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日蓮大聖人御書講義331445~1467

1445~1446    船守弥三郎許御書(伊豆配流事)
  1445:01~1445:02 第一章 品々の供養への謝礼を述ぶ
  1445:02~1445:12 第二章 弥三郎夫妻の外護を賛嘆する
  1445:12~1446:03 第三章 地頭の病気回復の祈願と夫妻の功徳
  1446:03~1446:13 第四章 一念三千の成仏の義を示す
  1446:14~1446:18 第五章 再度の賛嘆と激励
1447~1447    同一鹹味御書
1448~1449    椎地四郎殿御書(如渡得船御書)
  1448:01~1448:06 第一章 法華経の行者に大難あるを示す
  1448:06~1448:12 第二章 宿縁深厚の人なるを明かす
  1448:13~1449:05 第三章 如渡得船の所以を示す
1448~1449    椎地四郎殿御書(如渡得船御書)2012:02号大白蓮華より。先生の講義
1449~1451    弥三郎殿御返事
  1449:01~1451:04 第一章 法論の時、主張すべき内容を明かす
  1451:05~1451:16 第二章 法論のあり方と心構えを示す
1449~1451    弥三郎殿御返事2012:10号大白蓮華より。先生の講義
1452~1452    新田殿御書
1452~1454    実相寺御書
  1452:01~1453:08 第一章 玄義の文の正釈を示す
  1453:09~1453:15 第二章 尾張阿闍梨の愚義を破す
  1453:16~1454:03 第三章 大白法の前に邪法は自滅
1454~1454    石本日仲聖人御返事
1455~1455    聖人等御返事
1456~1356    伯耆殿等御返事
1457~1457    高橋殿御返事
  1457:01~1457:07 第一章 法華経の行者供養の功徳を示さる
  1457:07~1457:14 第二章 亡国の姿通し念仏の害毒を教える
1458~1463    高橋入道殿御返事
  1458:01~1458:08 第一章 末法弘通の人法を示す
  1458:09~1449:16 第二章 末法濁世の記文を示す
  1459:16~1460:10 第三章 記文の符号と法華行者の証
  1460:11~1461:13 第四章 門下を想う慈愛の情を語る
  1461:14~1462:12 第五章 現証をもって真言亡国と断ず
  1462:13~1463:03 第六章 三事相応の信心を勧む
1458~1463    高橋入道殿御返事2013:01大白蓮華より。先生の講義
1463~1464    異体同心事
  1463:01~1463:09 第一章 異体同心は万事を成ず
  1464:10~1464:06 第二章 外寇に寄せ衆生救う大慈示す
1463~1464    異体同心事2008:09 大白蓮華より 先生の講義
1464~1464    六郎二郎殿御返事
1465~1567    減劫御書(智慧亡国書)
  1465:01~1465:11 第一章 減劫と仏法弘教の推移
  1465:11~1466:07 第二章 末法は貧瞋癡強盛なるを示す
  1466:07~1466:18 第三章 治世の鍵を明かす
  1467:01~1467:05 第四章 大悪は大善の来るべき瑞相
  1467:06~1467:10 第五章 入道を思う心情を述ぶ
1465~1597    減劫御書(智慧亡国書)2011:02 大白蓮華より 先生の講義
1467~1467    高橋殿御返事(米穀御書)

1445~1446    船守弥三郎許御書(伊豆配流事)top
1445:01~1445:02 第一章 品々の供養への謝礼を述ぶtop

1445
船守弥三郎許御書 (伊豆流罪事)   弘長元年六月    四十歳御作   
01   わざと使を以てちまきさけほしひさんせうかみしなじな給候い畢んぬ、 又つかひ申され候は御かくさせ給へと
02 申し上げ候へと日蓮心得申べく候、 
-----―
 わざわざの使いをもって、ちまき、酒、干飯、山椒、紙などの品々をたしかに頂戴した。また使いの申されるのに、内密にされるようにと申し上げなさいとの事、日蓮たしかに心得申した。 

ちまき
 もち米やうるち米、米粉を練ったものなどを笹などで巻き、長い円錐形にして、藺草でしばり蒸したもの。かつては茅の葉で巻いたのが、名称の由来とされる。
―――
ほしひ
 蒸した米を乾かしたもの。いったん乾燥させてあるので、貯蔵ができた。水に浸して食する。携帯して、兵糧や旅行の時などに用いられた。乾飯ともいう。
―――
さんせう
 ミカン科の落葉低木。各地の山地に生え、人家にも植えられる。高さ3㍍になり、全体に独特の芳香がある。果実は球形で表面がざらつき、紅熟する。種子は黒色。香辛料として利用される。
―――――――――
 本書は、弘長元年(1261)6月27日、日蓮大聖人40歳の時、すなわち伊豆御流罪中に船守弥三郎夫妻に宛てて書かれたものである。
 船守弥三郎は、本書の文中にも述べられているが、伊豆伊東の川奈の漁師で、大聖人が弘長元年(1261)5月12日に伊東に流罪された時、川奈の津に着かれてから地頭の伊東八郎左衛門尉の屋敷に移られるまでの30日余にわたり夫妻そろって外護申し上げている。
 本書は、地頭伊東八郎左衛門尉の屋敷におられた大聖人に船守弥三郎が御供養の品々をお届けしたのに対し、その返礼として書かれたもので、内容は、過ぐる三十日余りの船守弥三郎夫妻の献身的な外護に対し謝意を述べられるとともに、一念三千の法門による法界成仏の深遠なる教えを説かれて、夫妻ともども必ず成仏すると、信心を励まされている。本書は別名を「伊豆配流事」と呼ばれている。
 なお、文中の「さきにまいらせし文につぶさにかきて候し間・今はくはしからず」と述べられ、本書以前にも船守弥三郎宛の御手紙があったことを示唆されているが、現存せず、詳しい内容は不明である。
 この段は、船守弥三郎が使者を遣わして、御供養の品々を日蓮大聖人にお届けしたことに対して感謝されているところであるが、文中「御かくさせ給へ」とあるように、御供養の品々を送ったことについては、世間に知られぬようにして下さい。と大聖人に言っている。このことからも、伊豆御流罪中の厳しい状態がうかがわれる。

1445:02~1445:12 第二章 弥三郎夫妻の外護を賛嘆するtop

02                  日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・ いまだ名をもききをよ
03 びまいらせず候ところに・ 船よりあがりくるしみ候いきところに・ねんごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿
04 習なるらん、 過去に法華経の行者にて・ わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて 日蓮をあ
05 われみ給うか、 たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・
06 日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、 ことに三十日あまりありて 内心に法華経を信じ 日蓮を供養し給う事
07 いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・
08 きく人はあだむ、 ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・ はぐくみ給いしことは日蓮が
09 父母の 伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか、 法華経第四に云く 「及清信士女供養於法師」と云
10 云、法華経を行ぜん者をば 諸天善神等或はをとことなり 或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと
11 云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし。
-----―
 日蓮が去る五月十二日、流罪になって川奈の津に着いた時、まだ名も聞きおよばない所へ船から上がって苦しんでいたのをねんごろにお世話してくださったのは、いかなる宿習であろうか。過去に法華経の行者であられたのが、今末法に船守弥三郎と生まれきて日蓮をあわれまれるのであろうか。たとえ弥三郎はそうであったとしても、女房の身として日蓮に食を与え、洗足、手水、その他のことまで実にねんごろにあたられたこと、日蓮にはわからないが不思議としか言いようがない。
 ことに三十日あまりのうちに内心に法華経を信じ、日蓮を供養なされたことはいかなる理由によるのであろうか。かかる地頭、万民が日蓮をにくみ、ねたむことは鎌倉よりも過ぎ、日蓮を見る者は目くばせをし、名を聞く人は怨んでいる。特に五月のころは米も乏しいであろうに、日蓮を内々に養ってくださったことは日蓮の父母が伊豆の伊東の川奈という所に生まれ変わられたのであろうか。法華経第四の巻に「及清信士女供養於法師」とある。法華経を行ずる者を諸天善神等があるいは男となり、あるいは女となって形を変え、様々に供養して助けるという経文である。弥三郎殿夫婦がこの経文の士・女と生まれて日蓮法師を供養しているのであることは疑いない。先に差し上げたお便りに詳しく書いてあるので、ここではいちいち述べない。

去る五月十二日
 日蓮大聖人が伊豆の伊東に流罪になられた弘長元年(1261)5月12日のこと。
―――
伊豆の伊東かわな
 静岡県伊東市川奈のこと。
―――
諸天善神
 法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
―――――――――
 日蓮大聖人が弘長元年(1261)5月12日、流罪されて川奈に着かれた時に、大聖人を助け、以後30日間にわたり外護申し上げた船守弥三郎夫妻に感謝され、大聖人の御父母が弥三郎夫妻と生まれ変わってこられたのであろうか、あるいは法華経法師品の文にある清信の士女であろうかと、賛嘆されているところである。
伊豆法難と船守弥三郎夫妻
 日蓮大聖人は、文応元年(1260)7月16日、第一回国主諌暁として立正安国論を最明寺入道時頼に提出された。しかし、この国主諌暁によって邪義を破折された禅、念仏、律宗等の高僧達は、大聖人を亡き者にしようとして陰湿な策謀を密かにめぐらし、文応元年(1260)8月27日の夜半、暴徒をもって、松葉ヶ谷の草庵を襲わせた。幸いこの夜襲をのがれた大聖人は、一時鎌倉を離れ、下総の富木常忍の邸に身を寄せられ、下総方面に折伏を進められた。
 翌弘長元年(1261)の春、大聖人は再び鎌倉の地に戻られるのであるが、これを知った、時の執権長時は権力を使って、大聖人を理不尽にも伊豆に流罪したのである。時に弘長元年(1261)5月12日、大聖人40歳の時である。流罪の理由については、諸御書に述べられている。たとえば「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(0355-07)、「念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(1413-01)などであるが、要するに念仏の強信者であり、幕府の黒幕的存在であった北条重時が大聖人を激しく憎んでおり、執権・長時はその子であり、松葉ヶ谷の夜襲で大聖人は殺されたと思っていたのが生きておられたので、伊豆流罪にしたのであった。
 大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に降ろされたのである。
 この時の様子は「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに・船よりあがりくるしみ候いき」云云とあるように、大聖人は、川奈の津で、所の名も知らず、疲労の極に達せられて一人で苦しんでおられた。
 そこに通りかかったのが、漁師の船守弥三郎であった。弥三郎は、すでに幕府から触れの回っていた大聖人を我が身の危険を顧みず、妻と共に30日間もかくまい外護し続けたのである。
「かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」というように住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになったのである。
 日蓮大聖人は本書で、この夫妻の清信の外護を称賛されて、さまざまな角度から述べられている。
 まずは船守弥三郎に対して「いかなる宿習なるらん」と、前世からのなんらかの因を弥三郎自身が作っているにちがいないと述べられ、その内容として「過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか」と言われている。次に夫の弥三郎だけならともかく、弥三郎の妻も、献身的な世話をしてくれたことについて「女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」と述べられ〝不思議〟としか言いようがないと絶賛されている。
 そして、弥三郎夫妻そろって30日余り外護申しあげたことに対して「ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや」と述べられ、いかなる因縁によるのかと賛嘆の言葉もない様子を示され「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか」と、大聖人の父母が弥三郎夫妻と生まれかわったのかと言われている。これは大聖人との因縁という点での御言葉である。
 更に、法華経法師品第十の「若し我が滅度の後に 能く此の経を説かば 我れは化の四衆 比丘比丘尼 及び清信士女を遣わして 法師を供養せしめ」との文を引用されて、「弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」とされ、仏の遣いとしての清信士女であると断言されている。これは、法華経との因縁という面を言われたと考えられる。
 更に、本書の最後には「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」と述べられ教主釈尊の生まれ変わりであろうかとまで絶賛されている。
 このような船守弥三郎夫妻への賛嘆の言葉を拝するとき、伊豆御流罪における弥三郎夫妻の役割がいかに大きかったかを知ることができる。

1445:12~1446:03 第三章 地頭の病気回復の祈願と夫妻の功徳top

12                                  ことに当地頭の病悩について祈せい申すべ
13 きよし仰せ候し間・ 案にあつかひて候、 然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせうとこそをもひ
14 候へ、此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候いて・法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並に天
15 照・八幡・大小の神祇等に申して候、 定めて評議ありてぞ・しるしをばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給
1446
01 はじ、 いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・ をもひ候いしについに病悩なをり・ 海中いろくづの中よ
02 り出現の仏体を日蓮にたまわる事・ 此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、 此の功徳も夫婦二人の
03 功徳となるべし、
――――――
 特に、当地の地頭の病悩について祈誓をしたいと仰せられたとき、どうすべきかと案じた。しかし、一分でも日蓮を信仰する心を出されていたので法華経へ訴えようと思ったのである。この時は十羅刹女もどうして力を合わせられぬことがあろうかと思い、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照太神、正八幡、大小の神祇等にも申した。
 きっと評議があって病気快癒のしるしをあらわされるであろう、よもや日蓮を見捨てられることはないであろう、痛いところ、かゆいところに手が届くようにとりはからわれるであろうと思っていたところ、ついに病悩も治り、海中のいろくずの中より出現した仏像を日蓮に賜ったこと、これは病悩の故であり、さだめし十羅刹女がせめられたからにちがいない。この功徳も弥三郎夫妻の功徳となるであろう。

十羅刹女
 十人の羅刹女のこと。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写。鬼子母神の十人の娘。法華経以前の諸経では悪鬼とされていたが、法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者の守護を誓う善鬼となっている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
―――
釈迦
 釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
天照
 天照太神のこと。日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
八幡
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
いろくづ
 うろこ、また、うろこをもった生き物のことで魚族のこと。「北風吹けば……畜生道をまぬかれて」は、最勝仏頂陀羅尼浄除業障呪経と無垢浄光大陀羅尼経の文の取意。?堵波供養の功徳を述べた文。
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 本章には、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、日蓮大聖人に病気平癒の祈願を依頼してきたこと、大聖人が祈念されて見事にこれが平癒したこと、地頭が感謝のしるしに立像の釈迦仏を大聖人に捧げたことを述べられ、これも船守弥三郎夫妻の功徳に帰すと述べられている。
 地頭の病悩回復のための祈願を依頼されたとき、大聖人はその依頼に応ずべきかどうかを思案されたのであった。
 というのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者ではなかったからである。正しい仏法の祈願は、あくまでも願主の信心が大切となる。願主に正法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。
 そこで、「一分信仰の心を日蓮に出し給へば」とあるとおり、地頭が日蓮大聖人と法華経への信心を起こしてはじめて、病気平癒の祈願を行うことを決意されたのである。
 この祈願の結果、無事、地頭の病は平癒したのである。そして、その病気平癒の功徳はそのまま船守弥三郎夫妻の功徳となるであろうと励まされている。
 なぜなら、夫妻が大聖人を外護していなければ、大聖人の病気平癒の祈願も、その成功もなかったであろうからである。
海中いろくづの中より出現の仏体
 大聖人の祈願により病苦から救われた地頭は大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに漁師が海中より引き揚げたという立像の釈迦仏を大聖人に捧げた。
 この海中出現の釈迦仏を、大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられている。末法においてはインドの釈尊の教えは無益であり、釈迦仏を本尊とすることはない。「法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365-01)と大聖人自ら御教示されているところである。にもかかわらず、なぜ大聖人御自身、釈迦仏の像を所持されたのであろうか。
 その意義については、日寛上人が、末法相応抄で、三つの意義を示されている。
 すなわち、一つには、立宗弘通の初めであることから、まず、釈迦仏を借りて肝心の妙法を顕そうとされたということである。
 二つには、当時の日本国は阿弥陀仏、大日如来など爾前経の諸仏が本尊として尊崇されていたので、まず釈尊に帰り、その本意を尋ねよ、との権実相対の立場を宣示するためであったということである。
 三つには、上行菩薩の再誕として、仏の境界にあった大聖人の眼には立像の釈迦仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたということである。
 このような深い理由があって、大聖人は釈迦一体像を所持されたのであり、決して他門流の言うように、釈迦像を本尊として崇めてよいということではない。
 いうまでもなく、末法万年にわたる一切衆生成仏得脱のための真実の本尊は、日蓮大聖人が御図顕された御本尊以外にはないことを深く銘記すべきである。
 故に、大聖人は、遺言として、滅後はこの釈迦一体仏を墓所のかたわらへ立て置くように命ぜられ、事実そのとおりになされた。しかし、日朗がこれを持ち去り、のちに京へ運ばれる途中、海路、嵐にあって再び海中に沈んだとされている。

1446:03~1446:13 第四章 一念三千の成仏の義を示すtop

03          我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・
04 妙境妙智・ 金剛不滅の仏身とならん事 あにかの仏にかわるべきや、 過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教
05 主釈尊とは我等衆生の事なり、 法華経の一念三千の法門・ 常住此説法のふるまいなり、 かかるたうとき法華経
06 と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。
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 我等衆生は、無始よりこのかた生死海の中にあったが、法華経の行者となって無始の色心は本と是れ理性、妙境・妙智、金剛不滅の仏身となるであろうことは、どうしてかの釈迦仏に異なることがあろうか。過去久遠五百塵点のその初の唯我一人の教主釈尊とは我等衆生のことである。これが法華経の一念三千の法門であり、仏の常住此説法の振る舞いである。このような尊い法華経と釈尊であるけれども凡夫は知ることがない。
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07   寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり、 迷悟の不同は沙羅の四見の如
08 し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。
-----―
 寿量品にいう「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこのことをいうのである。迷いと悟りによって不同があるのは、釈尊在世の人々が沙羅林を四通りに見てきたようなものである。一念三千の仏というのは法界のすべてが成仏するということなのでる。
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09   雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、 尸毘王の所へにげ入りし鳩は昆首羯摩天ぞかし、班足王の
10 城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、 肉眼はしらず仏眼は此れをみる、 虚空と大海とには魚鳥の飛行する
11 あとあり 此等は経文にみえたり、 木像即金色なり金色即木像なり、 あぬるだが金はうさぎとなり死人となる、
12 釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、 此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実
13 成仏これなり。
-----―
 雪山童子の前に来た鬼神は帝釈天の変化であり、尸毘王の所に逃げ込んだ鳩は昆首羯摩天であった。班足王の城に入った普明王は教主釈尊であった。肉眼はこのことを知らず仏眼のみこれをみる。虚空と大海には魚鳥の飛行する跡がある。これらは経文に説かれている。木像はすなわち金色であり、金色はすなわち木像である。阿㝹楼駄の金は兎となり、死人となる。釈摩男が手にとれば砂も金となる。これらは思議することができない。凡夫はすなわち仏であり、仏はすなわち凡夫である。一念三千、我実成仏とはこのことである。

生死海
 生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
―――
無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身
 無始色心とは、久遠元初以来、永遠に続いている生命である。色心とは生命の義である。本是理性とはもともと妙法であるとの意である。明境妙智とは、大宇宙も不思議なる妙法の当体、自身もまた妙法の当体であり、境智不二であることをあらわす。久遠元初以来、無始無終に続きゆく、この生命こそ自体が、もともと妙法の当体であるということである。法華経を行ずることによって、妙境と妙智とを具えた金剛不滅の身を成就して、成仏の境界を得ることができるとの意。
―――
五百塵点
 五百塵点劫のこと。法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
―――
一念三千の法門
 三大秘法のご本尊のことをいう。理に約せば一念に三千種の生命活動を具すとの哲理で、中国の天台大師が摩訶止観において、この法門を明かした。釈尊は法華経28品をもって、これを説いたのでああって、このゆえに、天台大師は“小釈迦”ともいわれた。天台の一念三千の法門は“像法の法華経”という。しかしその天台大師のあらわしたものの実体は、末法御本仏・日蓮大聖人が南無妙法蓮華経として示されたのである。ゆえに天台大師の一念三千の法門を“理の一念三千の”といい、日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を“事の一念三千”というのである。“事の一念三千”の御本尊こそ、釈尊ならびに天台大師が説かんとした極説中の極説の当体であり、仏法の究極なのである。
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沙羅の四見
 沙羅は沙羅林のことで、釈尊が涅槃に入った所をいう。同じ沙羅林でも、それを見る衆生の機根・境地によって四種に見えたこと。像法決疑経に「今日座中の無央数の衆、各見るところ不同なり(中略)或は此処沙羅林の地、悉く是れ土沙草木石壁なりと見、或は此処金銀七宝の清浄荘厳せると見、或は此処乃ち是れ三世諸仏所行の処なりと見、或は此処即ち是れ不可思議諸仏の境界にして、真実の法体なりと見る」とある。
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雪山童子
 釈尊が過去世で修行をしていた時の名。涅槃経巻十四等に説かれる。釈尊は過去の世に雪山で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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尸毘王
 梵語でシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊が過去世に菩薩として檀波羅蜜を修行していた時の名。菩薩本生鬘論巻一によると、帝釈天と昆首羯摩天は、鷹と鳩に化身して、尸毘王が真に菩薩として精進し、仏道を求めているかどうかを試そうとした。尸毘王は、鷹に追われて王のふところに逃れてきた鳩を救い、飢えた鷹に身の肉を与えたという。大智度論巻三十五には「帝釈は自ら化して鷹と為り、昆首羯摩は化して鴿と作る。鴿、王に投ずるに、王は自ら身肉を割き、乃至身を挙げて、称に上り、以て鴿の命に代り、地は為に震動せり」とある。
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昆首羯摩天
 梵語ヴィシュヴァカルマン(Viśvakarman)の音写。昆守羯摩・昆首婆羯摩とも書く。帝釈の臣で三十三天に住する天神。妙業・巧化師・種々工業と訳す。
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班足王
 梵語カルマーシャパーダ(Kalmāṣapāda)の意訳。鹿足ともいう。足に斑点があり、そこから斑足王と名づけられた。邪師の教えにより千人の王の首を得ようとして九百九十九王を捕えた。その千人目として捕えられたのが普明王であった。
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普明王
 須陀須摩王、須陀摩王ともいい、梵語シュルタソーマ(Śrutasoma)の音写。普明王は意訳。釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜の修行をしていた時の名。須陀須摩王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修したという。あるとき、斑足王に捕えられ、他の九百九十九人の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の婆羅門への供養をする約束を果たすために七日間の猶予を乞うた。そこで、斑足王は、帰国を許した。須陀須摩王は、彼の婆羅門に供養をし、王位を太子に譲って約束どおり王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、須陀須摩王だけでなく他の九百九十九人の王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある。
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あぬるだ
 梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿那律尊者のこと。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人。天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失った。しかし、この縁によって天眼を得たという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗の飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とあり、「あぬるだが金はうさぎとなり死人となる」の故事を説いている。すなわち、弗沙仏の末法の世に饑饉があった。辟支仏が乞食を行じていたが何も得られなかった。それを一人の貧人が見て悲しみ悼み、稗の飯を供養した。そののち貧人が稗を採りに行った時に、兎がいて跳びはねて貧人の背中に抱きつくと死人に変じた。貧人が驚いて離そうとしたが離れなかった。日暮を待って衣で背中を覆い家に帰りつくと、死人は地に落ち金人となった。その指を抜くに随って生じ、取っても尽きることが無かった。悪人や悪王がこれを聞き奪おうとしたが、彼らは死体を見るのみであった。しかし貧人が見ると閻浮檀金からできた金宝であった。こうして九十一劫の間、この果報が充足したので、無貧と呼ばれた。
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釈摩男
 梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。摩訶那摩とも書く。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていた。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「善見律に云く、釈摩男は是れ仏の叔父の子なり。(中略)釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。
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 海中出現の釈尊像に事寄せて、無始以来、生死の大海の中にいた我等衆生も法華経を信ずることによって釈尊と同じ仏になることができるのであると述べられ、このように凡夫が即身成仏できるのが一念三千の法門であることを説かれている。
我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや
 我々衆生の生命の奥底には金剛の如き輝ける仏性が無始以来具わっており、それが法華経への信心によってあらわれて即身成仏できることを述べられている。
 衆生が仏性を具備していることを明確に説き明かしたのは、いうまでもなく、釈尊出世の本懐の経たる法華経である。
 したがって、我々衆生が、法華経に出あわずに迷っているときは、自分の生命の奥底に仏性を具えていることを知らず、生死の苦海を流転してきたのである。
 しかし、今生に法華経に出あい、これを信じ実践する行者となってはじめて、自分の生命の奥底に本来仏性を具えていることを覚り、教主釈尊と同じ仏身になることができるのである。
「無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事」の無始色心とは無始以来の凡夫の生命ということである。本是理性とはその凡夫の生命に本来具わっている仏性をいい、これは三身の中の法身にあたる。妙境・妙智とは、我が生命が妙法の当体であることを覚知することでこれは報身にあたる。その時、金剛不滅の仏身となるのであり、これは応身にあたる。すなわち三身如来とあらわれるとの仰せである。
過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり
 法華経寿量品では、釈尊が過去五百塵点劫に成道したことが説き明かされているが、それは一人釈尊のことではない。その成道の根源である久遠元初の南無妙法蓮華経を受持した人はすべてこの時の釈尊と同じように成仏することができるとの仰せである。
 久遠の昔に、釈尊が行じた成道の本因の法が南無妙法蓮華経である。その久遠元初の南無妙法蓮華経を行じているのであるから、釈尊と全く異なることなく、三身如来となることができるのである。「日蓮が修行は久遠を移せり」(0862-03)との百六箇抄の甚深の仰せを拝すべきであろう。
法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり
 我等衆生の生命に仏性を具し、一切衆生の即身成仏を説いたのが「法華経の一念三千の法門」であり、仏は常にこの娑婆世界にあってこの一念三千の法を説いてくださっているのであるとの意である。
 そして、このように尊い教えが法華経であり、仏は大慈悲をもって説いてくださっているのであるが、凡夫はそれを知らないでいるのである。それを寿量品には「我れは常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顚倒の衆生をして 近しと雖も見ざらしむ」と説かれている。仏は常に身近におられて正法を説かれているのであるが衆生にそれが見えないのは衆生自身の顚倒・迷妄によるということである。正法を信受してこの顚倒を正し迷妄を晴らしたときにはじめて仏が常住されていることを知り、我が身が本来仏であるとの法華経の真理を覚って即身成仏を遂げることができるのである。
迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ
 沙羅の四見とは、像法決疑経に説かれているもので、釈尊が涅槃に入った同じ沙羅林でも見る人の機根の相違により、四種の見方があったということである。これは、仏が常にこの娑婆世界におられ説法されていても、顚倒の衆生は、仏はこの世にはおられないと考えていることを譬えていわれた言葉である。「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ」とは、迷いと悟りの間に、厳然たる差別を設け、迷いを打破して悟りに至ることが成仏であると説いたのが爾前経であるが、これに対して、九界すなわち法界のあらゆる衆生がそのままで成仏するということが法華経の教えであり、そのような成仏が一念三千の成仏である。
 いうまでもなく、これはあくまで法華経を信じ行ずるという一点を前提にしていえるのであって、この一点をはずして安易に九界がそのまま仏なのではない。
 ともあれ、雪山童子の前に姿をあらわした鬼神が帝釈天であったこと等のように、凡夫は本当の姿を見抜くことができないのである「木像即金色」云云といわれて「あぬるだが金はうさぎとなり死人となる」といわれているのは、大聖人に捧げられた立像の釈迦仏が、大聖人の境界においては先に日寛上人の御説明を挙げた中の第三にあったように、久遠元初の本仏と映られていたということである。それと同じように凡夫即仏であり、即身成仏していくのが「一念三千、我実成仏」ということなのである。

1446:14~1446:18 第五章 再度の賛嘆と激励top

14   しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、 伊東とかわなのみちのほどはちか
15 く候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ、 人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば
16 御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。
17       弘長元年六月二十七日                  日蓮花押
18     船守弥三郎殿許へ之を遣わす
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 そうであるなら弥三郎殿夫婦二人は教主大覚世尊が生まれ変わられて日蓮を助けらてたのであろう。
 伊東と川奈は道程は近いけれども心は遠い。後日のため文を差し上げておく。人に語らず心得ておかれたい。少しでも人が知ることになれば、弥三郎殿にとってためにならないであろう。胸のなかにしまっておいて他人に語ったりしてはならない。あなかしこ、あなかしこ。南無妙法蓮華経。
  弘長元年六月二十七日        日 蓮  花 押
   船守弥三郎殿許へ之を遣わす

教主大覚世尊
 仏教の教主である仏のこと。大覚教主大覚世尊とは、仏の覚りのこと。世尊とは仏の十号のひとつで、あらゆる人々から尊敬される者の意。大覚世尊とはこれら二つの語をあわせたもの。釈迦牟尼仏の別称。
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 本抄を結ぶにあたって、繰り返し船守弥三郎夫妻の献身的な外護に対して「教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」と賛嘆されている。そして「伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ」と述べられ、大聖人がおられる伊東の地と船守弥三郎夫妻のいる川奈とは距離にしてそれほど遠くはないが、伊東、川奈の住民の大聖人に対する冷淡な眼や不穏な空気が、互いの行き来を妨げていて「心はとをし」といわれている。それ故に、後のために、この御書をしたためておくとの仰せである。
 さらに、弥三郎夫妻の立場を配慮されて「人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ」との注意を与えておられる。大聖人が御流罪の身であることから当然といえば当然だが、周囲の眼がいかに厳しいものであったかがこの御文からも知ることができるし、その中で法華経の信仰を貫き、大聖人を外護申し上げた夫妻の不退の信心は、永遠の門下の鏡となっていくであろう。

1447~1447    同一鹹味御書top

1447
同一鹹味御書
01   夫れ味に六種あり.一には淡.二には鹹.三には辛.四には酸.五には甘.六には苦なり、百味のキョウ膳を調ふとい
02 へども一つの鹹の味なければ大王の膳とならず、 山海の珍物も鹹なければ気味なし、 大海に八の不思議あり、一
03 には漸漸に転深し・二には深くして底を得難し三には同じ一鹹の味なり・ 四には潮限りを過ぎず・五には種種の宝
04 蔵有り・六には大身の衆生中に在つて居住す・ 七には死屍を宿めず・八には万流大雨之を収めて不増不減なり、漸
05 漸に転深しとは法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで 皆仏道を成ずるに譬うるなり、 深くして底を得難しと
06 は法華経は唯仏与仏の境界にして 等覚已下は極むることなきが故なり、 同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸
07 教に得道なきに譬ふ、 諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ、潮限
08 りを過ぎずとは妙法を持つ人 寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ、 種種の宝蔵有りとは 諸仏菩薩の万行
09 万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ、 大身の衆生所居の住処とは仏菩薩・大智慧あるが故に大身衆生と名
10 く大身・大心.大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲.おのづから法華経より生ずるが故なり、死屍を
11 宿めずとは永く謗法一闡提を離るるが故なり、 不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり、 蔓
12 草漬たる桶ビョウの中の鹹は大海の鹹に随つて満干ぬ,禁獄を被る法華の持者は桶ビョウの中の鹹の如く.火宅を出で
13 給へる釈迦如来は大海の鹹の如し、法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり、 梵釈・四天も如何驚き給わざら
14 ん、 十羅刹女の頭破七分の誓ひ此の時に非ずんば何の時か果し給ふべき、 頻婆娑羅王を禁獄せし阿闍世早く現身
15 に大悪瘡を感得しき、法華の持者を禁獄する人・何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。日 蓮 花 押
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 味には六種がある。一には淡、二には鹹、三には辛、四には酸、五には甘、六には苦である。たとえ百味の料理を調えたとしても、一つの鹹の味がなければ、大王の膳とはならない。山海の珍物も、鹹がなければ何の風味もない。
 大海には八の不思議がある。一にはだんだんと非常に深くなる。二には深くて底をきわめ難い。三にはどこの海水も一様に鹹い味である。四には潮の干満には一定の法則がある。五には種々の宝を蔵している。六には大きな生物が住んでいる。七には死骸を宿(とど)めない。八には諸河が流れ込み、大雨が降っても増減がないことである。
 だんだんと非常に深くなるとは、法華経は無解の凡夫から有解の聖人に至るまで、皆仏道を成就することができることに譬えるのである。
 深くして底をきわめ難いとは、法華経は唯(ただ)仏と仏とのみが悟っている境界であり、等覚以下の菩薩は究めることができないことに譬えるのである。
 どこの海水も一様に鹹い味であるというのは、諸河に鹹の無いことは、諸教では成仏できないことに譬えている。
 諸河の水が大海に入って鹹くなるのは、諸教のさまざまな機根の者が、法華経に入って仏道を成就することに譬えるのである。
 潮の干満に一定の法則があるとは、妙法を持つ人はたとえ身命を失うことがあっても、必ず不退転の位を得ることができることに譬えるのである。
 種々の宝を蔵しているとは、諸仏、菩薩のすべての修行・善行、諸波羅蜜を修する功徳は、妙法に納まっていることに譬えるのである。
 大きな生物が住んでいるところであるとは、仏菩薩は大智慧があるから大身の衆生と名づけるのである。大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢力・大神通・大慈・大悲は、もともと法華経から生じたものだからである。
 死骸を宿めないとは、永遠に謗法・一闡提を離れることを譬えたものである。
 増減がないとは、法華経の意は、一切衆生の仏性は同一であることを譬えたものである。
 蔓草を漬けた桶や缾の中の鹹は、大海の潮の干満に随って干満がある。牢獄に禁められた法華教の行者は、桶や缾のなかの鹹のようであり、三界の火宅を出られた釈迦如来は、大海の鹹のようである。
 法華の持者を禁めるのは、釈迦如来を禁めることである。梵天・帝釈天・四天王もどれほど驚かれていることであろう。十羅刹女の「頭を七つに破る」との誓いは、この時に果たさないならば、いつ果たすのであろうか。
 頻婆娑羅王を禁獄した阿闍世王は、たちまちその身に大悪瘡が生じた。法華経の行者を禁獄する人は、どうしてその身に悪瘡が生じないことがあろうか。
                    日 蓮  花 押

百味の餚膳
 百味とは、種々の美味・珍味のこと。餚膳とは、供え物を乗せた膳の意味。
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大王の膳
 大王の食膳のこと。美味・高価な食物を並べた食膳。
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無解
 法門に対する理解がないこと。無智。
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有解
 法門に対する理解があること。
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唯仏与仏
 方便品の文。「唯、仏と仏と、乃し能く究尽したまえり」とある。諸仏の智慧のみが能く諸法の実相を究め尽くしており、菩薩・二乗の及び得ないものでああるということ。
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等覚
 菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
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不退転
 仏道修行の過程ですでに得た功徳を決して失うことのない位。菩薩の52位の中、十住の初めの位を初発心といい、この位の菩薩は、一分の中道の理を証得して正念に止住する故に初住已上を不退転の位とする。
―――
諸波羅蜜
 もろもろの波羅蜜のこと。波羅蜜は梵語でパーラ三―(Pāramī)「彼岸に至る」と訳す。生死を大海に、彼岸を成仏にたとえている。菩薩が生死の大海を渡り彼岸に至る道程をいい、これに六種類があるゆえに、布施・持戒・忍辱・精進・禅・智慧を六波羅蜜という。観心本尊抄には「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(0246-11)とある。
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大身の衆生所居の住処とは
 涅槃経巻三十二に「六つには大身衆生所居の処なり。大身衆生とは、謂く仏菩薩なり。大智慧の故に、大衆生と名づく。大身の故に、大心の故に、大荘厳の故に、大調伏の故に、大方便の故に、大説法の故に、大勢力の故に、大徒衆の故に、大神通の故に、大慈悲の故に、常にして不変の故に、一切衆生罣礙無きが故に、一切諸の衆生を受容するが故に、是れを大身衆生所居の処と名づく」とある。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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火宅
 煩悩が盛んで苦しみが多い三界を、火災にあった家宅にたとえたもの。
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梵釈
 大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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十羅刹女
 鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
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頭破七分
 陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
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頻婆娑羅王
 梵名ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写。影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・摩掲陀国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏法を保護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。
阿闍世
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
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 本抄の題名は、内容に「同じ一鹹の味なり」とあるところから後世つけられたものである。別名を与檀越某御書とも、六味書ともいわれる。
 御述作の年次、並びに与えられた人については種々の説があり、御執筆の由来も不明である。ただ本抄の内容に「禁獄を被る法華の持者」「法華の持者を禁獄する人」等の御文があることから、日蓮大聖人並びに弟子檀那が留難を受けた時にお書きになった御書であろうと推察されている。
 その観点から、古来、伊豆流難の弘長元年(1261)説、佐渡の御流罪の文永8年(1271)説、熱原法難の弘安2年(1279)説がある。
 さて、本抄の内容は三段に分けられる。最初に、味には六種があるが、その中でも鹹が最も大切であることを述べ、鹹味(かんみ)が無ければ本当の味にならないとされている。
 この譬えは、法華経を鹹味になぞらえられて、法華経が説かれなければ、諸経も生きた力になりえないことを教示されたものである。
 そこで次に、涅槃経に説かれる大海の八不思議力を引用して法華経の勝れた特質を示されている。
 最後の第三段では、蔓草を漬けた桶や缾の中の塩を、法華経の持者に譬え、大海の塩を釈尊に譬えて、桶や缾の中の塩も、もともとは大海の塩である。したがって、大海の潮が干満を示すように、桶や缾の中の塩水も、それにならうのであり、法華経の受持者を禁獄することは釈尊を獄に入れることに等しいと言われ、梵釈四天、十羅刹女等の諸天によって、頻婆娑羅王を禁獄した阿闍世王のように現身に悪瘡を生じることは間違いないと仰せられている。
 今、末法の法華経である南無妙法蓮華経を受持する者を悪口したり、禁めたりすることは、仏を迫害するのと同じであり、諸天の処罰を受けることは必定である。
 それに対して、法華経の受持者は、現世には苦しみを受けたとしても、即身成仏の大果報を受けることができるのである。
大海の不思議と法華経の特質
 この比喩の意味については御文に十分明瞭であるが、若干の説明を加えてみよう。
 第一に、海が次第に深くなっていることは、法華経が凡夫無智の人も、また舎利弗等のような聖人有解の人も、ことごとく成仏させることを譬えている。むろん、菩薩の成道はいうまでもない。爾前経では、聖人有解である二乗の不作仏を説くが、法華経に至って二乗の作仏が許された。
 第二に、海底が深くて容易に達せられないことは、法華経は全く仏の境地を説くものであるから、法華経の極意を悟っているのは仏と仏のみであり、等覚の菩薩といえども知り難いことを譬えている。
 つまり、菩薩以下の智慧によっては達しえないことを示されている。ただ「以信代慧」で、信心によって法華経の根本に帰入することができるのである。
 第三に、海水が同一の塩辛い味であるというのは、法華経はあらゆる衆生を同一に成仏させることを譬えているのである。
 海に入る河には塩辛い味は全くない。これは爾前経に得道の無いことを示している。
 その河水が海に入って同じく塩辛くなるのは、爾前のどの衆生も、法華経に入って成仏できることを示すのである。
 第四に、「潮限りを過ぎず」というのは、海水は月の引力によって一日二回、干満する。その引き潮と満ち潮が時間を違えない、必ず、時をあやまたず干満するということを意味している。
 法華経を持ち、不退転の信心を貫く人は、たとえ生命を失うことがあっても、必ず仏になるのである。それは、海水が干れば必ず満ち、満ちれば干ることが決まっているようなものである。いつでも、誰人でも成仏できるのであって、そのことに例外はないのである。
 第五に、大海には珊瑚や真珠等の種々の宝がある。このことは、諸仏菩薩のあらゆる修行、あらゆる功徳、六波羅蜜を修行した功徳が、ことごとく妙法蓮華経にそなわっていることを譬えている。
 唱法華題目抄には「一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」(0013-13)と仰せである。また、同抄に「一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし」(0013-08)とも仰せられている。
 このように、妙法の二字には、諸仏菩薩の功徳がおさまり、一切の草木さえも妙法にすべて含まれているのである。
 第六に、海には、鯨やサメ等の大きな生物が棲息している。このように仏菩薩のような大身の衆生が、法華経のなかに居住し、法華経から生まれてくるのである。
 法華経は、大身も、大きな心も、三十二相八十種好をそなえる大荘厳も、諸悪を屈服させる大調伏も、梵音声の大説法も、大勢力も、大神通力も、大慈悲も、ことごとく生みだす源である。
 観普賢菩薩行法経には「仏の三種の身は、方等従り生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人天の福田、応供の中の最なり。其れ大乗方等経典を誦読すること有らば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪は永く滅して、仏慧従り生ず」と記されている。
 第七に、海中では死骸は容易に発見されない。「死屍を宿めず」といわれる意味である。
 この譬えは、法華経が長く謗法一闡提を離れる、すなわち謗法、一闡提をも救う力がある、ということをたとえている。
 爾前経においては、悪人不成仏、二乗不作仏等と説く。だが、法華経に来て、それらも皆成道が可能となったのである。
 第八に、海水は不増不滅である。多くの河水が、海に入ってくるが、そのために海水が増すこともなく、また旱魃があっても海水の量が減るということもない。
 法華経の心は、一切衆生悉有仏性のうえに立っている。すなわち、すべての人にそなわっている仏性は万人同一であり、いかなる増減も、高下もない故に、万人が平等に成仏できるのである。
法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり
 法華経を持ち弘めておられる日蓮大聖人を迫害しているのは釈迦如来を迫害しているのと同じであるとの仰せである。
 このことは、日蓮大聖人が、内証のお立場では仏であり、久遠元初の自受用報身如来であられるということにほかならない。
 「火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し」とは、明確に成道の姿を示した色相荘厳の仏をさして言われている。
 それに対し御自身を「桶缾の中の鹹の如く」と言われているのは、外面から見ると凡夫の姿であるが、その内証は仏と何ら変わりがないということである。
 いま、人々が日蓮大聖人を迫害しているのは、釈迦如来を迫害しているのと同じであるから、梵釈四天も驚き、十羅刹女が仏に敵対している人に治罰を加えないわけはないと言われているのである。

1448~1449    椎地四郎殿御書(如渡得船御書)top
1448:01~1448:06 第一章 法華経の行者に大難あるを示すtop

1448
椎地四郎殿御書    弘長元年四月    四十歳御作
01   先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、 これにつけ
02 ても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、 師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法
03 華経の行者必ず出来すべし、 但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、 火に薪をくわへんにさかんなる
04 事なかるべしや、 大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、 法華大海の行者に諸河の水は大難の
05 如く入れども・かへす事とがむる事なし、 諸河の水入る事なくば大海あるべからず、 大難なくば法華経の行者に
06 はあらじ、天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」と云云、
――――――
 先日話されていたことについて、彼の人のほうに尋ねたところ、あなたが仰せになられたのと少しの違いもなかった。これにつけてもいよいよ信心に励んで法華経の功徳を得られるがよい。師曠の耳、離婁の眼のように聞いたり見たりされるがよい。末法には法華経の行者が必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし、大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経の行者という大海に、諸河の水が大難として流れ込むけれども、押し返したりとがめだてすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない。天台大師が「多くの河水が海に流れ入り、薪は火を熾んにする」というのはこれである。

師曠が耳
 師曠は中国・春秋時代の宮廷音楽家。晋の平公に仕え、音律によってよく吉凶を占ったといわれる。「呂氏春秋」によれば、平公が鐘を鋳造して楽人にその音を聞かせた。楽人は一同に音の調っていることを喜んだが、一人、師曠だけ整っていないから鋳なおすべきだと主張した。平公が理由を尋ねると「後世において、その音律を聞きわける楽人がでたら、きっとこの鐘の音律の不調和を指摘するでしょう。そうなれば、この鐘の鋳造を命じた君の不名誉になります」と答えた。果たして衛の霊公の時に、楽人師涓という人が出て、この鐘が音律にかなっていないことを指摘、師曠の耳の正しさが証明されたという。このことから、師曠は耳のさとい者のたとえとして用いられるようになった。
―――
離婁が眼
 離婁は中国古代、黄帝の時代の人物。離朱ともいう。視力にすぐれ,百歩離れたところからでも細かい毛の先端まで見えたといわれ、目のよい人のたとえとされる。
―――――――――
 本抄は弘長元年(1261)4月28日、椎地四郎に与えられたお手紙である。
 文中、法華経の「如渡得船」の文を引いて教えられているところから「如渡得船御書」の別名が、また大難が起こっても信仰を貫き、法を弘めることの尊さが説かれているところから「身軽法重死身弘法御書」の別名がある。御真筆は存していない。
 御執筆の年次についてはおおむね弘長元年で一致しているが、建治以降、また弘安4年(1281)とする説もある。ここでは、弘長元年(1261)説をとっておく。
 本抄をいただいた椎地四郎については詳しいことはわかっていない。
 ただ、本抄を拝すると「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」と仰せになっており、また四条金吾許御文にも「しゐぢの四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ・よに・すずしく覚え候へ」(1195-05)との御文があるところから、四条金吾とは親しい間柄にあったようである。そのほか富城入道殿御返事にも「又必ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ」(0995-05)と言われており、富木常忍とも親交があったことがうかがわれる。のみならず富木常忍はかなり椎地四郎のことを心配していたようであり、大聖人も心にかけておられたと拝されるのである。
 本抄が弘長元年の御執筆とすると、右に挙げた四条金吾許御文、富城入道殿御返事がそれぞれ、弘安3年(1280)、弘安4年(1281)の御執筆であるところから、あまり目立たないながらも、長年にわたって着実な信心を貫いてきた人ということになろう。
 また本抄や富城入道殿御返事の大聖人の仰せからすると、しばしば大聖人に直接お会いしており、少なからぬ信頼があった人のようである。
 日興上人が残された大聖人の御遷化記録によると、椎地四郎は大聖人の御腹巻を捧げて葬列に加わっている。
 これをみても、特に晩年、大聖人のおそば近くで信心修行の誠を貫いた人であったらしいことが察せられるのである。
 本抄では、最初に椎地四郎が何かを大聖人に申し上げ、それについて大聖人が「彼の人」に尋ねられたところ、椎地四郎の話と全く違わなかったと仰せられている。そして、それについても、ますます信心に励んでいくよう言われ、また「師曠が耳・離婁が眼」のように聞いたり見たりしていくように教えられている。
 椎地四郎が何を話したのか、また「彼の人」はだれか、内容は全くわからない。弘長元年(1261)4月28日とすれば、大聖人の伊豆御流罪の直前であり、そのことについての情報であったかのもしれない。
 師曠、離婁を例として挙げられているところから、椎地四郎は、なんらかの情報を手に入れられる立場にあったとも考えられる。
 しかもそのあと、難がきてもいよいよ強盛の信心を貫いていくべきことを述べられていることから、本抄が伊豆御流罪の直前に記されていたとして推察すると、前年の松葉ヶ谷草庵の襲撃以来、念仏者達の策謀が続き、遂に幕府が直接、弾圧に乗り出そうとする動きがあったころであり、それに関する情報を大聖人に報告したという推測も成り立つのである。
 その意味で本抄は、まさに幕府による大弾圧への第一歩が踏み出されようとしている時にあたって、断じて難を乗り越えていく信心を励まされたものと拝せられる。
師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ
 師曠、離婁は共に中国古代の人で、それぞれ聴覚、視覚に優れた人の典型とされた人物である。冒頭の「御物語」と仰せになっている内容がなんらかの情報という意味であれば、大聖人がここでこうした例を挙げておられる元意は、これからも世の中の動きをよく察知し、対処していくべきことを椎地四郎に御指導されたと考えられる。
 とすれば、信仰の問題と一見、無関係のようにとられがちであるが、そうではない。信仰自体は、世間のいかなる動きにも紛動されない不動のものであるべきであるが、法を護り、令法久住のためには、鋭く社会の動向、人々の機根を見抜いていかなければならない。この両方が相まって初めて時期に適った弘教ができるのである。
但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし
 大聖人は立宗の当初から、その前途に大難の降りかかることを予知、覚悟されていたが、ここに幕府権力の迫害が眼前となるに及び、門下に対しても、むしろ、喜んでそれに対処していくべきことを促されているのである。
 大聖人は、佐渡御流罪の際、動揺し退転の動きをみせる門下について「天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん」(0234-07)、「此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり」(0501-05)等と、常日ごろ法難の起きることを門下に教えておいたと仰せになっているが、本抄を弘長元年の御述作と拝すればそれは明瞭である。
 大聖人は、大難がきたならば「弥弥悦びをなすべし」と言われている。なぜなら、難を受けることによって自己の宿業を転換でき成仏への直道を歩むことができるからである。
 大聖人は天台大師の言葉を引用され、火が薪によってますます盛んに燃え、大海が河の水をすべて受け入れていく例を挙げられ、大難にあうことによって法華経の行者としての境界をますます広げていき、成仏の道があると信心の極致を教えられている。
 ここに引かれている天台大師の言葉は摩訶止観巻五の文であり、「行解既に勤むれば、三障四魔紛然として競い起り……随うべからず畏るべからず……猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾んにし、風の求羅を益すが如きのみ」の文から引かれている。
 薪と火の例は、難を薪に、法華経の行者としての境界を火にたとえられている。難は法華経の行者としての自覚と確信をますます盛んにするのである。
 摩訶止観の中の「猪の金山を摺り」とは猪が金山を牙ですることによって、金山がますます光り輝くということで、猪が摺るのを難にたとえ、金山が輝くのを法華経の行者にたとえている。求羅とはインドの伝説上の生き物で、風に吹かれて大きくなるとされている。風を難に、求羅を法華経の行者にたとえていることはいうまでもない。
 本抄で大聖人は大海と衆流の関係について、法華経の行者を大海に、難を諸河にたとえておられる。「かへす事とがむる事なし」と仰せの御文には、幕府の非道な仕打ちに対し、そこから逃れようとしたり、非難しようとするものでもなければ、怨むのでもなく、悠々と大難を受けていかれる広大な御本仏の御境界を拝することができる。

1448:06~1448:12 第二章 宿縁深厚の人なるを明かすtop

06                               法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらん
07 は過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、 経に云く「亦不聞正法如是人難度」と云云、 此の文の意は正法とは法華
08 経なり、 此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり、 法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給
09 いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は 如来の使と見えたり、 貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし、
10 此の経を一文一句なりとも聴聞して 神にそめん人は 生死の大海を渡るべき船なるべし、 妙楽大師云く「一句も
11 神に染ぬれば咸く彼岸を資く、 思惟・ 修習永く舟航に用たり」と云云、 生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経
12 の船にあらずんば・かなふべからず。
――――――
 法華経の法門を一文一句でも、人に語るのは過去の宿縁が深いと思いなさい。法華経方便品に「亦正法を聞かず、是の如き人は度し難し」とある。この文の意味は、正法とは法華経であり、法華経を聞かない人は済度し難い、という文である。法華経法師品には「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。是の人は則ち如来の使なり」と説かれており、僧も俗も尼も女も一句をも人に語る人は如来の使いである。というのである。いま、あなたはすでに俗であり、この善男子の人なのである。
 この法華経を一文一句でも聴聞して心に染める人は、生死の大海を渡ることのできる船のようなものである。妙楽大師が「だれでも、一句なりとも心神に染めるならば涅槃の岸に到るのに助けとなる。更にそれを思惟し修習するならば、以て生死の大海を舟で渡るのに永く支えとなるであろう」等と言っている。生死の大海を渡るのは妙法蓮華経の船でなくては叶わないのである。

生死の大海
 生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
―――
妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――――――――
 このなかに「法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」「此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし」の御文が出てくる。前は「人に・かたらん」とあるように化他について述べられ、後は「聴聞して神にそめん」とあるごとく、自行面の信受について述べられている。
 この段は、最初に滅後末法において弘教することの困難なことと、それ故の尊さについて教えられ、次いでその根本としての受持の信心によって成仏は疑いないと説かれているのである。
 「一文一句なりとも」の御文は弘教にせよ、信受にせよ、ともにその難しさと尊さを一言にして示されたものである。もちろん一文一句でよしとするわけではなく、広く弘教し、また一切を信受すべきなのは当然であるが、一文一句なりともと言われることによって、正法を弘教・信受することの難しさと尊さの二つをより鮮明に御教示されているのである。
 弘教について、大聖人は二つの経文を挙げておられる。最初の方便品の文は正法を聞かない衆生は救えないということで、正法を説く以外に衆生救済はありえないことを述べたものである。次の法師品の文は、それ故に正法を説くことは、仏の使いとしての尊い実践であるということをあらわしている。
 弘教の尊さを説かれたあと、正法を一文一句でも聴聞して信受する大功徳を、妙楽大師の文を引いて教えられている。ここで〝一句〟といわれるのは妙法蓮華経のことである。妙法蓮華経の一法は一切万法を含んでいるのであり、それを信受することは仏法の全体を直ちに信受したことになるのである。
 「思惟・修習永く舟航に用たり」の思惟とは仏法の法理を思惟することで〝学〟にあたり、修習とは実践することで〝行〟にあたると考えられる。「一句も神に染める」のが〝信〟であり、この妙楽大師の言葉は「信行学」の重要性をあらわしたものといえるであろう。

1448:13~1449:05 第三章 如渡得船の所以を示すtop

13   抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨
14 権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほば
15 しらに界如三千の帆をあげて・ 諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取
1449
01 多宝如来はつなでを取り給へば・ 上行等の四菩薩は函蓋相応して・ きりきりとこぎ給う所の船を 如渡得船の船
02 とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、 能く能く信じさせ給へ、 四条金吾殿に見参候はば能
03 く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。
04       四月二十八日                    日 蓮 花 押
05     椎地四郎殿え
――――――
 そもそも法華経薬王品の「渡りに船を得たるが如し」とあるなかの船というのは、教主大覚世尊が巧智無辺の船大工として四味八教という材木を取り集め、正直捨権とけずって邪正一如と切り合わせ、醍醐一実という釘を丁と打って、生死の大海へ押し浮かべ、中道一実の帆柱に界如三千の帆を上げて、諸法実相の追い風を得て、以信得入の一切衆生を取り乗せて、釈迦如来は楫を取り、多宝如来は綱手を取られるとき、上行等の四菩薩は呼吸を合わせてきりきりと漕いでいかれる船を「渡りに船を得たるが如し」の船というのである。 
 これに乗ることができる者は日蓮の弟子・檀那等である。よくよく信じられるがよい。四条金吾殿に会われたらよくよく語られるがよい。くわしくはまた申すであろう。恐恐謹言。
  四月二十八日            日 蓮  花 押
   椎地四郎殿へ

如渡得船
 「渡に船を得たるが如し」と読む。法華経の行者は、渡りに船を得たように、苦しみと迷いの彼岸から、悟りの彼岸に向かうことができる。とのたとえの意。
―――
教主大覚世尊
 大覚とは仏のことで、世尊とは、仏の十号の一つ。あらゆる人々から尊敬されるの意で、この二つの語を合わせて仏を意味する。
―――
巧智無辺の番匠
 巧智とは巧みな智慧・才能。番匠は昔地方から交代で京に上り、宮廷の営繕に従事した大工のことで、転じて大工一般をさす。無量無辺の智慧を持った大工の意で、仏を意味する。
―――
四味八教
 四味と八教のこと。四味とは、五味(乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味)のうち、前の四味のこと。天台は釈尊一代の経を五時(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)に分け五味に配した。すなわち四味は法華経以前の華厳時・阿含時・方等時・般若時の経をさす。八教は化法の四教(三蔵教・通教・別教・円教)と化儀の四教(頓教・漸教・秘密教・不定教)を合わせたもの。法華経は超八でこれらを超えている。
―――
正直捨権
 正直捨方便のことと。法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
邪正一如
 衆生の生命は性悪・性善ともにそなわっており、善悪は一如であること。爾前の諸教では成仏できなかた二乗・悪人・女人が十界互具・一念三千を説く法華経に至って成仏を許され、平等大慧の法が確立したことを示している。
―――
醍醐一実
 醍醐は醍醐味のことで、最高の味をいい、一実は真実義である一乗法のこと。四味八教の爾前教に対して、法華経をいう。
―――
中道一実
 法華経に明かされた中道実相の妙法。界如三千が三千をさすのに対し、一念をさす。
―――
界如三千
 あらゆる存在が十界・十如是・三千の諸法を具えていること。十界は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩仏。十如は相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等。十界が互具して百界・十如是が互具して千如是。五陰・衆生・国土の三千世間を互具して三千世間となる。これを界如三千とも一念三千ともいう。
―――
諸法実相
 諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358-01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。
―――
以信得入
 譬喩品の偈。「信を以て入ることを得」と読む。「汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って得たり、況や余の声聞をや、其の余の声聞も、仏語を信ずるが故に、この経に随順す、己が智分に非ず」とある。智慧第一の舎利弗すら、信によって悟ったのである。
―――
多宝如来
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
上行等の四菩薩
 涌出品に出てくる上行菩薩を筆頭とする無辺行・浄行・安立行の四菩薩のこと。
―――
函蓋相応
 函と蓋とのように、両者が相応じて一体となっていること。出典は大日経疏20巻。中国唐代の仏教書。善無畏説、一行記。
―――
四条金吾
 (~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
―――――――――
 法華経の「如渡得船」の文を引かれ、まことに見事な譬えをもって「妙法蓮華経」が一切衆生を成仏の彼岸へ運ぶ大法であることを説かれている。
 「如渡得船」の文は法華経薬王品第二十三にある。
 「此の経は能く一切衆生を救いたまう者なり。……清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復た是の如く」。
 この文は、法華経が、不幸に沈む民衆を救うことを、種々の譬えをもって示したものである。本抄ではこのなかの船の喩えを用いられ、生死の大海を渡る船として妙法の功力を教えられているのである。
 まずこの船をつくった、巧智かぎりない大工は釈尊であり、一代仏教のうち四味八教、すなわち爾前の諸経を船をつくる材木になぞらえられている。しかし、その材木をただ並べても船はつくれない。正しく削って船の部分部分とするにふさわしい形にととのえられなければならない。それを「正直捨権とけずりなして」といわれ、次に船として組みあげられることを「邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて」といわれている。すなわち爾前の諸経の教えも、法華経の部分とされることによって生かされるのである。
 「中道一実のほばしら」「界如三千の帆」「諸法実相のおひて」はともに法華経の肝要である一念三千の法が成仏への要法であることを示されている。「中道一実」は一念三千の〝一念〟であり、これを帆柱にたとえ、「界如三千」は〝三千の諸法〟であり、これを帆にたとえ、「諸法実相」という仏の教えを、成仏の彼岸へ向かって進ませる追い風にたとえられたのである。
 その船に乗ることのできる衆生は妙法を信ずる人である。「以信得入の一切衆生」といわれているのがそれで、どんな衆生も差別なく成仏へ導く船ではあるが、信なくしては乗り込むことができないのである。更に、釈迦如来が楫をとるとは、釈尊が成仏の彼岸へ正しく導く教主であることをいわれ、多宝如来が綱手をとるというのは釈尊の法華経を正しいと証明した多宝如来を、彼岸の仏界から、この船を綱で引っぱって助けてくれていることになぞらえられたのである。
 また、上行等の四菩薩がそれに呼応して船をこぐといわれているのは、四菩薩は妙法の信仰と弘教を実践する生命の働きの象徴であり、したがって成仏の彼岸へ進める原動力の働きにあたるからである。ただし、ここでいわれている上行等の四菩薩は因位の菩薩界の代表としての立場であって、末法に妙法を弘通する導師としての立場には触れられていない。
 「是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」と仰せになって、この譬えを締めくくられている。日蓮大聖人の弟子・檀那として、法華経を正しく信じ持っている者のみが成仏への航路を間違いなく進んでいける。このことは、大聖人こそ、末法の一切衆生を成仏せしめる唯一の正法の教主であり、末法の御本仏であられるということにほかならない。我々は、この大聖人の仏法の正しさをいよいよ深く確信するとともに、一人でも多くの人々を、この大船にすくいあげていきたいものである。

1448~1449    椎地四郎殿御書(如渡得船御書)2012:02号大白蓮華より。先生の講義top

「仏の使い」の誉れも高く堂々と語りゆけ

 「われわれこそは、如来につかわされた尊い身分であると確信すべきであります。自分をいやしんではなりませぬ」
 草創学会の機関紙「価値創造」に綴られた御師・戸田先生の御指導であります。
 「『仏の使い』であります。如来につかわされた身分であります。凡夫のすがたこそしておられ、われら学会員の身分こそ、尊極・最高ではありませんか」
 昭和21年(1946)学会再建のため、戦後の荒野に戸田先生がただお一人、立ち上がられたあたりのことでした。長く苦しい、皆が不幸のどん底にあえいでいた時代です。
 そのなかにあって、戸田先生は、学会員の尊い使命を教えてくださったのです。
 学会員の皆さんこそ、まぎれもなく「仏の使い」「如来の使い」である。
 “仏の理想を全民衆に弘めゆく最極・最高の仏法にほかならない”」
 戸田先生の叫びは、会員の心奥に火を灯しました。“わが生命”に目覚めた人間ほど、強いものはありません。一人一人の胸中に、勇気が生まれました。勇気が湧きました。そして希望が芽生えてきました。
 戸田先生の75万世帯の成就といっても、その本質は、一人一人の使命の自覚から始まったのです。目の前の友人と共に、幸福への大道を歩みゆく、「仏の使い」として生きる実践が、尊極の歓喜を生み、地涌の陣列を喜々として拡大していったのです。
 日蓮仏法は、万人に「如来の使い」の自覚と、如来と同じ慈悲行を促し「幸福の人生」「勝利の人生」を拡大してゆく宗教です。
 この尊い「仏の使い」すなわち、「法華経の行者」の使命と大功徳を教えられている御書が、今回学ぶ「椎地四郎殿御書」です。
 私自身「若き日より暗唱するほど胸に刻んできた御書の一つです。「伝統の2月」を迎えるにあたり、今再び、全学会員の同志と共に、仏法を語り抜く誉れの使命を学んでいきたいと思います。

1448
椎地四郎殿御書    弘長元年四月    四十歳御作
01   先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、 これにつけ
02 ても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、 師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法
03 華経の行者必ず出来すべし、 但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、 火に薪をくわへんにさかんなる
04 事なかるべしや、 大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、 法華大海の行者に諸河の水は大難の
05 如く入れども・かへす事とがむる事なし、 諸河の水入る事なくば大海あるべからず、 大難なくば法華経の行者に
06 はあらじ、天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」と云云、
――――――
 先日話されていたことについて、彼の人のほうに尋ねたところ、あなたが仰せになられたのと少しの違いもなかった。これにつけてもいよいよ信心に励んで法華経の功徳を得られるがよい。師曠の耳・離婁の眼のように聞いたり見たりされるがよい。末法には法華経の行者が必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経という大海、またその行者に、諸河の水は大難として流れ込むけれども、押し返してとがめたりすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない。天台大師が「多くの河水が海に流れ入り、薪は火を熾んにする」というのはこれである。

青年こそ、鋭い眼と確かな耳を持て
 本抄は、日蓮大聖人は門下の椎地四郎に与えられた御書です。椎地四郎あての御書は本抄だけであり、どのような人物であったか詳しくは分かっていません。
 ただ、本抄の末尾に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」と仰せられ、また四条金吾や富木常忍に宛てた御書に椎地四郎の名前を見ることができます。これらのことから椎地四郎は、大聖人の晩年、各地の門下と大聖人のもとを行き来し、門下の様子を大聖人に報告し、また大聖人のお心を門下に伝える役割を担っていたようすがうかがえます。師匠からの信頼も厚く、師弟の歴史に名をとどめていた模範の門下であったのではないでしょうか。
 本抄の冒頭では、椎地四郎が、大聖人に対し何らかの御報告をしたことが記されています。その件について大聖人が、その人に確認をされたところ、四郎の報告と全く同じであったと仰せです。
 報告を受けて、大聖人は、四郎が私心なくありのまま正確に伝えたことを賞讃し、いよいよ信心に励んで「法華経の功徳」を得ていくよう励まされているのです。そして「師曠が耳」「離婁が眼」のように、今後も適確に、正確に物事を見聞していくよう教えられています。
 この仰せから推察するに、四郎に「法華経の功徳」を受けなさいと言われている六根清浄の功徳のことかもしれません。同品では、法華経を人々に弘め教える人には、六根、すなわち清らかで優れた眼や耳をもつて、自身と人々を守り導いていける功徳があると説かれています。信心で磨いた生命に具わる豊かな力で、真実をありのままにとらえ、智慧を発揮し困難を打ち破り、福徳を聞いていく功徳があるのです。
 この「師曠」と「離婁」については、戸田先生もよく話題にされ、青年に教えてくださいました。“時代・社会の変革のため、広布を誤りなく進展させゆくため、青年は何事にも真実を見極める鋭い「眼」、真実の声を聞き分ける確かな「耳」を持て”。私自身、常にこのことを心に刻み、戸田先生のもとで万般にわたる訓練を受け切りました。
大難こそ法華経の行者の証し
 それは末法の悪世において、「法華経の功徳」をうけていくために知るべき最も大切な真実とは何か、続く御文で、大聖人は厳然と仰せになられています。
 「末法には法華経の行者必ず出来すべし」
 ここで「必ず」と仰せです。もし法華経の行者が出現しなければ、仏の金言が虚妄になってしまう。仏の言葉が真実である以上、必ず、末法に民衆を救う法華経の行者が出現しないわけがない。そう読まずして、法華経を読んだことにはなりません。
 そして、何よりも、この法華経の行者の実践を貫き、経文を証明してきたのが、日蓮大聖人にほかなりません。
 そのうえで「但し」以下の御文では、法華経の行者の要件が綴られています。その根本が「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」との仰せです。
 いかなる大難にも真正面から立ち向かい、勝利し、悠然と乗り越えていくのが、法華経の信心です。御書には「悦び身に余りたる」(1343-08)「大に悦ばし」(0237-12)「いよいよ悦びをますべし」(0203-07)と「大難」即「歓喜」の仰せが随所に示されています。
 どんな大難があっても、正法弘通に生き抜き、目の前の苦悩を取り除き、幸福の種を心田に植えていく悦びに勝るものはない。この最高にして最強、そして最尊の人生を促す力が、法華経に具わっています。法華経に生きること自体が、最高の幸福なのです。
 本抄では大難に挑む法華経の行者の境涯について、天台大師の『摩訶止観』の文に即して、二つの側面から仰せになられています。
 一つには、法華経の行者の境涯を「火」に、大難を「薪」に譬えられています。火に薪をくべれば、火の勢いはますます盛んになります。それと同様に、難が起れば信心の炎はいやまして燃え上がり、法華経の行者としての自覚と確信も強く盛んになるのです。
 もう一つは、法華経の行者の境涯を「大海」に、大難を「衆流」あるいは「河の水」「諸河の水」に譬えられています。「法華大海の行者」とも仰せです。大海には河の水が流れ込もうが、それを押し返すことはありません。反対に、注ぎ込まれる水を受け入れて、海はさらに豊かになっていくのです。
 「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや」
 この御文を拝するたびに、いかなる迫害にも屈することなく、悠々と大難を受け入れ、勝ち越えられた大聖人の広大な御境涯が偲ばれ、深い感動を新たにします。
 ともあれ、難があるからこそ、信心の炎が燃え上がる。大海のごとき広大な境涯を開いていける。そして必ず仏になれる。信心があれば、大難こそ宿命転換の絶好の機会ととらえていけるのです。
 さらには「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せです。法華経に説かれたとおりに大難が起るということとは、末法の法華経の行者としての実践が正しかったという何よりの証左となるのです。
牧口先生「真の行者であれ」
 大聖人の御在世当時、世間でも、法華経を信じたる者たちは少なからずいました。しかし彼らは、ただ自らの功徳を求めて講義を聴いたり、写経をしたりするだけにすぎませんでした。それは「困難な時代に、命懸けで迷い悩める人を、一人も残らず断じて救う」という仏の真意とは、かけ離れた法華経観であったのです。
 この当時の法華経を敢然と打ち破られたのが、大聖人の死身弘法の「行者」としての大闘争であられました。
 創価の父・牧口先生が「信者」と「行者」を厳格に立て分けられていたことも有名です。牧口先生は獅子吼されました。
 「魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」
 すなわち、自分だけの利益を願い、三障四魔との戦いのない者は、ただの「信者」にすぎないと喝破されました。広宣流布のために菩薩行に励み、三障四魔と戦っていく人こそ、真の「行者である」教えられたのです。
 この精神の通りに、「行者」としての実践を貫いてきたのが創価三代の師弟であり、誉れの学会員の皆様方にほかなりません。ゆえに学会の前進に、三障四魔や三類の強敵が競い起こることは必然です。そしてまた、学会員の一人一人が、「法華経の行者」であるからこそ、学会は幾多の難を勇敢なる信心で受け止め、厳然と勝ち越えていくことができたのです。

06                               法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらん
07 は過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、 経に云く「亦不聞正法如是人難度」と云云、 此の文の意は正法とは法華
08 経なり、 此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり、 法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給
09 いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は 如来の使と見えたり、 貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし、
――――――
法華経の法門を一文一句でも、人に語るのは過去の宿縁が深いと思いなさい。法華経方便品に「亦正法を聞かず、是の如き人は度し難し」とある。この文の意味は、正法とは法華経であり、法華経を聞かない人は済度し難い、という文である。法華経法師品には「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり」と説かれており、僧も俗も尼も女も一句をも人に語る人は如来の使いである。というのである。いま、あなたは俗であるからすでにこの善男子の人である。

「一文一句」でも語る意義
 法華経の本門を一文一句でも語っていく宿縁の深さを教えられています。
 前段で大聖人は、大難に挑む法華経の行者の境涯について述べられました。それは、ほかでもない大聖人御自身の御闘争の姿そのものであります。
 しかし、実際に難が起こり、迫害を受ける師匠の姿を目の当たりにすると、妙法の正しさを疑い、信心が揺らいでしまった門下も少なからずいました。その中にあって椎地四郎は、健気に師匠の正義を語り弘教に励んでいたと推察されます。大聖人に連なる宿縁の深さを述べられ、そしてまた師弟不二の実践そのものを、最大に讃嘆されています。
 大聖人はまず方便品の文を引かれます。
 これは、釈尊が唯一の仏道をすべての人に教えたけれども人々は反発して正法を聞き入れないこと、しかしながら、正法を聞かない衆生は救済できないことを述べられた経文です。正法以外に成仏の道はありません。それゆえ、釈尊のみならず、すべての仏は、あらゆる手立てを尽くして正法を説き聞かせるのです。
 これは、末法滅後において法華経を弘通することが、いかに困難であるかを述べられるとともに、それゆえに法を語り弘める実践が、どれほど尊い振る舞いであるかを教えられているのです。
 したがって「語る」という行為そのものが尊いのです。「声仏事を為す」(0708-09)です。声で決まるのです。
 声は力です。「勇気の声」「確信の声」「慈愛の声」が相手の心に響き、生命を揺り動かしていくのです。
 大聖人は続いて法師品の文を通して「一句」を語っていく人は「如来の使い」であると示されています。「如来の使い」とは、仏から遣わされて仏の仕事を行う人のことです。
 法師品の文では、男性であれ女性であれ、法華経を一句でも説いていくならば、その人は「如来の使い」であると説かれています。
 大聖人はそれを受けて僧俗、男女の区別なく、妙法を一言でも語る人は「仏の使い」であると教えられています。そして、在家であり妙法流布に邁進する椎地四郎に対して、あなたも経文に説かれる「善男子」「如来の使い」であることは間違いないと讃えられているのです。
 仏の真実の言葉であるからこそ、「一文一句」でも語る意義と使命は、はかりしれないものがあります。また、その「一言」を語る実践に大功徳が生じるのです。
 私たちの日々の折伏の実践においても、まったく同じです。
 難解な法理を語って破折することだけが折伏ではありません。難しく考える必要はない。信心の励む中で自らが実感する体験や喜び、確信を、飾らずにありのまま伝えていけばよいのです。
 「この信心で絶対に幸せになります!」
 「題目で自分自身を変革していけます!」
 「祈って乗り越えられない困難はありません!」
 相手の幸福を真剣に願って誠実に語る一言。満々たる生命力から発せられる確信と歓喜の一言。友の苦労を突き破る勇気と希望の一言。その一言こそが、相手の生命の仏性を呼び覚ましていくのです。ゆえに「一文一句」でも語ること自体が立派な折伏行であり、その尊き聖業に福徳が薫らないわけがないのです。
 今から60年前、私が24歳の時に我が故郷・太田の地で拡大の指揮を執った折にも、この思いを胸に戦いました。「一文一句でも語る地涌の陣列を構築することを目指して、誠実に一人一人を励まし続けました。
 私の願いは、ただ一つでした。
 それは、“戸田先生は折伏の師匠である。ゆえに、折伏の報告をしている師匠に喜んでいただきたい”その思いで戦いました。
 そして、“会員の一人一人が「仏」である。この仏の皆さまを尊敬し、存分に戦える環境を作ろう。そのために必要なことは、何でもさせていただこう”。この決意で戦いました。
 ともあれ、妙法の偉大さ、信心の素晴らしさを、一言でも語っていく人は、一人ももれなく仏の使いです。妙法を語ったこと自体、仏の使いとし無量の功徳を積んでいるのです。生々世々、福徳に満ちた生命として、赫々と輝いていくことは間違いありません。
      折伏は
        仏と等しき
          功徳かな
 「2月闘争」から60周年を迎える今、私と同じ心で広宣流布に戦い、弘教・拡大に励む青年部をはじめとする全国同志の皆さまを、重ねて讃嘆したいのです。

10 此の経を一文一句なりとも聴聞して 神にそめん人は 生死の大海を渡るべき船なるべし、 妙楽大師云く「一句も
11 神に染ぬれば咸く彼岸を資く、 思惟・ 修習永く舟航に用たり」と云云、 生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経
12 の船にあらずんば・かなふべからず。
-----―
 この経を一文一句でも聴聞して心に染める人は生死の大海を渡ることのできる船のようなものである。妙楽大師が「だれでも一句なりとも心神に染めるならば涅槃の岸に到る助けとなる。更にそれを思惟し修習するならば、以て生死の大海を舟で渡るのに永く支えとなるであろう」等と言っている。生死の大海を渡るのは妙法蓮華経の船でなくては叶わないのである。

法華経こそが生死の大海を渡る船
 人生には苦悩や悩みがつきものです。また誰しも、生死という苦しみからは逃れることはできません。深く果てしなく続く苦悩を譬えて「生死の大海」と示されています。
 大聖人は、妙楽大師の『法華文句記』を引かれ、法華経を一文一句でも聞いて、心肝に染める人は、この生死の大海を渡っていける船に乗るようなものであると仰せです。妙法蓮華経の船に乗れば、いかなる人生の荒波があろうと、苦悩渦巻く大海を渡り切って、成仏の境涯という「勝利の彼岸」「幸福の彼岸」に至ることができるのです。
 大聖人が万人の成仏を実現する根源の仏種として説き明かされた「南無妙法蓮華経」の一句には、仏が説いたあらゆる教えが含まれます。その一句を信受することにより、万人に本来具わる仏界の生命を開きあらわし、生死の苦悩と慈愛を常楽我浄へと大転換させゆくことができるのです。
 ここで、大聖人は一文一句でも「聴聞」するとおおせになっていること自体に着目してみたい。
 妙楽大師は『法華文句記』で、本抄の文に続いて「法華経を聞いて信じた人も、信じなかった人も、順延も逆縁も共に仏縁となるから、ついには苦悩からの脱出し覚りを得る」と述べています。
 相手の状況を理解しつつ、ともかく法華経を耳に触れさせていくこと、聞かせていくことで、相手の心に仏の種が植えられ、生命が触発されていくのです。
 ゆえに仏法対話の際に、相手の反応に一喜一憂する必要は全くありません。一たび仏縁を結べば、その人はやがて機会を得て成仏の境涯を必ず開くことができるからです。
 ここまで拝してきたように、妙法を一文一句でも語る功徳は甚大です。そしてまた聞いた人も仏縁を結んだことで、その福徳は無間に広がりゆくものです。したがって「語る」「聞かせる」「語り合う」という「対話」こそが極めて重要なのです。

13   抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨
14 権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほば
15 しらに界如三千の帆をあげて・ 諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取
1449
01 多宝如来はつなでを取り給へば・ 上行等の四菩薩は函蓋相応して・ きりきりとこぎ給う所の船を 如渡得船の船
02 とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、 能く能く信じさせ給へ、 四条金吾殿に見参候はば能
03 く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。
-----―
 そもそも法華経薬王品の「渡りに船を得たるが如し」とあるなかの船というのは、教主大覚世尊が巧智無辺の船大工として四味八教という材木を取り集め、正直捨権とけずって邪正一如と切り合わせ、醍醐一実という釘を丁と打って、生死の大海へ押し浮かべ、中道一実の帆柱に界如三千の帆を上げて、諸法実相の追い風を得て、以信得入の一切衆生を取り乗せて、釈迦如来は楫を取り、多宝如来は綱手を取られるとき、上行等の四菩薩は呼吸を合わせてきりきりと漕いでいかれる船を「渡りに船を得たるが如し」の船というのである。
 これに乗ることができる者は日蓮の弟子・檀那等である。よくよく信じられるがよい。四条金吾殿に会われたらよくよく語られるがよい。くわしくはまた申すであろう。恐恐謹言。

 薬王品に説かれている「如渡得船」の文を通して生死の大海を渡り切る船である法華経の功力について、見事な譬えをもって教えられています。
 まず、この法華経という船をつくった工匠は、無量無辺の巧みな智慧をもつ釈尊であると仰せです。そして釈尊が一生で説いた諸教のうち、四味八教、すなわち法華経以前の諸経について、船を構成する材木に譬えられています。
 この材木を船の部材として生かすためには、ただ並べるだけではなく、削って形を整える必要があります。そのことを、方便品の「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文を引かれ、「方便を捨てる」ことを「削る」という表現に託して示されます。
 続いて整えた部材を船として組み上げていくにあたって「邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて」と仰せです。
 邪正一如とは、悪人も仏の当体であるということです。爾前経では許されなかった悪人成仏が法華経で明かされ、万人成仏が現実となります。どんな人も成仏できるという法華経の完全な教えに合致させて、法華経以前に説かれた諸経をも生かしてくのです。
 また醍醐一実とは、仏の覚った真実を唯一説き示した教えであり、五味のうち最高の醍醐味である法華経の教法を指します。「醍醐一実のくぎ」とは、教えを完成させる釘です。
 すなわち、万人の仏性を認め、万人の仏性を開くという仏の真実の願いどおり、設計され建造されたのが、法華経の大船なのです。
 船が完成して、いよいよ「生死の大海」へとの出航です。
 その帆柱は、「中道一実」、帆は「界如三千」であると仰せです。それを船の中心に高く掲げ帆柱とします。界如三千とは十界互具・百界千如・一念三千です。万物のありのままの姿です。妙法を根本とした生命の大境涯です。それを帆とするのです。
 さらにその帆は「諸法実相」という仏の教えを追い風として、成仏の彼岸に向けて前進すると述べられています。諸法実相とは、万物の本来真実の姿です。法華経が説く諸法実相とは、どのようなものにも仏の壮大な境涯が具わっているということです。その真実を説いた妙法を信じ実践する時、あらゆる困難を打開し前進する智慧と力が発揮できるのです。そうであればこそ、諸法実相の追い風なのです。
 そして、この船に乗るのは「以信得入の一切衆生」、すなわち妙法を信受するすべての人々であると仰せです。もとより法華経の船とは、万人を差別なく成仏へと導くことのできる大船にほかなりません。しかし「信」がなくては船にのりこむことがそもそもできない。反対に「信」ありさえすれは誰でも乗ることができます。
 続いて、この船の舵をとるのは人々を成仏の彼岸へと正しく導く教主釈迦如来であると示されています。そして、船を引っ張り助ける綱を取る役目は、法華経において釈尊の説法の正しさを保証し助けた多宝如来が担うと述べられています。
 また、仏の指し示す目標に向かって船を漕ぐのは、上行等の四菩薩であると明かされます。
 仏の説いた教えを、現実に持ち、人々に教え導いていくのが四菩薩をはじめとする地涌の菩薩です。すなわち成仏の彼岸へと皆が乗る船を進めていく働きともいえるでしょう。
 仏の根本の願いを実現する法華経という船。その船の舵を担うのが教主釈尊であり、綱手を引くのが多宝如来。中道一実の帆柱をしっかりと立て一念三千の帆を大きく張り、四菩薩が漕ぎ手となり万人成仏へ向かって前進する。なんと壮大な、船でしょう。
 これらの譬えの締めくくりとして、大聖人「是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」と仰せです。椎地四郎をはじめ、妙法を正しく信受する大聖人の弟子こそが、この船に乗る資格があるのです。そして、生死の大海を渡り、成仏への航路を間違いなく進んでいけるのです。ゆえに「よくよく信じていうように」と、どこまでも「信」が肝要となることを重ねて述べられているのです。
「歴史を創るは この船たしか」
 本抄をあらためて拝すれば、椎地四郎という純真な門下に、大聖人と共に生き、法華経の一文一句でも語りゆく人生の素晴らしさを教えられて、勇気と確信を与えられている御抄であると拝することができます。戸田先生も冒頭紹介した御指導に続けて、「仏の使い」「如来の仕事」とは、一切の人を仏の境涯に置くことであり、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることだと教えられています。そして、こう綴られています。
 「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢饉もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります」
 御本仏に連なるここの崇高な精神闘争を繰り広げている戸田先生に出会って、今年で65星霜、一貫して私は、愛する青年たちに、大切な全同志に、声高らかに伝えたい。
 わが学会こそが、21世紀の激動の荒波にあって、生命尊極の仏法哲理を掲げ、人類の平和と共生と繁栄の大航路を切り開きゆく大船です。
 学会は、民衆の境涯を高める「哲学の大船」です。一人一人を蘇生させる「勇気の大船」であり、未来を洋々と照らす「智慧の大船」です。
 「歴史を創るは この船たしか」です。
 一文一句でも、自分の揺るぎない確信を朗らかに語りながら堂々と「仏の使い」として、勝利のドラマを築いてまいりましょう。わが学会こそが、人類の「希望の大船」なりと確信して。

1449~1451    弥三郎殿御返事top
1449:01~1451:04 第一章 法論の時、主張すべき内容を明かすtop

弥三郎殿御返事    建治三年    五十六歳御作
01   是は無智の俗にて候へども承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは・ 法華の第二の巻に今此三界とかや申す文
02 にて候なり、此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり、 天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国
03 主並に万民までも釈迦仏の御所領の内なる上・此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり、 一には国主なり・
04 二には師匠なり・三には親父なり、 此の三徳を備へ給う事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり、 されば今の日本
05 国の一切衆生は設い釈迦仏に・ねんごろに仕ふる事・ 当時の阿弥陀仏の如くすとも又他仏を並べて同じ様にもてな
06 し進らせば大なる失なり、 譬えば我が主の而も智者にて御坐さんを他国の王に思ひ替えて・ 日本国にすみながら
07 漢土高麗の王を重んじて・日本国の王におろそかならんをば・此の国の大王いみじと申す者ならんや、 況や日本国
08 の諸僧は一人もなく釈迦如来の御弟子として頭をそり衣を著たり、 阿弥陀仏の弟子には・あらぬぞかし、 然るに
09 釈迦堂.法華堂・画像・木像・法華経一部も持ち候はぬ僧共が.三徳全く備はり給へる釈迦仏をば閣きて・一徳もなき
10 阿弥陀仏を国こぞりて郷・村・ 家ごとに人の数よりも多く立てならべ阿弥陀仏の名号を一向に申して一日に六万・
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01 八万なんどす、 打ち見て候所はあら貴や貴やと見へ候へども・法華経を以て見進らせ候へば中中・日日に十悪を造
02 る悪人よりは過重きは善人なり、 悪人は何れの仏にも・よりまいらせ候はねば思い替る辺もなし、 若し又善人と
03 も成らば・法華経に付き進らする事もや有りなん、 日本国の人人は何にも阿弥陀仏より釈迦仏・念仏よりも法華経
04 を重くしたしく心よせに思い進らせぬる事難かるべし、 されば此の人人は 善人に似て悪人なり、 悪人の中には
05 一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり、 釈迦仏此の人をば法華経の二の巻に「其の人命終して阿鼻獄に入ら
06 ん」と定めさせ給へり、 されば今の日本国の諸僧等は提婆達多・瞿伽梨尊者にも過ぎたる大悪人なり、又在家の人
07 人は此等を貴み供養し給う故に此の国眼前に無間地獄と変じて諸人現身に大飢渇・ 大疫病・ 先代になき大苦を受
08 くる上他国より責めらるべし、 此れは偏に梵天・帝釈・日月等の御はからひなり、かかる事をば日本国には但日蓮
09 一人計り知つて 始は云うべきか云うまじきかとうらおもひけれども・ さりとては何にすべき、 一切衆生の父母
10 たる上・仏の仰せを背くべきか、 我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば二十余年・所をおはれ弟子
11 等を殺され・ 我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頚切られんとす、 是れ偏に日本国の一切衆生の大苦にあは
12 んを兼て知りて歎き候なり、 されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、 若し恩を知り心有る人人は二当ら
13 ん杖には一は替わるべき事ぞかし、 さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、 又在家の人
14 人の能くも聞きほどかずして 或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、 設い知らずとも誤りて現の親を敵
15 ぞと思ひたがへて詈り 或は打ち殺したらんは何に科を免るべき、 此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があ
16 らぎの様に思へり、 譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・ とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知
17 らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し、 此等の事は 偏に国主の御尋ねなき故なり、 又何なれば御尋
18 ねなきぞと申すに・ 此の国の人人余り科多くして 一定今生には他国に責められ後生には無間地獄に堕つべき悪業
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01 の定まりたるが故なりと、 経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、 此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひ
02 なき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ、 此の御房の御心をば設い天照太神・正
03 八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、 まして凡夫をや、 されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐すと承
04 り候と加様のすぢに申し給うべし。
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 私(弥三郎)は無智の在家の身であるが、承わった法門の中でも、貴く思ったのは法華経第二の巻に説かれている今此三界とか申す御文である。この文の意は、今この日本国は釈迦仏の御所領であるということである。天照太神、八幡大菩薩、神武天皇等の一切の善神、国主並びに万民までもみな釈迦仏の御所領内に住むうえに、この釈迦仏は我等衆生に三つの故ある大恩の仏である。一には国主であり、二には師匠であり、三には親父である。この三徳を備えられることは十方の仏の中でただ釈迦仏だけである。
 それ故に今の日本国の一切衆生は、たとえ、あたかも現在、阿弥陀仏に仕えているように釈迦仏にねんごろに仕えたとしても、他仏を並べて同じようにもてなしているので、それは大きな誤りである。たとえば自分の国主でしかも智者であるのを、他国の王に思いをかえて、日本に住んでいながら漢土や高麗の王を重んじて日本の王をおろそかにしたならば、この国の王がその人を、立派な人だというだろうか。
 まして日本国の諸僧は一人も残らず釈迦如来の御弟子として頭髪をそり法衣を着ているのであり、阿弥陀仏の弟子ではない。ところが、釈迦堂、法華堂、画像、木像、更に法華経一部も持たない僧達が、三徳具備の釈迦仏をさしおいて、一徳も備えない阿弥陀仏を国中がこぞって郷、村、家ごとに人の数よりも多く立て並べ、阿弥陀仏の名号を一向に称え、一日に六万遍、八万遍などと言っている。見たところさも貴げであるけれども、法華経をもって見るならば、毎日毎日十悪を造る悪人よりもかえって罪が重いのはこうした善人である。
 悪人はどの仏にも頼ることがないから仏について、思いをかえているということはなく、またその悪人が善人になることがあれば法華経につくこともあるであろう。今の日本の人々はどうしても阿弥陀仏より釈迦仏、念仏の信仰よりも法華経の信仰をより重く親しく心を寄せることは難しいであろう。それ故、この人々は善人に似て悪人なのである。悪人の中でも一閻浮提第一の大謗法の者であり、大闡提の人である。釈迦仏はこれらの人々のことを法華経二の巻に「其の人命終して阿鼻獄に入る」と定められている。しかれば今の日本国の諸僧等は、提婆達多・瞿伽梨尊者にも過ぎる大悪人である。また在家の人々はこれらの僧を貴び供養をしている故にこの国は、眼前に無間地獄と化し、人々は現身に大飢渇、大疫病など先代にない大苦を受け、そのうえ他国より責められるであろう。これはひとえに梵天、帝釈、日月等の御はからいなのである。
 この道理を、日本国にはただ日蓮一人ばかりが知った。日蓮ははじめは言い出すべきか否かをあれこれ思いめぐらしたが、だからといってどうすべきか、一切衆生の父母である仏の仰せに背いてよいものか、我が身はいかようにもなれと思い切り、言い出したところ、二十余年の間、所を追われ、弟子等を殺され、我が身も傷をこうむり二度までも流罪に値い、あげくに首を切られようとした。
 これはひとえに、日本国の一切衆生が大苦にあうであろうことを、日蓮はかねて知って憐れんでしたことである。それ故に心ある人々は自分達のためにこんなに苦しんでくれたのかと思うべきである。もし恩を知り、心ある人々ならば日蓮が二つ打たれる杖の一つは替わって打たれるべきなのに、そうではなく、かえって日蓮大聖人に怨をなそうとすることはまことに理解できないことである。
 また在家の人々がよくわけも聞かずして、あるいは所を追い、あるいは弟子等を怨むことはまことに不心得なことである。たとえ知らなくても誤って自分の親を敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したりしたならば、どうして罪を免れることができようか。
 今の世の人々は自らの荒気を知らずして日蓮の荒気のように思っている。たとえば嫉妬深い女が、眼を瞋らして相手の女性をにらみ、自分のうとましい形相を知らずして、かえって相手の女性の眼が恐ろしいというようなものである。これらのことはひとえに仏法の道理について国主から御たずねがない故である。また、なぜ御たずねがないかといえば、この国の人々はあまりに科多くして、今生には他国に責められ、後生には無間地獄に堕ちることがすでに決まっているからである。
 以上のような趣旨のことを言い「私はそれが経文に歴然と記されているから信ずるのである。このことはあなた方がたとえ自分のような、いうにかいない者どもを責めおどし、また所を追われたとしてもよもやただではすまないであろう。この御房の御心はたとえ天照太神、正八幡大菩薩でも、決して随わせることはできないのである。まして凡夫ができるわけがない。だから日蓮御房はたびたびの大難にも臆する心なく、いよいよ強盛におわしますのである、と承っている」と、しかるべき筋に申されるがよい。

今此三界
 譬喩品の文「『今此の三界は』皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸々の患難多し、唯我れ一人のみ能く救護を為す」とある。
―――
天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
神武天皇
 第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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三徳
 ①主徳、衆生を守る働き。②師徳、衆生を導き教化する働き。③親徳、衆生を利益する働き。三徳には法報応の三身をいう場合もある。
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阿弥陀仏
 梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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高麗
 朝鮮半島古代の王国。高句麗ともいう。
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釈迦堂
 釈迦像を安置する堂宇。
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法華堂
 法華三昧を行ずる堂宇。法華三昧堂ともいう。
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画像
 画像は絵に書いた仏菩薩の像で曼荼羅ということもある。
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木像
 木に彫られた仏・菩薩の像
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十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
大闡提
 一闡提と同義。一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書く。本来は「欲求しつつある人」の意であり、快楽主義者や現世主義者をさした。断善根・信不具足と訳す。正法を信ずる心がなく、成仏の機縁をもたない衆生のこと。涅槃経巻二十六に「一闡は信となづけ、提は不具と名づく、信不具の故に一闡提と名づく」とある。
―――
提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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瞿伽梨尊者
 梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写で、倶伽利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多を師と仰ぎ、釈尊の制止も聞かず、舎利弗や目連を悪欲があると誹謗した。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちたといわれる。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
他国より責めらるべし
 蒙古の襲来のこと。文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)の二度を意味する。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
二十余年・所をおはれ(弥三郎睺返事の)
 二十余年とは、建長5年(1253)4月28日~建治3年(1277)をいう。この間の所を追われる大難としては文応元年(1260)8月27日・松葉ケ谷の法難、弘長元年(1261)5月12日・伊豆流罪、文永8年(1271)10月10日の佐渡流罪に代表される。
―――
弟子等を殺され
 文永元年(1264)11月11日、安房国小松原において、地頭・東条景信の襲撃を受けて弟子の鏡忍房、門下の工藤吉隆が傷を負い、殺されたことをいう。
―――
我が身も疵を蒙り
 文永元年(1264)11月11日、安房国小松原において、地頭・東条景信の襲撃を受けて、大聖人ご自身が深手の傷を受けられたことを意味する。
―――
二度まで流され
 伊東・佐渡の二度にわたる流難をさす。すなわち、妙法蓮華経勧持品第十三の「濁世の悪比丘は、仏の方便、随宜所説の法を知らずして、悪口して顰蹙し、数数擯出せられ、塔寺を遠離せん」の文を身業読誦なされたのである。開目抄(0202)には「今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」とある。
―――
頚切られんとす
 文永8年(1271)9月12日、北条執権の内管領で侍所司でもある平左衛門尉頼綱は武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲って日蓮大聖人を捕らえ、夜半、竜の口刑場で頸を刎ねようとしたが、果たせなかった法難。種種御振舞御書にくわしい。
―――
あらぎ
 荒々しく乱暴なさま。
―――
とわり
 一人の男性をめぐって対立する相手の女性。先妻に対する後妻や、正妻からみた遊女等の意と思われる。
―――――――――
 本抄は、題号にもあるとおり弥三郎という人に与えられた御書である。
 弥三郎というのは、伊豆の川奈の船守弥三郎と混同されやすいが、全くの別人といわれている。一説によれば、駿州沼津(静岡県沼津市)の斎藤弥三郎のことであるとされる。
 その弥三郎が、浄土宗の人と法論を行うときの内容の準備や心構えについて、身延におられる日蓮大聖人に御指南を仰いだのに対し、親切丁寧に答えられたのが、本抄である。
 建治3年(1277)8月4日、大聖人56歳の御手紙とされている。しかし、本抄の御真筆は現存していない。
 本抄の構成は、大きく二段に分かれ、前段は初めの「是は無智の俗にて候へども承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは……」から「……御坐すと承り候と加様のすぢに申し給うべし」までの文である。ここでは、浄土宗の人との法論のときに、弥三郎が主張し述べるべき内容が筋道を立てて説かれている。
 後段は「さて其の法師物申さば取り返して……」から最後までで、具体的な法論の場での折伏の仕方と法論における心構えを示されている。
 なお、最後のところで「今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり」と仰せの御文から、おそらく弥三郎は武士であったであろうと推測される。
 弥三郎の立場で表現されている御文と大聖人の立場での表現とが混在しているところで、多少わかりにくいが、あえていえば、冒頭の「是は無智の俗にて候へども承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは・法華の第二の巻に今此三界とかや申す文にて候なり」は、弥三郎の立場での表現で、相手方に向かってこのように言いなさいとの口上である。
 すなわち「自分は在俗の身で仏法について深く知っているわけではないが、日蓮大聖人から教わった法門で、自分でも納得し大事なことと思ったことは、法華経譬喩品に説かれている、釈迦仏こそ三徳具備の仏であるという点である」と言いなさいということである。
 そのうえで、以下は大聖人のお考え、立場を述べられていく。それは何よりも、弥三郎自身がしっかりその内容を理解し、大聖人のお心を自らのものにして、確信をもって相手に対するよう期待されたからであろう。
打ち見て候所はあら貴や……日月等の御はからひなり
 当時の人々は、念仏を熱心に信仰していることを貴く、すばらしいことと思っていた。確かに、表面だけ見れば、信仰心が厚いことはよいことのように思われる。
 しかし、その信仰している対象、教えの内容に一歩入って見るならば、間違った対象を本尊として拝み、正法に背く教えを信ずることは、いかなる世間的な悪業も及ばない、深刻な極悪の業となってしまうことを知らなければならない。
 およそ信仰とは無縁の悪人は、もともと、どんな仏をも拝まないから、正しい仏をさしおいて誤った仏を拝むという仏法上の極悪業を犯す恐れはない。むしろ、はるかに軽い世間的悪業にとどまるのである。また、世間的悪故の苦悩の中から、正しい信仰につく可能性もある。
 それに対し、いわゆる善人と見える人々は、世間一般の風潮に従順であるから、国をあげて信仰している阿弥陀仏信仰から離れることがむずかしい。
 この謗法・一闡提という仏法上の誤りは、無間地獄に堕ちる極重業であり、したがって、そうした邪法を人々に教える「今の日本国の諸僧等」は、釈尊を憎み害を加えた提婆達多や瞿伽梨よりも、更に罪深い大悪人であると仰せられている。
 しかも、そのような出家の僧にだまされ、彼らを崇重して、日本中の在家の人々は、一闡提に加担しているが故に、死後に無間地獄に堕ちるばかりでなく、現世に無間地獄があらわれてさまざまな苦しみにあっているのであると指摘されている。
 毎年のように起こっていた飢饉や伝染病がそれであり、更に、すでに文永11年(1274)秋に現実となり、次にいつまた襲ってくるかしれなかった蒙古襲来がそれであり、これらの災いは「梵天・帝釈・日月等の御はからひ」であると言われている。
 すなわち、邪法・邪師を重んじ法華経の行者である日蓮大聖人を国をあげて迫害しているため、その日本の人人に対し諸天善神が治罰を加えているのであると、その本質を教えられている。
 いうまでもなく「梵天・帝釈・日月等の御はからひ」とは、人々が正法に背いていることに対する治罰ということであるが、それはまた、今世の間に、自らの信仰の誤りに気づかせようとの御はからいであるということでもある。
 この治罰の厳しさに目覚めて、邪法の信を捨て正法への信心を立てれば、死後の無間地獄からもまぬかれるし、今生における種々の災厄をもなくすことができるのである。
 法華経譬喩品の「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」という文は、釈迦仏が娑婆世界の衆生にとって、主・師・親三徳を備えた大恩ある仏であることを示したものである。
 すなわち、「今此の三界は、皆な是れ我が有なり」が国主の義、「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」が親の義、「唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」が師匠の義、にあたる。
 いうまでもなく、日本はこの「三界」の内にあり、故に「今此の日本国は釈迦仏の御領なり」と、日本国も釈迦仏の統治する領土であると述べられるのである。
 主・師・親三徳を備えた釈迦仏が、日本国を含めて娑婆世界を統領するとのこの文は諸御書に引かれおり、浄土宗の阿弥陀仏信仰を破折されるとき、必ずといってよいほど、この観点からなされている。
 阿弥陀仏は、どこまでも、西方浄土の教主であり、娑婆世界の衆生とは無縁の仏である。この他土の無縁の仏を信仰することは、ちょうど、自分の国の王を敬わずに他国の王を敬うようなものなのである。
 大聖人は、寿量文底独一本門の正義を明らかにするにあたって、まず第一段階として、権実相対の立場から、法華経に導くため、権教の阿弥陀信仰を打ち破って、法華経の教主である釈尊を立てられたのである。
 したがって、ここでいう釈迦仏は、阿弥陀仏信仰を破るという目的から挙げられているのであり、大聖人の元意の辺は文底下種の釈尊即久遠元初の自受用報身如来こそ、末法一切衆生にとって主師親三徳具備の仏であられることはいうまでもない。
かかる事をば日本国には……加様のすぢに申し給うべし
 以上のように、日本国中の人々が謗法を犯し、その報いとして国土の災難を招いているのであるという根源的な因果関係を、日本国中でただ一人知った日蓮大聖人が謗法を責めるに至った経緯と、その謗法呵責に対して人々が迫害をもって応えた心理構造を、わかりやすく示されている。
 この部分の御文は、開目抄の次の一節を思い起こさせて重要であるので、引用しておく。
 「此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり、輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙 の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし」(0200-02)。
 この開目抄の御文とあわせて拝読すると、末法の御本仏・日蓮大聖人が、大慈大悲のうえから謗法呵責に立ち上がられ、競い起こる大難をものともせず戦い抜かれた御心境をうかがい知ることができるであろう。
 なかでも、本節最後の「此の御房の御心をば設い天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや、されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐す」との御文は、弥三郎の立場から日蓮大聖人の姿を述べた表現になっている。
 大聖人の謗法呵責の折伏実践は、あくまで民衆を救わんとの大慈大悲から出た行動であるだけに、いかなる事があっても止められることはないのである。
 なお、この段の中で「心ある人は、大聖人が自分達の為に苦労しているのだと思って、大聖人が二つ打たれるところを、一つは自分が替わろうと思うべきである」と言われているのは、次の「又在家の人人の能くも聞きほどかずして……」に対するもので、出家者の立場を言われている。後者の在俗の人々は仏法について知らないのであるが、知らないからといっても、悪いことは悪いのであり、謗法の僧と一緒になって大聖人を迫害した罪を免れることはできないのである。
 そして、日本中が謗法に迷っている最も根本は、国主が正法を尋ねようとしないところにあり、国主が大聖人の諌めにもかかわらず正法を求めないのは、国中の万民が余りにも罪多い故、現当二世にわたって大罰を受けるべきことが定まっているためであると言われている。

1451:05~1451:16 第二章 法論のあり方と心構えを示すtop

05   さて其の法師物申さば取り返して.さて申しつる事は僻事かと返して釈迦仏は親なり・師なり.主なりと申す文・
06 法華経には候かと問うて・有りと申さば・さて阿弥陀仏は御房の親・主・師と申す経文は候かと責めて・無しと云わ
07 んずるか又有りと云はんずるか・ 若しさる経文有りと申さば御房の父は二人かと責め給へ、又無しといはば・さて
08 は御房は親をば捨てて何に他人を・ もてなすぞと責め給へ、 其の上法華経は他経には似させ給はねばこそとて四
09 十余年等の文を引かるべし、 即往安楽の文にかからば・さて此れには先ずつまり給へる事は承伏かと責めて・ そ
10 れもとて又申すべし、 構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・ あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべ
11 し、 今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、 此れこそ宇
12 治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、 人身は受け難く法華経は信じ難しと
13 は是なり、 釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、地頭のもと
14 に召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候、恐恐謹言。
15       建治三年丁丑八月四日                  日蓮花押
16     弥三郎殿御返事
-----―
 さて、その法師が物を申すならば、ただいま私が申したことは僻事であるかと言い返して、釈迦仏は親であり、師であり、主であるという文は法華経にあるかと問い、あると申したら、それなら阿弥陀仏が御房の親であり、主であり、師であるという経文はあるかと責めて、無いというのかまたあるというのかと強く責めて、もしその経文があると申したら御房の父は二人いるのかと責めなさい。また無いと申したら、それならば御房は親を捨ててどうして他人を大事にするのか、と責めなさい。そのうえで法華経は他経とは天地の相違があると「四十余年未顕真実」等の文を引かれるがよい。また、もし先方が法華経の「即住安楽世界」等という文をあげようとするならば、さてこれに詰まってしまったことは御承伏かと責めて、それならばといってその文について申し述べなさい。
 心に十分の覚悟をして、所領を惜しんだり妻子を顧みたり、また人をたのみにして、あやぶんだりしてはならない。ただひとえに思い切るべきである。今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、自分が今まで生き永らえてきたのはこのことに値わんがためである。このときこそ宇治川を渡すところであり、このときこそ勢多を渡す所である。この法戦に勝って名を揚げるか名をくだすかの境目である。人身は受け難く法華経は信じ難しとはこのことである。釈迦・多宝・十方の仏が来集して我が身に入りかわり、我を助けたまえと観念しなさい。もし地頭のもとに召されることがあるならば、この趣きをよくよく申し述べなさい。恐恐謹言。
  建治三年丁丑八月四日   日 蓮  花 押
   弥三郎殿御返事

即往安楽の文
 薬王菩薩本事品第二十三に説かれた「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即(ち安楽世界の阿弥陀仏・大菩薩衆の囲繞せる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生じ」の文をさす。
―――
宇治川を渡せし所よ
 宇治川は琵琶湖を源とする瀬田川の宇治市から下流をいう。更に京都府と大阪府の境界付近で淀川と名をかえ、大阪湾に注いでいる。古来、京都の南東の防衛線である宇治川をはさんで合戦が繰り返され宇治川を渡るか否かで戦いの勝敗が決せられていた。宇治川の戦いでは、寿永3年(1184)源範頼、義経の軍が源義仲軍を破った戦い、また承久3年(1221)北条泰時等の率いる幕府軍が朝廷軍を破った戦いが挙げられる。特に寿永三年の戦いで佐々木高綱と梶原景季の宇治川渡河の先陣争いは有名である。ここでは、今こそ信心を決定して臨むべきであることを宇治川の合戦にたとえられている。
―――
勢多を渡せし所よ
 勢多は瀬田川のことで、琵琶湖南端から流出する川。流出口に面する地の瀬田(滋賀県大津市瀬田)は、京都を守る東の要害の地で、この瀬田と宇治の地で上洛軍を防いだ。宇治川同様、瀬田川を渡るか否かが、戦さの勝敗を分けた。
―――
釈迦
 釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方の仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――――――――
さて其の法師物申さば……それもとて又申すべし
 法論に臨んだ際の対論の仕方を具体的に述べられている。
 法論の場で、これまでに教えられた内容を弥三郎が主張した後に、相手方の念仏の法師が何か物を言いかけたとき、間髪入れずに、今まで述べてきた主張が間違っているかどうかを逆に問い返せ、と教えておられる。どこまでも、折伏は説明ではなく、責めであることを教示されているのである。
構へて構へて……恐恐謹言
 ここでは、法論を行うにあたっての心構えや姿勢を教示され、厳しい一念で正法護持を貫くよう指導されている。
 「構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし」の御文で、「構へて」というのは、あらかじめよく準備し、心に十分な用意と決意を持って、ということである。「所領を惜み妻子を顧りみ」云云とは、法論によって競い起こってくるさまざまな難を恐れ、所領や妻子のことが心配になるようであってはならない、と正法護持の信心の厳しい姿勢を述べられている。
 「人を憑みて・あやぶむ事無かれ」とは、誰かに依存したり、責任を人と分担しようとするような姿勢であっては、日蓮大聖人の仏法の正しさが証明できず、法を下げることになるので注意されているのである。「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-脱益の妙法の教主の本迹)で、邪法を破り正法を弘通するためには、どこまでも絶対の確信に立った〝一人〟が大切であることを述べられたものと拝していきたい。
 まさに「但偏に思い切るべし」との一念決定の姿勢こそが大切であり、正法弘通の永遠の指針であろう。
 「今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」この御文からも、弥三郎が武士であったことが推測される。
 つまり、幾多の戦いで多くの武士が死んだなかで弥三郎が生き残ったのは、あくまで、只今の法論、法戦にあうためであったと考えなさい。と言われている。このことは、更に根本にさかのぼって拝すれば、この世に生を受けたのは、仏法の正義を守り興隆するためであったのだと、肚を決めるということでもある。仏法のために尽くすところに成仏の直道があり、この人生を最高に意義あるものとする鍵があるのである。
 そして、「此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり」との御文は、弥三郎に、法が勝つか負けるかの瀬戸際に立っていることを認識させ、法論に勝って名を高めなさい、と激励されている。

1449~1451    弥三郎殿御返事2012:10号大白蓮華より。先生の講義top

広布を拓く「師弟共戦」の言論戦

 それは、55年前1957年(昭和32)10月17日。私は関西へ向かいました。「大阪事件」の初公判のためでした。
 この事件は同年7月、私が事実無根の選挙違反容疑で逮捕・勾留された悪質な冤罪です。無実であっても大阪地検によって起訴されたのです。いよいよ権力の魔性を相手に、身の潔白を証明し、わが正義を叫び切る法廷闘争が始まろうとしていました。
 おそらく、裁判は長い戦いとなるゆえに、これまで以上に大阪にくることになる。お世話になる関西の方々にご挨拶をと、妻を伴っての訪問でした。到着したその晩、直ちに、一軒のお宅を見舞、さらに3軒の家庭訪問を重ねました。
「遂に戦いは始まった」
 翌日(18日)初公判、62年(昭和37)1月に無罪判決を勝ち取るまで、4年以上にわたる闘争の始まりとなりました。
 その晩は神戸訪問。元気な兵庫の同志と会って、わが闘争もいやまして燃え上がった。
 私は日記に記しました。
 「遂に戦いは始まったのだ。
 今こそ、信心の前進の秋と知れ。
 友よ、次の勝利に、断固進もう。
 俺も、戦うぞ」
 当時の関西をはじめ創価学会は急速に発展していました。世間から「貧乏人と病人の集まり」と嘲笑されようと、私たちは、その悪口さえ誇りに変えました「一番苦しんでいる人々の中に飛び込み、生き抜く希望と勇気を贈ってこそ、本当に力ある宗教だ!」と胸を張って、地涌の尊き使命に燃え、一対一の生命触発の対話に打って出ました。
 苦悩の宿命に泣かされてばかりいた民衆が新たな社会建設の主役として、勇んで声を上げ、行動を起こす。生きる希望に燃えて立ち上がる。それは人類史に輝く数々の人権闘争がめざしてきたことです。ところが創価学会という新たな民衆勢力の台頭は、日本の既成勢力に反発と恐れをいだかせたのでしょう。横暴な権力が圧迫を加えてきたのです。しかし、それに対して「師子王の心」で立ち向かい、勝ち越えてこそ日蓮仏法です。
 “民衆よ、頭を上げよ!団結せよ!立正安国を叫び上げよ!勇んで対話の海に飛び込め!”師が正義を叫び、一体不二で弟子に叫ぶのです。
 日蓮大聖人は、この「師弟共戦の言論闘争」こそ、広宣流布を拓く原動力となることを、私たちに教えてくださいました。「日蓮が如く叫べ」「我が如く戦え」と師匠が教えられた通りに行動するなかにのみ、永遠不変の勝利の大道がある。
 今回は、師の如く正義を叫び抜けと門下に教えられた「弥三郎殿御返事」を拝します。

01   是は無智の俗にて候へども承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは・ 法華の第二の巻に今此三界とかや申す文
02 にて候なり、此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり、 天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国
03 主並に万民までも釈迦仏の御所領の内なる上・此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり、 一には国主なり・
04 二には師匠なり・三には親父なり、 此の三徳を備へ給う事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり、 されば今の日本
05 国の一切衆生は設い釈迦仏に・ねんごろに仕ふる事・ 当時の阿弥陀仏の如くすとも又他仏を並べて同じ様にもてな
06 し進らせば大なる失なり
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 私は無智の在家の身であるが、承わった法門の中でも、貴く思ったのは法華経第二の巻に説かれている今此三界と申す御文である。この文の意は、今この日本国は釈迦仏の御所領であるということである。天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の善神・国主並びに万民までみなこのも御所領内に住むうえに、この釈迦仏は我等衆生に三つの故ある大恩の仏である。一には国主であり、二には師匠であり、三には親父である。この三徳を備えられることは十方の仏の中でただ釈迦仏だけである。
 それ故に今の日本国の一切衆生は、たとえ、あたかも現在、阿弥陀仏に仕えているように釈迦仏にねんごろに仕えたとしても、他仏を並べて同じようにもてなしているので、それは大きな誤りである。

弟子の成長こそ師匠の願い
 本抄の対告衆弥三郎については、在家の門下という以外、詳細は不明です。
 ただ、本抄の最後の段に、宇治・勢多での先陣の勲功を挙げて激励されていることから、武士ではないかと推察されます。
 その弥三郎が何らかの事情で出家の念仏者と法論することになり、身延の大聖人に報告するとともに、その対応について御指導を受けたようです。本抄はその御返事となります。末尾には「地頭のもとに召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候」と仰せです。場合によっては、弥三郎が地頭のもとに出頭して弁論に立つことも想定されていたのです。
 また本抄は、大聖人の身延入山から3年後になる、建治3年(1277)8月の御述作です。これは、四条金吾、池上兄弟、南条時光ら、大聖人の有力な弟子たちが難の渦中にあった時期と重なっています。
 前回、拝読した「上野殿御返事」も、建治3年(1277)5月の御述作です。同抄は、周囲からさまざまな圧迫を加えられ始められた南条時光に「勝利の人間学」を教えられた御書でもあります。
 また、四条金吾が、周囲の讒言によって主君から「法華経を捨てよ」と責められたのはこの年の6月のことでした。邪悪を打ち返し、正義を明らかにするために、大聖人が即座に執筆されたのが「頼基陳状」です。
 同じく正法に帰依したために迫害された因幡房日永に、陳状となる「下山御消息」を認められたのも、この6月です。
 このように多くの弟子たちが置かれた状況を見ると、弥三郎が直面している事態も、決して個人的な事件にとどまるものではなかった。一つ一つが広宣流布の前進の中で競い起こった三障四魔であり、三類の強敵からの法難であったことは間違いありません。
 いよいよ、弟子が立ち上がり、師と共に戦う時代を迎えた、ともいえます。
 本抄は、その中で在家の一門下に渾身の激励を送られ、師匠である大聖人が戦ってきたように、弟子として勇敢に戦いなさいと教えられている一書です。
 「師弟共戦」という大聖人の師弟観の根幹が拝される御書である。
譬喩品の「今此三界」の一節
 本抄の冒頭、「この私は、仏法についてはよく分かっていない無知の在家の身ですけれども、承りました法門の中でも貴く思い申しましたのは、法華経の第2の巻に説かれている『今此三界』と申す御文でございます」とあります。
 弥三郎が法論で語るべき内容を、大聖人が弥三郎の立場から記してくださったものと思われます。
 この中の「今此三界」とは、譬喩品第3に説かれる「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」の経文を指します。
 これを受けて、大聖人は「今この日本国は釈迦仏の御領地である」と確認されたうえで、そこに住む神々や人々にとって、釈迦仏こそが「主・師・親」の三徳を備えた「大恩の仏」である。私たちは教え導く任に当たられる仏は、十方世界のあらゆる仏の中でも、ただ釈迦仏だけであることを明かされています。
 ところが日本国の衆生は、たとえ、今、隆盛している阿弥陀仏と同様に、釈迦仏を大切に尊崇したとしても、此土の仏と他土の仏を並行して敬うのは、結局、大きな誤りである。
 とりわけ日本国の諸僧は釈迦仏の弟子として出家したにもかかわらず、その根本の師匠と、その究極の教えである法華経を捨てて、阿弥陀仏の弟子のように振る舞い、人々に阿弥陀仏を祭らせとなえさせている、と喝破されているのです。
 これは、根本と枝葉を転倒し、人々に謗法を犯させ、無間地獄へと堕とす大悪の行いです。ゆえに「此の人人は善人に似て悪人なり、 悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり」と厳しく指摘され、釈尊に敵対した提婆達多らより悪い大悪人だと糾弾されているのです。
 “大恩ある主師親を間違えてはならない”との仰せは、在家の武士として、一人の主君に命懸けて仕える弥三郎にとっては、深く納得できる道理であったはずです。この師匠の仰せ通りに語っていけば、念仏の僧などを相手にしても、彼らが阿弥陀仏を根本とする誤りを明快に破折していけるのです。
現実の人間を救うための仏法
 さて、本抄で、大聖人が念仏を破折されている切り口は、「仏は、なんのためにこの世に出現したのか」という根本目的を問い直されたものとも拝されます。そして、その目的とは、この世で苦しむ一切の民衆を救い切っていくことにほかなりません。
 苦悩の絶えない娑婆世界で戦う困難さを分かったうえで、あえて最も不幸に打ちひしがれた人々を救おうと誓願を立てて出現したのが釈尊です。そして法華経は、苦しみに満ちた現実世界を、そこに住む人々の心の変革から出発して、仏の国土としてふさわしい理想世界に変革しようという経典です。すなわち、浄仏国土であり、娑婆即寂光の現実です。
 釈尊は、たとえ皆が身捨てても自分だけは永遠に娑婆世界を離れない、ここにいる人々と共に生き抜き、必ず幸せにしてみせる。との大慈大悲で、久遠以来、営々と民衆救済の大闘争を行ってきたのです。
 これに対して阿弥陀仏は、厭離穢土・欣求浄土の教えです。穢土である娑婆世界を捨て去って、他の浄土に救いを求めるよう勧める仏です。この視点から俯瞰して見るならば、娑婆世界に有縁の釈迦仏をないがしろにして、他土の仏を根本に仰ぐことは、本末転倒の「大なる失」とあるのです。
 大聖人が厳しく批判されているのは、当時の知識人であり指導者層である僧らが、この転倒した考えを持ち、多くの人々を迷わせている罪です。それは、世間の流行を無批判に尊ぶ在家の人々まで無意識に悪に加担させてしまっているのです。
 時代・社会の土台ともなる人々の価値観の転倒は、やがて自らの拠って立つ精神の大地を崩してしまう。思想が混迷した社会を襲い、人々を大苦に突き落としたのが大飢饉や大疫病であり、権力者の内部抗争、騒動や他国からの侵略という戦乱でした。

08                                       かかる事をば日本国には但日蓮
09 一人計り知つて 始は云うべきか云うまじきかとうらおもひけれども・ さりとては何にすべき、 一切衆生の父母
10 たる上・仏の仰せを背くべきか、 我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば二十余年・所をおはれ弟子
11 等を殺され・ 我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頚切られんとす、 是れ偏に日本国の一切衆生の大苦にあは
12 んを兼て知りて歎き候なり、
-----―
 この道理を、日本国にはただ日蓮一人ばかりが知った。はじめは言い出すべきか否かをあれこれ思いめぐらしたが、さりとていかにすべき、一切衆生の父母である仏の仰せに背いてよものか、我が身はいかようにもなれと思い切り、言い出したところ、二十余年、弟子を殺され、我が身も傷をこうむり二度までも流罪に値い、あげくに首を切られようとした。
 これはひとえに日本国の一切衆生が大苦にあうであろうことを兼ねて知って憐れんでしたことである。

「二十余年」に及ぶ慈悲の大闘争
 日本の諸宗の僧ら、そしてあらゆる衆生は、最も有縁にして大恩ある釈迦仏を軽んずるという「本末転倒」に陥って、大苦を招いている。ただ一人、この真実を知られたのが、大聖人です。いな、知っただけでなく、敢然と、その誤りを糾す正義の言論戦を起こされたのです。
 この段は、建長5年(1253)の立宗宣言を起点に、広宣流布の大闘争に踏み出された甚深の御覚悟と、以来、20余年にわたって死罪にも及ぶ大難を勝ち越えられてきた忍難弘通の足跡を綴られています。
 なかでも「我が身こそ何様にも・ならぬ」。“我が身がどうなろうとかまわない”と、大聖人が不惜身命の覚悟で戦いを起こされた一点を忘れてはなりません。
 また、戦いをおこして「二十余年」という表現は、諸御抄に20回近く記されています。大聖人が、立宗から20年を迎えられたのは佐渡流罪中でした。
 「悪口罵詈」「及加刀杖」「数数見擯出」など、経文に説かれた大難をすべて受け切り、勝ち越えられた歴史が凝結していると拝されてなりません。
 なぜ、それまでの苦難をあえて引き受けながら戦われたのでしょうか。それは「ただひとえに日本国のあらゆる衆生が大苦あうことを知ってあまりにも忍びない。放っておけないという嘆きからであった」と仰せです。
 「嘆き」とは、苦悩を共にする嘆き、そして悩める人に寄り添う共感・同苦でありましょう。「抜苦与楽」の「苦を抜く」意義であり、甚深の大慈悲のお心が拝されます。
 現在の苦しみだけでなく、衆生が未来に受ける苦悩にまで思いを致して、その苦悩を根本から断じて取り除きたいという、やむにやまれぬお心といえます。そのために大難を受けることを厭わない、恐れない、そして逃げない。これが仏法の慈悲の大闘争です。
 開目抄に「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と仰せです。この大慈悲のゆえに、大聖人は恐れなく正義を師子吼なされたのです。
 この「開目抄」を引かれた戸田先生は言われました。
 「折伏行も、確信にみち、大慈悲の現われとして、勇気に満ちていなくてはならないし、確信のあるところ、必ず勇気にみちるのである」。

12               されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、 若し恩を知り心有る人人は二当ら
13 ん杖には一は替わるべき事ぞかし、 さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、 又在家の人
14 人の能くも聞きほどかずして 或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、 設い知らずとも誤りて現の親を敵
15 ぞと思ひたがへて詈り 或は打ち殺したらんは何に科を免るべき、 此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があ
16 らぎの様に思へり、 譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・ とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知
17 らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し、 此等の事は 偏に国主の御尋ねなき故なり、 又何なれば御尋
18 ねなきぞと申すに・ 此の国の人人余り科多くして 一定今生には他国に責められ後生には無間地獄に堕つべき悪業
1451
01 の定まりたるが故なりと、 経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、 此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひ
02 なき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ、 此の御房の御心をば設い天照太神・正
03 八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、 まして凡夫をや、 されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐すと承
04 り候と加様のすぢに申し給うべし。
-----―
 それ故に心ある人々は自分達のためにこんなに苦しんでくれたのかと思うべきである。もし恩を知り、心ある人々ならば日蓮が二つ打たれ杖の一つは替わって打たれるべきなのに、そうではなく、きかえって怨をなそうとすることはまことに理解できないことである。
 また在家の人々がよくわけも聞かずして、あるいは所を追い、あるいは弟子等を怨むことはまことに不心得なことである。たとえ知らなくても自分の親の敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したりしたならば、どうして罪を免れることができようか。
 今の世の人々は自らの荒気のように思っている。たとえば嫉妬深い女が眼を瞋らかして遊女をにらみ、自分のうとましい形相を知らずして、かえって遊女の眼が恐ろしいというようなものである。これらはひとえに国主から御たずねがない故である。また、なぜ御たずねがないかといえば、この国の人々はあまりに科多くして、今生には他国に責められ、後生には無間地獄に堕ちることがすでに決まっているからである。
 以上のような趣旨のことをいい「私はそれが経文に歴然と記されているから信ずるのである。このことはあなた方がたとえ自分のような、いうにかいない者どもを責めおどし、また所を追われたとしてもよもやただではすまないであろう。この御房の御心はいたとえ天照太神・正八幡菩薩でも、決して随わせることはできないのである。まして凡夫ができるわけがない。だからたびたびの大難にも臆する心なく、いよいよ強盛におわしますのである、と承っている」と、しかるべき筋に申されるがよい。

恩師に報ずる生き方を貫く
 大聖人は、幾多の大難を堪え忍びながら、敢然と、正義を叫び抜かれてきました。それは、民衆のためです。そして、仏法の本義を取り戻すための戦いです。その真実を直視できるような「心ある人々」であるならば「我々のために、難にあってくださったのだ」と思うべきであると仰せです。
 さらに大聖人は、もし恩を知り、心有る人々であるなら、大聖人が受ける「二つの杖」のうち「一つ」は受けるべきだと叫ばれています。
 御文に即して言うと、これは、仏教を信奉している当時の出家者たちのあるべき姿を述べられています。しかし、実際には、仏教に詳しいはずの僧たちが大聖人の闘争を理解できないどころか、反対に、大聖人及び一門を迫害している。そして悪僧にたぶらかされている在家の人々もまた、謗法の悪僧と一緒になって迫害する側にまわっている。
 大聖人は「此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり」(1450-15)と指摘されています。
 自分のほうが歪んでしまって法華経誹謗をしているのに、そのことに気づかず、かえって、大聖人の破邪顕正の言葉を“誤っている“と非難する。まさに“毒気が深く入って本心を失っている”姿です。
 これが謗法の恐ろしさです。歪んだ人の眼には、真っ直ぐな正しい人が歪んで見えてしまうのです。
 大聖人は、この社会を変えるために、不惜の闘争を開始されました。
 まだ、誰も目覚めていない無明の闇の中で、ただ一人、正義の闘争を始められる。しかも、必ず後に続く人が現れることを確信されての言論戦です。なんとありがたいことでしょうか。
「師と共に戦う弟子」の誕生
 正しい人生を歩み、よりよく生きるためには、人として正しい生き方を示す規範、正義が必要です。幸福へと向かっていけるという希望が必要です。そのために困難にも立ち向かっていく勇気が不可欠です。
 これらを身をもって示し教えてくれるのが、仏法の師匠の存在です。
 師を持つことほど、大きな幸福はありません。師とともに戦えることほど気高い誉れはありません。その師への感謝こそが、正しい人生を歩み続ける源泉となるのです。
 師恩に報じて、師と共に戦う。法華経は、「師匠によって救われる弟子」から、「師匠と同じ誓願に立って人々を救う弟子」への一大転換を説いていることを確認しておきたい。言い換えれば、共戦の弟子が出現してこそ、法華経の民衆救済の思想が完成するのです。
 本抄で大聖人は、弟子が広宣流布の主体者として「一人立つ」ことを願われたのではないでしょうか。また、弟子が「一人立つ」信心を継承しない限り、それぞれの直面している法難に立ち向かうことはできません。
 「弟子たちよ、我が如く戦え!」「一人立て、勝利せよ!」そう叫ばれているように思えてなりません。
 私も、戸田先生の広宣流布への戦いを断じて実現する思いで立ち上がりました。
 「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一つ替わるべき事ぞかし」との御指南を、私自身、若き日よりわが身にあてて拝してきました。戸田先生の御自宅で、ご一緒に拝読したことも忘れ得ぬ歴史です。戸田先生をお護りするためなら、私が師匠に代わって、一切大難の矢面に立つ覚悟を貫いていきました。あの「大阪事件」の時も、戸田先生には指一本たりとも触れさせぬ決心で、戦いぬきました。
 さて、この段の最後では、師匠・日蓮大聖人のことを、こう言い切っていきなさい、と弥三郎に教えられています。「わが師は、たびたびの大難に遭われても、いささかも臆する心なく、いよいよ意気軒高に、一段と勢いを増して戦い続けていらっしゃる」と。
 いかなる時代になろうが、私たちは、師匠の烈々たる師子吼を、我が生命に燃え上がらせながら、恐れなく正義を叫んでいくのです。

10            構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・ あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべ
11 し、 今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、 此れこそ宇
12 治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、 人身は受け難く法華経は信じ難しと
13 は是なり、 釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、地頭のもと
14 に召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候、
-----―
 心に十分の覚悟をし、所領を惜しんだり妻子を顧みたり、また人をうのみにして、あやしんだりしてはならない。ただひとえに思い切るべきである。今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、自分が今まで生き永らえてきたのはこの法華経にて値わんがためである。これこそ宇治川を渡すところであり、これこそ瀬田を渡す所である。この法戦に勝って名を揚げるか名をくだすかの境目である。人身は受け難く法華経は信じ難いとはこのことである。釈迦・多宝・十方の仏が来集して我が身に入りかわり、我を助けたまえと観念しなさい。もし地頭のもとに召されることがあるならば、この趣をよくよく申しのべなさい。

「但偏に思い切るべし」
 次いで大聖人は、弥三郎の法論相手である法師の応答に対する、具体的なアドバイスを重ねて述べられています。
 それは、「相手に対して、こう言い切っていきなさい」と、極めて具体的です。そして「責め給え」「責め給え」と、まさに烈々たる折伏精神を教えてくださっています。
 これを受けて、弥三郎に、広宣流布の言論闘争に、また競い起こる三障四魔との戦いに挑みゆく、日蓮門下としての「心構え」を打ちこまれています。中途半端な甘い気持ちで、広布の激戦を勝ち切ることなどできません。
 「構えて構えて」とあるが如く、絶対勝利の祈りと準備と行動をもって勝負に臨むことです。そして、その根本には迷いや恐れや油断があってはならない。「思いきるべし」です。「絶対に勝つ」と決めることです。
 重大なる法戦、広宣流布の言論戦に立ち会い、わが身、わが声、わが行動をもって仏法を宣揚し、師匠の正義を叫ぶことができる。これ以上の誉はありません。
 「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なり」
 思えば、末法今時において、妙法に巡りあい、創価学会員として、創価の師弟として、世界広宣流布の道を共に歩めること自体が、最高の栄誉です。黄金に輝く人生です。
 戸田先生は言われました。
 「乱れた世の中で生活が苦しいとき、何故私たちは生まれてきたのかを考えなければならない。みな大聖人様の命を受けて広宣流布する役目を持って生まれて来たということが宿習なのである。それが解るか解らないかが問題なのだ」
 長い人生の中にあって、「ここが勝負所である」「今が重大な勝負所である」という戦いに直面した場合も、この御文に通ずる体験でありましょう。私も、我が師と共に、わが同志と共に、幾度となく「此の事にあはん為なりけり」と命に刻んだ激闘が、数多くあります。同志の皆様もそうでしょう。
 大聖人は、これから弥三郎が臨まんとする法論こそ、武士が名を挙げるチャンスである合戦と同じく、広宣流布の法戦において永遠に名を残す好機だと教えられています。
 そこで譬えに挙げられているのが、宇治・勢多の戦いです。そこは古来、京都に攻め入る際の要衝です。そこを余人に先駆けて突破して名を挙げることに、多くの名将たちも命を懸けたのです。私にとって、この一節は「“まさか”が実現」と世間をあっと驚かせた「大阪の戦い」の渦中、我が関西の同志と深く拝した御文でもあります。
 「今こそ」が、広布の突破口を開く決戦場であり、自身の宿命転換の正念場である。こう自ら決めて祈り、行動する時、必ず勝利の道は開かれます。大変な戦いの時こそ大転換のチャンスだと覚悟し、喜んで挑んでいくのが本当の勇者であり、賢者の生き方です。
戦いを決する強盛な「祈り」を
 もう一点、ここで大聖人が弥三郎に教えられている、戦いにあたっての強盛な「祈り」と「決意」を確認しておきたい。
 すなわち、「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」との仰せです。
 強き祈りで諸仏が我が身に「入りかはり」「我を助け」てくれるのです。すなわち、生命に具わる仏界が開き現れ、生命力が涌き上がり、尽きることなく智慧が発揮されるのです。いわば、わが生命に満々たる「仏界のエネルギー」を漲らせて、断じて勝負に勝っていきなさいとの仰せです。
 諸仏が我が身に入り替わったならば、その所従の諸菩薩・諸天善神が従い、一生懸命に働くことは当然です。
  一人の在家の門下に、大聖人は、このように強盛に祈り、戦いなさいと教えられた。
 このお心に直結して戦ってきたのが、私たち創価学会の信心です。だからこそ、仏の軍勢として戦ってきたのです。
わが使命の天地で共戦の友と
 1957年(昭和32)10月19日
 「大阪事件」の初公判の翌日、私は京都を訪れ、一緒に戦ってくれている同志を励まし、宇治方面へ足を運びました。
 その際、歴史に薫る先陣争いの古戦場である宇治川の流れを見つめながら、胸中に湧き上がる思いがありました。
 私自身にとっても、創価学会の未来にとっても、広宣流布の前途にとっても、あの「宇治川の戦い」と同じく、勝負を決する戦いが始まった。
 仏法の正義のために、師匠を宣揚するために、あらゆる障魔と困難を打ち破り、私は絶対勝つ! そのために今こそこの試練に巡りあったのだと、心にさだめました。
 「いずこに汝があるとも、人間の権利のため、正義のため、真実のため闘うところには、汝の同胞がいる」とは、約180年前、「青年イタリア」という結社を作り、イタリア統一という新時代の建設へ戦った革命家、マッツィーニの含蓄深い言葉です。
 権利や正義や真実のための戦いは、たとえそれが一個人の行動のように見えても、全ての人にとって他人事でも無関係でもありません。
 ゆえに、たった一人で戦いを起こしたようであっても、必ず同胞がいる。共戦の同志がいる。自分の勝利も、ただ自分一人のものではなく、同じように悩み苦しんでいるすべての人の勝利者になる。
 「仏法は勝負」です。
 いついかなる時であれ、そして、日本のいずこであれ、地球上のいずこであれ、地涌の菩薩が立ち上がり、勇敢に法華弘通の言論戦を起こしたところが、偉大な広宣流布の主戦場です。
 一人立ったその時、その場所が、仏法の正義を証明しゆく「宇治・勢多」の使命の宝処となるのです。
 ゆえに、わが親愛なる同志よ、わが後継の青年たちよ、断固として今日を勝ち抜け!
 今いる場所で勝ちまくれ!
 不思議なる宿縁をもって今この時に生まれ合わせた、地涌の使命のままに、広宣流布のために奮闘してくれるわが弟子とともに、私は生涯、戦い抜いていく決心です。

1452~1452    新田殿御書top

1452
新田殿御書
01   使ひ御志限り無き者か、経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の
02 行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか、恐恐謹言。
03       五月二十九日                   日 蓮 在 御 判
04     新田殿御返事
05       並に女房の御方
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 御使を遣わされた御志この上なく尊いものである。経は法華経・顕密第一の大法である。仏は釈迦仏、諸仏の中の第一の仏である。行者は法華経の行者に相似している。三事は既に相応している。檀那の一願は必ず成就するであろう。恐恐謹言。
       五月二十九日                   日 蓮 在 御 判
     新田殿御返事
       並に女房の御方

顕密
 真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
新田殿
 生没年不明、新田四郎信綱のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒、伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡函南町仁田畑毛)に住した。本領は陸前国登米郡(宮城県登米郡)の上新田であったが、一族は多く北条家に仕えた伊豆に領地を賜っていた。信綱は日目上人の兄。母の蓮阿尼は南条家の人。妻は南条時光の姉。この縁故により信綱は大聖人に帰依した。日興上人の身延離山後、南条時光とともに、大石寺の建立・外護の任で活躍している。
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 本抄は、伊豆の信徒・新田四郎信綱とその夫人が、使いを遣わし御供養を奉ったことに対する返礼の書せある。御真筆は大石寺にある。御執筆の年月については「5月29日」とあるだけで年次は記されていないが、弘安3年(1280)と推定されている。
 新田四郎信綱については日目上人のすぐ上の兄であり、南条時光の義兄であった。そうした関係から、日興上人と縁が深く、日蓮大聖人御在世のみならず、滅後においても強盛な信心を貫いた。日興上人の本尊分与帳には「新田四郎信綱は、日興第一の弟子なり、仍て申し与うる所件のごとし」とあり、ひときわ抜きん出た信仰者であったと推察される。南条時光の姉である夫人も末尾に「並びに女房の御方」と得に記されているように、夫を支える純真の人であったようである。
 信綱の行く跡や生没年等は不明であるが、建治3年(1277)の上野殿御返事「にいた殿の事まことにてや候らん、をきつの事きこへて候」(1540-06)との御文があり、このころ信綱はその周辺と興津浄蓮房に何らかの出来事があったようである。あるいは熱原の一連の法難に関連した迫害のようなものがあったのかもしれない。
 なお本抄は漢文で書かれており、信綱が教養ある人であったことがうかがわせる。
 短い御手紙ながら、仏法の根本義の一つである三宝について記され、その三宝を持った檀那であるから、新田四郎の願いは必ず成就するであろうと励まされている。
 三宝は仏宝・法宝・僧宝の三をいうが、本抄では「経は」の御文が法宝、「仏は」の御文が仏法、「行者は」の御文が僧宝である。
 仏宝とは宇宙・三世の真理をわきまえた教主である仏を宝とするものであり、その仏の悟りに基づいて説かれた法を宝とするのが法宝、法を学び伝えていく僧を宝とするのが僧宝である。衆生を救い浄化していく宝としてこの三つが重んじられたのである。
 この三宝は、小乗や権大乗、実大乗等のそれぞれについて立てられる。小乗では小乗の仏、四諦・十二因縁等の法、それに二乗や菩薩が僧として、それぞれ三宝となり、権大乗においてもその教主を仏法・三諦を基本とした六波羅蜜、戒定慧の三学などを法宝、菩薩を僧宝としているのである。
 しかし、小乗・権大乗で立てる三宝より実大乗である法華経の三宝が勝れるのは当然である。法華経迹門の三宝は始成正覚の釈尊が仏法であり、一念三千が法宝、地涌の四菩薩が僧宝である。小乗・権大乗等の三宝とは比べものにならない。
 しかし、これらも末法に出現した久遠元初下種の本門三宝に比べるならば天地雲泥の違いとなるのである。すなわち末法の三宝とは、仏宝が久遠元初自受用報身如来の再誕であられる日蓮大聖人であり、法宝は本門の大本尊であり、僧宝は大白法を正しく受け継がれた第二祖日興上人を随一とするのである。
 さて本抄においてお示しの三宝は、権実相対したうえで立てられる法華経の三宝である。これは新田信綱と夫人の機根等を考えられたものであろう。したがって本抄では、御自身を「行者は法華経の行者に相似たり」と、僧宝にあてておられる。このことは、大聖人が外用において上行菩薩の再誕であることを示されたものであるが、内証において仏宝、すなわち久遠元初自受用報身如来の再誕であられることを秘されていることはいうまでもない。
 なお、法宝として法華経を「顕密第一の大法なり」と説明されているのは、真言の所立とは違い、法華経に説かれる如来秘密の教えこそ真実の秘密であるとの意から述べられたものである。真言家において、大日如来の説いた教えを密教と立て、他はすべて顕経と下すのは根拠のない邪説であり、その法は二乗不作仏、始成正覚の浅いものにすぎない。顕密の立て分けを用いるとすれば、法華経に説かれる一念三千の観心の法門こそ密教であり、更に一重立ち入るならば、その文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、真実の如来秘密の教えであり、他はすべて文上の顕教となるのである。
 この三宝はすでに完璧にそなわっている故に、それを支える檀那の願いも必ず成就するであろうと述べられている。おそらく、信綱夫妻は、御供養した際、なんらかの祈願を込めたものと思われる。それについて、供養をする対象を間違えば、願いもかなわないが、正しい仏・法・僧に供養したのであるから、祈願も必ずかなうとの激励をされているのである。信綱夫妻も、正法の信者の誇りをいよいよ固めて信仰の道に励んだことであろう。

1452~1454    実相寺御書top
1452:01~1453:08 第一章 玄義の文の正釈を示すtop

実相寺御書    建治四年正月十六日    五十七歳御作
01   新春の御札の中に云く駿河の国・実相寺の住侶尾張阿闍梨と申す者・玄義四の巻に涅槃経を引いて、小乗を以て
02 大乗を破し大乗を以て小乗を破するは、盲目の因なりと釈せる由申し候なるは実にて候やらん不審に候。
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 新春の賀状を拝見すると、駿河国岩本実相寺の住僧の尾張阿闍梨という者が、法華玄義巻四に涅槃経を引いて、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破するのは、盲目の因である、と解釈されていると言っているそうであるが、事実であろうか。不審なことである。
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03   反詰して云く小乗を以て大乗を破し大乗を以て小乗を破する者・盲目とならば弘法大師・慈覚大師・智証大師等
04 は・されば盲目となり給いたりけるか、 善無畏・金剛智・不空等は盲目と成り給うとの給うかとつめよ、玄義の四
05 に云く「問う法華にソを開してソ皆妙に入る涅槃何の意ぞ 更に次第の五行を明すや、 答う法華は仏世の人の為に
06 権を破して実に入れ復ソ有ること無く教意整足せり、 涅槃は末代の凡夫の見思の病重く 一実を定執して方便を誹
1453
01 謗し甘露を服すと雖も事に即して真なる能わず命を傷つけて早夭するが為の故に戒・ 定・ 慧を扶けて大涅槃を顕
02 す、 法華の意を得れば涅槃に於て次第の行を用いざるなり」釈籤の四に云く「次の料簡の中・扶戒定慧と言うは事
03 戒・事定・前三教の慧並びに事法を扶くるが為の故なり具には止観の対治助開の中に説くが如し、 今時の行者或は
04 一向に理を尚ぶときは 則ち己れ聖に均しと謂い及び実を執して権を謗ず、 或は一向に事を尚ぶときは則ち功を高
05 位に推り及び実を謗じて権を許す、 既に末代に処して聖旨を思わず其れ誰か斯の二の失に堕せざらん、 法華の意
06 を得れば則ち初後倶に頓なり、 請う心を揣り臆を撫で自ら浮沈を暁れ」と等云云、此の釈に迷惑する者か、 此の
07 釈の所詮は或は一向尚理とは達磨宗に等しきなり、 及び執実謗権とは華厳宗・真言宗なり、 或は一向尚事とは浄
08 土宗・律宗なり、及び謗実許権とは法相宗なり。
――――――
 もし、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破する者が盲目となるというならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師等は、それでは盲目となったのか、善無畏・金剛智・不空等は盲目となったと言われるのかと反詰しなさい。
 尾張阿闍梨は、法華玄義巻四に「問う、法華経で麤法を開会して皆妙法に帰入せしめたのに、涅槃経ではどのような意味で、更に次第の五行を明かすのか。答う、法華経は、仏在世の人のために権教を破して実教に入れてしまったので、麤法は無くなり、仏の化導は完了したのである。涅槃経は、末法の凡夫の見惑・思惑の病が重く、唯一の実教に執着して方便教を誹謗し、甘露を服しても、事に即して真を悟ることができず、命を傷つけて早く死んでしまうために、戒・成・慧の三学を扶けて大涅槃の悟りを顕すために説かれたのである。法華経の意を悟れば、涅槃経の次第の五行を用いる必要はないのである」とあり、法華玄義釈籤巻四に次の料簡の中で『戒定慧を扶けて』というのは、事の戒、事の禅定、蔵通別の三教の智慧、並びに事法を扶けることである。詳しくは摩訶止観の『対治助開』の中に説かれているようなものである。今日の行者を見ると、或は、一向に理を尚ぶ者は、自己を仏に等しいというとともに、実教に執着して権教を謗じている。或は、一向に事を尚ぶ者は、修行の功徳は高位の人に推り、実教を謗じて権教を許している。既に末法に入って、仏の真意を理解できず、そのために、誰がこの二つの過失に堕ちないことがあるだろうか。法華経の意を悟れば、初めの者も後の者もともに仏である。願わくは、仏道修行をする者は、心を思量し、思いをめぐらし、自分の浮沈を暁らかにすべきである」とあるのを読み違えている者であろう。
 この解釈の結論は、或は「一向に理を尚ぶ」とは禅宗と同じであり、および「実に執して権を謗ず」とは華厳宗・真言宗である。或は「一向に事を尚ぶ」とは浄土宗・律宗である。及び「実を謗り権を許す」とは法相宗である。

駿河の国
 東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
―――
実相寺
 静岡県富士宮市岩本にある寺院。岩本山と号する。久安年間(1145~1151)智印によって開基され、天台宗寺門寺派に属していた。一切経を蔵していたので、日蓮大聖人は、正嘉2年(1258)当寺を訪ねられ、一切経を具に閲読され、立正安国論の構想を練られている。また大聖人の同寺滞在中に日興上人が弟子となり、上人の化導で、何人かの学僧が大聖人門下になっている。現在は日蓮宗寺院になっている。
―――
尾張阿闍梨
 生没年不明。大聖人御在世当時の岩本実相寺の僧。建治・弘安年間に法門を歪曲し、大聖人門下を誹謗している。
―――
玄義
 天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
―――
弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
―――
智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
―――
善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
―――
金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
―――
次第の五行
 菩薩の五種の行法のこと。涅槃経巻十一に説かれる。聖行・梵行・天行・嬰児(ように)行・病行をいう。聖行とは、戒定慧の三学等によって修する自行の菩薩行。梵行とは、浄心をもって衆生を救う菩薩行。天行とは、天然の理によって成ずる菩薩行。嬰児(ように)行とは、人天小乗の小善に示現してこれを救う菩薩行。病行とは、凡夫の煩悩に同じ病苦を示して凡夫を救う菩薩行をいう。この五行のおのおのに順序次第がある。故に次第の五行という。
―――
見思の病
 見惑・思惑を病にたとえたもの。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。
―――
甘露
 ①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
―――
戒・定・慧
 「戒」は戒律、防非止悪。「定」は禅定、心を静めて悟りを開くこと。「慧」は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。日蓮大聖人の仏法においては、定を本門の本尊、戒を本門の戒壇、慧を本門の題目とし、三学を三大秘法とする。
―――
釈籤
 法華玄義釈籤のこと。天台の法華玄義を妙楽が注釈した書。10巻からなる。
―――
持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――
事定
 事相の禅定のこと。小乗・権大乗の爾前の諸教で説く一切の禅定のこと。
―――
前三教の慧
 天台の立てた化法の四教の中の円教を除く蔵教・通教・別教に説かれる智慧のこと。蔵教の智慧とは、諸法を分析して空と観る智慧。通教の智慧とは、諸法の本体に即して空と観る智慧。別教の智慧とは、諸法は但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦と観る智慧。
―――
止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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対治助開
 天台大師が立てた十乗観法の第七。摩訶止観巻七に説かれる。助道対治ともいう。比較的身近で浅い修行を助けとして用いることによって、止観の礙げとなるものを取り除くこと。多く六波羅蜜、五停心(不浄観、慈悲観、因縁観、界分別観、数息観)が修される。
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一向に理を尚ぶ
 明楽の法華玄義釈籤9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。差別の事相を遺れて、専ら平等の理のみを尊重することをいう。現実を離れ、空理や観念の世界にとらわれてしまうこと。禅宗では、座禅という一種の瞑想修行により、自分の心を内観することに専心し、自分を仏にひとしいとするが故にこれにあたる。
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達磨宗
 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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執実謗権
 「実を執して権を謗ず」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。実教に執着して権教を謗ずること。華厳宗・真言宗では法華経の法理である即身成仏・一乗真実三乗方便の理を説くが、一乗のみを強調し、三乗を一乗に開会するとは説いていない。故に事と理、差別と平等、方便と真実等が一体不二であるという相互の関係を無視して、一方に徧する誤りをおかしているために、これにあたる。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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一向尚事
 「一向に事を尚ぶ」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。事相・形式を重んずることをいう。一向尚理に対する語。浄土宗および律宗が、現実の差別の事相にとらわれて、円融円満の妙理を知らず、浄土宗は穢土を厭離して浄土を願い、律宗は煩瑣な戒律を構えるが故に、これにあたる。
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浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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謗実許権
 「実を謗じ権を許す」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。実教を謗じ、権教を許容すること。法相宗では権教である解深密経を依経として三乗真実、一乗方便と立て法華経を謗じているが故に、大聖人は謗実許権にあたると立てられた。
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法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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 本抄は建治4年(1278)正月16日に、日蓮大聖人が、駿河国賀島庄岩本(静岡県富士市)の実相寺の住僧・豊前房に与えられた御手紙である。御真筆は現存していないが、日興上人の御写本が存している。
 豊前房については、日興上人の本尊分与帳に「駿河国岩本寺住の筑前房は豊前公同宿也日興の弟子也」「高橋筑前房の女子豊前房の妻は、日興の弟子也」という記述がある以外は明らかではない。実相寺の住僧で、日興上人によって大聖人門下となったものであろう。
 本抄の内容は、実相寺の住侶である尾張阿闍梨が、法華玄義の文を曲解して、大聖人の折伏を経釈に背くものであるといって非難しているとの豊前房の報に対し、大聖人がその誤りに対し、正しい釈義を示して破折されたものである。
実相寺について
 岩本実相寺は智印によって久安年間(1145年~1151)に開かれた比叡山横川の流れを汲む天台宗の大寺院で、如意輪観音を本尊としていた。智印の弟子末代が全国より集めた一切経の写経が経蔵に納められていたため、正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が閲経され、その折に日興上人が御弟子となっている。
 日興上人が幼少の折、最初に修学された蒲原庄の四十九院は、富士川をはさんで実相寺の対岸にあり、同じ天台宗として両寺一寺のような関係で、互いの交流も頻繁だったようである。本抄でも、末文で「四十九院等の事、彼の別当等は無智の者たる間……」等と、四十九院の内情にふれられているのも、実相寺の関係からすれば決して不自然ではない。
 実相寺の三代院主・道暁は、源頼朝の弟・阿野全成の五男であったが、権勢におごって乱行の限りを尽くし、遂には真弟に実相寺を相続させようとした。その非を寺僧が幕府に訴えたために、長い間の紛糾の後に交替させられたのである。ところが、そのあとに幕府によって他所から天下りで来た第四代の院主は、更に悪行を重ね、実相寺を興廃させている。
 そのため、文永5年(1268)8月、実相寺の大衆が幕府へ愁状を提出している。その実相寺大衆愁状の、日興上人の執筆されたものが北山本門寺に現存している。当時の公用文の漢文体で五千余字にわたる長文のもので、その内容は、実相寺に下ってきた幕府任命の四代院主が、僧にあるまじき非行を重ねている事実を五十一箇条にわたって述べ、このような不法の院主をやめさせて、実相寺内から院主を選ぶよう訴えている。
 院主の非行の例としては、本堂や諸堂・経蔵・鐘桜・庵室・浴室などが破損しても修理をせず、必要な食堂も建てず、仏前に供える灯明の油や香を欠かし、仏事に酒盛りをやり、学頭も招かず、寺の庭を芋畑にかえ、池を埋めて田を作り、院主の坊に遊女を迎えて魚や鳥肉を食べ、寺僧をそうした醜事にこき使い、寺僧の坊や土地を奪いとって俗人に貸し与え、寺男や住民を責め殺すなどが挙げられている。日興上人がそれを執筆なさったのは寺僧から依頼されたということもあったろうが、幼少のころより縁の深い実相寺の醜状を憂えられ、自ら院主の追放と山規の粛正を訴える文案を草されたものであろう。残念ながら、愁状が提出された結果については明らかではない。
 当時、日興上人は、四十九院に住坊を持っておられ、鎌倉で日蓮大聖人にお仕えするかたわら、しばしば四十九院、実相寺を中心に富士地方の縁故をたどって折伏・弘教に励まれた。そして、大聖人の佐渡流罪にお供して帰られてからは、一層駿河弘教に力を注がれた。その結果、四十九院では日持、日位、日源、実相寺内では筑前房、豊前房、肥後房、円乗房、下方庄熱原郷にあった同じ天台宗の滝泉寺では日秀、日弁、日禅などが、日興上人の門下となったのである。
 こうして、四十九院、実相寺、滝泉寺と、富士地方の天台寺院に相ついで正法を信ずる者が生まれたことで、脅威を感じたのはそれらの寺の住職達だった。このままでは一山の大衆がことごとく日興上人の弟子となり、大聖人の仏法を信ずるようになってしまうと、怨嫉し憎悪の念をたぎらせて迫害を始めたのである。
 建治2年(1276)ごろ、熱原の滝泉寺で「日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致すの処に行智は乍に当寺霊地の院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむ」(0852-16)と記されているように、院主代・行智によって日興上人門下は不当にも住坊を奪われたのである。
 四十九院や実相寺でも、日興上人に信伏する僧も少なくなかった半面、反対する大衆も多かったようで、実相寺では尾張阿闍梨、四十九院では院主の厳誉や小田一房などが中心となって、日興上人門下に非難中傷を加え、大聖人の仏法を誹謗していた。建治四年正月に新春を寿ぐ書状を身延の大聖人に差し上げた豊前房が、その中でそうした中傷の一端を御報告したことに対して著されたのが本抄なのである。
駿河の国・実相寺の住侶尾張阿闍梨と申す者・玄義四の巻に……
 大聖人は、尾張阿闍梨が天台大師の法華玄義の文を曲解し、それを根拠にして大聖人が諸宗を破折することを非難していると聞かれ、玄義の文とそれを更に釈した妙楽大師の法華玄義釈籤の文を引かれて正しい意味を示され、尾張阿闍梨の誤りを打ち破られている。
 はじめに、小乗をもって大乗を破し、大乗をもって小乗を破する者が盲目となるというならば、それぞれの教判を立て、自己の依経こそ一代仏教の中で第一であるとして諸経を破折した弘法・慈覚・智証や善無畏・金剛智・不空等の真言密教の諸師も盲目になったと言われるのか、と反論せよと仰せである。これは、実相寺が天台宗であり、尾張阿闍梨が台密の僧だったために、その謬義が自宗や真言の諸師を破することになるのにも気づかぬ愚かさを指摘されたものであろう。
 次に、法華玄義と釈籤の文を引かれて、尾張阿闍梨を「此の釈に迷惑する者」と破折されているのである。
 玄義の文意は「法華経において爾前の諸経で説かれた麤法麤行を開会して、妙法妙行に帰入させたのに、涅槃経でなぜ再び爾前経で説くような次第の五行を明かしているのか」という問いに対して、「法華経は仏が在世の人々のために爾前権教の理を破って法華実教に入れたので、それ以後は麤法はなくなって仏の化導が完成したのである。涅槃経は末法の凡夫が見惑や思惑によって円教の理にのみ執着して法華に至る方便である爾前権教を誹謗し、そのために法華を信じながら五波羅蜜等の事の修行に即して真理を悟ることができず、かえって成仏の命を損ってしまうので、爾前で説いた戒定慧を再び説いて権即実の大涅槃の悟りを顕したのである。故に法華経の権即実の意を悟ることができれば、涅槃経の次第の行を用いる必要はないのである」と答えているのである。
 釈籤の文は、玄義に「戒定慧を扶く」とあるのを更に釈して「それは、五戒・八戒・二百五十戒等の事戒や、爾前経で説く種々の禅定や、蔵・通・別の三教に説かれる智慧のことで、ともに事行を助けて円教の理に入らしめるためである。詳しくは摩訶止観の巻七上の対治助開の中で説かれているとおりである。今日の行者をみると、ある者は一向に理を尚んで我が身が仏に等しいと思い、円教に執着して権教を誹謗し、あるいは一向に事行を尚んで法華経の修行は上位の人に限るといい、実教を誹謗して権教を許している。既に末法に入って仏意に迷い、すべての人がこの一向に理を尚ぶか一向に事を尚ぶという二つの失(とが)に堕ちることを免れないであろう。法華経の権実不二の意を悟れば、初心後心ともに成仏できるのである。そのことを心を量り胸をなでて自らを見つめて明らかにすべきである」と述べているのである。
 尾張阿闍梨は、玄義に「末代の凡夫の見思の病重く一実を定執して方便を誹謗し」とあり、釈籤に「実に執し権を謗ず」とある文意に迷って、大聖人が爾前権教に依る諸宗を無得道の邪義であり謗法の宗であると呵責され、法華経のみ唯一の成仏の法であると主張されていることを批判したものと思われる。しかし、この文はあくまでも権即実という絶待妙の立場から権教の修行を実教の悟りに入る助けに用いることを論じたものであって、実教の妙理をもって爾前権教を破することを批判したものでは決してない。そのために「法華の意を得れば涅槃に於て次第の行を用いざるなり」とあるのである。
 だからこそ大聖人は、釈籤の文にある「一向に理を尚ぶ」とは禅宗がそれに当たり、「実を執して権を謗ず」とは華厳宗、真言宗のことであり、「一向に事を尚ぶ」とは浄土宗、律宗であり、「実を謗じて権を許す」とは法相宗であると、当時の諸宗こそ、天台大師、妙楽大師から仏意に背くものと指摘されているとおりの謗法に堕していることを明かされているのである。
 禅宗を「一向に理を尚ぶ」とされるのは、「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ 増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(0152-07)と破されているように、一切衆生に本然として具わっている仏性を尊び、見性成仏といって坐禅により直ちに悟れるとすることによる。故に「己れ聖に均しと謂い」とあるのである。
 華厳宗・真言宗を「実に執して権を謗ず」るものとされるのは、爾前経である華厳経や大日経の中の円教の一分に執着して諸経の中で華厳第一、あるいは真言第一等と立てて諸経を誹謗していることである。彼らはそのため、ひいては法華経をも誹謗したのである。浄土宗・律宗を「一向に事を尚ぶ」とされるのは、浄土宗は専修念仏の一行にのみとらわれ、律宗は小乗の戒律にこだわるからであろう。「実を謗り権を許す」のを法相宗とされたのは、一乗方便・三乗真実と立てて、法華経を誹謗し、爾前経を用いているからであろう。

1453:09~1453:15 第二章 尾張阿闍梨の愚義を破すtop

09   夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す、爾前の諸
10 経並びに法華已後の諸経は破麤顕妙の一分之を説くと雖も・開麤顕妙は全く之無し、 爾るに諸経に依憑する人師・
11 彼れ彼れの経経に於て破顕の二妙を存し 或は天台の智慧を盗み或は民の家に天下を行うのみ、 設い開麤を存すと
12 雖も破の義免れ難きか、 何に況や上に挙ぐる所の一向執権・或は一向執実等の者をや、而るに彼の阿闍梨等は・自
13 科を顧みざる者にして 嫉妬するの間 自眼を回転して大山を眩ると観るか、 先ず実を以て権を破し権執を絶して
14 実に入るは釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀なり、 実を以て権を破する者を盲目と為せば釈尊は盲目の人か乃至天台
15 伝教は・盲目の人師なるか如何、笑う可し返す返す。
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 そもそも法華経の妙の一字に二つの義がある。一つは相待妙といって、麤法を破して妙法を顕す義。二つは絶待妙といって、麤法を開会して妙法を顕す義である。法華経已前の諸経並びに已後の諸経は、「麤を破して妙を顕す」義の一分は説いているけれども、「麤を開して妙を顕す」義は全く説いていない。それなのに、法華経以外の諸経に依っている人師は、それぞれの経々に破麤顕妙・開麤顕妙の二妙の義があるとしたり、あるいは天台大師の智慧を盗んだりしている。これは民の家で天下の政治を執るようなものである。たとえ麤法を開会する義があるといっても、真の開会ではなく、麤法を破す義を免れることはできない。まして上に挙げた一向に権教に執着したり、一向に実教に執着する等の者はいうまでもない。
 しかるに尾張阿闍梨等は、自分の誤りを顧みない者であり、他人を嫉妬したあまり、ちょうど、自分が眩いしているのを知らずに大山が回っていると思うようなものである。まず実教をもって権教を破し、権教の執着を絶って実教に入れるのが、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀である。実教をもって権教を破する者を盲目であるというならば、釈尊は盲目の人であるというのか。また天台大師、伝教大師は盲目の人師となるのか。まことに笑うべきである。

相待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。法華経と爾前権経を対比して、法華経以外を麤と為す教判。麤とは不完全や粗悪という意味で、法華経からみるとそれ以前の教えは完全ではない事を言う。法華経は随自意の教えで、爾前権経は衆生の機根に合わせた随他意の教えであり、勝れた法華経を選び、爾前権経は捨てねばならないと立てる。
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絶待妙
 天台法華玄義に説かれる教判。麤法を妙法を対比させるのではなく、そのまま麤法は妙法と開会し、爾前権経の教えをすべては妙法から生じた教えであり、全体である法華経が説かれたならば、爾前権経は全て法華経に帰入るすという教判。
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破麤顕妙
 「麤を破して妙を顕す」と読み、麤法を破して妙法を顕示すること。麤はあらい・粗末・劣悪などの意で、権教をさし、妙は実の義で法華経のこと。相待妙の立場から法華経の妙なることを説いたもの。
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開麤顕妙
 「麤を開して妙を顕す」と読む。絶待妙の立場から麤法を開会してそのまま法華経の理として用いること。
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破顕の二妙
 破麤顕妙と開麤顕妙の二つをいう。
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一向執権
 「一向に権を執す」と読む。一向とはまったく、ひたすらの意。もっぱら爾前権教に執着し、実教である法華経を謗ずること。
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一向執実
 「一向に実に執す」と読む。もっぱら実教に執着すること。実教とは蔵・通・別・円の四教の中の円教。開麤顕妙・会三帰一の妙理は全く説かれていない。
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多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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常儀
 常に変わらぬ儀式のこと。仏の説法の順序・次第は常に変わらないことをいう。
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天台
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
人師
 人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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 次に大聖人は、法華経の妙の義に、相待妙と絶待妙の二義があることを示されている。
 そして、法華以外の諸経には相待妙の一分はあっても絶待妙はないのに、この両義があると主張する諸宗の誤りを破られている。
 相待妙と絶待妙については、諸宗問答抄に次のように明かされている。
 「天台の教相を三種に立てらるる中に根性の融不融の相の下にて相待妙・絶待妙とて二妙を立て候、相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候、約教の時は一代の教を蔵通別円の四教に分つて之に付いて勝劣を判ずる時は前三為麤・後一為妙とは判ぜられて蔵通別の三教をば麤教と嫌ひ後の一教をば妙法と選取せられ候へども此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し且く華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等から令めて只今の初後仏慧・円頓義斉等の与の釈を作られ候なり、然りと雖も約部の時は一代の教を五時に分つて五味に配し華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ前四味為麤・後一為妙と判じて奪の釈を作られ候なり」(376-04)。
 「次に絶待妙と申すは開会の法門にて候なり、此の時は爾前権教とて嫌ひ捨らるる所の教を皆法華の大海におさめ入るるなり、随つて法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌わるる者無きなり」(377-01)。
 相待妙とは「麤を破して妙を顕す」と仰せのように、比較相対して教えの勝劣を判じ、麤法を破って妙法を顕すもので、蔵通別円の四教を立てて蔵通別に対し円教の妙を顕し、また五味を立てて法華の醍醐味の妙を顕すことがそれにあたる。
 絶待妙とは「麤を開して妙を顕す」と仰せであり、法華玄義巻二下に「権を開し実を顕さば、諸麤皆な妙なり、絶対妙なり、若し上に説くが如くんば、法華は衆経を総括して而も事は此に極まる、仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり」とあるように、比較相対して麤法と妙法を立て分けるのではなく、爾前権教の麤法を開いてそのまま法華経の理として用いることをいう。
 しかし、あくまでも妙理の一分として用いるのであって、爾前権経をそのまま成仏得道の法として許すわけではないのである。
 そのことを、諸宗問答抄には「開会の後も麤教とて嫌い捨てし悪法をば名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて 交ゆべからずと見えて候・弘決に云く『相待絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや』云云、文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし円に著する尚悪し況や復余の法をやと云う文なり」(0377-17)と仰せになっている。
 法華以外の諸経でも破麤顕妙の一分、すなわち円教の一分を明かして蔵通別の三教を破す等の相待妙は説かれてはいても、すべての経教を開会して受け容れる究極の妙理は説かれていないのである。にもかかわらず、華厳宗や真言宗などの人師は、その依経に相待妙・絶待妙ともに説かれていると主張し、あるいは天台大師の理の一念三千の法門を盗み入れて即身成仏の義を立てているのである。
 それを観心本尊抄には「華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日・天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加し或は天竺より受持するの由之を称す」(0246-04)と述べられている。
 どのように絶待妙が説かれていると主張しようとも、諸経には相待妙の一分が説かれているにすぎないのである。まして、権教のみに執着して実教を誹謗したり、円教の一分に執着する諸宗に絶待妙の義が存するわけがないのである。
 尾張阿闍梨は、大聖人と門下の折伏弘教に怨嫉するあまり、玄義や釈籤の文意に迷って、愚かにも自らが一向執権や一向執実という謗法を犯していることに気づかずに大聖人を誹謗しているのである。
 大聖人は、最後に、実教をもって権理を破し、権教に対する執着を断って実教に入らしめるのは仏法の常儀であり、それが誤りであり盲目の因になるというならば、釈尊も、天台大師・伝教大師も盲目の人ということになろう、とその笑うべきことを指摘されている。

1453:16~1454:03 第三章 大白法の前に邪法は自滅top

16   四十九院等の事、 彼の別当等は無智の者たる間日蓮に向つて之を恐る小田一房等怨を為すか弥彼等が邪法滅す
17 可き先兆なり、 根露るれば枝枯れ源竭れば流れ尽くと云う本文虚しからざるか、 弘法・慈覚・智証・三大師の法
18 華経誹謗の大科四百余年の間隠せる根露れ枝枯る、 今日蓮之を糾明せり拘留外道が石と為つて数百年、 陳那菩薩
1454
01 に責められ石即ち水と為る、尼犍が立てし塔は馬鳴之を頽す、臥せる師子に手を触れば瞋りを為す等是なり。
02       建治四年正月十六日                 日 蓮 花 押
03     駿河国実相寺豊前公御房御返事
――――――
 四十九院等の事については、その別当等は無智の者であるから、日蓮を恐れ、小田一房等は怨をするのであろうか。いよいよ彼等の邪法が滅びる先兆である。「根が露れると枝が枯れ、源が竭きると流れが尽きる」といわれているが、そのとおりである。弘法・慈覚・智証の三大師が法華経を誹謗した大罪が四百余年の間隠れていたが、今日蓮に糾明されて、根が露れたので、枝も枯れるであろう。拘留外道が石になったのを、数百年後、陳那菩薩に責められて、石は水になった。尼犍子外道が立てた塔を馬鳴菩薩が頽している。臥ている師子に手を触れると瞋る等というのは、ちょうど今の日蓮と彼等との関係と同じである。
  建治四年正月十六日         日 蓮  花 押
   駿河国実相寺豊前公御房御返事

四十九院
 駿河国蒲原庄(静岡市清水区)にあった天台宗横川系の寺院。日興上人は、幼少のとき当院で修行されており、大聖人身延御入山後、富士郡一帯の折伏の拠点とされた。元来、四十九院とは、弥勒菩薩の住する兜率天の内院のことであり、四十九の摩尼宝殿があるところからこう呼ばれ、後世、寺院に四十九の伽藍を置いて兜率の内院に模することが流行した。実相寺の末寺とする説もある。
―――
別当
 僧官名のひとつ。諸大寺の長官として一山の寺院を統べるもの。
―――
小田一房
 生没年不明。大聖人御在世当時に四十九院にいた僧と思われる。日興上人が、岩本実相寺・四十九院を本拠地として、藤方面に弘教されていた時、四十九院の別当の厳誉らと共謀して、大聖人門下を迫害し、日興上人・日持・日源・日位などを追放しようとした者といわれている。
―――
拘留外道
 梵語ウルーカ(Ulūka)の音写。休留・優楼僧佉ともいう。勝論派の祖。止観私記巻十には「真諦云く、休留仙人は成劫の末に出ず。長生の薬を服して変じて石となる。形・牛の臥するが如し。仏の前八百年の中に在って、石消融して灰の如し。門人皆涅槃に入らんと称す」とある。陳那菩薩がこれを破ったことについては、典拠は不明であるが、止観輔行伝弘決巻十に「迦毘羅が身の死するのを恐れて、林中で化して石となった。その石に偈を書いて祈ると何でも願いがかなうという。のちに、陳那菩薩がその石に偈を書くと、石は裂けた」とあり、迦毘羅外道の故事を拘留外道に置き換えられたものと思われる。
―――
陳那菩薩
 梵語ディグナーガ(Dignāga)の音写。5~6世紀頃のインドの唯識・論理学の僧。南インドのカンチー付近の出身。バラモンの家に生まれ、出家して世親の弟子となり、那爛陀寺で学び高名を得た。因明学、唯識学の分野で「因明正理門論」「観所縁論」など多くの著書がある。
―――
尼犍
 尼犍陀若提子。ニガンタ=ナータプッタ(Nigaṇṭha Nātaputta)の略。尼乾子、尼乾とも書く。勒娑婆の異称があり、苦行と訳す。釈尊在世中の六師外道の一人。ジャイナ教の開祖。苦行禁欲によって物質界から解脱し、常満精神を得ようとして裸で修行したため裸形外道とも呼ばれた。また善星比丘を退転させたのは尼犍であるといわれる。なお「尼犍が立てし塔」については典拠不明であるが、付法蔵因縁伝巻五に「罽昵吒王が、外道の塔が七宝にて荘厳せられているのを見て、如来の塔であると思い、歓喜して、礼拝賛嘆したところが、宝塔は分散して崩れ落ちてしまった。塔の下を発くと尼乾の屍があった」との記述がある。
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馬鳴
  梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。
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師子
 ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。
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豊前公
 生没年不明。大聖人御在世当時の弟子。駿河国岩本(静岡県富士市岩本)実相寺の住僧であった。日興上人の弟子分帳によれば、高橋家の人である筑前公と同宿しており、また筑前公の娘を妻としたとあが、別人とする説もある。
―――――――――
 本抄は、最後に、四十九院の情勢について言及されている。実相寺で尾張阿闍梨等が大聖人と門下を怨嫉し誹謗した同じころ、四十九院でも大聖人門下への迫害が厳しくなっていたのである。「彼の別当」は厳誉と思われる。
 すでに建治2年(1276)には、熱原郷の滝泉寺で、日興上人によって大聖人門下となった日秀・日弁・日禅の三師が院主代・行智によって不当にも住坊を奪われている。
 建治4年(1278)に入ると、全く同じように四十九院内にいた大聖人門下が住房を追われている。
 それは、弘安元年(1278)3月、すなわち本抄御述作から二か月後に、日興上人等が幕府へ提出した四十九院申状によって明らかである。
 「駿河の国蒲原の庄・四十九院の供僧等謹んで申す。寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持・承賢・賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事。右釈迦一代教の中には天台を以て宗匠と為す、如来五十年の間は法華を以て真実と為す、是れ則ち諸仏の本懐なり抑亦多宝の証誠なり、上一人より下万民に至るまで帰敬年旧り渇仰日に新なり。而るに厳誉の状に云く「四十九院の内・日蓮が弟子等居住せしむるの由・其の聞え有り、彼の党類仏法を学し乍ら外道の教に同じ正見を改めて邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」云云。茲に因つて日興等忽に年来の住坊を追い出され已に御祈祷便宜の学道を失う、法華の正義を以て外道の邪教と称するは何の経・何れの論文ぞや、諸経多しと雖も未だ両眼に触れず法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も諸経の裏に法華を破るの文全く之無し、所詮已今当の三説を以て教法の方便を破摧するは更に日蓮聖人の莠言に非ず皆是れ釈尊出世の金口なり。爰に真言及び諸宗の人師等・大小乗の浅深を弁えず権実教の雑乱を知らず、或は勝を以て劣と称し或は権を以て実と号し意樹に任せて砂草を造る、仍て愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わず徒に師資相伝の口決を信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証無し、天地之が為に妖蘗を示し国土之が為に災難多し、是れ併ら仏法仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり、夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依つて長久す、正法を学ぶの僧を以て外道と称せらるるの条理豈然る可けんや外道か外道に非ざるか早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す」(0848-01)
 「駿河の国蒲原の庄・四十九院の供僧等謹んで申す。寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持・承賢・賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事。右釈迦一代教の中には天台を以て宗匠と為す、如来五十年の間は法華を以て真実と為す、是れ則ち諸仏の本懐なり抑亦多宝の証誠なり、上一人より下万民に至るまで帰敬年旧り渇仰日に新なり。而るに厳誉の状に云く「四十九院の内・日蓮が弟子等居住せしむるの由・其の聞え有り、彼の党類仏法を学し乍ら外道の教に同じ正見を改めて邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」云云。茲に因つて日興等忽に年来の住坊を追い出され已に御祈祷便宜の学道を失う、法華の正義を以て外道の邪教と称するは何の経・何れの論文ぞや、諸経多しと雖も未だ両眼に触れず法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も諸経の裏に法華を破るの文全く之無し、所詮已今当の三説を以て教法の方便を破摧するは更に日蓮聖人の莠言に非ず皆是れ釈尊出世の金口なり。爰に真言及び諸宗の人師等・大小乗の浅深を弁えず権実教の雑乱を知らず、或は勝を以て劣と称し或は権を以て実と号し意樹に任せて砂草を造る、仍て愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わず徒に師資相伝の口決を信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証無し、天地之が為に妖蘗を示し国土之が為に災難多し、是れ併ら仏法仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり、夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依つて長久す、正法を学ぶの僧を以て外道と称せらるるの条理豈然る可けんや外道か外道に非ざるか早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す」(0848-01)
 この申状の記述から、四十九院に住坊を持っていた日興上人、日持、賢秀(日源)、承賢(日位)の四人が、厳誉からの一方的な通告によって住坊や所有した田畠を奪われたこと、その理由が日蓮大聖人の弟子であり外道邪義を行じているからというものだったことがうかがえる。
 面と向かって通告すれば日興上人に反論され、厳しく破折されてしまうことは明らかなので、「彼の別当等は無智の者たる間日蓮に向かって之を恐る」と仰せのように、仏法に無智で臆病な厳誉は、卑劣にも大衆の名を借り多勢の力で日興上人等を四十九院から追ったのである。
 本抄は、四十九院の法難が起こる直前か、その渦中にしたためられたものと思われ、大聖人はそうした怨嫉の競い起こる姿を「彼らが邪法滅すべき先兆なり」と断じられている。
 四十九院も実相寺も滝泉寺も、本来は天台法華宗でありながら、法華経を立てて爾前権教を破折する大聖人と門下を怨嫉し、法華経を「外道・大邪教」といい「不信用の法」といって正法信受の人を迫害するなど、まさに魔の姿を示していた。
 大聖人はそれを、弘法・慈覚・智証の三大師が法華経を誹謗し真言密教を立てた大謗法の重罪が四百年間隠れていたのを、大聖人の破折によって明らかになったためであり、だからこそ瞋恚を起こして迫害するのであると述べられている。
 弘法・慈覚・智証の大謗法については諸御抄に詳しく述べられている。
 兵衛志殿御書には「弘法・慈覚・智証の三大師・法華経最第一の釈尊の金言を破りて法華最第二・最第三・大日経最第一と読み給いし僻見」(1096-01)と仰せであり、また破良観等御書では「弘法等の三大師は其の義ことなれども同じく法華経誹謗は一同なり、所謂善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なり」(1290-17)と仰せになっている。
 特に天台家でありながら真言に堕した慈覚・智証については「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023-01)とも述べられている。
 長い間仏法の上からも世間からも重んじられてきた弘法・慈覚・智証が、実は釈尊の正覚に背く邪師であり「此の四百余年一切衆生を皆謗法の者となせり」(0587-01)ということが大聖人によって明らかにされたのである。
 長い間地中に隠されていた根が露出した以上、枝が枯れるのは必然であり、しかも、いま彼らが大聖人一門に向かって誹謗しているのは寝ている師子に手を触れ怒らせて我が身を滅ぼすのと同じように、いよいよ滅亡しようとしているのであると断言されて、本抄を結ばれている。

1454~1454    石本日仲聖人御返事top

石本日仲聖人御返事
01   同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか、近来念仏者天下を誑惑するか、早早御存知有る可きか。
02   抑駿馬一疋追い遣わさる事存外の次第か事事見参の時を期す、恐恐謹言。
03       九月二十日                    日 蓮 在 御 判
04     石本日仲聖人御返事
05   此の間の学問只此事なり、又真言師等、奏問を経るの由風聞せしむ。
-----―
 同時に二仏にわたるのか、それとも一方は妄語であるのか。近来、念仏者が天下をたぶらかし惑わしている。早々にこのことを知るべきであろう。
 ところで、駿馬を一疋わざわざ贈られたことは思いがけないことである。種々のことはお会いした時に申し上げよう。恐恐謹言。
       九月二十日                    日 蓮 在 御 判
     石本日仲聖人御返事
 この間の学問は、ただこのためである。また真言師等が奏聞したとのうわさがある。

妄語
 虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
―――
念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
誑惑
 たぶらかすこと。
―――
駿馬
 すぐれてよく走る馬。
―――
見参
 お目にかかること。
―――
石本日仲聖人
 「石」の字は岩の転写ミスと思われる。岩本実相寺に住していた日仲ことであろう。日仲については不明である。一説には日興上人の弟子であるともある。
―――
真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
風聞
 ほのかに聞くこと。うわさ。
―――――――――
 本抄は、御真筆が大石寺に現存するが、前の部分が欠けた断簡のため、内容がわかりにくい。9月20とのみで年号はないが、建治元年(1275)とする説がある。
 宛名の「石本日仲聖人」についても、石本は「岩本」のあて字と思われるので、駿河国岩本の実相寺の住僧の一人と推され、豊前房とする説もあるが明らかではない。
 ただ「日仲聖人」と、日号を加えて聖人号で呼ばれているところから、何らかの功績があった門下に与えられたものと考えられる。
 「同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか」の御文は、意味がとりにくいが、おそらく真言の邪義を破されたものと思われる。
 同じく真言を二仏にわたると破折された御書に真言天台勝劣があり、そこで日蓮大聖人は「一代五時を離れて外に仏法有りと云う可からず若し有らば二仏並出の失あらん」(0138-05)と仰せになっている。真言三部経は釈尊一代五時の経々以外に大日如来が説いたものとする真言宗の立義を、それでは一世界に二仏が並び出ることとなり、仏法上でありえない謬義である、と破折されているのである。
 更に真言見聞では「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり、涅槃経の三十五の巻を見る可きなり、若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして他方・疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや、唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑なる父を崇む是一、六波羅蜜経に云く「所謂過去無量ゴウ伽沙の諸仏世尊の所説の正法・我今亦当に是の如き説を作すべし所謂八万四千の諸の妙法蘊なり○而も阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞いて皆悉く憶持せしむ」云云、此の中の陀羅尼蔵を弘法我が真言と云える若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか此の説に違す是二、凡そ法華経は無量千万億の已説・今説・当説に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う是三、威儀形色経に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び定慧智拳の印法華経を証誠す」と、又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四、『要を以て之を云わば如来の一切所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説す』云云、此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず三世の諸仏の所説の中に第一なり此の外・一仏二仏の所説の経の中に法華経に勝れたる経有りと云はば用ゆ可からず法華経は三世不壊の経なる故なり是五、又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経文之無し是六、釈尊御入滅より已後天竺の論師二十四人の付法蔵・其の外大権の垂迹・震旦の人師・南三北七の十師・三論法相の先師の中に天台宗より外に十界互具・百界千如・一念三千と談ずる人之無し、若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し性悪の義無くば仏菩薩の普現色身・真言両界の漫荼羅・五百七百の諸尊は本無今有の外道の法に同ぜんか、若し十界互具・百界千如を立てば本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや、天台円宗見聞の後・邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり、才芸を誦し浮言を吐くには依る可からず正しき経文・金言を尋ぬ可きなり是七。涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く一人出世すれば多人利益す一国土の中に二の転輪王あり一世界の中に 二仏出世すといわば是の処有ること無し」文、大論の九に云く『十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏世界と為す是の中に更に余仏無し実には一りの釈迦牟尼仏なり』文、記の一に云く「世には二仏無く国には二主無し一仏の境界には二の尊号無し」(0149-02)と、二仏が並出真言の邪義について破折されている。
 そのように、真言の立義では二仏が並出することになるが、そのようなことはありえず、したがって「一方は妄語なるか」どちらかかが妄語だということになり、大日如来を釈尊より勝れた仏なりとし、本尊とすることは仏説に背く偽りの言なりと結論されたものと拝される。なお、この御文を念仏を破折されたものと拝することもできるが、その場合、二仏は釈迦如来と阿弥陀如来になる。
 また「近来念仏者天下を誑惑するか」の御文については、開目抄に「諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の 法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を 有縁の仏とをもうて教主をすてたり、」(0215-01)と仰せになり、本尊問答抄では「浄土宗と申すも権大乗の一分なれども善導法然が・たばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の機をば上げ末法の機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して機を以て経を打ち一代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり譬えば心かしこくして身は卑しき者が身を上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし」(0370-17)と仰せになっている。
 末法の衆生の機に叶うのは称名念仏の一行であるとして釈尊・法華経を含む一切経を毀謗し、阿弥陀如来を本尊とする専修念仏を日本一国に流布させたのは、法念等の念仏者の我見・妄説によることを明らかにされたものであろう。
 大聖人は、立正安国論でも「法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨て並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり」(0023-16)と仰せになっている。
 当時の世人が法然の著した選択集に依って仏教を誤り、釈尊を忘れて弥陀の一仏を尊んだために三災七難が並び起こることが同抄で明かされ「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024-03)「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(0030-06)と結論され、謗法を捨てて正法に帰すべきことを強く訴えられている。
 こうしたことから、釈尊を賤しめて大日如来を立てる真言宗と、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の邪義を、簡潔に破されたのが本抄の意と拝される。
 「日仲聖人」が岩本実相寺の住僧とすれば、実相寺は天台寺院であり、天台真言だったために真言の破折を述べられたものと考えられる。
 また当時は広く世に念仏信仰が流行していたために念仏の誑惑を指摘され「早早御存知有る可きか」と、そうした邪義を知るよう勧められたものであろう。
 その後に「抑駿馬一疋追い遣わさる事存外の次第か」と、良馬が一頭贈られたことを喜ばれている。弘安4年(1281)3月にも南条時光から「御乳塩一疋・並びに口付一人」(1577-02)が御供養されており、それらの馬は大聖人の御乗馬として御供養されたものであろう。そして同じく弘安4年(1281)11月に身延の大坊が新築された際には「一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる」(1375-03)と述べられているように、同時に馬小屋も建てられている。おそらく、そこには数頭の馬が収容され、飼われていたものと推測される。
 大聖人は、弘安5年(1282)9月に常陸の湯へ静養に向かわれるため、9年間住みなれた身延の地を離れられるが、その際にも、地頭の波木井実長が用意した栗鹿毛の馬に乗られ、武州池上の池上宗仲邸まで旅をされている。そして波木井実長に対して「くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に・いつまでもうしなふまじく候、 ひたちのゆへひかせ候」(1376-07)と、その馬に深い愛着を覚えられていたこともうかがわれる。
 追伸の御文で「此の間の学問只此事なり」と仰せられているのは、前の「早早御存知有る可きか」との御文と対応しているとも拝され、今まで仏法を学んできたのは真言・念仏等の邪義を破し正義を顕すためである、との意であろうか。
 「又真言師等、奏問を経るの由風聞せしむ」の御文は、当時、真言僧が法論対決を挑んでいるといううわさがあったことを示されている。

1455~1455    聖人等御返事top

1455
聖人等御返事   
01   今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す,彼等御勘気を蒙るの時.南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉
02 ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、 例せば雪山童子・
03 尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す
04 可きの御誓は是なり、 大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、 妙の字虚しから
05 ずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
――――――
 今月十五日酉時の御手紙、同じく十七日酉時に到着した。彼等が処刑された時、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、全くただごとではない。きっと平左衛門尉の身に十羅刹女が入り替わって法華経の行者を試したのであろうか。雪山童子、尸毘王等の例と同じである。あるいはまた悪鬼がその身に入った者か。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・梵天・帝釈等が五五百歳の法華経の行者を守護するとの御誓はこのことである。
 大智度論には「能く毒を変じて薬とする」とある。また天台大師は「毒を変じて薬とする」と解釈している。妙の法門が虚事でないならば、必ず忽ちに賞罰があるであろう。
――――――
06   伯耆房等深く此の旨を存じて 問注を遂ぐ可し、 平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給う
07 か、其の殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ、恐恐。
08       十月十七日戌時                  日 蓮 在 御 判
09     聖人等御返事
――――――
 伯耆房等は深くこの旨を心得て問注を遂げなさい。平左衛門尉に申すべきことは、文永八年の迫害の時、日蓮聖人の言われたことを忘れたのか、そのための災いもいまだ畢っていないのに、重ねて十羅刹女の罰を招き取ろうとするのか、と最後に申し付けなさい。恐恐。
  十月十七日戌時    日 蓮  在 御 判
   聖人等御返事
――――――
10   この事のぶるならば此方にはとがなしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、 あらわれば人人こと
11   におづべし、 天の御計らいなり、 各にはおづる事なかれ、 つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふ
12   るなり、今度の使にはあわぢ房を遣すべし。
――――――
 このことを述べるならば、こちらには過ちがないと皆人は言うであろう。また大進房が落馬したこともあらわれるであろう。あらわれれば、人々はとりわけ現罰を畏れるであろう。落馬は天の御計らいである。あなた方は恐れてはならない。心を強くもっていけば、必ず事の次第が明らかになると思われる。今度の使者には淡路房を遣わすだろう。

酉時
 現在の午後六時ごろをいう。
―――
平金吾
 (~1293)。平左衛門尉頼綱のこと。鎌倉時代の武士。北条得宗家の家司、また侍所所司次官として軍事・警察・政務を統轄し、13世紀後半の鎌倉幕府の政治上の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛や諸宗の僧と結びつき、日蓮大聖人の諌暁を用いず、かえって迫害を加え、大聖人門下を弾圧した。弘安7年(1284)内管領となり、翌年、幕府内で対立していた評定衆である安達泰盛を讒言して滅ぼし、幕府の実権を握り、その勢いは執権北条貞時をしのぐほどになった。しかし、永仁元年(1293)4月、長男・宗綱の讒訴により、北条貞時によって次男の資宗と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡へ流罪され、一族は滅亡した。
―――
十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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雪山童子
 釈尊が過去世で修行をしていた時の名。涅槃経巻十四等にでてくる。釈尊は過去の世に雪山で、バラモンの姿で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受けとめ大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
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尸毘王
 梵語でシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊が過去世に菩薩として檀波羅蜜を修行していた時の名。菩薩本生鬘論巻一によると、帝釈天と昆首天子は、鷹と鳩に化身して、尸毘王が真に菩薩として精進し、仏道を求めているかどうかを試そうとした。尸毘王は、鷹に追われた鳩を救うとともに、飢えた鷹を救うために自らの身肉をさいて与えたという。
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梵帝
 大梵天王と帝釈天のこと。梵天とは三界のうち、色界の初禅天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通号である。このうちの主を大梵天王といい、インドの神話では、もともと梵天は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。帝釈とは釈迦提桓因陀羅、略して釋提桓因ともいう。欲界第二の?利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して三十三天を統領している。法華経では、梵天・帝釈は眷属二万の天子と倶に、法華経の会座につらなり、法華経の行者の守護を誓っている。
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五五百歳
 釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
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大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伯耆房
 (1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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問注
 ①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
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戌時
 午後8時~10時。
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大進房
 下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
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あわぢ房
 日蓮大聖人御在世当時の弟子。淡路房日賢のこと。日興上人の法系で、六老僧の一人・日持の弟子となっていた。駿河国西部に住み、熱原法難に関係したようであるが、詳伝は不明。大聖人御入滅後、墓輪番十八人の一人に加えられた。
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 本抄は、熱原法難のさなかの弘安2年(1279)10月17日、日蓮大聖人が身延において熱原の農民信徒が処刑されたとの鎌倉からの急報を受けてしたためられたもので、「変毒為薬御書」との別名もある。日興上人の御写本が北山本門寺に現存する。
 「聖人等御返事」と宛名されているのは、日興上人と日秀、日弁の戦いをたたえられて「聖人等」とされたと拝される。すなわち、日興上人等は、熱原の農民信徒を一貫して教導されて、身命に及ぶ迫害にも屈しない強盛な信仰者を育成されるとともに、法難と真っ向から戦われたのである。
 本抄の内容は、10月15に処刑された農民信徒が、最後まで唱題して退転しなかったことを称賛されるとともに、平左衛門尉による迫害は十羅刹が平左衛門尉の身に入って法華経の行者を試みたものであろうと述べられ、あるいは悪鬼が平左衛門尉の身に入ったのであるとしても諸仏・諸天の守護で必ず変毒為薬されると述べられている。
 そして、日興上人等に対して平左衛門尉に問注の際には十羅刹の罰を招くことになろうと厳然と言いわたすよう述べられている。
熱原法難について
 ここで、本抄の背景になっている熱原法難について簡単に述べてみよう。
 熱原法難の発端は、日興上人の駿河国富士郡(静岡県富士市、富士宮市)一帯における折伏・弘教にあった。
 日興上人は幼くして父を亡くし、母が武蔵国の綱島九郎太郎と再婚したため、外祖父にあたる河合(静岡県富士宮市)の由比入道のもとで養育された。やがて近くの蒲原庄にあった天台宗の四十九院に入って修学され、正嘉2年(1258)の春に、富士川を隔てて四十九院の対岸の賀島庄岩本(静岡県富士市)にあった同じ天台宗の実相寺へ一切経の閲覧にみえた日蓮大聖人とお会いしてお弟子となり伯耆房日興の法名を賜った。
 大聖人が鎌倉へ帰られた後も、日興上人は四十九院に残って、実相寺と往復しながら天台学などを学ばれたが、弘長元年(1261)5月、大聖人が伊豆へ流罪されたことを知ると、直ちに大聖人のもとへ参じ大聖人に常随給仕された。
 弘長3年(1263)2月に大聖人が鎌倉へ帰られてからもお側にあってお仕えし、行学に励まれるとともに、四十九院や実相寺にもたびたび行かれ、そこを拠点にして富士地方の縁故をたどって折伏・弘教されたのである。
 文永5年(1268)8月に、実相寺の大衆が幕府へ愁状を提出しているが、日興上人の執筆された草稿が北山本門寺に現存している。
 愁状の内容は、実相寺に下ってきた幕府任命の四代院主が、僧にあるまじき非行を重ねたため、その事実を51箇条にわたって述べ、このような不法の院主をやめさせて、実相寺内から院主を選ぶよう訴えたものである。
 日興上人の草稿が残されているということは、実相寺の住僧から依頼されたために執筆されたとも考えられるが、院主の不法に怒った日興上人が、実相寺粛正のために自ら文案を考えて執筆されたものであろう。このことも、日興上人が実相寺と縁が深く、寺内の大衆の信頼厚かったことを物語っている。
 そして、実相寺内では筑前房、豊前房、肥後房、円乗房などが、四十九院では日持、日位、日源などが日興上人の門下となった。また、日興上人の外祖父である河合の由比入道、日興上人のおばの嫁いだ賀島の高橋六道兵衛入道、上野の南条七郎次郎時光、時光の姉の嫁いでいた重須の石河新兵衛入道、伊豆・畠の新田四郎信綱、松野の松野六郎左衛門入道などが、日興上人の折伏教化で正法に目覚めていったのである。
 更に、岩本実相寺から東へ一里ばかりのところに下方庄熱原郷があり、その南部の市庭寺に天台宗の滝泉寺という大寺があった。滝泉寺の住僧である少輔房は河合の出身で由比家と縁があったことから、日興上人に折伏されて最初に入信し、それから下野房、越後房、三河房などが次々に正法に帰依していった。そして、大聖人から日秀、日弁、日禅と法名を賜り、滝泉寺の内外で猛烈に折伏・弘教を始めたのである。
 それに対して、滝泉の院主代で北条一門の平左近入道行智は「法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむ」(0852-17)とあるように、日秀ら四4人に信仰を捨てるよう迫ったのである。
 そのため「頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむ」(0853-01)と、三河房頼円は起請文を差し出して退転し、日禅は実家のある河合へ引きあげることとなった。日秀・日弁は行くところがないため、坊を明け渡したものの、滝泉寺内に隠れ住むという結果になったのである。
 そうした迫害にあいながら、日秀・日弁は、地元の熱原郷の農民達に折伏をすすめていった。そして、弘安元年(1278)に、熱原郷の住人、神四郎、弥五郎、弥六郎兄弟が入信し、次第に熱原の農民信徒の中心的存在となっていったのである。
 一方、四十九院でも迫害が始まり、弘安元年(1278)3月には、「寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持・承賢・賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむ」(0848-02)と記されているように、日興上人ら四人が、住坊や所有した田畠を奪われ、寺内から追われたのである。
 それに対して日興上人は大聖人の御指南を受け、幕府へ申状(訴状)を提出して厳誉の非を訴え、公場での対決を求められている。
 大聖人も、「あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成(じょう)し同体異心なれば諸事叶う事なし(中略)日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし」(1463-01)、「返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」(1435-05)等々、異体同心に難を乗り越えていくよう、富士方面の門下を御指導くださっている。
 また、弘安元年(1278)5月に窪尼に宛てた御消息で「さてはあつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり(中略)これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候、さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」(1478-03)と仰せになっていることから拝すると、行智や役人らが幕府の命令書(御教書)を偽造し、幕府の権威を利用して熱原における正法の信仰を禁圧しようとしたことが一度ならずあったことがうかがえる。
 弘安2年(1279)に入ると「行智の所行は……下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬し」(0853-05)と記されているように、四月には熱原の信徒の一人、四郎が傷害され、八月には同じ信徒の弥四郎が首を斬られて、正法信仰を続ければこうなるというみせしめにされたのである。
 ここで述べられている「刃傷」「頸を刎ぬる」という行為は明らかに武士の所業であり、僧であることはありえない。行智にそそのかされた下方政所の代官の指示を受けたものが犯人だったのに、日秀らにその罪を着せようとさえしている。
 そして弘安2年(1279)9月21日、日秀の持ち田で稲刈りが行われ、熱原の信徒達がその手伝いに集まった折をねらって、行智一派が武装して襲い、農民信徒20人を暴行のうえ捕えるという暴挙に出た。
 しかも「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ」(0852-10)とあるように、滝泉寺へ日秀を先頭にした農民が武装して乱入したうえ稲を盗み取ったとの全く無実の罪名を着せて幕府に訴え、20人を鎌倉へ送ったのである。
 日興上人は、大聖人へ事件を御報告するとともに、訴状の内容を調べ、幕府に訴える申状の草案をしたためて御指示を仰いだ。
 大聖人は、事件の経緯を述べて訴状に反論し、20人の無実を主張する一方、行智の悪行を指摘して正当な裁定を強く要求した日興上人の草案はそのままに、立正安国論の主張を繰り返され、念仏を厳しく破折、日秀らが大聖人の弟子となって南無妙法蓮華経と唱えることこそ最も国を思う行為であり、不審があれば高僧と対決させよ、と主張された前半を書き加えられたのである。
 このことからも、大聖人がこの法難を単に一地方の信徒の問題ではなく、一門全体にかかわる重大事とお考えになっていたことがうかがえるとともに、この機会に幕府へ再び大聖人の正義を訴えようとされていたものと拝される。
 そして、10月12日に滝泉寺申状の草案を鎌倉の日興上人へ送られるとともに「伯耆殿等御返事」を添えて、問注の際の心得を具体的に指示なさっている。しかし、10月15日に、鎌倉の平左衛門尉の邸で開かれた取り調べの場で、20人は念仏を称えよと責められ、蟇目の矢で射られるという拷問にあったうえ、退転する者がいなかったために張本とみられた神四郎・弥五郎・弥六郎の3人が処刑されたのである。残りの20人は後に追放されて法難は一応終わった。
 いまだ大聖人にお会いしたこともなく、入信間もない熱原の農民達が、命を捨てて正法を信じきったことは、大聖人に続く不惜身命の実践が確立したということである。
 このように民衆の間に信心が深く根を下ろしたことは、妙法が末法万年に広宣流布すべき根源であると感じられた大聖人は、十月一日に門下一同に対して「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-03)と立宗後27年にして本懐を遂げられたことを宣せられたのである。
今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時……
 弘安2年(1279)10月17日の酉時に、鎌倉からの急使が身延の大聖人のもとに到着した。15日の酉時に鎌倉の日興上人が使者に託された書状が、2日後に身延に着いたということは、鎌倉から駆け続けて行ったものと思われる。
 大聖人はその報告を読まれると、すぐに御返事を認められたことが「十月十七日戌時」と記されていることからうかがえる。酉時は夕刻六時ごろであり、戌の時は同8時ごろにあたる。このように時刻を共に認められていることが、緊迫した模様を伝えている。
 日興上人の書状には、10月15日に起きた鎌倉における事件が御報告されており、それが「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」という出来事だったのである。「彼等」とは捕えられていた熱原の農民信徒20人のことであり、「御勘気を蒙る」とは主君や権力者からとがめをうけることをいい、熱原の人々が平左衛門尉によって拷問されて信仰を捨てよと責められたうえ、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人が処刑されたことをさしている。
 そのことは、日興上人が弟子分帳(正しくは白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事)に、
 「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥六郎。
 此三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年信じ始め奉る処、舎兄弥藤次入道の訴に依て鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢んぬ、平の左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官十三歳ひきめを以て散々に射て念仏を申すべき旨再三之を責むと雖も、廿人更に以て之を申さざる間、張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと雖も終に放ち畢んぬ」。
 と詳細な記録を残してくださったために正しく知ることができるのである。
 10月15日に平左衛門尉頼綱の私邸で行われた糾問は、起訴された苅田狼藉の罪状には全くふれずに、法華信仰を捨てて念仏を称えよと責めたてるという、権力による信仰弾圧そのものだったのである。
 その脅迫に屈して退転する者が一人もいなかったため、農民達が幕府の権力を恐れないのは天魔がついているからであろうと、頼綱は次男の飯沼判官資宗という13歳の少年に命じて、蟇目の矢で農民信徒を射させたのだった。
 蟇目の矢とは桐の木で作った鏑矢のことで、桐材で蕪の形に彫り、中をくり抜いて矢の先につけたもので、弓につがえて射るとあいている孔に風が入って鳴り、音が出る仕掛けになっていた。蟇目の矢を射ると、ひゅうひゅう鳴る音に驚いて悪魔が退散すると信じられていたのである。
 鉄の矢じりではないので当たってもからだに刺さることはなかったが、音の恐怖とともに、激しい痛みがあったであろう。そうした精神的、肉体的な拷問にあいながら、20人は少しもひるまず、声高らかに題目を唱え続けたのである。
 蟇目の矢をさんざんに射かけ、再三にわたって激しく責めても、だれ一人信仰を捨てる者がいなかったため、ついに頼綱は張本と目された神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬首するよう命じ、3人は題目を唱えながら従容として法に殉じたのである。
 こうした経過から「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは、神四郎、弥五郎、弥六郎の3人の不惜身命の信心を称賛されたものであり、また一人の退転者も出なかった熱原の信徒二十人全員のことでもあったと考えられる。
 弘安元年に入信してわずか一年前後の信仰にもかかわらず、死をも恐れずに信心を貫きとおした3人は〝熱原の三烈士〟と呼ばれ、広布史上に輝く誉の殉教の人、信徒の鑑として称えられているのである。残りの17人は後に追放されている。
偏に只事に非ず……須臾に賞罰有らんか
 大聖人は、神四郎をはじめとする熱原の人々が、不惜身命の信心を貫き、最後まで題目を唱えぬいたとの報を受けられると、それはただ事ではなく、必ずや平左衛門尉の身に十羅刹が入りかわって法華経の行者の信心を試したものであろうとされ、例えば雪山童子には鬼となり尸毘王には鷹となって帝釈が信心を試したようなものである、と仰せになっている。
 雪山童子も尸毘王も我が身を捨てて道心を顕しており、神四郎らも身命を捨てることによってその信心を顕したのである。いざというときにそのような信心を貫くことは、難事中の難事なので「只事に非ず」と賞讃されたものと拝される。
 大聖人は更に平左衛門尉を「将た又悪鬼其の身に入る者か」とも仰せになっている。「悪鬼其の身に入る」とは、法華経勧持品第十三の文で、「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼は其の身に入って、我れを罵詈毀辱せん、我れ等は仏を敬信して、当に忍辱の鎧を著るべし。是の経を説かんが為めの故に、此の諸の難事を忍ばん。我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」とある。正法を信ずる者を罵詈毀辱する平左衛門尉はまさに悪鬼入其身の者であり、神四郎らは頼綱に責められて難を忍んだことにより「我不愛身命・但惜無上道」の信心を顕したのである。
 そして、仏説のごとく難を忍んだ末法の法華経の行者を、釈迦・多宝・十方分身の諸仏・梵天帝釈等の諸天が守護するとの誓いが果たされるはずであると仰せである。これは、神四郎らが処刑されたことだけをみると、諸仏・諸天の加護がなかったように見えるが、決してそうではない。やがては終わるのがこの世の命であり、神四郎等は正法に殉ずることによって最高の人生を全うしたのであり、成仏は間違いない。それに対して正法を持つ信者を迫害した者には、必ず諸仏・諸天の治罰があって死後の堕獄は必定であり仏法の正しさが証明されるのである。
 本抄より半月前の弘安2年(1279)10月1日に著された聖人御難事に「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず(中略)一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ……彼等はげんはかくのごとし。殺さるれば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん。設えば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず」(1190-02)と述べられているのは、まさにそのことであるといえよう。
 また、文永10年(1273)5月の如説修行抄でも「哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚と思はんずらん……縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指し旛を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり」(0504-14)と仰せられている。
 すなわち、真の諸仏・諸天の加護とは、難がないということではなく、大難を耐え忍んだときに必ず成仏できることなのである。だからこそ、その後に竜樹菩薩の大論と天台大師の法華玄義の「毒を変じて薬と為す」の文を引かれているのである。
 変毒為薬とは、本来、爾前経で永不成仏とされた二乗を毒に譬えて、法華経で二乗が成仏を許されたことをいったものだが、そこから妙法の偉大な功力によって一切衆生の煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転ずる意に用いられ、凡夫がその身そのままで成仏できることに譬えるのである。神四郎ら三烈士が身命を捨てたことによって変毒為薬し即座に成仏することは疑いないと同時に、平左衛門尉に厳罰がでることも必定なので「定めて須臾に賞罰有らんか」と仰せなのである。
 「妙の字虚しからずんば」と仰せになっている〝妙〟について、法華経題目抄には「妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙とは具の義なり具とは円満の義なり……爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生・法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて菩提心の華さき成仏往生の菓なる、竜樹菩薩の大論に云く『譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し』云云、此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文なり、妙楽大師の釈に云く『治し難きを能く治す所以に妙と称す』等云云、総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり」(0944-06)と述べられている。
 このことからも、神四郎らの成仏は疑いなく、平左衛門尉らは、厳罰によって地獄にひとたび堕ちるが、やがて将来、逆縁によって救われることは明らかである。
伯耆房等深く此の旨を存じて……最後に申し付けよ
 そして、大聖人は日興上人に、三烈士を不当に処刑した平左衛門尉に対して強く抗議するよう命じられ、その際には、文永8年(1271)9月10日に「理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべし」(0911-10)と大聖人に強諌されたことを忘れたのか、その罪の報いがまだ終わっていないのに、更に謗法の大罪を重ねて諸天の罰を招き寄せるのか、と最後に厳しく言いわたすよう御指示になっている。
 文永8年(1271)のこの時の大聖人の予言はそのまま的中して、文永9年(1272)2月には、執権北条時宗の異母兄・時輔に反逆の企てありとして、鎌倉と京都でその一味が誅殺された二月騒動が起こり、北条一族が殺し合うという自界叛逆の相を現出している。
 文永11年(1274)10月には、第一回の蒙古襲来があって九州地方が大きな被害を受けるという、他国侵逼難が事実となって現れている。しかも大聖人が「其の殃未だ畢らず」と仰せのように、当時は第二回の蒙古襲来が近いと考えられ、日本中の人心は恟恟としており、幕府も筑紫の海岸に石築地を築き異国警固番役を増派するなど、防備におおわらわだったのである。大聖人はそのことを平左衛門尉に思い起こさせるとともに、きびしくその重罪を指摘して破折されたのである。
 平左衛門尉は、その後、弘安8年(1285)11月には政敵の安達㤗盛を攻め滅ぼして幕府の実権を握り、執権北条貞時をないがしろにするほど専横をきわめたが、永仁元年(1293)4月22日、次男資宗を将軍にしようと企てているとの嫡子宗綱の訴えにより、貞時の討手に攻められて滅びたのである。
 この事件について、日興上人は弟子分帳に「其後十四年を経て平の入道判官父子謀叛を発して誅せられ畢んぬ『父子』、これたゞ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」と記され、また徳治3年(1308)4月8八に御書写の御本尊に「左衛門入道法華衆の頸を切るの後、十四年を経て謀叛を謀り誅せられ畢ぬ、其子孫跡形無く滅亡し畢ぬ」と脇書されている。
 無実の罪で日蓮大聖人を死罪流罪にしたうえ、熱原の三烈士を不当に弾圧刑死させた張本人の平左衛門尉頼綱が、権力の座にのぼりつめた末に、我が子の讒言によって誅殺されたという事実は、因果の理法の厳しさを如実に示している。
 また、日寛上人は「今案じて云く、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、是れ則ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるはこれ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、既に符合せり、豈大科免れ難きに非ずや頼綱の滅亡は熱原の現罰なり。何ぞ蓮師打擲の大科というや。答う、現報に遠近あり、遠くは蓮師打擲の大科に由り、近くは熱原の殺害に由るなり」と述べられている。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190-03)と仰せのとおりに、平左衛門尉は法華の現罰によって滅び、「重ねて十羅刹の罰を招き取る」姿を示したのである。
 追伸の御文では、法華の真相が明らかになるならば、大聖人門下に罪のないことを万人が認めるであろうし、また熱原の農民信徒が不当に逮捕された際に、暴徒の指揮をとって落馬し悶死した大進房のことも顕れて人々は恐れることだろう、それも諸天の御はからいである、と述べられている。
 大進房の落馬については、弘安2年(1279)10月1日の聖人御難事に「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか……大田等は現罰なり別ばちなり」(1190-05)と述べられている。
 「あらわれば人人ことにおづべし」との御文からすると、大進房が落馬し大苦悩をうけて死んだありさまは、聞いた人がみな恐ろしくなるような悲惨なものであったと思われる。まさに「現罰」だったことがうかがえるのである。
 だからこそ、「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり」と言われて、少しも権威を恐れることなく、確信をもってぶつかるならば、必ず状況は好転するであろう、と仰せになり励まされているのである。

1456~1356    伯耆殿等御返事top

1456
伯耆殿等御返事    弘安二年十月十二日    五十八歳御作
01   大体此の趣を以て書き上ぐ可きか、 但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか、 大進
02 房・ 弥藤次入道等の狼藉の事に至つては 源は行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり、 若し又起請文に及ぶ可
03 き云云の事之を申さば全く書く可からず、 其の故は人に殺害刄傷せられたる上・ 重ねて起請文を書き失を守るは
04 古今未曾有の沙汰なり、 其の上行智の所行・書かしむる如くならば身を容るる処なく行う可きの罪・方無きか、穴
05 賢穴賢、此の旨を存じ問注の時・強強と之を申さば定めて上聞に及ぶ可きか、 又行智・証人立て申さば彼等の人人
06 行智と同意して百姓等が田畠数十苅り取る由・之を申せ、 若し又証文を出さば謀書の由之を申せ、 事事証人の起
07 請文を用ゆべからず、 但し現証の殺害刄傷而已、 若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず候、
08 恐恐。
09       弘安二年十月十二日                日 蓮 在 御 判
10     伯 耆 殿
11     日 秀
12     日 弁 等 下
-----―
 大体この趣旨によって書き上げるべきであろう。ただし熱原の百姓等が安心できるようになったならば、日秀等は別に問注する必要はないであろう。大進房や弥藤次入道等の狼藉のことについては、その根源は行智の勧めによって殺害刄傷したことにある。もしまた起請文を書くべきである等と言われても、決して書いてはならない。その理由は、人に殺害刄傷された上に、こちらが重ねて起請文を書いて相手の罪を守るなどは昔から今までかつてない事件である。そのうえ、行智の行いが申書に書かれてあるとおりならば、身を置くところもなく、処断すべき罪も方法もないであろう。この旨をしかと心得て問注の時、強盛にこのことを主張するならば、必ず上聞に達するであろう。また行智が証人を立てて申し立てをするならば、その証人達の同類が行智と同意して百姓等の田畠数十を苅り取った者であることを言いなさい。もしまた、証文を出すならば、偽書であると言いなさい。悉く証人の起請文を用いてはならない。ただし現証の殺害刄傷のみは言いきりなさい。もしこの義に背く者は日蓮の門家ではない。日蓮の門家にではない。恐恐。
  弘安二年十月十二日       日 蓮  在 御 判
   伯 耆 殿
     日 秀
     日 弁 等 下

熱原の百姓
 駿河国富士郡下方庄熱原郷(静岡県富士市厚原)の農民のこと。大聖人の信徒となったため、弘安2年(1279)9月「竜泉寺の院主の田から稲を盗んだ」という苅田狼藉の罪で捕らえられ鎌倉に送られた農民20人。これらの農民たちは、念仏を称えれば許すという強迫にも屈せず、最後まで題目を唱え続けた。代表者3名(神四郎・弥五郎・弥六郎)は斬首され、残りの17名は追放刑となっている。
―――
日秀
 (~1329)日蓮大聖人御在世からの弟子で、下野房阿闍梨と称す。天台宗滝泉寺の下野坊に住していたが、日興上人の富士弘教によって、日弁・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導したので、院主代・行智の迫害を受け、これが熱原法難の原因となった。この時、日弁と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。ダイセキジ創建の際には理境坊を建立し、日興上人の弘教を助けた。
―――
問注
 ①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
―――
大進房
 下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
―――
弥藤次入道
 生没年不明。熱原法難で斬首された神四郎・弥五郎・弥六郎の兄。熱原郷に住んだ念仏の入道と思われる。竜泉寺院主代・行智にそそのかされて、弟たちを偽りの罪状で訴え、農民信徒20人が捕らえられる法難にかかわった。
―――
行智
 生没年不明。平左近入道行智のこと。竜泉寺の院主代。同寺院の住僧・日秀・日弁・日禅等や多くの農民信徒が、日興上人の弘教によって改宗したのをうらみ、数年にわたって大聖人門下を陰謀をもって迫害した。熱原法難を起こした元凶。
―――
祈請文
 神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
謀書
 文書を偽造すること。
―――
伯耆殿
 (1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
―――
日弁
 (1239~1311)日蓮大聖人御在世当時の弟子。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷の人、竜泉寺の寺僧であったが、 日興上人の弘教により改衣し、 熱原の法難に苦労し、真間日頂の許に転ぜられて、上総奥州地方にまで布教の手を延ばされて奇跡を残したと伝えられているが、退転したとも、晩年富士に帰したとの説もあるが明瞭でない。
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 本抄は、弘安2年(1279)10月12日、身延においてしたためられ、当時、不当に捕えられた熱原の農民信徒20人を救うため鎌倉におられた日興上人と日秀、日弁に対して種々指示を与えられた御状であり、日興上人の写本が北山本門寺に現存する。
 冒頭に「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか」と述べられており、日興上人の草案に大聖人が加筆添削されたうえに前半を書き加えられた滝泉寺申状に添えて送られたことがうかがえる。
 その内容も、熱原の農民信徒の逮捕の不当を幕府に訴えた場合の心構え、主張すべき点、相手方の言い分に対する反論の仕方などを具体的に御指示になり、そのとおりに実践しない者は日蓮の門下ではないと厳しく戒められているのである。
 大聖人は、10月1日に門下一同に対して「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(1189-03)と宣せられ、建長5年(1253)の立教開宗以来27年にして出世の本懐を遂げられたことを示されている。
 これは、熱原法難を通じて、日興上人を中心とする熱原の信徒達の団結と、不惜身命の信仰の発露をご覧になった大聖人が、時を感じられたものと拝される。
 その一方で、大聖人は、捕えられた熱原の人々を救うために、自ら筆をとられて滝泉寺申状を完成して、鎌倉の日興上人へ送付されるとともに、清書して幕府へ提出すべきことと、問注の仕方を御指示になったのが本抄なのである。
大体此の趣を以て書き上ぐ可きか……
 弘安2年(1279)9月21日に、苅田狼藉という無実の罪を着せられて熱原の農民信徒20人が捕えられ、鎌倉へ送られると、日興上人は幕府にその不当を訴える申状の文案を作られ、大聖人のもとへ送って指示を仰がれた。
 大聖人は、弥藤次の訴状への反論として事件の経過を述べて20人の無実を主張される一方、滝泉寺の院主代・行智の悪行を指弾して正当な裁定を強く要求した日興上人の文案はそのままに、前半を書き加えられたのである。
 滝泉寺申状の正筆が現存しており、最初から「此等の子細御不審を相貽さば」(0852-08)までが大聖人の御筆跡で、そのあと「高僧等を召され」から最後までを日興上人が執筆されている。
 大聖人はその草案を日興上人のもとへ送られて、この趣旨で清書して幕府へ提出するよう御指示になり、更に「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」と述べられ、ただし熱原の農民達が無事に釈放されたならば別に訴訟するには及ばないと、細心の注意を与えられているのである。
 「若し又起請文に及ぶ可き云云の事之を申さば全く書く可からず」とは、獄中にある熱原の人々への御注意と思われる。
 鎌倉へ着いてから10月15日までの間に何度か取り調べがあって、そこで、「念仏を称えるという起請文を書けば罪を許してやる」という威嚇があったと考えられる。
 そのことが大聖人に御報告されたため「大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至つては源は行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり……人に殺害刄傷せられたる上・重ねて起請文を書き失を守るは古今未曾有の沙汰なり」と仰せになったものであろう。
 大進房や弥藤次入道が行智にそそのかされて、熱原の人々を暴行・殺傷したのが事件の真相であり、それなのに被害者側が謝って起請文を書くなどということはいまだかつて聞いたことがないとされ、断じて書いてはならないと仰せなのである。
 そして「行智の所行・書かしむる如くならば身を容るる処なく行う可きの罪・方無きか」――滝泉寺申状が公になり、そこに述べられている行智の所行が明らかになれば、身の置きどころもなくなり、あてるべき罪もないほどだろう、と述べられている。
 滝泉寺申状には、熱原の人々が無実であることを「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。此の条・跡形も無き虚誕なり日秀等は損亡せられし行者なり不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き将た又尫弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや、然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣の人人争つて弓箭を奪い取り其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、矯飾の至り宜しく賢察に足るべし」(0852-10)と述べられている。
 また滝泉寺の院主代・行智の所行については「凡そ行智の所行は法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す、日弁に御書下を給い構え置く所の上葺榑一万二千寸の内八千寸を之を私用せしむ、下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ無智無才の盗人・兵部房静印より過料を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し鶉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい或は毒物を仏前の池に入れ若干の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基悲んで余り有り。此くの如き不善の悪行・日日相積るの間日秀等愁歎の余り依つて上聞を驚かさんと欲す、行智条条の自科を塞がんが為に種種の秘計を廻らし近隣の輩を相語らい遮つて跡形も無き不実を申し付け日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり」(0853-05)と具体的に悪行の数々を記されている。
 こうした行智の所行は、大寺の高僧とは、とてもいえない。ならずものと同じである。行智は「平左近入道」と呼ばれていたことから、北条一門で、しかも在家の僧だったと思われる。
 そのため、正式に住職になる資格がないので「院主代」つまり住職代理にすわり、北条一族という権勢をかさに、悪行を重ねていたものである。
 また「するがの国は守殿の御領ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人人多し」(1416-10)と仰せのように、駿河国は北条時宗の領国であり、富士郡下方庄はほとんど北条一族の領地だった。そのため下方庄には北条家の政所設けられており、行智はその役人と結託していたためどんなことでもできたといえる。
 弘安2年(1279)4月に熱原の信徒・四郎を傷害し、八月に同じく弥四郎を殺害したのも、下方の政所代の指示を受けた武士であり、やらせたのは行智だったのである。
 申状が幕府に提出されれば、事実を糾明するために裁判が開かれるはずであり、そこで行智の悪行を強く訴えるならば必ず執権北条時宗の耳にも入ることであろうと仰せになり、また行智らが熱原の人々の犯行を立証する証人をたててきたら「その証人達の同類が行智とはかって法華宗の僧俗の田畠数十も刈り取って奪ったのだ」と申し立て、証文を出してきたら「それは誅書だ」といって、証人の起請文など用いてはならない、と裁判における具体的な対処の仕方を御指示になっている。
 そして「但し現証の殺害刄傷而已」と、平左衛門尉とも結託していた行智がとるであろう卑屈な策略を想定されながら、それに紛動されることなく、熱原の農民達が不当に殺傷された事実については厳然と主張するよう強調され、最後に「若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず候」と強く戒められ本抄を結ばれている。
 しかし、この3日後の10月15日には熱原の三烈士は処刑されており、日亨上人は「これらくれぐれの行き届いた御教訓は実行すべき機会がなか。

1457~1457    高橋殿御返事top
1457:01~1457:07 第一章 法華経の行者供養の功徳を示さるtop

1457
高橋入道殿御返事    建治元年七月    五十四歳御作
01   瓜一篭ささげひげこえだまめねいもかうのうり給び候い畢んぬ、 付法蔵経と申す経にはいさごのもちゐを仏に
02 供養しまいらせしわらは 百年と申せしに一閻浮提の四分が一の王となる所謂阿育大王これなり、 法華経の法師品
03 には而於一劫中と申して一劫が間・ 釈迦仏を種種に供養せる人の功徳と・ 末代の法華経の行者を須臾も供養せる
04 功徳と・ たくらべ候に其福復彼に過ぐと申して法華経の行者を供養する功徳すぐれたり、 これを妙楽大師釈して
05 云く「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と云云、 されば仏を供養する功徳よりも・ すぐれて候なれば仏に
06 ならせ給はん事疑いなし。
――――――
 瓜一籠、ひげ籠入りのささげ、小枝豆、根芋、香の瓜などありがたくいただきました。
 付法蔵経という経には、沙で作った餅を仏に御供養した童子は、仏滅後百年を経て一閻浮提の四分の一の王となると説かれている。いわゆる阿育大王がこれである。法華経法師品第十には而於一劫中といって、一劫の間、釈迦仏を種々に供養した人の功徳と、末代の法華経の行者を須臾も供養した功徳を比べれば「其の福復彼に過ぎる」といって、末法に法華経の行者を供養した功徳のほうが勝れていると説かれている。このことを妙楽大師は法華文句記に「法華経の行者に供養する者は福が十号に過ぐ」と釈されている。このように釈尊を供養する功徳よりも、末代の法華経の行者を供養する功徳が勝れているのであるから、あなたが成仏されることは疑いないことである。
――――――
07   其の上女人の御身として尼とならせ給いて候なり・ いよいよ申すに及ばず 
――――――
 そのうえ、あなたは女人の身でありながら尼となられたのである。仏に成ることはいよいよまちがいない。

ささげひげ
 鬚籠に入れた豇豆のこと。豇豆はマメ科の一年草。葉は三枚の小葉からなる複葉で、莢と種子を食用とする。
―――
こえだまめ
 枝豆のこと。大豆の枝茎のまま抜き取ったものをいい、茹でて食べる。
―――
ねいも
 里芋などの芽生え、若い芽。食用とする。現在では、全国でも千葉県柏市でしか栽培されていない。
―――
かうのうり
 味噌漬にした瓜のことと思われる。かうは、味噌の異名である。
―――
阿育大王
 前三世紀頃の人。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝、第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。付法蔵因縁伝巻三によると、あるとき釈尊は王舎城中に入って乞食行をしていた。その時、路で土いじりをして遊んでいた徳勝・無勝の二人の童子がいた。徳勝童子は釈尊が光明に輝くのに歓喜して、土を麨と名づけて供養をした。無勝童子は横で合掌したという。それを微笑んで受けた釈尊は「此の童子は、我が百年の後に転輪王の四分の一と為り、華氏城に於て正法をもって世を治め、我が舎利を分かちて処処に流布し、八万四千の宝塔を造作せん」と予言した。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝童子は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――
一劫
 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
妙楽大師
 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
十号
 仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正?知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。
―――

 普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。
―――――――――
 本抄は建治元年(1275)7月26日、高橋六郎兵衛入道の夫人に与えられた御手紙である。御書名は「高橋殿御返事」となっているが、内容からは「女人の御身として尼とならせ給いて」とあるところから、夫人へのお手紙であることが明瞭であり「高橋殿女房御返事」と呼ばれることもある。また、冒頭「瓜」「ささげひげ」「こえだまめ」などの御供養の品が記されているところから「蓏書」の別名がある。蓏は生(な)り物、瓜の実等の意である。
 本抄は御真筆は存しないが、日興上人の御写本が大石寺に存している。
 高橋六郎兵衛入道は駿河国富士郡の賀島(静岡県富士市)に住んでいた人である。詳しいことはわからないが、高橋氏は大和から移り住んできた氏族で、大井・西山・由比氏らと同族系といわれる。六郎兵衛入道の夫人は西山河合入道の娘であり、日興上人の叔母にあたる。その縁から日興上人の化導をうけて強盛な信心を貫いた。
 高橋入道及びその妻に与えられた御書を拝すると、日興上人をはじめとして、覚乗房、三位房、治部房日位、下野房日秀、それに大進阿闍梨などがしばしば高橋家を訪れていたと考えられ、富士地方における弘教の拠点となっていたようである。
 ただ、本抄にもみられるように、高橋入道は、長いあいだ重い病気にかかっていたらしく、まもなく死去したらしいことが諸御抄からみえる。しかし、病気になったことによって、より一層の信心に励んだのである。
 「皆人はにくみ候にすこしも御信用のありし上・此れまでも御たづねの候は只今生計りの御事にはよも候はじ定めて過去のゆへか」(1462-13)と賞でられ、日興上人も本尊分与帳に「高橋六郎兵衛入道は、日興第一の弟子也、仍て申し与うる所件のごとし」と、その信心を顕彰されている。
 高橋入道の死去のあと、大聖人は御弟子の大進阿闍梨を入道の墓参に遣わしておられる。こうしたことからも、夫妻のことを心にかけておられた大聖人の御心が拝される。それも、大聖人御自身が行かれると騒ぎになるから、まず弟子を派遣するのだと言われている。
 高橋入道の夫人は持妙尼といった。御本尊脇書に日興上人の加筆で「富士西山河合入道の女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼に日興之を与へ申す」とある。
 当時、一般に女性が入道して尼となることは少なくなかったが、持妙尼の場合は、本抄を拝すると夫の病の癒るのを祈るため剃髪したと考えられる。
 この持妙尼は、夫の死後、郷里に戻ったが、そこが窪といわれたところから、窪尼とも呼ばれたらしい。窪尼御前と宛名して与えられた御手紙はすべて弘安年中のものであり、そのころにはすでに郷里へ帰っていたようである。夫とのあいだには一人の女子があり、夫亡きあと、立派に一子を育てていたことが、大聖人の御手紙より拝せられる。
 なお、同時期、同地方にいた夫人の信徒に妙心尼がいる。この妙心尼に与えられた御手紙を拝すると、持妙尼と境遇が同じであり、同一人物ではないかと考えられている。
 これら一連の御書を、著された年次について推定しなおすと、夫の高橋入道が重い病気にかかり、やがて死に瀕し、遂に逝去に至った状況、更に死後さまざまに追善供養をし、また大聖人がそのときどきに激励される状況がうかがわれる。
 この妙心尼、窪尼と持妙尼とが別人との説もあるが、時期と所と境遇を同じくする人が何人もいたとはあまり考えられない。もしこの三人が同一人物であるとすると、高橋入道の妻は最後まで純粋に大聖人、日興上人の化導を受けた篤信の人であったことが推察される。
 これとは別に、高橋入道が大聖人御入滅後まで生きていたと推される古文書もあるが、それに全幅の信頼を置けるとはいいがたい「御そうぜんれう送り給い了んぬ、すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか」(1482-01)との御文のみえる妙心尼御前御返事の宛名は、日興上人の御写本には明瞭に「持妙尼御前御返事」となっており、そこからすると、すでに入道は死去していることが明らかである。もし高橋入道が後まで生きていたとすれば、この「故入道」や減劫御書の「故六郎入道」は別人ということになり、六郎兵衛入道の父と考えざるをえない。当然、妙心尼、窪尼は持妙尼とは別人ということになる。
 さて本抄は、持妙尼が生り物を大聖人に御供養したのに対し、阿育大王の因縁を説き、法華経の文、妙楽大師の釈を引いて法華経の行者を供養する功徳がいかに大きいかを教えられたあと、尼となって仏道に精進している持妙尼の信心をほめられている。
 最初に尼の供養に対し阿育王の因縁を引かれているが、これは徳勝・無勝童子が砂の餅を供養して大王となる果報を得たという有名な説話である。人間と生まれる果報だけでも並み大抵ではない。大王と生まれることは、大果報である。仁王経巻下には「一切の国王皆過去に五百の仏に侍うるに由りて帝王の主と為ることを得たり」とあり、多くの仏に供養し、仕えなければ王の果報は得られないことを示している。
 王は多くの眷属を養い使う立場である。その果報を得るには多くの仏に仕えるという因がなければならないということであろう。
 その果報を、徳勝童子が砂の餅を供養した因によって得たと説かれているのは、童子の純粋な仏への渇仰が尊いのであり、それこそが信の極致であることを教えているのである。貧女が唯一の財産ともいえる髪をおろして得た油が最後まで灯を絶やさなかったという説話も、これと軌を一にしている。
 今、持妙尼が供養した生り物は、世間的な値段だけを考えれば、さほど高価とはいえなかったであろう。しかし、汗を流し手を汚してつくった労苦がそこにあり、それは更に無二の信心に裏打ちされている。しかも御供養の対象は釈迦仏ではなく、はるかに偉大な法華経の行者なのである。それこそ童子の砂の餅に勝るとも劣らない尊い供養である。
 尼は今、夫が重病に沈み、悲嘆の底にあるかもしれない。しかしそうした状況の中でいよいよ信心に励んでいるという因によって、必ず将来は悠々たる境涯になると教えられているのである。
 法華経法師品第十の「而於一劫中」の文は、釈尊を一劫のあいだ讃嘆するよりも、持経者を讃嘆する福のほうが勝れていることを説いた文である。ここでは讃嘆となっているが、現実の行動としては供養がそれにあたる。故に、この文を釈した法華文句を更に釈している文句記においても「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と述べているのである。
 釈迦仏に供養するよりも持経者すなわち法華経の行者に供養する福が勝れるというのは、法(法華経)が勝れ人(釈迦仏)は劣るということをあらわしている。なかんずく釈迦仏の滅後においては、法が滅尽する悪世であるが故に法華経を受持することが、たとえようもなく困難であり、その故に尊いこと、また、釈迦仏の在世においては、衆生の尊敬を受けている釈迦仏に供養することに何の困難もなく、誇りあることであるが、滅後悪世の、強敵が紛然として起こっているなかで、持経者を支え供養することは、比較にならないほど尊いことを示しているのである。
 更に、高橋入道の妻が尼となったことは、主人の身を案ずるばかりでなく、いよいよ正法受持の決意を固めたものであり、その信心の決定を喜ばれているのである。

1457:07~1457:14 第二章 亡国の姿通し念仏の害毒を教えるtop

07                                     但しさだめて念仏者にてやをはすら
08 ん、 たうじの念仏者・持斎は国をほろぼし他国の難をまねくものにて候、 日本国の人人は一人もなく日蓮がかた
09 きとなり候いぬ、梵王・帝釈・日月・四天のせめをかほりて・たうじのゆきつしまのやうになり候はんずるに・いか
10 がせさせ給うべきいかがせさせ給うべき、 なによりも入道殿の御所労なげき入つて候、 しばらくいきさせ給いて
11 法華経を謗ずる世の中御覧あれと候へ、 日本国の人人は大体はいけどりにせられ候はんずるなり、 日蓮を二度ま
12 でながし法華経の五の巻をもてかうべを打ち候いしは・こり候はんずらむ。
13      七月二十六日                    日 蓮花 押
14     御返事
――――――
 ただし、さだめて念仏者であられるにちがいない。現在の念仏者、持斎は国を亡ぼし、他国侵逼難を招く者である。日本国の人々は一人残らず日蓮の敵となっている。法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天の責めをうけて、昨年の壱岐・対馬のように惨めなものとなってしまうだろう。その時にどうされるだろうか、どうされるだろうか。
 なによりも入道殿の御病気のことを心配している。いましばらく生き永らえて、法華経を誹謗する世の中がどうなるか御覧なさいと伝えられたい。日本国の人々は大体は生け捕られてしまうだろう。日蓮を二度まで流罪し、法華経の第五の巻で日蓮の頭を打ったことを後悔するであろう。
  七月二十六日             日 蓮  花 押
   御 返 事

持斎
 戒律を持つこと。またはその人。
―――
他国の難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
―――
梵王
 大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
ゆきつしま
 朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
―――
入道
 仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
―――
所労
 ①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
―――
二度までながし
 伊東・佐渡の二度にわたる流難をさす。すなわち、妙法蓮華経勧持品第十三の「濁世の悪比丘は、仏の方便、随宜所説の法を知らずして、悪口して顰蹙し、数数擯出せられ、塔寺を遠離せん」の文を身業読誦なされたのである。開目抄上(0202)には「今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」とある。
―――
五の巻
 妙法蓮華経巻五のこと。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうちの勧持品二十行の偈には、三類の強敵が説かれ、「刀杖を加うる者あらん」とあり、日蓮大聖人は、竜口法難の日、召し捕らえにきた平左衛門尉の郎徒の少輔房に第五の巻で打たれた。上野殿御返事には「杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557-07)とある。
―――――――――
 「さだめて念仏者であろう」とは、高橋入道がいま念仏者ということではない。本抄の二週間前にしたためられた高橋入道殿御返事には「人々が憎んでいる大聖人の仏法を、入道が信じていることは過去世からの宿縁である」と、正法の信仰者であることを言われている。
 ここで大聖人が仰せになっているのは、入道が過去から引きずってきている念仏の重い罪業のことではなかろうか。念仏を信じてきたことに対する深い懺悔がなければ、宿業を転ずることはできないと教えられているのである。
 当時の日本は、一国あげて念仏、律を信じ、正法を誹謗していたため、一国全体が滅亡の危機にさらされていたのである。前年に蒙古の大襲来があったばかりであり、再度の襲来も必至である。その事態を生み出した元凶である念仏の害毒が入道の生命をも蝕んでいるのである。一国全体の混乱をつぶさにみることによって、念仏の恐ろしさ、自らの宿業を観ずべきことをお示しになっているのであろう。
 大聖人は一国が謗法を改めない故に滅亡の危機に頻していることを何よりも嘆かれたのである。大聖人の御予言が的中し、大聖人の正しさに驚嘆しつつも、謗法への執心から、なおも大聖人の教えを受け入れようとしない幕府、また人々の心中をあわれまれているのである。とともに、その実相をみすえることによって、入道になお一層の信心に立つよう教えられているのである。
 なおここで「梵王・帝釈・日月・四天のせめをかほりて」とは諸天は法華経の行者を守ると誓っており、その一環として、法華経の行者を迫害している国に対して治罰を加えるとの原理をいわれているのである。
 下山御消息には「日本守護の天照太神・正八幡等もいかでか・かかる国をばたすけ給うべきいそぎいそぎ治罰を加えて自科(みずからのとが)を脱がれんとこそはげみ給うらめ」(0363-03)と仰せになっている。天照太神、正八幡は古来の日本の守護神であるが、それ以上に法華経の妙法という宇宙的次元での正法を守るべき責任がある。したがって、日本の人々が正法に背いているならば、日本を守ることよりも正法を守ることを優先しなければならないので、謗法を犯している日本に治罰を加えるのである。
 正法に背き、謗法の限りを尽くす人々、社会は、生命力が失われ、欲望、憎悪等の三毒が充満する。そこでは健全で堅固な社会が築かれるはずもない。そのような社会は内部から崩れるか、他から容易に突き崩されやすいのである。それがまさしく、諸天善神が他国を動かして謗法の国をせめさせているということにほかならない。大聖人の仏眼からみるならば、日本国の行く末が瞭然であられた。その故に高橋入道に明らかに見ていくようにいわれたのである。

1458~1463    高橋入道殿御返事top
1458:01~1458:08 第一章 末法弘通の人法を示すtop

1458
高橋入道殿御返事    建治元年七月    五十四歳御作
01   進上 高橋入道殿御返事                       日 蓮
02   我等が慈父・大覚世尊は人寿百歳の時・中天竺に出現しましまして一切衆生のために一代聖教をとき給う、仏在
03 世の一切衆生は過去の宿習有つて仏に縁あつかりしかば・すでに得道成りぬ、 我が滅後の衆生をば・いかんがせん
04 と・なげき給いしかば八万聖教を文字となして・一代聖教の中に小乗経をば迦葉尊者にゆづり・ 大乗経並びに法華
05 経涅槃等をば文殊師利菩薩にゆづり給う、 但八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば迦葉・阿難
06 にもゆづり給はず、又文殊.普賢・観音・弥勒.地蔵・竜樹等の大菩薩にもさづけ給はず、此等の大菩薩等の・のぞみ
07 申せしかども仏ゆるし給はず、 大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして・多宝仏・ 十方の諸仏の御前
08 にして釈迦如来・七宝の塔中にして妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給う。
――――――
  進上 高橋入道殿御返事         日  蓮
 我等衆生の慈父・大覚世尊は、人寿百歳の時に、中インドに御出現になられ、一切衆生のために一代聖教を説かれた。
 釈尊在世の一切衆生は過去世の宿習があって仏に縁が厚かったのですでに得道をした。我が滅後の衆生をいかにして救おうかと嘆かれて、八万聖教を文字として残され、一代聖教の中でも小乗経は迦葉尊者に譲り、大乗経並びに法華経・涅槃経等を文殊師利菩薩に譲られたのである。
 しかし、八万聖教の肝心・法華経の眼目である妙法蓮華経の五字は、迦葉・阿難にも譲られなかった。また文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にも授与されなかったのである。
 これらの大菩薩等は末法に妙法蓮華経の弘通を望み、付嘱されるよう申し出たが、仏はこれをお許しにならなかった。大地の底から上行菩薩という老人を呼び出されて、多宝仏・十方の諸仏の御前で、釈尊は七宝の塔の中に坐して、妙法蓮華経の五字を上行菩薩にお譲りになられたのである。

大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
中天竺
 インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。
―――
一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
過去の宿習
 法華経では迹門に三千塵点劫、本門に五百塵点劫の因縁を明かし、このように長い時間にわたって修行してきた衆生が最後にインドの釈迦仏にあって成道すると説く。
―――
宿習
 宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
―――
得道
 仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
―――
八万聖教
 八万四千の聖教、八万聖教、八万威儀、八万四千の法蔵、八万四千の細行とこいう。煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」。二百五十戒を行住坐臥の四威儀におのおのわたし、一千の威儀になり、過去・現在・未来の三世に約して三千の威儀、この三千を殺・盗・淫・妄・綺・悪・両の七支に分配すれば、二万千となり、貧・瞋・癡・等の四にわたせば七十八万四千となる。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
迦葉尊者
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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大乗経
 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。4④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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涅槃
 涅槃経の事。釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
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阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
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弥勒
 慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆(ほっきしゅ)となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
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地蔵
 地蔵菩薩のこと。忉利天」で釈尊から付属を受け、毎日晨朝に恒沙の禅定に入って衆生の機を感じ、釈尊滅後、弥勒菩薩が出るまでの中間に衆生の願いに応じて利益・安楽を与えるという。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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上行菩薩
 法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
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多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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七宝の塔
 宝塔品で大地から涌出た塔のこと。高さ500由旬・縦広250由旬の大きさで七宝によって飾られている。「七宝」については必ずしも一定しないが、代表的なものとしては,金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰。
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 本抄は日蓮大聖人が建治元年(1275)7月12日、身延から富士・賀島の高橋六郎兵衛入道に送られた御手紙である。最後の章に「御所労の大事にならせ給いて候なる事あさましく候」との御文があるように、高橋入道の病状重体を報じてきたのに対する御返事として認められたものと拝される。
 内容は八万聖教の肝心・法華経の眼目である南無妙法蓮華経の大法は、末法弘通のために地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱されたことから説き起こされ、この大白法を弘めたが故に、大聖人が種種の大難にあってきたこと、そして、それは経文の予言のとおりであり、大聖人が法華経の行者・上行菩薩の再誕であることの証であることが述べられている。
 更に、本抄御執筆の前年に、佐渡御流罪から帰られて、三度目の諌暁を平左衛門尉に対して行われ、その後、身延に御入山された経緯と、平左衛門尉に対し、特に真言宗の邪義について厳しく破折したこととを述べられている。
 一貫して、御自身の苦難はともかくとして、それに伴って苦しみにあっている門下に対する思いやりの心情を吐露されており、一国あげて迫害の刃を向けてくるなかで正法への信心を貫いている高橋入道の病気が治らないわけがないと激励されている。
我等が慈父・大覚世尊は人寿百歳の時・中天竺に出現しましまして一切衆生のために一代聖教をとき給う
 大覚世尊とは釈迦牟尼仏のことである。釈尊をここで「我等が慈父」と呼ばれているのは、もとより仏は主・師・親三徳を具備されているのであるが、特に親徳をもって代表されたのである。では、なぜ親徳をもって代表されたかというと、一つには、開目抄にも「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と仰せのように、衆生を慈愛する親徳に仏の特質を捉えられていたことが挙げられよう。また、もう一つには、釈尊は、末法においては衆生を救いうる力はない。あたかも、親がやがて子にその座を譲るように、正・像二時に三徳具備の仏であった釈尊も、末法には久遠元初の自受用報身の再誕であられる日蓮大聖人にその座を譲るのである。そうした意義を含めて、特に親徳をもって呼ばれたと考えられる。
 「人寿百歳の時」とは、古代インド人は、この宇宙が成・住・壊・空を繰り返しており、その住劫の中で、人寿が八万歳の時から百年ごとに一歳減じ、十歳にまでなると、今度は逆に百年ごとに一歳増え、八万歳になり、住劫の間に二十回増減を繰り返すと考えた。そして、現在は、その第九の減の時であり、その中で人寿百歳の時に釈尊が出現したと考えていたのである。
 ともあれ、釈尊は、あらゆる衆生を救うために、衆生の機根に応じて、八万法蔵といわれる厖大な教えを説いた。もとより成仏という究極の目的のためには、法華経以外にないのであり、それ以外の諸経は、この法華経へ導くための方便として位置づけられるが、人生に生ずる種々の悩み苦しみについて、それを克服する、さまざまな方途を説き明かしたのが一代聖教であったのである。
仏在世の一切衆生は過去の宿習有つて仏に縁あつかりしかば・すでに得道成りぬ、我が滅後の衆生をば・いかんがせんと・なげき給いしかば……
 釈尊在世の衆生は、過去の宿縁が厚く、すでに仏道を行じてきた善根の強い人々であったので、釈尊の直接の化導によって在世の間に得道することができた。しかし、過去の善根の薄い人々が滅後に生まれてくる。これらの人々の救済のために、釈尊は、それぞれの法を、その法に最も通達した弟子達に譲って、滅後の弘通を託したことを示されている。いわゆる小乗教は迦葉をはじめとする声聞の弟子達に譲って弘めさせ、大乗教は文殊師利をはじめとする菩薩に譲られた。
 だが、最も善根の薄い、過去の宿縁のない衆生ばかりが生まれる末法に弘通されるべき「八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字」は、上行菩薩に譲られた。この末法における妙法弘通は、文殊・普賢・薬王等の菩薩達も望んで、釈尊に付嘱をお願いしたのであるが、釈尊はそれを断って、ただ本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩に譲られたのである。その理由については、次に述べられていく。

1458:09~1449:16 第二章 末法濁世の記文を示すtop

09   其の故は我が滅後の一切衆生は皆我が子なりいづれも平等に不便にをもうなり、 しかれども医師の習い病に随
10 いて薬をさづくる事なれば・我が滅後・五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもつて一切衆生にあたへよ、 次
11 の五百年が間は文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさづけ
12 よ、 我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩・ 観世音菩薩等・法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆
13 生にさづけよ、末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗
14 経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、 所謂病は重し薬はあさし、 其の時上行菩薩
15 出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし、 其の時一切衆生・此の菩薩をかたきとせん、 所
1459
01 謂さるのいぬをみたるがごとく・ 鬼神の人をあだむがごとく・過去の不軽菩薩の一切衆生にのりあだまれしのみな
02 らず杖木瓦礫に・せめられしがごとく覚徳比丘が殺害に及ばれしがごとくなるべし。
――――――
 その理由として仏が述べられているのは、仏滅後の一切衆生はすべて我が子であり、いずれも平等に慈愛し、不愍に思っている。しかしながら、医師は病気にしたがって薬を与えるのが習いであり、我が滅後五百年の間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生に与えよと命じ、次の五百年の間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生に授けよと命じ、我が滅後一千年を過ぎて像法の時代には、薬王菩薩・観世音菩薩等が、法華経の題目を除いたそのほかの法門の薬を一切衆生に授けよと命じたのである。末法の時代に入ったならば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等が譲られたところの小乗経、大乗経、そして法華経は、文字があっても衆生の病の薬とはならない。いわゆる病は重く薬は浅いのである。その時には、上行菩薩が出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるであろう。
 その時に、一切衆生がこの上行菩薩を敵とするであろう。いわゆる猨が犬を見て騒ぐように、鬼神が人を怨むように、過去の不軽菩薩の一切衆生から罵詈され怨嫉されたばかりでなく、杖木瓦礫によって責められたように、覚徳比丘が悪比丘に殺害されそうになったようになるだろう。
――――――
03   其の時は迦葉阿難等も或は霊山にかくれ恒河に没し・弥勒・ 文殊等も或は都率の内院に入り或は香山に入らせ
04 給い、 観世音菩薩は西方にかへり・普賢菩薩は東方にかへらせ給う、 諸経は行ずる人はありとも守護の人なけれ
05 ば利生あるべからず、 諸仏の名号は唱うるものありとも天神これをかごすべからず、 但し小牛の母をはなれ金鳥
06 のたかにあえるがごとくなるべし、 其の時十方世界の大鬼神・ 一閻浮提に充満して四衆の身に入つて・或は父母
07 をがいし或は兄弟等を失はん、 殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に 此の鬼神入つて国主並びに臣下をた
08 ぼらかさん、 此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・ 南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけ
09 ば・彼の四衆等・並びに大僧等此の人をあだむ事父母のかたき宿世のかたき朝敵怨敵のごとくあだむべし、 其の時
10 大なる天変あるべし、 所謂日月蝕し大なる彗星天にわたり大地震動して水上の輪のごとくなるべし、 其の後は自
11 界叛逆難と申して国主・ 兄弟・並びに国中の大人をうちころし・後には他国侵逼難と申して鄰国より・せめられて
12 或はいけどりとなり或は自殺をし国中の上下・万民・皆大苦に値うべし、 此れひとへに上行菩薩のかびをかをほり
13 て法華経の題目をひろむる者を・ 或はのり或はうちはり或は流罪し或は命をたちなんどするゆへに・ 仏前にちか
14 ひをなせし梵天・帝釈・日月・ 四天等の法華経の座にて誓状を立てて法華経の行者をあだまん人をば父母のかたき
15 よりもなをつよくいましむべしと・ ちかうゆへなりとみへて候に、 今日蓮日本国に生れて一切経並びに法華経の
16 明鏡をもて・日本国の一切衆生の面に引向たるに寸分もたがはぬ上・仏の記し給いし天変あり地夭あり、 
――――――
 その時は、迦葉・阿難等も、あるいは霊鷲山にかくれ、あるいは恒河に没し、弥勒・文殊等も、あるいは都率の内院に入り、あるいは香山に入られ、観世音菩薩は西方浄土にかえり、普賢菩薩は東方浄妙世界にかえってしまわれるのである。諸経を修行する人はあっても守護する人がなければ、衆生を利益することはできないであろう。諸仏の名号を唱える人はあったとしても、天神はこれを加護しないであろう。それはちょうど小牛が母から離れ、金鳥が鷹にあったような姿となろう。
 またその時は、十方世界の大鬼神が一閻浮提に充満して、広く出家・在家の男女の身に入って、あるいは父母を害し、あるいは兄弟等をなきものにするであろう。特に国中の智者をよそおい、持戒をよそおう僧尼の心にこの鬼神が入って、国主並びに臣下をたぶらかすであろう。
 この時、上行菩薩の守護を受けて、法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字を一切衆生に授けるならば、大鬼神が身に入っている出家在家の男女等、並びに尊信を集めている高僧等が、この人を、父母の敵、過去世からの敵のように怨むであろう。
 その時、大きな天変があるであろう。いわゆる日月蝕があり、大いなる彗星が天空をわたり、大地が震動して水上輪のように揺れることだろう。それらの天変地夭の起こった後は、自界叛逆難といって、国主・兄弟・並びに国中の人々を打ち殺すような内乱があり、また他国侵逼難といって隣国から攻められて、あるいは生け捕りとなり、あるいは自殺をし、国中の上下万民がみな大苦に値うであろう。
 これは、ひとえに上行菩薩の加護を蒙って法華経の題目を弘通する者を、あるいは罵詈し、あるいは打ちすえ、あるいは流罪し、あるいは命を断とうとする故に、仏前で誓いを立てた梵天・帝釈・日月・四天等が、法華経の会座で誓状を立てて、法華経の行者を怨む人を、父母の敵よりも更に強く懲めると誓ったからであると経文には見えている。
 今、日蓮が日本国に生まれて、一切経並びに法華経の明鏡をもって、日本国の一切衆生の姿を映し出してみると、寸分も違わぬうえ、仏が記された天変地夭がある。 

天親菩薩
 生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
般若経
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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薬王菩薩
 法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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鬼神
 鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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覚徳比丘
 涅槃経巻三に説かれている過去世の正法護持の比丘。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳王が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが、有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏(あしゅくぶつ)国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となり、覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。
―――
霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
恒河
 ガンジス河のこと。
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都率の内院
 都率天の内院のこと。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のために説法しているという。
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香山
 香酔山ともいう。山中に諸の香気があって人を酔わせるという。文殊師利は入涅槃して雪山にある香山で不壊の身を得ているという。
―――
西方
 西方極楽世界のこと。観世音菩薩は西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の脇侍とされている。
―――
東方
 東方浄妙国のこと。観普賢菩薩行法経には「普賢菩薩は乃(すなわ)ち東方の浄妙国土に生ぜり」とある。
―――
利生
 利益衆生の意で、衆生を利益すること。
―――
天神
 ①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。
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十方世界
 「十方」と7は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
―――
四衆
 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
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持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――
宿世
 前世・過去世。
―――
朝敵
 朝廷・天皇家に敵対すること。
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怨敵
 仏及び仏の正法、またはその修行者に怨をなす敵をいう。謗法の者。
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天変
 天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
―――
日月触し
 日蝕と月触のこと。
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彗星
 ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
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水上の輪
 水車のこと。水上輪。大集経巻五十六の「仏の法宝隠没し、鬚・髪・爪皆長く、諸法も亦忘失す。時に当り虚空中に大声あり、地を震う。一切皆遍く動き、猶水上の輪の如し。城壁砕け落下し、屋宇悉く圯坼し、樹林の根・枝葉・花葉・果薬尽く」による。
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自界叛逆難
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
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他国侵逼難
 他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
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流罪
 罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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地夭
 地震・水害・火災等。地上に起こる禍。夭はわざわいの意。
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 妙法蓮華経の五字は迹化の菩薩に譲らず、本化地涌の菩薩にのみ譲られた理由として、このように妙法の弘通を末法の時と限られたのは、衆生に対する慈悲に偏頗があるからではなく、むしろ、あらゆる人々を平等に救おうとするからであることを述べられている。ちょうど、医師が病気にしたがって、それに応じた薬を与えるように、滅後の衆生の病もさまざまであるので、平等に救うためには、むしろ薬を変えることが必要なのである。そこで、仏滅後最初の五百年、すなわち正法時代の前半は小乗教、次の五百年、すなわち正法時代の後半は権大乗教、像法一千年間は「法華経の題目を除いて余の法門」つまり文上の法華経を弘めるように定められたのである。そして末法においては最も病が重く、小乗・権大乗・法華経等をもってしては救えず、妙法蓮華経の五字による以外にないので、これを末法に弘通するよう託されたと仰せられている。
 ここでは、衆生の病と薬の関係を譬えに用いて、弘まる法が時代によって異なることは示されているが、なぜ小乗教は迦葉等に、権大乗教は文殊師利や竜樹等に、法華経の文上の法門は薬王菩薩等に、そして妙法蓮華経は上行菩薩に付嘱されたのかという理由には触れられていない。この点については、四条金吾殿御返事に「正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき」(1148-01)と述べられている。すなわち、それぞれの法に最もよく通達している人を弘教者として定められたということである。妙法蓮華経の五字は久遠元初の大仏法であり、故に本地久遠元初の自受用報身如来である上行菩薩に付嘱されたのである。このように、上行菩薩が、本地は久遠元初の仏であられることを暗示して、いま本抄においては「大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして……」と表現されたのである。〝大地〟とは天台大師が法華文句に「法性之淵底玄宗之極地」と釈しているように、一切万法の極理である久遠元初の妙法である。上行菩薩が本来、この〝大地〟の底に安らっておられたということは、本地が法即人の久遠元初の自受用報身であられることを意味する。その覚りの境界の深さ、姿の尊さをあらわして「老人」といわれているのである。
 「其の時一切衆生・此の菩薩をかたきとせん」以下は、釈尊より付嘱を受けて法華経の肝心である妙法蓮華経の五字を弘める上行菩薩に対して、いかなる迫害が巻き起こるかを述べられている。
 この時は、二乗や迹化の菩薩達は、この末法に弘める付嘱を受けていないので、ことごとく去ってしまっており、小乗教や権大乗教等を修行しても、なんの利益もない時代である。あとに残っているのは、悪鬼神のみであり、それが、もはや無益となった小乗・権大乗教を形だけ行じている僧尼の身に入り「法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字」を人々に弘める行者を激しく憎み、迫害を加える。
 しかるに、法華経の会座で、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神は、法華経の行者を憎み迫害する者に対して治罰を加えると誓っているので、その誓いにしたがって、天変地夭や自界叛逆難、他国侵逼難の災いを起こし、法華経の行者を迫害している者に対して苦しみを与えるであろう、というのである。
 そして、以上の釈尊の予言を受けて、いま日蓮大聖人が日本国のあらゆる人々の姿を見るのに、まさに仏の記されているとおりであり、天変地夭も、まったくそのとおりに起きている、と言われている。
其の時は迦葉阿難等も或は霊山にかくれ……金鳥のたかにあえるがごとくなるべし
 この段は、正像二千年が過ぎて末法に入るので、もはや釈尊の説かれた小乗教・権大乗教、更に文上の法華経も、全く無益となってしまうことを述べられている。諸経を行じても、もはや利生はなく、諸仏の名号を唱えても、諸天善神の加護はない。そのため、母牛のもとを離れた仔牛のように心細い状態であり、鷹にあったキジのように脅えた状態になる、と言われている。
 特に、ここで「観世音菩薩は西方にかへり」といわれているのは、当時の浄土宗が人々に阿弥陀如来の名を称えれば、死後、観世音菩薩が勢至菩薩と共に迎えにきてくれると宣伝していたのに対する痛烈な破折の意味をこめられたものと拝せられる。すなわち、観世音は、もはや自分の出る幕は終わったので西方浄土に帰ってしまったのであるから、いくら阿弥陀の名を称えようと、迎えになど来るわけがないということである。
其の時十方世界の大鬼神・一閻浮提に充満して四衆の身に入つて・或は父母をがいし或は兄弟等を失はん
 仏法に功力がなく、あらゆる仏・菩薩の利生もなくなったあとは、単に幸せの道がふさがれたというだけではすまない。あたかも真空になった空間に、周囲の力が強大な圧力をもって圧しつぶすように、十方世界すなわち全宇宙の悪の力が、正法を失った人々の生命に入り、悪業を犯させるのである。
 「父母をがいし」とは、いかなる人にとっても最も尊敬すべき父母を害することは、五逆罪として定められているように、正法誹謗を別にすれば最も大きな悪業であり、無間地獄の報いを受けなければならないとされている。「兄弟等を失はん」とは、この世で最も親しいはずの人間関係が破壊され、安住の世界が失われるということである。
 まさに、正像過ぎて末法に入ったとされる平安中期以後の日本の様相は、源平の争いに端的に見られるように親子、兄弟で血を流し合う殺伐たる世相を現出したのである。
殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入つて国主並びに臣下をたぼらかさん
 国中の人々に、さも智者であり、持戒者であるかのように思わせている僧や尼が、その本質は人々の生命を蝕み、悪道につきおとす鬼神であること、そして、このような僧尼の姿をかりて、国主をはじめ一国の指導的地位にある人々をたぶらかしていくというのである。
 これは、法華経勧持品の二十行の偈のうち、僭聖増上慢について述べている部分を取意していわれたと考えられるが、大聖人当時、幕府の要人達から生き仏のように崇められていた極楽寺良観や建長寺道隆等を念頭に置かれての御言葉であることは疑いないところであろう。
 此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけ云云
 これまでのところは、日蓮大聖人が立宗をされ、妙法弘通の戦いを始められる末法の様相にあたる。この御文から以下は、大聖人が立宗をされ弘教の戦いを開始されたことによって起こった様相を記述されていく。
 「上行菩薩の御かび(加被)をかほり」云云とは、大聖人の垂迹外用の辺が上行菩薩の再誕であられることは言うまでもないが、御謙遜の立場で、自分はその加披をこうむっている使いであるとの意味で言われているのである。
 ともあれ、法華経の付嘱のとおりに末法に妙法を弘める人に対し、先述のような悪鬼が身に入った大僧やそれにたぶらかされた四衆が迫害を加える。その結果、法華経の行者を守護すると誓った梵天・帝釈等の諸天の治罰により、まず天変地夭が起こり、更に自界叛逆難、他国侵逼難が起こって、国中の人々が大苦にあう、というのである。
 「今日蓮日本国に生れて一切経並びに法華経の明鏡をもて」云云の御文は、以上の内容は末法の様相について、一切経並びに法華経に述べられているところを総合したものであり、これらの経文の予言と大聖人が眼前にされている日本国の現実とが寸分も違っていない、との仰せである。
 振り返って、釈尊がなぜ末法の妙法弘通の使命を本化地涌の菩薩にのみ託し、二乗の弟子や迹化の菩薩達に付嘱しなかったかの理由を再考すると、一つには先に述べたように、それぞれの法に最も通達している人を選んだのであるが、ここに仰せの、種々の大難が競い起こるということと考え合わせるなら、末法の弘通には余りにも大きな難が起こるため二乗や迹化の菩薩ではそれに耐えられないからであるということが、いま一つの理由として浮かびあがってくる。
 そして、まさしく、この点こそ、本抄で言わんとされている中心的問題であり、難の競い起こるなかを大聖人を外護申しあげる高橋入道に対し、その仏法上の使命の尊さを示し、その労苦を謝し激励されていくのである。

1459:16~1460:10 第三章 記文の符号と法華行者の証top

16                                                 定んで此
17 の国亡国となるべしとかねてしりしかば・これを国主に申すならば国土安穏なるべくも・たづねあきらむべし、 亡
18 国となるべきならば・よも用いじ、 用いぬ程ならば日蓮は流罪・死罪となるべしとしりて候いしかども・仏いまし
1460
01 めて云く此の事を知りながら身命ををしみて 一切衆生にかたらずば我が敵たるのみならず 一切衆生の怨敵なり、
02 必ず阿鼻大城に堕つべしと記し給へり。
――――――
 このままにしておいたならば、必ずこの国は亡国となるであろうと兼ねてから知っていたので、これを国主に言えば、国土が安穏になるべきものなら国主は仏法を尋ね求めるはずである。もし亡国となるべきものであるなら、日蓮が申すことを用いることはあるまい。用いないようならば、日蓮は恐らく流罪・死罪となるだろうと知っていたが、仏は誡めて「人々の謗法を知りながら、身命を惜しんで一切衆生に語らなければ、我が敵になるだけでなく、一切衆生の怨敵であり、その人は必ず阿鼻大城に堕ちるであろう」と記されている。
――――――
03   此に日蓮進退わづらひて此の事を申すならば 我が身いかにもなるべし我が身はさてをきぬ父母兄弟並びに千万
04 人の中にも 一人も随うものは国主万民にあだまるべし、 彼等あだまるるならば仏法はいまだわきまへず人のせめ
05 はたへがたし、 仏法を行ずるは安穏なるべしとこそをもうに・ 此の法を持つによつて大難出来するはしんぬ此の
06 法を邪法なりと誹謗して悪道に堕つべし、 此れも不便なり又此れを申さずは仏誓に違する上・ 一切衆生の怨敵な
07 り大阿鼻地獄疑いなし、いかんがせんとをもひしかども・ をもひ切つて申し出しぬ、 申し始めし上は又ひきさす
08 べきにもあらざれば・ いよいよつより申せしかば、 仏の記文のごとく国主もあだみ万民もせめき、あだをなせし
09 かば天もいかりて日月に大変あり 大せいせいも出現しぬ大地もふりかえしぬべくなりぬ、 どしうちもはじまり他
10 国よりもせめるなり、仏の記文すこしもたがわず・日蓮が法華経の行者なる事も疑はず。
――――――
 ここで日蓮は進退を思い煩ったのであるが、この事を言うならば我が身はどのようになるかもしれない。我が身のことはさておいて、父母・兄弟並びに千万人の中にたとえ一人でも日蓮に随うものは、国主や万民にあだまれるであろう。彼らは、怨まれると、いまだに仏法をわきまえていず、人の責めは耐えがたい。仏法を行ずると安穏になるはずだとこそ思っているのに、この妙法蓮華経を持つことによって大難が出来するのはきっとこの法は邪法ではないかと誹謗して悪道に堕ちることであろう。これもまた不愍なことである。
 しかし、このことを言わなければ、仏への誓いにたがううえ、一切衆生の怨敵である。大阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。どうしようかと思ったけれども、思い切って申し出だしたのである。
 申し始めた以上は、どのようなことがあっても引き退くべきではないから、いよいよ強盛に申したので、仏の記された文のとおり、国主も怨み、万民からも責められたのである。日蓮を敵のように怨をなしたので、天も怒り、日月に異変があり、大彗星も出現した。大地も大きく震え引っくり返るばかりになった。同士打ちも始まり、他国からも攻められたのである。仏の記文は少しもたがわず符合した。このことから、日蓮が法華経の行者であることも全く疑いないことである。

仏いましめて……
 涅槃経巻三には「戒を破し正法を壊する者有るを見れば、即ち応に駆遣・呵責・挙処すべし。若善比丘、壊法の者を見て、置きて駆遣・呵責・挙処せずば、当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり。若能く駆遣・呵責・挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」とあり、これを釈した章安大師の涅槃経疏巻七には「慈無くして詐り親しむは、これ彼の人の怨なり。能く糾治する者は、これ護法の声聞、真に我が弟子。彼が為に悪を除く、即ちこれ彼が親なり」とある。
―――
阿鼻大城
―――
大せいせいも出現しぬ
 文永の大彗星のこと。吾妻鏡、続史愚抄等によると、文永元年(1264)7月4日に彗星が現れている。また、同2年(1265)12月14日にも彗星が出現するなど、大聖人御在世当時にはたびたび彗星が見られた。
―――
大地もふりかえしぬ
 正嘉の大地震のこと。正嘉元年(1257)8月23日に大地震があり、吾妻鏡には「晴る。戌の尅、大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。
―――
どしうちもはじまり
 北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄である北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、更に十五日には北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、幕府の中枢たる北条得宗家の内乱であったことから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
―――
他国よりもせめる
 文永5年(1268)1月蒙古から牒状が届き、その後数度国書によって入貢を迫るが幕府はこれに応ぜず、文永11年(1274)10月、ついに蒙古軍は、6日に対馬を攻撃、守護代の宗助国以下全滅、14日には壱岐を攻撃、守護代の平景高以下全滅、更に20日、九州・博多湾に上陸、博多、箱崎を侵略した。しかし、太宰府の占領を翌日に延ばして船に引き揚げたところ、冬の季節風にみまわれ、遠征軍は高麗の合浦へ引き返した。文永の役である。また弘安4年(1281)にも蒙古・高麗の大軍は日本を襲撃している。日蓮大聖人が立正安国論で予言した他国侵逼難にあたる。
―――――――――
 日蓮大聖人は立教開宗される以前に、経文に照らして、当時の天変地夭の様が仏記のとおりであり、その根源が正法への違背にあることを見抜かれていた。むしろ、大聖人が幼少のころ、仏道への志を立てられた動機が、天災地変に苦しむ世を救おうとの願いであったのである。そして、仏法を学ばれて、災いの起こる原因が仏の正しい教えに背いていることにこそあると知られ、では末法救済の正法とは何かを悟り究められて立教開宗されたのである。
 しかし、これをもし言い出し弘教を始めるならば、自身に大難が競い起こってくることはもとよりとしても、大聖人に従う人々にも種々の難があることを覚悟しなければならない。そのために、立宗すべきか否かで思い悩まれた。この段では、その心中の葛藤を述べられるとともに、立教開宗されて以後の経緯もまた経文に予言されたとおりであったことを述べられ、仏法の正しさと、大聖人が法華経の行者であることが、これらの事実によって証明されてきたことを述べられている。
此に日蓮進退わづらひて……
 立教開宗にあたって、進んで立宗すべきか、退いて思いとどまるべきかに思い悩まれたことを仰せである。それは、御自分がどのような難を受けることも、覚悟の上である。しかし、仏法をまだ十分にわきまえず、苦難を覚悟していない門下が難にあったとき、仏法を行ずれば現世安穏が得られると思っていたのにこのように難にあうのは邪法だからではないかと疑い、かえって悪道に堕ちてしまうかもしれない、という恐れが一方にある。だがもう一方では、正法を知り人々の誤りを知りながら折伏を行じなければ仏前の誓いに背くことになり、一切衆生にとっても大怨敵となり大阿鼻地獄に堕ちることになる。この二つの恐れの間でジレンマに陥って悩んだと言われているのである。
 ここに、我々は、日蓮大聖人が単純な使命感だけから立教開宗されたのではなく、それによって生ずるであろうあらゆる事態を考え抜かれたうえで、遂に立教開宗せられたことを拝察できる。なんと、ありがたいことではないか。
 その結果は、折伏に反発し誹謗する人も出ようし、また、いったん信受しながら退転する者も出ようが、それらの人々も一度地獄に堕ちた後、逆縁によって、やがては救われていくのであるし、何といっても、仏の心に従うのが仏法者の道であり、かつ、この妙法による以外に人々の成仏・救済の道はないが故に、立教開宗に踏み切られたのであった。そして、一方では仏の教えどおりに苛烈な破邪の論を展開されつつも、その奥底には、人々が理解し納得して素直に信受できるよう、道理を尽くして仏法を説こうとの大慈悲であることが拝される。門下となった人々が退転・堕獄の道に入らないよう、難の起こる道理を示されるために、いかに肝胆をくだかれたかは、開目抄、佐渡御書、如説修行抄等々、諸御抄を拝するとき、明瞭である。
 この大聖人の深い御慈愛に応え、生涯、不退転の信心を貫き、自身が成仏を遂げるとともに、大聖人の御心を一人でも多くの人々に伝えていくためにも、御書を拝し、御書を心肝に染める教学の研鑽と、弘教の実践が不可欠なのである。
仏の記文のごとく国主もあだみ……日蓮が法華経の行者なる事も疑はず
 前述されているように、釈尊は、末法に正法を弘めようとすれば、人々がどのような対応をし、それに対して、諸天の治罰としてのいかなる天変地夭が起こるかを記されているが、日蓮大聖人の立教開宗、破邪顕正の戦いの展開によって、その仏の記文のとおりにあらゆる人々が怨嫉し迫害を加え、それに対して天変地夭があり自界叛逆・他国侵逼の二難が起こった、これらの現象によって、仏の予言の正しさが証明されたと共に、日蓮大聖人が、この末法に「妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづく」べく釈尊より付嘱を受けた上行菩薩であり「法華経の行者」すなわち末法の御本仏であられることが立証されたのである。

1460:11~1461:13 第四章 門下を想う慈愛の情を語るtop

11   但し去年かまくらより此のところへにげ入り候いし時・ 道にて候へば各各にも申すべく候いしかども申す事も
12 なし、又先度の御返事も申し候はぬ事はべちの子細も候はず、 なに事にか各各をば・へだてまいらせ候べき、 あ
13 だをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等をもたすけんがためにこそ申せ、 かれ等のあだをなすは・いよ
14 いよ不便にこそ候へ、 まして一日も我がかたとて心よせなる人人は いかでかをろかなるべき世間のをそろしさに
15 妻子ある人人のとをざかるをば・ことに悦ぶ身なり、 日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・ わづかの所領を
16 も召さるるならば子細もしらぬ妻子・所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし。
――――――
 ただし、去年(文永11年)鎌倉からこの身延の山中に入った時、通り道であったから、貴方がたにもいろいろと申すべきであったが、申すこともなく身延に入ってしまった。また先頃の貴方への御返事も認めなかったのは、これといったわけがあるのではない。返事を出さないからといって、どうして貴方がたをうとましく思うだろうか。
 日蓮に怨をなす念仏者や禅宗の者や真言師等や国主等をも助けてあげたいから申すのであって、かえって彼らが日蓮に怨をなすことは不愍なことである。まして、一日であろうと我が味方として心をよせてくれる人々をどうして疎略にしようか。世間の恐ろしさに、妻子ある人々が遠ざかることをことに悦んでいるのが私の気持ちである。日蓮についていても助けてあげることもできないうえ、わずかの所領を主君に召し取られるならば、子細を知らない妻子や家来等は、どのように嘆くことかと心苦しく思うのである。
――――――
17   而も去年の二月に御勘気をゆりて三月の十三日に佐渡の国を立ち同月の二十六日にかまくらに入る、 同四月の
18 八日平左衛門尉にあひたりし時・やうやうの事ども・とひし中に蒙古国は・いつよすべきと申せしかば、 今年よす
1461
01 べし、 それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、 たすからんとをもひしたうならば日本国の念
02 仏者と禅と律僧等が 頚を切つてゆいのはまにかくべし、 それも今はすぎぬ・ 但し皆人のをもひて候は日蓮をば
03 念仏師と禅と律をそしるとをもひて候、 これは物のかずにてかずならず・ 真言宗と申す宗がうるわしき日本国の
04 大なる呪咀の悪法なり、 弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり、 設い二年三年にやぶ
05 るべき国なりとも真言師にいのらする程ならば一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき。
――――――
 そのうえ、去年の二月に流罪を赦免されて、三月の十三日に佐渡の国を出発し、同月の二十六日に鎌倉に入った。同四月八日に平左衛門尉に会った時、いろいろの事を問う中に「蒙古国はいつ日本に攻めてくるか」と申したので「今年やってくるだろう。それについて日蓮を離したならば、日本国を助けることのできる者は一人もいない。助かろうと願うなら、日本国の念仏者と禅宗の者と律僧等の頚を切って、由比の浜に懸けるべきである。ただ、これも今では過ぎたことである。世間の人々は皆、日蓮を念仏の僧と禅と律とを謗る者と思っている。しかし念仏・禅・律など物の数であっても数に入らない。真言宗と申す宗こそ、うるわしい日本国の大いなる呪咀の悪法なのである。弘法大師と慈覚大師は、この悪法に惑い、この日本国を亡ぼそうとするのである。たとえ二年、三年で破られる国であっても、真言師に祈禱させるようならば、一年、半年でこの国は攻められて亡ぼされるであろう」と申し聞かせた。
――――――
06   たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば・ ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎ
07 れ入るべかりしかども・ 此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて 日本国にせめのこされん衆生をたすけんがた
08 めにのぼりて候いき、 又申しきかせ候いし後は・ かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜に
09 て候いしかば設い各各は・ いとはせ給うとも今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいて
10 すぎ候いき、 そのゆへはするがの国は守殿の御領 ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人人多し、 故最明寺
11 殿・極楽寺殿のかたきといきどをらせ給うなればききつけられば 各各の御なげきなるべしとおもひし心計りなり、
12 いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申さず候いき、 この御房たちのゆきすりにも・ あ
13 なかしこあなかしこ・ふじかじまのへんへ立ちよるべからずと申せども・いかが候らんとをぼつかなし。
――――――
 国を助けたいために申すことを、これほどまでに怨まれるのであるから、佐渡流罪が許された時、佐渡の国からどのような山中・海辺にもまぎれて入るべきであったが、このことをいま一度平左衛門尉に申しきかせて、蒙古が日本国に攻めてきた時、幸いにも生き残った衆生を助けようと鎌倉に上ったのである。
 また申し聞かせた後は、鎌倉にいるべきではないから、足に任せて鎌倉を出たのであるが、身延に行く道の途中なので、各には迷惑になろうとも、いま一度はお目にかかりたいと千度も思ったけれども、心に心を戦わせてお目にかからず通り過ぎたのである。
 その理由は駿河の国は相模守殿の御領であり、ことに富士などは後家尼御前の一族の人々が多い。故最明寺殿、極楽寺殿の敵であると憤っていることであるから、日蓮が貴方がたの所に寄ったと聞きつければ、貴方がたのご迷惑になるだろうと思ったからである。今に至るまで迷惑がかかることを不愍に思ったので、御返事も出さなかったのである。この御房達の通行にも、くれぐれも富士・賀島のあたりに立ち寄ってはならないと申してあるが、しかしどうであろうかと心配をしている。

佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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平左衛門尉
 日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
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蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライが1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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ゆいのはま
 現在の神奈川県鎌倉市にある海岸をいう。日蓮大聖人が竜の口の頸の座にのぞまれるとき、この浜を通って行かれた。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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するがの国
 東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
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守殿
 (1251~1284)。北条時宗のこと。相模守であったことから守殿とも呼ばれた。鎌倉幕府第8代執権。第五5代執権時頼の子。母は北条重時の娘。幼名は正寿。相模太郎と称した。文永元年(1264)連署となり、翌年相模守となる。文永5年(1268)3月に執権となった。たび重なる蒙古の牒状、二度の元寇という国家の危機の中で、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、中国・宋から無学祖元を迎えて円覚寺を創建し、後に出家した。
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後家尼ごぜん
 夫に先立たれた身分の高い出家した婦人。または、鎌倉幕府要人の未亡人。
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最明寺殿
 北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
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極楽寺殿
 (1198~1261)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。
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 門下にも難のふりかかることは覚悟の上で立教開宗されたのであるが、これを最小限にくいとめるために、大聖人御自身、いかに心を配られているかを述べられている。
 もとより各人が自らの自行化他の実践を貫くうえで起こってくる難を恐れてはならないことは、大聖人も、つねづね指導されている。この点に関しては兄弟抄で摩訶止観の「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」(1080-16)の文を示され「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1180-17)と教えられているとおりである。
 それに対して、本抄で大聖人が心配されているのは、大聖人が高橋入道の家へ寄られたり、頻繁に便りのやりとりをすることによって、執権・北条時宗の領地であり、故北条時頼・重時等の未亡人の縁故の人が多い土地柄であるだけに、各人の信行故の必然的な難以外の波風が立つ恐れがあるということである。純粋に仏法の故に起こる難と、御自分との関係の故に起こる難とを厳しく区別されているのである。御自身、法即人の御本仏であられるにもかかわらず、このように法に対して謙虚な姿勢を堅持され、門下の身の上を思われ、細かい配慮をされていることに、胸を打たれる思いを禁じえない。
日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・わづかの所領をも召さるるならば子細もしらぬ妻子・所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし
 この段で、大聖人は、念仏者・禅宗・真言師、また国主などに対してさえ、彼らを救おうとして折伏をしながら、彼らが怨嫉して堕地獄の因をつくっていることがかわいそうでならない。まして一日でも大聖人に心を寄せ門下となった人のことを思わないわけがない。彼らが世間の恐ろしさから、大聖人から遠ざかっていったとしても、それによって人々が迫害をまぬかれることを、かえって喜んでいると言われ、大聖人について所領を取りあげられるなどの難を受けた人の妻子等が嘆いていることを思うと心苦しいと、心情を吐露されている。
 なんという温かいお心を持たれ、細やかな配慮をされていることであろうか。
而も去年の二月に御勘気をゆりて三月の十三日に佐渡の国を立ち……
 佐渡流罪御赦免後、鎌倉へ帰られた経緯、4月8日、平左衛門尉に会って第三回の国主諌暁をされた時の内容を述べられている。
 「ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」と仰せのように、赦免後、そのまま隠栖してもよかったのであるが、未来のために一言いっておこうと鎌倉へのぼった、と。そして、平左衛門尉に会われたとき、質問に答えて、今年中に蒙古は攻めてくるということとともに、特に真言宗の邪義、亡国の悪法であることを厳しく指摘されたのである。
 既に、念仏・禅・律については、初期のころから厳しく破折され、これらの諸宗の僧については頸を切るべきであるとまで言われ、それが文永8年(1271)9月の竜の口法難の原因になったのであった。竜の口法難以前の大聖人の破折は念仏・禅等に主力が注がれ、真言宗についてはあまり触れられなかった。しかし、いまや念仏や禅を破折するだけではすませられなくなった。「これは物のかずにてかずならず」と言われているのは、念仏・禅は、邪義邪教といっても、内容的には幼稚なものである。一重巧みで邪見が深く、日本を不幸に追い込んでいる元凶が真言宗であるとして、文永11年(1274)に平左衛門尉に会われたときは、真言宗破折を真っ向から掲げられたのである。
 「真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり、弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり」と仰せのように、真言宗は比叡山天台宗と深く結びついている。叡山は本来、法華経を根本とした宗であったにもかかわらず、第三代座主慈覚以来、真言の邪義をとりいれ真言宗に毒されてしまったのである。そのため、真言宗を破折することは比叡山天台宗をも破折することになる。これは法門上からいうと、天台宗で立てる法華経文上の脱益仏法と文底の下種仏法との相対を明らかにしなければならないので、竜の口法難の発迹顕本以後、はじめて論じていかれたのである。
又申しきかせ候いし後は・かまくらに有るべきならねば……
 三度諌めて用いられなければこれを去るという、礼記の述べる原理にのっとられるとともに、佐渡流罪御赦免後は、直ちに隠栖しようというのが大聖人のお心であったから、平左衛門尉への最後の諌暁をされると、5月12日、鎌倉を出て身延山へ向かわれた。身延を選ばれた理由については、日興上人が化導された中に身延の地頭・波木井実長がおり、したがって、日興上人の案内で身延山に入られ、ここを隠栖の地と定められたと考えられる。
 その途中、高橋入道のいる駿河国富士郡を通られたのであるが、高橋家等に寄られなかった理由を仰せられている。「今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいてすぎ候いき」と、その時の御気持ちを述べられている。なぜ立ち寄ることをやめられたかというと、執権・北条時宗の直轄領であり、富士郡は特に北条時頼や重時らの未亡人のゆかりの人が多く住んでいた。これらの未亡人達は、大聖人が時頼や重時は地獄に堕ちたと公言しているとの良寛らの告げ口で特に激しく大聖人を憎んでいた。もし、大聖人が高橋家に寄れば、どれほど激しい弾圧が高橋入道一家に対して加えられるかしれなかったからである。
 そして、身延御入山後も、高橋家等に対しては、あまり御手紙も書かず、弟子達にも立ち寄らないようにと指示されていた。それも、高橋家に迫害・弾圧が加えられることをおもんぱかってのことであったと述べられている。

1461:14~1462:12 第五章 現証をもって真言亡国と断ずtop

14   ただし真言の事ぞ御不審にわたらせ給い候らん、 いかにと法門は申すとも御心へあらん事かたし但眼前の事を
15 もつて知しめせ、 隠岐の法皇は人王八十二代・神武よりは二千余年・ 天照太神入りかわらせ給いて人王とならせ
16 給う、いかなる者かてきすべき上欽明より隠岐の法皇にいたるまで漢土・ 百済・新羅・高麗よりわたり来る大法秘
17 法を叡山・東寺・園城・七寺並びに日本国にあがめをかれて候、 此れは皆国を守護し国主をまほらんためなり、隠
18 岐の法皇世をかまくらにとられたる事を 口をしとをぼして叡山・ 東寺等の高僧等をかたらひて義時が命をめしと
1462
01 れと行ぜしなり、 此の事一年二年ならず数年調伏せしに・ 権の大夫殿はゆめゆめしろしめさざりしかば一法も行
02 じ給はず・又行ずとも叶うべしともをぼへずありしに・ 天子いくさにまけさせ給いて隠岐の国へつかはされさせ給
03 う、 日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給う王なり、先生の十善戒の力といひ・ いかでか国中
04 の万民の中にはかたぶくべき、 設いとがありともつみあるをやを失なき子のあだむにてこそ候いぬらめ、 設い親
05 に重罪ありとも 子の身として失に行はんに天うけ給うべしや、 しかるに隠岐の法皇のはぢにあはせ給いしはいか
06 なる大禍ぞ・此れひとへに法華経の怨敵たる日本国の真言師をかたらはせ給いしゆへなり。
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 ただし真言宗が念仏・禅・律よりも悪法であると申したことを不審に思われていることだろう。これについていかに法門を申しても理解されることはむずかしいであろう。眼前の事実をもって知られるがよい。
 隠岐の法皇は人王第82代、神武天皇からは二千余年の人で、天照太神が入りかわられて人王となられた。いかなる人が敵対できよう。そのうえ欽明天皇から隠岐の法皇にいたるまで、中国・百済・新羅・高麗から渡来した大法や秘法を、叡山・東寺・園城寺・七大寺等をはじめ、日本国のいたるところに崇め置かれた。これは皆、国を守護し国主を守護するためである。
 隠岐の法皇は天下を鎌倉にとられたことを残念に思われ、叡山・東寺等の高僧等を味方にして、北条義時の命をとるよう命じられた。このことは一年、二年だけでなく、数年の間調伏の祈禱をしたのであるが、権の大夫殿はこのことを夢にも知らなかったので、何らの祈禱も行じられなかった。まして祈禱しても叶うとは思われなかったのであるが、隠岐の法皇は戦に負けられて隠岐の国に流されたのである。
 日本国の王となる人は天照太神の御魂が入りかわられた王である。また過去世に十善戒を持った功徳によって国王となられたのであるから、どうして国中の万民の中にこれを傾けることができる者がいるだろうか。それはたとえば親に罪があったとしても、罪のある親を失(とが)のない子が怨むのと同じで、たとえ親に重罪があっても子の立場で罰することを天が許されるだろうか。しかるに、隠岐の法皇が戦いに負けて恥を受けられたのは、どのような大禍によるのだろうか。これはひとえに法華経の怨敵である日本国の真言師を味方にされたからである。
――――――
07   一切の真言師は潅頂と申して 釈迦仏等を八葉の蓮華にかきて此れを足にふみて秘事とするなり、かかる不思議
08 の者ども諸山・諸寺の別当とあおぎてもてなすゆへに・ たみの手にわたりて現身にはぢにあひぬ、此の大悪法又か
09 まくらに下つて 御一門をすかし日本国をほろぼさんとするなり、 此の事最大事なりしかば弟子等にもかたらず・
10 只いつはり・ をろかにて念仏と禅等計りをそしりてきかせしなり、 今は又用いられぬ事なれば身命もおしまず弟
11 子どもにも申すなり、 かう申せば・いよいよ御不審あるべし、日蓮いかにいみじく尊くとも慈覚・弘法にすぐるべ
12 きか、この疑すべてはるべからず・いかにとかすべき。
――――――
 一切の真言師は潅頂といって、釈迦仏等の諸仏を八葉の蓮華に描き、これを足で踏んで秘密の作法としているのである。このような不思議なことをする者どもを、諸山・諸寺の別当と尊敬してもてなされたから、実権が北条義時の手にわたって、現身に恥にあったのである。
 この大悪法の真言は、また鎌倉にも下って北条一門を惑わし、日本国を亡ぼそうとしているのである。このことは最大事のことであるから弟子等にも語らず、かりにいつわり、愚かに装って念仏と禅宗等ばかりを責めて謗って弟子等にきかせていたのである。今は諌言も用いられない事であるから、身命も惜しまずに弟子達にも申すのである。このように申せば、更に不審もますであろう。日蓮がいかに勝れ、尊くとも、慈覚・弘法に勝れるだろうか。この疑いがすべて晴れることはないだろう。どうして晴らせばよいであろうか。

隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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神武
 第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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欽明
 (0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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百済
 百済国のこと。古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
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新羅
 朝鮮半島における最初の統一王朝(前0057~0939)。百済・高句麗とともに三韓の一つ。紀元前0057年頃に辰韓の統一をはかり、朴赫居世が建国、以後7世紀頃まで、高句麗・百済と抗争しつつ並立した。
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高麗
 朝鮮三韓のひとつ。(0918~1392)開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗とした。0935に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の属国となり文永の役には蒙古軍の先導をつとめた。1392年に滅びた。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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園城
 琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
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七寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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義時
 北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
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調伏
 仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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権の大夫
 (1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
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隠岐の国
 山陰道8ヶ国のひとつ。島根県東北部および隠岐諸島の全域をいう。遠流の地であり、承久の乱で敗れた後鳥羽天皇が流罪された地。
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十善戒の力
 十善戒を持つ力という意。十善戒とは正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。十善戒とは、身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で十善道ともいう。受十善戒経には「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破り、上、天上に生じ、梵天王と為(な)り、下、世間に生まれて転輪王となり十善を教化す」とある。
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灌頂
 頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。①もとインドの国王即位や立太子の際に行った。②大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。③密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。
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八葉の蓮華
 八弁の蓮華。諸宗により意義が分かれる。①浄土宗では、極楽浄土にある花弁が八枚の蓮の花のこと、また極楽浄土の別名。②密教の法華曼荼羅で、中央に多宝塔を置いて釈迦牟尼仏と多宝如来とが並び、周囲の八葉蓮華の花弁に法華経に登場する菩薩を配する。③密教の胎蔵界曼荼羅で、中央を中台八葉院と名づけ、八弁の蓮華にかたどり、大日如来を中心に八葉の各弁に四体の如来(宝幢・開敷華王・無量寿・天鼓雷音)と四体の菩薩(普賢・文殊師利・観自在・弥勒)を配する。本抄では③の意。釈迦仏は、釈迦院という別枠に描かれる。
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別当
 僧官名のひとつ。諸大寺の長官として一山の寺院を統べるもの。
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 真言宗が亡国の悪法であることを現証をもって示されている。もとより大聖人がこのように言われるのには、文証・理証の面からも厳然たる裏づけがあり、それは諸御抄で明らかにされているが「いかにと法門は申すとも御心へあらん事かたし但眼前の事をもつて知しめせ」と言われ、当時、記憶になまなましかった承久の乱を例に挙げられたのである。 
 承久の乱は承久3年(1221)、大聖人御聖誕の前年に起きた戦乱であり、朝廷・公家の凋落と幕府による全国支配体制を確固たるものとした歴史的事件であった。すなわち、源頼朝による鎌倉幕府創設によって、一応、武家政権の世になっていたものの、朝廷の権威は絶対的なものがあり、しかも鎌倉幕府の権力が及んだのは東国に限られ、近畿、西国のほとんどは朝廷・公家の支配下にあった。
 しかるに、承久の乱の結果、朝廷・公家が武家勢力に惨敗を喫してその権威が一挙に地に落ちたのみならず、実質的支配権においても、鎌倉幕府は全国を掌握するにいたったのである。その意味で、この事件のもつ歴史的意義は極めて大きいのであるが、日蓮大聖人は、この朝廷方敗北の根本的原因として、亡国の悪法である真言宗に頼り祈った事実があることを指摘されている。
日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給う王なり、先生の十善戒の力といひ・いかでか国中の万民の中にはかたぶくべき
 古事記、日本書紀の記すところによれば、日本の大和朝廷は、天照太神が天降ってより地神五代を経て神武天皇となり、日本を治めてきたとされる。つまり、天照太神は皇祖神とされ、代々の天皇には、この天照太神の魂が入りかわられているとされるのである。
 しかも、欽明天皇の代の仏教渡来後は、仏教を尊崇し、そもそも仏法の因果の法に照らせば過去に十善戒を持ち大善根を積んでこそ王になることができたのである。
 このように、仏法上からも、神の加護の上からも、はるかに秀でた存在が天皇であるはずで、したがって、そのような善根や神の加護のない庶民がどんなに力を結集しようと、天皇を倒すなどということは考えられないことであった。
 ところが、後鳥羽院上皇を中心とする朝廷方が惨敗を喫してしまった。そして、後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡の島へ、土御門上皇は阿波へ、それぞれ配流されるという恥辱を味わう結果となったのである。仏神の加護を受け、本来なら敗れるはずのない朝廷方が、このような惨めな敗北をしたのは何故か。それを大聖人は朝廷方が真言宗に幕府調伏の祈禱をさせたために、亡国の悪であるが故に、我が身の滅亡を招いたのであると言われているのである。
 そして、真言宗がなぜ亡国の悪法であるかについて、潅頂の儀式を取りあげられている。そこでは、釈迦仏等を八葉の蓮華に画いて、それを足で踏んで儀式が行われる。そして、そのような真言の秘法を受けた僧を最も権威ある僧として、諸山諸寺の別当にし、尊崇している。主・師・親の三徳具備として仰ぐべき仏を、足で踏むのであるから、この仏法上の歪みが、そのまま現実の上に結果としてあらわれるのである。「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)と仰せのとおりの法理があらわれるのである。
此の大悪法又かまくらに下つて御一門をすかし日本国をほろぼさんとするなり
 初期のころの鎌倉幕府は、素朴で、京の公家等が重んじていた仏教の祈禱などに頼らず、合理的な実力主義を規範としていたが、幕府体制が安定化するにともなって、文化的な面でも京の都に負けないものを鎌倉に充実しようと志向するようになった。そこで、建築家や彫刻師と共に仏教の高僧も招いて、各宗の寺院を建立し、種々の祈禱を行わせるようになっていったのである。
 その結果、かつて京の朝廷を敗北に陥れた悪法を、それと知らずに鎌倉方も取り入れ、その毒気に染まるにいたったのである。
 本抄御述作の当時、前年の文永の役のあと、再び蒙古から日本を襲うとの国書が到来しており、幕府は九州の北部沿岸の防備体制を固めるとともに、こうした真言の僧らに蒙古調伏の祈禱を行わせていた。大聖人は、この幕府の愚挙を深く悲しまれ、真実の悪法たるゆえんを強く指摘されているのである。

1462:13~1463:03 第六章 三事相応の信心を勧むtop

13   但し皆人はにくみ候にすこしも御信用のありし上・ 此れまでも御たづねの候は只今生計りの御事にはよも候は
14 じ定めて過去のゆへか、 御所労の大事にならせ給いて候なる事あさましく候、 但しつるぎはかたきのため薬は病
15 のため、 阿闍世王は父をころし仏の敵となれり、 悪瘡身に出で後に仏に帰伏し法華経を持ちしかば悪瘡も平癒し
16 寿をも四十年のべたりき、 而も法華経は閻浮提人病之良薬とこそとかれて候へ、 閻浮の内の人は病の身なり法華
17 経の薬あり、 三事すでに相応しぬ一身いかでかたすからざるべき、但し御疑のわたり候はんをば力をよばず、 南
18 無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
1463
01 覚乗房はわき房に度度よませてきこしめせ・きこしめせ。
02       七月十二日                     日 蓮 花押
03     進上   高橋六郎兵衛入道殿 御返事
-----―
 世間の人々が皆日蓮を憎んでいるところに、貴方は少しでも日蓮を信じてこられたうえ、身延までも訪ねられたことは、全く今生だけでなく、きっと過去の因縁によるのであろう。
 御病気が重くなられたことは、嘆かわしいことである。ただし、剣は敵を討つため、薬は病気を治すためのものである。阿闍世王は父を殺害し仏の敵となったが、悪瘡が身に出て、後に悔いて仏に帰伏して法華経を持ったので、悪瘡も癒って寿命を四十年延ばしたのである。そのうえ、法華経には「閻浮提人の病の良薬」と説かれている。閻浮提の内の人々は病の身であるが、法華経の薬がある。病気回復のための三事はすでに相応している。貴方が助からないわけがあろうか。ただ、貴方に法華経への疑いがあるなら、日蓮の力は及ばないのである。無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
 覚乗房と伯耆房にたびたび読ませて、お聞きなさるがよい。お聞きなさるがよい。
  七月十二日             日 蓮  花 押
   進上 高橋六郎兵衛入道殿 御返事

所労
 ①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
三事
 三事は法華初心成仏抄では「よき師・よき檀那・よき法」(0550)であり、新田殿御書では「経・仏・行者」(1452)となっている。ここでは御抄の内容から「経・仏・行者」をさすと思われる。詳しくは新田殿御書に「経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか」(1452)とある。
―――
覚乗房
 生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の弟子。駿河国富士郡賀島荘(静岡県富士市)付近にいたと思われるが詳細は不明。千日尼御前睺返事に出てくる学乗房と同一人物とする説や異説がある。
―――
はわき房
 (1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
―――――――――
 本抄の最後にあたり、高橋入道の信心の厚さをたたえ、病気の事を心配されて、法華経の功徳を説き、どこまでも疑いなき信心を勧め、激励されている。
 怨嫉多き社会の中で信心を貫いてきたばかりでなく、大聖人の身延御入山後は身延にまで訪ねてこられたのは今生だけの浅い縁ではなく「定めて過去のゆへか」と述べられている。
 そして、高橋入道の病気について心配され、阿闍世王の例を挙げて信心によって助からないわけがないと激励されている。
 仏法は、心の病、身の病について、内なる生命に迫って、病悩の因果を解明し、病者の苦悩を取り除くのである。
 阿闍世王の悪瘡は、その典型的な例といえる。
 王の悪瘡の起因は父を殺した五逆罪と、仏の敵となって犯した謗法の大罪にあり、それが悪瘡という病悩の果報をもたらしていたのである。
 だから、この悪瘡を平癒するためには、生命の奥底から変革を起こさせなければならなかった。釈尊のもとに帰することによって、仏の大慈悲の象徴といえる釈尊の身から発した光を浴びて悪瘡は忽ちに平癒したばかりでなく、四十年の寿命を延ばしたのである。そして、阿闍世王は釈尊一代の教法を経典として後世に伝える偉業に対し、重大な外護の任を果たしたのである。
 しかも、法華経は薬王品第二十三に「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」とあるように一人、阿闍世王のための生命の薬でなく、全世界の人の生命の病を治す薬なのである。
 高橋入道は閻浮提の内の人であり、病の身である。阿闍世王の信受した法は在世脱益の法華経であり、仏はまた迹仏である。これに対して、高橋入道の受持、実践している末法の法華経は文底下種の妙法であり法華経の行者である大聖人は下種の御本仏である。
 大聖人の御出現によって、祈りの叶う条件である経と仏と行者の三事もまた相応している。これらがそろって、一身の病悩を平癒できないわけはない。
 「但し御疑のわたり候はんをば力をよばず」と、疑いがあったのでは、祈りは叶わないと誡められ、疑いなき信心を貫くよう勧め激励されている。無疑曰信の信心こそ、生命の無明・疑惑を断破する利剣であることを銘記すべきである。

1458~1463    高橋入道殿御返事2013:01大白蓮華より。先生の講義top

永遠の「希望」の道を 師とともに!
 妙法の素晴らしさを伝える対話。その姿勢として何が大事でしょうか。ある女性リーダーが、戸田先生に、お伺いしたことがあります。
 先生は、逆に彼女に質問されました。
 「生活といい、信仰といい、同じことではあるが、これらに最も必要なものは、何だろうね」
 どう答えてよいか分からず、黙っていると、先生は言われました。
 「それは『確信』だよ」。
 「新聞報道などを見ても、生活に負けていく人の姿は、皆『確信』が無くなったからだ。われわれは、大聖人様の御確信を、最高、最大のものとしていくことではないだろうか」
 また戸田先生は、こうも語られています。
 「御本尊があるから大丈夫だ。御本尊を拝んでいるから、自分は大丈夫だ。この確信が胸の奥底から出てきた信心は「一人前です」「『いや、ああしなきゃダメ』『こうしなきゃダメ』などと、そんな心配はいりません。私は御本尊を拝んでいるのだ、今も拝むのだ。わが人生は大丈夫だという確信がつけば、大丈夫です。きょうから、こうなりなさい。幸せになるに決まっています」
 戸田先生は、「信仰に対する絶対の確信」を強調されていました。
 この信心があれば、どんな苦悩にも絶対に乗り越えられる!すべてを喜びに変えてみせる!この大確信の源泉を、無限の希望の道を、身をもって大難を勝ち越え、教えてくださったのが、日蓮大聖人であり、その仏法を私たちは持っているのです。
病気の門下に渾身の大激励
 今回、拝読するのは、建治元年(1275)7月、駿河国の門下・高橋六郎兵衛入道に与えられた「高橋入道殿御返事」です。高橋入道は、夫人が日興上人の叔母にあたり、日興上人の折伏によって、大聖人に帰依しました。
 この高橋入道が今、重い病に倒れ、苦しんでいる。戦っている。大聖人は、厚い信頼を寄せるこの弟子に「絶対に大丈夫だ」という確信を与えようと、渾身のお手紙を送られます。
 大聖人が示された確信の源泉とは何か。私たちもまた、この「無限の希望の道」に連なる思いで本抄を学んでいきましょう。

14                                              其の時上行菩薩
15 出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし
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 その時には、上行菩薩が出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるであろう。

一閻浮提の一切衆生に妙法五字を弘める
 仏は「医師」に譬えられます。さまざまな衆生の機根を知り、生命の「病」を知って、最も適切な「薬」、すなわち「法」を授け、衆生を苦悩から救うのです。
 本抄の冒頭で大聖人は釈尊が、釈尊滅後の衆生に、どのような「薬」を、誰に託して授けたかを、正法・像法・末法と、時代を追って述べられています。
 仏の願いは、一切衆生の幸福です。しかし、力の弱い薬では、重い病を治すことはできません。ゆえに釈尊は、法華経を説いて、大良薬である「妙法蓮華経の五字」を上行菩薩に付嘱し、末法の「一閻浮提の一切衆生」に授けようとされた、と仰せです。
 「妙法蓮華経の五字」とは、一切経の肝心・法華経の眼目である南無妙法蓮華経です。この大法こそが、高橋入道の病を根本から治す大良薬であると教えられているのです。
 しかし、「仏」が出現され、「法」が明かされたというだけでは、末法の全民衆を救いきることはできません。説かれた「法」を、現実に弘める「人」がいて初めて、衆生は大良薬の利益を受けることができるのです。
 ゆえに妙法を弘通する「法華経の行者」の存在が、いかに重要であるか、このことを大聖人は、御自身の御振る舞いを通して、本抄で教えようとされたと拝されます。
 悪世末法において、妙法の大良薬を弘めることは、迫害の嵐の渦中に身を投ずることでもあった。それでも「法華経の行者」は立ち上がられる。それしか、悪世の民衆を救う道はないからです。
 大聖人の激闘は、佐渡流罪を赦免され、身延に入られてからも止むことはありませんでした。むしろ、末法万年にわたる広宣流布の大道を開かんと、一段と深い次元からの言論闘争を開始されたのです。
 本抄は、末法の一切衆生を救うために「法華経の行者」として、大聖人がこれまで、いかに戦ってこられたか、そしていよいよ、これからどうたたかわれるのか。その大闘争の全貌を示されるとともに、弟子の胸中に揺るがぬ確信を打ちこまれていきます。“高橋入道殿、あなたは、この法華経の行者・日蓮に連なる方です。だから何も心配する必要はありません”とのお心が全編から伝わってくるお手紙です。

11   但し去年かまくらより此のところへにげ入り候いし時・ 道にて候へば各各にも申すべく候いしかども申す事も
12 なし、又先度の御返事も申し候はぬ事はべちの子細も候はず、 なに事にか各各をば・へだてまいらせ候べき、 あ
13 だをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等をもたすけんがためにこそ申せ、 かれ等のあだをなすは・いよ
14 いよ不便にこそ候へ、 まして一日も我がかたとて心よせなる人人は いかでかをろかなるべき世間のをそろしさに
15 妻子ある人人のとをざかるをば・ことに悦ぶ身なり、 日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・ わづかの所領を
16 も召さるるならば子細もしらぬ妻子・所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし。
-----―
 ただし去年(文永11年=1274)鎌倉からこの身延の山中に入った時、通り道であったから、貴方がたにもいろいろと申すべきであったが、申すこともなく身延へ入ってしまった。また先頃の貴方への御返事も認めなかったのは、これといったわけがあるのではない。返事を出さないからといっても、どうして貴方がたのことをうとましく思うだろうか。
 日蓮を怨をなす念仏者や禅宗の者や真言師等や国主等を助けてあげたいから申すのであって、かえって彼らが日蓮に怨をなすことは不愍なことである。まして、一日であろうと我が味方として心をよせてくれる人々をどうして疎略にしようか。世間の恐ろしさに、妻子ある人々が遠ざかることをことに悦んでいるのが私の気持ちである。日蓮についても助けてあげることもできないうえ、わずかの所領を主君に召し取られるならば、子細を知らない妻子や家来等は、どのように嘆くことかと心苦しく思うのである。

門下の身を案じられる大慈悲
 緊迫した環境に置かれた門下を思いやられる、大聖人の深い心情が綴られています。
 鎌倉から身延へ移られる時、大聖人は、通り道に住む門下に、あえて連絡をとられなかった。これは、この後にも重ねて述べられますが、目立つ行動によって、門下への迫害がかえって強まることを懸念されたからでした。
 だから「決して、あなたのことを、祖略に考えているのではありませんよ。私は、迫害者をも助けようと思っているのですよ。ましてや味方のあなた方を、ないがしろにするはずはありません」と。
 さらに「妻子をもつ門下が、日蓮から遠ざかることも、実はうれしいのです」とまで、仰せです。弾圧で所領を没収された際に、事情を知らない妻子や一族が嘆くようならば、自分に近寄らないほうがよい、という意味です。門下の不要な摩擦を招いて迫害にあうことを賢明に避けるよう願われたのです。
 御自身は、幾多の難を一身に受けながら、どこまでも門下の身を案じ、家族を苦しませることがないようにと、心を砕かれている。これが大聖人のお心です。
 大聖人御自身は、大難を受ける覚悟のうえで、不惜の闘争に立ち上がれたことを本抄で述壊されています。大聖人はこう仰せです。
 法華経に照らせば、濁世末法に正法を弘めようとする行者を迫害しようとする悪鬼が身に入った僧尼が現れる。そして国主・臣下をたぶらかし、国主のみならず万民の法華経の行者を迫害する。流罪・死罪を受ける目にも遭うだろう。
 その時、父母をはじめ自らに連なる一人一人にも迫害が及ぶ。その時に皆、退転し、かえって法華経を誹謗して悪道に堕ちることも考えられる。どうすべきか。さまざまに深い思索をされたことが綴られています。
 仏は「人々の謗法を知りながら、身命を惜しんでいわなければ、かえって、一切の人々の敵となる」と説かれている。それゆえに「をもい切って申し出しぬ」。思い切って申し出した。と仰せです。
 さらに「言い始めた以上、退くべきではないから、ますます強く言ったところ、まったく経文通りの迫害と災難の現証が起こった。ゆえに日蓮が法華経の行者であることは疑いない」と、大聖人こそ、一切衆生の根本の師匠であることを示されています。
 「広宣流布」は、一人一人の生命に巣くう無明を破り、万人に内在する仏性を目覚めさせていく生命変革の戦いです。目覚めた民衆の善の連帯を築き挙げることが「立正安国」の本質です。しかし、生命の根源的な変革を促すゆえに、人々から反発され、特に僭聖増上慢からの迫害は熾烈を極める。その大闘争に勝利してこそ、仏国土は築かれていくのです。
 大聖人は、この大闘争に全責任をもって立ち上がられた。ゆえに、民衆を苦しめる魔性に対しては烈火の如く呵責し、激しい言論戦を繰り広げられた。反対に一人一人の民衆に対しては、どこまでも慈しみ、最大に包容され、絶対の安心を与えていかれた。これが御本仏の御闘争です。
 牧口先生、戸田先生もまた、権力には一歩も退かず、庶民にはどこまでも優しかった。
 牧口先生のお宅には、多くの会員が相談に訪れました。寒い夜など、子供をつれた婦人が指導を受けて帰ろうとすると、古新聞をねんねこの間に入れて、「こうすれば着物を一枚よけいに着たことになる」と気遣われた。そして、どのような人であっても、夫人と一緒に玄関まで見送りに出られていたと伺いました。
 「不惜身命」の勇気と「一人」を大切にする慈愛。これが創価の父の人間主義です。
 目的は、あくまでも幸福です。一人一人が勝利することです。そのためには、同志が互いに尊敬しあうことです。どこまでも地道な「対話」「励まし」を通して、「希望と喜び」「張り合いと共感」の道を、どう開いていくか、この点に、人知れず心を砕いていくのが、広宣流布のリーダーです。
 特に青年は、進んで広布の最前線に飛びこんで、地味な苦労も勇んで引き受け、自身の成長の源泉としながら、人の苦労が分かる、また、どんな苦労も喜びに変えていける一級のリーダーに成長してもらいたいのです。

17   而も去年の二月に御勘気をゆりて三月の十三日に佐渡の国を立ち同月の二十六日にかまくらに入る、 同四月の
18 八日平左衛門尉にあひたりし時・やうやうの事ども・とひし中に蒙古国は・いつよすべきと申せしかば、 今年よす
1461
01 べし、 それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、 たすからんとをもひしたうならば日本国の念
02 仏者と禅と律僧等が 頚を切つてゆいのはまにかくべし、 それも今はすぎぬ・ 但し皆人のをもひて候は日蓮をば
03 念仏師と禅と律をそしるとをもひて候、 これは物のかずにてかずならず・ 真言宗と申す宗がうるわしき日本国の
04 大なる呪咀の悪法なり、 弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり、 設い二年三年にやぶ
05 るべき国なりとも真言師にいのらする程ならば一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき。
-----―
 そのうえ去年の二月に流罪を赦免されて、三月の十三日に佐渡の国を立発し、同月の二十六日に鎌倉に入った。同四月八日に平左衛門尉に会った時、いろいろの事を問う中に「蒙古国はいつ日本に攻めてくるか」と申したので「今年やってくるだろう。それえについて日蓮は離したならば、日本国を助けることのできる者は一人もいない。助かろうと願うなら、日本国の念仏者と禅宗の者と律僧等の頚を切って、由比の浜に懸けるべきである。ただ、これも今は過ぎたことである。世間の人々は皆、日蓮を念仏の僧と禅と律とを謗る者と思っている。しかし念仏・禅・律など物の数には入らない。真言宗と申す宗こそ、うるわしい日本国の大いなる呪咀の悪法なのである。弘法大師と慈覚大師は、この悪法に惑い、この日本国を亡ぼそうとするのである。たとえ二年・三年で破られる国であっても、真言師に祈禱させるようならば、一年・半年でこの国は攻められて亡ぼされるであろう」と申し聞かせた。

さらに諌暁と破折を続ける
 大聖人は「立正安国」すなわち、正法を根幹に、安穏な社会を築く戦いを生涯、貫かれました。それは「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」(0035-12)と仰せのように、どこまでも、民衆のためであり、日本をなんとしても救いたいとの願いからでした。
 流罪地・佐渡から、文永11年(1277)に、奇跡ともいうべき御帰還を果たされた大聖人が、最初に何をなされたのか。
 それは、あれだけ大聖人に敵対した張本人の権力者・平左衛門尉を面前にして、再び「立正安国」の正義を主張されたのです。
 一方、大聖人を佐渡に流罪した幕府の権力者たちは、この間、どうしていたのか。
 文永9年(1272)2月には、権力の中心地である京都と鎌倉で、内部抗争が起こりました。「立正安国論」に御予言の自界叛逆難を早くも招いたのです。そのなかで幕府は、迫り来るもう一つの危機、蒙古襲来に備えて国内の統制を進めていました。
 実は竜の口の法難直後の文永8年(1271)9月19日、蒙古の使者・趙良弼が国書を携え、筑前に上陸し、その前代未聞の事態に朝廷も幕府も手を拱いていたのです。使者は一旦は帰るものの、その後も度々、蒙古は使者を遣わします。為政者たちは、真言密教による異国調伏の祈禱に頼ります。他国侵逼難の影に戦々恐々としていたのです。
 これに対し、大聖人は、何としても、国を守り民衆を守るために、我が身が再び危険に陥ることを顧みることなく、鎌倉へ御帰還されるや、国主諌暁に打って出られました。
 ここで大聖人は、平左衛門尉から蒙古襲来の時期を尋ねられて、「必ず今年中であろう」と答えられます。仏法の因果のうえから、また種々の情勢を鑑みての御確信であられたと拝されます。この半年後、「文永の役」として、蒙古襲来が現実のものとなりました。
 続けて大聖人は、念仏・禅・律よりも、真言こそが日本を滅ぼす大悪法であると強く破折されています。挙国一致して財を傾けて、真言による祈禱を行っていたからです。
 大聖人は、さらに高橋入道に対して、真言破折の真意を詳しく述べられます。日本真言宗の開祖である弘法とともに、天台宗・比叡山延暦寺の座主・慈覚の名前を元凶として挙げられています。本来、法華経を根本とし既成の八宗を凌駕していた天台宗に、慈覚の時代から真言の邪義が取り入れられ、日本仏教全体が毒されてしまったからです。
 そして、真言の祈禱によって亡国となった現証を教えられています。すなわち、鎌倉幕府が権力を固めつつあったころ、京都の朝廷側は、再び政治の実権を奪い返そうと戦いを起こした。その際、真言の祈禱を用いて、幕府側に負けてしまったのです。しかし、大聖人の時代になると、今度は幕府のほうに真言が入り込んできた。北条一門は寺を建てたり、祈禱を行うなどして真言を重んじ、その傾向は、蒙古襲来という未曾有の国家の危機に直面して格段に強まっていった。
 こうした状況から、大聖人は、あえて真言をクローズアップして、破折されたものと拝されます。

06   たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば・ ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎ
07 れ入るべかりしかども・ 此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて 日本国にせめのこされん衆生をたすけんがた
08 めにのぼりて候いき、 又申しきかせ候いし後は・ かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜に
09 て候いしかば設い各各は・ いとはせ給うとも今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいて
10 すぎ候いき、
-----―
 国を助けたいために申すことを、これほどまでに怨まれるのであるから、佐渡流罪が許された時、佐渡の国からどのような山中・海辺にもまぎれて入るべきであったが、このことをいま一度平左衛門尉に申し聞かせて蒙古が日本国に攻めてきた時、幸いにも生き残った衆生を助けようと鎌倉に上ったのである。
 また申し聞かせた後は、鎌倉にいるべきではないから、足に任せて鎌倉を出たのであるが、身延に行く途中なので、各には迷惑になろうとも、いま一度はお目にかかりたいと、千度も思ったけれども、心に心を戦わせてお目にかからず通り過ぎたのである。

民衆厳護の不惜の闘争
 佐渡から帰還されて、迫害の中心者である平左衛門尉に会われ、3度目の諌暁をなされた御心境、そして、鎌倉から身延への道すがら、高橋入道に一目会いたいという思いを抑えながら、立ち寄らずに通り過ぎたことを、重ねて述べられています。
 まず、「佐渡からそのまま、どこか山中や海辺にまぎれ、隠れてもよかったのだが」と仰せです。普通ならそう考えても当然でしょう。しかし、大聖人は言うべきことを言うために、鎌倉に入られた。
 「日本国にせめのこされん衆生をたすけんがため」です。どこまでも「民衆のため」という崇高な魂が、日蓮仏法の永遠の誉です。
 平左衛門尉と対面したとき、幕府側から、大聖人のために寺を寄進しようという話も出たと伝えられています。しかし大聖人は、幕府の姿勢が改まらないのなら意味がないと、一顧だにせず、申し出を退けられた。
 なんと悠然たる御振る舞いでしょうか。まさに師子王の尊容を仰ぐ思いです。
「会員第一」のリーダーに
 その一方、門下に対しては、どこまでもこまやかなお心を注がれています。
 「心に心をたたかいて」心に心を戦わせて、実は、心がちぎれるような思いで、駿河の皆と会わずにきたのだと仰せです。続く御文に、その理由を記されています。
 「駿河国は相模守殿の直轄の領地であり、ことに富士方面などは、故最明寺殿の夫人のゆかりの人々が多く住んでいる。その人たちは、日蓮を故最明寺入道殿、故極楽寺殿の敵であると憤っているでしょうから、日蓮があなた方の所に寄ったことが聞こえれば、あなた方の御迷惑になるだろうと思って遠慮したのです。その後も、今もってご迷惑がかかることを恐れてお手紙の返事も申し上げなかったのです。この御房たちにも、ふだんの行き来の際・富士・賀島あたりに立ち寄るなと申し聞かせていますが、しかし、どのようにしておられるかと気掛かりです」
 この御文を拝するたびに、門下一人一人の境遇まで配慮され、深く思いやられる御本仏の大慈大悲に、私は胸が熱くなります。
 次元は異なりますが、私にとって最も大切なのは、一人一人の学会員であり、同志です。この方々が、一生懸命、まじめに、労を惜しまず戦ってくださったからこそ、広宣流布の大前進がある。そのことを私は、瞬時も忘れたことはありません。
 この健気な尊い同志の方々が、無名の庶民の英雄の皆さんが「苦労したかいがあった!」「信心して良かった!」と、晴れ晴れと胸を張って叫べる学会を、これからも、いよいよ築いていただきたい。また、断じて築いていかなければならない。そのための大いなる躍進の年こそ「青年学会・勝利の年」であると、私は深く決心しております。

13   但し皆人はにくみ候にすこしも御信用のありし上・ 此れまでも御たづねの候は只今生計りの御事にはよも候は
14 じ定めて過去のゆへか、 御所労の大事にならせ給いて候なる事あさましく候、 但しつるぎはかたきのため薬は病
15 のため、 阿闍世王は父をころし仏の敵となれり、 悪瘡身に出で後に仏に帰伏し法華経を持ちしかば悪瘡も平癒し
16 寿をも四十年のべたりき、 而も法華経は閻浮提人病之良薬とこそとかれて候へ、 閻浮の内の人は病の身なり法華
17 経の薬あり、 三事すでに相応しぬ一身いかでかたすからざるべき、但し御疑のわたり候はんをば力をよばず、 南
18 無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
-----―
 世間の人々が皆日蓮を憎んでいるところに、貴方は少しでも日蓮を信じてこられたうえ、身延にまでも訪ねられたことは、まったく今生ばかりでなく、きっと過去の因縁によるものであろう。
 御病気が重くなられたことは、嘆かわしいことである。ただし、剣は敵を討つため、薬は病気を治すためのものである。阿闍世王は父を殺害し仏の敵となったが、悪瘡が身に出て、後に悔いて仏に帰伏して法華経を持ったので悪瘡も癒って寿命を四十年延ばしたのである。そのうえ、法華経には「閻浮提の人の病の良薬」と説かれている。閻浮提の内の人々は病の身であるが、法華経の薬がある。病気回復のための三事はすでに相応している。貴方が助からないわけがあろうか。ただ、貴方に法華経の疑いがあるなら、日蓮の力はおよばないのである。無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

師弟は「三世の絆」
 大聖人と心一つに、大難を乗り越え、乗り越え、ともに勝ち進んできた大切な同志、その弟子の一人が、今、苦しんでいる。戦っている。大聖人は、胸を張り裂けるような思いで、平癒を祈り、筆をとられ、本抄を、日興上人に託されたと拝されます。
 日本国中が日蓮を憎むなかで、あなたは日蓮を信じてくださった。身延までも、お便りをくださった。あなたとは、今世だけでなく、過去世から、深い深い因縁で結ばれているに違いない。生命に染み入るような師匠の一言一言に、高橋入道の心は温かく包まれたことでしょう。
 今世だけでなく過去世も、さらに来世も、その次も、永遠に、私とあなたは一緒だよ!師弟は一体ですよ! 大聖人は、そのように、限りない「希望」を弟子に送っていかれたと拝されてなりません。
 「妙心尼御前御返事」の有名な御文に「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(1480-01)と仰せです。後日、高橋入道の尼御前に送られたお手紙の一節です。夫妻して強き信心で、病を乗り越えられることを願われ、成仏は間違いないと、こう綴られています。
 “信心し抜いて、もし臨終を迎えたなら、太陽が昇って明らかに十方を見わたしたように、晴れ晴れとうれしく、こうして早く旅立つことができてよかったと、喜ばれることでしょう。中有の道で「私は日蓮の弟子だ」とお名乗りください」“と。
 本抄で大聖人は高橋入道に仰せです。
 「三事」はすでに、そろっています。あなたが助からないはずがありません。
 ここに仰せの「三事」とは「仏」と「法」と「法華経の行者」と拝されます。
 釈尊の願いは、末法の一切衆生の重き病を治すことができるのです。また、南無妙法蓮華経こそが、一閻浮提の大良薬です。そして、大聖人が末法の民衆を救うために立ち上がり、この大良薬を弘めてこられました。
 “これらが、すべてそろっているのだから、何も怖いものはないのだ!”と呼びかけられているのです。
 偉大な妙法とともに! 最高の師匠とともに! これ以上に誇りある、喜びと栄光の人生の道はありません。これこそが、創価学会の「師弟の道」なのです。
 ただし疑いがあれば、私の力は及びません」とおおせのように、どこまでも大事なのは弟子の「信心」です。
 信心とは「確信」の異名です。
 「確信」の人には、前進があります。
 「確信」の人には、希望がうまれます。
 そして「確信」の人には、勝利があります。
 “あなたには、だれが何と言おうと、日蓮を信じ抜かれてきた、強い信心があるではないですか!”
 大聖人の深き御指導に、高橋殿は絶対の安心に包まれて、そして、大いなる確信を漲らせていったことは間違いありません。
「人間主義」こそ未来の希望
 20世紀を代表するイギリスのトインビー博士を、ロンドンのご自宅にお訪ねし、語り合ったのは、1972年と73年。今から40年前のことでした。
 冒頭、博士は、眼鏡の奥の柔和な眼差しを、一瞬、鋭く光らせ、こう言われました。
 「池田会長。私は長い間、この機会を待っておりました」「未来において、私はもちろんのこと、あなたさえも、もはやこの世にいなくなり、それからさらに長い時を経たといった時代に、世の中はいったいどうなっているのだろうか このことに、私は大変大きな関心を寄せているのです」
 40年前、博士は84歳、私は45歳。
 「自己中心性を乗り越える道」「国家主義の楔から解放する道」等々、私たちは人類の根本課題を見つめて真剣に語り合いました。
 対話を終える際「私個人に、何かアドバイスを」とお願いすると、博士は「机上の人間が行動の人に忠言するなど、差し出がましいことですが」と前置きされ、語られました。
 「私に言えることは、池田先生と私は、人間が、いかに生きるべきかについて意見が一致した。池田先生御自身が主張された『中道』こそ、今後、歩むべき道である、ということです」と。
 『中道』とは、仏法の生命尊厳の哲学に基づく「人間主義」です。どこまでも民衆ために、民衆とともに歩む「斬新主義」です。
 トインビー博士は、続けて「私は、創価学会が、はるかな未来を展望していることを確認しました。これは、われわれすべてが、よらねばならない態度です」と言われました。
 21世紀に入り、はや10余年、ますます博士の言葉は重みを増しています。時代はさらに混迷の度を深めているからこそ「何が根本か」「何が一番大事であるか」を、つねに見失わない「中道」の生き方が強く求められています。
 仏法の「人間主義」とは、永遠に民衆の側に立つことです。これこそ、本抄に示された日蓮仏法の正道です。
 民衆のために戦い、目の前の「一人」を心から大切にする。その根底に、人間の最高善の力に対する限りない信頼がある。この確信こそが「希望のスクラム」を築く力となり、未来を開くのです。
 その先頭に、新しき創価の力、青年部の諸君が、颯爽と踊り出てくれました。私は、皆の成長と勝利を、深く強く信じています。新たな出発の時、私とともに、新しい前進の一歩を大確信に燃えて開始していきましょう! 

1463~1464    異体同心事top
1463:01~1463:09 第一章 異体同心は万事を成ずtop

異体同心事
01   白小袖一つあつわたの小袖はわき房のびんぎに鵞目一貫並びにうけ給わる、 はわき房さど房等の事あつわらの
02 者どもの御心ざし異体同心なれば 万事を成し同体異心なれば 諸事叶う事なしと申す事は 外典三千余巻に定りて
03 候、 殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、 周の武王は八百人なれども異体同心なればか
04 ちぬ、 一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、 百人・千人なれども一つ心なれば必ず事
05 を成ず、 日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、 日蓮が一類は異体同心なれば人人す
06 くなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、 悪は多けれども一善にかつ事なし、 譬へば多
07 くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし。
――――――
 白の小袖一つと厚綿の小袖、および伯耆房の身延来訪の折に託された銭一貫文たしかに受けとりました。
 伯耆房、佐渡房等の事や熱原の人々の御志が異体同心であるときは万事を成就し、同体異心であるときは何事もかなうことはない。このことは外典三千余巻に定まっている。殷の紂王は七十万騎の軍勢であったが、同体異心であったので戦に負けてしまった。周の武王は八百人であったが、異体同心であったので勝った。一人の心であっても二つの心があれば、その心と心とが違って何事も成就することはない。百人や千人であっても一つの心であれば、必ずものごとを成就するのである。
 日本国の人々は多人数であっても体同異心なので、何事も成就することは難しい。日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である。
――――――
08   其の上貴辺は多年としつもりて奉公・法華経にあつくをはする上・今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給
09 うよし人人も申し候、又かれらも申し候、一一に承りて日天にも大神にも申し上げて候ぞ。
――――――
 そのうえ、あなたは多年にわたって法華経に仕える心が厚いうえ、この度はまことに勝れた御志が見られると人々も言っている。また彼等も言っている。一つひとつ承って、日天にも天照太神にも申し上げている。

小袖
 袖口がせまく、正面のえりを引き違え合わせて着る長着。はじめ肌着として用いられたが、次第に重ね着されるようになり、上着なしで着用されるようになった。
―――
はわき房
 (1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
―――
はわき房
 (1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
―――
びんぎ
 都合の良いとき。ついで。便り。音信。
―――
鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
さど房
 (1253~1314)六老僧の第四民部阿闍梨日向のこと。文永元年(1264)日蓮大聖人が房総地方に遊化せられたとき、13歳で得度した。建治2年(1276)清澄寺道善房死去のときに「報恩抄」を読み、大聖人の聖教を講演した。大聖人滅後弘安5年(1282)、輪番制に加わり、弘安8年(1285)ごろ身延に戻り学頭職に補せられた。だが、その後波木井実長(はぎりさねなが)に鎌倉方面の軟風をふきこみ、それによって実長は四箇の謗法をおかし、身延汚濁の因となった。身延山には正和2年(1313)まで居り、そののち、上総藻原(千葉県茂原)に移り、翌年9月3日に没した。
―――
あつわらの者ども
 静岡県熱原地方の農民をさす。ただし、「愚癡の者ども」とは、一般農民を武家にくらべて差別し軽視してこういわれたのではなく、熱原法難にあい、心の動揺が隠せずにいる人びとを指していわれたと思われる。
―――
外典三千余巻
 「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
―――
殷の紂王
 殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
―――
周の武王
 生没年不明。中国古代の周王朝創始の王。父の文王の遺志を継ぎ、殷の紂王を破り、天下を統一した。 
―――
日天
 日宮殿に住む天人のこと。日天子・大日天・日宮天子・宝光天子などともいう。太陽を神格化したもので帝釈天の内臣とも観音菩薩・大日如来の化身ともされる。密教では十二天の一つで胎蔵界漫荼羅の外金剛部院東方に位置する。日蓮大聖人は諸天善神の一つに数えられており、本尊の中にもしたためられている。
―――
大神
 天照太神のこと。日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――――――――
 本抄の御述作年代については「八月六日」とあるだけで、年号は不明である。
 「あつわらの者どもの御心ざし」云云とある本文から推察して、日興上人(伯耆房)の指揮のもとに、駿河国富士郡下方庄熱原郷方面(静岡県富士市)で折伏・弘教が活発に繰り広げられていたときの御消息と思われる。
 当時の国情も「もうこの事すでにちかづきて候か」とあるように、蒙古の襲来が目前に迫り、国を挙げて戦々兢々、騒然としていたころである。
 したがって、系年については異説はあるが、文永の末、あるいは建治年間の御述作と考えられ、建治元年(1275)8月6日の御述作であろうと推定される。ただし、弘安2年(1279)、文永11年(1274)の説もある。
 本抄をいただいたのは富士郡賀島庄に住み、この地方の信徒の中心者的存在だった高橋六郎兵衛入道と思われる。高橋入道は、妻が日興上人の叔母であった関係から、その縁で入信した人である。ただし、太田乗明への御返書との説等もある。題号は内容に即して後代に付されたものである。御真筆は現存しない。
 本抄は短い御消息文であるが、異体同心について御教示された前半と、蒙古の襲来によって日本の人々が謗法から目ざめるであろうとの仰せの後半とに、一貫した関連性がみられないところから、二つの御抄が誤って合写されたものとする説もあり、日亨上人も富士日興上人詳伝で「首尾相応せぬ嫌いがある、伝写の際の錯簡ではなかろうか」と述べられている。
 こうした背景と事情から、それにともなう系年も宛名も諸説百出するわけである。
 さて、本抄の冒頭では、日蓮大聖人の仏法を広宣流布していくうえで、最も心していかなければならないことは〝異体同心〟の信心であり、団結であることを御教示され、門下への戒めとされている。
 「異体同心なれば万事を成し」とあるように、人が集まって一つの事を成就しようとした場合、最も大切なことは異体同心の団結である。
 「異体」とは、十人十色といわれるように、顔形から性格、才能、趣味など、人それぞれの個性や特質が異なることをいい、また社会的立場や経歴などが異なっている、別々である、ということである。
 「同心」とは、目的観や価値観、志、心というものを同じくすることである。
 故に「異体同心」とは、多くの人が、それぞれの個性、特質を持ちながら、心を同じくして、行動する姿であり、そこには個人では果たしえない偉大な力が発揮される。いわば個人と全体とを見事に調和させる原理といえる。
 仏法で強調される「異体同心」の特徴は、すべての人達が御本尊への信心と民衆救済の心をもって広宣流布への実践を進めるなかで、一人一人の個性、才能等が最大限に発揮されていくことに本義がある。つまり「同心」であると同時に、かつ「異体」をも大事にするのである。
 それに対して「同体異心」は「諸事叶う事なし」となる。「同体異心」とは、見かけは一体のようであっても、心が一つにまとまっていない状態をいう。つまり、外面は一つの集合体に属し、団結しているようでも、一人一人の目的観がバラバラで、皆が違うことを考え、自分のエゴで動いているのであっては、やること、なすこと、チグハグになるのは必定であり、何事も成就は不可能である。
 かつてのファシズムに例をみるように「同体」を強制され、外見的、形式的には一体の姿を示しても、各人の個性を尊重せず、しかも抑圧するようでは、真の団結が図れるわけがない。かえって「異心」を生じさせてしまうものである。
 御義口伝に、「桜梅桃李(おうばいとうり)の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0748-第二 量の字の-03)とある。
 仏法では、固定的、画一的な人間を育成しようとするのではなく、妙法の信仰により、一人一人の個性、特質を「改めずして」発揮させ、最も自分らしい姿を現じさせていくのである。
 この「異体」の自覚のうえに、自らの成長と幸せを満喫できるよう、横の連帯をたもちつつ、広宣流布という大目的達成の「同心」を堅持して前進していくのである。
殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ
「異体同心」の団結が勝利の根本要諦であることを、中国古代の史実を引用して御教示されている。
 司馬遷の史記によると、紀元前十一世紀頃、殷の紂王は悪政をしき、暴虐の限りを尽くしていた。美女の妲己を溺愛し、酒池肉林の宴を張る日々を送っていた。
 自分の意に逆らう者があれば殺し、あるいはその肉を塩辛にし、あるいは干肉にした。諌言した忠臣・比干は胸をえぐられた。民衆には重税を課し、その福祉は一願だにされなかった。
 一方、周で善政をしき、人々の信望を集めていたのが文王とその子武王であった。太公望など多くの人材を用いて、周の地を隆盛に導いていた。
 紂王の暴虐ぶりがいよいよ甚だしくなるに及んで、父・文王なきあと、武王は、ついに紂王を討つ軍を起こした。
 そのとき、期せずして八百の諸候が志を同じくして集まり、紂王討伐に向かったのである。これに対して紂王は七十万の大軍を繰り出した。数こそ多かったが、戦意は全くなく、心の中では武王の軍の攻め入ってくるのを待望しているありさまだった。
 戦闘になると、紂王の兵は反乱を起こし、武王の軍の進む道を開いた。勝敗の帰趨は戦いの始まる前から、すでに決まっていたともいえる。紂王は敗走し、城中で焼死したといわれる。ここに殷が滅び、周王朝の誕生をみたのである。
 武王の軍は民衆の与望を担い、人々の心をとらえた故に、異体同心の団結が可能となり、大事を成しえたのである。
 古来、戦において、体同異心の大軍が、異体同心の少数精鋭に破れた歴史は枚挙にいとまがない。仏法流布においても、この原理は不変である。
一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず
「異体同心なれば諸事叶う事なし」は、なにも人が集まって事を成す場合だけではない。一人の心のなかに二つの心があって、迷いがある場合にあてはまる。「百人・千人なれども」に対比していわれたものであるが、個人としても銘記すべき御教示である。
 何か事を成就しようとする場合、それをなすべきか否かに逡巡があったり、どのようにするかに迷いがあったりすれば、十分な力を発揮することはできない。
 まず目標を明確にし、どう達成していくか、しっかりした方向性を確立してこそ、それに全力を傾注できるものである。
 ともあれ、一人の心でも二つの心があれば、物事を成就することはできないし、また大勢の人でも心を一つにすれば、必ず事を成就することができるとの御教示は、個人の人生にとっても、社会の共同生活においても、重要な指針と拝することができる。
日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成(じょう)じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候
 当時、諸宗諸派は権力と結託し、日蓮大聖人一門に弾圧を加えてきた。大聖人一門を弾圧するということでは〝体同〟していたが、その心の中は、本来、それぞれに信仰が異なっているうえ、自宗自派の利益、権益を守り、名聞をたもつことしか考えていなかった。つまり〝異心〟である。
 故に、どんなに数が多く、強大な権力を持っていたとしても、彼らは必ず崩壊すると、大聖人は見抜いておられたのである。
 それに対して大聖人門下は、社会における立場はさまざまに〝異体〟であり、数は少数であっても〝同心〟であるなら、必ず広宣流布を成し遂げることができるとの仰せである。
 しょせん〝同心〟とは御本尊を信ずる心を同じくすることである。さらに「大願とは法華弘通なり」(0763-第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事-02)、また「日蓮と同意ならば」(1360-01)「わたうども(二陣三陣つづきて」(0911-01)と仰せのように、広宣流布の大目的を、同じく己が使命とすることである。
 この異体同心の鉄桶の団結があってこそ「若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(1377-14)、「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(1360-10)との御聖意に応えられることを銘記したい。
 そこに〝異心〟を持ち込む人は獅子身中の虫であり、破和合僧の逆罪を犯すことになる。生死一大事血脈抄に「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(1337-14)と仰せである。まさしく〝異体異心〟は広宣流布の最大の敵である。
 この〝異心〟とは、根本は日蓮大聖人のお心に反し、背くことであるが、だれも最初から大聖人に背こうとして背く人はいない。
 それが何故〝異心〟に陥ってしまうのか、つきとめるところ我慢・我見・我執である。
 自己の利益や感情、驕慢を中心とした行き方をすれば、それは必然的に〝異体異心〟に陥り、不平不満、怨嫉などが渦巻くことになる。あげくは「城者として城を破る」大怨敵と化すのである。
 釈尊在世時代の提婆達多、日蓮大聖人御在世時代の三位房日行、大聖人滅後の日昭等の五老僧がその悪しき代表例である。
 いずれも〝異心〟を生じ、離反した発端が、結局、私怨であったことに留意し、後代の戒めとして心していきたいものである。

1464:10~1464:06 第二章 外寇に寄せ衆生救う大慈示すtop

10   御文はいそぎ御返事申すべく候ひつれどもたしかなるびんぎ候はでいままで申し候はず、 べんあさりがびんぎ
11 あまりそうそうにてかきあへず候いき、 さては各各としのころ・いかんがとをぼしつる、 もうこの事すでにちか
12 づきて候か、我が国のほろびん事はあさましけれども、 これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法
1464
01 華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、 かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん、 譬へば
02 灸治をしてやまいをいやし針治にて人をなをすがごとし、 当時はなげくとも後は悦びなり、 日蓮は法華経の御使
03 い日本国の人人は 大族王の一閻浮提の仏法を失いしがごとし、 蒙古国は雪山の下王のごとし天の御使として法華
04 経の行者をあだむ人人を罰せらるるか、 又現身に改悔ををこしてあるならば阿闍世王の仏に帰して 白癩をやめ四
05 十年の寿をのべ無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし、恐恐謹言。
06       八 月 六 日                     日 蓮 花 押
――――――
 御手紙に急いで御返事申し上げるべきであったけれども、確かな機会がなかったので今まで申し上げられないでいた。弁阿闍梨日昭の来訪の折は、あまりに急いでいたので書く間がなかった。
 さて、あなた方が数年来どうであろうかと思われてきた蒙古襲来のことは、既に近づいているようである。我が国の亡びることは嘆かわしいけれども、これ(立正安国論の予言)さえも嘘になるならば、日本国の人々はますます法華経を誹謗して万人が無間地獄に堕ちることになろう。蒙古が強く攻めてくるならば、日本の国は亡びるとしても謗法は薄くなるであろう。たとえば、お灸をして病気を癒し、鍼で人の病を治すようなものである。その時は痛くて嘆いたとしても、後には悦びとなるのである。
 日蓮は法華経の御使いである。日本国の人々は、大族王が一閻浮提の仏法を亡ぼしたようなものである。蒙古国は雪山の下王のようなものである。諸天善神の御使いとして法華経の行者を怨む人々を罰しようとされているのであろうか。また、現身に悔い改める心を起こしたならば、阿闍世王が釈迦仏に帰伏して白癩病を治し、四十年の間寿命を延ばし、無根の信という位に登って現身に無生法忍という悟りを得たのと同じように救われるのである。恐恐謹言。
  八月六日              日 蓮  花 押

べんあさり
 (1222~1323)。日昭のこと。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
―――
もうこ
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
灸治
 もぐさなどを皮膚の一部に乗せて、火をつけ、温熱効果によって行う治療法。
―――
針治
 鍼を用いて治療すること。金・銀・鉄などでできた鍼を皮下や皮肉に刺して行う治療法。
―――
大族王
 大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
雪山の下王
 釈尊滅後六百年頃、北インド都貨邏国の王。大唐西域記巻三によると、加湿弥羅国の迦弐色迦王の死後、王と称した訖利多種の者が僧を追放し、仏法を壊滅しようとした。それを聞いた雪山下王は、国内の勇士三千人を集めて隊商に扮し、加湿弥羅国に入り、重宝を献上すると見せかけて袖に隠し持った利剣で訖利多王の首を斬った。そして国を平定し、仏法をもとのように栄えさせたという。
―――
現身
 ①現世に生きている身、現在の身。②仏・菩薩が衆生救済のために種々の身を化現することをいう。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
無根の信
 信ずる心のない者が仏力によって信心を起こすこと。
―――
無生忍
 無生法忍の略。無生無滅の真理を悟って心を安ずること。
―――――――――
 本抄後半は前半とは内容が大きく変わり、先の立正安国論の予言どおり、蒙古襲来という他国侵逼難が文永の役として現実のものとなり、また第二次の蒙古襲来の危機が迫っている国情をふまえながら、蒙古の来襲がどのような意味をもつかを、仏法の立場から述べられている。
 蒙古来襲によって日本一国の運命が風前のとなりつつある状況に関して、日蓮大聖人は立正安国論の予言が的中したと喜ばれているわけではない。
 御自身が生を受けたこの国をだれよりも愛し、人々の苦悩を自らの苦とされたからこそ、大聖人は、天変地夭や国難の由って来たる原因を明らかにされ、その解決と救済の方途を示されて、その根本である邪法を捨て正法を立てるべきことを身命をなげうって訴えてこられたのである。
 しかし、もし立正安国論の予言が事実となって現れないで、虚妄となってしまえば、一国挙げてますます法華経を誹謗するようになり、万人が無間地獄の業因をつくることになる。大聖人が最も憂えられたのはこのことである。
 それ故に「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし」と仰せられているのである。
 立正安国論の予言が的中したことは、ひとえに日蓮大聖人の智慧と仏法の法理の正しさを証明するものにほかならない。
 そして「かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん」と仰せられ、蒙古の侵攻で国が滅びることは悲しいことであるが、この現証によって、人々の邪法への執着、法華経誹謗の心が断ち切られ、正法に目覚める転機となることを期待されたのである。
 それはあたかも医法の一つである鍼灸によって病気を治療するとき、一時は痛かったり、熱かったりするが、治療後は気分爽快となり、病気が治癒して悦ぶようなものである。
 この御文には、さらに根本的に拝すれば、日蓮大聖人の仏法における人間観、国家観が明確に示されている。
 大聖人があくまでも根本に置かれているのは〝人間〟であり、〝国家〟を超えた〝人間主義〟である。国を愛する以上に〝人間〟を大事にされているのである。
 そして国法や国政の根本にあって、この〝人間〟の生命を左右している法、すなわち、仏法の、三世を貫く因果の理法の厳しさを見つめ、これを教えることによって、根源的な幸福への道を示されたのである。
 どこまでも一人一人の正法への覚醒を訴えられる大聖人の大慈悲を、一層深く胸奥にとどめていきたい。
無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし
 正法誹謗を重ねている日本の一切衆生を、仏法を排斥し破壊した大族王にたとえ、またこの日本を責める蒙古を、仏教を弾圧していた訖利多王を滅ぼして仏法を興隆した雪山の下王になぞらえて、蒙古襲来の意義について述べられている。そして、阿闍世王を例に日本国の人々が正法誹謗の罪科を心から改悔するならば、国も民も必ず救われることを説かれている。
 釈尊在世時代、阿闍世王は提婆達多にそそのかされ、父王を幽閉した末に殺した。また父を助けようとした母も殺そうとしたが、耆婆大臣に諌められて思い止まった。さらに酔象を放って釈尊を殺そうとはかったりした。
 やがて、提婆達多は生きながらにして大地が割れて地獄へ堕ちた。阿闍世王も父を殺した罪に悩み、全身をおおう悪瘡で苦しんだ末、耆婆の懺悔の勧めに従って改心し、釈尊に帰依したのである。
 その結果、たちまちに悪瘡が癒え、寿命をのばすことができたことを「現身に改悔ををこしてあるならば阿闍世王の仏に帰して白癩をや(治)め四十年の寿をのべ無根の信と申す位にのぼりて」と述べられているのである。
 無根の信とは、初めは全く信心がなかった者が、後に信ずる心を生じることをいう。
 人間の生命には、本来、信根・善根など、仏法を信じて善行を積む可能性が具わっているのであるが、無根とはその可能性が全く閉ざされていることをいう。
 しかし、信根・善根がなくなったわけではなく、深く内在しているのである。故に、後に何らかの縁により、仏力・法力にふれるならば、信ずる心を生じることができるのである。
 このように、後に信心が生じてきたことを無根の信というのである。したがって、無根の信の位に入る条件はそれまでの信心なき自分に対して、深い反省と懺悔の念がなければならない。
 なお、無根の信は、小乗の初果、別教の十住、円教の十信の位にあたり、見思の惑を断じた位とされている。
 また無根の信の位にのぼって得た無生忍とは、無生法忍ともいい、一切諸法は無生無滅であるとの真理を悟って、そこに安住して心を働かさない境地をいうのである。

1463~1464    異体同心事2008:09 大白蓮華より 先生の講義top

異体同心 確かなる「絶対勝利の軌道」
「広布勝利の証し」を世界人類に 「人生勝利の人華」を未来へ陸続と

 歌は、心を一つにします。
 学会歌は、広宣流布の同志を一つに結びます。今、全国・全世界の同志が、声高らかに学会歌を歌いながら、新しい時代の大建設へ、さっそうと前進しています。
 歌は、勝利への呼吸です。
 歌は、師弟のスクラムです。
 戸田先生も、よく青年に歌わせました。指揮を執らせ、舞を舞われた。ある時は、戸田先生自ら、座布団一枚の上で、見事に舞い、歌の指揮を執られました。
 私も、行く先々で、皆と歌い、皆を鼓舞するために舞を舞った。そして皆と心を一つにして、広宣流布の師匠である戸田先生に生命のギアを合わせ、平和と文化と人間共和の大進軍を開始しました。
師弟不二と異体同心は車の両輪
 創価学会が心と心を結ぶ歌を大切にしてきたのは、師と弟子の心を結ぶ「師弟不二」と、同志と同志の心をむすぶ「異体同心」こそ、広宣流布と人生における絶対勝利のための不変の方程式だからです。
 一人一人の信心の深化も、広宣流布の前進も、ひとえに、その根本は「師弟不二」と「異体同心」にある。
 創価学会の発展も、この要諦を継承できるかどうか、一切が決まるといっても過言ではありません。
 私は、大田で、文京で、北海道で、大阪で、山口で、一貫して戸田先生を語り、弟子として勝利しようと訴えてきました。広宣流布のために、弟子が一致団結できるかどうか。師匠の教えのままに、生き抜けるかどうか。ここに未来の一切がかかっているとの思いで「師弟不二」を軸とした「異体同心」の勝利のリズムを築いてきました。
 千万馬力のモーターが回っているとき、そのモーターにギアを合わせれば、つぎつぎと千万馬力が伝わります。したがって、広宣流布の師匠に呼吸を合わせる団結こそが、勝利の方程式となります。
 その一点で、「師弟不二」「異体同心」を破壊しようとする悪とは断固、戦うことが重要となる。戸田先生は「戸田の命よりも大事な学会の組織」と幾度も語られました。また「清浄な創価学会の組織を攪乱する者を追放せよ」と厳命されました。
 「師弟不二」と「異体同心」は、本来、切り離せるものではなく、車の両輪の関係にあります。どこまでも和合僧を大切にして「異体同心」を実現する努力がなければ、本当の不二の弟子でるとは言えない。
 「師弟不二」の実践と「異体同心」の団結があれば、必ず広宣流布を成就することができる、というのが蓮祖大聖人の御聖訓です。
 一切の勝利は「異体同心」の組織を構築できるかどうかにある。この一点を再認識する意味で、今回は「異体同心事」を拝読します。ともどもに、我が使命の実現へ、そして、新しき勝利の峰へ、仏法の最高の将軍学を学んでいきましょう。

01                                      はわき房さど房等の事あつわらの
02 者どもの御心ざし異体同心なれば 万事を成し同体異心なれば 諸事叶う事なしと申す事は 外典三千余巻に定りて
03 候、 
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 伯耆房・佐渡房等の事や熱原の人々の御志が異体同心であるときは万事を成就し、同体異心であるときは何事もかなうことはない。このことは外典三千余巻に定まっている。

団結は大難を乗り越える要諦
 「異体同心事」という御書は、御述作の年月や、送られた人が不明です。また、この御書は、前半の異体同心の仰せと、後半の蒙古襲来の仰せについては、内容的に直接、関係がないことから、日亨上人は、もとは二つの御書だったが、後世の伝写の時に錯覚して一つになったのではないかと指摘しています。今回は、この御書の前半部分にある「異体同心」についての教えを中心に拝していきたいと思います。
 この御書の前半に限っていえば、駿河の地で弘教に活躍していた日興上人のお名前や「あつわらの者どもの御心ざし」という表現がるところから、熱原の不穏な動きが出てきた建治年間にかけての頃に、高橋六郎兵衛入道などの駿河の中心的門下に送られた御書ではないかと推定されます。
 その場合、やがて熱原の法難に発展していく権力からの迫害がすでに始まっており、その大難を乗り越えていく要諦として、「異体同心」の団結を強調された御書であると拝することができます。すなわち、駿河の地は、いつ法難が起きても不思議ではない状況であるからこそ、魔を打ち破る鍵は、どこまでも信心に団結にしかないことを、明快に教えられていると拝することができる。
 信心の団結こそが、第六天の魔王を破る唯一の“武器”だからです。
 あらためて確認すれば「異体同心」の「異体」とは、それぞれの個性、特質、立場等が異なることです。
 「同心」とは、一般的に言えば目的観や価値観が同じことです。また、高い目的観や価値観を実現していこうという意志が一致していることでもあります。
 仏法のうえで言えば、仏の心であり遺命である「広宣流布」を我が使命として自覚し実践し抜いていく「師弟不二の信心」にこそ、「同心」の核心があります。師と同じ精神に立って、戦いに挑み、勝利することが「異体同心」の根幹です。
 また「異体」との仰せがどこまでも重要です。いわゆる「一心同体」などの表現ではなく「異体同心」と仰せられているところに甚深意味を拝することができます。
 すなわち「同心」といっても、一人一人の個性を殺すことはありません。「妙法」によって、一人一人の可能性が最大限に発揮されたときに、「異体同心」の大いなる力が現われるのです。
 仏は、すべてのものを結びつける宇宙根源の力を発見しました。それが「妙法」です。さらに、人間が、その妙法の力を自分の生き方として現しうる可能性をもっていることをも発見しました。それが「仏性」であり、「法性」です。
 一人一人の人間が、この仏性の智慧を現すことによってのみ、仏法における「異体同心」が成り立つのです。一人一人が、我執を超えて、最高の可能性と個性を発揮していくゆえに、「異体同心」は絶対勝利の軌道になっていくのです。
 このとき同時に、一人一人は、人間の悪と不幸に縛りつけられている無明の力から解放されることを忘れてはなりません。
 「異体同心」は決して束縛や画一化による団結ではなく、一人一人の生命における仏性の智慧の発揮なのです。仏の心に一致することによる団結なのです。
 「異体」とは「あらゆる人が人材」「あらゆる人が最高の人生を」という仏法の大鉄則に裏づけされている表現であると言えます。
 ここで大聖人は、「異体同心」こそが勝利の要諦であることについて、「外典三千余巻に定まりて候」と示されています。文化と思想の大国である中国でも、異体同心こそが事を成就するための要諦であることは確固たる定義として通っているということです。
 そして次に、この定説の典型的な例として殷の紂王と周の武王の戦を取り上げられています。

03    殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、 周の武王は八百人なれども異体同心なればか
04 ちぬ、
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 殷の紂王は七十万騎の軍勢であったが、同体異心であったので、戦に負けてしまった。周の武王は八百人、異体同心であったので勝った。

「民の力」を糾合する真のリーダーに
 ここで取り上げられている戦は「殷周戦争」あるいは「殷周革命」と呼ばれ、司馬遷の『史記』などで有名です。
 大聖人がこの例を挙げられているのは、単なる一例としてではなく、「異体同心」の意義を示す上で示唆に富んでいるからであると拝することができます。
 今から3000年以上も前の紀元前11世紀頃、中国殷王朝の最後の王である紂王は、70万騎の大軍を擁していました。それに対して、紂王の悪政に立ち上がった周の武王の側に集った勢力は800の諸候の軍勢であった。その実際の数は分かりませんが、一説には、45000人の軍勢であったともあります。
 常識的に考えれば、圧倒的に力が違い、殷の優勢は揺るぎません。しかし、現実には、殷の兵士たちは戦意が全くなかった。兵士たちは皆、武器を逆さまにして、周の軍勢が進む道を自ら開けたと伝えられます。紂王が敗れたのは、まさに、殷の軍勢が、暴君と言われる紂王に対して反発心を懐くなど、王と軍の心が離れていたからに他なりません。
 「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ」と仰せの通りです。
 武王の軍は「悪政を許すな!」という道義のために諸候が結集した、異体同心です。
 紂王の軍は、形は王を守る兵士であったが、心は王と異なっていた、同体異心です。
 組織論から見れば、「異体同心」の実践上の急所は、リーダーの姿勢です。一見、矛盾するようですが、中心者が一人立ち上がることから、「異体同心」が始まります。
 指導者が真剣で誠実であれば、多くの人が共鳴して「異体」を「同心」にしゆく団結が生れます。反対にトップが臆病で権威的であれば、団結はできない。
 その端的な例が、今述べた殷の紂王と周の武王の違いであるとも言えましょう。
 『史記』によると、紂王は「弁舌にたけ」「頭の回転が早かった」。また「怪力の持主」でした。しかし、優秀であるゆえに、己の「どんな非をも正当化し」「臣下を無能よばわりし、ひたすら自分の権威を誇った」慢心のリーダーのもとからは団結が生れないことは、歴史の教訓です。
 紂王のもとには三人の有力諸候がいましたが、紂王は、そのうち二人を殺し、もう一人も幽閉の後、放逐します。その一人が、周の西伯すなわち武王の父です。紂王の悪政を諌めようたした臣下がことごとく排除され「諂い」と「讒言」に長けた人間だけが残っていったのです。
 一方、殷の支配力のもとにあった周の国では、西伯を中心に善政が行われていた。周辺の諸候も、何か争いがあると、西伯に裁定を頼むようになりました。あるとき、ある二つの国の間で紛争が起こり、なかなか解決しないので、両国の君主が裁定を求めて周を訪れた、その様子を『史記』は伝えている。
 「一歩周の領内にはいってみると、農民はあぜを譲りあっているし、なにごとによらず年長者に譲る気風がみなぎっている。両君はすっかりわが身がはずかしくなった。
 『われわれの争いなど、この国では物笑いのたねだ。これでは恥をかきにいくようなものではないか』
 二人はすぐさま引き返し、互いに譲歩しあって和解の上、国に帰った」
 大聖人は「周の代の七百年は 文王の礼孝による」(0329-02)と記されています。周の国が長きにわたって栄えた「根本の功」は、文王が、礼を尽くして太公望という優れた師を迎え、先達を尊敬して大切にしたことにあるとの仰せです。
 さて西伯が亡くなり、後を継いだのが武王です。武王は、軍師に太公望を、王の介添え役に、弟の周公旦を任命しました。戸田先生は、魚釣りをする太公望の姿や、太公望が武王の軍を指揮し、紂王を倒したことなどを、よく聞かせてくださいました。
 大聖人は他の御書でも、武王が亡き父・文王の象徴を車に乗せて戦ったことに注目されています。まさに武王は孝養の人であり、太公望らと共に人々に善政を施したリーダーとして描かれています。
 私たちの次元で言えば「民衆の力」を高めるためにリーダーが「一人立つ」ところから一切が始まる。そして、その理念に同志が賛同し糾合し「異体同心」の実践で、悪と戦い、悪を破る。そこに、広宣流布における民衆勝利の方程式が示されているといえます。
「異体同心」の組織をつくる重要性
 「一人立つ」実践と、独裁とは根本的に違います。確かに、「一人立つ」勇者には、屹立した責任感から、果敢な決断が必要な時がある。しかし、真の指導者は、独裁者と異なり、同時に、大勢の真摯な意見に耳を傾けるものです。
 特に今は、中核となる人たちと、よく話し合うことが大事です。同じ責任感を共有するリーダーたちと何でも協議する。そして、対話の力でスクラムを拡大させていく。そうすれば、創価学会の組織は、もっと発展していきます。
 したがって、指導者は、広宣流布のために、そして皆が満足して立ち上がるために、何をすべきか、何を協議するか、絶えず心を配る。それが「異体同心」の組織の長の責務であるといえます。
 また、中心者に正確な報告をすることも、「異体同心」の組織を築く必須条件となります。戸田先生は「大事なことを報告しないものは敵だ」とよく言われていました。中心者を支えていこうとしない異体同心の者は、厳しくいえば、敵を利することで「城者として城を破る」者となってしまうのです。
 創価学会は、永遠に「異体同心がなければかちぬ」の御金言を魂に刻んでいく。その決意で、皆の信心と努力で「異体同心」の組織を作り、どこまでも常勝のリズムを築いていくのです。

04     一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、 百人・千人なれども一つ心なれば必ず事
05 を成ず、
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 一人の心であても二つの心があれば、その心と心とが違って何事も成就することはない。百人や千人出あっても一つの心であれば必ず物事を成就するのである。

異体同心は、自身の一念の変革から
 ここでは、「同心」の大切さを強調されています。
 まず「一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし」と仰せです。
 「一人の心」であっても、そこに「二つの心」、すなわち、異なる考えがあり、迷いがある場合は、何事も成就することはできません。これは道理です。一人の中に「異心」があれば、何もできない。どちらでもよいというのならば、一念は定まりません。
 結局は、縁に紛動され、迷い乱れてしまうところに、凡夫のはかなさがあります。
 まして、成仏という人生の根幹にかかわることで思い迷って、「二つの心」が生じてしまえば、仏道を成就することができないどころか、かえって不幸になってしまいます。
 「心こそ大切」です。我が一念を定めることが、勝利の軌道を確立することになります。
 一切は、自分の一念の変革から始まります。「異体同心」の団結を築くことも同じです。“自分はわるくない、他人が悪い”と言って、互いに責めあっていれば、永久に「異体異心」のままです。
 人間の集団である以上、さまざまな人間がいます。なかには、自身と性格的に折り合いが付かない人がいるかもしれない。
 だからこそ、自身の人間革命を根幹にしなければ、「異体同心」の絆を作ることは不可能です。大聖人は「自他彼此の心なく水魚の思いをなして異体同心にして」と仰せです。
 人間にさまざまな個性があることは当然であり「違い」があるからといって、差別し排除することがあってはならない。その「違い」を認め合うかどうか「自他彼此の心なく」がどこまでも重要です。
 「自他彼此の心」とは自己を孤立化させ、絶対化し、その自己に執着する我執から生れる。悪と不孝の心です。その心は、人により、時により、例えば軽蔑、憎しみ、妬み、恨み、憤懣、高慢、悪意、不機嫌、有鬱、頑迷、短気、裏切り、不知恩など、さまざまな形の悪の心として現れます。我執を超えて、妙法の力を現す人は、これらの悪と不幸の心から解放されていくのです。
 また「水魚の思いを成して」と仰せです。これは、共に学び、実践し、前進する友に対して、さらには自分の縁するすべての友に対して抱く「親和」の思いです。「自他彼此の心」を超えた生命には、すべてを結びつける妙法の働きが顕現していくのです。
 その人は、時には、自ら広布の主役として自在に活躍し、時には、中心者を支える陰の努力に徹します。しかも、どのような立場にあっても、妙法という宇宙根源の力によって生命は躍動していくのです。
 私たちは、「異体同心」を目指して、人間革命していくなかで、「我執」を目指して人間革命していくなかで「我執」を破り、「身軽法重の信心」を確立していくことができるのです。どこまでも「法」根本の実践であるところに「異体同心」の本質があります。
 大聖人はさらに、「百人・千人なれども一つの心なれば必ず事を成ず」と仰せです。この「一つの心」とは、先ほどの「水魚の思」と同じです。「信心の団結」で仲良く前進し、自他ともに勝利する。これが学会精神の真髄です。
 戸田先生は、何度も語られました。
 「創価学会のこれまでの発展というのは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものでもない。
 異体だが、同心とするものの団結である。心などというものは、縁に紛動されて、どうにでもなってしまう。それが同じ心になるということは、よくよくのことだ。号令をかければ簡単にできるというものではないのです」
 どこまでも『異体同心』の精神がなければ、広宣流布はできない。『異体同心』の精神に背くならば、日蓮大聖人の教えにも背くのである」
 「一つの心なれば」との御金言を深く銘記したい。どこまでも、一切の勝利の実現は、私たちが「心を一つにする」粘り強い行動にあることを忘れてはなりません。

05      日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、 日蓮が一類は異体同心なれば人人す
06 くなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、 悪は多けれども一善にかつ事なし、 譬へば多
07 くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし。
-----―
 日本国の人々は多人数であっても体同異心なので何事も成就することは難しい。日蓮が一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である。

「異体同心」の姿は広布勝利の証明
 ここでは具体的に、当時の大聖人一門をめぐる状況を踏まえて、「異体同心」こそが「善の勝利の要諦」であることを浮き彫りにされています。
 当時、日本国中の人々が大聖人の一門を憎み、迫害する側にいました。しかし、大聖人はここで、広宣流布の成否を決するものは、決して人数の多少ではないとされ、少数でも異体同心の団結があれば、必ず広宣流布は実現することを強調されています。
 「日本国の人々は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜんことかたし」と仰せです。ここで言う「日本国の人々」とは、大聖人一門の法華経弘通に反発する当時の人々です。
 大聖人の弘通は、法華経の理想を実現することを目指したものでした。その理想は「自他ともの幸福の実現」と「立正安国」として掲げられました。
 しかじ、当時の日本国の人々は、この法華経の理想を理解できず、かえって反発したり、大聖人の一門を反発した。
 ところが、弾圧する彼らの側には、現実変革の理想は全く見られない。
 例えば、彼らが受け入れていた宗教は、現実社会を穢土として厭い捨てる浄土教、出家修行者の悟りに逃避する禅、敵国調伏の祈禱に終始するだけの真言・天台等の旧仏教などであり、結局、武家政権の宿命というべき戦乱の世に拍車をかけるに終わっていたのです。
 確たる哲学も宗教もなく、人々の幸福の実現や社会の繁栄など望むべくもない状況だったのです。「多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし」との仰せの通りでした。
 大聖人一門を迫害する「日本国の人人」は、いわば「反法華経」という一点では「体同」でしたが、思惑も利害もバラバラであり、理想を求める真摯な姿勢もないという「異心」のゆえに、結局は何も実現できないことは目に見えていたのです。
 これに対して、「日蓮が一類は異体同心なれば人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚え候」と仰せです。
 大聖人の一門は、異体同心だから、少数でも絶対に勝利して、広宣流布は必ずできるとの御断言です。
 事実、熱原の信徒たちは、この仰せを貫き、いかなる権力の迫害にも屈することのない「魂の勝利」の実証を示しました。いかなる権力にも束縛されない民衆の強靭な魂は、今日の世界広宣流布の模範となり、民衆仏法の崩れざる原点となりました。
 大聖人は諸法実相抄で「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)と仰せです。
 一人唱え始めた大聖人を師として、「二人・三人・百人」と唱え伝える「師弟不二」と「異体同心」の地涌の連帯があれば、必ず広宣流布はできると宣言されています。
 実は、その時、その時において異体同心の姿を現していること自体が、「広布勝利の証明」であり、「広布進展の精華」なのです。すなわち、異体同心は「勝利への要諦」であるとともに「勝利の証明」でもあるのです。
 また「異体同心」の躍動の中にいる地涌の友は、既に自分を悪と不幸に縛り付ける「自他彼此の心」から解放されています。人間として、これ以上の勝利の姿はありません。
 要するに、異体同心の躍動の中では、すべての人は、妙法蓮華経の一法が「人華」として開花した勝利の姿を現しているのです。その姿は、人生全体の勝利に通じます。
妙法は「唯一の善の原理」
 大聖人は本抄で、妙法の力を現して悪と戦い、前進する大聖人の一門を「一善」と表現されています。妙法こそ、すべてを結びつけて、いかなる悪をも滅していける唯一の善の原理」だからです。
 「分断は悪」「結合は善」です。
 仏界の生命は、すべてのものが互いに結びつく宇宙の実相を悟った智慧で、現実を生きていく生命です。
 仏とは、分断の悪にあえぐ人間たちが織り成す現実の中で、人間と人間を結びつけ、安国と理想現実に尽力しつつ、全人類の平和を目指していく価値創造の生命に他ならない。
 ゆえに「悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せです。善の太陽が昇れば、いかに深い悪の闇も、直ちに、そして必ず滅します。
 「一善」とは、大聖人一門のことです。それは大聖人の一門こそ、障魔との戦いを恐れず妙法という根本の善を弘通しぬく戦いに徹する決意と実践があるからです。
 私たちは法華経の理想を実現する広宣流布の戦いに生きています。誰にどう批判されようと、「民衆の力」を解放し、「民衆の時代」を築くために、汗を流し、足を鉄板のようにして歩き、岩盤に爪を立てる思いで戦ってきたのは、創価学会だけです。その事実があるからこそ、世界から賞讃がたえないのです。
 一面から言えば、私たちの築いてきた「異体同心」の哲学と実践は、今、世界で注目される段階になったともいえます。
 例えば、「分明間対話」も「宗教間対話」も、人類の発展のために、時代の要請であり、不可欠な行動になっています。いわば、人類全体が「異体同心」を模索しているともいえましょう。
 それぞれの文明の差異を超えて、人間の「根本善」の開発のために、対話がいっそう重視される時代となっていることは、各界の識者が共通して認識している通りです。その先端に私たちがいると言うこともできます。
 「善」と「善」の連帯を築き上げていく、私たちの「異体同心」の実践を、世界が待望しています。どこまでも、威風堂々と前進し、勝利の歴史を築いていきましょう。

1464~1464    六郎二郎殿御返事top

六郎次郎殿御返事    建治三年三月    五十六歳御作
01   白米三斗油一畢給ひ畢んぬいまにはじめぬ御心ざし申しつくしがたく候 日蓮が悦び候のみならず釈迦仏定めて
02 御悦び候らん、我則歓喜諸仏亦然は是なり、明日三位房をつかはすべく候、その時委細申すべく候、恐恐。
03       建治三年丁丑三月十九日               日 蓮 花 押
04     六郎次郎殿
05     次郎兵衛殿
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 白米三斗と油一筒を受け取りました。今にはじまったのではない御志、申し述べがたい。日蓮が悦こんでいるだけでなく、釈迦仏もきっと御悦びであろう。法華経見宝塔品第十一に「我は歓喜する。諸仏もまた同様である」とあるのはこれである。
 明日、三位房を派遣する予定である。その時に委しく言おう。恐恐。
       建治三年丁丑三月十九日               日 蓮 花 押
     六郎次郎殿
     次郎兵衛殿

三位房
(~1279)三位房日行のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子。学才があり、諸宗との問答に活躍したが、ともすると才智におぼれて大聖人の指導に背くことがあり、たびたび訓戒を受けていた。熱原の法難の初めごろ退転し、不慮の死を遂げたと思われる。
―――――――――
 本抄は建治3年(1277)3月19日に認められたお手紙である。六郎次郎と次郎平衛の二人に宛てられており、この二人が大聖人に白米と油を御供養したことに対する返書となっている。したがって本抄には「報二檀越書」の別名がある。
 この二人がだれであるかについては説の別れるところであるが、おそらく、富士の南方・賀島にいた高橋六郎兵衛入道の弟が六郎次郎で、次郎兵衛は同じく賀島にいた大田次郎兵衛であろうとされている。大田次郎兵衛は大田親昌と同一人物えあるともいわれるが、詳細はわからない。親昌であるとすれば、その後、熱原の法難が起きた際、退転して落馬したことになる。本抄で三位房を派遣する旨が記されているが、このころ悪縁を結んで、やがて共に退転するに至ったとも想像することもできる。
 このほか、二人を波木井一族の者とする説もあり「波木井抄」の別名もあるが、今はとらない。当時、折伏は賀島方面のほうが活発であり、波木井ならば三位房を派遣するには近過ぎる感があるからである。このころ三位房が富士に派遣されていることは他の御書にもみえる。なお本抄の御真筆は存していない。
 さて、二人が白米と油を御供養したのに対し「いまにはじめぬ御志ざし」と言われていることから、二人はたびたび御供養申し上げていたことが知られる。
 その志に対し「日蓮が悦び候のみならず釈迦仏定めて御悦び候らん」と言われているのは、白米や油といった御供養の品が、大聖人にとって生活に欠かすことのできない物であるというだけでなく、そのことは、とりもなおさず末法の令法久住を助けることになるのであり、そのための二人の信心の志であることを喜ばれたと拝せられる。
 「我則歓喜諸仏亦然」は法華経見宝塔品第十一の文であるが、これは仏滅後において、妙法を受持することを勧めるところの文である。
 仏滅後において妙法を受持することは、六難九易が示すごとく、極めて困難なことである。まさに末法の大白法を興隆することこそ諸仏が法華経の会座に来集した目的であり、究極の念願であった。故に末法に妙法を受持する人に対して、諸仏は何よりも喜ばれるのである。
 この経文を、末法の我々の立場から読むならば「我」とはもちろん久遠元初自受用身如来の再誕たる末法の御本仏・日蓮大聖人である。
 そして、諸仏が歓喜するとは、宇宙森羅三千の仏性がそれに呼応して躍動するといえよう。信心の篤い志は全宇宙をも動かし、諸仏諸天の加護を得ることができるのである。
 なお「明日三位房をつかはすべく候」と仰せになっている。内容はわからないが、語調を拝すると、たびたび派遣されていたが、派遣の要請があったように考えられる。
 六郎次郎と次郎兵衛が賀島の二人だとすると、弘教、またそれに伴う問題に対しての指揮であったかもしれない。「その時委細申すべく候」と、三位房に詳細にわたって指南を与えられての派遣であったことが拝せられる。

1465~1567    減劫御書(智慧亡国書)top
1465:01~1465:11 第一章 減劫と仏法弘教の推移top

1465
減劫御書
01   減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづ
02 まりせいもちいさくなりもつてまかるなり、 漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもつて民の
03 心をととのへてよをば治めしほどに・ 次第に人の心はよきことは・はかなく・わるき事は・かしこくなりしかば・
04 外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし、 外経をもつて世をさまらざりしゆへに・ やうやく仏経を
05 わたして 世間ををさめしかば世をだやかなりき、 此れはひとへに仏教のかしこきによつて 人民の心をくはしく
06 あかせるなり、 当時の外典と申すは本の外経の心にはあらず、 仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかど
07 も・ やうやく外経まけて王と民と用いざりしかば・ 外経のもの内経の所従となりて立ちあうことなくありしほど
08 に・外経の人人・内経の心をぬきて智慧をまし外経に入れて候ををろかなる王は外典のかしこきかとをもう。
――――――
 減劫というのは人の心の中にある。貪欲・瞋恚・愚癡の三毒が次第に強盛になってゆくことによって、次第に人の寿命も縮まり、身長も小さくなってゆくのである。
 中国や日本国は仏法渡来以前には三皇・五帝・三聖等の外道の経書をもって民心を整えて世を治めていたが、そのうちに、次第に人の心が善い事にははかなく悪い事には巧妙になってくると、外道の経書の智慧は浅薄であるため悪の深い失(とが)をおさえがたくなった。外経の経書をもってしては世が治まらなくなったために、だんだんに仏教経典を渡して世間を治めたところ世の中は穏やかになった。これはひとえに仏教のすぐれた智慧によって人民の心を委しく説き明かしているからである。
 現在の外典というのは、もとの外経の経書の心とは違っている。仏法が渡ってきたときは外道の経書と仏教経典と争ったが、だんだんに外道の経書が負けて王と民とが用いなくなったので、外道の経書を信奉する者は仏経の従者となって勝負を争うこともなくなった。ところが、そのうちに外道の経書を持つ人々が仏経の心を抜き取って智慧を増し、外道の経書に混入するようになり、それを愚かな王は外典が勝れていると思っているのである。
――――――
09   又人の心やうやく善の智慧は・はかなく悪の智慧かしこくなりしかば仏経の中にも小乗経の智慧・世間ををさむ
10 るに代をさまることなし、 其の時大乗経をひろめて代を・をさめしかば・すこし代をさまりぬ、其の後大乗経の智
11 慧及ばざりしかば一乗経の智慧をとりいだして代ををさめしかば・すこししばらく代をさまりぬ、
――――――
  また、人の心も次第に善の智慧ははかなく悪の智慧がすぐれるようになると、仏経のなかでも小乗経の智慧で世間を治めようとしても、世の中は治まることがなかった。その時に大乗経を弘めて世を治めたところ、少し世の中は治まった。その後、大乗経の智慧が及ばなくなったので、一乗経(法華経)の智慧を取り出だして世を治めたところ、少し暫くのあいだ世の中は治まった。

減劫
 人間の寿命が減っていくとされる時。仏教では、一つの世界が成立・継続・破壊を経て次の世界が成立するまでの間を四期に分けて、成・住・壊・空の四劫とし、この住劫のなかで人寿が減じていく時期と増していく時期とが繰り返されると説かれる。一説によると初め人寿は無量歳であったが百年に一歳ずつ減じて十歳にいたり(第一減劫)、次に人寿十歳から百年に一歳ずつ増して八万歳にいたるとまた十歳になるまで減じていく(第二の増減劫)、これを十八回繰り返したのち、最後は増して無量歳にいたる(第二十の増劫)という。この寿命が減じていく時期を減劫といい、増していく時期を増劫という。
―――
貪・瞋・癡の三毒
 貪欲・瞋恚・愚癡のことを三毒という。一切の煩悩の根本である。観心本尊には「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生」(0241-07)とある。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
三皇
 中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・黄帝・神農とされるなど異説も多い。
―――
五帝
 三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば伏羲・顓頊・帝嚳・尭・舜。
―――
三聖
 中国古代の三人の聖人。摩訶止観巻六下には老子・孔子・顔回の三人を挙げているが、異説も多い。
―――
外経
 外道の経典。
―――
外典
 仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
内経
 仏教経典のこと。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
大乗経
 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
―――
一乗経
 一仏乗を説いた経のことで、法華経をさす。一仏乗は仏の境智に運ぶ乗り物の意で、一切衆生ことごとく成仏することのできる教法をいう。
―――――――――
 本抄には、御執筆の年代もだれに与えられたかも記されていないが、内容から建治2年(1276)以後の御書と推測されている。
 文中「此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候」との仰せがあり、故六郎入道とは高橋六郎兵衛入道のことと考えられるので、ここから、本抄は、高橋六郎兵衛入道が亡くなった後、大進阿闍梨を使いとしてつかわされ、その時、入道の家族に与えられた御書と推定されるのである。
 減劫御書という題名は、冒頭にある「減劫と申すは人の心の内に候」の御文から、後世つけられたもので、別名、智慧亡国書ともいわれている。
 御真筆は、大石寺に存する。
 さて、本抄は冒頭、減劫といっても人の心の中にあるものであり、三毒が次第に盛んになり、善心が弱くなることによって、世の中が乱れ寿命も縮まるのであると仰せられている。そして、この人の心を治めうる法が、時代の推移とともにどのように変遷してきたかを示されている。
 中国や日本で仏教渡来以前は、悪心も強くなく、外道でも対治できたが、悪心が強くなり、善心が弱くなると、外道ではもはや手におえなくなり、仏教が伝えられ仏教の智慧によってはじめて、悪心を制御し、善心を強めることができたのである。
 仏経が伝わって初めのうちは、小乗教で十分人々の心を治めることができたが、やがて次第に悪の智慧が逞しくなると小乗教では手におえなくなった。そこで大乗教を弘めるとようやく治まったのであるが、これも時の推移とともに無力となり、法華経によってはじめて治まった、とその変遷を述べられている。
 これは、中国においても日本においても、仏教伝来の初期は小乗教が弘まったのに、次第に権大乗が弘まり、やがて、中国では天台大師、日本では伝教大師が出て法華経が弘められたのは何故なのかを明らかにされたものである。
減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり
 古代インド人は、人間の寿命は増減を繰り返すと考え、寿命が次第に増加していく時期を増劫といい、逆に、寿命が次第に減少していく時期を減劫と呼んだ。
 何故、人間の寿命が減少していく減劫という時があるのかについて、本抄は、生命内在の貪・瞋・癡の煩悩が次第に強くなり、善心は反対に次第に弱まっていくからであると教えられている。
 三毒等の煩悩が強盛になり、生命の力が悪事にのみ消耗されると、生命のリズムが乱れ、生命力は枯渇してしまうのである。
 「人のいのちもつづまり」とは生命力の衰退により寿命が縮まることであり、「せいもちいさくなり」とは生命力の衰退が色法の形のうえにあらわれるのである。
 さて、減劫と煩悩との関係について、俱舎論巻十二には、次のように論じられている。「諸の有情の虚誑語を起こしてより、諸の悪業道は後後に転た増す。故に此の洲の人寿は漸く減じて、乃し極十に至るとき、小の三災現ず。故に諸の災患は二法を本と為す。一には美食に耽ること、二には性嬾惰なることなり」とある。
 貪欲、嬾惰、妄語等の煩悩が次第に強盛になり、寿命が縮まっていって十歳にまでなった時、刀兵、疫病、饑饉の三災が起きるというのである。刀兵は瞋恚が主たる因であり、疫病は愚癡、饑饉は貪欲が主因となって起こるのである。
 俱舎論巻十二には、続けて次のように記されている。「謂わく、中劫の末、十歳の時、人は非法の貪の為に相続染汚し、不平等の愛が其の心を映蔽し、邪法縈纒して瞋毒増上するをもって相見れば、便ち猛利の害心を起こすこと、今の猟師の野の禽獣を見るが如し、手に随って執る所は皆利刀と成り、各兇狂を逞うして互に相残害す。又、中劫の末、十歳の時、人は前の如き諸の過失を具するに由るが故に、非人が毒を吐きて疾疫流行し、遇えば輒ち命終して救療す可きこと難し。又中劫の末、十歳の時、人は亦前の如き諸の過失を具するが故に、天龍忿責して甘雨を降らさず。是れに由りて世間は久しく飢饉に遭うも、既に支済するもの無ければ、多分は命終す」。
 ここには、貪・瞋・癡の三毒、並びに婬欲、不平等の愛、邪法縈纒等が原因となって、寿命を減退させ、十歳に至って三災をひきおこし、ついに命終する様相が示されている。
 仏が出現され、仏法を説かれるのは、煩悩が強くなり、世の中が五濁の様相を呈してくる減劫の時に限られるとされている。仏教は人々の悪心を対治し、善心を強化して、煩悩から救う教えであるからである。
当時の外典と申すは本の外経の心にはあらず
 ところで、仏教が渡って後の外道は、仏教の心を取り入れて智慧を増し、未来の幼稚な外道とは異なったものになっていることを指摘されている。
 ひとことに〝外道〟といっても、このように種々の内容があり、これに関して摩訶止観巻十上には、次のように三種の外道を挙げている。「一には仏法の外の外道、二には仏法に附せる外道、三には仏法を学んで外道と成るものなり」と記されている。
 日蓮大聖人はこれを受けて、一代聖教大意に「外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二には附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり」(0403-05)と仰せである。
 また開目抄にも「例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり巧の心・出現して仏教を盗み取り自宗に入れて邪見もつとも・ふかし、附仏教・学仏法成等これなり」(0189-07)と仰せられている。
 仏教の智慧を摂取し、あたかも自宗の本来の智慧であるかのように見せかけて、人々を迷わしたのは、附仏法成の外道、学仏法の外道である。
 ゆえに、これらの外道を信ずることは謗法の諸宗の信仰と同様の害毒を生ずるのである。
又人の心やうやく善の智慧は・はかなく……
 いったんは仏教のなかでも小乗経で治まった世が、悪心が強くなるにつれて小乗経では及ばなくなり、大乗経に移り、その大乗経でもやがて間に合わなくなって、最後は法華経をもってようやく、しばらくの間治まったとの過程が示されている。
 しかし、一乗経すなわち釈尊の法華経も天台大師、伝教大師によって弘められたものの、まだ究極の法でなく「すこししばらく」の効果しかなかったのである。
 人間の心に貪瞋癡が強い故に、本来、貪瞋癡を抑え、心を治める仏法をさえも、逆に利用して自らの貪瞋癡のための手段とするようになるからである。

1465:11~1466:07 第二章 末法は貧瞋癡強盛なるを示すtop

11                                               今の代は外経
12 も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり、 ゆえいかんとなれば衆生の貪・ 瞋・ 癡の心のかしこ
13 きこと大覚世尊の大善にかしこきがごとし、譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり、又鼻の禽獣をかぐことは大聖
14 の鼻通にも・をとらず、ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・りうの身のかしこ
15 き・皆かしこき人にもすぐれて候、そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人
1466
01 も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・ 瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁
02 観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり、譬へば火をば水を
03 もつてけす・悪をば善をもつて打つ・ しかるにかへりて水より出ぬる火をば水をかくればあぶらになりていよいよ
04 大火となるなり。
――――――
 今の世は外道の経書も小乗経も大乗経も一乗法華経等も、治めることが叶わない世となった。理由はなぜかといえば、衆生の貪欲・瞋恚・愚癡の心の甚だしいことが、仏の大善にすぐれているのと同様であるからである。たとえば、犬は鼻のすぐれている事では人にまさっており、また鼻が鳥や獣を嗅ぎわけることは、大聖の鼻の通力にも劣らない。ふくろうの耳のすぐれていること、とびの眼のすぐれていること、すずめの舌の軽やかなこと、竜の身のすぐれていることは、みな賢人よりもすぐれている。そのように末代濁世の人の心の貪欲・瞋恚・愚癡の甚だしさは、どのような賢人・聖人であっても治めがたいことなのである。
 その故は、貪欲を仏は不浄観という薬をもって治し、瞋恚を慈悲観をもって治し、愚癡を十二因縁観をもってこそ治されたのであるが、今はこの法門を説くことによって人を陥れて貪欲・瞋恚・愚癡を増してしまうのである。たとえば、火に対しては水をもって消す。悪に対しては善をもって打ち破る。ところが、逆に水より出た火に対しては、水をかければ油をかけたようになって、ますます大火となるのと同じである。
――――――
05   今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり、 これをば・しらずして今の人人・善根をすすれ
06 ば・いよいよ代のほろぶる事出来せり、 今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは・外は善根とこそ見ゆれど
07 も内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり、
――――――
 今、末代悪世には世間の悪よりも出世の法門に従うことによって大悪が生じている。これを知らないで今の人々が善根を修しているので、いよいよ世が亡びる事態が出来しているのである。今の世の天台宗・真言宗等の諸宗の僧等を供養することは、外見は善根を積むように見えるけれども、内実は十悪業・五逆罪にも越えた大悪の行為なのである。

大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
不浄観
 肉体の不浄を観じて貪欲を離れる観法。五停心観の一つ。具体的には、異性に対する欲望を制するため、死後の肉体が次第に腐蝕して白骨となる姿を心に観想すること。
―――
慈悲観
 一切衆生に対する慈悲の念を感じて、瞋りを静める観法。五停心のひとつ。
―――
十二因縁観
 諸事象が12の因縁によて生ずるという理を観じて、愚かさを克服する観法。五停心の一つ。十二因縁とは、①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果 ⑪生 生まれること ⑫老死 老いと死 をいう。最初の無明が根本となって、すべてが六道輪廻の苦しみであるとする説。
―――
善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――
天台
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
五逆
 五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――――――――
 末法の今日では、釈尊のいかなる法をもってしても治めることができず、かえって、邪師によって釈尊の法が悪用されて邪法となり、いわば、薬が変じて毒となってしまっている有り様が述べられている。
 それは、末法においては人間の貪・瞋・癡の三毒の悪心が強盛になって、あたかも釈尊の衆生を救う慈悲の大善の強さと同じくらいになってしまったからである。このような衆生の三毒は、もはや、賢人・聖人といわれる人でさえも、消すことができないのである。
 本来、最も勝れた仏法であった天台宗でさえも、邪師の邪智によって、最も恐るべき毒となっている。故に、これらの邪師を供養することは五逆罪より更に重い大悪であると厳しく誡められているのである。
貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり
 不浄観、慈悲観、十二因縁観は、五停心観に含まれる観法であるが、これについて、一代聖教大意には次のように仰せである。
      ┌ 一に数息 …… 息を数えて散乱を治す
      ├ 二に不浄 …… 身の不浄を観じて貪欲を治す
 五停心 ―┼ 三に慈悲 …… 慈悲を観じて嫉妬を治す
      ├ 四に因縁 …… 十二因縁を観じて愚癡を治す
      └ 五に界方便 … 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う
 五停心観は、邪心を停止するための五種類の観法であり、声聞、縁覚、菩薩の三乗が修行した法である。
 このうち、不浄観は、身体の不浄な様相を観じて貪欲を対冶するものであり、慈悲観は一切衆生に慈悲の心を生じて瞋恚を静める観法である。また十二因縁観は、諸事象が因縁によって生じるという法理を観じて、愚癡の心を治す観法とされている。
 ところが、末法濁世では、これらの観法を修行すれば、かえって、三毒を増長してしまうというのである。それは、何故であろうか。
 本抄に仰せのように、仏教の智慧は、人間の生命を説き明かしたものである。
 人間の心は、まことに広大であり、宇宙大の広さをもち、時間的にも宇宙の始源をはらんでいる。その中に含まれる煩悩には重々に浅深があり、生命の表層部に生起する浅く弱い煩悩もあれば、生命深層からわきおこる深く強い煩悩もある。
 同じように、善心、つまり善の心作用にも浅深があり、強弱がある。
 仏教は、このような煩悩と善心の、浅深、強弱に応じて、煩悩を抑え善心を強化するための法門を説いていった。
 ところで、時代の様相を見ると、減劫においては、人々の煩悩が次第に強く深くなっていくのに相対して、善の心作用のほうは、浅く弱いものしか生起しないようになってきている。
 そこで、煩悩を対冶し、善心を増強するためには、次第に深い法門が必要とされるのであるが、今日では、一乗法華経でも全く効果がなくなっている。法華経でも無益なのであるから小乗の五停心観を修行しても、全く効力が期待できないのは当然といえよう。
 効力を発揮しないばかりか、これらの観法を使用すると、逆に、三毒を一段と刺激し、悪化させてしまうのである。それは、今まで、生命の奥底に滞在していた煩悩までが、観法によって刺激され、いわば〝眠れる状態〟から呼び起こされることになるからである。これは、ちょうど、化膿傷を治療する場合、十分な治療法によって膿をすべて出しきってしまわなければ、かえって悪くなり、逆に、膿の深部の組織にまで拡大し、化膿傷は一層、悪化してしまうのと同じである。
 煩悩は、それを対冶するに十分な力を持つ法門によって制御しなければならない。煩悩の強さ、また深さよりも浅い、弱い法門を使用すれば、今、生起している煩悩のみならず、さらに深部の煩悩まで揺り動かし、顕現させてしまうのである。これが不浄観等の観法によって三毒をかえって増強させてしまう主な理由である。
今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり
 末代悪世においては、世間的な悪も多いが、出世の法門すなわち仏法を誤って、そのために罪業を作り社会全体に大きな災いをもたらすほうが多いとの仰せである。その原因は、世間的な悪は、悪世といえども悪いことがわかるから、それを犯すまいという心が働く。しかるに仏法上の悪は一見、善事と見えるため、それを止めようとする心が働きにくく、より多くの人が犯してしまうからである。
 しかも、その結果もたらされる不幸・苦しみも、世間的悪より仏法上の悪のほうがはるかに深く大きい。ここに、誤れる信仰を指摘し正しい仏法を教えようとされた大聖人の並々ならない御苦難があられたのである。

1466:07~1466:18 第三章 治世の鍵を明かすtop

07                    しかれば代のをさまらん事は 大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有り
08 て・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・ 一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或は
09 せめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。
――――――
 それ故、世の中が治まるには、仏のような智慧をもった智人が世にいて仙予国王のような賢王と寄り会って、ひたすらにそうした善根の行為を止めを止め、大悪をもって八宗の智人と思われている者を責め、あるいは流罪し、あるいは布施を止め、あるいは頭をはねてこそ、世の中は少し治まるであろう。
――――――
10   法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申す
11 は本とは悪のね善の根・ 末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、 善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申す
12 なり、天台云く「夫れ一心に十法界を具す」等云云、 章安云く「仏尚此れを大事と為す易解を得べきなり」妙楽云
13 く「乃至終窮究竟の極説なり」等云云、 法華経に云く「皆実相と相違背せず」等云云、 天台之を承けて云く「一
14 切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云、 智者とは世間の法より外に仏法を行ず、 世間の治世の法を能
15 く能く心へて候を智者とは申すなり、 殷の代の濁りて民のわづらいしを 大公望出世して殷の紂が頚を切りて民の
16 なげきをやめ、 二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ 民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれど
17 も教主釈尊の御使として民をたすけしなり、 外経の人人は・ しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法
18 の智慧をさしはさみたりしなり。
――――――
 法華経の第一の巻の方便品第二に「諸法実相」、また「ただ仏と仏とが能く究め尽くされたところのもの」と説かれているのはこれである。本末究竟というのは、本とは悪の根本・善の根本であり、末というのは悪の終わり・善の終わりのことである。善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。天台大師は「一瞬の生命に十法界を具している」等といっている。章安大師は「仏はこれを一大事としている。どうして理解しやすいことがあろうか」と言っている。妙楽大師は「これが最終究極の極説である」等といっている。法華経法師功徳品第十九には「諸の法はみな実相と違背しない」等とあり、天台大師はこれを承けて「すべて世間の政治・経済は、みな実相と違背しない」等と言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心えているのを智者とはいうのである。殷の世が濁乱して民衆が苦しんでいた時に大公望が世に出て殷の紂王の頚を切って民の嘆きを止め、二世王が民衆の生活を苦しめたときには、張良が出て世の中を治め、民の生活を豊かにした。これらは、仏法以前であるけれども教主釈尊の御使いとして民衆を助けたのである。外道の経書を持った人々は意識しなかったけれども、それらの人々の智慧は実際には仏法の智慧を含みもっていたのである。

仙予国王
 釈尊の過去世における菩薩修行の時の姿。涅槃経の聖行品に説かれている。釈尊はその昔、過去世に閻浮提の大国の王に生まれ、仙予と名のっていた。そして大乗経典を愛念し敬重し、その心は純善で、粗悪の心や人をねたんだり物惜しみをするようなことはなかった。口には愛語、善語を述べ、身は貧窮と孤独を守り、布施、精進を少しも休み廃することがなかった。その時代には仏、声聞、縁覚はいず、婆羅門に師事した。その婆羅門に仙予国王が「師等今応に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし」といったところ、婆羅門は「大王、菩提の性は是れ有る所無く、大乗経典も亦復是の如し。大王、云何ぞ乃ち人と物とをして、虚空に同ぜしむ」と大乗経典を誹謗した。これを聞いた大王は直ちに五百人の婆羅門を殺した。この因縁によって大王はそれ以来地獄に堕ちず、殺された婆羅門も大乗誹謗を悔い、後の世に大乗の信を発して救われたという。
―――
八宗
 日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
十法界
 衆生の十種の境界のことで、十界のこと。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界のこと。
―――
章安
 (0561~0632)。章安大師のこと。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
仏尚此れを大事と為す易解を得べきなり
 観心論疏巻四に「衆生に若し仏の知見無くんば、何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵無くんば、何ぞ示す所あらんや。仏此れを将て大事と為す。何ぞ解し易きことを得べけんや」とある。
―――
妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――

 紀元前11世紀ごろまで栄えていた中国古代の王朝。商とも称した。数百年にわたって盛衰を繰り返したが、紂王のとき、周の武王に滅ぼされた。
―――
大公望
 周代の斉の始祖。姓は姜、氏は呂。魚釣りの貧しい老人の身なりをして各地を放浪し、世を避けていたが、渭水で釣りをしていたところ、周の西伯に会い、先君太公が久しく待ち望んでいた賢人であると、懇望されて西伯に仕えた。西伯の死後は、西伯の子・発を助けて殷を討ち、天下を平定した。
―――

 中国古代の殷王朝最後の王。名は辛。才智・体力にすぐれていたが、妲己を溺愛し、酒池肉林をつくって終夜の宴にふけり、良臣を殺し、民を苦しめるなどの悪政をしいたといわれる。夏の桀王とともに桀紂と並称されて悪王の代表とされる。周の武王に滅ぼされ、殷王朝は崩壊した。
―――
二世王
 (前0229~前0207)。中国・秦の第二世皇帝。始皇帝の第二子で、名は胡亥。始皇帝の死後、宦官趙高などの策謀によって紀元前0209年即位したが、趙高に実権をにぎられ、国は乱れた。前0207年、趙高に襲われ、自殺させられた。
―――
張良
 (~前0168)。中国・前漢の建国の功臣。字は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
―――――――――
 これまで述べられたように、末法の世は、仏教諸宗の法門がかえって世の中を害するものとなっている。この末法に世の中を治めようとすれば、大覚世尊のような大智慧の人が出現して、賢王の助けを得て、悪法に迷っている外面的な善根をとどめ、一見大悪とみえる厳しい呵責によって八宗の智人と思われている僧達をせめ、あるいは供養をとどめることが肝要であると述べられている。
 ここで「或は頭をはねて」といわれているのは、仙予国王がバラモンの命根を断ったという涅槃経の文を受けて表現されたのであり、立正安国論に「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(0030-17)と仰せられているとおり、真意は布施をとどめることにある。
 すでに示されたように、一乗法華経でも対冶できない煩悩とは元品の無明である。たとえ、釈尊の法華経でも元品の無明にだけは無力であり、かえって無明の胎動を刺激し、呼びおこすことになりかねない。元品の無明を対冶する利剣は、元品の法性である南無妙法蓮華経以外にはありえないのである。
 その元品の無明を、天台宗では釈尊の法華経によって制御しようとし、真言宗では真言三部経の悪法によって対冶しようとしたのであるから、かえって無明の顕現を増強するという逆効果に終わってしまったのである。
 故に大聖人は、天台・真言等の僧に供養するのは大悪であると仰せられ、彼らへの供養をとどめることが、災いをとどめ世を治める鍵であると教えられているのである。
 そして「大覚世尊の智慧のごとくなる智人」ということを説明されて、法華経の「諸法実相」等の文を挙げられて仏法と世法の全てを覚り究めているのが仏の智慧であり、そうした智慧をもってしてはじめて人々の苦悩を根本から取り除き、幸せをもたらすことができることを示されている。
 諸法実相、一念三千は、法華経の極理であり、諸法とは、この現実世界に三千の様相を現出する一切の現象をさし、実相とは、真実の相であり、生命の奥底の一念をあらわしている。そして、諸法実相とは諸法が即実相であるということであり、政治、経済等の一切の現象は、真実の相と違背することはないのである。諸法は、そのまま実相、つまり宇宙と生命奥底の妙法蓮華経の顕れなのである。
 このように、諸法実相、一念三千である故に、世間法以外のところに仏法はないのであって、世間のなかで仏法を行じ、仏法の智慧で政冶や経済等の一切の現象をよく洞察し、世の中を正しく治めていく人を智者というのであると述べられ、例証として太公望と張良の例をあげられている。
 彼等は、悪の根源を見抜き、これを断つ智慧で人々の苦悩を静めたのであり、無意識的に、仏教の智慧を、世間の中に行じ、世を治めた例証であると言われている。
本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり
 仏は諸法実相・十如是を悟り究めているとの方便品の文から、その十如是の内の本末究竟等を挙げて、善悪の根本と枝葉とを明確に悟り究められているのが仏であると述べられている。善悪の根本、枝葉とは具体的には一体何をさすのであろうか。
 本末究竟等の本とは〝根本〟との意味であるから、善と悪の根源ということである。あらゆる善の根源とは、元品の法性であり、すべての悪の根源は、元品の無明である。
 この元品の法性と元品の無明が現象世界へと顕現していく時、種々の幸・不幸の姿をもたらす。善とは幸福、悪とは不幸・苦しみを意味している。
 ふつう、仏法はこのうち生命内在の世界を説いたもので、すなわち善悪の根本については解明しているが、現象世界すなわち枝葉については関知していないと考えられがちである。だが、それは爾前権教を真の仏法と思っているところからくる誤認識である。この法華経方便品が明かしているように、生命事象そのものが本末究竟して等しいのが真実の相であり、それを正しく悟り究めた仏の智慧は、必然的に本すなわち生命内在の世界のみでなく、末すなわち現象世界――、一切世間の治生産業のすべてにまでわたるのである。ゆえに、この世界の真の平和と幸福を実現するには、つまりこの濁世を治めるには、「大覚世尊の智慧のごとくなる智人」と「仙予国王のごとくなる賢王」とよりあって、不幸の元凶である謗法をなくし、正しい仏法の智慧をもって治めることが肝要となるのである。
智者とは世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり
 本と末とは究竟して等しいのであり、十法界も一心に収まり、一切世間の法は皆実相と違背しないのであるから、仏法の智慧を承けた智者は世間の中で、世間の法の上で仏法を行じ、人々を導き、幸せを得させていくのであるとの御文である。すなわち、仏法といっても、世間法、すなわち社会より外にあるものではなく、仏法の智慧は、現実社会の中で発揮され、顕証していくべきものである。
 日蓮大聖人は、白米一俵御書のなかでも「まことの・みちは世間の事法にて候(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(1597-04)と仰せである。
 生活上の事象と仏法とは一体不二であるから、世間の法がそのまま仏法の全体となるのである。故に、仏法の真実の相は、生活現象の真っただ中に顕れるのであり、また、逆にいうと、人々が何を求め、どうすれば幸せになれるかを弁えていくことは、それ自体が仏法を知っていることになるのである。
 その例として大聖人は中国周王朝草創の功臣・太公望と同漢王朝草創の功労者・頂良を挙げられ、人々の心を知り、苦しみを取り除いて幸福と平和をもたらした彼らは、仏法者ではなかったけれども、仏法の智慧を内心にさしはさんでいたのであると言われている。このように、大聖人は、一方では仏教僧たる諸宗の僧を、彼らが仏法の精神に背き、これを破壊しているゆえに「外道」なりとして厳しく責められながら、仏教者ではない太公望や張良を、仏法の精神に叶っているゆえに「仏法の智慧をさしはさみたり」として高く評価されている。ここに、外面的な形にとらわれず、あくまで根本の精神、本質を見つめられた大聖人の鋭さと思考の幅広さ、精神の柔軟性を――当然といえば当然であるが――拝察することができるのである。

1467:01~1467:05 第四章 大悪は大善の来るべき瑞相top

1467
01   今の代には正嘉の大地震・文永の大せひせひの時智慧かしこき国主あらましかば日蓮をば用いつべかりしなり、
02 それこそなからめ文永九年のどしうち・ 十一年の蒙古のせめの時は周の文王の大公望をむかへしがごとく・殷の高
03 丁王の傅悦を七里より請せしがごとくすべかりしぞかし、 日月は生盲の者には財にあらず 賢人をば愚王のにくむ
04 とはこれなり、 しげきゆへにしるさず、 法華経の御心と申すはこれてひの事にて候・外のことと・をぼすべから
05 ず、大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。
――――――
 今の世において正嘉元年の大地震や文永元年の大彗星のとき、もし智慧のすぐれた国主がいたならば日蓮を用いたにちがいないのである。それがなかったにしても、文永九年の北条一門の同士打ちや文永十一年の蒙古の襲来の時は、周の文王が大公望を迎えたように、また殷の高丁王が傅悦(ふえつ)を七里の先より招請したようにすべきであったのだ。日月は盲目の者には財ではなく、賢人を愚王が憎むというのはこれである。繁雑になるので詳しくは記さない。法華経の心というのは、このようなことなのである。外のことと思ってはならない。大悪は大善の来る前兆である。一閻浮提が打ち乱れるならば「閻浮提のなかに広く流布せしめる」ということは、よもや疑いあるまい。

正嘉の大地震
 正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
―――
文永の大せひせひ
 文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
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文永九年のどしうち
 二月騒動のこと。文永9年(1272)2月11日、執権北条時宗に対する異母兄・北条時輔の反乱の企てが発覚し、時宗によって、それに連なった名越教時・仙波盛直らが討たれ、2月15日には時輔が攻め滅ぼされた事件。
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十一年の蒙古のせめ
 第一回元寇のこと。文永11年(1274)10月の文永の役をいう。文永5年(1268)国書をもって日本の帰属を強要してきた蒙古は、その後もしばしば使いを送って服属を求めたが幕府はこれを拒否した。そのため、文永11年(1274)10月、蒙古・高麗の連合軍が壱岐・対馬を襲い、さらに博多湾に上陸した。防戦する日本軍を破り大宰府に迫ったが夜になり、船に引き上げた。その夜半、暴風にあい、壊滅的損傷を受けて去ったといわれる。
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周の文王
 中国周王朝の基礎をつくった君主、理想の名君とされている。姓は姫、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。死後、子の武王が殷王朝を滅ぼし、周王朝を建てるにおよんで、文王と諡された。
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高丁王
 生没年不明。中国・殷王朝第22代の王。名を武丁といい、高宗と呼ばれた。史記によると、衰えていた殷を復興しようとしたが、補佐の人物を得られなかったため、三年間は治世を臣下に任せ、情勢を観察した。後に、野に隠れていた賢人傅説を登用したことによって国は治まり、殷は復興したという。
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傅悦
 生没年不明。中国・殷王朝第22代武丁に仕えた名臣・傅説のこと。史記によると、国の復興のため有為な補佐の人を願っていた武丁は、ある夜、夢に説の姿を見、臣下に捜させた。その結果、土工として働いていた説を見つけだし、登用した。この名臣によって国も治まり殷も復興したという。
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瑞相
 きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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閻浮提内広令流布
 普賢品に「世尊、我今神通力を以っての故に、是の経を守護して如来の滅後に於いて、閻浮提の内に広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。普賢菩薩が護法を誓願して述べた言葉である。
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 今の世を治めるのに必要とされる「大覚世尊の智慧のごとくなる智人」が、ほかならぬ日蓮大聖人御自身であることを示されている。その理由は、ここに「文永九年のどしうち・十一年の蒙古のせめの時」と述べられているように、これは立正安国論で自界叛逆難として予言し警告されていたところであり、大聖人が三世を正しく見通されている聖人すなわち「大覚世尊の智慧のごとくなる智人」であることが、事実をもって証明されたからである。これは、仏法の正邪の判別ができない凡人であっても、常識的に判断できることであった。
 もし、仏法を判別できる「智慧かしこき国主」であったなら、もう一つ前の正嘉の大地震や文永の彗星の段階で災難を取り除くため、正しい仏法を教える師を求めていたに違いない。
 しかるに、大聖人の予言が事実となってあらわれたのちもなお、国主が大聖人に教えを求めないのは、愚王は賢人を憎むという習いであるとのべられ、しかし、世の中に大きな災いがあらわれているのは、やがて大善が到来すべき瑞相であり、南無妙法蓮華経の大法が広宣流布していくことは間違いないと述べられている。
大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ
 日蓮大聖人は、諸御書のなかで、当時の三災七難を二面からとらえておられる。すなわち、一方では、三災七難は一国が謗法を犯していることによって生じた結果であるとされ、他方では邪法が廃れ正法が興隆する先兆であるとされている。
 この二つの捉え方の関係について、呵責謗法滅罪抄では、次のように教示されている。
 「疑つて云く正嘉の大地震等の事は去る文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて故最明寺入道殿へ奉る所の勘文・立正安国論には法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に天地瞋をなし自界叛逆難と他国侵遍難起るべしと勘へたり、此には法華経の流布すべき瑞なりと申す先後の相違之有るか如何、答えて云く汝能く之を問えり、法華経の第四に云く『而も此の経は如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや』等云云、同第七に況滅度後を重ねて説いて云く『我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん』等云云、仏滅後の多怨は後五百歳に妙法蓮華経の流布せん時と見えて候、次ぎ下に又云く『悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼』等云云」(1119-17)。
 また、法華取要抄にも、天変地夭を吉凶二面から拝された後、結論として、次のように仰せである。
 「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0338-02)。
 日寛上人も、法華取要抄文段に「国土の謗法に由り天地瞋を成す。この故に天変地夭起るなり。この天変地夭もまた即ち大法流布の先相と成るなり」と述べられている。
 端的にいえば、すべての事象は、原因があっての結果である。しかしまた、現在の事象をどう捉えそれに対処するかによって、未来を拓いていくのが人間の英知である。三災七難の現在の事象を結果と捉えれば一国謗法という因によって生じたものであるが、その現在を未来のために捉え直せば、大法興隆の瑞相となるのである。この主体的な取り組み方を日蓮大聖人は、大悪大善御書でも、次のように示されている。
 「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし」(1300-01)と。
 現在の事象がいかなる原因によって生じたものかを知ることは大切であるが、それだけでとどまったとすれば、ただ認識にすぎない。その正しい認識を踏まえて、では、よりよい未来のために何をなすべきかを知らなければならない。
 日蓮大聖人は立正安国論の段階では、まだ〝正法〟を明らかにされなかったので、三災七難が一国謗法という因によってもたらされた結果であるという面を述べられたのであるが、その〝正法〟の内容を三大秘法の南無妙法蓮華経として明らかにされてからは、この大法興隆の瑞相として災厄を位置づけられたのである。

1467:06~1467:10 第五章 入道を思う心情を述ぶtop

06   此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候、 むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば
07 我とゆきて 其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候、 しかれども当時のありさまは日蓮かしこへゆくならば其の
08 日に一国にきこへ・ 又かまくらまでもさわぎ候はんか、 心ざしある人なりともゆきたらんところの人人めををそ
09 れぬべし、いままでとぶらい候はねば聖霊いかにこひしくをはすらんと・をもへば・あるやうもありなん、 そのほ
10 ど・まづ弟子をつかわして御はかに自我偈を・よませまいらせしなり、其の由御心へ候へ、恐恐。
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 この大進阿闍梨を故六郎入道殿のお墓へ行かせることにした。昔、この法門を聞いている人々に対しては、関東の内であるならば自ら行って、そのお墓に自我偈を読んでさしあげようと思っていた。しかしながら現在の状況は、日蓮がそこへ行くならば、その日のうちに一国に伝わり、また鎌倉までも騒ぐであろう。信心のある人であっても自分が行った先の人は人目を心配しなければならないであろう。
 今まで訪れていないので聖霊がどんなに恋しがっていらっしゃるであろうと思うと、何かできることもあるであろうと考え、それで、まず弟子を派遣して、お墓に自我偈を読ませ申し上げることにしたのである。その事情を御了承ください。恐恐。

大進阿闍梨
 大進房のこと。曾谷教信の縁戚にあたる。下総(千葉県)の出身。早くから大聖人の弟子となりの門下の長老格であった。だが原因は定かではないが大聖人に敵対し、長崎次郎兵衛尉時綱等とともに暴徒を指導し大聖人門下に危害を加えたが誤って落馬し、それが原因で死んだ。
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六郎入道
 大聖人御在世当時の信徒。駿河国富士郡加島(静岡県富士宮市加島)に住んでいた高橋六郎兵衛入道のこと。日興上人の叔母を夫人とし、富士地方弘教の中心的存在であった。建治元年(1275)には病に臥しており、後に没したと推定される。
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自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
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 本章では、日蓮大聖人が、故六郎入道の死去について大進阿闍梨を使いとしてつかわし、墓前で自我偈を読ませたことを語っておられる。
 「むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候」とは、古くから門下となり、幾多の苦難のなかを信心に励んできた人々に対する真心を仰せられている。本来ならば、自分で行って、その墓前で自我偈を読み、回向をしてあげたい。しかし、もし大聖人が身延を出て北条時宗の領国であり北条氏の身内が多い富士一帯に姿をあらわされたとなると、必ず騒ぎが起こる。また、相手にもどんな迷惑がふりかかるかしれないので、行くわけにはいかないこと、だが、聖霊がどれほど大聖人のことを恋い慕っているかと思うとじっとしていられない気持ちであることを述べられて、まず弟子をつかわしたこと等々を仰せられている。まことに、信徒に対する厚い温情が行間からあふれでるような御言葉である。


1465~1597    減劫御書(智慧亡国書)2011:02 大白蓮華より 先生の講義top

民衆を幸福を実現する仏法の智慧 
 ある日ある時、戸田先生と、私たちの広宣流布の使命について語り合ったことがあります。「なぜ、不惜身命で信心しなければならなのでしょうか」と、私が質問すると、先生は答えてくださいました。
 「この地球上で、戦争は人を殺し合う。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。本来は人を救う指導者が、反対に人を見くだし、利用している輩も多い。
 その他、政治も科学も教育も宗教も ともかく人間の業というか、社会は複雑です。すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。
 その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生はない。
 だから信心だけは命がけでやって悔いがないのだ」
 私はこの言葉に心から感動しました。そして、この究極の人生の道を、戸田先生が教えてくださった通りに命をかけて歩んでいこうとあらためて深く決意したのです。
 万人の幸福を実現するために戦い抜く究極の人生、これほど心躍る生き方があるでしょうか。これ以上に生命が充実する生き方はありません。
 日蓮大聖人の仏法の実践こそが「万人の幸福への根本の道」であることが明らかにされたのが、今回学ぶ「減劫御書」です。
 「減劫」とは、人々の心のうちの貧瞋癡の三毒が盛んになるに従って、人間の生命力が心身とともに衰えていく時代をいいます。今、私たちが直面している時代は、この減劫に当たるとされています。この時代を、人間が貧瞋癡に毒されずに、強く正しく生き抜き、幸福を勝ち取っていくためには、どうしても、仏法の智慧が必要です。貧瞋癡の三毒をはじめとして、人間を不幸に陥れる生命の迷いを、いかに克服するか。その道を深く鋭く洞察したのが、仏法だからです。
 本抄は、駿河国の高橋六郎兵衛入道が亡くなった後に、その縁者に送られた御手紙です。おそらくは近親の人か、あるいは縁戚筋の駿河の門下であったとも考えられます。いずれにしても、当時の世相の本質を喝破されている本抄の内容から、本抄の対告衆は、武士ではないかと推察されます。
 ご述作の年代は、蒙古襲来があった後の、建治2年(1276)頃と考えられます。高橋殿は純真に大聖人を求めた信心強盛な門下でした。亡くなった際には、大聖人は墓前を弔いたかったとの御心情を吐露されています。しかし、駿河の地は北条氏の直轄地でもあり、大聖人が動けば大きな騒ぎになってしまう。だから弟子を派遣して墓前で自我偈を読ませることにしたと本抄に記されています。どこまでもこまやかに、門下の身を案じてくださる大聖人であられました。
 この当時、再び蒙古が襲来すれば、日本全体の滅亡の恐れすらあるとの切迫した危機感が広がっていました。人々の心には逃げ場のない不安が高まっていたのです。
 幕府は、仏教の各宗派に対して祈禱を命じました。人々も、仏教に敵国調伏の祈禱を期待しました。仏教側も真言宗だけでなく、諸宗派が恩賞を目当てにして祈禱に参加したようです。仏教だけでなく、陰陽師など外典に基づく思想・宗教の人々も祈禱に関与していたと言われる。
 要するに、支配者も宗教者も民衆も、大きく動揺していた。まさに人々が貧瞋癡に支配された亡国の姿そのものでした。
 大聖人は、本抄で、末法においては、人間の心身の生命力を奪う貧瞋癡の悪の力は、大覚世尊、即ち釈尊が諸経で示した大善の智慧の力を盗み入れ、むしろ凌駕している。それが、今の亡国の根本原因であると明かされているのです。
 釈尊の大善の智慧ですら、末法の衆生の貧瞋癡に呑み込まれている。小乗・大乗の智慧も、さらに一乗である法華経の智慧さえも、敵はないと言われている、仏法のうえからみても、もはや絶体絶命の状況であった。
 しかし、大聖人は、このような時こそ、釈尊のごとき大善の智慧をもった「善人」が出現し「賢王」と力を合わせて、悪を根源から断ち、ついには世界広宣流布が実現する時であると大確信で述べられています。
 つまり、仏法の「智慧」が、一人の真実の智者を通して、社会において民衆を救う「力」となって、変革の渦を巻き起こしていくことができるとの仰せと拝されます。それが、末法の民衆を貧瞋癡の大悪から救う唯一の道なのです。
 仏法上の「智人」と社会的な「賢王」とは、地涌の菩薩の導師である四菩薩が現す姿として「観心本尊抄」にも説かれています。また、本抄では「仏法の真実の智者とは、民衆を幸福にするために、現実社会の中で仏法を実践する」(という意味のことを)のべられています。
 仏法は貧瞋癡の三毒を治して、民衆の幸福と国土の安穏を実現するための智慧です。そのためにこそ仏法を説いたという「仏意」は法華経に明確です。しかし、末法では、その法華経に示された仏意が見失われ、逆に、一時的・部分的な方便の教えが民衆の貧瞋癡を増していく大悪と化している。その時にこそ、民衆を救うという仏法の本来の目的を成就するために、仏法の真実の智慧と民衆を救う社会的な実践の力とを具えた智者が出現し、民衆救済に打って出るのです。
 その民衆救済、即ち広宣流布への真剣さと実践力と指導力をもたらされた末法の真実の「智者」日蓮大聖人であられることを本抄では明かされているのです。

11                                               今の代は外経
12 も小乗経も大乗経も一乗法華経等もかなわぬよとなれり、 ゆえいかんとなれば衆生の貪・ 瞋・ 癡の心のかしこ
13 きこと大覚世尊の大善にかしこきがごとし、譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり、又鼻の禽獣をかぐことは大聖
14 の鼻通にも・をとらず、ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・りうの身のかしこ
15 き・皆かしこき人にもすぐれて候、そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人
1466
01 も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・ 瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁
02 観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり
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 今の世は外道の経書も小乗経も大乗経も一乗法華経等も、治めることが叶わない世となった。理由はなぜかといえば、衆生の貪欲・瞋恚・愚癡の心の甚だしいことが、仏の大善にすぐれているのと同様であるからである。たとえば、犬は鼻がすぐれている事では人にまさっており、また鼻が鳥や獣を嗅ぎわけることは、大聖の鼻の通力にも劣らない。ふくろうの耳のすぐれていることは、みな賢人よりもすぐれている。そのように末代濁世の人の心の貪欲・瞋恚・愚癡の甚だしさは、どのような賢人・聖人であっても治めがたいことなのである。
 その故は、貪欲を仏は不浄観という薬をもって治し、瞋恚を慈悲観をもって治し、愚癡を十二因縁観をもってこそ治めれれたのであるが、今はこの法門を説くことによって人を陥れて貪欲・瞋恚・愚癡を増してしまうのである。

釈尊の大善の智慧でも治せない末代の貧瞋癡
 本抄では、貧瞋癡の三毒こそが衆生の生命を衰えさせる根源の悪であり、末法では、この三毒が一層強盛になります。その悪の智慧は、仏法の智慧を凌ぐと示されています。
 この三毒を克服するために、仏教ではさまざまな教えが説かれました。しかし、末法の濁世にあっては、三毒の貧欲は不浄観によって、瞋恚は慈悲観によって、愚癡は十二因縁観によって克服できると説きます。しかし、末法では、これらの法門の実践には効き目がないどころか、かえって三毒を増長させてしまう。すなわち、諸悪の根本原因が分からないまま対処すれば、かえって悪を助長してしまうのです。
 大聖人は、末法の衆生の貧瞋癡は、釈尊の大善の智慧によっても治めることはできないと喝破されました。それは、釈尊の教えを奉じながら、一時的・部分的な教えへの執着によって、肝心の「万人の成仏」「民衆救済」という仏意が見失われているからである。もはや、仏法の智慧を生かし弘め、民衆も社会を蘇生させる力を失っているのです。
 法華経に示された「万人の成仏」という仏意を深く受け止めれば、一人の人がもつ無限の力を開き現し蘇生させること、そして一人から一人への「人間革命」の連鎖である広宣流布の実践がいかに重要かが自覚できます。
 私は、世界の多くの識者と対話してきました。現代の危機について共通する認識は、詮ずるところ本源的な解決策は、「人間自身の変革から始まる」という一点でした。もちろん、現実の諸問題に対して有効な処方箋は具体的に、そして迅速に遂行すべきは当然です。その意味では、真の経済家、政治家、教育者をはじめ各界の第一人者が、いやまして真剣に人類的課題に英知を決集していくことが、ますます大事になっています。
 そのうえで、より根本的には、三毒という根深い煩悩を克服する哲学と実践を、今こそ人類は求めています。人間自身の変革こそ急務だからです。

05   今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり、 これをば・しらずして今の人人・善根をすすれ
06 ば・いよいよ代のほろぶる事出来せり、 今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは・外は善根とこそ見ゆれど
07 も内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり、 しかれば代のをさまらん事は 大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有り
08 て・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・ 一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或は
09 せめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。
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 今、末代悪世には世間の悪よりも出世の法門に従うことによって大悪が生じている。これを知らないので今の人々が善根を積むものと思って諸宗の教えを修しているので、いよいよ世が亡びる事態が出来しているのである。今の世の天台宗・真言宗等の諸宗の僧等を供養することは、外見は善根を積むように見えるけれども内実は十悪業・五逆罪にも越えた大悪の行為なのである。
 それゆえ、世の中が治まるには、仏のような智慧をもった智人が世にいて仙予国王のような賢王と寄り会って、ひたすらにそうした善根の行為をとどめ、大悪をもつて八宗の智人と思われている者を責め、あるいは流罪し、あるいは布施を止め、あるいは頭をはねてこそ、世の中は少し治まるであろう。

智人と賢王が民衆のための行動を
 ここで大聖人は世法上の悪よりも、仏法上の悪のほうが一層民衆を苦しめる大悪となっていると指摘されています。
 当時の日本の宗教はそうした大悪を生じさせている悪法であると破折されています。それは法華経に説かれる仏意に背く謗法に陥っているからです。その根本は、万人成仏の教えに対する不信にあったと言えます。
 本来、釈尊の願ったことは、全民衆の成仏です。それは、法華経に示された釈尊の「如我等無異」の大願に端的に示されています。いかなる人も、尊極の仏性を現すことができる存在であることを認め合い、互いに尊敬しあって平和な社会を築いていくことが、仏法の理想の本質です。正確に言えば、爾前諸経もまた、人間の尊厳性を示す仏法思想の一端が示されたものです。本来であれば、仏教の智慧全体が人類に多大な貢献をする。人間宗の牙城となるべきである。しかし、仏意を忘却し、仏教の根本の理想を見失って、爾前諸経の一時的・部分的教法に執着し、あまつさえ自宗を絶対化するあまり、法華経を誹謗し、万人尊敬の「仏法の智慧」を否定するに至ったのが、当時の仏教諸派だったのです。
 すなわち、当時の諸宗の僧たちは、不軽菩薩を迫害した四衆のように、法華経の行者である大聖人を徹底的に憎み、道門増上慢、僭聖増上慢の働きと化していた。
 しかし、当時の一般の在家の人々は、宗教の権威や僧侶の外見の姿に迷ったがゆえか、そのことが分からなかった。
 その結果、人々は、仏教を実践し善根を積んでいたつもりでも、恐ろしいことに、実際には謗法の毒に染められてしまったのです。いわば、当時の衆生は、薬だと思って毒を飲まされていた。そのことを「出世の法門につきて大悪出生せり」と示されているのです。
 大聖人は、この事態を解決する方途として、仏の智慧を持った「智人」と、「賢王」とが共に大悪を戒めていかなければならないことを示されています。
 諸宗の謗法と悪僧の正体を見破り、徹して悪と戦い、仏教が本来目指していた万人尊敬の理想を復興するのが「大覚世尊の智慧」を持った智人です。
 この智人が、事の正邪を峻別する資質を持つ優れた賢王と共に協力しあって、民衆を苦しめる邪義を打ち破っていく、それでこそ、民衆を救い、安穏の社会が築かれていくことが明かされています。
 仏の大善の智慧を持つだけでなく、悪を見破り、悪と戦って、民衆を悪法から救っていく戦いに力を尽くす人こそが、末法における真の「智人」「智者」なのです。
 この「智人」「智者」としての、不惜身命の闘争に立ち上がられたのが日蓮大聖人です。
 大聖人は、この謗法の恐ろしさを日本国の人々に教えるために、たとえ御自身がいかなる大難をうけようとも、当時の「出世」の僧たちこそ仏法破壊の「大悪」の存在であることを訴え続けてこられたのです。
 しかし、本来であれば法華経を守るべき天台宗も真言密教化して、目先の利益を図る呪術に傾き、法華経に説かれた仏意を忘却していったために、時代の闇はますます深くなっていった。
 それゆえ大聖人は、法華経の万人尊敬の精神を破壊する者に対しては、一切の妥協なく、徹底的に戦うべきことをのべられています。「あるいは責め、あるいは流罪し、あるいは布施をとどめ、あるいは頸をはねるべきだ」とまで仰せです。
 もちろん、文字通りの処刑を望まれたのではありません。むしろ、実際には万人の幸福と平和な社会の実現のために命懸けで戦った大聖人を、当時の権力者と民衆は、責め、流罪し、頸をはねようとしたのです。大聖人は、もし、権力者がそのような厳しい態度を取るというならば、その相手が違うのではないかと、痛烈な諌暁をされたのです。万人の棟梁であるべき為政者が、正邪を峻別する態度を取らなければ亡国は間違いないと、あえて指導者を覚醒だせるために警鐘を鳴らされていると拝されます。いわば、智者の言葉を用いる賢王たれと、権力を持つ者を鋭く戒められているのです。
 ここでいう賢王とは、智者を理解する社会的存在です。今日の民主主義社会にあっては、賢王の存在とは、まさしく賢明な民衆であり、民衆自身が賢くなることこそ、安穏な社会を築くための必須条件といえます。
 民衆が賢明になり、堅固になってこそ、社会の中で、生命尊厳の思想、絶対平和の思想が広く定着している。そして、民衆を苦しめる差別や戦争を起こすエゴの思想が、民衆によって拒否される。民衆自身が魔性を封じ込めていくのです。そうした「善の連帯」を築くことが、現代における智人と賢王の出現の意義だと言えます。その社会を築くためにこそ、仏法の「生命尊厳の思想」「万人尊厳の思想」「平和建設の思想」を幅広く宣揚していくことが不可欠なのです。
 「言論の力」「対話の力」「思想の力」で人々の心に訴えかけ、安穏な社会を築くことが、私たちの仏法者の人間的使命であり、社会的責務にほかならない。
 この私どものたゆまざる挑戦こそ、本抄で示されている、悪と戦い善を実現していく変革の原理に深く通ずるものと確信します。

10   法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申す
11 は本とは悪のね善の根・ 末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、 善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申す
12 なり、天台云く「夫れ一心に十法界を具す」等云云、 章安云く「仏尚此れを大事と為す易解を得べきなり」妙楽云
13 く「乃至終窮究竟の極説なり」等云云、 法華経に云く「皆実相と相違背せず」等云云、 天台之を承けて云く「一
14 切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云、 智者とは世間の法より外に仏法を行ず、 世間の治世の法を能
15 く能く心へて候を智者とは申すなり、 殷の代の濁りて民のわづらいしを 大公望出世して殷の紂が頚を切りて民の
16 なげきをやめ、 二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ 民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれど
17 も教主釈尊の御使として民をたすけしなり、 外経の人人は・ しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法
18 の智慧をさしはさみたりしなり。
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 法華経の第一の巻の方便品第二に「諸法実相」また「ただ仏と仏とが能く究め尽くされたところのもの」と説かれているのはこれである。本末究竟というのは本とは悪の根本・善の根本であり、末というのは悪の終わり、善の終わりのことである。善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。天台大師は「一瞬の生命に十法界を具している」等といっている。章安大師は「仏はこれを一大事としている。どうして理解しやすいことがあるだろうか」と言っている。妙楽大師は「これが最終究極の極説である」等といっている。法華経法師品第十九には「諸の法はみな実相と相違しない」等と言っている。天台大師はこれを承けて「すべての世間の政治・経済は、みな実相と相違しない」等と言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心えているのを智者というのである。殷の世が濁乱して民衆が苦しんでいた時に大公望が世に出て殷の紂王の頚を切って民の嘆きを止め、二世王が民衆の生活を苦しめたときには、張良が出て世の中を治め、民の生活を豊かにした。これらは仏法以前であるけれども教主釈尊の御使として民衆を助けたのである。外道の経書を持った人々は意識しなかったけれども、それらの人々の智慧は実際には仏法の智慧を含みをもっていたのである。

善悪の根本・枝葉を知る智者
 末法における真の「智者」とは、善と悪の根源を悟るとともに、善と悪の枝葉、つまり現実世界で善悪の現れを知り尽くした人であるといわれています。つまり、仏法と世法を究めた人であり、世を治める法をよくよく心得た人こそが、真の「智者」であると明かされています
 言い換えれば、仏法の智者とは、仏法の智慧に基づき、現実を変革していく人であるということです。
 大聖人は、ここで法華経の「諸法実相」、そして「一念三千」を取り上げられています。「諸法実相」とは、仏の智慧が如実に知見した現実世界の真のすがたです。仏の智慧は、目に見える表面的な現象だけでなく、十界の衆生がそれぞれ生きている善悪の境涯とその因果を如実に知見していくのです。
 仏は、一人の衆生を見ても、その人が善悪・苦楽のいかなる境涯にあるか、何が原因で悪の境涯にあって苦しんでいるのかに心をめぐらして、そして、どうすれば善の境涯に変革できるのかを如実に把握できる。それゆえに苦しんでいる衆生には、慈悲をもって苦悩から解放の教えを説くのです。それはあくまでも、その人の生命変革のための教えです。
 いわば、善悪の根本、すなわち、善の根本である「法性」と、悪の根本である「無明」を悟り、また、そこから生じる枝葉である現実社会の善悪・苦楽をも熟知した人が仏です。それゆえに、仏法は、必然的に、悪の流転から善の軌道への転換を説く「変革の宗教」になるのです。
 大聖人は、本抄で、法華経法師功徳品の「皆実相と相違背せず」を引用されています。
 「白米一俵御書の中で同じ経文を引かれて「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(1597-04)とも仰せです。
 生活上の事象の一つ一つが、そのまま仏法そのものです。仏法の智慧の光は、苦悩渦巻く現実の社会の闇の中にこそ輝き、希望となり、勇気となり、安心となります。ゆえに、本抄で「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と明言されております。
 社会を離れて仏法はありません。仏法の慈悲と智慧の力で、社会に貢献し、社会を正しく導いてこそ真の「智者」です。そして、仏法の英知が発揮された社会は、必ず栄えていくのです。
 学会は「信心即生活」「仏法即社会」の正道を歩み抜いてきました。現実を離れた宗教は「死せる宗教」であるとの信念で一貫して生活と社会を重視してきました。
 しかし、どうしても、仏法と世間法とは別々のものであるという認識が社会に根深くあることは事実です。
 牧口常三郎先生は言われています。
 「仏法即世法の『本末は究竟して等しい』という生活法即は、きわめて僅少の正統宗教家以外には、最高地位の学者にさえりかいされず、たとえ理論上は解ったとしても、実際の生活には証明されず、したがってこの両者は仏教伝来千数百年間、全く連絡なき別個のものとなっていたが、われわれ同士の実験によって証明され、ここに世界の人類が等しく渇望する所の無上最大の生活法即ち成仏の妙法が、誰にもたやすく解るようになった「とすれば、その功徳はあまねく一切に施して、無上最高の幸福に至らしめなければ止む能わざる所であろう」
 この「生活即信心」「仏法即社会」の深い確信は、いわば創価学会の信心の源流であり、また行動の活力です。牧口先生が洞察された仏法即社会の現証は、この80年にわたる学会員の体験によって厳然と証明されました。
 牧口先生は同時に「宗教革命によって心の根底から建て直さなければ、一切人事の混乱は永久に冶すべからず」とも語られ、社会の変革へ壮大な挑戦を開始されました。それは「立正安国」を標榜する日蓮仏法の永遠の実践です。
 何よりも忘れられないのは「立正安国論」の冒頭にも示されている通り、民衆の塗炭の苦しみを放置することは絶対に許されないとの大聖人の大慈悲の御心境であります。
 本抄では、大聖人の慈眼は、仏教伝来以前の中国の人々の苦悩にまで及びます。すなわち、殷の時代、秦の時代に民衆を苦しめた王と戦い勝利して人々を守った太公望、張良の故事が紹介されています。
 いずれも、中国への仏教伝来以前の時代ですから、この二人は当然、釈尊が説いた仏法の存在は知りません。しかし大聖人は、実は、彼らが民衆のために奉仕したのは、「教主釈尊の御使」だからであり、内心では「仏法の智慧」を含み持っていたからであると仰せです。万人の幸福のため、平和社会の実現のために、一心不乱の解決の智慧を探求し、身を惜しまず人々に尽くしていく。そこには、仏界の一分が現れ「仏法の智慧」が輝いていると仰せなのです。
 広げて拝すれば、民衆を苦しめる元凶と断固と戦ってこそ、民衆を守る善の連帯は築き得ることを意味しています。ここに仏法の人間主義の精髄があります。
 創価学会は平和・文化・教育の次元で、壮大な交流を広げてきました。「人間のための宗教」こそ仏法の帰結です。それゆえ、反対に「宗教のための人間」「宗教のための宗教」というような転倒した権威主義とは、どこまでも戦わざるを得ません。

05   大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。     ・
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 大悪は大善の来る前兆である。一閻浮提が打ち乱れるならば「閻浮提のなかに広く流布せしめる」というのは、よもや疑いあるまい。

大悪は大善の来るべき瑞相
 社会の発展は、その社会を構成する人々が、いかなる思想・哲学を重視するかによって決まります。
 かたくなに大聖人の正義を認めなかった社会、それは、民衆を苦しめる謗法を容認していた社会です。民衆救済をなおざりにしてきた宗教、あるいは、見せかけの救済を行ってきた宗教を容認してきた社会が、正しく発展することは困難である。
 しかし、大混乱の闇の時代にこそ、正法の智慧の光が真価を発揮する。最も深い闇夜こそ、人々が目覚める暁の前相であり、転機であると大聖人が捉えられていたと拝されます。
 大聖人は教えられています。「大悪は大善の来るべき瑞相なり」と。
 “決して悲観する必要はない。太陽のごとき智慧を持つ日蓮が闇夜の時に応じて出現した。大悪は広宣流布という大善が到来する兆候にほかならない”大聖人の大確信に包まれて、門下は深き勇気を漲らせたに違いない。
 また、「一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」とも仰せです。いうまでもなく、これは破壊的な「終末」観を説く思想ではありません。あくまでも、この現実社会の民衆の嘆きを救うのが仏法です。すべてが行き詰まった末法の時代だからこそ、あらゆる旧弊を打ち破って根本から出発して変革しようと動き出せるのです。大変革だからこそ当然抵抗はあります。しかし、そこにこそ新たな道が開けるのです。苦悩に充満したこの娑婆世界を、必ず幸福の楽土に転換していくことができる現実変革の誓願の宗教が、日蓮大聖人の仏法です。
 いわば「智慧の闘争」があってこそ、閻浮提広宣流布は実現します。
 大悪大善御書にも「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(1300-01)と仰せです。
 “今こそ、喜び勇んでいく時ではないか。舞いを舞うように、勢いよく踊りでようではないか”と、門下を勇気づけられています。
 希望へ、幸福へ、安穏へ、平和へと、大悪を常に大善の方向へ転じていくのが、現実変革の宗教の証です。
 戸田先生は言われました。
 「より高い文化、より高い科学は、より強き国家、より強き民族の力となり、しかして、いままでの状態は、総力を国家間の闘争に集中された時期があったが、これでは平和に逆行する以外の何ものでもない。人類の日常生活に科学が進めば進むほど、人間は横暴が強くなり、文化が進めば進むほど、人間は憍慢を強めてきた。科学の進歩も、文化の発展も、人類の横暴、憍慢、嫉妬、卑屈を、ますます強盛にしてきた結果になっていないであろうか。
 しからば、人類永遠の平和、地球の楽園を建設する原動力となるものは何か、それは宗教でなくてはならない」
 「仏法即社会」の大道を歩み続ける創価の行動は、人類史の壮大な「立正安国」の希望の軌跡を光り輝かせていくのです。
   仏法は
    そのまま 社会の
     法なれば 
    歓び新たに 
     来る日も 来る日も

1467~1467    高橋殿御返事(米穀御書)top

高橋殿御返事
01   米穀も又又かくの如し、 同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ 命をついで弥弥強盛の敵人とな
02 る、 又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、 又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべ
03 し、 一切衆生を利益するなればなり、 故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし、 かかる今時分人をこれまで
04 つかはし給う事うれしさ申すばかりなし、釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか。
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 米もまた同様である。同じ米であっても謗法の者を養うのは、仏の命を断つ命を継承させ、更に強盛な敵人とする。それともまた命を永らえさせて、最終的に法華経に引き入れるためであろうか。また法華経の行者を養うのは、慈悲のなかの大慈悲の米であろう。一切衆生を利益することになるからである。故に仏舎利が変じて米となるというのは、このことでありう。このような今時分に人をこちらまで遣わされたことの嬉しさは、言いようがないほどである。釈迦仏や地涌の菩薩が、あなたの御身に入り替わられているのであろうか。
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05   其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、 仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし、 又治部
06 房・下野房等来り候はば・いそぎいそぎつかはすべく候、松野殿にも見参候はば・くはしくかたらせ給へ。
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 その国の広宣流布は、あなたにお任せする。仏種は縁によって起こるものである。この故に一乗の法を説くのである。また治部房や下野房等が来たならば、急いで派遣する予定である。松野殿にも合われたならば、詳しくお話しなさい。

仏種
 仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性とも、とることができる
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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地涌の菩薩
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。
―――
一乗
 一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
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治部房
 (~1318)日位のこと。駿河国(静岡県)四十九院の住僧で、日持の弟子となり、大聖人門下となった。滅後御墓所の輪番勤役の一人であったが、離反している。
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下野房
 (~1329)日秀のこと。日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
―――
松野殿
 松野六郎左衛門入道のこと。駿河国庵原郡松野(静岡県富士宮市富士川町松野)に住し、身延におられた大聖人にたびたび御供養している。子供は蓮華寺を建立した六郎左衛門尉、六郎僧の一人である日持、南条時光の母の上野尼御前が知られている。
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 本抄は断簡であるため、いつ、だれに宛てられた御書であるか不明である。もとは諸法実相抄の一部とされていたが、内容から考えて分文された。米穀について述べられているので「米穀御書」の別名がある。末尾に「松野殿に見参候はば・くはしくかたらせ給え」とあることから、駿河国富士方面の人と推定され「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」とのお言葉から、信心の上でも社会的にも力ある人であったと考えられ、高橋六郎入道への御消息であろうと推定されているところから本抄の題号がある。ただ高橋入道の病状、信心等から無理があり、再考の余地がある。年代については、四十九院の冶部房日位や滝泉寺の下野房日秀を派遣するとあるところから、身延入山後、富士方面で折伏が活発に展開されていた建治・弘安年間の御執筆と考えるのが妥当であろう。
 以上の推定のうえで、本抄を拝読していきたい。
 初めの段は、高橋六郎兵衛と推定させる人が大聖人に米を御供養申し上げたことに関連して、その尊さを述べて讃えられている。
 米の働きは、人の生命を支え、寿命を保たせることにある。しかし、それが謗法の邪義の僧等に供養された場合は、人々の成仏の種子を断つ魔の生命を助け、正法の敵対者を栄えさせることになる。ここに、謗法の僧への供養を禁じられる所以がある。
 この謗法の僧等への供養を禁じられた戒めは、日蓮仏法の教義の重要な柱として、今日に受け継がれており、未来においても、その意義を正しくわきまえていくべきである。
 日蓮大聖人入滅後、第二祖日興上人が身延を捨てられたのは、身延の地頭であり、身延山久遠寺の檀那であった波木井実長がこの戒めに背いたためであった。この一事をもってしても、謗法への供養を禁じる戒めのもつ重みを知ることができるし、なぜ、それを禁じられたかを、本抄の仰せからも深く理解しなければならない。
 「又命をたすけて終に法華経を引き入れるべき故か」と仰せられているのは、邪法を信じても特に一般信徒の場合は、これを改心させることができるからであろう。このような幅をもたせた御教示をされているから、もし謗法の者を利することは一切禁じなければならないとしたら、社会の崩壊を招くことになりかねないからであろう。また、このように、あるいは人々を積極的に折伏教化し、正法に導いていこうとするところに、大乗仏法の真髄があることを知るべきであろう。
 これに対して「又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし」と仰せられ、法華経の行者である一切衆生を利益する大法弘通の実践をされているのであり、その法華経の行者に食された米穀は、法華経の行者の生命を支え、その実践を助けるエネルギーとなるからである。
 法華経の行者の大慈悲の生命の中にとり入れることによって、米穀自体が一切衆生を利益する働きをしていくことになる。
 「仏舎利変じて米と成るとは是なるべし」とは、仏舎利は、あらゆる衆生を利益するとして、古来尊ばれてきた。その仏舎利と同じように、米穀があらゆる衆生を利益するということである。俗語で米を舎利と呼ぶのはとここから来ているが、大事なことは、米によって得た生命の力を、正法を行じ正法を弘めるという実践に移してこそ、正しい意義が全うされるということであろう。
 この原理は、米穀のみでなく、あらゆる物に通ずることはいうまでもない。
其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし
 本抄が高橋六郎兵衛に与えたお手紙とすると、駿河国富士郡一帯の仏法流布の使命・責任を「貴辺にまかせたてまつる」と言われているのである。同じような表現は、阿仏房に対し「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし」(1304-15)との御文にも拝される。交通不便な時代であったが故に、たえず往復するというわけにはいかなかったという事情があったことも一つの要因と考えられるが、信徒の一人一人に対し、深い信頼を寄せられていた大聖人のお心がうかがわれる。
 なお「冶部房・下野房等来り候はば・いそぎいそぎつかはすべき候」と仰せられているのは、出家の弟子である日位・日秀等を応援として派遣するということである。何かの緊急の対応を要するような事態が起こっていたのであろう。
 しかし、先の「貴辺にまかせたてまつり候ぞ」との御文とあわせ考えるならば、日位・日秀等を送るが、それはあくまでも応援のためであり、主体は「貴辺」がやっていくのだとの御心が拝せられる。