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日蓮大聖人御書講義371545~1573

1545~1546    上野殿御返事(末法要法御書)
  1545:01~1545:04 第一章 石川の姫御前の死去を悼む
  1545:05~1546:02 第二章 念仏・真言・禅が仏説に背くを明かす
  1546:03~1546:07 第三章 姫御前の臨終正念を讃える
  1546:08~1546:17 第四章 末法の要法を示し信心を勧める
1547~1547    南条女房殿御返事
1547~1549    種種物御消息
  1547:01~1548:03 第一章 謗法こそ堕獄の業因を明かす
  1548:04~1548:10 第二章 諸宗の人師の堕獄を延べる
  1548:11~1548:16 第三章 未曾有の大難にあうを示す
  1548:17~1549:07 第四章 御供養の功徳を讃える
1549~1550    時光御返事
  1549:01~1550:03 第一章 阿那律の故事を引き供養の功徳を延ぶ
  1565:11~1566:04 第二章 迦葉尊者の過去世の因縁を明かす
  1550:04~1550:18 第三章 時光の供養の功徳の大なるを示す
1551~1551    上野殿御返事(塩一駄御書)
1552~1552    上野殿御返事(三災御書)
1553~1554    九郎太郎殿御返事(題目仏種御書)
  1553:01~1553:04 第一章 身延の御生活の窮状を延べる
  1553:05~1553:12 第二章 題目の七字こそ仏種なるを明かす
  1553:12~1554:05 第三章 供養の功徳の大なるを明かす
1553~1554    九郎太郎殿御返事(題目仏種御書)2013:07月号大白蓮華より。先生の講義
1554~1555    上野殿御返事(雪中供養御書)
1555~1558    上野殿御返事(刀杖難事)
  1555:01~1556:03 第一章 少輔房の逆縁を延べる
  1556:04~1557:01 第二章 提婆品の順逆二縁の成仏を明かす
  1557:02~1557:15 第三章 勧持品二十行の偈の身読を悦ぶ
  1557:16~1558:05 第四章 地涌の上首・上行の再誕なるを述べる
  1558:06~1558:10 第五章 重ねて信心の根本的姿勢を示す
1555~1558    上野殿御返事(刀杖難事)2012:12月号大白蓮華より。先生の講義
1559~1559    上野殿御返事(財御書)
  1559:01~1559:07 第一章 供養の品々の尊さを述べる
  1559:07~1559:12 第二章 法華経の功力を述べ信心を勧める
1560~1561    上野殿御返事(竜門御書)
  1560:01~1560:05 第一章 成仏の難きを竜門の滝に譬える
  1560:06~1560:12 第二章 成仏の難きを地下の者の昇殿に譬う
  1560:13~1560:15 第三章 信心退転の例を挙げ成仏の難きを述ぶ
  1561:01~1561:07 第四章 不惜身命の大願を起こすよう勧める
  1561:08~1561:08 第五章 追伸
1560~1561    上野殿御返事(竜門御書)2008:03月号大白蓮華より。先生の講義
1561~1562    上野殿御返事(適時弘法事)
1562~1562    上野殿御返事(正月三日御書)
1563~1564    上野殿御返事(孝不孝御書)
1564~1565    上野殿御返事(熱原外護事)
1566~1566    上野殿御返事(子宝書)
1566~1566    南条殿御返事(五郎殿悲報事)
1567~1567    上野殿御書(大海一滴御書)
1567~1568    上野殿御書(慰労御書)
1568~1573    上野殿母御前御返事(中隠書)
  1568:01~1569:01 第一章 法華経の最勝なるを明かす
  1569:02~1569:08 第二章 四十余年未顕真実の義を示す
  1569:09~1570:03 第三章 正直捨方便の道理を教示
  1570:04~1570:08 第四章 五郎の成仏を教え母を励ます
  1570:09~1571:06 第五章 法華経が諸仏の主師親なるを示す
  1571:07~1572:05 第六章 輪陀王の故事を引く
  1572:06~1572:12 第七章 亡国の根源を指摘
  1572:13~1573:08 第八章 母尼御前の心中を思い遣る
1568~1573    上野殿母御前御返事(中隠書)2013:07大白蓮華より先生の講義)
1573~1573    南条殿御返事(百箇日御書)
  1573:01~1573:03 第一章 法華経を大海に譬えるを明かす
  1573:03~1573:08 第二章 無一不成仏の義を述べる

1545~1546    上野殿御返事(末法要法御書)top
1545:01~1545:04 第一章 石川の姫御前の死去を悼むtop

01   白米一斗・いも一駄・こんにやく五枚・わざと送り給び候い畢んぬ、なによりも石河の兵衛入道殿のひめ御前の
02 度度御ふみをつかはしたりしが、 三月の十四五やげにて候しやらむ御ふみありき、 この世の中をみ候に病なき人
03 も・こねんなんどをすぐべしともみへ候はぬ上・ もとより病ものにて候が・すでにきうになりて候さいごの御ふみ
04 なりと・かかれて候いしが、されば・つゐに・はかなくならせ給いぬるか。
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 白米一斗、芋一駄、蒟蒻五枚をわざわざ送っていただいた。
 なによりも石河の兵衛入道殿の姫御前が、たびたび手紙を寄越されていたが三月十四・五日の夜のころだろうか、手紙が来た。その中で「この世の中を見ると、たとえ病のない人でも、今年などは無事に過ごせるとは思えないうえ、ましてもとより病身でしたが、急に悪くなりました。これが最後の手紙です」と書かれてあったが、それでは、とうとう亡くなられたのか。

石河の兵衛入道殿のひめ御前
 石河の兵衛入道は日蓮大聖人御在世当時の信徒。駿河国(静岡県)富士郡重須郷の地頭、石河新兵衛源能助のことと思われる。入道して道念日実といった。静岡近郷にも給田をもっていたようである。夫人が南条兵衛七郎の娘だったことから、日興上人や義弟の時光に導かれて早くから大聖人に帰依していたと思われる。ひめ御前はその娘で、病身だったらしく、若くして亡くなった。その伝は不明である。
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 本抄は、弘安元年(1278)4月1日、日蓮大聖人が聖寿57歳の時、身延で御執筆になり、南条時光に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 内容は、はじめに時光の姪にあたる石河兵衛入道の娘が死去したことを悼まれ、釈尊の教説の中では法華経のみが真実であることを示され、石河の姫御前が臨終に南無妙法蓮華経と唱えたことを讃嘆され、末法には余経も法華経も成仏得道の法とならず、ただ南無妙法蓮華経に限ることを明かされて、いっそうの信心を勧められている。
 冒頭のこの段では、南条時光より石河の姫御前がなくなったことをお知らせしたのに対して、姫御前が死を覚悟した手紙を寄越していたことを述べられ、ついに死に至ったことを悼まれている。
 石河兵衛入道とは、南条時光の住む駿河国富士郡上野郷の東隣にあたる重須郷の地頭だった石河新兵衛源能助のことと思われる。その夫人が南条時光の姉で、大聖人より「をもんすどのの女房御返事」(1492)の宛名で御消息「十字御書」をいただいている。その御真筆は大石寺に現存しているが、正月五日とあるのみで御述作の年は不明である。
 日興上人の本尊分与帳に「石河新兵衛入道道念は、日興第一の弟子なり。仍って申し与うる所、件の如し」とあり、また「南条兵衛七郎の女子、石河新兵衛入道後家尼殿仁日興之を申し与う」と記されていることなどから、時光の縁で日興上人に導かれて早くから入信していたものと思われる。
 新兵衛入道が弘安10年(1287に死去した後の石川家は、孫三郎能忠が継いでいる。そして、日興上人が大石寺を創建された後、重須へ御影堂を建立された時には、時光とともにその大施主となり、重須談所の発展にも尽力している。
 したがって「石河の兵衛入道殿のひめ御前」とは、時光には姪にあたっているので、その死去を大聖人にご報告したのであろう。ひめ御前とあるから若い未婚の女性と思われるが、詳しいことはわかっていない。
 本抄に述べられているところによると、たびたび身延の大聖人のもとへお手紙を差し上げていたが、3月14・5日ごろの夜に手紙が届けられ「病状が急変したので、これが最後のお手紙になるでしょう」と覚悟の便りをしていたのである。大聖人も深く御心にかけておられたことは「されば・つゐに……」との御言葉からうかがうことができる。
 なお、「この世の中をみ候に病なき人も・こねんなんどをすぐべしともみへ候はぬ……」とは姫御前の手紙の内容だが、それは前年の建治3年(1277)秋から日本全国に疫病が大流行しており、弘安元年(1278)10月の御消息で「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ、大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候」(1552-02)と述べられているような惨状を呈した。こうしたことから、たとえ病弱でなくても流行病によって助かるとも思えないのだから、まして、もともと病弱の身で、その状態も急に悪くなって自ら死を覚悟しているという意味である。若くして死を目前にしながら、少しも乱れない澄みわたった心境にあったことがうかがわれる。
 本人も、この世のお別れのあいさつという気持ちで大聖人にお手紙をしたため、お使いの人も、そうした姫御前の気持ちを承けて、夜道も厭わず、身延山中の大聖人のもとへ一刻も早くとお届けしたに違いない。

1545:05~1546:02 第二章 念仏・真言・禅が仏説に背くを明かすtop

05   臨終に南無阿弥陀仏と申しあはせて候人は・仏の金言なれば一定の往生とこそ人も我も存じ候へ、しかれども・
06 いかなる事にてや候いけん、 仏のくひかへさせ給いて未顕真実・正直捨方便と・とかせ給いて候が・あさましく候
07 ぞ、 此れを日蓮が申し候へばそら事うわのそらなりと日本国にはいかられ候、 此れのみならず仏の小乗経には十
08 方に仏なし一切衆生に仏性なしと・とかれて候へども・ 大乗経には十方に仏まします一切衆生に仏性ありと・とか
09 れて候へば・ たれか小乗経を用い候べき皆大乗経をこそ信じ候へ、 此れのみならず・ふしぎのちがひめども候ぞ
10 かし、法華経は釈迦仏・ 已今当の経経を皆くひかへしうちやぶりて・此の経のみ真実なりととかせ給いて候いしか
11 ば・御弟子等用ゆる事なし、爾の時・多宝仏・証明をくわへ十方の諸仏・舌を梵天につけ給いき、さて多宝仏はとび
12 らをたて十方の諸仏は本土に・ かへらせ給いて後は・いかなる経経ありて法華経を釈迦仏やぶらせ給うとも・他人
13 わゑになりて・やぶりがたし、しかれば法華経已後の経経・普賢経・涅槃経等には法華経をば・ほむる事はあれども
14 そしる事なし、而るを真言宗の善無畏等・禅宗の祖師等・此れをやぶれり、 日本国・皆此の事を信じぬ、例せば将
15 門・貞任なんどに・かたらはれし人人のごとし、日本国すでに釈迦・多宝・十方の仏の大怨敵となりて数年になり候
1546
01 へば、やうやく・やぶれゆくほどに・又かう申す者を御あだみあり、わざはひに・わざはひのならべるゆへに・此の
02 国土すでに天のせめをかほり候はんずるぞ。
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 臨終の際に南無阿弥陀仏と唱える人は、仏の金言であるから、必ず極楽浄土へ往生できると当人も周りの人も思っている。ところが、どうしたことであったか、釈尊は悔い返されて「未だ真実を顕していない」、「正直に方便の教えを捨てる」と説かれたのは、驚くべきことである。このことを日蓮がいうならば「虚言である」、「あてにならないことである」と日本国の人々は怒るのである。
 ところが、こればかりではない。釈尊は、小乗経には「十方世界に仏はおられない」、「一切衆生に仏性はない」と説かれたけれども、大乗経には「十方世界に仏はおられる」、「一切衆生に仏性がある」と説かれたので、だれが小乗経を用いるであろうか。皆大乗経を信じているのである。
 こればかりではなく、さらに不思議な相違がある。法華経は釈迦仏が已今当の経々を皆悔い返し、打ち破って、この法華経のみが真実であると説かれたから、御弟子達は信じようとしなかった。その時、多宝如来は、釈尊の説法が真実であると証明を加え、十方世界から集まった諸仏は、舌を梵天に付けて釈尊の説法が虚妄でないと証明されたのである。この証明が終わって、多宝如来が宝塔の扉を閉じられ、十方の諸仏が本土に帰られた後は、どのような経々があって、法華経を釈迦仏が破られたとしても、他の仏が一同に法華経は真実だと定めたのだから破ることはできない。そうであるから、法華経以後の経々である普賢経・涅槃経等には、法華経を讃めることはあっても、謗ることはない。
 ところが、真言宗の善無畏等、禅宗の祖師等はこれを破ったのである。日本国は皆彼らの邪説を信じてしまった。例えば、平将門、安倍貞任などに誑された人々のようなものである。日本国はすでに釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の大怨敵となって数年を経たので、だんだんと亡びていくとともに、またこの邪義を糺す者を怨むので、禍いに禍いを重ねることになり、この国土はすでに天の責めを蒙ろうとしているのである。
 臨終の際に南無阿弥陀仏と唱える人は、仏の金言であるから、必ず極楽浄土へ往生できると当人も周りの人も思っている。ところが、どうしたことであろうか、釈尊は悔い返されて「未だ真実を顕していない・正直に方便の教えを捨てる」と説かれたのは、驚くべきことである。このことを日蓮がいうならば「虚言である」「あてにならないことである」と日本国の人々は怒るのである。

未顕真実
 法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。
―――
正直捨方便
 法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
―――
あさましく
 ①以外である、驚くべきさまである。②あまりのことにあきれる。③甚だしい。④嘆かわしい、見苦しい。
―――
小乗経
 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
大乗経
 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
―――
已今当
 法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
―――
普賢経
 曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。
―――
涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
善無畏
 (0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題等から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県の大部分)国府を侵し、さらに下野・上野両国府を得た。みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。しかし天慶3年(0940)藤原秀郷の援けを得た平貞盛によって滅ぼされた。
―――
貞任
 (1018~1062)。安倍貞任のこと。平安後期の陸奥の豪族。頼時の子で岩手郡を譲られ支配した。前9年の役では天喜5年(1057)朝廷軍の源頼義・義家と戦った。康平5年(1062)出羽の豪族・清原光頼・武則兄弟と同盟した朝廷軍に厨川柵(岩手県盛岡市)で滅ぼされた。
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 次に、大聖人は念仏・真言・禅の各宗は、法華経のみが真実であるとする仏説に敵対しているため、それを信じた日本国の人々も仏敵となり、諸天に責められているのであると述べられている。
 はじめに念仏を破されている。当時の世人のほとんどが阿弥陀経に説かれているように南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽往生ができると信じていた。それに対し、それも一往は仏説ではあるが、釈尊が後に悔い改めて無量義経で「今までの四十余年間の経説は真実を明かしていない」と自ら否定し、法華経方便品で「正直に方便権教を捨てて法華経という無上の法を説く」と宣言しているのだから、無益であり往生などできるはずがない、と打ち破られているのである。
 臨終に際して南無阿弥陀仏と称えて極楽往生を願うとは、いわば当時の世間の常識だったのであり、大聖人はそれが仏説に背く誤った行為であると指摘されることにより、石河の姫御前が南無妙法蓮華経と唱えて臨終を迎えたことこそ正しい成仏の道であると示されているのである。
 当時、法然の浄土宗は最も勢い盛んな新興宗教であり、末法思想に便乗して、西方極楽浄土の阿弥陀以外に救ってくれる仏はないという誤った考えに人々を陥れていた。
 仏教に無知な俗人ばかりでなく、仏教界に最高の権威をもっていた比叡山の座主すら念仏にたぶらかされたことは「撰時抄」に「往生要集の序の詞道理かとみへければ顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ、」(0274-10)と述べられているとおりである。
 そのように念仏が流布していたからこそ、大聖人が仏説によって念仏は無間地獄の業因である等と破折されると、当時の人々は、虚事であり仏法を知らないものだと逆に怨嫉し迫害したのである。
 本抄で大聖人は、権大乗教である阿弥陀経等が説かれたのは、小乗教を打ち破るために必要であったからであると一往、その意義を認めながら、しかし釈尊によって法華経以前の経は方便であり捨てるべきであると定められた以上は、それに従うのが道理であると述べられている。
 すなわち、法華経とそれ以外のすべての経々との勝劣について、已に説いた四十余年の経々や、今説いた無量義経や、当に説こうとしている涅槃経をすべて打ち破って、法華経こそ真実であり第一であると断じた明確な文証があることと、多宝如来や十方分身の諸仏が来集して法華経こそ真実であると証明していることの二点から、法華経こそ最勝の経であることが明らかであるとされている。
 爾前の諸経にも、この経こそ第一であるという表現はみられるが、已に説き今説き当に説かんとする経々、すなわちあらゆる経々の中で最第一という文はないのである。
 また、それぞれの経に仏・菩薩が出現して証明したとはあっても、多宝如来をはじめ十方分身の諸仏が悉く来集して真実であると証明したこともないのである。
 このように多宝・十方諸仏の証明のもとに法華経が釈尊の教説中、最勝であり真実であると一旦定められた以上は、たとえ釈尊であっても覆すことはできないのであり、そのために法華経以後に説かれた法華経の結経である普賢経でも、最後の遺言ともいえる涅槃経でも、法華経を讃歎こそすれ、誹ったり下したりする内容は全くみられないのである。
 以上のように仏説に明らかであるにもかかわらず、真言宗や禅宗等の開祖達は、仏説に背く邪義を立て、その邪義を国中の人々は信じこんでしまったばかりか、それを指摘され正法を教えられる大聖人を怨嫉し迫害したために、さらに災いをひどくしているのであると述べられている。
 真言宗の邪義に関しては、多くの御書で指摘されているが、「撰時抄」には「太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども事相の印契と真言とはたえてみへず三密相応せざれば不了義経等云云」(0262-15)と述べられている。日本で、この中国真言宗の理同事勝の邪義を引き継いだのが、慈覚以後の天台密教であった。
 弘法の流れを汲む密教――本来の意味での日本の真言宗では、これをさらに曲げて、法華経は大日経に較べ三重に劣るとの邪義を立てたのである。
 禅宗については「禅宗は教外別伝と云云・法華経を蔑如する言なり」(1073-12)等と述べられており、禅宗の人師の言については「聖愚問答抄」に詳しい。
 禅宗の誤りは、教外別伝・不立文字といって経文そのものを否定することにあり、坐禅によって見性成仏できるとしているが、それは全く仏説に背いているので、大聖人は天魔の所為なりと破折されているのである。
 仏の金言に背いた念仏・真言・禅の各宗の邪義を日本中の人々が広く信じたことは、謀反人に味方したことと同じで釈迦・多宝・十方分身の諸仏に敵対したことになり、亡国・亡家・亡人の罰の現証が現れたのである。しかも、その邪義を打ち破り人々を正法に目覚めさせようとされた日蓮大聖人を怨嫉して迫害したのであるから、日本の国土に諸天の責めがあるのは当然だったといえよう。

1546:03~1546:07 第三章 姫御前の臨終正念を讃えるtop

03   此の人は先世の宿業か・いかなる事ぞ、臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は・一眼のかめの浮木の穴
04 に入り・ 天より下いとの大地のはりの穴に入るがごとし、 あらふしぎふしぎ、又念仏は無間地獄に堕つると申す
05 事をば経文に分明なるをば・ しらずして皆人日蓮が口より出でたりとおもへり、 天はまつげのごとしと申すはこ
06 れなり、虚空の遠きと・まつげの近きと人みなみる事なきなり、 此の尼御前は日蓮が法門だにひが事に候はば・よ
07 も臨終には正念には住し候はじ。
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 この姫御前は先世の宿業か、どうしたことか、臨終に南無妙法蓮華経と唱えられたということは、一眼の亀がたまたま浮木に出あって、その穴に入ることができたようなものであり、天から下した糸が、大地に立ててある針の穴に通ったようなものである。じつに不思議なことである。
 また、念仏は無間地獄に堕ちる業因ということは、経文に明らかであるのを知らないで、皆人は日蓮が口から出たことと思っている。天は睫毛のようなものである、というのはこのことである。虚空のような遠いものと睫毛のような近いものは、人には皆見ることができないのである。この尼御前は、日蓮の法門が、もし間違っていたならば、よもや、臨終には正念に住することはなかったであろう。

宿業
 宿世の業因。過去世につくった業因。現世に果報を生ずる原因となった過去世の善悪の行為。
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一眼のかめの浮木の穴に入り
 法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。正法に巡りあい、受持することの難しさを、一眼の亀が海中の浮木にあうことの難しさに譬えたもの。きわめて稀なことの譬えに用いられる。雑阿含経巻十五等にも説かれる。「松野殿後家尼御前御返事」に詳しい。
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天より下いとの大地のはりの穴に入る
 法苑珠林卷二十三に「提謂経に云く、一人有り、須弥山上に在りて纖縷を以って之を下し、一人下に在りて針を持って之を迎う、中に旋嵐猛風有りて縷を吹き針孔に入れ難きが如し」とある。きわめて難しく稀なことの譬えに用いられる。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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 念仏・真言・禅の各宗の邪義を破された後に、大聖人は石河新兵衛の姫御前が臨終に南無妙法蓮華経と唱えたことはまことに希有のことであり、そのように臨終正念であったのは大聖人の法門が正しい証拠である、と述べられている。
 臨終正念とは、死に臨んでも心を乱さず、正法を信じて疑わないことをいう。大聖人は、臨終について「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404-07)と臨終正念であることこそ信仰の上の最大時であるとされたうえで、妙法尼に対し「しかれば故聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり」(1405-11)と仰せである。
 死に臨んで少しも御本尊を疑うことなく題目を唱えたときに、生死即涅槃で即身成仏できるのであり、これこそ真の臨終正念といえるのである。
 それは、「生死一大事血脈抄」に「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣』と説かれて候……今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば蓏夕顔の手を出すが如くと思し食せ、過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず」(1337-04)と仰せのことからも、明らかである。
 姫御前が唱題して臨終正念だったのが稀有なことであるとされているのは、前に述べたように当時の世人のほとんどが臨終に南無阿弥陀仏と称えていたからであろう。しかし、念仏では極楽往生ができるどころか、無間地獄に堕ちる業因となるのであり、そのことは経文に明らかであるのに大聖人の我見のように世人は思って素直に信じようとしないどころか、迫害を加えたのである。
 法華経譬喩品第三には「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。
 しかるに、念仏宗の教えは、法然が「捨・閉・閣・抛」といって法華経を捨てさせ、法華経を誹謗した上に立てたものである。
 したがって、それを信ずることは「信ぜずして此の経を毀謗」することになり、経文どおり無間地獄に堕ちるのである。
 こうした明確な文証・理証があるにもかかわらず、信じられない人々の誤りを、大聖人は「天はまつげのごとしと申すはこれなり、虚空の遠きと・まつげの近きと人みなみる事なきなり」という譬えをもって述べられている。
 目のまわりに生えている睫毛は近すぎて見えることはないし、大空のように遠いものもかえって目に入らないように、念仏無間の法門も、経文にあまりにも明確に説かれているために、かえってそれがわからないのであるとの意と拝される。

1546:08~1546:17 第四章 末法の要法を示し信心を勧めるtop

08   又日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候、南無妙法蓮華経と申すは法華経
09 の中の肝心・人の中の神のごとし、 此れにものを・ならぶれば・きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさき
10 の大臣已下になひなひとつぐがごとし、 わざはひのみなもとなり、 正法・像法には此の法門をひろめず 余経を
11 失わじがためなり、 今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、 但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だし
12 て候も・わたくしの計にはあらず、 釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事を
13 まじへば・ゆゆしきひが事なり、 日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に
14 乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし。
15   此の女人は・なにとなけれども自然に此の義にあたりて・しををせるなり、たうとし・たうとし、恐恐謹言。
16       弘安元年四月一日                  日 蓮 花 押
17     上野殿御返事
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 また、日蓮の弟子達の中に、法門を知った振りをする人々が、かえって間違いを犯しているようである。南無妙法蓮華経というのは、法華経の肝心で、人の魂のようなものである。これにものを並べることは、后が二人の王を夫とし、また后が大臣以下の者にひそかに情を通じるようなものであって、禍の根源である。正法や像法にはこの法門を弘めることはなかった。それは余経を失わせないためであった。今末法に入ったならば、余経も法華経も無益であり、ただ南無妙法蓮華経以外にないのである。こう言い出したのも、私見ではない。釈尊・多宝如来・十方の諸仏・地涌千界の菩薩の考え定められたことである。この南無妙法蓮華経に余の修行を交えるならば、大変な間違いである。太陽が出たならば、灯は無意味である。雨が降ったなら、露は何の役に立つであろうか。赤児には乳より外のものを与えるべきであろうか。良薬にまた他の薬を加えることはない。
 この女人は、なんとはなしに、自然にこの義理に適って、信心をやり遂げられたのである。尊いことである。尊いことである。恐恐謹言。
  弘安元年四月一日          日 蓮  花 押
   上野殿御返事

正法・像法・末法
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時のこと。正法時とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法時とは次第に仏教が形式化し、その正しい教えが失われていく時代。末法時とはその仏の教えの効力が失われ、廃れてしまう時代。年次については、諸経典によって諸説があるが、日蓮大聖人は大集経に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年と第二の五百年の一千年間を正法とされ、第三の五百年と第四の五百年の一千年間を像法とされ、第五の五百年を末法の始めとされている。
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地涌千界
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。
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 最後に、大聖人は弟子等の中に法門を知ったかぶりをしている者に誤りに陥る例が多いことを戒められ、種脱相対のうえから末法には余経も法華経も功徳はなく、ただ寿量文底の南無妙法蓮華経のみが成仏得道の大法であることを示されている。そしてこの妙法に余事をまじえることなく信心に励むよう勧められ、姫御前が正しい信心をしとおしたことを貴いこととされて、本抄を結ばれている。
なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候……今末法に入りぬれば余経も法華経もなし、但南無妙法蓮華経なるべし
 ここで「法門しりたりげに候人人」とは、天台教学などを学んで、文上解釈に引きずられている人々をさして言われていると考えられる。
 そのことは「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神のごとし、此れにものを・ならぶれば・きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし、わざはひのみなもとなり」という御文からも拝察できる。
 大聖人の法門とは、「常忍抄」に「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり」(0981-08)と仰せのように、権実相対・本迹相対のうえに、種脱相対を立てた第三の法門なのである。
 そして、その法とは、「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と述べられ、報恩抄で「天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり」(0328-13)として本尊・戒檀・題目であると明かされているように、法華経文上脱益の法ではなく、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経であり、それこそ末法の一切衆生が信受すべき唯一の成仏の大法なのである。
 しかし、御在世中の弟子であっても、文底下種の法門が理解できず、文上脱益の法門に執着して知りたりげに法を説いて、正法を歪める者が出たのである。大聖人滅後に、五老僧が日興上人に背き、師敵対の謗法となったのも、根本は同じ誤りを犯したためであることが「五人所破抄」・「富士一跡門徒存知の事」等からうかがえる。
 そのために「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」と、法華経さえも末法の成仏の要法ではないことを示され、文上脱益を撰び捨てて、文底下種の無妙法蓮華経に限ることを明らかにされているのである。
 「高橋入道殿御返事」に「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(1458-13)と述べられているのも、末法の一切衆生のためには法華経さえも病の良薬とはならず、大聖人所持の妙法こそ唯一の是好良薬であることを示されているのである。
 そして、そのことは「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計」であり、文証・理証・現証のうえから正しいことを示され、「南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」と厳しく戒められている。
此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり云云
 末法の修行は、三大秘法の南無妙法蓮華経を、一切他経をまじえず純一無二に信受することである。他経は、文上の法華経も含めて「日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき」とあるように、末法の大法が出現した後には、一切無益となる。
 しかるに、南無妙法蓮華経を信仰しながら、それに他経を交えて修行しているのは「嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし」との道理に反する、大なる誤りなのである。
 このことは「日女御前御返事」にも「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし……南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(1244-13)と示されているとおり、御本尊を信ずる以外に成仏の法はないと信じて唱題することが根本であり、御本尊を持ちながらその外に幸せへの法があると考えたり求めることは「余事をまじへ」た「ゆゆしきひが事」になるのである。

1547~1547    南条女房殿御返事top

01   八木二俵送り給び候い畢んぬ、度度の御志申し尽し難く候。
02   夫れ水は寒積れば氷と為る.雪は年累つて水精と為る・悪積れば地獄となる.善積れば仏となる・女人は嫉妬かさ
03 なれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば・あに竜女があとを・つがざらん、 山といひ・河といひ・馬とい
04 ひ・下人といひ・かたがた・かんなんのところに・度度の御志申すばかりなし。
05   御所労の人の臨終正念・霊山浄土疑なかるべし・疑なかるべし。
06       五月二十四日                     日蓮花押
07     御返事
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 米を二俵お送りいただきました。度々のお志はお礼の申し上げようもありません。
 水は寒さが積もれば氷となるし、雪は年を重ねれば水精となります。同じように悪が積もれば地獄に堕ち、善行を積めば仏となります。女人は嫉妬が重なれば毒蛇となります。法華経供養の功徳が重なれば、竜女のあとを継いで成仏することは間違いありません。身延まで来るのに山といい、河といい、馬といい、下人といい、なにかとご苦労の多いところに度々のお志、申し述べようもありません。
 病気であった人が臨終正念であったとのこと、霊山浄土は絶対に疑いありません。
  五月二十四日            日 蓮  花 押
   御 返 事

竜女
●竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
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臨終正念
●死に臨んで、三毒の邪念を起こすことなく、成仏を信じて疑わないこと。
―――
霊山浄土
●釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――――――――
 本抄は弘安元年(1278)5月24日、南条七郎次郎時光の夫人が米二俵を御供養したのに対する返礼の書である。御真筆はないが、日興上人の写本が大石寺にある。写本には月日のみで年の記載はないが、古来、弘安元年の書であるとされている。与えられた人についても「御返事」とあるだけで記されていないが、時光の夫人とすることに異説はない。
 最初に米を「八木」といわれているのは、「米」の字を分解してこのように用いられたもので冒頭のこの字から、本抄には「八木書」「八木御書」の別名がある。米二俵の御供養は大聖人への御供養であることは当然であるが、文末に記されている「御所労の人」の追善供養の意義も込めてのものであったであろうと思われる。この「御所労の人」については詳細はわからないが、本抄を著される直前の4月1日に時光に与えられた御手紙(1545)に「石河の兵衛入道殿のひめ御前」について触れられ、亡くなったことが書かれているので、石河新兵衛の夫人が南条時光の姉であることを考えると「石河の兵衛入道殿のひめ御前」であることは、ほぼ疑いない。その書から新兵衛の娘は3月下旬に亡くなったものと考えられるので、本抄にしたためられている御供養は、満中陰を終えてのものであるとも考えられる。
 供養の志に関連して大聖人は、世間・仏法の例をもってその尊さを教えらえている。「雪は年累つて水精と為る」との例は、水晶が雪深い山中にとれることから、こう考えられていたのである。かつてヨーロッパでも水晶は、アルプスに産するところから「氷の化石」と呼ばれていた。その他、シベリアや、日本では佐渡など寒冷地に産したといわれる。
 水はつねに流動してやまないのに対し、氷は固く固定的である。雪はすぐ融けるのに対し水晶は不変である。水、雪は一つ一つの善悪の行為をさし、氷や水晶は生命の性分をさしておられる。行為の一つ一つは終われば消滅するが、それを重ねると、生命の不変的な性分となることを教えられているのである。
 「悪」の行為も、その一つ一つは消えていく。しかし、それが積もり積もっていけば、やがて地獄の報を受けることは疑いない。逆に「善」をたゆまず積み重ねることによって、仏の大果報を得ることを教えられている。この「善」とは正法の実践であることはいうまでもない。
 「女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる」とは、女性について、古来、そのように考えられていたのを用いられたのであろう。能の「道成寺」も、安珍を恋うた清姫がその思いをつのらせたあまり大蛇となった物語を扱っている。天台大師の文句巻二にも「貪愛の母・無明の父」と、その特質を述べている。もし女性が貪愛に紛動され、それが重なっていけば、毒蛇のごとく人に忌み嫌われる存在となろう。しかし、御本尊への供養の功徳を積み重ねていけば、竜女のごとく成仏の大果報を得、人々を救う存在となることは間違いないのである。
 竜女は畜身である。前の「毒蛇」と対比させておられる。「嫉妬」という悪を重ねていけば「毒蛇」の悪報を受けなければならないが、法華経供養の功徳という善を積み重ねていけば「毒蛇」転じて「竜女」となるのである。
 今、時光の夫人は御供養の品を馬に積み、下人をつかわして山を越え川を渡り、「艱難の所」である身延の地に、たびたび供養の誠を重ねている。必ず竜女の後を継ぎ成仏することは疑いないと、その信心を称賛されているのである。
 最後に、病気で亡くなった「ひめ御前」は、臨終正念であったから霊山浄土は疑いないと励まされ、本抄を結ばれている。

1547~1549    種種物御消息top
1547:01~1548:03 第一章 謗法こそ堕獄の業因を明かすtop

01   しなしなのものをくり給びて法華経にまいらせて候。
02   抑日本国の人を皆やしないて候よりも 父母一人やしないて候は功徳まさり候、 日本国の皆人をころして候は
03 七大地獄に堕ち候、 父母をころせる人は第八の無間地獄と申す地獄に堕ち候、 人ありて父母をころし釈迦仏の御
04 身よりちをいだして候人は 父母をころすつみにては無間地獄に堕ちず、 仏の御身よりちをいだすつみにて無間地
05 獄に堕ち候なり、又十悪・五逆をつくり十方・三世の仏の身より・ちをいだせる人の法華経の御かたきとなれるは・
06 十悪・五逆・十方の仏の御身より・ちをいだせるつみにては阿鼻地獄へは入る事なし・ただ法華経不信の大罪により
1548
01 て無間地獄へは堕ち候なり、又十悪・五逆を日日につくり・十方の諸仏を月月にはうずる人と・十悪・五逆を日日に
02 つくらず十方の諸仏を月月にはうせず候人・ 此の二人は善悪はるかにかわりて候へども・法華経を一字一点もあひ
03 そむきぬれば・かならず・おなじやうに無間地獄へ入り候なり。
-----―
 種々の物を、お送りいただき、法華経の御宝前にお供えした。
 さて、日本国の人々を皆養うよりも、父母一人を養うほうが功徳は勝れている。日本国のすべての人を殺しても、七大地獄に堕ちるだけであるが、父母を殺す人は第八の無間地獄という地獄に堕ちる。父母を殺し、釈迦仏の御身を傷つけて、血を出させた人は、父母を殺した罪では無間地獄に堕ちないが、仏の御身より血を出させた罪で無間地獄に堕ちるのである。また、十悪・五逆罪を作り、十方・三世の仏の身から血を出させた人が、法華経の敵となった場合、十悪・五逆罪や、十方の仏の身から血を出させた罪では阿鼻地獄に入ることはない。ただ法華経不信の大罪によって無間地獄に堕ちるのである。また、十悪・五逆罪を日日に作り、十方の諸仏を月々に謗ずる人と、十悪・五逆罪を日々に作らず、十方の諸仏を月々に謗じない人とではその善悪は大いに異なっているけれども、法華経に一字一点も背くならば、必ず同じように無間地獄に入るのである。

七大地獄
 八大地獄のうちの等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱の七種の地獄のこと。長阿含経、倶舎論、正法念経等に詳しい。地獄の地は最低、獄は繋縛不自在の意。罪業の因によって報いを受けて生まれる苦の世界のこと。
―――
無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
十悪
 十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
―――
五逆
 五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
三世の仏
 過去・現在・未来の三世に出現する仏。無限の時間・空間にわたって存在する無量無数の仏。
―――
阿鼻地獄
 阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
―――――――――
 本抄は、弘安元年(1278)7月7日、身延で執筆され南条平七郎に与えられた御消息とされる。御真筆の一部が現存するほか、日興上人の写本が大石寺にある。別名を「種々供養書」とも呼ばれる。
 南条平七郎は、建治2年(1276)12月に御本尊御供養の僧膳料として米一駄等を身延へ送って南条平七郎殿御返事をいただいている。日興上人の本尊分与帳に「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎母尼者越後房弟子也」とあることから、地頭ではないが給田を持つ武士であったことがわかるが、それ以外の詳しいことはわかっていない。
 内容は、正法誹謗こそ、無間地獄に堕ちる極重罪であることを明かされ、世にいう悪人よりも仏教の高僧達こそ、この正法誹謗の重罪人であることを指摘されている。そして、大聖人がこのことをいわざるを得ない道理を述べられ、また、それをいったが故に数々の迫害にあっていることを示されて、そうした大聖人を御供養し外護する南条平七郎の功徳の大なることを教えられて結ばれている。
 はじめに無間地獄に堕ちる業因について述べられ、五逆罪と謗法の罪業の軽重を明かし、謗法こそ極重罪であることを示されている。
 無間地獄については、「顕謗法抄」に「大阿鼻地獄とは又は無間地獄と申すなり欲界の最底大焦熱地獄の下にあり……地獄の極苦は且く之を略す前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり、此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事他化自在天の楽みの如し……若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はずとみへたり、此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり……業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり」(0447-02)と述べられている。
 更に「五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべしや、答えて云く誹謗正法の重罪なり……問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何……法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0447-18)と仰せであり、謗法の罪業は五逆罪とは比較にならないほど深重なのである。
 したがって大聖人は、日本国の人を皆殺しにする罪よりも父母を殺す罪の方が重く、五逆罪の中でも、父母を殺す罪より仏身より血を出す罪の方が重く、十悪五逆と出仏身血の罪よりも法華経不信・誹謗の罪の方が重いことを示され、さらに極悪人も善人も、法華経に背いた場合には同じく無間地獄に堕ちると述べられ、謗法の罪こそ、あらゆる罪業の中で最も重い悪業であることを示されているのである。

1548:04~1548:10 第二章 諸宗の人師の堕獄を延べるtop

04   しかればいまの代の海人・山人.日日に魚鹿等をころし・源家・平家等の兵士等のとしどしに合戦をなす人人は.
05 父母をころさねば・よも無間地獄には入り候はじ、便宜候はば法華経を信じて・たまたま仏になる人も候らん、 今
06 の天台の座主.東寺・御室・七大寺の検校・園城寺の長吏等の真言師・並びに禅宗.念仏者・律宗等は眼前には法華経
07 を信じよむににたれども・其の根本をたづぬれば弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり、源にご
08 りぬれば流きよからず・天くもれば地くらし、 父母謀反をおこせば妻子ほろぶ・山くづるれば草木たふるならひな
09 れば・日本六十六ケ国の比丘・比丘尼等の善人等・皆無間地獄に堕つべきなり、 されば今の代に地獄に堕つるもの
10 は悪人よりも善人・善人よりも僧尼・僧尼よりも・持戒にて智慧かしこき人人の阿鼻地獄へは堕ち候なり。
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 そこで、今の世の漁夫・猟師で、日々に魚や鹿等を殺している人や、源家・平家等の武士等で、年々に合戦をしている人々は、父母を殺さないので、おそらく無間地獄には入らないであろう。機会があれば、法華経を信じて仏になる人もいるであろう。
 それに対し、今の天台宗延暦寺の座主、東寺・仁和寺・七大寺の検校、園城寺の長吏等の真言師、ならびに禅宗、念仏者、律宗等の人は、表面的には法華経を信じ、読誦しているようではあっても、その根本を究めるならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等の弟子である。源が濁れば流れは清くない。天が曇れば地は暗い。父母が謀反をおこせば、妻子は亡ぶ。山が崩れれば草木は倒れる道理であるから、日本六十六か国の比丘・比丘尼等の善人等は、皆無間地獄に堕ちるであろう。
 だから、今の世に地獄に堕ちる者は、悪人よりも善人、善人よりも僧尼、僧尼よりも持戒で智慧のある人が阿鼻地獄へは堕ちるのである。

天台の座主
 「座主」というのは大衆一座の主である。比叡山延暦寺等では、時の貫首を座主と呼んでいる。
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東寺
 第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。 
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御室
 第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
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七大寺の検校
 「七大寺」とは奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。「検校」とは社寺にあって一山の事務を監督する職のことで、一山の上首として、僧尼を監督する者。
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園城寺の長吏
 「園城寺」とは、琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。「検校」とは、寺院の首長となる僧侶のこと。
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真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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弘法大師
 (0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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慈覚大師
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
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智証大師
 (0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。 
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法然
 (1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
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比丘
 ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。
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比丘尼
 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。
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持戒
 「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
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 先に示された罪業の軽重の原理から、今の代を見るに、無間地獄に堕ちるのは、世間一般の常識とは逆に、諸宗の高僧達であることを明かされている。
 当時の人々は、生き物を殺すことをなりわいとする猟師や漁師、また合戦し殺傷をくりかえす武士などは、罪深い人々であると考えていた。それに対し、大聖人は、これらの人々も父母を殺すなどの五逆罪を犯さなければ無間地獄に堕ちることはないし、縁があって法華経を信ずることがあれば成仏することもできるのであると仰せになっている。
 そして、それに対して世間の人々から、仏教を修行して日々善根を積み成仏するであろうと信じられている各宗の僧達こそ無間地獄に堕ちる罪業深き人であることを示されている。そして、その理由は弘法・慈覚・智証・善導・法然等の弟子だからであると述べられている。
 なぜ弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然の弟子であるために無間地獄に堕ちるのかといえば、そうした諸宗の祖師達が立てた教義が謗法の邪義であり、それを信じた弟子は、知らなくても謗法となってしまうからである。
 それでは謗法とは何かといえば、「顕謗法抄」に「謗法の相貌如何、答えて云く天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」(0448-16)と仰せであり、正法に背き、正法を捨てさせることをいう。
 そして、また「華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか、華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり法相三論もてかくのごとし、真言宗には日本国に二の流あり東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり何に況や大日経にをいてをや、天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり印真言等は超過せりと云云……されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかかずば謗法の者・悪道に堕ちたりとしるべし」(0452-02)と述べられている。
 そのように釈尊の本意に背き、真実最高の教えである法華経を下して、多くの人々に法華経を捨てさせた諸宗の祖師達の謗法の罪は、まことに重いといわなければならない。
 「開目抄」にも「外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり……況や観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて還つて念仏に対して閣抛閉捨せるは法然並びに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや」(0227-09)とも、また「世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし」(0199-18)とも仰せられている。
 当時の人々は、仏法によって善根を積もうとし、成仏を願い極楽往生を期しながら、謗法の祖師の教えを信じて正法に背いてしまっていたため、無間地獄の苦悩を受けざるを得ないのである。しかも、「悪人よりも善人・善人よりも僧尼・僧尼よりも・持戒にて智慧かしこき人人の阿鼻地獄へは堕ち候なり」と御示しのように、人々に仏法を教える立場の高僧ほど、人を悪道に導くので無間地獄への大罪を作っているのである。
 このように、殺生をなりわいとする人々よりも、世に〝生き仏〟のように崇められている高僧達こそ無間地獄へ堕ちるとの大聖人の主張は、まさしく、当時の人々の常識をくつがえし、既成の権威を真っ向から否定するものであった。それゆえ、日蓮大聖人に対し、激しい迫害、弾圧が加えられたのである。

1548:11~1548:16 第三章 未曾有の大難にあうを示すtop

11   此の法門は当世.日本国に一人もしりて候人なし、ただ日蓮一人計りにて候へば.此れを知つて申さずば・日蓮・
12 無間地獄に堕ちて・うかぶ期なかるべし、 譬へば謀反のものを・しりながら国主へ申さぬとがあり、申せばかたき
13 雨のごとし風のごとし・むほんのもののごとし・海賊・山賊のもののごとし、かたがた・しのびがたき事なり、例せ
14 ば威音王仏の末の不軽菩薩のごとし歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし、 天台のごとし・伝教のごとし、 又かの人
15 人よりも・かたきすぎたり、 かの人人は諸人ににくまれたりしかども・いまだ国主にはあだまれず、これは諸人よ
16 りは国主にあだまるる事・父母のかたきよりも・すぎたるをみよ。
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 この法門は、今の世に日本国では一人も知っている人はいない。ただ日蓮一人ばかりであるので、これを知って言わなければ、日蓮は無間地獄に堕ちて浮かぶ時もないであろう。たとえば、謀反の者を知りながら国主へいわなければ罪となるようなものである。これを言うならば敵は雨のように風のように襲ってくる。謀反の者のように、海賊・山賊の者のように憎まれる。いずれにしても忍び難いことである。例えば、威音王仏の末の不軽菩薩のようであり、歓喜仏の末の覚徳比丘のようである。天台大師、伝教大師のようである。また、これらの人々よりも敵ははるかに勝っている。これらの人々は、諸人に憎まれたけれども、まだ国主に怨まれてはいない。日蓮は、諸人よりは国主に怨まれること、父母の敵にも過ぎているのは、見られるとおりである。

威音王仏の末の不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている。威音王仏の滅後の像法時代の末に不軽菩薩が出現し、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と一切衆生を礼拝讃歎した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。そのため、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈、杖木瓦石の迫害を受けた。
―――
歓喜仏のすえの覚徳比丘
 涅槃経巻三に説かれている。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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 以上のように、諸宗の高僧達こそ無間地獄に堕ちる極重罪人であるということは、日蓮大聖人以外にだれも知らない大問題であった。まさしく常識をくつがえすことであったのである。
 これをいえば、諸宗の僧達も、彼等を信じ崇めている権力者はじめ、あらゆる民衆も、激しい怒りにとらわれて、種々の迫害を加えてくることは、目に見えていた。
 だが、もしも、これをいわなければ、大聖人自身「無間地獄に堕ちて・うかぶ期なかるべし」という罪業を作ることになる。なぜなら、涅槃経に「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵嘖し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」と戒められているように、仏法の怨となり、また、これらの僧達を信じて一緒に無間地獄に堕ちる無数の人々を見殺しにする無慈悲の所業となってしまうからである。
 「此の法門は当世・日本国に一人もしりて候人なし、ただ日蓮一人計りにて候へば・此れを知つて申さずば・日蓮・無間地獄に堕ちて・うかぶ期なかるべし」との仰せは、「開目抄」の次の御文と同趣旨といえよう。
 「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし……今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200-09)。
 人々の不幸の根本的な原因が邪宗邪義にあることを深く知られ、ただ御一人立たれて邪法を捨てて正法を信ずるよう強く勧め、そのために競い起こる身命にも及ぶ大難を忍ばれた日蓮大聖人のお振る舞いこそ、「難を忍び慈悲のすぐれた」(0202-08)末法の御本仏の大慈悲の御姿だったのであり、この御文は大聖人の末法御本仏たる御内証を示していると拝される。
 謗法を責めないことは、「譬へば謀反のものを・しりながら国主へ申さぬとがあり」と仰せのように、謗法に与同する罪にあたるのである。
 謗法を責めれば強敵が競い起こり、大難は嵐のように襲ってくる。それは過去の正法弘通によって難にあった不軽菩薩や覚徳比丘、天台大師や伝教大師を超える厳しい難である。なぜなら、大聖人の場合は、国主による迫害だからであると述べられている。
 不軽菩薩は四衆から杖木瓦石の難にあい、覚徳比丘は邪法の僧によって刀杖による迫害を受けた。しかし、国主すなわち国家権力による迫害ではない。天台大師や伝教大師は、国主からはむしろ尊敬を受けたのである。それに対し、大聖人は権力によって弘長元年(1261)5月12日の伊豆・伊東への流罪と、文永8年(1271)9月12日の竜の口法難とそれに続く佐渡流罪という大難にあわれている。
 そのありさまは「雨のごとし風のごとし・むほんのもののごとし……諸人よりは国主にあだまるる事・父母のかたきよりも・すぎたる」であった。

1548:17~1549:07 第四章 御供養の功徳を讃えるtop

17   かかるふしぎの者をふびんとて御くやう候は.日蓮が過去の父母か・又先世の宿習か.おぼろげの事にはあらじ、
18 其の上雨ふり・かぜふき・人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ、此れも又かくのごとし、ただなる時だにも・
1549
01 するがと・かいとのさかひは山たかく河ふかく・石おほくみちせばし、いわうや・たうじは・あめはしのをたてて三
02 月におよび・かわはまさりて九十日、やまくづれ・みちふさがり・人もかよはず・かつてもたえて・いのちかうにて
03 候いつるに・このすずのもの給いて法華経の御うえをもつぎ・釈迦仏の御いのちをも・たすけまいらせ給いぬ、 御
04 功徳ただをしはからせ給うべし、くはしくは又又申すべし、恐恐。
05       七月七日                      日 蓮 花 押
06     御返事
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 このような不思議な者を不憫と思って御供養下された貴殿は、日蓮の過去の父母であろうか。または過去世からの因縁であろうか。いずれにしても、浅い因縁ではないであろう。そのうえ、雨が降り、風が吹き、人が制止する時にこそ、志はあらわれるものである。今、貴殿が種々の物をお送りくださったこともまた同じである。平穏な時でさえ、駿河と甲斐との境は、山は高く、河は深く、石は多く、道は狭い。まして今は豪雨が三か月も降り続き、河は増水して九十日、山は崩れ、道は塞がり、人も通わず、食糧も絶えて、命もこれまでというときに、この種々の物をお送りくださり、法華経の御飢えをもいやし、釈迦仏の御命をも助けられたのである。その功徳は計り知れないものがある。くわしくはまた申し上げよう。恐恐。
  七月七日             日 蓮  花 押
   御 返 事

先生
 前生のこと。前世・過去世のこと。
―――
宿習
 宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
―――
するが
 駿河国のこと。東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
―――
かい
 甲州ともいう。山梨県のこと。
―――――――――
 これまで述べられたように、末法に唯一人、仏法のために立ち上がり、大難にあわれている大聖人を御供養し外護申し上げる南条平七郎の信心をたたえ、その功徳の無量なことを示して本抄を結ばれている。
 御自身を「かかる不思議の者」といわれているのは、一往は、国中から憎まれている者との意であるが、また再往は仏法のために身命をなげうっておられることが世間的に見れば思議しがたいとの意でいわれたと拝せられる。
 そして、国中から憎まれておられる大聖人に心を寄せ御供養するということは、過去世に深い因縁があったからに違いないと述べられ、とくに困難な状態のときにこそ志の強弱が顕れるものであるといわれ、悪天候で交通困難のなかを、種々の品を御供養申し上げた真心をおほめになっている。
 当時、駿河から甲斐への交通は、平時でも困難であったのに、この時は大雨が降り続いて洪水になり、道路は寸断されて交通途絶の状態になっていたのである。そのため、身延山中の大聖人の御生活は、種々の品が欠乏していたのであろう。そこへもたらされた南条平七郎からの御供養の品々は、大聖人の御生命をつなぐものであった。
 「法華経の御うえをもつぎ・釈迦仏の御いのちをも・たすけまいらせ給いぬ」とは、大聖人が人法体一の御本仏であられることを意味していると拝せられる。その大聖人の御命をつないだ御供養の功徳は言葉であらわせないほど大きいのである。

1549~1550    時光御返事top
1549:01~1550:03 第一章 阿那律の故事を引き供養の功徳を延ぶtop

時光御返事   弘安元年七月八日    五十七歳御作   与南条時光
01   むぎのしろきこめ一駄・はじかみ送り給び畢んぬ。
02   こくぼんわうの太子あなりちと申す人は・家にましましし時は俗性は月氏国の本主てんりん聖王のすえ・師子け
03 う王のまご・浄飯王のおひ・こくぼん王には太子なり、天下に・いやしからざる上・家中には一日の間・一万二千人
04 の人出入す、六千人はたからをかりき・六千人はかへりなす、 かかる富人にておはする上・天眼第一の人・法華経
05 にては普明如来となるべきよし仏記し給う。
――――――
 白くついた麦一駄、ショウガをお送りいただいた。
 斛飯王の太子であった阿那律という人は、出家する以前の俗姓は月氏国の本主・転輪聖王の後裔で、師子頰王の孫、浄飯王の甥、斛飯王の太子であった。高貴な身分であるうえ、家には一日に一万二千人の人が出入りし、六千人は金を借りにくる人で、六千人は金を返しに来る人であった。このような裕福な人であったうえに、釈尊の弟子となってからは、天眼第一の人となり、法華経では普明如来となるであろうと仏は記されたのである。
――――――
06   これは過去の行は・いかなる大善ぞとたづぬるに.むかしれうしあり山のけだものをとりて.すぎけるが・又ひえ
07 をつくり食とするほどに・飢えたる世なればものもなし、ただ・ひえのはん一ありけるを・くひければ・りだと申す
08 辟支仏の聖人来りて云く・我七日の間食なし汝が食者えさせよと・こわせ給いしかば・きたなき俗のごきに入れて・
09 けがしはじめて候と申しければ・ただえさせよ今食せずば死ぬべしと云う、 おそれながら・まいらせつ、此の聖人
10 まいり給いしが・ただひえ一つびを・とりのこして・れうしにかへし給いき、ひえへんじていのことなる、 いのこ
1550
01 変じて金となる・金変じて死人となる・ 死人変じて又金人となる・指をぬいて売れば本のごとし、かくのごとく九
02 十一劫・ 長者に生れ今はあなりちと申して仏の御弟子なり、 わづかの・ひえなれども飢えたる国に智者の御いの
03 ちを・つぐゆへに・めでたきほうをう。
――――――
 こういう阿那律は、過去世にどのような大善を行じたのかと尋ねると、昔、猟師がおり、山の獣を獲って生活しており、また稗を作って食糧としていたが、飢饉の世で、何もなく、ただ稗の飯が一杯あったのを食べていると、利吒という辟支仏の聖人が来ていうには「私は七日の間、何も食べていない。あなたの食物を施してくれまいか」と乞われた。猟師は「汚い俗人の食器に入れて、食べかけになっていますが」と答えると、聖人は「それでよい。いま食べなければ死んでしまう」といったので、猟師は恐縮しながら差し上げた。この聖人は、食したあと、ただ一粒の稗を残して猟師に返された。この時、稗は変わって猪となった。猪は変わって金となった。金は変わって死人となった。死人は変わってまた金人となった。指を抜いて売るとまた指が生えて元のようになった。こうして九十一劫の間長者に生まれ、今は阿那律となって仏の弟子となった。わずかの稗であったけれども、飢えた国で智者の御命を助けたために、すばらしい果報を得られたのである。

こくぼんわう
 迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もある。
―――
あなりち
 梵語でアニルッダ(Aniruddha)といい、阿㝹樓駄とも書く。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失ったという。法華文句巻一下 には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり(中略)賢愚経に云く、弗沙仏の末法の時世饑饉なり、支仏有り、利吒と名く。乞を行じ鉢を空うして獲ること無し。一貧人有り、見て悲悼す。白して言さく、勝士能く稗を受けんやいなやと、即ち噉う所を以て之を奉ず。食し已りて十八変を作す。後に更に稗を採るに、兎有りて跳んで其の背を抱き変じて死人と為る。件の脱を得る無く闇を待ちて家に還る。地に委するに即ち金人と成る。指を抜くに随いて生じ、脚を用うるに更に出で、之を取るに尽ること無し。悪人悪王、来て之を奪はんと欲するに但だ死尸を見るのみ。而して其観る所は純ら是れ金宝なり。九十一劫にして果報充足す、故に無貧と号す。其の生じて已後は家業豊溢なり、日夜に増益す」とある。なお、本文にある「いのこ云云」との出典は未詳である。
―――
月氏国
 中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
てんりん聖王
 インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
―――
師子けう王
 中インド迦毘羅国の王。浄飯王・斛飯王の父。釈尊・阿那律の祖父。
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
普明如来
 五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。
―――
ひえ
 イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
―――
りだ
 阿那律の過去世の兄。雑宝蔵経巻四によると、長者の子に利吒・阿利吒という兄弟がいた。父からは二人で力を合わせていくようにと諭されていたが、父の死後、二人は別れて暮らすようになった。最初のうちは兄が富裕で弟が貧しかったが、後には反対になり、兄は出家して辟支仏になった。弟もやがて富を失い、薪を打って生活しなければならなくなった。そうした時、城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したという。
―――
辟支仏
 梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
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 本抄は、弘安元年(1278)7月8日、日蓮大聖人が身延で御執筆になり、南条時光に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
 本抄の末文に「此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん」等とあることから「時光御返事」と呼ばれている。
 内容は、阿那律の故事や迦葉尊者の過去世の因縁を引かれて、時光の供養の志をたたえ、この功徳が時光の身にかえってくることを述べられている。
 南条時光が麦一駄を御供養したのに対し、その功徳の大きなことを示されるため、はじめに、釈尊の十大弟子の一人で天眼第一といわれた阿那律が過去世に稗の飯を辟支仏に供養したことによって九十一劫の間、長者となったとの故事が述べられている。
 阿那律は過去世に猟師だったとき、辟支仏にわずかしかない粗末な稗の飯を供養した功徳によって、九十一劫の間長者に生まれ、最後に斛飯王の太子となり、釈尊の弟子となっては天眼第一とうたわれ、法華経五百弟子授記品第八で普明如来の記別を受けるに至ったのである。
 これは、供養した品物の価値や金額が尊いのではなく、供養する人の真心や信心の志こそ大切なのであり、それに応じて功徳がきまることを示している。猟師が供養したのは稗の飯一杯にすぎなかったが、飢饉の世で他に食物がなく、自らの命をつなぐ大事な糧であった。だからこそ、それを供養した功徳が大きかったのである。
 そのことを、白米一俵御書には「仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう(供養)・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596-14)と御教示くださっている。
 信心で大切なことは真心であり、命を支える唯一の糧を供養することは命そのものを供養するのと同じ意義がある。ゆえに、それが成仏の種子となるのである。

1565:11~1566:04 第二章 迦葉尊者の過去世の因縁を明かすtop

04   迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたとき人なり、 此の人の家をたづぬれば摩かだい国の尼くり
05 だ長者の子なり、 宅にたたみ千でうあり・一でうはあつさ七尺下品のたたみは金千両なり、からすき九百九十九・
06 一のからすきは金千両、 金三百四十石入れたるくら六十・かかる大長者なり、 めは又身は金色にして十六里をて
07 らす、 日本国の衣通姫にもすぎ・漢土のりふじんにもこえたり、 此の夫婦道心を発して仏の御弟子となれり、法
08 華経にては光明如来といはれさせ給う、 此の二人の人人の過去をたづねれば 麦飯を辟支仏に供養せしゆへに迦葉
09 尊者と生れ、金のぜに一枚を仏師にあつらへて毘婆尸仏の像の御はくにひきし貧人は此の人のめとなれり。
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 迦葉尊者という人は、仏の弟子の中では第一に尊い人である。この人の家を尋ねると、摩竭題国の尼拘律陀長者の子であった。家には畳が千畳もあり、一畳の厚さは七尺もあり、下等の畳でさえ金千両もした。また唐鋤が九百九十九もあり、一つの唐鋤は金千両であった。また三百四十石の金が入った倉が六十もあるという大長者であった。その夫人は、身は金色に輝き、十六里を照らしたという。その美しさは日本国の衣通姫よりも優れ、中国の李夫人よりも越えていた。この夫婦は道心を発して仏の弟子となり、法華経では光明如来となるであろうと記されたのである。
 この二人の人の過去を尋ねるならば、麦飯を辟支仏に供養したために迦葉尊者と生まれ、金貨一枚を仏師にたのんで、金箔として毘婆尸仏の像を塗った貧人は、この人の夫人となったのである。

迦葉尊者
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。
―――
摩かだい国
 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
―――
尼くりだ長者
 梵語ニャグローダ(Nyagrodha)の音写。無節・縦広などと訳す。インドのマガダ国にいたバラモンの富豪。摩訶迦葉の父。付法蔵因縁伝巻一によると、過去の修徳によってマガダ国王の千倍もの財宝を持ち、高才博達で智慧が勝れていた。しかし子がなかったため樹神に祈ったが子が授からなかったので怒り、願いが叶わなければ樹を切ると申しつけた。恐れた樹神は梵天・帝釈に願って一男子を授けさせた。それが摩訶迦葉であるという。
―――
衣通姫
 日本書紀・古事記などにある。容姿が絶妙で比類なく、その美しさが衣を通して輝いていたのでその名があるという。日本書紀では、第19代允恭天皇の后で皇后忍坂大中姫の妹・弟姫としている。また古事記には同天皇の皇女・軽大郎女としている。
―――
りふじん
 中国・前漢代の武帝の寵姫。漢書巻九十七上によれば、楽人の出身であったが、一顧すれば城を傾け、再顧すれば国を傾けるというほどの絶世の美人であり、舞もよくしたので武帝の愛を一身に受けたという。美人の形容である傾城・傾国はここから出たという。
―――
光明如来
 釈迦の十大弟子のひとり、迦葉が未来世において成仏したときの名。
―――
毘婆尸仏
 梵語ヴィパシュイン(Vipaśyin)の音写。毘鉢尸・毘婆沙とも書き、勝観・浄観・種種見などと訳す。小乗経で説く過去七仏の第一。長阿含経には過去荘厳劫・釈尊出世の九十一大劫前に出現して、波波羅樹下で成道し、初会の説法で168,000人、二会の説法で100,000万人、三会の説法で80,000人を化導したとある。
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 南条時光の麦の供養の功徳をたたえるために、次に、釈尊の十大弟子の一人で頭陀第一とされた迦葉尊者の過去世の因縁を明かされている。
 迦葉とは摩訶迦葉の略で、「仏の御弟子の中には第一にたとき人なり」「僧の中の第一」といわれるように、釈尊の声聞の弟子の中でもとくに峻厳な修行を貫いたため頭陀第一と称され、釈尊滅後は付法蔵の第一として第一回の仏典結集を主宰し、20年の間小乗教を弘通して、阿難に付嘱した後に鶏足山で没したといわれている。
 その迦葉も「むかしうえたるよにむぎのはんを一ぱひ供養」(1541-03)した功徳善根によって、富裕な家に生まれ、仏弟子となって光明如来の記別を受けることができたのである。
 また、迦葉の出家前の夫人も、過去世に貧しい女人の身でわずかの金を手に入れ、金色が欠けていた毘婆尸仏の像に箔として供養した功徳で金色に輝く肌に生まれたと説かれている。

1550:04~1550:18 第三章 時光の供養の功徳の大なるを示すtop

10   今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり、国主ににくまれて我が身をせく上・弟子かよう人をも・
11 或はのり・或はうち・或は所領をとり・或はところをおふ、かかる国主の内にある人人なれば・たとひ心ざしあるら
12 ん人人もとふ事なし、此の事事ふりぬ、 なかにも今年は疫病と申し飢渇と申しとひくる人人もすくなし、 たとひ
13 やまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに・ 麦の御とぶらい金にもすぎ珠にもこえたり、 彼のりだが
14 ひゑは変じて金人となる、 此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん、 此の法華経の文字は釈迦仏とな
15 り給い・時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へかけり給へ、 かへりて時光が身をおほひ・はぐく
16 み給へ、恐恐謹言。
17       弘安元年七月八日                  日 蓮 花 押
18     上野殿御返事
-----―
 今、日蓮は、聖人ではないけれども、法華経の御名を立てたために、国主に憎まれて、自分が責められるばかりでなく、弟子や往き来する人までも、あるいは罵られ、或は打たれ、或は領地をとられ、或は住所を追われたりした。このような国主の領内に居る人々であるので、たとえ志があるであろう人々も訪れることはない。このことは事新しいことではないが、それにしても、今年は疫病や飢饉などで、訪れて来る人々が少ない。たとえ、病にかからなくても、飢えて死ぬことは疑いないと思っていたところに、あなたが送ってくださった麦は、金よりも勝れ、宝珠よりも有り難いものである。あの利吒の稗は変わって金人となった。今、時光から送られた麦が、どうして法華経の文字にならないことがあろうか。この法華経の文字は釈迦仏となられて、時光のなき父上の左右の翼となって、霊山浄土へ飛んで行かれ、更に帰って来て、時光の身を覆い育まれることであろう。恐恐謹言。
  弘安元年七月八日          日 蓮  花 押
   上野殿御返事

霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――――――――
 最後に、法華経の行者である大聖人が飢えにあわれている時に麦を供養した時光の功徳が、阿那律等にはるかに勝れることを述べられて、本抄を結ばれている。
 「今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり」と仰せられているのは、大聖人が法華経を宣揚され、仏法上最も尊い御立場であり、御本仏であるとの御心と拝せられる。阿那律や迦葉が過去世に供養したのは辟支仏であったが、それでも前に述べられているような大功徳があったのであり、いま末法の御本仏を供養した時光の功徳がそれにはるかに勝れることはいうまでもない。
 しかも大聖人の御境遇は、「国主ににくまれて我が身をせく上……」と仰せのように、幕府の権力者から数々の迫害を加えられているばかりか、弟子達や訪れる信徒まで弾圧されたことから訪れる人も少なく、しかもこの弘安元年(1278)は疫病の流行と飢饉のため特に訪ねる人とてなかったのでる。
 弘安元年(1278)に疫病と飢饉という災難が重なっていたことは、同年閏十月の御消息に「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき……八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし」(1552-02)と仰せになっていることからもうかがえる。
 そのため、「たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべき」と仰せのように、食糧にも事欠き飢えに迫られた窮乏の御生活だったのである。
 そうした時だけに時光からの麦の御供養は「金にもすぎ珠にもこえ」るほどありがたいものであり、利吒が飢えた辟支仏に稗の飯を供養して大功徳を得たように、時光の麦の供御養は父兵衛七郎を成仏させるのみでなく、時光の身にもかえってきて成仏を育むことだろうと、その功徳の大なることを述べられている。
 最後に、法華経の行者である大聖人が飢えにあわれている時に麦を供養した時光の功徳が、阿那律等にはかるかに勝れることを述べられ、本抄を結ばれている。
 「今日蓮は聖人にあらざれども法華経に御名をたてたり」と仰せられているのは、大聖人が法華経を宣揚され、仏法上最も尊い御立場であり、御本仏であるとの御心と拝せられる。阿那律や迦葉が過去世に供養したのは辟支仏であったが、それでも前に述べられているような大功徳があったのであり、いま末法の御本仏を供養した時光の功徳がそれをはるかに勝れることはいうまでもない。
 しかも大聖人の御境遇は「国主ににくまれて我が身をせく上」と仰せのように、幕府の権力者から数々の迫害を加えられているばかりか、弟子達や訪れる信徒まで弾圧されることから訪れる人も少なく、しかもこの弘安元年(1278)は疫病の流行と飢饉のため特に訪ねる人とてなかったのでる。
 弘安元年(1278)に疫病と飢饉という災難が重なったことは、同年閏10月の御消息に「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・ 五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし」(1552-02)と仰せになっていることからもうかがえる。
 そのため、「たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべき」と仰せのように、食糧にも事欠き飢えに迫られ窮乏の御生活だったのである。
 そうした時だけに時光からの麦の御供養は「金にもすぎ珠にもこえ」るほどありがたいものであり、利ダが飢えた辟支仏に稗の飯を供養して大功徳を得たように、時光の麦の供御養は父兵衛七郎を成仏させるのみでなく、時光の身にもかえってきて成仏を育むだろうと、その功徳が大なることを述べられている。

1551~1551    上野殿御返事(塩一駄御書)top

01   塩一駄はじかみ送り給び候。
02   金多くして日本国の沙のごとくならば誰か・たからとして・はこのそこにおさむべき、餅多くして一閻浮提の大
03 地のごとくならば誰か米の恩を・おもくせん。
-----―
 塩一駄、ショウガをお送りいただいた。
 黄金が多くて、日本国の砂のようであったならば、誰が宝として筐の底に大切に納めておくであろうか。餅が多くて、一閻浮提の大地のようであったならば、だれが米の恩を尊く思うであろうか。
-----―
04   今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早
05 河・東は富士河.西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間.山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河
06 たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、 七月なんどは・しほ一升を・
07 ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし、何を以てか・かうべき、みそも・たえぬ、小児
08 のちをしのぶがごとし。
-----―
 今年は正月から毎日雨が続き、とくに七月に入ってからは大雨がひまなく降り続いている。ここは山中であるうえに、南には波木井河、北には早河、東には富士河が流れ、西は深い山になっているので、長雨や大雨が日々続いているため、山が裂けて谷を埋め、石が流れて道を塞いでいる。河の水の勢いが激しくて船も渡ることができない。富める人がいないので五穀も乏しく、商人がこないので人の集まることもない。
 そのため、七月などは、塩一升を銭百文、塩五合を麦一斗と取り換えたが、今は塩も全くなくなり、何をもっても買うことができない。味噌もなくなってしまった。小児が乳を慕うような思いであった。
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09   かかるところに・このしほを一駄給びて候御志・大地よりもあつく虚空よりもひろし、予が言は力及ぶべからず
10 ただ法華経と釈迦仏とに・ゆづりまいらせ候、事多しと申せども紙上には・つくしがたし、恐恐謹言。
11       弘安元年九月十九日                          日蓮花押
12   上野殿御返事
-----―
 このようなところに、この塩一駄をお送りくださった御志は、大地よりも厚く、大空よりも広く、とても我が言葉では言いあらわすことはできない。ただ法華経と釈迦仏にお譲りするだけである。申し上げたいことは多くあるが、手紙では尽くし難い。恐恐謹言。
  弘安元年九月十九日          日 蓮  花 押
   上野殿御返事

一駄
 馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
―――
はじかみ
 生姜の別称。生薑、薑、生姜などと書く。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
早川
 山梨県南巨摩郡早川町を流れる川。白根山・鳳凰山を境に源を発し冨士川に合流する。
―――
冨士河
 冨士川のこと。山梨県釜無川・笛吹川を源流とし、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾にそそぐ川。全長129㌔。日本三大急流のひとつ。
―――
五穀
 主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
―――――――――
 本抄は、弘安元年(1278)9月19日に、日蓮大聖人が身延で執筆され、南条時光に与えられた御消息で、御真筆は現存しない。
 内容は、南条家より塩一駄が御供養されたのに対し、身延は春以来の長雨で交通も途絶えがちで、とくに塩がなくて困窮していたことを述べられて謝意を述べ、供養の志を讃えられている。
 弘安元年の甲斐国身延周辺では、年頭から気候が不順だったようで、とくに7月には大雨が降り続いて、山と川に囲まれた地形のために増水や土砂崩れで交通が途絶しがちとなり、そのために身延の御草庵では生活物資や食料にも事欠くありさまだったのである。
 なかでも、調味料として必需品だった塩が極端に欠乏したために価格が暴騰し「七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし」というありさまだったのである。
 当時の物価の記録を見ると、凶作の年を除いて米一石が一貫文前後というのが大体の標準だったようである。
 鎌倉時代の塩の価格の記録は見当たらないが、平安時代には塩は米の半価であり、当時もそれほど変わらないと思われるので、米がふつう一升十文なら塩は一升五文ということになる。そうすると「塩一升が百文」というのは通常の20倍という異常な高値だったことになる。
 塩は調味料としてだけでなく、人間が生命を維持していくために必要不可欠なものである。物々交換の時代には、塩が貨幣の役割を果たしていたこともあり、支配者や寺院では塩を貢物や供物として納入させていた。鎌倉時代の公家や武士の食膳には、塩は酢とともに小皿にもって必ず添えられていたという。
 日本での古い製塩法は、海藻に海水をふりかけて乾燥させ、その海藻を焼いて塩をとる方法だった。万葉集にはその光景を「朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海少女ありとは聞けど 見に行かむ」とうたっていることから、奈良時代にすでにそのような製塩法が行われていたのである。塩田のはじまりは足利時代の乾元年間というから、大聖人御在世当時はまだ海藻を焼く製塩法が行われていたと考えられる。
 南条家から御供養された塩は、とくに注文したものか、あるいは駿河湾沿岸の信徒が心をこめて精製したものだったかもしれない。または、駿河に隣接する三河・尾張(愛知県)は古くからの塩の産地だったことから、そのあたりから上質の塩を入手して御供養したとも考えられる。
 なお、南条家からはこの時だけではなく、建治2年(1276)3月、弘安2年(1279)8月、弘安4年(1281)9月、弘安5年(1282)正月にも塩を御供養したことが御書に記されていることから、毎年、ほぼ定期的に塩二俵程度を身延へお届けしていたようである。
 ともあれ、前述のように、とくに交通途絶で困窮されていたこの時に、「かかるところに・このしほを一駄給びて候御志・大地よりもあつく虚空よりもひろし」と仰せになり、大聖人の御生活に、常に心を配る南条時光の真心を、大聖人は最大にめでられているのである。

1552~1552    上野殿御返事(三災御書)top

01   いゑのいも一駄・かうじ一こ・ぜに六百のかわり御ざのむしろ十枚給び畢んぬ。
02   去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・ 一人ものこるべし
03 ともみへず候いき、 しかれども又今年の寒温時にしたがひて・ 五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて
04 尭舜の代のごとく 成劫のはじめかとみへて候いしほどに・ 八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる
05 万民冬をすごしがたし、 去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し
06 他界きそいて合戦に心をつひやす、 民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬とエン猴
07 とのあへるがごとし、 慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばら
08 くは・やみてみえしかども・ 鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ
09 候、かかるよにいかなる宿善にか・ 法華経の行者をやしなわせ給う事ありがたく候ありがたく候、 事事見参の時
10 申すべし、恐恐謹言。
11       弘安元年後十月十二日                日 蓮 花 押
12     上野殿御返事
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 里芋一駄、柑子みかん一籠、銭六百文の代わりに御座の莚十枚を頂戴した。
 去年から今年にかけて大疫病がこの国に流行して、人の死ぬことは大風で木が倒れ、大雪で草が折られるようなもので、一人も生き残れるとは思えなかった。しかし、今年の気候は順調で、寒温は時にしたがって、五穀は田畠に満ち、草木は野山に生い繁って、尭舜の時代のように、成劫の初めのように見えていたのに、八月・九月の大雨や大風で、日本国全体が不作となり、残った万民は冬を過ごし難い。これは、去る寛喜・正嘉の天災にも超え、将来にくる三災にも劣らないであろう。
 内乱が起こって盗賊が国に満ち、他国が襲って来て、合戦に心を費やしている。人の心は不孝になって、父母を見るのに他人のようであり、僧や尼は邪見になって、犬と猿とが出あったようである。慈悲心がないから諸天もこの国を守らず、邪見であるから三宝にも捨てられたのである。
 また疫病も一時は止んだように見えたけれども、鬼神がかえってきて入ったのであろうか、北国も東国も西国も南国も一同に疫病をわずらい、嘆いていると聞いている。
 このような世に、どのような過去世の因縁であろうか、法華経の行者を供養されるということは、ありがたいことである。ありがたいことである。詳しいことは、お目にかかった時に申し上げよう。恐恐謹言。
  弘安元年後十月十二日        日 蓮  花 押
   上野殿御返事

一駄
 馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
―――
かうじ
 柑子蜜柑のこと。古くは「かんし」といったが、転じて「こうじ」となった。柑橘類の一種で、ミカン科に属す。温州ミカンなどより皮は薄く、果実は小さい。最初は酸味があるが後に甘くなり、味は淡白。普通のミカンより熟れるのが早く寒さに強い。日本では古くから栽培されている。
―――
五穀
 主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。
―――
尭舜の代
 尭舜とは、中国上古に理想的な仁政を行ったとされる伝説上の帝王である唐堯と虞舜のこと。史記などでは、五帝に含まれる。尭は暦をつくり、治水のために舜を起用し、位を舜に譲った。舜は信賞必罰を明らかにし、天下を統一して地方を文治せしめ、禹に治水を任せ、禹に位を譲った。尭舜の時代は理想社会とされ、長く中国の政治の手本とされた。
―――
成劫
 仏教では世界が成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫を循環すると説く。ただし俱舎論等の説である。
―――
三災
 ①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。ここでは「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
―――
自界叛逆
 仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
―――
邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
―――
三宝
 仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
―――
宿善
 過去世に積んだ善根のこと。善根とは善を生ずるもとになるもののこと。善根をつむことによって善い果報を受けることができる。宿縁のことともいえる。
――――――――――
 本抄は、弘安元年(1278)閏10月12日に、日蓮大聖人が身延で御執筆になり、南条時光に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺にある。別名を「柑子書」とも「三災御書」とも呼ばれている。
 本抄で述べられているように、建治3年(1277)から弘安元年(1278)にかけて日本全国に疫病が流行したことは、建治3年(1277)月に朝廷より宣旨を下して法勝寺に秋以来流行の病患を禳わしたという記録があり、弘安元年(1278)5.6月にも興福寺や諸神社に疫病流行を祈禳させたという記録がみられることからもうかがうことができる。
 また、弘安元年は、秋に入っての大雨や大風により日本全体が不作となり、それが飢饉を招いた。このことは、同年閏10月22日に四条金吾に与えられた御消息で「今年は疫癘飢渇に春夏は過越し秋冬は又前にも過ぎたり」(1185)と述べられていることからも知られる。
 大聖人は、その惨状を「去ぬる寛喜・正嘉にもこえ」と仰せである。寛喜元年(1229)は大聖人聖寿八歳の年にあたるが、この年の2月と12月に鎌倉で大地震があり、8月には京都一帯が旱魃に見舞われ、10月には京都に大風が吹くなど、天災が続いている。翌寛喜2年(1230)には5月に京都で大洪水が起こり、8・9月には大風雨により五穀が大被害を受けている。寛喜3年(1231)も3月に京都で大風雨、5月に鎌倉地震、7月に京都地震、8月に諸国で大風が吹き、飢饉が起きている。寛喜3年(1231)の春には疫病も流行しており、京都では飢饉によって餓死する者が道路に充満したという記録がある。
 また、正嘉元年(1257)は大聖人聖寿36歳の年にあたり、8月に鎌倉に大地震が起こって、社寺が一宇も残さず倒れたという大被害を与えている。翌正嘉2年(1258)にも六月に鎌倉を寒気が襲い、8月には大風雨で穀物に被害が出ており、10月には鎌倉で洪水が起こり、さらに翌年へかけて飢饉と疫病が流行している。
 そのように大災害が重なったのが寛喜年間と正嘉年間であるが、弘安元年(1278)当時の災害はそれを超えたと仰せなのであるから、民衆がどれほど苦しんだかは察するにあまりある。
 しかも、天災だけではなく、「自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす」と述べられているように、人災ともいうべき戦乱も競い起こっていたのである。
 「自界叛逆して盗賊国に充満し」とは、恐らくは飢饉等のため山賊・海賊・夜盗などが横行して人々を殺傷し財物を奪い人心を不安に陥れていたことなどをいわれていると拝される。
 「他界きそいて」とは、他国侵逼難のことで、すでに文永11年(1274)10月に第一回の蒙古襲来があったが、さらに第二回の蒙古襲来が必至と予想され、異国警護番役が強化されて関東からも多くの御家人が九州へ出征しており、また博多湾の沿岸に蒙古軍の上陸を阻止するための石築地が築造されていたが、日本中の人心は恐怖におののいていたのである。当時は、まさに大集経で予言されていたとおり、「穀貴・兵革・疫病」の三災が並び競っていたといえる。
 本抄では、その原因については「民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬と猨猴のあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり」と仰せである。すなわち、民衆の不孝・忘恩と僧尼の邪見によるとされているのである。
 このように、人々の生命の濁りと歪み、なかんずく仏教の僧尼の邪見が原因となって三災七難が起こるということは、すでに「立正安国論」で明確に指摘され警告されたところである。すなわち、「立正安国論」で、大聖人は三災七難の起こる根本を「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017)と喝破されている。
 いま本抄で「民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬と猨猴とのあへるがごとし」と仰せられているのが「世皆正に背き人悉く悪に帰す」に当たる。「慈悲なければ天も此の国をまほらず」の〝天〟は「立正安国論」の御文の〝善神〟に当たり、「邪見なれば三宝にも・すてられたり」の〝三宝〟が、安国論の〝聖人〟に当たると考えられる。さらに、次の御文の「鬼神かへり入るかのゆへに」と仰せの〝鬼神〟が、「立正安国論」の「魔来り鬼来り」に当たっていることは、いうまでもない。
 本抄は、世の中が穀貴・兵革・疫病の三災におそわれ、そのなかで恐らく上野殿の生活は苦しいであろうのに、日蓮大聖人のもとに、種々の品を御供養してきた志を讃えられているのであるが、さらにその根底には、それらの三災を引き起こしている原因として、一国謗法を指摘され、そうした邪見の充満している世の中で、正法の信仰を貫いていることの偉大さを讃嘆されていると拝せられる。

1553~1554    九郎太郎殿御返事(題目仏種御書)top
1553:01~1553:04 第一章 身延の御生活の窮状を延べるtop

01   これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ。
02   いも一駄.くり・やきごめ・はじかみ給び候いぬさてはふかき山にはいもつくる人もなし.くりもならず・はじか
03 みもをひず・ましてやきごめみへ候はず、 たとえくりなりたりともさるのこずへからす、 いえのいもはつくる人
04 なし・たとえつくりたりとも・人にくみてたび候はず、いかにしてか・かかるたかき山へは・きたり候べき。
-----―
 この御供養につけても、故上野殿のことが思い出されてならない。
 芋一駄、栗、焼米、ショウガを頂戴した。
 こうした深い山中には芋を作る人はいない。栗もならない。ショウガも生えない。まして焼米は見ることもできない。たとえ栗がなったとしても、猿が梢を枯らしてしまう。里芋は作る人がいない。たとえ作ったとしても、人は憎んで、くれようとしない。どうしてこのような高い山の中に来なければならなかったのであろうか。

こうえのどの
(~1265)。南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆市国市)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となったので上野殿と呼ばれる。文永2年(1265)に死去した。
―――
やきごめ
 保存用の食糧で、米の加工品。新米を籾のまま焙って、殻を取り去っ たもの。炒米ともいう。
―――――――――
 本抄は南条家一門の九郎太郎に与えられた御手紙である。九郎太郎が南条家の一門であるとわかるのは、本抄の追申(冒頭部に掲げられているが、追申である)に「これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ」と仰せになっているゆえである。また、文中にも「故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、各各は其の末にて此の御志をとげ給うか」と仰せになっているところからも、南条兵衛七郎の近親にあたることがわかる。堀日亨上人は南条時光全伝で「一つには故上野殿として別して兵衛七郎の追懐が述べられてあるから近親と云ふ事がわかる。九郎の文字から考ふると七郎の弟の子ではなかったか、時光の従弟に当る人ではなかったかと思ふ」と述べられている。
 九郎太郎に与えられた御手紙は、このほかに一通あるのみで、詳しいことはわからないが、両方の御手紙を拝するかぎりでは、素直な信心をしていた人であったようである。
 本抄を著されたのは大聖人聖寿57歳の弘安元年(1278)11月1日、身延においてである。南条九郎太郎が芋、栗、焼米、生姜を御供養したことに対する返礼の書であり、供養の意義をとおして九郎太郎の信心をほめ、一層の強盛な信心を貫くよう励まされている。本抄の御真筆の一部が身延に存している。
 最初の一行は、すでに述べたとおり追申である。手紙を書かれた後に、冒頭の余白部分に追申をしたためられたのである。九郎太郎が素直な信心を貫き、御供養の誠を示して、立派に兵衛七郎の遺志を継いでいる姿を見るにつけ、兵衛七郎のことが思い出されるとの意である。
 本文に入って、まず供養の品々をたしかに受領した旨を記された後、それらは身延の山中では見られない物であると仰せになっている。そのなかで「いえのいもはつくる人なし・たとえつくりたりとも・人にくみてたび候はず」の御文に、身延の山中でも人々の偏見は及んでいたことが拝される。自然環境の厳しさに加え、数少ない住人からも、白い目で見られる生活は、どれほど過酷であったろうか。「いかにしてか・かかるたかき山へは・きたり候べき」との御文は、それを物語って余りある。そのような不便な所に住まわれている大聖人に御供養の誠をささげた、その信心が尊いのである。

1553:05~1553:12 第二章 題目の七字こそ仏種なるを明かすtop

05   それ山をみ候へば・たかきよりしだいにしもえくだれり、うみをみ候へば・あそきより・しだいにふかし、代を
06 み候へば三十年・二十年・五年・四三二一・次第にをとろへたり、人の心もかくのごとし、これはよのすへになり候
07 へば山には・まがれるきのみとどまり・のには・ひききくさのみをひたり、よには・かしこき人はすくなく・はかな
08 きものはをほし、牛馬のちちをしらず・兎羊の母をわきまえざるがごとし。
-----―
 さて、山を見れば、高い頂から次第に下へ降っていき、海を見れば、浅い所から次第に深くなる。世の中を見れば、三十年、二十年、五年、四年、三年、二年、一年と次第に衰えている。人の心もまた同じである。これは、世が末になれば、山には曲がった木だけが残り、野には低い草だけが生え、世の中には賢い人は少なくなり、愚かな者は多くなる。牛や馬が父を知らず、兎や羊が母を見分けることができないようなものである。
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09   仏御入滅ありては二千二百二十余年なり・ 代すへになりて智人次第にかくれて山のくだれるがごとく・くさの
10 ひききににたり、 念仏を申しかいをたもちなんどする人は・ををけれども法華経をたのむ人すくなし、 星は多け
11 れども大海をてらさず・草は多けれども大内の柱とはならず、 念仏は多けれども仏と成る道にはあらず・戒は持て
12 ども浄土へまひる種とは成らず、 但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ、 
-----―
 仏が御入滅になってから二千二百二十余年になる。世は末になって、智人は次第に亡くなり、それは、山を降っていくようであり、草が低くなるのに似ている。念仏を称え、戒を持つ人は多くいるけれども、法華経を信ずる人は少ない。星は多くても、大海は照らせない。草は多くても、御殿の柱とはならない。このように、念仏を多く称えても、仏になる道とはならない。戒を持っていても、浄土へ参る種とはならない。ただ南無妙法蓮華経の七字だけが仏になる種なのである。

念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――
かい
 戒定慧の三学の一つ。仏道を修行する者が守るべき規範。非を防ぎ悪を止める義で、身口意の悪業を断じて一切の不善を禁制すること。三蔵の一つ・律蔵の中に説かれる。五戒・八斎戒・十戒・二百五十戒・五百戒・十重禁戒・四十八軽戒など種々ある。
―――
大内
 大内裏の略。「たいだい」「おおうち」ともいう。御所、皇居のこと。
―――
浄土
 浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
―――

 成仏の種子のこと。衆生の心田に植えられる仏になる種を草木にたとえていったもの。仏種。
―――――――――
 人々の機根が劣ってきたために、法華経の正法を信ずる人が少なく、念仏等の邪法を人人が信ずるようになってきたことを述べられている。こうした時代の移り変わりは、あたかも山が頂から次第に下ってくるように、また海が浅瀬から次第に深みに入っていくようなものであると仰せになっている。
 大聖人は「よのすへ」の様相として「山には・まがれるきのみとどまり・のには・ひききくさのみをひたり」と表現されている。これは「人の心もかくのごとし」として、人々の性根をいわれているのである。
 「まがれるき」とは、人々の根性がひねくれていて疑い深いことであり、「ひききくさ」とは、道徳観の低下であり、低い次元の醜い争いに明け暮れている姿をいわれていると拝せられる。
 「減劫御書」には「減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり」(1465-01)と仰せになっている。貪・瞋・癡の三毒が強くなるのであり、この生命の濁りが肉体の面にまで反映してくると教えられているのである。
 「よには・かしこき人はすくなく・はかなきものはをほし」と仰せになっているのは、「崇峻天皇御書」には「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174-14)と仰せである。不軽菩薩は一切衆生に仏性があるとして、礼拝行を貫いた。この人間としての振る舞いの究極を説き極めたのが仏教の真髄たる法華経なのである。本抄で仰せの「かしこき」「はかなき」も、このことから明らかであろう。
 人を尊敬する人が賢人であり、そうした価値観のわからない人が愚人なのである。次下に「牛馬のちちをしらず・兎羊の母をわきまえざるがごとし」と、たとえをもって仰せになっていることと軌を一にする。
 真実の仏法を知ろうとせず、また真実の仏法をもって人々を苦悩から救おうとされている主師親三徳具備の御本仏・日蓮大聖人の教えを用いようとしないのは、父を知らない牛馬、母をわきまえない兎や羊と同じであるということである。南無妙法蓮華経は、三世十方の諸仏の能生の根源であり、それを用いないのはまさしく父を知らず母をわきまえない者なのである。
 このような濁った世の中にあっては、智人は隠れ、代わって智人を装った邪智の人が世に用いられるのである。「念仏を申しかいをたもちなんどする人は・ををけれども法華経をたのむ人すくなし」との仰せのごとく、流行の念仏を称えたり、戒律をたもって世間からあたかも生き仏のごとく思われる似非宗教者が出没するのである。
 しかし、星は多くても暗闇の大海を明るく照らすことはできない。と同じように、どんなに念仏を称えても生死の大海を渡って成仏を遂げることはできない。また、草は何万本集めても大きな建物を支える柱にはならない。と同じように、戒律をいくらたもっても、仏道修行を支えることはできず、また「浄土へまひる種」にもならないのである。かえって念仏無間、律国賊等の現証があらわれるのみである。南無妙法蓮華経のみが末法において一切衆生を成仏させる法なのである。

1553:12~1554:05 第三章 供養の功徳の大なるを明かすtop

12                                           此れを申せば人はそね
13 みて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、 各各は某の末にて此の御志をとげ給うか、 竜
14 馬につきぬる・だには千里をとぶ、 松にかかれる・つたは千尋をよづと申すは是か、各各主の御心なり、つちのも
15 ちゐを仏に供養せし人は王となりき、 法華経は仏にまさらせ給う法なれば供養せさせ給いて、 いかでか今生にも
1554
01 利生にあづかり後生にも仏にならせ給はざるべき、その上みひんにして・げにんなし、 山河わづらひあり、 たと
02 ひ心ざしありとも・あらはしがたきに・いまいろをあらわさせ給うにしりぬ、をぼろげならぬ事なり、 さだめて法
03 華経の十羅刹まほらせ給いぬらんと・たのもしくこそ候へ、事つくしがたし、恐恐謹言。
04       弘安元年十一月一日                 日 蓮 花 押
05     九郎太郎殿御返事
-----―
 このことをいえば、人は妬んで用いなかったのを、故上野殿は信じられたことによって仏に成られたのである。あなたがたは、その一族であって、この御志を果たされるであろう。竜馬にとりついた蜱は千里を飛び、松に懸った蘿は千尋を攀じ登るというのはこのことであろう。あなたがたは、故上野殿と同心である。
 土の餅を供養した人は王となった。法華経は仏より勝れた法であるから、この法華経に供養された人が、どうして今生でも利益を蒙り、後生に仏になれぬはずがあろうか。そのうえ、貧しい身であるから下人もいない。山河を越えるには苦労が多い。たとえ志はあっても、行為にあらわすことは難しい。しかしながら、今、貴殿が志をあらわされたのを見ても、その信心がなみなみでないことがわかる。必ず法華経の十羅刹女が守られるであろうと頼もしく思っている。申し上げたいことは多くあるが、尽くし難いのでこれで止めておく。恐恐謹言。
  弘安元年十一月一日         日 蓮  花 押
   九郎太郎殿御返事

竜馬
 非常に勝れた駿足の馬のこと。駿馬。史記には「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」とある。
―――
利生
 利益衆生の意で、衆生を利益すること。
後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
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十羅刹
 羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
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 このように、末法の時代にあっては南無妙法蓮華経よりほかには成仏の法はないことを大聖人は主張され、そのために怨嫉を受けられたのである。
 故南条兵衛七郎は、そのなかで妙法を受持し、その功徳によって成仏の相を示したのであった。本抄をいただいた九郎太郎や、その従兄弟にあたる時光は、兵衛七郎の志を受け継いで信心に励んでいるわけであるが、まだ九郎太郎や時光は若く、信心の年数も十分ではない。しかし、竜馬につく蜱が自身では力がなくとも長い距離を飛べるように、また松にかかる蘿が高く登れるように、法華経を信ずる心を純粋にたもてば、兵衛七郎と同じく成仏への道を歩むことができるとの仰せである。
 人間の偉大さは、受持する法によって決まるのであり、九郎太郎や時光はいまだ未熟であっても、妙法への純粋な信心を貫くならば、成仏という至高の目標を成就することができるのである。「各各主の御心なり」とは、兵衛七郎と同じ信心であるとほめたたえておられるのである。
 土の餅を釈尊に供養した徳勝童子でさえ阿育大王となることができたのである。ましてや釈尊よりはるかに勝る法華経に供養した九郎太郎が、現世の安穏、後生の成仏という大功徳を受けないわけがあろうかと仰せである。「供養する有らん者は福十号に過ぐ」と天台大師も法華文句に述べているように、法勝人劣で人への供養より法への供養が勝るのである。
 まして、ここでの法華経は文底独一本門の南無妙法蓮華経であり、迹仏である釈尊への供養にはるかに勝ることはいうまでもない。
 「みひんにして・げにんなし」と仰せになっているように、九郎太郎はあまり裕福でなかったようである。もう一通の「九郎太郎殿御返事」を拝すると、つまらない物ですがといって御供養した九郎太郎に対して、このように貴重な物をどうして卑下される必要があろうかと仰せになっている。苦しいなかで御供養した九郎太郎の真心をほめたたえられる大聖人の御慈悲が拝される。
 下人もいないのであるから、身延の地に御供養を届けるのさえ、たやすくない。「山河わづらひあり」なのである。信心の志があってもあらわすことが難しいのに、こうして供養したのであるから、その尊さは並大抵ではないと称賛され、九郎太郎に諸天の加護があることは疑いないと仰せになって本抄を結ばれている。

1553~1554    九郎太郎殿御返事(題目仏種御書)2013:07月号大白蓮華より。先生の講義top
一人一人の「志」が織りなす勝利の絵巻
 7月が巡り来るたび、私は、あの暑い大阪の夏を思い起こします。
 昭和32年(1957)7月3日
 私は全く無実の選挙違反の容疑で不当逮捕されました。いわゆる「大阪事件」です。
 取り調べのため、最初は警察署の留置所に囚われ、つづいて大阪拘置所に勾留されました。約2週間、外界から隔離され、たった一人の獄中闘争でした。
 しかし、その中で深く感謝したことは、必死に戦っているのは、決して私一人ではないという事実でした。
 私の安否を我が事のように心配し、真剣に無事を祈ってくださった何千何万の同志がいました。毎日のように心づくしの差し入れをされた婦人もいました。じっとしていられず警察署や拘置所まで行き、権力の横暴に悔し涙で怒りをぶつけた方々もいました。
 何よりも恩師・戸田城聖先生は、投獄される直前、羽田空港でお会いした時、「絶対に死ぬな、死んではならんぞ」と強く言われ、「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」とまで万感の心を語ってくださいました。この師匠をお守りするためなら、どんな理不尽な仕打ちにも絶える覚悟でした。
 ともあれ、新たな民衆運動の潮流となって興隆した創価の庶民の連帯を、権力が弾圧し、とくに関西で、その団結の要を狙い撃ちしたのです。悪意のマスコミ等も、学会が反社会的な団体であるかのように宣伝していました。
必死に戦う庶民の中へ飛び込む
 当時、学会は「貧乏人と病人の集まり」と誹謗嘲笑されていました。しかし、いったい誰が、その貧乏人と病人に手を差し伸べたのか。いったい誰が、苦悩と必死に戦っている庶民の中に飛び込み、一人一人と対話しながら、いかなる宿命も使命に転じて、必ず幸福と勝利の道を開いていけると励まし続けたのか。
 この最も困難な戦いを、日蓮大聖人の御心のままに、真っ直ぐに実践し続けてきたのが創価学会です。一言でいえば、「人間を大事にする」「一人を大切にする」という戦いに徹してきたのです。
 権力は人間を手段や道具にし、思うがままに動かし利用します。そこに「第六天の魔王」の本質もあります。
 日蓮仏法は、べクルトが正反対です。
 どこまでも一人の人間の「心」を包み「生命」を照らします。そこに何ものにも壊されない、「仏性」という無限の善の可能性を見るのです。
 その心と心を結び、人と人とを結びながら、互いに信じあえる一対一の絆を土台として築き上げてきた人間生命の大連帯が、創価学会です。
 一人一人が、どれほど大切な存在か、尊い生命の方々であるか。
 御書を繙くと、大聖人が常に慈眼を注がれているのも、一人一人の心であり生命であることが拝されます。広宣流布という大偉業は、どこまでも一人を慈しみ、心と心を結合していく行動を離れてはありません。
 今回は「九郎太郎殿御返事」を拝し、日蓮仏法の人間主義の真髄を学んでいきます。

01   これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ。
02   いも一駄.くり・やきごめ・はじかみ給び候いぬさてはふかき山にはいもつくる人もなし.くりもならず・はじか
03 みもをひず・ましてやきごめみへ候はず、 たとえくりなりたりともさるのこずへからす、 いえのいもはつくる人
04 なし・たとえつくりたりとも・人にくみてたび候はず、いかにしてか・かかるたかき山へは・きたり候べき。
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 この御供養につけても、故上野殿のことが思い出されてならない。
 芋一駄、栗、焼米、生姜を頂戴した。
 こうした深い山中には芋を作る人はいない。栗もない。生姜も生えない。まして焼米は見ることもできない。たとえ栗がなったとしても、猿が梢を枯らしてしまう。里芋は作る人がいない。たとえ作ったとしても、人は憎んで、くれようとしない。どうしてこのような高い山の中に来なければならなかったのであろうか。

「一粒種」の信心を大聖人が賞讃
 本抄は、日蓮大聖人が身延の地から九郎太郎という在家の門下に与えられたお手紙です。
 冒頭の「これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ」との一節は「追伸」にあたります。お手紙の本文を書かれたあとに、用紙の冒頭にあった空白部分に追伸として記されたものです。
 この「故上野殿」とは、南条時光の父親の南条兵衛七郎のことです。
 本抄の後半にも、「故上野殿」との関係を、「各各は其の末」と述べられており、九郎太郎が南条一族につながる人物であることが分かります。
 南条兵衛七郎の入信の時期は、はっきりしませんが、幕府の御家人として、地頭をしていた駿河国から鎌倉に出仕していた間、大聖人に縁したとも推察されます。
 文永元年(1264)12月には、大聖人は病気を患っていた兵衛七郎に渾身の激励を送られます。それが兵衛七郎の御消息として唯一現存している、「南条兵衛七郎殿御書」です。その中で大聖人は、せっかく法華経の信心を始めながら、病気になったことから不安を覚えて動揺し、念仏への執着との間で揺れ動く兵衛七郎の迷いを断ち切るように決して「二心」あってはならないと、強く指導なさっています。
 そして、「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子」(1498-12)として、堂々と人生を全うするように励まされています。
 兵衛七郎は、この仰せの通り妙法の信心を貫き、見事な臨終の姿を示しました。その立派な信心を、妻の上野尼と子息の時光たちがしっかり受け継いでいったのです。
 ともあれ、この短い追伸からは、大聖人と兵衛七郎の三世を貫く師弟の縁の深さがしみじみと拝されてなりません。
食料も乏しい山間地への御供養
 本文では、九郎太郎から大聖人のもとへ届けられた真心の御供養。芋、栗、焼米、そして生姜について、まず品名を列挙されたあと、さらに一品一品がどれほど身延の山中で貴重なものかを重ねて説明され、甚深の感謝を表されています。
 “なぜ、これほどまで”と思うような濃やかな御心遣いです。そこには、いよいよ厳しい冬を迎えるに際し、道も険しく、行き交う人も少ない身延の山中に住まわれる大聖人を気遣い、御供養をお届けした九郎太郎の赤誠への深い感謝がうかがえます。
 身延は、山間の地で食料も乏しかった。しかも、周囲は家の芋は採れても、大聖人にお分けしようという志の人はいなかったのです。それだけに、遠方の門下の御供養が、大聖人の生命を支えていたのです。
 しかし、門下の人々もまた、決して楽な暮らしではありませんでした。11月の初めといえば、新米が収穫された直後です。その中で九郎太郎が、本来、保存食である「焼米」を届けているのは、厳しい台所事情の投影かもしれません。また「生姜」は生薬でもあり、これから寒い季節を迎えるために、大聖人の御健康を慮っての御供養だったのではないでしょうか。
 そのうえ、九郎太郎は駿河国の人です。この駿河国は、幕府の中枢を担う北条家の直轄領であり、大聖人を敵視する勢力の影響の極めて強い地域でした。
 弘教の進展とともに、富士地域は軋轢が広がり、熱原法難がやがて起こります。その中で信心を貫いていくということは、どれほど大変なことであったでしょうか。大聖人は、門下の一切の苦労をご存じであったのです。
「無名」の一人を徹して励ます
 九郎太郎に与えられた大聖人のお手紙は、もう1通が伝わっています。それによると九郎太郎は、その時も家の芋を御供養しています。その折、九郎太郎は「珍しいものではありませんが」と申し添えたようです。大聖人は“どうしてそのようなことを言われるのですか。身延山中では大変、貴重なものですよ”と最大に感謝を尽くされています。
 無名かもしれないが、本当に真剣に戦っている「一人」を、その御供養の品に込められている言い尽くせぬ心労を全部汲み取られ、抱き抱えるようにはげまされた。どこまでも一人を大切にされているのです。
 大聖人門下には、南条時光や四条金吾、富木常忍など、多数の御消息を賜っている有力な在家の弟子たちがいました。しかし、他にも詳細が分からなくとも、生命の金の糸でつながっている縁もたくさんありました。大聖人を求め、誠実一路に黙々と頑張っている多くの弟子がいたのです。
 “この人の尊い大闘争を見逃してなるものか”大聖人は、そうした方々を徹して大事にされ、徹して激励されました。真心には真心で応える。この振る舞いの中にこそ、私たちが受け継ぐべき仏法の「人間主義の魂」があります。

05   それ山をみ候へば・たかきよりしだいにしもえくだれり、うみをみ候へば・あそきより・しだいにふかし、代を
06 み候へば三十年・二十年・五年・四三二一・次第にをとろへたり、人の心もかくのごとし、これはよのすへになり候
07 へば山には・まがれるきのみとどまり・のには・ひききくさのみをひたり、よには・かしこき人はすくなく・はかな
08 きものはをほし、牛馬のちちをしらず・兎羊の母をわきまえざるがごとし。
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 さて、山を見れば、高い頂から次第に下へ降っていき、海を見れば、浅い所から次第に深くなる。世の中を見れば、30年・20年・5年・4年・3年・2年・1年と次第に衰えている。人の心もまた同じである。これは、世が末になれば、山は曲がった木だけが残り、野には低い草だけが生え、世の中は賢い人は少なくなり、愚かな者は多くなる。牛や馬が父を知らず、兎や羊が母を見分けることができないようなものである。

「人の心」が濁り乱れる時代
 水は山は高い所から低い所へと次第に降りていきます。海は沖に向かって、次第に深くなっていきます。
 この“次第に下っていく”道理と同様に、時代が進むにつれ、人の心も生命力も衰えていくと仰せです。背景には、仏典に説かれる「減劫」。一つの世界の成立から崩壊に至る変転の中に、人の寿命が短くなっていく時代があるという考え方であります。
 大聖人は、その原因として、人の内心の三毒が強盛になることを指摘されています。
 人の寿命が短くなるというのは、当時、深刻な現実問題であったといえるかもしれません。直前の蒙古襲来という戦乱は、人々を不安と恐怖に陥れた大事件でした。また、度重なる疫病や飢饉で、多くの死者も出ていました。若い世代も命が失われ、さらには幼い子供を亡くした民衆の悲嘆の声が渦巻いていました。大聖人は深く胸を痛められていたのです。
 御文では、「人の心もかくのごとし」と仰せです。まっすぐな大木ではなく「曲がった木」「低い木」ばかりになったと言われているのは、人間の根性がひねくれてしまって、有為な人材が枯渇し、倫理道徳が乱れて、人々が低次元の争いに終始するようになったことを譬えられていると拝察されます。
 そして、濁り乱れた社会では、賢人などが隠れてしまって、ますます暗く混迷した状況になっていくのです。
 その乱世の愚かさを端的に示す例として、大聖人が挙げられた“父母を知らないこと”とは、最も身近な「恩」を弁えない不知恩を指摘したものと拝されます。
 自分が今こうしてあるのは、そもそも誰のおかげなのか、その深い因縁に無知であることは、父母の恩への無知のみならず、一切衆生の恩、師匠の恩などの無知にもつながっていくのです。不知恩は、人間性の衰退であり、敗北です。
 釈尊は、こうした五濁の時代に生きる末法の衆生を救おうと法華経を残し、法華経の行者に託したのです。 次の段では、人間として最高の生き方を示してくれる法華経の根本の教えについて、光が当てられます。

09   仏御入滅ありては二千二百二十余年なり・ 代すへになりて智人次第にかくれて山のくだれるがごとく・くさの
10 ひききににたり、 念仏を申しかいをたもちなんどする人は・ををけれども法華経をたのむ人すくなし、 星は多け
11 れども大海をてらさず・草は多けれども大内の柱とはならず、 念仏は多けれども仏と成る道にはあらず・戒は持て
12 ども浄土へまひる種とは成らず、 但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ、 
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 仏が御入滅になってから2220余年になる。世は末になって、智人は次第に亡くなり、それは、山を降っていくようであり、草が低くなるのに似ている。念仏を称え、戒を持つ人は多くいるけれども、法華経を信ずる人は少ない。星は多くても、大海は照らせない。草は多くても、宮殿の柱とはならない。このように、念仏を多く称えても、仏になる道とはならない。戒は持っていても、浄土へ参る種とはならない。ただ南無妙法蓮華経の七字だけが仏になる種なのである。

妙法こそが万人成仏に「種」
 本抄には「仏御入滅ありては二千二百二十余年なり」とあります。まさしく釈尊在世から遥かに時代を経た末法です。清らかな源流から遠ざかり、多くの人は源流がどこにあるかも忘失し、源流の精神を伝える智人もいなくなってしまった。
 その結果、仏の根本の願い、源流の精神を正しく継承して実践する人は少なく、これに反した、この世を厭い、捨て、浄土への往生を願う念仏や、形ばかりの戒律を持った人々だけが多くなってしまったのです。
 大聖人は「星は多くても大海は照らせない。草は多くても宮中の柱とはならない」という譬えを通して、誤った教えでは、どんなに多くの人が信じていても、人々の苦悩の闇を晴らしゆく大光にも、人々を支える安心の柱にもならないと断言されています。
 だからこそ社会の指導者が、民主主義の現代でいえば、主権者たる個々の民衆自身が、いかなる思想・哲学を根本の規範として持つかが大事なのです。
 では、どんなに時代が移り変わろうとも、見失ってはならない源流たる仏の根本の願いとは、何でしょうか。
 それは、法華経に説かれる「万人成仏」の精神です。人々の己心に具わる仏性を開いて自他共の幸福を自在に満喫していける仏の境界を勝ち得ることです。
 この本意に背いて、「仏に成る道」や「浄土へまひる種」など決してないのです。
 大聖人は、九郎太郎に仰せです。
 「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」
 妙法が「仏の種子」「仏種」であることを明かされています。「法華経は仏にまさらせ給う法」と示されているように、三世十方の諸仏も、妙法によって仏になったのです。この「根源の種」が一切衆生から生まれ出るのです。
 思えば、土中に埋もれていた古の「蓮華の種」も、立派に蘇って現代に清楚な花を咲かせました。千葉の「大賀ハス」や埼玉の「古代ハス」などがそうです。
 条件が整えば、種子はもともと具えた性分を顕現します。天を突くような大樹も、最初は小さな種子です。その中になんと巨大な可能性を収めていることでしょうか。
 まして仏の種子は、必ず生命を開花させます。南無妙法蓮華経という「仏の種」が、己心の妙法蓮華経の大輪を咲かせるのです。
 いかなる苦悩にも束縛されることなく、必ず自他共の幸福勝利の花を咲かせていけるのです。
 法華経には「仏種は縁依り起こる」とあります。さらに大聖人は「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(0552-11)とも示されています。
 私たちが、“一対一の対話”を通して人々に法華経を語り、相手の耳に触れさせて、生命に響かせていく。そのことが「仏縁」を大きく広げているのであり、それは、すべて「仏種」を蒔くことになるのです。
 妙法という「仏種」を人々の生命に植えていく下種の戦いとは、すなわち折伏です。
 大聖人は、末法の修行は折伏であり、その実践をすれば、必ず「三類の強敵」などの難に遭うと、諸御書に明言されています。本抄でも、大聖人の至誠の行動を人々がそねみ、用いることがないことが述べられています。

12                                           此れを申せば人はそね
13 みて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、 各各は某の末にて此の御志をとげ給うか、 竜
14 馬につきぬる・だには千里をとぶ、 松にかかれる・つたは千尋をよづと申すは是か、各各主の御心なり、つちのも
15 ちゐを仏に供養せし人は王となりき、 法華経は仏にまさらせ給う法なれば供養せさせ給いて、 いかでか今生にも
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01 利生にあづかり後生にも仏にならせ給はざるべき、
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 このことをいえば、人は妬んで用いなかったものを、故上野殿は信じられたことによって仏になられたのである。あなたがたは、その一族であって、この御志を果たされるあわろう。竜馬にとりついたダニは千里を飛び、松に懸ったツタは千尋をよじ登るというのはこのことであろう。あなたがたは、故上野殿と同心である。
 土の餅を供養した人は王となった。法華経は仏より勝れた法であるから、この法華経に供養された人が、どうして今生で利益を蒙り、後生に仏になれぬはずがあろうか。

一人から一人へ、志が伝わる
 「故上野殿」南条兵衛七郎が法華経を受持したのは、大聖人に対して「猶多怨嫉・況滅度後」と経文通りの迫害が打ち続く中でした。その逆風の中で、念仏を捨てて、大聖人の弟子となったのです。
 しかも、南条兵衛七郎は、先ほど一言した通り、幕府の中枢を担う北条家の膝元に領地を持つ御家人です。おそらく南条一族の身内に限らず、周囲から驚きや反発が湧き起こったに違いありません。一族の“一粒種”として葛藤や苦労も多かったでしょう。その中で大聖人の懇切な指導と励ましを受け、兵衛七郎は信心を貫き通しました。亡くなったのは文永2年(1265)3月のことでした。
 大聖人は、わざわざ墓参までされています。その後、夫人には「故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」(1508-13)と断言され、時光には「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし」(1506-08)と讃えられました。
 時光は兵衛七郎が逝去した時、わずか6歳の少年でした。しかし、信心の「志」を貫いて生き抜いた父の姿は、幼い生命に焼き付いていたことでしょう。こうした兵衛七郎の成仏の姿は、ごく身近に見聞きしていたと思われます。
 大聖人は九郎太郎に「あなた方は故・上野殿の『御志』をはたされるのであろう」と述べられ、先人の「志」を必ず継承していくよう、深い期待を寄せられています。
 法華弘通の大願に生きる「志」で結ばれた絆は、なんと麗しく、なんと崇高で、なんと尊貴であることか。
 「志」は決して一人だけ、一代だけに止まるものではありません。私たちは燃え上がる信心の「志」を、ヨコに一人から一人へ、タテに世代から世代へつなぎ、広宣流布という絢爛たる希望の織物を織り上げていくのです。
 私は、これらの御文を拝する時、草創の頃から苦楽を共に戦ってきた忘れ得ぬ同志の顔が、まぶたに浮かんできます。その方々のことは一生涯、いな永遠に私の生命から離れることはありません。そして現在、父母の志を子や孫たちが、先輩方の思いを後に続く若人たちが確かに受け継いでくれています。
 今も折に触れ、懐かしい草創の友のお元気なる様子などを伺うのは何よりの喜びです。私はすぐに伝言を送り、励まさずにはいられません。ご家族をはじめ、周囲の縁ある方々の福徳も長寿も、心よりご祈念申し上げています。
根本の大法に生き抜く境涯
 大聖人は「竜馬につきぬる・だには千里をとぶ、松にかかれる・つたは千尋をよづ」との言葉を引かれて九郎太郎を励まされています。
 この仰せを拝して、「立正安国論」の「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(0026-04)の御文を想起される方々もおられるでしょう。それは、広宣流布の大願に連なり、仏意仏勅の学会と共に生き抜くなかで、思いもよらない幸福境涯を開くことができた実感であり、喜びでありましょう。
 「各各主の御心なり」との御言葉は、九郎太郎をはじめ一族の中で信心している人々は、故・上野殿と同じ「志」を受け継いでいるということです。
 仏教説話には「土の餅」を釈尊に真心から供養した徳勝童子は、後にアショーカ大王と生まれたと説かれています。
 大聖人は、九郎太郎の御供養の心に、かの徳勝童子と相通ずる深き真心をご覧であったのでしょう。
 大聖人は「法華経の行者」であられます。法華経を不惜身命で弘通される大聖人への御供養は、仏を生む「仏種」である妙法の供養となります。「いかでか今生にも利生にあづかり後生にも仏にならせ給はざるべき」と御断言です。今世の大功徳はもちろんのこと、後生の成仏も絶対に間違いないと、最大に讃嘆されているのです。

01                        その上みひんにして・げにんなし、 山河わづらひあり、 たと
02 ひ心ざしありとも・あらはしがたきに・いまいろをあらわさせ給うにしりぬ、をぼろげならぬ事なり、 さだめて法
03 華経の十羅刹まほらせ給いぬらんと・たのもしくこそ候へ、事つくしがたし、恐恐謹言。
04       弘安元年十一月一日                 日 蓮 花 押
05     九郎太郎殿御返事
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 そのうえ、貧しい身であるから下人もいない。山河を超えるのに苦労が多い。たとえ志はあっても、行為にあらわすことは難しい。しかしながら、今、貴殿が志をあらわされたのを見ても、その信心がなみなみでないことがわかる。必ず法華経の十羅刹女が守られるであろうと頼もしく思っている。申し上げたいことは多くあるが、尽くし難いのでこれで止めておく。恐恐謹言。

決意を行動に変えてこそ真の信心
 九郎太郎は、むしろ貧しい暮らしだったようです。おそらく家族を養うのが精いっぱいの現実ではなかったでしょうか。「御供養を」と決意するのも、山河を越えて身延までお届けするのもどれほど大変なことか。
 なんであれ、「決意して、行動する」というのは、簡単なようで難しいものです。やると決めてもできない。ぐずぐずと理由を付けて、結局、やれない。行動が伴わない。それが凡夫の弱さかもしれません。
 まして、法華経の行者を供養し、広宣流布の大業を支えるのです。簡単なはずがない。
 しかし、九郎太郎は立ち上がりました。
 「たとひ心ざしありとも・あらはしがたきに・いまいろをあらわさせ給う」と仰せのように、大聖人を断固とお守りするのだと決意して、さまざまな困難をものともせず、御供養をお届けしたのです。御本仏は、その心をわかってくださるのです。
 「をぼろげならぬ事なり」並々ならぬことであると、大聖人は讃えられています。そして、諸天善神が必ず守ることを「たのもしくこそ候へ」と仰せです。
 私には「をぼろげならぬ事」との御言葉は、現代も同じだと思えてなりません。わが同志は、雨の日も、風の日も、また炎暑の日にも、まさに不惜の志で、懸命に広宣流布のために戦っておられるその姿を、御本仏が照覧くださらないはずがありません。
「信心しきった者が必ず勝つ」
 昭和32年(1957)の7月17日、大阪拘置所から出獄した私は、その晩、中之島中央公会堂で行われた大阪大会の壇上で、こう宣言しました。
 「最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念で戦いましょう!」
 それは、私自身の誓いであり、確信でありました。そして、その場に駆けつけてくださった一人一人の魂の叫びであったに違いありません。
 たとえ世間で無名であろうが、貧しき身であろうが、いかなる苦難や困難を抱えていようが、人間は誰でも絶対に幸福になる権利がある。いな、自他共の幸福を堂々と開いていく本源的な仏の力があるのです。権力者などに断じて壊されることはありません。この一人一人が輝く時代を築くために、私たちは嵐に向かって立ち上がったのです。
 私は日記に決意を書き留めました。
 「必ずや、われわれは、真実が勝利する時代を創らん」と。
 民衆の幸福勝利のため、広宣流布の大願に生き抜く信心の「志」。この一点で永遠に結ばれているのが、創価の師弟の真実です。
 「志」はつながります。私たちは、勇敢に民衆の中に分け入って対話を広げ、一人また一人と仏縁を結び、この広宣流布という「志」の聖火をつなぎ続けてきました。その聖火は今や世界192ヵ国・地域に広がり、地球を結ぶ大連帯になりました。
 1日24時間、地球上のあの地この地で、人類の平和を願い、瞬時も途切れることなく、朗々たる題目の大音声が響いています。わが地涌の同志が、自分の使命のため、人々の幸福のために金の汗を光らせながら、誇り高く走っています。なんと尊き「志」の広がりでしょうか。壮大なるロマンでしょうか。
 後世の歴史は、この平和と文化と教育の大行進に、偉大な希望の光を見いだし、大喝采を送るでありましょう。
 そして、何よりも、日蓮大聖人が「をぼろげならぬ事なり」と御賞讃くださることは、絶対に間違いないと私は確信しております。
 私たちは、どこまでも不屈の人間主義の旗を掲げて、一人一人が無限の可能性を開き輝く「生命の世紀」を築くために戦ってまいりたい。この「志」を、必ずわが後継の青年たちが未来永遠に受け継いでくれることを、私は信じてやみません。

1554~1555    上野殿御返事(雪中供養御書)top

01   餅九十枚・薯蕷五十本・ わざと御使を以て正月三日未の時に駿河国富士郡上野郷より甲州波木井の郷身延山の
02 ほらへ・おくりたびて候。
03   夫れ海辺には木を財とし山中には塩を財とす、旱バツには水を財とし闇中には灯を財とし・女人は夫を財とし夫
04 は女人を命とし・ 王は民を親とし民は食を天とす、 此の両三箇年は日本国の中に大疫起りて人半分減じて候か、
05 去年の七月より大なるけかちにて里市とをき 無縁の者と山中の僧等の命存しがたし、 其の上日蓮は法華経誹謗の
06 国に生れて威音王仏の末法の不軽菩薩の如し、 将又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し、 王もにくみ民もあだむ・
07 衣もうすく食もとぼし・布衣はにしきの如し・草葉をば甘露と思ふ、 其の上去年の十一月より雪つもりて山里路た
08 えぬ、 年返れども鳥の声ならでは・をとづるる人なし、 友にあらずばたれか問うべきと心ぼそくて過し候処に・
09 元三の内に十字九十枚・満月の如し、 心中もあきらかに生死のやみもはれぬべし、あはれなり・あはれなり、こう
10 へのどのをこそ・いろあるをとこと人は申せしに・ 其の御子なればくれないのこきよしをつたへ給えるか、あいよ
1555
01 りもあをく・水よりもつめたき冰かなと・ありがたし・ありがたし、恐恐謹言。
02       正月三日                         日蓮花押
03     上野殿御返事
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 餅九十枚、薯蕷五十本、わざわざ使いに持たせて、正月三日の未の時に、駿河国富士郡上野郷から、甲斐国波木井郷の身延の山中に送ってくださった。
 海辺では木が財であり、また山中では塩が財である。旱魃では水が財であり、また闇の中では燈が財である。また、女人は夫を財とし、夫は妻を命としている。国王は民を親のように本とし、民は食物を天のように尊く思うものである。
 この二、三年の間、日本国中に疫病が大流行して、人々も半分も減じたようである。そのうえ、去年の七月から大変な飢饉で、人里を遠く離れている無縁の者や、山中に住む僧侶などは、命をつぐこともおぼつかない。
 そのうえ、日蓮は法華経誹謗の国に生まれて、あたかも威音王仏の末法の不軽菩薩か、あるいは歓喜増益仏の末法の覚徳比丘のようである。国主からも憎まれ民からも怨まれている。衣も薄く、食物も乏しいので、布衣でも綿のように、草の葉でも甘露のように感じられるのである。
 それのみならず、去年の十一月から雪が降り積もって山里に通う路も途絶えてしまった。年が改まったけれども、鳥の声が聞こえるばかりで、訪ねてくる人もいない。友でなければだれが訪ねてくるであろうかと、心細く過ごしているところに、正月三日の間に、満月のような十字九十枚を送られてきた。心の中も明らかになり、生死の闇も晴れたような思いである。まことにありがたいお心遣いである。
 亡くなられた兵衛七郎殿のことこそ、情けに厚い人といわれていたが、その御子息であるから、御父のすぐれた素質を受け継がれたのであろう。あたかも青は藍より出でて藍より青く、氷は水より出でて水よりも冷たいようであると感嘆している。ありがたいことである。ありがたいことである。
  正月三日              日 蓮  花 押
   上野殿御返事

上野郷
 静岡県富士宮市上条・下条・精進川一帯。南条時光の居住地。
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波木井の郷
 山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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威音王仏
 不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。
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不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
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歓喜増益仏
 涅槃経巻三に、「善男子過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と曰う」とある。
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覚徳比丘
 大般涅槃経金剛身品第二の文。過去の世に倶戸那城に歓喜増益如来という仏が出現したことがある。その仏が入滅した後、如来の正法は無量億年という長期間にわたって続いた。その最後、あと40年間で仏法が滅しようといていた時に、正法を堅く持った、ただ一人の比丘がいて、名を覚徳といった。その時、多くの破壊の悪比丘がいて、この覚徳比丘を殺そうとした。これを知った有徳王は武器を執って駆けつけ、これらの悪比丘たちと果敢に戦い、覚徳比丘を守り抜いたのである。だが、この時、有徳王は、全身に刀剣、矢、矛などの傷を受け、体に完きところ寸分もない状態であった。覚徳は王の生命をかけた信心の姿勢を「善きかな、王、いま真にこれ正法を守る者なり、未来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」と賛嘆した。王はこの覚徳のこの教えを聞き終わって心大いに歓喜して亡くなったのである。王はその後、護法の功徳力により、阿闕仏の国に生じその仏の第一の弟子となった。また、王とともに戦った将兵や人々も同じく阿闕仏の国に生まれたのである。さらに、覚徳比丘もその因縁により阿闕仏の国に生じ、その仏の声聞衆中、第二の弟子となった
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甘露
 ①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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元三
 正月1日、あるいは正月1日から3日までをいう。
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十字
 蒸餅のこと。「じゅうじ」ともいう。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。語源は晋書の列伝第三巻の「蒸餅の上に十字を作し坼さざれば食せず」に由来するといわれる。
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あいよりもあをく……
 荀子勧学篇には「君子曰く、学は以って已むべからず。青は之を藍より取りて藍よりも青く、冰は水之を為して、水よりも寒し」とあり、ここでは、青と冰を時光、藍と水を父の兵衛七郎にたとえられている。
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 本抄は弘安2年(1279)1月3日、大聖人が聖寿58歳の時、上野の南条時光に対して与えられた御手紙である。時光が元旦の御供養を身延におられる大聖人のもとへお届けしたのに対する返書である。この2・3年の間、疫病や飢饉が続いていたにもかかわらず、常に変わらない信心で御供養申し上げた時光の真心を讃えられている。なお、本抄の御真筆は京都の本法寺に現存する。
 最初に、餅、やまのいもが使いをもって正月の供養として届けられ、たしかに受領した旨が記されている。他にも、上野から正月に御供養が届いたと記されている御書が建治2年(1276)の「南条殿御返事」、弘安3年(1280)の「上野殿御返事」、弘安4年(1281)の「上野尼御前御返事」、弘安5年(1282)の「春初御消息」とあり、ほとんど毎年、正月には御供養申し上げていたことがわかる。山深い地であるから、いつも難義は変わらなかったであろうが、とくにこの年は前年の11月からの雪で身延の大聖人の草庵へは道が途絶えており、不便ななかの御供養であり、時光の志の篤さが偲ばれる。
 しかも、この御供養の品が大聖人の身にとっていかに貴重であるかを、さまざまな例を挙げていわれている。「海辺には木を財とし」とは、木船の建造、家の建築、燃料等に木は不可欠なものでありながら、海辺では得がたいからである。同様に「山中には塩を財とす」も、塩は生命の維持に不可欠でありながら、山中では得がたいからである。
 次に「女人は夫を財とし夫は女人を命とし」と仰せになっている。当時、女性が自活していくのは容易ではなく、女性にとって夫はまさしく「財」ともいうべき存在であった。また、逆に、衣類、食料のほとんどが各家庭での手作りによっていた当時にあって、女性は男性にとって命の支えでもあり、男性も妻子を守り、家を守っていくために、命を捨てることさえあった。
 その次に「王は民を親とし」と仰せになっている御文は重要である。一般には、民が王を親とすべきであるという面が強調されるが、大聖人は、王が民を親とすべきであると仰せなのである。民こそ社会・国家を維持・発展させていくための主体者であり、権力者といえども、民なくしては何もできない。王は主体者である民が食を確保し、安心して暮らしていけるよう、制度を整え、運営していくことを託された公僕であるという考え方がそこにある。民主主義の思想といっても過言ではあるまい。
 それに対し、民衆にとっては「食を天とす」とあるように、食物を得て生命を維持していくことが最大の関心事である。
 ところが、建治3年(1277)ごろから本抄御執筆の弘安2年(1279)までの期間は、疫病が起こり、人口の半分が死んだと仰せである。弘安元年(1278)閏10月12日に著された「上野殿御返事」でも「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき」(1552-02)と仰せになっている。死者についての記録は明瞭でないが、この期間、疫病が起こっていたことは、続史愚抄、興福寺略年代記、沙石集等に出ている。これらの記録によれば、建長3年(1251)の秋ごろから疫病が蔓延し、その調伏に毎年、仁王経を読んだり、薬師仏や観音像を建てたりしたとある。
 さらに、飢饉も激しかった。本抄で仰せになっている飢饉は他の御書を拝すると、風水害によるものであったらしい。弘安元年(1278)9月19日の「上野殿御返事」には「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし……」(1551-04)とあり、また前掲の三災御書にも「八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし」(1552-04)と仰せになっている。そのほか、全国的にも気象が異常で、例えば、京都のほうでは旱魃が猛威を振るったことが西園寺公衡公記等に記されている。
 疫病や気象異変は、現代からは想像もできないほど悲惨な結果をもたらした。治療技術の進んでいない当時にあっては、伝染病がいったん発生すると手がつけられず、猛威を振るった。対策といっても、病人を隔離する程度のことしかできなかった。とくに、発生した地域では人口の半数が死ぬことも決して珍しいことではなかったのである。飢饉も同様である。灌漑技術も貧弱で、旱魃や長雨、冷害などには全く無防備といってよかった。
 その二つが重なったのであるから、人々の生活は悲惨なものであったにちがいない。身延の山中に住まわれる大聖人の草庵も、どれほどの心細い状態であったろうか。
 加えて、一国が法華経誹謗であり、大聖人および御一門に対し理不尽な迫害が加えられていたのであるから、状況はいっそう悪かった。「王もにくみ民もあだむ」と仰せのごとく、権力者による迫害のみでなく、周囲の身近な人達からの迫害も激しかったのである。その結果「衣もうすく食もとぼし・布衣はにしきの如し・草葉をば甘露と思ふ」という状態になっていたのでる。
 正法のゆえの迫害にあっておられる御自身を、大聖人は不軽菩薩と覚徳比丘のようであると仰せられている。御自身を不軽菩薩と覚徳比丘に比された御文は、本抄の前年7月の南条平七郎に送られた種種物御消息にも拝される。不軽菩薩は釈尊の過去世の姿で四衆に怨まれて杖木瓦石の難にあい、覚徳比丘は迦葉仏の過去世の姿で悪比丘に刀杖で殺されようとした。
 いま大聖人は、これらの過去の法華経の行者と同じく、否それ以上に権力者からも民衆からも憎まれ迫害を受けておられるのである。衣食とも、まことに乏しい状態であった。
 しかも、年来からの雪で、交通は途絶し訪れる人もないなかでの御供養である。蒸餅九十枚があたかも満月のようであると喜ばれているのである。
 最後に、この時光が、故南条兵衛七郎の後を継いで強盛な信心を貫き、今は兵衛七郎以上に立派になったと仰せられ「あいよりもあをく・水よりもつめたき冰かな」と讃えられている。

1555~1558    上野殿御返事(刀杖難事)top
1555:01~1556:03 第一章 少輔房の逆縁を延べるtop

01   抑日蓮・ 種種の大難の中には竜口の頚の座と・東条の難にはすぎず、 其の故は諸難の中には命をすつる程の
02 大難はなきなり、 或はのりせめ・或は処をおわれ・無実を云いつけられ・或は面をうたれしなどは・物のかずなら
03 ず、されば色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本国の中には日蓮一人なり、  ただしありとも法華経の故
04 にはあらじ、 さてもさても・ わすれざる事はせうばうが法華経の第五の巻を取りて日蓮がつらをうちし事は三毒
05 より・をこる処のちやうちやくなり。
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 思えば日蓮が受けた種々の大難のなかで、竜の口の頸の座と東条小松原の難ほどの大難はない。そのわけは、諸難の中でも身命を捨てるほどの大難はないからである。あるいは悪口され、あるいは処を追われ、讒言をされ、あるいは面を打ちすえられたことなどは、この二つの大難に比べれば物の数ではない。したがって、色法と心法との二法から謗られた者は、日本国の中では日蓮ただ一人である。たとえ難にあった人がいたとしても法華経の故ではないであろう。
 それにつけても忘れられないことは、竜の口法難の時、松葉ヶ谷の草庵で少輔房が法華経の第五の巻を取り出して、日蓮の面を打ったことである。これは、貪瞋癡の三毒から起こった打擲なのである。
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06   天竺に嫉妬の女人あり・男をにくむ故に家内の物をことごとく打ちやぶり、 其の上にあまりの腹立にや・すが
07 た・けしきかわり・ 眼は日月の光のごとくかがやきくちは炎をはくがごとし・ すがたは青鬼赤鬼のごとくにて年
08 来・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり・両の足にてさむざむにふみける、 其の後命つきて地獄にをつ・両の足
09 ばかり地獄にいらず・獄卒鉄杖をもつて・うてどもいらず、 是は法華経をふみし逆縁の功徳による、今日蓮をにく
10 む故にせうぼうが第五の巻を取りて予がをもてをうつ・是も逆縁となるべきか、 彼は天竺・此れは日本・かれは女
11 人・これはをとこ・かれは両のあし・これは両の手・彼は嫉妬の故・此れは法華経の御故なり、 されども法華経第
12 五の巻は・をなじきなり、 彼の女人のあし地獄に入らざらんに此の両の手・無間に入るべきや、ただし彼は男をに
1556
01 くみて法華経をば・にくまず、此れは法華経と日蓮とを・にくむなれば一身無間に入るべし、 経に云く「其の人命
02 終して阿鼻獄に入らん」と云云、 手ばかり無間に入るまじとは見へず不便なり不便なり、 ついには日蓮にあひて
03 仏果をうべきか不軽菩薩の上慢の四衆のごとし。
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 昔、インドに嫉妬深い女性がいた。男を憎んで、家の中の物をことごとく打ち毀してしまった。そのうえ、あまりの腹立ちに、顔の姿も変わって、眼は日月の光のように輝き、口は炎を吐くようであり、その姿は青鬼・赤鬼のようになってしまった。そして、日ごろ、男の読誦している法華経の第五の巻を取り出して、両足でさんざんに踏みつけたのである。
 その後、命が尽きて地獄に堕ちたが、両足だけが地獄に入らなかった。獄卒が鉄杖で打っても入らなかった。これは、法華経を踏んだ逆縁の功徳によるのである。
 今、日蓮を憎む少輔房が、法華経の第五の巻を取って日蓮の面を打ったことも逆縁となるであろうか。かれはインド、これは日本。かれは女人、これは男。かれは両足、これは両手。かれは嫉妬のゆえ、これは法華経のゆえである。しかし、法華経の第五の巻は同じなのである。かの女人の足が地獄に入らなかったのであるから、少輔房の両手は無間地獄に入ることがあろうか。
 ただし、かの女人は男を憎んでいたが法華経を憎んではいなかった。少輔房は法華経と日蓮とを憎んでのことであるから、体全体が無間地獄に入るであろう。法華経には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」とある。この経によれば、手だけは無間地獄に入らないだろうとは見えず、まことに不憫なことである。しかし、少輔房も結局は、日蓮にあって仏果を得るのであろう。ちょうど不軽菩薩を迫害した増上慢の四衆のようなものである。

竜口の頚の座
 文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が相模国竜口(神奈川県藤沢市片瀬)で斬首刑に処せられようとした法難。発端は、大聖人との祈雨に敗れた極楽寺良観が幕府の要人や女房達にとりいって画策したことに始まる。これを受けて内管領で侍所所司でもあった平左衛門尉頼綱は武装した多数の兵を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲って大聖人を捕らえた。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。身柄は一時、北条宣時の邸に預けられたが、何の取り調べもなく深夜、竜の口の刑場に連れ出された。刑吏が大聖人の頸を斬ろうとした時、巨大な光り物が上空を横切り、武士達は驚き怖れ、刀を捨てて逃げ伏し、ついに処刑は行われなかったのである。この法難の模様については「種種御振舞御書」に詳しい。
―――
東条の難
 文永元年(1264)11月11日夕刻、日蓮大聖人が安房国天津の領主・工藤吉隆に招かれ、花房の蓮華寺から天津へ向かう途次、東条郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)で地頭・東条景信、念仏者等の襲撃を受けた法難。この時、大聖人の一行は10人ばかりであり、弟子の鏡忍房はその場で殺され、工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、間もなく死去したと伝えられる。その他の者も深手を負い、大聖人御自身も景信が切りつけた太刀によって右の額に傷を受け、左の手を骨折された。「南条兵衛七郎殿御書」に、この時の模様が述べられている。
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色心の二法
 色とは肉体・物質をいい、心とは精神をいう。色心の二法とは生命のこと。
―――
せうばう
 文永8年(1274)9月12日の竜の口法難の日、平左衛門尉の郎従として松葉ヶ谷の草庵を襲った。この時、日蓮大聖人が懐中にもっておられた法華経第五の巻を取って、大聖人の顔を三度打ちすえた。この少輔房が、大聖人門下で伊豆の法難の頃から退転した少輔房と同一人物かどうかは不明である。
―――
法華経の第五の巻
 法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。
―――
三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
青鬼赤鬼
 いずれも罪人を責める獄卒の青色・赤色の鬼のこと。
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獄卒
 地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
―――
逆縁の功徳
 仏の教えを素直に信じないこと、またはそのような救い難い人をいう。順縁の反対語。また、仏法を誹謗したことがかえって仏道に入ることを指して言う場合もある。因果や道理に違背・違逆して、人間の倫理に反する言動や行為により仏道に違背することであるが、後に仏法を誹謗したことが逆に縁となって、仏法に帰依するような場合をいう。毒鼓の功徳ともいう。教機時国抄には「謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し」(0438-12)法華初心成仏抄には「当世の人・何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」(0552-14)法華取要抄には「末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」(0336-04)とある。 
―――
無間
 無間地獄のこと。八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
不軽菩薩
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――
上慢の四衆
 「上慢」とは七慢の一つで増上慢のこと。いまざ得ざるを得たりと思うこと。七慢とは慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢をいい、「四衆」とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のこと。
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 本抄は2年(1279)4月20日、日蓮大聖人が58歳の御時、富士郡上野郷(現在の静岡県富士宮市の一部)の地頭・南条七郎次郎時光に与えられた御手紙である。
 弘安2年(1279)といえば、日興上人の陣頭指揮によって、富士郡熱原郷(静岡県富士市の一部)一帯に活発な折伏活動が繰り広げられ、実相寺、四十九院、滝泉寺等の僧が次々と改宗し、さらに農民の間にも妙法が弘まっていった時である。 
 その結果、必然のこととして三障四魔が競い起こってきた。とくに滝泉寺院主代・行智が火つけ役となり、幕府中枢の平左衛門尉頼綱が信仰弾圧に乗り出して起こった法難を「熱原の法難」といい、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊御建立の機縁となった事件として、重要な意義をもっている。
 ともかく、建治期からその端緒が見られた迫害が、いよいよ頂点に達したのが弘安二年である。
 本抄をいただいた南条時光は、幼少のころから大聖人に帰依し、長じて亡父の地頭職を継いでからも、日興上人を師兄と仰いで純真な信心に励み、真心あふれる御供養を続けてきた。
 とくに熱原法難に際しては、在家の中心者として大活躍を示し、大聖人から「上野賢人」の称号を賜わっている。
 大聖人滅後は、日興上人に仕えて一門の興隆に努め、日興上人の身延離山の折は、進んで自分の領地にお迎えして、大石寺の基礎をつくったのである。
 本抄の内容は、冒頭、日蓮大聖人がこれまであわれた法難について述べられ、とくに法華経の第五の巻で大聖人の御顔を打擲した少輔房について、御自身の成仏のために大恩ある人であると述べられている。
 ついで、第五の巻におさめられている各品の内容とその意義について述べられていく。まず提婆達多品にある提婆達多と竜女の成仏について触れられ、「逆順ともに成仏を期すべきなり」と、末法の衆生が救われる法理を示したものであると教えられている。
 次に勧持品について、そこに説かれている刀杖の難に関し、過去の聖人等の例を引かれて、結局、第五の巻の勧持品を身口意の三業で読み、実践したのは日蓮大聖人ただ一人であると断言されている。
 安楽行品については略され、涌出品については、大聖人こそ上行菩薩等のなすべき末法の妙法弘通を実践していることを述べられている。
 本抄の初めに、諸難のなかでも刀杖の難にあわれたことを述懐されているところから、本抄は別名を「刀杖難事」、または「杖木書」とも称される。
 御真筆の所在は不明である。
 まず、本抄の冒頭の段では、日蓮大聖人が法華経のゆえに刀杖の難に値われたことを挙げ、竜の口の頸の座と東条・小松原の法難が刀の難であるのに対し、少輔房に法華経第五の巻で打たれたのが杖の難にあたることを示される。
 そして昔、法華経を踏みつけた女人が逆縁で救われたことを例に、大聖人を打った少輔房も、種々の違いはありながらも、必ず救われることを示されている。
抑日蓮・種種の大難の中には竜口の頚の座と・東条の難にはすぎず
 末法において正法を弘める行者は種々の大難に遭うと、法華経勧持品第十三等には説かれている。
 その経文の予言のとおり、大聖人は数々の大難にあわれた。
 しかし、そのなかでも「諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり」と仰せられているように、なんといっても生命を奪われる刀による難が最も大きく厳しい。それが竜の口の頸の座と東条・小松原の法難である。
 「竜口の頚の座」とは、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉頼綱が、竜の口において大聖人を斬首しようとした、大聖人の生涯における最大の法難である。
 同じく「東条の難」とは文永元年(1264)11月11日、安房・東条の松原で、大聖人が地頭・東条景信の率いる兵士に襲撃された小松原の法難のことである。その際、大聖人は額に傷を受けられ、左手を骨折されている。
 この「命をすつる程の大難」に比べれば、悪口、中傷、また杖で打たれる等の難は「物のかずならず」と仰せられている。この言葉はそのまま滅後の弟子門下の決意でなければならないであろう。
されば色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本国の中には日蓮一人なり云云
 日蓮大聖人は刀や杖などによる色法面での迫害にも、悪口や讒言などの心法面での迫害にも、ともにあわれた。それは、これまでにだれもあっていない大難であった。
 もちろん、世法上、国法上の悪事を犯してこの色心二法にわたって、人々から痛めつけられた者は多い。仏法上でも、たとえば法然等は、流罪にもされているし、非難もされている。しかし、彼は法華経を実践したためではなく、法華経を含めて、仏教の伝統を破壊しようとしたためであった。
 法華経を説き、実践して、難にあったといえるのは天台大師や伝教大師である。だが、その蒙った難は、天台大師の場合は南三北七の十師から、伝教大師の場合は南都六宗の僧達から、悪口をいわれただけであった。大聖人のように、色心二法にわたる迫害ではなかったのである。
 この点については、「如説修行抄」に「恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉計りなり」(0504-05)と、明確に対比して示されているところである。そして、これは法華経勧持品に説かれたとおりの姿であり、大聖人が自らを「法華経の行者」と称される所以がここにあることはいうまでもない。
少輔房の打擲事件
 こうした数々の難の中で「さてもさても・わすれざる事」として、本抄ではとくに少輔房の打擲事件について述べられていく。
 それは刀の難にくらべれば「物のかずならず」ではあるが、その〝杖〟が法華経第五の巻であり、大聖人の法華経身読を象徴的にあらわしているので、とくに詳しく述べられるのである。この事件は、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉が武装した数百人の兵を率いて大聖人を捕らえにきたとき、その部下の少輔房という者が、大聖人を法華経の第五の巻で打ちすえたことをさす。
 この第五の巻こそ法華経の行者が刀杖の難にあうと予言した勧持品を含んだ経典であり、このことから大聖人は、勧持品を身をもって読まれたのであり、「わすれざる事」と仰せられたと拝される。
 また、少輔房のこの打擲は「三毒より・をこる処」とあるのは、勧持品には、末法の衆生は貪・瞋・癡の三毒が強盛であり、そのゆえに法華経の行者が三類の強敵に値うと説かれていることに依っている。
 大聖人はこの少輔房の行為に関連して、天竺における「嫉妬の女人」の話を挙げられる。これは舞台の違いはあるが、法華伝記第九からの引用である。
 「男をにくむ故に家内の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの腹立にや・すがた・けしきかわり・眼は日月の光のごとくかがやきくちは炎をはくがごとし・すがたは青鬼赤鬼のごとくにて」の叙述は、女性のみならず、男女に共通する感情激発の際の醜い形相そのものであろう。
 この女性は嫉妬のあまり、夫が日ごろから大事にして読誦していた法華経の第五の巻を、両足でさんざんに踏みつけた。
 女性は死後、地獄に堕ちたが、不思議にその両足だけは堕地獄を免れたという。その理由を「法華経をふみし逆縁の功徳による」と仰せられている。
 つづいて、この例話を少輔房の打擲事件と対比され、「是も逆縁となるべきか」と、述べられている。
 すなわち、天竺と日本、女と男、両足と両手、嫉妬のゆえと法華経のゆえなど、状況と背景の違いはあっても、両者に共通する〝縁〟は法華経第五の巻である。
 しかし、この女性は、夫を憎んでも、法華経を憎悪していたわけではなかった。瞋恚の業のため地獄に堕ちたものの、法華経のもつ逆縁の功力で、縁した両足だけは救われたわけである。
 逆縁の法理から考えれば、少輔房も法華経第五の巻で大聖人を打った両手だけは堕地獄を免れるのが道理と思えるが、少輔房は「法華経と日蓮とを・にくむ」ゆえの行為であるから、その末路は、法華経譬喩品第三に「経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん(中略)其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」と説かれるように、全身、無間地獄へ堕すことは必定なのである。
 ただし、大聖人を打ったという逆縁によって、無間地獄で罪業を受け終わったのちは、ふたたび大聖人に会い、正信に目覚めて仏果を得るであろうと仰せられ、「不軽菩薩の上慢の四衆のごとし」と説かれている。
 すなわち、法華経常不軽品第二十に説かれる、不軽菩薩を軽賎した増上慢の四衆は、その生存中に懺悔して罪の大部分は消滅したが、残った罪によって千劫の長きにわたって地獄の苦悩を受けた。だが、不軽菩薩を迫害したという逆縁によって、再び不軽菩薩とともに生まれ、不軽の教化を受けて成仏することができたのである。
 このことを「御義口伝」で「若し法華誹謗の失を改めて信伏随従する共浅く有りては無間に堕つ可きなり、先謗強きが故に依るなり千劫無間地獄に堕ちて後に出づる期有つて又日蓮に値う可きなり復遇日蓮なるべし」(0766-第十四畢是罪已復遇常不軽菩薩の事)と御教示されている。
 同様に、少輔房も御本仏日蓮大聖人を打った罪業で無間地獄はまぬかれないが、同時に逆縁によって、再び大聖人に会い、必ず救われるであろうとの仰せである。

1556:04~1557:01 第二章 提婆品の順逆二縁の成仏を明かすtop

04   夫れ第五の巻は一経第一の肝心なり・竜女が即身成仏あきらかなり、提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身
05 の成仏をあらはす、 一代に分絶たる法門なり、 さてこそ伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたる事を十あ
06 つめ給いたる中に・ 即身成仏化導勝とは此の事なり、 此の法門は天台宗の最要にして即身成仏義と申して文句の
07 義科なり、 真言・天台の両宗の相論なり、竜女が成仏も法華経の功力なり、 文殊師利菩薩は唯常宣説妙法華経と
08 こそかたらせ給へ、唯常の二字は八字の中の肝要なり、 菩提心論の唯真言法中の唯の字と・今の唯の字と・いづれ
09 を本とすべきや、彼の唯の字はをそらくはあやまりなり、 無量義経に云く「四十余年未だ真実を顕さず」、 法華
10 経に云く 「世尊の法は久くして後に要当に真実を説きたもうべし」、 多宝仏は皆是真実とて法華経にかぎりて即
11 身成仏ありとさだめ給へり、 爾前経にいかように成仏ありともとけ・権宗の人人・無量にいひくるふとも・ただほ
12 うろく千につち一つなるべし、法華折伏・破権門理とはこれなり、尤もいみじく秘奥なる法門なり。
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 さて法華経第五の巻は一経第一の肝心である。ここには竜女の即身成仏が明らかに説かれている。提婆達多は心の成仏をあらわし、竜女は身の成仏をあらわしている。このような深遠な法門は、一代経において他にみないものである。
 だからこそ、伝教大師は法華秀句の中で法華経が一切経に超過して勝れていることを十箇条挙げられたが、そのなかで即身成仏化導勝といわれているのがこのことである。この法門は天台宗における最も肝要なもので、即身成仏義といって法華文句第八の巻の義科の一つである。
 これについては、真言・天台の二宗の間に争論があるが、竜女の成仏も法華経の功力であって、文殊師利菩薩が竜女を教化するのに「唯常に妙法華経を宣説す」と語られている。「唯常」の二字はこの八字の中の肝要である。菩提心論の「唯、真言法の中のみ」の「唯」と法華経の「唯」とのいずれを根本とすべきであろうか。菩提心論の「唯」の字は恐らくあやまりである。
 無量義経には「四十余年には未だ真実を顕さず」、法華経方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と説かれ、見宝塔品第十一で多宝仏は「皆是れ真実なり」と、即身成仏は法華経に限ることが定められている。爾前経にどのように成仏があると説かれていようと、また権宗の人々がどのように言い狂ったとしても、要するに千の焙烙も一つの槌に及ばないのと同じである。「法華は折伏にして権門の理を破す」とはこのことである。最も大事な秘奥な法門である。
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13   又天台の学者・慈覚よりこのかた玄.文・止の三大部の文をとかく・れうけんし義理をかまうとも.去年のこよみ
14 昨日の食のごとし・けうの用にならず、 末法の始の五百年に法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は・仏説な
15 りとも用ゆべからず、 何に況や人師の義をや、 爰に日蓮思ふやう提婆品を案ずるに 提婆は釈迦如来の昔の師な
16 り、 昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、 古今能所不二にして法華の深意をあらわす、されば悪
17 逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり・ 愚癡の竜女には智慧の文殊師となり・文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉る
18 べからざるか、日本国の男は提婆がごとく・女は竜女にあひにたり、 逆順ともに成仏を期すべきなり・是れ提婆品
1557
01 の意なり。
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 また天台宗において慈覚以後の学者が、玄義・文句・止観の三大部の文について、あれこれと解釈したり、勝手な意味づけをしてみたところで、それはちょうど去年の暦や昨日の食べ物のようなもので、きょうの役には立たないのである。
 末法の始めの五百年に、法華経の題目を離れて成仏があるという人は、それが仏説であったとしても用いてはならない。まして人師の義などなおさらのことである。
 そこで日蓮が考えるのに、提婆達多品第十二をみると、提婆達多は釈尊の昔の師である。昔の師は今の弟子であり、今の弟子は昔の師である。これは、昔と今、師と弟子とは一体不二であるという法華経の深意をあらわしているのである。
 それゆえ、悪逆の提婆達多には慈悲の釈迦如来が師となり、愚癡の竜女には智慧の文殊が師となっているのである。この日蓮は文殊・釈迦如来に劣ることはないであろう。日本国の男は提婆達多のようであり、女は竜女に似ている。法華経の行者に順う者も、背く者も、順逆ともに成仏を期しえるというのが、提婆達多品第十二の意なのである。

竜女
 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
―――
即身成仏
 凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――
提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす
 提婆達多は悪逆の心の代表であり、その提婆が天王如来という成仏の記別を受けたことは〝こころの成仏〟をあらわしているのである。それに対し竜女は、畜生の身そのままで成仏したことから「身の成仏をあらはす」となるのである。
―――
提婆
 提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
―――
伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
即身成仏化導勝
 伝教大師の法華秀句巻下に説かれる。伝教大師が、天台宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、法華十勝を挙げて示したなかの第八。提婆達多品第十二に説かれている竜女の即身成仏の例を挙げて、「能化の竜女歴劫の行無く、所化の衆生歴劫の行無し。能化所化倶に歴劫無し。妙法の経力を以って即身に成仏し、上品の利根は一生に成仏し、中品の利根は二生に成仏す。下品の利根は三生に成仏す」と、法華経に説かれる即身成仏の義が人を化導するうえで勝れていることを明かしている。
―――
天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
文句の義科
 法華文句の義科のこと。義科は重要な教えを説くために設けた科目・題目のこと。法華文句巻八下には「第七に竜女、現に成じて明証するに復二あり……」と科を立てて、竜女の即身成仏を釈している。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
文殊師利菩薩
 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
―――
菩提心論
 「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。
―――
無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
―――
多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
爾前経
 爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
法華折伏破権門理
 天台大師の言葉。法華経は本質的に折伏の精神に立つものであり、爾前の権教方便を打ち破るのである。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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玄・文・止の三大部
 天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観のこと。
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提婆品
 妙法蓮華経提婆達多品第12のこと。法師品と見宝塔品が功徳の深重をあげて流通を勧めたのに対し、かつての提婆の弘教と、釈尊の成道の両方を兼ね益した前例を引いて、功徳の深重を証し、流通を勧めるのである。まず前段に国王と阿私仙人の昔話をあげ、釈尊が「果を採り、水を汲み薪を拾い食を設けて」千年間給仕するところの苦行のありさまを説いている。その阿私仙人とは提婆達多のことであり、この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから五逆を作り、現身で地獄に堕ちたが、妙法の効力によって、天王如来の記別を受けたのである。迹門正宗八品では声聞の作仏の得記を明かし、流通分にはいって法師品では善人成仏を明かしたのに対して、この提婆品では悪人と女人の成仏を説き、宝塔品では釈迦・多宝の二仏並座は、一切衆生の色心が本有の境智を顕わしているので、すなわち、理性の即身成仏を説いたのであるが、この品では地獄の提婆達多と、海中から出た畜生である竜女の成仏をといたのであるから、事相の即身成仏が説かれたのである。
―――
能所不二
 「能」とは能動のことで他に働きかけるもの。「所」とは所動のことで、能動によって働きかけるものをいう。能と所とは動作の主体と客体との関係にあり、能弘・所弘・能詮・所詮など多く使われるが、能化の師と所化の弟子を不二とたてる。
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慈悲
 一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
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 法華経第五の巻を法華経の「第一の肝心」と述べられ、この第五巻に含まれる品々が、末法の我々、なかんずく大聖人の実践にいかなる関係をもっているかを示されていく。
 まず、そのうちの提婆達多品第十二に説かれる悪逆の提婆達多と八歳の竜女の成仏が、末法の衆生の順逆二縁の成仏をあらわしていることを示されている。
 提婆品以前においては、二乗の成仏といっても未来成仏の記別であった。それに対し、竜女の成仏は爾前諸経で不成仏とされてきた女人が、しかも竜という畜身を改めずして、その場で即身成仏したことが説かれているのである。
 さらに、釈尊に敵対し、悪逆の限りを尽くして地獄に堕ちた提婆達多さえ、天王如来の未来授記を受けている。いわゆる悪人成仏も説かれているのである。
 この提婆と竜女の成仏は「提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす」と仰せのように、一切衆生の色心の成仏を示しているのである。
 すなわち、提婆達多は悪逆の心の代表であり、その提婆が天王如来という成仏の記別を受けたことは〝こころの成仏〟をあらわしているのである。
 それに対し竜女は、畜生の身そのままで成仏したことから「身の成仏をあらはす」とされるのである。
 このことは各人のいかなる精神的煩悶も、肉体的本能からくる愚かさも、ことごとく打開し、最高の幸福境涯へ入らせる力が妙法にあることを意味している。
 この即身成仏の法門は、釈尊一代の聖教のなかでも未曾有のものであるところから、「一代に分絶たる法門」といわれているのである。伝教大師が、その著・法華秀句巻下で、法華経が一切経に勝れていることを十種挙げたなかで、「即身成仏化導勝」として説いているのもそのためである。
 この即身成仏の法門は天台宗の肝要であって、天台大師も法華文句巻八で「即心成仏義」という一科を設け、重要な義目としているほどである。
 この即身成仏義は真言宗でも「唯真言の法の中にのみあり」と主張していた。そこで、大聖人は真言宗の誑義を破折されるのである。
 所詮、竜女の即身成仏は法華経の功力による以外のなにものでもない。その文証こそ、法華経提婆品の「文殊師利の言わく、『我れは海中に於いて、唯だ常に妙法華経を宣説す』」の文である。
 これは文殊が娑竭羅竜宮で、無量の菩薩を化導するのに「唯常に法華経をもってした」と自叙したものである。
 このなかに「唯常」の二字が「八字の中の肝要」であって、〝唯〟とは法華経のみということであり、〝常〟は、いかなる衆生に対しても法華経のみを説き、方便をまじえないということである。法華経のみによって即身成仏したことが、ここから明々白々である。
 それに対し、真言宗では、竜樹の作で、中国・唐代の不空訳の菩提心論にある「唯真言法の中にのみ即身成仏する」との文に誑惑されて、即身成仏は真言宗のみとする邪義を構えてきた。「真言・天台の両宗の相違なり」といわれるゆえんである。
 しかし、菩提心論の〝唯〟の字と、法華経の〝唯〟の字と、どちらを根本とすべきかはいうまでもない。
 法華経は釈尊自ら「已今当説最為第一」とした金言であり、菩提心論は論師の説にすぎない。「依法不依人」の仏法の鉄則に照らせば、おのずから勝劣は明白だからである。
 しかも、竜樹は、代表的著作である大智度論で、法華経に依る即身成仏を説いた正師であり、この大智度論の義に背いて、真言宗の即身成仏を立て、しかも、その上に〝唯〟の一字をあながちに置くなどということは、ありえない。
 まして竜樹は、やはり自著の「十住毘婆沙論」で、「経に依らざる法門をば黒論」といっているくらいだから、自語相違するわけがないのである。
 したがって、日蓮大聖人は「此れは竜樹の異説にはあらず訳者の所為なり(乃至)されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり」(1007-08)と断定されている。本文で「彼の唯の字はをそらくはあやまりなり」とされているのはその意味である。
ほうろく千につち一つ
 釈尊は爾前の諸経を無量義経で、自ら「未顕真実」と破折し、法華経方便品に来たって法華経においてこそ「要当説真実」と宣言している。しかも、それを多宝如来も法華経宝塔品で「皆是真実」と証明し、独り「法華経にかぎりて即身成仏ありとさだめ」られている。
 権宗の徒輩が、諸経にも即身成仏ありなどと、どんなに多弁を弄し、わめいたとて、それはあたかも「ほうろく千につち一つ」、つまり、もろい焙烙がたくさんあったところで、堅い槌にはかなわない譬えと同様、すべて、たちどころに粉砕されるのである。
 仏説に照らした大確信に満ちみつ大聖人の痛烈極まりない破折の姿勢がここにみられる。天台大師が法華玄義巻九上で説いた「法華折伏・破権門理」とは、まさしくこのことであり、法華経こそ「尤もいみじく秘奥なる法門なり」なのである。
 また天台宗においても、真言の邪義にたぶらかされた慈覚以後は、天台大師が説いた玄義・文句・止観について、種々の意見や義理を構えているが、元来、天台仏法そのものが末法今時では法と機根とが相応しなくなり、去年の暦か、昨日の食物のように無力・無益となってしまっているのである。
 まして理同事勝の邪義を唱える大謗法と化しているのであるから、なにをかいわんやである。
 したがって「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)と仰せのように、末法今時では、三大秘法の南無妙法蓮華経を離れては即身成仏の法はないのである。
 「末法の始の五百年に法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は・仏説なりとも用ゆべからず」との仰せに、末法御本仏としての大確信を拝することができる。
古今能所不二
 次に、法華経提婆品のあらわしている師弟についての深義を示される。
 提婆達多は釈尊の従弟で、はじめ仏弟子になりながら、その甚だしい驕慢から、釈尊を宿世の敵とまで憎み、数々の謀をめぐらして、幾度も釈尊の命をねらった悪逆の徒である。
 だが、その提婆達多は無量劫の昔、阿私仙人という法華経の持者であった。その時、釈尊は国王であったが、出家して阿私仙人に仕え、法華経を教わったのである。
 さらに釈尊は、会座の大衆に向かって「提婆達多が善知識となって、私は仏になることができ、広く衆生を救うことができたのである。これはみな提婆達多が善知識になってくれたからにほかならない」と説いている。このように、釈尊と提婆達多との関係は、今世だけでなく、過去遠々劫からのものであり、あるときは師となり、あるときは悪人の姿をとって説法を助ける等と、連続しゆくことを明かしているのである。
 本文では、このことを指して「古今能所不二にして法華の真意をあらわす」と述べられ、永遠の生命観に立てば、ある時は師となりある時は弟子となりつつ、妙法を求め、実証していく深い絆に結ばれているとの法理をあらわすものであることを教えられている。
 過去に法華経の持者だった人が、なぜ逆罪を犯し、無間地獄に堕ちたのかというと、一つには、「業因感果の理」を衆生に示さんがためであり、二つには、釈尊の大善をいよいよ盛んにならしめるためである。
 およそ、悪がなければ善を顕すことはできないように、提婆達多の姿をとおして対悪顕善が終われば、悪の全体は即これ善であるから、善悪不二、邪正一如、逆即是順となる。「法華の深意をあらわす」ゆえんである。
 さらに「悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり・愚癡の竜女には智慧の文殊師となり・文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか、日本国の男は提婆がごとく・女は竜女にあひにたり」との仰せは、悪逆の達多は末法の男性を象徴し、愚癡の竜女は末法の女性を象徴しており、この末法の一切衆生を導く師こそ日蓮大聖人であることを教えられている。
 とりわけ、〝悪逆〟に対して〝慈悲〟、〝愚癡〟に対して〝智慧〟が師の特質であるとされていることに留意したい。
 すなわち、悪逆の生命を打ち破って、幸せの人生へと転換していくのは抜苦与楽の慈悲の力であり、愚癡の生命を導いていくのは智慧の力だということである。この大慈悲と大智慧を兼ね備えられているのが御本仏・日蓮大聖人であり、末法の一切衆生は日蓮大聖人を信ずることにより、その慈悲と智慧によって救われるのである。
 まさに、こうした甚深の法理をあらわしているのが提婆達多品であり、悪逆の姿を現じた少輔房によって、この提婆品を含む法華経第五の巻で大聖人が顔を打たれたことには、不思議な因縁があったといわなければならない。

1557:02~1557:15 第三章 勧持品二十行の偈の身読を悦ぶtop

02   次に勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、 誰か出でて日本国・唐土・天
03 竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、 又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加
04 刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、 不軽菩薩は杖木・瓦石
05 と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、 天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は
06 刀杖の二字ともに・あひぬ、 剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日
07 蓮は二度あひぬ、 杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、 うつ杖も第五の巻
08 うたるべしと云う経文も五の巻・ 不思議なる未来記の経文なり、 されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうた
09 れし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあ
10 るならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします。
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 次に、勧持品第十三において、八十万億那由佗の菩薩が異口同音に誓った二十行の偈は、日蓮一人が身で読んだのである。釈尊入滅後、日本国・中国・インドの三国に、二十行の偈を身で読んだ人があるだろうか。また「私が読んだ」と名乗り出られる人はいない。また、あろうとも思われない。
 二十行の偈のうち「及加刀杖」とある「刀杖」の二字のうち、杖をもって打たれた人はあるだろう。しかし、刀をもって切られた人のことは聞かない。不軽菩薩は「杖木瓦石」と経文にあるから杖の難にはあっているが、刀の難にあったとは聞いていない。天台大師・妙楽大師・伝教大師等は安楽行品第十四に「刀杖不加」とあるのだから、これもまた欠けている。日蓮は刀杖の二字ともに身で読んだのである。ことに刀の難は前に言ったように東条の松原と竜の口の法難である。刀の難には一度もあった人もなかったものを日蓮は二度もあったのである。杖の難は少輔房に面を打たれたことであるが、それも法華経第五の巻で打たれたのである。打つ杖も第五の巻、「打たれるであろう」と説かれた経文も第五の巻、不思議な未来予言の経である。
 したがって、日蓮が数十人の中で少輔房に打たれた時の心境は、これも法華経のためとは思ったけれども、まだ凡夫の身であるゆえに、打たれている間、あんまりだと思い、少輔房から杖をも奪い、力があるならば踏み折って捨ててやりたいほどであった。しかし、その杖は法華経の第五の巻であったのである。
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11   いま・をもひ・いでたる事あり、子を思ふ故にや・をやつぎの木の弓をもつて学文せざりし子にをしへたり、然
12 る間・此の子うたてかりしは父・にくかりしは・つぎの木の弓、されども終には修学増進して自身得脱をきわめ・又
13 人を利益する身となり、 立ち還つて見れば・つぎの木をもつて我をうちし故なり、 此の子そとばに此の木をつく
14 り父の供養のためにたててむけりと見へたり、 日蓮も又かくの如くあるべきか、 日蓮仏果をえむに争かせうばう
15 が恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。
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 それにつけて、いま思い出したことがある。昔、ある親が子供のことを思って、学問に励まない子を槻の木の弓で打って訓誡した。この時、その子は父を情けなく思い、槻の木の弓を憎んだが、やがて修学も進み、自分自身も悟りを得て、人を利益するような身となったのである。振り返ってみれば、これは親が槻の木の弓で自分を打ってくれたからである。この子は、亡き父のために槻の木で率搭婆を作り、供養のために建てたというのである。
 日蓮もまた、このようにあるべきであろうか。日蓮が仏果を得ることができた時には、どうして少輔房の恩を棄てることができようか。まして、法華経第五の巻の御恩の杖を忘れられようか。このように思い続けていると、感涙をおさえることができないのである。

勧持品
 宝塔品での弘教の勧めと提婆品の法華経の功力が明らかにされたのを受けて、一座の菩薩や声聞たちが此土・他土の弘教を誓っているところである。八十万億那由佗の菩薩は二十行の偈を説いて、滅後の悪世において三類の強敵のなかで、弘教していくことを誓っている。
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八十万億那由佗の菩薩
 勧持品で、八十万億那由佗の不退の菩薩が八十万億那由佗の菩薩が仏に末法弘通の告勅を願い、いかなる難をも忍ぶと誓って、20行の偈を述べたものである。
―――
二十行の偈
 法華経勧持品第十三の「唯だ願わくは慮いを為したまわざれ」から「是の如き誓言を発す 仏は自ら我が心を知しめせ」までの二十行の偈文のこと。法華経の虚空会座で八十万億那由他の菩薩が、仏滅後に三類の強敵の大難に耐えて法華経を弘通することを異口同音に誓って述べたもの。
―――
唐土
 中国のこと。日本から中国を呼んだ名称。現在の浙江省を中心に勢力をふるっていた越の地方をさして諸越といっていたのが、しだいに中国全土の呼称となり、唐王朝成立後「唐土」と書き、「もろこし」と読むようになったという。
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及加刀杖
 法華経勧持品第十三の二十行の偈文。「刀杖を加える者有らん」と読む。日蓮大聖人は、この経文どおりに二度の刀難にあわれた。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難と文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難である。三類の強敵のうちの第一・俗衆増上慢が起こす難。
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杖木・瓦石
 不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――
刀杖不加
 「刀杖も加えず」と読む。安楽行品の文。刀や杖で危害を加えられないこと。浅行初信の菩薩が仏滅後、四安楽行を修して得る果報の一つ。煩悩障の中の瞋障を捨てた功徳である。安楽行品には、像法時代の摂受の修行である四安楽行を説いたもの。天台・明楽・伝教は、この像法時の正師である。
―――
未来記
 仏が未来のことを前々に記したもの。予言書、事前の出来事を書き付けた文章。
―――
つぎの木の弓……
 この物語は、三国伝記巻七、延暦寺第十五代座主・延昌の項に出てくる。ただし、三国伝記は室町時代・15世紀前半の成立とされるので、日蓮大聖人御在世当時、延昌が少年時代に学問に励んだ逸話として、いずれかの資料で伝わっていたと思われる。
―――
そとば
 梵語(stūpa)の音写。髪の束・頭部の意。① 仏舎利を安置したり、供養・報恩をしたりするための建造物。インド・中国では土石や塼を積み、日本では木材を組み合わせてつくる。塔。塔婆。そとうば。② 死者の供養のため、墓石の後ろに立てる細長い板。上方左右に五輪塔の形を表す五つの刻みを入れ、表裏に梵字・経文・戒名・没年月日などを記す。板塔婆。そとうば
―――
供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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 ここでは法華経第五の巻に含まれている勧持品の二十行の偈に関し、それを身読したのは、日蓮大聖人ただ御一人であると断言されている。
 そして、小松原の法難、竜の口の法難で、二度も刀の難にあい、また法華経第五の巻で打たれて、杖の難にもあわれたことを述べられている。
 しかも、少輔房に法華経第五の巻で打たれたことを「法華経の御恩の杖」であるとされ、「感涙をさへがたし」とまでいわれている。これは、妙法を我が身に体得し、究竟された、人法一箇の御本仏としての御心境と拝することができよう。
 法華経勧持品第十三には、末法において正法を弘通しようとする者は、種々の苦難に堪えなければならないと説かれている。
 「二十行の偈」とは、勧持品において、八十万億那由佗という多数の菩薩が、釈尊滅後に法華経を流布することを誓って述べた言葉であり、そこに、三種の強敵の出現が明らかに示されている。
 しかし、これらの強敵を忍んで、妙法弘通に生きると誓願を立てた八十万億那由佗のいわゆる迹化の菩薩は、釈尊から末法の弘通を断わられてしまった。したがって、迹化の菩薩は末法弘通のためには出現しないし、この三種の強敵による難にもあわない。
 「二十行の偈は日蓮一人よめり」と仰せのように、末法に妙法を弘めて二十行の偈のとおりの難にあわれているのは、ただ一人、日蓮大聖人のみである。
 そして、その偈文のなかの「及び刀杖を加うる者有らん」の文をとくに挙げられ、〝刀杖〟の二字のうち、〝杖〟で打たれた人はあったかもしれないが、「刀の字にあひたる人をきかず」と、法華経のゆえに刀の難にあったのは大聖人以外にないことを強調されている。
 過去に、二十四文字の法華経を唱えた不軽菩薩が迫害にあう様子を「衆人は或は杖木・瓦石を以て、之れを打擲すれば」とあり、〝杖〟の難にはあったが、〝刀〟による難はなかったことがわかる。
 像法時代に法華経迹門を修行し弘めた天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、安楽行品第十四に「又た怖畏し 刀杖を加えらるる等無く 亦た擯出せらるること無けん」と説かれるとおり、刀杖の難は受けなかったのである。正法時代に触れられていないのは、正法時代は小乗・権大乗流布の時代で、法華経を弘めた人はいないからである。
 これらに対し、法華経のゆえに「刀杖の二字ともに」あわれたのが、ただ一人、日蓮大聖人である。
 しかも「刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり」と、一度ならず二度もあわれたのである。 
 他方、〝杖〟の難が、少輔房に顔を打ちすえられたことである。少輔房が打った杖は法華経第五の巻であり、打たれるであろうと記されている経文もまた第五の巻である。「不思議なる未来記の経文」との仰せは、この法華経の予言の符号の不思議さを言われている。
 もとより、人間の感情として、打たれてうれしいわけはない。打った人間も憎いし、その〝杖〟になったものも憎い。だが、それが法華経の第五の巻である以上、どうすることもできないし、むしろ逆に、大聖人が法華経の行者であることを証し、仏果を感ぜられるのを助けてくれた大恩の経と感謝されているのである。それに関して「いま・をもひ・いでたる事あり」と、天台の座主・延昌にまつわる故事を引用されるのである。
 延昌は子供のころ、父親から、槻の木の弓で打たれて、その怠惰を叱咤された。打たれたそのときは父が恨めしく、槻の木が憎かった。しかし、学問も増進し、境涯も開いて、人々を利益する高僧となった時、この父の恩を身にしみて感じ、父への報恩のために槻の木で率搭婆をつくり、供養したという。
 「日蓮も又かくの如くあるべきか、日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや」と仰せのように、少輔房の打擲は、勧持品を身読させてくれたことにほかならず、この杖の難は大聖人が末法の御本仏であることを証明するものであったがゆえに、大恩であるといわれているのである。
 仏道修行の途上においてはさまざまな苦難が伴う。しかし、それは、自らを大きく成長させてくれようとしているのであると捉えていくべきであろう。
 そして苦難を与えてくる人がいることも、すべて自身の成仏への前進を助けてくれるのだと自覚し、むしろ感謝していくことが、日蓮大聖人の真の門下の生き方といえるのである。

1557:16~1558:05 第四章 地涌の上首・上行の再誕なるを述べるtop

16   又涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、 其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経
17 の五字を弘むべしと見へたり、 しかるに先日蓮一人出来す六万恒沙の菩薩より・ さだめて忠賞をかほるべしと思
18 へば・たのもしき事なり、 とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ
1558
01 給いて過去の父母等をすくわせ給へ。
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 また、従地涌出品第十五は日蓮にとって少し縁のある品である。それは、上行菩薩等が末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘めるであろう、ということが説かれているからである。しかるに、まず日蓮が一人出現していることは、六万恒河沙の地涌の菩薩から、まちがいなくおほめをいただけることだろうと思えば、頼もしいことである。
 ともかくも法華経に身をまかせて信じていきなさい。あなた一人だけが信ずるだけでなく、信心をすすめて、過去の父母等を救っていきなさい。
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02   日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり、
03 相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども 御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・ むかいにまいり候べ
04 し、三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり、 仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり
05 此等は相承の法門なるべし委くは又申すべく候、恐恐謹言。
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 日蓮は生まれたときから今にいたるまで、一日片時も心の安まることはなかった。ただ、この法華経の題目を弘めようと思うばかりであった。
 自他の生死はわからないけれども、あなたの御臨終のさいに、生死の中間には日蓮が必ず迎えに参るであろう。三世の諸仏の成道は、子丑の終わり、寅の時刻の成道である。仏法の住処は・王城の鬼門の方に、インド・中国・日本の三国ともに立つのである。
 これらは相承の法門である。くわしくは、またの時に申し上げよう。恐恐謹言。

涌出品
 妙法蓮華経従地涌出品第十五のこと。この品より本門に入る。この品の前半で迹化・他方の八恒河沙の大菩薩が娑婆世界の弘教を請うたけれども、釈尊は許されない。そして迹門の大地を破って上行など四菩薩を上首とした本眷属、六万恒河沙の菩薩が出現するのである。これをみて、弥勒等の迹化の菩薩は、仏がいつ、これほどの大菩薩を教化したのであろうかと疑いを起こし、また「父少く、子老ゆ」の喩えを説いて「願わくは今為に解脱したまえ」と請うて、寿量品の説法にはいるのである。
―――
六万恒沙の菩薩
 「恒沙」とは、ガンジス川の砂粒のこと。無量無数を表す。湧出品で出現した地涌の菩薩の数で、その一人一人にさらに六万恒河沙の眷属があるとされる。
―――
生死の中間
 生から死へ、死から生へ移る瞬間。
―――
三世の諸仏
 過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
―――
ねうし
 子の刻は午前零時ごろ、丑の刻は午前2時ごろで、子丑の刻とは午前1時ごろをさす。
―――
とらのきざみ
 現在の午前4時ごろをいう。古来、丑寅の時刻は一日のうちで夜から昼に向かう中間の意味をもつとされる。日寛上人の開目抄愚記には「丑寅の時とは陰の終り、陽の始め、即ちこれ陰陽の中間なり。またこれ死の終り生の始め、即ちこれ生死の中間なり」と述べられている。
―――
鬼門
 鬼の出入りする門のことで、家または建物の東北。古来この方向を忌み嫌う中国の俗説があり、陰陽家の説となっている。仏法ではこの方向に寺院を立てて。鬼除けとした。比叡山は京都の鬼門にあり、王城守護の寺院との意がある。
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 法華経第五の巻のうち、安楽行品第十四は像法時の修行を説いたものなので略され、次に従地涌出品第十五について述べられる。日蓮大聖人御自身が本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であり、内証では末法の御本仏としての強い確信を述べられ、「とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ」と、一層の強盛な信心をうながされている。
 涌出品は釈尊滅後の末法に妙法を流布する付嘱を受けるために、本化の菩薩が地より涌き出でたことが記されている品である。
 付嘱そのものが行われるのは神力品第二十一においてであるが、地涌の菩薩出現のありさまが説かれているのがこの涌出品なので「又涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり」といわれているのである。
 「先日蓮一人出来す」と仰せのように、この南無妙法蓮華経を初めて唱え、弘通を開始されたのが日蓮大聖人である。大聖人御出現以前には、天台大師などが南無妙法蓮華経を唱えたが、ただ自行のためだけで、化他にはわたらなかった。地涌の菩薩は妙法の弘通を託されたのであるから、自行のみの天台大師などは、この地涌の菩薩に当らないことが明らかである。
 ゆえに「先日蓮一人出来す」また「日蓮さきがけしたり」(0910-18)といわれるのであり、このように一人先陣を切って妙法弘通の道を開かれた大聖人に対し、妙法広布の使命を担った六万恒河沙の地涌の菩薩は、必ず讃め称えるであろうといわれている。
 忠賞とは忠義なる人を賞めることで、身分の上の人が、下の人を賞する意である。大聖人は御自身を凡夫とする立場から、地涌の菩薩を上として「忠賞をかほるべし」と表現されたのである。もとより、これは御謙遜されての表現で、事実は日蓮大聖人こそ上首・上行菩薩であり、その御内証は久遠元初の自受用報身如来であられることはいうまでもない。そして、上下という意味合いを別にして「六万恒沙の菩薩より・さだめて忠賞をかほるべし」とは、将来、大聖人に続いて地涌の菩薩の眷属の自覚に立つ無数の人々から、御本仏として尊崇されるであろうとの意と拝すべきであろう。
とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ云云
 以上のように、少輔房が大聖人のお顔を打った法華経第五の巻の品々が、大聖人にとって深い意味をもっていることを示され、御自身が法華経を身読されたことを述べられたうえで、南条時光に対しても、法華経の信仰に生きぬくよう勧められている。
 「とにかくに」とは〝いずれにせよ〟との意であるが、さらにいえば〝どんなことがあっても〟との意味をこめられていると拝せられる。信心の究極は、法華経に身をまかせ信じていくことに尽きるのである。「身をまかせ」とは色読・身読しきっていくことであり「信ぜさせ給へ」とは、心法の面である。色心にわたって、法華経の妙法を実践しぬいていきなさい、との仰せである。
 末法において「法華経」とは、三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。我が人生の究極の依処を御本尊に置き、日々の勤行、広布のための実践に徹することである。
 「法華経に身をまかせ」た人生ほど、強く、偉大なものはない。南無妙法蓮華経という宇宙大の法理と力のうえに、我が人生をおいていくことになるからである。
 そして「殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ」といわれ、信心はただ自分一人にとどめるのではなく、あらゆる人々に妙法を教えて成仏させていくよう、自行と化他にわたる実践を勧められているのである。「過去の父母等」とは、この世に生を受けたすべての人々は、過去をたどれば、父や母、兄弟姉妹であったという考え方から仰せられている。
日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
 日蓮大聖人の御一生は、妙法弘通への不惜身命の精進と苦難との戦いの連続であられた。
 立宗以前の御幼少の時代や御修学の間も、いかにして人々の苦悩を解決するかという求法の苦闘で貫かれていたのである。妙法を覚知なされてからは、それを人々に伝え、目覚めさせようとする弘法の戦いと、そのために起こった法難の連続であった。
 今、我々が御本尊に巡りあい、その大功徳に浴していけるのも、こうした「一日片時も・こころやすき事はなし」という、大聖人の血のにじむような戦いがあったればこそであることを、深く肝に命じていかなければならない。
 それとともに、大聖人の弟子門下の一分として「法華経の題目を弘めん」がため、いかなる境遇にあっても、地涌の菩薩の眷属としての使命、誇りは片時も忘れてはならないし、また常にその思いを新たにすべきであろう。
相かまへて相かまへて……日蓮かならず・むかいにまいり候べし
 日蓮大聖人の御本仏としての御境界と大慈大悲の精神が躍如としている。「自他の生死はしらねども」とは、一往、示同凡夫の立場から、自分についても他人についても、いつ死ぬかはわからないということである。しかし、それがいつのことであれ、臨終の時、生から死に移る瞬間には「日蓮かならず・むかいにまいり候べし」と仰せである。この御言葉には信心をまっとうした人を救わずにはおかないとの、限りない慈悲と、まちがいなく成仏の境界へ導くことができる御本仏であるとの大確信が拝せられる。
三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり、仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし
 臨終の時、生死の移り変わる瞬間にこそ仏力があらわれるということを更に明確にされるのである。諸仏の成道する時刻は、「ねうしのをわり・とらのきざみ」いわゆる丑寅の時刻とされている。
 丑の刻は陰の終わり・死の終わり、寅の刻は陽の始まり、生の始まりを意味し、丑寅は陰陽生死の中間なのである。
 釈尊の菩提樹下における成道も、日蓮大聖人が竜の口で発迹顕本されたのも、この時刻であった。
 最も闇が深いといわれるこの時刻に諸仏は成道する――このことを敷衍していえば、最も苦悩に満ちた時にこそ、仏法の力が顕著にあらわれるということであり、そこで信心第一に取り組んでいくならば、宿業の転換があり、自身の境涯の深化がなされるのである。
 次に仏法の住処について「鬼門の方に三国ともにたつなり」といわれている。
 鬼門とは、万鬼が出入する門のことで、家または城郭の東北の隅をいう。
 古来、この方向を忌みきらう中国の俗説から出たもので、この考え方は日本でも広く流布し、鬼門の方位を避けることが、風俗・習慣として定着していたようである。例えばこの方位に、かまどや井戸を作ることを避けたりした。
 また鬼門除といって、鎮護のため、災難を避けるために、鬼門の方角に神仏を祀るようになったのもその習わしによる。
 仏法の住処が鬼門の方であり、インド・中国・日本の三国ともに、その方位に仏法の住処が置かれていることについて、天台名目類聚抄第一末に「天竺の霊鷲山は王舎城の丑寅なり、震旦の天台山は漢陽宮の丑寅なり、日本の比叡山は平安城の丑寅なり、共に鎮護国家の道場」と述べられている。
 このように、仏法において、その住処を鬼門の方向に置いたことは、こうした世間に流布した鬼門の思想を一往ふまえたうえで、世間で不幸の侵入してくる方向とされている鬼門を固める役目を、仏法が担っていくことを示したものと考えられる。
 つまり、仏法が政治・経済等の世間の力ではどうすることもできない悪い根を断ち、本源的な社会の救済をし、人々の安穏を守りゆくことを、形のうえに示したのが、鬼門の方に仏法の住処を定めた本来の意味である。「此等は相承の法門」といわれ、師から弟子へ伝授された仏法の奥義であるとして、本抄を結ばれている。

1558:06~1558:10 第五章 重ねて信心の根本的姿勢を示すtop

06   かつへて食をねがひ・ 渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・ 病にくすりをたのむがごと
07   く、 みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後
08   悔あるべし、云云。
09       弘安二年己卯卯月二十日                 日蓮花押
10     上野殿御返事
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 飢えた時に食べ物を求め、のどが渇いた時に水を欲しがるように、恋しい人を見たいように、病気になって薬を頼りにするように、美しい人が紅や白粉をつけるのと同じように、法華経に信心をしていきなさい。そうでなければ後悔するであろう。
  弘安二年己卯卯月二十日        日 蓮  花 押
   上野殿御返事

 時光の成長を心から願われる日蓮大聖人が、信心の根本的な姿勢について、繰り返し御教示された追申である。
 「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく」との仰せは、自然な生命の発露として素直な信仰心を起こしていくことの大切さを教えられていると拝せられよう。
 法華経の信心は、人から強制されてするものではなく、押さえようとして押さえきれない求道心によるものでなければならない、ということでもある。
 生命の奥底から自然に出てくる純真な信心が、一切の出発点なのである。
 この御文をもう一つの面から考えてみると、我々は、ある意味では飢えている存在であり、渇している生命である。つまり幸福を求めて生きている存在であるといえる。
 ここには物質的な不足、精神的な悩み、肉体上の苦しみと、だれもが人生の途上にあって経験する代表的な不幸が、例として挙げられている。
 そうした不幸な人々を救うのが宗教の役割でもある。経済的な悩み、肉体上の苦しみ、精神的な不幸をなおざりにして、いくら高尚な理論を唱えても、所詮、それは観念の遊戯でしかない。
 それらの悩みと対決し、その解決をもたらしてこそ、宗教本来の使命を果たすことになる。世間の一部に、それを現世利益といってけなす向きがあるが、それこそ力なき宗教の遁辞であり、宗教から生の躍動を抹殺する考え方にほかならない。
 力ある真の宗教は現実逃避ではなく、現実に挑戦して、切り開いていくものである。
 次の「みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ」との仰せは、自己を向上させていこうとする欲求が信仰の原動力でもあるということと拝せられる。
 つまり、先に挙げられた例は不幸、悩みから解放を求める心であったのに対して、これは、よりよい自己実現、向上を求める人間の必然の姿勢として説かれている。
 これは信仰の姿勢として考えるとき、力のない子供が親にすがるような姿勢が前者であり、大人として一人立ちする姿勢が後者であるといえる。
 不幸と取り組み、解決をめざすのが宗教であるとともに、人間としての完成をめざし、立派な社会人として、よりよい人生を切り開いていくのに不可欠なものが宗教であるといえよう。
 「さなくしては後悔あるべし」とあるように、こうした自らの生命の発露としての信仰実践が肝要であり、そこにこそ仏力、法力が厳然とあらわれてくるのである。

1555~1558    上野殿御返事(刀杖難事)2012:12月号大白蓮華より。先生の講義top
嵐を越えて! 三世に薫る師弟共戦の誉れ
 恩師・戸田先生が粛然と、また誇り高く宣言されたことがあります。
 牧口先生とは、お会いして以来、自分にとって、親とも、師とも、師従ともつかぬ仲でした。私は、4回の先生の難にお供いたしました、と。
 すなわち、1回目は校長をされていた西町尋常小学校からの左遷、2回目は次の三笠尋常小学校での排斥の陰謀、3回目は白金尋常小学校の校長として退職を余儀なくされたこと、そして4回目は、戦時中、創価教育学会の会長として、軍部政府の弾圧を受けての投獄。このすべての難に際して、不二の弟子として戸田先生は師匠のお供をされました。まさに「師弟共戦」の大闘争を重ねられたのです。
 先生が、この話をされたのは、1950年(昭和25年)11月、牧口先生の七回忌法要の席のことでした。学会の理事長を辞任されるという最大の苦難の渦中でありました。
 しかも、同じ日に行われた学会の総会で、戸田先生は、怒濤の嵐を突き抜けたように、広宣流布は仏意仏勅であると断言されました。さらに「たとえいかなる大難にあおうともひとたび題目を唱えたならば、水をのみ、草の根をかみ、そのために死ぬ日があとうとも、命あらんかぎり、諸君とともどもに、広宣流布をめざして邁進いたしたい。これこそ、わたくしの唯一無二の願いであります」と師子吼して挨拶を結ばれたのです。
どこまでも師と共に
 あらゆる大難は覚悟の上で、何があろうが、広宣流布の大難は微動だにしない。
 その厳然たる師の姿に接し、私は勇気百倍でした。若き日の戸田先生が牧口先生と行動を共にし、お守り申し上げたように、私もまた断じて戸田先生を護るのだ、との決意がふつふつと込み上げました。
 その晩の日記には「吾人の、師につく決意弥々堅し」と書き留めてあります。
 どこまでも師とともに戦い、師とともに大難を越えて広布の大道を歩む。この「師弟共戦」こそ、日蓮仏法の実践の真髄です。
 「師弟共戦」の道を歩むためには、弟子は何よりもまず、師の戦いを知らなければならない。師は何のために戦ったのか。いかにして戦ったのか。いかにして勝利したのか。その闘魂と行動と智慧を、自らの苦闘の中で、生命に刻むことです。そして、弟子が現実のうえで、断固として戦い勝つことです。
 今月は、日蓮大聖人が青年・南条時光に御自身は大闘争の意義を教えられた「上野殿御返事」を共々に拝したい。

01   抑日蓮・ 種種の大難の中には竜口の頚の座と・東条の難にはすぎず、 其の故は諸難の中には命をすつる程の
02 大難はなきなり、 或はのりせめ・或は処をおわれ・無実を云いつけられ・或は面をうたれしなどは・物のかずなら
03 ず、されば色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本国の中には日蓮一人なり、  ただしありとも法華経の故
04 にはあらじ、 さてもさても・ わすれざる事はせうばうが法華経の第五の巻を取りて日蓮がつらをうちし事は三毒
05 より・をこる処のちやうちやくなり。
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 思えば日蓮が受けた種々の大難のなかで、竜の口の頸の座と東条小松原の難ほどの大難はない。そのわけは、諸難の中でも身命を捨てるほどの大難はないからである。あるいは悪口され、あるいは処を追われ、讒言をされ、あるいは面を打ちすえられたことなどは、この二つの大難に比べれば物の数ではない。したがって、色法と心法との二法から謗られた者は、日本国の中では日蓮ただ一人である。たとえ難にあった人がいたとしても法華経の故ではないであろう。
 それにつけても忘れられないことは、竜の口法難の時、松葉ヶ谷の草庵で少輔房が法華経の第五の巻を取り出して、日蓮の面を打ったことである。これは貧瞋癡の三毒から起こった打擲なのである。

緊迫の度を増す熱原の情勢
 日蓮大聖人が本抄を身延の地で認められ、駿河国の富士郡上野郷の地頭である21歳の若き南条時光に送られたのは、弘安2年(1279)4月20日のことです。
 それはまさに、熱原で本格的な法難が起こり始めた時です。
 駿河の地では当時、日興上人を中心とする果敢な弘教によって、滝泉寺などの地域の有力寺院の住僧のほか、熱原の農民たちの中にも法華経の信仰を始める人々が増えました。この富士方面には、鎌倉幕府を支配する北条得宗家の直轄領が多くありました。いわば大聖人を敵視してきた勢力の膝元であり、そこで妙法流布の急速な進展は支配者たちに大きな危機感を抱かせたのです。
 そうしたなか、この4月には、浅間神社の神事の最中に、大聖人門下の「四郎男」が襲われるという傷害事件が起こりました。詳細はわかりませんが、信仰ゆえに狙われたことは間違いないでしょう。
 本抄では、冒頭から大聖人御自身が堪え忍ばれた「種種の大難」に言及されています。大聖人のもとへ緊迫した現状の報告が届いていたゆえであると推察されます。その「種種の大難」の中でも「命をすつる程の大難」として挙げられたのが、次の二つの難です。
 一つは「竜の口の頸の座」文永8年9月12日、鎌倉幕府の権力者である平左衛門尉の軍勢が大聖人を逮捕し、竜の口で斬首しようとした法難です。
 もう一つは、文永元年(1264)11月11日、安房国の「東条の松原」で、地頭・東条景信一派の襲撃を受けて、弟子の一人は討ち死にし、大聖人も腕を折られ、額に刀傷を負った難です。
 いずれも「刀の難」であり、身近で刃傷沙汰の迫害に遭遇した時光にとって、いつにも増して深く胸に迫ったものであったはずです。
 これまで、経文に照らして、法華経の行者に難が起こることは何度も教えられました。時光自身も、周囲の圧迫や批判をはね返しています。しかし今度は、わが命に及ぶ事態も現実に起こり得るようになったのです。
 門下たちの緊張感が高まる中で大聖人は、御自身が受けられた大難の意味を記され、弟子ならば、師と同じく厳然と大難を乗り越えていくよう綴られているのです。
 大聖人は、命にも及ぶ大難に比べれば、その他の難。悪口罵詈され、住む所を追われ、讒言をされ、頭を打たれるなどは、「物のかずならず」、すなわち、小さいことだと言われます。そして、「色法」面と「心法」面の両方からの迫害を受けたのは、日本国の中で「日蓮一人」であると断言なさっています。
 法華経の故に、これだけの大難を受けてきたのは、私一人しかいないではないか。私は、大難また大難の怒濤を、厳然と勝ち抜いてきたのだ。何ものにも揺るがぬ師子王の戦う魂を拝し、時光の胸中に勇気が涌き上がってきたに違いありません。
「逆縁の功徳」
 大聖人は、決して忘れてはならないこととして、竜の口法難の折に、武装した兵士が大聖人を捕縛しようと松葉ケ谷の草庵に押し入った時の様子を挙げられています。
 この時、平左衛門尉の手下の「少輔房」という男が走り寄って、大聖人が懐中に入れられていた巻物「法華経第五の巻」を奪い取り、それで大聖人のお顔を3度にわたって打ち据えました。大聖人は、この「第五の巻」で打擲されたことを、法華経の経文に言う「杖の難」と捉えられているのです。
 ここで、インドの嫉妬の女性の説話を通して、「逆縁の功徳」の原理を示されています。そして「法華経と日蓮とを・にくむ」ゆえに、「法華経の第五の巻」で大聖人を打ち据えた少輔房の場合は無間地獄に堕ちることは避けようがない。しかし、「逆縁の功徳」によって、不軽菩薩を迫害した上慢の四衆のように、最後は仏果を得たと断言されているのです。
 法華経には、不軽菩薩を迫害した増上慢の人々は、その謗法による堕地獄の罪を終えた後に、再び不軽菩薩に巡り合って救われたと説かれています。三世変わらぬ生命の因果律です。そうであるならば、かの迫害者の少輔房も、結局再び大聖人に巡り合って妙法を信受し成仏するであろうと教えられています。このことは、大聖人が不軽の如く仏果を得たことは間違いないとの御確信です。

04   夫れ第五の巻は一経第一の肝心なり・竜女が即身成仏あきらかなり、提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身
05 の成仏をあらはす、 一代に分絶たる法門なり、 さてこそ伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたる事を十あ
06 つめ給いたる中に・ 即身成仏化導勝とは此の事なり、 此の法門は天台宗の最要にして即身成仏義と申して文句の
07 義科なり、 真言・天台の両宗の相論なり、竜女が成仏も法華経の功力なり、 文殊師利菩薩は唯常宣説妙法華経と
08 こそかたらせ給へ、唯常の二字は八字の中の肝要なり、 菩提心論の唯真言法中の唯の字と・今の唯の字と・いづれ
09 を本とすべきや、彼の唯の字はをそらくはあやまりなり、 無量義経に云く「四十余年未だ真実を顕さず」、 法華
10 経に云く 「世尊の法は久くして後に要当に真実を説きたもうべし」、 多宝仏は皆是真実とて法華経にかぎりて即
11 身成仏ありとさだめ給へり、 爾前経にいかように成仏ありともとけ・権宗の人人・無量にいひくるふとも・ただほ
12 うろく千につち一つなるべし、法華折伏・破権門理とはこれなり、尤もいみじく秘奥なる法門なり。
-----―
 さて法華経第五の巻は一経第一の肝心である。ここには竜女の即身成仏が明らかに説かれている。提婆達多は心の成仏をあらわし、竜女は身の成仏をあらわしている。このような深遠法門は、一代経において他にみないものである。
 だからこそ、伝教大師は法華秀句の中で法華経が一切経に超過して勝れていること十箇条挙げられたが、そのなかで即身成仏化導勝といわれているのがこのことである。この法門は天台宗における最も肝要なもので、即身成仏義といって法華文句第八の巻の義科の一つである。
 これについては、真言・天台の二宗の間に争論があるが、竜女が成仏も法華経の功力であって、文殊師利菩薩が竜女を教化するのに「唯常に妙法華経を宣説す」と語られている。「唯常」の二字はこの八字の中の肝要である。菩提心論の「唯、真言法の中のみ」の「唯」のと法華経の「唯」のいずれを根本とすべきであろうか。菩提心論の「唯」の字は恐らく誤りである。
 無量義経には「四十余年には未だ真実を顕さず」、法華経方便品第二には「世尊は法久くして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と説かれ、見宝塔品第十一で多宝仏は「皆是れ真実なり」と、即身成仏は法華経に限ることが定められている。爾前経にどのように成仏があると説かれていようと、また権宗の人々がどのように言い狂ったとしても、要するに千の焙烙も一つの槌に及ばないのと同じである。「法華は折伏にして権門の理を破す」とはこのことである。最も大事な秘奥な法門である。
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13   又天台の学者・慈覚よりこのかた玄.文・止の三大部の文をとかく・れうけんし義理をかまうとも.去年のこよみ
14 昨日の食のごとし・けうの用にならず、 末法の始の五百年に法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は・仏説な
15 りとも用ゆべからず、 何に況や人師の義をや、 爰に日蓮思ふやう提婆品を案ずるに 提婆は釈迦如来の昔の師な
16 り、 昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、 古今能所不二にして法華の深意をあらわす、されば悪
17 逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり・ 愚癡の竜女には智慧の文殊師となり・文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉る
18 べからざるか、日本国の男は提婆がごとく・女は竜女にあひにたり、 逆順ともに成仏を期すべきなり・是れ提婆品
1557
01 の意なり。
-----―
 また天台宗においても、慈覚以降の学者が、玄義・文句・止観の三大部の文について、あれこれと解釈したり、勝手な意味づけをしてみたところで、それはちょうど去年の暦や昨日の食べ物のようなもので、きょうの役には立たないのである。
 末法の始めの五百年に法華経の題目を離れて成仏があるという人は、それが仏説であったとしても用いてはならない。まして人師の義などなおさらである。
 そこで日蓮が考えるのに、提婆達多品第十二をみると、提婆達多は釈尊の昔の師である。昔の師は今の弟子であり、今の弟子は昔の師である。これは、昔と今、師と弟子は一体不二であるという法華経の深意をあらわいているのである。
 それゆえ、悪逆の提婆達多には慈悲の釈迦如来が師となり、愚癡の竜女には智慧の文殊が師となっているのである。この日蓮は文殊・釈迦如来にも劣ることはないであろう。日本国の男は提婆達多のようであり、女は竜女に似ている。法華経の行者に順う者も、背く者も、順逆ともに成仏を期しえるというのが提婆達多品第十二の意なのである。

青年への本格的な鍛錬
 ここでは、少輔房が大聖人を打ち据えた「法華経第五の巻」は、法華経8巻のなかでも、極めて重要な巻と強調されています。「第五の巻」には、提婆品第12から涌出品第15までの4品が収められています。この「第五の巻」は、即身成仏の現証、滅後弘通の大難、妙法五字を弘める地涌の菩薩の出現等、末法弘通の方軌を示す「不思議な未来記」なのです。
 法華経ゆえの大難は、この「第五の巻」の身読となるのであり、「仏果を得る」道である。ゆえに法華経に身を任せて、法華経を信じ抜き、法華経の題目を弘めていくのだ。これから起こりうる大難を乗り越えるためにこそ、時光に信仰の精髄を教えておきたい、真実の地涌の使命に生き抜き、三世にわたって師弟共戦の誓願の道を貫き通してほしい、との御真情が伝わってきます。
 この師匠の期待に応え、時光は熱原の法難の中で門下を護り、正義の旗を掲げ抜きました。後に、この若き後継の友を大聖人は「上野賢人」と賞讃されます。
 本物の信仰を教えたい、師匠と共に大願に生きる人生の価値を教えたい、との青年への限りない期待と鍛錬とも拝されます。そして、それに応える青年門下への請願と奮闘。この師弟の中にこそ、広宣流布の脈動があるのです。
提婆品の即身成仏と悪人成仏
 提婆達多品第12では、最重要の法理として、竜女の即身成仏が明かされるとともに、悪逆の提婆達多の成仏。悪人成仏もとかれています。
 提婆達多は、悪逆の限りを尽くした「悪心」の代表です。身は生きながら地獄に堕ちたと伝えらえられますが、法華経では未来世に天王如来になると明かされます。本抄でこの成仏は「心の成仏」を表すと仰せなのです。
 また、竜女は、爾前諸経で不成仏とされてきた女人の身で、しかも「竜」という畜身でした。その身のままで即身成仏したゆえに、「身の成仏」を表すと言われています。
 この法華経の「心の成仏」「身の成仏」の法理は、どのような困難を抱えていても、生命の根本の次元から言えば、誰人も、必ず最高の幸福境涯を勝ち開いていく権利があり、底力があることを示していると言えましょう。
 さらに大聖人は、法華経にのみ即身成仏の義があることを示し、真言宗などが根拠もなく即身成仏を説く誤りを破折されています。
 「ほうろく千につち一つなるべし」素焼きの土鍋が千個あったとしても、槌一つですべてが砕かれてしまう。それほど法華経の即身成仏の法理は、唯一の真理であり、あらゆる方便の教えを打ち破るのです。それゆえに、「法華折伏・破権門理」というのです。
 ともあれ、「悪逆の提婆達多」には「慈悲の釈迦如来」が師となり、「愚癡の竜女」には「智慧の文殊」が師となる。そして「文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか」です。真の仏法に無知で、正法に逆らい背く人々にとっては、「万人の成仏の法」である法華経を忍難弘通される大聖人が「智慧の文殊」や「慈悲の釈迦仏」と変わらないと仰せです。敵対する者や無理解の者も、すべて仏縁を結んでいるのです。「逆縁も順縁も、ともに成仏することができる」
 ここに、法華経の、そして日蓮仏法の偉大な力があります。
「対立と分断」を「協調と調和」へ
 もう一点、「逆縁の功徳」に関して付け加えると、法華経においては、固定的な不変の「敵」などという実体ではなく、その関係は、あくまでも法華経への「信」と「謗」という行いによるのです。
 人類史を俯瞰すれば、一方を味方、他方を敵と決めつけて、敵を抹殺する。そうした陰惨な対立と分段が、あまりにも繰り返されてきたのではないでしょうか。21世紀の今日においても、民俗紛争や宗教に名を借りた政治紛争などの悲劇が続いています。
 人間は、一度固定観念をもってしまうと、どうしてもそれに囚われてしまう。だからこそ、まず、自分の「心の壁」を破り、同じ人間、同じ生命という共通の基盤に立ち返ることです。誠実な行動と納得の対話で、ともに平和で幸福な社会の建設という理想を共有していくことです。
 「生命尊厳」「人間尊厳」という永遠にして普遍的な価値基準に基づき、それぞれの文化・伝統を生かしながら、共生・共存の道を探る以外に、人類の調和と繁栄はありえません。
 その転換への鍵を握るのが、この御文に示されている「智慧」と「慈悲」です。
 法華経は、その真実と実践を、最も劇的に教え示しているのです。
 仏を迫害した敵である悪逆の提婆達多が、実は釈迦如来の「昔の師」であり、未来に成仏する。そして、8歳の幼い畜身の少女が、その身のままで即座に最高の悟りを得る。
 このようなダイナミックな価値転換にも、法華経の真髄があると、私は確信してやみません。

02   次に勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、 誰か出でて日本国・唐土・天
03 竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、 又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加
04 刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、 不軽菩薩は杖木・瓦石
05 と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、 天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は
06 刀杖の二字ともに・あひぬ、 剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日
07 蓮は二度あひぬ、 杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、 うつ杖も第五の巻
08 うたるべしと云う経文も五の巻・ 不思議なる未来記の経文なり、
-----―
 次に、勧持品第十三において、八十万億那由佗の菩薩が異口同音に誓った二十行の偈は、日蓮一人が読んだのである。釈尊入滅後、日本国・中国・インドの三国に、二十行の偈を身で読んだ人があるだろうか。また「私が読んだ」と名乗り出られる人はいない。また、あろうとも思わない。
 二十行の偈のうち「加刀・刀杖」とある「刀杖」の二字のうち、杖をもって打たれた人はあるだろう。しかし、刀をもって切られた人のことは聞かない。不軽菩薩は「杖木・瓦石」と経文にあるから杖の難にはあっているが、刀の難にはあったとは聞いていない。天台大師・妙楽大師・伝教大師等は、安楽行品に「刀杖不加」あるのだから、これもまた欠けている。日蓮は刀杖の二字ともに身で読んだのである。ことに刀の難は前にもいったように、東条の松原と竜の口の法難である。刀の難には、一度もあった人もいないのに、日蓮は二度もあったのである。杖の難は少輔房に面を打たれたことであるが、それも法華経の第五の巻で打たれたのである。打つ杖も第五の巻、「打たれるであろう」と説かれた経文も第五の巻、不思議な未来予言の経である。

勧持品の「刀杖の難」を身読
 ここは、本抄が「刀杖難事」という別名で呼ばれる由来となっている御文です。
 勧持品第13の最後に、八十万億那由陀という無数の菩薩たちが、釈尊の滅後、いかなる大難にも屈することも退くこともなく、法華経に弘通していることを誓います。この不退転の決意を述べた「二十行の偈」の中で示されるのが、法華経の行者を迫害する「三類の強敵」の出現です。
 では、実際に、この「三類の強敵」を呼び起こし、我が身に難を受けたのは誰か。そうであってこそ、初めて「身で読んだ」と言う資格がある。仏の滅後に、インド・中国・日本の三国において、“自分は確かに身で読んだ”と言える人物がいるのか。御文には厳然と仰せです。「日蓮一人よめり」と。
 この法華経身読の実証として、大聖人は、俗衆増上慢の迫害を明かした経文に見える「及加刀杖」のうち「刀杖」の二字を挙げられます。大聖人は、幾多の迫害を受けた不軽菩薩でさえ、経文には「杖木・瓦石」とのみあって、「刀の難」には当たらないと指摘されます。これに対して、「日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ」と仰せです。すなわち「刀の難」は、本抄の冒頭で述べられた、小松原の法難と竜の口法難です。さらに少輔房に法華経の「第五の巻」で顔を打たれたことが「杖の難」に当たります。
 続く御文では、草庵に押し入ってきた武装の者数十人に囲まれた中で、少輔房から打たれた時の御心境が綴られています。「打たれたことは、これも法華経のためと思ったけれども、まだ凡夫の身であるゆえに、打たれている間は、少輔房が握る杖をも奪い、力があるならば踏み折って捨ててやりたいくらいであった。しかし、その杖は第五の巻であった」
 理不尽な仕打ちを受ければ、誰でも腹が立つのは自然な感情です。それが、ありのままの凡夫でしょう。また、今日的な言い方をすれば、人権を脅かす暴力に対し、正義の怒りを燃やすのは、当然です。
 しかし、大聖人は、その怒りを忍辱の鎧で勘忍し、どこまでも堂々と振る舞い、毅然と御自身の正義を語られました。暴力や憎悪、復讐心などは微塵もありませんでした。
 さらに、私たちにとって、長い目で見るならば、降りかかる苦難には、自身を鍛え成長させる働きがある。どんなに苦しくとも、苦難に負けなければ、後で全部、生きてくる。仏法には絶対に無駄はないのです。
 それを分かりやすく教えるため、若い時光のために、「槻の木の弓」の故事を引かれます。ある人は、幼少の頃、親から「槻の木の弓」で打たれ、勉強に集中するように教えられた。その時は憎々しかったが、学問に大成した後になって、自分を「槻の木」で打った親に感謝したというのです。
 この故事を通して、大聖人は「日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし」と、迫害者の少輔房にも、そして「杖の難」にも、感謝を表されています。
 戸田先生は、御自身の小説『人間革命』の中で、戦時中の宗教弾圧で投獄された主人公の巌さんが、看守から4度にわたって殴打されて、自身の過去の宿業の罪が終わったことを確信する画面を描かれました。
 苦難の宿命転換の原動力にできるのが、法華経の甚深の法理です。

16   又涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、 其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経
17 の五字を弘むべしと見へたり、 しかるに先日蓮一人出来す六万恒沙の菩薩より・ さだめて忠賞をかほるべしと思
18 へば・たのもしき事なり、 とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ
1558
01 給いて過去の父母等をすくわせ給へ
-----―
 また従地涌出品第十五は日蓮にとって、少し縁のある品である。それは上行菩薩等が末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘めるであろう、ということが説かれているからである。しかるに、まず日蓮一人出現していることは、六万恒沙の地涌の菩薩から、まちがいなくほめていただけることだろうと思えば、頼もしいことである。
 ともかくも法華経に身をまかせて信じていきなさい。あなた一人だけが信ずるだけでなく、信心をすすめて、過去の父母等を救っていきなさい。
-----―
02   日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり、
03 相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども 御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・ むかいにまいり候べ
04 し、
-----―
 日蓮は生まれたときから今にいたるまで、一日片時も心のやすまることはなかった。ただこの法華経の題目を弘めようと思うばかりであった。
 自他の生死はわからないけれども、あなたの御臨終のさいに、生死の中間には必ず日蓮が迎えに参るであろう。

涌出品の地涌の菩薩の実践
 涌出品第十五において、忽然と大地を破って出現した不思議な地涌の菩薩たちは、いったい、いかなる使命をもった存在なのか。
 「法華経の行者」である大聖人は、また同時に地涌の菩薩、なかんずく六万恒河沙という無数の菩薩たちの先頭に立つ、上首「上行菩薩」であることが示唆されます。
 それは、時光に対して、“あなたの師匠は、経文に照らせば、末法のために戦いを起こした上行菩薩であり、六万恒河沙の地涌の菩薩から必ず賞讃されるのだ。これほど頼もしいことはないではないか”と教えられていると拝されます。
 その意味で、「何があっても、法華経に身を任せて信じていきなさい」との、本抄の結論ともいえる一節は、どこまでも根本の師匠・大聖人と共に生き抜くこと、戦い抜くことを勧めています。師と共に、自分の信心を常に前へ進めていけるのです。
 そして、この信心を貫き通すことは、自分一人だけでなく、過去世の父母となった人たちなどを救っていくこと、すなわち、この人生で巡り合う無数の縁ある人々を救っていくことになるのであると教えられています。
 さらに「いまに一日片時も・こころやすき事はなし」と、間断なき連続闘争を振り返られています。同様の御心情は、諸御抄の中で、繰り返し綴られています。
 時光も、法華経のゆえに、南条一族の中でも、悪口を言われ、批判されました。しかし、今や富士方面の日蓮門下の中心者の一人として、立派に育っていました。
 その時光に対して、大聖人は御自身がどれほどの思いで戦われてきたのか、大難に次ぐ大難の人生を生き抜かれてきたのか、更に一重深く教えられていくのです。
師弟の遠征は三世永遠の旅路
 御文には、「自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし」と仰せです。
 時光にとって、すでに刃傷沙汰の起きている法難の中で戦うことは、死をも覚悟しなければならなかったことでしょう。実際、5ヵ月後には熱原の20人の農民信徒が逮捕され、鎌倉に連行され、遂には3人が処刑される事態にまで進んでいくのです。
 そうした状況にあって、何が起ころうが、師匠が自分の戦いを見守ってくださっている。生死を超えて、師弟は離れることなく、一緒にいるのだ。師の広大な慈愛に、どれほど時光は心強く感じたことでしょうか。師弟共戦の遠征は、まさしく三世永遠の旅路です。
 何ものも断ち切ることのできない生命の絆で結ばれ、永遠に勝ち越えていけるのです。
純真な求道心こそ勝利の源泉
 追伸には、「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」とあります。
 法華経如来寿量品第16の自我偈にも、「咸皆く恋慕を懐いて、咸渇仰の心を咸生ず。衆生は既に信伏し、質直にして意は柔難に、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命をおしまざれば」とあります。
 御本尊を信じ、妙法を求める心は、どこまでも強盛にして一筋で、また素直であることです。
 自身の宿命転換を願い、広宣流布の現実を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。最後に勝つ人です。ここに信心の極意があります。
 苦闘の中でこそ、真の人間が鍛え上げられます。
 苦闘の中でこそ、強靭な鋼の意志が育つのです。
 苦闘の中でこそ、人生の真実の涙を知ることができます。
 そして、苦闘の中にこそ、偉大な人間革命があるのです。
創価の青年こそ希望の光
 戸田先生が、牧口先生の「四回の難」を共に戦ったと語られてから1ヵ月余りが過ぎた師走の一夜、私は「大悪をこれば大善きたる」(1300-04)の一節を大確信しながら、「最後の日まで、法刀を振り上げて戦い抜こう」と日記に記しました。
 そして「朝日が今、闇を蹴り、正に昇らんとしているのだ」と綴り、新しい一年の栄光と勝利の夜明けを期していました。それは、恩師・戸田先生の第2代会長就任という、晴れ渡る5月3日に結実したのです。
 今、21世紀の大空を照らして昇りゆく旭日は何か。そのまばゆい希望の暁の光こそ、わが直系の門下である創価の青年です。
 さあ、「青年学会 勝利の年」の開幕へ、私と共に戦おう!三世に師弟共戦の大道を進もう!いかなる嵐をも勝ち越えて!
 この一年間の皆さまの行学の激闘に、深く感謝しつつ。

1559~1559    上野殿御返事(財御書)top
1559:01~1559:07 第一章 供養の品々の尊さを述べるtop

01   鵞目一貫・しほ一たわら・蹲鴟一俵・はじかみ少少・使者をもつて送り給び畢んぬ、あつきには水を財とす・さ
02 むきには火を財とす・けかちには米を財とす、 いくさには兵杖を財とす・海には船を財とす・山には馬をたからと
03 す・武蔵下総に石を財とす、此の山中には・いえのいも・海のしほを財とし候ぞ、竹の子・木の子等候へども・しほ
04 なければそのあぢわひつちのごとし、 又金と申すもの国王も財とし民も財とす、たとへば米のごとし・ 一切衆生
05 のいのちなり。
-----―
 鵞目一貫文、塩一俵、サトイモ一俵、薑少々を使者を立てられて送っていただいた。
 暑い時には水を財とし、寒い時には火を財とする。飢饉には米を財とし、戦いには武器を財とする。海では船を財とし、山では馬を財とする。武蔵や下総では石を財とする。これらと同じように、この身延の山中では芋や海の塩を財とするのである。筍や茸は沢山あっても、塩がなければその味は土をかむようなものである。
 また、金というものは国王も財とし、民も財とする。たとえば、米のようなものである。一切衆生の命である。
-----―
06   ぜに又かくのごとし、漢土に銅山と申す山あり・彼の山よりいでて候ぜになれば・一文もみな三千里の海をわた
07 りて来るものなり、 万人皆たまとおもへり、 此れを法華経にまいらせさせ給う、
-----―
 銭もまた同様である。中国に銅山という山がある。この銅山で産出された銭であるなら、一文の銭もすべて三千里の海をわたって日本に来るのである。万人がこれを珠と思って大事にしている。あなたはこの銭を法華経に供養されたのである。

鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
―――
蹲鴟
 いえの芋。ヤツガシラ、里芋の塊茎のこと。蹲はうずくまる、鴟はトビで、芋の形がトビのうずくまった姿に似ているので、この名があるとの説もある。
―――
はじかみ
 生姜の別称。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。
―――
武蔵
 東京を中心に埼玉・神奈川の一部地域
―――
下総
 現在の千葉県北部および茨城・埼玉の一部を含む地域。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
銅山
 中国・江蘇省揚州の西方にある山で、銅を産する山。
―――――――――
 本抄は、弘安2年(1279)8月8日、聖寿58五歳の時、南条七郎次郎時光に送られた御手紙で、南条時光が御供養の品々をお送り申し上げたことに対する返書である。
 なお、御真筆の所在は明らかではないが、大石寺に日興上人の写本が伝えられている。
 はじめに、南条時光が大聖人に御供養申し上げた品々を挙げられ、それらが、身延の山中でどれほど貴重な財宝であるかを説かれている。
 暑い時には水が財宝であり、逆に寒い時には火が宝となる。また、飢饉の時には、米が何よりの財宝となり、戦争の際には武器が財宝となる。さらに、海では船が、山では馬がそれぞれ宝となり、武蔵や下総の地方では、石が宝となる。
 このように、時や状況や場所により、人間が財宝とするものに異なりのあることを述べられている。この個所の内容をとって、本抄の別名を「財御書」ともいうのであるが、ここで示されているのは、現代的にいえば、「価値」の問題であるといえよう。
 すなわち、〝もの〟の価値は、どこまでも〝もの〟と人間との関係、さらには、人間の置かれた時や状況や場所との関係から決まってくるものであり、その意味で相対的なものであると述べられているのである。さらに言い換えれば、その時、その状況、その場所で、人間が最も必要とし、不可欠とする〝もの〟こそが価値ある財宝ということができる。この観点から「此の山中には・いえのいも・海のしほを財とし候ぞ、竹の子・木の子等候へども・しほなければそのあぢわひつちのごとし」と仰せである。日蓮大聖人のおられる身延の山中では、いえのいも、海の塩が最も貴重な財宝であり、価値あるものであると述べられ、時光の供養の品々が適宣なものであると称賛されている。
 次に「又金と申すもの国王も財とし民も財とす、たとへば米のごとし・一切衆生のいのちなり。ぜに又かくのごとし」と述べられているのは、金銭と米の場合は、時、状況、場所にかかわらず、万人にとって価値ある財宝であるということである。つまり、前述したように、〝もの〟の価値は大方において相対的なものであるが、そのなかでも比較的、普遍的な価値をもつものが、米と金銭であるとの仰せである。とくに、当時、銭は、中国から移入されたものが主に流通し尊ばれていた。そこで、漢土の銅山で産出した貴重な銭を御供養した時光の志をめでられている。

1559:07~1559:12 第二章 法華経の功力を述べ信心を勧めるtop

07                                        釈まなんと申せし人のたな心
08 には石変じて珠となる・ 金ぞく王は沙を金となせり、 法華経は草木を仏となし給う・いわうや心あらん人をや、
09 法華経は焼種の二乗を仏となし給う・いわうや生種の人をや、 法華経は一闡提を仏となし給う・いわうや信ずるも
10 のをや、事事つくしがたく候、又又申すべし、恐恐謹言。
11       八月八日                                 日蓮花押
12     上野殿御返事
-----―
 昔、釈摩男という人は、手にとった石を珠に変え、金粟王は砂を金としたのである。法華経は心のない草木を仏とするのである。まして、心ある人間はなおさらのことである。
 また、法華経は仏となるべき種を焼いたとされている声聞・縁覚の二乗を仏とするのである。まして、生きた種をもつ人はなおさらのことである。法華経は不信の一闡提を仏にするのである。まして、法華経を信ずる者はなおさらのことである。
 そのほか申し上げたいことがあるが、また、後日申し上げよう。恐恐謹言。
  八 月 八 日           日 蓮  花 押
   上野殿御返事

釈まなん
 梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。摩訶那摩等とも書く。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていた。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「善見律に云く、釈摩男は是れ仏の叔父の子なり。(中略)釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。
―――
金ぞく王
 砂を金にかえたといわれるが、この説話の典拠は未詳。北インド健駄羅国に大法塔を建てたとされる金粟王と同一人物であるかどうかは明らかでない。
―――

 まさご。石のきわめて細かいもの。
―――
焼種の二乗
 爾前経では、声聞と縁覚の二乗は焼けてしまった種子が芽を出すことができないと同じように、決して成仏できないことをいう。方等陀羅尼経巻二には文殊師利菩薩が舎利弗を「燋穀種の如く更に芽を生ずるや不や」と弾呵している。
―――
生種
 発芽できる種のこと。焼種・焦種・燋穀種に対する語。爾前経で焦種とされた二乗、一闡提人、女人を除く菩薩・凡夫の仏性を発芽可能な種にたとえた。
―――
一闡提
 梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。正法を信ずる心がなく成仏の機縁をもたない衆生のこと。涅槃経巻二十六には「一闡は信と名づけ、提は不具と名づく、信不具の故に一闡提と名づく」とある。
―――――――――
 上野殿の御供養に関し、前章では御供養の品の尊さを述べられたのに対し、ここでは、御供養した対象である法華経の功力の大きさを述べられている。
 石を宝石に変えた釈摩男や、砂を金に変えた金粟王を譬喩に挙げ、法華経は草木など非情の存在や、成仏の種子を自ら焼いてしまったとされる二乗、さらには、仏法に縁なき一闡提という不信の衆生ですら仏にする功力があるのであるから、草木と異なって心があり、二乗と違って成仏の種子を有し、しかも一闡提と異なって法華経を熱心に信じている時光の成仏は絶対に間違いないと激励されているのである。
草木成仏・二乗作仏・一闡提成仏
 ここに挙げられている草木成仏・二乗作仏・一闡提成仏は、爾前経では絶望的とされたのに対し、法華経でのみ許されたもので、いずれも、法華経の功徳力の絶大さを示すものである。
 草木成仏とは非情成仏ともいい、法華経寿量品で明かされている三妙合論中の本国土妙の法理から導きだされるものである。
 すなわち、この娑婆世界が仏の本来住する本国土であるというこの説法は、非情の国土、草木もそのままで仏国土であり仏性をあらわすということである。これによって有情の真実の成仏が明確になるとともに、衆生の成仏にとって最も大切な大御本尊御図顕の根拠となっているのである。
 「草木成仏口決」に「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く『如来秘密神通之力』云云」(1339-06)とあり、また、「観心本尊抄」に「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(0239-14)と仰せのとおりである。
 このような草木成仏の法理によって、末法の御本仏・日蓮大聖人の御生命が、大御本尊に御図顕されているゆえに、私達凡夫は御本尊に南無し奉るとき、成仏することができるのである。
 次に、二乗作仏であるが、爾前・権教では、二乗は仏性の種子を焼いてしまったような存在であり、永久に成仏できないと弾呵されてきたが、法華経において、二乗も作仏しうることが説かれた。
 最後に一闡提成仏は、法華経の一切衆生皆成仏道の法理を最もよく表すものといえよう。
 一闡提とは、もともと、現世主義、快楽主義をとる外道のことで、仏法に全く縁なき衆生である。仏法を信ずる心すら有せず、そこから、極悪の衆生とも、二乗と同じ焼種の衆生ともいわれたのである。爾前・権教では、当然、一闡提は成仏できないとしていたのであるが、法華経においては、この一闡提すら成仏すると明かされたのである。

1560~1561    上野殿御返事(竜門御書)top
1560:01~1560:05 第一章 成仏の難きを竜門の滝に譬えるtop

01   唐土に竜門と申すたきあり・たかき事十丈・水の下ることがつひやうが・やをいをとすよりもはやし、このたき
02 にををくのふなあつまりて・のぼらむと申す、ふなと申すいをののぼりぬれば・りうとなり候、百に一・千に一・万
03 に一・十年.二十年に一も・のぼる事なし、或ははやきせにかへり・或ははし.たか・とび・ふくろうにくらわれ、或
04 は十丁のたきの左右に漁人ども.つらなりゐて・或はあみをかけ・或はくみとり・或はいてとるものもあり、いをの.
05 りうとなる事かくのごとし。
-----―
 中国に竜門という滝がある。滝の高さは十丈、落ちる水の早さは強い兵が矢を射落とすよりも早い。この滝のもとに多くの鮒が集まって登ろうとする。鮒という魚は滝を登れば竜になるからである。しかし、百に一つ、千に一つ、万に一つ、あるいは十年・二十年に一つも登ることができない。或いは、滝の落ちるのが余りに急なので川の瀬に返され、或いは鷲・鷹・鴟・梟などに食べられ、或は十丁の幅の滝の左右に漁人が並んで、或いは網をかけたり、すくいとったり、或いは射てとったりするからである。魚が竜となることは、このように難しいことなのである。

唐土
 中国のこと。日本から中国を呼んだ名称。現在の浙江省を中心に勢力をふるっていた越の地方をさして諸越といっていたのが、しだいに中国全土の呼称となり、唐王朝成立後「唐土」と書き、「もろこし」と読むようになったという。
―――
竜門
 中国、黄河中流の急流。山西省河津と陝西省韓城との境付近にある。魚が登りきると竜になるという。
―――
十丈
 丈は長さの単位。尺貫法による単位で、10尺(3.03㍍)にあたる。10丈は30.3㍍になる。なお、「秋元御書」、「大井荘司入道御書」では「百丈」とされている。
―――
ふな
 日本を含むユーラシア大陸に広く分布し、河川、湖沼、ため池、用水路など、水の流れのゆるい淡水域などにも生息し、水質環境の悪化にも強い。他のコイ目の魚同様背びれは1つだけで、ひれの棘条は柔らかくしなやかである。背中側の体色は光沢のある黒色か褐色で、腹側は白い。全体的な外見はコイに似るが、口元にひげがない。また、コイに比べて頭が大きく、体高も高い。体長は10-30cm程度だが、ゲンゴロウブナやヨーロッパブナは40cmを超えるものもいる。ゲンゴロウブナとその品種改良種であるヘラブナは植物プランクトンを食べるが、他のフナはほとんどが雑食性である。水草、貝類、昆虫類、甲殻類など、さまざまなものを食べる。
―――
りう
 四霊(麟・鳳・亀・竜)の一つ。想像上の動物。体は大蛇に似ていて背に81枚の鱗、4足に各5本の指、頭に2本の角があり、口辺に長いひげを持つ。水中または地中に住み、時に空中を飛行し、雲や雨を起こし、稲妻を放つという。
―――
はし
 タカ目タカ科に属する鳥のうち、オオワシ、オジロワシ、イヌワシ、ハクトウワシなど、比較的大き目のものを指す通称である。タカ科にて、比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカと呼ぶが、明確な区別はなく、慣習に従って呼び分けているに過ぎない。鷲の尾羽は矢羽根として最高のものとされる。陸奥国の名産として朝廷や伊勢神宮の遷宮の折などに鷲の尾羽を献上したという記録が残っている。
―――
たか
 タカ目タカ科に属する鳥のうち比較的小さ目のものを指す通称で、鳥類の一種である。 オオタカ、ハイタカ、クマタカなどの種がいる。タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカと呼び分けているが、明確な区別ではなく慣習に従って呼び分けているに過ぎない。また大きさからも明確に分けられているわけでもない。例えばクマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシは大きさはノスリ程度であるからタカ類といってもおかしくない。
―――
とび
 タカ目タカ科に属する鳥類の一種。トンビとも言う。ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みに舵をとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる様や、「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声はよく知られており、日本ではもっとも身近な猛禽類である。
―――
ふくろう
 フクロウ目フクロウ科フクロウ属に分類される猛禽類である鳥類の一種。夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く、「森の物知り博士」、「森の哲学者」などとして人間に親しまれている。木の枝で待ち伏せて音もなく飛び、獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがある。
―――
十丁
 丁は町とも書き距離の単位。1町は60間。すなわち360尺にあたり、約109㍍。十丁は約1,090㍍となる。
―――――――――
 本抄は、弘安2年(1279)11月6日、日蓮大聖人が聖寿58歳の時に身延においてしたためられ、上野殿、すなわち南条時光にあたえられたものである。竜門の故事をとおして御指南されていることから、別名を「竜門御書」ともいう。御真筆は大石寺に存する。
 執筆時の弘安2年(1279)11月6日は、熱原法難の直後にあたり、本抄の追申に「此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり」と仰せのごとく、本抄は、熱原法難に際しての上野殿の外護の任に対して、讃嘆・激励された御手紙である。熱原法難は、弘安元年(1278)から約3年間にわたり、駿河国富士郡熱原郷(静岡県富士市の一部)方面で日蓮大聖人の信徒が受けた迫害である。この法難では、農民信徒が厳しい弾圧を受け、神四郎、弥五郎、弥六郎の三烈士が斬殺され、文字どおり不惜身命の信仰を貫いた。
 この熱原法難にあたり、20歳の青年地頭であった南条時光は、勇敢に外護に努め、そのために鎌倉幕府の弾圧を受け、乗るべき馬もないほどに窮乏したが、そのなかでも妻・乙鶴とともに、大聖人に御供養の誠を尽くしたのである。大聖人は、こうした上野殿の献身的な尽力を讃えられ、本抄で「上野賢人」と宛名を記されている。
 本抄の大意は、まず中国にある竜門の滝の故事、日本における平氏一門の何代もかけての隆昌の例を述べられて「仏になるみち・これにをとるべからず」と、成仏の至難なることを御教示されている。
 次に、身子が菩薩の修行の途中、魔に負けて退転した例、さらに大通結縁の者が退転して三千塵点劫もの間、また久遠下種の人が退転して五百塵点劫もの間、第六天の魔王に負けて悪道を流転したことを示されて、これらを他人事と考えてはならない旨述べられている。
 そして、疫病による死、蒙古の襲来による身の危機など、物情騒然とした世にあって「願くは我が弟子等・大願ををこせ」「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ」と、大願を発して不惜身命の信心を貫くよう励まされている。
 さて、本章では、成仏得道の難しさを示すために、中国の竜門の滝の故事を述べられている。
 竜門は、中国の黄河の中流にある急流、あるいは地名をいう。山西省河津県、陝西省韓城県等、種々の説がある。
 竜門の地形は山岳が相対峙し、しかも険しいゆえに船を渡すことなどとうていできない。そして、瀑布であることから〝竜門の滝〟といわれたり、三段の滝からなるので〝竜門三級〟ともいわれる。したがって黄河の下流からさまざまな魚類や亀などが上流へ登ろうとするのであるが、なかなか登りきることができない。そこからここを通過するものは〝竜〟となると、古来からいわれてきたのである。
 これから転じて、人の栄達する譬えとして〝登竜門〟という呼称が生まれた。とくに、中国においては科挙という官吏登用の試験に及第すると、進士という高位につくことができたので、譬えに〝登竜門〟が使われた。そして、この科挙試験場の正門は〝竜門〟といわれ、地中に伏していた竜が活動を始める門戸という意味にも用いられた。
 日蓮大聖人は「天台山に竜門と申す所あり」(1077-06)、「唐土に天台山と云う山に竜門と申して百丈の滝あり」(1377-01)と、天台山の竜門を挙げて仰せられている場合がある。この天台山の中にある瀑布は、黄河中流の竜門に擬したと考えられる。
 大聖人は、この竜門の故事をとおして、いかに凡夫の私達の成仏を遂げることが至難であるかを教えておられるのである。

1560:06~1560:12 第二章 成仏の難きを地下の者の昇殿に譬うtop

06   日本国の武士の中に源平二家と申して王の門守の犬二疋候、 二家ともに王を守りたてまつる事やまかつが八月
07 十五夜のみねより・いづるを・あいするがごとし、でんじやうの・なんによの・あそぶをみては月と星との・ひかり
08 をあわせたるを・木の上にて・さるのあいするがごとし、 かかる身にてはあれども・いかんがして我等でんじやう
09 の・まじわりをなさんと・ねがいし程に・ 平氏の中に貞盛と申せし者・将門を打ちてありしかども昇でんをゆるさ
10 れず、其の子正盛又かなわず・其の子忠盛が時・始めて昇でんをゆるさる、 其の後清盛・重盛等でんじやうにあそ
11 ぶのみならず、月をうみ日をいだくみとなりにき、 仏になるみち・これにをとるべからず、いをの竜門をのぼり・
12 地下の者の・でんじやうへ・まいるがごとし。
-----―
 日本国の武士のなかに源平二家というのがあって天皇の御所の門守りの犬の役目を果たしていた。両家ともに天皇をお守りすること、ちょうど山人が八月十五夜の月が山の峰から出るのをこのうえなく愛するようであった。殿上の男女の遊ぶのを見ては、月と星とが光をあわせてきらめいているのを、猿が木の上でうらやましく眺めているようなありさまであった。
 このような地下の身分の者ではあったが、何とかして自分達も昇殿を許されて、殿上の交わりをしたいと願っていた。平氏のなかで貞盛という人は将門を討ったけれども昇殿を許されなかった。貞盛の子孫・正盛もまた叶わず、正盛の子で、貞盛から数えて六代目の忠盛の時に初めて昇殿を許されたのである。その後、清盛・重盛等は殿上で遊ぶだけではなく、月を生み、日を抱く身分にまでなったのである。
 凡夫が仏になる道は、これに劣るものではない。魚が竜門の滝を登って竜となり、地下のものが殿上人となるようなものなのである。

門守
 王城の禁門を守護する役のこと。衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の五衛府が設けられ、後に合併変更があって、左右衛門府・左右兵衛府・左右
近衛府の六衛府となった。
―――
やまかつ
 猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。
―――
でんじやう
 ①御殿・宮殿の上。②清涼殿にある殿上の間の略称。③殿上人のこと。
―――
貞盛
 生没年不詳。平安時代中期の武将。平貞盛のこと。承平5年(0935)、父の常陸大掾、鎮守府将軍国香が、従弟の将門に殺害されたため、下野押領使・藤原秀郷の援助を受けて、天慶3年(0940)将門を滅ぼした。この功によって従五位上右馬介に任ぜられ、さらに、鎮守府将軍・丹波守・陸奥守などに就き、従四位下にと進んだ。貞盛の昇進が後の平家一門繁栄の遠因となった。
―――
将門
 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――
昇でん
 平安時代以後、四位・五位以上の人および、六位の蔵人が許されて清涼殿の南面にある殿上の間に登ること。これを許された人を殿上人といい、許されない人を地下という。
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正盛
 平安時代末期の武将。出羽守正衡の子。伊勢,伊賀に私領を有し,六条院に領地を寄進してから,白河法皇の信任を得た。天仁1年 (1108) 源義親追討によって一躍平氏の名をあげ,また海賊や平真澄を討ち,従四位下となり,法皇の信任を背景に,伊勢平氏隆盛の基礎を築いた。
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忠盛
 (1096~1153) 平安時代末期の武将。正盛の子,清盛の父。永久元年 (1113) 強盗を捕えた功で一躍従五位下に叙せられた。同年の永久の強訴にも父とともに活躍。大治4 年(1129) 備前守であった忠盛は,山陽,南海道の海賊追捕を行なった。
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清盛
 (1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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重盛
 (1138~1179)。平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。
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月をうみ日をいだく
 「月」とは后妃にたとえ、「日」とは天皇にたとえる。清盛の娘徳子が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだことをさす。
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地下の者
 清涼殿・殿上の間に昇殿を許されていない人のこと。一般には、蔵人を除く六位以下のもの。四位・五位のうちの殿上人の資格を得ていない者についていう。
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 ここでは、地下の者であった平氏が、殿上人になるまでの艱難辛苦の歴史を述べられて、凡夫が仏になることの厳しさを説かれている。
源平二家と申して王の門守の犬二疋候
 源氏と平氏は、王城の守備や地方の謀反を平定したり、東北の先住民制圧などのために武力をもって戦うことを任務としていた。
 元来は、平安朝時代、皇室経済が悪化した際に、皇族の数を減らすため、皇子、皇女に姓を賜って臣籍に編入する皇族賜姓から生じたとされている。そうしたことから、発祥の天皇の名をとって、嵯峨源氏、村上源氏、清和源氏、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏などという呼称が用いられた。
 しかしながら、貴族全盛の世にあっては、これらの氏族の位は低く、しかも戦闘、殺生をなりわいとしたことから、殺生を嫌う仏教思想のもとでは蔑まれ、不遇の時代を送らなければならなかったのである。
 今、大聖人が「王の門守の犬二疋」と仰せられているのは、平安朝の貴族達から、そのように低く見られていたことをいわれたのである。
 平安朝も中期以降、盗賊が横行し、謀反人が各地に出て、物情騒然としてくるにつれ、貴族政治は土台から揺らぎ、源平の武族の力を借りなければならなくなっていった。そうした時代の流れの中で、源氏と平氏、さらにその中での同族同士が入り乱れて争いが繰り返されながら、それに勝ち抜いて、桓武平氏の中でも葛原親王の系統が栄華を極めるに至る。本抄で述べられている貞盛から清盛に至る平氏とは、この系統で図示すると、次のようになる。
   桓武天皇――葛原親王――高見王……貞盛―――――――維衡……正盛――忠盛――清盛――重盛
 この中で、貞盛の時に天慶の乱鎮圧の功績により北面武士に登用され、その後、四代を経て正盛の子・忠盛は西国の海賊征伐に功を上げ、鳥羽天皇の信任を得て、ようやく内裏への昇殿を許されたのである。その子・清盛は太政大臣に進み、栄華を極めたことは周知のところである。
 源平二家とも皇族の分かれとはいえ、野に下ってからの身分は皇族・貴族社会とはかけ離れた存在であり、時代を経るとともに、再び貴族社会の仲間入りをすることが、源平二家の氏族にとっては長年の夢であった。
 平貞盛が0940年に将門を討ってから、平清盛が1167年に太政大臣になるまでに227年かかっているのである。その間、幾多の戦いに血を流し、権謀術数をめぐらしての努力があったことはいうまでもない。
 しかも、平氏の栄華が傲りによって滅びてしまったことは、またたく間であり、平氏を倒して権力の頂点に立った源氏も、北条家に実権を奪われ滅ぼされてしまったのである。
 ただ、本抄で大聖人は〝地下の者〟であった平氏が殿上人となり、天皇の外戚となって栄華の頂に昇るまでの何代にもわたった苦労を述べられ、成仏の難しさへの譬喩とされているのである。

1560:13~1560:15 第三章 信心退転の例を挙げ成仏の難きを述ぶtop

13   身子と申せし人は仏にならむとて六十劫が間・菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき、大
14 通結縁の者は三千塵点劫久遠下種の人の五百塵点劫生死にしづみし 此等は法華経を行ぜし程に第六天の魔王・ 国
15 主等の身に入りて・とかうわづらわせしかば・たいしてすてしゆへに・そこばくの劫に六道には・めぐりしぞかし。
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 身子という人は仏に成ろうと誓願して、六十劫という長い間菩薩の行を積み重ねたが、堪えられず退転して、二乗の道に堕ちたのである。
 また、大通智勝仏の第十六王子によって法華経の縁を結んだ者は、退転して三千塵点劫という長い間、また、久遠に法華経の下種を受けた者は五百塵点劫というきわめて長い間、生死の大海に沈んだのである。これらの者は、法華経を修行していた時に、第六天の魔王が国主等の身に入って、さまざまに障りをなしたので、退転して法華経を捨て、長い間、六道を輪廻したのである。

身子
 舎利弗のこと。舎利弗は梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。これを訳して身子・鶖鷺子等という。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれ、初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。釈尊の声聞十大弟子の一人で、智慧第一と称された。法華経譬喩品第三で華光如来の記別を受けている。
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六十劫
 劫はカルパ(Kalpa)の音写で、波劫・劫跛ともいい、長時・大時などと訳す。きわめて長い時間の意で、長遠の時間を示す単位として用いられる。舎利弗は60劫の長い間、菩薩の行をしたが、乞人のバラモンによって退転し、小乗に堕ちた。
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菩薩の行
 菩薩とは菩薩薩埵の略で、無上菩提を求める人のこと。利他を根本とした大乗の衆生をさす。菩薩が仏果を得るために行う修行を菩薩の行といい、六波羅蜜などがあっる。
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二乗の道
 二乗とは声聞・縁覚乗をいう。声聞とは梵語シュラーヴァカ(Sraavaka)の訳。「声を聞く者」の意で、弟子とも訳す。二乗・三乗の一つである声聞乗のこと。自己の悟りのみを求め、仏の声教を聞いて修行する人々をいう。四諦の法門によって阿羅漢果の悟りを得、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする。縁覚とは梵語プラティエーカブッタ(pratyekabuddha)の訳。音訳して辟支仏のこと。独覚・因縁覚ともいう。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、落花落葉などの外縁によって悟りを得るので縁覚という。二乗は利他の修行がなく、自己の解説のみを目的とする。
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大通結縁の者
 法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。これを大通覆講という。そのうち第十六王子が釈尊の過去世の姿であり、この第十六王子と衆生との結縁を大通結縁といい、それは三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。ここでは第二類の人々をさしている。
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三千塵点劫
 法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」とある文を意味する語。大通智勝仏の第十六王子から法華経を聞いてその後、退転した衆生が声聞衆として、ふたたび法華経を聞くまでの時の長遠であることを譬えをもって示したもの。
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久遠下種
 久遠五百塵点劫の下種のこと。下種とは、種蒔にたとえて、仏が衆生の心田に成仏の種子を下すことをいう。
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五百塵点劫 
 法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
―――
生死
 生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
―――
第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
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六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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 これまで、竜門の滝、源平二家という世間的な事例を譬えに挙げて成仏の難しさを示されたのであるが、ここでは、身子が菩薩行を退転して二乗の道に堕ちた例、法華経における三千塵点劫、五百塵点劫退転の例といった仏法における退転の事例をとおして、成仏が至難であることを示されるのである。
 舎利弗の退転の話は、大智度論巻十二に出てくる有名なもので、大聖人は「開目抄」や「兄弟抄」などにも引用されている。
 いま大智度論から、簡単に話を要約して述べてみよう。
 舎利弗が六十劫の間、菩薩の布施を行じていたとき、一人の乞人がやってきて、舎利弗の眼を乞うた。舎利弗が「眼など、使いようがないのに何のために求めるのか。眼以外の財宝なら何でも与えるつもりである」と乞人にいうと、彼は「ただ、あなたの眼だけが欲しい。あなたは菩薩の布施を行じているのだから、眼を私に施してください」と答えた。
 そこで、舎利弗が自分の一つの眼を取り出して彼に与えると、彼は、その眼の匂いを嗅ぎ「いやな匂いだ」と言って眼に唾をかけ、地に投げ捨て足で踏みつけた。
 これを見て舎利弗は〝このような衆生は度しがたい。用もないのに眼を乞うて、しかも、与えられると、地に捨てて足で踏んづけた。このような衆生を救済するようなことをやめて、ただひたすら自分が救われるよう修行して、早く生死の苦を解脱したほうがましだ〟と決意し、菩薩道を退転して小乗の道に堕ちてしまったというのである。
 六十劫という気の遠くなるような年月をかけて、仏になるための菩薩行を修した舎利弗ですら、眼を乞う人との出会いという、たった一つのきっかけがもとで退転してしまったのである。いかに成仏が至難であるかを示す典型的な事例といえよう。
 また、三千塵点劫、五百塵点劫退転の例は、法華経に説かれている。まず、法華経化城喩品第七において、三千塵点劫という往昔に大通智勝仏が出現するが、この仏の時に、法華経を聞き結縁した衆生の中に、その後、法華経修行を退転して、三千塵点劫もの間生死の苦海に沈んだ人々が、釈尊在世に声聞衆となったと説かれている。
 次に、法華経如来寿量品第十六において、釈尊の本地は久遠五百塵点劫に成道した仏であることが明かされるが、この久遠の時に、法華経を聞き成仏の種子を植えられた衆生が、やはり退転して、五百塵点劫もの間、六道輪廻を繰り返したのである。
 これらはどちらも、衆生の退転の期間が長遠であることを示されている点で共通している。
 そして、こうした、退転のきっかけは、第六天の魔王が国主などの身に入って、さまざまに法華経の修行者を悩ませ、迫害したことによるのであると述べられている。
 ここに、熱原法難に明確に現れた、権力者による迫害という問題がこの御文の背景になっていることが読み取れよう。この御文で、第六天の魔王が国主などの権力者等の身に入って、信仰者を苦しませると強調されているのは、弘安2年(1279)11月6日という時点での状況を思えばおのずから明らかであろう。
第六天の魔王
 仏教の世界観では、三界六道といって地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を立て、地獄から天界の中の六欲天までを欲界、天界中の十八天を色界、その上にある四天を無色界とする。六欲天とは、四王天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天の六つをいう。
 ここにいう第六天の魔王とは、この六欲天の内の六番目の天である他化自在天をいうのである。
 大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。「他の化する所を奪って而して自ら娯楽する」のであるから、仏によって教化される仏道修行者の成仏を妨げ、その精気を奪うことを自らの楽しみとするのである。
 この第六天の魔王は、三障四魔のなかの天子魔にあたり、正法修行者の最も警戒すべき根本的な魔である。
 しかしながら、「治病抄」に「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と仰せのように、第六天の魔王は、正法修行者の己心にある元品の無明が現れたものであり、第六天の魔王の働きは権力者による弾圧、迫害あるいは父母・妻子による正法信仰の妨害といった形をとるが、根本的には自らの内なる元品の無明の顕れであり、これに打ち勝つためには、どこまでも、元品の法性を強く顕現していく以外にないのである。

1561:01~1561:07 第四章 不惜身命の大願を起こすよう勧めるtop

1561
01   かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかかれり、願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のや
02 くびやうに死にし人人の・かずにも入らず、 又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一
03 定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、 をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあ
04 つらへ・ ちりを大地にうづむとをもへ、 法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆
05 生と皆共に仏道を成ぜん」云云、恐恐謹言。
06       十一月六日                       日蓮花押
07     上野賢人殿御返事
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 それらのことは、今まで他人の身の上のことであると思っていたけれども、今は我らの身にかかっているのである。
 願わくは、我が弟子等、大願を起こせ。去年や一作年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古が攻めてきた時、死を免れることができるとは思えない。ともかく、死は一定なのである。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同じである。
 同じことなら、かりにも法華経のために命を捨てよ。これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい。
 法華経第三の巻化城喩品第七に「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれているとおりである。恐恐謹言。
  十一月六日             日 蓮  花 押
   上野賢人殿御返事

蒙古のせめ
 13世紀の初め、ジンギスカンによって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮からロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与し、のちに四汗国が成立した。本国の中国では5代フビライが1271年に国号を元と称し、1279年に南栄を滅ぼして中国を統一した。この大蒙古帝国の大軍が文永11年(1274)10月に日本に襲来し、国仲の人々を震撼させたが、大風によって多くの兵士とともに軍船を失い侵寇は失敗した。さらに弘安4年(1281)には第二回元寇が起こっている。
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功徳
 功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
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上野賢人
 日蓮大聖人から「賢人」の称号をいただいているのは、南条時光だけである。
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 これまで世間、出世間の例をとおして成仏の難きことを説かれてきたが、それを結論して、弟子・檀那に対し、不惜身命の強盛な信心に立って、成仏を目指すべきことをさとされるのである。
 「かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかかれり」とは、先に示された舎利弗や三五塵点の退転の事例は他人事のように思ってきたが、今の大聖人門下の身の上に降りかかっていると仰せである。すなわち、熱原法難のことをさしておられるのである。熱原法難は、第六天の魔王が国主等の権力者の身に入って法華経の修行者を迫害するという典型的な様相を示しており、その意味からも、とくに三五塵点の退転の事例は他人事ではないと仰せなのである。
 それは、まさに退転して悪道を流転するか、不退転の信心を貫いて成仏を遂げるかの岐路であり、だからこそ、ここで大願を起こし強盛な信心に立つよう励まされているのである。
 「願くは我が弟子等・大願ををこせ」以下の御文は、不惜身命の大願に立ち強盛な信心を奮い起こすようにと、南条時光を代表として門下一同を激励されているところである。
 この御文は、熱原法難の余燼がまだ門下の上に降りかかっているという、当時の状況に深く思いをはせながら拝読する必要があろう。
 まず、今、生きている門下の人々は、幸いにも、一昨年から昨年にかけて大流行した疫病では死者の数に入ることはなかったが、しかし、今度、蒙古が攻めてきたときには、死を免れることができないであろうと述べられている。たとえその蒙古の攻めをも免れて無事生き残ったにしても、だれでも、いつかは死に直面するのである。すなわち「とにかくに死は一定」である。
 「其の時のなげきは・たうじのごとし」で、自然に死んでいくときも、嘆きは同じであり、同じく死ぬならば、法華経のために生命を捨てるという大願を起こしなさいと仰せられている。なぜなら、法華経に命を奉ることは「つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむ」ようなもので、法華経・妙法という大宇宙の生命に融合することにより、永遠の生命を生きることになるのである。
 それは、単に自分が永遠の幸福を得るだけではない。法華経の第三の巻化城喩品の有名な文をもって、大聖人は本抄を締めくくられている。
 この化城喩品の文は、梵天が大通智勝仏に宮殿を奉るときに、願を発して述べた偈文である。内容は、仏に宮殿を供養する功徳が普く一切に及んで、梵天自身と他の衆生とをともにことごとく成仏させうるようにと願ったものである。
 この経文の意図するものは、自他ともの成仏にある。自分が成仏し救われるだけではなく、他のあらゆる人々にもその功徳が及んで、ともどもの成仏が実現するところに妙法の大功徳がある。
 これはまさに、換言すれば、功徳の回向ということである。
 回向とは、〝廻向〟とも書くが、回転趣向の意義である。自らが仏道修行をして得た功徳善根を回して転じて衆生に振り向け、自他ともに仏果を成就しようと期することをいう。
 「死は一定」で、人間だれしも、いつかは今生の命は終わるのであり、同じくは大願を起こして法華経に命を捧げるならば、自らの成仏はもとよりのこと、一切の他の衆生の成仏をも可能にする大功徳が得られ、最高に尊い人生にすることができると教えられているのである。
 ここに、正法信仰の根本精神が示されていることを知らなければならない。

1561:08~1561:08 第五章 追伸top

08   此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり。                        ・
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 この手紙は、熱原法難で、あなたの活躍のありがたさに書いた返事である。

 熱原法難に際して、南条時光が果たした見事な外護の任と、その不惜身命の信心を日蓮大聖人が讃嘆されてしたためられたのがこの御手紙である。

1560~1561    上野殿御返事(竜門御書)2008:03月号大白蓮華より。先生の講義top
「我が弟子等・大願をををこせ」 師の大願「全人類の幸福」を弟子が継承
 青年は、世界の平和を願う「柱」です。
 青年は、未来の人類を開く「眼目」です。
 青年は、苦悩の民衆を救う「大船」です。
 正義のために立ち上がる勇敢な青年のスクラムが、今ほど待望されている時はありません。
 青年は、未来の希望です。青年が情熱炎を燃やし理想に生きる社会の前途は、大きく開いていきます。
 青年が時代を創りますだからこそ、未来を開く青年を育成するのが、仏法者の使命であり責務です。まして広宣流布の聖業は、時代の苦悩を最も鋭く感知し、時代の最先端を走る後継の青年を陸続と誕生してこそ成就できます。ゆえに、真の広布の指導者は、青年を育成し、青年に一切を託します。
 自ら青年の心を持ち、青年とともに動き、そして、青年を育て、青年に未来を託す。常に青年との輝かし共戦譜を持てる人は、崇高な魂の勝利者です。
 反対に、青年を利用する人間がいます。それは、横着で怠惰な卑怯者が横柄で傲慢な独裁者です。
 法華経は後継者に使命を付与し、法を託すことを主体とした経典です。
 また、日蓮大聖人は「法華経の命を継ぐ人」のために、健康と勝利を、無事と長寿を、そして活躍と成長を常に祈り続けられた。大聖人の御書は、後継の門下への薫陶と励ましの言葉に満ち溢れています。
 師弟後継の意義深きこの3月は、その意義をとどめるために、「上野殿御返事(竜門御書)」を拝していきたい。「熱原の法難」の大弾圧の渦中に、同志を守るために奮闘している21歳の南条時光に送られた、渾身のお手紙です。
 このなかで大聖人は「願くは我が弟子等・大願ををこせ」と叫ばれました。
 「大願」とは、仏の偉大な願いです。そして「大願とは法華弘通なり」と仰せのように、それは「広宣流布の大願」に極まっていきます。
 「開目抄」において「大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-02)と御宣言なされた、あの尊極なる「大願」です。
 牧口先生は、手にされていた「大願を立てん」のところに二重線を引かれ、欄外に大きく「大願」としるされました。そして、権力の迫害にも最後まで屈せず「大願に生きる人生」を貫かれました。
 「三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」逝去の一月前、妙法流布に生き抜かれた泰然たるご境涯を、獄中からご家族に宛てた御手紙に認められています。
 そして、牢獄にお供をして、2年間獄中闘争を貫いて出獄し、戦後の荒野に一人立たれた戸田先生。その深い覚悟を、先生は「同志の歌」にこめられました。
    「妙法流布の 大願を
     高くかかげて 独り立つ
     味方は少なし 敵多し」
 また、こうさけばれました。
 「いかなる大難があろうとも、私は広宣流布の大願を絶対に捨てません」
 「それは、貧乏人と病人、悩み苦しんでいる人々を救うことです。そのために、声を大にして叫ぶのです」
 私は、ただ一人、戸田先生をお守りする「弟子の戦い」の中で、師の「大願」を確かに受け継ぎました。広宣大願は、師弟共戦の中でのみ継承できるのです。
 この師弟共戦の一念は、今に至るまで絶えたことはありません。戸田先生のことが私の胸中に去ったことは、一日たりともありません。わたしのこの50年間は、いわば「毎日が3:16」というべき誓いと覚悟の日々でした。
 今、私が挑んでいる最大の仕事は「広宣流布の大願」に生きる喜びを、永遠に、民衆の心に、なかんずく青年の心に打ち立て、輝かせていくことにほかならない。一切は青年に託す以外にないからです。
 今回学ぶ「上野殿御返事」は、「今度は君が広布大願を起すのだ!」「我が弟子よ!」と青年に呼びかけられた御書です。「3:16の精神」の「源流」を拝する思いで、学んでいきましょう。

01   唐土に竜門と申すたきあり・たかき事十丈・水の下ることがつひやうが・やをいをとすよりもはやし、このたき
02 にををくのふなあつまりて・のぼらむと申す、ふなと申すいをののぼりぬれば・りうとなり候、百に一・千に一・万
03 に一・十年.二十年に一も・のぼる事なし、或ははやきせにかへり・或ははし.たか・とび・ふくろうにくらわれ、或
04 は十丁のたきの左右に漁人ども.つらなりゐて・或はあみをかけ・或はくみとり・或はいてとるものもあり、いをの.
05 りうとなる事かくのごとし。
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 中国に竜門という滝がある。滝の高さは十丈、落ちる水の 早さは強い兵が矢を射落とすよりも早い。この滝のもとに多くの鮒が集まって登ろうとする。鮒という魚は滝を登ると竜となるからである。しかし百に一つ・千に一つ・万に一つ、あるいは十年・二十年に一つも登ることはできない。或いは滝が落ちるのが余りに急なので、川の瀬に返され、或いは鷲・鷹・鳶・梟などに食べられ、或は十丁の滝の幅の左右に魚人が並んで、或いは網をかけたり、すくいとったり、或いは射てとったりするからである。魚が竜になることは、このようにむずかしいことなのである。
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06   日本国の武士の中に源平二家と申して王の門守の犬二疋候、 二家ともに王を守りたてまつる事やまかつが八月
07 十五夜のみねより・いづるを・あいするがごとし、でんじやうの・なんによの・あそぶをみては月と星との・ひかり
08 をあわせたるを・木の上にて・さるのあいするがごとし、 かかる身にてはあれども・いかんがして我等でんじやう
09 の・まじわりをなさんと・ねがいし程に・ 平氏の中に貞盛と申せし者・将門を打ちてありしかども昇でんをゆるさ
10 れず、其の子正盛又かなわず・其の子忠盛が時・始めて昇でんをゆるさる、 其の後清盛・重盛等でんじやうにあそ
11 ぶのみならず、月をうみ日をいだくみとなりにき、 仏になるみち・これにをとるべからず、いをの竜門をのぼり・
12 地下の者の・でんじやうへ・まいるがごとし。
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 日本国の武士のなかに源平二家というのがあって天皇の御所の門守りの犬の役目を果たしていた。両家ともに天皇をお守りすること、ちょうど山人が八月十五夜の月が山の峰から出てくるのをこのうえなく愛したようであった。殿上の男女の遊ぶのを見ては、月と星が光をあわせてきらめいているのを、猿が木の上でうらやましく眺めているようなありさまであった。
 このような地下の身分の者ではあったが、何とかして自分達も昇殿を許されて、殿上の交わりをしたいと願っていた。平氏のなかで貞盛という人は将門を討ったけれども昇殿は許されなかった。貞盛の子孫・正盛もんまた叶わず、正盛の子で貞盛から数えて六代目の忠盛の時に初めて昇殿を許されたのである。その後、清盛・重盛等は殿上で遊ぶだけでなく、月を生み、日を抱く身分となったのである。
 凡夫が仏になる道はこれに劣るものではない。魚が竜門を登って竜となり、地下のものが殿上人となるようなものである。

険しい道を超えてこそ成仏
 大聖人門下が激しい弾圧を受けた「熱原の法難」この大難に対して立ち上がったのが、青年南条時光でした。
 本抄は弘安2(1279)年11月6日、日蓮大聖人が58の時に南条時光に与えられたお手紙です。
 南条時光は、若くして大聖人の仏法を持ち、日興上人を兄のように仰ぎ、生涯、広宣流布のために活躍した後継の門下です。
 本抄が執筆された当時は、まさに、熱原の法難の渦中でした。時光は、21歳、法難の時は、迫害に追われた人々を自邸にかくまうなど、我が身の危険をさらして同志を勇敢に守り抜きました。
 そのため、時光自身も、さまざまな迫害を受けます。後日のことですが、幕府から不当な重税を課せられました。そして自分が乗る馬もなく、妻子の着るものさえ満足にないという生活を余儀なくされる。
 正義のために決して怯むことなく、矢面に立って戦い抜いた若き時光を、大聖人は本抄で、「上野賢人」と呼ばれて、賞讃されています。
 本抄の追伸に「これはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり」とあります。
 この御文の解釈は難しいが、一つには、熱原の法難での時光の活躍を讃え、心労を労うために本抄を認められたとの仰せと拝することができるでしょう。
 しかし、もう一つ解釈がありうる。すなわち、「あつわらの事の・ありがたさ」とは、熱原の民衆が大聖人と同じ不惜身命の信心を、今、現に起していることが不思議なことであり、ありえないことであると、大聖人が感銘し讃嘆されていると拝することができる。
 そして、その深い信心を熱原の信徒が起したことに応ずる御返事として、大聖人が自ら書き起こされ、代表として時光に送られた御消息が本抄であるとも拝察できます。
 いずれにしても本抄は、不惜身命で戦った後継者に対して、師匠が「その実践にこそ師弟不二の大願が脈打っているのだ」と賞讃され、また、教えられている御書と拝することができます。
竜門の故事
 本抄では、成仏するためには、いかに多くの難を越えなければならないかが強調されています。そのことを、中国の「竜門の滝」の故事、日本の「平氏の歴史」を譬喩として用いられながら示されています。また、仏典の中から、舎利弗が過去世における退転などを、成仏の困難さを示す事例として取り上げられています。
 まず「竜門」とは、中国の伝説の滝です黄河の上流もしくは中流にあるとされ、これを登り切った魚は竜になることができると言い伝えられています。
 高さ10丈、長さ10丁と本抄の表現からは、通常、私たちが思い描く滝のイメージとは違うかもしれません。
 他の御書には、高さ100丈とも、天台山にあるとも記されています。
 いずれにしても、激流の圧力は強く、多くの魚が、何度、立ち向かっても、はね返されてしまう。しかも大きな鳥や漁師たちが、魚を捕えようと狙っている。それらを乗り越えて登り切ったならば、雷雲や雨を自在に司る「竜」になることができるとされています。
 一般に、立身出世や、本舞台へ進出するための困難な関門を「登竜門」と呼ぶのは、この故事から由来します。これは、中国の史書『後漢書』に記されています。
 大聖人は時光に「仏道修行を全うするということも、魚が竜門の滝を登って竜になるようなものです。それほど困難が多いのです」と教えられています。
 魚を押し戻す「はやきせは」、五濁悪世の時代相を譬え、命を狙う鳥や漁師は、成仏を妨げる「三障四魔」や「三類の強敵」を譬えていると言えるでしょう。悪世末法において信心を貫くことは、激流に坑して上流に向かうようなものです。ただでさえ人間の無明・煩悩は坑しがたい力を持っている。釈尊はそれを激流に譬えました。まして末法は、一見深まったかに見える人間の智慧が煩悩に呑み込まれ、煩悩の力がますます肥大化し、悪の力として猛威を振るう時代であることを大聖人は示されている。
 このような時代に、信心を貫き通うことは難事中の難事であるがゆえに、師弟の絆が決定的に重要なのであり、異体同心の和合僧が不可欠なのです。
 創価学会には、難に屈しない強靭なる師弟の絆があります。そして、師弟不二の信心によって生命を磨きぬいた庶民の王者たちが、堅牢なる異体同心のスクラムを組んでいる。
 その中で、信心を見事に貫き、生命を磨き抜いて、まさに滝を登りきった昇竜の如き堂々たる人生を歩んでいる方は数しれません。
牧口先生の一対一の激励行
 昭和14年(1939)牧口先生が、折伏のため、初めて九州・福岡の八女を訪れた際、御書を拝して語られたのも、この「竜門」の話でした。
 牧口先生は、夫に続いて入会を決意したばかりの婦人に「いろいろな難を乗り越えして、立派な人材にならなければならない。いかなることがあっても絶対に退転だけはしてはならない」と指導されました。そして翌日、「さっそく、実践にうつらねば」と、夫妻を長崎の雲仙にいる知り合いのところへ連れていき、折伏はこうするのだというお手本を見せてくださった。
 「折伏が宗教の生命です。他人を利していく生活こそ大善といえるのです」
 当時、東京から八女までは、列車だけでも丸一日以上の旅でした。先生は、昭和14年(1939)の訪問に続いて翌年も、その翌年も八女を訪れ、座談会を開かれた。
 どこまでも「一人のために」「青年のために」と、足を運ばれたのが牧口先生でした。
 東京で入会した青年の両親を折伏するために、お一人で福島の郡山を訪問されたこともあります。軍部権力の弾圧が厳しさを増すなかの行動でした。そして、赴いた先から、さらにもう一歩、新しい地へ歩みを運んで、新しい人材を!新しい仏縁を!と突き進んでいかれたのです。
 仏法における真の「大願」とは、「草の根を分ける」ように、一人一人の生命を触発していく着実な戦いによってこそ、実現していけるのです。ゆえに、牧口先生も戸田先生も、「一対一の対話」そして「座談会」を重視された。真実の幸福の大法である妙法を、我が心、わが五体を使い、そして対話を通して、目の前の一人の友に伝えきっていく戦いの積み重ねのなかにこそ、真の大願成就の道があるのです。
「破戒は一瞬。建設は死闘」
 仏道修行の完成が、いかに難事中の難事であるか。 本抄では、「竜門の滝」に続き、朝廷の門番に過ぎなかった平氏が、何世代もの奉公によって昇殿を許された身分となった歴史を、譬えとして挙げられています。
 平氏は、250年もの長い年月をかけ、ようやく清盛の時代に入って全盛をきわめました。ところが「平氏にあらざれば人にあらず」という言葉に象徴されるように、横暴なる振る舞いが目立ち、優れた人材もいなかった。そのため、清盛の没後数年にして、平氏は滅亡してしまった。
 「破戒は一瞬。建設は死闘」です。
 いかなる団体も、個人の人生も、ひたむきな建設精神を忘れたとき、堕落が始まり、衰亡の坂を転げ落ちていく、それは、あっという間です。
 創価学会は、永久に「建設の息吹」を忘れてはならない。「民衆の幸福のために!」「青年の道を開くために!」という根本精神を絶対に見失ってはならない。この大精神を深く生命に刻み、永久に未来へ輝かせていく軌道が「創価の師弟の道」です。
 衰亡をもたらす「慢心」「忘恩」「官僚主義」これらの壁を打ち破るには「師」の心をわが心として「弟子」が我が身を投げうって戦い抜く以外にありません。
 さて、二つの譬えを述べられたうえで「仏になるみち・これにをとるべからず、いをの竜門をのぼり・地下の者の・でんじやうへ・まいるがごとし」と結ばれています。
 命にも及ぶ厳しい法難の渦中にあるからこそ、大聖人は青年・時光に、時にあたっての厳粛な信心を教えられているのです。また、時光を信頼し、期待しているからこそ、あえて成仏の厳しさを語られているとも拝察できます。

13   身子と申せし人は仏にならむとて六十劫が間・菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき、大
14 通結縁の者は三千塵点劫久遠下種の人の五百塵点劫生死にしづみし 此等は法華経を行ぜし程に第六天の魔王・ 国
15 主等の身に入りて・とかうわづらわせしかば・たいしてすてしゆへに・そこばくの劫に六道には・めぐりしぞかし。
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 舎利弗という人は仏になろうと誓願して、六十劫という長い間、菩薩の行を積み重ねたが、耐えられず退転して、二乗の道に堕ちたのである。
 大通智勝仏の第十六王子によって法華経の縁を結んだ者は、退転して三千塵点劫という長い間、また久遠に法華経の下種を受けた者は五百塵点劫長い間、生死の大海に沈んだのである。これらの者は法華経を修行していた時に、第六天の魔王が国主等の身に入って、さまざまに障りをなしたので、退転して法華経を捨て、長い間、六道を輪廻したのである。

悪知識を恐れよ
 仏道修行を貫くことの難しさを、今度は、経典等に照らして述べられています。
 ここで最も心しておかなければならないのは、「悪知識」の恐ろしさです。
 ありとあらゆる修行に耐え、修行を積んできた舎利弗が退転したのも、悪知識である乞眼の婆羅門のような衆生は「救い難い」として、菩薩道の志を捨てたからでした。
 悪知識の本質は、第六天の魔王の働きです。第六天の魔王の実体は、自他の生命に具わる元品の無明です。
 第六天の魔王は、乞眼の婆羅門となって、舎利弗の心を揺さぶった。また、時には国主の身に入って、法華経の修行者を退転させた。久遠に法華経や釈尊と縁を結んだ者であっても、魔王に惑わされた結果、三千塵点劫、五百塵点劫という気の遠くなるような長い期間、苦悩に流転を繰り返さねばならなかった。
 大聖人は、以前から時光に、悪知識の恐ろしさを繰り返し教えてこられました。
 悪知識は、味方のような姿で近づいてくることがあること、また悪知識が現れたその時にこそ、強盛な信心を奮い起せば、必ず諸天善神が守護することなどを教えられたのです。
 ところで、唐の詩人・白楽天は「天額魚」という詩を呼んでいる。これも、竜門に関係する内容です。
 「天額」とは、額に傷を受けること、すなわち、竜門を登りきれず、岩に打ちつけられて額に傷を負い、退いていった魚です。
 その魚の気持ちとは、どんなものだろうと、白楽天は問いかけ、自答します。
 聞けば、竜になれば天に昇って雨を降らせる苦しみがあるそうだ、そんな苦しみをするよりは、永く魚となって自由に泳ぎまわっているほうが、あるいはかえって、ましかもしれない。
 成功を手に入れた結果、背負わなくてもよい苦しみを背負うより、今いる場所で自分らしく生きるほうが幸せではないのか。それは政治の世界の有為転変をみせつけられてきた白楽天ならではの達観なのかもしれません。
 竜には竜なりに雨を降らす労苦がある。この労苦を苦悩ととるか、使命ととるか。この違いが、悪知識に敗れるか、成仏かの違いになるともいえる。まさに「心こそ大切」です。そして、その「心」の違いをもたらすものこそ、本抄に示されている「大願」にほかならないのです。
 いわば、法華経の修行を完成させていくということは、より多くの人々の悩みを背負い、より大きな困難に立ち向かう使命を喜び勇んで担うことともいえましょう。
 大聖人は、あえてその生き方を求めていきなさい!必ず「仏」になれる!雄々しく後継の「竜門」を登りきっていきなさい!と奮起を促されているのです。それが、妙法を持った私たちの「大願に生きる人生」なのです。

1561
01   かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかかれり、願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のや
02 くびやうに死にし人人の・かずにも入らず、 又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一
03 定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、 をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあ
04 つらへ・ ちりを大地にうづむとをもへ、 法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆
05 生と皆共に仏道を成ぜん」云云、
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 これらのことは、今まで他人の身の上でると思っていたけれども、今は彼らの身にかかっているのである。
 願わくは、我が弟子等、大願を起こせ、去年や一作年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古が攻めてきた時、死を免れることができるとは思えない。ともかく、死は一定なのである。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同じである。
 同じことなら、かりに法華経のために命を捨てよ、これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものである。
 法華経第三の巻化城喩品第七に「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれているとおりである。

混乱の時代にこそ大願に生きよ!
 「かれは人の上とこそ・みしかども今は我等がみにかからり」とおおせです。
 「かれ」とは、舎利弗や久遠下種の人々が、長遠な期間にわたって退転したことです。彼らと同じような退転の危機が、今、大聖人の一門の身の上に起こっていると仰せです。言うまでもなく、熱原の法難のことです。
 この第六天の魔王による熾烈な迫害を、はねかえす方途は何か。それは、「大願」に立つ以外にありません。
 「一生成仏」を我が人生の究極の願いとして定め、「広宣流布」という仏の大願を我が誓願としてゆく以外に、法華経ゆえの大難に耐える力は湧現しません。
 ゆえに大聖人は「願くは我が弟子等・大願ををこせ」と、胸奥から呼びかけられているのです。
 大願に立つ人生こそが、何事にも動じない、最も深い人生となるのです。
 続いて大聖人は「死は一定」死は必ず訪れる、と仰せです。
 本抄の前前年から前年にかけて、全国に疫病が大流行しました。年号が「建治」から「弘安」に変更されたのも、疫病流行を食い止めようとしたものですが、何の効果もりませんでした。
 大聖人は他の御書で、「人が死ぬまでは、大風に木が倒れ、大雪に草が折れるようなものである」と、この疫病の惨状を述べられています。
 また、蒙古が再度、襲来することへの恐れと不安が、当時の日本を覆っていました。
 最初の蒙古襲来が、文永11年(1274)10月。本抄の5年前です。続いて2回目の蒙古襲来が、弘安4年(1281)本抄の2年後です。第1次襲来の激しさは、日本全体に、計り知れない恐怖感をもたらしました。そして、次の襲来で、防衛に失敗すれば日本は滅びるかもしれないと、当時の人々は不安の極限に達していました。
 「とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへにも命をすてよ」誰人も本来は死を免れることはできない。その時が来て同じく死を嘆くのであれば、法華経のために命を捨てて何の悔いがあろうか、と。
 熱原の法難で、三烈士が処刑された時期については2説があります。一つは本抄直前の10月15日のことであるとする説。もう一つは、翌年の4月とする説、前者であるとすれば「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ」とは、三烈士の死が仏法の上で深い意味があったことを示され、三烈士の正義と勇気の戦いをたたえられてると拝することもできます。
 それは、当然、死そのものを讃美されているわけではありません。死をまえにしても揺るがない強き信心に讃えられているのです。
 では、何故、法華経のために命を捨てることに悔いはないのでしょうか。
 それについて大聖人は「露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものである」としめされている。
 永遠からみれば、今生きている私たちの命は「露」のようにはかない存在です。また、大宇宙からみれば「塵」のようにちっぽけな存在です。しかし、そのようなわたしたちが「大海」のように広大で「大地」のように確固としている妙法に生ききっていくならば、妙法と一体の広大にして確固たる境涯を確立していけると仰せです。
 大聖人は別の御書にも「露を大海によせ 土を大地に加るがごとし生生に失せじ世世にくちざらむかし」(0968-12)と仰せです。
 「露」が法華経の「大海」に、「塵」が妙法の「大地」と一体となった時、永遠に消えることも朽ちるもない存在となります。広宣流布に生き抜いた私たちの生命は、大宇宙の仏界に溶け込み、永遠に不滅の「仏界の生と死」を繰り返していかるのです。
 また、常に、願った所へ、願った境遇で、広宣流布という最高の使命を果たすために生まれていけるのです。
 「大願ををこせ」とは、「永遠にして無上の生命の軌道に入れ」とのお言葉と拝することができます。
「自他ともの幸福」目指す生き方を
  最後に大聖人は、経文を引用されます。
 「法華経の第三に云く『願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』云云」。
 法華経の第3巻に収められている化城喩品第7では、梵天が仏に宮殿を供養します。この功徳が大勢にあまねく伝わることを願うとともに、皆と一緒に仏道を成就することを願います。
 ここで、経文に「皆共に」とあるように、すべての人とともに幸せになりたい、と願っていることが重要です。自分も他人もともに、永遠の幸福境涯を目指して生きていく。ともに幸福を実現していく、この自他ともに幸福を目指す大願こそ、大乗仏教の真髄です。
 大願とは、私たちの立場でいえば、広宣流布に生きることです。
 この「大いなる生き方」を教えるのが師匠です。そして、師と同じ「大いなる生き方」を歩んでこそ真の弟子です。今、日蓮大聖人の仏法に目覚めた世界中の地涌の菩薩が立ち上がり、互いに異体同心で広宣流布を目指していく時代に入りました。大願を共有する地涌の連帯が実現しました。広布第2幕を担う青年が、各地で立ち上がりました。
 私は一切を託します!未来を、よろしく頼みます!。

1561~1562    上野殿御返事(適時弘法事)top

01   白米一だをくり給び了んぬ。
02   一切の事は時による事に候か、春は花・秋は月と申す事も時なり、 仏も世にいでさせ給いし事は法華経のため
03 にて候いしかども・四十余年はとかせ給はず、 其の故を経文にとかれて候には説時未至故等と云云、 なつあつわ
04 たのこそで・冬かたびらをたびて候は・うれしき事なれども・ふゆのこそで・なつのかたびらには・すぎず・うへて
05 候時のこがね・かつせる時のごれうは・うれしき事なれども・はんと水とにはすぎず、仏に土をまいらせて候人・仏
06 となり・玉をまいらせて地獄へゆくと申すこと・これか。
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 白米を一駄、お送りいただいた。
 一切の事は時によるのである。「春は花、秋は月」という事も、時をいっているのである。仏も世に出現されたのは法華経のためであったけれども、四十余年は説かれなかった。そのわけを法華経方便品には「説時未だ至らざる故に」等と説かれている。
 夏に厚綿の小袖、冬に帷をいただくことはうれしいことではあるが、冬の小袖、夏の帷にすぎることはない。飢えている時の金、渇している時の御料はうれしいことであるが、飢えた時の飯や、渇している時の水に過ぎることはない。土の餅を差し上げた童子は仏となり、玉を上げた人が地獄へ堕ちたというのは、この、時をわきまえなかったということである。
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07   日蓮は日本国に生れてわわくせず・ぬすみせず.かたがたのとがなし、末代の法師には・とがうすき身なれども.
1562
01 文をこのむ王に武のすてられ・いろをこのむ人に正直物のにくまるるがごとく・ 念仏と禅と真言と律とを信ずる代
02 に値うて法華経を・ひろむれば王臣・万民ににくまれて・結句は山中に候へば天いかんが計らわせ給うらむ、 五尺
03 のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命
04 すでに・をはりなんとす、かかるきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度
05 にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに・わづかの・ともしびに・あぶらを入そへられたるがごと
06 し、あわれあわれたうとく・めでたき御心かな、釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか、恐恐謹言。
07       弘安二年十二月廿七日                日 蓮 花 押
08     上野殿御返事
-----―
 日蓮は日本国に生まれて、人を惑わしたことも、盗みをしたこともなく、世間の失は一切ない。末法の法師としては過失の少ない身であるのに、文を好む王の世には武は捨てられ、色好みの者に正直者が憎まれるように、念仏、禅、真言、律宗を信ずる時代に生まれあわせて、法華経を弘めたので、王臣や万民に憎まれ、あげくにこの山中の身となった。諸天がどのようにはからわれるのであろうか。五尺も雪が積もり、もともと人の通わない山道は塞がり、訪ねて来る人もいない。衣服も薄くて寒さを防ぐこともできない。食物も絶えて生命もすでに尽きようとしているときに、生命を妨げるご訪問、一たびは喜び一たびは歎かわしく思う。いっそ、一度に思い切って飢え死にしようと覚悟をきめていた時に白米をお送りいただいたことは、消えかけた灯に油を注がれたようなものである。なんと尊く、めでたい御志であろうか。釈迦仏、法華経が定めて御はからい給われたのであろうか。恐恐謹言。
  弘安二年十二月二十七日       日 蓮  花 押
   上野殿御返事

四十余年
 釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
―――
説時未至故
 法華経方便品第二に「未だ曾て説かざる所以は 説時の未だ至らざるが故なり 今正しく是れ其の時なり 決定して大乗を説く」とある。
―――
こそで
 袖口を狭くした方領の服。平安末から貴族が装束の下に用いた筒袖の肌着で、鎌倉時代からは袂をつけて男女の表着として使用するようになった。冬期の防寒用に厚綿を縫い込んだものもあった。
―――
かたびら
 ここでは、夏に着る、麻、木綿、絹などで作った単衣の着物の意。
―――
ごれう
 ここでは、供物を敬っていう言葉。
―――
仏に土をまいらせて候人・仏となり
 得勝童子、無勝童子のこと。得勝童子は徳勝童子とも書く。二人は王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂の餅を供養した。徳勝が供養し、無勝は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
―――
玉をまいらせて地獄へゆく
 この御文の出典については未詳
―――
わわく
 「おうわく」の変化した語。道に外れた事をして人を惑わすこと。不正、無法。
―――
念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
―――

 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
真言
 真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――

 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
いのちさまたげの御とぶらひ
 身延山中において、食べ物、着る者などすべて不自由し、苦しい生活をされていた大聖人が、飢え死にの覚悟をされていたときの睺供養であると喜ばれている。
――――――――― 
 本抄は、弘安2年(1279)12月27日、日蓮大聖人58歳の御時に身延においてしたためられたものである。年の暮れの12月27日、南条時光が米二俵を御供養してきたことに対し、それが食糧不足で苦しんでおられた時だけに、時にかなった御供養であると感謝されている。
 御真筆は大石寺に現存する。
 最初に「一切の事は時による事に候か」と仰せられ、上野殿の御供養した白米が、身延山におられる日蓮大聖人にとって、いかに時宜を得たものであるかを述べられるにあたって、まず、時が全てにおいて大切であることを強調されている。
 世の中の一切の事象は、時候や時勢の如何によって、その価値・効力に相違が生ずるからである。
 一般に「春は花・秋は月」という慣用語があるが、花も月も、ともに四季を通じてあるにもかかわらず、こう言われるのは、春という時節における桜の花、秋の季節に見る月が最も美しいからであり、このことは、時の大切さを示しているのであると述べられる。
 次に、仏法上に例を求められ、釈尊が世に出たのは、法華経を説くためであったけれども、成道後の40余年の間は、華厳・阿含・方等・般若等の爾前権教を説いて法華経を説かなかった。その理由は、法華経方便品に「説時未だ至らざる故に」と明かしているように、時によったのである。
 さらに、贈り物の例を挙げられ、夏に厚綿の小袖、冬に帷を贈られることは、戴くことにおいては感謝すべきではあるが、しかし、冬に小袖、夏に帷のほうが、時にかなってもっとありがたいことであると述べられている。また、飢えている時の金、渇しているときの御料もありがたいが、これもやはり、飢えている時は御飯が最もありがたいし、渇している時は水に過ぎるものはないと仰せである。
 同じことは、仏への供養についてもいえる。仏に土の餅を供養し、その果報で阿育王となった例もあれば、逆に、玉を供養したために地獄に堕ちた例もあると述べられている。
 次に「日蓮は日本国に生れてわわくせず・ぬすみせず・かたがたのとがなし、末代の法師には・とがうすき身なれども」と述べられ、大聖人御自身に、いかなる世間上の罪もないにもかかわらず、邪法の信仰をされている世に正法を弘めたため種々の難にあい、ついには身延に入山することになったことを仰せである。
 人をたばかったり、盗みをしたりなどのさまざまな世間的な罪を一つも犯していないと説かれていることは御出家の身としては当然のことに思われるが、あえてここに述べられたのは、大聖人御在世時代には、出家僧でありながら、世間上の罪を犯す者が数多くいたからに相違ない。そのことは次の「末代の法師には・とがうすき身」という御文で、大聖人御自身が、末代の出家僧としては過ちの少ない身であるといわれていることにも、うかがわれる。
 その大聖人が、身延の山中での御生活を余議なくされているのは、爾前権教の仏教宗派が信仰されている時代に、実教たる法華経を弘通して、日本国中の上下万民に憎まれたためであるといわれており、ここでも、「時」の問題が関連していると拝することができよう。
 「文をこのむ王に武のすてられ・いろをこのむ人に正直物のにくまるるがごとく」と仰せのように、国王が文を好む時には武は遠ざけられ、また、色好みの者には正直者は憎まれることを例とされて、大聖人御自身、念仏・禅・真言・律という権教の四宗を人々が信ずる時代に、果敢に法華経の弘通をなされたために、王臣万民に憎まれて、結局、身延の山中に住む身となられたのである。
 このことは、一面から見れば、大聖人が「時」にさからっているようであるが、大集経や法華経における釈尊の予言からいって、実教である法華経こそが末法適時の教えであることは明らかである。末法の衆生は法華経による以外救われないのである。にもかかわらず、当時の日本国の衆生は、かたくなに権教に執着して、末法の御本仏・日蓮大聖人の獅子吼に耳を貸そうとしなかった。そればかりか、二度にわたって流罪に処し、その他、さまざまな迫害をもってこれに応えたのである。したがって、本当の意味で〝時〟を知ることができなかったのは、当時の日本国の上下万人であることを知らなければならない。
 一日本国という狭い世界でみれば大聖人は〝時〟に外れているようであるが、仏法の広大なリズムのうえでは大聖人こそ〝時〟にかなっておられるのである。ゆえに大聖人は、別の御書で御自身の弘法の正しさを教・機・時・国・教法流布の先後の五綱に照らして示されるのである。
 最後に身延山中での御生活の厳しさを述べられ、時宣を得た上野殿の御供養をたたえ感謝されている。
 「五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし……食たへて命すでに・をはりなんとす」と記されているように、十二月末といえば冬の厳しい最中であり、交通も途絶して、食物も乏しくなっていたであろう。
 そうした時に、白米一駄を御供養してきた南条時光に対して「あわれたうとく・めでたき御心かな、釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか」と、その信心を賛嘆され、そうした時光の信心に必ず、御本尊の加護があると述べられて、本抄を結ばれている。

1562~1562    上野殿御返事(正月三日御書)top

01   十字六十枚.清酒一筒・薯蕷五十本・柑子二十・串柿一連.送り給び候い畢んぬ、法華経の御宝前にかざり進らせ
02 候、春の始め三日種種の物・法華経の御宝前に捧げ候い畢んぬ。
03   花は開いて果となり.月は出でて必ずみち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさかう.人は善根をなせば
04 必ずさかう、其の上元三の御志元一にも超へ、十字の餅・満月の如し、事事又又申すべく候。
05       弘安三年庚辰正月十一日                       日蓮花押
06     上野殿
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 十字六十枚、清酒一筒、薯蕷五十本、柑子二十、串柿一連を頂戴した。法華経の御宝前にお飾りした。正月三日、種々の物、法華経の御宝前にお捧げした。
 花は咲いて果となり、月は出て必ず満ち、燈は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば繁くなる。同じように人は善根を積めば必ず栄える。そのうえ貴方がお送りくださった正月三日の御志は、元日の御志にも超え、十字の餅は満月のようである。詳しいことはまた申し上げる。
  弘安三年庚辰正月十一日       日 蓮  花 押
   上 野 殿

十字
 「じゅうじ」ともいった。蒸餅のこと。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。十字の呼称については晋書の列伝第三巻に「蒸餅の上に十字を作し坼さざれば食せず」とある。
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薯蕷
 じねんじょのこと。
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柑子
 ミカン科の落葉小喬木。在来ミカンの一種で、耐寒性が強く、種子が多い。果皮は滑らかで薄くむきやすい。
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春の始め三日
 「春」は旧暦では立春と新年がほぼ同じであるところからとくに新年、正月をさしていう。ここでは正月三日のこと。
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善根
 善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
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元三
 1月3日のこと。
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元一
 1月1日のこと。
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 本抄は、弘安3年(1280)正月11日、日蓮大聖人59歳の御時、上野殿に与えられた御手紙である。上野殿が正月3日に種々の御供養を奉ったことに対する返書である。
 御真筆は現存しない。
 上野殿からの御供養の品々を、たしかに受領された旨を述べられ、それらを法華経の御宝前に飾って供え奉ったことを記されている。
 そして、花が開いて、やがて果実がなるように、月が一夜ごとに満ちていくように、燈が油をさすと、ますます光を増していくように、草木は雨が降ると栄えるように、人も善根を積むと、必ず栄えると述べられている。そして、上野殿の御供養が大きな善根となることを強調され、ますますの繁栄をもたらしていくであろうと賛嘆されている。
 「元三の御志元一にも超へ」と仰せのように、上野殿は元日にも御供養したのであるが、一日おいて三日にも、それを上回る種々の品を御供養したのであり、その絶えることのない真心を大聖人は深く讃えられているのである。

1563~1564    上野殿御返事(孝不孝御書)top

01   故上野殿・御忌日の僧料米一たはら・たしかに給び候い畢んぬ、御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいら
02 せ候べし。
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 故上野殿の御忌日の僧饍料として、米一俵、たしかに頂戴した。御仏前に御供えして、自我偈一巻を読みまいらせよう。
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03   孝養と申すは・まづ不孝を知りて孝をしるべし、不孝と申すは酉夢と云う者・父を打ちしかば天雷身をさく・班
04 婦と申せし者・母をのりしかば毒蛇来りてのみき、 阿闍世王・父をころせしかば白癩病の人となりにき、波瑠璃王
05 は親をころせしかば 河上に火出でて現身に無間にをちにき、 他人をころしたるには・ いまだかくの如くの例な
06 し。
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 孝養ということについては、まず不孝を知ってこそ、孝を知ることができる。不孝といえば、酉夢という者が父を打ったところが、雷が落ちて身を裂かれ、班婦という者は母をのりしったところ、毒蛇が来て呑んでしまった。阿闍世王は父王を殺したために白癩病の人となった。波瑠璃王は親を殺したため、河の上で焼死し、生きながら無間地獄に堕ちた。他人を殺した者にはいまだにこのような例はない。
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07   不孝をもつて思ふに孝養の功徳のおほきなる事も・しられたり、外典三千余巻は他事なし・ただ父母の孝養ばか
08 りなり、 しかれども現世をやしなひて後生をたすけず、 父母の恩のおもき事は大海のごとし・現世をやしなひ後
09 生をたすけざれば・一渧のごとし、 内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十
10 余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず・孝が中の不孝なるべし、 目連尊者の母の餓鬼道の苦を
11 すくひしは・わづかに人天の苦をすくひて・いまだ成仏のみちにはいれず、 釈迦如来は御年三十の時・父浄飯王に
12 法を説いて第四果をえせしめ給へり、 母の摩耶夫人をば御年三十八の時・阿羅漢果をえせしめ給へり、 此等は孝
13 養ににたれども還つて仏に不孝のとがあり、 わづかに六道をば・ はなれしめたれども父母をば永不成仏の道に入
14 れ給へり、譬へば太子を凡下の者となし王女を匹夫に・ あはせたるが如し、 されば仏説いて云く「我則ち慳貪に
15 堕せん此の事は為て不可なり」云云、 仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人・ 清酒をおしみて濁酒をのま
1564
01 せたる不孝第一の人なり、 波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち・阿闍世王の如く即身に白癩病をも・つぎぬべ
02 かりしが、 四十二年と申せしに法華経を説き給いて 「是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於
03 て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」と、 父母の御孝養のため 法華経を説き給いしかば、 宝浄世界の
04 多宝仏も実の孝養の仏なりと・ ほめ給い・十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉り
05 き。
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 これらの不孝の報いから、孝養の功徳の大きいこともわかる。
 外典三千余巻はただ父母への孝養を教えたのであり、他の事は何もない。しかし、現世だけの孝養で、親の後生を助けることはない。父母の恩の重く深いことは大海のようであり、現世だけを養い、後生を助けないのは一渧のようなものである。
 内典五千余巻もまた、他事はない。ただ父母の孝養の功徳を説いたものである。しかし、法華経以前の四十余年の釈尊の説教は、孝養を説いているようであっても、未だ真実義を顕していないから孝のなかの不孝というべきであろう。
 目連尊者が母の餓鬼道の苦しみを救ったことも、わずかに人界、天界まで救い上げただけで、未だ成仏の道には入れていない。釈尊は御年三十の時、父王の浄飯王に法を説いて第四の阿羅漢果を得させられ、三十八歳の時に母の摩耶夫人に阿羅漢果を得させられた。しかし、これらは孝養に似ているがかえって不孝の失をまぬかれない。なぜかなら、これによってわずかに六道の苦を離れさせたけれども、かえって父母を永不成仏の道に入れてしまわれたからである。たとえば太子を凡下の民に下したり、王女を身分の賤しい男に嫁がせたようなものである。
 それゆえに仏は法華経方便品に「もし真実の法を説かなかったら自分は慳貪の罪に堕ちるであろう。このことは何としてもよくない」と説かれている。仏は父母に甘露を惜しんで麦飯を与えた人であり、清酒を惜しんで濁酒を飲ませた不孝第一の人である。波瑠璃王のように生きながら無間地獄に堕ち、阿闍世王のように即身に白癩病をも受け継ぐべきところであったが、成道して四十二年に法華経を説かれ、「滅度の想いを生じて涅槃に入った二乗も、彼の土で仏の智慧を求めて、是の経を聞くことができるであろう」と。父母の御孝養のために法華経を説かれたので、宝浄世界から来られた多宝仏も、「真の孝養の仏である」と称歎され、十方の諸仏も来集されて「一切の諸仏のなかで孝養第一の仏である」と定められたのである。
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06   これをもつて案ずるに日本国の人は皆不孝の仁ぞかし、 涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給
07 へり、 されば天の日月・八万四千の星・各いかりをなし・眼をいからかして日本国をにらめ給ふ、今の陰陽師の天
08 変・頻りなりと奏し申す是なり、 地夭・日日に起りて大海の上に小船をうかべたるが如し、 今の日本国の小児は
09 魄をうしなひ・女人は血をはく是なり。
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 このことから考えるに、日本国の人は皆、不孝の人というべきである。仏は涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多い、と説かれている。それゆえに天の日月、八万四千の星が、それぞれ怒りをなし、眼をいからして日本国を睨みつけているのである。今の陰陽師が、天変がしきりに起こっていると奏上しているのはこのことである。また地夭が日々に起き、   日本国はちょうど、大海の上に小船を浮かべたようなものである。今の日本国の小児が魂を失い、女人が血を吐くのはこのためである。
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10   貴辺は日本国・第一の孝養の人なり.梵天・帝釈をり下りて左右の羽となり.四方の地神は足をいただいて父母と
11 あをぎ給うらん、事多しと・いへども・とどめ候い畢んぬ、恐恐謹言。
12       弘安三年三月八日                    日蓮花押
13     進上 上野殿御返事
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 貴辺は日本国第一の孝養の人である。梵天・帝釈等は下り来って、左右の羽となり、四方の地神は貴方の足をいただいて、父母と仰ぐことであろう。なお申し上げたいが、これで筆を止める。恐恐謹言。
  弘安三年三月八日           日 蓮 花 押

   進上 上野殿御返事

故上野殿
 (~1265)。南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆の国市)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となったので上野殿と呼ばれる。文永2年(1265)3月に逝去した。
―――
自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
―――
酉夢
 中国の伝説上の人物で、父を打って雷に身を裂かれたという。また異説もあり、宝物集巻一によれば「酉夢母を罵詈しかば天雷其身を裂く……」と母を罵詈したことになっている。
―――
班婦
 中国の伝説上の人物と思われるが未詳。
―――
阿闍世王
 阿闍世は梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。漢訳して未生怨という。釈尊在世当時の中インド・マガダ国の王。父は頻婆娑羅王、母は韋提希夫人。太子であった時、提婆達多と結び、仏教の外護者であった父王を監禁し、獄死させて王位についた。釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行なった。後、身体に悪瘡ができたことによって仏教に帰依し、釈尊滅後、第一回仏典結集を外護した。
―――
白癩病
 癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。
―――
波瑠璃王
 梵語ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳する。釈尊在世時の舎衛国の王。大唐西域記巻六等によると、父王波斯匿と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。その数9,999万人といわれ、血が流れて池となった。それから7日後、釈尊の予言通り河上に舟を浮かべ歓楽にふけっているさなか、火災が起き、火につつまれて死に、無間地獄に堕ちたという。
―――
外典三千余巻
 「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
―――
内典五千余巻
 内典とは仏教経典のこと。開元釈教録によれば、5048巻に収められているところから、こう呼ばれる。
―――
目連尊者
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
―――
浄飯王
 梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。
―――
第四果
 小乗経における声聞の四果の第四・阿羅漢果をさす。四果とは雑阿含経、大毘婆娑論などに説かれている須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果のこと。
―――
摩耶夫人
 善覚長者の長女で浄飯王の后」となる。釈尊を産んで7日後に死亡している。
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阿羅漢果
 小乗教における声聞の四果の第四。小乗の最高の悟りの境地。
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六道
 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
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永不成仏
 声聞・縁覚の二乗は、無余涅槃に入って仏種を断ずるゆえに、未来永劫、成仏できないものであると、爾前の諸教に説かれている。法華経にきてはじめて十界互具が明かされて成仏できた。
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匹夫
 身分のいやしい男。また、道理をわきまえない男。
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「我則ち慳貪に堕せん此の事は為て不可なり」
 法華経方便品第二の文。爾前の諸経のみを説き、真実の法である法華経を説かないならば、仏も慳貪の罪に堕ちるといわれている。
―――
慳貪
 慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
―――
甘露
 ①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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現身
 ①現世に生きている身、現在の身。②仏・菩薩が衆生救済のために種々の身を化現することをいう。
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無間大城
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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四十二年
 釈尊が30歳の時、菩提樹下で成道してから法華経を説くまでの期間。
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宝浄世界
 多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
―――
多宝仏
 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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十方の諸仏
 十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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陰陽師
 中国から伝わった陰陽および五行の思想にもとずいて、ぼくちく・天文・暦あるいは疾病治療などのための技術的知識を持った人のこと。我が国に陰陽道が伝えられたのは推古天皇の時代に、百済の僧観勒がつたえたのがはじまりといわれる。その後、奈良・平安時代には律令制度のもと、中務省の所管におかれ、次第に盛んに行われるようになった。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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 本抄は、日蓮大聖人が59歳の御時、弘安3年(1280)3月8日、身延において御述作の書である。この日は、南条時光の亡父南条兵七郎入道行増の第16回の命日に当たっており、時光から大聖人のもとへ、亡父への追善回向のために、御僧膳料として米一俵を御供養されたことに対する御返事である。なお、本抄の御真筆は現存していない。
 本抄の大要は、はじめに時光が亡き父の追善回向のために御供養してきたことに対し、孝養の尊さを不孝の罪との対比によって示され、孝養こそ、外典・内典が共通して説いているものであるが、真実の孝養は法華経による以外にないことを述べられている。そして、日本中の人が法華経に背いて不孝の罪を犯しているために天変地夭が起こっていることを強調され、その反対に法華経による孝養を尽くしている南条時光には諸天の加護があることを教えられて結ばれている。
孝養と申すは・まづ不孝を知りて孝をしるべし
 孝養がいかに大事であるかは、不孝がいかに恐るべき悪業であるかを知ることによって明確になるとの仰せである。そして、不孝の罪によって恐ろしい報いを受けた酉夢、班婦、阿闍世王、波瑠璃王の例を示されているのであるが、このように、孝養に背く罪が大きいことは、逆に、孝養の功徳の大なることをあらわすのである。
 では、なぜ、そのように孝養が大事であるかといえば、生命の尊極性のゆえである。すなわち、この人生における生命を誕生させ、養育してくれたのが父母であり、最高の恩恵をもたらしてくれた人である。したがって、恩ある父母に孝養を尽くすことが大切なのである。それに対して父母を害することは、最も甚だしい忘恩であり、自らの生命の尊さをないがしろにしていることであるがゆえに、他のいかなる人を害するよりも大きな罪となるのである。
外典三千余巻は他事なし・ただ父母の孝養ばかりなり、しかれども現世をやしなひて後生をたすけず
 中国の儒教・道教の教えている究極は、父母への孝養である。しかし、それは、現世での孝養のみであって、死後の苦を救うことはできない。なぜなら、儒教・道教は、三世の生命観を説かず、したがって、死後の苦楽の因果律をもちろん明かしていないからである。
 父母の恩の重さは大海のように広大であるが、現世だけの孝養は、一しずくの水のように僅かなものである、と仰せである。
 どんなに、現在の人生においては親孝行を尽くして親を幸せにしたとしても、死後の地獄などの苦しみから親を救えなかったならば、真実の孝養とはいえない。今世での苦しみにくらべて、死後の地獄・餓鬼・畜生などの悪道の苦しみの方が何千億倍も過酷であり、その期間も長いからである。まさに大海と一滴の違いがあるといわなければならない。
 また、親が与えてくれた恩は、この世における生命であるが、この生命の尊さは広大無辺であり、何ものにも代えられるものではない。しかるに、子が現世で親に対してなす孝養は、物質的に不自由させないといったことであり、生命の尊さに較べれば、大海と一滴の相違があるといわなければならないであろう。
内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり云云
 仏教の教えていることも、究極は孝養の功徳であるとの仰せである。
 もとより、仏教は儒教のように倫理に終始しているわけではないし、いわゆる孝行を終局の目標と教えているわけでもない。だが、生命の尊厳の確立を根本に、福徳と智慧を得ることによって、現世での真実の孝養の道を開くとともに、永遠の生命観の上から、死後の生命に対しても功徳を回向することにより、絶対的な孝養を可能にしたのである。
 ただし、その仏教の中でも、一切衆生の成仏を説かない爾前経では、父母を成仏させることはできないから、ほんとうの意味での孝養は尽くせない。
 目連尊者が聖僧への供養によって、餓鬼道から母・青提女を救ったというのも、ようやく人界・天界へ救い上げたにすぎない。釈尊自身、成道後まもなく父・浄飯王を化導したが、小乗の法を説いて声聞の極位である阿羅漢果に導いたにすぎなかった。また、その後、釈尊の生後7日で亡くなった母・摩耶夫人の魂を救ったが、これも阿羅漢果に入れたということにほかならない。
 これらが爾前経での孝養の例であるが、人天にとどまっていては未だ無常をまぬかれないし、声聞の阿羅漢果は無常を超えているとはいうものの、諸大乗教で釈尊自身、永不成仏の解脱の落とし穴であると弾呵しているものであり、父母をそこへ入れたということは、かえって、大変な親不孝といわざるを得ないのである。
四十二年と申せしに法華経を説き給いて……一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき
 爾前経では成仏できないとされてきた女人も、二乗も、悪人も含めて、一切衆生の成仏を説かれたのが法華経である。もし、法華経が説かれなかったならば、二乗不作仏のゆえに、すでに阿羅漢果に入っていた釈尊の父母は成仏できなかったし、とくに母・摩耶夫人は女人不成仏も加わって、なおのこと、成仏は望みえなかったであろう。
 二乗が永久に成仏できないとされたのは、二乗は利己主義の穴に落ちるからであった。では、なぜ利己主義の穴に落ちるかといえば、爾前経で明かされた成仏の修行は、きわめてすぐれた素質を持つ人が、超人的ともいうべき忍耐と精進によってはじめて実行しうるもので、一般大衆には到底、不可能であったから、二乗は人々にこうした修行を教え、導こうとする気持ちを失ってしまったからであると考えられる。
 それに対し、法華経においては、一切衆生に本来、仏性のあることが明かされ、この法華経の正法を信ずることによって、いかなる衆生も成仏できることが示されたのであった。ゆえに、二乗は、この法華経を説き示せば、いかなる人も成仏への道に入らせることができるので、利己の穴を出で、大いに利他・化導に励む希望と勇気を持つことができたのである。
 ともあれ、釈尊の孝養という観点から見れば、法華経によって、釈尊自身の父母の成仏も可能となったのであるから「父母の御孝養のため法華経を説き給」うたことになるのであり、その法華経が真実であることを多宝・十方の諸仏が証明したことも、結局、釈尊の孝養をほめ讃えたことになるのである。
これをもつて案ずるに日本国の人は皆不孝の仁ぞかし……貴辺は日本国・第一の孝養の人なり
 一切衆生皆成仏道の法華経に背いて、方便権教である念仏・真言等を信仰し、法華経の行者たる日蓮大聖人を誹謗し迫害している日本国の人々は、真実の孝養の経である法華経に背いているのであるから「皆不孝の仁」となる。不孝がいかに大きい罪業であるかは本抄のはじめに述べられている通りで、したがって、現世には「天の日月」「八万四千の星」が怒って「日本国をにらめ」、「地夭・日日に起り」という天災地変が頻発しているのであるとの御指摘である。
 天の日月・八万四千の星が怒って日本国をにらんでいるとは、日食・月食が頻繁に起こったり、二つも三つも太陽が見える幻日現象であり、また、彗星の出現等の天変である。「地夭・日日に起りて大海の上に小船をうかべたるが如し」とは、大地震をさしていわれていることはいうまでもない。
 「今の日本国の小児は魄をうしなひ・女人は血をはく是なり」といわれているのは、当時、そうした病が頻発したのではないかと考えられる。
 この日本中の人々の大不孝に対し、日蓮大聖人に帰依して妙法の信仰に励みながら、こうして追善回向を怠らない南条時光は最高に孝養の人というべきであり、したがって、梵天・帝釈等の諸天善神の加護が必ずあると述べられて本抄を結ばれている。

1564~1565    上野殿御返事(熱原外護事)top

01   去ぬる六月十五日のけさん悦び入つて候、 さては・かうぬし等が事いままでかかへをかせ給いて候事ありがた
02 く・をぼへ候、ただし・ないないは法華経をあだませ給うにては候へども・うへには・たの事によせて事かづけ・に
1565
01 くまるるかのゆへに・あつわらのものに事をよせて・かしこ・ここをもせかれ候こそ候いめれ、 さればとて上に事
02 をよせて・せかれ候はんに御もちゐ候はずは物をぼへぬ人に・ならせ給うべし、 をかせ給いて・あしかりぬべきや
03 うにて候わば・しばらく・かうぬし等をば・これへとをほせ候べし、めこなんどはそれに候とも・よも御たづねは候
04 はじ、事のしづまるまで・それに・をかせ給いて候わば・よろしく候いなんと・をぼへ候。
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 去る六月十五日のご面会、大変うれしく思っている。さて神主等を今日まで庇護されていること、ありがたく思っている。ただし、内々は法華経を怨敵としていても、表面には他の事にかこつけて憎まれるのが常であるから、熱原の者に事寄せて、ここ、かしこと妨げられるのであろう。そうかといって、上に事を寄せて、妨げられるのに、従わなければ、ものをわきまえぬ人になってしまわれる。神主等を置かれてはまずいようならば、しばらくこちらに来るように申されたい。妻子などはそちらに置いても、まさか捜されるようなことはないであろう。事が静まるまでそちらに置かれたならばよいように思う。
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05   よのなか上につけ下によせて.なげきこそををく候へ、よにある人人をば・よになき人人は・きじの・たかをみ.
06 がきの毘沙門をたのしむがごとく候へども・たかはわしにつかまれ、びしやもんは・すらにせめらる、 そのやうに
07 当時・日本国のたのしき人人は蒙古国の事をききては・ひつじの虎の声を聞くがごとし、 また筑紫へおもむきて・
08 いとをしきめを.はなれ子をみぬは・皮をはぎ・肉をやぶるが・ごとくにこそ候らめ、いわうや.かの国より・おしよ
09 せなば蛇の口のかえる・はうちやうしがまないたに・をける・こゐふなのごとくこそおもはれ候らめ、 今生はさて
10 をきぬ・ 命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふべし、 我等は法華経をたのみまいらせて候へば・あさき
11 ふちに魚のすむが・天くもりて雨のふらんとするを魚のよろこぶが・ごとし。
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 世の中は上につけ下に寄せて、とかく嘆き悲しむことが多い。栄えて世にある人を、貧しく世に用いられない人々が、雉が鷹を見るように怖れ、餓鬼が毘沙門をすばらしいとうらやむようなものであるが、その鷹は鷲に摑まれ、毘沙門は修羅に責められるのである。 
 同じように、今日本国で富み栄えている人々は、蒙古国が攻めてくることを聞いては、羊が虎の声を聞いたように怖れるのである。また筑紫へ行き、愛する妻と別れ、子と会えなくなることは、生皮を剥がれ、肉をえぐられるような苦しみであろう。いわんや蒙古国から押し寄せて来たならば蛇の口のかえるか、料理人の俎の上に置かれた鯉か鮒のようなものである。今生はさしおいて、死んだなら一百三十六の地獄に堕ちて無量劫を経るであろう。
 我等は法華経を信じているから、今は浅い淵に住んで苦しんでいる魚が、やがて天が曇って雨の降るのを喜ぶようなものである。
-----―
12   しばらくの苦こそ候とも.ついには・たのしかるべし、国王一人の太子のごとし・いかでか位につかざらんと.お
13 ぼしめし候へ、恐恐謹言。
14       弘安三年七月二日                    日蓮花押
15     上野殿御返事
16   人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし。
-----―
 しばらくの間苦しいことはあっても、未来は必ず楽しみとなるのである。たとえば国王のたった一人の太子が、必ず位を継ぐように、我等もどうして成仏できないことがあろうか。恐恐謹言。
       弘安三年七月二日                    日蓮花押
     上野殿御返事
 人に知らせないで、ひそかに神主等に知らせなさい。

かうぬし
 神主のこと。神に仕える人で神官熱原新福地神社の神主で下級の神職であった。法華経の信仰に帰依したため行智や代官から嫌われ追われていたのを、南条時光が匿ったと思われる。
―――
餓鬼
 梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
―――
毘沙門
 毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
―――
すら
 阿修羅のこと。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「」(0430-)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
―――
蒙古国の事
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
筑紫
 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
―――
一百三十六の地獄
 長阿含経、倶舎論、正法念経等に説かれている。大小の地獄の全体の数で、八熱地獄は等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻地獄のおのおのに十六の別処があり、合わせて百二十八、これに八大地獄を加えて一百三十六の地獄となる。
―――
無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
―――――――――
 本抄は、南条時光に与えられた御手紙で、日蓮大聖人が59歳の御時、弘安3年(1280)7月2日、身延において御述作された。御真筆は大石寺にある。
 弘安3年(1280)7月といえば、熱原法難の頂点というべき神四郎らの処刑から約9ヵ月後にあたるが、いまだ法難が終息したわけではなく、熱原の関係者に対する厳しい追及が行われていたことが本抄からうかがわれる。
 本抄では、まず、過日、南条七郎次郎時光と七郎五郎の兄弟が身延の大聖人のところへ元気な姿をみせたことを悦ばれている。次に妙法に帰依したため法難によって安住の地を失った神主とその妻子等を南条家に保護していることについて感謝され、追及がなおも厳しくなるようならば、身延へ寄越すよう指示されている。そして、現世の苦難はだれびとにもあり、避けることはできないが、正法の信心なき世の人々の苦が、後生は地獄であるのに対して、妙法受持の人は、最後は大楽を受けることを述べられている。
 さて、弘安3年(1280)6月15日に、南条七郎次郎時光が弟の七郎五郎をともない、身延を訪れたのは、地頭の立場にありながら、反法華の権力側の追及から、同信の者達を守るため、大聖人から種々の御指南を仰ぐことが一つの目的であったろうと拝察される。
 また、もう一つは16歳になり、いわゆる成人した弟・七郎五郎を大聖人にご紹介するためであったとも考えられる。しかし、七郎五郎は、このすぐ後の九月初旬、死去したことが、9月6日御述作の「上野殿御書」に見られる。
 「さては・かうぬし等が事……」の段の神主とは、日興上人の弟子分帳によると「富士下方熱原新福地の神主は下野房の弟子なり。仍て日興之を与え申す」と記されており、日興上人のもとに富士方面の弘教に活躍していた下野房日秀の縁で大聖人の仏法に帰依していたのである。法難の時、日秀も、ともに弘教・化導の任にあたっていた日弁も、富士方面での厳しい難を避けて、やむなく下総の地に移っている。
 熱原法難は、弘安2年(1279)9月、熱原郷の農民信徒を、この地が北条氏の直轄領でもあるところから、幕府権力を背景にして反法華党の勢力が弾圧、処罰した事件である。この勢いに乗じて反法華党は、更に法華宗を根絶しようとして、追及の手をゆるめなかった。
 この神主について堀日亨上人は、「現今の富士宮市の浅間神社から分社した吉原市・三日市場の地にある浅間神社の祠官であり、下級の神職である」と記されている。そして、この神主は、勇猛な信仰に励み、そのため、かねてから反法華の元凶である熱原・滝泉寺の院主代・行智や、代官達から、ねらわれていた。だが、農民信徒達が稲刈りの時に反法華党の襲撃を受けた際は、現場にいなかったため、捕らえられずにいたのである。しかし、その後も、ずっと目をつけられて、安住の地を失うことになったと解説されている。
 時光はこのような窮地にいた神主等を、かくまい保護していたのである。それは、法難の根源地である下方荘熱原郷付近の下方政所管内にいたのでは危険であるため、管轄違いの上方荘上野郷の南条家に避難させたのである。南条家が大聖人の門下であり、強信者であることは知られており、疑いの目で見られ、政治的行政上の圧迫がさまざまに加えられていた。南条時光は、この苦難の中で、厳然と同信の人々を保護していたわけである。
 このような時光の外護の任を称賛された上で、大聖人は「ただし……」と仰せられ、行方を厳しく追及されている神主を、かくまい、当家にとどめておくことが、賢明な判断かどうか細心の配慮をされているのである。
 ここで、大聖人は、末法における法華経の信心実践に対して、どのような形で法難が起き、迫害が加えられてくるかに論及され、そのことをよく知ったうえで対処するように、注意されていると拝される。
 すなわち法華宗に対する迫害は「ないないは法華経をあだませ給う」と、法華経の敵視がその本心である。だが、まともに法華経の法義と対決し、その信仰実践を非難、攻撃をしてくるようなことはない。実際に事を起す場合は「たの事によせて事かづけ・にくまるる」と、すなわち表面上は他のことにかこつけて憎み、非を鳴らすのが常套手段であるというのである。
 「他のことにこかこつける」とは、仏法以外の世法・国法上の過失などを暴きたてて、社会的な面から制裁を加え、弾圧してくるのである。事実、熱原法難の場合も、当地域に折伏・弘教が次第に進み・法華帰依の僧侶が増えてきたのに怖れをなした反法華の勢力が法華宗の信徒を弾圧するために、これら農民信徒達が「院主の田から稲を刈り取って盗んでいる」ということで、稲刈りの現場を襲撃して捕らえ、デタラメの告訴状を作って、盗みの罪で弾圧したのである。その後も、熱原の関係者に対する官憲の調査・追及は厳しく行われ、神主もその一人として、目をつけられていたわけである。
 だからといって、南条時光の場合、幕府の御家人たる地頭の立場にいるだけに、たとえその底意が反法華によるものであっても、「上に事をよせて」、すなわち幕府の命令・指示ということで圧迫されたならば、それに、ことごとに反抗して従わなければ「物をぼへぬ人」すなわち道理をわきまえない、愚迷の人となり、社会的、政治的に信頼を失い、地頭としての職務遂行に支障をきたすであろうことを大聖人は御心配されているのである。
 現実に、時光の場合は、幕府から熱原の関係者をかくまっているのではないかと疑われ、行政上に託して種々の圧迫を加えられた。過分の租税や人足の割り当てを課せられ、時光が乗る馬さえなく、家族は衣食に事欠く苦労をしたのである。
 このような、南条家の立場を配慮され、状況が悪いと判断したならば、神主等にしばらく当地を離れ、身延の方へ行くようにいいなさい、と指示されているのである。しかも追申では、事をはこぶにあたっては「人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし」と述べておられることからも、いかに厳しい環境のもとにあったかがうかがわれる。
 「よのなか上につけ下によせて……」からの後半の段では、法難の中で苦闘している信徒達に対して妙法受持の者は必ず未来永遠の成仏の大楽を得られるのであるから、今生の一時的苦難などに負けず、難を乗り越える覚悟の信心を全うするように、訓誡されている。
 「よのなか上につけ下によせて・なげきこそををく候へ」との仰せは、人間は、ともすると、自分だけが苦労し、不幸であるかのように思いがちであるが、苦しめている立場の権力者も、更に大きな力によって苦しめられていることがあり、この当時も日本中が蒙古襲来という大苦にあっていることを指摘されている。
 今世の苦楽を相対的に見れば、一方に「よになき人人」つまり、社会的に不遇の人等がある。このような境遇にある人々から見れば、「よにある人々」、すなわち社会の陽の当たる道を生きている権力者、有名人、成功者、富める人等は、実に幸福そうであり、うらやましい存在として目に映る。
 しかし、それは、ちょうど「きじの・たかをみ・がきの毘沙門をたのしむ」ようなものである。だが、その鷹も「わしにつかまれ」毘沙門も「すらにせめらる」のであり、それぞれに苦しみがある。
 大聖人一門を迫害している権力者は鷹のようなもので、大聖人一門は雉の立場である。権力を謳歌している連中を毘沙門とすると、社会的弱者である大聖人門下の人々は餓鬼の立場である。しかし鷹も鷲という更に強い敵に怯えているのであり、毘沙門も修羅に責められる立場である。この鷲や修羅にあたるのは世界的に強大な戦力を誇っていた蒙古軍であった。日本の国土・社会を基盤として安穏な生活を築いていた「たのしき人々」も、蒙古軍の侵略にあえば、不安と恐怖にとらわれ、防備のための九州派遣で親兄弟・妻子との「皮をはぎ・身をやぶる」ような愛別離苦を味わい、そして蒙古軍に破られて「蛇の口の蛙、俎上の鯉鮒」のような大苦悩に転落してしまうのである。
 しかも、今生における苦しみでなく、彼等は法華誹謗の罪業によって「命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふべし」と仰せのように、死後は地獄に堕ちるのである。死後の地獄の苦しみは、今生にあういかなる苦しみをも超えるものであり、その長さも無量劫という想像を絶するものである。
 これに対して「我等は法華経をたのみまいらせて候へば……しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし」と仰せのように、妙法受持の人は、今世は苦しみにあっていても、それは、この一生という「しばらく」のことであり、死後は成仏を遂げ絶対的な幸福境界に住することができるのである。
 それは、国王の位を必ず継ぐ唯一人の太子と同じで、仏の種子である妙法を受持する者は、必ず成仏することができるのである。だから、どんなことがあろうと、妙法への信心を持続することが大事であると励まされているのである。

1566~1566    上野殿御返事(子宝書)top

01   女子は門をひらく・男子は家をつぐ・日本国を知つても子なくは誰にか・つがすべき、財を大千にみてても子な
02 くばだれにかゆづるべき、 されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ、内典五千余巻には子なき人を貧人とい
03 ふ、女子一人・男子一人・たとへば天には日月のごとく・地には東西にかたどれり、鳥の二つのはね・車の二つのわ
04 なり、さればこの男子をば日若御前と申させ給へ、くはしくは又又申すべし。
05       弘安三年八月二十六日                日 蓮 花 押
06     上野殿御返事
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 女子は家門を開き、男子は家を継ぐものである。日本国を治める身となっても子がなければだれに継がせたらいいか。財宝を三千大千世界に満ちるほど得ることができても子がなければだれに譲ることができようか。それゆえに、外典三千余巻には子のある人を長者といい、内典五千余巻には子のない人を貧人と説かれている。
 女子一人、男子一人の子持ちである。たとえば天に日月、地には東西があるように、また鳥に二つの羽、車に両輪があるようなものである。そこで、この男子を日若御前と呼ばれるがよい。詳しくはまた申し上げる。
  弘安三年八月二十六日        日 蓮  花 押
   上野殿御返事

大千
 大千世界とも三千大千世界ともいう。古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
外典三千余巻
 「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
―――
内典五千余巻
 内典とは仏教経典のこと。開元釈教録によれば、5048巻に収められているところから、こう呼ばれる。
―――
日若御前
 南条時光の長男・左衛門太郎のことと思われるが、未詳。
―――――――――
 本抄は弘安3年(1280)8月26日、大聖人が聖寿59歳の御時、駿河国上野の南条時光に与えられた御手紙である。御真筆は存していないが、日興上人の写本が大石寺に現存する。
 男子が誕生したことを喜ばれ、名前を「日若御前」と名づけられているところから「日若御前誕生事」「子宝書」との別名がある。
女子は門をひらく・男子は家をつぐ
 最初に男子と女子の役割の違いについて述べられている。「女子は門をひらく」とは、女子は他家に嫁いで、家門を広げていくのに対し「男子は家をつぐ」すなわち、家系を継いでいくことになる。子孫を残すという面においては、ともに大切な存在であることは違いがないが、女性には「門をひらく」と仰せのように、横に広げていくという特色がある。それに対し、男性は「家をつぐ」すなわち、名を継いで、縦に存続させていく点に特色がある。とくに長男の場合は、名を継ぐのみではなく、家そのものを継ぐという役割をもっているのである。
 現在では、「家」の概念が大聖人御在世ほど強くなくなった。しかし、大聖人の御在世当時の武士にとっては、家を継ぐ子がいるかどうかということは、まことに重要であった。したがって、男子を産めない嫁は、資格がないとされ、「嫁して三年子なきは去れ」とまでいわれたのである。
 まして「日本国を知つても子なくは誰にか・つがすべき、財を大千にみてても子なくばだれにかゆづるべき」と仰せのように、権門勢家の場合、世継ぎがいないということは深刻な悩みであり、家を継ぐべき男児の誕生は大変な喜びであった。南条時光は上野郷の地頭であり、男児誕生を大聖人は、心から喜ばれているのである。
 されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ云云
 「されば外典……」の外典とは、ここでは中国の儒教等の典籍をさす。儒教は道徳を中心にした思想であるが、親子における倫理はその中心をなすものの一つであり、有名な「孝経」などがある。
 もちろん、子を何よりの宝とするのは、儒教に限らない。思想というより、むしろ人間のもつ自然な感情の次元であろう。日本の万葉集にも、山上憶良の長歌に子らを思う歌があり、その後に添えられた「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」という反歌は有名である。
 仏教において子がいないのを貧人というのは、単に現世に孝行をしてくれる人がいないというのみではなく、親が死んだ後、子供が追善供養によって親を救うことができない意味も含められているのである。大聖人は千日尼に与えられた御手紙で、子は宝であるとして、心地観経の文を挙げておられる。
 「其の男女は勝福を追うをもって大金光あって地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟して発意せしめん」と。
 これは子は親からどれほど恩を受けているかを説いたなかで、子は親に何ができるかを示した部分である。父母の没後にさまざまな功徳を修めれば、亡くなった父母はその追善供養の力で罪を滅する功徳を得ることができると説いているのである。
 大聖人は、さらに、安足国王、目連、浄蔵・浄眼の例を挙げて「子にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし」(1322-07)と、子が最高の宝であることを強調しておられる。
女子一人・男子一人・たとへば天には日月のごとく・地には東西にかたどれり
 本抄では、次いで、時光が男子一人、女子一人を得たことは、あたかも天には日月、地には東西のように、また鳥の二つの羽、車の二つの輪のように理想的なことであると仰せになっている。冒頭に「女子は門をひらく・男子は家をつぐ」と仰せのように、男児・女児とそろっていることはすばらしいことであるとの意で、大聖人が男女を平等に考えておられたことは、この御文からも明白である。法華経の思想は一切衆生皆成仏道であり、そこには男女の差別などないのが当然であって諸法実相抄には「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360-08)と明瞭に仰せられている。
 大聖人は、生まれてきた男児に「日若御前」の名を与えられているが、日蓮大聖人の日の一字を頂戴したうえに、若々しく未来へすくすくと伸びゆく姿が彷彿とする素晴らしい名前である。時光はどれほど歓喜したことであろう。

1566~1566    南条殿御返事(五郎殿悲報事)top

01   はくまいひとふくろ.いも一だ給び了んぬ、抑故なんでうの七らうごらうどのの事、いままでは・ゆめかゆめか.
02 まぼろしか・まぼろしかとうたがいて・そらごととのみをもひて候へば・此の御ふみにも・あそばされて候、 さて
03 は、まことかまことかとはじめて・うたがいいできたりて候。
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 白米一袋、芋一駄を頂戴した、故南条七郎五郎殿のこと、今までは夢か夢か、幻か幻かと疑い虚事とばかり思っていたが、この御手紙にも、五郎殿の逝去のことが記されており、さては真実であろうかと、はじめてそう思うことが出てきたようである。

故なんでうの七らうごらう
 (1265~1280)。南条兵衛七郎の五男。誕生以前に父が死亡し、母の手で育てられた。弘安3年(1280)6月15日、兄の時光とともに御供養をたずさえて身延の日蓮大聖人を訪ね、お会いしている。しかし、同年9月、突然死去した。
―――――――――
 本抄は、宛名は記されていなが「故なんでうの七らうごらうどのの事」とある御文から、南条時光に与えられたものと推定されている。七郎五郎は南条兵衛七郎の五男で時光の弟である。
 本抄は御執筆の年月も不明であるが、弘安3年(1280)10月24日の「上野殿母御前御返事」に「かかるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給いて・今日は四十九日にならせ給へば」(1570-17)と仰せの御文から、七郎五郎は九月五日に死去したと推察され、本抄はそれから間もないころの御手紙であろうと思われる。
 なお、本抄の御真筆は大石寺に現存する。
 最初に、時光からの御供養である「はくまいひとふくろ・いも一だ」をたしかに受領された旨を記されている。
 次いで、時光の弟である七郎五郎の死去に触れられ、今までは七郎五郎の死去が信じられず、夢か幻かと疑ってきたが、時光の手紙からすると、やはり本当のことであったかと悲しまれている。時光は御供養とともに、七郎五郎の死について御報告したのであろう。初七日か何かの報告であったかもしれない。
 その根拠としては、悲報に接して直ちに母御前にあててしたためられたと思われる同年9月6日の上野殿御書でさまざまな配慮を込めた指導をされているなかで、悲報に接して「ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」(1567-02)と、その悲報が信じられない旨を述べられており、本抄で、「ゆめかゆめか・まぼろしか・まぼろしか」と思ってきたがやはり事実であったかと仰せの御文と軌を一にしているゆえである。上野殿御書を著された時は、だれか他の人からの、例えば日興上人の御報告か何かでお知りになり、急いで御手紙をしたためられたのであろうと拝されるのである。そして、時光が、それほど日をおいて御報告したというのも考えられないので、初七日あたりではないかと推察されるのである。
 七郎五郎は時光の弟であるが、七郎五郎について書かれた御文から拝すると、大聖人はかなり七郎五郎に期待をかけられていたようである。この後も、時光に与えられた他の御手紙や時光の母である上野殿後家尼への御手紙では、しばしば七郎五郎の死去に触れられ、その器量を惜しまれている。
 大聖人がだれであれ門下の死去を悲しまれたことは当然であるが、七郎五郎のように、後々まで繰り返し、その才能、信心を賛嘆されているのは珍しい。
 本人の信心もさることながら、16歳という若さの子を失った母親、家族の悲しみを思いやられたからであろう。
 本抄は、宛名は記されていなが「故なんでうの七らうごらうどのの事」とある御文から、南条時光に与えられたものと推定される。七郎五郎は南条平七郎の五男で、時光の弟である。

1567~1567    上野殿御書(大海一滴御書)top

01   大海の一渧は五味のあぢわい・江河の一渧は一つの薬なり、大海の一渧は万種の瓦のごとし、 南無阿弥陀仏は
02 一河の一渧・南無妙法蓮華経は大海の一渧・阿弥陀経は小河の一てい・法華経の一乗は大海の一てい、 故五郎殿の
03 十六年が間の罪は江河の一てい、 須臾の間の南無妙法蓮華経は大海の一ていのごとし、 夫れ以れば華はつぼみさ
04 いて菓なる、をやは死にて子にになわる、これ次第なり。
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 江河の一滴には一つの味しかないが大海の一滴には五味の味がある。江河の一滴は一つの薬であり、大海の一滴は万種の瓦のようなものである。南無阿弥陀仏と称えるのは河の水の一滴であり、南無妙法蓮華経と唱えるのは大海の一滴である。阿弥陀経は小河の一滴であり、法華経の一乗妙法蓮華経は大海の一滴である。故七郎五郎殿の十六年の間の罪障は江河の一滴のようなものであり、少しの間、南無妙法蓮華経と唱えられたのは大海の一滴のようである。さて考えてみるに、花は蕾が咲いて菓となり、親は先に死んで子に背負われる。これが順序である。

五味
 ①乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味のこと。涅槃経では、牛乳を精製する段階に従って得られる五味を説く。天台大師はこれを、乳味=華厳時、酪味=阿含時、生酥味=方等時、熟酥味=般若時、醍醐味=法華涅槃時としている。②甘・酸・苦・辛・鹹のこと。
―――
万種の瓦
 「瓦」の字については未詳。「一丸」とも読める。
―――
阿弥陀経
 鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
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故五郎殿
 (1265~1280)。弘安3年(1280)9月に死去した南条兵衛七郎五郎のこと。南条兵衛七郎の五男。逝去する3ヵ月前、兄の時光とともに身延の大聖人を訪ね、お会いしている。
―――
須臾
 時の量、斬時、刹那、瞬間。
―――――――――
 本抄は、弘安3年(1280)12月23日、南条時光に与えられた御手紙である。本抄は実は「南条殿御返事」の一部、及び断簡とともに一編をなしていると考えられている。本抄には御執筆の年月が記されていないが、南条殿御返事で南条七郎五郎の百箇日に当たって、時光が御供養した旨が記されており、別に「上野殿母御前御返事」が七郎五郎の49日で、それには日付けが「十月二十四日」と記されているところから、七郎五郎の死去が9月5日であることがわかり、これにともなって本抄の御執筆も、12月13日と決定されている。
 本抄が「南条殿御返事」と同じ御書であるとわかったのは、御真筆を調べた結果である。本抄の御真筆は京都・妙伝寺にあり、「南条殿御返事」の御真筆は京都・本満寺にある。ところが、このほか同じく京都・妙蓮寺にあるものも含めて、これらが一書をなすものであることがわかったのである。
 逆に、「南条殿御返事」は、本抄に含められるものと、別の御書とすべきものとに分けられることがわかった。それは断簡で、こちらのほうは、御真筆がともに京都・本満寺にあったことから、同じ御書とされてしまったのであろう。
 なお、本抄をいただいた人については、七郎五郎の母である上野殿後家尼御前であるという考え方もできる。七郎五郎の49日忌には後家尼が供養しており、百箇日忌にも後家尼が供養したことも十分考えられるからである。本抄の末尾に「夫れ以れば華はつぼみさいて菓なる、をやは死にて子にになわる、これ次第なり」と仰せの御文は、親が先に死に、子に負われるのが順序であるのに、それが逆になることほど親にとって辛いことはないという親の気持ちを推し量って述べられている。49日忌にあたっての御手紙でも「二人のをのこごにこそ・になわれめと・たのもしく思ひ候いつるに……さける花は・ちらずして・つぼめる花のかれたる、をいたる母は・とどまりて・わかきこは・さりぬ、なさけなかりける無常かな・無常かな」(1572-18)と、後家尼の気持ちを思いやられている。そのほか「我しなば・になわれて・のぼへゆきなん」(1576-07)など類似の御文があり、本抄と筆致が共通している。
 さて、一書となる御手紙の最初は「南条殿御返事」の前半部分である。同抄の最初から「……阿修羅王」までの部分である。ただし、その部分の講義は『御書全集』の編成に従い、「南条殿御返事」として行う。
 その次に、御書全集に掲載されていない部分がある。昭和新定「日蓮大聖人御書」に収められているので、次に掲げておく。
 「字百千万の字あつまて法花経とならせ給て候へば、大海に譬へられて候。また大海の一渧は江河の渧と小しくは同じといへども、其義はるかにかわれり。江河の一渧は但一水也、一雨也。大海の一渧は四天下の水あつまて一渧をつくれり。一河の一渧は一の金のごとし。大海の一渧は如意宝珠のごとし。一河の一渧は一のあじわい」
 この御文のあとに、本抄の部分が続いているのである。
 この御文は、「南条殿御返事」の部分からすると、法華経薬王菩薩本事品第二十三の、法華経が諸経に勝れることを十のたとえをもって示した十喩の文を用いられたものである。
 「譬えば一切の川流江河の諸水の中に、海は為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、諸の如来の説きたまう所の経の中に於いて、最も為れ深大なり」。
 これは十喩のなかの最初の譬喩である。大聖人はこの文を用いて法華経を大海に、諸経を江河にたとえておられるのであるが、ただし、薬王品のたとえから更に発展させて、法華経の一字一句とくに南無妙法蓮華経を大海の一渧に、諸経の教え、なかんずく南無阿弥陀仏を江河の一渧に、それぞれたとえておられるのである。
 すなわち「百千万の字」が集まって法華経となっているのであるから、それぞれの字は大海の一渧である。しかし、大海の一渧であっても、ただの一渧ではなく、大海の成分を備えた一渧であるところに、江河の一渧との違いがある。江河の一渧はたった一回の雨で形成される一渧である。しかし、大海の一渧は、四天下の水が集まって一渧をつくっているのである。一河の一渧は、その価値が一つの金にあたるとするならば、大海の一渧は一切の宝を生み出す如意宝珠のようなものである。
 以上の内容の後に本抄の部分がくる。内容としては連続している。一河の一渧には一つの味わいしかないが、大海の一渧にはすべての味が含まれているのである。ここで五味といわれているのは、通常は乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五味をいうが、ここでは飲食物の五味である甘・酸・苦・辛・鹹の五味をいう。
 次に、江河の一渧と大海の一渧を薬にたとえられている。大海の一渧について「万種の瓦」となっているが、御真筆を拝すると「万種の一丸」すなわち、一切の効能を収めた薬の意とも拝せる。このほうが、意味をとりやすい。
 続いて、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏とを比較されている。南無妙法蓮華経と一回唱えることを大海の一渧とすると、念仏は一河の一渧にすぎないとの仰せである。
 更に阿弥陀経の浄土往生の教えと法華経の一仏乗を比較しておられる。 
 七郎五郎は、十六年間の生涯であり、その間の罪は江河の一渧のようなものである。それに比べて、南無妙法蓮華経と唱えたのはわずかであるが、これらは大海の一渧にたとえられ、その一渧によって七郎太郎は成仏疑いないのである。大聖人は七郎五郎が少しの仏道修行しかしていなくて成仏できるであろうか、という心配を打ち消されるために、このたとえを用いられたのである。
 最後に、蕾から花が咲いて実がなるのが自然の摂理であり、親は死んで子に担われて野辺に行くのが順序であるのに、蕾のまま散り、親を残して死んでいった七郎五郎の死を悼まれ、残された母尼御前に同情を寄せられている。

1567~1568    上野殿御書(慰労御書)top

01   南条七郎五郎殿の御死去の御事、 人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めて
02 なげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・
03 いまだわきまへがたく候、 まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて・いとをしきを
04 とこに・すぎわかれたりしかども・子ども・あまたをはしませば心なぐさみてこそ・をはしつらむ、いとをしき・て
05 こご・しかもをのこご・みめかたちも人にすぐれ心も・かいがいしくみへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候
06 いしに・あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ、まこととも・
07 をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず、又又申すべし、恐恐謹言。
08       弘安三年九月六日                  日 蓮 花 押
09     上野殿御返事
-----―
 南条七郎五郎殿の御死去のこと、人は皆、生まれては死ぬのが習いとは、智者も愚者も、上の人も下の人も一同に承知していることであるから、今はじめて嘆いたり、驚いたりすることではないと、自分も思い、人にも教えてきたが、さて、いよいよその時にあたってみれば夢か幻か、未だに判断がつきかねるほどである。ましてや母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれ、最愛の夫にも死に別れたが、子供が多くおられたので心が慰められておられたであろうに……。可愛い末の子で、しかも男の子、容貌も人に勝れ、心もしっかりして見え、よその人々もさわやかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花の蕾が風にしぼみ、満月が突然になくなってしまったようなものである。ほんとうとも思えないので、励ましの言葉も書きようがない。またまた申し上げる。恐恐謹言。
  弘安三年九月六日          日 蓮  花 押
   上野殿御返事
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10   追申、 此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに・又見候はざらん事こそ
1568
01   かなしくは候へ、さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、 心は父君と
02   一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり。
-----―
 追申。この六月十五日にお会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、すばらしい男だな、と拝見していたのに、再びお会いすることが出来ないとは、何とも悲しいことである。しかし、また釈迦仏、法華経を深く信仰されていたから、臨終も立派だったのである。心はきっと父君と一緒に霊山浄土に参り、ともに手を取り頭を合わせ喜ばれていることであろう。あっぱれである。あっぱれである。 追伸。この六月十五日にお会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、すばらしい男だな、と拝見していたのに、再びお会いすることが出来ないとは、何とも悲しいことである。しかし、また南条七郎五郎殿は釈迦仏・法華経を深く信仰されていたから、臨終も立派だったのである。だから、心はきっと父君と一緒に霊山浄土に参り、ともに手を取り合わせて喜ばれていることであろう。あっぱれである。あっぱれである。

南条七郎五郎
 (1265~1280)。南条兵衛七郎の五男。誕生する以前に父が死亡し、母の手で育てられた。豪胆で、かつ容貌もすぐれ、弘安3年(1280)6月、兄の時光とともに身延の日蓮大聖人を訪ね、大聖人からも、時光とともに公布のために活躍することを期待されていたが、同年9月、突然、死去した。
―――
てこ
 幼児のこと。方言に末っ子という意もある。
―――
霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――――――――
 本抄は、弘安3年(1280)9月6日、南条時光の弟、七郎五郎の死去を聞かれた日蓮大聖人が、弔意を表されるとともに、母・上野殿後家尼御前の心中を察し慰められた御書である。
 本抄の内容から別名を「弔慰御書」ともいう。なお御真筆は、大石寺に現存している。
 さて、本抄は宛名は「上野殿」となっているが、母・尼御前を慰められた内容となっている。
 南条七郎五郎は、富士郡上野郷(静岡県富士宮市の一部)の地頭・南条兵衛七郎の五男であるところから〝七郎五郎〟といい、南条時光の弟にあたる。
 七郎五郎が誕生する以前に、父が死亡し、母の手で育てられた。弘安3年(1280)6月15日には、兄・時光とともに御供養を携えて身延へ行き、日蓮大聖人にお会いしている。しかし、それからわずか三か月後に、突然、死去した。
 本抄は、七郎五郎の突然の死去に対する大聖人の悲しみが、いかに深いものであったかが痛切にうかがわれる。そして何よりも悲しみに沈んでいる母・後家尼の心を察して述べられる御言葉の底には、まことに温かい人間味があふれている。
 生死は世の常であり、それこそ仏法も当然の真理として説いているところであるが、現実に親しい人の死に直面すると夢・幻のように、信じられない気持ちであると述べられている。日蓮大聖人は末法の御本仏であられるが、人の死に対して決して悟りすました高みから物を言うのでなく、どこまでも凡夫の感情のままに、率直に御心境を語られているところに御本仏としての限りない温かさ、御境界の深さがうかがわれてならない。
 次に「まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて……満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ」と、母・上野殿後家尼御前の心中を思いやって、慰められている。
 尼御前は、すでに、父母にも兄弟にも先立たれ、そのうえに、夫・南条兵衛七郎とも死別した身である。そうしたなかで、多くの子供に恵まれていることだけが、せめてもの慰めで、子等の成長を楽しみにしていたのであった。そこに今度の七郎五郎の突然の死去である。七郎五郎が頼もしい男の子であり、容貌も気質もともに人並に勝れ、だれもがさわやかに見ていたという子供だけに、母の哀惜の情と落胆はいかばかりであろうかと思いやられ、未来の可能性に富んだ七郎五郎が突然、死去した姿を「あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ」と母親の哀惜の気持ちを推察されている。
 最後に「まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず」と述べられ、いまだに七郎五郎の死が本当と思えないので、どのように書けばよいかわからないでいると、本文を結ばれている。
 仏法を学び、生死の理を知ると、人の死という問題に対して当たり前のこととして冷淡になったり、また悟りすました錯覚に陥って指導しようとしがちなものであるが、大聖人は微塵もそのような言辞を弄しておられない。子を亡くして悲しみ嘆くのは人間の当然の情であり、それを共に苦しみ大きく包容しきっていくのが慈悲である。指導めいた言葉よりも、悲しみを知ってくださっている大聖人のこの御手紙によって、母・尼御前はどんなにか慰められ、悲しみを乗り越える勇気を得たことであろう。
 追申では、大聖人が七郎五郎と会った時の印象を想起され、その凛々しい姿を二度と見ることのできなくなった悲しさを述べられるとともに、短い人生であったが、法華経の信仰を貫いて亡くなったのであるから、成仏は疑いないと述べられ励まされている。
 「釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり」との御言葉に、母の後家尼御前は生命の奥底から慰められたにちがいない。
 もとより、ここで仰せの「釈迦仏」とは久遠元初の自受用報身如来であり、「法華経」とは久遠元初の南無妙法蓮華経の意である。

1568~1573    上野殿母御前御返事(中隠書)top
1568:01~1569:01 第一章 法華経の最勝なるを明かすtop

01   南条故七郎五郎殿の四十九日.御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄.すりだう
02 ふ・こんにやく・柿一篭・ゆ五十等云云御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。
03   抑法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて・而かも唯仏与仏と説かれて仏と仏とのみこそ・し
04 ろしめされて・等覚已下乃至凡夫は叶はぬ事に候へ。
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 故南条七郎五郎殿の四十九日の追善法要のために送られた御供養の品物の目録、銭二百文、白米一駄、芋一駄、すり豆腐、こんにゃく、柿一籠、柚五十個等、受けとった。追善供養のために法華経を一部、自我偈を数度、題目を百千遍、お唱え申し上げた。
 さて、法華経という御経は釈尊一代の仏教の中には似るものもない優れた御経で、しかも「唯、仏と仏とのみが……」と説かれて、仏と仏とのみがお知りになられて等覚の菩薩以下凡夫に至るまでの衆生は知ることができないものである。
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05   されば竜樹菩薩の大論には仏已下はただ信じて仏になるべしと見えて候、 法華経の第四法師品に云く「薬王今
06 汝に告ぐ我が所説の諸経あり 而も此の経の中に於て法華最も第一なり」等云云、 第五の巻に云く「文殊師利此の
07 法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり 諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、 第七の巻に云く「此の法華経も亦
08 復是くの如し諸経の中に於て最も其の上たり」又云く 「最も照明たり最も其の尊たり」等云云、 此等の経文私の
09 義にあらず 仏の誠言にて候へば定めて・ よもあやまりは候はじ、 民が家に生れたる者我は侍に斉しなんど申せ
10 ば必ずとが来るまして我れ国王に斉し・まして勝れたりなんと申せば・我が身のとがと・なるのみならず・父母と申
11 し妻子と云ひ必ず損ずる事、大火の宅を焼き大木の倒るる時・小木等の損ずるが如し。
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 それゆえ、竜樹菩薩の大智度論には「仏以下の衆生は、ただ信じることによって仏になることができる」と記されているのである。
 法華経の第四巻法師品第十には「薬王菩薩よ、今おまえに告げよう。私の説いた多くの経があるが、これらの経のなかで法華経が最第一である」等とある。第五巻安楽行品第十四には「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の法蔵である。諸経のなかで最もその上位にある」等とある。第七巻薬王菩薩本事品第二十三には「この法華経もまた同様である。諸経のなかで最も上位である」、また「最も明るく照らす」「最も尊い」等とある。これらの経文は私の勝手な義ではない。仏の真実の言葉であるので、必ず、まさか誤りはあるまい。
 民の家に生まれた者が「私は侍と同等である」などといえば、必ず咎めを受ける。まして、「私は国王と同等である」、さらに「国王よりも勝れている」などといえば、自分に対する咎だけでなく、父母や妻子も必ず害を蒙ることは、大火が家を焼き大木が倒れる時、小木などが損なわれるようなものである。
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12   仏教も又かくの如く華厳.阿含・方等・般若・大日経.阿弥陀経等に依る人人の我が信じたるままに勝劣も弁へず
13 して・我が阿弥陀経等は法華経と斉等なり・将た又勝れたりなんど申せば・其の一類の人人は我が経をほめられ・う
14 れしと思へども還つてとがとなりて・師も弟子も檀那も悪道に堕つること・箭を射るが如し、 但し法華経の一切経
1569
01 に勝れりと申して候は・くるしからず還つて大功徳となり候、経文の如くなるが故なり。
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 仏教もまた同様に、華厳・阿含・方等・般若部の経、大日経、阿弥陀経等を依経とする人々が、自分が信じたままに経の勝劣も弁えないで「我が阿弥陀経等は法華経と同等である」、また「法華経よりも勝れている」などといえば、その仲間の人々は、自分の信じている経を褒められて嬉しいと思うだろうけれども、かえって罪となって師匠も弟子も檀那も悪道に堕ちることは、箭を射るように速やかである。ただし「法華経が一切経に勝れている」というのは差し支えない。かえって大功徳となるのである。経文に説かれているとおりだからである。

南条故七郎五郎
 (1265~1280)。南条兵衛七郎の五男。誕生する以前に父が死亡し、母の手で育てられた。豪胆で、かつ容貌もすぐれ、弘安3年(1280)6月、兄の時光とともに身延の日蓮大聖人を訪ね、大聖人からも、時光とともに公布のために活躍することを期待されていたが、同年9月、突然、死去した。
―――
菩提
 菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
―――
日記
―――
鵞目
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
―――
両ゆひ
 結は銭を数える語で、銭の孔に紐を通して百枚をまとめたもの。両結は二百文。
―――
自我偈
 寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
―――
一代聖教
 釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
―――
唯仏与仏
 方便品の文。「唯、仏と仏と、乃し能く究尽したまえり」とある。諸仏の智慧のみが能く諸法の実相を究め尽くしており、菩薩・二乗の及び得ないものでああるということ。
―――
等覚
 仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地」ともいう。
―――
凡夫
 梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
―――
竜樹菩薩
 付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
法師品
 法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
―――
薬王
 薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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文殊師利
 文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
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華厳
 華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
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阿含
 阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
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方等
 方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経にあたり、ここでは、法華経をさす。
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般若
 般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
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大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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阿弥陀経
 鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
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檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
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悪道
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
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一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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 本抄は、年号が明記されていないが、故南条七郎五郎の49日忌に当たり、種々の御供養を送ってきたのに対し、上野殿母御前に宛てられた御返事であることから、弘安3年(1280)10月24日、聖寿59歳、身延での御述作とされる。
 この御手紙をいただいた上野殿母御前は南条兵衛七郎の妻であり、七郎次郎時光及び七郎五郎の母である、上野殿後家尼とも呼ばれる。
 故南条七郎五郎は兵衛七郎の末子であった。本抄にも述べられているように、文永2年(1265)3月に兵衛七郎が死去した時に母が懐妊していた子であり、以後すくすくと育っていった。
 七郎五郎は、弘安3年(1280)6月15日に兄・時光とともに身延を訪れ、大聖人に御目通りしている。大聖人も、将来を期待されたが、それから約3か月後の9月5日に急逝した。原因は明らかではない。
 大聖人は、その報を聞かれて直ちに筆をとられ、「上野殿御書」を送られている。また、本抄でも「抑故五郎殿かくれ給いて既に49日なり、無常はつねの習いなれども此の事うち聞く人すら猶忍びがたし、況や母となり妻となる人をや・心の中をしはかられて候」と七郎五郎の死を深く悼まれている。
 本抄は、宛名によって「上野殿母御前御返事」「上野殿母尼御前御返事」とも名づけられ、また古来、「中陰書」「四十九日事」とも呼ばれている。
 本抄の御真筆は、小泉久遠寺と北山本門寺に断簡が現存している。
 本文は、まず御供養の御礼と、故七郎五郎の49日御菩提を祈られたことを記された後、法華経こそ一代聖教のなかで最勝であることを述べられている。
 この法華経の極理は法華経方便品に「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と説かれているように、仏と仏のみの究尽した甚深の法であり、等覚の菩薩といえども智慧分別の及ばないところである。ゆえに仏以外の九界の衆生は、竜樹のいうように、ただ信じることによってのみ、この法を会得し成仏することができるのである。
 したがって、法華経には、繰り返し法華経こそ最高の経であると説かれていることを述べられ、しかるに、この法華経を否定して爾前権教を第一であるといい、法華経より自分の依経の方が勝れていると主張している念仏、真言、華厳等の諸宗の僧等は師弟檀那ともに悪道に堕ちるであろうと厳しく破折されている。
 「顕謗法抄」には次のように仰せである。「此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか、若爾らば設い観経・華厳経等の権大乗経の人人・所依の経の文の如く修行すともかの経にすぐれたる経経に随はず又すぐれざる由を談ぜば謗法となるべきか、されば観経等の経の如く法をえたりとも観経等を破せる経の出来したらん時・其の経に随わずば破法となるべきか」(0449-05)。
 謗法とは正法に背くことであり、最高の経典である法華経を否定し、自らの依経の方が勝れているなどと、仏説に背く主張をなすことである。正法誹謗、謗法は無間地獄に堕ちる業なのである。
 ここでは「悪道」と広く三悪道・四悪道を含めて仰せられているが、謗法の罪は、最も重い無間地獄の罪業であることを知らなければならない。
 逆に、法華経によって低い爾前の経々を打ち破ることは、仏説に適った行為となるから、大功徳を得るのは当然のことである。

1569:02~1569:08 第二章 四十余年未顕真実の義を示す
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02   此の法華経の始に無量義経と申す経おはします、 譬えば大王の行幸の御時・将軍前陣して狼籍をしづむるが如
03 し、 其の無量義経に云く「四十余年には未だ真実を顕さず」等云云、 此れは将軍が大王に敵する者を大弓を以て
04 射はらひ・又太刀を以て切りすつるが如し、華厳経を読む華厳宗・阿含経の律僧等・観経の念仏者等・大日経の真言
05 師等の者共が法華経にしたがはぬを・ せめなびかす利剣の勅宣なり、 譬えば貞任を義家が責め清盛を頼朝の打ち
06 失せしが如し、無量義経の四十余年の文は不動明王の剣索・愛染明王の弓箭なり。
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 この法華経の開経に無量義経という経がある。たとえば大王のお出かけの時、将軍が前に陣して狼藉を鎮めるようなものである。その無量義経に「四十余年の間に説いた経には、未だ真実を説き顕していない」等とある。これは将軍が大王に敵対する者を大弓で射て追い払い、また太刀で切り捨てるようなものでる。華厳経を読誦する華厳宗、阿含経の律僧等、観無量寿経の念仏者等、大日経の真言師等の者達が法華経に従わないのを攻めて服従させる利剣のような詔である。たとえば安倍貞任を源義家が攻め、平清盛を源頼朝が打ち滅ぼしたようなものである。無量義経の「四十余年……」の文は不動明王の剣と索、愛染明王の弓と箭のようなものである。 この法華経の開経に無量義経という経がある。たとえば大王のお出かけの時、将軍が前に陣して狼藉を鎮めるようなものである。その無量義経に「四十余年の間に説いた経には、未だ真実を説き顕していない」等とある。これは将軍が大王に敵対する者を大弓で射て追い払い、また太刀で切り捨てるようなものでる。華厳経を読誦する華厳宗、阿含経の律僧等、観無量寿経の念仏者等、大日経の真言師等の者達が法華経に従わないのを攻めて服従させる利剣のような詔である。たとえば安倍貞任を源義家が攻め、平清盛を源頼朝が打ち滅ぼしたようなものである。無量義経の「四十余年……」の文は不動明王の剣と索、愛染明王の弓と箭のようなものである。
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07   故南条五郎殿の死出の山.三途の河を越し給わん時・煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて.事故なく霊山浄土へ参ら
08 せ給うべき御供の兵者は無量義経の四十余年・未顕真実の文ぞかし。
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 故南条五郎殿が死出の山や三途の河を越えられるとき、煩悩の山賊や罪業の海賊を鎮めて別条なく霊山浄土へ参られることのできる御供の兵士は、無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず」の文である。

無量義経
 一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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華厳経
 正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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華厳宗
 華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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阿含経
 釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
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律僧
 戒律を修行する宗派の僧侶。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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観経
 観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
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念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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真言師
 真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
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勅宣
 天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
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貞任
 (1019~1062)。安倍貞任のこと。平安時代後期の陸奥の豪族。頼時の子で岩手郡を譲られ支配した。前九年の役では天喜5年(1057)朝廷軍の源頼義・義家と戦い、厨川柵(岩手県盛岡市)に拠って抵抗したが、康平5年(1062)出羽の貴族・清原光頼・武則兄弟と同盟した朝廷軍に滅ぼされた。
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義家
 (1039~1106)平安時代後期の武将。伊予守源頼義の長男。八幡太郎の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。
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清盛
 (1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
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頼朝
 (1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
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不動明王
 真言宗の本尊。大日如来の命を受け、または大日如来が化身して、仏道修行を妨げる障魔を破る明王。後代明王、八大明王の総主。不動尊・無動尊・不動金剛明王ともいう。
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剣索
 剣と索のこと。剣は中道の智、また降魔を表し、索は四魔を縛するとか法界漫荼羅に引き入れるとかの義があるとされる。
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愛染明王
 大日如来あるいは金剛薩埵を本地とする明王で、衆生の煩悩を浄化し解脱させるとされる。愛染の梵語ラーガ(rāga)は愛貪染者の意。その姿は赤色で忿怒の相を示し、三目六臂で、その手にそれぞれの弓や箭などを持っている。
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死出の山
 十王経によると、死後の世界にある険しい山で、死者が冥府において、初七日の間に泰広王のところに行く途中にある山。
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三途の河
 人が死んで冥土の途中にある河といわれる。河には浅瀬や深淵などの三つの瀬があり、生前の罪業によって渡る場所が異なるとされる。
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煩悩の山賊
 死出の山を越える際、煩悩に悩まされるところから、煩悩を山賊に譬えられたもの。なお、煩悩は衆生の身心を苦しめ、悩ます精神作用の総称。惑と同義、根源的な煩悩として貧・瞋・癡の三毒がある。唯識論巻六には、煩悩を根本煩悩と随煩悩とに大別している。根本煩悩とはすべての煩悩の根本となるもので、貧・瞋・癡・慢・疑の五鈍使と、有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見の五種の悪見をいう。随煩悩とは根本煩悩に伴って生ずるもので、放逸・懈怠等二十種類がある。
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罪業の海賊
 人が死んで三途の河を渡るとき、生前の罪業は罪悪によって苦しみ悩ませるとされるところから、河を渡る人を悩ます海賊を罪業の譬えとして用いられたもの。罪業は罪悪の豪のことで、未来に苦果を招く因となる悪行のこと。
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霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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 先に述べられた法華経が最第一であることを明示したものとして、法華経以前の諸経は真実を顕していないと説いた無量義経の「四十余年未顕真実」の文のもつ意義を述べられている。この文は無量義経説法品に出てくるもので、釈尊五十年の説法のうちで、前の四十余年の経文は、いまだ真実を顕していないと断言している。ゆえにこの文は、爾前経に執着する人々の心を打ち破って法華経へと導き入れ、法華経に随順させる利剣となるのである。
 そして、それを、不動明王が民衆の煩悩・業障を断ち切るために持っている剣や羂索、愛染明王が悪鬼を退治するための弓箭にたとえられている。不動明王の剣は魔を対冶する仏智を表し、また羂策は煩悩・業障を縛る義を表しているとされる。愛染明王の持つ弓と箭は、障魔を打ち破り、煩悩・悪業を射る義を表すとされている。
 南無妙法蓮華経の御本尊には、向かって右端に不動明王、左端に愛染明王が梵字でしたためられている。不動明王は、衆生の生命に備わっている妙法の働きとしての生死即涅槃の法門を表し、愛染明王は煩悩即菩提の法門を表している。
 さて、煩悩や生死の苦を打ち破る根本が方便権教への執着を捨て、妙法への確たる信に立つことである。故に、この「未顕真実」の文こそ、故七郎五郎が霊山浄土へと詣るお供の兵者となると述べられるのである。ここでは、死出の山や三途の河といった死後の世界についていわれる具体的なイメージを用いながら、煩悩を山賊、罪業を海賊になぞらえて、それらを打ち平らげる兵者の役割をこの「未顕真実」の文が果たすであろう、と述べられている。
「死出の山・三途の河」について
 地蔵菩薩発心因縁十王経によれば、死出の山は、死者が冥土において初七日の間に秦広王のところに行く途中にある険しい山であるという。
 また三途の河は、同じく死者が二七日に、初江王のところへと詣る道にある河をさしている。
 人間は死に際して、断末魔の苦痛が消えた後、死出の旅に出る。これを「中有の旅」と呼び、秦広王、初江王等の十人の王をめぐり、生前に犯した罪業を裁断され、次の生処が決められるという。
 このような苦難に満ちた中有の旅でも、妙法を唱えて死を迎えた人は、御本尊に守られてゆうゆうとした境界で楽しんでいくことができるのである。大聖人は種々の御書のなかで、死後において御本尊が守ってくださることを示し強盛な信心を勧められている。
 例えば「弥源太殿御返事」では「南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし(中略)日蓮・法華経の文の如くならば通塞の案内者なり、只一心に信心おはして霊山を期し給へ」(1227-04)と仰せである。また、三途の河についても、「寂日房御書」には「獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり」(0903-11)と述べられている。「上野殿後家尼御返事」には「又つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海・死出の山は煩悩即菩提の重山なり、かく御心得させ給へ」(1505-16)と仰せである。
 妙法を唱えた人にとっては、三途の河も涅槃の境地の洋々たる大楽の場所となり、死出の山も煩悩即菩提と転じて、成仏の最高の楽しみを味わいゆく場所となる。
 こうして、中有の旅は苦悩や不安に彩られるのではなく、景勝の山を軽快に登り七宝に飾られた大橋を渡る、楽しみや快さにひたされたものとなる。そのような人はもはや、十王の裁断を待つこともなく、諸仏・諸天に守られて直ちに霊山浄土へと詣でることができるのである。

1569:09~1570:03 第三章 正直捨方便の道理を教示top

09   法華経第一の巻・方便品に云く「世尊の法は久くして後要らず当に真実を説きたもうべし」又云く「正直に方便
10 を捨てて但無上道を説く」云云、 第五の巻に云く「唯髻中の明珠」又云く「独り王の頂上に此の一珠有り」又云く
11 「彼の強力の王の久しく護れる明珠を今乃ち之を与うるが如し」等云云、 文の心は日本国に一切経わたれり七千三
12  百九十九巻なり彼れ彼れの経経は皆法華経の眷属なり、 例せば日本国の男女の数・四十九億九万四千八百二十八
13 人候へども皆一人の国王の家人たるが如し、 一切経の心は愚癡の女人なんどの唯一時に心うべきやうは・ たとへ
14 ば大塔をくみ候には先ず材木より外に足代と申して 多くの小木を集め一丈二丈計りゆひあげ候なり、 かくゆひあ
15 げて材木を以て大塔をくみあげ候いつれば・ 返つて足代を切り捨て大塔は候なり、 足代と申すは一切経なり大塔
16 と申すは法華経なり、 仏一切経を説き給いし事は法華経を説かせ給はんための足代なり、 正直捨方便と申して法
17 華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏・ 大日経等の真言宗・阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛ち
18 てのち法華経をば持ち候なり、 大塔をくまんがためには足代大切なれども大塔をくみあげぬれば・ 足代を切り落
1570
01 すなり、正直捨方便と申す文の心是なり、 足代より塔は出来して候へども塔を捨てて・足代ををがむ人なし、 今
02 の世の道心者等・一向に南無阿弥陀仏と唱えて一生をすごし・ 南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人人は大塔をすてて
03 足代ををがむ人人なり、世間にかしこく・はかなき人と申すは是なり。
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 法華経第一巻方便品第二に「世尊の説く法は久しくたった後に必ず真実を説かれるであろう」、また「正直に方便を捨てて、ただ無上の教えを説く」とある。第五巻安楽行品第十四には「ただ髻の中の明珠」、また「ひとり王の頭の上に、この一つの珠がある」、また「かの力の強い王が長い間、護持してきた明珠を今まさに与えるようなものである」等とある。文の意味は日本の国に一切経が渡来した。七千三百九十九巻である。それらの経々は皆、法華経の眷属である。たとえば、日本国の男女の人数は四百九十九万四千八百二十八人であるけれども、皆一人の国王の臣下であるようなものである。
 一切経の意味は、愚癡の女人などがほんのすぐに理解できる形としては、たとえば大きな塔を組み上げるときには、まず材木のほかに足代といって多くの小木を集めて一丈・二丈ばかり結い上げるのである。そのように結い上げて、材木で大塔を組み上げたときには、かえって足代を切り捨て去り、大きな塔はそのまま残すのである。足代というのは一切経であり、大塔というのは法華経である。仏が一切経を説かれたのは、法華経を説かれるための足代としてである。
「正直に方便を捨てて」といって、法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏、大日経等の真言宗、阿含経等の律宗の二百五十戒等を切り捨て抛ってのち、法華経を持つのである。大塔を組み上げるためには足代は大切であるけれども、大塔を組み上げてしまったなら足代を切り落とすのである。「正直に方便を捨てて」という文の意はこれである。
 足代によって塔はできるのだけれども、塔を捨てて足代を拝む人はいない。今の世の仏道修行者等で、ひとえに南無阿弥陀仏と称えて一生を過ごし、南無妙法蓮華経と一遍も唱えない人々は、大塔を捨てて足代を拝む人々である。世間に賢くて愚かな人というのはこれである。

方便品
 妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
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七千三百九十九巻
 唐代の円照によって撰述された貞元釈教録には、中国で永平10年(0067)から貞元16年(0800)までに翻訳・著述された一切経、7,388巻の目録が収められている。これをもとにしていわれたものと思われる。
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眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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四十九億九万四千八百二十八人
 ここで使われている〝億〟は現在の10万にあたる。したがって、日蓮大聖人御在世当時の日本の総人口としてあげられている人数は、4,994,828人ということになる。この数値の出所については明らかでない。
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愚癡
 ①言ってもかいのないことを言って嘆くこと。泣き言、不平不満など。②仏法の事理を理解することができないこと。三毒のひとつ。闇愚癡昧の義。
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足代
 足場のこと。建築工事のさいに、高い所に登れるように、材木やパイプを組み立てて造る足がかりのこと。建物の完成まではなくてはならぬ役目を持っているが、建物が完成すれば、解体される。ここでは、念仏等の爾前経を指して足代と破折されている。
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 長さの単位。一丈は十尺で、メートル法に換算すれば3.03㍍。
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南無釈迦牟尼仏
 釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。
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真言宗
 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
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律宗
 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
―――
道心者
 仏法を信奉する心をもった仁。仏果を求める心をもった人。菩提心者と同意。
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 前段では、爾前経には未だ真実を顕さないとの無量義経の文が挙げられたが、ここでは法華経にこそ真実を明かすとの文が示され、この法華経が説かれて後は、方便権教は捨てるべきであるとの道理が示されている。
 方便品の文は、その言葉のとおりであり、あえて説明は必要ないであろう。安楽行品の髻中明珠の譬は、王の頂の珠とは王権の象徴である。この譬えは衆生を仏にする唯一の法が法華経であることをあらわすのである。
 天台大師は法華文句で「明珠とは、明は中道の智を譬う、円は常を譬う、在頂とは極果の宗とする所なり、髻中とは、実は権の為めに隠さる。髻を解くは即ち開権なり、珠を与うるは即ち顕実なり」と論じている。
 この明珠とは一往は法華経をさすが、再往は三大秘法の南無妙法蓮華経を意味することはいうまでもない。
 大聖人は方便品の「正直捨方便」の道理をわかりやすく解説するために、足代と大塔との関係を譬えに用いられている。一切経は足代のようなものであり、法華経は大塔にたとえられる。大塔を組み上げるには足代が必要であるが、大塔が出来上がったならば、足代は取り除かねばならない。これと同じように、一切経は法華経を説くための方便の教えであるから、実教の法華経が説かれれば、爾前権経はすべて捨て去るのが道理なのである。それにもかかわらず、爾前経に執着して妙法を唱えない人は、大塔を捨てて足代を尊んでいるようなものであり、世間では一見賢そうに思われていても実ははかない人達であると仰せである。
 ここでは、方便と真実の関係が重要になってくる。方便とは手段の意味であり、目的である真実をあらわすために仮に設ける手段をさしている。
 釈尊は、自らの悟りの真実を直ちに説いたのでは、機根がととのっていない衆生は理解することができないので、まず衆生の機根をととのえるために、四十余年にわたって爾前権経を説いたのである。すなわち、小材を集めて足代をつくるようなものである。そして衆生の機根がととのったところで、悟りの真実である法華経を説いた。すなわち、大塔が組み上げられるようなものである。真実の教えである法華経が説かれた以上は、手段として説かれた爾前経は、もはや必要のない経典となる。
 ゆえに、成仏の法である妙法を唱えないで、逆に不成仏の法である爾前権経を修行する人は、大塔を捨てて足代をありがたがっているようなものである。これを大聖人は「かしこく・はかなき人」と仰せなのである。

1570:04~1570:08 第四章 五郎の成仏を教え母を励ますtop

04   故七郎五郎殿は当世の日本国の人人には・にさせ給はず、をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・は
05 たちにも及ばぬ人が、 南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり、 乞い願わくは
06 悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・ 故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願は
07 せ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ
08 生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや。
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 故七郎五郎殿は当世の日本国の人々には、似ておられない。幼い心であったけれども賢い父の跡を受け継ぎ、歳も未だ二十歳にもならない人が南無妙法蓮華経と唱えられて仏になられたのである。「ひとりとして成仏せずということなけん」と説かれているのはこれである。
 こいねがうところは、悲母が我が子を恋しく思われるならば、南無妙法蓮華経と唱えられて故南条兵衛七郎殿・故七郎五郎殿と同じ所に生まれようと願われるがよい。一つの種は一つの種であり、別の種は別の種である。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれられるであろう。三人が顔を合わせられるとき、その御悦びはいかばかりで、どんなに嬉しく思われることであろう。

故南条殿
 南条時光の父・兵衛七郎をさす。文永2年(1265)に死去。
―――――――――
 故七郎五郎は、父兵衛七郎が死去した時にはまだ母の胎内にいたが、出生後、父の志を継いで、兄時光とともに信仰に励んでいたものと思われる。
 「上野尼御前御返事」にも「故五郎殿はとし十六歳・心ね・みめかたち人にすぐれて候いし上・男ののうそなわりて万人に・ほめられ候いしのみならず、をやの心に随うこと・水のうつわものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし」(1576)と仰せである。ゆえに大聖人は、故七郎五郎は若くして妙法を唱えたのであるから、父と同じく成仏し、妙法蓮華経の国、すなわち霊山浄土に生まれ合わせていると教示され、母・上野殿後家尼も、死後、亡き夫・兵衛七郎や末子の七郎五郎と一緒の所に生じたいと思うならば、妙法を唱え成仏を期しなさいと励まされているのである。
同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし
 ここで述べられている「種」とは種子のことである。種子とは、生命内奥に刻印されている一種の潜在的な生命エネルギーを意味している。
 この種子には十界の差別があり、死後の状況は、生命内在の種子の種類によって決定される。つまり、生涯にわたっていかなる種子を蓄積してきたかということが、死後の生命を方向づけるのである。例えば、十界のなかで悪の種子が強力であれば、三悪道・四悪趣等の悪処に堕ちざるをえないのである。逆に、善の種子が強力にはぐくまれていれば、人天や四聖の境界に生を受けることができるのである。そのうちでもとくに、極善の種子は妙法蓮華経の種子である。ゆえに、妙法を唱えて妙法の種子を我が生命に強く刻印していれば、必ず霊山浄土に生まれ出づることができるのである。
 今世で親子・兄弟や夫婦等であっても、生前の宿業が違っていれば死後には違った境界に生を受け、どのように同じところに生まれ合わせたいと願っていても、その願いはかなえられないのである。逆に他人であっても、また同処に生まれることを望んでいなかったにしても、種子が同じであれば、同じ境界に生まれ出づるのである。
 ゆえに大聖人は「上野殿御返事」で、時光に対しても次のように教示されている。
「此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり、いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信じさせ給へば・同じところに生れさせ給うべし」(1508)。
 上野殿母も、妙法を唱え妙法という極善の種子を我が生命に植えることにより、妙法蓮華経の国に、故兵衛七郎や七郎五郎と一緒に生まれ合わせないはずはないと述べられて、いよいよの信心を励まされているのである。

1570:09~1571:06 第五章 法華経が諸仏の主師親なるを示すtop

09   抑此の法華経を開いて拝見仕り候へば 「如来則ち為に衣を以て之を覆いたもう又他方現在の諸仏の護念する所
10 と為らん」等云云、 経文の心は東西南北・八方・並びに三千大千世界の外・四百万億那由佗の国土に十方の諸仏ぞ
11 くぞくと充満せさせ給う、 天には星の如く・地には稲麻のやうに並居させ給ひ、 法華経の行者を守護せさせ給ふ
12 事、譬えば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し、 但四天王・一類のまほり給はん事の・かたじけなく候に、一
13 切の四天王・一切の星宿.一切の日月・帝釈・梵天等の守護せさせ給うに足るべき事なり、其の上.一切の二乗・一切
14 の菩薩・兜率内院の弥勒菩薩・迦羅陀山の地蔵・補陀落山の観世音・清凉山の文殊師利菩薩等・各各眷属を具足して
15 法華経の行者を守護せさせ給うに足るべき事に候に・又かたじけなくも釈迦・ 多宝・十方の諸仏のてづからみづか
16 ら来り給いて・昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。
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 さて、この法華経を開いて拝見してみると「如来は衣でこの人を覆われるであろう。また他方の現在の諸仏が護念して下さるであろう」等とある。経文の意は、東西南北、八方、ならびに三千大千世界の外、四百万億那由佗の国土に十方の諸仏が続々と集まり充満する。天には星のように地には稲や麻のように並んでおられ、法華経の行者を守護されることは、たとえば大王の太子を諸の臣下が守護するようなものである。ただ四天王の一類が護ってくれることさえ有り難く嬉しいことなのに、一切の四天王・一切の星宿・一切の日月・帝釈天・梵天等が守護されるのだから満足すべきことである。そのうえ一切の二乗・一切の菩薩・兜率内院の弥勒菩薩・迦羅陀山の地蔵菩薩・補陀落山の観世音菩薩・清凉山の文殊師利菩薩等それぞれが眷属をともなって法華経の行者を守護されるのだから満足すべきことであるのに、また申しわけなくも釈迦・多宝・十方の諸仏がみずから来られて昼夜十二時に守護されることの有り難さはいいようがない。
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17   かかるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給いて・ 今日は四十九日にならせ給へば・一切の諸
18 仏・霊山浄土に集まらせ給いて・或は手にすへ.或は頂をなで・或はいだき・或は悦び・月の始めて出でたるが如く.
1571
01 花の始めてさけるが如く・いかに愛しまいらせ給うらん、 抑いかなれば三世・十方の諸仏はあながちに此の法華経
02 をば守らせ給ふと勘へて候へば・道理にて候けるぞ・法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり・めのとなり・主に
03 てましましけるぞや、 かえると申す虫は母の音を食とす・ 母の声を聞かざれば生長する事なし、からぐらと申す
04 虫は風を食とす・風吹かざれば生長せず、 魚は水をたのみ・鳥は木をすみかとす・仏も亦かくの如く法華経を命と
05 し・食とし.すみかとし給うなり、魚は水にすむ・仏は此の経にすみ給う・鳥は木にすむ.仏は此の経にすみ給う・月
06 は水にやどる・仏は此の経にやどり給う、此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。
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 このように有り難い御経を故七郎五郎殿は信心されて仏になられ、今日は四十九日になられるので、一切の諸仏が霊山浄土に集まられて、あるいは手にすえ、あるいは頭をなで、あるいは抱き、あるいは悦び、月が初めて出たように、花が初めて咲いたように、どんなにか愛されていることであろう。
 一体どうして三世十方の諸仏は強くこの法華経を守られるのであろうかと考えてみると、道理なのである。法華経というのは三世十方の諸仏の父母であり、乳母であり、主君であられるのである。かえるという虫は母の鳴き声を食物とする。母の声を聞かなければ生長しない。からぐらという虫は風を食物としている。風が吹かなければ生長しない。魚は水を依りどころとし、鳥は木を栖としている。仏もまた同じく法華経を命とし、食物とし、すみかとされている。魚は水に棲んでいる。仏はこの経に住まわれている。鳥は木に棲んでいる。仏はこの経に住まわれている。月は水に宿る。仏は此の経に宿られる。この経のない国には仏がおられるという事はないと御心得なさい。

八方
 東・東南・南・西南・西・西北・北・東北の八方。
―――
三千大千世界
 仏教の世界観で、三千世界・大千世界ともいう。日月・須弥山・四大洲を含む九山八海と、欲界の諸天・色界の忉利天をあわせて小世界とし、千個の小世界を小千世界、小千世界×1000を中千世界、中千世界×1000を大千世界といい、小千・中千・大千の三種の千世界からできているので三千大千世界という。
―――
四百万億那由佗
 億は数の単位だが諸説がある。瑜伽略纂には「西方に四種の億あり。一には十万を億となし、二には百万を億となし、三には千万を億となし、四には万万を億となす」とある。那由佗は梵語ナユタ(Nayuta)の音写。那由多、那由他とも音写し、兆または溝と訳す。インドにおける数の単位の一つ。那由佗においても、具体的数量は経論によって諸説があり、定かではない。いずれにせよ膨大な数を意味する。
―――
十方
 十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
―――
稲麻
 稲や麻のことでたくさん集まっているさまをいう。
―――
四天王
 四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
―――
星宿
 星・星座のこと。
―――
日月
 日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
―――
帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
梵天
 仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
―――
二乗
 十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
菩薩
 菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
兜率内院
 兜率天の内院のこと。兜率天は内院と外院に分かれ、内院には兜率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。
―――
弥勒菩薩
 弥勒は梵語マイトレーヤ(Maitreya)の音写で慈氏と訳し、姓を示す。名は阿逸多で、無勝・無能勝と訳される。釈尊の仏位を継ぐ補処の菩薩とされる。釈尊に先立って没し、現在は兜率の内院で天人のために説法しているが、五十六億七千万歳の後、再び人界に下って釈尊の教化にもれた衆生を済度すると菩薩処胎経巻二等に説かれている。
―――
迦羅陀山
 迦羅陀は梵語カラーディーヤ(Kharādiya)の音写。伽羅陀山、佉羅陀山とも書き、騾林山と訳す。須弥山を囲む七金山の一。地蔵菩薩の住処とされる。
―――
地蔵
 地蔵菩薩のこと。忉利天で釈尊から付属を受け、毎日晨朝に恒沙の禅定に入って衆生の機を感じ、釈尊滅後、弥勒菩薩が出るまでの中間に衆生の願いに応じて利益・安楽を与えるという。
―――
補陀落山
 インド南海岸にあるという山の名。補陀落迦、補陀洛とも書き、海島・光明と訳す。観世音菩薩の住処とされる。華厳経巻五十には、遊行していた善財童子に釈尊が「此の南方に於いて山有り、名づけて光明と曰う。彼に菩薩有り、觀世音と名づく。汝彼に詣りて問え」と奨め、同巻五十一に童子が観世音菩薩に会ったことが述べられている。
―――
観世音
 観世音菩薩のこと。梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。
―――
清凉山
 文殊師利菩薩の住処といわれる。華厳経巻二十九には「東北方に菩薩の住処有り、清涼山と名づけ、過去の諸の菩薩常に中に於いて住せり。彼に現に菩薩あり、文殊師利と名づけ、一万の菩薩の眷属有りて常に為に法を説く」とある。古来より、中国山西省にある五台山が経文にある清涼山と信ぜられ、仏教の一大霊地とされた。
―――
文殊師利菩薩
 文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳する。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
多宝
 多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十二時
 一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。
―――
三世
 過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
―――
からぐら
 梵語カラークラ(Kalakula)の音写で、黒木虫と訳す。大智度論巻第七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得れば転た大にして、乃至能く一切を呑食するが如し」とあり、風を得て成長する生き物といわれる。
―――――――――
 法華経を受持した功徳がいかに大きいかを、法華経法師品の文を引用されて示されるのである。
 この法師品の文は、釈尊が薬王菩薩に対し、法華経を受持する者を讃嘆して述べた言葉のなかにある。
「薬王よ。当に知るべし、如来の滅後に、其れ能く書・持・読・誦・供養し、他人の為めに説かば、如来は則ち衣を以て之れを覆いたまう。又た他方の現に在す諸仏の護念する所と為らん」。
 法華経を受持し、他人のために説く者を、如来は自分の衣をもって覆って助ける。釈尊のみならず、現在の他方の世界にいる諸仏も力を添えて守るというのである。
 この文を挙げて、大聖人は次に、この「他方の諸仏」がいかに大勢であるかを示され、法華経の行者は、一切の諸天、二乗、菩薩によって守護されるばかりでなく、このように、釈迦仏・多宝仏、更に無数の十方の諸仏自らによって守っていただけるとは、なんとありがたいことかと述べられている。
 そして、故七郎五郎も妙法を信仰して亡くなったのであるから、このような三世十方の諸仏の加護を蒙っていることは疑いないと仰せられるのである。
 次に「抑いかなれば三世・十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘へて候へば……」と、なぜ諸仏が法華経と法華経の行者を護念するのか、その理由について、それは法華経が諸仏にとって父母、乳母、主だからであると述べられている。
 諸仏は法華経から出生し、法華経に養われ、また常にこの経典を依所として活躍するのである。すなわち、法華経こそ、諸仏にとって食物であり、すみかであるとともに、生命そのものなのである。
 このことを次に、種々の動物の譬喩でもって示されている。
 このように、法華経は諸仏にとって最も大事な経典であるから、この経典を信受し、また他人に説き弘めていく法華経の行者は諸仏に護念されるのである。
 さて、ここに法華経とは一往、釈尊の説き示した文上の法華経二十八品を指しているが、再往、その元意は文底の法華経、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経を意味していることはいうまでもない。
 南無妙法蓮華経こそ三世十方の諸仏の能生の根源であり、主師親の三徳をそなえた究極の法なのである。
 「観心本尊抄」では普賢経の文を挙げ、妙法蓮華経が主師親の三徳をそなえていることを明示されている。
「普賢経に云く『此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目なり乃至三世の諸の如来を出生する種なり乃至汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ』等云云、又云く『此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得・仏の三種の身は方等従り生ず是れ大法印にして涅槃海に印す此くの如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず此の三種の身は人天の福田なり』等云云」(0245-16)。
 この御文を日寛上人は文段で次のように解説されている。「次に結経の二文を借りて久遠元初の三徳具足の能生の徳を顕わすなり」と述べられて、「此の大乗経典」とは久遠元初の種子能生の妙法をさし、「諸仏の宝蔵」は主徳、「十方三世の諸仏の眼目」は師徳、「三世の諸の如来を出生する種」は父母の徳に配されることを示されている。
 また「方等経」を久遠元初の種子能生の妙法とし、「諸仏の眼」は師徳、「仏の三種の身は方等従り生ず」は父母能生徳、「是れ大法印」は主徳に配されると述べられている。
 このように三世十方の諸仏は皆久遠元初の種子能生の南無妙法蓮華経より生まれ、養われ、また護られてきたのである。
四十九日について
 死後49日目は、尽七日、満中陰、中陰満ともいわれ、人が死んで中陰の満つる日であり、重要な節とされている。
 瑜伽師地論巻第一には次のように記されている。
「又此の中有若し未だ生縁を得ざれば七日を極として往す、生縁を得るあるも即ち決定せず、若し七日を極として未だ生縁を得ざれば、死して復た生じ、7日を極として住す。是くの如く展転して、未だ生縁を得ざれば、乃至七七日住す、此れより已後決めて生縁を得」。
 つまり、人間は死して直ちに中有の身を受け、中有の旅に出る。そして七日ごとの節を経て、次の生縁が決定し、他生に赴く節が49日となるのである。
 ここに生縁とは十界の生縁である。死して後、7日ごとに十界のいずれかに生まれるかが決まっていく。最も早い中有は、死後直ちに生縁が決定する。例えば、極善の種子を強く刻印した中有身は直ちに霊山浄土へと赴く。逆に極悪の業種子の極めて強い中有身は、そのまま無間地獄へと堕ちていくのである。
 その中間にある者は、次々と7日を経て、中有身に内在する業種子の如何によって十界のいずれに転生するかが決まるのである。そして、49日にはほぼすべての中有身の次なる生処が決定するといわれる。
 このような説に基づき、死後、7日ごとに追善の供養が営まれるわけであるが、とくに49日は満中陰の法要を盛大に営み、死者を供養することが慣例となったのである。
 生前、純真に妙法を信じた故七郎五郎は死後直ちに霊山浄土に詣で、49日ともなれば、間違いなく成仏の境地に到り、無数の諸仏から大事にされているであろうと仰せられているのである。

1571:07~1572:05 第六章 輪陀王の故事を引くtop

07   古昔輪陀王と申せし王をはしき南閻浮提の主なり、 此の王はなにをか供御とし給いしと尋ぬれば・白鳥のいな
08 なくを聞いて食とし給う、此の王は白馬のいななけば年も若くなり・色も盛んに・魂もいさぎよく・力もつよく・又
09 政事も明らかなり、 故に其の国には白馬を多くあつめ飼いしなり、 譬えば魏王と申せし王の鶴を多くあつめ・徳
10 宗皇帝のほたるを愛せしが如し、 白馬のいななく事は又白鳥の鳴きし故なり、 されば又白鳥を多く集めしなり、
11 或時如何しけん白鳥皆うせて・白馬いななかざりしかば、 大王供御たえて盛んなる花の露にしほれしが如く・満月
12 の雲におほはれたるが如し、此の王既にかくれさせ給はんとせしかば、后・太子・大臣・一国・皆母に別れたる子の
13 如く・皆色をうしなひて涙を袖におびたり・如何せん.如何せん、其の国に外道多し・当時の禅宗・念仏者・真言師.
14 律僧等の如し、又仏の弟子も有り・当時の法華宗の人人の如し、中悪き事・水火なり・胡と越とに似たり、 大王勅
15 宣を下して云く、 一切の外道・此の馬をいななかせば仏教を失いて一向に外道を信ぜん事・諸天の帝釈を敬うが如
16 くならん、 仏弟子此の馬を・いななかせば一切の外道の頚を切り其の所をうばひ取りて仏弟子につくべしと云云、
17 外道も色をうしなひ・仏弟子も歎きあへり、 而れども・さてはつべき事ならねば外道は先に七日を行ひき、白鳥も
18 来らず・白馬もいななかず、 後七日を仏弟子に渡して祈らせしに・馬鳴と申す小僧一人あり、諸仏の御本尊とし給
1572
01 う法華経を以て七日祈りしかば・白鳥壇上に飛び来る、此の鳥一声鳴きしかば・一馬・一声いななく、 大王は馬の
02 声を聞いて病の牀よりをき給う、后より始めて諸人.馬鳴に向いて礼拝をなす、白鳥.一・二・三乃至.十・百・千.出
03 来して国中に充満せり、白馬しきりに・いななき一馬・二馬・乃至百・千の白馬いななきしかば・大王此の音を聞こ
04 し食し面貌は三十計り・心は日の如く明らかに政正直なりしかば、 天より甘露ふり下り、 勅風・万民をなびかし
05 て無量・百歳代を治め給いき。
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 昔、輪陀王という王がおられた。南閻浮提の主君であった。この王は何を召し上がられていたかというと、白馬のいななきを聞いて食事とされた。この王は白馬がいななくと、年も若くなり、顔色もよく、心もさわやかで、力も強く、また政治も公明であった。したがって、その国には白馬を多く集めて飼っていた。たとえば魏王という王が鶴を多く集め、徳宗皇帝が蛍を愛したようなものである。白馬がいななくのは、また白鳥が鳴くからであった。それゆえ、また白鳥を多く集めていた。
 ある時、どうしたことか、白鳥が皆いなくなって白馬がいななかなかったので、大王は食が絶えて、盛りの花が露によって萎れたように、満月が雲に覆われたようになってしまった。この王がもはやお亡くなりになろうとしたので、后・太子・大臣・国中の人々は皆、母に別れた子のように顔色を失って涙で袖を濡らすのであった。「どうしたものか、どうしたものか」と。
 その国に外道が多くいた。今の時代の禅宗・念仏者・真言師・律僧などのようなものである。また、仏の弟子もいた。今の法華宗の人々のようなものである。仲の悪いことは水と火のようであり、胡と越との関係に似ていた。大王は詔を下して「一切の外道がこの白馬をいななかしたならば、仏教を滅ぼして偏に外道を信じることは諸天が帝釈を敬うようにしよう。仏弟子がこの馬をいななかしたならば、一切の外道の首を切り、その住所を奪い取って仏弟子に与えよう」といった。外道も顔色を失い、仏弟子も歎きあった。
 しかしながら、そのままですむことではないので外道は先に七日間、行なった。白鳥も来ず、白馬もいななかなかった。後の七日間を仏弟子に与えて祈らせたときに、馬鳴という一人の小僧がいて、諸仏が御本尊とされていた法華経で七日間、祈ったところ白鳥が壇上に飛来した。この鳥が一声鳴いたときに一馬が一声いなないた。大王は馬の声を聞いて病の床より起きられた。后をはじめ諸人は馬鳴に向かって礼拝をした。白鳥は一羽、二羽、三羽、……十羽、百羽、千羽と出て来て国中に充満した。白馬はしきりにいななき、一頭、二頭、……百頭、千頭の白馬がいなないたので、大王はこの声を聞かれて顔の相は三十歳ごろのようで、心は太陽のように明らかで、政冶を正しく行ったので天から甘露が降り、王の詔は万民を従えて無量百歳の間、世を治めたのである。

輪陀王
 釈摩訶衍論のなかに「過去世の中に、一りの大王あり。名づけて輪陀という」とあり、本文と類似の話が載っている。しかし、白馬と白鳥の関係が入れ変っている。なぜ、そうなったのかについては明らかでない。
―――
南閻浮提
 須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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供御
 高貴の人に関して、その飲食物。
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魏王
 中国春秋時代の衛国の王・懿公(在位、前0668~前0660)のこと。中国戦国時代の魏の祖と同系であったことから魏王といわれた。春秋左氏伝によれば、懿公は鶴を好み、禄位を与えて大夫の車に乗せるなどしたという。なお、懿公が北狄によって殺されたとき、散乱していた懿公の肝を臣下の弘演が自分の腹をさいて入れ、主君の恥を隠して死んだ話は、忠の手本として知られる。
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徳宗皇帝
(0742~0805)。中国唐朝第九代の皇帝。姓名は李适。代宗の長男。即位後、思いきった税法の改革、節度使対策を行ったが、各地で内乱が起こり、成功しなかった。
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外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
禅宗
 禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
胡と越
 胡は中国北方の異民族で、越は南方の異民族。北と南とに遠く隔たった異民族の意。貞観政要には「誠を竭せば則ち胡越も一體と為り、物に傲れば則ち骨肉も行路と為る」とある。なお、この〝胡〟を春秋時代末に越と激しく争った〝呉〟の国のこととする説もある。
―――
馬鳴
 馬鳴菩薩のこと。二世紀ころ、中インドに出現したといわれる大乗の諭師。付法蔵の代十二祖・アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)のこと。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば「舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰伏した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。
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甘露
 ①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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勅風
 天子のみことのりを、草木をなびかす風にたとえていった言葉。
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 三世十方の仏が法華経を食としすみかとされるということを分かりやすくするため、輪陀王と白馬の故事が引用されている。
 この故事は、竜樹菩薩の釈摩訶衍論のなかに馬鳴菩薩の過去の因縁談として説かれている。
 「過去世の中に一の大王あり名づけて輪陀と曰う、千の白鳥有り、皆悉く好声なり、若し鳥声を出さば大王徳を増し、若し声を出さざれば大王徳を損ず、是くの如きの諸鳥、若し白馬を見れば即ち其声を出す、若し見ざる時は常に声を出さず、爾時に大王徧く白馬を求るに、終日得ずして是くの如きの言を作す、若し外道の衆、此鳥を鳴せば都て仏教を破て独尊独信せん、若し仏弟子此鳥を鳴せば都て外道教を破て独尊独信せんと。爾時に菩薩神通力を用て千の白馬を現じ、千の白鳥を鳴かせ、正法を興隆して断絶せざらしむ。此故に世尊んで名けて馬鳴と曰う」。
 日蓮大聖人は本抄のほかに「曾谷殿御返事」と「内房女房御返事」にも、この故事を引用されているが、白鳥と白馬の関係が入れ替わっている。しかし、何が原因でそうなったかは不明である。あるいは異本があったのかもしれない。
 ともあれ本抄に従っていえば、輪陀王は白馬の鳴くのを聞くと「年も若くなり・色も盛んに・魂もいさぎよく・力もつよく・又政事も明らか」になった。つまり、色心ともに旺盛で活力に満ち、したがって善政をしくことができた。白馬は白鳥を見ていなないたのである。
 ところが、ある時、急に白鳥が姿を消し、白馬のいななきが聞かれなくなってしまう。その原因を本抄では「或時如何しけん」とのみお記しであるが、内房女房御返事では「然るに大王の政や悪しかりけん又過去の悪業や感じけん」(1423-12)と仰せられ、また曾谷殿御返事でも「まつり事のさをいにやはむべりけん・又宿業によつて果報や尽きけん」(1061-07)と述べられている。
 いずれにせよ、そのために王は生命力がすっかり衰えてしまったのである。
 そこで、まず外道に祈らせたのであるが、白鳥を現じさせることはできず、したがって白馬をいななかせることもできなかった。
 代わって仏教僧に命じたところ、馬鳴菩薩が祈りに取りくんだ。馬鳴菩薩は「諸仏の御本尊とし給う法華経を以て七日いのりしかば・白鳥壇上に飛び来る」と仰せのように、法華経への祈りによって白鳥を現じさせ、白馬をいななかせて、王を再び元気にしたのである。
 ところでこの輪陀王と白馬の故事を、「内房女房御返事」では、内房女房とその父の立場にあてはめられて、次のように教示されている。
 「氏女の慈父は輪陀王の如し氏女は馬鳴菩薩の如し、白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し、大王の聞食して色も盛んに力も強きは、過去の慈父が氏女の南無妙法蓮華経の御音を聞食して仏に成せ給ふが如し」(1424-15)。
 また「曾谷殿御返事」では、輪陀王を諸天善神にたとえて次のように仰せである。
 「今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩・日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のごとし、白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし。」(1065-05)
 いずれの御文でも白馬を大聖人御自身たとえられ、白馬の鳴く声を大聖人と門下一同の題目の声にあたるとされている。
 また「曾谷殿御返事」では輪陀王を諸天善神にたとえておられるが、本抄での輪陀王とは一切の四天王、一切の諸天善神、一切の二乗・菩薩、三世十方の諸仏をさしておられる。
 諸天善神や諸仏は法華経の題目の声を聞いて威光勢力を増すのである。ゆえに、大聖人の門下が三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、題目を唱えたとき、諸仏、諸天は威光勢力を増し、法華経の行者を守護してくださるのである。

1572:06~1572:12 第七章 亡国の根源を指摘top

06   仏も又かくの如く多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅・此の経をよむ代には出現し給う、釈迦仏・
07 十方の諸仏も亦復かくの如し、 かかる不思議の徳まします経なれば・此の経を持つ人をば・いかでか天照太神・八
08 幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給うべきと・たのもしき事なり、 又此の経にあだをなす国をば・いかに正直に
09 祈り候へども・ 必ず其の国に七難起りて他国に破られて亡国となり候事・大海の中の大船の大風に値うが如く・大
10 旱魃の草木を枯らすが如しと・をぼしめせ、当時・日本国のいかなる・いのり候とも・日蓮が一門・法華経の行者を
11 あなづらせ給へば・さまざまの御いのり叶はずして大蒙古国にせめられて・すでに・ほろびんとするが如し、 今も
12 御覧ぜよ・ただかくては候まじきぞ・是れ皆法華経をあだませ給う故と御信用あるべし。
-----―
 仏もまた同じであり、多宝仏という仏は此の法華経にあわれないときは御入滅になっており、この経を読む代には出現されるのである。釈迦仏や十方の諸仏もまた同様である。このような不思議な徳のあられる経なので、この経を持つ人をどうして天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩が見捨てられることがあろうかと思うと、頼もしいことである。
 また、この経に怨をなす国をいかに正直に祈ったとしても、必ずその国に七つの災難が起こり、他国に攻め滅ぼされて亡国となることは、大海のなかの大船が大風に遇うようなものであり、大旱魃が草木を枯らすようなものであると思いなさい。今の時、日本の国がどのような祈りをなしたとしても、日蓮の一門、法華経の行者を侮られているので、さまざまな御祈りも叶わずに大蒙古国に攻められて、もはや亡びようとしているようなものである。今も御覧になっていなさい。ただ、このような状態であることはないだろう。これは皆、法華経を怨まれるゆえであると信じなさい。

天照太神
 日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
八幡大菩薩
 天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
―――
富士千眼大菩薩
 富士信仰と結びついた浅間神社の祭神。当時は神仏習合によって神に菩薩号がつけられていた。浅間神社は大宮(静岡県富士宮市)をはじめ駿河・甲斐地方を中心に各地につくられていた。なお〝千眼〟は〝浅間〟の音をとったものと思われるが、雑阿含経巻四十に「彼の天帝釈、復千眼と名づく」とあるように、法華経の行者を守護する帝釈天の意を込められたものとも受けとれる。
―――
七難
 正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
―――
旱魃
 長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
―――
蒙古国
 13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
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 輪陀王が白馬のいななきによって威力を増したように、諸仏や諸天も法華経の題目によって威光勢力を増すのであるから、多宝如来や他の仏も、題目の声を聞くことができるところに御出現になるのは当然である。
 ゆえに法華経を信受し弘めていく者を天照太神、八幡大菩薩、富士の千眼大菩薩が守らないわけがないと仰せられている。
 逆に、法華経にあだをなせば、その国に三災七難が起こり、滅亡の憂き目にあわざるをえないことになる。今、日本国は一国謗法となりはてているために、蒙古の攻めを被っているのだと仰せである。
 当時、文永の役以後、幕府は一段と蒙古襲来への備えに力を注ぐとともに、京都、鎌倉をはじめ、全国各地の寺院や神社で蒙古調伏の祈願や祈禱を盛んに行わせていた。
 しかし、このような法華経誹謗の邪法による調伏をいくら熱心に行ったとしても、祈りが叶わないのは当然であり、かえって滅亡を招くだけであると強く破折されている。
 本抄より五年前の建治元年(1275)に富木常忍に送られた「聖人知三世事」にも「設い万祈を作すとも日蓮を用いずんば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん」(0974)と仰せである。
 本抄御執筆の時、すでに蒙古の第二回目の日本遠征の準備も最終段階にきていたに違いない。そして蒙古軍が合浦を進発したのが翌弘安4年(1281)の5月3日、対馬に上陸を開始したのが5月21日であった。

1572:13~1573:08 第八章 母尼御前の心中を思い遣るtop

13   抑故五郎殿かくれ給いて既に四十九日なり、 無常はつねの習いなれども此の事うち聞く人すら猶忍びがたし、
14 況や母となり妻となる人をや・心の中をしはかられて候、 人の子には幼きもあり・長きもあり・みにくきもあり・
15 かたわなるもある物をすら思いに・なるべかりけるにや、 をのこごたる上よろづに・たらひなさけあり、故上野殿
16 には壮なりし時をくれて歎き浅からざりしに・ 此の子を懐姙せずば火にも入り水にも入らんと思いしに・此の子す
17 でに平安なりしかば・誰にあつらへて身をも・なぐべきと思うて、 此に心をなぐさめて此の十四五年はすぎぬ、い
18 かに・いかにと.すべき、二人のをのこごにこそ・になわれめと.たのもしく思ひ候いつるに・今年九月五日・月を雲
1573
01 にかくされ・花を風にふかせて・ゆめか・ゆめならざるか・あわれひさしきゆめかなと・なげきをり候へば・うつつ
02 ににて・すでに四十九日はせすぎぬ、まことならば・いかんがせん、さける花は・ちらずして・つぼめる花のかれた
03 る、をいたる母は・とどまりて・わかきこは・さりぬ、なさけなかりける無常かな・無常かな。
-----―
 さて、故七郎五郎殿が亡くなられて既に四十九日である。無常であることは常の習いであるけれども、このことを聞いた人でさえ、なお忍びがたい。ましてや母となり、妻となっている人はなおさらであろう。心中を御推察申し上げる。人の子には幼い者もあり、おとなびている者もあり、醜い者もあり、体に障害のある者もあるが、そうした者でさえ親は愛しく思うものなのであろう。まして故七郎五郎殿は男の子であるうえ、すべてに満足な状態で、情があった。故上野殿には壮年の時に先立たれて、歎きは浅くなかったから、この子を懐妊していなかったならば火にも入り水にも入って後を追おうと思っていたのに、この子が無事に生まれたので、誰にこの子を頼んで、身を投げられようかと思って、自分を励ましてこの十四、五年は過ぎた。それなのに、どうしたらよいというのか。二人の男の子に担ってもらえると頼もしく思っていたのに、今年九月五日、月を雲に隠され、花を風に吹かれたように七郎五郎殿は亡くなってしまった。夢なのか夢ではないのか、ああなんと長い夢であることかと嘆いていると、現実のようで既に四十九日は過ぎ去ってしまった。事実ならば、どうしたものか。咲いた花が散らずに、蕾の花が枯れてしまったように、老いた母は留まって、若い子供は去ってしまった。なんと情のない無常の世であることよ、無常の世であることよ
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04   かかる.なさけなき国をば・いとい・すてさせ給いて故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給いて.常住不壊の
05 りやう山浄土へとくまいらせ給うちちはりやうぜんにまします・母は娑婆にとどまれり、 二人の中間に・をはしま
06 す故五郎殿の心こそ・をもひやられて・あわれに・をぼへ候へ、事多しと申せども・とどめ候い畢んぬ、恐恐謹言。
07       十月二十四日                    日 蓮 花 押
08     上野殿母尼御前御返事
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 このような情のない国を厭い捨てられて、故七郎五郎殿が信心していた法華経につき従われて常住不滅の霊山浄土へ速やかに参られるがよい。父は霊山におられる。母は娑婆世界に留まっている。二人の中間におられる故七郎五郎殿の心こそ思いやられて哀れに思われる。申し上げたい事は多くあるけれども、これで止めておく。恐恐謹言。
  十月二十四日            日 蓮  花 押
   上野殿母尼御前御返事

無常
 常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
―――
常住不壊
 過去・現在・未来の三世にわたって常に存在し壊れることがないこと。
―――
娑婆
 雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。
―――――――――
 夫を亡くし、今またいとしい子を失った夫人の胸中を察してつづられた御文である。
 文永2年(1265)3月、夫兵衛七郎が亡くなった時に母御前は七郎五郎を胎内に宿していた。
 母御前は、我が子の成長を楽しみに人生を送ってきたが、七郎五郎は「よろづに・たらひなさけあり」と述べられているように、万事にすぐれており、人情深い好青年に育っていったものと思われる。母御前は兄時光とこの七郎五郎を余生の頼りにしていたに違いない。
 ところが、その七郎五郎が、わずか16歳の若さで世を去ってしまったのである。
 大聖人は、夫といとし子を失った母御前の心境いかばかりかと、慰めの言葉も見いだしえないほど心を痛められたのではなかろうか。
 そのような大聖人の御心が、若き子が老いたる親に先立って亡くなったことに対するかぎりない悲嘆の言葉となってほとばしりでているように拝される。
 七郎五郎の死に対する母御前の気持ちを、母御前自身になりきったように、痛切に叙され、成仏をめざしての一層の信心を勧められている。
 この母御前になりかわって悲しみを述べられている段は、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758-04)との大聖人の大慈大悲の御心境が、そのままうかがわれる一節である。

1568~1573    上野殿母御前御返事(中隠書)2013:07大白蓮華より先生の講義)top

妙法で結ばれた「生命の絆は」永遠!
 「汝自身を知れ」。古来、まことに有名なギリシャの箴言です。
 もともとの意味は「人は必ず死す」という峻厳なる真実に目を向けよ、ということでした。
 この命題に向き合った哲人ソクラテスは、哲学とは「死の練習」であると言いました。
 「死の練習」とは、実は「いかに生きるか」というテーマと、表裏一体です。だからこそソクラテスは、牢獄での死が迫るなかにあっても悠然と振る舞い、“ただ生きる”のではなく、“善く生きる”ことが大切なのだと訴えたのでありましょう。
 思えば、人はなぜ死を恐れるのか。
 一つの観点から見れば、死は、あらゆるつながりを断絶するように感じられるからではないでしょうか。
 けれども、死によっても決して断ち切ることができないものがあります。それが、三世に崩れぬ「生命の絆」であり、「心の財」です。妙法で結ばれた「生命の絆」は永遠不滅なのです。
確かな生死観が人生を豊かに
 若き日の私は、医師から“30歳まで生きられるか”と言われる体でした。それでも、死身弘法の師匠をお護りするためなら、生命を捧げて何の悔いもありませんでした。しかし、恩師・戸田先生は、「断じて行き抜け!私の分まで生き抜くのだ!」と指導されたのです。ゆえに私は、戸田先生に頂戴した寿命であるとの報恩の一念で、生き抜いてきました。何があろうとも、わが生命は、三世永遠にこの師匠と共にあるのだと確信しています。
 日蓮大聖人は御自身の仏法探究の志を語られて「臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」(1404-07)と仰せになられました。
 確かな生命観を持って生きることが、人生を深く豊かにします。「本有の生死」から見れば、死は一つの方便の姿です。よりよき「生」のための「死」です。
 今回は、「上野殿母御前御返事」を拝して、大聖人が示された仏法の深遠な生死観を共に学んでいきたいと思います。

上野殿母御前御返事 
01   南条故七郎五郎殿の四十九日.御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄.すりだう
02 ふ・こんにやく・柿一篭・ゆ五十等云云御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。
03   抑法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて・而かも唯仏与仏と説かれて仏と仏とのみこそ・し
04 ろしめされて・等覚已下乃至凡夫は叶はぬ事に候へ。
05   されば竜樹菩薩の大論には仏已下はただ信じて仏になるべしと見えて候、
-----―
 故南条故七郎五郎殿の四十九日の追善法要のために送られた御供養の品物の目録、鵞目二百文・白米一駄・芋一駄・すり豆腐・蒟蒻・柿一篭・柚五十個等受けとった。追善供養のために法華経を一部・自我偈を数度・題目を百千遍、お唱え申し上げた。
 さて法華経という御経は釈尊一代の仏教中には、似るものもない優れた御経で、しかも「唯、仏と仏とのみが」と説かれて、仏と仏とのみがお知りになられて、等覚の菩薩以下凡夫に至るまでの衆生は知ることができないのである。
 それゆえ竜樹菩薩の大智度論には「仏以下の衆生は、ただ信じることによって仏になることができたのでる」と記されている。

嘆きの母のために真心の追善を
 それは、あまりにも突然の別れでした。
 あまりにも早すぎる旅立ちでした。
 南条七郎五郎。富士方面の門下の中心である南条時光の弟である七郎五郎が、わずか16歳の若さで短い生涯を閉じたのです。弘安3年(1280)の9月5日のことでした。
 母御前にとっては可愛さひとしおの末っ子であり、時光にとっても頼もしい弟でした。つい3ヵ月前の6月15日には、兄弟そろって大聖人をお訪ねしていました。
 大聖人は「あはれ肝ある者かな男や男や」(1567-10)と、この若者をほめられています。熱原の法難に際し、立派に外護の任を果たしていた時光に続いて、この弟も将来が楽しみでならないと、若き後継の青年の成長に限りない期待を寄せられていたのでしょう。
 そこに飛び込んできた突然の訃報です。
 大聖人は、死去翌日の9月6日の手紙で、母御前や時光が受けた衝撃をそのままに「七郎五郎の死が夢か幻か、いまだにわからない」とても信じられないと、御自身のありのままの心情を綴られてえいます。
 大聖人が最も心配なされたのは、母親の上野尼です。年若い子供を亡くした悲しみはいかばかりか。しかも、七郎五郎は、夫の南条兵衛七郎に先立たれた時に、おなかにいた子供でした。夫の後を追って死にたいとまで思ったのを踏みとどまらせた、忘れ形見の愛児でした。手塩にかけて育てた宝の子でした。容姿もさわやかで、心根もしっかりした好青年で、自慢の子でした。その子を失った嘆きの母に、大聖人はどこまでも寄り添われ、同苦されていったのです。
 月も改まり、49日が近づいてきました。おそらく、何日たっても母御前は、気持ちの整理など、まだまだできていなかったに違いありません。それでも、何かせずにはいられなかった。
 母御前は、ただただ、わが子・七郎五郎の追善回向を祈る志から、大聖人に真心の御供養とともに、法要をお願いしたのでしょう。
 大聖人は、この母の心情を汲み取られて、49日の追善法要を営まれました。本抄の冒頭には、法華経28品を読誦され、さらに寿量品の自我偈を数度、題目を百・千遍、唱えましたと仰せです。
 「49日忌」までの7日ごとの追善回向は、などには見られなものですが、当時の日本社会では、風習として定着していた儀礼でした。
 大聖人は。真心には、どこまでも真心で応えられる。温かな慈愛あふれる振る舞いであられたのです。
法華経を持つ人は必ず仏に成る
 法華経によって懇ろに追善供養いたしました。こう言われたあと、続いて大聖人は、この法華経がどのように素晴らし経典かを明示されます。本抄は長編の御手紙ですが、その大半は、いかに法華経が最高峰の教えであるかを綴った内容となっています。
 そして繰り返し仰せです“法華経を持った七郎五郎の霊山への道は、何の心配もありません“南無妙法蓮華経と唱えた七郎五郎が成仏しないわけがありません”。“この49日には霊山浄土に一切諸仏が集まって、法華経への信心を貫いた七郎五郎を愛でています”。“法華経ゆえに、永遠に崩れない最高の境涯を得ています”。
 絶待に、亡くなったご子息は大丈夫ですよ。成仏は疑いありません、と母御前を抱きかかえるように、大聖人は諄々と仏法の真髄を語りかけていきます。
 「抑法華経と申す御経は」と、法華経が優れた経典である理由を説明された一文また一文を、おそらく母御前は深くうなずきながら拝していったのではないでしょうか。
 牧口先生も、御自身が読まれた御書には、「抑法華経と申す」との一節の「法華経」の文字に二重線を引かれています。
 大聖人は、最初に法華経が一代聖教の中で比較にならない最高の教えであることを確認されたあと、法華経は「唯仏与仏」の経典であうこと、すなわち、釈尊をはじめ仏だけが知る甚深の教えであると示されています。
 そして、法華経が一切経の中で最勝であるとの文証を挙げられ、この法華経を持った七郎五郎が無事に霊山浄土に着いたことは間違いないと明かされています。
 続いて、「世尊は法久しくして後要らず当に真実を説きたもうべし」、「正直に方便を捨てて但無上道を説く」などの経文を引かれて、法華経こそ“仏の真意”を顕した「真実」であり、爾前の諸経は衆生を最勝の法華経に導くための「方便」にすぎないことを教えられています。根本とすべきはどこまでも法華経であり、方便の教えに迷つたり執着してはならないのです。
 御文では、この「法華真実・爾前方便」の意義を、材木を用いて「大塔」を組み上げるという建築工事の最終目的と、その本工事に進むための手段である「足代」に譬えて述べられています。大塔が現れているのに、足代に執着して念仏ばかりを唱えて一生を過ごし、法華経の題目を一遍も唱えない人について、「世間に『賢くて愚かな人』というのは、これである」と破折されています。
 大聖人は、法華経一筋に生きた七郎五郎をはじめ南条家の人々を最大に賞賛され、大聖人の弟子として法華経の信心を貫いてきたのであるから守られないわけがありませんよと、誇りと安心を、強く、また優しく、上野尼の胸奥に打ち込まれているのです。

04   故七郎五郎殿は当世の日本国の人人には・にさせ給はず、をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・は
05 たちにも及ばぬ人が、 南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり、 乞い願わくは
06 悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・ 故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願は
07 せ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ
08 生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや。
-----―
 故七郎五郎殿は当世の日本国の人々には、似ておられない。幼い心であったけれども、賢い父の跡を継ぎ、歳もまだ二十歳にはならない人が南無妙法蓮華経と唱えられて仏になられたのである。「ひとりとして成仏せずということなかりけん」と説かれているのはこれである。
 こいねがうところは、悲母が我が子を恋しく思われるならば南無妙法蓮華経と唱えられて故南条兵衛七郎殿・故七郎五郎殿と同じ所に生まれようと願われるがよい。一つの種は一つの種であり、別の種は別の種である。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれられるであろう。三人が顔を合わせられるとき、その御悦びはいかばかりで、どんなに嬉しく思われることであろう。

同じ種によって同じ国に生まれる
 七郎五郎のような人は、今の日本の世にいません。と大聖人は讃えられています。
 それは第一に、国を挙げて法華経の行者を迫害している社会の中で、真っすぐに大聖人の弟子の道を歩んだ青年だということです。
 第二には、“賢き父の後を追い”との仰せの如く、南条家の“一粒種”であった父・兵衛七郎の後を継いで、立派に信心を継承してきたことでしょう。
 七郎五郎が生まれた時には、父親はすでに亡くなっていました。それでも、母親や兄弟から、病魔や死魔と戦い、見事に臨終正念の信心を全うした父の姿を聞いていたに違いありません。自分もまた父の如く、生涯、信心を貫いていくと、凛々しくも決意していたのでしょう。
 大聖人は、この前途ある若者の死を愛惜するとともに深く悲しまれながら、「南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ」と仰せです。突然の死に見舞われた七郎五郎ですが、何ものにも崩されない成仏の境涯であったと断言されています。何も恐れるものはないのです。
 父・南条兵衛七郎について、大聖人は「即身成仏疑いなし」とも仰せです。父親も、息子も、妙法を唱えて仏になったのです。
 そして大聖人の御言葉は、直接、母御前に向けられます。「我が子を恋しく思われるのであれば、妙法を唱えて仏になられたご子息、そしてご夫君と同じく、同じ妙法を唱えて、同じところに生まれようと願いなさい」と。
 その一言一言が、母御前の心を赫々と照らしたに違いありません。ここで大聖人は、「同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるなら、同じ妙法蓮華経の国に生まれる」と仰せです。“仏の種子”を心に植えるなら、その種子が芽吹いて花開くところは必ず“仏の国”となる。
 夫の兵衛七郎、子息の七郎五郎、そして、母御前と、父と子と母が三人、「妙法蓮華経の国」で顔を合わせて再会するのです。
 妙法の因果は、死の苦しみ、別離の苦しみをも超えて、三世永遠の生命の絆で同心の者を結ぶのです。
 この絆は、何ものも断ち切ることはできません。また、何ものも引き離すことはできない。何ものも邪魔することは絶対にできないのです。

09   抑此の法華経を開いて拝見仕り候へば 「如来則ち為に衣を以て之を覆いたもう又他方現在の諸仏の護念する所
10 と為らん」等云云、 経文の心は東西南北・八方・並びに三千大千世界の外・四百万億那由佗の国土に十方の諸仏ぞ
11 くぞくと充満せさせ給う、 天には星の如く・地には稲麻のやうに並居させ給ひ、 法華経の行者を守護せさせ給ふ
12 事、譬えば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し、 
-----―
 さてこの法華経を拝見してみると「如来は衣でこの人を覆われるであろう。また他方の現在の諸仏が護念してくださるであろう」等とある。経文の意は東西南北・八方・ならびに三千大千世界の外・四百万億那由佗の国土に十方の諸仏が続々と充満する。天には星のように地には稲麻のように並んでおられ、法華経の行者を守護せれることは、たとえば大王の太子を諸の臣下の守護するようなものである。
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17   かかるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給いて・ 今日は四十九日にならせ給へば・一切の諸
18 仏・霊山浄土に集まらせ給いて・或は手にすへ.或は頂をなで・或はいだき・或は悦び・月の始めて出でたるが如く.
1571
01 花の始めてさけるが如く・いかに愛しまいらせ給うらん、 抑いかなれば三世・十方の諸仏はあながちに此の法華経
02 をば守らせ給ふと勘へて候へば・道理にて候けるぞ・法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり・めのとなり・主に
03 てましましけるぞや、 
-----―
 このように有り難い御経を故五郎殿は信心されて仏になられ、今日は四十九日になられるので、一切の諸仏が霊山浄土に集まられて、あるいは手にすえ、あるいは頭をなで、あるいは抱き、あるいは悦び、月が初めて出たように、花が初めて咲いたように、どんなにか愛されていることであろう。
 一体どうして三世十方の諸仏は強くこの法華経を守られるのであろうかと考えてみると、道理なのである。法華経というのは三世十方の諸仏の父母であり、乳母であり、主君であられるのである。

「生も歓喜、死も歓喜」の大境涯
 妙法を持って信心に励む人が、仏にならないはずがない。生死不二であり、今世の生を営んでいる時はもちろん、死してもまた仏なのです。亡くなった父・兵衛七郎について、「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504-06)と御断言の通りです。 大聖人は、さらに法華経法師品の文を引かれています。その中に“如来は法華経を他者に説くために自ら衣をもって覆う”とあります。
 もとの経文の意味から少々はずれるかもしれませんが、この仏の「衣」という一言からも、限りない慈悲の温もりを感じてなりません。
 それは、苦悩の一人に徹して寄り添う同苦の衣であり、“決して孤独ではない”という励ましの衣であり、何ものにも奪い去られない絶待の安心の衣なのです。
 ともあれ大聖人は、全宇宙の仏が集まり、満天にきらめく無数の星々のように、見渡す限りの大地に生い茂る稲や麻のように並んで、「法華経の行者」を守護してくださるのだと教えられています。諸天善神や諸菩薩だけでなく、「釈迦・多宝・十方の諸仏が自ら来られて昼も夜も常に守護される」のです。
 大聖人は、さらに仰せです。
 この素晴らしい法華経を強盛に信受して七郎五郎は成仏されたのです。一切の諸仏が霊山浄土に集まられて、皆がご子息を手で支えたり、頭をなでたり、抱きしめたり、喜ばれたりして、こぞってお迎えになっていますよ。どれほどご子息を愛でられていることでしょうか。
 ここには、何一つ、死の不安や恐怖はありません。暗きから暗きに引きずり込むような絶望と苦悩の重力はありません。
 あたかも力の限り走り切ってゴールした栄光のマラソン走者を、皆が大喝采で迎え、抱擁し合うような麗しい光景です。
 妙法とともに生き抜いた人は、迷うこともなく霊山浄土に迎えられ、「生も歓喜、死も歓喜」の大境涯に至るのだと、大聖人は厳然と教えてくださっているのです。
妙法こそが諸仏を生む根源の種
 三世十方の諸仏が法華経を護るのはなぜか。それは、法華経が諸仏の父母であり、乳母であり、主人であるからだと仰せになっています。
 別の御抄に、「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」(0366-09)「じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり」(0366-09)とも記されている如く、ここにいわれる「法華経」とは、単なる経典の名前ではありません。先ほど拝した「妙法蓮華経の種」と同じ意義であり、父母が子を生むのと同じく、諸仏を生む“能生”の法なのです。
 この段の末尾には、「仏は此の経にやどり給う、此の経なき国には仏まします事なし」(1571-06)と仰せです。いうなれば、法華経が生き生きと実践されているその当所こそが、仏国土となるのです。
 一人の母を励まし、法華経への強盛な信心を鼓舞するために、大聖人はどこまでも心を砕かれています。
 それは言い換えれば、一人の人間が、生老病死、なかんずく死苦と向き合い、死魔を乗り越えていくことは、どれほど熾烈な戦いであるかということでもありましょう。また、そこに仏法が説かれた重大な意義があります。

08                                 又此の経にあだをなす国をば・いかに正直に
09 祈り候へども・ 必ず其の国に七難起りて他国に破られて亡国となり候事・大海の中の大船の大風に値うが如く・大
10 旱魃の草木を枯らすが如しと・をぼしめせ、当時・日本国のいかなる・いのり候とも・日蓮が一門・法華経の行者を
11 あなづらせ給へば・さまざまの御いのり叶はずして大蒙古国にせめられて・すでに・ほろびんとするが如し、 今も
12 御覧ぜよ・ただかくては候まじきぞ・是れ皆法華経をあだませ給う故と御信用あるべし。
-----―
 また、この経に怨をなす国をいかに正直に祈ったとしても、必ずその国に七つの難が起こり、他国に攻め滅ぼされて亡国となることは、大海のなかの大船が大風に遭うようなものであり、大旱魃が草木を枯らすようなものであると思いなさい。今の時、日本の国がどのような祈りをなしたとしても、日蓮の一門、法華経の行者を侮られているので、さまざまな御祈りも叶わずに大蒙古国に攻められて、もはや亡びようとしているようなものである。今もご覧になっていなさい。ただ、このような状態であることはないだろう、これは皆、法華経を怨まれているゆえであると信じなさい。

民衆の幸福のための大闘争
 法華経は自他共の生命に、三世永遠にして金剛不壊の仏の生命が存在することを明かし、それを開花させゆく教えです。誰人たりとも、この仏性という最高の宝を光り輝かせて、生死を超えた永遠の幸福境涯を勝ち得る権利があるのです。
 この法華経の精神に敵対することは、最も大切な生命を踏みにじり、人間を軽視し、疎外することに通じる。人々を迷わせ、社会を濁らせる根本原因となるのです。
 結局、根本の誤ちから正さなければ、何をやっても、御文に則していえば、「いかに正直に祈り候へども」本当の民衆の幸福と安穏が訪れることはありません。
 大聖人は、この民衆の苦悩を解決するために、敢然と「立正安国」の大闘争を起こされたのです。そして「日蓮がひかうればこそ」(0919-17)と仰せの如く、誰が見ようが見まいが、大聖人は「日本の柱」として、厳然と人々を護られていました。
 しかし、この法華経の行者を侮り、妬み、迫害を加え続けてきたのが、当時の日本の転倒の姿でありました。その根本の狂いが、いかに社会を危機に陥れていくか。大聖人は、母御前に「よく御覧なさい」と語りかけられ、いよいよ信心を強盛に奮い起こすように励まされています。
常住不壊の霊山浄土
 法華経の万人成仏の法理のうえから、また、法華経の実践を貫いた信心のうえから、七郎五郎の成仏は絶対に間違いありませんよ。本抄で大聖人は、そう断言される一方で、どこまでも、母の心情に幾度も寄り添われています。人の心は、理屈だけで割り切れるものではないからです。根底から納得し安堵するまで、人それぞれ時間の経過は異なります。大聖人は、1年余りたった御手紙でも、母御前の心境に思いを馳せられています。
 本抄の最後でも、大聖人は再び七郎五郎を亡くした母御前の心を思いやられて、その気持ちを代弁するように綴られています。
 今年9月5日、やっと満月となった月を雲に隠され、ようやく蕾を開く花を風に吹かれたように七郎五郎は亡くなってしまった。夢なのか夢ではないのか、ああ、なんと長い夢であるかと嘆いていると、現実のようで既に49日は過ぎ去ってしまった。事実ならば、どうしたものか。咲いた花は散らずに、蕾の花が枯れてしまったように、老いた母は留まって、若い子どもは去ってしまった。なんと情けのない無常の世であることよ。
 大聖人は、この無常の娑婆世界を「なさけなき国」と言われ、これに対して、法華経の信心を持った人は、「常住不壊の霊山浄土」に入っているのだと断言されています。
 大聖人は本抄の末尾で、夫の兵衛七郎は霊山浄土、上野尼は娑婆世界、そして子息の七郎五郎は今、「二人の中間」にいると述べられています。
 その意味は、“七郎五郎殿は父・兵衛七郎殿と共に諸仏に守られ、讃えられて霊山浄土にいるのだから、もう嘆くことはなのです。でも、母上が心配ばかりしていると、ご子息が気がかりで落ち着けないですよ”と、心にしみいるように教えられているのではないでしょうか。
生死の荒波を乗り越える大船
 戦時中に入会した、ある草創の友は、幼い我が子を亡くすなどの悲嘆の中で、「神も仏もあるものか」と絶望に打ちひしがれていました。
 その時、信心とする原点となったのが、先師・牧口先生の大確信の励ましでした。
 「人生、あきらめないでよいことが、ここに、たった一つだけあるのです」と。
 それが「信心」です。
 天変やまない無常の世の中です。自他共に「生老病死」の苦悩が怒濤のように押し寄せる人生です。しかし、いかなる人生の嵐にぶつかろうが、生死の荒波を乗り越え、勝ち越えていける、確かな「常楽我浄」の船があるのです。大聖人は「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448-11)と教えてくださいました。
 妙法とともに生き抜く生命は、断じて絶望の淵に沈みゆくことではありません。大聖人が上野尼に教えられているのも、この絶待の確信と勇気の信心であると拝されます。「生死の二法は一心の妙用」(1543-09)です。さらに「御義口伝」には、「法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(0724-第八唯有一門の事-05)、「此の法華経は生死生死と転りたり」(0802-勧発品-03)とも仰せです。
 私たちが朝に目覚めて働き、夜は眠って、明日への活動を得るのと同じように、生も、死も、同じく一心、我が生命の妙なる働きと見るのが、日蓮仏法の生死観です。
妙法の同志の縁は三世
 私が戸田先生にお会いして、信心を始めてから、この8月で満66年になります。
 懐かしい共戦の同志の中には、すでに今世の使命を果たして、安祥として霊山に旅立った方々もいます。
 七郎五郎のように若くして逝いた青年もいました。病気や不慮の事故等で亡くなられた方もいます。また、先の悲惨な戦争や、大震災などの巨大災害に際しては、あまりにも多くの人々が犠牲になられました。私は日々、亡くなられた方々の追善回向の題目を送ってきました。
 どんなに時代が進んでも、化学や技術が進歩しても、死の別れの悲しさ、寂しさが消えることはありません。
 しかし、本抄を拝して学んだ通り、妙法は三世永遠です。
 妙法の眼で見れば、今生の終わりは、次の生への出発であり、「生命」の大いなる物語は、新たな生死また生死のドラマを重ねながら続いていくのです。
 そして今世で結ばれた生命の絆は、死によって断ち切られ、無に帰すのではない。たとえ目には見えずとも、無線のようにつながった縁は、瞬時も離れることはないのです。
 そう確信するなら、寂しくとも決して孤独ではありません。悲しみの涙も、やがて誓いの涙に変わります。残された家族や友人も、前を向ける。遺族という以上に、同じ志で結ばれた後継者として、故人の分まで生き抜く勇気と生命力を得ることができるのです。
 「いかなる人生観を持つか」が、その人の人生に決定的な影響を与えます。
 であるがゆえに、「生命は永遠なり」という生死観を多くの人々が共有していくならば、人間の文明はどれほど、その姿を変えることでしょうか。
人類の境涯高める仏法の生死観
 20年前の1993年9月、私はアメリカのハーバード大学で2度目の講演を「21世紀文明と大乗仏教」と題して行いました。
 この中で、「死を忘れた分明」ともいわれる現代文明の行き詰まりを乗り越え、新たな文明を創出しゆく智慧として紹介したのが、大乗仏教の真髄である「生も歓喜、死も歓喜」という生死観でありました。
 あらためて御書を拝すれば、妙法を抱いての生死の旅には、暗い恐怖の影は微塵もありません。いたずらに死を忌避し、死を忘れて享楽するような刹那主義も、反対に苦悩に満ちた現世を厭うニヒリズムや逃避主義もありません。
 「生も歓喜、死も歓喜」「生も遊楽、死も遊楽」と、悠然と偉大なる生命力を満喫しゆく荘厳な境涯が開かれています。
 まさしく、「生死不二の生命観」「三世永遠の生命観」こそ、現実の生を最高に充実させゆく基盤となります。
 私たちの広宣流布の大民衆運動は、この揺るぎなき生死観をもって、一人一人の人生はもちろん、人類の運命をも「悲嘆から大歓喜へ」と、底流から着実に変えていくのです。

1573~1573    南条殿御返事(百箇日御書)top
1573:01~1573:03 第一章 法華経を大海に譬えるを明かすtop

01   シロ牙二石並びにイモノ鵄一だ.故五郎殿百ケ日等云云、法華経の第七に云く,「川流江河諸水の中に海これ第一
02 なり此の法華経も亦復是くの如し」等云云、此の経は法華経をば大海に譬へられて候、大海と申すは・ふかき事八万
03 四千由旬広きこと又かくのごとし、 此の大海の中にはなになにのすみ有りと申し候へば阿修羅王・
-----―
 白米二石と里芋一駄を故五郎の百箇日法要の御供養として受け取った。
 法華経の第七巻薬王菩薩本事品第二十三に「川流・江河・諸水のなかにあって海は第一である。この法華経も、また同様である」とある。この経は、法華経を大海にたとえられている。大海というのは、深さは八万四千由旬あり、広さもまた同様である。この大海のなかには何が棲んでいるかといえば、阿修羅王・

麞牙
 白米のこと。牙麞の牙が米に似ているところから、このようにいう。
―――
蹲鴟
 さといもの塊茎のこと。いもがしら、いえのいも等とも呼ばれる。なお「蹲」の字は、原文では左側に尊、右側に鳥であるが活字を得られず、代わりに「上野殿御返事」にお認めの字をあてた。どちらも〝尊〟の字形を共有する。
―――
由旬
 梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
―――
阿修羅王
 阿修羅はアスラ(asura)の音写阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「」(0430-)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
―――――――――
 本抄は、「上野殿御書」の講義のところにも記しておいたように、本来は二編の別々の御書と考えられるようになっている。すなわち、最初から「……阿修羅王」までが一編で、上野殿御書と同じ御書に組み入れられるものであり、後半は、断簡である。ともに、京都・本満寺に御真筆があったところから混同され、一編にされていたものであろう。
 したがって、前半の部分については、御執筆が弘安3年(1280)12月13日となる。また、与えられた人も、「上野殿御書」の講義でも触れたように、上野殿後家尼であると考えられる。しかし後半の断簡は、与えられた人の名も、したためられた年も不明である。
 さて本文に入り、最初に白米と芋の御供養を受領した旨記されている。この御供養は故七郎五郎の百箇日の供養のためであったようである。七郎五郎は時光の末弟であるが、16歳の若さで突然死去したのである。弘安3年(1280)9月5日のことであるが、それ以前の御書では七郎五郎について述べておられない。逆に、その年の六月に大聖人にお会いしているほどであるから、病気で死んだとは考えられず、事故等による死と思われる。
 百箇日というのは、十王経等の教えに基づいて行われる供養である。十王は人の死後、その罪の軽重を裁き果報を決する10人の王のことである。
 初七日の秦広王から始まり、そこで衆生の行く先が決まらなければ次の27日・初江王へと引き継がれ、そこでも決まらなければ次の王というように進んでいって、2年後、3回忌の十番目・五道転輪王に至って、すべての衆生の行く先が決定するのである。この十王のうち、第八番目として、死後百日目を担当するのが平等王であるとされている。この王の本地は観音菩薩であると説かれている。このようにそれぞれの節で罪が判定されるのであるから、その節々に供養をするのである。
 本文では続いて、法華経薬王品の、法華経が諸経に勝れることを示した十喩の文の最初の部分、法華経を大海にたとえている個所を挙げておられる。諸経は江河であり、それに比べて法華経は一切を包含する大海であると説いた文である。その海がいかに深いかを示し、そこに阿修羅が住むことを述べられているが、御真筆はそこで途切れている。その後に欠落があるが、おそらく上野殿御書の部分へと続くと考えられる。

1573:03~1573:08 第二章 無一不成仏の義を述べるtop

03                                               凡夫にてをは
04 せし時・不妄語戒を持ちて・まなこをぬかれ・かわをはがれ.ししむらをやぶられ・血をすはれ骨かれ・子を殺され.
05 めをうばわれなんどせしかども・ 無量劫が間・一度もそら事なくして其の功に依りて仏となり給いて候が・無一不
06 成仏と申して南無妙法蓮華経を只一度申せる人・一人として仏にならざるはなしと・とかせ給いて候、 釈迦一仏の
07 仰せなりとも疑うべきにあらざるに・十方の仏の御前にて・ なにのゆへにか・そら事をばせさせ給うべき、其の上
08 釈迦仏と十方の仏と同時に舌を大梵天に。
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 凡夫であられた時、不妄語戒を持って、眼を抜かれ、皮をはがれ、肉を破られ、血を吸われて骨は枯れ細り、子供を殺され、妻を奪われたりしたけれども、無量劫の間、一度も嘘をつくことはなかった。その功徳によって仏となられた方が「一人として成仏しないということはない」といわれて、南無妙法蓮華経をただ一度でも唱えた人は一人として仏にならないものはない、と説かれているのである。釈迦一仏の仰せであったとしても疑うことはできないのに、十方の仏の前で、どうして嘘をつかれることがあろう。そのうえ釈迦仏と十方の仏とが同時に舌を大梵天に。

不妄語戒
 偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。五戒・十重禁戒のひとつ。
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無量劫
 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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大梵天
 梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
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 冒頭「凡夫にてをはせし時」と仰せになっているのは、その後の文脈からいって釈尊のことである。釈尊が仏になるため、前世において言語に絶する修行をしたことは、本生譚として多くの経典に説かれている。有名な雪山童子や楽法梵志の話をはじめ、本生譚は全部で五百以上あり、それには本抄で仰せになっているような種々の艱難辛苦が説かれている。
 例えば「まなこをぬかれ」とあるがこれには、善友太子の話がある。兄の善友太子と弟の悪友太子が如意宝珠を得た時、弟が兄の目を刺して宝珠を奪った。後に兄は他国へ行った際、不妄語の功徳によって両眼が開き、弟をも許す。この善友太子が釈尊である。
「かわをはがれ」は、楽法梵志も該当するであろう。もちろん、類似の本生は他にもある。
「ししむらをやぶられ」は、尸毘王本生で我々のよく知るところである。
「血をすはれ骨かれ」に該当する本生としては慈力王がある。慈力王が十善をたもち、衆生にもたもたせていたので、夜叉が血を吸うことができず王を責めた、王はそれなら自分の血を吸えと自身の体から血を与えたという。
「子を殺され」「めをうばわれ」に当たるものとしては宝髻王子本生がある。頂上に宝珠をもつ王子は布施を重んじたが、帝釈が夜叉に化し、血を請うた。王は自らの体を与えたのみでなく、妻子をも供養したという。頂上の宝珠まで婆羅門が奪ったが、頭はたちまち元通りになり、一層大きな宝珠となったという。
 これらはほんの一例であり、本抄の仰せに相当する本生譚は数多い。いずれも、不妄語や布施など戒をたもつために命をかけて修行したことが説かれている。本抄では不妄語戒をたもつことによってこれらの難を受けたと仰せになっているが、仏道修行の誓いを守るためであるから、広くいえば、すべて不妄語戒をたもっての修行であるといえよう。
 これらの本生譚は、いずれも仏になることがいかに困難であるかを説いているものであるが、ここで大聖人がいわんとされているのは、そのように不妄語戒をたもってきた釈尊が「法華経を信ずれば一人として成仏しない者はない」といわれているのだから、その釈迦一仏の仰せだけでも信ずるに十分であるのに、それだけではなく、それを十方の諸仏の前で仰せになり、十方の諸仏も舌を梵天につけて真実であることを証明したのであるから、これ以上の真実の証明はないということである。
 本抄はここで途切れている。ここでは多宝仏の証明については触れられていないが、続いての部分で触れられているかもしれない。
 法華経の「無一不成仏」の文は、一切衆生皆成仏道の法華経の思想を一言のもとに表現した文である。爾前経では永久に成仏できないとされた二乗も、女人も悪人も、ことごとく成仏を許されたのが法華経である。この、一人として成仏しない者はないと表現したところに、その徹底した民衆救済の思想が顕れていることを知るべきであろう。
 この「無一不成仏」の文を承けて「南無妙法蓮華経を只一度申せる人・一人として仏にならざるはなしと・とかせ給いて候」と仰せられている。法華経方便品のこの文は仏の出世は一仏乗の法を説くにあることを述べた段であり、「若し法を聞くこと有らん者は、一人として成仏せずということ無けん」と述べられている。
 法華経の本文では「法を聞く」とあるのみであるが、末法の大聖人のお立場で、この法とは三大秘法の南無妙法蓮華経であり、聞くとは信受であり、そこから必然的に唱題とならなければならない。ゆえに「南無妙法蓮華経を只一度申せる人」と仰せられたのである。
 また、では一度唱えれば成仏できるのかということになるが、これは法力の偉大さを示されたもので、もし過去の業が全くなく、清浄無比な信心であればそのとおりである。現実には無始以来の宿業におおわれている生命であるから、生涯持続の実践によってこそ成仏が遂げられることを知らなければならない。
 題目を一度唱えたのみでも仏になれるという教えと、いくら修行を積んでいても、少しでも謗法があったり、たゆむ心があっては成仏は思いもよらないという教えがさまざまな御書にあるが、これは決して矛盾してはいない。一方は法の偉大さを教えられており、一方は信心・修行の積み重ねの重要なことを教えられているのである。修行する立場からは、あくまで後者の教えを根本に修行に励むべきであろう。
 本抄で釈尊の不妄語の修行を挙げておられるのは、本抄を与えられた人に、不妄語の釈尊の説いた法華経の真実なることを教えられるためであるとともに、仏は常に不妄語の人であり、大聖人の御生涯の御振る舞いにいささかのうそもないことを表明されているものと拝する。