top ホームページtopへ
日蓮大聖人御書講義351493~1515
上野殿について
1493~1498 南条兵衛七郎殿御書(慰労書)
1493:01~1493:03 第一章 病を慰労され仏法の重要性示す
1493:04~1494:10 第二章 宗教の五網のうち「教」を明かす
1494:10~1495:01 第三章 宗教の五網のうち「機」を明かす
1495:02~1495:17 第四章 宗教の五網のうち「時」を明かす
1495:18~1496:15 第五章 宗教の五網のうち「国」を明かす
1496:16~1497:09 第六章 「仏法流布の前後」を明かす
1497:10~1497:16 第七章 念仏を捨てて法華の信を勧む
1497:16~1498:11 第八章 小松原法難の様相を示す
1498:12~1498:18 第九章 更に信心を勧めて結ぶ
1493~1498 南条兵衛七郎御書(慰労書)2014:09月号大白蓮華より。先生の講義
1499~1503 薬王品得意抄
1499:01~1499:05 第一章 薬王品の意義を示す
1499:06~1500:09 第二章 大海の譬えを示す
1500:10~1500:16 第三章 山の譬えを示す
1500:17~1501:13 第四章 月の譬えを示す
1501:14~1501:17 第五章 日の譬えを示す
1501:17~1502:06 第六章 如渡得船と如貧得宝を挙ぐ
1502:06~1503:08 第七章 女人成仏の意義を説く
1503:08~1503:18 第八章 権教の女人往生を破す
1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)
1504:01~1504:08 第一章 亡夫の生死不二の成仏示す
1504:09~1505:05 第二章 地獄即寂光の妙理を明かす
1505:05~1505:10 第三章 真の求道者の在り方教える
1505:11~1506:01 第四章 逆即是順の法華経の功力
1506:02~1506:08 第五章 即身成仏の経証釈を示す
1506:08~1506:15 第六章 尼への弔意と勧誡
1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)2007:12月号大白蓮華より。先生の講義
1507~1507 上野殿御返事
1508~1510 上野殿御返事(土餅供養御書)
1508:01~1508:12 第一章 末法の法華経の行者供養の功徳示す
1508:13~1509:03 第二章 時光が親父の跡を継ぐを喜ぶ
1509:04~1510:05 第三章 念仏・禅・真言を亡国の悪法と明かす
1508~1510 上野殿御返事(土餅供養御書)2011:3月号大白蓮華より。先生の講義
1510~1510 春の祝御書
1511~1512 上野殿御返事(阿那律果報由来)
1511:01~1511:13 第一章 阿那律の因縁を挙げ供養を称える
1511:13~1512:08 第二章 法難への覚悟を教える
1512~1512 上野殿御返事
1513~1513 上野殿御返事(祇園精舎御書)
1514~1515 単衣御書
1514:01~1514:10 第一章 法華経の行者受難の姿を明かす
1514:11~1514:15 第二章 経文を挙げ法華経の身読を証す
1514:15~1515:08 第三章 単衣供養の大功徳を説く
1516~1516 上野殿母尼御前御返事
上野殿についてtop
本書33巻~38巻前半に至る御書は、南条時光およびその一族に与えられたものである。
時光は正元元年(1259)駿河国富士郡上方庄上野郷の地頭南条兵衛七郎の次男として誕生した。
時光の生涯は、鎌倉幕府の中期から後期にある。それは北条氏執権政治の安定期から、やがて内管領へ権力が移行し、幕府の支配体制である御家人制の崩壊、蒙古襲来以後の経済的破錠などが表面化していく激動の時代であった。
時光は、幼少のころ父母について入信し、大聖人が身延に入山されてからはたびたび参詣をして、数多くの御供養を捧げて報恩の誠を尽くすなど、生涯、純真な信仰を貫いた鎌倉武士であった。大聖人も時光に期待されて指導に心をくだかれたことは、時光およびその一族への賜書が60編に達することからも拝することができよう。
いま、時光の事績を概略すると次のようになろう。
第一に、身延山中におられる日蓮大聖人のもとへたびたび参詣し、また数々の御供養をささげていること。
第二に、大聖人が出世の本懐である本門戒壇の大御本尊御図顕になる機縁となる熱原法難に際して外護の活躍をしたこと。
第三に、謗法の地となった身延を離山された日興上人をお守り申しあげたこと。
などであり、晩年には入道し大行と称し、先立って没した妻・乙鶴の菩提を弔うために自邸を妙蓮寺とするなど、大石寺開基檀那としての任を全し、日興上人に先立つこと一年、正慶元年(1332)5月1日、74歳の生涯を終えた。
ここで各編の講義に入る前に、序講として、南条時光の略伝を次の3点に分けて述べることにする。すなわち、
第一に、南条家の家系や社会的地位、家族構成
第二に、時光の信仰、熱原法難および大石寺創建の功績
第三に、大聖人の御供養と、与えられた御書についての一覧
である。
第一 南条家について
(一)本貫の地
南条時光の父・兵衛七郎の本貫の地は伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆市)と伝えられる。年月は不明だが、地頭に補任されてから駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市上条・下条および精進川の一帯)に移住し、下条に屋敷を構えたと思われる。
南条から狩野川に沿って一㌔ほど北上したところが北条である。ここは鎌倉幕府の創設者である源頼朝の妻・北条政子の出生地でもあり、頼朝没後、代々の執権となって幕府の実権を掌握した北条氏の本領である。
律令制下の田方郡には、新居、小河、直見、佐婆、鏡作、茨城、依馬、八邦、狩野、天野、吉妾、有弁、久寝の十三郷があり、北条と南条は茨城郷に含まれていた。
「吾妻鏡」の文治5年(1189)6月6日の条には「北条殿の御願として、奥州征伐の事を祈らんがために、伊豆国北条の内に伽藍の営作を企てらる……名づけて願成就院と号す……当所は田方郡内なり。いわゆる南条・北条・上条・中条おのおの境を並ぶ」とあり、田方郡の中に、南条・北条・上条・中条があったことを知ることができる。
同じく、建保3年(1215)正月8日の条には北条時政が6日「北条郡において卒去す」と記述されていることから、田方郡内にあった北条が、時政の死去までに北条郡となっていたと思われる。さらに年代が下って暦応2年(1339)4月5日付の「足利直義寄進状案」に「寄進 伊豆国円成寺。同国北条五箇郷原木 山木 肥田 中条 南中村……」とあることから、鎌倉時代末期に北条郡に原木、山木、肥田、中条、南中村の五郷が成立しており、南条はいずれかの郷に入っていたようである。
南条が苗字本貫の地であったことは、その姓から知ることができる。当時は、居住地の名を頭において呼称する慣習があった。例えば北条家は桓武平氏の流れであるが、北条を本領としていたから北条氏を名乗り、さらに北条一族でありながら、その居住地名によって名越氏、金沢氏、江間氏などと称したのがそれである。日蓮大聖人から兵衛七郎への賜書が南条兵衛七郎殿御書であり、時光への賜書のあて名にも「南条殿」を使用されているものが五通ある。
とくに、延慶2年(1309)2月23日の時光から子の左衛門三郎へ与えられた自筆の譲状からも、時光の領地が伊豆国南条にあったことが明らかである。
「ゆづりわたす南条三郎左衛門が所。いづの国なんでうの南方たけ正みやうの内……」。
また日興上人の「弟子分本尊目録」に「南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光」とあるように、時光は平氏の流れである。
北条氏が同じ平氏であることから、南条家は北条氏の同族か支族ではなかったかとも思われるが定かではない。
ここで、当時の幕府の公式記録である「吾妻鏡」に登場する南条姓のものを挙げてみよう。
南条次郎(巻15)
南条平次(巻18)
南条七郎二郎(巻27)
南条七郎三郎(巻27)
南条七郎左衛門尉時員(巻21・25・26・31・32)
南条兵衛尉(巻31)
南条太郎兵衛尉(巻31)
南条兵衛次郎経忠(巻31)
南条八郎兵衛尉忠時(巻33・46)
南条平四郎(巻33)
南条左衛門四郎(巻44)
南条兵衛六郎(巻46)
南条左衛門二郎(巻46)
南条左衛門尉頼員(巻47・48・49)
このなかで、七郎左衛門尉時員は承久3年(1221)5月、承久の乱の時に、北条泰時に従って上洛したことが記されている。また嘉禎2年(1236)12月19日の条にも将軍入御のため北条泰時が新第に移った時、御家人達が周囲の家屋を構えているが、七郎左衛門尉時員も家屋を構えた一人であることが記されている。
ところで、「吾妻鏡」から挙げた南条姓の人々をみると、名前から父の兵衛七郎とつながりがあるのではないかと思われるのは兵衛尉、太郎兵衛尉、八郎兵衛尉忠時、兵衛六郎等である。
しかし、これらの人々が兵衛七郎とどのような関係があったかは不明であるが、南条一族として何らかのつながりはあったと思ってさしつかえあるまい。
(二)社会的地位
兵衛七郎は鎌倉幕府の御家人であり、上野郷の地頭に補任されている。また、御内人であったとの説もある。
文永2年(1265)3月8日に兵衛七郎が病没した。その後、長男の七郎太郎が死去したこともあり、次男であった時光が家督を継いで惣領となり、後に任官して左衛門尉となった。時光が左衛門尉であったことは、延慶2年(1309)2月の譲状で「左衛門尉時光」と自署していることから明らかである。
官については、律令制度の二官八省とは別に、軍事面を扱う衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の五衛府が設けられ、後にそれらの併合、変更があって左右衛門府・左右兵衛府・左右近衛府の六衛府と称された。父の兵衛七郎が、左右兵衛府のうち督・佐・尉・志の四等官の、いずれであったのかは不明である。時光は左衛門尉であるが、この左衛門府の尉官を左衛門尉といったのである。
しかし、武士の台頭による朝廷の実権の低下によって、鎌倉時代の中期には実際に職務にたずさわったわけではなく、官名のみが残ったようである。また任官といっても、本人が直接に朝廷から受けるのではなく、幕府が御家人の分をまとめて上奏し受領していた。
鎌倉幕府は治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆国で挙兵後、文治元年(1185)11月朝廷から守護・地頭設置の勅許を得て、頼朝が軍事警察権を握る日本国総守護、総地頭となってから、その基盤が確立したといわれる。したがって、守護・地頭は幕府を支える重要な職であった。
とくに守護には御家人のなかでも有力な関東武士が選ばれ、その国の治安警察権の行使を主な職務としていた。
地頭の職権は領地内の管理権・警察権・徴税権にまとめられるようである。また地頭は任地に居住していることが多く、未開発の土地を開発していく開発領主の側面ももっていた。
また、時光が御家人であったことは、時光から次男の左衛門次郎時忠への譲状のなかに幕府から御家人に対して使われる「御下文」「御くうじ」の語があることからも理解される。
(三)家族構成
上南条家系図
┌―七郎太郎……18歳
南条兵衛七郎――┬├―七郎次郎時光―┐
松野六郎入道息女┘│ 乙鶴(妙蓮)―┘
(上野尼御前) ├―七郎三郎
├―七郎四郎
├―七郎五郎……16歳
├―女子(蓮阿尼)┐
│ 新田五郎重綱―┘
├―女子(妙一)―┐
│ 石河新兵衛――┘
├―女子(阿原口御前)
└―女子(中之御前)
(1)父
日興上人の「弟子分本尊目録」の「南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光」の御記述から、兵衛七郎が平氏の流れであることがわかる。また、七郎の名前から七男であったと思われる。「吾妻鏡」に記されている南条兵衛六郎などとつながりはあると思われるが、定かではない。
兵衛七郎に与えられた御書で現存するものは、文永元年(1264)12月13日の南条兵衛七郎殿御書であり、そこに認められた内容から兵衛七郎について知る以外にない。
「御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず」(1493)
この御文から、恐らく当時、安房国におられたと思われる大聖人に、病気である旨の手紙を出したことがわかる。
兵衛七郎の入信は、恐らく鎌倉で大聖人にお会いして教化されたことによるのであろう。
大聖人は建長5年(1253)4月、清澄寺で立教開示し、文応元年(1260)7月16日、「立正安国論」による第一回の国主諌暁によって松葉ヶ谷の襲撃、伊豆伊東への流罪と法難にあわれ、弘長3年(1263)2月、御赦免になって鎌倉に帰られた。翌文永元年(1264)の秋に12年ぶりに故郷の安房に帰られ、「日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり」(0985)と御母妙蓮の病を治されたのである。
したがって、兵衛七郎の入信は大聖人が鎌倉におられたであろう弘長3年(1263)2月から文永元年(1264)の秋までの期間であろうと推定される。また、文応元年(1260)から弘長元年(1261)の間であろうとの説もある。
当時の御家人には奉公の義務があった。内容は京都での内裏や院の御所の諸門を警固する京都大番役、京都市中の警衛にあたる篝屋番役、また鎌倉での将軍御所や幕府の諸門を警護する鎌倉大番役、そのほか平時の軍役、社寺の修造役、公事等である。このなかで鎌倉大番役は東国御家人特有の課役であり、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、下野、上野、信濃、甲斐、陸奥、出羽の15ヵ国に住む御家人がこれにあたった。
鎌倉大番役でも、常時鎌倉にいるのは北条一門や御内人などであり、それ以外の御家人は常は補任された領地にいて、一、二年に一度、一か月から二か月ぐらい鎌倉に出て勤務したようである。
したがって兵衛七郎は、弘安3年(1280)から文永元年(1264)の間ごろ、鎌倉大番役の時に大聖人にお会いしたのであろう。ただ、入信の経緯や動機などは不明である。
兵衛七郎はもと念仏の信徒であった。
「但とのはこのぎをきこしめして念仏をすて法華経にならせ給いてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん」(1497-10)。
大聖人は兵衛七郎が法華経に帰依しても、入信が浅く念仏への執情を断ち切れないでいるのを、教・機・時・国・教法流布の先後の宗教の五義を説かれて、念仏は権教であり法華経こそ釈尊の本懐の教えであることを御教示され、「いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず」(1497-16)、「但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな」(1498-12-3)と不退転の信仰に立脚するように御指導をされている。
「もし・さきにたたせ給はば」(1498-12)の御文から、この御書をいただいた時は兵衛七郎の病状はすでにかなり悪化していたようである。翌文永2年(1265)3月8日、兵衛七郎は死去した。法号を行増という。
兵衛七郎が念仏を完全に捨て去り、成仏の相を現じたことは、後年の時光への書状に「法華経にて仏にならせ給いて」(1507-14)、「故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」(1508-13)とあり、また後家尼御前に「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし」(1506)とお述べになっていることからも明瞭である。
兵衛七郎は屋敷に近い高土に葬られた。大聖人は兵衛七郎の死去の報を聞かれて、自ら鎌倉から上野郷まで出向かれて墓参されているのである。
「故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふれて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひしに・よわひ盛んなりしに・はかなかりし事わかれかなしかりしかば・わざとかまくらより・うちくだかり御はかをば見候いぬ」(1510-01)。
(2)母
時光の母は大聖人からは「上野殿後家尼御前」「上野殿母尼御前」「上野殿母御前」「上野尼御前」などと呼ばれているが、夫の兵衛七郎が死去した後に尼となったものであろう。賜書に「抑御消息を見候へば尼御前の慈父・故松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云」(1580-10)とあるように、母御前は松野六郎左衛門入道の娘である。
松野六郎左衛門入道は駿河国庵原郡松野に住んでおり、生年は不明だが、弘安元年(1278)11月に死去している。松野一族に与えられた御書で現存するものは13編にのぼっており、その内容から一族は純真な信仰を続け、たびたび大聖人に御供養をさしあげていることがうかがえる。
「子息多ければ孝養まちまちなり」(1580-10)とあるように、松野六郎左衛門入道には子供が多かったようである。六老僧の一人蓮華阿闍梨日持もその子とされる。堀日亨上人は「この母御前は年配より見て持師の姉ではなく叔母であろう」とされているが、ここでは六郎入道の次男、時光母御前の弟としておく。
母御前が兵衛七郎に嫁したのがいつかは不明だが、系図にあるように5男4女の多くの子供に恵まれている。
夫を亡くした時には懐妊しており、これが七郎五郎であった。弘安3年(1280)9月5日に七郎五郎が死去した時、末子であっただけに、母御前の悲嘆は並々ならぬものであったようで、大聖人からたびたび励ましの御言葉を賜わっている。
「故七郎五郎殿は当世の日本国の人人には・にさせ給はず、をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・はたちにも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり、乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや」(1570-14)。
「二人のをのこごにこそ・になわれめと・たのもしく思ひ候いつるに・今年九月五日・月を雲にかくされ・花を風にふかせて・ゆめか・ゆめならざるか・あわれひさしきゆめかなと・なげきをり候へば・うつつににて・すでに四十九日はせすぎぬ、まことならば・いかんがせん、さける花は・ちらずして・つぼめる花のかれたる、をいたる母は・とどまりて・わかきこは・さりぬ、なさけなかりける無常かな・無常かな」(1572-18)。
このほか大聖人が御入滅まで母御前に送られた御書のなかでは必ず七郎五郎の死去についてふれられて、母御前を慰められている。
弘安4年(1281)12月8日の上野殿母御前御返事は、母御前の温かい人柄が伝わってくるような御書である。
「乃米一だ・聖人一つつ・二十ひさげか・かつかう・ひとかうぶくろおくり給び候い了んぬ。
このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ、さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の山・出ずる事一歩も候はずただし八年が間やせやまいと申しとしと申しとしどしに身ゆわく・心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候上・ゆきはかさなり・かんはせめ候、身のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし、しかるに・このさけはたたかに・さしわかして、かつかうを・はたと・くい切りて一度のみて候へば・火を胸に・たくがごとし、ゆに入るににたり、あせに・あかあらい・しづくに足をすすぐ、此の御志は・いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに・両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候」(1583-01)
身延に入山されて8年、すでに御身体も弱まり、食事も進まなくなられた大聖人を心配して白米や健胃剤となるかっこうを御供養しているのである。
こうした純真な信仰を続ける母御前は熱原法難の時にも、時光とともに外護の働きをしたであろうことはまちがいないと思われる。
弘安7年(1284)5月10日に死去し、夫の兵衛七郎と同じ高土の地に葬られた。法号を妙法という。
(3)兄弟
〈太郎〉
兵 兵衛七郎の長男であり、時光の兄である。御書のなかにも七郎太郎について述べられている個所がなく、文永11年(1274)8月10日に水死したと伝えられているのみで、詳細は不明である。墓は下之坊の前の水田の中にある。
<七郎三郎・七郎四郎>
時光の弟である。七郎太郎と同じく、御書のなかに記述がなく詳細は不明である。ただ弘安3年(1280)10月24日の「上野殿母御前御返事」に「二人のをのこごにこそ・になわれめと・たのもしく思ひ候いつるに……」(1572-15)とあることから、弘安3年(1280)には二人ともすでに死去していたようである。
<七郎五郎>
兵衛七郎の末子である。
「上野殿母御前御返事」に「故上野殿には壮なりし時をくれて歎き浅からざりしに・此の子を懐姙せずば火にも入り水にも入らんと思いしに」(1572-15)とあるように、文永2年(1265)3月、兵衛七郎が死去した時に、母が懐妊していた子である。
「此の子すでに平安なりしかば」(1572-16)と仰せのように、大きな事故もなく成長していった。
七郎五郎は兄の時光に似て信仰心の篤い人柄の良い青年となっていた。
「上野殿御書」には「いとをしき・てこご・しかもをのこご・みめかたちも人にすぐれ心も・かいがいしくみへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候」(1567-04)。
「此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに」(1567-12)。
「上野尼御前御返事」には「故五郎殿はとし十六歳・心ね・みめかたち人にすぐれて候いし上・男ののうそなわりて万人に・ほめられ候いしのみならず、をやの心に随うこと・水のうつわものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし、いへにては・はしらとたのみ・道にては・つへとをもいき」(1576-15)。
「上野殿母御前御返事」には「余所にても・よきくわんざかな・よきくわんざかな・玉のやうなる男かな男かないくせ・をやのうれしく・をぼすらむと見候いし」(1583-13)。
これらの記述から、七郎五郎は豪胆で、かつ容貌もすぐれ親孝行の子であったようである。大聖人は、弘安3年(1280)6月15日、時光とともに身延に参詣した七郎五郎の姿を、「あはれ肝ある者かな男や男や」とめでられ、時光とともに日興上人のもとで広宣流布の戦いに活躍するであろうことを期待されていたにちがいない。
しかし人間の寿命は推し量り難いものであり、大聖人に御目通りしてから約3ヵ月後に、七郎五郎は急逝した。その原因は明らかではない。
大聖人は七郎五郎の死去の報を聞かれてただちに筆をとられた。
「南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」(1567-01)。
七郎五郎の死を悼む御書は、この上野殿御書をはじめ、合計10編に及んでいる。
一人の人間に、そのうえ16歳の若き信徒の死を、これほどまで心に留められ惜しまれているのは、多くの信徒のなかでも、七郎五郎ただ一人である。
墓は富士妙蓮寺の後方にある。
(4)姉妹
蓮阿尼(時光の姉)
時光の姉の蓮阿尼は新田五郎重綱に嫁した。新田家は本領が陸奥国登米郡(宮城県登米市)の上新田であるが、重綱は伊豆国仁田郡畠郷(静岡県田方郡函南町)に住していた。一族の多くは北条氏の家人である。
日亨上人のによれば、蓮阿尼は多くの男子に恵まれ、そのうち四男の四郎信綱は大聖人からの賜書もあり、大聖人の御本尊を授与されるほどの強信者であった。日興上人の弟子分帳にも「新田四郎信綱は、日興第一の弟子なり。仍って申し与うる所、件の如し」と記されている。
また、五男の五郎=日目上人は「御伝土代」に述べられているように、文永11年(1274)、15歳の時に日興上人に値って弟子となり、建治2年(1276)11月24日、身延山に詣でて大聖人が御入滅されるまで、常随給仕されている。
日興上人は「日興跡条条事」で次のように日目上人を讃えている。「右日目は十五の歳日興に値いて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るまで敢て違失の義なし、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣りて御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安8年(1285)より元徳2年(1330)に至る50年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり」と。
次男の頼綱もまた時光の娘を妻とし、第四世日道はその子である。
妙一(時光の姉)
法号妙一は駿河国富士郡上方重須(静岡県富士宮市北山)の地頭である石河新兵衛源能助の夫人となった。妙一は弘安元年(1278)3月24日に死去しているが、新兵衛法号道念日実は弘安10年(1287)まで生き永らえている。妙一は道念とともに、大聖人の御本尊を授与されている。
「石河新兵衛入道道念は、日興第一の弟子なり。仍って申し与うる所、件の如し。但し嫡家孫三郎伝領す」。
「南条兵衛七郎の女子、石河新兵衛入道道念後家尼殿仁日興之を申し与う」。
道念と妙一の子供が孫三郎源能忠であり、永仁6年(1298)日興上人の移られた重須談所(重須本門寺)の開基檀那となっている。
阿原口御前(時光の妹か)
駿河国富士郡阿原口(静岡県富士宮市)に住んでいた豪族と思われる人に嫁した。阿原口御前には鬼鶴、乙鶴の二人の娘がいたが、阿原口御前が時光より先に死去したので元弘元年(1331)11月18日に所領の一部を譲っている。
中之御前(時光の妹か)
中之御前、法号妙華について行実は不明であるが、妙蓮寺過去帳では元亨2年(1322)3月23日死去したと記されている。
(5)妻・乙鶴
日亨上人は「此の夫人は或は松野家より来られたではあるまいかと思う」と推されているが、妻の乙鶴・法号妙蓮について確かな記録はない。
賜書に「南条殿女房御返事」があり、「八木二俵送り給び候い畢んぬ、度度の御志申し尽し難く候」(1547-01)とあることから、時光とともにたびたび大聖人に御供養をされていたことがうかがえる。
弘安3年(1280)8月26日の上野殿御返事によると、すでに女子一人、男子一人がおり、生まれた男子を大聖人は日若御前と命名していただいていることから、時光に嫁したのは建治年間と思われる。
系譜によると九男四女に恵まれ、そのうち二人の娘がそれぞれ日道上人、日行上人の母となっている。妙蓮寺過去帳によると、時光に先立つこと10年、元亨3年(1323)8月13日に死去している。時光は翌元亨4年(1324)3月、20日、日華に寄せて上野郷堀之内の自邸を妙蓮寺として妻の菩提を弔っている。
(6)一族
平七郎
弟子分帳に「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎の母尼は、越後房の弟子なり、仍って日興之を申し与う」とあることから、平七郎は成出郷の給主であることがわかる。
給主とは給人のことで、幕府から所領の恩給を受けた者をいう。一般に給田の大きさは一町から三町程度であった。
大聖人から建治2(1276)12月に「本尊供養御書」をいただいている。「富士年表」では、文永11年(1274)にも「南条平七郎御返事」を賜わっているとされている。この御書は、「種種御振舞御書」の末文とほぼ同じ御文である。
九郎太郎
弟子分帳に九郎太郎に関連する人物を見つけることはできない。
賜書には建治2年(1276)9月15日、弘安元年(1278)11月1日の九郎太郎殿御返事がある。
九郎太郎が「いゑの芋一駄」(1553-01)を御供養したことに対して、「するがのいものやうに候石は一も候はず」(1535-13)と仰せになっていることから駿河国の人であること。また、「これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ」(1553)と述べられていることから、兵衛七郎の一族であったと思われる。
日亨上人は「九郎の文字から考えると七郎の弟の子ではなかったか、時光の従弟にあたる人ではなかったかと思う」と述べられている。
(四)時光の所領
現存する古文書から見ると時光の所領は四か国五か所に分散していた。
一、駿河国上方庄上野郷
一、相模国山内庄舞岡郷
一、伊豆国南条南方武正名
一、丹波国小椋庄もりとし名
一、駿河国蒲原庄関島
駿河国上野郷と相模国舞岡郷の一部は、延慶2年(1309)2月23日、惣領の左衛門次郎時忠への譲状がある
伊豆国南条武正名は、延慶2年(1309)2月23日、時光から左衛門三郎への譲状がある。
丹波国小椋庄内の一部は、元亨元年(1321)7月25日、時光から惣領の左衛門次郎時忠への譲状がある。
駿河国蒲原庄関島は、阿原口御前が時光より先に死去したので、元弘元年(1331)11月18日、娘の鬼鶴御前への譲状がある。
他の郷でもそうであろうが、上野郷が現在のどの地域になるのか、それを明確にする史料は今のところみあたらないが、上野郷は「静岡県富士宮市上条・下条ならびに精進川一帯、ならびに妙蓮寺などのたっている地域」と推定されている。
この地域は東西南北に、約3㌔にわたる。またこの地域は、当時の稲作の限界にあたるといわれ、南の低地には水田地帯もあるが、北は田畑になり、決して豊饒とはいえない。
この小郷の地頭である時光が、大聖人に御供養を続け、大石ヶ原を寄進したことは、ひとえに時光の純真な信仰にあったことを忘れてはなるまい。
第二 時光の信仰
(二)日興上人との契約
父の南条兵衛七郎が死去した文永2年(1265)、時光は7歳の少年であった。
兵衛七郎の死後、大聖人の佐渡流罪が御赦免となり身延に入山される文永11年(1274)までの間の時光一族への賜書がないので、この間の時光一家の行実は不明である。しかし、文永11年(1274)5月17日に大聖人が波木井に到着され、6月17日に庵室が完成された後、日興上人が甲斐、駿河方面に弘教に出られるようになって大聖人の身延御入山が伝わってきたのであろう。母御前が七月に御供養を捧げていることから、兵衛七郎の死後も一家は純真に信仰を続けていたと思われる。
この年、時光は16歳になっており、この時には惣領としてすでに家督を継いでいたと思われる。
この時代の武士の成年式は加冠、あるいは鳥帽子ともいわれ、年齢は一定していないが15歳から17歳の頃に行われていた。たとえば五代執権である北条時頼の子・時輔は10歳で元服、12歳で妻をめとっており、時宗は18歳で執権となっている。
母御前に書状が送られてからしばらくして、時光は鎌倉で御目通りした大聖人をお慕いして、御供養をたずさえて身延に登った。
大聖人はさっそく、書を認められ「かまくらにてかりそめの御事とこそ・をもひまいらせ候いしに、をもひわすれさせ給わざりける事申すばかりなし」(1507-01)と、幼かった時光が鎌倉で会ったことをよく忘れないでいたことを喜ばれ、「こうへのどのだにも・をはせしかば・つねに申しうけ給わりなんとなげき・をもひ候いつるに、をんかたみに御みをわかくして・とどめをかれけるか・すがたのたがわせ給わぬに、御心さひにられける事いうばかりなし」(1507-02-)と、若き時光が父の兵衛七郎の姿も心もよく似ていると慈愛のこもった御文を綴られている。
さらに11月には「故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき、其の親の跡をつがせ給いて又此の経を御信用あれば・故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん、あわれいきてをはせば・いかにうれしかるべき」(1508-13)と、兵衛七郎が生きていれば、いま時光が跡を継いで純真に法華経を信じていることをどれほどか喜ばれるであろうと時光を励まされている。
文永12年(1275)1月下句、大聖人は「さては故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふれて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひしに・よわひ盛んなりしに・はかなかりし事わかれかなしかりしかば・わざとかまくらより・うちくだかり御はかをば見候いぬ」(1510-10)と、兵衛七郎が死去した時に鎌倉から上野郷まで墓参に下向されたことを回想されている。さらに身延御入山の時には富士郡の信徒に会うことができなかったので「此の御房は正月の内につかわして御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候」(1510-05)と御弟子・日興上人を代理として墓参させる旨を述べられている。
時光が日興上人に値ったのはその時が初めてではなかったであろうが、これまでは時光が年少であったのでこの墓参がその後の生涯にわたる師弟の道契になったといえる。
日興上人は寛元4年(1246)3月8日、甲斐国巨摩郡大井庄鰍沢に誕生され、幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、富士郡上方庄河合(富士宮市)の外祖父由比入道によって育成された。7歳の時、蒲原荘にあった天台宗横川系の四十九院に上り修学されている。正嘉2年(1258)大聖人が岩本実相寺の経蔵で一切経を閲覧された時に入門し、伯耆房日興の名を賜わった。以後、伊豆・佐渡の御流罪にも変わらず常随給仕されている。
大聖人が身延御入山後、29歳の日興上人は縁故をたどって甲斐・駿河等へと弘教の戦いを展開された。高土への墓参も、そうした日興上人への大聖人の御配慮によるものであろう。
日興上人の弘教がいかに広範に展開されたかは、それが発端となって、熱原法難が起こったことや、弟子分帳に記されている65人のうち、「日興の弟子」とされているのは、甲斐国12人、駿河国17人、伊豆国3人、相模国1人の32人にのぼっていることなどから、その一端をうかがうことができよう。
日興上人と時光が師弟として結ばれたこの墓参は、そのまま大石寺開創への淵源となるものであった。のちに日興上人は大聖人から付嘱を受けられて本門弘通の大導師となられ、身延山久遠寺の別当につかれる。だが、地頭の謗法により身延を捨てて大石寺を建立され、時光は開基檀那となるのである。この道契から16年後の正応3年(1290)のことである。
(二)熱原法難の経過
熱原法難は、文永11年(1274)6月、日蓮大聖人が身延に庵室を構えられてから、日興上人が甲斐、駿河へと弘教されていったことが発端となった。
もともと日興上人は甲斐国巨摩郡鰍沢の出身であり、父の死後、外祖父の由比入道のもとに引き取られ、四十九院に上って修学されたので、富士郡は日興上人有縁の地であった。すでに、文永5年(1268)8月には、岩本実相寺の住職慈遍の悪行に対し、寺僧が51か条にわたってその罪科を挙げて鎌倉幕府に訴え出ているが、その実相寺大衆愁状を日興上人が執筆されていることや、四十九院申状で御自身のことを「四十九院の供僧」とされていることから、早くから四十九院や実相寺を拠点として弘教されていたことがわかる。
日興上人は、有縁の四十九院や岩本実相寺の住僧を教化し、さらに付近の在家の人々に布教されていった。そのため、寺内の僧や信徒が続々と日興上人の弟子になっていく状況に対して、弘安元年(1278)、四十九院の厳誉は日興上人や門下の日持、承賢、賢秀等を追い出したのである。
厳誉は「四十九院の内・日蓮が弟子等居住せしむるの由・其の聞え有り、彼の党類仏法を学し乍ら外道の教に同じ正見を改めて邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」(0848)と法華経を邪義であるとし、追放の理由に大衆等の評定を名目としたのである。
建治元年(1275)には熱原郷の滝泉寺に折伏弘教は広がり、寺僧の下野房、越後房、少輔房、三河房等が日興上人の弟子となった。それに驚いて、滝泉寺側は6月頃から迫害を始めた。
当時の滝泉寺院主代は北条一門の平左近入道行智であった。この行智の悪行は滝泉寺申状に詳しい。
「凡そ行智の所行は法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す、日弁に御書下を給い構え置く所の上葺榑一万二千寸の内八千寸を之を私用せしむ、下方の政所代に勧め去る4月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ無智無才の盗人・兵部房静印より過料を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し鶉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい或は毒物を仏前の池に入れ若干の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基悲んで余り有り」(0853-01)
そうした僧侶にあるまじき行状と滝泉寺の荒廃を嘆いていた人々に、日興上人の訴えた正法正義は、乾いた大地に水が吸い込まれるように浸透していったといえよう。
その時に大聖人は、熱原の人々に異体同心で法難にあたるよう「はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(1463-01)と御教示され、「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(1463-05)と、一門の結束があれば必ず正法が弘まっていくと御指導されている。
滝泉寺側の迫害の始まったこの年の10月、時光は大聖人から御本尊を授与された。御本尊の添え書きに大聖人の御筆で「平の時光之を授与す」と記されている。
建治2年(1276)、院主代行智は下野房日秀らに法華経を捨てて念仏を称えるとの誓状を書くよう迫った。この時、三河房頼円は退転し、日秀・日弁・日禅は寺を追放された。日秀・日弁は寺内に隠れ、日禅は実家のある河合に帰った。
しかし日興上人を中心とする折伏弘教はやまず、弘安元年(1278)には熱原郷の神四郎、弥五郎、弥六郎等の農民が日秀・日弁の教化によって正法に帰依している。
3月には、日興上人、日持、賢秀、承賢が四十九院による追放処分の不当性を幕府に訴えるなど、富士郡の岩本実相寺、四十九院、滝泉寺の各寺には正法信仰の輪がますます広がっていったのである。
弘安2年(1279)に入ると、法難はさらに激しさを増した。4月8日、浅間神社の流鏑馬行事の時、見物人の雑踏の中で信徒の四郎が刃傷された。
さらに8月、弥四郎が何者かによって頸を切られるという事件が起こったが、この二つの事件はともに犯人不明のままだった。
そしてついに9月21日、滝泉寺の弥藤次一味、政所の役人、行智一派の武士などが武装して、日秀の田で稲刈り中の農民信徒を急襲し、神四郎等20人を逮捕、下方政所に連行したのである。神四郎の兄の弥藤次はかねて準備してあった訴状を幕府へ提出した。
「日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す云云取意」(0850-02)。
「今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意」(0852-10)。
苅り田狼藉という無実の罪をきせた卑劣な訴状によって、神四郎等20人は鎌倉へ連行され、取り調べを受けたのである。
大聖人はこの時「伯耆殿並諸人御中」とあて名された書状を認められた。
「此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あへてたがえさせ給ふべからず。各各天の御はからいとをぼすべし。恐恐謹言。
九月二十六日 日 蓮 花 押
伯耆殿並諸人御中」。
神四郎達が鎌倉に連行されたのは9月下旬であろうと思われる。
この時、取り調べには平左衛門尉頼綱(~1293)があたった。
頼綱は、執権・北条時宗、貞時の二代に仕えた北条氏得宗家の内管領であり、また侍所の所司でもあった。
当時、執権職の安定・強化にともなって、その勢力を支えた得宗家被官達は、御内、御内人と呼ばれて、北条氏得宗家の権威を背景として次第に幕府の政治機構に入り込み、隠然たる権力を持つようになった。この御内人の最上位に内管領は立っている。内管領は所司として侍所を統裁し、全国の御家人の統轄権と検断権を掌握し、その権勢は大変なものであった。
頼綱は、この内管領の立場を利用して大聖人および門下を迫害してきたのである。
頼綱の大聖人とのかかわりがいつから始まったかは不明であるが、文永8年(1271)9月10日、幕府内で大聖人に見参したことが有名である。この時に、かえって厳然たる諌暁にあって不快の念をいだいた頼綱は、同12日、松葉ヶ谷の草庵を襲った。
「去文永八年太歳辛未九月十二日・御勘気をかほる……平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして、眼をいからし声をあらうす。大体・事の心を案ずるに、太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり。ただ事ともみへず」(0911-15)。
同日深夜、竜の口で斬首しようとして果たせなかった頼綱は、執権時宗をたきつけて大聖人を佐渡に流罪した。また、その後、時宗の断により赦免になって佐渡から帰られた大聖人に、頼綱は再び対面して諌暁をうけている。頼綱は一貫して、大聖人に対して憎悪をもっていたことは明らかであり、とくに熱原滝泉寺のある駿河国下方庄は、北条氏得宗家の領地で、「九月二十一日の事件」が得宗家の領地内で起こったことから、頼綱が直接に取り調べにあたったものと思われる。
頼綱による取り調べの模様について、堀日亨上人は「熱原法難史」で次のように述べられている。
「問註の頭人は無論平左衛門尉頼綱で20人を広庭に引き出して肝心の喧嘩の調べは早急に片付け、果ては汝等は早く法華の信仰を止めて念仏を申せ、然らば科罪を赦して帰国安堵せしむるであろう、若し信仰を改めずば吃度重罪に行ふべきぞ、一期の大事胸に定めて申上げろと最も厳かに申付た。
其顔色其声何とも恐ろしさの極みで如何なる剛の者でも脚下に懼れ伏して、答への辞が舌に上るべくもないのに、神四郎は自若として色をも変へず声も爽かに、法華の信仰を募のり種々の法門にも及ばんとしたので、頼綱大に激怒して、汝等土百姓の分際として天下の管領に言葉を返へす不敵さ、何れ本心であるまい天魔波旬が憑いて言はする囈語であらう、判官あるか其れ蟇目を以て調伏せよと13歳の小忰に急々申付たので、弓取り敢へず飯沼判官は蟇目の鏑矢をはげて、己れ神四郎等に憑ける悪くき悪魔ども此の神矢の音に退散しをれとウナリを生じて射出す矢の数に、迷信の者なら驚きもせんが、神四郎等は木の鏑の当る痛さを堪へて少しも屈せず、遂に一同声を張り上げて南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へ出した」
こうして、20人は拷問に屈しなかったので、張本とされた神四郎、弥五郎、弥六郎の3人は10月15日、頸を斬られ、残る17人は追放処分となった。
大聖人はこの法難のさなかの10月1日、「聖人御難事」を著された。
この御書の中で、釈尊、天台大師、伝教大師が出世の本懐を遂げるまでの年数を挙げられたうえで「余は二十七年なり」(1189-04)と立教開宗以来、27年目の今こそ出世の本懐を遂げる時がきたことを宣言されたのである。入信してわずか1、2年の熱原の農民信徒が、その権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだった頼綱と対して、一歩も退くことなく題目を唱え続けて不惜身命の信心を貫いたのである。
10月15日の殉職の模様は、直ちに身延の大聖人のもとに急報された。
「今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し、平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ、恐恐。
十月十七日戌時 日 蓮 在 御 判
聖人等御返事」(1455-01)
頼綱は十四年後の正応6年(1293)4月22日、蟇目の矢で神四郎達を拷問した次男の飯沼判官とともに謀反の疑いで誅され、長男の宗綱は佐渡に流された。
このことを日興上人は弟子分帳に次のように記されている。
「此の三人は越後房下野房の弟子二十人のうちなり。弘安元年信じ始め奉る処、舎兄弥藤次入道の訴えに依って鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢んぬ、平の左衛門入道の沙汰なり。子息飯沼判官十三歳ひきめを以って散散に射て念仏申すべきの旨、再三之を責むと雖も、二十人更に以って之を申さざる間、張本三人召し禁じて斬首せしむる所なり。枝葉十七人は禁獄せしむと雖も、終に放たれ畢んぬ。その後十四年を軽て平の入道判官父子、謀反を発して誅せられ畢んぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」。
(三)熱原法難での時光
富士郡下方庄熱原郷の神四郎、弥五郎、弥六郎の3人が処刑され、17人が追放処分となった熱原法難から20日余り、大聖人は時光が熱原法難で示した外護の功を賞でられて御書を与えられた。これが有名な上野殿御返事である。
この法門の追伸には「此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり」(1561-08)と述べられている。熱原法難に、献身的な外護を尽くした時光への慰労の御言葉と拝せられる。
時光への賜書のうち、熱原の人々への迫害に関する言及は、建治3年(1277)5月までには見ることができない。
すでに建治元年(1275)に日興上人によって日秀・日弁・日禅等が改宗し、翌年には滝泉寺院主代行智が日秀等に法華経への信仰をやめて念仏を称えるとの誓状を書くよう迫るなど、熱原地方の弟子・檀那への迫害が始まっていた。
時光に対しても、建治3年(1277)5月15日の上野殿御返事で、「さるにては殿は法華経の行者ににさせ給へりと・うけ給はれば・もつてのほかに・人のしたしきも・うときも日蓮房を信じては・よもまどいなん・上の御気色もあしかりなんと・かたうどなるやうにて御けうくむ候なれば・賢人までも人のたばかりは・おそろしき事なれば・一定法華経すて給いなん、なかなか色みへでありせば・よかりなん」(1539-06)と、方人を装い、甘言で退転を勧める者がいるので用心するよう注意を促しておられる。
「殿もせめをとされさせ給うならば・するがにせうせう信ずるやうなる者も・又信ぜんと・おもふらん人人も皆法華経をすつべし、さればこの甲斐の国にも少少信ぜんと申す人人候へども・おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候」(1539)。
駿河国は日興上人の弘教の中心地である。時光の一族はもちろん、外祖父由比入道、日興上人の叔母の嫁した高橋入道、時光の姉の嫁した石川新兵衛入道などが日興上人の門下となっている。
日興上人の弟子分帳65人中、37人が駿河国の人であり、なかでも在家弟子分17人は、全員富士郡在住である。
時光の屋敷は富士地方の弘教の拠点の一つになっていたであろうから、時光に対して当時さまざまな迫害や中傷が加えられたことであろう。
もし少輔房、能登房、名越の尼のように、時光がそそのかされて退転してしまえば、駿河国の信徒もすべて退転してしまうであろうと、時光の存在がいかに大きいかを述べて励まされているのである。
そして、「千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、今度法華経のために命をすつる事ならば・なにはをしかるべき」(1540-09)と、たとえ大難があろうとも法華経のために身命を捨てるのに、何の惜しいことがあろうかと仰せられている。
これらの御文からも、時光への迫害が身近に迫っていたことが推察される。
こうしたなかで弘安元年(1278)6月、大聖人が「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(1467-01)と、駿河の中心者として弘教に励むように仰せられているのは、時光にあてたものと推定される。いまだ20歳の若き時光は、難のなかでこの御言葉にどれほどか勇気を奮い起こしたことであろうか。
神四郎等の処刑の後も、法難の余燼が続いていた。
富士郡下方庄の新福地の神主は弟子分帳に「富士郡下方熱原新福地の神主は、下野房の弟子なり。仍って日興之を申し与う」と記されているとおり、大聖人の御本尊を授与されるほどの強信者であった。新福地の神主は熱原の信徒の中でリーダー格の存在であったのであろう。危険が忍び寄っていたので上方庄の時光の屋敷に妻子ともにかくまわれていた。
「去ぬる六月十五日のけさん悦び入つて候、さては・かうぬし等が事いままでかかへをかせ給いて候事ありがたく・をぼへ候、ただし・ないないは法華経をあだませ給うにては候へども・うへには・たの事によせて事かづけ・にくまるるかのゆへに・あつわらのものに事をよせて・かしこ・ここをもせかれ候こそ候いめれ、さればとて上に事をよせて・せかれ候はんに御もちゐ候はずは物をぼへぬ人に・ならせ給うべし、をかせ給いて・あしかりぬべきやうにて候わば・しばらく・かうぬし等をば・これへとをほせ候べし、めこなんどはそれに候とも・よも御たづねは候はじ、事のしづまるまで・それに・をかせ給いて候わば・よろしく候いなんと・をぼへ候」(1546-01)。
この賜書は法難から10ヵ月後の弘安3年(1280)7月のものである。この中で大聖人は時光に対して神主をかくまってくれた礼を述べられ、もしかのときは神主を身延に送られたい、しかし妻子に危難が及ぶことはないだろうから、事態が落ち着くまであずかってもらいたいと仰せられている。時光が神主をかくまったのはいつごろからか正確にはわからないが、弥藤次一味、下方政所の役人等が弘安2年(1279)9月21日に神四郎らの稲刈りの時に襲撃した後であろう。行智一味も、御家人であり地頭である時光を捕縛したり、直接迫害することはできなかったのである。
しかしさまざまな圧迫が加えられたと思われる。
「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし、国王一人の太子のごとし・いかでか位につかざらんと・おぼしめし候へ」(1565-12)。
大聖人は時光に、この苦しみも必ず去り、常楽我浄となっていくだろうと温かく励まされている。
そして、この法難の余波のなかで、時光は弟の七郎五郎の突然の死にあうのである。6月15日には2人して身延山に参詣し、大聖人にお会いしたばかりだったのである。「あはれ肝ある者かな男や男や」(1567-10)と大聖人が成長を楽しみにされていた七郎五郎の急死である。時光の心中は、いかばかりであったろうか。
しかし、時光の悲しみに追い打ちをかけるような迫害はつづく。弘安3年(1280)12月の「上野殿御返事」に「其の上わづかの小郷に・をほくの公事せめあてられて・わが身は・のるべき馬なし・妻子はひきかくべき衣なし」(1575-03)と、幕府は地頭の時光に対して多くの課税・夫役の負担を強いたのである。
時光はこうした経済的苦境のなかでも「かかる身なれども法華経の行者の山中の雪に・せめられ食ともしかるらんと・おもひやらせ給いて・ぜに一貫をくらせ給へるは・貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ・りだが合子の中なりし・ひえを辟支仏に・あたへたりしがごとし、たうとし・たうとし」(1575-07)とあるように、雪の中に閉じ込められている大聖人の御生活を思い、銭一貫文を御供養しているのである。これこそ御供養の精神の鏡といえよう。
(四)時光の病気
「御使の申し候を承り候、是の所労難儀のよし聞え候、いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候」(1578-01) 弘安4年(1281)9月、時光は病気になった。病名は不明である。
父の兵衛七郎が壮年の時に病死し、弟の七郎五郎を前年9月に亡くしている南条一家にとって、惣領である時光の病は重大事であった。
大聖人は「いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候」(1578-01)、「参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」(1579-02)と、人里を離れた山中とはいえ、月氏の霊鷲山にも比すべき身延山に、早く病気を治して参詣するように仰せられている。我が子のような時光の身を案じて、「是にて待ち入つて候べし」(1579-02)と時光の元気な顔を見たい、身延で待っているとの温かな御言葉は、時光を奮起させずにおかなかったであろう。
このあと、時光の病状について述べられている御書がないので一応治ったものと思われるが、翌年二月に時光は再び病に臥してしまうのである。
しかもこの頃は、大聖人の御身体もすぐれなかった。
「中務左衛門尉殿御返事」
「日蓮下痢去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日日に度をまし月月に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日日月月に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか」(1179-11)。
「八幡宮造営事」
「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」(1105-01)。
「富城入道殿御返事」
「今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比到来せり、其の外度度の貴札を賜うと雖も老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候」(0993-01)。
「上野殿母御前御返事」
「このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ、さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の山・出ずる事一歩も候はずただし八年が間やせやまいと申しとしと申しとしどしに身ゆわく・心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候」(1583-02)。
これらの書状から建治3年(1277)の12月に起こった下痢以来、大聖人の御身体の調子はすぐれず、とくに弘安4年(1281)10月以降、お体が急激に衰弱されていることが拝せられる。
弘安5年(1282)2月、時光の病が悪化。大聖人は御身体の不調から日朗に代筆させて激励の書を日興上人のもとに送られた。御書全集に収められていないので全文を掲載する。
「伯耆公御房消息
御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。兼て又此の経文は二十八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひととせ御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもつてまいらせさせ給ひて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文也。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こころざしふかきもの也。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわうたすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰の刻にしやうじがはの水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはいにやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせ給ふべく候。恐々謹言。
弘安五年二月二十五日 日 朗 花 押
謹 上 はわき公御房」。
しかし、それでも時光のことが御心配であったのであろう。大聖人は3日後の2月28日、病をおして自ら「法華証明抄」を認められ、日興上人を通じて時光に送られた。
この御書は他の賜書とは異なり、冒頭から「法華経の行者 日蓮」と認められて、花押をされてから本文に入られている。
「しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫・武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり、其の故は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上たまたま信ずる人あれば或は所領・或は田畠等に・わづらひをなし結句は命に及ぶ人人もあり信じがたき上・はは故上野は信じまいらせ候いぬ、又此の者敵子となりて人もすすめぬに心中より信じまいらせて・上下万人にあるいは・いさめ或はをどし候いつるに・ついに捨つる心なくて候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ、又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまいを忽になをして・かへりてまほりとなりて鬼道の大苦をぬくべきか、其の義なくして現在には頭破七分の科に行われ・後生には大無間地獄に堕つべきか、永くとどめよ・とどめよ、日蓮が言をいやしみて後悔あるべし・後悔あるべし」(1586-15)。
時光は父母に続いて、幼少から大聖人に帰依し、周囲の反対の中を信仰を全うし、若い身でありながら身延山中の大聖人の御不自由を思われて度重なる御供養を奉っているのである。何としても時光を病魔から救ってあげたいと、「鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか」と鬼神を呵責されて当病平癒を祈られる大聖人の御心が、拝読する者の心を打つ御文である。
「莚三枚御書」
「莚三枚・生和布一籠・給い了んぬ。抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまいもなをり・虎とるばかりをぼへ候上・此の御わかめ給びて師子にのりぬべくをぼへ候」(1578-01)。
大聖人の御祈念によって、時光の病は平癒したようである。時光はさっそく、莚・生若布を御供養し、大聖人もまた御元気になられた様子を拝することができる。
(五)大聖人御入滅
建治3年(1277)の12月に起こった大聖人の下痢は、四条金吾の治療によって一時は治ったようであるが、「八年が間やせやまい(病」(1583)が続いて、ほとんど食事が進まれなかった。
弘安5年(1282)3月、時光に与えられた「莚三枚御書」以後、相伝書、付嘱書を除くと大聖人が著された御書は、「三大秘法禀承事」、「波木井殿御報」のみである。このことからも大聖人の病状がいかに悪化していたかが察せられる。
9月8日、大聖人は御弟子の強い勧めがあって、常陸に湯治に向かわれた。身延を出発される前に、日興上人に血脈を付嘱あそばされ「本門弘通の大導師」に任ぜられ、「血脈の次第 日蓮日興」(1600-05)と日蓮一期弘法付嘱書を与えられている。門下や波木井一族の若者等に護られて9月18日に武蔵国池上(東京都大田区)に到着された。そして、10月8日には六老僧を定められ、10月13日、日興上人を身延山久遠寺の別当と定めた身延山付嘱書(1600)を与えられ、後事をすべて託された後、安祥として辰の時に御入滅になられた。この時、大地が震動し邸内の桜が一時に咲いたという。
日興上人が10月16日に記された「宗祖御遷化記録」によると、14日の戌の時に御入棺、子の時に御火葬申しあげている。この時時光は御葬送に列なった。
「一.御葬送次第
先火 二郎三郎 鎌倉の住人
次大宝花 四朗次郎 駿河国富士上野の住人
次幡 左 四条左衛門尉
右 衛門大夫
次香 富木五郎入道
次鐘 太田左衛門入道
次散花 南条七郎次郎
次御経 大学亮
次文机 富木四朗太郎
次仏 大学三郎
次御はきもの 源内三郎 御所御中間」
時光は松明を先頭に茶毘所に向かう葬列の中で、四条金吾、富木常忍、池上宗仲等の重鎮の信徒にまじって散花の役を務めている。散花とは供養のために、樒の華、蓮の花びら、蓮弁をかたどった色紙を歩きながら撒くことである。
時光が池上での御葬儀に参列できたのは、恐らく大聖人御入滅の報が届く前に、すでに上野郷を出発していたからであろう。御遷化記録から推すると六老僧のうち佐土公日向と伊与公日頂の2人の名がなく、他国に行っていて御葬列に列することができなかったように思われる。
当時、鎌倉から身延まで急使で2日間はかかっており、時光は大聖人の身延御出山、池上での御様子などを聞いて、一族の四郎次郎などを伴って池上に急いだのであろう。
「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へばいづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候」(1376-05-)。
この御遺言から大聖人の御墓を晩年を過ごされた身延に建てるため、初7日の法要を終えてから、御遺骨は弟子・檀那に守護されて池上を出立した。
「元祖化導記」には「或る記に云く、御遺骨をば御遺言に任せて、十月二十一日池上より飯田まで二十二日湯本、二十三日車返、二十四日上野南条七郎宿所、二十五日甲斐国に入り玉へり」とある。この書は文明10年(1478)に書かれたもので、「或る記」が何かは不明であるが、御遺骨の身延への旅程について諸伝はおおよそこの説を用いている。
ここに記されているとおりなら、御灰骨は上野郷の時光の屋敷に一宿されたのである。東海道から身延に入るコースとしてはやや寄り道ともいえるこの一宿は、大聖人御在世の法縁と日興上人の御配慮ではなかったかと思われる。
(六)身延離山と大石寺建立
(1)波木井実長について
日蓮大聖人の御灰骨を奉持して、日興上人が身延に入山されたのは、弘安5年(1282)10月の末であった。「身延山久遠寺の別当たるべきなり」(1600-01)との身延山付嘱書のとおり、日興上人は身延山久遠寺の院主別当として、また一宗の総貫首として身延山に常住されることになった。
身延の地頭は波木井実長(1222~1297)である。実長は甲斐源氏の一門といわれる。甲斐源氏とは清和天皇の流れを汲む清和源氏の一族であり、源頼義の子・義光から出ている。その一門が甲斐、信濃にわたる地方の豪族として勢力をもち、甲斐に土着したものを甲斐源氏と呼んだ。
大聖人が波木井一族に与えられた御書のなかに「南部六郎殿御書」がある。南部姓については、実長の父・南部三郎光行が源頼朝の時代に奥州南部を開いたことから南部殿と呼ばれるようになったとの説がある。
この時代の甲斐国は山梨、八代、巨摩、都留の四郡に分けられており、実長はこの四郡のうち、巨摩郡の南巨摩にある波木井、御牧、飯野の三郷の地頭であった。そして波木井郷に住んでいたので波木井実長と呼ばれるようになった。
実長は御家人であり、そのため鎌倉勤務も多かったようである。波木井と鎌倉を往復する間に、沿道の富士河西の四十九院で日興上人の教化を受けて念仏を捨て法華経に帰依したといわれる。入信は文永6年(1269)頃と伝えられる。後に大聖人から日円の法号を授けられている。
日興上人の弟子分帳には、波木井一族の名が、南部遇俟志入道、越前房、南部六郎入道、波木井藤兵衛入道、南部六郎次郎、南部六郎三郎、南部イホメノ宿ノ尼、南部弥六郎、波木井弥次郎入道、波木井弥三郎兵衛入道、波木井播磨公と十一名記されている。
大聖人は佐渡流罪御赦免後、文永11年(1274)4月8日、平左衛門尉と対面され、三度目の国主諌暁を行われた。しかし、幕府はこの諌暁を容れず、「本より存知せり国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(0358-03)と、大聖人は鎌倉を去られる決意をされたのである。
「延山地頭発心の根元は日興教化の力用なり、遁世の事甲斐の国三牧は日興懇志の故なり」(0869-09)と述べられているように、身延の地頭・実長が日興上人の弟子であり、有縁の地であることから、大聖人は身延に入山されたのである。
この地頭波木井実長の法門への信解はどのようなものであったのか。
建治3年(1277)の「四条金吾殿御返事」に「だいがくどの・ゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いしゆへにや候けん、すこししるし候か」(1151-11)とある。
大聖人が身延へ入られて3年目の御書であり、「御信用あるやうに候へども……申すままには御用いなかりしかば」とあるように、実長は一応は信心があるようにみえながら、大聖人の御指南に心から従わないという傲慢な心が根強くあったようである。この信解の浅さと傲慢さが、後年、日興上人の至誠の厳誡に背いて四箇の謗法を犯す根本となったのであろう
(2)民部阿闍梨日向について
六老僧の一人である日向(1253~1314)は、佐渡公、佐渡房、または佐渡阿闍梨、民部阿闍梨等と呼ばれた。安房国長狭郡尾金に生まれ、13歳の時に大聖人に帰依した。身延に入山された大聖人が遠方の門下に書状を送られるとき、それを運び大聖人の御言葉を伝えるなどの任にあたっていたようである。建治2年(1276)、道善房の死去に際して墓前で「報恩抄」を読み、また弘安3年(1280)には大聖人の法華経講義を聴聞して「御講聞書」としてまとめるなど、功あって六老僧の一人に選ばれている。
しかし、日興上人が記された「宗祖御遷化記録」「墓所可守番帳事」によると、日向は大聖人の御葬儀の際、また弘安6年(1283)1月の100日忌にその名が見えず、他国に行って不参だったようである。
「定
次第不同
墓所守る可き番帳の事
正月 弁阿闍梨
二月 大国阿闍梨
三月 越前公
淡路公
四月 伊与公
五月 蓮花闍梨
六月 越後公
下野公
七月 伊賀公
筑前公
八月 和泉公
治部公
九月 白蓮阿闍梨
十月 但馬公
卿公
十一月 佐土公
十二月 丹波公
寂日房
右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可きの状件の如し
弘安六年正月 日」。
このように日向は11月にあたっていた。しかし五老僧いずれもこれを守ろうとはしなかった。日興上人の門下を除いた他の弟子たちはほとんどこれを実行しなかったのである。
(3)日興上人と五老僧
日興上人が身延に入られた弘安5年(1282)の12月に、鎌倉に在った実長は日興上人に書状を送っている。
「まことに御きやうをちやうもんつかまつり候も、聖人の御事はさる御事にて候、それにわたらせ給候御ゆへとこそひとへに存候へ、よろづけさんに入り候て申すべく候」。
これは、身延で御経を聴聞できるのは日興上人が身延においでになるからこそである、との喜びの言葉である。
弘安7年(1284)10月、大聖人の第3回忌には、諸老僧は地頭の実長が謗法を犯しているとか病気とかの理由で身延に登山しなかった。
日興上人はこのことを美作房に送られた書状のなかで「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由御遺言には承り候えども不法の色も見えず候」と、地頭が不法をおかしているわけでもないのに、登山しないのはどういうわけかと諸老僧を難じられている。
また「師を捨つべからずと申す法門を立てながら忽ちに本師を捨て奉り候わん事大方世間の俗難も術なく覚え候」と。
この御文からも、この頃に老僧達が身延に参詣していないことが明瞭である。
また実長は、弘安8年(1258)2月、日興上人に書状を送り、久遠寺に法華経読誦、法門談義の盛んになったことを喜び、それは日興上人が身延にいてくださるからであり、大聖人が再び身延に住まわれているようにありがたく思う、と述べている。
五老僧等は、大聖人が身延山久遠寺を日興上人に譲られたための嫉妬と、厳格な日興上人を嫌う気持ちから、登山しなかったのであろう。
(4)離山の原因 実長の謗法
弘安8年(1285)、民部阿闍梨日向が下総から登山してきた。他の老僧が参詣しないなかでの登山であったため、日興上人はこれを喜ばれ、日向を学頭に補されたのである。
2月19日、実長から日興上人への書状に「みんぶのあざりの御房の御文給はりて候事よろこび入りて候(中略)みんぶの阿闍梨の御房の御はかへ御まいり候べきよしうけ給う」とあるとおり、この年の2月に日向が身延に参詣する意思を日興上人に手紙で知らせたことが記されている。したがって、日向の身延登山は、弘安8年(1285)の春以降ということになる。
正応元年(1288)12月の「原殿御返事」には「彼の民部阿闍梨世間の欲心深くしてへつらい諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁よと、此の二三年見つめ候いて」とあり、日興上人は日向の不法が弘安9年(128)頃から現れていたことを指摘されている。
日亨上人は原殿御返事に述べられている日向の謗法行為を六種類に分類されている。
一、非安国論主義の神社参拝。
二、国禱問題。
三、師敵対。
四、日興上人を外典読みとの批判。
五、絵曼荼羅をかいた。
六、日向の放埒。
この「諂曲したる」によって実長が犯した謗法は「総じて此の事は三の子細にて候。一には安国論の正意を破り候いぬ、二には久遠実成の木像最前に破れ候、三には謗法の施始めて施され候いぬ」の三点になる。
古来、実長の謗法を四箇とするが、これは「富士一跡門徒存知の事」による。
「一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。
釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三。
次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。
已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり」(1602:03)
これを原殿御返事にある「三の子細」とあわせると次のようになる。
原殿御書 三の子細
(一)安国論の正意破る
(二)久成釈尊木像破る
(三)謗法の施 始まる
四箇の謗法
① 立像釈迦仏再建(原殿)
釈迦如来を造立(門徒存知、是一)
② 三島の社参(原殿)
二所・三島の社参(門徒存知、是二)
③ 福士塔供養の奉加(原殿)
福士の塔を供養(門徒存知、是三)
④ 持斎法師の供養(原殿)
九品念仏道場建立(門徒存知、是四)
日興上人は実長に対して、あくまでも実長の過ではなく「諂曲したる僧」、すなわち日向に惑わされているのであるとして、改心を促された。しかし、すでに日向の軟風に染まった実長は、日興上人の諌暁を聞き入れようとせず、かえって、「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」と不遜の返書を呈するにいたったのである。
(5)日興上人の身延離山
学頭の日向と地頭の実長の四箇の謗法とによって、大聖人が9年間お住まいになった身延の地も、ついに謗法の汚泥にまみれてしまった。
日興上人の胸中には「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」との大聖人の御遺言がつねに秘められていたことと拝される。
身延を去るということは、大聖人から「身延山久遠寺の別当」(1600)に任ぜられた身でありながら、その地をむざむざ捨て去ることであり、日興上人には断腸の思いであったと拝される。
身延を離山される心情を、原殿御返事のなかで次のように述べられている。
「日興が波木井の上下の御為めには初発心の御師にて候事は、二代三代の末は知らず、未だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ。
身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽し難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無くて候。又君達は何れも正義も御存知候えば悦び入り候(中略)同行に憚りていかでか聖人の御義をば隠し候べき。彼の阿闍梨の説法には、定めて一字も問いたる児共の日向を破するはとの給い候わんずらん。元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還つて失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか。何よりも御影の此の程の御照覧如何か、見参に非ざれば心中を尽し難く候」。
日興上人の離山の決意を聞き知った波木井一族の清信の士・清長は、日興上人に書状を奉った。
「もしみのぶさわを御いで候へばとて心がはりをもつかまつり候、おろそかにもおもひまいらせ候、又おほせの候御ほうもんを一ぶんもたがへまいらせ候はば、ほんぞんならびに御しやう人の御ゑいのにくまれを清長が身にあつくふかくかぶるべく候。
しやうをうぐわんねん二月五日 源の清長 在り判」。
また一族の越前公からこのことを聞いた実長は、鎌倉から越前公あてに「今は万事たのみまいらせ候なり」と日興上人の引きとめを依頼する書状を送っている。
しかし、日興上人の御決心は固く、正応2年(1289)春、一切の重宝を奉持して身延を離山されたのである。
最初は外祖父由比入道の富士郡上方庄河合の養家にしばらく御滞在になり、3月には時光の請いを受けて上野郷に赴かれたのである。
(6)大石寺建立
日興上人が、時光の懇請を入れて上野郷の南条邸に入られたのは正応2年(1289)の春であった。
そして、時光から大石ヶ原の寄進を受け、大石寺建立の工事が10月から開始された。
日目上人、日華、日禅、日秀、日仙等の門下、また時光や新田信綱等の檀越等が協力して大坊の造営にかかり、正応3年(1290)10月12日、12間四面の完成をみるに至った。大坊は六壺ともいわれ、仏間、住職の居間、寺務所、集会所、台所等六つに区画されていたと伝えられる。
日目上人は蓮蔵坊、日華は寂日坊、日秀は理境坊、日仙は上蓮坊、日尊は久成坊をそれぞれ建て、ここに大石寺の基盤がなったのである。この時、日興上人は45歳であられ、時光は32歳であった。その後、日興上人は講学に力をそそがれて若き弟子達の育成をはかり、また門下を指揮して大法弘通に励まれたのであった。
(七)時光の晩年
大石寺が建立された正応3年(1290)以後、蓮東坊(日蔵)、乗観坊(日弁)、観行坊(日円)、治部坊(日延)、浄蓮坊(日道)等が続々と建立され、時光の生存中に大石寺塔中の坊は11を数えるにいたった。
大石寺建立の後の時光の行跡については、子孫への所領の譲状のほかに文書がほとんど残っていないのでよくわからない。ただ、日興上人が、大石寺の基礎が固まった永仁6年(1298)に、大石寺から東へ約2㌔の重須郷の地頭・石河孫三郎の請によって御影堂を建立して移られたが、その造営について時光が尽力していることは明らかである。
「大施主 地頭石河孫三郎源能忠 合力 小泉法華衆等
大施主 南条七郎次郎平時光 同 上野講衆中」
日興上人が重須に移られてからは、嫡弟の日目上人が大石寺を統括された。すでに日目上人は、正応3三年(1290)10月に、日興上人から御座替御本尊を授与されている。大石寺と重須とは両寺一寺の関係で区別はなかった。大石寺、重須はともに時光邸からは近距離であったためか、あるいは中古の時代に紛失したためか、日興上人からの時光への書状はほとんど伝わっていない。
大聖人の第33回忌である正和3年(1314)は、また時光にとっては父の兵衛七郎の50回忌でもあった。正和5年(1316)の文書から、時光は入道して大行と名乗っている。元亨3年(1323)には妻の乙鶴が死去した。妙蓮寺伝によれば、時光は妻の菩提を弔うために、一周忌に自宅を寺にしようと発願し、日興上人に願い出たとされる。日興上人はそれを聞き入れられ、弟子の寂日房日華を開基として乙鶴の法号の妙蓮をそのままとって妙蓮寺と称された。
元弘元年(1331)10月、大聖人の第50御遠忌を迎え、盛大に法要が営まれた。大聖人の6人の高弟のうち日昭、日朗、日向、日頂はすでになく、日持は海外弘教に旅立って消息不明となっており、日興上人御一人が御遠忌を奉修し大聖人に報恩の誠を尽くされた。
そのころ、鎌倉幕府も蒙古との戦いを契機として疲弊し、支配体制の基盤である御家人制が崩れ出すなど、北条氏専制政治への不満は高まり、朝廷を中心とする討幕運動が盛んになるなど、幕府は急速に終焉を迎えようとしていた。
翌正慶元年(1332)5月1日、時光は大聖人、日興上人に外護の赤誠を尽くした74年の生涯を終えた。そして、遺言によって両親の眠る上野郷内の高土の墓に葬られた。
(八)時光の子孫
日 南条家系図
┌―左衛門太郎―――――太郎高光
七郎次郎時光―┬├―左衛門次郎時忠―――節丸
乙鶴(妙蓮)―┘├―左衛門三郎
├―左衛門四郎
├―左衛門五郎時綱―┬―時長
│ └―牛王(妙本寺日伝)
├―左衛門六郎
├―左衛門七郎
├―乙若(妙蓮寺日相)
├―乙次(妙蓮寺日眼)
├―女子――――――┬―大石寺四世日道
│ 新田五郎次郎頼綱┘
├―女子――――――┬―大石寺五世日行
│ 加賀野太郎三郎―┘
├―女子(乙松)
└―女子(乙一)
日亨上人の「南条時光全伝」によると、時光は九男四女の子福者であった。
左衛門太郎は長男であるが、病弱か何かの理由で、次男の左衛門次郎時忠が惣領となる。
左衛門次郎時忠については、日因上人の「新田南条両家之事」に
「正中三年二月八日状に云く、故二郎云云」とあることから、時忠は正中3年(1326)に死去したことがわかる。死去の原因は不明である。
時忠の死によって、恐らく子の節丸が幼かったためか五男の左衛門五郎時綱が家督をとり惣領となっている。この時綱の子に時長、牛王丸の二人がいる。時長は時綱の跡を継ぎ、牛王丸は後に妙本寺日郷の跡を継いで、中納言阿闍梨日伝と称した。日伝は「大綱深秘抄」を著している。
左衛門三郎は、延慶2年(1309)2月23日、伊豆国南条の南方武正名の給田を時光から譲り渡されている。そのほかのことは不明である。
左衛門四郎、左衛門六郎、左衛門七郎については時光からの譲状も現存せず、日興上人の御遷化の御葬送に列したこと以外にはわからない。ただ子文書によると左衛門六郎は名が清時と記されている。
乙若丸、乙次丸は、のちに日華の弟子となり、長じて侍従公日相、大法坊日眼と号して、それぞれ妙蓮寺の第4代、第5代の住職となっている。日眼は「五人所破抄見聞を著している。
正慶2年(1333)2月7日、日興上人が88歳で重須で御入滅になられ、2月8日に御葬送となった。この時、日郷は「日興上人御遷化次第」をまとめている。
これによると、時光の一族は左衛門三郎、左衛門四郎、左衛門七郎、七郎若宮が花を持ち、左衛門五郎時綱は御影を奉持し、乙若丸は御輿についている。
ここで記されている七郎若宮は一族の者だが、名前からみて平七郎の縁のある者であろうか。また、左衛門太郎の名もあるが、これが長男の左衛門太郎であるかどうかは姓がついていないので不明である。女子については、長女は伊豆国の新田頼綱夫人となり、第四世日道の母となった。次女は奥州の加賀野太郎に嫁して第五世日行の母となっている。そのほか、乙松、乙一の二人がいたことが文章に見える。
「南条次郎左衛門入道大行の女子乙松乙一女等」。
以上のことから、時光の子孫は大石寺、富士妙蓮寺の草創の時代に、その檀那とし、また出家して住職となるなど、時光の意志を継いで大法興隆への礎となったのである。
第三 御供養と賜書
(一)大聖人への御供養
時光の大聖人に対する外護の誠は、大聖人の身延入山後に限られるが、数々の御供養にもあらわれている。
時光は身延と比較的近い上野郷に居住していたことからも、わずか九年間の間にたびたび自ら御供養をたずさえて身延に参詣し、使いを出して御供養申し上げている。御書全集に残っているだけでもその回数は43回で、宗門最高数である。
(二)賜書
南条時光および南条一族に与えられた御書は59編にのぼる。
日興上人に送られた弘安5年2月28日の「法華証明抄」は、内容から時光宛ての書とした。
時光一族の賜書は、富木常忍及び尼御前・母尼御前への44編、四条金吾およびその妻への33編を大きく上回っている。これは文永11年(1274)から大聖人の住まわれた身延山と上野郷とが、富木上人の住む中山や四条金吾の鎌倉と比べて距離が近いことも関係しているだろうが、何よりも時光の純真な信仰のあらわれであることは当然であろう。
1493~1498 南条兵衛七郎殿御書(慰労書)top
1493:01~1493:03 第一章 病を慰労され仏法の重要性示すtop
| 1493 南条兵衛七郎殿御書 文永元年十二月 四十三歳御作 与南条兵衛七郎 01 御所労の由承り候はまことにてや候らん、 世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あら 02 ん人は申すにおよばず・ 但心あらん人は 後世をこそ思いさだむべきにて候へ、 又後世を思い定めん事は私には 03 かなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。 ------― 御病気であるとお聞きしたが事実であろうか。世の中の無常であることは、病気でない人も死をまぬかれることはできないのであるから、まして病気の人は申すまでもない。ゆえに心ある人は後世のことを考え定めておくべきである。その後世を考え定めることは、自分の力では不可能である。一切衆生の本師であられる釈尊の教えこそ根本となることができるのである。 |
御所労
所労とは①病気、煩いのこと。②疲労、疲れのこと。ここでは①の病気のことと思われる。
後世
後の世。未来世。後生ともいう。
―――――――――
本抄は、文永元年(1264)12月13日、日蓮大聖人43四歳の御時に認められた御手紙である。御真筆が存している。文永元年(1264)12月といえば、同年11月11日の小松原の法難の1ヵ月後にあたる。この年の前年にあたる弘長3年(1263)に伊豆流罪を赦免になられた大聖人は、この年の秋、立宗以来、12年ぶりに故郷の安房に帰られた。帰省の大きな理由として、御母妙蓮の重病を聞かれ、回復の祈念をされんがためであったと考えられる。
その結果、御母の病は癒えたが、大聖人は、その後も安房の地にとどまり、花房の蓮華寺を中心として弘教に専念されるのである。
そうしたなかで、かねてから大聖人を憎んでいた地頭の東条景信が、蓮華寺から工藤吉隆邸へ向かわれる大聖人を襲撃するという事件が起きた。これがいわゆる小松原の法難である。この難については、本抄に詳しく述べられているので後に譲るとして、大聖人は、その後もさらに留まり、旧師道善房と再会されたり、同地の妙法弘通に邁進された。
そして、小松原の法難の1ヵ月後の12月に、日蓮大聖人は、駿河国上野の住人南条兵衛七郎が重病に陥ったことを聞かれて、妙法に対する強盛なる信心を諄々と説かれ、励まされたのが本抄である。
南条兵衛七郎については、すでに本書の序講で述べたとおりであるが、駿河国富士郡の上野郷を領していたところから〝上野殿〟とも呼ばれた。
南条兵衛七郎は、弘長3年(1263)から翌文永元年(1264)の間、もしくは文応元年(1260)から、翌弘長元年(1261)にかけてのころに日蓮大聖人から教化を受けて、それまでの念仏信仰を捨て、法華経に帰依した。しかし全面的には念仏を捨てきれず、法華経の信仰とのはざまで、迷っていた様子が御文からも拝察される。
南条兵衛七郎の病は、本抄の激励を受けて一時は回復したようであるが、翌文永2年(1265)病没している。
本抄の概要は、まず、南条兵衛七郎の重病に対して心のこもった激励をされた後、教・機・時・国・教法流布の前後という五義の教判を説き示されて、法華経の絶対なることを強調されるとともに、どこまでも念仏を捨てて、妙法に対して強盛なる信心を貫くよう勧められている。つぎに、1ヵ月前の小松原の法難の様子を述べられて、法華経の経文どおりに法難を受けた日蓮大聖人こそ「日本第一の法華経の行者なり」と宣言されている。本抄が別名を小松原法難抄とよばれるのはここに由来している。そして最後に、後生についても、日蓮大聖人の弟子として法華経の信心を貫けば、後生善処の功徳を受けられることを力説され、本抄の結論とされている。
なお、本抄全体をとおして、人々の帰依すべき仏として教主釈尊を、法としては法華経を、それぞれ立てられている。これは、どこまでも文永元年という時期でもあり、しかも、御手紙の相手が入信して日も浅く、かつての念仏信仰を完全には捨てきっていない南条兵衛七郎であったことが大きな理由であったと考えられる。
これと関連して、日寛上人は、末法相応抄の中で、大聖人が御在世の門下の釈迦仏造立を称歎された元意について次のように述べられている。
「今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も、而も之を称歎する。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり。是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す。然るに彼の人適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には、一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」と。
ここにも明らかなように、日蓮大聖人が、教主釈尊の帰依を強調されたり、あるいは門下が釈尊の仏像を造立したことを称讃されたりしたのは、一には一宗弘通の初めの時期であり、二には日本国中に阿弥陀仏信仰が流行している風潮に対して、ともかくまず、釈尊の信仰に引き戻すことを目指されたゆえであり、三には、たとえ釈尊を立てられていても、大聖人の観見の前にはそのまま一念三千即自受用身の本仏と映じていたことによるのである。以上のことは、帰依すべき法を法華経とされたことについても同じである。
あくまでも、大聖人の元意は、仏としては久遠元初の自受用身如来、法としては、法華経文底の三大秘法の南無妙法蓮華経であり、この人法一箇の御本尊にあられたことを大前提としつつ、本抄を拝読していかなければならない。
さて、本抄は冒頭、南条兵衛七郎の大病のことから、病なき人であってもこの世に「留りがたき事」すなわち、病なき人でもいつまでも生き続けられるものではない、という永遠の法則から、心ある人は〝後世〟に対する確たる心構えをしなければならないと述べられている。そして、〝後世〟に対する心構えを確立するには自分一人の力では不可能であり、〝一切衆生の本師〟である釈尊の教えを根本にしなければならない、と教えられている。
1493:04~1494:10 第二章 宗教の五網のうち「教」を明かすtop
| 04 しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か。 ・ -----― そうなのに、仏の教えはまちまちである。それは人の心がさまざまだからであろうか。 -----― 05 しかれども釈尊の説教.五十年にはすぎず、さき四十余年の間の法門に華厳経には心仏及衆生.是三無差別・阿含 06 経には苦.空・無常・無我・大集経には染浄融通.大品経には混同無二・雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽、此 07 等の説教は皆正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはべりけんめ、 しかれども仏いかんがお 08 ぼしけん・無量義経に「方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれて・先四十余年の往生極楽等の一 09 切経は親の先判のごとく・ くひかへされて 「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずること 10 を得ず」といゐきらせ給いて・ 法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨て但無上の道を説く」と説かせ給へり、 11 方便をすてよととかれてはべるは 四十余年の念仏等をすてよととかれて候、 かうたしかにくひかへして実義を定 12 むるには「世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし」といひ 「久しく斯の要を黙して務いで速かに説かず」等 13 と定められしかば、 多宝仏は大地よりわきいでさせ給いて この事真実なりと証誠をくわへ、 十方の諸仏は八方 14 にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ふ、 二処・三会・二界・八番の衆生一人もなくこれをみ候いき、此 15 等の文をみ候に仏教を信ぜぬ悪人・ 外道はさておき候いぬ、仏教の中に入り候ても爾前・権教・念仏等を厚く信じ 16 て十遍・百遍.千遍・一万・乃至・六万等を一日にはげみて.十年・二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも 1494 01 申さぬ人人は・ 先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか、 此等は仏説を信じたりげには我身も人も思い 02 たりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。 -----― しかしながら釈尊の説教は五十年である。前の四十余年の間の法門には、華厳経には「心、仏及び衆生、是の三つは差別が無い」と説かれ、阿含経には「苦・空・無常・無我」と説き、大集経には「染浄融通」と説き、大品般若経には「混同無二」と説き、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等には「往生極楽」と説いている。これらの説教は皆釈尊滅後の正法・像法・末法の一切衆生を救うために説かれたのであろう。 しかしながら、仏は何と思われたか、無量義経に「方便の力を以って説いたのである。四十余年の間は、未だ真実を顕していない」と説かれて、親の譲状の先判のように悔い返され、前の四十余年に説いた「往生極楽」等の一切経は「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎるほど修行しても、ついに無上菩提を成ずることはできない」と言いきられて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便の教えを捨てて但無上の道を説く」と説かれたのである。方便を捨てよと説かれてあるのは、四十余年の念仏等を捨てよと説かれたのである。 このようにたしかに前の教えを悔い返して真実義を定めるには「世尊は法久しくして後要当に真実を説くであろう」といい、「久しい間この要法を黙して、いそいで速やかに説かなかった」等と定められたので、多宝仏は大地から涌き出られて、この事は真実であると証明を加え、十方の諸仏は八方に集まって広長舌相を大梵天宮に付けられた。法華経の二処三会に列なった二界八番の衆生は一人ももれなくこれを見たのである。 これらの文を見ると、仏教を信じない悪人・外道はともかくとして、仏教を信じながらも法華経以前の権教、念仏等を厚く信じて、一日に十遍・百遍・千遍・一万遍乃至六万遍等の念仏を称えて、十年・二十年の間に一遍も南無妙法蓮華経と唱えない人々は、親の譲状の先判を用いて後判を用いない者ではないか。それらの人は仏説を信じているように自分も思い、人も思っても、仏説のとおりならば不孝の者である。 -----― 03 故に法華経の第二に云く 「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は 04 諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す 復教詔すと雖も而も信受せず」等云云 、此の文の心は釈迦如来は我等 05 衆生には親なり師なり主なり、 我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ま 06 しまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、 親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師 07 も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、 この親と師と主との仰せをそむか 08 んもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、 不孝第一の者なり故に雖復教詔而不信受等と説かれたり、た 09 とひ爾前の経につかせ給いて百千万億劫・行ぜさせ給うとも ・法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば・ 10 不孝の人たる故に三世・十方の聖衆にもすてられ天神・地祇にもあだまれ給はんか是一。 -----― ゆえに法華経の第二巻に「今この三界は皆これ我が所有である。その中の衆生はことごとくこれ吾が子である。しかも今この処はもろもろの患難が多い。ただ我一人のみよく救護をなすのである。しかし、種々に教詔しても信受しないのである」と説かれたのである。この文の心は、釈迦如来は我ら衆生のためには親であり、師であり、主である、ということである。我ら衆生のためには、阿弥陀仏・薬師仏等は主ではあるけれども、親と師ではない。ひとり三徳を兼ね具えて御恩深き仏は釈迦一仏に限るのである。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親はいない。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はおられないのである。この親と師と主との仰せに背く者は天神・地祇に捨てられないことがあろうか。不孝第一の者である。ゆえに「種々に教詔しても信受しないのである」等と説かれたのである。たとえ法華経以前の経について百千万億劫の間修行したとしても、法華経を信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えることがなかったならば、不孝の人であるゆえに、三世十方の聖衆にも捨てられ、天神・地祇にも怨まれるであろう。これ一である。 |
釈尊の説教・五十年
釈尊は19歳で出家し、30歳にして菩提樹下で成道してから、80歳まで入滅するまで50年間にわたって、大小乗の経教を説いたことをいう。
―――
さき四十余年
釈尊は19歳で出家し、30歳にして菩提樹下で成道してから、80歳まで入滅するまで50年間にわたって、大小乗の経教を説いたうちの法華経を説く以前の42年間のこと。
―――
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
心仏及衆生・是三無差別
旧釈華厳経夜摩天宮菩薩説偈品大十六で、如来林菩薩が説いた偈の文。「心は工なる画師の如し、種々の五陰を画く。一切世間の中、法として造らざる無し、心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り、心仏及び衆生、是の三差別無し」を略して挙げられたものである。すなわち、此と仏と衆生とは、三法に説かれているけれども、事実は差別がないという意味である。
―――
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
苦・空・無常・無我
小乗教の四念処の法門をいう。大乗仏教の「常・楽・我・浄」に対する。
―――
大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
―――
染浄融通
染法と浄法の二法がともに融合し通じ合って差別がなく、互いに碍りがないこと。大集経方等時の経典に説かれている教義を要約した語。
―――
大品経
大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
―――
混同無二
般若経に説かれている法門で「一切諸法混同無二」の略。九法界を修する法と、仏界の法とは、その性においては、この差別はなく、みな同一法性であるとの意。
―――
雙観経
無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
往生極楽
阿弥陀仏の西方極楽世界に往き生まれること。阿弥陀経には「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること(中略)是の人終わる時、心顚倒せず、即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん」とある。
―――
正法・像法・末法
仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時のこと。正法時とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法時とは次第に仏教が形式化し、その正しい教えが失われていく時代。末法時とはその仏の教えの効力が失われ、廃れてしまう時代。年次については、諸経典によって諸説があるが、日蓮大聖人は大集経に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年と第二の五百年の一千年間を正法とされ、第三の五百年と第四の五百年の一千年間を像法とされ、第五の五百年を末法の始めとされている。
―――
無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず
無量義経説法品の文。釈尊は成道の後、その得た悟りを直ちに人々に説くことはしなかった。それは衆生の機根が法華経を信受できる状態ではなかったからである。それゆえ、釈尊は方便力をもって、衆生の別々の機根に合わせて爾前権教を説き調えていったのであり、その42年間はいまだ真実義を顕していないとの意味。
―――
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――
先判・後判
譲与者から受取人に与えた譲状が同一物件につき二通ある場合、前の譲状を先判といい、後の譲状を後判という。判とは、判形、すなわち花押のこと。御成敗式目第二十六条には「一、所領を子息に讓り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 右、父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せ畢んぬ。よって先判の讓につきて安堵の御下文を給はると雖も、その親これを悔い還し、他子に讓るに於ては、後判の讓に任せて御成敗あるべし」とある。ここでは、四十二年間の爾前権教の説法を先判とし、のち、「四十余年、未顕真実」「正直捨方便、但説無上道」「世尊法久後、要当説真実」として法華経を説いたことを後判としている。
―――
無量無辺不可思議阿僧祇劫
果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
―――
無上菩提
最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
―――
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
正直に方便を捨て但無上の道を説く
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
方便
悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。
―――
世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし
方便品の文。「世尊法久後要当説真実」のこと仏は長い間、方便の教えを説き、後に真実の教えを説くとの意。仏が教えを説くのは、一切衆生を成仏させることにあり、法華経には四十余年の方便権教と異なり、釈尊の真実の悟り、一仏乗の法が説かれていることをいう。
―――
久しく斯の要を黙して務て速かに説かず
薬草喩品の文。「斯の要」とは法華経であり妙法蓮華経である。釈尊はいきなり法華経を説かず、衆生の機根に応じて、爾前経しか説かなかったことをいう。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
八方
東・東南・南・西南・西・西北・北・東北の八方
―――
広長舌相
仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
―――
大梵天宮
大品天王の住む宮殿。色界の初禅天の中、大梵天にある。
―――
二処・三会
法華経の説処と説会をいう。「二処」とは霊鷲山と虚空会、「三会」とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会のこと。
―――
二界・八番
序品の説法の会座に集った聴衆。二界は三界の中の欲界・色界をいい、八番とは雑衆の中の①欲界衆、②色界衆、③竜王衆、④緊那羅王衆、⑤乾闥婆王衆、⑥阿修羅王衆、⑦迦楼羅王衆、⑧人王衆をいう。
―――
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
―――
薬師仏
梵語( Bhaiṣajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
―――
三徳
①主徳、衆生を守る働き。②師徳、衆生を導き教化する働き。③親徳、衆生を利益する働き。三徳には法報応の三身をいう場合もある。
―――
天神・地祇
天上にいる神と大地に住む神。天神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
―――
雖復教詔而不信受
譬喩品の文。「復教詔すと雖も、而も信受せず」と読む。仏は主師親の三徳の慈悲から、三界に六道輪廻を繰り返す衆生を救おうとするが、諸の欲染に貪著する衆生は信受できないとの意。「教詔」の二字に主師親の三徳が含まれる。
―――――――――
先に、後世への心構えを確立するためには、釈尊の教え、すなわち仏教を根本にすべきことを述べられたのであるが、その釈尊の教えにもさまざまあり、いったい、どの教えを根本にすべきかを、本抄では諄々と説き示されていくのである。
その際、教・機・時・国・教法流布の前後の五つの義にしたがって、一つ一つ説明されていくのである。
まず本章では、数多くの釈尊の教えの中で、どれが真実の教えであるかを示されている。すなわち、五義のうちの「教」を示されるのである。
初めに「しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か」と、釈尊の教えといってもさまざまであることを指摘され、それは人々の機根が一様でないゆえに、それぞれの機根に応じて種々の法が説かれたからであると述べられている。
このようにまちまちであり、それぞれの経にさまざまな法門が説かれたことを、華厳・阿含・大集・般若・浄土三部経などを例に挙げられている。
だが「しかれども仏いかんがおぼしけん……」と釈尊自身、無量義経で、これら爾前の諸経を〝方便〟であって未だ〝真実〟を顕していないと説くとともに、法華経方便品で、正直に〝方便〟を捨てよと定めたことが明かされている。
そして「かうたしかにくひかへして実義を定むるには……」と、釈尊自身が法華経において〝真実〟の教を明かすことを述べ、しかもそれを見宝塔品で多宝仏が、神力品では十方諸仏が証明したことを示されている。
つぎに「此等の文をみ候に……」以下「……仏説の如くならば不孝の者なり」までの御文では、釈尊の教えにおける〝方便〟と〝真実〟、先判と後判とをよくわきまえて、真実の法華経、すなわち後判を用いて仏道修行しなければ、仏に対して不孝の者になると述べられ、譬喩品の「今此三界」の主師親三徳の文を示されて、この主師親である釈迦仏に背いている人々が天神地祇に守られるわけがないと厳しく指摘されている。
以上がこの段の流れであるが、ここからも明らかなように、日蓮大聖人は、念仏信仰をとくに破折されている。これは南条兵衛七郎の気持ちに念仏を完全に払拭できないものがあるのを鋭く見抜かれての仰せであると拝せられる。
華厳経には心仏及衆生・是三無差別
これは釈尊成道後、最初に説かれたとされる華厳経の巻十、夜摩天宮菩薩説偈品第十六で、如来林菩薩の説いた偈文の言葉である。
「心仏及び衆生、是の三差別無し」と読む。華厳経の思想を代表する偈文で、天台大師も摩訶止観巻五で法華経を根本にしつつ、会入の立場で引用している文である。
この言葉の直前に「心は工なる画師の如し。種々の五陰を画く。一切世界の中、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り」とある。これは、巧みな画家が、種々の五陰を画くように、心もまた、一切世界のあらゆる法を生み出すとの意である。
このように一切法は心によって生み出されるのであり、仏といい、衆生といっても、所詮、心が生み出すものにすぎず、ここに、心と仏と衆生の三つが無差別であると説かれたのである。
心が一切法を生み出すというのは、衆生の心の境地に応じて、一つの世界が幾重にも異なって現れるという意味である。例えば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の境界の心には、この世界が地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界として現れるのに対し、菩薩・仏の高い境地の心には、同じ世界が歓喜と充実感に満ちたものとなるのである。
こうして、九界の迷いの衆生といい、仏の悟りの境界といっても、所詮は、心の境地の高低浅深に帰する。心仏及衆生是三無差別の言葉も、このことを意味しているのである。
以上の如く、華厳経の法門は、かなり高いものであるが、二乗については永不成仏を説いており、一切衆生を成仏せしめうる教えではないのである。
阿含経には苦・空・無常・無我
阿含経は華厳経のあとで説かれた初期の経で、増一、中、長、雑の四阿含経の総称である。苦・空・無常・無我は小乗阿含経の代表的思想である。
この世の一切のものは、無常、すなわち時とともに刻々と変化して止まるところがなく、それゆえに、どれ一つをとっても、常住の我なるものはなく、空であり幻の如きものにすぎないとし、このような、無常・無我・空なる世界に取り巻かれた人間の存在そのものは苦であると説く。
釈尊は、本来、常楽我浄の悟りの生命を説くべきところであったが、二乗の機根に合わせて、反対に、苦・空・無常・無我と説いたのである。
大集経には染浄融通
つぎに、方等時の経典を代表して大集経を取り上げられている。
染浄の染とは染法で無明・迷いの法をさし、浄とは浄法で法性・悟りの法をさしている。染法と浄法とは、互いに融合し通じ合って差別がなく、相互に碍りがないというのである。
この染浄融通の言葉は、妙楽大師が金剛錍において「大集の染浄一切融通」と述べているのを引かれたものである。
しかしながら、大集経では二乗不作仏であり、真実の融通ではない。
大品経には混同無二
これは、般若時の説の代表として挙げられたと考えられる。
妙楽大師の金剛錍に「般若の諸法は混同無二」とあり、これは、一切の諸法は本来、空であって、互いに混じり合い同化しているという考え方である。
凡夫の眼には、一切の諸法・万物は相互に異なり、差別をもって存在しているように見えるのであるが、仏眼をもって見れば万物の本性は無二・無差別であるということである。いいかえれば、衆生と仏、迷いと悟りといっても、本来の性としては、無二・無差別であるということである。
このように般若経は、法においては、無二・無差別平等を説いたが、現実の二乗については不作仏と説き差別を残しているので、一切衆生皆成仏道と説く法華経の法門には足元にも及ばないのである。
雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽
雙観経とは無量寿経、観経とは、観無量寿経のことで、阿弥陀経と併せて浄土三部経という。この三部経を、とくにここで取り上げられたのは、南条兵衛七郎の浄土念仏への執心を打ち破られるためであったと拝せられる。
〝往生極楽〟の思想は、仏教のなかでも、かなり特殊なもので、娑婆世界で仏道修行を志してもあまりにも苦難や誘惑が多いので成就することが難しい。ゆえにこれを諦めて、死後に西方十万億土にあるという阿弥陀仏の国土たる極楽浄土に往き生まれて、そこで仏道修行に励めばよいというものである。極楽浄土には仏・菩薩達ばかりで苦難や誘惑がなく、仏道修行が行い易いからであるという。
この教えは、誘惑に負けやすい体質をもった衆生のために説かれた方便の説であり、一種の現実逃避といわなければならない。
法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり……而も信受せず」等云云
法華経譬喩品で釈尊がこの娑婆世界の一切衆生を治め救う主師親三徳具備の仏であることを宣言された文である。
すなわち、「今此の三界は皆是れ我が有なり」が、三界の主君としての主の徳を、「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」が、三界の衆生に対する親の徳を、「而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」が、衆生を苦しみから救う師匠の徳を、それぞれ表している。
「我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」と仰せのように、大聖人は、念仏等を破折される一つの観点として、娑婆世界の主・師・親三徳を兼ね備えた仏である釈尊に帰依せずして、何故に、三界を遠く離れた西方十万億土の阿弥陀仏や東方浄瑠璃世界の薬師仏に帰依するのか、と指摘されたのである。たしかに、阿弥陀仏も薬師仏も、それぞれに仏である以上、衆生を守る力は持っている。しかし、この娑婆世界の衆生の機根を知りぬいてそれに合った法を説く仏ではないし、自ら娑婆世界に身を置いて衆生を救う慈悲を持った存在でもない。すなわち、主の徳はあっても師・親の徳はないのである。
しかも、阿弥陀を信じて極楽往生を願っても、根本の仏をないがしろにしているのであっては、救われる道理がないのである。
1494:10~1495:01 第三章 宗教の五網のうち「機」を明かすtop
| 11 たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これ 12 なり、 たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり・須利槃特等是なり、 我等衆生は根の鈍なる事すりは 13 んどくにもすぎ 物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし、 貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆 14 をば・おかさざれども五逆に似たる罪・又日日におかす、 又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる 15 語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・ 人ごとに法華経をばもちゐず、 又もちゐたるやうなれども念仏等 16 のやうには信心ふかからず、 信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、 いかなる大善をつくり 法華経を千 17 万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも 法華経の敵をだにも・ せめざれば得道ありがたし、たとへば 18 朝につかふる人の十年・ 二十年の奉公あれども・ 君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還 1495 01 つてとがに行はれんが如し、当世の人人は謗法の者としろしめすべし是二。 -----― たとえ五逆罪・十悪・無量の悪をつくっている人でも、機根さえ利であるならば得道することがある。提婆達多・鴦崛摩羅等がこれである。たとえ機根が鈍であっても、罪がなければ得道することがある。須利槃特等がこれである。我ら衆生は機根の鈍であることは須利槃特にも過ぎ、物の色、形を判別できないことは羊の目のようである。貪・瞋・癡はきわめて厚く、十悪の罪は日々に犯し、五逆罪は犯さないけれども、五逆罪に似た罪は日々犯している。 また十悪・五逆罪に過ぎたる謗法の罪は人ごとにある。これというほどの語をもって法華経を謗ずる人は少ないけれども、法華経を用いないという罪は人ごとにあり、また用いているようであっても念仏などのようには信心が深くない。信心の深い者でも法華経の敵を責めようとしない。どのような大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道はできないのである。たとえば、朝廷に仕える人が十年・二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上もせず、個人としても怨まなければ、永年の奉公は皆消えて、かえって罪に問われるようなものである。当世の人々は謗法の者と知っておくべきである。これ二である。 |
五逆
五逆罪のこと。五種の最も重い罪をいう。諸説があるが、倶舎論巻十七等には、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血の五逆罪が説かれている。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる最もはなはだしい十種の悪い行為。十悪業、十不善業ともいう。倶舎論巻十六等に説かれる。身に行う三悪である殺生・偸盗・邪淫、口の四悪である妄語・綺語・悪口・両舌、心の三悪である貪欲・瞋恚・愚癡をいう。
―――
鴦崛摩羅
釈尊在世当時の弟子。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。鴦掘摩羅・央掘摩羅・鴦掘摩等とも書く。指鬘と訳す。人を殺して指を切り、鬘としたのでこの名がある。央掘摩羅経巻一等によると、外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に千人を殺してその指を取るよう命じた。そのため九百九十九人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたと述べている。仏説鴦掘摩経では百人を殺そうとして九十九人を殺したとある。
―――
須利槃特
梵語チューダパンタカ(Cūḍapanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典に諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかつて一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たと言う。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。
―――
貪瞋癡
十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡.。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。
―――
五逆に似たる罪
「五逆」とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。これらと相似する重罪をいう。
―――
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
法華経を千万部読み書写し
「読」「書写」は法師品に説かれる五種の妙行のひとつ。末法今日にはこれらの修業は必要としない。受持即観心である。
―――
一念三千の観道
一念三千の法門を己心に証得すること。法華経および止観の明鏡によって、我が身が十界互具・百界千如・一念三千の当体であると観ずること。
―――――――――
本章では、末法の衆生の機根が鈍根であるうえに、五逆・十悪等の悪逆の機であり、なかんずく法華経誹謗の衆生であることを指摘され、ゆえに折伏を行じなければ人々を救うことはできないし、また仏意に適った実践ではないことを示されている。
まず初めに、釈尊在世時代の提婆達多や鴦崛摩羅等のように、五逆・十悪を犯した衆生でも利根であればその罪をさとり、正法に帰依して得道するし、その逆に、須利槃特のようにたとえ機根が鈍であっても、五逆・十悪等の悪を犯さなければ得道することを示されている。
これに対して、末法の衆生は、機根が鈍であるうえに五逆・十悪などの悪業があり、しかも、もっと悪いことには、五逆・十悪よりも罪の重い誹謗正法を末法の衆生の全てが犯していると述べられ、こうした法華経の敵を責める折伏行に励まなければ得道はありえないことを教えられているのである。
ここで大事なことは、自らは法華経を読誦し、また法華経を謗じていなくとも、法華経の敵を責めなければ自らが謗法を犯すのと同じになるとの厳しい御指摘である。法華経を信ずるとは、余事をまじえず、純一に徹底して信ずることであり、なかんずく、折伏化他を実践して謗法を呵責しなければ、自らが仏法の中の怨となるのである。
「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」の仰せは、伝統的な天台宗の像法時の修行を末法の今時にどのように真剣に実践しても成仏得道はできないということであり、天台仏法に対する厳しい破折の御文となっていることを知らなければならない。
本章では、末法の衆生が機根が鈍根であるうえに、五逆・十悪等の悪逆の機であり、なかんずく法華経誹謗の衆生であることを指摘され、ゆえに折伏を行じなければ人々を救うことはできないし、また仏意に適った実践ではないことを示されている。
まず初めに、釈尊在世時代の提婆達多や鴦崛摩羅等のように、五逆・十悪を犯した衆生でも利根であればその罪をさとり、正法に帰依して得道するし、その逆に、須利槃特のようにたとえ機根が鈍であっても、五逆・十悪等の悪を犯さなければ得道することを示されている。
これに対して、末法の衆生は、機根が鈍であるうえに五逆・十悪などの悪業があり、しかも、もっと悪いことには、五逆・十悪よりも罪の重い誹謗正法を末法の衆生の全てが犯していると述べられ、こうした法華経の敵を責める折伏行に励まなければ得道はありえないことを教えられているのである。
ここで大事なことは、自らは法華経を読誦し、また法華経を謗じていなくとも、法華経の敵を責めなければ自らが謗法を犯すのと同じになるとの厳しい御指南である。法華経を信ずるとは、余事をまじえず、純一に徹底して信ずることであり、なかんずく、折伏化他を実践して謗法を呵責しなければ、自らの仏法の中の怨となるのである。
「いかなる大善をつくり 法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」の仰せは、伝統的な天台宗の像法時の修行を末法の今時にどのように真剣に実践しても成仏得道はできないということであり、天台仏法に対する厳しい破折の御文となっていることを知らなければならない。
1495:02~1495:17 第四章 宗教の五網のうち「時」を明かすtop
| 02 仏入滅の次の日より千年をば正法と申して持戒の人多く得道の人これあり。 正法千年の後は像法千年なり・破 03 戒の者は多く得道すくなし、 像法千年の後は末法万年なり 持戒もなし破戒もなし 無戒の者のみ国に充満せん、 04 而も濁世と申してみだれたる世なり、 清世と申してすめる世には 直繩のまがれる木をけづらするやうに非をすて 05 是を用うるなり、 正・像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば五濁さかりにすぎて、 大風の大波を起 06 して岸を打つのみならず又波と波とをうつなり、 見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、 わづかの邪法の一つ 07 をつたへて無量の正法をやぶり・ 世間の罪にて悪道におつるものよりも 仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへ 08 はんべり。 -----― 仏の入滅の次の日から千年を正法といって、持戒の人が多く、得道した人もあった。正法千年の後は像法千年である。破戒の者が多く、得道した人は少なかった。像法千年の後は末法万年である。持戒もなく、破戒もなく、無戒の者のみ国に充満するであろう。しかも濁世といって乱れた世である。清世といって澄んだ世には、墨繩が曲がった木を削り取らせるように、非を捨て、是を用いるのである。正法・像法から五濁が次第に出で来たって、末法になると五濁が盛んとなって、大風が大波を起こして岸を打つだけでなく、また波と波とが打ち合うのである。見濁というのは、正法・像法が次第に過ぎると、わずかの邪法の一つを伝えて無量の正法を破り、世間の罪によって悪道に堕ちるものよりも、仏法によって悪道に堕ちるものが多いと見える。 -----― 09 しかるに当世は正・像二千年すぎて末法に入つて二百余年、 見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕 10 つべき時刻なり 悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり 火を水を以てけすが如し、 善は但善と思ふほど 11 に小善に付いて大悪の起る事をしらず、 所以に伝教・慈覚等の聖跡あり・ すたれあばるれども念仏堂にあらずと 12 いひて・すてをきて・ そのかたはらにあたらしく念仏堂をつくり彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす、 此等は 13 像法決疑経の文の如くならば 功徳すくなしとみへはべり、 これらをもつてしるべし善なれども 大善をやぶる小 14 善は悪道に堕つるなるべし、 今の世は末法のはじめなり、 小乗経の機・権大乗経の機皆うせはてて唯実大乗経の 15 機のみあり、 小船には大石をのせず悪人・愚者は大石のごとし、 小乗経並に権大乗経・念仏等は小船なり、 大 16 悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず、 末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬・ 田を作るが如し時があはざ 17 るなり是三。 -----― しかるに当世は、正法・像法の二千年が過ぎて末法に入って二百余年であり、見濁が盛んであって、悪よりも善根によって多く悪道に堕ちる時期である。悪い事は愚かな人も悪い事と知れば随わないこともある。これは火を水をもって消すようなものである。善い事はただ善い事と思うものであるから、小善について大悪の起こることを知らない。ゆえに、伝教大師・慈覚大師等の聖跡があって、それがすたれ荒れていても、念仏堂ではないといって、捨て置いて、その傍らに新しく念仏堂を作り、もとの聖跡に寄進されていた田畠を取って念仏堂に寄進する。これらは像法決疑経の文によれば功徳は少ないと見える。これらのことから、善い事であっても大善を破るような小善は悪道に堕ちることを知るべきである。 今の世は末法の初めである。小乗経で救われる機根の者、権大乗経で救われる機根の者は皆消えて、ただ実大乗経で救われる機根の者のみである。小船には大石をのせることはできない。悪人・愚者は大石のようなものである。小乗経ならびに権大乗経・念仏等は小船である。大悪瘡の湯治等は病が大きいゆえ、小さな療治では治らない。末代濁世の我等には、念仏等はたとえば冬に田を作るようなものである。時が合わないのである。これが三である。 |
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
―――
破戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
―――
無戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
―――
直繩
墨縄・墨糸のこと。木材をまっすぐな線を引くために使う。
―――
五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
―――
伝教
(0767~0822)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力。没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師と諡された。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
―――
慈覚
(0794~0864)。延暦寺第三代座主。慈覚派の祖。諱は円仁。慈覚大師は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。没年については異説があり貞観8年(0866)ともいわれる。著書には「金剛頂経疏」七巻、「蘇悉地経略疏」七巻等がある。
―――
像法決疑経
一巻。訳者不明。常施菩薩を対告衆として、像法時代の相を述べ、主に布施行を修すべきことを説いている。天台家では、涅槃経の結経として用いているが、訳者不明のため偽経説もある。像法決疑経には「復衆生有って他の旧寺・塔廟・形像及び経典の破落毀壊するを見て、肯て修治せず。便ち是の言を作さく、我が先崇の造る所に非ず、何ぞ治を用いることを為さん、我寧ろ更に自ら新しき者を造立せん。善男子よ、一切衆生新しき者を造立するは、故きを修する其の福甚だ多きには如かず」とある。
―――
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
権大乗経
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
―――
実大乗経
権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
―――
大悪瘡
「悪瘡」とは、悪性のできもの。はれもの。普賢菩薩勧発品には「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑することある者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜唇平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし」とある。正法誹謗の罪によって起こる悪重病のひとつ。
―――――――――
末法という「時」は、無戒の者が充満し、しかも五濁が盛んになる時代であり、ただ実大乗経の法華経のみが衆生をよく救うことのできる時代であることを説き示されている。
とくに、その五濁のなかでも見濁のために、法華経を根本とした伝教大師以来の仏教が念仏にとってかわられ、そのため多くの人々が悪道に堕ちる世となっていることを指摘されている。
まず、釈尊滅後一千年間の正法の時代は、戒律を持ち続ける〝持戒〟の人が多く、その結果、得道する人も多かったが、次の像法一千年間になると、戒を持っても途中で破る〝破戒〟の人が多くなり、その結果、得道する人が少なくなった。さらに、像法の後の末法になると〝持戒〟の人はもちろんのこと、〝破戒〟の人すらいなくなって、最初から戒を持ちもしない〝無戒〟の者だけが国中に充満すると述べられている。
しかも、末法は五濁が最も激しくなる時代である。濁世の反対である清世の時代は、まっすぐな縄で曲がった木を削り直すように、非を捨て是を用いること、すなわち戒の力が通用する。いいかえると、是非善悪の基準が明確であって、しかも人々の心が清らかであるから、素直に悪を捨て善に付くことができるのである。
これに対し、正法時代から像法時代を過ぎるにしたがい、次第に五濁が現れ出し、末法に入ると、五濁が最も盛んになる。このため「大風の大波を起して岸を打つのみならず又波と波とをうつなり」と仰せの如く、五つの濁りが互いに打ち合い、互いを増長させて世を不幸に陥れる。すなわち、一見、善と見える仏教の姿で正法を破り、人々を悪道に引き込む結果となるのである。
このように、いかなる仏教を選ぶかということは〝見〟の問題であり、そこに生ずる誤りであるので「見濁」となる。このことを「見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり・世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり」と仰せられ「当世は……見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり」と言われているのであ
見濁とは、思想見解上の濁りのことで、仏教における見濁とは、時と機に適った正法とそうでない邪法との区別・立て分けが生命の濁りのためになされず、混同されるということである。末法においては、世間上の罪によって悪道に堕ちる者より、誤れる仏法を修行することにより悪道に堕ちる者の方が多くなるのである。これを「善根にて多く悪道に堕つ」といわれているのは、仏法を信じて修業したり、供養したりすることは一般的に善根を積むことになると信じられているからである。
仏法なら、たとえ、どんな教えであっても、修行したり供養したりすることは善い事であり立派な事であると安易に認めてしまう習慣が災いの根源となっていることを厳しく指摘されているのであり、「見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり」との仰せの文は、まさに、このことを仰せである。
では、何故に、仏法に対する善根を行じながら、悪道に堕ちるのかといえば、爾前の諸経並びに諸宗に対して行う善根が、結局、法華誹謗、正法誹謗を助けることになるからである。
この一点こそが本章における大聖人の御教示を理解するための大切なポイントである。
「善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず」と、こうした仏法上の悪業が世間的悪業と違って、見分けるのがむずかしいことを述べられ、「善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし」は、なぜ爾前の諸経や諸宗に対する善根が大悪となってしまうかの道理を示されている。
このように正法誹謗という大悪を犯している衆生であるゆえに、小乗や権大乗などでは救えないことを、小船に大石をのせることができないことをもって譬えられ、「唯実大乗」の法によってのみ救いうることを教えられている。
1495:18~1496:15 第五章 宗教の五網のうち「国」を明かすtop
| 18 国をしるべし・国に随つて人の心不定なり、 たとへば江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる、心なき 1496 01 草木すらところによる、 まして心あらんもの何ぞ所によらざらん、 されば玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国国 02 を多く記したるに・国の習として不孝なる国もあり・孝の心ある国もあり・ 瞋恚のさかんなる国もあり・愚癡の多 03 き国もあり、 一向に小乗を用る国もあり・一向大乗を用る国もあり・大小兼学する国もありと見へ侍り、 又一向 04 に殺生の国・一向に偸盗の国・ 又穀の多き国・又粟等の多き国不定あり、 抑日本国はいかなる教を習つてか生死 05 を離るべき国ぞと勘えたるに・ 法華経に云く 「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」 06 等云云、 此の文の心は法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり、 弥勒菩薩の云く「東方に小国有り唯だ大機 07 のみ有り」等云云、 此の論の文の如きは閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか、肇公の記に云く 「茲の典 08 は東北の小国に有縁なり」等云云、 法華経は東北の国に縁ありとかかれたり、 安然和尚の云く「我が日本国皆大 09 乗を信ず」等云云、慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云、釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅 10 什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の心ならば日本国は純に法華経の機なり、一句・一偈なりとも行ぜば必 11 ず得道なるべし有縁の法なるが故なり、 たとへばくろかねを磁石のすうが如し・方諸の水をまねくににたり、 念 12 仏等の余善は無縁の国なり・ 磁石のかねをすわず方諸の水をまねかざるが如し、 故に安然の釈に云く「如実乗に 13 非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云、 此の釈の心は日本国の人に法華経にてなき法をさずくるもの 我が身を 14 もあざむき人をもあざむく者と見えたり、 されば法は必ず国をかんがみて弘むべし、 彼の国によかりし法なれば 15 必ず此の国にもよかるべしとは思うべからず是四。 -----― 国を知らなければならない。国に随って人の心も異なるのである。たとえば揚子江南岸の橘を淮河の北岸に移せば枳となる。心なき草木ですら所によって異なるのである。まして心のあるものが、どうして所によって異ならないことがあろう。 されば玄奘三蔵の大唐西域記にインドの国々のことを多く記しているが、国の慣習として不孝な国もあり、孝心の厚い国もあり、瞋恚の心の盛んな国もあり、愚かさの多い国もあり、もっぱら小乗経を用いる国もあり、もっぱら大乗経を用いる国もあり、大乗経・小乗経を兼学する国もあるようである。またもっぱら殺生の国、もっぱら盗みの国、また穀の多い国、粟等の多い国など、さまざまである。 そもそも日本国はどういう教えを習って生死を離れるべき国であるかと考えるに、法華経に「如来の滅後において、この経を閻浮提のうちに広く流布せしめ、断絶させてはならない」と説かれている。この文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経であるということである。弥勒菩薩は「東方に小国があり、ただ大乗経の機根の者だけがいる」と述べている。この論の文によると、閻浮提のなかでも東の小国に大乗経の機根のものがいるということである。僧肇の法華翻経後記には「この法華経は東北の小国に縁がある」と。法華経は東北の国に縁があると書かれている。安然和尚は「我が日本国は皆大乗経を信じている」と述べ、慧心僧都の一乗要決には「日本全国は純粋に法華円教の機根である」と記されている。 釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心僧都の先徳等の考えによれば、日本国は純粋に法華経の機根の国である。一句・一偈であっても行じたならば、必ず得道するであろう。それは有縁の法であるからである。たとえば鉄を磁石が吸いつけるようなものであり、方諸が水を招くのに似ている。念仏等の余善とは無縁の国である。磁石が金属を吸いつけず、方諸が水を招かないようなものである。ゆえに安然和尚の釈には「もし法華の実乗でなければ、おそらくは自他を欺くことになるであろう」とある。この釈の心は、日本国の人に法華経でない法を授ける者は、我が身をもあざむき、人をもあざむく者である、ということである。されば、法は必ず国を考えて弘めるべきである。かの国に適した法であれば、必ずこの国にも適すると思ってはならない、これ四である。 |
江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる
植えられる場所によって草木の性質が変わることをもって、人も境遇によって変化することを譬えた中国の故事。晏子春秋巻六に「橘淮に生ずれば則ち橘と為り、淮北に生ずれば則ち枳と為る」とあり、淮南子の原道訓には「橘樹、江北に之けば、則ち化して枳となり」とある。
―――
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
―――
西域と申す文
大塔西域記のこと。12巻からなる。唐の玄奘の旅行記。7世紀初め玄奘が16年間にわたって仏教典籍を求めて歴遊した西域(インド)諸国の地理・歴史・言語・風俗・仏教事情・政治などについて詳しく記したもの。見聞の地と伝聞によって知った諸国を合わせる140ヵ国に及んでいる。
―――
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
―――
如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ
普賢菩薩勧発品の文。「滅後」とは一往、正法・像法時代をいうが、元意は末法を意味する。
―――
閻浮提
全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――
東方に小国有り唯だ大機のみ有り
弥勒菩薩の説を聞いて無著菩薩が記した喩伽師地論にあるとされているが、現存の瑜伽論にはこの文はない。安然の普通授菩薩戒広釈に「弥勒菩薩説いて言く、東に小国有り、其の中に唯大乗の種姓有り、我が日本国僉成仏を知る、豈其の事に非ずや」「喩伽論に云く、東方に国有り、唯大機有り、豈我が国に非ずや」とある。
―――
肇公
(0384~0414)。僧肇のこと。中国・東晋代の僧。長安の生まれ。初め老荘思想を好んで学んだが、維摩経を読んで出家を決意した。後に鳩摩羅什の門下に入り、師の仏典翻訳を助けた。また竜樹系統の思想を伝えるなどした。弟子中最も理解が深く理解第一、羅什門下の四哲の一人と称された。「宝蔵論」一巻、「肇論」一巻などの著書がある。
―――
茲の典は東北の小国に有縁なり
僧肇の法華翻経後記四に「予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従って理味を飡稟す。慇懃に梵本を付嘱して言く、仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす。玆の典東北に有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」とある。須利耶蘇摩が羅什三蔵に法華経を授けるとき語った言葉である。
―――
安然和尚
僧肇の法華翻経後記四に「予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従って理味を飡稟す。慇懃に梵本を付嘱して言く、仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす。玆の典東北に有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」とある。須利耶蘇摩が羅什三蔵に法華経を授けるとき語った言葉である。
―――
我が日本国皆大乗を信ず
安然の普通授菩薩戒広釈にある文。
―――
慧心
(0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗の僧。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。俗姓は卜部氏。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称される。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。
―――
一乗要決
三巻、恵心僧都源信の著。寛弘3年(1006)頃の作。天台宗の教義を根本として法華経の一乗思想を強調し、一切衆生に仏性のあることを明かして、法相宗の五性各別説を破折した書。
―――
日本一州円機純一
慧心の著「一乗要決」の中の句。日本国中はみな円教である法華経に縁ののある機根ばかりで、蔵通別の三教に縁のあるものはいないとの意。
―――
須梨耶蘇摩三蔵
4世紀頃西域沙車国の王子として生まれる。鳩摩羅什の師。法華翻経後記には、大乗諸教に通じ、法華経を鳩摩羅什に授けて、東方有縁の国に流布せよと命じたとある。
―――
羅什三蔵
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
―――
一句・一偈
経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。
―――
方諸
月から水をとるという鏡のこと。月夜のような晴れた夜には、鏡を戸外に置くと、冷えた鏡の表面に露がつくことから、鏡が水を月から得たと考えたもの。一説には大蛤のことともいわれる。
―――
如実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん
安然の普通授菩薩戒広釈にある文。
―――――――――
本章は、国により風俗習慣も人間の心も相違することを明かされ、その結果、弘めるべき仏法も異なってくると述べられ、日本国は法華経有縁の国であることを示されている。
初めに、江南の橘が淮北に移されて、からたちとなるとの例を示されて、心なき草木すら国土の違いにより異なるのであるから、ましてや心をもつ人間においては、なおさらのことであると述べられ、玄奘三蔵の大唐西域記の記述を紹介されている。
「不孝」「孝」の違いは道徳観の相違の例であり、「瞋恚」「愚癡」は気質の相違、「一向大乗」「一向小乗」「大小兼学」は仏道修行の相違、「殺生」「偸盗」は犯罪傾向の相違、「穀」「粟」は気候風土による食生活の相違といえよう。このように国にもさまざまな違いがあるのであるから、仏法を弘めるにあたっても、そうした国情を弁えることが大切となるのである。
さて、では、この日本国においては、いかなる仏法の教えを弘めるべきかを、経論、伝承によって示されているのである。
はじめに、法華経の普賢菩薩勘発品の文から、法華経が閻浮提の人にとって有縁の経であることを示され、つぎに、弥勒の瑜伽論の文によって、その閻浮提の内でもさらに範囲を限定して、東の小国が大乗の機であることが明かされる。僧肇の法華翻経後記の文でも、法華経が東北の小国に縁の深いことが示されており、その東北の小国とは日本にほかならないことを、安然和尚の普通授菩薩戒広釈の文と慧心僧都の一乗要決の文によって示されるのである。
このように日本国は法華経有縁の国であるから、日本国の人は、法華経の一句・一偈であっても修行すれば必ず成仏できるのに対し、念仏等といった法華経以外の諸経は日本国と無縁であるから、どんなに行じても成仏できない、と強調されている。そして、安然和尚の普通授菩薩戒広釈の序文の言葉を引用されて、実教の法華経以外の法を日本国の人々に授け弘通するならば、それは自分も他人もあざむくことになると述べられている。
結論として、仏法は必ず国の相違をよく観察してから弘通すべきことを説かれ、他の国で適合した法だからといって、別の国でも適合するとは限らないと戒められている。
1496:16~1497:09 第六章 「仏法流布の前後」を明かすtop
| 16 又仏法流布の国においても前後を勘うべし、 仏法を弘むる習い必ずさきに弘めける法の様を知るべきなり、例 17 せば病人に薬をあたふるには さきに服したる薬の様を知るべし、 薬と薬とがゆき合いてあらそひをなし人をそん 18 ずる事あり、 仏法と仏法とがゆき合いてあらそひをなして 人を損ずる事のあるなり、さきに外道の法弘まれる 1497 01 国ならば仏法を・もつて・これをやぶるべし、仏の印度にいでて外道をやぶり・まとうか・ぢくほうらんの震旦に来 02 つて道士をせめ・ 上宮太子・和国に生れて守屋をきりしが如し、 仏教においても小乗の弘まれる国をば大乗経を 03 もつてやぶるべし、 無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し、 権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつて・これを 04 やぶるべし、天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し、 而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四 05 百余歳、比丘.比丘尼・うばそく.うばひの四衆・皆法華経の機と定りぬ、善人.悪人・有智・無智.皆五十展転の功徳 06 をそなふ、 たとへば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如し、 而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いでき 07 たりて、 一切衆生をすかして珠に似たる石をもつて珠を投させ石をとらせたるなり、 止観の五に云く「瓦礫を貴 08 んで明珠なりと申す」は是なり、 一切衆生石をにぎりて珠とおもふ、 念仏を申して法華経をすてたる是なり、此 09 の事をば申せば還つてはらをたち法華経の行者をのりて・ことに無間の業をますなり是五。 -----― また仏法の流布している国においても、その前後を考えなければならない。仏法を弘める習いとして。必ず先に弘まっている法の有り様を知るべきである。たとえば病人に薬を与えるには、先に服した薬のことを知らなければならないようなものである。そうでないと薬と薬とが作用しあって、人の命を損ずることがある。それと同様に、仏法と仏法とがかち合って争いとなり、人の命を損ずることになるのである。先に外道の法が弘まっている国ならば、仏法をもってこれを破らなければならない。仏がインドに出られて外道を破り、摩謄迦・竺法蘭が中国に来て道士を責め、上宮太子が日本国に生まれて物部守屋を滅ぼしたようなものである。 仏教においても、小乗経の弘まっている国は大乗経をもって破らなければならない。無著菩薩が世親の小乗を破ったようなものである。権大乗経の弘まっている国は実大乗経をもってこれを破らなければならない。天台智者大師が南三北七の十師を破ったようなものである。しかるに日本国は、天台宗・真言宗の二宗が弘まって今に四百余年、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は皆法華経の機根と定まった。善人・悪人・有智の者・無智の者も皆法華経に説かれる五十展転の功徳を備えている。たとえば崑崙山に石がなく、蓬莱山に毒がないようなものである。 しかるにこの五十余年に、法然という大謗法の者が現れて、一切衆生をだまして、珠に似ている石をもって、珠を投げ出させて石を取らせたのである。摩訶止観の巻五に「瓦礫を貴んで明珠だといっている」とあるのはこのことである。一切衆生は石を握って珠と思っている。念仏を称えて法華経を捨てるのがそれである。この事をいうと、世間の人はかえって腹を立て、法華経の行者を罵って、ことさらに無間地獄に堕ちる業を増しているのである。これ五である。 |
まとうか
生没年不明。迦葉摩騰ともいう。中インドの人。バラモンの家に生まれ、よく大小乗経に通達していた。後漢の明帝の時、竺法蘭とともに中国に初めて仏教を伝え、白馬寺に住し、「四十二章経」を翻訳したと伝えられる。
―――
ぢくほうらん
生没年不明。中インドの人。経論数万章を暗誦していたという。摩騰迦とともに中国に初めて仏教を伝え、白馬寺に住し、「十地断結経」「仏本生経」「法海蔵経」「仏本行経」「四十二章経」の五部を訳出したとされる。
―――
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
―――
上宮太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
守屋
物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
―――
無著菩薩
生没年不明。梵語でアサンガ(Asaṅga)といい、無障礙とも訳す。4世紀ごろ、北インド・健駄羅国のバラモンの家に生まれた。最初は化地部の僧として出家したが、空の教えに興味をもち、さらに弥勒に大乗の空観を教えられてから、大乗に帰して大乗の諸教義を研究し、瑜伽・唯識の教えを弘めた。小乗の諭師であった弟の世親を教化して大乗に帰入させた故事は有名である。著書に「摂大乗論」三巻、「金剛般若論」二巻、「顕揚聖教論」二十巻、「順中論」二巻などがある。
―――
世親
生没年不明。4~5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、天親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無著に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。その時、小乗の教を説いてきた非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後、舌をもって大乗を讃して罪を償うようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」四巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
天台智者大師
(0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
―――
南三・北七
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
―――
天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
五十展転の功徳
仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の随喜の功徳のこと。法華経随喜功徳品第十八には「第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳」とある。展転とは、ころがる、めぐりうつるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この五十番目の人が法を聞いて随喜する功徳は、四百万億阿僧祇の世界の衆生に八十年にわたり供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれると説いている。化他の功徳を説く第五十番目の者の絶大な功徳を説いて、第一番目の自行・化他を具足する者の無量の功徳をあらわしている。
―――
崑崙山
崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈。中国では古くから美玉を産する山として有名。
―――
蓬莱山
中国の古代に説かれた三神山の一つ。中国の東方の渤海上にあって、鳥獣草木は皆白く、宮殿は皆黄金と宝石でつくられているという。遠くから見ると雲のようで近づくことはできないが、そこに住む仙人は不老長寿の秘薬を持ち、山は不老不死の霊山とされている。
―――
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
無間の業
無間地獄に堕ちる業因のこと。無間は梵語アヴィーチィ(avīci)阿鼻・阿鼻旨の意訳。八熱地獄のひとつ。五逆罪と正法誹謗が堕地獄の業因とされる。
―――――――――
前章で、日本国が法華経有縁の国であることを明かされたのであるが、本章では、仏法流布の順序次第からも、日本国には法華経のみが弘まるべきであり、権教の念仏を弘めるのは大謗法であることを示される。
この仏法流布の前後については、弘めるべき法は、先に弘まった法より高くなければならないということである。すなわち、五重の相対として捉えられる教法の高低浅深に従って、先に弘まった外道に対し、内道の仏法をもって外道の法を破りつつ弘めるのである。これは、釈尊がインドに出世して、仏法を弘めた時もそうであり、中国に仏法を伝え始めた摩謄迦・竺法蘭もこの方規に従ったし、さらには、日本に仏法流布の時代を開いた聖徳太子も同じ原理を踏まえたのである。
つぎに、仏法のなかでも、すでに小乗教の弘まっている国では、大乗教を弘めるべきである。例えば、無著菩薩が小乗教を信仰していた弟の世親を破折して、大乗教に帰伏させた如くにである。
さらに、同じ大乗教でも、すでに権大乗教が弘まっている国では、実大乗教の法華経をもってこれを破りつつ流布していくべきことは、中国の天台大師が南三北七の十流派を破折して、法華経を弘通した姿に明白に表れている。
さて、日本国の仏法流布の前後はどうであろうか。
日本国では聖徳太子の時代を過ぎて以後、天台・真言の二宗が弘まって、日蓮大聖人に至るまで四百余年を経過しているが、「比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆・皆法華経の機と定りぬ、善人・悪人・有智・無智・皆五十展転の功徳をそなふ、たとへば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如し」とあるように、日本国の僧俗すべてに、法華経の信仰がすでに流布したのである。
ちょうど、崑崙山には珠ばかりで石がなく、蓬莱山には薬ばかりで毒のないように、日本国はただ法華経を信ずべき機根の衆生のみとなったのである。ゆえに、この日本国に権教の念仏を弘めることは時代逆行であり、仏法の原理に背く大謗法であると結論されている。
「一切衆生をすかして珠に似たる石をもつて珠を投させ石をとらせたるなり……一切衆生石をにぎりて珠とおもふ、念仏を申して法華経をすてたる是なり」との仰せの文は、大謗法の法然の邪説にだまされて、多くの日本国の人々が、珠の如き法華経を捨て、石ころにすぎない念仏を信仰している愚かさを厳しく指摘されている。
而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳……皆法華経の機と定りぬ
日本においては、まず、聖徳太子が、排仏派の物部守屋をしりぞけて、日本に仏教を導入した当初から、とくに法華経が重んじられたことは、太子自身、法華経の義疏を著したと伝えられていることに明白である。奈良朝時代に南都六宗が成立し、法華経を根本とする流れが一時乱れたが、これを打ち破って法華経第一の正統を確立したのが伝教大師最澄であった。平安時代には、天台宗・真言宗の二宗が、以後の四百余年間、日本の仏教界を代表するのである。
しかるに、平安末期、法然が法華経等の諸経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、念仏を弘め始めた。この謗法の邪教によって、せっかく〝法華経の機〟に定まった日本国の衆生の仏法信仰に大混乱が生じたのである。
ここで「天台・真言の二宗のひろまりて……皆法華経の機と定りぬ」といわれている点について、少し説明が必要であろう。なぜなら、真言自体、法華経を誹謗している邪法であるし、天台宗もその真言の邪義をとり入れてしまったからである。弘法大師空海の真言宗、また叡山の慈覚・智証の天台密教によって、天台・伝教本来の法華第一の正義が乱されたことは事実であり、これらの人々について、大聖人はのちに厳しい破折を加えられている。
しかし、本抄御執筆の文永元年(1264)は大聖人の弘教においては初期のことであり、真言宗のことは、ひとまずおいて、まず念仏や禅の破折に重点を置かれていた。そのゆえは、真言宗は大日経を立てて法華経を誹謗している邪義であるものの、まだしも仏教の教理的研鑽に取り組んでいる。それに対し、念仏と禅とは、そうした正統的な教理研鑽そのものを否定した邪義であったからである。
真言宗は、弘法の東密系では法華経を大日経・華厳経より劣るときめつけ、慈覚等の台密系では理同事勝と唱えたがゆえに、正法誹謗の科をまぬかれえないものの、法華経を読誦したり一念三千の法理を学び修行することまで否定することはしなかった。したがって、一往、与えて、天台・真言の二宗によって法華経の信仰は保たれ、日本中の人々の法華経の機は定まってきたといわれているのである。しかし奪っていえば、真言宗が法華経の正しい精神を破壊した大謗法の邪教であることは明白である。この真言への破折は佐渡期以後、文底独一本門の正義を明らかにしていくうえで本格的に明かされていくのである。
「五十展転の功徳」
五十展転の功徳とは折伏の功徳である。折伏は、自ら歓喜し、その歓喜を人にも教え、同じように歓喜を与えたいという純粋な心情より行なわれるものである。
自ら歓喜せずして、どうして、他の人に歓喜を伝えることができようか。折伏は、まさしく、生命と生命のふれあいであり、虚飾もなければ虚偽もない。人間の心は敏感である。虚飾は必ずや見破られ、見捨てられていくものである。
いま、日蓮大聖人の教え、大御本尊の功徳が、妙法を受持した創価学会員の生命に歓喜の躍動と智慧とを与え、それは、さらに多くの人々に語り伝えられている。そこに、とどまることを知らぬ折伏の源泉があるのだ。誰からも報酬を受けるわけではない。歓喜なくしては、とうていできえないことである。
これ、妙法に随喜するがゆえであり、大御本尊の五十展転の功徳のゆえである。すなわち、五十展転の功徳とは、何千万、何百億の人に分けられようと決して損ずることがなく、また、その間に何人介在しようと、最初のままの功徳が伝わるということである。
五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり
教相の辺で論ずると、五十展転とは,第五十番の人の随喜の功徳をいうのであるが、観心の立場より論ずるならば、それは第五十人という特定の人に限られるものではない。要は、妙法を聞いて随喜する一切衆生を述べているのである。
しかして、大聖人は、さらにこれを深く、明瞭に「五十展転」の意義を示されたのである。すなわち、なぜ五十という数字を経文があげたか、五とは妙法の五字であり、十とは十界の一切衆生の意である。展転とは、ころがり、まろぶの意で、一人から一人へ、また次の一人へと、伝わっていくことであるが、これを観心の立場から、一念三千を意味すると仰せられたのである。
すなわち、南無妙法蓮華経の御本尊に対する一念が、一人から一人へと伝えられ、行く先々に、燃え上がっていくことである。
1497:10~1497:16 第七章 念仏を捨てて法華の信を勧むtop
| 10 但とのはこのぎをきこしめして念仏をすて法華経にならせ給いてはべりしが、 定めてかへりて念仏者にぞなら 11 せ給いてはべるらん、 法華経をすてて念仏者とならせ給はんは峯の石の谷へころび・空の雨の地におつると・おぼ 12 せ大阿鼻地獄疑なし、 大通結縁の者の三千塵点劫を・ 久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華 13 経をすてて念仏等の権教にうつりし故なり、 一家の人人・ 念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞ 14 すすめまいらせ給い候らん、 我が信じたる事なればそれも道理にては候へども・ 悪魔の法然が一類にたぼらかさ 15 れたる人人なりと・おぼして・大信心を起し御用いあるべからず、 大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人 16 の後世をば障るなり、 いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず、 -----― ただ貴殿は、この義を聞かれて、念仏を捨て法華経を持っておられたが、今はきっとかえって念仏者になられておられるだろう。法華経を捨てて念仏者になられたならば、峯の石が谷底へ転げ落ち、空の雨の地に落ちるようなものであると思いなさい。大阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。大通智勝仏の時に結縁した者が三千塵点劫の間、久遠の昔に下種された者が五百塵点劫の間、無間地獄等の悪道で過ごしたのは、大悪知識にあって法華経を捨てて念仏等の権教に移ったからである。あなたの一家の人々は念仏者であったようであるから、きっと念仏を勧めていることであろう。自分達が信じたことであるから、それも道理ではあるけれども、悪魔の法然の一類に誑かされている人々であると思って、大信心を起こし、用いてはならない。大悪魔は貴き僧となり、父母・兄弟等にとりついて、人の後世を妨げるのである。どのように言っても、法華経を捨てよと欺こうとするのを用いてはならない。 |
大阿鼻地獄
阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
―――
大通結縁の者
三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子が、父王から聞いた法華経を、諸国に赴いて重ねて講じた時、聞法して縁を結んだ者のこと。第十六番目の王子は釈尊の過去世の姿である。
―――
三千塵点劫
法華経化城喩品第七で説かれた、大通智勝仏の第十六王子として釈尊が声聞の弟子を化導して以来の長遠の時をあらわしたもの。劫とは長遠の時の単位。三千塵点劫とは、三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の千の世界を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土も下さなかった国土も合わせて微塵にし、その一塵を一劫と数えて、その微塵の数以上の無量無辺の長遠な時をいう。三千塵点劫の昔、大通覆講で下種を受けながら悪知識のために退転した者は、三千塵点劫の間、地獄の苦を受けてきたのである。
―――
久遠下種の者
久遠の昔に下種を受けた者。釈尊が法華経如来寿量品第十六で明かした五百塵点劫成道のときに下種をされた人。
―――
五百塵点
五百塵点劫のこと。法華経如来寿量品第十六で明かされた、釈尊が成道して以来の長遠の時を示したもの。五百塵点劫とは、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土と下さなかった国土とを合わせて微塵にし、その一塵を一劫とした長遠の時にさらに百千万億那由他阿僧祇劫過ぎた時をいう。三千塵点劫よりも五百塵点劫のほうが、はるかに長遠の時である。久遠の仏から下種を受けながら、退転した衆生は、五百塵点劫の間、悪道を流転してきたのである。
―――
大悪知識
「悪知識」は、善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
―――
悪魔
魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。
―――――――――
日蓮大聖人は、第二章から第六章に至るまで、宗教の五網に照らして、法華経こそが真実の大仏法であり、末法日本国の衆生はただ法華経を信じてこそ成仏できる機根であることを明かされた。それをうけて、この段では南条兵衛七郎に対し、念仏をきっぱりと捨てて、法華経の信心に一途に励むべきことを指導されているのである。
南条兵衛七郎は法華経に帰依して未だ日が浅く、しかも周囲は、念仏信者の親戚や友人等ばかりであるから、それに引きずられることを大聖人は心配されたのであろう。そうした環境への細かい心遣いと配慮をされながら、法華経への絶対の信に立つよう厳しくも温かく指導されている日蓮大聖人の大慈悲が感じられる。
まず「定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん」と、南条兵衛七郎がもとの念仏者に戻ってしまうのではないかとの危惧の念を述べられている。
もし、法華経を捨てて念仏者になったならば、峯の石が谷へ転落し、空の雨が地に落ちるように、無間地獄に堕ちることは間違いないと説かれ、大通結縁の者が三千塵点劫もの間、また、久遠下種の者が五百塵点劫もの間、悪道を流転したのは、ひとえに、大悪知識に会ってその影響を受けて法華経を捨て念仏等の権教に移ったためであると、悪知識の恐ろしさを強調されている。
「一家の人人・念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞすすめまいらせ給い候らん」との御文は、南条兵衛七郎の周囲の人々が念仏者であるがゆえに、それに引きずられることのないよう戒められているのである。そして、法華経への大信力を起こして、たとえ家族の人々であっても「悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人人なりと・おぼして」、念仏への誘いを断固として拒否すべきであり、世間一般の人々から崇められている法然や極楽寺良観などの高僧が、その本質は「大悪魔」であることを忘れてはならない、と厳しく指導されている。
1497:16~1498:11 第八章 小松原法難の様相を示すtop
| 16 まづ御き 17 やうさくあるべし。 -----― まずはご推察されるがよい。 -----― 18 念仏実に往生すべき証文つよくば此の十二年が間・念仏者・無間地獄と申すをばいかなるところへ申しいだして 1498 01 もつめずして候べきか、よくよくゆはき事なり、 法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時 02 よりしりて候いき、 このごろの人の申すもこれにすぎず、 結句は法門はかなわずして よせてたたかひにし候な 03 り、念仏者は数千万かたうど多く候なり、 日蓮は唯一人かたうどは一人もこれなし、 今までもいきて候はふかし 04 ぎなり、 今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられ 05 て候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・ 06 うつたちはいなづまのごとし、 弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、 自身もきられ打たれ結句 07 にて候いし程に、 いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり、 いよいよ法華経こそ信心まさり候 08 へ、第四の巻に云く 「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多 09 くして信じ難し」等云云、 日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は 10 多けれども・ 法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、 されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ 11 給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。 -----― 念仏で実に往生するという証文が確かであるならば、この十二年の間、念仏者は無間地獄に堕ちると言ったのを、どのようなところへ申し出しても、難詰しないでおられようか。よくよく自信がないのであろう。法然・善導等が書き置いたほどの法門は、日蓮は十七、八歳の時から知っていた。このごろの人の言うこともこれらを越えてはいない。結局、法門ではかなわないから、多勢をたのんで力で戦おうとするのである。念仏者は数千万であり、味方は多い。日蓮は唯一人であり、味方は一人もいない。今まで生きているのは不思議なのである。今年も十一月十一日に安房の国東条の松原という大路で、申酉の時、数百人の念仏者等に待ち伏せされた。日蓮は唯一人、十人ばかりの供も、役に立つ者はわずかに三、四人である。射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は雷のようであった。弟子一人は即座に打ち取られ、二人は深手を負った。日蓮自身も斬られ、打たれ、もはやこれまでという有り様であったが、どうしたことであろうか、打ちもらされて今日まで生きているのである。いよいよ法華経の信心を増すばかりである。法華経の第四の巻には「しかもこの経は仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」とあり、第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」と説かれている。日本国に法華経を読み学ぶ人は多い。人の妻を狙い、盗み等をして、罰せられる人は多いけれども、法華経のために傷つけられる人は一人もいない。だから日本国の持経者は、いまだこの経文には符合していない。ただ日蓮一人こそ法華経を色読したのである。「我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」とはこのことである。ゆえに日蓮は日本第一の法華経の行者である。 |
きやうさく
推察・推量すること。よく考えてみること。
―――
善導
(0613~0681)。中国・初唐の浄土宗の僧。姓は朱氏。泗州の人。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。のちに石壁山の玄中寺におもむいて道綽の教えを受け、ついで都に入って20余年間、称名念仏を弘めた。往生礼讃偈で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修するものは、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」四巻などがある。
―――
安房の国・東条の松原
地名。現在の千葉県鴨川市広場付近と思われる。日蓮大聖人はこの地で文永元年(1264)11月11日。天津の工藤邸に向かっていた一行が、念仏批判を受けて激しく敵対心を抱いていた東条景信からの襲撃を受け、弟子の鏡忍房と門下の工藤吉隆が殺害され、大聖人自身も額を斬られるとともに左手を骨折するなどの重傷を負った。小松原法難の地。
―――
而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや
法師品の文。法華経を弘める者には、釈尊の在世ですら大難があった。ましてや滅度の後、法華経を弘める者には当然、数々の大難がある、との意。
―――
一切世間怨多くして信じ難し
安楽行品の文。仏が法華経を説くときには、世間のあらゆる人が仏を怨み迫害してしんじようとしない、との意。
―――
我不愛身命但惜無上道
勧持品の文。「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と読む。勧持品では八十万億那由佗の菩薩が、釈尊滅後において三類の強敵を忍んで法華経を弘通すると誓う、請願の文。
―――――――――
はじめに「まづ御きやうさくあるべし」と述べられ、日蓮大聖人が念仏の者は無間地獄に堕す、と立教開宗以来これまで十二年間にわたって、諸所で主張してきたのに、念仏者の側からは何らそれに対して法門の上で反論しようとしなかった。そのことから、ひとえに念仏すれば確実に往生できるとの文証の上からの裏づけが余りにも弱いためであるということがわかるではないか、と仰せられている。
念仏を説いた法然や善導等の書いた法門は、大聖人はすでに17,8歳のころに熟知されていたことであり、それを知ったうえで念仏無間地獄と断定されたのであるから、その後の念仏者達が大聖人の主張を破れるわけがないと仰せられている。
その結果、念仏者達は法門の上では勝てないので、多数を頼んで大聖人を暴力で迫害する行動に出てきたのである。
日本中が念仏を信仰しており、大聖人を憎んで迫害してくるなかにあって、今まで生命を存らえてきたのは不思議なくらいであると述べられ、小松原の法難の様相を明かされている。本抄御執筆の一か月前の事件だけに、生き生きと法難の様子が活写されている。
そして、このように難にあうこと自体、法華経の予言どおりであり、法華経の正しさへの確信を深めさせてくれるものであると言われ、法華経第四の巻法師品第十の「而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」の文、同第五の巻安楽行品第十四の「一切世間に怨多くして信じ難し」の文を引用されている。これらの文のとおりに、法華経の弘通のために、小松原の法難をはじめとするさまざまな生命に及ぶ迫害や難に直面した御自身を「日本第一の法華経の行者なり」と宣言されている。
されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず……我不愛身命但惜無上道是なり
たしかに「日本国に法華経よみ学する人これ多し」と仰せのように、当時、法華経を読誦したり、学ぶ人々は少なくなかった。それは、日本国に仏教が流伝されて以来、数多くの経典のなかで、法華経ほど人々に親しまれ読まれた経典はないという事実からも明らかに推定される。しかしながら、法華経を身をもって読んだ人はだれもいないのである。
すなわち「人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども」と、世間的罪業のために権力による処罰を受けた人は多いけれども「法華経の故にあやまたるる人は一人もなし」と、法華経の経文どおりに、法華経の弘通のために生命に及ぶ迫害や傷害を受けた者は一人もいないと断言されている。過去に法華経を読んだ人達はただ言葉や観念で読んだだけであったのに対し、日蓮大聖人は、身で読まれているのである。経文をそのとおりに実践されているのである。このように大聖人が、法華経のために、命にかかわる難にあわれたことは、法華経勘持品第十三の「我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」の文を身読されていることにほかならないからである。
1498:12~1498:18 第九章 更に信心を勧めて結ぶtop
| 12 もし.さきにたたせ給はば梵天・帝釈.四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日 13 蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、 よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心まし 14 まし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・ よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな、 15 但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、 もしやとしていきさせ給い候はば・あはれ・とくとく見参してみ 16 づから申しひらかばや、語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候いぬ、恐恐謹言。 17 文永元年十二月十三日 日蓮花押 18 なんでうの七郎殿 -----― もし日蓮より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等にも申し上げなさい。日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子であると名乗りなさい。よもや粗略な扱いはされないであろう。ただし、一度は念仏、一度は法華経を唱えるというように、二心があって、人の風聞を恐れるようなことがもしもあるならば、日蓮の弟子と名乗られても、お用いにはなるまい。あとになって恨んではならない。ただし法華経は今生の祈りともなるものであるから、ひょっとして生きのびられることがあれば、一刻も早くお会いして、日蓮からお話ししたい。語は文に尽くせない。文は心を尽くし難いから、これでとどめます。恐恐謹言。 文永元年十二月十三日 日 蓮 花 押 南条七郎殿 |
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
四大天王
帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する。
―――
閻魔大王
閻魔は梵語ヤマ (Yama) の音写。炎魔・閻魔羅などとも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五七日(5週間)に閻魔大王の所に行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頗梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
―――
はうしん
美しい心。親切な心のこと。
―――――――――
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と、御自身の立場を明らかにされたうえで、したがって、南条兵衛七郎が、もし、死の旅に立つことがあったなら、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等に、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子と名乗れば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王も南条兵衛七郎を親切に迎えてくれるであろうとさとされている。
しかしながら、そのためには、南条兵衛七郎がこれまでのような念仏と法華経を並べているような二心をすてて、法華経一筋に、純一の信心に立たなければならないし、世間体を恐れているような弱い信心であってはならないと厳しく指導されている。
「但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば」云云とは、法華経の信仰の功徳は、あくまで成仏を遂げるところにあるのであるが、現在の人生における幸せをもたらす功徳もあるので、あるいは病気が治って寿命が延びることもあるかもしれないとの仰せである。ここに仏法信仰の根本目的は成仏にあり、現世利益は従の問題であることを知らなければならない。そして、もしや病気を治し生命も延ばせるならば、直接にお会いして法華経の信心について語りたいと述べられている。そして「語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがた」いと、本抄を結ばれている。
1493~1498 南条兵衛七郎御書(慰労書)2014:09月号大白蓮華より。先生の講義top
揺るぎなき信心でわが人生を飾れ
人生は総仕上げが勝負です。
思えば、創価の父・牧口常三郎先生が妙法と巡り合ったのは、実に57歳の時のことです。いわば、人生の総仕上げを仏法とともに開始されたのであります。
牧口先生の口ぐせは「われわれ青年は」という一言でした。その言葉通り、若々しい気概で戦い抜かれ、60代、70代にかけて、日蓮仏法を民衆の中に生き生きと蘇らせる大偉業を成し遂げられたのです。
不二の弟子である戸田城聖先生もまた、獄中で殉教された牧口先生の遺志を受け継ぎ、最後の最後まで妙法流布のために生き抜かれました。58歳という、今でいえば短い生涯であったかもしれません。しかし、幾百年に匹敵する大闘争をやり切り、広宣流布の基盤を確立して、後事の一切を私たち青年に託されたのです。
「病によりて道心はをこり候なり」
日本は長寿大国となり、空前の高齢社会を迎えました。誰しも、「老」「病」「死」を逃れることはできず、その現実の苦悩と直面せざるを得ません。
信心していたとしても、当然、老いの苦しみはある。病との闘いもある。
“信心してきたのに、なぜ”と思われることもあるでしょう。年齢とともに思うように動けなくなることもあります。しかし、それは万人が避けられない天然の理です。「生きとし生けるもの」には、生老病死は必然です。老いも、病も、そして死も、生命に「本有」の摂理です。
妙法を持つ私たちは、生老病死の苦悩の意味を、三世永遠の深き生命観から見つめ直し、捉え返して、力強く前へ前へと進んでいくことで「本有の生死」と輝いていけるのです。
まさに、日蓮大聖人が教えてくださった通り、「病によりて道心はをこり候なり」です。
たとえ病気になっても、全部深い意味があります。必ず「このやまひは仏の御はからひか」とわかる時がきます「転重軽受」であり、「変毒為薬」です。
全てが、我が人生の悔いなき総仕上げのためであり、「一生成仏」という永遠の幸福境涯を勝ち取った証しとなっていくのです。何も心配ありません。もうすでに、未来の勝利の軌道に入ったうえでの「本有の老」であり、「本有の病」であり、「本有の死」なのです。
大聖人は、病に苦しむ門下がいれば、寄り添うように心を砕かれ、慈愛と厳愛の大激励をかさねられています。
今回は、青年門下の代表である南条時光の父・兵衛七郎に与えられたお手紙を拝して、人生の最終章で勝利を飾る、揺るぎない信心のあり方について、共々に学んでまいりたいと思います。
| 1493 南条兵衛七郎殿御書 文永元年十二月 四十三歳御作 与南条兵衛七郎 01 御所労の由承り候はまことにてや候らん、 世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あら 02 ん人は申すにおよばず・ 但心あらん人は 後世をこそ思いさだむべきにて候へ、 又後世を思い定めん事は私には 03 かなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。 -----― 御病気であるとお聞きしたが事実であろうか。世の中の無常であることは、病気でない人も死をまぬかれることはできないのであるから、まして病気の人は申すまでもない。ゆえに心ある人は後世のことを考え定めておくべきである。その後世を考え定めることは、自分の力では不可能である。一切衆生の本師であられる釈尊の教えこそ根本となることができるのである。 -----― 04 しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か。 ・ -----― そうなのに、仏の教えはまちまちである。それは人の心がさまざまだからであろうか。 |
広布の歴史築いた“一通の手紙”
「ご病気であると伺いましたが、本当でしょうか」
時光の父・南条兵衛七郎はこのころ、重い病に伏していました。その報を聞かれた大聖人は、真っ先に病状を心配されています。
南条兵衛七郎は、もともと念仏を信仰していましたが、おそらく鎌倉にいた折に、大聖人に帰依し、法華経の信心に励むようになったと思われます。
領地のある駿河国富士上方郡上野郷に移ってからは、念仏者の親類・縁者に囲まれていて、兵衛七郎の一家だけが妙法の信仰を持っていたと推察されます。さらに、駿河領地は北条氏の有力者の領地が多く、念仏の強信者であった北条重時の娘で、北条時頼の妻である後家尼御前らの影響の強い土地です。
しかも兵衛七郎は重い病となります。親類たちは、これを機に、妻子のためにも、念仏に再び帰依せよと勧めたことでしょう。
このような状況の中で、大聖人は兵衛七郎の心の葛藤を深く理解される一方、法華経の信心を貫くことこそ、臨終を勝ち越え、三世永遠の幸福に生き抜く正しき道であると、断固たる確信と大安心を与えられたのです。
兵衛七郎に与えられたお手紙は、本抄一通しか伝えられていません。しかし、その一通のお手紙が、兵衛七郎の信心を決定させる大きな力となりました。妻子を本当に守るのは、妙法の信仰しかないと心が定まったのです。この渾身の激励があったがゆえに、妻の上野尼御前や息子の時光ら、南条家の人々が正法の歩みを貫き、一家で燦然と広布史に名を刻むことができたのです。
御自身の大難直後に門下を激励
本抄が認められたのは、文永元年(1264)12月。同年秋、大聖人は10年ぶりに故郷の安房の地を踏まれ、病身の母君の回復祈念をなされました。母君の病は癒えましたが、大聖人は、その後も安房にとどまり弘教に励まれたと思われます。
そして同年11月、かねてから大聖人に敵対していた地頭の東条景信が数百人の念仏者を引き連れ、わずか10人ばかりの大聖人の一行を襲撃するという大事件が起きました。いわゆる、小松原の法難です。
この時の様子が、いかに熾烈であったか。本抄では「射る矢は雨のごとく、打ちかかる太刀は稲妻のごとくであった」と仰せです。
その結果、弟子の一人が殉死、二人が重傷を負ったとされています。さらに大聖人御自身も頭に傷を被り、左手を打ち折られました。経文に説かれている通り、法華弘通ゆえの大難にあわれたのです。
それからわずか1ヵ月後、傷もいまだ十分に癒えない状況で、大聖人は、お手紙の筆を執られました。しかも、『御書全集』で6ページにも及ぶ長文です。自身のお体もいとわず、病床の門下を全力で激励される大聖人の大慈大悲が、痛いほど胸に迫ってきます。
三世永遠の仏法の生死観
冒頭で、兵衛七郎の病状を心配された大聖人は続けて、病の人はもとより、病でない人でも死を免えることはできないからこそ、心ある人は、後世のことをあらかじめ考え定めていくべきであると教えられています。はかない一生だからこそ、永遠に崩れざる福徳を築くことが大事であるとの深い一節です。
生老病死という四苦は、本源的な問題です。
私が対談した歴史学者のトインビー博士は、「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けて通っている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決は見いだせない」と、鋭く警鐘を鳴らされていました。
大聖人は、後世に対する心構えを確立し、ゆるぎない安心を築くためには、凡夫である自分の智慧であれこれ考えても叶わない。一切衆生の本師である仏の教えを根本にしていかなくてはならないと示されています。
しかしながら、仏の教えにも、さまざまあります。その中で、仏の真意が説かれた教えは何か。「教・機・時・国・教法流布の先後」という「宗教の五網」を明かされます。
| 14 又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる 15 語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・ 人ごとに法華経をばもちゐず、 又もちゐたるやうなれども念仏等 16 のやうには信心ふかからず、 信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、 いかなる大善をつくり 法華経を千 17 万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも 法華経の敵をだにも・ せめざれば得道ありがたし、たとへば 18 朝につかふる人の十年・ 二十年の奉公あれども・ 君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還 1495 01 つてとがに行はれんが如し、当世の人人は謗法の者としろしめすべし -----― また十悪・五逆罪に過ぎたる謗法の罪は人ごとにある。これというほどの語をもって法華経を謗ずる人は少ないけれども、法華経を用いないという罪は人ごとにあり、また用いているようであっても念仏などのようには信心が深くない。信心の深い者でも法華経の敵を責めようとしない。どのような大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道はできないのである。たとえば、朝廷に仕える人が十年・二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上もせず、個人としても怨まなければ、永年の奉公は皆消えて、かえって罪に問われるようなものである。当世の人々は謗法の者と知っておくべきである。 |
「悪と戦う」なかに成仏の直道
仏の真意は万人の成仏、すなわち一切衆生が絶対の幸福境涯を築くことにあります。本当の民衆仏法とは、いかなる教えか。そして、本当にそれを弘通する人とは誰か。本抄では、「宗教の五綱」を通して、法華経こそが末法の衆生を救済できる大法であり、大聖人が「日本第一の法華経の行者」であることを諄々と説かれていきます。
大聖人は、まず五綱の「教」について、釈尊の四十余年の説法は、「未顕真実」「正直捨方便」であり、「要当説真実」の法華経こそが仏教の結論であると、仏自身が明言されていることを教えられています。そして、諸仏の中で釈尊こそが、衆生にとっての主師親の三徳を兼ね備え大恩ある存在であることが示されています。
したがって、他の経典を膨大な期間にわたって修行しても、仏が真実であると明かした法華経の真髄である南無妙法蓮華経を一遍も唱えないなら、大恩ある仏に背く不孝の者となってしまうと言われています。
次に、五綱の「機」です。
機とは、機根ともいいます。教えを聞く人々がもつ理解・受容する能力です。
ところが、末法という時代は、機根が劣悪なばかりか、煩悩が盛んで多くの悪事をなし、法華経という根本の大善に反発し、誹謗するという謗法が蔓延しています。
だからこそ、最も大事なことは、自身が正法を実践するだけでなく、謗法と戦うことです。いかなる大善を作り、法華経を実践しても、「法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」です。兵衛七郎は、あらためて、自身の成仏のために今、何が一番大切であるかを自覚したことでしょう。
ここで大聖人が、戦うべき相手を「法華経の敵」と表現されていることは大切です。もともと、爾前経も、成仏への道筋を説いた教えです。ですから爾前経が即「法華経の敵」とはなりません。しかし、当時の諸宗は爾前経に執着し、法華経に敵対したのです。その代表が法然の念仏です。
言うならば、「法華経の敵」とは、人間の可能性を否定し、万人の尊極性を認めず、人々を無気力にして、不幸へと陥れる思想です。民衆を苦しめる元凶とは断固、戦う、それが大聖人の破折の精神です。
「いかなる大善をつくり」以下の御文は、牧口先生の御書にも強く太く、朱線が引かれていた一節です。
悪を責めた分だけ、自身の仏性が強くなる。胸中の無明を打ち破り、魔に力強く勝つことができる。罪業が消え、宿命転換が成し遂げられる。いざという時に、勇気ある信心で、師と共に、師と同じ心で戦ってこそ、金剛の「仏の生命」となるのです。
末法の良薬示す「宗教の五綱」
続いて、「時」について示されます。
釈尊滅後、師匠の教えをきちんと守り実践する人は、時とともに次第に減り、成仏への道を歩む人も少なくなっていきます。正法・像法の二千年が終わった後の末法は、師匠の教えをその通り守ろうとしない無戒の者が充満し、人々の心が濁り、社会が乱れ、五濁が盛んになる時代であると仰せです。
このような深刻な混乱の時代では、少しの悪を直す小さな善にとらわれることも、悪となります。大善へと向かうことを妨げるからです。どんな人をも救う大善の教えしか役に立たない時代なのです。
さらに、「国」について大聖人は「されば法は必ず国をかんがみて弘むべし」と、国の相違によって法が弘通されていくべきであると指摘されています。
大聖人は、経論や伝承を通して、法華経こそが日本に有縁の法であると述べられます。
ここで、法華経有縁といっても、日本の人々の機根が優れているというわけではなく、別の御書では、日本とは一闡堤という謗法の者が生み広げた国とされています。人々を救うのが難しい国だからこそ、万人成仏の経典こそが有縁の法となるのです。
五綱の最後の「教法流布の先後」に関して、大聖人は「仏法を弘むる習い必ずさきに弘めける法の様を知るべきなり」と仰せです。日本では権大乗経が弘まった後なので、実大乗経である法華経を弘めるしかありません。それは、あたかも病人に薬を与える時に、先に飲んでいる薬を知らなければならないようなものです。
妙法とは、謗法による一切の不幸や苦悩を救い切るために、全ての効能を包含して、調合された大良薬ですゆえに、もはや古くなった他の薬など必要ないのです。むしろ、他の薬に固執すると、悪影響がでかねません。
このように大聖人は、重い病の中、窮地にある南条兵衛七郎に対して「宗教の五綱」を通して、“妙法を根本にすれば必ず成仏の道が開けるのですよ”と、あらゆる角度から教え、励ましてくださっています。
| 13 一家の人人・ 念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞ 14 すすめまいらせ給い候らん、 我が信じたる事なればそれも道理にては候へども・ 悪魔の法然が一類にたぼらかさ 15 れたる人人なりと・おぼして・大信心を起し御用いあるべからず、 大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人 16 の後世をば障るなり、 いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず、 -----― あなたの一家の人々は念仏者であったようであるから、きっと念仏を勧めていることであろう。自分達が信じたことであるからそれも道理ではあるけれども、悪魔の法然が一類にたぼらかされている人々であると思って、大信心を起こし、用いてはならない。大悪魔は貴き僧となり、父母・兄弟等にとりついて、人の後世を妨げるのである。どのように言っても、法華経を捨てよと欺こうとするのを用いてはならない。 |
悪縁に紛動されない信心を
悪縁に引きずられずに、「大信心」を起こしていきなさいと指導されています。
御文に仰せの通り、魔の働きは、貴い姿をした僧や父母・兄弟などの生命に入って、法華経を信じる者を退転させようとします。この方程式は、今でも決して変わりません。
魔は、巧妙な手段を使って、相手の弱いところを突いたり、相手を思いやるふりをして、成仏を妨げようとするのです。
信仰を捨てさせようとする魔のささやきには、絶対に紛動されてはならない。信心を失って、広宣流布の世界から離れてしまえば、永遠の幸福を開く、根本の軌道から外れてしまう。功徳も成長も勝利もなくなってしまうのです。それが悪知識の恐ろしさです。
「大悪魔は貴き僧となり」との一節は、簡潔な御文ですが、戸田先生もよく語られていた重大な戒めです。ある時は、「佐渡御書」の講義で、こう語られました。
「釈尊の時代の六師外道が、大聖人様が三大秘法を広宣流布するにあたって、僧侶になって生まれてきて敵対しているのである」と。
そして今、創価学会が広宣流布をして、日本の民衆を救わんと立つにあたっては、どうなるか。「こんどは日蓮正宗のなかに生まれてくるのです」と言われていました。
まさしくその通りの実態となってしまったのは、皆さまもよくご存じの通りです。
しかし学会は、魔軍と決別して本格的な世界宗教へと飛翔しました。SGIは、115ヵ国から192ヵ国・地域へと大発展を遂げました。世界からの信頼や賞讃もやむことはありません。
全ては広宣流布へ邁進し、誠心誠意の行動を貫いてきた全同志の皆さまのおかげです。みなさまに、いやまして絶大な功徳が湧き出ることは間違いありません。
「師子王の大闘争」に続きゆけ
さて、小松原の法難は、悪魔が身に入った念仏者がその正体を現して、迫害を加えてきた事件でした。その時の模様を、この御文の後段で綴られています。
ここで大聖人は、御自身を「日本第一の法華経の行者なり」と宣言されています。これは、大聖人ただお一人が、法華経に説かれている通りに、末法の悪世に、小松原の法難をはじめとする数々の大難を受けられているゆえであります。
それと同時に、病に苦しむ兵衛七郎にとってみれば、大聖人御自身が大難を勝ち祈り、「いよいよ法華経こそ信心まさり候へ」と力強く仰せられた御確信が、胸中深く響いたに違いありません。
| 12 もし.さきにたたせ給はば梵天・帝釈.四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日 13 蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、 よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心まし 14 まし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・ よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな、 15 但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、 もしやとしていきさせ給い候はば・あはれ・とくとく見参してみ 16 づから申しひらかばや、語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候いぬ、 -----― もし日蓮より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等に申しあげなさい。日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子であると名乗りなさい。よもや粗略な扱いはされないであろう。ただし、一度は念仏・一度は法華経を唱えるというように二心があって、人の風聞を恐れるようなことがあるならば、日蓮の弟子と名乗られても、お用いにはなるまい。あとになって恨んではならない。ただし法華経は今生の祈りとなるものであるから、ひょっとして生きのべられることがあれば、一刻も早くお会いして、日蓮からお話したい。語は文に尽くせない。文は心を尽くし難いから、ここでとどめます。 |
「日蓮の弟子」と名乗り切れ
末尾にあたって、臨終に際する用心ともいうべき大事な指導・激励を記されています。兵衛七郎の病状は重く、死期がそれほど遠くないと察知されていたのでしょう。
もし、大聖人よりも先に死の旅に立つならば、その時には、「日本第一の法華経の行者・日蓮の弟子と名乗りなさい」と仰せです。そうすれば、あらゆる諸天が厳然と守ることは間違いないとのお約束なのです。
なんと心強い励ましなのでしょうか。
大聖人は、病床にあった妙心尼の夫にも「中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでしなりとなのらせ給へ」(1480-09)と仰せです
いざという時に、胸を張って「日蓮の弟子」と言い切れることができるかどうか。
日蓮仏法の根幹は、どこまでも師弟です。
三世にわたって師弟に生き抜く誓願と実践が、一切を勝ち開きます。私たちの日々の実践に即するなら、「我、創価学会員なり!」と喜びの唱題を重ね、広布の活動に励むことです。その信心があれば、三世十方の仏菩薩・諸天善神が動きます。そして、その人自身が、未来永遠に「仏」と輝くのです。
「二心」なく、唯一無二の信仰を
御文に戻れば、「日蓮が弟子」と名乗ったとしても、法華経と念仏を並べる「二心」があってはならないことを、今一重、厳格に戒められています。揺るぎなき信心の一念を決定せよと、兵衛七郎の胸奥深くに轟かせられているのです。
「二心」とは、法華経への無二の信仰を貫けない迷いであり、弱さです。
仏法は峻厳であり、信心に妥協はありません。いかなることがあっても「二心」なく、「一心」に貫き通していけるかどうか。
世間に紛動されるような弱い信心では「二心」に通じてしまう。厳しく言えば、迫害を恐れて法華経の敵を呵責できないことも、また、誰かがやるだろうとの他人任せの生き方も「二心」に通じてしまうのです。
続けて「法華経は今生のいのりともなり候なれば」と仰せです。成仏を目指す法華経の信心は、「今世」の果徳も現すことができるということです。病が癒えて、寿命が伸びることがあれば「とくとく見参してみづから申しひらかばや」ともで語りかけ、希望の光で包んでくださっています。
本抄で大聖人は、兵衛七郎に真心を込めて、道理を尽くして、不退の信心を貫くよう教えられました。できることなら、直接会って激励したいとの御心情を綴られているのです。兵衛七郎の病状を考えれば、一刻も早く手を打たなければ、間に合わないかもしれないとお考えだったかもしれません。
ともあれ、兵衛七郎は、病床にあって、大聖人のお手紙を幾度となく拝したことでしょう。そして、心の中に渦巻く逡巡や迷妄を打ち払い、わが心に揺るぎない信心の一念を確立させていった。ここに、兵衛七郎の人生最終章の勝利が豁然と開かれていったのです。
「心の財」は壊れない
このお手紙を頂いてから3ヵ月後、兵衛七郎は安らかに霊山へと旅立ちました。
大聖人は、南条家へのお手紙で、兵衛七郎の姿は「即身成仏」「臨終正念」であると仰せです。また「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504-06)と仰せになり、兵衛七郎の成仏は間違いないことを家族に教えてくださっています。
そればかりではありません。この一家を讃え励まそうと、敵対者の多い駿河地域でしたが、上野郷まで大聖人は自ら出向き、墓参されています。この時に、まだ幼い息子の時光は、大聖人にお会いしたのです。父の命がけでり守ろうとした妙法、それを教えてくださった師匠との出会い。時光の信心の揺るぎない原点が、この時に刻まれたに違いありません。
大聖人の御指導を素直に拝し、妙法に生き抜いた父の信心は、一家へ、子・時光へと確かに継承されていきました。佐渡流罪の赦免後、時光は、師匠が身延に入られたことを聞いて駆けつけ、再開を果たします。大聖人は父親似の凛々しい姿と、父親譲りの立派な信心を心から喜ばれたのです。
時光は、熱原法難の際には日興上人を支え、門下を護る活躍をしました。大聖人は時光に「上野賢人」の称号を与え、この後継の青年を讃えられています。
このように南条兵衛七郎は、人生の総仕上げの時にあたって、どこまでも「師匠と共に」との精神を貫き、勝利しました。三世にわたる師弟共戦の旅に生き抜く「心」で、眷属の永遠の幸福の軌道を確立したのです。
自身の積んできた「心の財」は、いかなることがあろうとも、絶対に壊れることはありません。「壊る能わず」です。
たとえ体が思うように動かなくても、生涯積んできた「心の財」は、ますます輝いていきます。仏法に縁した功力は広大無辺です。いわんや、広宣流布に戦い抜き、積み上げてきた「心の財」は、壊れることは断じてありません。
「生死ともに仏」の歓喜の境涯
現代は、長寿社会になった分、真の生きがいや、人生の総仕上げを充実させる、価値あるものにすがる道が、真剣に求められているとも言えます。だからこそ、胸中の「心の財」が、いっそう輝きを放っているのです。自身が本有の生老病死の姿を通して、家族や後輩に、かけがえのない希望と勇気、そして、信心の確信を贈っているのです。
家族の看護や介護の苦労は、本当に切実で大変です。しかし、そのなかで、家族のつなりを深めつつ、共々に信心を強くして境涯を高め、福徳を増していくことができます。
妙法に照らされた人生の総仕上げは自身も周囲の人も、皆に、未来永遠の常楽我浄の生命を約束していくのです。
一人の勝利が、一家一族の勝利につながります。南条兵衛七郎の勝利は、妻の上野尼・息子の時光の勝利を開いただけでなく、末代万年にわたる妙法の一家の幸福の道を示しているとも言えます。
今、私たち創価の家族の体験も、多くの人々の人生の希望の起点となっていくのです。「生死ともに仏」です。「生も歓喜、死も歓喜」です。わが「大信心」を起こした広宣流布の勇気の戦いが、自身と周囲の人々の荘厳な人生を勝ち飾っていく。今、この生命尊厳の大哲理が、世界中に広がり、人間主義の大潮流となる時代に入りました。
私たちが一日一日を「生ききる価値」は、三千大千世界、全宇宙の宝よりも大きいのです。
1499~1503 薬王品得意抄top
1499:01~1499:05 第一章 薬王品の意義を示すtop
| 1499 薬王品得意抄 文永二年 四十四歳御作 与上野時光妻 01 此の薬王品の大意とは此の薬王品は第七の巻二十八品の中には第二十三の品なり、 此の第一巻に序品方便品の 02 二品有り序品は二十八品の序なり、 方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し 傍には菩薩凡夫の 03 作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり、又涌出品 04 は寿量品の序なり、 分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・ 傍には方便品等の八品 05 を修行す可き様を説くなり、然れば此の薬王品は方便品等の八品並びに寿量品を修行す可き様を説きし品なり。 -----― この薬王品の大意というのはこの薬王品は法華経の第七の巻にあり、二十八品のなかには第二十三の品である。この法華経の第一巻には序品第一と方便品第二の二品がある。序品第一は二十八品の序である。方便品第二から授学無学人記品第九に至るまでの八品は正意としては二乗作仏を明かし、傍意としては菩薩や凡夫の作仏を明かしている。法師品第十・見宝塔品第十一・提婆達多品第十二・勧持品第十三・安楽行品第十四の五品は上の八品に説かれた法門を末代の凡夫が修行すべき方途を説いているのである。また、従地涌出品第十五は如来寿量品第十六の序である。分別功徳品第十七からあとの十二品は正意には如来寿量品第十六に説かれた法門を末代の凡夫が修行すべき方途を、傍意には方便品第二等の八品に説かれた法門を修行すべき方途を説いている。したがって、この薬王品は方便品第二等の八品および如来寿量品第十六で説かれた法門を修行すべき方途を説いた品なのである。 |
薬王品
法華経薬王菩薩本事品第二十三のこと。法華経本門の流通分にあたる。内容は、薬王菩薩の過去世における身の供養の姿を明かし、つぎに種々の譬えをあげて法華経が諸経中の第一であり、無量の功徳があることを説いている。
―――
序品
法華経28品の総序と、迹門14品の別序の二義がある。「如是我聞」ではじまり、此土の六瑞と他土の六瑞が説かれ、この瑞相に対する弥勒菩薩の問いに答えて文殊菩薩は、これから法華経が説かれる瑞相であると答える。
―――
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
人記品
法華経授学無学人記品第九のこと。法華経迹門の正宗分である開三顕一の説法がこの品によって終わる。阿難と羅睺羅、そして学無学の2000人の声聞に記莂を授けたことが説かれている。
―――
二乗作仏
「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
法師
法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
―――
宝塔
妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
―――
提婆
法華経提婆品第12のこと。法華経迹門の流通分にあたる。提婆達多の過去世における釈尊との関係をあげて、未来成仏を明かし、文殊菩薩に教化された竜女の成仏の姿が説かれている。
―――
勧持
勧持品のこと。宝塔品での弘教の勧めと提婆品の法華経の功力が明らかにされたのを受けて、一座の菩薩や声聞たちが此土・他土の弘教を誓っているところである。八十万億那由佗の菩薩は二十行の偈を説いて、滅後の悪世において三類の強敵のなかで、弘教していくことを誓っている。
―――
安楽
法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
―――
涌出品
妙法蓮華経従地涌出品第十五のこと。この品より本門に入る。この品の前半で迹化・他方の八恒河沙の大菩薩が娑婆世界の弘教を請うたけれども、釈尊は許されない。そして迹門の大地を破って上行など四菩薩を上首とした本眷属、六万恒河沙の菩薩が出現するのである。これをみて、弥勒等の迹化の菩薩は、仏がいつ、これほどの大菩薩を教化したのであろうかと疑いを起こし、また「父少く、子老ゆ」の喩えを説いて「願わくは今為に解脱したまえ」と請うて、寿量品の説法にはいるのである。
―――
寿量品
如来寿量品大16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211-17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753-07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
―――
分別功徳品
妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。
―――――――――
本抄御述作の由来は不明であり、御述作の年次ならびに与えられた人についても種々の説がある。
ただ、本抄の後半に、女人成仏の事が示されていること等から、文永2年(1265)に南条兵衛七郎の妻に与えられたものと推測されている。他に弘安3年(1280)説、建治年中という説もある。本抄は一部を除いて御真筆が存している。
さて、本章では、法華経の中における薬王品の位置ならびに役割が記されている。
薬王品は、法華経二十八品の中の第二十三品であり、正には本門寿量品、傍には迹門方便品等の修行のあり方を示した流通分にあたるのである。
方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり
日蓮大聖人は、「観心本尊抄」でも「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す」(0249-05)と仰せであるが、このように迹門正宗分が二乗作仏を正となし、菩薩凡夫の成仏を傍となす理由について、日寛上人は観心本尊抄文段で、次のように述べられている。
「所謂順次にこれを見れば二乗を正と為し、菩薩・凡夫を傍と為す。謂く、菩薩・凡夫は成じ易き故に傍なり。若し二乗の人は成じ難き故に正なり。また同じき大通下種の中にも、菩薩の人は法華已前に或は種子を顕し、凡夫の人は法華已後に或は種子を顕す。故にこれ仏の本意に非ず、故に名づけて傍と為す。但二乗の人のみ、法華に来至して種子を顕示す。これ仏の本意なり。故に正と為すなり」。
この文の意味はきわめて明快であり、要は爾前経で一貫して永不成仏とされてきたのが二乗である。この最も成仏しがたい二乗の成仏を明かしたところに法華経迹門正宗分の特質がある。二乗すら成仏するのであるから、それより成仏しやすい菩薩・凡夫の成仏は必然的に可能となるのである。
この迹門正宗分の二乗作仏の説法をうけて、法師品以下では、釈尊が菩薩達に向かって、滅後の弘教を勧め、それに応えて菩薩達が弘教の決意を述べることが説かれている。たとえば勧持品で、三類の強敵が競うけれども、それに耐えて弘めると申し出ているのがそれである。
これらは、一往、説法の流れの上で見れば、迹門正宗分で説かれた法を弘めることを誓ったものであり、のちに、これら迹化の菩薩が斥けられ、末法の弘通の使命は本化地涌の菩薩のみに託されることから振り返ってみれば、正像二時における弘教となる。ただし、再往こうした三類の強敵による大難に耐えて弘めるのは、末法に妙法を弘める本化の菩薩である。ゆえに、観心本尊抄の次下には、この迹門正宗分も「再往之を勘うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す」(0249-11)と仰せられ、また法華取要抄にも、次のように述べられるのである。
「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(0333-16)。
したがって、本抄で、法師品から安楽行品にいたる迹門の流通分の五品は、方便品から人記品までの正宗分八品を、末代の凡夫がいかに修行すべきかを説いたものであると仰せられているのは、迹門十四品を逆次に読んだ場合であることはいうまでもない。
分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり
本門十四品はことごとく、末代の凡夫のために説かれたものである。日蓮大聖人は、観心本尊抄で「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す」(0249-16)と仰せられ、本門の正宗分である寿量品は、弥勒等の「自分達は地涌の菩薩が釈尊の弟子であるとの教えを信ずるが、滅後の衆生は疑いを起こすであろうから、そのために説いてほしい」との請いを受けて説かれたからであると述べられている。
法華取要抄には、これを「問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」(0334-15)と仰せられている。
では、本抄で、寿量品を正と為し、方便品等を傍といわれるのは何故であろうか。
日寛上人は、取要抄文段で、次のように仰せである。
「今謂く、凡そ宗門の綱要、当抄の大意は、正に本門三箇の秘法を以て末法流布の正体、出離生死の要法と為す。然るに方便品等、寿量品等は、能くこの文底三箇の秘法を助顕するの功あり。故に並びに『末法今時の日蓮等が為なり』というなり。倶に文底三箇の秘法を助顕すと雖も、而も傍正あり。謂く、方便品等は遠くこれを助顕し、寿量品は近くこれを助顕す。既に遠近親疎の別あり。故に薬王品得意抄に『正には寿量品』『傍には方便品』等というなり」。
寿量品も方便品も、三大秘法の南無妙法蓮華経を助顕する功徳をそなえているが、その内容から、方便品は遠く助顕し、寿量品は近く助顕するという相違がある。ゆえに寿量品が正であり、方便品は傍となるのである。方便品は補助的な働きをするのである。
また、このような理由から、創価学会の勤行では、唱題の正行に対し、助行として方便品、寿量品の両品を読誦するが、寿量品を正、方便品を傍とするのである。
1499:06~1500:09 第二章 大海の譬えを示すtop
| 06 此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申す可し、此の南閻浮提に二千五百の河あり、 西倶耶 07 尼に五千の河あり総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、 或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有 08 り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿 09 弥陀経.涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経.大日如来の所説の一切経・阿弥 10 陀如来の所説の一切経・ 薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一な 11 り、譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、 河に勝れたる大海に十の徳有り、 12 一に大海は漸次に深し河は爾からず、 二に大海は死屍を留めず河は爾らず、 三に大海は本の名字を失う河は爾ら 13 ず、四に大海は一味なり河は爾らず、 五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、 七に 14 大海は広大無量なり河は爾らず、 八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、 九に大海は潮の増減有り 河は爾ら 15 ず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず。 -----― この品に十の譬えが説かれている。第一は大海の譬えである。まず第一の譬えを概略、申し上げよう。この南閻浮提に二千五百の河がある。西倶耶尼には五千の河がある。合計して、この四天下に二万五千九百の河がある。あるいは四十里、あるいは百里、一里、一町、一尋等の河がある。しかしながら、この諸の河はすべて深さについては大海に及ばない。 法華以前の華厳経、阿含経、方等経、般若経、深密経、阿弥陀経、涅槃経、大日経、金剛頂経、蘇悉地経、密厳経等の釈迦如来によって説かれたところの一切の経、大日如来によって説かれたところの一切の経、阿弥陀如来によって説かれたところの一切の経、薬師如来によって説かれたところの一切の経、過去・現在・未来の三世の諸仏によって説かれたところの一切の経のなかで法華経は第一である。たとえば諸経は大河、中河、小河等のようなものであり、法華経は大海のようなものである等と説いているのである。 河よりも勝れている大海に十の徳がある。一に大海は次第に深くなっている。河はそうではない。二に大海は死骸を留めない。河はそうではない。三に大海は本の河の名前を失う。河はそうではない。四に大海は同一の味である。河はそうではない。五に大海には宝等がある。河はそうではない。六に大海は極めて深い。河はそうではない。七に大海は広大無量である。河はそうではない。八に大海は大きな身体の衆生等がいる。河はそうではない。九に大海は潮の増減がある。河はそうではない。十に大海は大雨・大河を受け入れて、満ち溢れることはない。河はそうではない。 -----― 16 此の法華経には十の徳有り諸経には十の失有り、 此の経は漸次深多にして五十展転なり諸経には猶一も無し況 1500 01 や二三四乃至五十展転をや河は深けれども大海の浅きに及ばず諸経は一字・一句・ 十念等を以て十悪・五逆等の悪 02 機を摂すと雖も 未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり、 此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く 03 謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・ 謗法を為さん者をや、 設い諸経を謗ずと雖も法 04 華経に背かざれば必ず仏道を成ず、 設い一切経を信ずと雖も法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ、 乃至第八には 05 大海は大身の衆生あり等と云うは 大海には摩竭大魚等大身の衆生之有り、 無間地獄と申すは縦広八万由旬なり五 06 逆の者無間地獄に堕ちては一人にて必ず充満す、 此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり、 諸経の小河大河の 07 中には摩竭大魚之無し法華経の大海には之有り、 五逆の者仏道を成す 是れ実には諸経に之無し諸経に之有りと云 08 うと雖も実には未顕真実なり、 故に一代聖教を諳し天台智者大師の釈に云く 他経は 但菩薩に記して二乗に記せ 09 ず乃至但善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、余は且く之を略す。 -----― この法華経には十の徳があり、諸経には十の失がある。この法華経の功徳は次第に深く多くて、五十展転の功徳がある。諸経においては、一番最初に法を聞いても功徳はない。ましてや二番目、三番目、四番目、そして五十展転の人に功徳のあるはずがない。河は深いといっても大海の浅いところに及ばない。諸経は一字、一句、十念等をもって十悪業や五逆罪等を犯す悪機の衆生を救済されるなかに入れているといっても、いまだ法華経の一字一句を聞いて随喜する人の五十展転の功徳には及ばないのである。 この経の、大海に死骸を留めないということは、法華経に背く謗法の者は極善の人であっても、これを捨て去るのである。ましてや悪人であるうえ謗法を行う者を捨て去らないわけがない。たとえ諸経を誹謗しても法華経に背かなければ必ず仏道を成ずる。たとえ一切経を信じても法華経に背くならば必ず無間地獄に堕ちるのである。中略。第八に大海には大きな身体の衆生がいる等というのは、大海には摩竭大魚等の大きな体の衆生がいる。無間地獄というのは縦広八万由旬である。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちて一人で必ず充満してしまう。この地獄の衆生は五逆罪の者であり、大身の衆生である。諸経の小河や大河の中には摩竭大魚はいない。法華経の大海にはいる。 五逆罪の者が仏道を成ずるというのは、実際には諸経に説かれていない。諸経に説かれているといっても実際には、未だ真実を顕していないのである。ゆえに釈尊が一代で説かれたすべての聖教をそらでおぼえておられた天台智者大師の釈に「法華経以外の経は、ただ菩薩に授記して二乗に授記していない。中略。ただ善人に授記して悪人に授記していない。法華経は皆に授記している」等といっている。他の譬えについては、しばらく省略する。 |
十の譬
薬王菩薩本事品に説かれる十種の譬喩の。法華経が諸経の中で最高であることを譬えたもの。①水喩②山喩③衆星喩④日光喩⑤輪王喩⑥帝釈喩⑦大梵王喩⑧四果辟支仏喩⑨菩薩喩⑩仏喩。薬王品得意抄に詳しい。
―――
南閻浮提
閻浮提とも一閻浮提ともいう。「閻浮提」は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumbūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。四大洲のなかでもとくに南閻浮提は仏法有縁の地とされ、本来、インドを中心とする世界であったが、転じて全世界を包括する意味をもつようになった。
―――
西倶耶尼
「倶耶尼」は梵語ゴダーニーヤ(Godānīya)の音写。「瞿耶尼」とも書く。古代インドの世界観における四大洲の一つ。
―――
四天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
―――
一尋
「尋」は縄や水深などをはかる長さの単位。成人男子が両手を左右に広げた幅。長さは一定しないが、水深をはかる場合には約1.8㍍)が一尋とされる。
―――
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
方等経
釈迦一代教法のうち方等部に属する経。
―――
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
―――
蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
―――
密厳経
法相宗が依経とする経。二訳がある。①唐の不空三蔵訳・大乗蜜権教3巻。②唐の地婆訶羅訳・大乗蜜権教3巻。
―――
大日如来
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
―――
阿弥陀如来
「阿弥陀」は梵語アミターバ(Amitābha)、あるいは、アミターユス( Amitāyus)の音写、無量光仏・無量寿仏と訳す。西方極楽世界の教主。無量寿経によれば、無数劫の過去に、ある国王が出家して法蔵比丘となり、世自在王仏を師として四十八願を立てて修業し、願成就して阿弥陀仏となり、西方極楽世界に住して衆生を済度していると説いている。浄土宗では、この阿弥陀如来を本尊として、西方極楽世界に往生することを本願としている。
―――
薬師如来
薬師とは梵語( Bhaiṣajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
―――
五十展転
法華経を聞いて随喜し演説することが人から人へと五十回、繰り返されること。その第五十番目に伝え聞いた人の随喜の功徳を法華経随喜功徳品第十八に「是の人は一切の楽具を以て、四百万億阿僧祇の世界の六趣の衆生に施し、又た阿羅漢果を得せしめん。得る所の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かず、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり。阿逸多よ。是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり」と説いている。
―――
十念
①増一阿含経に説かれる十種の念、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死。②光讃般若経に説かれる十念。③無量寿経・観無量寿経等浄土宗所立の十念。(諸説あり)④その他の経にも種々の十念あり。
―――
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
五逆
五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
悪機
「機」とは機根の意味で、仏法を受容する可能性。「悪機」は仏法をすなおに信受できず、十悪・五逆等の罪を犯す機根のこと。
―――
随喜
「事理に随順し、己を慶び、人を慶ぶなり」と釈し、釈尊の本地深遠の常住を聞いて信順すること、「理に順う」といい、仏の三世益物の一切処に遍きを聞いて信順することを「事に順う」という。「己を慶ぶ」とは、迹門の諸法実相の理、および本門の久遠本地の事を聞いて信解し歓喜を生ずつこと。「人を慶ぶ」とは、仏も衆生も無作の三身を所具しているとの観をもって一切衆生に正道を悟らせようとする大慈悲心を発すことをいうのである。観心の立場から論ずるならば、永遠の生命観に立ち、御本尊の絶対なる功力を信じ、歓喜して行学の力強い実践に励むことである。
―――
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
阿鼻大城
阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
由旬
梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
―――
摩竭大魚
摩竭は梵語マカラ(Ⅿakara)の音写で、想像上の大魚。根本説一切有部毘奈耶巻九には「其の摩竭魚は十八頭三十六眼ありて、或は人頭なるあり、或は象頭なるあり、或は馬頭……魚頭等なるありき」とある。
―――
未顕真実
法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
―――
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
天台智者大師
(0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
―――――――――
本章からは、薬王品に説かれる十喩によって、法華経が他の諸経に比べて、どのように勝れているかを説かれていくのである。
まず、はじめに十喩の中の大海の譬えを引かれる。これは法華経を大海に譬え、諸経を諸河に譬えたものである。
大聖人は、ここで大海にそなわる十徳を挙げて、法華経の勝れていることを示されている。
第一の徳である漸次深多とは、法華経には五十展転の功徳があるということである。
諸経には第一聞法の徳もない。また、諸経では、一字・一句・十念によって極楽往生できるなどと説き、十悪五逆等の悪人を救済するなどといっているが、仮に、そうとしても、法華経の五十展転の功徳には及ばないのである。
第二に「大海は死屍を留めず」という徳は、死屍とは法華経を誹謗する者のことで、法華経に背く謗法者は必ず無間地獄におちるということである。
第三の名字、第四の味、第五の宝、第六の深さ、第七の広さの徳は略して、第八の大海には大身の者が棲むことを挙げられている。大身の衆生とは五逆罪を犯した者である。五逆罪の者の成仏を可能にするのは、法華経のみである。他の諸経に、たとえ、五逆を犯したような悪人の成仏が説かれているようであっても、未顕真実の教えであるゆえに、成仏することはできないのである。このように、爾前経では二乗・悪人の成仏はないことを、天台大師の文を引用して示されている。
なお、本抄では略されている第四、第五、第六、第九、第十の徳について同一鹹味御書によって補足しておこう。
第四の「大海は一味なり」という徳について、同一鹹味御書には「同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ、諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ」(1447-06)と仰せである。
第五の「大海に宝等あり」という点については、同一鹹味御書に「種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ」(1447-08)と仰せである。
第六の「大海は極めて深し」ということについては、同一鹹味御書に「深くして底を得難し」(1447-03)と示され、「深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり」(1447-05)と教示されている。
第九の「大海は潮の増減あり」については、同一鹹味御書には「潮限りを過ぎずとは妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ」(1447-07)と記されている。
「潮限りを過ぎず」とは、大海の水が、時間をたがえず干満することをいう。引き潮と満ち潮が時間をあやまたず規則正しく繰り返すように、法華経を持つ人は、たとえ身命を失うようなことがあっても、必ず成仏できるのである。
第十の「大海は大雨大河の水を受け入れてあふれることはない」という徳については、同一鹹味御書に「万流大雨之を収めて不増不減なり」(1447-04)とあり、次下に「不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり」(1477-11)と仰せである。
法華経の心は、一切衆生悉有仏性のうえに立っており、万人の仏性は同一であり、万人が平等に成仏できるということである。仏性には増もなければ減もないのである。
此の経は漸次深多にして五十展転なり
大海にそなわる第一の徳、漸次深多の徳とは、法華経随喜功徳品に説かれる五十展転の功徳をあらわしたものであると教えられている。
五十展転の功徳については、随喜功徳品に次のように説かれている。
「爾の時、仏は弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、『阿逸多よ。如来の滅後に、若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、及び余の智者の、若しは長若しは幼は、是の経を聞いて随喜し已って、法会従り出でて、余処に至り……其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん。余の人は聞き已って、亦た随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多よ。其の第五十の善男子・善女人の、随喜の功徳を、我れは今之れを説かん』」
このあと、甚深無量の功徳が説かれ、その結論部分に、次のように記されている。
「阿逸多よ。是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況や最初、会中に於いて聞いて随喜せん者をや。其の福は復た勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶることを得可からず」。すなわち、仏の滅後に法華経を聞いて、それを次第に展転説法し、第五十人目に至る時、聞いた時の随喜は第一番目の人の随喜の功徳よりもはるかに減じてはいるが、それでも、随喜する第五十番目の人の功徳はなお甚大無量なのである。
五十という法数について、天台大師は法華文句巻十上に蔵・通・別の三教の立場から論じた後、次のように記している。
「直に円門に就て数ふれば、数法に小七と大七有り、大七は七々四十九有り、皆是れ師弟にして、自行化他の徳を具す。最後の一人は但だ是れ自解にして教他の徳無し、故に下を格して以て上を顕すのみ」と。
円教では、自行化他の師弟が四十九人おり、第五十番目の弟子は自行のみであって、他を教化しない。この化他の功徳を欠いている第五十番目の者でも功徳が甚大なのであるから、第一番目の自行化他を具足する衆生の功徳が、いかに無量無辺であるかは想像を絶するものがある。
日蓮大聖人は、「御義口伝」で、五十人とは妙法を聞いて随喜する一切衆生をさすと仰せである。
「御義口伝に云く妙法の功徳を随喜する事を説くなり、五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生の事なり、妙法の五十人妙法蓮華経を展転するが故なり、所謂南無妙法蓮華経を展転するなり云云」(0799-一随喜品-01)。
日蓮大聖人の南無妙法蓮華経は、「御義口伝」に仰せのように、十界の一切衆生をことごとく成仏させ、無量無辺の功徳を与えゆく法なのである。
1500:10~1500:16 第三章 山の譬えを示すtop
| 10 第二には山に譬う、十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり、十宝山とは一には雪山・二には香山・三には軻 11 梨羅山・四には仙聖山.五には由乾陀山・六には馬耳山・七には尼民陀羅山.八には斫伽羅山・九には宿慧山・十には 12 須弥山なり、先の九山とは諸経諸山の如し、 但し一一に財あり須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり、 例せば 13 世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し、 華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より法 14 華経の即身成仏勝れたるなり、 須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失つて金 15 色なり余山は爾らず 一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う 例せば黒色の物の日月の光に値えば色を失うが如 16 し諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う。 -----― 第二には山に譬えている。十宝山等とは、山の中には須弥山が第一に勝れていると説いているのである。十宝山とは一には雪山、二には香山、三には軻梨羅山、四には仙聖山、五には由乾陀山、六には馬耳山、七には尼民陀羅山、八には斫伽羅山、九には宿慧山、十には須弥山である。先の九山は諸経は諸山のようなものであるということである。ただし、その一つ一つに財があるが、須弥山は多くの財を具えていて、それらの財よりも勝れている。例えば世間の金が閻浮檀金に及ばないようなものである。華厳経の法界唯心の法門、般若の十八空の法門、大日経の五相成身の法門、観無量寿経の極楽往生の法門よりも法華経の即身成仏の法門は勝れているのである。 須弥山は金色である。一切の牛や馬、人や天人、諸の鳥等は、この山に近寄ると必ず本の色を失って金色になるのである。他の山はそうではない。一切の諸経は法華経に対すると本の色を失うのである。例えば黒色の物が日月の光にあうと、その黒色を失うようなものである。諸経で説く往生や成仏等の色は、法華経にあうと必ずその義を失うのである。 |
十宝山
古代インドの世界観にある十の山。十王山ともいう。華厳経巻三十九には、菩薩の十地を明かすなかで次のように十山王を説いている。
① 雪山王 一切の薬草が悉くあって取っても尽きることがない。
② 香山王に 一切の諸香が悉く集まっていて取っても尽きることがない。
③ 軻梨羅山王 純宝から成っていて一切の衆宝が悉くあり取っても尽きることがない。
④ 仙聖山王 純宝から成っていて、五神通を備えた神仙がその中におり説き尽くすことができない。
⑤ 由乾陀山王 純宝から成っていて、夜叉の大神は悉くその中におり窮め尽くすことはない。
⑥ 馬耳山王 純宝から成っていて、一切の諸果が悉く在り取っても尽きることがない。
⑦ 尼民陀羅山王 純宝から成っていて、大力の竜神は悉くその中に住しており窮め尽くすことはない。
⑧ 斫伽羅山王 純宝から成っていて、諸の自在の衆は悉くその中に住しており窮め尽くすことはない。
⑨ 宿慧山王 純宝から成っていて、大威徳の阿修羅王は悉くその中に住し窮め尽くすことはない。
⑩ 須弥山王 純宝から成っていて、大威徳の諸天は悉くその中に住し窮め尽くすことはない。
―――
須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
雪山
ヒマラヤのこと。
―――
香山
香酔山ともいう。大雪山の北にあり、山中に諸の香気があり人を酔わせるから香酔というと俱舎論等にある。
―――
軻梨羅山
「軻梨羅」は梵語カディラ(khadiraka)の音写で、檐木と訳す。ヒマラヤ高所に産する樹木の名。須弥山を取り巻く七金山一つで、この樹木が多く生えていたことから、「軻梨羅山」の名がある。
―――
仙聖山
仙人や証人が住むところの山。
―――
由乾陀山
「由乾陀」は梵語ユガンダラ(yugaMdhara)の音写で、持双と訳す。須弥山を取り巻く七金山の一つで、山頂に二道があるから、「由乾陀山」の名がある。
―――
馬耳山
「馬耳」は、梵語アシュヴァカルナ(azvakarNagiri)の訳で、須弥山を取り巻く七金山の一つで、山の形が馬の耳に似ているところから、「馬耳山」の名前がある。
―――
尼民陀羅山
「尼民陀羅」は梵語ニミンダラ(nimindhara)の音写で、持辺と訳す。須弥山を取り巻く七金山の一つで、外側の山の名。その高さは625由旬といわれる。
―――
斫伽羅山
「斫伽羅」は梵語チャクラヴァーダ(cakravaaDa)の音写で、輪鉄囲と訳す。須弥山を取り巻く八山の最も外側の鉄でできた山。鉄輪囲山ともいう。
―――
宿慧山
大威徳の阿修羅王が住んでいたとされる山。
―――
閻浮檀金
梵語でジャンブーナダスヴァルナ(Jambū-nada-suvarṇa)。「えんぶだんごん」「えんぶだごん」ともよむ。「閻浮」は樹木の名。「壇」は河の意。雪山と香酔山との間の閻浮樹林の下を流れる河から産出されるとしてこの名がある。赤黄色で紫焔気を帯びた金で、最上の黄金とされるが、想像上のものと思われる。
―――
法界唯心
一切諸法・神羅万象は悉く一心によって造られるものであるとする説で、華厳経に説かれる。「三世諸仏総勘文抄」には「華厳経に云く『心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し』已上」(0564)とある。
―――
十八空
十八種の空のことで、大品般若経に説かれる。大品般若経巻一には「菩薩摩訶薩、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」とある。大智度論巻第三十一に詳しい。
―――
五相成身
五相を具備して本尊の仏身を修行者の身に成就するとする密教の修行。五相とは
①通達菩提心
②修菩提心
③成金剛心
④証金剛身
⑤仏身円満
金剛頂経、菩提心論等に説かれる。
―――
観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
―――
即身成仏
凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――――――――
薬王品には、十喩の第二として法華経を須弥山に譬え、諸経を諸山に譬えて、次のように記されている。
「又た土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山、及び十宝山の衆山の中に、須弥山は為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」。
須弥山があらゆる山に勝れるように、法華経の即身成仏は、他の諸経の往生、成仏等の教義に勝れているのである。
本文で、一切の牛馬・人天・衆鳥等が、須弥山に近づくと本の色を失って、すべて金色になると仰せられているのは、一切衆生が法華経によって即身成仏することを示しているのである。
「妙法尼御前御返事」にも「須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(1405-08)と仰せられている。
「妙法尼御前御返事」の御文は法華経の名字すなわち題目を須弥山に譬え、過去からの種々の宿業に染まった生命も南無妙法蓮華経の題目を持ったときにことごとく転換して又、金色の仏身という成仏の境地をあらわすことができるとの意である。それに対し、本抄では一切の諸経の教えは、法華経に値えば、その意義を失ってしまうことに譬えられている。すなわち、法華経の即身成仏の義に出あえば、もとの往生成仏の義が失われて、虚妄であることが明白になってしまうのである。
だが、須弥山に近づくものが、本色を失うが、金色という成仏の色に染まっていくように、法華経に出あった諸経も、本義を失いつつも、法華経に開会され、法華経の体内で、その真実の力を蘇生するのである。
このことを「妙法尼御前御返事」には「法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候」(1405-07)と仰せられている。
爾前の諸経も、法華経の一分とし、法華経のための説明の経として読むならば生きてくるのであり、諸経もことごとく金色に変じて、仏の真実の言葉となるのである。
1500:17~1501:13 第四章 月の譬えを示すtop
| 17 第三には月に譬う衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、 月は八百余里なり衆星は光有りと 18 雖も月に及ばず、 設い百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも一の月の光に及ばず、何に 1501 01 況や一の星月の光に及ぶ可きや、華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之を集むとも法 02 華経の一字に及ばじ、 一切衆生の心中の見思塵沙無明の三惑並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし 華厳経等の一切 03 経は闇夜の星のごとし 法華経は闇夜の月のごとし法華経を信ずれども 深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し 04 深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し 月無くして但星のみ有る夜には 強力の者かたましき者なんどは行歩すと 05 いへども老骨の者女人なむどは行歩に叶わず、 満月の時は女人老骨なむども、 或は遊宴のため或は人に値わんが 06 如き行歩自在なり、諸経には菩薩・大根性の凡夫は設い得道なるとも二乗・凡夫・悪人・女人乃至・末代の老骨の懈 07 怠・無戒の人人は往生成仏不定なり、法華経は爾らず、二乗・悪人・女人等・猶仏に成る何に況や菩薩・大根性の凡 08 夫をや、又月はよいよりも暁は光まさり・ 春夏よりも秋冬は光あり、 法華経は正像二千年よりも末法には殊に利 09 生有る可きなり、 問うて云く証文如何答えて云く道理顕然なり、 其の上次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の 10 五百歳の中に広宣流布して 閻浮提に於て断絶せしむること無し」等云云、 此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣 11 流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり、 此の意を根本伝教大師釈して云く「正像稍過ぎ已て末法太 12 だ近きに有り 法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、 正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝 13 る可し然りと雖も月の光の春夏の正像二千年末法の秋冬に至つて光の勝るが如し。 -----― 第三には月に譬えている。諸の星の照らす範囲は、あるいは半里、あるいは一里、あるいは八里、あるいは十六里は越えない。月は八百余里である。諸の星は光があるといっても月には及ばない。たとえ百千万億から四天下、三千大千世界、十方世界の諸の星を集めても一つの月には及ばない、まして一つの星が月の光に及ぶわけがない。華厳経、阿含経、方等経、般若経、涅槃経、大日経、観無量寿経等の一切の経を集めても法華経の一字の功徳に及ばないのである。 あらゆる衆生の心中の見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑、および十悪や五逆罪等の業は闇夜のようなものである。華厳経等の一切の経は闇夜の星のようなものである。法華経は闇夜の月のようなものである。法華経を信じたとしても深く信じない者は半月が闇夜を照らすようなものであり、深く信じる者は満月が闇夜を照らすようなものである。月がなくて、ただ星だけがある夜には、力の強い者や頑健な者などは歩いて行けても、年老いた者や女性などは歩いて行くことができない。満月のときは女性や年老いた人なども、あるいは酒宴のため、あるいは人に会おうとするような場合に歩いて行くことは思いのままである。諸経においては、菩薩や大根性の凡夫はたとえ得道しても二乗、凡夫、悪人、女性、あるいは末代の年老いて怠けおこたる無戒の人々は往生や成仏は確かではない。法華経はそうではない。二乗、悪人、女人等でさえ仏に成るのである。まして菩薩や大根性の凡夫が仏にならないわけがない。 また、月は宵よりも暁に光が増し、春や夏よりも秋や冬に光がある。法華経は正法・像法時代の二千年間よりも末法の時には特に利益があることになっている。質問していう。その証文はどうか。答えていう。道理はあきらかである。そのうえ薬王品のそのあとの文に「私が入滅したのち後の五百歳のなかに広宣流布して、閻浮提において断絶させることはない」等といっている。この経文に、入滅から二千年ののち南閻浮提に広宣流布すべきであると説かれているのは、第三の月の譬えの意味である。この意味を根本伝教大師が守護国界章に解釈して「正法・像法時代がだんだん過ぎ去って、末法の時が非常に近くにある。法華一乗の法によって衆生に利益があるというのは、今が正しくその時である」等といっている。正法時代千年でも像法時代千年でも法華経の利益は諸経に比べて勝れていよう。しかしながら、月の光が春夏にあたる正法・像法時代二千年よりも、末法の時という秋冬になって光が勝るようなものなのである。 |
三千大千
三千大千世界のこと。古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
十方世界
「十方」と7は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
―――
見思塵沙無明の三惑
見思惑・塵沙惑・無明惑のこと。天台大師が一切の妄惑を三種に包摂したもの。
①見思惑 見惑と思惑のこと。三界六道の苦果を招く惑。
②塵沙惑 大乗の菩薩が人を教化する時の障害となる多くの法門上の無知をいう。
③無明惑 中道の理を覆い隠す根本無明の惑。
―――
大根性の凡夫
得道する機根が整っている凡夫のこと。
―――
懈怠
おこたること、なまけること、低い教えは民衆を幸福にすることを怠る懈怠の法である。
―――
無戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
―――
正像二千年
仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
―――
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
利生
利益衆生の意で、衆生を利益すること。
―――
我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し
薬王菩薩本事品の文。末法の南無妙法蓮華経が広宣流布するという予言。
―――
後の五百歳
末法の初めのこと。大集経巻五十五には釈尊滅後を五つの五百年に区切って、仏法の状態を説いている。その第五の五百年が闘諍堅固といい、末法の初めとされる。「後の五百歳」は大集経の第五の五百歳にあたるとされている。末法の初めのこと。大集経巻五十五には釈尊滅後を五つの五百年に区切って、仏法の状態を説いている。その第五の五百年が闘諍堅固といい、末法の初めとされる。「後の五百歳」は大集経の第五の五百歳にあたるとされている。
―――
根本伝教大師
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり
伝教大師の守護国界章巻上の下の文。「当今の人機、皆転変し、都て小乗の機無し。正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正く是れ其時なり。何を以て知ることを得、安楽行品の末世法滅の時なることを」とある。
―――――――――
薬王品には、法華経を月に、諸経を衆星に譬えて次のように記されている。
「又た衆の星の中に月天子は最も為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、千万億種の諸の経法の中に於いて、最も為れ照明なり」。
本抄で、月の光と星の光の明るさについて述べられているのは、もとより地上の人間の眼に映ずる明るさをいわれている。
星と月自体の放つ光でいえば、月は自ら光を発しないでただ太陽の光を反射しているのであり、自ら光を発している無数の恒星や星団と比較にならない微少な存在である。しかし、地球上を照らす明るさでは、月光のほうが星の光よりも、はるかに大きい。この立場で、法華経を月に譬え、諸経を星に譬えたのである。
さて、仏法を知らずにいる一切衆生の生命の内面は、三惑の煩悩や十悪五逆の悪業の支配する暗闇に譬えられる。
それに対して、華厳経等の権教は、暗黒の夜空にかかる星のような光であり、そのようなかすかな光では、煩悩・悪業の闇を照破することは、とうてい、望みえないのである。
それに比べて、月ははるかに明るく天地を照らし出すことができるように、法華経は煩悩・悪業の闇を照破しゆくのである。
但し、月にも三日月、半月、満月と違いがあるように、信心の強弱によって差異がある。法華経を持っても、信心が浅く弱いのは、半月が暗夜を照らすようなものであるが、信心が深まり強くなってくると、満月が皓々と天地を照らしゆくように、煩悩・悪業を照破するのである。
次に、ちょうど、星だけで月の出ていない夜でも、若くて強健な人は歩けるが、老人や女性は危なくて歩けないという譬えを通して、星夜である諸経でも菩薩や勝れた機根の凡夫は成仏得道ができるが、二乗、女人、凡夫、悪人等は成仏できない。明るい月夜であれば老人や女性でも歩けるように、法華経によってはじめて、二乗、女人、悪人等も成仏できるのである。
さらに、同じ月でも春や夏の空気がかすみにおおわれている季節は光があわい。空気の澄んだ秋や冬は皓々と照る。同じように、同じ法華経であっても正法像法時は春、夏のように光が弱く、末法は秋、冬のように光が強くなるのである。
このように、末法こそ法華経の利益が全世界を照らすことを、法華経の薬王品と伝教大師の言葉を挙げて示されている。
ここは、一往、釈尊の法華経に約して月に譬えて述べられているが、その月を輝かせている太陽にあたるのが、日蓮大聖人が顕される三大秘法の南無妙法蓮華経であり、この大白法こそ、末法万年の闇を照らす太陽であることを知らなければならない。
1501:14~1501:17 第五章 日の譬えを示すtop
| 14 第四に日の譬は星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも未だ星の光を消さず、 日中には星の光消 15 ゆるのみに非ず又月の光も奪いて光を失う、 爾前は星の如く法華経の迹門は月の如し寿量品は日の如し、 寿量品 16 の時は迹門の月未だ及ばず何に況や爾前の星をや、 夜は星の時月の時も衆務を作さず、 夜暁て必ず衆務を作す、 17 爾前迹門にして猶生死を離れ難し本門寿量品に至つて必ず生死を離る可し、 余の六譬之を略す、 -----― 第四に日の譬えは次のようである。星のなかに月が出たときは、星の光に対しては月の光は勝っているけれども、未だ星の光を消すことはない。日中には星の光が消えるだけでなく、また月の光も奪って、月は光を失ってしまう。爾前経は星のようであり、法華経の迹門は月のようなものである。寿量品は日のようなものである。寿量品に対するときは迹門の月でさえいまだ及ばない。まして爾前経の星が及ぶわけがない。夜は星が出ているときや月が出ているときでも人々は仕事をしない。夜が明けてから必ず人々は仕事をする。爾前経や法華経迹門でも、なお生死の苦しみを離れがたいのである。法華経本門寿量品に至って、必ず生死の苦しみを離れることができるのである。他の六つの譬えについては省略する。 |
爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
迹門
本門に対する語で、垂迹仏としての釈尊が説いた法門の意。天台大師は法華文句巻一上に、法華経を本迹二門に判別して、二十八品のうちの前半十四品、序品第一から安楽行品第十四までを迹門、後半の十四品、従地涌出品第十五から普賢菩薩勧発品第二十八までを本門とした。迹門の内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的と説いた教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して初めて成仏という、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
生死
生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
―――
本門
迹門では、諸法実相に約して理の一念三千を説き、成仏の理論的可能性を説くのに対して、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因・果・国に約して仏の振る舞いの上から事の一念三千が示されている。本門の中心となる如来寿量品第十六には、釈尊は爾前迹門に説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に成道していたことを明かし、しかも成道の根本原因・証果・本仏の住処の三妙を合わせて明かし、成仏の実義を説いている。
―――――――――
薬王品の第四喩の日光喩は、次の如くである。
「又た日天子は能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復た是の如く、能く一切不善の闇を破す」
太陽の光が一切の闇をなくすように、法華経も、衆生の生命内在の闇を除去して、一切衆生を成仏させるというのである。この薬王品の日喩を、日蓮大聖人は、法華経の中でも本門寿量品の力をあらわしたものであるとされ、それに対して、先の月の光は、法華経迹門にあたるとされている。ただし、ここで「本門寿量品」といわれているのは、たんに文上の寿量品ではなく、大聖人の内証の寿量品である三大秘法の南無妙法蓮華経と拝すべきである。
結局、先の譬喩とこの日喩を総合して、爾前経を星の光、法華経迹門を月の光、本門寿量品即南無妙法蓮華経を日の光に譬えられたのである。
星の光と月光には勝劣はあっても、月光のために星の光が消されてしまうことはない。すなわち文上の法華経が弘まった像法時代には、爾前経もそれ相応に人々を利益したのである。しかし、文底の大仏法が流布する末法においては「余経も法華経もせんなし」(1546-11)であり、星である爾前経も、月である文上法華経もすべて衆生を利益する力を失うのである。
また、星や月の夜は道を歩くことはできても、仕事をすることはできない。太陽の光のもとではじめて、人々は種々の仕事をなすことができる。つまり、このことは本門寿量品の太陽が昇ってはじめて自在の境地を得ることができることをあらわしている。
1501:17~1502:06 第六章 如渡得船と如貧得宝を挙ぐtop
| 17 此の外に又多く 18 の譬此の品に有り、 其の中に渡りに船を得たるが如しと此の譬の意は 生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船 1502 01 なり、 生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、 例せば世間の 02 小船等が筑紫より坂東に至り 鎌倉よりいの嶋なんどへとつけども唐土へ至らず 唐船は必ず日本国より震旦国に至 03 るに障り無きなり又云く 「貧きに宝を得たるが如し」等云云、 爾前の国は貧国なり爾前の人は餓鬼なり法華経は 04 宝の山なり人は富人なり。 05 問うて云く爾前は貧国といふ経文如何答えて云く授記品に云く 「飢えたる国より来つて忽ちに大王の膳に遇へ 06 るが如く」等云云、 -----― このほかに、また多くの譬えがこの薬王品にある。そのなかに「向こう岸に渡ろうとするときに船を得たようなものである」というのがある。この譬えの意味は、爾前経は、生死の大海にあってあるいは筏、あるいは小船である。生死の此岸から生死の彼岸には着いても、生死の大海を渡って極楽の彼岸には着きがたい。例えば世間の小船等が九州から関東に到り、鎌倉から江の島などへと着いても、中国へは到らない、唐船は必ず日本国から中国へ到るのに支障がないようなものである。 また「貧しいときに宝を得たようなものである」等というのがある。爾前経の国は貧しい国である。爾前経の人は餓鬼である。法華経は宝の山であり、その人は富裕な人である。 問うて云う。爾前経は貧しい国であるという経文は、どうなっているのか。 答えていう。授記品第六に「飢えた国からやって来て、急に大王の食膳に遇ったようなものである」等といっている。 |
此岸
こちら岸の意で、煩悩・業・苦の迷いの境地をいう。彼岸に対する語。
―――
生死の彼岸
彼方の岸の意。一般的には此岸に対して使われ、悟りの境地を表すが、ここでいう「生死の彼岸」とは「彼岸」と思っても、同じ迷い苦しみの世界の中を出ていないとの意。
―――
極楽
西方十万億土を過ぎたところにあるとされる阿弥陀如来が住する浄土の名前。
―――
筑紫
九州全体、もしくは九州北部。
―――
坂東
関東地方。
―――
いの嶋
鎌倉・片瀬海岸近くにある小島。江の島のこと。
―――
唐土
中国のこと。日本から中国を呼んだ名称。現在の浙江省を中心に勢力をふるっていた越の地方をさして諸越といっていたのが、しだいに中国全土の呼称となり、唐王朝成立後「唐土」と書き、「もろこし」と読むようになったという。
―――
震旦国
中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住処の意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。
―――
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
授記品
妙法蓮華経授記品第六のこと。法華経迹門の正宗分。迦葉・須菩提・迦旃延・目揵連の授記が説かれている。
―――――――――
十喩は法華経という経典そのものが、他の諸経にくらべていかに勝れているかを譬えたものである。
薬王品では、十喩に引き続いて、法華経の絶妙な働きを示した譬喩が説かれている。少し長文であるが、全文を引用すると次のようである。
「此の経は能く大いに一切衆生を饒益して、其の願いを充満せしめたまう。清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復た是の如く、能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」。
日蓮大聖人はここで、これらの譬喩のなかから二つの譬えを挙げられている。
まず「如渡得船」の譬を取り上げ、爾前経を筏や小船に譬え、法華経を唐船のような大船に譬えられている。その場合、海とは生死の苦しみがそれである。
生死の大海を渡るための船が経典であるが、爾前経は、筏や小船のようなもので、同じ日本の中の九州から本州とか、片瀬の海岸から江の島ぐらいは渡れるが、日本から中国大陸へ渡ることは不可能である。生死という迷いのなかでの現世的な利益はあっても、六道輪廻の外へ出ることはできない。
ところが、唐船すなわち、遠洋航海に耐えられる大きな船であってこそ、中国、インドにまで渡ることができる。同様に法華経という大船によってのみ、解脱、成仏の境地である彼岸にまで到ることができるのである。
「椎地四郎殿御書」にも「此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし、妙楽大師云く『一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く、思惟・修習永く舟航に用たり』と云云、生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448-10)と仰せられている。
また「乙御前御消息」でも、小乗教を小船に、権大乗経を大船に、法華経を唐船にたとえられている。いうまでもなく、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経こそ、一切衆生を生死の大海を渡して成仏の彼岸に到着させうる「唐船」である。
次に「如貧得宝」の譬えでは、爾前の国は貧国であり、爾前経の人は貧人であり、餓鬼界の衆生であると述べられ、それに対して、法華経は宝の山のごとくであり、法華経を信受した人は富人であると仰せられ、その文証として、授記品の文を引用されている。
この受記品の文は、目連、須菩提、迦旃延等が釈尊に授記を請うて述べた言葉の中にあり、「成仏の授記をいただけるならば、甘露をもってそそぐことにより熱が除かれるようなものである。我々は飢えた国から来て、大王の膳に遇ったようで、王の教えによってはじめて食べられるように、仏は我々が作仏することを説かれたが、授記を与えていただいてはじめて快く安楽になれるであろう」というのである。
この言葉からも〝飢えた国〟が、法華経以前の経々であり、二乗の人々にとっては永不成仏と弾呵されてきたことをさすものであることは明瞭であろう。
二乗が成仏できないということは、十界互具の生命の法理からいって、他の一切の衆生も成仏できないということである。したがって、衆生の成仏を実現できない爾前経を信じている人は、なんの福徳も、生命の栄養も得られないのであるから、貧人であり餓鬼であると仰せである。
それに対して、無上の宝聚たる妙法は宝の山であり、この妙法を受持する人は最も富める人というべきである。ゆえに「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり」(0988-14)と言われるのである。
1502:06~1503:08 第七章 女人成仏の意義を説くtop
| 06 女人の往生成仏の段は経文に云く 「若し如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の 07 経典を聞いて説の如く修行せば 此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に 08 往いて蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。 -----― 女性の往生成仏が説かれている場面は経文に次のようにある。「もし如来の入滅ののち後の五百歳の世の中に、ある女性がいてこの経典を聞いて説かれているとおりに修行するならば、この世で命終えて即座に安楽世界という、阿弥陀仏が菩薩や大衆に囲まれて住している所に往って、蓮華のなかの宝座のうえに生じ」等と。 -----― 09 問うて曰く此の経・此の品に殊に女人の往生を説く何の故か有るや、 答えて曰く仏意測り難し此の義決し難き 10 か但し一の料簡を加えば 女人は衆罪の根本破国の源なり、 故に内典・外典に多く之を禁しむ其の中に外典を以て 11 之を論ずれば三従あり 三従と申すは三したがうと云ふなり、 一には幼にしては父母に従う嫁して夫に従う老いて 12 子に従う此の三障有りて世間自在ならず、 内典を以て之を論ずれば五障有り五障とは 一には六道輪回の間男子の 13 如く大梵天王と作らず二には帝釈と作らず三には魔王と作らず四には転輪聖王と作らず五には常に六道に留まりて三 14 界を出でて仏に成らず超日月三昧経の文なり銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は 15 永く成仏の期無し」等云云、 但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せずはんよきといゐし者はけいかに頚をあたいきさつ 16 と申せし人は徐君が塚に剣をかけたりきこれ約束を違えず妄語無き故なり何に況や声聞・菩薩・仏をや、 仏は昔凡 17 夫にてましましし時 小乗経を習い給いし時 五戒を受け始め給いき五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給いき 18 財を奪われ命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず 大乗経を習い給いし時又十重禁戒を持ち 其の十重禁戒の中の 1503 01 第四の不妄語戒を持ち給いき、 此の戒を堅く持ちて無量劫之を破りたまわず 終に此の戒力に依て仏身を成じ三十 02 二相の中に広長舌相を得たまえり、 此の舌うすくひろくながくして 或は面にををい或は髪際にいたり或は梵天に 03 いたる舌の上に五の画あり印文のごとし 其の舌の色は赤銅のごとし舌の下に二の珠あり 甘露を涌出す此れ不妄語 04 戒の徳の至す所なり、 仏此の舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落つとも 法界の女人は仏になるべからずと説か 05 れしかば一切の女人は何なる世にも 仏には成らせ給うまじきとこそ覚えて候へ、 さるにては女人の御身も受けさ 06 せ給いては設ひ后三公の位にそなはりても何かはすべき善根・ 仏事をなしてもよしなしとこそ覚え候へ、 而るを 07 此の法華経の薬王品に 女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、 彼の経の妄語か此の経の妄語かいかにも一 08 方は妄語たるべきか、 若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し -----― 問うていう。この法華経の薬王品に特に女性の往生を説いているのは、どういう理由があるのか。 答えていう。仏の意は測りがたい。この意義は決めがたいのではなかろうか。ただし、一つの思索を加えてみれば、女性は諸の罪の根本であり、破国の源である。したがって仏教経典や外道の経典に多く女性を戒めている。そのなかに外道の経典でこれをとりたてていえば、三従がある。三従というのは、三つ従うということである。一つには幼いときには父母に従う。嫁いでは夫に従う。老いては子に従う。この三障があって世間で自由にならないのである。 仏教経典でこれを論ずれば、五障がある。五障とは、一には六道に輪廻しているあいだは男性のように大梵天王となることはない。二には帝釈とならない。三には魔王とならない。四には転輪聖王とならない。五には常に六道に留まっていて、三界を出離して仏になることはない。銀色女経には「三世の諸仏の眼は大地に堕ちても、一切の世界における諸の女性は永久に成仏のときはない」等といっている。 ただし、凡夫でさえ賢王や聖人は嘘をつかないものである。樊於期という者は荊軻に頸を与え、季札という人は徐の君主の墓に剣をかけた。これは約束を違えず、嘘をつかなかったからである。ましてや、声聞や菩薩や仏が嘘をつくはずがない。仏は昔、凡夫でいらっしゃったとき、五戒を受け始められた。五戒のなかの第四の不妄語戒を固く持たれた。財を奪われ、命をとられたときも、この戒を破られなかった。大乗経を習われたとき十重禁戒を持ち、その十重禁戒のなかの第四の不妄語戒を持たれた。この戒を堅く持って、無量劫の間これを破られなかった。ついに、この戒を持った力によって仏身を成就し、三十二相のなかに広長舌相を得られたのである。 この舌は薄く広く長くてあるいは顔面を覆い、あるいは髪際にまで到り、あるいは梵天にまで到る。舌のうえには五つの画があり、印文のようになっている。その舌の色は赤銅のようである。舌の下には二つの珠があり、甘露を涌き出す。これは不妄語戒を持った徳によってもたらされたところのものである。仏がこの舌で、三世の諸仏の御眼は大地に落ちても一切の世界の女性は仏になることはないと説かれたのだから、一切の女性はどのような世の中にも仏に成れることはないと思われる。そうであるならば女性の御身を受けられて、たとえ后や三后の位についたとしてもどうしようもないし、善根や仏道修行を行ってもかいがないと思われる。ところが、この法華経の薬王品に女人の往生が許されたことは、また不思議である。かの爾前経の妄語なのか、この法華経が妄語なのか、どうみても一方は妄語であるはずではないか。もしまた、一方が妄語であるならば一仏に二言あることになり、信じがたい。 |
宝座
仏・菩薩の座する場所。
―――
料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
―――
外典
仏経典以外の典籍。内典に対する語。
―――
三従
女人は、幼くして親に従い、嫁いで夫に従い、老いて子供に従うとされ、ものとされ,家庭のなかにおける婦人の従属性を示す言葉。
―――
五障
女性の五つの障害。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二の竜女成仏の段に、舎利弗が女人は法器に非ず等と歎じ、更に女人の五障を数えて成仏を難ずる文に「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何んぞ女身は速かに成仏することを得ん」とある。
―――
六道輪廻
衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。「六道」は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界。「輪廻」とどまることなくめぐり流れること。
―――
大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
魔王
第六天の魔王・他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
―――
転輪聖王
インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
―――
三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
―――
超日月三昧経
超日明三昧経のことと思われる。二巻。西晋代の聶承遠訳。内容は四等や四恩などを説き、最後に超日明三昧の功徳の勝れることを明かしている。なお、超日明三昧経巻下に「何を五礙と謂う。一には女人、帝釈と作ることを得ずと曰う……二には梵天と作ることを得ずと曰う……三には魔天と作ることを得ずと曰う……四には転輪聖王と作ることを得ずと曰う……五には女人、仏と作ることを得ずと曰う」とある。
―――
はんよき
(~前0227)。中国戦国時代の武将。史記列伝第二十六によると、初め秦の将軍であったが、罪を着せられたため燕に亡命した。燕の太子丹は彼を礼遇した。丹は秦王の政を怨んでいたので、刺客として荊軻を送って殺そうと計った。すると荊軻は、秦王に取り入るためには樊の首と燕の督亢の地図を献上することが必要であると説いた。それを聞いた樊は丹への報恩と秦王への仇を果たそうと、即座に自らの首をはねたという。
―――
けいか
(~前0227)。中国戦国時代の刺客。燕の太子丹に、かつて丹が人質として捕らえられていた秦王政を刺殺するよう頼まれた。秦都咸陽で秦王政と会見し、地図の中に隠した短刀で王を殺そうとしたが果たせず、逆に殺された。
—――
きさつ
(前0561頃~前0515頃)。中国春秋時代の呉の賢人。晋を訪問する途中、徐の国を通過しようとしたとき、徐の君主が季札の身につけている宝剣を欲しがっているのを知り、帰りに贈ろうと心に誓った。ところが、帰途に訪れたときには既に徐君は亡くなっていた。そこで徐の跡継ぎの君主に贈ろうとしたが、君主は受けようとしなかったので、心の誓いを果たすため、剣を徐君の墓の樹にかかげ置いて去ったという。
―――
徐君
中国春秋時代の徐の国の君主。
―――
声聞
十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
―――
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
―――
不妄語
偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。
―――
大乗経
仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
―――
十重禁戒
大乗経典である梵網経などに説く十種の重大な禁戒のこと。これを犯すと教団から追放され
①快意殺生戒(不殺生戒)
②劫盗人物戒(不盗戒)
③無慈行欲戒(不淫戒)
④故心妄語戒(不妄語戒)
⑤酤酒生罪戒(不酤酒戒)
⑥談他過失戒(不説過罪戒)
⑦自讃毀他戒(不自讃毀他戒)
⑧慳生毀辱戒(不慳戒)
⑨瞋不受謝戒(不瞋戒)
⑩毀謗三宝戒(不謗三宝戒)
―――
無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――
三十二相
応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。
1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)
2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)
3 長指相(指が繊細で長い)
4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)
5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)
6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)
7 足趺高満相(足の甲が高いこと)
8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)
9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)
10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)
11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)
12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)
13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)
14 金色相(皮膚が金色をしていること)
15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)
16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)
17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)
18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)
19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)
20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)
21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)
22 四十歯相(歯が四十本あること)
23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)
24 牙白相(牙があって白く光ること)
25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)
26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)
27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)
28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)
29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)
30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)
31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)
32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)
―――
広長舌相
仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
―――
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
印文
浮き出てか、または、くぼんでいる文様。
―――
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
―――
三公
三后のことと思われる。三后は、皇后、皇太后、太皇太后をいう。
―――
善根
善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
―――――――――
薬王品のなかに説かれていることで、法華経がすぐれることを示すものとして、女人の極楽往生が取り上げられている。そして、この法華経の薬王品で女人の往生がなぜ説かれたのかの意義を示されるのである。
この点について述べられているところを概括していえば、外典には三従、内典では五障が説かれ、爾前経では女人は絶対に成仏できないとされてきた。そもそも釈尊は不妄語の人とされるから、この女人不成仏の説は、きわめて強い圧迫感を与えたのである。
しかし、法華経の開経である無量義経で「四十余年未顕真実」と、爾前経はまだ真実を顕していないことを断わり、真実を説くとされた法華経では、女人も成仏できることが示されたのである。爾前経で不成仏と説かれたのは、ふびんな子を教育するために賢人が設ける方便と同じであって、不妄語戒に背くことにはならない、ということである。
外典の三従・内典の五障
インドや中国の文化においては、概して禁欲を説いた教えが重んじられ、そのため、女性を遠ざけようとする教えが、一つの流れを作ってきたといえる。
そのなかで外典では、三従が説かれ、女性を従属的な位置に閉じこめようとした。幼くしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うのが、女性のあるべき姿であると教えたのである。これは、社会的に従属的な位置におこうとしたものである。
一方、内典の仏教経典では、五障を説いている。すなわち、女性は、大梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏の五つには成ることができないというのである。梵天、帝釈、魔王は天界における王の立場であり、転輪聖王は人界における最高の王位、仏は十界の一切衆生の中の王である。五障は、指導的な尊高な境界になることはできないと教えて、その向上心を抑えようとしたものといえよう。
銀色女経は、この五障の一つにあり、本抄のこの段での主題である女人の成仏の可・不可の問題に関して、不成仏を説いた代表的な文として挙げられたのである。
むしろ、ここで起こる疑問は、なぜ爾前経で女人不成仏と説かれたのか、ということであろう。それは、爾前経自体がきわめて困難な、長期にわたる修行を必要としたため、女性には実践が不可能であったからであり、さらにいえば、爾前教が一切衆生を成仏せしめんとする仏の大慈悲をそのまま顕した法ではないことを示しているといえよう。
爾前教が女人等の不成仏を説いたが故に、一転して女人も二乗・悪人も成仏できることを明かした法華経の勝れていることが際立って示されているのである。この一事をもってしても、法華経を捨てて爾前経を信ずることの愚かさは一目瞭然といわなければならない。
提婆品の即身成仏と薬王品の極楽往生
それに対して、法華経では、提婆達多品に八歳の竜女が法華経の会座に詣でて、仏前で即身成仏したことが説かれ、また、この薬王品には「如来の滅後、後の五百歳」の女人が「是の経典を聞いて説の如く修行」するならば「命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生」ずるであろうと女人の安楽世界往生が説かれているのである。
ただし、この文にある安楽世界、阿弥陀仏と観経などのそれとは違うことを知らなければならない。法華初心成仏抄に「又安楽世界と云うは一切の浄土をば皆安楽と説くなり」(0554-13)と仰せのように、一切の浄土の通称なのである。
阿弥陀仏についても、観経の阿弥陀仏と法華経本迹二門の阿弥陀仏を立て分けて、同抄に次のように述べられている。
「又阿弥陀と云うも観経の阿弥陀にはあらず、所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀・四十八願の主十劫成道の仏なり、法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて法華経大願の主の仏なり、本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり随つて釈にも『須く更に観経等を指すべからざるなり』と釈し給へり」(0554-13)。
つまり、薬王品に示す本門の阿弥陀仏は、久遠の釈尊の分身の一仏なのである。このように、安楽世界も阿弥陀仏も、観経と法華経とでは明らかに違っているのである。
女人往生抄でも「一処には後五百歳の女人の法華経を持て、大通智勝仏の第九の王子阿弥陀如来の浄土、久遠実成の釈迦如来の分身の阿弥陀の本門同居の浄土に往生すべき様を説かれたり」と仰せられている。
したがって、安楽世界へ往生するということも、念仏宗などでいうのとは全く異なる。「法華初心成仏抄」でも、この薬王品について「加様に内典・外典にも嫌はれたる女人の身なれども此の経を読まねども・かかねども身と口と意とにうけ持ちて殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・憍曇弥・耶輸陀羅女の如くに・やすやすと仏になるべしと云う経文なり」(0554-10)と仰せのように、末法の女人が妙法を唱えることによって即身成仏することであり、娑婆即寂光土と転ずることを安楽世界へ往生すると説かれているのである。
1503:08~1503:18 第八章 権教の女人往生を破すtop
| 08 但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕 09 さず涅槃経の如来には虚妄の言無しと雖も 若し衆生虚妄の説に因ると知しめすの文を以て之を思えば 仏は女人は 10 往生成仏すべからずと説かせ給いけるは 妄語と聞えたり、 妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要ず当に真実 11 を説くべし 妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに 女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は 実語 12 不妄語戒と見えたり、 世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時或は失ある時は永く子為るべからざるの理・ 起 13 請を書き或は誓言を立ると雖も 命終の時に臨めば之を許す、 然りと雖も賢人に非ずと云わず又妄語せる者とも云 14 わず仏も亦是くの如し、 爾前四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、 15 二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり、 いまだ定めがたかりしを仏の説教・ 16 四十二年すでに過ぎて八年が間・摩謁提国王舎城・ 耆闍崛山と申す山にして法華経を説かせ給うとおぼせし時先づ 17 無量義経と申す経を説かせ給ふ無量義経の文に云く四十余年云云。 18 月 日 日蓮花押 -----― ただし、無量義経の「四十余年間には、未だ真実を顕していない」や涅槃経の「如来には虚妄の言葉はないけれども、もし衆生が虚妄の説によって法利を得ると知ると」との文からこれを考えると、仏が女性は往生成仏することはできないと説かれたのは妄語と思われる。妙法蓮華経の文に「世尊の法は久しくしてから後に必ず真実を説くであろう」、「妙法華経皆、真実である」という文からこれを考えると、女性の往生成仏は確かであるとお説きになっている法華経の文は実語であり不妄語であると思われる。 世間の賢人もただ一人の子が非常識なときや、あるいは罪科がある時は、永久に我が子ではないということの説明を起請文に書き、あるいは誓言として立てても、命終える時に臨めばこれを許す。しかしながら、賢人ではないとはいわない。また嘘つきの者ともいわない。仏もまた同様である。 爾前経が説かれた四十余年間は、菩薩の得道や凡夫の得道、善人や男子等の得道を許すようだけども、二乗や悪人や女性などの得道を許していない。あるいはまた、許しているようなところもある。いまだ決定しがたかったのを、仏の説教が四十二年を経過して八年の間、摩謁提国王舎城の耆闍崛山という山において法華経を説かれようとされたとき、まず無量義経という経を説かれた。無量義経の文には「四十余年……」とあるのである。 月 日 日 蓮 花 押 |
無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
四十余年には未だ真実を顕さず
無量義経説法品の文。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。
―――
如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめす
大般涅槃経巻15には「如来には虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚空の説に因って法利を得ると知れば、宣きに随って方便則ち為に之を説く」とある。
―――
妙法華経皆是真実
法華経見宝塔品第十一に「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」とある。この文は、釈尊の説いた法華経が真実であることを宝塔の中から多宝如来が讃歎し、証明していった言葉。
―――
起請
祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
―――
摩謁提国
インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
―――
王舎城
古代インド、摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルにあたる。インド最古の都の一つで、仏教の外護者として著名なシャイシュナーガ朝ビンビサーラ王が建設したと伝えられる。付近には霊鷲山、提婆達多が釈尊を傷つけた所、七葉窟、竹林精舎、祇園精舎などの仏教遺跡が多い。王舎城の故事については法華文句巻第一上、西域記などにある。
―――
耆闍崛山
「耆闍」は梵語グリドゥフラータ(Gṛdhrakūṭa)といい、鷲頭・霊鷲と訳す。霊鷲山のこと。中インドの摩竭提国の首都・王舎城の東北にある山。釈尊の説法の地として知られている。
―――――――――
女人不成仏を説いた爾前経と女人成仏を説いた法華経と、どちらが真実であるかについて、無量義経等の言葉を示して、法華経の方をとるべきであると教えられている。
涅槃経の文は、衆生が虚妄の説によっても、一つの考え方のカラを破りうると知った場合、仏は方便の説を用いるということである。「之を思えば仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり」とは、女人不成仏の爾前の説も、そうした方便の教えであるということである。
それに対して「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説くべし」「妙法華経乃至皆是真実」と断言された法華経の女人の往生成仏こそ真実であり、不妄語であることを確信していくよう御教示されている。
爾前教が方便説であり妄語だからといって、釈尊が妄語の人になるわけではないことを、世間の賢人にたとえをとって述べられている。
爾前四十余年が間は……二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり
爾前経には、これまで述べてきたように、女人の成仏は基本的に否定されているが、一部に女人成仏の説がないわけではない。
日寛上人は、「法華経題目抄文段」で、法華文句巻七上の「他経には但だ菩薩に記して二乗に記せず、但だ善に記して悪に記せず、但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず」の文について、次のような問答をもって説明されている。
「問う、他経は実に二乗作仏の文なし。この義はこれを疑うべきに非ず。但し他経の中にも悪人・女人・竜畜の授記は分明なり。謂く、普超経の闍王の授記、大集経の婆薮天子の授記、豈悪人の授記に非ずや。勝曼経の離垢施女、般若経の恒河天女は即ちこれ女人の授記なり。海竜王経の竜女の授記、師子月経の獼猴の授記、これはこれ竜畜の記なり。大師、何ぞ『悪に記せず、女に記せず、畜に記せず』等というや。
答う、東陽の忠尋の口伝に云く『他経に悪人を記すとは、実には善人に記すと習うなり。其の故は悪人、悪心を翻じて善人と成る。後に成仏すべき故に善人を記するの義なり』已上。女人も例して爾なり。謂く、謟曲の心を改めて正直の心と成り、後に成仏すべし。竜畜もまた例するなり。謂く、心を改め身を転じて後に成仏すべきなり。故に皆これ改転の成仏なり。故に知んぬ。他経の悪人・女人・竜畜の授記は、畢竟してこれを論ずれば善人・男子・人天の授記なることを。故に『悪に記せず、女に記せず』等というなり」。
この御文に明らかなように、他経に示す女人成仏は、女人の成道を許すようではあるが、改転の成仏であるゆえに真の女人成仏を許したことにはならないのである。
また、爾前経における授記は十界互具・一念三千を説かないゆえに菩薩や男子の場合でも、有名無実の虚妄の授記である。
このように言葉はあっても実義がない爾前経の女人・二乗・悪人の成仏であるゆえに「いまだ定めがたかりし」といわれ、そうした爾前経を根本としてはならないと戒めて、無量義経には「四十余年未だ真実を顕さず」と明確に示されたのである。釈尊自身が、このようにはっきりと断わられているのであるから、爾前経の信心の依り所とすることの誤りは明らかであり、法華経を根本とすべきであることはいうまでもないところであろう。
1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)top
1504:01~1504:08 第一章 亡夫の生死不二の成仏示すtop
| 1504 上野殿後家尼御返事 文永十一年七月 五十三歳御作 01 御供養の物種種給畢んぬ、抑も上野殿死去の後は・をとづれ冥途より候やらん・きかまほしくをぼへ候、ただし 02 あるべしとも・をぼへず、 もし夢にあらずんば・すがたをみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みみえ給う 03 事いかが候はん、 さだめて霊山浄土にてさばの事をば・ちうやにきき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればみさせ・ 04 きかせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ、 生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこ 05 そをはしまし候いけん、今度のちぎりこそ・まことのちぎりのをとこよ、 そのゆへは・をとこのすすめによりて法 06 華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、 いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、 07 即身成仏と申す大事の法門これなり、 法華経の第四に云く、 「若し能く持つこと有れば 即ち仏身を持つなり」 08 云云。 -----― 御供養の品を種々いただきました。 上野殿御死去の後、冥途より訪れられたでしょうか。お聞きしたいものです。しかしあるとも思えません。夢でもなければ姿を見ることはよもやないでしょうし、幻でもなければ、見えるなどということがどうしてありましょう。きっと霊山浄土で娑婆のことを昼夜に見聞きされていることでしょう。しかし、妻子等は肉眼であるから見ることも聞くこともできませんが、ついには一緒になると思いなさい。生生世世の間夫婦の契りを交わした男は、砂の数よりも多くあることでしょうが、この度の契りこそまことの契りの夫です。そのわけは夫の勧めによって法華経の行者となられたのですから、仏として尊ぶべきです。生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事の法門はこのことを説きあらわされたのです。法華経の第四の巻、宝塔品に「若し能く持つ者は仏身を持つ者である」とあります。 |
上野殿
(~1265)。ここでは南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆の国市)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となったので上野殿と呼ばれる。
―――
をとづれ
①訪ねてくること。訪ねること。②たより、手紙、音信。
―――
冥途
冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。
―――
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
さば
娑婆のこと。梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳する。三毒および諸の煩悩を耐え忍んでいかなければならない処という意。したがって、苦悩の充満する人間世界のことをいう。
―――
生生世世
生死を繰り返すなか、生を得て経る多くの世のこと。
―――
いさご
砂のこと。
―――
ちぎり
夫婦の関係を結ぶこと。
―――
即身成仏
凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――――――――
本抄は、文永11年(1274)7月11日、聖寿53歳、身延での御述作である。なお、南条兵衛七郎の死去の年である文永2年(1265)の御述作との説もある。当時は、日蓮大聖人が佐渡から帰られ、鎌倉幕府に対する第三回目の国諌を行われたのち身延に入山されて2ヵ月目にあたる。御真筆は現存していない。
この御手紙をいただいた上野殿後家尼は南条七郎次郎時光の母であり、上野殿母御前、上野殿母尼御前、上野尼御前等とも呼ばれる。
夫の南条兵衛七郎を文永2年(1265)に亡くし、後家尼となって約10年、亡夫の追善供養のため、御供養の品々を大聖人に送られたことに対する御返事である。
後家尼は五男四女の子宝に恵まれており、夫が死去した時には、次男の七郎次郎時光が7歳、五男の七郎五郎はまだ母の胎内にいた。御家尼は長男の七郎太郎の早世の苦悩を乗り越えながら、子供達を立派に養育し、純真な信心を貫いてきた女性である。
とくに、父の跡を継いだ時光の純真不屈の信心は、この母の感化によるところが大であったに違いない。
後家尼への御状は八通ほどあるが、本抄は後家尼への最初の御手紙であり、末尾に「此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさし給へ」と仰せのように、即身成仏、地獄即寂光の甚深の法門を説いて激励されている。内容から別名を「地獄即寂光御書」とも称される。
さて、本抄は、冒頭、亡き南条兵衛七郎を偲んで、生前の強信を称え、夫に先立たれた後家尼の心情を気遣われながら、「ついには一所とをぼしめせ」と、必ず霊山浄土でまみえることができると励まされ、即身成仏、生死不二の義を説かれている。
さらに「生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこそをはしまし候いけん、今度のちぎりこそ・まことのちぎりのをとこよ」と、御家尼が今生に南条兵衛七郎と夫婦となり、妙法を信受した不思議な宿縁について、その意義の深さを述べられている。
永遠の生命観のうえからみるならば、後家尼が生まれるごとに夫とした男性は無数に違いない。しかしそのなかでも、この度の夫である南条兵衛七郎こそ、最も尊い夫であると称賛されている。なぜなら、後家尼は夫・兵衛七郎によって妙法への信仰を教えられたのであり、そこには永遠に変わることのない妙法で結ばれた深い縁があるからである。
また「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」との仰せは、生死不二の成仏を示されたものである。
妙法信仰の大道を貫く人は、生きている時も、死して後も、妙法の世界に包まれた成仏の境界に住していくのである。これを「即身成仏と申す大事の法門」とされている。
即身成仏とは、衆生が凡夫の身でありながら、それを改めることなく、そのまま成仏することである。
法華経以前の諸経では、悪人は善人に身を変じ、歴劫修行によって三十二相八十種好を具えた仏に成ると説かれた。仏というものを凡夫とは隔絶した存在として、これに成るための修行だったのである。
しかし、法華経では、成仏とは、凡夫の生命の奥底にある仏性を開顕することであり、妙法の功力によって凡夫の肉身そのままの姿で成仏できると説く。すなわち、成仏とは、凡夫自身の内なる仏界の生命を開き顕すことをいう。このことを「御義口伝」では端的に「成は開く義なり」(0753-第三我実成仏已来無量無辺等の事-03)と御教示されている。
日本では、一般に、誤った既成宗教や新興宗教の影響で、先祖や死者を〝仏〟とする考え方が定着しているが、仏法を歪曲するも甚だしい邪見といわなければならない。死ねば誰でも仏に成るわけではないし、逆に、死ななければ成仏できないということでもない。妙法を信受すれば、この人生で成仏する。これが即身成仏であり、法華経見宝塔品第十一の「若し能く持つこと有らば、則ち仏身を持つ」の文を挙げられているのは、この即身成仏を示されているのである。
この宝塔品の文から、日蓮大聖人は「御義口伝」で「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり……さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり」(0742-第十三若有能持則持仏身の事-02)と教えられている。
末法の凡夫は御本尊を持ち奉ることによって、我が身即仏身と持つことになるのである。即身成仏の奥義はここにある。
しかも「理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり」(0742-第十三若有能持則持仏身の事-04)と仰せられ、衆生と仏は別々のものではなく、その体は同じであるが、ただ己心の仏性を覚っているのが仏であり、己心の仏性を知らないのが衆生なのである。これをさらに明確にするために、つぎに、十界が我々凡夫の生命に具わっていることを示されるのである。
1504:09~1505:05 第二章 地獄即寂光の妙理を明かすtop
| 09 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、 これをさとるを仏といふ・これに 10 まよふを凡夫と云う、 これをさとるは法華経なり、 もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光と 11 さとり候ぞ、 たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、 法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、 12 此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・ 十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、されば権教を修行する人 13 は火にやくるもの又火の中へいり、 水にしづむものなをふちのそこへ入るがごとし、 法華経をたもたざる人は火 14 と水との中にいたるがごとし、法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ・阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・ 15 なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし、 いかでか苦患をまぬかるべきや、等活・黒繩・無間地獄の火 1505 01 坑・紅蓮・大紅蓮の冰の底に入りしづみ給はん事疑なかるべし、 法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入 02 り是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。 -----― さて浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのが法華経です。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのです。たとえ無量億歳の間、権教を修行しても法華経から離れるならば、いつも地獄なのです。 このことは日蓮がいうのではなく、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が定めおかれたことです。 それゆえに権教を修行する人は、火に焼かれる者がさらに火の中に入り、水に沈む者がますます淵の底に入るようなものです。法華経を受持しない人は火や水の中に入っていくようなものです。法華経誹謗の悪知識である法然や弘法をたのみ阿弥陀経や大日経等を信じている者は、なお火より火の中に、水より水の底に入るようなものです。どうして苦患をまぬかれることができるでしょうか。等活、黒繩、さらに無間地獄の火坑、紅蓮、大紅蓮地獄の氷の底に落ちて沈んでしまうことは疑いありません。法華経第二の巻の譬喩品に「其の人は命終して後、阿鼻地獄に堕ち、展り転って無数劫に至る」とあります。 -----― 03 故聖霊は此の苦をまぬかれ給い・ すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も 04 焼くこと能わず、 若し大水に漂わされ為も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん」又云く「火も焼くこと能わず水も 05 漂すこと能わず」云云、あらたのもしや・たのもしや、 -----― 故聖霊はこの苦をまぬかれられています。それはすでに法華経の行者である日蓮の檀那だからです。法華経巻八の普門品に「設い大火に入っても火も焼くことはできない。もし大水に漂わされても、其の名号を称えれば浅き処にたどりつく」と、また同巻七の薬王品に「火も焼くことができず、水も漂わすことができない」等とあります。ああ、頼もしいことです。頼もしいことです。 |
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
地獄即寂光
「地獄」は苦悩の極地である地獄界をいい、「寂光」は仏の住む常寂光土をいう。衆生の一念には十界を具足しているゆえに、地獄界の衆生も仏界を具しており、南無妙法蓮華経を受持することによって、仏界を顕現し、苦悩の境界である地獄界がそのまま常寂光土となることをいう。
―――
無量億歳
はかることも、数えることもできないくらい長い時間。
―――
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
釈迦仏
釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
十方分身の諸仏
中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。
―――
悪知識
善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001-08)とある。
―――
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
―――
弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
―――
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
苦患
苦しみ患うこと。悩み、苦悩。
―――
等活・黒繩・無間地獄
八熱地獄のうちの等活地獄、黒縄地獄、無間地獄をさす。
等活地獄は獄卒に身を斬られ砕かれても、すぐに前と等しく復活してさらに責められるのでこの名がある。
黒縄地獄は黒い熱鉄の縄で身にすみをうたれ、それに沿って斬られ、あるいは鋸でひかれ、苦しみにあえぐ地獄である。
無間地獄は間断なく苦を受けるのでこの名がある。大阿鼻地獄ともいう。
これらの地獄の様子は倶舎論等に説かれており地下一千由旬に等活地獄があり、その下に黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間地獄が順次に重なって存在するとされる。
―――
火坑
火の坑。地の下にあるとされる八熱地獄に入る坑道。
―――
紅蓮・大紅蓮
紅蓮地獄、大紅蓮地獄のことで、いずれも八寒地獄の一つ。紅蓮地獄はあまりの寒さに皮膚が裂けて肉がはみだし、ちょうど紅色の蓮華が開いたようになるのでこの名がある。鉢頭摩地獄の訳。大紅蓮地獄は摩訶鉢頭摩地獄の訳で紅蓮地獄よりさらに寒苦の厳しい地獄。瑜伽論巻四、倶舎論記巻十一などにある。
―――
法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
―――
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――――――――
浄土といい、地獄といっても、すべて自身の生命の中にあることを教えているのが法華経である。ゆえにその法華経を離れては成仏はない。法華経を受持しきってこそ「地獄即寂光」と悟ることができるのである。
地獄即寂光とは、苦悩の極致である地獄界が、そのまま仏の住む常寂光土となることである。すなわち、法華経に明かされるように、我々の生命は、十界互具・一念三千の当体であり、地獄も浄土も「我等がむね」の間にあり、一体不二である。ただ、我々の心の善悪、法華経を信ずるか否かによって、その住処は浄土にも地獄にもなるのである。自分を取り巻く環境、現実社会は、すべて自身の一念、生命状態の反映にほかならないのである。このことは一生成仏抄にも「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(0384-01)と仰せられている。
これは凡夫の住む娑婆世界を穢土とし、たとえば西方十万億土に極楽浄土があるとした念仏などの爾前の諸経の浄土観を根底から打ち破られたものである。
既存の多くの宗教が、現実から遠く離れた彼方に理想の幸福世界を求めたのに対し、真実の仏法は、人間自身の生命の変革によって、苦悩におおわれた現実世界を幸福の世界へと転換できることを明かし、かつ、その転換の鍵を教えたのである。
この地獄即寂光の妙理を悟っているのが仏であり、それを知らず迷っているのが凡夫であるとされ、仏も凡夫も所詮は一体であるが、ただ、迷・悟の違いによるとの仰せである。
ここで「さとる」とは、御本尊を信受することによって肉団の妙法を湧現することであり、「まよふ」とは、御本尊を信じないことである。
さらに「さとるは法華経」と、法華経一経のみが、仏の悟りを説いた経であり、成仏の直道であるということである。
それゆえに、たとえ爾前権経をどんなに修行しても、成仏の一法たる法華経を離れているならば、「いつも地獄なるべし」と厳誡されている。
「此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり」と仰せのように、法華経以外に成仏の道はないということは、日蓮大聖人が勝手にいっていることではなく、あらゆる仏が明言されているところなのである。
まして法華経を謗る邪法邪義を信仰することは、「なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし」で、今世においても苦しみにあい、死後はさらに、地獄の火坑、紅蓮の氷の底へ入って極苦に生命をさいなまれるのである。
仏法は現実論であって架空論ではない。妙法を受持しぬくことによって地獄を即寂光と転じうるのであり、妙法を離れ、また妙法に背いては、どんなに努力しても地獄の苦しみの世界を流転するのみである。心して謗法、退転を戒めていかなければならない。
ともあれ、故聖霊すなわち亡き南条兵衛七郎は、日蓮大聖人の檀那となり、妙法の信仰を貫いて亡くなったのであるから、無間地獄の火坑や大紅蓮地獄の氷といった苦しみの世界をまぬかれ、「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」の、絶対的幸福境涯に住しておられることはまちがいないと述べられている。
1505:05~1505:10 第三章 真の求道者の在り方教えるtop
| 05 詮するところ地獄を外にもとめ獄卒の鉄杖阿防羅刹のかし 06 やくのこゑ別にこれなし、此の法門ゆゆしき大事なれども、 尼にたいしまいらせて・おしへまいらせん、例せば竜 07 女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給いしがごとし、 これをきかせ給いて後は・ いよいよ信心をいた 08 させ給へ、 法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり、天台云く「従 09 藍而青」云云、 此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行 10 のふかきは・いよいよあをきがごとし。 -----― 結局は、地獄といっても、獄卒の鉄杖、阿防羅刹の呵責の声も別に外にあるのではありません。これはゆゆしき大事な法門ですが、尼御前に対して教えてさしあげます。竜女に対して文殊菩薩が即身成仏の秘法を説かれたようなものです。この法門を聞かれた後は、いよいよ信心に励まれるがよい。法華経の法門を聞くにつけて、ますます信心に励むのを、まことの道心者というのです。 天台大師は「藍よりして而も青し」云云といわれています。此の釈の意味は、藍は葉の時よりも、染めれば染めるほど、いよいよ青くなるのであり、法華経は藍のようであり、修行が深いのは、藍が染めるにしたがってますます青くなるようなものです。 |
獄卒
地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して琰魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を剝ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
―――
阿防羅刹
阿防は獄卒のことで阿坊、阿旁とも書く。牛頭にして手は人、足は牛蹄を持ち、力が強く性格は凶暴でその恐ろしさは羅刹のようなので、阿防羅刹という。
―――
文殊菩薩
文殊師利菩薩のこと。迹化の菩薩の上首。普賢菩薩とともに釈尊の脇士として智・慧・証の徳を司り、普賢が理を表すのに対し、文殊は智を表す。沙竭羅竜王の王宮に行き、八歳の竜女を化導し、法華経の会座に伴ってあらわれた。
―――
従藍而青
中国・戦国時代の思想家で荀子の語。「青は藍より出でてしかも藍よりも青し」と読む。 藍染は、何度も染め重ねるうちにもとの藍の色よりも青く染め上がることから、人が成長する上では努力や鍛錬が大切でそれを重ねれば、自分の思う以上の結果を得ることができることを意味する。また、師匠を越えて弟子が成長する姿にも例えられる。
―――――――――
「詮するところ地獄を外にもとめ獄卒の鉄杖阿防羅刹のかしやくのこゑ別にこれなし」と、地獄が、一般に信じられているようにお伽話的な存在ではなく、現実の中にあることを明かされるにあたり、後家尼に対し、法門を聞いていよいよ信心に励むよう促されている。
ここで明かされることは、まことに深い仏法の教えであり、ふつう愚癡の生命に覆われているとされる末法の女人にはふさわしくないように思われるかも知れない。しかし、法華経の説会で文殊師利菩薩が竜女に対して即身成仏の法門を説いたと同様に、日蓮大聖人も後家尼の深信に対して即身成仏の秘法を説こうといわれている。
そして「これをきかせ給いて後は・いよいよ信心をいたさせ給へ」といわれ、甚深の法門を聞いたことを機に、いっそうの信心に励むよう勧められている。広く御書を拝し教学を学ぶ目的は、まさに、ここにあることを知らなければならない。
法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり
仏法を聞けば聞くほど、その法門を知れば知るほど、ますます求道の炎を燃やしていくのが、真実の信仰者の在り方であると御教示されているのである。
広大深遠な仏法には「これでよし」というものはない。もし、そういう心を持てば、それはすでに慢心であり、増上慢にほかならない。信心の成長は、その瞬間から止まってしまう。「月月・日日につより給へ」(1190-11)と仰せのように、生涯求道の精神こそ、信仰者の不変の姿勢であらねばならない。
また信心は、障魔との戦いである。行解が進めば進むほど、障魔の嵐も強くなるのが当然の原理である。そのとき、それまでと同じ気持ち、姿勢であっては、障魔を破って前進することはできない。
より一層の信心のエネルギーをもって、究極に迫っていく熱誠の求道心が必要となる。その前進のエネルギーあってこそ、無上道を我が身の内に体得し、諸難を悠々と越えゆく境涯を開いていくことができるのである。
大聖人が「なをなを」の言葉に託された激励を心底に深く刻み込み、今日より明日、今年よりは来年と、力強い求道の歩みを進めていくことが大切である。
天台云く「従藍而青」云云
「従藍而青」とは、天台大師の摩訶止観巻一上の文である。「藍よりして而も青し」と読む。「青は藍より出でて、しかも藍より青し」の意である。
藍は、元来、青色の染料を得るための植物であるが、藍自体はそれほど濃い色ではない。しかし、この藍から絞った液に布を浸し重ねて何度も染めていけば、深い見事な青色となっていく。
法門自体は藍のようなものである。この法門を聞いて信心にいよいよ励んでいくとき、どこまでも深い〝青〟色になっていくということである。
すなわち、修行を重ねれば重ねるほど、ますます自身の内なる仏界の生命の輝きが増し、自身を成長させていくことができるのである。
日蓮大聖人はあらゆる人達の成仏の根本として御本尊を顕し残されたのである。御本尊は〝藍〟にたとえられると仰せである。その〝藍〟からどれだけ深い〝青〟を引き出すかは、我々の修行、信心の厚薄にかかっている。
さらに、これを〝人〟に約して考えると、先輩と後輩の在り方になぞらえられる。〝藍〟は先輩であり、〝青〟は後輩である。後輩の立場からみれば、先輩の内にある〝藍〟の力をどれだけ引き出して、自らの成長の糧としていくか、ということになる。世にいう「出藍の誉れ」というのはこれである。
また先輩の立場についていえば、どれだけ後輩を、自分以上の見事な〝青〟に染め上げるか、という姿勢で育成に取り組むことであり、互いに切磋琢磨する原理ともいえよう。
我々は広宣流布の途上で、同信の友を自分以上に成長させようと励まし合いつつ、共戦の前進を続けることが、そのまま自らが美しい〝青〟と成長していくことになる。さらに信心の〝青〟を深めていきたいものである。
1505:11~1506:01 第四章 逆即是順の法華経の功力top
| 11 地獄と云う二字をばつちをほるとよめり、人の死する時つちをほらぬもの候べきか、これを地獄と云う、 死人 12 をやく火は無間の火炎なり、 妻子・眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒・阿防羅刹なり、妻子等のかなしみな 13 くは獄卒のこゑなり、二尺五寸の杖は鉄杖なり・馬は馬頭・牛は牛頭なり、 穴は無間大城・八万四千のかまは八万 14 四千の塵労門・家をきりいづるは死出の山・ 孝子の河のほとりにたたずむは三途の愛河なり、 別に求むる事はか 15 なしはかなし、 此の法華経をたもちたてまつる人は此れをうちかへし・地獄は寂光土・火焔は報身如来の智火・死 16 人は法身如来・火坑は大慈悲為室の応身如来、 又つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海・死出の 17 山は煩悩即菩提の重山なり、 かく御心得させ給へ・即身成仏とも開仏知見ともこれをさとり・これをひらくを申す 18 なり、 提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、 竜女が即身成仏もこれより外は候はず、逆即是順の法華経なれば 1506 01 なり・これ妙の一字の功徳なり。 -----― 地獄という二字を土を掘ると読むのです。人が死んだとき土を掘らないものがいるでしょうか。これを地獄というのです。死人を焼く火は無間地獄の火炎です。妻子、眷属が死人の前後をあらそってついていくのは獄卒、阿防羅刹です。妻子等が悲しみ泣くのは獄卒の声です。二尺五寸の杖はその鉄杖であり、馬は馬頭という鬼、牛は牛頭という鬼です。穴は無間大城であり、八万四千の地獄のかまは八万四千の煩悩であり、家を出るのは死出の山、孝子が河のほとりにたたずむのは三途の愛河です。これ以外によそに求めることははかないことです。 この法華経を受持する人はこのことを打ちかえし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲を室と為す応身如来、また杖は妙法実相の杖、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山となると心得なさい。このように悟り、また開くのを即身成仏とも開仏知見ともいうのです。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽と開き、竜女の即身成仏もこのことにほかならないのです。それは逆即是順の法華経だからであり、これが妙の一字の功徳です。 |
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
―――
二尺五寸の杖
死者は、冥途の険しい山道を旅しなければならないということから、死者に約76㌢の杖をもたせて葬る風習があった。
―――
馬頭
地獄に住む馬頭人身の獄卒。馬頭羅刹のこと。死後の衆生が冥途へ行くとき、その前後で鉄棒をもって追いたてながら引導するという。首楞厳経卷八に「亡者の神識大鉄城を見る。火蛇火狗・虎狼獅子・牛頭獄卒・馬頭羅刹・手に槍矟を執り、城内に駆け入る」とある。
―――
牛頭
地獄の極卒のこと。体が人間で頭が牛の形をしている鬼。
―――
八万四千の塵労門
一切の煩悩について説いた法門のことをさしていう。八万四千は実際の数ではなく、大数、多数の意。塵労は煩悩の異名。大智度論巻五十九には煩悩を病にたとえて、淫欲の病に二万一千、瞋恚の病に二万一千、愚癡の病に二万一千、等分の病に二万一千の八万四千の病があると説かれている。
―――
死出の山
十王経によると、死後の世界にある険しい山で、死者が冥府において初七日の間に秦広王のところに行く途中にある山。
三途の愛河
地獄・餓鬼・畜生の三途に堕とす貪愛の煩悩のこと。「愛河」は貪愛が人を押し流すことから河にたとえたもの。
―――
報身如来
仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
法身如来
仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
大慈悲為室
法師品に「大慈悲を室と為し」とある。衣座室の三軌のうち室を表したものである。
―――
応身如来
仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
―――
妙法実相
妙法蓮華経が諸法の実相であるということ。
―――
生死即涅槃の大海
「生死」とは迷い、「涅槃」とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とある。妙法を受持する九界の衆生が、その身そのままで究極の心理を体現し、涅槃常楽の境界を得ることができることを、大海にたとえたもの。
―――
煩悩即菩提
九界即仏界の哲理。煩悩がなければ悟りはない。人生に悩みがあるがその悩みがなくなったところが菩提ではなく、悩みそのものが菩提である。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、生死即涅槃の同意語。
―――
開仏知見
開示悟入・四仏知見のひとつ。開とは信心のことである。信心をもって妙法を唱え奉れば、やがて仏知見を開くことができるのである。信心の異名である。
―――
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
寂光極楽
「寂光」は寂光世界で仏国土のこと。「極楽」は普通は阿弥陀仏の仏国土をさすが、一般的な仏国土の意である。
―――
逆即是順
「逆即ち是れ順なりと読み、「逆」は逆縁、「順」は順縁を意味する。悪逆の提婆達多が天王如来の受けたことを意味する。
―――――――――
すでに述べられたように「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり」であるが、それを具体的な死にまつわる事象に即して示されている。
地獄といえば地の下一千由旬のところにある特別な世界と考えられているが、事実は、そのような現実ばなれした存在をいうのではなく、死者を地下に埋葬する、その穴が地獄であると仰せである。もとより、すべての人にとって埋葬の穴が地獄になるのではなく「我等がむねの間にあり」といわれるように、地獄に堕ちるべき悪業を犯した人にとって地獄になるのである。餓鬼界に堕ちるべき業を犯した人にとっては餓鬼道となるし、正法の信仰を全うし成仏の因を作った人にとっては寂光土となることは、いうまでもない。
また同様に、死人を焼く火は、堕地獄の業を作った人にとっては地獄の火炎となるのに対し、成仏の因を作った人にとっては報身如来の智火となるのである。死者に持たせる二尺五寸の杖は、地獄の業の人にとっては獄卒の鉄杖となるのに対し、成仏の因を作った人にとっては妙法実相の杖となる。
まさに「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず」で、空想的な彼方の世界にあるのではなく、現実の世界にあるもの、現実に行われる事象が、その人の生命の境界によって地獄の極苦を与えるものともなれば、逆に寂光浄土をもたらすものともなるのである。要は、その人の生命の境界によるのであり、したがって「ただ我等がむねの間にあり」といわれたのである。この生命の境界の違いを生ずる根源は、この人生をどのように生き、いかなる善悪の業を作ったかである。その極苦の業因が正法誹謗であり、極善の業が正法の信行である。ゆえに「此の法華経をたもちたてまつる人」は、地獄を寂光土と転じ、火焰を報身如来、自身を法身如来、火坑を応身如来として三身即一の仏身を現じ、三途の河を生死即涅槃の大海、死出の山を煩悩即菩提の重山とすることができるのである。
火焔は報身如来の智火・死人は法身如来・火坑は大慈悲為室の応身如来
死者を火葬する場合についての仰せである。悪業深重の人にとっては、死体を焼く焰は無間地獄の劫火となるが、法華経の正法を受持して成仏の因を作った人にとっては、報身如来の智慧と顕れるのである。
報身如来は智慧身ともいい、智慧はこの世界を明るく照らし出すゆえに火焔にたとえられる。ここから、死体が焼かれて発する焰を報身如来に配せられたのであろう。
法身如来は、生命自体をさす。ゆえに、死体の身体そのものを法身如来と配せられたのである。
応身如来は、衆生を救うために顕す姿、現ずる振る舞いをいう。その本質は慈悲であり、法師品には、忍辱の衣、一切法空の座に対し大慈悲を室と為すと記され、火葬場の坑が応身如来になると述べられたのである。
もとより、これは火葬に付する場合について言われたのであるが、火葬にしなければ三身如来の仏身とならないということではない。社会的慣習によって、火葬以外の様々な葬り方が行われるが、その場合も妙法を信受しぬいて亡くなった人の生命が三身如来となって成仏を遂げうることは、全く変わりないと拝すべきであろう。
つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海・死出の山は煩悩即菩提の重山なり
妙法を受持して亡くなった人にとっては、諸法の実相たる妙法が死後の冥途の旅路を助けてくれる確かな杖となり、三途の河は三悪道へ向かう恐ろしい河ではなく、涅槃の境地の洋々たる大海となり、死出の山道は、菩提の楽しみを味わわせてくれる美しい景勝の山々となるということである。そこには、苦しみや恐怖、不安はなく、穏やかな大海を航海する楽しみにあふれていることであろう。
このように確信して、生涯、妙法の信心を貫いていくようにとの激励の御指導である。
提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外は候はず、逆即是順の法華経なればなり・これ妙の一字の功徳なり
提婆達多は釈尊に敵対し、五逆罪のうち、破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢の三逆罪を犯し、生きながら無間地獄に堕ちたとされている。しかし、法華経提婆達多品では、この提婆達多も天王如来となって天道世界という仏国土に住するであろうと、成仏の授記がなされた。ゆえに、本抄では「阿鼻極を寂光極楽とひらき」と仰せられているのである。
竜女は畜生界の衆生であり、その生命は愚癡を本質とする。文殊師利菩薩の化導によって菩提心を起こし、法華経の会座に詣でて、その場で成仏の姿を示したのであった。ゆえに「竜女が即身成仏」といわれているのである。
提婆達多の生命は瞋恚であり、竜女は愚癡である。いずれも、成仏につながるとされた慈悲、智慧とは逆の生命であるが、そうした貪・瞋・癡の三毒を変じて薬となす力を法華経がもっていることを象徴化して、提婆・竜女の成仏が説かれたのである。
1506:02~1506:08 第五章 即身成仏の経証釈を示すtop
| 02 竜樹菩薩の云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、 妙楽大師云く「豈伽耶を離れて別に 03 常寂を求めん寂光の外・別に娑婆有るに非ず」云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・ 04 十界は必ず身土なり」云云、 法華経に云く「諸法実相乃至・本末究竟等」云云、寿量品に云く「我実に成仏してよ 05 り已来無量無辺なり」等云云、 此の経文に我と申すは十界なり・十界本有の仏なれば浄土に住するなり、方便品に 06 云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、 世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあ 07 らず・をどろくべきにあらず、 相の一字は八相なり・八相も生死の二字をいでず、かくさとるを法華経の行者の即 08 身成仏と申すなり、 -----― 竜樹菩薩は「譬えば大薬師が能く毒を変じて薬と為すようなものである」と述べ、妙楽大師は「伽耶城を離れて別に常寂光を求めてはいけない。寂光土の外に別に娑婆世界が有るのではない」とも、また「実相は必ず諸法であり、諸法は必ず十如である。十如は必ず十界であり、十界は必ず身土である」とも述べている。法華経方便品には「諸法実相乃至本末究竟等」と、また寿量品には「我れ実に成仏してより已来、無量無辺である」等とあります。 此の経文に我とあるのは十界のことです。十界は本有の仏であるから浄土に住するのです。法華経方便品には「是の法は法位に住して世間の相常住である」とあります。世間の習いとして三世常恒の相なのであるから嘆くべきでないし、驚くべきでもありません。 相の一字は八相であり、その八相も生死の二字を出ない。このように悟ることを法華経の行者の即身成仏というのです。 |
伽耶
釈尊成道の地。ガンジス河の支流である尼連禅河の岸辺に位置する。釈尊はこの河岸の菩提樹下に坐して開悟したので、仏陀伽耶と呼ぶ。しかし法華経如来寿量品第十六には「一切世間の天・人、及び阿修羅は、皆な今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たと謂えり。然るに善男子よ。我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説かれ、伽耶において成道したとされた始成正覚の迹の姿を払い、久遠実成の成道を明かした。ただしこの御抄では、常寂光土といっても他土に求めるべきでなく、現実の娑婆世界の中にあることをいわれている。
―――
竜樹菩薩
付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
十界
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241-07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241-11)とある。
―――
十界本有の仏
十界の衆生はもともと本有の仏であるということ。あらゆる衆生に、地獄界より仏界に至るまでの十界の生命活動が、無始以来、本然的にそなわっているゆえに仏界の生命も本然的にそなわっているのである。
―――
八相
仏が衆生を救うため出現し、成道 を中心として、一生の間に示す八種の相。①下天、②託胎、③出胎、④出家、⑤降魔、⑥成道、⑦転法輪、⑧入涅槃。
―――――――――
逆即是順――貪・瞋・癡の三毒強盛の衆生をも成仏せしめるところに、妙法の功力があることを裏づけて、まず竜樹の大智度論の言葉を挙げられている。この竜樹の言葉は、法華経の二乗作仏に関して述べられたものであるが、瞋恚の提婆、愚癡の竜女の成仏にも当然あてはまるので引かれたのである。
次の妙楽大師の法華文句記の言葉は、常寂光土といっても西方浄土のような他土に求めるべきものではなく、現実に我々が住しているこの娑婆世界にこそ求めるべきであるとの意である。伽耶とは、いうまでもなく、釈尊が成道した所であり、娑婆世界の中にある。この現実の世界を穢土として厭い、死後、西方浄土に往生しようとする念仏の考え方を打ち破り、現在の人生において、この娑婆世界で成仏するという法華経の真実の成仏観を浮き彫りにした言葉といえよう。
同じく妙楽大師の「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」との金剛錍の言葉は、十界の身土すなわち正報・依法は、すべて実相すなわち妙法蓮華経のあらわれであり、十界のいかなる衆生も、我が身が本来、妙法蓮華経の当体であることを覚るときに即身成仏することを示している。〝身土〟とあるように、その生命は仏身となり、その国土は寂光土となるのである。
これらの引用文の関係について、あえて考察すれば、竜樹の言葉は先の「竜女が即身成仏」に関連しており、妙楽大師の「豈伽耶を離れて……」の文は「提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき」に関連している。
なぜなら竜樹の言葉は正報たる生命の変革を述べたものであるのに対し、妙楽大師の言は依報たる国土について述べているからである。しかして「実相は必ず諸法・諸法は必ず……身土なり」の文は、これら依報・正報を包括した全体の変革をあらわしているといえよう。
次の法華経方便品の「諸法実相乃至・本末究竟等」は、今の妙楽大師の「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如……」の釈の立てられた根本を挙げられたのである。
寿量品に云く「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等云云
この寿量品の文は、本来は、釈尊が久遠の昔に成仏したことを明かしたものである。しかし、ここで大聖人は「我と申すは十界なり」といわれ、十界のすべての衆生が本有の仏であるとの文として用いられている。
すなわち、十界のいかなる衆生も、もともと仏性を秘めているのであるが、その己心の仏性を知らないために、九界の迷いの世界を流転しているのである。己心の仏性を悟ったときに、本有の仏であることが明らかになるのである。本有の仏であるならば、十界のいかなる衆生も、その住する国土は、そのままで〝浄土〟となる。これを「十界本有の仏なれば浄土に住するなり」と仰せられたのである。
方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云
〝是の法〟とは無明の九界をさし、〝法位〟とは法性の真如の位を意味する。「是の法は法位に住して」とは、無明即法性、九界即仏界の謂である。九界即仏界であるがゆえに、〝世間の相〟すなわち六道・九界の世界が、即、本有常住の実相となるのである。
したがって、つぎに、生まれては死に、死んでは生まれる生死流転の姿も、それ自体が三世常恒の相であり、生命の実相にほかならない。
「相の一字は八相なり・八相も生死の二字をいでず」と仰せのように、仏の示される八相作仏も、所詮は生死の二法であり、仏も生死流転はまぬかれないということである。
ゆえに「世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあらず・をどろくべきにあらず」といわれ、上野殿の死に関しても、けっして嘆いたり驚いたりすべきではないと、仏法に対する透徹した信に立つよう、後家尼を御教示されているのである。
1506:08~1506:15 第六章 尼への弔意と勧誡top
| 08 故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、 さのみなげき給うべからず、又なげき給う 09 べきが凡夫のことわりなり、 ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのな 10 げき・凡夫のふるまひを示し給うか。 -----― 故聖霊は法華経の行者であったから即身成仏は疑いありません。だからさほどに嘆かれることはないのです。しかしまた嘆かれるのが凡夫の道理でありましょう。ただし聖人にもこれはあるのです。釈迦仏が御入滅されたときの、覚りを得ている諸大弟子等の嘆きは、凡夫の振る舞いを示されたものでありましょうか。 -----― 11 いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、 古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば 12 六識にせよと・をしへ給う・ことわりにもや候らん、 此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘 13 しさせ給へ、あなかしこ・あなかしこ。 14 七月十一日 日蓮花押 15 上野殿後家尼御前御返事 -----― いかにも、いかにも追善供養を心の及ぶ限り励まれるがよいでしょう。古徳の言葉にも「心地は九識清浄心におき、修行をば六識にせよ」と教えていますが、いかにも道理です。この文には日蓮が秘蔵の法門を記しておきました。心して内密にされるがよい。あなかしこ、あなかしこ。 七月十一日 日 蓮 花 押 上野殿後家尼御前御返事 |
追善供養
死者の成仏を願って行う供養のこと。
―――
心地
心を大地にたとえたもので、大地より五穀五果を生ずるように、衆生の心より善悪五趣を生ずるゆえに大地にたとえ心地という。
―――
九識
物事を識別する九種の心の作用。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に、第七の末那、第八の阿頼耶識、第九の阿摩羅識を加える。識は対象を認めてその異同を知る心の作用をさす。俱舎宗などでは六識を、法相宗では八識を立て、第八識を心王とする。天台宗ではさらにその奥底の第九識の阿摩羅識を清浄無染の根本識とし、第九識を心王とする。心王とは、心の作用を起こす本体をいい、この心王に対して心数は心にともなって起こってくる作用である。ここでは、九識の全体ではなく、第九識の阿摩羅識をさしている。
―――
六識
物事を識別する九種の心の作用。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。
―――――――――
夫に先立たれた後家尼へ心温まる弔慰を重ねて示され、亡夫の追善供養を心ゆくまで励むよう勧められながら、古徳の言葉を引用し、仏道修行の在り方を指導して結びとされている。
提婆や竜女をさえ成仏せしめるのが妙法の功力である。いわんや妙法を受持して生涯を全うした南条兵衛七郎が成仏していることは疑う余地もない。したがって、嘆く必要はないではないかと慰められている。とはいえ「又なげき給うべきが凡夫のことわりなり」と仰せられ、凡夫の身として、夫を亡くした尼御前の嘆く気持ちも無理はないと温かく抱きかかえられているのである。
そして「聖人の上にも・これあるなり」と、釈迦仏が入滅されたとき、すでに悟りの境地に達していた〝聖人〟である声聞の諸大弟子たちも嘆き悲しんだ例を挙げられ「凡夫のふるまひを示し給うか」と述べられている。大聖人の深い慈悲と、人間性あふれる御姿を拝することができる一節といえよう。
古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよと・をしへ給う
古徳がだれであるかは不明であるが、信心修行の在り方を示すために引用されている。
九識・六識は、天台宗などで立てた九識論で説く法門である。九識論は人間の意識作用を分析し、無意識層の奥にまで拡がる生命構造の重層性を明かしたものである。
六識は眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に具わる識をいう。九識は根本浄識といい、八識までを心数というのに対し心王ともいう。
九識は生命の根本・根源に存する常住不変の真理であるゆえである。
日蓮大聖人は、「日女御前御返事」に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(1244-09)と仰せられているように、「九識心王真如の都」は、この御本尊を信受する衆生の胸中の肉団に顕れる仏界を意味するのである。
したがって、「心地を九識にもち」とは、生命究極の根拠を「九識心王」に固定させること、つまり信の一念を妙法に決定されることである。
「修行をば六識にせよ」とは、外界に向かう六識の全機能を最高度に発揮して、自行化他にわたる精進に徹することである。すなわち、御本尊を眼に拝し、勤行唱題に励み、法門を聴聞し、常に仏法を思い現実の社会の中で実践につとめることである。
この六識による絶えざる実践によってのみ、九識心王の太陽を我が生命の都に輝かせ、一生成仏の大道を進むことができるのである。
最後に「此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘しさせ給へ」と仰せられている。地獄といい仏といっても、我々凡夫の生命の中にあるとの教えは、当時一般に信じられていた仏教常識から隔絶した甚深の法理であった。ゆえに、無分別に他人に語ってはならないと戒められたのである。
1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)2007:12月号大白蓮華より。先生の講義top
生も仏 死も仏 「生死ともに歓喜」を築く即身成仏の法門
昭和25年(1950)、恩師・戸田先生は事業面で最大の苦境にありました。影響が学会に及ばないように、理事長を辞任されました。
戸田先生を中心に何十人もの受講者で活気を呈していた本部での講義も、潮が引くようにすくなくなっていった。
しかし先生は、わずか数名のために、時間をこじ開けては、御書講義を続けてくださいました。そして厳然と言い切られたのです。
「私は、たとえ一人でも求める諸君たちのために全力を尽くすのだ」
「私は、仮に地獄に堕ちても平気だ、そのときは地獄の衆生を折伏して寂光土とする。しかし信心弱い君たちのことを考えると心配だ」
どんな苦難の渦中にあっても、どんなに疲れていても、宿命に悩み、指導を求めていく同志を、そして求道の青年を、先生はあらん限りの慈愛と気迫で、励ましてくださいました。
やがて事業の苦境も打開し、会長に就任されて間もなく先生は、会社の事務所を東京・市ヶ谷駅近くのビルの一室に移されました。そして同じビルの小さな一室を学会本部分室とし、訪ねてこられる学会員を、毎日、長時間かけて指導・激励されたのです。
最も苦しんだ人を最高の幸福者に変えるのが日蓮大聖人の仏法です。
地獄をも寂光土に変える力強い妙法です。
当時ビルの受付をされていた女性の方の貴重な証言をうかがいました。その方と親交を結ばれた地域の婦人部の方が、私に伝えてくれたのです。
その方は当時のことを鮮明に覚えておられた。大勢の人が分室を訪れた。しかも、悩みに打ちひしがれたような表情で来た人たちが、まるで別人のような笑顔になって帰っていく。その姿が不思議でならなかった、と。
宿命を使命として、勇気と大確信の炎を、あの友に、この一家の未来にと点じ続ける生き方を教えてくれたのが、牧口先生であり、戸田先生です。
「一人の人」を、どこまでも激励し抜いていく。最も崇高な広宣流布の使命に、ともに立ち上がっていく。これが、創価の師弟を貫く根本精神です。この精神を継承すれば、学会は永遠に発展することは間違いありません。
大聖人が生涯貫かれた「真剣勝負の励まし」の戦いを、今回は「上野殿御家尼御返事」を拝して学んでいきましょう。
| 01 御供養の物種種給畢んぬ、抑も上野殿死去の後は・をとづれ冥途より候やらん・きかまほしくをぼへ候、ただし 02 あるべしとも・をぼへず、 もし夢にあらずんば・すがたをみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みみえ給う 03 事いかが候はん、 さだめて霊山浄土にてさばの事をば・ちうやにきき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればみさせ・ 04 きかせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ、 生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこ 05 そをはしまし候いけん、今度のちぎりこそ・まことのちぎりのをとこよ、 そのゆへは・をとこのすすめによりて法 06 華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、 いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、 07 即身成仏と申す大事の法門これなり、 法華経の第四に云く、 「若し能く持つこと有れば 即ち仏身を持つなり」 08 云云。 -----― 御供養の品を種々いただきました。 上野殿御死去の後、冥途より訪れられたでしょうか。お聞きしたいものです。しかしあるとも思えません。夢でもなければ姿を見ることはよもやないでしょうし、幻でもなければ、見えるなどということがどうしてありましょう。上野殿はきっと霊山浄土で娑婆のことを昼夜に見聞きされていることでしょう。しかし妻子等は肉眼であるから見ることも聞くこともできませんが、ついには霊山浄土で一緒になると思いなさい。生生世世の間、尼御前が夫婦の契りを交わした男は砂の数よりも多くあることでしょうが、この度の契りこそまことの契りの夫です。そのわけは夫の勧めによって法華経の行者となられたのですから、亡き夫を仏として尊ぶべきです。生きておられた時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なのです。即身成仏という大事の法門はこのことを説きあらわされたのです。法華経の第四の巻、宝塔品に「若し能くこの経を持つ者はすなわこれ仏身を持つものである」とあります。 |
「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯
「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」
仏法は、一生のうちに成仏を実現し、永遠に自在して希望に満ちた生と死を続けることを可能にする大法です。
「生も歓喜」であれば、「死も歓喜」となります。「死も歓喜」であれば、次の「生も歓喜」です。生死ともに歓喜の連続であり、自他ともの歓喜を現実のものとする使命に生きる生命の真髄を教えています。
今回拝する「上野殿御家尼御返事」は、夫・南条兵衛七郎を亡くした上野尼御前に対するお手紙です。本抄の御執年については諸説あります。夫が亡くなった直後の文永2年(1265)頃か、あるいは、大聖人が佐渡から戻り、身延に入られた直後、再び南条家と頻繁なやりとりを始められる文永11年(1274)頃とされています。
南条家で最初に大聖人に帰依したのは、亡き夫・南条兵衛七郎でした。幕府の御家人であり、大聖人も深い期待を寄せていましたが、重い病のため、文永2年(1265)に亡くなります。
南条兵衛七郎は、大聖人の御指導通り、妙法への信仰を最後まで貫き、その潔い信心は残された家族に受け継がれていきました。
兵衛七郎が亡くなった時、後に家督を継ぐ二男の時光は7歳、五男にあたる末の息子は、まだ母の胎内にいました。母は悲しみをこらえながら、必死になって家族を守り育ててきたに違いありません。
この母の抑えても抑えきれない嘆き、悲しみを、大聖人は深くくみとり、解きほぐすように、励まされたのです。
“夢であるなら夫の姿をみることはできても、現実は、何かしらの便りがあるとも思えません”と仰せになられています。そして、仏法の眼から、亡き夫は、今どこにおられるか、“霊山浄土におられて、御家族のことをいつもご覧になっていますよ”と大聖人は語りかけておられます。
信心の深き心で結ばれた同志、家族、眷属は、必ずまた一緒になれると、温かく包容されているのです。
霊鷲山とは「永遠の生命の故郷」
霊山浄土といっても、念仏の西方極楽浄土のような架空の別世界のことでは絶対にありません。
端的に言えば、霊山浄土とは、大宇宙の仏界そのものです。「一身一念法界に遍し」(0247-08)とあります。妙法を受持しきって亡くなった人の生命は、宇宙全体を我が生命とする。広大無辺の境地となって、大歓喜の境涯に包まれていく、そのことを戸田先生は「大宇宙の仏界に溶け込む」と言われました。
大聖人は繰り返し仰せです。
「ともに霊山浄土にまいり、お会いしましょう」
「必ず母と子がともに霊山浄土へまいることができましょう」
妙法への信心を生涯、貫き通した人が、等しく到達できる仏の世界。 それが霊山浄土であり、そこでは、深き生命の次元で結ばれた師弟が、同志が、また、親子・夫婦・家族が、晴れ晴れと出会うことができるのです。
地涌の菩薩は、この仏の世界から民衆救済の使命を果たすために娑婆世界に出現し、また、今世の使命を果たして、再び大宇宙の仏界へと戻ります。それが「霊山浄土」です。永遠に戦い続ける地涌の勇者の「生命の故郷」であり、「久遠の同志の世界」です。
生きているうちに、この境地に基づいて仏界を現して、現実の苦難の使命の舞台に雄々しく立ち上がり、自他共の幸福を築いていく、それが「生の仏」です。
そして、使命を果たしきって、三世永遠の自受法楽の軌道に乗り、さらなる誓願の現実のために、次の菩薩道の生へと向かっていく。それが「死の仏」です。
この「生死ともに仏」「生死ともに歓喜」の大境涯を確立するための今世の一生です。否、今世の一生の瞬間瞬間の闘争です。
大聖人は「若し能く持つこと有えば即ち仏身を持つなり」と経文を引かれています。この経文通りに南条兵衛七郎は戦い、一生の間に仏の境涯を確立したからこそ、永遠の仏界の生死の軌道に乗った。
“あなたの亡くなった夫は、まさに法華経に示された通りの「仏様」なのですよ”ご主人は勝ちました! 今度はああたが勝利する番ですよ! と、呼びかけておられるのです。
| 09 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、 これをさとるを仏といふ・これに 10 まよふを凡夫と云う、 これをさとるは法華経なり、 もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光と 11 さとり候ぞ、 -----― さて浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのは法華経です。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光とさとることができるのです。 -----― 07 此の法門ゆゆしき大事なれども、これをきかせ給いて後は・ いよいよ信心をいた 08 させ給へ、 法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり、天台云く「従 09 藍而青」云云、 此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行 10 のふかきは・いよいよあをきがごとし。 -----― これはゆゆしき大事な法門です。尼御前に教えてさしあげます。竜女に対しては文殊菩薩が即身成仏の秘法を説かれたようなものです。この法門を聞かれた後は、いよいよ信心に励まれるがよい。法華経の法門を聞くにつけて、ますます信心に励むのを、まことの道心者というのです。 天台大師は「藍よりして而も青し」云云といわれています。此の釈の意味は、藍は葉の時よりも、染めれば染めるほど、いよいよ青くなるのであり、法華経は藍のようであり、修行が深いのは、藍が染めるにしたがってますます青くなるようなものです。 |
地獄を寂光土に変える仏法の功力
浄土も地獄も、自身の胸中にある。他のどこかにあると思うのは迷いである。これが日蓮大聖人の仏法です。
ここで大聖人は、焦点を「亡き夫の成仏」から「上野尼御前自身の成仏」に移して、励ましていかれます。
法華経を持つ者は地獄即寂光の法理を現実のものとすることができるのです。
大聖人は四条金吾におおせです「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ」(1173-04)“あなたを守るためだったら、私も地獄に共に行ってあげましょう。わたしが行けば、釈迦仏も仏も共に地獄に来ます”
大聖人も釈迦仏もおられるとなれば、地獄はもはや地獄ではありえません。仏国土へと変わります。そうなれば、獄卒が仏子を責めることはできません。閻魔大王も法華経の守護者にならざるをえません。
今いるこの場所を仏国土にするための法華経です。また、仏国土にしていく挑戦が法華経の信心です。
したがって、法華経の実践を貫いた大聖人の門下が、地獄界で苦しむわけがない。自在の境涯に生ききっていけることは間違いありません。
大聖人は、このことを、尼御前に深く教えようとされた。尼御前もおそらく、それまでにもこの地獄即寂光の法門を聞いたことがあったでしょう。しかし、一歩深く、生命の奥底でつかみとってほしい。体得してほしい。そして、ますます信心に励んでほしいという大聖人のお心が伝わってきます。
即身成仏は歓喜と希望の原理
大聖人が地獄即寂光の法理を説かれたのは、故・南条殿が必ず成仏しているとの安心を尼御前に与えるためであるとともに、夫亡き後に幼い子をかかえて苦闘する尼御前自身に、仏界は我が生命にあるとの究極の希望を教えるためでもありました。
尼御前への激励のために、大聖人はさらに法華経に説かれる竜女の即身成仏に言及されています。
法華経提婆達多品では、文殊師利菩薩が釈尊の命を受けて智積菩薩に妙法の功力を説きます。その時、妙法には即身成仏の力があるとして、その現証として竜女を呼び出して紹介します。
しかし、智積菩薩や舎利弗は、女人成仏も即身成仏を信じようとしません。不信をいだく男たちを前に、竜女は釈尊に「私は大乗の教えを開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」と誓願し、即身成仏の現証を示します。その場にいた多くの衆生は、竜女の現証を見て「心大歓喜」心は大いに歓喜して成仏の軌道へと入っていきました。不信の男性たちは返す言葉もなく、竜女に感服し黙然として信受せざるをえなかった。
痛快な女人成仏のドラマは、希望の閃光で万人を照らし、歓喜の波動をもたらしたのです。
即身成仏の法理は、万人の胸中に歓喜と希望を呼び起こす力があります。大聖人は、尼御前の胸中に真実の希望を湧き立たせるために、本抄で即身成仏の極理を説かれているのです。
法華経の原理を実現する日蓮仏法
「いよいよ信心をいたさせ給え」
「なをなを信心にはげむを・まことの道心者とは申すなり
大聖人が、即身成仏や地獄即寂光のどの深理を説かれるのは、門下の信心を深めるためです。仏法は言葉や観念の遊戯ではない。
本抄で説かれている極理はすべて、私たちの生命の中に仏界という究極の希望があることを教えるものです。それを、自らの命において信じていけば、その信によって、仏界の生命を覆い隠している無明を打ち破り、我が生命に仏界が湧現するのです。
ゆえに、「信」が大事なのです。信心を深めれば深めるほど、私たちの生命は仏界の色彩に染め上げられていくからです。
大聖人は、そのことを、天台大師の「従藍而青」との言葉を通して教えてくださっています。
植物の藍の葉は、薄く青みがかった緑色です。しかし、この葉から採った染料で何回も重ねて染めれば、濃い鮮やかな青になります。
私たちの一生成仏の修行も同じです。成仏の原理が説かれている法華経は、藍の葉に譬えられています。大聖人の仏法の実践は、藍の葉から採った染料を何回も染めていくことに譬えられるでしょう。すなわち、大聖人の仏法では、法理を聞いて信心を深め、ますます修行に励んでいけば、実際に仏界を現し、一生成仏を実現していくことができるのです。
御書を学ぶ目的は、大聖人の御精神に触れて、信心を深めるとともに、仏法の深理に学んで我が内なる希望と平和を確信し、自行化他の実践に励んでいくことにあります。そして、難を勝ち越えてこられた大聖人の実践に学んで、苦難に挑戦していく勇気を奮い起こすことです。この「実践の教学」の要諦を、深く銘記していきたいものです。
| 08 故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、 さのみなげき給うべからず、又なげき給う 09 べきが凡夫のことわりなり、 ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのな 10 げき・凡夫のふるまひを示し給うか。 -----― 故聖霊は法華経の行者であったから即身成仏は疑いありません。だからさほどに嘆かれることはないのです。しかしまた嘆かれるのが凡夫の道理でありましょう。ただし聖人にもそれはあるのです。釈迦仏が御入滅されたときの覚りを得ている諸大弟子等の嘆きは、凡夫の振る舞いを示されたものでありましょうか。 -----― 11 いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、 古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば 12 六識にせよと・をしへ給う・ことわりにもや候らん、 此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘 13 しさせ給へ、あなかしこ・あなかしこ。 -----― いかにも・いかにも追善供養の心の及ぶ限り励まれるがよいでしょう。古徳の言葉にも「心地は九識清浄心におき、修行をば六識にせよ」と教えられています。いかにも道理です。この文には日蓮が秘蔵の法門を記しておきました。心して内密にされるがよい。あなかしこ・あなかしこ。 |
ありのままの姿で、使命の道を
「即身成仏」とは、人間以外の何か特別な姿になることではなく、人間としてのありのままの姿で、永遠なる「常楽我浄」の大境涯を現していくことです。
妙法には無量の功徳が具わっています。あらゆる生命は、現実として十界のどの境涯にあろうと、本来は妙法の当体です。ゆえに、たとえ今、地獄の境涯にあったとしても、一念が転換すれば、直ちに妙法の当体としての清浄にして尊極なる生命を、その身のままで、現すことが可能なのです。これが「即身成仏」です。
ただし、“その身のまま”といっても、当然、“苦しみのまま”“怠惰のまま”では成仏とはいえません。あくまでも一念の転換が必要なのであり、そのための戦いが必要なのです。その戦いを誰でもができるように、日蓮大聖人は御本尊をあらわしてくださったのです。
大聖人は、その身に成就された尊極の生命を御本尊としてあらわしてくださいました。その御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、我が生命を覆う無明を打ち破って、妙法と一体の仏界の生命を、我が身に涌現していけるのです。
御本尊を信ずるということは、大聖人の尊極の生命が自分にもあると信ずることであります。それは、大聖人と同じく「法華経の行者」としての信心と実践を貫いていくことに他ならない。師弟不二の信心にして、初めて、自分の生命を曇らせる無明を打ち破っていけるのです。
本抄では、故・上野殿は「法華経の行者」であったがゆえに即身成仏は間違いないと言われています。すなわち、法華経の行者であれば、生きている時は「生の仏」であり、今は「死の仏」である。ゆえに、生前も憂慮すべきものは何もないし、死後も揺るぎない宇宙の仏界にいることは間違いない。“本来ならば、何も嘆くことはないのですよ”という、生命への深い洞察に基づいた励ましのお言葉なのです
現実の世界で勝利者に
そのうえで“分かっていても、つい嘆いてしまうのが凡夫の理です。聖人と言われる人たちだって、特別な時には、やはり嘆くものです”と、包み込むように励まされています。
別れを嘆くことが凡夫の理であるならば、心の及ぶかぎりの故人への追善供養を励んでいきなさいと勧められています。嘆きの心を追善の祈りに変えてきなさい、と言われているのです。
どこまでも門下の心情を大切にされるのが日蓮大聖人です。御手紙の一文字一文字が、尼御前を大きく包んでいきます。大空の如く、大海の如く、広大な心が御本仏の御心です。
ここで「はげみ給うべし」と仰せです。夫に先立たれた嘆きも、妙法の祈りへと昇華させれば、自身を高め、一生成仏へと結実していくための修行になるのです。追善の祈りも、妙法の祈りであれば、立派な仏道修行になるのです。
御本尊の前では、何も飾る必要はない。嬉しいときには嬉しいままに、悲しいときはかなしいままに、ありのままの自分で御本尊を拝していくことです。苦楽ともに思い合わせて、題目を唱えに唱え抜くのです。妙法の広大な力によって、その祈りがすべて仏道修行になります。何があろうと唱題し抜いた人が、真の勝利を得るのです。
何があっても、妙法を唱え、妙法の力用を我が生命に現していける。その人こそが「生の仏」に他ならないのです。
「根底がもう安心しきっている、それが仏なのです」と戸田先生は言われていた。
「病気などで悩んでいた人も、御本尊様を受持することによって、すなわち、安心しきった生命に変わるのだ。根底が安心しきって、生きていること自体が楽しいようになる」「生きていること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか、これが、大聖人様の御境涯を得られたことになるのではないだろうか」
まさに、この境涯を尼御前に教えるために、大聖人は「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」との言葉を引かれている。
「九識」とは、究極の真理である妙法と一体の清浄なる生命です。あらゆる生命に本来具わる仏性と同意です。私たちの生命は、本来、この「九識」という「心の王」「心の本体」が住する都なのです。
この生命本来の「九識心王真如の都」を大聖人は御本尊としてあらわしてくださった。ゆえに、「心地を九識にもち」とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目を唱えていきことに他ならないのです。
「修行を六識に」の「六識」とは、現実世界の現象に応じて働く五感と、その五感を統合する意識のことです。つまり、六識とは現実生活といえる。現実生活を修行の場として、仏界の生命を我が身に確立していくのです。「信心即生活」です。
敷衍すれば、「心地を九識に」「修行を六識に」とは、学会活動そのものであるともいえるでしょう。心の根底を「仏界」に置き、「苦悩に満ちた現実世界」に打って出て、妙法を弘め、人々を救っていくからです。
信心の励ましは、生命と生命の真剣勝負であり、いわば“一念三千と一念三千のぶつかりあい”です。わが生命を、仏界へ仏界へと引き上げていく渾身の戦いです。
大聖人のお手紙を拝して尼御前は、どれほど勇気づけられたことでしょう。
この健気な母は後年、16歳の五男を突然に亡くします。時光もまた、命に及ぶ病に侵されてしまう。しかし、そうした宿命との戦いに際して、尼御前は、どこまでも大聖人を求め抜き、見事に勝利していきます。
仏法の生死感を極めた師匠と共に戦えることが、どれほど、すばらしいことか、師弟共に「生も歓喜」「死も歓喜」の境涯を歩むことが、真の即身成仏の法門なのです。
1507~1507 上野殿御返事top
| 1507 上野殿御返事 文永十一年七月 五十三歳御作 01 鵞目十連・かわのり二帖.しやうかう二十束・給候い畢んぬかまくらにてかりそめの御事とこそ.をもひまいらせ 02 候いしに、をもひわすれさせ給わざりける事申すばかりなし、 こうへのどのだにも・をはせしかば・つねに申しう 03 け給わりなんとなげき・をもひ候いつるに、 をんかたみに御みをわかくして・とどめをかれけるか・すがたのたが 04 わせ給わぬに、 御心さひにられける事いうばかりなし、 法華経にて仏にならせ給いて候とうけ給わりて、御はか 05 にまいりて候いしなり、 又この御心ざし申すばかりなし、 今年のけかちにはじめたる山中に木のもとに・このは 06 うちしきたるやうなる・すみか・をもひやらせ給え、 このほどよみ候御経の一分をことのへ廻向しまいらし候、あ 07 われ人は よき子はもつべかりけるものかなと、 なみだかきあえずこそ候いし、 妙荘厳王は二子にみちびかる、 08 かの王は悪人なり、こうへのどのは善人なり、かれにはにるべくもなし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 09 七月二十六日 日蓮花押 10 御返事 11 人にあながちにかたらせ給うべからず、若き殿が候へば申すべし。 -----― 鵞目十連、かわのり二帖、しょうこう二十束を頂戴しました。鎌倉でお会いしたことはその時限りのことかと思っていたのに、忘れられることがなかったとは、申し述べようもありません。故上野殿が生きておられたら、常に法門などを申し上げ、またお話をうけたまわりたいものと、思い嘆いていたところ、御形見に御身を若くして遺しおかれたのでしょうか。姿も違わないばかりか、お心まで似ておられることは言いようもありません。故上野殿は法華経によって成仏されたと承って、はるばる墓参をしたのです。 またこの度の御志は申し上げようがありません。今年、飢饉のなかで始めたこの身延山中の生活は、木の下に木の葉を敷いたような住み家であり、御推量いただきたい。このほど読んだ法華経の功徳の一分を故上野殿に廻向申し上げました。ああ、人はよき子を持つべきものであると、涙を押さえることができませんでした。妙荘厳王は浄蔵・浄眼の二人の王子に仏道へ導かれました。彼の王は悪人であり、故上野殿は善人であります。彼には似るべくもありません。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 七月二十六日 日 蓮 花 押 御 返 事 人にむやみに語ってはならない。若い殿がおられるから申すのです。 |
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
―――
かわのり
緑藻類カワノリ科の淡水藻。葉状体はアオサに似て扁平で薄くやわらかい。山間の渓流中の岩石上に着生する。
―――
しやうかう
しょうがのことか。生薑、薑、生姜などと書く。はじかみとも言う。ただし、はじかみと読んで〝椒〟の字をあてると山椒、〝薑〟の字をあてればショウガの意である。
―――
妙荘厳王
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。
―――――――――
本抄は、「七月二十六日」と日付があるだけで年号はないが、「今年のけかちにはじめたる山中に木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみか・をもひやらせ給え」とあることから、日蓮大聖人が身延へ入山された文永11年(1274)の御消息であることがわかり、文永11年7月26日に認められたものである。
宛名も「御返事」とあるだけで明らかではないが「こうへのどのだにも・をはせしかば」「こうへのどのは善人なり」等と述べられていることから、駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市)の地頭・故南条兵衛七郎の一族に与えられたことは明らかである。
問題は具体的にだれであるかであるが、南条兵衛七郎の子息・七郎次郎時光に与えられたともされているが、時光に与えられた他の御消息では亡き兵衛七郎のことを「故親父は武士なりしかども」(1508-13)、「慈父過去の聖霊」(1530-02)、「時光が故親父」(1550)と呼ばれている。それに対し本抄では「こうへのどの」「ことの」と呼ばれていることや「あわれ人はよき子はもつべかりけるものかな」等の御文の意から時光の母である故南条兵衛七郎の後家尼御前に与えられた御返事と考えられる。
本抄をいただく半月前の7月11日に、南条家より身延の大聖人のもとへ御供養の品々が届けられており、それに対して大聖人より「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり……いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし」(1506-08)等と後家尼御前に宛てた懇切な御返事をいただいている。その御礼のために、子息の時光が御供養の品をたずさえて身延へ参詣し、大聖人にお目通りして、その折に母尼へいただいたのが本抄であろうと推される。ただ、7月11日のお手紙は文永2年(1265)のものとも考えられており、そうだとすれば本抄は、大聖人が身延へ入山されたことを聞いた尼が、子の時光に御供養を持たせたことへの返書ということになろう。
なお、追伸の「人にあながちにかたらせ給うべからず、若き殿が候へば申すべし」との御文は、現存する御真筆にはみられない。他の御消息の追伸の御文が、後に本抄のものとされたのであろうか。したがって、この御文によって本抄を時光にあてられたものとすることはできない。
時光が大聖人にお目通りしたことは「をんかたみに御みをわかくして・とどめをかれけるか・すがたのたがわせ給わぬに、御心さひにられける事いうばかりなし」との御文からうかがうことができる。なお「御とのの御かたみもなしなんとなげきて候へば・とのをとどめをかれける事よろこび入つて候」(1510-06)と同趣旨の御文もある。
大聖人は「かまくらにてかりそめの御事とこそ・をもひまいらせ候いしに、をもひわすれさせ給わざりける事申すばかりなし」と、南条家の人々の信心、大聖人との結縁が、兵衛七郎の死去によってとだえたものと思われたのに、身延御入山を機に復活したことを最大にお喜びになっているのである。
兵衛七郎が念仏を捨てて大聖人の信徒になったのは、文永元年(1264)以前であり、大番役等で鎌倉に滞在していた時期のことであったと思われる。その折、後家尼御前も時光も、ともに大聖人にお目通りしているとも考えられる。大聖人が兵衛七郎の人柄や求道の姿勢に深い信頼と期待を寄せられていたことは、唯一の賜書である南条兵衛七郎殿御書から拝することができる。だからこそ、その死去を心からいたみ、上野郷まで鎌倉からわざわざ足を運んで墓参され、懇ろな追善供養をなされたのであろう。
そのことは、「故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふれて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひ しに・よわひ盛んなりしに・はかなかりし事わかれかなしかりしかば・わざとかまくらより・うちくだかり御はかをば見候いぬ」(1510-02)との御文からも知ることができる。それだけに、幼少だった時光が立派に成長して、父の信心を継ぎ、大聖人のもとへはせ参じたことを、心から喜ばれたことと拝されるのである。このとき、時光は16歳だった。
なお、大聖人が参拝された南条兵衛七郎の墓は、現在、下之坊の西側にあたる高土と呼ばれる地に、後家尼御前、時光の墓とともに現存している。
時光が参詣した身延山中の庵室は、4年後の建治3年(1277)に「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが・やうやく四年がほど・はしらくちかきかべをち候へども……今年は十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ」(1542-01)と述べられているように、一時しのぎに仮に建てた粗末なものだったようで、そのために厳しい身延の風雪に耐えず四年後には早くも大きく破損しているのである。大聖人が「木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみか」と仰せになっていることからも、その庵室の簡素なありさまをおしはかることができる。
大聖人は、故兵衛七郎の廻向のために読経されたことを述べられたうえ、「あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候いし」と、時光が正法信仰を継いだことこそ父母にとって最高の孝養となると喜ばれている。そして、法華経の妙荘厳王本事品に説かれる妙荘厳王は浄蔵・浄眼の二人の王子に導かれて仏道に入ったが、故南条兵衛七郎は生前に正法を信じて善根を積んだうえ、今その子息・時光が正法をもって廻向しているゆえに、「かれにはにるべくもなし」とその功徳が妙荘厳王に比すべくもなく大きいことを述べられ、時光や後家尼が亡き兵衛七郎の意志を継いで正法信仰を貫いてきたことを称賛されているのである。
なお、大聖人は四条金吾に対しても「法華経第八・妙荘厳王品と申すには妙荘厳王・浄徳夫人と申す后は浄蔵・浄眼と申す太子に導かれ給うと説かれて候、経王御前を儲させ給いて候へば現世には跡をつぐべき孝子なり後生には又導かれて仏にならせ給うべし」(1123-01)と述べられ、後生のために子孫に正法を信受させることの大切さを教えられている。
1508~1510 上野殿御返事(土餅供養御書)top
1508:01~1508:12 第一章 末法の法華経の行者供養の功徳示すtop
| 1508 上野殿御返事 文永十一年十一月 五十三歳御作 与南条七郎次郎 01 聖人二管・柑子一篭・蒟蒻十枚・薯蕷一篭・牛房一束・種種の物送り給び候。 02 得勝・無勝の二童子は仏に沙の餅を供養したてまつりて・閻浮提三分が一の主となる所謂阿育大王これなり、儒 03 童菩薩は錠光仏に五茎の蓮華を供養したてまつりて仏となる・ 今の教主釈尊これなり、 法華経の第四に云く「人 04 有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて 無数の偈を以て讃めん、 是の讃仏に由るが故に無量 05 の功徳を得ん、 持経者を歎美せんは其の福復彼れに過ぎん」等云云、 文の心は仏を一中劫が間供養したてまつる 06 より、 末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う、 たれの人 07 のかかるひが事をばおほせらるるぞと疑いおもひ候へば・ 教主釈尊の我とおほせられて候なり、 疑はんとも信ぜ 08 んとも御心にまかせまいらする、 仏の御舌は或は面に覆ひ・ 或は三千大千世界に覆ひ或は色究竟天までに付け給 09 う、過去遠遠劫よりこのかた 一言も妄語のましまさざるゆへなり、 されば或経に云く「須弥山はくづるるとも・ 10 大地をばうちかへすとも仏には妄語なし」ととかれたり、 日は西よりいづとも・大海の潮はみちひずとも・仏の御 11 言はあやまりなしとかや、 其の上此の法華経は他経にもすぐれさせ給へば・ 多宝仏も証明し諸仏も舌を梵天につ 12 け給う、一字一点も妄語は候まじきにや。 -----― 聖人二管、柑子一篭、蒟蒻十枚、薯蕷一篭、牛房一束、種種の物をお送り戴いた。 得勝、無勝の二人の童子は、仏に砂の餅を供養して一閻浮提の三分の一の主となった。阿育大王といわれた王がそれである。儒童菩薩は錠光仏に五茎の蓮華を供養して仏になった。今の教主釈尊がそれである。 法華経第四の巻の法師品に「人があって仏道を求め、一劫の間合掌して我が前に在って無数の偈を唱えて讃歎すれば、この仏を讃えたことによって無量の功徳を得るであろう。この経を受持する者を歎美する者は、その福はこのように仏を讃えた者よりも勝れるであろう」等とある。文の心は仏を一中劫の間供養するよりも、末代悪世にあって人が強く憎む法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。 だれがそのような僻事を述べているのかと疑いに思ったら、教主釈尊が自ら仰せになったのである。それを疑おうと信じようとあなたの御心におまかせする。仏の御舌はあるいは顔を覆い、あるいは三千大千世界に覆い、あるいは色究竟天にまでも付けられるほどである。過去遠々劫よりこのかた、仏の御言葉に一言も妄語がないゆえである。そのため、ある経に「須弥山が崩れるとしても、大地がくつがえるとしても、仏には妄語はない」と説かれている。 日が西より出ることがあっても、大海の潮の干満がなくなっても、仏の御言葉に誤りはないという。そのうえ、この法華経は他の経にも勝れて真実を説いている経なので、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけて証明されているのである。一字一点も妄語があるはずはない。 |
聖人
清酒のこと。これにたいし濁酒を賢人という。魏志に「平日酔客酒を謂いて、清めるを聖人と為し、濁れるを賢人と為す」とある。
―――
柑子
ミカン科の落葉樹。ミカンよりやや小型、表面なめらかで光り、晩秋熟すると黄色になる。皮が薄くむきやすく、肉は薄色で多汁だが甘みに比して酸みが強い。
―――
得勝・無勝
得勝童子、無勝童子のこと。得勝童子は徳勝童子とも書く。二人は王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂の餅を供養した。徳勝が供養し、無勝は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――
閻浮提
全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵語アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と訳す。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、その慈悲の精神を施政に反映するとともに、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
―――
儒童菩薩
釈尊の因位の修行をしたときの名。太子瑞応本起経巻上に説かれている。五茎の蓮華を五百の金銭で買い取り、錠光仏に供養したという。
―――
錠光仏
燃燈仏のこと。瑞応経・大智度論などにある。定光菩薩ともいう。日月燈明仏の八人の王子のうち最後に仏になった者が、燃燈仏である。釈尊が過去世に因位の修行中、この仏から未来成仏の記別を受けた。
―――
教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
―――
一劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
持経者
経典を受持・護持する者。正法を信じ、身口意の三業にわたって精進する者のこと。末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する者をさす。
―――
三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
色究竟天
阿迦尼吒天・有頂天ともいう。色界十八天のひとつ。色界四禅天の最頂であることから色究竟という。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
諸仏
十方の諸仏のこと。十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――――――――
本抄は、文永11年(1274)11月11日、日蓮大聖人が身延で認められ、南条七郎次郎時光に与えられた御消息である。御真筆は存していないが、日興上人の御写本が大石寺に存している。
内容は、はじめに、仏への供養の功徳を得勝・無勝童子と儒童菩薩の故事を挙げて述べられたうえで、法華経を引いて末法の法華経の行者を供養する功徳が仏に供養する功徳よりもはるかに勝ることを示されている。
つぎに、時光が父兵衛七郎亡き後の南条家の家督を継いだだけではなく、正法信仰を継承したことを喜ばれ、父子ともに霊山に生まれるであろうと述べられている。そして、日本一国を救わんとの大慈悲の諌暁を幕府が用いないためにやむなく身延へ入られた御心境を明かされ、蒙古の襲来による民衆の苦悩を思いやられて、念仏・禅・真言の諸宗が国を亡ぼす悪法であることを示され、とくに真言による調伏がかえって滅亡を早めると断ぜられている。
文永11年(1274)11月といえば、蒙古の大軍が北九州に襲来し、壱岐・対馬を侵略したうえ、筑紫に上陸して日本軍を撃破するという文永の役の直後だった。10月20日に博多湾から上陸した蒙古軍は、その夜の暴風雨によって軍船多数が転覆したり破損したために撤退しているが、その報はまだ身延の大聖人のもとへは届いていなかったのであろう。しかし、10月初めに蒙古軍に侵略された壱岐・対馬の惨状は、当時の人々にとって周知のことだったことが「皆人の当時のいきつしまのやうにならせ給はん事・おもひやり候へば・なみだもとまらず」の御文からうかがうことができる。圧倒的な蒙古軍の猛威の前に、日本中が恐怖におののいているとき、大聖人は当時流行していた念仏・禅・真言の諸宗こそ、一国滅亡を招く悪法であることを、若き時光に教えられているのである。
得勝・無勝の二童子は仏に沙の餅を供養したてまつりて
本抄の初めに、大聖人は、釈尊に対して砂の餅を供養した得勝童子がその功徳によって阿育大王と生まれたとの故事や、釈尊が過去の因位の修行において儒童菩薩として定光菩薩に蓮華を供養した功徳を述べられたうえで、法華経法師品の文を示され、仏を一中劫の間供養するよりも、悪世末法において経の如くに迫害にあっている法華経の行者、すなわち日蓮大聖人を供養する功徳のはるかに勝れていることを述べられて、時光の供養の志をたたえられているのである。
同趣旨の御文は、他の御抄にも多くみられる。「法華経第四法師品に云く……文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれて候、まことしからぬ事にては候へども・仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、其の上妙楽大師と申す人・此の経文を重ねて・やわらげて云く『若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん』等云云、釈の心は末代の法華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり」(1324-02)。
「仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき・一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき……かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば・ただ土の餅一・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし……況や法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり」(1435-06)。
「此の経の行者を一度供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫が間・無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給いて候」(1439-15)。
「付法蔵経と申す経にはいさごのもちゐを仏に供養しまいらせしわらは百年と申せしに一閻浮提の四分が一の王となる所謂阿育大王これなり、法華経の法師品には而於一劫中と申して一劫が間・釈迦仏を種種に供養せる人の功徳と・末代の法華経の行者を須臾も供養せる功徳と・たくらべ候に其福復彼に過ぐと申して法華経の行者を供養する功徳すぐれたり……されば仏を供養する功徳よりも・すぐれて候なれば仏にならせ給はん事疑いなし」(1457-01)。
ではなぜそのように末法の法華経の行者を供養する功徳が、釈尊を供養する功徳に勝るのかといえば、久遠元初の自受用身即末法の御本仏たる日蓮大聖人と、垂迹化他の仏たる釈尊との間に、厳然たる勝劣があるからである。
日寛上人は、久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身たる本果の釈尊との相違を「一には謂く、本地と垂迹。二には謂く、自行と化他。三には謂く、名字凡身と色相荘厳。四には謂く、人法体一と人法勝劣。五には謂く、下種の教主と脱益の化主云云」と明かされ、「問う、二仏の供養に浅深有りや。答う、功徳の勝劣猶天地の如し」と述べられている。仏に勝劣がある以上、その仏を供養する功徳に勝劣があることは当然なのである。
大聖人は、法師品の文を引かれたうえで、末法の法華経の行者を供養する功徳が大であるのは、「日は西よりいづとも・大海の潮はみちひずとも・仏の御言はあやまりなし」と絶対に妄語のない仏の金言であること、しかも法華経は多宝仏をはじめ諸仏も証明していることから、絶対に誤りがないことを示されて、時光の確信を促されている。
1508:13~1509:03 第二章 時光が親父の跡を継ぐを喜ぶtop
| 13 其の上殿はをさなくをはしき、故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なり 14 けるよしうけ給わりき、 其の親の跡をつがせ給いて又此の経を御信用あれば・ 故聖霊いかに草のかげにても喜び 15 おぼすらん、あわれいきてをはせば・いかにうれしかるべき、 此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいり 1509 01 あわせ給うなり、 いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信じさせ給へば・同じところに生れさせ給うべし、 02 いかなれば他人は五六十までも親と同じしらがなる人もあり、 我がわかき身に親にはやくをくれて 教訓をもうけ 03 給はらざるらんと・御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候はね。 -----― そのうえ、殿は幼少であった。亡き父君は武士であったが、強盛に法華経を信仰されていたので、臨終正念であったと承っている。その親の跡をつがれて、また、この経を信仰されているので、亡き聖霊が、どんなにか草葉の陰で喜ばれていることであろう。もしも生きておられたならばどれほどうれしく思われることであろう。この経を受持する人々は、他人であっても同じく霊山へ参ってまた会うことができるのである。まして故聖霊も殿も同じく法華経を信仰されているのである。必ず同じ所に生まれられるであろう。他人は五十・六十になり親子で同じ白髪になる人もいるのに、自分は若い身で親に早く別れ、いろいろ教えてもらえなかったというあなたの御心中を推し量ると涙を押さえることはできない。 |
臨終正念
死に臨んで、三毒の邪念を起こすことなく、成仏を信じて疑わないこと。
―――
霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――――――――
時光の供養の功徳を称えられた後、大聖人は、時光が故南条兵衛七郎の嫡子として家督を継いだのみでなく、正法信仰をも受け継いだことは、最高の孝養となり、父子ともに必ず霊山に生ずるであろうことを述べられている。
父の南条兵衛七郎は、文永元年(1264)ごろ、鎌倉において大聖人とお会いして入信したと思われるが、文永2年(1265)3月8日に死去しており、そのとき時光は7歳だった。「かまくらにてかりそめの御事とこそ・をもひまいらせ候いしに」(15070-01)と述べられていることからも、時光が父母とともに鎌倉において大聖人にお目通りしていると考えられる。さらに、大聖人が兵衛七郎の死去を悼んで鎌倉より上野郷まで下向して墓参されたときには、当然お会いしていたことであろう。
その折の幼かった時光が、立派に成長した姿をご覧になった大聖人は「すがたのたがわせ給わぬに、御心さひにられける事いうばかりなし」(1507-03)と、その姿とともに心も父に似ていることを喜ばれているのである。
「故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」と仰せられているのは、武士は人と殺し合いをすることも当然あり、仏法上からいえば悪業を作ることを免れない。しかし、兵衛七郎は純真に法華経を信じたがゆえに臨終正念であったということである。
文永元年(1264)12月13日の南条兵衛七郎殿御書に「御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず・但心あらん人は 後世をこそ思いさだむべきにて候へ、又後世を思い定めん事は私にはかなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候」(1493-01)等とあり、こうした慈悲あふれる御指導によって、重い病の中で後生を願い、信仰を貫くことができて、臨終も安らかだったのであろう。
兵衛七郎亡き後は、後家尼御前がおおくの子女を養育しながらその家と所領を守り、長男の七郎太郎が死去したこともあり、次男の時光を、成長とともに総領として家督を継がせたのであろう。
大聖人は、父の兵衛七郎が生きていたならどれほどか時光の成長を喜ぶことであろうかと思いやられ、また親とともに長生きする者も多いのに、早く父親と死別して訓育を受けられなかった時光の心中を推し量られながら、同じく正法を信ずる時光父子が、必ず霊山に生まれて再会できることを教えて、信心を励まされているのである。
「我がわかき身に親にはやくをくれて教訓をもうけ給はらざるらん」とは、時光が若くして地頭となり、一家を背負う立場になったことについて、もし父が長生していたならば、煩雑な領地の問題、幕府のもとでの人間関係や慣習などを父から教えてもらうことができたのに、独力でそれらをこなしていかなければならない苦悩を思いやられているのである。
1509:04~1510:05 第三章 念仏・禅・真言を亡国の悪法と明かすtop
| 04 抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども・日本国の上下万人・一同に国のほろぶべきゆへにや用いられざ 05 る上・度度あだをなさるれば力をよばず山林にまじはり候いぬ、 大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用 06 いあらば・いかになんど・あはれなり、皆人の当時のいきつしまのやうにならせ給はん事・おもひやり候へば・なみ 07 だもとまらず。 -----― そもそも日蓮は、日本国を救おうと深く思ったけれども、日本国の上下万人は一同に、この国が亡ぶためであろうか、用いられないうえにたびたび迫害を加えられたので力が及ばず、山林に入ったのである。大蒙古国より攻め寄せて来たと聞いたが、申したことを用いられていたならば、どうだったであろうかと、あわれに思う。すべてが、今の壱岐・対馬のようになられるであろうことをおもいやると、涙が止まらない。 -----― 08 念仏宗と申すは亡国の悪法なり、 このいくさには大体・人人の自害をし候はんずるなり、善導と申す愚癡の法 09 師がひろめはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。 -----― 念仏宗というのは亡国の悪法である。この戦いで、多くの人々が自害をしたようである。善導という愚癡の法師が弘め始めて自害してしまったために、念仏をよくよく称えると自害をしたくなる心が起きてくるのである。 -----― 10 禅宗と申し当時の持斎法師等は天魔の所為なり、 教外別伝と申して神も仏もなしなんど申すものくるはしき悪 11 法なり。 -----― 禅宗といい、当時の持斎法師等は天魔のしわざである。教外別伝といって神も仏もないなどという物狂わしい悪法である。 -----― 12 真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候いしを・誑惑して法華経にも勝るなんど申して多くの人人・大師僧正なん 13 どになりて日本国に大体充満して 上一人より頭をかたぶけたり、 これが第一の邪事に候を昔より今にいたるまで 14 知る人なし、 但伝教大師と申せし人こそしりて候いしかども・ くはしくもおほせられず、さては日蓮ほぼこの事 15 をしれり、 後白河の法皇の太政の入道にせめられ給いし、 隠岐の法王のかまくらにまけさせ給いし事みな真言悪 16 法のゆへなり、 漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う、 この悪法かまくらに下つて当時かまくらにはや 17 る僧正法印等は是なり、 これらの人人このいくさを調伏せば百日たたかふべきは十日につづまり・ 十日のいくさ 18 は一日にせめらるべし。 -----― 真言宗という宗は、本は下劣の経であったのを、世間をたぶらかして法華経に勝るなどといって、多くの人人が大師・僧正などになりすまして日本国に大体充満して、上一人からみなが頭を下げるようになってしまった。これが第一の邪事であることを昔から今にいたるまで知る人はいない。ただ伝教大師という方がこのことを知っていたけれども、くわしくは述べられなかった。そして日蓮はほぼこのことを知っている。後白河法皇が太政の入道に攻められたのも、隠岐の法王が鎌倉に敗れたことも、みな真言悪法のためなのである。中国にこの法が渡って玄宗皇帝が亡びている。この悪法が鎌倉に下って、いま、鎌倉に流行っている。僧正法印などがこれである。これらの人々が、この戦を調伏するならば、百日戦うところが十日に縮まって敗れ、十日の軍は一日に攻め落とされるに違いない。 -----― 1510 01 今始めて申すにあらず二十余年が間・音もをしまずよばはり候いぬるなり、あなかしこ・あなかしこ、この御文 02 は大事の事どもかきて候、 よくよく人によませて・きこしめせ、人もそしり候へ・ものともおもはぬ法師等なり、 03 恐恐謹言。 04 文永十一年太歳甲戌十一月十一日 日 蓮 花 押 05 南条七郎次郎殿御返事 -----― このことは今初めていうのではない。立宗以来二十余年の間、音も惜しまず叫んできているのである。あなかしこ、あなかしこ。この御文には大事のことを書き記してある。よくよく人に読ませて、お聞かせなさい。人が謗るであろうが、我等日蓮一門は、それらをものとも思わぬ法師等である。恐恐謹言。 文永十一年太歳甲戌十一月十一日 日 蓮 花 押 南条七郎次郎殿御返事 |
大蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
いきつしま
朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
―――
念仏宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
―――
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
―――
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
持斎法師
斎戒を持った法師。法師とは僧侶のこと。斎は心の不浄を清めること、戒は身の過ちを戒めること。斎戒を持つ諸宗の僧侶のことをいう。
―――
教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
―――
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
大師
①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。
―――
僧正
僧綱の最高位。日本では推古天皇32年(0624)、観勒が任ぜられたのが始まりで、僧綱の上位者として、僧団から推挙された者が、任命され、僧尼を統制した。その後、大・正・権の三級に分けられた。
―――
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
後白河の法皇
大治2年(1127)~ 建久3年(1192年)。在位は久寿2年(1155)~ 保元3年8(1158))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
―――
太政の入道
(1118~1181)。平清盛のこと。太政大臣に任ぜられ入道したのでいう。平安時代末期の武将。忠盛の長子。法号は浄海。大相国(太政大臣の唐名)と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て対抗勢力が消滅すると著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや、反平氏勢力の一掃を図った。「国をおさへ」とは、治承3年(1179)後白河法皇を幽閉して、独裁政治を行ったこと。だが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ、熱病で苦悩のうちに亡くなった。
―――
隠岐の法王
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
―――
かまくら
①神奈川県鎌倉市のこと。②鎌倉幕府のこと。
―――
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
―――
僧正法印
真言僧・加賀法印のことか。阿弥陀堂法印ともいい、文永11年(1274)4月、祈雨を行って大悪風が吹いたことが「報恩抄」(0317)及び「種種御振舞御書」(0921)に述べられている。
―――
調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
―――――――――
大聖人は、つぎに鎌倉を去って身延へ入られた御心境を述べ、「立正安国論」で警告された他国侵逼難が現実となり、蒙古の大軍が九州に襲来したことを指摘され、日本一国が壱岐・対馬のように蹂躙されて民衆が大苦悩に沈むことを憐れまれている。
身延御入山の理由については、「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ、其の上は国主の用い給はざらんに其れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたすかるまじ人も又仏になるべしともおぼへず」(0358-04)等の御文から、大聖人のお心をうかがうことができる。
大聖人は、佐渡から鎌倉へ帰られた直後の文永11年(1274)4月8日、幕府において平左衛門尉等と面会して第三回目の諌暁を行われた際、蒙古襲来の時期を「今年は一定なり」(0921-03)と断言され、「それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、たすからんとをもひしたうならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頚を切つてゆいのはまにかくべし」(1461-01)と、謗法の諸宗を禁ずるよう強く諌められている。しかし、幕府はそれを用いようとはせず、大聖人が身延へ入られてから4ヵ月後の同年10月初めに、予言どおり蒙古の大軍が九州北部へ殺到した。そのために大聖人は「申せし事を御用いあらば・いかになんど・あはれなり」と嘆かれているのである。
元の世祖フビライの命を受け、高麗の合浦を10月3日に出航した蒙古軍は、10月5日に対馬に上陸して守将の宗助国の手勢を全滅させ、14日には壱岐に侵攻して守護代の平景隆と配下の軍勢を滅ぼしている。そこで行われた殺戮や破壊がいかに激しいものだったかは、翌建治元年(1275)5月の御消息で「去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗惣馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生取にし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壹岐によせても又是くの如し」(1329-16)と述べられていることからもうかがえるのである。
壱岐・対馬における敗戦と、その後の民衆の悲惨な状況は、一か月後の当時には身延の大聖人のもとに伝えられており、時光も知っていたからこそ、「皆人の当時のいきつしまのやうにならせ給はん事・おもひやり候へば・なみだもとまらず」と仰せになっているのであろう。幕府はもとより、日本国の上下万人が大聖人の正法正義に背いているためとはいえ、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758-04)とされる御本仏にとって、民衆の苦悩を眼前にして涙を禁じえない思いであられたのである。
そして時光に対し、念仏・禅・真言の悪法がはびこることにより、日本が亡国の道をたどるであろうと教え、正法へのより深き信を起こすよう促されている。
念仏と申すは亡国の悪法なり……
はじめに、念仏宗を亡国の悪法とされているのは、「立正安国論」において三災七難の起こる根源を念仏の流布にあると指摘され、「是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。傍を好んで正を忘る、善神怒を為さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」(0024-01)と破折されて、他国侵逼・自界叛逆の二難を防ぐには念仏の悪法を禁ずる以外にないと強く諌めたにもかかわらず、幕府がそれを用いずに内乱と蒙古襲来を招いたためであろう。そして「このいくさには大体・人人の自害をし候はんずるなり……念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」と、蒙古との合戦で敗れたとき多くの人々が自ら命を断ったことを挙げられ、それは念仏が自害の心を起こさせるからであると、その害毒を指摘されている。壱岐の守護代・平景隆が、上陸した蒙古軍に応戦して敗れると館に退いて自害したなど、戦いに利がないとみるや、すぐに諦めて自殺するという例は多かったのである。
その理由を「善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに」と仰せのように、中国浄土教の祖として念仏を流布した善導は、浄土往生を願って自害している。
その事実を大聖人は「一天四海善導和尚を以て善知識と仰ぎ貴賎上下皆悉く念仏者と成れり……三世諸仏の大怨敵と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の科甚重し大罪報の至り無間大城の業因なり、之に依つて忽に物狂いにや成けん所居の寺の前の柳の木に登りて自ら頚をくくりて身を投げ死し畢んぬ邪法のたたり踵を回さず冥罰爰に見たり、最後臨終の言に云く此の身厭う可し諸苦に責められ暫くも休息無しと即ち所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ」(0099-06)と指摘されたうえ、「而も流を酌む者は其の源を忘れず法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し云云浄土門に入つて師の跡を踏む可くば臨終の時善導が如く自害有る可きか、念仏者として頚をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何」(0100-03)と念仏宗を破されている。
現実の苦悩に満ちた社会を穢土として厭い、弥陀の名を称えることによって浄土に往生ができると説く念仏宗の教義を信ずるなら、苦境に陥ったときには自害して浄土に生まれようと願う心が出てくることは当然といえるであろう。しかし、実際には苦悩のない浄土に生ずるどころか、現身に無間地獄に堕ちる業因となることを、念仏の祖たる善導が自ら示しているのである。日本の念仏信仰も法然が善導の著・観経疏によって自ら浄土宗を開いたものなので、善導の末流にあたり、そこから大聖人は、念仏者として頸をくくらなければ師である善導に背くことになろうと皮肉られたものであろう。
つぎに、禅宗は天魔の所為であると断じられ、教外別伝とするその教義から「神も仏もなしなんど申すものくるはしき悪法」と弾呵されている。
禅宗では、大梵天王問仏決疑経の「仏の言く吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相・微妙の法門有り、文字を立てず教外に別伝し摩訶迦葉に付嘱するのみ」との文によって、釈尊は真実の法を迦葉一人に教えの外に伝えたとしている。しかし、その経はインドから中国へ伝えられた経典の記録に全く名の見えない偽経であるうえ、それを根拠にするというのは教外別伝と主張することと矛盾し自語相違となる。
大聖人は「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、涅槃経に云く『若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり』云云……教外と号し剰さえ教外を学び文筆を嗜みながら文字を立てず言と心と相応せず豈天魔の部類・外道の弟子に非ずや、仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」(0152-17)と禅宗の邪義を破折されている。教外別伝と称して仏説を無用とすることから、禅宗は仏法を破壊し滅ぼそうとする天魔の所為であり、神も仏も否定する狂気の悪法となるのである。
ゆえに大聖人は「是を以て漢土に禅宗興ぜしかば其の国忽ちに亡びき本朝の滅す可き瑞相に闇証の禅師充満す、止観に云く『此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり』云云」(0154-01)と、禅宗を亡国の悪法とされている。
真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候いしを……
真言宗については、大日経等の真言の三部経を法華経より勝れているとして人々を迷わせたことが第一の邪義であり、それを信じた結果として後白河法王が平清盛との権力抗争に敗れ、後鳥羽上皇が承久の乱で鎌倉幕府の執権・北条泰時の軍に敗れたのであるとされ、蒙古調伏に真言の悪法を用いればかえって滅亡を早めるだろう、と断言されている。
大日経と法華経の勝劣については、諸御抄に詳しく述べられ、真言の邪義を破されている。「真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし……所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経・此の経に分明なり此に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君・或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻見なり」(0371-03)。「問う大日経と法華経と何れか勝れたるや、答う法華経は或は七重或いは八重の勝なり大日経は七八重の劣なり、難じて云く驚いて云く古より今に至るまで法華より真言劣ると云う義都て之無し之に依つて弘法大師は十住心を立てて法華は真言より三重の劣と釈し給へり覚鑁は法華は真言の履取に及ばずと釈せり打ち任せては密教勝れ顕教劣るなりと世挙つて此を許す七重の劣と云う義は甚珍しき者をや……法華は一切経の中に勝れたり此其一、……無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶甚深なり然れども法華の序分にして機もいまだなましき故に正説の法華には劣るなり此其二、……涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り醍醐味なるが故に華厳経には勝たり此其三、……華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ涅槃経の醍醐味には劣れり此其四、……大般若経は華厳経には劣り蘇悉地経には勝ると見えたり此其五、……蘇悉地経は大般若経には劣り大日経金剛頂経には勝ると見えたり此其六、此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申すなり法華の本門に望むれば八重の劣とも申すなり」(0134-02)。
このように法華経よりはるかに劣る大日経を、弘法大師は「大日経第一、華厳経第二、法華経第三」とし、法華経は三重の劣と釈した邪義を一国に弘めたのである。
それに対して、伝教大師は「大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・涅槃等の例とせり、而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわずらはしきに依りてや真言・天台の二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給わざりけるか、但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり……法華経に大日経は劣るとしろしめす事・伝教大師の御心顕然なり」(0304-11)と述べられているように、真言の誤りを明白に知ってはいたが、明らかに説かなかったのである。
そのため、天台法華宗は、第三代座主慈覚・第四代座主智証のときに、理同事勝という邪義にたぶらかされて「大日経第一・法華経第二・諸経第三」と立てるようになり、邪法に堕落してしまった。大聖人は、後白河法皇や後鳥羽院上皇が、真言の邪義に染まった比叡山を頼り、真言で祈禱したことによって、臣下の平清盛や北条義時に敗れて権力を奪われるという、日本の歴史上かつてない事態が起きたのであると指摘され、真言亡国の現証とされている。
また、大聖人は、平清盛の一門が関東で旗揚げした源頼朝を調伏するため、比叡山に命じ真言の祈禱したために敗れて安徳天皇をはじめ一門が西海に身を投げて滅びたこと、承久の乱で後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じ、比叡山等で真言の祈禱を行じたために大敗して、三上皇が流罪されるとうい未曾有の下剋上の事態を招いたことを先例としてあげられて「今度は第三度にあたるなり。日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人と説けりと申すなり」(0373-07)とも仰せになっている。
大聖人は、念仏・禅・真言の悪法が、人々を不幸にするのみでなく、自界叛逆・他国侵逼の大難を招き寄せて、国を亡ぼすことになろうと、建長五年に立教開宗されてから今日まで二十一年の間、上下万人に強く訴えつづけてこられたことを述べられ、蒙古襲来によって亡国が眼前に迫った今こそ、「よくよく人によませて・きこしめせ」と、人々を正法へ覚醒させるべき時とされているのである。
そして、いかに誹謗し迫害されようとも、歯牙にもかけず、ただひたすら苦悩の民衆を救わんとの決意を示されて本抄を終えられている。
1508~1510 上野殿御返事(土餅供養御書)2011:3月号大白蓮華より。先生の講義top
「宗教革命の魂」継ぐ 誉れの青年たれ
「創価学会は、宗教界の王者である!」
53年前(1958)の3月16日。この日、後継の青年に印綬を託さんと、恩師は獅子吼されました。この凛然たる宣言は、今も私の胸奥に轟いています。
青年には、新たな価値を創造する力があります。末踏の荒野を開拓する情熱の魂があります。そして、地涌の使命を持つ青年が生き生きと躍り出る限り、広宣流布の運動は永遠に発展し続けることは間違いありません。
私は、毎日が「3・16」との決意で、走り続けてきました。戸田先生の構想は、すべて実現しました。今、いささかも悔いはありません。
戸田先生が青年に託された「広宣流布の印綬」とは一体何か、それは、「宗教革命の炎のバトン」にほかなりません。
宗教は何のために存在するのか。それは、民衆の幸福を実現するため、平和創出のためにある。 この信念で立ち上がったのが、牧口先生と戸田先生の師弟です。
牧口会長は、創立以来、宗教革命を断行してきました。戦前の機関紙「価値創造」に収録された「創価教育学会の目的」「生活法の革新」「哲学の革新」など一切の根底に「宗教革命」が必要であると訴えています。そして、個人の生活における現証を基準にすれば、必ず宗教革命は証明できると明言されました。
戸田先生も、創価学会のなすべき使命は、民衆を幸福にする宗教革命であるとして、戦後の荒廃した時代に、地球上の一切の悲惨と不幸をなくすために一人立ち上がりました。そして、宗教革命は即、一人一人の人間革命によって実現できることを教えられました。
牧口先生も戸田先生も、「一人一人の生活の変革」「民衆の幸福」「社会の建設」を見失った諸宗教に対しては、鋭く呵責を繰り広げ、「人間のための宗教」を復興しようと、対話の波を起こし続けました。その学会の魂の勝利宣言が、「宗教界の王者」という言葉に結実したのです。「王者」とは、全民衆の幸福を担う責任感から生じた表現です。
戸田先生は、「3:16」の儀式の後も、宗門に巣くう邪悪に対して、「追撃の手をゆるめるな!」と厳命されました。恩師は最後の最後まで、人間の精神性を蝕む魔性との対決を貫かれたのです。
創価学会の魂。 それは、「民衆のための宗教」を弘通された日蓮大聖人の法戦を、そのまま継承する大闘争です。そして、その主役が青年であるべきことは言うまでもない。その意味から、今月は、若き南条時光に対する大聖人の御指導を拝してまいりたい。
| 03 法華経の第四に云く「人 04 有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて 無数の偈を以て讃めん、 是の讃仏に由るが故に無量 05 の功徳を得ん、 持経者を歎美せんは其の福復彼れに過ぎん」等云云、 文の心は仏を一中劫が間供養したてまつる 06 より、 末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う -----― 法華経の第四の巻法師品に「人があって仏道を求め、一劫の間合掌して我が前に在って無数の偈をえて讃歎すれば、この仏を讃えたことによって無量の功徳を得るであろう。この経を受持する者を歎美する者は、その福はこのように仏を讃えた者よりも勝れるであろう」等とある。文の心は仏を一中劫の間供養するよりも、末代悪世にあって人が強く憎む法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。 |
若き後継の友への深き期待
「上野殿御返事」は、文永11年(1274)11月に、南条時光の御供養に対する御礼の返書です。
大聖人が佐渡流罪の法難を勝ち越え、鎌倉に帰られた後、身延に入山されたのが、この年の5月です。2ヵ月後には早くも、大聖人のもとへ若き後継の青年が訪れました。南条時光その人です。
この時、時光は16歳、父・南条兵衛七郎を七歳の時に亡くし、その後、大聖人が墓参に来られた際に、お会いできたと推定されていますから、約9年ぶりとなります。
時光の成長した姿を、大聖人はそれはそれはめでられています。亡くなられた父上の姿が、身を若くしてそのまま留められているようだ。信心の志も似ておられる、と綴られています。
大聖人は、時光の父、兵衛七郎の在りし日の人柄をしのばれ、信仰を貫き通した立派な姿を折々に懐かしく思い出されていたようです。鎌倉から駿河の地を通り身延に入る時も、できれば父上の墓参をしたかったと述懐されています。
そこへ立派に成長した後継の若武者が地涌の使命を帯びて、雄々しく現れた。大聖人のお喜びは、いかばかりだったでしょうか。
「法華経の行者」の闘争の意義
この劇的な語らいから4ヵ月たった11月、時光から身延での御生活を案じての御供養が届きます。時光の真心に、あらためて大聖人が感謝されたことはいうまでもありません。御礼の御返事である本抄は、若き時光の未来の大成のために大事な原理を教えておきたいと御心情が伝わってくる。青年への訓育の一書であります。
まず大聖人は、供養の志がどれだけ無量の福徳を築くかを教えられています。特に、濁世にあって、迫害を受けられながら正法を弘通している法華経の行者に供養することは無量の功徳となると、時光の志を賞讃されています。
すなわち、法華経の法師品に基づいて、仏を供養する功徳よりも、末代悪世おいて法華経の行者に供養する功徳の方が勝れていると教えられています。
また、同品には、仏にたいして一劫もの長き間、罵詈する罪よりも、滅後に法華経の行者に対する須臾の間でも悪言した罪の方が大きい、ともあります。
ここまで法華経の行者を重視されるのはなぜか、このことを理解するためには、法華経で示された仏意とは何かを知ることが大切となります。すなわち、法華経は、何よりも滅後悪世の民衆救済のために説かれた経典であるということです。
法華経では法師品第10から、滅後弘通が主題になります。仏滅後の悪世に、法華経への一偈を説くならば、この人は、如来の使いとして、如来から遣わされ、如来となるべき仕事をはたしていく存在である。この「如来の使い」は悪生に生きる衆生から見れば、全く如来に等しい尊貴な「人」となります。
すなわち、現実に法を体現し、弘通している「法華経の行者」こそが、悪世にあって最も大切な存在である。それは、その「人」がいなければ、末法の衆生は永遠に闇に閉ざされたままになってしまうからです。「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856-脱益の妙法の教主の本迹)です。「法」がどんなに優れていても、その「法」を体現する「人」が現れ、その「人」の行動の中で、初めて「法」は現実に脈動するのです。
なかでも、一切の仏を仏あらしめた根源の法である南無妙法蓮華経を、そのまま所持し、弘通し、一切衆生の闇を照らす人が末法の法華経の行者です。この法華経の行者を賞讃することは、仏を賞讃する以上の功徳となる。
加えて、「末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者」とも仰せです。
法華経の行者とは、現実の悪世の中で、釈尊の仏意に背いて法華経を誹謗する諸宗に対して、力強く宗教革命を進める存在です。ゆえに、三類の強敵を呼び起こし、大難を受けていくことは必定です。事実、大聖人は、権力の迫害を受けて死罪・流罪となり、日本中の人々から悪口罵詈されました。この時代に、大聖人に供養すれば、国中の人々から激しく憎まれる。自ら師と共に生き抜く決意がなければ、できるものではありません。その深き「心」が、無量の功徳の因となります。大聖人は「師匠と共に」という青年・時光の求道心を感じ取られたと拝されます。
このように法師品で示されている法理に照らせば、悪世末法にあっては「法華経の行者を軸に、一切衆生救済の大仏法が脈動していく。言い換えれば、真の仏教とは、民衆救済の不惜の精神で戦い抜く人間の姿の中にあるのです。
民衆の中に飛び込み戦う そこから「宗教革命」の第一歩が始まるのです。
| 13 其の上殿はをさなくをはしき、故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なり 14 けるよしうけ給わりき、 其の親の跡をつがせ給いて又此の経を御信用あれば・ 故聖霊いかに草のかげにても喜び 15 おぼすらん、あわれいきてをはせば・いかにうれしかるべき、 此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいり 1509 01 あわせ給うなり、 いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信じさせ給へば・同じところに生れさせ給うべし、 02 いかなれば他人は五六十までも親と同じしらがなる人もあり、 我がわかき身に親にはやくをくれて 教訓をもうけ 03 給はらざるらんと・御心のうちをしはかるこそなみだもとまり候はね。 -----― そのうえ、殿は幼少であった。亡き父君は武士であったが、強盛に法華経を信仰されていたので、臨終正念であったと承っている。その親の跡をつがれて、また、この経を信仰されているので、亡き聖霊が、どんなにか草葉の陰で喜ばれていることであろう。もしも生きておられたならばどれほどうれしく思われることであろう。この経を受持する人々は、他人であっても同じく霊山へ参ってまた会うことができるのである。まして故聖霊も殿も同じく法華経を信仰されているのである。必ず同じ所に生まれられるであろう。他人は五十・六十になり親子で同じ白髪になる人もいるのに、自分は若い身で親に早く別れ、いろいろ教えてもらえなかったというあなたの御心中を推し量ると涙を押さえることはできない。 |
時光の信心継承を喜び未来の大成を期す
父の跡を継ぎ、父の信仰を継承した時光のことを、お父様は絶対に喜ばれえいますよと励まされています。そして、大聖人は、同じ法華経を信仰しているゆえに、将来、同じ霊山で再会できることは絶対に間違いないと激励されています。
生命は永遠です。信心を貫いた人は、共に楽しく朗らかに人生の旅路を歩んでいくことができる。未来世も、同じところに生まれて、一緒に広宣流布の大道を歩んでいくことができる。 時光は、大聖人の激励に大きく包まれながら、安堵の心が芽生えていったに違いありません。
幼き日に父と死別し、懸命に生きてきた時光です。世間には、親子でともに白髪になるまで一緒に生きていく人もいます。そうした姿を見るにつけ、もっと、いろいろと教わりたかったという気持ちがあったに違いない。その心中を推し量ると、涙を抑えることはできないとまで大聖人は仰せになっています。
青年を育てる慈愛の師
大聖人ほどありがたい師匠はおられません。この御文の行間からも、大聖人が父親の代わりとして、これから時光を見守っていこうという御慈愛がにじみ出ています。事実、本抄に続く幾多のお手紙で、時光のために、仏法の理解だけでなく、人間の生き方や教養も、こまやかに教えられていきます。
たとえば四徳四恩を教えられた「上野殿御消息」では親孝行の在り方、主君への接し方、友への態度、慈悲の心を持つ重要性など、四徳を通して賢人としてどう振る舞うかを示されている。
親に何もすることができない時は、せめて一日に二度・三度、笑顔を見せなさいとの御指導は、まさに、時光の大成を願っての人間教育であられます。戸田先生も、よく親孝行を教えられた。私も常に同じ思いです。親に喜んでもらう。親への感謝を素直に伝えられるようにする。 鳳雛を大鳳に、青年を立派な人間に育てる骨格として、私は、この一点を大切にしてきました。
時光は激動の青年期を送ります。駿河が熱原の法難の舞台となるからです。一人の信仰者の成長を願って、師匠は、いかに青年を鍛え、育くんでくださったか。
やがてこの地で、大聖人の門下に対する圧迫が強くなります。もっともらしい教訓を説いて時光を退転させようと迫る者も出てきます。大聖人は、どう対処すべきか具体的に示され、不退転の信仰を貫くようきびしく指導されました。同時に大聖人は「日本国・一時に信ずる事あるべし」(1539-15)と、広宣流布の時は必ず到来すると断言され、青年の心を大きく広げられています。
あるいは、法難の渦中で戦い切った時光を、「上野賢人」と讃えられるとともに、「大願」に生きるべきことを教えられた御書もあります。また、法難の余塵の中で「しばらくの苦こそ候とも.ついには・たのしかるべし」(1565-12)と、大きく包容されながら未来への希望を贈られてもいます。
男の子が生まれ、大聖人から「日若御前」と命名していただきました。その喜びも束の間、弟の七郎五郎が突然に死去するという悲しみもありました。さらに幕府から荷重の公事を課せられ、生活が困窮したこともあります。そして、時光自身の命にもかかわる大病など、次々と困難が押し寄せてきました。しかしそのつど、大聖人の渾身の激励を賜わり、一つ一つを乗り越えていきます。
文字通り、激動の青春期を節目節目に、師匠から御指導を頂戴し、事あるごとに、法難と宿命を乗り越えていくための信仰の急所を教えていただいたと言えるでしょう。
そして時光は、障魔の嵐の中熱原の人々を守り、大聖人から「すでに法華経の行者に似させ給へる」(1575-01)とまで賞讃されます。まさしく、師匠と同じ広布の道を不二の信心で進む、立派な青年リーダーに成長するのです。こうした時光への御指導は、そのまま末法の青年全員に対する御指南であると拝することもできるでしょう。私たちは直接、大聖人にお会いすることはなくとも、御書を学び、御聖訓のままに自ら広宣流布の実践を積み重ねることで、大聖哲と不二の生き方を貫く青年に成長することができるのです。
かつて戸田先生が、私に「大聖人門下のなかで、どなたが好きですか」と質問されたことがあります。「南条時光です」との私の答えに、戸田先生は、笑顔でうなずかれました。若き日の懐かしい思い出の一コマです。
21世紀の今「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(1561-01)との一節を、日本や全世界の男女青年部が真剣に拝して戦っている。日本の青年部が見事に立ち上がりました。全世界の青年部も躍り出ています。大願の実現へ向けて、一人一人が勝利した報告も多数伺っています。世界中の“青年時光”が乱舞している姿を、わが恩師が莞爾として見守っておられる光景が目に浮かびます。
| 04 抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども・日本国の上下万人・一同に国のほろぶべきゆへにや用いられざ 05 る上・度度あだをなさるれば力をよばず山林にまじはり候いぬ、 大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用 06 いあらば・いかになんど・あはれなり、皆人の当時のいきつしまのやうにならせ給はん事・おもひやり候へば・なみ 07 だもとまらず。 -----― そもそも日蓮は、日本国を救おうと深く思ったけれども、日本国の上下万人は一同に、この国が亡ぶためであろうか、用いられないうえにたびたび迫害を加えられたので力がよばず、山林に入ったのである。大蒙古国より攻め寄せて来たと聞いたが、日蓮が申したことを用いられないならば、どうだったであろうかと、あわれに思う。すべてが、今の壱岐・対馬の人々のようにあらわれであろうことをおもいやると、涙が止まらない。 |
大聖人の「宗教革命」の闘争
「抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども」とあるように、大聖人の原点は、どこまでも民衆救済のためです。
大聖人の法華経の行者としての大闘争は、まさしく民衆のための「宗教革命」の戦いであられた。しかし、諸宗の僧らは、民衆救済を忘れ、大聖人を迫害した。諸宗の権力者が結託して迫害するなかで、大聖人は「法華経の行者」として一切の大難に勝利されます。
すなわち、経文に予言された通りに実際に数々の難に遇われ、佐渡流罪までの大難の中で、ことごとく経文の身読を成就されたのです。
そして、佐渡流罪から帰還後には三回目の国主諌暁を遂げられます。三回目の国主諌暁は、大聖人御自身が後に「三度の高名」とよばれているように、大聖人の御精神と智慧の深さを証明するものでした。
こうして大聖人は、万人の成仏・広宣流布という釈尊の仏意を継承するすべての戦いに勝利され、「末法の師」としてのお立場を厳然と証明されたのです。
しかし、鎌倉幕府は大聖人の至誠の諌暁を聞き入れず、大聖人は身延に入山されます。蒙古の襲来は必至という切迫した状況にあった。「民衆の幸福」「仏法の蘇生」という目的を成就するために、宗教革命は次の段階の闘争に入りました。
すなわち、広宣流布の展開は、いよいよ「本物の弟子の闘争」の時代へと、大きく転換点を迎えていたのです。それは、真正の弟子が法華経の行者の魂と実践を継承し、「日蓮が一門」に、師弟不二の闘争精神が横溢する時です。今度は、門下の一人一人が、自ら「法華経の行者」として勝利していく、そうした広布継承の時代が幕開けすることによって、本当の意味で民衆仏法が確立されていく、この弟子の時代が、身延入山期からの展開です。
四条金吾夫妻、池上兄弟夫人たちなど、一人一人が宿命を大きく転換しゆく闘争が始まります。そうした弟子群像の中で、青年南条時光の颯爽たる活躍が始まるのです。
そして、大聖人は、真の弟子の成長を願われ、民衆仏法の本格的な確立期に入っていかれます。まさしく師弟一体となって、広宣流布の新時代が開幕していくのです。
この身延入山直後には、現実に蒙古襲来が起こり、社会も激動の時代を迎えていくことになります。
本抄は、蒙古襲来の報が入って、直後の御執筆です。大聖人は、「日本中が壱岐・対馬のような惨状になってしまう」と涙する思いで、民衆の行く末を案じられています。
動乱の時代だからこそ、大聖人は、亡国を招く元凶となる諸宗の根源悪について指摘され、青年を薫陶されていきます。すなわち、当時の念仏・禅・真言の各宗の歪みが、いかに人間性を破壊し、社会を退廃させているかを鋭く喝破されているのです。
念仏は「自害の心」を生む悪法であり、禅宗は「神も仏もなし」とする「ものくるはしき悪法」であり、真言宗は「誑惑」の教義を弘めている。このような悪法による調伏の祈禱は必ず国を滅ぼすと、強く破折されていきます。
元来、仏教は自身の生命の変革を説いた教えです。人間自身の中に可能性を見出し、その内面の力を十全に開いていくのが、仏法の人間主義の基調です。まさに法華経は、一人一人が仏と同じ可能性を持ち、万人が尊極な存在であることを説き明かした経典です。この法華経を軽視し、誹謗する宗教に共通する点は、人間の可能性を限定的に捉えて矮小化することにあるといえます。
大聖人当時は、日本社会の大きな変動期であるとともに、その社会を精神的に支える宗教の変革期でありました。大聖人は、法華経に示された仏法の全体像に基づき、まさしく人間変革の宗教を打ち立てられました。それに対して、諸宗は、現実に生きている人間の可能性を十全に開くことを忘れてしまったがために、宗教の役割をかえって偏頗な次元にとどめてしまう傾向があったのです。
その結果、民衆の幸福の実現を放棄して、“権力及び権力者を守るだけの国家主義・権威主義の仏教”あるいは“死後の救いのみが可能であると民衆に説く宗教”などへ偏ってしまったのです。
これに対して、日蓮大聖人の宗教革命は、すべての民衆を幸福に実現するという目的に立って、万人の変革の可能性を説く法華経の思想を復興させようとしたものです。
“国家主義”に対して「民衆安穏・国土の平和のための立正安国」の現実を“出家主義”を“死後の救い”中心主義に対して「現実変革の宗教」「人間革命の宗教」「生死不二の宗教」を標榜されました。そして、人間の内なる力を「今」「ここで」「この身のままで」開くことを可能にする宗教を説き明かされます。
また、大聖人の謗法呵責は、人間の可能性を開く道を閉ざす諸宗に対して向けられたものです。決して、法華経以外の諸宗をすべて直ちに謗法であると断ずるような独善主義ではありません。歪んでしまった日本仏教を、大聖人は、宗教革命によって、本来の仏教の在るべき姿へと復興させ、民衆社会に真の活力を蘇生させようとなされたと拝察することができます。
今も同じです。「人間のための宗教」「人間の内なる可能性の開発」を志向する諸宗教とは存分に対話し、互いに長所を尊重しあって、人類の平和と幸福と繁栄のために協力していくことが、現代における高い精神性をもった宗教の在り方です。実際に、世界中で、SGIメンバーが文明間対話・宗教間対話を着実に進め、平和のため、より良き社会建設のために協力しあっていることはみなさまが御存知のとおりです。
反対に人間の可能性を閉ざし、「宗教のための宗教」に堕して、現実に人間の尊極性を奪っているようであるならば、そうした宗教悪は断じて糾していかなければならない。
創価学会の宗教革命の基準は、どこまでも「人間のための宗教」を実現し、民衆が幸福になるための宗教の復権です。その理念が、創立以来、いささかも揺るがなかったからこそ、今日、世界から創価の平和・文化・教育の運動、民衆運動が高く評価され、期待と賞讃を集めているのです。今後とも、創価学会は「人間のための宗教」「民衆のための宗教」の大道を力強く歩んでまいりたい。それが21世紀の要諦だからです。
| 1510 01 今始めて申すにあらず二十余年が間・音もをしまずよばはり候いぬるなり、あなかしこ・あなかしこ、この御文 02 は大事の事どもかきて候、 よくよく人によませて・きこしめせ、人もそしり候へ・ものともおもはぬ法師等なり、 -----― このことは今初めていうのではない。立宗以来二十余年の間、音も惜しまず叫んできているのである。あなかしこ・あなかしこ、この御文には大事のことを書き記してある。よくよく人に読ませて、お聞かせなさい。人が謗るであろうが、我等日蓮一門は、これらをものとも思わぬ法師等である。 |
「変革の宗教」を力強く
大聖人は、諸宗を破折する闘争を立宗以来、20余年にわたって進めてこられました。
大聖人が「音もをしまず」戦ってこられたのは、まさしく、仏教を民衆の手に取り戻す宗教革命でした。
釈尊―法華経―日蓮大聖人という「正法」の系譜は、そのまま宗教革命の継承でるということができます。古代インドにあって、権威主義的なバラモン教に対して、民衆の平等性・可能性をうたいあげたのが釈尊です。また、権大乗教に対して、十界互具・成仏の法理を説き、仏法を全民衆に開いた経典が法華経です。そして、諸宗の命妄を打ち破り、誰もが実践できる民衆仏法を説かれたのが日蓮大聖人です。創価学会は、この正法の系譜・宗教革命の系譜に連なった存在です。
宗教革命は永遠の闘争でるがゆえに、青年の後継者が陸続と立ち上がるかどうかが、重大なテーマとなります。
後継の若師子よ、踊り出よ
大聖人のもとには、若き日興上人、そして、南条時光が出現しました。
大聖人は末尾に、この御手紙には「大事な事」を記したと仰せです。
青年・時光だからこそ、「宗教革命を受け継ぎ、戦っていきなさい」との御指導であると受け止めることができます。しかも、未聞の革命故に、非難も当然ります。けれども「人は謗るだろうが、我ら日蓮一門は、それらを、ものとも思わないで戦ってきた」と、明快に教えられています。
まさに創価の三代の師弟は、この御精神のままに戦ってきました。「人もそしり候へ・ものともおもはぬ」という不惜身命の魂がなければ、嵐の中での革命はできません。あとは、後継の青年で決まる。
青年・時光に対する大聖人の御期待はいかばかりであったか。
大聖人は、真正の弟子が活躍することで、本格的な末法流布の時を迎えたと確信しておられたに違いありません。
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)
「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(0288-05)
広宣流布は、いよいよこれあらだ、これが日蓮大聖人の佐渡期・身延期のメッセージです。今日であっても、壮大な世界広布は、いよいよこれからが本番です。
戸田先生は、よく語られました。
「大作、学会の本当の偉大さが分かるのは二百年後だ、二百年先まで広布の盤石路線を作っておくのだ。
「私が一番、うれしいことは何か。それは、広宣流布のために戦っていく弟子たちが、どんどん成長することだ。青年と会うことが、語ることが、最高の喜びである」
「これからは、青年の時代だ、青年を仏さまを迎えるがごとく大事にして、何でも語り合い、自分の思っていることを全部伝えてバトンを受け継いでもらう以外にない」
今、私は全く同じ心境です。
後継の師子が、いよいよ踊り出ています。宗教革命を受け継ぎ、民衆仏法の新時代を築く「本門の青年」の活躍こそ、新時代の希望です。一切を頼みます。
断固たる
勝利勝利の
青年部
1510~1510 春の祝御書top
| 01 春のいわいわ・すでに事ふり候いぬ、さては故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふ 02 れて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひしに・よわひ盛んなりしに・はかなかりし事わかれかなしかり 03 しかば・わざとかまくらより・うちくだかり御はかをば見候いぬ、 それよりのちはするがのびんにはと・をもひし 04 に・このたびくだしには人にしのびて・これへきたりしかば・にしやまの入道殿にも・しられ候はざりし上は力をよ 05 ばず・とをりて候いしが心にかかりて候その心をとげんがために・ 此の御房は正月の内につかわして御はかにて自 06 我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候、 御とのの御かたみもなしなんとなげきて候へば・ とのをとどめをかれ 07 ける事よろこび入つて候、故殿は木のもと・くさむらのかげ・かよう人もなし、 仏法をも聴聞せんず・いかにつれ 08 づれなるらん、 をもひやり候へばなんだもとどまらず、 とのの法華経の行者うちぐして御はかにむかわせ給うに 09 は・いかにうれしかるらん・いかにうれしかるらん。 -----― 新春は言い古されたことながら、めでたい。故南条殿は久しい間の交友ではなかったが種々な事に触れて懐かしい心があったから、大事に思っていたところ、まだ齢が盛んであるのに亡くなってしまったことから、その別れを悲しく思ったので、わざわざ鎌倉からうち下って御墓を見させていただいたのである。 その後は駿河の国への便があればと思っていたが弾圧が厳しく、今度、身延へ下って来たのは人に忍んでこの地へ来たので、西山の入道殿にも知られていないぐらいで、墓参もおよばず通ってきたことが気にかかっていた。 その心の思いを遂げるため、この日蓮の弟子を正月のうちに遣わして、御墓前で法華経の自我偈一巻を読誦させようと思っていかせたのである。故殿の御形見もないなどと嘆いていたが、殿を止め置かれたことは、よろこばしいことである。故殿は今では木のもと、草むらの陰で人が通うこともなく、仏法を聴聞することもない。いかに寂しいことであろう。それを思いやると涙も止まらない。殿が法華経の行者をうち連れて、墓に参られたならば、どんなにうれしいことであろう、うれしいことであろう。 |
するがのびん
駿河の国(静岡県の伊豆方面を除いた中央部)へ行く用との意。
―――
にしやまの入道殿
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。富士郡西山(静岡県富士宮市西山)に住んでいた。大聖人のもとへしばしば御供養の品をお届けした。「三三蔵祈雨事」「蒙古使御書」などの御書をいただいている。日興上人の外祖父である河合の由比入道のことと思われる。
―――
自我偈
寿量品の自我得仏来から始まる偈文。
法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。
―――――――――
本抄の御真筆は大石寺に存しているが、執筆年次も、与えられた人の名も記されていない。本抄の題号は冒頭の御文から呼びならわされたものである。ただ「故なんでうどの」について述べられているところから、南条兵衛七郎の遺族に宛てられたものであることがわかり、さらに「とのをとどめをかれける事」といわれているので時光に与えられた御手紙であることは明らかなところである。そこから「報南条氏書」の別名がある。
また御執筆の年次についても「このたびくだしには」と仰せになっているのは、文永11年(1274)、佐渡流罪赦免後、身延へ入山されたときのことであると考えられ、文面からそのあとの正月の御手紙であると拝されるので、文永12年(1275)1月と推定される。
内容は南条兵衛七郎の亡くなったことを惜しまれ、日興上人を遣わして追善供養をしようとの温かい御慈愛を示されたものである。
最初に新春の祝いとしては古くなってしまったと前置きされ、兵衛七郎とは長いあいだの交流ではなかったが、さまざまなことをとおして懐かしく、また大事に思っていたとの御心情を述べられている。
序講の中にも触れておいたが、兵衛七郎の入信は、御家人として鎌倉大番役を務めた際のことと思われ、伊豆流罪後、大聖人が鎌倉におられたとき、すなわち弘長3年(1263)2月から翌文永元年(1264)8月までのあいだに、縁あって入信したものと考えられている。ただし、あるいは、大聖人が伊豆配流になられる前、すなわち「立正安国論」上呈の文応元年(1260)から翌弘長元年(1261)までのあいだということも考えられる。
兵衛七郎の逝去は文永2年(1265)3月8日であるから、入信が浅い場合で一、二年の信心、古い場合でも三、四年ということになり、本抄にいわれているように大聖人にお目にかかったのはそんなに長い期間ではなかった。しかし、この時期は、立正安国論による国主諌暁に始まって、松葉ヶ谷法難、伊豆流罪、さらには赦免後も小松原の法難が起こるなど、大聖人に対する迫害が続いたころである。その時期に入信し、大番役の勤めのかたわら、しばしば大聖人にお目にかかり、また御家人の立場から、できうるかぎりの外護の任を果たしたことが考えられる。そうしたことから、さまざまなことに触れて懐かしく、大切に思っていたと仰せられたものであろう。
ところが兵衛七郎は若くして亡くなってしまった。大聖人はわざわざ鎌倉から上野へ向かわれ、墓参をされたのである。このことからみても、いかに兵衛七郎を心にかけておられたかが拝される。その後、駿河へ行かれることもあられたようで、その折にはと心にかけつつも、上野まで行く都合がつかなかった模様が、そのあとの仰せから察せられる。
「このたびくだし」といわれているのは、佐渡流罪赦免後、平左衛門尉を通じ三度目の幕府への諌暁をされたが用いるところとならず、「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」(0923-01)と、鎌倉を去って身延に入られたときのことである。幕府は敵国調伏の祈りをしてくれるならば、土地・堂舎の寄進をしようと柔軟策に出たが、大聖人は幕府が謗法を犯しているかぎり、その供養を受けるわけにはいかないとの厳然たる態度で申し出を退けられ、身延にこもられたのである。したがって、流罪赦免後といえども、大聖人を囲む空気は依然として険悪であった。人目につく姿であれば、大聖人のみでなく、門下の人達にも累が及ぶ。それを慮られて「人にしのびて」身延へ下られたのであろう。
文中「にしやまの入道」といわれているのは、日興上人の外祖父である河合の由比入道のことと考えられる。由比入道は日興上人を育てた方であり、その入道にも知らせなかったほどであるから、どれほど心を配られての身延行きであったかがわかる。そのような状態であるから、とうてい、兵衛七郎の墓に寄られることは無理であった。それで、心及ばず通り過ぎられたのである。
そこで身延に落ち着かれて初めて迎えられた正月、大聖人は、御自身が行かれるとまだまだ波紋も起きるであろうことが予想されるので、「此の御房」を遣わして、自我偈を墓前で読誦し、追善供養することを仰せられているのである。「此の御房」がだれかは不明であるが、南条家とのつながり、大聖人からの信頼の度から考えて、日興上人と考えられる。または、日興上人の弟子であり、時光の叔父にあたる日持との説もある。いずれにしても、種々の状況を考慮されながら、兵衛七郎に真心の回向を貫かれる御慈愛の深さが拝されるところである。
同様に、いまだ若い時光に、兵衛七郎の忘れ形見として、その将来を嘱望されていることが伺える。時光は当時17歳、満15歳の若さである。しかし「とのの法華経の行者うちぐして御はかにむかわせ給う」との御文に、若いながら父の跡を継いで南条家を支えんとする時光への期待が感じられるのである。
1511~1512 上野殿御返事(阿那律果報由来)top
1511:01~1511:13 第一章 阿那律の因縁を挙げ供養を称えるtop
| 01 さつきの二日にいものかしら・いしのやうにほされて候を一駄、ふじのうへのより・みのぶの山へをくり給いて 02 候。 -----― 五月二日にいのがしら、石のように干されているのを一駄、富士の上野から身延の山中へ送っていただいた。 -----― 03 仏の御弟子にあなりちと申せし人は天眼第一のあなりちとて十人の御弟子のその一.迦葉・舎利弗・目連.阿難に 04 かたをならべし人なり、 この人のゆらひをたづねみれば・師子頬王と申せし国王の第二の王子に・こくぼん王と申 05 せし人の御子・釈迦如来のいとこにておはしましき、 この人の御名三つ候、一には無貧・二には如意・三にはむれ 06 うと申す・一一にふしぎの事候、 昔うえたるよにりだそんじやと申せしたうとき辟支仏ありき、 うえたるよに七 07 日ときもならざりけるが・山里にれうしの御器に入れて候いける・ひえのはんをこひてならせ給う、 このゆへにこ 08 のれうし現在には長者となり・のち九十一劫が間・人中・天上にたのしみをうけて・今最後にこくぼん王の太子とむ 09 まれさせ給う、 金のごきに・はんとこしなへにたえせず・あらかんとならせ給う、御眼に三千大千世界を一時に御 10 らんありていみじくをはせしが・ 法華経第四の巻にして普明如来と成るべきよし仏に仰せをかほらせ給いき、 妙 11 楽大師此の事を釈して云く 「稗飯軽しと雖も所有を尽し、 及び田勝るるを以ての故に故に勝報を得る」と云云、 12 釈の心かろきひえのはんなれども・ 此れよりほかには・もたざりしを・たうとき人のうえておはせしにまいらせて 13 ありしゆへに・かかるめでたき人となれりと云云。 -----― 仏の御弟子のなかに阿那律という人は、天眼第一の阿那律といって十人の上首の御弟子のうちの一人で、迦葉・舎利弗・目連・阿難に肩を並べたひとである。この人の由来を尋ねて見ると、師子頬王という国王の第二王子の斛飯王という人の御子で、釈迦如来のいとこであられた。この人の御名前は三つある。一には無貧といい、二には如意といい、三にはむりょうという。一つ一つには不思議ないわれがある。 昔、飢饉の世に利吒尊者という尊い辟支仏がいた。飢饉の世に七日間、食事もできないでいたが、山里で猟師が御器に入れていた稗の飯を乞うて食事された。このゆえに、この猟師は現在世においては長者となり、そののち九十一劫の間、人界・天上界において楽しみを受けて、今、最後に斛飯王の太子とお生まれになった。金の御器に飯は常に絶えることなく、阿羅漢となられた。御眼には三千大千世界を一時に御覧になって、たいそう立派であられ、法華経第四巻の五百弟子受記品第八において普明如来と成るであろうと仏から仰せを蒙られた。妙楽大師は、この事を法華文句記巻二上に解釈して「稗の飯はたいしたものではないけれども、あるかぎりのものを出し、そしてそれを受ける田が勝れていたがゆえに格別に勝れた果報を得たのである」といっている。釈の意味は、たいしたものではない稗の飯ではあるけれども、これより他には何も持っていなかったなかで、尊い人が飢えていらっしゃったときに差し上げたために、このようなすばらしい人となったのである、ということである。 |
いものかしら
里芋の親芋。
―――
一駄
馬一頭に負わせる荷物のこと。
―――
ふじのうへの
駿河国富士郡上方荘上野郷(静岡県富士宮市上条および下条)南条時光の住居があったところ。
―――
身延の山
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
あなりち
梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿㝹樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、釈尊の説法中に居眠りをしていたため呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失ったという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とある。
―――
天眼第一
「天眼」とは五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができること。釈尊の十大弟子のひとりである阿那律は「天眼第一」といわれている。
―――
迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
―――
目連
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
―――
阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
師子頬王
中インド迦毘羅国の王。浄飯王・斛飯王の父。釈尊・阿那律の祖父。
―――
こくぼん王
斛飯王のこと。浄飯王の弟で、提婆達多・阿難の父とする説もある。
―――
無貧
善業による福徳によって常に困窮することがないこと。
―――
如意
善業による福徳によって物事が意のままになること。
―――
むれう
善業による福徳によって猟をしないで兎(食べ物)を得ること。
―――
りだそんじや
阿那律の過去世の兄。雑宝蔵経巻四によると、長者の子に利?・阿利?という兄弟がいた。父からは二人で力を合わせていくようにと諭されていたが、父の死後、二人は別れて暮らすようになった。最初のうちは兄が富裕で弟が貧しかったが、後には反対になり、兄は出家して辟支仏になった。弟もやがて富を失い、薪を打って生活しなければならなくなった。そうした時、城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したという。
―――
辟支仏
梵語プラティエーカ・ブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。辟支迦羅、畢勒支底迦とも書き、独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。十二因縁の理を観じ、また、飛花落葉等の外縁によって自ら覚った者をいう。
―――
とき
正午以前に食事をすること。不過中食の意。小乗教では正午以前の正時に食事し、以後の非時には食事をしないことが、戒律で定められていた。のちに肉食をしないこと、また仏事の時の食事をいうようになった。
―――
ひえ
イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
―――
劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
天上
天上界のこと。十法界のひとつで三界二十八天に細別される。三界とは欲界・色界・無色界をいい、欲界に四天王、忉利天・耶摩天・兜率天・化楽天・他化自在天の六欲天、色界に初禅の三天、二禅の三天、三禅の三天、四禅の九天の十八天、さらに無色界に空処、識処、無所有処、非想非非処の四色天があり、全部で三界二十八天となる。
―――
あらかん
羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
―――
三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
普明如来
五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。
―――
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――――――――
本抄は南条時光がサトイモを御供養したことに対する返書である。御真筆は存していないが、日興上人の御写本が大石寺に存している。
御執筆年次については「五月三日」とあるだけで年についての記載がないが、建治元年(1275)の御手紙であるとされている。ただ、文中で大宮の造営について述べられており、他に大宮造営に触れられた御手紙に弘安2年(1279)のもの「窪尼御前御返事」「宝軽法重事」や建治3年(1277)と考えられるもの「上野殿御返事」があることから、建治2年(1276)・建治3年(1277)・弘安2年(1279)等、他の年とする説もある。
内容は、時光の御供養に対し、阿那律が供養した功徳の果報について述べられ、時光の信心をほめられたあと、迫害があっても乗り越えて信心に励んでいくよう教えられている。
時光の御供養というのはサトイモ一駄である。一駄とあるから馬一頭に負わせるだけの量ということである。旧暦の5月であるから今の6月ごろで米もあまりない時期である。そこで保存してあるサトイモを御供養申し上げたのであろう。上野郷は富士の火山灰地で米作に適した土地が少なかったことも考えられるし、時光が父の家督を継いでいるといってもそれほど裕福ではなかったであろうことが察せられる。
供養の功徳の例として引かれている阿那律は、釈尊十大弟子の一人で釈尊のいとこにあたる。天眼第一とされたが、これは阿那律が失明し、それに変わる天眼を得たことからいうのである。
阿那律の天眼の由来は、増一阿含経等に出ている。阿那律は釈尊の説法の座に連なっていたとき居眠りをしてしまった。釈尊から出家学道の本意を忘れて居眠りをしたことを指摘されて恥じた阿那律は、眠らないことを願うあまりに目を患い、ついに失明してしまう。釈尊は阿那律に、世の中に最も力のあるのは福の力であり、そのために法を求めよとさとすのである。そして阿那律の得た天眼について法華文句巻一下には「吾れ釈迦の大千界を見ること掌果を観るが如し」と述べている。世界を見るのに、あたかも果物を手のひらにのせてみるごとくであったということである。
五眼の一つの天眼は本来、天人の眼で、昼夜遠近を問わず見ることのできる眼をいうが、ここではむしろ心眼をさし、仏法を修行して得た眼で一切世界を見通す力をそなえていたとの意であろう。
阿那律は天眼を得たとともに、無貧、如意、無獦という三つの名を持つ福徳の持ち主であったという。貧窮することなく、物事が意のままになり、猟をすることなく獲物を得ることができたというのである。
阿那律がこのような福徳をそなえていた因縁として、過去世に辟支仏に供養したことが説かれている。利吒・阿利吒という兄弟が離れ離れになり、兄の利吒が辟支仏となって乞食し空鉢であったとき、阿利吒が自らも窮乏しているときであったが、兄とは知らずに稗の粥を供養した。その功徳で、あるとき猟で兎を得たが、その兎が死人となり、次いで閻浮檀金という最高の金となったという。この阿利吒が今の阿那律なのである。
「稗飯軽しと雖も所有を尽し、及び田勝るるを以ての故に故に勝報を得る」
阿利吒の供養の意義を述べた妙楽大師の言葉であるが、仏経説話にはよくこのように、最も粗末なものでも供養することが功徳の因になる例を挙げている。他に徳勝・無勝の二人の童子が土の餅を供養して阿育王となった例や、貧女の一灯などもそれに類するものとして挙げられよう。これらが供養の勝れたものとして示されているのは、いずれも物の大小ではなく真心の浄らかさと深さにある。土の餅は、童子が仏を渇合する純粋な心から供養したのであり、貧女の一灯も、貧窮の身で自らの髪を油に代えて供養した尊さを説いているのである。
この阿利吒の場合もそうである。稗の飯自体は「軽」いかもしれない。しかし「所有を尽し」ているゆえに尊いのである。すなわち、このほかには何ももっていず、自らの飢えをしのぐための唯一の食物だったのである。それをすら供養したところに、真心の極致がある。飢えているときに何よりも惜しいものは、豪華な衣服でも家屋敷でもない、食物である。そのようなときには、粗末な稗の飯といえども最も「重い」のである。稗の飯の供養は自分にとって最も惜しいもの、最も時に適ったものを供養したことになり、そのゆえに尊いのである。
妙楽大師はさらに、この供養について「田勝るるを以っての故」にすぐれた果報を得たと述べている。田とは福田の略で、仏法僧の三宝に供養することは福徳を積み善の果報を得ることになるゆえに、三宝を田とするのである。仏は大福田である。阿利吒の供養を受けたのは辟支仏となっていた利吒である。この時代は毘婆尸仏滅して久しく無仏の世であり、そこにおける辟支仏は尊い存在である。そのゆえに「田勝るる」のである。いくら供養の志が尊いといっても、供養する相手が誤っていたり、低い思想の持ち主であっては、その意味は成就しない。供養するに足る人でなければ、供養は生きてこないのである。
阿利吒の供養はこの二つを兼ねそなえていたゆえに、素晴らしい果報を得た。今、時光の供養の場合、大聖人は身延の山において不自由され、米もないときである。時光にとっても必要な食糧であろう。当時の記録によると、飢饉に多くの人が苦しめられていたことがわかる。そのようななかでの供養はまさしく「所有を尽し」たものであったろう。
また、供養を受ける方は、彼の辟支仏よりも遥かに尊い末法の御本仏である。大福田のなかの大福田であり「田勝るる」のはいうまでもない。彼の阿利吒は、辟支仏への供養で大果報を得た。とすれば今の時光の供養の果報はいかばかりであろうか。
大聖人滅後、順縁広布の時代にあっては、このような財施もさることながら、仏法を人々に弘めていく法施こそ、さらに尊い供養となることはいうまでもない。自らの全力を尽くして弘教にあたることが「所有を尽し」にもあたるであろう。自行化他に励む我々の果報もまた勝れていることを確信したいものである。
1511:13~1512:08 第二章 法難への覚悟を教えるtop
| 14 此の身のぶのさわは石なんどはおほく候・されども・かかるものなし、その上夏のころなれば民のいとまも候は 15 じ、又御造営と申しさこそ候らんに・山里の事を・をもひやらせ給いて・をくりたびて候、 所詮はわがをやのわか 1512 01 れをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給うにや孝養の御心か、さる事なくば梵王・帝釈・日月・四天そ 02 の人の家をすみかとせんとちかはせ給いて候は・ いふにかひなきものなれども 約束と申す事はたがへぬ事にて候 03 に、さりとも・ この人人はいかでか仏前の御約束をば・たがへさせ給い候べき、もし此の事まことになり候はば・ 04 わが大事とおもはん人人のせいし候、 又おほきなる難来るべし、 その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめ 05 して・いよいよ強盛なるべし、 さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りてまほり給うべし、 06 其の時一切は心にまかせんずるなり、かへす・がへす人のせいしあらば心にうれしくおぼすべし、恐恐謹言。 07 五月三日 日 蓮 花 押 08 上野殿御返事 -----― この身延の沢は、石などは多くあるが、供養された石のように干したいもがしらはない。そのうえ夏のころなので民の暇もないであろう。また御造営といい、多忙であろうのに、山里のことを思いやられて送っていただいた。詮ずるところは親との別れを惜しんで父親の追善のために釈迦仏・法華経へ差し上げられたのであろうか。孝養の御心であろうか。そのようなことがなければ梵王、帝釈、日天・月天、四天がその人の家をすみかとしようと誓われたことは果たせなくなってしまう。いうにかいない者であっても約束というものは違えないのが習いであるから、この人々が仏前の御約束を違えられることがどうしてあろうか。もしこのことが本当になるならば、自身が大事と思う人々が信心を制止し、また大きな難が来る、そのときまさにこのことが叶うにちがいないと確信して、いよいよ強盛に信心すべきである。そうであるならば聖霊は成仏されるであろう。成仏されたならば来て守護されるであろう。そのとき一切は心のままである。くれぐれも人の制止があったならば、心に嬉しく思いなさい。恐恐謹言。 五月三日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
御造営
造営は家屋などを建てることをいうが、多くは神社・大家などの場合に使われる。ここでは、大宮の建造、および補修のことで、当時、近在の人々がそのための労力として駆り出されていたと思われる。
―――
梵王
大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
聖霊
使者の霊魂、なきたま、みたま。
―――――――――
身延には石こそ多いがこのようなものはないと喜ばれ、しかも農作業の最も忙しい季節であるうえに大宮の造営で多忙きわまりないときに、南条時光が身延の山里のことを思って御供養を送ってくれたのは、親の兵衛七郎との別れの惜しさゆえ、その功徳が兵衛七郎の霊に回向されることを願っての孝養であろうといわれている。これは時光の孝心をほめ、その尊さを讃えられているのである。
そして、時光のような信心強盛な人がいなければ、梵天・帝釈等は正法を受持する人の家に宿るという誓いが果たせなくなるといわれている。諸天善神は、昼夜に法のために正法を持つ者を守護する神であり、法華経の説法の座で、仏から総付嘱を受けて、仏の教えのごとく努めを果たすことを誓っている。そのゆえに「八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂に・やどらんと誓い給ふ……正直の人の頂にやどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり」(1196-14)と仰せのごとく、正法を持つ者の家をすみかとするのであり、今の日本には謗法の者が充満し正法の人がいなくなったので、すみかがなく天上に戻ってしまうのである。
しかし、そうであっても、その一国謗法のなかで正しい法を受持する者がいれば、その人のところには、約束を果たしにくるのである。それがはっきりとあらわれるのは、大きな迫害が起きたときであるといわれている。
この文面から考えれば、時光には何らかの難が起きつつあったのであろう。しかもそれは「わが大事とおもはん人人のせいし候、又おほきなる難来るべし」と述べられているように、権力者から信心を制止されるという内容のもので、時光にとっては容易ならざる難として迫りつつあったにちがいない。しかし、そのときこそ、諸天の加護があり、この法の正しいことが証明されることは疑いないと励まされている。「かへす・がへす人のせいしあらば心にうれしくおぼすべし」との御文は、正法を持つ者の根本の心構えを教えられたものである。人から制止され迫害されることは、何の罪も犯していない時光からすれば理不尽であり、しかも正しい法を受持していて難が起きるというのも腑に落ちないことであるかもしれない。しかしそのときこそ諸天の加護が厳然とあらわれるのであるから、かえって喜ぶべきであるとの仰せである。さらにいえば、人の制止があること自体が正しい法を受持していることの証拠であるとともに、時光自身の信心が、難を起こすまでに至っていることの証拠である。大聖人は若い時光に、難をかえって喜んでいくようにと教えられることによって、一切を欣然として乗り越えていくなかに真実の幸福もあることを示唆されているものと拝されるのである。
また、時光が強盛な信に立てば、亡き父も成仏し、父が成仏すればまた時光を守護するであろうといわれている。これは回向の原理である。仏法のために我が身を惜しまない供養が、亡き父へ最高の功徳となって回向される。難をも恐れず信心に励むことは、我が命という最高の宝を仏法に供養していることになる。その功徳は亡き父の霊を成仏させるという大功徳として回向されるのである。聖霊は九界の境界であっては、遺った子や妻のために何もできないが、成仏の境界に入れば自在に働きをあらわして、守ることができる。その故聖霊へ成仏の大功徳を送ることのできるすばらしい機会が、仏法のゆえの難にあった時なのである。ゆえに「かへす・がへす人のせいしあらば心にうれしくおぼすべし」と仰せられているのである。
1512~1512 上野殿御返事top
| 01 むぎひとひつ・かわのり五条・はじかみ六十給了んぬ、いつもの御事に候へばをどろかれず・めづらしからぬや 02 うにうちをぼへて候は・ぼむぶの心なり、 せけんそうそうなる上ををみやのつくられさせ給へば・百姓と申し我が 03 内の者と申し・けかちと申し・ものつくりと申し・いくそばくいとまなく御わたりにて候らむに・山のなかの・すま 04 ゐさこそと思ひやらせ給いて・鳥のかい子をやしなふが如く・ 灯に油をそふるがごとく・かれたる草に雨のふるが 05 如く・うへたる子に乳をあたふるが如く・法華経の御命をつがせ給う事・三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり、 06 十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし、尊しとも申す計りなし、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。 07 七月十二日 日蓮花押 08 進上 上野殿御返事 -----― 麦一櫃、川海苔五帖、しょうが六十たしかに受け取りました。御供養を受けるのがいつものことなので驚きもせず、珍しいことでもないように思ってしまうのは、凡夫の心のなせるわざである。世間はあわただしいうえ浅間神社が造営されるので、百姓といい屋敷内の者といい、食物の欠乏といい農耕の時といい、どれほどか暇なく過ごされているであろうのに、身延の山中のすまいはどうであろうかと心配されて、鳥が卵をはぐくむように、灯に油を添えるように、枯れた草に雨が降るように、飢えた子に乳を与えるように法華経の御命を継がせられることは、三世の諸仏を供養されていることであり、十方の衆生の眼を開く功徳となろう。その尊さは言いようがない。あなかしこ、あなかしこ。恐恐謹言。 七月十二日 日 蓮 花 押 進上 上野殿御返事 |
かわのり
緑藻類の淡水藻。葉状体は扁平で薄く、食用とされる。山間の渓流中の岩に着生する。富士川や、その支流の芝川で採取される川海苔は昔からよく知られていた。
―――
五条
条は糸・縄・道など細長いものを数える際に使う言葉であり、海苔を数える語はふつう〝帖〟を使うが、ここでは音をとって用いられているものと思われる。なお、海苔は十枚を一帖とする。
―――
はじかみ
しょうがの古称。生薑、薑、生姜などと書く。
―――
ををみや
一般に神社や社殿のことをいうが、一地方における最も格の高い神社を大宮と称した。ここでは駿河国富士郡大宮(静岡県富士宮市)の浅間神社のこと。
―――
いくそばく
① 幾十許。どのくらい多く。どれほど。
② 許多
ここでは①の意。
―――
三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
―――
十方
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――――――――
本抄は時光からの御供養に対する返書である。御真筆が大石寺等に存している。著された時については「七月十二日」とあるだけで年次は記されていず、従来、建治元年(1275)とされているが、御真筆の日付の上に日興上人の加筆で「建治三年」と記されており、建治三年の御著作と考えられる。
最初に麦一櫃、川海苔五帖、生薑60を受け取った旨を述べられたあと、いつものことなので驚かず珍しくも思わないのは凡夫の心であるといわれている。これは、度重なると当たり前のように思って感謝を忘れる凡夫の心をあげて、御供養の裏にある時光の人知れぬ苦労を思いやられているのである。
時光の苦労の要因として、一つには世間があわただしいことを挙げられている。建治元年には幕府が元の使者・杜世忠らを斬った関係から、建治3年(1277)当時は一触即発の危機にあって異国調伏も盛んに行われ、九州の警備も増強されていた。そうしたことはさまざまな形で全国の武士や農民達の負担となり、地頭である時光にも、何らかの形で影響があったと思われる。
第二に大宮の造営である。この大宮とは現在の静岡県富士宮市にある浅間神社で、吾妻鏡によると、これより50余年前の貞応2年(1223)6月に「今日駿河国富士浅間宮造替遷宮の儀也」とあることから、おそらく御書でいわれているのは修復作業であったと思われる。
大聖人のお手紙の中で大宮の造営に触れられているのは本編のほかに三編ある。
「上野殿御返事」「その上夏のころなれば民のいとまも候はじ、又御造営と申しさこそ候らんに……」(1511-14)。
「宝軽法重事」「当時はくわんのうと申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし」(1476-01)。
「窪尼御前御返事」「当時は五月の比おひにて民のいとまなし・其の上宮の造営にて候なり、かかる暇なき時……」(1481-01)。
初めの一編は建治元年(1275)5月もしくは建治2年(1276)以降、あとの二編はともに弘安2年(1279)5月の御執筆とされている。本抄は建治3年(1277)であり、この大宮の造営は数年にわたったものと考えられる。なかにはすべての御書を同時期にとる説もあるが、それぞれの内容から考えて無理と思われる。
すでに貞応2年(1223)の造営から50余年経っているから修復作業としても、かなり大がかりなものだったのであろう。
約200後の応永25年(1418)に大宮の造営が行われた記録があるが、それには「富士上方以下所々段銭、棟別借銭等課役事」と記されている。それぞれ階級や棟によって寄付が割り当てられたり、人手が集められたりしながら作業が行われていたことが推される。本抄を拝すると「百姓と申し我が内の者と申し」と仰せであり、階層の差別なく人手や寄付が集められ、そうしたなかで飢饉、農作業等の悪条件が重なってくるのであるから「いくそばくいとまなく御わたり」であろうと心を配っておられるのである。
時光のいつもと変わらぬ純信の御供養の陰に秘められた、こうした状況からくる苦労をすべて承知されての御手紙なのである。「鳥のかい子をやしなふが如く……」の御文は、山奥におられ物資窮乏のなかで過ごしておられる大聖人への時光の心配りをいわれており、時光の御供養はまさしく「法華経の御命」を継ぐものであった。法華経の行者であられる大聖人への御供養は法華経を支えることになるのであり、ひいては三世の諸仏を供養することになるとほめたたえられている。
そして、その功徳を「十方の衆生の眼を開く」ものであるといわれている。大聖人は法即人の本尊、主・師・親三徳具備の御本仏を明かされた書を「開目抄」と名づけられている。大聖人こそその御本仏であることを知らしめるのが衆生の眼を開くことになるからである。ゆえに、大聖人に御供養申しあげ、大聖人の御命を支えるのは「十方の衆生の眼を開く功徳」となるのである。
「乙御前御消息」にも「抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや。何に況や一閻浮提四天下の人の眼のしゐたるをあけて候はんをや。法華経の第四に云く『仏滅度の後に能く其の義を解せんは、是諸の天人世間之眼なり』等云云」(1221-16)とある。時光に対していかに大きな称賛の御言葉であったかが推察されるのである。
1513~1513 上野殿御返事(祇園精舎御書)top
| 01 態と御使い有難く候、夫れについては屋形造の由目出度くこそ候へ、何か参り候いて移徙申し候はばや、 一つ 02 棟札の事承り候書き候いて此の伯耆公に進せ候。 -----― わざわざお使いの人をよこされたことをありがたく思う。その使いの報告では、館を建てられるとのこと、めでたいことである。いつかお伺いして、新築落成のお祝いを申し上げたいと思っている。 一つに棟札のことについては承知した。書いて、この伯耆公に持たせてある。 -----― 03 此の経文は須達長者・祇園精舎を造りき、然るに何なる因縁にやよりけん須達長者七度まで火災にあひ候時・長 04 者此の由を仏に問い奉る、 仏答えて曰く汝が眷属・貪欲深き故に此の火災の難起るなり、長者申さく・さていかん 05 して此の火災の難をふせぎ申すべきや、 仏の給はく辰巳の方より瑞相あるべし・汝精進して彼の方に向へ、 彼方 06 より光ささば鬼神三人来りて云わん、 南海に鳥あり鳴忿と名く此の鳥の住処に火災なし、 又此の鳥一つの文を唱 07 うべし、 其の文に云く 「聖主天中天迦陵頻伽声哀愍衆生者我等今敬礼」云云、 此の文を唱へんには必ず三十万 08 里が内には火災をこらじと・此の三人の鬼神かくの如く告ぐべきなり云云、 須達・仏の仰せの如くせしかば少しも 09 ちがはず候いき、 其の後火災なきと見えて候、 これに依りて滅後・末代にいたるまで此の経文を書きて火災をや 10 め候、今以てかくの如くなるべく候、 返す返す信じ給うべき経文なり、 是は法華経の第三の巻化城喩品に説かれ 11 て候、委しくは此の御房に申し含めて候、恐恐謹言。 12 八月十八日 日 蓮 花 押 13 上野殿御返事 -----― この経文は次のようないわれがある。須達長者は祇園精舎を造った人である。ところが、どういう因縁によるのであろうか、須達長者は七度まで火災にあったことがある。その時、長者がこのわけを仏に質問した。仏は答えて「あなたの一族は貪欲が深いが故に、この火災の難が起こるのである」と仰せられた。長者は「はてさて、どのようにしてこの火災の難を防ぐことができるでしょうか」と申し上げた。仏は「南東の方から兆があるであろう。あなたは、ひたすら身を浄め心を慎んで、その方向に向かいなさい。その方向から光が射すならば、鬼神が三人やって来ていうであろう。すなわち、南海に、ある鳥がいる。鳴忿と名づけられている。この鳥の住む所に火災はない。また、この鳥は一つの文を唱えるであろう。その文は『諸聖の主で天中の天よ、迦陵頻伽鳥の声をもって衆生を哀れみ情けをかけられる者よ、我等は今、尊敬礼拝する』等というものである。この文を唱えるときには、必ず三十万里の内には火災は起こらない、と。この三人の鬼神は、このように告げるであろう」と仰せられた。須達長者が仏の仰せのとおりにしたところ、少しも違うことはなかった。その後、火災はなかったと記されている。 このことによって釈尊滅後、末代にいたるまで、この経文を書いて火災を防止したのである。今の場合も、同様になるであろう。くれぐれも信ずべき経文である。これは法華経の第三巻の化城喩品第七に説かれている。詳しくは、この御房に言い含めてある。恐恐謹言。 八月十八日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
屋形
館のこと。貴人・豪族・有力武士などの邸宅。
―――
移徙
古くは貴人・寺院の転居や神輿のおでましをいったが、後世になって引っ越しをいうようになった。
―――
棟札
棟上げの時、工事の由緒・年月・建築者の名などを記して棟木に打ち付ける札のこと。
―――
伯耆公
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
―――
須達長者
釈尊に祇園精舎を供養した舎衛城の富豪。須達は梵名スダッタ(Sudatta)の音写で、善施・善与と訳す。貧しい孤独な人に衣食を給したので、給孤独長者とも呼ばれた。王舎城の竹林精舎で釈尊の説法を聞いて帰依し、舎衛城に精舎の建立を発願した。その後、祇陀太子の協力を得て祇園精舎を建立し、釈尊を招いた。釈尊は20年間、この精舎に留まり説法したといわれる。
―――
祇園精舎
古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
―――
眷属
①一族・やから。②仏・菩薩などの脇士や随う人。
―――
貪欲
貪ること。三毒のひとつ。一切の煩悩の根本の一つ。世間の事物を貪愛し五欲の心に執着する働き。
―――
辰巳
方位のひとつ。南東を意味する。
―――
瑞相
きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、?鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚?あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。
―――
精進
一般的には一生懸命努力すること。心を明らかにして進むこと。仏法においては、勇猛に善法を修行して悪法を断ずること。心をもっぱらにして仏道修行に励む心の働き。またはその行為をいう。大御本尊を絶対と信じ、題目を唱え、間断なく前進していくことが精進である。
―――
鳴忿
鳥の名前と思われるが明らかでない。
―――
聖主天中天
仏の尊称。聖主は諸聖のなかの主の意であり、天中天は天のなかの天、すなわち諸天の尊ぶところのものの意。
―――
迦陵頻伽
梵語カラヴィンカ(kalaviṅka)の音写で、好声と訳す。想像上の鳥の名。この鳥は卵の中にいるときから美しい鳴き声を発するといわれる。美音鳥ともいう。
―――
聖主天中天
仏の尊称。聖主は諸聖のなかの主の意であり、天中天は天のなかの天、すなわち諸天の尊ぶところのものの意。
―――
迦陵頻伽
梵語カラヴィンカ(kalaviṅka)の音写で、好声と訳す。想像上の鳥の名。この鳥は卵の中にいるときから美しい鳴き声を発するといわれる。美音鳥ともいう。
―――
化城喩品
妙法蓮華経化城喩品第七のこと。声聞の弟子と釈尊との三千塵点劫の昔の宿縁を説いて、その成仏は法華経によることを明かし、40余年、方便を説いてきたことの意味を化城の譬をもって述べている。
―――――――――
本抄は時光が家を新築する報告を申し上げ、その際、棟札をいただきたい旨お願いしたのに対する返書である。御執筆の年次については種々説があるが、建治元年(1275)8月18日の御書と思われる。御真筆は存していない。なお、祇園精舎の火事の因縁について述べられているので「祇園精舎御書」の別名がある。
内容は、最初に時光が使いをよこしたことを謝され、家を新築することを喜ばれて、いつの日か訪れて移転のお祝いをしようと仰せになっている。その際、時光が棟札のお願いをしたことを承知され、日興上人が携えて赴く旨を述べられている。
前年の文永11年(1274)8月に時光の兄・七郎太郎が死去したといわれている。それにともなってかどうかは不明であるが、次男の時光が家督を相続したことにともなってのことであろうと思われる。結婚したか、それに備えての新築であろう。もちろん、時光は地頭といっても配下20戸ぐらいの長であり、大がかりな屋敷ではなかったと思われる。
大聖人は、文永11年5月に身延に入山されてから、弘安5年(1282)9月に常陸(茨城県)に向けて出られるまで、身延の地を出られていない。それは大聖人に対して迫害の動きがやまず、門下とくに在家の人々への波及をおもんぱかられてのことであり、また、お体の調子がはかばかしくない時期があったこと等によるのであるが、そのなかで、移転のお祝いに行こうといわれていることからも、いかに喜ばれていたかが分かる。
日興上人はこの年の1月、時光の父の南条兵衛七郎の墓へ、大聖人の御名代として赴き、読経されたことが「春の祝御書」にみられる。それ以来、日興上人と時光のあいだは深い縁に結ばれ、このときも、棟札を携えて上野へ向かわれたのである。
棟札には法華経化城喩品の文が記されている。これは諸の梵天王が、衆生を哀愍する仏に対し、敬礼することを述べたものである。これは諸天が仏に帰依し、自らの努めを果たすことを意味し、この文が災難除けとして用いられてきたのである。なお、この棟札は現在は残っていない。この二か月後に、時光が御本尊を授与されたことがその脇書にみられる。
「建治元年太歳乙亥十月日、平の時光に之を授与す。南条兵衛七郎子息七郎次郎平の時光は日興第一の弟子たるに依て与え申す所件の如し」。
新築なった屋敷に、この御本尊が御安置されたのであろう。
文中にはこの棟札の文に関連して、須達長者の故事が引かれている。須達長者は祇園精舎を建立寄進することを発願し、祇陀太子に園地の譲渡を請うた。太子が容易に譲らず、ついに太子の要求に応え、広大な園地一面に黄金を敷きつめ、その黄金で買い取ることを申し出た。太子はその熱意に感じて土地の提供を申し出、精舎の建築が実現したという。ともあれ、須達長者はそれほどの富豪であるが、貧と富を七回も繰り返したという。上野殿御返事には「月氏国にす達長者と申せし者は七度貧になり・七度長者となりて候いし」(1574-13)と仰せられ、最後の貧窮の際、自らの糧として残った米を仏に供養したことによってインド一の長者になったと述べられている。本抄で「七度まで火災にあひ」といわれているように、火災によって貧富を繰り返したのであろう。
竹林精舎のある王舎城もまた、七度の大火にあったというエピソードがある。これは法華文句によると、民の福が薄いゆえであるという。また、仁王経には七難の一つに災火難が挙げられているが、その因は「若し王の福尽きん時には、一切の聖人は皆捨て去らん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」であるとしている。いずれも、福が尽きたときに災禍が起きると説いているのである。王となるものはすべて、過去に五百の仏に仕えることによってこの果報を得たといわれる。しかし、自らの欲望に走り、更には正法に背いたとき、その福が尽きて災厄が引き起こされるのである。須達が長者になることができたのは、それなりの善根があってのことであるが、しかし一方では眷属の貪欲によって七度も火災にあったというのである。須達長者は仏の教えのごとく精進して、以後火災が起こらなくなったのである。
大聖人がこの故事を述べられているのは、もちろん棟札の文の由来を教えられているのであるが、当時は、火事が最も恐るべき災厄の一つであったからであろう。
時光の屋敷が以後、火災にあったという記録は残っていない。時光は大聖人の教え通りに精進を重ね、災難を防いだのみならず、須達長者が祇園精舎を寄進したごとく、大聖人御入滅後、身延を離山された日興上人を上野にお迎えして、大石ヶ原を御供養申し上げたのである。
1514~1515 単衣御書top
1514:01~1514:10 第一章 法華経の行者受難の姿を明かすtop
| 01 単衣一領送り給い候い畢んぬ。 02 棄老国には老者をすて・日本国には今法華経の行者をすつ、抑此の国開闢より天神七代・地神五代・人王百代あ 03 り、 神武より已後九十代欽明より仏法始まりて六十代・七百余年に及べり、 其の中に父母を殺す者・朝敵となる 04 者・山賊・海賊・数を知らざれども・いまだきかず法華経の故に日蓮程・人に悪まれたる者はなし、或は王に悪まれ 05 たれども民には悪まれず、 或は僧は悪めば俗はもれ、男は悪めば女はもれ、 或は愚人は悪めば智人はもれたり、 06 此れは王よりは民・男女よりは僧尼・愚人よりは智人悪む・悪人よりは善人悪む、前代未聞の身なり後代にも有るべ 07 しともおぼえす、故に生年三十二より今年五十四に至るまで二十余年の間・或は寺を追い出され・或は処をおわれ・ 08 或は親類を煩はされ・或は夜打ちにあひ・或は合戦にあひ・或は悪口数をしらず・或は打たれ或は手を負う・或は弟 09 子を殺され或は頚を切られんとし・或は流罪両度に及べり、 二十余年が間・一時片時も心安き事なし、頼朝の七年 10 の合戦もひまやありけん、頼義が十二年の闘諍も争か是にはすぐべき。 -----― 単衣一領お送りくださり、たしかに受けとりました。 昔、棄老国では老人を捨てたということですが、今日本国では法華経の行者を捨てています。そもそもこの国が開闢してから天神七代・地神五代・人王百代になります。今は、神武天皇から以後九十代、欽明天皇の時代に仏法が伝えられてからは六十代、七百余年になります。 その間に父母を殺した者、朝敵となった者、山賊、海賊等は、数知れないほどいたけれども、日蓮ほど法華経のために人に悪まれた者がいたのは、いまだ聞いたことがありません。あるいは国王に悪まれたけれども人民には悪まれない。あるいは僧侶が悪めば在俗の者は悪まない。男が悪めば女は悪まない。あるいは愚人が悪めば智人は悪まなかったのです。 日蓮は国王よりも人民が、男女よりも僧尼が、愚人よりも智人が悪み、悪人よりも善人が悪むという、前代未聞の身なのです。また後代にも現れるとは思えません。それゆえに、三十二歳の年から今年五十四歳になるまでの二十余年の間、ある時は寺を追い出され、ある時は住所を逐われ、ある時は親類を苦しめられ、ある時は夜打ちに遭い、ある時は合戦に遭い、あるいは悪口を数知れずいわれ、ある時は打たれ、あるときは傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は頚を切られようとし、ある時は二度も流罪に処せられました。この二十余年の間は、一日片時も心安らかなことはありませんでした。源頼朝の平氏との七年の合戦の間にも、暇はあったでありましょう。源頼義が十二年の間闘諍したことも、どうしてこれに過ぎることがありましょう。 単衣一領お送りくださり、たしかに受けとりました。 昔、棄老国では老人を捨てたということですが、今日本国では法華経の行者を捨てています。そもそもこの国が開闢してから天神七代・地神五代・人王百代になります。今は、神武天皇から以後九十代、欽明天皇の時代に仏法が伝えられてからは六十代、七百余年になります。 その間に父母を殺した者、朝敵となった者、山賊、海賊等は、数知れないほどいたけれども、日蓮ほど法華経のために人に悪まれた者がいたのは、いまだ聞いたことがありません。あるいは国王に悪まれたけれども人民には悪まれない。あるいは僧侶が悪めば在俗の者は悪まない。男が悪めば女は悪まない。あるいは愚人が悪めば智人は悪まなかったのです。 日蓮は国王よりも人民が、男女よりも僧尼が、愚人よりも智人が悪み、悪人よりも善人が悪むという、前代未聞の身なのです。また後代にも現れるとは思えません。それゆえに、三十二歳の年から今年五十四歳になるまでの二十余年の間、ある時は寺を追い出され、ある時は住所を逐われ、ある時は親類を苦しめられ、ある時は夜打ちに遭い、ある時は合戦に遭い、あるいは悪口を数知れずいわれ、ある時は打たれ、あるときは傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は頚を切られようとし、ある時は二度も流罪に処せられました。この二十余年の間は、一日片時も心安らかなことはありませんでした。源頼朝の平氏との七年の合戦の間にも、暇はあったでありましょう。源頼義が十二年の間闘諍したことも、どうしてこれに過ぎることがありましょう。 |
単衣
単物のこと。裏地のついていない一重の衣服をいう。夏季とその前後の季節に着るもの。 本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであるが、後に肌着の小袖の上に着るようになった。
―――
棄老国
雑宝蔵経巻一等に説かれている国。その国では老人を口減らしのために棄てる習慣があったためにこう呼ばれた。同経の「老を棄つる国の因縁」によれば、過去久遠に棄老国という国があり、老人になると遠くへ捨てるといく国法があった。ところが一大臣が国法に反し、老父を匿って孝養の限りを尽くした。ある時、天神が難問を出して国王に迫った時、その老父の智慧を用いて国難を救った。その後、国王も老人を大切にするよう改心した。その時の老父とは釈尊であり、大臣とは舍利弗、国王とは阿闍世王、天神は阿難であると説かれている。
―――
天神七代
日本神話の神々で、地神五代より前に高天原に出現して日本国を治めたという七代の天神。国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の独化身三代と、夫婦で一代である泥土煮尊と沙土煮尊、大戸之道尊と大苫辺尊、面足尊と惶根尊伊弉諾尊と伊弉冉尊の耦生神四代のこと。
―――
地神五代
日本神話で天神七代のあと、神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の地神。天照大神、天忍穂耳尊、天津彦彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊をさす。
―――
神武天皇
第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
―――
欽明天皇
(0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
頼朝
(1174~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。 。。b
―――
頼義
(0988~1075)。源頼義のこと。平安中期の武将。河内源氏の祖・源頼信の子。名将の聞こえ高く、人望も厚かった。11世紀中頃、陸奥で反乱を起こした安倍頼時・貞任父子を陸奥守として追討し、苦戦の末、鎮定した。これを前九年の役という。この戦いは実際には永承6(1051)から康平5年(1062)までの前後12年の長きにわたった。
―――――――――
本抄の題号は、単衣供養の功徳を説かれているところから、後世につけられたものと思われる。本抄は建治元年(1275)8月、日蓮大聖人が54歳の御時、身延で著された。御文に「未だ見参にも入らぬ人」と仰せられているところから、大聖人の御門下の中でも、まだ一度も、大聖人に会われていない女性に与えられたものであるが、具体的にだれであるかは不明。末尾に「此の文は藤四郎殿女房と常により合いて御覧あるべく候」とあり、四条金吾夫人への「同生同名御書」にも同じ添え書きがあるところから、鎌倉に住んでいた人と考えられる。
内容は、初めに単衣一領の御供養を受けられたことを述べ、法華経を身読して仏語を実語とした大聖人に奉る御供養は、そのまま法華経への供養となり、その功徳によって成仏は必ず間違いないと仰せられている。
はじめにこの段では、棄老国が老人を棄てたように、日本国は法華経の行者を棄てるという大なる誤りを犯したことを指摘され、日本の歴史において、日蓮大聖人ほど、あらゆる人々から、休む暇もなく迫害された人は前例がないことを述べられている。
「日本国には今法華経の行者をすつ」とは、一国謗法と化した日本が大聖人に対して怨嫉をもって迫害を加え続け、末法の法華経の行者である大聖人を棄て去り、身延の山中深く追いやってしまったことを仰せである。
そして、日本の国が開闢以来、また日本に仏教が伝来して以来、父母を殺すとか朝敵になるとかの世法上の罪によって人々から憎まれた者は数えきれないほどいるが、法華経のゆえに、日蓮大聖人ほど、国中のあらゆる人々から憎まれた人はいないことを述べられている。かりに憎まれたとしても、権力者には憎まれても民衆からは憎まれなかったり、僧から憎まれても俗人からは憎まれなかったり、男から憎まれても女性には憎まれなかったり、愚人に憎まれても智人からは憎まれなかったり、というように、限られた人々に憎まれただけである。第一の権力者から憎まれた例としては平将門が挙げられよう。第二の僧から憎まれた例は伝教大師、第三の男・女の例は在原業平などがそうであり、第四の愚人・智人の例は菅原道真がそうである。
しかるに「此れは王よりは民・男女よりは僧尼・愚人よりは智人悪む・悪人よりは善人悪む」と仰せのように、日蓮大聖人の場合は、身近な民衆から憎まれるのであるから逃れようがないし、僧尼や智人・善人といった、多くの人々に影響力をもっている人間に憎まれるのであるから、あたかも大悪人のように思われてしまうのである。
こうして立教開宗以来、ありとあらゆる辛酸をなめられたのである。「或は寺を追い出され」とは清澄山を追われたことであり、「或は処をおわれ」とは故郷・安房を追われたことであろう。「或は親類を煩はされ」とは御両親があわれた苦しみであり、「或は夜打ちにあひ」とは、松葉ヶ谷の草庵の襲撃、「或は合戦にあひ」とは小松原の法難、「或は打たれ」は文永8年(1271)9月12日、少輔房に打たれたこと、「或は手を負う」は小松原で東条景信に斬りつけられて傷を受けられたこと、「或は弟子を殺され」は、やはり小松原で鏡忍房が殺されたこと。「或は頚を切られんとし」は、いうまでもなく竜の口の法難。そして「或は流罪両度に及べり」は、伊豆流罪と佐渡流罪であることは、いうまでもない。
まさに、あらゆる難に、身心の休まる暇もなくあわれたのであった。源頼朝が平氏を滅ぼした七年間の戦いも、その中には休む暇があったであろうし、源頼義が安倍貞任を討った12年間の戦いも、常に生命を危険にさらしていたわけではない。大聖人は、法華経のゆえに、たえまない危険に身をさらして20余年間、魔との熾烈な戦いを続けられたのである。
それは、開目抄に「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202-08)と仰せのように、一切衆生を救わんとされる大慈悲のゆえの忍難であられたのである。
1514:11~1514:15 第二章 経文を挙げ法華経の身読を証すtop
| 11 法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云 12 云、天台大師も恐らくは いまだ此の経文をばよみ給はず、 一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべか 13 らず況滅度後の経文に符合せざるが故に、 日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり・多宝の証明も・なに 14 かせん・十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年・月氏・漢土・日本に一切世間多怨難信の人 15 なし、 日蓮なくば仏語既に絶えなん、 -----― 法華経の第四の巻には「仏の在世でさえなお怨嫉が多い」とあり、第五の巻には「一切世間には怨嫉が多くて信じ難い」と説かれています。天台大師もおそらくはいまだ此の経文を身では読まれなかった。一切世間の人が皆信受したからです。伝教大師も及ばないでしょう。「ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」の経文に符合しなかったからです。 日蓮が日本国に出現しなかったならば、仏の金言も虚言となり、多宝如来の証明も何になりましょうか。十方の諸仏の御語も妄語となったでしょう。仏滅後二千二百二十余年の間、インド、中国、日本に「一切世間に怨嫉が多くて信じ難い」の経文を身で読んだ人はいません。日蓮が出現しなかったならば、仏の語もすべて絶えてしまったでしょう。 |
如来の現在ですら猶怨嫉多
法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
―――
天台大師
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。智者大師ともいう。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師慧思を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、大いに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。
―――
伝教大師
(0768~0822)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で近江国分寺の行表について出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁等について天台教学・禅・密教を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
―――
況滅度後
法師品の文。法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
―――
多宝の証明
「多宝」とは多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――――――――
前段で述べられた、大聖人の大難を受けられたことが、仏法上、いかなる意味をもっているかを述べられている。すなわち、法華経を身読され、釈尊の言葉を実語にし、多宝・十方諸仏の証明を真実とされたのである。もし、日蓮大聖人が出現されて、こうした幾多の大難にあわれなかったならば、釈尊の説法は虚妄となり、多宝や十方諸仏の証明は虚妄となっていたであろう。
その釈尊の説いた言葉として、ここでは二つ挙げられている。一つは法華経法師品の「如来の現在にすら猶怨嫉多し」の文である。この言葉自体は「釈尊在世においてさえ、法華経を説くと怨嫉が多い」と、ただ釈尊在世のことを説いているだけであるが、このあとに「況んや滅度の後においてをや」とあり、引用された主眼はむしろ後者にある。つまり、釈尊在世よりももっと大きな苦難が滅後に法華経を説く人に対して起こると、滅後のことを示しているのである。
そのとおりに、釈尊在世の難を越える大難にあった人は、日蓮大聖人を除いてはいない。ゆえに、もし日蓮大聖人が出現されて、この20余年間にわたる苦難を受けられなかったならば、この釈尊の説いた言葉は妄語となってしまうのである。
もう一つの文は、同じく法華経安楽行品の「一切世間怨多くして信じ難し」である。一切世間とは、前段に強調されたように、一部の限られた人達ではなく、あらゆる人々ということである。一部の人から怨まれた法華経の実践者は過去にもいたが、一切世間すなわち、あらゆる人々から怨まれ、迫害された人は、いまだかつていなかった。ゆえに、この文も、もし日蓮大聖人の御出現と苦難がなければ、やはり妄語となっていたであろうといわなければならない。
「天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり」とは、天台大師の場合、当初、南三北七の諸師から怨まれたものの、きわめて限られた人々であったうえ、受けた難も、ただ悪口だけであったのである。しかし、のちには、彼らも天台大師の正しさを知って屈伏し、国中の人々が天台大師の仏法を信受するにいたった。「一切世間皆信受」と「一切世間多怨難信」では、正反対といわなければならない。
「伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に」とは、日本の伝教大師の場合も、南都六宗の高僧達から怨嫉され悪口されたが、のちには彼らも帰伏しており、その受けた難は、釈尊在世の難にすら及ばない。まして「况滅度後」の経文とは、はるかに遠く離れているということである。したがって「日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり・多宝の証明も・なにかせん・十方の諸仏の御語も妄語となりなん」と仰せられているのである。
1514:15~1515:08 第三章 単衣供養の大功徳を説くtop
| 15 かかる身なれば蘇武が如く雪を食として命を継ぎ・李陵が如く簑をきて世 16 をすごす、 山林に交つて果なき時は空くして両三日を過ぐ・鹿の皮破ぬれば裸にして三四月に及べり、 かかる者 1515 01 をば何としてか哀とおぼしけん、 未だ見参にも入らぬ人の膚を隠す衣を送り給候こそ何とも存じがたく候へ、 此 02 の帷をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば・ 御経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は皆金色の 03 仏なり、 衣は一つなれども六万九千三百八十四仏に一一にきせまいらせ給へるなり、 されば此の衣を給て候わば 04 夫妻二人ともに此の仏御尋ね坐して 我が檀那なりと守らせ給うらん、 今生には祈りとなり財となり・御臨終の時 05 は月となり.日となり・道となり.橋となり・父となり.母となり・牛馬となり.輿となり.車となり・蓮華となり.山と 06 なり・二人を霊山浄土へ迎え取りまいらせ給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 07 建治元年乙亥八月 日 日 蓮 花 押 08 此の文は藤四郎殿女房と常により合いて御覧あるべく候。 -----― このような身ですから、蘇武のように雪を食として命を継ぎ、李陵のように簑を着て世を過ごしています。山林に入って果のない時は、空腹のまま二、三日を過ごします。鹿の皮が破れれば、裸のまま三、四月を過ごしました。このような者を、どうしたわけか、不便におぼしめされ、いまだお会いしたこともないのに、日蓮の膚隠す衣をお送りくださったことは、何ともいいようのないほど、ありがたく思っております。 この帷を着て仏前に詣で、法華経を読み奉るならば、法華経の文字は六万九千三百八十四字であり、一一の文字は皆金色の仏ですから、衣は一つですけれども六万九千三百八十四の仏に、一一に着せ奉ることになります。それゆえ、この衣を御供養していただいたので、夫妻二人にはこれらの仏が訪れて、我が檀那であるとして、守ってくださるでしょう。今生には祈りとなり、財となり、御臨終の時には月となり、日となり、道となり、橋となり、父となり、母となり、牛馬となり、輿となり、車となり、蓮華となり、山となって二人を霊山浄土へ迎え入れてくださるでしょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 建治元年乙亥八月 日 日 蓮 花 押 此の文は藤四郎殿夫人と、常に寄り合って御覧になるがよい。 |
蘇武
(前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から何度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書が結びつけてあり、蘇武らは某沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
―――
李陵
(~前0074)。中国・前漢の武将。李広の孫。字は少卿。漢書によると、幼少の頃から弓術に長じ、謙譲で、部下を愛したので評判も良く、若くして登用された。武帝に願って五千の歩兵を率い、匈奴軍を撃破していったが、ある時、匈奴王・単于の指揮する3万の騎兵、および八万騎の土兵に遭遇し包囲されて、奮闘のかいなく、ついに李陵は匈奴に降った。武帝は李陵が漢に反逆したと誤解して、李陵の一族を皆殺しにしてしまった。「史記」の著者・司馬遷が李陵を弁護して帝の怒りにふれ、宮刑に処せられた話は有名。後、過ちを悔いた武帝は、使者を派遣して李陵を呼び戻そうとしたが、李陵はそれを断わり、単于の娘をめとり、匈奴の地に20余年暮らして病没した。なお、本文に「簑をきて世をすごす」とある。
―――
帷
夏の着物の一種。「片方」の意で、古くは衣服に限らず裏のつかないものの総称であった。それが、平安中期には公家装束の下着である単小袖をさすようになり、小袖が男女の表着となると麻や絹縮みの単衣を帷と呼ぶようになった。
―――
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
今世
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
―――
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
藤四郎殿女房
藤四郎という人物については不明であるが、鎌倉に在住し、その妻と四条金吾の妻とは、ごく親しい関係にあったと考えられる。なお、3年後の建治元年(1275)に南条時光の母に与えられたといわれる単衣抄(1515)にも「此の文は藤四郎殿女房と常により合いて御覧あるべく候」との御文があり、南条家とも親交があったと思われる。
―――――――――
大聖人の身延山中における御生活がいかに逼迫したものであるかが述べられ、そうしたときに帷子を御供養申しあげたこの女性の真心をたたえ、その功徳の大きさを示されている。
「かかる身なれば」とは、日本国中の一切衆生から憎まれている身であるから、信徒も少なく、まして身延の山中の大聖人のもとへ御供養をしてくれる人はさらに稀である。したがって、着る物、食べる物などは、まわりの自然の恵みによる以外にないとの仰せである。食べ物についての前例として、中国の前漢時代の蘇武が雪を食したこと、着る物についての前例として同じく李陵を挙げられている。自然の恵みだけが命の支えであるから、山林に入っても木の実などが得られないときは何日も食のないことが続くし、着る物も、身につけた鹿の皮が破れてしまうと、裸で何か月も過ごしていると仰せになっている。
そのような大聖人に、まだ直接会ったこともないこの女性信徒が、単衣を御供養として送ってきたのである。「何とも存じがたく候へ」とは、言葉で表現しようのないほどにありがたいという意と拝せられるが、また、どのような過去の因縁、仏法上の宿習をもった人であろうかとの意味も含まれているであろう。
衣は一つなれども六万九千三百八十四仏に一一にきせまいらせ給へるなり
御供養された単衣は一つであるが、その単衣を、法華経の行者である日蓮大聖人が身につけて法華経を読まれるならば、大聖人の御身が即、法華経となるから、法華経の文字六万九千三百八十四字の一つ一つの仏に単衣を供養し着せ奉ったのと同じになるということである。
これは、法華経が即日蓮大聖人であり、法即人、人即法で、人法体一の法理が根底にあることを知らなければならない。法華経は三世十方の諸仏の能生の根源であるから、人法体一とは、日蓮大聖人が最も根本の久遠元初の自受用報身如来であられるということなのである。
そして、これら六万九千三百八十四の仏とは、あらゆる福徳・智慧を具えたすべての仏ということであり、この仏すべてに供養したということは、それだけの仏のもっておられるあらゆる功徳をいただけるということになるのである。「されば此の衣を給て候わば夫妻二人ともに此の仏御尋ね坐して我が檀那なりと守らせ給うらん」とは、このことを仰せられている。大聖人への御供養は六万九千三百八十四の仏への御供養となり、これらの多数の仏から「吾が檀那なり」と感謝され守っていただけるということである。
したがって、その諸仏の加護によって、今生には、あらゆる祈りが叶って自在の人生を生きていけるし、「財となり」と仰せのように、福徳豊かな人生となる。そして「御臨終の時は」云云と仰せのごとく、死後は、冥途の旅も日月に照らされて恐れがなく、険難の死出の道も立派な道で牛馬・輿・車となり、三途の河では橋が架けられていて苦難はない。また、亡き父母に会えるし、蓮華となって成仏の楽しみに住せしめていただけるのである。すなわち「現世安穏・後生善処」と法華経薬草喩品に説かれているとおりの大功徳に浴していけるのである。
これほどの大功徳のお約束をいただいて、この女性がその夫とともに、どんなにか深い喜びに包まれたであろうと想像される。
1516~1516 上野殿母尼御前御返事top
| 01 母尼ごぜんには・ことに法華経の御信心のふかくましまし候なる事・悦び候と申させ給候へ。 ・ -----― 母尼御前には、ことに法華経の御信心を深められ、大変喜んでいるとお申し伝えいただきたい。 -----― 02 止観第五の事.正月一日辰の時此れを.よみはじめ候、明年は世間怱怱なるべきよし・皆人申すあひだ・一向後生 03 のために十五日まで止観を談ぜんとし候が、 文あまた候はず候御計らい候べきか、 白米一斗御志申しつくしがた 04 う候、鎌倉は世間かつして候、僧はあまたをはします過去の餓鬼道の苦をばつくのわせ候ひぬるか。 -----― 摩訶止観第五の巻のこと、正月一日辰の時より、これを読み始める。明年は世間が騒々しくなるだろうと、皆人がいうので、一向後生のために正月十五日まで止観を談じようと思うが、本が少なくてそれもできず、御はからいいただきたい。白米一斗をお送りくださった御志、申し尽くし難く思う。鎌倉では世間が飢えに苦しんでいる。僧は多くいる。過去の餓鬼道の苦をつぐなったのであろうか。 -----― 05 法門の事、 日本国に人ごとに信ぜさせんと願して候いしが・願や成熟せんとし候らん、当時は蒙古の勘文によ 06 りて世間やわらぎて候なり子細ありぬと見へ候、本より信じたる人人はことに悦ぶげに候か、恐恐。 07 十二月二十二日 日 蓮 花 押 08 上野殿母尼御前御返事 -----― 法門の事、日本国の人ごとに信じさせたいと願ってきたが、その願が成就しようとしているのであろうか、今、蒙古の勘文によって、世間も和らいでいる。これはわけのあることであると思われる。もとから日蓮を信じてきた人々はことに喜んでいるようである。恐恐。 十二月二十二日 日 蓮 花 押 上野殿母尼御前御返事 |
止観第五の事
止観は摩訶止観のことで十巻(あるいは二十巻)からなる。天台大師智顗が荊州玉泉寺で説いたものを弟子の章安大師灌頂が筆録した。法華文句、法華玄義と合わせて天台の三大部といわれる。諸大乗教の円義を総摂して一念三千の法門が説かれ、一心三観を立て観念観法の修行が明かされている。第五巻には摩訶止観一部全体の肝要である一念三千の観心の法を示した第七正修章が収められている。
―――
餓鬼道の苦
「餓鬼道」は梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。
―――
蒙古の勘文
「勘文」とは、諸事を考え、調べ、意見を申し上げた文書のこと。文永元年(1264)7月16日の立正安国論の上書および、文永5年10年(5年)10月11十一日の11通御書をさす。
―――――――――
本抄は建治元年(1275)12月23日、日蓮大聖人が54の御時、身延で著され、上野の南条時光の母尼に与えられた御手紙と推定されてきたが、あるいは文永6、7年(1269、70年)の書ではないかとする説がある。すなわち、文永7年(1270)11月28日御述作の太田金吾宛の金吾殿御返事に「止観の五・正月一日よりよみ候いて現世安穏後生善処と祈請仕り候、便宜に給わり候本・末は失て候いしかどもこれにすりさせて候多く本入るべきに申し候」(0999-01)とあり、さらに「抑此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか……をほかた人の心もやわらぎて・さもやとをぼしたりげに候」(0999-04)等の仰せがあり、本抄の内容と共通しているところから、文永六、七年説が挙げられているのである。金吾殿御返事の系年について、昭和新定御書では文永六年としている。本抄は御真筆が存するが、本文と最後の宛名には御真筆研究から年代の違いが認められ、もともと違ったお手紙が一緒にされたものと思われる。また止観の資料収集を依頼されているところから富木常忍及び母尼に宛てられたとの説がある。そこで昭和新定御書では本抄の名を「止観第五之事」としている。
さて、本抄の内容は、白米一斗を供養したことに対する御返事として認められ、はじめに母尼御前が真剣に法華経の信心を続けられていることを喜ばれている。次に天台大師の止観第五の講義をするにあたって、書籍の入手を依頼され、蒙古襲来の予言的中によって、いよいよ妙法広布の機が熟してきたことを述べられている。
止観第五の事
日蓮大聖人は、しばしば天台大師の摩訶止観第五を講義された。それは、ここに仏法究極の生命の法理である一念三千が述べられているからである。その講義の眼目は、天台大師が像法時の修行として明かした理の一念三千の観法を教えるためではなく、それによって末法流布の大法・文底事の一念三千の南無妙法蓮華経を顕されるところにあったと拝される。
「明年は世間怱怱なるべきよし・皆人申すあひだ・一向後生のために……」と仰せのように、世間が蒙古襲来の兆しに、不安と恐怖に陥っている時だからこそ、一向御生のために大事の法門を講義すると仰せである。しかも、元旦、午前八時から講義を始めるとの仰せである。まさに、太陽の仏法が末法濁悪の闇を打ち破って興隆する姿を示そうとされたと拝せられよう。
本抄が文永六、七年ごろ鎌倉での御執筆にせよ、建治年間、身延での御述作にせよ、物資に恵まれておられなかったことは共通であったろう。止観を講ずるにも、お弟子たちにいきわたるだけの止観の本がなかったのである。ゆえにその入手方を依頼されている。また飢饉の折とて鎌倉では米も容易に得られなかったようである。白米一斗の御供養に対し、心からの感謝を述べられている。
法門の事
大聖人は、末法下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経の弘通を大願として折伏を繰り広げてこられた。だが人人の邪智謗法のゆえに幾多の苦難にあわなければならなかった。それが「蒙古の勘文によりて世間やわらぎて候なり」と仰せである。「蒙古の勘文」とは蒙古からの国書の意と考えられ、第一回の国書がきたのが文永5年(1268)の初めである。このことからも、本抄の御述作の系年は、むしろ文永6、7年(1269、70)説が妥当と考えられる。ただし、「蒙古の勘文」を大聖人が蒙古襲来を予言された「立正安国論」 と解し、それが的中したことによって世間がやわらいできたととれば建治元年とできないでもないが、その場合は、大聖人は身延におられるわけであるから「鎌倉は世間かつして候」の御文が不自然になる。
いずれにしても、大聖人の予言の的中によって、世間の大聖人ならびに門下の妙法流布に対する怨嫉は多少なりともやわらいできたと仰せられ「子細ありぬと見へ候」と言われている。おそらくその〝子細〟とは、蒙古襲来自体、一国謗法を治罰し、目ざめさせようとする諸天の計らいであるということであろう。
大聖人の予言が的中したことによって、これまで迫害してきた人々が恐怖や後悔の念にとらわれはじめたのに対し、「本より信じ」て大聖人と苦難をともにしてきた門下の人々は、大聖人の正しさが明確になったのであるから、大いに気を強くしたことは疑いない。