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日蓮大聖人御書講義361516~1544
1516~1526 神国王御書
1516:01~1516:10 第一章 仏教渡来以前の日本国の相を述べる
1516:11~1517:06 第二章 仏教渡来の経緯を示す
1517:07~1517:12 第三章 伝教大師の弘通を述べる
1517:13~1518:07 第四章 真言宗伝来の経緯を述べる
1518:08~1518:13 第五章 「真言亡国」の現証を示す
1518:14~1519:01 第六章 仏神尊崇の在り方を問う
1519:02~1519:11 第七章 仏紳の守護のない理由を糺す
1519:11~1519:18 第八章 王位を追われた所以を問う
1519:18~1521:01 第九章 王威の没落せる所以を問う
1521:02~1521:14 第十章 経文に照らし諸天の治罰を教える
1521:15~1522:18 第11章 法華経の明鏡に浮かべて勘う
1523:01~1523:14 第12章 真言宗の邪義を破す
1523:15~1524:07 第13章 日本国の謗法となる過程を述べる
1524:08~1525:06 第14章 法華経の行者を怨めば亡国となるを示す
1525:07~1525:14 第15章 法華経の行者の迫害を明かす
1525:15~1526:13 第16章 諸天に仏前の誓いを果たすよう促す
1526~1528 上野殿御消息(四徳四恩書)
1526:01~1527:09 第一章 外典の四徳を明かす
1527:10~1527:17 第二章 仏教の四徳を明かす
1527:17~1528:10 第三章 三宝への報恩が真実の孝養
1528:11~1528:16 第四章 余念なき一筋の信仰勧める
1526~1528 上野殿御消息(四徳四恩書)(2012:01月号大白蓮華より。先生の講義)
1529~1530 南条殿御返事(現世果報御書)
1529:01~1529:09 第一章 法華経の真実なるを宣べる
1529:09~1530:05 第二章 法華経の行者供養の功徳を示す
1530~1530 南条殿御返事
1531~1535 南条殿御返事(大橋太郎抄)
1531:01~1531:11 第一章 供養の品々の徳用を挙げる
1531:12~1534:11 第二章 大橋の太郎と子息の故事を引く
1534:12~1534:16 第三章 時光の孝養の志を称える
1534:17~1535:08 第四章 蒙古襲来の必至を示し信心を勧む
1535~1536 九郎太郎殿御返事
1536~1536 本尊供養御書
1537~1440 上野殿御返事(梵帝御計事)
1537:01~1537:06 第一章 賢人の故事を挙げて諭す
1537:11~1538:08 第二章 釈尊の大難を示し持経者を教える
1538:08~1539:05 第三章 法華経の行者に大難あるを示す
1539:06~1539:16 第四章 退転者の例を挙げ教誡する
1539:16~1540:17 第五章 信心の心構えを教え激励する
1537~1440 上野殿御返事(梵帝御計事)(2012:09月号大白蓮華より 先生の講義
1541~1542 南条殿御返事(白麦御書)
1541:01~1541:09 第一章 阿那律の例を引き供養の功徳を述ぶ
1549:10~1542:10 第二章 法華経供養の大功徳を示す
1542~1542 庵室修復書
1543~1543 大白牛車書
1543:01~1543:06 第一章 法華最勝を述べ他宗の謗法を示す
1543:07~1543:11 第二章 大白牛車の意義を明かす
1544~1544 上野殿御返事(水火二品抄)
1544:01~1544:08 第一章 阿育王に寄せ供養の功徳を説く
1544:09~1544:11 第二章 水の信心・火の信心を示す
1544:12~1544:16 第三章 十羅刹の試練と信じ病苦克服を励ます
1544~1544 上野殿御返事(水火二品抄)2014:10月大白蓮華より 先生の講義
1516~1526 神国王御書top
1516:01~1516:10 第一章 仏教渡来以前の日本国の相を述べるtop
| 01 夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云云、六十六ケ国.二つの島已上.六十八ケ国・ 02 東西三千余里.南北は不定なり、此の国に五畿・七道あり.五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・摂津等なり、七道 03 と申すは東海道十五箇国.東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八ケ国.山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ 04 国・亦鎮西と云い又太宰府と云云、 已上此れは国なり、 国主をたづぬれば神世十二代は天神七代地神五代なり、 05 天神七代の第一は国常立尊乃至・第七は伊奘諾尊男なり、 伊奘册尊妻なり、 地神五代の第一は天照太神・伊勢太 06 神宮日の神是なりいざなぎいざなみの御女なり、 乃至第五は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・ 此の神は第四のひこほの 07 御子なり・母は竜の女なり、 已上地神五代・已上十二代は神世なり、人王は大体百代なるべきか・其の第一の王は 08 神武天皇此れはひこなぎさの御子なり,乃至第十四は仲哀天皇八幡御父なり・第十五は神功皇后八幡御母なり.第十六 09 は応神天皇にして仲哀と神功の御子今の八幡大菩薩なり、乃至第二十九代は宣化天皇なり、此の時までは月支漢土に 10 は仏法ありしかども日本国にはいまだわたらず。 -----― つらつら考えてみると、日本国をまた水穂国といい、また野馬台、また秋津島、また扶桑等という。六十六か国と壱岐・対馬の二島を合わせて六十八か国であり、東西は三千余里、南北は定まっていない。 この日本国に五畿七道がある。五畿というのは山城(京都南部)・大和(奈良)・河内(大阪)・和泉(大阪南部)摂津(大阪の一部と兵庫の一部)等の国である。七道というのは東海道十五か国・東山道八か国・北陸道七か国・山陰道八か国・山陽道八か国・南海道六か国・西海道十一か国であり、西海道はまた鎮西ともいい、また太宰府ともいう。以上は国である。 国主についてみれば、神世十二代は天神七代・地神五代である。天神七代の第一代は国常立尊であり、第七代は伊奘諾尊と伊奘册尊である。地神五代の第一代は天照太神である。伊勢太神宮の日の神がこれであり、伊奘諾尊・伊奘册尊の娘である。第五代は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊であり、この神は第四代の彦火火出見尊の御子である。母は海神の娘の豊玉姫である。以上が地神五代であり、これらの十二代は神世であった。 人王についてみれば、今上天皇までおおよそ百代といえようか。人王第一代の王は神武天皇である。この王は第五代の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の御子である。第十四代は仲哀天皇、第十五代は神功皇后、第十六代は応神天皇であって、仲哀天皇と神功皇后の御子であり、今の八幡大菩薩である。第二十九代は宣化天皇である。この天皇の時代までインド・中国には仏法があったけれども、日本国には、まだ伝わっていなかった。 |
瑞穂の国
日本国の美名。古事記には「豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国」とある。千秋長五百秋とは千年も五百年も長く栄えるとの意。秋は穂を意味し瑞穂は水田に作る稲穂。
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野馬台
日本国の古称。後に転じて大和とも書くようになった。
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秋津島
日本の古称。本州をさす場合もある。
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扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
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六十六ケ国・二つの島
琉球及び北海道を除き壱岐・対馬の2島と日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。
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五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
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七道
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。
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東海道十五箇国
伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸。
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東山道八箇国
近江、美濃、飛彈、信濃、上野、下野、出羽、陸奥。
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北陸道七箇国
若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡。
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山陰道八箇国
丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐。
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山陽道八箇国
播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門。
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南海道六箇国
紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐。
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西海道九箇国
筑前、筑後、豊後、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩。
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鎮西
九州の別称。天平15年(0742)太宰府を鎮西府としたことから、九州全体をいうようになった。
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太宰府
天智天皇3年(0664)筑前国筑紫郡に設置された地方官庁、九州諸国の行政管理や外国使節の応対、海辺防衛、貿易管理などの対外関係を仕事とした。
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天神七代
日本神話の神々で、日本書紀巻一によると、天地開闢の初、天地の中に葦牙のようなものが生り、それが神と化爲った。第一・国常立尊、第二・国狭槌尊、第三・豊斟渟尊、第四・泥土煮尊と沙土煮尊、第五・大戸之道尊と大苫辺尊、第六・面足尊と惶根尊、第七・伊弉諾尊と伊弉冉尊。古事記・日本書紀では神世七代という。
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地神五代
日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊をさす。
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国常立尊
日本神話に登場する神である。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されている。『日本書紀』においては、初めての神とされる。
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伊奘諾尊・伊奘册尊
神世七代の第七神。対偶神である。古事記では伊邪那岐命、伊邪那美命と書く。日本書紀巻一では天浮橋の上に立って国をつくろうと、天之瓊矛を以て指し下して探る。このときに海が出来て、矛の鋒からしたたり落ちた潮が凝まって磤馭慮嶋が成った。伊弉諾尊、伊弉冉尊はここに降り国産みをする。そして、淡路洲、豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の大八洲国を生んだ。次に、海、川、山、草を生み、さらに「天下の主者」として日の神・大日孁貴を生んだ。次に月の神、蛭兒、素戔嗚尊を生むが、素戔嗚尊が気性が荒いので根国に行かせる。なお、伊奘册尊は版本によっては伊弉冉尊とも書く。
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天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
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伊勢太神宮
三重県伊勢市にある神社。内宮といわれる皇大神宮と外宮といわれる豊受大神宮とから成り、両宮のそれぞれに別宮・摂宮・末社などの所属の宮社を持つ。内宮は天照坐皇大御神、外宮は豊受大御神を祭神としている。
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日の神
天照太神のこと。日本神話で、高天原の主神。伊弉諾尊の娘。太陽神であり、また、皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られている。大日孁貴。あまてるかみ。
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彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
地神五代の第五。第四の彦火火出見尊と、海神の娘である豊玉姫から生まれた。豊玉姫が竜となって出産したのを彦火火出見尊が見てしまったので、豊玉姫はこれを恥じ、海に帰っていったという。〝彦〟は男子の称、〝波瀲〟は海辺で生まれたことによる名、〝武〟は尊称、〝鸕鶿草葺不〟とは萱を産屋に葺くのが間に合わないで生まれたとの意であろうか。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は、母の妹である玉依姫を妃とし、二人の間には彦五瀬命、稻飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊の四人の子があった。西洲の宮で崩じ、吾平山上陵に葬られた。
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母は竜の女
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の母は木花開耶姫。山幸彦の名で知られ、海神の娘豊玉姫と結婚して鸕鷀草葺不合尊をもうけたとき、竜になったといわれている。
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神武天皇
第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
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仲哀天皇
日本武尊の第二子。母は両道入姫命。名は足仲彦尊という。日本書紀によると、仲哀天皇は九州の熊襲を討とうとしたが、天照太神が妃・神功皇后について、新羅を討つよう命があった。天皇は西の海を見て、そのような国はないといったので神の怒りにふれて亡くなったとされている。
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神功皇后
名は気長足姫尊、また息長帯比売命ともいう。仲哀天皇崩御ののち皇后は喪を秘し男装してまず熊襲を平定し、のちみずから新羅におもむき征服したとされる。凱旋の途中、皇子を生み皇太子とした、これがのちの応神天皇であるという。現在では、実在説と非実在説とがある。
ーーー
応神天皇
名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。
―――
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
宣化天皇
第28代に数えられる天皇。継体天皇の第3皇子。母は尾張連草香の娘,目子媛 。大和檜隈廬入野宮に都し,仁賢天皇の娘橘仲皇女を皇后とした。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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本抄は、建治元年(1275)、日蓮大聖人が54歳の御時、身延で御執筆されたものである。
大意は、最初に日本の国名及び五畿七道について述べ、また我が国が開闢以来、神国であることを述べ、その後、仏教が伝来したことにより、日本国は、一閻浮提のうち、八万の国にも超えた神仏守護の国となったと宣揚されている。
ところが、寿永の安徳帝をはじめ、承久の乱の三上皇は、日本国の多くの高僧・法師が真剣に朝敵調伏のために真言の大秘法をもって祈禱したにもかかわらず、不幸な最期を遂げた。
本来なら、神仏の守護が深かるべきはずなのに、その効験は全くなく、未曾有の不祥事を招いてしまったのである。
このことに対して、幼少から疑問をもたれた日蓮大聖人は、その原因を探求された結果、誤った仏法を信じ、法華経を誹謗した罪にあることを突き止められたのである。
すなわち、法華経を誹謗している真言の邪法に祈ったために、仏天が怒り、治罰を加えたのが、かの二つの不祥事となったのである。
日蓮大聖人は、鎌倉幕府の執権をはじめ全民衆に謗法の邪教を捨てるよう訴え、法華経の正法を教えて国を救おうとされたのであるが、為政者も、民衆も、これを聞かないばかりか、迫害をもって応じたのである。最後に、このように迫害を受けている法華経の行者を諸天善神は守護すべきであると、厳しく諌暁されて、本抄を結ばれている。
本章ではまず、日本の国のさまざまな呼び名を挙げ、神国であることを示されている。
日本の異名である〝水穂の国〟の名称は、日本国の土地が肥沃で穀物の実りが豊かである姿をたたえた呼び名である。
扶桑の名称については、一説によると、唐の都の東に桑木山があって、朝日がその枝にかかるのを見て、「日は扶桑の路より出でて遥かに若木の枝に登る」と詩にうたわれたことから、日の出づる方向を指していうようになったといわれる。
ここから、中国から見て東方の日の出づる国、あるいは日の本の国という意味で日本を扶桑国ともいうようになったのである。
次に、66ヵ国に壱岐・対馬の二島を併せた68ヵ国からなる日本国が、神世12代以来、百代に及ぶ王によって治められてきたことを述べられている。
人王は大体百代なるべきか・其の第一の王は神武天皇此れはひこなぎさの御子なり
神世の天神7代・地神5代の12代の後は人王の時代に入るが、その第一は神武天皇であり、この天皇から数えて、本抄が書かれた建治元年のころの後宇多天皇が第91代である。「人王は大体百代なるべきか」との御文は、正確には91代であっても、概数を〝百代〟と仰せられたとともに、第51代平城天皇の代に八幡大菩薩の託宣があって、百王を守護するとの誓いがあったとの伝承から、百代までは盤石であるはずであるとの意味が含められていると考えられる。
そのことは第90代亀山天皇の治世にあたる文応元年(1260)に執筆された立正安国論の冒頭でも、客人の言葉として述べられている。
すなわち「近年より近日に至るまで」(0017-01)の天変地夭・飢饉疫癘の惨状にふれ、その最後に「百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや」(0017-08)との嘆きである。
さて人王第一代の神武天皇は地神五代にあたる彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の子であり、祖母は竜の娘とされる。このことについては、さらに深く御義口伝に記されている。
すなわち「人王の始は神武天皇なり神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり此の葺不合尊は豊玉姫の子なり此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり八歳の竜女の姉なり、然る間先祖法華経の行者なり甚深甚深云云」(0746-12)と。
法華経に説かれる竜王とはインド洋から東南太平洋を舞台に活躍した海上民族で、豊玉姫の伝説は、この海上民族が、日本に渡来したことをあらわしていると考えられる。
1516:11~1517:06 第二章 仏教渡来の経緯を示すtop
| 11 第三十代は欽明天皇.此の皇は第二十七代の継体の御敵子なり治三十二年,此の皇の治十三年壬申十月十三日辛酉 12 百済国の聖明皇・金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人・一同に阿弥陀仏と申す此れなり、 其の表の文に 13 云く臣聞く万法の中には仏法最善し世間の道にも仏法最上なり 天皇陛下亦修行あるべし、 故に敬つて仏像経教法 14 師を捧げて使に附して貢献す宜く信行あるべき者なり已上、然りといへども欽明・敏達・用明の三代・三十余年は崇 15 め給う事なし、 其の間の事さまざまなりといへども其の時の天変・地夭は今の代にこそにて候へども・今は亦其の 1517 02 代には.にるべくもなき変夭なり、第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて.第三十四代推古天皇 03 の御宇に盛にひろまりき、 此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候いき、 此の三論宗は月氏にても漢土に 03 ても、日本にても大乗宗の始なり、 故に宗の母とも宗の父とも申す、 人王三十六代・皇極天皇の御宇に禅宗わた 04 る、人王四十代・天武の御宇に法相宗わたる、 人王四十四代・元正天皇の御宇に大日経わたる、人王四十五代に聖 05 武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う、 人王四十六代・孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる、 しかりといへ 06 ども唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし。 -----― 第三十代は欽明天皇である。この天皇は第二十七代の継体天皇の皇太子である。治世は三十二年に及んだ。この天皇の治世の十三年壬申十月十三日辛酉に、百済国の聖明皇から金銅の釈迦仏が送られてきた。今の日本国の上下万人が阿弥陀仏といっているのがこの釈迦像である。 その上表文に「私が聞くには、万法のなかでは仏法が最善の法であり、世間の道でも仏法が最上の道であります。天皇陛下もこの仏法を修行なされるべきであります。それゆえに、つつしんで仏像・経文・僧侶を使いに託して献上致します。宜しく仏法を信仰していただきたいと思います」以上。しかし、欽明・敏達・用明天皇の三代、三十余年は尊崇されることはなかった。その間にさまざまなことがあったが、その時の天変・地夭は今の時代に似ているが、今の天変・地夭はその時のものと比べることのできないほど大きな災いなのである。 第三十三代の崇峻天皇の治世から仏法は我が国に尊崇されて、第三十四代の推古天皇の治世に盛んに弘まった。 この時、三論宗と成実宗という宗が初めて我が国に渡来した。この三論宗は、インドにあっても中国にあっても、日本にあっても大乗宗の初めである。ゆえに宗の母とも宗の父ともいう。 人王第三十六代・皇極天皇の治世に禅宗が渡った。人王第四十代・天武天皇の治世に法相宗が渡った。人王第四十四代・元正天皇の治世に大日経が渡った。人王第四十五代・聖武天皇の治世に華厳宗が弘通された。人王第四十六代の孝謙天皇の治世に律宗と法華宗とが渡ったが、律宗ばかりを弘めて天台法華宗の弘通はなかった。 |
欽明天皇
(0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
継体
(0450~0531)。第26代に数えられる天皇。名はヲホドで,古事記には、に袁本杼命、に男大迹王、の逸文に乎富等大公王などと書かれているが、隅田八幡人物画像鏡の銘文にみえる男弟王を天皇の名に当てることには、音韻の上で難がある。上の諸書によれば、天皇は応神天皇5世の孫で父は彦大人王、母は父の異母妹で垂仁天皇7世の孫に当たる振媛。近江の高島にいた父が越前の三国にいた母を召し納れて天皇を生んだが、父が早く死んだため、母は天皇を伴って越前の生家に帰った。
―――
百済国
古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
―――
聖明皇
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
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金銅の釈迦仏
晴明王がけんじょうしたのは、日本書紀では「釈迦仏の金銅像」としている。しかし扶桑略記では「阿弥陀仏像」となっているが、おそらく後世、阿弥陀にすりかえられたものであろう。
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敏達天皇
(0538~0585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。
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用明
(~0587)。用明天皇。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
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崇峻天皇
(~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
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推古天皇
(0554~0628) 記紀で第33代天皇(在位0592~0628)の漢風諡号。名は額田部。豊御食炊屋姫とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。
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三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
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成実宗
四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
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大乗宗
大乗教を依経とする宗派。仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
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皇極天皇
(0594~0661)。第35代天皇。女帝。在位0642~0645。敏達天皇の孫の茅渟王の王女で、舒明天皇の皇后。天智・天武両天皇の母。舒明天皇の死後、即位。皇居は小墾田宮。のち、飛鳥板蓋宮に移した。大化元年(0645)弟の孝徳天皇に譲位し、その没後、重祚して斉明天皇となった。
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禅宗
達磨所伝の禅によって悟道を期す宗。仏心宗、達磨宗ともいう。菩提達磨を初祖として、坐禅の法によって見性成仏を目的とする。日本への流伝については、一般には孝徳天皇の白雉4年(0653)元興寺の道昭が入唐し、禅宗二祖慧可の門人・僧那の法嗣の恵満に就いて学び、帰朝後元興寺に禅院を建てたのを所伝とする。皇極天皇の治世に流伝したとの説もある。
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天武
(~0686)。第40代の天皇 (在位 673~686) 。生年は明らかでないが,舒明3 年(0631) 説が有力である。名は大海人皇子 。舒明天皇の第3皇子。母は皇極 天皇。天智天皇の弟。
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法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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元正天皇
(0680~0748)。 奈良時代の第44代天皇。女帝。在位、霊亀元年(0715)9月2日~ 養老8年(0724)。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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聖武天皇
(0710-0756)。第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(0749)7月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(0756)5月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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孝謙天皇
(0718~0770)。第46代・第48代天皇。在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年(0749~0758)称徳天皇として天平宝字8年(0764~0770)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇」とも称された。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位1629~ 1643)に至るまで、実に850余年もの間、女帝が立てられることはなかった。
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律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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法華宗
法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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ここでは、日本国に初めて仏法が伝来してから伝教大師が出るまでの歴史について述べられている。まず、人王第30代の欽明天皇の時代に、朝鮮半島の一国である百済の聖明皇が、仏像と経教と法師とを大和朝廷に献じてきた。これが、我が国における仏法の初伝とされる。
この時、大和朝廷内部に、仏法の受容をめぐって賛否両論が対立したという。この点については、「四条金吾殿御返事」に詳しく述べられている。
欽明天皇が百済国から伝えられた仏像を礼拝するかどうかについて、臣下に意見を聞いたところ、崇仏と排仏の二派に分かれた。崇仏派は、大臣蘇我稲目であり、排仏派は大連物部尾興である。欽明天皇は結局、試みに蘇我氏のみに仏法を崇めさせることにした。ほどなくして、疫病が流行したために、物部氏はそれを理由に排仏を進言し、排仏派の勢力が増大した。しかし、その後も、決着のつかないまま、「欽明・敏達・用明の三代・30余年は崇め給う事なし」といわれるように、朝廷は仏教を用いることなく、その間に天変地夭が盛んに起こった。
仏法が大和朝廷で崇められるようになったのは、人王第33代崇峻天皇になってからである。この天皇は、蘇我馬子により擁立されたので、ここに、崇仏派の勢力が確立する基礎ができたのである。続く第34代の推古天皇の時代に、聖徳太子が摂政となって、いよいよ仏法が日本に定着することとなった。
その結果、推古天皇の時代に三論宗と成実宗とが、第36代皇極天皇の時代に禅宗が、第40代天武天皇の時代に法相宗が、第44代元正天皇の時代には大日経が、さらに45代の聖武天皇の時代には華厳宗が、そして46代孝謙天皇の時代に律宗と法華宗とがそれぞれ伝来してきた。しかし、法華宗の弘通は、後の伝教大師最澄の時まで待たねばならなかったのである。
仏教の公伝
仏教が公式に伝えられたことを公伝という。これに対する言葉が私伝である。おそらく公伝よりかなり早く、帰化人とともに私伝されていたと想像されるが、その年代を確定するだけの史料はない。
一方、公伝の年次についても、史料より若干の相違がある。欽明天皇の時とすることについては一致しているが、日本書紀によると、同天皇の第13年壬申(0552)のことになる。しかし、聖徳太子関係の史料を集成した上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起並流記資財帳によれば、同天皇7年戊午(0538)となる。
この二説のうち、日本書紀その他の研究が進むにつれ、後者の年次の妥当性が明らかになり、現在の学界では、公伝年次を戊午の0538年とする説が有力である。
日蓮大聖人は、鎌倉時代の仏教界一般で用いられていたとされる日本書紀の説を採用され、諸御書で記述されている。
さて、この初期の日本の仏教史において「法華宗」の弘通は伝教大師の出現までなされなかったのであるが、法華経そのものは、聖徳太子自身が「法華義疏」を著したとされているように、当初から尊崇されてきたことを忘れてはならない。ただ法華最第一を裏づける明確な論議は、伝教大師を待たなければならなかったのである。
1517:07~1517:12 第三章 伝教大師の弘通を述べるtop
| 07 人王第五十代に最澄と申す聖人あり、法華宗を我と見出して倶舎宗.成実宗・律宗.法相宗・三論宗・華厳宗等の 08 六宗をせめをとし給うのみならず、 漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり、 同じき御宇に漢土にわたりて四 09 宗をならいわたし給う、所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり、しかりといへども法華宗と律宗とをば弘通あ 10 りて禅宗をば弘め給はず、 真言宗をば宗の字をけづり七大寺等の諸僧に潅頂を許し給う、然れども世間の人人は・ 11 いかなるという事をしらず、 当時の人人の云く此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて・ 真言宗をばくはし 12 くも知ろし食し給はざりけるかと・すいし申すなり。 -----― 人王第五十代桓武天皇の治世に最澄という聖人があらわれた。法華宗を自ら見い出だし、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗を責め落とされたばかりでなく、中国に大日宗という宗があることを知っておられた。同じ桓武天皇の治世に中国に渡って四宗を修学して日本に伝えられた。法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗がこれである。 しかし、法華宗と律宗とは弘通されたが、禅宗は弘められなかった。真言宗については宗としては立てず、七大寺等の僧達に潅頂を許されたのである。 しかし、世間の人々は伝教大師がどうしてそのようにされたかを知らず、今の人々は「この人は中国で法華経については詳しく修学したが、真言宗は余り詳しく学ばれなかったのであろうか」と推測している。 |
人王第五十代
桓武天皇のこと。(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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最澄
(0767~0822)。日本天台宗の開祖伝教大師のこと。最澄は諱。伝教大師は諡号。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。幼名は広野。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で近江国分寺の行表について出家。桓武天皇の治世、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、比叡山に草庵を結び研鑽に励み諸経論を究めた。延暦21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)入唐して道邃・行満について天台の奥義を相承し、翌年帰国して延暦25年(0806)法華経を所依とする日本天台宗を開創。旧仏教界の反対のなか、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「守護国界章」九巻、「顕戒論」三巻等がある。
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聖人
世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。妙密上人御消息(1240)には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」とある。
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倶舎宗
仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
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大日宗
真言宗のこと。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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真言宗をば宗の字をけづり
伝教大師が日本天台宗の修行を止観業と遮那業と定めたが、これはあくまで法華経を根本とした遮那業であって、真言を天台法華宗の依経としたことをいう。
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七大寺
南都の七大寺のこと。一般には、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺をさす。
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灌頂
頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。①もとインドの国王即位や立太子の際に行った。②大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。③密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。
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人王第五十代の桓武天皇の時代に、最澄・伝教大師が出て、法華経の深義を自ら覚るとともに、南都六宗を帰伏させた。伝教大師は、中国にわたって、後に日本に広まった真言宗、禅宗についてもその法義を知ったが、劣る法であるので日本に弘めることはしなかったことを述べられている。
伝教大師の業績の主なものとして、
一、南都六宗の破折
二、法華経を中心と
三、法華迹門戒壇の建立
などがある。
これらについては、大聖人は、「報恩抄」、「撰時抄」などの諸御書に明かされ、その偉業を称えられている。
所謂法華宗・真言宗……七大寺等の諸僧に潅頂を許し給う
伝教大師は、円・密・禅・戒の四宗を全て知っていたが、あくまでも法華経を根本とし、そのもとに統一されるべきものとして扱ったのである。
いいかえれば、法華経こそ真実中の真実であり、その他の密・禅・戒の三宗は円=法華経の真実を顕すための序分であるとともに法華経を中心としてみれば、これらは流通分になる。このゆえに伝教大師は、法華経と律宗とは弘通したが、禅宗は弘めず、また、真言宗=密については、一つの独立した宗とするのではなく、七大寺の諸僧に灌頂するのみにとどめたのである。
ここに、伝教大師の深い意図が秘められていたのであるが「世間の人人は・いかなるという事をしらず」と述べられているように、当時の人々はそれを理解することができなかったばかりでなく、後世になると、逆に「伝教大師は、入唐して法華宗については詳しく学んだが、真言宗については詳しく知らなかったのだ」といって、法華宗より真言宗のほうが勝れていると主張し、真言宗を弘めることを正当化したのである。
1517:13~1518:07 第四章 真言宗伝来の経緯を述べるtop
| 13 同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて真言宗をならう、しかりといへども・いまだ此の御代には帰朝なし、 14 人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり、 五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に・真言宗 15 の住処・東寺を給いて護国教王院とがうす、伝教大師御入滅の一年の後なり。 -----― 同じ桓武天皇の治世に空海という人が中国に渡って真言宗を修学した。しかし、桓武帝の治世には帰朝しなかった。人王第五十一代の平城天皇の治世に帰朝した。そして第五十二代の嵯峨天皇の治世の弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の道場として東寺を下賜され、教王護国院と号した。伝教大師御入滅の一年後のことである。 同じ桓武天皇の治世に空海という人が中国に渡って真言宗を修学した。しかし、桓武帝の治世には帰朝しなかった。人王第五十一代の平城天皇の治世に帰朝した。そして第五十二代の嵯峨天皇の治世の弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の道場として東寺を下賜され、教王護国院と号した。伝教大師御入滅の一年後のことである。 -----― 16 人王五十四代・仁明天皇の御宇に円仁和尚・漢土にわたりて重ねて法華・真言の二宗をならいわたす、人王五十 17 五代・文徳天皇の御宇に仁寿と斉衝とに金剛頂経の疏・ 蘇悉地経の疏・已上十四巻を造りて大日経の義釈に並べて 18 真言宗の三部とがうし、 比叡山の内に総持院を建立し真言宗を弘通する事此の時なり、叡山に真言宗を許されしか 1518 01 ば座主両方を兼ねたり、 しかれども法華宗をば月のごとく・真言宗をば日のごとしといいしかば、 諸人等は真言 02 宗はすこし勝れたりとをもへけり、しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給いけり大衆も又かくのごとし。 -----― 人王第五十四代の仁明天皇の治世に円仁和尚が中国に渡って再び法華宗・真言宗の二宗を修学して伝えた。 人王第五十五代・文徳天皇の治世の仁寿と斉衡年間に金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻の合わせて十四巻の疏を造って、大日経の義釈と並べあわせて真言宗の三部と号し、また比叡山のなかに総持院を建立して真言宗を弘通し始めたのはこの時からである。 比叡山で真言宗が許されたので、座主は法華・真言の両方を兼ねた。しかし「法華宗は月のようであり、真言宗は太陽のようである」といったので、人々は真言宗の方が法華宗より少し勝れていると思ったのである。それでも座主が法華・真言を兼学したので比叡山の大衆も同じようにした。 -----― 03 同じき御宇に円珍和尚と申す人・御入唐・漢土にして法華・真言の両宗をならう、同じき御宇に天安二年に帰朝 04 す、此の人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗 05 をならいきわめ給うのみならず・又東寺の真言をも習い給へり、 其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみが 06 き給う・今の三井寺の法華・真言の元祖・智証大師此れなり、已上四大師なり。 -----― 同じ文徳天皇の治世に円珍和尚という人が中国に渡って、法華・真言の二宗を修学し、同じ治世の天安二年に帰朝した。 この円珍和尚は、日本国では比叡山第一代座主義真、第二代座主の円澄、また別当光定、第三代座主の円仁等から法華・真言の二宗を習い究めたばかりでなく、さらに東寺の真言宗をも習学したのである。その後に中国に渡って法華・真言の二宗をさらに研究した。それが今の三井寺の法華真言の元祖の智証大師なのである。以上が世にいう四大師である。 -----― 07 総じて日本国には真言宗に又八家あり、東寺に五家・弘法大師を本とす・天台に三家・慈覚大師を本とす。 ・ -----― およそ日本国には真言宗に八家がある。東寺に五家は弘法大師を祖とし、天台に三家は慈覚大師を祖とする。 |
空海
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
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平城天皇
平城天皇(0744~0824)。第51代天皇(在位:延暦25年(0806年)~ 大同4年(0809)。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
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嵯峨の天皇
(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
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東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
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仁明天皇
(0810~850)。在位:天長10年(0833~850)。平安時代初期の第54代天皇。諱は正良。嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子、檀林皇后。
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円仁和尚
(0794~0864)。延暦寺第三代座主。円仁は諱。諡号は慈覚大師。下野(栃木県)に生まれ、15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。仁明天皇の治世の承和5年(0838)勅を奉じて入唐し梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。没年については貞観8年(0866)ともいわれる。著書には「金剛頂経疏」七巻、「蘇悉地経疏」七巻等がある。和尚とは、高僧に対する尊称で、天台宗、華厳宗等では「かしょう」、禅宗、浄土宗では「おしょう」、法相宗、真言宗、律宗等では「わじょう」と呼ぶ。
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文徳天皇
(0827~0858)。平安時代前期の第55代天皇。在位:(0850~0858)。諱は道康。田邑帝とも。仁明天皇の第一皇子。母は左大臣藤原冬嗣の娘、皇太后順子。
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仁寿と斉衝
文徳天皇治世の年号。文徳天皇治世の年号。仁寿は0851.4~0854.11。斉衝は0854.11~0857.2まで。
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金剛頂経の疏
金剛頂大教主経疏のこと。7巻。不空の金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経を、慈覚が撰述したもの。歴劫成仏と不歴劫成仏で顕密二教を分別し、阿字本不生の一理をもって秘密教の教体としている。また法華経の久遠実成と金剛頂経の不久現証説を通釈して、釈尊の大日如来は一仏であると述べている。
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蘇悉地経の疏
蘇悉地羯羅経略疏のこと。7巻。慈覚が撰述したもの。蘇悉地経は、金剛・胎蔵の両部不二を密経であるとして、金胎両部大経よりもさらに深い秘密経としている。
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大日経の義釈
毘盧遮那仏神変加持経義釈のこと。14巻。善無畏述・一行記の大日経を、智儼・温古が校訂したものをいう。天台の釈義を引いて、密経の義を論じている。慈覚・智証が中国から将来した。
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比叡山
延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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総持院
比叡山延暦寺の東塔の本院。法華仏頂総持院のこと。慈覚大師伝によると、慈覚は入塔して長安の青竜寺において、義真・法全・元政等から真言の法を受けた。帰朝後、青竜寺の鎮国道場に模して仁寿元年(0851)に建立し、大日如来を本尊とし、十四僧を置いて皇帝本命の道場とした。
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座主
大寺の管長のこと。
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大衆
多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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円珍和尚
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。天台宗寺門派の祖。円珍は諱。諡号は智証大師。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で比叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来した。天安2年(0853)に帰国し、貞観10年(0868)延暦寺座主となってから、園城寺(三井寺)を仏法灌頂の道場とした。天台宗に真言密教を取り入れ「法華経や華厳経等の所説は皆戯論である」等と述べた。著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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義真
(0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
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円澄
(0772~0837)。平安時代前期の天台宗の僧。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。
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別当光定
(0779~0858)。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、俗姓は贄氏。大同3年(0808)30歳の時に伝教大師の弟子となる。弘仁3年(0812)東大寺で具足戒を受け、また空海にも胎蔵界灌頂を受けた。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。
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三井寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある園城寺のこと。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(
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東寺に五家
入唐して密経を伝えた人々のうち東寺を中心とした五人。①弘法は延暦23年(0804)入唐して大同元年(0806)帰朝。②常暁・③円行は承和5年(0838)入唐し翌6年(0839)帰朝。④慧運は承和9年(0842)入唐し承和14年(0847)帰朝。⑤宗叡は貞観4年(0862)に入唐し貞観9年(0867)に帰朝した。
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天台に三家
①伝教大師は入唐して真言を伝えたが、天台宗の修行の一つに遮那業として真言の経を修学させたのみで真言ンを宗として独立させていない。②慈覚・③智証は理同事勝の義を立て、真言の優越を認めた。この三人を天台の(に)三家という。
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ここでは、伝教大師が天台法華宗を日本国に確立したにもかかわらず、その後、真言密教が伝来して勢いを得てしまった経緯が述べられている。
まず、日本真言宗の祖・空海は伝教大師と同じく第50代桓武天皇の治世に唐に渡り、真言密教を学んだ。そして第51代平城天皇の治世に帰朝し、第52代嵯峨天皇から京都の東寺を賜って真言宗の本山とした。伝教大師入滅の一年後のことである。
この空海は、真言密教こそ最高の教えであるとして法華経を大日経、華厳経に劣る第三戯論の法であると下した。
一方、比叡山でも円仁・円珍ともに、中国に渡って法華と真言の両宗を学び帰り、法華経は真言に劣るとの謬義を伝えたのである。
慈覚等の考えは、中国真言宗の祖・善無畏等と同じで「理同事勝」と呼ばれる。法華経と大日経等の三部経とを比較すると、一念三千の理においては同じであるが、印と真言という具体的な礼儀作法においては、大日経等のほうが勝れているというものである。慈覚が「法華宗をば月のごとく・真言宗をば日のごとし」といったというのは、このことをさしての仰せと考えられる。
東密・台密
ここに、東密と台密との日本真言密教の二大流派が生じたのである。
東密は、空海の弘めた密教をいう。京都の東寺を根本道場としたので、東密という。
これに対して、天台宗に取り入れられた真言密教を台密という。これには、大きく根本大師流・慈覚大師流・智証大師流の三流がある。なかでも、慈覚流と智証流との間で確執が絶えず、ついに、智証流のほうは比叡山を下って三井寺に拠り、寺門流を形成した。これに対し、叡山の慈覚流を山門流と称し、以後、山門・寺門の二流に分かれた。
ともかく、日蓮大聖人は、日本の仏法の堕落の第一歩を、法華経を第一とした伝教大師の比叡山が、真言密教に毒されたところにあると喝破されている。そして、次章以後、仏法と国家の衰亡の歴史をたどりながら、現証面からも、厳しく指導されていくのである。
人王第50代桓武天皇の治世に最澄という聖人が出られた。法華宗を自ら見いだし、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗を責め落とされたばかりでなく、中国に大日宗という宗があることを知っておられた。同じ桓武天皇の治世に中国に渡って四宗を修学し日本に伝えられた。法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗がこれである。
しかし、法華宗と律宗とは弘通されたが、禅宗は弘められなかった。真言宗については宗としては立てず、七大寺の僧達に灌頂を許されたのである。
しかし、世間の人々は伝教大師がどうしてそのようにされたのかを知らず、今の人々は「この人は中国で法華経については詳しく修学したが、真言宗は余り詳しく学ばれなかったのであろうか」と推測していっている。
1518:08~1518:13 第五章 「真言亡国」の現証を示すtop
| 08 人王八十一代をば安徳天皇と申す父は高倉院の長子・母は太政入道の女建礼門院なり、此の王は元暦元年乙巳三 09 月二十四日・八島にして海中に崩じ給いき 、此の王は源ノ頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給う、 10 人王八十二代は隠岐の法王と申す高倉の第三の王子・文治元年丙午御即位、八十三代には阿波の院・隠岐の法皇の長 11 子・建仁二年に位を継ぎ給う、八十四代には佐渡の院・隠岐の法皇の第二の王子・承久三年辛巳二月二十六日に王位 12 につき給う、同じき七月に佐渡の島にうつされ給う、 此の二・三・四の三王は父子なり鎌倉の右大将の家人・義時 13 にせめられさせ給へるなり。 -----― 人王第八十一代を安徳天皇という。父は高倉天皇で、その長子にあたり、母は太政入道平清盛の娘の建礼門院である。安徳天皇は元暦元年乙巳三月二十四日、屋島で海中に崩じられた。安徳天皇は将軍の源頼朝に追われて、海の魚の餌食となられてしまったのである。 人王第八十二代は隠岐の法皇という。高倉天皇の第三皇子で、文治元年丙午に即位された。 人王第八十三代は阿波の院である。隠岐の法皇の長子で、建仁二年に王位を継がれた。 人王第八十四代は佐渡の院で、隠岐の法皇の第二皇子である。承久三年辛巳二月二十六日に王位につかれた。同じ年の七月に佐渡の島に移された。この八十二代、八十三代、八十四代の三人の王は父と子である。鎌倉の右大将源頼朝の家人・北条義時に攻められ、それぞれ島に送られたのである。 人王第八十一代を安徳天皇という。父は高倉天皇で、その長子にあたり、母は太政入道平清盛の娘の建礼門院である。安徳天皇は元暦元年乙巳三月二十四日、屋島で海中に崩じられた。安徳天皇は将軍の源頼朝に追われて、海の魚の餌食となられてしまったのである。 人王第八十二代は隠岐の法皇という。高倉天皇の第三皇子で、文治元年丙午に即位された。 人王第八十三代は阿波の院である。隠岐の法皇の長子で、建仁二年に王位を継がれた。 人王第八十四代は佐渡の院で、隠岐の法皇の第二皇子である。承久三年辛巳二月二十六日に王位につかれた。同じ年の七月に佐渡の島に移された。この八十二代、八十三代、八十四代の三人の王は父と子である。鎌倉の右大将源頼朝の家人・北条義時に攻められ、それぞれ島に送られたのである。 |
安徳天皇
(1178~1185)。第81代天皇。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁。母は平清盛の娘・徳子。治承4年(1180)4月に3歳で即位。寿永2年(1183)源義仲の入京によって、平宗盛に擁せられ西国に逃がれ大宰府に入った。その後、讃岐屋島に移ったが、寿永4年(1185)2月19日、平家は屋島の戦いで源義経の軍に敗れ、3月24四日、壇ノ浦で平家が滅んだ時、一門とともに入水した。吾妻鏡には次のように記されている。「廿四日 丁未 長門の国赤間関壇浦の海上において、源平相逢い、おのおの三町を隔てて舟船を漕ぎ向う。平家は五百余艘を三手に分ち、山峨兵籐次秀遠、ならびに松浦党等をもって大将軍となし、源氏の将帥に挑み戦う。午の尅に及びて、平氏ついに敗傾す。二品禅尼宝剣を持し、按察局先帝を抱きたてまつり、共にもって海底に没す。建礼門院の入水したまうのところ、渡部党源五馬允、熊手をもってこれを取りたてまつる。按察局も同じく存命す。ただし先帝はついに浮かばしめたまわず。若宮は御存命と云々」。
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高倉院
(1161~1181)。第80代高倉天皇のこと。後白河天皇の第七皇子。中宮は平清盛の娘・徳子。在世中は清盛の全盛期にあたり、後白河法皇と平清盛の対立に悩み、清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したため、中宮徳子の子・安徳天皇に譲位し上皇となった。
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太政入道
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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建礼門院
(1155~1214)。高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は「建礼門院」。清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。
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八島
屋島のこと。香川県高松市にある高台。昔は島であったが、現在では半島になっている。源義経と平家一門の戦いが行われた。ただし平家の滅亡の地は、下関市のの壇ノ浦である。
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源ノ頼朝将軍
(1147~1199)。源頼朝のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流が鎌倉幕府の支配者となった。
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いろくづ
うろこを持った生き物、魚のこと。
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隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
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阿波の院
(1196~1231)。第83代土御門天皇のこと。後鳥羽天皇の第一皇子。建久9年(1198)1月11日四歳で即位したが実権は後鳥羽上皇にあった。性質が温順で鎌倉幕府討伐計画に協力しなかったため退位させられ、弟の順徳天皇に譲位した。承久の乱の後、後鳥羽上皇の隠岐島配流をみるにしのびず、自ら申し出て土佐へ下り、阿波に移ってその地で没したので土佐院、阿波院とも呼ばれた。
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佐渡の院
(1197~1242)。第84代順徳天皇のこと。後鳥羽天皇の第三皇子。母は藤原範季の娘、修明門院重子。後鳥羽院とともに、承久の乱を企てたが敗北、佐渡へ流された。以後21年間配所に在し、仁治3年(1242)没した。佐渡に流罪になったことからこの名がある。
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ここでは、天神七代・地神五代に始まり、人王へと受け継がれて連綿と続いてきた日本の国主の系譜に起こった二つの不祥事について記されている。
その一つは、人王第81代の安徳天皇が八歳の身で、源氏軍に破れて、平氏一族とともに長門国の壇ノ浦で海中に没した事件である。
いま一つは、第82代天皇の後鳥羽上皇、第83代天皇の土御門上皇、第84代天皇の順徳天皇が、鎌倉幕府執権・北条義時追討の兵を挙げ、逆に鎌倉幕府方の大軍に破れて、それぞれ隠岐、阿波、佐渡に流されたという事件である。有名な承久の乱である。三人の上皇は、流された地にちなんで、それぞれ隠岐の法王、阿波の院、佐渡の院と呼ばれた。
天神七代・地神五代からの流れをくみ、しかも仏教信仰の篤い天皇が、このように無残な敗北を喫しなければならなかったのは、いったい、どこに原因があるのか。ここに、本抄を著された眼目がある。
大聖人は、当時の人々があえて知ろうともせず、いたずらに無常観におぼれて感傷ですませていたこの問題に、仏法の法理の光を当て、鋭く究明されていくのである。
ここでは、天神7代・地神5代に始まり、人王へと受け継がれて連綿と続いてきた日本の国主の系譜に起こった2つの不祥事について記されている。
その1つは人王81代の安徳天皇が8歳の身で、源氏軍に破れて、平氏一族とともに長門国壇ノ浦で海中に没した事件である。
いま1つは、第82代の後鳥羽上皇・83代の土御門上皇・84代の順徳天皇が、鎌倉幕府の執権・北条義時追討の兵を挙げ、逆に鎌倉幕府の大軍に破れて、それぞれ隠岐・安房・佐渡に流されたという事件である。有名な承久の乱である。3人の上皇は、流された地にちなんで、それぞれ隠岐の法王・安房の院・佐渡の院と呼ばれた。
天神7代、地神5代からの流れをくみ、しかも仏法信仰の天皇が、このような無残な敗北を喫しなければならなかったのは、いったいどこに原因があるのか。ここに本抄を著された眼目がある。
大聖人は、当時の人々があえて知ろうともせず、いたずらに無常観におぼれて感傷ですませていたこの問題に、仏法の光を当て、鋭く究明されていくのである。
1518:14~1519:01 第六章 仏神尊崇の在り方を問うtop
| 14 此に日蓮大いに疑つて云く仏と申すは三界の国主.大梵王・第六天の魔王.帝釈・日月.四天・転輪聖王.諸王の師 15 なり主なり親なり、三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給いて諸国の総領・別領等の主となし給へり、 故に梵釈 16 等は此の仏を或は木像・或は画像等にあがめ給う、 須臾も相背かば梵王の高台もくづれ帝釈の喜見もやぶれ輪王も 17 かほり落ち給うべし、神と申すは又国国の国主等の崩去し給えるを生身のごとく・あがめ給う、此れ又国王・国人の 18 ための父母なり・主君なり・師匠なり・片時もそむかば国安穏なるべからず、 此れを崇むれば国は三災を消し七難 1519 01 を払い・人は病なく長寿を持ち・後生には人天と三乗と仏となり給うべし。 -----― ここに日蓮は大いに疑って言う。 仏というのは三界の国主であり、大梵天王・第六天の魔王・帝釈天王・日月天・四天王・転輪聖王および諸王の師であり主であり親である。三界の諸王はみなこの釈迦仏から分けてもらって諸国の総領・別領等の主君となったのである。それゆえに梵天・帝釈等は釈尊をあるいは木像に刻み、あるいは画像等に画いて尊崇されるのである。もしわずかでも釈尊に背くならば、梵天王の高台も崩れ、帝釈の喜見城も破れ、転輪聖王の王冠も地に落ちるであろう。 また神というのは、国々の国主等が崩御されたのを生身のように尊崇しているものである。神もまた国王や国の人々にとって父母であり、主君であり、師匠なのである。もしわずかでも神に背くならば国が安穏であるはずがない。神を尊崇するなら、国は三災を消滅し、七難を打ち払い、人々は病なく長寿を持ち、後生には人天・三乗・仏となるであろう。 |
三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
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大梵王
大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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転輪聖王
インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。
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須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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梵王の高台
大梵天王の住処である高台閣のこと。初禅天の第二・梵輔天にあるとされる。梵宮ともいう。
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帝釈の喜見
帝釈天王の住処で、須弥山の頂上にある喜見城のこと。大智度論巻百には六足阿毘曇を引いて「山の頂に三十三天宮あり、其の城七重にして名づけて憙見となす。九百九十九門あり、一一の門の辺にみな十六の青衣大力の鬼神あって城中を守護す」と記されている。
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三災
①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
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七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。❶仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難❷薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難➌金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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人天
十界のうち、人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
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三乗
十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。
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天皇が悲惨な最期を遂げるという事件が、いかなる原因で生じたのかを明かされるにあたり、仏と神と人間との関係を示されている。
はじめに、仏については「三界の国主・大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり主なり親なり」と述べられている。
つまり仏は、三界の全体を治める国主であり、梵天・帝釈以下の天界と人界の国主・諸王にとって主・師・親三徳を具えた存在であり、これら三界の王達は仏から分けてもらって、それぞれの諸国を治める立場であると仰せである。
次に、神については「神と申すは又国国の国主等の崩去し給えるを生身のごとく・あがめ給う、此れ又国王・国人のための父母なり・主君なり・師匠なり」と説かれている。
本来、神とは、国主として死去した人々、つまり、国主の父祖、先祖を祭った存在だからである。したがって一往は、神は国主・国人にとり、やはり主・師・親三徳を具えた存在となる。ゆえに神も崇めるべきであり、人々は神を崇めることによって、国土の安穏と、現当にわたる幸せが得られるのである。
ただし仏と神とを比べた場合は、仏が神より上位にあることはいうまでもなく、そのことはこの段で、仏は三界全体の主であり、神は、その三界の中の国々の国主が崩御した後に崇められたものであると示されていることからも明白であろう。
三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給いて諸国の総領・別領等の主となし給へり
法華経譬喩品に「今此の三界は、皆な是れ我が有なり」と主の徳を、「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」と親の徳を、「而るに今此の処は……能く救護を為す」と師の徳を、それぞれ明かされているように、仏は、あらゆる国主・梵王などに対し主・師・親三徳を具備している尊極の存在である。
このことは、「下山御消息」にも「釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり」(0359-10)と述べられ、「一谷入道御書」には「娑婆世界は五百塵点劫より已来・教主釈尊の御所領なり、大地・虚空・山海・草木・一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、譬えば成劫の始め一人の梵王下つて六道の衆生をば生て候ぞかし、梵王の一切衆生の親たるが如く・釈迦仏も又一切衆生の親なり、又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にて・おはするぞかし、父母を知るも師の恩なり黒白を弁うも釈尊の恩なり」(1327-13)と述べられている。
このように、娑婆世界すなわちこの三界は釈迦仏の御所領であり、その中の個々の国々の国主などは、釈迦仏からその国を分割してもらって、釈迦仏の代理として治めているのであるということになる。また一切衆生は釈迦仏の子であり、国主等は釈迦仏の代理として、それを守り、幸せに導く義務を負っているのである。
此れを崇むれば国は三災を消し……仏となり給うべし
亡くなった国主等は、今の国王・国人にとって父母・主君・師匠であるから、これを崇めれば現世の安穏と後生善処の結果がもたらされるとの仰せである。
しかしながらこれは、その神にとっての根源的な主・師・親である仏に背かない限りにおいてであることを忘れてはならない。仏に背いてこれらの神を崇めても、なんの利益もないばかりか、現世にはさまざまな災いを招き、後世には悪道に堕ちるのである。
1519:02~1519:11 第七章 仏紳の守護のない理由を糺すtop
| 02 しかるに我が日本国は一閻浮提の内・月氏・漢土にもすぐれ八万の国にも超えたる国ぞかし、其の故は月氏の仏 03 法は西域等に載せられて候但だ七十余国なり其の余は皆外道の国なり、 漢土の寺は十万八千四十所なり、 我が朝 04 の山寺は十七万一千三十七所なり、 此の国は月氏・漢土に対すれば日本国に伊豆の大島を対せるがごとし、 寺を 05 かずうれば漢土・月氏のも雲泥すぎたり、 かれは又大乗の国・小乗の国・大乗も権大乗の国なり、此れは寺ごとに 06 八宗・十宗をならい家家・宅宅に大乗を読誦す、 彼の月氏・漢土等は仏法を用ゆる人は千人に一人なり、此の日本 07 国は外道一人もなし、 其の上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・ 第三は山王等の三千余社、昼夜に我が国を 08 まほり・ 朝夕に国家を見そなわし給う、 其の上天照太神は内侍所と申す明鏡にかげをうかべ内裏にあがめられ給 09 い・ 八幡大菩薩は宝殿をすてて主上の頂を栖とし給うと申す、 仏の加護と申し神の守護と申しいかなれば彼の安 10 徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて・ 或は殺され或は島に放れ或は鬼となり或は大地獄には 11 堕ち給いしぞ、 -----― 我が日本国は、一閻浮提において、インド・中国にもすぐれ、八万の無量の国々にも超過している国である。 その理由は、インドで仏法が弘まったのは、西域記等に記載されているところによると、七十余国のみであり、それ以外はみな外道の国である。 中国の寺院は十万八千四十か寺であり、我が国の山寺は十七万一千三十七か寺である。その国土の広さは日本をインド・中国に対すれば日本国に伊豆の大島を対するように日本ははるかに小さい。それなのに寺の数においては、中国・インドのそれを上回ること雲泥の差である。しかも、インド・中国は、大乗の国、小乗の国が混在しており、その大乗も権大乗の国である。日本国は寺々で八宗・十宗を修学し、家々、宅々で大乗経を読誦している。インド・中国等では仏法を用いる人は千人に一人である。この日本国には外道は一人もいない。 そのうえ神についていえば、第一に天照太神、第二に八幡大菩薩、第三に山王権現等の三千余社の神々が、昼夜に我が国を守護し、朝夕に国家を見守られているのである。そのうえ天照太神は宮中の内侍所に安置されている八咫鏡という明鏡に影を浮かべて尊崇され、八幡大菩薩は宝殿を出て天皇の頂を栖としているという。 仏の加護といい、神の守護といい、このように篤いのに、どうして安徳天皇と隠岐の法王と阿波の院・佐渡の院等の天皇は代々仕えてきた臣下に攻められて、あるいは殺され、あるいは島に流され、あるいは鬼となり、あるいは大地獄に堕ちられたのであろうか。 |
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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八万の国
「八万」は実際の数ではなく、大数・多数の意で、多数の国々のこと。
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西域
大塔西域記のこと。12巻からなる。唐の玄奘の旅行記。7世紀初め玄奘が16年間にわたって仏教典籍を求めて歴遊した西域(インド)諸国の地理・歴史・言語・風俗・仏教事情・政治などについて詳しく記したもの。見聞の地と伝聞によって知った諸国を合わせる140ヵ国に及んでいる。
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七十余国
インドの中で、仏法が弘まった国の数を伝教大師が大唐西域記を要約して顕戒論に「大乗習学の国・十五か国」、「大小兼学の国・十五国」、「小乗習学の国・四十一か国」の71か国と記述していることをさすと思われる。
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余は皆外道の国
大唐西域記に記されている国の数は139ヵ国で、仏教を修学している国は71ヵ国であり、外道の国は68ヵ国となる。
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十七万一千三十七所
中興入道消息にも「仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり」(1331)との御記述が見える。これに対し、諫暁八幡抄には「一万一千三十七の寺寺」(0582)と述べられ、「秋元御書」・「曾谷二郎入道殿御返事」・「弥源太入道殿御返事」も同様である。日蓮大聖人がどのような書を典拠として171,037所とされたのかは不明である。
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伊豆の大島
伊豆諸島の最北端にあり、中央火口丘を持つ複式火山島。面積は90㎢。
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大乗の国
大乗教が広まっている国。仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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小乗の国
小乗教が広まっている国。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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権大乗の国
権大乗が広まっている国。権大乗とはの中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
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山王
日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
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山王等の三千余社
日吉神社をはじめとする日本のすべての神社。
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内侍所
三種の神器の一つである八咫鏡を奉安する宮殿のこと。内侍が守護していたので内侍所という。このことから転じて八咫鏡の別称ともなった。ここでは八咫鏡のこと。
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内裏
天皇の住居を中心とする御殿。御所。宮中。皇居。
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宝殿
①神宝・奉納品などを納めておく建物。②立派な宮殿のこと。
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相伝の所従
先祖より代々仕えてきた臣下の武士のこと。
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仏が三界の一切衆生の主・師・親であり、神は個々の国々を預り治めている主・師・親であるから、仏と神とを崇めれば、現世には安穏であり、後生は善処に生まれるはずであるのに、仏と神を崇めることにおいて閻浮提第一の国である日本の国主が、なぜ悲惨な最期を遂げなければならなかったのかと疑問を進められている。
日本が仏と神を崇める第一の国である理由として、二つ挙げられている。
まず第一に「月氏の仏法は西域等に載せられて候……此の日本国は外道一人もなし」の御文では、インド・中国と対比して、仏法の信仰のあり方や寺の数において、いかに日本が勝れているかを示されている。
月氏は139か国あるなかで、仏法をともかく信じている国は70余国にすぎず、残り60余国は外道の国である。
また漢土の場合、一応全土に仏教は広まったものの、寺院の数は、日本のそれに比べて少ない。しかもインド・中国の仏法は、権大乗、小乗という低い教えであり、しかも信ずる人は千人に一人の割合であるのに対し、我が国は大乗を学し、外道は一人もいないと仰せられている。
次に「其の上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は……栖とし給うと申す」との御文では、日本が諸々の神の加護の深い国であることを述べられている。
天照太神・八幡大菩薩
すでに示されたように、天照太神は天神七代の、伊弉諾尊・伊弉冊尊の娘で、地神五代の第一の神である。大和朝廷の祖先神とされ、伊勢神宮内宮の祭神である。同じく八幡大菩薩は、人王第十六代の応神天皇とされる。
さて天照太神は、本来、太陽を神格化した女神で、それが天皇家の祖先神として尊崇を受けるようになったと考えられる。
大和朝廷により伊勢神宮に祭られたが、日蓮大聖人はこの天照太神に関して諸御書で、朝廷が真言等の謗法を盛んに信ずるようになってしまったため、朝廷方を捨てて、あまり謗法を信じなかった鎌倉方に移ったと仰せられている。
例えば、弥源太殿御返事では「日蓮は日本国の中には安州のものなり総じて彼国は天照太神のすみそめ給いし国なりといへりかしこにして日本国をさぐり出し給ふあはの国御くりやなり・しかも此国の一切衆生の慈父悲母なりかかるいみじき国なれば定んで故ぞ候らんいかなる宿習にてや候らん日蓮又彼国に生れたり第一の果報なるなり」(1227-10)と仰せられ、聖人御難事でも「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房の国長狭郡(ながさごおり)の内、東条の郷今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」(1189-01)と述べられている。
しかしその鎌倉方も極楽寺良観などを重んじ、真言、念仏、禅等の謗法の邪教を信ずるようになったため、天照太神等の諸天善神も国を捨て去り、そこに種々の災厄が起こったと指摘されているのが、立正安国論の「神天上法門」である。
また八幡大菩薩は、もともと八幡宮の祭神で、八幡大明神のことである。古くは農耕神とされていたが、豊前国(大分県)の宇佐に祭られてから、付近に産する銅産の神とされたという。
奈良時代の東大寺大仏造立の時、その銅産神としての性格から、大仏造立を助けたとされ、奈良の手向山に祭られた。
以来、八幡大明神は仏教との関係を深め、また国家的神格として広い信仰を集めるようになり、託宣神としても知られるようになった。
平安時代初期には、朝廷から大菩薩号を贈られ神仏習合の先駆となった。その結果、僧形八幡像なども作られた。
貞観元年(0859)に行教という人により、山城国岩清水に勧請されたころから、応神天皇の本地は八幡大菩薩であるとの説が広まり、朝廷から祖先神・京都守護神として崇拝された。
その後、清和源氏などから氏神として崇められ、特に源氏の信仰を集めたところから武神的性格を帯び、武士の守護神として弓矢八幡などが作られた。源頼義は京都の石清水八幡宮を由比郷の鶴岡に勧請し、それをまた源頼朝が現在地に移した。
しかし、この八幡宮についても、弘安3年(1280)11月に炎上したことに関して、大聖人は八幡宮造営事で、一国が謗法のゆえに「八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか」(1106-09)と述べられている。
1519:11~1519:18 第八章 王位を追われた所以を問うtop
| 11 日本国の叡山・七寺・東寺・園城等の十七万一千三十七所の山山寺寺に・いささかの御仏事を行うに 12 は皆天長地久玉体安穏とこそ・いのり給い候へ、 其の上八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり、 人王第四十八代 13 に高野天皇の玉体に入り給いて云く、 我が国家開闢より以来臣を以て君と為すこと未だ有らざる事なり、 天之日 14 嗣必ず皇緒を立つ等云云、又太神行教に付して云く我に百王守護の誓い有り等云云。 -----― 日本国の比叡山・南都七大寺・東寺・園城寺等の十七万一千三十七の諸山諸寺では、わずかな仏事を修するのにも、すべて「天長地久玉体安穏」を祈念している。それのみならず八幡大菩薩は、とくに天皇守護の大願を立てられている。人王第四十八代の高野天皇の玉体に入られて「我が国家開闢以来、一度として臣下を主君としたことはない。皇位には必ず皇統を立てねばならない」といい、また、天照太神が行教に「我には百王守護の誓願がある」と御託宣になられているのである。 -----― 15 されば神武天皇より已来百王にいたるまでは・いかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず・王位を傾くる者 16 も有るべからず、一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す、 いかにとして彼れ彼の四王は王位ををいを 17 とされ国をうばはるるのみならず・命を海にすて身を島島に入れ給いけるやらむ、 天照太神は玉体に入りかわり給 18 はざりけるか・八幡大菩薩の百王の誓は・いかにとなりぬるぞ、 -----― したがって、神武天皇から百代の天皇にいたるまでは、どのようなことがあろうとも玉体に災いがあるはずがなく、王位を危うくする者もあるはずがない。一生補処の菩薩は中途で死ぬことはない。また聖人は横死することはないという。それなのに、どうして四人の天皇は王位を追い落とされ、国を奪われたのみでなく、命を海中に落とされ、身を島々に移されたのであろうか。天照太神は玉体に入り代わられなかったのか。八幡大菩薩の百王守護の誓願はどうなってしまったのであろうか。 |
天長地久玉体安穏
「天長地久」は、天地がいつまでも変わらずへいおんなこと。「玉体安穏」は天皇の身体が安泰であること。
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高野天皇
(0718~0770)。「たかぬのすめらみこと」。第46代孝謙天皇の別称。
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行教
生没年不明。平安時代、石清水八幡宮を建立した僧。大和の大安寺に住し、三論および密教を学ぶ。貞観元年(0859)宇佐八幡に詣でたとき、夢の中で「師、王城に廻らば、我亦随い行きて王城の側に居て、まさに皇祚を護るべし」と託宣があったという。ただし本文で「太神」と書かれているのは、八幡の意味で書かれたか、八幡でなく天照太神が行教に告げたという伝承が別にあったのかもしれない。
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一生補処の菩薩
「一生補処」とは、この一生は迷いの世界に縛られているが、次生には仏の位一生補処処を補う位になること。菩薩の最高位である等覚をさす。弥勒菩薩は釈尊の一生補処の菩薩とされ、釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊滅後56億7000万歳の時に下生して、一生補処釈尊の説法にもれた衆生を済度するという。
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中夭
若死のこと。
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横死
災害・事故等、思いがけないことで死ぬこと。
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日本中の人が仏法を信じ、また「神天上法門」など知るよしもなく、天照太神も八幡も、日本の国とくに天皇を守護してくれると信じていた。
ゆえに、各宗の寺々では仏事のたびに「天長地久」すなわち国土の繁栄と「玉体安穏」すなわち天皇の安泰を祈り、また八幡の「百王守護」の誓いに希望を託していたのである。
それゆえ、少なくとも神武天皇以来、人王百代までは玉体は安全で、臣下が王位を奪うような事態にならないはずである。
なのにどうして安徳天皇は臣下の源氏に攻められて命を海に捨て、隠岐・阿波・佐渡の院は、島や辺土に流されたのであろうかと、疑いを発しておられるのである。
八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり……百王守護の誓い有り等云云
前述したように、八幡大菩薩はしばしば託宣を下している。
例えば、第48代高野天皇の時、和気清丸が宇佐八幡に勅使として神意を請けた際に、その身体に入って「我が日本国は開闢以来このかた、臣下を以って皇位につかせたことは未だかつてない。必ず、天つ日嗣の神の御裔を以って王位を嗣がしむべきである」と述べたという。この託宣により、弓削の道鏡の皇位纂奪の野望は潰え去ったという。
また、八幡大菩薩の百王守護の託宣は、何度かあるようである。
続群書類従第三の東大寺八幡験記によると、大和大安寺の行教という寺僧が、唐から帰朝し、筑紫豊前国(大分県)宇佐宮に参詣した時、八幡大菩薩はこれに託宣して、「我れ誓って日本国の百王を守護するであろう」と述べたという。平城天皇の時世には「我は日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王守護の誓願有り」との託宣があったという。
したがって、少なくとも人王百代までは、日本国の国王の王位は安穏である、との信仰が当時存在したのであり、「されば神武天皇より已来百王にいたるまでは・いかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず・王位を傾くる者も有るべからず」との御文は、当時の通念を述べられているのである。
なお、本文では「又太神行教に付して云く我に百王守護の誓い有り等云云」と、天照太神が百王守護を誓っているとされている。
しかし、このあと「八幡大菩薩の百王の誓は・いかにとなりぬるぞ」といわれているので、あるいは八幡の意味で「太神」と書かれたのかもしれない。
一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す
一生補処とは、ただ一つの生涯の間、迷いの生死の世界に縛られるだけで、次の生涯には仏となることができる地位である。
〝補処〟は仏を補うということで、一生を過ぎれば仏処を補うべき位という意味で、仏に次ぐ位であって、菩薩としての最高の位である等覚にあたる。
一般的には、弥勒が釈尊のあとを継ぐ一生補処の菩薩とされているが、各経典により、一生補処として立てる菩薩名は異なる。
さて、その一生補処という位まで修行を積み、境地を高めた菩薩は〝中夭〟つまり中途で死ぬということはないといわれている。
また聖人は横死せずの聖人とは、仏の意ではなく、一般的な聖人で、ここでは天皇をさしている。国主は仏法上でも、過去に十善を施した報いとして国王になった人であるから〝聖人〟とされるのである。本来、中夭や横死があるべきでない国主に、何故、安徳・隠岐・阿波・佐渡の四王のような事態が生じたのかと疑問を提起されているのである。
1519:18~1521:01 第九章 王威の没落せる所以を問うtop
| 18 其の上安徳天皇の御宇には明雲の座主・御師とな 1520 01 り・ 太上入道並びに一門怠状を捧げて云く 「彼の興福寺を以て藤氏の氏寺と為し春日の社を以て藤氏の氏神と為 02 すが如く、 延暦寺を以て平氏の氏寺と号し日吉の社を以て平氏の氏神と号す」云云、 叡山には明雲座主を始めと 03 して三千人の大衆・五壇の大法を行い、大臣以下は家家に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し・諸寺・諸山には奉幣し大 04 法秘法を尽くさずという事なし。 -----― そのうえ、安徳天皇の治世には、比叡山の明雲座主が御師となり、太政入道平清盛ならびに平氏一門が願書を捧げた。そこには「かの興福寺を藤原氏の氏寺とし、春日神社を藤原氏の氏神としたように、延暦寺を平氏の氏寺とし、日吉神社を平氏の氏神とする」と述べている。比叡山では明雲座主をはじめ三千人の大衆が五壇の大法を行い、大臣以下の人々は家ごとに尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺・諸山には幣物を奉って、ありとあらゆる大法・秘法の祈禱を行ったのである。 -----― 05 又承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大 06 法秘法残りなく行われ給う、 所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五 07 月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、 又六月八日御室・守護経法を行い給う、 已上四 08 十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、 権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御 09 調伏も行い給はず、 又いかに行い給うとも彼の法法・彼の人人にはすぐべからず、仏法の御力と申し王法の威力と 10 申し・彼は国主なり・ 三界の諸王守護し給う、此れは日本国の民なり・わづかに小鬼ぞまほりけん代代の所従・重 11 重の家人なり、譬へば王威を用いて民をせめば鷹の雉をとり.ネコのねずみを食い・蛇のかへるをのみ.師子王の兎を 12 殺すにてこそ有るべけれ、なにしにか・かろがろしく天神・地祇には申すべき、仏・菩薩をばをどろかし奉るべき、 13 師子王が兎をとらむには精進すべきか、 たかがきじを食んにはいのり有るべしや、 いかにいのらずとも大王の身 14 として民を失わんには大水の小火をけし・ 大風の小雲を巻くにてこそ有るべけれ、 其の上大火に枯木を加うるが 15 ごとく・大河に大雨を下すがごとく・ 王法の力に大法を行い合せて頼朝と義時との本命と元神とをば梵王と帝釈等 16 に抜き取らせ給う、譬へば古酒に酔る者のごとし・蛇の蝦の魂を奪うがごとし・頼朝と義時との御魂・御名・御姓を 17 ば・かきつけて諸尊・ 諸神等の御足の下にふませまいせていのりしかばいかにもこらうべしともみへざりしに・い 18 かにとして一年・一月も延びずして・わづか二日一日にはほろび給いけるやらむ、 仏法を流布の国主とならむ人人 1521 01 は能く能く御案ありて後生をも定め御いのりも有るべきか。 -----― また承久の合戦の時は、天台の座主・慈円、仁和寺の御室の道助法親王、三井寺等の高僧を招き集めて日本国に渡来した大法・秘法を残らず行われたのである。いわゆる承久三年辛巳四月十九日には十五壇の大修法が行われた。そのなかで天台の座主は一字金輪法等を行い、また五月二日は仁和寺の御室が如法愛染明王法を紫宸殿で行ったのである。また六月八日にも御室が守護経法を行ったのである。以上の四十一人の高僧等が、十五壇の大法を修したことは日本では二度目のことであった。 権大夫北条義時はこの修法のことを知らなかったので、とくに調伏の修法も行わなかった。また、かりに行ったとしても、義時には、朝廷方が集めたほどの高僧、朝廷方が修したほどの大法・秘法を超えることはできるはずもなかった。 仏法の力といい、王法の威力といい、朝廷方は国主であり、三界の諸王が守護されている。他方の義時は日本国の民にすぎず、わずかに小鬼神が守護しているのみである。代々、天皇の臣下であり、義時は天皇の臣下たる頼朝の家来なのである。たとえば、国王の威力で民を攻めるならば鷹が雉をとり、猫が鼠を食い殺し、蛇が蛙を呑み、師子王が兎を殺すようなものであって、どうして軽々しく天神・地祇に祈り、仏・菩薩を煩わす必要があろうか。師子王が兎を捕らえるのに精進が必要であろうか。鷹が雉を食うのに何の祈りが必要であろう。どのような祈りがなくとも、国王の身として、民を罰するのは大水が小火を消し、大風が小雲を吹き払うようなものであるはずである。 そのうえ、大火にさらに枯木を加えて火力を熾んにするように、大河にさらに大雨が降って水量が増すように、王法の力にさらに真言の大法を修して、頼朝と義時との命と魂とを梵王・帝釈等に抜きとらせようとしたのである。たとえば古酒に酔った者の命を奪うようなものであり、蛇の蝦の魂を奪うようなものである。頼朝と義時との魂・名・姓を書きつけて、諸仏・諸菩薩・諸神の足に踏ませて調伏を祈ったのであるから、ひとたまりもなく亡びるはずであったが、かえって朝廷方が一年・一月ももたなかったばかりか、わずか二日か一日で亡びてしまわれたのはどういうわけであろうか。仏法の流布する国の国主となられる人々はよくよく考えられて、後生に対する安心を定められ、祈念もあるべきである。 |
明雲の座主
(~1183)。比叡山延暦寺55.57台座主。弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する。治承3年(1179)、政変で院政が停止されると座主職に再任され、大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた。
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太上入道
(1118~1181)平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承3年(1179)の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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怠状
①罪人が差し出す謝罪状。②自分の過去を詫びる言葉を書いた文章。③過去を詫びること。
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興福寺
法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。
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藤氏
藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。
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氏寺
氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した寺。
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春日の社
春日神社のこと。奈良県奈良市春日野町にある。藤原氏の氏神で興福寺の鎮守。
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氏神
氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した神社。
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平氏
桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。しかし後世に残ったもののほとんどは葛原親王の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王流坂東平氏の流れのみである。常陸平氏や伊勢平氏がこれに相当する。また、北条氏や坂東八平氏なども含めることがある。葛原親王の流れの桓武平氏には高望王流の他に善棟王流と高棟王流があり、善棟王には記録に残る子孫はいなかったが、高棟王流の桓武平氏は公家として京都で活動した。
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日吉の社
滋賀県大津市にある日吉神社のこと。延暦寺の守護神。伝教大師が延暦寺を創建した時、法華守護のため三輪神を勧請して日吉大宮(大比叡)として祀り、従来の守護神であった大山咋神を二宮として祀ったことに始まる。
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三千人の大衆
比叡山延暦寺の3000人の僧侶のこと。
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五壇の大法
密教の修法の一つ。五大明王を1明王ごとに別壇にまつり、五つの壇を連ねて修法すること。息災、調伏のほか、とくに天皇や国家の大事の際に修された。14人から21人の僧侶が出仕して勤めた。五壇の御修法ともいう。
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尊勝陀羅尼
尊勝仏頂の功徳を説いた陀羅尼のこと。仏頂尊勝陀羅尼経には、善住天子の畜生界に生まれる業因をあわれんだ釈尊がこの陀羅尼の功徳を説き、誦して天上界に生じさせたとある。そして、この陀羅尼を誦することによって一切の罪業が除かれ、解脱ができると説かれている。除災・延命の陀羅尼とされている。
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不動明王
真言宗の本尊。大日如来の命を受け、または大日如来が化身して、仏道修行を妨げる障魔を破る明王。後代明王、八大明王の総主。不動尊・無動尊・不動金剛明王ともいう。
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供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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奉幣
神に供物を捧げること。
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承久の合戦
承久3年(1221)朝廷が幕府を倒そうとして企てた乱、失敗に終わった。地頭職問題で幕府側と不穏になった朝廷側は後鳥羽上皇を中心として謀議を企て、北面の武士や、幕府に不満をもつ武士等を集めるべく、北条義時追討の院宣を発した。義時は家人を結束させ、朝廷の軍勢を二か月で討った。その結果、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に配流したのをはじめとして、三上皇を配流し、天皇を交代させた。この結果、皇室は全く権力を失い、北条執権政治の時代が出現した。後鳥羽上皇を中心とする朝廷軍の根本的な敗因は、幕府調伏のため真言の祈祷を行なったことによる。「還著於本人」の経文どおり、亡国の悪法たる真言宗に祈祷したのであるから、かえってわが身を亡ぼす結果となったのである。
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慈円
(1155~1225)。平安時代から鎌倉時代にかけての天台宗の僧。天台宗の座主に四度(62代、65代、69代、71代)就く。承久の乱の前年(1220)、乱の起こることを見通して「愚管抄」を著わし、道理に合わない行ないは成就しないとの史観を述べ、後鳥羽上皇が武士の勢力を無視して、倒幕の計画をすすめることを風刺した。しかし、承久の乱の時には、後鳥羽上皇の命により、真言の法による幕府調伏の祈祷を行なった。
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御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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十五壇の法
後鳥羽上皇の命で承久3年(1221)4がつ19日、密教の髙僧等41人が各寺院で関東調伏のために行った修法が15あったことをいう。祈祷抄にくわしい。
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一字金輪法
一字金剛仏頂王を本尊として修する真言宗の祈祷法。
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如法愛染明王法
愛染明王を本尊として如意宝珠法によって修する真言の祈祷法。大愛染法ともいう。真言宗東寺の大事とされる。如意宝珠ほうとは、所修の本尊を如意宝珠三昧に引き入れて修する法をいい、また如意珠をもって直ちに本尊となすを秘事とする。息災・増益・降伏・調伏などを祈る修法。
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紫宸殿
京都市上京区にある御所内裏の正殿のこと。
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守護経法
国家・社会の安穏を目的として、守護国界主陀羅尼蔵経によって修する密教の大法。仁王経法・孔雀経法とともに三箇大法といい、本尊は金剛界三十七尊の漫荼羅とされている。
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調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
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王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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家人
①家来・従者。②律令制下の貧民。③御家人。
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天神・地祇
天上にいる神と大地に住む神。天神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
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本命と元神
本命とは生まれた年の干支のこと。元神は自己の魂をいい、自己の運命を決定する命運を本命という。
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日本国並びに国主には、仏の加護、諸神の守護があるはずであるが、そればかりではない。安徳天皇を擁した平氏は比叡山を氏寺として、座主明雲によって源氏調伏の修法を行った。また承久の合戦の時は、朝廷方は、各寺の高僧たちを総動員して祈禱・調伏を行ったのである。それにもかかわらず、安徳天皇と平氏は源頼朝によって滅ぼされ、承久の乱の時の朝廷方は北条義時によって、ともにあえなく敗れてしまった。
安徳天皇の御代・及び承久の合戦の祈り
平氏一門は、存亡の危機に際して、比叡山延暦寺を平氏の氏寺とし、日吉の社を氏神とした。
平氏の氏寺となった比叡山では、源氏調伏のために時の座主・明雲が中心になって一山三千人の法師が五檀の大法の祈禱を行い、平氏においても大臣以下の諸臣の家々では尊勝陀羅尼を誦し、不動明王を供養し、数多くの寺々に祈禱に必要な種々のものを奉って祈るなどして、あらゆる秘法を行じたとされる。
しかし平家方は次々と戦いに敗れ、安徳天皇を擁して西海に逃れ、ついには壇ノ浦で滅亡してしまったのである。
また承久の合戦の時、朝廷方は、北条義時調伏のために、比叡山の座主・慈円僧正をはじめとして、仁和寺の御室である道助法親王や三井寺等の各高僧を招集して、あらゆる秘法を残らず行った。
すなわち、承久3年(1221)4月19日を皮切りに開始された十五壇の大修法というのがそれである。これには41人の高僧が次々と十五壇の一つ一つを受け持って祈禱していったという。
この時行われた十五壇の大修法については、祈禱抄に詳しく説かれているので引用しておきたい。
「秘法四十一人の行者、承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時、関東調伏の為、隠岐の法皇の宣旨に依って始めて行はれ御修法十五壇の秘法。一字金輪法、天台座主慈円僧正・伴僧十二口・関白殿基通の御沙汰。四天王法、成興寺の宮僧正・僧伴八口・広瀬殿に於て修明門院の御沙汰。不動明王法、成宝僧正・伴僧八口・花山院禅門の御沙汰。大威徳法、観厳僧正・伴僧八口・七条院の御沙汰。転輪聖王法、成賢僧正・伴僧八口・同院の御沙汰。十壇大威徳法、伴僧六口・覚朝僧正・俊性法印・永信法印・豪円法印・猷円僧都・慈賢僧正・賢乗僧都・仙尊僧都・行遍僧都・実覚法眼・已上十人大旨本坊に於て之を修す。如意輪法、妙高院僧正・伴僧八口・宜秋門院の御沙汰。毘沙門法、常住院僧正・三井・伴僧六口・資賃の御沙汰。御本尊一日之を造らせらる。調伏の行儀は如法愛染王法、仁和寺御室の行法・五月三日之れを始めて紫宸殿に於て二七日之を修せらる。仏眼法、大政僧正・三七日之を修す。六字法、快雅僧都。愛染王法、観厳僧正七日之を修す。不動法、勧修寺の僧正・伴僧八口・皆僧綱。大威徳法、安芸僧正。金剛童子法、同人。已上十五壇の法了れり」(1353-09)。
これに対し鎌倉幕府側は、自分達が調伏されていることも知らなかったし、また天皇方を調伏することもしなかった。たとえ調伏したとしても天皇方のような高僧も秘法もなかったので、太刀打ちできるはずもなかった。
しかも「仏法の御力と申し王法の威力と申し・彼は国主なり・三界の諸王守護し給う、此れは日本国の民なり・わづかに小鬼ぞまほりけん代代の所従・重重の家人なり」と仰せのように、もともと王法の威力といい、また仏法の祈禱の力といい、どこからみても、天皇方は三界の諸王の守護を受けて悠々と勝てるはずであった。
王法のうえから朝廷と幕府の関係をいえば、王威と民、鷹と雉、猫とねずみ、蛇とかえる、師子王と兎、大水と小火、大風と小雲のようなもので、朝廷側は、祈りなどしなくても必ず大勝を得られるはずであったと仰せである。
しかも、この王法の力に加えて秘法によって祈禱したのであるから、頼朝、義時も生命力と知恵を抜き取られて古酒に酔ったように、蛇ににらまれた蛙のようになるべきはずであった。ところが結果は逆であり、1年、1月といわず、わずか1日、2日にして、朝廷方が攻め滅ぼされてしまったのである。
この事実から「仏法を流布の国主とならむ人人は能く能く御案ありて後生をも定め御いのりも有るべきか」と仰せられ、祈るからにはその法の正邪をよく弁えなければならないことを戒められているのである。
1521:02~1521:14 第十章 経文に照らし諸天の治罰を教えるtop
| 02 而るに日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道・並びに諸宗の一切の経を・或は人にならい・或 03 は我れと開見し勘へ見て候へば故の候いけるぞ、 我が面を見る事は明鏡によるべし・国土の盛衰を計ることは仏鏡 04 にはすぐべからず、仁王経.金光明経・最勝王経・守護経.涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に・仏法に付 05 きて国も盛へ人の寿も長く・又仏法に付いて国もほろび・人の寿も短かかるべしとみへて候、 譬へば水は能く船を 06 たすけ・水は能く船をやぶる、五穀は人をやしない・人を損ず、小波小風は大船を損ずる事かたし・大波大風には小 07 船をやぶれやすし、王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小 08 船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし、 仏記に云く我滅するの後・ 末代には悪法悪人の国をほろぼし仏法 09 を失には失すべからず・ 譬へば三千大千世界の草木を薪として須弥山をやくにやけず劫火の時・須弥山の根より大 10 豆計りの火出でて須弥山やくが如く・我が法も又此くの如し悪人・外道・天魔波旬・五通等にはやぶられず、 仏の 11 ごとく六通の羅漢のごとく・三衣を皮のごとく身に紆い・ 一鉢を両眼にあてたらむ持戒の僧等と・大風の草木をな 12 びかすがごとくなる高僧等・我が正法を失うべし、其の時梵釈・日月・四天いかりをなし其の国に大天変・大地夭等 13 を発していさめむにいさめられずば其の国の内に七難ををこし父母・兄弟・ 王臣・万民等互に大怨敵となり梟鳥が 14 母を食い破鏡が父をがいするがごとく・自国をやぶらせて・結句他国より其の国をせめさすべしとみへて候。 -----― 日蓮はこのことについて疑問を持ったために、幼少のころから顕密二教をはじめ、諸宗の一切の経教を懸命になって、あるいは人に学び、あるいは自分一人で開いて見て勘えたところ、その理由があることを知ったのである。自分の顔を見ようとするなら明鏡によるべきであり、国土の盛衰を計り知ることは仏法の鏡よりすぐれたものはない。 仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見るのに、信ずる仏法によって国も栄え、人の寿命も長くなり、また仏法によって国も亡び、人の寿命も短くなると説かれている。たとえば水はよく船を浮かべるが、またよく船を破るのである。五穀は人の命を養うが、人を損ずることもある。 小さい波・小さな風は大船を損ずることは難しいが、大きい波・大きな風に、小船は容易に破られる。王法が曲がっているのは小さな波・小さな風のようなもので、大国と大人を滅ぼすことはできない。仏法に誤りがあるのは、大きな波・大きな風が小船を破るようなもので、国が滅亡することは疑いないのである。 仏記には「私が滅度した後、末代には、悪法や悪人は、国は滅亡させるが、仏法は滅ぼそうとしても滅ぼすことはできない。たとえば三千大千世界の草木をすべて薪として須弥山を焼いても焼けないが、この世界が滅びようとして劫火の起こる時は、須弥山の麓から大豆ぐらいの火が点じてみるみる須弥山を焼くように、我が法も同じである。悪人・外道・天魔波旬・五通等には破られないが、仏のように、六通の羅漢のように、また三衣を皮のように身にまとい、鉄鉢をうやうやしく捧げて托鉢の行をする持戒の僧等と、大風が草木を靡ような高僧等が我が正法を滅亡させるであろう。その時、梵天・帝釈・日月・四天が怒って、その国に対して大天変・大地夭等を起こして誡めてもそれを聞き入れなければ、その国のなかに七難を起こし、父母・兄弟・王臣・万民等が互いに大怨敵となって争い、梟鳥が母を食い、破鏡が父を殺害するように、自らの国を破滅させ、ついにはその国を他国から攻めさせるのである」と説かれている。 |
顕密二道
顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
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金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
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最勝王経
中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
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守護経
中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。❶現存しない経①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)❷現存する経④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
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五穀
主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
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仏記
仏の未来記。予言する経文。
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三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
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須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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劫火
四劫の中の壊劫の時に起きる大の三災のなかの火災。世界を滅ぼす大火災のこと。
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天魔波旬
天魔は天子魔のことで四魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)の一つ。第六天の魔王のことであり、波旬は殺者・悪者等と訳し、魔王の名。
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五通
五種の不思議自在の神通力のこと。五神通・五神変ともいう。①天眼通 ②天耳通 ③他心通 ④宿命通 ⑤如意通をいう。
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六通の羅漢
六神通を得た阿羅漢のこと。六神通は上記の五神通に⑥漏尽通を加える。阿羅漢は声聞四果の最高位。五通は外道の仙人でも成就できるが、第六通・漏尽通は阿羅漢位でなければ成就できないので、六神通を得た阿羅漢を六通の羅漢という。
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六通の羅漢のごとく……
法華経勧持品第十三には。「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂いて得たりと為し 我慢の心は充満せん 或は阿練若に 納衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賤する者有らん 利養に貪著するが故に 白衣の与めに法を説いて 世の恭敬する所と為ること 六通の羅漢の如くならん」。とある。
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持戒の僧
受持即持戒で、正法を固く受持する僧侶。
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大怨敵
邪法をもって仏や正法を持つものを迫害する敵人
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梟鳥
フクロウのこと。梟は木の上にはりつけにされた鳥をあらわす。俗にフクロウは成長すると母を食うといわれ、母食鳥とも不孝鳥ともいう。
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破鏡
破獍とも書く。父を食うといわれる悪獣。
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これまでに提起された「なぜ仏と神の守護があるはずの天皇が身を滅ぼさなければならなかったのか」との疑問に対し、その解答が、まさに仏法の経典に明確に示されていることを述べられていく。
自分の顔を見るには鏡が必要であるように、国土が栄えたり衰えたりする原理を知るための鏡で最も勝れているのが仏法の鏡であると述べられ、仁王経、金光明経、法華経等を見ると、仏法によって国が栄えるとともに、一歩誤れば、その仏法によって国は滅びることが明らかであると仰せられている。
日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より……国のやぶるる事疑いなし
この御文で「此の事を疑いしゆへに」の〝此の事〟とは、いうまでもなく、檀ノ浦における安徳天皇の最期と承久の乱における三天皇の配流のことである。日蓮大聖人が仏法の正邪と国の盛衰を考えられるうえで、この二つの事件がいかに大きな機縁となったかは、諸御書からもうかがわれるところである。「幼少の比より」と仰せのごとく、承久の乱は大聖人の御聖誕一年前のことであり、天皇であった人が流罪にされるという日本開闢以来の大事件が、遠く安房の地でも人心に衝撃を与え続けたであろうことは容易に想像がつく。
大聖人が出家され、仏法修行に入られたのも、このことへの疑問を解くためであったといわれているのであるから、とくに大聖人は、この事件を単に驚きで終わらせるのではなく、徹底的に疑い、その答えを求め抜かれたことを拝することができる。
その結果、「我が面を見る事は明鏡によるべし・国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」との御文にあるとおり、仏法の鏡にその答えが瞭々と映しだされていたと仰せなのである。
すなわち、仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経によると、仏法の正邪により、国の盛衰と人の寿命の長短が決定されるということが明らかである。
しかも「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」と述べられ、王法の正邪も国の盛衰を決定する一つの要因であるが、仏法の正邪が与える影響に比べればはるかに小さいと仰せである。
仏記に云く我滅するの後・末代には……みへて候
ここで、仏記とは、法華経、守護経など幾つかの経典に説かれている内容を整理し、まとめられたものである。それによると、仏の滅後、末代に入ると仏法が失われるが、それは、仏法以外の悪法や悪人・天魔等によるのではなく、仏法を行ずる者のなかで、仏のような、六通の羅漢のような姿をした持戒の僧や、大風が草木をなびかすように世の信頼を受けた高僧達によるというのである。この内容は、佐渡御書の「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云」(0957-13)の御文と相通ずる。
そして、そのように仏法が滅び去ろうとしている姿を見て、梵天・帝釈・日月・四天が怒り、その国に大天変・大地夭等の災難を起こして諌めるのであるが、それでもまだわからないと、今度はその国に七難を起こし、父母・兄弟・王臣・万民等を互いに大仇敵のように争わせて、自国を破滅させ、ついには他国からその国を攻めさせるのである、と。すなわち、まず天災地変を起こして目ざめさせようとするのであるが、それでも人々が目ざめないときは自界叛逆、他国侵逼のいわゆる人間同士の争いによる災いを起こすのであるということである。この内容は、「立正安国論」で示されているのと全く同じである。
1521:15~1522:18 第11章 法華経の明鏡に浮かべて勘うtop
| 15 今日蓮.一代聖教の明鏡をもつて日本国を浮べ見候に.此の鏡に浮んで候人人は国敵・仏敵たる事疑いなし、一代 16 聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり、銅鏡等は人の形をばうかぶれども・いまだ心をばうかべず、 法華経は人 17 の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、 心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をも鑒み給う事くもりなし、 18 法華経の第七の巻を見候へば 「如来の滅後において仏の所説の経の因縁及び次第を知り 義に随つて実の如く説か 1522 01 ん日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」 等云云、 文の心は此の法 02 華経を一字も一句も説く人は必ず一代聖教の浅深と・ 次第とを能く能く弁えたらむ人の説くべき事に候、 譬へば 03 暦の三百六十日をかんがうるに一日も相違せば万日倶に反逆すべし、 三十一字を連ねたる一句・ 一字も相違せば 04 三十一字共に歌にて有るべからず、 謂る一経を読誦すとも始め寂滅道場より終り雙林最後にいたるまで 次第と浅 05 深とに迷惑せば・其の人は我が身に五逆を作らずして無間地獄に入り・ 此れを帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし 06 何に況や智人・一人・出現して一代聖教の浅深勝劣を弁えん時・ 元祖が迷惑を相伝せる諸僧等・或は国師となり或 07 は諸家の師となり・なんどせる人人・自のきずが顕るる上人にかろしめられん事をなげきて、上に挙ぐる一人の智人 08 を或は国主に訴へ・或は万人にそしらせん、 其の時・守護の天神等の国をやぶらん事は芭蕉の葉を大風のさき・小 09 舟を大波のやぶらむが・ごとしと見へて候。 -----― 今日蓮が一代聖教の明鏡に照らして日本国の現状をみるのに、この鏡に映っている人々が国敵・仏敵であることは疑いない。 一代聖教のなかでも法華経は明鏡のなかの神鏡である。銅鏡等は人の姿は映すが、心を映すことはない。法華経は人の姿を映すだけでなく、心をも映すのである。現在の心を映すだけでなく、過去の業や未来の果報までありありと映し出すのである。 法華経の第七の巻如来神力品第二十一をみれば「如来の滅後に於いて 仏の説きたまう所の経の 因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん 日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」と説かれている。この文の心は、この法華経を一字・一句でも説く人は、必ず一代聖教の浅深・次第を十分にわきまえた人でなくてはならないというのである。たとえば一年三百六十日の暦を考えてみても、一日でも数え間違えれば、すべての日が狂ってしまう。三十一字を連ねる和歌も、一句・一字を誤ったなら三十一字がすべて歌とならなくなってしまうようなものである。 それと同じで、たとえ一経を読誦したとしても、最初に寂滅道場で説かれた華厳経から、最後沙羅双樹の下で説かれた涅槃経に至るまでの一切経の次第と浅深とに迷ったならば、その人は身に五逆罪を作らなくても無間地獄に堕ち、その人に帰依する檀那も阿鼻大城に堕ちるのである。 まして智人が、ただ一人世に出現して一代聖教の浅深・勝劣を正しくわきまえている時に、自分の宗祖の誤った教えを相伝した僧侶等で、あるいは国師となり、あるいは諸家の師となっている人々が、自分の疵が顕れるうえ、人に軽蔑されることを恐れて、上に挙げた一人の智人をあるいは国主に讒訴し、あるいは万人に謗らせたりするであろう。その時、仏法守護の諸天善神等が国を滅ぼすことは、大風が芭蕉の葉をさき、大波が小舟を覆すようであると説かれている。 -----― 10 無量義経は始め寂滅道場より終り般若経にいたるまでの一切経を・或は名を挙げ或は年紀を限りて・未顕真実と 11 定めぬ、 涅槃経と申すは仏最後の御物語に初め初成道より五十年の諸教の御物語・ 四十余年をば無量義経のごと 12 く邪見の経と定め・法華経をば我が主君と号し給う、 中に法華経ましまして已今当の勅宣を下し給いしかば・ 多 13 宝・十方の諸仏・加判ありて各各本土にかへり給いしを・月氏の付法蔵の二十四人は但小乗・権大乗を弘通して法華 14 経の実義を宣べ給う事なし、 譬へば日本国の行基菩薩と鑒真和尚との法華経の義を知り給いて 弘通なかりしがご 15 とし、 漢土の南北の十師は内にも仏法の勝劣を弁えず外にも浅深に迷惑せり、又三論宗の吉蔵・華厳宗の澄観・法 16 相宗の慈恩・此れ等の人人は内にも迷い外にも知らざりしかども・ 道心堅固の人人なれば名聞をすてて天台の義に 17 付きにき、 知らずされば此の人人は懺悔の力に依りて生死やはなれけむ、 将た又謗法の罪は重く懺悔の力は弱く 18 して阿闍世王・無垢論師等のごとく地獄にや堕ちにけん。 -----― 無量義経には、仏の成道の最初の経である華厳経から般若経に至るまでの一切の経を、あるいは経名を挙げ、あるいは四十余年と年限をあげて「未顕真実」と定めている。 涅槃経というのは、仏が最後に説かれた経であり、三十歳の初成道から五十年間に説かれた説教のうち、四十余年の経教を、無量義経と同じく、邪見の経と定め、法華経を我が主君といっている。 この無量義経と涅槃経との間に法華経がましますが、釈尊自ら「已今当の中で最も勝れている」と勅宣を下されたところ、多宝仏・十方の諸仏は、仏の所説はことごとく真実であると証明して、それぞれ国土へ還られたのである。 だが、インドの付法蔵の二十四人はただ小乗・権大乗を弘通して法華経の実義を宣べられることはなかった。たとえば日本国の行基菩薩と鑒真和尚とが法華経の義を知っていながら弘通されなかったようなものである。 中国の南三北七の十師は内心にも仏法の勝劣をもわきまえず、外にも経教の浅深に迷っていた。また三論宗の吉蔵、華厳宗の澄観、法相宗の慈恩等、これらの人々は内心でも仏法に迷い、経教の浅深も知らなかったが、道心堅固の人々であったから、名聞名利を捨てて天台大師の説に従ったのである。これらの人々が懺悔の力によって生死の苦を離れたか、それとも謗法の罪は重く、懺悔の力は弱いため、阿闍世王・無垢論師等のように地獄に堕ちたか、それは知らない。 |
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
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銅鏡
青銅・白銅などで作られた銅製の鏡。
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先業
前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
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暦の三百六十日
当時、用いられていた太陰太陽暦の一年の日数。上代の日本では、中国から移入された歴法によった。とくに貞観4年(0862)に採用された宣明暦は以後、800年間にもわたって利用された。1ヵ月を29日もしくは30日とし、1年を12ヵ月と定めていた。そこから生ずるずれを調整するために閏月が設けられた。
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三十一字
短歌のこと。
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寂滅道場
釈尊は19歳で出家し、最初は多くの婆羅門について学んだが、解脱の道でないことを知り、もっぱら苦行に励んだ。しかし、これも解脱の道とはならず、尼連禅河にはいり沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳を飲んで身心がさわやかになることができた。こうして最後に伽耶城の菩提樹下の金剛宝座の吉祥の奉る浄輭草をしいて安住した。ここで沈思黙想7週間(49日)魔を降して12月8日の朝暁、朗然と悟りを開き、その座で3週間十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であり覚道の地であるがゆえに「寂滅道場」という。
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雙林
沙羅双樹の林のこと。拘尸那掲羅国跋提河の畔にある。釈尊が涅槃経を説き入滅した場所。
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五逆
五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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帰依
帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
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檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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国師
①奈良時代に諸国に置かれた僧官。僧侶の監督・寺領の管理・経論の講義などを任務とした。②国家の師表として朝廷から贈られた称号。③仏教の億義を悟り、一国の民衆を導く大導師。
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芭蕉
芭蕉科の多年草。中国原産。葉は長い楕円形で、大きさは2㍍近くになる。夏と秋に黄白色の花が咲き、茎・根・葉は薬用として用いられる。葉は支脈にそって裂けやすいことから、破れるものの例とされやすい。
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無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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初成道
インド生誕の釈尊が、菩提樹下で初めて悟りを成じたこと。
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已今当
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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付法蔵の二十四人
釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者24人。「大夫志殿御返事」には「所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺羅・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者」(1079:07)とある。
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行基菩薩
(0668~0749)。奈良薬師寺の僧。和泉国大鳥郡の百済系渡来人の豪族・高志氏の出身。15歳で出家して法相宗を学んだのち、諸国を遊歴して衆生を教化し、多くの帰依者を得たという。朝廷は、その動きに不安を感じ、民心を惑わす者として弾圧したが、のちに公認した。天平15年(0743)の大仏建立誓願には全国的に勧進を行い、同17年(0745)に大僧正に任じられた。諸国遊歴の時、要害の地に橋をかけ、堤を築き、路を修し、開墾や水利に尽くして民利をはかったので、行基菩薩と呼ばれた。本朝法華験記には行基菩薩が日本第一の法華の持者であり、過去二万億日月燈明仏の時に妙光法師として法華経を受持していたとの記述がある。
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鑒真和尚
(0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
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南北の十師
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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吉蔵
(0549~0623)。中国隋代から唐代にかけての人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」「中観論疏」「法華玄論」をはじめ数多くある。
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澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
―――
慈恩
(0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
―――
道心堅固
仏道を求める心が堅固なこと。「道心」とは、仏道を求める心、悟りを求める心。
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懺悔
過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
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無垢論師
梵名はヴィマラミトラ(Vimalamitra)といい、無垢友と訳す。大唐西域記巻四によると、インドの迦湿弥羅国の人。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親菩薩の倶舎論に論破された衆賢の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを建てた。しかし、その誓願の終わらぬうちに舌が五つに裂け、後悔しながら無間地獄に堕ちたといわれる。
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前段では、国土の盛衰を計る鏡として仁王経、金光明経、最勝王経、守護経、涅槃経、法華経等があることを述べられ、それらに説かれているとおりの姿が日本に現われていることを示された。
この段では、さらに一切経のなかでも最も深く、現在の姿だけでなく過去・未来にまでわたって生命の姿を映し出している神鏡が法華経であること、そしてその法華経を正しく説く人に教えを求めるべきことを述べられている。
「法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をも鑒み給う事くもりなし」とは、法華経こそ、過去の宿業を明らかにするとともに、未来の果報を見通し、未来のため、宿業を転換して、個人の成仏と社会・国土の繁栄と平和を実現する力があるということである。これは法の力を述べられている。
次に法華経第七の巻・神力品の文を挙げられて、その法華経の心を正しくわきまえなければならないこと、すなわち、法華経を正しく説く人に帰することが大切であることを述べられている。
ここでいわれている法華経の心とは「智人・一人・出現して一代聖教の浅深勝劣を弁えん時」とあるように、法華経以外の一切経は方便権教であり、法華経のみが真実を明かされた経であると心得て、他経を交えたり他経と同等に信じたりしないことである。また他経を信ずる人々に対しても、折伏を行じていくことであるとも拝せよう。
これを正しく実践されているのが、末法においては日蓮大聖人であり、その日蓮大聖人を諸宗の僧達は、自らの邪義が露呈し、人々からも軽蔑されることを恐れるあまり、権力に訴えて迫害を加えた。
このために、諸天の怒りを招いて国土が災厄におそわれているのであると指摘されている。これは、人の立場を述べられている。
そして、法華経が最も勝れるとともに、真実を明かした唯一の経であることは、無量義経、涅槃経にも説かれており、法華経のなかでも多宝如来と十方諸仏の証明があると述べられている。
しかし、釈尊滅後、まず正法時代、インドの付法蔵24人は、小乗・権大乗を弘めたのみで、法華経には触れなかった。像法時代の中国仏教において、天台大師が法華経の実義を明らかにした。
天台大師以前の南北十師はもとより知らなかったが、天台大師以後は、三論宗の吉蔵、華厳宗の澄観、法相宗の慈恩等が天台大師の教えに、最後は帰依したことを示されている。
ただし、これらの人々が「懺悔の力に依りて生死」を離れることができたか、それとも「謗法の罪は重く懺悔の力は弱くして……地獄」に堕ちたかは知らないと断られている。
これは「謂る一経を読誦すとも始め寂滅道場より終り雙林最後にいたるまで次第と浅深とに迷惑せば・其の人は我が身に五逆を作らずして無間地獄に入り」と述べられているのと関連して理解されなければならない。
法華経を読誦しても、他経と同列に考えていたのでは無間地獄に堕ちるのであるから、他の経を弘めてきた吉蔵や澄観、慈恩等の罪は、なみなみではない。したがって、よほど深く懺悔し罪業消滅に努めなければ、簡単に消せるものではないのである。
そしてこの御文は、吉蔵や澄観らだけのこととして読んではならない。「此れを帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし」と仰せのように、在俗の人にも通じる。日蓮大聖人の正法である三大秘法の妙法に帰依する以前、法華経は読んでもその心に背いている日蓮宗諸派や天台宗の信徒、まして法華経に背いて他経を立てる真言、念仏、禅等の他宗の信徒であった人は、よほど真剣に信行学に努めなければ、その罪業を消滅することは難しいとの厳しい戒めであることを知らなければならない。
1523:01~1523:14 第12章 真言宗の邪義を破すtop
| 1523 01 善無畏三蔵・金剛智三蔵・ 不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代・六代の人人・即身成仏 02 の根本なり等云云 、日蓮勘えて云く法偸の元祖なり・盗人の根本なり、 此れ等の人人は月氏よりは大日経・金剛 03 頂経・蘇悉地経等を齎し来る、此の経経は華厳経・般若経・涅槃経等に及ばざる上・法華経に対すれば七重の下劣な 04 り、 経文に見へて赫赫たり明明たり、 而るを漢土に来りて天台大師の止観等の三十巻を見て舌をふるい心をまよ 05 わして・此れに及ばずば我が経・弘通しがたし、勝れたりと・いはんとすれば妄語眼前なり、いかんがせんと案ぜし 06 程に一つの深き大妄語を案じ出だし給う、 所謂大日経の三十一品を法華経二十八品 並に無量義経に腹合せに合せ 07 て三密の中の意密をば法華経に同じ其の上に印と真言とを加えて法華経は略なり大日経は広なり・ 已にも入れず・ 08 今にも入れず・当にもはづれぬ、 法華経をかたうどとして三説の難を脱れ・結句は印と真言とを用いて法華経を打 09 ち落して真言宗を立てて候、 譬へば三女が后と成りて三王を喪せしがごとし、 法華経の流通の涅槃経の第九に我 10 れ滅して後の悪比丘等我が正法を滅すべし、 譬へば女人のごとしと記し給いけるは是なり、 されば善無畏三蔵は 11 閻魔王にせめられて 鉄の繩七脉つけられてからくして 蘇りたれども 又死する時は黒皮隠隠として 骨甚だ露焉 12 と申して無間地獄の前相・其の死骨に顕れ給いぬ、 人死して後色の黒きは地獄に堕つとは 一代聖教に定むる所な 13 り、金剛智・不空等も又此れをもつて知んぬべし、 此の人人は改悔は有りと見へて候へども・強盛の懺悔のなかり 14 けるか、今の真言師は又あへて知る事なし、玄宗皇帝の御代の喪いし事も不審はれて候。 -----― 一切の真言師がいうには、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は、大日如来から五代・六代の人々であり、即身成仏の根本である、と。 日蓮が勘えていうには、三三蔵は法偸みの元祖であり、盗人の根本である。これらの人々は、インドから大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を中国にもたらした。これらの経経は華厳経・般若経・涅槃経等に及ばないうえ、法華経に対すれば七重の劣なのである。このことは経文に赫々であり明々なことである。 しかるに、善無畏三蔵は中国に来て天台大師の摩訶止観等の法華三大部三十巻を見るに及んで、舌を巻いて驚き「我が義がこれに及ばなければ大日経等を弘通することはおぼつかない。法華経より勝れているといえば妄語であることは明白である。どのようにしようか」と思案の末、一つの大妄語を考え出したのである。 いわゆる大日経の三十一品を法華経二十八品と無量義経の三品に引き合わせて、身口意の三密のうちの意密は法華経と同じであるとして、そのうえに印と真言とを加えて、法華経には印と真言は説かれていないので法華経は略説であり大日経は広説であるとした。そして、法華経は已今当の三説に超過した経であるが、大日経は已説にも入らず、今説にも入らず、当説にもはずれていると称して、法華経を味方にして已今当の三説をのがれ、そのあげく、印と真言とを用いて法華経を打ち落として真言宗を立てたのである。たとえば妹喜、姐己、褒姒の三人の女が后となって、傑・紂・幽の三王を滅ぼしたようなものである。法華経の流通分である涅槃経の巻九に「我が滅後に悪比丘等が我が正法を滅ぼすであろう。たとえば女人のようなものである」と記されているのはこのことである。 そのゆえに、善無畏三蔵は閻魔王に責められ、七脉の鉄の縄で縛られたのを、かろうじて蘇生したけれども、死んだ時は「全身の皮は黒色となり骨はごつごつと露れる」というように、無間地獄に堕ちる前相が顕れた。人が死んで後に色が黒くなるものは地獄に堕ちるとは一代聖教に定めるところである。金剛智・不空等もこれをもって推し量れよう。これらの人々は晩年には改悔したようであったが、強盛の懺悔がなかったからであろうか。今の真言師は全くそのことを知らないでいる。かれらを信じた玄宗皇帝の代が滅びた疑問も晴れたのである。 |
善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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金剛智三蔵
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空三蔵
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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大日如来
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
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即身成仏
凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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七重の下劣
法華経と大日経とを比較するならば、大日経は法華経より七重に劣っていることをいう。「真言七重勝劣事」によると、法華経第一、涅槃経第二、無量義経第三、華厳経第四、般若経第五、蘇悉地経第六、大日経第七である。
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天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
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止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
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止観等の三十巻
天台大師の法華三大部、法華玄義10巻・法華文句10巻・摩訶止観10巻をあわせて「止観等の三十巻」となる。
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妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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大日経の三十一品
大日経の中心をなす六巻31品のこと。
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法華経二十八品
鳩摩羅什が訳した妙法蓮華経は8巻28品からなる。
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三密
秘密の身・口・意の三業によって行われる行為。
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印と真言
真言宗で立てる印契と真言のこと。印契とは仏の悟りや誓願などを外形として表示するため修行者が指先で作る特別な形。刀剣などの持ち物を使う宗派もある。真言とは仏の真実の言葉とされる呪文で、真言三密の語密。
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三説
已今当を三説という。法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
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三女が后と成りて三王を喪せし
夏の妹喜、殷の姐己、周の褒姒の三人が、いずれも王を惑わし国を滅ぼす原因となったことをいう。妹喜は中国・夏王朝最後の王・桀の妃。桀は妹喜の色香に溺れてその歓心を買うため政治を顧みず、ついに殷の湯王に滅ぼされたという。姐己は殷王朝の紂王の妃。紂王は姐己に魅せられ、賢臣の言に耳を傾けず、周の武王に滅ぼされたという。褒姒は、周王朝の幽王の妃。幽王の寵愛を受け、王の子伯服を産んだ。一度も笑ったことのない褒姒の笑顔を見るため、幽王は非常用の烽火をあげ諸侯から反発をかい、また、王妃・申后と太子宜臼を廃し、褒姒と伯服を立てたことから、申后の父・申侯の怒りをかって滅ぼされた。
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閻魔王
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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人死して後色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり
大智度論巻九十四には「黒業とは是れ不善業の果報にして、地獄等の苦悩を受くる処なり。是の中の衆生は大に苦悩し、悶極するを以っての故に名けて黒となす。善業の果報を愛くる処は所謂諸天にして、其の楽を受くること、意に随って自在明了なるを以っての故に、名けて白業となす」とあり、正法念処経等にもこのことが説かれている。
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玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐王朝の第六代皇帝。在位は先天元年(0712)から天宝15年(0756)。姓名は李隆基。第五代睿宗の第三子。第四代中宗の皇后である韋后の禍を平定し、睿宗を立て、みずからは皇太子となった。即位後は「開元の治」と呼ばれる栄華を実現したが、後年は楊貴妃を寵愛し、政治を怠り、奸臣等を用いたため政情が混乱し、ついに安史の乱の勃発を招いた。晩年は譲位した粛宗との関係も思わしくなく、不遇のうちに世を去った。この玄宗の治世にインドから善無畏、不空などが来て密教を弘めている。
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已今当の一切経に勝れると明言されている法華経について、滅後の論師・人師がどう扱ってきたかを順に述べられているが、正法時代の論師達は触れなかったこと、像法時代の三論・華厳・法相の諸師達は、初めは邪義を立てたが、後に天台大師の正義に伏したことが前段で述べられた。
この段では真言密教に焦点をあて、まず中国に真言密教を弘めた開祖達の謗法・堕地獄と、亡国を招いた先例が説かれる。
真言宗では善無畏・金剛智・不空の三三蔵を、即身成仏の根本であるといっているが、じつは「法偸の元祖」「盗人の根本」というべきであると破折され、その理由を述べられている。
もともと、三三蔵がインドから中国にもたらした大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部経は、華厳経・般若経・涅槃経等の大乗諸経典に比べても劣り、ましてや法華経に対すれば七重の劣の経典であった。しかも、中国にはすでに天台大師の法華玄義十巻、法華文句十巻、摩訶止観十巻の三十巻があって、これらを見た三三蔵は、その教えの完全さ、深さ、広さに感嘆し、自らのもたらした真言三部経があまりにも見劣りすることに気づいた。しかし、進退きわまった彼らは、自らの三部経を中国に弘通するために一計を案じた。
すなわち、大日経三十一品を法華経二十八品と無量義経三品に重ね合わせたうえで、大日経の三密を持ち出してきて、意密において、大日経と法華経とは同じであるが、印と真言は法華経になく大日経にあるから、大日経のほうが〝広〟で法華経はその〝略〟にすぎないとして、法華経を落としめたのである。これは、法華経に説く已・今・当の三説のなかに、大日経を含めないための巧みなすりかえであるとともに、法華経と大日経とを略と広の立場に移して法華経を落とし大日経を立てる、まことにずるいやり方であった。
大聖人は、この真言宗のやり方は「三女が后と成りて三王を喪せしがごとし」であるとの譬えをもって破折されている。三女とは、妹喜・姐己・褒姒のことで、いずれも、国王の寵愛を受けて国を滅ぼした歴史上の中国の女性である。秋元御書にも「妲己・妹喜・褒似の三女が三王を誑らかして代を失いしが如し」(1073-14)とあり、小乗大乗分別抄にも「彼の妺己・妲己・褒姒と申せし后は心もおだやかに・みめかたちも人にすぐれたりき、愚王これを愛して国をほろぼす因縁となす」(0526-04)と説かれている。
ともあれ、このように法を偸み、法華経を誹謗した悪業によって、善無畏三蔵が、即身成仏をするどころか、無間地獄に堕ちたこと、また唐の玄宗皇帝が安禄山という臣下に背かれ、位を失った根本原因も、この真言宗を信仰したことにあると指摘され、真言が堕地獄・亡国の邪法であることを現証によって示されている。
此の人人は改悔は有りと見へて候へども・強盛の懺悔のなかりけるか
「此の人人」とは、善無畏・金剛智・不空の三三蔵のことである。本抄に述べられているように、善無畏三蔵は頓死した時、多くの獄卒によって鉄縄七筋をもって縛られ、閻魔王宮に連れていかれて呵責されたが、釈尊の三徳をたたえた法華経譬喩品の「今此三界」等の文を唱え、許されて蘇生したのであった。しかし、その後は、またも真言を弘め、死んだ時には、全身の皮膚の色は真っ黒となり、骨格があらわれていたという。これは、無間地獄に堕ちる前相であった。
善無畏は、頓死したときは一時的に改悔したが、強い心からの懺悔がなかったので、結局、堕地獄を免れることができなかったのである。不空三蔵についても、悔いて後は真言の護摩寺を改めて法華寺とし、中央に法華経を安置し、両部の大日経をその脇士としたと伝えられている。しかし、所詮は「雖讃法華経還死法華心」であり、十分な罪業の消滅には至らなかったのである。
ここに、改悔と懺悔を区別して述べられている。改悔は表面的な悔い改めであり、自分の犯した罪を詫びているようであっても、まだまだ生命の深層や奥底からのものではなく、部分的な謝罪にすぎないといえるであろう。
これに対し、懺悔は、生命の奥底から仏に謝罪することである。仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え」とある。すなわち、罪を犯す原因は、自己の無知、妄想からくるものであるから、諸法実相を悟って智慧を顕し、仏の常住を覚知してこそ真の懺悔になるのであり、これを大荘厳懺悔ともいうのである。全身全霊の浄化をともなってこそ、仏法の懺悔となるのである。
1523:15~1524:07 第13章 日本国の謗法となる過程を述べるtop
| 15 日本国は又弘法.慈覚・智証・此の謗法を習い伝えて自身も知ろしめさず.人は又をもひもよらず、且くは法華宗 16 の人人・相論有りしかども終には天台宗やうやく衰えて・叡山五十五代の座主・明雲・人王八十一代の安徳天皇より 17 已来は叡山一向に真言宗となりぬ、 第六十一代の座主・ 顕真権僧正は天台座主の名を得て真言宗に遷るのみなら 18 ず、然る後・法華・真言をすてて一向謗法の法然が弟子となりぬ、 承久調伏の上衆・慈円僧正は第六十二代並びに 1524 01 五・九.七十一代の四代の座主隠岐の法皇の御師なり、此等の人人は善無畏三蔵・金剛智三蔵.不空三蔵・慈覚・智証 02 等の真言をば器は・かわれども一の智水なり、 其の上天台宗の座主の名を盗みて法華経の御領を知行して・三千の 03 頭となり・一国の法の師と仰がれて・ 大日経を本として七重くだれる真言を用いて八重勝れりとをもへるは・天を 04 地とをもい民を王とあやまち石を珠とあやまつのみならず珠を石という人なり、 教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の 05 御怨敵たるのみならず・ 一切衆生の眼目を奪い取り三善道の門を閉ぢ三悪道の道を開く、梵釈・日月・四天等の諸 06 天善神いかでか此の人を罰せさせ給はざらむ、 いかでか此の人の仰く檀那をば守護し給うべき、 天照太神の内侍 07 所も八幡大菩薩の百王守護の御ちかいも・いかでか叶はせ給うべき。 -----― 日本国においては弘法・慈覚・智証が、この善無畏等の教えを習い伝えたが、それが謗法であることを自らも知らず、まして人々は思いもよらない。 しばらくの間は天台法華宗の人々は論争を交えたが、しまいには天台法華宗もだんだんに衰微し、比叡山延暦寺第五十五代の座主の明雲、人王八十一代の安徳天皇の治世からは、比叡山は一山ことごとく真言宗になってしまったのである。 第六十一代の座主・顕真権僧正は、天台座主の立場でありながら真言宗に遷ったばかりでなく、さらに後には、法華も真言も捨てて、全くの謗法である法然の弟子となったのである。 承久の合戦で北条氏調伏の祈禱をした高僧の慈円僧正は第六十二代ならびに六十五・六十九・七十一代の四代の座主となった人で、隠岐の法皇の御師である。 これらの人々は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚・智証等の真言の法を、器はかわっても同じ智水であるように、そのまま伝えた。そのうえで、天台宗の座主の名を盗んで法華経へ供養された比叡山の領地を知行して三千の大衆の棟梁となり、一国の法の師と仰がれて、大日経を根本として法華経より七重劣る真言を用いて、それを八重勝れると考えているのは、天を地と思い、民を王と誤り、石を宝珠と誤るだけでなく、宝珠をただの石というと同じである。 この人々は教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の怨敵であるだけでなく、一切衆生の眼目を奪い取り、三善道の門を閉じて三悪道の道を開く人である。どうして梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神がこの人を罰しないわけがあろうか。どうしてこのような人を仰ぐ檀那をば守護することがあろうか。天照太神の内侍所に魂を宿し、八幡大菩薩の百代の王を守護するという誓いも、どうして叶うであろうか。 |
顕真権僧正
(1130~1192)。比叡山延暦寺第61代座主。美作守藤原顕能の子。比叡山に登って座主の明雲に顕教を学び、法印相実から密灌を受ける。のちに法然の専修念仏の義を信じ、余行を捨てて専ら念仏三昧にふける。後鳥羽天皇の治世、文治6年(1190)3月に天台座主となり、5月には権僧正となった。
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法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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三善道
三善趣ともいう。六道のなかの修羅・人・天の三趣のこと。三悪道に対する語。悪は苦悩をさし、善は楽しみ、幸せを意味する。自身の業因によって趣く所のゆえに〝趣〟という。修羅は善悪両方に通ずる。
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三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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中国の真言宗が、弘法・慈覚・智証によって日本国に伝えられて、比叡山の天台宗が謗法の山となっていった過程が述べられている。
真言が天台の法を偸んだものであり、善無畏等が地獄に堕ちたことについて、弘法・慈覚・智証は知らなかった。まして、一般の人が知らなかったことは言うまでもない。日本に伝えられた最初の間こそ、天台宗の中でも論争があったが、真言の謗法は、次第に、天台宗を侵触して法華経信仰を衰えさせ、ついに、人王第81代の安徳天皇の治世、叡山55代の座主・明雲の時以後は、一山ことごとく真言宗となってしまった。第61代の座主・顕真権僧正に至っては天台座主の位にありながら真言宗に改宗し、のちには法華・真言も捨てて、法然の弟子となってしまった。さらに、慈円僧正は、叡山第62代・65代・69代・71代と、合わせて四代にわたって座主を務め、後鳥羽法皇の御師となった人物であるが、承久の乱の時には、真言の邪法によって北条氏調伏の修法を行ったのである。
これらの叡山の座主達は、名は天台宗の座主でありながら、真言宗を行じていたわけであるから、名を盗んだばかりでなく、本来、法華経の御領であるべき叡山を支配して、三千の大衆の頭となり、一国の師と仰がれたのであるから、その謗法の重さは筆舌に尽くしがたいと述べられている。ゆえに「教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵たるのみならず・一切衆生の眼目を奪い取り三善道の門を閉ぢ三悪道の道を開く」ものであり、日本の国の乱れと、人々の苦悩の元凶となったことを厳しく指摘されているのである。
こうした大謗法の座主や、これを支える檀那達を、梵釈・日月・四天等の諸天善神が罰しないわけがないし、ましてや天照太神・八幡大菩薩の誓いも叶うわけがないと仰せである。
梵釈・日月・四天等の諸天善神いかでか此の人を罰せさせ給はざらむ……いかでか叶はせ給うべき
日本の国が、天照太神・八幡の守護する神の国であり、梵天、帝釈の守護する仏教国であるにもかかわらず数々の災難にあい、国王までも悲惨な最期を遂げなければならなかったのはなぜか、という疑問への答えが、ここに結論づけられているのである。
梵釈・日月・四天等は仏法守護の善神であるから、謗法の国に対して治罰を加えるのである。
一方、天照太神や八幡は日本の国王を守ると誓った神々であるが、梵釈等が治罰しているのに背いて守ることはできないのみならず、正法が滅してしまったために天照太神・八幡等は法味をなめることができずに威光勢力が衰えてしまっているので、働くことができないのである。
「諌暁八幡抄」には次のように説かれている。
「今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬらん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひぬ齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子をも守護すべき、其の上謗法の国にて候を氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば仏前の起請を毀る神なり、しかれども氏子なれば愛子の失のやうに・すてずして守護し給いぬる程に法華経の行者をあだむ国主・国人等を対治を加えずして守護する失に依りて梵釈等のためには八幡等は罰せられ給いぬるか此事は一大事なり秘すべし秘すべし」(0578-06)。
この御文によれば、日本国の守護神たる天照太神や八幡大菩薩は、正法の法味をなめて威光勢力を増すのであるが、当の日本の人々が法華経をないがしろにして、真言・念仏等の邪法を尊崇して謗法の国となっているために、八幡等の守護神は、次第に勢力を失い、国土と国王を守る力をなくしてしまったのである。
天照太神・八幡等が国王を守護しようとしても、それは、法華経に背いている謗法の人の味方をしていることになるから、梵釈等の諸天によって、八幡や天照等自身が罰せられることになる。ゆえに八幡等も、百王守護の誓いを果たせるわけがないのである。
1524:08~1525:06 第14章 法華経の行者を怨めば亡国となるを示すtop
| 08 余此の由を且つ知りしより已来・一分の慈悲に催されて粗随分の弟子にあらあら申せし程に・次第に増長して国 09 主まで聞えぬ、 国主は理を親とし非を敵とすべき人にて・をはすべきか・いかがしたりけん諸人の讒言を・をさめ 10 て一人の余をすて給う、 彼の天台大師は南北の諸人あだみしかども陳隋二代の帝・ 重んじ給いしかば諸人の怨も 11 うすかりき、此の伝教大師は南都七大寺・讒言せしかども桓武・平城・嵯峨の三皇用い給いしかば怨敵もおかしがた 12 し、 今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず・ 国主用い給わざれば万民あだをなす事 13 父母の敵にも超え・宿世のかたきにも・すぐれたり、 結句は二度の遠流・一度の頭に及ぶ、彼の大荘厳仏の末法の 14 四比丘並に六百八十万億那由佗の諸人が普事比丘一人をあだみしにも超へ・ 師子音王仏の末の勝意比丘・無量の弟 15 子等が喜根比丘をせめしにも勝れり、 覚徳比丘がせめられし・不軽菩薩が杖木をかをほりしも・限りあれば此れに 16 はよも・すぎじとぞをぼへ候。 -----― 日蓮はこのことを知ってから、一分の慈悲にほだされて、しかるべき弟子達にあらあら言い聞かせたところ、次第にひろがって国主までも聞こえたのである。 国主というのは道理を親とし非道を敵とする人であるべきなのに、どうしたことか人々の讒言を受け入れて、ただ一人の日蓮を斥けられた。 中国の天台大師を南三北七の人々が憎んだけれども、陳の後主叙宝や隋の煬帝等の天子が重用されたので、人人の怨嫉もうすかった。日本の伝教大師を南都七大寺の僧等が讒言したけれども、桓武・平城・嵯峨の三天皇が重用されたので、怨嫉した人々も大師を犯すことはできなかった。 いま日蓮に対しては、日本国十七万一千三十七か寺の僧達が憎むばかりでなく、国主が日蓮を用いないので、万民が日蓮を怨むことは父母の敵・宿世の敵よりもまさっている。そのあげく二度の遠流の罪に処せられ、一度は頭を斬られようとしたのである。 これは大荘厳仏の末法に四比丘や六百八十万億那由佗の人々が普事比丘一人を怨んだことにも超え、師子音王仏の滅後に勝意比丘や無量の弟子等が喜根比丘を誹謗したことにも勝っている。覚徳比丘が謗法の徒に攻められたことも、不軽菩薩が杖木瓦石を蒙ったことも限りがあることであるから、日蓮への迫害に過ぎるとは思われない。 -----― 17 若し百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば日本国の諸人・後生の無間地獄はしばらくをく、現身には国を 18 失い他国に取られん事・彼の徽宗・欽宗のごとく・優陀延王・訖利多王等に申せしがごとくならん、又其の外は或は 1525 01 其の身は白癩黒癩或は諸悪重病疑いなかるべきかもし 其の義なくば又日蓮法華経の行者にあらじ 此の身現身には 02 白癩黒癩等の諸悪重病を受け取り 後生には提婆瞿伽利等がごとく 無間大城に堕つべし日月を射奉る修羅は其の矢 03 還つて我が眼に立ち師子王を吼る狗犬は 我が腹をやぶる釈子を殺せし波琉璃王は水中の大火に入り 仏の御身より 04 血を出だせし提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり 金銅の釈尊をやきし守屋は四天王の矢にあたり 東大寺興福寺を 05 焼きし清盛入道は 現身に其身もうる病をうけにき彼等は皆大事なれども 日蓮が事に合すれば小事なり小事すら猶 06 しるしあり大事いかでか現罰なからむ。 -----― もし百千に一つでも日蓮が法華経の行者であるなら、日本国の人々は後生に無間地獄に堕ちることは当然として、現身に国を滅ぼされ他国に侵略されることは、中国の徽宗・欽宗のようであり、インドの優陀延王・訖利多等についていわれているようになるであろう。また、その外の人々は白癩・黒癩あるいは諸の悪重病になることは疑いないことである。 もし、そのとおりにならなければ日蓮は法華経の行者ではないであろう。この身は現身には白癩・黒癩等の諸の悪重病に罹り、後生には提婆達多・瞿伽利等のように無間大城に堕ちるであろう。 日月を矢で射た修羅は還ってその矢が、わが眼に当たり、師子王を吼える狗犬は還って腹が割ける。釈尊の一族を殺害した波琉璃王は川のうえで火につつまれて焼死し、釈尊の御身から血を出した提婆達多は現身に阿鼻大城の炎熱を感じた。金銅の釈尊像を焼いた物部守屋は四天王の矢にあたって死に、東大寺・興福寺を焼き払った清盛入道は現身に身体が燃えるほどの熱病になったのである。これらのことはみな大事にちがいないが、日蓮のことに比べれば小事である。小事ですらこのような現罰があったのである。ましてこの迫害の大悪事に現罰がないわけがあろうか。 |
慈悲
一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
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讒言
告げ口・悪口をいうこと。
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陳隋二代の帝
陳隋とは中国の王朝である陳朝と隋朝のこと。陳朝は0557年から0589年。南朝最後の王朝。隋朝は陳朝を滅ぼして南北に分裂していた中国を一つに統合した。0581年から0618年。陳隋二代の帝とは陳の第五代後主陳叔宝と、隋第二代煬帝をいう。天台大師は陳・隋時代の人で、摩訶止観巻一上に「陳隋二国に宗めて帝師と為す」とあるように陳の後主と隋の煬帝の帰依を受けた。
―――
南都七大寺
二度の遠流・一度の頭
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六百八十万億那由佗の諸人
仏蔵経によると六百八十万億那由佗の諸人とは、大荘厳仏の弟子衆のことであり、普事比丘を迫害した在家出家の大衆は六百四万億人である。那由佗とは経典によって諸説あるが、倶舎論巻十二の説では現在の数の一千億にあたるといわれる。
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覚徳比丘
涅槃経巻三に説かれている過去世の正法護持の比丘。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと40年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが、有徳王は刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。
―――
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
徽宗
(1082~1135)。中国北宋の八代皇帝。姓は趙、名は佶。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると蔡京父子を重用し、民衆に重税を課した。そして豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなってしまった。王は道士に傾倒して、仏教を弾圧し、道教を庇護した。政治的には新興の金と同盟し、遼を攻めたが敗れ、逆に金に侵略され、その結果、欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
欽宗
(1100~1161)。中国・北栄第9代皇帝。徽宗の子。宣和7年(1125)金国との和議が破れ金軍の始まる直前に即位した。しかし臣下の意見をまとめることができず、金軍に捕らえられ、30年間流人生活を送って没した。
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優陀延王
釈尊在世当時の憍賞弥国王。優塡大王とも書く。優塡王経によると、かつて臣下で、出家して羅漢の悟りを得ていた賓頭盧尊者が、王の睡眠中に説法したことを怒り、黒蟻の巣を尊者の身にまとわせて苦しめた。また四分律によると、バラモンである大臣の讒言に惑わされ、尊者を軽蔑した。優陀延王は後に慰禅国王に捕らえられ、7年間鎖につながれ、国王の位を失ったという。
—――
訖利多王
北インド加湿弥羅国の王。訖利多は種族名。はじめ阿難の弟子・末田底迦阿羅漢が加湿弥羅国に五百の伽藍を建立する時に、異国から連れてきた奴隷であったが、後に勢力を得て自立した。犍駄羅国の迦弐志加王に支配されていたが、王の死後、再び王位につき、僧徒を追放して仏法を破壊した。このため、都貨羅国の雪山下王に殺害された。
―――
白癩
ハンセン病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
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黒癩
ハンセン病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、皮膚が黒くなるので、こう呼ぶ。
―――
諸悪重病
普賢菩薩勧発品には、白癩・黒癩以外の法華誹謗の重罪として、牙歯疎欠・醜脣平鼻・手脚繚戻・眼目角睞・身体臭穢・悪瘡膿血・水腹短気等が挙げられている。
―――
提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
―――
瞿伽利
梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写。漢訳して悪時者・牛守という。釈迦族の出身。提婆達多の弟子であり、釈尊の制止も聞かず、舎利弗、目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
―――
日月を射奉る修羅は其の矢還つて我が眼に立ち
修羅とは阿修羅の略称。古代インドでは、戦闘を好み、帝釈とつねに争う神として描かれている。大智度論巻十には、羅睺羅の言葉として「世尊は偈を以って我に勅したまえり『我月を放たずんば、頭を七分せん、設い生活するを得とも安穏ならじ』と。故を以って我は今この月を放てり」とあり、日月を射て頭が七分に割れたという。
―――
師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる
この文の出典は不詳であるが、これに類する文として、臨済録に「師子一吼すれば、野干脳裂す」とある。
―――
波琉璃王
波琉璃は梵名ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。波瑠璃・毘瑠璃とも書く。悪生等と訳す。釈尊在世当時の中インド・コーサラ国の王。波斯匿王と釈迦族の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、謀って父王を放逐して国王となり、釈迦族を殺戮した。その数九百九十万人といわれ、血が流れて池となった。それから七日後、河上に舟を浮かべ歓楽にふけっているさなか火災が起き、釈尊の予言通り焼死して無間地獄に堕ちたという。
―――
仏の御身より血を出だせし提婆達多
提婆達多は釈尊を殺害するために耆闍崛山の上から大石を投下したが果たすことができなかった。「血を出だせし」とあるのは、その際、釈尊の足指から血が出たことをう。
―――
守屋
(~0587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
―――
東大寺興福寺を焼きし清盛入道は現身に其身もうる病をうけにき
南都の僧兵と源頼政が以仁王を奉じて兵を挙げたため、治承4年(1180)10月28日、平清盛は重盛を大将として南都を攻め、東大寺・興福寺を焼かせた。清盛は治承5年、熱病を発して死んだ。平家物語には「入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入給はず。身の内のあつき事火をたくが如し。ふし給へる所四五間が内へ入ものは、あつさたへがたし。たゞの給ふ事とては、『あたあた』とばかりなり。すこしもたゞ事とは見えざりけり。比叡山より先手井の水をくみだし、石の船にたゝへて、それにおりてひへ給へば、水おびたゝしくわきあがって、程なく湯にぞなりにける」とある。
―――――――――
大聖人は、神国であるはずの日本の国になぜ災いが相次ぎ、仏教を信仰した天皇が不幸な目にあわなければならなかったのかという疑問と真っ向から取り組み、謗法の邪教を知らずに信奉しているところにその根本原因があることを突き止められた。
そこで、人々を不幸から救いたいとの〝一分の慈悲〟の心に動かされて、弟子達にその内容を大略語ったところ、それが次第に広まって、鎌倉幕府の執権にまで聞こえ、その結果、大きな迫害を受けられたのである。その難は天台大師や伝教大師の苦難をはるかに超えるものであると述べられるとともに、そうした非道な迫害をした人々に現罰のないわけがないと断言されている。
国主は理を親とし非を敵とすべき人にて……一人の余をすて給う
ここで仰せの〝国主〟とは、いうまでもなく、天皇ではなく、鎌倉幕府の執権をさしていわれている。「理を親とし非を敵とすべき人にて・をはすべきか」とは、一往、為政者は道理を根本とすべきで、非道を排さなければならない立場であるという、一般論とも拝せるが、再往、大聖人を伊豆流罪にした北条時頼、また竜の口法難、佐渡流罪に処した北条時宗についていわれていると考えられる。
時頼、時宗ともに聡明な人として名が高かったが、邪法の僧等やそれと結託した幕府内の多数派に押し切られて、大聖人を処罰したのである。
「諸人の讒言を・をさめて一人の余をすて給う」とは、多数派の力に押されて、孤立無援の大聖人を処罰したことをいわれているのである。
この仰せの根底には、為政者たる者は、たとえ多数の意見が反対であったとしても、あくまで〝理〟――道理、正義――を根本とすべきで、非道に従ってはならないとの鋭い批判が含まれていると拝せられる。また、同時に、こうした聡明な時頼、時宗等でさえも、押し切られてしまうほど、大聖人を憎む謗法の徒の勢力が大きかったということでもあり、その点について、次の御文で、天台大師や伝教大師と比較して、大聖人がいかに多くの人から怨嫉を受けたかを示されるのである。
天台大師や伝教大師は、他宗の僧達から憎まれたが、天台大師の場合は陳の後主、隋の煬帝という権力者、伝教大師の場合は桓武、平城、嵯峨の歴代天皇からの帰依を受けたので、怨嫉した人々は、実際には迫害を加えることがなかった。
それに対し、日蓮大聖人の場合は「一切世間多怨難信」と法華経に説かれているように、あらゆる人から怨嫉され、しかも権力者の帰依がないので、種々の迫害を受けられた。
この御指摘は別の御書で、有徳王、覚徳比丘の原理を挙げられ、経文の守護付嘱の重要性を述べられることにつながっている、大事な点である。
若し百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば日本国の諸人・後生の無間地獄はしばらくをく……
もし日蓮大聖人が法華経の行者であるならば、大聖人を迫害している日本中の人々は、後生に無間地獄に堕ちることは当然として、現在の人生にも厳然たる仏罰を受けるであろうといわれ、逆に、もし、人々に現罰があらわれなかったならば、大聖人は法華経の行者ではないことになり、御自身が現身に白癩、黒癩などの罰を受け、後生には無間地獄に堕ちることになるであろうと述べられている。
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(1165-01)と四条金吾への御手紙でも仰せのように、仏法には現証が必ずあり、そこで勝つか負けるかの姿が明確にあらわれるとの大確信の御言葉であられる。あいまいさを許さない、厳しい法理に貫かれているのが仏法であり、大聖人の終始とられた態度であることを知らなければならない。
日本国においては弘法・慈覚・智証が、この善無畏等の教えを習い伝えたが、それが謗法であることは自らも知らず、まして人々は思いもよらない。
しばらくの間は天台法華宗の人々は論争を交えたが、しまいには天台法華宗もだんだんに衰微し、比叡山延暦寺第55代座主の明雲、人王第81代の安徳天皇の治世からは、比叡山は一山ことごとく真言宗になってしまったのである。
第61代座主・顕真権僧正は、天台座主の立場でありながら真言宗に遷ったばかりでなく、さらに後には、法華も真言も捨てて、全くの謗法である法然の弟子となったのである。
承久の合戦で北条氏調伏の祈禱をした高僧の慈円僧正は、延暦寺第62代ならびに65代・69代・71代の4代の座主となった人で、隠岐の法皇の御師である。
これらの人々は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚・智証等の真言の法を、器はかわっても同じ智水であるように、そのまま伝えた。そのうえ、天台宗の座主の名を盗んで法華経へ供養された比叡山の領地を知行して三千の大衆の棟梁となり、一国の法の師と仰がれて、大日経を根本として法華経より七重劣る真言を用いて、それを八重勝れると考えているのは、天を地と思い、民を王と誤り、石を宝珠と誤るだけでなく、宝珠をただの石という人と同じである。
この人々は教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の怨敵であるだけでなく、一切衆生の眼目を奪い取り、三善道の門を閉じて三悪道の道を開く人である。どうして梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神がこの人を罰しないわけがあろうか。どうしてこのような人を仰ぐ檀那を守護することがあろうか。天照太神が内侍所に魂を宿し、八幡大菩薩が百代の王を守護するとの誓いも、どうして叶うであろうか。
1525:07~1525:14 第15章 法華経の行者の迫害を明かすtop
| 07 悦ばしいかな経文に任せて五五百歳・ 広宣流布をまつ・悲いかな闘諍堅固の時に当つて此の国修羅道となるべ 08 し、清盛入道と頼朝とは源平の両家・本より狗犬と猿猴とのごとし、 少人・少福の頼朝をあだせしゆへに宿敵たる 09 入道の一門ほろびし上・科なき主上の西海に沈み給いし事は不便の事なり、 此れは教主釈尊・多宝・十方の諸仏の 10 御使として世間には一分の失なき者を・ 一国の諸人にあだまするのみならず・両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小 11 路をわたす事・朝敵のごとし、 其の外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし 其の室を刎ねこぼちて・仏 12 像・経巻を諸人にふまするのみならず・糞泥にふみ入れ・日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしを・とりいだ 13 して頭をさんざんに打ちさいなむ、 此の事如何なる宿意もなし当座の科もなし、 ただ法華経を弘通する計りの大 14 科なり。 -----― 悦ばしいことは、日蓮は経文に任せて五五百歳・広宣流布を待つのである。悲しいことは、闘諍堅固の時にあたって、日本国が修羅道と化すことである。 清盛入道と源頼朝とは源平の両家であり、もともと犬猿の間柄である。位も低く徳の薄い頼朝を攻めたために、宿敵である清盛入道の一門が滅びたうえ、何の罪もない安徳天皇まで檀ノ浦に沈められたのは、まことに不憫なことである。 日蓮は教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御使いとして、世間の罪は一分も作っていないのに、その日蓮を日本国中の人々に憎ませたばかりか、二度も流罪に処し、朝敵のように日中に鎌倉の小路を引き回したのである。 そのほか、釈尊を本尊とし、一切経を安置していた小庵を打ち壊して、仏像・経巻を人々に踏みつけさせただけでなく、糞泥の中に投げこませ、日蓮が懐中に入れておいた法華経を取り出して、日蓮の頭をさんざんに打ちすえたのである。このことは、日蓮が何かの恨みをもっていたからでもなく、現在の罪のために起きたことでもない。ただ法華経を弘通したという大科のためなのである。 |
五五百歳・広宣流布
薬王菩薩本事品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」とある。末法に法華経が広宣流布すべきことが説かれている。
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闘諍堅固
大集経巻五十五には「次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没」と、釈尊滅後、末法のはじめの五百年に、釈尊の仏法の中において絶えず争いが起こり、正しい教えが隠没すると説かれている。
―――
其の外小菴には
竜の口法難の日の文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉頼綱が日蓮大聖人を召し捕らえに来た時のこと。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。この詳しい模様は「種種御振舞御書」にある。
―――
狗犬と猿猴
狗犬とは犬。猿猴とは猿。仲の悪いたとえに「犬猿の仲」といわれている。
―――
宿意
①以前から抱いている考え、志望。②かねてからの恨み、長年の遺恨。
―――
当座の科
さしあたっての罪科、その場のあやまち。
―――――――――
大聖人は朝敵のように迫害されたが、それは世間法のうえでは何の罪科もなく、ただ仏の遺命どおり法華経を弘通したために受けた難であることを述べられている。
最初の「悦ばしいかな経文に任せて五五百歳・広宣流布をまつ・悲いかな闘諍堅固の時に当つて此の国修羅道となるべし」の御文は、仏の未来記に予言された五五百歳広宣流布を実現するために立ち上がった誇りある身であることを喜ばれるとともに、その大聖人を憎んで闘諍堅固の予言どおりの修羅道となったことを悲しまれている。
そして、平家一門が「少人・少福」の源頼朝を敵にして我が身を滅ぼしたのに対し、北条一門は法華経とその行者を敵にしていることを指摘され、その報いの大きさを暗に述べられている。「此の事如何なる宿意もなし当座の科もなし、ただ法華経を弘通する計りの大科なり」とは、北条一門の大聖人への迫害はひとえに大聖人が法華経を弘められていることに対して起ったものであり、したがって北条一門は法華経を敵としていることになっているとの意である。法華経は無量無辺の福徳の聚りであるから、少人少福の源頼朝を敵とした平氏の受けた報いなど比較にならないほどの極重の報いを北条一門は受けることになるとほのめかされている。事実、鎌倉幕府の終幕、北条氏の滅亡の悲惨さは、平氏のそれを上回るものがあったことは歴史の示す通りである。
人は朝敵のように迫害されたが、それは世間法のうえでは何の罪科もなく、ただ遺命どおり法華経を弘通したために受けた難であると述べられている。
最初の「悦ばしいかな経文に任せて五五百歳・広宣流布をまつ・悲いかな闘諍堅固の時に当つて此の国修羅道となるべし」の御文は、仏の未来記に予言された五五百歳広宣流布を実現するために立ち上がった誇りある身であることを喜ばれるとともに、その大聖人を憎んで、闘諍堅固の予言どおりの修羅道となったことを悲しまれている。
そして、平家一門が「少人・少福」の源頼朝を敵にして我が身を滅ぼしたのに対し、北条一門は法華経とその行者を敵にしていることを指摘され、その報いの大きさを暗に述べられている。「此の事如何なる宿意もなし当座の科もなし、ただ法華経を弘通する計りの大科なり」とは、北条一門の大聖人への迫害はひとえに大聖人が法華経を弘められていることに対して起ったのであり、したがって北条一門は法華経を敵としていることになっているとの意である。法華経は無量無辺の福徳の聚であるから、少人少福の源頼朝の敵とした平氏の受けた報いなど比較にならないほどの極重の報いを北条一門が受けることをほのめかされている。事実、鎌倉幕府の終幕、北条氏の滅亡の悲惨さは、平氏のそれを上回るものであったことは歴史の示す通りである。
1525:15~1526:13 第16章 諸天に仏前の誓いを果たすよう促すtop
| 15 日蓮天に向つて声をあげて申さく・ 法華経の序品を拝見し奉れば梵釈と日月と四天と竜王と阿修羅と二界八番 16 の衆と無量の国土の諸神と集会し給いたりし時・ 已今当に第一の説を聞きし時・我とも雪山童子の如く身を供養し 17 薬王菩薩の如く臂をも・やかんと・をもいしに、教主釈尊・多宝・十方の諸仏の御前にして今仏前に於て自ら誓言を 18 説けと諌暁し給いしかば・ 幸に順風を得て世尊の勅の如く当に具さに奉行すべしと二処三会の衆・一同に大音声を 1526 01 放ちて誓い給いしは・ いかんが有るべき、唯仏前にては是くの如く申して多宝・十方の諸仏は本土にかへり給う、 02 釈尊は御入滅ならせ給いて・ほど久くなりぬれば・末代辺国に法華経の行者有りとも梵釈・日月等・御誓いをうちわ 03 すれて守護し給う事なくば.日蓮がためには一旦のなげきなり、無始已来・鷹の前のきじ・蛇の前のかへる.ネコの前 04 のねずみ・犬の前のさると有りし時もありき、ゆめの代なれば仏・菩薩・諸天にすかされ・まいらせたりける者にて 05 こそ候はめ。 -----― 日蓮は天に向かって声をあげていうには、法華経の序品を拝見すると、梵天・帝釈、日月、四天、竜王、阿修羅、欲界・色界の八部衆と無量の国土の諸神が集まり、已今当の三説に超過して法華経が最勝であるとの説教を聞いた時、我らもまた雪山童子のように身を供養し、薬王菩薩のように仏のために臂をも焼こうと思ったところ、教主釈尊が多宝仏・十方の諸仏の御前に於て「今仏前に於いて、自ら誓言を説け」と諌暁されたので、追い風を得た思いで「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」と二処三会の儀式に集った大衆が一同に大音声を放って誓われたことはどうなったのであろう。ただ、仏前ではこのように誓ったが、多宝仏・十方の諸仏は本土に還られ、釈尊が御入滅になられて年久しくなったので、末代辺国の日本に法華経の行者があっても、梵天・帝釈・日月等は、この仏前での御誓いを忘れて守護されないのだろうか。 もしそうとすれば日蓮にとっては一時の嘆きである。それは、無始已来、鷹の前の雉、蛇の前の蛙、猫の前の鼠、犬の前の猿のような苦しみを味わってきたこともあった。この世は夢の世であるから、仏・菩薩・諸天に欺かれた者なのであろう。 -----― 06 なによりも・ なげかしき事は梵と帝と日月と四天等の南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値をすてさせ給 07 いて・現身に天の果報も尽きて花の大風に散るがごとく・ 雨の空より下るごとく・其の人命終入阿鼻獄と無間大城 08 に堕ち給はん事こそあはれにはをぼへ候へ、 設い彼の人人は三世十方の諸仏をかたうどとして 知らぬよしのべ申 09 し給うとも・日蓮は其の人人には強きかたきなり、 若し仏の返頗をはせずば梵釈・日月・四天をば無間大城には必 10 ずつけたてまつるべし、日蓮が眼をそろしくば・いそぎいそぎ仏前の誓いをばはたし給へ、日蓮が口、○。 -----― しかし、何よりも嘆かわしいことは、梵天と帝釈と日月と四天等が、南無妙法蓮華経と唱える法華経の行者が大難に値っているのを見捨てて、現身に天の果報も尽き、花が大風によって散るように、雨が空から降るように、「其人命終入阿鼻獄」との経文にあるとおり、無間大城に堕ちることである。これこそあわれなことである。 たとえ、かの諸天善神は三世十方の諸仏を味方として、そのようなことは知らないといっても、日蓮はそうした諸天を敵とみるであろう。もし、仏に偏頗がなければ、梵天・帝釈・日月・四天は必ず無間大城に堕ちるであろう。日蓮の眼をおそろしく思われるなら、急ぎ急ぎ仏前の誓言を果たされるがよい。日蓮の口……。 -----― 11 又むぎひとひつ.鵞目両貫・わかめ・かちめ・みな一俵給い畢んぬ、干い.やきごめ・各各一かうぶくろ給い畢ん 12 ぬ、 一一の御志はかきつくすべしと申せども法門巨多に候へば留め畢んぬ、 他門にきかせ給うなよ大事の事 13 どもかきて候なり。 -----― また、麦一櫃、鵞目両貫、わかめ、かちめ、それぞれ一俵をいただいた。干飯、焼米もそれぞれ一袋いただいた。一一の厚い志に対して御礼を書き尽くすべきであるが、大事な法門を多く書き連ねたので筆を留めておく。他人に聞かせてはならない。大事の法門を書いたのである。 |
竜王
竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
―――
阿修羅
阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「」(0430-)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
―――
二界八番の衆
二界は三界の中の欲界・色界をいい、八番とは雑衆の中の①欲界衆、②色界衆、③竜王衆、④緊那羅王衆、⑤乾闥婆王衆、⑥阿修羅王衆、⑦迦楼羅王衆、⑧人王衆をいう。
―――
雪山童子
釈尊が過去世で修行していたときの名。涅槃経巻十四等に出てくる。釈尊は過去の世に雪山で法を求めて修行していた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
―――
薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
諌暁
いさめさとすこと。「諌」は礼をもって他のあやまちをただすこと。「暁」は説なりとあるように、さとし明かすこと。別していえば、国家の安危について、その責任者に進言すること。また、人生の重大事について、相手の蒙を開いて目をさまさせること。結果として、いちじ相手が驚いたり、恨んだり、あだをなしたりすることが多い。法師品には「如来現在猶多怨嫉」とあり、末法には釈尊在世以上の怨嫉の難があると説き、また明楽は「惑耳驚心」と説いている。
―――
二処三会
法華経の説処と説会をいう。「二処」とは霊鷲山と虚空会、「三会」とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会のこと。
―――
本土
仏の居住する本来の国土。多宝仏の本土は東方宝浄世界である。
―――
辺国
①中心から離れた国。②不便で開けていない国。③仏教の中心(発祥地)から遠く離れた日本のこと。
―――
天の果報
諸天善神が受ける天界の果報・功徳。
―――
三世十方の諸仏
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。
―――
ひとひつ
「ひつ」は、上に向かってふたが開く大型の箱のことで、麦・米等の入れ物。
―――
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
両貫
二貫文のこと。貫は銭貨を数える単位。一貫文は銅銭千文をさすという。
―――
かちめ
「かじめ」ともいう褐藻類コンブ科の海藻で、海面下20㍍ぐらいまで岩の上に育つ。根状部はひげ状、茎状部は円柱状で、上部は左右に分かれて多数の帯状の葉状部がついている。
―――
干い
一度炊いた飯をよく干して乾燥した貯蔵用の飯のことで、水または熱湯にひたせばすぐ食用となる。兵糧として、また旅行の際などに用いた。
―――
やきごめ
新米を籾のまま焙って、殻を取り去っ たもの。炒米ともいう。
―――――――――
本抄は末尾が欠けてしまっているので、このあと、どのような内容をもって締めくくられているのかはわからないが、この段では、諸天善神が法華経の会座で「法華経の行者を守護します」と誓ったことを挙げられ、その法華経の行者である大聖人を諸天が守らないのは、一つには自分が薄幸の故かと嘆かれながら、しかし、どうであれ、誓いに背く諸天は阿鼻地獄に堕ちることになるのだから、急いで仏前の誓いを果たすべきである、と叱咤されている。
世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし
これは嘱累品で、釈尊が無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて「今以て汝等に付嘱す。汝等は応当に一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし」と、自らの得た法を託し、弘教を命じたのに対して、菩薩達が答えた誓いの言葉である。したがって、この中には梵天、帝釈などの諸天は含まれていない。
諸天達については、同じく嘱累品に「是の語を説きたまう時、十方の無量の分身の諸仏の宝樹の下の師子座の上に坐したまえる者、及び多宝仏、并びに上行等の無辺阿僧祇の菩薩の大衆、舎利弗等の声聞、四衆、及び一切世間の天・人・阿修羅等は、仏の説きたまう所を聞きたてまつりて、皆な大いに歓喜す」と述べられている。
すなわち、諸天達は、菩薩の弘教の誓いを聞いて歓喜したのであって、その役割は、自らは弘教しないが、弘教の菩薩を守護することにある。このように果たす役割の違いはあるが、諸天も、菩薩達とともに、この時、仏前で誓ったものとして扱われているのである。
唯仏前にては是くの如く申して……日蓮がためには一旦のなげきなり
諸天が仏前では誓ったが、多宝・十方の諸仏は本土へかえって、いなくなったし、釈尊も入滅されてしまったので、約束を破っても怖い人がいないので、いま日本に法華経の行者たる日蓮大聖人が出現されていても、守護しに来ないのであろうか、といわれている。そして、諸天の守護を受けられないのは、宿業深重の凡夫として仕方がないかもしれないと仰せられ、我が身の不徳は一旦の嘆きであると述べられている。
すなわち、自分の薄幸は、たしかに嘆きではあるが、それは、まだ、浅い、一時的な嘆きであるとの仰せである。なぜなら、今世に諸天の守護を受けず、苦難を味わったとしても、後生の成仏は間違いないからである。
それに対して「なによりも・なげかしき事」は、梵天、帝釈等の諸天が、法華経の行者を守るとの誓いを反古にして、天界の果報を失うばかりでなく、無間大城に堕ちるであろうことである。御自分の身の不幸よりも、諸天のより大きい不幸を心配され、嘆かれているのである。
そして、かりに諸天が三世十方の諸仏を味方にして、自分達は、そのような約束はしていないと言い張ったとしても、「日蓮は其の人人には強きかたきなり」と、大聖人をごまかすことはできないと言い切られ、「日蓮が眼をそろしくば・いそぎいそぎ仏前の誓いをばはたし給へ」と叱咤されている。
三世十方の諸仏をごまかすことはできても、大聖人の眼をごまかすことはできないとのこの大師子吼は、まさに、末法御本仏としての大確信の御言葉と拝せられる。諸天善神は、縮みあがる思いをしたであろうと想像される。
1526~1528 上野殿御消息(四徳四恩書)top
1526:01~1527:09 第一章 外典の四徳を明かすtop
| 01 三世の諸仏の世に出でさせ給いても皆皆四恩を報ぜよと説き.三皇・五帝・孔子・老子.顔回等の古の賢人は四徳 02 を修せよとなり、四徳とは・一には父母に孝あるべし・二には主に忠あるべし・三には友に合うて礼あるべし・四に 1527 01 は劣れるに逢うて慈悲あれとなり、 一に父母に孝あれとは・たとひ親はものに覚えずとも・ 悪さまなる事を云う 02 とも・聊かも腹も立てず誤る顔を見せず・ 親の云う事に一分も違へず・親によき物を与へんと思いてせめてする事 03 なくば一日に二三度えみて向へとなり、 二に主に合うて忠あるべしとは・ いささかも主にうしろめたなき心ある 04 べからず、 たとひ我が身は失しなはるとも主にはかまへてよかれと思うべし、 かくれての信あれば・あらはれて 05 の徳あるなりと云云、 三には友にあふて礼あれとは友達の一日に十度・二十度来れる人なりとも千里・二千里・来 06 れる人の如く思ふて礼儀いささか・ をろかに思うべからず、 四に劣れる者に慈悲あれとは我より劣りたらん人を 07 ば・我が子の如く思いて一切あはれみ慈悲あるべし、 此れを四徳と云うなり、 是くの如く振舞うを賢人とも聖人 08 とも云うべし、 此の四の事あれば余の事にはよからねどもよき者なり、 是くの如く四の得を振舞ふ人は外典三千 09 巻をよまねども読みたる人となれり。 -----― 三世の諸仏が世に御出現になっても、皆々四恩を報ずるようにと説かれ、三皇、五帝、孔子、老子、顔回等の昔の賢人は四徳を修めるようにと教えている。四徳とは一には父母に孝行であれ、二つには主に忠義であれ、三には友に会っては礼義を尽くすこと、四には自分より劣る目下の者に会ったら慈悲深くあれ、ということである。 一に父母に孝行であれということは、たとえ親がものの道理をわきまえていなくても、また悪意をもって言うようなことがあっても、少しも腹を立てたり気分を悪くした顔を見せてはいけない。親のいうことに一分も逆らうことなく、親によいものを与えようと思うことであり、せめて何もできないときは、日に二、三度は笑顔を見せて向かうようにせよ、ということである。 二に主君に会って忠義であれというのは、主君に対して少しも後ろめたい心があってはならない。たとえ我が身を失うようなことがあっても、主君のためになればよいようにと心がけなければならない。今は知られなくとも誠意があれば、いつか外にあらわれての徳があるといわれるとおりである。 三に友に会ったら礼儀正しくあれというのは、友達で一日に十度、二十度訪ねてくる人であっても、千里、二千里訪ねて来る人のように思って、少しも礼儀を欠くようなことがあってはならない。 四に劣れる者に慈悲深くあれというのは、自分より弱い人には我が子のように思って、すべてをいとおしみいつくしむべきである、ということである。これを四徳というのである。 このように振る舞う人を賢人とも聖人ともいう。この四徳があれば、他の事はよくなくても良き人なのである。このように四徳を修め行う人は、外典三千巻を読まなくても読んだ人となるのである。 |
三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
―――
四恩
四種の恩のこと。四恩については心地観経巻二に説かれる父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩の他に、釈氏要覧などにも説かれ、諸説がある。大聖人は報恩抄のなかで、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩を説かれている。
―――
三皇
中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・女媧・神農とされるなど異説も多い。
―――
五帝
三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば黄帝・顓頊・帝嚳・唐堯・虞舜の五人をさす。
―――
孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
―――
老子
生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は耼、または伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令、尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。
―――
顔回
(前0514~前0483)。生没年には異説がある。中国・春秋末期の学者。魯(山東省曲阜付近)の人。名は回、字は子淵。孔子の第一の高弟で、貧窮のうちにも学問を好み、天命を楽しみ、徳行をもってきこえた。不幸にして短命で、師よりも先に亡くなり、後世に復聖公の号を贈られた。
―――
四徳
①仏の生命にそなわる常楽我浄のこと。②転輪聖王の四徳。③儒教で説く人間がふみ行うべきこと、孝・弟・忠・信。
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外典三千
「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
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本抄は建治元年(1275)、日蓮大聖人が聖寿54歳の御時、身延から南条七郎次郎時光に与えられた御消息である。御真筆は現存していない。
時光は七歳の時に、上野郷(静岡県富士宮市)の地頭であった父を亡くしている。その後は強信な母に支えられて、亡父の信心を継ぎ、立派に成長するとともに、若くして地頭職を継承している。本抄をいただいた時は17歳である。
大聖人は本抄で、時光が一家の中心として、母に孝養を尽くし、父の追善供養に励む孝心厚き姿を賞でられながら、さらなる人間的成長を期待されて、人倫の基本たる外典の四徳と仏法の四恩を説き、人間としての道を教えようとされたのであろう。
とくに四恩の中でも、父母の恩について詳しく述べられ、時光が亡父の意志を継いで強盛な信心に励むことこそ、父母の恩を報ずることになると激励されている。
なお、本抄は別名を「四徳四恩御書」とも称される。
内容は、外典における四徳、内典における四恩を挙げられ、法華経を信じ行ずる者は、おのずから四徳が備わり、この経を受持することは即四恩を報ずることになると説かれている。
さらにこの経を強く信ずる者を、釈迦・多宝・十方の諸仏をはじめ、十羅刹女にいたるまで、影の身に添うごとく、必ず守護するのであるから、信心強盛ならば、現世安穏・後世善処は疑いないと、信心を励まされている。
まず、父母に孝、主に忠、友に礼、劣れる者に慈悲あれという、外典の四徳について示され、外典の教えは、この四徳に帰着することを述べられている。
これは「礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」(0187-04)立場から、外典を仏法の初門として、仏法のなかに摂せられたものと拝される。
また、人間としての振る舞いはいかにあるべきか、社会の場にあって、人間に接する際の不変の姿勢を述べられたともいえる。
仏法は道理である。世間の義から離れたところで、現実社会の営みとは別のものとして行ずるものではない。「減劫御書」に「法華経に云く『皆実相と相違背せず』等云云、天台之を承けて云く『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』等云云、智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(1466-13)と仰せられているとおりである。
したがって、世間の法とは仏法の全体であるゆえに、生活の姿勢、言葉遣いなど、十分心得ていくのが仏法者のあり方でなければならない。
ゆえに仏教以前の外典の説いた倫理・道徳の基本である四徳も、それなりに不可欠の意義をもつといえるのである。
一に、父母に孝あれ
儒教では「親に孝」を教え「親の意に随う」べきことを教える。
つねに親に好きな物を与えようと思うべきで、もしそれがままにならない時は、せめて一日に二、三度は笑みをたたえて接するがよい、との教訓は、親子間の断絶、不和が取りざたされる現代においても、和楽の家庭を築くうえで貴重な指標であろう。
二に、主に忠あれ
主君に対しては、いささかなりとも後ろめたい気持ちがあってはならず、誠意をもって忠誠を尽くすべきであると説く。
武士である時光に対して、主君に仕える武士としての倫理を教えられたのであろう。
「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」は、「陰徳あれば陽報なり」と同じ意である。淮南子の「人間訓」などが出典である。
「かくれての信」は人に知られない善行、かくれた誠意であり、「あらはれての徳」は、はっきりした形で、よい報いがあらわれることをいう。
つまり、主君がよく思ってくれなくても、主君のために黙々と忠誠を尽くしていけば、必ずよい報いを受ける、との意である。
だれが見ていようといまいと、地道に陰徳を積むとき、それは善業として生命内奥に刻み込まれ、やがて陽報たる大果報とあらわれて、人生の勝利者として輝きゆくことを教えている。
三に、友に礼儀あれ
人間としての当然あるべき姿勢を示すものとして、極めて大切な戒めである。
一日に十度、二十度と会う人であっても、千里、二千里のはるか遠方から訪ねてきた人と同じ思いで迎えるということは、つねに大誠実をもって人に接することの重要さを教えている。
日ごろ、親しく接している友であれ、その人の生活状態や身分、肩書のいかんを問わず、つねに真心から相手を尊敬して接するとき、人間と人間の真実の交流も可能となる。そこに崩れざる友情が築かれることは明白の理である。
四に、劣れる者に慈悲あれ。
〝劣れる〟とは人間的な優劣を是認していうのではなく、社会的立場や肉体的、精神的条件から力の弱い人という意味で考えるべきであろう。
時光の場合は、家来、領民ということになろう。そうした人々を我が子のように思って、慈悲の心で、公平に接し、振る舞うよう諭されている。
この四徳を修得し、実行していく人を、儒教では賢人とも聖人とも呼ぶのである。
時光は地頭とはいっても、まだ人生経験浅い17歳の青年である。日蓮大聖人はこの四徳の義をとおして、細かい人生の機微を教えられ、より一層の人格向上を期待されたものと拝される。
「是くの如く振舞うを賢人とも云うべし」の御文に、時光に寄せられる大聖人の深い御慈愛がうかがわれるのである。
1527:10~1527:17 第二章 仏教の四徳を明かすtop
| 10 一に仏教の四恩とは一には父母の恩を報ぜよ・二には国主の恩を報ぜよ・三には一切衆生の恩を報ぜよ・四には 11 三宝の恩を報ぜよ、一に父母の恩を報ぜよとは父母の赤白二渧・ 和合して我が身となる、母の胎内に宿る事・二百 12 七十日・九月の間・三十七度死るほどの苦みあり、 生落す時たへがたしと思ひ念ずる息・頂より出づる煙り梵天に 13 至る、 さて生落されて乳をのむ事一百八十余石・ 三年が間は父母の膝に遊び人となりて仏教を信ずれば先づ此の 14 父と母との恩を報ずべし、 父の恩の高き事・須弥山猶ひきし・母の恩の深き事大海還つて浅し、相構えて父母の恩 15 を報ずべし、 二に国主の恩を報ぜよとは・生れて已来・衣食のたぐひより初めて・皆是れ国主の恩を得てある者な 16 れば現世安穏・後生善処と祈り奉るべし、 三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり・女は母 17 なり・然る間・生生世世に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり、 -----― つぎに仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ、ということである。 一に父母の恩を報ぜよというのは、父母の赤白二渧が和合して我が身となり、母の胎内に宿ること二百七十日、九か月の間、三十七回、死ぬほどの苦しみがある。生み落とす時はとても耐え難いと思うほどで、息は荒く、頭から出る湯気は梵天にまでとどくほどである。そして生み落とされて飲む乳は百八十余石、三年の間は父母の膝下に遊ぶのである。成人して仏教を信ずるようになれば、まずこの父と母との恩を報ずべきである。父の恩の高いことは須弥山さえもなお低いほどであり、母の恩の深いことは大海もかえって浅いほどである。心して父母の恩を報ずべきである。 二に国主の恩を報ぜよとは、生まれてから以来、衣食の類をはじめとしてすべて国主の恩を受けてあるものであるから現世安穏・後生善処と祈念し奉るべきである。 三に一切衆生の恩を報ぜよとは、三世の生命からみれば、すべての男は過去世には父であり、すべての女は母である。こうして、生生世世にみな恩ある衆生であるから、一切衆生が成仏するようにと願うべきである。 |
三宝の恩
「三宝」とは、仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。心地観経では、この三宝に対する恩を報じることを四恩の一つとしている。
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赤白二渧
赤は母の血、白は父の精。赤白の二渧が和合することにより識が宿り、人間が生まれることをいう。摩訶止観巻七上には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以て体質と為す」とある。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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須弥山
梵語スメール(Sumeru)の音写で、妙光・妙高と訳す。古代インドの世界観で、世界の中心にあるとされる山。長阿含経巻十八等に説かれる。水面より八万四千由旬の高さ、水面下八万四千由旬あるという。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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現世安穏・後生善処
法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信受する衆生の三世にわたる福徳を述べた文。現世では安穏な境涯となり、未来世においては必ず善処に生まれることの意。
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次に仏教の四恩、すなわち父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩、三宝の恩について述べられている。
一般的に他のものから与えられる恵み、慈しみ、思いやり等を〝恩〟と呼んでいる。それを知ることが知恩であり、それに報いる行為が報恩である。
この知恩・報恩こそ、時代に制約されない人間としての不変の麗しい徳目、倫理であろう。
しかし、知恩・報恩というと、古くさい封建道徳のように受け取る風潮が一部にある。これは、江戸時代や明治時代において「上位の者に対する下位の者の一方的奉仕」が、この報恩の名のもとに強調されたことに対する思いから出てきているのであろう。
本来の報恩とは、そうした一方的奉仕の強制ではなく、事実、恩恵を受けたことに対する感謝の心の自然の発露である。
とくに仏教では、縁起、すなわち自分ひとりで存在するのではなく、必ず他のものに依存し、生じ起こるという理法に基づいた〝恩〟〝報恩〟を、ことのほか重要視しているのである。
一に、父母の恩
もちろん両親の恩である。我々を生み、育ててくれたのは両親である。
日蓮大聖人は開目抄で「孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず又孝とは厚なり地あつけれども孝よりは厚からず」(0192-01)と、孝心の大切さを御教示されている。
子供を育てるには人知れぬ苦労がある。「子を持って知る親の恩」という言葉があるが、子を持って知ることの多くは、子育ての苦労である。
とりわけ、出産時の陣痛の苦しみをはじめ、意志表示のできない乳飲み子を、昼夜をわかたず世話をする母親の労苦は筆舌に尽くせるものではない。われわれは両親にいくら報恩感謝しても、しきれないほどである。
それゆえに「人となりて仏教を信ずれば先ず此の父と母の恩を報ずべし」と仰せなのである。
二に、国主の恩
専制君主制の時代にあっては、人間生命や人々の生活上の財産を守り、社会の秩序を保つ等の働きは、一人の国主に集約されていた。
これらの働き、役割を〝国主の恩〟とされたのであるが、民主主義下の現代においては、〝国主〟は人々の生活を支える〝社会〟そのものといえる。
職場、地域などを含む社会を離れて、われわれの生活は成り立っていかない。生活のあらゆる場面で、われわれは社会の恩恵を受けているのである。したがって、社会の発展と繁栄に意欲的に貢献しゆくことが国主の恩に報ずることになるのである。
三に、一切衆生の恩
世の中は人と人との和合である。
例えば、自分には両親があり、その両親にも父と母があったというように、遡って数えてみると、三十代だけでも、十億七千三百七十四万一千八百二十四人という多数にのぼる。
しかも、過去に無数の生死流転を重ね、無数の人々と縁を結んできたことを考えれば、まさしく「されば昔は一切の男は父なり・女は母なり」である。
現在の一日一日の生活をみても、われわれが生きていくには、あらゆる人々の恩を蒙っている。一食するにも数えきれないくらいの人手がかかっているものである。衆生の恩がなければ一日たりとも満足に暮らしてはいけないであろう。
この大恩に報いるには、「皆仏になれと思ふべきなり」と仰せのように、あらゆる人々に皆成仏道の妙法を教え、救いきっていくことである。
1527:17~1528:10 第三章 三宝への報恩が真実の孝養top
| 17 四に三宝の恩を報ぜとは・最初成道の 18 華厳経を尋ぬれば経も大乗・仏も報身如来にて坐ます間・二乗等は昼の梟・ 夜の鷹の如くして・かれを聞くといへ 1528 01 ども・耳しゐ・目しゐの如し、然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、次に 02 仏・阿含・小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は 03 十戒・法師は二百五十戒・ 尼は五百戒を持ちて三千の威儀を具すべしと説きたれば・末代の我等かなふべしとも・ 04 おぼえねば母の恩報じがたし、 況や此の経にもきらはれたり、方等・般若・四十余年の経経に皆女人をきらはれた 05 り、但天女成仏経・観経等にすこし女人の得道の経文有りといへども・但名のみ有つて実なきなり、 其の上未顕真 06 実の経なれば如何が有りけん、 四十余年の経経に皆女人を嫌われたり、 又最後に説き給いたる涅槃経にも女人を 07 嫌はれたり、 何れか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の竜女・成仏し・仏の 08 姨母憍曇弥・ 耶輸陀羅比丘尼記莂にあづかりぬ、 されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ・ 畜生にもあらず 09 蛇身にもあらず・八歳の竜女だにも仏になる、 如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき、されば法華経を 10 持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり。 -----― 四に三宝の恩を報ぜとは、成道の後、最初に説かれた華厳経について尋ねてみれば、御経も大乗、仏も報身如来であられたので、二乗等は昼の梟、夜の鷹のように、華厳の法門を聴聞しても、耳の不自由な者や目の不自由な者同然であった。しかも、四恩を報ずることができるかと思うと、女人は成仏できないときらわれているのであるから、母の恩を報ずることは難しい。 次に釈尊は十二年の間、阿含・小乗経を説かれた。これこそ小乗の教えであるから、我々の機根にかなっているかと思えば、男は五戒、女は十戒、法師は二百五十戒、尼は五百戒を持って三千の威儀を身に具えなければならないと説かれているので、末代の我らにはかなうこととも思われないので、母の恩を報ずることは難しい。まして女人の成仏はこの経にも嫌われている。さらに方等、般若など四十余年の経々でも、皆、女人は嫌われている。ただ天女成仏経、観経等にすこしばかり女人の得道の経文があるとはいえ、ただ名のみあって宝がない。そのうえ、これらは未顕真実の経であるから、何の力もないのである。四十余年の経々には皆女人は嫌われており、最後に説かれた涅槃経でも女人は嫌われている。いずれの経に四恩を報ずる経があるかと尋ねてみると、法華経こそ女人成仏が説かれた経である。八歳の竜女は成仏し、釈尊の姨母の憍曇弥や耶輸陀羅比丘尼も成仏の記別をうけているのである。したがって、我らが母はただ女人の身でこそあれ、畜生でもなく蛇身でもない。八歳の竜女ですら成仏するのであるから、どうしてこの法華経の力で我が母が成仏できないことがあろうか。それゆえに法華経を持つ人こそ、父と母の恩を報じているのである。我が心には父母の恩を報じようとは思わなくても、この経の力によって報じているのである。 |
最初成道
インド応誕の釈尊が、成道した最初。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
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報身如来
仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。
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二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
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昼の梟・夜の鷹
梟は夜行性の猛禽で昼は森林の木のこずえで眠り、夜、活動して小動物を捕食する。また鷹は昼行性の猛禽で、鳥獣を捕食する。釈尊が成道して最初に説いた華厳経は、利根の菩薩のために、その修行と功徳を説いたもので、二乗の機根には合わなかったことを譬えられている。
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阿含
阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
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小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
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十戒
小乗教の在家戒としての十戒は明確ではない。大乗教の在家戒である十善戒としては、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見がある。
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二百五十戒
「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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五百戒
比丘尼の具足戒で、その戒数には諸説があり、四分律に説かれる三百四十八戒が一般的である。多数の意味で五百としたもの。
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三千の威儀
「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
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方等
方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経にあたり、ここでは、法華経をさす。
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般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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四十余年の経経
釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。
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天女成仏経
転女成仏経のことか。転女成仏経は劉宋代の曇摩蜜多の訳で「転女身経」のこと。一巻。女身の種々の苦悩を説き、無垢光女が女身を転じて男となり成仏得道した例を引き、女人の成仏を明かしている。
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観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
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未顕真実
法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
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涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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女人成仏
法華経以前の諸経では、女人は「地獄の使い」「永く成仏の期なし」等と不成仏が説かれ、また権大乗教には一応成仏も説かれているけれども、改転の成仏であり、即身成仏ではなかった。法華経提婆達多品第十二に至って、初めて女人成仏が説かれた。
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八歳の竜女
竜女は大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。
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憍曇弥
(Gautamī)。 釈迦の叔母。釈迦の誕生後七日目に母の摩耶夫人が死んだため,その後,釈迦の養育にあたった。摩呵婆闍波提比丘尼のこと。
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耶輸多羅比丘尼
梵語ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。耶輸大臣の女である。悉達太子の正妃で、羅睺羅の母。釈尊が成道して12年目に、迦毘羅衛国に帰ってきたとき、釈尊より化導され、比丘尼となった。
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仏教で説く四恩のうち、最も重要な三宝の恩について述べられている。仏・法・僧の三宝といっても、たくさんの経典があり、それによって衆生が恩を受ける度会いは異なる。
そこで、真実の三宝を秘めた経はいずれの経かを、釈尊一代の説法を五時に分け、勝劣を判じて明かされるのである。
四に、三宝の恩
三宝とは仏宝、法宝、僧宝のことである。人間として最高に生きるには、この三宝の恩を報ずることが最も大事である。それによって、これまでの父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩を報ずることが可能となるのである。
また三宝は合すれば法宝に帰着する。「法は諸仏の師」(0938-10)であるからである。その法とは仏の教え、経のことである。しかるに、釈尊が一代五十年で説いた経典は大乗・小乗があり権教・実教があり、そこには勝劣・高低・浅深の違いがある。そこで一代の説法の次第に順じ、父母とくに母への報恩を女人成仏に寄せて、真実の三宝を秘めた経を御教示されるのである。
まず釈尊が最初に説かれた華厳経は高度な大乗法門であるため、「二乗等は昼の梟・夜の鷹の如くして」全く領解できなかった。
このように秀れた経であるなら報恩可能と思えるが、じつは「女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」等と、女人を罪業深きため成仏できないと嫌っている。これでは母の恩を報ずることは不可能である。
次に12年間にわたって説かれた阿含経は小乗教である。機法相応の経と思えるが、俗男俗女・僧尼それぞれに五戒・十戒・二百五十戒・五百戒という多くの戒を持ち、威儀を整えなければならないと説く。ゆえに、これでは、末法の荒凡夫にはとても実行不可能であるから、やはり母の恩は報じ難い。ましてこの経でも女人は罪業の塊であるとして嫌っているので、なおのことである。
そのあと続いて説かれた方等・般若の諸経でも、女人は不成仏と嫌われている。ただ天女成仏経・観無量寿経などに、わずかに女人得道の文が見られるが、それも名ばかりで、それを可能とする法体がない。いわゆる有名無実である。まして未顕真実の経教であってみれば、真実の成仏など思いもよらない。
ゆえに大聖人は、弘安3年(1280)に同じ時光に与えられた御抄でも、釈尊が最後に説いた涅槃経を含めて「内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず・孝が中の不孝なるべし」(1563-09)と断じられているのである。
ただ出世の本懐として八年間説かれた法華経だけが女人成仏を説き、真実の孝養の道を開いたのである。
法華経では女人成仏の例として竜女の成仏が明かされ、また未来に成仏が約束された例として、釈尊の姨母の憍曇弥と出家以前の妃であった耶輸陀羅が示されている。
成仏を遂げられるようにすることこそ母への最高の、そして真実の報恩であり、したがって、法華経を受持する以外、父母の恩を報ずることは不可能といえるのである。
ここで法華経とは、末法今時では三大秘法の南無妙法蓮華経である。そして、末法の三宝とは、仏宝は末法の御本仏日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人であられる。
この三宝への報恩こそ、四恩の肝要であり、前の三恩に報ずることも、三宝の恩を報ずることのなかにすべて含まれるのである。
「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり」と仰せのように、第一の父母の恩を報ずることになる。また、第二の国主の恩について「現世安穏・後生善処と祈り奉るべし」といわれ、第三の一切衆生の恩に関して「皆仏になれと思ふべきなり」と仰せられていることも、末法の三宝を信じてこそ可能となるのである。
そして「我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」と仰せのように、自分の心にははっきりと恩を報じようという意識を持っていなかったとしても、御本尊を信受し、自行化他の信心に励むことによって、自然に最高の報恩を尽くしていることになるのである。
これは、ひとえに御本尊の偉大な仏力・法力のしからしむるところであり、また汲めども尽きぬ功力の賜であることは言をまたない。
だからといって、ただ御本尊に祈ってさえいれば、すべての報恩をしていることになるから、具体的な報恩の努力はしなくともよいということではなく、現実の生活の上での報恩は、具体的な努力によらなければならないことはいうまでもない。
1528:11~1528:16 第四章 余念なき一筋の信仰勧めるtop
| 11 然る間.釈迦・多宝等の十方.無量の仏・上行地涌等の菩薩も.普賢・文殊等の迹化の大士も.舎利弗等の諸大声聞 12 も・大梵天王.日月等の明主諸天も・八部王も.十羅刹女等も・日本国中の大小の諸神も・総じて此の法華経を強く信 13 じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり、 相構て相構て心を翻へさず・ 14 一筋に信じ給ふならば・現世安穏・後生善処なるべし、恐恐謹言。 15 日 蓮 花 押 16 上野殿 -----― それゆえに釈迦・多宝等の十方・無量の仏、上行菩薩等の地涌の菩薩、普賢、文殊等の迹化の大士、舎利弗等の諸大声聞も、また大梵天王、日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も日本国中の大小の諸神も、すべてこの法華経を強盛に信じて、余念なく一筋に信仰する人を、ちょうど影が身にそうように守護されるのである。しっかりと心をひるがえさずに一筋に信じられるならば、現世安穏、後生善処は間違いない。恐恐謹言。 日 蓮 花 押 上 野 殿 |
釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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多宝
多宝仏のこと、法華経の会座で、多宝の塔の中に坐して地から出現し、法華経が真実であることを証明する、東方宝浄世界に住む仏。
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十方・無量の仏
「十方」とは上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する無量の仏、全宇宙の仏を意味する。
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上行地涌等の菩薩
「上行」法華経本門の四菩薩、上行・無辺行・浄行・安立行の上首で、「地涌等の菩薩」とは、法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。 迹化の菩薩に対して本化の菩薩という。
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普賢
普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
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文殊
文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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迹化の大士
迹化の菩薩のこと。本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等の八十万億那由佗の菩薩がこれにあたる。勧持品で仏滅後の弘通を誓い出たが、涌出品で釈尊は本化地涌の菩薩を召し出し、神力品で付嘱した(別付嘱)。しかし迹化の菩薩は嘱累品において付嘱を受け(総付嘱)正像2000年にのみ出現して権大乗や法華経迹門を弘通した。
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舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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声聞
十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
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大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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八部王
八部衆のこと。仏法を守護する八種類の神々のこと。
①天 (天界に住む諸神)
②竜 (竜王・竜神)
③夜叉 (鬼神の一種)
④乾闥婆 (天の音楽の神)
⑤阿修羅 (鬼神の一種)
⑥迦楼羅 (金翅鳥のこと。竜を主食とする鳥)
⑦緊那羅 (天の音楽の神)
⑧摩睺羅伽(蛇神)
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十羅刹女
鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
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法華経を強盛に信じ、余念なく一筋に信仰を貫くならば、諸仏・諸天の守護は厳然としてあり、また現世安穏・後生善処は疑いないことを述べられている。
釈迦・多宝・十方の諸仏並びに諸天が、末法の法華経信受の者を守護することは、法華経の会座での約束である。
これは生涯不退転の決意で信心を貫くことにより、必ず成仏し、永遠の幸福境涯に生ききれることを明かされたものである。
だが、そのために心しなければならないことは、「余年なく一筋に信仰」することであり、「心を翻へさず・一筋に信じ給う」ことである。「余念」とは他意・他念であり、謗法不信の意である。「一筋の信」とは、いうまでもなく不退転の信である。素直で純真、生涯不退を貫く信こそ大切なのである。
そこに一点でも余念が入り、不信が混じるならば、御本尊の広大無辺の仏力・法力はもちろん、ここに挙げられた仏・菩薩・諸天等の守護の力は現じえないことになる。
現世安穏・後生善処という三世にわたる無量の福徳を積むために、妙法一筋の不退の信を生涯貫き通す道心を、いや増して堅固にしていきたいものである。
1526~1528 上野殿御消息(四徳四恩書)(2012:01月号大白蓮華より。先生の講義)top
青年よ!最高の哲学光る人間学の王者に
60年前、それは、男女青年部が結成された翌年(1952)のことでした。第1回となる青年部の研究発表会が開催されました。
男子部と女子部の代表、メンバーに「宗教と科学の関係性」「五重の相対」「発迹顕本」など20のテーマから問題が出され、それに5分以内に答え、発表するという大会でした。
日ごろの研鑽結果を、緊張しながら論ずる一人一人の英姿を、戸田先生も「じつによく勉強している」と、心から喜ばれました。
この時、先生が審議と講評の中で語られたのが、有名な「地球民族主義」の考えです。私の耳朶に響いて離れません。
「わたくし自身の思想を述べますならば、わたくしは、共産主義やアメリカ主義では絶対にありません。東洋民族、結局は地球民族主義であります」折しも東西冷戦が各国を巻き込み、対立が激化しつつある時でした。
当時は、いまだ小さな創価学会でしたが、社会にはいかなる価値と思想を広げ、いかに平和の楽土を築くのか、先生は、青年の舞台は世界であり、その使命は国家イデオロギーの対立をほどき、地球の人々を結び合っていくことにあると教えられたのです。壮大な構想の表明に青年たちの胸は躍りました。
さらにこの時、先生は宣言されました。
「三代会長は、青年部に渡す」
「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」
そして日本の現状を、世界の民衆を救うのは創価学会以外にないと叫ばれ、「諸君は立つか!立つか!」と呼びかけられたのです。「立ちます!」集まった400人の青年は全身を震わせて応えました。
青年が一切を担い立つ、全力で青年を育成する。この真髄勝負の師弟の呼吸が、創価青年学会の原点です。
日蓮大聖人の御在世も、師の大闘争に呼応して立ち上がり、新しい時代を開いたのは、日興上人、南条時光など若き門下の人々でありました。
御書を繙くと、大聖人が南条時光を、どれほど心を砕いて薫陶されたかが、胸に迫ってきます。そして時光自身、師の渾身の励ましに、懸命に応えていきました。
いよいよ「青年学会 拡大の年」のスタートです。今回は「上野殿御消息」を拝して若き後継者に教えられた、仏法の「人間学」の真髄を学んでいきましょう。
| 01 三世の諸仏の世に出でさせ給いても皆皆四恩を報ぜよと説き.三皇・五帝・孔子・老子.顔回等の古の賢人は四徳 02 を修せよとなり、 -----― 三世の諸仏が世に御出現になって、皆々四恩を報ずるようにと説かれ、三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の昔の賢人は四徳を修めるようにと教えている。 |
「人の振る舞い」を教えられえる
時光は正元元年(1295)、駿河国富士郡上野郷の地頭・南条兵衛七郎の次男として生まれました。
幼いころに父母が日蓮大聖人に帰依したので、今の未来部にあたる年代に、大聖人と縁を結んだことになります。
父の兵衛七郎は、病と闘うなかで大聖人の激励を頂き、文永2年(1265)3月最後は妙法の信心を貫き、臨終正念の信心の姿で生涯を終えました。この時、時光は7歳でした。
そして大聖人は、兵衛七郎の死を悼んで、上野郷へ墓参されています。ここで時光をはじめ、遺された家族を暖かく激励されたことは想像に難くありません。
その後、文永11年(1274)大聖人が佐渡から御帰還され、身延に入られたことを知って、早速、南条家は御供養を身延へお届けしました。
この時、時光は16歳、このころに、兄である長男の七郎太郎が不慮の事故で亡くなったとも伝えられており、時光は一家の柱として、また、上野殿の要として重責を担っていかなければならないことになりました。
今回、学ぶ「上野殿御消息」は、大聖人が成長した時光と再会された翌年の建治元年(1275)の御述作とされています。
本抄では、仏法の観点から「四恩」を、儒教の教えの観点から「四徳」を挙げられ、まだ若く人生経験を積んでいない時光に、一家の柱として、社会の指導者として、さらに妙法流布の後継者として、磨いていくべき人間的資質について述べられています。
「四恩」にせよ、「四徳」にせよ、大聖人が本抄で一貫して教えられているのは、「人の振る舞い」の重要性です。周囲の人々を敬い、また報恩の生き方を貫いていく、この仏法の真髄の教えを、現実の人生の生き方として、わかりやすく教えられています。最高に価値ある日々を過ごし、人生に勝利していくための指針が簡潔に示されているのです。
いわば、仏法とは、万人尊敬と自他共の幸福のために生き抜く青年を創る教えなのです。
| 02 四徳とは・一には父母に孝あるべし・二には主に忠あるべし・三には友に合うて礼あるべし・四に 1527 01 は劣れるに逢うて慈悲あれとなり、 一に父母に孝あれとは・たとひ親はものに覚えずとも・ 悪さまなる事を云う 02 とも・聊かも腹も立てず誤る顔を見せず・ 親の云う事に一分も違へず・親によき物を与へんと思いてせめてする事 03 なくば一日に二三度えみて向へとなり、 二に主に合うて忠あるべしとは・ いささかも主にうしろめたなき心ある 04 べからず、 たとひ我が身は失しなはるとも主にはかまへてよかれと思うべし、 かくれての信あれば・あらはれて 05 の徳あるなりと云云、 -----― 四徳とは一には父母に孝行であれ、二には主に忠義であれ、三には友に合っては礼義を尽くすこと、四には劣る者に会ったならば慈悲深くあれということである。 一に父母に孝あれということは、たとえ親がものの道理をわきまえていなくても、また悪意をもって言うようなことがあっても、少しも腹を立てたり気分を悪くした顔を見せてはいけない。親のいうことに一分も逆らうことなく、親によいものを与えようと思うことであり、せめて何もできないときには、日に二・三度は笑顔を見せて親に向かうようにせよ、ということである。 二に主君に会って忠義であれというのは、主君に対して少しも後めたい心があってはならない。たとえ我が身を失うようなことがあっても、主君のためになればよいようにと心がけなければならない。今は知られなくとも誠意があれば、いつか外にあらわれての徳があるといわれているとおりである。 |
無慈悲な自分を乗り越えよ
初めに「四徳」として「孝」「忠」「礼」「慈悲」を挙げられ、賢人のあるべき振る舞いについて、細やかにアドバイスされています。このうち「孝」「忠」「礼」は、儒教などの教えに身受けられますが、四つめの「慈悲」は、仏法を踏まえた表現です。
ここでいう四徳とは、言い古された形どうりの儒教ではなく、膨大な東洋の思想・哲学体系の中から実践の核心となり、また、時光にとって有益なものを、大聖人が独自に抽出して示されたのではないかと考えられます。さらに言えば「孝」「忠」「礼」も単なる道徳ではなく、仏法者の振る舞いを示すものとして教えられていると拝されます。
まず第1に「父母に考あれ」。これは、最も身近な父母への孝養です。
口うるさい親も、また、古い考えに固執して若い世代に理解の乏しい親も、その根底には子の幸せのためならば、自らを犠牲にして顧みない切実な思いがあるのです。
また、それを子どものほうから一歩進んで、汲みとろうとするとき、親の苦労を理解できる豊かな人格が、飛躍的に深まり始めるのも事実でしょう。
いずれにしても、親から子へ、心の奥深くに刻まれる傾向性は善悪とともに「連鎖」します。そこに大事なのは、“マイナスの連鎖”を、人間の善性を無限に引き出す“プラスの連鎖”へと転換することです。その変革をも実現できる底力が、誰人の生命にも備わっていると、仏教は教えています。
戸田先生は訴えました。
「青年は、親をも愛さぬようなものが多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」
無慈悲な自分を乗り越えるか否か。宿命転換の主導権は自分自身にある。青年よ、人間革命の戦いに立ち上がれ!と、戸田先生は叫ばれたのです。
私も全く同じ思いで青年を励ましています。親孝行は、万人に開かれゆく仏法の慈悲の行動の第一歩です。
本抄で大聖人は時光に対して、万人の幸福を開く仏の生命を顕現しゆく「人間革命」の一歩として「親孝行をしていきなさい」「何はなくとも、日に何度か、親に微笑みかけてごらんなさい」とおっしゃったのではないでしょうか。
フランスの作家サン=テグジュぺリは綴りました。
「大事なのは、重々しいことじゃない。微笑むだけでいい。人は微笑みで報われる。人の微笑みで生かされる。命を捨ててもいい、と思うほどの微笑みさえあるのだ」
親の心の奥を照らすように微笑みかける。そこから革命を起こすのです。自身を、一家を、さらには地域を、境涯革命の軌道に乗せるスイッチが真心の“微笑み”なのです。
「誠実」と「信用」が青年の財産
第2に「主君に忠あれ」とあります。これは、地域・社会において「信頼」で勝っていく心構えを教えられていると拝されます。
仕えている主に対し、「後ろめたい」不誠実があってはならない。認めようと認めまいと、誠実に「陰徳」を積めば、やがて必ず「陽報」が輝いていくのです。
青年にとって、勤めている会社のために苦労しているのに、評価もされず、報われないと思うこともあるかもしれない。しかし、信心根本に、研究と努力を重ねて力をつけえいけば、必ず業績もあげていける。信用も増していきます。信心を根幹として誠実に前進していけば、福運がつき「心の財」が積まれます。「身の財」も輝いていく。「誠実」と「信用」こそ、青年の財産です。
日蓮大聖人は「観心本尊抄」に「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(0254-14)と仰せです。
「信心即生活」であり「仏法即社会」です。今いる場所で、どうすれば勝利できるのか。ありありと如実知見できる智慧の太陽を昇らせるのが、信心です。
| 05 三には友にあふて礼あれとは友達の一日に十度・二十度来れる人なりとも千里・二千里・来 06 れる人の如く思ふて礼儀いささか・ をろかに思うべからず、 四に劣れる者に慈悲あれとは我より劣りたらん人を 07 ば・我が子の如く思いて一切あはれみ慈悲あるべし、 此れを四徳と云うなり、 是くの如く振舞うを賢人とも聖人 08 とも云うべし、 此の四の事あれば余の事にはよからねどもよき者なり、 是くの如く四の得を振舞ふ人は外典三千 09 巻をよまねども読みたる人となれり。 -----― 三には友にあったら礼儀正しくあれということは、友達で一日に十度・二十度訪ねてくるひとであっても、千里・二千里も離れている遠方から訪ねてきた人のように思って、少しも礼儀を欠くようなことがあってはならない。 四に劣れる者に慈悲深くあれというのは、自分より弱い人には我が子のように思って、すべてをいとおしみいつくしむべきである、ということである。これを四徳というのである。 このように振る舞う人を賢人とも聖人ともいう。この四徳があれば、他の事はよくなくても良き人なのである。このように四徳を修め行う人は、外典三千巻を読まなくても読んだ人となるのである。 |
「万人を尊敬する心」が法華の精神
第3に「友に会って礼あれ」。
友だちが、一日に十度二十度と来るような人であったとしても、千里二千里の遠くから来た人と思って、礼儀を少しもおろそかにしないで接しなさいということです。
それは、座談会をはじめ、学会の会合の精神にも通じるでしょう。例えば、何かの都合で、遅れて駆けつけた人をも、「大変な中、よくいらっしゃいました。どうぞ!」と抱き抱えるように迎えていく。そういう温かい安心の世界が、学会の集いです。
礼義といっても形式ではない。大事なのは誠実です。尊敬の心です。その「心」に、「表情」に、「振舞」が表れます。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174-14)と仰せの通り、仏法の目的は「人の振る舞い」を説くことにあると言っても過言ではありません。
「人の振る舞い」とは、不軽菩薩が万人を礼拝したように「人を敬う行動」に尽きます。
また大聖人は、法華経に「当起遠迎当如敬仏」とあることについて、これこそが「最上第一の相伝」、法華経の中で一番大事なことだと教えてくださっていると拝せられます。
まさに「友に礼あれ」の重要性を教えられていると拝せられます。
友の幸福を願う慈愛を
第4に「劣った者に慈悲をもて」。
自分より弱い立場の人には我が子のように思って、すべてをいとおしみ、慈悲を注ぐべきであるということです。
「劣った人」とは、人間に優劣をつける意味ではなく、社会的な立場や年齢・経験の差などがあり、自分のほうがリードしてあげるべき人ということでしょう。
「慈恩」の「慈」とはサンスクリットでマイトリーといい、「有情」を意味します。「悲」はカルナーといい「あわれみ」「同情」を表します。
涅槃経に、大智度論などには、慈悲には「抜苦与楽」の意義があると説かれています。
ですから、慈悲とは「真の有情」であり、「友の幸福を願う心」ともいえるでしょう。
「人生から有情を取り去るのは、この世界から太陽を取り去るようなもの」と謳ったのは、古代ローマの哲人キケロです。キケロは“自分ではなれないような友人を欲しがるのではなく、まず自分が善い人間になることだ”とも論じました。
「有情」とは、そして「慈悲あれ」とは、自分から「善き友」となることなのです。
戸田先生は「慈悲ほど強いものは世にない」と語られました。また「慈悲は勇気が表となる」とも常々教えてくださった。
友の幸福を願って、自分から語らきかける。いうべきことを言い切っていく。誰が見ていなくても、その人のために心を砕き、祈りぬいていく。まさに折伏・弘教は、最高の「勇気」と「慈悲」の実践なのです。
本抄では、このように「四徳」を身につけて振る舞う人を「賢人とも聖人ともいう」と述べられています。今でいえば、社会人として不安と希望を抱えた初々しい南条時光に、人生の機微、指導者の在り方を教えられ、人間的な成長を期待されたのです。
| 10 一に仏教の四恩とは一には父母の恩を報ぜよ・二には国主の恩を報ぜよ・三には一切衆生の恩を報ぜよ・四には 11 三宝の恩を報ぜよ、一に父母の恩を報ぜよとは父母の赤白二渧・ 和合して我が身となる、母の胎内に宿る事・二百 12 七十日・九月の間・三十七度死るほどの苦みあり、 生落す時たへがたしと思ひ念ずる息・頂より出づる煙り梵天に 13 至る、 さて生落されて乳をのむ事一百八十余石・ 三年が間は父母の膝に遊び人となりて仏教を信ずれば先づ此の 14 父と母との恩を報ずべし、 父の恩の高き事・須弥山猶ひきし・母の恩の深き事大海還つて浅し、相構えて父母の恩 15 を報ずべし、 二に国主の恩を報ぜよとは・生れて已来・衣食のたぐひより初めて・皆是れ国主の恩を得てある者な 16 れば現世安穏・後生善処と祈り奉るべし、 三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり・女は母 17 なり・然る間・生生世世に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり、 -----― 次に仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ・二には国主の恩を報ぜよ・三には一切衆生の恩を報ぜよ・四には三宝の恩を報ぜよ、ということである。 一に父母の恩を報ぜよというのは、父母の赤白二渧が和合して我が身となり、母の胎内に宿ること二百七十日、母は九ヵ月の間、三十七回、死ぬほどの苦しみがある。生み落とす時の苦痛はとても耐え難いと思うほどで、息は荒く、頭から出る湯気は、梵天にまでとどくほどである。そして生み落とされて飲む乳は一百八十余石・三年が間は父母の膝下に遊ぶのである。成人して仏教を信ずるようになれば、まずこの父と母との恩を報ずべきである。父の恩の高きことは須弥山さえもなお低いほどであり、母の恩の深いことは大海もかえって浅いほどである。心して父母の恩を報ずべきである。 二に国主の恩を報ぜよとは、生れてから以来、衣食の類をはじめとしてすべて国主の恩を受けているのであるから、国主に対して、現世安穏・後生善処と祈念し奉るべきである。 三に一切衆生の恩を報ぜよとは、三世の生命から見れば、すべての男は過去世には父であり、すべての女は母である。こうして、生生世世にみな恩ある衆生であるから、一切衆生が成仏するようにと願うべきである。 |
わが人間革命の挑戦こそ「報恩の道」
仏法の観点から「四恩を報ぜよ」と述べられているところです。
「恩を報ずる」とは、自分が今あるのは誰のお陰であるかを知り、仏道修行に生きることによって、その恩を報ずることです。
言い換えれば、“支えられている自分”が“支えていくべき自分”へと境涯を拡大することであり、また、それができる力を、自分自身の内から引き出すことといえるでしょう。
サンスクリットには「クリタ・ジュニヤー」という言葉があります。これは「なされたことを知る」という意味です。恩を知り、感謝することは、今度は、人々のために尽くしていく生き方に直結します。これが報恩の原義です。
だれのどのような行いによって今の自分があるのか。そのことを深く知り感謝することで、自己を最も肯定し、自分自身の存在の基盤を確立することは、自分自身の大いなる発展の土台となるのです。
報恩とは、自身の可能性を最大に開いていく「人間革命」の挑戦です。そうした報恩の対象を、大聖人は四つ挙げられています。
第1に「父母の報恩」です。自分が人間として生を受け、育てられた恩が、いかに大きいか。父の恩は須弥山よりも高く、母の恩は大海よりも深いと大聖人は仰せです。この大恩に何としても報いねばならない。そのために、まず自分自身が仏法を信ずるのであると仰せなのです。父母の最大の願いは、子の成長と幸福です。子である自身が仏法を信じて幸福の軌道に入ることが、最高の親孝行であり、最大の報恩なのです。
第2に「国主への報恩」これは衣食など生活の営みを支えられていることへの報恩です。主権在民の現代においては、社会それ自体の報恩ともいえるでしょう。
大聖人は、法華経に説かれた「現世安穏・後生善処」の経文を挙げあれ、仏法によって、そうした社会のすべての人々の幸福を祈っていくべきであると教えられています。
そして第3に「一切衆生の報恩」です。
生命は三世永遠であり、私たちは無数に生死を繰り返して、いま、ここに生まれてきました。そうであるなら、過去世において、たとえば男は父であり、女は母であったことでしょう。仏法の眼で見れば皆、縁があり、恩ある存在なのです。
ゆえに大聖人は、だからこそ全ての人が幸せになってもらいたい。最高の幸福とは、仏の境涯を開くことだ、最高の恩返しは、成仏の大法である仏法を教えることであると示されているのです。
戸田先生は語られました。
「本当の偉さとは、たとえ人にしてあげたことは忘れても、してもらったことは、一生涯忘れないで、その恩を返していこうとすることだ。そこに仏法の光がある。また人格の輝きがあり、人間の深さ、大きさ、味わいがある」と。
これは、私の60年の信仰の結論でもあります。報恩に徹し抜いた人、忘恩に堕ちた人、これこそ多くの人生を私は見つめてきました。正しく恩を報ずる人は、皆、大勢の人から慕われ、また、信頼されていた所願成就の大満足の人生を送っていきます。御聖訓に照らして、報恩を貫き通したその生命の輝きこそが、三世に崩れざる福徳となっていくに違いありません。
| 17 四に三宝の恩を報ぜとは・最初成道の 18 華厳経を尋ぬれば経も大乗・仏も報身如来にて坐ます間・二乗等は昼の梟・ 夜の鷹の如くして・かれを聞くといへ 1528 01 ども・耳しゐ・目しゐの如し、然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、次に 02 仏・阿含・小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は 03 十戒・法師は二百五十戒・ 尼は五百戒を持ちて三千の威儀を具すべしと説きたれば・末代の我等かなふべしとも・ 04 おぼえねば母の恩報じがたし、 況や此の経にもきらはれたり、方等・般若・四十余年の経経に皆女人をきらはれた 05 り、但天女成仏経・観経等にすこし女人の得道の経文有りといへども・但名のみ有つて実なきなり、 其の上未顕真 06 実の経なれば如何が有りけん、 四十余年の経経に皆女人を嫌われたり、 又最後に説き給いたる涅槃経にも女人を 07 嫌はれたり、 何れか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の竜女・成仏し・仏の 08 姨母キョウ曇弥・耶輸陀羅比丘尼記ベツにあづかりぬ、されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ・畜生にもあらず 09 蛇身にもあらず・八歳の竜女だにも仏になる、 如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき、されば法華経を 10 持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり。 -----― 四に三宝の恩を報ぜとは、成道の後、最初に説かれた華厳経について尋ねてみれば、御経も大乗、仏も報身如来であられたので、二乗等は昼の梟・夜の鷹のように、華厳の法門を聴聞しても、耳の不自由な者や目の不自由な者同然であった。しかも四恩を報ずることができるかと思うと、女人は成仏できないと嫌われているのであるから、母の恩を報ずることは難しい。 次に釈尊は十二年の間阿含・小乗経を説かれた。これこそ小乗の教えであるが、我々の機根にかなっているかと思えば、男は五戒・女は十戒、法師は二百五十戒・尼は五百戒を持って三千の威儀を身に具えなければならないと説かれているので、末代の我等にはかなうこととも思われないので、母の恩を報ずることは難しい。まして女人の成仏はこの経にも嫌われている。さらに方等・般若など四十余年の経々でも皆、女人は嫌われている。ただ天女成仏経・観経等にすこしばかり女人の得道の経文があるとはいえ、ただ名のみあって実体がない。そのうえ、これらは未顕真実の経であるから、何の力もないのである。四十余年の経々には皆女人を嫌われており、最後に説かれた涅槃経でも女人は嫌われている。いずれの経に四恩を報ずる経があるかと尋ねてみると、法華経こそ女人成仏が説かれた経である。八歳の竜女は成仏し、釈尊の姨母キョウ曇弥や耶輸陀羅比丘尼も成仏の記別をうけているのである。したがって、我等が母はただ女人の身であれ、畜生でもなく蛇身でもない。八歳の竜女ですら成仏するのであるから、どうしてこの法華経の力で我が母が成仏できないことがあろうか。それゆえに法華経を持つ人こそ、父と母との恩を報じているのである。我が心には恩を報じようとは思わなくても、この経の力によって報じているのである。 |
法華経だけが「母の恩」に報ずる教典
第4に、人間として最高の生き方を確立するには、「三宝の報恩」が最も大切であると教えられている。
三宝とは、仏宝・法宝・僧宝という。信仰の柱です。本抄では、この「三宝の恩」の前堤として、一切衆生にとって真に大恩ある経典とは何かと示されています。
すなわち、天台大師が釈尊の一代聖教を分類し、各経典の勝劣を判定した「五時」の教判を用い、そこに、「父母、とくに母への報恩」の基盤となる。「女人成仏」は可能か。という“ものさし”を当てて論じられています。「五時」の教判は、単なる史実の次元ではなく、釈尊が何をどう伝えたかったかという真意に迫り、洞察した結晶です。今後、仏法を学び深めてく時光のために、その根幹となる考え方を、分かりやすく焦点を絞って、おしえられていると拝されます。
そして、真に四恩を報ずることのできる経典は何か。華厳経をはじめ経典それぞれについて、女人成仏を基準としていくと、唯一、法華経にしかないことが示されています。
幼くして父が亡くなり、懸命に一家を支えてきた時光の母、その姿を胸に焼き付けてきた時光にとって、母への報恩・母への幸福こそ最大の願いであったでしょう。そうすることが同時に、妙法を教えてくれた父への法恩になると思っていたにちがいありません。
本抄で大聖人は、そうした若き時光の最大の関心事を真正面に据えながら、仏法の偉大さ、賢人の生き方を教え、時光の“心の眼”を大きくひらいてくださった。
「父母に考あれ」という外典の教えから出発し、賢人の生き方を探求した「四徳」の考察も、法華経という最高峰の教えから見つめ直すと、すべて、日常生活に表れる仏の振る舞いになっていく。母親の笑顔で安心させることも、職場で信頼を得ることも、友を尊敬することも、後輩を慈しむことも。
「妙法」は、大恩ある両親はもちろん、兄弟姉妹や友人たち、自分に連なる全ての人を、三世永遠にわたる幸福へと導く大法です。
たとえ、両親や友人が、今はこの信仰に理解がなくても、妙法の功力は絶大です。まず、一人、自分で信心に励めば、太陽は昇って燦々と大地を照らすように、周囲の人々をも必ず救っていくことができる。何も心配することはあえりません。焦る必要もないのです。
また、お子さんのいないご家庭もあるでしょう。学会の未来部員が、私たちの子供であり、広宣流布の後継者です。私たちの真心からの応援が後継の同志の力となり、心の宝と輝いていくことを晴れ晴れと大確信していただきたい。
| 11 然る間.釈迦・多宝等の十方.無量の仏・上行地涌等の菩薩も.普賢・文殊等の迹化の大士も.舎利弗等の諸大声聞 12 も・大梵天王.日月等の明主諸天も・八部王も.十羅刹女等も・日本国中の大小の諸神も・総じて此の法華経を強く信 13 じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり、 相構て相構て心を翻へさず・ 14 一筋に信じ給ふならば・現世安穏・後生善処なるべし、 -----― それゆえに釈迦・多宝等の十方、無量の仏・上行地涌等の菩薩、普賢・文殊等の迹化の大士、舎利弗等の諸大声聞も、また大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、すべてこの法華経を強盛んに信じて、余念なく一筋に信仰する人を、ちょうど影の身にそうように守護されるのである。しっかりと心をひるがえさずに一筋に信じるならば、現世安穏・後生善処はな間違いない。 |
一筋に信心を貫く中に真の安穏
本抄の結論の段です。
法華経を強盛に信じ、余年なく一筋に信仰を貫くなら、無量の仏・菩薩、諸天善神が厳然と守護すること、現世安穏・後生善処は間違いないと述べられています。
相構えて心を翻へさず・一筋に」とも仰せです。若き日の純真な決意を、何があろうと、どこまでも燃やし続けるように、訴えられているのである。
「余念なく一筋に」の姿勢が、信仰の根幹です。南条時光は、常に大聖人の仰せ通りに戦い、さまざまな苦境を乗り越えていきます。熱原の法難の際には、周囲からの非難など執拗な迫害を受け、重税を課せられるなか生活していました。弟の死、自分の大病もありました。それらを信心一筋に乗り越え、大願に生き抜いた生涯を送ります。
「どこまでいっても信心だ」
「要は、信心根本の『人間』をつくることだ」とは、戸田先生が常々語っていたことです。どこまでも青年を励まし、育てていく。偉大な信仰者、そして偉大な社会人をつくる。ありがたいことに、大聖人自身が、その範を私たちに教えてくださっています。
いうまでもなく、創価青年学会とは、青年の成長だけが眼目ではありません。青年を育てることは、希望の未来を創ることです。自身を若返らせ、組織・地域をも瑞々しい清新な息吹で満たすことになります。
学会の中に、常に青年を守り育くみ、社会に人材を送り出す伝統がさらに築かれていけば、学会自体が若々しくなり、よりいっそう活力が増進します。
大聖人が南条時光に、万人尊敬の法華経の人間学を教えられたように、青年時代に創価の人間主義の哲学の潮流が広がれば、社会の宿命が大きく転換します。
一人の青年の「人間革命」が家庭を変え、社会を変え、人類の宿命を変えていくのです。
時光の如き後継者を育成する尊き聖行を、今こそ皆さんにお願いしたい。
日本と世界の各地で、21世紀の広宣流布を担う青年が陸続と誕生しています。まさに新しい時代の到来です。
青年よ21世紀の新たな広宣流布の山を登れ!この一年も、断固として勝利しようではありませんか。
1529~1530 南条殿御返事(現世果報御書)top
1529:01~1529:09 第一章 法華経の真実なるを宣べるtop
| 01 はるのはじめの御つかひ自他申しこめまいらせ候、さては給はるところのすずの物の事、もちゐ・七十まい・さ 02 けひとつつ・いもいちだ・河のりひとかみぶくろ・だいこんふたつ・やまのいも七ほん等なり、ねんごろの御心ざし 03 は・しなじなのものに・あらはれ候いぬ。 -----― 新春早々の御使いお互いにお目出たい。さて、御供養たまわった種々の物のこと、餅七十枚、酒一筒、芋一駄、河のり一紙袋、大根二把、やまのいも七本などである。真心のこもったお志はこれらの品々にあらわれている。 -----― 04 法華経の第八の巻に云く 「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「当に現世に於て現の果報を 05 得べし」等云云、天台大師云く「天子の一言虚しからず」又云く 「法王虚しからず」等云云、賢王となりぬれば・ 06 たとひ身をほろぼせどもそら事せず、 いわうや釈迦如来は普明王とおはせし時は はんぞく王のたてへ入らせ給い 07 き・不妄語戒を持たせ給いしゆへなり、 かり王とおはせし時は実語少人大妄語入地獄とこそ・おほせありしか、い 08 わうや法華経と申すは仏・我と要当説真実となのらせ給いし上・多宝仏・十方の諸仏あつまらせ給いて日月・衆星の 09 ならばせ給うがごとくに候いしざせきなり、 法華経にそら事あるならば・なに事をか人信ずべき、 -----― 法華経の第八巻普賢品に「願いは必ず叶い、また現世においてその果報を得るであろう」と、また同じく普賢品に「まさに現世において現実の果報を得ることができる」等と説かれている。天台大師は法華文句の中で「天子の一言には虚妄はない」と、また「仏に虚言はない」等と仰せになっている。賢王となった人はたとえ身を滅ぼすようなことがあっても虚言はしない。ましてや釈迦如来は普明王としておられた時、班足王との約束を守り、王の館に帰られた。不妄語戒を持っておられたゆえである。迦梨王と出会われたときは実語の少ない人と大妄語の人は地獄に堕ちる、と仰せられている。まして法華経は仏自ら「要ず当に真実を説く」と述べられたうえ、日月、衆星が並ぶように多宝仏、十方の諸仏が参集された座席で説かれたのである。法華経に虚言があるならば人は何を信じられようか。 |
申しこめ
①意思や願いなどを申し上げる。②相手に意思を伝える。
―――
もちゐ
お餅のこと。
―――
河のり
緑藻類の淡水藻。葉状体は扁平で薄く、食用とされる。山間の渓流中の岩に着生する。富士川やその支流で採取されている。
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天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
―――
普明王
梵語シュルタソーマ(Śrutasoma)の音写。須陀須摩王、須陀摩王ともいい、普明王は意訳。釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜の修行をしていた時の名。須陀須摩王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修したという。あるとき、斑足王に捕らえられ、他の999の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の婆羅門への供養をする約束を果たすために7七日間の猶予を乞うた。そこで斑足王は、帰国を許した。須陀須摩王は、彼の婆羅門に供養をし、王位を太子に譲って約束どおり王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、須陀須摩王だけでなく他の999人の王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある。
—――
はんぞく王
梵語カルマーシャパーダ(Kalmāṣapāda)の意訳。鹿足ともいう。足に斑点があり、そこから斑足王と名づけられた。邪師の教えにより千人の王の首を得ようとして999王を捕らえた。その1000人目として捕らえられたのが普明王であった。
—――
不妄語戒
偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。五戒・十重禁戒のひとつ。
―――
かり王
梵語カリ(Kali)の音写。迦利・歌梨とも書き、闘諍、悪生、悪生無道と訳す。釈尊が過去世に羼提波羅蜜の修行を行じていたときに、この王によって手、足、耳、鼻を切られた。しかし、少しも動じない仏の姿に恐れをなし、大いに悔いて仏門に入ったといわれる。
―――
実語少人大妄語入地獄
「実語少なき人と大妄語、地獄に入る」の意。出典未詳。
―――
要当説真実
方便品に「世尊の法は久しうして後に、要らず当に真実を説くべし」とある。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
衆星
多くの星。
―――――――――
本抄は建治2年(1276)正月19日、聖寿55歳の御時、身延で書かれ、南条七郎次郎時光に与えられた御手紙である。
これより先、時光から日蓮大聖人に対して初春の祝賀を申し上げるとともに、真心の品々が御供養された。
その供養に対し懇切なる謝辞を述べられるとともに、その真心の供養の功徳によって時光自身が現世に大果報を得られるばかりか、亡き父への追善となると述べられ、讃えられている。御真筆は現存していない。
本抄はその内容から、別名を「現世果報御書」と称される。また「春始書」「初春書」ともいわれる。
まず初春のお祝い並びに御供養に対して、感謝の言葉を述べられたあと、経釈を引いて、法華経には絶対に虚妄はないことを強調されている。
引用されている「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」「当に現世に於て現の果報を得べし」の文は、いずれも法華経第八の卷・勧発品第二十八の文であり、法華経受持と供養の功徳の絶大なることを説いた文である。
爾前経を依経とする宗派では「現世利益は宗教本来の目的からはずれる」と考える人々がいる。だが、この文をみてわかるように、釈尊自身、正しい仏法の実践には現世利益も厳然とあることを明確に示しているのである。むしろ現世利益を否定したら、〝衆生救済〟という仏法本来の目的に反することになる。
しかも、この法華経の文が嘘になることは絶対にありえないことを天台大師の「天子の一言虚しからず」また「法王虚しからず」の文を挙げて示されている。
法王とは仏のことである。譬喩品第三には「我れは為れ法王にして 法に於いて自在なり」とあり、また薬王品第二十三には「仏は為れ諸法の王なるが如く」等とある。
一般に〝賢王〟の発言には偽りがないとされるように、諸法の王たる仏の言には、いささかも虚妄はないとの意である。
「現世に於て其の福報を得ん」「現世に於て現の果報を得べし」との釈尊の法華経における約束は、必ず真実となるとの仰せである。
仏の言葉に偽りがないことの例証として、釈尊の過去である「普明王」の振る舞いと「かり王」と会った際の言葉を挙げられている。ここでは普明王の物語のみ略述しておきたい。
釈尊が過去世に菩薩の修行中、普明王といっていた時があった。
ある日、園林へ遊行のため城門を出ようとしたとき、一人の婆羅門から布施を請われた。
王は快諾し「私が帰るまで待っているように」といって、出かけていった。その遊行のさなか、班足王が現れ、王を捕らえて連れ去ったのである。
班足王は、ある邪師の言を入れて1000王の首を得ようとし、すでに999人の王を捕らえていた。ちょうど千人目が普明王だった。
普明王は嘆息した。「私は死ぬのが怖くて嘆くのではない。ただウソをつくことが残念なのだ。私は城を出るとき、一婆羅門と会い、布施することを約束してきたのだ」と、その心情を吐露した。
班足王は、普明王に一週間の余裕を与えた。王は城に帰ると、その婆羅門だけではなく、国中の婆羅門を集めて供養した。
そのあと王は、位を太子に譲り、周囲が諌めて止めようとするのを振り切って、「自分はウソをつかない。約束を果たす」と、ふたたび班足王の館へおもむいていった。
班足王は大いに歓喜し、「あなたは実語の人だ。本当の大人である」と讃歎した。そして、その邪見を改め、他の999人の王を許すとともに、自らも正法に帰依したといわれる。
これは普明王が不妄語戒を持っていたゆえであった。じつにこの「約束を守る」「信頼を裏切らない」ということが、王者の要件、また人間の条件であり、普明王はそのゆえにこそ命を賭けたのである。
まして法華経は、釈尊が自ら「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説きたまうべし」と、爾前の諸経で明かさなかった真実を明かした最勝の経である。
しかも、その会座に来至した多宝如来は「釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と述べ、十方の諸仏は広長舌相をもって、法華経が真実であることを証明しているのである。
大聖人は、もし法華経に偽りがあるとしたならば、人は何を真実として信じたらよいのであろうか、と述べられ、次の段で、このような法華経および法華経の行者に供養する功徳がいかに広大であるか、また、そのことを説かれている法華経が南条時光に限ってウソになるわけはないと、信を勧められるのである。
1529:09~1530:05 第二章 法華経の行者供養の功徳を示すtop
| 09 かかる御経に 10 一華・一香をも供養する人は過去に十万億の仏を供養する人なり、又釈迦如来の末法に世のみだれたらん時・王臣・ 11 万民・心を一にして一人の法華経の行者をあだまん時・ 此の行者かんぱちの小水に魚のすみ・万人にかこまれたる 12 鹿のごとくならん時、一人ありて・ とぶらはん人は生身の教主釈尊を一劫が間・三業相応して供養しまいらせたら 13 んよりなを功徳すぐるべきよし・如来の金言・分明なり、日は赫赫たり月は明明たり・法華経の文字はかくかく・め 14 いめいたり・めいめい・かくかくたり、あきらかなる鏡にかををうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし。 -----― このような法華経に一華一香でも供養する人は、過去世に十万億の仏を供養した人であると述べられ、また釈迦如来の末法で、世の乱れている時に、王臣や万民が心を一つにして一人の法華経の行者に迫害を加えているとき、この行者が、早ばつのわずかばかりの水にすむ魚のように、また大勢の人間に囲まれた鹿のようになっているとき、一人この行者を助けに訪ねてくる人は、生身の教主釈尊を一劫の間、身・口・意の三業相応して供養し奉るよりも、なお功徳が勝れていると説かれている。如来の金言は分明である。日が赫々と照り、月が明々と輝くように、法華経の御文も赫々明々、明々赫々と照り輝いている。明鏡に顔を映し、澄める水に月の影を浮かべているようなものである。 -----― 15 しかるに亦於現世得其福報の勅宣.当於現世得現果報の鳳詔・南条の七郎次郎殿にかぎりて.むなしかるべしや、 1530 01 日は西よりいづる世・月は地よりなる時なりとも・仏の言むなしからじとこそ定めさせ給いしか、 これをもつて・ 02 おもうに 慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給い・ だんなは又現世に大果報をまねかん事疑あるべから 03 ず、かうじんかうじん。 04 建治二年正月十九日 日 蓮 花 押 05 南条殿御返 -----― それであるから「現世にその福報を得る」という如来の勅宣や、「必ず現世に現実の果報を得る」という経文が、南条七郎次郎殿に限って空しいはずがあろうか。日が西より昇るような世の中になり、月が大地から出るような時であっても、仏の御言葉に虚言はないと定められている。これをもって推し量れば、亡くなられた慈父の聖霊は教主釈尊の御前にお出になり、檀那(南条殿)はまた、現世に大果報を招くことは疑いない。幸甚幸甚。 建治二年正月十九日 日 蓮 花 押 南条殿御返事 |
一華・一香
わずかばかりの華やお香。
―――
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
生身の教主釈尊
「生身」は肉身の意味で、生きている釈尊のことをいう。
―――
一劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
三業相応
身口意の三業が相応して欠けないこと。心に思い、言葉で述べ、身で行うことが一致していること。
―――
如来の金言
仏の説法。真実の言葉。
―――
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
―――
鳳詔
みことのり。詔勅のこと。鳳は鳥の王とされ、そこから国王、天子、仏の言葉をさして用いられた。
―――
だんな
「檀那」と書く。布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
大果報
大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。
―――――――――
法華経に供養する人は過去世に十万億の仏を供養した善業の人であること、さらに重ねて末法の法華経の行者を供養する果報がいかに広大であるかが法華経に説かれていることを示され、南条時光父子の現当二世にわたる功徳を称歎されて、結ばれている。
「過去に十万億の仏を供養する人」とは、法華経法師品第十の「已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず」の文による。末法において日蓮大聖人門下として御本尊を信受し、一華・一香をも供養することができるのは、計り知れない大果報をもった身であることを確信すべきであろう。
続いて、末法五濁乱漫の世に、あらゆる人々が法華経の行者を憎み迫害している時に、一人立ち上がって法華経の行者を供養し守る功徳が、釈尊を供養する功徳よりはるかに大きいことが述べられている。
この「法華経の行者」とは、いうまでもなく御本仏日蓮大聖人の御事である。
当時、身延山中における御生活の様子は、「かんぱちの小水に魚のすみ・万人にかこまれたる鹿のごとくならん」と述べられるように、まことに逼迫したものであり、その大聖人を訪ねて供養する功徳は、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養することより、なお勝るとの仰せである。
同趣旨の御文は、弘安4年(1281)9月御述作の「南条殿御返事」でも「釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候」(1578-05)と述べられている。
このように供養の功徳に違いがあるのは、まず第一に、末法の法華経の行者・日蓮大聖人が「教主釈尊より大事なる行者」(0363-01)、であり、釈尊よりはるかに偉大な久遠元初の自受用報身如来であられるゆえである。
また第二に、供養する側としても、周囲の迫害を覚悟してでなければできることではないから、より強い信心がその基盤にあるからである。
「如来の金言・分明なり」と仰せのように、これはほかならぬ釈尊自身の説示である。
この点については、法師品第十に「人有って仏道を求めて 一劫の中に於いて……持経者を歎美せば 其の福は復た彼れに過ぎん」とあるのがそれである。
法華経の文々句々が真実であるということはすでに明々赫々である。したがって「亦現世に於いて、其の福報を得ん」「当に現世に於いて、現の果報を得べし」との、仏の勅宣、鳳詔たる経文が、供養の志厚く、純真不屈の信心に徹する時光に限って空しかろうはずがないと、一層の確信を促されているのである。
「日は西よりいづる世・月は地よりなる時なりとも・仏の言むなしからじとこそ定めさせ給いしか」と重ねて強調されているように、絶対に妄語のないのが仏説である。
したがって、日蓮大聖人を敬い、献身的に供養の誠を尽くす時光の信心によって、亡き父は必ず成仏するであろうし、また、時光自身も現世において大福運に包まれることは間違いないと断言されて本抄を結ばれている。「かうじんかうじん」の御言葉に、時光の信心を讃えて莞爾とされる大聖人の慈顔が拝されるのである。
新春にあたって、この御手紙をいただいた時光の感激はいかばかりであったろうか。年頭から予想される苦難に対し、不屈の若い血潮を燃えたぎらせたであろうことは想像に難くない。
1530~1530 南条殿御返事top
| 01 いものかしら.河のり・又わさび・一一.人人の御志承り候いぬ、鳥のかいこをやしなひ・牛の子を牛のねぶるが 02 如し、夫れ衣は身をつつみ・食は命をつぐ 、されば法華経を山中にして読みまいらせ候人を・ねんごろに・やしな 03 はせ給ふは、釈迦仏をやしなひまいらせ・法華経の命をつぐにあらずや、 妙荘厳王は三聖を山中にやしなひて・沙 04 羅樹王仏となり、 檀王は阿私仙人を供養して釈迦仏とならせ給ふ、 されば必ずよみかかねども・よみかく人を供 05 養すれば仏になる事疑ひなかりけり、 経に云く 「是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」 南無妙法蓮華 06 経、南無妙法蓮華経。 07 建治二年三月十八日 日蓮花押 08 謹上 南条殿御返事 09 橘三郎殿・太郎大夫殿・一紙に云云恐れ入り候、返す返すははき殿読み聞かせまいらせ給へ。 -----― いものかしら・河のり・それにわさびなどをお送りくださり、人々の厚い御志、たしかに承りました。あなたがたの御供養は親鳥が卵をあたため、親牛が子牛をなめるようなものである。 さて衣服は身を包み、食物は命をつぐものである。それゆえ、法華経を山中で読み修行する人を手厚く供養されるのは、釈迦仏を供養申し上げ、法華経の命をつぐことと同じではなかろうか。妙荘厳王は三人の修行者を山中にやしなった功徳により沙羅樹王仏となり、須頭檀王は阿私仙人を供養して釈迦仏となられた。とすれば法華経を読み書くことをしなくても、読み書く人を供養するならば成仏することは疑いない。経に「是の人仏道に於て仏になることは決定して疑い無い」と説かれている。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 建治二年三月十八日 日蓮花押 謹上 南条殿御返事 橘三郎殿・太郎大夫殿にもこの一紙にて申し上げることは恐れ入るが、返す返す伯耆殿から、読んで聞かせてほしい。 |
いものかしら
里芋の親芋。
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河のり
緑藻類の淡水藻。葉状体は扁平で薄く、食用とされる。山間の渓流中の岩に着生する。富士川やその支流で採取されている。
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わさび
香辛料のワサビのこと。
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釈迦仏
釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
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妙荘厳王は三聖を山中にやしないて
妙荘厳王は、法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
―――
沙羅樹王仏
妙荘厳王が法華経を修行し、仏から受けた成仏の記莂。
―――
檀王
須頭檀王のこと。釈尊の過去世の因位の修行中の名。正法を求めるために王位を捨て、千歳の間、阿私仙人を師として、果を採り、水を汲み、薪を拾い、身を師の牀座とするなどして仕えた。法華経提婆達多品第十二に説かれる。
―――
阿私仙人
阿私は梵語。提婆品には釈尊が過去無数劫の昔、国王と生まれ、大衆のために王位を捨てて無上の法を求め、「誰か能く我が為に、大乗を説かん者なる。われ当に身を終わるまでに、供給し走供すべし」と誓った。その時阿私仙人がきて「我大乗をたもてり、妙法蓮華経と名づけたてまつる。もし我に適わずんば、当のために宣説すべし」といった。王はこの言葉を聞いて、歓喜して阿私仙人にしたがい、果を採り水を汲み、薪を拾い、身をもって牀座として、千歳の間一切を供養して、衆生のために妙法を求めて修行し。ついに成仏することができた。その時の王はすなわち釈尊であり、仙人は今の提婆達多である。この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから三逆罪をつくり、現身に地獄に堕ちたが、妙法の功力によって、天王如来の記別を受けたのである。
―――
橘三郎
不祥。大聖人御在世当時の信者と思われる。
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太郎大夫
不祥。大聖人御在世当時の信者と思われる。
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ははき殿
日興上人のこと。(1246~1333)。字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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本抄は建治2年(1278)3月18日、聖寿55歳の書である。南条時光が橘三郎・太郎大夫とともに、いもがしら・川海苔・わさびを御供養申し上げたのに対する返書である。御真筆は現存していない。
橘三郎・太郎大夫については詳しいことはわからないが、日興上人の弟子分本尊目録にその名がみられる。橘三郎については、次のようにある。
「遠江国前住甲斐国大井橘六の三男、橘三郎光房は、日興の舎弟なり。仍て申し与うる所件の如し」
ここにある橘三郎光房が本抄の橘三郎と同一人であれば日興上人の弟ということになるが、住んでいるのが甲斐国また遠江国ということであれば、現在の山梨、また浜松ということになり、いずれも駿河国富士の上野とは遠く離れており、一緒に御供養したり御手紙を拝するのは無理な感がする。別人か、あるいは一時、富士方面に身を寄せていたのであろうか。
太郎大夫については、次の記述がみられる。
「富士上野太郎大夫御家尼は、日興の弟子なり。仍て日興これを申し与う」
「富士下方市庭寺太郎大夫入道は、越後房の弟子なり。仍て日興これを申し与う」
上野の太郎大夫と市庭寺の太郎大夫とはたぶん別人であろうが、本抄の太郎大夫がこのいずれかであるのか、その別人であるのかも、確定する根拠はないが、いずれも富士の人であるから、おそらくどちらかが本抄の太郎大夫であろう。
なお、市庭寺の太郎大夫入道については、その子弥太郎、弟の又次郎とともに越後房日弁の弟子として、日興上人を通じて御本尊をお受けしていることが弟子分本尊目録に記されている。
本抄の最初に、この三人が大聖人に御供養したことへの礼が記されている。大聖人の御供養にはよく「いゑのいも」「やまのいも」「蹲鴟」「ところ」など芋類の御供養が記されている。主食として欠かせないものであるが、大聖人のおられた地では、あまりとれなかったようである。
「此の身のぶのさわは石なんどはおほく候・されども・かかるものなし」(1511-14)
「いものめづらしき事くらき夜のともしびにもすぎ・かはける時の水にもすぎて候ひき」(1535-07)
「当時のいもは人のいとまと申し珠のごとし・くすりのごとし」(1537-01)
これらの御文にもみられるごとく、身延の地は作物があまりとれない貧しい土地だったのであろう。そのゆえにこそ、時光が芋類を供養したことは、まことに尊いのである。
そのほか、海苔やわさび類を御供養したことに通じて「鳥のかいこをやしなひ・牛の子を牛のねぶるが如し」と仰せになっている。
大聖人が親であるといわれるのならまだしも、ここではむしろ時光等がかえって親であるかのように仰せになっていることを深く拝したい。すなわち、出家人を支える檀那の役割というものは、大変に重いことを教えられているのである。
「夫れ衣は身をつつみ・食は命をつぐ」と仰せであるが、衣食住は人間が支えるのに最も大切な条件である。その衣にしても食にしても、時光は間断なく御供養申しあげている。
大聖人こそ、他仏の仏である阿弥陀の信仰を打ち破って釈尊を尊ぶべきことを教え、権教の念仏等の信仰を破折して法華経を立てられた唯一人のお方である。ゆえに、その大聖人に御供養申し上げることは、釈迦仏や法華経の命をつないでいくことになるのである。
しかも御供養申し上げる相手は人法一箇の末法の御本仏たる日蓮大聖人であられる。ゆえに「釈迦仏をやしなひまいらせ・法華経の命をつぐにあらずや」と仰せである。
次いで大聖人は、妙荘厳王と須頭檀王の故事を引かれている。
妙荘厳王はかって三人の仲間と仏道修行をしていたとき、仲間の生活を支える必要から自ら犠牲となって薪水の労をとり、仲間の仏道修行を助けた、そのため、その世においては成仏できなかったが、その後、王と生まれ、他の二人は王の妃と二人の子供に生まれて王を仏道に導いたと説かれている。
また須頭檀王は釈尊の過去世の姿であるが、阿私仙人に千年間仕えて法華経を教わり、のちに釈迦仏となることができたのである。
これらの例は、仏道修行中の人に仕えてさえ功徳があったことを示している。まして末法の御本仏を供養するにおいては、どれほどの功徳があるかは計り知れない。
「されば必ずよみかかねども・よみかく人を供養すれば仏になる事疑ひなかりけり」との仰せは、仏道修行においては、たとえ自身は無知であっても、出家し修行している僧を真心から供養すれば、仏道を成ずることができると仰せになっている。
妙荘厳王にしても須頭檀王にしても「よみかく」ことにおいては十分ではなかったかもしれない。しかし「よみかく人」を供養することによって、同じ功徳を得ることができたのである。
いま時光や橘三郎、太郎大夫は、たとえ仏法を自らは理解していなくとも、大聖人に御供養したという実践によって、成仏の大直道を歩むことは疑いない。そのゆえに「是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」との法華経の文を引いておられるのである。
ましてや、財供養にとどまらず、自ら自行化他にわたって実践するならば、成仏は間違いないと拝することができよう。
文末に、三人に一紙をもって返事することを恐縮されたのち「ははき殿」すなわち日興上人によく読んでもらうよう細やかな指示をされている。橘三郎、太郎大夫といった人々はあるいは文字がよめなかったのかもしれない。
ともあれ、当時日興上人が、駿河方面で折伏弘教の指揮をとられ、彼等と深い結びつきをもっていたことがうかがわれるのである。
1531~1535 南条殿御返事(大橋太郎抄)top
1531:01~1531:11 第一章 供養の品々の徳用を挙げるtop
| 01 かたびら一つ・しをいちだ・あぶら五そう・給び候い了んぬ、ころもはかんをふせぎ又ねつをふせぐ・みをかく 02 し・みをかざる、法華経の第七やくわうぼんに云く「如裸者得衣」等云云、 心ははだかなるものの・ころもをへた 03 るがごとし、もんの心はうれしき事をとかれて候。 -----― 帷一領、塩一駄、油五升、たしかにいただいた。 衣は寒さを防ぎ、また暑さを防ぎ、身を隠し、身を飾るものである。法華経第七の巻薬王品に「裸者が衣を得たるが如し」とある。この意は、裸でいる者が衣を得たようなものであるということで、文の心は嬉しさを述べたものである。 -----― 04 ふほうぞうの人のなかに商那和衆と申す人あり衣をきてむまれさせ給う、 これは先生に仏法にころもを・くや 05 うせし人なり、されば法華経に云く「柔和忍辱衣」等云云、 こんろん山には石なし・みのぶのたけにはしをなし、 06 石なきところには・たまよりも・いしすぐれたり、しをなきところには・しを・こめにもすぐれて候、国王のたから 07 は左右の大臣なり・左右の大臣をば塩梅と申す、 みそしを・なければよわたりがたし・左右の臣なければ国をさま 08 らず、あぶらと申すは・涅槃経に云く風のなかに・あぶらなし・あぶらのなかに・かぜなし・風をぢする第一のくす 09 りなり、かたがたのものをくり給いて候 御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし、 せんするところは・こなん 10 でうどのの法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか、 王の心ざしをば臣のべ・ をやの心ざしをば子の 11 申しのぶるとはこれなり、あわれことのの・うれしと・をぼすらん。 -----― 付法蔵の人のなかに、商那和衆という人がいて、衣を着て生まれてこられた。これは前世で仏法に衣を供養した人である。それゆえ、法華経には「柔和忍辱の衣」等と説かれている。 崑崙山には珠ばかりで石がない。身延の嶽には塩がない。石のないところでは珠よりも石の方が勝れ、塩のないところでは、塩は米よりも勝れている。国王の宝は左右の大臣である。左右の大臣のことを塩梅という。味噌、塩がなければ、生きていくことは難しい。左右の臣がいなければ国は納まらない。油というのは、涅槃経に「風の中に油はない。油の中に風はない」と述べて、風病を治す第一の薬である。 さまざまな品々を送っていただき、そこにあらわれているお志は、言葉ではいいつくすことができない。それも結局は故南条殿の法華経の御信用が深かったことがあらわれたものだろうか。王の志を臣がのべ、親の志を子が申しのべるとはこのことである。故殿は嬉しく思っておられるであろう。 付法蔵の人のなかに、商那和衆という人がいて、衣を着て生れてこられた。これは前世で仏法に衣を供養した人である。それゆえに法華経には「柔和忍辱の衣」等と説かれている。 |
かたびら
夏の着物の一種。「片方」という意で、古くは、衣服に限らず、裏のつかないものの総称であった。それが、平安中期には、公家装束の下着である単小袖をさすようになり、小袖が男女の表着となると、麻や絹縮みの単衣を帷と呼ぶようになった。
―――
いちだ
馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
―――
如裸者得衣
薬王菩薩本事品の文。「裸なる者の衣を得たるが如く」と読む。法華経が一切衆生の願いを満たす功力を譬えた文。
―――
ふほうぞう
釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。
―――
商那和衆
梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ(Śāṇavāsa、Śaṇakavāsa)の音写。商那和修、舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優波毱多に法を付嘱した。付法蔵因縁伝巻二に商那和修について「昔商那和修、商主として諸の賈客五百人と共倶に大海に入て珍宝を採らんとせしに、其の前む路に辟支仏の身の重病に嬰りて、気命羸れ惙へたるを見て、諸の商人即ち停住し、医薬を求めて之を治療し……是の辟支仏は商那衣を著す。爾の時、商主、諸の香湯をもって辟支仏を浴せしめんとして、その衣の弊悪なるを見て、上妙の衣を奉献せんとす。時に支仏此衣を著て出家成道し、又涅槃に入るべしと、此の功徳に依て和修、母の胎に処りしより商那衣を著し、乃至身と倶共に増長せり……よって即ち号して商那和修という」とある。
―――
先生
前生のこと。前世・過去世のこと。
―――
柔和忍辱衣
正法を素直に受持し、いかなる難にも屈せず耐え忍ぶ心構えを衣にたとえたもの。法華経を弘通するための規範・衣座室の三軌のひとつ。「柔和」とは性格がやさしくおとなしいとの意で正法をすなおに受け持つこと。忍辱とはいかなる迫害や辱めにも屈せず信心を貫くこと。
―――
こんろん山
崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈をいう。古来、美玉を産する山として有名。
―――
みのぶのたけ
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
塩梅
味をほどよく加減すること。転じて、臣下が君主を助けて適切な政治をさせることをいう。ここでは転じた意。書経の説命篇下に「若し和羹を作れば、爾は惟れ塩梅」とあり、苑氏がこれを註して「羹は塩梅にあらずんば和せず、人君、美質ありといえども、必ず賢人の輔導を得て乃ち能く位を成す。羹を作るに、塩過ぐれば則ち鹹く、梅過ぐれば則ち酸く、塩と梅と中を得て然る後に羹を成す、臣の君に於けるも、当に柔を以て剛を済い、可を以て否を済い、左右規正して以てその徳を成す」とある。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
風のなかに・あぶらなし・あぶらのなかに・かぜなし
涅槃経に「熱病有る者は蘇能く之を治し、風病有る者は油能く之を治し、冷病有る者は蜜能く之を治す。是の三種の薬は、能く是の如き三種の悪病を治す。善男子、風の中に油無く、油の中に風無し」とある。風病は風の毒に侵されて起こるとされる病気で、頭痛・四肢の疼痛・運動障害などをさしている。
―――
こなんでうどの
(~1265)南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国南条(静岡県伊豆の国市韮山町南條)を本領としていたので南条の名がある。後に駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となった。文永2年(1265)3月に死去した。
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本抄は、建治2年(1276)閏3月24日、日蓮大聖人が身延において著されて南条時光に与えられた御消息である。大橋太郎とその子の故事が引かれているので別名を「大橋太郎御書」「大橋書」ともいい、また「報南条七郎次郎書」とも呼ばれている。御真筆は大石寺に現存する。
内容は、はじめに南条家より帷や塩・油などが御供養されたことに感謝されるとともに、それが時光の信心の表れであり、さらに根本的には故南条兵衛七郎の信心を時光が表しているのであり、故人もどんなにか喜んでいるであろうと称賛されている。そして、罪を得て捕らえられていた大橋太郎を、その子息が、法華経読誦の功徳により将軍源頼朝の心を動かして救った故事を詳しく引かれて、時光が信心に励むことこそ亡父への最高の孝養となることの例証とされている。
最後に、蒙古の襲来は、鎌倉幕府が大聖人の諌暁を用いないばかりか迫害したのだからやむをえないことであるとされ、時光がより強盛な信心に励むよう勧められている。
南条時光は、日蓮大聖人が身延に入られた直後の文永11年(1274)7月に、身延へ登山しお目通りしてから、純真に信心に励んでおり、翌12年(1275)1月に日興上人が大聖人の御名代として父兵衛七郎の墓へ詣でられた後は、日興上人の御指導を仰ぎ、その弘教を助けている。
また、文永11年(1274)7月以後、建治二年閏三月まで二年たらずの間に、現存するだけでも十一通の御消息をいただいており、数々の御供養をしていることがうかがえる。
本抄でも、はじめに南条家から帷・塩・油を御供養したことに対して、それぞれの徳用を挙げられ、時光の信心の表れとして喜ばれている。
帷というのは麻の単衣のことで、夏用の衣料であり、旧暦の閏三月は初夏にあたるので、暑さに向かって帷が御供養されたものであろう。大聖人は「ころもはかんをふせぎ又ねつをふせぐ・みをかくし・みをかざる」と、衣の徳用を挙げられている。
そして、薬王菩薩本事品第二十三の「裸なる者の衣を得たるが如し」の文を引かれて「もんの心はうれしき事をとかれて候」と述べられている。薬王品の文の本義は、法華経が一切衆生を利益してその願いを叶えることの譬えの一つとして挙げられたものであり、衆生にとって嬉しいことの代表として説かれたものであると述べられ、時光の帷の御供養に対する謝意として述べられたのである。
次に、付法蔵の第三である商那和衆の故事を引かれている。商那和衆については「妙法比丘尼御返事」(1406)に詳しく述べられているので参照していただきたい。
要するに、衣服は人間にとって貴重な宝であり、それを供養した南条時光の真心を讃えられるとともに、辟支仏に衣を供養した商那和衆の得た福徳を挙げることによって、末法の法華経の行者である日蓮大聖人に帷を御供養した南条時光が、どれほど大きな福徳を得るかを教えられているのである。
さらに法華経法師品第十には「柔和忍辱衣」とあることを挙げられ、仏法修行者のそなえるべき柔和忍辱の徳が衣になぞらえられていることを教えられ、衣というものの重要性を示されている。
こんろん山には石なし……風をぢする第一のくすりなり
次に、塩と油の徳用を挙げられている。塩については「みのぶのたけにはしをなし……しをなきところには・しを・こめにもすぐれて候」と仰せになっているように、海から遠く隔たった身延の山中にあっては、塩が入手しにくく、貴重であった。
この点については弘安元年(1278)九月の南条時光への御消息にも「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井・河北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし、何を以てか・かうべき、みそも・たえぬ、小児のちをしのぶがごとし」(1551-04)と述べられていることから、うかがえる。
塩は人間が生きていくために必要不可欠なものであり、塩が欠乏すると肉体的にも精神的にも大きな障害が起こるため、塩の入手に人々は並々ならぬ努力を注いできたのであった。
先史時代には塩のとれる海岸・塩湖・岩塩のある場所は交易の重要な中心になり、塩のための交易路さえ開かれている。
日本での古い製塩法は、海藻に海水をふりかけてかわかし、その海藻を焼いて塩をとる方法だった。のちに、海水を煮詰めて塩をとる方法も行われたが、能率が悪く不経済だったので、濃縮した塩水を集める方法として塩田が発達した。しかしそれも乾元年間(1303)以後といわれており、大聖人御在世当時はまだ「藻塩焼く」原始的な製塩法が行われていたと考えられる。
南条家が御供養した塩は、駿河湾で製塩されたものか、あるいは、駿河に隣接する三河・尾張が古くからの塩の産地だったので、その方面から入手したものとも考えられる。
また、このときに「塩一駄」、弘安元年(1278)9月に「塩一駄」、弘安2年(1279)8八月に「しほ一たわら」、弘安4年(1281)9月に「塩一駄」、弘安5年(1282)正月に「白塩一俵」と、南条家からは、たびたび塩が御供養されており、その間隔から毎年2俵程度を定期的に身延へお届けしていたのではないかと推測される。
そして、「国王のたからは左右の大臣なり・左右の大臣をば塩梅と申す、みそしを・なければよわたりがたし・左右の臣なければ国をさまらず」と、中国の故事に国王を補佐する左右の大臣を塩と梅に譬えることを引かれて、味噌や塩の調味料がなければ生活できないことを示され、塩の貴重なことを述べられている。
塩梅とは塩と梅酢のことで、中国の古書に「熱い吸い物は塩と梅酢が適当でなければならず、主君も必ず賢人の補導がなければならない。吸い物を作るのに塩が過ぎれば塩からく、梅酢が過ぎれば酸っぱく、塩と梅酢がちょうどよくてはじめて吸い物になる。臣下が主君を助けるにも、柔で剛を救い、可で否を救い、左右あい正してその徳を成すのである」とあるのによる。
なお、味噌は大豆、米、麦などを蒸してつき砕き、麹と塩を混ぜて発酵させたもので、当時の味噌も現在と大差はないものだったようだが、それだけをなめる「なめ味噌」だった。
油については、涅槃経に引かれて「風をぢする第一のくすりなり」とされていることから、この油は食用油だったのであろう。
かたがたのものをくり給いて……うれしと・をぼすらん
大聖人は、そうした品々を御供養したことを「御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし」と時光の信心の表れとされたうえで、「せんするところは・こなんでうどのの法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか」と、それも亡き父・兵衛七郎の信心が深かったことの表れであろうと称賛されているのである。
そして、「王の心ざしをば臣のべ・をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり、あわれことのの・うれしと・をぼすらん」と仰せになり、時光の純真な信心と大聖人への御供養は、亡き父の遺志を正しく果たすものであり、それをどれほど喜んでいることだろうかと、兵衛七郎の心中を思いやられている。このことは、時光の御供養が亡き父への最高の孝養となっていることを教えられていると拝されるのである。
1531:12~1534:11 第二章 大橋の太郎と子息の故事を引くtop
| 12 つくしにををはしの太郎と申しける大名ありけり、大将どのの御かんきを・かほりて・かまくらゆひのはまつち 13 のろうにこめられて十二年めしはじしめられしとき・ つくしをうちいでしに・ごぜんにむかひて申せしは・ゆみや 14 とるみとなりて・きみの御かんきを・かほらんことは・なげきならず、又ごぜんに・をさなくよりなれしかいまはな 15 れん事いうばかりなし、 これはさてをきぬ、 なんしにても・によしにても一人なき事なげきなり、ただしくわい 1532 01 にんのよし・かたらせ給う・をうなごにてやあらんずらん・をのこごにてや候はんずらん、 ゆくへをみざらん事く 02 ちおし、又かれが人となりて・ちちというものも・なからんなげき・いかがせんとをもへども・力及ばずとていでに 03 き。 -----― 昔、筑紫に大橋の太郎という大名がいた。大将殿の御勘気を受けて、鎌倉の由比ヶ浜の土の牢に十二年の間押し込められた。召し捕られて、筑紫を出る時、夫人に向かっていうには、「弓矢とる武士の身となって、主君の御勘気をこうむることを嘆くのではない。だが御前とは幼いころより親しくしてきたのを、いま離れることは、いいようもなく辛い。そのことはさておいて、男子でも女子でも、子が一人もいないことが歎きである。けれども、懐妊したと聞いた。女子であろうか、男子であろうか、見届けることができないのは残念なことである。また、その子が一人前となって、父という者がいないのを歎くであろう。どのようにすべきか、と思うけれども、どうすることもできない」といって、出発した。 -----― 04 かくて月ひすぐれ・ことゆへなく生れにき・をのこごにてありけり、七歳のとし・やまでらにのぼせてありけれ 05 ば・ともだちなりけるちごども・をやなしとわらひけり、 いへにかへりて・ははにちちをたづねけり、ははのぶる 06 かたなくして・なくより外のことなし、 此のちご申す天なくしては雨ふらず・地なくしてはくさをいず、たとい母 07 ありとも・ちちなくばひととなるべからず、 いかに父のありどころをば・かくし給うぞとせめしかば・母せめられ 08 て云うわちごをさなければ申さぬなり・ありやうはかうなり、 此のちごなくなく申すやう・さてちちのかたみはな 09 きかと申せしかば、これありとて・ををはしのせんぞの日記・ならびにはらの内なる子に・ゆづれる自筆の状なり、 10 いよいよをやこひしくて・なくより外の事なし、 さて・いかがせんといゐしかば・これより郎従あまた・ともせし 11 かども・御かんきをかほりければ・みなちりうせぬ、そののちは・いきてや又しにてや・をとづるる人なしと・かた 12 りければ・ふしころび・なきて・いさむるをも・もちゐざりけり。 -----― やがて月日が過ぎて、無事に生まれたのは男の子であった。七歳の年、山寺に登らせたが、友達となった稚児達は、親なし子と笑った。その子は家に帰って母に父のことをたずねた。母は話すことができなくて、泣くよりほかにしかたがなかった。 この稚児は「天がなければ雨は降らない。地がなければ草は生えない。たとえ母上はあっても、父上がいなければ人として生まれるはずがない。どうして父上の居所を隠されるのですか」と問い詰めたので、母は責められて「あなたが幼かったのでいわなかったのです。事情はこうです」と話した。 その稚児は泣く泣く「それでは父の形見はないのでしょうか」というと、「これがあります」といって、大橋の先祖の日記、ならびに、腹のなかにいた子に譲った自筆の書状を取り出した。ますます父親が恋しくなって、泣くよりほかにはなかった。「それでは、いったいどうしたらいいのですか」というと、「父上がここを出発の時は、家来の者も数多く供をしたけれども、御勘気をこうむったのであるから、皆散り失せてしまいました。その後は、生きておられるのか、また死んでおられるのか、様子を知らせてくれる人もいません」と語ったので、稚児は、うつぶし、まろび泣き、いさめてもいうことを聞き入れなかった。 -----― 13 ははいわく・をのれをやまでらにのぼする事は・をやのけうやうのためなり、仏に花をもまいらせよ・経をも一 14 巻よみて孝養とすべしと申せしかば・いそぎ寺にのぼりて・いえへかへる心なし、 昼夜に法華経をよみしかば・よ 15 みわたりけるのみならず・そらにをぼへてありけり、 さて十二のとし出家をせずして・かみをつつみ・とかくして 16 つくしをにげいでて・かまくらと申すところへたづねいりぬ。 -----― 母は「あなたを山寺に登らせたことは、父上への孝養のためです。仏前に花をも捧げ、経を一巻なりとも読んで孝養をしなさい」と諭したので、稚児は、急ぎ寺に登って、家に帰る心を起こさなかった。昼も夜も法華経を読んだので、読み通せるようになっただけでなく、そらに覚えるほどになった。 やがて、十二の年に出家をしないで髪をつつみ、どうにか苦心して筑紫を逃げ出して、鎌倉というところへ尋ね着いた。 -----― 17 八幡の御前にまいりて・ふしをがみ申しけるは・八幡大菩薩は日本第十六の王・本地は霊山浄土に法華経をとか 18 せ給いし教主釈尊なり、 衆生のねがいをみて給わんがために 神とあらわれさせ給う、 今わがねがいみてさせ給 1533 01 え、をやは生きて候か・しにて候かと申して・いぬの時より法華経をはじめて・とらの時までに・よみければ・なに 02 となき・をさなきこへはうでんに・ひびきわたり・こころすごかりければ・まいりてありける人人も・かへらん事を 03 わすれにき、皆人いちのやうに・ あつまりてみければ・をさなき人にて法師ともをぼえず・をうなにてもなかりけ 04 り。 -----― 鶴岡八幡宮の御前にまいって、伏し拝んでいうには「八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土において法華経をお説きになった教主釈尊です。衆生の願いをかなえられるために、神とお現れになったとお聞きします。いま、私の願いをかなえてください。父親は生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか」といって、戌の時より法華経を読み始めて、寅の時まで読み続けたので、何ともいえぬ幼い声は宝殿に響きわたり、心にしみわたるようであったので、参詣にきていた人々も、帰ることを忘れてしまった。人々が市のように集まって、見れば幼い人で、法師とも思われず、女人でもなかった。 -----― 05 をりしも・きやうのにゐどの御さんけいありけり、 人めをしのばせ給いてまいり給いたりけれども御経のたう 06 とき事つねにもすぐれたりければはつるまで 御聴聞ありけりさてかへらせ給いておはしけるが あまりなごりをし 07 さに人をつけてをきて 大将殿へかかる事ありと申させ給いければ めして持仏堂にして御経よませまいらせ給いけ 08 り。 -----― ちょうど京の二位殿が御参詣になっていた。人目を忍んでお詣りされたのであるけれども、御経の声の尊いことはいままでにこえて勝れていたので、読み終わるまで御聴聞された。そしてお帰りになったが、あまりに名残りおしいので、人をその場につけておき、大将殿にこのようなことがありましたと申されたので。大将殿は稚児を呼ばれて持仏堂で御経を読ませられた。 -----― 09 さて次の日又御聴聞ありければ西のみかど人さわぎけり、いかなる事ぞとききしかば・今日はめしうどの・くび 10 きらるると・ののしりけり、あわれ・わがをやは・いままで有るべしとは・をもわねども・さすが人のくびをきらる 11 ると申せば・我が身のなげきとをもひて・なみだぐみたりけり、大将殿あやしと・ごらんじて・わちごはいかなるも 12 のぞ・ありのままに申せとありしかば・上くだんの事・一一に申しけり、をさふらひにありける大名・小名・みすの 13 内みな.そでをしぼりけり、大将殿.かぢわらをめして・をほせありけるは.大はしの太郎という.めしうど・まいら 14 せよとありしかば・只今くびきらんとて・ゆいのはまへ・つかわし候いぬ、いまはきりてや候らんと申せしかば・こ 15 のちご御まへなりけれども・ふしころびなきけり、ををせのありけるは・かぢわらわれと・はしりて・いまだ切らず 16 ばぐしてまいれとありしかば・いそぎ・いそぎゆいのはまへ・はせゆく、いまだいたらぬに・よばわりければ・すで 17 に頚切らんとて刀をぬきたりけるとき・なりけり。 -----― さて、次の日、また御経を御聴聞されていると、西の御門で人が騒いだ。「どうしたのか」と聞けば、「今日は囚人が首を斬られるのだ」と大声でいっていた。その時稚児は「ああ、我が親は今まで生きているとは思えないけれども、やはり人が首を斬られると聞けば、我が身のなげきのごとく思われる」と涙ぐんでしまった。大将殿はそれを不審に思われて、「和児はいかなる者か、ありのままに申せ」と仰せになったので、稚児は、今までのことを一々申し上げた。お側についていた大名、小名も、簾のうちの女房達も、みな感動して涙を流し袖をしぼったのであった。 大将殿は梶原景時を呼び寄せて「大橋の太郎という囚人を連れてまいれ」と仰せになると、梶原は「ただ今、首を斬るために由比ヶ浜に連れていったところです。今はもう、斬ってしまっているかもしれません」と答えたので、この稚児は御前であったけれども、ふしころびながら泣いた。大将殿が「梶原、自ら走っていって、まだ斬っていなかったら、連れてまいれ」と仰せられたので、梶原は急いで由比ヶ浜へ駈けつけて行った。いまだ行きつかぬうちに大声で叫んで制止したのは、まさに頸を斬ろうとして刀を抜いた時であった。 -----― 18 さてかじわら.ををはしの太郎を・なわつけながら.ぐしてまいりて・ををにはにひきすへたりければ・大将殿こ 1534 01 のちごに・とらせよとありしかば・ちごはしりをりて・なわをときけり、大はしの太郎は・わが子ともしらず・いか 02 なる事ゆへに・たすかるともしらざりけり、さて大将殿又めして・このちごに・やうやうの御ふせたびて・ををはし 03 の太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。 -----― さて、梶原は大橋の太郎を縄のついたまま連れてきて、大庭にひきすえた。大将殿から「その者をこの稚児に与えなさい」との許しがあったので、稚児は走り下りて縄をといた。大橋の太郎は我が子とも知らず、どういうわけで助かったのかも知らなかった。さて、大将殿はまたこの稚児を呼び寄せて、種々の御布施を与え、大橋の太郎を下げ渡されただけではなく、本領をももとのように下された。 -----― 04 大将殿をほせありけるは法華経の御事は昔よりさる事とわききつたへたれども・ 丸は身にあたりて二つのゆへ 05 あり、一には故親父の御くびを大上入道に切られてあさましとも・いうばかりなかりしに、 いかなる神・仏にか申 06 すべきと・ おもいしに走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ千部と申せし時、 たかをのもんがく房をやのくび 07 をもて来りて・みせたりし上・ かたきを打つのみならず・日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経 08 の御利生なり、二つには・このちごが・をやをたすけぬる事不思議なり、 大橋の太郎というやつは頼朝きくわいな 09 りとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうに 10 は入れてありつるに・ かかる不思議あり、 されば法華経と申す事はありがたき事なり、頼朝は武士の大将にて多 11 くのつみを・つもりてあれども法華経を信じまいらせて候へば・さりともと・こそをもへと・なみだぐみ給いけり。 -----― 大将殿が仰せになるには「法華経の功徳は昔から様々に伝え聞いていたけれども、自分も身に当たることが二つある。一つは亡き親父の御首を太政入道に斬られて、無念とも何ともいいようがなかったので、いかなる神仏に祈念すべきかと思っていたところ、走湯山の妙法尼より法華経を読み習って千部を読誦した時、高雄の文覚房が親父の首を持って来て見せたうえ、仇を討つことができただけでなく、日本国の武士の大将となることができた。これはひとえに法華経の御利益である。二つには、この稚児が親を助けたことは不思議である。大橋の太郎というやつは、頼朝はけしからぬ者と思っていた。たとえ許すようにと勅宣が下されようとも、それをお返しして、首を斬ったであろう。あまりの憎さに十二年まで土の牢に入れておいたが、このような不思議があった。そのため、法華経の御利益というのはありがたいことである。頼朝は武士の大将として多くの罪が積もっているけれども、法華経を信じ申し上げているので、悪道に堕ちることはないであろう、と思っている」と涙ぐまれた。 |
つくし
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
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ををはしの太郎
俗伝では平安末期の武将・平通貞のこととされているが、吾妻鏡等にそうした記録はない。通貞は、通称大橋太郎左衛門尉といったとっされ、伊勢平氏の祖維衡の末裔、祖父は平家貞、父は平貞能、家貞は平忠盛の側近として活躍した。父の貞能も平清盛の腹心とし、筑後・筑前・肥後などの九州各地の国守を歴任した。平氏一族の凋落とともに九州における彼の威勢も衰えた。文治2年(1186)貞能の子通貞は頼朝の勘気を受け囚われの身となり、12年間、鎌倉由比ヶ浜の土牢にあった。通貞の子、貞経は、童名を一妙麿といい、深く法華経を信仰するようになり12歳の時、父を尋ねて筑紫から鎌倉にのぼった。鎌倉の八幡宮で法華経を読み、父が見つかるようにと願いをかけた。その功徳によって、父は処刑される寸前に助けられ、本領も無事返されたとの説があるが、史書・古文書の文献がなく、実在の人物でないとする説もある。
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御かんき
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
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わちご
児はやや成長した子供のこと。童児、おさなご。「和」は接頭語で、親愛感や、身近な者に対する軽い敬意、また軽侮の気持ちをあらわす。
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八幡
八幡宮のことで、八幡神を祭神とする神社。
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八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
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本地
①現れたところの化身に対し、それを現わす本身を本地という。大地が万物のよりどころとなるように、種々の外相も真実相を根本としている。また天月を本地、池にうつった月を垂迹にたとえることもある。一般には、仏菩薩が衆生を済度するために、仮の姿で現れた垂迹に対して、その真実身である仏菩薩をいう。天台の本地は釈尊であり、日蓮大聖人の本地は久遠元初自受用報身如来であり、天台を薬王如来の再誕、日蓮大聖人を上行菩薩の再誕といわれているのは、垂迹の姿である。②本来の境地。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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はうでん
①神宝・奉納品などを納めておく建物。②立派な宮殿のこと。
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きやうのにゐどの
藤原兼子(1155~1229)のこと。藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。卿局・卿二位と呼ばれた。後鳥羽上皇の後宮にあって権勢を振るう。上皇の鎌倉幕府に対する政策につねに参与していたという。ただし、兼子は京都に在住しており、御文の内容から、ここにいう二位殿とは、源頼朝の妻・政子のことと思われる。
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持仏堂
みす
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かぢわら
(~1200)。梶原景時のこと。鎌倉時代初期の武将。坂東平氏の一族、五郎景清の子。通称は平三。大庭景親のもとに一度は頼朝を破ったが、追撃すると見せて頼朝と和を結び、臣下として平氏追討に功績をあげた。その後も頼朝の信任を受け要職を得たが、人を讒訴することが多く、源義経も景時の讒言によって退けられている。だが結城朝光を讒言し、かえって諸将の排斥を受けて滅ぼされた。
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本領
もとからの領地。代々受け継がれた土地。
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大上入道
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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走湯山
静岡県熱海市伊豆山のこと。ここに伊豆山神社がある。源頼朝・政子夫妻が厚く尊崇したとされる。
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妙法尼
伝不詳。伊豆の国、伊豆山神社に住み、法華経を行じていた尼。源頼朝はこの尼について法華経を読んでいたといわれる。吾妻鏡巻一・治承4年(1180)8月18日の条には「伊豆山に法音と号する尼あり、これ御台所の御経師、一生不犯の者たり」とある。
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たかをのもんがく房
生没年不明。平安末から鎌倉初期の真言宗の僧。京都高雄山神護寺の再興者。俗名は遠藤盛遠。上西門院に仕える北面の武士であったが、18歳の時、誤って源渡の妻・袈裟御前を殺害し、これを悔いて出家して文覚と称した。諸国を巡って荒行を重ね、神護寺の荒廃を見て再興を思いたち、後白河法皇に募財を願ったが、とりつがれなかったため乱暴を働き、伊豆に流された。配流の地で源頼朝に会い、挙兵を勧めて尽力し、ひそかに平家追討の院宣を得た。鎌倉幕府成立後、頼朝の厚遇を受け、神護寺・東寺の修復を許された。しかし頼朝没後、謀反の企てに関与したとして正治元年(1199)佐渡に流され、3年後に許されて帰京したが、三度罪を得て鎮西に流され、その地で没したといわれる。なお「をやのくびをもて来りて……」との記述は、平家物語巻五等にあり、文覚が、頼朝の父義朝の首を取り出して挙兵を勧めたという。
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御利生
衆生を利益すること。利益衆生の意味。
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勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
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南条時光の故父への孝養に関連し、ここで大聖人は、源頼朝の勘気を受けて囚われていた九州の大名・大橋の太郎を、その子息が法華経読誦の功徳で救った故事を詳しく引かれている。
この大橋の太郎については、吾妻鏡等の史書にその記録がみられず、古文書等にもそうした記述が見当たらないため、実在の人物ではないとする説もあった。江戸時代になって大橋氏の後裔と称する者が家譜によるとして、平清盛の臣だった肥後守平貞能の子・通貞が大橋太郎左衛門尉と称しており、それが大橋太郎であり、その子・貞経が幼名を一妙麿といって、その父子の事跡が大聖人の御書の記述どおりであるといい出して、それがその後の通説のようにはなっているが、確たる根拠はない。
また、一説によると、文治2年(1186)に書かれた古文書に、肥前国(佐賀県)神埼の大名・窪田太郎が源氏方の武将に捕えられたとあり、神埼郡内に「大橋」の地名が残っているところから、「大橋の太郎」の「大橋」は地名を指していて、「窪田太郎」と同一人物であろう、ともされている。
いずれにせよ、大聖人の記述が詳しく具体的であるところから、当時はその父子の故事が法華経読誦の功徳談として生き生きと語られていたことがうかがえる。
「大将殿の御勘気を・かほりて」とあるのは、鎌倉幕府を開設した征夷大将軍源頼朝の怒りをかつて捕らえられたことをいう。頼朝のことを「大将殿」「右大将家」などと呼ぶのは、平氏を壇ノ浦で滅ぼした後、征夷大将軍を望んだ頼朝に対して、後白河法皇は常置の武官としては最高の地位であった右近衛大将と権大納言の位を与えたのみだったので、頼朝はいったんそれを拝受したが、3日後にそれを返上しているので、その後は「前右大将」と呼ばれるようになり、後白河法皇の死後に征夷大将軍となってからもそのまま用いられていた。
大橋の太郎が平通貞だったとすれば、父平貞能は平氏の有力な武将として肥後国の国守をつとめており、平氏滅亡の後は行方をくらましたが、元暦2年(1185)7月に宇都宮朝綱のもとへ出家して降り、頼朝の許しを受けて朝綱に預けられているので、通貞はその後、幕府に反抗して捕らえられたものであろうか。
また肥前国神埼の窪田太郎とすれば、吾妻鏡の文治二年(1186)月に神埼御庄の兵粮米を停止すべき院宣があり、天野藤内遠景へ神埼庄の武士の濫行を停止すべしとの頼朝の命が下されていることと関連があると考えられる。
いずれにしても、12年間も獄につながれた後に処刑されようとしたことや、「大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうには入れてありつるに……」と頼朝が語っていることから、よほど深い怒りをかっていたことがうかがえる。
そうした重罪人だった大橋の太郎の一子は、父が囚われた後に生まれたので顔も知らなかったが、父を慕って十二の年にはるばる九州から鎌倉まで行き、鶴岡八幡宮で父の行方を知りたいと祈って法華経を読誦した。その音声が居合わせた頼朝の妻・政子を感動させ、頼朝に招かれて持仏堂で法華経を読誦することになった。その折に罪人が処刑されると聞いて涙ぐんだので、頼朝にその理由をたずねられて身の上を話したところ、処刑寸前の父を救うことができたのである。
頼朝はそれを自分が法華経を読誦したことによって親の敵である平氏を討ち滅ぼしたうえに、日本国の武士の頭領となることができたのと同じで、法華経を信じた功徳であるとしている。
「故親父の御くびを大上入道に切られて」とは、頼朝の父・義朝が、平治の乱に破れ尾張の国まで落ちのびて旧臣長田忠致を頼ったが、逆心を起した忠致に殺されたことをいい、それを命じたのが平清盛だったために、平氏の一族を敵としたのである。義朝の三男で、まだ若かった頼朝は、一命を助けられ、伊豆に流されたが、父義朝の追善のために法華経千部転読の願いをおこし、八百部に至ったとき平氏討伐の軍を起こした、と吾妻鏡等に記されている。
大聖人は、源平争乱の結果、平氏が滅びて頼朝が権力を握った理由を「日蓮小智を以て勘えたるに其の故あり……国主となる事は大小皆・梵王・帝釈・日月・四天の御計いなり、法華経の怨敵となり定まり給はば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、随つて人王八十一代・安徳天皇に太政入道の一門与力して兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門・皆一時にほろび畢んぬ……現世の祈禱は兵衛佐殿・法華経を読誦する現証なり」(0373)と述べられている。
源平の合戦は当時までの史上最大の内乱であり、日本を二分する武力抗争であった。栄華を誇った平氏が滅びたのは亡国亡家亡人の悪法たる真言によって源氏を調伏したために還著於本人の結果となったもので、源氏の勝利は頼朝が法華経を読誦した功徳だったのである。
なお、当時はすでに末法に入っていたのだから、「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546)と仰せのように、法華経だけを読誦しても功徳がなかったのではないかと思われるが、末法に入ったといってもまだ御本仏・日蓮大聖人が御出現になる以前のため、天台宗のように真言の邪法に染まった信仰でなく、純粋に法華経のみを信じて読誦する功徳はまだ残っていたのである。
頼朝は法華経の功徳を実感していたからこそ、大橋の太郎の子が父のために法華経を読誦したことに免じて死罪を許して赦免したばかりか、所領まで安堵したのである。
1534:12~1534:16 第三章 時光の孝養の志を称えるtop
| 12 今の御心ざしみ候へば故なんでうどのは.ただ子なれば・いとをしとわ.をぼしめしけるらめども・かく法華経を 13 もて我がけうやうをすべしとは・よもをぼしたらじ、たとひつみありて・いかなるところに・おはすとも・この御け 14 うやうの心ざしをば.えんまほうわう・ぼんでん・たひしやく.までも・しろしめしぬらん、釈迦仏・法華経もいかで 15 か・すてさせ給うべき、かのちごのちちのなわを・ときしと・この御心ざし・かれにたがわず、これはなみだをもち 16 て・かきて候なり。 -----― 今の貴殿の御志を見ると、故南条殿は、親子であるから、いとおしいとは思われていたであろうが、このように法華経をもって自分の孝養をしてくれるだろうとは、よもや思われなかったであろう。たとえ、罪があっていかなるところにおられようとも、このご孝養の志を、閻魔法王も、梵天、帝釈天までも知っておられるであろう。釈迦仏、法華経もどうして捨てられることがあろうか。かの稚児が父の縄をといたことと、貴殿の御志とは少しも違うものではない。この返書を、涙によって書いているのである。 |
えんまほうわう
閻魔法王のこと。閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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ぼんでん
大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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たひしやく
帝釈天王のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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大橋の太郎の故事を受けて、今、時光が大聖人に御供養申し上げ、正法信仰の志を表していることは、亡き父に対する最高の孝養となっていることを示されている。そして時光の供養の功徳は必ず父の後生を助けており、その孝心は大橋の太郎の子息にも劣らない、と最大に称賛されているのである。
妙法への信心こそが、亡き父母への最高の孝養となる法理は、盂蘭盆御書に「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ」(1430-03)と述べられている。
「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)と示されているように、正法を信ずる功徳によって我が身が仏になり、その功徳が亡き父母や祖先はもとより、他人にまで及んでいくのが回向であり、それこそ最高の追善供養となり、孝養となるのである。
また、建治3年(1277)5月の南条時光の御消息には「御信用あつくをはするならば・人のためにあらず我が故父の御ため・人は我がをやの後世には・かはるべからず・子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ、郷一郷・知るならば半郷は父のため・半郷は妻子・眷属をやしなふべし」(1539-16)と仰せになっている。
家門を大切にし、先祖を敬う心の強かった当時の武士の心情を理解されながら、亡き父の後生を弔い、その霊を苦しみから救う最高の追善供養とは正法による回向であることを、繰り返し教えられているのである。
1534:17~1535:08 第四章 蒙古襲来の必至を示し信心を勧むtop
| 17 又むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず、これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よ 18 ろこぶと申すこれゆわれなき事なり、 かかる事あるべしと申せしかば・あだがたきと人ごとにせめしが・経文かき 1535 01 りあれば来るなり・いかにいうとも・かなうまじき事なり、 失もなくして国をたすけんと申せし者を用いこそあら 02 ざらめ、 又法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり、梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩 03 薩も見させ給いき、 いかにも今は叶うまじき世にて候へば・ かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へ 04 ども助けがたくやあらんずらん、 よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え、 あえ 05 てこれよりの心ざしのゆわきにはあらず、 各各の御信心のあつくうすきにて候べし、 たいしは日本国のよき人人 06 は一定いけどりにぞなり候はんずらん、あらあさましや・あさましや、恐恐謹言。 07 後三月二十四日 日 蓮 花 押 08 南条殿御返 -----― また、蒙古が攻めてくるということは、こちらではまだうかがってはいない。蒙古のことをいうと「日蓮房は、蒙古国が攻めてくるといえば喜ぶ」といわれているようだが、それはいわれのないことである。このようなことがあるであろうといったので、仇、敵のように人々は日蓮を責めたのであるが、経文に説かれてあるので、攻めて来るのである。どのようにいわれようとも、いたし方がないことである。 何の罪もない、ただ国を助けたいという者を用いようとしないばかりか、法華経の第五の卷をもって日蓮の顔を打ったのである。梵天・帝釈はこれを御覧になっていたし、鎌倉の八幡大菩薩も見られた。どんなにしても、今は諌めを聞き入れられない世であるから、このような山中に入ったのである。 あなた方のことも不憫とは思うけれども、助けることは難しいであろう。しかし昼夜に法華経に祈念している。あなたも御信用のうえにも、力を惜しまずに祈念されるがよい。あえてこちらの志が弱いためではない。あなた方の御信心が厚いか薄いかによるのである。 結局は、日本国の身分の高い人々は、必ず生け捕りになるであろう。まことにあさましいことである。恐恐謹言。 後三月二十四日 日 蓮 花 押 南条殿御返事 |
むくり
蒙古のこと。13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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法華経の第五の巻
法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。
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本抄を結ぶにあたって、大聖人は蒙古襲来が近いとの風評によせて、蒙古襲来は、大聖人が経文にあるとおりを訴えたのが的中したのであって、「立正安国論」をはじめとする諌言を為政者が用いないばかりか、かえって大聖人を迫害したのであるから、これを防ぐことはできないと述べられ、大聖人の門下の人々も、いっそう信心に励まなければ助からないであろうと指導されている。
「むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず」と仰せられているのは、文永11年(1274)10月の第一回蒙古軍の来襲以来、再び近く蒙古軍が侵攻するとの風評が時光から伝えられたものであろう。
蒙古は文永の役でいったんは撤退したが、日本侵攻をあきらめたわけではなく、翌文永12年(1275)4月には日本に朝貢をして服属すべしと勧告するための宣諭使・杜世忠らを送ってきている。幕府は蒙古の使者5人を竜の口で処刑し、強い拒否の姿勢を示した。そして、九州方面の防備を固めるため、異国警護番役を強化し、九州諸国の守護を交代させ、また博多湾に石築地を築造する作業にかかっている。建治2年(1276)3月から石築地を築く工事が開始されており、そうしたことが蒙古襲来近しとの風評を生んだとも考えられる。
そして、「これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり」と、蒙古の襲来を大聖人が喜んでいるとの風評を否定され、それを防ごうとして「立正安国論」の提出をはじめとして度々為政者に警告を発し諌暁してきたにもかかわらず、用いないどころか迫害するに及んだので、「他国侵逼難」等の経文の予言のとおりに蒙古が攻めてくるのであると指摘されている。
「法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり」とは、文永8年(1271)9月12日の竜の口法難の際、平左衛門尉が大聖人を召し捕らえに来た時、平左衛門尉の家来である少輔房が、大聖人の懐中の法華経第五の卷をとって、大聖人のお顔を打ちすえたことをいわれている。こうして捕らえられた大聖人を平左衛門尉は、謀反人のように市中を引き回し、その深夜、竜の口の刑場へ送ったのである。
なお、法華経第五の卷で打たれたことの意義については、「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり……及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず……日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557-02)と述べられている。すなわち、末法に正法を弘通する者には必ず三類の敵人が出現し刀や杖による留難があると記されている法華経第五の卷で打たれたことは、大聖人が末法の法華経の行者であることを示す見事な符合なのである。
この事実を「梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき」と仰せになっているのは、八幡は日本の守護神ではあるものの、法華経の敵となった国を守るわけにはいかないのである。かりに八幡があくまで日本国を守ろうとしても、更に強力な法華経守護の神である梵天・帝釈も、日本の国が法華経の行者を迫害したのを見ているから、その日本を八幡が守ろうとすれば、八幡自身が梵天・帝釈から治罰されるのである。ゆえに、日本を蒙古襲来から守ることは、もはや不可能となったのであり、大聖人は蒙古から日本を守るため最善を尽くしたが、もう叶わないので身延へ入山したのであると仰せられている。
しかし、なおかつ大聖人は、けっして日本の国が滅びて民衆が苦悩に沈むのを座視されていたのではない。そのことは「各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり」との御文に明らかである。
そして、蒙古襲来という大難を前にして、その悲惨な災いを脱れるために大切なことは、一人一人の信心の厚薄であることを強調され、時光に対しても、御本尊に強盛に祈念していくよう勧めて、本抄を結ばれている。
1535~1536 九郎太郎殿御返事top
| 01 いゑの芋一駄・送り給び候、 こんろん山と申す山には玉のみ有りて石なし、石ともしければ玉をもつて石をか 02 う、はうれいひんと申す浦には木草なし・いをもつて薪をかう、鼻に病ある者はせんだん香・用にあらず、 眼なき 03 者は明なる鏡なにかせん。 -----― 里芋を一駄、送っていただいた。崑崙山という山には、宝石だけがあって石がない。石が少ないので宝石をもって石を買う。彭蠡浜という湖の入江には木や草がない。そこで魚をもって薪と交換する。鼻に病気がある者にとっては、栴檀香は用をなさない。眼のないものにとっては、曇りのない鏡も何の役に立とう。 -----― 04 此の身延の沢と申す処は甲斐国・波木井の郷の内の深山なり、西には七面のかれと申す・たけあり・東は天子の 05 たけ.南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり.はこのそこのごとし、峯にははこうのサルの音かま 06 びすし、谷にはたいかいの石多し。 -----― この身延の沢という所は、甲斐国の波木井郷の内の深山である。西には七面のたけという嶽があり、東は天子の嶽、南は鷹取の嶽、北は身延の嶽、この四つの山に囲まれたなかに深い谷があり、箱の底のようである。峯には巴峡にいるような猿のなき声がやかましい。谷には川の水をせきとめるほどの大きな石が多い。 -----― 07 然れどもするがのいものやうに候石は一も候はず、 いものめづらしき事くらき夜のともしびにもすぎ・かはけ 1536 01 る時の水にもすぎて候ひき、 いかに・めづらしからずとは・あそばされて候ぞ、されば其には多く候か・あらこひ 02 しあらこひし、 法華経・釈迦仏にゆづりまいらせ候いぬ、 定めて仏は御志をおさめ給うなれば御悦び候らん、霊 03 山浄土へまひらせ給いたらん時・御尋ねあるべし、恐恐謹言。 04 建治二年丙子九月十五日 日蓮花押 05 九郎太郎殿御返事 -----― しかしながら、駿河の芋のような石は一つもない。芋の珍重なことは、暗い夜の灯にも過ぎ、のどが渇いたときの水にも過ぎるほどである。どうして、珍しくないものなどといわれるのであろう。ということは、そちらには多くあるからであろうか。ああ恋しいことである。法華経・釈迦仏に御譲り申し上げた。きっと仏は御志をおさめられて御悦びであろう。霊山浄土へ行かれたときに尋ねられるがよい。恐恐謹言。 建治二年丙子九月十五日 日 蓮 花 押 九郎太郎殿御返事 |
いゑの芋
里芋のこと。
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こんろん山
崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈。中国では古くから美玉を産する山として有名。
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はうれいひん
中国江西省北部にある湖・鄱陽湖の旧称。彭蠡沢ともいった。省内のすべての河川が流れ込む、中国最大の淡水湖。湖は南北で地勢が異なり、湖の北部が山に囲まれているのに対し、南部は半陸半水の低地で、減水期には青芝の広大な野になっているが、増水期には一帯が湖水に埋没して大海のようになったという。ここでは、周期的に繰り返される増減水のために、その周囲に木や大きな草が生育できなかった南部一帯をさしていると思われる。
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せんだん香
旃檀からつくった香。この旃檀はセンダン科の旃檀ではなく、ビャクダン科の白檀のこと。高さ6㍍に達する常緑樹で、心材に芳香があり、香料・彫刻材に用いられる。香木として珍重されている。
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身延の沢
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。この身延山と鷹取山のはざまを「身延沢」という。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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甲斐国
甲州ともいう。山梨県のこと。
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波木井の郷
山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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七面のかれと申す・たけ
七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある。標高1982㍍の高山。頂上部の東面に「なないたがれ」と呼ばれる七つの崩崖があるところから七面山という。
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天子のたけ
天子ヶ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。標高1316㍍。
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鷹取のたけ
鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。標高1036㍍。七面山の東、身延山の南にある。
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身延のたけ
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。この身延山と鷹取山のはざまを身延沢という。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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はこう
中国湖北省の巴東付近にある、揚子江上流の峡谷のこと。昔から、ここに住む猿の鳴き声はもの悲しげで、涙を誘われるといわれていた。
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たいかい
水をせきとめるような石の様子。
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するが
駿河国のこと。東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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本抄は建治2年(1276)9月15日、日蓮大聖人が55歳の御時、身延で著され、上野の南条氏の一族である九郎太郎に与えられた御手紙である。
九郎太郎については、伝えられている御消息も九郎太郎とあるのみで姓も不明であるが、弘安元年(1278)11月1日に御述作の「九郎太郎殿御返事」には「これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ」(1553-01)とあり、その後段の文中に「此れを申せば人はそねみて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、各各は其の末にて此の御志をとげ給うか」(1553-12)とあることによって、南条氏の一族であることは明らかである。
内容は、身延の山中で生活されている大聖人のもとへ、御供養として里芋が送りとどけられたことに対して、身延の地では里芋が珍しいことを述べられ、その真心をたたえられている。
当時、信徒の方々から大聖人に御供養申し上げた品々には、種々のものがあったことが御書から拝せられるが、おそらく九郎太郎は里芋一駄の御供養に「めずらしいものではありませんが……」との書を添えたのであろう。それに対して身延では里芋がとれないので、まことに貴重でありがたい御供養であると述べられ、とくにその真心をめでられているのである。
本抄は九郎太郎の御供養した里芋の尊さという点に関して、さまざまな角度から述べられているのであるが、一般的な価値観からも深い示唆を与える内容となっている。
まず、崑崙山には玉のみ有って石がないところから、人々は玉で石を買うとの話、また彭蠡浜という所では木や草がないので、魚と薪とを交換しているという話を紹介されている。いずれも中国の話で、誇張があることは明らかであるが、要するに稀少性が価値の要素であることを示されているのである。
崑崙山は古くから玉の産地として有名で、中国や西域諸国に運ばれて、高い値で取り引きされた。そこから、崑崙山には玉のみあって、ふつうの石がないという伝説が生まれたのである。玉は美しい光沢をもっているが脆く割れやすい。建築資材などとしては役に立たないので、崑崙の地の人々は、玉をもって石を買ったといわれたのである。
通常の土地では石はありふれており見向きもされないが、玉は貴重品である。石と玉とを交換してもらえるとなれば、だれでも喜んで玉をとる。ところが、崑崙山では、逆に石を求めるというのである。彭蠡浜の魚と薪の例も全く同様である。これらは米を作っている人が米を売って他の品物を買い、魚をとる人が魚を売って、さまざまな物を求める、交換経済の原理を述べられているといえよう。
次に「鼻に病ある者はせんだん香・用にあらず、眼なき者は明なる鏡なにかせん」とは有用性の面である。いかに稀少であっても、その人にとって役に立たなければ価値がないことになる。有用とは、生命を支え助けるとともに、六根を楽しませることである
栴檀香は稀少なものであるが、鼻に病があって、香りを嗅げない人にとっては、無価値であろう。明鏡もまた貴重なものであるが、眼の見えない人にとっては、役に立たない。
いま、身延の山中におられる日蓮大聖人にとって、里芋は、稀少性と有用性をともに持っているのである。奥深い山中で、土地はやせているため里芋がとれず、駿河ではありふれた里芋も、ここではめったに手に入らないのである。また、里芋は飢えを満たし、栄養を補給してくれる、すぐれた有用性がある。
ゆえに「いかに・めづらしからずとは・あそばされて候ぞ」と仰せになり、駿河国では珍しくもないかもしれないが、身延の大聖人にとっては、まことに貴重な、ありがたい御供養であると喜ばれているのである。おそらく、こんな粗末な御供養で申しわけないという気持ちでいたであろう九郎太郎は、この大聖人のお喜びを知って、どんなにか歓喜したことであろう。
さらに「法華経・釈迦仏にゆづりまいらせ候いぬ、定めて仏は御志をおさめ給うなれば御悦び候らん」と仰せられ、この九郎太郎の御供養は、たんに品物がありがたいだけでなく、より以上に、そこにこめられた真心が尊いのであり、その真心は必ず法華経・釈迦仏におほめいただけるのであると述べられている。
「法華経・釈迦仏」とは、人法一箇の御本尊ということと拝される。そして「ゆずりまいらせ候いぬ」とは、九郎太郎の御供養を御本尊の御宝前に供えて、御報告申し上げておきました、との仰せである。御本尊は、その九郎太郎の真心をおさめられて、さぞ悦ばれているはずであるから、霊山浄土へ行かれた時に、直接お尋ねになるがよいといわれている。
この御言葉には、生涯、信心を全うして、成仏を遂げるように、との温かい御慈愛が拝せられるとともに、どんな小さな真心でも仏はけっして忘れられることはなく、永遠に九郎太郎の福徳として積まれていくことを確信しなさいとの御教示がうかがわれるのである。
1536~1536 本尊供養御書top
| 01 法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄・蹲鴟一駄・送り給び候い畢んぬ、 法華経の文字は六万九千三百八十 02 四字・ 一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり、 譬えば金粟王と申せ 03 し国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ、 玉泉に入りぬる木は瑠璃と成る・大海に入りぬる 04 水は皆鹹し、 須弥山に近づく鳥は金色となるなり、 阿伽陀薬は毒を薬となす、 法華経の不思議も又是くの如し 05 凡夫を仏に成し給ふ、蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し。 -----― 法華経の御本尊への御供養の御僧膳料として米を一駄と、里芋を一駄、確かに送っていただいた。 法華経の文字は六万九千三百八十四字で、一つ一つの文字は私達の目には黒い文字と見えるけれども、仏の御眼には一つ一つがみな御仏と映るのである。譬えば、金粟王という国王は砂を金となし、釈摩男という人は石を宝珠となされた。玉泉に入った木は瑠璃となり、大海に入った水はみな塩からく、須弥山に近づく鳥は金色となり、阿伽陀薬は毒を薬とする。法華経の不思議な功力もまた同様である。凡夫を仏になされる。蕪は鶉となり、山芋はうなぎとなる。世間の不思議でさえ、このようである。 -----― 06 何に況や法華経の御力をや、 犀の角を身に帯すれば大海に入るに水・身を去る事五尺、栴檀と申す香を身にぬ 07 れば大火に入るに焼くること無し、 法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず 八熱地獄の大火にも焼 08 けず、 法華経の第七に云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」等云云、 事多しと申せども年せまり御使 09 急ぎ候へば筆を留候い畢んぬ。 10 建治二年丙子十二月 日 日蓮花押 11 南条平七郎殿御返事 -----― ましてや法華経の御力の不思議さは、なおさらである。 犀の角を身につけていると、大海に入っても水は身から五尺はなれ、栴檀という香を身に塗ると、大火に入っても焼けることがない。法華経を持つならば、八寒地獄の水にも濡れることなく、八熱地獄の大火にも焼けないのである。法華経第七巻の薬王菩薩本事品第二十三には「火も焼くことができず、水も漂わすことができない」等と説いている。書きたいことは多くあるけれども、年の瀬も迫り、御使いの者も急いでいるので、筆を留め置くことにした。 建治二年丙子十二月 日 日 蓮 花 押 南条平七郎殿御返事 |
御僧膳料
僧侶に供する食膳の用にあてるもの。
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一駄
馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
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蹲鴟
「そんし」とも読む。里芋の塊茎のこと。いもがしら、いものかしら等とも呼ばれる。蹲はうずくまる、鴟はトビで、芋の形が鳥のうずくまった姿に似ているところからこの字があてられた。
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金粟王
北インドの国王で、詳細は不明。一説には迦膩色迦王ともいわれる。大毘盧遮那経供養次第法疏巻上によると、善無畏が北天竺の乾陀羅城に入った時、この国の王が善無畏に帰依し、とくに供養法を聞いたので、善無畏は金粟王が建てた塔の辺で祈ったところ、たちまちにその供養法が空中にあらわれたという。そこで、善無畏はこの法を写して、一本を国王に、一本は自ら所持した、とある。ただし、砂を金にしたというエピソードは見当たらず、同一人物かは不明。
釈摩男
梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていた。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。
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玉泉
一般的には清らかな泉のことをいうが、ここでは特定の泉をさしていわれていると考えられる。しかし、出典も不明で、詳細はわからない。
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瑠璃
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須弥山に近づく鳥は金色となる
大智度論巻三十五には「五色は須弥山に近づけば、自ら其の色を失して、皆同じく金色なるが如し」とある。大聖人は「一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う(中略)諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う」(1500-15)と仰せである。
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阿伽陀薬
阿伽陀は梵語アガダ(Agada)の音写で、無病等と訳す。どのような薬も治す薬とされる。涅槃経巻十一には「願って諸の衆生、阿伽陀薬を得て、是の薬力を以って能く一切無量の悪毒を除く」とある。
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蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる
予想外のことが時には起こり得る、とする諺。立正安国論に「鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る」(0031-07)とあるのも同意。
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犀の角を身に帯すれば大海に入る水・身を去る事五尺
犀の角は皮膚の角化したもので、骨のしんはなく一生成長を続ける。本草綱目によると、夜露に濡れず、薬に入れると神験あらたかとある。通天といって、犀の角を魚の形に刻んで水のなかにいれると、水が三尺開くという伝説がある。昔はくりぬいた犀角形の木を連ねて浮き用具を作ったという。
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栴檀と申す香を身にぬれば大火に入るに焼くること無し
この栴檀はビャクダン科の白檀のこと。センダン科の栴檀とは異なる。華厳経巻六十七には「摩羅耶山に栴檀香を出す。名づけて牛頭と曰う。若し以て身に塗れば設い火坑に入るとも火も焼くこと能わず」とある。
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八寒地獄
八種類の極寒の地獄のこと。阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄の八つが挙げられる。この中の前の四地獄はあまりの寒さに思わず阿波波・阿吒吒・阿羅羅・阿婆婆と悲鳴を発する地獄で、後の四地獄は極寒のために身体が裂けて優鉢羅(青蓮華)・波頭摩(紅蓮華)・拘物頭(赤蓮華)・芬陀利(白蓮華)のような姿になる地獄をいう。
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八熱地獄
八種類の熱気や火炎に苦しめられる地獄のこと。等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄(無間地獄) をいう。
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火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず
薬王菩薩本事品に「善い哉善い哉、善男子、汝能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」とある。
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本抄は建治2年(1276)12月、日蓮大聖人が55歳の御時、身延で著され、南条平七郎に与えられた御手紙である。南条平七郎については、生没年など詳細は不明であるが、日興上人の弟子分帳によれば、「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎云云」と記されており、上野の南条氏の一族であると思われる。
内容は、南条平七郎が法華経御本尊への御供養として、米と芋を御僧膳料として大聖人のもとへ奉ったことに対して、法華経御本尊の力用と、御本尊受持の功徳の広大であることを御教示されている。
この法華経二十八品も御本尊も凡夫の目には黒い墨で書かれた文字としか見えないかもしれないが、仏の御眼をもって拝すれば、一つ一つの文字が尊極の仏の生命であり、広大無辺の不思議な仏力・法力をそなえられ、この御本尊を受持する人を煩悩と生死の苦から救ってくださることを述べられている。
はじめに「法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は……皆御仏なり」と、法華経の一字一字が、そのまま仏の生命であることを教えられている。南条平七郎が法華経御本尊に米、里芋を御供養したのは、この六万九千三百八十四の仏に供養したことになるということである。
次に「譬えば金粟王と申せし国王は沙を金となし……」と、金粟王、釈摩男、玉泉、大海、須弥山、阿伽陀薬等の、事物を変化させるものの例を挙げられて、「法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ」と述べられている。これは、一切衆生を成仏せしめる法華経・御本尊の仏力・法力を教えられているのである。
しかし、三毒強盛の凡夫が仏になれるなどということは不可能であるとの考え方が一般的であった。「蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し」の御文は、事物が変化する可能性をもっていることを示されているのである。これらの例自体は、実際にはありえないことであるが、当時はそうした伝承があったのを用いられたと考えられる。現代では、科学の発達によって、思いがけない原材料から思いがけない物が作られている例は枚挙にいとまがない。
ともあれ、世間でもそうした不思議があるのであるから「法華経=御本尊」の力によって、凡夫が仏になることができることも信ずべきである、との仰せである。
「犀の角を身に帯すれば……」以下は、この御本尊を受持することによって受ける功徳を示されている。犀の角と水の譬が、次の御文の「八寒地獄の水にもぬれず」にかかり、栴檀の香と火の譬が「八熱地獄の大火にも焼けず」にかかっていることは、いうまでもない。すなわち、御本尊を受持した人は、地獄の苦しみにあうことはないのである。
法華経薬王品の「火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」の文は、本抄では八熱地獄の火、八寒地獄の水の意で用いられているが、多くの場合は、煩悩の火、生死の大海の水の意で用いられ、煩悩即菩提、生死即涅槃の法理をあらわしているとされる。
いずれにせよ、本抄は、前段で御本尊の仏力・法力を示され、後段で受持の功徳を教えられ、信力・行力を起こすよう励まされているとも拝せるし、または、前段で成仏という最高の与楽、後段で地獄の苦を除く抜苦の面が教示されているとも拝せよう。
1537~1440 上野殿御返事(梵帝御計事)top
1537:01~1537:06 第一章 賢人の故事を挙げて諭すtop
| 01 五月十四日にいものかしら一駄・わざとおくりたびて候、当時のいもは人のいとまと申し珠のごとし・くすりの 02 ごとし、さてはおほせつかはされて候事うけ給わり候いぬ。 -----― 五月十四日に里芋を一駄わざわざ送っていただいた。今時分の芋は、忙しいときでもあり、貴重であること宝珠のようであり、薬のようである。さて、仰せつかわされたこと承知した。 -----― 03 尹吉甫と申せし人は.ただ一人子あり・伯奇と申す、をやも賢なり.子もかしこし・いかなる人かこの中をば申し 04 たがふべきと・おもひしかども・継母より・よりよりうたへしに用いざりしほどに・継母すねんが間・やうやうのた 05 ばかりを・なせし中に、蜂と申すむしを我がふところに入れて・いそぎいそぎ伯奇にとらせて・しかも父にみせ・わ 06 れをけそうすると申しなして・うしなはんとせしなり。 -----― 尹吉甫という人に、ただ一人子供がいた。伯奇といった。親も賢人であり、子も賢かった。どのような人もこの父子の仲をえさせることはできないと思っていた。けれども、継母がおりおりに伯奇が悪さをするといって尹吉甫に訴えたことに対しては用いなかったが、継母が数年の間さまざまなはかりごとをした中に、蜂という虫を自分の懐に入れて急いで伯奇にとらせ、しかもそれを父に見せ、「伯奇は私に思いをかけている」といいつけ、伯奇をなきものにしようとしたはかりごとにはのせられてしまった。 |
いものかしら
里芋の親芋。
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一駄
馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
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尹吉甫
中国周代の人。今昔物語集によれば、後妻は継子の伯奇を憎み、様々に尹吉甫に告げ口して父子の仲を違えさせようとしたが、尹吉甫は信じようとしなかった。そこで後妻は、伯奇が自分に思いを抱いていると見せかけようとして、自らの懐に蜂を入れて伯奇に取らせ、その様子を遠くから尹吉甫に見せた。それを見た尹吉甫は伯奇を責め、その弁明を聞こうとしなかった。そのため伯奇は嘆いて家を去り、河に身を投げて死んでしまった。それを知った尹吉甫は涙ながらに悔い悲しんだという。
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伯奇
中国周代の賢人で尹吉甫の子。今昔物語集によれば、尹吉甫の後妻は継子の伯奇を憎み、様々に尹吉甫に告げ口して父子の仲を違えさせようとしたが、尹吉甫は信じようとしなかった。そこで後妻は、伯奇が自分に思いを抱いていると見せかけようとして、自らの懐に蜂を入れて伯奇に取らせ、その様子を遠くから尹吉甫に見せた。それを見た尹吉甫は伯奇を責め、その弁明を聞こうとしなかった。そのため伯奇は嘆いて家を去り、河に身を投げて死んでしまった。それを知った尹吉甫は涙ながらに悔い悲しんだという。
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けそう
思いをかけること。恋をすること。
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建治3年(1277)5月14日、南条時光は、身延におられる大聖人のもとに、いものかしら一駄を御供養申し上げるとともに、自身の信心をやめさせようとして、さまざまに意見をする者がいることを、御手紙に書いて報告申し上げた。
本抄は、御供養への礼を述べられるとともに、難に負けない信心を勧められた返書である。
本抄で日蓮大聖人は、仏滅後、法華経を修行する者には釈尊の九横の大難にもまさる大難があるはずであるが、天台大師、伝教大師も遇ってはいないこと、今、御自身の身に法華経に説かれた大難が次々と競い起こっていることを述べられ、弟子にも種々信心を妨害し迫害する者が出てくるはずであるが、それに負けて退転してはならないと、難への対処の仕方をこまごまと指導されている。
なお、本抄の御真筆は、大石寺に現存する。
本章では、まず御供養に対する謝辞と、南条時光の書面の趣を承知した旨を述べられ、ついで、尹吉甫の故事を説かれている。
中国周代の賢人の名の高かった尹吉甫は、後妻の計略に乗せられて、最愛の息子の伯奇を責め、ついに自殺に追いやってしまったのである。このように賢人でも、悪人の謀略には惑わされやすいことを述べられ、まして、仏法において起こってくる難は、はるかに厳しいのであり、それに紛動されないように、しっかりした心構えで臨むよう諭されているのである。
1537:11~1538:08 第二章 釈尊の大難を示し持経者を教えるtop
| 07 びんばさら王と申せし王は賢王なる上・仏の御だんなの中に閻浮第一なり、しかもこの王は摩竭提国の王なり、 08 仏は又此の国にして法華経を・とかんとおぼししに・ 王と仏と一同なれば一定法華経とかれなんとみへて候しに、 09 提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たよりなかりしかば・とかうはかり 10 しほどに・頻婆沙羅王の太子阿闍世王をとしごろとかくかたらひて・ やうやく心をとり・をやと子とのなかを申し 11 たがへて・阿闍世王をすかし父の頻婆沙羅王をころさせ・ 阿闍世王と心を一にし提婆と阿闍世王と一味となりしか 12 ば・五天竺の外道・悪人.雲かすみのごとくあつまり・国をたび.たからをほどこし・心をやわらげすかししかば・一 13 国の王すでに仏の大怨敵となる、欲界・第六天の魔王・無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・ 14 六大臣等の身に入りかはりしかば・形は人なれども力は第六天の力なり、 大風の草木をなびかすよりも・大風の大 15 海の波をたつるよりも・大地震の大地をうごかすよりも・ 大火の連宅をやくよりも・さはがしくをぢわななきし事 1538 01 なり。 -----― 頻婆沙羅王という王は賢王であるうえ、釈尊の信者の中では世界第一であった。しかも、この王は摩竭提国の王であった。仏はまたこの国において法華経を説こうと思われたときに、王と仏との思いが一致していたので必ず法華経が説かれるであろうと思われた。ところが、提婆達多という人は、何とかしてこの事をだめにしようと企てたが、すべてうまくいかなかったので、あれこれ画策した。そうして頻婆沙羅王の太子である阿闍世王を数年の間さまざまに説得して、しだいに心を把み、親と子との仲を違えさせ、阿闍世王をだまして父の頻婆沙羅王を殺させた。提婆達多が阿闍世王と心を一つにし一味となると、全インドの外道や悪人が雲霞のように集まり、それらに国を与え財を施し、心を和らげ機嫌をとったので、一国の王はすっかり仏の大怨敵となった。欲界の第六天の魔王が量り知れないほどの眷属を引き連れてうち下り、摩竭提国の提婆達多や阿闍世王や六大臣等の身に入り替わったので、形は人間であっても力は第六天の魔王の力であった。大風が草木をなびかすよりも、大風が大海の波を立てるよりも、大地震が大地を動かすよりも、大火が連なる家々を焼くよりも、人々は騒がしく畏れおののいたのである。 -----― 02 さればはるり王と申せし王は阿闍世王にかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす、 阿闍世王は酔 03 象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ、 或は道に兵士をすへ・或は井に糞を入れ・或は女人をかたらひて・そ 04 ら事いひつけて仏弟子をころす、 舎利弗・目連が事にあひ・かるだいが馬のくそにうづまれし、仏はせめられて一 05 夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり、 世間の人のおもはく・悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思ひて 06 信じたりし人人も音をのみて・ もの申さず眼をとぢてものを・みる事なし、 ただ舌をふり手をかきし計りなり、 07 結句は提婆達多・釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし・仏の御身より血を出せし上・誰の人か・かたうどにな 08 るべき、 -----― それゆえ、波留璃王という王は阿闍世王によって仲間に引き入れられ、釈尊の親しい人数百人を切り殺した。阿闍世王は酔った象を放って釈尊の弟子を数多く踏み殺させた。あるいは道に兵士を伏せ置き、あるいは井戸に糞を入れ、あるいは女性を仲間に引き入れて嘘をいいつけ、仏弟子を殺した。舎利弗や目連が事件にあい、加留陀夷が馬の糞に埋められて殺され、釈迦仏が苦しめられて、ひと夏九十日間、馬の餌の麦を召し上がられたのは、このことである。 世間の人の思いには、悪人に対しては仏の御力もかなわないのであろうと思って、仏を信じていた人々も声をひそめてものもいわず、眼を閉じてものを見る事もしない。ただ、舌を巻き、手を左右に振るばかりであった。あげくのはては、提婆達多が釈迦如来の養母の蓮華比丘尼を打ち殺し、仏の御身から血を出したうえは、誰人が味方になろう。 |
びんばさら王
梵語ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写。影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏法を保護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。
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だんな
「檀那」と書く。布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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閻浮
一閻浮提ぼこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
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摩謁提国
インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
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提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
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たより
①助けとなるもの。②手紙・連絡。
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阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王のことを別名婆羅留枝ともいう。阿闍世太子は長じて提婆達多に親近し、父を殺し、母を幽閉し、釈尊に危害を加えた。だが全身に悪瘡ができて臨終に近づいた。釈尊は阿闍世のために月愛三昧に入り涅槃経を説いた。その結果、悪瘡は癒えて寿命を延ばした。そのことで阿闍世は心から釈尊に帰依し、仏滅後経典の結集に力を尽くしたといわれる。
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すかし
おだてて相手の気持ちをよくさせること。だまし誘うこと。
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五天竺
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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欲界
三界の一つで、淫欲や貪欲等の欲望に支配された有情の世界のこと。上は天上界の六欲天から、中は人界の四大州、下は地下の八大地獄にわたっている。
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第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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六大臣(阿闍世王の)
月称・蔵徳・実徳・悉知義・吉徳・無所畏のこと。涅槃経19によると、阿闍世王が父王の頻婆沙羅王を殺害した罪で、体中に悪瘡が生じ悪臭を放ったとき、地獄に堕ちるのではないかと悩む阿闍世王に対して、仏の教えを笑い、それぞれ外道の師に教えを請うよう勧めたという。
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わななき
揺れ乱れること。恐れなどのために体や声がふるえること。
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はるり王
梵語ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国の王。大唐西域記巻六等によると、父王波斯匿と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。その数九百九十万人といわれ、血が流れて池となった。それから七日後、釈尊の予言通り焼死して無間地獄に堕ちたという。
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酔象
酒に酔って横暴になった象。釈尊の受けた九横の大難の一つに、阿闍世王が象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたことがある。
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舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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目連
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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かるだい
梵語カーローダーイン(Kālodāyīn)の音写。迦留陀夷とも書く。黒光・黒曜と訳す。釈尊が太子であったときの師で、出家して仏弟子となったが、破戒の行為が多かった。しかし、阿羅漢果を得てから改め、舎衛国の九百九十九家を教化した。そして、千家目にバラモンの家を教化しているとき、その家の夫人の策略によって、糞の中に埋められ殺されたという。
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一夏九十日
陰暦の4月16日から7月15日までの夏期90日間のこと。インドでは、この夏の雨期の間、僧は遊行を避けて一所にこもって修行した。この期間を安居という。
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舌をふり
驚き怖れて舌をまくこと。
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手をかきし
禁止や制止を示すため、手を左右に振って合図するさま。
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蓮華比丘尼
釈尊の弟子。華色比丘尼、蓮華女ともいう。大智度論巻十四によれば、釈尊を圧し殺そうとして山から岩を落とした提婆達多に対し、その非を責めたため提婆達多に拳で打ち殺されたという。
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かたうど
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
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先の尹吉甫が後妻にたぶらかされた例に続いて本章では、釈尊在世の阿闍世王が提婆達多にたぶらかされたこと、また、その阿闍世王によって波瑠璃王などがたぶらかされて仏法の敵になった例を挙げられている。そしてこれらは、法華経を説くことを阻止するために、第六天の魔王が眷属とともに下り、提婆達多や阿闍世王、六大臣等の身に入って、釈尊に九横の大難等の迫害を加えたのであると述べられている。
祈禱抄でも、第六天の魔王が一切衆生の身に入って釈尊を迫害した理由を、次のように記されている。
「仏此の法華経をさとりて仏に成り、しかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり。此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入って、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり。所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追い、提婆が大石を放ち、旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき。されば道にはうばらをたて、井には糞を入れ、門にはさかむきをひけり。食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に。華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋れし、皆仏をあだみし故なり」(1345-18)。
法華経は三世十方の仏が成道した経典であり、一切衆生の仏性を開発し、仏に成しうる唯一の教えである。ゆえに釈尊は、この法華経を説くために、この世に出現したのであるが、釈尊が法華経を説いてしまえば一切衆生が成道し、三界六道から出てしまうために、元品の無明という第六天の魔王が人々の身に入って、釈尊の法華経の説法を阻止しようとしたのである。
法華経勧持品に「悪鬼は其の身に入って」とあるように、第六天の魔王に魅いられた提婆達多や阿闍世王は、魔力の命ずるままに釈尊と弟子達に迫害を加え続けたのである。
まず提婆達多が、賢王であり釈尊の大信徒であった頻婆沙羅王と、その子である阿闍世王との間を裂いて、ついに阿闍世に親殺しの罪業を犯させた。
阿闍世は、生誕の時から、父母に怨念を抱いていた子であった。人々は彼を未生怨と呼んでいた。
青年期に達した阿闍世に近づいた提婆達多は、出生にまつわる秘密を彼に語ることによって、幼児期以来、生命の深層に沈潜していた怨念を顕現させ、父王の殺害へと駆り立てたのである。
法蓮抄には「阿闍世王は十六大国の悪人を集め一四天下の外道をかたらひ提婆を師として無量の悪人を放ちて仏弟子をのりうち殺害せしのみならず、賢王にて・とがもなかりし父の大王を一尺の釘をもつて七処までうちつけ、はつけにし生母をば王のかんざしをきり刀を頭にあてし重罪のつもりに悪瘡七処に出でき」(1043-16)と記されている。
なお、頻婆沙羅王の死については、語訳に示したように飢えによるものとする説が有力であるが、いずれにせよ、第六天の魔王は、頻婆沙羅王のみならず、釈尊自身と弟子達の身にも及んだのであり、このため、釈尊は九横の大難を受け、また弟子達も生命に及ぶ種々の難を受けたのである。
九横の大難について
九横の大難については、大智度論巻九に次のように述べられている。
「問うて曰く、若し仏の神力無量にして威徳の巍々たること称説すべからずとせば、何を以ての故に九の罪報を受けたまうや。一には梵志の女、孫陀利は謗り、五百の阿羅漢も亦謗らる。二には旃遮、婆羅門女、木盂を繫けて腹を作り仏を謗る。三には提婆達、山を推して仏を圧し、足の大指を傷く。四には迸木脚を刺す。五には毘楼璃王、兵を興し、諸の釈子を殺す。仏は時に頭痛したまう。六には阿耆達多婆羅門の請を受けて馬麦を食したまう。七には冷風動ずるが故に背痛みたまう。八には六年苦行したまう。九には婆羅門の聚落に入り、食を乞うて得ず。空鉢にして還りたまう。復た冬至の前後の八夜、寒風竹を破り、三衣を索めて寒を禦ぎたまいしこと有り。又復た熱を患い、阿難は後に在って仏を扇ぎたてまつれり。是のごとき等の世界の小事、仏は皆之を受けたまえり」。
この文について、日寛上人は「開目抄愚記」のなかで、次のようにまとめられている。
「諸文に散在す。中に於ても大論及び興起行経分明なり。一には孫陀利が謗、二には旃遮女が謗、三には提婆推山、四には迸木刺脚、五には瑠璃殺釈、六には耆多馬麦、七には冷風背痛、八には六年苦行、九には乞食空鉢。その外、患寒、患熱、奢弥跋が謗、骨節痛等云々」。
その開目抄で、日蓮大聖人は、次のように述べられている。
「仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし、何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦廬提尊者は馬糞にうづまれ目犍尊者は竹杖にがいせらる」(0205-18)。
そこで、日蓮大聖人の挙げておられる九横の大難を、本抄の御文と関連づけながら述べてみよう。
①孫陀利の謗。外道の美女であった孫陀利が、外道にそそのかされて釈尊と関係があったといいふらしたこと。
②金鏘。釈尊が婆羅門城を乞食していた時に、下婢が臭い米汁を供養した。その果報を説いた釈尊が一人の外道から嘘だと謗られたこと。
③馬麦。阿耆多王の請いに応じた釈尊が五百人の弟子とともに毘蘭邑に行ったところが、王は遊び戯れて釈尊が来たことを忘れてしまい、90日間も食事が出されなかったので、馬の餌となる麦を食べて飢をしのいだという難。本抄には「仏はせめられて一夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり」と記されている。
④瑠璃の殺釈。波瑠璃王という舎衛国の王が、釈迦族を、過去の怨みから滅ぼしてしまったこと。本抄では「はるり王と申せし王は阿闍世王にかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす」と仰せである。
⑤乞食空鉢。釈尊が乞食行をしていた時、婆羅門城に入ろうとしたところが、王が人々に布施と法を聞くことを禁じたので、釈尊は乞食をしても誰も供養しなかったという難。
⑥旃遮女の謗。婆羅門の旃遮女が、釈尊が説法をしている時に、腹に鉢を入れて紐で巻き結んで、釈尊の子を身ごもったといって釈尊を誹謗したこと。なお、帝釈天が神通力でねずみになって紐をかみきったため、鉢が落ちてうそがばれてしまったという。本抄では「或は女人をかたらひて・そら事いひつけて」と述べられている。
⑦調達が山を推す。提婆達多が釈尊を殺そうとして耆闍崛山から大石を落とした難。その時、大石のかけらが釈尊の足の指に当たって血を出したという。本抄では「仏の御身より血を出せし上」といわれている。
⑧寒風に衣を索む。冬至前後に、八夜の間、寒風が吹きすさんで、釈尊は三衣を求めて寒さを防いだという難。
⑨阿闍世王の酔象を放つ。阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、悪象に酒を飲ませ、酔わせて釈尊の一行の中に放って釈尊を踏みつぶさせようとした難。本抄では「阿闍世王は酔象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ」と仰せである。
なお、本抄では提婆達多に打ち殺された蓮華比丘尼を「釈迦如来の養母」といわれているが、釈迦如来の養母摩訶波闍波提比丘尼とこの蓮華比丘尼は別人である。あるいは、義母と同じように大事にしていたという意味でこう仰せられたとも考えられる。
1538:08~1539:05 第三章 法華経の行者に大難あるを示すtop
| 08 かくやうやうになりての上・ いかがしたりけん法華経をとかせ給いぬ、 此の法華経に云く「而も此の経 09 は如来の現在にすら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」と云云、 文の心は我が現在して候だにも此の経の御かたきか 10 くのごとし、 いかにいわうや末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと説かれて候なり、 此れをもつておも 11 ひ候へば仏・ 法華経をとかせ給いて今にいたるまでは二千二百二十余年になり候へども・いまだ法華経を仏のごと 12 く・よみたる人は候はぬか、 大難をもちてこそ・法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教大師こそ法華 13 経の行者とは・みへて候しかども在世のごとくの大難なし、ただ南三・北七・南都・七大寺の小難なり、いまだ国主 14 かたきとならず・万民つるぎをにぎらず・一国悪口をはかず、 滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべ 15 く候なるに・同じほどの難だにも来らず・何に況やすぐれたる大難・多難をや。 -----― このように時が経ってきたのち、どうしたことか、法華経を説かれた。この法華経には「しかも、この経は如来の在世においてさえ怨嫉が多いのである。ましてや如来の滅度の後においては、なおさらである」とある。文の意は、私が現に存在していてさえも、この法華経の御敵はこのように怨嫉する。ましてや、末法の時代に法華経を一字一点でも説き、信じようとする人にはさらに激しい怨嫉が起こるであろう、と説かれているのである。これをもって考えると、仏が法華経を説かれてより今に至るまでは二千二百二十余年になるけれども、いまだ法華経を仏と同じように読んだ人はいないのではないか。大難にあってこそ法華経を知った人というべきであるのに、天台大師や伝教大師こそ法華経の行者と思われたけれども、釈尊在世のような大難はない。ただ南三北七の諸師から怨まれ、南都の七大寺の諸人から憎まれたといった小難である。いまだ国主は敵となっていないし、万民が剣を握って迫害したこともないし、一国の人々が悪口をはいてはいない。釈尊滅後に法華経を信ずる人は在世の大難よりもはるかに越えた大難を受けるはずであるのに、同じ程度の難さえも来ていない。ましてや在世に越えた大難や多難を受けているはずがない。 -----― 16 虎うそぶけば大風ふく・竜ぎんずれば雲をこる・野兎のうそぶき驢馬のいはうるに・風ふかず雲をこる事なし、 17 愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は 国もさわかず事もをこらず、 聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん 18 時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候、 今日蓮は賢人にもあらず・まして聖人は・おもひも 1539 01 よらず天下第一の僻人にて候が・ 但経文計りにはあひて候やうなれば 大難来り候へば父母のいきかへらせ給いて 02 候よりもにくきもののことにあふよりも・ うれしく候なり、 愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん 03 事こそ・うれしき事にて候へ、 智者たる上・二百五十戒かたくたもちて万民には諸天の帝釈をうやまふよりも・う 04 やまはれて・釈迦仏・法華経に不思議なり提婆がごとしと・おもはれまいらせなば・人目はよきやうなれども後生は 05 おそろし・おそろし。 -----― 虎がほえれば大風が吹く。竜が鳴けば雲が起こる。野兎がほえ、驢馬がいなないても、風も吹かず、雲が起こることもない。愚者が法華経を読み、賢者がその義を説く時は国も騒がず、何事も起こらない。聖人が出現して仏のように法華経を説くときは一国も騒ぎ、釈尊在世に越えた大難が起こるであろうと記されている。今、日蓮は賢人でもなく、まして聖人とは思いもよらない。天下第一のひねくれ者ではあるが、ただ経文にだけは符合しているようなので大難が起こって来たのであるから、父母が生き返られたよりも、憎い者が事故にあったよりも嬉しいことである。愚者でありながら、しかも仏に聖人と思われることこそ嬉しいことである。智者であるうえ二百五十戒を固く持って、万民には諸天が帝釈を敬うよりも敬われても、釈迦仏や法華経に「不審である。提婆達多のようだ」と思われたならば、人目はよいようであっても後生は恐ろしいことである。恐ろしいことである。 |
天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
―――
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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南三・北七
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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南都・七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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虎うそぶけば大風ふく・
弥勒上生経賛巻下に「虎嘯けば風生こる」とある。
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竜ぎんずれば雲をこる
文選王子淵四子講徳篇に「虎嘯いて風寥戻、龍起こって雲気を致す」とある。
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僻人
ひねくれ者。変わり者。悪人。
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二百五十戒
「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
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諸天
諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
―――――――――
本章では、先の釈尊在世の数々の難に対し、法華経法師品の「況滅度後」の文を挙げられ、如来の滅後に法華経を説く者に対しては、釈尊在世よりもさらに大きな難が競い起こるであろうと述べられていることを示され、そのとおりに大難にあっているのは日蓮大聖人だけであると、法華経身読の喜びを仰せられている。
滅後には釈尊の九横の大難よりも大きな難があることを、安楽行品では「一切世間に怨多くして信じ難く」といわれ、また勧持品では三類の強敵として記されている。
ところが、仏の滅後、大聖人御出現まで二千二百二十余年の間、法華経の行者といわれる天台大師・伝教大師も、その値った難は釈尊の九横の大難にさえ、はるかに及ばない。
天台大師の場合、南三北七の諸師から怨まれたものの、国主や一般の俗人から怨まれはしなかった。しかも、後には諸師達も天台大師の正しさを知って帰伏し、国中の人々が天台大師をあがめたのである。
伝教大師の場合も、南都七大寺の高僧から怨嫉され、悪口をいわれたという小難にとどまっている。国主や俗人が敵になったわけではない。しかも、この高僧達も、後には、公場対決を経て、伝教大師に帰伏したのである。
このように、天台大師・伝教大師の難は釈尊の難にさえ及ばず、まして「況滅度後」の経文とははるかに隔たっている。大聖人のみが、この「況滅度後」との法華経の予言を身読されたのである。
その理由は、愚者が法華経を読んだり、賢者が法華経を講義するぐらいでは、一切衆生が三界六道を出でて、仏に成ることはなく、ゆえに第六天の魔王が、激しい迫害を加えることはないからである。
しかし、聖人が出現して仏のように法華経を説けば、それによって、一切衆生がことごとく成道してしまう。そこで第六天の魔王は、その眷属とともに三界六道に下って九横の大難にも勝る留難を起こし、聖人に迫害を加え、法華経を説くのを妨げるのである。
したがって、人々から天下第一の僻人と思われている御自身こそが、法師品の「況滅度後」の経文通りに釈尊以上の大難に値っている「聖人」であると述べられ、これを大いなる喜びとされているのである。
「愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事」とは、日蓮大聖人が凡夫僧でありながら末法の御本仏であるということにほかならない。
それに対し、末法の法華経の行者に敵対し、迫害を加える良観の例を挙げられ、在世の提婆達多と同じであり、堕地獄は必定であることを示されている。
ここで「智者たる上・二百五十戒かたくたもちて……」と仰せられているのは、まぎれもなく良観である。
良観が「万民には諸天の帝釈をうやまふよりも・うやまはれて」いたことについては、「聖愚問答抄」にも「就中極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る」(0475-13)と記されている。
その良観が「釈迦仏・法華経に不思議なり提婆がごとしと・おもはれまいらせ」る人物であったとは、日蓮大聖人を、あらゆる手段を使って迫害したゆえである。
「下山御消息」には次のように仰せである。
「爰に両火房と申す法師あり身には三衣を皮の如くはなつ事なし、一鉢は両眼をまほるが如し二百五十戒堅く持ち三千の威儀をととのへたり、世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ」(0349-09)。
また「頼基陳情」では、良観が法華経の行者であられる日蓮大聖人を迫害し、その御生命を、権力を動かして奪おうとしたことについて、次のように述べられている。
「又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると。此の条難かむの次第に覚え候。其の故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙に之れ有り。抑生草をだに伐るべからずと、六斎日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157-06)。
まさに、提婆達多が釈尊の生命を奪おうとしたのと同じように、末法の御本仏・日蓮大聖人の御生命を断とうとしたのが良観であった。ゆえに提婆達多が地獄に堕ちたと同様に、良観の堕地獄も必定なのである。
それに対し、大聖人は、世間の人々からは、僻人であり愚者であると思われても、釈尊の予言・法華経の文を身読されているのであるから「仏に聖人とおもはれ」ていると仰せなのである。
ここに、僻人とは、ひねくれ者、変わり者という意味であるが、日蓮大聖人は、世間一般の人々からは僻人と思われていたのであり、なかんずく幕府の人々の共通の思いでもあったのである。
その理由を大聖人御自身、「弥源太殿御返事」で次のように述べられている。
「抑日蓮は日本第一の僻人なり、其の故は皆人の父母よりも・たかく主君よりも大事に・おもはれ候ところの阿弥陀仏・大日如来・薬師等を御信用ある故に、三災・七難・先代にこえ天変・地夭等・昔にも・すぎたりと申す故に・結句は今生には身をほろぼし国をそこない・後生には大阿鼻地獄に堕ち給うべしと、一日・片時も・たゆむ事なく・よばわりし故に・かかる大難にあへり、譬えば夏の虫の火にとびくばりねずみが・ねこのまへに出でたるが如し、是あに我が身を知つて用心せざる畜生の如くにあらずや、身命を失ふ事・併ら心より出ずれば僻人なり」(1226-01)。
日蓮大聖人は、すべての邪宗をさして、災難の根源であり無間地獄の因であると弾劾され、そのために迫害を受けられた。世間の人々から見れば、自ら災いを招く僻人としか映らなかったであろう。
しかし、大聖人が邪宗を破折し大難にあわれたのは、あくまで人々を正法に目覚めさせ成仏させるためであった。凡人には僻人と映っても、法華経の鏡に照らし、釈尊の仏眼をもってすれば、大聖人こそ末法の法華経の行者であり御本仏である。つまり、大難にあわれていることが真実の聖人の証なのである。それゆえに法華経の身読による留難を喜ばれているのである。
1539:06~1539:16 第四章 退転者の例を挙げ教誡するtop
| 06 さるにては殿は法華経の行者ににさせ給へりと.うけ給はれば・もつてのほかに.人のしたしきも・うときも日蓮 07 房を信じては・よもまどいなん・上の御気色もあしかりなんと・かたうどなるやうにて御けうくむ候なれば・賢人ま 08 でも人のたばかりは・おそろしき事なれば・一定法華経すて給いなん、 なかなか色みへでありせば・よかりなん、 09 大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり。 -----― ところで、殿が法華経の行者に似ていると伝え聞くと、思いのほかに親しい人も疎遠な人も「日蓮房を信じては、さぞかし苦労するであろう。主君のおぼえも悪かろう」と味方のようなふりをして教訓する。そうすると、賢人でさえも人の謀りごとは恐ろしいことなので、必ず法華経を捨てられるであろう。かえってそぶりを見せない方がよいであろう。大魔がついた者達は、一人を教訓して退転させたときは、それをきっかけにして多くの人を攻め落とすのである。 -----― 10 日蓮が弟子にせう房と申し.のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは.よくふかく・心をくびやうに・愚 11 癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしな 12 り、 殿もせめをとされさせ給うならば・するがにせうせう信ずるやうなる者も・又信ぜんと・おもふらん人人も皆 13 法華経をすつべし、 さればこの甲斐の国にも少少信ぜんと申す人人候へども・ おぼろげならでは入れまいらせ候 14 はぬにて候、なかなかしき人の信ずるやうにて・なめりて候へば人の信心をも・やぶりて候なり。 -----― 日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などという者達は、欲深く、心は臆病で、愚癡でありながら、しかも智者であると名乗っていた連中だったので、事が起こったときには機会を得て多くの人を退転させたのである。殿も攻め落とされるならば、駿河の国で少々信じているような者も、また信じようと思っている人人も皆、法華経を捨てるであろう。それゆえ、この甲斐の国にも少々信じようという人々はいるけれども、はっきりしないうちは入信させないでいる。なまじっかな人が信心しているような格好をして、いいかげんなことをしていくときには、人の信心をも破ってしまうのである。 -----― 15 ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じた 16 りと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候、 -----― ただ放って置きなさい。梵天や帝釈等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。その時、私も本から信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。 |
せう房
大聖人の御書には、しばしば出てくるが、少輔房という名は位による通称で、ここでいわれているのがだれか、はっきりしたことはわからない。はじめ日蓮大聖人の門下であったが、伊豆の法難の頃から退転し、ついに大聖人に敵対したらしい。「種種御振舞御書」等には、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉に随って、先頭に立って松葉ヶ谷の草庵を襲い、法華経の第五の巻で大聖人の面を打った少輔房のことが書かれているが、これは全く別人であろうと思われる。
―――
のと房
三位房、少輔房等とともに、はじめ大聖人門下であったのが、のち退転し法罰をうけたと、御書にしばしば述べられているが詳しくは明らかではない。一説によれば、文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷の襲撃に際し、進士太郎とともに敵とたたかって、大聖人をお護りしたとある。その後、退転したものであろう。
—――
なごの尼
名越遠江守朝時の妻といわれ、御書中での大尼、領家の尼と同一人物とされる。日蓮大聖人のお生まれになった小湊に隣接する名越領家の大尼で、早くから大聖人に帰依したが、竜の口の法難の頃から一時、退転していた。だが文永12年(1257)頃、改悛し新尼を介して本尊の下付を願い出たが、大聖人は仏法の厳しさを教えられ下付を許されなかったことが御書にみえる。また、その後、ある人が名越の尼に会ったところ、天台法門を自讃していたので、その人が名越の尼を責めたと「王舎城事」にある。
上の御気色
地位の高い人の御機嫌。
―――
せう房
大聖人の御書には、しばしば出てくるが、少輔房という名は位による通称で、ここでいわれているのがだれか、はっきりしたことはわからない。はじめ日蓮大聖人の門下であったが、伊豆の法難の頃から退転し、ついに大聖人に敵対したらしい。「種種御振舞御書」等には、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉に随って、先頭に立って松葉ヶ谷の草庵を襲い、法華経の第五の巻で大聖人の面を打った少輔房のことが書かれているが、これは全く別人であろうと思われる。
―――
のと房
三位房、少輔房等とともに、はじめ大聖人門下であったのが、のち退転し法罰をうけたと、御書にしばしば述べられているが詳しくは明らかではない。一説によれば、文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷の襲撃に際し、進士太郎とともに敵とたたかって、大聖人をお護りしたとある。その後、退転したものであろう。
—――
なごの尼
名越遠江守朝時の妻といわれ、御書中での大尼、領家の尼と同一人物とされる。日蓮大聖人のお生まれになった小湊に隣接する名越領家の大尼で、早くから大聖人に帰依したが、竜の口の法難の頃から一時、退転していた。だが文永12年(1257)頃、改悛し新尼を介して本尊の下付を願い出たが、大聖人は仏法の厳しさを教えられ下付を許されなかったことが御書にみえる。また、その後、ある人が名越の尼に会ったところ、天台法門を自讃していたので、その人が名越の尼を責めたと「王舎城事」にある。
―――
するが
駿河国のこと。東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
―――
甲斐の国
甲州ともいう。山梨県のこと。
―――
なめりて
馬鹿にしてかかる。甘く見る。
―――
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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これまで述べられたように、国中の人々が憎んでいる日蓮大聖人の門下・信徒となって信心に励む南条時光に対し、信心をやめさせようとする者がいるのは当然である。事実、親切ごかしに、信心をやめるよう教訓してきた者がいるとの報告に対して、具体的に、どのように対処すればよいのかを指示され、そうした難に立ち向かう心構えを指導されている。
魔というものは、味方をよそおって教訓し、法華経を捨てさせようとするのであるから、このような言葉にたぶらかされてはならない。さらに魔は、まず一人を説き落として退転させ、それを、とつかかりにして、次々と多くの人を退転させようとするものであることを、少輔房、能登房、名越の尼等の退転者の実例を挙げて示されている。ゆえに、時光が退転するようなことがあれば、駿河方面の人々の退転が相次ぐであろうこと、また、それゆえに大聖人は、甲斐方面では、よほど信心の決定した者でなければ入門させないでいると述べられている。それは、大聖人が、生半可な信心で増上慢に陥って他の信者を惑わす者がいることを見抜かれてのことである。
「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」との御文は、退転者の先例として、しばしば大聖人は挙げられている。
「聖人御難事」でも、次のように述べられてる。
「此れはこまごまとかき候事はかくとしどし月月日日に申して候へども、なごへの尼・せう房・のと房・三位房なんどのやうに候をくびゃう物をぼへず、よくふかくうたがい多き者どもは、ぬれるうるしに水をかけ、そらをきりたるやうに候ぞ」(1191-02)。
本抄と「聖人御難事」の御文と共通して挙げられている退転の原因は、欲深いことと、心が臆病であることである。
次に本抄では〝愚者でありながら自分では智者と名乗っている増上慢〟を挙げられ、それに対して聖人御難事では「物をぼへずうたがい多き」者を挙げておられる。「物をぼへず」と「愚癡」とはほぼ同じであるが、一方は「うたがい多き」他方は「智者となの」るという違いがある。しかし、これも結局、自分を智者と思い上がるところから、大聖人の教えを素直に信じられない「うたがい」となるのであるから同じと考えてよいであろう。いずれも、信心を求める真摯な心がなく、大聖人の仏法に疑いをはさみ、我見で解釈し、さも智者のように振る舞う慢心の行為をさしておられる。
本抄で挙げられた少輔房、能登房、名越の尼達は、いずれも欲深く臆病であり、自分の愚かさがわからず、智者と名乗っていた者であり、竜の口の法難や、伊豆流罪、佐渡流罪等の大聖人の大難に出あって、もろくも退転していった者達である。
少輔房については、法門申さるべき様の事のなかに「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし」(1268-08)との御文があり、京に上って学んだと思われる。しかし、元来、欲深く臆病であったところへ、名聞名利におかされて自身を智者になったかのように錯覚したのであろう。
また「弁殿御消息」では、能登房についても、少輔房とともに、欲深きこと、臆病さを挙げられている。
「のと房はげんに身かたで候しが・世間のをそろしさと申し・よくと申し・日蓮をすつるのみならず・かたきとなり候ぬ、せう房もかくの如し」(1225-10)。
名越の尼については、新尼御前御返事には「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき」(0906-17)とあり、竜の口の法難、佐渡流罪の際に退転したといわれている。その後、大聖人の弟子が尼御前に出会ったところ、天台法門を自賛していたので、その弟子が彼女を責めたことが、「王舎城事」に述べられている。
「名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞えて候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむにせめて候けると承り候」(1137-15)。
彼女も、天台法門を自賛するなど智者ぶっていたのであろう。
さて、日蓮大聖人が少輔房等の退転者に共通の原因として挙げられていることのなかで、第一に「欲深いこと」とは、目先の利益に迷って信心を破ってしまうことをさしている。
第二に「心が臆病であること」とは、迫害の恐ろしさに信心を貫き通す勇気をなくしてしまうことを意味している。
そして第三に「物おぼえず」とは、大聖人が常に指導されていることが身につかず、他人事のように聞いてすぐ忘れてしまうのである。
また愚癡でありながら智者と名乗るのは、自らの愚かさを自覚することもできず、智者のように錯覚してしまうものである。
求道心が失われて増上慢に陥っているために、大聖人の指導を素直に真剣に聞こうとせず、疑ってかかるので「疑い多き者」となるのである。
これらのことから逆に、不退転の信心にとって何が大切であるかが明らかであろう。
第一に、目先の浅薄な利害にまどわされず、ひたすらに自身の一生成仏を大目的として信心を全うすることである。
第二に、いかなる難にも破られない勇気を奮い起こすことである。魔と戦う勇気ある信心を貫く人は、大聖人の御指導を生命に刻印し、けっして忘れることがないのである。
第三に、どこまでも求道心を燃やして、謙虚に大聖人の教えを求め、実践していくことである。
このような信心の心構えが、難にくじけず、一生成仏を成し遂げるための鍵といえよう。
ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし
日本中の人々が皆、妙法を信仰するようになる、広宣流布の時が必ず来るとの仰せである。
「諸法実相抄」の「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)との御文と同意である。
そして、その広宣流布の時を招来する条件として「梵天・帝釈等の御計として」といわれているのは、「撰時抄」に「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて……前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時……一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259-08)と述べられている。
広宣流布の時は必ず来るのであり、それは仏法の厳しい法理であるとの大確信の御言葉である。
1539:16~1540:17 第五章 信心の心構えを教え激励するtop
| 16 御信用あつくをはするならば・ 人ためにあらず我が故父の御 17 ため・人は我がをやの後世には・かはるべからず・子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ、郷一郷・知る 18 ならば半郷は父のため・半郷は妻子・眷属をやしなふべし、我が命は事出できたらば上に・まいらせ候べしと・ひと 1540 01 へにおもひきりて何事につけても・言をやわらげて法華経の信を・うすくなさんずる・やうを・たばかる人出来せば 02 我が信心を・こころむるかと・おぼして各各これを御けうくんあるは・うれしき事なり、 ただし御身のけうくんせ 03 させ給へ、上の御信用なき事は・これにもしりて候を上をもつて・おどさせ給うこそをかしく候へ、 参りてけうく 04 ん申さんとおもひ候つるに・うわてうたれまいらせて候、閻魔王に我が身と・いとをしとおぼす御めと・子とを・ひ 05 つぱられん時は・時光に手をやすらせ給い候はんずらんと・にくげに・うちいひて・おはすべし。 -----― 御信心を厚くしておられるならば「人のためではなく、自分の亡き父親のためである。他人は我が親の後世については、替わって弔うことはできない。子であればこそ、自分が亡き親の後世を弔うことができるのだ。郷を一郷治めるならば、半郷は父親のために、そして半郷は妻子や眷属を養うためであるべきである。私の命は事が起こったならば主君に差し上げよう」と偏えに覚悟して、何事に対しても言葉を和らげて、法華経の信心を薄くしようとすることを企む人が出て来たらば、私の信心を試みているのかと思って「あなた方が私を御教訓してくれるのは嬉しいことである。しかし、御自身を教訓なされるがよい。主君が御信用でないことは私も知っているのに、主君を持ち出して脅されることこそ、おかしいことである。出かけて行って教訓しようと思っていたのに先手を打たれてしまった。閻魔王に自身とかわいく思っている妻子とが引っぱられるときは、時光に手を摺りあわせられることであろう」と憎らしげに、いいおかれるがよい。 -----― 06 にいた殿の事まことにてや候らん、 をきつの事きこへて候、殿もびんぎ候はば其の義にて候べし、かまへてお 07 ほきならん人申しいだしたるらんは・あはれ法華経のよきかたきよ、 優曇華か盲亀の浮木かと・おぼしめして・し 08 たたかに御返事あるべし。 -----― 新田殿のことは本当であろうか。沖津殿のことは聞いている。殿も機会があれば、その道理を貫きなさい。心して大身の人がいってきたときには「ああ法華経のよい敵よ。優曇華の咲くのにあい盲亀の浮木あうかのような機会である」とお考えになって、したたかに御返事なされるがよい。 -----― 09 千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、 今度法華経のために命をすつ 10 る事ならば・なにはをしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間・やきつくして仏になり給い・檀王は千歳が間・身 11 をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし、 されば・ひが事をすべきにはあらず、今はすてなば・かへり 12 て人わらはれになるべし、 かたうどなるやうにて・つくりおとして、 我もわらひ人にもわらはせんとするがきく 13 わいなるに・よくよくけうくんせさせて人のおほくきかんところにて・ 人をけうくんせんよりも我が身をけうくん 14 あるべしとて・かつぱとたたせ給へ、 一日二日が内にこれへきこへ候べし、 事おほければ申さず又又申すべし、 15 恐恐謹言。 16 建治三年五月十五日 日蓮花押 17 上野殿御返事 -----― 千町、万町を治める人でも些細なことにたちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる。このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろう。薬王菩薩は身体を千二百歳の間、焼き尽くして仏になられ、須頭檀王は千年の間、身を床として今の釈迦仏といわれるようになられたのである。 したがって、心得違いなことをすべきではない。今、信心を捨てたならば、かえって人に笑われることになるであろう。 味方のようなふりをして偽って退転させ、自分も嘲笑し人にも笑わせようとするけしからぬ者達に、よくよく教訓させておいて「人が多く聞いているところで人を教訓するよりも自分の身を教訓しなさい」といって勢いよく座を立たれるがよい。 一両日のうちに、こちらに報告しなさい。事が繁多なので、これ以上はまたの機会に申し上げよう。恐恐謹言。 建治三年五月十五日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
閻魔王
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
―――
にいた殿
生没年不明。新田四郎信綱のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒。伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡函南町畑毛)に住した。本領は陸奥国登米郡(宮城県登米市)の上新田であったが、一族は多く北条家に仕え伊豆に領地を賜っていた。信綱は日目上人の兄にあたる。母の蓮阿尼は南条家の人であり、妻は南条時光の姉であった。これらの関係から信綱は日興上人および南条時光に導かれて大聖人に帰依し、信行に励んだ。日興上人身延離山後は南条時光とともに大石寺の建立、外護に活躍した。
―――
をきつ
駿河国庵原郡(静岡県清水市興津)にあった地名と思われる。ここには、当時、日蓮大聖人の弟子の浄蓮坊等が住んでいたといわれるので浄蓮坊を指すことも考えられる。ここで「をきつの事」といわれているのが、どういう内容なのかは不明である。
―――
おほきならん人
①大身の人。②身分の高い人。
―――
優曇華
梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
―――
盲亀の浮木
一眼の亀が浮木の穴に入ること。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。正法に巡りあい、受持することの難しさを、一眼の亀が海中の浮木にあうことの難しさに譬えたもの。きわめて稀なことの譬えに用いられる。雑阿含経巻十五等にも説かれる。「松野殿後家尼御前御返事」に詳しい。
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千丁・万丁
広さをはかる単位。「丁」は通常「町」と書く。一町は3600坪であったが、豊臣秀吉により3000坪に改められている。すなわち大聖人時代の一町は11900㎡で、現在では9917.4㎡。千町は×1000㎡、万町は×10000。
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薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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檀王
須頭檀王のこと。釈尊の過去世の因位の修行中の名。正法を求めるために王位を捨て、千歳の間、阿私仙人を師として、果を採り、水を汲み、薪を拾い、身を師の牀座とするなどして仕えた。法華経提婆達多品第十二に説かれる。
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味方のようによそおって退転を勧める、えせ教訓者に対して、どのような態度をとるべきかを具体的に教示されている。
まず〝信心は故父への回向供養のためであり、一つの郷の知行から得られる収入は、半分は故父のため仏法への供養に使い、残りの半分を妻子眷属のために使って、自身の生命は主君に捧げよう〟と腹を決めなさいといわれている。
そして、法華経の信心を退転させようとする者に対しては、自分の信心を試そうとしているのだと思って「私のことを心配して教訓してくれるのはありがたいが、それよりも自分の身のことを心配しなさい。幕府が正法に背いていて、信心している者を快からず思っているのは先刻承知で、それを引き合いに威すのはこっけいである。あなた方にはこちらから仏法を教え教訓に行こうと思っていたが、先手をとられてしまった。あなた方は正法に背いて家族もろとも地獄に堕ちた時は、きっと私に助けを求めるでしょう」と、逆に教訓すべきであると仰せである。
次に新田四郎のこと、沖津のことについては、内容は不明であるが、文脈からすれば、難に耐えて法華経の信心を貫き、迫害と戦ったと推測され、時光にも、毅然たる信心を貫くよう激励されている。
そして、薬王菩薩や檀王の例を挙げられ、不惜身命の信心こそ成仏の鍵であり、むしろ難を喜ぶべきであると教えられている。
最後に、彼らは、味方のようによそおって退転させてから、皆で嘲笑するものであるから、その本質を見抜いて相手に十分にいわせておいたうえで「大勢の人の聞いているところで人を教訓するよりも、自分の身こそ教訓しなさい」と破折して席を立てと仰せである。
本抄をしたためられた建治三年といえば、日興上人を中心に熱原方面での折伏が盛んに進められていた時で、やがて二年後に起こる熱原法難の嵐の前兆ともいうべき姿が、時光の身辺にもあらわれていたことがうかがわれる。
1537~1440 上野殿御返事(梵帝御計事)(2012:09月号大白蓮華より 先生の講義top
青年が歴史を変える。本物を育てよ!
私の心は、いつも「青年」でいっぱいです。
奮闘している青年の様子を聞くと、私は、居ても立ってもいられなくなる。
何かしてあげたい。何でもしてあげたい。
初代会長牧口先生も、青年を誰よりも愛し、大事にされた方でした。
戦時中の勤労動員で、多数の青年が集まる工場が多摩地区にありました。そこで懸命に働きながら仏法を求め、弘教に励むメンバーのもとへ、牧口先生は何度も訪れ、激励された。そして、官憲の厳しい監視下にあって、職場の食堂で、日蓮大聖人の仏法の正義を訴える講演を度々されたのです。
それは70年前の昭和17年(1942)牧口先生、戸田先生が、軍部権力により投獄される前年のことでした。
また東京で入会したある師弟のため、両親を折伏しに、牧口先生お一人で何時間もかけて、福島の地を訪れたのも、同じ年でした。
どこまでも青年のために!この牧口先生の心を、誰よりも深く、御存知であったのが戸田先生です。
第1回男子青年部総会で、広宣流布の意気に燃える青年の姿を、それはそれは嬉しそうに、ご覧になっていた。
「恩師・牧口先生が、この場にいたら、どんなに喜んだことだろうか。先生にひと目、このようすをお見せしたかった。ほんとうに私は泣けます」
戸田先生「諸君は世界的指導者」
そして、こう強く宣言された。
「釈迦が永遠の生命を感得し、バラモンの教義を破って、仏法を建立したとき、その闘争に参加したのも、みな青年である。
青年の意気と力とは、実に世界の歴史を変えていくのです」
「根本の哲学は、生命哲学である」「我々の哲学は…世界のいっさいの科学を指導する、最高の哲学である。諸君は、世界的指導者なのです」と。
世界第一の妙歩を持つ青年は、新時代を開く、世界第一級の指導者なり!
ここに、わが創価学会の大確信があります。「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」(0465-18)と仰せの通りです。
今回は、青年門下・南条時光に与えられた「上野の御返事」を拝読します。
大聖人は、一人の青年をどのように励まし、育てられてきたのか。「青年学会」の魂となる人材育成の戦いを学んでいきましょう。
| 01 五月十四日にいものかしら一駄・わざとおくりたびて候、当時のいもは人のいとまと申し珠のごとし・くすりの 02 ごとし、さてはおほせつかはされて候事うけ給わり候いぬ。 -----― 五月十四日に里芋を一駄わざわざ送っていただいた。今時分の芋は忙しいときでもあり、貴重であること宝珠のようであり、薬のようである。さて、仰せつかわされたこと承知した。 |
時光を父親のように励ます
物資の乏しい身延で過ごされている大聖人の元へ、南条家から届いた御供養の品、そこに込められた真心に、心からの感謝を述べられています。「いものかしら」とは、里芋の株の中心にある親芋のことです。旧暦の5月です。米の乏しい時期ゆえに師匠へお届けしたものと考えられます。
また、南条家は当時、地元の富士浅間神社の修復作業に、人手や寄付など、かなりの負担が課せられていたようです。余裕のないなかで命をつなぐ糧として届けられたであろうことを思い遣られて、芋の一つ一つを、大聖人は「珠のようだ」「薬のようだ」と、感謝されています。
本抄をいただいた建治3年(1277)時光は数えで19歳、一家の地域を支える柱として、広布のリーダーとして、いよいよ本格的に活躍しゆく年齢を迎えていました。大聖人は、父親代わりのように、育み、励まされていきます。
しかも建治年間は、「立正安国論」の予言が的中し、日蓮大聖人の一門は大きく発展していました。と同時に、これをこころ快く思わない諸宗の高僧や、幕府要人が謀略を企て、一門の迫害が、いや増して激しくなります。池上兄弟の兄の勘当や四条金吾への主君への圧力は、こうしたなかで起こったものでした。
そして、日興上人を中心として弘教が進んだ駿河の地でも、後に熱原の法難へと発展する迫害が惹起しています。青年門下・南条時光にも、信心を妨げようとする障魔が、執拗につきまとっていた。本抄は、そうした状況の報告を受けて、「信心で勝つ」ための要諦が示されたお手紙と拝されます。
| 07 びんばさら王と申せし王は賢王なる上・仏の御だんなの中に閻浮第一なり、しかもこの王は摩竭提国の王なり、 08 仏は又此の国にして法華経を・とかんとおぼししに・ 王と仏と一同なれば一定法華経とかれなんとみへて候しに、 09 提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たよりなかりしかば・とかうはかり 10 しほどに・頻婆沙羅王の太子阿闍世王をとしごろとかくかたらひて・ やうやく心をとり・をやと子とのなかを申し 11 たがへて・阿闍世王をすかし父の頻婆沙羅王をころさせ・ 阿闍世王と心を一にし提婆と阿闍世王と一味となりしか 12 ば・五天竺の外道・悪人.雲かすみのごとくあつまり・国をたび.たからをほどこし・心をやわらげすかししかば・一 13 国の王すでに仏の大怨敵となる、欲界・第六天の魔王・無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・ 14 六大臣等の身に入りかはりしかば・形は人なれども力は第六天の力なり、 大風の草木をなびかすよりも・大風の大 15 海の波をたつるよりも・大地震の大地をうごかすよりも・ 大火の連宅をやくよりも・さはがしくをぢわななきし事 1538 01 なり。 -----― 頻婆沙羅王という王は賢王であるうえ、釈尊の信者の中では世界第一であった。しかも、この王は摩竭提国の王であった。 仏はまたこの国において法華経を説こうと思われたときに、王と仏との思いが一致していたので必ず法華経がとかれるであろうと思われた。ところが、提婆達多という人は、何とかしてこの事をだめにしようと企てたが、すべてうまくいかなかったので、あれこれと画策した。そうして頻婆沙羅王の太子である阿闍世王を数年の間さまざまに説得して、しだいに心を把み、親と子との仲を違えさせ、阿闍世王をだまして父の頻婆沙羅王を殺させた。提婆達多が阿闍世王と心を一つにし一味となると、全インドの外道や悪人が雲霞のように集まり、それらに国を与え財を施し、心を和らげ機嫌をとったので、一国の王はすっかり仏の大怨敵となってしまった。欲界の第六天の魔王が量り知れないほどの眷属を引き連れて打ち下り、摩竭提国の提婆達多や阿闍世王や六大臣等の身に入り替わったので、形は人間であっても力は第六天の魔王の力であった。大風が草木をなびかすよりも、大風が大海の波を立てるよりも、大地震の大地を動かすよりも、大火が連なる家々を焼くよりも、人々はさわがしく畏れおののいたのである。 |
悪僧と悪王が仏の大怨敵に
時光の信心を妨げようとする魔の働きは、身近なところから起こってきたようです。大聖人は、青年門下に、仏法は「仏と魔との戦い」であること、魔は人々の分断を企むことを教えられていきます。魔は、魔と見破れば、力を発揮できなくなる。戸田先生は「いかなる大難に遭うとも『これが魔だ!』と見破れば後は勇気百倍して乗り切れるのでる」と教えてくださいました。魔に打ち勝つには、まず、その本性を見抜くことです。
大聖人は、いかに悪人が人々の心をたぶらかし、賢人であっても防ぐことが難しいかを中国の尹吉甫の故事を通して述べられ、次いで、正法の実践を魔が妨げる例として、釈尊在世の大難が挙げられます。
すなわち、釈尊が受けた大難は、法華経を説かせまいとして、提婆達多が画策したものであると、次のように示されています。
マカダ国の頻婆沙羅王が、仏法を保護したため、提婆達多の画策は、最初はうまくいかない。そこで提婆達多が目を付けたのが、太子である阿闍世王であった。数年がかりで阿闍世王をだまして、ついには父の頻婆沙羅王を殺させた。阿闍世王と提婆達多が結託して国を支配するようになると、全インドから悪人たちが、雲を涌くように集まってきた。そして、彼らを養うなどして、一国の王はすっかり、仏の大怨敵となってしまった。
このことを大聖人は、第六天の魔王が、提婆達多や阿闍世王や、6人の大臣らの身に入り変ったのであると仰せです。「形は人なれども力は第六天の力なり」 法華経勧持品に説かれる「悪鬼入其身」の姿そのものです。
この「第六天の力」が、国土や人衆に及ぼす影響は甚大であり、暴風などに襲われたよりも騒々しく、国中が恐れおののく、釈尊および弟子、一族への迫害が、やりたい放題に行われ、あまりのひどさに、人々は「仏の御力であっても、悪人にはかなわない」とまで思ってしまった。提婆達多が蓮華比丘尼を殺し、仏の身を傷つけて血を出させても、仏の味方になる人は誰もいなかった。
こうした内容を通して、本抄では、魔は人々を分断して、立ち上がる心を奪おうとすると教えられています。魔は正義の人を嫉み、迫害されている姿を喜びとする。その結果、多くの人々の心が破壊されてしまうのです。
法華経は滅後の大難を予言
しかし、釈尊はついに法華経を説きます。仏の民衆救済の願いは、いかなる魔王の働きにも奪われることはないからです。仏とは、魔との戦い、勝利する人の異名です。
そして、この法華経において、釈尊は「猶多怨嫉・況滅度後」の原理を示します。仏滅後の悪世に法華経の敵が寄せる難は、釈尊の時代の比ではない。この一節は「況滅度後」の大難の中で、末法の民衆のために立ち上がる「本物の人」へ呼びかけている経文です。
このことを受けて大聖人は、法華経が説かれて現在まで「いまだ法華経を仏のごとく・よみたる人は候はぬか」と仰せられます。天台大師・伝教大師でさえも、釈尊ほどの大難を受けてはいない。国主が敵となり、万民が剣を握り、一国中で悪口を吐くような難はなかったと仰せです。
第六天の魔王とは、元品の無明という、生命に本然的に具わる根本の迷いの働きです。これを打ち破らない限り、本当の勝利はありません。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751-15)と仰せの通り、打ち勝つ力は「信心」しかない。仏法はどこまでも、仏と魔との戦いです。だからこそ常に信心を強め、仏の生命を躍動させていくしかありません。
「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)との御指導は、永遠の指針です。
門下全体に障魔が競っている時だからこそ、大聖人は、この「戦いを続ける心」「魔に打ち勝つ信心」を、何としても時光に教えようとされたとも拝されます。逆境を跳ね返す強さをもって「本物の信仰者」育ってほしいとの心情が、本抄全編から伝わってきます。
| 16 虎うそぶけば大風ふく・竜ぎんずれば雲をこる・野兎のうそぶき驢馬のいはうるに・風ふかず雲をこる事なし、 17 愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は 国もさわかず事もをこらず、 聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん 18 時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候、 今日蓮は賢人にもあらず・まして聖人は・おもひも 1539 01 よらず天下第一の僻人にて候が・ 但経文計りにはあひて候やうなれば 大難来り候へば父母のいきかへらせ給いて 02 候よりもにくきもののことにあふよりも・ うれしく候なり、 愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん 03 事こそ・うれしき事にて候へ、 -----― 虎がほえれば大風が吹く。竜が鳴けば雲が起こる。野兎がほえ、驢馬がいなないても、風も吹かず、雲が起こることもない。愚者が法華経を読み、賢者がその義を説く時は国も騒がず、何事も起らない。聖人が出現して仏のように法華経を説くときは一国も騒ぎ釈尊在世に越えた大難が起こるであろうと記されている。今、日蓮は賢人でもなく、まして聖人は思いもよらない。天下第一のひねくれ者ではあるが、ただ経文にだけは符合しているようなので大難が起こって来たのであるから、父母が生き返られたよりも、憎い者が事故にあったよりも嬉しいことである。愚者でありながら、しかも仏に聖人と思われることこそ嬉しいことである。 |
大難を「うれしく候なり」
真正の「法華経の行者」として生き抜く、真正の「人生の喜び」を教えられています。
虎や竜が動けば、大風が吹き、雲が動きます。しかし、野兎や驢馬が叫んでも、風も雲も変化はありません。大聖人は、たとえ法華経であっても、愚者・賢者が読んだ時は一国に変化はないが、聖人が読んだ時は、一国に騒ぎが生じ、大難が起こると言われています。
ここで大事なことは、単に世間的な評価によって「愚者」か「聖人」かを立て分けられているのではないということです。大聖人は、当時の世間からは「僻人」と見られている。
しかし、経文通りに戦い、経文通りに大難を受けられた。それこそが、仏から「聖人」とみられるにふさわしいことである、と仰せです。反対に、世間から尊敬を集めている「智者」のような存在であっても、仏から「提婆のようだ」と思われたら、後生はおそろしいと仰せです。これは極楽寺良観らが法華経の行者の敵となり、民衆を苦しめている姿を示された御文です。
要するに、仏から見た基準は「仏のごとく法華経を談ぜん」「経文計にてはあひて候」と仰せられているように、どこまでも、如説修行。 仏の説いた経文の通りの実践があるかどうか、なのです。
そして、大聖人は経文を身読し、大難にあったことを「うれしく候なり」と仰せです。
経文身読の喜び、それは、万人成仏の願いを、この現実世界に実現する闘争に生きる喜びです。「仏のごとく」、すなわち、仏の使いとして同じ戦いをする喜びにほかなりません。一人の人間として最高の仏法を行じ、自分に縁した人の仏の生命を開いていく。これに勝る人生の喜びはないのでしょうか。
私たちで言えば、広宣流布の「拡大」の喜びです。「対話」の力で、自他共の幸福を開き、地涌の使命を果たしゆく以上の生命の大歓喜はありません。
大聖人は、この妙法弘通の喜びを、御自身の法戦を通して、青年・時光に教えられたのです。他の御抄でも大聖人は仰せです。
「かへす・がへす人のせいしあらば心にうれしくおぼすべし」(1512-06)くれぐれも申し上げるが、信心を妨げようとする人が制止してきたならば、これこそ内心では嬉しく思いなさい。
「人もそしり候へ・ものともおもはぬ法師等なり」(1510-02)人が謗るであろうが、我ら日蓮一門は、それらを、ものとも思わぬ法師なのである。
世間がどう思おうと、大切なのは自分です。全部、正法に照らした、自分自身の行動で決まるのです。青年の時代は、どうしても周囲の評価を気にしがちですが、大事なことは、自分自身がどう生きたかです。戸田先生はよく、「大聖人の御おぼえめでたあらんと願うべきである」といわれました。
また、戸田先生は峻厳にして誇り高き創価の信心をつぎのように語られています。
「『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』(0237-08)との御聖言は、真の仏法を広布せんことを念願する創価学会初代会長牧口常三郎先生が、常に座右の金言となされていた御心条であった。
先生は文字のとおり、法華経のためならばいかなる非難・迫害も恥ではない。愚人にほめられることこそ第一の恥であり、反対にいえば、聖人にほめられたるこそ第一の栄光なりとのご信念にもとづいて、法華経の肝心の広布ゆえに牢獄の露と消えられたのである。日蓮大聖人の仏法を信ずる者は、これこそ第一の亀鑑であると信ずるものである。
大聖人が時光に教えられた法華経の行者の誉れは、そのまま、学会の師弟を貫く“背骨”の大精神です、この誉れの実践を貫いたからこそ、学会はあらゆる戦いに勝利し、発展してきたのです。
| 06 さるにては殿は法華経の行者ににさせ給へりと.うけ給はれば・もつてのほかに.人のしたしきも・うときも日蓮 07 房を信じては・よもまどいなん・上の御気色もあしかりなんと・かたうどなるやうにて御けうくむ候なれば・賢人ま 08 でも人のたばかりは・おそろしき事なれば・一定法華経すて給いなん、 -----― ところで、殿が法華経の行者に似ていると伝え聞くと、思いのほか親しい人も疎遠な人も「日蓮房を信じては、さぞ苦労するであろう。主君のおぼえも悪かろう」と味方のようなふりをして教訓する。そうすると、賢人でさえも人の謀りごとは恐ろしいことなので、必ず法華経を捨てられるであろう。 -----― 15 ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じた 16 りと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候、 -----― ただ放って置きなさい。梵天や帝釈のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。その時、私も本から信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。 |
魔は巧みに退転へと仕向ける
ここからは、時光が置かれた状況に照らし、具体的な対処の仕方、注意点をアドバイスされています。
南条家は、鎌倉幕府の御家人です。時光が幕府の迫害の中で大聖人の門下であり続けることは、どれほど大変なことであったか。親類縁者などから、たしなめられるようなこともあつたにちがいない。
「日蓮を信用すると、さぞかし困ることになるだろう。主君のご機嫌も宣しくないであろう」と、味方のような顔をして忠告してくる。すると、賢人でさえも計略に乗せられてしまうのだから、若いあなたは、きっと法華経を捨てるようになる。こう警告されています。
そして大聖人は、正法弘通を阻もうとする魔の働き、その構図を明らかにされます。
「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」魔に付け入られた者たちは、一人を説き落して退転させ、それをとりかかりにして、多くの人を責め落とすのです。
その例として大聖人は、少輔房・能登房・名越の尼を挙げられます。この人たちは、「欲が深く」「心が臆病で」「愚癡で」「自分は智者だと傲る」者たちであったと仰せです。魔に心を食い破られるのは、格好ばかりに、見せかけだけの信心の輩です。そうした者たちは、難を受けるとすぐに逃げ出し、今度は逃げた自分を正統化するために言葉巧みに他人を退転させるのです。
大聖人は、そうした批判者の構図を示された後、時光にこう仰せになります。
もし殿が、味方のふりをした忠告に説き落されるならば、駿河の国で少々信じている者も、また、これから信じようとする人たちも、皆、法華経を捨てるでしょう。と。
大聖人が、若き時光に「あなたが駿河の国の広宣流布の希望です、あなたが倒れてはならないのです」と呼びかけられている。そのように拝されてなりません。
「一人」を全力で激励する。その「一人」が「万人」に通じるのです。わが地域の「宝の青年」を揺るぎない「本物の一人」へと磨き育てる。その地道な連続闘争こそが、広宣流布の永遠の基盤となるのです。
広宣流布は必ず実現
大聖人は「ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし」と仰せです。
「ただ、置いておきなさい」とは、いかに煩わしいことが続こうとも、紛動されて信心を見失ってはならないとの御指導です。
そして大聖人は、日本国の広宣流布の時が必ず到来すると御断言されています。“梵天・帝釈の計らい”とありますが、「撰時抄」には諸天からの治罰があって、人々が正法に目覚めることが示されています。
大聖人は「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(1300-大悪大善御書-01)「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」(1467-05)と仰せです。
最も闇が深い時にこそ、夜明けは近い。大悪は大善の瑞相であるゆえに、広宣流布は大きく開かれてゆく、その時に、「私ももともと信じていました」と言う人が多くでるだろうと予告されます。
大聖人の願いは、この広宣流の大闘争に、大聖人と共に戦う門下を陸続と輩出することです。「本物の一人」からまた「本物の一人」へ。「二人・三人・百人」と。この戦う地涌の陣列が広がることが広宣流布です。「青年よ、この広宣流布の主体者たれ」のお心が伝わってくる御文です。
私も戸田先生の心を受け継ぎ、この確信で進んでまいりました。宿命の嵐に力を失いそうな友、現実の困難に落胆した友の肩をたたいて必死に祈り、前へ前へ、希望へ希望へ、勇気へ勇気へと、道を開いてきました。
山また山の連続です。平坦な道のりなど一つもなかった。この原理は、これからも変りません。広宣流布は、全人類のための未聞の大事業です。大変だからこそ、功徳も絶大なのです。困難だからこそ、一人立ち上がる「青年」が必要なのです。
大聖人の時光への呼びかけは、わが創価の青年の渾身のエネルギーです。
| 09 千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、 今度法華経のために命をすつ 10 る事ならば・なにはをしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間・やきつくして仏になり給い・檀王は千歳が間・身 11 をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし、 されば・ひが事をすべきにはあらず、今はすてなば・かへり 12 て人わらはれになるべし、 かたうどなるやうにて・つくりおとして、 我もわらひ人にもわらはせんとするがきく 13 わいなるに・よくよくけうくんせさせて人のおほくきかんところにて・ 人をけうくんせんよりも我が身をけうくん 14 あるべしとて・かつぱとたたせ給へ、 -----― 千町・万町を治める人でも些細なことにたちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる。このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろうか。薬王菩薩は身体を千二百歳が間、焼き尽くして仏になられ、須頭檀王は千年の間、身を床として今の釈迦仏といわれるようになったのである。 したがって、心得違いをなすべきではない。今、信心を捨てたならば、かえって人に笑われることになるであろう。 味方のようなふりをして偽って退転させ、自分も嘲笑し人にもわらわせようとするけしからぬ者達に、よくよく教訓させておいて「人が多く聞いているところで人を教訓するよりも自分を教訓しなさい」といって勢いよく座を立たれるがよい。 |
今こそ、まことの時
障魔に打ち勝つための振る舞いについて、重ねてアドバイスされながら、どこまでも「信心」を貫くことが一切の肝要であるとご指導されています。
広大な領地を治める人でも、些細なことで命を失い、所領を取り上げられることがある。それを思えば、今、法華経のために命を捨てることができる好機が到来するならば、何を惜しむことがあろう。
薬王菩薩は千二百歳の間、肘を焼いて燈明として供養して仏になった。須頭壇王は千年の間、身を床とするなどして師に仕えた功徳で、釈迦仏となった。と。
いずれも人々を救うことを目指し、仏となる求道の修行を貫き通したからこそ、大境涯を得ることができたと教えられています。
さらに大聖人は、ゆえに心得違いをしてはならない。今、信心を捨てたならば、かえって人の、“笑いもの”となるであろう。味方のふりをして退転させようとする者たちは、殿を“笑いもの”にする輩だ。何か教訓してきたら、十分いわせておいて、「それより自分を教訓なさい」と言って、毅然と席を立たれるがよい。と仰せです。
大聖人は、時光に対して一貫して「堂々と確信を述べよ」「覚悟を決めよ」「怖じ恐れるな」という姿勢を教えられえいます。
「痛快に堂々と、邪悪な妄言を打ち破れ!」
「今こそ、まことの時!誓いを果たせ!」
このように大聖人は、青年門下の心意気を示してくださいました。まさしく「創価青年学会」の戦う魂そのものです。対話の核心は、勇気と勢いです。師子吼だけが、魔を打ち破れる。ゆえに青年は、強敵に立ち向かえ、困難に挑め、と示されているのです。強敵こそが、自分を強く鍛えてくれます。困難こそが、人間革命のチャンスなのです。
皆が人材!皆に使命が!
昭和32年(1957)7月。権力の魔性に対する民衆の闘争宣言を高らかに響かせた大阪大会、その翌月の本部幹部会で、戸田先生が最も強く訴えたことは何であったか。
それは、この信心をして、幸せにならないわけは絶対にない。幹部の皆さんは、会員同志を懇切に指導し、「信心してよかった」という喜びを味わわせていただきたい。との一点でありました。
このとき、東京23区に総ブロック制が敷かれ、私は葛飾区の総ブロック長の任命を受けて、奔走しました。そして9月以降、地域広布の新しいうねりが、全国へ広がっていったのです。今年は、それから55周年です。
この先駆けとして「夏季ブロック指導」に汗を流した荒川でも、総ブロック長として走った葛飾でも、私が大事にしたのは、一人一人の同志の絆を結ぶ「家庭訪問」「個人指導」です。
会合の開始前にも終了後にも、一軒また一軒と寸暇を惜しんで回りました。玄関先で失礼いた際には「また来させていただきます」と再会を約束しました。名前と住所を覚えながら出会いを重ね、葉書の励ましの気持ちを綴ってお送りしたこともあります。
また、私も含め、同志が互いに知り合えるように、懇談会や質問会を重ねました。
さらに、仕事が苦境にある男子部や、家庭の悩みを持つ壮年など、じっくりと話を聞いては共に祈り、全力で励ました。
ともかく必死でした。真剣でした。
「信心してよかった!」という喜びを、一人も残さず満喫してほしい。
あなたには、あなたにしか果たせない使命がある。皆が人材、皆が宿縁深き同志なのだ!
人材を「育てる」とは、「会う」ととです。草の根を分けるように、会いに行くことです。座談会をはじめ、家庭訪問・個人指導・質問会・懇談会、こうした地道な戦いが、一切の勝利の源泉です。
水の流れるごとく、地道にやってきた土台があるから、学会は勝ってきました。この方程式は断じて変らない。いな永遠に変えてはならないと私は申し上げたい。
地域広布は、その地域の人々に、生きる希望を広げゆく戦いです。妙法を持った同志は、わが地域の「幸福責任者」であり「先駆者」なのです。
南条時光が、大聖人の渾身の激励によって、駿河国のリーダーとして成長していったように、青年を先頭に、地域広布の新時代を開いてまいりたい。
青年に会おう!青年に全力を育てよう!
そして青年が、わが地域の「幸福責任者」と立ち上がるのだ!。
1541~1542 南条殿御返事(白麦御書)top
1541:01~1541:09 第一章 阿那律の例を引き供養の功徳を述ぶtop
| 01 白麦一俵・小白麦一俵・河のり五でふ・送り給び了んぬ。 02 仏の御弟子に阿那律尊者と申せし人は・ をさなくしての御名をば如意と申す、如意と申すは心のおもひのたか 03 らをふらししゆへなり、 このよしを仏にとひまいらせ給いしかば・昔うえたるよに縁覚と申す聖人を ひゑのはん 04 をもつて供養しまいらせしゆへと答えさせ給う。 -----― 白麦一俵と小白麦一俵、河海苔五帖を送っていただいた。 仏の御弟子の阿那律尊者という人は、幼い時の御名前を如意といった。如意というのは、心の思いのままに宝を降らしたがゆえである。この由縁を仏にお伺いすると、昔、飢饉の世に縁覚という聖人に稗の飯を供養したからであると答えられた。 -----― 05 迦葉尊者と申せし人は仏についでも閻浮提第一の僧なり、 俗にてをはせし時は長者にて・からを六十そのくら 06 に金を百四十こくづつ入れさせ給う、 それより外のたから申すばかりなし、 この人のせんじやうの御事を仏にと 07 ひまいらせさせ給いしかば・むかしうえたるよにむぎのはんを一ぱひ供養したりしゆへに・トウ利天に千反生れて今 08 釈迦仏に値いまいらせ 僧の中の第一とならせ給い法華経にて光明如来と名をさづけられさせ給うと天台大師・ 文 09 句の第一にしるされて候。 -----― 迦葉尊者という人は、仏についで世界第一の僧であり、在俗の身であった時は長者で、蔵を六十もち、その蔵に金を百四十石ずつ入れておかれた。それ以外の財宝は数えきれないほどであった。この人の前世の御事績を仏にお伺い申し上げると、昔、飢饉の世に辟支仏に麦の飯を一杯供養したがゆえに忉利天に千遍生まれ、今、釈迦仏に値って僧の中の第一人者となられ、法華経において光明如来という未来成仏の時の名を授けられたのである、と天台大師は法華文句の第一巻に記されている。 |
河のり
緑藻類の淡水藻。葉状体は扁平で薄く、食用とされる。山間の渓流中の岩に着生する。富士川や、その支流の芝川で採取される川海苔は昔からよく知られていた。
―――
五でふ
「でふ」は帖のことである。半紙や海苔などの薄いものを数える単位。品によって枚数は異なる。
―――
阿那律尊者
梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿㝹樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失ったという。法華文句巻一下には「阿?樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とある。
―――
如意
善業による福徳によって物事が意のままになること。
―――
縁覚
辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433-07)とある。
―――
ひゑ
イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
―――
迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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こく
容量をはかる単位。一升の100倍。180ℓ。
―――
せんじやう
前生のこと。過去世を意味する。
―――
忉利天
梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
―――
光明如来
釈迦の十大弟子のひとり、迦葉が未来世において成仏したときの名。
―――
天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
―――
文句
天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈うぃへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
―――――――――
本抄は南条時光が麦等を御供養したことに対する返書である。御真筆は大石寺に現存する。
御執筆年月日については「七月二日」とあるだけで、年についての記載はないが、建治元年(1275)、身延でしたためられた御手紙であるとされている。
内容は、南条時光が身延の日蓮大聖人に御供養を奉ったのに対し、阿那律や迦葉尊者等の事例を引かれて供養の功徳を述べられている。
供養の功徳の例として引かれている阿那律尊者は、釈尊十大弟子の一人であり、釈尊のいとこにあたり、天眼第一とされた。
日蓮大聖人は、「上野殿御返事」の中でも、次のように仰せである。
「仏の御弟子にあなりちと申せし人は天眼第一のあなりちとて十人の御弟子のその一・迦葉・舎利弗・目連・阿難にかたをならべし人なり、この人のゆらひをたづねみれば・師子頬王と申せし国王の第二の王子に・こくぼん王と申せし人の御子・釈迦如来のいとこにておはしましき、この人の御名三つ候、一には無貧・二には如意・三にはむれうと申す・一一にふしぎの事候、昔うえたるよにりだそんじやと申せしたうとき辟支仏ありき、うえたるよに七日ときもならざりけるが・山里にれうしの御器に入れて候いける・ひえのはんをこひてならせ給う、このゆへにこのれうし現在には長者となり・のち九十一劫が間・人中・天上にたのしみをうけて・今最後にこくぼん王の太子とむまれさせ給う、金のごきに・はんとこしなへにたえせず・あらかんとならせ給う、御眼に三千大千世界を一時に御らんありていみじくをはせしが・法華経第四の巻にして普明如来と成るべきよし仏に仰せをかほらせ給いき」(1511-03)。
阿那律は、無貧、如意、無獦という三つの名をもっていたという。本抄では、このうち如意について述べられている。
阿那律が、このような福徳をそなえた因縁として、過去世に辟支仏に供養したことが示される。
法華文句には、語訳にも示したように、次のように述べられている。
「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて、辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」。
賢愚経巻十二には、昔、利吒と阿利吒という兄弟が離れ離れになり、ある時、兄の利吒が辟支仏となって乞食し空鉢であった時、弟の阿利吒が兄とは知らずに稗の粥を供養したことが、次のように説かれている。この阿利吒が阿那律である。
「時に弟の阿涙吒も、後転た貧窮なり、復、歳荒に値い食穀継がず。日に往きて薪を取り、稗子を売糴し家の婦児と共に以って自ら供活す。一日晨朝早く往きて沢に入る。城門の中に於て辟支仏の威儀観るべく城に入り乞食し給うを見る。即ち往きて薪を取り還り来り門に到り、辟支仏の空鉢にて出で給うを見、心に自ら念を生ずるよう『此れは是れ快士なり。晨に入城を見今乃ち空しく来る。若し今我と共に舎に帰りて至らば当に共に食を分かち以って之に施し奉るべし』と。……阿涙吒、之を見て心用って歓喜し、即ち為めに床を敷き請じて坐に入らしめ、其の自らの分の稗子の糜を索め、躬ら手にて自ら持ち辟支仏に施す。時に辟支仏、阿涙吒に語りて言く『汝も亦飢渇なり、当に共に分ち噉うべし』と。阿涙吒、白して言さく『我曹の世俗の食に時節なし、尊は日に一食なり。但願くば受くることを為せ』と。即ち、食を受け訖る」。
このあと、阿那律は、この阿涙吒とは自身のことであり、少しの稗の粥を辟支仏に供養した因縁によって、九十一劫の間、天と人との中に生まれて乏少することがなかったと述べている。
阿那律は、法華経において五百弟子受記品で、普明如来と成るであろうとの未来成仏の授記を受けている。
次に迦葉尊者は、十大弟子の一人であり、頭陀第一と称された。付法蔵の第一である。
この迦葉について、日蓮大聖人は、時光御返事の中でも、次のように述べておられる。
「迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたとき人なり、此の人の家をたづぬれば摩かだい国の尼くりだ長者の子なり、宅にたたみ千でうあり・一でうはあつさ七尺下品のたたみは金千両なり、からすき九百九十九・一のからすきは金千両、金三百四十石入れたるくら六十・かかる大長者なり、めは又身は金色にして十六里をてらす、日本国の衣通姫にもすぎ・漢土のりふじんにもこえたり、此の夫婦道心を発して仏の御弟子となれり、法華経にては光明如来といはれさせ給う、此の二人の人人の過去をたづねれば麦飯を辟支仏に供養せしゆへに迦葉尊者と生れ、金のぜに一枚を仏師にあつらへて毘婆尸仏の像の御はくにひきし貧人は此の人のめとなれり」(1550-04)。
迦葉夫婦のことについて、法華文句巻一下には、次のように記されている。
「増一阿含に云く、羅閲祇の大富長者を迦毘羅と名づけ、婦を檀那と名づけ、子を畢鉢羅と名づく。子の婦を婆陀と名づく。其家は瓶沙王に勝ること千倍なり。十六大国に以って隣とする無しと」。
次に迦葉夫妻の過去の因縁について記している。
「付法蔵に言く、毘婆尸の滅後、塔像の金色缺壊す。時に貧女有り、金珠を匃め得て、匠を倩て薄と為す。金師歓喜して仏に治瑩し畢り、誓いを立て夫婦と為る。九十一劫に人中天上にして身は恒に金色にして心恒に楽を受く。最後に摩竭提国の尼拘律陀婆羅門の家に託して生まる。王に勝れて罪を得んことを畏れて、一の耕犁を減じて但だ九百九十九雙の牛金犁を用うと。……又経に云く、麦飯を以って支仏を供養するに、怛越・忉利各千反に楽を受く。身に三十相有り……二相を闕く。応に是れ白毫と肉髻無かるべきなり」。
迦葉は、法華経受記品第六で、光明如来の未来成仏の授記を受けている。
1549:10~1542:10 第二章 法華経供養の大功徳を示すtop
| 10 かれをもつて此れをあんずるに迦葉尊者の麦のはんは・いみじくて光明如来とならせ給う、 今のだんなの白麦 11 は・いやしくて仏にならず候べきか、在世の月は今も月・在世の花は今も花・むかしの功徳は今の功徳なり、 その 12 上・上一人より下万民までに・にくまれて山中にうえしにゆべき法華経の行者なり、 これをふびんとをぼして山河 13 をこえわたり・をくりたびて候御心ざしは麦にはあらず金なり・金にはあらず法華経の文字なり、 我等が眼にはむ 14 ぎなり・十らせつには此のむぎをば仏のたねとこそ御らん候らめ、 阿那律がひゑのはんはへんじてうさぎとなる、 15 うさぎ・へんじて死人となる・死人へんじて金となる・指をぬきてうりしかば又いできたりぬ、 王のせめのありし 16 時は死人となる、 かくのごとく・つきずして九十一劫なり、 釈まなんと申せし人の石をとりしかば金となりき、 1542 01 金ぞく王は、いさごを金となし給いき。 -----― それらのことからこの時光の御供養を考えてみるとき、迦葉尊者の麦の飯は大層すばらしくて光明如来となられ、今の檀那の白麦は卑しくて仏にならないということがあろうか。釈尊在世の月は末法当今においても月であり、在世の花は今も花であり、昔において功徳となるものは今においても功徳となるのである。そのうえ上一人より下万民にまで憎まれて、山中で飢え死にするであろう法華経の行者である。これを憐れと思って山河を越え渡り、送っていただいた御志の麦は、麦ではなく金である。金ではなく法華経の文字である。私達の眼には麦であるが、十羅刹女にあっては、この麦を仏の種と御覧になっているであろう。阿那律が供養した稗の飯は変わって兎となった。兎は変わって死人となり、死人は変わって金となった。金の指を抜き取って売ったところ、また生え出てきた。王の責めがあったときは、死人となった。このように尽きることなく九十一劫を経たのである。釈摩男という人は石を手にとると金となり、金粟王は砂を金となされたという。 -----― 02 今のむぎは法華経のもんじなり、又は女人の御ためには・かがみとなり・身のかざりとなるべし、 男のために 03 は・よろひとなり・かぶととなるべし、 守護神となりて弓箭の第一の名をとるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮 04 華経、恐恐謹言。 -----― 今の麦は法華経の文字である。または、女性のためには鏡となり、身の装飾となるであろう。男性のためには鎧となり、冑となるであろう。守護神となって弓箭の第一人者との名を得るであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。 -----― 05 このよの中は・ いみじかりし時は何事かあるべきとみえしかども・当時はことにあぶなげに・みえ候ぞ、 い 06 かなる事ありともなげかせ給うべからず、 ふつとおもひきりてそりやうなんども・たがふ事あらば・いよいよ 07 悦びとこそおもひて・うちうそぶきて・これへわたらせ給へ、 所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ、当時つくし 08 へ・むかひて・なげく人人は・いかばかりとか・おぼす、これは皆日蓮を・かみのあなづらせ給いしゆへなり。 09 七月二日 日 蓮 花 押 10 南条殿御返事 -----― この世の中は、大層よい状態の時は何事もありえないように見えたけれども、このごろはとくに危ないように思われる。どのような事があっても嘆かれてはならない。きっぱりと思いきって、所領などについても自分の思いと相違する事が起こったならば、いよいよこれこそ悦ぶべき事であると思って、そらうそぶいて、ここへおいでなさい。所領の土地を領有してない人も非常に多くなっている。今日、筑紫へおもむいて嘆く人々の心中の思いは、いかばかりであろうか。これは皆、日蓮を国主が侮られたからである。 七月二日 日 蓮 花 押 南条殿御返事 |
だんな
「檀那」と書く。布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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十らせつ阿那律がひゑのはんはへんじてうさぎとなる
この故事は法華文句巻一下の無貧の因縁の中に説かれている。すなわち、弗沙仏の末法の世に辟支仏が乞食を行じていたが何も得られなかった。それを一人の貧人が見て悲しみ悼み、稗の飯を供養した。そののち貧人が稗を採りにいった時に兎がいて跳びはねて貧人の背中に抱き付き、死人に変じた。貧人が驚いて離そうとしたが離れなかった。日暮を待って衣で背中を覆い家に帰りつくと死人は自然と地に落ち、金人となった。悪人や悪王がそれを聞いて奪おうとしたが、それはただの死人であった。しかし貧人が見ると閻浮檀金からできた金宝であった。こうして九十一劫の間、この果報が充足したので、無貧と呼ばれた。
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釈まなん
梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。釈摩男、摩訶男、摩訶摩男、摩訶那摩などと音写する。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていたとされる。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。
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金ぞく王
砂を金にした王といわれるが、北インド健駄羅国に大法塔を建てたとされる金粟王と同一人物であるかどうかは明らかでない。
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そりやう
「所領」と書く。領する所の意味で、土地・領地のこと。
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うちうそぶきて
口をすぼめて声をだすこと。気に入らないありさま。
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つくし
九州地方の古称。九州地方全域をさす場合、九州北半の地方をさす場合、筑前・筑後の両国をさす場合等がある。筑前を中心とした北九州の地方は、古くから開け、大陸文化との接触点として対外的に重要な地であった。文永11年(1274)に来襲した蒙古軍は、筑紫に上陸している。蒙古軍が襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣されていた。
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阿那律の稗の飯は、何事も思い通りに得られる〝如意〟という福徳をもたらし、法華経で阿那律は普明如来の記別を与えられている。また、迦葉の麦の飯の供養は、人中天上の果報を呼び起こし、同じく法華経で迦葉は光明如来の授記を与えられている。いずれの供養も、結局は成仏の功徳に結びついている。
彼らの供養は、稗や麦の飯という粗末なものである。しかし、彼らは飢えたる世で、自らの生命をつなぐための食物を他人のために供養したのである。たとえ、供養の品物は粗末で、わずかであっても、そこには真心の浄らかさと深さが込められている。自分にとって最も大切なものを、あえて供養する真心が尊いのである。
妙楽大師は、阿那律の稗の飯の供養について、法華文句記で「稗飯軽しと雖も所有を尽くし、及び田勝るるを以っての故に故に勝報を得る」と述べている。彼らの供養が「所有を尽くし」ているゆえに功徳をもたらしたのである。
また「田勝るるを以っての故に」とは、阿那律や迦葉が供養した相手は、いずれの場合も辟支仏である。無仏の世であるから、仏にも代わるべき尊い存在であり、福田というべきである。辟支仏という福田に供養したゆえに、九十一劫もの間、勝妙の果報を得、また成仏にも連なったのである。
さて、南条時光は、白麦等を日蓮大聖人に御供養申し上げている。当時、大聖人は身延におられ、食糧にも不自由をされ、また世の中全体が飢饉で米もない時であった。
おそらく時光自身も、食物が十分ではなかったのに「所有を尽くし」て、白麦を御供養したのである。まさしく真心からの御供養であった。
また、供養を受けられた方は、辟支仏とは比較にならないほど勝れた福田であられる末法の法華経の行者であられる。ゆえに、時光の御供養の功徳が、成仏の境界をもたらさないわけはないのである。
日蓮大聖人は、在世の迦葉の供養した麦と比較されて、時光の白麦の供養が「成仏の種子」にならないわけがないと仰せられている。
そして、さらに、阿那律や釈摩男、金粟王などにまつわる故事を挙げられ、時光の供養した白麦は、凡夫の肉眼には単なる麦に見えるであろうが、御本仏の眼には、法華経の文字と映っておられることを述べられている。
なお、ここで引用されている阿那律の故事は、賢愚経のなかで阿利吒が辟支仏に稗の飯を供養した話の後に、次のように記されている。
「時に阿涙吒、即ち還りて沢に入り薪を取る。到りて一つの兎を見る。意捕らえ取らんと欲し走り逐うこと転た近し。鎌を以て遥かに擲つ。即時地に堕つ。適前みて取らんと欲すれば化して死人と為り、其の背の上に上り急に其の頭を抱う。力を尽くして推し却くも、却かしむる能わず。心に恐怖を懐き慞惶苦悩し、意、城に入りて婦と共に解却けんと欲す。復、人の見ることを恐れて入ることを聴さざらしむ。留りて日暮を待ち衣を用って覆い、担い負うて城に入り往きて其の舎に趣く。已に舎内に到るに自然に地に堕つ。変じて一聚の閻浮檀金と成る」。
その後、このことが世間に伝わり、悪人や悪王がそれを聞いて奪おうとしたが、そのときはただの死人であった。しかし貧人が見ると閻浮檀金からできた金宝であった、という話が続いている。
日蓮大聖人は、「時光御返事」にも、この話を引用され、次のように仰せである。
「彼のりだがひゑは変じて金人となる、此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん、此の法華経の文字は釈迦仏となり給い・時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へかけり給へ、かへりて時光が身をおほひ・はぐくみ給へ」(1550-13)。
法華経の文字は釈迦仏であり、金色の仏体である。
法蓮抄では「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」(1050-09)と述べられている。
すなわち、南条時光が大聖人に供養した白麦は、その信心のゆえに成仏の種子となり、法華経の文字と変じ、時光は即身成仏の大功徳を受けることができるとの仰せである。
そして「又は女人の御ためには・かがみとなり・身のかざりとなるべし、男のためには・よろひとなり・かぶととなるべし、守護神となりて弓箭の第一の名をとるべし」と、死後の成仏の功徳をもたらすばかりでなく、今世においても、一家一族の繁栄と人々の幸せをもたらす福徳となるであろうと述べられている。
最後に追申では、いかなる難を受けても、嘆いたりすることのないように誡め、励ましの言葉を送られるとともに、当時の蒙古襲来の引き起こす人々の嘆きは、鎌倉幕府が日蓮大聖人の諌暁を用いずに迫害してきたことが根本の原因であることを指摘されている。
1542~1542 庵室修復書top
| 01 去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが・やうや 02 く四年がほど・はしらくちかきかべをち候へども・なをす事なくて・よるひを・とぼさねども月のひかりにて聖教を 03 よみまいらせ・われと御経をまきまいらせ候はねども・風をのづから・ふきかへし・まいらせ候いしが、今年は十二 04 のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ、 うだいたもちがたければ・月はすめ雨はとどまれ 05 と・はげみ候いつるほどに・人ぶなくして・がくしやうどもをせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて候とこ 06 ろに・さきに・うへのどのよりいも二駄これ一だは・たまにもすぎ。 -----― 去る文永十一年六月十七日に、この身延の山の中に、木を伐って、かりそめの庵室を造った。四年ほどが経つ間に次第に、柱は朽ち、牆や壁は倒れ落ちたが、修復もしないから、夜は火を灯さなくても、月の光で聖教が読め、自分で御経を巻かなくとも、風が自然と吹き返してくれていた。ところが、今年は十二の柱が四方に傾き、四方の壁は一度に倒れてしまった。こうなっては、凡夫の身は保ち難いので、月は住め、雨は止まれと祈りながら、人夫がいないから弟子達を督励し、励んでいたが、食物がなくて雪をもって命を支えてきたところに前には上野殿から芋を二駄、今また貴殿から一駄をお送りいただき、珠よりもありがたく思っている。 |
あじち
庵室のこと。屋根を草で葺いた木造の仮の家のこと。主に僧侶の住居、庵の呼称。
―――
聖教
釈尊の説いた経教のこと。
―――
うだい
人間の身体のこと。凡夫の身をいう。凡身は衣食住のたすけを待って生存するゆえに有待の身という。
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がくしやう
仏道を修行する者のこと。修学僧・学僧。教え導く指導者に対して、学びきわめる弟子をいう。
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本抄は建治3年(1277)に著された御書である。御真筆はかつて身延に存していたが、現在はない。本抄には年月の記載はないが、文中、文永11年(1274)6月に庵室をつくられ、それから「四年がほど」経っていると仰せになっているところから建治3年(1277)の御書と推定される。また「ゆきをもちて命をたすけて候ところに」といわれていること、「今年は……」と振り返られていることから、12月ごろしたためられたものと思われる。
与えられた人についてもはっきりしないが「さきに・うへのどのよりいも二駄これ一だは・たまにもすぎ」と仰せられているので、南条時光ではないがそれに縁のある人であろう。
本抄御執筆が12月だとして、同じ建治3年(1277)の12月17日に著された「大白牛車書」と一書であるとし、与えられた人も九郎太郎であるとする説があるが、ともに確証はない。むしろ文の体栽からいって、別の書であると考えるほうが自然であろう。
本抄の名は文の内容から呼ばれているものであるが、その内容を拝すると、大聖人の住んでおられた草庵はそうとう荒れ果てていたようである。
大聖人は文永11年5月17日に身延に着かれて一か月後の6月17日にこの庵室が完成した。以後この庵室に住まわれたが、4年後には柱は朽ち壁は落ちてしまい、とくにこの年は「十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ」と仰せになるほどの状況であった。
流罪地・佐渡塚原三昧堂のお住まいも荒れ果てていたが、この時の身延の草庵もそれに劣らぬほどであったようだ。食糧の逼迫は他の御書からも推し量られるところであるが、住居も大変逼迫した御生活であったことがわかる。
これは単に貧しい御生活であられたということではなく、弘教・指導や弟子の育成等、令法久住に力を注いでおられたゆえであろう。
しかし、あまりにも荒れ方が激しいため修理することになったのである。大聖人は、人手がないため「がくしやうども」を励まして修理にあたられた。食糧もなく困窮されていたところへ時光から芋二駄、さらに、本抄をいただいた人から芋一駄が御供養として届けられたのである。大聖人の逼迫した御生活ぶりが拝されるとともに、それを支えた時光ら一族の信心がうかがえる御手紙である。
なお、この修復も一時しのぎのものであり、それから4年後の弘安4年(1281)にようやく本格的な寺院としての体栽をととのえた建物が建築されたことが同年11月25日の地引御書にみられる。
「坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ・二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつりて・二十四日の戌亥の時御所にすゑして・三十余人をもつて一日経かきまいらせ……坊は地ひき山づくりし候いしに山に二十四日・一日もかた時も雨ふる事なし、十一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる・八日は大坊のはしらだて九日十日ふき候い了んぬ」(1375-01)。
度量衡の単位が現在とは違っているので、はっきりとはわからないが、十間四面といえばかなりの広さであったろう。これも大坊のみであり、そのほかに小坊などがあったと考えられるから、それまでの庵室から比べると大変な違いである。
そのゆえに大聖人は「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ」(1375-09)と、大変に喜ばれている。決して規模は大きなものではないが、それほどの価値があるといわれているのである。
1543~1543 大白牛車書top
1543:01~1543:06 第一章 法華最勝を述べ他宗の謗法を示すtop
| 01 夫れ法華経第二の巻に云く「此の宝乗に乗り直ちに道場に至る」と云云、 日蓮は建長五年四月二十八日初めて 02 此の大白牛車の一乗法華の相伝を申し顕はせり、 而るに諸宗の人師等・雲霞の如くよせ来り候、 中にも真言・浄 03 土・禅宗等・蜂の如く起りせめたたかふ、 日蓮大白牛車の牛の角最第一なりと申してたたかふ、両の角は本迹二門 04 の如く二乗作仏・久遠実成是なり、すでに弘法大師は法華最第一の角を最第三となをし・一念三千・久遠実成・即身 05 成仏は法華に限れり・是をも真言の経にありとなをせり、 かかる謗法の族を責めんとするに返つて弥怨をなし候、 06 譬えば角を・なをさんとて牛をころしたるが如くなりぬべく候ひしかども・いかでさは候べき。 -----― 法華経の第二巻に「此の宝乗に乗り直ちに道場に至る」と説かれている。日蓮は建長五年四月二十八日に初めてこの大白牛車の一乗法華の相伝を説き顕したのである。ところが諸宗の人師等が、雲霞のように押し寄せてきた。なかでも真言宗、浄土宗、禅宗等は蜂が群がり起こるように攻めてきて戦う。日蓮は大白牛車の牛の角が最第一であるといって戦う。両の角とは法華経の本門と迹門であって二乗作仏と久遠実成のことである。すでに弘法大師は法華最第一の角を最第三となおし、一念三千、久遠実成、即身成仏の法門は法華経に限るのに、これを真言の経にあるとなおしている。このような謗法の人達の誤りを正そうとしたのに、かえって強く怨をなしている。ちょうど牛の角を矯めようとしてかえって牛を殺してしまったかのように言われたが、どうしてそのようなことがあろうか。 |
大白牛車
大白牛に引かせた宝車のこと。法華経譬喩品の三車火宅の譬に説かれ、声聞・縁覚・菩薩の三乗の諸経を羊、鹿、牛の三車に譬え、唯一仏乗を開会した法華経を大白牛車に譬えている。法華経譬喩品第三に「大白牛有り 肥壮多力にして 形体は姝好なり 以て宝車を駕せり」とある。
―――
一乗法華
一切衆生を成仏させる法華経のこと。
―――
相伝
師から弟子へ教法を伝えること。相承・付嘱と同義。
―――
人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
―――
雲霞の如く
「雲霞」とは雲かすみのこと。人の群がり集まるさまが、霞がわき起こるようであるということ。
―――
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
本迹二門
法華経の本門と迹門のこと。序品~安楽行品を迹門といい、その中心は諸法実相に約して理の一念三千を明かしている。本門は湧出品~勧発品までで、その中心は釈尊の久遠実成の本地を明かし、本因妙・本果妙・本国土妙に約し、仏の振る舞いから事の一念三千を説く如来寿量品である。
―――
二乗作仏
「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
久遠実成
釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
―――
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
法華最第一の角を最第三となをし
法師品に「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」とある法華経を、弘法が十住心論等で大日経・華厳経に劣る第三の低い教えであり、戯論であるとした邪説。十住心論では、第八の一道無為住心を天台宗、第九極無自性住心を華厳宗、第十秘密荘厳住心を真言とし、大日経を勝れた経としている。
―――
一念三千
仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
―――
即身成仏
凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
角を・なをさんとて牛をころしたるが如
「角を矯めて牛を殺す」に同じ意味で、少しの欠点を直そうとして全体をだめにすることの意であるが、ここでは、大聖人が諸宗の邪説を正そうとしてかえって仏教を混乱させる結果になっている、との意か。
―――――――――
本抄は建治3年(1277)12月17日に著された御書である。御真筆は現存していない。文末に「十二月十七日」とあるだけで年号の記載はないが、建治三年の御書であるとするのが定説になっている。与えられた人は南条時光であるとされている。ただ、著された時期などから庵室修復書と一書と考えて、与えられた人を九郎太郎とする説もあるが、ともに確証はない。
内容は、法華経譬喩品第三に説かれる大白牛車の譬を用いられ、大聖人の仏法を大白牛車になぞらえて諸宗を打ち破ってきたこと、大白牛車である妙法を堅く信じていけば、成仏することは疑いないことを教えられている。
最初に法華経譬喩品の「此の宝乗に乗り直ちに仏道に至る」の文を引かれ、大聖人が建長5年(1253)4月28日に宗旨を建立し開宗を宣せられたのは、この一切衆生を道場すなわち仏界に至らしめる大白牛車である法華経の相伝を申し顕したのであると仰せになられている。ここで相伝といわれているのは、大聖人が釈尊から滅後末法の妙法流布について付嘱を受けられたという立場からである。
しかるに、他宗の人々はことごとく、この大聖人の正義の叫びに敵対してきたのである。あらゆる諸宗のなかでも、とくに真言宗、浄土宗、禅宗等が激しく誹謗した。この三つの宗は、日本において伝教大師により法華第一の正義がいったんは確立されていたのに、それに背き、誹謗して立てたものであるため、再び法華最第一を主張される大聖人によって自らの邪義が暴かれることを恐れたからである。
法華経が一切経に超過して勝れた経であることは、法華経自体が繰り返し宣言しているところであるが、客観的にみても、法華経が他の経典に勝れている所以がある。それが本迹二門に説かれている二乗作仏・久遠実成の法門である。
爾前の教えは、二乗や女人を永不成仏とし、また悪人の成仏を許していない。また、釈尊の成道をインド応誕後のそれを最初であるとして、仏性の常住を明かしていない。
しかるに真言の弘法大師は、一念三千・久遠実成の法門が大日経にもあると主張し、のみならず法華経を大日経より劣るとしたのである。一念三千が大日経にもあるとの邪説は、真言密教をインドから中国へ初めて伝えた善無畏三蔵が、天台大師の一念三千法門を見聞して自分の依経を飾るために立てたものである。この邪義については、日寛上人が三重秘伝抄で明確に破折されている。
それによると、大日経にある「心の実相」を、真言宗では、法華経の一念三千の依文である「諸法実相」と同意であるとしている。
しかし、大日経には二乗作仏と久遠実成がないのであるから、一念三千があるわけがないのである。「実相」という言葉は同じであっても、内容は天地雲泥であり、大日経の心の実相とは「小乗偏真の実相」にすぎない。
この点に関し、真言宗では、真言の金剛界曼荼羅にある「那羅延力・大那羅延力・執金剛」のなかの「大那羅延力」が二乗作仏を示しているとする。那羅延力が衆生を救うのであるから、大那羅延力は那羅延力では救えない二乗を救うというのである。また、大日経の「我一切本初」の文は久遠実成を示しているとする。これらは、明らかな暴論である。二乗を救い成仏させるというなら、いつ、どこで、どういう仏になるのかが示されていなければならないが、大日経にはそれらは一切ない。また「我一切本初」といっても、真言では法身しか説いていないのであるから三身の常住とは全く違うことはいうまでもない。
しかるに弘法をはじめ真言の僧たちはこれらの議論をもって、法華経を大日経・華厳経より劣る経典であるとして、釈尊を大日如来の履き物取りにも及ばないというのである。このように、本主である釈尊を堕としめるゆえに、真言は亡国の宗なのである。
ともあれ、大聖人の破折に対し、諸宗の僧がかえってますます激しく正法を誹謗する結果となったことは事実である。それによって彼らは地獄に堕ちる果報を受けなければならないのであるから、それなら最初から折伏しなければいいようにみえるかもしれない。しかし、もし大聖人が折伏されなければ、人々は永久に正法を知ることもなく、地獄の苦しみから抜け出せないのである。折伏され、誹謗することによって一時は地獄の苦しみを受けなければならないかもしれないが、毒鼓の縁によって必ず再び正法に巡りあって、今度は成仏への道を歩めるのである。
ここで「角を・なをさんとて牛をころしたるが如く」といわれているのは「角を矯めて牛を殺す」という中国のことわざである。「玄中記」によれば何公が人々を傷つけようとした一頭の牛を追い、斧で牛の頭を打って殺した故事がこのことわざの由来である。本来は人々のためにした行為の話であるが、ことわざとしては少しの傷を直そうとしてかえって元も子も失ってしまうという教訓となっている。当時の人々は大聖人が諸宗を破折されたことを、この「角を矯めて牛を殺す」の類であると批判したのであろうが、決してそうではないといわれているのである。
1543:07~1543:11 第二章 大白牛車の意義を明かすtop
| 07 抑此の車と申すは本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、 三界の火宅を生死生死とぐるり・ ぐるりとまはり 08 候ところの車なり、 ただ信心のくさびに志のあぶらをささせ給いて霊山浄土へまいり給うべし、 又心王は牛の如 09 し・生死は両の輪の如し、 伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳なり」云云、天台云 10 く「十如は只是れ乃至今境は是れ体」と云云、此の文釈能能案じ給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 11 十二月十七日 日蓮花押 -----― そもそもこの車というのは、本門と迹門の二門の輪を妙法蓮華経という牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるりぐるりと回るところの車である。だから、信心というくさびをさし、志という油をさされて、霊山浄土へまいられるがよい。 また心王は牛であり、生死は両方の輪のようなものである。伝教大師は「生死の二法は一心の妙用であり、有無の二道は本覚の真徳である」といい、天台大師は「十如は只是れ……今境は是れ体である」といっている。この文釈をよくよく思案されるがよい。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 十二月十七日 日 蓮 花 押 |
三界の火宅
「三界」とは欲界・色戒・無色界のこと。「火宅」は煩悩の火に覆われた苦しみの世界。現実社会の六道輪廻の衆生の住処を意味する。
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くさび
車輪や農機具の鍬などがはずれないように打ち込む鉄辺。即身成仏の法である法華経の大白牛車は、本迹二門の二輪が動かないように「楔」を打ち込むことを「信心」にたとえている。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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心王
心の働きの根本、生命活動の根本。迹門不変真如の理を意味する。
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生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳なり
伝教大師の天台法華宗牛頭法門要纂の文。生も死もともに本有常住の生命の働きであり、本来、別のものではないことを述べた文。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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十如は只是れ乃至今境は是れ体
法華経方便品の十如は法華経の本体であり、大白牛車に譬えればその車体にあたるという意。妙楽の摩訶止観弘決巻五の文であるが、ここでは、大聖人は天台大師の説として引かれている。
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前段では大白牛車自体を法華経とする一応文上の立場で述べられたのに対し、これをさらに深く、本迹二門の輪を動かす原動力たる牛は「妙法蓮華経」すなわち南無妙法蓮華経の大白法にほかならないことを示されている。すなわち文底仏法のお立場を示されていると拝される。
この南無妙法蓮華経の御本尊こそ「三界の火宅を生死生死とぐるり・ぐるりとまはり候ところの車なり」と仰せである。
譬喩品の三車火宅の譬では危険な火宅で遊んでいる子供達を外へ救い出して大白牛車を与えるのであるが、妙法蓮華経の大白牛車は三界の火宅を離れることはないのである。たしかに娑婆世界は三界の火宅である。しかし、本抄冒頭の「道場」すなわち霊山浄土という最高の幸福世界はこの娑婆世界を離れた所にあるのではない。
火宅たる煩悩に満ちた世界のなかにあっても、御本尊を受持していくならば、苦しみの火宅は仏界へと変革していくのである。「御義口伝」には「車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経なり宅とは煩悩なり自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(0724-第八唯有一門の事-04)と仰せである。
この御本尊の功力をあらわす根源が妙法を絶対と信ずる信心の一念なのである。「ただ信心のくさびに志のあぶらをささせ給いて霊山浄土へまいり給うべし」といわれているのはこれである。ここで「信心」と「志」とに分けられているのは、「信心」が御本尊を信ずる心であり、「志」は真心であり信心の一念の強さをいわれているのではなかろうか。
次に「心王は牛の如し・生死は両の輪の如し」といわれているのは、生命論に約しての仰せである。心王は常住の生命自体を意味し、生死とは三世にわたって流転していく生命を意味している。大地を回る車輪は生死であり、その車を引く牛が常住・永遠の生命である。牛に引かれて車輪が大地をぐるぐる回りながら進むように、我我の生命は現実世界に立脚して生死を流転しつつも、永遠・常住の生命の牛に力強く引かれて進んでいることを確信したい。
伝教大師の「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳なり」との言葉は、この世に生まれ、また死んでいくのも、常住の体たる我が生命の不思議な働きであり、生まれてこの世に「有る」のも、死んで「無」くなるのも、衆生の本有の覚りにそなわっている徳用であるという意味である。
「十如は只是れ乃至今境は是れ体」は、妙楽大師の止観弘決の文である。十如は法華の実相であり、権実の正体であり、また車体であり、実相の体であり、今境は体であると述べている。すなわち、十如は大白牛車でいえば車体にあたるということである。
これらの文釈をよく案じなさいといわれているのは、生と死を現じつつも生死を超えて常住しているこの生命の真理、我が身が妙法の当体と覚知するのが成仏であり、そのためには御本尊への絶対の信が肝要であることを強調されているのである。
1544~1544 上野殿御返事(水火二品抄)top
1544:01~1544:08 第一章 阿育王に寄せ供養の功徳を説くtop
| 01 蹲鴟・くしがき・焼米・栗・たかんな・すづつ給び候い了んぬ。 02 月氏に阿育大王と申す王をはしき、一閻浮提四分の一を・たなごころににぎり・竜王をしたがへて雨を心にまか 03 せ・鬼神をめしつかひ給いき、 始は悪王なりしかども後には仏法に帰し・六万人の僧を日日に供養し・八万四千の 04 石の塔をたて給う、 此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさなき人あり、 土 05 の餅を仏に供養し給いて 一百年の内に大王と生れたり、 仏はいみじしといへども 法華経にたいしまいらせ候へ 06 ば・螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり、仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや、土のもちゐ 07 を・まいらせて・かかる不思議あり・いわうやすずのくだ物をや、 かれはけかちならず・いまはうへたる国なり、 08 此をもつて・をもふに釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき。 -----― いものかしら、くし柿、焼米、栗、タケノコ、酢筒を頂戴した。 月氏国に阿育大王という王がおられた。一閻浮提の四分の一を掌中におさめ、竜王を従えて雨を意のままにふらせたり、鬼神を召し使われていた。初めは悪王であったが、後に仏法に帰依して六万人の僧を日々供養し、八万四千の石塔を立てられた。この大王の過去をたずねれば、仏の在世に徳勝童子と無勝童子という二人の幼子がいたが、土の餅を仏に供養して、その功徳によって百年の後、阿育大王として生まれたのである。 仏は尊いとはいうものの、法華経に比べれば螢火と日月ほどの勝劣がある、天と地ほどの高下がある。仏を供養してこのような功徳があるのだから、ましてや法華経を供養するにおいておやである。土の餅を供養してさえこのような功徳があった。ましてや種々のくだものを供養された。国は飢えてはいなかった。いまは国中が飢えている。このことによって思うと、釈迦仏、多宝仏、十羅刹女がどうして守護しないことがあろうか。 |
蹲鴟
さといもの塊茎のこと。蹲はうずくまる、はトビ。芋の形が鳥のうずくまった姿に似ているところからこの字があてられた。
―――
焼米
新米を籾のまま焙って、殻を取り去っ たもの。炒米ともいう。
―――
かたんな
たけのこの古称。古くは「たかむな」と表記した。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵語アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、諸僧を供養するとともにその慈悲の精神を施政に反映した。さらに、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。
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一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
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竜王
竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
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徳勝童子・無勝童子
二人は王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂の餅を供養した。徳勝が供養し、無勝は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝は阿育大王と生まれ、無勝は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――
多宝仏
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十羅刹女
鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
―――――――――
本抄は建治4年(1287)2月25日、聖寿57歳の御時、南条時光からの御供養に対して書かれた御返事である。御真筆は現存していない。
当時の世間は、前年が旱魃で飢饉がひどく、しかも秋以来、疫病が流行していた。
そうした厳しい状況の折、南条時光は日蓮大聖人の身延での御生活をしのび、御供養の品々を送ってきたのである。いかなる時も変わらないこの時光の真心と信心の姿勢を讃えて、大聖人は、信心に「火のごとく」と「水のごとく」の二つの姿勢があることを御教示され、水の流れるような信心こそ大切であり尊いことを御教示されている。
はじめに阿育大王が過去世に徳勝童子・無勝童子として土の餅を仏に供養したその功徳によって大王と生まれた故事を引かれ、釈尊と法華経を対比して、釈尊を供養してさえもこれはどの功徳があるのだから、まして法華経に供養した時光の功徳は、どれほど大きいか、計り知れないことを述べられている。また、供養の品を較べて、砂の餅を供養してさえ大功徳があったのだから、いものかしら、くしがきなどを供養した功徳ははるかに大きい。さらに、時代背景から、飢饉でない世と飢饉の当時を対比され、その功徳が大きいことを述べられている。
阿育大王は、インド・マウリア朝第三代の王で、王朝の全盛期を築き、在位は紀元前0268~0232年ごろと推定されている。
幼時から頑健凶暴で、父王に愛されなかった。父王の死後、即位に際し、多くの異母兄弟を殺し、反対する諸臣、女人をも殺害するなど、暴虐の限りを尽くしたため「暴虐阿育王」といわれた。本文で「始は悪王なりしかども」と仰せられているのはその意である。
しかし、軍略に秀れ、戦いでは連戦連勝、四方の国を平定して「一閻浮提四分の一を・たなごころににぎ」る大王となった。
その後、残虐行為を悔い改め、仏法に帰依している。そして慈悲を基調とした善政を行い、「六万人の僧を日日に供養し」て仏法の興隆に力を尽くした。
さらに広大な領土に「八万四千の石の塔をたて」、仏舎利を分布して供養するとともに、四方に諸僧を派遣しては仏法流布に大きく貢献した。また、一千の僧を集めて第三次の仏典結集を行ったといわれている。
阿育王が王家に生まれた因縁については、過去世において、王舎城で乞食行をしていた釈尊に、土の餅を供養した徳勝童子がその阿育王であると、付法蔵経等に説かれている。
すなわち、釈尊の通る大路で、徳勝・無勝の二童子が土いじりをして遊んでいた。徳勝童子は仏の身から出る金色の光があまねく城内を照らすのを見て、大いに歓喜し、釈尊の持っていた鉢の中に、土で作った餅を供養した。釈尊は、この子は私の滅後百年に阿育王と現れ、仏法を信じて転輪王となり、八万四千の塔を建てて、舎利を供養するだろう、と予言したという。その予言どおり「一百年の内に大王と生れ」たのが阿育王であるとされる。
ここでは、徳勝童子の供物は食べることのできない土の餅であったが、仏を渇仰する純粋な心からの供養であったため、それが福因となり、大果報を受けることができたことを説かれている。
これに対し、南条時光は種々のくだもの、焼米などを御供養したのであるから、真心に変わりはなくとも、はるかに物において勝れている。
また「稗飯軽しと雖も所有を尽し、及び田勝るるを以ての故に故に勝報を得る」(1511-11)で、供養した対象が偉大であったからこそ大功徳を受けられた、ということでもある。
そして「仏はいみじしといへども法華経にたいしまいらせ候へば」と、色相荘厳の迹仏である釈尊と、本有常住の法華経とを相対し、「螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり」と、法が勝れ人は劣ることを述べられている。仏といっても師とするところは〝法〟であり、〝法〟が根本であるからである。したがって「仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや」と、釈尊より勝る法華経供養の功徳が、いかに広大であるかは計り知れないのである。
ここでもう一歩深く拝すれば、日蓮大聖人は、法即人、人即法、人法体一の久遠元初の自受用報身如来であられる。人法体一であられるからこそ、大聖人への南条時光の御供養を「法華経への供養」といわれているのである。
また、徳勝童子の時は飢えた世ではなかった。もともと土の餅であるから、飢えを満たすこととは無関係であったが、釈尊は多くの人々から、たくさんの供養を受けていた。それに比べて時光の場合は、飢饉の世であり、御供養した品々は自分や家族にとっても貴重なものばかりである。それを御供養した真心はなみたいていではないし、また、それを受けられた大聖人の御命を支える尊い働きをするものであった。その功徳は無量といわなければならない。
供養には財施、法施等、さまざまあるが、財施であれ、法施であれ、清冽な信心の脈動する一念のあるところ、すべてが功徳善根となって、我が生命を、我が人生を、福徳で荘厳していくことを銘記していきたい。
1544:09~1544:11 第二章 水の信心・火の信心を示すtop
| 09 抑今の時・法華経を信ずる人あり・ 或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞す 10 る時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信 11 ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし。 -----― さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、また水の流れるように信ずる人もいる。聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時がたつにつれてそれを捨ててしまう心を起こしてしまう。水のように信ずる人というのは、常に退する心をもたずに信ずる人をいう。 貴方はいかなる時も常に退することなく訪ねられるのであるから、水の流れるように信じておられるのであろう。貴いことである、貴いことである。 |
「今の時」即ち末法において、正法である日蓮大聖人の仏法を信仰する人々のなかにも、さまざまなタイプがある。その信仰の姿勢を大きく分けて、「火のごとく」と「水のごとく」の二つがあるとされ、「水の信心」の重要性を強調されている。
火のような信心とは「聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり」と仰せのように、熱しやすいが持続性のない信心のあり方をいう。
「御講聞書」でも「火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし」(0841)と説かれている。
一般に「熱し易く冷め易し」といわれるように、火の信心は、一時的には火が燃えさかるように感激し、真剣に唱題して、弘教もするが、やがて時が経つと、火が消えたように信心がなくなり、退転する状態をいう。
しかも、火の信心は、その燃えているときも、往々にして盲信となり、狂信となって、非常識な行動を起こし、仏法に対する誤解を招いて、法をかえって下げる結果をもたらすことにもなりかねない。
また、時が経つと遠ざかり〝捨つる心〟を生ずるようでは〝丈夫の人〟とはいえない。強い自覚と意志の力によって、自分の心を律し、不退転を貫くことこそ〝丈夫〟の行き方である。
なかんずく仏道修行においては「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-05)と述べられているように、生涯、持ちぬいていく持続が成仏の要諦なのである。そこに水の信心が大切であるといわれるゆえんがある。
「水のごとく」といっても、淀んで止まっている水ではない。「いつも・たいせず」といわれているように、少しも止まることなく滔々と流れる水のような信心の姿勢を指す。
「御講聞書」に「水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり」(0841-一法華経の行者に水火の行者の事-03)と説かれている。
「いつも・たいせず」と仰せのように持続の前進が肝要である。全身を持続する原動力は仏法の教えを自分自身の内に肉化していることにある。なぜなら、仏法の精神、大聖人の教えを、本当に自分のものにしたときには、たとえ自分一人になったとしても、怠けて止めてしまったりはしないものである。
南条時光は、大聖人御在世中だけでなく、大聖人滅後においても、五老僧が非法の衆となっていったなかで、日興上人を外護して、大檀那として見事な信心を貫いた。まさに〝水のごとき信心〟であった。
「聖人御難事」には「月月日日につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)とある。
信心は瞬間瞬間が魔との戦いともいえる。障魔を破って、昨日よりは今日、今日よりは明日と、意欲的に求道心をたぎらせ、成長と向上をめざす精神でなければならない。それが水の流れるような信心なのである。
「火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり」(0841-一法華経の行者に水火の行者の事-01)とも仰せである。
「いかなる時も」道心堅固に、生涯にわたり、水の流れるような信心を貫いていきたいものである。
1544:12~1544:16 第三章 十羅刹の試練と信じ病苦克服を励ますtop
| 12 まことやらむ・いえの内に・わづらひの候なるは・よも鬼神のそゐには候はじ、十らせち女の信心のぶんざいを 13 御心みぞ候らむ、 まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして・かうべをわらんとをもふ鬼神の候べきか、 又 14 釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと・ふかくをぼしめし候へ、恐恐謹言。 15 二月廿五日 日蓮花押 16 御返事 -----― あなたの家の内に病人があるというのはまことであろうか。もし、それがほんとうであっても、よもや鬼神の所為ではないでしょう。十羅刹女が信心のほどをためされているのであろう。まことの鬼神ならば法華経の行者を悩まして、自らの頭を破ろうとする鬼神がいるだろうか。また、釈迦仏、法華経に虚妄はあるはずがないと、深く信じていきなさい。恐恐謹言。 二月廿五日 日 蓮 花 押 御 返 事 |
かうべをわらんとをもふ鬼神
陀羅尼品で十羅刹女が法華経の行者の守護を誓って「若し我が呪に順ぜずして、 説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」とある。法華経の修行者を悩ませる者を頭破七分にすると誓っているのであるから、どんな鬼神も自ら頭を破られることを求めて、法華経の信心の志あるものを、悩乱することがないとの意味。
―――――――――
結びに、南条家に病人が出たことを御心配されて、病は十羅刹女が信心の強弱を試みているのであるから、なお一層強盛に信心を貫いていくよう励まされている。
本来、鬼神には、善鬼と悪鬼の二種がある。その働きは「善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」(1246-12)のである。
「食す」とは、妨害したり、力を弱めたりして、生命力を奪う意である。
鬼神は病気と大いに関連がある。天台大師は病の起こる原因を六つ挙げているが、その第四に「鬼便りを得る」とあるのがそれである。
しかしながら、いま南条時光を悩ませているのは鬼神によるものではないであろうといわれている。その理由として、法華経陀羅尼品で、十羅刹女が「もし法華経を説く人を悩乱するものがいるなら、頭を七つに破って処罰する」と誓っているのだから、自ら好んで十羅刹女に頭を破られようとする鬼神がいる道理がないと述べられている。
十羅刹女は、本来、悪鬼で「上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神」(1246)とされるように、鬼神の中でもきわめて強い存在である。その十羅刹女が法華経陀羅尼品第二十六で、法華経受持の者を守護することを釈尊に誓っているのであるから、他の鬼神がこの誓いにふれるようなことをするわけがないと仰せである。
したがって今の病気は十羅刹女自身の働きによるもので、しかも、それは信心の強さを試みるためにやっていることであろうと仰せられている。十羅刹女は本来は人を苦しめる悪鬼であるが、法華経の強盛な信心に対しては守護の働きを示す。したがって、強盛な信心に立てば、その瞬間から守護の働きに変わるのであるから、それ自体が信心の強さを試していることになるのである。
しかし、何よりも、妙法受持の人を絶対の大慈悲をもって守ってくださる釈迦仏、法華経の功力が偽りであるわけがないと信じていきなさいと結ばれている。
この「釈迦仏・法華経」の御文は、一重立ち入れば、釈迦仏は日蓮大聖人、法華経は南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇の御本尊と拝される。
「御そら事の候べきかと・ふかくをぼしめし候へ」とは、御本尊を無二に信じきっていきなさい、との仰せである。
強く御本尊を信じていくならば、いかなる病も克服しゆく力が厳然と現れることを、この御文から深く確信していきたい。
1544~1544 上野殿御返事(水火二品抄)2014:10月大白蓮華より 先生の講義top
信仰とは生涯不退の前身にあり!
若き地涌の連帯が広がり、今や大きく地球を包みゆく時代になりました。
人間革命の希望の哲理は、世界市民に智慧と勇気を贈り続けます。
平和を願う、民衆と民衆の対話のスクラムが、暴力の連鎖を断ち切り、人類の未来を開く新たな友情を育み、広げています。
この大偉業は、すべて、地道な一対一の「励まし」から始まりました。実は、ここに、仏教の最大の特徴があります。
かつて、未来学者のヘンダーソン博士から、「SGIの活動は、なぜ、これほど世界的に広がりを見せるようになったのでしょうか」と、質問されたことがあります。
私はこう答えました。
「『徹して一人の人を大切にしてきた』からです」と。
励ましが、友の心に「希望の炎」を灯します。そして、「勇気」を呼び起こし、「壁を破る力」を引き出します。
励ましは、「蘇生の泉」であり、「変革の扉」であり、「勝利の大道」です。
「希望の光」であり、「勇気の音声」であり、「未来の建設」です。
「巌窟王のごとく強い巌の精神で」
千里、万里の道を征くような、はるかな広宣流布の大道といっても、根本は一対一のはげましによって進んでいくものです。
私たち創価学会は、仏法の励ましの精神を基調に、人類の平和と価値創造に寄与する、「自立した人」「使命に目覚めた人」「自他共の幸福の実現へ戦う人」を無数に生み出してきたものといえるでしょう。
もちろん、今日の世界的発展に至るまでには、地涌の先駆者たちに、言葉に尽くせぬ幾多の苦難がありました。偏見や中傷をはね返し、迫害を乗り越えた功労者の皆さまの福徳は永遠です。眷属を包み、地域も未来まで照らし続けることは間違いありません。
恩師・戸田先生は語っています。
「広宣流布は大闘争である。巌窟王のごとく、何ごとも貫き通す、強い巌の精神でいけ」と。
仏法は、弛まざる前進です。ここで、あらためて信仰の要諦とは「不退の前進」を貫く一点にあることを確認しておきたい。
今回は、「上野殿御返事(水火二信抄)」を通して、この不退転の信心につて学んでいきましょう。
| 1544 上野殿御返事 建治四年二月二十五日 五十七歳御作 与南条七郎次郎 01 蹲鴟・くしがき・焼米・栗・たかんな・すづつ給び候い了んぬ。 02 月氏に阿育大王と申す王をはしき、一閻浮提四分の一を・たなごころににぎり・竜王をしたがへて雨を心にまか 03 せ・鬼神をめしつかひ給いき、 始は悪王なりしかども後には仏法に帰し・六万人の僧を日日に供養し・八万四千の 04 石の塔をたて給う、 此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさなき人あり、 土 05 の餅を仏に供養し給いて 一百年の内に大王と生れたり、 いものかしら・串柿・焼米・栗・タケノコ・酢筒を頂戴した。 インドに阿育大王という王がおられた。一閻浮提の四分の一を掌中におさめ、竜王を従えて雨を意のままにふらせたり、鬼神を召し使われていた。初めは悪王であったが、後に仏法に帰依し六万人の僧を日々に供養し、八万四千の石塔を立てられた。この大王の過去をたずねれば、仏の在世に徳勝童子と無勝童子という二人の幼子がいた。が、この二人の童子が土の餅を仏に供養して、その功徳によって百年の後、阿育大王として生まれたのである。 |
純粋な信心貫く門下を賞讃
「不退」この言葉に大聖、人仏法の根本精神であります。御本尊への強き「信」と表裏一体でもあるのです。
前回の講義で確認したように、南条時光の父である南条兵衛七郎は、どこまでも「師と共に」との精神で貫いて妙法を持ち抜き、勝利の人生を全うしました。その父の遺志を受け継ぎ、信心を継承したのが、息子の時光です。
今回、拝する御書は父に与えられた御書と同じく、揺るぎなき信心の重要性を教えられた内容です。
南条時光が本抄をいただいた建治年間といえば、社会が騒然としていた時期でした。また、駿河の地は北条一門の所領が多く、大聖人門下への迫害も強まっていました。
南条家は、亡き父の後を受けて時光が地頭として一家を担い立っていましたが、決して暮らしが楽であったわけではありません。しかし、少しでも日蓮大聖人をお守りできればと、飢饉が襲う中、身の回りにある保存食などをかき集め、御供養したのでしょう。師弟一筋に純粋な信仰を貫いていたのです。
大聖人は、こうした変わらぬ信心を貫く南条時光を心から讃え、励ましを送られました。本抄を通して、たとえ今は苦難に満ちた状況であっても、「この信心で断じて打開できる!」「必ず宿命転換できる!」との大確信を与えられています。
土の餅を供養した徳勝童子
本抄の冒頭では、供養の功徳について、インドに実在したアショーカ大王の出生にまつわるエピソードを取り上げています。
「初めは悪王であったが、後に仏法に帰依して、さまざまな供養をした」と仰せのように、アショーカ大王は、当初は暴虐を極め、人々から恐れられる悪王でした。カリンガ国を征服した際には、10万人の命が奪われ、15万人が捕虜になったといわれています。しかし大王は、この惨状を見て心を改め、武力による征服をやめます。以来仏法を深く敬い、法による施策を実行したのです。
具体的には、戦争の放棄や福祉実現の政治、平和外交を行い、仏教以外の諸宗教にも寛容の姿勢を貫きました。また、仏教の保護者としても知られ、仏典結集を援助したと伝えられています。私が対談した世界の知性の多くも、“最も理想的な指導者”の一人としてアショーカ大王を挙げられていました。
その出生にまつわる伝承として「徳勝童子」の説話があります。
昔、釈尊がインドの王舎城にいた時、仲良く、土で遊んでいる2人の子どもがいた。一人を徳勝童子、もう一人を無勝童子といい、二人は釈尊の姿を見て、歓喜の心を起こす。そこで、徳勝童子は土で餅を作って釈尊に供養し、無勝童子は釈尊に向かって合掌する。釈尊は、側に仕えていた弟子に言います。
「あなたは、今、この2人の童子を見たであろう。この童子は、私が亡くなってから100年後に、正法で世界を統治する理想の王となって生まれるであろう」と。
御書には本抄以外にも、「昔し徳勝童子と申せしをさなき者は土の餅を釈迦仏に供養し奉りて阿育大王と生れて閻浮提の主と成りて結句は仏になる」(1380-09)など、釈尊と出会いを結び、真心の供養を捧げた少年・徳勝童子が、その功徳によって、歴史に輝くアショーカ大王となったとの説話が度々登場します。
土の餅は、当然、食べるわけにはいきません。しかし、その清らかな真心が福徳の種となって、世界を豊かにし、平和にしていく大王となったというのです。
| 05 仏はいみじしといへども 法華経にたいしまいらせ候へ 06 ば・螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり、仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや、土のもちゐ 07 を・まいらせて・かかる不思議あり・いわうやすずのくだ物をや、 かれはけかちならず・いまはうへたる国なり、 08 此をもつて・をもふに釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき。 -----― 仏は尊いというものの、法華経に比べれば螢火と日月ほどの勝劣がある。天と地ほどの高下がある。仏を供養してさえこのような功徳があるのだから、ましてや法華経を供養するにおいておやである。土の餅を供養してさえこのような功徳があった。ましてやあなたの供養は種々の果物である。徳勝童子と無勝童子が土の餅を供養した時、国は飢えていなかった。いまは国中が飢えている。このことによって思うと、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女がどうしてあなたを守護しないことがあろうか。 |
「心」を大切にする仏法の精神
ここで大聖人は「仏と法華経」「土の餅と種々の果物」「豊かな時代と飢えた時代」という三つの対比から、時光の真心の供養がもたらす功徳の大きさを示されます。
このなかで、仏すなわち釈尊に対するよりも、法華経に対する供養の功徳が優れている点を確認してきます。大聖人は、その功徳の違いは「蛍火と日月はどの勝劣」「天と地ほどの違い」とまで仰せです。
まず、仏に対する供養の功徳自体がいかに大きいかは、徳勝童子の説話で紹介した通りです。しかし、その功徳でさえ「蛍火」にすぎず、法華経に対する供養こそ「日月」ほどの広大無量の功徳があるといわれているのです。
それはなぜか、釈尊をはじめ、あらゆる仏は皆、法華経によって成仏したからです。
法華経、なかんずく、その肝要である南無妙法蓮華経は、すべての仏のあらゆる功徳を生み出す根本であり、根源です。それゆえ、法華経の供養の功徳が勝るのです。
法華経への供養とは、妙法と共に生き抜くことです。万物を潤し、本有の生命を輝かせていく妙法を、自分も実践し、他者にも勧めていく。この功徳は日月の光明の如き、無上の価値を生み、尽きることはありません。
ゆえに、現代においても、妙法一筋に、広宣流布のため、社会のために、日々、献身している学会員の功徳は計りしれません。厳たる生命の因果の法則に照らせば、すべての行動が、将来、無量の福徳となって、爛漫と陰徳陽報の花を咲かせていくことは絶対に間違いありません。信心のうえの実践には、ムダは一切ないのです。
仏法では「心こそ大切なれ」と説きます。民衆の幸福を願う仏の大願を我が心としようとする「まっすぐな心」「清らかな心」があれば、あらゆる苦労は皆、功徳に変わっていく。全部「心」で決まるのです。
真心には真心で応える。誠実には誠実を貫く。そこに人間としての真の絆が生まれていく。これが大聖人のお心であり、創価の「一人を大切にする」精神です。「心こそ大切なれ」との御金言をリーダーはゆめゆめ忘れてはなりません。
| 09 抑今の時・法華経を信ずる人あり・ 或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞す 10 る時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信 11 ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし。 -----― さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。火のように信ずる人というのは、法門を聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時がたつにつれてそれを捨ててしまう。水のように信ずる人というのは、常に退する心をもたずに信ずる人をいう。 あなたはいかなる時も常に退することなく訪ねられるのであるから、水のながれるように信じておられるのであろう。貴いことである。貴いことである。 |
「火の信心」と「水の信心」
戸田先生は語られています。
「たゆまず流れ出ずる水の信心であれ!溜まり水は動かないから腐ってしまう。人間も同じだ。進まざるは退転である。
一時は果敢に信心に励んでも、途中で不信を起こし、信心から離れていけば、結局成仏は叶いません。いかなる障魔にも紛動されない不退の信心。ここでは、その在り方について述べられていきます。
大聖人は苦難の中でも変わらぬ信心に励む時光に対して、信仰の姿勢について、「火のごとく」と「水のごとく」の二つがあるとされています
有名な「火の信心」と「水の信心」の原理ですが、あらためて確認しておきましょう。
そもそも「火の信心」とは、法門を聞いた時は感激し、薪を得た火が燃え立つように信心に励むが、時がたつと消えるように信心がなくなってしまうことです。それは、内から湧き上がる「内発」の力ではなく、外からの刺激で動かされる「外発」だからです。ゆえに、薪がなくなると燃え尽きたり、他の縁に紛動されてしまい、「すつる心」が生じてしまう。
これに対して、「水の信心」とは、内から湧き上がる求道心を持ち、いかなる縁にも紛動されず、不断の前進、持続を貫いていくことです。
正しき師匠と正しき仏法に出あった時の「歓喜」と「感謝」を忘れず、苦難に直面するたびに、繰り返し原点に立ち返る。たとえ順風満帆の時も、自らの羅針盤を手放さず、油断なく勇気の舵をとる。そして、常に新たに発心し、挑戦し勝ち越え、成長の節を刻んで、さらにまた前進を続ける。これが「水の信心」です。
一滴の水が、渓流となり、やがて大河となり、ついには大海へとながれていくように、自身の境涯を広げつつ、広布に生き抜き、人々も社会も潤していくのです。
立ちはだかる巌をも穿ち、決してとどまることのない「持続の信心」こそ「水の信心」の本質なのです。
善知識の存在が重要
御書には「水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり」(0841-法華経の行者に水火の行者の事-03)と説かれています。
しかし、実際に一人立ち、「水の信心」を貫く「水の行者」として戦い続けることは、決して容易ではありません。「火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり」(0841-法華経の行者に水火の行者の事-01)と仰せです。
そこで大事になるのが「善知識」です。善き先輩、同志の存在です。共々に師の教えを学び合って、信心の原点を常に思い起こし、日々広布の活動の中で深めていく仲間が、何よりも大切です。
反対に、皆と共に切磋琢磨することを嫌い、“自分は特別だ”と錯覚して偉ぶり、自身の成長を止めた時に、信心の後退が始まります。これまで退転・反逆した人間には、自分勝手で慢心になり、地道に広布の活動に励む同志を見くだし、結局、問題を起こしたりして清浄な学会にいられなくなるという共通点がある。
善知識である学会と共に、同志と共に、どこまでも前進しようという心を失えば、信心を全うすることはできません。
月々日々に向上しゆく信心を
大聖人はまた、「いかなる時も・つねは・たいせず」と述べられているように、どんな時でも、変わらず大聖人を求め抜く南条時光の不退の信心を讃えられています。
戸田先生は語っていました。
「閉ざされた青年であってはならない。水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただ平穏な、ゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう」と。
燃え上がる信心の情熱を持ち、水の流れるように持続する、いわば「熱湯の信心」こそ理想的な姿といえるでしょう。
広宣流布は、人類の宿命転換を懸けた大闘争です。広宣流布の大誓願に生き抜く大情熱を、私たちは生涯。堅持し続けてまいりたい。そうでなければ、結局は信心の前進を阻もうとする魔に食い破られてしまうからです。
法華経の行者に対しては、必ず「三障四魔」や「三類の強敵」が襲い掛かってきます。こうした障魔や難に対して、大聖人は決して恐れてはならない。退いてはならないと、繰り返し強調されています。開目抄には「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234-09)とあります。
また、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190-11)、「此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136-04)とも仰せです。
信心は瞬間瞬間が魔との闘争です。この障魔を打ち破り、昨日より今日、今日より明日へと、求道心を燃やして、成長し、向上しゆく一人一人であっていただきたいのです。
| 12 まことやらむ・いえの内に・わづらひの候なるは・よも鬼神のそゐには候はじ、十らせち女の信心のぶんざいを 13 御心みぞ候らむ、 まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして・かうべをわらんとをもふ鬼神の候べきか、 又 14 釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと・ふかくをぼしめし候へ、恐恐謹言。 15 二月廿五日 日蓮花押 16 御返事 -----― あなたの家の内に病人がいるというのはまことであろうか。もし、それが本当であっても、よもや鬼神の所為ではないでしょう。十羅刹女が信心のほどをためされているのであろう。まことの鬼神であるならば法華経の行者を悩まして、自らの頭をやぶろうとする鬼神がいるだろうか。また、釈迦仏・法華経に虚妄はあるはずがないと、深く信じていきなさい。恐恐謹言。 二月廿五日 日蓮花押 御返事 |
“試されている”との信心で
最後の段では、一族に病気の人が出たことを心配されて、病は十羅刹女が信心の強弱を見ているのであるから、なお一層、強盛な信心を貫いていくように励まされています。
鬼神には、善鬼と悪鬼の2種類があり、その働きは「善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」(1246-12)とあります。「食す」とは、妨害したり、力を弱めたりして、生命力を奪うという意味です。
天台大師は病が起こる原因を六つ挙げていますが、その第4に、「鬼便りを得る」とあります。しかし、いま一家をなやませているのは鬼神によるものではないだろうと言われています。鬼神が法華経を実践する者を悩ますならば、それは釈尊に敵対することになり、最後は自分を滅ぼしてしまうからです。
一方、十羅刹女は、法華経陀羅尼品第26で、法華経受持の者を守護することを釈尊に誓っています。現在南条家に起きている病気は、法華経の行者を守護する十羅刹女の働きによるものであり、それは信心の強さを試しみるためであろうと仰せです。
「兄弟抄」にも、こう仰せです。「此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし、十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん、それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし」(1083-12)
法華経の行者を守護する十羅刹女が、私たちの信心を試すことがある。これは、私たちにとって重要な原理です。
諸天の守護といっても、自身の信心を深めず、受け身になって、何か漠然と加護を待つということではありません。「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(1220-09)です。病気や宿命など困難に直面した時に強盛な信心で立ち上がることで、諸天善神の守護の働きがさらに強くなるのです。
日蓮仏法は、どこまでも自身の強盛な信仰心を根本に、わが生命力を湧きたたせ、自らの意志と努力で断固逆境を打開していく現実変革の宗教です。
一切は「信心」で決まります。病気や苦難に対して、信心が後退してしまうのか、一歩も引かずに前進するのか。何よりも、私たち自身が「不退の信心」を貫けるかどうか。私たちの覚悟が試されているのです。
苦難を宿命転換の好機に
結びに「釈迦仏、法華経に虚妄はあるはずがないと、深く信じていきなさい」と仰せのように、どこまでも、御本尊を無二の心で信じ切っていくことが大切です。この病には深い意味がある。強く御本尊を信じていくなら、必ず病も乗り越えていけるとの大聖人の御指導なのです。
信心の途上で起こってくる苦難は、すべて意味があります。なかなか出口が見えない困難な状況であっても、時がたち、長い目で見ていけば、「なるほどそうだったのか」「このためにあったのか」と、必ず分かるものです。ゆえに目先の出来事に一喜一憂する必要はない。永遠に続く嵐のように、永遠に続く苦難はありません。
すべてを転重軽受でき、変毒為薬していけるのが、この仏法の偉大な力用なのです。
「川の流れ」の如き信仰を
今、SGIは世界192ヵ国・地域に広がっています。
その中の一つ、多様性の国といわれるマレーシアには、初めて創価の友が誕生したのは、1964年のことでした。本年は広布50周年の佳節に当たっています。
多民族国家で、さまざまな民族が独自の文化や宗教をまもっているなかで、マレーシア創価学会は、仏法の人間主義の哲理を広げてきました。
88年、マレーシアを初訪問した際、わたしはこう訴えました。
「川は誰が気づかなくても、前へと流れている。マレーシアは川の流れのように、静かに、たゆまず前進していくのです」「これからは対話が大事です。有情の拡大が大事です」と。
以来、マレーシアの同志は「良き市民」として社会の発展に貢献しつつ、多様な文化の懸け橋になろうと、さまざまな人々と対話を重ね、地道に信頼を広げてきました。
2001年に完成したマレーシア総合文化センターでは、400回を超える展示やセミナーなど諸行事が開催され、「文化と芸術の城」として広く市民から親しまれています。
また、開園19年を迎えたマレーシア創価幼稚園も、模範の幼稚園として社会から高く評価されています。民族や宗教を問わず、毎年、入園希望者も多く、授業は英語・マレー語・中国語の3言語で行われています。
仏法の理念を根本に、社会に多くの人材を輩出し、今や「平和」「文化」「教育」の希望の大河の存在として、マレーシア創価学会は見事な勝利の歴史を築き上げました。人間主義の有情の連帯は、さらに拡大しています。また全方面に、民衆の宝城となる立派な会館も立っています。
皆が、前へ前へと「川の流れ」の如き信心を貫いてきた結晶です。
わが人間革命の道を一歩一歩
広宣流布は今、世界同時進行です。
各国ともに、広布の大河が滔々と流れ始めました。
広宣流布は人類が希求してやまぬ大理想です。学会しか成し遂げられません。私たちの地涌の使命は、あまりにも大きい。
戸田先生は「広宣流布とは、万人の幸福を勝ち取る人権闘争である。正義の闘争である。それが学会青年の使命だ!」と言われていました。
大いなるわが使命だからこそ、それを実現しゆくためには、私たちの一日一日の「水の信心」の実践が重要なのです。
宿命や障魔の嵐があろうとも魔の十軍が心を揺さぶろうとも、わが日々の仏道修行をたゆみなく繰り返す。不動の信心を貫き、朝晩の勤行、座談会、仏法対話、教学、人材育成にと、着実に信行学の実践を貫き通す人こそが、信仰の王者です。本物の仏弟子です。
この積み重ねが、自身の生命に永遠に崩れざる「心の財」を刻み、仏の境涯を築きあげるのです。
10年、20年と、わが人間革命の坂道を、使命の汗を光らせながら、粘り強く、一歩一歩、登り続けた人には、誰もかないません。
不退は、信仰の最高の勲章です。
民衆の大地で人を育てる人。人を幸福にする人。人を励ます人。地道に長年戦ってきて、さらに戦い進む人。すなわち地涌の庶民こそが、真実の人間の英雄であり、生命の勝利者なのです。
明年は「世界広布新時代・躍進の年」です。
「水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」との御聖訓を、私たちは共々に心肝に染め、大聖人より「水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」と讃えていただける、堂々たる大躍進を、世界の友と開始しようではありませんか!