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日蓮大聖人御書講義341468~1492

1468~1472    三三蔵祈雨事(西山殿御返事)
  1468:01~1468:07 第一章 善知識の大切なるを明かす
  1468:07~1468:15 第二章 善知識に値うことの難きを示す
  1468:16~1469:09 第三章 三三蔵の祈雨の現証を挙げる
  1469:09~1469:15 第四章 弘法の祈雨失敗の現証を挙げる
  1469:16~1470:06 第五章 天台・伝教大師の祈雨を明かす
  1470:06~1471:02 第六章 真言による亡国を憂う
  1471:03~1471:08 第七章 釈尊を迫害した外道の本質
  1471:09~1472:02 第八章 真言の迷妄が亡国の因なるを明かす
  1472:03~1472:08 第九章 西山入道に強盛な信心を勧める
1468~1472    三三蔵祈雨事(西山殿御返事)2013:04月号大白蓮華より。先生の講義
1472~1473    蒙古使御書
  1472:01~1472:01 第一章 西山殿の帰国を喜ぶ
  1472:01~1472:04 第二章 蒙古遣斬首の愚行を指摘
  1472:04~1473:02 第三章 亡国の原因を経文により明かす
  1473:03~1473:09 第四章 三世を知る智慧と法華経の超勝性を示す
  1473:10~1473:18 第五章 法華経の利益を述べ信心を勧む
1474~1474    西山殿御返事(雪漆御書)
1474~1476    宝軽法重事
  1474:01~1475:06 第一章 宝の軽く法の重きを示す
  1475:06~1475:09 第二章 諸経と法華経の勝劣を明かす
  1475:09~1475:18 第三章 法華経の行者出現の意義を明かす
  1476:01~1476:04 第四章 西山殿の志に感謝される
1476~1476    西山殿御返事
  1476:01~1476:06 第一章 御供養の志を称賛す
  1476:06~1476:02 第二章 法華経の最上なるを説き信を勧む
1477~1477    西山殿御返事
1477~1477    妙心尼御前御返事(御本尊御持事)
  1477:01~1477:03 第一章 御本尊が一切経の眼目なるを説く
  1477:04~1477:08 第二章 御本尊受持の功徳を説く
1478~1478    窪尼御前御返事(虚御教書事)
1478~1478    窪尼御前御返事(虚御教書事)2013:09大白蓮華より先生の講義
1479~1479    窪尼御前御返事
1479~1480    妙心尼御前御返事(病之良薬御書)
  1479:01~1479:08 第一章 妙法こそ病の人の良薬なるを示す
  1479:08~1480:02 第二章 病によって道心の起こるを示す
  1480:02~1480:05 第三章 謗法こそ極大重病であるを示す
  1480:06~1480:18 第四章入道の滅罪を示し信心を励ます
1479~1480    妙心尼御前御返事(病之良薬御書)2011:08月号大白蓮華より。先生の講義
1481~1482    窪尼御前御返事(孝養善根事)
  1481:01~1481:02 第一章 尼御前の供養の志を謝す
  1481:03~1481:07 第二章 阿育王の例を引く
  1481:08~1482:03 第三章 姫御前の将来を嘱望する
1482~1483    妙心尼御前御返事(相思樹御書)
  1482:01~1482:01 第一章 僧膳料供養に対する感謝を述べる
  1482:01~1482:08 第二章 尼の悲しみゑを慰める
  1482:09~1483:03 第三章 一生成仏の信心を勧める
1483~1483    窪尼御前御返事
1483~1484    妙心尼御前御返事
  1483:01~1484:06 第一章 唱題回向の徳を讃える
  1484:06~1484:15 第二章 妙の一字の広大の功徳を示す
1485~1485    窪尼御前御返事(阿那律事)
1485~1486    窪尼御前御返事(善根御書)
1486~1486    三沢御房御返事
1487~1491    三沢抄(佐前佐後抄)
  1487:01~1488:03 第一章 天子魔を示し成仏の難事を説く
  1488:04~1488:18 第二章 「況滅度後」の大難身読を明かす
  1489:01~1489:06 第三章 必ず成仏へ導く大慈大悲示す
  1489:07~1489:17 第四章 佐前・佐後の法門の相違明かす
  1489:18~1490:05 第五章 内房尼との対面謝絶の理由示す
  1490:06~1490:12 第六章ひさびさの音信を喜ぶ
  1490:13~1491:07 第七章亡国の悪法・真言を破折
1487~1491    三沢抄(佐前佐後抄)2008:07月号大白蓮華より。先生の講義
1491~1492    十字御書
  1491:01~1491:03 第一章 元日に際しての御供養を賞でる
  1491:04~1491:08 第二章 自身の内に地獄と仏が存するを示す
  1491:08~1492:05 第三章 凡夫に仏界を具すを譬喩で示す
  1492:05~1492:12 第四章 重ねて法華経供養の功徳を述べる
1491~1492    十字御書2014:01大白蓮華より先生の講義

1468~1472    三三蔵祈雨事(西山殿御返事)top
1468:01~1468:07 第一章 善知識の大切なるを明かすtop

三三蔵祈雨事   建治元年六月    五十四歳御作   与西山入道
01   夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、 本より生いて候木なれども根の弱
02 きは・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、 すこし健の者も独なれば悪しきみちには・
03 たうれぬ、 又三千大千世界のなかには舎利弗・ 迦葉尊者をのぞいては仏よにいで給はずば一人もなく三悪道に堕
04 つべかりしが、 仏を・たのみまいらせし強縁によりて一切衆生は・をほく仏になりしなり、まして阿闍世王・あう
05 くつまらなんど申せし悪人どもは・いかにも・ かなうまじくて必ず阿鼻地獄に堕つべかりしかども・教主釈尊と申
06 す大人にゆきあはせ給いてこそ仏にはならせ給いしか、 されば仏になるみちは善知識にはすぎず、 わが智慧なに
07 にかせん、 ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり、
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 さて、植えた木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない。もともと生えていた木であっても、根が弱いものは倒れてしまう。腑甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者でも、独りであれば、悪い道では倒れてしまう。
 三千大千世界のなかでは、舎利弗・迦葉尊者を除いては、仏が世に出現されなかったならば、一人ももれなく三悪道に堕ちるところであったが、仏を頼み奉った強い因縁によって、一切衆生は多く仏になったのである。ましてや阿闍世王や鴦掘摩羅などという悪人達は、どんなにしても成仏ができなくて、必ず阿鼻地獄に堕ちるはずであったけれども、教主釈尊という偉大な人に行きあったからこそ仏になることができたのである。それゆえ仏になる道は善知識に勝るものはない。我が智慧が何の役に立つだろう。ただ熱さ寒さを知るばかりの智慧だけでもあるならば、善知識が大切である。

三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、八歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
迦葉
 梵語マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお、法華経信解品第四には、須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、三車火宅の譬をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことを目の当たりにし、歓喜踊躍したことが説かれ、さらに法華経授記品第六において未来に光明(こうみょう)如来になるとの記別を受け、他の三人も各々記別を受けた。
―――
三悪道
 三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
―――
阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
あうくつまら
 梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。央掘摩羅・鴦掘摩とも書く。指鬘と訳す。釈尊在世当時の弟子。央掘摩羅経巻一等によると、人を殺して指を切り、鬘(首飾、髪飾)としたのでこの名がある。外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に1000人を殺してその指を取るよう命じた。そのため999人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたという。仏説鴦掘摩経では100人を殺そうとして99人を殺したとある。
―――
阿鼻地獄
 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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善知識
 善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
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 本抄は、建治元年(1275)6月22日、聖寿54歳の御時、身延でしたためられ、西山入道に与えられた御手紙である。
 西山入道は、駿河国富士郡西山郷の地頭で、所領の名にちなんで西山殿と呼ばれた。日興上人の外祖父である河合入道の一族との説もある。
 大聖人に帰依する以前は、真言宗を信仰していた。本抄でも、三人の三蔵並びに弘法の邪義を徹底的に破折され、悪知識である真言の邪師を捨てて、最高の善知識であられる日蓮大聖人を信じてこそ、必ず成仏の功徳を受けることができるとの意を述べておられる。
 本抄の題号は、善知識をあらわすために、善無畏・金剛智・不空の三三蔵の祈雨のことを取り上げ、その悪知識なる所以を説かれているところから、三三蔵祈雨事と名づけられたものである。
 本抄の御真筆は大石寺に現存する。
 さて本抄は、まず初めに仏法を修行し成仏するためには善知識に値うことが肝要であることを、植木とその支え、悪路の歩行に譬喩を借りて示され、阿闍世王や鴦掘摩羅のような堕地獄必定の悪人でさえも釈尊という善知識に値うことによって成仏できたことを説かれている。
 植木の譬喩では、木を仏道修行する凡夫にたとえ、強き支柱を善知識にたとえている。大風とは仏道修行の道程に襲いかかる三障四魔の風を意味する。歩行者の譬喩では、歩行者は凡夫であり、道の悪いことは種々の障害、苦難をあらわしている。凡夫の歩行者を助け、導くものが善知識である。
されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり
 善知識の大切さを説かれた御文である。仏道修行において善知識に値うことこそ成仏への要諦である。寒熱を知るほどの智慧さえあれば善知識を求めて親近し、教えを求めてこそ成仏が可能になるとの仰せである。
 善知識とは、仏道を成就させる善因縁の知識をいい、有徳の人を意味する。仏、菩薩、二乗、人天を問わず、人を仏道に導く者を善知識という。
 逆に、仏道修行を妨げ、衆生を迷わせる悪友、悪師のことを悪知識という。
 増一阿含経巻十一には、比丘が善知識に親近し、悪知識から遠ざかるべき理由が示されている。
 「爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく『当に善知識に親近すべし、悪行を習い、悪行を信ずること莫かれ。然る所以は、諸比丘、善知識に親近し、已に信ずれば便ち増益し、聞・施・智慧普く悉く増益せん。若し比丘、善知識に親近して悪行を習うこと莫かれ。然る所以は、若し悪知識に近づかば便ち、信・戒・聞・施・智慧なし。是の故に諸比丘、当に善知識に親近すべし。悪知識に近づくこと莫かれ。是の如く諸比丘、当に是の学を作すなし』と」。
 すなわち善知識は、信を益し、聞・施・智慧も増益するからである。
 法華経妙荘厳王本事品には「若し善男子・善女人は、善根を種えたるが故に、世世に善知識を得ば、其の善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。大王よ。当に知るべし、善知識とは、是れ大因縁なり。所謂る化導して仏を見、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すことを得しむ」と説かれている。
 ここには、善知識はよく衆生の菩提心を発さしめるとある。
 天台大師は摩訶止観巻四で善知識に近づくべきことを説き、その理由を次のように示している。「善知識とは、これ大因縁なり、所謂、化導して仏に見ゆることを得しむ」。
 日蓮大聖人は、守護国家論のなかで、末代凡夫のための善知識を次のように論じておられる。
 「第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明さば、問うて云く善財童子は五十余の善知識に値いき其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子夫人に値い奉りて生死を離れたり此等は皆大聖なり仏・世を去つて後是の如きの師を得ること難しとなす滅後に於て亦竜樹・天親も去りぬ南岳・天台にも値わず如何が生死を離る可きや、答えて云く末代に於て真実の善知識有り所謂法華涅槃是なり(中略)此の文を見るに法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」(0066-06)。
 末代凡夫にとっての善知識は、末法の法華経の行者であり、久遠元初の御本仏であられる日蓮大聖人にほかならないのである。

1468:07~1468:15 第二章 善知識に値うことの難きを示すtop

07                                        而るに善知識に値う事が第一
08 のかたき事なり、 されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・ 梵天よりいとを下て大地のはりのめ
09 に入るにたとへ給へり、 而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく 善知識は爪上の土よりもすくなし、
10 補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識・別円二教ををしへて・いまだ純円ならず、 常啼菩薩は身をうて善知識
11 をもとめしに曇無竭菩薩にあへり、 通別円の三教をならひて法華経ををしへず、 舎利弗は金師が善知識・九十日
12 と申せしかば闡提の人となしたりき、 ふるなは一夏の説法に大乗の機を小人となす、 大聖すら法華経をゆるされ
13 ず証果のらかん機をしらず、 末代悪世の学者等をば此をもつてすいしぬべし、 天を地といゐ東を西といゐ・火を
14 水とをしへ・星は月にすぐれたり、 ありづかは須弥山にこへたり、なんど申す人人を信じて候はん人人は・ならは
15 ざらん悪人に・はるかをとりてをしかりぬべし。
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 しかしながら、善知識に値うことが最も難しいことである。それゆえ、仏は善知識に値うことを、一眼の亀が浮木に入るようなものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通すようなものであると譬えられている。そのうえ末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ない。
 補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識ではあるが、別教・円教の二教を教えて、いまだ純円の法華経は教えなかった。常啼菩薩は身を売って善知識を求めたところ曇無竭菩薩に会った。しかし通教・別教・円教の三教を習っただけで法華経は教えられなかった。舎利弗は鍛冶屋の善知識となって、九十日の間教えたが、一闡提の人にしてしまった。富楼那は一の間の説法で、大乗の機の人に小乗を教えて小乗の人にしてしまった。
 大聖でさえ法華経を説くことは許されず、証果の阿羅漢であっても機根を知らない。末代悪世の学者等のことはこれらの例をもって推し量るべきである。天を地といい、東を西といい、火を水と教え、星は月に優れている、蟻塚は須弥山よりも高いなどという人々を信じている人々は、習わない悪人よりも、はるかに劣っているのである。

一眼のかめの浮木に入り
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。正法に巡りあい、受持することの難しさを、一眼の亀が海中の浮木にあうことの難しさに譬えたもの。きわめて稀なことの譬えに用いられる。雑阿含経巻十五等にも説かれる。「松野殿後家尼御前御返事」に詳しい。
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悪知識
 善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
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補陀落山
 インド南海岸にあるという山の名。補陀落迦、補陀洛とも書き、海島・光明と訳す。観世音菩薩の住処とされる。華厳経巻五十には、遊行していた善財童子に釈尊が「此の南方に於いて山有り、名づけて光明と曰う。彼に菩薩有り、觀世音と名づく。汝彼に詣りて問え」と奨め、同巻五十一に童子が観世音菩薩に会ったことが述べられている。
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観世音菩薩
 梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。
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善財童子
 華厳経に説かれる。華厳経巻四十五によれば、長者の五百童子の一人で、生まれた時、種々の珍宝が地から涌き出で、衆宝や諸の財物を降らせて一切の庫蔵に充滿させたところから、善財と名付けられたという。文殊師利菩薩に会って菩提心を発して以後、南方に法を求めて観世音菩薩等、五十余の善知識を歴訪し、ついに広大不可思議の仏海に証入したという。
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常啼菩薩
 梵名サダープララーパ(Sadāpralāpa)。音写して薩陀波倫。般若経巻三百九十八に説かれる。身命を惜しまず、財利を顧みず、東方に般若波羅蜜を求めたという。常啼の名の由来について、大智度論巻九十六には「小事に喜んで啼いた故、また衆生の悪世にあって貧窮・老病・憂苦するのを見て悲泣する故、あるいは仏道を求めて啼哭すること七日七夜であった故に常啼という」(取意)とある。
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曇無竭菩薩
 梵名ダルモードガタ(Dharmodgata)という。般若経に説かれる菩薩の名。法盛・法勇・法尚等と訳す。大品般若経巻二十七によれば、曇無竭菩薩は、六万八千の婇女と共に五欲を具足し、共に娯楽し已りて、衆香城で日に三度、般若波羅蜜を説いた。城中の男女は、人の多く集まる所に大法座を敷いて、黄金等をもって供養し恭敬した。法を聞き、受持した者は悪道に堕ちなかったといわれる。また薩陀波倫菩薩(常啼菩薩)はこの曇無竭菩薩について法喜を得、三昧を得たという。
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通別円
 天台の教判にいう化法の四教のうち蔵教をのぞいたもの。 通は通教 (声聞・縁覚・菩薩に通ずる大乗初門の教え)、 別は別教 (菩薩だけに説かれた教え。 空・仮・中の三諦が各別であるような法門)、 円は円教 (完全円満な三諦円融法門)。
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金師
 金師は鍛冶職のこと。金物を造る者のことで、金属を鍛えるとき、精神の集中を要するので、呼吸を調えることがもっとも大事とされた。教機時国抄には「仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ、仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう故に須臾の間に覚ることを得たり、智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず何に況や末代の凡師機を知り難し」(0438-08)とある。
―――
闡提
 一闡堤のこと。梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦、一闡底柯とも書く。断善根、信不具足、焼種、極悪、不信等の意で、正法を信じないで誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない者のこと。涅槃経一切大衆所問品第十七には「麁悪言を発して正法を誹謗し、この重業を造り永く改悔せず、心に懺悔無くば、是の如き等の人を、名づけて一闡提の道に趣向すと為す。もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定んで是の如き重罪を犯すを知りつつ、しかも心にすべて怖畏・慙愧無く、肯て発露せず。仏の正法において、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して、言に過咎多き、是の如き等の人も、また一闡提の道に趣向すと名づく」とある。
―――
ふるな
 梵名プールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra)の音写である富楼那弥多羅尼子の略。釈尊十大弟子の一人。釈迦の実父・浄飯王の国師バラモンの子で、釈尊と同年月に生まれたという。聡明で弁論に長じ、説法第一と称される。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経化城喩品第七に説かれた化城宝処の喩をとおして開三顕一の仏意を領解し、法華経五百弟子受記品第八において法明如来の記別を受けた。
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一夏
 4月16日から7月15日までの90日間のこと。僧侶が行脚をしないて室内で修行に励む期間をいう。インドでは夏季に雨が多く托鉢伝道に適しないため、修行僧達は、夏の三か月間は一定の場所にこもって修行したことに由来する。本文の「一夏の説法」の故事については法華経三大部補注巻一に「宝篋経に云く、富楼那が三昧に入り、百千の尼乾外道を見て、化導をしようとして法を説いたが、反って軽笑せられ、三月のうちに教化を受けた者は無かった」とある。
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大乗
 仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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証果のらかん
 六神通を得た阿羅漢のこと。すなわち、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのであり、阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。
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須弥山
 古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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 前段で善知識の大切さを説かれたあと、この段では善知識に値うことのむずかしさを〝一眼の亀〟等の仏の記文を引かれ、また観世音菩薩、曇無竭菩薩、舎利弗、富楼那等の例を示され、さらに末代の悪世の学者の姿を挙げて、教示されている。
 善知識に値うことが爪上の土より少ないことは、守護国家論にも、涅槃経の文を引用された後、次のように仰せである。
 「此の文の如くんば法華涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く法華涅槃を信ずるは爪上の土の如し」(0064-01)。
 とくに、末代悪世についても「故に末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方の微塵の如し」(0064-11)と仰せである。
 本文に「大聖すら法華経をゆるされず」と仰せになっているのは、善財童子に華厳経の別円二教を教えた観世音菩薩、並びに常啼菩薩に般若経の通別円三教を教えた曇無竭菩薩のことをさしている。
 これらの大聖は、いずれも爾前の円にとどまり、法華経の純円を人々に教え弘めることはできなかったのである。
 「証果のらかん機をしらず」とは、鍛冶職に不浄観、浣衣者に数息観を説き、かえって一闡提人とした舎利弗、大乗教を聞くべき機根の衆生に小乗教を説き、ついに小乗の人とした富楼那をさしている。舎利弗や富楼那のような証果を得た阿羅漢でさえも、機根を見抜くことができなかったのである。
 舎利弗のことについては、教機時国抄で次のように仰せである。
 「舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ」(0438-08)。
 このような上代の実例から推測しても、末代悪世の学者が善知識であるはずはないのである。「天を地といゐ……火を水とをしへ」とは、真言宗が釈尊を凡夫だといってバカにしていることであり、「星は月にすぐれたり、ありづか(蟻塚)は須弥山にこへたり」とは、大日経を法華経より勝れていると言っていることをさされていると拝せられる。こうした顚倒した彼ら悪知識の教説を信ずれば、仏法を習わない世間の悪人よりもはるかに悪い境界、すなわち無間地獄に堕ちるのであり、悪知識の恐ろしさを知らなければならない。
 したがって、悪知識を避け、善知識に親近することが大切なのであるが、現実には悪知識が充満しているのが濁世でもある。その場合、正法を知った者にとって大事なことは、たんに悪知識を避け、逃れようとするだけの消極的な行き方ではなく、悪知識をも善知識としていく強さである。それは、正しい善知識をあくまでも自らの根本とした時、悪知識も善知識に変えていけるのである。
 日蓮大聖人は、釈尊にとっては提婆達多も、また御自身にとっては良観や平左衛門尉等も善知識であるとされている。
 種種御振舞御書には次のように仰せである。
 「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917-05)、また、富木殿御返事にも「其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり」(0962-08)と仰せである。
 一往、仏道修行をする者に迫害を加える人は悪知識であるが、彼らに値って信心をますます強盛にしていくならば、苦難を受けることによって過去世からの宿業を転換し、成仏得道できるゆえに、善知識に変えていくことができるのである。

1468:16~1469:09 第三章 三三蔵の祈雨の現証を挙げるtop

16   日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、 又道理証文よりも現証にはすぎず、而るに去る文永五年の
1469
01 比・ 東には俘囚をこり西には蒙古よりせめつかひつきぬ、 日蓮案じて云く仏法を信ぜざればなり定めて調伏をこ
02 なはれずらん、 調伏は又真言宗にてぞあらんずらん、月支・漢土・日本三箇国の間に且く月支はをく、漢土日本の
03 二国は真言宗にやぶらるべし、 善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法
04 を・をほせつけられて候しに・ 大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き
05 来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり、 又其の世に金剛智三蔵わたる、又雨の御いのりありしか
06 ば七日が内に大雨下り上のごとく悦んでありし程に、 前代未聞の大風吹きしかば・真言宗は・をそろしき悪法なり
07 とて月支へをわれしが・とかうしてとどまりぬ、 又同じ御世に不空三蔵・雨をいのりし程三日が内に大雨下る悦さ
08 きのごとし、 又大風吹きてさき二度よりも・をびただし数十日とどまらず、不可思議の事にてありしなり、 此は
09 日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり、 しらんとをもはば日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ、
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 日蓮が仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはない。しかしながら、去る文永五年の頃、東には俘が起こり、西には蒙古から入貢を迫る使者が着いた。日蓮は「このことは仏法を信じないことから起こったことである。必ず調伏の祈禱が行われるであろう。それはまた真言宗によって行われるであろう」と思案したのである。インド・中国・日本の三か国の間でインドはしばらく置くとして、中国・日本の二国は真言宗によって亡ぼされるにちがいない。
 善無畏三蔵が中国に渡った時は唐の玄宗の時代であった。大旱魃があって、祈雨の法を仰せ付けられ、大雨を降らせたので、上一人より下万民にいたるまで大いに喜んでいたところに、しばらくして大風が起こって国土を吹き荒らしたので、皆興ざめてしまった。またその時代に金剛智三蔵が渡った。また雨の御祈りを行ったところ、七日の内に大雨が降り、前の時のように喜んでいたところに、前代未聞の大風が吹いたので、真言宗は恐ろしい悪法であるとして、インドへ追い返されようとしたが、あれこれと言い繕(つくろ)って留まったのである。また同じ御世に不空三蔵が雨を祈ったところ、三日の内に大雨が降った。喜びは前の時のようであった。また大風が吹いて、前の二度の時よりも激しく、数十日もとまらなかった。不可思議なことであった。このことは日本国の智者・愚者は一人も知らないことである。知ろうと思うならば、日蓮が生きている時に詳しく尋ね習いなさい。

東には俘囚をこり西には蒙古より
 文永5年(1268)1月、高麗の使節団が大宰府に到来、蒙古への入貢を迫る国書をもたらした。さらに津軽では蝦夷の蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれたこと。種種御振舞御書に「安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚(くび)をば・ゑぞに・とられぬるぞ」(0921-13)と述べられている。安藤五郎が蝦夷に殺されたのは、直接蝦夷との合戦によるのではなく、権力争いから蝦夷人によって殺されたらしいとの説もある。
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蒙古
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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月氏
 インドのこと。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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善無畏三蔵
 (0637~0735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」7巻、「蘇婆呼童子経」3巻、「蘇悉地羯羅経」3巻などを翻訳、また「大日経疏(だいにちきょうしょ)」20巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
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玄宗
 (0685~0762)。唐朝第9代皇帝。姓名は李隆基。睿宗の第3子。韋皇后が夫の中宗を殺し政権を手中におさめようと謀ったため、隆基は兵を起こして平定、その功によって皇太子となった。0712年即位。初期の政治は、外征をおさえ、農民生活の安定に努めたので産業も大いに発展し、都、長安は繁栄をきわめた。これを「開元の治」という。しかし晩年には奢侈を好み、楊貴妃を寵したので、綱紀大いに乱れ、安禄山・史思明の大乱を生じた。楊貴妃は殺され、玄宗は一時蜀に逃れた。後に長安に帰り、悶々のうちに、78歳で死んだ。開4年(0716)善無畏三蔵が来唐して以来、真言宗に帰依したという。
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金剛智三蔵
 (0761~0741)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時、那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。開元8年(0720)唐の洛陽に入り、玄宗皇帝に迎えられ慈恩寺に住し、その後、長安の薦福寺に移った。「金剛頂瑜伽中略出念誦経」四巻など、多くの密教の諸経論を訳出。弟子に不空などがいる。
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不空三蔵
 (0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安で金剛智に従って出家した。開元29年(0741)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ、「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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 仏法の正邪を識別する方法として、法の道理と文証によって批判することが大切であるが、それ以上に重要な批判の原理は現証であることが、まず述べられている。つまり、文証、理証、現証の三証のうちでも特に現証が重要であることを教えられている。
 この現証からみても、真言宗がいかに邪悪な教えであるかは明白であるとして、三三蔵や弘法の祈雨の例を挙げられ、その邪法である真言宗によって蒙古調伏を行わせている愚かさを厳しく指摘されるのである。
 これら三三蔵の祈雨の失敗については、宋高僧伝にも記されている話である。しかるに「此は日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり」といわれたのは、この根源が真言の邪法にあるということを、日蓮大聖人以外は、だれも見抜いていないということであると拝せられる。
日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず
 文証・理証・現証の三証は宗教批判の原理の一つである。この三証によって仏法の正邪、高低浅深を識別することができるのであるが、三証のうちでも特に現証が重要であることを述べられた御文である。
 まず文証とは、一つの宗派の教義が、その宗教の開祖――仏教であれば釈尊――の教えに正しくのっとっているかどうか、また、いかなる経文によっているかを調べて判定の基準にすることである。
 およそ仏教と名乗る以上は、その教主たる釈尊の教えに正しく従ったものでなければならない。釈尊の教えを記録したものが経典であるから、その教義上の主張は経文上の証拠すなわち文証がなければならないのである。ゆえに持妙法華問答抄では「又云く『文証無きは悉く是れ邪の謂い』とも云へり」(0462-06)と仰せである。
 広い意味では、文献には経文または論釈が含まれるが、特に経文が重要視される。それは、経文によらない人師、論師の勝手な臆見に惑わされないためである。
 聖愚問答抄には「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり」(0482-02)と述べられている。
 次に理証とは、道理、道筋が通っているかどうかであり、その教義が道理にかない、普遍妥当性を有しているか否かを調べて判断の基準にするのである。
 道理が深く、また普遍性を有するものほど、その教えは高く、価値あるものといえよう。四条金吾殿御返事にも「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169-05)と仰せである。
 現証とは、現実の証拠であり、教義を実践することによって、そこに説かれている内容が現実社会、生活のうえに証明されているかどうか、また、実践した結果がいかなる形で現れているかを調べて判定の基準にする。社会、生活を混乱に陥れ、不幸に導く現証が現れてくる教えは邪法であり、逆に、現実生活に幸福と繁栄をもたらす教えは正法である。
 現証は三証のうちでも最も大切な原理である。ゆえに日蓮大聖人は教行証御書でも「一切は現証には如かず」(1279-16)と仰せられ、また観心本尊抄でも「此等の現証を以て之を信ず可きなり」(0242-12)と教示されている。
 もとより、現証だけを判断の基準にせよということではない。およそ道理に反し、文証もない邪教であっても、一時的小利益等が現れることもあるからである。文・理・現の三証すべてにかなってこそ正しい宗教といえるのである。ただ、文証・理証が専門的知識や高度な理解力を必要とするのに対して、万人に分かるのが現証であるゆえに、現証を第一として強調されるのである。

1469:09~1469:15 第四章 弘法の祈雨失敗の現証を挙げるtop

09                                                 日本国に
10 は天長元年二月に大旱魃あり、 弘法大師も神泉苑にして祈雨あるべきにて・ ありし程に守敏と申せし人すすんで
11 云く「弘法は下﨟なり我は上﨟なり・まづをほせを・かほるべし」と申す、 こうに随いて守敏をこなう、七日と申
12 すには大雨下りしかども京中計りにて田舎にふらず、 弘法にをほせつけられてありしかば 七日にふらず二七日に
13 ふらず三七日にふらざりしかば、 天子我といのりて雨をふらせ給いき、 而るを東寺の門人等 我が師の雨とがう
14 す、くわしくは日記をひきて習うべし、 天下第一のわうわくのあるなり、 これより外に弘仁九年の春のえきれい
15 又三古なげたる事に不可思議の誑惑あり口伝すべし。
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 日本国には天長元年2月に大旱魃があった。弘法大師も神泉苑において祈雨を行うはずであったが、守敏という人が自ら進んで「弘法は法﨟(ほうろう)が浅い。私は法﨟が長い。まず私に仰せ付けください」と申し出たので、その請いにしたがって、守敏が祈雨を行った。7日目には大雨が降ったけれども、京の都ばかりで田舎には降らなかった。今度は弘法に仰せ付けられたが、7日たっても降らず、2週間たっても降らず、3週間たっても降らなかったので、天子が御自ら祈られて雨を降らせたのである。しかるに東寺の門人等は我が師が降らせた雨と主張したのである。詳しくは日記を開いて見るがよい。天下第一の誑惑があるのである。これよりほかに、弘仁九年の春の疫病の時のこと、また三鈷を投げたということにも不可思議の誑惑がある。これらは口で伝えよう。

弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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神泉苑
 平安京造営の時、大内裏の南に接して造られた禁苑。南北四町、東西二町の地を占め,自然の涌泉にもとづく広大な池があり、樹林繁茂し、乾臨閣などの楼閣を配していた。延暦19年(0800)の桓武天皇の行幸以来、歴代天皇の遊宴場となった。天長元年(0824)の大旱魃に、弘法が祈雨をして以来、善女竜王がまつられ、雨乞いの場とされた。現在は京都市中京区門前町に苑池の一部が存し、東寺付属の寺院となっている。
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守敏
 生没年不明。平安初期の真言僧。幼い頃から奈良で遊学し、勤操等について三論・法相などを学び、また密教に通じた。弘仁14年(0823)嵯峨天皇から西寺を授けられた。この時、弘法は東寺を授けられた。天長元年(0824)2月の大旱魃に、弘法と祈雨を競い、守敏は京中のみに雨を降らせることができたが、弘法は守敏の呪によって雨を降らせることができなかった。それ以後、弘法と不仲となったといわれる。
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下﨟・上﨟
 﨟とは、法﨟ともいい、僧侶の出家してからの年数のこと。出家した者は、一夏九旬といって一夏の90日の間仏道修行をする。この積み重ねた回数が、その僧侶の法﨟となる。法﨟を多く積んだ位の高い僧侶を上﨟といい、法﨟が浅く位の低い僧侶を下﨟という。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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三古
 三鈷、三鈷杵ともいう。真言密教の祈禱に用いる道具。鈷はもと古代インドの武器で、仏教では法具となり、煩悩を破るとの意をもつ。金剛杵の一種で、手杵の形に似ており、両端に各三鋒あるものを三鈷という。
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 日本真言宗の開祖・弘法が祈雨に失敗したにもかかわらず、世間を誑惑していることについて述べられ、その他にも種々の妄語のあることを指摘されている。
 弘法が3週間祈って雨を降らすことができず、天皇の降らせた雨を自分の雨だといって世人を惑わせたことについては、報恩抄にも次のように記されている。
 「弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・祈雨して七日が内に雨を下す但京中にふりて田舎にそそがず、次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり我が雨として今に四百余年・弘法の雨という」(0317-03)。
 また「これより外に弘仁九年の春のえきれい」と仰せられているのは、弘仁9年(0818)の春、疫病が流行した時に、弘法が祈禱をすると夜半に日輪が現れたという妄語の件で、これについては、本抄でも後の部分で「弘法大師の自筆に云く、『弘仁九年の春疫れいをいのりてありしかば夜中に日いでたり』と云云、かかるそらごとをいう人なり」と指摘されている。
 報恩抄では、これが明らかに妄語であることを次のように破折されている。
 「『弘仁九年の春・天下大疫』等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又『夜変じて日光赫赫たり』と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、設い内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記あるならば・すこし信ずるへんもや」(0319-08)。
 また「三古なげたる事」と仰せられているのは、弘法が中国から帰朝する際、船から三鈷を投げたところが、雲の中に消えていった。帰朝後、高野山の中にそれがあったという誑惑である。これについても、報恩抄では次のように破折されている。
 「又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし」(0321-04)。

1469:16~1470:06 第五章 天台・伝教大師の祈雨を明かすtop

16   天台大師は陳の世に大旱魃あり法華経をよみて・ 須臾に雨下り王臣かうべをかたぶけ万民たなごころをあはせ
17 たり、 しかも大雨にもあらず風もふかず甘雨にてありしかば、 陳王大師の御前にをはしまして内裏へかへらんこ
18 とをわすれ給いき、此の時三度の礼拝はありしなり。
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 中国の陳の時代に大旱魃があった時、天台大師が法華経を読誦したところ、たちまちに雨が降り、王臣は頭傾け、万民は掌を合わせたのである。しかも大雨でもなく、風も吹かず、甘雨であったので、この時陳王は大師の御前をにお座りになられて内裏へ帰ることを忘れられた。この時陳王は大師に対し三度の礼拝をされたのである。
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01   去る弘仁九年の春.大旱魃ありき・嵯峨の天王真綱と申す臣下をもつて冬嗣のとり申されしかば.法華経・金光明
02 経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき、 三日と申せし日ほそきくもほそきあめしづしづと下りしかば・天子あま
03 りによろこばせ給いて、 日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり、伝教大師の御師・ 護命と申せ
04 し聖人は南都第一の僧なり、 四十人の御弟子あいぐして仁王経をもつて祈雨ありしが 五日と申せしに雨下りぬ、
05 五日は・ いみじき事なれども三日にはをとりて而も雨あらかりしかばまけにならせ給いぬ、 此れをもつて弘法の
06 雨をばすひせさせ給うべし、 
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 日本でも去る弘仁九年の春に大旱魃があった。嵯峨天皇は藤原冬嗣に命じて、和気真綱という臣下をもって伝教大師に祈雨を仰せ付けられた。伝教大師は法華経・金光明経・仁王経をもって祈雨されたところ、三日目という日に細雲が現れ、雨がしずしずと降ったので、天子は非常に喜ばれて、日本第一の難事であった大乗戒壇の建立を許されたのである。
 伝教大師の御師の護命という聖人は南都第一の僧である。四十人の御弟子を伴い、仁王経をもって祈雨されたところ、五日目に雨が降った。五日目とは素晴らしいことではあるけれども、三日目に比べると劣り、そのうえ暴雨であったから、護命の負けとなった。これをもって弘法の雨を推し量るべきである。

天台大師
 (0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。智者大師ともいう。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師慧思を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、大いに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにした。
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陳王
 (0553~0604)。陳の第五代、後主の叔宝をいう。第四代宣帝の子。(0582)、30歳で即位した。摩訶止観巻一上に「陳隋二国に宗めて帝師と為す」とある。
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嵯峨の天王
 (0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
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真綱
 (0783~0846)。和気真綱のこと。平安初期の貴族。和気清麻呂の子で、広世の弟。若くして大学に学び、よく史伝に通じ、参議従四位上に進んだ。仏教に深く帰依し、高雄山寺で南都六宗の高僧十四人を集め、伝教大師を講師として法華会を開くなど、兄の広世とともに伝教大師を援助して天台宗発展に尽くした。
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冬嗣
 (0775~0826)。藤原冬嗣のこと。平安時代初期の貴族。藤原内麻呂の子。閑院左大臣と呼ばれた。嵯峨天皇の信任を得て弘仁元年(0810)に初代蔵人頭の任を受け、天長2年(0825)には左大臣となった。娘順子を皇太子妃とし、藤原北家隆盛の基を築いた。施薬院・勧学院を置き、また弘仁格式・内裏式を撰修した。死後、正一位太政大臣を贈られた。
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金光明経
 釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。  
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仁王経
 釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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護命
 (0750~0834)。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。姓は秦氏。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学ぶ。後、京都に召されて諸経を講じ、天長4年(0827)僧正となる。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著作に「大乗法相研神章」5巻などがある。なお伝教大師の御師と言われていることの典拠は不明。
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南都
 奈良のこと。京都(平安京)に対して南に位置するので、都であった奈良をこのように呼ぶ。
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 弘法が21日も祈って雨を降らせられなかったのに対し、たちまちに降らせた天台大師や伝教大師の例を挙げられて、弘法の祈雨の失敗がいかに顕著であるかを示されるのである。
 まず、中国では天台大師が陳の時代に大旱魃があった時、法華経を読誦してたちまち甘雨を降らせたので、陳王が大師を三度まで礼拝したという史実を挙げられている。
 この史実は、隋天台智者大師別伝や続高僧伝等に出ているが、今、続高僧伝巻十七の智顗伝の記述を挙げれば次のようである。
 「是の春亢旱す。百姓咸な謂らく、神怒ると。顗、泉源に到って、衆を率いて経を転ず。便ち雲興り雨の澍ぐを感じ、虚誣自ら滅す。総管宣陽公王積、山に到って礼拝し、戦汗し安んぜず。出でて曰く、『積屢々軍陣を経、危に臨んで更に勇なり。未だ嘗て怖懼すること、頓に今日のごとくならず』。其の年、晋王又手疏を遺って、還らんことを請う」。
 次に日本では、伝教大師が祈ること3日にして甘雨を降らせたことが挙げられている。
 伝教大師の祈雨については、別当大師光定の伝述一心戒文巻上に次のように記されている。「即ち二十六日山寺の一衆を率いて、頭を分け、転経を修す。細雲峰を走って炎霞消散しぬ。細雲陰に澍いで白色本に復す」。
 この祈雨に天皇が感銘したことが起因となって、伝教大師滅後の弘仁13年(0822)6月11日、右大臣藤原冬嗣等が奏請して、法華迹門の大乗戒壇の建立が許可されたのである。
 また、護命の祈雨については、同じく伝述一心戒文巻上に記されている。
 「護命僧都、四十の大徳を率いて仁王経を講ず。彼の四日の中、甘雨降らず、五日の早朝、大甘雨降る」。
 護命は雨を降らすのに5日かかったので、3日で降らせた伝教大師に対し、負けとなったのである。このことからも、21日かけて降らせられなかった弘法の失敗がいかに無残なものであるかが明らかであると仰せられている。

1470:06~1471:02 第六章 真言による亡国を憂うtop

06               かく法華経はめでたく真言はをろかに候に 日本のほろぶべきにや一向真言にてある
07 なり、隠岐の法王の事をもつてをもうに・ 真言をもつて蒙古とえぞとをでうぶくせば・日本国やまけんずらんと・
08 すひせしゆへに此の事いのちをすてて・いゐて・みんとをもひしなり、 いゐし時はでしらせいせしかども・いまは
09 あひぬれば心よかるべきにや 、漢土・日本の智者・五百余年の間一人もしらぬ事をかんがへて候なり、善無畏・金
10 剛智・不空等の祈雨に雨は下りて而も大風のそひ候は・いかにか心へさせ給うべき、 外道の法なれども・いうにか
11 ひなき道士の法にも雨下る事あり、 まして仏法は小乗なりとも法のごとく行うならば・いかでか雨下らざるべき、
12 いわうや大日経は華厳・般若にこそをよばねども阿含には・すこしまさりて候ぞかし、 いかでか・いのらんに雨下
13 らざるべき・ されば雨は下りて候へども大風のそいぬるは大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし、 弘法
14 大師の三七日に雨下らずして候を天子の雨を我が雨と申すは・又善無畏等よりも大にまさる失のあるなり。
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 このように法華経は勝れ、真言は劣っているのに、日本国が亡びようとしているのであろうか、すべてに真言のみを用いている。隠岐の法王のことをもって思うに、真言をもって蒙古と俘囚とを調伏したならば日本国は亡びるであろうと推し量ったゆえに、このことを命を捨てて言ってみようと決意したのである。言い出した時は弟子等は制止したけれども、今では的中したので快く思っているであろう。中国や日本の智者が五百余年の間一人も知らなかったことを考えたのである。
 善無畏・金剛智・不空等の祈雨で雨は降ったが、大風が伴ったのはどういうわけか考えるべきである。外道の法であっても、論ずるにたらない道士の法でも雨は降ることがある。まして仏法は、小乗教であっても法のとおりに行うならば、どうして雨が降らないことがあろうか。ましてや大日経は華厳経や般若経にこそ及ばないけれども、阿含経には少し勝れている。どうして祈って雨が降らないことがあろう。それゆえ雨は降ったけれども、大風が伴ったのは大きな僻事が彼の法の中に混じっているからである。
 弘法大師が祈雨の時、三七日経っても雨が降らなかったのに、天子が降らせた雨を自分が降らせた雨であるといっているのは、善無畏等よりもさらに大きな誤りがあるのである。
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15   第一の大妄語には弘法大師の自筆に云く、 「弘仁九年の春疫れいをいのりてありしかば夜中に日いでたり」と
16 云云、かかるそらごとをいう人なり、 此の事は日蓮が門家第一の秘事なり本文をとりつめていうべし、 仏法はさ
17 てをきぬ上にかきぬる事天下第一の大事なり、 つてに・をほせあるべからず御心ざしのいたりて候へば・をどろか
18 しまいらせ候、 日蓮をばいかんがあるべかるらんとをぼつかなしと・をぼしめすべきゆへに・かかる事ども候、む
1471
01 こり国だにも・つよくせめ候わば今生にもひろまる事も候いなん、 あまりにはげしくあたりし人人は・くゆるへん
02 もや・あらんずらん。
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 第一の大妄語として弘法大師の自筆の書に「弘仁九年の春、疫病を払う祈禱を行ったところが、夜中に太陽が出た」とある。このような虚言をいう人である。このことは日蓮の門家の第一の秘事である。本文を引いて、相手を詰めていうべきである。仏法それ自体の勝劣はしばらく置いておく。いままでに述べてきたことは天下第一の大事である。人づてに軽々しく語ってはならない。貴殿の御志が厚いからあえて申し上げるのである。
 日蓮の諌言を、いかほどのことがあろう、疑わしいと思って用いないゆえに、このような蒙古襲来が起こったのである。蒙古国が強く攻め寄せてくるならば、今生にも法華経が広まることもあるであろう。日蓮をあまりにも激しく迫害した人々は、後悔することもあるであろう。

隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第4皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちした後、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚である坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経の略。中国・唐代の善無畏三蔵訳。七巻。一切智を体得して仏果を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界曼荼羅が示されている。金剛頂経、蘇悉地経と合わせて大日の三部経、また三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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阿含
 阿含経のこと。阿含とは梵語のアーガマ(āgama)の音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限って使われる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類されている。長阿含経巻一に「如来の大智は……群生を愍れむが故に、世に在りて成道す。四真諦を以って、声聞の為に説く」とあるように、声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも声聞を正意として説かれた経といえる。
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 法華経をもって祈った天台大師、伝教大師は見事に雨を降らせ、真言によって祈った三三蔵や弘法は大失敗しているという事実は、法の勝劣を明確に物語っている。この偉大なる力用がある法華経を捨て、もっぱら真言によって祈りをしている日本の現状を、大聖人は心から憂えらえているのである。
 しかも今度は、雨のことではなく、日本の国の運命にかかわる戦争に関する祈りである。その結果は恐るべきものであろう。真言の邪法に祈ったがゆえに、逆に悲惨な敗北を招いた例としては、承久の乱の前例がある。
 「隠岐の法王の事」とは、承久の乱で、真言僧に祈禱をさせ、その結果惨敗して流罪にあった後鳥羽上皇のことである。この事件について、大聖人は数多くの御抄に触れられているが、神国王御書には、各寺で行われた幕府の調伏の祈禱について、次のように具体的に描かれている。
 「又承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず」(1520-05)。
 後鳥羽上皇方は、当時仏教界の最高の権威ある僧達が、これほどの秘法を尽くして祈りながら、幕府軍の前にあっけなく敗れ、後鳥羽上皇、順徳天皇が隠岐、佐渡へ流罪されるという結果になったのである。
 次に、三三蔵の祈雨に雨は降ったものの、大風が吹ききたった事実は、真言宗が単に方便の低い教えというにとどまらず、正法誹謗の僻見に毒された邪法であることをあらわす現証であることを指摘されている。
 下山御消息では、祈雨の雨にも種々の形貌があることを示された後、三三蔵の祈雨と天台大師、伝教大師の祈雨の様相を比較されている。
 「又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり雨種種なり或は天雨或は竜雨或は修羅雨或は麤雨或は甘雨或は雷雨等あり(中略)善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も小雨は下たりしかども三師共に大風連連と吹いて勅使をつけてをはれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下らして小風も吹かざりしもたとくぞおぼゆる」(0350-08)。
 この三三蔵の祈雨より更に質の落ちるのが弘法の場合で、弘法は遂に降らせることができなかったのである。自分で降らせられなかったにもかかわらず、天皇が降らせた雨を自分の祈りで降ったなどと言っているのは、法の無力さを暴露したのにとどまらず大妄語の罪をも犯したことになる。元来、弘法の妄語癖はこれだけでなく、弘仁9年(0818)、夜中に太陽が出たといっているのが、その最たるものであると大聖人は指摘されている。
 また、このような弘法の大誑惑に関しては、法論対決の際のポイントになるところであり、人づてに話してはならない等の注意を与えられている。真言破折に対する大聖人の並々ならぬ御決意が拝される御文である。

1471:03~1471:08 第七章 釈尊を迫害した外道の本質top

03   外道と申すは仏前・八百年よりはじまりて、はじめは二天・三仙にてありしが・やうやく・わかれて九十五種な
04 り、其の中に多くの智者・神通のもの・ ありしかども一人も生死をはなれず、又帰依せし人人も善につけ悪につけ
05 て皆三悪道に堕ち候いしを・仏出世せさせ給いてありしかば、 九十五種の外道・十六大国の王臣諸民をかたらひて
06 或はのり或はうち或は弟子或はだんな等・ 無量無辺ころせしかども仏たゆむ心なし、 我此の法門を諸人にをどさ
07 れていゐやむほどならば一切衆生地獄に堕つべしと・つよくなげかせ給いしゆへに・退する心なし、 この外道と申
08 すは先仏の経経を見て・よみそこないて候いしより事をこれり。
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 外道というのは、仏の出世以前八百年から起こって、初めは二天・三仙のみであったが、次第に分かれて九十五種となった。その中に多くの智者や神通を得た者がいたけれども、一人も生死の迷いから離れてはいない。また帰依した人々も善につけ、悪につけ、皆三悪道に堕ちたのである。そこへ仏が出世されると、九十五種の外道は十六大国の王臣や万民を味方にして、仏を或いは罵り、或いは打ち、或いは仏の弟子・檀那等の無量無辺の人々を殺した。けれども、仏には怯む心はなかった。自分が、この法門を諸人に脅されて説くのをやめるならば、一切衆生は地獄に堕ちるであろうと、強く嘆かれたゆえに退する心はなかった。この外道というのは、過去の仏の経々を見て、読み誤ったために、外道となったのである。

二天
 もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、梵語マヘシバラ(Maheśvara)と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
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三仙
 インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派、サーンキヤ学派(Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じく六派哲学の一つ、勝論学派、バイシェーシカ学派(Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道(ジャイナ教)の開祖であるといわれている。
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十六大国
 釈尊在世の時代、インドにあった十六の大国のこと。長阿含経巻五には①鴦伽、②摩竭堤、③迦尸、④居薩羅、⑤抜祇、⑥末羅、⑦支堤、⑧抜沙、⑨居楼、⑩般闍羅、⑪頗漯波、⑫阿般堤、⑬婆蹉、⑭蘇羅婆、⑮乾陀羅、⑯剣并沙の国を挙げている。その他経論によって諸説がある。
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 人々が邪法への迷妄のために不幸に陥っているのを見て、これを救うために立ち上がられた日蓮大聖人に対し、種々の迫害を加えている他宗の僧達の本質を、釈尊在世の外道と同じであると指摘されるのである。
 インドのバラモン外道は二天三仙を起源とし、釈尊の時代には95種にも分かれていたが、低い教えであるゆえ、一人も生死の迷いを離れた者はいなかった。
 開目抄には外道の起源、生死を離れざる理由を次のように教示されている。
 「二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当って六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり(中略)しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ(中略)外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし」(0187-08)。
 結局、外道は生命内在の因果律を洞察することもできなかったゆえに、たとえ外界の事象に関しては智慧や神通力があったとしても、生死の苦悩を克服できないで六道を輪廻するのみで悪道へと堕ちざるを得なかったのである。
 この御文によっても、仏法すなわち内道と外道の根本的な違いは、生命の因果をわきまえて成仏できるかどうかという点にあることが明らかであろう。
 ともあれ、この外道の教えのために不幸の境涯に苦しむ人々を救うために釈尊は立ち上がった。その釈尊に対し、外道が激しい憎しみを抱いてさまざまな迫害を加えたことは、釈尊の九横の大難をはじめ、数多くのエピソードとして伝えられているところである。
 この外道の本質は先仏の諸経を読み誤って邪見に陥ったゆえであると、その根本因を明かされている。
 これは真言宗などの徒が、釈尊の経々を読みそこなって邪見に陥ったのと同じであり、真言等の謗法者は釈尊在世のバラモン外道と同じ類であるということである。

1471:09~1472:02 第八章 真言の迷妄が亡国の因なるを明かすtop

09   今も又かくのごとし、日本の法門多しといへども源は八宗・九宗・十宗よりをこれり、十宗のなかに華厳等の宗
10 宗は・さてをきぬ、真言と天台との勝劣に弘法・慈覚・智証のまどひしによりて日本国の人人・今生には他国にもせ
11 められ後生にも悪道に堕つるなり、 漢土のほろび又悪道に堕つる事も善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじま
12 れり、 又天台宗の人人も慈覚・智証より後は・かの人人の智慧にせかれて天台宗のごとくならず、されば・さのみ
13 やはあるべき。
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 今の日本国もまた同様である。日本における法門は多いといえども、源は八宗・九宗・十宗から起こっている。十宗のなかで華厳宗等の諸宗はしばらく置くとする。真言宗と天台宗との勝劣に弘法・慈覚・智証が迷ったことによって、日本国の人々は今生には他国から攻められ、後生には悪道に堕ちるのである。中国が亡び、また人々が悪道に堕ちたことも、善無畏・金剛智・不空の誤りから始まったのである。また天台宗の人々も、慈覚・智証より以後はそれらの人々の智慧に抑えられて、もとの天台宗のようではなくなった。
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14   いわうや日蓮は・かれにすぐべきとわが弟子等をぼせども・ 仏の記文にはたがはず、末法に入つて仏法をばう
15 じ無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、 正法をへたらん人は爪上の土よりも・ すくなしと涅槃経には
16 とかれ、 法華経には設い須弥山をなぐるものはありとも・ 我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたしと
17 記しをかせ給へり、大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちなひをん経・最勝王経等に末法に入つて正法を行ぜん
18 人・出来せば邪法のもの王臣等にうたへて・あらんほどに彼の王臣等・他人が・ことばにつひて一人の正法のものを
1472
01 或はのり或はせめ或はながし或はころさば梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等・りんごくの賢王の身に入りかは
02 りてその国をほろぼすべしと記し給へり、今の世は似て候者かな。
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それゆえ、日蓮が慈覚・智証の誤りを指摘しても、「そんなことがあるだろうか、ましてや日蓮は彼等に勝れているのであろうか」と我が弟子等が思っているけれども、仏の記した経文には違わないのである。
「末法に入って、仏法を謗り無間地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、正法を信受する人は爪の上の土よりも少ない」と涅槃経には説かれ、法華経には「設え須弥山を擲げる者はあっても、末法に法華経を経文のとおりに説く者はまことに稀である」と記し置かれている。大集経・金光明経・仁王経・守護経・般泥洹経・最勝王経等には「末法に入って正法を行ずる人が現れれば、邪法を信ずる者が王臣等に訴えるので、王臣等はその人の言葉を信じて、一人の正法を持つ者を、或いは罵ったり、或いは責めたり、或いは流罪したり、或いは殺すであろう。そのとき梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等が隣国の賢王の身に入り代わって、その国を亡ぼすであろう」と記されている。今の世はこれらの経文に説かれたことと似ているではないか。

八宗・九宗・十宗
 八宗とは、日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
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天台
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(Av?ci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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大集経
 方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
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守護経
 中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。 
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はちひをん経
 般泥洹経のこと。一般には法顕訳の仏説大般泥洹経をいう。
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最勝王経
 中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
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梵王
 大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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天神地神
天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
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 大聖人御在世当時の諸宗の混迷と日本国の様相は、インドの外道が先仏の諸経を読み誤って釈尊に敵対したのと同じであると指摘され、特に天台宗・真言宗をインドの外道に類比して論を進められている。
 つまりインドの外道が先仏の教えを誤って理解し僻見に堕したように、日本では弘法・慈覚・智証の三人が天台と真言の勝劣に迷ったのである。そして、この弘法の真言宗と、慈覚以後の天台真言宗の邪義に日本中が染められてしまったゆえに日本国は蒙古の攻めにあっているのであり、それは、三三蔵による真言の邪法のために滅びた中国の先例にも明らかであると指摘されている。
 そうした大聖人の天台・真言破折に対しては、大聖人の弟子のなかにも、そんなことがあるだろうか、大聖人よりも慈覚、智証のほうがすぐれているはずだなどという僻見をいだく者もいたことを述べられている。しかし、大聖人の主張は、あくまでも仏説によっているのであり、仏説のとおりの姿であることを涅槃経、法華経宝塔品の六難九易の文、大集経をはじめとする爾前の諸経に記された法華経の行者値難の文等を挙げて示され、日蓮大聖人こそこれらの経文に符合した法華経の行者であることは現証によって明瞭であると結論づけられている。
 撰時抄にも、法華経の行者を迫害するゆえに諸天が怒りをなし、隣国の聖人に仰せつけてその国を罰することが記されている。
 また大聖人の値われた迫害の現証、そのゆえに引き起こされた三災七難等をみれば、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、閻浮第一の聖人であることを知るべきであると次のように教示されている。
 「而る間・梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよいよあだをなすゆへに天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ、吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて仏滅後・二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかどもいまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり、まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし」(0283-12)。

1472:03~1472:08 第九章 西山入道に強盛な信心を勧めるtop

03   抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ、 能く能く過去を御尋ね有らば・なにと無くとも此度生死
04 は離れさせ給うべし、 すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども 仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして
05 無間に堕ちぬ・ 是れ偏に末代の今の世を表するなり、 敢て人の上と思し食すべからず事繁ければ止め置き候い畢
06 んぬ、抑当時の怱怱に御志申す計り候はねば大事の事あらあらをどろかしまひらせ候、ささげ青大豆給い候いぬ。
07       六月二十二日                    日 蓮 花 押
08     西山殿御返事
――――――
 ところで、あなた方は、どのような過去世の善根で日蓮を訪ねられるのであろうか。よくよく過去を御尋ねになれば、なにはともあれこの度は生死の迷いを離れることができるであろう。須梨槃特は三箇年に十四字すら暗唱できなかったけれども仏になった。提婆達多は六万蔵を暗唱したけれども無間地獄に堕ちた。このことはひとえに末代の今の世のことを表しているのである。けっして他人のことと思ってはならない。申し上げたいことは多くあるがこれでとどめておく。
 ところで現在のようなあわただしいなかに、御供養していただいたその御志には、御礼の申し上げようもないので、大事の法門のことを概略申し上げたのである。
 ささげ・青大豆(枝豆か?)をいただいた。
  六月二十二日            日 蓮  花 押
   西山殿御返事

すりはむどく
 梵語チューダパンタカ(Cūḍapanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典によって諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかって一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たという。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。
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提婆
 提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
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六万藏
 六万の方蔵のこと。法蔵とは、教えの蔵の意で、仏の経説、経説を含蔵する経典・聖教。②インドのバラモン教の聖典・四韋陀のこと。神への讃歌などが説かれるインド最古の経典。迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三仙が説いたとされる。
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ささげ
 マメ科の一年草。品種が多く、茎の蔓性のものと直立するものとがある。葉は三小葉からなる羽状複葉で、莢(さや)と種子を食用とする。
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 最後に、西山入道等が、身延に大聖人を訪れたり御供養の品々を奉っているのは過去世における宿善のゆえであろうといわれ、こうして、宿善によって大聖人にお会いできた以上は、必ず生死を離れ、一生成仏は疑いないことであるから、いよいよ強盛な信心に励むようにと教誡されるとともに、御供養に対する御礼を述べて結ばれている。
 そのなかで、須梨槃特と提婆達多の例を挙げられ、これは遠い過去の話でなく末法の成仏はあくまで信が根本であることを戒めた教訓として胸に刻んでいくよう指導されている。須梨槃特は極めて愚鈍であったが、仏の教えを素直に信じたことによって成仏し、逆に提婆達多は六万蔵という膨大な経典を暗誦したほどの智者であったが、仏法に反逆したゆえに、その罪によって無間地獄に堕ちなければならなかったのである。
すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ
 この故事は、法句譬喩経巻二に説かれている。
 昔、釈尊が舎衛国にいた時、一長老の比丘、槃特が新たに比丘になった。性質が闇鈍であって五百の阿羅漢が三か年にわたって日々一偈を授けたが、ただの一偈も暗誦することができなかった。国中の人々がその愚鈍を知るに至ったという。
 仏はこのことを哀れんで槃特を呼び、自ら前において、次のような一偈を授けたのである。「口を守り、意を摂め、身に非を犯すことなかれ。かくの如く行ずれば世を度することを得る」と。
 槃特は仏の慈恩を感じて偈を誦して口に上らせたとある。仏を信じ、仏の大慈悲に報いんとする一念が、一偈を口に上らせたのであろう。
 それを見た仏は、次のように告げて法を説き始めた。「汝は今、年老いて、まさに一偈を得ることができた。今、汝のために其の義を解説するから一心に聴くように」と。
 それから仏は、身三、口四、意三の善悪業の所由を説き、その起滅、三界五道の輪転、昇天と堕地獄の所以を述べ、さらに涅槃を得る道を説ききたったという。その時、槃特の心が開けて、阿羅漢の道を得たと記されている。
 後に、国王・波斯匿(はしのく)のもとに釈尊が槃特を伴って訪れた時、王が仏に「槃特は本性愚鈍であると聞いている。それなのに、まさに何によって一偈を知り、道を得ることができたのか」と質問した。
 それに対して釈尊は王に「学は必ずしも多くは必要としない。学んだことを実行するを上となすのである。槃特は一偈の義を解して精理神に入ったのである。もし人、多く学ぶとも、行わなければ何の益もないのである」と教え、さらに偈を説いて「一法句を解するも、行ぜば道を得べし」と説いたという。
 成仏への道は、仏を信じ、たとえ一句でもそれを実践に移すことが肝要なのである。
 須梨槃特は三年もかかって、僅か十四字の一偈さえ暗誦できないほどの愚鈍であったが、釈尊を信じ、釈尊の言葉のとおりに実行し、ついに法華経では仏に成ることができたのである。大聖人はこの故事を通じて、末法今日の信仰の在り方を教訓されているのである。

1468~1472    三三蔵祈雨事(西山殿御返事)2013:04月号大白蓮華より。先生の講義top

善知識 慈悲と智慧の光で民衆を照らせ!

 それは、ちょうど60年前、昭和28年(1953)の春のことでした。
 「金曜講義」と呼ばれ親しまれた戸田先生の一般講義が、新築間もない池袋の豊島公会堂で本格的にスタートしたのです。
 豊島は、牧口先生と戸田先生が、国家権力の横暴に対し、命を賭して戦い抜いた平和源流の地、今年は、初代・2代の師弟の法難から70年です。お二人が投獄された東京拘置所が、当時はまだ公会堂の近くに残っていました。
 「恩師が法華経に身命を奉ったこの地で、この公会堂から、広宣流布の戦いを開始するのだ!」戸田先生は強い決意で講義を始められました。
 講義の日の夕方、開始時刻が近くなると、池袋駅から公会堂へ、遅れまいと走って向かう人の姿が続きました。
 初めて参加する人が、駅前で、「公会堂はどちらですか」と尋ねると「あの広い道まで行くと、質素な服装で大きな袋を持った人が何人も駆けていくから、その後についていけば公会堂だよ」と教えられたといいます。
 一般講義は、だれもが自由に聴講することができました。ある人は職場から作業着のまま、ある人は幼子を背負って、ある人は行きの電車賃だけを握りしめて、皆、それぞれの悩みをかかえながら、必死の思いで集ってこられた。
 生きる確信を求め、一心に耳を傾ける友が、会場の廊下にもあふれました。建物に入りきれない参加者のために、隣接する中池袋公園」に向けて、場外スピーカーも設置されました。
「大将軍の講義をするよ」
 戸田先生は、どんなに激務のさなかでも、一回一回の講義に、渾身の力を注がれた。喉を痛められている日もあった。ご病気を押して臨まれる日もあった。
 しかし、会場に着いて、控室で周囲を激励され、時間になると、椅子を立って「さあ、始めよう、大聖人の講義をするよ」と、毅然と演檀にすすまれました。
 講義の後には質問会をもつくってくださり、同志の切実な悩みに、我が身を投げ出すようにして、真剣に、丁寧に答えていかれた。
 ある時、先生は言われました。
 「御書には、一字一句にも、大聖人の御心が込められている。それを、一句でも心肝に染めたら偉いものだ。私は心から拝して講義をしている」
 「不思議なもので、御書が拝せれば、他の一切のものが、易々と読めるようになる。生活のことも、明確な判断ができるようになる。ゆえに行き詰まりはないのだ」
 戸田先生の気迫と大確信に、そして慈愛に触れ、同志は心から納得し、歓喜し、奮起して、風呂上がりのような表情で家路につきました。
 「金曜講義」で生命の充電をし、土曜・日曜の対話の最前線へ この「広布拡大のリズム」で、学会は大きく前進していったのです。
 御書を学ぶ際、戸田先生が第一の基本とされたのは、宗教の価値を見極める「文証・理証・現証」の原理でした。その依文となるのが、今回、拝読する「三三蔵祈雨事」です。
 真実の仏法が脈動する世界とは、いかなるものか。日蓮大聖人の仏法の真髄を、ともどもに学んでいきましょう。

01   夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、 本より生いて候木なれども根の弱
02 きは・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、 すこし健の者も独なれば悪しきみちには・
03 たうれぬ、 
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 さて、植えた木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない。もともと生えていた木であっても、根が弱いものは倒れてしまう。腑甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者であっても、独りであれば、悪い道では倒れてしまう。

激動の時代に本物を求める
 冒頭は「善知識」の大切さを、樹木などに譬えられた有名な御文です。
 本抄は、建治元年(1275)または、その翌年に身延で著され、駿河国富士郡西山郷に住む門下・西山入道に与えられたお手紙とされています。
 当時「文永の役」と呼ばれる蒙古襲来の直後であり、人々は再びの襲来を恐れ、不安におののいていました。
 危機感を募らせた幕府と朝廷は、蒙古を調伏する祈禱を各地の有力寺社などに命じます。そこで、広く行われたのが、真言密教による加持祈禱でした。
 真言といえば、平安時代の初めに弘法が中国から持ち込み、開いた宗派です。ほどなく天台宗にも慈覚・智証によって、真言の教えが大きく取り入れられ、天台宗も密教化しました。
 大聖人の御在世当時、真言師たちは、疫病や天変地異などに対処して、幕府が要請する祈禱を全面的に担い、武士たちが信奉する鶴岡八幡宮の要職をほとんど独占していたのです。
 しかし日蓮大聖人の御眼に映った真言は、およそ仏教とは懸け離れた実態でした。
 “密教”と自称し、法華経等を見下し、大げさな儀式や“おまじない”で深秘さを装っているが、成仏の根拠となる確かな真理を説かず、空虚な教義しかもたない。しかも、法華経の根本であり、成仏の根本の教えである「一念三千」をも盗み取っている。
 こうした、仏教の本義を見失った教えを当てにするようでは、「亡国」の報いしかないではないか。目を覚ませ!真実をよく見極めよ!本抄のほか、「撰時抄」「報恩抄」など建治年間の諸御書には、大聖人の、どこまでも正法を守ろうとの師子吼が込められていると拝されてなりません。
 西山殿が住む駿河国の富士方面は、幕府権力者の領地が多い地域でもありました。また西山殿の一家は日興上人とゆかりの深い一家であったと推測されます。おそらく、さまざまな圧力に耐えながら信心に励み、度々、御供養をお届けされたのでしょう。
 西山殿に、まず教えられたのが「善知識を求めよ」の一点でありました。
 「善知識」とは、人々を善に導き、仏法の正道へと向かわせる「善き友」のことです。
 植えたばかりの木であっても、強い支えがあれば、大風が吹こうが倒れない、旅をするのに険しく悪い道でも助ける人がいれば倒れてしまうことはない。私たちが仏道をまっすぐに進み、悪道に堕ちないための支えが「善知識」です。

04                                              阿闍世王・あう
05 くつまらなんど申せし悪人どもは・いかにも・ かなうまじくて必ず阿鼻地獄に堕つべかりしかども・教主釈尊と申
06 す大人にゆきあはせ給いてこそ仏にはならせ給いしか、 されば仏になるみちは善知識にはすぎず、 わが智慧なに
07 にかせん、 ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり。
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 阿闍世王・鴦掘摩羅などという悪人達は、どんなにしても成仏できなくて、必ず阿鼻地獄に堕ちるはずであったけれども教主釈尊という偉大な人に行きあったからこそ仏になることができたのである。それゆえ仏になる道は善知識に勝るものはない。我が智慧が何の役に立つだろう。ただ暑さ寒さを知るばかりの智慧だけでもあるならば、善知識が大切である。
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07                                        而るに善知識に値う事が第一
08 のかたき事なり、 されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・ 梵天よりいとを下て大地のはりのめ
09 に入るにたとへ給へり、 而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく 善知識は爪上の土よりもすくなし
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 しかしながら、善知識に値うことが最も難しいことである。それゆえ仏は善知識に値うことを、一眼の亀が浮木に入るようなものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目にとおすようなものであると譬えたれている。そのような末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ない。

善知識はあいがたい
 大聖人は、「樹木」や「道行く人」の譬えを用いられた後、一切衆生が成仏するために、最も頼りにすべき存在が「仏」であることを教えられています。さらには、一切衆生の中でも、阿闍世王・鴦掘摩羅といった悪人でさえも、釈尊と出会うことによって、成仏することができたと仰せです。
 阿闍世王は、釈尊の時代のマカダ国の王です。提婆達多に唆されて、父の頻婆沙羅王から王位を奪いました。酔った像を放って釈尊を殺そうとするなど悪行を重ねましたが、体中に悪瘡ができて瀕死の状態になり、侍医・耆婆の勧めで悔い改めて釈尊に帰依しました。
 釈尊が阿闍世王を救う心情を、大聖人はこう記されています。
 「大覚世尊・御涅槃の時なげいてのたまはく・我涅槃すべし但心にかかる事は阿闍世王のみ、迦葉童子菩薩・仏に申さく仏は平等の慈悲なり一切衆生のためにいのちを惜み給うべし、いかにかきわけて阿闍世王一人と・をほせあるやらんと問いまいらせしかば、其の御返事に云く『譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し』等云云」( 釈尊は入滅の時、嘆いておられました。「自分は入滅するでしょう。ただ、心にかかるのは阿闍世王のことだけです」と。これを聞いて迦葉童子菩薩が、釈尊に「仏の慈悲は平等であって、一切衆生のためにご自身の命を惜しまれるべきであるのに、どうして特別に阿闍世王一人だけが心にかかるといわれたのでしょうか」と問うたところ、釈尊は「たとえばある人に七人の子供があり、その七人の子のうち一人が病気にかかったとします。父母の心は、どの子も平等であるけれども、やはり、病気の子に対しては誰よりも、心が傾くようなものです」と答えられました)(1253-05)
 とりかえしのつかないような罪を犯し、必ず三悪道に堕ちることが必定の悪人でさえも、釈尊の慈悲と正しい指導によって、蘇生することができたのです。
 それは、いかなる悪人にも本来、内在している仏性が、仏に縁することによって開かれるからです。
 一方で大聖人は、仏が世に出現しないと、皆、三悪道に堕ちてしまうと仰せです。障魔の「大風」に負け、悪路に迷えば結局は自分の無明をやぶることができないからです。
 「総勘文抄」に、「一切衆生に仏性があるといっても善知識という善縁にあわなければ、その仏性を悟ることも、知ることも、顕すこともできない」とあります。凡夫が自身に内在している仏性を開くには、仏という最高の善知識が必要です。それゆえに、「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん」と仰せなのです。
 大聖人は、法華経以前の菩薩、あるいは二乗は、善知識とならないことも指摘されています。真の慈悲と完全なる智慧がなければ、一切衆生を仏にすることはできません。
 そして、この善知識に巡り合うことが、いかに稀であるかを強調されるとともに、末法は、悪知識が充満している時代であることを教えられています。
 彼らは、“天を地と言い、東を西と言い、火を水と教え、星は月より明るい、蟻塚のほうが須弥山より大きい”などと語り、民衆の心をたぶらかしてしまう。「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破る」(0007-16)のです。釈尊が“悪象より善知識を恐れよ”と強調されているゆえんです。
 大聖人は「正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり」(1340-15)とも仰せです。邪悪の師を見破り、正善の師を求めていく。破邪顕正の戦いを教えられています。
 末法における「正善の師」とは、法華経の行者であることは、言うまでもありません。
 本抄は、「悪知識」すなわち「悪師」を鋭く見破り、「善知識」すなわち「善師」と共に戦うべきことを呼び掛けられている御書です。正しき師弟の中にしか、仏法の正しい実践はありません。そこで大聖人は、善悪を見極める「基準」として、「三証」の法理を示されていきます。

16   日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、 又道理証文よりも現証にはすぎず、         ・
-----―
 日蓮が仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とにすぎたるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはない。

一切は「現証にはすぎず」
 文証・理証・現証の三証は、仏法の正邪・浅深を判別原理であり、三証のなかでも特に現証が重要であると述べられています。
 まず、文証ですが、仏教と名乗るからには、教義が、釈尊の教えに正しく則っていることが不可欠で、経文上の証拠がなければなりません。
 理証とは、教義が道理に適い、普遍妥当性を有しているかどうかです。
 現証とは、実践することによって、説かれた内容が、生活の上に、現実社会に、結果として、どう現れるかです。「一切は現証には如かず」(1279-16)と仰せの通りです。
 牧口先生は、分かりやすく「医者を選ぶ3条件」に当てはめて説明されました。
    一、学歴や肩書き専門等を考えるのは、文証にあたる。
    二、その医者が多くの病人を現に治しているかどうかは、さらに大事な条件であって、これが現証である。
    三、しかもその治療法は、医学上、合理的なものであることが納得できるならば、もはや何の不安もない。これが道理、すなわち理証である。
 そして「生活は第二者の立場であるべきだ」「価値創造は第二者の立場で行うのである」と、現証が最も重要であることを述べられています。
 戸田先生は、「文証どおり、理証どおり、現実生活に実験せられることが正しい現証論である」と喝破されました。いくら現実に起こったことであっても、文証・理証と無関係なら、それは単なる偶然か、こじつけに過ぎません。
 宗教は、現実の生活上に価値を生み出すものでなければなりません。「三証」は、幸福と平和を築く価値創造の宗教かを峻別する基準となるのです。

03                善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法
04 を・をほせつけられて候しに・ 大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き
05 来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり、 又其の世に金剛智三蔵わたる、又雨の御いのりありしか
06 ば七日が内に大雨下り上のごとく悦んでありし程に、 前代未聞の大風吹きしかば・真言宗は・をそろしき悪法なり
07 とて月支へをわれしが・とかうしてとどまりぬ、 又同じ御世に不空三蔵・雨をいのりし程三日が内に大雨下る悦さ
08 きのごとし、 又大風吹きてさき二度よりも・をびただし数十日とどまらず、不可思議の事にてありしなり、 此は
09 日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり、 しらんとをもはば日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ、
-----―
 善無畏三蔵が中国へ渡った時は唐の玄宗の時代であった。大旱魃があって、祈雨を仰せつけられ、大雨を降らせたので、上一人より下万民にいたるまで大いに喜んでいたところに、しばらくして大風が起こって国土を吹き荒らしたので、皆興ざめてしまった。またその時代に金剛智三蔵が渡った。また雨の御祈りを行ったところ、七日の内に大雨が降り、前の時のように喜んでいたところに、前代未聞の大風が吹いたので、真言宗は恐ろしい悪法であるとして、インドへ追い返されようとしたが、あれこれと言い繕って留まったのである。また同じ御世に不空三蔵が雨を祈ったところ、三日の内に大雨が降った。喜びは前の時のようであった。また大風が吹いて、前の二度の時よりも激しく、数十日もとまらなかった。不可思議なことであった。このことは日本国の智者・愚者は一人も知らないことである。知ろうと思うならば、日蓮が生きている時に詳しく訪ね習いなさい。

歴史の大転換を築く精神闘争
 中国の真言密教の祖である善無畏・金剛智・不空の三三蔵が8世紀の頃、相次いで祈雨を行った。大聖人は記録を踏まえて説明されます。それによると、彼らの祈りによって、一度は雨が降ったものの、すぐ前代未聞の大風が吹き、かえって人々を一層苦しめる、惨憺名たる結果に終わりました。
 “これは日蓮以外、だれも知らない。知りたければ、生きている間に聞け”、と述べられています。これは、事の顛末は残されているものの、あまり知られず、まして、その原因は大聖人しか御存知ない、という意味と拝されます。
 大聖人はさらに、日本にける弘法の祈雨の失敗の現証を挙げられます。
 また弘法は、疫病流行の時に祈禱したら、夜中に太陽が出たとか、中国から日本へ帰国する際、祈禱の道具を投げたら、それが高野山から出てきたとか言って、それを弘法の徳の証明であるかのように主張していた。こうした「三証」の態度とは全くかけ離れた主張に対して、大聖人は「そらごと」であると破折されています。
 続けて大聖人は、時代の本質へ迫ります。すなわち、当時の諸宗の混迷、そして他国から攻められる日本国の様相は、そもそも、どこから狂ってしまったのか。
 その元凶は、日本真言宗の開祖・弘法と、天台宗第三代座主・慈覚、第五代座主・智証の3人が、天台と真言の勝劣について誤ってしまったことであると喝破されています。
 大聖人は「撰時抄」の中で、念仏宗、禅宗という当時流行していた新興の宗派と、古い伝統をもつ真言宗とを比較され、その誤りの度合いは、真言宗のほうが、はるかに根深く大きいと述べられました。
 そして「報恩抄」では、真言宗と、密教化した天台宗を対比させ、「真言の開祖・弘法こそ第一の謗法の者だと思っていたが、天台宗の慈覚・智証は、弘法以上に、とんでもない誤りを犯している」と論じられています。
 なぜかというと、弘法の誤りは、水と火の違いのように明瞭であるから気付かれやすいが、慈覚・智証の誤りは青と黒の違いのようにわかりにくく、皆、疑いもせずに、だまされてしまっていると仰せです。
 慈覚・智証以来、天台宗は真言諸経を取り入れて密教化してしまいました。真言の密教が「東密」、密教化した天台宗が「台密」と呼ばれるように、法華経を第一とする天台宗は、跡形もなくなってしまったのです。結果的に中国でも、日本でも、真言によって仏教は神秘的な儀礼に走り、変質していったのです。
 大聖人が、鎌倉時代の日本に「法華経の行事として立ち上がられ、真言破折に挑まれたのは、こうした仏教の衰退・滅亡を食い止める、歴史的大転換の戦いであられたのです。
 それはまさに、本抄にて「たゆむ心なし」、「退する心なし」と仰せ通りのお姿でありました。その根本精神とは、一切衆生をなんとしても救おうとの願いにほかなりません。
 本抄で大聖人は、末法に正法の行者が出現すると、邪法の僧らが王臣と結託して、この正法の行者を亡き者にしようとする。これに対し、無量の諸天善神が、隣国の王の身に入り替わって、この正法誹謗の国を攻め、罰しようとする、との経文の趣旨を述べられます。
 ここには“だから今、日本国は、蒙古にせめられているのだ。亡国の危機にある日本を、根底から救うのは誰なのか。日蓮以外にいないではないか!”との深い御洞察と御確信が込められているのです。

03   抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ、 能く能く過去を御尋ね有らば・なにと無くとも此度生死
04 は離れさせ給うべし、 すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども 仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして
05 無間に堕ちぬ・ 是れ偏に末代の今の世を表するなり、 敢て人の上と思し食すべからず事繁ければ止め置き候い畢
06 んぬ、
-----―
 ところで、あなた方は、どのような過去世の善根で日蓮を訪ねられるであろうか。よくよく過去を御尋ねになれば、なにはともあれこの度は生死の迷いを離れることができるであろう。須梨槃特は三箇年に十四字すら暗唱できなかったけれども仏になった。提婆達多は六万蔵を暗唱したけれども、無間地獄に堕ちた。このことはひとえに末代の今の世のことを表しているのである。けっして他人のことと思ってはならない。申し上げたいことは多くあるがここでとどめておく。

門下の純真な信心を賞讃
 この段で大聖人は、西山殿の純真な信心を讃えられるとともに、一層の信心の奮起を促されています。
 その際、挙げられたのが、同じ仏弟子であっても、もの覚えが悪いとされた須梨槃特が成仏し、多くの法門を暗記できた提婆達多が地獄に堕ちた、との対比です。
 須梨槃特に、多くの仏弟子の先輩が3年にわたって毎日一偈を授けたが一つも暗誦することができなかった。
 しかし、師・釈尊は、あきらめなかった。須梨槃特を前に、次のような一偈を授ける。「口を守り、意を摂め、身に非を犯すことなかれ。かくの如く行ずれば、必ず度脱することを得」と。
 そのとき須梨槃特は、仏の慈愛を感じて、この偈を、口に唱えることができた。
 これをみて、釈尊は言った。
 「あなたは今、年は老いたが、まさに一偈を会得することができたのだよ。今、あなたのために、この意義を解説するから、一心にお聴きなさい」
 それから釈尊は、身口意による各種の業などについて述べ、涅槃の境地を得る道を説いていった。このとき、須梨槃特の心が開かれ、覚りへの道を得たとつたえられています。
 後に、釈尊は須梨槃特を伴い、国王のもとを訪れたとき、王が釈尊に質問した。
 「何によって彼は、一偈を知り、道を得ることができたのか」
 釈尊は答えた。
 「学は必ずしも多くは必要としない。学んだことを実行するのを上となすのである」
 「もし人が、多く学んでも、行わなければ何の益もないのである」と。
 知っているから偉いのではない。一句でも心に刻んで実践することが、成仏の境涯を開く要諦でると、大聖人は教えられたのではないでしょうか。
 特に感銘深いのは、須梨槃特を励まし続けた師・釈尊の慈愛です。そして、これに報いようとした弟子・須梨槃特の信心です。
 また、ここで示されている須梨槃特の信心とは、本抄の冒頭で仰せられていた、ただ一筋に善知識を求める信心を指すと拝されます。師弟不二こそ成仏の大道なのです。
学会は「善知識」の集い
 日蓮大聖人を根本の師と定め、互いに支え励まし、「広宣流布」と「人間革命」を成し遂げていく和合の世界、それが牧口先生、戸田先生が命を賭して築かれた創価学会です。
 現代にあって、師と同じ心に立ち、万人の仏性を開く「励まし」の世界を広げゆく創価学会こそ「善知識」の集いにほかなりません。
 大聖人は「志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか」(0970-18)と正法を学ぶ集いを重視されています。
 また法華経の随喜功徳品には、法華経を聴く会座に「一緒に行きましょう」と友を誘って参加する功徳、その会座で、後から来た人が座れるよう、席をつめてあげる功徳は絶大であると説かれています。
 「仏の如く互に敬うべし」(1383-03)です。日々の学会活動で「友を大切にする」ことはその一つ一つが、仏意に適った正法の実践なのです。
 性格も境遇も異なる同志も共に進むことは、面倒で大変だと思う場面もあるかもしれません。特に若い人の中には、「組織」という者を煩わしく感じ、一人でいるほうが、自由で気楽だと考える人もいるかもしれない。今の時代、人と人が直接関わり合う場面を、できるだけ避けようとする傾向が強いせいもあるでしょう。
 しかし、その風潮が、異なる個性を生かし合い、讃え合う、人間的な度量を鍛える機会を奪っている。そのため他者の痛みが理解できず、自分の怒りをコントロールできず、わずかな気持ちのすれ違いや誤解を修復できず、暴力・孤立・絶望・自死へと追いやったり、追いやられたりしている。この現実を、だれもが何とかしなければと願っているのではないでしょうか。
 晩年のゲーテと親交を結んだ青年が、自分の気の合う人とは喜んで付き合うが、そうでない人とは関わりたくないと言っていました。ゲーテは、こうアドバイスします。
 「性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にあるいろいろのちがった側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ。
 君も、そうゆうふうにすべきだね。君には、自分が思いこんでいる以上に、その素質があるのだよ」
 ともあれ、自身の人間革命に挑戦し、水の流れるごとき信心を貫くことが大切です。
 その鍛錬の場が、創価学会です。
 私たちの「人間革命の輝き」が、かけがえのない善知識の世界を築き、時代の闇を照らす「未来の光源」となっていくのです。
 青年よ、世界に「有情の連帯」を」
 55年前(1958)の「3・16」。戸田先生は、この日、私たち青年に、わが創価学会こそ精神界の王者であることを厳然と教えてくださいました。
 広宣流布とは、決して狭い宗教の次元にとどまるものではない。堂々と、社会の平和と繁栄に尽くしゆくことだ。こう決意した青年たちの心は大きく広がりました。
 まさしく、学会こそ、分断と孤立の不安をかかえる社会にあって、「人間共和の安全地帯」です。そして、その友情の連帯を広げる主役が、青年にほかなりません。
 どこまでも善知識を求めよ!われわれもまた、世界の人々の善知識となって、尊き友情を結んでいこうじゃないか!これが、創価学会の青年の気概です。また、青年は親を愛し、哲学を学べ!戸田先生は叫ばれました。仏法の善知識の特長は、最高の慈悲と智慧の働きかけにあるからです。
 55年前のこの3月の間も、先生は、衰弱の極みにありながら、最後の最後まで、私たち青年を励まし続けてくださいました。「勉強しろ、勉強しろ」と、叱咤を惜しまなかった。青年の問いに応えて、教学を教えてくださったこともありました。
 ある青年には、休まれていた御自分の体を起こさせて、渾身の力で語られました。
 「教学をしっかり身につけてゆきなさいよ」
 「私の教学は、大聖人が信心について、どうお教えあそばされたかという、観心の教学だよ。それに、君も続きなさい」
 今、愛する我が青年が、懸命になって、御書研鑽の“大学校運動”に挑戦している。
 世界各国でも、その息吹は高まっています。北中南米でも、欧州でも、オセアニアでも、アジアのいずこでも、そしてアフリカでも青年が教学で立ち上がった。諸君の、真剣で、頼もしい姿を、戸田先生がご覧になったらどれほど喜ばれることか。
 「右手に、奥義の哲理を握り
 左手に、蓮華の慈悲を抱きて走る」です。
 「慈悲と哲理の、地涌の誉れ」の青年たちが、哲学を根本に、世界の人々の善知識となって、尊き友情を結んでいく実践ほど頼もしいものはありません。こんなうれしいことはありません。
 互いに励まし、互いに境涯を高めあう。「創価の善知識の連帯」こそが、人類の希望なのです。

1472~1473    蒙古使御書top
1472:01~1472:01 第一章 西山殿の帰国を喜ぶtop

蒙古使御書    建治元年    五十四歳御作   与西山高橋入道
01   鎌倉より事故なく御下りの由承り候いてうれしさ申す計りなし、                    ・
-----―
 鎌倉から事故なく御帰国の由をお聞きし、嬉しさは申し上げようもない。

 本抄は建治元年(1275)、日蓮大聖人54歳の御時、身延山から駿河国(静岡県)富士郡の西山入道へ宛てられた御消息である。これより先、西山殿は鎌倉に出向き、幕府の仕事をしていたのであるが、その役務が御免となって所領の駿河国に帰ってきたのである。その旨を大聖人にお手紙で報告し、併せて蒙古国からの使者を幕府が竜の口で斬首した様子をお知らせしたのであろう。
 これに対する返書が本抄である。
 題号の「蒙古使御書」は、本文に「日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ」と述べられているところから名づけられたものである。
 なお、御真筆の所在は不明である。
 まず、ここでは西山殿が鎌倉から無事所領に帰国したとの報を受けて「うれしさ申す計りなし」と喜びを述べられている。当時は不穏な世の中で、鎌倉から駿河国までたいした距離ではないとはいえ、箱根の難所もあり、大聖人は御門下の身を心配されたのであろう。

1472:01~1472:04 第二章 蒙古遣斬首の愚行を指摘top

01                                 又蒙古の人の頚を刎られ候事承り候日本国の
02 敵にて候念仏真言禅律等の法師は 切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ 不便に候へ子細を知ざ
03 る人は勘へあてて候を おごりて云うと思ふべし 此の二十余年の間私には昼夜に弟子等に歎き申し公には度度申せ
04 し事是なり
-----―
 また蒙古の人が頚を刎ねられたとのこと、お聞きしました。日本国の敵である念仏・真言・禅・律等の法師は切られないで、罪のない蒙古の使いが頚を刎ねられたことこそ哀れである。事情を知らない人は、日蓮が予言したことが合致したのを、思い上がって言っているとおもうであろう。この二十余年の間、私的には昼夜に弟子等に嘆き語り、公にはたびたび諌めてきたことはこの国を災いから救うためだったのである。

蒙古
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――

 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――

 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――――――――
 鎌倉幕府が蒙古の使者を斬首したとの西山殿の報告を受けられて、日蓮大聖人の所感を語られたところである。
 初めに、日本国の本当の敵である念仏・真言・禅・律等の謗法の徒を処罰せずして、何の罪もない蒙古の使者の頸をはねたことに対して、その愚かさを嘆かれている。
 次に、大聖人が、ずっと以前に蒙古襲来のあることを予知され警告されたのが、そのとおりに符合したことを述べられている。そして、世の人々は、この予言的中で大聖人が喜び得意になっていると思っているかもしれないが、この災いをだれよりも憂え、それを避けるために諌暁してきたのだと仰せられている。
蒙古の人の頚を刎られ候事承り候
 これは、前年の文永11年(1274)にあった文永の役で、いったんは軍を退いた蒙古が翌年の建治元年(1275)、再び日本に入貢を求めて遣わしてきた使者を、竜の口で斬首した事件である。
 保暦間記によると、「建治元年四月十五日、大元使長門の国室の津の浦に付く。八月、件の新使五人関東へ召下され、九月七日、竜の口にして首をはねらる」とある。
 ここでは使者の名は明らかにされていないが、史料綜覧の建治元年(1275)9月の項には「七日、幕府、蒙古の使臣杜世忠、何文著等五人を竜口に斬る、因りて、京師、幕府の公事を減じ、民力を休養して、兵備を厳にす」と、杜世忠、何文著の代表2人の名が見えている。執権・北条時宗にしてみれば、蒙古とは断固戦うとの姿勢を示し、国内の士気を固めるためにしたことであろうが、日蓮大聖人は日本国の本当の敵であり、三災七難の元凶である禅・念仏・真言等の邪法の僧侶を斬らないで、何の罪もない使者の頸を斬るとは、まことに不憫であると、蒙古の使いを哀れまれるとともに、この幕府の処置の愚かさを嘆かれている。
勘へあてて候
 ここでは、文応元年(1260)7月16日に鎌倉幕府へ上呈された立正安国論で予言し警告されたことがそのとおりに的中したことを言われている。
 次に「おごりて云うと思ふべし」とは、よく事情を知らない世人は、予言が的中したので大聖人が得意になっているのではないかと思っていることであろうとの意である。もっと端的にいえば、大聖人が蒙古軍の襲来を喜んでいると世人は思っているにちがいないということである。
 もとより、大聖人が日本の国が滅び、人々が苦悩に陥るのを期待されるわけがない。そのような悲惨な事態になることをだれよりも心配されたのが大聖人であられた。だからこそ、御弟子の人々にも、つねづね、この国の災いについて嘆き語ってこられたのであり、「公」すなわち幕府に対しては、命をかけて諌暁してこられたのである。すなわち、日蓮大聖人は蒙古襲来という最大の災いを避けるために努力を重ねてこられたことが明らかである。民衆の幸福と平和を願われての言動であったことを忘れてはならない。

1472:04~1473:02 第三章 亡国の原因を経文により明かすtop

04      一切の大事の中に国の亡びるが 第一の大事にて候なり最勝王経に云く 「害の中の極めて重きは国位を
05 失うに過ぎたること無し」 等云云、 文の心は一切の悪の中に国王と成りて政悪くして 我が国を他国に破らるる
06 が第一の悪にて候と説れて候 又金光明経に云く 「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に乃至他方の怨賊来り
07 て国人喪乱に遇う」等云云、 文の心は国王と成りて悪人を愛し 善人を科にあつれば必ず其の国他国に破らるると
08 云う文なり、 法華経第五に云く「世に恭敬せらるるを為ること六通の羅漢の如くならん」等云云、文の心は法華経
1473
01 の敵の相貌を説きて候に・ 二百五十戒を堅く持ち迦葉舎利弗の如くなる人を・国主これを尊みて法華経の行者を失
02 なはむとするなりと説れて候ぞ。
-----―
 一切の大事の中で国の亡びるのが第一の大事である。最勝王経には「害の中で最も重いのは国位を失うことに過ぎたことはない」と説かれている。文の心は、一切の悪の中で、国王となって政が悪くて、自分の国を他国に亡ぼされるのが、第一の悪であるということである。
 また金光明経には「悪人を愛敬し、善人を治罰するがゆえに、他国の怨賊が攻め寄せて国中の人が滅ぼされるという苦しみに遇う」と説かれている。文の心は、国王となって、悪人を愛し善人を罰すれば、必ずその国は他国に亡ぼされるということである。
 法華経第五の巻には「世間から敬われること、六神通を得た阿羅漢のようである」と説かれている。文の心は、法華経の敵の相貌(そうみょう)を説かれたもので、二百五十戒を堅く持ち、迦葉や舎利弗のようにみえる人を、国主が尊んで、法華経の行者を失わせようとするのである、と説かれたものである。

最勝王経
 金光明最勝王経の略。10巻。唐代の義浄訳。この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ一切の諸天善神の加護を受けることが説かれている。逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨てるため、三災七難が起こることも説かれている。
―――
金光明経
 漢訳に五本ある。現存するのは、北涼の曇無讖訳の金光明経4巻、隋の宝貴の合部金光明経8巻、唐の義浄訳の金光明最勝王経10巻の3本のみ。
―――
二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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 まず「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり」と仰せられて、この前の御文で仰せられているように、そうした災厄から日本を救うためにこそ、警告し諌めてきたと言われているのである。
 災いから救うためには、災いの起こる原因がどこにあるかを知らねばならない。その原因を、金光明最勝王経と法華経第五の巻・勧持品の経文に照らし合わされて明らかにされている。
 すなわち、金光明経に「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に」とあり、また法華経には、その〝悪人〟について「世に恭敬せらるるを為ること六通の羅漢の如くならん」とある。まさにこの通り、鎌倉幕府は〝生き仏〟のように崇められていた極楽寺良観を重んじ、大聖人を迫害してきた。良観こそ法華経勧持品に僭聖増上慢として示されている姿にぴったり合致しており、金光明経の説く〝悪人〟である。この良観を〝愛敬〟し、善人であり法華経の行者である日蓮大聖人を治罰したために蒙古軍の襲来を招いたのであると指摘されている。
一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり
 亡国が最も大きな災いであるとの仰せである。この仰せのなかに、日蓮大聖人の国を思い、国を救おうとされる大慈大悲の御精神がみなぎっている。
 これは立正安国論の上呈以来、大聖人の御生涯を貫いてきた根本精神であられる。大聖人御在世当時の仏教は、概して国の盛衰や動向に無関心であったといえよう。当時流行した仏教の一つ・禅宗は、ただひたすら禅定を修して個人の解脱を得ることばかりに専念していた。当然、国全体や民衆の幸不幸の問題に対しては背を向ける姿勢をとっていたのである。大聖人が「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(0031-18)と仰せられたのは、〝一身の安堵〟すなわち個人の解脱のみを願うエゴイズムの宗教に対する破折であられたことはいうまでもない。
 〝一身の安堵〟というのも、まず〝四表の静謐〟つまり天下の安穏があってこそ実現されるものである。五濁悪世の末法の時代で天下の内外に動乱の様相が現れているときには、〝一身の安堵〟を願うまえに〝四表の静謐〟なることを祈り、その実現に邁進すべきであるというのが、大聖人の御心である。
 また、当時流行していたもう一つの仏教・念仏宗も、死後に西方浄土に往生することを願う点でやはり、現世における国と民衆全体の幸不幸の問題から逃避する態度をとっている。それは「厭離穢土・欣求浄土」の言葉に明らかなように、現実社会を厭い離れ、浄土に往生することを欣求するのである。その根本の考え方は、ひとえに現実からの逃避心にある。四表の静謐を願われる日蓮大聖人が、この念仏宗を最も厳しく破折されたのも、ここに一つの意味があったと拝せられる。
 このように考えてくると、日蓮大聖人がいかに民衆の生活の基盤である国土や国全体の安穏の実現を願われたかが分かる。その基調に法華経の娑婆即寂光土という思潮があることはいうまでもなかろう。どれだけ娑婆世界が苦難に満ちていようとも、これを寂光土に変革していく、現実変革の原理を教えたのが法華経であり、日蓮大聖人の仏法なのである。
 自らの解脱のみを願ったり、現実から逃避したりするのでなく、まず国全体やすべての民衆の安穏と幸福の実現に邁進していく――ここに大乗仏法の精髄たる法華経の精神があり、大乗菩薩道の究極がある。そしてこれこそ、日蓮大聖人の仏法が大乗仏法の最高峰にある所以の根本精神である。
 人間の幸・不幸を左右するものには自然条件の異変からくる災厄や個人の宿業からくるものも当然あるが、何といっても〝国〟が滅びることが最も深刻である。〝国〟すなわち人間の共同体社会は、自然災害から人々を守るため、また個人的不幸から最大限に救うために形成されたのであり、この壊滅は一切の防備が失われることを意味するからである。
 また、さらにいえば、人間同士が殺し合うほど無残で悲惨なものはないからである。ここに仰せの〝国〟とは、たんに国家主義的な〝国〟だけをいうのでなく、さまざまな単位での人間共同体社会をすべて含んだ概念と考えるべきであろう。
金光明最勝王経
 亡国の原因を明かされるにあたり、金光明経の文を引用されている。
 本経の梵語は「スヴァルナプラバーサウッタマラージャスートラム」という。スヴァルナが金・黄金、プラバーサが光・光明、ウッタマが最上・最勝、ラージャが王、スートラムが経をそれぞれ意味し、合して金光明最勝王経となる。
 中国の天台大師の金光明玄義により経題の内容を示すと、まず金光明の三字は仏陀の三身及び三徳を表すとする。〝金〟が本有すなわち本来清浄尊貴である仏陀の法身を示し、〝光〟は黄金のごとき法身が放つ光で、報身の慈悲と智慧が普く万物を照らすことを表し、〝明〟は仏陀が衆生に応じて普く広大な利益を与えることを象徴している。
 〝最勝王〟とは、黄金のごとき仏陀の三身・三徳が尊貴で最勝なることを王にたとえたのである。しかし、天台大師はこの経を五時のうち方等時に位置づけている。漢訳五本のうち最も完備した唐の義浄訳によると、全10巻31品からなる。
 内容は、仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説かれたとされ、諸経の王であるこの経を護持する者は護世の四天王(多聞天・持国天・増長天・広目天)をはじめ一切の諸天善神の加護を受け、また国王が正法を行ずれば国が諸天の加護を受けることなどが示されている。逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨てるために数々の災難が起こることも説かれている。
 以上のような内容から、古来、中国・日本で法華経・仁王経とともに護国の三部経の一つとして尊重されてきた。
 とくに王法正論品第二十には正しき王道の在り方が説かれていて、護国の経典としての特徴が顕著であるといえる。
 ここでは、為政者たるものは厳正な国法による政治を行い、悪を止め、正法をもって民衆を統括し、法宝を尊重すべきであると説く。もし国王が正しき王道を守らず、非法悪政を行い、正法を護持しないときには、国土の災難、なかんずく国の滅亡喪乱のあることを痛切に説いている。その反対に、国王が正しき王道を行い、正法によって一切の民衆に十善業を行じさせるときには、国土の繁栄、諸天善神の守護があることが力説されている。
 大聖人が本抄で引用された二文は、いずれも国の為政者が悪政を行って亡国に至ることを明かした部分からのものである。
 初めの「害の中の極めて重きは国位を失うに過ぎたること無し」という文の前後を王法正論品から引用してみよう。
 「若し自国の中に非法を行ずる者を見れば、法の如く当に治罰すべし。捨棄を生ずべからず。是の故に諸の天衆、皆此の王を護持す。諸の悪法を滅して、能く善根を修するを以っての故に。王は此の世の中に於いて、必ず現報を招く。善悪の業に於いて、行捨を衆生に勧めるに由る。善悪の報を示さんが為の故に、人王と作ることを得、諸天共に護持して一切咸く随喜す。自利利他に由り、国を治めるに正法を以ってし、諂佞有る者を見ては、当に法の如く冶すべし。仮使い王位を失い、及以命縁を害すとも、終に悪法を行ぜざれ。悪を見て捨棄せよ。害中の極重なる者、国位を失うに過ぎたるは無し。皆諂佞の人に因る。此の為に当に治罰すべし。若し諂誑の人を友とせば、当に国位を失うべし、斯に由りて王政を損づること、象の華園に入るが如し。天主皆瞋恨し、阿蘇羅も亦然り。彼、人王と為りて、法を以って国を治めざるを以ってなり。是の故に如法に悪人を治罰すべし。善を以って衆生を化し、悲法に順ぜざれ。寧ろ身命を捨てるとも、非法の友に随わず」。
 ここでは、国王が国位を失うのは悪人、非法を行ずる者、諂佞の人を治罰せずしてむしろ友とすることによると述べられている。
 次の「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇う」の前後についても同じく引用してみよう。
 「若し悪を見て遮せずんば、非法便ち滋長して、遂に王の国内をして奸詐日に増して多からしむ。王、国中の人の造悪を見て遮止せざれば、三十三天の衆、咸く忿怒の心を生ず。此に因って国政を損し、諂偽世間に行われ、他の怨敵に侵され、其の国土を破壊す。居家及び資具、積財皆散失し、種種の諂誑生じて、更互に相侵奪す。正法に由りて王たることを得、而も其の法を行わずんば、国人の皆破散すること象の蓮池を踏むが如し。悪風起こりて恒無く、暴風非時に下り、妖星変怪多く、日月触して光無し。五穀と衆の華果と苗実皆成ぜず、国土飢饉に遇う、王の正法を捨てるに由る。若し王正法を捨てて悪法を以って人を化すれば、諸天本宮に処し、見已りて憂悩を生ず。彼の諸の天王衆、共に是の如き言を作す。此の王非法を作し、悪党相親附し、王位久安ならずと。諸天皆忿恨す。彼の忿を懐くに由るが故に、其の国当に敗亡すべし。非法を以って人を教え、国内に流行せば、闘諍して奸偽多く、疾疫衆の苦を生ず。天主護念せず、余天咸く捨棄し、国土当に滅亡すべし。王身苦厄を受け、父母及び妻子、兄弟并に姉妹、倶に愛の別離に遭い、乃至身は亡歿せん。変怪ありて流星堕ち、二日倶時に出て、他方の怨賊来たり、国人喪乱に遇わん。国に重んずる所の大臣、枉擴にして身死し、愛する所の象馬等、亦復皆散失せん、処処に兵戈あり、人多く非法にして死す。悪鬼来たりて国に入り、疾疫犍く流行す。国中の最たる大臣、及び諸の輔相、其の心諂佞を懐き、並に悉く非法を行ず。非法を行ずるを見ては、愛敬を生じ、善法を行ずる人に於いて、苦楚して治罰す。悪人を愛敬し、善人を治罰するに由るが故に、星宿及び風雨、皆時を以て行われず」。
 ここでは、王が国内の悪を見て制止しなかったならば、三十三天の善神が忿怒の心を生じ、守護しなくなって、国に種々の災難が起こることが説かれている。
 特に、国王が非法を行ずる者に対して愛敬の心を抱き、善法を行ずる者を苦しめ、治罰したりするときに、種々の災難を招き、他方から怨賊の襲来を受けることを述べている。そして、その騒乱のなかで国中の人々が死に至り、国は滅亡するであろうと説いている。
法華経第五に云く「世に恭敬せらるるを為ること六通の羅漢の如くならん」
 勘持品第十三の有名な「二十行の偈」のなかの一節である。特に三類の強敵の様相を明かすなか、第三類の僭聖増上慢の姿を説いているところである。ここにそれを引用すると次のようになる。
 「或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賤する者有らん 利養に貪著するが故に 白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所と為ること 六通の羅漢の如くならん 是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮って 好んで我れ等が過を出さん 而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貪らんが為めの故に 外道の論議を説く 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求めんが為めの故に 分別して是の経を説くと 常に大衆の中に在って 我れ等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん」。
 一読して明らかなごとく、末世の僧侶のなかで六神通を得た阿羅漢のように世人からことのほか尊敬されている者が、法華経の行者を陰に陽に迫害する様子を説いた文である。
 日蓮大聖人は、このような僭聖増上慢の僧侶を「二百五十戒を堅く持ち迦葉舎利弗の如くなる人」と述べられている。二百五十戒を堅く持つ人というのは、大聖人御在世中に戒律を持って世人の尊敬を一身に集めた真言律宗の極楽寺良観等のことを暗にほのめかされている。
 そして、国主にあたる鎌倉幕府の執権・北条氏が、非法を行ずる良観等を愛敬し、正法・法華経の行者である日蓮大聖人を迫害したために、金光明経に説かれるとおり、蒙古襲来の苦難を招くに至ったと述べられている。
 冒頭で「日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ」と仰せられた理由も、以上のことから明らかであろう。

1473:03~1473:09 第四章 三世を知る智慧と法華経の超勝性を示すtop

03   夫れ大事の法門と申すは別に候はず、 時に当て我が為め国の為め大事なる事を少しも勘へたがへざるが智者に
04 ては候なり、 仏のいみじきと申すは過去を勘へ未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候御智慧はなし、 設い仏に
05 あらねども竜樹.天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は仏程こそ.なかりしかども・三世の事を粗知しめされ
06 て候しかば名をも未来まで流されて候き、 所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わり
07 て日月・衆星も己心にあり、 然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、
08 外典の外道・内典の小乗・ 権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、
09 然れば経経に勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ、法門多多なれば止め候い畢んぬ。
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 さて大事の法門というのは別のことではない。時に当たって、我が身のため、国のために、大事な事を勘(かんが)えて少しも間違わないのが智者なのである。仏が尊いというのは、過去を勘へ、未来を知り、三世を知っておられるからであり、これに勝る智慧はない。たとえ仏ではないけれども、竜樹・天親・天台大師・伝教大師などという聖人・賢人等は、仏ほどではなかったけれども、三世のことを粗知っておられたので、名を未来まで伝えられたのである。
 所詮、万法は己心に収まって、一塵も欠けてはいない。九山八海も我が身に備わり、日月・衆星も己心に収まっている。しかしながら、盲目の者には鏡に映る影が見えず、嬰児が水火を怖れないように、凡夫には己心に収まる万法が見えないのである。
 外典の外道や内典の小乗・権大乗等は、皆己心の法を片端片端説いているのである。しかしながら、法華経のようには説かない。それゆえ、経々に勝劣があり、持つ人々にも聖賢が分かれるのである。法門のことは限りないことであるから、これで止めておく。

竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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聖人・賢人
 聖人とは、世間・出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で、徳の勝れた者のうち、賢人より勝れた者の場合に用いる。仏法上では仏を意味し、また正しく仏法を弘める高僧のこともいう。賢人とは、聖人に次ぐ賢明で高徳の人をいう。
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九山・八海
 須弥山を中心とする一小世界の山海の総称。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。すなわち須弥山を中心として周囲を同心円状に七つの香海と七つの金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでおり、一番外側には鉄囲山が取り囲む。須弥山の高さは八万四千由旬。七つの金山は、内側から持双山、持軸山、檐木山、善見山、馬耳山、象鼻山、持辺山といい、その高さは金山の外側に向かうに従い、隣接する内側の山の半分の高さとなり、最も外側の持辺山の高さは六百二十五由旬となる。以上の須弥山・七金山・鉄囲山の九山と七内海・外海をまとめて九山八海という。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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小乗
 小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権大乗
 大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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 冒頭でまず、仏法における「大事の法門」は、大事な時に、我が身のためにも国のためにも最も重要なことを、寸分もたがうことなく〝勘へあてる〟ところにあり、それができる人が智者であると述べられる。仏が偉大なのは、ひとえに過去・現在・未来の三世を知る智慧を有しておられるからにほかならない。竜樹・天親・天台大師・伝教大師などが聖人・賢人の名を自らの死後にまで流しているのは、やはり、仏ほどではないにしても、ほぼ三世のことを知っていたからである。
 こうして三世を知る智慧の大切さを述べられた後、法華経と外典・外道、小乗、権大乗とを比較されて、法華経の説き示す法門こそ無上であることを明かされ、この無上の経典である法華経を受持してこそ我が身のため国のために最も肝要なことを知りうる最高の聖人となることができると仰せられ、大聖人が三世を正しく知っておられたのは、法華経の聖人、末法の御本仏であるがゆえであることを暗に示されている。
所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり
 本来の生命の正しい姿を述べられている。
 宇宙森羅万象は私達凡夫の一心の中に収まっていて一塵といえども欠けるものはなく、須弥山を中心とする九山八海も我が身に備わり、天空にある日月も諸々の星も己が心の中に収まっているというのが、真実の姿である。この生命の真実の姿を明らかにしたのが法華経である。換言すれば、一念三千の法理ということであろう。
 法華経は人間や日月、諸星、山川草木などの森羅万象がことごとく〝一法〟から顕現したものであると説く。そして、この〝一法〟を〝妙法蓮華経”とも〝妙法〟とも称するのである。法華経の開経・無量義経で「無量義は一法より生ず」と暗示された〝一法〟こそ、この妙法蓮華経なのである。
 ところが凡夫は無明の迷妄のために「盲目の者の鏡に影を浮べるに見え」ないように「嬰児の水火を怖れ」ないように、この真実の生命の姿が分からないのである。
 通常、私達は、自分と日月、諸星、山川草木などの森羅万象とが別々に存在していると思い、またそのように生きている。
 しかしこれは、人間の理性やそれに基づく思考が自分と自然の事物現象とを分け、対立させる働きをもっていることによるのである。
 生命の真実の姿は自然の事物現象と一体なのである。この人間と森羅万象とが根源的な生命次元において「一つ」であるという真理を明かしたのが一念三千であり、我即宇宙とは、その悟りに立った仏の境界を端的に表現した言葉である。
 私達一個人にとってみれば、自己存在の奥底の生命が宇宙森羅万象と根底において一つであるということであり、この奥底の生命を〝仏性〟とも〝仏界の生命〟ともいうのである。
 この仏性を開く鍵が御本尊への信心・唱題であることはいうまでもない。妙法への信と唱題により顕現してきた仏界の生命は、そのまま宇宙森羅万象の本源と一つであるから、我が奥底の一念が他者の生命に波動を与えたり、森羅万象の根底に響いていくということが可能になる。ここに、私達の祈りがかなっていく根本的な原理があるといえよう。
 日蓮大聖人はこの我即宇宙、換言すれば宇宙森羅万象が具わる根源の大生命を悟り究められている御本仏であられるからこそ、国のために大事な蒙古襲来の招難を予見されたのである。
外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず
 法華経に対して、外道や仏教の小乗、権大乗などの教えは〝己心の法〟すなわち己が生命に宇宙森羅万象を備えているという全体の相貌をありのままに説かず、その一部分や片鱗のみをそれぞれ説いているにすぎないとの御文である。
 法華経が生命の全体像を説き明かしているのに対し、外道、小乗、権大乗などは生命の部分観を説いたものなのである。したがって、部分観のみを説く法華経以外の教えをもってしては、真実は分からないのである。
 以上から「経経に勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ」と仰せのとおり、いかなる経教を持つかによって、聖人と賢人との違いが生じてくると述べられているのである。

1473:10~1473:18 第五章 法華経の利益を述べ信心を勧むtop

10   鎌倉より御下りそうそうの御隙に使者申す計りなし、 其の上種種の物送り給候事悦び入つて候、日本は皆人の
11 歎き候に日蓮が一類こそ歎きの中に悦び候へ、 国に候へば蒙古の責はよも脱れ候はじなれども・ 国のために責ら
12 れ候いし事は 天も知しめして候へば後生は必ずたすかりなんと悦び候に・ 御辺こそ今生に蒙古国の恩を蒙らせ給
13 いて候へ、 此の事起らずば最明寺殿の十三年に当らせ給いては御かりは所領にては申す計りなし、 北条六郎殿の
14 やうに筑紫にや御坐なん、 是は各各の御心のさからせ給うて候なり、 人の科をあてるにはあらず、又一には法華
15 経の御故にたすからせ給いて候いぬるか・ ゆゆしき御僻事なり、 是程の御悦びまいりても悦びまいらせ度く候へ
16 ども人聞つつましく候いてとどめ候い畢んぬ。
17     乃 時                          日 蓮 花 押
18     西山殿御返事
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 鎌倉から御帰国早々の暇に使者を遣わされたこと、御礼の申し上げようもない。そのうえ種々の物をお送りいただいたこと、悦びにたえません。
 日本国はすべての人々が嘆いているのに、日蓮の一門ばかりは、嘆きの中にも悦んでいる。日本国にいるからには、蒙古の責めはおそらく脱れることはできないであろうけれども、国のために迫害されたことは、諸天も知っておられるのであるから、後生は必ず助かるであろうと悦んでいるのに、貴殿は、今生に蒙古国の恩を蒙られたのである。蒙古の事が起こらなかったならば、今年は最明寺殿の十三回忌に当たって、御狩が所領の内で行われるであろうことは、いうまでもないことである。また北条六郎殿のように、筑紫へと行かれたことであろう。その狩もなく、筑紫へも行かないことは、貴殿方の御心には反することであろうが、人が罰を当てるのではない。また一つには法華経の守護によって助けられたのであろうか。ともあれ貴殿にとっては甚だしい御僻事である。これほどの御悦びごとであるから、親しく御伺いして、御悦びを申し上げたいとは思うけれども、人聞きもあることだから止めることにした。
  乃  時              日 蓮  花 押
   西山殿御返事

最明寺殿
 北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。鎌倉幕府第5代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅法を受け建長寺を建立。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。文応元年(1260)7月16日に、大聖人は宿屋入道を通じて、立正安国論を時頼に上書した。
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北条六郎
 (~1290)。北条時頼の弟・時定のことと思われる。官位は従五位下。遠江守であったが、文永の役の後、再度の元寇に備えて、九州・筑紫に下向して防備にあたり、その地で没した。
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乃時
 すぐその時。即時・即刻と同じ。手紙が到着すると同時に返事を書いた時に用いる語。
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 西山殿が鎌倉から帰国して直ちに使者に託して数々の御供養を捧げたことに謝辞を述べられている。
 蒙古襲来の難について触れられ、日本国の人々は皆嘆いているが、大聖人の門下にとっては嘆きのなかにも喜びであると述べられている。その理由として、大聖人の門下といえども日本国にいる以上は蒙古の責めを免れることができない。その点では嘆きのなかにいるのであるが、しかし、大聖人一門が国の謗法を諌めたために迫害を受けたことは、諸天善神もよく知っているはずである。そのゆえに後生は必ず成仏できるので、喜びであるとの仰せなのである。
 これは一般の大聖人門下における法華経の利益であるが、西山殿に限れば、後生のみならずすでに現世で利益を受け、かえって蒙古国の恩をこうむっていると仰せられている。それはこの年が最明寺時頼の13回忌にあたるので、西山殿の所領内で狩野が行われる予定になっていたのが、蒙古襲来のために取りやめになったということ、その結果、狩野があった際に当然予想されるわずらわしい気づかいや出費を免れたことが一つの理由である。
 いま一つは、第一の理由とも関連するが、西山殿が大聖人の門下であるために、それが幸いして北条六郎殿のように筑紫(九州)の警護に出かけなければならないところを出かけなくてすんだということである。
 特に後者は、武士の身としては不満を抱く事柄であるかもしれないが、だれか他人が仕向けて西山殿を筑紫の警護から外したのではなく、どこまでも法華経の功徳と考えなさいと教えられている。そして本当なら訪ねていって直接お祝いを言いたいところであるけれども、人聞きもあるので、やめにしたと仰せられて、本抄を結ばれている。

1474~1474    西山殿御返事(雪漆御書)top

1474
西山殿御返事    建治二年    五十五歳御作
01   青鳧五貫文給い候い畢んぬ、 夫れ雪至つて白ければそむるにそめられず・ 漆至つてくろければしろくなる事
02 なし、此れよりうつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候、真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必
03 ず地獄にをつ、 法華経にそめられ奉れば必ず仏になる、 経に云く「諸法実相」云云、又云く「若人不信乃至入阿
04 鼻獄」云云、いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候、恐恐。
05       建治二年丙子                     日 蓮 花 押
06     西山殿御返事
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 青鳧五貫文をいただきました。
 雪はきわめて白いものであるから染めようにも染めることができない。漆はきあめて黒いものであるから白くなることはない。
 雪や漆とちがって移り易いものは人の心である。善にも、また悪にも染められるのである。
 真言宗・禅宗・念仏宗等の邪悪の者に染められてしまうならば必ず地獄に堕ち、反対に法華経に染められるならば必ず仏になることができる。法華経の方便品第二には「諸法実相」と説かれ、また譬喩品第三には「若し人信ぜずして、この経を毀謗せば(中略)其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれている。
 心して法華経の御信心を白い雪、黒い漆のなにものにも染められないように堅固に持たれるがよい。恐恐。
  建治二年丙子            日 蓮  花 押
   西山殿御返事

青鳧
 銭のこと。青鳧は青?に同じで、かげろうの意。捜神記等によれば、かげろうの母子の血を取って、それぞれ銭に塗ると、その片方の錢を使えば、残った方を慕って銭が飛び帰るという言い伝えがある。転じて銅銭、穴あき銭のことを青鳧といった。なお諸説がある。
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 ウルシ科の落葉高木。中央アジア産であるが、奈良時代以前に日本に渡来し、広く各地で栽培されるようになった。この漆の樹皮からとった樹脂で塗料をつくった。この塗料は乾燥すると光沢のある黒色となる。ここでは塗料の漆をさしている。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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諸法実相
 諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358-01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。
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阿鼻地獄
 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
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 本抄は建治2年(1276)、聖寿55歳の時、身延で著された御消息である。西山殿から日蓮大聖人に青鳧五貫文を御供養申し上げたのに対して、与えられた返書である。御真筆は現存していない。
 内容は、雪・漆と比較されつつ人間の心が移りやすく善悪に染められやすいことを述べられ、雪や漆が他の色に染められないように、法華経の信心をどこまでも不動、堅固にし、謗法・邪悪に染められて地獄に堕ちることなく、必ず成仏するようにと戒められている。以上から別名を「雪漆御書」ともいう。
経に云く「諸法実相」云云、又云く「若人不信乃至入阿鼻獄」云云
 方便品の「諸法実相」の経文は、その直前の「法華経にそめられ奉れば必ず仏になる」という御文を受け、譬喩品の「若人不信乃至入阿鼻獄」の経文は「真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ」という御文を受けられている。
 まず方便品の「諸法実相」は、法華経迹門の中心の法門であることはいうまでもない。諸法とは十界の生命をいい、実相とは妙法である。諸法実相とは、十界のいかなる衆生も本来、妙法の当体であり、法華経を信じることによって我が身が妙法の当体と悟って成仏することを明かしたものである。ゆえに日蓮大聖人は西山殿に、ただ法華経(一仏乗)にのみ染められて成仏するようにとの御意から、この経文を引かれたものと拝察する。
 次に譬喩品の経文は、詳しくは「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん 此の人の罪報を 汝今復た聴け 其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」とある。法華経を誹謗している真言・禅・念仏宗等の邪師に親近して、その教えに染められるならば、必ず阿鼻地獄に堕ちるのであるから、よくよく心していくよう戒められているのである。
 そして「いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候」と、悪縁にすかされることなく、確固たる信心を生涯持続しぬいて成仏を遂げるよう励まされている。

1474~1476    宝軽法重事top
1474:01~1475:06 第一章 宝の軽く法の重きを示すtop

宝軽法重事    弘安二年五月    五十八歳御作   与西山入道
01   笋百本又二十本追給い畢んぬ、 妙法蓮華経第七に云く 「若し復人有つて七宝を以て三千大千世界に満てて仏
02 及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん、 是の人の所得の功徳も此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最
03 も多きには如かじ」云云、 文句の十に「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かずと云うは 法は是れ聖の師なり能
04 生能養能成能栄法に過ぎたるは莫し 故に人は軽く法は重きなり」云云、 記の十に云く「父母必ず四の護を以て子
05 を護るが如し、 今発心は法に由るを生と為し始終随逐するを養と為し 極果を満ぜしむるを成と為し能く法界に応
06 ずるを栄と為す、 四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」云云、 経並に天台妙楽の心は一切衆生を供養せんと
1475
01 阿羅漢を供養せんと 乃至一切の仏を尽して七宝の財を三千大千世界にもりみてて供養せんよりは・ 法華経を一偈
02 或は受持し或は護持せんはすぐれたりと云云経に云く 「此の法華経の乃至一四句偈を受持する 其の福の最も多き
03 には如かず」天台云く「人は軽く法は重きなり」妙楽云く 「四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」云云、 九
04 界の一切衆生を仏に相対して 此れをはかるに一切衆生のふくは 一毛のかろく仏の御ふくは 大山のをもきがごと
05 し、 一切の仏の御ふくは梵天三銖の衣のかろきがごとし、 法華経の一字の御ふくの重き事は大地のをもきがごと
06 し、 人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり 
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 筍百本、さらにまた二十本をいただきました。
 妙法蓮華経第七の巻薬王菩薩本事品第二十三に「若し復た人有って、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せんも、是の人の得る所の功徳は、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」と説かれている。
 この文について法華文句巻十には「七宝を四聖に奉るは一偈を持つには如かず。法は是れ聖の師にして、能生・能養・能成・能栄は法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く法は重きなり」と釈されている。また法華文句記巻十にも「能生等とは、父母は必ず四の護を以って子を護るが如し。今発心は法に由るを生と為し、始終随逐するを養と為し、極果を満ぜしむるを成と為し、能く法界に応ずるを栄と為す。四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」と釈されている。
 法華経並びに天台大師、妙楽大師の意は「一切衆生に供養するよりも、また阿羅漢を供養するよりも、あるいは三千大千世界に満つるほどの七宝の財を一切の仏に供養するよりも、法華経の一偈を受持し、あるは護持するほうが勝れている」とのことである。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三に「此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」と説かれ、天台大師は法華文句巻十で「人は軽く法は重きなり」と釈し、妙楽大師は「四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」と釈されている。
 これらの文について考えるのに、九界の一切衆生の福を仏の福に相対して比べると、一切衆生の福は一毛の如く軽く、仏の御福は大山の如く重い。一切の仏の御福は梵天の三銖の衣のように軽く、法華経の一字の御福の重さは大地の重いようなものである。天台大師が「人は軽く」という「人」とは仏のことであり、「法は重きなり」といわれた「法」とは法華経のことである。


 たけのこの古称。古くは「たかむな」と表記した。
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七宝
 仏典によって必ずしも一定しないが、代表的なものとしては,金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰。
―――
三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
大菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
辟支仏
 梵語プラティエーカ・ブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。辟支迦羅、畢勒支底迦とも書き、独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。十二因縁の理を観じ、また、飛花落葉等の外縁によって自ら覚った者をいう。
―――
阿羅漢
 羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
―――
供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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一四句偈
 経文等において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。雪山童子の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」などはその類である。
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文句
 天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈うぃへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
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四聖
 声聞・縁覚・菩薩・仏のこと。法華経では「仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢」とある。
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 妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
―――
極果
 「極」とは最高、「果」は仏果を意味する。仏果こそ最高の幸福境涯であるので極果という。本因妙抄には「彼の極果は此の初心」(0875-09)とある。日蓮大聖人の仏法においては、受持即観心であり、大御本尊を信ずる心強盛にして、行力に励むことが、途中の段階を歴ず直ちに極果に至るのである。
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法界
 意識の対象となる一切の事物・事象。有情・非情にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象・界は差別・境界。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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九界
 十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
三銖の衣
 天界の衆生の衣、天の羽衣のこと。銖は重量の単位。24銖で1両。16両で1斤。1斤は普通160匁 で600㌘にあたる。すなわち1両が37.5㌘、1銖は約1.6㌘。よって3銖は約6㌘である。すなわち3銖の衣とは、きわめて軽い薄絹、綾絹でできた衣のこと。
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 本抄は、弘安2年(1279)5月11日、日蓮大聖人58歳の御時、西山殿が筍の御供養を奉ったのに対して書かれた御消息である。
 内容は、初めに、法華経・天台大師・妙楽大師の文を引かれ、三千大千世界に満つる七宝の財宝を仏に供養するよりは法華経の一句一偈を受持するほうが功徳の大きいことを述べられて、宝は軽く法が重いこと、さらに、法こそ諸仏の父母であるところから、仏は軽く法は重いことが示される。また、一切の仏の能生の根源である法華経を受持する人、すなわち法華経の行者が諸経の行者に勝ることは、帝釈と獼猴、師子と兎の勝劣のようにはっきりしているのであるが、人々がそれを転倒していると述べられ、今は法華経の行者が出現して真言等の邪法を責めているのであるから、真言等の邪義は必ず破られるであろうと大確信を示されている。
 この法華経の正法は天台大師・伝教大師も内心では知っていたが、弘めなかった。日蓮大聖人の弟子は、その大法を知ることができるのであると述べられ、寿量品の釈迦仏が建立されることをほのめかされている。
 最後に、再度、西山殿の御供養に対して謝辞を述べられ、その志の深さのゆえに正法の偉大な功徳があらわれていることであろうと結ばれている。
 なお本抄の御真筆は大石寺にある。
 まず、法華経第七巻薬王菩薩本事品第二十三の文と、それを釈した天台大師の法華文句巻十の文、さらに妙楽大師の法華文句記巻十の文をそれぞれ引用されて、〝宝軽法重〟の旨と、さらに人は軽く法が重いことを明かされている。
文句の十に「……法は是れ聖の師なり能生能養能成能栄法に過ぎたるは莫し故に人は軽く法は重きなり」云云
 七宝を三千大千世間に満たして四聖(仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢)に供養するよりは、法華経の一偈を持つ功徳のほうが大きい、という法華経の薬王菩薩本事品の文を、天台大師が釈して、その理由を明らかにしたものである。
 法華経薬王品の文の意味するところは、爾前経の修行である。財の四聖への供養よりも、法華経の受持行がはるかに勝れることにある。それは、四聖という境地は、ひとえに「法」により生み出されるものだからである。
 天台大師が薬王品の文を釈して述べたこの文のなかの「法」とは、したがって経文中の「此の法華経の乃至一四句偈」を承けていることはいうまでもない。法華経すなわち妙法こそ、仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢の四聖を、能く生ぜしめ、能く養い、能く成就せしめ、能く栄えさせる根本の力なのである、というのが、この天台大師の文句の意味である。
 さらに妙楽大師は、法華文句記巻十に「法」の能生・能養・能成・能栄の四つの力について、父母が子供を護り育成する関係が「生・養・成・栄」の四つに要約されるように、妙法は一切の仏・菩薩・縁覚・声聞の四聖を生じ養い・成ぜしめ、栄えさせる父母(親)であるということを述べているのである。すなわち「今発心は法に由るを生と為し、始終随逐するを養と為し、極果を満ぜしむるを成と為し、能く法界に応ずるを栄と為す。四同じからずと雖も法を以て本と為す」と、法によって発心することが〝生〟にあたり、終始法に随うことが〝養〟であり、法を成就して至高の仏果を得ることが〝成〟、その後に十方法界に応化して衆生を救済することが〝栄〟であり、このように四つの段階そのものには相違があるが、いずれもその根本は、常に「法」(法華経)であると述べている。
 以上のごとく、妙法は、あらゆる四聖にはるかに勝れているゆえに、四聖に無量の財宝を供養するよりも、法(法華経)の一句一偈でも受持する功徳のほうが大きいのである。
人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり
 天台大師の法華文句巻十の「人は軽く法は重きなり」の文を、日蓮大聖人が〝人〟とは仏を指し、〝法〟とは法華経のことであると明確に示されたものである。すなわち「九界の一切衆生を仏に相対して此れをはかるに一切衆生のふくは一毛のかろく仏の御ふくは大山のをもきがごとし」と仰せのように、仏の福徳は決して軽いものではない。九界の衆生の福徳とは比較にならないぐらい重い。しかし、その仏の福でさえも、法華経の一字のもつ福徳に比べると、「一切の仏の御ふくは梵天三銖の衣のかろきがごとし、法華経の一字の御ふくの重き事は大地のをもきがごとし」で、はるかに軽いのである。この二つの譬喩による対比をみるとき、〝一毛〟と〝大山〟との相違より〝梵天三銖の衣〟と〝大地〟の相違のほうがはるかに大きい。したがって、凡夫にとって法華経がいかに偉大であるかは想像もできないほどである。
 また、法が勝れ人は劣るという「法勝人劣」に関連して、それは釈尊以下の仏菩薩等のことであることを忘れてはならない。それに対して日蓮大聖人は、久遠元初以来、寿量文底の南無妙法蓮華経を御所持されている末法の御本仏であられるから、人法体一の立場であることはいうまでもない。
 日寛上人は文底秘沈抄の「本門の本尊篇」で、人法体一の深旨を明かされるにあたり、本抄と同じく法華経の薬王品、天台大師の文句、妙楽大師の文句記などの文を引用された後、次のように問いを起こされている。「今此等に准ずれば、法は是れ諸仏の主師親なり、那んぞ人法体一と云わんや。若し明文無くんば誰人か之を信ぜんや」と。
 これに対して「答う、所引の文、皆迹中化他の虚仏、色相荘厳の身に約す、故に勝劣あり。若し本地自行の真仏は、久遠元初の自受用身、本是れ人法体一にして、更に優劣有ること無し」と答えられ、日蓮大聖人は法即人であられることを示されている。

1475:06~1475:09 第二章 諸経と法華経の勝劣を明かすtop

06                              夫れ法華已前の諸経並に諸論は 仏の功徳をほめて
07 候・仏のごとし、此の法華経は経の功徳をほめたり仏の父母のごとし、 華厳経・大日経等の法華経に劣る事は一毛
08 と大山と三銖と大地とのごとし、 乃至法華経の最下の行者と華厳・ 真言の最上の僧とくらぶれば帝釈と獼猴と師
09 子と兎との勝劣なり、 而るをたみが王とののしればかならず命となる、 
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 法華経以前の諸経並びに諸論は、仏の功徳をほめているので仏のようなものである。この法華経は、経の功徳をほめているので仏の父母のようなものである。
 華厳経・大日経等が法華経に劣ることは、一毛と大山、三銖と大地のような違いがある。また法華経の最下の行者と、華厳・真言の最上の僧とを比べれば、帝釈と猿、師子と兎のように勝劣がある。

華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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 先に「法」が一切の四聖の師であり、親であることが示され、その「法」とは「法華なり」と明らかにされたが、ここでは、さらに法華経と諸経との相違が強調され、併せて、法華経の行者が諸経の行者に対してはるかに勝れていることが明かされている。
 なぜ法華経が諸経に勝れているかといえば、法華以前の諸経並びに諸論は仏の功徳ばかりを賛嘆し、したがって、そこで説かれている修行も仏への供養であったのに対し、法華経は、あらゆる仏を生ぜしめ成道させた根源である〝経〟すなわち妙法の功徳を賛嘆していることによるのである。言い換えれば、諸経がすでに仏果を成就した仏の功徳を称えているのに対し、法華経は、その仏が仏に成り得た根源の経法の功徳力を称えていることになる。
 この比較から諸経は「仏のごとし」、法華経は「仏の父母のごとし」と仰せなのである。
 諸経は、仏の功徳を称えていても、仏教本来の目的である一切衆生の成仏とは直接的な関連をもたないことになる。これに対して法華経は、仏が仏に成り得た根源の経法の功徳力を称えることにより、一切衆生の誰人であれ、その経法(法華経)を受持しさえすれば成仏に至ることを示しているのである。
 日蓮大聖人は、この法華経の肝心を御本尊として顕されたのである。ゆえに観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と、この御本尊を受持することによって仏の一切の功徳を受け継ぎ、即身成仏することができると、受持即観心の義を示されているのである。
 華厳経や大日経などの爾前経と法華経との間にも「一毛と大山」「三銖と大地」のような相違があり、したがって、それを受持・修行する人にも大変な違いがある。大聖人は「法華経の最下の行者」と「華厳・真言の最上の僧」と比べても「帝釈と獼猴」「師子と兎」のような勝劣があると断ぜられている。
 華厳・真言をここで特に挙げられた理由としては、爾前権経による諸宗のなかでも、最も権威を誇っていたのがこの両宗であったこと、華厳宗は南都六宗、真言宗は平安仏教の代表として挙げられたこと、大聖人御一門にとって、当時、これら二宗との対決の機運が高まっていたこと、また西山入道が、大聖人に帰依する以前は、このうち真言を信じていたらしいことなどが考えられる。

1475:09~1475:18 第三章 法華経の行者出現の意義を明かすtop

09             而るをたみが王とののしればかならず命となる、諸経の行者が法華経の行者に勝れたりと
10 申せば必ず国もほろび地獄へ入り候なり。
――――――
 民が自ら王と名乗れば必ず命を失うのと同じように、諸経の行者が法華経の行者に勝れているといえば必ず国も滅亡し、その人も地獄に堕ちるのである。
――――――
11   但かたきのなき時はいつわりをろかにて候、譬へば将門.貞任も貞盛・頼義がなかりし時は.国をしり妻子・安穏
12 なり云云、 敵なき時はつゆも空へのぼり 雨も地に下り逆風の時は雨も空へあがり日出の時はつゆも地にをちぬ、
13 されば華厳等の六宗は伝教なかりし時は・つゆのごとし・真言も又かくのごとし、 強敵出現して法華経をもつて・
14 つよくせむるならば叡山の座主・ 東寺の小室等も日輪に露のあへるがごとしと・をぼしめすべし、 法華経は仏滅
15 後二千二百余年にいまだ経のごとく説ききわめてひろむる人なし、 天台・伝教もしろしめさざるにはあらず・時も
16 来らず・機もなかりしかば・かききわめずして・をわらせ給へり、日蓮が弟子とならむ人人は・やすくしりぬべし。
17   一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像を・かきつくれる堂塔いまだ候はず、いかでか・あらわれさせ給
18 わざるべき、しげければとどめ候。
――――――
 ただし、敵のない時には、そのままに過ぎるものである。たとえば平将門・安倍貞任も、平貞盛・源頼義がいなかった時には領地を支配し、妻子も安穏であったのである。それは、ふつうの時には露は空へのぼり、雨も地面に降り下る。だが、逆風の時は雨も空中へ吹き上げられ、日の出の時には露も大地に落ちるようなものである。
 かの華厳宗等の南都六宗も、伝教大師が出現されなかった時は安穏で露が空へのぼるようなものであった。真言宗もまた同じである。ひとたび強敵があらわれて、法華経をもって強く責めるならば、比叡山の座主、東寺の御室等も太陽にあった露のようなものであると思われるがよい。
 仏の滅後二千二百余年の間、いまだかつて法華経を経文のとおりに説ききわめて弘めた人はいない。天台大師・伝教大師もご存知でなかったわけではないが、時も来たらず、衆生の機根もなかったので書きつくされないで入滅されたのである。
 今、日蓮の弟子となられる人々は、法華経の実義を容易に知ることができよう。一閻浮提のなかに法華経の寿量品の釈尊の形像を書きあらわした堂や塔はいまだかつてない。今こそどうしてあらわれないことがあろう。それを書くと長くなるので止めておく。

将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――
貞任
 (1019~1062)。安倍貞任のこと。平安後期の陸奥の豪族。父・頼時から岩手郡を譲られ支配した。前9年の役には朝廷側の源頼義・義家と戦い、厨川柵(岩手県盛岡市)に拠って抵抗したが、康平5年(1062)出羽の豪族・清原氏と同盟した朝廷軍に滅ぼされた。
―――
貞盛
 生没年不詳。平安時代中期の武将。平貞盛のこと。承平5年(0935)、父の常陸大掾、鎮守府将軍国香が、従弟の将門に殺害されたため、下野押領使・藤原秀郷の援助を受けて、天慶3年(0940)将門を滅ぼした。この功によって従五位上右馬介に任ぜられ、さらに、鎮守府将軍・丹波守・陸奥守などに就き、従四位下にと進んだ。貞盛の昇進が後の平家一門繁栄の遠因となった。
―――
頼義
 (0988~1075)。源頼義のこと。平安中期の武将。河内源氏の祖・源頼信の子。名将の聞こえ高く、人望も厚かった。11世紀中頃、陸奥で反乱を起こした安倍頼時・貞任父子を陸奥守として追討し、苦戦の末、鎮定した。これを前九年の役という。この戦いは実際には永承6(1051)から康平5年(1062)までの前後12年の長きにわたった。
―――
六宗
 南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
―――
伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
―――
東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
―――
御室
 第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
―――

 説法を受ける所化の衆生の機根。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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寿量品
 如来寿量品大16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――――――――
 諸経の行者と法華経の行者との勝劣は明々白々であり、諸経の行者が法華経の行者よりすぐれているといえば、ちょうど民が王と自称して命を失うように、必ず国が滅び、その人も地獄に堕ちるとの仰せである。
 だがそのことも、法華経の行者が出現しなければ明らかにすることはできない。例えば平将門や安倍貞任は、これを征伐した平貞盛や源頼義のような強敵が出現しなかったときには、自らの国を統治し、妻子も安穏であった。しかし、征伐の厳命を受けた平貞盛・源頼義が出るに及んで、彼ら二人は逆賊の徒として滅んでいった。
 同じように、諸経の行者が自ら勝手に法華経の行者よりすぐれていると僭称したとしても、これを責める法華経の行者がいなければ、彼らの失(とが)をあらわにする者がいないことになる。ここに、大聖人が法華経の行者として出現された意義の大きさがあることを述べられているのである。
 かつて、華厳宗をはじめとする南都六宗は、伝教大師の出現により彼らの失があらわになった。しかし、伝教大師なき後に出てきた真言宗については、これまでだれも打ち破る人がいなかったが、日蓮大聖人が出現して強く責めるならば、真言を信ずる比叡山の座主、東寺・御室等の真言などは太陽に照らされた露のような、はかない姿になるであろうことを確信していきなさいと仰せられている。
 これは先に「法華経の最下の行者と華厳・真言の最上の僧とくらぶれば……師子と兎との勝劣なり」と仰せられたことに結びついている。法は人によって弘まるのであり、法華経の行者の折伏によって真言の僧等が破られ、その結果、真言等の邪法が滅び、法華経の正法が顕れるのである。
 こうして邪法の露を払った後に、大聖人によって仏滅後二千二百余年未曾有の「法華経の寿量品の釈迦仏の形象」すなわち南無妙法蓮華経の御本尊が建立されることを明らかにされている。
一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像を……給わざるべき
 ここで「法華経の寿量品の釈迦仏の形像」と仰せの御文は、観心本尊抄の「未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(0248-03)との仰せと同じ意であると拝される。
 日寛上人は同文段で、大聖人が「寿量の仏」「此の仏像」と仰せられたことについて「これ人法体一の深旨を顕すなり。前に人即法に約して正しく本尊の相貌を明かす。今は法即人に約して末法出現を結するなり。究めてその体を論ずれば人法体一なり。謂く、前に明かす所の本尊の為体、一毫も動かず、全くこれ久遠元初の自受用身の当体の相貌なり。故に今『寿量の仏乃至此の仏像』というなり」と述べられている。すなわち人法体一の久遠元初の自受用身の御当体を法即人に約して――換言すれば人法体一ながら人を表に法を裏にして――仰せられたのが「寿量の仏」「此の仏像」ということなのである。
 したがって、ここでの「法華経の寿量品の釈迦仏の形像」といっても、石や粘土や木や金属で造られた通常の意味での〝仏像〟とか〝釈迦像〟を指すのではなく、寿量文底の人法一箇の御本尊をあらわされているものと拝すべきであろう。
 なお、開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろ(拾)いいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)、観心本尊抄の「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)との御文と併せて拝するとき、ここで大聖人が述べようとされた元意が明らかとなるであろう。

1476:01~1476:04 第四章 西山殿の志に感謝されるtop

1476
01   たけのこは百二十本法華経は二千余年にあらわれ候ぬ、布施はかろけれども志重き故なり、 当時はくわんのう
02 と申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし、御心ざし・ふかければ法もあらわれ候にや、恐恐謹言。
03       五月十一日                      日 蓮 花 押
04     西山殿御返事
-----―
 御供養の筍は120本。法華経は仏の滅後2000余年にあらわれた。布施は軽いけれども、その志が重い故に、この法門を申し上げたのである。
 今は農繁の時であり、また大宮造もあって民の忙しい時である。御心が深いので、前代未聞の法もあらわれていることであろう。恐恐謹言。
  五月十一日              日 蓮  花 押
   西山殿御返事

大宮づくり
 神社などの社殿を造ること。浅間神社の分社のことであろうか。
―――――――――
講義
 西山殿が御供養された筍120本について、その布施そのものは軽い。しかし「法」並びに法華経の行者である日蓮大聖人に対して布施をしようとする西山殿の志は重く深いと賛嘆されている。「法華経は二千余年にあらわれ候ぬ」とは、釈尊滅後二千余年にしてあらわれた文底独一本門の法華経であるとの意味であろう。
 とくに農繁期と大宮造営が重なった、この忙しい時にも御供養のことを忘れなかった西山殿の志の深さをたたえられている。
 その深い信心に立つ西山殿の眼には、末法の偉大な法がくっきりと顕れていることであろうと結ばれている。

1476~1476    西山殿御返事top
1476:01~1476:06 第一章 御供養の志を称賛すtop

西山殿御返事    弘安四年    六十歳御作
01   あまざけ一をけ・やまのいも・ところせうせう給了んぬ、梵網経と申す経には一紙・一草と申してかみ一枚くさ
02 ひとつ・大論と申すろんには・つちのもちゐを仏にくやうせるもの閻浮提の王となるよしを・とかれて候。
-----―
 甘酒一桶・山芋・野老を少々いただきました。
 梵網経という経には、一紙・一草といって、菩薩は紙一枚、草一つを惜しんでも破戒となると説かれ、大智度論という論には土の餅を供養した者が、一閻浮提の王となったことが説かれています。 
-----―
03   これは・それには.にるべくもなし・そのうへをとこにもすぎわかれ・たのむかたもなきあまのするがの国.西山
04 と申すところより甲斐国のはきゐの山の中にをくられたり、 人にすてられたるひじりの寒さにせめられて・ いか
05 に心ぐるしかるらんと・をもひやらせ給いて・をくられたるか、 父母にをくれしよりこのかた・かかるねんごろの
06 事にあひて候事こそ候はね、 せめての御心ざしに給うかとおぼえてなみだもかきあへ候はぬぞ、
-----―
 この度の御供養は、それとは比べることもできません。そのうえ、夫にも別れて頼る人もいない尼の身でありながら、駿河の国の西山という所から甲斐の国の波木井の山中に送られたのです。
 世の人に捨てられている聖が寒さに責められて、どのように苦しかろうと思われて御供養を送られたのでありましょうか。日蓮は父母に死に別れてから、このような懇ろな志を受けたことはありません。これほどにも温かい御志かと思えば涙をこらえることができません。

ところ
 鬼野老の別名。ヤマノイモ科の蔓性多年草。各地の山野に自生。地下茎は数㍍に伸び、葉は互生の心臓形で先がとがり、長い柄がある。根茎の苦みをぬいて食用としていた。
―――
梵網経
 梵網経は、「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
―――
閻浮提
 全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
あま
 普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。ここは後者のほうで、窪尼のこと。
―――――――――
 本抄は、弘安4年(1281)、大聖人が聖寿六十歳の御時、身延から窪尼に書き送られた御消息文である。内容から拝察するに、尼御前が甘酒などの品々を大聖人に御供養したことに対して、感謝の情を込めて送られた返書である。
 内容は、前半で、尼御前の布施供養の志を、梵網経と大智度論の話を引用されつつ称賛され、後半は、法華経の行者の身は不浄であっても、所持の経が最勝の経であることを述べられ、法華経を捨ててはならないと戒められている。
 なお、本抄の御真筆は現存しないが、大石寺に日興上人の写本が所蔵されている。
 初めに、尼御前から御供養された甘酒、山芋、野老をいただいた旨述べられ、御供養ということに関連して、梵網経と大智度論には一紙一草や土の餅のことが出ているが、尼御前の御供養した品は、それらとは比較にならぬほど上等のものであるとたたえられている。
 しかも、尼御前は夫を亡くし、頼りもない身で、おそらく恵まれた立場でないにもかかわらず、厳しい環境におられる日蓮大聖人の身を思って御供養申し上げたのである。そのやさしい心遣いに対して「父母にをくれしよりこのかた・かかるねんごろの事にあひて候事こそ候はね、せめての御心ざしに給うかとおぼえてなみだもかきあへ候はぬぞ」と、深く感謝されている。
梵網経と申す経には一紙・一草と申して
 梵網経は、現存する漢訳仏典では上下2巻からなる。中国・姚秦代の鳩摩羅什の訳である。正しくは「梵網経盧舍那仏説菩薩心地戒品第十」といい、「菩薩戒品」とも「菩薩戒経」ともいう。僧肇の序によると、梵網経の広本百二十巻六十一品のうち菩薩心地戒品第十だけを訳したものと記されている。
 上巻には菩薩の階位である初発心(十信)、十発趣(十住)、十長養(十行)、十金剛(十回向)、十地を説き、下卷には菩薩戒である十重禁戒・四十八軽戒が説かれている。大乗戒を説いた経として中国・日本を通じて重んじられ、多くの注釈書が作られている。
 ここで大聖人が引用されたのは、十重禁戒を明かすなかの不慳戒を説いたくだりからと考えられる。
 そこには次のように述べられている。

1476:06~1476:02 第二章 法華経の最上なるを説き信を勧むtop

06                                              日蓮はわるき者
07 にて候へども法華経は・いかでか・おろそかにおわすべき、 ふくろはくさけれども・つつめる金はきよし・池はき
08 たなけれど もはちすしやうじやうなり、 日蓮は日本第一のえせものなり、 法華経は一切経にすぐれ給へる経な
09 り、心あらん人・金をとらんと・おぼさば・ふくろをすつる事なかれ、蓮をあひせば池をにくむ事なかれ、 わるく
10 て仏になりたらば法華経の力あらはるべし、 よつて臨終わるくば法華経の名をりなん、 さるにては日蓮はわるく
11 ても・わるかるべし・わるかるべし、恐恐謹言。
12   月   日  御 返 事
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 日蓮は悪い者ではありますが、弘める法華経は、どうして、いい加減なものであられることがありましょうか。たとえば袋は臭くても中の金は浄く、池は濁っていても蓮は清浄であるようなものです。日蓮は日本第一の僻者です。しかし、法華経は一切経に勝れた経であります。経を求める心のある人は、金を取ろうと思うなら臭い袋を捨ててはなりません。蓮を愛するなら濁った池を憎んではなりません。
 悪いといわれても、仏となるならば法華経の力は顕れるでありましょう。したがって、臨終が悪かったならば法華経の名折れとなるでありましょう。そうであるならば、日蓮はいかに悪くいわれても、悪いでよいのです。悪いでよいのです。恐恐謹言。
 月 日   御 返 事

法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
   現存しない経
   ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
   ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
   ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
   現存する経
   ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
   ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
   ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
――――――――
 ここでは世間的な眼から見て、あえて御自身のことを「わるき者」「日本第一のえせもの」と仰せられている。蒙古使御書でも分かるように、周りの人々が大聖人を悪しざまに言っている場面にしばしば触れていたであろうし、当然、尼御前もそうした話は聞かれていたにちがいない。大聖人は、それを御承知のうえで、あえて自らを弁護しようとはされず、法華経への信心を尼御前が全うすることを願ってこのように仰せられたものと拝せられる。
日蓮はわるき者・日蓮は日本第一のえせものなり
 当時の日本国の人々が日蓮大聖人に対して抱いていた感じや思いにしたがって仰せられている。「わるき者」とは憎まれ者の意である。「えせもの」とは片意地な者とか、憎まれ者の意で「わるき者」とほぼ同じ意味である。
 たとえ一般の人々から「わるき者」「えせもの」といわれようとも、大聖人が弘通される法華経は、一切経中で最も尊い経であることには変わりはないと説き進められている。したがってここでは、法華経の最上なることを強調されるために、このように仰せられたと思われる。
 その「えせ者」である大聖人と、持っておられる〝法華経〟とを譬えて、「ふくろはくさけれども・つつめる金はきよし・池はきたなけれどもはちすしやうじやうなり」と仰せられている。
 しかし「心あらん人・金をとらんと・おぼさば・ふくろをすつる事なかれ」と戒められるように、法華経を信じ求めるならば、日蓮大聖人を捨てては絶対に求めるものを得ることはできない。大聖人こそ真の正法を持っておられる人法一箇の御本仏であられるからである。
臨終わるくば法華経の名をりなん
 一生の総決算ともいうべき臨終の大切さを述べられたところである。日ごろ法華経を持って立派な信仰生活をしていても、臨終が悪いと最高の経である法華経の名を折る、すなわち傷つけることになると仰せである。
 日蓮大聖人がいかに臨終を重視されたかは、妙法尼御前御返事の「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404-05)との仰せにも拝せられる。
「臨終正念」といって、死に臨んでも心を乱さず、成仏を信じて疑わないことが信心の最も肝要である。大聖人は、人々が臨終正念で成仏していってくれることが願いであり、そうした人々の姿が法華経の名を高めていくのであって、自分は世間からどんなに悪く言われても、かまわないのだとの仰せであろう。

1477~1477    西山殿御返事top

1477
西山殿御返事
01   としごろ後生をぼしめして御心ざしをはすれば名計り申し候、 同行どもにあらあらきこしめすべし、やすき事
02 なれば智慧の入る事にあらず智慧の入る事にあらず、恐恐。
03       一月廿三日                    日 蓮 在 御 判
04     西山殿御返事
-----―
 ふだんから後生についての求道の御志の厚いことであるから、法門の名目ばかりを申し上げることにした。同行のものにあらあら聴かれるがよい。わかり易いことであるから、智慧がいることではない。智慧がいることではない。恐恐。
       一月廿三日                    日 蓮 在 御 判
     西山殿御返事

後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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 本抄はなんらかの御消息の断片と思われるが詳細は不明である。日付は記されているが、年代については明らかではない。しかし、おそらくは身延山から与えられたものであると拝せられる。
 内容は、年来、西山殿が自らの後生について、その求道の志が厚いことを称賛され、これに応えて、大聖人が法門の名目ばかりを説いたことを記されている。そして、その名目の詳細は同行の人々からよく聞くように指示され、平易であるから深意い智慧を要することはないと述べられている。しかし、法門の名目がどんなものであたかについては、この断簡からは知ることができない。

1477~1477    妙心尼御前御返事(御本尊御持事top
1477:01~1477:03 第一章 御本尊が一切経の眼目なるを説くtop

妙心尼御前御返事    建治元年八月    五十四歳御作
01   すずの御志送り給び候い了んぬ、おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候、 この御まほりは法華経の
02 うちのかんじん一切経のげんもくにて候、 たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠
03 のたま・いえにははしらのやうなる事にて候。
-----―
 種々の物をお送りいただきました。
 あなたの幼子のために御守り御本尊を授けて上げましょう。この御本尊は法華経の肝心であり、一切経の眼目であります。たとえば天では日月、地では大王、人では心、宝のなかでは如意宝珠、家では柱のようなものです。

法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
   現存しない経
   ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
   ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
   ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
   現存する経
   ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
   ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
   ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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如意宝珠
 意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
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 本抄は建治元年(1275)8月25日、日蓮大聖人が聖寿54歳の御時、身延で著され、妙心尼に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に存する。
 内容は、妙心尼の幼い子に御守り御本尊を授けるにあたって、この御本尊が法華経の肝心、一切経の眼目であり、御本尊を持ち信ずる者は必ず仏神に守護されることを述べられて、御本尊への深い信心を促されている。
妙心尼について
 本抄をいただいた妙心尼は、駿河国富士郡西山(静岡県富士宮市西山)に住んでいた女性信徒とされる。妙心尼にあてられた御消息の内容から、夫の入道が重い病気になったため髪をおろして尼になったが、入道が亡くなった後は幼い子を育てながら信仰を貫いた人であることがうかがえる。
 この妙心尼は、持妙尼、窪尼と同一人物と考えられている。
 「妙心尼御前御返事」とされてきた弘安2年(1279)11月2日の御消息は、日興上人の写本が現存し、そのあて名は「持妙尼御前御返事」と記されている。
 持妙尼とは、日蓮大聖人のおしたための建治2年(1276)2月の御本尊に「富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼仁日興申与之」と日興上人の添え書きがしたためられていることから、日興上人の叔母にあたる富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の後家尼であることが明らかである。
 高橋六郎兵衛入道の夫人に対しては、建治元年(1275)7月26日に与えられた御消息で「女人の御身として尼とならせ給いて候なり……なによりも入道殿の御所労なげき入つて候」(1457-07)と仰せであり、夫の入道の病が重く、そのため夫人が尼になったことがうかがえる。
 そして、持妙尼御前御返事に「すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか」(1482-01)と述べられていることから、この11月2日の御消息は、建治2年(1276)の御述作と推定され、高橋六郎兵衛入道は建治元年(1275)10月に亡くなったものと考えられる。
 また弘安元年(1278)の8月16日とされてきた妙心尼御前御返事の「入道殿の御所労の事……わかれのをしきゆへにかみをそり・そでをすみにそめぬ」(1479-01)との御記述は、前述の高橋六郎兵衛入道の夫人への御消息と全く同趣旨であるところから、妙心尼と高橋六郎兵衛入道の夫人・持妙尼とは同一人物と推察することができる。そうすると、この御消息は建治元年(1275)の御述作と考えなければならなくなる。
 一方、弘安2年(1279)5月4日の御述作とされる「くぼの尼」への御消息には「されば故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする・ひめ御前も・いのちもながく・さひわひもありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし」(1481-08)と仰せられており、夫の入道が死亡していること、幼い子がいることなどが、妙心尼と共通している。
 「くぼの尼」とは、駿河国富士郡西山の窪(静岡県富士宮市大久保)に住んでいたためにそう呼ばれたものである。
 窪は、高橋六郎兵衛入道夫人の持妙尼の実家・由比家のある河合のごく近くである。そのために、夫亡き後の持妙尼が幼い子を連れて実家の近くの窪に移り住んで「くぼの尼」と呼ばれたのではないか、と推せられるのである。
 つまり、高橋六郎兵衛入道の夫人が、夫の重病によって尼となって妙心尼と名乗り、夫の死後に実家へ帰って、改めて持妙尼の法名をいただき、その住地から「くぼの尼」とよばれたものであろう、と考えられるのである。
 もとより断定はできないが、妙心尼、持妙尼、窪尼と、ほとんど同じ境遇の女性が同じ時期、同じ地域に三人もいたと考えるより、同一人物と考えたほうが自然であろう。
おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候、この御まほりは法華経のうちのかんじん一切経のげんもくにて候
 大聖人は、妙心尼の幼い子のために御守り御本尊を授けられ、南無妙法蓮華経の御本尊こそ「法華経のうちのかんじん一切経のげんもく」であると、その深義を示されている。
 日蓮大聖人が御図顕された御本尊は、法華経二十八品の要である如来寿量品第十六の文底に秘沈されていた事の一念三千の御当体であるゆえに「法華経のかんじん」なのである。さらに、法華経が一切経の要であるところから、御本尊はまた「一切経のげんもく」なのである。
 三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)と仰せである。また下山御消息に「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」(0359-08)と述べられている。
 こうした諸御抄の意のうえから、日寛上人は「若し爾らば、三大秘法は但蓮祖出世の本懐なるのみに非ず。忝くも釈尊出世の大事、多宝・分身の証明・舌相の本意、本化を召し出すの本意、天台・伝教の内鑑の本意なること文義分明なり。豈この三大秘法を信ぜざるべけんや」と述べられているのである。
 御本尊が一切経の眼目であることも、日寛上人は「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べられている。
 大聖人があらわされた本門の本尊は、末法の一切衆生を救済するための御本仏の出世の本懐であるのみではなく、釈尊をはじめ三世の諸仏の説いた諸経の根本であり究極の大法なのである。
 だからこそ「たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠のたま・いえにははしらのやうなる事にて候」と、譬えをもって示されているのである。

1477:04~1477:08 第二章 御本尊受持の功徳を説くtop

04   このまんだらを身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむ
05 がごとく草木のあめをねがうがごとく・ とりの木をたのむがごとく・一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・か
06 げのごとく・まほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。
07       八月二十五日                    日 蓮 花 押
08     妙心尼御前御返事
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 この曼陀羅を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影のように護られるでありましょう。よくよく信じていきなさい。穴賢・穴賢。恐恐謹言。
  八月二十五日            日 蓮  花 押
   妙心尼御前御返事

曼陀羅
 梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
―――――――――
 本抄後半は、曼荼羅の御本尊を身に持つ者が、あらゆる仏と善神によって昼夜に守護されることを仰せられ信心を促されている。
一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候
 曼荼羅は、輪円具足とも功徳聚などともいい、一切の諸仏諸神諸法の功徳が欠けることなく円満に具足している姿を顕したものである。したがって、この曼荼羅を持つ者は、あらゆる仏や善神に守護されるのである。
 御本尊には、南無妙法蓮華経を中心に、釈迦・多宝の仏、上行等の菩薩、舎利弗等の二乗、梵天等の諸天、鬼子母神・十羅刹等の諸神等々、十界のあらゆる衆生がしたためられている。
 ゆえに、御本尊を身にたもつならば、これらすべての十界の衆生が集まって、昼夜を問わず、身に影が添うように付き従って守ってくれるのであると言われるのである。御文の「王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく」云々の譬喩は〝子を親が愛する〟という例を除いては、下位の者が上位の者を守り、頼りにする関係である。これらは菩薩以下の衆生が守ってくれることを前提におおせられたのであろう。〝子を親が愛する〟との譬喩は、仏が御本尊を受持する凡夫を慈愛してくださることを言われたのである。
 最後に「よくよく御信用あるべし」と、御本尊を深く信ずるよう勘められて、本抄を結ばれている。ただ御本尊を持っていれば功徳があるのではなく、御本尊を深く信じて護持し、行学に励むからこそ功徳があることを忘れてはならないであろう。

1478~1478    窪尼御前御返事(虚御教書事)top

01   粽五把・笋十本・千日ひとつつ給い畢んぬ、 いつもの事に候へども・ながあめふりてなつの日ながし、山はふ
02 かく・みちしげければ・ ふみわくる人も候はぬに・ ほととぎすにつけての御ひとこへありがたし・ありがたし。
――――――
 粽五把・筍十本・千日一筒をいただきました。
 例年のことではありますが、長雨が続き、蒸し暑い夏の日は長い。山は深くて路に草が生い茂って歩きにくいので、踏み分けて訪ねる人も稀な所に、ほととぎすにつけての一声のお手紙、まことにありがたく思います。
――――――
03   さてはあつわらの事こんどをもつて.をぼしめせ・さきもそら事なり、かうのとのは人のいゐしに.つけて・くは
04 しくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・ をぼしてゆるさせ給いてののちは・させるとがもなく
05 てはいかんが・又あだせらるべき、すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへにそしらば・いかんがと・をもひ
06 て・事にかづけて人をあだむほどに・ かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ、 これはそらみげうそと申す事
07 はみぬさきよりすいして候、 さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ、 これにつけても上と国と
08 の御ためあはれなり、 木のしたなるむしの木をくらひたうし・ 師子の中のむしの師子を食らいうしなふやうに守
09 殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、 上の仰せ
10 とて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて 各各が身をほろぼさんあさましさよ、 日蓮はいやしけれども
11 経は梵天・帝釈.日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば.法華経のかたをあだむ人人は・剣を
12 のみ火を手ににぎるなるべし、これにつけても・いよいよ御信用のまさらせ給う事、たうとく候ぞたうとく候ぞ。
13       五月三日                                日 蓮 花押
14     窪尼御返事
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 さて、熱原のことですが、今度のことからも分かるでしょう。以前のことも偽りであったのです。守殿(北条時宗)は、人の讒言を信じて、詳しく調べもしないで日蓮を佐渡に流罪したことを、誤りであったと後悔して赦免されたのですから、その後はよほど明白な罪がなければ、どうして、またも罰せられることがありましょうか。
 守殿の家臣達が心の中では法華経を敵と思っているけれども、あらわに迫害するのもどうかと思って、熱原の事にかこつけて怨をしたところ、かえって前の虚事が露見してしまったのです。
 日蓮はこれが偽の御教書だということは、それを見る前から推察していました。佐渡の国にいたときも、偽の御教書を三度も作ったのです。
 それにつけても、守殿と日本国のためにあわれなことです。木の下にいる虫が木を食い倒し、師子の中の虫が師子を食い殺すように、守殿の恩を受けてこの世を過ごす者が守殿の威を借りて、一切の人々を脅し、悩まし、煩わしたうえ、守殿の仰せだといって法華経に怨をなして、ついに国も滅び主君をも失って、かえって各々の身を滅ぼすとは何と愚かなことでありましょう。
 日蓮は卑しいけれども法華経が梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩の守られる経でありますから、法華経を信ずる人を迫害する人々は剣をのみ、火を手に握るようなものです。これにつけても、いよいよ信心を増されることは尊いことです。尊いことです。   
  五月三日               日 蓮  花 押
   窪尼御返事


 端午の節句に食べる餅の一種。茅・笹・菰などの葉で包んだもの。古くは茅の葉で巻いたので「ちまき」という。
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千日
 千日酒のこと。良質の酒をさす。一杯飲めば、千日間酔っていることができるので千日酒という。転じて酒に千日の字をあてるようになった。
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あつわらの事
 駿河国富士郡下方庄熱原郷に住んでいた日蓮大聖人御在世当時の信徒たちが受けていた迫害のこと。大聖人身延入山後日興上人の富士地方における弘教によって、熱原の滝泉寺住僧日秀・日弁らが入門、その折伏によって神四郎等の農民が入信し信徒となった。そうした動きに対して滝泉寺の院主代・行智等によって弾圧が加えられ、弘安2年(1279)に熱原法難がおきている事をさす。
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かうのとの
 (1251~1284)。鎌倉幕府第八代執権・北条時宗のこと。第五代執権・時頼の嫡子。文永元年(1264)に連署となり、翌年、相模守に任ぜられた。文永5年(1268)執権に就く。文永8年(1271)9月の竜口の法難では詳しい詮議をしないで、日蓮大聖人を佐渡流罪に処したが、後に讒言と分かって赦免している。「守殿」の守は「かみ」の転訛したもの。四等官、長官・次官・判官・主典の最高位の尊称。時宗が幕府においては執権であるが、相模守でもあったことから、相模国の鎌倉の人々からは、ただ「守殿」と呼ばれていた。
さど
 佐渡島のこと。新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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師子の中のむし
 通常師子身中の虫という。師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
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法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
   現存しない経。
   ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。
   ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
   ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
   現存する経
   ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
   ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
   ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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 本抄は日蓮大聖人が身延で著され、窪尼に与えられた御消息である。御真筆の一部が保田の妙本寺に現存する。
 弘安元年(1278)5月3日の御述作とされているが、本抄の「あつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり……これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候」との御文は、弘安2年(1279)9月の熱原法難の際に大聖人門下の信仰禁圧の根拠とされた御教書が、鎌倉幕府の正式な命令書ではなく、平左衛門尉の手になる、にせの御教書であると指摘されたものと拝される。そうだとすると、5月3日の日付けから、本抄は法難の翌年である弘安3年(1280)の御述作と考えるべきであろう。
 別名を「三物書」「与持妙尼書」とも呼ばれていたようである。
 本抄をいただいた窪尼は、駿河国富士郡西山の窪(静岡県富士宮市大久保)に住んでいた信徒の女性とされ、窪尼に与えられた御消息の内容から、夫に先立たれて女の子一人を育てながら、大聖人にたびたび御供養を捧げるなど純真な信心を貫いたことがうかがえる。
 「妙心尼御前御返事」の講義で述べたように、窪尼は妙心尼、持妙尼と同一人物であるとも考えられている。本抄が古来「与持妙尼書」とも呼ばれていたほか、他の窪尼御前への御消息も「報持妙尼書」「与持妙尼書」とされてきたことも、窪尼と持妙尼が同一人物とされたからにほかならない。
 持妙尼とは、日興上人の叔母にあたる富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の後家尼のことである。持妙尼の生家・由比家があった河合の地は窪のごく近くであり、夫亡き後の持妙尼が幼い娘を連れて生家の近くの領地内へ移り住んだと考えることはできよう。
 また、窪尼が高橋六郎兵衛入道の後家尼だったとすれば、賀島の高橋家は富士方面の折伏弘教の中心であったので、熱原法難にも関係が深かったため、大聖人が本抄で法難の背景を教えられたことも納得できるのである。
 本抄の最初で、窪尼から粽・たけのこ・酒が御供養されたことに対する謝意が述べられている。それらの品は、5月5日の節句を祝ってのものであろう。
さてはあつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ
 「あつわらの事」とは、弘安二年九月に起きた熱原法難を指すと思われる。「こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」と仰せの「こんど」が何を指すかは、その後に「これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候」と述べられているので、虚御教書が下されたことをいわれたものであることが明らかである。「さき」とは、次の御文に述べられていることから、佐渡御流罪中に、武蔵前司・北条宣時が念仏者等の訴えによって出した偽の御教書を指している。
 御教書とは、鎌倉時代では将軍の意を承って出される奉書をいい、それに執権と蓮署の二人が署名する形式を関東御教書といった。つまり、将軍の命を伝える幕府の公文書をいった。しかし、源氏の将軍が頼朝・頼家・実朝の三代で絶えた後は実権が北条得宗家に移っており、将軍の意を承けた形式にはなっていても、実際は執権の命令を伝えるものとなっていた。虚御教書とは、上意を受けずに臣下が勝手に作った虚偽の御教書をいう。
 「さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」と仰せになっている事実については、種種御振舞御書に「武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度」(0920-09)と述べられ、千日尼御前御返事にも「極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・あだみなんと・せし」(1313-11)と記されている。
 その内容は、法華行者逢難事に「文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐土の国へ下す状に云く」(0966-15)として、次のように引用されている。
 「佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後彼僧に相い随わん輩に於ては炳誡を加えしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を注進せらる可きの由の所に候なり、仍て執達件の如し。       
 文永十年十二月七日        沙門観恵上る
  依智六郎左衛門尉等云云」
 「執達」とは上司の意を下の者に伝達するという意味で、この命が執権の意から出たものであることをあらわしている。しかし、この命令書は、そのように装った、虚偽の御教書だったのである。
 大聖人は、今回の迫害が執権の意思によるものでないと判断された理由を「かうのとのは人のいゐしに・つけて・くはしくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・をぼしてゆるさせ給いてののちは・させるとがもなくてはいかんが・又あだせらるべき」と仰せである。
 執権・北条時宗が、大聖人の佐渡流罪を赦免したのは、平左衛門尉らの讒言(ざんげん)だけを信じて、何の罪もない大聖人を流罪にしたことを悔いたためであり、時宗が再び大聖人に迫害を加えることはよほどの重罪が明らかにでもならないかぎりありえない、と執権時宗の心情を推し量って断じられているのである。
 そのことについては、聖人御難事でも「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり、今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず」(1190-09)と述べられている。
 鎌倉幕府の執権・北条時宗に大聖人を弾圧する意志がない以上、大聖人と門下への迫害を命じた御教書が下されたとしたら、それは時宗のかかわり知らない虚偽の御教書であることは明らかである。
 虚御教書の内容は不明だが、佐渡における北条宣時のそれと同様に正法信仰を禁止するもので、それには平左衛門尉がかかわっていたと考えられる
 しかし「すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへにそしらば・いかんがと・をもひて・事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ」と仰せのように、平左衛門尉らが執権の意にかかわりなく大聖人と門下を怨嫉して弾圧の策謀をしたことが、かえって前の虚偽を明らかにする結果となったということである。
 弘安2年(1279)9月21日、駿河国富士郡熱原郷(静岡県富士市)の農民信徒20人を下方政所の役人らが捕らえ、弥藤次が訴人となって訴状を出し、鎌倉へ送っている。訴状の内容は「今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野房は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を刈り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ」(0852-10)というものだった。
 事実は、日興上人の門下で、もと滝泉寺の住僧だった、下野房日秀の持ち田の稲刈りに多数の農民信徒が手伝いに集ったところを、不当にも暴行を加えて逮捕したものだった。訴状には、盗んだ稲を日秀の住房に運び込んだとあるが、日秀は、四年も前に滝泉寺の院主代・行智から住坊を奪われ、滝泉寺を追放されていたので、住房へ稲を運び込めるはずがなかったのである。もちろん、そうした罪状はあくまでも口実にすぎず、信仰を弾圧することが目的だったことはいうまでもない。
 また、逮捕した熱原の農民信徒20人を鎌倉に連行して侍所所司の平左衛門尉が取り調べたが、訴状にある罪状については全く尋問せずに、法華経を捨てて念仏を称えるという起請文を書けば許してやると責め立てたのである。そのことも、訴状にある罪状が虚構だったことを物語っている。
 そして、弘安2年10月15日、蟇目の矢で射るという拷問にも屈せず、一人も退転する者がいなかったため、張本と目された神四郎、弥五郎、弥六郎の3人が処刑され、残り17人は追放されたのである。
 偽の御教書は、この処断を幕府公式のものに見せかけるために作られたとも考えられる。
 このように熱原法難は、滝泉寺の院主代・行智と平左衛門尉が結託して私的利害と感情からさまざまな策謀とでっちあげによって大聖人門下を弾圧した卑劣な事件だったのである。
 「あつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」とは、そうした熱原法難の真相を鋭く御指摘になったものと拝することができる。
これにつけても上と国との御ためあはれなり
 「守殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、上の仰せとて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて各各が身をほろぼさんあさましさよ」とは、熱原法難における平左衛門尉の行為を指しておられることは明らかである。
 大聖人はそうした平左衛門尉らの行為が、執権・北条時宗のためにも国のためにも大きな害となる師子身中の虫というべきもので、やがては国を滅ぼし、我が身を滅ぼすであろうと仰せになっている。
 その後の平左衛門尉の行状をみると、この大聖人の御指摘どおりになっているのである。弘安7年(1284)4四月に北条時宗が34歳の若さで死去すると、14歳の嫡子貞時が執権職についたが、内管領と呼ばれた平左衛門尉は、幕府内で対立していた安達泰盛を讒言して滅ぼし、実権を独占した。
 しかし、永仁元年(1293)4月、平左衛門尉頼綱の嫡子宗綱が「父杲円は、いま、次男ともども専横をほしいままにしており、やがては資宗を将軍にしようと企んでいる」と訴え出たため、執権北条貞時によって討っ手が向けられ、頼綱・資宗父子をはじめ一族は滅ぼされている。
 日興上人は平左衛門尉の滅亡を「(熱原法難から)其の後十四年を経て平の入道、判官父子、謀叛を発して誅せられ畢んぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」と記録され、また徳治3年(1308)4四月8日御書写の御本尊に「左衛門入道法華宗の頸を切るの後、十四年を経て謀叛を謀り誅せられ畢ぬ、其子孫跡形無く滅亡し畢ぬ」と脇書されている。まさに「各各が身をほろぼさん」と仰せのとおりになったのである。
 また「国もやぶれ主をも失うて」といわれている点については、平左衛門尉が権力を利用して専横な政治を行ったことが人心の離反を招いたこともあるが、なかんずく正法の信徒に迫害を加えたことが、幕府滅亡の因となったのである。
 ともあれ、諸天が加護している正法を信ずる者を怨嫉し迫害する者は、自ら剣を呑み火を手に握るように、必ず罰を被るであろうと大聖人は断じられている。
 そして最後に、窪尼がいよいよ強い信心をあらわされたことを「たうとく候ぞたうとく候ぞ」と称賛されて本抄を結ばれている。

1478~1478    窪尼御前御返事(虚御教書事)2013:09大白蓮華より先生の講義top

民衆の一人一人の勝利劇こそが広布の前進に

 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」
 今から56年前の1957年9月8日、恩師・戸田先生は横浜・三ツ沢の陸上競技場で、創価学会の平和運動の原点となった「原水爆禁止宣言」を発表されました。
 恩師は核兵器を「絶対悪」であると断じられた。人類の生存を脅かす核兵器は「魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と痛烈に叫ばれたことは、今も耳朶から離れません。核兵器の廃絶を「遺訓すべき第一のもの」として、私たち青年に託されたがゆえに、私は生涯をかけて、この実現に走ってきました。
 恩師が凝視されていたのは、人間の心の奥に潜む魔性との闘争でした。
 創価学会が進める「人間革命」運動は、人の心に巣くう生命軽視・人間蔑視の魔性を打ち破り、草の根の対話で、「生命の尊厳」「人権の尊重」「平和の文化」が輝く社会を築く挑戦です。政治や経済など、あらゆる営みの根底にある「人間の心」の変革は、人類の命運を決する最重要の革命であり、永遠の闘争なのです。
「人間はかくも偉大」
 翻って9月は、「の竜の口法難」「熱原の法難」といった大法難が起きた月でもあります。日蓮大聖人が幾多の難を乗り越えながら示されたのも、「人間はかくも偉大である」「尊貴な人間の魂を縛る鎖は存在しない」という、「人間精神の大勝利宣言」でありました。
 仏法は、民衆一人一人の可能性を開く大法です。一方で、権力の魔性は、民衆勢力の目覚めを恐れます。民衆に尽くすことを忘れ、民衆を利用し、保身のために権力を用いる人のためにとって、魔性の本質に気づいて悪と戦う民衆ほど邪魔な存在はない。ゆえに、徹して迫害を加えてきます。
 大聖人は、そうした人間を隷属化しようとする「権力の魔性」「生命軽視の魔性」と、常に戦い続えられてきたのです。
 今回学ぶ「窪尼御前輅御返事」で、大聖人は「熱原の法難」を通して、権力による迫害の構図を弟子に教えられるとともに、仏法における悪との闘争の重要性を示されています。広宣流布を進めようとすれば、必ず阻もうとする魔性の働きが表れてくる。しかし、その正体を見破り、責め抜くことで、その先に必ず民衆勝利の凱歌は轟く。この重要な原理を、共に学びあっていきましょう。

1478
窪尼御前御返事    弘安元年五月    五十七歳御作
01   粽五把・笋十本・千日ひとつつ給い畢んぬ、 いつもの事に候へども・ながあめふりてなつの日ながし、山はふ
02 かく・みちしげければ・ ふみわくる人も候はぬに・ ほととぎすにつけての御ひとこへありがたし・ありがたし。
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 チマキ五把・筍十本・千日酒一筒いただきました。
 例年のことではありますが、長雨が続き、蒸し暑い夏の日は長い。山は深くて道に草が生い茂って歩きにくい。踏み分けて訪ねる人も稀なところに、ほととぎすにつけての一声の御手紙は、まことにありがたく思います。

門下の真心に最大の感謝
 仏法の世界では、実直な「求道の人」が必ず勝ちます。真面目に地道な信心を貫き、堅実な生活を築き上げた人が、最後は勝利するのです。「求道の人」は、師匠を求め、常に「向上の心」が輝きます。心に師を抱いて戦う人には、決して恐れがありません。
 弘安期のある夏、窪尼御前は、大聖人に、ちまき・たけのこ・お酒を御供養しました。そうした真心に対して、大聖人は心からの謝意を述べられています。
 この窪尼御前、には、大聖人は数多くのお手紙を送り、励まされています。本抄では「いよいよ御信用のまさらせ給う事」と、また他のお手紙では「御信心のねのふかく」(1479-02)「御志殊にふかし」(1481-02)等々と、その信心の志を賞讃されています。
 このように窪尼御前も、純真に信心に励んだ求道心あふれる女性であったと思われます。詳細は明らかではありませんが、大聖人が窪尼に与えられた御消息の内容からは、夫に先立たれた女の子一人を育てながら、大聖人にたびたび御供養を捧げるなど、強盛な信心を貫いたことがうかがえます。
 大聖人が厚い信頼を寄せた窪尼は、駿河の地にあって重要な門下でした。この駿河の地は、北条氏一族の直轄地でもあり、それゆえに熱原の法難が起きた国土でもありました。まさしく本抄は、この法難の最中に、女性門下に対して、「迫害の構図」を明確に教えた、渾身の激励のお手紙です。

03   さてはあつわらの事こんどをもつて.をぼしめせ・さきもそら事なり、かうのとのは人のいゐしに.つけて・くは
04 しくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・ をぼしてゆるさせ給いてののちは・させるとがもなく
05 てはいかんが・又あだせらるべき、
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 さて、熱原のことですが、今度のことからも分あるでしょう。以前のことも偽りであったのです。北条時頼は、人の讒言を信じて、詳しく調べもしないで日蓮を佐渡に流罪したことを誤りであったと後悔して赦免されたのですから、その後はよほど明確な罪がなければ、どうして、またも罰せられることがありましょうか。

悪の本質を鋭く見破れ
 戸田先生は語られていました。
 「今は、日本の国始まって以来の乱世といってよい。心して、強盛な信心に立て!時代の波に、絶対に足をすくわれるな!」
 信心は、乱世を勝ち抜く力です。同時に、あらゆる物事の本質を鋭く見抜く、透徹した智慧の眼を培います。
 乱世に、あっては、魔軍も手強い。悪は結託し、狡猾に裏で動き回ります。そうした悪人に誑かされては絶待にならない。魔の本質を痛烈に見破らなければならない。大聖人はそのことを本抄で示されています。
 この段の冒頭に「こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」とあります。「こんど」とは、直近に虚御教書が下されたことをいわれています。
 さらに「さき」とは、大聖人の流罪中に、佐渡の守護であった北条宣時が、念仏者らの訴えによって出した御教書を指しています。
 この北条宣時は、幕府の実力者であり、大聖人が流罪された時の身柄預かり人でした。宣時は、極楽寺良観や念仏者らの讒言を聞き入れ、文永10年(1273)12月7日、家人の佐渡守護代・本間重連宛てに「私の御教書」を発し、佐渡の大聖人一門を弾圧しました。宣時はこうした卑劣な命令書を3度も発給したのです。
 一方、「かうのとの」とは、執権・北条時宗のことです。
 執権・時宗が、大聖人の佐渡流罪を赦免したのは、平左衛門尉頼綱らの讒言だけを信じて、何の罪もない大聖人を流罪したことを悔いたためであった。その時宗が再び迫害を加えてくることは、まずありえないと、大聖人は断じられています。
 同じ趣旨のことは、「聖人御難事」にも「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり、今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず」(1190-09)と示されています。
 いいかえれば、大聖人の不撓不屈の立正安国論の闘争によって、国主が次第に真実に目覚め、同時に悪の本性が暴かれつつあるということです。
 こうした一連の状況を踏まえ、「熱原の法難」が、時の執権・北条時宗の命令ではなく、その威を借りて専横する輩による謀略であることを、大聖人は喝破なさり、その本質を駿河の門下に教えられていたのです。
民衆史に残る「熱原の法難」
 ここであらためて「熱原の法難」の経緯と意義について確認しておきたい。
 本抄の「あつわらの事」とは、弘安2年(1279)を頂点として数年にわたって駿河国富士郡で起こった大聖人門下への弾圧事件を指しています。
 法難の直前、この地域では大聖人の弟子たちの弘教によって、多くの農民の信仰者が誕生していました。しかし、その勢いを恐れた滝泉寺の院主代・行智らが迫害を企て、弘安2年(1279)9月21日、神四郎をはじめとする20人が突然、無実の罪で捕えられたのです。
 彼らは鎌倉に連行され、平左衛門尉のもとで拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されますが、一人も退転することなく、妙法の信心を貫き通します。結局、神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟が処刑され、残りの17人は追放となったのです。
 この熱原の法難は、民衆史から見ても、大きな意義があったと思えてならない。それを一言で表すなら、「どのような権力・権威にも屈することのない自立した個人の出現」といえるでしょう。
 日本に仏教が伝来して以来、鎌倉時代まで、仏教の信仰は民衆の中に深く浸透していました。しかし、その基調は当面の利益を求めるか、そうでなければ、現実から逃避して死後の救済を求めるものでしかなかったのです。ところが、熱原の法難では、当時、名字もない農民たちが、宗教的信念を貫き、権力者の横暴に対して断固として屈しなかった。まさに13世紀の封建時代に日本に起きた、永遠に響きわたる先駆の人権闘争であったと言えます。
 「世界人権宣言」20周年を記念してユネスコが編纂した『語録 人間の権利』には「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(0287-15)との、「撰時抄」の一節が収められています。
 これは、大聖人が無実の咎で佐渡に流罪された後、赦免となり、鎌倉に戻った時に、平左衛門尉を直接諌めた言葉です。
 すなわち、絶大な権力者であった平左衛門尉に対して、「私を処刑し流罪することもできよう。しかし、心の自由を縛ることは絶対にできない。断じて私は、汝らの権力者の奴隷にはならない」と師子吼されたのです。
 「内面の自由」「信教の自由」こそ、永遠に崩してはならない人権の根幹です。どんな絶大な権力も精神までは縛れません。自由の叫びを抑えることはできない。そのことを、大聖人の弟子が厳然と証明したのが、熱原の法難だったのです。
 また、別の角度からみれば、生命に及ぶ幾多の迫害を乗り越えて、妙法弘通の大闘争を続けてきた大聖人の御精神が、民衆次元にまで定着したことを意味しています。そのことは、立宗宣言以来の確かな結実を示していると言えましょう。
民衆凱歌の大城の完成
 振り返ってみれば、創価学会は、この誉れの日蓮門下の大精神を受け継ぎ、あらゆる迫害や難を乗り越え、民衆勝利の歴史を開いてきました。
 牧口先生、戸田先生が軍部政府と対峙した獄中闘争をはじめ、北海道の夕張炭労事件しかり、大阪事件しかり、また、草創期の奄美や沖縄など、全国各地で学会員の迫害に対しても、断じて負けることなく、妙法の旗を掲げ続けてきたのが、創価の歴史です。
 宗教社会学の第一人者であった故・安齋伸博士は、奄美・沖縄の学会員の力強い不屈の姿に感嘆され、“キリスト教の宣教師と同じように、いな、それ以上の苦労に耐えての布教であった”と最大に讃えてくださいました。
 世界192ヶ国・地域に連帯が広がった現代においては、堂々たる一閻浮提広布の時代が開かれています。牧口先生・戸田先生の不惜の闘争があればこそ、世界に民衆の陣列が広がり、今日の社会からの賞讃があるのです。
 あらゆる苦難や迫害にも負けない学会員こそ、人間として最高に尊貴な存在です。そして今、永遠に崩れない、偉大な民衆勝利の大城は、創価三代の時代に見事に完成したと宣言したいのです。

05                 すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへにそしらば・いかんがと・をもひ
06 て・事にかづけて人をあだむほどに・ かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ、 これはそらみげうそと申す事
07 はみぬさきよりすいして候、 さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ、 
-----―
 守護の家臣達が心の中では法華経を敵と思っているけれども、あらわに迫害するのはどうかと思って、熱原の事にかこつけて怨をなしたところ、かえって前の虚事が露見してしまったのです。
 日蓮はこれが偽の御教書だということは、それを見る前から推察していました。佐渡の国にいたときも偽の御教書を三度も作ったのです。

讒言と謀略で正義の人を迫害
 大聖人は、鎌倉幕府の執権の威を借る輩が、大聖人門下に怨嫉して熱原で画策したことが、前の虚偽をも明らかにする結果となったと断じられています。そして、今度も勝手に作った御教書であることは、それを見る前から推察していたといわれています。
 「さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」との事実について、大聖人は「種種御振舞御書」で「武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、 先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度」(0920-09)と述べられています。また「千日尼御前御返事」には「極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・あだみなんと・せし」(1313-11)と記されています。
 悪僧と権力者が結託し、法華経の行者を讒言して亡き者にしようとする。これが迫害者の構図です。大聖人の御生涯は法華経に説かれている「三類の強敵」との闘争でした。なかでも「僭聖増上慢」は、直接、法華経の行者と対峙することなく、陰にまわって讒言によって権力者を動かし、迫害を画策します。大聖人の時代において、まさに、極楽寺良観が経文通りに僭聖増上慢としての姿を現じ、迫害を加えてきました。
 文永8年(1271)、大聖人は良観の祈雨の対決で、完膚無きまでに良観を打ち負かします。しかし祈雨の勝負に敗れた良観は逆恨みし、然阿良忠、道阿弥陀仏らと謀らって、その手下の行敏の名前で大聖人を訴えたのです。
 その訴状で、大聖人のことを「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」(0181-13)、「凶徒を室中に集む」(0181-16)などと非難しています。これに対して、大聖人は、そのことについての確かな証人・証拠を出せと、反対に厳しく追及されています。要するに、ありもしない事件を捏造し、それを公的に訴える形で騒ぎを拡大しようとする。それが良観一派の手口でした。
 さらに良観は、極楽寺重時の娘である凶徒を室中に集むと時宗の母ら幕府高官の夫人たちにも取り入り、讒言を重ねていきます。また、竜の口の法難の捕縛の時にも、弾圧を画策した者たちは、大聖人一門を反逆の徒であると世間に印象づけようとしたのです。
 竜の口の処刑が失敗した後、大聖人の身柄は一時、依智の本間六郎左衛門尉重連の館に留め置かれました。大聖人の処遇をめぐって議論が紛糾する中、良観はさまざまな謀略を巡らします。鎌倉での放火・殺人を大聖人門下のしわざであると捏造します。
 その結果、大聖人の佐渡流罪が決定し、鎌倉の門下たちは、大弾圧を受けることになります。
 また、この讒言と捏造による迫害が、大聖人の佐渡流罪中にも私的な御教書によって行われたことは、先に述べた通りです。
 迫害者は、じぶんたちの計略が成功して、一たびは喜んだことでしょう。しかし、後に執権・北条時宗が、讒言と知って赦免したことで、悪の所業は暴かれ、結果的に真実が証明されました。
 今回の熱原の法難では、大聖人が受けられてきたものと同じ構図の迫害が、門下に襲いかかったのです。

事実無根の罪状で信仰を弾圧

 すなわち、熱原の法難もまた、滝泉寺の院主代・行智と平左衛門尉が利害と妬みから結託して、さまざまな謀略と捏造によって大聖人門下を弾圧した卑劣な事件だったのです。
 行智らは“日秀が武装した農民を指揮して院主の住坊に乱入し、滝泉寺の田の稲を盗み取った”などと事実無根の罪状をでっち上げて、幕府に訴え出ました。
 この訴状は「自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す」(0850-01)とあるように、行智が自ら犯した数々の罪を覆い隠し、明らかになることを防ごうとして、罪を捏造して訴えを起こしたものでした。
 また、逮捕した熱原の法難の農民信徒20人を平左衛門尉が取り調べた際に、訴状にある罪状については全く尋問せずに、法華経を捨てて念仏を唱えるという起請文を書けば許してやると責め立てたのです。こうしたことも、訴状にある罪状が虚構であり、はじめから弾圧が目的だったことを物語っています。
 結局、悪人が正義の人を陥れようとする時の常套手段は「謀略」にほかなりません。大聖人の時代も現代も、方程式は同じです。しかし、非道は必ず暴かれます。正義の人の堂々たる振る舞いによって、かえって、正邪は歴然となる。大聖人はそのことを門下に厳然と教えられたのです。

07                                          これにつけても上と国と
08 の御ためあはれなり、 木のしたなるむしの木をくらひたうし・ 師子の中のむしの師子を食らいうしなふやうに守
09 殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、 上の仰せ
10 とて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて 各各が身をほろぼさんあさましさよ、 
-----―
 それにつけても北条時宗と日本国のためにあわれなことです。木の下にいる虫が木を食い倒し、師子の中の虫が師子を食い殺すように、北条時頼の恩を受けてこの世を過ごす者が北条時頼の威を借りて、一切の人々を脅し、悩まし、煩わしたうえ、北条時頼の仰せだといって法華経に怨をなして、ついに国も滅び主君をも失って、かえって各々の身を滅ぼそうとは何と愚かなことでありましょう。

厳然たる因果の理法
 大聖人は「獅子身中の虫」というべき彼らの行為は、執権・北条時宗のためにも国のためにも大きな害となり、やがては国を滅ぼし、幕府を滅ぼし、我が身を滅ぼすと仰せです。
 御文の「獅子身中のむし」とは、師子の身中に宿り、体内から食む虫のことです。仏典には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部からは破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」とあります。ここでは、北条氏を内側から蝕む人々を指しています。
 大聖人は「各各が身をほろぼさんあさましさよ」と厳として仰せです。
 事実、権威をふるっていた平左衛門尉は、一度は、幕府内で対立していた勢力を滅ぼして、実験を独占したかのように見えましたが、最終的には自ら滅びます。
 「末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190-02)とある通り、仏法における勝負の結果は厳然と現れるのです。
 本来、民衆に尽くすべき立場にありながら、それを忘れて卑劣な手法で、真に民衆を救う人を迫害し、自己の保身に走る為政者の存在こそ、国が滅ぶ原因を作っている元凶であると、大聖人は一国の運命を案じ憂えられているのです。
 大聖人がここで呵責されているのは、執権の北条時宗ではなく、あくまでも、その権力を利用する一派です。しかし、指導者が賢明でなければ、結局、まわりに騙され、民衆が苦しみます。大聖人が「立正安国論」や「佐渡御書」などで一貫して訴えられているのも、指導者革命の必要性です。

10                                           日蓮はいやしけれども
11 経は梵天・帝釈.日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば.法華経のかたをあだむ人人は・剣を
12 のみ火を手ににぎるなるべし、これにつけても・いよいよ御信用のまさらせ給う事、たうとく候ぞたうとく候ぞ。
-----―
 日蓮はいやしけれども法華経が梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩の守られる経でありますから、法華経を信ずる人を迫害する人々は剣をのみ、火を手に握るようなものです。これにつけても・いよいよ信心を増されることは尊いことです、尊いことです。

「いよいよ」の精神で前進を
 最後に大聖人は“正法を信ずる者は諸天が加護している。それを迫害する輩は、自ら剣を呑み、火を手に握るように、必ず厳しい罰を被るであろう”と断言されています。
 仏法は常に仏と魔との闘争です。ゆえに断じて悪を責め抜く心を忘れてはなりません。極悪を責め抜いてこそ極善に至ります。むしろ、いかなる障魔や苦難に直面しようとも、断じて戦い続ける人こそ、最後には必ず仏となるのです。
 本抄で大聖人が迫害の構図を教えられているのも、悪の本質を鋭く見破り、勇敢に悪と戦う目覚めた民衆の陣列を築いていかれるためであったと思えてなりません。民衆一人一人が賢明になり、勝利する姿のなかに広宣流布の前進があります。
 本抄を頂いた窪尼御前も夫を亡くし、熱原の法難という大聖人門下の苦難のまっただ中にあって、純粋な信心に励んだ女性でした。大聖人は、窪尼がいよいよ強く信心に励んだことを「たうとく候ぞたうとく候ぞ」と賞讃されています。
 わが創価学会の婦人部も同じです。「いよいよ」の精神に立って、何があっても負けない信心で、「妙法に生き抜く人生に不孝なし!誰もが幸福になれる」ことを晴れ晴れと証明してきました。
 どんな時も、常に前へ、前へ!これが仏法の魂です。広宣流布は万年に続く、長い旅路です。その勝利を開く要諦は「戦い続ける心」にあります。
生涯にわたる価値創造の闘争を
 だからこそ、私は今、「朗らかに『勇気の前進』を!」と呼びかけたい。
 私が今日まで出会いを結んできた世界の指導者や識者の多くも、人間の尊厳と世界の平和のために、生涯をかけて戦い続けた方々でした。
 ローマクラブの創立者のペッチェイ博士、アメリカの公民権運動の母パークスさん、現代科学の父であり二つのノーベル賞を受けたポーリング博士、パグウォッシユ会議の創立者ロートブラット博士、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁など、皆、人類に尽くす闘争を続けた英雄です。
 27年半すなわち1万日に及ぶ獄中闘争を耐え抜いた南アフリカの人権の父マンデラ元大統領とは、出獄されたその年に、聖教新聞社でお会いしました。今も鮮やかに思い出されます。
 アルゼンチンの人権活動家で、権力の抑圧と徹して戦い抜いたエスキベル博士は語られました。
 「『創価』が意味する『価値の創造』は、戦う意欲をかきたててくれます。生命の尊厳のため、人間を人間たらしめる価値のため、私たちが創りたい社会に向かって進む闘志がわきます。この闘志は、信仰そして人生の信念から生れるものです」
 私たちの日々の学会活動は、こうした人類の英雄が括目し、讃えゆく偉大な人類救済の大運動です。広宣流布とは、人間の尊厳を踏みにじり、人間を手段化しようとする「生命の魔性」との果てしない闘争なのです。
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)との御聖訓を心に刻み、「いよいよ」の決意で、ますます広がりゆく世界広宣流布の新たな峰へ、勇んで希望の登攀を開始していきましょう。

1479~1479    窪尼御前御返事top

1479
窪尼御前御返事    弘安元年六月    五十七歳御作
01   すずの御供養送り給い了んぬ、大風の草をなびかし・いかづちの人ををどろかすやうに候、よの中にいかにいま
02 まで御しんようの候いけるふしぎさよ、 ねふかければはかれず・いづみに玉あれば水たえずと申すやうに・御信心
03 のねのふかく・いさぎよき玉の心のうちに・わたらせ給うか、たうとしたうとし、恐恐。
04       六月二十七日                    日 蓮 花 押
05     くぼの尼御前御返事
-----―
 種々の御供養をいただきました。大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような世の中にあって、今まで日蓮を御信用されたことは不思議なことです。根が深ければ葉は枯れず、泉に玉があれば水が絶えないというように、心中にいさぎよい玉が輝いているからでしょう。まことに尊いことです。恐恐。
       六月二十七日                    日 蓮 花 押
     くぼの尼御前御返事

 本抄は弘安元年(1278)6月27日、駿河国富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の御家尼と思われる窪尼に与えられた手紙である。御真筆は存していないが、日興上人の写本は大石寺にある。短い手紙ではあるが、窪尼御前のいかなる状況にも変わらない信心と、大聖人が門下にかけられている心の温かさの拝される御抄である。
 具体的に品名は記されていないが、種々の御供養を受領した旨を記され、尼の信心をたたえられている。「大風の草をなびかし・いかづちの人ををどろかすやうに候、よの中」の御文は、大聖人門下を迫害する世間の動向をこのように表現されたものであろう。すなわち、大風が草をなびかすように、また雷が人を驚かすように、世間は大聖人門下の人々を権力や暴力で脅迫し、威嚇しているが、そのような世の中にあっても、今まで変わることなく清い信心を貫いてきたことをほめたたえているものと拝される。その信心を「ふしぎ」と仰せにっいるのは、まことに稀であると仰せであろう。
 草の根が深く堅固であれば、葉は枯れることはない。また泉に玉があれば、水が絶えることもない。信心も同じであり、いくら風が草をなびかせようとしても、またその風が強かったとしても、信心の根が深く張っているならば、倒れることもなく、瑞々しい葉を茂らせることができるのである。また心の中に信心の玉が輝いていれば、滾々と功徳の水が湧き出るのである。
 ここに「御信心のねふかく」と仰せられ、また「いさぎよい玉」と仰せられているところに心をとどめたい。いかなる難や苦境にあおうとも微動だにしない信心であることが信心の根が深いということである。また「いさぎよき」とは、清らかで濁りのないということと拝せよう。
 弘安元年(1278)といえば、窪尼のいた駿河国富士地方は日興上人の教化によって折伏が進み、それにともなって熱原を中心に法難の嵐が現れ始めていた時である。女性の身でそうしたなかで信心に励んでいくということは、よほど決定した信念がなければかなわないことである。尼は大聖人が本抄で讃えられているとおりの信心を貫き、大聖人滅後も妙法信仰者としての生涯を全うするのでる。
1479~1480    妙心尼御前御返事(病之良薬御書)top
1479:01~1479:08 第一章 妙法こそ病の人の良薬なるを示すtop

妙心尼御前御返事    弘安元年八月    五十七歳御作
01   あわしかき二篭なすび一こ給い候い了んぬ、入道殿の御所労の事、唐土に黄帝・扁鵲と申せし・くすしあり・天
02 竺に持水・耆婆と申せしくすしあり、 これらはその世のたから末代のくすしの師なり、 仏と申せし人はこれには
03 にるべくもなきいみじきくすしなり、 この仏・不死の薬をとかせ給へり・今の妙法蓮華経の五字是なり、しかも・
04 この五字をば閻浮提人病之良薬とこそ・とかれて候へ。
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 あわし柿二籠、なす一籠お送りいただきました。
 入道殿がご病気との事、中国に黄帝、扁鵲という医師がおりました。インドには持水・耆婆という医師がいました。この人達はその時代の宝であり、後世の医師の師です。仏と申される人はこれらの人には似るべくもないすぐれた医者です。この仏は不死の薬を説かれたのです。今の妙法蓮華経の五字がこれです。しかも、この五字を閻浮提人病之良薬と説かれているのです。
-----―
05   入道殿は閻浮提の内日本国の人なり、 しかも身に病をうけられて候病之良薬の経文顕然なり、其の上蓮華経は
06 第一の薬なり、 はるり王と申せし悪王・仏のしたしき女人五百余人を殺して候いしに・仏阿難を霊山につかはして
07 青蓮華をとりよせて身にふれさせ給いしかば・ よみかへりて七日ありてトウ利天に生れにき、蓮華と申す花はかか
08 るいみじき徳ある花にて候へば仏妙法にたとへ給へり、
-----―
 入道殿は閻浮提の内の日本国の人です。しかも、身に病をうけられています。病之良薬の経文は明らかです。そのうえ妙法蓮華経は第一の薬です。波瑠璃という悪王が、仏の一族の五百余人の女性を殺してしまったので、仏は阿難を霊山に遣わして青蓮華を取り寄せ、殺された五百余人の女人の身に触れさせたところ、蘇生して七日の後、忉利天に生まれたのです。蓮華という花は、このようにすぐれた徳を備えた花なので、仏は妙法に譬えられているのです。

あわしかき
 渋を抜いた柿。醂し柿。あわせ柿。
―――
唐土
 中国のこと。日本から中国を呼んだ名称。現在の浙江省を中心に勢力をふるっていた越の地方をさして諸越といっていたのが、しだいに中国全土の呼称となり、唐王朝成立後「唐土」と書き、「もろこし」と読むようになったという。
―――
黄帝
 中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。史記五帝本紀等によると、少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。すでに徳の衰えていた神農の子孫と戦い、これを破って神農氏の子孫に代わって帝位についた。五行説にいう黄竜のような土徳があったので、黄帝と呼ばれた。衣服・貨幣の制をはじめ、医薬の方法を定めた。
―――
扁鵲
 中国・春秋戦国時代の名医。史記列伝第四十五によると、姓は秦、名は越人。渤海郡鄭(河南省)の人。扁鵲は長桑君という隠者より医術を伝授され、あらゆる医術に長じた。諸国をめぐって医業を行ない、虢の太子の死を聞いて治療にあたり、鍼と膏薬等で蘇生させるなど、名声は天下に聞えた。しかし、秦の太医令の李醯にねたまれ、刺客を向けられて殺害されたという。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
持水
 金光明経巻三に説かれる名医。治水とも書く。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来がおり、涅槃した後、像法の時代に天自在光王がいた。王は正法を修行し、法の教えるとおりに世を治めていた。この国に持水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。ある時、国内に疫病が流行した。持水は年老いて治療にあたれなかったが、子の流水が父から法を学んで、持水に代わって病の治療にあたり、国中の人々を疫病から救ったという。
―――
耆婆
 梵名ジーヴァカ(Jīvaka)の音写。活・命・寿命等と訳す。釈尊在世当時の名医。阿闍世王の侍医。画期的な外科療法を行なったといわれる。涅槃経巻十九によると、仏法を深く信じ、阿闍世に大臣として仕えている時、王が父を殺し、母を殺そうとし、ために身に悪瘡ができて苦しむのを見て、王に懺悔を勧め、釈尊に帰依させた。
―――
はるり王
 梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国(舎衛国)の王。大唐西域記巻六等によると、父王波斯匿と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。その数990万人といわれ、血が流れて池となった。それから7日後、釈尊の予言通り焼死して無間地獄に堕ちたという。
―――
阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
霊山
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(0757-06)とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
忉利天
 梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
―――――――――
 本抄は弘安元年(1278)8月16日に、日蓮大聖人が身延で御述作になり、妙心尼に与えられた御消息とされている。
 ただし、妙心尼が駿河国富士郡賀島(静岡県富士市)の高橋六郎兵衛入道の夫人とすると、本抄に「入道殿の御所労」と仰せられているが、入道の病が重かったのは建治元年(1275)で、同年10月には死去したと推定されているので、本抄は建治元年(1275)の御述作ということになる。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に存する。
 妙心尼については、「妙心尼御前御返事」の講義を参照されたい。
 本抄は、妙心尼が夫の病気について御報告したことに対して与えられたもので、仏こそ最高の医師であり、妙法こそ、その仏が閻浮提の人の病を癒される良薬であることを示されている。また病によって道心が起こること、謗法こそ極大重病であることを教えられ、夫の入道も信仰によって謗法の重罪も消滅して必ず霊山へ参られるであろうと激励されている。
閻浮提人病之良薬
 初めに妙心尼が入道の病気を御報告したのに対して、仏こそ中国やインドの伝統的な名医、黄帝、扁鵲、持水、耆婆よりはるかに偉大な医師であり、その仏が閻浮提の衆生に与えてくださった不死の薬こそ妙法蓮華経の五字であることを述べられ、この妙法への信によって必ず入道の病も癒えると激励されている。
 仏を、衆生の心の病を癒すための法の薬を与えるという意味で医師、あるいは大医王等にたとえることは、経文の各所にみられる。
 法華経寿量品に説かれた良医と病子の譬は、そのなかでもよく知られるところであろう。
 仏という医師が用いる薬とは教法であり、その癒す病は単に身の病でなく心身にわたる病であり、心身の根源にある生命自体の病である。
 このことについては治病大小権実違目に、病を身の病と心の病に大別され、身の病は「設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此れを治するにゆいて愈えずという事なし」(0995-07)と仰せられ、それに対し、心の病は「此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや」(0995-08)と述べられ、仏法によってのみ治することができると教えられている。
 その生命・心の病を癒す仏の良薬のなかでも、最高の良薬、〝不死の薬〟が妙法蓮華経なのである。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三には「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」とあり、ここに「此の経」すなわち妙法が「閻浮提人病之良薬」であるとともに「不老不死の薬」であることが明らかである。
 妙心尼の夫は、この妙法の大良薬によって救われるべき「閻浮提」の内の日本国の人であるから、救われないわけがないことを示され、しかも、入道は「身に病をうけられて候」と、心の病に比べれば、はるかに軽いのであるから、癒えないはずがないと励まされているのである。
 なお、その後に波留璃王によって殺された女人を釈尊が青蓮華によって蘇らせた故事を挙げて妙法蓮華経の功徳について述べられているのは、この妙法蓮華経が「不死の薬」であることを示されていると拝せられる。

1479:08~1480:02 第二章 病によって道心の起こるを示すtop

08                           又人の死ぬる事は・やまひにはよらず・当時のゆきつしま
09 のものどもは病なけれども・みなみなむこ人に一時に・うちころされぬ・病あれば死ぬべしといふ事不定なり、 又
1480
01 このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、 病により
02 て道心はをこり候なり、
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 また、人が死ぬのは病によるのではありません。当時の壱岐対馬の人達は皆、蒙古軍に一時にして打ち殺されてしまいました。病になったから必ず死ぬとはきまっていません。
 また、この病は仏の御はからいでしょうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になる、と説かれています。病によって仏道を求める心は起こるものです。

ゆきつしま
 朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
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むこ
 13世紀の初め、ジンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から、西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では五5代フビライが1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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浄名経
 維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片的に残っているだけである。漢訳は鳩摩羅什訳、維摩詰所説経3巻など三種がある。主人公の維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に精通していた在家の菩薩。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、教理が展開されている。大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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 次に大聖人は、人が死ぬということは必ずしも病気によるのではないこと、また、病気になったら必ず死ぬわけでもないことを示され、入道の病気は信心を深めさせるための仏の計らいであろうかと述べられ、求道の心を強く起こすよう勧められている。
 人が死ぬのは病気によるとはかぎらないことの例として、大聖人は蒙古襲来の際に壱岐・対馬で多くの住民が戦乱のなかで殺された事実を挙げられている。
 現代でも、世界の各地で他国との戦争や内乱によって多くの人命が失われており、日本でも交通事故や火災等の不慮の事故で死亡する人の数は少なくなく、殺人事件の被害者となって命を奪われるケースも増加している。当時よりも現代のほうが病気や老衰による以外の死亡原因が大きな比重を占めているといえよう。
 また「病あれば死ぬべしといふ事不定なり」と仰せのように、病気したからといって死ぬとはかぎらないのである。
 実際に「病気上手の死に下手」とか「一病息災」といわれるように、病気がちでありながら長生きをするという場合がしばしばあることはよく知られている。
 鎌倉時代にあっては、病気になってもそれを治療する医薬の手段がほとんどなかったので、疫病が流行するたびに多数の死者を出していたのである。そのため、当時の人々は病気にかかるとすぐに死の恐怖に駆られることが多かったのであろう。
 大聖人は、重い病気と思われる妙心尼の夫に対して、病気で死ぬとは限らないと励まされ、さらに「このやまひは仏の御はからひか……病によりて道心はをこり候なり」と仰せになって、信心を奮い起こすよう勧められているのである。
 入道の病気は仏の御はからいであろうかとされているのは、病気になることによって仏法を求める心が起こるからでる。
 浄名経とは維摩詰所説経のことで、釈尊在世の毘舎離城の長者、維摩詰居士は大乗仏教の奥義に通達していたが、ある時、病気を現じて、見舞いにきた文殊師利菩薩等と大乗の妙理について問答を行い、最後に大神変を現じて妙善国不動如来のところへ帰ることが説かれている。
 涅槃経では、菩薩の修行すべき五種の行のなかに病行が説かれており、菩薩が慈悲のゆえに衆生と同じに病気を現じて衆生を救うとされている。また、釈尊が衆生を調伏するために病を現じて臥せたこと、仏が病がなくて病を現ずることなどが説かれている。
 このことを太田入道殿御返事には「維摩詰経に云く『爾の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝ねて牀に疾む云云、爾の時に仏・文殊師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣して疾を問え』云云、大涅槃経に云く『爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥したもう彼の病人の如くす』云云、法華経に云く『少病少悩』云云、止観の第八に云く『若し毘耶に偃臥し疾に託いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因つて力を説く』云云」(1009-01)と述べられている。
 浄名経と涅槃経で説かれているのは、仏や菩薩、居士などが衆生を救い法を説くために病を現ずるということだが、大聖人が「病ある人仏になるべきよしとかれて候」と仰せになっているのは、私達凡夫は病苦に直面したときに初めて生命について真剣に考え、信仰の必要性に目覚めることが多いからであろう。
 このことは、当時とは比較できないほど医学の進歩した現代にあっても同じといえよう。

1480:02~1480:05 第三章 謗法こそ極大重病であるを示すtop

02             又一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそおもき病とは仏はいたませ給へ 今の日
03 本国の人は一人もなく 極大重病あり所謂大謗法の重病なり 今の禅宗念仏宗律宗真言師なりこれらはあまりに病お
04 もきゆへに我が身にもおぼへず 人もしらぬ病なりこの病のこうずるゆへに 四海のつわものただいま来りなば王臣
05 万民みなしづみなんこれをいきてみ候はんまなここそあたあたしく候へ。
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 また、一切の病のなかでは、五逆罪と一闡提と謗法をこそ重病であると、仏は心を痛められています。今の日本国の人は、一人も残らず極大重病の人です。いわゆる大謗法の重病です。今日の禅宗、念仏宗、律宗、真言師です。これらの人はあまりに病が重いので、当人自身も他の人も知らない病なのです。この病がこうじたので四海の兵士がいまに攻めてきて、王臣万民が皆、(海に)沈んでしまうでしょう。これを生きて目のあたりにすることこそ実に痛ましいことです。

五逆
 五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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 次に、謗法こそ極大重病であり、その病がこうじて蒙古襲来という大きな災難を招き寄せたことを示されている。
 苦悩を招く悪業を生命の病とし、悪業のなかでも重いものとして五逆罪、一闡提、謗法の三つが挙げられる。なぜなら、最大の苦悩の境界である無間地獄の業因がこの三つだからである。
 日本の人々は、この三つのなかでも最も大重病である大謗法の罪業を犯している。それは、禅、念仏、律、真言など法華誹謗のうえに立てられた諸宗を信仰していることである。
 謗法が極重病であるということについては「御病を勘うるに六病を出でず其の中の五病は且らく之を置く第六の業病最も治し難し、将た又業病に軽き有り重き有りて多少定まらず就中・法華誹謗の業病最第一なり、神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き・持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず、但し釈尊一仏の妙経の良薬に限つて之を治す」(1010-07)とも仰せである。
 正法誹謗がなぜ極重病かといえば、妙法という生命の根本の法則に背くゆえである。
 法華経寿量品には「飲他毒薬。薬発悶乱。苑転于地(他の毒薬を飲み、薬発し悶乱して、地に苑転す)」と説かれており、それを大聖人は「他とは念仏・禅・真言の謗法の比丘なり、毒薬とは権教方便なり法華の良薬に非ず故に悶乱するなり悶とはいきたゆるなり、寿量品の命なきが故に悶乱するなり宛転于地とは阿鼻地獄へ入るなり云云、諸子飲毒の事は釈に云く『邪師の法を信受するを名けて飲毒と為す』と」(0754-第六飲他毒薬薬発悶乱宛転于地の事-01)と御教示されている。
 当時の日本では、全民衆が禅・念仏・律・真言などの諸宗を真剣に信じていたので「一人もなく」と仰せなのである。
 開目抄にも「世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし……日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0199-18)と仰せになっているように、大聖人はそのことを一切衆生に教えて救わんがために立教開宗され、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」等と諸宗を破折されたのである。
 しかし人々は、この謗法という病があまりにも重いために、本人にも自覚できないし、人がかかっているのを見ても、気づかない。事実、仏法を信じることが謗法となり、大苦悩の因となることなど、当時の僧尼や民衆は夢にも思わなかったであろう。
 ゆえに、謗法の罪に気づかせ、救おうとして折伏を行じられる日蓮大聖人に対して、人々は激しく憎んだのであった。
 その結果、人々は、これまでの法華誹謗の邪法への執着という重罪に加えて、大聖人に怨嫉し迫害するという、更なる極重罪を犯したのである。このように本人は容易に気がつかなくても、謗法の重病のこうじた果ては現実に苦悩をもたらす現象として現れてくる。それが蒙古の大軍の襲来であると仰せである。すでに大聖人は、立正安国論で「先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科(とが)に依つて並び起り競い来らば其の時何(いか)んが為(せ)んや」(0031-15)と、自界叛逆・他国侵逼の残る二難が必ず起こると予言されていたが、そのとおり、文永9年(1272)2月に北条時輔の乱が起こり、文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)5月の二度にわたって蒙古軍の襲来があったのである。
 特に蒙古の襲来は、かつてない国難であり、日本の上下を滅亡の恐怖にさらしたのだった。大聖人は、この大難こそ一国謗法の結果であると示され、予言されたとおりのこととはいえ、これをこの目で見るということは実に悲しく痛々しいことであると嘆かれている。そこには、どこまでも人々を苦しみから救おうとされる大慈悲が拝せられる。

1480:06~1480:18 第四章入道の滅罪を示し信心を励ますtop

06   入道殿は今生にはいたく法華経を御信用ありとは見え候はねども・過去の宿習のゆへの・もよをしによりて・こ
07 のなが病にしづみ日日夜夜に道心ひまなし、 今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候いぬらん、 謗法の大
08 悪は又法華経に帰しぬるゆへに・ きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・
09 ごとくうれしく、 とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん、 中有の道にいかなる事もいできた
10 り候はば・日蓮がでしなりとなのらせ給へ、 わずかの日本国なれどもさがみ殿のうちのものと申すをば・さうなく
11 おそるる事候、 日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、 其の名は十
12 方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん・ 日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬ
13 よしは申さじとおぼすべし、さては度度の御心ざし申すばかりなし、恐恐謹言。
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 入道殿は今生では特に強盛な法華経の御信仰があるようには見えませんでしたが、過去の宿習の故のもよおしによって、この長病にかかられ、その病によって日夜にひまなく道心をおこし、法華経を信仰されるようになりました。今生につくりおかれた小罪はすでに消えてしまったことでしょう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依されたことにより消え失せることでしょう。やがて霊山に参られたならば、太陽が出て十方世界を見晴らすようにうれしく、早く死んでよかった、と喜ばれることでしょう。
 また中有の道にあっては、どんなことが起きても「日蓮の弟子である」と名乗りなさい。小さな日本国でも相模守殿の家来であるといえば、わけもなく恐れられることがあります。日蓮は日本第一の不当な法師です。ただし、法華経を信じ奉ることは一閻浮提第一の聖人です。その名は十方の浄土にも聞こえています。さだめし天地も知っていることでしょう。日蓮の弟子であると名乗られるならば、どのような悪鬼もよもや日蓮の名を知らないとはいわないはずです。それにつけても、たびたびの御志、御礼の申し上げようもありません。恐恐謹言。
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14   さるは木をたのむ・魚は水をたのむ・女人はおとこをたのむ・わかれのをしきゆへにかみをそり・そでをすみに
15   そめぬ、 いかでか十方の仏もあはれませ給はざるべき、 法華経もすてさせ給うべきとたのませ給え・たのま
16   せ給え。
17       八月十六日                               日 蓮 花押
18     妙心尼御前御返事
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 猿は木を頼りにし、魚は水を頼りにするものです。女人は男を頼みとし、別れを惜しむ故に髪をそり、墨染の袖の着物に着替えられた尼になられたのです。どうして十方の仏が憐れに思われないことがあろうか、法華経も見捨てられるはずがないと信じて、信心に励まれるがよいでしょう。
  八月十六日              日 蓮  花 押
   妙心尼御前御返事

中有の道
 中有は四有の一つ。欲界色界の有情が誕生してから次の誕生を迎えるまでの過程を四種に分けた第四で、死の瞬間から次の誕生を迎えるまでの期間をさす。中有の道はこの期間を旅の道程にたとえたもの。
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さがみ殿
 相模守のこと。相模国(現在の神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代、相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼任した。本抄の当時の相模守は第八代執権の北条時宗。第5代執権時頼の子で、母は北条重時の娘。幼名は正寿。通称は相模太郎。文永元年(1264)連署となり、翌年相模守となる。文永5年(1268)3月に執権となった。二度の元寇という国家の危機のなかで、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、宋から無学祖元を迎えて円覚寺を創建し、後に出家した。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
悪鬼
 悪鬼とは奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――
十方の仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――――――――
 入道は、この病によって信心を奮い起こし励んでいるのであるから、過去・現在の罪障を消滅して成仏することは疑いないであろうと励まされ、死後も日蓮の弟子と名乗るならば何も恐れることはないと確信を与えて結ばれている。
 入道の信心は、それまでは強いとはいえなかったようであるが、長く重い病気によって発心し、信心に励んだのであろう。大聖人はそのことを称賛されて、今生の小罪はすでに消え、過去の謗法の大悪業も正法に帰したゆえに必ず消滅するであろうと述べられている。
 謗法の重罪を消滅するには正法に帰する以外にないことは、「大涅槃経に法華経を指して云く『若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し還りて正法に帰すること有れば乃至此の正法を除いて更に救護すること無し是の故に正法に還帰すべし』云云、荊谿大師の云く……『人の地に倒れて還つて地に従りて起つが如し故に正の謗を以て邪の堕を接す』云云」(1010-10)と仰せになり、また「法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になる」(1586-13)と述べられているとおりである。
 そして、死して霊山に参ったなら、少しの悔いもなく大きな喜びを感じられるであろうと仰せられている。これは、最後臨終まで信心を貫けば即身成仏は疑いないことを示されたものと拝される。
 長い病気のために不安に襲われているであろう入道が、最後まで信心を揺るがすことなく臨終正念であるように心を砕いて励まされている御本仏の大慈悲を感ぜずにはいられない御文である。
 大聖人はさらに、霊山へ行く途中でいかなることが起ころうとも、日蓮大聖人の弟子であると名乗るならば、何も恐れることはないであろうと、重ねて入道を励まされている。「日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし」との御確信に触れて、入道の信心はいやましたことであろう。
 追申の御文で、妙心尼が入道の病のために髪をおろして尼になったことをあわれまれ、その真剣な信心を十方の諸仏、法華経が認めてくださらないわけがないと確信していくよう、信心を励まされている。
 なお、追申の部分は、日興上人の写本には欠けている。

1479~1480    妙心尼御前御返事(病之良薬御書)2011:08月号大白蓮華より。先生の講義top

いかなる逆境をも全身の源泉に
 正しき信仰は、人生を深めます。人間を強くします。心を豊かに耕します。そして、いかなる逆境にも立ち向かっていける「勇気」と「希望」を生み出す力となります。
 何があっても負けない人生、何ごとにも恐れない人生、清々しく、そして威風堂々と歩む人生。そうした悔いのない人生を実現するために、信仰は必要です。
 一人一人の弟子が、信仰を根本に、人間として大成し、大願に生き抜いた大満足の一生を送ってほしい。それが師匠の願いです。そのために大事なことは、その人自身が深い決意をもって立ち上がり、どう困難に挑み続けていけるか、本気で戦うかです。
 その峻厳な信心を教えるために師匠はいます。そして、弟子が一人立ち、逆境に雄々しく挑んで勝利する。その凱歌を、師匠は喜び勇んで報告する。師にとって弟子の成長ほど嬉しいものはありません。
 御書を繙くと、日蓮大聖人が門下一人一人の成長と幸福を願って、その人の状況に応じて心細やかに指導されていることが、ひしひしと伝わってきます。
 病気の夫をかかえる女性門下へ、最大の激励をされた「妙心尼御前御返事」もまた、そうしたお手紙の一つです。
 重病の夫を見守り支える妙心尼へ、大聖人は、全魂の励ましを送られます。いかなる逆境にも負けない、強い信仰を胸中に植え付けておきたい。妙法の大良薬によって、永遠の幸福境涯を築けることは間違いない。ゆえに、どこまでも、その大確信に生き抜いてほしい。本抄は、門下を思う師匠の慈愛が満ちあふれている御書です。
 なお、本抄をいただいた妙心尼は、最近の考察では、駿河国高橋六郎兵衛入道の夫人であると考えられています。また河合入道の娘であり、日興上人の叔母となります。
 駿河の地の未来のためにも大事な門下です。また、それだけに魔も強い。だからこそ、断じて魔に敗れることなどあってはならない。魔を魔と見破り、信心が破られてはならない。むしろ、一層の信心を奮い起こして勝利していくのだ、そうした慈愛がこめられた一書であると拝することができます。
 どこまでも大切なのは信心です。
 日蓮仏法は、正老病死や苦悩の闇を照らす太陽の宗教です。絶望を希望へと変える変革の宗教です。どんな困難があろうとも、「永遠に前へ、前へ」と、不屈の前進を可能にするための宗教です。そして、一人一人が本来持つ「生きゆく力」を湧き立たせていくための人間勝利の宗教です。

02                                          仏と申せし人はこれには
03 にるべくもなきいみじきくすしなり、 この仏・不死の薬をとかせ給へり・今の妙法蓮華経の五字是なり、しかも・
04 この五字をば閻浮提人病之良薬とこそ・とかれて候へ。
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 仏と申される人はこれらの人には似るべくもないすぐれた医者です。この仏は不死の薬を説かれたのです。今の妙法蓮華経の五字がこれです。しかもこの五字をば閻浮提人病之良薬と説かれているのです。
-----―
05   入道殿は閻浮提の内日本国の人なり、 しかも身に病をうけられて候病之良薬の経文顕然なり、      ・
-----―
 入道殿は閻浮提の内日本国の人です。しかも身に病を受けられています。病之良薬の経文は明らかです。

妙法蓮華経は閻浮提の人の病の良薬
 戸田先生はよく語られていました。
 「人生は強気でいけ」と。
 先生は、病気と闘う会員がいれば、抱きかかえるように激励を続けられました。病魔・死魔との戦いですから、信心は一歩も後退してはならない。時には強く厳しく指導されました。何があっても微動だにせず、ただ祈り切っていきなさい。決して弱気になるな!諸天善神を揺り動かせ!と。
 本抄を頂いた妙心尼の夫・高橋入道は、この時期、重い病気でした。あるいは、瀕死の状態であった可能性もあります。
 激励にあたって、日蓮大聖人は、冒頭、妙法蓮華経は「不死の薬」であることを強調されます。生死の問題を解決しなければ「病」も「老」も根本的な解決はできません。この生老病死という根源の苦悩を唯一、解決できる妙法です。
 まず本抄の冒頭で、大聖人は、仏とは、黄帝・扁鵲・持水・耆婆など、中国やインドの伝説的な名医よりもはるかに偉大な医師であると述べられています。ここで仏を医師に譬えられているのは、仏が「不死の薬」を説いているからです。
 「不死」とは、もちろん、この肉体が永久に続くという意味ではありません。私たちの生命が生死を超えて、三世永遠に悠々と進みゆくことができる妙薬ということです。
 「甘露」といっても、無始無終の永遠の法と一体となった究極の安らぎの境地を指します。大聖人は「甘露とは南無妙法蓮華経なり」(0832-03)と言われています。妙法を根本とした揺るぎない幸福境涯です。
 釈尊が菩提樹の下で悟りを得た後、最初の説法で、かつての修業時代の5人の仲間に語った第一声は何か。それは「不死は得られた」という言葉です。
 仏典にも「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」とあります。「不死の境地」とは、仏が覚った「最上の真理」です。
 まさに「不死」こそ、仏法の主題です。大聖人は、ここで「不死」をもたらす「薬」とは、「妙法蓮華経の五字」であると仰せです。しかも、この妙法蓮華経の五字こそ、法華経に説かれる「閻浮提の人の病の良薬」にほかならないと示されます。「閻浮提の人の病」とは、貧り、瞋り、癡などの煩悩であり、その根源は無明です。
 この「不死の薬」である南無妙法蓮華経を信じ唱える、それがこの「良薬」を服することです。私たちはそれにとって、実は、「不死の境地」を得ているのです。
 具体的には、今世にあって、広宣流布という大願に生き、妙法流布の使命を貫いて生涯を終える。この生命は、「仏界の生死」として永遠に続きます。三世にわたって、広布に戦い続けていく境涯こそが「不死の境地」です。
 かつて戸田先生は、真の宗教の条件について、次のような基準を示されたことがあります。
 「一切衆生の苦悩を、救うべきものでなくてはならない」
 「一切衆生に、真の幸福を享受せしむべきものでなくてはならない」
 「一切衆生に、生命の真実の姿である永遠の生命を、悟らしむべきものでなくてはならない」と。
 本当に一つ一つ、重要な指摘です。現実を幸福と平和の方向へ変革してこそ、力ある宗教です。それとともに、永遠性を示すことこそが、真の宗教たるゆえんです。三世を貫く「大いなる生命」に目覚めた時に、人間は真に深い人生の意味を知ることができる。そのための宗教です。
 戸田先生はまた、本当の功徳は永遠の生命を体得することにあえる。この成仏の境涯を、広宣流布に戦い抜く中で、一人ももれなくつかむことができる。この境涯は、永劫にわたり続くものだとも語られていました。まさに、「不死」を得るための信仰です。
 私たちが「不死の境地」、言い換えれば、「常楽我浄の境地」をつかむために、大聖人は「不死の薬」である妙法を示し、生死の苦悩と迷いを超えて、永遠の幸福の軌道を歩んでいけることを教えられたのです。
 妙法は、生命を根本から変革します。したがって、どのような困難をも打ち破り、乗り越えていくことができるのです。
 「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170-02)です。題目こそが、あらゆる苦悩の闇を晴らす「秘術」です。一切は題目から始まるのです。

08                           又人の死ぬる事は・やまひにはよらず・当時のゆきつしま
09 のものどもは病なけれども・みなみなむこ人に一時に・うちころされぬ・病あれば死ぬべしといふ事不定なり、 又
1480
01 このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、 病により
02 て道心はをこり候なり、
-----―
 また、人が死ぬのは、必ずしも病によるのではありません。当時の壱岐・対馬の人達は皆、蒙古軍に一時に打ち殺されてしまいました。病になったから必ず死ぬとはかぎっていません。
 また、この病は仏の御はからいでしょうか。そのわけは浄名経・涅槃経には病がある人は仏になる、と説かれています。病によって仏道を求める心は起こるのです。

病が人生の意味を深めていく
 人の寿命は誰にも分かりません。健康な人でも、不慮の事故で突然亡くなることもあります。大聖人の時代には蒙古の襲来によって、大勢の命が奪われました。
 反対に、病気であっても必ず死ぬとは限りません。戸田先生は、現代人は病気と死を混同していると指摘されました。
 病気の有無に限らず、誰人も最後は死に直面します。「人久しといえども百年には過ず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし」(1386-06)です。戸田先生も折々に「ここにいる人は、百年たったら皆、いなくなるんだよ」と語られていました。
 こうした仏法の捉え方は、決して、世のはかなさを強調して、あきらめることを教えているのではありません。むしろ、限られた「生」を自覚するからこそ、今この時に不惜身命の実践で、常住不変の仏法を学び、生死を超えて揺るぎない境地を体得することが重要であると教えられているのです。
 学会には、重病と戦い、乗り越えた体験談が数多くあります。御書には「更賜寿命」の原理が説かれています。変毒為薬の仏法です。「大悪をこれば大善きたる」(1300-04)とも、「妙とは蘇生の義」(0974-02)とも仰せです。
 いかなる病状であっても、題目第一で今、生きている瞬間瞬間を大切に、自受法楽の甘露を味わい、不壊の「心の財」を積むことができます。また、それまで積み上げてきた「心の財」は厳然と残ります。
 「蔵の財」も「身の財」も今世限りです。それに対し「心の財」は破壊されません。「心の財」は永遠に続く「心の財」を積んだ人が人生の勝利者になれるのです。
 そもそも、生老病死は誰人も免れることはできません。病気との闘いは、ある意味で避けられない自然の摂理とも言える。むしろ、信心をしてきた人が病気になることは、必ず深い意味があるのです。
 そのことを大聖人は続けて妙心尼に教えられています。それが「このやまひは仏の御はからひか」との一節です。
 病気になったこと自体が「仏の御計らい」と仰せです。それは、病気になることによって、仏法を求める心が起きるからです。
 ここで、「浄名経・涅槃経」とありますが、「太田入道殿御返事」でも、門下の病気の報告について「一たびは歎き二たびは悦びぬ」(1009-01)と仰せられ、同じく浄名経と涅槃経を引かれています。
 いずれも、仏や菩薩・居士が衆生を救うために病を現ずることがある、という内容です。病を契機に、衆生は仏法への理解が一歩、深まる。仏は、衆生が抱える根源的な病は何かを教えるのです。ゆえに生命の本源を蝕む謗法こそが最も重い病なのです。
 「病によりて道心はをこりて候なり」です。病気になることで、かえって、自分を見つめ、宿命を知り、仏法を心の底から求めることができるのです。
 牧口先生が用いられていた御書には「またこのやまひは仏の御はからひか」には二重の線が引かれ、「病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」に傍線があります。
 まさにこの一節は、創立以来、学会員が信仰の支えとして、身読してきた御文です。
 事実、病気を信仰の転機として信心を深め、病に立ち向かって宿命を転換し、勝利した体験を持つ学会員は、それこそ数え切れません。また、病気に限らず、さまざまな悩みを宿命転換のためのバネにして信心を乗り越えていった体験は、大なり小なり誰もが共有しているのではないでしょうか。
 信仰を根本に病気と戦うことで、人生の深さを知った。人間の底力を知った、感謝を知った、生きる喜びを知った、病気が今世の使命を教えてくれたと実感する人は多い。
 すなわち、病気を機に真剣に仏道を求めていった時に、一人一人にとって、病気の持つ意味が転換していく。
 私たちの信仰には、病気をはじめ、あらゆる苦悩の意味を、深く捉えなおしていく力があります。すなわち「宿命を使命に変える」生き方です。
 これは、ただ単に宿命を堪え忍ぶというものではありません。また、逃避やあきらめでもありません。生命を変革し、鍛え上げ、そこまでも病に立ち向かえる、負けない自分自身を築いていく、それが学会員の強さです。
 自分を苦しめていた一切を、自分を高める善知識に変ええいく。病によって信仰を深め、自分を深め、人生の意味をより深め味わう。それだけでなく、自分だけでなく大勢の人々の幸福を心の底から大きく祈れるように変わっていく。
 お見舞いに行ったら、かえって励まされた、元気をもらったと、周囲の人が驚く場合も多い。それは、苦悩を突き抜けて「深き使命」「大いなる生きがい」に目覚めたがゆえに、無作の振る舞いとして周囲も明るくしてゆけるからです。それ自体が、勝利の証です。
 全てが「病によりて道心はをこり候なり」の功徳です。「仏の御はからひか」の実証です。創価学会は、大聖人直結で、皆が御書根本に実践してきたがゆえに勝利しました。そして、これからも勝利していくのです。

02             又一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそおもき病とは仏はいたませ給へ 今の日
03 本国の人は一人もなく 極大重病あり所謂大謗法の重病なり 今の禅宗念仏宗律宗真言師なり
-----―
 また一切の病のなかでは、五逆罪と一闡提と謗法をこそ重病であると仏は心を痛められています。今の日本国の人は、一人も残らず、極大重病の人です。いわゆる大謗法の重病です。今日の禅宗・念仏宗・律宗・真言師です。

日本全体の病と戦う日蓮大聖人
 本当に重い病とは、一体なにか。仏から見れば、五逆罪と一闡提と謗法こそが最も重い病であり、仏も自からの心を痛めていると仰せです。病気は私たちの肉体を破壊しますが、この五逆罪・一闡提・謗法の病は、私たちの生命そのものをゆがめてしまうからです。
大聖人もしばしば、悪象よりも悪知識を恐れよ、という涅槃経の一節を引用されています。
 仮に悪象、すなわち現代で言えば故事などによって私たちの身が壊されることはあっても、私たちの心が破れることはありません。「心を破ること能わず」です。三世永遠の福徳を積もうとする善心が破壊されなければ、三悪道によって、私たちの善心が破られ悪心が生じてしまえば、それは三悪道に堕ちる因となる。結局、生命が根底から破壊されます。心を狂わす悪知識こそ恐れよとの本源的な戒めです。
 私たちが病気によって身が侵されることがあっても、心まで破壊されるわけではありません。しかし五逆罪と一闡提と謗法は、私たちの心を破壊します。善の心が破られ、悪の心が生じてしまう。大聖人は、当時の日本国の人々は「大謗法の重病」にかかっていると喝破されています。
 本来、あらゆる生命は、一切を慈しむという慈愛のはたらきをもっています。慈悲を開かしめんと戦うのが、仏であり菩薩です。また、不軽菩薩の礼拝行に象徴されるように、万人の仏性を呼び覚ます慈悲の実践が説かれているのが法華経です。
 これに対して、「五逆罪・謗法」は、人間の可能性を閉ざしてしまう行為です。善性を否定して、むしろ、悪性を開発してしまう。この影響が日本中に蔓延していた中で、民衆を苦しめる「極重大病」と戦ってこられたのが、日蓮大聖人です。
 当時、夫妻の住む駿河の地は、幕府の中枢の北条氏の縁者たちが所領を持っているところから、日蓮門下にとって、常に権力者からの迫害を意識しながら信仰を実践していた土地です。あの熱原の法難が起ったのも、この地です。それだけに悪象たちの動きも激しい。まして、蒙古襲来の翌年といえば、世間も動揺している時です。
 大聖人は、少し前の高橋入道へのお手紙においても、病気の悪化に心揺れる入道に対して、決して悪知識の謗法に破れてならないと、毅然たる信仰の姿勢を指導されています。
 もし心が揺らいで退転してしまえば、これまで積んだ福徳はすべて水の泡となり、不幸への道に堕ちてしまう。だからこそ、重い病の弟子に対して、慈愛の指導をされていると拝されます。
 そして大聖人は、日本国中の謗法と戦う御自身の死身弘法の行動を教えられています。誰が末法の真実の師匠か。大聖人の正義を知り、大聖人とともに生き抜く奥底の一念が定まらなければ、かえって魔に破られてしまう。だからこそ、どこまでも大聖人と共に戦い抜く決定心が重要であることを教えられているのです。

06   入道殿は今生にはいたく法華経を御信用ありとは見え候はねども・過去の宿習のゆへの・もよをしによりて・こ
07 のなが病にしづみ日日夜夜に道心ひまなし、 今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候いぬらん、 謗法の大
08 悪は又法華経に帰しぬるゆへに・ きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・
09 ごとくうれしく、 とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん、 
-----―
 入道殿は今生では特に強盛な法華経の御信仰があるようには見ませんでしたが、過去の宿習のゆへのもよおしによって、この長病にかかられ、その病によって日夜にひまなく道心をおこし、法華経を信仰されるようになりました。今生につくりおかれた小罪はすでに消えてしまったことでしょう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依されたことによって消え失せるでしょう。やがて霊山へ参られたならば、太陽が出て十方世界を見晴らすようにうれしく、早く死んでよかったと、喜ばれていることでしょう。

三世永遠の広布の旅路
 「入道殿は今生にはいたく法華経を御信用ありとは見え候はねども」と仰せです。これは、大聖人が妙心尼に心を寄せて語られた内容ではないでしょうか。すなわち、妙心尼から見て、夫が信心をしっかりしていなかったから、こうなってしまったのではないかと、不安の気持ちで思い悩んでいたのかも知れません。
 それに対して大聖人は、入道殿は心配ありませんよと大きく包んでいかれます。地道に戦ってきたからこそ、宿命が現われて病気になったけれども、病気を機に、毎日毎夜、さらに信心に励んできた。高橋入道が信心を奮い起して戦ってきたことは、大聖人がよくご存じです。最高の仏法を真剣に実践しているのですから、今世で犯したさまざまな罪障は消滅し、謗法の大悪も必ず消えるであろう、成仏することは疑いないと激励されているのです。
 仏法の眼から見れば、仮に亡くなることはあっても、自分のすべてを失うことではありません。今世で築いた「心の財」を存分に味わい楽しむ時を迎えるのです。ゆえに大聖人は、信心深き入道が霊山に行った時は、太陽が出て、広大な十方世界を見晴らすようにうれしく“ああ早く死んでよかった”と喜ばれると仰せです。
 大聖人がこう綴られたことで、尼御前がどれほど安心されたことでしょうか。
 大聖人は他の門下にも、妙覚の山に登って四方を見れば、「あら面白や」と必ず思える。「法界は寂光土」であり、瑠璃の地面、道には金の縄が張られ、天から四種の花がふり、空には音楽が聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでいる。私たちも、その中につらなって遊びたわむれ、楽しむべき時が間近になっていると教えられています。
 「よろこび給い」「あら面白や」「楽しむべき」まさに「生も歓喜、死も歓喜」の大境涯が教えられています。
 生死不二の成仏の境地は、病苦や労苦、死苦をも乗り越え、晴れ晴れとした勝利が無限に続く境地であり、境涯です。「心の財」を確かに積んだ同志の生命は宇宙に溶け込み、広大無辺な境涯となって、崩れぬ自受法楽の楽しみが続く、それが、仏界の生死です。
 大聖人は「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504-06)と仰せです。
 今生の人生の勝利が、未来の勝利を約束するのです。「生も歓喜」だから、「死も歓喜」となる。「生も勝利」だから、「死も勝利」となるのです。「臨終・目出たく候いけり」(1568-01とは、今世で戦い切った晴れ晴れとした境涯の証しです。
 三世の使命に生き切る生命は、次の生にも、はつらつと新たな舞台に躍り出る「須臾の間」すなわち、たちまちのうちに還ってきます。「広く衆生を利益することは自由自在」です。法華経にも「生ぜんと欲する所に自在」とあります。
 私たちは皆「三世永遠の広布の旅」を歩む久遠の同志であり法友です。生々世々、仏界の生命に包まれた、にぎやかな旅路です。所願満足の幸福境涯を遊戯していくことができます。私たちの仏法の生死観ほど、明るく、力強く、活力に満ちたものではありません。だから、何の心配もないのです。お手紙を拝した高橋入道、妙心尼夫妻の心は安心に包まれ、深い確信と感謝の念が込み上げてきたことは間違いないでしょう。

09                                      中有の道にいかなる事もいできた
10 り候はば・日蓮がでしなりとなのらせ給へ、 わずかの日本国なれどもさがみ殿のうちのものと申すをば・さうなく
11 おそるる事候、 日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、 其の名は十
12 方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん・ 日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬ
13 よしは申さじとおぼすべし、
-----―
 また中有の道にあっては、どんなことが起きても「日蓮が弟子である」と名乗りなさい。小さな日本国でも相模守殿の家来であるといえば、わけもなく恐れられることがあります。日蓮は日本第一の不当な法師です。ただし、法華経を信じ奉ることは一閻浮提第一の聖人です。その名は十方の浄土にも聞こえています。さだめし天地も知っていることでしょう。日蓮の弟子であると名乗られるならば、どのような悪鬼もよもや日蓮の名を知らないとはいわないはずです。

永遠に「戦う人」の陣列に
 最後に大聖人は、高橋入道に力強く呼びかけられています。霊山へ行く途中で、何か大変なことがあれば、大聖人の弟子であると名乗りなさいと勇気づけられています。
 “大聖人は一閻浮提第一の聖人であり、大聖人のお弟子であると名乗るならば、十方の諸仏・諸天善神は敬い、悪鬼は逃げてく”
 これほどの心強い励ましはありません。
 大聖人はやはり病床にいた南条兵衛七郎にも仰せです。
 「もし.さきにたたせ給はば梵天・帝釈.四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ」(1498-14)
 あらためて拝すれば、これは実に大事な御指導です。
 今世も次も、どこまでも「師弟」として生き抜く覚悟がなければ「日蓮が弟子」と名乗ることはできないからです。今世で「日蓮が弟子」「日蓮が一門」との実践を貫き通していきなさいという指導です。
 戸田先生もよく「霊山へ行ったならば、『広宣流布の棟梁たる戸田城聖の弟子である』と胸を張って名乗れ」といわれました。中有の道も、堂々と歩んでいけとも示されました。
 師弟の道に徹すれば、力が漲ります。
 師匠の戦う魂が脈動していきます。
 師匠の願いは、どこまでも師弟の健康と勝利の幸福です。弟子の「寿命長遠」を大聖人は深く祈ってくださっております。
 誰一人たりとも病魔に負けずに、凱歌の人生を送ってほしい。戸田先生も常に願っておられました。
 私も同じです。
 21世紀を「健康の世紀」に!「生命の世紀」に!「安穏の世紀」に!
 朝に夕に、皆様方の健康・長寿を祈り続けています。
   悠然と
    また悠然と
      朗らかに
    健康長寿の
      人生勝ちとれ

1481~1482    窪尼御前御返事(孝養善根事)top
1481:01~1481:02 第一章 尼御前の供養の志を謝すtop

1481
窪尼御前御返事    弘安二年五月    五十八歳御作
01   御供養の物数のままに慥に給い候、当時は五月の比おひにて民のいとまなし・其の上宮の造営にて候なり、 か
02 かる暇なき時・山中の有り様思ひやらせ給いて送りたびて候事御志殊にふかし。
-----―
 御供養の物、数のままに確かにいただきました。今は五月の頃で、民も農作業に忙しく、そのうえ大宮浅間神社の造営も行われており、このような多繁な折に、身延の山中の有り様を思いやられ、御供養の品々をお送りくださったその御志は、まことに深いものがあります。

宮の造営
 富士浅間神社の造営のことであろう。吾妻鏡によれば、貞応2年(1223)6月20日の条に「今日、駿河国富士浅間宮造替遷宮の儀なり」とある。
―――――――――
 本抄は弘安2年(1279)5月4日、駿河国富士郡賀島(静岡県富士市)の高橋六郎兵衛入道の後家尼と思われる窪尼御前に与えられた御手紙である。御真筆は山梨県の妙了寺に断片が存するのみで、大部分は現存してない。しかし、日興上人の写本が大石寺に存している。御真筆の年時については弘安2年(1279)とされているが、他に建治2年(1276)との説もある。
 最初に御供養の品を確かに受領した旨を記されている。「数のままに」との仰せから拝すると、窪尼が御供養を目録とともにお届けしたのであろう。その目録に記されてあるとおり確かに受け取ったと仰せられているのである。使いをもってお届けしたか、だれか身延の地に赴く人がいてその人に託したかであろうが、物情騒然たる状況であったから、確かに御供養が届いたかどうか尼も心配しているであろうとの大聖人の御心配りからの御言葉であろうと拝する。
 尼が御供養した旧暦の5月は、今でいえば6月であるから、農家にとっては農作業が最も繁忙を極める時期である。しかも「宮の造営」があった。この「宮」とは、富士浅間神社のことである。この造営については、宝軽法重事に「当時はくわんのうと申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし」(1476-01)との御文があり、宝軽法重事と同じ弘安2年(1279)とされるのである。
 いずれにしても、浅間神社の造営といえば、それが修築のようなものであったとしても、大きな負担であったことは疑いない。とくに田植え時と重なった5月であれば、多繁極まりない時期であったろう。その5月に御供養申し上げたのであるから、大聖人は尼の信心をほめたたえられているのである。

1481:03~1481:07 第二章 阿育王の例を引くtop

03   阿育大王と申せし王はこの天の日のめぐらせ給う一閻浮提を大体しろしめされ候いし王なり、 此の王は昔徳勝
04 とて五になる童にて候いしが 釈迦仏にすなのもちゐをまいらせたりしゆへに かかる大王と生れさせ給う、 此の
05 童はさしも心ざしなし・ たわふれなるやうにてこそ候いしかども仏のめでたくをはすればわづかの事も・ものとな
06 りて・かかる・めでたき事候、 まして法華経は仏にまさらせ給う事星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざし
07 もすぐれて候。
――――――
 阿育大王という王は、この太陽が照らす一閻浮提のほぼ全体を治めた王です。この王が昔、徳勝といっていた五歳の童子の時、釈迦仏に砂の餅を差し上げた功徳によりこのような大王と生まれたのです。この童子はそれほどの志もなく、戯れのように供養したのですが仏が尊かったので、わずかのことでもそれが因となって、そのようなめでたい果報を受けられたのです。まして、法華経が仏に勝れることは星と月と、燈と太陽のようです。また、御供養くださった尼御前の御心も徳勝童子に勝っています。

阿育大王
 前3世紀頃の人。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝(前0317頃~前0180頃)第3代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、諸僧を供養するとともにその慈悲の精神を施政に反映した。さらに、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。また、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
徳勝
 徳勝童子のこと。得勝童子とも書く。付法蔵経等によると、王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂の餅を供養した二人の童子の一人。もう一人を無勝童子という。徳勝童子が供養し、無勝童子は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝童子は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――――――――
 御供養の志にちなんで、阿育大王の故事を引かれている。阿育大王がかつて得勝童子であった時に沙の餅を供養して阿育大王となったことはよく知られた説話である。ふつう、徳勝・無勝の故事が引かれるのは、たとえ貧しい物であっても、素直な信心の志で供養すれば大きな福徳となることを教えるためであるが、ここでは別の観点から引かれている。
 本抄では、童子の志は「さしも心ざしなし・たわふれなるやうにて」と仰せのように、それほどの真心のこもったものではなかったが、供養した相手が仏という偉大な人であったから、大きな果報を生じたのだと仰せられている。童子の志は純粋ではあったが、仏道への深い志から発したものではなかった。五歳の童子とはいえ、土の餅が釈尊にも食べられないことは当然知っていたはずである。ゆえに「たわふれなるやうにて」と言われているのである。
 しかし、その供養した相手が仏であった。その尊さゆえに、沙の餅を供養するという「わづかの事」であっても、大王と生まれる福徳を積んだと仰せになっているのである。
 供養の志が純粋であることはもちろん大切である。しかし、供養する対象が何であるかということはもっと大事であり、それを誤ると、志が純粋であっても、功徳どころか大罰をも受けるのである。すなわち供養の対象の正邪というのは、供養するにあたって最も大切な要素であるといえよう。大聖人が阿育大王の故事でこのことを強調されたのは、尼の供養したのが、仏とは比べものにならない尊い法華経に対してであるから、功徳はさらに大きいことを教えられるためである。大聖人は御自分一身への供養として受けられるのではなく、法への供養として受領されたのである。
 釈尊は尊いといっても、妙法蓮華経を修行して仏になったのであり、能生の根源である妙法蓮華経には遠く及ばない。したがって人は法に劣るのである。まさに「星と月とともしびと日とのごとし」である。末法の御本仏・日蓮大聖人は人法一箇の仏であられるが、ここでは大聖人の人の面は表に出さず、ひとまず法を表にされているのである。
 このように、まず供養する対象の尊さを述べられて、次にその志について「又御心ざしもすぐれて候」と、信心の志も得勝童子の「たわふれなるやう」な志より、はるかに勝れていることを指摘され、次に、その功徳について述べられていくのである。
 尼の供養は、徳勝に比較し、供養の対象、信心の志の、どちらについても、比べものにならないほど勝れている。かの徳勝童子でさえ阿育大王と生まれる果報を得たのであるから、尼の供養の功徳はどれほど大きいか計り知れないのである。

1481:08~1482:03 第三章 姫御前の将来を嘱望するtop

08   されば故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする.ひめ御前も・いのちもながく.さひわひもありて・さる
09 人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし、 当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたす
10 くべし。
-----―
 それゆえ、故入道殿も成仏されるでしょうし、また、一人おられる姫御前は寿命も長く、幸福で、さすがあの人の娘よと、評判されるでしょう。姫御前は今も幼いのに母御前に孝養を尽くされるほどの女人ですから、故入道殿の後世をも助けられるでしょう。
-----―
11   から国にせいしと申せし女人は・わかなを山につみて・をひたるはわをやしなひき、天あはれみて越王と申す大
12 王のかりせさせ給いしが・みつけてきさきとなりにき、 これも又かくのごとし・をやを・やしなふ女人なれば天も
13 まほらせ給うらん仏もあはれみ候らん、 一切の善根の中に孝養父母は第一にて候なれば・ まして法華経にてをは
14 す、金のうつわものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしももるべからず候、めでたし・めでたし、恐恐謹言。
1482
01       五月四日                      日 蓮 花 押
02     くぼの尼御前御返事
03   このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ。
-----―
 中国の西施という女人は、若菜を山から摘んできては老いた母を養っておりました。天が哀れんで越王という大王が狩りに来たとき、見いだされて后になりました。姫御前もまた、このように親を養う女人ですから、諸天も護り、仏も憐れまれるでしょう。
 一切の善根のなかで父母に孝養を尽くすことが第一であり、まして、法華経を信仰しておられるのですから、金の器に清き水を入れたように、少しも漏れることがありません。めでたいことです、めでたいことです。恐恐謹言。
  五月四日              日 蓮  花 押
   くぼの尼御前御返事
 このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ。

せいし
 生没年不詳。中国春秋時代の越の国の美女。薪売りの娘で越王勾践に見いだされた。越が呉と戦って敗れると、勾践は西施を呉王夫差に献上した。夫差は西施の容色に溺れ、政を怠るようになり、その隙をついて越は呉を滅ぼしたと伝えられる。
―――
越王
 勾践のこと。(~ 紀元前0465)は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越王允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。
―――
善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――――――――
 その窪尼御前の御供養の功徳によって、故入道の成仏は間違いないと、まず仰せられている。徳勝童子が阿育大王と生まれる果報を得たといっても、世間の果報であり、仏道を成就する果報に比べれば、はるかに劣るのである。まして人を成仏させることはできない。それに比べ、尼は功徳の第一として、まず亡き夫・高橋六郎兵衛入道を仏法の回向の原理により成仏させることができると仰せである。さらに尼の娘にもその功徳が及ぶと教えられている。
 高橋六郎兵衛入道の娘については、ここに述べられている以外の詳しいことは分からない。「当時もおさなけれども」との仰せから拝すれば、まだ年齢のいかない娘であったようである。「いのちもながく」との仰せは、尼の、親としての最大の願いは、子が健康で長生きし、幸せになってほしいということであろう。そうした願いが、必ずやかなえられていくと励まされているのである。のみならず、必ずや親の名を高めるほどの素晴らしい娘に成長するにちがいないと仰せになっている。
 親として最大の喜びは、子供が立派に成長することである。妻としての願いは夫に幸福になってほしいことである。大聖人は、亡き夫・高橋入道の成仏と娘の成長とがかなうことを仰せられ、尼の二つの願いが成就すると激励されているのである。娘も幼いながら、母の面倒をよくみ、父の成仏を願う孝行な娘であったことが「おさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし」との仰せから酌み取れる。
 次に大聖人は、唐の西施という女性を孝行の例として挙げられている。西施は呉の国を滅ぼした女性として他の御書にも挙げられているが、ここでは親を養う孝子として引かれている。
 西施は中国・春秋時代、越の諸曁(浙江省)の苧蘿山にいた女性である。薪を売って生活していたと伝えられており、本抄に「わかなを山につみて・をひたるはわをやしなひき」と仰せになっているような状況だったのであろう。この西施を見いだしたのは呉王・夫差に敗れた越王・勾践である。その美しさを利用して呉への報復を計画し、西施に諸芸を教え、呉王・夫差に献上した。計略どおり夫差は西施の色香におぼれて政治を怠り、ついに越に攻められて滅んだ。文字どおり西施は傾国の美女であった。本抄に仰せのごとく西施が越王の后となったという史実は不明だが、国を動かす存在にまでなったことは事実である。
 今、窪尼の娘は親に孝行を尽くし、妙法の信仰に励んでいるのであるから「天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん」と、西施とは比べものにならない福徳を得ることは疑いないと仰せられている。
 西施は華やかに脚光を浴びたことはあったが、後には殺されて揚子江に沈められたともいわれる。いずれにしても幸福な生涯ではなかったようである。それに比し、窪尼の娘は諸天の加護、仏の慈悲に包まれ、福徳に満ちた生涯を送ることは疑いないのである。
 父母への孝養は世間においても尊いこととして賛嘆されるが、仏法においても四恩の第一に父母の恩を挙げており、その父母に孝養の誠を尽くすことは子として尊い行為である。まして窪尼の娘は法華経によって孝養を尽くしているのであるから、これ以上の尊い行為はない。
 「金のうつわものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしももるべからず候」と仰せられ、孝養の福徳の水は、妙法を信ずる生命の金の器に満々と湛(たた)えられ、絶対に漏れることはないことを教え、娘の信心をたたえられている。
 なお末文に「このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ」との御文は、日蓮大聖人の仰せではなく、日興上人が大聖人の御真筆を書写された際の注であろう。御供養の品々は大聖人の御真筆では、その名が目録どおりにきちんと記されていたのを、日興上人は略して書かれ、法門の書写に重きを置いたとの意と推察される。

1482~1483    妙心尼御前御返事(相思樹御書)top
1482:01~1482:01 第一章 僧膳料供養に対する感謝を述べるtop

妙心尼御前御返事    弘安二年十一月    五十八歳御作
01   御そうぜんれう送り給い了んぬ、                                  ・
――――――
 御僧饍料をお送りいただきました。

そうぜんれう
 僧侶に差し出す食膳の材料になるもの。米、野菜などのこと。
―――――――――
 本抄は御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されており、そのあて名は「持妙尼御前御返事」と記されている。持妙尼とは日興上人の叔母にあたる富士郡賀島(静岡県富士市)の高橋六郎兵衛入道の後家尼のことである。高橋六郎兵衛入道は建治元年(1275)に亡くなったものと考えられるので、この11月2日の御消息は建治2年(1276)の御述作と推定される。
 本抄の内容は、夫に死別した妙心尼(持妙尼)の悲しみを種々の故事を挙げて慰められ、これまでこの娑婆世界で無数の生死を繰り返してきた尼御前にとって、亡き夫こそ娑婆世界最後の善知識であると述べられて、尼御前が必ず成仏を遂げるよう励まされている。

1482:01~1482:08 第二章 尼の悲しみゑを慰めるtop

01                  すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか、とかう・まぎれ候いけるほ
02 どに・うちわすれて候いけるなり、よもそれにはわすれ給はじ。
-----―
 もう故入道殿の御命日になりましたか。あれこれと事にまぎれ、忘れておりましたが、よもや尼御前には忘れることができないでしょう。
-----―
03   蘇武と申せし男は漢王の御使に胡国と申す国に入りて十九年めもおとこをはなれ・ おとこもわするる事なし、
04 あまりのこひしさに・おとこの衣を秋ごとにきぬたのうへにて・うちけるが・おもひやとをりて・ゆきにけん・おと
05 このみみにきこへたり、ちんしといいしものは・めおとこ・はなれけるに・かがみをわりて・ひとつづつ・とりにけ
06 り、わするる時はとりとび去りけり、 さうしといゐしものは・おとこをこひてはかにいたりて木となりぬ、 相思
07 樹と申すはこの木なり、 大唐へわたるにしがの明神と申す神をはす・おとこのもろこしへ・ゆきしをこひて神とな
08 れり・しまのすがたおうなににたり、 まつらさよひめといふ是なり、いにしへより・いまにいたるまでをやこのわ
09 かれ主従のわかれ・いづれかつらからざる、 されども・おとこをんなのわかれほど・たとげなかりけるはなし、
-----―
蘇武という男は漢王の御使いで胡国に入って19年、妻も夫と離れ、夫も妻を忘れることがなかった。あまり恋しいので、妻は夫の衣を秋が来るたびに碪の上でたたいていたが、思いが通じたのか夫の耳に聞こえたといいます。陳子という人は、夫婦が離別するとき鏡を割って一つずつ持っていたが、夫婦がお互いのことを忘れた時は、鏡が鳥となって飛び去りました。相思という人は夫を恋しく思い、墓に行って木となって生じました。相思樹というのがこの木です。
 中国に渡る途中に志賀の明神という神社があります。中国に渡った夫を恋い慕って妻が神になったといわれ、島の姿は女人に似ています。松浦佐与姫というのがその女人です。昔から今に至るまで、親子の別れ、主従の別れとさまざまありますが、いずれも辛くない別れはありません。しかし、男と女の別れほど辛い別れはありません。

蘇武
 (前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
―――
ちんし
 中国の故事に出てくる人と思われるが未詳。陳の国のある人、ある男というほどの意か。中国、唐時代の「本事詩」の「破鏡重円」の章に、陳の東宮侍従・徐徳言と妻の話がある。徐徳言が妻との離別に際して鏡を破り、その半分を妻に渡した。のちに半鏡を捜し、事情があって他人の妻となっていた妻を呼び戻し、再び添いとげたという。また、「今昔物語」巻十の「不信蘓規・破鏡与妻遠行語第十九」に、国王の使いで遠国に赴くことになった夫が、夫婦別離に際して、互いの変わらぬ愛情を誓って鏡を破って半片を分け合った。後に、その妻が他人と通じてしまったときに妻の持っていた鏡が夫のもとに飛び来ったという話が記されている。
―――
さうし
 中国の故事に出てくる人物と思われるが未詳。あるいは宋の国のある人、男という意か。中国・六朝時代の「捜神記」の「相思樹」の章に、宋の康王の侍従であった韓憑と妻・何氏の話がある。康王が、韓憑の美人の妻を奪いとってしまい、韓憑は自殺してしまう。それを知った妻も夫と一緒に埋めてくれるように言い置いて身投げをする。しかし、王は二人を別々の墓に埋めるが、まもなく二つの塚から大きな梓の木が生え、根と枝が交錯しはじめたという。宋の人々は哀れに思って、その木に相思樹という名をつけた。
―――
相思樹
 マメ科の常緑高木。アカシアの一種で、中国南部、台湾、フィリピン、インドシナなどの熱帯に分布。高さ6~15㍍にもなる。相思樹のいわれについては諸説ある。
―――
大唐
 隋に続く中国統一の王朝。隋末の群雄の一人、李淵が建てた王朝。都は長安。次の太宗の時に中国の統一が完成されて唐朝の基礎が築かれた。ただし、天台大師は唐朝成立前に亡くなっている。
―――
まつらさよひめ
 肥前国(佐賀県)松浦に住んでいたといわれる伝説の女人。佐用姫とも書く。宣化天皇のころ、任那に行く愛人大伴狭手彦を松浦山に登って別れを惜しんだ様子が肥前国風土記に、また古今著聞集巻五にも記されている。褶を振って別れを惜しんだので、褶振の峯というようになったという。古来、男女の別れの悲しさのたとえとして万葉集などにうたわれた。「遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名」。
―――――――――
 ここでは、夫に死別した妙心尼の悲しみを思いやられて、夫婦離別の故事を挙げられ、慰められている。御本仏・日蓮大聖人の慈愛あふれる御心がひしひしと伝わってくる御文である。
 夫婦離別の悲しさを表す先例故事として、蘇武の話、陳の太子の舎人・除徳言の話、相思樹の話、松浦佐与姫の話の四つが挙げられているが、いずれも往時は広く語り継がれていたエピソードなのであろう。そして、昔から今に至るまで親子の別れ、主従の別れなど別れに辛くないものはないが、夫婦の別れほど、たとえようもないまでに辛いものもないと述べられて、尼の悲しみを慰められている。
 なお、相思樹の話を述べられているところから、本抄の別名を「相思樹御書」ともいう。

1482:09~1483:03 第三章 一生成仏の信心を勧めるtop

09                                                    過
10 去遠遠より女の身となりしが・このおとこ娑婆最後のぜんちしきなりけり。
11   ちりしはな・をちしこのみも・さきむすぶ・いかにこ人の・返らざるらむ。
12   こぞもうく・ことしもつらき・月日かな・おもひはいつも・はれぬものゆへ。
1483
01   法華経の題目を・となへまいらせて・まいらせ候。
02       十一月二日                      日 蓮 花 押
03     妙心尼御前御返事
-----―
 過去遠遠劫より女人の身と生まれて、この度の夫こそ娑婆での最後の善知識です。
 散った花、落ちた木の実も再び咲き結ぶのに、どうして死んだ人は帰らないのだろうか。
 去年も悲しく、今年も辛い月日です。(悲しく辛い)思いがいつも晴れないから。
 法華経の題目をお唱え申して差し上げました。
  十一月二日              日 蓮  花 押
   妙心尼御前御返事

娑婆
 雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。
―――
ぜんちしき
 正直・有徳の友のこと。悪知識に対する語。仏・菩薩・人・天等を問わず、人を仏道に導き入れる者をいう。
―――――――――
 最後に、亡くなった夫こそ妙心尼を法華経に導いてくれた恩人であり、娑婆世界最後の善知識であると述べられる。そして、歌二首を掲げられて人生無常の逃れがたさを説かれた後に、亡夫のために法華経の題目を唱えた旨を述べられて本抄を結ばれている。
過去遠遠より女の身となりしが・このおとこ娑婆最後のぜんちしきなりけり
 この御文から、亡夫の入道殿が妙心尼より先に日蓮大聖人の信者となって尼を法華経の信仰に導いたことがわかる。
 大聖人はそのことから、亡き夫こそ尼にとっての善知識であると述べられたのである。しかも「このおとこ娑婆最後のぜんちしきなりけり」と仰せられているのは「過去遠遠より女の身となりしが」と仰せのように、遠い過去の昔から生々世々、娑婆世界を流転してきた妙心尼が必ずやこの人生において信心を貫いて成仏得道し常寂光土に行くであろう、またそのような強盛な信心に励んでいきなさいとの御気持ちが込められていると拝せられる。そして、尼御前の心をくまれて和歌を二首詠まれ、入道への追善のために題目を唱えて差し上げましたと述べて結ばれている。

1483~1483    窪尼御前御返事top

窪尼御前御返事    弘安二年十二月    五十八歳御作
01   十字五十まい.くしがき一れん・あめをけ一・送り給い了んぬ、御心ざしさきざきかきつくして.ふでもつひ・ゆ
02 びもたたぬ、 三千大千世界に七日ふる雨のかずは・かずへつくしてん、 十方世界の大地のちりは知る人もありな
03 ん、法華経の一字供養の功徳は知りがたしとこそ仏は・とかせ給いて候へ、此れをもつて御心へあるべし、恐恐
04 謹言。
05       十二月二十七日                            日 蓮 花 押
06     くぼの尼御前御返事
-----―
 十字五十枚、串柿一連、飴桶一つお送りいただきました。尼御前の法華経供養の御志は、先々書き尽くしてしまって、筆も尽き、指も動きません。三千大千世界に七日間、降る雨の数は数え尽くすことができよう。また、十方世界の大地の微塵を数え知る人もいるであろう。しかし、法華経の一字を供養した功徳は知ることは難しいと、仏は説かれています。このことをもって、尼御前の法華経供養の功徳がいかに優れているかを御心得なさい。恐恐謹言。
  十二月二十七日            日 蓮  花 押
   くぼの尼御前御返事

十字
 「じゅうじ」ともいった。蒸餅のこと。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。十字の呼称については晋書の列伝第三巻に「蒸餅の上に十字を作坼せざれば食せず」とあることからきた。
―――
三千大千世界
 仏教の世界観で、三千世界・大千世界ともいう。古代インド人の描いた宇宙観を用いた。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六などによると須弥山を中心として、その周囲に九山八海と四大洲がある世界を小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
―――
十方世界
 東・西・南・北の四方と東南・西南・東北・西北の四維と上・下の二方で十方となり、全宇宙を意味する。
―――――――――
 本抄は弘安2年(1279)12月27日、大聖人が御年58歳の時、身延から駿河の窪尼御前に送られた御手紙である。本抄の御真筆は現存していないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 窪尼御前は、大聖人にたまわった御手紙で常に「いよいよ御信用のまさらせ給う事」(1478-12)、「御信心のねのふかく」(1479-02)、「御志殊にふかし」(1481-02)等々と、その信心の志を激賞されている篤信の人である。
 本抄においても、窪尼が真心から種々の御供養の物を奉ったことに対して、大聖人は窪尼の信心の志がいかに優れているか、そして功徳のいかに広大であるかについては、すでにたびたび述べ尽くしているから、これ以上もう書くことはできないと仰せられている。
 ただ一言、大聖人は、仮に三千大千世界に七日間、降り注ぐ雨の滴の数と、十方世界の大地の塵の数とを算えることのできる人でも、法華経の一字を供養することによって得られる功徳だけは、計り知ることは不可能なほど広大である、と仏は説かれていると紹介されて、尼御前の御供養の功徳の大きさを述べられているのである。
 この仏説とは、このとおりに該当する経文は見当たらないが、仏の智慧の広大さを表現するのに、雨の滴、十方世界の塵が数えられるという譬喩がしばしば用いられていたので、それと法華経薬王品の「得る所の功徳は、仏の智慧を以て多少を籌量すとも、その辺を得じ」と併せてこのように仰せられたと考えられる。
「法華経の一字」と仰せられているのは、諸仏に対してその能生の根源である法華経の功徳の大きさを強調されるためで、たとえ一字たりとも、との御意と拝すべきであろう。
 末法今時においては、南無妙法蓮華経の御本尊に御供養申し上げることが、この「法華経の一字供養」にあたるのである。

1483~1484    妙心尼御前御返事top
1483:01~1484:06 第一章 唱題回向の徳を讃えるtop

妙心尼御前御返事    弘安三年五月    五十九歳御作
01   すずのもの給いて候、たうじはのう時にて人のいとまなき時・かやうに・くさぐさのものども・をくり給いて候
02 事いかにとも申すばかりなく候、 これもひとへに故入道殿の御わかれの・ しのびがたきに後世の御ためにてこそ
03 候らんめ、 ねんごろにごせをとぶらはせ給い候へば・いくそばく・うれしくおはしますらん、とふ人もなき草むら
1484
01 に露しげきやうにて・さばせかいにとどめをきしをさなきものなんどのゆくへきかまほし。
-----―
  種々の物を頂戴しました。今は農繁期で、人々も忙しく暇のない時に、このようにいろいろな供養のものをお送りいただいたことは、何とも御礼の申し上げようもありません。これもひとえに、故入道殿とのお別れがしのびがたくて、故入道殿の後世の御為にとの思いからのことでしょう。ねんごろに後世を弔われるのであるから、どんなにかうれしく思われていることでしょう。問い訪ねる人もいない草むらに露しげきなかで、娑婆世界に残してきた幼い者たちの行く末を聞きたいと思われていることでしょう。
-----―
02   あの蘇武が胡国に十九年ふるさとの妻と子との・こひしさに雁の足につけしふみ、 安部の中麻呂が漢土にて日
03 本へかへされざりし時・東にいでし月をみてかのかすがのの月よと・ながめしも身にあたりてこそ・おはすらめ。
-----―
 あの蘇武が胡国に入って十九年、故郷に残した妻子恋しさに、雁の足に便り文をつけて飛ばしたことも、阿倍仲麻呂が、中国で日本に帰されなかったとき、東方から昇る月を見ては、春日野の月よ、と詠んだことも、故入道殿は身にあてて感じておられることでしょう。
-----―
04   しかるに法華経の題目をつねは・となへさせ給へば此の妙の文じ御つかひに変ぜさせ給い・或は文殊師利菩薩或
05 は普賢菩薩或は上行菩薩或は不軽菩薩等とならせ給うなり、 譬えばちんしがかがみのとりの・ つねにつげしがご
06 とく蘇武がめのきぬたのこえの・きこえしがごとく・さばせかいの事を冥途につげさせ給うらん、
-----―
 しかるに、尼御前は法華経の題目を常に唱えられているのですから、この妙の文字が冥土への御使いに変じられ、あるいは文殊師利菩薩、普賢菩薩、上行菩薩、不軽菩薩等となられるのです。例えば陳子が、別れた妻と一片ずつ分かち持った鏡が鳥となって飛び去り、常に告げたように、蘇武には故郷の妻の打つ碪の音が聞こえたように、題目の妙の一字が娑婆世界のことを冥途の故入道殿に告げられていることでしょう
.。

蘇武
 (前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から何度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
―――
安部の中麻呂
 (0698~0770)。阿倍仲麻呂のこと。奈良時代の文学者。大和の人。霊亀2年(0716)遣唐留学生になり、翌霊亀3年・養老元年(0717)留学生吉備真備、留学僧玄昉らとともに遣唐大使多治比県守に従って入唐した。晁衡と改名し唐朝の官吏となって玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝5年(0753)、遣唐使藤原清河に従って帰国の途についたが海難のため果たせず、再び唐朝に仕え、在唐五十余年にして長安で没した。王維・李白らと交遊があり歌人としても名高く、日本を偲んで歌った「あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも」は有名。
―――
文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
―――
普賢菩薩
  東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
―――
普賢菩薩
  東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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ちんし
 中国の故事に出てくる人と思われるが未詳。陳の国のある人、ある男というほどの意か。中国、唐時代の本事詩に陳の東宮侍従・徐徳言と妻の話がある。徐徳言が妻との離別に際して鏡を破り、その半分を妻に渡した。のちに半鏡を捜し、事情があって他人の妻となっていた妻を呼び戻し、再び添い遂げたという。また、今昔物語に、国王の使いで遠国に赴くことになった夫が、夫婦別離に際して、互いの変わらぬ愛情を誓って鏡を破って半片を分け合った。のちに、その妻が他人と通じてしまったときに妻の持っていた鏡が夫のもとに飛び来ったという話が記されている。
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冥途
 冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。
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 本抄は弘安3年(1280)5月4日、日蓮大聖人が御年59歳の時、身延から駿河(静岡県)の妙心尼御前に送られた御手紙である。御真筆は現存していないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 本抄の内容は、妙心尼が夫の故入道の菩提を回向するため種々の御供養を奉ったことを讃えられるとともに、尼御前が常に唱題に励んでいることから、題目の〝妙〟の字が使いとなって、この娑婆世界での遺族のことはすべて冥途の亡夫に伝えられているであろうと慰められている。
 後半では、〝妙〟の一字は即仏身であり、あらゆる功徳をたたえた如意宝珠であると御教示されている。
 すなわち、唱題の功徳が亡き夫への追善になっていることを前半で教えられ、後半では亡夫のみならず家族の福徳にもなっていくことを教えられていると拝せよう。
 妙心尼が御供養を奉った時節は、ちょうど農繁期にあたり、農家にとっては田植えなど最も多忙な時であった。それだけに、妙心尼の亡き夫への追善の深い志がそこにあることを感じられて、心温まる激励をされているのである。
 尼御前の追善供養に対して、亡き夫はどんなにか喜んでいるであろうと述べられ、妻の夫に対する追慕の情と、夫からこの世に残してきた妻子への思いとの両方から、生と死を分けた夫婦・親子の心情を語りながら、生と死をつなぐ絆は南無妙法蓮華経以外にないことを教えられているのである。
 そして、死後の世界から、この世に残した妻子を思っているであろう亡き夫の気持ちを、胡国にとどめられた中国の蘇武と、漢土から日本を想った阿倍仲麻呂の故事になぞらえられている。蘇武の場合は、匈奴の国へ使者として行ったまま囚われの身となり、19年間、幽閉の辛苦をなめた。その間、故郷の妻子を思い、雁の足に手紙を結びつけて送ったといわれる。阿倍仲麻呂の場合は、16歳の時、日本から学問修行のため唐代の中国に渡ったが、そのまま日本へ帰ることができなくなり、70余歳で没するまで望郷の念を抱き続けていたといわれる。
 この2人は、我が身を厳しい環境に拘束され、妻子への愛着、望郷の念はますますつのるばかりで、いくたびとなく胸をかきむしられる悲痛な思いに駆り立てられたことであろう。蘇武と妻子を結びつけたのは雁の足につけた手紙であり、仲麻呂と故郷の日本を結んだのは月であった。しかし、生と死に分かれた世界の間を結ぶのは手紙でも月でもない。生死の根底にある妙法以外にない。
 大聖人は、尼御前が常に唱えている題目こそ、死の世界にいる夫への使いとなってくださっているのだと教えられているのである。すなわち、妙の文字が文殊・普賢・上行・不軽等の菩薩と変現し、冥途への御使いとなって、娑婆世界のことを告げ、故入道の心を慰めているであろうと仰せである。
 このように、題目が御使いとなるということについて、中国の二つの故事を引いて例証とされている。一つは陳子の鏡である。陳子が妻と離別の際、持っていた鏡を二つに割り、半片の鏡に自身の心を託して妻に与えた。その妻の所持する鏡がカササギと化して飛び、妻の行動を常に夫に告げたというのである。
 もう一つは前出の蘇武の場合である。蘇武は遠く離れた異郷にあって、妻子のことを思い続けていた。その彼に故国の妻が布を打つ槌音が聞こえたというのである。
 前者は、妻をだれにも渡したくないという嫉妬の執念が鏡を鳥と化して飛ばせたものであり、後者は、妻子を思う人間らしい一念が布を打つ生活の音を敏感に聞いたものであるといえよう。いずれにせよ二つの故事は、人間の執念、強き思いというものが一点に凝縮し、焦点を合わせた時、常識では考えられない働きを発揮する生命の原理を教えたものといえよう。
 嫉妬の執念、妻子を思う一念が距離を超えて通じたように、妙法信受の一念、深い祈りは、あらゆる生命境界の仏性を呼び顕すものである。この信心の一念、仏界の一念に具わる菩薩の生命が妙法守護の力を顕して御使いとなり、現世のことに限らず、冥途、すなわち宇宙の大生命に冥伏した死後の生命にまで波動を及ぼしていく働きをするのである。

1484:06~1484:15 第二章 妙の一字の広大の功徳を示すtop

06                                              又妙の文字は花
07 のこのみと・なるがごとく半月の満月となるがごとく変じて仏とならせ給う文字なり。
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 また、妙の文字は花と果となるように、半月がやがて満月となるように、変じて仏となられる文字です。
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08   されば経に云く「能く此の経を持つは則ち仏身を持つなり」と、天台大師の云く「一一文文是れ真仏なり」等云
09 云、妙の文字は三十二相・八十種好・円備せさせ給う釈迦如来にておはしますを・我等が眼つたなくして文字とは・
10 みまいらせ候なり、 譬へばはちすの子の池の中に生いて候がやうに候はちすの候をとしよりて候 人は眼くらくし
11 てみず、 よるはかげの候をやみにみざるがごとし、 されども此の妙の字は仏にておはし候なり、又此の妙の文字
12 は月なり日なり星なりかがみなり 衣なり食なり花なり大地なり大海なり、 一切の功徳を合せて妙の文字とならせ
13 給う、又は如意宝珠のたまなり、かくのごとく・しらせ給うべし、くはしくは又又申すべし。
14       五月四日                         日 連 花押
15     はわき殿申させ給へ
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それゆえに経には「能く此の経を持つ人は則ち仏身を持つなり」と説かれ、天台大師は「一一文文是れ真仏なり」等と述べられているのです。妙の文字は三十二相・八十種好を円満に備えられている釈迦如来であられますが、我等の眼がつたないので文字と見ているのです。例えば蓮華の果が池の中に生えているようなものです。蓮華はあっても、年寄りは目が悪くて見えず、夜は影があっても暗くて見ることができないようなものです。しかし、この妙の文字は仏であられるのです。
 また、この妙の文字は月であり、太陽であり、星であり、鏡であり、衣であり、花であり、大地であり、大海なのです。一切の功徳を合わせて妙の文字となられたのです。または、如意宝珠の珠なのです。このように知りなさい。詳しくはまた申し上げます。
  五月四日               日 連  花 押
   伯耆殿から申してください。

「一一文文是れ真仏なり」
古来、天台大師の釈と伝えられているが、未詳。
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三十二相
 応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。
   1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)
   2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること) 
   3 長指相(指が繊細で長い)
   4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)
   5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)
   6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)
   7 足趺高満相(足の甲が高いこと)
   8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)
   9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)
   10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)
   11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)
   12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)
   13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)
   14 金色相(皮膚が金色をしていること)
   15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)
   16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)
   17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)
   18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)
   19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)
   20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)
   21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)
   22 四十歯相(歯が四十本あること)
   23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)
   24 牙白相(牙があって白く光ること)
   25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)
   26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)
   27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)
   28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)
   29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)
   30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)
   31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)
   32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)
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八十種好
 「はちじゅつしゅごう」とも読み八十種の好ましい相ことで、八十随形好・八十随好・八十微妙種好・八十小相ともいう。三十二相に八十種好が具り円満になるのである。
   (1)無見頂相:仏の頂上の肉髻が高く、見上げようとしても愈々高くなって見ることができない。
   (2)鼻高不現孔:鼻が高く、孔が正面からは見えない。
   (3)眉如初月:眉が細く三日月のよう。
   (4)耳輪垂:耳の外輪の部分が長く垂れている。
   (5)身堅実如那羅延:身体が筋肉質で、天上の力士のように隆々としている。
   (6)骨際如鉤鎖:骨が鎖のように際立っている。
   (7)身一時廻旋如象王:身体を廻らすとき象が旋回するように一体となってする。
   (8)行時足去地四寸而現印文:歩くとき足が地面を離れてから足跡が現れる。
   (9)爪如赤銅色:爪が赤銅色。
   (10)膝骨堅而円好:膝の骨が堅く円い。
   (11)身清潔:身体が清潔で汚れない。
   (12)身柔軟:身体が柔軟。
   (13)身不曲:背筋が伸びて、猫背にならない。
   (14)指円而繊細:指が骨ばっていず、細い。
   (15)指文蔵覆:指紋が隠れていて見えない。
   (16)脈深不現:脈が深いところで打つので、外から見えない。
   (17)踝不現:踝が骨ばっていない。
   (18)身潤沢:身体が乾いていず光沢がある。
   (19)身自持不逶:身体がしゃんとして曲がっていない。
   (20)身満足:身体に欠けた所がない。
   (21)容儀備足:容貌と立ち居振る舞いが美しい。
   (22)容儀満足:容貌と立ち居振る舞いに欠点がない。
   (23)住処安無能動者:立ち姿が安定していて、動かすことが出来ない。
   (24)威振一切:威厳があり身振り一つであらゆる者を動かす。 
   (25)一切衆生見之而楽:誰でも見れば楽しくなる。
   (26)面不長大:顔は長くも幅が広くもない。
   (27)正容貌而色不撓:容貌が左右対称で歪みがない。
   (28)面具満足:顔のすべての部分が満足である。
   (29)唇如頻婆果之色:唇が頻婆樹の果実のように赤い。
   (30)言音深遠:話すときの声が深くて遠くまで届く。
   (31)臍深而円好:臍の穴が深く、円くて好ましい。
   (32)毛右旋:身体中の毛が右に旋回している。
   (33)手足満足:手足に欠けた部分がない。
   (34)手足如意:手足が意のままに動く。
   (35)手文明直:手のひらの印文が明快で真っ直ぐ。
   (36)手文長:手のひらの印文が長い。
   (37)手文不断:手のひらの印文が途切れていない。
   (38)一切悪心之衆生見者和悦:どんな悪者も見れば和やかになる。
   (39)面広而殊好:顔は広々として好ましい。
   (40)面淨満如月:顔は満月のように浄らか。
   (41)隨衆生之意和悦与語:衆生の意のままに和やかに共に語る。
   (42)自毛孔出香気:毛孔より香気が出る。
   (43)自口出無上香:口より無上の香気が出る。
   (44)儀容如師子:立ち居振る舞いの威厳あること師子のよう。
   (45)進止如象王:歩くことも立ち止まることも象王のよう。
   (46)行相如鵞王:歩くときとは片足づつ交互に運び、鵞鳥のよう。
   (47)頭如摩陀那果:頭は摩陀那果のよう。
   (48)一切之声分具足:声にはあらゆる音が備わっている。
   (49)四牙白利:四本の牙が白く鋭い。
   (50)舌色赤:舌の色は赤い。
   (51)舌薄:舌は薄い。
   (52)毛紅色:毛髪の色は紅色。
   (53)毛軟淨:毛髪は軟らかく浄らか。
   (54)眼広長:眼は広くて長い。
   (55)死門之相具:死門の相が具わる。死はこの世からあの世へ行く門、不死の相ではないということ。
   (56)手足赤白如蓮華之色:手足の色があるときは赤く、あるときは白い蓮華のようで濁っていない。
   (57)臍不出:出臍ではない。
   (58)腹不現:腹は常に隠されている。
   (59)細腹:腹は脹れていない。
   (60)身不傾動:身体は傾いていなくて、揺ぎない。
   (61)身持重:身体に重量感がある。
   (62)其身大:身体が大きい。
   (63)身長:背が高い。
   (64)四手足軟淨滑沢:手足は柔軟で浄らか、滑らかで光沢がある。
   (65)四辺光長一丈:身体から放たれる光は長さが一丈ある。
   (66)光照身而行:光は身を照らして遠くに届く。
   (67)等視衆生:衆生を等しく視る。
   (68)不軽衆生:衆生を軽くみない。
   (69)隨衆生之音声不増不減:衆生の音声に随うも、声の大きさが増したり減ったりしない。
   (70)説法不著:法を説いても、執著することがない。
   (71)隨衆生之語言而説法:衆生の話す言葉の種類に随って、法を説く。
   (72)発音応衆声:声を発すれば、衆生を同じ声を出す。
   (73)次第以因縁説法:順に因縁を明らかにして説法する。
   (74)一切衆生観相不能尽:誰も相を観て、明らかにし尽くすことがない。
   (75)観不厭足:観相しても厭きることがない。
   (76)髪長好:毛髪が長く好ましい。
   (77)髪不乱:毛髪はまとまって乱れない。
   (78)髪旋好:毛髪は好ましく渦巻いている。
   (79)髪色如青珠:毛髪の色はサファイアのような青色。
   (80)手足為有徳之相:手足は力に満ちている。
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如意宝珠
 意のままに、種々無量の宝を出すことのできる珠。仏舎利変じて如意宝珠になるとか、竜王の脳中から出るとか、摩竭魚の脳中から出る等といわれた。摩訶止観巻第五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。しかして兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈して「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-第八有一宝珠の事-02)と仰せであり、すなわち末法の如意宝珠とは御本尊のことと明かされる。
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 本抄後半は、妙の功力を述べられる。すなわち、花が果実を結び、半月が満月となるように、妙の文字は変じて仏になると仰せである。したがって、宝塔品に「此の経は第一なり 若し能く持つこと有らば 則ち仏身を持つ」と説き、天台大師は「法華経の一一文文は皆、真仏である」と述べているのである。これらの文は、妙法蓮華経は即真仏の当体であるという法即人の深意を明かしているのである。
 このように、妙の文字は「三十二相・八十種好・円備せさせ給う釈迦如来」なのであるが、凡夫は、それをただの文字としか見ることができないのである。
 末法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を、ただ、文字としてしか見ていないということである。それは、あたかも視力が衰えた老人の眼が池の中に咲いている蓮華の中に実のあるのを見ることができないのと同じであり、また、暗闇で人影が見えないのと同じである。つまり、仏と見えないのは、妙法の文字が仏ではないからでなく、見る眼をもたないからで、人が見ようと見まいと、妙法は即仏の生命の当体なのである。信心の眼を開くことによって初めて、妙法が尊極の仏の生命であることを体得できるといえよう。
 また「此の妙の文字は月なり日なり星なりかがみなり衣なり食なり花なり大地なり大海なり」と仰せられているのは、この宇宙、自然、人間界の万象の具える一切の功徳が〝妙の文字〟すなわち御本尊に収まっているとの仰せである。「妙とは具の義なり具とは円満の義なり」(0944-06)との法華経題目抄の御文を思い合わすべきである。宇宙一切万法の当体が御本尊であられるのである。
 また、意のままに無量の宝を出す如意宝珠であるとも仰せである。一切の功徳を自在に出すことができるのであるから、これは法華経題目抄の仰せでいえば「妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰(かぎ)なければ開く事かたし」(0943-12)に当たると拝せよう。
 以上のように、広大無量の功徳を具えた南無妙法蓮華経即御本仏の生命を、大聖人は一幅の御本尊に御図顕されたのである。ゆえに日寛上人は「この御本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり、故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕われざるなきなり」と述べられ、御本尊の功徳を賛嘆しておられるのである。
 最後に「はわき殿申させ給へ」と仰せられているのは、日興上人から妙心尼に語り伝え、教えてあげなさいとの意である。

1485~1485    窪尼御前御返事(阿那律事)top

1485
窪尼御前御返事    弘安三年六月    五十九歳御作
01   仏の御弟子の中にあなりちと申せし人はこくぼん王の御子いえにたからを・みてて・おはしき、のちに仏の御で
02 しとなりては天眼第一のあなりちとて 三千大千世界を御覧ありし人、 法華経の座にては普明如来とならせ給う、
03 そのさきのよの事をたづぬれば・ ひえのはんを辟支仏と申す仏の弟子にくやうせしゆへなり、 いまの比丘尼はあ
04 わのわさごめ山中にをくりて法華経にくやうしまいらせ給う、いかでか仏にならせ給はざるべき、恐恐謹言。
05       六月二十七日                     日 蓮 花 押
06     くぼの尼御前御返事
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 仏の御弟子の阿那律という人は、斛飯王の子で家には財宝が満ちていました。のちに仏の御弟子となってからは天眼第一の阿那律と呼ばれ、三千大千世界を見尽くすことのできた人で、法華経の会座で普明如来となられたのです。
 この人の前世を尋ねると、稗の飯を辟支仏という仏の弟子に供養したから、このような果報を得たのです。
 いま尼御前は粟の早稲米をわざわざ身延の山中に送って法華経に供養されたのですから、どうして仏になられないわけがありましょうか。恐恐謹言。
  六月二十七日            日 蓮  花 押
   窪の尼御前御返事

あなりち
 梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿㝹樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失ったという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗の飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とある。
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こくぼん王
 迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もある。
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天眼
 ①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。
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三千大千世界
 古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
    現存しない経
    ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
    ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
    ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
    現存する経
    ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
    ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
    ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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普明如来
 五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。
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ひえ
 イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
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辟支仏
 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。有仏の世には十二因縁の理を観じて断惑証理(だんなくしょうり)し、無仏の世には性寂静を好み、飛花落葉などの外縁によって覚りを得るという。
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 本抄は、弘安3年(1280)6月27日、御年59歳の時、身延で著され、駿河の窪尼御前に送られた御手紙である。御真筆は現存せず、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 窪尼御前が粟を御供養申し上げたのに対して、昔、稗を辟支仏に供養した阿那律の因行を例に挙げて法華経供養の功徳を讃えられているのである。
 阿那律は迦毘羅城の主・斛飯王の子で、釈尊とは従弟の関係にあたっていた。極めて裕福で、しかも天眼第一といわれる才能に恵まれていた。
 天眼とは天界の衆生が持つ眼で、遠近・昼夜を問わず一切の色を分別したり、衆生の未来の生死の姿を予知する能力をいうが、これについては次のようなエピソードがある。阿那律は、釈尊の説法を聞いているとき、たまたま居眠りをして叱責を受けた。そこで発心し、不眠の誓いを立て、眠りを断った、そのために眼病を患い失明した。だが、このことによって一層、修行に精進し、肉眼を失ったけれども、あらゆるものを見通す優れた能力、すなわち天眼を開いたといわれている。さらに、阿那律は法華経説法の会座において、未来に普明如来になることを約束されたのである。普明如来とは、妙法の光明で普く社会を照らす力を有する仏ということである。
 この阿那律の過去については、法蓮抄等に詳しく述べられているが、その内容は次のとおりである。
 すなわち、過去世、弗沙仏の末法に阿那律は猟師であったが、あるとき、飢えた辟支仏に稗の飯を施した。この供養の功徳によって、彼の猟師は九十一劫の間、長者となる大果報を得、貧しさを味わうこともなく、願いはみな意のごとくになったという。この阿那律の供養について妙楽大師は、供養の稗の飯は粗末な物であったが、尊い辟支仏を供養したことによって大果報を得たと述べている。辟支仏とは縁覚のことで、二乗ではあるが、無仏の世にあっては仏に代わるほどの人である。本文で「辟支仏と申す仏の弟子」と仰せられているのは、辟支仏の悟りと、その得た福徳が仏の一分に当たっているとの意を含められたのであろう。
 この阿那律に対し、今の窪尼御前は粟の早稲を法華経に供養したのである。法華経への供養は、仏に供養する功徳にさえ何千億倍勝れるのであり、まして、辟支仏に供養した阿那律の果報とは、比較にならない大果報を得ることは疑いないのである。ゆえに「いかでか仏にならせ給はざるべき」と、必ず成仏という大果報を得ることを断言されて、賛嘆されているのである。

1485~1486    窪尼御前御返事(善根御書)top

窪尼御前御返事    弘安四年十二月    六十歳御作
01   しなじなのものをくり給て候。
02   善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず・国により人により時により・やうやうにかわりて候、譬へ
02 ばくそをほして・つきくだき・ふるいてせんだんの木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火を
03 つけて・やき候へばべちの香なし・くそくさし、そのやうに・ものをころし・ぬすみをしてそのはつををとりて功徳
04 善根をして候へども・かへりて悪となる。
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 種々のものをお送りいただきました。
 およそ善根というのはその物の大きいことによらず、また小さいことによらず、国によって、人によって、時によってさまざまにかわるものです。たとえば、糞を乾してつき砕き、ふるいにかけて栴檀の木のようにつくったり、また女人や天女や仏をつくっても、火をつけて焼けば他の香りはせず、やはり糞臭いでしょう。そのように、ものを殺したり、盗みをしてその初穂をとって功徳善根をしても、かえって悪業となるのです。
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05   須達長者と申せし人は 月氏第一の長者ぎをん精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあと
1486
01 なしこの長者もといをを・ ころしてあきなへて長者となりしゆへに・この寺つゐにうせにき、 今の人人の善根も
02 又かくのごとく・大なるやうなれども・あるひは・ いくさをして所領を給或はゆへなく民をわづらはして・たから
03 をまうけて善根をなす、此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上其の人人あともなくなる事なり。
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 須達長者という人はインド第一の長者で、祇園精舎をつくって仏をお迎えしたが、その寺は焼けてしまって今は跡も残っていない。この長者は、もと魚を殺して商売して長者になったので、その殺生の罪によってその寺はなくなってしまったのです。
 今の人々の善根もまた同じようなものです。大善根のようであっても、あるいは戦をして領地をたまわったり、あるいはわけもなく民を苦しめて財産をつくって、それをもって善根をしているのです。
これらは大きな仏事と見えますが、成仏しないだけでなく、その人々の供養は跡形もなくなってしまうのです。
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04   又人をも・わづらはさず我が心もなをしく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり、 いはくよきたね
05 をあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、 まことの心なれども供養せらるる人だにも・あし
06 ければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。
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 また人をも煩わさず、自分の心も正直で自ら励んで善根をしても仏にならないこともあります。たとえば、良い種を悪い田に植えると種がだめになるうえ、かえって自分が損をするようなものです。たとえ真心ですることであっても、供養される人が悪ければ功徳とはならず、かえって悪道に堕ちてしまうのです。
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07   此れは日蓮を御くやうは候はず法華経の御くやうなれば釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいら
08 せ候、 抑今年の事は申しふりて候上 当時はとしのさむき事生れて已来いまだおぼへ候わず、ゆきなんどのふりつ
09 もりて候事おびただし、 心ざしある人もとぶらひがたし、御をとづれをぼろげの御心ざしにあらざるか、 恐恐謹
10 言。
11       十二月二十七日                   日 蓮 花 押
12     くぼの尼御前御返事
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 今の尼御前の御供養は日蓮に対する御供養ではなく、法華経への御供養でありますから、その功徳は釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏にお任せするのです。
 今年のことはいろいろ申し上げているとおりですが、それに加えて今年の寒さは生まれてからこのかた覚えのないものです。雪などの降り積もっていることは大変なことです。それゆえ志のある人でもこの身延の山中を訪ねがたいのに、あなたのお訪ねは並々ならない御志のあらわれにほかなりません。恐恐謹言。
  十二月二十七日           日 蓮  花 押
   窪の尼御前御返事

善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――
栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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須達長者
 釈尊に祇園精舎を供養した舎衛城の富豪。須達は梵名スダッタ(Sudatta)の音写で、善施・善与と訳す。貧しい孤独な人に衣食を給したので、給孤独長者とも呼ばれた。王舎城の竹林精舎で釈尊の説法を聞いて帰依し、舎衛城に精舎の建立を発願した。その後、祇陀太子の協力を得て祇園精舎を建立して釈尊を招いた。釈尊は二十余年間、この精舎に留まり説法したといわれる。
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ぎをん精舎
 古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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 本抄は、弘安4年(1281)12月27日、大聖人が御年60歳の時、身延において著され、駿河の窪尼御前に送られた御手紙である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 内容は、窪尼の真心の供養を讃えられるとともに、悪いことをして供養しても功徳とならないこと、また、よい心で行っても供養を受ける人が悪ければ功徳とならないこと、の両面から御教示され、正しい供養の対境と信心の志とが合致してこそ善根が積まれ、功徳となることを明かされている。
 物を御供養するということは、善根を積む仏道修行の一つである。しかし、善根となるかならないかは、供養する物の大小ではなく、その国により、人の好みにより、時代によって、色々であると述べられている。これは、その供養するものが喜ばれるものであるかどうかということといえよう。
 そして、特に大切なのは、供養する人の真心から出たものであることであり、善行から出たものであることである。その逆の〝悪行〟からなされた供養を譬えて、糞をもとにして、外見上、栴檀の香木に作っても、火で焼けば糞の臭さしかないと述べられている。これは人の悪行を糞にたとえたもので、殺生や盗みの悪行によって得た物で、どのように善根の行為をしたとしても、なんら功徳にはならないということである。
 そこで、須達長者の例をあげられている。須達長者は、祇園精舎を建てて供養したが、火災で焼失し、跡形もなくなってしまった。これは、須達長者が魚を殺し、殺生の悪行によって得た利益を供養したものだからであると指摘されている。
 そして「今の人人の善根も又かくのごとく」と、大聖人御在世当時、各宗の寺院を建立寄進している人々の場合も、戦争で人を殺したり、民衆を圧迫して搾取した財によって供養しているのであるから、一見、尊い供養のようにみえるけれども、自身の成仏もかなわないし、寄進した建物も、はかなく消えてしまうであろうと仰せられている。こうした供養は、所詮は、貪・瞋・癡の三毒による悪業の積み重ね以外の何ものでもないからである。
 以上は供養する側の問題であるが、次に、どんなに供養する側が悪行を犯さず、真っ直ぐな心で懸命の供養をしても、供養する対象が「あしき田」であれば、成仏の因にならない。「あしき田」とは邪法であり、また邪悪な法師をいわれている。この場合は、純真な信心と自らの努力と実践によって善根を積んでも成仏できないのである。供養する対象の正邪が大切なのである。
 「よきたね」を「あしき田」に植えれば、その種は腐って芽が出ないし、結局、損をすることになる。強い種である場合は、簡単に腐ってダメになることはない。例えば、三千年前の蓮の種が発芽した例などは、強い種の代表といえよう。ただし、種はどんなに強くても、田が悪ければ芽は出ないのである。強い種とは仏の植えてくださる仏性の種と考えられる。その場合の「あしき田」とは凡夫の生命である。しかし、信心の機根がととのえば、よき田になるのであり、これによって、その種は発芽するのである。
 それに対して、凡夫が「よきたね」であるが弱い種を、邪法の僧という「あしき田」に供養すれば、功徳はなく、かえって不幸になるのである。邪法やその僧に供養することは、邪法を助け増長させることになるから、自ら邪法を行じたのと同じになるからである。
 いま、窪尼御前の場合は、法華経の妙法に御供養したのであるから、その功徳は計り知れないものがある。「此れは日蓮を御くやうは候はず法華経の御くやうなれば」と仰せられているのは、御自身を凡夫僧として御謙遜されているのである。
 法華経供養の功徳は、義浄房御書にも「法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり」(0892-01)と仰せられているように、仏にしか測れないほど大きいということから「釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候」と述べられたと拝せられる。
 尼御前は、雪の身延山中へ使いの人を立てて御供養を日蓮大聖人のもとへお届けしたのであろう。この時は、大聖人御自身が御聖誕になられて以来、経験されたこともないほど寒さが厳しく、雪も非常に深かった。そうした厳しい条件のなかを、御供養してきたということは並大抵の志ではないと、尼御前の信心を讃えて結ばれている。

1486~1486    三沢御房御返事top

三沢御房御返事    文永十二年    五十四歳御作   与三沢小次郎
01   佐渡の国の行者数多此の所まで下向ゆへに 今の法門説き聞かせ候えば未来までの仏種になる事是れ皆釈尊の法
02 恩ありがたし、越後にて此の歌詠じ候ゆへ書き送り候なり。
03   おのづから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・マドをうつらめ。
04       二十一日
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 佐渡の国の行者が沢山この所まで参詣してきたので、いま日蓮が弘通する法門を彼らに説き聞かせた。したがって尽未来までの仏種となるであろう。これはみな釈尊の法恩であって、ありがたいことである。
 越後の国でこの歌を詠んだので書き送る。
 おのづからよこしまに降る雨はあらじ風こそ夜の窓をうつらめ。
       二十一日

佐渡の国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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 本抄は文永12年(1275)2月21日、身延におられた大聖人が駿河の三沢小次郎に送られたとされている御消息である。御真筆は池上本門寺にあったが、現存していない。
 本抄をいただいた三沢小次郎については三沢抄講義に譲ったので、参照されたい。
 本抄は短い御手紙である。佐渡から信徒たちが「数多」やってきたと仰せである。大聖人の佐渡流罪中の際も、鎌倉から四条金吾、日妙聖人らが求道の一念で大聖人をお訪ねしてきたが、今、大聖人が身延へ入山されると、佐渡から多くの信徒が大聖人を慕ってはるばる身延の地まで訪ねてきたのである。老齢の阿仏房に率いられてきたのかもしれない。大聖人が佐渡流罪を御赦免になってから約1年、佐渡の信徒は大聖人にお会いしたい一心で、遠い身延の地まで「下向」してきたのであろう。その求道の志はまことに尊いといわなければならない。
 大聖人は彼らに「法門」を説き聞かせられた。彼らにとっては未来永劫の仏種となることは疑いない。大聖人がそれを三沢小次郎に伝えられたのは、三沢氏が佐渡の信徒となんらかのつながりがあったのであろう。
 続いて、大聖人が佐渡からの帰路、越後で詠まれた和歌を贈られている。この和歌の内容は「雨が自ら横なぐりに降ることはない。風が吹くからこそ雨が横なぐりに吹いて、夜の窓を打つようになるのである」との意である。この和歌の示さんとするところは、なんらかの意味で三沢小次郎にとって教訓となるべき内容であったと拝される。
 雨を我々の生命、風を謗法あるいは三毒等の生命を濁りに拝し、本来、我々の生命は清浄であるが、誤った教えによって曲げられ、六道輪廻に陥っていくのである。との意に拝することができる。また雨を人々の心、風を良観等の邪宗の僧侶とし、人々が大聖人や門下を迫害するようになったのも、彼ら僭聖増上慢が煽動したゆえであると拝することもできよう。
 三沢小次郎の信心が惰性に陥っていたが、地頭という立場から、周囲の非難・中傷が及んでいたのかもしれない。いずれにしても、純真な信心を貫けば、さまざまな困難を乗り越え、仏性の薫発があることは間違いないのであり、それを妨げる煩悩や迫害に負けてはならないことを教えられているのである。

1487~1491    三沢抄(佐前佐後抄)top
1487:01~1488:03 第一章 天子魔を示し成仏の難事を説くtop

1487
三沢抄    建治四年二月    五十七歳御作   与三沢小次郎
01   かへすがへす・するがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ。                     ・
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 くれぐれも、駿河の人々は皆同じ御心でいるようにとつたえなさい。
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02   柑子一百・こぶ・のり・をご等の生の物はるばると・わざわざ山中へをくり給いて候、ならびに・うつぶさの尼
03   ごぜんの御こそで一給い候い了んぬ。
04   さては・かたがたのをほせくはしくみほどき候。
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 柑子みかん百個、昆布、海苔、於胡海苔等の生物を、はるばるとわざわざ身延の山中へ送って頂いた。また、内房の尼御前からの小袖一つをいただいた。
 ところで、様々おっしゃっていることについては詳しく見てよく分かった。
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05   抑仏法をがくする者は大地微塵よりをほけれども・まことに仏になる人は爪の上の土よりも・すくなしと・大覚
06 世尊・涅槃経にたしかに.とかせ給いて候いしを、日蓮みまいらせ候て.いかなれば・かくわ・かたかるらむと・かん
07 がへ候いしほどに・ げにも・さならむとをもう事候、 仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或は
08 たとひ智慧は・ かしこき・やうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、 仏教をなをしくならひうる事かた
09 し、 たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時には・ かならず影
10 の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、 設ひ・からくして六は・すぐれ
11 ども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、 其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり、 設い末代の
12 凡夫・一代聖教の御心をさとり・ 摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば・第六天
13 の魔王・此の事を見て驚きて云く、 あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・ かれが我が身の生死をいづる
14 かは・さてをきぬ・又人を導くべし、 又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・
15 無色の三界の 一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、 各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・そ
1488
01 れに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・そ
02 れに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきと
03 せんぎし候なり。
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 さて「仏法を学ぶ者は大地の微塵の数よりも多いけれども、真実に仏に成る人は爪の上の土よりも少ない」と大覚世尊が涅槃経に確かに説かれているのを日蓮は拝見して、どうしてそんなに難しいのであろうと考えたときに、なるほどそうであろうと思うことがある。
 仏法を学んでも、あるいは自分の心が愚かであることにより、あるいはたとえ智慧は賢いようであっても師匠によって自分の心が曲がってしまっているのを知らずにいるため、仏教を正しく習学し会得することは難しい。たとえ正師および実経に遇えて正法を得た人であっても、生死を出離して仏に成ろうとする時には、必ず影が身に添うように、雨の時に雲があるように三障四魔といって七つの大きな障魔が現れてくるのである。たとえ辛うじて六つは通過したとしても、第七番目に破られたならば仏に成ることは難しい。
 その六つはしばらくおくとして、第七番目の大難は天子魔というものである。たとえ末代の凡夫が一代聖教の意を悟り、摩訶止観という大事な御文の意を心得て仏に成るであろう状態になった時には、第六天の魔王はこのことを見て驚いて「ああ、とんでもないことだ。この者がこの国にいるならば、彼自身が生死を出離することはさておいて、また人を導くであろう。またこの国土を奪い取って、我が領土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろう」といって、欲界・色界・無色界の三界の一切の眷属を召集し、命令して「各各の能力にしたがって、彼の行者を悩ましてみよ。それで駄目だったならば、彼の弟子檀那および国土の人々の心の中に入り代わって、あるいは諌め、あるいは脅してみよ」と言い、「それでも駄目だったならば、われ自ら降りていって国主の身心に入り代わって脅してみれば、どうして止められないことがあろう」と評議するのである。

柑子
 ミカン科の落葉小喬木。在来ミカンの一種で、耐寒性が強く、果実は酸味が強く、種子が多い。果皮は滑らかで薄くむきやすい。
―――
をご
 於胡海苔のこと。於期とも書く。紅藻類オゴノリ科の海藻。形体は紫褐色や暗紅色を帯びた径1~3㍉の円柱形で、不規則に分枝し、全長20~60㌢。湯がくと鮮緑色となり、刺身のつまに用いられる。また寒天の原料ともなる。
―――
うつぶさの尼ごぜん
 駿河国庵原(静岡県富士宮市内房)に住んでいた女性信徒。御書から推察すると、かなりの年配であったようである。氏神に参詣のついでに身延の大聖人を訪問し、追い返された。
―――
こそで
 袖口を狭くした方領の服。平安末から貴族が装束の下に用いた筒袖の肌着で、鎌倉時代からは袂をつけて男女の表着として使用するようになった。冬期の防寒用に厚綿を縫い込んだものもあった。
―――
大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
実経
 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。
―――
生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
―――
三障四魔
 仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)。②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)。③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)。②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)。③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)。④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。
―――
天子魔
 他化自在天のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六天にあるので第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王とも天子魔ともいう。三沢抄には「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の 一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(1487-12)とある。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
欲・色・無色の三界
 生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けた、欲界・色界・無色界のこと。欲界は種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界と天界の一部をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
―――
眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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 本抄は建治4年(1278)2月23日、日蓮大聖人が57歳の御時、身延から駿河国(静岡県)の三沢小次郎に与えられた御消息である。
 三沢小次郎については、生没年など詳しいことは不明であるが、本国は淡路(兵庫県)で、後年、駿河国富士郡三沢の地に領主として移り住んだとされている。三沢は現在の富士宮市柚野辺りといわれる。
 また、三沢殿は領主という立場上、とかく幕府の嫌疑を意識して、公然と音信を交わすという状態ではなく、ややもすれば大聖人から遠ざかりがちであったようである。
 したがって、いただいた御手紙も少なかったようで、文永12年(1275)2月21日御述作の三沢御房御返事と本抄の2編しか伝えられていない。日興上人の写本が北山本門寺に現存している。別名を佐前佐後抄ともいう。
 文頭に「かへすがへす・するがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」と仰せであるが、この御文は追申であり、余白がなかったため、前に書かれたものと拝察される。なお全く同文の追申が建治元年(1275)6月御述作の浄蓮房御書「返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」(1435-11)「かへすがへす・するがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」(本抄冒頭)にもみられる。
 本抄は、仏法を学び修行する人は多いが成仏を遂げる人は爪上の土のように少ないとの涅槃経の文を挙げられ、仏道修行が決してやさしいものではないことを示されている。そして、その至難の正しい仏法実践を貫いたのが御自身であることを述べられ、大聖人こそ、末法の一切衆生を救う御本仏であることを明かされ、その末法救済の大法を佐渡流罪以後、明らかにしてきたことを教えられている。
 後半は、内房御前のことをとおして信心の在り方を示され、三沢殿の久方ぶりの便りへの喜びを述べられ、最後に、真言が亡国の邪法であることを指摘されて結ばれている。
 前半に述べられている内容は、おそらく三沢殿が、信仰の決定心が弱く、仏法を信仰していくうえで、なぜ難が起こるのかという疑問をもっていたことから、その道理を示し、日蓮大聖人の立場を教えようとされたものと拝せられる。しかし、そこに触れられている佐前・佐後の問題は、日蓮大聖人の御一代の御化導を拝し、大聖人の仏法の正意を理解するうえで、単に三沢殿にとってのみならず、大聖人の仏法を学ぶ全門下にとって、極めて重要な御教示である。
 さて〝仏法を学する者〟すなわち仏法の信仰者は多い。特に往時においては、日本人のほとんどすべてが仏法信仰者といってよかったであろう。しかし「仏になる人は爪の上の土よりも・すくなしと」と、釈尊自身が涅槃経に説いているのである。一般的な考え方からすれば、当時は、日本中の人が、篤い仏法信仰者であるから、皆、成仏できるとみえたにちがいない。だが、釈尊自身が、成仏する人は爪上の土であると述べているのである。日本中の人々が成仏するのが真実であれば、この釈尊の言葉はウソになってしまう。しかし、仏の金言がウソである道理がない。ここに、大聖人は、重大な問題を提起されているのである。
 すなわち、人々の信じている仏法にも、正法と邪法があり、世間の人々の信じているのは仏の正法ではないということが第一であり、さらに、仏の正法に巡りあっても、三障四魔がその修行を妨げるがゆえに、信心を全うすることは容易ではないということが第二である。
 このうち、第一の点について指摘されているのが「仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧は・かしこき・やうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし」の御文である。これにも、二つの要因が示されている。一つは「我が心のをろかなるにより」と仰せのように、自身の愚かさのため、二つは「たとひ智慧は・かしこき・やうなれども師によりて我が心のまがるをしらず」と仰せのように、自身の機根は勝れていても悪縁のために、正しい仏法を信仰することができないのである。
 第二の点、すなわち正法を信受しても障魔に妨げられるということを示されていくのが「たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども……」以下の御文である。「明師並に実経」とは、人と法ということであり、末法において明師とは久遠元初自受用報身であられる日蓮大聖人であり、実教とは事の一念三千の三大秘法の南無妙法蓮華経であることは、いうまでもない。
 この正法の信行について、あとの御文で「設い末代の凡夫・一代聖教の御心をさとり・摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば……」とも仰せられている。末代の凡夫にとって、成仏の法は「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)と上野殿御返事に述べられているように、釈尊の一代聖教でもなければ、天台大師の摩呵止観でもない。今本文で「一代聖教の御心」「摩訶止観と申す大事の御文の心」といわれているところに深義がある。すなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経の信行を仰せられているのである。
其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり
 三障四魔のなかでも最も恐るべきは天子魔であることを、本抄では分かりやすく教えられている。三障四魔のそれぞれについては、語訳に示したとおりであるが、三障と四魔との違いはどこにあるかというと、三障が仏道修行を妨げる作用をいうのに対し、四魔は仏道修行者の生命を破壊する働きをいい、より根源的なものをいう。
 四魔のなかで、煩悩魔は心の働きにつきまとうものであるのに対し、陰魔は生命の機能につきまとうもの、死魔は現世の生命自体に付随するものといえる。ここまでは、各個人の生命に限られている。それに対し、天子魔は他化自在天に住し、この三界を支配している魔といわれ、現代的にいえば社会的権力の発動といえる。ゆえに、この現実世界の中で生活し、この人生での安穏を願うものにとっては最も恐るべき魔となるのである。
 ゆえに、本文で、第六天の魔王が正法を信じ行ずる人を見て「欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよをし」と、この三界(現実世界)の中にいるすべての眷属に命令を下す、そして眷属達の手に負えなければ「我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見む」と述べたと表現されているのである。
 第六天の魔王は他化自在天ともいい、他の人を自分の思うままに動かし、操り、そのことを喜びと感ずる働きをいう。つまり、権力の魔性のことといえる。
 また治病抄に「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と仰せられているように、生命自体の一実相である。
 生命には本来、法性と無明がともに内在している。むしろ法性も無明も一体であり、生命それ自体の顕れ方の違いなのである。この根本の迷いである元品の無明が第六天の魔王の働きとなって顕れるのであり、所詮は己心の煩悩の反映にほかならない。
 信心の究極とはこれらの煩悩との戦いといえる。この魔王の働きを打ち破るものは元品の法性、つまり仏の生命しかない。それを顕現する唯一の道が妙法への信心である。
 御義口伝には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)と仰せである。
 御本尊への、どこまでも強い信によって元品の無明を断破してこそ、無明の反映である第六天の魔王を破ることができるのであり、そこに成仏という、崩れざる幸福境涯を確立していくことができるのである。

1488:04~1488:18 第二章 「況滅度後」の大難身読を明かすtop

04   日蓮さきより・かかるべしと・みほどき候いて末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候いけり釈迦仏の仏に
05 ならせ給いし事を経経にあまたとかれて候に第六天の魔王の・ いたしける大難いかにも忍ぶべしとも・みへ候はず
06 候、提婆達多・阿闍世王の悪事は・ひとへに第六天の魔王のたばかりとこそみて候へ、まして如来現在・猶多怨嫉・
07 況滅度後と申して 大覚世尊の御時の御難だにも凡夫の身・ 日蓮にかやうなる者は片時一日も忍びがたかるべし、
08 まして五十余年が間の種種の大難をや、 まして末代には此等は百千万億倍すぐべく候なる大難をば・ いかでか忍
09 び候べきと心に存して候いしほどに・ 聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは
10 申すなり、 而るに日蓮は聖人にあらざれども日本国の今の代にあたりて・ 此の国亡亡たるべき事をかねて知りて
11 候いしに・此れこそ仏のとかせ給いて候・況滅度後の経文にあたりて候へ、 此れを申しいだすならば仏の指させ給
12 いて候未来の法華経の行者なり、 知りて而かも申さずば世世・生生の間・をうしことどもり生ん上教主釈尊の大怨
13 敵其の国の国主の大讎敵・他人にあらず、 後生は又無間大城の人・此れなりとかんがへみて・或は衣食にせめられ
14 或は父母・兄弟・師匠・同行にもいさめられ或は国主万民にも・をどされしに・すこしもひるむ心あるならば一度に
15 申し出ださじと・としごろひごろ心をいましめ候いしが・ 抑過去遠遠劫より定めて法華経にも値い奉り菩提心もを
16 こしけん、 なれども設い一難二難には忍びけれども 大難次第につづき来りければ退しけるにや、 今度いかなる
17 大難にも退せぬ心ならば 申し出すべしとて申し出して候いしかば・ 経文にたがわず此の度度の大難にはあいて候
18 いしぞかし。
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 日蓮は以前から、そのようであろうと見て取って、末代の凡夫が今生に仏に成ることは大変な事であり、釈迦仏が仏に成られたことは経々に多く説かれているけれども、第六天の魔王がその際になした大難は、どのようにしても忍ぶことができるとは思えないでいたのである。提婆達多や阿闍世王の悪事は、ひとえに第六天の魔王の謀と思われる。まして「如来の現在よりも、なお怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と言われて、大覚世尊の御在世時の難でさえも凡夫の身である日蓮には、そのようなものは一日片時も忍び難いであろう。まして五十余年の間の種々の大難においてはなおさらである。まして末代にはこれらに百千万億倍こえるであろうという大難をどうして忍ぶことができよう、と心に思っていた。聖人は未萠を知ると言って、三世のなかに未来のことを知るのを真の聖人という。ところで、日蓮は聖人ではないけれども日本国の今の時代にあって、この国が滅亡しようとしていることを以前から知っていたが、これこそ仏が説かれた「況んや滅度の後をや」の経文に当たっている。これを言い出すならば仏が定められた未来の法華経の行者である。知っているのに言わなければ、世に生れてくるたびに啞と吃りに生まれるうえ、自分自身が教主釈尊の大怨敵、その国の国主の大仇敵の人となってしまう。後生はまた無間地獄の罪人となることを考えて「或は衣食に窮乏し、或は父母・兄弟・師匠・修行仲間にも諌められ、或は国主や万民にも脅されたときに、少しでも怯む心があるならば一度も言い出すまい」と年頃日頃から心を戒めてきたが、「過去遠遠劫の昔からきっと法華経にあって菩提心を起こしたであろう。ところが、たとえ一難や二難は忍んだけれども、大難が次々に続いて起こってきたときには退転したのであろう。今度どのような大難にも退転しない決心ならば言い出そう」と思って言い出したところ、経文に違うことなくこの度々の大難にあったのである。

提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
阿闍世王
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。訳して未生怨という。釈尊在世から滅後にいたるまでの中インド・マガダ国(摩竭陀国。現在のビハール州辺り)の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿経疏によると「父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ『山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろう』と予言した。王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ『男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう』と予言した。まもなく太子が生まれた。成長して提婆達多の弟子となる。しかして、提婆達多にそそのかされて父王を殺して王位につき、母を幽閉してしまった。このように、生まれずして王に怨みをもっていたために阿闍世すなわち未生怨といわれるのである」と。さらに、提婆を新仏にしようとして、酔象を放って釈尊を殺そうとした。のち、提婆は謗法の罪によって地獄へおち、阿闍世は全身に大悪瘡を生じ臨終に近づいたが、耆婆大臣の勧めにより釈尊に帰伏した。悪瘡は癒えて寿命を延ばし、仏滅後の経典の結集に力を尽くした。
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如来現在・猶多怨嫉・況滅度後
 法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
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未萠
 まだ起こっていないこと。未来の出来事。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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遠遠劫
 長遠な時間。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音写で、劫波、劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。
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菩提心
 悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。
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 日蓮大聖人は、立宗の当初から、第六天の魔王による種々の大難が競い起こるであろうことを覚悟のうえであられたこと、しかし、苦難を知っておられたがゆえに、心中の激しい葛藤を経て立宗に踏み切られたことを述べられている。
 ここで「末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候いけり」といわれ、また釈尊についても「釈迦仏の仏にならせ給いし事を経経にあまたとかれて候に……提婆達多・阿闍世王の悪事は・ひとへに第六天の魔王のたばかりとこそみて候へ」と述べられている。提婆達多や阿闍世王が釈尊に迫害を加えたとき、釈尊はすでに成道を遂げて仏になっていたことは周知のとおりである。釈尊の場合、仏になるためにあった苦難というのは、過去の因位の修行の際にみられる。それらは、種々の経典に説かれているので「経経にあまたとかれて候」といわれている。
 提婆達多や阿闍世王の例は、成仏のためというより、仏として、人々に法を説くうえで起こったものである。本抄のこの段で、大聖人が御自身に起こる難として述べられているのも、正法を人々に説くことによって起こるものを意味されている。しかも、それが同時に、御自身の成仏のための難であるともいわれているのである。
 ここに、自身の成仏のためということは因位の立場であり、人々に法を説くのは果位の立場であられる。因果俱時が大聖人の御振る舞いであることを知らなければならない。そして、因位の立場は、大聖人の外用の辺であり、果位の御立場が内証の辺であることを見誤ってはならないであろう。
 さて、末法においては、釈尊在世よりもはるかに大きい難が起こることは、法華経法師品第十に「如来現在・猶多怨嫉・况滅度後」と明言されているとおりである。大聖人は、このことを立宗される以前から知り抜いておられたがゆえに、もし、御自身が弘教に踏み切れば、大難が襲ってくることは間違いない、そのとき、少しでもひるむようであるならば、まだ言い出すわけにはいかないと、ためらわれたと仰せである。
 しかしながら、正法を説き出さずにはいられない問題が現れた。それは、日本国の謗法をこのまま放置するならば、日本の国は滅びてしまうという、未来の姿が大聖人の眼にはっきりと分かったことである。「三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」と述べられているように、御自身が聖人すなわち末法救済の御本仏であるとの御自覚である。そして、しかも、もし知っていながら、このことを言わなければ、仏法上言うべきことを言わないのは悪業であり、世々生々にわたって言葉を自由に話せないという報いを受ける。そればかりでなく、自らが仏と国主の敵となって、後生は無間地獄に堕ちなければならないことが分かったがゆえに、不退転の決意をもって説き始めたと仰せられている。
 同様のことは、開目抄でも「これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに.にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし」(0200-11)云々と述べられている。
 開目抄では、宝塔品第十一の六難九易の文によって「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200-16)と、御決意に至られた経過をいわれている。本抄では「此れこそ仏のとかせ給いて候・況滅度後の経文にあたりて候へ」と仰せである。法師品の「况滅度後」を、譬喩的に示したのが宝塔品の六難九易であり、その内容は同じである。いずれにせよ、大聖人は、末法に起こってくる大難を覚悟のうえで、〝丈夫〟の心をもって立宗され、弘教の戦いを開始された。その御決意は並々ならないものであり、そこに偉大な御本仏の大慈悲を拝することができるのである。
 こうして、弘教の戦いを進められたのに対し、まさに経文に説かれたとおりの大難が大聖人を襲ってきたのである。立宗以後の御苦難については「……申し出して候いしかば・経文にたがわず此の度度の大難にはあいて候いしぞかし」と、本文では淡々と、まことに簡潔に述べられている。しかし、この短い御文のなかに、法華経をことごとく身読されたことが言い表されているのであり、そこに込められた深い意味を拝すべきであろう。

1489:01~1489:06 第三章 必ず成仏へ導く大慈大悲示すtop

1489
01   今は一こうなり・いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此の山林には
02 栖み候なり、 各各は又たとい・すてさせ給うとも一日かたときも我が身命をたすけし人人なれば・ いかでか他人
03 にはにさせ給うべき、 本より我一人いかにもなるべし・ 我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば・
04 とのばらをば導きたてまつらむとやくそく申して候いき、 各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上 俗なり、
05 所領あり・妻子あり.所従あり・いかにも叶いがたかるべし、只いつわりをろかにて.をはせかしと申し候いき・こそ
06 候へけれ、なに事につけてか・すてまいらせ候べき・ゆめゆめをろかのぎ候べからず。
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 今は偏に思い定まっている。どのような大難にも耐えよう、と我が身に当てて試しみたときに、すべて疑問は解消したので、この身延の山林に住んでいるのである。あなたがたはまた、たとえ法華経を捨てられたとしても、一日片時であっても私の命を助けてくれた人々であるから、どうして他人のように思えようか。もとより私一人はどうなってもよい。私がどのようになったとしても心に退転することなくして仏になるならば、あなたがたをお導きしよう、と約束申し上げた。あなたがたは日蓮ほども仏法を御存知ないうえ、在家の身であり、所領があり、妻子があり、家来があり、どうみても貫き通しがたいことであろう。ただ愚かなふりをしていなさい、と申し上げたとおりにしていきなさい。どうして見捨てるようなことがあろう。決して決して疎かにすることはない。

 法華経を身読しぬかれたゆえに身延へ入山されたこと、そして、門下、特に在家の人々に対しては、必ず成仏させるとの広大な慈愛をもって包容されていることが述べられている。
 「今は一こうなり・いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此の山林には栖み候なり」の御言葉には、不退転の決意をもって弘教され、法華経をすべて御自身の身に色読されて、もはや、一点の曇りもない、澄みわたった御境涯であられることが拝せられる。そして、法華経をことごとく色読したがゆえに身延に入山したとの仰せである。
 身延御入山の経緯については、種種御振舞御書に「本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべしと、されば同五月十二日にかまくらを・いでて此の山に入る」(0923-01)と仰せになり、また光日房御書にも、同趣旨を述べられている。三度諌めて容れられなかったということは、そこに命にかかわる大難があったことを含んでおり、そのことは、法華経に説かれた、末法の法華経の行者があうべき苦難をすべて受けられたということでもある。法華経の正しさについても、御自身が法華経の行者であることについても、もはや一点の疑問もなく、人法一箇の御本仏たるの境地を得られたので、身延に入山されたのである。
 「各各は又たとい・すてさせ給うとも……」の御文には、三沢殿をはじめ全民衆をどこまでも救わんとされる大聖人の限りなき慈愛がにじみ出ていてあまりある。
 「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758-04)とも仰せられるように、あらゆる人々の苦悩・不幸をおとごとく「日蓮一人の苦」とされる広大無辺な御本仏の大慈大悲。「我いかにしなるとも……」の御文をあわせ拝するとき、込み上げる感動に身が震え、感涙を禁じえないのである。
 「各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上俗なり」からは、三沢殿の置かれている立場や環境を考慮され、表向きはただ偽り愚かにして、とても法華経の信仰などできないというようにしていきなさいと教えられている。
 要は、自らが御本尊を生涯受持しぬくことが末法の成仏の鍵であり、社会に向かっていかにも強信者であるもののように派手に振る舞う必要はないとの仰せと拝せよう。派手に振る舞っても、そのために大難にあい、退転してしまうようではかえって不幸だからである。
 地道に、どこまでも信心を受持しぬいていくならば、大聖人は必ず門下を成仏に導いていく旨を「なに事につけてか・すてまいらせ候べき・ゆめゆめをろかのぎ候べからず」と仰せられている。門下の人をどこまでも守り抜いていこうとの深い御心がひしひしと迫ってくる御言葉である。

1489:07~1489:17 第四章 佐前・佐後の法門の相違明かすtop

07   又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、 此の国の国主我が代
08 をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、 爾の時まことの大事をば申すべし、 弟子等にもなひな
09 ひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。
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 また法門のことについては、佐渡の国へ流される以前の法門は、ただ仏の爾前経と思いなさい。この国の国主が我が代をたもとうとするならば、真言宗の僧等に召し合わせられることであろう。その時、本当の大事を言おう。弟子等に内々であっても言うならば、披露して彼等の知るところとなってしまう。そうなってしまえば、決して会おうとしないであろう、と思って言わなかったのである。
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10   而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、 我につきた
11 りし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・ さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、 此れは仏より
12 後迦葉.阿難・竜樹.天親・天台.妙楽・伝教.義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口
13 より外には出し給はず、 其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆ
14 へなり、 日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ
15 給うまでまづ序分にあらあら申すなり、 而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出で
16 て後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、 此の時には正像の寺堂の仏像・ 僧等の霊験は皆きへうせて但此の
17 大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし。
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 しかしながら、去る文永八年九月十二日の夜、竜の口において頚をはねられようとした時から後は、私についてきた人達に本当のことを言わないでいたのではかわいそうであると思って、佐渡の国から弟子達に内々に申し上げた法門がある。これは仏以後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台大師・妙楽大師・伝教大師・義真等の大論師や大人師は知っていて、しかも心の中に秘され、口より外には出されなかったものである。その理由は仏が制止して「私の入滅の後、末法の時代に入らなければ、この大法は言ってはならない」と言われていたからである。日蓮はその御使いではないけれども、その末法の時にあたっているうえ、思いがけずにこの法門を悟ったので、聖人が出現されるまで、まず前ぶれにあらあら説くのである。しかしながら、この法門が出現するならば、正法時代や像法時代に論師や人師の説いた法門は、みな日が出たのちの星の光のようなものであり、巧みのあとに拙さを知るようなものとなろう。この時には正法時代や像法時代の寺堂の仏像や僧等の利益はみな消え失せて、ただこの大法だけが一閻浮提に流布するであろうと説かれている。あなた方はこのような法門に宿縁ある人なのだから、頼もしく思われるがよい。

爾前の経
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――
たつの口
 現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難
 梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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義真
 (0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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正法
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時のこと。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。仏滅後1000年までの期間。
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像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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 日蓮大聖人が説かれた法門について、大聖人が佐渡へ配流された以前と以後の法門には、化導の面で相違があり、佐渡御流罪になられてから、真実の法門を明かしたと述べられている。
 ここで「さどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と述べられている〝仏の爾前の経〟とは、釈尊50年の説法のうち初めの42年間に説いた方便の教えのことであり、真実の教え・法華経を説くための、いわば準備段階として説かれたものである。
 したがって、釈尊は最高の悟りである法華経を説くにあたって、その開経である無量義経で「四十余年には未だ真実を顕さず」と述べて、爾前経にはいまだ真実を明かしていないと宣示したのである。
 いま大聖人が「佐渡以前の法門は仏の爾前経と思いなさい」と仰せられているのも、同じ趣旨である。すなわち、佐渡以前において、法門についての御述作は多々あるが、そこには御本仏としての立場を明らかにされておらず、また法門についても御真意を尽くされたものではなかった。
 例えば立正安国論は佐渡以前の御述作で「安国」のために邪法を捨て「正法」を立てるべきであると述べられているが、その「正法」の内容には触れられていない。
 それでは、なぜ真実の法門を説かなかったかについては、幕府にはすでに立正安国論を奏進してあり、幕府が安国を願うならば必ず真言宗等の僧とも対決させるであろうから、その席上で「まことの大事」を述べる所存でいた。あらかじめ弟子達に内々に教えれば、彼らにも漏れ伝わり、事前に仏法の正邪・勝劣が明らかになって、彼らは対決を避けてしまうであろうとの御懸念から、説かなかったのであると仰せである。
 しかし、竜の口法難で頸を刎ねられようとされて以来、弟子達に真実の法門を教示しなかったのでは不憫であると考えられ、「内内申す法門あり」として示されたのが、文永9年(1272)20月御述作の開目抄と、文永10年(1273)4月御述作の観心本尊抄である。
 両抄でそれぞれ人本尊・法本尊を開顕され、正像未弘の大法を明かされるとともに、御自身がその大法を弘通される末法の法華経の行者、すなわち御本仏であることを明示されたのである。
 開目抄を著された御心境については、種種御振舞御書に「さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり」(0919-02)と述べられている。これは、本抄の「頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり」との御文と符合している。
 開目抄を執筆された当時は、竜の口の法難からまだ間もないころで、しかも御流罪地・佐渡では、いつ命を奪われるかも知れないという厳しい状況であった。大聖人は、門下の人々への遺言のような御気持ちで、開目抄を書かれたと拝せられる。
 観心本尊抄は、翌文永10年(1273)になってからで、やや状況はよくなっていたものの、それでも命の危険は相変わらずであった。本尊抄の送状には「此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開祏せらる可きか」(0255-01)と、内証の法門であるから、口外してはならないと、厳重にことわられている。
 ここで明確にしなければならないことは、もし、大聖人が佐渡で死を覚悟されていたならば、佐渡においてすべての法門を明かし確立されたにちがいないから、佐渡期が正宗分で、身延期は流通分になるはずだという問題である。これは、大聖人を凡夫の辺でしか捉えられない浅見からきた考え方であって、御本仏としての御内証において拝するなら、大聖人は御自身、佐渡流罪を赦免になり、種々の条件がととのって出世の本懐を遂げるべき時のくることを、明確に見通されていた。
 日蓮宗諸門流のように、この三沢抄の御文をもって「佐渡期正宗分・身延期流通分」と解釈し、かつての小樽問答でも破折された、存在しない通称「佐渡始顕の本尊」を、大聖人究竟の本尊なりと立てる考えは、誤りも甚だしいといわなければならない。
「佐渡以前は仏の爾前経のようなもの」といわれているのであって、「佐渡期が本門」とはいわれていないからである。
 大聖人が発迹顕本された直後の佐渡期は、あくまでも大聖人御一代の化導のなかにあって、いまだ正宗分の初めにすぎず、その極まるところは身延御入山後からである。
 ここのところを明確にしておかないと、他門流のように大聖人の仏法の筋目に迷い、かえって大聖人を悪しく敬う愚を招くことになるのでる。
 さて、佐渡期以後が、それより前と異なっている点を幾つか挙げると、第一に、弘通される題目の意義が異なることである。口唱のための題目から実体のともなった題目、つまり本尊の内証に一体化されたことである。
 第二に、内証の法体として曼荼羅本尊を御図顕されていることである。ただし数々の御本尊を御図顕されたとはいっても、佐渡期ではいまだ真実内証の顕現、つまり御本仏としての出世の本懐をあらわされる時ではなかった。
 第三に、三大秘法については、観心本尊抄などで示されるように、本門と題目による密示にとどまり、戒壇の名目は示されなかった。ただ佐渡期50数編の御書中、文永11年(1274)、赦免が下される一か月前に御述作の法華行者逢難事に、初めて三大秘法の名目が見られる。これは在島中はいまだ示すべきではないが、流罪赦免の間近いことを確信されて、戒壇の名目を出されたと拝される。
 この大法を実体としてあらわされたのは日蓮大聖人が最初であるが、妙法は永遠常住の真理であり、仏法の極理であるから、釈尊はじめ正像の大論師・大人師といわれる人達も当然、内心には覚知していた。いわゆる内鑑冷然である。
 しかし、外適時宜で、外に説き示す法は、それぞれの時に適った法でなければならない。釈尊も「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と、正像時代は時機未熟であり、末法にこそ弘められるべきであると明言しているのである。
「日蓮は其の御使にはあらざれども」とはもちろん御謙遜であり、「其の時剋にあたる上」と大法流布の時にあたっていることを述べられ、「存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり」と、大法を所持し、これを弘通される御本仏であることを暗に示されている。
 次に、この末法出現の仏法がいかに偉大であるかを教え、この大法を万人に先駆けて受持している門下の人々に誇りと使命の大きさを示して励まされている。
 ひとたびこの大法が末法に出現すると、正像の論師・人師が弘めた一切の法門はあたかも「日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知る」ように、その存在価値を全く失い、また寺堂の仏像に祈ったり、僧等の祈りによって現れた霊験、すなわち利益はことごとく消滅すると仰せである。
 このことは、現代人が釈尊像や大日、観音、阿弥陀、地蔵などの本尊をどんなに熱心に信仰し祈願しても、利益や効験は全くないということであり、むしろ逆に謗法の科による堕獄の因をつくり、災いを招くのみなのである。
 そして「但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」と、大聖人御建立の三大秘法のみ一切衆生救済の大法として全世界へ広宣流布することを断言されている。それゆえに、大聖人門下は、宿縁あって、末法万年の人類の先駆としてこの大法に「ちぎり有る人」となれたのであり、このことは、まことにありがたく、頼もしいといわなければならない。
 地涌の菩薩の眷属の自覚も新たに、大願たる妙法弘通の使命の道を生涯不変に貫き通すことを誓わずにはいられない。

1489:18~1490:05 第五章 内房尼との対面謝絶の理由示すtop

18   又うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかども・うぢがみへあ
1490
01 まいりてあるついでと候しかば・けさんに入るならば・定めてつみふかかるべし、 其の故は神は所従なり法華経は
02 主君なり・所従のついでに主君への・けさんは世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさき
03 とすべし、 かたがたの御とがありしかばけさんせず候、 此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・し
04 もべのゆのついでと申す者をあまた・をひかへして候、 尼ごぜんは・をやのごとくの御としなり、御なげきいたわ
05 しく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。
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 また、内房の尼御前のことは、お年をめされてお越しになり、気の毒に思われたけれども、氏神へ参詣するついでということであったので、お目にかかるならば必ず罪業が深くなろう。そのゆえは、神は家来であり、法華経は主君である。家来のところへ行くついでに主君を訪ねるというのは、世間でも恐れ多いことである。そのうえ、尼の身になったからには、まず仏を先とすべきである。あれこれの過(あやま)ちがあったので、対面しなかったのである。また、この尼御前一人に限ったことではない。その他の人々も、下部(しもべ)の湯のついで、という者を数多く追い返している。尼御前は親のような年齢であり、お嘆きのことについては心が痛んだけれども、この法義をお知らせしたいためだったのである。

しもべのゆ
 現在の山梨県南巨摩郡身延町下部にある温泉。富士川の支流である常葉川に流れこむ下部川沿いの地にある。富士川を挟んで、身延の大聖人の草庵からおよそ北東7㌔の位置にある。
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 内房の尼御前が氏神への参詣のついでに身延の日蓮大聖人を訪ね、面会したいと申し出たことについて、その本末をわきまえない不心得を正し、法華経を根本とする信心の基本姿勢を教えるために面会しなかったことを述べられている。
 内房尼御前は駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮市内房)の住人である。三沢殿とは何らかの縁戚関係にあったと思われる。
 「御としよ(年寄)らせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかども」と仰せのように、大聖人からみれば「をやのごとく」なる高齢の身で、訪ねてきた内房の尼に対し、それが氏神参拝のついでであったことから、そのまま対面したならばかえって尼の謗法の罪を重くするとの御配慮から、まことに気の毒とは思われながらも会わずに帰された。
 その理由は、第一に「神は所従なり法華経は主君なり」と仰せのように、仏法では神は独立した信仰の対象ではなく、法華経並びに法華経の持者を守護する働きをいう。つまり主君である法華経に対して、神は家来の立場であり、家来のついでに主君を訪ねるというのは、世間の道理にも背くことになるからである。
 第二に「尼の御身になり給いては・まづ仏をさきと」しなければならないゆえである。尼御前はすでに仏門に入って修行に励む身であり、当然のことながら仏を根本とすべきなのに、神を本とし仏をおろそかにするという本末転倒した信心の狂いをそこに見抜かれ、教誡されたのである。また尼御前のほかにも、下部温泉(山梨県南巨摩郡身延町下部)へ湯治にきたついでにといって訪れた人も多数あったが、いずれも追い返したとも述べられている。
 本意は「此の義」すなわち法華経が第一であるという正信の筋道を教えようとされたことにある。信心とは人生の根本の依処を定めるところから出発する。そこを誤るならば、正しい信心とはいえないし、正法の御本尊を受持していても、二の次に考えているようでは成仏はできない。尼御前の成仏を願われてこそ、このように厳しい態度をとられたのである。
 なお、本抄では示されていないが、立正安国論の神天上の法門に示されているように、一国謗法の日本の神社には神はいず、悪鬼・魔神の住処となっているのであり、尼が神社に参詣するということは、それ自体、自らに不幸を招く悪行なのである。ただし本抄をいただいた三沢殿や内房の尼御前の仏法への理解度、一宗弘通の初めであることを考慮されて、本抄の表現にとどめられたのであろう。
 内房尼だけでなく多数の人々が神社参詣を公然としている様子であり、五老僧らが、大聖人の教えを正しく知ろうとせず、我見を吹き込んでいたことが推察される。これがやがては大聖人滅後、地頭の波木井実長の謗法につながっていくのであり、日興上人が遺誡置文で厳格に神社参詣を戒められている背景がここにもうかがわれるのである。
 信心には厳格な気風で臨まれながらも、大聖人に会えずに下山した尼御前の落胆、消沈する心情を慮られる御本仏の大慈悲が惻々として伝わってくるが、空しく引き下った尼御前も、さぞかし惰性に流されていた我が身を深く省みたであろうことは、想像に難くない。

1490:06~1490:12 第六章ひさびさの音信を喜ぶtop

06   又とのは・をととしかのけさんの後そらごとにてや候いけん御そらうと申せしかば・人をつかわして・きかんと
07 申せしに・此の御房たちの申せしはそれはさる事に候へども・ 人をつかわしたらば・いぶせくやをもはれ候はんず
08 らんと申せしかば・世間のならひは・さもやあるらむ、 げんに御心ざしまめなる上・御所労ならば御使も有りなん
09 と・をもひしかども・御使もなかりしかば・ いつわりをろかにて・をぼつかなく候いつる上無常は常のならひなれ
10 ども・こぞことしは世間はうにすぎて・みみへまいらすべしとも・をぼへず、 こひしくこそ候いつるに御をとづれ
11 あるうれしとも申す計りなし、 尼ごぜんにも・このよしをつぶつぶとかたり申させ給い候へ、 法門の事こまごま
12 と・かきつへ申すべく候へども事ひさしくなり候へばとどめ候。
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 また、殿は一昨年であったか対面の後、根拠のない噂であろうが、御病気と言っていたので「人をやって聞いてみよう」と言ったところ、この御房たちが言うには「それはそうですけれども、人を遣わしたならば、かえっておかしく思われないでしょうか」と言ったので「世間の道理はそうであろう。現に御志は実直であるうえ、御病気ならば、お使いを寄越されるであろう」と思っていたが、お使いもなかったので、疎遠なふりをしながらも心配していたのである。そのうえ、無常は世の常であるけれども、去年や今年は世の中が特にひどく、お目にかかることができるとも思っていなかった。恋しく思っていたところにお便りがあり、嬉しさは申し上げようがないほどである。尼御前にも、このことを詳しく話し上げてください。法門のことは詳細に書いてお伝え申し上げようと思ったけれども、長くなるので止めておく。

 三沢殿とは一昨年対面した後、久しく消息もなく案じておられたことを述べられ、このたび便りがあったので心から喜んでいる旨を述べられている。
 特に三沢殿が病気との由を風の便りに聞かれ、見舞いの使者を出そうと思われた際、周囲の弟子達から「本人は幕府の目を逃れて、法華経のことで嫌疑を受けてはいけないというので病気ということにしてあるところへ使いが行ったら、かえって迷惑になるのでは」との進言があり、それを受け入れて見舞いを中止した旨を述べられている。
 それでも〝どうしているだろうか〟と心配され「こぞことしは世間はうにすぎて」と仰せのように、再び蒙古襲来の兆しに騒然とする世相のうえから、再び対面はおぼつかないのではと、恋しく思っていたところへ、三沢殿から突然の音信があったのである。「うれしとも申す計りなし」との御言葉に、ことのほかお喜びの御様子が拝される。

1490:13~1491:07 第七章亡国の悪法・真言を破折top

13   ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前にも申して候、 真言宗がことに此の国とたうどとをば・ほろぼして
14 候ぞ、善無畏三蔵.金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師.此の六人が大日の三部経と法華経との優
15 劣に迷惑せしのみならず、 三三蔵・事をば天竺によせて両界をつくりいだし狂惑しけるを・三大師うちぬかれて日
16 本へならひわたし国主並に万民につたへ、 漢土の玄宗皇帝も代をほろぼし・ 日本国もやうやくをとろへて八幡大
17 菩薩の百王のちかいもやぶれて・ 八十二代隠岐の法王・代を東にとられ給いしは・ひとへに三大師の大僧等がいの
18 りしゆへに還著於本人して候、 関東は此の悪法悪人を対治せしゆへに 十八代をつぎて 百王にて候べく候いつる
1491
01 を、 又かの悪法の者どもを御帰依有るゆへに一国には主なければ・梵釈・日月・四天の御計いとして他国にをほせ
02 つけて・をどして御らむあり、 又法華経の行者をつかわして御いさめあるを・あやめずして・彼の法師等に心をあ
03 わせて世間出世の政道をやぶり、 法にすぎて法華経の御かたきにならせ給う、 すでに時すぎぬれば此の国やぶれ
04 なんとす。
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 ただし、禅宗と念仏宗と律宗等の事は、少々前にも申し上げてあるが、特に真言宗がこの国と中国とを滅ぼしているのである。善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、弘法大師、慈覚大師、智証大師、この六人が大日の三部経と法華経との優劣に迷っただけでなく、三人の三蔵がインドから伝持したとして金剛界・胎蔵界の両界の説を作り出して惑わしたのを、三人の大師は騙されて日本へ習い渡し、国主そして万民に伝えたのである。
 中国の玄宗皇帝も代を滅ぼし、日本国も次第に衰えて、八幡大菩薩が百代の王を護るといった誓いも破れて、第八十二代の隠岐の法王が代を鎌倉幕府にとられたのは、ひとえに三大師の流れを汲む大僧等が祈ったがゆえに「還って本人に著きなん」となったのである。鎌倉幕府はこの悪法と悪人を対治したがゆえに十八代にわたって跡を継いで第百代の王まで護られるはずであったのを、また彼の悪法の者達に帰依したがゆえに、国には主がいなくなったので梵天帝釈天・日天月天・四天王が計って、他国に仰せつけて脅かしておられるのである。また、法華経の行者を遣わして諌めたのに、その諌めどおりに対冶せずして彼の法師等に心を合わせて、世間の政道と出世間の仏道を破り、ひどく法華経の敵になられている。すでに時がたったので、この国は滅びようとしている。
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05   やくびやうはすでにいくさにせんふせわまたしるしなり、あさまし・あさまし。
06       二月二十三日                             日 蓮 花押     ・
07     みさわどの
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 疫病は、まさに戦に先駆けて起こっている兆しである。嘆かわしいことである、嘆かわしいことである。
  二月二十三日             日 蓮  花 押
   み さ わ ど の

禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
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金剛智
 (0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空
 (0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
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弘法
 (0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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大日の三部経
 真言宗の立てる三部経のこと。大日経7巻・金剛頂経3巻・蘇悉地経3巻のことをいう。
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三三蔵
 「三蔵」とは経蔵・律蔵・論蔵のことであるが、人に対していう場合は仏典の翻訳者。三人の三蔵のことで善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵を「真言宗」では「三三蔵」とする。
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天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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両界
 真言宗の依経である大日経胎蔵界と金剛頂経金剛界曼荼羅。
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三大師
 宗派によって異なるが、ここでは、弘法大師・慈覚大師・智証大師のこと。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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玄宗皇帝
 (0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
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八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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百王
 『豊受皇太神御鎮座本紀』に神の託宣として「百王の鎮護孔だ照かなり」(続群1上ー46)とあり、百代の皇孫まで守護されるということが記されており、『立正安国論』が著されたのは、第90代亀山天皇の時であるから「百王未だ窮まらざるに」とある。また諌暁八幡抄には「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢(おわ)んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願破るるがごとし」(0587-10)とある。
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隠岐の法皇
 (1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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還著於本人
 法華経観世音菩薩普門品第二十五にある句で、「還って本人に著きなん」と読む。邪法によって相手を調伏すると、祈りが逆に還ってきて、自分が破れることをいう。また法華経の行者、あるいは正法を持つ者を謗り、害せんとする者は、かえって自らの身に害を受ける。
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梵釈
 大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
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日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
 四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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 当時、蒙古の再度の襲来が取り沙汰されるなか、幕府は盛んに真言僧に敵国調伏の祈禱を行わせていた。三沢殿は幕府の中枢に関係をもっていたことから、大聖人は真言が亡国の邪法たる所以を、中国、日本の歴史のうえから実例をあげて指摘されている。
「真言宗がことに此の国とたうどとをば・ほろぼして候ぞ」と仰せのように、真言宗が亡国の悪法であることは中国、日本の先例に明らかである。
 善無畏・金剛智・不空は三三蔵と呼ばれ、中国に真言密教を弘めた中心人物である。そして、中国から日本に真言密教を伝来したのが弘法・慈覚・智証の、いわゆる〝三大師〟である。弘法は日本における真言宗の開祖であり、慈覚・智証は比叡山延暦寺の第三代・第五代の座主で、天台宗に真言密教を取り入れ、理同事勝の邪義を構えた。
 まず善無畏は、インドからもってきた真言密教を中国へ弘めるにあたって、胎蔵界・金剛界の曼荼羅を、あたかもインドからもともとあったようにみせかけて作り、人々を誑惑してきたのだといわれている。弘法等の三大師は、それにすっかりだまされ、日本に習い伝えて、一国に弘めたわけである。
 玄宗皇帝が唐の世の衰亡を招いたのは、この真言の悪法に帰依したためであり、また我が国が平安朝中期以降、次第に衰えて八幡大菩薩の百王守護の誓いも破れ、第82代隠岐の法王が承久の乱で北条義時に敗れ隠岐へ流罪されたのも、真言の悪法で鎌倉幕府調伏の祈禱をしたためであると指摘されている。
 すなわち「還著於本人して候」と仰せのように、真言の悪法によって人を害そうとした結果、祈りが逆になって、自らの破滅を招いてしまったのである。
 それに対し、関東すなわち鎌倉幕府は、真言の悪法悪人を対冶したのであるから、82代の後を継いで、百代までの残り18代の間は八幡の誓願どおり守護されるはずであった。にもかかわらず、今度は鎌倉幕府自身「かの悪法の者どもを御帰依」するという愚を繰り返しているのである。
 それは、蒙古軍の襲来に対して、真言の僧らに命じて敵国調伏の祈禱を行わせている事実をいわれている。
 鎌倉幕府は初めのころは素朴で、京の公家等が重んじていた仏教の祈禱などに頼らず、合理的な実力主義を規範としていたが、体制が安定化するにともない、文化面でも京に劣らぬものを鎌倉に充実しようと志向するようになった。そこで建築家や彫刻師とともに仏教の高僧を招いて各宗の寺院を建立し、万事につけて種々の祈禱を行わせるようになった。いつしか、かつて京の朝廷を敗北に陥れた真言の悪法を、それと知らずに鎌倉方も取り入れ、その害毒に染まるにいたったのである。
 それゆえに、主を失った我が国に対し、梵釈などの諸天が計り、他国に仰せつけて責めさせているのだといわれている。
 また、一往の辺では、法華経如来寿量品第十六に「遣使還告」とあるように、釈尊の使いとして遣わされたのが日蓮大聖人であられる。その大聖人の三たびに及ぶ諌めにもかかわらず、幕府は法の正邪・勝劣を明らかにしないどころか、邪僧を崇重して、かえって大聖人に対し理不尽な迫害を重ねてきた。それは鎌倉幕府の治世の根本とした法典・貞永式目にも背き、また仏道をも破ることであるので「世間出世の政道をやぶり」と仰せになっている。
 大聖人は、このままでは日本は亡国の悲運に陥ることは確実であり、いま流行している疫病は、その亡国の大合戦の起こる前兆であると見抜かれ、幕府の愚かさを厳しく指摘されて本抄を結ばれている。

1487~1491    三沢抄(佐前佐後抄)2008:07月号大白蓮華より。先生の講義top

「一人立つ」勇気の継承 「師子王の心」で第六天の魔王を打ち破れ!

 戸田先生は、よく語られていた。
 「大きい宿命と戦い、人間革命するには、大きい難こそが、むしろ大きなバネになる。平坦な道を、ゆっくり歩いいて、宿命転換ができるわけはない」。
 難があればあるほど、偉大な境涯が開いていける。「三障四魔」が競い起こったならば、断じて恐れてはならない。
 「いよいよわが宿命転換の時が来た」「御書の仰せの通りだ」信心即智慧の眼で明らかに見抜くことだ。そして、一段と深い確信と勇気をもって立ち上がり、題目を唱え抜いて進んでいくことです。
 日蓮大聖人が「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-16)と仰せの通り、「前進するか、退くか」です。その中間はありません。また、「怖じ恐れて魔性に随ってしまうか、挑戦して確信を深めるか」です。その一念の違いがすべてを決定していく。
 大聖人自身、竜の口法難・佐渡流罪という大難に、莞爾として立ち向かわれた。
 大難と戦うことで、一人の人間の胸中に永遠の幸福境涯を確立される。そして、その一人を手本として万人救済の道を開くことができるのです。
 魔の本質は「奪功徳」であり「奪命」です。その手段は、「心の破壊」にある。成仏の道を歩もうとする心を破壊すること、これが魔の狙いです。ゆえに、最後まで信心を貫き、前進する心を固く持ち続ける人には決して魔がつけいる隙がなくなる。
 魔を寄せ付けない「強き心」を鍛え上げることこそが、真実の信心です。
 今回拝する「三沢抄」は、仏と魔との戦いである広宣流布の道を、どこまでも師とともに歩み通すべきことを教えられている御書です。
 創価三代の師弟が魔性と権力と戦った「7月」「第六天の魔王」を打ち破り、師弟を不二たらしめる「師子王の信心」を拝していきましょう。

11                                                設い末代の
12 凡夫・一代聖教の御心をさとり・ 摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば・第六天
13 の魔王・此の事を見て驚きて云く、 あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・ かれが我が身の生死をいづる
14 かは・さてをきぬ・又人を導くべし、 又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・
15 無色の三界の 一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、 各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・そ
1488
01 れに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・そ
02 れに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきと
03 せんぎし候なり。
-----―
 たとえ末代の凡夫が一代聖教の意を悟り摩訶止観という大事の御文の意を心得て仏に成るであろう状態になった時には、第六天の魔王はこのことを見て驚いて「ああ、とんでもないことだ。この者がこの国にいるならば、彼自身が生死を出離することはさておいて、また人を導くであろう。またこの国土を奪い取って、我が領土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろう」といって、欲界・色界・無色界の三界の一切の眷属を招集し、命令し「各各の能力にしたがって彼の行者を悩ましてみよ。それで駄目だったならば、彼の弟子檀那および国土の人々の心の中に入り代わって、あるいは諌め、あるいは脅してみよ」と言い、「それでも駄目だったならば、われ自ら降りていって国主の身心に入り代わって脅してみれば止められないことがあろう」と評議するのである。 たとえ末代の凡夫が一代聖教の意を悟り摩訶止観という大事の御文の意を心得て仏に成るであろう状態になった時には、第六天の魔王はこのことを見て驚いて「ああ、とんでもないことだ。この者がこの国にいるならば、彼自身が生死を出離することはさておいて、また人を導くであろう。またこの国土を奪い取って、我が領土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろう」といって、欲界・色界・無色界の三界の一切の眷属を招集し、命令し「各各の能力にしたがって彼の行者を悩ましてみよ。それで駄目だったならば、彼の弟子檀那および国土の人々の心の中に入り代わって、あるいは諌め、あるいは脅してみよ」と言い、「それでも駄目だったならば、われ自ら降りていって国主の身心に入り代わって脅してみれば止められないことがあろう」と評議するのである。  
-----―
04   日蓮さきより・かかるべしと・みほどき候いて末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候いけり     ・
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 日蓮は以前から、そのようであろうと見て取って、末代の凡夫が今生に仏に成ることは大変な事である。

「真実の仏法の師」とは「第六天の魔王」に勝ちきる人
 「三沢抄」の冒頭では、大聖人が見抜かれた「天子魔」すなわち「第六天の魔王」の本質を分かりやすく示されています。
 これは、大聖人が相次いで大難を受けられたのは、第六天の所作によることを明かされ、魔王に勝ち切った人こそが末法における真実の「仏法の師」であることを示されるためです。
 「三沢抄」は、建治4年(1278)2月23日、駿河の国の富士方面にある三沢に領地を持ち、住んでいた三沢殿に送られた御手紙です。
 本抄によると、この頃、三沢殿と大聖人とは音信が途絶えがちだったようです。
 これは、三沢殿の信心が弱かったことが原因なのか、あるいは、駿河国の特殊性のゆえに大聖人が御配慮された上でのことか、どちらも考えられます。
 駿河の地は、鎌倉幕府にとって交通・軍事の要所であり、北条一門各氏の直轄地が多く置かれていたところでした。幕府から警戒されていた大聖人一門にとって、慎重な配慮を要する地域でした。
 このような地域の特殊事情に加えて、本抄御執筆の建治4年の時点で、すでに熱原のへの弾圧が始まっており、翌年には熱原法難が頂天を迎えます。
 本抄では、このような時期と地域性にかんがみて、三沢殿が幕府から迫害されてはならないと、大聖人が細心の御配慮を払われていることがうかがえます。
 しかし、久しく音信が途絶えていた三沢殿から使いがあり、大聖人は、この機会に、三沢殿の信心を深めるためにいうべきことを言っておかなければならないと考えられて、本抄を認められたと拝することができます。
 本抄では、三沢殿に対して、以下の3点を明かされています。
 第1に、大聖人がこれまで大難を受けてきたのは第六天の魔王との戦いに他ならないことを詳述し、魔王に勝ち切られた大聖人の御境涯を示されています。
 これは、仏法における難の本質を示されて、いかなる人が「真実の仏法の師」であるかを教えられていると拝されます。
 また、熱原の不穏な状況をかんがみ、三沢殿自身が難に耐える強き信心にたてるように、妙法の真髄を教えられているとも拝することができます。
 仏法の慈愛は苦しんでいる人をどこまでも包み込み、守っていく母の如き愛である。とともに、一人の人が自らの幸福を勝ち取っていけるよう、自立を促す限愛でもある。
 大聖人がここで、御自愛の厳しい戦いを教えられているのは、まさに父の限愛にあたると拝されます。
 第2に大聖人が説かれた法門に、いわゆる「佐前・佐後」の立て分けがあることを教えられています。すなわち、仏の教えに方便の爾前経と真実の法華経の立て分けがあるように、大聖人が佐渡流罪以後に説かれた法門は、それ以前の法門とは大きく異なる事を心得ていくよう強調されています。
 大聖人の御境涯を教えられたのが「人」の面であるのに対し、「佐前・佐後」を教えられているのは「法」の面であるといえます。
 佐後すなわち佐渡流罪以後とは、厳密にいえば大聖人が第六天の魔王との闘争に勝ちきった竜の口の法難の発迹顕本以後と拝することができます。佐前の法門と佐後の法門の最も顕著な違いは「御本尊」を顕されたかどうかという点にあると拝察できます。御本尊は、大聖人が、成就された尊極なる凡夫即極の御境涯を万人の成仏の明鏡として顕されたものです。すなわち、末法の全民衆が自身の尊極の生命に目覚めていくための明鏡であり、手本であられます。この御本尊こそ、末法の時に一閻浮提に流布すべき大法であることはいうまでもありません。
 大聖人は、三沢殿に佐前・佐後の違いを教えられ、この一閻浮提流布の大法に縁したことを「頼もしく思いなさい」と激励されています。
 第3に、今、幕府が蒙古調伏のために用いている真言宗による祈禱は、かえって亡国の悪法であることを、特に現証を示して、明言されています。
 これは、三沢殿に幕府の宗教的な過ちを教え、日本が亡国の危機に直面していることに注意を促されているのです。仮に真言宗と公場対決があったとしても、信心を揺るがないように備えさせる意味があると拝することができます、これら3点の内容は「開目抄」をはじめとして佐渡流罪以後に大聖人が著された御書に随時、述べられてきたものです。これらは、軽々に人に説くべきではない重要な法理であるがゆえに、幕府の影響を強く受ける立場である三沢殿に対しては、詳しいことは明らかにされてこなかったと拝察せきます。
 ところが、駿河の国の門下に法難の影が忍び寄ってきているこの時点に到り、より深い信心に立たせることこそが、慈悲である。だからこそ、大聖人の仏法における最重要のポイントを簡潔に教えられたと拝されるのです。
信心は三障四魔との戦い
 さて、大聖人は本抄で「第六天の魔王」の本質について詳論されています。
 本抄にはまず、仏法を学ぶ人は多くても仏道を成就する人が少ない理由として、①正しい師匠にめぐりあうことが難しいこと②正しい実践には必ず三障四魔が競い起こることの2点を示されています。
 影が身に添うように、雨には雲があるように、この正法を実践すれば必ず三障四魔が出来します。
 三障四魔の中でも、四魔の最後の「天子魔」すなわち「第六天の魔王」は最強です。本抄では、煩悩障・業障・報障の三障、および煩悩魔・陰魔・死魔の三つの魔をかろうじて乗り越えたとしても、天子魔にやぶられてしまえば仏になることはできないと仰せです。
 戸田先生は、本抄の講義でこう語られました。「死魔ぐらいの克服は、ほんとうの信心があればできるのです。生命も延ばせるのです。なん人も私がみております。…死魔には勝てる。もっとも恐ろしいのは最後の天子魔です。退転する人の姿をみますと、だいたいにおいて天子魔のためです」
 戸田先生は常に大確信のご指導をされました。「信心さえあれば、死魔をも克服し、更賜寿命ができる」とは、戸田先生自ら証明されたことです。それだけに、第六天の魔王には本当に注意しなさいと、戸田先生は一貫して叫ばれました。
 まさに、最後の天子魔こそ、成仏への最大の強敵となるのです。それは、なぜか、一言で言えば、天子魔の正体は、自分自身の生命の中にある「元品の無明」だからです。
元品の無明が第六天の魔王に
 大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)
 「元品の無明」とは、わが生命が妙法の当体でることへの無知であり、そしてまた、すべての生命が妙法の当体であることへの無知です。さらには、宇宙全体が妙法の当体であることへの無知であると言うこともできます。
 この根源的な無知は、さまざまな不幸をもたらす種々の迷いの根本であり、また、あらゆる悪の働きを生む暗い衝動となって現れる。最も認識しがたい迷いであり、正体不明であるがゆえに、知らないうちに、私たちの生命において悪の力を持つようになる。また、あらゆる生命に具わるものであるがゆえに、自他の生命に暗い衝動を現します。
 このように最も見分けがたく、しかも、あらゆる生命を悪の力で自在に操る強力な魔性であるがゆえに、「他化自在天子魔」といい、「魔王」というのです。
 しかし、この元品の無明は、強力な悪の力を持っているとはいえ、その正体は、結局は「無知」であるがゆえ「智慧」によって必ず打ち砕くことができるのです。
 その智慧をあらわした人が「仏」です。
 その最極の智慧を教える法が「正法」です。
 釈尊の法華経や日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経が、この「正法」の意義をもつことは言うまでもありません。
 私たちは、この正法を信ずる「信」をもって仏の「智慧」に代え、凡夫でありながら、元品の無明を打ち破っていくことができます。すなわち、元品の無明を破る力は「智慧」であり、「信」であり「心の力」にほかならないのです。
 本抄では、第六天の魔王がいかに恐ろしく、いかに手強いかを分かりやすく説かれております。そして、第六天の魔王を打ち破っていく力は「心の力」であることを、大聖人御自身の実践を通して示されています。
 その中で、私たちの住む娑婆世界は、第六天の魔王が支配する領土であるといわれています。これは、人間の欲望的・精神的・物質的な営みによって作り上げられた現実の社会が、元品の無明によって苦悩の流転をしているということです。
 この第六天の魔王が一番、嫌がる事は、何か、それは、我が領土の中に仏の勢力が拡大して、所領を奪われることです。その一人にとどまらず、大勢の民衆が魔王の呪縛から解き放たれることになる。
 そこで第六天の魔王は一切の眷属を集めて命令します。“それぞれの力の限り、その正法の行者をなやましてみよ”と。この魔王の眷属は、いわゆる「十軍」のことです。すなわち、欲、憂愁、飢渇、渇愛、睡眠、怖畏、疑悔、瞋恚、利養虚称、自高篾人という、元品の無明から生れる様々な煩悩や迷いが、仏道修行を妨げる魔軍として次々と押し寄せてくるというのです。
 そして、正法の行者自身が、これらの魔に食い破られることがなければ、今度は、正法の行者の弟子・檀那たち、あるいはその他の国土の人々の身に入って、行者を迫害せよと魔王は命じると言われています。これは、他の人々の生命の中にある元品の無明が魔の働きをおこすことです。
 釈尊の時代の提婆達多や善星比丘、あるいは阿闍世王や大聖人の時代の三位房や名越の尼らは、この魔軍にやぶれたがゆえに、師敵対に堕したといえます。日興上人の師弟不二の信心が分からなかった五老僧も、結局、大聖人に対する師敵対に陥りました。
 大聖人は、三位房などが退転・叛逆していった原因は「臆病」「慢心」「貧欲」「不信」にあると洞察されています。
 彼らはさまざまに、自らの利養虚称や自高蔑人をはじめ、怖畏、懺悔、瞋恚のどの心のゆえに、清純な信心の世界にいられなくなった。端的に言えば、信心そのものが破られてしまった。しかし自分の敗北を認めることが耐えられないゆえに、正しく実践している者に対して怨嫉し、かえって誹謗を重ねていったのです。
 近年でいえば、牧口先生、戸田先生のもとを去り、あまつさえ恩師を誹謗した輩もまったく同じでした。
 昭和25年(1950)頃、戸田先生の事行が一番大変な時のことです。それまで戸田先生のことを師匠と言っていた人間が一転して「戸田君、戸田君」などと蔑み、批判していた姿を私は目の当たりにしました。
 人間は何とあさましいことか。わたしは、これが無明に支配されやすい人間の世界の一つの実相であることを痛切に思いしらされました。とともに、恩師に怨をなす人間とは断固、戦うことを心に固く誓いました。
 人間にとって最も根幹となる恩師にさえ、違背していく、ここに、第六天の魔王に食い破られた人間の弱さが端的に現れています。「師弟の道」を決して外れないと決意してこそ、そうした魔性の“奥の奥”まで如実知見し、喝破できるのです。
 私は、恩師に報いる生き方を示し切ることを心に定め、実践し抜いてきました。その実践があったればこそ、無明を打ち破るところに現れる生命の真の強さを、身をもって知ることができたと思っています。今日、私たちが「人間主義の宗教」を確信をもって主張しその潮流を全世界に広げることができたのも、師弟の道を貫き、魔性との戦いを勝ち抜いてきたからであると信じます。
 仏法の究極は人間学です。第六天の魔王との壮絶な精神闘争の中で、偉大な人間性を開き、確立していく「人間のための宗教」です。
 さて本抄の御文に戻れば、魔王の眷属である魔軍が正法の行者を退転させることに失敗した後は、いよいよ、魔王自身が、天界から降りて、国主の身に入り、正法の行者を弾圧するとされています。すなわち「権力の魔性」の発動です。
 「権力の魔性」とは、何か、あらゆる生命が尊極の妙法の当体であることを否定する「元品の無明」が現す究極の悪の働きです。具体的に言えば、人間生命を見下し、悪の力を行使させる手段として、他者をほしいままに利用する働きといってよい。
 「権力の魔性」は無明の発動によって形成された現実世界に瀰漫する魔性が、最も強力にあらわれた形態であるといえます。
 魔王が国主の「身に入る」ということは、元品の無明の悪の働きが国主の生命の中心に座ると言うことです。そして、国主を中心にして成り立っているその社会の力が、すべて無明の迷妄の悪の働きに基づいて稼働するようになるということです。要するに、「狂った生命」で社会が動いていくということです。これを「悪鬼入其身」と断じられ「鬼神乱る」とも言われたのです。
「日蓮一度もしりぞく心まし」
 本抄では第六天の魔王による大難は、忍び難いことを示された後、大聖人自身の大闘争に言及していかれます。
 すなわち、ひとたび広宣流布に立ち上がれば、こうした第六天の魔王は必ず出現する。大聖人は、立宗の前にそのことを深く悟られたことが述懐されています。
 この仏法を説き弘めれば、必ず大難がある。釈尊の時代よりも「百千万億倍」も大きな大難があることは間違いない。しかし、この仏法を知っていながら説き弘めなければ自身が無間大城に堕ちることは疑いない、と。
 そして大聖人は自らの身命を惜しむ心を捨てて、民衆救済の大道に立ち上がられたのです。その時にあたって、大聖人が御決意された重要な点があります。
 それは、「この人生でいかなる大難にも退かない心であるならば、説き弘めよう」との御覚悟であられました。“いかなることがあっても、一歩も退かない”と大聖人が深き誓願に立たれたからこそ、末法万年尽未来際にわたる民衆仏法が開幕したのです。
 そして、本抄では、その通りに大難の連続であったが、今、いささかの不審もなく、一点の悔いもなく、大満足の境涯であられることを宣言されています。
 私たちは、ここに第六天の魔王を打ち破る真髄を拝することができます。
 それは「一人立つ」信心です。
 他の誰かではない。自分が一人立ち上がり、大難を受けきっていくという誓願があって、初めて仏法は民衆に広まるのです。
 「一人立つ」信心とは、「不退の信心」せす。いかなる障壁があっても、絶対に前進してみせるとの覚悟がなければなりません。
 たとえ思わぬ困難や苦境が押し寄せてきたとしても、歯を食いしばってふみこたえ、決して負けない、そして、魔王の力が尽きるまで、踏み応えることが、そのまま次の前進の第一歩となる。どんなことがあっても勇み立って前へ進む、障害に遭うたびに頑固な度を増す波浪のように、さらに生命力を増していく、その「勝ち抜く心」こそが、そのまま魔軍に対する勝利を決定づけるのです。
 大聖人は、いかなる魔をも必ず破ることができることを自らの姿で示してくださった。そして、その成仏の道を歩む不二の弟子が出現することで広宣流布の進むことを教えてくださったのです。
 「日蓮一度もしりぞく心なし」と仰せの通り、大聖人は、第六天の魔王との闘争にあって、一度も退く心をもたれなかった。
 そして「権力の魔性」の発動であり、また「死魔」の跳梁でもあった竜の口の法難においても、大聖人は堂々と勝利なされた。
 大聖人は「竜の口までもかちぬ」と仰せです。これは、一人の人間として第六天の魔王との究極の闘争に勝ちきった、との真実の勝利宣言であられる。
 この勝利について「今は魔王もこりてや候らん」とも言われている。これが重要です。自在の魔性を発揮する魔王すら懲りたということは、大聖人お一人だけが勝利されたということではなく、元品の無明を打ち砕く真実の智慧の道を後世の人々に残し得たということであると拝察したい。
 それは御自身が亡くなった後に、魔王の残党が兵を起こすかもしれないが、すでに大多数は大聖人に降参したことは間違いないと仰せになっているともうかがえます。
 実にありがたい御本仏であられます。
 では、大聖人が残された、元品の無明を打ち破る真実の智慧の道とは何でしょうか。それが「人法一箇の「御本尊」であると拝したい。佐前と佐後のこの根本的な違いは、この「御本尊」をあらわされたことにあるのです。

07   又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、         ・
-----―
 また法門のことについては、佐渡の国へ流される以前の法門は、ただ仏の爾前経と思いなさい。
-----―
10   而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、 我につきた
11 りし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・ さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、 此れは仏より
12 後迦葉.阿難・竜樹.天親・天台.妙楽・伝教.義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口
13 より外には出し給はず、 其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆ
14 へなり、 日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ
15 給うまでまづ序分にあらあら申すなり、 而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出で
16 て後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、 此の時には正像の寺堂の仏像・ 僧等の霊験は皆きへうせて但此の
17 大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし。
-----―
 しかしながら、去る文永八年九月十二日の夜、竜の口において頚をはねられようとした時から後は、私についてきた人達に本当のことを言わないでいたのではかわいそうだと思って、佐渡の国から弟子達に内々に申し上げた法門がある。これは仏以後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台大師・妙楽大師・伝教大師・義真等の大論師や大人師は知っていても、しかも心の中に秘され、口より外には出されなかったものである。その理由は仏が制止して「私が入滅の後・末法の時代に入らなければ、この大法は言ってはならない」と言われたからである。日蓮はその御使いではないけれども、その末法の時にあたっているうえ、思いがけずにこの法門を悟ったので、聖人が出現されるまで、まず前ぶれにあらあら説くのである。しかしながら、この法門が出現するならば、正法時代や像法時代に論師や人師の説いた法門は、みな日が出たのちの星の光のようなものであり、巧みのあとに拙さを知るようなものとなろう。この時には正法時代や像法時代の寺堂の仏像や僧等の利益はみな消え失せて、ただこの大法だけが一閻浮提に流布するであろうと説かれている。あなた方はこのような法門に宿縁ある人なのだから、頼もしく思われるがよい。

人類救済の新たな大法興隆
 「佐前・佐後」の原理を示された有名な一節です。
 ここで大聖人は第六天の魔王に勝利して発迹顕本されたゆえに、いよいよ人類救済の大法を弘通されることを門下に宣言されています。
 大聖人が弘められた南無妙法蓮華経の大法自体は、いついかなる時に説かれても永遠の真理です。そのうえで、大聖人が佐渡で、人本尊と法本尊を開顕された意義はあまりにも大きい。この大法を弘めるべき時が到来した!
 これは大聖人自身が、実質的に末法の教主であることを明かされている一節であると拝せられます。
 そして、大聖人が弘通する法門の意義を宣言されています。
 大聖人の仏法は太陽の仏法です。この仏法が出現すれば、これまでの正法・像法時代の仏法は、いずれも太陽が昇った後の星の光のようなものになる、と仏法の興廃を断言されています。
 太陽は万人を平等に照らします。太陽の光には力があります。闇を破ることができます。
 闇が深い時代にこそ、人間の持つ無限大の可能性を開く宗教が必要となります。
 また、闇が深い時代だからこそ、一切の魔障を打ち破り、元品の無明である第六天の魔王の働きに勝利することのできる力強い宗教が不可欠になるのです。
 大聖人の仏法は、誰人も尊極な生命を持ち、誰人も太陽の如く輝いていくことができることを説き明かされた宗教です。
 世界は今、人間主義の仏法を待望しています。いよいよ日蓮仏法が人類史の晴れ舞台に旭日の如く躍り出る時代を迎えたのです。
 大聖人は、「私とともに戦ってきたあなた方こそ、この法門に宿縁ある人たちであり、頼もしく思っていきなさい」との一節で、この一段を結ばれています。
 どこまでも門下を大切にされるのが、日蓮大聖人であられます。
 この大聖人に直結しているのが創価の世界です。一切の魔性と戦い混迷するする世界を希望と蘇生の妙法の力で照らしゆく、我が地涌の勇者たちに、栄光あれ!幸福あれ!勝利あれ!と、私は祈り、叫ばずにはおられません。

1491~1492    十字御書top
1491:01~1491:03 第一章 元日に際しての御供養を賞でるtop

十字御書
01   十字一百まい・かしひとこ給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてな
02 す人は月の西より東をさしてみつがごとく・ 日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にも
03 あいせられ候なり。
-----―
 蒸餅百枚、果物一籠を頂戴しました。
 正月の一日は日の始めであり、月の始めであり、年の始めであり、そして春の始めであります。この正月一日を正法をもって祝う人は、月が西から東に向かうにしたがって満ちるように、また日が東から西へ渡っていくにしたがって明らかになるように徳も勝り、また人々にも愛されるのです。

十字
「じゅうじ」ともいった。蒸餅のこと。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。十字の呼称については晋書の列伝第三巻に「蒸餅の上に十字を作坼せざれば食せず」とある。
―――
かし
 常食以外に食べる甘味などのある嗜好品。現在は小麦粉などに砂糖や餡の類を加えたりして造ったものが多いが、当時は果物であった。
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ひとこ
 籠は、かごのことで、竹や植物の蔓などで編んで造った器の総称。
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 本抄は卷尾に「正月五日 をもんすどのの女房御返事」と記されているように、重須殿の夫人が身延の日蓮大聖人のところへ、年の初めに蒸餅や果物等を御供養申し上げたことに対する御返事である。
 この御手紙をいただいた重須殿女房は、富士郡重須郷(静岡県富士宮市北山)の地頭・石河新兵衛能助の妻であり、南条時光の姉にあたる人である。日興上人の折伏によって入信し、早くから夫とともに純真な信心を貫いたものと思われる。
 今の北山本門寺は、その子石河孫三郎能忠が開基檀那となって建立し、日興上人をお迎えしたものである。
 本抄の執筆年次は明らかではないが、弘安4年(1281)正月5日に身延でしたためられたものと推定されている。
 なお、本抄の御真筆は大石寺に現存している。
 さて、本抄では初めに、正月の初めに大聖人に御供養申し上げた重須殿女房の信心の真心を賞でられ、その信心によって必ず福徳が増していくであろうと喜ばれている。
 正月の一日、すなわち元日のことを昔から「元三」と呼びならわしてきた。つまり「元三」とは「年・月・日の三つの元」という意味である。本抄にも「日のはじめ月の始めとしのはじめ」と仰せのように、「元」が三つ重なることをいうのである。
 なお「元三」には、正月一日から三日までの三日間を指すこともある。上野殿御返事に「元三の御志元一にも超へ」(1562)と仰せの御文は正月三日をさしている。
 ともかく、正月の一日は年・月・日の初めであり、さらに春の初めである。このように一年のうちで最も大切な日である元日を大切にして、信心をもってもてなす人の功徳がいかに大きいかを示されている。
 すなわち重須殿の夫人が元旦を喜びをもって迎え、大聖人に真心の御供養を申し上げたことは、自身の福徳をますます豊かにするとともに、人々からも慕われる源泉になっていくと仰せられている。
 そして、ちょうど月が一夜ごとに、新月・三日月から満月へと満ちていくように福徳が増し、また太陽が朝、東から出て西へと移りながら万物に光と熱を恵み、人々から慕われるように、重須殿の夫人もあらゆる人々から愛され、慕われていくであろうと励まされている。

1491:04~1491:08 第二章 自身の内に地獄と仏が存するを示すtop

04   抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・ 或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、
05 しかれども委細にたづね候へば 我等が五尺の身の内に候とみへて候、 さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあ
06 なづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、 譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし、 仏と
07 申す事も我等の心の内にをはします・ 譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、 我等凡夫はまつげのち
08 かきと虚空のとをきとは見候事なし、 我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ、
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 さて、地獄と仏とは、どこに存在するのかと探究したとき、あるいは地の下にあるという経文もあり、あるいは西方等におられるという経もあります。しかしながら、詳細に探究してみると、私達の五尺の身の内に存在すると説かれています。そんなふうかもしれないと思われることは、私達の心の中に父を侮り、母を疎かにする人は、地獄がその人の心の中にあるということです。たとえば、蓮の種の中に花と実とが見られるようなものです。仏というのも私達の心の中にいらっしゃるのです。たとえば、石のなかに火があり、珠の中に財があるようなものです。私達凡夫は、まつげが近くにあるのと虚空が遠くにあるのとは見ることができません。私達の心の中に仏がおられるのを知らないでいたのです。

地の下と申す経文
 大毘婆沙論百七十二には「問う、地獄は何処に在りや。答う、多分は此の贍部洲の下に在り」とあり、大乗義章巻八末には「若し正く之を解せば、地獄と言うは処に就いて名づくるなり。地下の牢獄は是れ其の生処なり。故に地獄という」とある。
―――
西方等と申す経
 阿弥陀経には「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽と曰う」と、阿弥陀如来の住する西方浄土のことが説かれている。また、東方には薬師如来の浄瑠璃世界がある等ともされている。
―――――――――
 重須殿女房の御供養の志を讃えて、地獄といい、仏といっても、すべて自身の生命の中にあることを教示されている。当時、一般的には、地獄界は地の下の深い所にある世界であり、また仏界も、西方十万億土に極楽浄土がある等という、爾前経の説いたイメージが定着していた。
 地獄界を「地の下にある」として詳しく説いたものに、大毘婆沙論や俱舎論等がある。俱舎論巻十一には「此の下、二万を過ぎて、無間あり。深さと広さと同じ。上に七奈落迦あり」と、閻浮提の地の下、二万由旬を過ぎた所に無間地獄があり、その上、つまり地の下一千由旬から一万九千由旬の間に七大地獄が存在するというのである。
 また、仏の世界については、例えば、阿弥陀経に「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽と曰う」とある阿弥陀仏の西方浄土は最も広く知られた仏土であった。その他、薬師如来の東方浄瑠璃世界をはじめ、十方に仏土があるとされたが、この娑婆世界は苦しみに満ちた穢土であるとした点は共通であったといえる。
 こうした当時の人々の通念に対して、大聖人は、これらの教説は、方便として説かれた仮の教えに過ぎず、真実は「委細にたずね候へば我等が五尺の身の内に候」と、地獄界も仏界も本来、凡夫の生命に具備していると示されているのである。このことを説き明かした経典が法華経であり、この法理を十界互具という。すなわち、十界互具とは、十界のいかなる衆生にも十界が具わっているということであり、人界の我々の内に十界すべてが具備しているということなのである。
 そして、上野殿御家尼御返事にも「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり」(1504-09)と、このように十界を具えている自身の生命を正しく覚知することが成仏であると教えられている。
 我々の内に地獄があるという例として、本抄では「我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし」と述べられている。
 一般的にいって、この人生において、最も大きい恩を受けているのは、父母からである。なぜなら、この世の生を与えてくれたのが父母であり、生命こそ至高の宝だからである。その最も大きな恩を受けている父母を侮ることは、自分の生命を最も深く傷つける行為であり、地獄の苦しみを招かずにはいないのである。地獄のなかでも最極である無間地獄の業因として、殺父、殺母等の五逆罪が挙げられるのは、このためである。
 しかも、父母を侮るという行為は、死後に堕地獄の果報を招くというにとどまらず、法華経の法理に照らしてみれば、侮っているその心の中に、すでに地獄がある。つまり、地獄の生命が父母を侮るという行為をとらせているのであり、また、侮るという行為をとっている瞬間に、地獄の苦を感じているのでもある。これを譬えて、蓮の種の中に、花と実とがその姿をあらわしているようなものであると仰せられている。花は因、実は果という関係にあるが、侮る行為は、地獄界の因であるから〝花〟であり、同時に地獄の苦をすでに感じているのであるから〝菓〟であり、その〝花〟と〝菓〟が、種の中に同時に見えるようなものであると述べられている。
 次に、我々の心の内に仏があることについては、ただ「仏と申す事も我等の心の内にをはします」と仰せられ、さらに「譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし」と譬喩を挙げられ、その潜在性を指摘されている。石の中に火ありとは、火打ち石の例である。珠の中に財とは、宝石の経済的価値である。石は火打ち金をぶつけ合わせることによって火花を生ずる。宝石は磨かれ、市場に出されて値がつけられる。本来、僭在しているが、縁にあって顕在化するのである。我々の内なる仏界の生命も同じである。正法に巡りあい、修行することによってこそ、顕れるのである。
 ただ、本来、生命の内にある仏性を、ちょうど、自分のまつげが、直接には自分の目で見ることができないように、自分の心の内という近くにあるにもかかわらず、凡夫は知ることができないでいるのである。しかし、自分のまつげも、鏡に映せば見ることができる。同様に、御本尊を明鏡として拝する時、我々は自らの仏性を悟ることができるのである。

1491:08~1492:05 第三章 凡夫に仏界を具すを譬喩で示すtop

08                                               ただし疑ある
1492
01 事は我等は父母の精血 変じて人となりて候へば三毒の根本婬欲の源なり、 いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い
02 候へども・又うちかへし・ うちかへし案じ候へば其のゆわれもやとをぼへ候、 蓮はきよきもの泥よりいでたり、
03 せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、 さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、 やうきひは見めよき
04 もの下女のはらよりむまれたり、 月は山よりいでて山をてらす、 わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわい
05 は心よりいでて我をかざる。
-----―
 ただし、疑問に思うことは「私達は父母の精子と卵子が変じて人間となったのであるから三毒の根本であり、婬欲の源である。どうして仏がおられることがあろう」と疑問に思うのだけれども、また繰り返し繰り返し考えてみると、その道理もなるほどと思われます。蓮は清らかなものですが、泥の中から生え出ます。栴檀は香りのよいものですが、大地から生じます。桜の花は趣のあるものですが、木の中から咲き出ます。楊貴妃は美人ですが、身分の低い女性の腹から生まれています。月は山の端から出て、山を照らします。禍は口から出て身を破ります。幸いは心から出て、自身を飾るのです。

三毒
 善根を毒する煩悩で貪瞋癡の三つのこと。貪とは貪欲・貪愛・むさぼり愛すること、瞋とは瞋恚・いかりのこと、癡とは愚癡・無知・愚かなことをいう。大智度論巻三十一には「三毒は一切煩悩の根本たり」とあるように、衆生を迷わせる一切の煩悩の根本であるとしている。
―――
せんだん
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のこと。センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は黄白色で芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬の広きにわたって伊蘭の悪臭が消えるとある。
―――
やうきひ
 (0719~0756)。中国・唐の第六代皇帝・玄宗の寵妃。はじめ玄宗の子・寿王瑁の妃であったが、玄宗に見いだされて貴妃となった。美人で歌舞に優れ、聡明であったため玄宗の寵愛を一身に受けた。その関係で楊氏一族は高位高官に就いて権勢を誇り、玄宗は政治を顧みなかったので、国政は乱れて人々の反感を買った。そして、楊氏打倒を掲げて安禄山の乱が起こり、逃げる途中で貴妃は殺された。
―――――――――
 貪・瞋・癡の三毒の根源ともいうべき凡夫の生命に、尊極の仏界が具わるわけがないという疑問を設けられ、分かりやすい譬えをとおして解明されている。
 まず凡夫の生命が三毒の根本であることは、始聞仏乗義にも「我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり」(0983)と述べられている。
 また摩訶止観巻七には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以て体質と為す」とある。
 ここに赤は母の血、白は父の精という。つまり卵子と精子のことを指すと思われる。
 この赤白二渧が父母の三毒、婬欲によって和合する瞬間、中有身すなわち識がそこに顕在化し、人間生命の誕生に至るのである。ゆえに凡夫の身は、三毒の源といわねばならないのである。
 しかし、そのような凡夫の生命に本来仏界が具わっており、この凡夫の生命から仏界が涌現することを、さまざまな譬喩をもって教示されるのである。蓮、栴檀、桜、楊貴妃は仏界の生命にたとえられ、泥、大地、木、下女の腹は三毒強盛の凡夫の生命をたとえられている。泥沼の中から浄らかな蓮の花が生ずることを思えば、三毒強盛の凡夫の生命から、清浄な仏の生命が生ずることも信じられるではないかと仰せられるのである。
 そしてさらに、月が山から出て山を照らすように、凡夫の生命の中から顕れた仏界はその人の凡夫としての生命を美しく輝かせることを教えられている。すなわち煩悩が即菩提と転ずるのであり、その人のもっている特質が、迷いの凡夫のときは短所であったのが、逆に長所となって生きてくるということである。
 また、月が山の端から出でて山を照らすように、自身の意業が口業や身業となってあらわれ、我が身に幸福をもたらしたり、逆に災難をもたらしたりするのである。
 憎悪や怨みの心で言ったこと、身に行ったことは自分の生命に悪業を刻み、やがて自身を苦しめる果報を招き寄せるのである。
 人を思う慈悲の心、正法を信受する正義の心で言ったこと、行ったことは善根となって生命に刻印され、やがて幸福なる果報をもたらすのである。

1492:05~1492:12 第四章 重ねて法華経供養の功徳を述べるtop

06   今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと.をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ.雪山のせ
07 んだんのひらけ・ 月の始めて出るなるべし、 今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよ
08 せぬ、 此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・ さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずる
09 もの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだ
10 んに・かをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし。
11       正 月 五 日                    日 蓮 在御 判
12     をもんすどのの女房御返事
-----―
 今、正月の始めに法華経を供養しようと思われる御心は、木から桜の花が咲き、池から蓮のつぼみが出、雪山の栴檀の双葉が開け、月が始めて出るようなものでしょう。今、日本の国は法華経を敵として、禍を千里の外から招き寄せています。このことから考えてみると、今また、法華経を信ずる人は幸いを万里の外から集めることでしょう。影は体から生ずるものであり、法華経を敵とする人の国は、体に影が付き添うように禍がくるでしょう。法華経を信ずる人は、栴檀によい香りが備わっているようなものです。またまた、申し上げましょう。
  正 月 五 日            日 蓮  在 御 判
   重須殿の女房御返事

雪山
 インド北部にあるとされる山。常々雪を冠しているところから、この名がある。
―――――――――
 一年の初めにあたって、信心の真心をもって法華経に供養しようとの心を起こしたことの尊さを、先の譬喩を用いて称賛され、それは依報のうえにも反映されて、幸いを万里の外から集めるであろうと、その福徳の大きいことを教えられている。
 特に、この依報への反映については、法華経を信ずる人と敵対する人とを対比させて、謗法の生命が禍を「千里の外よりまねきよせ」ているのに対し、正法を信ずる人は幸運を「万里の外よりあつむべし」と述べられている。
 つまり、法華経を誹謗すれば、それが業因となって、あらゆる環境条件から災難を招き寄せてしまうのである。逆に、法華経を信ずる心は、すべての環境を諸天の加護に変え、その生命に幸運をもたらすのである。
 このように、功徳も禍も、自身とは関係なしに偶然に受けるものではなく、すべて本来、自らつくりだした業因や福徳の反映にほかならないのである。
 このことを示すために、生命内在の因果を「体」とし、その業因業果の反映としての功徳や禍といった現象を「影」として述べておられるのである。
 ここに「法華経をかたきとする人の国」に襲いかかっている禍とは、具体的には蒙古襲来を指しておられる。
 諸経と法華経と難易の事には「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(0992-14)と仰せである。謗法の人の人生には、体に影が添うように禍が襲いかかってくるのに対し、御本尊を信受した者には栴檀のごとき馥郁たる香りに包まれた福徳の人生が開けてくることを教示されて、本抄を結ばれている。

1491~1492    十字御書2014:01大白蓮華より先生の講義top

新しき一年 希望と幸福の花を爛漫と!
 「世界広布新時代」が、晴れ晴れと開幕しました。
 “母なる地球”は新たなる一年の回転を始め、世界192ヶ国・地域では、尊き使命に燃える地涌の勇者たちが、広宣流布の大誓願を掲げて立ち上がりました。地涌の菩薩とは、師匠と同じ誓いに立ち、勇気と忍耐の行動を継承する不二の弟子です。
 われら創価家族は、いつにもまして、“いよいよ新たな出発だ!前進するぞ!”と、心躍る元初の朝を迎えることができました。
 「人生には、希望がなくてはならない」恩師・戸田城聖先生は、ある年の新春に寄せて、こう力強く訴えられました。
 さらに先生は、「人類の幸福」という偉大な希望に燃えて、いかなる苦難にも屈せず生き抜く尊さ、なかんずく御本仏・日蓮大聖人の崇高なる御生涯を拝しつつ、万感を込めて語られました。「大聖人が、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ち立てられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか」と。
 今あらためて、この恩師の言葉を思い起こすと、「大殿堂」との一言が、ひしひしと胸に迫ってきます。
わが人生の「勝利の城」を
 大聖人が不惜身命で法華弘通の大願に生き抜かれた御振る舞いをこそ、私たち永遠の希望の手本と仰ぎ、いかなる艱難も乗り越え、日本中、世界中で、威風も堂々たる大殿堂の如く、わが人生に勝利の城を築いていこうではありませんか。
 戸田先生は、この新年の言葉を、こう締めくくられています。
 「おのれも大地に足を踏みしめ、はなやかな希望に生きるとともに、世の人たちをも同じ大地に足を踏みしめさせ、人生に晴れやかな希望をもたせようではないか」
 自他共に輝かしい「希望」と、豊饒なる「幸福」に満ちた一年に!
 私たちは、この強い決心で進みたい。
 今回は「十字御書」を拝し、その信心の極意を学んでいきたいと思います。

十字御書
01   十字一百まい・かしひとこ給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてな
02 す人は月の西より東をさしてみつがごとく・ 日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にも
03 あいせられ候なり。
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 蒸し餅百枚、果物一籠を頂戴しました。
 正月の一日は日の始めであり、月の始めであり、年の始めであり、そして春の始めであります。この正月一日を正法をもって祝う人は、月が西から東に向かうにしたがって満ちるように、また、日が東から西へ渡っていくにしたがって明らかになるように徳も勝り、また人々にも愛されるのです。

正月を祝う真心の御供養
 本抄は、ある年の正月に「十字」100枚と「果物」を御供養した女性門下の重須殿女房に与えられた御書です。
 本抄以外にも、御供養の品として「十字」が記された御抄がありますが、いずれも正月前後に認められています。今日と同様、当時もお餅は新春を寿ぐ品であったのでしょう。
 「十字」と書いて「むしもち」と読むのは、分けやすくするために餅の表面に十字の切れ込みを入れたからです。「十字の餅・満月の如し」(1562-04)と仰せの御文もありますので、丸いお餅であったのでしょう。
 本抄を賜った重須殿女房は、駿河国重須郷の地頭・石河新兵衛能助の妻で、南条時光の姉にあたります。重須郷は時光の在所である上野郷とは隣村であり、近しく連絡を取り合える距離にあります。
 本抄は、弘安4年(1281)の御執筆と推定されています。このころの状況として、弟の時光は大聖人の門下であることから、権力者から圧迫され、思い雑税や夫役を課せられて困窮していました。
 しかも重須殿女房は、弘安元年(1278)春、愛娘を病気で失っていました。御書に「石河の兵衛入道殿のひめ御前」(1545-01)とあるので、未婚の女性であったようです。娘の「ひめ御前」は生前幾度となく大聖人にお手紙を送って御指導を頂いていました。亡くなる直前にも「これが最後のお手紙になるでしょう」と、大聖人に臨終正念の澄み切った心をお伝えしていたのです。あまりにも清らかな姿でした。
 来る年、来る年、母、重須殿女房は、この娘の分まで生き抜こう、大聖人の門下として立派に信心を貫こう、と頑張ってきたのではないでしょうか。そして再び巡り来た新年の始めに、新たな決意を込めて、御供養を捧げられたのでしょう。
 大聖人は、その真剣な「心」、その瑞々しい「志」を、最大に賞讃されていきます。
一日一日を「新たな出発の日」に
 正月一日は「日のはじめ」であり、「月のはじめ」であり、また「年のはじめ」です。
 つまり「年・月・日の三つの元」であり、古来、「元三」とも呼びならわされてきました。しかも新春「春のはじめ」です。幾重にも「はじめ」の意義が込められた、喜ばしさひとしおの日であります。
 大聖人は、この正月一日を、妙法をもって祝う人は、月が次第に満ち、太陽が赫々と昇るように、我が身の功徳も勝り、人にも愛されるようになると仰せです。
 正月一日は「始まり」の日です。誰でも清新な決意で、一年を「始める」ことができる。自身を、いわば「本因妙」の精神に目覚めさせる好機になるのです。我が生命が喜びに躍動しないはずがありません。
 さらに申し上げれば「始」の一字に、大聖人は甚深の意義を込められています。「観心本尊抄」も、正式の題号は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」です。私どもは、その中の「始」を「はじむ」と読み、「受持即観心の御本尊」を大聖人が始めて建立された意義を拝してきました。
 また「妙密上人御消息」には、「日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり」(1241-02)と仰せです「始」の一字には、広宣流布の戦いに一人立つ精神が烈々と燃えているではありませんか。
 その意味からも、私たちは、一日また一日と、御本尊に朗々と題目を唱えながら、わが身に新鮮な生命力をわきあがらせて出発していきたい。毎日が元日であり、元初の旭日に照らされながら、最高に充実した人生をあゆんでいくための信心です。

04   抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・ 或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、
05 しかれども委細にたづね候へば 我等が五尺の身の内に候とみへて候、 さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあ
06 なづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、 
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 さて、地獄と仏とは、どこに存在するのかと探究したとき、あるいは地の下にあるという経文もあり、あるいは西方等におられるという経もあります。しかしながら、詳細に探究してみると、私達の五尺の身の内に存在すると説かれています。そんなふうかもしれないと思われることは、私達の心の中に父を侮り、母を疎かにする人は、地獄がその人の心の中にあるということなのです。

「我等が身の内」「我等が心の内」
 大聖人をお護りし、自らも信心根本に戦おうという、その重須殿女房の真剣な志は、大聖人の御眼にはあまりにも尊く、麗しいものと映ったのではないでしょうか。いな、その心に燦然たる「仏」をご覧になったのではないかと、私は拝したい。
 「仏はどこか遠くではなく、貴女の胸中に厳然といらっしゃるのです」
 この生命の真実。仏法の最重要の法理である「十界互具」をわかりやすく教えようとされたのが、次の段です。
 この法理を説かれるにあたり、大聖人は「地獄」と「仏」という最も対極的な生命境界を例に挙げられています。
 凡夫の眼から見て、一番かけ離れたものが実は全部、一心に具わっている。それは、当時の常識的な地獄観、仏身観からすれば、驚天動地のことといえましょう。
 すなわち、地獄界はその名の通り、地の底にある世界と説かれていましたし、仏の場合も、例えば阿弥陀仏であれば西方極楽浄土にいると説かれていました。
 さして人が死んでから、地獄に堕ちるとか、阿弥陀仏の浄土に往生するなどと言われていたのです。要するに、地獄にせよ、仏にせよ、“自分の外”“己心の外”の存在であったのです。
 しかし、大聖人は明快に、“地獄も仏も「我等が五尺の身の内」「我等が心の内」にあります”と仰せです。
 まず「我等」とあるように、大聖人御自身をはじめ、全ての人の生命に厳然と具わっているのです。そこに、なんの区別も差別もありません。
 そして、地獄界も、仏界も、どこか遠くにあるのではない。私たち一人一人の生命、今ここに生きている現実の人間に具わっているのです。
 この「十界互具」の法理のうち、まず地獄界が己心に具わる例として、大聖人は、父を侮り、母を疎かにする人、その人の心にこそ地獄がある、と仰せです。
 しかし、父母がいなければ、私たちはこの世にいません。自分を生み、育んでくれた父母を、いたずらに侮蔑することは、自身の存在の大地を突き崩し、大切な生命そのものへの否定に通ずる。自身の存在の基盤を失えば、自己の尊厳も、生きる意味も失い、自身や希望もなくしてしまいます。その根源的な生命の苦しみを大聖人は地獄と喝破され、そこに不幸の根本原因があると教えられているのではないでしょうか。
 生命の因果の法則は峻厳です。因そのものを見ても直ちに分からないかもしれませんが、必ず果報をもたらします。このことをハスの種に「花と菓」が具わっているようなものだと教えられています。
「人界所具の仏界」は難信難解
 続いて御文では「仏と申す事も我等の心の内にをはします」と言われ、仏界が凡夫の己心に具わること。つまり最も難信難解である「人界所具の仏界」について、譬えを通して示されていきます。
 すなわち、「譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし」と仰せです。
 「石の中に火」冷たい石でも打てば火を放ちます。「珠の中に財」珠玉を磨けば隠れた価値が現れます。そのように、見た目にはすぐに分からないけれども、凡夫の生命に仏界の生命が確かに具わると仰せです。
 しかし、「我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし」です。「まつげ」が目の近くにありすぎて見えず、「虚空」があまりに遠すぎてみえないのと同様、その「人界所具の仏界」という法理は難信難解です。
 さらに大聖人は、「ただし疑問に思うことがある」と言われ、ある面から見れば、三毒強盛の凡夫の身に、どうして尊貴な仏がいらっしゃるであろうかと、あえて問題提起されています。
 すなわち、仏界、尊極無上の仏と同じ境涯が、この苦悩多き凡夫の肉身に具わるという真実が、多くの人々には、にわかに信じることができないからです。
 私たち凡夫の色心の生命に仏界が具わる、すなわち「人界所具の仏界」を確信できるかどうか。これこそが、十界互具の法理の中でも最大の難所なのです。
 「観心本尊抄」でも、大聖人は「十界互具之を立つるは石中の火・木中の花信じ難けれども縁に値うて出生すれば之を信ず人界所具の仏界は水中の火・火中の水最も甚だ信じ難し」(0242-09)と仰せです。

02                                      蓮はきよきもの泥よりいでたり、
03 せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、 さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、 やうきひは見めよき
04 もの下女のはらよりむまれたり、 月は山よりいでて山をてらす、 わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわい
05 は心よりいでて我をかざる。
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 蓮は清らかなものですが、泥の中から生え出ます。栴檀は香りのよいものですが、大地から生じます。桜の花は趣のあるものですが、木の中から咲き出します。楊貴妃は美人ですが、身分の低い女性の腹から生まれています。月は山の端から出て、山を照らします。禍は口から出て身を破ります。幸いは心から出て、自分を飾るのです。
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06   今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと.をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ.雪山のせ
07 んだんのひらけ・ 月の始めて出るなるべし、
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 今、正月の始めに法華経を供養しようと思われる御心は、木から桜の花が咲き、池から蓮のつぼみが出、雪山の栴檀の双葉が開け、月が始めて出るようなものでしょう。

泥の中から咲く清浄な蓮
 私たちの汚れた肉身に、どうして仏界という最極染浄なる生命が具わるといえるのか。大聖人は「うちかへし・うちかへし」、すなわち繰り返し、この重大な課題を考え抜かれた結論として、「人界所具の仏界」の道理を明快に教えられています。それが、蓮と泥、栴檀の芳香と大地、桜の花と木、月と山などの例です。
 蓮は何千年も泥に埋もれていても時を得て芽生え、つぼみをつけます。桜の花も厳冬の寒さを乗り越えて爛漫と花開きます。どのような厳しい状況にあっても、必ず幸福の花が咲き出て、自身を飾っていける。さまざまな苦労のなかにあった重須殿女房は、どれほど勇気づけられたことでしょう。
 また、仏界を表象する「蓮」「栴檀」「桜の花」について、それぞれ「いでたり」「をいたり」「さきいづ」等と、誠に生き生きとした動的な表現をされています。「月」の場合も、「いでて」「てらす」と、やはり動きや、動きを含んだ言葉があてられています。
 もともと具わっている可能性が現れ、開花する、ダイナミックに働き始めるのです。
 「御義口伝」には、成仏について「成は開く義なり」(0753-第三我実成仏已来無量無辺等の事-03)と説かれています。
 重須殿女房も心はずませながら、自身の生命に清浄にして尊極の仏界が脈打っていることを感じとっていったに違いありません。
 私たちが感ずる人生の「不幸」や「幸福」の根本の因は、“心の外”ではなく、どこまでも「我が心の内」にあるのです。地獄の苦しみも、仏界の無上の歓喜も、「我等の心の内」を離れてありえないのです。
「わざわいは口から」「さいわいは心から」
 続く御文では、「わざわい」と「さいわい」について述べられています。
 「わざわいは口より出でて身をやぶる」
 よく「口は禍のもと」といいますが、御文は単なる処世の教訓ではありません。
 釈尊は鋭く誡めています。「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
 悪口や讒言、虚言。口から生じた悪業の果報は自らに返ってきて「身をやぶる」まさに、地獄の果報なのです。
 そして「さいわいは心よりいでて我をかざる」と仰せです。
 これが仏法の幸福論の法理です。「心こそ大切」です。仏の生命をわが身、わが心に現していくのです。その根本の心が壊されない限り、外から壊されることはないし、外から左右されることもないのです。「幸せな人」釈尊は、尊敬を込めて、こう呼ばれたといいます。
 仏法の目的は、その絶対的幸福の確立にあるのです。
 あらためて、正月の始めに法華経を供養しようとする「御心」がどれほど尊いか、大聖人は、重ねて「木より花のさき」「池より蓮のつぼみ」「雪山のせんだんのひらけ」「月の始めて出る」と仰せです。
 重須殿女房の「心」に仏の種が明らかに芽吹いているのです。
 大聖人の御眼には、それがありありと映っているのです。

07                       今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよ
08 せぬ、 此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・ さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずる
09 もの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだ
10 んに・かをばしさのそなえたるがごとし、
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 今、日本の国は法華経を敵として、禍を千里の外から招き寄せています。このことから考えてみると、今また、法華経を信ずつ人は幸いを万里の外から集めることでしょう。影は体から生ずるものであり、法華経を敵とする人の国は、体に影が付き添うように禍がくるでしょう。法華経を信ずる人は、栴檀によい香りが備わっているようなものです。

妙法を持つ人は必ず幸福に
 「山のあなたの空遠く『幸』住むと人のいふ」と詠った詩人がいました。
 幸福は、いずこにあるのか。自分は幸福になれるのか。私たちの人生も、いな、人類の全生活史も、ある意味で、憧れ求めてやまぬ「幸福への旅」といえるかもしれません。
 大聖人は、厳然と仰せです。
 法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」と。
 ほけきょうを信じ、懸命に生き抜く人は、必ず幸せになれる!絶待に不孝に沈むことはない。絶対に幸福にならないはずはないのだ!こう、御本仏、日蓮大聖人が約束してくださっているごもんです。
 今がどうであれ、いな、これまでがどうであれ、真面目に信心を貫く人は、これ以上ないという無量無辺の福徳に包まれ、大満足の人生を勝ち飾ることができたのです。
 「法華経を信ずる人」とは、わが「五尺の身の内」「心の内」に具わる仏界を涌現する人です。一生成仏の大道に入った人です。その尊極の仏と輝く生命が、どうして不幸であるはずがあるでしょうか!
 自分が幸福そのものなのです。誰が奪おうとしても奪われない。誰が崩そうとしても崩されない。妙法を持った人は、最強の「幸福の磁石」を持っているのです。
 うえに三世十方の仏菩薩、諸天善神も、必ず集まって来て護ります。
 最も強い大生命力で、自分自身が「さいわい」の中心に立ち、葱嶺なる「幸福の大宮殿」に悠然と住むことができるのです。
 それは、もはや自分一人だけの利己主義の幸福ではありません。自他共に、尽きることのない「さいわい」に包まれていくのです。
 「せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし」と仰せの通りです。妙法に生き抜く人は、馥郁と福徳の薫りを放ち、自身の身だけではなく他の人々も包むのです。
 重須殿女房の心には、大聖人の御境涯に包まれるように、大いなる希望と自身が広がっているに違いありません。
学会は「幸福博士」の集い
 ロシアの文豪トルストイは、名作『戦争と平和』の中心人物の一人、過酷で不自由な捕虜生活の渦中、「人間は幸福のために創られているのだ」、その幸福は「自分自身のなかに」あるのだ。と覚知する体験を綴っています。
 さらにその終章では、一人の女性が、以前なら信じられなかったと、つぶやきます。
 「こんなに幸せになれるなんて」
 私の誇りは、わが愛する同志には、このような人生の実感を味わってきた方々が日本中、世界中にいるということです。
 まさしく「法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」との御文を抱きしめて、経済苦、病苦、人間関係の苦悩、自身の性格の悩み等々、宿命と苦悩の闇を乗り越えてきた幸福博士が大勢いらっしゃいます。 「わざはひも転じて幸となるべし」と、いかなる苦難も幸福に転じていける大法が妙法です。最も不幸に苦しんだ人が最高に幸福な人になるのが仏法です。
 戸田先生は、厳粛に「滅びゆく人生と、伸びゆく人生の二通りに分かれている」と語られていました。
 草創期、信心する前は、苦しくて苦しくて、「幸福」という言葉も忘れてしまうような日々を送っていた婦人もいました。座談会で「必ず幸せになれます」と聞き、初めて胸中に希望の火が点った人もいます。
 どんな人でも、一朝一夕で幸せになったわけではない。皆、苦労した。皆、苦悩した。皆必死だった。泣きながら題目を唱えた夜もあった。しかし断じて絶望の涙ではありませんでした。「絶対に負けない!」「必ず幸せになる!」と勇気を奮い起こし、不孝の闇を転じ、希望と幸福の太陽を昇らせてきたのです。
 自分だけではない、周囲の人も照らしゆく宿命転換のドラマを、日本中、世界中で演じてきたのです。これが創価の勝利劇です。
「生命尊厳」「人間尊厳」の社会を
 最後に、もう一重、大きな展望から語っておきたいと思います。
 この段の冒頭にも「今日本国」とあるように、大聖人は、個々人の幸不幸にとどまらず、大きく国家や社会の次元にまで標準を向けられていると拝されるからです。
 一人一人の人間、さらには国家や社会全体を左右しゆく要因として、大聖人が示されているのは、「法華経をかたきとする」のか、「法華経を信ずる」のかどうかです。
 その趣旨を現代的に敷衍すれば、法華経に明かす「生命尊厳」「人間尊厳」の思想が時代精神となっているのか、反対に、「生命軽視」「人間軽賤」の冷酷無慈悲な時代なのか、そうした対比といえるでしょうか。
 大聖人は、「今、日本の国は法華経を敵として、禍を千里の外から招き寄せる」と仰せです。
 本抄を弘安4年(1281)の御述作とするならば、当時の国内には、蒙古国が再度侵攻するとの危機感が高まっていました。事実、2度目の襲来は、この年の出来事です。漠然とした仮定の話ではなく、不安と混迷が広がる状況だったと推察されます。
 しかし、いかなる暗澹たる時代社会の中にあっても、「法華経を信ずる人」は断じて不幸の濁流に流されることはないとの仰せとも拝せます。「法華経を信ずる人」の善の連帯は、一国の不幸の連鎖をも断ち切り、平和と安穏へと方向転換させてゆくのです。不幸な時代を「立正安国」の哲学で根底から転換しゆく大使命が、大聖人門下にはあるのです。
創価学会の根底は人間主義
 私は40年前、トルストイを生んだ国国ロシアを初訪問しました。
 この初訪ロシアは社会主義体制下の旧ソ連時代のことでした。「なぜ、宗教者が宗教否定の国に行くのか」と批判も受けました。しかし。「そこに人間がいるからです。人間がいるところ、私はどこでも行く!」と決然と出発したことは、懐かしい金の思い出です。
 そして、コスイギン首相から「あなたが根本とする思想は何か」と尋ねられた際、私は「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」と速答しました。
 私たち創価学科は、この通りの信念で朗らかに進んできました。学会員一人一人が、自分のいる自分のいる自分のいる場所で、自分のいる社会で、人間主義の旗を高く掲げ、大いなる価値創造の花を咲かせていきたいのです。
 大聖人の仰せ通りの「法華経を信ずる人」とは、今日にいえば、私ども「創価学会」の師弟に他他なりません。誇り高き「日蓮が一門」として、広宣流布の大誓願に生き抜く、異体同心の和合僧こそが、「さいわいを万里の外よりあつむべし」との大宣言を21世紀の世界で厳然と証明しているのです。
 御文に立ち返って、あらためて現代の人間世界を見つめ、静かに問いかけたい。
 今日、「さいわい」幸福とは、いかなる内実を持つのでしょうか。
「幸福とは価値創造にあり」
 初代会長・牧口常三郎先生は“人生の幸福とは価値創造にあり”と洞察されました。そうであるならば、今、私どもが仏法の人間主義を基調として「文化の花」「教育の光」「平和の道」を広げゆく価値創造の前進は、まさしく「さいわい」幸福をもって世界を包む作業といってよいのではないでしょうか。
 その労作業を担うのは、“栴檀の芳ばしさを具えた”「人華」のように、皆を温かい笑顔で包み、皆から信頼される創価の人材群です。
 さあ、「世界広布の新時代」の開幕を告げるファンファンファーレは鳴り響いています。絢爛たる時代が到来しました。
 信ずる我が同志よ!
 愛するわが青年たちよ!
 新たな広宣流布の誓願に燃え立ちながら、今年もまた、共々に、勇気凛々と戦おうではありませんか!