるが、
   ①  悪世に法華経を説く
   ②  書持し書持させる
   ③  読誦する
   ④  一人のためにも説く
   ⑤  義趣を問う
   ⑥  受持する、
 が挙げられている。そのなかの第五番目が「我が滅後に於いて、此の経を聴受して、其の義趣を問わん、是れ則ち難しとす」の文であり、妙法尼の質問は、その文にかなう尊い行為であると仰せられているのである。
 六難九易のうち他の五はいわゆる五種の妙行、すなわち受持・読・誦・解説・書写に含まれるが、義趣を問うのはそれに匹敵する尊く難しい行為なのである。逆にいえば、義趣を問うことを勘めていること自体、法華経が法理において絶対であるとの確信をもっていることを示すものだともいえよう。法華経は信が最も大切であると述べている。しかし、その信は盲信ではない。法理の内容を知ることもさせず、ただ信ずることのみを勧めるのは法の権威をかさにきて、法の内容の矛盾を直視させまいとする行為といわれてもやむをえまい。
 尼のその尊い質問に対しておほめになっていると同時に、それにお答えになる大聖人のお立場についても、六難九易の法理にかなうものであると示されている。これは「我が滅度の後に、若し此の経を持ちて、一人の為にも説かん、是れ則ち難しとす」の文がそれであり、また「若し仏の滅後に、悪世の中に於いて、能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす」の文も当然相当するであろう。
 尼の質問、またそれに答える大聖人の御存在自体が法華経の経文に合致するものであり、そのことをもってしても、大聖人の教えを信じていくならば、即身成仏疑いないと、まず励まされているのである。

1402:06~1403:02 第二章 題目こそ法華経の肝心であるを明かすtop

06          此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と
07 説かれて候へば、 此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、 南無妙法蓮華経と申すは是れ一句
08 一偈にて候、 然れども同じ一句の中にも肝心にて候、南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、 此の
09 御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。
-----―
 この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれていますから、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。
 南無妙法蓮華経というのは、一句一偈です。しかしながら、同じ一句のなかでも肝心の一句です。南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのかとお尋ねですが、この疑問は最も大切なことで、法華経一部の肝要であり、八巻の骨髄であります。 この法華経には、我等の身を法身如来、我等の心を報身如来、我等の振る舞いを応身如来と説かれていますから、この法華経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳を具えることができるのです。
 南無妙法蓮華経というのは、一句一偈です。しかしながら、同じ一句のなかでも肝心の一句です。南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのかとお尋ねですが、この疑問は最も大切なことで、法華経一部の肝要であり、八巻の骨髄であります。
-----―
10   人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候、又
11 日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、其のごとく
12 南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・ 二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて
13 候、 されば経には題目たり仏には眼たりと楽天ものべられて候、 記の八に略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む
14 と妙楽も釈しおはしまし候、 心は略して経の名計りを挙ぐるに一部を収むと申す文なり、一切の事につけて所詮・
15 肝要と申す事あり、 法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、 朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読
1403
01 にあそばすにて候、 二返唱うるは二部乃至百返は百部・千返は千部・加様に不退に御唱え候はば不退に法華経を読
02 む人にて候べく候、 天台の六十巻と申す文には此のやうを釈せられて候、
-----―
 人の身は五尺、六尺であっても、魂は一尺の顔に現れ、一尺の顔に現れている魂も一寸の眼の中に収まっています。また、日本という二つの文字に、六十六か国の人畜、田畠、上下、貴賎、七珍万宝が一つも欠けることなく収まっています。
 そのように、南無妙法蓮華経の題目の中には、法華経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字が一字ももれず、欠けずに収まっています。それゆえ、「経には題目が大事であり、仏には眼が大事である」と白楽天も述べられています。妙楽大師も法華文句記巻八に「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と釈されています。その意味は、略して経の名だけを挙げても、そのなかに法華経の全体を収めているという文です。
 一切のことにつけても、所詮、肝要ということがあります。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目です。したがって、朝夕唱目を唱えるならば、正しく法華経一部を真読されていることになるのです。二遍唱えることは二部、百遍は百部、千遍は千部読むことになり、このように、怠りなく唱えるならば、怠りなく法華経を読む人であります。天台宗の六十巻という文には、この旨を説かれているのです。

法身如来
 仏の三身の一つ。真理を体とする仏身。所証の理、すなわち仏が悟った真理もしくは法性そのもの。
―――
報身如来
 仏の三身の一つ。真理を体得する仏の能証の智慧。また、その智慧を体得した仏身をいう。
―――
応身如来
 仏の三身の一つ。衆生に慈悲を施す力用をさし、また衆生を救済するために、衆生の機根に応じて現ずる種々の仏身をいう。
―――
六十六箇国
 北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。
―――
一部八巻・ 二十八品・六万九千三百八十四の文字
 法華経の構成をいう。訳本や数え方において、多少の増減はある。
―――
楽天
 白居易のこと。(0772~0846)。白楽天ともいう。鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で??県の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。その後武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州の司馬に左遷される。
―――
天台の六十巻
 天台大師が講述し、章安大師が筆録した天台三大部(法華文句・法華玄義・摩訶止観、各10巻)と妙楽大師が注釈した、法華玄義釈籤10巻、法華文句記10巻、止観輔行伝弘決10巻を合わせて60巻とする。

―――――――――
 尼が「南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしや」と問うたことに対して、大聖人は南無妙法蓮華経の題目は法華経一部の肝心であること、その法華経は、凡夫の身に仏の三身が具備されていると説かれた経であることを示されて、南無妙法蓮華経と唱える功徳の大きさを教えられている。
 法華経の教えは「我等が身」を法身如来、「我等が心」を報身如来、「我等がふるまひ」を応身如来、と説くところにあると仰せられている。他の権教で説いてきた三身如来は法身如来とは「仏の身」、報身如来は「仏の心」、応身如来は「仏の振る舞い」であった。そこでは大日如来や阿弥陀如来、毘廬遮那仏という、凡夫と懸け離れた存在として仏を説いている。しかもそれらは三身円満ではなく、法身や報身のみの仏である。しかし、法華経は、凡夫がそのまま仏となること、しかも三身円満して仏の生命が凡夫に具わると説いているのである。このゆえに、法華経を信ずる人はいかなる人であれ、成仏することができるのである。仏とは凡夫にとって遠く崇める存在であって、自らが成るものではないと思い、また、そう聞かされてきた衆生にとって、法華経の凡夫即極の教えは画期的なものであったにちがいない。しかし、逆にいえば、凡夫に三身が備わることを説かない教えで、成仏がかなうわけはないのである。
 次に、その法華経の教えが南無妙法蓮華経の一言に具わっていると説いておられる。妙法蓮華経は法華経の表題である。しかしその表題は、そのなかに法華経一部全体を含めた表題なのである。そのことを大聖人は、人の命も眼の中に収まり、日本の二字のなかに日本にある一切が収まっているなどの世間の例や、妙楽大師等の文証を引いて教えられている。他の宗派のごとく、長い経典を読誦したり、書写したり、荒行をするのではなく、ただ南無妙法蓮華経の題目を唱えるだけで成仏できるのかというのは、尼にとっては、あるいはその夫にとって当然の疑問であったであろう。しかし、ここにお答えになられているように、題目こそ、まさに「一句万了の一言」なのである。天台家においてはこの言葉を「諸法実相」にあて、諸法実相の一言こそ一心三観を言い尽くしたものであるとしているが、大聖人は立正観抄でさらに深く「所詮一言とは妙法是なり」(0530-18)と仰せられている。
 また、尼の疑念のなかには、題目だけでよいというのは、念仏などと同じではないかという気持ちもあったかもしれない。たしかに念仏でも称名念仏だけで浄土往生できると説いているが、そこには三身具足などの深遠な法などは何もない。あるのは浄土往生への渇仰の心を起こさせる現実逃避の衝動のみである。

1403:02~1403:08 第三章 仏法に惑う当世衆生の愚癡を嘆くtop

02                                    かかる持ちやすく行じやすき法にて候
03 を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候、 経文に云く「於末法中・於後末世法欲滅時・受持読誦・悪世
04 末法時・能持是経者・後五百歳中広宣流布」と、 此れ等の文の心は当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを
05 説かれて候、かかる明文を学しあやまりて日本.漢土・天竺の謗法の学匠達皆念仏者・真言.禅・律の小乗・権教には
06 随い行じて法華経を捨てはて候ぬ、 仏法にまどへるをば・しろしめされず、 形まことしげなれば云う事も疑ひあ
07 らじと計り御信用候間、 をもはざるに法華経の敵・ 釈迦仏の怨とならせ給いて今生には祈る所願も虚しく命もみ
08 じかく後生には無間大城をすみかとすべしと正しく経文に見えて候。
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 このように持ちやすく、修行しやすい法を、仏は末代悪世の一切衆生のために説き置かれたのです。法華経安楽行品には「末法の中において」、「後の末世、法の滅せんと欲する時、この経典を読誦せん者」と説き、同分別功徳品には「悪世末法の時、能くこの経を持つ者」と説き、同薬王菩薩本事品には「後の五百歳の中に、広宣流布して」と説かれています。これらの文の意味は、今の末法の代には、法華経を信じ持つべきことを説かれているのです。このような明文を学び誤って、日本・中国・インドの謗法の学者達は、皆、念仏者、真言、禅、律等の小乗教や権教に随って修行して、法華経を捨ててしまったのです。また人々もこれらの学者達が仏法に迷っていることを知らないで、その姿がいかにも真実そうなので、言うことも間違いはあるまいと思って信用したので、自分では思っていなくても、法華経の敵となり、釈迦仏の怨となって、今生には祈る願いもかなわず、命も短く、後生には無間地獄を住みかとするようになる、と明らかに経文に説かれています。

末代悪世
 末代は正像末の三時のうちの末法。悪世とは人心が乱れ、悪事の横行する世との意味で、末法は三毒強盛の衆生が充満し、釈尊の教えでは救いきれない悪い世であることをいう。
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於後末世法欲滅時・受持読誦
 安楽行品に出てくる。「後の末世の、法滅せんと欲せん時に於いて、斯の経典を読誦し」と読む。この経文は、一応は方便権教の利益がなくなる時代をさしていうが、再往は釈迦仏法の一切が利益を失い滅する末法の初めをさしている。宝塔品の「於恐畏世」、勧持品の「恐怖悪世」と同意である。法華初心成仏抄には「釈尊入滅の後・第五の五百歳と説くも来世と云うも濁悪世と説くも正像二千年過ぎて末法の始二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云う文なり」(0550-01)とある。
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悪世末法時・能持是経者
 分別功徳品に「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」とある。
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後五百歳中広宣流布
 薬王菩薩本事品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」とある。末法に法華経が広宣流布すべきことが説かれている。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権経
 実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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 このように、大聖人の仏法の修行は、題目を唱えることが根本という、まことに簡単なものである。「かかる持ちやすく行じやすき法」であると仰せのごとくである。ところが、釈尊滅後の衆生、大聖人御在世の衆生は、この教えを素直に信ずることができない。それはなぜか。大聖人は、その原因として、「日本・漢土・天竺の謗法の学匠」が法華経の明文を学び誤ったゆえであり、その邪義に衆生が紛動されたのであると仰せられている。
 法華経の明文とは、末法において法華経を持つべきことを説いた経文である。「末法」「末世」「悪世末法時」「後五百歳」等の文は、釈尊滅後の末法には法華経を修行するべきことを明確に教示している。その明文があるにもかかわらず、彼らは「学しあやま」ったのである。そこに、末法において法華経を受持することが難事中の難事であると説かれた所以がある。このことは、先に六難九易の法理でみたとおりである。
 正法受持が難事であるということと、今の「かかる持ちやすく行じやすき法」との仰せとは、一見、矛盾するかのように思える。しかし、そうではない。法華経の修行自体は、あくまでも簡明なものである。それを実践すること、また持続することが難事中の難事なのである。法華経を実践しようとすれば、三類の強敵が起こるからである。法華経を実践するには、前代未聞の迫害を覚悟しなければならない。これを大聖人は「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136-05)と仰せられている。
 しかし当時の人々は末法における法華経の修行が、ただ題目を唱えることであるとは知るよしもなかった。天台流の像法時の煩瑣で難解な法であるとしか知らなかった。このゆえに末法の衆生には適さないと思い、真言の祈?に頼ったり、念仏の修行に走ったのである。法華経を受持する者でさえ、勧持・不軽の折伏行でなく、安楽行品の摂受を志向し、折伏行を行ずる大聖人を増上慢扱いにさえしたのである。
 さらに決定的な誤りは、法華経を誹謗するに至ったことである。善無畏などのような教祖達は遠慮がちに法華経でなくとも往生・成仏できると主張したのであったが、その弟子である弘法等にいたると、敷衍して、他の教えでは成仏できないとか、戯れの論であるなどとまで邪義を拡大していった。それが彼らの教えが堕地獄の因となる根本の理由である。
 滅後の衆生は、この、邪僧達の考えに紛動されていく。「形まことしげなれば」と仰せのように、もっともらしく理論の体裁をととのえ、形式が備わっていれば、それだけで真実の教えだと思ってしまったのである。ここには、宗教の正邪を教えの内容によって判断しようとするのでなく、形のうえから見てしまう末法の人々の宗教観が弾劾されている。
 しかも、人々は、彼らの教えを信ずることによって、仏を崇め、宗教を大事にしていると思い、所願満足、息災延命、後生善処がかなうと信じている。大聖人はその衆生の安易な考え方に対して、その祈りがかなわないのみか、所願は「虚しく」、息災延命の祈りは、逆に「命もみじかく」という結果となってあらわれ、後生は善処どころか「無間大城」という大悪処へ赴くことになると仰せになっている。それは、決して大聖人の個人的な意見ではなく、法華経譬喩品第三の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん……其の人命終して、阿鼻獄に入らん」等の経文によって明らかなのである。

1403:09~1403:16 第四章 仏法の御法の力教え夫を励ますtop

09   さて此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、 悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身
10 成仏と説かれて候は、 水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる、 世間の
11 あだなるものすら尚加様に不思議あり、 何に況や仏法の妙なる御法の御力をや、我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の
12 身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教
13 大師も釈せられて候、 心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり 御疑候べからず委く
14 は見参に入り候て申すべく候と申させ給へ。
15       弘安元年戊寅七月三日                  日蓮花押
16     妙法尼御前御返事
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 さて、この法華経の題目は、その意味を理解して唱えるのでなくても、大きな善根となります。悪人も、女人も、畜生も、地獄の衆生も、十界の衆生が皆、即身成仏できると説かれていることは、ちょうど水底に沈んでいる石でも、こすれば火を発するように、百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、燈を入れれば明るくなるようなものです。世間のかりそめのことでさえ、なお、このような不思議があるのです。ましてや、仏法の不思議な御法の御力においてはなおさらです。我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性の因によって、即法・報・応の三身如来と顕れることは疑いないことであります。「妙法の経力を以て即身に成仏する」と伝教大師も釈されています。その意味は、法華経の力によって、蛇身の竜女も即身成仏したということです。疑ってはなりません。委しいことは、お目にかかって申し上げるからと、お伝えしてください。
  弘安元年戊寅七月三日        日 蓮  花 押
   妙法尼御前御返事

十界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
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悪業
 悪い行為。三悪道・四悪趣に堕すべき業因。
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煩悩
 貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。
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生死果縛
 煩悩・悪業を因として受ける苦しみの果。生死の苦果に縛られた解説の道が閉ざされたこと。
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正・了・縁の三仏性
 三種の仏性(仏になるべき性分)のこと。正因・了因・縁因の三因仏性をいう。
   正因仏性  一切衆生が本然的に具えている仏性(法性・真如)のこと。
   了因仏性  法性・真如の理(正因仏性)を覚知する智慧をいう。
   縁因仏性  了因仏性を縁助して正因仏性を開発していくすべての善行をいう。
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妙法経力即身成仏
 伝教大師の法華秀句には「能化の竜女歴劫の行無し、能化所化俱に歴劫無し。妙法の経力を以って即身に成仏し、上品の利根は一生に成仏し、中品の利根は二生に成仏す。下品の利根は三生に成仏す」とある。提婆品に説かれている竜女の即身成仏の例を挙げて、法華経にとかれる即身成仏の義が人を化導するうえで諸教よりも勝れていることを明かした文。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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 ここで仰せられている「此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候」との御文は、南無妙法蓮華経と唱えるだけで即身成仏できるのかとの、尼の夫の質問に答えられたものである。難解な教理を学習したり、長い経典を読誦したりしなくてもよいのかという意味が尼の夫の疑問のなかに含まれていたのであろう。それに対し、唱題のなかに一切が含まれていることを述べられたのである。そして、どんな宿業深重の凡夫も妙法の唱題によって仏性をあらわしうることを水の底の石、暗闇の燈に例を引いて教えられているのである。先の、当世の念仏者達が「をもはざるに法華経の敵」となっているのに対して、悪人成仏、女人成仏、畜身成仏、地獄即仏界の深理を秘沈した法華経の題目を受持すれば、知らないあいだに即身成仏の道を歩むことができるのである。これは「仏法の妙なる御法御力」によるのである。
 ただ、ここで注意すべきことは、「習い読むことなくして」というのは、全く習い読む必要はないという意味ではないということである。もし全く習い読まなくてもよいということであれば、法華経について不審を立ててその趣旨を尋ねることをほめたたえられることはないであろう。この仰せは、尼の夫が病の床に伏せているゆえであり、さらに根本的には、有解無信に対して、有信無解を強調されんがためであると拝する。たとえ解はあっても、信のない者は成仏できない。それに対してたとえ解はなくとも、信を強盛にもっている人は成仏疑いないことを教えられているのである。法華経においては信が強調されており、法華経方便品第二に説かれるように、仏の真実の悟りは「一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所」であり「唯、仏と仏と、乃し能く諸仏の実相を究尽」されたものであり、それを知って、智慧第一の舎利弗も「信を以って入ることを得た」のである。したがって、不可思議な妙法は凡夫の浅い智慧では量れない。仏の教えるところをそのとおりに信ずることによって「以信代慧」で、大いなる智慧が発現するのである。そのゆえに法華経では信を強調されているのである。だからといって「解」を求めてはならないということではないのは当然であり、大聖人は「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」(1148-01)「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(1038-13)等と仰せになっており、正法弘通においては仏法を「習い読む」ことは必要なことなのである。ただ、尼の夫のように病が重くて弘教の実践が実際上不可能である場合、自身の成仏のためには、信さえあれば「習い読む」ことは必要ないと仰せられているのである。
 こうした法華経の「妙なる御法の御力」があるゆえに、過去遠々劫からの悪業深重の身が三身如来と顕れるのである。「悪業・煩悩・生死果縛」とは、業・煩悩・苦の三道である。この三道が法・報・応の三身と顕れる。この関係は、煩悩が法身、業が報身、苦が応身へと転換する。当体義抄には「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(0512-10)と仰せである。法身・般若・解脱の三徳と三身の関係は、法身は法身、般若が報身、解脱が応身となる。
 煩悩・業・苦の三道は、煩悩による行為が業を造り、その業が苦を招き、苦がまた煩悩を呼び起こして、際限ない苦悩の流転となる。しかし、法華経を受持する者はその連鎖を断ち切って、煩悩は仏の智慧としての般若に転換する。煩悩がもたらしていた悪業は、般若によって仏の自在な解説の働きとなる。業のもたらす苦果は、解脱によって法身という究極の真理の当体へと顕れるのである。その法身はまた、般若を生み出すというように、悟りの連なりへと変わっていく。この三徳が先に述べたように、そのまま仏の尊い三身となるのである。
 法華経の成仏の現証として竜女を挙げられているのは、竜女が法華経の即身成仏の現証であるからである。他の二乗や提婆の成仏は、まだ、未来に成仏するという記別にとどまっているからである。「くちなはの竜女も即身成仏したり」とは、畜生で、しかも女身である竜女でさえも成仏したのであるから、人間であり、しかも男性である妙法尼の夫が成仏できない道理がないとの激励と拝せられる。大聖人のこの懇切な教えによって、尼の夫は歓喜し、信心を奮い起こしたことであろう。このことは、最初に述べた、本抄から十一日後の妙法尼御前御返事を拝すると、よく推察できる。

1404~1405    妙法尼御前御返事(臨終一大事)top
1404:01~1404:12 第一章 臨終の大事を明かすtop

1404
妙法尼御前御返事
01   御消息に云くめうほうれんくゑきやうをよるひるとなへまいらせ、 すでにちかくなりて二声かうしやうにとな
02 へ、乃至いきて候し時よりもなをいろもしろくかたちもそむせずと云云。
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 御手紙に「亡夫は妙法蓮華経を夜昼と唱え、いよいよ臨終近くになって二声大きな声で唱え(中略)生きていたときよりも、さらに色も白く、形も損なわれなかった」と書かれていました。
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03   法華経に云く「如是相乃至本末究竟等」云云大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云
04 く「地獄に堕つるに十五の相.餓鬼に八種の相.畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地
05 獄の陰に譬う」等云云、 夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は
06 入る気を待つ事なし・ 風の前の露尚譬えにあらず、 かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、
07 されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、 一代聖教の論師・ 人師の書釈あらあらかんがへあつめ
08 て此を明鏡として、 一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし、 此の人
09 は地獄に堕ち給う乃至人天とはみへて候を、 世間の人人或は師匠・ 父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生と
10 のみ申し候、 悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦みしのびがたければ、 弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだ
11 んし地獄の苦を増長せしむる、 譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんしはれ 物の口をあけずしてやまする
12 がごとし。
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 法華経方便品第二に「如是相(中略)本末究竟等」とあり、大智度論には「臨終のとき色の黒い者は地獄に堕ちる」とあり、守護国界主陀羅尼経には「地獄に堕ちる臨終の相に十五種の相があり、餓鬼に生ずるのに八種の相があり、畜生に生ずるのに五種の相がある」とあり、天台大師の摩訶止観には「身が黒色なのは地獄の闇に譬える」とあります。
 そもそも、振り返ってみれば、日蓮は幼少のときから仏法を学んできましたが、念願したことは「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露というのは単なる譬えではない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いったいどうなるかわからないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」と思って、釈尊一代の聖教と論師や人師の書や釈をあらあら考え集め、これを明鏡として一切の人々の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたところ、少しも曇りがありません。この人は地獄に堕ちられた……この人は人・天に生じているというふうに見えるのを、世間の人々は師匠や父母等の臨終の相を隠して西方浄土の往生とのみいっています。悲しむべきことに、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しみを忍びがたいときに、残った弟子は師匠の臨終を賛嘆し、地獄の苦しみを甚だしくさせています。たとえば罪の深い者を口を塞いで問いただし、できものを切り開かないでひどくするようなものです。

如是相乃至本末究竟等
 法華経方便品第二の十如是の前後をあわせ、中間を略した文。
―――
大論
 大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。
―――
地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
身の黒色は地獄の陰に譬う
 摩訶止観巻五上には「『正法念』に云わく『画師の手の五彩を画き出すが如し。黒・青・赤・黄・白・白白なり。画手は心に譬え、黒色は地獄の陰を譬え、青色は鬼を譬え、赤は畜を譬え、黄は修羅を譬え、白は人を譬え、白白は天を譬う』と」とある。
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餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
畜生
 飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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摩訶止観
 天台三大部の一つ。天台教学の原典。天台大師が隋の開皇14年(0594)、一夏九旬にわたって講説したものを、章安が筆録し一部十巻になした書。内容は五略十広にわたっているが、そのなかに天台教学の極説一念三千が説かれている。
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一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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人天
 十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
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西方浄土
 阿弥陀仏の住む西方十万億土の極楽浄土のこと。ここでは鎌倉時代に阿弥陀信仰が盛んであったために、西方浄土にことよせて成仏の境涯に入ることを示されたのであり、当抄の本義は娑婆即寂光の即身成仏をいう。
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往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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 本抄は弘安元年(1278)7月14日、妙法尼が夫の臨終の際の様子を報告したお手紙に対する御返事である。御真筆は池上本門寺に存しているが、中段と末尾の部分が欠けている。
 内容は、妙法尼の夫の臨終のさまが報告されたのに対し、その相から亡夫は天界に生じているであろうかとされ、臨終間際まで唱えていた題目の功徳によって成仏は間違いなく、また、そのような人と夫妻になった妙法尼の成仏も疑いないと激励されている。
 最初に、妙法尼からの手紙の中の、亡夫の臨終の時の様子を綴った部分を挙げられている。この手紙から、妙法尼の夫が題目を唱えつつ、尼に見とられながら、安らかに息を引き取っていった様子がうかがわれる。また、夫を失った妙法尼は悲しみと嘆きのなかにあったであろうが、臨終の様子を報告した文面からは、夫の成仏を確信した毅然たる信心の姿勢が感じられる。
 この手紙に対して、日蓮大聖人はまず経論の文を挙げ、臨終の相について述べられている。法華経方便品第二の「如是相乃至本末究竟等」の文は、正しくは「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」で、諸法実相を説いた十如是の文であるが、ここでは「如是相」を本とし、「如是果、如是報」を末として、この本末が究竟して等しい、すなわち相と果報とが即応しているという意味で挙げられたものであろう。臨終の相に来世の果報が示されているというのである。
 その他、大論・守護経・摩訶止観の残りの三つの文は、特に地獄の相に関して説かれたものである。これらは、地獄という最悪の境界についての相と果報との連関を述べた文証として挙げられたものであるが、妙法尼の亡夫の臨終の相との違いをはっきりさせるための伏線になっていると同時に、世間で極楽往生といっているその実態を文証のうえから断破されるという意味もあったのではないかと拝される。
 なお、大論の文として挙げられている「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」の文は、大智度論には見当たらず、出典ははっきりしない。ただ他に千日尼御前御返事にも「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる」(1316-11)と、同じような内容の記述が見られる。ところで、この地獄と黒色の関係はどのように理解されるべきであろうか。当然のことながら、単なる地肌の黒さをいっているのではないであろう。ましてや人種的特徴としてもっている肌の色は問題にならない。摩訶止観巻五上には、黒・青・赤・黄・白・白白を六道の境界にたとえ、「黒色は地獄の陰に譬う」と述べられているが、生きている時の色から変じて暗い苦悩に沈んだ黒色になることをさしているとみるべきであろう。
 次に、大聖人御自身が仏法を習学されるにあたって何よりも死という問題と対決してこられたことを述べられ、そうして経文や論師・人師の書釈に基づいて人々の臨終の姿を見てみたとき、その果報が明瞭に推察できると述べられている。ところが世間では、師匠や父母といった人が亡くなると、だれも彼もが臨終の相に関係なく、西方極楽浄土の往生といっている。こうして仏法の理に反して死者の臨終をいくら賛嘆しても、なんの救いにもならないばかりか、かえって死者の苦を増す結果になるのであると、たとえを用いて指摘されている。
先臨終の事を習うて後に他事を習うべし
 これは大聖人が仏法を習学するにあたって、何にもまして臨終のことを学び、その後、他のことを学ぼうと思われたということである。
 大聖人はこのように思われる前に人の命の無常であることを観じられている。だれびとも免れることのできない死という厳しい現実に思いを巡らすとき、人は否応なく自身の生に思いをいたさざるをえない。死が一つの生の規範となっているともいえよう。死をどう捉えるかによって、生き方は大きく異なってくる。死が生の消滅であり、無を意味するならば、生の意味も無に帰するし、また、死ねばみな同じというのであれば、精神的向上への努力等はなんの意味もないものとなろう。因果の理法は三世を通じて存在すると説く仏法の三世の生命観に立つとき、初めて生の意味が明らかになってくるといえよう。
 三世の生命観に立つとき、この人生の終わりは未来への始まりでもある。そうであるならば、どうして臨終のことをいいかげんに考えられようか。この世の総決算ともいうべき臨終をどう迎えるかということを視点において、人生万般を処していくことが大事となろう。そこに仏道修行の意味もあるのである。このことを新池御書には「抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや」(1439-01)と述べられている。
世間の人人或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候、悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦みしのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし地獄の苦を増長せしむる
 当時は念仏信仰が広く世に流布していた。そして、人が死んだ場合、その臨終の相に関係なく、死者を賛嘆して、みな西方浄土に往生した、と言っていたのであろう。こうした傾向は今でもあり、死を成仏という言い方に、それはあらわれている。
 しかし、仏法の法理のうえからみるならば、そのような行為はかえって死者の苦しみを増してしまうのであると仰せられているのである。死者が生前になした身口意の行為は、すべて自身に業因となって刻み込まれ、その果報を受けずしては消えることはない。悪業をなした場合は苦の果報を受けることによって消えるのである。これは、あくまでも苦を受けることによって、自身の悪業の罪を悔い改めるがゆえに消えていくのである。罪を悔い改めずに悪業を賛嘆するならば、かえって罪を増し、より苦しみを受けていくのは当然といえよう。その意味で、残った人達が、悪業の報いで死者が苦しんでいるのも知らず、死者を西方浄土に往生しているなどと賛嘆するならば、かえって死者の苦を増すのである。それは、あたかも罪人の口をふさいで罪を問いただすようなもので、罪を悔い改めさせないがゆえに、いつまでも責め苛まれさせるようなものであり、また腫物の口をあけて膿を出さないようにして、いつまでたっても治らずに苦しめているようなものであるとされているのである。

1404:13~1404:16 第二章 白色の相の果報を推すtop

13   しかるに今の御消息に云くいきて候し時よりも・ なをいろしろくかたちもそむせずと云云、天台の云く白白は
14 天に譬ふ、 大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、 天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨
15 終を記して云く色白し、 一代聖教を定むる名目に云く 「黒業は六道にとどまり 白業は四聖となる」此等の文証
16 と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか、 
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 しかしながら、今回のお手紙に「生きていたときよりも、さらに色も白く、形も損なわれなかった」とありますが、天台大師は「白白は天界の生命に譬える」といい、大智度論には「赤白色で端正な者は天上界に生まれる」とあり、天台大師の御臨終を記したものには「色が白かった」とあり、玄奘三蔵の御臨終を記したものには「色が白かった」とあり、釈尊一代の聖教を定めた名目に「黒業をなした者は六道に留まり、白業をなした者は四聖となる」とあります。これらの文証と現証をもって考えみると、この人は天界に生まれているのでしょうか。

玄奘三蔵
 (0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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黒業
 悪業のこと。苦果をもたらす邪悪な業をいう。
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六道
 十界のなかの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のこと。迷いの衆生が輪廻する境界をいう。
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白業
 善業のこと。楽果をもたらす善い業をいう。
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四聖
 声聞・縁覚・菩薩・仏のこと。法華経では「仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢」とある。
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文証
 文書・記録などの文献上の証拠。教義・主張・正邪・優劣を判断する三証のひとつ。
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理証
 現実の証拠。教義・主張・正邪・優劣を判断した論理。三証のひとつ。
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 ここでは妙法尼からの手紙の中の、夫の臨終の相が白かったことについて述べた部分を再び挙げ、白色の相についての文証、また天台大師や玄奘三蔵等の臨終の相が白かったと記されていたことなどを考え合わせ、一往、妙法尼の夫は天界に生まれているのであろうかと推論されているところである。
 天台大師の「白白は天に譬ふ」の文は、前章で引用されていた摩訶止観巻五上の文と一連のものである。人界が白なのに対し、天界は白白にたとえられている。白と白白の違いはどのようなものかといえば、白が単なる白色なのに対して白白は美しく輝いている白色を形容しているといえよう。白色でつややかな美しい輝きは、清純な安らぎとともに楽しみ躍動する生命を感じさせ、天界をたとえるのにふさわしかったのであろう。
 次の大論の文は、前章の大論の文と同じく、これもまた大智度論の中には見当たらない。前後の文がはっきりしないが、この文は、やはり臨終の相について述べた文であろうと思われる。色の問題でいうならば、この文に「赤白」とあるが、これは「赤」と「白」ということではない。血の気の失せた青白い相ではなく、血色のよいつややかな白色の相をさしていったものであろう。臨終の時、血色のよいつややかな白色で相が崩れず端正な者は天上界に生まれる、というのである。
 また、天台大師と玄奘三蔵の臨終の状況を記したものによると、いずれも「色が白かった」と書かれているとして、この二人が臨終の際に白色の相を示したことを挙げられている。しかし、これは天台大師も玄奘三蔵も天界に生まれたということを意味しているのではない。
 天台大師と玄奘三蔵とでは、その説くところは正反対である。天台大師が一乗真実三乗方便を説いて法華経が皆成仏道の法であることを明らかにしたのに対し、その後に出た玄奘三蔵は五性各別の説を唱え、三乗真実一乗方便と唱えたのである。この二人が、同様に臨終の相が白かったといっても同じ意味でないことは当然である。端的にいうならば、天台大師の臨終の白色の相は成仏の意味であり、玄奘三蔵の相は外見は同じでも生命自体は堕地獄であろう。日寛上人の臨終用心抄には「他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事」とある。
此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか
 ここで簡単に、文証と現証について考えておきたい。
 仏法を学び、それを実践する者が、仏典に基づくべきことは当然で、異論の余地はないだろう。もし仏の経典によらず、勝手な我見に基づいて、あたかも仏法を説いているような格好をしているとすれば、それは仏法を破壊し衰滅させる行為といわざるをえない。
 このことを戒めて、涅槃経卷七には「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれている。また、天台大師は法華玄義巻十上で「修多羅と合する者は録して之を用いよ、文無く義無きは信受す可らず」と述べ、論や釈においても修多羅すなわち経の教えと合致するものを用い、裏づけになる経文もなく義もないようなものは信受してはならない、といっている。したがって、仏法においては「文証」を挙げて論ずるという姿勢が大事となる。
 この「文証」にもまして重視されるのが「現証」である。このことを大聖人は、三三蔵祈雨事のなかで「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と明確に述べられている。
 しかし、現証が重要だからといって、現証だけで判断して、文証や道理をないがしろにしてよい、というものではない。やはり、文証をふまえて現証を見るということが大切である。現象面では同じような姿が現れていたとしても、その本質面では大きく異なるということがあるからである。例えば、ここで引かれていた天台大師と玄奘三蔵の臨終の相である。同じく白色であっても、その果報は異なる。したがって、現証は文証・理証よりも直接的であるという意味で重要ではあるが、文証・理証に基づいて判断していかなければならないといえよう。
 さて大聖人は、これらの文証と現証を挙げられたところで、ひとまず、妙法尼の夫はその臨終の相からして天界に生じているのであろうか、と推測されている。
 しかしながら、このような、相をもってその境界を見る、というところに大聖人の仏法の本義があるわけではない。現実を鋭く凝視し、正しく認識したうえで、今度は状況をどう変革していくか、ここに大聖人の仏法の本義があることを知らなければならない。

1404:16~1405:08 第三章 法理のうえから題目の功力を述べるtop

16                            はた又法華経の名号を臨終に二反となうと云云、 法華
1405
01 法華第七の巻に云く「我滅度の後に於て応に此の経を受持すべし、 是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」
02 云云、 一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず、 皆我等が親父・大聖教主釈尊の金言なり皆真実なり
03 皆実語なり、其の中にをいて又小乗.大乗・顕教・密教・権大乗.実大乗あいわかれて候、仏説と申すは二天・三仙・
04 外道・道士の経経にたいし候へば・此等は妄語・仏説は実語にて候、 此の実語の中に妄語あり実語あり綺語もあり
05 悪口もあり、其の中に法華経は実語の中の実語なり・真実の中の真実なり、 真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎・
06 成実と律宗と念仏宗と禅宗等は 実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり、 法華宗は此れ等の宗宗には・にるべ
07 くもなき実語なり、 法華経の実語なるのみならず 一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば 法華経の御力
08 にせめられて実語となり候、 いわうや法華経の題目をや、 
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 また、法華経の題目を臨終の時に二遍唱えたということですが、法華経の第七卷の如来神力品第二十一には「私の滅度の後にはこの経を受持すべきである。この人は仏道で必ず成仏することは疑いない」とあります。
 釈尊一代の聖教はどれも疎略なことはありません。みな私達の父である大聖・教主釈尊の金言であり、みな真実であり、みな実語です。その中において、また小乗教・大乗教、顕教・密教、権大乗教・実大乗教と分かれています。仏説というのは二天・三仙・外道・道士の経々に対したときには、外道の経々は妄語で仏説は実語となります。この実語の仏説のなかにも妄語があり、実語があり、綺語もあり、悪口もあります。そのなかにあって法華経は実語のなかの実語であり、真実のなかの真実です。真言宗・華厳宗・三論宗・法相宗・倶舎宗・成実宗・律宗・念仏宗・禅宗等は実語の仏説のなかの妄語の教えに基づいて立てられた宗教です。
 法華宗はこれらの諸宗とは比較にならない実語によるものです。法華経は実語であるだけでなく、釈尊一代の妄語の経々ですら法華経の大海に入ったときには法華経の御力によって実語となるのです。ましてや法華経の題目においてはなおさらです。

小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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顕教
 「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
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密教
 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
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権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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実大乗
 権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
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二天
 もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、梵語マヘシバラ(Maheśvara)と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
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三仙
 インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派、サーンキヤ学派(Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じく六派哲学の一つ、勝論学派、バイシェーシカ学派(Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道(ジャイナ教)の開祖であるといわれている。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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道士
 ①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
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綺語
 真実に反して巧みに飾り立てた言葉。十悪のひとつ。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえ
―――
法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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倶舎
 倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
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成実
 四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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 前の章では、白色ということから一往「此の人は天に生ぜるか」といわれたのであるが、妙法尼の夫が臨終の時に題目を二遍唱えたということからは、その功徳によって成仏は間違いないと述べられているところである。
 題目の功徳を説かれた文証として、法華経如来神力品第二十一の末尾にある「我滅度の後に於いて応に此の経を受持すべし、是の人仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」の文を挙げられている。この如来神力品は、釈尊から地涌の菩薩への付嘱が説かれている品である。滅後末法の正法を付嘱する、いわゆる結要付嘱の儀式が明かされているのである。その付嘱されたところの法こそ、三大秘法の南無妙法蓮華経である。したがって、この文にある「此の経」は、釈尊の法華経ではなく、南無妙法蓮華経のことなのである。
 この文を挙げられた後、釈尊一代の聖教を簡潔に比較相対しながら、法華経が真実の教えであること、また妙法の開会の功力を説き示され、まして三大秘法の南無妙法蓮華経には更に偉大な力があると述べられている。
 初めに、内外相対のうえから、釈尊の説いた教えはみな真実であり実語であるとされている。具体的には、古代インドのバラモン教で特に崇拝された摩醯首羅天・毘紐天の二天と迦毘羅・漚楼僧佉・勒沙婆の三仙、またバラモンの外道や神仙の術に通達した者達が説いた経々と比較相対するときは、仏説はいずれも実語ということができるのである。
 しかし、その実語である仏説の中で比較相対したときには、妄語もあれば実語もある。そのなかで「法華経は実語のなかの実語」であり、他の諸経は「実語の中の妄語」であると述べられている。これは権実相対といえよう。
 こうして相待妙という比較相対の視点から法華経こそ真実の実語であることを明かしたうえで、「法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候」と絶待妙という絶対開会の法華経の力用を示されている。絶待妙とは、法華経の妙理から判釈するとき、諸経に説かれた一切の教法は相対を絶して、すべてが法華経の真理を説き明かした真実の教えとなる、ということである。
 この法華経よりも、南無妙法蓮華経の力用は、更に大きいとして「いわうや法華経の題目をや」と述べられているのである。

1405:08~1405:18 第四章 妙法による成仏の確かな事を明かすtop

08                             白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす・須弥山に
09 近づく衆色は皆金色なり、 法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、 い
10 わうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
-----―
 白粉の力は黒い漆を変えて雪のように白くします。須弥山に近づく諸々の色は、みな金色になります。法華経の題目を持つ人は一生ないし過去遠々劫の黒業の漆が変わって白業の大善となります。ましてや無始以来の善根はみな変じて金色となるのです。
-----―
11   しかれば故聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種とな
12 り給う、 煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫婦にならせ給へば又女人成仏も
13 疑なかるべし、若し此の事虚事ならば釈迦・多宝・十方・分身の諸仏は妄語の人・大妄語の人・悪人なり、一切衆生
14 をたぼらかして地獄におとす人なるべし、 提婆達多は寂光浄土の主となり 教主釈尊は阿鼻大城のほのをにむせび
15 給うべし、 日月は地に落ち大地はくつがへり河は逆に流れ須弥山はくだけをつべし、 日蓮が妄語にはあらず十方
16 三世の諸仏の妄語なりいかでか其の義候べきとこそ・をぼへ候へ、委くは見参の時申すべく候。
17        七月十四日                    日 蓮 花 押
18     妙法尼御前申させ給へ
-----―
 それゆえ、故聖霊は最後臨終のときに南無妙法蓮華経と唱えられたのですから、一生ないし無始以来の悪業は変じて仏の種となっているのです。これが煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏という法門です。あなたはこのような人と夫妻の間柄となられたのですから、また女人成仏も疑いないでしょう。もしこのことが嘘であるならば釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏は嘘つきの人、大嘘つきの人、悪人であり、一切衆生をだまして地獄に堕とす人でしょう。逆に、提婆達多は寂光浄土の教主となり、教主釈尊は阿鼻地獄の炎におむせびになるでしょう。日月は地に落ち、大地は覆り、河はさかさまに流れ、須弥山は砕け落ちるでしょう。日蓮の妄語ではありません。十方三世の諸仏の妄語になるのです。どうしてそのようなわけがありましょうか。詳しくはお会いしたときに申し上げましょう。
  七月十四日             日 蓮  花 押
   妙法尼御前に申し上げてください。

須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
遠遠劫
 長遠な時間。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音写で、劫波、劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。
―――
聖霊
 使者の霊魂、なきたま、みたま。 
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煩悩即菩提
 九界即仏界の哲理。煩悩がなければ悟りはない。人生に悩みがあるがその悩みがなくなったところが菩提ではなく、悩みそのものが菩提である。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、生死即涅槃の同意語。
―――
生死即涅槃
 生死とは迷い、涅槃とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、煩悩即菩提の同意語。
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即身成仏
 凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――
女人成仏
 法華経以前の諸経では、女人は「地獄の使い」「永く成仏の期なし」等と不成仏が説かれ、また権大乗教には一応成仏も説かれているけれども、改転の成仏であり、即身成仏ではなかった。法華経提婆達多品第十二に至って、初めて女人成仏が説かれた。     
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多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方・分身の諸仏
 中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
寂光浄土
 仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
―――
阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
―――――――――
 ここでは、妙法の力は過去遠々劫の悪業も転じて善業にするのであるから、妙法を唱えて亡くなっていった故聖霊すなわち妙法尼の夫の成仏は間違いないと断言されるとともに、その妻である妙法尼の成仏をも間違いないとされ、激励されているところである。
 妙法尼の夫は、最後臨終のときの唱題の功徳によって、無始以来の宿業を転換して成仏の因とすることができたというのである。このように宿業がそのまま成仏の因となることを説いたのが煩悩即菩提・生死即涅槃の法門であり、今生においてその身のままで成仏することを即身成仏というのである。これらは、いずれも法華経において説き明かされた法門である。
 そして、このような信心ある人と縁あって夫婦となった妙法尼もまた、法華経で説かれた女人成仏の法門に基づき、成仏は疑いないところであると述べられている。
 大聖人が妙法尼の夫や尼の成仏の確かなことを述べられているのは法華経の法門に基づいての仰せであり、したがって、もしそうならないならば、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏は大嘘つきの人であり、悪人であり、一切衆生を騙して地獄に堕とす人である、とまでいわれている。それは、法華経を説いたのが釈迦仏であり、それを真実であると証明したのが多宝仏・十方分身の諸仏だからである。
 そして、もしこのことが嘘であるなら、釈尊に敵対した提婆達多が仏の住する国土の主となり、釈尊は無間地獄に堕ちて炎にむせぶことになろう。また太陽や月が大地に落ち、大地が引っ繰り返って河がさかさまに流れて須弥山が砕け落ちることになる。そのようなことは絶対にありえないとされ、成仏の間違いないことの確信を促されている。

1406~1419    妙法比丘尼御返事(亡夫追善御書)top
1406:01~1406:02 第一章 妙法比丘からの手紙の内容を挙げるtop

1406
妙法比丘尼御返事
01   御文に云くたふかたびら一つあによめにて候女房のつたうと云云、 又おはりの次郎兵衛殿六月二十二日に死な
02 せ給うと云云。
――――――
 御手紙には、太布帷一つは、兄の嫁にあたる婦人からのものとあります。また、尾張次郎兵衛殿が六月二十二日に亡くなられたとあります。

たふかたびら
 太布で仕立てた帷のこと。太布は楮、科木などの樹皮の繊維をつむいで織った布。帷は裏をつけない単衣の衣類。
―――
おはりの次郎兵衛
 (~1278)。念仏の信徒。詳細は不明である。
―――――――――
 本抄は、妙法比丘尼が嫂から託された太布帷を供養するとともに、尾張次郎兵衛の死を報告したのに対し、身延山から妙法比丘尼と嫂に与えられた御返事である。
 日付は弘安元年(1278)9月6日、日蓮大聖人聖寿57の御時の御消息である。本抄の御真筆は存在しない。
 本抄の内容は、妙法比丘尼からの手紙にあった、嫂から帷を御供養されたことと、尾張次郎兵衛の死去のことの二つを挙げられ、まず帷の供養に対して、商那和修が死に瀬した聖者に衣を供養した因縁とその功徳の大きさを語られて、日蓮大聖人に帷を供養した功徳のいかに大きいかを述べられるとともに、感謝されている。さらに、迫害の連続であられた御自身の法華経の行者としての御生涯を回顧されて、御自身を不軽菩薩の弘教に比較されている。そして、御自身が末法の法華経の行者であることを経典の文証のうえから論じられた後、その法華経の行者を迫害する罰として天変地夭、内乱や他国侵逼難などの諸難が続出し、未来には謗法の人々はことごとく悪道に堕ちるであろうと説かれている。その反対に、法華経の行者に値ってこれを供養する功徳の広大なるを説かれている。最後に、尾張次郎兵衛の死去に対して、その死を悼まれ、妻の悲しみを慰められ、本抄を締めくくられている。
 さて、本章の部分では妙法比丘尼からの手紙の内容である、嫂から帷を供養されたことと、尾張次郎兵衛の死去のことが述べられている。

1406:03~1407:06 第二章 商那和修の因縁を語るtop

03   付法蔵経と申す経は仏我が滅後に我が法を弘むべきやうを説かせ給いて候、 其の中に我が滅後正法一千年が間
04 次第に使をつかはすべし、 第一は迦葉尊者二十年・第二は阿難尊者二十年・第三は商那和修二十年・乃至第二十三
05 は師子尊者なりと云云、 其の第三の商那和修と申す人の御事を仏の説かせ給いて候やうは、 商那和修と申すは衣
06 の名なり、 此の人生れし時衣をきて生れて候いき不思議なりし事なり、 六道の中に地獄道より人道に至るまでは
07 何なる人も始はあかはだかにて候に 天道こそ衣をきて生れ候へ、 たとひ何なる賢人聖人も人に生るるならひは皆
08 あかはだかなり、 一生補処の菩薩すら尚はだかにて生れ給へり 何かに況や其の外をや、然るに此の人は商那衣と
09 申すいみじき衣にまとはれて生れさせ給いしが、 此の衣は血もつかずけがるる事もなし、 譬えば池に蓮のをひを
10 しの羽の水にぬれざるが如し、 此の人次第に生長ありしかば又此の衣次第に広く長くなる、 冬はあつく夏はうす
11 く春は青く秋は白くなり候し程に・長者にて・をはせしかば何事もともしからず、 後には仏の記しをき給いし事た
12 がふ事なし、 故に阿難尊者の御弟子とならせ給いて御出家ありしかば此の衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟と
13 なり候き、 かかる不思議の候し故を仏の説かせ給いしやうは・乃往過去・阿僧祇劫の当初・此の人は商人にて有り
14 しが、 五百人の商人と共に大海に船を浮べてあきなひをせし程に 海辺に重病の者あり、しかれども辟支仏と申し
15 て貴人なり、先業にてや有りけん、 病にかかりて身やつれ心をぼれ不浄にまとはれてをはせしを、 此の商人あは
1407
01 れみ奉りて・ねんごろに看病して生しまいらせ、不浄をすすぎ・すててソ布の商那衣をきせまいらせてありしかば、
02 此聖人悦びて願して云く 汝我を助けて身の恥を隠せり此の衣を今生後生の衣とせんとて・ やがて涅槃に入り給い
03 き、此の功徳によりて過去・無量劫の間・人中天上に生れ生るる度ごとに、此の衣・身に随いて離るる事なし、 乃
04 至今生に釈迦如来の滅後第三の付嘱をうけて 商那和修と申す聖人となり、 摩突羅国の優留荼山と申す山に大伽藍
05 を立てて無量の衆生を教化して 仏法を弘通し給いし事二十年なり、 所詮商那和修比丘の一切のたのしみ不思議は
06 皆彼の衣より出生せりとこそ説かれて候へ。
――――――
 さて、付法蔵経という経は、仏が御自身の滅後に、仏法が広まるありさまを説かれたものです。そのなかに、正法時代の一千年間は、次々と法を弘める人を遣わすとあるのです。
 第一番の迦葉尊者は二十年間、第二番の阿難尊者は二十年間、第三番の商那和修は二十年間、そして第二十三番は師子尊者であるとあります。
 その第三番の商那和修という人の御事を仏は次のように説かれています。商那和修というのは衣の名なのです。この人は生まれながら衣を著ていました。不思議なことでした。六道のなかで地獄から人間界までの間で、どのような人であっても、生まれる時は素裸であるのに、天上界だけは衣を著て生まれるのです。たとえ、どのような賢人・聖人であっても、人間に生まれてくる時はみな素裸なのです。一生補処の菩薩である弥勒ですら裸で生まれられたのです。ましてその外の者などはなおさらなのです。
 そうであるのに、この人は商那衣という尊い衣を著て生まれられましたが、この衣は血もつかず汚れることもなかったのです。たとえば池の蓮や鴛鴦の羽が水に濡れないようなものです。
 この人が次第に成長するにしたがって、またこの衣も身体に応じて広く長くなったのです。衣は冬は厚くなり夏は薄く、春は青くなり秋は白くなったのです。長者でありましたから、何一つ不自由はなかったうえ、後には仏が予言されたとおりになったのです。すなわち阿難尊者の弟子となられて出家されたところ、この衣は五条・七条・九条等の袈裟となったのです。
 このような不思議の原因を仏が説かれるには、過去無量劫という往昔に、この人は商人でしたが、五百人の商人とともに大海を渡って商いに行ったところ、海辺に重病の人がいました。それは辟支仏といって貴い僧でした。過去世の宿業であったのか、病気にかかり、見る影もなくやつれ果て、心も弱くなって、不浄の中に倒れていたのです。この商人は辟支仏を見て気の毒に思い、懇ろに看病して蘇生させてあげ、身についている不浄な物を濯ぎ取り、麤布で作った商那衣を着せてあげました。辟支仏は喜んで「汝は私を助けて身の恥を隠してくれた。この衣を今生後生の衣としよう」と感謝して、やがて涅槃に入られたのです。この功徳によって、過去無量劫の間、この人は人間、または天上界に生まれてくるごとにこの衣は身に随って離れることはなかったのです。かくして今生には釈迦如来の滅後三番目の付嘱を受けて商那和修という聖人となり、摩突羅国の優留荼山という山に大寺院を建立し、二十年間、無量の人々を導いて仏法を弘通されたのです。つまり、商那和修比丘の一切の福徳果報と不思議は、みなその衣から出ていると説かれているのです。

付法蔵経
 六巻。付法蔵因縁伝とも称する。中国・北魏代の吉迦夜・曇曜共訳。釈尊入滅後、正法千年間に、仏の付嘱を受けて仏法を弘めた付法蔵の23人(または24人)の因縁伝が記されている。
―――
正法一千年
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時の1000年間。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。
―――
迦葉尊者
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難尊者
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
商那和修
 梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ、シャーナヴァーシン(Śāṇa-vāsa、Śāṇa-kavāsa、Śāṇa-vāsin)の音写。商那和衆、舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優波毱多に法を付嘱した。
―――
商那衣
 商那は麻に似た草。商那衣は、その皮を編んで衣としたものである。付法蔵因縁伝巻二に「昔商那和修、商主として諸の賈客五百人と共倶に大海に入て珍宝を採らんとせしに、其の前む路に辟支仏の身の重病に嬰りて、気命羸れ惙へたるを見て、諸の商人即ち停住し、医薬を求めて之を治療し……是の辟支仏は商那衣を著す。爾の時、商主、諸の香湯をもって辟支仏を浴せしめんとして、その衣の弊悪なるを見て、上妙の衣を奉献せんとす。時に支仏此衣を著て出家成道し、又涅槃に入るべしと、此の功徳に依て和修、母の胎に処りしより商那衣を著し、乃至身と倶共に増長せり……よって即ち号して商那和修という」とある。
―――
師子尊者
 師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
―――
六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
―――
地獄道
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
人道
 十界のうちの人間界のこと。人間としてごく普通の平穏な心・生命状態・境涯のこと。
―――
天道
 十界のうちの天界のこと。快楽に満ちた境涯。
―――
賢人
 賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
一生補処の菩薩
 「一生補処」とは、この一生は迷いの世界に縛られているが、次生には仏の位一生補処処を補う位になること。菩薩の最高位である等覚をさす。弥勒菩薩は釈尊の一生補処の菩薩とされ、釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊滅後56億7000万歳の時に下生して、一生補処釈尊の説法にもれた衆生を済度するという。
―――
商那衣
 商那は梵語。シャーナ(Śāṇa)の音写。麻に似た草で、その皮を編んで衣としたものを商那衣という。
―――
袈裟
 梵語カシャーヤ(Kaṣāya)の音写。加沙野・迦沙とも書く。濁・不正色・壊色の意。法衣の一種。細長い布を縫い合わせて長方形につくり、左肩から右の脇の下にかけて被うもの。縫い合わせた布の数から大衣、上衣、内衣に大別され、総称して三衣という。袈裟は本来、色の名称で、その色については、金属のさび色・泥色に樹皮や果汁の色の三種壊色とする説、あるいはたんに濁った赤色とする説などがあるが、いずれも五正色(青・黄・赤・白・黒)、五間色(紫・緑・紅・緋・硫黄)を避けた、純粋ではない色を用いた。古来インドでは僧侶の着る法衣を三種(三衣)とし俗人から区別するため、世間で尊ばれた白色を避けて濁色に染めたことから、濁色を意味する袈裟という言葉がそのまま法衣の意に用いられるようになった。
―――
乃往過去
 昔、あるいは古の意。また、今よりむかし。
―――
阿僧祇劫
 「阿僧祇」梵語、はアサンキャ(asaṃkhya)の音写では無数。「劫」は年時の名で長時の意。あわせて、数えることのできない長い間の意。
―――
当初
 ①その時代の以前。②久遠元初
―――
辟支仏
 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
―――
貴人
 品位のある高貴な人。
―――
先業
 前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
―――
麤布
 麤は粗雑なこと。辟支仏に供養した衣について、付法蔵因縁伝巻二には「妙なる氎の衣」とある。氎とは織目の細かい厚い毛織物をいう。
―――
涅槃
 梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。③権大乗では他方の浄土へ往生すること。④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
―――
功徳
 功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
―――
無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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人中天上
 人間界と天上界のこと。またその衆生。人界は人間の住む世界で、人間としてごく平凡な人間の心・生命の状態・境涯・世界。天界とは天人の住む世界で、快楽に満ちた境涯・世界のこと。
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乃至
 ①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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付属
 相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
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摩突羅国
 梵語マトゥラー(Mathurā)の音写。あるいは摩偸羅、末土羅などとも書き、密善、無酒、孔雀等と訳す。中インドの国名。仁王経巻下ではインド十六大国の一つとしている。釈尊はたびたびこの地を訪れ、民衆を化導した。釈尊滅後には、付法蔵第四の優波毱多が出て、大いに仏教を興隆した。
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優留荼山
 古代インドの摩突羅国にあった山の名。
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大伽藍
 伽藍は梵語サンガアーラーマ(saṁghārāma)の音写。僧伽藍摩の略。僧園・衆園などと訳す。僧宗の住む庭園の意から、比丘衆が集まって修道する清浄閑静な場所をいう。後に寺院の建築物を指すようになった。宗派・時代等によって建物の配置や名称は変遷・差異が見られる。
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教化
 教導・化益すること。衆生を教え導き、衆生に利益を与えること。開化・施化と同義。
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 太布帷(たふかたびら)を御供養されたことに対して、商那和修の因縁を語られて、逆境にある聖人に衣を供養する功徳の大きさを述べられているところである。 
 付法蔵経に説かれている、仏滅後正法一千年間の弘法者二十三人のうち第三番目の人が商那和修である。
「商那和修」とは、梵語シャーナ・ヴァーシン(Sāna-vāsin)の音訳である。シャーナは、麻に似た草の名で、その皮を編んで衣としたものを指す。ヴァーシンとは「~を着た」「~をまとった」の意味で、結局、商那和修は麻の衣を着た人ということになる。
 本文にも説かれているとおり、商那和修は生誕のときすでに衣を着て生れてきたという伝説の人であるが、その原因は過去世において商人であったとき、重病に瀬して困窮していた辟支仏を看病し、商那衣を着せてこの辟支仏を助けたということによる。
 その行為の功徳によって、生まれるたびごとに商那衣をまとって生誕し、しかも生涯の間、衣が身から離れることなく、また身体の成長につれて衣も大きくなり、いつも裕福で楽しみに満ちた生活をしてきたという。そしてついに、釈尊から滅後弘通の第三番目の使者として付嘱を受けたのである。
 このような商那和修の因縁の物語を通して、日蓮大聖人に帷を供養した妙法比丘尼やその嫂の功徳がどれほど大きなものであるかを暗に示され激励されているのである。

1407:07~1407:16 第三章 大聖人御自身の経過を明かすtop

07   而るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり、 此の国は仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当りて二十万
08 余里の外遥なる海中の小島なり、 而るに仏・御入滅ありては既に二千二百二十七年なり、月氏・漢土の人の此の国
09 の人人を見候へば此の国の人の伊豆の大島・ 奥州の東のえぞなんどを見るやうにこそ候らめ、 而るに日蓮は日本
10 国安房の国と申す国に生れて候しが、 民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり、 此の度いかにもして仏種をもう
11 へ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、 皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り 幼少より名号を
12 唱え候し程に、いささかの事ありて、 此の事を疑いし故に一の願をおこす、 日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の
13 論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗.成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗.真言宗・法華天台宗と申す宗ど
14 もあまた有りときく上に、 禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、 此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要
15 を知る身とならばやと思いし故に、 随分に・はしりまはり十二・ 十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、
16 鎌倉・京.叡山・園城寺・高野.天王寺等の国国.寺寺あらあら習い回り候し程に.一の不思議あり、
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 今日蓮は南閻浮提の中では日本国という国の者です。この国は仏が世に出現された国から東方はるか二十万余里も離れた海中の小島です。また仏が御入滅になられてすでに二千二百二十七年になります。インド・中国の人がこの国の人々を見るなら、この国の人が伊豆の大島、奥州の東の夷などを見るようなものでしょう。
 そうであるのに、日蓮は日本国の安房国という国に生まれたのですが、民の家から出家して髪を剃り袈裟を着たのでした。この生涯に、なんとしても仏に成る種を植え、生死を離れる身になろうと思って、あらゆる人々の願っているように阿弥陀仏をたのんで、幼少から名号を称えたのですが、いささかのことがあって、このことに疑いをいだいて一つの願いを起こしたのです。
 日本国に渡ってきたところの仏の経典並びに菩薩の釈論と人師の書いた経疏・論疏等を習学してみよう、また倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗など多くの宗があると聞くうえ、さらに禅宗・浄土宗という宗もある、これらの宗々の枝葉まで細かく習学しないでも、大体の肝要を知る身となろうと思って、随分あちこち回り、十二、十六の年から三十二歳に至るまで二十余年の間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等の国々・寺々をあらあら遊学しましたところ、一つの不思議がありました。

南閻浮提
 閻浮提とも一閻浮提ともいう。閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jaumbū₋dvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。四大洲のなかでもとくに南閻浮提は仏法有縁の地とされ、本来、インドを中心とする世界であったが、転じて全世界を包括する意味をもつようになった。
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二千二百二十七年
 釈尊の入滅は周書異記等によると紀元前0949年になる。これから本抄御執筆の弘安元年(1278)までが2227年である。
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月氏
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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伊豆の大島
 伊豆諸島の最北端にあり、中央火口丘を持つ複式火山島。面積は90㎢。
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奥州の東のえぞ
 奥州は東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。
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安房の国
 現在の千葉県南部。清澄寺および日蓮大聖人御生誕の地、小松原法難の地などがある。
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生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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名号
 仏の名称のこと。
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倶舎宗
 仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
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成実宗
 4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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法相宗
 解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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三論宗
 竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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法華天台宗
 法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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十二・十六の年より三十二に至るまで
 日蓮大聖人は天福元年(1233)春、12歳の時、安房国清澄寺に登られ修学、嘉禎3年(1237)16歳の時、道善房について出家、以後、鎌倉・京都・奈良の各寺院で修学、建長5年(1253)4月28日、32歳の時、立宗宣言されている。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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園城寺
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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高野
 和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。平安時代の弘仁7年(0816)に嵯峨天皇から弘法大師が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺高野山、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている
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天王寺
 四天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
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 日蓮大聖人が聖誕された日本国は、釈尊の出現したインドよりはるか東北方の小島であり、いわば当時の文明世界でいえば、はるかな辺地である。また、本抄御述作の時も、仏滅後2227年という年月がたっていると述べられている。大聖人は、その日本国のなかでも辺国の安房の国に、民の家から出られたのであった。
 そして「此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて」清澄寺で修学されたのであるが、最初は当時の人々の信仰にならって阿弥陀仏の名号を称えたと仰せられている。清澄寺は天台真言宗の寺であったが、当時は念仏宗が日本中に広まり、清澄寺の僧であっても、念仏を信仰している人が多かった。とくに道善房は念仏に心を寄せていたのである。しかし「いささかの事ありて」と仰せのように、念仏信仰に対して疑いをもたれ、その結果仏教の肝要を究めたいとの「一の願」を発されるのである。
 その願いにしたがって、当時の日本国の八宗、十宗と分かれた仏教の宗派の一つ一つの本質を知ろうとされて「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間」、鎌倉・京都・叡山・園城寺・高野・天王寺などの国々や寺々を習い歩かれたのである。その結果「一の不思議」に気づいたと仰せられている。
此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に……
 日蓮大聖人が12歳で清澄山に入られた動機を語られた数少ない御文の一つである。
 「此の度」とは、生死流転の三世の生命にあって〝今生の一生〟ということである。「仏種をもうへ」とは、仏になるべき因としての種を己が生命に植えるということであり、「生死を離るる身とならん」とは成仏するということである。〝生死の身〟とは生死生死と流転していく苦悩多き凡夫の身のことであり、その凡身を離れるとはすなわち成仏することであるからである。
 ちなみに、出家の動機を説かれたその他の御文を参考までに挙げておこう。
 「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて」。
 しかし、ただ自身の成仏得道を遂げればよしとされたのではない。自身の得道とともに、あらゆる人々を救うことを目指されたことは次の御文を拝するとき明白である。
 「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」(1292-17)。
 「本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」(0891-01)。
 大聖人は12歳で清澄寺に登り基礎的な修学をされた後、16歳で正式に僧となることを決意され、道善房を師として出家得道されたのであった。この時、幼名の善日磨を改めて是聖房蓮長と名乗られている。
 そして、本格的な仏教研究のため、まず鎌倉へ出て数年間学ばれたあと、京都へのぼられて比叡山はじめ各地を遊学されたのであった。
 「皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し」と仰せられているのは道善房のもとにおられた、十二歳から十六歳の時までのことと拝される。出家され遊学に出られたころは、すでに念仏に対して疑いを抱いておられたことが「いささかの事ありて、此の事を疑いし故に」との御言葉にうかがわれる。

1407:16~1408:13 第四章 「一」の不思議の内容を示すtop

16                                             我れ等が・はかな
17 き心に推するに仏法は唯一味なるべし、 いづれもいづれも・ 心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて
18 候に、 仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、 十悪五逆と申して日日・夜夜に
1408
01 殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも・五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身に
02 は二百五十戒をかたく持ち 心には八万法蔵をうかべて候やうなる、 智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず人に
03 は仏のやうにをもはれ、 我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも・つよく
04 地獄に堕ちて 阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ、 譬えば人ありて世にあらんがために国主につ
05 かへ奉る程に、 させるあやまちはなけれども我心のたらぬ上身にあやしきふるまひかさなるを、 猶我身にも失あ
06 りともしらず又傍輩も不思議ともをもはざるに 后等の御事によりてあやまつ事はなけれども 自然にふるまひあし
07 く王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、 謀反の者よりも其の失重し、此の身とがにかかりぬれば父母・兄弟・
08 所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。
――――――
 我らのあさはかな心で推するに、仏法はただ一味であろう、いずれの宗であっても一心に習学し願うならば、生死を離れることができるはずだと思っていたのに、仏法に入ってもあしく習学するなら謗法という大きな穴に堕ちて、十悪・五逆罪といって、日々夜々に殺生・偸盗・邪婬・妄語等を犯す人よりも、五逆罪といって父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となって身に二百五十戒を堅く持ち心には八万法蔵を浮かべ、一生の間に一つの悪をも作らず、人からは仏のように思われ、我が身もまた、よもや悪道に堕ちることはあるまいと思っている智者・聖人が、十悪・五逆の罪人より以上に地獄に堕ちて阿鼻大城をすみかとして永く地獄を出られないということがあるのです。たとえば、出世しようと思って国主に仕えている人が、これといった罪科があるわけではないけれども、自分の心の至らないところから行き届かないことが重なっても、それでも我が身に罪科があることを知らず、また朋輩の者も不思議に思わずにいても、后等に近づくことにより誤ることはないけれども、自然に振る舞いが悪く、王などに怪しまれるならば、謀反の者よりその罪は重くなるようなものです。また、その身に罪科がかかってくれば、父母や兄弟、付き従う者などもまた軽からざる罪科に行われるようなものです。
――――――
09   謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の
10 人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり、 所謂勝意比丘・ 苦岸比丘なんど申せし僧は二百五十戒をか
11 たく持ち三千の威儀を一もかけずありし人なれども、 無間大城に堕ちて出づる期見へず、 又彼の比丘に近づきて
12 弟子となり檀那となる人人・存の外に大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師と・ともに苦を受けしぞかし、 此の
13 人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども・かかる不祥にあひて候しぞかし。
――――――
 謗法という罪は、自分も気づかず、また人も悪いとも思わず、ただ仏法を習っているのだから貴いとばかり思っているので、この人も、またこの人に従う弟子・檀那等も無間地獄に堕ちるのです。いわゆる勝意比丘や苦岸比丘などという僧は二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀も一つも欠けない人であったが、無間大城に堕ちてついに出る期なく、また彼の勝意比丘や苦岸比丘に近づいて弟子となり檀那となった人々は、思いのほかに大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師とともに大苦を受けたのです。この人達は後世のために多くの善根を修しようという以外は、なんの心もなかったのですが、このような不幸にあってしまったのです。

謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

十悪
 十悪業、十不善業ともいい、身口意の三業にわたる、最も甚だしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。すなわち、身に行なう三悪として殺生、偸盗、邪淫。口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌。心の三悪として貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
殺生
 生きものを殺すこと。十悪の第一。四重禁の一つ。仏法では最も重い罪業の一つとし、五戒・八戒・十戒等の一つに不殺生戒を挙げている。
―――
偸盗
 人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。
―――
邪婬
 不正な男女関係を結ぶこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。
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妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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八万法蔵
 煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」
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地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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傍輩
 仲間・友人・同じ主君・師匠・家・などに使える同僚。
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 天皇・王候貴族の妻。
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所従
 従者。家来。
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弟子
 師に従って教えを受け、かつ師の意思を承けて実践しそれを伝える者。
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檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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勝意比丘
 諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
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苦岸比丘
 過去の大荘厳仏の末法に出家した弟子。仏蔵経巻中によると、当時、大荘厳仏の弟子は普事・苦岸・薩和多、将去、跋難陀の五派に分裂した。そのなかで、普事を師とした一派のみは仏の正統の教えを受け継ぎ成仏したが、残りの四派の者は仏の教えに背き、邪義を信じて地獄に堕ちた。苦岸は、この邪義を唱えた四派のなかの一派の師である。苦岸等の四比丘に従った六百四万億の人は師弟ともに阿鼻地獄に堕ち、のちに一切明王仏に会ったが、それでも仏果を得ることができなかったという。
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三千の威儀
 「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
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後世
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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不祥
 不運・不幸・災難。
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 日蓮大聖人は幼少のころから念仏信仰に疑いを起こして、八宗・十宗の既成宗派の教義内容の肝要を知ろうとされて、諸国、諸寺を遊学されたのであるが、その途上で「一の不思議」に直面された。
 それは、当時の人々は気づいていないが、仏法を行ずるのに「謗法」という落とし穴があるということであった。つまり通常人々は、仏法というものは皆同一で、どの宗旨であっても一生懸命に願うならば生死の苦を離れて救われると素朴に思っているが、しかし、仏法を悪しく習うと「謗法」という落とし穴に落ちて、救われるどころか大変な罪業を背負うことになるということである。
 その「謗法」の恐ろしさは、十悪五逆の悪人よりも、むしろ智者学匠のほうが犯しやすく、しかも十悪五逆の場合よりもはるかに長期にわたって無間地獄に堕ちるところにある。つまり、智者聖人のごとき姿をして二百五十戒を持ち、悪は一つも行わないような聖者であっても、ただ一点、自らの奉ずる法が正法に背反する教えであるならば、その一点だけで、五逆十悪の人よりも、はるかに大きい罪業を造ることになるのである。
 さらに、謗法の恐ろしさはこれに止まらない。五逆十悪のように眼前に罪悪の姿が見えないだけに、謗法を犯している聖者のごとき人も自らそれを知らないし、他人にも分からないから、多くの人々が弟子檀那となって従う結果、師も弟子も檀那も、すなわち師檀ともに無間地獄に堕ちる、ということである。
 ここに、本来、生死の苦を離れて仏になるために仏法を行じているにもかかわらず、その初めの目的とは反対に無間地獄に堕ちてしまうことになるのである。この根本原因である〝謗法〟という事実を大聖人は発見されたのであり、これがまさに「一の不思議」の内容なのである。

1408:14~1409:13 第五章 念仏・真言・禅の謗法top

14   かかる事を見候しゆへに・あらあら経論を勘へ候へば、 日本国の当世こそ其に似て候へ、代末になり候へば世
15 間のまつり事のあらきにつけても 世の中あやうかるべき上、 此の日本国は他国にもにず仏法弘まりて国をさまる
16 べきかと思いて候へば、 中中・仏法弘まりて世もいたく衰へ人も多く悪道に堕つべしと見へて候、 其の故は日本
17 国は月氏・ 漢土よりも堂塔等の多き中に大体は阿弥陀堂なり、 其の上家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き
18 人毎に六万八万等の念仏を申す、 又他方を抛うちて西方を願う愚者の眼にも 貴しと見え候上、 一切の智人も皆
1409
01 いみじき事なりとほめさせ給う。
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 このようなことを見てとったうえで、概略経論を探ってみたところ、日本国の現在の姿は、まさにそれに似ています。時代も末世になったので、世間の政治向きも行き届かないから世の中も穏やかではないだろうが、この日本国は他国に似ず仏法が広まっているのだから国も治まるはずだと思っていたのに、かえって仏法が随分と広まっていながら世も大変に衰え、人も悪道に堕ちる人が多いと思えるのです。
 それは、日本国はインドや中国より堂塔等は多いのですが、そのうち大部分は阿弥陀堂なのです。そのうえ家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像にかき、人ごとに六万遍、八万遍と念仏を称えています。また他方の仏を抛って西方浄土を願うことが愚者の眼にも貴いと見えるとともに、一切の智人も皆貴いことであるとほめています。
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02   又人王五十代・桓武天皇の御宇に弘法大師と申す聖人此の国に生れて、 漢土より真言宗と申すめずらしき法を
03 習い伝へ平城嵯峨淳和等の王の御師となりて東寺・高野と申す寺を建立し、 又慈覚大師・智証大師と申す聖人同じ
04 く此宗を習い伝えて叡山・ 園城寺に弘通せしかば日本国の山寺・一同に此の法を伝へ今に真言を行ひ鈴をふりて公
05 家武家の御祈をし候、所謂二階堂・大御堂・若宮等の別当等是れなり、 是れは古も御たのみある上当世の国主等家
06 には柱・天には日月・河には橋・海には船の如く御たのみあり。
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 また人王第五十代の桓武天皇の治世に弘法大師という聖人がこの国に生まれて、中国から真言宗という珍しい法を習い伝え、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇等という国王の師となって東寺、高野山という寺を建立し、また慈覚大師、智証大師という聖人も同じくこの宗を習い伝えて、比叡山、園城寺で弘通したので、日本国の寺という寺は、一同にこの法を伝え、今も真言の法を行い、鈴を振って公家・武家の祈りをしています。いわゆる二階堂、大御堂、鶴岡八幡宮等の別当達がそれです。これは古も祈られてきましたが現在の国主等も、家には柱、天には日月、河には橋、海には船のように頼みにしているのです。
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07   禅宗と申すは又当世の持斎等を建長寺等にあがめさせ給うて 父母よりも重んじ神よりも御たのみあり、されば
08 一切の諸人頭をかたぶけ手をあさふ、 かかる世にいかなればにや候らん、 天変と申して彗星長く東西に渡り・地
09 夭と申して大地をくつがへすこと大海の船を大風の時・ 大波のくつがへすに似たり、 大風吹いて草木をからし飢
10 饉も年年にゆき疫病月月におこり大旱魃ゆきて河池・田畠・皆かはきぬ、此くの如く三災・七難・数十年起りて民半
11 分に減じ残りは或は父母・或は兄弟・ 或は妻子にわかれて歎く声・秋の虫にことならず、家家のちりうする事冬の
12 草木の雪にせめられたるに似たり、 是は・ いかなる事ぞと経論を引き見候へば仏の言く法華経と申す経を謗じ我
13 れを用いざる国あらばかかる事あるべしと、仏の記しをかせ給いて候御言にすこしも・たがひ候はず。
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 禅宗というのは、また現在の戒律を持つ僧らを建長寺等に住まわせ崇めて父母よりも重んじ神よりも頼みにしています。それだから一切の諸人も頭を下げ、手を合わせて尊んでいます。
 このような世に、いかなるわけか、天変といって彗星が長く東西を渡り、地夭といって大地を覆すこと、あたかも大海の船を大風の時に大波が覆すのに似ています。大風が吹いて草木を枯らし、飢饉は毎年のように起こり、伝染病は毎月のように流行し、大旱魃があって河や池や田畑はみな枯れてしまいます。
 このように三災・七難が数十年続いて起こり、民は半分に減り、残った人々が、あるいは父母、あるいは兄弟、あるいは妻子と別れて嘆く声は秋の虫の鳴く声に異ならず、家々の散りうせること、あたかも冬に草木が雪に責められているのに似ています。これはどういうことなのかと経論を見ると、仏の仰せには「法華経と申す経を謗じ、仏を用いない国があればこのようなことが起こるであろう」と仏が書き記しおかれた言葉と少しも違わないのです。

当世
 今の世。
―――
桓武天皇
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
―――
御宇
 ひとりの天子の時代。
―――
弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
平城
 平城天皇のこと。(0744~0824)。第51代天皇(在位:延暦25年(0806年)~ 大同4年(0809)。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
―――
嵯峨
 嵯峨天皇のこと。(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
―――
淳和
 淳和天皇のこと。(0786~0840)。在位:弘仁14年(0823)~ 天長10年(0833)2月28日。平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴。桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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二階堂
 もと相模国鎌倉二階堂(神奈川県鎌倉市二階堂)にあった天台宗・永福寺のこと。文治5年(1189)に源頼朝が中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して建立したもの。現存しない。
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大御堂
 もと相模国鎌倉大御堂ヶ谷(神奈川県鎌倉市雪ノ下)にあった勝長寿院の敬称。阿弥陀山と号す。源頼朝が父の義朝のために建立したもの。現存しない。
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若宮
 神社の本宮の祭神を、他の地に勧請して祭った神社。新宮ともいう。京都の石清水八幡宮に対して鎌倉の鶴岡八幡宮が若宮となる。鶴岡八幡宮は康平6年(1063)に源頼義が安倍貞任征伐に向かった時、京都の石清水八幡宮の分霊を祭ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。鎌倉幕府の宗祀として将軍社参や拝賀式が行われ、源氏の氏神、武門の守護神となった。
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建長寺
 神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、宋僧蘭渓道隆を開山として同5年(1253)に完成した。仏殿は丈六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。
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天変
 天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
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彗星
 ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
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地夭
 地上に起こる異変。
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疫病
 悪性のウイルスによる伝染病。
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大旱魃
 長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
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三災
 三災に大の三災と小の三災がある。大の三災は、大劫のなかで住劫が終わって壊劫の時の火災、水災、風災の三災をいう。小の三災は、小劫の減劫の時に穀貴(五穀の値段が高いこと。物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等の流行、思想の混乱)の災が起こること。大集経巻二十四に「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て、捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし、一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。
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七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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 前章では、謗法というものがいかに恐ろしい罪になるかが経論からわかったことを述べられた。それを承けて、今、日本の現状をみると、念仏や真言宗、禅宗等が、厚く人々から尊ばれ、仏教は他のいかなる国にも負けないほど栄えているにもかかわらず、年々に災害が襲い、多くの人々が命を失い、苦悩に沈んでいる。この災いの姿は、まさしく経論に、一国が正法を誹謗しているときに起こると警告されている三災七難に符合していると指摘されるのである。
 「かかる事を見候しゆへに・あらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ」とは、経論に述べられている、謗法ゆえの災厄が、日本国の現状にみられるということである。「かかる事を見候しゆへに」とは、前章に述べられたように、謗法こそ最も恐るべき罪であるということである。その恐ろしさを知ったので、さらに経論をかんがえたところ、一国が謗法の場合、どのような災厄があらわれるかが記されているというのである。その具体的内容は、本章後半の「天変と申して彗星長く東西に渡り……」以下の災厄である。
 ところが、日本には「他国にもにず仏法弘まりて」と仰せのように、仏法が盛んに信仰されている。それは、次に挙げられるように念仏宗であり、真言宗であり、禅宗である。
 念仏宗については、寺も多いうえ、各家庭にも阿弥陀如来の木像・絵像が安置され、民衆の間に広まっていることが指摘されている。真言宗については、平城・嵯峨・淳和の各帝以来の天皇の帰依、天台宗も慈覚・智証以来密教化したこと等が述べられている。また、禅宗に関しては、建長寺を代表に挙げられ、鎌倉幕府が尊重しているさまを特筆されている。これは、各宗が主として、いかなる人々によって信仰されていたかを特徴的にとらえられているといえよう。
 しかし、いずれの宗を信ずるにせよ、人々は、仏教を信仰していることに変わりはないと考えていた。これだけ多くの人々が、真心込めて仏教を信仰している以上は、仏神の加護があって、世の中が穏やかになるのが道理である。それにもかかわらず、天変・地夭・飢饉・疫病といった三災七難が毎年のように起こり、死者は続出し、悲しみの声が満ちみちている。これらの災厄は「法華経と申す経を謗じ我れを用いざる国あらばかかる事あるべし」と説かれている内容と、全く合致しているのである。
 仏教が盛んに信仰されているにもかかわらず、現実の姿は謗法すなわち仏教に背いた場合の現象があらわれている。これはいったい、どういうことなのか。この疑問を次に解明されていくのである。

1409:14~1410:18 第六章 念仏宗の謗法の理由を明かすtop

14   日蓮疑て云く日本には誰か法華経と釈迦仏をば謗ずべきと疑ふ 、又たまさか謗ずる者は少少ありとも信ずる者
15 こそ多くあるらめと存じ候、 爰に此の日本国に人ごとに阿弥陀堂をつくり念仏を申す、 其の根本を尋ぬれば道綽
16 禅師・善導和尚・法然上人と申す三人の言より出でて候、 是れは浄土宗の根本・今の諸人の御師なり、此の三人の
17 念仏を弘めさせ給いし時にのたまはく未有一人得者・千中無一・捨閉閣抛等云云、 いふこころは阿弥陀仏をたのみ
18 奉らん人は一切の経・一切の仏・一切の神をすてて但阿弥陀仏・ 南無阿弥陀仏と申すべし、其の上ことに法華経と
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01 釈迦仏を捨てまいらせよとすすめしかばやすきままに案もなく・ ばらばらと付き候ぬ、 一人付き始めしかば万人
02 皆付き候いぬ、 万人付きしかば上は国主・中は大臣・下は万民一人も残る事なし、 さる程に此の国存の外に釈迦
03 仏・法華経の御敵人となりぬ。
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 そこで日蓮は、日本国にはだれも法華経と釈迦仏を謗る者はあるまい。たまさか謗る者が少々あっても、信ずる者のほうが多いであろうと疑っていました。しかるにこの日本国の人は人ごとに阿弥陀堂を造り念仏を称えています。その根本を尋ねてみれば、中国の道綽禅師、善導和尚、日本の法然上人という三人の言葉から出たのです。これは浄土宗の根本、今の諸人の師なのです。この三人が念仏を弘めた時に言われたことは「未有一人得者」「千中無一」「捨閉閣抛」ということです。その意は、阿弥陀仏を頼み奉る人は一切の経、一切の仏、一切の神を捨てて、ただ阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えよということであり、そのうえ、とくに法華経と釈迦仏を捨てよと勧めたので、たやすいことなので、人々は考えもなく、ばらばらとその言葉に従ったのです。一人が従い始めたので万人がみな従ったのです。万人が従ったので、上は国主、中は大臣、下は万民に至るまで一人残らず従ったのです。そこでこの国は意外にも釈迦仏・法華経の敵人となってしまったのです。
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04   其故は「今此三界は皆是れ我が有なり 其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此処は諸の患難多し唯我れ一
05 人のみ能く救護を為す」と説いて、 此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり、 天神七代・
06 地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり、 何かに況や其の神と王との眷属等をや、 今日本国の
07 大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財ぞかし、全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず、又日本国
08 の天神.地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり、又日本国の天神.地神・
09 諸王.万民等の天地・水火.父母・主君.男女・妻子.黒白等を弁え給うは皆教主釈尊御教の師なり、全く薬師・阿弥陀
10 等の御教にはあらず、 されば此の仏は我等がためには大地よりも厚く 虚空よりも広く天よりも高き御恩まします
11 仏ぞかし、 かかる仏なれば王臣・万民倶に人ごとに父母よりも重んじ神よりもあがめ奉るべし、 かくだにも候は
12 ば何なる大科有りとも天も守護して・よもすて給はじ・地もいかり給うべからず。
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 そのわけは、法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」と説いて、この日本国の一切衆生のためには釈迦仏が主君であり師匠であり親なのです。天神七代、地神五代、人王九十代の神と王でさえも、なお釈迦仏の所従です。いわんやそれらの神々や王の眷属等においてはなおさらです。今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財なのです。全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等といった他方の仏の物ではありません。また、日本国の天神・地神・九十余代の国主並びに万民、牛馬など生きとし生ける生のある者はすべて皆教主釈尊の子なのです。また、日本国の天神・地神・諸王・万民等が天地・水火、父母・主君・男女・妻子・黒白等をわきまえることができたのは、皆教主釈尊が師として教えてくださったからであって、全く薬師仏・阿弥陀仏等が教えてくれたのではありません。
 したがってこの釈迦仏は我らがためには大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高い御恩のあられる仏です。このような仏ですから、王臣・万民ともに、すべての人が父母よりも重んじ神よりも崇めるべきなのです。このように崇めるならどのような大科があったとしても、天も守護してよもや捨てるようなこともなく、地も怒られるようなこともないでしょう。
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13   然るに上一人より下万人に至るまで 阿弥陀堂を立て阿弥陀仏を本尊ともてなす故に天地の御いかりあるかと見
14 え候、 譬えば此の国の者が漢土・高麗等の諸国の王に心よせなりとも、 此の国の王に背き候なば其の身はたもち
15 がたかるべし、 今日本国の一切衆生も是くの如し、 西方の国主・阿弥陀仏には心よせなれども我国主釈迦仏に背
16 き奉る故に此の国の守護神いかり給うかと愚案に勘へ候、 而るを此の国の人人・阿弥陀仏を或は金・或は銀・或は
17 銅・或は木画等に志を尽くし仏事をなし、 法華経と釈迦仏をば或は墨画・或は木像にはくをひかず・或は草堂に造
18 りなんどす、例せば他人をば志を重ね妻子をばもてなして父母におろかなるが如し。
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 ところが上一人から下万民に至るまでが阿弥陀堂を立て、阿弥陀仏を本尊とするゆえに天地の怒りがあるようにみえます。たとえばこの日本国の者が中国・高麗等の諸国の王に心を寄せても、日本の国の王に背けばその身は保ちがたいようなものです。今日本国の一切衆生も同じです。西方極楽世界の国主・阿弥陀仏には心を寄せても、自分の国の釈迦仏に背くゆえに、この国の守護神が怒っておられるのであると思われるのです。
 そうであるのに、この国の人々は阿弥陀仏を金や銀、あるいは銅、あるいは木像や画像に心を込めて造り、丁重に仏事をなしながら、法華経と釈迦仏をあるいは墨画、あるいは木像といっても金箔をひかなかったり、あるいは堂といっても粗末な草堂を造っているような次第です。例えば、他人に懇ろにし妻子を大事にして、父母を疎略にしているようなものです。

道綽禅師
 (0562~0645)。中国の隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞(どんらん)の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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善導和尚
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)の人。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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法然上人
 (1133~一1212)。平安時代末期、日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登って功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。後、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)に流された。同年11月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であるとし浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛すべきだと説いた「選択集」2巻をはじめ、「浄土三部経釈」3巻、「往生要集釈」1巻等がある。
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未有一人得者
 道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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捨閉閣抛
 法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
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南無釈迦牟尼仏
 釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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天神七代
 地神五代より前に高天原に出た七代の天神。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
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地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
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人王九十代
 神武天皇を第一として、大聖人御在世当時の90代亀山天皇までをいう。
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眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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薬師仏
 梵語( Bhaiṣajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
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他仏
 他の世界の仏。
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虚空
 空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。
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大科
 重罪、大きなあやまち。
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本尊
 根本として尊敬するもの。
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高麗
 朝鮮半島古代の王国。高句麗ともいう。
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西方
 西方極楽世界のこと。観世音菩薩は西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の脇侍とされている。
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 ここで、一国が謗法を犯しているときに起こると仏が説かれたとおりの災厄を惹き起こしている源が、実は念仏、真言、禅の諸宗そのものにあることを示されるのである。言い換えると、仏法を尊崇していると思って人々が励んでいるこれらの諸宗の信仰こそ、実は仏法に背く行為をしているのだということである。
 まず念仏宗の謗法なる所以は「一切の経・一切の仏・一切の神をすてて但阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申すべし」とくに「法華経と釈迦仏を捨てよ」と説くところにある。
 すなわち阿弥陀仏と、この仏のことを明かす浄土三部経以外は信じないように説くのであるから、釈迦仏と法華経を謗ずることとなるのである。
 釈迦仏が一切衆生にとり主・師・親の三徳を有する仏であることは、法華経譬喩品第三の有名な「今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」という文に由来する。この法華経の文は、釈迦仏自身が宣言したものであるだけに極めて重要である。
 日蓮大聖人は、この文こそ釈迦仏の主・師・親三徳を表明したものとされてとくに重視され、諸御書に触れられている。
 すなわち「今此の三界は 皆是れ我が有なり」が主の徳、「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」が親の徳、「而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」が師の徳にそれぞれあたる。
 この釈迦仏の宣言は、娑婆世界の一切衆生に対してなされたものであるから、日本国のみならず全世界の一切衆生に及ぶものであるが、ここでは日本国の阿弥陀仏信仰の謗法を指摘されるところに重点があるから、日本国の一切衆生にとって主・師・親三徳の仏はだれであるかとの観点から述べられている。
 本文に「天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり、何かに況や其の神と王との眷属等をや、今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財ぞかし、全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず」の御文は主の徳について仰せである。次の「又日本国の天神・地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり」は親の徳を述べられ「又日本国の天神・地神・諸王・万民等の天地・水火・父母・主君・男女・妻子・黒白等を弁え給うは皆教主釈尊御教の師なり、全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず」の御文は師の徳についての仰せである。すなわち釈尊こそ主であり師であり親である。ゆえに釈尊は、日本国の衆生のためには「大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高き御恩」のある仏なのであり、日本国の上下万民が何よりも釈迦仏を重んじなければならないのに、縁もゆかりもない阿弥陀仏を金、銀などで華美に造って信じ、釈尊や法華経を粗末に扱っているのである。すなわち前章に「法華経と申す経を謗じ我れを用いざる国あらばかかる事あるべし」と仏の言葉にあると示されたが、念仏は法華経を捨てよといって謗じており、阿弥陀を尊んで釈尊を用いないのであるから、この仏の言葉どおりの邪教なのである。

1411:01~1411:07 第七章 真言宗・禅宗の謗法の理由を明かすtop

1411
01  又真言宗と申す宗は上一人より下万民に至るまで此れを仰ぐ事日月の如し、 此れを重んずる事珍宝の如し、 此
02 の宗の義に云く大日経には法華経は二重三重の劣なり、 釈迦仏は大日如来の眷属なりなんど申す 此の事は弘法・
03 慈覚・智証の仰せられし故に今四百余年に叡山・東寺・園城・日本国の智人一同の義なり。
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 また真言宗という宗は、上一人から下万民に至るまで、これを仰ぐこと日月のごとくであり、これを重んずる事珍宝のごとくです。
 この宗の義にいうには「大日経に比較すれば法華経は二重・三重に劣った経である。また、釈迦仏は大日如来の眷属である」なごと言っています。このことは弘法・慈覚・智証の仰せられたことであり、四百余年たった今も、比叡山・東寺・園城寺をはじめ、日本国の智人一同の義なのです。
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04   又禅宗と申す宗は真実の正法は教外別伝なり法華経等の経経は教内なり、譬えば月をさす指・渡りの後の船・彼
05 岸に到りて・ なにかせん月を見ては指は用事ならず等云云、 彼の人人謗法ともをもはず習い伝えたるままに存の
06 外に申すなり、 然れども此の言は釈迦仏をあなづり法華経を失ひ奉る因縁となりて、 此の国の人人・皆一同に五
07 逆罪にすぎたる大罪を犯しながら而も罪ともしらず。
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 また、禅宗という宗は「真実の正法は教外別伝である。それに対し法華経等の経々は教内である。たとえば月をさす指、渡りの後の船のようなものである。向こうの岸に到着すれば船はいらず、月を見てしまえば指が不要なようなものである」と言っています。
 これらの宗の人々はそれを謗法とも思わず、習い伝えたままになんの考えもなくいっているのです。しかし、これらの言葉は釈迦仏を侮り、法華経を失う因縁となって、この国の人々は、皆一同に五逆罪に過ぎた大罪を犯しながら、しかも罪を犯しているとも知らないでいるのです。

大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
大日如来
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
―――
真実の正法
 禅宗では、大梵天王問仏決疑経の「仏摩訶迦葉に告げて言く吾に正法眼蔵、涅槃の妙心、実相無相、微妙の法有り。文字を立てず教外に別伝し……摩訶迦葉に付嘱す」の文を根拠として宗義を立てる。涅槃経巻二に「我今有らゆる無上の正法を悉く以って摩訶迦葉に付嘱す」とあるように、迦葉に付嘱されたことは事実であるが、元来、当時の付嘱も仏典結集も文字化されていなかったのであり、文字を立てずうんぬんというこの決疑経自体、偽経と考えられる。
―――
教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じく、禅宗で説く教義。仏の悟りの心は、文字や言葉であらわされた経典や教理によって伝えることはできず、ただ心をもって伝えられたとする。「無門関」によると、世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した(「拈華微笑。そのとき世尊は「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」と言ったと伝える。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から摩訶迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。
―――
月をさす指
 大方広円覚修多羅了義経(円覚経)に「修多羅の教は月を標する指の如し、若し復月を見れば、所標は畢竟して月にあらざることを了知す」とある。禅宗では月を見ればその指が無用であるように、坐禅によって悟りを得れば経文は不要であるとする。
―――
因縁
 果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)とある。
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 念仏宗が謗法である所以を示されたのに続いて真言宗、禅宗の謗法なる所以を明かされるところである。真言宗は自らの依経とする大日経に比べて法華経は二重三重に劣るとして、法華経を謗じている。また、釈迦仏は大日如来の眷属であると下して、あからさまに釈迦仏を謗じている。
 禅宗は真実の正法は教外別伝といって教説によらずに別にこっそりと伝えられたとして、仏の教えである法華経は仏の悟りを説いたものではないと謗じている。すなわち仏が言葉によって説いた教えは月をさす指、彼岸へ渡る船のようなもので、月を見てしまえば指は不要であり、彼岸へ着いてしまえば船はもういらない。それと同じで法華経などの教えはもはや用のないものであるといって、法華経をないがしろにしているのである。
 ところで、禅宗が「教外別伝・不立文字」と主張する根拠と称しているのが大梵天王問仏決疑経なる経であるが、「不立文字」などという言葉が釈尊自身によって出る道理がないことは、釈尊が文字によらないで法を弟子達に伝えたこと、釈尊滅後の仏典結集さえも文字に記すのでなく暗誦と口唱によった事実が明らかに示している。「不立文字」という言葉自体が、この決疑経なるものは後世に偽作された経であることを、はからずも露顕しているといわなければならない。

1411:08~1411:13 第八章 謗法の宗旨を信じた現証を明かすtop

08   此大科・次第につもりて人王八十二代・隠岐の法皇と申せし王並びに佐渡の院等は我が相伝の家人にも及ばざり
09 し、相州鎌倉の義時と申せし人に代を取られさせ給いしのみならず・ 島島にはなたれて歎かせ給いしが・終には彼
10 の島島にして隠れさせ給いぬ、 神ひは悪霊となりて地獄に堕ち候いぬ、 其の召仕はれし大臣已下は或は頭をはね
11 られ或は水火に入り・ 其の妻子等は或は思い死に死に・ 或は民の妻となりて今五十余年・其外の子孫は民のごと
12 し、是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に・天照太神・正八幡等の天神・地祇・
13 十方の三宝にすてられ奉りて、現身には我が所従等にせめられ後生には地獄に堕ち候ぬ。
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 この大きな罪科が次第に積もって人王第八十二代の隠岐の法皇という王並びに佐渡の院等は、代々仕えてきた家人にも及ばない相州・相模国の鎌倉の北条義時という人に代を取られたのみならず、それぞれの島に放たれ、嘆かれたのですが、ついにはその島々で崩御されたのです。そして魂は悪霊となって地獄に堕ちたのです。その召し使われた大臣以下の人々は、あるいは頭を刎ねられ、あるいは水や火に入って死に、その妻子等はあるいは思い死にをし、あるいは民の妻となってもう五十余年となります。そのほかの子孫は民のように卑しまれています。これはひとえに真言と念仏等を尊び、法華経・釈迦仏の大怨敵となったゆえに、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・十方の三宝に捨てられ、現身には自分の所従等に攻められ、後生には地獄に堕ちたのです。

隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちした後、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚である坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された(承久の乱)。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
―――
佐渡の院
 (1197~1242)。第84代順徳天皇のこと。後鳥羽天皇の第3皇子。母は藤原範季の娘、修明門院重子。後鳥羽院とともに、承久の乱を企てたが敗北、佐渡へ流された。以後21年間配所に在し、仁治3年(1242)没した。佐渡に流罪になったことからこの名がある。
―――
相伝の家人
 先祖より代々仕えてきた臣下の武士のこと。令制の帳内、内舎人、兵衛、平安時代の禁中の滝口、東口の帯刀、院の北面武者所をはじめとして、多くの武士が採用されて仕えた。
―――
相州鎌倉
 相模国(神奈川県)を相州という。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。鎌倉は源頼朝が幕府を開いた地で、北条家が引き継いだ地名。
―――
義時
 北条義時(1162~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
―――
神ひ
 ①心の働きを司るもの。霊魂・精霊。②精神・気力。③心識・神識・霊妙な働き。④素質・天分。
―――
悪霊
 後鳥羽上皇の死後、京に悪霊が出たとうわさが広がった。
―――
大怨敵
 邪法をもって仏や正法を持つものを迫害する敵人
―――
天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
正八幡
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
天神
 ①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。
―――
地祇
 大地を司る神。大地を堅牢にする神。
―――
三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――――――――
 念仏宗、真言宗等、謗法の諸宗を信じて大きな罪科を積んだ結果として、承久の変において朝廷方は敗北を喫したのであると現証を挙げられているところである。
 承久の変では、朝廷方が真言宗や念仏宗、とくに真言宗によって勝利を祈ったために、結局、法華経・釈迦仏の怨敵となって諸天に捨てられて破北したものである。その悲惨な様子が述べられていて、謗法の恐ろしさを強調されている。
 「是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に・天照太神・正八幡等の天神・地祇・十方の三宝にすてられ奉りて」と仰せられているのは、後鳥羽院等は天皇家であるから、現世においては天照太神や正八幡の守護があってしかるべきであった。しかし、天照太神に対してなんの違背もなかったが、法華経・釈迦仏に背いたために、天照太神等から守ってもらえなかったのである。法華経の正法に背く者は、諸天も守るわけにいかないからである。さらに「十方の三宝にすてられ奉り」と仰せられているのは、現世に破北を喫し、無残な最期をとげたばかりでなく、死後「神ひは悪霊となりて地獄に堕ち」たことである。

1411:14~1412:01 第九章 蒙古襲来の原因が謗法にあると示すtop

14   而るに又代東にうつりて 年をふるままに彼の国主を失いし、 真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり
15 入りて・やうやうにたばかる故に・本は上﨟なればとて・すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり、 又念仏者をば善
16 知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、 禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく、隠岐の法皇の果報の
17 尽き給いし失より百千万億倍すぎたる大科・鎌倉に出来せり、 かかる大科ある故に天照太神・正八幡等の天神・地
18 祇・釈迦・多宝・十方の諸仏・一同に大にとがめさせ給う故に、隣国に聖人有りて万国の兵をあつめたる大王に仰せ
1412
01 付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給うを、 日蓮かねて経論を以て勘へ候いし程に、
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 これより後、代が東国に移って年を経るにつれて、彼の国主を失うもととなった真言宗等の人々が鎌倉に下り、執権の足下に入っていろいろに取り入ったものですから、もとは高僧だからということで、たぶらかされて鎌倉の諸堂の別当とし、また、念仏者を善知識とたのんで、大仏寺、長楽寺、極楽寺等を建てて尊崇し、禅宗を寿福寺や建長寺等を建てて崇めました。隠岐の法皇の果報の尽きられた失よりも、百千万億倍過ぎた大科が鎌倉に出来したのです。
 このような大科があるので、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏が一同にこれをお咎めになって、隣国に聖人がいて、万国の兵を集めている大王に仰せつけて、日本国の王臣・万民を罰しようと図られるのを、日蓮は経論によってまえもって推測したのです。


 関東のこと。
―――
上﨟
 修行を多年積んだ僧。②身分の高貴な人。上位に座すべき官位の高い人。③上﨟女房のこと。
―――
善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
―――
大仏
 神奈川県鎌倉市長谷にある高徳院をいう。大異山清浄泉寺と号し、俗に長谷の大仏と呼ばれた真言宗寺院。後に荒廃し、江戸時代に浄土宗寺院として再建された。文永5年(1268)十一通の直諌状のなかで、大仏殿別当に一通送られ、「早く我慢を倒して日蓮に帰すべし」(0175-01)と破折されている。
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長楽寺
 神奈川県鎌倉市にあった浄土宗寺院。北条政子が開基となって、京都長楽寺隆寛の高弟願行を開山として、嘉禄元年(1225)に開創されたという。日蓮大聖人は文永五年(1268)10月11日、立正安国論の的中したことから、長楽寺に邪法・邪義を捨てて実法・実義に帰すことを勧めた手紙(十一通の直諌状)を出されている。
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極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院極楽律寺と号す。縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時が開き、子の長時が良観(忍性)を招いた。
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寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。
果報
 果は過去世の業因による結果。報はその業因に応じた報い。
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多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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大王
 (1215~1294)フビライのこと。モンゴル帝国の第5代皇帝。また中国、元朝初代の皇帝。諡、聖徳神功文武皇帝。廟号、世祖。チンギス・ハン の末子トルイの子。モンゴル帝国第4代皇帝憲宗モンケの弟。
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 かつて承久の乱における朝廷方の敗北は、謗法である念仏宗、真言宗等を信じ祈ったことが原因であった。そのころは鎌倉方はそうした諸宗に祈ることもしなかったので、かえって勝つことができたのである。ところが、朝廷方を破って繁栄を勝ちえると、今度は文化的に京都に負けないようにしたいとの欲から、盛んに仏教寺院を建立し、僧を招いたのである。そのことが、鎌倉をかつての京都に劣らない謗法の深重な町にしてしまった。今、鎌倉幕府が当面している蒙古襲来の危機は、まさしく、謗法であるこれらの宗旨を崇めた結果であると述べられている。
 すなわち、鎌倉幕府の人々まで謗法の宗旨を信奉するようになって日本全体が謗法化してしまったので、釈迦・多宝・十方の諸仏、天照太神、正八幡等の諸天善神は隣国(蒙古)の大王に命令して、日本国の王臣万民を一同に罰しようと企てたのであると仰せられている。

1212:01~1412:15 第十章 進言の前の思索top

01                                                 此れを有
02 りのままに申さば国主もいかり、万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿りをなして・あだを存
03 じ王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、 弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、 我
04 が身もあやうく命にも及ばんずらん、 いかが案もなく申し出すべきとやすらひし程に、 外典の賢人の中にも世の
05 ほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣とて・へつらへる者・不知恩の人なり、 されば賢なりし竜逢・比干なんど
06 申せし賢人は、 頚をきられ胸をさかれしかども国の大事なる事をばはばからず申し候いき、 仏法の中には仏いま
07 しめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、 釈迦仏の御敵いかなる智人・ 善人なりとも必ず
08 無間地獄に堕つべし、 譬へば父母を人の殺さんとせんを・子の身として父母にしらせず、 王をあやまち奉らんと
09 する人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんが・ごとしなんど禁られて候。
――――――
 これをありのままに言えば国主も怒り、万民も用いない上、念仏者、禅宗、律僧、真言師等は、必ず怒りをなして仇敵のように思い、王臣等に讒奏して、我が身に大難起こり、弟子ないし檀那まで、日蓮にわずかでも心を寄せる人がいれば罪科にし、我が身も危険となり身命にも及ぶことになるでしょう。
 よい案がなければ、容易に言い出すべきではないと思っていましたところ、外典の賢人のなかでも、世の亡ぶべきことを知りながら諌言しないのは諛臣といって、諂う者、不知恩の人であるとされています。したがって、竜逢・比干といった賢人は頚を切られ、胸を裂かれたけれども、国の大事なことははばかるところなく諌言したのです。
 仏法のなかでは、仏が戒めて言われるには「法華経の敵を見ながら世をはばかり恐れて言わないのは、釈迦仏の敵である。どのような智人・善人であっても、必ず無間地獄に堕ちるであろう。たとえば父母を他人が殺そうとしているのを、子の身として父母に知らせず、あるいは王を滅ぼそうとする人がいるのを、臣下の身として知りながら難儀を恐れて諌言しないのと同じである」と禁められています。
――――――
10   されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、 竺の道生は蘇山へ流さ
11 れ、法道は面にかなやきをあてられき、 此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし、 されば賢王の時は仏
12 法をつよく立つれば王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば国も安穏なり、 所謂陳・隋の大王・桓武・
13 嵯峨等は天台智者大師を南北の学者に召し合せ、 最澄和尚を南都の十四人に対論せさせて論じかち給いしかば 寺
14 をたてて正法を弘通しき、大族王.優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明或は鬼神.外道を崇重し或は道士を帰依し或は
15 神を崇めし故に、 釈迦仏の大怨敵となりて身を亡ぼし世も安穏ならず、 其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり、
―――――
 したがって、仏の御使いであった提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道は顔に火印をあてられたのです。これらは皆仏法を重んじ王法を恐れなかったゆえです。
 それゆえ賢王の時は仏法を強く立てれば、王は両方の言い分を聞き分けて勝れているほうの智者を師とするので国も安穏です。いわゆる陳・隋の大王は天台智者大師を南三北七の学者に召し合わせ、桓武・嵯峨天皇等は伝教大師最澄和尚を南都の十四人の高僧と対論させ、論じ勝ったので、寺院を建てて正法を弘通したのです。大族王、優陀延王、武宗、欽宗、欽明・用明天皇は、あるいは鬼神・外道を崇重し、あるいは道士に帰信し、あるいは神を崇めたゆえに、釈迦仏の大怨敵とって身を滅ぼし世も安穏ではありませんでした。その時聖人であった僧侶は大難にあったのです。

念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
律僧
 律宗を修行した僧侶のこと。
―――
真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
讒奏
 讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。
―――
諛臣
 へつらう臣下、家来のこと。
―――
竜逢
 中国・夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた諌臣。桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、かえって首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。漢書、貞観政要等に、死を恐れず諫言した例として述べられている。
―――
比干
 中国・殷王朝の人。殷の紂王の父方の叔父といわれる。殷の三仁の一人。史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、九侯、鄂侯などの大臣を殺し、佞臣を登用して政事を顧みなかったので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって、比干の胸を剖いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。
―――
提婆菩薩
 三世紀ごろの南インドの仏法伝灯者で、付法蔵第十四祖。バラモンの出身。迦那提婆(かなだいば)ともいわれる。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。大自在天の請いによって一眼を供養したため片眼となったとも、一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化(ゆうげ)した。南インドで外道の論師を徹底的に破折したとき、凶悪な外道の弟子が怨んで提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
檀弥羅王
 付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
―――
師子尊者
 師子比丘ともいう。六世紀ごろの中インドの最後の伝灯者で、付法蔵第二十四祖。鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けた。北インドの罽賓国において仏法を弘めたが、国王・檀弥羅は邪見が強盛で、バラモンにそそのかされて仏教を弾圧し、師子尊者の首を斬ってしまった。伝説によると、このとき師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出た。これは、師子尊者が白法を持っていたこと、また成仏したことをあらわすという。また、首を斬った檀弥羅王の刀と腕は同時に地に落ち、7日後に命を終えたとも伝えられる。
―――
竺の道生
 (~0434)。中国・東晋代から南北朝の宋代の僧。高僧伝巻七によると、竺法汰について出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に追放された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
―――
法道
 (1086~1147)。中国・宋代の僧。もと永道と称した。宣和元年(1119)徽宗皇帝が詔を下し、仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏僧の称号を廃して道教の風に改めることを決定した。法道はこれに反対し、上書してこれを諌めたが、帝は怒って永道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。翌年、仏教の称号を用いることが許され、法道も許されて帰り、名を法道と改めた。
―――
最澄和尚
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
南都の十四人
 延暦21年(0802)正月19日、高尾寺にて聖武天皇の御前で伝教大師と対論して敗れた南都六宗の主だった僧。善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏。
―――
大族王
 古代北インド結迦国(磔迦国)の王。大唐西域記卷四によると、才智があり、勇烈で、近隣の諸国を帰属させていた。ある時、仏法を習おうとして俊徳の僧を推薦させたところ、昔、僕であった僧が推挙されてきたため、敬う心をなくし、仏法を廃して僧を追放した。そして、仏法を崇敬していた摩竭陀国の幻日王を攻めたが、敗れて捕らえられた。幻日王の母の助命により許されて加湿弥羅国に行き、国王の厚いもてなしを受けたが、後に国王を殺害した。さらに健駄羅国を攻めて王臣を殲滅して約1600もの寺院を破壊し、民の大半を殺戮した。大族王は国に還ろうとしたが、その年の内に死に、無間地獄に堕ちたといわれる。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
―――
優陀延王
 釈尊在世当時の憍賞弥国王。優塡大王とも書く。優塡王経によると、かつて臣下で、出家して羅漢の悟りを得ていた賓頭盧尊者が、王の睡眠中に説法したことを怒り、黒蟻の巣を尊者の身にまとわせて苦しめた。また四分律によると、バラモンである大臣の讒言に惑わされ、尊者を軽蔑した。優陀延王は後に慰禅国王に捕らえられ、七年間鎖につながれ、国王の位を失ったという。
―――
武宗
 (0814~0846)。中国・唐代の第十五代皇帝。即位後、念仏を重んじていたが、道教を尊崇するようになり、会昌5年(0845)に大規模な仏教弾圧を断行し、多くの寺院を破壊し僧尼を還俗させた。「会昌の廃仏」という。武帝は翌年、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒で死んだ。
―――
欽宗
 (1100~1161)。中国・北宋代の第九代皇帝。徽宗の子。宣和7年(1125)金国との和議が破れ、金軍の攻撃の始まる前に即位した。しかし、臣下の意見をまとめることができず、金軍に捕らえられ、30年間流人生活を送って没した。
―――
欽明
 (~0571)。欽明天皇のこと。名は天国排開広庭天皇。継体天皇の嫡子。日本書紀巻十九等によると、大伴金村、物部尾輿を大連、蘇我稲目を大臣として、磯城嶋に都を置いた。在位13年の10月13日、百済の聖明王から金銅の釈迦仏、幡蓋、経論等を献上してきた。天皇は仏教を尊崇するべきか否かを群臣に問うたところ、蘇我稲目は崇仏、物部尾輿・中臣鎌子は排仏を主張した。この時、天皇は稲目の願いを入れて礼拝させた。在位は32年に及んだ。
―――
用明
 (~0587)。用明天皇のこと。欽明天皇の第四子。敏達天皇の弟。名は橘豊日天皇。0585年に即位。用明天皇2年(0586)の4月、天皇は病に罹り、群臣に仏教を信仰することを議ったところ、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との対立が激化し、天皇は病没した。
―――
鬼神
 鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
―――
道士
 ①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
―――
帰依
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
―――――――――
 本章は、謗法の諸宗を鎌倉幕府が崇重しつづけるならば必ず隣国から攻められ、日本の国が滅ぶであろうと経論の上から洞察された大聖人が、このことをはっきりと日本国の上下万民に申すべきか否かについて、種々思索されたことを述べられている。
 その思索の内容を簡潔にたどると、まず、大聖人が謗法の仏教が諸悪の根源であると諌めるならば、彼ら諸宗の僧達は怒って、大聖人を王臣等に讒言することにより、大聖人及び弟子檀那を迫害し、命にも及ぶ危険が迫ることは明らかである。したがって、安易に言うべきではないと思われたと仰せである。しかし、外典に説かれている竜逢・比干などの賢人は、世の中の亡ぶべきことを知りながら、それを進言しないのは〝諛臣〟〝不知恩の人〟であるとの戒めに促されて、頸を切られたり、胸を裂かれたりしながらも、国の大事について進言してはばからなかった。また、仏法においても涅槃経のなかに「若し善比丘、壊法の者を見て、置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし。是の人は仏法の中の怨なり」とあり、法華経の敵人を見ながら世の中の迫害を恐れて進言しなかったならば、それ自体が釈迦仏の敵であり、必ず無間地獄に堕つとの戒めがある。しかもこの戒めを守って提婆菩薩、師子尊者、竺の道生、法道三蔵などの仏法者は王法や世法よりも仏法を重んじたので、迫害や大難を受けても真実を語ったのである。
 しかも、賢王が国を治めている時は、正邪を正しくわきまえて政を行うので、進言が正しければ賢王はこれを聞き入れ智者を重用するため国は安穏となる。そのような時代は、中国では天台大師の出た陳、随の時代、日本では伝教大師の出た桓武、嵯峨帝の時代であった。しかし今、大聖人の時代の日本国は悪王の時代で、大族王、優陀延王、武宗、欽宗、欽明、用明の時代と同じで、謗法を犯し続ける悪国、大謗法の国となっている。それゆえ、進言する聖人も大難を覚悟しなければならない。
 以上が大聖人が進言を決意するまえに思索された内容の大略である。

1412:16~1413:15 第11章 日蓮大聖人の諌暁ゆえの大難top

16 今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり。                    ・
――――――
 いま日本国はすでに大謗法の国となって他国に侵略されようとしている。
――――――
17   此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも 後生には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流
18 罪・死罪は一定なりと思い定めて去ぬる文応の比・故最明寺入道殿に申し上げぬ、 されども用い給う事なかりしか
1413
01 ば、 念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、 長時武蔵の守殿
02 は極楽寺殿の御子なりし 故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、 されば極楽寺殿と長時と彼の一
03 門皆ほろぶるを各御覧あるべし、 其の後何程もなくして召し返されて後又経文の如く弥よ申しつよる、 又去ぬる
04 文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる、 日蓮御勘気の時申せしが如くどしうちはじまりぬ、 それを恐るるかの
05 故に又召し返されて候、しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。
――――――
 今日本国はすでに大謗法の国となって、他国に侵略されようとしている。これを知りながら言わなければ、たとい現在は安穏であるとしても後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう、後生を恐れてこのことを言うならば、流罪・死罪は必定と思い定めて、去る文応のころ、故最明寺入道殿(北条時頼)に申し上げたのです。しかし用いることがなかったので、念仏者等はこのことを聞いて上下の諸人を仲間に引き入れて日蓮を打ち殺そうとしたが果たせなかったので、執権である武蔵守の北条長時殿は極楽寺殿(北条重時)の子であるゆえに、親の心を知って理不尽にも伊豆国へ流したのです。したがって、極楽寺殿と長時と彼の一門の皆は滅んでしまったことは、各々御覧のとおりです。
 その後、いくほどもなく赦(ゆる)されて鎌倉に帰って後、また経文に仰せのとおり、さらに強く申し上げました。
 また文永8年(1271)9月12日に佐渡国へ流されました。日蓮がその逮捕の際に言ったとおり、同士打ちが始まったのです。それを恐れたのでしょうか、また赦されて鎌倉に帰ってきました。しかし、諌言を用いないので、万民はいよいよ悪心が強盛になったのです。
――――――
06   縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、 つみしらせて後用いずば我が失にはあらず
07 と思いて、 去ぬる文永十一年五月十二日・ 相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず
08 既に五箇年をへたり。
――――――
 たとい命をかけて諌言したとしても、国王が用いなければ国が亡ぶことは疑いありません。罪を教えて後に用いないのは我が失にはあらずと思い、去る文永11年(1274)5月12日、相模国鎌倉を出て6月17日から、この山深い身延山に居住して門一町も出ることなく、すでに5年を経ました。
――――――
09   本は房州の者にて候いしが地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者にかた
10 らはれて度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・ 極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入
11 る事なし、父母の墓を見ずして数年なり、 又国主より御勘気二度なり、 第二度は外には遠流と聞こへしかども内
12 には頚を切るべしとて、 鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に 頚の座に引きすへられて候いき、 いかが
13 して候いけん月の如くにをはせし物・ 江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、 と
14 かうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頚はのがれぬ、 又佐渡の国にて・ きらんとせし程に日蓮が申せしが
15 如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頚をきらず・結句はゆるされぬ、今は此の山に独りすみ候。
――――――
 日蓮はもと安房国の者ですが、地頭・東条左衛門尉景信(かげのぶ)という者が、極楽寺殿(北条重時)、藤次左衛門入道、一切の念仏者にそそのかされて、たびたびの問註があり、結局は合戦が起こったうえ、極楽寺殿の身内の方が理を曲げたので、東条郡を塞がれて入ることがありませんでした。父母の墓を見ることなく数年たっています。
 また国主からの御勘気は二度です。二度目は外には遠流といわれていたけれども、内々には頚を切るというので、鎌倉の竜の口という所に九月十二日の丑の時に頚の座に引き据えられたのです。ところが、どうしたことか、月のような物が江ノ島のほうから飛び出して役人の頭にかかったので、役人は恐れて切らず、そうしているうちにさまざまな子細があって、その夜は打首は免れたのです。
 また、佐渡国で切ろうとしましたが、日蓮が言ったように鎌倉で同士打ちが始まったので、役人が急ぎ佐渡国にきて頸を切らず、結局は赦されて、今はこの山に独り住んでいます。

流罪
 罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
―――
死罪
 死刑のこと。鎌倉時代の五刑のひとつ。
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最明寺入道殿
 (1127~1263)。北条時頼のこと。最明寺で出家したので、最明寺殿、また最明寺入道殿と呼ばれた。法名は道崇。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督を継ぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍藤原頼経と通謀して自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したところ、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年(1952)将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。また宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同三年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190-09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
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長時
 (1230~1264年)。北条長時のこと。鎌倉幕府・第2代執権・北条義時の三男・重時を父として生まれる。父・重時が鶴岡八幡宮近くの赤橋に屋敷を構えたことから「赤橋長時」とも称する。弟に長時の跡を継いで六波羅探題北方に就任する・北条時茂、第6代連署・塩田義政、第7代連署・普恩寺業時らがいる。嫡男・義宗も弟・時茂の死後、六波羅探題北方に任じられ、「二月騒動」において8代執権・北条時宗の異母兄・時輔を討ち取る活躍を見せている。なお、赤橋流・北条氏は得宗北条氏に次ぐ家格として重んじられ、曾孫の赤橋守時は幕府最後の執権となるなど代々要職を歴任している。
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極楽寺殿
 (1198~1261)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男で、第三代執権泰時の弟。駿河・相模・陸奥守を兼任。寛喜2年(1230)から宝治元年(1247)まで京都北方の六波羅探題をつとめた。宝治元年、三浦泰村の死後、鎌倉に帰り、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)となった。その後陸奥守になり、康元元年(1256)に職を辞し、入道して観覚と号した。極楽寺に別邸を構え、住んでいたので、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が念仏を無間地獄の業と破折されたので、重時は大聖人を激しく憎み、文応元年(1260)に起こった松葉ケ谷の草庵襲撃事件の黒幕的存在とされる。翌弘長元年(1261)五5月には子の長時に働きかけて、大聖人を伊豆国(静岡県東部)伊東へ流罪し、その年の11月に病没している。
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文永八年九月十二日
 竜の口の法難をいう。北条執権の内管領で侍所所司である平左衛門尉は、同日、武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲い、大聖人を捕え、未明に殺害しようとしたが、果たせなかった。発迹顕本の法難である。種種御振舞御書にくわしい。
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佐渡の国へ流さる
 文永8年(1271)9月12日、大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同深夜、鎌倉の外れ竜口で斬首の刑にあおうとした。しかし夜空に輝く〝光り物〟が現われて、恐れた平左衛門尉らは斬首を果たせず、そのまま依知を経由して大聖人を佐渡に流罪したのである。 流罪期間は文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月25日まで。種種御振舞御書にくわしい。
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佐渡
 佐渡島のこと。新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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どしうち
 味方同士が戦うこと。ここでは北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
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地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
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東条左衛門尉景信
 生没年不明。鎌倉時代の武士。安房国長狭郡東条郷の地頭。念仏の強信者であったらしく、建長5年(1253年)4月、清澄寺での立教開宗の時には日蓮大聖人を害しようとし、以後ずっと敵対した。文永元年(1264)11月、大聖人とその門下を東条郷小松原で襲い、門下を殺傷し、大聖人にも傷を負わせた。
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藤次左衛門入道
 生没年不明。鎌倉時代の武士。極楽寺(北条)重時の家臣。重時とともに日蓮大聖人に数々の迫害を加えた。詳細は不明。
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問注
 ①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
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結句は合戦起りて
 文永元年(1264)11月11日、安房の小松原で、東条景信が家来を率いて大聖人一行を襲ったこと。小松原の法難。
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方人
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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父母の墓
 大聖人の父三国大夫重忠は正嘉2年(1258)2月14日、母は文永4年(1267)8月14日死去との記録はあるが、墓所はどこにあるか不明である。小湊にあったのは確かなようである。
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御勘気二度なり
 文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難と同10月10日~文永11年(1274)3月25日までの佐渡流罪をさす。
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竜の口
 現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
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江の島
 神奈川県相模湾北東部にある小島。藤沢市に属する。
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 日蓮大聖人はついに進言を決意されたのであるが、大聖人が予想されたとおり、さまざまな大難が競い起こってきた。
 「今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり」と洞察された日蓮大聖人が「此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし」と思索されて、進言する決意をされるのであるが、同時に「申すならば流罪・死罪は一定なり」との覚悟を固められて、ついに「去ぬる文応の比・故最明寺入道殿」に進言されたのである。これが第一回の国主諌暁である立正安国論の上奏であることはいうまでもない。しかしながら、賢王の時代ではないので進言は用いられず、そればかりか念仏者達は、大聖人を打ち殺そうとしたのであった。これが松葉ケ谷草庵の襲撃である。その後、伊豆流罪、佐渡流罪にあわれたこと、その間、徹底して進言されたこと、さらには同士打ち、すなわち自界叛逆難の予言が的中したことが機縁で佐渡流罪を赦免になられたこと、鎌倉に帰られてさらに諌められたが結局、幕府は用いなかったことを述べられている。
 「縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて」との仰せは、大聖人が第三回の国主諌暁を終えられて身延に入られた理由である。文永11年(1274)5月12日に鎌倉を出られて六6月17日から身延山にこもられることになる。以来、この御手紙を書かれている時まで五年がたっているのである。
 さて、次に大聖人の出身地で故郷であられる房州の地に入ることができず、そのために父母の墓に詣でることのできなくなった理由を明かされた後、竜の口法難について述べられている。
 また、幕府による御勘気は伊豆と佐渡の二度であるが、二度目の佐渡流罪の時は、表面では遠方へ流すと宣告しておいてその実、幕府権力者たちは、ひそかに頸を切ろうと竜の口の頸の座に引き据えたのである。実際には、幕府権力者たちは、月のような光り物が江ノ島から飛んで来て切れなかったのであるが、幕府の日蓮大聖人に対する理不尽な処置が鮮やかに語られていて、まことに重要な御文といえよう。

1413:16~1414:14 第12章 佐渡・身延山の状況top

16   佐渡の国にありし時は里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、 彼処に一間四面
17 の堂あり、 そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・ 雨はそとの如し雪は内に積もる、 仏はおはせず筵畳は一枚
18 もなし、 然れども我が根本より持ちまいらせて候・ 教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり 蓑をき笠をさ
1414
01 して居たりしかども、 人もみへず食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国に・とめられて十九年が間・蓑を
02 き雪を食としてありしが如し。
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 佐渡国にあった時は、人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という三昧所があり、そこに一間四面の堂がありました。屋根の板は隙が多く、四方の壁は破れていて、雨が降れば外にいるようであり雪は内に積もります。仏も祀っていず、筵畳は一枚もありません。しかし、以前から持っていた教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手に握り、蓑を着、笠をさしていましたが、人もこず、食も与えられずして四年いました。かの蘇武が胡国にとどめられて十九年間、蓑を着、雪を食としていたようなものです。
――――――
03   今又此山に五箇年あり、北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなない
04 たがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、 四の山は屏風の如し、 北に大
05 河あり早河と名づく早き事・箭をいるが如し、 南に河あり波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す、 東には富
06 士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し 内に滝あり身延の滝と申す白布を天より引くが如し 此の内に狭
07 小の地あり日蓮が庵室なり深山なれば 昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし峯にははかうのサルかまびすしく谷
08 には波の下る音鼓を打つがごとし 地にはしかざれども大石多く 山には瓦礫より外には物もなし国主はにくみ給ふ
09 万民はとぶらはず冬は雪道を塞ぎ 夏は草をひしげり鹿の遠音うらめしく 蝉の鳴く声かまびすし訪う人なければ命
10 もつぎがたし はだへをかくす衣も候はざりつるに かかる衣ををくらせ給えるこそ いかにとも申すばかりなく候
11 へ。
――――――
 今またこの身延山に五年います。北は身延山といって天に橋を立てたように高く、南は鷹取山といって鶏足山のようです。西は七面山といって鉄門に似ています。東は天子ヶ岳といって富士の御山を王とすればその太子です。四つの山は屏風のようです。北に大河があり、早河と名づけ、流れの早いこと、あたかも箭を射るようです。南に河があり、波木井河と名づけ、大石を木の葉のように流します。東には富士河が北から南へ流れています。千の鉾を突き出すような勢いです。その中に滝があり、身延の滝といい、白布を天から引き下げたようです。このなかにわずかな土地があり、そこが日蓮の庵室です。深い山なので昼も太陽を見ることができません。夜も月を眺めることもありません。峰には巴峡の猿がかまびすしく、谷には波の下る音が鼓を打つようです。地には自然に大石が敷き詰まっており、山には瓦礫のほかには何もありません。国主に憎まれ、万民は訪れることもありません。冬は雪が道を塞ぎ、夏は草が生い茂り、鹿の遠音が物悲しく、蟬の鳴く声がかまびすしいのです。訪ねる人がいないので命もつぎがたく、肌を隠す衣もないところに、このような衣を送ってくださったことは、なんともいいようのないありがたさを覚えます。
――――――
12   見し人聞きし人だにも・あはれとも申さず、年比なれし弟子・つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに聞き
13 もせず見もせぬ人の御志哀なり、 偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、 十羅刹の人の身に入りか
14 はりて思いよらせ給うか、
――――――
 日ごろ見聞きしている人でも哀れとも思わず、年来慣れた弟子も仕えた下人も皆逃げうせて訪ねることもないのに、いまだ聞きもせず、見もしない人からの御志とはなんとうれしいことでありましょうか。ひとえにこれは亡き父母が生まれ変わってこられたのでありましょうか。それとも十羅刹が御身に入り代わって日蓮に思いを寄せられるのでしょうか。

つかはら
 日蓮大聖人が佐渡に流罪され最初に住まわれたところ。
―――
御三昧所
 佐渡国(新潟県)の塚原にあった三昧所のこと。三昧は梵語サマーディ(Samādhi)の音写。三摩提、三摩地とも書き、定、正受、正心行処等と訳す。一説に死を三昧、すなわち定に入る義とするゆえに墓地を三昧所とする。また、昔から葬地に必ず法華三昧所を建てた。塚原三昧所も種種御振舞御書に「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし」(0916-04)と述べられているように、墓地の所にあった。日蓮大聖人は文永8年(1271)11月1一日に三昧所に入られ、翌年4月月3日に一谷に移るまでの五か月間をここで過ごされた。
―――
蘇武
(前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海(バイカル湖)の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書(手紙)が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて十九年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
―――
胡国
 中国人は中華思想の上から、周辺の諸民族を胡、夷などと呼んで卑しんだが、胡はとくに西方の民族をさしていった語。秦・漢以前には、匈奴をさす。
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身延山
 山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
たかとり
 鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。七面山の東、身延山の南にある。
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鶏足山
 中インド・マガダ国の首都である王舎城の近くにある山。尊足山、狼足山ともいう。現在のガヤとビハールの中間、クルキハールの地にあたる。釈尊の十大弟子の一人・摩訶迦葉の入定した山。
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なないたがれ
 七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある高山。標高1989㍍。頂上部の東面に「七面がれ」(崩崖)と呼ばれる七か所の絶壁があるのでこう呼ばれる。
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鉄門
 羯霜那国の東南三百余里にあった関所の名。険しい地の利を占め、鉄のように守りが堅かったので鉄門と名づけられた。羯霜那国は、もとキシュ(Kesh)の名で知られた中央アジアの主要都市で、現在のウズベキスタン共和国の都市シャフリサブス(Shahrisabz)である。
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天子がたけ
 天子ケ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。
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富士
 富士山のこと。静岡県・山梨県の境に位置し、富士火山帯に属する山。美麗な欠頂円錐形、標高3776㍍。山姿の美しさ、高さは日本第一で、平成25年(2013)世界遺産に認定された。地質学的にみると、より古い火山を土台とし、その上に噴出物を積もらせた山で、年齢は約10,000年と推定される。8世紀ごろまでは絶えず噴火していたが、宝永4年(1707)以降は噴火していない。山頂から山麓に一帯は、天然の植物園であり、豊富な鳥類の生息地であり、山紫水明の五湖など、文学作品・絵画や写真の題材として広く用いられている。身延相承書に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600)とあるのは、こうした日本最勝の景観によるものであろうか。
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早河
 山梨県南巨摩郡早川町を流れる川。白根山・鳳凰山を境に源を発し冨士川に合流する。
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波木井河
 山梨県南巨摩郡身延町を流れる川。身延川と相叉川が合流し波木井川となり、富士川に合流する。
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富士河
 山梨県の釜無川・笛吹川を源流として、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾に注ぐ川。日本三大急流のひとつ。全長129㌖
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はかうの猨
 中国の巴峡に住む猿のこと。巴峡は、湖北省の巴東付近にある、揚子江上流の峡谷のこと。昔から、そこに住む猿の鳴き声はもの悲しげで、涙を誘われるといわれていた。荊州記には「巴東三峡の猿、長鳴して三更に至る。聞く者の涕を流す」とある。
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瓦礫
 瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
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十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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 佐渡の国の配所である塚原三昧堂での厳しい御生活と、身延山での御生活の厳しさを述べられ、そうしたところへ帷を供養した妙法比丘尼やその嫂に感謝されているところである。「偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか」とまでいわれて、深く感謝されている。

1414:14~1415:13 第13章 李如暹に比したご自身の立場top

14              唐の代宗皇帝の代に蓬子将軍と申せし人の御子・ 李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて
15 北の胡地を責めし程に、 我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、 妻をかたらひ子
16 をまうけたり、 胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、 只正月一日計り唐の衣冠をゆるす、一
17 年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす、 而る程に唐の軍おこりて唐の兵・胡地をせめし時・ひまをえて胡地の
18 妻子をふりすてて・にげしかば、 唐の兵は胡地の・えびすとて捕へて頚をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝
1415
01 にまいらせてありしかば、 いかに申せども聞も・ほどかせ給はずして・南の国・呉越と申す方へ流されぬ、李如暹
02 歎いて云く進ては涼原の本郷を見ることを得ず 退ては胡地の妻子に逢ふことを得ず云云、 此の心は胡地の妻子を
03 もすて又唐の古き栖をも見ず・あらぬ国に流されたりと歎くなり、我が身には大忠ありしかどもかかる歎きあり。
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 唐の代宗皇帝の治世に蓬子将軍という人の子で李如暹将軍という人が、天子の命を受けて北の胡地を攻めたところが、軍勢数十万騎を討ち取られ、胡国に生け捕られて四十年を過ごしました。その間に妻をめとり子供が生まれました。胡地の習慣で、生け捕りの者なので皮の衣を着せ、毛帯を締めさせていましたが、ただ正月一日ばかりは唐の衣冠を着ることを許したのです。李如暹は一年ごとに中国を恋いて切ない思いで涙を流していました。そうしている間に唐の軍勢がきて胡地を攻めた時、隙をみて胡地の妻子を振り捨てて逃げましたが、唐の兵士は胡地の人間と思って捕らえて頚を切ろうとしたのです。とかくして徳宗皇帝の所に送られたので、その場において申し開きをしましたが、なんと言っても聞き入れられず、ついに南の国の呉越の境へ流されてしまったのです。李如暹が嘆いていわく「進んでは故郷の涼原を見ることもできず、退いては胡地の妻子に逢うこともできず」と。この心は胡地の妻子をも捨て、また中国の故郷の家をも見ず、あらぬ国に流されたと嘆いたものです。我が身に大忠があっても、このような嘆きがあるのです。
――――――
04   日蓮も又此くの如し日本国を助けばやと思う心に依りて申し出す程に、 我が生れし国をも・せかれ又流されし
05 国をも離れぬ、 すでに此の深山にこもりて候が彼の李如暹に似て候なり、 但し本郷にも流されし処にも妻子なけ
06 れば歎く事はよもあらじ、 唯父母のはかと・なれし人人のいかが・なるらんと・をぼつかなしとも申す計りなし、
07 但うれしき事は武士の習ひ君の御為に宇治勢多を渡し前を・かけなんどして・ありし人は、 たとひ身は死すれども
08 名を後代に挙げ候ぞかし、 日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ 戦をし身に手をおひ弟子等を殺され両度まで遠
09 流せられ既に頚に及べり、 是れ偏に法華経の御為なり、法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・
10 二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、 天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、 たまた
11 ま信ずる者をば 或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、 其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏
12 を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意。
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 日蓮もまたこのようです。日本国を助けようと思う心によって言うのであるのに、我が生まれた国にも入れず、また流された国も離れました。すでにこの深い山にこもっているのは彼の李如暹にも似ています。ただし、故郷にも流された所にも妻子がないので嘆くことはありませんが、ただ父母の墓と親しくした人々はどのようであろうかと、それのみ心にかかるのです。
 ただうれしいことは、武士の習いで主君の御ために宇治勢多の渡しに先陣をかけた人々は、たとえ身は死んでも名を後代に挙げたことです。日蓮は法華経のゆえに、たびたび所を追われ、戦をして手傷を受け、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、そのうえ頚まで切られようとしました。これひとえに法華経の御ためです。
 法華経のなかで仏は「我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年を過ぎてこの経を閻浮提に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいと、たまたま信ずる者を、あるいは罵詈したり、あるいは打擲したり、所を追い払ったり、あるいは打ち殺したりするであろう。その時、第一に先駆けした者は三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を得るであろう。また我が因位の難行・苦行の功徳を譲るであろう」と説かれています。

代宗皇帝
 (0726~0779)。中国・唐朝第八代皇帝。粛宗の長子。安禄山の乱では天下兵馬元帥となって功を挙げた。粛宗の死後即位したが、国政は不安定で皇帝の権力は分断されていた。粛宗と同じく不空三蔵に帰依し、山西省清涼山に華厳・大暦法華・清涼・金閣・玉花の各寺院を建てた。
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李如暹将軍
 生没年不明。蓬子将軍の子。代宗皇帝に仕え、大軍を率いて北方へ征伐に行き、敗れて捕らえられ、その地で妻子をもうけた。後に妻子を置いて唐土に逃げ戻ったが罰せられ、故郷にも帰れず南方の呉越に流されたという。出典は明らかではないが、白居易の『白氏文集』巻三の「縛戎人 窮民の情を達する也」の詩は、李如暹の逸話と同じ内容をうたっている。
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徳宗皇帝
 (0742~0805)。中国・唐朝第九代皇帝。代宗の長子。即位後、思いきった税法の改革、節度使対策を行ったが、各地で内乱が起こり、成功しなかった。
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宇治勢多を渡し……
 宇治は宇治川のことで、琵琶湖を源とする瀬田川の宇治市から下流をいう。更に京都府と大阪府の境界付近で淀川と名をかえ、大阪湾に注ぐ。古来、京都の南東の防衛線である宇治川をはさんで合戦が繰り返され宇治川を渡るか否かで戦いの勝敗が決せられていた。宇治川の戦いでは、寿永3年(1184)源範頼、義経の軍が源義仲軍を破った戦い、また承久3年(1221)北条泰時等の率いる幕府軍が朝廷軍を破った戦い(承久の乱)が挙げられる。この時、佐々木高綱、北条時氏が先陣をした。次に、勢多は瀬田川のことで、琵琶湖南端から流出する川。流出口に面する地の瀬田(大津市の一部)は、京都を守る東の要害の地で、この瀬田と宇治の地で上洛軍を防いだ。宇治川同様、瀬田川を渡るか否かが、戦さの勝敗を分けた。
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宇治勢多
 宇治川と瀬田川に沿った一帯の地名。滋賀県琵琶湖に源を発する瀬田川は勢多・瀬多とも書き、京都府宇治市に入って宇治川に名を変える。古来、東海道から京都に入る要所である。この県境付近は急流となっているが、流れをはさんでしばしば合戦が行われた。
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度度所をおはれ
 日蓮大聖人は、建長5年(1253)4月28日、立宗宣言の直後に東条景信によって清澄寺を追われ、文応元年(1260)8月27日の松葉ケ谷の草庵、焼き打ち事件をさす。
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両度まで遠流
 伊東・佐渡の二度にわたる流難をさす。すなわち、弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日までの伊豆流罪と、文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月8日までの佐渡流罪。
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天魔
 天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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因位
 仏果を得るための修行の位のこと。果位に対する語。仏果を得るため菩薩修行に励んでいる時の位。
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 唐の代宗皇帝の時代に出た李如暹将軍の例を御自身になぞらえられているところである。
 李如暹将軍は、皇帝の勅命を受けて北方の蛮族を征伐に出かけたが、戦いに敗れ、自らは捕虜となって敵国で四十年を過ごした。そして蛮族の女を妻とし、子までもうけた。
 そのうちに唐の国の軍が繰り出して攻めてきた。李如暹は妻子を捨てて唐の軍へと逃げ帰ったが、唐の兵は彼を蛮族と思って捕らえ頸を切ろうとした。しかし、彼の訴えを聞いて本国の徳宗皇帝の所へ送った。だが、彼の訴えは聞き入れられず、結局、南の国、呉越のほうへ流されてしまったという。李如暹は、進んでは唐の故郷へ帰れず、退いては蛮族の妻子にも会えないと嘆いたとされる。李如暹はどこまでも唐の国に対して大忠の心を抱いていたにもかかわらず、結果的にこのような事態になったのである。
 日蓮大聖人は、御自身の姿もこの李如暹に似ていると仰せられている。すなわち、大聖人の御聖誕になられた安房国に入れず、また流された佐渡国からも離れて〝第三の地〟ともいうべき身延山にこもっていることを指されている。
 しかし、李如暹と異なるところは、妻子がいないという点であるが、ただ安房の国にある父母の墓と、親しくしていた人々の消息が何よりも気懸かりであると仰せられている。
 さらに李如暹と大いに異なる点は、大聖人は法華経のゆえにこの事態に至っているということである。法華経のなかで仏の滅度の後、後の五百歳の末法において法華経を閻浮提に流布する者は天魔の身に入り代わった人々により悪口罵詈されたり流されたり殺されたりするとの仏の予言があり、そのときに法華経弘通の先駆けをした者は三世十方の仏を供養したのと同じ功徳を得るであろうし、また仏が因位の菩薩の時に積んだ難行・苦行の功徳を譲り与えられるであろうとも予言されている。
 その法華経の教えどおりに実践されたのが日蓮大聖人であり、したがって李如暹とは違って大聖人は三世十方の諸仏の無量の功徳に包まれておられる
。これが辛いなかにも、うれしいことであると喜びを述べられている。

1415:13~1416:13 第14章 不軽菩薩を超える大聖人の大難top

13   されば過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、 比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ど
14 も集まりて優婆塞・ 優婆夷をかたらひて不軽菩薩をのり打ちせしかども、 退転の心なく弘めさせ給いしかば終に
15 は仏となり給う、 昔の不軽菩薩は今の釈迦仏なり、 それをそねみ打ちなんどせし大僧どもは千劫阿鼻地獄に堕ち
16 ぬ、彼の人人は観経・阿弥陀経等の数千の経・一切の仏名・阿弥陀念仏を申し法華経を昼夜に読みしかども、 実の
17 法華経の行者をあだみしかば法華経・念仏戒等も助け給はず千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、 彼の比丘等は始には不軽菩薩
18 をあだみしかども後には心をひるがへして、 身を不軽菩薩に仕うる事 やつこの主に随うがごとく 有りしかども
1416
01 無間地獄をまぬかれず、 今又日蓮にあだをせさせ給う日本国の人人も此くの如し、 此は彼には似るべくもなし彼
02 は罵り打ちしかども国主の流罪はなし・ 杖木瓦石はありしかども疵をかほり頚までには及ばず、 是は悪口杖木は
03 二十余年が間・ひまなし疵をかほり流罪・頚に及ぶ、 弟子等は或は所領を召され或はろうに入れ或は遠流し或は其
04 の内を出だし或は田畠を奪ひなんどする事・夜打・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者よりもはげしく行はる、此れ又偏
05 に真言・念仏者・禅宗等の大僧等の訴なり、 されば彼の人人の御失は大地よりも厚ければ此の大地は大風に大海に
06 船を浮べるが如く動転す、 天は八万四千の星・瞋をなし昼夜に天変ひまなし、其の上日月・大に変多し仏滅後既に
07 二千二百二十七年になり候に・ 大族王が五天の寺をやき十六の大国の僧の頚を切り・武宗皇帝の漢土の寺を失ひ仏
08 像をくだき、 日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火を以てやき・ 僧尼を打ちせめては還俗せさせし時も是れ程
09 の彗星大地震はいまだなし、 彼には百千万倍過ぎて候大悪にてこそ候いぬれ、 彼は王一人の悪心大臣以下は心よ
10 り起る事なし、 又権仏と権経との敵なり僧も法華経の行者にはあらず、是は一向に法華経の敵・王・一人のみなら
11 ず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり、 譬えば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、 身変
12 じて赤く身の毛さかさまにたち・五体ふるひ・ 面に炎あがりかほは朱をさしたるが如し眼まろになりてねこの眼の
13 ねづみをみるが如し、手わななきてかしわの葉を風の吹くに似たりかたはらの人是を見れば大鬼神に異ならず。
――――――
 そこで過去の不軽菩薩は法華経を弘通された時、比丘・比丘尼等で智慧が賢く、二百五十戒を持つ大僧等が集まって優婆塞、優婆夷をかたらって不軽菩薩を罵詈し打擲したけれども、退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏となったのです。昔の不軽菩薩は今の釈迦仏です。それを嫉み、打擲した大僧等は、千劫の長い間、阿鼻地獄に堕ちました。彼の人々は観経や阿弥陀経等の数千の経、一切の仏名や阿弥陀念仏を称え、法華経を昼夜に読んだけれども、真実の法華経の行者を怨んだので、法華経も念仏も戒律等もこれを助けず、千劫の長い間、阿鼻地獄に堕ちたのです。彼の比丘等は、初めには不軽菩薩を怨んだけれども、後には心を翻して、身を不軽菩薩に仕えること、あたかも奴僕が主人に従うようにしたけれども、無間地獄を免れることはありませんでした。
 今日蓮に怨をなす日本国の人々も同じです。日蓮は不軽菩薩には似るべくもありません。不軽菩薩は罵詈・打擲はありましたが、国主の流罪はありませんでした。杖木瓦石はありましたが、疵を受け頸をきられるまでにはいたりませんでした。日蓮は悪口・杖木は二十余年の間ひまなく、疵を被り流罪にあい、さらに頸に及びました。弟子らは、あるいは所領を召され、あるいは牢に入れられ、あるいは遠流され、あるいは追放され、あるいは田畑を奪われることは、夜討ち・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者より厳しい取り扱いをされたのです。これはひとえに真言・念仏者・禅宗等の大僧等の讒訴によるのです。
 したがってこの大僧等の謗法の失は大地よりも厚いので、この大地は大海に浮かべる船を大風が動転させるように、天は八万四千の星が瞋りをなし、昼夜に天変が続き、そのうえ日月に異変が多いのです。
 仏滅後すでに二千二百二十七年になりますが、大族王が五天竺の寺を焼き、十六大国の僧侶の頸を切り、武宗皇帝が中国の寺院を破壊し仏像を砕き、日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火で焼き、僧尼を打ち責めて還俗させた時も、これほどの彗星、大地震はいまだありませんでした。今の人々はこれよりも百千万倍もすぎた大悪です。大族王等の例は王一人の悪心によるものであって、大臣以下は心から起こしたことではありませんでした。また、権仏と権経との敵でした。僧も法華経の行者ではありません。それに対し日蓮の場合は一向に法華経の敵、王一人だけでなく一国の智人並びに万民等の心から起こった大悪でした。たとえば、女人が物を妬めば胸の内に大火が燃えるので身体が赤くなり、身の毛は逆に立ち、五体は震い、面に炎が上がって顔は朱をさしたようになります。眼は円くなって鼠を捕る猫の眼のように、手はわなないて柏の葉が風に吹かれる時のように似ています。傍らの人からこれを見れば大鬼神に異なることはありません。

不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。一方、不軽を軽賤・迫害した者は、改悔したが、消滅しきれなかった余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
―――
二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
―――
優婆塞
 在家の男子をいう。
―――
優婆夷
 在家の女子をいう。
―――
阿鼻地獄
 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
阿弥陀経
 鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――

 戒定慧の三学の一つ。仏道を修行する者が守るべき規範。非を防ぎ悪を止める義で、身口意の悪業を断じて一切の不善を禁制すること。三蔵の一つ・律蔵の中に説かれる。五戒・八斎戒・十戒・二百五十戒・五百戒・十重禁戒・四十八軽戒など種々ある。
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やっこ
 「ぬぼく」ともいう。下に使われる身分の低いもののこと。
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杖木瓦石
 不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
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所領
 領する所の意味で、土地・領地のこと。
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八万四千
 大数、多数のこと。
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大族王
 大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
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五天
 五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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十六の大国
 釈尊在世の時代、インドにあった十六の大国のこと。長阿含経巻五には①鴦伽、②摩竭堤、③迦尸、④居薩羅、⑤抜祇、⑥末羅、⑦支堤、⑧抜沙、⑨居楼、⑩般闍羅、⑪頗漯波、⑫阿般堤、⑬婆蹉、⑭蘇羅婆、⑮乾陀羅、⑯剣并沙の国を挙げている。その他経論によって諸説がある。
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守屋
 (~0587)。物部守屋のこと。大和時代の中央豪族。物部尾輿の子。敏達・用明朝に大連となり、父尾輿の排仏論を受けて、崇仏派の蘇我馬子と対立した。日本書紀巻二十・二十一等によると、敏達天皇十四年の二月、蘇我馬子が大野丘の北に塔を建てて大会を行ったのに対して、このころ起こった疫病は崇仏が原因であるとして、物部守屋は中臣勝海とともに排仏を上奏した。そして勅によって寺を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てさせ、さらに、善信尼らにも罰を与えた。時に疱瘡が流行し、敏達天皇、守屋、馬子がともに患い、天皇は崩御した。次いで用明天皇二年、勅によって崇仏が行われようとしたが、守屋はこれに反対した。用明天皇没後、穴穂部皇子を擁立しようとして馬子と対立。数度の戦いの後、厩戸皇子が四天王に祈願した矢を迹見赤檮に与え、守屋はその矢に当たって敗死した。
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彗星大地震
 正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。また文永元年(1264)6月26日に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。正嘉の大地震については、吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し」とある。文永の大彗星については安国論御勘由来に「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」(0034-18)と述べられている。
―――
権仏
 権は方便の意で、釈尊が衆生教化・誘引のために説いた方便経説中の諸仏のこと。大日如来、阿弥陀仏、薬師如来等。
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権経
 実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
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 法華経を弘めようとすると天魔がさまざまに迫害を加えさせるとの予言がなされていることを挙げられたのを受けて、不軽菩薩の法華経弘通の難と対比して、日蓮大聖人御自身の法華弘通の難のはるかに大なること、そして、不軽が釈迦仏となったことから、そうした難を受けながら弘法された大聖人の成仏は間違いないと明かされているところである。
 不軽菩薩は法華経を弘通して四衆から悪口罵詈、杖木瓦石を受けたけれども、不退転の心で弘通したのでついに仏となった。すなわち、昔の不軽菩薩は今の釈迦仏である。
 逆に、その不軽菩薩に迫害を加えた比丘比丘尼等は、後に反省して不軽菩薩に仕えたけれども無間地獄を免れなかった。それほどの大きな罪をつくったのである。
 しかし、日蓮大聖人への迫害の大きさは不軽菩薩の比でないことを述べられ、そのゆえに大聖人を迫害した真言・念仏・禅の各宗の僧侶達の罪は、不軽菩薩に対する四衆達の罪とは比較にならないと仰せられている。「されば彼の人人の御失は大地よりも厚ければ此の大地は大風に大海に船を浮べるが如く動転す、天は八万四千の星・瞋をなし昼夜に天変ひまなし、其の上日月・大に変多し」と説かれているように、真言・念仏・禅の各宗の僧侶達の罪があまりにも大きいので、日本国に彗星の出現、大地震などの天変地夭が起こっているのであると断言されている。
 また、仏滅後二千二百二十七年の間に仏教を破壊した大族王、武宗皇帝、物部守屋等の例を挙げられ、これらの場合にもみられなかった天変地異であることを指摘されている。天変地異の大小は仏法破壊の罪の大小の反映である。
 すなわち、大族王、武宗皇帝、物部守屋の場合は王一人の悪心から出たものにすぎず、しかも迫害の対象も権仏、権経であり、法華経の行者ではなかった。それだけに罪悪もそれほど大きくはなかったのである。それに対し、末法の大聖人への迫害の場合は「王・一人のみならず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心」であり、しかもその対象もひとえに実経である法華経と法華経の行者に向けられたものであった。そのため「彼には百千万倍過ぎて候大悪」となるのである。
 最後に、日本国の上下万民が大悪心を起こして法華経の行者・日蓮大聖人をねたみ憎む姿を、女人が嫉妬したときの状態にたとえられている。どこまでも大聖人への迫害が当時の日本人僧俗のねたみ心から発していたことを洞察されていて興味深い一節となっている。

1416:14~1417:07 第15章 諸宗の人師等の大悪心を明かすtop

14   日本国の国主諸僧比丘比丘尼等も又是くの如し、 たのむところの弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云うを聞
15 き真言は亡国の法と云うを 聞き持斎は天魔の所為と云うを聞いて 念珠をくりながら歯をくひちがへ 鈴をふるに
16 くびをどりたり戒を持ちながら悪心をいだく 極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて 上へ訴へ建長寺の道隆聖人
17 は輿に乗りて奉行人にひざまづく 諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす、 是れ偏に法華経を読
18 みてよまず聞いてきかず善導法然が千中無一と 弘法慈覚達磨等の皆是戯論教外別伝の あまきふる酒にえはせ給い
1417
01 てさかぐるひにておはするなり、 法華最第一の経文を見ながら 大日経は法華経に勝れたり禅宗は最上の法なり律
02 宗こそ貴けれ念仏こそ 我等が分にはかなひたれと申すは酒に酔える人にあらずや 星を見て月にすぐれたり石を見
03 て金にまされり 東を見て西と云い天を地と申す物ぐるひを本として 月と金は星と石とには勝れたり東は東天は天
04 なんど有りのままに申す者をばあだませ給はば 勢の多きに付くべきか只物ぐるひの多く集まれるなり、 されば此
05 等を本とせし 云うにかひなき男女の 皆地獄に堕ちん事こそあはれに候へ 涅槃経には仏説き給はく末法に入つて
06 法華経を謗じて地獄に堕つる者は 大地微塵よりも多く信じて仏になる者は 爪の上の土よりも少しと説かれたり此
07 れを以つて計らせ給うべし 日本国の諸人は爪の上の土日蓮一人は十方の微塵にて候べきか、
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 日本国の国主、僧侶、比丘・比丘尼等もまた同じです。たのみとしている弥陀念仏を、日蓮が無間地獄の業であるといい、真言は亡国の法であるといい、持斎は天魔の所為であるというのを聞いて、念珠を繰りながら歯をくいしばり、鈴を振りながら怒りのため頸はおどり、表面では戒律を持ちながら悪心を抱いています。
 極楽寺の生き仏の良観上人は訴状を捧げて幕府に訴え、建長寺の道隆上人は輿に乗って奉行人に泣きつき、諸の五百戒を持つ尼御前等は進物を捧げて伝奏をします。これはひとえに法華経を読んで読まず、聞いて聞かず、善導、法然の「千中無一」、弘法・慈覚・達磨等の「皆これ戯論(けろん)」「教外別伝」などといった甘い古酒に酔って酒狂いしてしまった結果にほかならないのです。すなわち、法華経最第一の経文を見ながら、大日経は法華経に勝れている、禅宗は最上の法である、律宗こそ貴いのである、念仏こそ我らの機にかなっているなどというのは、まさに酒に酔った人ではないでしょうか。星を見て月より勝れているといい、石を見て金より勝れているといい、東を見て西といい、天を地という顚倒を本として、月と金は星と石とには勝れ、東は東、天は天とありのままにいう者を怨んでいるのです。数の多いほうにつけばいいというものでしょうか。ただ物狂いが多く集まっているのにすぎないのです。このような顚倒を本としている、いうにかいなき男女が皆地獄に堕ちることこそ哀れに思われます。
 涅槃経に仏は「末法に入って法華経を謗じて地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少ない」と説かれています。これらをもって考えられるがよいでしょう。日本国の諸人が爪の上の土、日蓮一人は十方の微塵でしょうか。

弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業
 譬喩品に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん、……其の人命終して阿鼻獄に入らん」とあるように、法華経を誹謗する者は無間地獄に堕ちるとされている。したがって無間地獄は念仏宗に限らないが、大聖人は立宗以来、とくに念仏無間地獄と叫ばれている。
―――
真言は亡国の法
 真言宗は、国を亡ぼす邪法であるとの意。中国の真言宗の始祖は善無畏三蔵、日本における開祖は弘法である。真言宗では法華経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経のみが法身の大日如来の説法で、これに比較すると、釈迦仏は無明の辺域であり、履物取りにも及ばぬといい、また法華経は一切経中の第三の劣であり、戯論である。また、大日経と法華経を比較すると、一念三千は大日経の教えであり、法華経にも説かれているから「理」は同じであるが、大日経には別に印と真言があるから「事」において勝れているという邪義をたてた。これに対して日蓮大聖人は真言亡国と破折されたのである。なぜなら、大日経は釈尊一代の権教であり、無量義経、および法華経方便品第二ではっきり「正直捨方便」と説かれている。しかも中国の真言宗は天台の一念三千の法を盗んで自宗の極理となし、日本の弘法は口をきわめて法華を罵っている。このように本主を突き倒して無縁の主である大日如来を立てるから亡国、亡家、亡人の法となると破折されたのである。
―――
持斎は天魔の所為
 持斎とはふつう律宗をさすが、この場合は禅宗をさす。禅宗が「教外別伝・不立文字」を教義として仏説を否定することは、仏法を破壊する天魔の所為であるとの意味。禅宗は仏の経典を否定し、経文は月をさす指であり、月にあたる成仏の性を見れば、指である経文には用はないという。釈尊は涅槃経のなかで「若し仏の所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」と説いている。ゆえに大聖人は禅宗を仏法を破壊する天魔の所為と破折されたのである。
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良観聖人
 (1217~1303)。鎌倉時代の律宗の僧。良観は法号で、名を忍性という。建保5年(1217)、大和国(奈良県)に生まれた。10歳で信貴山にのぼり、修行。24歳で奈良西大寺の叡尊の弟子となり、具足戒を受けた。のちに関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。また文永8年(1271)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こした。建治元年(1275)に極楽寺から出火し、堂塔ことごとく灰燼に帰した。大聖人はこの現証を以て、良観を両火房と呼ばれた。「名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり」(1137-10)と。
―――
折紙
 料紙を横にして半折りして用いた文書。消息文や公用の通達文にも使用された。
―――
道隆聖人
 (1213~1278)。鎌倉時代の臨済宗の僧。道隆は諱で、道号は蘭渓。中国南宋・西蜀(四川省)の人。姓は冉氏。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)に弟子を伴って日本に渡航し、はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に入った。建長五5年(1253)に北条時頼が建長寺を建立すると、請われて開山となった。後に門下の讒言によって二度甲州(山梨県)に流されたが、赦されて建長寺に戻った。日蓮大聖人の御在世当時、鎌倉の人々から尊崇を集めていたが、大聖人は、立正安国論に予言した他国侵逼難が蒙古からの牒状(ちょうじょう)到来で的中した旨を、十一通の書状に認(したた)めて北条時宗をはじめ時の権力者に諫暁をなされ、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、大聖人を讒言して、これが竜の口の法難の契機の一つとなった。道隆については一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下から出たことから考えても明らかである。
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奉行人
 奉行の役人。鎌倉幕府以降に置かれた職名。安堵・評定・恩沢・問注などの総称。
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五百戒
 比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
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尼御前
 在家でありながら剃髪した婦人のこと。御前は婦人に対する敬称。
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はく
 ①ぬ・絹布のこと。②ぬさ。幣帛。神に捧げる礼物の帛。
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達磨
 禅宗の初祖。菩提多羅のこと。のちに般若多羅より法を受け、菩提達磨の名を授けられた。般若多羅は、かれの滅後67年に震旦に行って弘法せよと、達磨に游化を許したので、梁の普通元年、中国に入り、武帝に謁見したが受け入れられず、崇山少林寺に寓して壁に向かって坐禅したので、人々は彼を壁観婆羅門と呼んだ。大通2年に死去。唐の代宗は円覚大師とおくり名した。
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戯論
 児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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 日蓮大聖人から「無間地獄の業」と破折された念仏宗、「亡国の法」と断じられた真言宗、「天魔の所為」と喝破された持斎(禅宗)の僧侶達が、幕府権力にすがって大聖人を亡きものにしようとした様子を述べられている。
 法義の破折に法論で答えることができず権力にすがるのは、経文の裏づけのない邪義に執着しているからであって、これは酒に酔っているのと同じであると指摘されている。
 さらに、何も知らない庶民の男女が諸宗の僧侶のいうことにしたがって法華経を誹謗して地獄に堕ちることが哀れであると仰せられ、涅槃経において説かれた、法華経を謗じて地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少ないとの仏の予言どおりになっていることを明らかにされている。

1417:07~1418:01 第16章 法華経の行者への供養をたたえるtop

07                                            然るに何なる宿習に
08 てをはすれば御衣をば送らせ給うぞ 爪の上の土の数に入らんとをぼすか 又涅槃経に云く「大地の上に針を立てて
09 大風の吹かん時大梵天より糸を下さんに 糸のはしすぐに下りて針の穴に入る事はありとも、 末代に法華経の行者
10 にはあひがたし」法華経に云く 「大海の底に亀あり三千年に一度海上にあがる 栴檀の浮木の穴にゆきあひてやす
11 むべし而るに此の亀一目なるが 而も僻目にて西の物を東と見東の物を西と見るなり」 末代悪世に生れて法華経並
12 びに南無妙法蓮華経の穴に身を入るる男女にたとへ給へり 何なる過去の縁にてをはすれば此の人を とふらんと思
13 食す御心はつかせ給いけるやらん、 法華経を見まいらせ候へば釈迦仏の其の人の御身に入らせ給いて かかる心は
14 つくべしと説かれて候譬へばなにとも思はぬ人の 酒をのみてえいぬればあらぬ心出来り人に物をとらせばや・ な
15 んど思う心出来る、 此れは一生慳貪にして餓鬼に堕つべきを其の人の酒の縁に菩薩の入りかはらせ給うなり、 濁
16 水に珠を入れぬれば水すみ 月に向いまいらせぬれば人の心あこがる、 画にかける鬼には心なけれどもおそろし、
17 とわりを画にかけば我が夫をば・とらねども・そねまし、錦のしとねに蛇をおれるは服せんとも思はず、 身のあつ
18 きにあたたかなる風いとはし、 人の心も此くの如し、 法華経の方へ御心をよせさせ給うは女人の御身なれども竜
1418
01 御身に入らせ給うか。
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 そうであるのに、どのような宿習があられて日蓮に御衣を御供養されたのでしょうか。爪の上の土の数に入ろうという御志でありましょうか。
 また涅槃経にいわく「大地の上に針を立てて大風の吹く時、大梵天から糸を下す時、糸の端が真っ直ぐに下って針の穴に入ることがあっても、末代に法華経の行者には値いがたい」と。法華経にいわく「大海の底に亀がいて、三千年に一度海の上に出る。栴檀の浮木の穴にあって休むことができるのであるが、この亀は一眼であるため、そのうえ僻目であるから西の物を東と見、東の物を西と見るのである」と。末代悪世に生まれて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入れる男女にたとえられています。
 それほどなのに、いかなる過去の因縁があって日蓮を訪ねようとする御心を起こされたのでしょうか。
 法華経を拝見すれば、釈迦仏がその人の御身に入られてこのような心を起こされると説かれています。たとえば、これという考えのない者でも、酒を飲んで酔ってしまうと、思いもよらない心が出てきて、人に物を与えようとする心が起こってくるようなものです。これは一生慳貪の心が強くて餓鬼道に堕ちるのを、その人の酒の縁によって菩薩が入り代わられたからです。濁水に珠を入れれば水が澄み、月に向かえば自然と憧れの心が出てきます。画にかいた鬼に心はないけれども、恐ろしいものです。美女を画にかけば、我が夫を取らないと知りながらも嫉妬の心が起きます。蛇の形を織り込めば、錦の褥であってもかけようとは思いません。身の熱い時は温かい風をきらうものです。人の心もこのようなものです。
 女人の身でありながら法華経のほうへ御心を寄せられるとは、竜女が御身に入られたのでしょうか。

「大地の上に針を……」
 涅槃経に同じ文はないが、巻二の「仏は優曇花の如く、値遇して信を生ずること難きを、遇い已りて善根を種え、永く餓鬼の苦を離れたること、亦復能く、阿修羅の種類を損減したること、芥子を針鋒に投ずるごとし。仏の出でたもうは是よりも難し」の取意と思われる。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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旃檀
 インド原産の香木。白檀のこと。高さ6㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香がある。香料・細工用に利用される。
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僻目
 片目、やぶにらみのこと。
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慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
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餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――

 本来は死者の霊魂をさすが、餓鬼道・夜叉・羅刹など、凶暴で恐ろしい形相をしているものをさす。
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とわり
 遊女、美人などのこと。
―――
竜女
 沙竭羅竜王の八歳の娘。法華経提婆達多品第十二には、文殊師利菩薩の説法を聞いて菩提心を発して不退の位に住し、法華経の会座に詣でて即身成仏の相を現じ、さらに衆生を化導したことが説かれている。
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 法華経を謗ずる者ばかりの世の中で、妙法比丘尼並びに嫂が日蓮大聖人に対して衣を供養したことをたたえられている。
 過去の宿習によるものか、あるいは成仏という爪の上の土の数に入ることを強く決意されたからであろうかといわれ、涅槃経の針の穴のたとえや法華経・妙荘厳王本事品第二十七の一眼の亀のたとえを引かれて、末代悪世に法華経と法華経の題目(南無妙法蓮華経)、法華経の行者に値うことの難しさを説かれて、にもかかわらず法華経の行者である日蓮大聖人を供養する心が起こったのは、どのような過去世の因縁・宿習であろうかと重ねて述べられている。そして法華経によれば、釈迦仏が人の身に入ってこのような心を起こさせると説かれていると仰せられている。その譬喩として、普段ケチな人が酒に酔うと、菩薩のように思いやりのある心が出てくる例や、濁水に珠を入れると水が澄む例を挙げられ、釈迦仏や竜女が身に入って大聖人へ供養をさせたのにちがいないといわれている。鬼や美人、蛇の絵等のたとえは、形だけのものでも心に影響を与えるということで、御供養の行為自体が尊いことを強調されているのである。

1418:02~1419:01 第17章 結語top

02   さては又尾張の次郎兵衛尉殿の御事・見参に入りて候いし人なり、日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多
03 くの人に見て候へども・ いとをしと申す人は千人に一人もありがたし、 彼の人はよも心よせには思はれたらじな
04 れども、自体人がらにくげなるふりなく・よろづの人に・なさけあらんと思いし人なれば、心の中は・うけずこそ・
05 をぼしつらめども、 見参の時はいつはりをろかにて有りし人なり、 又女房の信じたるよしありしかば実とは思い
06 候はざりしかども、 又いたう法華経に背く事はよもをはせじなればたのもしきへんも候、 されども法華経を失ふ
07 念仏並びに念仏者を信じ我が身も多分は念仏者にて・をはせしかば後生はいかがと・をぼつかなし、 譬えば国主は
08 みやづかへのねんごろなるには恩のあるもあり又なきもあり、 少しもをろかなる事候へば・とがになる事疑なし、
09 法華経も又此くの如し、 いかに信ずるやうなれども法華経の御かたきにも知れ知らざれ、 まじはりぬれば無間地
10 獄は疑なし。
――――――
 さて尾張次郎兵衛尉殿は御目にかかったことのある人です。日蓮はこの法門を弘めるので他の人とは比較にならないほど多くの人に会ったけれども、真にいとおしいと思った人は千人に一人もありませんでした。尾張次郎兵衛殿は、よもや日蓮に心を寄せていなかったでしょうけれども、その人柄はいばるところがなく、だれにでも情の深い人であったから、心のなかはどうであったか知りませんが、会った時は穏やかな人でした。
 また女房が法華経を信じているということから、真実とは思わないまでも、またひどく法華経に背くことはよもやないであろうとたのもしいところもありました。しかし、法華経を誹謗している念仏並びに念仏者を信じ、我が身も多分に念仏者であったから、後生はどうであろうかと思っています。たとえば、国主が宮仕えの懇ろな者には恩賞を与えることもあり、また与えないことはあっても、それでも少しでもあやまちがあれば罰することは疑いないように、法華経もまた同じようなものです。いかに信ずるようでも、知ると知らないとにかかわらず、法華経の御敵と交われば無間地獄は疑いありません。
――――――
11   是はさてをき候ぬ、彼の女房の御歎いかがと・をしはかるに・あはれなり、たとへば・ふじのはなのさかんなる
12 が松にかかりて思う事もなきに松のにはかにたふれ、 つたのかきにかかれるが・かきの破れたるが如くに・をぼす
13 らん、内へ入れば主なし・やぶれたる家の柱なきが如し、 客人来れども外に出でて・あひしらうべき人もなし、夜
14 のくらきには・ねやすさまじく・はかをみれば・しるしはあれども声もきこへず、又思いやる死出の山・三途の河を
15 ば誰とか越え給うらん只独り歎き給うらん、 とどめをきし御前たち・いかに我をば・ひとりやるらん、さはちぎら
16 ざりとや歎かせ給うらん、 かたがた秋の夜の・ふけゆくままに冬の嵐の・をとづるる声につけても弥弥御歎き重り
17 候らん、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
18       弘安元年戊寅九月六日                  日蓮花押
1419
01     妙法尼御前 御かたへ
――――――
 これはさておき、彼の女房の嘆きはいかばかりかと思うと、実に不憫なことです。たとえば藤の花が咲き誇って松に絡まっているのに、思いがけず松が倒れたようなもので、また、蔦が垣にかかっているのに、垣が壊れたような気持であられることでしょう。
 内に入っても主人がいないのは、破れた家に柱のないようなものです。客人が来ても、外に出て応対する人もいない。夜は暗く、寝室は物寂しい。墓を見れば、標(しるし)はあっても声は聞こえない。また、亡くなった夫のことを思いやれば、死出の山、三途の河をだれとともに越えていることだろうか、ただ一人で嘆いておられるのか、後に残した御前達は、どうして自分を一人だけ冥途の旅にやるのか、そうした契りではなかったがと嘆いておられるのではないかなどと、秋の夜の更(ふ)けゆくにつけ、冬の嵐の訪れる声を聞くにつけても、いよいよ嘆きが深くなっていくでしょう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
  弘安元年戊寅九月六日         日 蓮  花 押
   妙法尼御前 御かたへ

死出の山
 冥途にある山。十王経によると、死後、亡者が冥府において初七日の間に秦広王のところにいく途中にあるとされる険しい山のこと。高く険しい山で獄卒に追われて登るが剣のごとくとがった岩でできており、獄卒に鉄棒で打たれるという。
―――
三途の河
 十王経によると死出の山を越えた先にある河。浅瀬や深淵などの三つの瀬があり、生前の罪業によって渡る場所が異なるとされる。
―――――――――
 本抄全体の結びとして、第一章に述べられていた尾張次郎兵衛の死去のしらせに対して、日蓮大聖人の感懐を述べられ、その妻の悲しみを慰められている。
 大聖人は生前の尾張殿に会ったことがあると仰せられ、その人柄の印象を述べられている。人柄はいいが、結局、念仏を捨てることはできなかったので、無間地獄は間違いないと仰せられ、残された妻の気持ちを察しられて慰められている。

1419~1420    妙法比丘尼御前御返事top
1419:01~1419:02 第一章 迫害に動ぜぬ尼の信心をたたえるtop

妙法比丘尼御前御返事
01   明衣一つ給び畢んぬ、女人の御身・男にもをくれ親類をも・はなれ一二人ある・むすめもはかばかしからず便り
02 なき上・法門の故に人にも・ あだまれさせ給ふ女人・さながら不軽菩薩の如し、
――――――
 明衣一つ頂戴しました。
 あなたは、女人の御身として、夫に先立たれ、親類も離れ、一人二人ある娘もあまりしっかりしていず、たよりにならないうえ、法華経の法門のゆえに人に怨まれる女人のあなたは、まるで不軽菩薩のようです。

明衣
 入浴後、または夏季に着る麻の単衣のこと。明衣は明潔な衣の意で、一般には、斎戒を持つ者が沐浴の後に着る衣をさす。ここから、本抄では「ゆかたびら」と訓じられたものと思われる。「ゆかたびら」は、「ゆぐ」「ゆまき」「ゆかた」とも称する。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。一方、不軽を軽賤・迫害した者は改悔したが、消滅しきれなかった余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
――――――
 本抄の宛名は妙法尼となっている。妙法尼は四人いるとされる。一は、駿河国岡宮の人。二は、四条金吾の母。三は、佐渡中興に住む中興入道の母で、大聖人が佐渡御流罪中に帰依し、身延入山後もしばしば音信を寄せていたといわれる。四は、日目上人の父・新田五郎重綱の母である。本抄をいただいた妙法尼は、駿河(静岡県中央部)の岡宮に住んでいた妙法尼とされている。御真筆が残っていず、日時も記されていないが、弘安4年(1281)の御執筆であると推定されている。また、冒頭の御言葉から「明衣書」との別名がある。
 内容は、女人の身として周囲の反対のなか信心を貫いている妙法尼の信心を、釈尊の姨母・摩訶波闍波提の姿と比較しつつ、賛嘆・激励され、仏の加護は間違いないことを述べられた御手紙である。
 最初に妙法尼の御供養を謝されたあと、尼の境遇に触れられている。それによると、尼は夫に先立たれ、親類からも離れ、また、一人二人いる娘もたよりにならない。いずれにしてもその後に、尼が法門のゆえに人に憎まれていると仰せになっていることから拝すると、親類と疎遠になっているというのも、尼が信心をしていることと無関係ではあるまい。
 こうした尼の状況はあたかも不軽菩薩のようであると仰せである。法華経常不軽菩薩品第二十で不軽菩薩は「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」と述べ、すべての人を礼拝したが、この行為に対して、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は杖・木・瓦・石をもって打擲したと説かれている。すべての人に仏性があるとして礼拝する不軽菩薩に対して、人々は無知の比丘であるとして誹謗・迫害したのである。妙法尼も、女性としては教養があったように考えられるが、女性の身で修行に励むなかで、無智の者と悪口罵詈されることもあったであろう。それも、世間のことで非難を浴びるのでなく、「法門の故」に人に憎まれるということは、まことに尊いことである。大聖人はさまざまな御書で、世間の浅いことに命を捨てることは数しれないが、仏法のために命を捨てることはまれであると仰せになっている。尼はまさしく仏法のために人にあだまれているのであり、その四面楚歌の状況は、まさに不軽菩薩と同じであったにちがいない。
 大聖人が尼に対し、不軽菩薩と同じであると仰せになられたことには重要な意味がある。不軽菩薩が四衆から迫害を受けたのは、折伏したゆえである。すなわち、人々に仏性があるといって礼拝したのに、四衆は杖木瓦石をもって迫害した。それでも不軽菩薩はしいて礼拝の行を続けたのである。これが不軽菩薩の折伏である。尼は、本抄の後半部分に「法華経を弘め」と仰せのように、折伏を行じていた。其のゆえに人々から怨嫉されたのである。大聖人は御自身の振る舞いについて、正像の摂受と違い、末法において折伏を行じたことを述べられるにあたり、諸御抄で「日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0954-01)「日蓮は過去の不軽の如く」(0960-11)等と仰せである。妙法尼の折伏、それによる法難は日蓮大聖人の教えを正しく実践しているがゆえであるとのおほめの言葉として、「さながら不軽菩薩の如し」と仰せになっているのである。

1419:02~1419:09 第二章 摩訶波闍波堤記別の経緯を述べるtop

02                                       仏の御姨母・摩訶波闍波提比丘
03 尼は女人ぞかし、 而るに阿羅漢とならせ給いて声聞の御名を得させ給ひ永不成仏の道に入らせ給いしかば、 女人
04 の姿をかへ・きさきの位を捨てて仏の御すすめを敬ひ、 四十余年が程・五百戒を持ちて昼は道路にたたずみ・夜は
05 樹下に坐して後生をねがひしに、 成仏の道を許されずして永不成仏のうきなを流させ給いし、 くちをしかりし事
06 ぞかし、 女人なれば過去遠遠劫の間有るに付けても無きに付けても・あだなを立てし、 はづかしく口惜かりしぞ
07 かし、 其の身をいとひて形をやつし尼と成りて候へば・かかる・なげきは離れぬとこそ思ひしに、相違して二乗と
08 なり永不成仏と聞きしは・いかばかり・あさましくをわせしに、法華経にして三世の諸仏の御勘気を許され、 一切
09 衆生喜見仏と成らせ給いしは・いくら程か・うれしく悦ばしくをはしけん
――――――
 仏の御姨母・摩訶波闍波提比丘尼は女人です。それなのに、阿羅漢となられ、声聞の名を得て永不成仏の道に入ってしまわれました。女人の姿を変え、后の位を捨てて、仏のお勧めにしたがって、四十余年の間、五百戒を持って、昼は道路に立ち(托鉢をし)、夜は樹の下に坐禅して後生を願ったのに成仏の道を許されず、永不成仏の悪い評判を立てられたことは、悔しいことであったでしょう。
 女人であるからには、過去遠々劫の間、あることないこと、悪い評判を立てて、恥ずかしく悔しいことであったでしょう。その身をきらって出家し、尼となったからには、このような嘆きから離れることができるだろうと思ったのに、案に相違して二乗となり、永不成仏と聞いた時は、どんなにあさましく思われたことでしょう。ところが、法華経で三世の諸仏の御勘気を許されて、一切衆生喜見仏と成られた時は、どんなにかうれしく喜ばしいことであったでしょうか。

御姨母
「姨母」の尊敬語。母の姉妹のこと。「伯母」と「叔母」とを含む。太子にとって摩訶波闍波提は生母の妹ゆえ叔母であり、かつ養母である。
―――
摩訶波闍波提
 梵名マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢刺闍鉢底とも書く。また〝釈迦族の女性〟の代表としてゴータミーと呼ばれ、憍曇弥と音写する。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で一切衆生憙見如来の記別を受けた。
―――
阿羅漢
 梵語アルハト(Arhat)の主格アルハン(Arhan) の音写。応供等と訳す。小乗の声聞が修行によって到達できる最高の悟りの境地。またそれを得た聖者のこと。三界の見惑・思惑を断じ尽くしているゆえに「殺賊」、修学を成就して学ぶべきものが無いゆえに「無学」、世の尊敬・供養を受ける資格があるゆえに「応供」、この生が尽きると無余涅槃に入り、再び三界には生じないゆえに「不生」等とも訳される。
―――
声聞
 十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
永不成仏
 永久に成仏できないこと。爾前の諸経では、二乗は身心を滅尽して完全な空無に帰することを目的として修行するため、自己に本来具わる仏性をも滅尽することになり、焦種・敗種に譬えられて永久に成仏できないと仏から弾呵された。
―――
五百戒
 比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――
遠遠劫
 長遠な時間。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音写で、劫波、劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。
―――
二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
―――
御勘気
 主人または国家の権力者から咎めを受けること。
―――
一切衆生憙見仏
 勧持品で釈尊の姨母である摩訶波闍波提比丘尼が授記を受けて得た仏の名。
―――――――――
 女性の信仰者の代表として摩訶波闍波提比丘尼を取り上げられている。本文にも記されているとおり、摩訶波闍波提は釈尊の姨母である。生母である摩訶摩耶夫人が釈尊の生後七日で亡くなったため、その妹であった摩訶波闍波提が父・浄飯王の妻となり、釈尊を養育したといわれる。摩訶波闍波提は浄飯王の死後、出家しようとした。釈尊は最初許さなかったが、阿難が釈尊を養育した姨母の恩の大きなことを申し添え、三度の懇願によってようやく摩訶波闍波提は出家を許されたという。こうして摩訶波闍波提は釈尊教団最初の比丘尼になったのである。
 摩訶波闍波提は、女性の仏弟子のなかで中心的な役割をしていたようである。阿含部経典には、五百の比丘尼に囲まれて釈尊のもとに詣でたと説かれている。増一阿含経巻三には摩訶波闍波提を「我が声聞中第一の比丘尼」として「久しく出家して学し、国王に敬せらる」と賛嘆している。女性が出家して修行するというのは、当時、例がなかったのであろう。釈尊が最初出家を許さなかったのもそのためであると思われる。
 このように、女性最初の出家者となった摩訶波闍波提であったが、その教わった法は声聞の小乗教であった。ところが釈尊は小乗を翻して大乗の菩薩道を説き進めていく。そのなかで、小乗に執する声聞は永不成仏ときらわれたのである。せっかく女性であるゆえの苦しみから解き放たれると思ったのに、今度は二乗として永久に成仏できないとされ、摩訶波闍波提が味わった苦しみはいかばかりであったろうか。また、そのゆえにこそ、法華経に至って成仏を許された時は、いかばかり喜んだことであろうか。
 このように大聖人は摩訶波闍波提の心境を推されながら、女人としてであれ、二乗としてであれ、爾前経では絶対に成仏できないこと、法華経による以外に真実の幸福を獲得することはできないことを尼に教えられているのである。尼も、女性であるゆえの「浮名」を流され、悔しい思いをしているであろう。また、せっかく仏法を受持し、出家したのに、悪口罵詈はやみそうにない。しかし妙法尼は、即身成仏の法華経に巡りあったのである。その喜びはまた、さらに大きいはずである。

1419:09~1419:14 第三章 滅後弘通を辞した摩訶波闍波堤を嘆くtop

09                                    さるにては法華経の御為と申すには何
10 なる事有りとも 背かせ給うまじきぞかし、 其に仏の言わく大音声を以て 普く四衆に告げたまわく誰れか能く此
11 の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん等云云、 我も我もと思うに諸仏の恩を報ぜんと思はん尼御前女人達、 何
12 事をも忍びて我が滅後に此の娑婆世界にして法華経を弘むべしと三箇度まで・ いさめさせ給いしに、 御用ひなく
13 して他方の国土に於て広く此の経を宣べんと申させ給いしは 能く能く不得心の尼ぞかし、幾くか仏悪しと・ をぼ
14 しけん、されば仏はそばむきて八十万億那由佗の諸菩薩をこそ・つくづくと御覧ぜしか。
――――――
 そういうわけで、法華経のためとあれば、どのようなことがあっても、背かれるようなことはあるべきではないのです。
 それなのに、仏が大音声で「だれかこの娑婆国土において広く妙法華経を説く者がおるか」とあまねく四衆に告げられたとき、我も我も法華経を弘めようと思ったところへ「諸仏の恩を報じようと思う尼御前、女人達は、いかなることも耐え忍んで、我が滅後にこの娑婆世界で法華経を弘めなさい」と三度まで諌められたのに、用いることなくて「他方の国土において広く此の経を宣べましょう」と申されたのは、よくよく道理をわきまえない尼であります。どんなにか仏は腹立たしく思われたことでありましょう。そこで、仏は脇を向いて八十万億那由佗の諸菩薩をつくづくご覧になったのです。

四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
娑婆国土
 娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
―――――――――
 釈尊が見宝塔品第十一で三箇の勅宣をもって滅後弘経を勧めたあと、勧持品第十三で諸菩薩が滅後の弘経を誓うのであるが、その模様は次のようである。釈尊が宝塔品で「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん」と滅後の弘教を勧める。それに対して勧持品では、まず薬王菩薩、大楽説菩薩をはじめとする二万の菩薩が「仏の滅後」の「悪世」において法華経を説くことを誓った後、五百の阿羅漢、学無学八千人は他の国土において法華経を弘めることを誓う。摩訶波闍波提が一切衆生喜見如来、耶輸陀羅比丘尼が具足千万光相如来の授記を受けるのはその後である。摩訶波闍波提らは授記を受け終わった後、仏に「我れ等も亦た能く他方の国土に於いて、広く此の経を宣べん」と誓うのである。
 ここで注意を引くのは、仏から授記を受けた阿羅漢等が「他の国土」で法華経を弘めることを誓っている点である。これは仏の宝塔品における勅宣に応えるものではない。なぜなら仏は「此の娑婆国土」において弘める者はいないかと勧めたのである。それに対して「他の国土」で弘めるというのでは、仏の勅宣に応じているとはいえない。彼らは、他の国土で弘経する理由として「是の娑婆国の中は、人に弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄、瞋濁諂曲にして、心は不実なるが故に」と述べている。つまり、人々がこの法華経を素直に聞こうとしないからだというのである。しかし、これは理由にならない。釈尊は三箇の勅宣のなかの六難九易で、人々に法華経を説くのはまことに困難であることを述べ、その困難にあえて臨む者はいないかと問うているのである。それに対して人々が信じないからというのでは、仏の勅宣を拒否したも同然である。女性の身として苦労を重ね、また爾前の時は永不成仏といわれ、ようやく法華経で成仏を許されたのであるから「法華経を御為と申すには何(いか)なる事有りとも背かせ給うまじき」、すなわち法華経のためならば絶対に背くべきでないはずであるのに、仏の勅をないがしろにしたのである。そのゆえに大聖人は本抄で摩訶波闍波提を「不得心の尼」と仰せられているのである。なお本抄で、総じて一座の大衆に向けられた三箇の勅宣を比丘尼に対してあったように述べられているのは、妙法尼への御抄という対機のゆえであることはいうまでもない。
 以上のような背景を考えると、摩訶波闍波提らが他の国土において法華経を流布することを誓った後の仏の振る舞いとして「爾の時、世尊は八十万億那由他の諸の菩薩摩訶薩を視そなわす」と説かれているのは、本抄で大聖人が仰せのとおり、摩訶波闍波提等の誓いが仏の要請に応じたものでなかったゆえに、つくづくと八十万億那由佗の菩薩のほうを見られたという意味であることがわかるのである。
 この仏の振る舞いに対して八十万億那由佗の菩薩が滅後娑婆世界での弘教を誓うのが、有名な勧持品の二十行の偈である。しかし、結果的にはこの八十万億那由佗の菩薩にも滅後末法の弘経は託されなかった。従地涌出品第十五で地涌千界が出現し、如来神力品第二十一でこの本化地涌の菩薩に滅後弘経が託されるのである。ただ、八十万億那由佗の菩薩の弘教の誓いは、滅後末法の弘経の難事であることを、誓願のかたちで示したところに意義がある。宝塔品の仏の告勅と勧持品の誓願の両方があいまって滅後弘経がいかに困難であり、そのゆえにいかに尊い行為であるかが示されたのである。
 ここで大聖人がこの勧持品のありさまを妙法尼に示されているのは、摩訶波闍波提に比べて妙法尼がいかに信心が勝れているかを後段でいわれるための伏線であるが、ここで教えようとされているのは、末法において、さまざまな迫害を受けつつ弘経に励むのは当然のことであり、その覚悟がなければ仏の弟子とはいえないということである。もちろん、妙法尼はその信心に立っているであろうが、なんといっても女性の身である。迫害の風波を受けるともろい面もあるにちがいない。そうしたことへの心構えとして、摩訶波闍波提の例を挙げられたと拝されるのである。

1420:01~1420:11 第四章 尼を一切衆生喜見仏と賛嘆するtop

1420
01 されば女人は由なき道には名を折り 命を捨つれども成仏の道はよはかりけるやと・ をぼへ候に、 今末代悪世の
02 女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ 島のえびすにのられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う 彼の比
03 丘尼には雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、 彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは 別の事にあ
04 らず、 今の妙法尼御前の名にて候べし、 王となる人は過去にても現在にても十善を持つ人の名なり名は・かはれ
05 ども師子の座は一也、 此の名も・かはるべからず、 彼の仏の御言をさかがへす尼だにも一切衆生喜見仏となづけ
06 らる、 是は仏の言をたがへず此の娑婆世界まで名を失ひ命をすつる尼なり、 彼は養母として捨て給はず是は他人
07 として捨てさせ給はば偏頗の仏なり、 争でかさる事は候べき、 況や其中衆生悉是吾子の経文の如くならば今の尼
08 は女子なり彼の尼は養母なり、 養母を捨てずして女子を捨つる仏の御意やあるべき、 此の道理を深く御存知ある
09 べし、しげければ・とどめ候い畢んぬ。
10                                   日蓮花押
11     妙法尼御前
――――――
 そういうわけであるから、女人はつまらない世間の道には、名を汚したり、命を捨てるけれども、成仏の道には弱いであろうと思っておりました。ところが今、末代悪世の女人と生まれて、このように物の道理をわきまえない日本国の野蛮な人達にののしられ、打たれ、責められながら耐えて法華経を弘めていらっしゃる。かの比丘尼とは雲泥の違いほどすぐれておられると、仏は霊鷲山でご覧になられていることでしょう。 
 かの比丘尼の御名を一切衆生喜見仏というのは別のことではなく、今の妙法尼御前の名であるのです。
 王となる人は、過去にも現在にも十善戒を持つ人の名です。名は変わることがあっても、師子の座は一つです。同じように、この一切衆生喜見仏という名も同じです。
 かの仏の御言葉にさからった尼でさえも一切衆生喜見仏と名づけられました。あなたは仏の御言をたがえず、この娑婆世界で名誉もなげうち、命を捨てている尼です。かの摩訶波闍波提比丘尼は養母として仏はお捨てにならなかった。あなたのことは他人として捨てられたならば、不公平な仏です。どうしてそのようなことがありましょう。
 まして「其の中の衆生は悉く是れ我が子」の経文のとおりならば、今の妙法尼は女子であり、かの尼は養母です。養母を捨てないが女子を捨てるなどという仏の御意であるはずがありません。この道理を深く御存知あってください。わずらわしくなるので、これで筆を止めます。
                    日 蓮  花 押
  妙法尼御前

えびす
 ①古代のアイヌ人。②都から遠く離れた辺地の未開民族。③荒々しい武士。④外国・未開の地、そこに住む人々。
―――
比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
―――
霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
十善
 十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不両舌、六に不悪口、七に不綺語、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。瓔珞本業経(ようらくほんごうきょう)には、下品の十善を修すると人中の王、中品の十善を修すると粟散の王、上品の十善を修すると鉄輪王として生まれると説かれている。
―――
師子の座
 仏の座席のこと。仏を百獣の王・師子にたとえて、その座をいう。師子牀、猊座ともいい、いかなる場所であっても、仏の座す所は師子座となる。仏像の台座、また高徳の僧や国王の座をさす場合もある。
―――――――――
 摩訶波闍波提の例からみて、女性は世間の浅いことでは悪い評判を立てられたり、命を捨てたりするものの、成仏への道には進まないものだと思っていたが、人々に迫害・中傷を受けながら正法弘通に命を捧げている妙法尼の姿を見て、かの摩訶波闍波提等とは天地雲泥の差であると仏は感じられているであろうと仰せになっている。
 世間の浅いことに命を捨てることは多いが、仏法に命を捨てることがまれであるのは、なにも女性に限ったことではない。佐渡御書で「男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ」(0956-09)と仰せになり、それをうけて「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し」(0956-11)と仰せられているのがそれである。ただ、とくに女性の場合、社会的に弱い立場にあり、そのゆえに紛動されやすいことも事実である。それでこのように仰せなのであろう。しかし、そうであるからこそ、その女性の身でありながら弘教に励む妙法尼の姿がいかに尊いかを強調されているのである。
彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし
 迫害に屈せず弘教を貫いている妙法尼の信心は、摩訶波闍波提を超えるものであることは疑いない。そのゆえに、一切衆生喜見仏とは、まさに妙法尼御前の名であると仰せになっているのである。「彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし」との仰せに、一切衆生喜見仏の名が決して摩訶波闍波提一人のものではなく、摩訶波闍波提と同じ因を積んだ人であるならば同じ仏であるとの大聖人の御立場が明らかにされている。仏法の道理からすれば、因が同じであるならば、果も同じはずである。尼は摩訶波闍波提と同じ女性の身として、否、それ以上の勇敢な信行に励んでいることから考えても、因において勝れこそすれ、劣ることは絶対にない。ならば尼もまた一切衆生喜見仏であることは仏法の道理に照らして疑いない、と仰せになっているのである。
 大聖人はそのことを、王となるためには十善をたもたなければならず、逆に十善をたもてば、王となることは疑いないという世間の例を引いて教えられている。大聖人御自身についても、佐渡御書で「日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(0960-11)と、因が同じであるならば、果も同じであり、仏果を得ることは疑いないと仰せになっている。
 尼は、強靭な一念に支えられた純真な信仰心で、必ずや成仏の大直道を歩むにちがいない。また、一切衆生喜見仏の名のとおり、いつの日か人々から尊敬の目でみられるにちがいないとの意味を込めて、この仏の名を「今の妙法尼御前の名」であると仰せになっているのであろう。

1420~1425    内房女房殿御返事(白馬白鳥御書)
top
1420:01~1421:02 第一章 内房女房の願文を挙げるtop

内房女房御返事
01   内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、 御布施料に十貫まいらせ
02 候乃至あなかしこあなかしこ、 御願文の状に云く 「読誦し奉る妙法蓮華経一部読誦し奉る方便寿量品三十巻読誦
03 し奉る自我偈三百巻唱え奉る 妙法蓮華経の題名五万返」云云 同状に云く「伏して惟れば先考の幽霊生存の時弟子
04 遥に千里の山河を凌ぎ親り妙法の題名を受け 然る後三十日を経ずして 永く一生の終りを告ぐ」等云云、 又云く
1421
01 「嗚呼閻浮の露庭に白骨仮りに塵土と成るとも 霊山の界上に亡魂定んで覚蕊を開かん 」又云く「弘安三年女弟子
02 大中臣氏敬白す」等云云。
――――――
 内房からの御消息に「八月九日は父の百箇日に当たります。御布施料に十貫文お送り申し上げます。ないし、あなかしこ、あなかしこ」とあります。また御願文の状に「読誦し奉る妙法蓮華経一部、読誦し奉る方便品・寿量品三十巻、読誦し奉る自我偈三百巻、唱え奉る妙法蓮華経の題目五万遍」うんぬんとあります。また同状に「伏してよく考えてみますと、亡父が生存しておりました時に、弟子がはるかに千里の山河をしのいで身延山に参り親しく妙法蓮華経のお題名をお受けし、それから後 三十日を経ずに永く一生の終わりを告げました」等とあり、また「ああ、閻浮の露庭に白骨となり、仮に塵土となってもこの功徳によって霊山において亡父の魂は必ず妙覚の悟りを開くでしょう」とあり、また「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」等うんぬんとあります。

内房
 駿河国庵原郡(静岡県富士宮市)の北東、富士川の岸の小さな村落の名。身延街道沿いに位置し、日蓮大聖人は身延入りの途中、この地で一泊されている。
―――
十貫
 貨幣の数量。大聖人御在世当時の貨幣は丸くて四角い穴があいている銅銭が用いられた。貫という単位名は、縄を通してひとまとめにしたことに由来し、銅銭一千枚を一貫と称した。したがって十貫は銅銭一万枚になる。当時、白米一石の価格が一貫文前後であったことから推定して、今日の金額にすれば十貫文はおよそ百万円に相当する。
―――
先考の幽霊
 内房女房の亡き父の霊のこと。先考は亡父を意味し、幽霊は幽冥界の霊、すなわち死者の霊のこと。
―――
閻浮の露庭
 現実の世が草露のようにはかなく無常であることをたとえたもの。閻浮は閻浮提のことであるが、ここでは現世、娑婆世界のことをさす。
―――
覚蕊を開かん
 仏果を成ずること。蕊は「しべ」といい花の中心にあるもの。蕊を開くとは花が満開になることで、ここでは蓮華が開花することをもって成仏にたとえている。
―――――――――
 本抄は弘安3年(1280)8月14日、日蓮大聖人が聖寿59歳の御時、身延で著されて、駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮市内房)に住む内房女房に与えられた御消息である。「報中臣某女書」とも、その内容から「白馬白鳥御書」ともいわれる。御真筆は現存しない。
 内房は富士川西岸の村落で、甲州へ至る街道が通っていて、古くは対岸の富士郡芝川の長貫との間を吊り橋で往来していたという。内房女房はそこに住んでいた信徒で、大聖人への願文に「女弟子大中臣氏敬白す」と記しているところから、氏姓を持つ家柄の夫人であることがわかる。中臣氏とは天児屋命の末裔とされる古代の有力な氏族で、藤原氏も中臣氏から出ており、代々神祇祭祀を掌っていた。そのため、神事を司る神官の夫人ではないかと考えられている。
 三沢抄には「うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかども・うぢがみへまいりてあるついでと候しかば・けさんに入るならば・定めてつみふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・けさんは世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさきとすべし、かたがたの御とがありしかばけさんせず候」(1489-18)との御記述がある。この内房尼御前と内房女房とを同一人とする説もあるが、尼御前については「をやのごとくの御としなり」(1490-04)と仰せられていることから、内房女房の母親ではなかったかと思われる。
 また、銭十貫文を御供養していることや、願文の内容から、生活に余裕のある有識の婦人だったことがうかがえる。
 本抄の内容は、内房女房が亡き父の百箇日忌に御布施料と願文を差し上げたのに対して、題目を唱える功徳の大なることを明かされ、一切経は妙法蓮華経の所従であることを知らない諸宗の誤りを指摘され、存生の間に南無妙法蓮華経と唱えた亡父の即身成仏は間違いないとたたえられている。そして、輪陀王と白馬・白鳥と馬鳴菩薩の故事を引かれて諸宗の謗法を破され、重ねて亡父の成仏を証されている。
 初めに、内房女房からの書状と願文の文を引かれている。
 それによると、八月九日が女房の父親の百箇日忌にあたり、その御布施料とともに亡父供養の願文を大聖人に捧げたことがわかる。そして、女房は父親が亡くなる三十日ほど前に、はるばる身延へ参詣して大聖人から直接「妙法の題名を受け」ているのである。妙法の題名を受けたとは、一緒に題目を唱えていただいたということであるが、あるいは御本尊を授与されたということかもしれない。
 今、亡父の百日忌にあたって、女房は方便・寿量の両品を読誦するとともに「妙法蓮華経の題名」すなわち題目を五万遍唱えて、亡父の成仏を願ったのである。
 前述の内房尼御前が女房の母親とすれば、亡父はその夫ということになる。妻の尼御前の信心が弱いためもあり、娘の内房女房が亡父の追善を懸命に務めていると考えることができよう。


1421:03~1422:08 第二章 題目に法華経の功徳を収めるを明かすtop

03   夫れ以れば一乗妙法蓮華経は月氏国にては 一由旬の城に積み日本国にては唯八巻なり、然るに現世後生を祈る
04 人或は八巻 或は一巻或は方便寿量或は自我偈等を読誦し讃歎して 所願を遂げ給ふ先例之多し 此は且らく之を置
05 く、 唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返と云云、 此の一段を宣べんと思いて先例を尋ぬるに其の例少なし、 或は
06 一返・二返唱へて利生を蒙る人粗これ有るか、 いまだ五万返の類を聞かず、 但し一切の諸法に亘りて名字あり其
07 の名字皆其の体徳を顕はせし事なり、 例せば石虎将軍と申すは石の虎を射徹したりしかば石虎将軍と申す、 的立
08 の大臣と申すは鉄的を射とをしたりしかば 的立の大臣と名く、 是皆名に徳を顕はせば今妙法蓮華経と申し候は一
09 部八巻・二十八品の功徳を五字の内に収め候、 譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し、 一塵に三千を尽
10 す法門是なり、 南無と申す字は敬う心なり随う心なり、 故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云、
11 南岳大師云く南無妙法蓮華経云云、 天台大師云く稽首南無妙法蓮華経云云、 阿難尊者は斛飯王の太子・教主釈尊
12 の御弟子なり、 釈尊御入滅の後六十日を過ぎて迦葉等の一千人・文殊等の八万人・大閣講堂にして集会し給いて仏
13 の別を悲しみ給ふ上、 我等は多年の間・随逐するすら六十日の間の御別を悲しむ、百年・千年・乃至末法の一切衆
14 生は何をか仏の御形見とせん、 六師外道と申すは八百年以前に二天・三仙等の説き置きたる四韋陀・十八大経を以
15 てこそ師の名残とは伝へて候へ、 いざさらば我等五十年が間・一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経経を書き置き
16 て未来の衆生の眼目とせんと僉議して、 阿難尊者を高座に登せて仏を仰ぐ如く、 下座にして文殊師利菩薩・南無
17 妙法蓮華経と唱へたりしかば、 阿難尊者此れを承け取りて如是我聞と答ふ、 九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染
18 めて書き留め給いぬ、 一部八巻・ 二十八品の功徳は此の五字に収めて候へばこそ文殊師利菩薩かくは唱へさせ給
1422
01 うらめ阿難尊者又さぞかしとは答え給うらめ、 又万二千の声聞・ 八万の大菩薩・二界八番の雑衆も有りし事なれ
02 ば合点せらるらめ、 天台智者大師と申す聖人・妙法蓮華経の五字を玄義十巻・一千丁に書き給いて候、其の心は華
03 厳経は八十巻・六十巻.四十巻・阿含経数百巻.大集方等数十巻.大品般若四十巻・六百巻・涅槃経四十巻.三十六巻、
04 乃至月氏・竜宮・天上・十方世界の大地微塵の一切経は妙法蓮華経の経の一字の所従なり、 妙楽大師重ねて十巻造
05 るを釈籤と名けたり、 天台以後に渡りたる漢土の一切経・ 新訳の諸経は皆法華経の眷属なり云云、日本の伝教大
06 師重ねて新訳の経経の中の大日経等の真言の経を皆法華経の眷属と定められ候い畢んぬ、 但し弘法・慈覚・智証等
07 は此の義に水火なり此の義後に粗書きたり、譬へば五畿・七道・六十六箇国・二つの島・其の中の郡と荘と村と田と
08 畠と人と牛馬と金銀等は 皆日本国の三字の内に備りて一つも闕くる事なし、
――――――
 考えてみますと、一乗妙法蓮華経は月氏国においては一由旬の城に積み上げられるほどの大部の経典であったのに、日本国にあってはただ八巻にすぎません。ところが、現世安穏や後生善処を願う人は、あるいはこの八巻を読誦したり、あるいは一巻のみを読誦したり、あるいは方便品、寿量品のみを読誦したり、あるいは自我偈のみを読誦し賛嘆したりして所願を遂げられた先例は多い。これらのことはさておいて(願文に)唱えたてまつる妙法蓮華経の題目五万遍うんぬんとありますが、この一段について述べようと思い先例を尋ねてみましたが、その例は少ない。一遍、二遍唱えて利生をこうむった人は少しあるようですが、未だ五万遍も唱えた例は聞いたことがありません。
 ただし一切の諸法には名字があります。その名字は皆その体に具わる徳をあらわしているものです。例えば、石虎将軍という人は石の虎を射通したから石虎将軍というのです。的立の大臣という人は鉄の的を射通したから的立の大臣の名があるのです。これらは皆、名に徳をあらわしており、今、妙法蓮華経というのは一部八巻・二十八品の功徳ことごとくを五字の内に収めているのです。例えていえば如意宝珠の玉に万の宝を収めているようなものであり、一微塵の中に三千を具えている法門なのです。南無という字は敬う心をあらわし、また、随順する心をあらわします。ゆえに阿難尊者は一切経の始めに如是我聞と書かれた上に南無等と書き、南岳大師は南無妙法蓮華経といわれ、天台大師は稽首(けいしゅ)南無妙法蓮華経といわれたのもこのことによるのです。
 阿難尊者は斛飯王の太子で、教主釈尊の御弟子です。釈尊御入滅の後、六十日を過ぎて迦葉等一千人、文殊等の八万人が大閣講堂に集会して、仏との別れを悲しんで「我等は多年の間、仏に随順してすら六十日の間の御別れを悲しく思う。まして百年、千年ないし末法の一切衆生は何をもって仏を偲ぶ形見とすることができるだろうか。六師外道というのは八百年も以前に二天・三仙等が説いておいた『四韋陀』・『十八大経』をもって師の名残と伝えている。それならば、我らも、五十年の間に一切の声聞・大菩薩の聴聞し持っている経々を置き記して未来の衆生の眼目としよう」と御相談されて多聞第一の阿難尊者を高座に登らせ、仏を仰ぐようにして大衆は下座に下がり、文殊師利菩薩が南無妙法蓮華経と唱えたところ、阿難尊者がこれを承けて、如是我聞と答え、九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染めてこれを書きとどめられたのです。一部八巻・二十八品の功徳がこの五字の内に収められていればこそ、文殊師利菩薩がこのように唱えられ、阿難尊者もまた、いかにもそのとおりであると答えられたのでありましょう。また、万二千の声聞、八万の大菩薩、二界八番の雑衆ももと聴聞したことですので、これを承認されたのです。
 天台智者大師という聖人は、妙法蓮華経の五字を釈して法華玄義十巻・一千丁に書かれましたが、その心は、八十巻・六十巻・四十巻の華厳経も、数百巻の阿含経も、数十巻の大集方等経も、四十巻・六百巻の大品般若経も、四十巻・三十六巻の涅槃経も、ないしは月氏や竜宮、天上、十方世界の大地微塵にも等しい一切経は、ことごとく妙法蓮華経の経の一字に収まっており、その所従であるということを述べたのです。妙楽大師は法華玄義釈籤十巻を著されて、天台大師以後に渡った漢土の一切経や新訳の諸経も皆、法華経の眷属であると釈されたのです。日本の伝教大師は、重ねて新訳の経々のなかでも、大日経等の真言の諸経を皆、法華経の眷属であると定められたのです。ただし、弘法・慈覚・智証等は、この義とは水火の違いがあり、この義については後に概略を記してあります。例えていえば、日本国という三文字の中に五畿・七道・六十六箇国・二つの島・その中の郡、荘、村、田畠、人、牛馬、金銀等のすべてが具わって、一つも欠けることがないようなものです。

一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生をことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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月氏国
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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由旬
 梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
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現世
 過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
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後世
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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利生
 利益衆生の意で、衆生を利益すること。
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石虎将軍
 (~紀元前0119)。李広のこと。中国前漢の将軍。隴西・成紀(甘粛省秦安県)の人。史記巻百九によると右北平の太守として武帝に仕えた。射術に優れており、匈奴討伐や国内治世に多くの功績があり、匈奴から「飛将軍」と恐れられるほどの勇名をはせたが、半面、部下思いの名将でもあった。元狩四年、匈奴討伐に出兵して道に迷い、勝機を逸した責任を感じて自殺した。石虎将軍のいわれについては、将軍が猟に出て、草むらの中の石を虎と見誤って矢を放ったところ、矢じりが石に突き刺さった。しかし、石とわかってからはいくら矢を放っても石に刺さらなかったとある。一念を込めて実行すればどんな難事でも成就するとのたとえに用いられる。
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的立の大臣
 生没年不明。大和時代の官人。的戸田宿禰のこと。応神・仁徳と二代の天皇に仕えた。日本書紀巻第11仁徳天皇12年の条に、高句麗からおくられた鉄の盾と的とを、ただ一人弓で射通したので天皇からこの名を賜ったとある。
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如意宝珠
 意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
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阿難尊者
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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南岳大師
 (0515~0577)中国北朝時代の僧、天台大師の師。字は慧思、姓は李。河南に生まれる。15歳で出家し法華経を学んだ。20歳の時に妙勝定経を読んで観じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。34歳の時、対論した僧に毒を盛られ死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。41歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まりに来たった天台大師等の弟子の育成にあたった。陳の光大2年(0568)戦乱を避けて南岳に移り、ここで晩年を過ごして大建9年(0577)に没した。なお、日本にあっては奈良時代以降、南岳大師の生まれ変わりが聖徳太子であると信じられていた。
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天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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斛飯王
 浄飯王の弟で、釈尊には叔父にあたる。したがって、提婆達多・阿難の兄弟たちは釈尊の従弟になるわけである。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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大閣講堂
 阿闍世が釈尊滅後の第一回仏典結集のために、マガダ国の王舎城南にある畢鉢羅窟の前に建てた講堂のこと。
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六師外道
 釈迦在世時代に中インドで勢力をもっていた六人の外道の思想家。①プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那迦葉)道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。②マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)裸形托鉢教団アージーヴィカ教の祖。決定論者。③サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)懐疑論者④アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。⑤パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延)七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。⑥ニガンタ・ナータプッタ( Nigantha Nataputta)ジャイナ教の開祖。相対論者。
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二天・三仙
 古代インドのバラモン教でとくに崇拝された二天と三仙のこと。この二天三仙は神の啓示を得てヴェーダを説いたといわれる。二天とは摩醯首羅天と毘紐天をさし、三仙とは迦毘羅・漚楼僧佉・勒沙婆をいう。
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四韋陀
 囲陀・毘陀・皮陀・吠陀ともいう。インド最古の宗教哲学、文学の根源をなす。歴史的には、西歴前10世紀ごろ(他説あり)、北方からインド半島へ南下し、先住のトラビダ族を征服したアーリア民族が、征服戦の勝利をうたい、自然の美しさや自分たちの信ずる神などをうたって成立したものとみられる。
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十八大経
 インド・婆羅門教の経典である四韋陀・六論・八論の総称。十八明処ともいう。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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如是我聞
 「是の如きを、我聞きき」と読む。あらゆる経文の冒頭には、必ずこの一句がある。妙法蓮華経序品第一冒頭には「妙法蓮華経序品第一。如是我聞。一時仏往。……」とある。
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二界八番の雑衆
 法華経序品第一の説法の会座に、聴衆として列座した三衆(声聞衆・菩薩衆・雑衆)の中の雑衆のこと。二界は三界の中の欲界・色界のこと。八番とは雑衆の中の①欲界衆・②色界衆・③竜王衆・④緊那羅王衆・⑤乾闥婆(王衆・⑥阿修羅王衆・⑦迦楼羅王衆・⑧人王衆をいう。
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玄義
 天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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阿含経
 釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
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大集方等経
 大方等大集経のこと。中国・北凉の曇無識等訳、60巻。方等部を代表する経典。 
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大品般若経
 般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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竜宮
 竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
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天上
 天上界のこと。十法界のひとつで三界二十八天に細別される。三界とは欲界・色界・無色界をいい、欲界に四天王、忉利天・耶摩天・兜率天・化楽天・他化自在天の六欲天、色界に初禅の三天、二禅の三天、三禅の三天、四禅の九天の十八天、さらに無色界に空処、識処、無所有処、非想非非処の四色天があり、全部で三界二十八天となる。
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十方世界
 十方は東西南北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維に上下の二方を加えたもの。十方ですべての空間を包含し、したがって、十方世界とは全宇宙を意味する。浄土は仏の住する清浄な国土。仏国土のことをいう。
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妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
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釈籤
 妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。「妙法蓮華経玄義釈籤」の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に、学徒の籤問に付箋をつけて意味を質すこと)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。注釈は極めて詳細で、法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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五畿・七道
 五畿は畿内ともいい、畿とは都に近く朝廷に属する地域を意味する。山城、大和、河内、和泉、摂津である。七道は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道である。
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六十六箇国
 北海道、琉球及び壱岐・対馬の二島を除く日本全土を六十六か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道十五か国、北陸道七か国、山陽道八か国、山陰道八か国、南海道六か国、西海道九か国である。
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二つの島
 壱岐・対馬の二島のこと。
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 内房女房が亡父追善のために五万遍の題目を唱えたことに対して、大聖人は全く先例がないことであるとたたえられ、題目のなかに法華経一部の功徳がすべて収められていることを明かされている。
 法華経が日本に伝来してから、法華経八巻、あるいは一巻、あるいは方便・寿量の両品、あるいは寿量品の自我偈等を読誦し賛嘆して現世・後生の所領を成就した先例は多いとされているのは、法華経を読誦することが過去の像法時代の修行としては時に適(かな)っていたし多くの人々によって行われたということである。それに対して題目を五万遍も唱えた先例は「其の例少なし」とされているのは、唱題こそ末法適時の修行であり、南岳大師、天台大師が自行で唱えた以外は例がないからである。
 そして、名は体を顕すのであり、妙法蓮華経の五字が法華経一部八卷二十八品の功徳をすべて収めていることは如意宝珠のごとくであるとされている。
 なお、聖愚問答抄にも「法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠れり、一部八巻・文文ごとに二十八品・生起かはれども首題の五字は同等なり、譬ば日本の二字の中に六十余州・島二つ入らぬ国やあるべき……又名は物をめす徳あり物は名に応ずる用あり法華題名の功徳も亦以て此くの如し」(0498-16)と、同趣旨の御文がある。
 また、曾谷入道殿御返事には「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く『蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す』と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候」(1059-01)と述べられている。
 すなわち、妙法蓮華経とは単なる法華経の題名ではなく、一経の所詮であり、体であり、心なのであって、その功徳をすべて収めているとされているのである。
 次に「南無」の意義について「南無とは敬う心なり随う心なり」と仰せられ、釈尊の滅後に行われた第一回の経典結集の際の故事を引かれ、阿難尊者も南無妙法蓮華経等と唱えられたことを述べられている。また、像法時代には南岳大師、天台大師も南無妙法蓮華経と唱えたことを挙げられている。
 さらに、中国の天台大師は妙法蓮華経の五字の深義を法華玄義十巻で釈しており、その元意は華厳・阿含・大集方等・大品般若・涅槃等の諸経をはじめとして大地微塵の一切経は妙法蓮華経の経の一字の所従であることを明かしたところにある、とされている。
 法華玄義とは正しくは妙法蓮華経玄義といい、法華経の題名である妙法蓮華経の玄義を明かした書である。妙法蓮華経の題名は一経の全意を顕しているとの観点から、五重玄(釈名・弁体・明宗・論用・判教)を用いてその意義を明らかにし、法華経の内容を総括的に示しているのである。とくに判教の章では、当時の南三北七の諸宗の教判を取り上げて破折したうえで、五時八教の教判を立てて、妙法蓮華経が五味、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐のうちの最第一の醍醐味の経であることが明かされている。また、弁体の章では諸法実相をもって妙法蓮華経の体であるとし、また実相の理は一切の諸経の諸行・諸法の当体であることが明かされている。そうした玄義の元意をとって、このように仰せになったものであろう。
 また、妙楽大師は法華玄義をさらに注釈した妙法蓮華経玄義釈籤十巻を著して、天台大師の宗義の大綱を明かしている。それとともに、天台大師の後に盛んになった華厳宗・法相宗を破折して法華最第一の義を強調している。本抄で、妙楽大師は天台大師以後にインドから中国に渡った一切の経々は皆法華経の眷属であると述べた、と仰せられているのは、やはりその趣旨をとられたものと拝される。
 同じく日本の伝教大師が大日経等の真言の経を法華経の眷属と定めたと仰せられているのも、法華秀句等で天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗より勝れていることを明かし、一切衆生皆成仏道・三乗方便の義を説いて法相宗の徳一を破折するなど、法華経こそ真実究極の法であると述べている元意をとられたものであろう。
「弘法・慈覚・智証等は此の義に水火なり」といわれているのは、彼らの説が仏法の正義に反する邪説であることを指摘されているのである。
 弘法等の邪義については、本尊問答抄に「弘法大師・真言経を下されける事を遺恨とや思食しけむ真言宗を立てんとたばかりて法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云、あはれ慈覚・智証・叡山・園城にこの義をゆるさずば弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし、彼の両大師・華厳・法華の勝劣をばゆるさねど法華・真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば存外に本の伝教大師の大怨敵となる……真言は主の如く法華は所従の如くなり」(0369-13)と述べられている。
 大日経こそ法華経の所従であり、眷属であるものを、仏説に背いて大日経第一と逆転させた元凶が日本真言宗の祖・弘法であり、それを承けて天台法華宗を真言の汚泥にまみれさせたのが比叡山第三・第五の座主だった慈覚・智証なのである。

1422:08~1423:10 第三章 正法に導くことこそ孝養と称えるtop

08                                     又王と申すは三の字を横に書きて一
09 の字を豎さまに立てたり、 横の三の字は天・地・人なり、豎の一文字は王なり、須弥山と申す山の大地をつきとを
10 して傾かざるが如し、 天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり、 王に二つあり一には小王なり人王
11 天王是なり二には大王なり大梵天王是なり、 日本国は大王の如し国国の受領等は小王なり、華厳経・阿含経・方等
12 経・般若経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経は小王なり、譬へば日本国中の国王・受領等の如し、法華経は大王
13 なり天子の如し、 然れば華厳宗・真言宗等の諸宗の人人は国主の内の所従等なり、 国国の民の身として天子の徳
14 を奪ひ取るは下剋上・背上向下・破上下乱等これなり、 設いいかに世間を治めんと思ふ志ありとも国も乱れ人も亡
15 びぬべし、 譬へば木の根を動さんに枝葉静なるべからず・大海の波あらからんに船おだやかなるべきや、華厳宗・
16 真言宗・念仏宗・律僧・禅僧等我が身持戒正直に智慧いみじく尊しといへども、 其の身既に下剋上の家に生れて法
17 華経の大怨敵となりぬ、 阿鼻大城を脱るべきや、 例せば九十五種の外道の内には正直有智の人多しといへども、
18 二天・三仙の邪法を承けしかば終には悪道を脱るる事なし。
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 また王という字は、三の字を横に書いて一の字を竪に書きます。横の三の字は天・地・人であり、竪の一文字は天・地・人を貫く王なのです。須弥山という山が大地を貫き通して傾かないように、天・地・人を貫いて少しも傾かないのを王と名づけたのです。王に二つあります。一に小王で人王・天王がこれです。二には大王で大梵天王がこれです。日本国は大王のごとくで、国々の国司は小王です。同じように華厳経・阿含経・方等経・般若経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経は小王であり、たとえていえば日本国の国々の国司のようなものです。これに対して法華経は大王であり、日本国の天子のようなものです。したがって華厳宗や真言宗等の諸宗の人々は国主の所従なのです。それなのにこれらの諸宗が国々の民の身分でありながら、天子の徳を奪い取るのは、下剋上であり、背上向下であり、破上下乱等にあたります。たとえ、いかに世間を治めようという意志があっても、これでは国も乱れ、人も亡びてしまいます。たとえば、木の根を動かそうとすれば枝葉も静かでありえないでしょうし、大海の波が荒れているのに船が穏やかでありえるでしょうか。華厳宗・真言宗・念仏宗・律僧・禅僧等が、我が身は持戒正直で智慧も勝れて尊いといっても、その身がすでに下剋上の家に生まれて法華経の大怨敵になってしまっているのです。どうして阿鼻大城を免れることができるでしょうか。例えていえば、九十五種の外道のなかには、正直有智の人が多かったといっても、二天・三仙の邪法を受け継いでいたために、ついには悪道に堕ちることを免れることができなかったようなものです。
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1423
01   然るに今の世の南無阿弥陀仏と申す人人・南無妙法蓮華経と申す人を或は笑ひ或はあざむく、此れは世間の譬に
02 稗の稲をいとひ家主の田苗を憎む是なり、是国将なき時の盗人なり日の出でざる時のウグロモノなり、夜打強盗の科
03 めなきが如く地中の自在なるが如し、南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあはば大火の水に消へエン猴が犬に値う
04 なるべし、 当時南無阿弥陀仏の人人・南無妙法蓮華経の御声の聞えぬれば、 或は色を失ひ或は眼を瞋らし或は魂
05 を滅し或は五体をふるふ、 伝教大師云く日出れば星隠れ巧を見て拙きを知る、 竜樹菩薩云く謬辞失い易く邪義扶
06 け難し、 徳慧菩薩云く面に死喪の色有り言に哀怨の声を含む、 法歳云く昔の義虎今は伏鹿なり等云云、此等の意
07 を以て知ぬべし、 妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし、 毒薬変じて薬となる妙法蓮華経の五字は悪変じて善と
08 なる、 玉泉と申す泉は石を玉となす此の五字は凡夫を仏となす、 されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経
09 と唱へしかば即身成仏の人なり、 石変じて玉と成るが如し孝養の至極と申し候なり、 故に法華経に云く「此の我
10 が二りの子已に仏事を作しぬ」又云く「此の二りの子は是我が善知識なり」等云云。
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 ところが、今の世に南無阿弥陀仏と唱える人々は、南無妙法蓮華経と唱える人をあるいは笑い、あるいは欺いています。これは世間のたとえに稗が稲をきらい、家主が田苗を憎むとあるようなものです。また、国将のいない時の盗人が夜討ちや強盗を働いても咎めがないようなものであり、日の出ない時のうぐろもちが地中をもぐるのが自在であるようなものです。南無妙法蓮華経という国将と日輪にあうならば、大火が水に消え、猿が犬にあうようになるでしょう。今日、南無阿弥陀仏と称える人々が、南無妙法蓮華経の御声を聞くならば、あるいは色を失い、あるいは眼を怒らし、あるいは魂を滅し、あるいは五体を震わせることでしょう。伝教大師は「日が出れば星が隠れ、巧みを見て拙きを知る」といわれ、竜樹菩薩は「謬辞は失いやすく、邪義はたすけがたい」といわれ、徳慧菩薩は「面に死喪の色があり、言に哀怨の声を含む」といわれ、法歳は「昔の義虎は今は伏鹿である」といわれています。これらの言説をもって、諸宗が法華経の前に伏されることを知るべきです。
 さて、妙法蓮華経の徳をあらあら申し開きましょう。毒薬が変じて薬となるとの譬えがあるように、妙法蓮華経の五字は、悪が変じて善となるのです。玉泉という泉は石を玉に変えるといわれますが、この五字は凡夫を仏に変えるのです。それゆえ、過去の慈父尊霊は、存命中に南無妙法蓮華経を唱えたのですから即身成仏の人なのです。それはちょうど石が変じて玉となるようなものです。これこそ孝養の至極というべきで、法華経の妙荘厳王本事品に浄蔵・浄眼の二子が父母を教化したことを褒めて「この我が二人の子がすでに仏事をなした」とあり、また、「この二人の子はこれ我が善知識である」と説かれています。

須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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大梵天王
 梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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国国の受領
 国々の領主のこと。
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天子
 天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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九十五種の外道
 釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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南無釈迦牟尼仏
 釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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 イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
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 もぐらのこと。モグラ科の哺乳類。体長約13㌢。体毛はビロード状で、暗褐色ないし黒褐色。平地や低山の地下にトンネルを掘ってすみ、主に夜間活動して昆虫の幼虫やミミズなどを食べる。もぐらもち、むぐら、うぐら、うぐらもちなどともいう。
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日輪
 太陽のこと。
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猨猴
 サル類の総称。
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五体
 体の五つの部分。頭・首・胸・手・足をいう。また両手・両足・頭を五体という場合もある。
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竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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徳慧菩薩
 五世紀頃、南インドの学僧。唯識十大論師の一人。マガダ国において数論派外道で広学多聞であった摩沓婆を破折し、国王の帰依を受け、後に那爛陀寺に住み、その学識、名声は高かった。
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面に死喪の色有り言に哀怨の声を含む
 大唐西域記巻第八に出ている。徳慧菩薩が、摩沓婆の妻の様子を形容した言葉。すなわち徳慧菩薩が、マガダ国の王宮に至り、摩沓婆との対論を王に願う。摩沓婆は辞退しきれず、国王、大臣以下の公衆の居並ぶ論場に至り、対論する。摩沓婆は敗れ、帰って六日目に血を吐いて死ぬ。死ぬ時、妻に徳慧と対論し、恥辱を雪げと遺言する。妻は夫の死を秘して盛装し、論伏しようと論場に入ったが、徳慧菩薩に看破されて退いた。王の問いに対し、徳慧菩薩は「其の妻の来るや面に死喪色ありて言に哀怨の声を含めり。故を以て之を知る、沓婆は死せり」とある。
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法歳
 生没年不明。中国・陳隋時代の定林寺の高僧。隋天台智者大師列伝によれば、天台大師が金陵(南京)の瓦官寺で法華の経題を講義した時、定林寺の上首としてその法座につらなり、天台大師の教理の深さに敬服し、帰依した。  
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昔の義虎今は伏鹿なり
 隋天台智者大師列伝に「栄が背を撫でて嘲て曰く、従来の義竜、今伏鹿と成る」とある。天台大師が瓦官寺で法華経を講じた時、定林寺の上首として法座につらなった法歳が、それまで義竜と称えられていたが、伏した鹿のように無力な存在であると自嘲した言葉。なお「義虎」についての出典は不明で、続高僧伝巻十七の智顗伝のなかでも「義竜」となっている。
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玉泉
 一般的には清らかな泉のこと。ここでは特定の泉をさしていわれていると考えられるが、出典も不明で、詳細はわからない。
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即身成仏
 凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
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 法華経こそ一切経中の王であることを明かされ、華厳・真言等の諸宗が法華経を下しているのは下剋上であり法華経の大怨敵となっていることを示し、さらに南無妙法蓮華経と唱える人を笑い欺く念仏の徒は国将のいない間は暴れている盗人や夜の間のもぐらのようなものであると破されている。そして妙法蓮華経の五字の徳は悪を変じて善とし凡夫を仏にすることを教えられ、亡き父を正法に導いた内房女房こそ浄蔵・浄眼のように至極の孝養を遂げたものであるとおほめになっている。
 法華経が諸経のなかで大王の位置にあることは、法華経法師品第十に「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり……我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあることで明らかである。また、安楽行品第十四に「此の法華経は、是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於いて最も為れ甚深なり。……諸経の中に於いて最も其の上に在り」ともある。
 このように、已説の爾前の諸経、今説の無量義経、当説の涅槃経を超えて第一であると仏が定められた法華経を第二、第三であると下して、他の経を第一最勝と立てることは、臣下が国王を倒して王位を奪う下剋上であり、背上向下、破上下乱であると大聖人は厳しく破折されているのである。
 諸宗の立義については、法華取要抄に「五十余年の諸経の中に法華経第四法師品の中の已今当の三字最も第一なり、諸の論師・諸の人師定めて此経文を見けるか、然りと雖も或は相似の経文に狂い或は本師の邪会に執し或は王臣等の帰依を恐るるか、所謂金光明経の『是諸経之王』密厳経の『一切経中勝』六波羅蜜経の『総持第一』大日経の『云何菩提』華厳経の『能信是経・最為難』般若経の『会入法性・不見一事』大智度論の『般若波羅蜜最第一』涅槃論の『今者涅槃理』等なり、此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり・然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり或は小乗経に相対すれば 諸経の中の王なり或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」(0332-01)と具体的に述べられている。
 下剋上とは、下が上に剋つという意味で、鎌倉時代から南北朝、戦国時代などに、下層階級の者が国家や主家など上層の者をしのいで実権を握る風潮をいった。この社会の風潮が仏法の歪みを反映したものであることを大聖人は「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-15)と指摘されている。大聖人は後鳥羽院上皇が鎌倉幕府を倒そうとして逆にその武力に敗れた承久の乱について、下山御消息で「相伝の所従に責随えられて主上・上皇共に夷島に放たれ給い御返りなくしてむなしき島の塵となり給う詮ずる所は実経の所領を奪い取りて権経たる真言の知行となせし上日本国の万民等・禅宗・念仏宗の悪法を用いし故に天下第一・先代未聞の下剋上出来せり」(0354-13)と述べられている。
 下剋上の真言を用いたために四上皇が臣下によって流罪にされるという先代未聞の下剋上を招いたことは、まさに「設いいかに世間を治めんと思ふ志ありとも国も乱れ人も亡びぬべし」と仰せのとおりだったのである。
 いかに人間的に優れ、社会的善行を積み、地位を得ようとも、正法に背いた邪法邪義を信じた場合には「法華経の大怨敵となりぬ、阿鼻大城を脱るべきや」と戒められているように、究極的には苦悩を免れることはできないと知らなくてはならない。
 大聖人は、さらに当時流行していた念仏信仰について「国将なき時の盗人なり日の出でざる時の鼹なり、夜打強盗の科めなきが如く地中の自在なるが如し」とその実態を厳しく破折されている。
 日本浄土宗の祖・法然は〝末法には浄土門以外の教えでは救われない。したがって、一切の他の教えや修行を捨てて、南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生すべきである〟という専修念仏の教えを主張し、法華経を信じても千人の中一人も成仏することはできないと、法華経の信仰を嘲笑したのである。
 しかし、当時はその誤りを明確に打ち破る者がなく、平安末期からの絶え間ない天災や戦乱、生活苦のなかで、どこにも救いを求めようがなかった民衆や、末法の到来と旧仏教の醜状に絶望した僧達が、現実を逃避して理想の浄土を夢見る念仏信仰に引かれて、日本一同に流布していったのであり、まさに「盗人」であり「モグラ」の姿だった。
 大聖人は、立教開宗の始めから「念仏無間」と、その誤りを厳しく指摘され、立正安国論では念仏こそ三災七難を起こす「一凶」であると断じて幕府を諌められた。大聖人に呵責された念仏の徒は「南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあはば大火の水に消へ猨猴が犬に値うなるべし」と仰せのように、警官に追われて逃げまどう盗人のような姿を示したのである。
 そのことは、法然の弟子で浄土真宗の祖とされる親鸞が、歎異抄のなかで「念仏は まことに浄土にむまるヽたねにてやはんべらん また地獄におつべき業にてやはんべるらん 惣じてもて存知せざるなり たとひ法然聖人にすかされまひらせて 念仏して地獄におちたりとも さらに後悔すべからずさふらう」と述べたとされていることにもうかがえる。
 仏説に依らずに先師の我見にのみ依った、はかない教義なので、正法正義の前には「色を失ひ或は眼を瞋らし或は魂を滅(け)し或は五体をふるふ」という哀れな状態となったのは当然でもあった。
 そして「日が出ると星が隠れ、巧みなのをみて拙いことがわかるように、法華経が現れると一切の方便権教の諸経はその光を失う」との伝教大師の言葉、「道理の謬った言説はすぐに失われ、邪な義は助けることができない」との竜樹の言葉、また法論の相手を「顔に死相が現れ、言葉に哀れな怨みの声が含まれている」と責めた徳慧菩薩、「昔は義虎といわれた人が、今は臥ている鹿のように哀れな姿である」と言った法歳の事例を挙げられ、正義に破折された邪義や謗法者の姿がこのとおりであることを示されている。
 さらに「妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる……此の五字は凡夫を仏となす」と、妙法蓮華経の功徳を明かされ、内房女房の父親は存生の間に南無妙法蓮華経と唱えたので「即身成仏の人」であると断じられ、内房女房が自らも妙法を信受して父親にも唱えさせたことこそ「孝養の至極」と称賛されている。
 子が父を正法に導くことは、法華経妙荘厳王本事品第二十七に、浄蔵・浄眼の二子が父親の妙荘厳王を仏法に導いた時、父王が仏に向かって「世尊よ。此の我が二子は、已に仏事を作しつ。神通変化を以て、我が邪心を転じて、仏法の中に安住することを得、世尊を見たてまつることを得しむ。此の二子とは、是れ我が善知識なり。宿世の善根を発起して、我れを饒益せんと欲するが為めの故に、我が家に来生せり」と述べているように、最高の仏事であり、善知識となるからである。

1423:11~1424:04 第四章 輪陀王と馬鳴の故事を引くtop

11   乃往過去の世に一の大王あり名を輪陀と申す、 此の王は白馬の鳴くを聞きて色も・いつくしく力も強く供御を
12 進らせざれども食にあき給ふ他国の敵も冑を脱き掌を合す、 又此の白馬鳴く事は白鳥を見て鳴きけり、 然るに大
13 王の政や悪しかりけん又過去の悪業や感じけん、 白鳥皆失せて一羽もなかりしかば 白馬鳴く事なし、 白馬鳴か
14 ざりければ 大王の色も変じ力も衰へ身もかじけ謀も薄くなりし故に国既に乱れぬ、 他国よりも兵者せめ来らんに
15 何とかせんと歎きし程に、 大王の勅宣に云く国には外道多し皆我が帰依し奉る仏法も亦かくの如し、 然るに外道
16 と仏法と中悪し何にしても白馬を鳴かせん方を信じて 一方を我が国に失ふべしと云云、 爾の時に一切の外道集り
17 て白鳥を現じて白馬を鳴かせんとせしかども 白鳥現ずる事なし、 昔は雲を出だし霧をふらし風を吹かせ波をたて
18 身の上に火を出だし水を現じ 人を馬となし馬を人となし一切自在なりしかども、 如何がしけん白鳥を現ずる事な
1424
01 かりき、 爾の時に馬鳴菩薩と申す仏子あり十方の諸仏に祈願せしかば白鳥則出で来りて白馬則鳴けり、 大王此を
02 聞食し色も少し出で来り力も付きはだへもあざやかなり、 又白鳥又白鳥と千の白鳥出現して 千の白馬一時に鶏の
03 時をつくる様に鳴きしかば、 大王此の声を聞食し色は日輪の如し 膚は月の如し力は那羅延の如し 謀は梵王の如
04 し、爾の時に綸言汗の如く出でて返らざれば一切の外道等其の寺を仏寺となしぬ。
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 昔、過去の世に一人の王がおり、名を輪陀王といいました。この王は、白馬のいななきを聞くと、体の色つやも美しく、力も強く、別に食事を差し上げなくても食に飽きており、他国の敵も兜を脱ぎ、掌を合わせておりました。また、この白馬が鳴くのは白鳥を見て鳴いたのです。ところが、大王の政が悪かったのか、また過去の悪業が感じたのか、あるとき、白鳥が皆いなくなったので、白馬がさっぱり鳴かなくなってしまったのです。白馬が鳴かないので大王の色つやも変わり、力も衰え、身も小さくなり、謀も薄くなったので、国が乱れてしまい、他国から攻めてこられたらどうしようと歎いておりました。大王が勅宣を発していうのに「国には外道が多く皆、我らが帰依するところであり、仏法もまた同じである。それなのに、外道と仏法の仲が悪い。どちらか白馬を鳴かせたほうを信じて、一方を我が国からなくすとしよう」と。その時に一切の外道集まって、白鳥を現して白馬を鳴かせようとしたが、白鳥は現れませんでした。これらの外道は昔は雲を呼び、霧を降らし、風を吹かせ、波を立て、身の上に火を出し水を現じ、人を馬にし、馬を人に変えるなど一切自由自在であったけれども、どうしたことか白鳥を現ずることはできなかったのです。その時に、馬鳴菩薩という仏子がおり、十方の諸仏に白鳥の現ずることを祈願したところ、白鳥がたちまちに現れ、白馬はたちまちにいなないたのです。大王はこれを聞かれて、色つやも少しよくなり、力もつき膚も鮮やかになりました。また一羽また一羽と、千の白鳥が出現して千の白馬が一時に鶏が時を告げるようにいななきだしたのです。大王はこの声を聞かれて、色つやは日輪のように輝き、膚は月のように鮮やかに、力は那羅延のように強く、謀は梵天王のように豊かになったのです。その時に、綸言は、汗が噴き出て返ることがないように、一切の外道の寺を仏寺としてしまわれたのです。

輪陀王
 釈摩訶衍論のなかに「過去世の中に、一りの大王あり。名づけて輪陀という」とあり、本文と類似の話が載っている。しかし、白馬と白鳥の関係が入れ変っている。なぜ、そうなったのかについては明らかでない。
―――
勅宣
 天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
―――
馬鳴菩薩
 梵語アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳名。一~二世紀ごろ、中インドに出現したといわれる大乗論師。付法蔵の第十二祖。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰伏した。後に大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。
―――
那羅延
 那羅延天のこと。梵語ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経疏には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空を行くとある。一切経音義巻六には、この神を供養するものは多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。
―――
綸言汗の如く
 天子の言葉のこと。綸は組み糸のこと。天子の言葉はそのもとは糸のように細いが、ひとたび出て天下に達する時には綸のように太くなるとの意。『漢書』劉向伝によれば「綸言汗の如し」とは、汗が出たら再び体内に戻ることがないように,君主の言は口から出たら取り消しがたいこと。
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 大聖人は次に、輪陀王と白馬・白鳥と馬鳴菩薩の故事を引かれている。この説話は、竜樹の作とされる釈摩訶衍論に説かれている。ただし、そこでは輪陀王は白鳥の声を聞いて徳を増し、白鳥は白馬を見て声を出すとされており、本抄とは白馬と白鳥の関係が入れ替わっているが、その時に千の白馬を現して千の白鳥を鳴かせたので馬鳴と呼ばれたとある。
 なお、鳩摩羅什訳の馬鳴菩薩伝には、月氏国王が七頭の馬を六日の間餌を与えずに飢えさせたうえで比丘の説法を聞かせたところ、馬は涙をこぼして法を聞き、草を与えても食べようとしなかったので、馬もその言葉を理解したというところから、その比丘は馬鳴菩薩と呼ばれた、と記されている。
 また、曾谷殿御返事にも、白鳥を見て鳴く白馬のいななきによって力を得ていた輪陀王が、白鳥が去って白馬がいななかないために力を失い、その国も衰えた時、「馬鳴菩薩と申す小僧一人あり・めしいだされければ此の僧の給はく国中に外道の邪法をとどめて仏法を弘通し給うべくば馬をなかせん事やすしといふ、勅宣に云くをほせのごとくなるべしと、其の時に馬鳴菩薩・三世十方の仏にきしやうし申せしかば・たちまちに白鳥出来せり、白馬は白鳥を見て一こへなきけり」(1061-15)と、本抄と同趣旨で述べられている。
 そして「梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のごとし、白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき」(1065-02)と、この故事を引用された元意が示されている。
 本抄では、このあと、この故事によって、正法によって一国の盛衰があることを示され、さらに「氏女の慈父は輪陀王の如し氏女は馬鳴菩薩の如し、白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し」と、その元意が明かされていくのである。

1424:05~1425:01 第五章 真言亡国を示し信心を励まされるtop

05   今日本国亦かくの如し、 此の国は始めは神代なり漸く代の末になる程に人の意曲り貪瞋癡・強盛なれば神の智
06 浅く威も力も少し、 氏子共をも守護しがたかりしかば・ 漸く仏法と申す大法を取り渡して人の意も直に神も威勢
07 強かりし程に、 仏法に付き謬り多く出来せし故に国あやうかりしかば、 伝教大師漢土に渡りて日本と漢土と月氏
08 との聖教を勘へ合せて、 おろかなるをば捨て賢きをば取り偏頗もなく勘へ給いて、 法華経の三部を鎮護国家の三
09 部と定め置きて候しを、 弘法大師・慈覚大師・智証大師と申せし聖人等、或は漢土に事を寄せ或は月氏に事を寄せ
10 て法華経を或は第三・第二・或は戯論・或は無明の辺域等と押し下し給いて、 法華経を真言の三部と成さしめて候
11 いし程に、 代漸く下剋上し此の邪義既に一国に弘まる、 人多く悪道に落ちて神の威も漸く滅し氏子をも守護しが
12 たき故に 八十一乃至八十五の五主は或は西海に沈み或は四海に捨てられ・ 今生には大鬼となり後生は無間地獄に
13 落ち給いぬ、 然りといえども此の事知れる人なければ改る事なし、 今日蓮此の事をあらあら知る故に国の恩を報
14 ぜんとするに日蓮を怨み給ふ。
-----―
 今の日本国もまた、同じです。この国は始めは神代でしたが、だんだん代が末になるにつれて、人の心も曲がり、貪瞋癡が強盛になったので、神の智慧も浅くなり、威光も勢力も少なくなってしまいました。それゆえに氏子をさえ守護することが難しくなってきたところへ、次第に仏法という大法が渡ってきて、人の心も正直になり、神の威光勢力も強くなったのですが、仏法について誤りが多く生じたために、我が国が危うくなってきたので、伝教大師が漢土に渡って日本と漢土と月氏の聖教を考え合わせて、愚かな低い教えを捨て、賢く高い教えを取り、偏頗(へんぱ)のないように考えられて法華三部経をもって鎮護国家の三部と定め置かれたのです。それを、弘法大師、慈覚大師、智証大師という聖人等が、あるいは漢土に事を寄せ、あるいは月氏に事を寄せて、法華経を、あるいは第三、第二、あるいは戯論、あるいは無明の辺域等と押し下して、結局、法華経と真言の三部経と入れ替えてしまったのです。そのために、時代は次第に下剋上となり、この邪義がすでに一国に広まってしまったのです。人々は多くが悪道に堕ち、神の威光も次第に滅し、氏子をも守護しがたくなったので、日本国の天皇の第八十一代から八十五代までの五人の国主が、あるいは西海に沈み、あるいは四海に捨てられ、今生には大鬼となり、後生には無間地獄に堕ちられたのです。しかし、このことを知る人はいないので、改まることがないのです。今、日蓮はこのことを概略知っているので、これを述べて国恩を報じようとしたところが、かえって日蓮を怨まれる結果になったのです。
-----―
15   此等はさて置きぬ氏女の慈父は輪陀王の如し氏女は馬鳴菩薩の如し、白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・
16 南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し、 大王の聞食して色も盛んに力も強きは、 過去の慈父が氏女の南無妙法蓮華
17 経の御音を聞食して仏に成せ給ふが如し。
18       弘安三年八月十四日                 日 蓮 花 押
1425
01     内房女房御返事
――――――
 これらのことはさておいて、氏女の慈父は輪陀王のようで、氏女は馬鳴菩薩のようで、白鳥は法華経のようで、輪陀王を蘇らせた白馬は日蓮のようで、南無妙法蓮華経の題目は白馬のいななきのようなものです。そして、輪陀王が白馬のいななきを聞かれて色も盛んに、力も強くなった姿は、過去の慈父が氏女の唱える南無妙法蓮華の題目を聞かれて、成仏されるようなものです。
  弘安三年八月十四日         日 蓮  花 押
   内房女房御返事

貪瞋癡
 十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡.。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。 
―――
法華経の三部
 妙法蓮華経とその開経である無量義経、そして結経である仏説観普賢菩薩行法経のこと。ただしここでは、伝教大師が国家安寧のために、延暦寺の根本中堂に安置した法華経、金光明経、仁王経の護国三部経のこと。
―――
真言の三部
 真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経のこと。
―――
八十一乃至八十五の五主
 平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて在位した第81代から第85代までの五代の天皇のこと。安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇をさす。安徳天皇は寿永4年(1185)3月、壇ノ浦に崩じ、後鳥羽帝は承久3年(1221)7月、隠岐に配流、順徳院は同年同月、佐渡へ、土御門院は10月、土佐へ、更に阿波へ配流、仲恭帝は同年七月、廃帝になっている。
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 輪陀王と馬鳴菩薩の故事を引かれた大聖人は「日本国亦かくの如し」と仰せになり、日本国の盛衰と正法の興廃との関係を明かされている。
 日本は、はじめ原始的な神の信仰によって始められていたが、とうてい貪・瞋・癡の三毒強盛な衆生の苦悩を救うことなどできなくなった時に、仏教が伝来して国と人を救ったのである。また、正法興隆とともに守護の諸天善神も威光勢力を増すことができた。
 しかし、仏法が流布するにつれて、そのなかで混乱が生じて国を危うくするような事態になった際、伝教大師が出現して日本に天台法華宗を立て、法華三部経こそ最勝唯一の正法であるとして鎮護国家の法と定め、また比叡山延暦寺に大乗円頓の戒壇を建立したのである。ここに法華経迹門の広宣流布が実現したといえよう。
 ところが、伝教大師の滅後に、弘法・慈覚・智証の三人は「法華経を或は第三・第二・或は戯論・或は無明の辺域と押し下し給いて、法華経を真言の三部と成さしめ」たのである。
 とくに日本真言宗の祖・弘法は、大日経を釈尊一代の教説のなかで第一であると立てて、法華経を第三の劣であり戯論であると下し、また法華経の教主を無明の辺域であるとけなしたのである。さらに、法華三部経をしりぞけて、真言の三部経を鎮護国家の法と主張した。これらは全く仏説に背く下剋上の邪義といわなければならない。
 大聖人は撰時抄に「弘法大師は同じき延暦年中に御入唐・青竜寺の慧果に値い給いて真言宗をならはせ給へり、御帰朝の後・一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候……我が重ずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに本日本国にして習いたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり、それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん・すこしいろをかえて此れは大日経・竜猛菩薩の菩提心論・善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども天台宗の人人いたうとがめ申す事なし……一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅蜜経に対すれば盗人・守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず」(0276-18)と弘法の邪義を破折されている。
 また、慈覚についても、同抄に「慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり、此の人真言宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり……されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」(0279-12)と述べられ、比叡山延暦寺第三代の座主でありながら、大日経第一、法華経第二の義を立てて、比叡山を天台真言宗にしてしまったその誤りを指摘されている。
 延暦寺第五代座主の智証も、報恩抄に「智証大師は本朝にしては義真和尚・円澄大師別当・慈覚等の弟子なり……大日経と法華経とは理同事勝・慈覚の義のごとし……大日経の旨帰に云く『法華尚及ばず況や自余の教をや』等云云、此釈は法華経は大日経には劣る」(0306-13)と述べられているように、大日経最勝の義を立てて、比叡山の真言化をさらに進めたのである。
 こうした経王たる法華経を下して大日経最勝と立てた弘法・慈覚らによる下剋上の邪義は日本一国に広まり、その結果が国に下剋上の現象を招いたのである。すなわち、81代安徳天皇は源平の争乱で平氏一族とともに幼少の身を壇ノ浦に投じ、鎌倉幕府を倒そうと挙兵した朝廷側が西上した幕府の大軍に敗れた承久の乱では、82代後鳥羽上皇は隠岐へ、83代土御門上皇は土佐へ、84代順徳上皇は佐渡へ流され、85代仲恭天皇は廃位されている。
 大聖人は、国が乱れて天皇でさえも地獄の苦悩を受けたのは真言の悪法によるものであると厳しく指摘され、しかもいまだ悪法への帰依が改まらないために国に災害が絶えないのであり、「国の恩を報ぜん」として為政者を諌められた大聖人をかえって怨嫉し迫害している日本の為政者を憐れまれている。
 まさに「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)との御金言のように、正法の興廃によって世間の興廃が定まるのである。だからこそ、法の正邪を厳しく立て分け、正法を流布することによって国家社会の安穏と世界の平和、個人の幸福を実現しなければならないのである。
 大聖人は最後に、輪陀王を内房女房の亡父に、女房を馬鳴菩薩に、白鳥を法華経に、白馬を大聖人御自身に、題目を白馬のいななきになぞらえられ、輪陀王が白馬のいななきを聞いて力と徳を増したように、亡父は女房の南無妙法蓮華経と唱える声を聞いて必ず成仏するであろうと述べられて、本抄を結ばれている。

1425~1426    治部房御書top
1425:01~1425:03 第一章 白米の御供養への謝辞top

治部房御返事
01   白米一斗・ミョウ荷の子・はじかみ一つと送り給び候い畢んぬ。
02   仏には春の花秋の紅葉・夏の清水・冬の雪を進らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、況や上一人は寿命を持たせ給ひ
03 下万民は珠よりも重くし候稲米を法華経にまいらせ給う人・ 争か仏に成らざるべき、
――――――
 白米一斗・みょうがの子・はじかみ一苞お送りいただいた。
 仏に春の花、秋の紅葉、夏の清水、冬の雪を供養した人々でも、皆、成仏する。まして、上一人の寿命を持ち、下万民が珠より大切にしている白米を法華経に供養された人が、どうして成仏しないことがあろうか。

蘘荷の子
 ミョウガの地下茎から出る花穂。花をつける前に食用とする。夏が旬の野菜。
―――
はじかみ
 生姜の古称。歯蹙の義。辛味が強く、歯に疼く意であるという。
―――
つと
 わらなどを束ねてその中に物を包んだもの。わらづと。あらまき。
―――――――――
 本抄は、弘安4年(1281)8月22日、日蓮大聖人が聖寿60歳の御時に、身延においてしたためられ、弟子の治部房に与えられたものである。御真筆は現存しない。
 治部房については、大聖人の弟子で中老の一人・日位といわれているが、生没年、略伝等は明らかではない。一説に、南条平七郎の一族の者ともいわれているが、現在のところ、史料が少なく、確定するまでに至っていない。
 しかし、本文中に「駿河の国賀島の荘は殊に目の前に身にあたらせ給いて覚へさせ給い候らん」と仰せになっているところから、熱原法難に関係の深い賀島荘付近に在住した大聖人門下の一人であったと推察される。
 治部房日位は、初め天台宗四十九院に入って修学、後に日蓮大聖人に帰依し、六老僧の一人・蓮華阿闍梨日持の弟子となった。後、駿河国(静岡県)安倍郡の池田を中心に弘教し、天台宗海上寺を正法に帰伏させ、池田に本覚寺を創建してその開基となっている。「宗祖御還化記録」によれば、大聖人の御葬送にも参列し「御小袖一、衣一、帳一つ」を賜っている。墓所輪番の制定にあたっては、六老僧に次ぐ十二人の高弟の列に連なり、和泉公日法とともに八月の当番になっている。
 しかし、日興上人の弟子分本尊目録に「一、駿河国四十九院の住治部房は蓮華阿闍梨の弟子なり、仍て日興之を与え申す、但し聖人御滅後に背き了ぬ」と記されているように、大聖人御入滅後は日持、日弁、日法らとともに日興上人に背いている。
 本抄が著されたのは、熱原法難から二年後の弘安4年(1281)8月22日である。熱原法難は、富士郡熱原郷に折伏弘教が急激に進み、正法帰依の僧俗が増えてきたのに恐れをなした滝泉寺の院主代・行智を中心とした反法華党が、この地が北条氏の直轄領でもあるところから、幕府権力を背景に農民信徒を弾圧処罰した事件である。この時は法難から2年を経ようとしていたが、いまだ熱原の関係者に厳しい追及が行われていたことは十分考えられる。したがって門下の家族や身内の者にも法華経の信仰に動揺する者や反対する者があったとしても不思議ではない。
 そうした状況のなかにあって大聖人は、本抄で弟子門下一同に、ますます強盛な信仰に励むよう促され、激励されている。そして、法華経の行者が成仏を願って信心修行に邁進するならば、三障四魔が競い起こることは必定であることを教えられている。とくに第六天の魔王が国主や父母等の身に入って信行を妨げようとするが、いかなる妨害があろうとそれに従わないのが真の忠義、孝養であると説かれ、さらに法華経の行者を迫害することは亡国の原因となることを示されて、最後に、たとえ極悪人であっても法華経の一句なりとも信ずるならば、諸天に捨てられることはないと結ばれている。
 また、この年には七難のうち他国侵逼難である弘安の役が起こり、五月から七月にかけて蒙古軍の大襲来があって、日本は重大な危機にさらされ、国中が騒然としたが、7月30日の夜、博多湾に侵入した蒙古の軍船が大風によって壊滅し、敗走していた。
 初めに、白米等の御供養の品々を受領した旨を述べられ、とくに白米を供養されたことに対し、その功徳の大きいことを示されている。
 当時は、度重なる飢饉や、過酷な年貢米の取り立てなどによって、人々の食生活は貧しく、ほとんどの庶民にとって主食は麦、粟、黍、稗、豆などで、米はこのうえなく貴重なものであったことがうかがえる。そうした折にも、純真な信仰を貫く門下の人たちは、身延山中における大聖人の厳しい御生活を思い、白米をたびたび御供養している。大聖人はその真心を喜ばれ、春の花や秋の紅葉、夏の清水というような、その季節のごくありふれた品々を供養してさえ功徳があり、まして上一人すなわち天皇にとっても生命の支えであり、下万民にとっては珠よりも大切に思われる白米を法華経に供養したのであるから、絶対に成仏は間違いないと、その信心をめでられている。

1425:03~1426:04 第二章 第六天の魔王の障礙を説くtop

02                                         其の上世間に人の大事とす
04 る事は主君と父母との仰せなり、 父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、 国主の仰せを用いざれば
05 違勅の者と成りて命をめさる、 されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに、 或は国をすて或は妻子をすて或
06 は身をすてなんどして、 後生菩提をねがひし程にすでに仏になり近づきし時は、 一乗妙法蓮華経と申す御経に値
07 いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す・三界の主・をはします、 すでに此のもの仏にならんとするに二の失
08 あり、 一には此のもの三界を出ずるならば我が所従の義をはなれなん、 二には此のもの仏になるならば此のもの
09 が父母・兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん、 いかがせんとて身を種種に分けて・或は父母につき・或は国主につ
10 き、或は貴き僧となり、或は悪を勧め・或はおどし・或はすかし、 或は高僧或は大僧或は智者或は持斎等に成りて
11 或は華厳或は阿含或は念仏或は真言等を以て法華経にすすめかへて・ 仏になさじとたばかり候なり、 法華経第五
12 の巻には末法に入りては大鬼神・第一には国王・大臣・万民の身に入りて法華経の行者を或は罵り或は打ち切りて、
13 それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし、 それに叶はずんば二百五十戒・ 三千の威儀
14 を備へたる大僧と成りて国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし或はころしなんどすべしと説かれて候。
-----―
 そのうえ、世間で人が大事にすることは、主君と父母の仰せである。父母の仰せに背けば、不孝の罪に堕ちて天に捨てられてしまう。国主の仰せに従わなければ、違勅のものとなって命を召されてしまう。そもそも、我等は過去遠々劫から菩提を願って、あるいは国を捨て、あるいは妻子を捨て、あるいは身を捨てるなどして後生菩提を願ってきたので、すでに成仏が近づいた時、一乗妙法蓮華経という御経に値ったので、第六天の魔王という三界の主がいて「すでにこの人が仏になれば自分に二つの損がある。一には、この人が三界を離れれば我が所従を離れてしまう。二には、この人が仏になるならば、父母・兄弟等もまた、娑婆世界を引っ越してしまう。どうしてこれを食い止めようか」と、身を種々に変じて、あるいは父母の身に付き、あるいは国主の身に入り、あるいは立派そうな僧となって、あるいは悪を勧め、あるいは脅し、或はすかしたりする。また、高僧、大僧、或は智者、持斎等になって華厳、阿含、念仏、真言等をもって法華経に勧め代えて、成仏させまいと歎くのである。このことを、法華経の第五の巻・勧持品には「末法に入ると、大鬼神が第一に国王・大臣・万民の身に入って法華経の行者を、あるいはののしり、あるいは打ったり切ったりし、それでもかなわなければ無量無数の僧として現われて、一切経を引いて、すかすであろう。それでもかなわなければ、二百五十戒・三千の威儀を備えた大僧となって、国主をすかし、国母をたぶらかして、あるいは島流しにし、あるいは殺すなどするであろう」と説かれている。
-----―
1426
01   又七の巻の不軽品・又四の巻の法師品・或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻・或は守護経等に委細に見へ
02 て候が、 当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、 駿河の国賀島の荘は殊に目の前に身にあたらせ給いて覚へさせ給
03 い候らん、 他事には似候はず、 父母・国主等の法華経を御制止候を用い候はねば還つて父母の孝養となり国主の
04 祈りとなり候ぞ、
――――――
 また、法華経第七の巻の不軽品、また四の巻の法師品、あるいはまた二の巻の譬喩品、あるいは涅槃経四十巻、あるいは守護経等に詳しく記されていることが、当今の世相に少しも違わないうえ、駿河の国賀島の荘は、ことに眼前に身に当たり、考えさせられたことであろう。他のこととは違い、父母・国主等が法華経の信仰を制止される時は、それを用いないのがかえって父母の孝養となり、国主の安泰のための祈りとなるのである。

遠遠劫
 長遠な時間。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音写で、劫波、劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。
―――
菩提
 菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
―――
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――
一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
―――
第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
―――
娑婆世界
 娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
―――
持斎
 斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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阿含
 阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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大鬼神
 鬼神の中でも大変暴悪なものや、神通力などの能力が大きいものをいう。鬼神とは、目に見えない超人的な力を有する働きをもつものに付けられた総称。仏法では夜叉・羅刹などをさす。人の功徳・生命を奪い、蝕む働きをする悪鬼神のこと。
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一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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三千の威儀
 「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
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国母
 天皇の母、皇太后のこと。または皇后のこと。ただし鎌倉時代などのように政治の実権が天皇以外の人に握られている場合、その実権者の母、あるいはその夫人をさす場合がある。
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守護経
 中国・唐代の般若三蔵と牟尼室利三蔵の共訳。正しくは、守護国界主陀羅尼経という。密教部の経典。仏滅後に、提婆達多のような僧が国中に充満し、正法の僧を流罪、死罪に行うことが説かれ、正法守護の功徳が説かれている。
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駿河の国加島の荘
 現在の静岡県富士市加島。この地に熱原があり、弘安2年(1279)9月に熱原法難が起こっている。
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 世間で最も大事にしていることに主君と父母の仰せがあり、親の言葉に背けば不孝となって天に捨てられ、主君の命に背けば、不忠の者となって命を奪われてしまうのが道理である。しかし、法華経の行者が成仏を願って修行に励み、一乗妙法蓮華経に値ったときには、第六天の魔王が必ず出来して、逆らいがたい国王や父母につき、あるいは世間に尊信される僧侶の身に入って信心をたぶらかし、成仏を妨げるのであり、この場合は、主君、父母といえども従わないのが、かえって真の忠義になり、親孝行になると仰せである。
 第六天の魔王が仏道修行を妨げることについては、三沢抄にも「設い末代の凡夫・一代聖教の御心をさとり・摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば・第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(1487-11)と述べられている。
 末法の法華経の行者が三類の強敵にあうことは、法華経の第五の巻、勧持品第十三に説かれていると仰せられている。すなわち同品に「仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於いて 我れ等は当に広く説くべし 諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん……悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱せん」とあることをさしている。
 第六天の魔王とは、三界のうちの欲界の六欲天の最上に位する他化自在天のことで、大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。仏によって教化され、悟りを求めて修行する者の成仏を妨げ、その精気を奪うことを自らの楽しみとするという意味である。
 この第六天の魔王は、三障四魔のなかの天子魔にあたり、正法を修行する者が警戒すべき根本的な魔である。しかし、治病抄に「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と仰せのように、第六天の魔王の働きは権力者による弾圧や迫害、あるいは父母・妻子等による信仰の妨げというような姿、形をとるが、根本的には自らの内なる元品の無明があらわれた姿であり、これに打ち勝つには、あくまでも強い信心によって元品の法性を顕現していく以外にないのである。
 ともあれ、法華経の行者に対して種々の迫害が起こることは勧持品ばかりでなく不軽品、法師品、譬喩品といった法華経の諸品、また涅槃経や守護経にも説かれているところであると仰せられている。
 すなわち、常不軽品第二十に「最初の威音王如来は既已に滅度したまい、正法の滅後、像法の中に於いて、増上慢の比丘の大勢力有り。爾の時、一りの菩薩比丘有りて、常不軽と名づく。……衆人は或は杖木・瓦石を以て、之れを打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声に唱えて言わく、『我れは敢えて汝等を軽んぜず。汝等は皆な当に作仏すべし』と」、法師品第十に「而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」とあり、譬喩品第三には「若しは仏の在世 若しは滅度の後に 其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん 経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん」と説かれ、涅槃経には「我れ涅槃の後……像法の中に於いて当に比丘有るべし……実は沙門に非ずして、沙門の像を現ずるのみ。邪見熾盛にして正法を誹謗す」と説かれている。

1426:04~1426:14 第三章 法華経信受の功徳を明かすtop

04          其の上日本国はいみじき国にて候・神を敬ひ仏を崇むる国なり、 而れども日蓮が法華経を弘通
05 し候を上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、 一切の神を敬ひ一切の仏を御供養候へども 其の功徳還つて
06 大悪となり、 やいとの還つて悪瘡となるが如く薬の還つて毒となるが如し、 一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは還
07 つて科と成りて此の国既に他国の財と成り候、 又大なる人人皆平家の亡びしが様に 百千万億すぎての御歎きたる
08 べきよし、 兼てより人人に申し聞せ候畢んぬ、 又法華経をあだむ人の科にあたる分斉をもつて還つて功徳となる
09 分斉をも知らせ給うべし、 例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、 又法華経の
10 かたきとなる人をば 父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候、 設い十方三世の諸仏の怨敵なれども法
11 華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給う事なし、 是を以て推せさせ給へ、御使いそぎ候へば委しくは申さず候、 又
12 又申すべく候、恐恐謹言。
13       八月二十二日                      日蓮花押
14      治部房御返事
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 そのうえ日本はすぐれた国であり、神を敬い、仏を崇める国である。それなのに、日蓮が法華経を弘通しているのを上一人から下万民に至るまであだをなすので、いかに一切の神を敬い、一切の仏を供養してもその功徳はかえって大悪となってしまうのである。それはちょうど、灸をすえたところがかえって悪瘡となるようであり、薬がかえって毒となるようなものである。
 一切の仏神等に祈る祈りはかえって科となって、この国はすでに他の国のものとなるであろう。また、身分の高い人々は皆、平家が滅びた様子より百千万億倍も嘆かれる時がくると、かねてから人々に申し聞かせてきたのである。
 また、法華経を怨む人の受ける科がどれほど大きいかをもって、かえって、法華経を供養する人の功徳の大きさを知るべきである。例えば、父母を殺した人はいかなる大善根を積んでも、天はこれを受けられることはないが、法華経の敵となる人ならば、それが父母であっても殺した大罪は、かえって大善根となるのである。たとえ十方三世の諸仏の怨敵であっても、法華経の一句をも信じるならば諸仏は捨てられることはない。このことをもって推量されるがよい。御使いが急ぐから詳しくは述べられない。また申し上げる。恐恐謹言。
  八月二十二日             日 蓮  花 押
   治部房御返事

大善根
 善い果報を招くべき大いなる善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
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十方三世
 「十方」は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。「三世」は過去・現在・未来。全宇宙を意味する。
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 いま大聖人一門に対して国家的には権力者が、個人的には父母が迫害を加え信心を妨げようとしているのは、第六天の魔王の働きにほかならず、したがって、これに従わないであくまで正法の信仰を貫くことが第六天の魔王のとりこになった国主や父母を解放し救う道であり、真の忠義と孝養となるのである。
 当時の人々が王臣万民ともに法華経を軽んじ、法華経の行者を恨み、刀杖瓦石の難を加え、悪口罵詈等をしているのはまさにこれらの経文のとおりであり、そのために、天変地夭、飢饉疫癘等、さらに自界叛逆の争いなど、諸難が競い起こり、その結果、民衆は塗炭の苦しみにあえぎ、国家の安穏を祈願する仏神等への祈りも諸天に通じないのみか、かえって日本は圧倒的に優勢な蒙古軍の掌中に陥ろうとしている。そして「大なる人人皆平家の亡びしが様に百千万億すぎての御歎きたるべきよし」と仰せのように、悲嘆のありさまは、貧しい民衆のみならず、身分の高い人たちにまで及び、その苦渋するさまは平氏滅亡の際の平氏一族の公家や落武者の比ではないと仰せられている。
 上野殿御返事にも「日本国のたのしき人人は蒙古国の事をききては・ひつじの虎の声を聞くがごとし、また筑紫へおもむきて・いとをしきめ(妻)を・はなれ子をみぬは・皮をはぎ・肉をやぶるが・ごとくにこそ候らめ」(1565-07)と述べられている。
 そして、このような法華経に敵対する科の大きさから、逆にその功徳の大きさを知るべきであると仰せられ、法華経を持つ者は一時の困難や逆境に負けることなく、それを勇敢なる信心で乗り越え、大功徳を受けていくよう激励されている。
 同じく上野殿御返事に「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし、国王一人の太子のごとし・いかでか位につかざらんと・おぼしめし候へ」(1565-12)と、法華経を信仰する私達の位は、国王の位を約束された太子と同じであり、一時の苦難を乗り越えれば、必ず幸福な境涯を得られるのであると仰せられている。
 それゆえ、一般的には父母に逆らえば不孝となり、国主に背けば不忠の者となって大罪を受け、諸天からも見放されてしまうのであるが、法華経の信心を妨げようとする父母、国主には、かえって従わないことこそ、真の孝養であり、忠義であると教えられているのである。そのことは兄弟抄にも「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085-07)と仰せである。
 また、上野殿御消息に「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528-09)と、法華経を持つことが即父母への最高の孝養となると仰せられている。
 さらに「法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候」の御文について、「殺す」というのは、いうまでもなく、文字どおりの殺すことではなく謗法に執着する心を断ち切ることを意味する。御義口伝に「今日蓮等の類いは阿闍世王なり其の故は南無妙法蓮華経の剣を取つて貪愛無明の父母を害して教主釈尊の如く仏身を感得するなり」(0710-第三阿闍世王の事-03)と仰せられている。
 父母・国主等は尊敬し、仕えるべき人々ではあっても凡夫であることに変わりはなく、絶対とすることはできない。南無妙法蓮華経という唯一無二、成仏への絶対の法を根本に信行に励んでこそ、父母も主君も救うことができるのである。
 最後に、たとえ「十方三世の諸仏の怨敵」となるような極悪人であっても、法華経の一句なりとも信ずるならば、必ず諸天の守護をこうむることができると、法華経の大功徳を説かれ、一層の精進を促されている。

1427~1430    盂蘭盆御書(治部房祖母への書)top
1427:01~1428:13 第一章 盂蘭盆の起源を示さるtop

盂蘭盆御書 治部房祖母への書
01   麞牙一俵・やいごめ・うり・なすび等仏前にささげ申し上候畢んぬ。
02   盂蘭盆と申し候事は仏の御弟子の中に目連尊者と申して、 舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して須弥
03 山に日月のならび 大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり、 此の人の父をば吉懺師子と申し母をば青提女と申
04 す、 其の母の慳貪の科によつて餓鬼道に堕ちて候しを目連尊者のすくい給うより事をこりて候、 其の因縁は母は
05 餓鬼道に堕ちてなげき候けれども・目連は凡夫なれば知ることなし、 幼少にして外道の家に入り四ゐ陀・十八大経
06 と申す外道の一切経をならいつくせども・ いまだ其の母の生所をしらず、 其の後十三のとし舎利弗とともに釈迦
07 仏にまいりて御弟子となり、 見惑をだんじて初果の聖人となり修惑を断じて阿羅漢となりて三明をそなへ 六通を
08 へ給へり、天眼をひらいて、 三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、 大地をみとおし三悪道を見
09 る事冰の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし、 其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、 の
10 む事なし食うことなし、 皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、 頭はまりのごと
11 く頚はいとのごとし腹は大海のごとし、 口をはり手を合せて物をこへる形は・ うへたるひるの人のかをかげるが
12 ごとし、先生の子をみてなかんとするすがた・ うへたるかたちたとへを・とるに及ばず、 いかんがかなしかりけ
13 ん。
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 米一俵、やきごめ、うり、なすび等を御仏前にお供えいたしました。
 そもそも、盂蘭盆ということについては、仏の御弟子の中に目連尊者といって、舎利弗尊者と並んで、舎利弗が弟子中の智慧第一目連は、神通第一といって、須弥山に日月が並ぶように、大王に左右の臣が侍るようにしていた人です。この人の父を吉懺師子といい、母を青提女といいました。その母が、生前の慳貪の科によって餓鬼道に堕ちていたのを、目連尊者が救い出されたことから始まっています。
 その因縁は、目連尊者の母は餓鬼道に堕ちて嘆き苦しんでいましたが、目連尊者も凡夫なので知ることはありませんでした。幼少にして外道の家に入って、四韋陀・十八大経という外道の一切経を修学し尽くしましたが、それでもその母のいる所を知りませんでした。その後、十三歳の時に舎利弗とともに釈迦仏を訪ね、その御弟子となって、修行して見惑を断じて初果の聖人となり、修惑を断じて阿羅漢となり、三明六通を得ました。そして天眼を開いて三千大千世界を、明鏡に影を映すようにして御覧になったところ、大地を見すかして三悪道を見ること、私達が、氷の下に泳いでいる魚を朝日に向かって通し見るようでした。その中の餓鬼道というところに自分の母がいたのです。その有様は飲むものはなく、食べるものもない。皮膚は金鳥の毛をむしったようであり、痩せ衰えて骨は丸い石を並べたようであり、頭は鞠のように、首は糸のようであり、腹だけが大きく大海のようでした。口を張り、手を合わせて物を乞う姿は、飢えた蛭が人の香をかぎつけているようです。そして、先生の子を見て泣こうとする姿、飢えてひもじそうな様子は、たとえようもないくらいで、目連尊者はどんなに嘆かわしく、悲しく思ったことでしょう。
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14   法勝寺の修行舜観が・ いわうの嶋にながされてはだかにてかみくびつきにうちをい・ やせをとろへて海へん
15 に・やすらいてもくづをとりてこしにまき魚を・一みつけて右の手にとり口にかみける時、 本つかいしわらわのた
1428
01 たづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しといづれかをろかなるべきかれはいますこしかなしさわまさりけん。
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 かの法勝寺の執行であった俊寛が、硫黄の島に流されて、裸の体に、髪が首つきをおおい、痩せ衰えた姿で海辺をさまよい、藻くずを取って腰に巻き、魚を一尾見つけて右手でつかみ、口で噛んでいる時、元・仕えていた童子が訪ねてきてその姿を見た時と、目連尊者が母を見た時と、どちらが愚かで、哀れでしょうか。彼のほうが、童子が俊寛の姿を見た時よりもいま少し、悲しみが勝っていたでしょう。
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02   目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひ・はんをまいらせたりしかば、 母よろこびて右の手にはは
03 んをにぎり左の手にては・はんをかくして口にをし入れ給いしかば、 いかんが・したりけんはん変じて火となり・
04 やがてもへあがり、 とうしびをあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、 母の身のごこごことやけ候しを
05 目連見給いて、 あまりあわてさわぎ大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、 其の水たきぎとなりていよいよ母
06 の身のやけ候し事こそあはれには候しが、 其の時目連みづからの神通かなわざりしかば・ はしりかへり須臾に仏
07 にまいりてなげき申せしやうは、 我が身は外道の家に生れて候しが仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへて、 三界
08 の生をはなれ三明六通の羅漢とはなりて候へども、 乳母の大苦をすくはんとし候に・ かへりて大苦にあわせて候
09 は、心うしとなげき候しかば、 仏け説いて云く汝が母は・つみふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何の人なりと
10 も天神・地神・邪魔.外道・道士・四天王・帝釈.梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味
11 をんじきをととのへて母のくをはすくうべしと云云、 目連・ 仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の
12 苦を脱れ給いきと、 盂蘭盆経と申す経にとかれて候、 其によつて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行い候
13 なり、此は常のごとし。通解
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 目連尊者は、あまりの悲しさに大神通力を現じて飯を差し上げたところ、母は喜んで右の手で飯をつかみ、左の手で飯を隠して口に入れたところ、どうしたことか飯が変じて火となり、灯心を集めて火をつけたようにぱっと燃え上ってしまい、母の体がごこごこと音をたてて焼けるのを目連尊者が見て、あまりにあわてて、さらに大神通力を現じて大水をかけたところ、その水が薪となってますます母の体が焼けたさまは、まことに哀れでした。その時、目連尊者は自らの神通力がかなわないので、走り帰ってすぐに仏の前に参り、「私は外道の家に生まれましたが、仏の御弟子となって阿羅漢果を得、三界の生因を離れ、三明六通を得て羅漢になりましたが、いま乳母の大苦を救おうとしたのにかえって大苦にあわせてしまい、心苦しく残念でなりません」と嘆きながら申し上げたのです。目連の嘆きを聞いて仏は「汝の母は罪深い人だから、汝一人の力では到底救うことはできない。また、どのような人でも、たとえ、天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力でも救うことはできない。どうしてもと願うなら七月十五日に十方の聖僧を集め、百味の飲食を供養して母の苦を救うべきである」と説かれたのです。目連尊者が仏の仰せのままに行ったところ、その母は餓鬼道一劫の苦を免れることができたと、盂蘭盆経という経に説かれています。
 そのことによって、仏滅後、末代の人々は七月十五日にこの法を行うようになり、今ではこの日に盂蘭盆会を行うことは世の常のようです。

麞牙
 白米のこと。「しらよね」「しょうげ」とも読む。牙麞の牙が米に似ているところから、このように書く。
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やいごめ
 保存用の食糧で、米の加工品。新米を籾のまま炒り、ついて殻を取り去っ たもの。炒米ともいう。
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盂蘭盆
 俗にいう「お盆」のこと。梵語、ウランバナ(Ullambana)の音写。「救倒懸」と訳すが、「倒懸」とはさかさづりの苦しみの意で、餓鬼道の苦痛をあらわす。もとは夏安居の終りの日・7月15日に十方の聖僧に供養された。
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目連尊者
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
青提女
 目連の母。生堤女とも書く。盂蘭盆経によると、目連は亡くなった母・青堤女が餓鬼道に堕ち、飲食も自由にならず、骨と皮ばかりになって苦しんでいる姿を見て、神通力で救おうとしたが叶わず、釈尊の教えどおりに盂蘭盆会を修して母を餓鬼道の苦しみから救ったという。
―――
慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
―――
餓鬼道
 梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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四ゐ陀
 古代インドのバラモン教の文献。四ヴェーダのこと。ヴェーダは知識の意で、韋陀、吠陀などと音写され、智論などと意訳されている。西暦前十数世紀のころ、アーリア民族が北方からインド半島へ南下し、先住のドラビダ族を征服したとき、勝利を祝ってうたい、また自然の美しさや、自分たちの信ずる神などをたたえたが、それらをまとめたものとみられている。①リグ・ヴェーダ(太古の賛美歌集)、②サーマ・ヴェーダ(賛美歌に歌をつけた歌詠集)、③ヤジュル・ヴェーダ(祭詞を集めたもの)、④アタルバ・ヴェーダ(呪法の句を集めたもの)の四つ。
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十八大経
 インドバラモン教の経典である四韋陀、六論、八論の総称。十八明処ともいう。「四韋陀」①リグ・ヴェーダ(太古の賛美歌集)、②サーマ・ヴェーダ(賛美歌に歌をつけた歌詠集)、③ヤジュル・ヴェーダ(祭詞を集めたもの)、④アタルバ・ヴェーダ(呪法の句を集めたもの)「六論」夜叉論・毘迦羅論・柯剌波論・竪底沙論・闡陀論・尼鹿多論は文法や天仙の因縁、天文、地理、算数、一切の名の語源などが記されている。「八論」肩亡婆論・那邪毘薩多論・伊底呵婆論・僧佉論・課伽論・陀菟論・揵闥婆論・阿輸論。諸法の是非や道理、音楽、医方などが説かれている。
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見惑
 三惑のうち見思惑の一つ。見思惑は思想上の惑いのことで、三界六道の苦果を招く惑をいい、見惑と思惑とに分けられる。見惑は物事の理法に迷う妄見のことで、後天的、知的な迷いであり、辺見・邪見等をいい、四諦の理を覚ることによって滅することができるとされる。倶舎論では八十八使の見惑を立てている。
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初果の聖人
 声聞の悟りの初位。四沙門果の最初の須陀洹果を得た小乗教における聖人の意。欲界・色界・無色界を断じつくした聖人のこと。
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修惑
 思惑のこと。貪・瞋・痴等の煩悩による本能的な迷いのことで、三界の事物、事象を感受して起こす惑いをいう。声聞、縁覚、菩薩の三乗の聖者が修道でこの惑いを断ずるので修惑という。
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阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
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三明
 小乗の仏、阿羅漢果の聖者が得る三種の明智、神通力をいう。長阿含経、倶舎論巻二十七などに説かれる。①宿住智証明(自他の過去世における生死の相に通達する智慧)、②死生智証明(自他の未来世における生死の相に通達する智慧)、③漏尽智証明(現世に通達し、一切の煩悩を断滅する智慧)のこと。
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六通
 仏や三乗の聖者が有する六神通のこと。神足通(自由に望む所に行く通力)、天眼通(よく見通す通力)、天耳(通 (よく聞き分ける通力)、他心通(他者の心を読みとる通力)、宿命通(過去を知る通力)、漏尽通(現在の煩悩を除く通力)のこと。倶舎論巻二十七等に説かれる。
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天眼
 ①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。
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三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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きんてう
 雉のこと。金色の羽毛があるところから、この名がある。
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法勝寺
 平安京の東郊(現在の京都市左京区岡崎法勝寺町)にあった寺院。承暦元年(1077)12月、白河天皇の勅願寺として建立された。六勝寺の一つで九重塔などの伽藍をそなえた大寺であったが、鎌倉時代以後火災にあい衰退、天正18年(1590)勅命により比叡山坂本の西教寺に併合され、法勝西教寺と称したが、のち廃絶した。
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俊寛
 (1143~1179)。平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都と呼ばれることも多い。村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、安元3年(1177)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(鹿児島県)へ配流された。
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いわうの嶋
 鹿児島県大隅諸島の北西方にある島。霧島火山帯の活火山で、硫黄岳がある。鬼界が島。喜界島。硫黄島ともいう。
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須臾
 時の量、斬時、刹那、瞬間。
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天神
 ①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。
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地祇
 大地を司る神。大地を堅牢にする神。
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邪魔
 ①正理に背く見解をもって、菩提の正道を妨げる働き。②誤った教えを説き修行を妨げ、目的成就の気持ちをくじけさせる働きをもつ者の総称。③天魔のこと。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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道士
 ①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
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四天王
 四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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十方
 上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
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百味
 種々の美味・珍味のこと。百味の餚膳・百味の飲食などともいう。
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一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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盂蘭盆経
 西晋の竺法蘭訳。方等部に属する経典。盂蘭盆の起源およびその供養法が説かれている。餓鬼道に堕ちた母を救おうとしてかなわなかった目連尊者に対し、釈尊が十方の聖僧を集め、百味の飲食をもって供養するよう説いたことが説かれている。
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 本抄は、日蓮大聖人の弟子・治部房日位の祖母が盂蘭盆をまえにした7月13日に米・焼米・瓜・なすなどを御供養したのに対して、盂蘭盆の由来を述べられた御消息である。
 建治3年(1277)の御述作とされてきたが、現在では弘安2年(1279)と考えられている。なお、弘安3年(1280)とする説もある。御真筆は京都・妙覚寺にある。
 本抄をいただいた治部房の祖母は、駿河国(静岡県)庵原郡に住んでいた信徒と思われる。治部房は、日興上人の御本尊分与帳に「駿河国四十九院の住治部房は蓮華阿闍梨の弟子なり」と記されているところから、天台宗の四十九院の住僧で蓮華阿闍梨日持の弟子となった人で、日興上人の孫弟子であったことがわかる。大聖人御入滅の後には墓輪番の一人にも加わっているが、同帳に「聖人御入滅後に背き了んぬ」と記されているように、五老僧の側について日興上人に背いたようである。
 その祖母は、四十九院で日持の弟子となった治部房に導かれて入信したものと思われるが、詳しいことは明らかではない。
 本抄の内容は、初めに盂蘭盆経の意を引いて盂蘭盆の起こりを述べられ、目連尊者が神通力をもちながら餓鬼道に堕ちた母の苦悩を救うことができなかったことを明かされ、目連が法華経によって自身が成仏するとともに父母も成仏させることができたことを述べられている。そして、平清盛の大悪が子孫の苦悩を招いた事例を挙げられ、反対に法華経を信じた大善は無量世にわたる父母や子孫を成仏させうることを示されている。
 最後に、治部房の祖母が孫を法華経の行者としたことによって必ず成仏へ導かれるであろうと励まされている。
盂蘭盆の起こりについて
 毎年7月15日(地方によっては一か月遅れの8月15日)に、先祖の供養を行う仏教行事を盂蘭盆という。本抄では、その起源について盂蘭盆経の意をとって詳しく述べられている。
 盂蘭盆とは梵語ウランバナの音訳で、倒懸と訳し、逆さづりの苦しみを意味しており、餓鬼道の飢えや渇きの苦しみがそれに似ているところから用いられた。盆の字をあてるのはその苦しみを救うための器を意味する。すなわち、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる者を救うため、百味の飲食を盆に盛り、衆僧を通じて仏に供養し、その苦しみを取り除いて成仏に導くという儀式を盂蘭盆というのである。
 そうした儀式が行われるようになったのは、釈尊の十大弟子の一人で神通第一といわれた目連が、仏の教えによって母の青提女を餓軌道の苦しみから救ったことに由来する。
 目連は幼い時に母と死別したが、母の青提女は慳貪の科によって餓鬼道に堕ちていたのである。慳貪とは欲が深く物を惜しんで人に与えないことで、法華文句巻四には慳貪の科は餓軌道に堕ちる原因とされている。
 初めバラモンの修行をした目連は、後に釈尊の弟子となり、仏道修行に励んで阿羅漢果の悟りを得、三明六通という神通力をもつに至った。それによって餓軌道に堕ちて苦しむ母の姿を知ることができたのである。それは「のむ事なし食うことなし、皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頚はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・うへたるひるの人のかをかげるがごとし」という姿であった。
 母の餓鬼界の姿を見た目連の心境を、大聖人は鬼界島に流された俊寛の哀れな姿を見た、従者だった少年の悲しみにも勝るだろうと述べられている。
 俊寛は平安末期の天台僧で、法勝寺の執行を務め、後白河法皇に信任され、鹿ヶ谷の山荘で藤原成経・平康頼等と平清盛の討滅を企てたことが発覚し、治承元年(1177)に捕らえられ、成経・康頼とともに九州の南にある鬼界島(硫黄島)へ流されている。翌年、清盛の娘・中宮徳子の安産を祈願するための特赦によって他の二人は許されたが、俊寛は首謀者とみられたためか、一人だけ残され、治承三年に島で死んだと伝えられている。ただ一人怨みをのんで島に残された俊寛の姿も、餓鬼界そのままの哀れなものだったのである。
 目連は神通力で食物や水を送って母を救おうとしたが、かえって苦悩を増すばかりだったので、嘆いて釈尊に指導を求めたところ「七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじきをととのへて母のくをはすくうべし」と教えられ、そのとおりにしたところ、母は餓鬼道の苦悩を免れることができたというのである。
 西晋の竺法護訳の仏説盂蘭盆経によれば、その後で目連は「未来世の一切の仏弟子で孝順を行ずる者にも、この盂蘭盆によって、現在の父母から七世の父母に至るまで救わせたい」と願ったところ、釈尊は「私の欲するところである」と重ねて盂蘭盆の供養を勧めた、とある。
 実際の盂蘭盆会は、中国では梁の大同4年(0538)に同泰寺で最初に行われて以後、唐代に広まったといわれ、日本では斉明天皇の3年(0657)に飛鳥寺で行われたのが初めとされ、宮中でも盆供が供えられるようになり、後に民間の行事となったとされている。
 なお、盂蘭盆会が7月15日に行われたのは、インドで夏の雨期約3か月間は激しい降雨のために修行僧達は一定の場所に閉じこもって修行し、それを雨安居といったが、その終了時に衆僧に供養したことからきたものとされる。

1428:14~1429:06 第二章 目連が母を救えなかった理由top

14   日蓮案じて云く目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人・二百五十戒をかたく持つ事石のごとし、 三千の
15 威儀を備えてかけざる事は十五夜の月のごとし、 智慧は日ににたり・ 神通は須弥山を十四さうまき大山をうごか
16 せし人ぞかし、 かかる聖人だにも 重報の乳母の恩ほうじがたし、 あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給い
17 き、 いまの僧等の二百五十戒は名計りにて事をかいによせて人をたぼらかし一分の神通もなし、 大石の天にのぼ
18 らんと・せんがごとし、 智慧は牛にるいし羊にことならず、設い千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべし
1429
01 や、 せんするところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、 小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてあ
02 りしゆへぞかし、 されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男 目連房をせめて云く汝を供養する者は三悪道に堕
03 つ云云、 文の心は二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は 三悪道に堕つべしと云云、此又ただ目連一人
04 がきくみみにはあらず、 一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみみなり、 此の浄名経と申すは法華経の御ためには
05 数十番の末への郎従にて候、 詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、 自身仏にならず
06 しては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや。
――――――
 日蓮が考えるに、目連尊者という人は、十界のなかの声聞道の人で、二百五十戒を堅く持つことは石のようであり、三千の威儀を備えて欠けないことは十五夜の月のようでした。智慧は日輪に似て、神通力は須弥山を十四層に巻き、大山を動かすほどの人でした。このような聖人でも、重恩ある母の恩に報いることは難しく、そればかりか、恩を報じようとして、かえって大苦を増してしまったのです。それに比べ今の僧等は、二百五十戒は名ばかりで、持戒ということに事を寄せて人をたぶらかし、一分の神通力もありません。大石が天に昇ろうとしてもできないようなものです。智慧の劣っていることは牛や羊のようで、たとえ千万人集めたとしても父母の一苦をも救うことができるでしようか。
 所詮、目連尊者が母の苦を救えなかったのは、小乗の教えを信じて、二百五十戒という持戒の人であったからです。ゆえに、浄名経という経典には、浄名居士が目連房を責めて、汝を供養するものは三悪道に堕ちる、と言ったと説かれています。これは、ただ目連尊者一人を指していわれたのではなく、一切の声聞乃至末代の持斎等を指していわれたのです。この浄名経というのは、法華経に比べると、数十番も末につながる郎従のようなものです。つまりは、目連尊者自身が未だ成仏していないからです。自身が成仏せずして、父母を救うことは難しく、ましてや他人を救えるでしょうか。

十界
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
―――
声聞道
 「声を聞く者」の意で、弟子と訳す。二乗・三乗のひとつ、声聞乗のこと。自己の悟りのみを求め、仏の声を聴き修行する人々をいう。四諦の法門によって阿羅漢果の悟りを得、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする。
―――
二百五十戒
 小乗教を修業する比丘が受持すべき戒律のこと。四部律行事鈔巻中一等に説かれる。四波羅夷・十三僧残・二不定・三十捨堕・九十単堕・四提舎尼・百衆学・七滅諍、合わせて二百五十の戒をいう。なお、戒数については経典によって多少違いがある。
―――
三千の威儀
 比丘の威儀作法(規律にしたがう行動)を細かく分けたもの。法華三大部補註によると、四威儀(行住坐臥)のおのおのに比丘の持つべき二百五十戒を乗じて一千戒となり、さらに三定聚(衆生を修道上の見地から三種に分けたもの)を乗じて三千威儀となるとしている。
―――
小乗の法
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
浄名経
 維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片を残すのみである。漢訳は鳩摩羅什訳、維摩詰所説三巻など三種がある。主人公の維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に通達していた在家の菩薩。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、教理が展開されている。大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。
―――――――――
 盂蘭盆の起源を述べられた後に、目連がなぜ母の苦を救うことができなかったのか、その理由を明かされている。
 目連が二百五十戒を堅く守り、三千の威儀をととのえ、智慧に勝れ、神通力をもっていたといっても、小乗の悟りに過ぎず、「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」と仰せのように、自分自身が成仏できないのに父母を救うことなどできないからである。まして他人を救うことなどとうていできないのである。
 そのことは、四条金吾殿御書にも「抑盂蘭盆と申すは源目連尊者の母・青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生、餓鬼道にをち給いて候を、目連救ひしより事起りて候。然りと雖も、仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に、母をも仏になす事なし」(1111-03)と述べられている。
 目連が悟りを得た小乗教とは、自己のみの悟りを求める衆生に対して説かれた教えのことで、鈍根の者を乗せて小果に到達させる教法なので、小乗といった。四諦・十二因縁の理を説き、煩悩を断じ尽くして灰身滅智し、無余涅槃に入ることを目的としている。これに対し、自利・利他の両面を満たす菩薩道を説いていたのが大乗教である。
 そのために、大乗の諸経典では浄名経(維摩経)のように声聞・縁覚の二乗は自己の低い悟りに入って永久に成仏できない者なので供養してはならない等と厳しく呵責しており、大智度論でも小乗を自利狭劣の法であると破折している。したがって仏にはなれず、まして父母を救うことはできないのである。
 そのことを開目抄には「舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀・持整して味・浄・無漏の三静慮・阿含経をきわめ三界の見思を尽せり知恩報恩の人の手本なるべし、然るを不知恩の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる」(0192-03)と述べられている。
 自己の悟りのみを求めて利他を目指さない小乗の法では、自身も成仏できないばかりか、父母をも永不成仏の道に堕としてしまうので、不知恩となるのである。
 なお、大聖人は目連ほどの聖人でも母の恩を報ずることはできず、救おうとしてかえって苦悩を増してしまったのだから、戒律といっても名前ばかりで、それによって人をだましている悪徳の僧や、牛や羊に等しい智慧しかもたない僧が、たとえ千万人集まっても父母の一苦を救うこともできない、と厳しく破折されている。
 大聖人御在世当時は、真言律宗の極楽寺良観が、さも戒を守っているように宣伝していたが、聖愚問答抄に「今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん」(0476-13)と指摘されているように、幕府の権力と結託して道路や橋を造っては通行税を取ったり、港で関税を取り上げるなど、事実は戒律に背いて世人を欺き苦しめる悪行が多かったのである。律僧にかぎらず、法華経に背く諸宗の僧がいくら集まって祈ったとしても、父母を救うどころか、大苦悩を増すことになるのである。

1429:07~1430:06 第三章 正法による親子同時の成仏を明かすtop

07   しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、 小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて
08 南無妙法蓮華経と申せしかば、 やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、 此の時こそ父母も仏になり
09 給へ、 故に法華経に云く我が願既に満ち衆の望も亦足る云云、 目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏にな
10 りしかば父母の身も又仏になりぬ。
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 ところが、目連尊者は法華経という経に、正直捨方便とあるとおり、小乗の二百五十戒を立ちどころに投げ捨てて、南無妙法蓮華経と唱えたところ、やがて成仏して多摩羅跋栴檀香仏となりました。この時こそ、父母も成仏することができたのです。ですから法華経に、我が願既に満ちて、衆の望も亦足りぬ、と説かれているのです。目連の色身は父母の遺体です。そうであれば目連の色身が成仏したので、父母の身もまた成仏したのです。
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11   例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に平氏の大将安芸の守清盛と申せし人をはしき、 度度の合
12 戦に国敵をほろぼして上太政大臣まで官位をきわめ当今はまごとなり、 一門は雲客月卿につらなり、 日本六十六
13 国・島二を掌の内にかいにぎりて候いしが、 人を順うこと大風の草木をなびかしたる・やうにて候しほどに、心を
14 ごり身あがり結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・ にぎらむとせしほどに、 山僧と七寺との諸僧のかたき
15 となりて、 結句は去る治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば・其
16 の大重罪・入道の身にかかりて・ かへるとし養和元年潤二月四日身はすみのごとく面は火のごとくすみのをこれる
17 がやうにて結句は炎身より出でて あつちじにに死ににき、 其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば西海に沈むと
18 みへしかども東天に浮び出でて、 右大将頼朝の御前に縄をつけて・ひきすへて候き、 三男知盛は海に入りて魚の
1430
01 糞となりぬ、 四男重衡は其の身に縄をつけて京かまくらを引かれて結句なら七大寺にわたされて、 十万人の大衆
02 等・我等が仏のかたきなりとて一刀づつ・きざみぬ、 悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と
03 末へ七代までもかかり候けるなり、 善の中の大善も又又かくのごとし、 目連尊者が法華経を信じまいらせし大善
04 は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、 上七代・下七代・ 上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給
05 う、乃至子息.夫妻・所従・檀那・無量の衆生.三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ、故に法華経
06 の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。
――――――
 例えば、日本国第八十一代の安徳天皇の治世に、平氏の大将・安芸守清盛という人がいました。度々の合戦に国敵を滅ぼして、上は太政大臣まで官位をきわめ、今上(安徳天皇)は孫にあたります。一門は雲閣月卿につらなり、日本六十六か国・島二つを掌中におさめ、人を帰順させることは大風が草木をなびかすようでしたが、しだいに憍慢の心が起き、つけあがって、結句は神仏を蔑視し、神人と諸僧をも掌握しようとしたので、比叡山の僧や七大寺の諸僧を敵にしてしまったのです。つまりは、治承四年十二月二十二日、七大寺の中の東大寺、興福寺の両寺を焼き払ってしまったのです。その大重罪は太政入道の身に報いとなって現れ、翌年、養和元年閏二月四日、熱病にかかり身は炭のようにこげ、顔は火がおこったようになり、結局は、体中から炎が上がって熱死してしまったのです。そして、その大重罪は二男の宗盛にも及び、壇ノ浦の合戦に敗れ西海に沈んだと思われたが東天に浮かび、捕らえられて右大将頼朝の前に縄をつけられたまま引き据えられたのです。三男知盛は壇ノ浦の海に沈んで魚糞となってしまい、四男重衡は一ノ谷の合戦に敗れ身に縄を付けられて、京都、鎌倉を引き回されたあげく、奈良の七大寺に引き渡されて、十万人の大衆等に、我等が仏敵なりと一刀ずつ切り刻まれてしまったのです。
これらをもってみるに悪の中の大悪は、その罪の報いを我が身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのです。善の中の大善もまた同じです。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になったのです。また父母のみならず上七代、下七代に及び、ひいては上無量生、下無量生の父母達までが存外に成仏することができるのです。さらには、子息、夫妻、所従、檀那、その他無量の衆生までも三悪道を離れることができただけでなく、皆、ことごとく初住・妙覚の仏となったのです。ですから、法華経の第三の巻に、「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と説かれているのです。

正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
多摩羅跋栴檀香仏
 目犍連が授記品で受けた未来成仏の授記の名号。同品に「是の大目・連は当に種々の供具を以て八千の諸仏に供養し、恭敬尊重……号を多摩羅跋栴檀香如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と曰わん」とある。
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安徳天皇
 (1178~1185)。第81代天皇。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(。母は平清盛の娘・徳子(建礼門院)。治承4年(1180)四4月に3歳で即位。寿永2年(1183)源義仲の入京によって、平宗盛に擁せられて西国に逃がれ、大宰府に入った。その後、讃岐屋島に移ったが、寿永4年(1185)2月19日、平家は屋島の戦いで源義経の軍に敗れ、3月24日、壇ノ浦で平家が滅んだ時、一門とともに入水した。吾妻鏡には次のように記されている。「廿四日 丁未 長門国赤間関壇浦の海上において、源平相逢い、おのおの三町を隔てて舟船を漕ぎ向う。平家は五百余艘を三手に分ち、山峨兵籐次秀遠、ならびに松浦党等をもって大将軍となし、源氏の将帥に挑み戦う。午の尅に及びて、平氏ついに敗傾す。二品禅尼宝剣を持し、按察局先帝を抱きたてまつり、共にもって海底に没す。建礼門院の入水したまうのところ、渡部党源五馬允、熊手をもってこれを取りたてまつる。按察局も同じく存命す。ただし先帝はついに浮かばしめたまわず。若宮は御存命と云々」。
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安芸の守清盛
 (1118~1181)。平清盛のこと。平安時代後期の武将。忠盛の長男。法号は浄海。大相国と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。同3年(1168)病気となり出家して福原に隠棲していたが、治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや急遽帰京し、反平氏勢力の一掃を図った。治承3年(1179)、後白河法皇を幽閉して完全に独裁政治を行ったが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ熱病で苦悩のうちに亡くなった。
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太政大臣
 律令官制の最高官で,左右大臣の上に位置する太政官の長官であるが,特に職掌は定められておらず『大宝令』では適任者がなければおかない則闕の官であった。
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雲閣月卿
 雲閣は平安時代の中期以降に清涼殿に昇ることを許された人。殿上人。月卿は公卿のこと。禁中を天に、天子を日に、公卿を月になぞらえていった。
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六十六国
 北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。
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島二
 壱岐・対馬の二島のこと。
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神人
 じんにん・しんじん・かみびと、などとも読む。古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人ともいう。神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。
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山僧
 ①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。
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七寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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東大寺
 聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。
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興福寺
 法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。
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宗盛
 (1147~1185)。平宗盛のこと。平安時代の武将、平清盛の第三子。養和元年(1181)清盛の死後、平氏の家督を継ぎ、権大納言・内大臣を経て従一位に叙せられた。寿永2年(1183)木曽義仲と戦い、敗れて安徳天皇等を奉じて太宰府に逃れた。その後、一の谷・屋島で源氏の軍と戦って敗れ、壇ノ浦で大敗を喫した。宗盛は捕らえられて鎌倉に送られ、京都に送還される途中、近江の篠原(滋賀県近江八幡市篠原町)で斬殺された。
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西海
 西方の海のこと。大聖人の御書のなかでは、壇ノ浦をさす場合が多い。
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頼朝
 (1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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知盛
 (1156~1185)平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。しかし、寿永3年(1184)源義仲に敗れ、ついで一の谷・壇ノ浦でも敗れ、安徳天皇や一門の女性に入水を勧め、見届けたあと、自身も海に身を投じた。
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重衡
 (1156~1185)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
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無量生
 数えきれないほど繰り返し、この世に生を受けること。無量ははかることができないという意。
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所従
 従者。家来。
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檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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初住
 菩薩行52位のうち、十住の初めの位。不退転の位とされる。二乗は法華経迹門にきて、作仏を許され初住に入ったとされている。しかし、本門より望むならば、まだ初住に入ったとはいえない。当体義抄には「爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり、妙楽の釈に云く『開迹顕本皆初住に入る』」(0518-02)とある。
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妙覚
 ①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる]。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。
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 次に大聖人は、餓鬼道の母を救えなかった目連が、法華経によって成仏した時に父母も仏になったことを教えられ、平清盛の犯した大悪が自身も我が子をも苦悩に陥れた例を引かれ、謗法の悪業は子孫七代までも苦しませ、反対に法華経を信じた大善は無量世の父母や子孫までも仏にすることを明かされている。
 爾前経では永不成仏と嫌われた目連等の二乗は、法華経に至って成仏を許され、目連は授記品第六で「当に成仏することを得べし、号づけて多摩羅婆跋栴檀香如来……劫を喜満と名づけ、国を意楽と名づけん……仏の寿は二十四小劫、正法は世に住すること四十小劫、像法も亦た住すること四十小劫ならん」と記別を与えられた。
 目連が成仏したとき、同時に父母も仏になったのであり、そのわけを「目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」と述べられている。子の肉身は父母が生み育てて遺した身体なので、子の肉身が成仏したのなら、もとの色身である父母の身も仏にならないわけはないということである。
 浄蓮房御書でも「目犍尊者は悲母の餓鬼の苦を救い浄蔵浄眼は慈父の邪見を翻し給いき、父母の遺体は子の色心なり、浄蓮上人の法華経を持ち給う御功徳は慈父の御力なり……浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とならざるべき」(1434-17)と述べられ、父子同時の成仏を明かされている。
 また、法蓮抄では「法華経も又一切衆生を仏になす用おはします、六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う孝養の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う」(1046-10)と述べられ、一切衆生を成仏させる法華経こそ第一の孝経であることを教えられているのである。
 親子同時の成仏を説かれた後で、平清盛の故事を引かれたのは、親の悪行がその子を大苦悩に堕としたように、法華経信受の大善根は反対に無量生の父母や子孫をも成仏させるという例証にあげられているのである。
 平清盛が南都(奈良)の七大寺を討伐することを決定したのが治承4年(1180)12月23日で、南都の僧兵達が源氏側について平氏打倒の旗色を明らかにしたからだった。平重衡を大将軍とした平氏の大軍は河内路と山城路の二方から奈良へ侵攻し、28日に決戦が行われた。興福寺は六万の僧兵を集めて抗戦したが敗れ、東大寺・興福寺の堂塔伽藍は平氏軍の放った火によりことごとく焼失している。それを契機として、平氏は寺院勢力や貴族を完全に敵に回すことになり、滅亡を早めたという。
 平清盛は翌養和元年(1181)閏3月4日に死んだが、当時の記録に「動熱悶絶」とあり、このことを「あつちじにに死ににき」と仰せられたのである。
 清盛の跡を承けて平氏の家督となった次男の宗盛は、一門を率いて京を離れ西国で軍を建て直したが、一ノ谷、屋島で源氏軍に敗れ、寿永4年(1185)3月24日の壇ノ浦合戦で一族が滅亡した時には時忠・清宗などとともに生け捕りにされている。そして、鎌倉へ送られたが、再び京へ送り帰され、近江の篠原で源義経によって斬られ、首は獄門にさらされた。
 三男の知盛は壇ノ浦で入水して死に、四男重衡は一ノ谷の合戦で敗れたとき捕らえられ、平氏滅亡後の文治元年(1185)に奈良へ送られ、6月23日に木津川で斬首された。東大寺・興福寺の宗徒はその首を奈良坂にさらしたといわれる。
 大聖人がこうした歴史的事実を引かれたのは、「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり」と教えられるためであった。
 当時はすでに末法に入っており、清盛が東大寺や興福寺を焼き、比叡山延暦寺に敵対したからといって謗法にはならないともいえるが「神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・にぎらむとせしほどに」と仰せのように、仏法そのものを手中に収めようとした増上慢が大悪業となったといえよう。
 「悪の中の大悪」とは、世間の悪事をいうのではなく、仏法中の悪、すなわち謗法の大悪業を仰せられている。
 顕謗法抄に「謗法とは法に背くという事なり……法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならば・なんぞ苦果をまねかざらん」(0455-06)と仰せになり、また西山殿御返事に「うつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候、真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ、法華経にそめられ奉れば必ず仏になる」(1474-02)と述べられているように、正法に背く邪法邪義を信じることは、生命を汚染されて地獄の苦悩を受ける原因となるのである。しかもその苦悩は、自分のみではなく、妻子・眷属から子や孫など七代の末にまで至るとされている。まことに謗法の悪業こそ恐るべきである。
 したがって「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(1056-07)との御金言のごとく、謗法の誤りを呵責する折伏の実践が大切となるのである。
 そして「善の中の大善」もそれと同じ方程式で、目連が法華経を信じたという大善は、自分自身が仏になっただけではなく、父母も成仏させ、さらに「上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等」までも皆成仏させることができたと仰せになっている。
 つまり、自分自身が仏になることが肝要であり、その功徳を回向することこそ、真の盂蘭盆供養となるのである。しかも、末法今時においては、釈尊の法華経ではなく、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ一切衆生が成仏できる唯一の正法であり、御本尊に題目を唱えたときに、境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって先祖も成仏できるのである。
 よって常盆・常彼岸といって、毎日がお盆でありお彼岸であると心得て、朝晩の勤行の際に先祖の追善供養をしていくのが本義である。にもかかわらず7月15日に盂蘭盆会の法要を行うのは、先祖の供養と同時に信心の新たな発心の機とするためであり、また誤った教えで盂蘭盆会を行っている人々に本当のお盆を教え、成仏に対する認識を改めさせるためなのである。

1430:07~1430:16 第四章 妙法ゆえの成仏を約し激励されるtop

07   されば此等をもつて思うに貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、 此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一
08 戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、 智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴ににて候へども、 あをぐところは釈迦
09 仏・信ずる法は法華経なり、 例せばジャの珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は
10 羽を恃みて万里をかける、 此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、 我が身は藤のごとくなれども法
11 華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、 一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、 此の羽をもつて
12 父母・祖父.祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは.もたせ給いてをはしま
13 す女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、 此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給う
14 べし、事事そうそうにて候へば・くはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。
15       七月十三日 日蓮花押
16      治部殿うばごぜん御返事
――――――
 それゆえ、これらをもって考えてみますと、貴女は治部殿という孫を僧にもっておられます。この僧は無戒、無智で二百五十戒の一戒も持つことはなく、三千の威儀の一つも満たしてはいません。智慧は牛馬の類で、威儀の整わないことは猿のようですが、その仰ぐところの仏は釈迦仏であり、信ずる法は法華経です。これを譬えれば、蛇が珠を握り、竜が舎利を戴いているようなものです。藤は松に懸かって千尋をよじ登り、鶴は羽の力によって万里を飛ぶことができます。これらは自身の力ではありません。治部房もまた同じです。我が身は藤のようでも法華経という松の木に懸かれば妙覚の山にも登ることができ、一乗妙法の羽をたのんで寂光の空を自由に翔ることもできるのです。この羽をもって父母、祖父、祖母、乃至七代の末まで弔うことのできる僧なのです。立派な、素晴らしい宝をお持ちになっている女人です。彼の竜女は珠を仏に供養して成仏されました。この女人は孫を法華経の行者にして、寂光浄土に導かれていくことでしょう。あれこれ忙しく、詳しくは申し上げません。また申し上げます。恐恐。
  七月十三日              日 蓮  花 押
   治部殿うばごぜん御返事

治部殿
 日蓮大聖人の門下で、中老の一人・日位であるといわれる。生没年、略伝等は明らかでない。墓輪番帳に六老僧に次ぐ十二人の門下に数えられたが、日興上人の弟子分本尊目録には「一、駿河国四十九院の住治部房は蓮華阿闍梨の弟子なり、仍て日興之を与え申す、但し聖人御滅後に背き了ぬ」とあるように、大聖人御入滅後は離反した。
―――
虵の珠をにぎり
 出典は文選にある曹子建の「楊徳祖に与うる書」の「人びとは自ら謂えらく、霊虵の珠をにぎれりと。家いへは自ら謂えらく、荊山の玉をいだけりと」と思われる。
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妙覚の山
 妙覚は菩薩の修行位である五十二位の最高位で、これを山にたとえたもの。
―――
寂光の空
 仏の住む寂光世界を広い空にたとえたもの。
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 最後に大聖人は、孫の治部房を法華経の行者としたことによって、その祖母が必ず成仏に導かれるであろうと励まされて本抄を結んでいる。
 治部房は目連に比べれば無戒であり智慧も劣るかもしれないが、釈迦仏・法華経を信じ仰ぐ者であるから、その功徳によって必ず成仏の山に登り、寂光の空をかけるであろうとされ、さらに父母・祖父母から七代の末の子孫に至るまでその功徳を回向する僧であると仰せである。
 成仏は自身の力や修行によって得られるものではなく、妙法の偉大な功力によるのである。ここで「あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり」と仰せになっているのは、末法の釈尊・法華経の意であり、文底の釈尊たる御本仏日蓮大聖人と末法の法華経である三大秘法の南無妙法蓮華経を指している。
 末法における成仏への唯一の直道は、人法一箇の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるのであり、しかも、その功徳は同時に過去の先祖への回向となり、また子孫への福運となって遺されるのである。
 その偉大な妙法を受持した孫をもった祖母は、すばらしい宝をもった女人であり、竜女が仏に珠を捧げて成仏したように、孫を法華経の行者としたことによって成仏に導かれることは間違いないと励まされて、本抄を終えられている。

1431~1435    浄蓮房御書top
1431:01~1431:01 第一章 供養への謝辞を述べるtop

1431
浄蓮房御書    建治元年六月    五十四歳御作
01   細美帷一つ送り給び候い畢んぬ、                                  ・
――――――
 麻布の帷一枚、ありがたく頂戴いたしました。

細美帷
 荒く織った麻布で作った帷のこと。衣服の一種。細美は極めて荒く織られた麻の布地の名称で、貲布・細布とも書き、「さいみ」とよみ、「さよみ」ともいう。帷は裏を付けない一重の着物をいう。
―――――――――
 本抄は、浄蓮房が身延におられる日蓮大聖人に細美帷を一つ供養したことに対して与えられた御返事である。
 建治元年(1275)6月27日、聖寿54歳の御時の御述作である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が北山本門寺に蔵されている。細美抄、浄蓮書、善導抄等の別名がある。
 浄蓮房に対して与えられた御書として今日伝えられているのは本抄一通である。浄蓮房は、駿河国(静岡県)庵原郡興津の人である。御文の内容から父が念仏の信徒であったことがわかるが、浄蓮房の名から推し量ると、あるいは本人もまた日蓮大聖人に帰依するまえは念仏を信じていたとも思われる。
 本抄御述作の建治元年は日興上人の教化によって駿河国富士郡熱原郷(静岡県富士市)にあった天台宗滝泉寺内の下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円及び若干の在家の人々が入信した年である。
 本抄の追伸に「返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」と仰せのように、この時すでに滝泉寺院主代・行智等から迫害が起こっていたことがわかる。すなわち、熱原法難の初期段階にかかっていたといえる。
 本抄全体の内容は、まず善導の立てた浄土の法門を挙げて、観経と法華経、阿弥陀仏と釈尊との相違を述べ、その邪義たる所以を明らかにされ、さらに悲華経及び無量寿経に説かれる無上念王と宝海梵志のこと、また法蔵比丘の第十八願、そして法華経の「唯我一人・能為救護」の文をとおして破折されている。そして、日本の人々は、こうした念仏宗を信じ、最勝の法華経を謗じ、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害するがゆえに、三災七難によって苦しむのであると示されている。
 最後に、浄蓮房の父は、念仏者であったため阿鼻大城に堕ちているであろうが、浄蓮房が法華経を受持している功徳は父に回向されていくことを述べられ、追伸として迫害の起こっている駿河国の人々が異体同心の信心で難に処していくよう諭されて本抄を結ばれている。

1431:01~1431:06 第二章 善導が観経を選んだ経緯を示すtop

01                   善導和尚と申す人は漢土に臨淄と申す国の人なり、 幼少の時・密州と申す
02 国の明勝と申す人を師とせしが・ 彼の僧は法華経と浄名経を尊重して 我も読誦し人をもすすめしかば善導に此れ
03 を教ゆ、 善導此れを習いて師の如く行ぜし程に 過去の宿習にや有りけん、 案じて云く仏法には無量の行あり機
04 に随いて皆利益あり・教いみじと・いへども機にあたらざれば虚きがごとし、 されば我れ法華経を行ずるは我が機
05 に叶はずは・ いかんが有るべかるらん、 教には依るべからずと思いて一切経蔵に入り両眼を閉ぢて経をとる観無
06 量寿経を得たり、 披見すれば此の経に云く 「未来世の煩悩の賊に害せらるる者の為 清浄の業を説く」等云云、
――――――
 善導和尚は、中国の臨淄の人である。幼少の時、密州という国の明勝という人に師事したが、この僧は、法華経と浄名経を尊重して、自らも読誦し人にも勧めたほどで、善導にもこれを教えたのである。
 善導はこれを習学して師のように修行したが、過去の宿習であろうか、考えて言うには、「仏法には無量の修行があり、これらはみなその修行する機根によって功徳があるので、教が勝れていても、その機根に相応した教えでなければ無益である。それゆえ、私はこうして法華経を修行しているが、機根にかなわなければ、どうしようもない。教に依ってはならない」と思って、一切経蔵に入り、両眼を閉じて経典を取ったところ、観無量寿経を得た。開いて見ると、「未来世の煩悩の賊に害される者のために清浄の業を説く」等と記されていた。

善導和尚
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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明勝
 中国・唐代の三論宗の僧。密州の人で法朗の高弟で吉蔵と同門であった。善導は明勝のもとで法華経・維摩経を学んだ。
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法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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浄名経
 維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片を残すのみである。漢訳は鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻など3種がある。主人公の維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に通達していた在家の菩薩。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、教理が展開されている。大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。古来、多数の注釈書が著されており、わが国では聖徳太子が法華経・勝鬘経とともに維摩経の義疏を著したと伝えられる。
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読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
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宿習
 宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
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 説法を受ける所化の衆生の機根。
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利益
 仏の教え・正法に従い行動することによって、得られる恩恵。功徳と同義。
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観無量寿経
 観経とも略称する。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の一つ。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽世界を願う韋提希夫人に対し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、十六の観法を明かしている。
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煩悩の賊
 煩悩に悩まされるところから、煩悩を賊にたとえたもの。
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清浄の業
 観無量寿経によると、西方極楽世界を観ぜしめ極楽世界を見ることによって歓喜し、無生法忍を得さしめるところの修行をいう。ここでは十六観を挙げている。十六観とは①日想観、太陽が沈むのを見て極楽が西にあることを想うこと。②水想観、水と氷の清らかさによって極楽の大地のありさまを想うこと。 ③地想観、 引続き極楽の大地をまざまざと想うこと。④ 宝樹観、 浄土にある宝樹を想うこと ⑤宝池観、浄土の池の水を想うこと。⑥宝楼観、極楽にある五百億の楼閣を想うこと⑦華座観、 阿弥陀仏の座っている蓮華の台座を想うこと。⑧像観、 仏像を見て阿弥陀仏の姿を想うこと。⑨真身観、 阿弥陀仏の真の姿を想うこと⑩観音観、阿弥陀仏の脇士である観音菩薩の真身を想うこと。⑪勢至観、阿弥陀仏の脇士である勢至菩薩を想うこと⑫普観想観、浄土のすべての仏・菩薩・国土を想うこと⑬雑想観、⑩~⑫のできないものが,弥陀三尊の種々の変現する姿を観想すること。⑭上輩観、⑮中輩観、⑯下輩観、⑭~⑯を合わせて三輩観といい、それぞれさらに上・中・下に分けられて九品往生が説かれている。
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 この章では、中国における浄土教開祖の一人であり、日本浄土宗の開祖・法然が最も依りどころとしている善導が観無量寿経と出会った経緯を示されている。
 ここにみられる善導の事跡については、道宣の続高僧伝巻二十七や往生西方浄土瑞応刪伝よりも、新修往生伝巻中によっていると思われる。
 善導が明勝のもとにおいて法華経と浄名経とを修学しながら、それを捨てて観経に移った理由が明らかにされている。
 すなわち彼は「仏法には無量の行あり機に随いて皆利益あり・教いみじと・いへども機にあたらざれば虚きがごとし」と。すなわち衆生の機根が最も根本であると考えたことである。そして、法華経は、我々凡夫のための経ではないと解釈したことである。
 これらの点を破折しておきたい。
 師・明勝のもとで法華経を習いながら、これを離れたのは、法華経は高度すぎて自分の機に合わないと思ったのであろう。しかしながら、それに代わるべき、機にかなった経を選ぶのに、経蔵に入って目を閉じて手に触れた経を取ったというのは、なんという愚かなやり方であろうか。これではサイコロ遊びと変わりがないではないか。
 法華経を機に合わないとすること自体、あまりにも無知といわなければならない。法華経が提婆達多や竜女らの成仏をも説いた一切衆生皆成仏道の経であることは明らかであり、善導の時代はまだ法華経流布の正時たる末法に至っていなかったとはいえ、法華経の機は一切衆生であるから、合わないということは大なる誤りなのである。

1431:07~1432:08 第三章 念仏に執して法華経を捨つるを述べるtop

07 華厳経は二乗のため法華経・涅槃経等は五乗に・わたれども・たいしは聖人のためなり、 末法の我等が為なる経は
08 唯観経にかぎれり、 釈尊最後の遺言には涅槃経にはすぐべからず、彼の経には七種の衆生を列ねたり、 第一は入
09 水則没の一闡提人なり生死の水に入りしより已来いまに出でず・ 譬へば大石を大海に投入たるがごとし、 身重く
10 して浮ぶことを習はず 常に海底に有り此れを常没と名く、 第二をば出已復没と申す譬へば身に力有りとも浮ぶこ
11 とを・ならはざれは出で已つて復入りぬ・ 此れは第一の一闡提の人には有らねども一闡提のごとし又常没と名く、
12 第三は出已不没と申す・生死の河を出でてより・このかた没することなし、 此れは舎利弗等の声聞なり、第四は出
13 已即住・第五は観方.第六は浅処・第七は到彼岸等なり、第四・第五.第六・第七は縁覚・菩薩なり、釈迦如来世に出
14 でさせ給いて 一代五時の経経を説き給いて第三已上の人人を救い給い畢んぬ、 第一は捨てさせ給いぬ、法蔵比丘
15 阿弥陀仏此れをうけとつて・ 四十八願を発して迎えとらせ給う、 十方三世の仏と釈迦仏とは第三已上の一切衆生
1432
01 を救い給う、あみだ仏は第一第二を迎えとらせ給う、 而るに今末代の凡夫は第一第二に相当れり、 而るを浄影大
02 師天台大師等の他宗の人師は此の事を弁えずして九品の浄土に聖人も生ると思へりアヤマりが中のアヤマりなり、一
03 向末代の凡夫の中に上三品は遇大.始めて大乗に値える凡夫、中の三品は遇小.始めて小乗に値へる凡夫、下の三品は
04 遇悪・一生造悪無間非法の荒凡夫、 臨終の時・始めて上の七種の衆生を弁えたる智人に行きあひて岸の上の経経を
05 うちすてて水に溺るるの機を救はせ給う、 観経の下品・下生の大悪業に南無阿弥陀仏を授けたり、 されば我れ一
06 切経を見るに法華経等は末代の機には千中無一なり、 第一第二の我等衆生は第三已上の機の為に説かれて候、 法
07 華経等を末代に修行すれば 身は苦しんで益なしと申して 善導和尚は立所に法華経を抛げすてて観経を行ぜしかば
08 三昧発得して・ 阿弥陀仏に見参して重ねて此の法門を渡し給う四帖の疏是なり、
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 そこで善導が考えるのに華厳経は声聞・縁覚の二乗のため、法華経・涅槃経等は人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗にわたって説かれているが、大要は一分の悟りを得た聖人のためである。末法の我等のような凡夫のための経はただ観経に限られている。
 釈尊最後の遺言には涅槃経に過ぎたものはない。この涅槃経には恒河の七種の衆生が列記されている。
 第一は入水則没の一闡提人をいい、生死の水に入ったまま未だに浮かび出ることができない者をいう。たとえば大石を大海に投げ入れたようなものである。身が重く、そのうえ浮かぶことを習っていないため常に海底にいる。これを常没と名づける。
 第二を出已復没という。たとえば身に力はあっても、浮かぶことを習っていないため、水面上に出てもまた海中に没してしまう。これは第一の一闡提の人でないが、一闡提のようなものであるから、同じく常没と名づける。
 第三は出已不没という。生死の河を出てから没しない者である。これは舎利弗等の声聞である。
 第四は出已即住、第五は観方、第六は浅処、第七は到彼岸である。この第四、第五、第六、第七の衆生は縁覚、菩薩である。
 釈迦如来は世に出現され、一代五時の経教を説かれて、第三以下の人々を救済されたが、第一の衆生は捨てられたのである。法蔵比丘であった阿弥陀仏はこの衆生を四十八願を発願して浄土に迎えられるのである。十方三世の仏と釈迦仏とは、第三以下の一切衆生を救われる。阿弥陀仏は第一、第二の衆生を浄土に迎えられるのであり、今末法の凡夫は第一、第二にあたるのである。ところが、浄影大師や天台大師等の他宗の人師は、このことをわきまえず、観経に説く九品の浄土に第三以下の聖人も往生すると思っているがこれは、誤りのなかの誤りである。
 なべて末代の凡夫のなかで、上輩の三品は遇大といって、はじめて大乗に遇った凡夫をいい、中輩の三品は遇小といって、はじめて小乗に遇った凡夫、下輩の三品は遇悪といって、一生涯罪悪を造り無間地獄に堕ちる非法の荒凡夫であって、これらの凡夫は臨終の時に初めて、七種の衆生をわきまえられた智人にあって救われるのである。この時、岸の上の人々のための経教である華厳経や法華経を打ち捨てて、水に溺れる機根の衆生を救われるため、観経の下品下生の大悪業の衆生に南無阿弥陀仏の名号を授けたのである。
 それゆえ、自分・善導が一切経を見るのに、法華経等は末代の機根は千人に一人も成仏しない教えである。第一、第二の我ら衆生は、第三以下の機根のために説かれた法華経等を、末代において修行すれば、身を苦しめるのみで利益はない――以上のように考えて、善導和尚はたちどころに法華経を投げ捨て、観経を修行したのである。そうしたところ、悟りを得て阿弥陀仏と会って観経の法門を伝授されて書いたというのが、観経の玄義分、序分義、定善義、散善義の四帖の注釈書である。

華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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五乗
 人・天・声聞・縁覚・菩薩のこと。
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聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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七種の衆生
 涅槃経巻三十二、同経巻三十六に説かれる恒河(ガンジス川)に入った七種の人のこと。恒河七種の衆生という。第一・入水則没(一闡提人)。第二・出已復没(外凡)。第三・出已不没(内凡)。第四・出已即住(声聞)。第五・観方(縁覚)。第六・浅処(菩薩)。第七・到彼岸(仏)。
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入水則没
 恒河七種の衆生の第一。華厳経には「第一の人は水に入れば則ち沈む。何を以っての故に。臝くして勢力無く、浮かぶを習わざるが故なり」と説かれている。この第一の衆生は悪友に親近し、その教えに随順して邪法を聴受するがゆえに一闡堤人なのである。ゆえに、「是くの如きは則ち一闡提と名づくるなり。一闡提とは断善根に名づく。善根を断ずるが故に、生死の河に没して出づるを得る能わず、何を以っての故に悪業重きが故に、信力無きが故なり。恒河の辺の第一人の如きなり」とある。
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一闡提人
 一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏の機縁をもたない衆生のこと。
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生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
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常没
 恒河七種の衆生のうち第一の衆生。涅槃経巻三十二では「入水則没」であるが、同三十六では「常没」と説かれている。
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出已復没
 恒河七種の衆生の第二。涅槃経巻三十二には「第二の人は、没すと雖も還って出で、出で已って復没す。何を以っての故に。信力大なるが故、則ち能く還って出て、浮かぶを習わざるが故に、出で已りて還って没す」と説かれている。詳しくは「第二の人は、意を発して生死の大海を渡らんと欲するに、善根を断ずるが故に没して出づること能わず。言う所の出とは、善友に親近すれば則ち信心を得るなり。是の信心とは、施施果を信じ、悪悪果を信じ、生死の苦・無常・敗壊を信ずるなり。是れを名づけて信と為す。信心を得るを以って、浄戒を修習す。受持し・読誦し・書写し・解説し・常に恵施を楽しみ、善く智慧を修するも、鈍根を以っての故に、復悪友に遇い、身・戒・心・慧を修習する能わずして、邪法を聴受す。或いは悪時に値い、悪国土に処して、諸善根を断ず、善根を断ずるが故に、常に生死に没す。恒河の辺の第二人の如きなり」とある。外凡の人をさす。
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又常没と名く
 涅槃経巻三十六には、第二の衆生を常没とも称している。詳しくは「善男子、我復『一闡堤等を名づけて常没と為す』と説くと雖も、復常没の一闡堤に非ざる有り。何者か是なるや。人・有の為に施・戒の善を修するが如き、是れを常没と名づく」とある。
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出已不没
 恒河七種の衆生の第三。涅槃経巻三十二には「第三の人は、没し已りて即ち出で、出でて更に没せず、何を以っての故に、身重きが故に没し、力大なるが故に出で、先より浮かぶを習うが故に、出で已りて即ち住す」と説かれている。詳しくは「第三の人は、意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、善根を断ずるが故に中に於いて沈没す。善友に親近するを名づけて出と為すことを得。如来は是れ一切智なり、常恒にして変ずること無く、衆生の為の故に無上道を説く。一切衆生悉く仏性有り。如来は滅に非ず、法僧も亦爾なり、滅壊有ること無し。一闡堤等は、その法を断ぜざれば、終に阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。要ず当に遠離して然して後乃ち得べしと信ず。信心を以っての故に常戒を修習す。戒を修習し已りて、十二部経を受持し、読誦し、書写し、解説し、諸の衆生の為に広宣流布す。恵施を楽しみ智慧を修習す。利根を以っての故に、堅く信慧に住して、心に退転無し。恒河の辺に第三人の如きなり」とある。内凡の人をさす。
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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声聞
 十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
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出已即住
 恒河七種の衆生の第四。涅槃経巻三十二には「第四の人は入り已りて便ち没し已りて還って出で、出で已りて即ち住し、住して遍く四方を観る。何を以っての故に。重きが故に則ち沈み、力大なるが故に還って出で、浮かぶを習えば則ち住す。出処を知らざるが故に四方を観る」と説かれている。詳しくは「第四の人は、意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、善根を断ずるが故に中に於いて沈没す。善友に親近するが故に信心を得、是れを名づけて出と為す。信心を得るが故に十二部経を受持し、読誦し、書写し、解脱し、衆生の為の故に広宣流布す。恵施を楽しみ智慧を修習す。利根を以っての故に、堅く信慧に住して退転無く、遍く四方を観る。四方を観るとは四沙門果なり、常河の第四人の如きなり」とある。声聞界の人をさす。
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観方
 恒河七種の衆生の第五。涅槃経巻三十二には「第五の人は、入り已りて便ち沈み、出で已りて即ち住し、住し已りて方を観、観已りて即ち去る。何を以っての故に。怖畏の為の故なり」と説かれている。詳しくは「第五の人とは、意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、善根を断ずるが故に、中に於いて沈没す。善友に親近するが故に信心を得、是れを名づけて出と為す。信心を以っての故に十二部経を受持し、読誦し、書写し、解脱し、衆生の為の故に広宣流布す。恵施を楽しみ智慧を修習す。利根を以っての故に、堅く信慧に住して心に退転無し。退転無きこと已りて即便前進す。前進とは辟支仏を謂う。能く自ら渡ると雖も、衆生に及ばず。是れを名づけて去と為す。恒河の辺の第五の如きなり」とある。縁覚界の人をさす。
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浅処
 恒河七種の衆生の第六。涅槃経巻三十二には「第六の人とは、入り已って即ち去り、浅処に即ち住す。何を以っての故に。賊の近遠を観んが故なり」と説かれている。詳しくは「第六の人とは、意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、善根を断ずるが故に中に於いて沈没す。善友に親近するが故に信心を獲得す。信心を得るが故に、之を名づけて出と為す。信心を以っての故に、十二部経を受持し、読誦し、書写し、解脱し、衆生の為の故に広宣流布す。恵施を楽しみ智慧を修習す。利根を以っての故に、堅く信慧に住して退転無し。退転無きこと已りて即ち復前進して遂に浅処に到る。浅処に到り已りて、即ち住して去らず。住して去らずとは、所謂菩薩が諸の衆生を度脱せんと欲するが為の故に、住して煩悩を観ずるなり。恒河の辺の第六人の如きなり」とある。菩薩界の人をさす。
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到彼岸
 恒河七種の衆生の第七。涅槃経巻三十二には「第七の人は、既に彼岸に至り、大山に登上りて、復恐怖無く、諸の怨賊を離れて大快楽を愛く」と説かれている。詳しくは「第七の人とは意を発して生死の大河を渡らんと欲するに、彼岸を断ずるが故に、中に於いて沈没す。善友に親近して信心を獲得す。信心を得已る、是れを名づけて出と為す。信心を以っての故に十二部経を受持し、読誦し、解脱し、衆生の為の故に広宣流布す。恵施を楽しみ智慧を修習す。利根を以っての故に、堅く信慧に住して退転無し。退転無きこと已りて即便前進す。既に前進し已りて、彼岸に到ることを得、大高山に登りて諸の恐怖を離れ、多く安楽を愛く。善男子、彼岸の山とは如来に喩え、安楽を愛くとは仏の常住に喩え、大高山とは大涅槃に喩うるなり」とある。仏をさす。
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縁覚
 辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
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菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
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一代五時
 釈尊一代五十年の説法を天台大師が説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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法蔵比丘
 阿弥陀仏が因位にあって出家修行した時の名。無量寿経巻上には、法蔵比丘は、在自在王如来という仏のもとで四十八の誓願を立てて仏道修行し成仏したと説かれている。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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四十八願
 阿弥陀仏が法蔵比丘として修行していたとき、自らの仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏によって示された二百十億の仏国土から選び取って立てた48の誓願。無量寿経巻上に説かれている。
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十方三世の仏
 「十方」は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。「三世」は過去・現在・未来。ありとあらゆる仏の意。
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一切衆生
 すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
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凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
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浄影大師
 (0523~0529)。慧遠のこと。中国・南北朝から隋代にかけての僧。敦煌(甘粛省)の人。姓は李氏。晩年に浄影寺に住んだので、浄影寺慧遠、浄影ともいう。13歳で出家し、四分律を学ぶ。建徳6年(0577)北周の武帝は斉国を攻略し、ここで儒教を重んじ廃仏を行った。この時、五百余人の僧は屈服して従ったが、慧遠は武帝を「陛下、邪法を以って人を化し、現に苦業を種ゆ。当に陛下と共に同じく阿鼻に趣くべし」(続高僧伝)と諌めた。武帝はこの諫言を容れなかったので、慧遠は西山に行き、法華経・維摩経等を誦していた。後、隋代になって仏教の再興を図る文帝に優遇され、大徳6人の1人として浄影寺に住した。著書に「大乗義章」14巻などがある。
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天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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九品の浄土
 浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、合計九ランクの往生があるという考え方。
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遇大
 大乗教に遭うこと。善導は観経疏のなかで十六観を立て、九品往生のうち上三品の衆生を大乗教に遇う機根を持っている衆生として、遇大としている。
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遇小
 小乗教に遭うこと。善導は観経疏のなかで十六観を立て、九品往生のうち中三品の衆生を小乗教に遇う機根を持っている衆生として、遇小としている。
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遇悪
 悪報に遭うこと。善導は観経疏のなかで十六観を立て、九品往生のうち下三品の衆生を正法に遭えないで悪法に遇い、一生悪業を造り非法を行う凡夫としている。これらの衆生は阿弥陀仏にすがることによって極楽往生できるとしている。この衆生は常に悪法に遇って悪行を重ねるので遇悪という。
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臨終
 人がまさに死のうとするとき。
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南無釈迦牟尼仏
 釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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千中無一
 善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
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三昧発得
 三昧に入って悟りを得ること。三昧は梵語サマーディ(Samādhi)の音写。三摩提・三摩帝とも書く。定・正定・正受・等持などと訳す。心を一所に定めて動じないことをいう。経文中に、種々の三昧が説かれている。
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 善導の観無量寿経疏4巻のことをいう。玄義分、序分義、定善義、散善義の四帖(四巻)からなる。帖は折本のこと。また、折本を数える単位として用いる。疏は経典などの注釈書のこと。
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 善導は、華厳経は二乗のための経であり、法華経・涅槃経は聖人のための経で、末代の凡夫にかなっているのは観経であると考えた。その理由づけのために、涅槃経(北本)巻三十二、巻三十六にある恒河七種の衆生の説を利用したのである。
 この恒河七種の衆生の説は師子吼菩薩が釈尊に「一切衆生に仏性があるのに何の因縁によって涅槃を得ないのか」との問いを発したのに対し、釈尊が恒河七種の衆生の譬喩をとおして衆生の機根に差別があることを述べたものである。
 さて、七種の衆生のうち第一・入水則没、第二・出已復没は「則没」「復没」とあるように恒河に沈んでいる衆生である。ゆえに常没なのである。
 没する理由は、第一の衆生は、悪友に親近し、その教えに随順し、邪法を聴受したことによる。結局、悪業重く、信心なきがゆえに善根を断じたために生死の大河から出ることができないのである。
 第二の人は、信心をしながらも鈍根のゆえに修行を全うできず、また悪友にあうゆえに善根を断じてしまうからである。
 善導は、釈尊は一代五十年の経教を説いて、この第三以下の聖人は救ったが、第一、第二の一闡提の衆生を捨ててしまったときめつけ、阿弥陀仏のみが四十八願を発して一闡提を救ってくれるのであるとの邪義を観経疏の四巻で立てたのである。

1432:08~1433:03 第四章 浄土宗の肝心を示すtop

08                                       導の云く「然るに諸仏の大悲は
09 苦なる者に於て心偏に常没の衆生を愍念す 是を以て勧めて浄土に帰せしむ 亦水に溺るる人の如く急に須く偏に救
10 うべし岸上の者何ぞ用いて済うことを為さん」と云云、 又云く「深心と言えるは即ち是れ深信の心なり、 亦二種
11 有り、一には決定して 自身は現に是れ罪悪生死の凡夫なり 曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁有ること
12 無しと深信す」又云く 「二には決定して 彼の阿弥陀仏の四十八願は 衆生を摂受したもうこと疑無く慮り無く彼
13 の願力に乗ずれば定めて往生を得ると深信す」云云、 此の釈の心は上にかき顕して候・ 浄土宗の肝心と申すは此
14 れなり、我等末代の凡夫は涅槃経の第一・第二なり、 さる時に釈迦仏の教には出離の縁有ること無し、 法蔵比丘
15 の本願にては「定得往生と知るを三心の中の深心とは申すなり」等云云、 此又導和尚の私儀には非ず、 綽禅師と
16 申せし人の涅槃経を二十四反かうぜしが・ 曇鸞法師の碑の文を見て立所に涅槃経を捨てて 観経に遷りて後此の法
17 門を導には教えて候なり、 鸞法師と申せし人は斉の代の人なり漢土にては 時に独歩の人なり、初には四論と涅槃
18 経とをかうぜしが・ 菩提流支と申す三蔵に値いて四論と涅槃を捨て観経に遷りて往生をとげし人なり、 三代が間
1433
01 伝えて候法門なり、 漢土・日本には八宗を習う智人も正法すでに過ぎて像法に入りしかば・かしこき人人は皆自宗
02 を捨てて浄土の念仏に遷りし事此なり、 日本国のいろはは天台山の慧心の往生要集此なり、 三論の永観が十因・
03 往生講の式・此等は皆此の法門をうかがい得たる人人なり、法然上人も亦爾なり云云。
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 観経疏巻一に善導がいうのに「然るに諸仏の大悲は苦なる者に於て心偏に常没の衆生を愍念す。是を以て勧めて浄土に帰せしむ。亦水に溺るる人の如く急に須く偏に救うべし。岸上の者、何ぞ用いて済うことを為さん」と。
 また同巻四に深心を釈していわく「深心と言えるは即ち是れ深信の心なり。亦二種有り。一には決定して自身は現に是れ罪悪生死の凡夫なり。曠劫より已来常に没し、常に流転して出離の縁有ること無しと深信す」と。
 またいわく「二には決定して彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもうこと疑無く慮り無く、彼の願力に乗ずれば定めて往生を得ると深信す」と。この釈の意は上に書きあらわしたとおりである。浄土宗の肝心というのはこれである。
 我ら末代の凡夫は涅槃経の第一、第二の衆生である。この末代の時には、釈迦仏の教えは出離の縁にならない。法蔵比丘の本願によって必ず往生できると知ることを三心の中の深心というのである。これまた善導が勝手に立てた義ではない。道綽禅師という人が涅槃経を二十四回講じたが、曇鸞法師の碑の文を見てたちどころに涅槃経を捨てて観経に移って、後に善導に会ってこの法門を教えたのである。曇鸞法師という人は斉の時代の人で、中国では当時、比肩する者がないほど勝れた人であった。はじめは四論と涅槃経とを講じていたが、菩提流支という三蔵に会って、四論と涅槃経を捨て、観経に移って往生を遂げた人である。
 このように、曇鸞、道綽、そして善導と三代続いて伝えてきた法門なのである。中国、日本で八宗を習学する智人も、正法時代が過ぎて像法時代に入ったので、賢明な人々は皆、自宗を捨てて浄土の念仏に移ったのはこのためである。
 日本国の浄土宗の始まりは比叡山延暦寺の慧心僧都源信の往生要集である。次には三論を学んだ永観の往生拾因、往生講式がある。これらは皆この念仏の法門を会得した人々である。法然上人もまたそれを会得した人なのである。

出離の縁
 出離は超出離脱の意で、三界六道の苦悩を離れて仏の境智に入ること。出離生死・出離解脱と同意。
―――
摂受
 仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
―――
往生
 死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
綽禅師
 (0562~0645)。道綽のこと。中国隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を承けて釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「千中無一・未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門以外の諸大乗教を捨てて浄土門に帰すべきことを説いた。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
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曇鸞法師
(0476~0542)。中国南北朝、北魏代の浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽でインドから来た訳経僧の菩提流支に会い、観無量寿経を授かり浄土教に帰した。汾州(山西省)の玄中寺に住み、平遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註(往生論註)」2巻、「讚阿弥陀仏偈」1巻等がある。
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四論
 竜樹の中論4巻、一二門論1巻、大智度論100巻、提婆の百論2巻を合わせて四論という。
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菩提流支
 生没年不明。中国・南北朝時代の訳経僧。地論宗の祖。菩提留支とも書き、道希と訳す。北インドの人。北魏の永平元年(0508)洛陽の永寧寺に住し、勅命によって勒那摩提等とともに十地経論12巻を翻訳した。他に金剛経1巻、入楞伽経10巻、仏名経12巻など、合わせて39部127巻を訳出、また曇鸞に観無量寿経を伝授し、天親の浄土論を伝訳している。
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三蔵
 ①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。
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八宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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天台山
 中国浙江省天台県の北部にある山。陳の太建7年(0557)に天台大師が天台山に入って開宗した。天台山の中に「修禅寺」「国清寺」等がある。「天台宗」「天台大師」の名称もこの山によっている。②比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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慧心
 (0942~1070)。恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。父は卜部正親。幼くして出家し天暦4年(0850)比叡山にのぼる。慈慧大師良源に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任じられた時、横川(よかわ)恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」3巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」3巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。
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往生要集
 比叡山中、横川の恵心院に隠遁していた慧心が、寛和元年(0985)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる邪義。
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三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
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永観
 (1032~1111)。平安末期、三論宗の僧。源国経の子。源信死後10余年に生まれた。洛東禅林寺の深観にしたがって剃髪した。深観は密教にくわしく、永観も灌頂を受けた。次に東大寺有慶について三論、法相、華厳などを学び、30歳の時、山城の光明山に入り、10年間、浄土教を習学した。後に東大寺別当職となる。晩年に洛東禅林寺に帰り、「往生拾因」1巻、「往生講式」1巻などを著した。寺内の薬王院に丈六の弥陀の像をつくり、壮年以前は日に一万遍、壮年以後は日に六万遍、弥陀の名号を称えたという。
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十因
 永観撰「往生拾因」のこと。称名念仏の書で、一心に称念に励めば成仏の十因を修行したことになり、極楽往生できるとしている。十因は以下のとおり。①広大善根 ②衆罪消滅 ③宿縁深厚 ④光明摂取 ⑤聖衆護持 ⑥極楽化生 ⑦三業相応 ⑧三昧発得 ⑨法身同体 ⑩随順本願。
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往生講の式
 永観撰の往生講式のこと。順次往生講式・阿弥陀講式ともいう。毎月15日、阿弥陀像の前で、極楽往生を願って開く講の儀式・作法について述べる。
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法然上人
 (1133~1212)。平安時代末期、日本浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登って功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学び、再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)(実際には讃岐)に流された。同年11月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であるとし浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛すべきだと説いた「選択集」2巻をはじめ、「浄土三部経釈」3巻、「往生要集釈」1巻等がある。
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 浄土宗の教義の肝要を善導の観経疏によって示されている。
 善導は同疏で、仏の慈悲は苦悩に沈む衆生をこそ救うことにあり、我々は無量曠劫の過去から生死流転してきた苦悩の衆生であると信ずべきであり、阿弥陀仏の四十八願によって必ず救われると深く信ぜよと教えたのである。これが浄土法門の肝心である。
 そして善導のこうした浄土法門は善導の勝手に立てた説ではなく、曇鸞、道綽と引き継いだものであり、日本においては、天台宗比叡山延暦寺の慧心僧都源信から始まり、三論宗の永観も同様の説を立て、そして法然によって立てられたものであるとの浄土宗の言い分を示されている。慧心の著書が往生要集である。慧心僧都源信はこのなかで厭離穢土、欣求浄土、称名念仏を明かし、日本の浄土宗成立に大きな影響を与えた。
 また三論宗の永観が往生拾因、往生講式を著し、さらに法然の選択集によって、日本において浄土法門は民衆の間に定着していった。
 日蓮大聖人御在世の時代には日本国中に念仏が流布しており、建長5年(1253)4月28日、大聖人の立教開宗とともに念仏無間地獄と叫ばれるや、念仏の信徒であった地頭・東条景信は大聖人を激しく憎み、御生命をもねらったのであった。また立正安国論を著され、浄土宗の邪義を破折されて諌暁されると、極楽寺別院に住んで極楽寺入道と呼ばれた念仏の強信者で、幕府の長老的存在であった北条重時によって伊豆へ配流されたのである。
 大聖人は曇鸞、道綽、善導、源信、永観、そして法然と続いて日本全国に広まり定着した浄土法門に対し、釈尊五十年の説法のなかで、最勝の法華経を謗じ、人々の生命力を蝕み、人々を無間地獄に堕としていく念仏を「無間地獄の業」と強折して念仏からの覚醒を訴え続けられたのである。

1433:04~1433:16 第五章 善導の浄土法門を破折するtop

04   日蓮云く此の義を存ずる人人等も但恒河の第一第二は一向浄土の機と云云、 此れ此の法門の肝要か、日蓮・涅
05 槃経の三十二と三十六を開き見るに 第一は誹謗正法の一闡提常没の大魚と名けたり、 第二は又常没其の第二の人
06 を出ださば提婆達多・瞿伽梨・善星等なり、 此れは誹謗五逆の人人なり、 詮する所第一第二は謗法と五逆なり、
07 法蔵比丘の 「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して 我が国に生れんと欲し乃至十念して若し生ぜずんば正覚
08 を取らじ唯五逆と誹謗正法とを除く」云云、 此の願の如きんば 法蔵比丘は恒河の第一・第二を捨てはててこそ候
09 いぬれ、導和尚の如くならば末代の凡夫・ 阿弥陀仏の本願には千中無一なり、 法華経の結経たる普賢経には五逆
10 と誹謗正法は一乗の機と定め給いたり、 されば末代の凡夫の為には法華経は十即十生百即百生なり、 善導和尚が
11 義に付いて申す詮は私案にはあらず・ 阿弥陀仏は無上念王たりし時娑婆世界は已にすて給いぬ、 釈迦如来は宝海
12 梵志として此の忍土を取り給い畢んぬ、 十方の浄土には誹謗正法と五逆と一闡提とをば迎うべからずと 阿弥陀仏
13 十方の仏誓い給いき、 宝海梵志の願に云く「即ち十方浄土の擯出の衆生を集めて我当に之を度すべし」云云、 法
14 華経に云く「唯我一人のみ能く救護を為す」等云云。
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 日蓮が云く、この往生浄土の法門を信ずる人々は、恒河の第一、第二の衆生はすべて浄土往生の機根と思っている。これが浄土の法門の肝要であろう。しかし、日蓮が涅槃経の三十二、三十六とを被見するのに、第一は誹謗正法の一闡提で、これを常没の大魚といっている。第二はまた常没と等しく、その第二の人を挙げるならば、提婆達多、瞿伽梨、善星比丘等である。これは正法を誹謗し五逆罪を犯した人である。結局、第一と第二の衆生とは謗法と五逆の人々なのである。法蔵比丘は四十八願のうち第十八願に「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲し、乃至十念して若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」といっている。この本願のとおりであるならば法蔵比丘は恒河の第一、第二の衆生を捨てられてしまっているではないか。もし善導和尚の言葉を借りていえば、末代の凡夫が阿弥陀仏の本願に頼っても、それこそ千人の中で一人も往生することができないことになる。
 これに対して、法華経の結経である観普賢菩薩行法経では五逆と誹謗正法は一仏乗の機根と定められている。それゆえ末代のためには法華経は十即十生、百即百生の教えなのである。
 善導和尚の義について弁ずるのは日蓮だけの考えではない。悲華経に説かれているように阿弥陀仏は無上念王であった時に、娑婆世界を捨てられたのである。釈迦如来はその時の大臣の宝海梵志として、この娑婆世界をとられた。阿弥陀仏、十方の仏は十方の浄土には誹謗正法と五逆と一闡提とは迎えないと誓われている。宝海梵志は五百大願の一つに「即ち十方浄土の擯出の衆生を集めて我当に之を度すべし」と誓っている。法華経譬喩品第三にいわく「唯我一人のみ能く救護を為す」と。
15   唯我一人の経文は堅きやうに候へども釈迦如来の自義にはあらず、 阿弥陀仏等の諸仏我と娑婆世界を捨てしか
16 ば・教主釈尊・唯我一人と誓つてすでに娑婆世界に出で給いぬる上はなにをか疑い候べき
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この「唯我一人」の経文は言い過ぎのように思われるが、釈迦如来の勝手な言葉ではない。阿弥陀仏や十方の諸仏が自ら娑婆世界の衆生を捨てたので、教主釈尊は「唯我一人」と誓って、この娑婆世界に出現されたのであるから、何の疑いをさしはさむ余地があろうか。

恒河
 ガンジス河のこと。
―――
誹謗正法
 謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
瞿伽梨
 梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多の弟子であり、釈尊の制止も聞かず、舎利弗や目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
―――
善星
 釈尊の出家以前の子といわれる。涅槃経巻三十三によると、出家して仏道修行に励み、十二部経を受持して四禅定を得たが、苦得外道に親近し悪見を起こした。そのうえ、釈尊に悪心を抱いたため、生きながら地獄に堕ちたという。
―――
五逆
 五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
十念
 ①増一阿含経に説かれる十種の念、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死。②光讃般若経に説かれる十念。③無量寿経・観無量寿経等浄土宗所立の十念。(諸説あり)④その他の経にも種々の十念あり。
―――
正覚
 正しい覚り。妄惑を断滅した如来の真正の覚智。成仏。
―――
普賢経
 曇摩蜜多訳。西記0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
―――
一乗の機
 一仏乗・法華経によって成仏する機根のこと。
―――
十即十生百即百生
 善導の往生礼讃の文。阿弥陀仏を念じ、その名号を称えれば、10人が10人、100人が100人とも往生できるとしている。これは邪義である。
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無上念王
 阿弥陀仏の過去世における因位の時の名。無諍念王とも書く。無上念王が法蔵如来の在世、珊提嵐国の王であった時、大臣の宝海梵志の説得によって1000人の王子とともに大菩提心を発するが、みな浄土を願い、たとえ不浄土を願っても、貧瞋癡の薄い時代を選び、一人として五濁悪世の時代を顧みることもなかった。ただ宝海梵志のみ悪世の娑婆世界に成仏を願ったため、宝蔵如来から娑婆世界に成仏を願ったため、宝蔵如来から娑婆世界に成仏し釈迦如来になるとの記莂を受けたと悲華経に説かれている。
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娑婆世界
 娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
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宝海梵志
 釈尊の過去世における因位の修行の時の名。宝蔵如来の世に、珊提嵐国の無諍念王の大臣であった宝海梵志の勧めによって無諍念王と千人の王子は宝蔵如来に帰依するが、みな浄土往生を願い、ただ宝海梵志のみが五濁の娑婆世界に成仏することを願った。それに対して釈迦如来と称すべしとの授記を与えられた。悲華経に説かれる。
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忍土
 娑婆世界のこと。娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
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 本章は、以上に述べられてきた浄土法門に対し破折を加えられる段である。
 涅槃経に説かれる第一、第二の衆生は詮ずるところ謗法と五逆の一闡提の衆生である。阿弥陀仏が因位の修行時代に法蔵比丘であった時、四十八願の誓願を立てた、無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏がいた時、王位を捨て出家した法蔵比丘は世自在王仏を師として四十八願を立て、願成就して阿弥陀仏となり西方浄土で今でも説法しているとされる。その第十八願が「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我が国に生れんと欲し乃至十念して若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」の文である。これは念仏往生願といわれる。
 この第十八願は四十八願の中心であり、念仏によって極楽浄土に救われるとの依りどころになっているのであるが、ただし「唯五逆と誹謗正法とを除く」と断られているのである。阿弥陀仏が自ら「五逆と誹謗正法」とは浄土に迎えないといっているのに、善導が阿弥陀仏のみが第一、第二の「五逆と誹謗正法」の衆生を救う、と言っているのは、でたらめとしかいいようがない。
 また悲華経に説かれているように、阿弥陀仏が因位の修行時代、刪提嵐国の無上念王であった時、大臣の宝海梵志に勘められて千人の王子とともに大菩提心を起こしたが、無上念王は浄土を選び取り、宝海梵志が五逆と謗法の人を集めて救おうと誓願を立てたのである。この宝海梵志とは釈尊の因位の時の名である。このことからわかるように阿弥陀仏は娑婆世界の衆生を捨てた仏なのである。
 さらに、釈尊の出世の本懐である法華経には「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」と説かれているように、阿弥陀仏が捨て去った末法五濁の五逆・謗法の衆生は釈尊が救済すると宣言されているのである。
法華経に云く「唯我一人のみ能く救護を為す」
 仏の主師親の三徳を表わされたのは「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」の経文である。ここで附文の辺では、仏とは釈尊をさすが、元意は日蓮大聖人であると拝される。
 阿弥陀仏は西方十万億土に住し、五逆と謗法の衆生を見捨てたのであり、大聖人は娑婆世界、そのなかでも末法の世に出現されて、この五逆と謗法の人々を救済されるのである。

1433:16~1434:15 第六章 浄土六師が謗法であることを述べるtop

16                                       ・鸞・綽・導・心・観・然等の
17 六人の人人は智者なり・日蓮は愚者なり・非学生なり、 但し上の六人は何れの国の人ぞ三界の外の人か六道の外の
18 衆生か、阿弥陀仏に値い奉りて出家受戒して沙門となりたる僧か、 今の人人は将門・純友・清盛・義朝等には種性
1434
01 も及ばず威徳も足らず、 心のがうさは申すばかりなけれども・ 朝敵となりぬれば其の人ならざる人人も将門か純
02 友かと舌にうちからみて申せども・彼の子孫等も・とがめず、義朝なんど申すは故右大将家の慈父なり、 子を敬い
03 まいらせば父をこそ敬いまいらせ候べきに・ いかなる人人も義朝・為朝なんど申すぞ、此れ則王法の重く逆臣の罪
04 のむくゐなり、 上の六人も又かくのごとし、 釈迦如来世に出でさせ給いて一代の聖教を説きをかせ給う、五十年
05 の説法を我と集めて浅深・勝劣・虚妄・ 真実を定めて四十余年は未だ真実を顕さず已今当第一等と説かせ給いしか
06 ば・多宝・十方の仏真実なりと加判せさせ給いて定めをかれて候を・ 彼の六人は未顕真実の観経に依りて皆是れ真
07 実の法華経を第一第二の悪人の為にはあらずと申さば・ 今の人人は彼にすかされて数年を経たるゆへに・将門・純
08 友等が所従等彼を用いざりし百姓等を 或は切り或は打ちなんどせしがごとし、 彼をおそれて従いし男女は官軍に
09 せめられて彼の人人と一時に水火のせめに値いしなり。
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 曇鸞・道綽・善導・慧心・永観・法然等の六人の人々は智者であるが、日蓮は愚者である。また学匠ではない。だが、この六人はどこの国の人であるのか。三界の外の人か、六道以外の衆生であるのか、あるいは阿弥陀仏に会って出家受戒して僧となった人であるのか。よもやそういうことはあるまい。
 今の人々は平将門、藤原純友、平清盛、源義朝等に比べ氏姓も、威徳も及ぶものではない。この将門らは豪胆このうえない人々だったが、朝敵となったので、これらとははるかに劣る人々からも、将門か、純友かと口々に罵られるようになったのであるが、それをかれらの子孫等も咎めようとしない。ことに、義朝などという人は右大将源頼朝の慈父ではないか。子の頼朝を敬うならばその父を敬うのが当然であるのに、いかなる人も、義朝、為朝と卑しめて言うのはどういうわけであるのか。これすなわち、王法は重くして謀叛を謀った人の報いなのである。
 上に述べた六人の人々もまた同じである。釈迦如来は世に出現せられて一代聖教を説かれた。五十年の説法を集めて、その浅深、勝劣、虚妄、真実を定められて、成道より四十余年の間、未だ真実の教えを顕さないと述べられ、法華経こそ已今当の三説に対し最勝であると説かれたのを、多宝仏、十方の諸仏も、皆是れ真実なりと証明されたのである。
 それにもかかわらず、かの六人は未顕真実の観経を依りどころにし、皆是真実の法華経を恒河七種の衆生の第一、第二のためには無益であると言ったために、今の人々は彼らに騙されて法華経を捨て、長年の間、ちょうど、将門、純友等の家臣がその命に従わなかった百姓を、あるいは切り、あるいは打擲したのと同じように横暴の限りを尽くしてきたのである。しかし、彼らを恐れて従った男女が、後に官軍に攻められて、彼らと一緒に水火の責め苦にあったように諸天の治罰を受けたのである。
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10   今日本国の一切の諸仏・菩薩・一切の経を信ずるやうなれども・心は彼の六人の心なり身は又彼の六人の家人な
11 り、 彼の将門等は官軍の向はざりし時は大将の所従・知行の地且らく安穏なりしやうなりしかども・違勅の責め近
12 づきしかば、 所は修羅道となり男子は厨者の魚をほふるがごとし、 炎に入り水に入りしなり、今日本国も又かく
13 のごとし、 彼の六人が僻見に依つて今生には守護の善神に放されて 三災七難の国となり・後生には一業所感の衆
14 生なれば阿鼻大城の炎に入るべし、 法華経の第五の巻に末代の法華経の強敵を仏記し置き給えるは 如六通羅漢と
15 云云、上の六人は尊貴なること六通を現ずる羅漢の如し。
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 今日本国の人々は一切の仏・菩薩、一切の経を信ずるようであるけれども、心は彼の六人の説に従い、身はその家臣になっている。彼の将門等は官軍が攻めてくるまでは、大将や家臣の領地も安穏のようであったが、勅命に反する者を責めるために官軍が近づいてきた時は、その地は修羅道となり、男はあたかも料理人が魚を料理するように、火に焼かれ水に入れられたのである。今日本国もまた同じようである。彼の六人の僻見によって、今生には守護の善神に捨てられて三災七難の国となり、後生には悪業の果によって皆で阿鼻大城の炎に焼かれるであろう。法華経第五の巻勧持品第十三には、末代の法華経の怨敵を仏は記されて「六通の羅漢の如し」とされているが、彼ら六人が尊貴であることは、まさに六通の羅漢のようなものである。

非学生
 学者に非ざる者。仏道を学ばず、教理に暗いもの。非学匠に同じ。
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三界
 欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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出家受戒
 僧侶になることをいう。出家は世俗の家を出て仏門に入ることをいい、受戒は納戒・作法戒ともいって、戒を受けることをいう。
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沙門
 梵語(śramana)勤足と訳す。勤とはつとめる、励む、息とはとどめる、禁止すること。善を勤め悪を息めること。出家して仏門に入り、道を修める人。僧侶・桑門・出家と同意。
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将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県の北部と茨城県の一部)に勢力をもっていたが、延長9年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県の大部分)国府を攻め、更に下野・上野両国府を占拠した。みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このため朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
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純友
 (~0914)。藤原純友のこと。平安中期の貴族。大宰少弐良範の子。承平年間(0931~0938)、伊予掾となって、瀬戸内海に横行していた海賊の追捕に加わったが、賊を平定した後、任期が終わっても帰京せず、やがて自ら海賊の棟梁となり、伊予国(愛媛県)の日振島を根拠地とし、瀬戸内近海を通る船を襲って掠奪を行った。瀬戸内海のほぼ全域にわたって勢力を伸ばしたが、天慶3年(0940)小野好古等の追捕使に敗れ、九州の大宰府に逃れた。しかし翌年、警固使橘遠保に滅ぼされた。
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清盛
 (1118~1181)。平清盛のこと。平安時代末期の武将。忠盛の長子。法号は浄海。大相国(太政大臣の唐名)と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て対抗勢力が消滅すると著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや、反平氏勢力の一掃を図った。治承3年(1179)、後白河法皇を幽閉して完全に独裁政治を行ったが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承五5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ熱病で苦悩のうちに亡くなった。
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義朝
 (1123~1160)。源義朝のこと。平安時代末期の武将。為義の長子。頼朝、義経の父。保元元年(1156)保元の乱で平清盛とともに後白河天皇方につき、崇徳上皇方についた父の為義、弟の為朝と戦って勝利し、父を斬った。乱後、平清盛の進出に不満をもち、平治元年(1160)藤原信頼と結んで挙兵した(平治の乱)。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅(清盛の邸)に移動したため、義朝は一転して賊軍となり戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
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種性
 素性と同じ。生まれつきの性質・血筋・家柄・育ち。
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朝敵
 朝廷・天皇家に敵対すること。
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右大将家
 (1174~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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為朝
 (1139~1170)源為義の八男で、13歳の時粗暴な行いにより父為義に勘当され追放された九州で勢力を張り、鎮西八郎と称した。豪勇で、弓術に長じる。保元元(1156) 保元の乱には崇徳上皇方につき、父源為義とともに兄義朝と対決する。為朝の立てた作戦が貴族の容れるところとならず、敗北を喫する。敗将となった父為義は、敵方に付いていた息子の義朝に斬られた。しかし為朝はその武勇を惜しまれたために死罪を免れ、伊豆大島へ島流しとなった。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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已今当第一
 持妙法華問答抄には「設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は『了義経によりて不了義経によらざれ』と説き妙楽大師は『縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し』と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ」(0462-08)とあり、法華経が「已今当説最為第一」の経であるとある。
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多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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加判
 公文書等に署名捺印すること。
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所従
 従者。家来。
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知行の地
 支配し。おさめている土地のこと。領地。
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修羅道
 阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。
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厨者
 厨房に立つ人。料理人。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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三災七難
 三災に「大の三災」と「小の三災」がある。「大の三災」は火災、水災、風災で、「小の三災」は穀貴(五穀の値段が高い、すなわち物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等がはやること。また、精神分裂、思想の混乱なども疫病の一つといえよう)。七難は経文により多少の差異はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、人衆疾疫の難(伝染病等がはやり、多くの人が死ぬ難)、他国侵逼の難(他国から侵略される難)、自界叛逆の難(仲間同士の争い、同士打ちをいう)、星宿変怪の難(天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする)、日月薄蝕の難(日蝕月蝕をいう)、非時風雨の難(季節はずれの暴風や強雨)、過時不雨の難(雨期にはいっても雨が降らない天候の異変)をいう。この三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにあるのである。
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後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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一業所感
 一つの業因によって感ずる所の果。また、多くの人が同一の業因によって同一の果を感ずること。共業共果ともいう。
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阿鼻大城
 阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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如六通羅漢
 法華経勧持品二十行の偈・僭聖増上慢を明かす中にある文。「白衣の与に法を説き、世に恭敬せらるること『六通の羅漢の如くならん』」
―――
六通の羅漢
 六神通を得た二乗の阿羅漢。六神通とは①天眼通、世の中のすべてのことを見通す力。②天耳通、あらゆることを悉く聞きうる力。③他心通他人の心の中をすべて読み取る力。④宿命通、自他の過去世に於ける生存の状態を悉く知る力。⑤神足通機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。⑥漏尽通。煩悩を打ち消して悟りの境地に至っていることを知る力。をいう。
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 本章は曇鸞・道綽・善導・慧心・永観・法然等の六師が謗法の人であり、彼らにだまされて法華経を誹謗し、法華経の行者を迫害する日本国の人々が今生には三災七難を受け、後生には阿鼻大城に堕すであろうと、仏法違背の罪の厳しさを述べられている。
 釈尊が法華経譬喩品第三で「今此三界・皆是我有」と説かれたように、この世界はすべて釈尊の領土である。そうであるなら浄土宗の六師も釈尊を主師親の仏と仰ぐべきであるのに、彼らは邪説を立てて人々を迷わせてきたのである。ちょうどそれは鎌倉幕府の創設者である源頼朝の父にあたる源義明も、本来であるなら頼朝の父として尊敬されるべきであるのに、朝敵であったために軽んじられているのと同じく、まして平将門や藤原純友、平清盛といった朝廷に反逆した人々のように、必ず滅びるのである。浄土宗の開祖たちは、末法の御本仏日蓮大聖人が出現されて仏勅が明らかとなった今、彼らが仏敵であることが明確となったのである。
 それにもかかわらず浄土宗を信仰する人々は、彼ら謀叛人に従ったため、朝廷の軍によって治罰された人々のように、諸天の治罰を受け、後生には無間地獄に堕ちるのであると仰せられている。
法華経の第五の巻に末代の法華経の強敵を仏記し置き給えるは如六通羅漢と云云
 末代の法華経の行者の強敵とは、勧持品第十三に説かれる三類の強敵のことである。そのなかでも第三の僭聖増上慢について「白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所と為ること 六通の羅漢の如くならん」と、その姿が述べられている。すなわち、世の人々から高僧・名僧として尊敬されている人なのである。
 日蓮大聖人御在世にあっても、極楽寺良観、建長寺道隆などは、鎌倉の人々から生き仏のように尊敬されていた。彼らは自己の世間的名声を使って権力者を動かし、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害・弾圧させたのである。
 一方、権力者にとっても、こうした高僧は、自分達の権力維持のために役立ってくれることから、彼らを擁護したのである。こうして、両者の関係はいっそう密接なものとなり、権力と宗教との癒着構造が生まれるのである。

1434:15~1435:05 第七章 法華経廻向の功徳述べるtop

16   然るに浄蓮上人の親父は彼等の人人の御檀那なり、 仏教実ならば無間大城疑いなし、又君の心を演ぶるは臣・
17 親の苦をやすむるは子なり、目ケン尊者は悲母の餓鬼の苦を救い浄蔵浄眼は慈父の邪見を翻し給いき、 父母の遺体
18 は子の色心なり、 浄蓮上人の法華経を持ち給う御功徳は慈父の御力なり、 提婆達多は阿鼻地獄に堕ちしかども天
1435
01 王如来の記を送り給いき 彼は仏と提婆と同性一家なる故なり、 此れは又慈父なり 子息なり、 浄蓮上人の所持
02 の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とならざるべき、 事多しと申せども止め畢んぬ三反人に・よませて・きこしめ
03 せ、恐恐謹言。
04       六月二十七日                    日 蓮 花 押
05   返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ。
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 浄蓮上人の御親父は、彼ら浄土宗の人々の檀那である。仏教が真実であるならば、無間大城に堕ちておられることは疑いない。また主君の心を演べるのは臣下であり、親の苦を休めるのは子である。目連尊者は悲母の餓鬼道の苦を救い、浄蔵・浄眼の二人は慈父の妙荘厳王の邪見を翻した。父母の身体は子の色心である。今、浄蓮上人が法華経を持たれた功徳は慈父の功徳となる。提婆達多は阿鼻地獄に堕ちたけれども、釈尊は、天王如来の記別を与えられた。これは、釈尊と同じ一族であったからである。浄蓮上人の場合には、慈父と子である。それゆえ浄蓮上人の所持する法華経がどうして慈父の聖霊の功徳とならないわけがあろうか。
 申し上げたいことが多いが筆を止める。この書を三度人に読ませて聴聞されるがよい。恐恐謹言。
  六月二十七日            日 蓮  花 押
  かえすがえすも駿河の人々は皆同じ心であるようにと伝えていただきたい。

檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
目犍尊者
 梵名マハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)の音写、摩訶目犍連の略称。目犍連、目連ともいう。釈尊十大弟子の一人。摩竭陀国・王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事していたが、真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。神通第一と称され、盂蘭盆経上によると、母が餓鬼道におちていたことを神通力で知るが、自分の力では救えず、釈尊に教えを乞い、供養の功徳を回向して救うことができたという。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品第六で多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。 
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餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
浄蔵浄眼
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる妙荘厳王の二子。母を浄徳夫人という。二人は雲雷音宿王華智仏について出家し、菩薩行を修して三昧を得た。のちに仏から法華経の説法を受け、母の浄徳夫人に仏所に詣でることを勧めたが、母はまず父をバラモンから救い、仏門に帰依させることを命じた。二人は種々の神変をあらわして父に見せ、仏法を信解する心を起こさせた。妙荘厳王は位を弟に譲り、夫人ならびに多くの眷属とともに出家した。この妙荘厳王は今の華徳菩薩、浄徳夫人は光照荘厳相菩薩、そして浄蔵・浄眼の二子は薬王菩薩・薬上菩薩である。
―――
邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
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功徳
 功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
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同性一家
 同種の性質でしかも縁が深いこと。同性は同じ性質、一家は同族・親族・縁が深いこと。
―――
聖霊
 使者の霊魂、なきたま、みたま。 
―――
するが
 駿河国のこと。東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
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 本章では浄蓮房の法華経への信心の功徳が、無間大城に沈む亡き父の苦を救うことを述べられている。
 浄蓮房の父は念仏を信じていたので無間大城に堕していることは疑いないが、浄蓮房の強盛な信心によって、その功徳はそのまま父の功徳となると仰せられている。
 このことは、妙法に巡りあえず、御本尊に題目を唱えることもできないで亡くなった父母であっても、子である私達の信心で追善供養できることを御教示されていると拝せる。廻向はもちろん親、親族だけでなく、一切の人々へ追善供養できるのである。それゆえ、生きている私達が純粋に信行学に励んで生命力を横溢させ、正しい信心を貫いていくことが何よりも大事であることはいうまでもない。
 最後に追伸で、駿河国の弟子檀那が異体同心の信心でいくように仰せられているのは、既に第一章で述べたように、熱原滝泉寺の迫害に対してであろう。この難は次第に拡大してやがて熱原法難となるが、この時浄蓮房が外護の活躍をしていたことを伝える御文である。 

1435~1438    新池殿御消息(法華経随自意事)top
1435:01~1436:03 第一章 阿育・阿那律の例を挙げるtop

新池殿御消息(法華経随自意事)
01   八木三石送り給い候、 今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢ん
02 ぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
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 白米450㌕をお送りいただいた。さっそく一乗妙法蓮華経の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経とただ一遍唱えました。亡くなられた最愛の御子を霊山浄土へ「成仏は決定して疑いない」との経文に任せてお送りするためである。
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03  抑因果のことはりは華と果との如し、 千里の野の枯れたる草に 螢火の如くなる火を 一つ付けぬれば須臾に一
04 草・二草.十・百・千万草につきわたりてもゆれば十町・二十町の草木.一時にやけつきぬ、竜は一渧の水を手に入れ
05 て天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候、 小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば 功徳此くの如し、
06 仏滅後・ 一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき・一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行あ
07 りき、 竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う、 六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金を仏に供
08 養し奉らんと誓はせ給いき、 かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば・ただ土の餅一・釈迦仏に供養
09 し奉りし故ぞかし、 釈迦仏の伯父に斛飯王と申す王をはします、 彼の王に太子あり阿那律となづく此の太子生れ
10 給いしに御器一つ持ち出でたり、 彼の御器に飯あり食すれば又出でき又出でき終に飯つくる事なし、 故にかの太
1436
01 子のをさな名をば如意となづけたり、 法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり、 此の太子の因位を尋ぬればうへ
02 たる世にひえの飯を辟支仏と申す僧に供養せし故ぞかし、 辟支仏を供養する功徳すら此くの如し、 況や法華経の
03 行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり。
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 そもそも、因果の道理は、華と果とのようなものである。千里の野の枯れた草に螢火のような火を一つでも点けると、忽ちに一草・二草・十草・百草・千草・万草に燃え広がって、十町・二十町の草木は一時に焼き尽くしてしまう。竜は一滴の水を手に入れて天に昇ると、三千世界に雨を降らすのである。小善ではあるけれども、法華経に供養するならば、功徳はこのように大きいのである。
 仏の滅後百年という時に、インドに阿育大王という王がおられた。一閻浮提・八万四千の国の四分の一を支配していた。竜王を従え、鬼神を召し使っていた。六万の阿羅漢を師として、八万四千の石塔を建て、十万億の金を供養しようと誓われた。このような大王であるが、その過去世における因位の功徳を尋ねると、ただ土の餅一つを釈迦仏に供養したためである。釈迦仏の伯父に斛飯王という王がおられた。その王に太子がおり、阿那律といった。この太子は生まれる時に御器を一つ持って生れた。その御器に御飯が入っていて、食べるとまた出てきて、また出てきてと、いつまでも御飯が尽きることがなかった。ゆえにこの太子の幼名を如意と名づけたのである。法華経によって仏になられた普明如来がこれである。この太子の過去世の因位を尋ねると、昔飢饉の世に稗の飯を辟支仏という僧に供養したためである。辟支仏を供養した功徳でさえこのとおりである。ましてや法華経の行者を供養された功徳は、無量無辺の仏を供養される功徳よりも勝れているのである。

八木
 米のこと。「はちぼく」とも読む。「米」という字が「八」と「木」の組み合わせからなるのでこのようにいわれた。
―――
霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
決定無有疑
 神力品総結の文「我が滅度の後に於いて、斯の経を受持すべし、是の人仏道に於いて、決定して疑あることなけん」とある。御本尊を受持するならば、仏になること疑いないとの御文である。
―――
須臾
 時の量、斬時、刹那、瞬間。
―――
三千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
月氏国
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
阿育大王
 前三世紀頃の人。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。幼時より凶暴で戦を好んだが、自ら行なった殺戮の跡を眼のあたりにして改心し、以後は武力による統治をやめ、仏教の慈悲の精神をもとにした法による統治に専念した。さらに、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。第三次の仏典の結集を行ない、五年ごとに大会を設けて教法の義理を論議させた。また、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
―――
土の餅
 付法蔵経等によると、王舎城で乞食行をしていた釈尊に、徳勝童子と無勝童子という二人の童子が砂の餅を供養した。徳勝童子が供養し、無勝童子は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝童子は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
竜王
 竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
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鬼神
 鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
―――
羅漢
 阿羅漢のこと。声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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斛飯王
 迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もある。
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阿那律
 梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿㝹樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失明したという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗の飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とある。
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ひえ
 イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
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普明如来
 五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。
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辟支仏
 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。有仏の世には十二因縁の理を観じて断惑証理し、無仏の世には性寂静を好み、師友なく、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
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 本抄は、弘安2年(1279)5月2日、日蓮大聖人が聖寿58の御時、身延で著され、新池左衛門尉に与えられた御消息である。新池殿が、亡くなった一子の追善供養のため、米三石を供養したことに対する御返事である。
 本抄をいただいた新池殿については、詳しいことはわかっていないが、遠江国磐田郡新池(静岡県袋井市)に住む、鎌倉幕府直参の武士であったといわれている。日興上人によって入信し、妻の新池尼とともに純真な信心を貫いていたようである。日亨上人の富士日興上人詳伝には「興師は富士下方弘教の余勢をもって興津にも飛ばれ、遠くは遠江国袋井在の新池家にもおもむかれ、弘安2年(1279)秋の熱原法難(下方法難)の時、一時同家に滞在せられたことありと判ずる」と述べられている。
 内容は、はじめに、新池殿が遠州から身延の日蓮大聖人のもとにお米を御供養申し上げたのに対し、阿育大王や阿那律の例を引き、法華経供養の功徳を述べられている。次に、インド、中国、日本と三国の仏法流布の相について説かれ、日本において一国謗法となり、阿弥陀仏を本尊としている現状や、日蓮大聖人に敵対し、重ねて大難を加えている事実を述べられている。さらに法華経の行者としての御確信と、法華経の行者なるがゆえに難を受けるのであると、その理由について明かされている。最後に、新池左衛門尉が険難の道を越えて、はるばる身延の大聖人のもとを訪れたことは、大変に宿縁の深いことであると、その志をほめられ、激励されている。
 本章では、仏への供養が大であることを、因果の道理の面から述べられている。まず、因果の理は華と果のようなものであると仰せられている。因が華、果が果であることはいうまでもないが、因を作れば必ず果が生ずるということと拝される。さらに法華経の正法への供養は、小さな因でも大きい果がもたらされることを草原の火と水を得た竜の例を用いて示されている。新池殿の場合でいえば「蛍火の如くなる火」、「一渧の水」が「八木三石」である。「十町・二十町の草木」が一時に焼け尽きること、「三千世界」の雨が果にあたる。この場合の果とは、成仏であることは当然だが、現実のうえに顕れる果報の意でもある。すなわち、新池殿の供養の志がやがて成仏という大功徳とともに、日常生活のうえでも厳然たる功徳という果を得るのは疑いないという意味で仰せになっている。
 小さな善行が、その対象のすぐれるゆえに大きい果報をもたらした例として挙げられているのが、阿育大王と阿那律の話である。阿育大王は過去世、徳勝童子であった時に、土の餅を釈尊に供養した功徳で阿育大王に生まれ、阿那律は過去世において辟支仏に稗の飯を供養した功徳で、太子と生まれ、しかも飯が絶えることがない器を持って生まれたという。これらの例で供養した物はいずれも土の餅、稗の飯といった、貧しい物にすぎない。しかし、そこに込められた真心が純粋であったのと、その対象が仏であり辟支仏であったゆえに大きい功徳を生じたのである。
 阿育は供養の功徳により、大王となった。また、阿那律は経済的に困らない暮らしを得たといわれる。新池殿も、この例のごとく、諸天に守られるであろうと、確信をもったにちがいない。しかも、功徳はそれにとどまらない。阿育大王は、過去世の功徳で大王と生まれる果報を得たことで満足して終わることなく、仏法を守り、供養の誠を続けた、また、阿那律は太子として出生した果報をさらに仏の弟子となることに広げた結果、ついに普明如来の授記を得るまでに至るのである。大聖人がこの例を挙げられているのは、功徳の果報もさることながら、それで満足することなく、さらに信心を倍増させて、大聖人一門を外護して、功徳をさらに積むべきこと、そこに成仏という究極の目的が達せられることを教えられているのである。しかも、新池殿が供養した相手のお方は、釈尊や、まして辟支仏よりはるかに勝れた法華経の行者、すなわち末法の御本仏であられる。供養の品物も三石の米であり、稗の飯や、まして土の餅よりずっと素晴らしい物である。その功徳の比較にならないことはいうまでもないのである。

1436:04~1437:05 第二章 日本国の仏教の迷乱を挙げるtop

04   抑日蓮は日本国の者なり、此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり・十六の大国・五百の中国・十千
05 の小国・無量の粟散国あり、 其の中に月氏国と申す国は大国なり、 彼の国に五天竺あり、其れより東海の中に小
06 島あり日本国是なり、 中天竺よりは十万余里の東なり、 仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとどまりて余国
07 にわたらず、正法一千年の末・像法に入つて一十五年と申せしに漢土へ渡る、 漢土に三百年すぎて百済国に渡る、
08 百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに・人王三十代・ 欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像
09 と一切経は渡りて候いき、 今七百余年に及び候、其の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり、宗は八宗・九宗・十
10 宗なり、国は六十六箇国・二つの島・神は三千余社・仏は一万余寺なり、 男女よりも僧尼は半分に及べり、仏法の
11 繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまされり。
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 そもそも日蓮は日本国の者である。この国はといえば、南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国がある。その中に十六の大国、五百の中国、十千の小国・無量の粟散国がある。その中にあってインドという国は大国である。このインドの国は五天竺に分かれている。そのインドから東の海の中に小島がある、日本国である。中インドからは十万余里も東である。
 仏教は、仏の滅度後正法千年の間はインドに止まって、他国へは渡らなかった。正法千年の後、像法に入って十五年という時に、中国へ渡った。中国において三百年過ぎて百済国へ渡った。百済国において百年過ぎ、仏滅後千四百十五年という時、人王三十代欽明天皇の御代に、日本国に初めて金銅の釈迦仏像と一切経とが渡ったのである。以来今日まで七百余年が経過した。この間に渡ってきた一切経は五千余巻、あるいは七千余巻であり、宗派は八宗、九宗、十宗である。この国は六十六箇国と二つの島があり、神社は三千余社、仏閣は一万余寺がある。僧尼の数は男女の人口の半分にも及んでいる。仏法の繁盛は中国よりも勝れ、インドよりも勝っている。
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12   但し仏法に入つて諍論あり、浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし・真言の人人は大日如来を本尊とす・禅宗の人
13 人は経と仏とをば閣いて達磨を本尊とす、 余宗の人人は念仏者・ 真言等に随へられ何れともなけれども・つよき
14 に随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり、 現在の主師親たる釈迦仏を閣きて 他人たる阿弥陀仏の十万億の他
15 国へにげ行くべきよしを・ねがはせ給い候、 阿弥陀仏は親ならず主ならず師ならず、されば一経の内・虚言の四十
16 八願を立て給いたりしを・ 愚なる人人実と思いて物狂はしく 金拍子をたたきおどりはねて念仏を申し親の国をば
17 いとひ出でぬ、 来迎せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず・ 中有のたびの空に迷いて謗法の業にひかれて
18 三悪道と申す獄屋へおもむけば・獄卒・阿防・羅刹悦びをなし・とらへからめてさひなむ事限りなし、これをあらあ
1437
01 ら経文に任せてかたり申せば・日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・ 某一人を不思議なる者
02 に思いて余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、 主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、 かへ
03 りて或はのり或はうち或は処を追ひ 或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、 貧なる者は富めるをへつらひ賎き者
04 は貴きを仰ぎ 無勢は多勢にしたがう事なれば、 適法華経を信ずる様なる人人も 世間をはばかり人を恐れて多分
05 は地獄へ堕つる事不便なり、
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 ただし仏法のなかに諍論がある。浄土宗の人々は阿弥陀仏を本尊とし、真言宗の人々は大日如来を本尊とし、禅宗の人々は経文と仏とをば閣いて達磨大師を本尊としている。余宗の人々は念仏者や真言師等に随えられて、いずれということもないけれども、勢いの強いのに随い、数の多いのに押されて、阿弥陀仏を本尊とし、現在の我らの主師親である釈迦仏を閣いて、他人である阿弥陀仏の西方十万億土の他国へ逃げていこうと願っている。阿弥陀仏は親でもなく、主でもなく、師でもない。ただ一つの経で虚言の四十八願を立てられたのを、愚かな人々は真実と思って、気が狂ったように、鉦拍子をたたき、踊り跳ねて念仏を称え、親の国を厭って出たものの、迎えにくるという約束をした阿弥陀仏の約束の人はきてもくれず、中有の旅の空に迷って、謗法の業に引かれて三悪道という獄屋へ赴けば、獄卒・阿防羅刹は喜んで、捉え搦めて、限りなく責めさいなむのである。
 このことをあらあら経文にしたがって語ったところ、日本国の男女は四百九十九万四千八百二十八人いるが、日蓮一人のみを不思議な者と思って、他の四百九十九万四千八百二十七人は皆敵となって、主師親たる釈尊を用いないことでさえ不思議なのに、釈尊の金言のままに法を説く日蓮を、かえってあるいは罵り、あるいは打擲し、あるいは追放し、あるいは讒言して流罪、死罪に行ったのである。ゆえに、貧しい者は富める者に諂い、賎しい者は貴い者を仰ぎ、無勢は多勢に従うことが世の習いであるので、たまたま法華経を信ずるような人々も、世間を憚り、人を恐れて退転し、多くは地獄へ堕ちる事は不憫なことである。

由旬
 梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
―――
粟散国
 粟粒をまいたように散在する小国のこと。大国と比較して、小さな国々をさしていう。仁王経巻上によると、十善戒のうち、中品と下品を修した者の功徳は、粟散国の王として生まれるという。
―――
五天竺
 インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
―――
正法一千年
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時の1000年間。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
百済国
 古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
―――
欽明天皇
 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
五千余巻
 釈尊が一代50年に説いた一切の経のこと。大蔵経の巻数は5048巻ともいわれている。数の出処は、唐の西崇寺の僧・智昇が開元18年(0730)が編集した開元釈教録による。
―――
七千余巻
 貞元釈教録に収められている大蔵経の巻数。唐の円照が貞元16年(0800)に、先の開元釈教録を模範として撰出して貞元釈教録、7388巻とした。
―――
八宗・九宗・十宗
 八宗とは、日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
―――
六十六箇国・二つの島
 琉球及び北海道を除き壱岐・対馬の2島と日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。
―――
神は三千余社
 日本の国の神社の総数。平安中期に藤原忠平等が編修した延喜式(九六七年施行)五十巻中、第九、第十巻を神名帳といい、そこに、宮中及び全国に鎮座する神が「新年祭神三千一百卅二座」と記されている。
―――
浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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大日如来
 大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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達磨
 禅宗の初祖。菩提多羅のこと。のちに般若多羅より法を受け、菩提達磨の名を授けられた。般若多羅は、かれの滅後67年に震旦に行って弘法せよと、達磨に游化を許したので、梁の普通元年、中国に入り、武帝に謁見したが受け入れられず、崇山少林寺に寓して壁に向かって坐禅したので、人々は彼を壁観婆羅門と呼んだ。大通2年に死去。唐の代宗は円覚大師とおくり名した。
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主師親
 一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
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四十八願
 阿弥陀仏が法蔵比丘として修行していたとき、自らの仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏によって示された二百十億の仏国土から選び取って立てた48の誓願。無量寿経巻上に説かれている。
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金拍子
 金は鉦のこと。たたきがね、ふせがねをいう。念仏宗では鉦をたたき、拍子をとりながら念仏を称えた。また踊りながら念仏を称えることもあった。
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中有
 中有は生・本・死・中の四有の一つ。欲界色界の有情が誕生してから次の誕生を迎えるまでの過程を四種に分けた第四で、死の瞬間から次の誕生を迎えるまでの期間をさす。中陰ともいい、人の死後、49日間の称。
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三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して琰魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を剝ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
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阿防・羅刹
 阿防は獄卒のことで阿坊、阿旁とも書く。牛頭(ごず)にして手は人、足は牛蹄を持ち、力が強く性格は凶暴でその恐ろしさは羅刹のようなので、阿防羅刹という。
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四十九億九万四千八百二十八人
 ここで使われている〝億〟は現在の十万にあたる。したがって、日蓮大聖人御在世当時の日本の総人口としてあげられている人数は、四百九十九万四千八百二十八人ということになる。この数値の出所については明らかでない。
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 最初に仏法伝来の経過を述べられ、インドから中国、日本と長い時を経て仏法が渡ってきたが、その日本において仏法はかつてなく繁盛しているようにみえる。しかし、その内容は迷妄の極みにあり、大日如来を本尊とする真言宗や阿弥陀如来を本尊とする念仏宗、また仏も経も不要と説く禅宗が国中に広まっていたのであった。そうしたなかで、とくに念仏が優勢を占めていたことから、大聖人は念仏を破折されている。
 釈尊がこの娑婆世界に出現された仏であることは明確である。しかも法華経譬喩品第三に「今此の三界は 皆是れ我が有なり(主徳) 其の中の衆生は 悉く是れ我が子なり(親徳) 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す(師徳)」とある。また、如来寿量品第十六にも「常に法を説いて 無数億の衆生を教化して(師徳)……我が此の土は安穏にして(主徳)……我も亦た為れ世の父(親徳)」と明言されている。これに対して、阿弥陀は西方十万億土の仏である。娑婆世界に住む衆生がどちらを重んじるべきかはおのずから明らかなはずであるのに、この土の主師親を捨てて、他方の仏を恋慕しているのが末法の衆生なのである。
 しかも、法然の教えに従っていては極楽浄土に往生することは不可能であることが、その四十八願中の第十八願自体からも明らかである。法蔵比丘の第十八願には、阿弥陀仏を念じても往生浄土がかなわない場合として、五逆と誹謗正法を挙げている。仏の教えを誹謗するような者には浄土往生はかなわないとしているのである。ところが、浄土宗の祖・法然は法華経を含む他の経典をすべて「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と誹謗しているのである。浄土往生がかなうはずがない。しかし法華経譬喩品第三には「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば……その人は命終して 阿鼻獄に入らん」と、無間地獄に堕ちると定められているのである。
 それを知らずに、踊り念仏などに狂奔している衆生こそ哀れである。阿弥陀の来迎があるはずであるのに、ないばかりか、「獄卒・阿防・羅刹」が喜びをなして来迎し、三悪道に赴かなければならないのである。悲惨という以外ない。現世を「いとひ出で」ても、更に深い苦の連続を味わうのみなのである。また、ここで仰せのように、現在の境遇を厭う生きかたは、人生の生命力を奪い、死後のみでなく、現世においても社会から活気を失わせる魔の働きをするのである。
 大聖人は人々のためにこのことを訴えられているのに、かえって人々は「貧なる者は富めるをへつらひ賤しき者は貴きを仰ぎ無勢は多勢にしたが」って、大聖人に迫害を加えたのである。大聖人は当時の世間で賤しいとされた貧しい漁師の出であられ、また、権力者とはなんのつながりもない「無勢」の立場であられた。他宗の僧は「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり(権閨)女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし」(0322-12)と仰せのように、自らの邪義を覆い隠すために、権力者にとりいって、その傘のもとで、大聖人を迫害したのである。その僧達にたぶらかされて力を添え、迫害をもたらす衆生はいうまでもなく、大聖人の教えに心を寄せながら、大勢に順応して、信心することをはばかっている人々もまた、堕地獄の因を作っているのであり、不憫なことこのうえないと哀れんでおられるのである。

1437:05~1438:05 第三章 法華経が随自意の経であると示すtop

05               但し日蓮が愚眼にてや・あるらん又宿習にてや候らん法華経最第一・ 已今当説難信
06 難解・ 唯我一人能為救護と説かれて候文は如来の金言なり敢て私の言にはあらず、 当世の人は人師の言を如来の
07 金言と打ち思ひ・或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ・或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり、 し
08 かるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり、 譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す・ 親の心に子の随う
09 をば随自意と申す、 諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、 法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に
10 随へたり、 諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、 法華経は仏説なり仏智なり一字一点
11 も 是を深く信ずれば我が身即仏となる、 譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆に白き物を入るれば白くなるが
12 如し毒薬変じて薬となり 衆生変じて仏となる故に妙法と申す、 然るに今の人人は高きも賎きも 現在の父たる釈
13 迦仏をばかろしめて他人の縁なき阿弥陀・ 大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失にあらずや・是れ謗法の人にあらず
14 や、と申せば日本国の人・一同に怨ませ給うなり、 其れもことはりなり・まがれる木はすなをなる繩をにくみいつ
15 はれる者はただしき政りごとをば心にあはず思うなり。
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 ただし日蓮の認識が愚かであるのか、また過去の宿習であろうか、「法華経は最も第一の経である」、「已に説いた四十余年の経々、今説く無量義経。当に説こうとする涅槃経の中で、法華経が最も信じ難く解し難い経である」、「唯我一人のみが能く救護をする」と説かれている文は、如来の金言であり、決して私の言ではない。そうであるのに、今の人は人師の言を如来の金言と思い、あるいは法華経に肩を並べて同等と思い、あるいは勝れていると思い、あるいは劣っているけれども衆生の機根に適っていると思っている。しかるに、如来の聖教に随他意と随自意ということがある。たとえば、子供の心に親の随うのを随他意といい、親の心に子供が随うのを随自意というのである。諸経は随他意である。仏が一切衆生の心に随って説かれたからである。法華経は随自意である。一切衆生を仏の心に随わせて説かれたからである。ゆえに、諸経は仏説ではあるけれども、これを信ずるならば、衆生の心に随ったものであるから、永久に仏にはなれない。法華経は仏説であり仏智であるから、一字一点でもこれを深く信ずるならば、我が身は即仏となる。たとえば、白紙を墨で染めると黒くなり、黒漆に白い物を入れると白くなるようなものである。毒薬が変じて薬となり、衆生が変じて仏となる、ゆえに妙法というのである。
 しかるに、今の人々は、貴い者も賎しい者も、現在の父である釈迦仏を軽んじ、他人であり縁もない阿弥陀仏や大日如来等を重んじるのは、これ不孝の者ではないか、これ謗法の人ではないか。このように言えば、日本国の人は一同に怨むのである。それも道理である。曲がった木は真っ直ぐな墨繩を憎み、偽る者は正しい政治を快く思わないようなものである。
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16   我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり、所謂大山の王子・大石の小丸・乃至将門すみとも悪左
17 府等なり、 此等の人人は吉野とつ河の山林にこもり筑紫・鎮西の海中に隠るれば・島島のえびす浦浦のもののふど
18 もうたんとす、然れどもそれは貴き聖人・山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし、日蓮をば上
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01 下の男女・尼・法師貴き聖人なんど伝はるる人人は殊に敵となり候、 其の故はいづれも後世をば願へども男女より
02 は僧・尼こそ願ふ由はみえ候へ、 彼等は往生はさてをきぬ今生の世をわたるなかだちとなる故なり、 智者聖人又
03 我好我勝たりと申し・本師の跡と申し・所領と申し・名聞利養を重くして・まめやかに道心は軽し、仏法はひがさま
04 に心得て愚癡の人なり、 謗法の人なりと言をも惜まず人をも憚らず、 当知是人仏法中怨の金言を恐れて我是世尊
05 使処衆無所畏と云う文に任せていたくせむる間・未得謂為得・我慢心充満の人人争かにくみ嫉まざらんや。
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 我が国の人王九十一代の間に謀叛を起こした人々は二十六人である。いわゆる大山の王子、大石の小丸、平将門、藤原純門、藤原頼長等である。これらの人々は、吉野山や十津河の山林にこもり、筑紫や鎮西の海中に隠れると、島々の者や浦々の武士どもが討とうとした。しかしながら、貴き聖人や、山々寺々社々の法師や尼や、女人はとくに敵と思うことはなかった。ところが、日蓮となると、国中の上下の男女や尼や法師や貴き聖人などといわれる人々は、とくに敵となるのである。
 そのゆえは、どのような人達でも後生を願うけれども、在家の男女よりは僧尼のほうが願いが強いようにみえる。彼らは未来の往生ということはさておき、今生の世を渡る仲立人となるからである。智者聖人はまた「自分は正しい」「自分は勝れている」と言い「本師の跡を継いでいる」と言い、所領がどうのと言って、名聞利養を求める心ばかり重く、真面目な求道心は軽い。ゆえに、彼らに向かって「仏法を間違って心得ている愚癡の人である」「謗法の人である」と、言葉も惜しまず、人をも憚らず、涅槃経の「当に知るべきである。この人は仏法の中の怨である」という金言を恐れ、法華経勧持品の「我は世尊の使いである。大衆の中にあって畏れる所はない」という文に従って強く責めたものであるから、法華経勧持品にあるように「未だ会得していないのに会得したと謂い、我慢の心が充満している」人々は、どうして憎み妬まないでいられようか。

宿習
 宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
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随自意
 随他意に対する語。仏の内証の悟りをそのまま説き示すをいう。権実相対する時は、権経は随他意、法華経は随自意、本迹相対する時は、迹門は随他意、本門は随自意、種脱相対する時は文上脱益の法華経は随他意、文底下種の南無妙法蓮華経は随自意となる。
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随他意
 仏が衆生の機根や能力などに随って説法し、次第に真実の法門に誘因する方法。
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仏智
 一切の事理に通じた仏の智慧のこと。最高・無上の智慧をいう。一切種智のこと。
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大山の王子
 生没年不明。大山守皇子のこと。第十五代応神天皇の皇子で、菟道稚郎子皇子の庶兄。日本書紀巻十一等によると、菟道稚郎子皇子を皇太子に立て、自身を山川林野の管掌にあてたことに不満を抱き、翌年応神天皇が崩御すると、密かに弟の殺害をはかったが、密計がもれて逆に殺害された。日本の初の謀反の者といわれる。
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大石の小丸
 生没年不明。日本書紀巻十四の第二十一代雄略天皇13年八8月の条にある播磨国(兵庫県)御井隈の人・文石小麻呂のことを、鎌倉時代には大石の小丸と誤伝していたらしい。日本書紀では暴虐で商客の船を奪い取り、法を犯して租税を納めなかったので討伐されたと記されている。
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将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
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すみとも
 (~0941)。藤原純友のこと。平安中期の貴族。大宰少弐良範の子。承平年間(0931~0938)、伊予掾となって、瀬戸内海に横行していた海賊の追捕に加わったが、賊を平定した後、任期が終わっても帰京せず、やがて自ら海賊の棟梁となり、伊予国(愛媛県)の日振島を根拠地とし、瀬戸内近海を通る船を襲って掠奪を行った。瀬戸内海のほぼ全域にわたって勢力を伸ばしたが、天慶3年(0940)小野好古等の追捕使に敗れ、九州の大宰府に逃れた。しかし翌年、警固使橘遠保に滅ぼされた。
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悪左府
 (1120~1156)。藤原頼長のこと。平安時代後期の公卿。左大臣。従一位。悪左府は通称。左府は左大臣の唐名。関白藤原忠実の2男。母は藤原盛実の娘。養女多子を入内させ、近衛天皇の皇后とし、久安5年(1149)左大臣に進んだ。同六年、父の庇護で兄忠通のもっていた氏長者の地位を得、同7年(1151)内覧の宣旨を受け、その勢いは、兄関白忠通を超えるものがあった。しかし近衛天皇崩御に際し、天皇への呪咀の嫌疑によって鳥羽法皇の信任を失い、内覧を停止された。鳥羽法皇崩御の直後、崇徳上皇と結び保元元年挙兵したが、戦に敗れ、流矢による傷が悪化して死んだ。学を好み、博識多才で聰明であったが、諸事に峻厳であり、他人の過ちに対する処置が厳しかったため、悪左府といわれた。著作に日記『台記』がある。天台座主で『愚管抄』を著した慈円は甥にあたる
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吉野
 奈良県南部の山岳地帯で吉野川・十津川の上流にあたる。古くから桜の名所、景勝地として名が高く、離宮がおかれ、しばしば天皇の御幸があった。修験道の修行場であり、山岳信仰の地となっている。
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とつ河
 奈良県吉野郡を流れる川。都から遠いという意味で、遠都川・遠津川・十津川といったという。十津川郷は、紀伊の山々に囲まれた十津川流域にあって、隔絶の地であり、平安時代から鎌倉時代以後まで、落人が隠れ住んだ所として知られる。
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筑紫
 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
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鎮西
 九州の別称。天平15年(0742)太宰府を鎮西府としたことから、九州全体をいうようになった。
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後世
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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今生
 今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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なかだち
 媒介者・仲介者。二人の間に立って事を取り持つ人。
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 法華経こそ最も勝れた経であり、釈尊こそ我々衆生にとって主師親であることは「私の言」ではなく「如来の金言」によって明らかである、と仰せられ、経文を引かれている。法華経が最も勝れることをあらわしているのが法師品第十の「法華最第一」と「已今当説難信難解」の文であり、釈尊が主師親であることを宣言しているのが譬喩品第三の「唯我一人能為救護」の文である。
 このように経文に明らかに説かれているというのは自分の眼がどこかおかしいのであろうかと「日蓮が愚眼にてや・あるらん」と仰せられるのである。もとより経文は眼前にあり、それを認めない世間の諸宗の人々こそ「愚眼」であることは明らかである。
 また「宿習にてや候らん」と仰せられているのは、この仏説を人々に教えなければならない身になったことは過去の宿習によるのだろうかとの御心と拝される。諸法実相抄に「法華経の行者となる事は過去の宿習なり」(1361-08)と述べられている。
 教義の勝劣・正邪について論争をするには、仏の経文によって行う以外にない。人師の文を引いたのでは、水かけ論になるのみだからである。大聖人は、天台大師や伝教大師の文は傍証として引かれることはあっても、あくまでも、経典を原点とした引証から論を進められている。諸宗との論争にあたっても、その立場を貫いておられる。諸宗の僧は、人師の言を繰り返すだけであり、そこに我見を加えて、法華経を誹謗しているのである。
 「法華経に肩を並べて斉(ひと)しと思ひ」とは、大日経と法華経とは理において同じであるとした中国真言宗の祖の一人・善無畏の義、また、法華経を受持する天台宗の立場でありながら、その思想を取り入れた天台真言(台密)などである。「或は勝れたり」とは、法華経を戯論とけなした日本真言の空海弘法の邪義が代表的である。「或は劣るなれども機にかなへりと思へり」とは、法華経等は勝れているが凡夫にとっては不適で法華経を修行しても千人のうち一人も得道する人はいない、凡夫は称名念仏をすべきで法華経などは捨てよと説いた浄土宗の法然の邪義である。
 とくに法華経より念仏のほうが衆生の機にかなっているとの言い分を打ち破るために、大聖人は随自意・随他意という問題を述べられるのである。随自意の「自」とは、仏をさす。随他意の「他」は衆生である。随自意とは、仏の悟りにしたがって説かれた教えをいう。随他意とは衆生の意楽にしたがって説かれた教えである。法華経は随自意であり、諸経は随他意の経なのである。浄土の経典は随他意の教えであるから機根に合っているようにみえる。しかし、それを信じ行じても衆生はなんの成長、向上も得られないのである。大聖人はその道理を、子を従える親と子に従う親の例をあげて教えられている。随他意は子に合わせているのであるから、子にとっては親しみやすく理解しやすい。しかし、子にとってはなんの成長ももたらされない。随自意は親が自分の心に子を従わせようとしたものである。子はそれに従うことによって成長することができるのである。
 法華経説法の第一声が、方便品第二の冒頭にあるように、無問自説の形をとっていることは、まさに仏の随自意の法門であることを象徴的にあらわしているのである。それに対し爾前の経々は衆生の機根に合わせた説法であるから、衆生にとっては理解しやすくとも、「衆生の心」を出ないのであるから、成仏できないのである。
 そして、一切衆生を成仏させようとするところに仏の慈悲があり、主師親たる所以がある。この仏の慈悲に背き、随他意の経に執着するのみならず、主師親たる釈迦仏をさげすむのは、まことに親不孝といわなければならないし、法華経に背いているのは謗法の重罪といわなければならない。
 一往の辺でいえば、この迷いから目覚めさせようとして折伏を行じられたのが日蓮大聖人であるが、その大聖人を、人々は激しく怨嫉し、迫害を加えたのであった。なかでも、僧や尼が感情的になって迫害するのである。彼らは出家であるから、在家の人々よりも、後世を願っているように思われるが、決してそうではない。かえって今世の生活処方に対する執着は強いのである。修羅の命で自我ばかりが強く、後継者争いであるとか、土地の所有に狂奔している。大聖人はその姿を「名聞利養を重くして・まめやかに道心は軽し」と痛烈に指摘されている。宗教者が宗教心で行動するのでなく、利害で行動し、その執着心はかえって俗人よりも強い。仏法については我見をもとにして歪めて理解しているのみで愚癡なのである。しかも、外面的には人々の尊敬を集めているから、それを利用して感情的に策略をめぐらせてくるのである。
 それに対して大聖人は、謗法を責めないのは仏法のなかの怨であるとの戒めに従い、世尊の使いであるとの金言のもと、「言をも惜まず人をも憚らず」に折伏を貫かれたのである。増上慢、我慢の人々が迫害を加えてくることは覚悟のうえの大慈悲心であられた。

1438:16~1438:17 第四章 険路の中の参詣の志を讃えるtop

06   されば日蓮程天神七代・地神五代・ 人王九十余代にいまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者な
07 きなり、 かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に・此れまで御渡り候いし事・おぼろげの縁にはあらず宿世の父
08 母か昔の兄弟にておはしける故に思い付かせ給うか、 又過去に法華経の縁深くして 今度仏にならせ給うべきたね
09 の熟せるかの故に・在俗の身として世間ひまなき人の公事のひまに思い出ださせ給いけるやらん。
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 されば、天神七代、地神五代、人王九十余代の間に、未だかつて日蓮ほど法華経のために、三類の強敵に怨まれた者はいない。
 このように、日本国の上下万人一同の憎まれ者であるのに、この身延山まで訪ねてこられたことは、浅い縁ではない。前世の父母か、昔の兄弟であったゆえに、思いつかれたのであろうか。また過去に法華経との縁が深くて、今度仏になるべき種が熟したゆえに、多忙な在家の身として、公務の暇に思い出されたのであろうか。
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10   其の上遠江の国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり、 宿宿のいぶせさ・嶺に昇れば日月をいた
11 だき・谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ、 河の水は矢を射るが如く早し・大石ながれて人馬むかひ難し、船あやうくし
12 て紙を水にひたせるが如し、 男は山かつ女は山母の如し、道は縄の如くほそく・木は草の如くしげし、 かかる所
13 へ尋ね入らせ給いて候事・ 何なる宿習なるらん、 釈迦仏は御手を引き帝釈は馬となり梵王は身に随ひ日月は眼と
14 なりかはらせ給いて入らせ給いけるにや、 ありがたしありがたし、 事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく
15 候間留め候い畢んぬ。
16       弘安二年己卯五月二日                         日蓮花押
17     新池殿御返事
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 そのうえ、遠江国から甲斐国波木井の郷身延山まで、道のりは三百余里に達する。道中の宿々は心もとない。嶺に登れば日月をいただき、谷へ下れば穴に入るかと思われる。河の水は矢を射るように早く、大石が流れて人馬が渡ることができない。船も紙を水に侵したように危ない。男は樵夫、女は山姥のようである。道は縄のように細く、木は草のように茂っている。このような所に訪ねてこられたことは、どのような過去世の因縁であろうか。釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随い、日月は眼と成り代わってこられたのであろう。ありがたいことである。ありがたいことである。申し上げたいことは多々あるが、このほど風邪をひいて苦しいから、これで留めおく。
  弘安二年己卯五月二日         日 蓮  花 押
   新池殿御返事

天神七代
 地神五代より前に高天原に出た七代の天神。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊 ・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
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地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
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三類の敵人
 法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。 ①俗衆増上慢(法華経を弘める者に対して、悪口罵詈等し刀杖を加える在家者)。②道門増上慢(邪智で心が曲がり、覚りを得たと錯覚している我慢の心の強い出家者)。 ③僣聖増上慢(山林に住み衣を着て、真実の仏道を行じたと思い込み人を軽蔑し、自らは利益のみにとらわれ、しかも在家に法を説き、世間から敬われ、権力に近づき正法を弘める者を迫害する出家者)。
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遠江の国
 現在の静岡県西部の旧国名。東海道十五ケ国の一つ。東は大井川を境とし、西は三河国に接する。
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身延山
 山梨県南巨摩郡にある山。標高1153㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)5月~弘安5年(1282)9月まで、この身延の山中で過ごされた。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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 日本国中の諸人に迫害を受けられている大聖人を信ずるさえ、大変なことであるのに、わざわざ奥深い身延の山中にまで大聖人をお訪ねした信心の志は並大抵ではない。大聖人がとくにそれを称賛されているのは、新池殿が社会的な立場のある人であり、「世間ひまなき」なかを、公事のひまをみつけて参詣したことが尊いからである。身延に来るまでの途中の難儀を推察される御筆に、人の心の機敏を心得られたこまやかな御慈悲が感じられるのである。
 新池殿の信心は決して今世だけのものではない。仏法の因果からすれば、前世からの深いつながりなくしてはありえない。まさに「宿習」である。その因縁あるからこそ、釈尊をはじめ諸天が総力をあげて新池殿を守護してここまで送り届けられたのであろうと仰せになっている。
 この御手紙は大聖人が御自身の風邪、それも決して軽くはないであろう御容体をおして、したためられたものであることが最後の文面から拝される。新池殿も、大聖人の深い御志を感じたことであろう。

1439~1444    新池御書top
1439:01~1439:13 第一章 仏道への精進を勧むtop

1439
新池御書    弘安三年二月    五十九歳御作
01   うれしきかな末法流布に生れあへる我等・かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人、 抑人界に生を受くるもの
02 誰か無常を免れん、 さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや、 倩世間の体を観ずれば人皆口に
03 は此の経を信じ手には経巻をにぎるといへども・経の心にそむく間・悪道を免れ難し、 譬えば人に皆五臓あり一臓
04 も損ずれば其の臓より病出て来て余の臓を破り 終に命を失うが如し、 爰を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も
05 還つて法華の心を死す」等云云、 文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還つて釈尊・十
06 方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり、 終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば・ 諸
07 罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし、 然れども 此の経の十四謗法の中に一も二もをかしぬれば
08 其の罪消えがたし、 所以は何ん一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも争か一仏を殺す罪に及ばんや、 法華の
09 心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、 此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、 地獄おそるべし炎を以
10 て家とす、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、 修羅は闘諍なり・畜生は残害とて互に殺しあふ、 紅蓮地獄と申
11 すはくれなゐのはちすとよむ、 其の故は余りに寒に・つめられてこごむ間せなかわれて・肉の出でたるが紅の蓮に
12 似たるなり、況や大紅蓮をや、 かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに
13 異ならず、此の時は争か名聞名利・我慢偏執有るべきや。
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 なんとうれしいことか、末法の正法流布の時に生まれあえた我等は。なんと悲しいことか、このたびこの経を信じない人々は。そもそも人界に生を受けた者でだれが無常を免れることができようか。そのような者にとっては、どうして後世のための努力をしないでいられようか。よくよく世間のありさまを見てみると、人は皆、口にはこの経を信じ、手には経巻を握っているといっても、経の心に背いているので悪道を免れがたい。たとえば、人にみな五臓がある。一臓でも損なうときには、その臓より病が起こってきて他の臓を破壊し、ついに命を失うようなものである。このことをさして伝教大師は「法華経を讃嘆するといっても、かえって法華経の心を殺している」等と言っている。この文の意味は、法華経を持ち読誦し讃嘆したとしても法華経の心に背いたときには、かえって釈尊や十方の諸仏を殺すことになってしまうという意である。世間の悪業や衆罪は須弥山のようであったとしても、この経に値つたときには諸罪は霜や露のように法華経の太陽に値って消えるであろう。しかしながら、この経で説く十四謗法のうち一つでも二つでも犯したときには、その罪は消えがたい。理由はなぜか。三千大千世界のあらゆる有情を殺したとしても、どうして一仏を殺す罪に及ぼうか。法華経の心に背いたときには、十方の仏の命を失う罪となる。この定めに背くのを謗法の者というのである。地獄は恐れるべきである、炎を家としている。餓鬼は悲しむべきである、飢渇に飢えて子供を食う。修羅は争い合う。畜生は残害といって互いに殺し合う。紅蓮地獄というのは紅の蓮と読む。その理由は、あまりに寒さに責められて屈(かが)むことにより、背中が割れて肉が露出したのが紅の蓮に似ているからである。ましてや大紅蓮においてはなおさらである。そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なるところがない。この時はどうして名聞名利や我慢偏執の心でいられようか。

末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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五蔵
 五臓とは肺臓、心臓、脾臓、肝臓、腎臓をいう。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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悪業
 悪い行為。三悪道・四悪趣に堕すべき業因。
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須弥
 須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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十四謗法
 妙楽大師が法華経譬喩品第三の「憍慢懈怠……結恨を懐かん」の文をよりどころとして立てた十四種の謗法のこと。法華文句記巻六下に説かれる。
   ①憍慢  増上慢と同意。慢心して仏法を侮ること
   ②懈怠  正法を修行するのを怠ること
   ③計我  我見と同意。自己の考えで正法を判断すること
   ④浅識  自身の浅薄な知識をよりどころとして正法を批判し、あるいは求めようとしないこと
   ⑤著欲  欲望に執著して正法を求めないこと
   ⑥不解  正法を理解せず、自己満足していること
   ⑦不信  正法を信じないこと
   ⑧顰蹙  顔を顰め、正法を非難すること
   ⑨疑惑  正法を疑い、惑うこと
   ⑩誹謗  正法を謗り、悪口をいうこと
   ⑪軽善  正法を信受する者を軽蔑し、馬鹿にすること
   ⑫憎善  正法を信受する者を憎むこと
   ⑬嫉善  正法を信受する者を嫉み、妬むこと)
   ⑭恨善  正法を修行する者を恨むこと)をいう。
 この十四誹謗は一切衆生にわたって悪果・悪報の業因となる。
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一大三千界
 三千大千世界のこと。古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
有情
 ①梵語の薩埵、薩埵嚩、サットヴァ(sattva)の新訳。旧訳では衆生とする。感情や意識をもっている、生あるものの一切の総称。草木、山河、大地などの非情に対する語。 ②仏も有情のなかに含まれること。③九界の衆生をいう。④衆生の一身には有情と非情をそなえていること。⑤三世間の衆生・五蘊世間は有情・国土世間は非情。
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地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
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餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
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飢渇
 飢えと渇きのこと。飲食物の欠乏。
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修羅
 梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
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畜生
 飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241-08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
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紅蓮地獄
 大紅蓮地獄のことで、いずれも八寒地獄の一つ。紅蓮地獄はあまりの寒さに皮膚が裂けて肉がはみだし、ちょうど紅色の蓮華が開いたようになるのでこの名がある。鉢頭摩地獄の訳。大紅蓮地獄は摩訶鉢頭摩地獄の訳で紅蓮地獄よりさらに寒苦の厳しい地獄。瑜伽論巻四、倶舎論記巻十一などにある。
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悪所
 衆生が死後、悪業の報いによって行くとされている苦悩の世界。悪道・悪趣と同意。
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名聞名利
 世間の名声や利益、それらを追い求める生き方。
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我慢偏執
 自分を恃みたかぶって、他をあなどること。我意を張り他に従わぬこと。偏った考えに執着すること。
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 本抄は、弘安3年(1280)2月、日蓮大聖人が聖寿59歳の御時、身延から新池左衛門尉に与えられた書である。内容は、正しい仏道修行の在り方などについて、御教示されている。初めに法華経流布の末法に生まれたことを喜び、法華不信の人々を嘆かれている。そして法華経を受持・読誦し、讃めても、経の本意に背けば、悪道に堕ちることを述べられ、法華経を持つ僧に供養する功徳を説かれている。次に世間の無常をとおし、名聞名利に執着する心を戒め、謗法の者との交わりを与同罪として戒められている。さらに、仏の三徳を明かし、日本の諸人は仏に背く仏敵とされ、たとえ賤しい身分であっても、正法護持の者を尊敬しなければならないと述べられ、信心が成仏の肝要であり、三宝を尊重すべきことを勧められている。また、禅宗等の僧について触れ、彼らが慢心を重ねるのは天魔の所為であると批判されている。最後に、これらの法門をよく理解して信心に励むよう諭されている。
 最初に「末法流布」とは、法華経の薬王品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」と説かれたその時であることを仰せられている。もとよりこの末法に流布する法とは本尊抄に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249)と仰せられるように、下種の南無妙法蓮華経である。
 この時に際会できたということは、成仏の大果報に恵まれたわけであり、最高の喜びにほかならないのである。
 これに対して、大果報の時代に生まれ合わせていながら、妙法を信ずることのできない人々がいるというのは、一生成仏の機会を逃すばかりでなく、悪道の苦海に沈むことであり、これ以上の悲しみはない。
 妙法の生命観は、人間としてこの世に生をうけることがまれであると教えている。しかも、今世の人生は無常にして短い。この人生を悔いなき一生とするためにも「後世のつとめ」すなわち妙法に帰依して、成仏のための仏道修行に励むことが肝要である。
 今世の人生における仏道修行が、一生成仏の境界を開き、永遠にわたる生命の満足と安定を決定していくからである。
 世間では「口には此の経を信じ手には経巻をにぎる」というように、一往は法華経の信仰をしていても、すでに過去のものとなった釈尊の文上の法華経であり「法華の心」たる下種の南無妙法蓮華経を知らないでいる。しかも、法華経の譬喩品第三に説き示している「十四謗法」の一つか二つでも犯せば、罪障消滅はむずかしいのである。
 すなわち、十四謗法のなかに軽善・憎善・嫉善・恨善があるが、法華経の行者である日蓮大聖人を軽んじ、憎み等しているならば、いかに「法華経を持ち読み奉り讃むれども」法華経の心に背いているのであるから、釈尊・十方の諸仏を殺すことになり、地獄等に堕ちると戒められているのである。

1439:14~1440:07 第二章 最後まで成就することの大切さを示すtop

14   思食すべし法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば悪道に行くべからず、 何に況や十度・二十度
15 乃至五年・十年・一期生の間・供養せる功徳をば仏の智慧にても知りがたし、 此の経の行者を一度供養する功徳は
1440
01 釈迦仏を直ちに八十億劫が間・ 無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候、 此の
02 経にあひ奉りぬれば 悦び身に余り左右の眼に涙浮びて釈尊の御恩報じ尽しがたし、 かやうに此の山まで度度の御
03 供養は法華経並に釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候、 弥はげませ給うべし 懈ることなかれ、 皆人の此の経
04 を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・ 中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をな
05 す、 これ恐るべし恐るべし、 始より終りまで弥信心をいたすべし・ さなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌
06 倉より京へは十二日の道なり、 それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては 何として都の月
07 をば詠め候べき、何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。
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 確信なされるがよい。法華経を知る僧を不思議の志で一度であっても供養するならば悪道に行くことはない。ましてや十度、二十度、ないし五年、十年、一生の間、供養する功徳は仏の智慧をもってしても知りがたいほどである。この経の行者を一度、供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫の間、無量の宝をもって供養する功徳に百千万億倍勝れていると仏は説かれている。この経にあったときには悦びは身に溢れ、左右の眼に涙が浮かんで、釈尊の御恩は報じ尽くしがたい。このようにこの山まで度々御供養されていることは、法華経並びに釈尊の御恩を報じられることになるであろう。いよいよ励まれるがよい。怠ってはなりません。皆、人がこの経を信じ始めるときは信心があるようにみえるけれども、中ほどになると信心も弱く、僧侶をも敬わず、供養をもせず、慢心を抱いて邪悪な考えを起こす。これは恐れるべきである、恐れるべきである。始めから終わりまで、いよいよ信心を貫くべきである。そうでなければ後悔するであろう。たとえば鎌倉から京都へは十二日の道程である。それを十一日ほど歩いて、あと一日になって歩くのをやめてしまったならば、どうして都の月をながめることができようか。なんとしても、この経の心を知る僧に近づき、いよいよ仏法の道理を聞いて信心の歩みを運ぶべきである。

八十億劫
 劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。 八十億は、8,000,000になすが、さらに長遠な時間を示す譬喩。
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自慢
 おごりたかぶること。
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悪見
 邪悪な見解。成仏を妨げて苦を招く理に迷った考え。身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見など。
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 「法華経をしれる僧」とは、下種の南無妙法蓮華経を覚知された「法華経の行者」すなわち日蓮大聖人をさされている。末法は法華不信、謗法の者が充満し、三類の強敵出現して法華経の行者を迫害する。このような厳しい社会環境のなかで、大聖人を信じて御供養を奉るということは極めて勇気のいることであり、深い宿縁のもよおすところという以外にない。これらを含めて「不思議の志」と仰せられ、この深く強い信心をもって一度でも法華経の行者を供養するならば、悪道に行くことはないと断言されるのである。さらに、回を重ね、年を積み、生涯をかけて法華経の行者を供養する功徳は、仏智でも計れないほど大きいのである。
 法師品第十に「人有って仏道を求めて、一劫の中に於いて、合掌して我が前に在って、無数の偈を以って讃めん。是の讃仏に由るが故に、無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは、其の福復彼に過ぎん。八十億劫に於いて、最妙の色声、及与香味触を以って、持経者に供養せよ」と説くとおりである。
 このような大功徳ある経にあえたことこそ最高の福運であることを「悦び身に余り左右の眼に涙浮びて」と仰せられている。身延におられる大聖人をたびたび御供養することが「法華経並に釈迦尊」の御恩を報じていることになると仰せられたのは、法華経の行者即人法体一の御本仏であるとの深意と拝すべきである。
 そして信心の在り方について「弥はげませ給うべし懈ることなかれ」と仰せられ、日々発心の信心を勧めて、惰性の信心を戒めておられる。人間一般の傾向として「信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす」と仰せである。要するに、惰性に陥り、慢心にとらわれるようになるということである。信心は「始より終りまで弥信心をいたすべし」と仰せのように、水の流れるごとく、持続の信心に励むべきである。途中で退転するようなことがあれば、必ず後悔すると戒められている。そのためには「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」と、求道実践が肝要なのである。

1440:08~1441:02 第三章 名聞名利の邪心戒め、三宝供養を勧むtop

08   噫過ぎし方の程なきを以て知んぬ 我等が命今幾程もなき事を春の朝に花をながめし時ともなひ遊びし人は花と
09 共に無常の嵐に散りはてて名のみ残りて 其の人はなし花は散りぬといへども又こん春も発くべし されども消えに
10 し人は亦いかならん世にか来るべき 秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も 月と共に有為の雲に入りて後面影ば
11 かり身にそひて物いふことなし 月は西山に入るといへども 亦こん秋も詠むべし然れどもかくれし人は今いづくに
12 か住みぬらんおぼつかなし 無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども 聞いて驚くことなし 屠所の羊の今幾日
13 か無常の道を歩まん雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて 夜明なば栖つくらんと鳴くといへども 日出でぬれば朝日の
14 あたたかなるに眠り忘れて 又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう 一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎
15 にむせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて 三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へども たまたま人間
16 に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、 無益の事には財宝をつくすにおしからず、 仏法僧
17 にすこしの供養をなすには 是をものうく思ふ事これただごとにあらず、 地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申
18 すは是なり、 其の上此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて 社をすて天に上り給へば社には悪鬼入り
1441
01 かはりて多くの人を導く、 仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費・民の
02 歎きにて・いらかを並べたる計りなり、是れ私の言にあらず経文にこれあり習ふべし。
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 ああ、過ぎ去った時がまたたく間であることから知ることができる、私達の命がそれほど長くないことを。春の朝に花を眺めたとき一緒に遊んだ人は花とともに無常の嵐に散り果てて、名前だけ残ってその人はいない。花は散ったといっても、また来春も咲く。しかし、消えてしまった人は、またいかなる世に生まれてくるであろうか。秋の暮れに月を詠んだとき戯れ親しんだ人も月とともに有為の雲に隠れて後は、面影ばかりが身に寄り添っているが物を言うことがない。月は西の山に入るといっても、また来秋も詠むことができる。しかしながら、隠れてしまった人は今どこに住んでいるのであろう。はっきりしない。無常の虎の鳴く声は耳に近づくといっても聞いて驚くことがない。屠殺所の羊はあと幾日、無常の道を歩むことであろう。雪山の寒苦鳥は寒苦に責められて「夜が明けたならば巣を造ろう」と鳴くけれども、日が出たときには朝日の暖かさにつられて眠って忘れてしまい、また巣を造らないで、一生の間むなしく鳴くという。一切衆生もまた同様である。地獄に堕ちて炎にむせぶときは、願わくは今度人間に生まれて諸事を差し置いて仏・法・僧の三宝を供養し、後世の悟りを得ようと願っても、たまたま人間に生まれてきたときは名聞名利の風が激しく仏道修行の灯は消えやすい。無益の事には財宝を使うのを惜しまず、仏・法・僧に少しの供養をするのを面倒くさく思うことは、これただごとではない。地獄の使いが引っぱる力のほうが強いのである。寸善尺魔というのはこれである。そのうえ、この国は謗法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社を捨てて天に上られたので、社には悪鬼が入り替わって多くの人を導いている。仏は化導をやめて寂光土へ帰られたので、堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の労役によって、いらかを並べて建っているだけである。これは私の言ではない。経文にあることである。学びなさい。

有為
 因縁によって生じた、生滅・変化する事象のこと。無為に対する語。
―――
雪山
 ヒマラヤのこと。常に雪を冠しているからこの名前がある。
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寒苦鳥
 インドの雪山に住むという想像上の鳥。雪山鳥ともいう。この鳥は巣を作らないため、夜は寒苦に責められ苦しむとされる。「新池御書」にいわく「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう」(1440-13)。
―――
三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
菩提
 菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
―――
寸善尺魔
 仏道修行を進める善の心が小さく、妨げる魔の心が大きいこと。寸と尺は長さの単位で、寸の十倍が尺。
―――
謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
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法味
 妙法の慈悲のことを味にたとえた語。
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寂光土
 仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
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 人生は無常であり、人間だれしも一度は死を迎えなければならない。しかも、その死にいつ直面するかわからない。周りを見れば、すでに若くして亡くなった人もいる。そうした人を「春の朝に花をながめし」の例で示されている。まして中年を過ぎると、去っていく人は確実に増える。「秋の暮に月を詠めし」の例は、中年を過ぎて死別していった人々のことをいわれていると拝せる。その無常の世にあって、自分自身も刻々、死に向かって歩んでいるのが人生である。その死後に待っているのが地獄等の三悪道であるか、成仏の境界であるか。所詮は、自分がこの人生をどう使うかによる。仏法は現在の人生に充実と幸福をもたらすとともに、死後永遠の幸福境涯確立のために修行するのである。
 ところが、人間として、すなわち、唯一、仏道修行のできる条件をもって生まれ、またあいがたい仏法にあったとしても、現実の人生は目先の利益に追われやすく、「仏道修行の灯は消えやす」い。それは、どうしてなのか。
 生命にはその生存本能に結びついて、他の人々の幸せのためよりもまず自己の幸福追求を優先しようとする働きがある。また遠い未来のためよりも、現在の満足を求める傾向が強い。他者の幸福のために貢献することは「善」であり、利己心に引きずられることは「悪」である。人を犠牲にしても現在の自分の幸せを求めるのは、結局、自分を地獄等の悪道に導くことになる。これを「地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり」と仰せられているのである。仏道修行とは、自己の生命に働いているこの利己主義、魔との絶えまない対決であるといっても過言ではない。
 そのうえ一国が謗法と化したため、守護の諸天は天上に去り、堂塔・寺社は悪鬼・魔縁のすみかとなってしまっている。
 仏道修行を妨げようとする魔は、自身の生命の内のみでなく、国土・社会からも働いてくるのである。

1441:03~1441:10 第四章 謗法の供養を天は受けないことを述ぶtop

03   諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず 況や人間としてこれをうくべきや、春日大明神の御託宣に云
04 く飯に銅の炎をば食すとも 心穢れたる人の物をうけじ、 座に銅の焔には坐すとも 心汚れたる人の家にはいたら
05 じ、 草の廊・萱の軒にはいたるべしと云へり、 縦令千日のしめを引くとも不信の所には至らじ、重服深厚の家な
06 りとも有信の所には至るべし云云、 是くの如く善神は此の謗法の国をばなげきて天に上らせ給いて候、 心けがれ
07 たると申すは法華経を持たざる人の事なり、 此の経の五の巻に見えたり、 謗法の供養をば銅焔とこそおほせられ
08 たれ、 神だにも是くの如し況や我等凡夫としてほむらをば食すべしや、 人の子として我が親を殺したらんものの
09 我に物をえさせんに是を取るべきや、 いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、 又それにも近づくべからず
10 与同罪恐るべし恐るべし。
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 諸仏も諸神も謗法の供養は決して受け取られない。ましてや人間として、これを受けることができようか。春日大明神の御託宣に「飯として銅の炎を食べても、心が汚れた人の物は受けない。座として銅の炎に座っても、心が汚れた人の家には行かない。草の廊下や萱の軒にはいくであろう」といい「たとえ千日の注連なわを引いても、不信の者の所にはいかない。重い忌の家であっても、信心のある者の所には行くであろう」といっている。このようにして善神はこの謗法の国を嘆いて天に上られたのである。心の汚れたというのは法華経を受持しない人のことである。この経の第五の巻に述べられている。謗法の供養よりも「銅の炎のほうがましだ」と仰せられている。神でさえもこのようである。ましてや我ら凡夫の身で炎を食べることができようか。人の子として、自分の親を殺した者が自分に物を与えようとしたときに、これを受け取ることができようか。どのような智者や聖人も無間地獄を逃れることはできない。また、それに近づいてもならない。与同罪を恐れるべきである、恐れるべきである。

春日大明神
 奈良市春日野町にある春日大社の祭神。春日権現ともいう。藤原氏の氏神で、興福寺の鎮守とされる。
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重服
 重い忌服のこと。忌服は近親者が死去したとき一定の期間喪に服すること。重服は父母の喪。軽服に対する語。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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与同罪
 共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
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 諸仏も諸神も、謗法の供養を受けないとは、謗法の人がいかに祈っても、諸仏・諸神は守護の働きをあらわしてくれないということである。
 本来、諸仏は南無妙法蓮華経を種子として成仏したのであり、諸神もまた妙法を法味として威光勢力を増すのである。すなわち妙法が生命力の源泉なのである。したがって御本尊を信じて題目を唱えることが諸仏諸神への真の供養となり、唱題の声の響きに応じて、仏神はその生命力を増し、守護の力用を顕現するのである。
 これに対して、妙法に背いている謗法の者の供養は、諸仏諸神に全く通じないし、応ずることができないのである。諸天善神が心の穢れている人の所には守護の力を現じないというのは、謗法と化してしまった国土を捨てて天上に去るのである。この原理は立正安国論に仁王経、大集経等の経文を挙げて示されており、これを「神天上法門」という。
 託宣にいう「心がけがれたる」とは、謗法不信の人をさしている。謗法の供養は「銅の焔」よりも毒であるという。また、謗法の人の所にいるのは銅の焔に坐るより苦しみであるという。一国が謗法化してしまうと、諸天善神は食するものもなく、住む所もないために、その国を去ってしまうのである。
 正法は一切の仏・神にとって能生の根源であり、親のようなものである。その正法を誹謗する人間は仏・神にとって自分の親を殺している仇と同じである。親の仇から物を受け取れないのと同じように、謗法の者の供養を仏・神は受け取ることはできないのである。
 謗法こそ最も大きい罪業であり、いかに優れた智人・聖人でも、法華経に背けば謗法であり、無間地獄を逃れられない。これに近づき「与同罪」を犯すことも厳に戒めていかなければならない。

1441:11~1442:06 第五章 正法の善知識を仏と仰ぐべきことtop

11   釈尊は一切の諸仏.一切の諸神・人天大会.一切衆生の父なり主なり師なり、此の釈尊を殺したらんに争か諸天・
12 善神等うれしく思食すべき、 今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり、 在家の俗男・俗女等よりも邪智心の法
13 師ばらは殊の外の御敵なり、 智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、 貴僧・高
14 僧には依るべからず、 賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに 礼拝供養すべし
15 是れ経文なり、 されば伝教大師は無智破戒の男女等も 此の経を信ぜん者は小乗二百五十戒の僧の上に座席に居よ
16 末坐すべからず 況や大乗此の経の僧をやとあそばされたり、 今生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房より
17 も此の経を信じたる男女は 座席を高く居ることこそ候へ、 彼の二百五十戒の良観房も 日蓮に会いぬれば腹をた
18 て眼をいからす是ただごとにはあらず、 智者の身に魔の入りかはればなり、 譬えば本性よき人なれども酒に酔い
1442
01 ぬればあしき心出来し人の為にあしきが如し、 仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道
02 に堕つべし、 彼が心は犬野干の心には劣れりと説き給いて候なり、 彼の四大声聞等は二百五十戒を持つことは金
03 剛の如し・ 三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども・法華経を持たざる時は是くの如く仰せられた
04 り、何に況やそれに劣れる今時の者共をや。
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 釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父であり、主君であり、師匠である。この釈尊を殺そうとしているのを、どうして諸天善神等がうれしくお思いになることがあろうか。今この国の一切の人々はみな釈尊の御敵である。在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があっても、その邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賎しい者であっても、この経の意味を知っている者を生身の仏のように礼拝供養すべきである。これは経文に説かれていることである。それゆえ、伝教大師は「無智破戒の男女等であっても、この経を信ずる者は小乗教の二百五十戒をたもった僧の上位の座席にすわらせなさい。末座にしてはならない。ましてや大乗教のこの経の僧はなおさらである」と仰せられている。今、生身の仏のように見える極楽寺の良観よりも、この経を信じた男女は座席を高座に据えるべきである。かの二百五十戒をたもつという良観房も日蓮に会ったときには、腹を立て眼をいからせる。これはただごとではない。智者の身に魔が入り替わっているからである。例えば本性はよい人であっても酒に酔ったときには悪い心が出てきて人に迷惑をかけるようなものである。仏は法華経を説く以前は、迦葉・舎利弗・目連等について、これを供養する者は三悪道に堕ちるであろう、彼らの心は犬や狐の心に劣っている、と説かれた。かの四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛のようであり、三千の威儀を具えることは十五夜の月のようであるけれども、法華経を持たないときは、このように仰せられたのである。ましてやそれに劣る今の者たちはなおさらである。
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05   建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供
06 養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし、
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 建長寺や円覚寺の僧達が作法・戒文を破っていることは大山の崩れたようなものであり、威儀のふしだらなことは猿と変わらない。これを供養して後世を助かろうと思うのは、はかないことである、はかないことである。

人天
 十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
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無智
 仏法を理解していない在家の人。
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破戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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極楽寺
 神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
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良観
 (1207~1303)。鎌倉時代の律宗の僧。良観は法号で、名を忍性という。建保5年(1217)、大和国に生まれた。10歳で信貴山にのぼり、修行。24歳で奈良西大寺の叡尊の弟子となり、具足戒を受けた。のちに関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。また文永8年(1271)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こした。大聖人に終始敵対し、大聖人門下にも種々の迫害を加えた。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
目連
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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四大声聞
 譬喩品を聞いて領解する中根・譬説周の四菩薩のこと。慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目犍連をいう。
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金剛
 賢劫千仏の法を守る二神で真言宗寺院の左右にある。左を密迹金剛、右を那羅延金剛という。
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三千の威儀
 「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
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建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
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円覚寺
 鎌倉にあった臨済宗の寺院。鎌倉五山の第二位。弘安5年(1282)北条時宗が創建し栄僧の無学祖元を開山とした。
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作法
 受戒や仏事における所定の所作。
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戒文
 戒律の条文。
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 釈尊が一切の仏や神、人天、一切衆生の主師親であると述べられ、この釈尊を殺しているのが諸宗の人々、とくに僧達であると述べられ、そのなかでもとりわけ二百五十戒を持っていると称して生き仏のように崇められている極楽寺良観のことを指摘されている。この釈尊については、文上と文底の二意に拝すべきである。一往、文上の意では脱益の釈尊を示し、大聖人御在世当時、念仏宗等が盛んで阿弥陀如来を本尊と立てていたことに対して、権実相対のうえから法華経の教主釈尊が根本であると明かされたのである。
 再往、文底の意では、下種の釈尊すなわち久遠元初の自受用報身如来であり、末法下種の御本仏として再誕あそばされたのが日蓮大聖人であられることは、開目抄に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)と、主師親三徳具備の御本仏であられることを教示されていることから明らかである。
 「一切の諸人は皆釈尊の御敵なり」とは三類の強敵のうち第一類の俗衆増上慢をさしており、「邪智心の法師ばらは殊の外の御敵なり」とは第二類の道門増上慢と第三類の僭聖増上慢をさし、なかんずく第三類は生き仏のごとく振る舞い、人々から尊敬を集めながら、邪智心をもって法華経の行者を誹謗する極悪の僧をいうのである。
 そこで、いかなる人を礼拝供養すべきかについて、法の正邪を根本にして見分けるべきことを教えられている。「智慧ありとも其の邪義には随ふべからず」と仰せられ、頭脳明晰で、言葉が巧みですぐれているなどということよりも、説いた教法の内容が正義であるか邪義であるかを基準にしていくべきであることを示されている。また「貴僧・高僧には依るべからず」とは、身分とか地位によってはならないということである。
 ゆえに「賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんもの」、すなわち、凡夫であろうと、法華経の肝心、事の一念三千の南無妙法蓮華経を覚知された人を「生身の如来」すなわち凡夫の当体のまま即尊極の仏と仰いで礼拝供養すべきなのである。法師品第十に「吾が滅後の悪世に、能く是の経を持たん者をば、当に合掌し礼敬して、世尊に供養するが如くすべし」と説き示されているのである。
 要するに、文底下種の南無妙法蓮華経を悟られた末法の法華経の行者は、人法体一にして人と法に勝劣がないから「生身の如来」として礼拝供養するのである。このように、あくまで法の勝劣を根本とすべきことを、伝教大師は「小乗二百五十戒」を持つ出家の僧よりも法華経を信ずる「無智破戒の男女」の人のほうが勝れ、さらに勝れるのは実大乗の法華経を行ずる僧であると述べているのである。
 この道理によるならば、生き仏のようにみえる極楽寺の良観房よりも、法華経を信じている在家の信者のほうが、位を高く置いて尊ばれるべきである。二百五十戒を持っていると称する良観房が大聖人に向かうと、戒で禁じている瞋恚をあらわにして「腹をたて眼をいからす」のは、化けの皮がはげた姿であり、その本質は勧持品第十三に「悪鬼其の身に入りて、我を罵詈毀辱せん」と説かれているように、智者の身に魔が入り代わっているのである。これは、たとえていえば、本性はよい人であっても、酒を飲めば自然に酔って悪心が現れ、乱暴を働いて他人に迷惑をかけるようなものである。
 そもそも小乗教の戒律はそれを完璧に持っても、人から供養を受けるに値する聖人にはなれないのである。釈尊が在世の迦葉・舎利弗・目連等への供養を人々に禁じたのはそのためである。極楽寺良観などは、この迦葉等よりはるかに劣るのであるから、良観ごときを聖人と思って供養しているのは、仏の戒めに背く行為であることは明らかなのである。
 建長寺、円覚寺は「禅天魔」と破折された臨済宗の本山である。大聖人御在世の時、建長寺の住職は道隆であり、文永5年(1268)10月11日、大聖人は道隆に対して公場対決を要請した書状「建長寺道隆への御状」を送られている。道隆は権力との結びつきをカサに着た横暴な振る舞いが多く、しかも無法者に近い連中を寺内に住まわせていた。これらの禅僧たちが「作法戒文」-仏事を行う作法、出家の守るべき戒文を破ることは大山の頽れたようであり、威儀-出家としての行動、振る舞いがわがまま勝手であることは猿に似ていると、僧侶にあるまじき姿であることを指摘されている。このように猿のごとき僧に供養して「後世を助からん」-成仏を願うのは、夢のようにはかないと仰せである。

1442:06~1443:01 第六章 善神去って悪鬼のすみかなるを示すtop

06                           守護の善神此の国を捨つる事疑あることなし、昔釈尊の御
07 前にして諸天善神・菩薩・声聞・ 異口同音に誓をたてさせ給いて若し法華経の御敵の国あらば或は六月に霜霰と成
08 りて国を飢饉せさせんと申し、 或は小虫と成りて五穀をはみ失はんと申し、 或は旱魃をなさん・或は大水と成り
09 て田園をながさんと申し、 或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、 或は悪鬼と成りて・なやまさんと面面に
10 申させ給ふ、 今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり 争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん、起請を破ら
11 せ給はば無間地獄は疑なき者なり恐れ給うべし恐れ給うべし、 今までは正く仏の御使出世して 此の経を弘めず国
12 主もあながちに御敵にはならせ給はず但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。
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 守護の善神がこの国を捨て去ったことは疑いない。昔、釈尊の御前で諸天善神や菩薩や声聞が異口同音に誓いを立てられて「もし法華経の御敵の国があれば、あるいは六月に霜や霰となって国を飢饉に陥らせましょう」といい、あるいは「小虫となって五穀を食べてなくしましょう」といい、あるいは「旱魃を起こしましょう」あるいは「大水となって田園を流しましょう」といい、あるいは「大風となって人民を吹き殺しましょう」といい、あるいは「悪鬼となって悩ましましょう」と、それぞれに申されている。今の八幡大菩薩もその座にいらっしゃったのである。どうして霊山の起請が破れるのを恐れられないことがあろう。起請を破られたならば無間地獄は疑いないところである。恐れられるべきである、恐れられるべきである。
 今までは正しく仏の御使いが世に出てこの経を弘めることなく、国主も一概に御敵にはなられず、ただどれも貴いと思うだけであった。
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13   今某・仏の御使として此の経を弘むるに依りて上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢んぬ、 今までは此
14 の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねて・ おはせども・霊山の起請のおそろしさ
15 に社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、 さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし、 天
16 照太神・八幡大菩薩・ 天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき、 縦ひ捨てじと思食すとも霊山のやくそ
17 くのままに某呵責し奉らば一日もやはか・ おはすべき、 譬えば盗人の候に知れぬ時はかしこやここに住み候へど
18 も能く案内知りたる者の是こそ盗人とののしり・どめけば・おもはぬ外に栖を去るが如く、 某にささへられて社を
1443
01 ば捨て給ふ、然るに此の国思いの外に悪鬼神の住家となれり哀なり哀なり。
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 しかるに今、私が仏の御使いとしてこの経を弘めることによって上一人より下万民までが、みな謗法の者となってしまったのである。今までは、諸天も、この国の者達を法華経の御敵にはさせまいと、一人いる子供が思いに反して折り悪い場合のように捨てかねていたけれども、霊山の起請を破ることの恐ろしさに社を焼き払って天に上られてしまったのであろう。そうではあるけれども身命を惜しまない法華経の行者がいるならば、その頭には住むのである。天照太神や八幡大菩薩が天に上られたならば、その他の諸神がどうして社に留まれるであろう。たとえ捨てまいとお思いになっても、霊山での約束のとおりに私が責めたならば、一日もいらっしゃることはできない。例えば盗人が世間に知られていない時はあちらやこちらに住んでいても、よく事情を知った者が「この者こそ盗人だ」と大声で騒ぎ立てたならば、不本意でもすみかを去るように、諸天善神も、私に責められて社を捨てられたのである。こうして、この国は思いがけず悪鬼神のすみかとなってしまった。哀れなことである、哀れなことである。

五穀
 主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
―――
旱魃
 長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
―――
八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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起請
 祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
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天照太神 
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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 日本を守護する善神達は、日本中の人々が法華経に背き真言、念仏、禅等の邪義に陥っていても、法華経の行者が出るまでは、この国を捨て去りかねていた。せいぜい種々の治罰を与えて目覚めさせようとしていたのである。それは国王も、全面的に法華経の敵になるのではなく、法華経もいいが、真言や念仏もいいのではないかという程度だったからである。
 ところが、法華経の行者・日蓮大聖人が出現されて仏法の正邪を明確にして折伏を始められると、大聖人を目の敵にするようになった。すなわち真っ向から仏の敵になってしまったのである。こうなると、諸天善神はこの国にいるわけにはいかない。
 加えて、大聖人から厳しく指摘されることによって、諸天は、ついに日本の国を守っていることができなくなって社を焼いて天上に去ったのである。ただ、不惜身命の法華経の行者があれば、その頭には諸天が住むとことわられている。
 厳しく謗法を呵責する、すなわち折伏を行ずるから、謗法の人を諸天は去り、守護の力が失われ、災難にあって苦しむのであり、正法を立て折伏を行ずる人には諸天の守護の力が働いて種々の功徳を体験するのである。こうして法の正邪が明確になることによって、人々は目覚めるのである。

1443:02~1443:13 第七章 即身成仏の道を示すtop

02   又一代聖教を弘むる人多くおはせども是れ程の大事の法門をば伝教天台もいまだ仰せられず、 其も道理なり末
03 法の始の五百年に 上行菩薩の出世あつて弘め給ふべき法門なるが故なり、 相構へて・いかにしても此の度此の経
04 を能く信じて命終の時・千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし、 信心弱くして成仏ののびん時・
05 某をうらみさせ給ふな、 譬えば病者に良薬を与ふるに毒を好んでくひぬれば其の病愈えがたき時・ 我がとがとは
06 思はず還つて医師を恨むるが如くなるべし、 此の経の信心と申すは少しも私なく 経文の如くに人の言を用ひず法
07 華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ、 仏に成り候事は別の様は候はず、 南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して
08 候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、 如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり、 譬えば
09 鳥の卵は始は水なり其の水の中より誰か・ なすとも・なけれども觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し、 我
10 等も無明の卵にして・ あさましき身なれども南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられ・まいらせて三十二相の觜
11 出でて八十種好の鎧毛生そろひて 実相真如の虚空にかけるべし、 爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処し
12 て智慧の口ばしなし、 仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて無明の卵をたたき破りて・ 一切衆生の鳥をすだてて法
13 性真如の大虚にとばしむ」と説けり取意。
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 また釈尊一代の聖教を弘める人は多くおられるけれども、これほどの大事な法門を伝教大師や天台大師もいまだ仰せられていない。それも道理である。末法の始めの五百年の間に上行菩薩が世に出現して弘められるべき法門であるがゆえである。心して、なんとしてもこの度この経をよく信じて臨終のときは千仏の迎えを受け、霊山浄土に速やかに参り、自受法楽すべきである。信心弱くて成仏が延びたとき私を恨んではならない。たとえば、病人に良薬を与えたのに、病人が毒を好んで食べていれば、その病は癒えがたい。そのくせ病人は自分の過ちとは思わずにかえって医師を恨むようなものである。
 この経の信心というのは少しも我見なく経文のとおりに、人の言を用いず、法華経一部に背くことがなければ仏に成るのである。仏に成るということは別のことではない。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく唱えていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのである。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊のような仏に簡単に成るのである。たとえば鳥の卵は始めは水である。その水の中から、だれかがしたということもないけれども、觜・目と身を荘厳するものができてきて、やがて大空に飛翔するようなものである。私達も無明の卵で浅ましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱題の母に暖められて三十二相の觜が出てきて八十種好の鎧毛が生え揃い、実相真如の大空に飛翔することができるのである。このことを経には「一切衆生は無明の卵の中に身を置いて智慧の觜はない。仏母の鳥は分段・同居の古巣に帰って、無明の卵を叩き割って一切衆生の鳥を巣立てて、法性真如の大空に飛ばせる」と説いている。

天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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上行菩薩
 法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
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霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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自受法楽
 自ら法の楽しみを受けること。広大無辺な妙法を信じ悟る楽しみを享受することができる。
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三十二相
 応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。
   1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)
   2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること) 
   3 長指相(指が繊細で長い)
   4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)
   5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)
   6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)
   7 足趺高満相(足の甲が高いこと)
   8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)
   9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)
   10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)
   11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)
   12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)
   13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)
   14 金色相(皮膚が金色をしていること)
   15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)
   16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)
   17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)
   18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)
   19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)
   20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)
   21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)
   22 四十歯相(歯が四十本あること)
   23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)
   24 牙白相(牙があって白く光ること)
   25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)
   26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)
   27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)
   28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)
   29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)
   30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)
   31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)
   32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)
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八十種好
 仏・菩薩の身に具わる八十種の好ましい相。八十随形好・八十随好・八十微妙種好・八十種小相ともいう。順序・内容については諸説あり、三十二相と重複するものもある。般若経巻二十四には次のようにある。
1.頂が見えない 2.鼻が直しく高く好く、孔が現れない 3.眉は初生の月のようで紺瑠璃色 4.耳に輪輻の相があって垂れている 5.身は那羅延天のように丈夫である 6.骨際は鈎鎖のようである 7.身は象王のように一時にまわる 8.歩く時、足が地を去ること四寸で印文をあらわす 9.爪は赤銅色のようで薄くてつやがある 10.膝骨は堅著で円好である 11.身は淨潔 12.身は柔軟 13.身は曲がらない 14.指が長くて繊円である 15.指文が荘厳である 16.脈は深い 17.踝は見えない 18.身につやがある 19.身自ら持して曲りくねっていない 20.身が満足に整っている 21.識は満足している 22.姿や立居振る舞いが整っている 23.住処は安定していて動かすことのできる者はいない 24.威が一切にふるう 25.一切を楽観する 26.面は長くも大きくもない 27.容貌を正して色を撓さない 28.面が具足していて円満 29.唇は頻婆樹の果実のように赤い 30.声の響きが奥深い 31.臍が深くて丸い 32.毛が右に旋っている 33.手足が満足 34.手足が思いのまま 35.手文が明らかで真っ直ぐ 36.手文が長い 37.手文が断れていない 38.一切の悪心ある衆生も見れば喜ぶ 39.面は広く美しい 40.面は月のように浄く満ちている 41.衆生が意のままに喜んでともに語る 42.毛孔から香気を出す 43.口から無上香を出す 44.儀容は師子のようである 45.進止は象のようである 46.行法は鵝王のようである 47.頭は摩陀那果という木のようである 48.一切の声分を具足している 49.牙はするどい 50.舌の色が赤い 51.舌が薄い 52.毛は紅色 53.毛は浄い 54.眼は広長なり 55.孔門の相を具えている 56.手足は蓮華の色のように赤白である 57.臍は出ていない 58.腹はあらわれない 59.腹は細い 60.身は傾かない 61.身に重みがある 62.身が大きい 63.身は長い 64.手足は浄く柔かでつやがある 65.辺光がおのおの一丈にも達する 66.光が身を照らしていく 67.衆生を平等にみる 68.衆生を軽んじない 69.衆生に随って音声は過ぎも減じもしない 70.説法して著しない 71.衆生の語言にしたがって説法する 72.一たび声を出して衆声に報いる 73.次第があって因縁説法する 74.一切衆生が悉く相を観ることができない 75.観てもあきない 76.髪が長くて美しい 77.髪が乱れていない 78.髪が旋って美しい 79.髪の色が青珠のようである 80.手足に徳相がある。
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如我等無異
 方便品に「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」とあり、一切衆生と仏と同じ境涯に入らしめるということである。観心本尊抄にはこの経文を引いて「『我が如く等くして異なる事無し 我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ』、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(0264-17)とあり、仏の大慈悲を示されている。
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実相真如
 ありのままの相のこと。森羅万象の妙法がそのままであるということ。
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分段同居
 三界六道の世のこと。娑婆世界という。分断は六道を輪廻する迷いの凡夫の寿命や身体が差別限定されていることをいい、同居は凡聖同居士のことで、凡夫も聖人も一緒に住んでいるこの世をいう。
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法性真如
 法性の法理、法性真如の一理、一妙真如の理ともいう。宇宙万有の実体で、真実にして平等無差別な絶対心理をいう、変化の仮相に対する語。南無妙法蓮華経のことをいう。

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 仏法を弘める人は多い。だが今、日蓮大聖人が弘めておられる「大事の法門」は、天台大師も伝教大師も述べていない。
 なぜなら、この「大事の法門」は、末法の始めの五百年に上行菩薩が出世して弘めるべきことが定められていたからである。すなわち、法華経の如来神力品第二十一において、釈尊は、上行菩薩に結要付嘱し、薬王品第二十三で「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」と、その時を指定されているからである。したがって、末法に生まれ、幸いにもこの大法を信受できた以上は、なんとしても強盛な信行に励んで成仏をとげるように、と激励されている。
 「命終の時・千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし」とは、法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「是の人命終せば、千仏の手を授け」とあることから仰せられている。千仏が手を授けて引っぱってくださり、必ず仏国土へ迎え入れていただけるということで、成仏疑いないことをあらわしているのである。
 そのためには「少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければ」と、如説修行の信心に励むことが肝要である。御本尊を根本とし、御書の教えに学び、自分中心でなく、また人の言葉に依らないということである。
 そして「南無妙法蓮華経と他事なく唱え申して候へば」と仰せのように、妙法以外に成仏の法はないと一心に信じて唱題に励むならば、己心の仏性が湧現してくるのである。方便品第二に「我が如く等しくして異なること無からしめん」と説かれているように、直ちに即身成仏するのである。この「我が如く等しくして」を強調されるために「天然と三十二相八十種好を備う」「三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛生そろひ」と仰せられているのである。もとより、色相荘厳の仏になることではなく、仏の生命に具わるあらゆる功徳が妙法を信受した凡夫の生命に具わることをいわれているのにほかならない。

1443:14~1444:03 第八章 成仏の要諦は「信」なるを明かすtop

14   有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、 有信無解とて解はなくとも信心あるものは成
15 仏すべし、皆此の経の意なり 私の言にはあらず されば二の巻には「信を以て入ることを得己が智分に非ず」とて
16 智慧第一の舎利弗も 但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり・  己が智慧にて仏にならずと説き給へり、
17 舎利弗だにも智慧にては仏にならず、 況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば 仏にならんことおぼつ
18 かなし、 末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、 法を
1444
01 こころえたる・ しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、 今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争
02 か徳分なからんや、 後世を願はん者は名利名聞を捨てて 何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の
03 如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。
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 有解無信といって法門を理解しても信心のない者は、絶対に成仏することはできない。有信無解といって理解はなくても信心のある者は成仏できるのである。皆この経の説くところである。私の言ではない。それゆえ、法華経の第二の巻譬喩品第三には「信をもって悟りに入ることができた。自分の智慧によってではない」といって、智慧第一の舎利弗も、ただこの経を受持し信心を強盛にして仏に成ったのであり、自分の智慧によって仏に成ったのではない、と説かれている。舎利弗でさえも智慧によっては仏に成らなかった。ましてや我ら衆生が少しばかりの法門を心得たといっても、信心がなければ仏に成ることはおぼつかない。
 末法の時代の衆生は法門を少しばかり心得、僧を侮り、法をゆるがせにして悪道に堕ちるであろう、と説かれている。法を心得たしるしとしては、僧を敬い法を崇め仏を供養すべきである。今は仏がいらっしゃらない。仏法を解悟した善知識を仏として敬うべきである。そうすれば、どうして功徳がないことがあろうか。後世を願う者は名利名聞を捨てて、どんなに賎しい者であっても法華経を説く僧を生身の仏のように敬うべきである。これまさしく経文に説くところである。

有解無信
 法門の理解はあるが、信心がないこと。
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有信無解
 信心はあるが、法門の理解がないこと。
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解悟の智識
 真実の道理を悟っている善知識のこと。
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 信が成仏の根本であることを、有解無信と有信無解とを相対して教示されている。「皆此の経の意なり」と、これは法華経の意であると言われているように、譬喩品第三に「信を以って入ることを得たり(中略)己が智分に非ず」とある。智慧第一の舎利弗も、法華経を受持し強盛な信心によって成仏することができたということであり、解ではなく信が成仏の鍵であるという意味である。
 方便品に「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり」と断わられているように、仏の悟った真理はあまりにも深く広大である。九界の凡夫の理解をはるかに超えるのである。理解力を超えた真理も、信じて実践化することによって、その力を生かすことができる。ここに信の大切なる所以がある。
 しかし、自行のためのみならば「信」さえあればよいのであるが、自行化他の実践においては「解」も必要である。ゆえに諸法実相抄においては「行学の二道をはげみ候べし……力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361-11)と御教示されるのである。
 さて、仏法においては、「僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし」と仰せのように三宝に感謝と報恩の誠を尽すべきであるが、仏は今は不在である。その場合は「解悟の智識」をもって仏と敬うのである。解悟の知識とは南無妙法蓮華経を開悟された大聖人をさすのは当然である。大聖人は凡夫僧の姿をされているので、御内証の辺は末法御本仏であられても、人々には仏と見えない。ゆえに「何に賎しき者なりとも」といわれ、妙法を説く僧を「生身の如来」と敬うべきことを示し、このことは正しく法華経に説かれているといわれ、仏法の道理であることを教えておられるのである。真実に成仏を願うならば、社会における名誉や評判、利益などの執着を捨てて、謙虚に、真の仏法を求めていくべきである。

1444:04~1444:10 第九章 禅僧の天魔の振舞いを弾呵top

04   今時の禅宗は大段・仁義礼智信の五常に背けり、 有智の高徳をおそれ老いたるを敬ひ幼きを愛するは内外典の
05 法なり、 然るを彼の僧家の者を見れば昨日・今日まで田夫野人にして黒白を知らざる者も・かちんの直綴をだにも
06 著つればうち慢じて・天台・真言の有智・高徳の人をあなづり礼をもせず其の上に居らんと思うなり、 是れ傍若無
07 人にして畜生に劣れり、 爰を以て伝教大師の御釈に云く川獺祭魚のこころざし・林烏父祖の食を通ず・鳩鴿三枝の
08 礼あり行雁連を乱らず・ 羔羊踞りて乳を飲む・賎き畜生すら礼を知ること是くの如し、 何ぞ人倫に於て其の礼な
09 からんやとあそばされたり取意、 彼等が法に迷ふ事道理なり、 人倫にしてだにも知らず是れ天魔破旬のふるまひ
10 にあらずや。
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 今の時代の禅宗は大体、仁・義・礼・智・信の五常に違背している。智慧のある高徳の人を畏敬し、老人を敬い、幼き者を愛せよというのは、仏典でも外典でも説いている法である。ところが、かの僧家の者を見ると、昨日・今日まで粗末な田舎者で黒白を知らない者であっても、褐色の直綴を着ただけで慢心して、天台宗や真言宗の智慧のある高徳の人を侮り、礼もしないで、その上位にいると思っている。これ傍若無人で畜生にも劣っている。この礼ということについて伝教大師の釈には「川獺は魚を供えて先祖を祭る志をもっている。林の中の烏は父や祖父に食べ物を運んで恩に報いる。鳩は親よりも三つ下の枝に止まる礼を心得ている。飛ぶ雁は列を乱さない。小羊は膝を屈めて乳を飲む。このように、賤しい畜生でさえ礼を知っているのである。どうして人間同士の間において、その礼がなくてよいものであろうか」と仰せになっている(取意)。彼ら禅僧達が法に迷っていることは道理である。人の踏み行うべき道さえも知らないのである。これ天魔の振る舞いではないか。

禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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大段
 大体、おおよそ。
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五常
 儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
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内外典
 内道と外道にわたる典籍や伝承。
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田夫野人
 田舎者のこと。田夫は農夫・やぼなひとのことをいい、野人は町野にある人・粗野な人のこと。
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かちん
 褐色のこと。黒に見えるほどの濃い藍色をいう。
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直綴
 略儀の僧衣で、腰から下にひだがついたもの。上半身を覆う法衣である偏衫に、ひだがあって腰にまとう裙子を直接に綴じ合わせたところから、このようにいうとされる。
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天台
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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川獺祭魚のこころざし
 川獺が捕まえた魚を、食べるまえに川岸に並べておくところから、魚を供えて先祖を祭っているとみたてたもの。陰暦の正月に行うとされる。礼記の月令篇にある。
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林烏父祖の食を通ず
林に住むカラスは、自分を育ててくれた親や、またその親が飢えることがないように、餌を運んで、その恩に報いているといわれること。

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鳩鴿三枝の礼あり
 鳩は礼節を知って、親より三つ下の枝にとまるとされること。鴿は「いえばと」のこと。
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行雁連を乱らず
 雁が列を乱さずに連なって飛ぶこと。
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羔羊踞りて乳を飲む
 子羊はしゃがんで(母親に感謝して)乳を飲むといわれている。
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天魔波旬
 天魔は天子魔のことで四魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)の一つ。第六天の魔王のことであり、波旬は殺者・悪者等と訳し、魔王の名。 ―――――――――
 再び禅宗の僧に対して、厳しい指摘をされている。すなわち、社会における礼節などの常識、良識をさえもわきまえていないのであるから、仏法に迷うのは当然であると。
 出家の道に入門したばかりの者が、濃紺の直綴、すなわち僧衣を着ただけで、傲慢、不遜な態度を示し、天台・真言の有智・高徳の人を軽んじ、礼を尽くさず、偉ぶっている。その傍若無人な振る舞いは、畜生にも劣るといわれている。なんら行学の功を積んでいない、また、なんの力量もないのに、権威をかさに着て、人を人とも思わない者に対する厳しい言葉である。
 伝教大師の、畜生すら自分の先祖を祭り、育ての親の恩に報い、礼節、長幼の序などをわきまえている。まして、人間同士の間において礼節がなくてよいわけがない、との釈を引かれ、礼儀をさえわきまえない禅僧達に仏法がわかる道理がなく、天魔波旬以外の何物でもないと厳しく破折されている。

1444:11~1444:17 第十章 いよいよの聴聞と深信を勧む top

11   是等の法門を能く能く明らめて一部八巻・廿八品を頭にいただき懈らず行ひ給へ、 又某を恋しくおはせん時は
12 日日に日を拝ませ給へ・某は日に一度・天の日に影をうつす者にて候、 此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、
13 此の僧を解悟の智識と憑み給いて つねに法門御たづね候べし、 聞かずんば争か迷闇の雲を払はん足なくして争か
14 千里の道を行かんや、 返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし、 事事面の次を期し候間・委細には申し
15 述べず候、穴賢穴賢、
16       弘安三年二月 日                   日 蓮 御 判
17     新池殿
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 これらの法門をよくよく明らかに知って法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行しなさい。また私を恋しくなったときは日々に太陽を拝されるがよい。私は日に一度、天の太陽に影を映す者である。この僧に読ませられて聞きなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きなさい。聞かなければ、どうして迷いの雲を払えよう。足がなくて、どうして千里の道を行けようか。かえすがえす、この書を常に読ませて、お聞きなさい。いろいろなことはお会いしたときと思って、詳しくは申し上げない。穴賢穴賢。
  弘安三年二月 日            日 蓮  御 判
   新  池  殿

一部八巻・廿八品
 法華経の構成のこと。
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 これまでに述べてこられた種々の法門を十分に理解して「一部八巻・廿八品を頭にいただき」すなわち法華経を根本として信受し、懈怠なく自行化他の実践に励むべきことを信心の要諦として教示されている。
 大聖人の根本は南無妙法蓮華経であるが、一機一縁のために一往、法華経を根本にすることを許されたものと思われる。その意は法華経に三大秘法を含むからである。元意はあくまで三大秘法の南無妙法蓮華経にあり、「一部八巻・廿八品を頭にいただき」とは、妙法の御本尊を根本としていくこと、「懈らず行ひ給へ」とは自行化他の題目の持続であると拝すべきであろう。
 また、大聖人を恋しく思う時は、毎日、太陽に向かって題目を唱えなさいと。大聖人が日に一度、太陽に影を映すとは、毎朝、東天に向かって唱題する時、いずこにあっても信心唱題によって心は通ずることを教えられたのである。
 この書を託した使僧を「解悟の智識」、正しい仏道修行に導く善知識と信頼し、常に法門のことを質問しなさいと仰せられている。前出の「解悟の智識」が別して大聖人をさしているのに対して、ここでは、その大聖人の名代としていくようにとの意と拝される。
 ともあれ求めて聞くことが迷闇をはらって、信心が深まり、智慧が開かれるのである。確たる信心こそ千里の道を行く足にほかならない。その信心を堅固にするためにも「此の書」を常に拝読して、深く学ぶことを勧められているのである。