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日蓮大聖人御書講義381574~1599
1574~1575 上野殿御返事(須達長者御書)
1574:01~1574:05 第一章 仏になり易き道を教える
1574:06~1574:16 第二章 故事をあげ、布施・供養の功徳を示す
1575:01~1575:09 第三章 法華経の行者への供養を称える
1574~1575 上野殿御返事(須達長者御書)2013:12大白蓮華より先生の講義
1575~1576 上野殿御前御返事(聖人御書)
1575:01~1575:02 第一章 御供養を謝し、春の初めを喜ぶ
1575:03~1575:05 第二章 故五郎の不帰を嘆く
1575:06~1576:04 第三章 経文に子は敵と財の両説あるを示す
1576:05~1576:18 第四章 霊山浄土の母子再開を勧む
1577~1577 上野殿御返事(法華経難信事)
1578~1579 南条殿御返事(法妙人貴事)
1578:01~1578:08 第一章 法華経の行者を供養する果報を明かす
1578:09~1579:05 第二章 御本仏の住処の尊貴明かし参詣促す
1579~1579 上野殿御返事(時国相応御書)
1580~1582 上野尼御前御返事(鳥竜遺竜事)
1580:01~1580:09 第一章 華菓同時の蓮華に譬え即身成仏を示す
1580:12~1582:17 第二章 烏竜・遺竜の故事から真の孝養を明かす
1583~1584 上野殿母御前御返事(所労書)
1583:01~1583:09 第一章 御供養に対する謝辞
1583:10~1584:05 第二章 子息に先立たれた母尼を慰む
1584~1584 大白牛車御消息
1584:01~1584:03 第一章 譬喩品に説かれるを示す
1584:03~1584:08 第二章 梵品により大白牛車の有り様を示す
1584:08~1584:10 第三章 結び
1585~1585 春初御消息
1586~1587 法華証明抄(死活抄)
1586:01~1586:14 第一章 法華経信受の絶大なる福徳を述べる
1586:15~1587:10 第二章 時光を悩ます鬼神を呵責する
1585~1586 法華証明抄(死活抄)2010:09月号大白蓮華より。先生の講義
1587~1588 莚三枚御書
1588~1588 芋一駄御書
1589~1590 閻浮提中御書(師子王御書)
1589:01~1589:10 第一章 謗法の罪科と真言亡国の現証
1589:11~1590:05 第二章 師子王の子の在り方を教示
1590~1595 衆生心御書 (随自意御書)
1590:01~1591:01 第一章 爾前は随他意、法華は随自意なるを明かす
1591:01~1591:09 第二章 如来の使いに三種あるを示す
1591:10~1591:14 第三章 正法時の論師を挙げる
1591:14~1592:02 第四章 像法の諍論の様相を述べる
1592:03~1592:09 第五章 天台大師の出現と公場対決を述べる
1592:10~1593:07 第六章 天台大師以後の仏法混乱の相を明かす
1593:08~1593:14 第七章 仏教の日本伝来と伝教大師の事跡を述べる
1593:15~1594:09 第八章 弘法・慈覚・智証の邪義出来の相を示す
1594:10~1595:01 第九章 道理・文証を尽くすべきを説く
1595:02~1595:14 第十章 「已今当」の経文破り難きを宣す
1596~1597 白米一俵御書(事理供養御書)
1596:01~1596:01 第一章 御供養に対する謝辞
1596:02~1596:06 第二章 生命が第一の財宝である事を明かす
1596:06~1596:13 第三章 帰命と聖賢の成仏
1596:14~1597:04 第四章 観心の法門と凡夫の成仏
1597:04~1597:12 第五章 事物の供養即生命の供養なるを明かす
1597:13~1597:17 第六章 再び供養を感謝される
1596~1597 白米一俵御書(事理供養御書)2014:12月号大白蓮華より。先生の講義
1598~1598 食物三徳御書
1598~1598 一定証伏御書
1599~1599 初穂御書
1599~1599 五大の許御書
1599~1599 一大事御書
1574~1575 上野殿御返事(須達長者御書)top
1574:01~1574:05 第一章 仏になり易き道を教えるtop
| 01 鵞目一貫文送り給い了んぬ、御心ざしの候へば申し候ぞ・よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。 ・ -----― 銭一千文を送っていただいた。 真心の御供養があったので申しあげるのである。欲深い御房と思われることがないよう。 -----― 02 仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへまいらせ候はん、 人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬ 03 りてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり、 仏になりやすき事は別のやう候はず、 旱魃に 04 かわけるものに水をあたへ・寒冰にこごへたるものに火をあたふるがごとし、 又二つなき物を人にあたへ・命のた 05 ゆるに人のせにあふがごとし。 -----― 仏にたやすく成る道がある。教えて差し上げよう。人がものを教えるというのは、車が重かったとしても油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて行きやすくするように教えるのである。仏に成りやすい道というのは特別なことではない。旱魃のときに喉の渇いた者に水を与え、寒さに凍えた者に火を与えるようにすることである。また二つとない物を人に与え、それなくしては自分の命が絶えるときに人に布施することである。 |
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
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一貫文
貫は銭を数える単位。一貫は、銭を一つなぎにしたものの意で、時代によって異なるが、普通、一文銭千枚のことをいった。
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本抄は弘安3年(1280)12月27日、日蓮大聖人が聖寿59歳の御時、身延から南条時光に送られた御手紙である。御真筆は現存していないが、日興上人の写本が、大石寺に所蔵されている。
本抄の内容は、時光が自身の苦境をも顧みず、身延の大聖人のもとへ銭一貫文を御供養申し上げたのに対して、金色王、須達長者、利吒尊者等の故事を引き、時光が法華経の行者である大聖人に御供養する功徳がいかに大きいかを述べられ、時にあたって示された尊い信心の真心こそ成仏の直道に叶うことを教えられている。
初めに、南条時光から送り届けられた鵞目一貫文の尊い御供養に対して礼を述べ、この金品に託された信心の真心を称えられて、こうした真心が成仏への直道であることを御教示になられるのである。「御心ざしの候へば申し候ぞ・よくふかき御房とおぼしめす事なかれ」とは、こうした真心の御供養が成仏の道であることを述べられるのであるが、だからといって、さらに供養するよう催促している欲深い僧だとは思わないでほしい、あなたから真心の御供養があったので、それを称えていうのですよ、との意であろう。
人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり
これは「仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへまいらせ候はん」の御文をうけて、ものを教えるということの意義・目的をいわれているのである。それはまた、広い意味での教育ということの本義を鋭く指摘されたものとなっている。
車、船を譬えに用いられているが、たとえば、車が重い場合、その荷を減らして軽くしてあげるのでもなければ、押したり引いたりしてあげるのでもない。「油をぬりてまわり」と仰せられている。
人は、それぞれに重荷を負って人生を生きていく。それは、あくまで当人が負わなければならない荷であり、当人が自分で進んでいかなければならない道である。ものを教えてあげるというのは、その当人の責任と権利を尊重しつつ、自信をもって軽やかに進めるようにしてあげることなのである。それが「油を塗って車の滑り・回転をよくしてあげる」ことなのである。
「ふねを水にうかべてゆきやすきやう」とは、船は陸地では進むことができない。水に浮かべれば軽くなるし、円滑に進むことができる。「水にうかべ」るとは、正しい基盤を教えてあげることといえよう。
仏になりやすき事は別のやう候はず、旱魃にかわけるものに水をあたへ・寒冰にこごへたるものに火をあたふるがごとし、又二つなき物を人にあたへ・命のたゆるに人のせにあふがごとし
成仏のために不可欠の実践は慈悲行である。菩薩行の基本である六波羅蜜の中でも、第一に挙げられているのが布施行であることは、このためといえよう。
もちろん、末法における成仏のための根本は、三大秘法の南無妙法蓮華経を信じ受持することであるが、そのうえで、この布施行・慈悲の実践を欠かすことはできないのである。
その布施・供養において、大事な条件がここに二つ示されている。
その一つは「旱魃にかわけるものに水をあたへ・寒冰にこごへたるものに火をあたふるがごとし」と述べられているもので、これは相手が何を必要としているかということである。相手が必要としているものを布施・供養してこそ、意味がある。
この点については、「佐渡御書」にも「肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし」(0957)と仰せられている。雪山童子が鬼神に身を与えようとしたのは、鬼神が肉を求めたからであり、楽法梵志が身の皮をはぎ、骨を削って筆としたのは、紙や筆がなかったからであるということである。
第二は「又二つなき物を人にあたへ・命のたゆるに人のせにあふがごとし」と仰せのように、相手が必要としているもので、しかも、自分に一つしかなかったり、これを与えてしまえば自分の命が保てないという場合にも、喜んで布施・供養することである。そこで布施・供養するのは〝モノ〟であっても、このような場合には、自分の命を投げ出すのと同じであり、これは信仰の基本精神である「帰命=南無」を身をもって実践していることになるからである。
本抄末尾にも述べられるように、この時、南条時光は、不当に重い税を課されたりして、経済的に苦しい時代であった。「鵞目一貫文」は、時光にとっても、大切なものであったはずである。しかし、新年を迎えようとされている身延の大聖人の御生活を思って、御供養したのである。まさに、これら二つの条件にかなった御供養の実践であったと思われる。
1574:06~1574:16 第二章 故事をあげ、布施・供養の功徳を示すtop
| 06 金色王と申せし王は其の国に十二年の大旱魃あつて万民飢え死ぬる事かずをしらず、 河には死人をはしとし・ 07 陸にはがいこつをつかとせり、 其の時・金色大王・大菩提心ををこしておほきに施をほどこし給いき、せすべき物 08 みなつきて蔵の内に・ただ米五升ばかりのこれり、 大王の一日の御くごなりと臣下申せしかば・大王五升の米をと 09 り出だして・一切の飢えたるものに或は一りう・二りう・或は三りう・四りうなんど・あまねくあたへさせ給いての 10 ち・天に向わせ給いて朕は一切衆生のけかちの苦に・かはりて・うえじに候ぞと・こえをあげて・よばはらせ給いし 11 かば・天きこしめして甘呂の雨を須臾に下し給いき、 この雨を身にふれ・かをにかかりし人・皆食にあきみちて一 12 国の万民・せちなのほどに・命よみかへりて候いけり。 13 月氏国にす達長者と申せし者は七度貧になり・七度長者となりて候いしが・最後の貧の時は万民皆にげうせ・死 14 にをはりて・ただ.めおとこ二人にて候いし時・五升の米あり五日のかつてとあて候いし時・迦葉.舎利弗・阿難・羅 15 ゴ羅・釈迦仏の五人・次第に入らせ給いて五升の米をこひとらせ給いき、 其の日より五天竺第一の長者となりて・ 16 祇園精舎をば・つくりて候ぞ、これをもつて・よろづを心へさせ給へ。 -----― 金色王という王は、その国に十二年間にわたる大旱魃があって、万民が飢え死にすること数知れず、川には死人を橋とし、陸には骸骨を塚とするような状態であった。その時、金色大王は大菩提心を起こして大いに布施をされた。布施すべき物が皆尽きて、蔵の中にただ米が五升ばかり残った。「大王の一日分の御食事です」と臣下が申し上げたところ、大王は五升の米を取り出して、一切の飢えた者に、或いは一粒二粒、或いは三粒四粒などというようにあまねく与えられた後、天に向かわれて「我は一切衆生の飢えの苦しみに代わって飢え死にするであろうぞ」と声を上げて叫ばれたところ、天はこれを聞かれて甘露の雨を即座に降らされた。この雨が身に触れ顔にかかった人は、皆食べ物に飽きるほど満ち足りて、一国の万民は瞬時のうちに命が蘇ったのである。 インドの国の須達長者という者は七度貧乏になり、七度長者となったが、最後の貧乏の時は万民が皆逃げ去り死に絶えて、ただ夫婦二人だけになってしまった。その時、五升の米があった。五日分の食料に充てようとしていた時、迦葉、舎利弗、阿難、羅睺羅、釈迦仏の五人が次々に入ってこられて五升の米を乞われたので差し上げた。その日から全インド第一の長者となって祇園精舎を造ったのである。これをもって、万事をわきまえなさい。 |
金色王
釈尊の過去世の姿。金色王経によると、王は人格者で非常に裕福であり、長いあいだ国を安穏に治めていた。ところが、12年ものあいだ雨が降らないことがあった。王は一人の餓死者をも出さないために、全インドの穀物を一か所に集めて、それを全人民に均等に分配しつつ対処したが、11年目を過ぎると穀物は欠乏し、やがて5升の飯だけしかなくなってしまった。そのとき辟支仏・世尊が来て食を求めたので、王は残っていた王の一食分の食事である5升の飯を布施した。そして王や大臣達が餓死する覚悟をしていると、雲が起こり種々の食物が降ってきたという。
―――
菩提心
悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある。
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くご
高貴の人に関して、その飲食物。
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けかち
飢えと渇きのこと。飲食物の欠乏。
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甘呂
梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。
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須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
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月氏国
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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す達長者
釈尊に祇園精舎を供養した舎衛城の富豪。須達は梵名スダッタ(Sudatta)の音写で、善施・善与と訳す。貧しい孤独な人に衣食を給したので、給孤独長者とも呼ばれた。王舎城の竹林精舎で釈尊の説法を聞いて帰依し、舎衛城に精舎の建立を発願した。その後、祇陀太子の協力を得て祇園精舎を建立し、釈尊を招いた。釈尊は20年間、この精舎に留まり説法したといわれる。
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迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
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阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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羅喉羅
梵語ラーフラ(Rāhula)の音写。障月、執日と訳す。釈尊の出家以前の子。母は耶輸陀羅女(Yaśodharā)である。釈尊の十大弟子の一人。密行第一とされる。舎利弗について修行し、よく二百五十戒を持ち密行を行なった。法華経授学無学人記品第九において、蹈七宝華如来の記別を受けた。
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五天竺
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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祇園精舎
古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
―――――――――
布施・供養の功徳の大きさを示す例として金色王の布施行と須達長者の供養を挙げられている。
金色王の布施行は、金色王経に説かれており、釈迦仏の過去における菩薩行の一つである。語訳に示したように、出典の金色王経に述べられているところと、本抄での大聖人の記述は、若干の違いがあるが、金色王は国全体が大旱魃で亡びようとした時、大菩提心を発して、施しを行った。そして、ついには王自身の命を養う食料も、人々のために分け与えてしまったのである。その王の不惜身命の大菩提心に天が感じて「甘呂の雨を須臾に下し」たので、国中の人々が救われたというのである。
次に、須達長者の供養は、夫婦2人の5日分の糧を残すばかりとなった時、食を乞いにやって来た仏弟子の迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅、そして釈尊の5人に、乞われるままに5升の米を供養したのである。この功徳によって、須達はインド第一の長者となり、やがて祇園精舎を建立供養し、仏法興隆のために尽力したのである。
以上が、金色王の布施、須達長者の供養の例であるが「これをもつて・よろづを心へさせ給へ」と仰せられ、すべての仏道修行のあり方を心得なさいと御教示されているのである。
1575:01~1575:09 第三章 法華経の行者への供養を称えるtop
| 1575 01 貴辺は・すでに法華経の行者に似させ給へる事・さるの人に似・もちゐの月に似たるがごとし、あつはらのもの 02 どもの・かくをしませ給へる事は・承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、これひと 03 へに法華経に命をすつるがゆへなり、 まつたく主君にそむく人とは天・御覧あらじ、其の上わづかの小郷に・をほ 04 くの公事せめあてられて・わが身は・のるべき馬なし・妻子はひきかくべき衣なし。 05 かかる身なれども法華経の行者の山中の雪に・せめられ食ともしかるらんと・おもひやらせ給いて・ぜに一貫を 06 くらせ給へるは・ 貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ・りだが合子の中なりし・ひえを辟 07 支仏に・あたへたりしがごとし、たうとし・たうとし、くはしくは又又申すべく候、恐恐謹言。 08 弘安三年十二月二十七日 日 蓮 花 押 09 上野殿御返事 -----― あなたがすでに法華経の行者に似ておられることは、猿が人に似、餅が月に似ているようなものである。熱原の者達をあなたが大事にされていることに対して、承平年間の平将門や天喜年間の安倍貞任のようであると、この日本国の者達は思っている。これはひとえに法華経に命をすてるがゆえであって、全く主君に背く人とは、天は御覧にならないであろう。 そのうえ、わずかの小郷に多くの公事を課せられて、自身は乗るべき馬もなく、妻子は着るべき衣もない。そのような身であるけれども、法華経の行者が山の中で雪に責められ、食物も乏しいことであろうと思いやられて銭一貫文を送られたことは、貧しい女が夫婦二人で一つの衣を着ていたのを乞食に与え、利吒が器の中にあった稗を辟支仏に与えたようなものである。尊いことである、尊いことである。詳しくは、またまた申し上げよう。恐恐謹言。 弘安三年十二月二十七日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
あつわらのものども
静岡県熱原地方の農民をさす。ただし、「愚癡の者ども」とは、一般農民を武家にくらべて差別し軽視してこういわれたのではなく、熱原法難にあい、心の動揺が隠せずにいる人びとを指していわれたと思われる。
―――
承平
日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。0931年4月26~0938年㋄23日までの期間を指す。この時代の朱雀天皇の御世。
―――
将門
(~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。
―――
天喜
日本の元号の一つ。永承の後、康平の前。1053年1月11日~1058年5月22日の期間を指す。この時代は後冷泉天皇の御世。
―――
貞当
安倍貞任(1019~1062)。平安後期の陸奥の豪族。強力な地盤を背景に、朝廷に従わず、独立の風を強めたため、朝廷は源頼義、義家の親子に討伐を命じ、ここに前9年の役が起こった。貞任は父の頼時の死後、抵抗をやめず、天喜5年(1057)いったん義家を破ったが、康平5年(1062)、出羽の清原光頼、武則兄弟と同盟した朝廷軍に大敗し、本拠厨川柵(岩手県盛岡市付近)に逃れたが敗死した。
―――
小郷
郷は律令制における地方行政区間の末端の単位。鎌倉時代は国・郡・郷の順で区別されていた。「小」は小さいの意。
―――
公事
荘園制下における年貢以外の雑税や夫役のこと。
―――
貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ
一貧女が比丘の勧化によって、その夫を勧めて唯一つあった衣を施し、功徳を受けたと、賢愚経にある。
―――
りだ
阿那律の過去世の兄。雑宝蔵経巻四によると、長者の子に利吒・阿利吒という兄弟がいた。父からは2人で力を合わせていくようにと諭されていたが、父の死後、2人は別れて暮らすようになった。最初のうちは兄が富裕で弟が貧しかったが、後には反対になり、兄は出家して辟支仏になった。弟もやがて富を失い、薪を打って生活していた。そうした時、城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したという。本文では、利吒が稗を辟支仏に与えたとあるが、阿利吒のことではないかと思われる。
―――
合子
蓋のついた小型の容器の総称。
―――
辟支仏
梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
―――――――――
時光は熱原法難以来、権力の迫害を受けている法難関係者をかくまったため、自身も幕府から圧迫を受けて、経済面において窮乏状況にあった。しかし、そうしたなかで、末法の法華経の行者である大聖人に、銭一貫文の御供養を奉ったのである。大聖人は、このような時光の信心の真心を称えられている。
貴辺は・すでに法華経の行者に似させ給へる事・さるの人に似・もちゐの月に似たるがごとし……
南条時光は、若くして妙法を信受し、大聖人、日興上人の御指導のもと、水の流れるような信心を貫いてきた。
この前年に起こった熱原法難と、その後も尾を引いていた大聖人門下に対する迫害にあっても、毅然として行学の実践を怠らなかった。このことを、凡夫であり、武士の身であるけれども、尊い法華経の行者に似ているとの仰せである。凡夫であり、武士であることを、猿、餅になぞらえ、猿が人間に似、餅が月に似ているように、法華経の行者に似ていると言われているのである。
とくに、熱原法難の関係者を外護していることについては、おそらく、日興上人から詳しい状況報告を受けておられたのであろう。
「承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ」と仰せられている。平将門も安倍貞任も、中央の朝廷からは叛逆者として討たれたが、彼らはそれぞれの土地の人々に対しては尽くした。それと同じように、時光は熱原の人々のために、労を惜しまず、身の危険も顧みず、助け、守ったので、日本の人々は時光のことを将門や貞任のような叛逆者の如く思っているとの意である。
平将門や安倍貞任は、結局は滅ぼされてしまった。主君にそむくことは人の道に外れることであり、その場合は、天から見放されるという考え方が根底にあったのである。しかし、時光の場合は、あくまで、法華経の正法を信仰する人々を守るためであり、法華経への不惜身命の信心のゆえに、不当な権力の圧迫を受けている人々をかくまっているのであって、主君に対して叛逆を企てているわけではない。
諸天は、法華経のために身命を捨てようとしている人を守護こそすれ、主君にそむいているからといって見捨てるわけがない。将門や貞任の場合とは違って、時光に対しては、必ずや諸天の加護があるであろうと励まされて、このように仰せられたものと拝される。
其の上わづかの小郷に・をほくの公事せめあてられて……
南条時光が大聖人の門下の人々に外護の手を差しのべていたことから、さまざまな圧迫が加えられたと思われる。その一つが、不当な公事であった。公事とは、公の事業のために、領内から労力や物資、金銭の提供を求められることをいうが、南条時光の領地の規模に比して、不当に大きな負担を課せられたのである。
そのため、時光の一家は困窮に陥り、時光自身が乗る馬も、妻子の衣服にも不自由をする有り様であったのである。しかし、そうした苦境の中でも、日蓮大聖人はもっと不自由をされているのだからとの大聖人を思う真心から、銭一貫文を御供養したのである。それは、まさに「二つなき物を人にあたへ・命のたゆるに人のせにあふがごとし」との御文のとおりの御供養であったといえる。
夫婦二人で一つしかない衣で過ごしていたのを乞食に与えたという貧女や、命をつなぐわずかに残った糧の稗を辟支仏に供養した阿利吒のように、時光も、一家を支えるのに、ぜひとも必要な銭であったに違いない一貫文というお金を御供養してきたのである。大聖人はそうした時光の置かれていた状況を御存知であったがゆえに、この真心の御供養を心から称賛されているのである。
1574~1575 上野殿御返事(須達長者御書)2013:12大白蓮華より先生の講義top
「一人一人」に希望を、勇気を、励ましを
わが師・戸田城聖先生は、青年と語り合う時、歴史をさまざまに洞察されながら、広宣流布の未来を見据え、人材育成の大切さを教えられました。
「この時代は、人材がいなかったから衰亡した」
「この時代は、人材が大勢いたから栄えた」
「この難局は、力ある人材がいたから切り抜けられたのだ」等と。
先生は、私たち青年に強く訴えられていました。
広宣流布の大事業は、新しい時代に応じた、新しい力が不可欠なのだ!
それには、青年が立つことだ。青年の力を信ずることだ」
60年前25歳の私は、念頭に師から男子部の第一部隊長の任命を受けました。それは、恩師の願業である75万所帯への、実質的な出発でもありました。
“師匠・戸田先生は、真実の弟子が澎湃と出現することを祈り待たれている。先生の前に、若き正義の弟子の陣列を揃えてみせるのだ!”これが私の決心でした。
私の率いる第一部隊の男子部は、337人からの出発でした。そして、その年の暮れには、3倍を超えて1000人を悠々と突破する陣列となったのです。
私は、任命の時から「人材を見つけること」に心を砕きました。否、私の目には、全員が未来の人材と光って見えたのです。
共に悩み、共に戦った
だから私は、部員一人一人をよく知ろうと、会合の前後はもちろん、時間を割いては、顔を合わせ、友の声に耳を傾けました。
その人を知れば知るほど、「必ず広布の人材にしていこう!」「必ず師匠に縁させていこう!」と、祈りは深まりました。
共に銭湯に行ったり、わが家に招いたり、共に音楽を聴き、食事をしながら語り合いました。今では、全てが懐かしい思い出です。
常に真剣勝負であった。ただただ、眼前の一人に、全力を、魂魄を、熱誠を注いで、ひたすら励まし続けました。
共に悩み、共に祈った。
共に動き、共に戦った。
一人が希望に燃え、勇気をもって立ち上がることから、一家和楽も、地域広布も、世界平和も可能となる。この方程式は、これからも変わらない。変わりようがありません。人材を育てたところが勝ち栄えていくことは、永遠の原理だからです。
今月は、青年門下の南条時光に送られた「上野殿御返事(須達長者御書)」を拝し、“我が地域の時光”を陸続と輩出するために、日蓮大聖人の人材育の御精神を学んでまいります。
苦境の中にいる門下を励ます
本抄は、弘安3年(1280)12月に、青年門下の南条時光に送られたお手紙です。
前年には、熱原の農民門下が捕縛されるなど、「熱原の法難」の最も厳しい局面を迎えています。
熱原の法難は、日興上人のもと、弟子たちが富士方面でめざましい弘教を展開したゆえに、競い起こった大難です。
本抄御執筆の弘安3年(1280)になっても、まだ緊迫した状況は治まっていなかったと考えられます。
この法難の折、南条時光もまた、同志を守り抜くために行動しました。わが身も顧みず、自分の屋敷に同志をかくまうなど、青年らしく勇敢に戦いました。
その正義の時光は権力者からはよく思われません。御書には次のように綴られています。
「あつわらのものに事をよせて・かしこ・ここをもせかれ候こそ候いめれ」(1565-01)
熱原の門下を守っていることを理由に、さまざまな妨害や迫害があるだろう、と。
実際、本抄の送られたころは、小さな領地にもかかわらず、多くの公事を課せられています。それによって、時光の生活は困窮していました。
しかし時光は、自分のことよりも、正月を前にした身延の大聖人の身を案じ、真心の御供養をしました。本抄は、その時光の誠意に対する御礼のお手紙です。
| 02 仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへまいらせ候はん、 人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬ 03 りてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり、 -----― 仏にたやすく成る道がある。教えて差し上げよう。人がものを教えるというのは、車が重かったとしても油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて行きやすくなるように教えるのである。 |
仏に「やすやすと」成る道
当時、駿河の地では、まだまだ、三障四魔・三類の強敵の烈風が吹き荒れていました。その地にあって、時光が、なにものにも揺るがない信心を確立し、逆境に打ち勝つ信仰を貫いてほしい。これが大聖人の願いであられたと思います。
本抄で大聖人は、時光に「仏に、やすやすと成る道」がありますと教えられています。
まさしく、「仏に成る道」とは、一人の人間を幸福と勝利の軌道に間違いなく乗せてくことです。
誰でも幸福に成れる道、しかも、やすやすと成れる道、その道を教えようというのです。逆境の中で苦闘する時光にとって、これ以上ありがたい仰せはありません。
この前年のお手紙で、大聖人は、熱原の法難で奮闘する時光を「上野賢人」と讃嘆され「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(1561-01)とも激励されています。この仰せのままに時光も、必死に戦ってきました。客観的に見れば、時光が、成仏への確かな道を歩んでいることは間違いありません。
しかし一方で、自分の道に不安を抱くのも青年の特徴です今よりも、少しでも良くなろう。成長しよう、前へと進もうとする思いがあるからこそ、悩むともいいます。
その純粋に成長したいと思う心をどうやって大切にし、青年を伸ばしていくのか。その伸びようとする心を尊重し、讃え、慈愛を注いでいくことこそ、青年育成の要諦でしょう。
ここで大聖人は、人にものを教えるということは、決して上から無理強いしたり、強制したりすることではないことを示されています。重い車の車軸に油を塗ることで回りやすくする。船を水に浮かべて往きやすくする。いずれも、円滑に進めるために、手助けをする例です。
つまり、本人が前進しやすいようにしてあげることであって、あくまでも進むのは本人次第です。本人が乗り越えなければならないことを肩代わりしたりするものではありません。「人のものををしふる」という教育の目的も、確固たる人間を創ることにあります。仏法も同じです。その人自身が、自分の力で運命を切り開いていく、強い人間を築くための宗教です。
誰もが、尊き仏の生命を抱いています。最高の「幸福の大道」を、必ず勝ち進むことができるのです。宇宙大の仏の生命が自身の中にあることを目覚めれば、勝ち越えられない苦難など有るはずがない。自身の本源的な力を現すことができれば、朗らかに自信をもって、日々の課題に堂々と挑戦できる自分になれるのです。
宿命転換の原理も同じです。宿命には、どこまでも本人が自らの力で立ち向かっていかなければならない。自身の中に、あらゆる宿命を転換する力があると気づけば、直面している逆境に意味を見いだしていくことができます。「宿命」を「使命」に変えていくことができるのです。
「指導」「教育」「訓練」「擁護」
「油をぬりて」「水にうかべて」とは、その意味で人材育成の要諦であると捉えることができます。
戸田先生から教わった人材育成の四本柱があります。それは「指導」「教育」「訓練」「擁護」です。
指導。相手を幸せにするために、弱い心、臆病の心を誡めていくこと。
教育。範を示し、共に行動を起こすこと。
訓練。信じて、任せて、実践させてみること。
擁護。結果はどうであれ、その奮闘を評価し、讃え、守ること。
たとえば、現実の課題に押しつぶされそうになっている青年が、わが地区、わが地域にいたとします。
弱気になってしまう心を打ち破り、人間革命できるように、仏法の功徳を語る。誰もが持つ仏と同じ力を涌現できることを教えて、勇気を奮い立たせるように励ます。これは指導です。
と同時に、その青年と共に仏法対話をし、実践のなかで、具体的にどうすればよいか、手本を示しながら教えていくことも必要でしょう。これは、教育です。
さらに、青年たちが“そうか。こうすればいいのか。これならば私にもできる。よし、やってみよう!”と思えるかどうかが大切です。“とても自分には無理だ”と思えば、行動をためらってしまう。本人が勇んで行動する。それが訓練の始まりです。
そして、一人一人が持つ本然の可能性を信じ、伸び伸びと前進していけるように、誠心誠意で励ます。これが擁護です。
この四つの柱がそろってこそ、真の人材が育ちます。また、この四つの柱は、育てる側の人間革命、成長が問われるとも言えます。
もともと「指導」や「訓練」といっても、自分に特別な能力がなければできない、というものではありません。「共に成長していこう」とする姿勢こそ大切なのです。むしろ、その成長を祈り対話を重ねるなかで、相手も自分も成長していくのです。
人材といっても、人を鋳型にはめて、特定の「人材像」を」押しつける考え方は、仏法にはありません。どこまでも、その人が輝いていくことが目的です。その人の内発の力を発揮させていくことが、わたしたちの人材育成の根本です。
そして、各人の個性が調和して異体同心で広宣流布の前進をはかる。自他ともの幸福を目指して、一人一人が尊い地涌の使命を実現していくのです。
| 03 仏になりやすき事は別のやう候はず、 旱魃に 04 かわけるものに水をあたへ・寒冰にこごへたるものに火をあたふるがごとし、 又二つなき物を人にあたへ・命のた 05 ゆるに人のせにあふがごとし。 -----― 仏に成りやすい道というのは特別なことではない。旱魃のときに喉の渇いた者に水を与え、寒さに凍えた者に火を与えるようにすることである。また二つとない物を人に与え、それをなくしては自分の命が絶えるときに人に布施することである。 |
凡夫は「志ざし」によって成仏
やすやすと仏に成る道といっても、特別なことではないと仰せです。
一つには、旱魃の時に喉の渇いた者に水を与え、寒さに凍えている者に火を与えるようなものであると仰せです。相手が何を必要としているか。例えば、仏道修行の中で布施行を実践するにあっても、相手が必要としているものを与えてこそ、意味があります。
また、第二に、自分にとって一つしかないかけがえのない物、これを与えては自分の命を保つことができないような大切なものを布施することであると仰せです。
いずれも今回、時光が大聖人に御供養された、その「心」を最大に賞讃されての仰せであると拝せられます。“まさに、あなたの行った御供養は、仏になる実践を、すでに行じたことになるのですよ”と、時光自身が成仏の道を歩んでいることを示されているのです。
普通、仏に成るための修行というと、例えば、雪山童子が身をなげたように、わが無上の財である身命をなげうって修行してはじめて実現する。それほど困難なものであると思われます。
これが成仏の道であると言われると、末法の凡夫にとって、自分はこの成仏の道を貫くことは不可能であると思ってしまいます。これに対して大聖人は「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」と仰せです。
自分に一つしかないものを供養する。それは、鬼に身を投ずる雪山童子の修行と同じなのです。
私たちでいえば、日常の活動の中で、広宣流布を請願し、わが人生を生き切ることです。それが、わが身命を仏法にかけることになりわが身に仏の生命を開くのです。
本抄に戻れば、時光の御供養は、この実践を行じたことにほかならないゆえに、時光の成仏は間違いないと教えられているのです。
金色王・須達長者の行動
続く御文は、金色王・須達長者の説話を通して、二つとないものを与える行動に無量の福徳が積まれることを教えられています。
金色王は、自らが治める国の民衆が、大旱魃によって飢饉にあえいでいました。
その時、王は菩提心を起こして、自分が食べるべき、最後のわずかばかりの米も、民に与えたのです。
菩提心から発する王の慈悲に応えるように、諸天が雨を降らせ、民の命を守ります。
須達長者は、7度貧乏になり、7度長者になりました。最後の7度目の貧乏の時、残っていたわずかばかりの米を、喜んで釈尊の弟子に供養しました。その功徳で大長者になったのです。
まさしく「心こそ大切」です。たとえ困窮していたとしても、心は負けない。卑屈になど、なる必要はありません。
「法」のために、また「一人」のために、自分がなし得る最善の行為を自分らしく真心こめて行えばよいのです。自身の生命に刻まれた「心の財」がやがて自身を飾り、福徳を築き、必ず無上の果報をもたらすことを教えられています。
時光は、この逸話を通して励ましてくださっている大聖人の御心を、どれほど深く感じたことでしょうか。
「これをもって・よろづ心へさせ給へ」です。
民衆のために尽くした金色王と、困窮の中、仏や仏弟子を守ろうとした須達長者の生き方は、そのまま、大難の中、師匠と共に戦い、一歩も退かなかった時光青年の心情と通じています
逆境は境涯を大きく開く転換点
時光は、“自分の心を、師匠は全部、分かってくださっている”と感じたことでしょう。時光にとって、まさに、どん底の時です。しかし、この大変な今こそ、歯を食いしばりながら戦うことで、無量無辺の福徳を築くことができる。仏の境涯を開く大道を歩んでいける。何も悩む必要はない。大きく境涯を開く転換点に立っているのだと、感動と決意が込み上げてきたことでしょう。
何よりも師匠は、ありがたい存在です。
大聖人は、時光が幼いころに出会って以来、ずっと成長を見守ってきました。父の死、兄の死、さらに本抄を送られたこの年、長男の誕生という喜びとともに、大聖人も将来を期待されていた末弟の急死という悲しみを、時光は味わっていました。
人生には、山もあれば、谷もあります。大聖人は、いかなる逆境であっても、真面目に戦っている人は必ず大境涯を得ることを、仏法の法理に照らして、また、逸話を通して、しみじみと時光に伝えられているのです。
戦っている人の思いを大切にする。
人生の悲哀を感じ、辛い思いをしている人の心を、少しでも軽くしていく。
困難な環境の中で、懸命に戦っている人に希望を与える。
行き詰っている人に勇気を与える。
そして、実は、全部、自分の中に、あらゆる苦難に立ち向かう力が秘められていることを教え、示し、開き、会得せしめていく。
これが仏法の慈悲の振る舞いです。
これこそ人材育成の要諦です。
苦悩の因を取り除き、晴れ晴れと、現実に立ち向かう、その人自身の力を引き出す。最後には、その人が絶待に勝利できることを確信させる。深き奥底の一念に目覚めたら、その人は決然と立ち上がることができます。
南条時光は大聖人から最高の人間教育を受けていたのです。
| 1575 01 貴辺は・すでに法華経の行者に似させ給へる事・さるの人に似・もちゐの月に似たるがごとし、あつはらのもの 02 どもの・かくをしませ給へる事は・承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、これひと 03 へに法華経に命をすつるがゆへなり、 まつたく主君にそむく人とは天・御覧あらじ、 -----― あなたがすでに法華経の行者に似ておられることは、猿が人に似、餅が月に似ているようなものである。熱原の者達をあなたが大事にされていることに対して、承平年間の平将門や天喜年間の安倍貞任のようであると、この日本国の者達は思っている。これはひとえに法華経に命をすてるゆえであって、全く主君に背く人とは、天は御覧にならないであろう。 |
諸天善神の守護は厳然と
熱原の法難で、師と同じ心で、同志を守り励ました時光を、法華経の行者のようであると、讃嘆されています。
当然、時光のことを「法華経の行者」と言い切られても不思議ではありません。しかし、あえて「似させ給へる」と言われているのは、前途ある時光が、これからさらに成長していくための配慮であると拝察されます。
そして、時光が熱原の法難で、門下をかくまうなどの戦いをしたことに言及され、駿河の国の人たちは、あなたのことを、かつて中央の朝廷から反逆者として討たれた平将門、阿部貞当のように思っていることでしょうと仰せです。
封建時代の当時ですから、たとえ正しくても、主君に背くことは、人の道に外れているのではないか、という考え方が底流にありました。
しかし、それはすべて法華経ゆえの行動なのだから、諸天善神は必ずご覧になって守護するのであると、大確信の激励を送られているのです。
こうした御文に拝するにつけ、大聖人が当時の時光が置かれた状況を、手に取るように子細に、そして正確に理解されていることが分かります。師匠は全部、分かってくださっている。それが、どれほど時光を安堵させたことでしょうか。
そして、絶対に諸天善神に守られると断言されたところは、時光の最大の確信にもつながったに違いありません。
その人の状況を知り、その人を大きく包んでいく。この人間学の指導があれば、必ずそこから、人材が生まれます。
今も原理は同じです。青年は悩みが多い年代です。それを理解し、励ます人が側にいれば、自信をもって戦うことができます。秘めている力を、思う存分、発揮していくことができるのです。
青年を温かく見守りながら、どうか声を惜しまず、励ましの声を掛けていっていただきたい。広布の人材を育てる人こそが、本当の広宣流布の財の人です。
| 03 其の上わづかの小郷に・をほ 04 くの公事せめあてられて・わが身は・のるべき馬なし・妻子はひきかくべき衣なし。 05 かかる身なれども法華経の行者の山中の雪に・せめられ食ともしかるらんと・おもひやらせ給いて・ぜに一貫を 06 くらせ給へるは・ 貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ・りだが合子の中なりし・ひえを辟 07 支仏に・あたへたりしがごとし、たうとし・たうとし、 -----― そのうえ、わずかの小郷に多くの公事を課せられて、自身は乗るべき馬もなく、妻子は着るべき衣もない。そのような身であるけれども、法華経の行者が山の中で雪に責められて、食物も乏しいことであろうと思いやられて銭一貫文を送られたことは、貧しい女が夫婦二人で一つの衣を着ていたのを乞食に与え、利ダが器の中にあった稗を辟支仏に与えたようなものである。尊いことである。尊いことである。 |
家族にも最大の励ましを
権力者たちは、公の命令という名目で、わずかの土地にかかわらず、多くの雑税や夫役を課していました。
このことによって、時光は武士でありながら乗る馬もなく、妻や子どもは着るべき衣服も満足にない状態に陥っていた。
そんな最大の究竟のなかにあって、身延の大聖人を支えるために真心の、御供養を続けていたのです。
御文には、正月を迎えるに当たって、大聖人の窮乏を慮り、時光が銭一貫文を工面して、御供養したと仰せです。その赤誠に、再び深く感謝され、最大に讃えられています。
しかも大聖人は、時光だけでなく、時光の夫人もまた懸命に頑張っていることに、温かく光を当てられていると拝されます。
お手紙を拝し、「妻子は」「めおとこ二人して」という表現に、時光の夫人も、大聖人の温かな心遣いを感じたのではないでしょうか。
また、家族が安心に包まれることで、時光自身もさらに頑張っていくことができます。
こうした一文を添えてくださるのが、日蓮大聖人の御慈愛です。仏法の慈光は、全ての人を包み込み、万人に安穏を広げ、活力を漲らせます。
その人の置かれた状況に配慮することも、人材育成の要点です。
何か心配することはないか。周囲はどうなのか。見えない悩みはないか。こうした責任感の根底は慈悲です。相手の状況を塑像する力は、祈りから生れます。
創価学会は、この大聖人の人間哲学を継承してきました。だからこそ、世界的に人間の善の連帯を築くことができたのです。
創価学会は人材輩出の母体
戸田先生は言われました。
「人材とは、特別な人間ではない。要は、その磨き方にある」
全くこの通りに、戸田先生は、平凡な一青年であった私を、鍛えてくださいました。
私も恩師に報いる思いで、人材育成に全精魂を注いできました。そして、これからも、できることは何でもやりたいと決意しています。
後輩を「自分以上の人材なのだ」「自分以上に育てていくのだ」こう決めて、後輩に接することが創価学会の伝統です。
「皆を幸福にしよう」「皆を立派にしよう」「皆の力を発揮させよう」これが、創価のリーダーの根本精神です。
昭和31年(1956)、あの〝大阪の戦い”の後、戸田先生は語られました。
広宣流布が進んでいけば、社会のあらゆる分野に人材が育っていく、どんな分野にも、社会の繁栄、人類の平和のために、献身的に活躍している学会員がいるようになるだろう。
要するに、創価学会は、人類の平和と文化を担う、中核的な存在としての使命を課せられることになると、私は考えている。
創価学会は、そのための人材を育て上げていく。壮大な教育母体ということになっていくんじゃないか。
要は「人間」をつくることだ。この人間革命の運動は、世界的に広がっていくことになるんだよ。と。
まさに、恩師が展望されたように、今、世界中に創価の人材が誕生しています。
創価の青年が、家庭で、社会で、地域で、信頼の輪を広げ、民衆勝利の中核的存在となる。この創価の人間革命運動は、地球大の広がりを示しています。
世界広布の新時代の主役として、わが創価の青年たちが「二陣三陣」と続いてくれています。
創価の世界広布の人材の大潮流は、もはや誰も、せき止めることはできないと、私は愛する同志と共に、声高らかに宣言したいのです。
この一年の尊き皆さまの
労苦と奮闘に深く感謝して
1575~1576 上野殿御前御返事(聖人御書)top
1575:01~1575:02 第一章 御供養を謝し、春の初めを喜ぶtop
| 01 聖人ひとつつ.ひさげ十か・十字百.あめひとをけ・二升か.柑子ひとこ・串柿十くし.ならびにおくり候い了んぬ 02 春のはじめ御喜び花のごとくひらけ・月のごとくみたせ給うべきよしうけ給わり了んぬ。 -----― 清酒一筒・提子十杯ほどか、蒸し餅百個、水飴一桶・二升ほどか、柑子蜜柑一籠、串柿十串、すべて送っていただきました。春の初めの御喜びは花のように開け、月のように満ちておられるとのこと承りました。 |
聖人
清酒のこと。これにたいし濁酒を賢人という。魏志に「酔客酒を謂いて、清めるを聖人と為し、濁れるを賢人と為す」とある。
―――
ひさげ
鉉と注ぎ口のある鍋状の金属製容器。酒などを温めたり、注いだりするのに用いる。
―――
十字
「じゅうじ」ともいった。蒸餅のこと。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。十字の呼称については晋書の列伝第三巻に「蒸餅の上に十字を作坼せざれば食せず」とある。
―――
あめ
米や芋などの澱粉を糖化させた、甘味のある粘性の食品。水飴のことで、キャンディーとは異なる。
―――
柑子
ミカン科の落葉小喬木。在来ミカンの一種で、耐寒性が強く、果実は酸味が強く、種子が多い。果皮は滑らかで薄くむきやすい。
―――
串柿
渋柿の皮をむき、竹や串に刺してほしたもの。
―――――――――
本抄は弘安4年(1281)正月13日、日蓮大聖人が聖寿60歳の御時、身延から南条時光の母・尼御前に送られた御手紙である。御真筆が現存し、大石寺にある。
本抄の内容は、尼御前が子息・五郎を亡くして、年が明けた正月に年賀の状と、故五郎の菩提を弔うための種種の御供養を奉ったことに対して、御供養を謝し、年始の言葉を述べられるとともに、故五郎の死を悼んで限りない同情をよせられている。
そして、子は、親にとって財であることも敵であることもあるが、故五郎は惜しんでも余りある財であったと述べたれ、しかし、この世では、もはや会うことはできない。唯一の道は、信心に励んで成仏を遂げ、霊山浄土で行き会うことであると、尼御前の信心を激励されている。
1575:03~1575:05 第二章 故五郎の不帰を嘆くtop
| 03 抑故五らうどのの御事こそ・をもいいでられて候へ、ちりし花もさかんとす・かれしくさもねぐみぬ、故五郎殿 04 もいかでか・かへらせ給はざるべき、あわれ無常の花と・くさとのやうならば・人丸にはあらずとも花のもとも・は 05 なれじ、いはうるこまにあらずとも・草のもとをばよもさらじ。 -----― さて故五郎殿の事こそ思い出されてなりません。散った花も咲こうとしているし、枯れた草も芽を出しはじめております。故五郎殿もどうして同じように帰られないのでしょう。ああ、五郎殿が無常の花と草とのように帰ってくるのであるならば、柿本人麻呂でなくとも花のもとを離れないし、繫いだ馬でなくとも草のもとをよもや去らないでしょうものを。 |
故五らうどの
弘安3年(1280)9月、16歳の若さで亡くなった南条七郎五郎(1265~1280)のこと。南条兵衛七郎の五男で、南条時光の弟にあたる。
―――
無常
常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
―――
人丸
柿本人麻呂のこと。生没年不明。持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人で、万葉集中の代表的歌人。後世、歌の聖とあがめられた。平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
――――――――
時光の弟であり、尼御前にとっては、かわいい末っ子である五郎が亡くなって約4ヵ月、初めて迎える正月である。新春とはいえ、愛する息子を失っての正月は、尼御前に、深い悲しみの影を落としていたに違いない。大聖人は、そうした尼御前の心中を思いやられ、心から悼んでおられるのである。
正月といえば、一家一族が集い合う。もちろん、現在と違って、一家そろうのは年中のことで、正月だけに限らなかったであろうが、それでも、去年の正月と較べて、今年の正月は五郎の顔がもはや見られないという事実は、改めて悲しみを誘ったに違いない。冒頭に、新春の喜びを述べられながら「抑故五らうどのの御事こそ・をもいいでられて候へ」と仰せられているのは、そのような南条家の正月の光景、そこからわいたであろう母御前の心中の感懐を察せられたからではないだろうか。
新春を迎えれば、昨秋、枯れ葉を散らした木も芽がふくらんできて、やがて花咲こうとする気配が見られる。枯れ草の下からも、若草の萠え出でようとする雰囲気が感じられる。草や花は、こうして春の訪れとともに蘇るが、亡くなった五郎が再び帰ってくることはない。もし、花や草とともに五郎が蘇ってくるものならば、花や草のもとを離れないで待ち続けるものを、と仰せられているのである。
子を失った母の心を、これほど深く細やかに把握されているとは驚くばかりである。「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦」(0758-04)との御言葉のとおりの、まさしく大慈大悲の御境界なればこそと拝せられてならない。
1575:06~1576:04 第三章 経文に子は敵と財の両説あるを示すtop
| 06 経文には子をばかたきととかれて候、 それもゆわれ候か・梟と申すとりは母をくらう・破鏡と申すけだものは 07 父をがいす、 あんろく山と申せし人は師史明と申す子にころされぬ、 義朝と申せしつはものは為義と申すちちを 1576 01 ころす、子はかたきと申す経文ゆわれて候、 又子は財と申す経文あり、 妙荘厳王は一期の後・無間大城と申す地 02 獄へ堕ちさせ給うべかりしが浄蔵と申せし太子にすくわれて・ 大地獄の苦をまぬがれさせ給うのみならず・娑羅樹 03 王仏と申す仏とならせ給う、 生提女と申せし女人は慳貪のとがによつて餓鬼道に堕ちて候いしが・ 目連と申す子 04 にたすけられて餓鬼道を出で候いぬ、されば子を財と申す経文たがう事なし。 -----― ある経文には子を敵と説かれています。それも理由のあることでしょう。梟という鳥は母を食べます。破鏡という獣は父を害します。安禄山という人は師史明という子に殺されました。源義朝という武士は源為義という父を殺しています。それゆえ子は敵という経文も道理なのです。また、子は財という経文があります。妙荘厳王は一生を終えた後、無間大城という地獄へ堕ちられるはずでしたが、浄蔵という太子に救われて大地獄の苦を免れられただけでなく、娑羅樹王仏という仏になられました。青提女という女人は慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちていましたが、目連という子に助けられて餓鬼道を出ることができました。それゆえ子を財という経文は間違いではありません。 |
経文には子をばかたきととかれて候
心地観経巻三には「世人は子の為に諸の罪を造り、三塗に堕在して長く苦を受く」とある。
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梟と申すとりは母をくらう
フクロウは俗に成長すると母を食うといわれるので、母食鳥とも不孝鳥ともいう。
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破鏡と申すけだものは父をがいす
破獍とも書く。父を食うという獣のこと。史記の封毒書等にある。
―――
あんろく山
(0705~0757)。中国・唐代の節度使。安史の乱を起こした。胡人と突厥人との混血といわれる。六種の言語に通じて互市牙郎となり、のちに玄宗皇帝にとりいって平盧・范陽・河東の三節度使を兼任し大きな軍事力を握った。やがて、宰相・楊国忠と対立して天宝14年(0755)史思明とともに挙兵。洛陽を陥れて大燕皇帝と称し、さらに長安を落として華北を制圧したが、子の安慶緒に殺された。本文に「子の史師明」とあるのは安慶緒のこと。
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師史明
(~0761)。中国・唐代の武将。史思明のこと。安史の乱の指導者の一人。同郷の安禄山と親しく、安禄山が乱を起こすと、これにしたがい活躍した。安禄山が安慶緒に殺されると唐朝にくだったが、再度反乱を起こした。乾元2年(0759)安慶緒を殺して大燕皇帝を称したが、子の史朝義に殺された。
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義朝
(1123~1160)。源義朝のこと。平安時代後期の武将。為義の子で頼朝の父。保元の乱の時に、平清盛とともに後白河天皇方に味方して勝利し、崇徳上皇方についた父の為義を斬った。その後、平清盛の進出に不満をもち、藤原信頼と結んで挙兵した。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅に移動したため、一転して賊軍となった義朝は戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。
―――
為義
(1096~1160)。源為義のこと。平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
―――
子は財と申す経文あり
心地観経には「其の男女は勝福を追うを以って、大金光有って地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟して発意せしめん」とある。
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妙荘厳王
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。
―――
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
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浄蔵
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王、その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。この二子は、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家して、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父の前でいろいろな神通力を現じてみせ、ついに仏の教えに帰依させることができた。この二人の姿こそ、真の親孝行であり、大善を意味する。さらに、その因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者がその功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と、二人の王子に生まれて、王を救うことを誓った。これが浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼の二人の子供で、三人で妙荘厳王に仏道を得さしめ、過去世の恩を返したのであった。
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沙羅樹王仏
妙荘厳王が法華経を修行し、仏から受けた成仏の記莂。
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生提女
目連の母。青堤女とも書く。盂蘭盆経によると、目連は亡くなった母・青堤女が餓鬼道に堕ち、飲食も自由にならず、骨と皮ばかりになって苦しんでいる姿を見て、神通力で救おうとしたが叶わず、釈尊の教えどおりに盂蘭盆会を修して母を餓鬼道の苦しみから救ったという。
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慳貪
慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。
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餓鬼道
梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。
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目連
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
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親にとって、子は敵である場合も、財である場合もある。それは、経文にも説かれているし、歴史的事実も、枚挙にいとまがないほどである。
子が敵となった例については、中国の安禄山と日本の源為義を挙げられている。御書では安禄山は子の師史命に殺されたと仰せになっているが、史実では子は安慶緒であり、安禄山は安慶緒に殺され、安慶緒は安禄山の部下の史思明に殺されている。また源為義は義朝に殺されている。
そのほか、インドでは頻婆娑羅王が子の阿闍世に殺されており、大聖人は御書の中でも、しばしば挙げられている。
西洋でも、テーベの王・ライオスが子のオイディプスに殺された話は、かぞえきれないほどの劇として演じられ、心理学でも研究テーマとなってきた。
逆に、子が親にとって財となった例も無数である。むしろ、敵となったのが特殊ケースであって、大部分は、財の場合である。
ただし、子のために助けられたといっても、その助けられ方は、千差万別である。子を育てるために尽くした苦労と較べれば、親に害を及ぼすことはなくても、親への孝養・報恩はわずかであるというのが、ほとんどであろう。
親にとって子は財であるといっても、多くは、一人前に育ってくれたこと、存在していることが財であるということであろう。
そうしたなかで、端的に親にとって、かけがえのない財の働きをした例として、大聖人は、法華経に説かれる妙荘厳王の子・浄蔵と、釈尊の十大弟子の一人・目連とを挙げられているのである。
浄蔵の場合は、弟・浄眼とともに、父の妙荘厳王に仏法のすばらしさへの眼を開かせ、仏のもとへ導いて、未来成仏の因を作らせたのである。父・妙荘厳王にとって、浄蔵・浄眼は、何よりも尊い財の働きをしてくれたことになる。
目連の場合は、母・青提女が餓鬼道に堕ちていることを知り、釈尊の教えに従って、聖僧への供養をすることにより、青提女を餓鬼道から救い出したのである。餓鬼道の苦しみから救われた青提女にとって、目連は、まことにありがたい財であったことは疑いない。
この段で、以上のように、子は財である場合もあれば、敵である場合もあることを示されたのは、故五郎は、あらゆる点で、すぐれた素質を持っており、尼御前にとって、何ものにも代えがたい財であったことを次に述べられるためである。
1576:05~1576:18 第四章 霊山浄土の母子再開を勧むtop
| 05 故五郎殿はとし十六歳.心ね・みめかたち人にすぐれて候いし上.男ののうそなわりて万人に・ほめられ候いしの 06 みならず、をやの心に随うこと・水のうつわものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし、いへにては・はし 07 らとたのみ・道にては・つへとをもいき、はこのたからも・この子のため・つかう所従もこれがため、我しなば・に 08 なわれて・のぼへゆきなんのちの・ あとをもいをく事なしとふかくをぼしめしたりしに・いやなくさきにたちぬれ 09 ば.いかんにや・いかんにや.ゆめか・まぼろしか・さめなん・さめなんと.をもへども・さめずして.としも又かへり 10 ぬ、いつとまつべしとも・をぼへず、 ゆきあうべき・ところだにも申しをきたらば・はねなくとも天へものぼりな 11 ん、ふねなくとも・もろこしへも・わたりなん、大地のそこに・ありときかば・いかでか地をもほらざるべきと・を 12 ぼしめすらむ。 -----― 故五郎殿は、年十六歳で心根も容貌も人よりも勝れていたうえ、男としての才能も備わって万人に褒められていただけでなく、親の心に従うことは水が器物にしたがい、影が身に従うかのようでした。家にあっては柱と頼み、道を行くにあたっては杖のように思い、箱に収めた財物もこの子のため、使っている従者もこの子のため、自分が死んだならば担われて野辺へ行こう、死んだ後もあとを思い残すことはない、と深く思われていたのに、不孝にも先立ってしまったときに「どうしたことか、どうしたことか。夢か幻か。覚めるであろう、覚めるであろう」と思っていても醒めずに年も改まってしまいました。いつまで待ったらよいかもわからない。行き逢う所だけでも言い置いていたならば、羽は無くても天にも昇ろう、船は無くても中国へも渡ろう。大地の底にいると開けば、どうして地を掘らずにいられようかと思われていることでしょう。 -----― 13 やすやすとあわせ給うべき事候、 釈迦仏を御使として・りやうぜん浄土へまいりあわせ給へ、若有聞法者無一 14 不成仏と申して大地はささば・はづるとも・日月は地に堕ち給うとも・しをはみちひぬ世はありとも・花はなつにな 15 らずとも・南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あわずという事はなしととかれて候ぞ、いそぎ・いそぎつと 16 めさせ給へ・つとめさせ給へ、恐恐謹言。 17 正月十三日 日蓮花押 18 上野尼御前御返事 -----― やすやすとお会いになれる方法があります。釈迦仏を御使いとして霊山浄土へ参り、会われるがよいでしょう。法華経方便品第二に「若し法を聞く者あらば、一りとして成仏せずということ無けん」といって、大地はさして外れることがあっても、日月は地に落ちても、潮の干満がなくなる時代はあっても、花は夏に実にならなくても南無妙法蓮華経と唱える女性が愛しく思う子に会えないということはない、と説かれているのです。急いで急いで唱題にお勤めなさい、お勤めなさい。恐恐謹言。 正月十三日 日 蓮 花 押 上野尼御前御返事 |
のぼ
野辺のこと。①野原、野。②火葬場、埋葬地、墓地。③野辺送りの略。ここでは②、または③の意。
―――
もろこし
中国をさして呼んだ名称。「もろこし」は「諸越」の訓読で、昔、中国浙江省あたりに越の国があり、日本との交渉が盛んであったことによるといわれる。
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りやうぜん浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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子は、親にとって敵になることもあれば、財になることもある。上野尼御前にとって、子息の故五郎は、気性も容貌も、武者としての才能もすぐれ、その成長が楽しみであったうえ、親思いで、それこそ、最高の財であった。それだけに、五郎がわずか16歳で不帰の人となってしまったことは、尼御前にとっては、どんなに悲しいことであったろう。
「これは夢、幻を見ているに違いない。醒めたら、きっと元気な五郎に会えるはずだ」――尼御前の悲痛な思いを大聖人は記されている。それは、たんに尼御前に同情し、その心中を推測されて書かれたのではなく、前年9月、訃報を聞かれた時の御手紙に「人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」(1567)と述べられているように、大聖人御自身のお気持ちでもあった。
そして、そのうちに、この悪夢は醒めるに違いないと思っているうちに、月日が経ち、年が改まってみた時、やはり、これは現実なのだと認めざるを得なくなってきたのである。
愛する人間を失った時、その人にとって世界は、それ以前とは全く違ってしまう。その愛する人が占めていた大きな場が、一挙に空白になってしまうからである。人間の心は、この急激な変化に対応できない。そこで、自らの心の正常を保つために、この激変は事実ではなく、夢か幻を見ているに違いないと自らに言い聞かせようとする。しかし、現実の生活は、いやおうなく、それが事実であることを認めさせようとする。そして、心は、次第に、これを事実として受け入れていくのである。
それでもなお、人間の心は、この離別は一時的なもので、いつかは、その人に再会できるのではないかと考え、そこに希望を託する。愛着が強ければ強いほど、その人に再び会えるものなら、どこへでも行こう、どんな苦労でも耐えてみようという気持ちになるものである。「ゆきあうべき・ところだにも申しをきたらば・はねなくとも天へものぼりなん、ふねなくとも・もろこしへも・わたりなん、大地のそこに・ありときかば・いかでか地をもほらざるべきと・をぼしめすらむ」との御文は、そうした尼御前の心情を見事に表現されている。
しかしながら、妙法を信受して亡くなった故五郎の霊がいる所は、天でもなければ、遠い唐土でもない。まして、大地の底などではない。霊山浄土、仏国土に住しているのである。したがって、尼御前が、信心に一層励んで、自身、成仏を遂げるならば、釈迦・多宝・十方諸仏に導かれて、霊山浄土へ赴き、故五郎とも、亡き夫・兵衛七郎とも再会できることは間違いないと仰せられて「いそぎ・いそぎつとめさせ給へ・つとめさせ給へ」と結ばれているのである。
この御文で「釈迦仏を御使として・りやうぜん浄土へまいりあわせ給へ」といわれているのは、たとえば「如説修行抄」にも「命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば……」(0505-02)とおっしゃっているのと同じ趣旨であることはいうまでもない。
ともあれ、悲しみの底に沈んでいる尼御前の心に深く入ってゆかれ、そこから、やさしく手をとるようにして信心を励まされている日蓮大聖人の心の細やかさ、慈悲の広大さがしみじみと拝せられる御抄である。
1577~1577 上野殿御返事(法華経難信事)top
| 01 蹲鴟一俵給び了んぬ。 02 又かうぬしのもとに候・御乳塩一疋・並びに口付一人候、さては故五郎殿の事は・そのなげきふりずとおもへど 03 も・御けさんは.はるかなるやうにこそ・おぼえ候へ、なをも.なをも・法華経をあだむ事は・たえつとも見え候はね 04 ば・これよりのちも・いかなる事か候はんずらめども・いままでこらへさせ給へる事まことしからず候、 仏の説い 05 ての給はく火に入りて・やけぬ者はありとも・ 大水に入りてぬれぬものはありとも大山は空へ・とぶとも大海は天 06 へあがるとも・末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ。 07 徽宗皇帝は漢土の主じ・蒙古国に.からめとられさせ給いぬ、隠岐の法王は日本国のあるじ・右京の権大夫殿に. 08 せめられさせ給いて・ 島にてはてさせ給いぬ、 法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いな 09 ん、 わづかの事には身をやぶり命をすつれども、 法華経の御ゆへに・あやしのとがに・あたらんとおもふ人は候 10 はぬぞ、身にて心みさせ給い候いぬらん、たうとし・たうとし、恐恐謹言。 11 弘安四年三月十八日 日 蓮 花 押 12 上野殿御返事 -----― 里芋一俵をいただいた。 また神主のもとにいる御乳塩一匹ならびに口付き一人がいる。さて故五郎殿のことは、その嘆きは薄れないとは思うけれども、御見参は遠い昔のことのように感じられる。なおも、法華経をあだむことは絶えたとも思えないので、これからのちも何事かあるであろうけれども、いままで堪えてこられたことは本当とは思えないほどである。仏が説いて言われるには「火に入って焼けない者はあっても、大水に入って濡れない者はあっても、大山は空へ飛んでも、大海は天に上がっても、末代悪世に入ったときは少しの間であっても法華経は信じがたいことなのである」と。 徽宗皇帝皇帝は中国の君主であったが、蒙古国に捕らえられてしまった。隠岐の法皇は日本国の君主であったが、右京権大夫の北条義時に攻められて島で亡くなられた。法華経のゆえでさえあったならば即身に成仏されたことであろう。些細なことには身を破り命を捨てるけれども、法華経のゆえに不当な罪科にあおうと思う人はいないものだ。あなたは、これを身で試みられたのであろう。尊いことである。尊いことである。恐恐謹言。 弘安四年三月十八日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
蹲鴟
「そんし」とも読む。里芋の塊茎のこと。いもがしら。いものかしら等とも呼ばれる。蹲はうずくまる、鴟はトビで、芋の形が鳥のうずくまった姿に似ているところからこの字があてられた。
―――
かうぬし
神主のこと。ここでいわれている神主は法華経の信仰に帰依していた浅間神社の祠官のことと思われる。「上野殿御返事」には、妙法に帰依したため圧迫を受けていた神主を南条家が保護していたことが述べられており、この神主は浅間神社の分社である熱原の新福地神社の神主とされるが、同一人であろう。
―――
乳塩
馬の毛色のことをいわれたものと思われるが、明らかではない。「千入」の音をとったものとする説によると、深紅の毛なみの馬と考えられている。千入は何度も染める意で、濃く染まった色や物をいう。また、乳と塩の色の意として、白色の馬とも考えられる。
―――
口付
「くちつき」と読み、牛や馬などの口につけた縄を持って引くこと。また、その人。口引。
―――
徽宗皇帝
(1082~1135)。中国・北宋第八代皇帝。姓は趙、名は佶。第六代皇帝・神宗の子。元符3年(1100)帝位についたが政治に関心が薄く、院体画に才を示すなど文化面での才能を発揮した。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると民衆に重税を課して豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなった。道教を保護し、宣和元年(1119)、詔を下して仏を大覚仙金、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称を用いるとした。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。後年、女真族の建てた金国と紛争を起こし、攻撃を受けることとなった。徽宗は位を皇太子の欽宗に譲り、自ら教主道君皇帝と名のった。のちまもなく国都の開封は陥落し、靖康2年(1127)欽宗と共に金国の捕虜となって北宋は絶えた。本文で「蒙古国に・からめとられさせ給いぬ」とあるが、この蒙古国とは金国のことと思われる。
―――
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
―――
隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の争い、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚・坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
―――
右京の権太夫殿
北条義時のこと。(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
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本抄は弘安4年(1281)3月18日、日蓮大聖人が聖寿60歳の御時、身延から南条時光に与えられた御手紙である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。
本抄は、冒頭、里芋の御供養への礼を述べられ、神主のもとにいる馬のこと、またちょうど半年たつ故五郎の逝去のこと等を述べられている。おそらく時光からの手紙への御返事でいわれたものと考えられるが、その内容は十分には分からない。次に仏法のための難を時光が耐えてきたことを称えられ、仏法以外のことで苦難を味わった。
本抄では徽宗皇帝と後鳥羽上皇の例を挙げて、これらの人も法華経のゆえの苦難であったならば成仏していたであろうと言われて、時光が身をもって法のため難を忍んでいることの尊さを称えられている。
次に、時光の弟・故五郎が逝去して、ちょうど半年であるが、「悲しみがうすらぐことはないとは思うが、お会いしたのは、ずいぶん遠い昔のように思われる」と仰せである。
また、時光が法華経の信心を実践したことによって起きた障魔に対して、これまで、実によく耐え忍んできた、これは本当のこととは思えないと、時光の深い信心を称賛されている。しかし、それにしても、難はまだまだ終わるとは思えない、これからもどんなことが起こるか分からない、と仰せられ、なお一層の強盛な信心を促されている。
仏説には、末法悪世においては少しの間でも法華経の信仰を持続することは難しいとある、と述べられているのは、これまでの持続を称え、これからの信心を励まされて言われたと拝される。大山が空を飛び、大海が天に舞い上がることは信じられても、法華経だけは信じ難いというのである。このような末法に、南条時光がだれも信じようとしない法華経を信受し、しかも法のために難を忍んでいるということは、偉大なことであるとの仰せである。
次に、中国の徽宗皇帝、日本の隠岐の法王等が無残な最期を遂げた例を挙げられ、しかしながら、これらは法華経のためではないので、即身成仏できないといわれている。このことは逆にいえば、時光がこれまでに遭った難、また、これからも遭うかもしれない難は法華経のゆえであるから、必ず成仏の因となるということである。
これらの例から、次に、人間は「わづかの事」すなわち、名聞名利や愚かな感情等のためには、身を破滅させ、命を捨ててしまうが、法華経のために苦難に進んで当たろうとする人はいない、と述べられている。この御文は、佐渡御書の「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956-11)の仰せと同意と拝される。したがって、本抄の「わづかの事」とは「世間の浅き事」にあたり、仏法のことではなく、世間法上の問題をさしていわれているのである。世間の事のために身命を捨てても、もちろん、その内容によっては、世間的な名誉は得られようし、善事であれば、それなりの善業にはなるが、成仏という大利益は得られない。
「大事の仏法」「法華経」すなわち、末法においては三大秘法の仏法のために身命をなげうってこそ即身成仏の大功徳が得られるのである。
最後に「身にて心みさせ給い候いぬらん、たうとし・たうとし」と仰せられているのは、時光が大きな苦難を乗り越えてきたことを称えられているのである。
1578~1579 南条殿御返事(法妙人貴事)top
1578:01~1578:08 第一章 法華経の行者を供養する果報を明かすtop
| 01 御使の申し候を承り候、是の所労難儀のよし聞え候、いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候。 ・ -----― お使いの者の話を承った。病気が大変とのことお聞きした。急いで治療されて御参詣なされるがよい -----― 02 塩一駄.大豆一俵・とつさか一袋・酒一筒.給び候、上野の国より御帰宅候後は未だ見参に入らず候、牀敷存じ候 03 いし処に品品の物ども取り副え候いて御音信に預り候事申し尽し難き御志にて候。 -----― 塩一駄、大豆一俵、鶏冠海苔一袋、酒一筒をいただいた。上野国から御帰宅されてのちは未だお会いせず、ご様子を知りたく思っていたところに、いろいろな品物を添えてお便りを寄越されたことは、申し尽くしがたい御志である。 -----― 04 今申せば事新しきに相似て候へども・ 徳勝童子は仏に土の餅を奉りて阿育大王と生れて南閻浮提を大体知行す 05 と承り候、 土の餅は物ならねども仏のいみじく渡らせ給へば・かくいみじき報いを得たり、然るに釈迦仏は・我を 06 無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・ 末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過 07 ぐべしとこそ説かせ給いて候に、 法華経の行者を心に入れて数年供養し給う事有り難き御志かな、 金言の如くん 08 ば定めて後生は霊山浄土に生れ給うべしいみじき果報なるかな。 -----― 今言うと事新しいようではあるけれども、徳勝童子は仏に土の餅を差し上げたことによって阿育大王と生まれて、南閻浮提をだいたい支配したと承っている。土の餅はたいしたものではないけれども、仏が尊くあられるので、このような素晴らしい果報を得たのである。しかしながら釈迦仏は「私を計り知れないほどの珍宝で長遠の間供養するよりは、末法の法華経の行者を一日であっても供養する功徳は百千万億倍勝れるであろう」と説かれているのであるから、あなたが法華経の行者を心から数年間供養されたことは有り難い御志である。金言のとおりであれば、必ず後生は霊山浄土に生まれられるであろう。なんと素晴らしい果報であろう。 |
所労
①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
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一駄
馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
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とつさか
鶏冠海苔のこと。紅藻類ミリン科の海藻。本州中部以南の太平洋沿岸に分布し,干潮線以下の岩礁に着生する。葉状体は扁平で不規則な叉状に分かれ、紅色をしている。その形状が似ているので「とっさか」と呼ばれた。塩漬け、または乾燥して貯蔵し、食用にする。
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上野の国
東海道の一国。現在の群馬県。
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音信
おとずれ、便り。
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徳勝童子
得勝童子とも書く。釈尊が王舎城で乞食行をしていた時、無勝童子と共に、土の餅を供養した童子。その功徳によって、釈尊滅後百年に阿育大王と生まれたと阿育王伝にある。無勝童子は阿育王の后となって生まれた。あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという説もある。徳勝童子が供養し、無勝童子が横で合掌したともいう。
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阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵語アショーカ(Aśokaḥ)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と訳す。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、その慈悲の精神を施政に反映するとともに、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
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南閻浮提
須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。
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知行
支配すること。おさめること。
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我を無量の珍宝を……百千万億倍・過ぐべし
法華経法師品の「人有って仏道を求めて 一劫の中に於いて 合掌し我が前に在って 無数の偈を以て讃めば 是の讃仏に由るが故に 無量の功徳を得ん 持経者を歎美せば 其の福は復た彼れに過ぎん 八十億劫に於いて 最妙の色声 及与び香味触を以て 持経者を供養せよ 是の如く供養し已って 若し須臾も聞くことを得ば 則ち応に自ら欣慶すべし 我れは今大利を獲つと」の文の取意と思われる。
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億劫
「億」は現在の単位で十万。「劫」は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。 あわせてきわめて長遠な時間。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
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本抄は、弘安4年(1281)9月11日、聖寿60歳の御時、身延で御執筆になり、南条時光に与えられた御消息である。御真筆は現存しない。「南条兵衛七郎殿御返事」と呼ばれたこともあったが、兵衛七郎は文永2年(1265)に死去しているので、子息の七郎次郎時光と誤ったものであろう。また「鷄冠書」とも呼ばれた。
本抄の内容は、はじめに釈迦仏に土の餅を供養して阿育大王と生まれた徳勝童子の例を挙げられ、末法に法華経の行者を供養している時光は必ずや霊山浄土に生まれ成仏する大果報を受けるであろうと述べられている。そして、大聖人こそ久遠の仏であり、大聖人がいます処は霊山浄土に劣らない霊場であり、参詣する者は無始以来の罪障を消滅して成仏できることを示され、時光の参詣を促して本抄を結ばれている。
時光は当時、病気で悩んでいたことが、「是の所労難儀のよし聞え候、いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候」との御文によってうかがうことができる。病名は不明だが、翌二月にも再び命にかかわるような重病にかかっていることから、当時の時光は病気がちだったとも考えられる。父の兵衛七郎はまだ壮年のうちに病気によって死亡しており、また弟の七郎五郎を前年の9月に亡くしている南条一族にとって、惣領である若き時光の病気は、暗い影をなげかけていたであろう。それだけに大聖人は深く御心配になられ、早く病気を治して参詣するように励まされているのである。
今申せば事新しきに相似て候へども・徳勝童子は仏に土の餅を奉りて……
徳勝童子が土の餅を仏に供養し、その真心の供養の功徳によって阿育大王と生まれたという話は、大聖人は時光に対し、文永11年(1274)年11月の御状、建長4年(1252)2月の御状でも述べられている。その御記憶があるので「今申せば事新しきに相似て候へども」と断わられたのであろう。
このエピソードは、一般的には、供養において尊いのは、物ではなく、そこにこめた真心であるという意味で語られる。大聖人も、その意味で用いられている場合もあるが、本抄も含めて時光への御状では、釈尊への供養よりも末法の法華経の行者への供養の方が何千億倍も勝れるとの法華経法師品の文をふまえ、日蓮大聖人に御供養の誠を尽くす信徒の功徳の大きさを教えられている。
このように「末代の法華経の行者」への供養が勝れるのは、久遠元初の自受用身という、釈尊よりはるかに勝れた仏であられるからである。その勝劣を日寛上人は末法相応抄で「一には謂く、本地と垂迹。二には謂く、自行と化他。三には謂く、名字凡身と色相荘厳。四には謂く、人法体一と人法勝劣。五には謂く、下種の教主と脱益の化主」の五項目をあげられている。
末法の御本仏たる日蓮大聖人を心から供養する功徳は無量無辺であり、今生に大福運を積み、後生は霊山浄土に生まれること、すなわち一生成仏を遂げることは疑いない。
今日、私達は生身の大聖人を拝して供養し奉ることはできないが、御本仏の御生命の御当体たる三大秘法の御本尊を拝することによって、大功徳を受け、成仏していくことができるのである。
1578:09~1579:05 第二章 御本仏の住処の尊貴明かし参詣促すtop
| 09 其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、 東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主 10 釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・ 日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、 されば日蓮が胸の間は諸仏 11 入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、 かかる不思議なる法華経の行者の 12 住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、 法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり、神力品 13 に云く 「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至而般涅槃したもう」と云云、 此の 14 砌に望まん輩は 無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん、 彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者が心中の 15 熱気を除愈して其の願を充満する事清涼池の如しとうそぶきしも・ 彼れ此れ異なりといへども、 其の意は争でか 1579 01 替るべき。 -----― そのうえ、ここは人間社会から離れた山の中である。東西南北とも遠く離れて里もない。このような大変心細い山奥の住処であるが、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山において相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っているのである。それゆえ、日蓮の胸の間は諸仏の入定の所である。舌の上は転法輪の所、喉は誕生の所、口の中は正覚の場所であるはずである。このように不思議な法華経の行者の住処であるから、どうして霊山浄土に劣ることがあるだろうか。法華文句に「法が妙であるがゆえに、その法を持った人は貴い。人が貴いがゆえに、その人がいる所も尊い」といっているのはこのことである。法華経如来神力品第二十一には「もしくは林の中においても、もしくは樹の下においても、もしくは僧坊においても(中略)般涅槃されるであろう」とある。この所に来る人は無始以来の罪障がたちまちのうちに消滅し、身・口・意の三業の悪は転じて法身・般若・解脱の三徳と成るであろう。かの中インドの無熱池に行った悩者が心の中の熱気を除き癒して「願いは全て満足し、あたかも清涼池のようだ」といったが、それとこれと場所は異なっても、その意はなんで変わることがあるだろうか。 -----― 02 彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、 是にて待ち入つて候 03 べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。 04 弘安四年九月十一日 日 蓮 花 押 05 南条殿御返事 -----― かのインドの霊鷲山は日本のこの身延の山である。参詣が久しく途絶えている。急いで来られるように取り計らいなさい。こちらで待っていよう。ああ、申し尽くしがたい御志であることよ、御志であることよ。 弘安四年九月十一日 日 蓮 花 押 南条殿御返事 |
人倫
人々のこと。
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一大事の秘法
一大事とは、これ一つしかない究極の大事との意で、諸仏がそのために世に出現したところの秘密の大法を一大事の秘法という。文底独一本門の三大秘法をさしている。
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霊鷲山
中インド摩竭提国(ベンガル地方)の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。
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入定
入滅の意で仏の死をいうが、それは単なる死ではなくて不滅のうえの滅であり、禅定に入って存在しているとする考えから、このようにいわれる。法華経如来寿量品第十六には「衆生を度せんが為めの故に 方便もて涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我れは常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も見ざらしむ」とある。
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転法輪
法輪を転ずるの意で、仏が教法を説くこと。説法。法華文句巻五上には「仏の心中の化他の法を転じて他心に度入するを転法輪と名づく」とある。
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正覚
正しい覚り。妄惑を断滅した如来の真正の覚智。成仏。
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神力品
妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。
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般涅槃
寂滅・入滅、完全な悟りの境地にはいること。仏が亡くなること。
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三業
身口意の三業のこと。十種の悪の業因で身の三悪、口の四悪、意の三悪がある。身の三悪は殺生・偸盗・邪婬、口の四悪は妄語・綺語・悪口・両舌、意の三業は貪欲・瞋恚・愚癡。この十悪業によって受ける果報は以下の通り。殺生の報い=短命・多病。偸盗の報い=貧困・破産。邪淫の報い=不貞・子供の不良。妄語の報い=誹謗・詐欺にあう。綺語の報い=言語不明瞭。悪口の報い=悪事が耳に・いい争いが絶えない。両舌の報い=家族や仲間に欺かれる。貪欲の報い=満足を得られず・欲に翻弄される。瞋恚の報い=周囲の事で悩み、命を奪われる。愚痴=性格が捻くれる。とある。
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三徳
法身・般若・解脱のこと。法身とは仏の清浄なる生命それ自体。般若とは仏の智慧。解脱とは仏の振る舞いをいう。三徳には主・師・親の三徳をいう場合もある。
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中天竺
インドを東・西・南・北・中と五つにわけたなかの「中」。中央インドのこと。
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無熱池
無熱悩池のこと。古代インドにあった想像上の閻浮洲四大河の水源池。倶舎論巻十一には、大雪山の北、香酔山の南にあり、金・銀・瑠璃・頗胝の四宝を岸とし、周囲八百里の大池で、その中に阿耨達竜王が住み、清冷の水を四方に流し閻浮洲をうるおすという。
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清涼池
清く涼しい池のこと。大智度論には「人の大いに熱悶するも、清涼池に入ることを得れば、冷然として清了して復た熱悩なきが如し」とある。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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身延の嶺
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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前段で、時光の法華経の行者へのたゆみのない供養の志を称えられ、さらにこの後半の段では、御自身の御本仏としての御内証を示され、その住処である身延の地の尊貴さを述べられて、時光の参詣を促されている。
大聖人の御草庵のあった身延山麓の西谷の地は、人里を離れた山中であり、心細いわび住まいであるが「不思議なる法華経の行者の住処」であるから霊山浄土にも劣らないことを明かされている。
なぜ大聖人が「不思議なる法華経の行者」かというと、それは「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌」だからである。
諸仏の入定・転法輪・誕生・正覚の処が大聖人の御生命であるとは、あらゆる仏の成仏の根源である妙法の御当体であられ、人法一箇の久遠元初自受用身であられることを仰せられているのである。
また「教主釈尊の一大事の秘法」について、日寛上人は文底秘沈抄で「結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法随一の本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊、塵点劫来心中深秘の大法の故に一大事の秘法と云うなり」と明かされている。
大聖人御建立の御本尊は即御本仏日蓮大聖人の御生命であり、人法一箇の御当体であられる。「日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌」と、誕生・正覚・転法輪・入定の四つを示されているのは、法身の四処といって八相の中でも特に重要とされるからである。
日寛上人は「疏の十の二十四に云く『阿含に云く、仏の出世は唯四処に搭を起つ。生処、得道、転法輪、入涅槃なり』云云。文の八の十七に云く『此の経は是れ法身の生処』等云云。記の八の本の十六に云く『化身の八相すら此の四相の処に尚応に搭を起つべし。況んや復五師及び此の経の所在は即ち是れ法身の四処なり。皆応に搭を起つべきなり』云云。文中、法身等とは即ち是れ久遠元初の自受用身なり。今生身に対する故に法身という」と述べられている。
仏の生処、得道、転法輪、入涅槃の処を生身の四処といってそこに搭を起てたが、法身の四処とは久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の御当体であり、また人法一箇の御本尊のことなのである。
日蓮が …法身
胸の間は諸仏入定の処なり…入涅槃
舌の上は転法輪の所 …転法輪
喉は誕生の処 …生処
口中は正覚の砌なるべし …得道
このように尊極の当体であられる御本仏が住せられるがゆえに霊山浄土にも勝り、法華文句に説かれたとおり「法妙なるが故に人貴く、人貴きが故に処尊し」となるのであって、無条件に身延という所が尊いわけではないのである。
そして、次に引用されている神力品の文の前後には「経巻の住する所の処……是の処は即ち是れ道場なり。諸仏は此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏は此に於いて法輪を転じ、諸仏は此に於いて般涅槃したまう」とあるように、妙法の住する所こそ道場であり、そこで諸仏の得道、転法輪、入涅槃がなされるとされているのである。
ゆえに末法の御本仏即御本尊のいます処に信心を起こして参詣する者は「無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」ことは疑いないのである。三業の悪を転じて三徳を成ずるとは、「当体義抄」に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-10)と仰せくださっているように、権教方便の邪義邪宗を捨て、御本尊を信受し唱題に励むとき、三毒強盛で悪業深き我等凡夫も、ことごとく即身成仏を遂げることができるとの意なのである。まことにありがたいことではないか。
本抄の最後に大聖人は「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり」と結論され、「参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし」と、南条時光に参詣を促されている。大聖人は、時光が病苦で悩んでいるからこそ、一日も早く大聖人のもとへ参詣しようと発心させることよって、病魔を打ち破らせようとなさったものと拝せられる。
1579~1579 上野殿御返事(時国相応御書)top
| 01 いゑのいも一駄.ごばう一つと・大根六本、いもは石のごとし.ごばうは大牛の角のごとし・大根は大仏堂の大く 02 ぎのごとし・あぢわひはトウ利天の甘露のごとし、石を金にかうる国もあり・土をこめにうるところもあり、千金の 03 金をもてる者もうえてしぬ、 一飯をつとにつつめる者に・これをとれり、経に云く「うえたるよには・よねたつと 04 し」と云云、 一切の事は国により時による事なり、 仏法は此の道理をわきまうべきにて候、又又申すべし、恐恐 05 謹言。 06 弘安四年九月廿日 日 蓮 花 押 07 上野殿御返事 -----― 里芋一駄、ゴボウ一苞、大根六本をいただいた。イモは石のようであり、ゴボウは大牛の角のようであり、大根は大仏堂の大釘のようである。その味は忉利天の甘露のようである。 石を金と換える国もあり、土を代金に米を売る所もある。千金の金を持っている者も飢えて死ぬ。これは一食の飯を苞に包んだ者に劣る。経には「飢えた世には、米は貴重である」とある。一切の事は国により、時によるのである。仏法を行ずる者は、この道理をわきまえるべきである。またまた、申し上げよう。恐恐謹言。 弘安四年九月廿日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 |
一駄
馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
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つと
ワラなどを束ねて食物を包んだもの。食糧などを入れて携えてゆく包み物。
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忉利天
梵語のトラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。この天の有情の身長一由旬、城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。倶舎論巻十一には、忉利天の寿命について「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
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甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
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本抄は、弘安4年(1281)9月20日、南条時光から芋、ゴボウ、大根が御供養されたことに対する御返事である。御真筆は現存しない。
はじめに御供養された品々をおほめになり、次にあらゆる事物は国と時によって、その価値がきまることを譬えをもって示され、仏法を行ずる人はこの道理をわきまえなければならないと教え結ばれている。
「いもは石のごとし」とあるのは、保存用に干したため石のように堅くなった里芋だからである。
「ごばうは大牛の角のごとし・大根は大仏堂の大くぎのごとし」とは、それぞれ太く長い様をこのように譬えられたのであろう。
「石を金にかうる国もあり・土をこめにうるところもあり」という事例は明らかではないが、南条九郎太郎への御消息には「こんろん山と申す山には玉のみ有りて石なし、石ともしければ玉をもつて石をかう、はうれいひんと申す浦には木草なし・いをもつて薪をかう」(1535-01)という同趣旨の記述がある。
飢饉の際には、たとえ多くの金を持っていても、金そのものでは飢えはしのげない。そういうときには、ふだんは価値のある金も、一杯の飯にはるかに劣るのである。
大聖人がそのことを指摘なさっているのは「一切の事は国により時による事なり」という例として挙げられたものであるが、同時に時光からの供養の品々が大聖人の御命を支える貴重なものであることを感謝されたものと拝することができる。
「仏法は此の道理をわきまうべきにて候」と仰せられているのは、仏法を修行する人はこのことを正しくわきまえ、人生の知恵をもっていくべきであるということであるが、また、仏法を実践し流布するにあたっては国と時を分別していかなければならない、との意も含まれていることはいうまでもない。
そのことを大聖人は「時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり……仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし」(0439-03)と仰せになっている。
また「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235-12)とも仰せであり、正しい実践のためにも時と国を知らなければならないのである。
そして、現在は釈尊の仏法の功力が失われて日蓮大聖人の仏法が広宣流布する末法という時であり、日本は「本門の三大秘法、広宣流布の根本の妙国」であると知って折伏に励むことが、「此の道理をわきま」えることなのである。
1580~1582 上野尼御前御返事(鳥竜遺竜事)top
1580:01~1580:09 第一章 華菓同時の蓮華に譬え即身成仏を示すtop
| 01 シラ牙一駄四斗定あらひいも一俵・送り給びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候い了んぬ。 02 妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華・人間には桜の花・此等はめでたき花なれども・ 03 此れ等の花をば 法華経の譬には仏取り給う事なし、 一切の花の中に取分けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は 04 其の故候なり、 或は前花後菓と申して花は前に菓は後なり・或は前菓後花と申して菓は前に花は後なり、 或は一 05 花多菓・或は多花一菓・或は無花有菓と品品に候へども蓮華と申す花は菓と花と同時なり、 一切経の功徳は先に善 06 根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり、 法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・ 口に 07 唱ふれば其の口即仏なり、 譬えば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・ 音とひびきとの 08 同時なるが如し、 故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云、 文の心は此 09 の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成ると申す文なり。 -----― 白米一駄、洗芋一俵をお送りいただき、南無妙法蓮華経と唱えまいらせました。 妙法蓮華経というのは、蓮に譬えられています。天上界では摩訶曼陀羅華、人間界では桜の花、これらはめでたい花ではあるけれども、これらの花は法華経の譬として仏はとりあげられることはありません。一切の花の中で、とりわけてこの蓮の花を法華経に譬えられたことには、理由があります。花には、或いは前花後菓といって、花が前に咲き菓は後になるもの、或いは前菓後花といって、菓が前になり花は後に咲くもの、或いは一花多菓のもの、或いは多花一菓のもの、或いは無花有菓のもの、といろいろにあるけれども、蓮華という花は菓と花が同時です。 一切経の功徳は、先に善根を積んで後に仏になると説きます。このようですから成仏は定まっていません。法華経というのは、手に取ればその手がただちに仏になり、口に唱えればその口がそのまま仏であります。譬えば天の月が東の山の端に出れば、その影がその時ただちに水に浮かぶように、また音と響きとが同時であるようなものです。ゆえに法華経に「若し法を聞く者があるならば、一人として成仏しない者はいない」と説かれています。文の心は、この経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人も欠けずに仏に成るという文です。 |
麞牙
「しょうげ」とも読む。白米のこと。牙麞の牙が米に似ているところから、このようにいう。
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あらひいも
里芋のこと。いものかしら、いえのいも等とも呼ばれる。
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摩訶曼陀羅華
大きな曼陀羅華のこと。四華の一つで天上界の華の名。摩訶は梵語マハー(Mahā)の音写で、大の義。曼陀羅華は梵語マーンダーラ(Māndāra)、マーンダーラヴァ(Māndārava)の音写。天妙華、適意華、白華等と訳す。法華義疏巻二によると、その色は赤に似て黄、青のようで紫、緑のようで紅、すなわち美妙とあり、法華玄義巻二では、見るものの心を悦ばせるゆえに「適意」というとある。
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前花後菓・前菓後花……
華草を花と菓のなる関係によって分類したもの。日寛上人の当体義抄文段には「一には無華有菓。度の木及び一熟の如し……二には有華無菓。山吹等の如し……三には一華多菓。胡麻・芥子等の如し。四には多華一菓。桃・李等の如し。五には一華一菓。柿等の如し。六には前菓後華。瓜・稲等の如し。七には前華後菓。一切の草木、多分は爾なり」とある。
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一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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善根
善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383-14)とある。
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「若し法を聞く……」
法華経方便品第二に「若有聞法者無一不成仏」とある。法華経を信受する者は、一人として成仏しないことはないとの意。
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本抄は、弘安4年(1281)11月15日、日蓮大聖人が聖寿60歳の御時、身延において御執筆になり、南条時光の母尼御前に与えられた御消息である。御真筆は現存しない。
内容は、南条時光の母尼御前に対して、蓮華が花と果が同時であるように法華経を信ずる者は一人もかけず即身成仏できることから、妙法蓮華経と、蓮華を譬えに用いられたことを示され、さらに尼御前の亡き父、松野六郎左衛門入道の忌日にちなんで、鳥竜・遺竜父子の故事を引かれて父子同時の成仏の義を示し、法華経による供養こそ最高の孝養となることを教えられている。
初めに、妙法蓮華経は、花と果が同時である蓮華に譬えられるが、その理由は法華経を信ずる者は一人残らず因果俱時でその身そのまま仏になるからであると述べられている。
花にもさまざまあるが、ふつうの草花は花が散ってから実がなる。あるいは、実のなった後に花が咲く。それに対し、蓮華のみは花と実が同時に成長し、花が落ちると成長した実がその時にすでにそなわっているので、因果が俱時である法たる妙法は、この花に譬えられたのである。
語訳に示したように、「前花後菓と申して花は前に菓は後なり」とはふつうの草花であり、「前菓後花と申して菓は前に花は後なり」という例は稲や瓜などがそうだと思われていたようである。
それに対して「蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり」(0708-08)と仰せのように、「菓と花と同時」なのである。
ゆえに、「当体義抄」に「劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり故に此の華草同じく蓮華と名くるなり水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す天台大師の妙法は解し難し譬を仮りて顕れ易しと釈するは是の意なり」(0513-10)と仰せのように、妙法蓮華という大法は理解しがたいので、その説明に華草の蓮華を譬えとして用いるのである。この譬えに用いる蓮華を譬喩蓮華といい、妙法そのものを当体蓮華という。
では、蓮華の譬えをかりて示される妙法とはいかなるものであろうか。同じく、「当体義抄」に「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」(0513-04)と述べられている。
「因果倶時・不思議の一法」とは大宇宙のあらゆる現象の本源を貫いている法であり、この法を久遠元初において証得されたのが久遠元初の自受用身である。そのことを、「総勘文抄」には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13)と仰せであり、また「当体義抄」でも「釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して……」(0513)と述べられている。五百塵点劫の当初とは久遠元初であり、地水火風空とは妙法蓮華経であり、我が身が即妙法蓮華の当体と覚知し即身成仏を顕したことが示されている。
この久遠元初の自受用身こそ最も究極の御本仏であり、インド応誕の釈尊も含めて、三世十方の諸仏も迹仏となる。
この久遠元初の自受用身が、末法の初めに日蓮大聖人と再誕あそばされ、末法万年の衆生のために、因果俱時・不思議の一法、すなわち事の一念三千の大法を、本門戒壇の大御本尊として御建立くださったのである。それを「観心本尊抄」には「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と仰せられている。ゆえに末法の衆生は「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せのごとく、御本尊を信受することによって即身成仏することができるのである。
「一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり」と仰せのように、釈尊は爾前経では因果俱時の妙理を明かさず、即身成仏の法を説いていないため、その修行も歴劫修行といって無量劫の間仏道修行に励み善根を積まなければならないとされていたのである。
それに対して法華経では、本因本果の法門が説かれ、一切衆生の生命が九界即仏界、一念三千の当体であることが明かされて、九界の衆生がことごとく成仏できることが示された。ただし、一念三千の法体そのものは釈尊も顕さず、末法において御本仏・日蓮大聖人がはじめて本門戒壇の大御本尊として御建立になったのであり、大御本尊を信受する以外に即身成仏はできないのである。したがって「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り……」「此の経を持つ人は百人は百人……一人もかけず仏に成る」との御文の「法華経」「此の経」とは、御本尊と拝すべきであることはいうまでもないであろう。
1580:12~1582:17 第二章 烏竜・遺竜の故事から真の孝養を明かすtop
| 10 抑御消息を見候へば尼御前の慈父・故松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云、 子息多ければ孝養まちまちなり、 11 然れども必ず法華経に非ざれば謗法等云云、 釈迦仏の金口の説に云く 「世尊の法は久しくして後要らず当に真実 12 を説きたもうべし」と、 多宝の証明に云く、 妙法蓮華経は皆是れ真実なりと・十方の諸仏の誓に云く舌相梵天に 13 至る云云、 これよりひつじさるの方に大海をわたりて国あり・漢土と名く、 彼の国には或は仏を信じて神を用い 14 ぬ人もあり・或は神を信じて仏を用いぬ人もあり・ 或は日本国も始は・さこそ候いしか、然るに彼の国に烏竜と申 15 す手書ありき・漢土第一の手なり、 例せば日本国の道風・行成等の如し、此の人仏法をいみて経をかかじと申す願 1581 01 を立てたり、 此の人死期来りて重病をうけ臨終にをよんで子に遺言して云く・汝は我が子なり・その跡絶ずして又 02 我よりも勝れたる手跡なり、 たとひ・いかなる悪縁ありとも法華経をかくべからずと云云、然して後・五根より血 03 の出ずる事・泉の涌くが如し・舌八つにさけ・身くだけて十方にわかれぬ、 然れども一類の人人も三悪道を知らざ 04 れば地獄に堕つる先相ともしらず。 -----― そもそも、お手紙を拝見すれば、尼御前の慈父・故松野六郎左衛門入道の忌日とありました。「子息が多いので孝養もまちまちであります。けれども必ず法華経によるものでなければ、謗法となるのでありましょうか」とも記されてありました。 釈迦仏の金口の説には「世尊の法は久しくして後かならず当に真実を説くであろう」とあり、多宝如来はこの説を証明して「妙法蓮華経は皆これ真実である」と説き、十方の諸仏の誓いにも「舌を梵天に付けて証明する」とあります。 この日本より西南の方に向かって大海を渡ると国があります。漢土と名づけます。彼の国には、あるいは仏を信じて神を用いない人もいます。あるいは神を信じて仏を用いない人もいます。あるいは日本国も初めはそうでありました。 ところがその国に鳥竜という書家がいました。漢土第一の書き手でありました。例えば日本国の小野道風、藤原行成等のような人でありました。この人は、仏法を嫌って経文は書かないという願いを立てました。 この人は、死期が来て重病となり、臨終のときに子に「おまえは私の子である。私の跡をついで絶やさぬ者であり、また私よりも勝れた手跡である。たとえ、どのような悪縁があっても、法華経を書いてはならない」と遺言しました。そうしたのちに、五根から血が出て泉が湧くようになり、舌は八つに裂け、身体は砕けて十方に分かれました。しかしながら、一族の人々は三悪道を知らなかったので、それが地獄に堕ちる先相とは知りませんでした。 -----― 05 其の子をば遺竜と申す又漢土第一の手跡なり、 親の跡を追うて法華経を書かじと云う願を立てたり、其の時大 06 王おはします司馬氏と名く 仏法を信じ殊に法華経をあふぎ給いしが・ 同じくは我が国の中に手跡第一の者に此の 07 経を書かせて持経とせんとて遺竜を召す、 竜申さく父の遺言あり是れ計りは免し給へと云云、 大王父の遺言と申 08 す故に他の手跡を召して一経をうつし畢んぬ、 然りといへ共御心に叶い給はざりしかば・ 又遺竜を召して言はく 09 汝親の遺言と申せば朕まげて経を写させず・ 但八巻の題目計りを勅に随うべしと云云、 返す返す辞し申すに王瞋 10 りて云く 汝が父と云うも我が臣なり親の不孝を恐れて題目を書かずば違勅の科ありと勅定度度重かりしかば・ 不 11 孝はさる事なれども当座の責を・ のがれがたかりしかば 法華経の外題を書きて王へ上げ宅に帰りて父のはかに向 12 いて血の涙を流して申す様は・天子の責重きによつて亡き父の遺言をたがへて・既に法華経の外題を書きぬ。 -----― その子は遺竜といいました。また漢土第一の手蹟でありました。親の遺言を守って、法華経は書かないという願をたてました。 その時、司馬氏という大王がおられました。仏法を信じ、ことに法華経を信仰されていたので、同じことなら、我が国の中で手跡第一の者にこの法華経を書かせて、持経にしようと思って、遺竜を召しました。遺竜は「父の遺言があるので、こればかりはお許しください」といいました。 大王は、父の遺言というので、やむなく他の手蹟を召して法華経を写させました。しかしながら、心に叶わなかったので、また遺竜を召して「お前が親の遺言というので、朕は無理に経文を写させることはしないが、ただ八巻の題目だけは勅命に従え」といいました。 遺竜が再三再四辞退すると、王は怒って「おまえの父といっても我が臣である。親への不孝を恐れて、題目を書かなければ、違勅の罪となる」と度重なる勅命であったので、不孝はしたくないけれども、当座の責めは免れ難いことであったので、法華経の題目を書いて王へ差し上げました。家に帰って、父の墓に向かって血の涙を流していうには、「天子の責めがおもかったので、亡き父の遺言に背いて、法華経の題目を書いてしまいました」と。 -----― 13 不孝の責免れがたしと歎きて三日の間・墓を離れず食を断ち既に命に及ぶ、 三日と申す寅の時に已に絶死し畢 14 つて夢の如し、 虚空を見れば天人一人おはします・帝釈を絵にかきたるが如し・無量の眷属・天地に充満せり、爰 15 に竜問うて云く何なる人ぞ・答えて云く汝知らずや我は是れ父の烏竜なり、 我人間にありし時・外典を執し仏法を 16 かたきとし、殊に法華経に敵をなしまいらせし故に無間に堕つ、 日日に舌をぬかるる事・数百度・或は死し或は生 17 き・天に仰き地に伏して・なげけども叶う事なし、 人間へ告げんと思へども便りなし、汝我が子として遺言なりと 18 申せしかば・其の言炎と成つて身を責め・剣と成つて天より雨り下る、 汝が不孝極り無かりしかども我が遺言を違 1582 01 へざりし故に自業自得果・うらみがたかりし所に・金色の仏一体・無間地獄に出現して仮使遍法界・断善諸衆生・一 02 聞法華経・決定成菩提と云云、此の仏・無間地獄に入り給いしかば・大水を大火に・なげたるが如し、少し苦みやみ 03 ぬる処に我合掌して仏に問い奉りて 何なる仏ぞと申せば・ 仏答えて我は是れ汝が子息遺竜が只今書くところの法 04 華経の題目・六十四字の内の妙の一字なりと言ふ、 八巻の題目は八八六十四の仏・六十四の満月と成り給へば・無 05 間地獄の大闇即大明となりし上・無間地獄は当位即妙・ 不改本位と申して常寂光の都と成りぬ、 我及び罪人とは 06 皆蓮の上の仏と成りて只今都率の内院へ上り参り候が・先ず汝に告ぐるなりと云云、 遺竜が云く、 我が手にて書 07 きけり争でか君たすかり給うべき、 而も我が心より・かくに非ず・いかに・いかにと申せば、父答えて云く汝はか 08 なし汝が手は我が手なり・汝が身は我が身なり・汝が書きし字は我が書きし字なり、 汝心に信ぜざれども手に書く 09 故に既に・たすかりぬ、 譬えば小児の火を放つに心にあらざれども物を焼くが如し、 法華経も亦かくの如し存外 10 に信を成せば必ず仏になる、 又其の義を知りて謗ずる事無かれ、 但し在家の事なれば・ いひしこと故大罪なれ 11 ども懺悔しやすしと云云、 此の事を大王に申す、 大王の言く我が願既にしるし有りとて遺竜弥朝恩を蒙り国又こ 12 ぞつて此の御経を仰ぎ奉る。 -----― 不孝の責めを免れることはできないと歎いて、三日の間墓を離れず、食を断って、もはや命が絶えるほどになりました。三日目の寅の時には、すでに死んだようになり、夢を見ているようでした。 虚空を見ると天人が一人おられました。帝釈天を絵にかいたようでありました。無量の眷属が天地に満ちあふれていました。 そこで遺竜は「あなたはいかなる人ですか」と聞くと、「おまえは知らないのか。私は父の鳥竜である。私が人間であった時、外典に執着し、仏法を敵とし、ことに法華経を敵としたために、無間地獄に堕ちた。日々に舌を抜かれること数百度。或いは死んだり、或いは生きたりした。天を仰ぎ、地に伏して嘆いたけれども願いが叶うことはなかった。人間世界に告げようと思っても方法がない。お前が私の子として『遺言であるので法華経は書写しない』と言ったので、その言葉は炎となって我が身を責め、剣となって天から雨のように降ってきた。おまえの不孝は極まり無かったけれども、我が遺言をたがえないためであるから、自業自得の結果で、恨むことはできないと思っていたところに、金色の仏が一体、無間地獄に出現して、『たとえ世界に満つるほどの善を断じた衆生であっても、一たび法華経を聞けば、必ず菩提を成ずる』と言われた。この仏が無間地獄に入られると、大水を大火にかけたように、少し苦しみが止んだので、私は合掌して仏に『なんという仏様ですか』とお聞きすると、仏は『私は、おまえの子の遺竜がただいま書いたところの法華経の題目六十四字の内の妙の一字である』と仰せられた。八巻の題目の八×八=六十四の仏が六十四の満月となられたので、無間地獄の大闇は即ち大明となったうえ、無間地獄は『当位は即ち妙にして本位を改めず』といって、常寂光の都と成った。我及び罪人は皆蓮の上の仏となって、只今都率の内院へ上り参るのであるが、まずおまえにこのことを告げるのである」と答えました。 遺竜は「私の手で書いたものが、どうして父君を助けることになったのでしょうか。しかも私は心から書いたものではありません。いったい、どうしてですか」というと、父は「おまえは思慮がたりない。おまえの手は我が手である。おまえの身は我が身である。おまえが書いた字は我が書いた字である。おまえが心に信じていなくても、手で書いたゆえにこうして助かったのである。譬えば、子供が火をつけると、焼く気はなくても、物を焼くようなものである。法華経もまたそれと同じである。殊の外に信じたならば、必ず仏になる。またその義を知って、謗ることがあってはならない。ただし、在家の事であるから、言ったことはとりわけ大罪ではあるけれども、懺悔はしやすいであろう」と言いました。 遺竜は、この事を大王に申し上げました。大王は「我が願いは既にしるしがあった」と仰せられ、遺竜はますます大王の御恩をこうむり、国民もまたこぞってこの法華経を信仰するようになりました。 -----― 13 然るに故五郎殿と入道殿とは尼御前の父なり子なり、 尼御前は彼の入道殿のむすめなり、今こそ入道殿は都率 14 の内院へ参り給うらめ、此の由をはわきどのよみきかせまいらせ給うべし、事そうそうにてくはしく申さず候。 15 恐恐謹言 16 十一月十五日 日蓮花押 17 上野尼御前御返事 -----― ところで、故五郎殿と入道殿とは、尼御前の父であり子であります。尼御前は彼の入道殿の娘であります。今こそ入道殿は都率の内院へ参られたでありましょう。この由を伯耆殿から読み聞かせてさし上げなさい。忽々の事であるから詳しくは申し上げません。恐恐謹言。 十一月十五日 日 蓮 花 押 上野尼御前御返事 |
多宝の証明
「多宝」とは多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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舌相
広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
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梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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ひつじさる
方位。南西にあたる。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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烏竜・遺竜
中国・并州(山西省)の人。姓は李氏。烏竜と遺竜の話の原典は僧祥撰の法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。御書のなかでは「法蓮抄」に詳しく、また「光日上人御返事」にも引用される。
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道風
(0894~0966)小野道風のこと。平安時代中期の書家。正しくは「みちかぜ」と読む。三跡の一人。小野篁 の孫,大宰大弐葛絃 の子。若いときから能書の誉れ高く,宮廷の障子、屏風に筆をふるい,66歳のとき天徳詩合の清書をして「能書之絶妙也、羲之 再生」と称賛された。
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行成
(0972~1027)藤原行成のこと。平安中期の朝臣・書家。太政大臣伊尹の孫、右近衛少将義孝の長男、母は中納言源保光の娘。従五位下・蔵人頭・権中納言・太宰権帥に進み、権大納言に至る。書家としても優れ、権跡と呼ばれて尊ばれた。外祖父源保光の旧宅を寺にして世尊寺と称したことにより、行成に始まる書流を世尊寺流という。小野道風・藤原佐理と共に三蹟の一人。日記『権記』は宮廷を知る重要史料である。『東宮年中行事』の著書がある。万寿4年(1028)歿、56才。
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悪縁
悪い縁のこと。三悪道・四悪趣に堕ちる縁となるもの。
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五根
目・耳・鼻・舌・身のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。
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三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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勅定
天子がみずから定めたこと。また、天子の命令。勅命。
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外題
書籍の表紙に書いてある書籍名。題名。
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寅の時
現在の午前4時ごろをいう。古来、丑寅の時刻は一日のうちで夜から昼に向かう中間の意味をもつとされる。日寛上人の開目抄愚記には「丑寅の時とは陰の終り、陽の始め、即ちこれ陰陽の中間なり。またこれ死の終り生の始め、即ちこれ生死の中間なり」と述べられている。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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外典
仏経典以外の典籍。内典に対する語。
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無間
無間地獄のこと。八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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仮使遍法界……
「仮使法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」と読む。いかなる善根を断じた衆生であっても成仏できるという、法華経の偉大な功力を述べた文。
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当位即妙・不改本位
当体即妙とは「当位即ち妙なり」と読む。法華玄義釈籤巻四の文。十界に差別される衆生が、そのままの位を動ずることなく即、妙覚であること。不改本位とは「本位を改めず」と読む。当体即妙と同意。九界の衆生が各自の本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏すること。法華経で初めて明かされた即身成仏・煩悩即菩提等の義を述べた言葉。
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都率の内院
都率とは、六欲天の第四天である都率天のこと。兜率天とも書く。都率は梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天の衆生の欲楽処とされる。
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在家
①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
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懺悔
過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
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はわきどの
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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尼御前の亡き父、松野六郎左衛門の忌日にちなんで、法華経による回向こそ最高の孝養になることを、中国の鳥竜・遺竜父子の故事を引かれて述べられている。
松野六郎左衛門入道は、駿河国庵原郡松野(現在の静岡県富士市)に住んでいた武士で、南条兵衛七郎に嫁いだ嫁の縁によってか、あるいは、二男で幼い時に四十九院へ上って日興上人の弟子となり、後に六老僧の一人となった日持の縁によって入信したものであろう。
身延の大聖人のもとへたびたび御供養を捧げ、御消息をいただいており、「いまだ見参に入り候はぬに何と思し食して御信用あるやらん、是れ偏に過去の宿植なるべし」(1379-08)と仰せられているように、純真に信心に励んでいたが、弘安元年(1278)11月になくなったようである。その後も後家尼御前が大聖人に御供養を続け、御消息をいただいている。
「子息多ければ孝養まちまちなり、然れども必ず法華経に非ざれば謗法等云云」とは亡き父・松野六郎左衛門入道の忌日にあたって、尼御前が、他の兄弟は他宗で回向しようとしているが、自分は法華経で、きちんと回向をしたい旨、申し上げたのであろう。
それに対して大聖人は、法華経こそ釈尊の真実の教えであることを、法華経の方便品と見宝塔品を引かれて示され、一切衆生の即身成仏を明かした実教である法華経による以外に、真の孝養の道はないことを教えられている。
そして、その事例として中国の鳥竜・遺竜父子の故事をくわしく述べられている。鳥竜・遺竜のことは法蓮抄にも挙げられており、そこでは「此の状は漢土の法華伝記に候」(1049-13)と出典を明らかにされている。
「法華伝記」とは唐僧祥撰で、法華経の伝記や論釈をはじめ、法華経を講じたり信受した人々の伝記等をまとめたもので、その巻八の書写救苦の項に并州李遺竜のことがあげられている。
書道家として名高かった李遺竜は、父・鳥竜の「汝我が家に生れて芸能をつぐ我が孝養には仏経を書くべからず殊に法華経を書く事なかれ、我が本師の老子は天尊なり天に二つの日なし而に彼の経に唯我一人と説くきくわい第一なり、若し遺言を違へて書く程ならば忽に悪霊となりて命を断つべし」(1047-13)との厳しい遺言に従って経典の書写を嫌ったのである。しかし、国主たる司馬氏の厳命によってやむなく法華経八巻の題目だけを書いたところ、その功徳によって地獄の苦を脱れることができた父・鳥竜の姿を夢みて、「今日以後外典の文字を書く可からず」(1049-10)と誓ったとされている。
大聖人は、遺竜が法華経書写を嫌ったのは、親の意に従って孝養をしたようであっても、それが法華経に背いたものであるため謗法となってかえって親の苦しみを増すことになったのであり、逆にたとえ親の意に背いても法華経を書写したことによって、親を地獄の苦から救うことができ、最高の孝養となったことを示され、法華経による回向のすばらしさを教えられたのである。
遺竜は法華経を信じていたわけではなかったが、「心に信ぜざれども手に書く故に既に・たすかりぬ」とあるように、書写した功徳によって親の大苦を救うことができたのである。まして尼御前は末法の正法たる御本尊を深く信じており、その篤い信心をもって回向したのであるから、その功徳によって「今こそ入道殿は都率の内院へ参り給うらめ」と、亡き六郎左衛門入道の成仏は疑いないと断言されて一層の信心を励まされているのである。
1583~1584 上野殿母御前御返事(所労書)top
1583:01~1583:09 第一章 御供養に対する謝辞top
| 01 乃米一だ・聖人一つつ・二十ひさげか・かつかう・ひとかうぶくろおくり給び候い了んぬ。 02 このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ、さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年 03 十二月八日にいたるまで此の山・ 出ずる事一歩も候はず ただし八年が間やせやまいと申しとしと申しとしどしに 04 身ゆわく・心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ・ 05 夜夜にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候上・ゆきはかさなり・かんはせめ候、身 06 のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし、しかるに・このさけはたたかに・さしわかして、かつかうを・ 07 はたと・くい切りて一度のみて候へば・火を胸に・たくがごとし、ゆに入るににたり、あせに・あかあらい・しづく 08 に足をすすぐ、此の御志は・いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに・両眼より・ひとつのなんだを・うかべて 09 候。 -----― 乃米一駄、清酒一筒・提子二十杯分くらいか、藿香一紙袋をお送りいただきました。 この身延の有り様は、前々から申し上げているとおりです。また、去る文永十一年六月十七日にこの山に入って、今年十二月八日に至るまで、この山を一歩も出たことはありません。ただし、この八年の間は、やせる病気といい、齢といい、年々に身体は弱くなり、心は弱まってきましたが、ことに今年は春よりこの病気が起こって、秋が過ぎ冬にいたるまで、日々に衰え、夜々に重くなりましたが、この十余日は食事も殆どできないところに、雪が重なり、寒気は攻めてきております。身体の冷えることは石のようであり、胸の冷たいことは氷のようです。しかし、この酒を温かに沸かして、藿香をはたと食い切って、一度飲むと、火を胸に焚いたようになりました。湯に入ったようです。汗で垢が洗われ、滴で足が濯がれました。このお志に、どう感謝したらよいかと、嬉しく思っているところに、両眼から一滴の涙が浮かんできました。 |
乃米
「のうまい」と読み、玄米のこと。もみがらを除いただけの、精白していない米をいう。
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聖人
清酒のこと。これにたいし濁酒を賢人という。魏志に「酔客酒を謂いて、清めるを聖人と為し、濁れるを賢人と為す」とある。
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ひさげ
注ぎ口と鉉がついた小鍋形の具。酒器・銚子の一種。や銀などでつくり、水や酒などを温めるのに用いる。
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かつかう
藿香のこと。カワミドリの漢名。シソ科の多年草で、高さは40㌢から1㍍になる。草全体に香気があり、茎葉は乾燥させ、健胃剤、頭痛薬として煎じて用いられる。
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本抄は、上野殿の母尼御前が御供養を奉ったのに対し、その返礼を兼ねて遣わされた御消息文である。弘安4年(1281)12月8日、聖寿60歳の時、身延においてしたためられている。本抄の内容は、まず御供養への謝辞を述べられた後、御自身の春以来の病気について触れられる。ここから別名を「所労書」ともいう。
次いで子息・五郎に先立たれた母尼御前の心を慮られ、もし遠からずして臨終したならば、故五郎殿に見参して母の嘆きを伝えようと慰めておられる。
本抄の御真筆は大石寺に現存している。
まず冒頭には、上野殿母尼御前から奉られた御供養の品々を列挙され、御自身の健康状態を述べられて、尼御前からの御供養の品に対する感謝の意を表されている。
「このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ」とは、大聖人のおられる身延の山の状態については、前々から何度も述べてきたので省略するとの意である。
次いで、文永11年(1274)6月17日に身延に入られてから、足掛け8年を経過、その間に年もとり、病気も多くなり、年々に身体が衰弱し、心も老いてきたと述べられている。
なかでも弘安4年(1281)の春に病気が起こり、秋を過ぎ冬になるにつれ一日一日と病が重くなり、身体も衰えていく一方という状態になられ、特にこの10日余りの間は食事もろくろくのどを通らず、しかも身延山は雪が積もって寒風が激しいため身体は石のように冷え、胸は氷のように冷たいと、その御生活の厳しさを述べられる。
そうした状態のところに上野殿母尼御前から供養された聖人を飲まれて胸が温かくなり、湯にでも入ったようになり、汗で身体の垢も洗い流され、汗の滴で足も清潔になると述べられ、母尼御前の御供養の志をことのほか喜ばれている。うれしさのあまり「両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候」と仰せの言葉に、日蓮大聖人の当時の窮状の一端がしのばれる。
去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて……
「富木殿御書」には鎌倉を去って身延山に赴かれた道中の経過が次のように述べられている。
「十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」(0964)と。
ここに明らかなように、大聖人が鎌倉から身延へ向かわれた道は、文永11年(1274)年5月12日に東海道を小田原市の酒匂まで行かれ、そこから足柄街道に入って13日に静岡県駿東郡の小山町竹之下、そこから御殿場市駒門の西の車返に14日に入られ、東海道に戻られて富士宮市の大宮に15日、16日に山梨県南巨摩郡の南部町を経由し17日に身延に入られたようである。
ところで本抄との関連で重要なのは「十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」と仰せのところであるが「十七日このところ」とは十七日に入られた身延山をさしておられる。当初、大聖人は身延の地を永住の地とは定めておられなかったようであるが、心にかなっているのでしばらく滞在するといわれている。
身延御入山の直後はこのような御心境であられたが、やがて各地の門下の人達が真心からの御供養をし、お守りしていくなかで、大聖人の晩年の安住の地となったのである。
なお本抄では身延御入山の日付が文永11年(1274)6月17日となっていて、富木殿御書の5月17日との間に1ヵ月の相違があるが、これは庵室修復書に「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが」(1542-01)とあるように、大聖人が山中に庵室を作られた日付をもって入山とされているからである。
門下として大聖人のお身体を気遣う、感動的な内容である。だがそれにしても、「乃米」の語にあえて「しらよね」の読みがなを施し、玄米の意を白米の意に置き換えた、その根拠については何も記していない。
1583:10~1584:05 第二章 子息に先立たれた母尼を慰むtop
| 10 まことや.まことや・去年の九月五日こ五郎殿のかくれにしは・いかになりけると・胸うちさわぎて.ゆびををり 11 かずへ候へば・すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候が、それには母なれば御をとづれや候らむ、 いかに・きかせ 12 給はぬやらむ、 ふりし雪も又ふれり・ちりし花も又さきて候いき、無常ばかり・またも・かへりきこへ候はざりけ 13 るか、あらうらめし・あらうらめし余所にても・よきくわんざかな・よきくわんざかな・玉のやうなる男かな男かな 14 いくせ・をやのうれしく・をぼすらむと見候いしに、満月に雲のかかれるが・はれずして山へ入り・さかんなる花の 15 あやなく・かぜのちらせるがごとしと・あさましくこそをぼへ候へ。 1584 01 日蓮は所らうのゆへに人人の御文の御返事も申さず候いつるが・この事は・あまりになげかしく候へば・ふでを 02 とりて候ぞ、これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ、一定五郎殿にいきあいぬと・をぼへ候、母よりさきに・ 03 けさんし候わば母のなげき申しつたへ候はん、事事又又申すべし、恐恐謹言。 04 十二月八日 日蓮花押 05 上野殿母御前御返事 -----― 顧みれば、去年の九月五日に故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸のうちが騒いで、指折り数えれば、既に二か年、十六か月、四百余日が過ぎてしまいましたが、尼御前は母ですから、何か便りがあったことでしょう。どうして聞かせてくれないのでしょうか。降った雪は消えても再び冬が来てまた降ってきました。散った花も春が来てまた咲きました。どうして逝った人ばかりは、またこの世に帰らないのでしょうか。なんとうらめしいことでしょうか。よそながら、良い若者である、良い若者である、玉のような男である、男である、どれほど親として嬉しいことであろうと見ていたのに、満月に雲がかかって、晴れずに山へ入り、今を盛りの花がにわかの風にあえなく散ってしまったように、亡くなられてしまうとは、いかにも情けないことと思っております。 日蓮は病気のために、人々からのお手紙にも返事を書かないでおりましたが、五郎殿のことはあまりにも嘆かわしいことでしたから、筆をとりました。日蓮もたぶん永くはこの世にはいないでありましょう。そうであれば必ず五郎殿に行きあうであろうと思っております。もし尼御前より先にお会いしたならば、尼御前の嘆きを申し伝えましょう。他のことはまたまた申し上げます。恐恐謹言。 十二月八日 日 蓮 花 押 上野殿母御前御返事 |
こ五郎殿
(1265~1280)。南条兵衛七郎の五男で、南条時光の弟。七郎五郎とも呼ばれた。誕生以前に父の兵衛七郎は死去している。容貌も勝れ、立派な青年となったようであるが、弘安三年九月、十六歳の若さで急逝した。
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くわんざ
① 元服して冠をつけた若者。転じて、若者、弱年者をいう。② 六位で無官の人。③ 召使いの若者。ここでは①の意。
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所らう
所労とは①病気、煩(わずら)いのこと。②疲労のこと。ここでは①の病気のこと。
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母尼御前の子息である五郎が亡くなったのが弘安3年(1280)9月5日であり、亡くなってから本抄をしたためられている日まで「ゆびををりかずへ」るとすでに足掛け2年で16ヵ月、400余日を経過している。その間に故聖霊からなんらかの知らせが母尼にあったであろうか、あったとすれば母尼はどのような心地で故聖霊の便りを聞いたであろうかと、母尼の寂しい心中を察しておられる。日蓮大聖人の実にこまやかな御配慮がうかがえる御文である。
そして、故五郎が生きていたころ降った雪は消えても冬になって再び降ったし、花も春が来て再び咲いたのに、人は一度死ぬとなぜ再びこの世に帰ってこないのであろうかと、人の生命の無常なるさまを慨嘆されている。
さらに「これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ」と仰せられ、大聖人御自身遠からず臨終に至ることをほのめかされ、もし尼御前よりも先に故五郎に会ったなら母尼の嘆きの様子を伝えておこうと述べられ、尼御前への慰めと励ましの言葉をもって本抄をしめくくられている。
1584~1584 大白牛車御消息top
1584:01~1584:03 第一章 譬喩品に説かれるを示すtop
| 01 抑法華経の大白牛車と申すは 我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり、 彼の車をば法華経の譬喩品と 02 申すに懇に説かせ給いて候、 但し彼の御経は羅什・ 存略の故に委しくは説き給はず、 天竺の梵品には車の荘り 03 物・其の外・ 聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候、 -----― そもそも法華経の大白牛車というのは、我も人も法華経の行者の乗るべき車である。彼の車の事は、法華経の譬喩品に詳しく説かれている。ただし彼の法華経は、鳩摩羅什が略して訳したゆえに、委しくは説いていない。インドの梵品には、車の飾り物、そのほか、聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説いてあるのを、日蓮は大略目をとおしている 。 |
大白牛車
大白牛に引かせた宝車のこと。法華経譬喩品の三車火宅の譬に説かれ、声聞・縁覚・菩薩の三乗の諸経を羊、鹿、牛の三車に譬え、唯一仏乗を開会した法華経を大白牛車に譬えている。法華経譬喩品第三に「大白牛有り 肥壮多力にして 形体は姝好なり 以て宝車を駕せり」とある。
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譬喩品
妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
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羅什
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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本抄は、御述作の年代も宛名も不明であるが、古来、弘安4年(1281)、身延でしたためられ在家信徒の誰かに送られた御手紙とされている。なお、御真筆は現存していない。
最初に、大白牛車という車は、法華経の行者の乗ることのできる車であり、法華経の譬喩品にあるが、その詳しい有り様は羅什の漢訳では略されているが、梵語の原典には説かれており、それを大聖人もあらあら読んだと仰せられている。
大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり
大白牛車は、法華経譬喩品第三に説かれる有名な「三車火宅の譬」の中に出てくる車である。この譬えを簡単に述べると、あるとき、ある長者の家が火事になり、火に包まれている家の中では長者の子供達が何も知らずに夢中で遊んでいた。
長者は、遊びに夢中の子供達を救い出すため、一計を案じて、子供達に対して、家の外に子供達が欲しがっていた好きな羊車・鹿車・牛車があるから、出てくるよう呼び掛けた。
それを聞いて、喜んで火宅を飛び出してきた子供達に、長者は三車よりはるかに優れた大白牛車を与えた、という内容である。
この譬えで、火宅は三界六道を、長者は仏を、子供達は一切衆生を、それぞれ表している。そして、子供達が火に包まれた家で無心に遊んでいるというのは、一切衆生が煩悩の火の燃えさかる苦しみ多き娑婆世界の真っ只中に居ながら、そのことに気づかずに生きている姿をたとえている。また、長者が子供達に与えるといった三車は声聞・縁覚・菩薩の三乗の権教をさし、大白牛車とは、一仏乗の法華経をあらわしている。この譬えは、いわゆる開三顕一の法門を見事に表しているのである。
大白牛車は、大きな白牛に引かせ宝で飾られた車で、しかも、「其の疾きこと風の如し」と述べられている。「疾き」とは即身成仏をあらわしているのである。
そして「我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり」とあるように、この一仏乗の法華経は、ただ法華経の行者のみが乗ることのできる車である。〝我も人も〟との言葉のなかに、利己主義を排し、他者とともどもに乗るとの利他の精神が示されている。
聞信戒定進捨慚の七宝
鳩摩羅什が漢訳した妙法蓮華経の譬喩品には、大白牛車の飾りものとして金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝しか説かれていない。本抄で大聖人は、天竺の梵本の譬喩品には聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝についても説かれていると仰せられている。日蓮大聖人が披見された梵本の譬喩品がどのようなものであったか、今日では不明であるが、現在、発見されている幾種類かの梵本を見ても、やはり、金・銀の七宝のみで、聞・信等の七宝は説かれていない。
ゆえに、羅什訳と梵本との関係については今では確かめようがないが、しかし、むしろ、大聖人は七宝を、仏性を輝かせる宝との意義からとらえなおされて、金・銀等の七宝とは聞・信等の七財を表すと解釈されたと考えられる。
同じことは、「阿仏房御書」において、法華経見宝塔品第十一で涌出した宝塔を荘厳する金・銀等の七宝を、やはり、聞・信等の七宝と釈されているところにもみられる。
さて、聞・信等の七宝は、七聖財、七徳財、七宝財ともいわれ、仏道修行を行う人の貯えるべき七つの財宝である。この七聖財については、古く長阿含経巻九にその原形を見ることができる。すなわち「如来が七成法、七財を謂う、信財、戒財、慙財、愧財、聞財、施財、慧財を七財となす」とある。
また、注維摩詰経巻七にも「富に七財宝あり、什曰く、信戒聞捨慧慙愧なり」とあり、長阿含経のそれと順序は異なるが全く同じものである。
いま、本抄の七宝と対照してみると、「聞」・「信」・「戒」・「慙」の四つは同じであるが、残りの三つはそれぞれ表現が異なっている。
まず、慧財の〝慧〟は定慧とも併記されるところから、「定」に当たるであろう。施財は別名を〝捨財〟ともいうから、「捨」にあたることが分かる。最後の愧財は、その意味が消極的なものに転じて「進」となったのであろう。
では、七宝の一つ一つについて説明してみよう。
まず、「聞」であるが、これは「聞法」のことで、仏法を聞くことである。
次に「信」は「信受」で、聞いた法を能く信受することである。
「戒」は「持戒」で、仏法を受持して、身・口・意の三業にわたる非を防ぎ、悪を止めることである。
さらに「定」は「禅定」で、心が外界の縁に紛動されることなく統一されていることである。
また「進」は「精進」で、仏法を身に実践し慚怠のないことであり、「捨」は「喜捨」で、仏法のために身命を惜しまないような一念で喜んで布施することである。
「慚」は「慚愧」で、これまでの六財の行を積んでも、自己満足せずに、まだ足りないとして己に慚じて、より一層の向上をなさんと決意することである。この場合の「慚」が、世間体等を気にする〝恥〟とは根本的に異なることはいうまでもない。
さきに、愧財が「進」に当たることを推量したが、愧の意味が、慚と同じで、自己満足せずに、未だ足りないと慚じて、一層の向上を誓うことであるから、「進」になることは明らかである。つまり、それまでの、慚財と愧財の内から、一つを「進」として立てたものといえよう。
いずれにしても、これらの七つは、仏道修行にとり不可欠の条件を挙げたものであり、妙法を根本に日々励むことにより、仏道修行者自身の生命を荘厳し、仏果の悟りに到達することができるのである。
さらに、敷衍して論ずるならば、聞・信・戒・定・進・捨・慚は、一般的な意味でも、人間の人間らしさ、人間としての尊厳性をあらわす特質であり、機能ということができる。
「聞」言葉を使い、言葉を理解することが出来るところに、人間の一つの特質があることを意味している。
「信」その聞いたところ、教えを信ずることができるところに人間の尊さがあることをあらわしている。
「戒」自己抑制、自己制御の力を意味している。
「定」人間は、不動の信念、生涯を貫く理想をもつことのできる存在であることを示している。
「進」目標、理想を目指して、常に、自らを励まし、進ませていく向上心である。
「捨」目標、理想、あるいは、他者のために、何ものも惜しまない精神である。
「慚」常に謙虚に、慢心することなく、自己反省していくことである。
このように、この七つは、仏道修行ということを離れても、人間としての尊厳性を支える要件として、広く示唆を与える財宝であるといえよう。
1584:03~1584:08 第二章 梵品により大白牛車の有り様を示すtop
| 03 先ず此の車と申すは縦 04 広五百由旬の車にして金の輪を入れ・ 銀の棟をあげ・ 金の繩を以て八方へつり繩をつけ・ 三十七重のきだはし 05 をば銀を以てみがきたて・八万四千の宝の鈴を車の四面に懸けられたり、 三百六十ながれの・くれなひの錦の旛を 06 玉のさほにかけながし、 四万二千の欄干には四天王の番をつけ、又車の内には六万九千三百八十余体の仏・菩薩・ 07 宝蓮華に坐し給へり、 帝釈は諸の眷属を引きつれ給ひて千二百の音楽を奏し、 梵王は天蓋を指し懸け・地神は山 08 河・大地を平等に成し給ふ、 故に法性の空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ、 -----― まずこの車というのは、縦広五百由旬の車で、金の輪を入れ、銀の棟を揚げ、金の縄をもって八方へつり縄を付け、三十七の階段を銀をもって磨きたて、八万四千の宝の鈴が車の四面にかけられている。三百六十流の紅の錦の旛を玉の棹にかけ流し、四万二千の欄干には四天王の番を付け、また、車の内には、六万九千三百八十余体の仏・菩薩が、宝蓮華に坐しておられる。 帝釈は諸の眷属を引き連れて千二百の音楽を奏で、梵王は天蓋を指し懸け、地神は山河・大地を平らかにされる。このようにして法性の空へ自在に飛び行く車を大白牛車とはいうのである。 まずこの車というのは、縦広五百由旬の車で、金の輪を入れ、銀の棟を揚げ、金の縄をもって八方へつり縄を付け、三十七の階段を銀をもって磨きたて、八万四千の宝の鈴が車の四面にかけられている。三百六十流の紅の錦の旛を玉の棹にかけ流し、四万二千の欄干には四天王の番を付け、また、車の内には、六万九千三百八十余体の仏・菩薩が、宝蓮華に坐しておられる。 帝釈は諸の眷属を引き連れて千二百の音楽を奏で、梵王は天蓋を指し懸け、地神は山河・大地を平らかにされる。このようにして法性の空へ自在に飛び行く車を大白牛車とはいうのである。 |
由旬
梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
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棟
屋根の最も高い所、屋根の背にあたる部分。ここでは牛車の屋形の上の中央部に、前後に渡した木の意。
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きだはし
階段のこと。「きざはし」ともいう。
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欄干
橋・または縁側などの側辺にある。人の落下を防ぐ柵。
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四天王
四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
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宝蓮華
仏・菩薩の坐す台座のこと。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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梵王
大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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天蓋
仏像等の上につり下げられた蓋のこと。古代インドで屋外での説法の時、強い日差しを避けるために用いられたことからきているとされる。
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地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
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法性
諸法の天性・悟り・生命・一念・心性・境涯等をいう。
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金・銀等で飾り立てられた大白牛車の荘厳な姿について詳細に説かれているところである。易しい御文なので、とくに解説の必要はないが、ここに仰せの「大白牛車」が、南無妙法蓮華経の御本尊を意味されていることはいうまでもないであろう。
法性の空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ
法性とは、諸法の本性ということで、諸法実相と同義である。あるいは真如ともいい、森羅万象の根源の一法をさす。
これを日蓮大聖人は南無妙法蓮華経として示された。この妙法は、宇宙の森羅万象の根底を貫く法理であるところから、その広大さと無礙なるさまを、ここでは〝空〟に譬えて、〝法性の空〟と述べられている。
この妙法の融通無礙な境地に我々衆生をして自在に飛躍させてくれる乗り物こそ、大白牛車であるとの仰せである。
これは、御本尊を根本にして、自行化他の行に励むとき、生命に実感される自在無礙な境地を譬えられたものと拝することができる。
娑婆世界の中で、いかなる苦難や障害に出あおうとも、御本尊への強い信心を貫いていくならば、ここで、大白牛車に乗って、〝法性の空〟を自在に飛ぶことができると仰せのように、仏界の生命を顕現して、悠々たる境涯に住することができるのである。
これこそ、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云、此の文・あに自受法楽にあらずや」(1143-01)との御文の如く、衆生所遊楽の境地であり、何ものにも破られず、崩れることもない絶対的幸福の境涯といえよう。
1584:08~1584:10 第三章 結びtop
| 08 我より後に来り給 09 はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、 日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、 南無 10 妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 11 日蓮花押 -----― 日蓮より後に来る人々は、この車に乗られて霊山へ御出でになられるがよい。その時、日蓮も同じ車に乗ってお迎えに向かうであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 日 蓮 花 押 |
霊山
霊鷲山の略で、釈尊が法華経を説いた処である。ここから仏国土の意味で使われるようになった。
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「我より後に来り給はん人人」は、大聖人より後で亡くなる人ということである。ここに深い意義がこめられていると拝せられる。すなわち、大聖人御在世の人々は、久遠元初自受用報身であられる大聖人を拝することによって成仏することができた。では、大聖人御入滅後の人々は、どうすれば成仏できるか。大聖人は、滅後、尽未来際の一切衆生のために「大白牛車」すなわち御本尊を御建立になったのである。
そして今、自分より後に亡くなる人は御本尊を信受することによって必ず成仏できると教えてくださっているのである。その時は「日蓮も同じ車に乗りて」と仰せられているのは人法一箇の深旨を示されているのである。
1585~1585 春初御消息top
| 01 ははき殿かきて候事・よろこびいりて候。 02 春の初の御悦び木に花のさくがごとく・山に草の生出ずるがごとしと我も人も悦び入つて候、 さては御送り物 03 の日記・八木一俵・白塩一俵・十字三十枚・いも一俵給び候い畢んぬ。 -----― 伯耆殿が書かれた事、大変に喜ばしい事である。 新春の御悦びは、木に花が咲くように、山に草が萌え出るように、我も人も悦ばしい事である。さて、お送りいただいた物の日記、米一俵、白塩一俵、十字三十枚、芋一俵、たしかに頂戴した。 -----― 04 深山の中に白雪・三日の間に庭は一丈につもり・谷はみねとなり・みねは天にはしかけたり、鳥鹿は庵室に入り 05 樵牧は山にさしいらず、衣はうすし・食はたえたり・夜はかんく鳥にことならず、 昼は里へいでんとおもふ心ひま 06 なし、すでに読経のこえも・たえ観念の心もうすし、 今生退転して未来三五を経ん事をなげき候いつるところに・ 07 此の御とぶらひに命いきて又もや見参に入り候はんずらんと・うれしく候。 -----― 深山の中なので白雪が三日の間降り、庭には一丈も積もり、谷は峰となり、峰は天に梯子をかけたようである。鳥や鹿は庵室に来るが、樵牧は山に入らない。衣は薄いし、食物は絶えてしまった。夜は寒苦鳥のようであり、昼は里に出ようと思う心が絶えない。 すでに読経の声も絶え、観念の心も薄くなってしまった。今生は退転して、未来に三千塵点劫、五百塵点劫程の間、苦しまなければならないと嘆いていたところであったが、この御供養に命も生きかえり、またお目にかかれるであろうと思うと、まことに嬉しい。 -----― 08 過去の仏は凡夫にて・おはしまし候いし時・五濁乱漫の世にかかる飢えたる法華経の行者をやしなひて・仏には 09 ならせ給うぞとみえて候へば・法華経まことならば此の功徳によりて過去の慈父は成仏疑なし。 -----― 過去に仏が凡夫であらせられた時、五濁乱漫の世に、このように飢えていた法華経の行者を供養して仏になられたとある。今貴殿が日蓮に供養したことは法華経が真実ならば、この功徳によって、過去の慈父は成仏すること疑いない。 -----― 10 故五郎殿も今は霊山浄土にまいりあはせ給いて・故殿に御かうべをなでられさせ給うべしと・おもひやり候へば 11 涙かきあへられず、恐恐謹言。 12 正月二十日 日蓮花押 13 上野殿御返事 -----― 故五郎殿も今は霊山浄土に参り合わせて、父君とお会いして父君に頭をなでられていることであろうと思いやると、涙をおさえることができない。恐恐謹言。 正月二十日 日 蓮 花 押 上野殿御返事 -----― 14 申す事恐れ入つて候、返返ははき殿一一によみきかせまいらせ候へ。 ・ -----― 恐縮ではあるが、くれぐれも伯耆殿が一一に読み、聞かせて上げていただきたい。 |
ははき殿
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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八木
「はちぼく」といって米の異称。「八」と「木」の二字を合わせると「米」の字になるところから、このようにいう。
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十字
蒸餅のこと。「じゅうじ」ともいう。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。晋書の列伝第三巻の「蒸餅の上に十字を作坼せざれば食せず」に由来するといわれる。
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樵牧
樵夫と牧夫のこと。
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かんく鳥
インドの雪山に住むという想像上の鳥。雪山鳥ともいう。この鳥は巣を作らないため、夜は寒苦に責められ苦しむとされる。「新池御書」にいわく「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう」(1440-13)。
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観念
仏・菩薩などを心に思い浮かべて念ずること。
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今世
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
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三五
三千塵点劫と五百塵点劫のこと。①三千塵点劫。法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。②五百塵点劫。法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
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五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
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霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
―――
故殿
(~1265)。南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆の国市の一部)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市の一部)の地頭となったので上野殿とも呼ばれる。松野六郎左衛門入道の息女を妻とし五5男四4女の子がいた。もとは念仏の信徒であったが、弘長3年(1263)から文永元年(1264)頃に入信し、大聖人から南条兵衛七郎殿御書をいただいている。文永2年(1265)3月に死去した。
―――――――――
本抄は、南条時光が新春の御祝いを申し上げるために身延へ、米・塩等を御供養したことに対する御返事である。
御執筆年月日については「正月二十日」とあるだけで、年号についての記述はないが、弘安5年(1282)身延でしたためられた御手紙であるとされている。御真筆は現存していない。
内容は、酷寒の身延山中で厳しい御生活をされる日蓮大聖人に、変わらぬ供養の誠を示す時光の信心を称賛され、また、その功徳によって亡き父、亡き弟の成仏は疑いないことを述べられている。
文頭に「ははき殿かきて候事・よろこびいりて候」とあり、追申にも「返返ははき殿一一によみきかせまいらせ候へ」とあるのは、日興上人が時光の所にいて、御供養に際しても日興上人がいろいろと大聖人に御報告のお手紙を書き、この大聖人からの返書も日興上人を通じてなされたものと拝せられる。
まず新年の悦びを表され、米・塩・むしもち・芋など御供養の品々を受け取った旨を述べられている。
続いて、この正月はとくに大雪に見舞われたようで、一丈すなわち三㍍に及ぶ積雪に閉じこめられた身延山中の様子と御生活の一端に触れられている。
大雪のため食を求めて鳥や鹿が山から下りてきたのであろう。御草庵にまで入って来たと仰せである。逆に、人間が山に入ることは絶え、大聖人の御草庵は陸の孤島のような有り様だったのであろう。
「処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し」(1195-01)と仰せのように、大聖人が住まわれている庵室は簡素そのものであり、しかも「衣はうすし・食はたえたり」で、衣類や食料も乏しく、まして厳冬の身延山の夜ともなれば「夜はかんく鳥にことならず」の御文が示すように、その寒さは言語に絶するものがあったと思われる。
ゆえに「昼は里へいでんとおもふ心ひまなし」と、あまりの厳しさに里へ逃れたいという気持ちに駆られると仰せである。
「すでに読経のこえも・たえ観念の心もうすし、今生退転して未来三五を経ん事をなげき候い……」とは、大雪のために人の往き来も絶え、食も心細くなっていたということであろう。
そこへ時光からの使者があり、米、塩、十字、芋等の御供養がもたらされて、命を永らえ、時光にも再び会える希望がわいてきたと仰せである。
ついで、この時光の御供養の功徳を述べられる。
「過去の仏は凡夫にて・おはしまし候いし時」云々との仰せが何を具体的にさしていわれたのかは不明であるが、さまざまな経典に説かれる布施、供養の功徳の話を、取意し大聖人の御身にあてはめて、示されたものであろう。
「此の功徳によりて過去の慈父は成仏疑なし」と仰せになり、大聖人への真心こめた御供養の功徳によって、時光の亡き父の成仏は間違いないと断言されている。
あわせて、弘安3年(1280)9月に夭折した弟・七郎五郎も必ずや成仏しているであろうと述べられている。
七郎五郎は兄の時光に似て、信仰心・孝心ともに篤く、性格も豪胆で、容貌もすぐれ、将来を嘱望されていたが、16歳の若さで急逝している。
七郎五郎の死を悼まれた御書が計十編にも及んでいることからも、大聖人の御心痛はいかばかりかであられたかがうかがえる。
時光とともに父の信心を立派に継いだ七郎五郎であるから、成仏を遂げて霊山浄土にあり、父からさぞかし賞でられているであろうと、時光や母尼御前の悲しみの心中を思いやられ、「涙かきあへられず」と、哀悼の心情を吐露されて本抄を結ばれている。
御本尊への信心、そして御供養の功徳が、亡き家族の霊に回向されゆくことは、「盂蘭盆御書」等に述べられているとおりである。
私達は大聖人の仏法による最高の追善供養、最高の孝養のあり方を、本抄をとおし、あらためて銘記していきたいものである。
1586~1587 法華証明抄(死活抄)top
1586:01~1586:14 第一章 法華経信受の絶大なる福徳を述べるtop
| 01 法華経の行者 日蓮花押 02 末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば 法華経の御鏡にはいかんがうかべさせ給うと拝見つかま 03 つり候へば、 過去に十万億の仏を供養せる人なりと・たしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給いて候を・一仏 04 なれば末代の凡夫はうたがいや・せんずらんとて、 此より東方にはるかの国をすぎさせ給いておはします宝浄世界 05 の多宝仏わざわざと行幸ならせ給いて 釈迦仏にをり向いまいらせて 妙法華経皆是真実と証明せさせ給い候いき、 06 此の上はなにの不審か残るべき・なれども・なをなを末代の凡夫は・をぼつかなしと・をぼしめしや有りけん、十方 07 の諸仏を召しあつめさせ給いて 広長舌相と申して無量劫より・ このかた永くそらごとなきひろくながく大なる御 08 舌を須弥山のごとく虚空に立てならべ給いし事は・をびただしかりし事なり、 かう候へば末代の凡夫の身として法 09 華経の一字・二字を信じまいらせ候へば十方の仏の御舌を持つ物ぞかし、 いかなる過去の宿習にて・かかる身とは 10 生るらむと悦びまいらせ候・ 上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が・ 11 法華経計りをば用いまいらせず候いけれども・ 仏くやうの功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賎の身とは生 12 れて候へども・又此の経を信ずる人となれりと見へて候、 此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて還つて地よ 13 り起つが如し」等云云、 地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・ 14 たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候。 -----― 法華経の行者 日 蓮 花 押 末代の悪世に法華経を経文のとおり信じ行ずる者を、法華経の鏡にはどのように映されているかと拝見してみれば、過去に十万億の仏を供養した人であると、たしかに釈尊の金口の御口より御断言されているのを、一仏の御言葉では末代の凡夫が疑いを起こすであろうと、この世界より東方に、甚だ多くの国を過ぎた所にある宝浄世界の多宝仏が、わざわざおいでになって釈迦仏に相向かわれて「妙法華経は皆是れ真実なり」と証明されたのである。 このうえは何の不審が残るであろうか。しかし、それでもなおなお末代の凡夫はおぼつかないと思われてか、十方の諸仏を召し集められ、広長舌相といって無量劫よりこれまで一度も虚言を言われたことのない広く長い大きな御舌を、須弥山のように虚空に立て並べられたことはただごとならぬ事であった。このような次第で、末代の凡夫の身として法華経の一字二字でも信じ行じていくならば、十方の仏の御舌を持つ者といえるのである。 どのような過去の宿習でこのような身に生まれたのであろうかと、喜んで経文を拝するに、過去に十万億の仏にお会いし供養をしたが、法華経ばかりは用いなかったけれども、仏に供養した功徳が莫大であったから、謗法の罪によって貧しく卑しい身とは生まれたが、またこの法華経を信ずる人となったと説かれている。このことを天台大師の御釈に「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等とある。地に倒れた人は反対に地によって起きる。法華経を誹謗した人は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道並びに人界・天界の地には倒れても、還って法華経の御手にかかって仏になることが出来る、と道理を明かされているのである。 |
末代悪世
「末代」とは末法のこと、悪世とは濁世のこと。五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)が盛んな時代。御義口伝には「所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」(0718-01)とある。
―――
金口の御口
金口は仏の口・仏の所説のこと。不変の特質をもって仏の常住不変の言説にたとえている。その真実の法を説く仏の御口との意。
―――
宝浄世界
多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
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多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
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妙法華経皆是真実
法華経見宝塔品第十一に「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」とある。この文は、釈尊の説いた法華経が真実であることを宝塔の中から多宝如来が讃歎し、証明していった言葉。
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十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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広長舌相
仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
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無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
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須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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宿習
宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
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謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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「人の地に倒れて……」
「天台の御釈」とは、天台大師の『法華文句』を解釈した妙楽大師の『法華文句記』の文の意。「問う、謗るに因りて悪に堕すれば菩薩は何んが故に苦を作る因を為すや。答う、夫れ善因無き者は謗ぜざるもまた堕す。謗るに因りて悪に堕す、必ず由りて益を得る。人の地に倒れて還って地従り起つが如し。故に正の謗を以て邪の堕を接す」とある。
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三悪
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
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人天の地
十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
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本抄は弘安5年(1282)2月28日、日蓮大聖人が61歳の御時、身延から南条七郎次郎時光に与えられた書である。
別名を「死活抄」ともいわれ、御真筆は西山本門寺など三寺に分在している。御真筆には「二月二十八日」とあるのみで、年号の記述はないが、大石寺に現存する日興上人の写本には「弘安五年」と記されている。
時光が本抄を賜った弘安5年(1282)は、熱原の法難の波がようやく静まったころで、富士方面の在家の中心者として戦ってきた時光は、その心身の労苦からか、前年以来はかばかしくなかった病が急に重くなっていた。
日蓮大聖人御自身も持病を患っておられたが、時光の病状を心配され、2月25日に、弟子の日朗に代筆させた書状を日興上人を通じて送られている。
その要旨は、仏教において人界の殺生権を専有するとされている閻魔王に「時光は定業で死が決定しているとしても、今度だけは助けよ」と厳命され、大聖人の御生母が蘇生された体験を引いて激励されている。
しかし、時光の未来性に富んだ資質と、その活躍に大きな期待を寄せられる大聖人は、さらに3日後の2月28日、病軀をおして自ら筆を執られ、「下伯耆房」の宛名が示すように、再び日興上人を通じて与えられたのが本抄である。
この大聖人の御祈念と日興上人の指導とによって、若き時光は信心を奮い起こし、見事に大病を克服したのである。
御文を拝して分かるように、内容は時光への書というより、時光を苦しめている鬼神への厳しい叱責の書となっている。そこに、本抄が他の賜書と異なって、冒頭から「法華経の行者 日蓮」としたためられて、花押されてから本文に入っているゆえんがある。
初めに末代悪世に生まれ、法華経を経のごとく信受する人は、過去に十万億の仏を供養した人であると釈迦仏が説かれ、しかも、この法華経の教えが真実であることを多宝・十方の諸仏が証明しているのであるから疑ってはならないと述べられている。
したがって、過去世に十万億の仏を供養したけれども法華経だけを信じなかった人が、その謗法の罪によって貧賤の身ながら人間と生まれ、法華経を信ずる立場となったのである。ゆえに法華経の信心を貫くことにより、成仏することは間違いないと断定されている。
次に、時光はこれまでに法難にあっても、決して法華経を捨てなかったので、成仏は間近であり、それを妨げようとして天魔・外道が病をもって苦しめているのであろうと述べられ、この、時光を悩ます鬼神を呵責されて結ばれている。
まず末法において法華経を経文どおり信受し、自行化他の実践に励む人は過去に十万億の仏を供養した大善根の人であることを示されている。
すなわち、法華経法師品第十には「若し復た人有って妙法華経の乃至一偈を受持・読誦・解説・書写し……是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず」とある。
しかも、これは釈迦一仏の説法であるばかりでなく、宝浄世界の多宝仏が来至し、次の宝塔品第十一で「妙法華経皆是真実」と証明し、加えてさらに神力品第二十一では、十方の諸仏が広長舌相をもって証明したところであると述べられる。
こうした証明は前代未聞の出来事ゆえ「をびただしかりし事なり」といわれ、ここに本抄が「法華証明抄」と名づけられているゆえんがある。
したがって、この法華経を信受することは「十方の仏の御舌を持つ」ことになる。ということは十方の仏の意にかなったことをしている人なのである。
このように、法華経を信受したという大功徳の半面、末法に凡夫として生を受けたという不幸の面があることも事実である。
「いかなる過去の宿習にて・かかる身とは生るらむ」の「かかる身」とは法華経を信受できた身ということである。それに対し、「謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れ」とは「末代の凡夫の身」に生まれたことをさしていわれている。
このすばらしい福運と、末法の凡夫なるが ゆえの大苦を伴う原因について述べられたのが「仏くやうの功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども・又此の経を信ずる人となれり」の文である。
つまり過去に十万億の仏に供養したけれども、法華経は信ぜず、誹謗の罪を犯した。しかし、ありがたいことに、十万億の仏への供養という根本の功と、法華経の逆縁の功力とによって「又此の経を信ずる人」となれたのである。
しかしながら、法華経を誹謗したということは重罪であるから、その罪業の果として「貧賤の身」に生まれ、苦難を味わわなければならない、というわけである。
十万億の仏に供養したといっても、それは下種にはならない。法師品の文にも示されているように「人間」に生まれるという因を作ったのである。すなわち妙法を信受し・実践できる聖道正器を得る因になったということである。仏法の下種そのものは、法華経を信ぜず誹謗したという逆縁によると考えられる。逆縁で下種を受けはしたが、また誹謗の罪で貧賤の身になることを免れなかったのである。
ゆえに、妙法を信受し得た今生において過去の謗法の罪を消滅して幸せと成仏の大功徳を得るには、法華経への信心を貫き通す以外にない。「人の地に倒れて還って地より起つが如し」という、天台大師の法華文句を解釈した妙楽大師の法華文句記の文を引かれて「法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候」と述べられているのはその意である。
地に倒れた者は地によって立ち上がるしかないように、法華経を誹謗したために貧賤の身となり、苦難にあっているのであるから、自ら御本尊への信心を実践しぬく以外に、その罪業を消すことはできない。だれかが手を差しのべ、助けてくれるわけではないのである。
私達は、自らの苦しみの起こる原因が、この御本尊への過去の謗法にあることを見極め、御本尊信受によって、初めて根本から宿業の打開ができるのだということを知るべきである。
しかも、御本尊を第一とした実践は、たんに宿業が解決できるだけでなく、成仏の大功徳を得ることができるのである。「無上宝聚・不求自得」とは、まさしくこのことをいうのである。
ともあれ、以上の法華経の法理に照らして南条時光が過去十万億の仏を供養した大功徳の人であることを示され、そうした時光を苦しめようとしている鬼神は大罰を受けるであろうと叱咤されているのである。
1586:15~1587:10 第二章 時光を悩ます鬼神を呵責するtop
| 15 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫・武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり、 其の故 1587 01 は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上たまたま信ずる人あれば或は所領・ 或は田畠等に.わづら 02 ひをなし結句は命に及ぶ人人もあり信じがたき上・はは故上野は信じまいらせ候いぬ、 又此の者敵子となりて人も 03 すすめぬに心中より信じまいらせて・上下万人にあるいは・ いさめ或はをどし候いつるに・ついに捨つる心なくて 04 候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・ 05 すこしも・をどろく事なかれ、 又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世 06 十方の仏の大怨敵となるか、 あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまいを忽になをして・かへりてまほりとなりて 07 鬼道の大苦をぬくべきか、 其の義なくして現在には頭破七分の科に行われ・ 後生には大無間地獄に堕つべきか、 08 永くとどめよ・とどめよ、日蓮が言をいやしみて後悔あるべし・後悔あるべし。 09 弘安五年二月廿八日 10 下伯耆房 -----― しかるに、上野の七郎次郎は末代の凡夫で、武士の家に生まれて悪人というべきではあるが、心は善人である。そのゆえは、日蓮の法門を上御一人より下万民にいたるまで信じないのみか、たまたま信ずる人があれば或は所領、或は田畑等に煩いが生じて、あげくに命に及ぶ人もあり、信心をすることは難いのに、母の尼御前や故上野殿は信仰された。七郎次郎は嫡子となって、だれも法華経の信仰を勧めないのに心中から信仰されて、上下万人からあるいは諌められ、或は脅かされながらも結局捨てる心がなくておられるので、もはや成仏しそうになったので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのであろう。命は限りがあることであり、少しも驚いてはならない。 鬼神めらめ、この人を悩ますのは、剣を逆さに飲むか、大火を抱くか、あるいはまた、三世十方の仏の大怨敵となろうとするのか。此の時光の病をたちまちに冶して、かえって守護の善神となって鬼道の大苦を免れるべきではないか。そうでなければ、現在には頭破作七分の科を受け、後生には大無間地獄に堕ちるであろう。よくよく心に止めるべきである。日蓮の申すことを卑しむならば必ず後悔するであろう、後悔するであろう。 弘安五年二月二十八日 下 伯 耆 房 |
上野の七郎次郎
(1259~1332)。南条時光のこと。上野郷の地頭・南条兵衛七郎の次男に生まれたので、こう呼ばれた。
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故上野
(~1265)。南条時光の父・兵衛七郎をさす。日蓮大聖人御在世当時の信徒。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国南条郷(静岡県伊豆の国市の一部)を本領としていたが、後に駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市の一部)に地頭として移り住んだので上野殿とも呼ばれた。念仏の信者であったが、鎌倉在勤の際に大聖人にお会いし、入信したと思われる。
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敵子
嫡子。嫡出の子。嫡妻から生まれ家督を継ぐべき子。時光は兵衛七郎の次男であったが、長男の七郎太郎が文永11年(1274)に死んだので、時光が家督を相続した。
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天魔
天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。
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外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
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鬼神
鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
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三世十方の仏
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。
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まほり
法華経の行者を守護する善神のこと。
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鬼道の大苦
鬼道は餓鬼道のこと。法華経の行者を守護しない慳貪の科で、餓鬼道の苦しみに堕ちることをさしている。
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頭破七分
陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
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無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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南条時光が武士の家に生まれながら、幼時から信心し、種々の障害を乗り越えて信心を貫いて成仏間近になってきたゆえに、天魔・外道がいよいよ妨げをしようとして病を起こしたのであろうと述べられ、時光を激励されるとともに、鬼神を叱咤されている。
時光の父・兵衛七郎は大聖人一門の人々が「或は所領・或は田畠等に・わづらひをなし結句は命に及ぶ人人もあり」等の迫害を受けているなかで入信した。
兵衛七郎は早く亡くなったが、時光はその父の志を受け、母の薫陶のもと、信心を貫いてきたのである。時光自身、まわりの人々から「あるいは・いさめ或はをどし」等の外圧を受けたが、屈せず純真一途に信心に励んだゆえに、天魔・外道がその成仏を妨げようとして、このたびの大病が生じたのであろうと、その本質を喝破されている。
したがって時光に対して、まず「命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」と、揺るぎない、覚悟の信心に立つよう励まされている。
そのうえで、「又鬼神めらめ」以下、時光を悩ます鬼神に対して、冒頭に記されているように「法華経の行者」すなわち末法の御本仏の御立場から、厳然と呵責されるのである。
すなわち、過去に十万億の仏を供養したという大善根をもっている時光を苦しめようなどとは、鬼神の分際としては、とんでもないことで、自らに大罪大罰を招く行為である。なぜなら、あらゆる鬼神の首領格である鬼子母神・十羅刹女が、法華経の会座で「法華経の行者を悩乱する者に対しては頭を七つに破って罰する」と誓っているのであるから、時光を悩ましている鬼神は、鬼子母神・十羅刹による処罰にあうだろうからである。
しかも、その罰は今世での頭破七分にとどまらない。法華経にそむき、三世十方の仏に敵対する行為であるから「後生には大無間地獄に堕つ」こととなるのである。
したがって、鬼神のとるべき道は、鬼子母神や十羅刹等に従い、法華経の行者を守護する働きをあらわすことである。つまり、病気で苦しめるのを直ちにやめて、時光の病気を癒し、むしろ、時光を今後は守る役になっていくことである。そうすれば、鬼神自身、餓鬼道の苦から救われることになるのである。これを「あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまいを忽になをして・かへりてまほりとなりて鬼道の大苦をぬくべきか」と仰せられているのである。
このように本抄は、一往は伯耆房すなわち日興上人をとおして南条時光に与えられた激励の書であるが、その内容は、時光を苦しめる鬼神にあて、これを厳しく呵責し、その魔の働きを打ち砕かんとされた師子吼の書でもある。
1585~1586 法華証明抄(死活抄)2010:09月号大白蓮華より。先生の講義top
病魔を打ち破る「法華経の行者」の祈り
健康は、万人の願いです。
長寿は、全人類の望みです。
私も第3代会長になってから毎日毎日、全同士が「健康」であるように、「長寿」であるように、「安穏」であるように、祈りに祈り抜いてきました。この50年間、菩薩・諸天善神よ、断じて我が弟子を守りに守り給えと念じてきました。
南無妙法蓮華経の題目は「健康・長寿」の大良薬です。題目は、宇宙根源のリズムであり、仏の偉大な生命力の根本です。ゆえに、妙法の大良薬を持つ人は、一人ももれなく「更賜寿命」して、大満足の使命の人生を存分に生き切ってほしい。また、生き切ることができるのです。
全同士の無事安穏を祈念し、今回は「法華証明抄」を拝します。本抄は、日蓮大聖人が、病魔・死魔と戦う愛弟子のために、渾身の力を振り絞られて大激励をされた御書であります。
健康・長寿の「師弟勝利の一書」
「法華証明抄」の御執筆は、弘安5年(1282)の2月28日、実は、この前年から、日蓮大聖人御自身も病と闘われていた。
そのような時に、駿河の地で、日興上人のもと勇敢に戦ってきた南条時光が重病であるとの報告を聞かれます。時光はまだ24歳という若さでした。
大聖人は、本抄を著す3日前に時光への激励の言葉を語り、それを日朗に代筆させて、お見舞いの書状を送られています。しかし、それでもなお、愛弟子の身を案じられるお心は募るばかりであったと拝されます。
今度は大聖人自身自ら筆を執られ、南条時光を全魂で励まされます。“断じて病魔に負けてはならない”と、時光の生命を奥底から揺り動かし、病気を克服しゆく信心の要諦を教えておられるのです。本当にありがたい師匠です。
本抄で特筆すべきことは、冒頭に「法華経の行者 日蓮 花押」と認められていることです。そのように記された御書は、現在まで伝えられている御書の中では、この「法華証明抄」一編しかありません。
末法の悪世に民衆を救う大法を確立し、万年にわたる閻浮提広宣流布のために、不惜身命で弘通する人が「法華経の行者」です。本抄は、大聖人が「法華経の行者」として、妙法弘通の後継の弟子に対して、厳愛の御指導をされている一書です。断固、病魔と闘い勝利して、成仏の姿を堂々と示し切っていきなさい。 と。
それとともに、「法華経の行者」の弟子を苦しめる鬼神に対して、容赦なく糾弾し、三世十方の仏を敵に回すのかと大叱責をされています。末法広宣流布を進めるために大難を勝ち越えてきた「法華経の行者」としての気迫と大確信が伝わってきます。
また本抄の末尾には「下伯耆房」とあり、日興上人に宛てて送られたことがわかります。不二の弟子である日興上人が、病床の時光に師匠の真心を読み聞かせられたとも拝察されます。
時光が本抄をいただき、師匠の烈々たる大師子吼に触れて、絶対に魔に負けない決意を深めたことは言うまでもありません。事実、時光は、この大病を克服し、50年も寿命を延ばしたのです。
弟子と師と不二の道を貫けば、打ち破れない魔性などありません。師弟が一体であれば、変毒為薬できない病気などありません。健康・長寿の要諦を示す「師弟勝利の一書」。これが「法華証明抄」です。
| 09 いかなる過去の宿習にて・かかる身とは 10 生るらむと悦びまいらせ候・ 上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が・ 11 法華経計りをば用いまいらせず候いけれども・ 仏くやうの功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賎の身とは生 12 れて候へども・又此の経を信ずる人となれりと見へて候、 此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて還つて地よ 13 り起つが如し」等云云、 地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・ 14 たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候 -----― このような過去の宿習でこのような身に生まれたのであろうかと、喜んで経文を拝するに、過去に十万億の仏にお会いし供養したが、法華経ばかりは用いなかったけれども、仏に供養した功徳が莫大であったから、謗法の罪によって、貧しく卑しい身とは生まれたが、またこの法華経を信ずる人となったと説かれている。このことを天台大師の御釈に「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等とある。地に倒れた人は反対に地によって起きる。法華経を誹謗した人は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道並びに人界・天界の地には倒れても、還って法華経の御手にかかって仏になることができる、と道理を明かされているのである。 |
法華経の宿縁深厚ゆえの大使命
本抄の前半では、末法に法華経を信ずる者が、いかに過去世から仏法と宿縁が深厚であるかを示しています。
本抄の仰せに沿えば、まず末代悪世で法華経を持つ者は、過去に十万億の仏を供養した人であることが強調されています。大聖人はこのことは釈尊一人の説法だけではなく、多宝如来も、十方の諸仏も証明していることであると明言されております。
すなわち、末法の時代の中にあって、最高真実の法である法華経を持つことができるのは、私たちが想像できないほどの広大な福徳を具えていればこそです。それは、三仏がこぞって証明する確かなことなのです。
大聖人はこれを受けて「いかなる過去の宿習にて・かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候」と仰せです。混乱と苦悩の渦巻く末法という時代にあって、法華経を持つことが、どれほどの福運か、どれほどの宿縁か。このことを確信して、法華経を実践すれば、いかなる苦難をも勝ち越え、成仏という絶対的な幸福境涯を得ることができると教えられているのです。
では、十万億の仏を供養した大福運の者が、悪世に生まれて苦労するのは、なぜか。それは、謗法、すなわち法華経への誹謗が過去世にあったからだとしめされています。
しかし、福徳があるゆえに、逆縁によって、今世で法華経を信ずる人として生まれて、最後は法華経の力によって成仏することができると断言されています。そのことを示しているのが「人の地に倒れて還って地より起つが如し」という、妙楽の「法華文句記」の文です。これは、たとえ法華経への誹謗によって、ひとたび悪道等に堕ちたとしても、正法との縁が結ばれたことによって、必ず、その正法によって救われることを譬えたものです。
地によって倒れた者は、地によって立つことができる。法華経を誹謗した者は、法華経によって救われるのです。逆縁の衆生をも包み込み、万人を成仏へ至らしめる。これが妙法の「毒鼓の縁」の計り知れない力です。
病気を機に信心を深め成仏の道を
妙法を持つ者には、どんな逆境をもはね返す力があります。法華経の題目に、転重軽受・変毒為薬の功力があるからです。
ここで、日連大聖人が、病気と闘う門下に贈られた激励の御指導を拝しておきたい。
例えば、大聖人は「太田入道殿御返事」で、様々な病がある中で最も治すことが難しいとされる業病も、ただ、妙法蓮華経の良薬だけが治すことができると記されています。
同抄で紹介されている「摩訶止観」の文には、もし重罪があっても今世で軽く償う場合に、悪業を消滅させるために病気になる、と説かれています。これは、転重軽受の原理です。
大聖人は、太田殿に対して、今、病気で苦しんでいるのは未来の苦を償うために軽く出ているのであり、必ず病が癒えて長寿を招かないわけがない。もし、病気が治る現証がなければ、声を出して「釈尊は大嘘つきの人であり、法華経は偽りの経典である。そうでないならば験をあらわせ」と叫ばれるがよい、とまで仰せです。まさに、“絶対に治しなさい”との大激励です。
また、大聖人は、長びく病気で悩む富木尼御前に対しては、仏法は定業を変えることができるのだから、寿命を延ばすことは間違いないと示されています。
大聖人は、富木尼に「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す 何に況や不定業をや」(0985-02)「設い業病なりとも法華経の御力たのもし」(0975-07)と仰せです。
重い病気だからといっても、必ずしも死に結びつくとは限りません。大聖人は、夫・高橋入道が病と闘っている妙心尼に対して、「病あれば死ぬべしといふ事不定なり」(1479-09)とも教えてくださっています。
続けて大聖人は妙心尼に仰せです。
「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(1480-01)
病気がきっかけとなって、信心の決意が深まれば、必ず成仏への道が開ける。そうなれば、病は「仏の御はからひ」となります。
大聖人は、この大確信を時光にも教えたかったのです。
本抄でも「かへりて法華経の御手にかかりて仏になる」と仰せです。“絶対に成仏は間違いない、それを確信していきなさい”と示されているのです。
| 15 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫・武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり、 其の故 1587 01 は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上たまたま信ずる人あれば或は所領・ 或は田畠等に.わづら 02 ひをなし結句は命に及ぶ人人もあり信じがたき上・はは故上野は信じまいらせ候いぬ、 又此の者敵子となりて人も 03 すすめぬに心中より信じまいらせて・上下万人にあるいは・ いさめ或はをどし候いつるに・ついに捨つる心なくて 04 候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・ 05 すこしも・をどろく事なかれ、 -----― しかるに、上野の七郎次郎は末代の凡夫で、武士の家に生まれて、戦いで人を殺したりする悪人というべきではあるが、心は善人である。そのゆえは、日蓮の法門を上一人より下万民にいたるまで信じないのみか、たまたま信ずる人があれば或は所領、或は田畑等に煩いが生じて、あげくに命に及ぶ人もあり、信心をすることは難いのに、母の尼御前や、父の故上野殿は信仰された。七郎次郎は故上野殿の嫡子となって、だれも法華経の信仰を勧めないのに心中から信仰され、上下万人から法華経の信仰をやめるように、あるいは諌められ、或は脅かされながらも結局捨てる心がなくなっておられるので、もはや成仏しそうになったので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのであろう。命は限りがあることであり、少しも驚いてはならない。 |
三障四魔に立ち向かう一念
ここからは、病気に限らず、種々の苦難に対して、恐れず戦ってこそ、永遠に揺るぎない勝利の人生が確立する事を示されていきます。信心を貫いてきたうえで起きた苦難は、成仏を阻もうとする三障四魔の試練であることを教えられているのです。
そのためにまず、悪世末法に信心を貫くことの困難さを確認されています。とりわけ、時光一家の闘争にふれて、強盛な信心を貫き通した時光の両親を深く賞讃されています。そして、あとを継ぐ時光もまた、不屈の信仰を貫いてきたと讃えられます。
時光をめぐる状況は、決して順調なものではありませんでした。熱原の法難が起きた駿河の地で、時光は同志を守り抜き、不退転の信心に徹してきました。駿河の門下の要となる時光を退転させようと、障魔が大きく蠢いてきたのです。本抄で「上下万人にあるいは・いさめ或はをどし」と仰せられている通りです。
時光の偉さは、その中で「捨つる心なく」勇猛精進してきたことにあります。「すでに仏になる」境涯にまで至ったと讃えてくださっている。それゆえに、今回の病が起きたのであると指摘されています。
すなわち、この病は、天魔・外道が時光を脅そうと試みたゆえの病であると喝破されている。まさに今こそ、まことの信心が試されているとの仰せです。
あらためて申し上げておきたいことは、病気になること自体は、断じて破北でもなければ、後退でもないということです。生老病死は誰も免れるとはできません。むしろ、病気になった時に、病魔と闘う信心を奮い起せば、その時こそ、常楽我浄の人生の勝利を開く転機となる。
病魔に打ち勝つ、“いよいよの信心”が試されているのです。三障四魔を打ち返す信心に立てば、必ず成仏の境涯を確立ることができるからです。
凡夫が仏になる境目に起きるのが、三障四魔の嵐です。「賢者はよろこび愚者は退く」(1091-16)と仰せのように、毅然と立ち向かっていく「賢者の信心」なのか、驚き疑いを抱く「愚者の信心」なのか。 肝要は病魔に勝つか、負けるかです。病気などの苦難に直面した時は、実は、大きく境涯を開くための岐路に立っているのです。
牧口先生は言われました。
「妙法の生活とは“変毒為薬”である。社会で生活している以上失敗などにあう場合がある。これは苦悩、不幸という毒であり、罰である。だが、どんな場合でも妙法根本・信心根本として、御本尊を疑わず、信心に励めば、毒を変じて薬となしていけるのである。たとえば、病気をした、これは罰だと悩んでいるだけでは解決しない。そこで、“この病気を必ず変毒為薬してみせるぞ、健康という大福運、大功徳を開くのだ”と確信し、決意して信心を続けていくことが大事だ。そのとき、病気が治るだけではなく、全快したときには、変毒為薬の妙法である」。
大事なことは、どんな壁が立ちはだかっても、変毒為薬は絶対に実現できるとの「確信」です。この「変毒為薬を実現しゆく大確信」こそ、病気をはじめ種々の困難をも打ち破り、必ず必ず成仏の道を広々と開いていく要諦なのです。
「御義口伝」には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751-15)と明かされています。
本抄で、病気に対する大聖人の御指導は明快です。「命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」と。この仰せこそが、時光への根本の御指導となっているのです。
「限りある命」ゆえに勝利の一生を
命は限りがあります。誰人にも必ず死は訪れます。まさしく「死は一定なり」です。だからこそ、“限られた「生」であるがゆえに、法華経のゆえに命を捨てよ”と大聖人は時光に教えられてきました。
この限りある今生の命を、広宣流布のため、立正安国のために使っていく、そして、最高の勝利と栄光の旗を打ち立てて、三世永遠の幸福を勝ちとっていく、こう定めた人生には、恐れるものなど、なにもありません。
大聖人は、病気と闘う婦人の門下にもこう仰せです「身を持し心に物をなげかざれ」(0975-10)お体を大切にし、心の中であれこれと嘆かないことです、と。
人間ですから、重い病、長期にわたる病で体力も気力も衰え、思わず、あれこれと嘆いたり、あきらめたり、迷ったりすることがあるかもしれない。
しかし、どうゆう病気であれ、「なげかざれ」の一念で生き抜くことです。ことに信心に関しては、病気に負けない、病魔と闘う強き心を燃え上がらせていくことです。そのために「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448-11)と御断言の題目があります。一遍の題目でも、無量無辺の力用があります。一ミリでも二ミリでも心が前進していけばいいのです。「月月・日日につより給へ」(1190-11)の信心で、今日も一歩、生命が前へ進めばいいのです。なかなか思うようにいかなくても、同志が祈ってくれています。これほど大きな力はありません。
どこまでも信心を根幹に病魔と闘い抜けば、妙法の変毒為薬の功力によって、病は全部、宿命転換の好機となるのです。
「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき」(0976-05)われらが仏になることは疑いないと思えばなんの嘆きがあろうか、何も嘆く必要などないではないかと、大聖人は絶対安心の境涯を教えられています。
人間として生きる価値の尊さ
この信心は、生きて、生きて、生き抜くための信心です。信心して一日でも長生きする功徳は、計りしれません。
一日生きることで、その分、仏法を弘めることができる。それは無量の福徳となります。信心根本に病魔と闘う同志の姿は、無言のうちに周囲に「人間としての生きる価値の尊さ」を教えています。どんな状況にあっても、慈悲と智慧を発現させて、自他ともに生命を輝かせていける。 それが私たちの振る舞いなのです。
また、だからこそ、具体的に、健康を勝ち取っていく「智慧」も大事となります。
病気にならない智慧も、病気になった時の智慧も、賢明に発揮して、絶えず価値創造をしていけるのが、信心です。例えば、大病を乗り越えた時や、治りかけの時に、決して無理さずに用心することも、大事な健康の智慧です。病気の時には、絶対に焦ったり、油断をしてはならない。休むべき時は、断じて無理をしてはなりません。
そして、悠々と健康を取り戻して、また、はつらつと広宣流布に邁進していけばいいのです。
大聖人は、最蓮房から病気を理由に人里離れて山に籠りたいと報告を受けた時に、今は治療に専念しなさい。病気が治ったら、今再び身命を捨てて妙法弘通に励んでいきなさいと仰せです。弱い一念では病魔はやぶれません。“広宣流布のために師匠と共に”という「戦う心」を忘れては「魔たよりをうべし」となります。
この「病魔と闘う信心」を、創価学会では、すでに無数の方々が実証し、確立しています。実際に、病魔を叱り飛ばし、病床にあっても、その姿を通して見舞いの人々を反対に勇気づけながら、見事なる変毒為薬の功力を示した、悠然たる庶民の王者は数えきれません。
家族や同志の真心の唱題の渦の中で、病魔を乗り越えて、大歓喜の勝利劇を演じた闘病体験は、そのまま偉大な仏法の証明となっているのです。
| 05 又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世 06 十方の仏の大怨敵となるか、 あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまいを忽になをして・かへりてまほりとなりて 07 鬼道の大苦をぬくべきか、 其の義なくして現在には頭破七分の科に行われ・ 後生には大無間地獄に堕つべきか、 08 永くとどめよ・とどめよ、日蓮が言をいやしみて後悔あるべし・後悔あるべし。 09 弘安五年二月廿八日 -----― 鬼神どもよ、この時光を悩ますのは、剣を逆に飲むか、大火を抱くか、あるいはまた、三世十方の仏の大怨敵となろうとするのか。此の時光の病をたちまちに冶して、かえって守護の善神となって鬼道の大苦を免れるべきではないか。そうでなければ、日蓮の申すことを卑しむならば必ず後悔するであろう。後悔するであろう。 弘安五年二月廿八日 |
鬼神を呵責する大確信の境涯を
「鬼神めらめ」からのこの一段は、大聖人が直接、鬼神に向かって発する壮烈な訶責そのものです。若き門下の命を奪おうとする鬼神への、激しい憤怒の表明であると拝せられてなりません。
これは、先にも示したように「法華経の行者」としての破折です。「法華経の行者」の弟子である南条時光を苦しめることは、三世十方の諸仏を敵に回すことにほかならないとまで仰せです。
ここでいう「鬼神」とは、人の生命を蝕み奪う働きをするものの総称です。仏法では、仏法者を苦しめ悩ます悪鬼神と、仏法を護る善鬼神を説きます。本抄で大聖人は、この悪鬼神に対して、今度は、速やかに時光の病を治し、かえって守護していく善鬼神の存在になれと厳しく命じています。
「鬼道の大苦をぬくべきか」とあります。
もともと、鬼神たちは大苦の鬼道の衆生です。そして、この苦悩を脱するには法華経しかありません。ここは、時光を苦しめている悪鬼神に対して、「法華経の行者」を守ることによって、自らの苦悩の境涯から脱せよと叱咤されているのです。そうでなければ「頭破七分」の結末を迎え、後生には大無間地獄に堕ちることも間違いないと重ねて戒められています。
このように、鬼神どもを厳然と弾訶していく。この「法華経の行者」の何ものをも恐れぬ大確信を、大聖人は時光にしめされていると拝されます。
であればこそ、私たちも、いよいよ、「法華経の行者の祈り」を強盛にして、病魔に対しては「鬼神めらめ」と叱責しながら、一切の悪鬼をも、わが使命の人生の味方に変えていく決心で前進していきたい。
ゆえに、師子吼のごとき題目が大切です。大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」(1124-07)と仰せです。いかなる病魔に対しても、わが生命の奥底から「師子王の心」を取りいだして、敢然と立ち向かっていく この「勇気ある信心」が根幹となるのです。
大聖人も、御自身の病に厳然と「師子王の心」で立ち向かっていかれました。本抄御執筆の時期、大聖人は病気も抱えられていました。
「日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが」(1105-01)(日々の論議・月々の難・両度の流罪に身も疲れ、心も痛んだ故でしょうか、この7・8年の間、年ごとに衰え、病気がちになってきましたが、大事には至りませんでした)と綴られたこともあります。
しかし、いかなる時でも、大聖人は門下への激励を続けられ、大闘争が止むことはありませんでした。本抄はそうした状況の中で、未来を託する青年のために綴られた一書です。
ある時は、門下の真心のおかげで小康をえたので、「虎を捕ることもできる」「獅子にも乗れるような勢いだ」と仰せになられたこともあります。
大聖人は、門下を激励されるためにも、三障四魔をはねかえすお姿を示され、本有の生老病死に生き抜く尊き鑑を赫々と残してくださったのです。
「生きていること自体が楽しい」
牧口先生は、「幸福の第一の条件は、健康である。その健康のためには、活動を第一とする」と語られました。健康とは「戦う心」です。広宣流布のための学会活動こそ、健康への第一の道であると教えられたのです。とともに、病気の人がいれば、最大に包容されました。
戦時下の昭和17年(1942)茨城・下妻在住の会員宅まで足を運ばれ、病床にあった7歳のお子さんを見舞われたこともありました。投獄の前年のことでした。
戸田先生もよく言われました。
「病気などで悩んでいた人も、御本尊を受持することによって、すなわち、安心しきった生命に変わるのだ。根底が安心しきって、生きていること自体が楽しいということになる。
生きていること自身が楽しいといったつて、九界を具するのだから、ときには、悩むこともあるし、悩みが変わることもある。いままで自分のことで悩んでいたのが、人のことに変わることもある。生きていること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか」
「我々の姿は時として、貧乏菩薩や病気菩薩のように見えるかもしれない。しかし、それは人生の劇を演じているんだよ。生命の本地は、正真正銘の地湧の菩薩なんだ。人生の劇ならば、思い切って楽しく演じ、妙法の偉大さを証明していこうではないか。
「病気や経済苦の苦悩に縛られた生活を断ち切る利剣は、妙法である。全国民を縛られぬようにしていくのが、学会の使命であり、精神である」。
真の健康とは何か、それは、病気がない状態を言うものではありません。信心根本に生き生きと価値創造の営みを続かれるかどうかです。病気の宿業を使命に変え、常に自身の生命を革新している人は、病魔に勝利している人です。戦う中に、真の色心の健康がある。それを教えているのが日蓮仏法です。
「御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ」(1009-09)とも仰せです。仏の眼から見れば、病気は信心を深め、成仏を約束するゆえに悦ばしいことであると捉えることができるのです。
病気と闘うことで、人間が豊かになることは、世界の知性も洞察しています。
スイスの思想家・ヒルティの言葉にも「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべての人の心を掘って耕してくれます。病気を正しく理解してこれに耐える人は、深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります」とあります。
いわんや妙法を根本とすれば、どんな苦しみをも幸福へと転じられないわけがない。病魔と闘う人は、仏界という崇高な山を登っている人です。山頂に立てば、雄大な素晴らしい眺めを楽しむことができます。今のすべての苦労は永遠の幸福を築くための財産となります。
この偉大な仏法の大功力を、大聖人は青年に伝えてくださったのです。
何があっても絶対に負けない。あきらめない。屈しない。この人こそ、生命の勝利者です。真の健康・長寿の勇者なのです。
私も妻も、さらに真剣に全同士の健康・長寿を祈り抜いてまいります。創価の同志が健康・長寿の実証を生き生きと示していくこと自体が、大折伏であり、「生命の世紀」の希望の光明となるからです。
断固たる 勝利を祈らむ 皆様の
健康長寿と 共に祈らむ
1587~1588 莚三枚御書top
| 01 莚三枚・生和布一篭・給い了んぬ。 02 抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまいもなをり・虎とるばかりをぼへ候上・ 03 此の御わかめ給びて師子にのりぬべくをぼへ候。 04 さては財はところにより人によつてかわりて候、此の身延の山には石は多けれども餅なし、 こけは多けれども 05 うちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす・むしろいかでか財とならざるべき。 1588 01 億耳居士と申せし長者は足のうらに・けのをいて候いし者なり、ありきのところ・いへの内は申すにをよばず・ 02 わたを四寸しきて・ふみし人なり、これは・いかなる事ぞと申せば・先世に・たうとき僧に・くまのかわをしかせし 03 ゆへとみへて候。 04 いわうや日本国は月氏より十万よりをへだてて候辺国なる上・へびすの島・因果のことはりも弁えまじき上・末 05 法になり候いぬ、 仏法をば信ずるやうにてそしる国なり、 しかるに法華経の御ゆへに名をたたせ給う上・御むし 06 ろを法華経にまいらせ給い候いぬれば。 -----― 莚三枚、わかめ一籠、頂戴した。 さて、三月一日から四日までの御あそびに心も慰められ、痩せる病もよくなり、虎を捕るばかりに元気になったところへ、この御わかめを頂戴し、獅子にでも乗れる勢いを得た。 財は所により人によって変わるものである。この身延の山においては、石は多いけれども餅はない。苔は多いが敷物がないから木の皮をはいで敷物の代わりとしている。莚が財にならないはずがない。 億耳居士という長者は足の裏に毛が生えていた人である。長者が歩く所、家の中はいうにおよばず、どこでも綿を四寸敷いてある所を歩くようであったという。これはいかなる原因によるかといえば、前世に、尊い僧に熊の皮を敷かせたからであるといわれる。 ましてや日本国は月氏より十万余里も隔てた辺国であるうえ、夷の島であり、因果の道理もわきまえそうにない衆生が住み、そのうえ末法である。仏法を信ずるようでいて実は謗じている国である。しかるに法華経のために名を世に立てられたうえに御莚を法華経に供養されたのであるから。 |
莚
竹・藁・蒲・葦などを編んで作った敷物の総称。鎌倉時代は室内用であったが、畳の普及とともに屋外用となった。四条金吾許御文には「処は山の中.風はげしく庵室はかごの目の如し、うちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ身のひゆる事は石の如し」(1195-01)とある。
―――
生和布
昆布科の海藻。日本の沿岸各地に生えている。味噌汁・三杯酢などの食用。
―――
御あそび
未詳。門下のだれかは不明であるが、御病身の大聖人を身延の山中に見舞ったことをさしている。
―――
億耳居士
釈尊在世中に阿羅漢果を得た比丘で、二十億耳ともいう。大智度論巻二十二には「沙門の二十億耳の如きは毘婆尸仏の時、一つの房舎を作り、物を以って地を覆いて衆僧を供養し、九十一劫(の間)天上、人中に福楽の果を受け、足は地を踏まず、生ずる時足下の毛の長さ二寸にして柔軟浄好なり」とある。
―――
先世
過去世のこと。前代・前世と同意。
―――
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――――――――
本抄は御真筆が大石寺に存しているが、後半が欠けており、与えられた人も、したためられた時期も明らかではないが、一説には南条時光に宛てたとする説もある。しかし冒頭に「三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて」と仰せになっていることから、3月初めから間もないころと思われ、また「やせやまいもなをり」と仰せになっていることから、弘安5年(1282)の御手紙であろうと推測されている。それは、「上野殿母御前御返事」にこの病気のことが記され「八年が間やせやまいと申し……食も・ほとをととどまりて候」(1583-03)と仰せになっており、この御手紙は弘安4年(1581)12月と推測されている。この御抄を拝すると、身延に御入山されてからはあまり健康がすぐれなかった状況が拝される。食糧も乏しく過酷な環境のなかで栄養も十分摂取できず、体力も衰えておられたのであろう。弘安元年(1278)の「中務左衛門尉殿御返事」には「日蓮下痢」との仰せもあり、たぶん内臓も悪くなっておられたのであろう。上野殿母御前への御手紙では、8年の間病気がちであられ、特にこの御手紙をしたためられたころは、ほとんど死を覚悟されるほどの状況であられたが、母尼のために特に筆をとられたと仰せになっている。
こうした状況をようやく乗り越えられ、本抄を与えた人とお会いになって元気になったと仰せになっているところから、弘安5年(1282)春の御手紙であろうと拝されるのである。
さて本文は、この「三月一日より四日にいたるまで」身延の地に大聖人をお訪ねした人が、莚三枚とわかめ一籠を御供養したことに対する御礼の言葉で始まっている。本抄の題号もこの御供養の品にちなんで名づけられたものである。この人がだれであるかは先にも述べたとおり不明なのであるが、この人が訪ねてきたことに「心なぐさみて」と仰せになっていることからも、大聖人が頼りにされている方であることが考えられる。しかし、このことによって一挙に「虎とるばかり」に元気になられ、またわかめを受け取って「師子にのりぬべくをぼへ候」と仰せられているのは、危篤状態を脱せられて小康状態になられた喜びもさることながら、大聖人を訪れ山深い身延の地に欠乏しがちな海草等、心のこもった御供養をした真心を喜ばれ、称賛・激励された大慈悲の御言葉であろうと拝する。
次に大聖人は、所によってそれほど珍しくもない莚が、身延では貴重なものであると述べられている。今のような畳が普及したのは近世に入ってからであり、板の間が普通であった当時の家屋にあって、敷物は必要不可欠なものであった。しかしその材料となる藺や藁は身延の地では十分ではなく、毛皮の敷物といっても、殺生をひかえるため自然死した動物の皮を用いるわけで、そうは確保できるものではない。したがって本抄でも仰せのように木の皮を敷物としたわけで、寒気の厳しい身延の地では身を守るには不十分といわなければならない。そのゆえにこそ、御供養の莚が貴重なのである。
大聖人は次に億耳居士の例を引いて、敷物を供養することの尊さを教えられている。仏典に説かれる説話には、生まれながらに衣を着ていたという商那和修や金を自由に得た阿那律など、仏法への供養によって生活に困らない果報を得た話が出てくるが、億耳居士の説話は、敷物を供養することも仏法のうえにおいて重要であることを示すものである。
例えば釈尊が阿私仙人に仕えたことを示す提婆達多品の文にも釈尊の過去世の姿である須頭檀王が阿私仙人に「身を以って牀座と作せし」の姿で仕えたことが説かれている。これなども、仏の座に身を捧げることの尊さをあらわしているものであろう。
億耳居士の足の裏に毛が生えていたことが福徳として説かれていることは、当時の社会にあっては裸足が普通であったことを知れば、より明瞭となろう。
次に日本が正法を誹謗している国であることを述べられている。日本は仏教発祥の地であるインドから遠く離れた辺地にある国で、人々は因果の理をわきまえていないと指摘されている。因果の理はすべてにわたる道理の基本であるが、ここは特に仏法の説く生命の因果の理をさしていわれている。
このように、本来、仏法への理解が浅いのに加えて、末法に入ると人々の生命は三毒によって濁るため「仏法をば信ずるやうにてそしる国」となってしまっているのである。
「仏法をば信ずるやうにて」とは念仏・禅等の諸宗を人々が信じていることである。その念仏者や禅宗の人々が法華経、大聖人を誹謗しているのは、仏法そのものを誹謗していることになるのである。日本はまさにこのような「仏法をば信ずるやうにてそしる国」であり、その意味では最も罪業の深い国である。そのような日本で大聖人の仏法を信じ、そのために周りから反対されながら、大聖人に莚を御供養したこの人は、まことに信心の決定した人であったことが分かる。大聖人の仏法を多くの人々が信仰するようになったときに御供養するのは、これもちろん尊いとはいえ、まだ易しい。しかし、日本一国が大聖人に敵対しているときに大聖人に御供養申し上げるのは、まことに勇気が要るし、尊いことなのである。
1588~1588 芋一駄御書top
| 01 いも一駄・はじかみ五十ぱ・をくりたびて候。 02 このみのぶのやまと申し候は.にしはしらねのたけ・つねにゆきをみる、ひんがしにはてんしのたけ.つねにひを 03 みる、きたはみのぶのたけ・みなみはたかとりのたけ・四山のあひ・はこのそこのごとし、いぬゐのすみより・かは 04 ながれて.たつみのすみにむかう・かかるいみじきところみねには・せひのこへ・たにには.さるのさけび木は・あし 05 のごとし・くさは・あめににたり、 しかれども・かかるいもはみへ候はず、はじかみはをひず、いしににて少しま 06 もりやわらかなり、くさににて・くさよりもあぢあり。 07 法華経に申しあげ候いぬれば御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん、恐恐謹言。 08 八月十四日 日蓮在御判 09 御返事 -----― 芋一駄・生姜五十把、お送りいただいた。 この身延の山という所は、西には白根の嶽があって常に雪が積もっており、東には天子ヶ嶽に常に日を見る。また、北は身延の嶽、南には鷹取の嶽があり、四山に囲まれて箱の底のようである。北西の隅から川が流れ南東の隅に向かっている。このような大変な所で、嶺には蟬の声が聞こえ、谷には猿が鳴き、木は葦のように生え、草は雨のように繁っている。しかしこのような芋はなく、生姜も生えない。石に似ているが、石のように表面は堅くなく少しやわらかであり、草に似ているが、草よりも味がある。法華経に申し上げたので、御志はきっと釈迦仏も御承知であろう。恐恐謹言。 八月十四日 日 蓮 在 御 判 御 返 事 |
はじかみ
生姜の別称。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。
―――
しらねのたけ
山梨・長野・静岡三県の境にある明石山脈の三峰。北岳(3192㍍)・間ノ岳(3189㍍)・農鳥岳(3026㍍)の総称で、白根山のこと。白峰山とも書く。
―――
てんしのたけ
天子ヶ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。標高1316㍍。
―――
みのぶのたけ
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
―――
たかとりのたけ
鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。標高1036㍍。七面山の東、身延山の南にある。
―――
いぬゐ
方位。北西をさす。
―――
たつみ
方位。南東をさす。
―――――――――
本抄は御真筆が大石寺に存するが、与えられた人は不明である。御執筆の年も「八月十四日」とあるだけで不明であるが、弘安元年(1278)ともいわれる。
内容は、芋を1駄、生姜を50把御供養した人に、身延の御様子を記されて、この御供養の品のありがたさを述べられている。
文永11年(1274)5月に身延に入られた大聖人は、最初は仮の住まいと考えられていたようであるが、御体の調子や周囲の状況等もあられたのであろう、身延の地を弘安5年(1282)に至るまでお離れになることはなかった。
しかしこの身延の地は自然環境が大変厳しいところで、もちろん佐渡等の地に比べればまだよいかもしれないが、晩年を過ごされる地としては過酷であったことが、諸御書の仰せに拝される。本抄でも、地形的特徴を述べられている。
北西に南アルプスの白根三山、これは富士山に次ぐ3000㍍級の高峰であり、常に冠雪していると仰せである。南東は天子ヶ岳、「つねにひをみる」と仰せになっているのは、朝日が出る方向にあるということであろう。北は身延山、南は鷹取山でそれらの山々に囲まれた御草庵のある場所は箱の底のようであると仰せられている。
他の御抄でも身延の地のありさまに触れられている。
「妙法比丘尼御返事」には「北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四山は屏風の如し」(1414)と仰せである。また「九郎太郎殿御返事」にも「西には七面のかれと申す・たけあり・東は天子のたけ・南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり・はこのそこのごとし」(1535-04)との御記述がある。
西に七面山(1982㍍)が挙げられているのが本抄と異なるが、いずれも大聖人のおられるところが箱の底のような谷間であるとの御表現は同じである。
このような土地で、当時は芋も生姜もとれず、大変貴重であったと思われる。御供養の芋は石に似ているが石よりもやわらかであり、生姜も草に似ているが草よりも味があると仰せである。心から御供養の品を喜んでおられる様子が拝される。
御供養を申し上げた人の志は、法華経に申し上げたから釈迦仏は必ず御存じであろうと仰せになっているが、法華経とは南無妙法蓮華虚の大法、釈迦仏とは久遠元初の自受用報身の仏であり、これら人法が体一である御本仏が大聖人であられるから、大聖人こそが一切をごらんになっているということである。
1589~1590 閻浮提中御書(師子王御書)top
1589:01~1589:10 第一章 謗法の罪科と真言亡国の現証top
| 01 閻浮提中飢餓□□□□示現閻浮提中□□□□、又云く又示現閻浮提中□□□劫起等云云、 人王三十代□□国の 02 聖明王□□□□□国にわたす 王此れを用いずして 三代仏罰にあたる□□□、 釈迦仏を申し隠すとが□□念仏者 03 等善光寺の阿弥陀仏云云、 上一人より下万民にいたるまで 皆人□□□□此れをあらわす、 日蓮にあだをなす人 04 は惣て日蓮を犯す、 天は惣て此国を□□□□□言く 「経を読誦し書持すること有らん者を見て 軽賎憎嫉して結 05 恨を懐かん」等云云、又云く「多病ショウ痩」第八に云く「諸悪重病」又第二に云く「若し医道を修し方に順て病を 06 治せば更に他の疾を増し 或は復死を致す」又云く 「若し自ら病有らんに人の救療すること無く設い良薬を服すと 07 も而も復増劇せん」等云云、 弘法大師は後に望んで戯論と作す、 東寺の一門上御室より下一切の東寺の門家は法 08 華経を戯論と云云、 叡山の座主並びに三千の大衆 □日本国山寺一同の云く□□□□□大日経等云云、 智証大師 09 の云く法華尚及ばず等云云、 園城の長吏並びに一国の末流等の云く法華経は真言経に及ばずと云云、 此の三師を 10 用ゆる国主終に法皇尽了んぬ、明雲座主の義仲に殺されし、承久に御室思い死にせし是なり。 -----― 閻浮提中飢餓□□□□示現閻浮提中□□□□、また云くまた示現閻浮提中□□□劫起等云云と、我が国人王三十代欽明天皇の世に□□国の聖明王□□□□□国にわたす。王がこれを用いなかったので、三代にわたって仏罰に当たった。□□□、釈迦仏を申し隠した咎□□念仏者等が善光寺の阿弥陀仏云云。上一人より下万民にいたるまで皆人□□□□これをあらわす。 日蓮に敵対する人は、すべて日蓮を犯す者であるから、諸天がすべてこの国を□□□□□いわく「経を読誦し書持する者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐く」等と。また「多病にして痩せ衰える」と説かれており、第八巻普賢菩薩勘発品には「諸の悪重病を得る」と。また第二巻譬喩品に「若し医道を修め、方に順って病を治しても、更に他の病を増し、あるいは死に至る」、また「若し自らに病あれば人、救療することなく、たとい良薬を服してもまた増劇する」等と説かれている。 弘法大師は後に望んで戯論であるとし、東寺の一門は、上は御室より下は一般の門下まで法華経を戯論と軽んじている。比叡山の座主や三千の大衆□日本国中山寺一同のいわく□□□□□大日経等と、智証大師もまた、法華経でさえもなお真言に及ばないといい、その流れをくむ園城寺の長吏をはじめ、国中の末流も同様に法華経は真言経に及ばないといっている。この三師を用いられた国主は倒れ、法皇もことごとく滅びてしまった。明雲座主が木曽義仲に殺され、承久の乱で御室が思い死にされたのはこのことである。 |
閻浮提
一閻浮提とも南閻浮提ともいう。閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jaumbū₋dvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。四大洲のなかでもとくに南閻浮提は仏法有縁の地とされ、本来、インドを中心とする世界であったが、転じて全世界を包括する意味をもつようになった。
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人王三十代
人王とは神武天皇以後の天皇のこと。神代と区別していう。仏教初伝は欽明天皇の代とされる。鎌倉時代の仏教界で多く用いられた扶桑略記では第十四代仲哀天皇の皇后・神功皇后を第十五代に数えているので欽明天皇は第三十代になる。
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聖明王
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
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王此れを用いずして三代仏罰にあたる
「王」は29代欽明天皇のこと。「三代」は欽明・敏達・用明天皇。日本書紀には仏教伝来直後の様子について、欽明天皇13年に百済の聖明王から金銅の釈迦仏、旗蓋、経論等を献上してきた。天皇は仏教を尊崇すべきか否かを群臣に問うたところ、蘇我稲目は崇仏、物部尾興・中臣鎌子は排仏を主張した。天皇は試みに蘇我氏にのみ仏像の礼拝を許したが、ほどなくして国に疫病が流行したため物部氏と中臣氏は排仏を奏し、天皇は仏像を難波の堀江に捨てさせ、寺を焼いた。また敏達天皇も治世14年の春、国中に疫病が流行したことから物部・中臣両氏の奏上をいれて仏像・寺院を焼かせた。用明2年、天皇が病に罹り、群臣に仏教を信仰することを議ったが、蘇我氏と物部氏の対立がますます激化し、結局用いるところとならず、天皇は病没した。この3代の天皇が仏教を排した35年間、天変地夭、疫病等が流行し、欽明・敏達・用明天皇は病のうちに崩じている。治病抄には「人王第三十代・並びに一二の三代の国主並びに臣下等疱瘡と疫病に御崩去等なりき」(0997-14)とある。
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念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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善光寺の阿弥陀仏
善光寺とは、長野市にある。宗旨は天台宗、浄土宗に両属す。善光寺縁起には欽明天皇の時、百済の聖明王より朝廷に献上された阿弥陀一光三尊が物部氏などによって何度か捨てられたり、また安置されたりしたが、0560年ごろ信濃国の本田善光によって長野の地に移されたと記されている。だが、欽明天皇の13年に聖明王から献上された像は、阿弥陀如来ではなく釈迦像であったのに、阿弥陀仏と名を変えて世間を惑わしているので、大聖人はこれを破折されているのである。
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弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
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戯論
児戯に類した無益な論議・言論のこと。
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東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
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御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになった。
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叡山の座主
比叡山延暦寺の座主のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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三千の大衆
比叡山延暦寺にの3000人の僧侶のこと。
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山寺一同
比叡山延暦寺の流れをくむ諸寺。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
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園城の長吏
「園城寺」とは、琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。「検校」とは、寺院の首長となる僧侶のこと。
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真言経
大日経・金剛頂経・蘇悉地経のこと。
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明雲座主
(~1183)。比叡山延暦寺55.57台座主。弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する。治承3年(1179)、政変で院政が停止されると座主職に再任され、大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた。
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義仲
(1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
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承久
承久の乱のこと。承久3年(1221)朝廷が幕府を倒そうとして企てた乱、失敗に終わった。地頭職問題で幕府側と不穏になった朝廷側は後鳥羽上皇を中心として謀議を企て、北面の武士や、幕府に不満をもつ武士等を集めるべく、北条義時追討の院宣を発した。義時は家人を結束させ、朝廷の軍勢を二か月で討った。その結果、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に配流したのをはじめとして、三上皇を配流し、天皇を交代させた。この結果、皇室は全く権力を失い、北条執権政治の時代が出現した。後鳥羽上皇を中心とする朝廷軍の根本的な敗因は、幕府調伏のため真言の祈祷を行なったことによる。「還著於本人」の経文どおり、亡国の悪法たる真言宗に祈?したのであるから、かえってわが身を亡ぼす結果となったのである。
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本抄は前後が欠けており、御執筆の時も場所も、また与えられた人の名も不詳であるが、内容から推察して、身延入山後、弘安元年(1278)の御述作とされている。
断簡が「閻浮提中……」の書き出しで始まっているところから「閻浮提中御書」と称されているが、後半の「願くは我が弟子等は師子王の子となりて」との御教示から、別名を「師子王御書」ともいわれる。
御真筆は大石寺に現存しているが、文中、□印の伏せ字があるのは、御真筆の文字が判読できない箇所を表したものである。
内容は、閻浮提の中の災禍の原因は正法に背いていることにあると、法華経・涅槃経等の経文を引かれて示されている。とくに法華経を誹謗した真言宗の高僧やそれを用いた国主の受けた罰の現証を挙げられている。
後半は、弟子門下に対し「師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ」と、信心の在り方を教えられ、「立正安国論」の予言的中をもって「此れ皆法華経の御力なり」と仰せられている。
冒頭の「閻浮提中云々」の三つの文は経典の引用と思われる。伏せ字のため出典も文意も不明であるが、末文で「我が朝の亡国となるべき事先に此れをかんがへて宛も符契のごとし」と、「立正安国論」に触れられているところから、いずれも正法に背き悪法に帰依しているゆえに、国土に飢饉や疫病・戦乱などの災いが起こるとの原理が説かれた経文と考えられる。
次の「人王三十代□□国の聖明王□□□□□国にわたす」云々の御文は、やはり伏せ字が目立つが、人王三十代欽明天皇の御代に、百済国の聖明王から釈迦仏像、経論等がもたらされたが、欽明・敏達・用明の三天皇は、これを用いなかったために仏罰を受けたと述べられたものであることが明らかである。
なお、仏教伝来については、非公式にはそれ以前に早く伝わっていたと推察されるが、大聖人はここでは公伝の説に依られている。
「釈迦仏を申し隠すとが□□念仏者等・善光寺の阿弥陀仏云云」と述べられている〝善光寺〟とは、長野市にある信濃善光寺のことである。
善光寺縁起では、欽明天皇の時、百済の聖明王から朝廷に献上された阿弥陀一光三尊が、物部氏などによって何度か捨てられたり、また安置されたりしたが、0602年に本多善光によって信濃国に移された、としている。
しかし、聖明王から献上された像は阿弥陀如来ではなく、釈迦仏像であったはずである。それを阿弥陀仏というのは世間を誑惑したものである。このことを「四条金吾殿御返事」では「今の代に世間第一の不思議」(1167)と仰せられ、本文では「釈迦仏を申し隠すとが」と破折されているのである。
したがって、仏教渡来の時は神と釈迦仏、今の鎌倉時代は阿弥陀仏と釈迦仏と、その違いこそあれ、釈尊を捨てる心は同じであり、そのために先例が示すように国が滅びることは必定で、国も民も挙げてその〝とが〟を顕していることを「上一人より下万民にいたるまで皆人□□□□此れをあらわす」と仰せられたと拝される。
釈尊の出世の本懐はいうまでもなく法華経である。その法華経を身読し、法華経が真実であることを証明したのは日蓮大聖人ただ御一人である。
それゆえに末法今時に「日蓮にあだをなす人は惣て」法華経の行者・末法の御本仏である「日蓮を犯す」ことになり、謗法の罪科は深重である。
「天は惣て此国を□□□□□」とは、「立正安国論」に「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り」(0017)と仰せられた御教示と同趣旨と思われる。
諸天は守護すべき国土を捨離し、代わって神社・仏閣には悪鬼・魔神が住んで、種々の災難を招いているとの意に拝される。
そこで法華経並びに法華経の行者たる日蓮大聖人を誹謗・迫害する罪科がいかに恐ろしいものかを、経文に照らして示されている。
「経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん」は、法華経譬喩品第三の文である。譬喩品にはそのために現世で受ける種々の罪報が説かれ、さらに「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」と説かれている。
「多病痟痩」も同品で人間として生を得た時に受ける罪報を示したなかにあり、詳しくは「若し人と為ることを得ば 諸根は暗鈍にして 矬陋戀躄盲聾背傴ならん……貧窮下賎にして 人の使う所と為り 多病痟痩にして 依怙する所無く」とある。
「諸悪重病」は勘発品第二十八の文である。同品には「若し之れを軽笑すること有らば、当に世世に牙歯疎欠、醜唇平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸悪重病あるべし」とある。
いずれも、人間として生を受けても、多病で、しかも悪重病に苦しみ、えんえんと苦報を受けなければならないことが説かれている。総体としていえることは、人々から嫌悪される姿を示現することである。
人の生き方を正しく説いた法、またそれを正しく修行する人を軽蔑したり、恨んだりする人は、因果の厳しい理法によって、今度は人々から嫌悪される報いを受けなければならない。人々から最も嫌われる存在になるということが、謗法の果報の一つともいえよう。
「又第二に云く『若し医道を修し……』」も、やはり譬喩品第三の文である。詳しくは「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば……若し医道を修して 方に順じて病を冶せば 更に他の疾を増し 或は復た死を致さん 若し自ら病有らば 人の救療すること無く 設い良薬を服すとも 而も復た増劇せん」とある。
ここでは、法華経誹謗による種々の病は、いかなる医術を駆使し、薬品を用いて治そうとしても、根本因である法華経誹謗をやめない限り、かえって他の病を誘発したり、あるいは悪化して死に追いやることになってしまうことが説かれている。
したがって、法華経並びに法華経の行者を誹謗して生じた病は、末法においては日蓮大聖人、すなわち人法一箇の御本尊を信ずる以外に解決法はないのである。
もちろん、このことは医学や薬による治療を排斥するものではない。ただ本源的な病因を知り、そこから正さなければ病気を根治させることはできないことを教えられているのである。
つづいて、人々を謗法の大罪に陥れた元凶として真言宗を取り上げ、その法華経誹謗の邪義を挙げられている。
真言宗の開祖・弘法大師空海は、その著・秘蔵宝鑰の中で、十住心を論じて、第八法華、第九華厳、第十真言と立て、法華経は華厳経にも劣り、真言の大日経に対しては三重の劣であると判じて、「このような経教は、自らは仏乗と名づけるけれども、後に望めば戯論となる」とののしり、法華経を狂言綺語、釈尊を無明の域を出ていないと下したのである。
この弘法の流れを汲むのが「東寺の一門」である。「東寺」とは、真言密教の根本道場である真言宗東寺派の本山、教王護国寺(京都市南区)のことである。
真言宗の僧俗は、上は御室仁和寺の門跡をはじめ、すべての人が法華経を〝戯論〟として軽賤誹謗してきたのである。
この弘法の流れとは別になるが、天台宗比叡山延暦寺の第三代座主・慈覚は、伝教大師の弟子でありながら真言密教を取り入れ、理同事勝の邪義を構えた。したがって、その門末一同も、大日経は法華経に勝ると信じこんでいる。
「大日経等云云」とは、大日経が諸経や法華経より勝れるとする邪義を指されたものと思われる。つまり、法華経は一念三千の理は説いているが、真言と印を説かない理秘密教であり、大日経を事理倶密の即身成仏の教えであると立て、大日経の方が勝れるとしたのが慈覚の邪説である。
さらに延暦寺第五代の座主・智証も、真言密教の虜となり、その著・大日経指帰で「法華尚及ばず、矧んや自余の教をや」と、本師伝教大師の正流を踏みにじっている。
当然のことながら智証門徒が分立して立てた天台宗寺門派の三井園城寺の長吏をはじめその末流も、また同様の邪見を唱えてきた。
これらは、まったく経文に依らぬ、我見による誹謗である。
このように教主釈尊を捨てて大日如来を本尊と立てることは、あたかも主を倒すも同然であり、そのまま現実の上に反映される。そこに「真言亡国」といわれるゆえんがある。
この弘法・慈覚・智証の三師の邪法に従った国主・法皇は、いずれもわが身を滅ぼしていると、次に現証を示される。
「明雲座主」は平安末期の延暦寺第55・57代の座主。平家と結びついて源氏の調伏を計ったが、逆に平家は滅亡し、安徳天皇は西海に身を沈められた。祈った明雲自身も寿永2年(1183)源義仲に攻められた際、殺されている。
承久3年(1221)後鳥羽院上皇が政権を朝廷に奪回しようとして起こった承久の乱でも、朝廷方は敗れ、祈禱を行った仁和寺の御室自身、やはり身を滅ぼしている。
上皇は北条幕府追討令を諸国に下し、比叡山、東寺、仁和寺、園城寺等の諸寺に命じ、鎌倉幕府調伏の祈禱をさせた。
その祈禱は、弘法・慈覚・智証の三大師が心中の秘法とした大法と喧伝された十五壇の修法であったが、効験全くなく、逆に朝廷方が破れ去ったのである。
そして、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は、隠岐・佐渡・土佐にそれぞれ配流された。
このとき、仁和寺の御室は後鳥羽上皇の第二子・道助法親王であり、北条義時調伏を祈禱した一人であるが、やはり御室の御所を襲われた際、最愛の弟子、勢多伽が首を斬られ、悲嘆のあまり御室は「思い死に」しているのである。
これらの現証が歴然と示すように、真言宗が亡国・亡人の悪法であることは明白であると仰せられているのである。
1589:11~1590:05 第二章 師子王の子の在り方を教示top
| 11 願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、 過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をす 12 てて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、 日本国の 13 せめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・裸にして入るとをもへ、大涅槃経の文 14 の心は仏法を信じて 今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるを すすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげ 15 ます心なり・すすむる心なり。 1590 01 日蓮は凡夫なり天眼なければ一紙をもみとをすことなし、宿命なければ三世を知ることなし、 而れども此の経 02 文のごとく 日蓮は肉眼なれども天眼宿命□□□日本国七百余歳の仏眼の流布せしやう、 八宗・十宗の邪正漢土月 03 氏の論師人師の勝劣・ 八万十二の仏経の旨趣をあらあらすいちし□□・我が朝の亡国となるべき事先に此れをかん 04 がへて宛も符契のごとし、 此れ皆法華経の御力なり、 而るを国主は讒臣等が凶言を・をさめて・あだをなせしか 05 ば、凡夫なれば道理なりと・をもつて退する心なかりしかども・度度あだをな。 -----― 願わくは日蓮が弟子等は師子王の子となって、群狐に笑わるることがあってはならない。過去遠遠劫より以来の日蓮のように、身命を捨てて強敵の咎を顕せ。師子に値うことは難しい。国主の責めでさえも大変恐ろしい。いわんや法華経の敵を責めずして地獄で閻魔王の責め苦にあうのは更に恐ろしい。日本国の上下万民が加える責め苦などは水のようなものである。濡れることを恐れてはならない。閻魔王の責めは火のようであり、火中に裸で投入されるようなものだと思いなさい。大涅槃経の文の心は、仏法を信じて生死を離れようとする人が、少し心が弛んでいるのを励まし勧めるために、仏が疫病を与え、法華経の信仰を励まし勧められる、という意である。 日蓮は凡夫であり天眼を具えていないから紙一枚も見透かすことはできない。宿命通を得ていないから三世を知ることもできない。しかし、この経文に説かれているとおり、日蓮は肉眼であるが天眼・宿命□□□。日本国七百余年の仏眼に流布した有り様や、八宗・十宗の正邪、漢土・月氏の論師・人師の勝劣・更に八万法蔵・十二部経の仏経の旨趣をおおむね推知し□□、我が国が亡国となる事を先にこれを勘え、立正安国論のなかにのべたことがあたかも符契のごとく的中した。これは皆法華経の御力である。 それを国主は讒臣等の凶言をいわれ日蓮に種々の難を加えられたが、彼らも凡夫であるから道理であると思い、退する心がなかったが、たびたび迫害を加えられ。 |
師子王
ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。
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閻魔
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
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疫病
伝染病のこと。
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天眼
①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。
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宿命
宿命通のこと。五通のひとつ。自他の過去世の生死の姿を知る通力。
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三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231-03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432-12)とある。
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日本国七百余歳
日本に仏教が入ってきてから大聖人御在世当時までの期間。
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八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
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十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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八万十二
「八万」は八万法蔵、「十二」は十二部経。あわせて釈尊が一代50年の間に説いた一切経。
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符契
割符のこと。鎌倉時代から遠隔地に金銭を送付するために用いた証書で、為替手形をいう。その形は木片に証文を記載し、証印を木片の中央に押して二つに割ったもの。一片を与えて、後日他の一片と合せて取り引きの証とした。当時、割符は、遠方の荘園から年貢などを運ぶ不便を除くために、現物を貨幣に替え、さらに貨幣に代わる便法として発案されたのである。切符、通銭ともいわれた。
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讒臣
他人を傷つけようとして讒言する臣下、家臣。
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凶言
人を傷つける言。
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前段で疫病の根本原因が正法誹謗にあることを明かし、その正法誹謗の元凶として弘法・慈覚・智証の真言邪法を指摘されたあと、この後段では、弟子門下に対し、百獣の王たる師子の子らしく、いかなる迫害、弾圧が加えられても、不惜身命の勇猛心を奮い起こしていくよう励まされている。
「師子王」とは、古来、仏の形容であり、ここでは民衆を蹂躙する邪法・邪義に対して、大難を恐れることなく、民衆救済の戦いをしてこられた日蓮大聖人御自身のことをさしていわれていることはいうまでもない。
「群狐」とは、謗法の輩、三類の強敵を譬えられていると拝せる。正法を誹謗し広宣流布を妨げようとして陰険・卑劣な策謀をめぐらす「群孤」に等しい徒輩に敗れて、信心を失い、嘲笑されるようなことがあっては断じてならないと戒められているのである。
「過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて……」とは、日蓮大聖人は久遠劫初から身命を捧げて「強敵の科」を顕す戦い、すなわち邪法・邪義への折伏を実践されてきた。
その大聖人が「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ」と仰せなのである。ゆえに、邪法邪義を徹底して追及し、その罪科を、白日の下に顕し、打ち破っていく折伏こそ、大聖人門下の尊い使命なのである。
「師子は値いがたかるべし」とは、百獣の王・師子になることは容易ではないということとも拝せるし、また師子である御本仏にお会いすることは難しいとも拝せる。
どんな批判の嵐、苦難をも恐れず、確信と勇気に満ちた実践力で進んで広布の道を開いていってこそ、師子の子の名に値する人といえよう。
「国主の責め・なををそろし」とは、妙法流布の途上で起こる迫害や難のなかでは、やはり国主、つまり国家権力による責め、弾圧は、極めて怖ろしいといえよう。熱原の法難等にみられるように、身命に及ぶことさえあるからである。
しかし、信心を退転して地獄に堕ち、そこであう「閻魔のせめ」はさらに怖ろしい。その理由は、今生の権力の迫害は水にぬれるようなものである。乾けばもとどおりになる。それに対し「閻魔のせめ」は火の中に裸で入るようなものである。命が破壊されるのである。
本抄をいただいた人は、何らかの病にかかっていたのであろう。その病の意味を、涅槃経の文との関連で、信心を励ますための病であると教えられている。
これと同趣旨の文は、「妙心尼御前御返事」に「又このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(1479-09)と仰せである。
信仰の途上には、いつしか惰性になり、入信当初のみずみずしい歓喜も薄れ、御本尊への感謝も忘れがちになる場合がある。そうしたとき、病気になったり、思わぬ苦難にぶつかることがある。
これを、仏がどこまでもその人の信心を励まし、すすめるためにこそ与えられた、仏の慈悲心のあらわれであると分かれば、惰性も打ち破れ、喜びと感謝もわき、苦難解決の活路が必ず開かれる。
同様に、直面する諸難を、さらに大道心を燃やし発条とも、転機ともしていってこそ、真の「師子王の子」であり、成仏は疑いないとの御教示と拝したい。
つづいて大聖人は、天眼通、宿命通などの神通の力を持たない凡夫の肉眼ではあるけれどもと御謙遜されながら、一代聖教の正邪・勝劣を分別し、経教の趣旨を弁え、さらに日本の国に起こる災いを正しく予知し得たと述べられ「此れ皆法華経の御力なり」と仰せられている。
「而れども此の経文のごとく」とは、法華経法師功徳品第十九で、法華の持者の六根清浄の功徳を示すなかで、「父母の生ずる所の清浄の肉眼もて、三千大千世界の内外の所有る山・林・河・海を見ること、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至り、亦た其の中の一切衆生を見、及び業の因縁・果報の生処、悉く見、悉く知らん」と説かれたことをさしていると思われ、これをもって「日蓮は肉眼なれども天眼宿命□□□」と、実相知見の力を具備されていることを示されたと拝される。
この仏眼によって、我が国に仏教伝来以来七百余年の流れや、各宗の正邪、インド・中国の論師・人師の勝劣を判じ、さらに八万法蔵・十二部経といわれる一代聖教の旨趣を得られ、凶患災禍の国土の相は背正帰悪のゆえであり「我が朝の亡国となるべき事」は必定であることを見抜かれたのである。ゆえに大聖人は、文応元年(1260)7月16日、立正安国論を著され、北条幕府に奏進されたのである。果たせるかな、安国論の予言は「宛も符契のごと」く、ことごとく的中したのである。
「此れ皆法華経の御力なり」との仰せは、「法妙なるが故に人貴し」(1578)の原理から、この法華経を持ち、弘通する人も尊貴なのであるとの意が含まれ、安国論の予言的中をもって、三世を委細に知る「一閻浮提第一の聖人」(0974)としての御立場を述べられていると拝される。
しかし、幕府はこの大聖人の至誠あふれる諌言を黙殺したばかりでなく、極楽寺良観、建長寺道隆等の邪僧の讒言に迷い、惑わされて、激しい弾圧と迫害とを加えたのである。
大聖人はこの経緯を「凡夫なれば道理なりと・をもつて」と、やむをえない成りゆきと達観されたうえで、「退する心なかりしかども・度度あだをな……」と、後文不詳であるが、身延に入山された御心境について述べられたのではないかと拝察される。
大聖人の諌言は三度にわたった。これを受け入れなかった幕府は、蒙古調伏を祈ってくれるならば、土地・堂舎の寄進をしようと懐柔策に出てきた。
しかし、大聖人は、人々が謗法の信仰と供養をやめるべきことを訴えられているのであって、自らへの供養を求められたのではない。ゆえに、厳然たる態度で申し出を退けられ、ついに、いにしえの聖人の例にならって鎌倉を去る御決心をなされたのである。
このことは「光日房御書」などに「本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへ」(0928-05)と、その御胸中を明かされているとおりである。
本抄の、欠けている部分は、そうした経緯と御心情を述べられているのではないかと思われる。
なお「度度あだをな」のあとに「昭和新定日蓮大聖人御書」では「美食ををさめぬ……」の御文があるが、日亨上人の御見解にもとづき、御書全集では白米一俵御書の中に入れてある。
1590~1595 衆生心御書 (随自意御書)top
1590:01~1591:01 第一章 爾前は随他意、法華は随自意なるを明かすtop
| 01 衆生の身心をとかせ給う・其の衆生の心にのぞむとて・とかせ給へば人の説なれども衆生の心をいでず、かるが 02 ゆへに随他意の経となづけたり、 譬へばさけもこのまぬをやのきわめてさけをこのむいとをしき子あり、かつはい 03 とをしみ・かつは心をとらんがために・かれにさけをすすめんがために・父母も酒をこのむよしをするなり、 しか 04 るを・はかなき子は父母も酒をこのみ給うとをもへり。 -----― 法華経以前の諸経は衆生の身と心とを説かれたものである。衆生の心に随おうとして説かれたのであるから、仏の説であっても衆生の心を出ていない。それゆえに随他意の経と名づけているのである。譬えば酒が好きでない親に極めて酒好きの愛おしい子がいたとする。親は子をかわいがり、子の心を引きつけるために酒を勧め、自分達も酒を好きなふりをするのである。それを、愚かな子は父母も酒を好んでいると思っているようなものである。 -----― 05 提謂経と申す経は人天の事をとけり、 阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う、華厳経と申す経は菩薩のこと 06 なり、 方等・般若経等は或は阿含経提謂経ににたり、 或は華厳経にもにたり、此れ等の経経は末代の凡夫これを 07 よみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども・くはしく・これをろむずれば己が心をよむなり、 己が心は 08 本よりつたなき心なればはかばかしき事なし、 法華経と申すは随自意と申して 仏の御心をとかせ給う、 仏の御 09 心はよき心なるゆへに・たとい・しらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし、麻の中のよもぎ・つつの 10 中のくちなは・よき人にむつぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひも・言もなをしくなるなり、 法華経もかく 1591 01 のごとし・なにとなけれども・この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり、 -----― 提謂経という経は人界と天界のことを説いている。阿含経という経は声聞と縁覚のことを説いている。華厳経という経は菩薩のことを説いている。方等経・般若経等は、あるいは阿含経・提謂経に似ており、あるいは華厳経にも似ている。 末代の凡夫はこれらの経々を読めば仏の御心に叶うであろうと思っても、よく考えてみれば己れの心を読んでいるのである。凡夫の心は、もとよりつたないものであるから、何の功徳もないのである。 法華経という経は随自意といって、仏の御心を説かれたものである。仏の御心はもとより素晴らしい心であるから、たとえ法華経の理を知らない人であっても、この経を読み奉れば利益は計り知れない。たとえば、麻の中に生えた蓬、筒の中に入った蛇が真っすぐになり、善人と親しくなる者がおのずと心も行いも真っすぐになるようなものである。法華経もまたこのようなものである。他に特別なことはなくても、この経を信じている人を、仏は善い者だと思われるのである。 |
衆生
梵語サットヴァ(sattva)の旧訳。新訳では有情と表記する。「梵に薩埵という。ここに有情という。情識あがゆえに」といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情に対して、一切の生きとし生けるものを含めていう。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(
bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。
―――
人の説
御真筆では「仏」と註がある。
―――
随自意
随他意に対する語。仏の内証の悟りをそのまま説き示すをいう。権実相対する時は、権経は随他意、法華経は随自意、本迹相対する時は、迹門は随他意、本門は随自意、種脱相対する時は文上脱益の法華経は随他意、文底下種の南無妙法蓮華経は随自意となる。
―――
随他意
衆生の機根に応じて説くこと。法然は釈尊が浄土三部経を説く手段として、随他のために、それ以外の諸経を説いたが、浄土三部経があらわれてのちは、随自意になるから、これらの諸経は閉じるべきだと述べている。一代仏教の浅深・勝劣を知らないで勝手に立てた邪見である。
―――
提謂経
中国・北魏の文成帝(在位0452~0465)の時代の曇靖の撰。提謂波利経ともいう。古来、諸釈論に引用されているが、現在は失われており、内容は不詳だが、仏が提謂・波利の二長者に対して五戒十善等の法を説かれたものといわれる。法華玄義巻十上には北師の一師が提謂経を人天経と名づけ、五時経の第一時に配していることを挙げている。
―――
人天
十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
―――
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
―――
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
―――
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva])の 音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
―――
方等
方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経にあたり、ここでは、法華経をさす。
―――
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
代末
正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
―――
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
―――
利益
仏の教え、正法に従い行動することによって得られる恩恵や救済のこと。功徳のことをいう。
―――
麻の中のよもぎ
蓬のように真っすぐに伸びない草でも、麻畑に生えると、周りの麻に支えられてまっすぐに伸びる。邪法を信じて誤った考えに陥ったひとでも、ひとたび創価学会に入ると、同士に守られて、幸福境界を得ること。
―――――――――
本抄は前後が欠損しており、年月日、所、宛名ともに不明であるが、内容から推して身延から篤信の方への賜書とされる。
「衆生身心御書」との題号は、初めの御文から後に名づけられたもので、内容をとって「随自意御書」ともいわれる。なお御真筆は、大石寺に所蔵されている。
この部分では爾前経と法華経とを対比されて、爾前経は随他意方便の権教であり、法華経は随自意の実教であることを教示されている。
爾前経は衆生の身と心について説かれているが、衆生の心に合わせて説かれている随他意の経で、釈尊の説法ではあるけれども愚かな九界の衆生の生命を超えるものではない。
例えば提謂経は人天のこと、阿含経は二乗のこと、華厳経は菩薩のこと、方等・般若経等は人天、二乗、菩薩等のことを説いているが、いずれの経教も仏の生命そのものは示されていないので、これらを読み修行しても、仏の心に自分を合致させ成仏することはできないのである。
提謂経とは、仏が成道し已って提謂・波利の二長者のために人天乗の五戒十善を説いたものといわれる。戒法門には「倩事の情を案ずるに、山川・谿谷・大海・江河・土地・草木一切何物か五戒の体に非ずと云ふことなし。委しくは提謂経を見るべし」と記されている。
阿含経は二乗のために三蔵教の四諦の法門・十二因縁等を説き、華厳経は菩薩のために六度万行を別円二教として説き示している。また方等部の経典は蔵通別円の四教を対説し、般若経は通別円の三教を説き明かしている。
ゆえに本抄では、方等・般若は阿含・華厳の内容に似ていると仰せなのである。
これらは皆、衆生の機根に合わせ、衆生の生命を説いたのであって、仏の生命、仏の悟りはいかなるものかを明かしてはいない。これに対して法華経は仏の悟りの生命を説かれた随自意の教えである。ゆえに法華経を信受し、読誦してこそ、仏の悟りを我が身に体得して即身成仏が可能になるのである。
随自意と随他意について
随他意とは仏が衆生の機根や好みに応じて説法した教えということであり、そこで説かれているのは、衆生の身心にすぎない。一代仏教のなかでも、人天・二乗・菩薩の境界を説いた爾前経は随他意の教えである。
諸経と法華経と難易の事には爾前経が随他意の教えであることを、次のように示されている。「問うて云く其の随他意の証拠如何、答えて云く勝鬘経に云く『非法を聞くこと無き衆生には人天の善根を以て之を成熟す声聞を求むる者には声聞乗を授け縁覚を求むる者には縁覚乗を授け大乗を求むる者には授くるに大乗を以てす』と云云、易信易解の心是なり、華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し(中略)諸経の如くんば人は五戒・天は十善・梵は慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・縁覚の十二因縁・菩薩の六度・譬へば水の器の方円に随い象の敵に随つて力を出すがごとし」(0992-01)。
これに対して随自意とは、衆生が理解できるか否かにかかわりなく、仏が自らの悟りのまま、仏界それ自体を示した真実の教えをいう。法華経が随自意の経にあたる。ゆえに、法華経では、衆生がとうてい理解できないものであり、信ずる以外にないと釈尊自身、ことわっているのである。
「諸経と法華経と難易の事」には「仏九界の衆生の意楽に随つて説く所の経経を随他意という譬えば賢父が愚子に随うが如し、仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という、譬へば聖父が愚子を随えたるが如きなり」(0991-14)と仰せである。
本抄では「賢父が愚子に随う」場合の一つの譬えとして、酒飲みの子供とそれに随う父母のことを挙げられている。ここで父母とは釈尊であり、子は衆生、その好む酒とは二乗、三乗の法をさしておられる。
これに対し、法華経では、仏界を開示し「聖父が愚子を随え」るように衆生の心を正し、仏心に随えるのである。
この法華経を信受してこそ、衆生も仏になれることを本抄では、麻のなかの蓬等の譬えで教示されている。
麻はまっすぐに伸びるが、蓬は曲がりがちである。しかし麻畑に伸びる蓬は麻に支えられてまっすぐに成長していくことができる。これと同じように、九界の衆生の曲がった心も法華経を信受することによって、仏心の力に感応して、まっすぐに正され、一生成仏が可能になるのである。
1591:01~1591:09 第二章 如来の使いに三種あるを示すtop
| 01 此の法華経にをひて又機により・ 02 時により.国により・ひろむる人により・やうやうにかわりて候をば・等覚の菩薩までも・このあわひをば.しらせ給 03 わずとみへて候、まして末代の凡夫は・いかでか・ちからひををせ候べき。 -----― この法華経も人々の機根により、時により、国により、弘める人により、さまざまに変わっているのを等覚の菩薩でもこのことを知らないと思われる。まして、末代の凡夫がどうして知ることができようか。 -----― 04 しかれども人のつかひに三人あり、 一人はきわめてこざかしき、一人ははかなくもなし・又こざかしからず、 05 一人はきわめて・はかなくたしかなる、 此の三人に第一はあやまちなし、第二は第一ほどこそ・なけれども・すこ 06 しこざかしきゆへに主の御ことばに私の言をそうるゆへに・第一のわるきつかいとなる、第三はきわめて・ はかな 07 くあるゆへに・私の言をまじへず・きわめて正直なるゆへに主の言ばを・たがへず、第二よりもよき事にて候・あや 08 まつて第一にも・すぐれて候なり、 第一をば月支の四依にたとう、 第二をば漢土の人師にたとう、第三をば末代 09 の凡夫の中に愚癡にして正直なる物にたとう。 -----― しかし、たとえば人の使いにも三種の人がいる。一人は非常に賢しく、一人は愚かでもないがまた賢くもなく、一人は極めて愚かであるが確かである。この三種の使いのうち、第一の使いは過ちがない。第二の使いは第一の使いほどではないが少し賢しいので、主人の言葉に自分の言葉を添えるから最も悪い使いとなる。第三の使いは極めて愚かであるゆえに、自分の言葉を交えず、極めて正直であるから主人の言葉を違えず、第二の使いよりもよい使いとなり、どうかすると第一の使いよりも勝れた使いとなるのである。 第一の使いをインドの四依にたとえ、第二の使いを中国の人師にたとえ、第三の使いを末代の凡夫のなかでも、愚癡であるが正直の者にたとえるのである。 |
機
説法を受ける所化の衆生の機根。宗教の五綱のひとつ。
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等覚の菩薩
仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。
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ちからひ
「計らい」。①相談。②考慮。③取り決め。ここでは②の意。
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四依
四つの依りどころとするもの、の意で四不依に対する語。法の四依、人の四依、行の四依、説の四依の四種がある。ここでは人の四依の意。人の四依は衆生が信頼してよい四種の人の意。涅槃経巻六等では、①具煩悩性の人、②須陀洹・斯陀含の人、③阿那含の人、④阿羅漢の人の四依が説かれる。
正法の前五百年
小乗の四依――┬ 初依:三賢 煩悩性を具す
├ 二依:初果 須陀洹
├ 〃:二果 斯陀含
├ 三依:三果 阿那含
└ 四依:四果 阿羅漢
正法の後五百年
権大乗の四依―┬ 初依:十住・十行・十回向
├ 二依:初地~六地
├ 三依:七地~九地
└ 四依:十地・等覚
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月支の四依
正法時代に法を弘めた迦葉、阿難、馬鳴、竜樹、無著、天親等をさす。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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人師
人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。
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漢土の人師
南三・北七の十師のこと。中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
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法華経こそ随自意の教えであり成仏の法であるが、ひとことに「法華経」といっても、機と時と国、弘める人によって、さまざまに異なる。なかんずく、末法においては、釈尊が説いた二十八品の法華経は、もはや衆生を成仏させることはできないのであって、文底独一本門の法華経である三大秘法の南無妙法蓮華経による以外にない。
このように時と機、国による異なりを知ることは至難のことであり、等覚の菩薩でも力が及ばない。まして「末代の凡夫」にとっては、とうていできることではないといわれている。もとより、ここに「末代の凡夫」と言われているのは日蓮大聖人御自身のことであるから、あくまで御謙遜の立場で仰せられているのである。
さてこのように、流布すべき「法華経」を時と機に応じて正しく知ることがいかに難しいかを、仏滅後の仏教の歴史をたどりながら、以下に示されていくのであるが、仏の使いとして仏教を弘める人に、大きく、三種のタイプがあることを述べて、正法、像法、末法の論師、人師にたとえられている。
第一の使いは「きわめてこざかしき」で、極めて利口であるから、仏の真意を推し量ることができる。これが正法時代、月氏の四依であるとされている。
第二の使いは「はかなくもなし・又こざかしからず」つまり愚かではないが、だからといって特に利口というのでもない人々である。この人々は少し利口であることから、仏の言葉に私見を加えて勝手に解釈して、仏法を弘めてしまう悪使となるのである。これが漢土の人師達であると仰せである。
つまり法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等の人師や南三北七の十師で、本抄はこのあと、これらの人師の謬見を破折されていく。
第三の使いは「きわめて・はかなくたしかなる」人々で、つまり、きわめて愚かであるが、そのため仏の教えどおりに弘めていく人である。極めて愚かであるから仏の言葉をそのまま実践するといわれる。これは末法に出現する凡夫僧の仏をさしておられる。すなわち、日蓮大聖人御自身のことにほかならないのである。
この第三の人は、正直であるため第二の型より勝れるのは当然、うっかりすれば第一の型よりも勝れるのである「あやまって」といわれているのも、御謙遜の意味であることはいうまでもない。
1591:10~1591:14 第三章 正法時の論師を挙げるtop
| 10 仏在世はしばらく 此れををく仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す、 この正法一千年を二つにわか 11 つ、前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う、ひろめし人人は迦葉・阿難等なり、後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・ 12 天親等・権大乗経を弘通せさせ給う、 法華経をば・かたはし計りかける論師もあり、又つやつや申しいださぬ人も 13 あり、 正法一千年より後の論師の中には少分を仏説ににたれども 多分をあやまりあり、 あやまりなくして而も 14 たらざるは迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著.天親等なり、 -----― 仏の御在世はしばらくおく。仏の御入滅の次の日から一千年の間を正法時代という。この正法一千年を二つに分ける。前半の五百年の間は小乗経が弘まり、これを弘めた人は迦葉・阿難等であった。後半の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等が権大乗経を弘通されたのである。 これらの人々のうちには、法華経を片端ばかり書いた論師もあり、また、まったく言い出さなかった人もあった。正法一千年より後に出た論師の中には、少しは仏説に似せて述べているが、多くの誤りがある。誤りがないが不十分なのが迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等である。 |
入滅
仏の死をいう。涅槃・入涅槃ともいう。
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正法
仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時のこと。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。仏滅後1000年までの期間。
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小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
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迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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馬鳴
梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。
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竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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無著
「無著」は梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
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天親
天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
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論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――――――――
仏在世の弟子達のことは別にして、仏滅後正像末の三時、インド・中国・日本の三国における仏法流布、とくに法華経弘通の推移が教示されていく。
まず正法時代千年間のうち、前半五百年間は小乗教流布の時代であり、後半五百年間は、権大乗教が流布された時代であった。この後半五百年、権大乗経を弘めた人々のうちでは法華経を片端ばかり述べている論師もいるといわれるのは竜樹・天親等のことであろう。
正法一千年間に活躍したのが付法蔵の人々で、それを過ぎたあとのインドの論師は仏説に似せているけれども、その主張の大部分は誤っていると仰せである。前半期では迦葉・阿難等、後半期では馬鳴・竜樹・無著・天親等の付法蔵の人々は誤りはないが、不十分であると言われている。
「撰時抄」にはこれらの人々について、次のように教示されている。
「仏の滅後二月十六日よりは正法の始なり迦葉尊者仏の付嘱をうけて二十年、次に阿難尊者二十年・次に商那和修二十年・次に優婆崛多二十年・次に提多迦二十年、已上一百年が間は但小乗経の法門をのみ弘通して諸大乗経は名字もなし何に況や法華経をひろむべしや(中略)正法の後六百年・已後一千年が前・其の中間に馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅喉尊者・僧伽難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人人始には外道の家に入り次には小乗経をきわめ後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず、設い勝劣をすこしかかせ給いたるやうなれども本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ならず、但或は指をもつて月をさすがごとくし或は文にあたりてひとはし計りかかせ給いて化導の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず」(0260-16)。
竜樹・天親が法華経を片端だけ述べたことを、「観心本尊抄」には次のように仰せである。
「問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知つて之を言わざる仁なり、或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云わず」(0245-04)。
この御文に「之を言わざる仁」の「之」とは一念三千の法のことである。日寛上人は三重秘伝抄でこの御文を解釈されている。
「竜樹・天親は三種倶に之を弘めず、故に不言と云うなり。然りと雖も、若し迹門に於て一念三千を宣べずと雖も、或いは自余の法門を宣ぶ、故に一分之を宣ぶと云うなり。若し本門と観心とに於ては一向に之を宣べず、故に不云と云うなり」。
ここに三種とは迹門・本門・文底の三種の一念三千をさしている。竜樹・天親は内鑒冷然で、心の中では一念三千を知ってはいたが、外適時宜のゆえに権大乗経を表に立てて弘め、一念三千については三種ともに弘めなかったのである。
しかし日寛上人の仰せのように、迹門の法門でも一念三千以外の自余の法門については述べたのである。例えば竜樹は大智度論巻百で「般若波羅密は秘密の法にあらず。而して法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏すると説き、大菩薩は能く受持し用う」と述べ、天親も開目抄に「法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり」(0215-16)と記されているように、法華論で種子無上を立てているのがそれである。
1591:14~1592:02 第四章 像法の諍論の様相を述べるtop
| 14 像法に入り一千年・漢土に仏法わたりしかば始めは儒家と相 15 論せしゆへに・いとまなきかのゆへに仏教の内の大小・権実の沙汰なし、やうやく仏法流布せし上・月支より・かさ 16 ねがさね仏法わたり来るほどに・前の人人は・かしこきやうなれども・後にわたる経論をもつて・みれば・はかなき 17 事も出来す、 又はかなくをもひし人人も・かしこくみゆる事もありき、 結句は十流になりて千万の義ありしかば 18 愚者はいづれに・つくべしともみへず、 智者とをぼしき人は辺執かぎりなし、 而れども最極は一同の義あり・所 1592 01 謂一代第一は華厳経・第二は涅槃経・ 第三は法華経・此の義は上一人より下万民にいたるまで異義なし、 大聖と 02 あうぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義一同なりしゆへなり。 -----― 次の像法時代の一千年に、仏法は中国に渡ったが、はじめは儒教の学者と議論を戦わせていたので、ゆとりがなかったゆえに、仏教の内の大乗と小乗、権教と実教といった論議はなかった。 だんだん仏法が流布したところへ、インドから次々と仏法が渡来したため、これまでは前の人達が賢明なように思われたが、後に渡った経論から見れば誤りであったということもあり、また、愚かと思っていた人々が賢く見えるようなこともあったのである。結局、仏法は十派に分かれ、千万の義があったので、愚かな者はどれについたらよいのかわからず、智者と思われる人はどこまでも偏執を強めていった。 しかしそうであっても、いずれも一致した義があった。いわゆる、一代聖教の第一は華厳経、第二は涅槃経、第三は法華経ということであった。この義は上一人より下万民にいたるまで異論がなかった。それは、大聖と仰がれていた法雲法師・智蔵法師等の十師の意見が一致したものであったからである。 |
像法
釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
―――
十流
中国の南三北七のこと。揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
法雲法師
(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺法雲と呼ばれる。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となり、普通6年(0525)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
―――
智蔵法師
(0458~0522)。中国・南北朝時代の僧。梁の三大法師の一人で開善寺智蔵と呼ばれる。姓は顧氏、名は浄蔵。16歳で出家し、僧遠、僧祐らに師事した。斉の文憲王、文宣王、梁の武帝から敬われ、武帝から開善寺の供養を受けた。晩年は、開善寺で般若経、涅槃経、法華経等を講説したという。
―――――――――
次に、像法時代に入って、中国に仏教が伝来し、流布していった。はじめは儒家との諍論のため、仏教のなかでの大小、権実等の争いはなかったが、一往、中国全土に流布し、しかも次々と経論が流伝してくるにつれて、仏教界の内部で、いずれの経教が勝れているのかについて、種々の見解が乱立していった様相が示されている。
そこで教相判釈を立てて争ったのが、南三北七の十流であった。十流は、それぞれの義を立て相争ったのであるが、共通の義は第一華厳経、第二涅槃経、第三法華経という教判であったと仰せである。
南三北七について
天台大師以前の教判は、南の三派と北の七派の十派に分裂していた。天台大師の法華経玄義巻十上にしたがって南三北七の教義を述べれば次のようになる。
南の三派
いずれも頓・漸・不定の三教を立てる。頓は華厳、漸は四阿含から涅槃まで、不定は勝鬘・金光明等である。このうち漸の内容を分類することによって三派に分かれる。
次に、像法時代に入って、中国に仏教が伝来し、流布していった。はじめは儒家との諍論のため、仏教のなかでの大小、権実等の争いはなかったが、一往、中国全土に流布し、しかも次々と経論が流伝していくにつれて、仏教界の内部で、いずれの経教が勝れているかについて、種々の見解が乱立していった様相が示されている。
そこで教相判釈を立てて争ったのが南三北七の十流であった。十流は、それぞれの義を立て相争ったのであるが、共通の義は第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経であったと仰せである。
江南の三師
三時教。虎丘山の岌師
有相教 仏成道後の後十二年
無相教 十二年後法華に至る
常住教 涅槃経
四時教。宗愛法師
有相教 仏成道後の後十二年
無相教 十二年後法華に至る
同帰教 法華経
常住教 涅槃経
五時教。道場寺の観法師、開善寺の智蔵・光宅寺の法雲の所用す
有相教 阿含
無相教 阿含以後
褒貶抑揚教 浄名思益等
同帰教 法華
常住教 涅槃
北の七派
河北の七師
五時教。北地師
人天教 提謂等
有相教 阿含
無相教 浄名経。般若
同帰教 法華
常住教 涅槃
半満二教。菩提流支
半字教 阿含
満字教 権大乗経
四宗。光統
因縁宗 毘曇
假名宗 成実
誑相宗 般若
常宗 涅槃・華厳等
五宗。有師
因縁宗 毘曇
假名宗 成実
誑相宗 般若
常宗 涅槃
法界宗 華厳
六宗。有師
因縁宗 毘曇
假名宗 成実
誑相宗 般若
円宗 大集
真宗 法華
常宗 涅槃・華厳
二種大乗。北地禅師
有相大乗 大品・華厳・瓔珞
無相大乗 楞伽
一音教。北地禅師
但一仏乗を立つ。一音をもって法を説くに頓に随って異解す
「報恩抄」で日蓮大聖人は「天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども詮して十流となりぬ所謂南三北七なり十流ありしかども一流をもて最とせり、所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり、此の人は一代の仏教を五にわかつ其の五の中に三経をえらびいだす、所謂華厳経・涅槃経・法華経なり一切経の中には華厳経第一・大王のごとし涅槃経第二・摂政関白のごとし第三法華経は公卿等のごとし」(0298-03)と仰せである。
南三北七のなかでは法雲の所用した南三の五時教判を取り上げ、これを破折され、他はこれに準ずるとされるのである。
1592:03~1592:09 第五章 天台大師の出現と公場対決を述べるtop
| 03 而るを像法の中の陳隋の代に智顕と申す小僧あり後には智者大師とがうす、 法門多しといへども詮するところ 04 法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つ計りなり、 智顕法師云く仏法さかさまなり云云、陳主此の事をたださんがために 05 南北の十師の最頂たる恵コウ僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時・法華経の中には 06 「諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、 又云く「已今当説最為難信難解 」等云云、 已とは無量義経に云 07 く「摩訶般若華厳海空」等云云、 当とは涅槃経に云く「般若はら蜜より大涅槃を出だす」等云云、 此の経文は華 08 厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆる事赫赫たり・明明たり・御会通あるべしと・せめしかば、或は口をとぢ・或は 09 悪口をはき・或は色をへんじなんど・せしかども、陳主立つて三拝し百官掌をあわせしかば力及ばずまけにき。 -----― ところが像法時代の中の陳隋の時代に、智顗という小僧があり、後に天台智者大師と号された。大師の説かれた法門は数多いが、詮ずるところ、仏法の勝劣は法華経・涅槃教・華厳経の順でありこれ以外にはないということであった。 智顕法師いわく「今の仏法の次第は逆である」と。陳朝の天子はこの是非を明らかにするため、南三北七の大師の上首である恵こう僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百余人の学者を召し集めて天台大師と対論させられたのである。 この時、天台大師は「法華経のなかに安楽行品第十四には『諸経の中に於いて、最も其の上に在り』とある。また法師品第十には『已今当説・最為難信難解』とある。この文にある已とは、無量義経に『摩訶般若・華厳海空』とある。当とは、涅槃経巻十四に『般若波羅蜜より大涅槃を出だす』とある。これらの経文に華厳経・涅槃経よりも法華経が勝れるとあることは赫赫であり、明明である。この仏説に意義があるなら回答されたい」と責められたところ、学者達は或いは口を閉じ、或いは悪口を吐き、或いは顔色を変えたりしたが、陳主が起って天台大師を三拝し、百官も合掌したので、力及ばず破れてしまったのである。 |
陳隋
陳隋とは中国の王朝である陳朝と隋朝のこと。陳朝は0557年から0589年。南朝最後の王朝。隋朝は陳朝を滅ぼして南北に分裂していた中国を一つに統合した。0581年から0618年。陳隋二代の帝とは陳の第五代後主陳叔宝と、隋第二代煬帝をいう。天台大師は陳・隋時代の人で、摩訶止観巻一上に「陳隋二国に宗めて帝師と為す」とあるように陳の後主と隋の煬帝の帰依を受けた。
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智顗
(0538~0597)。天台大師のこと。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。智顗は諱字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
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陳主
(0553~0604)。陳の第五代の皇帝、後主のこと。諱は叔宝。第四代宣帝の子。0582年、30歳で即位した。この時、陳の国力は傾いており、施文慶らの重用によって滅亡を早めた。天台大師を帝師として崇めていた。
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仏法さかさまなり
法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三であるものを、光宅寺の法雲等は、華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三とたてたことを言う。
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恵こう僧上
(0515年~0589)。中国・南北朝時代の僧。陳の永定3年(0559)には白馬寺で涅槃経・成実論を講じている。至徳4年(0586)には大僧正となった。至徳3年(0585)勅によって天台大師と法論して敗れた。
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恵光僧都
(0534~0613)。慧曠のことと思われる。慧曠は中国・南北朝から隋代にかけての僧。天台大師に律蔵と大乗を教えた律師でもある。しかし、南三北七の諸師と共に、天台大師にその謬義を論破されている。なお、恵光(0468~0537)は天台大師の生誕前に没している。
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恵栄
(~0586)中国・南北朝時代の僧。光宅寺法雲の弟子で荘厳寺に住した。天台大師の法華経の経題の釈を開いて以後、天台大師を賛嘆している。
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法歳法師
生没年不明。中国・陳随時代の定林寺の僧。天台大師が金陵の瓦官寺で法華の経題を講義したとき、定林寺の上首としてその法座につらなり、天台大師の教理の深さに驚いて、即座に帰伏した。
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無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
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華厳海空
華厳経の法門のこと。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るように、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす。
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御会通
和会疏通の意。和会、融会、会釈ともいう。経論の異義異説を和会し、一意に帰させること。和会は経論の説を照らし合わせること、疏通とは筋道が通ることをいう。
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天台大師の出現と公場対決によって、法華経の最勝なることが明確にされたことが述べられている。
天台大師は一切経の中で法華経が第一であり、涅槃経は第二、華厳経は第三であると判じ、南三北七の十流の長老百余人と対決した。天台大師が法華経安楽行品の「諸経の中に於いて最も其の上に在り」の文、並びに法師品の「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経は最も為れ難信難解なり」の文をもって責めたのに対し、高僧達は返答もできなかった。
国王の陳主、政府百官が天台大師に帰伏したので天台法華宗が最高の宗となり、中国仏教は法華経のもとに統一されたのである。
天台大師は、彼ら十師が法華経より勝れると主張している華厳経が法師品でいう已説のなかに入ることを、法華経の序分たる無量義経の文によって立証した。
無量義経説法品には「方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし」の文、並びに「種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」の文によって、華厳経も未顕真実と打ち破られた爾前経に入ることが明らかであると責めたてたのである。
また、涅槃経が法師品にいう当説であることを立証するためには、涅槃経巻十四の文が挙げられている。
「仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より大涅槃を出す」。
日蓮大聖人は「報恩抄」に、この点について涅槃経巻九の文を挙げて明確にされている。
「第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、所謂経文に云く『是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・記別を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し』等云云、経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始捃拾の位と定め給いぬ、此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ」(0300-03)。
天台大師は、法華経を秋収冬蔵の大果実位、涅槃経をその後の落穂拾いの位であり、涅槃経が法華経に劣ることは明白であると述べ、南三北七の十師を破折したのである。
1592:10~1593:07 第六章 天台大師以後の仏法混乱の相を明かすtop
| 10 一代の中には第一法華経にてありしほどに 像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる大宗皇帝の貞観三年に玄 11 奘と申す人あり・月支に入りて十七年・ 五天の仏法を習いきわめて貞観十九年に漢土へわたりしが・深密経・瑜伽 12 論・唯識論・法相宗をわたす、 玄奘云く「月支に宗宗多しといへども此の宗第一なり」大宗皇帝は又漢土第一の賢 13 王なり・玄奘を師とす、此の宗の所詮に云く「或は三乗方便・一乗真実」或は一乗方便・三乗真実・又云く「五性は 14 各別なり・決定性と無性の有情は永く仏に成らず」等と云云、 此の義は天台宗と水火なり・而も天台大師と章安大 15 師は御入滅なりぬ・其の已下の人人は人非人なり・すでに天台宗破れてみへしなり。 -----― 一代聖教の中では法華経第一が確定していたのに、像法の後の500年に新訳の経論が次々と渡ってきた。 唐の大宗皇帝の治世、貞観3年(0629)に玄奘という人がインドに入って17年間、五天竺の仏法を習い究めて貞観19年(0645)に中国に帰り、深密経、瑜伽論・唯識論、法相宗を中国へ伝えた。 玄奘いわく「インドに宗派はたくさんあるが法相宗が第一である」と。太宗皇帝は又中国第一の賢王であるが、玄奘を師とされたのである。 この宗の所詮は「三乗方便・一乗真実」、或いは「一乗方便・三乗真実」、或いは「五性は各別なり。決定性と無性の有情は永く仏にならず」と。この義は天台宗とは水と火のように相容れない。しかも、天台大師と章安大師はすでに御入滅になっており、その後の人達は人らしい人もなかったので天台宗も破れてしまったように見えたのである。 -----― 16 其の後則天皇后の御世に華厳宗立つ・前に天台大師にせめられし六十巻の華厳経をば・さしをきて後に日照三蔵 17 のわたせる新訳の華厳経八十巻をもつて立てたり、 此の宗のせんにいわく華厳経は根本法輪・ 法華経は枝末法輪 18 等云云、 則天皇后は尼にてをはせしが内外典に・こざかしき人なり、 慢心たかくして天台宗をさげをぼしてあり 1593 01 しなり、法相といゐ・華厳宗といゐ・二重に法華経かくれさせ給う。 -----― その後、則天皇后の治世に華厳宗が成立した。すでに天台大師に責められた六十巻の旧訳の華厳経をさしおいて、後に日照三蔵が伝えた新訳の八十巻の華厳経に依って立てたのである。この宗の所詮は「華厳経は根本法輪、法華経は枝末法輪」ということである。 則天皇后は尼であったが、仏典と外典について少々知識があったため、慢心を起こして天台宗をさげすんでいたのである。 こうして法相宗と、華厳宗とによって、二重に法華経はかくれてしまったのである。 -----― 02 其の後玄宗皇帝の御宇に月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵.不空三蔵・大日経・金剛頂経.蘇悉地経と申す三経を 03 わたす、此の三人は人がらといゐ・法門といゐ・前前の漢土の人師には対すべくもなき人人なり、 而も前になかり 04 し印と真言とを・わたすゆへに仏法は已前には此の国になかりけりと・ をぼせしなり、此の人人の云く天台宗は華 05 厳・法相・三論には勝れたり・しかれども此の真言経には及ばずと云云、 其の後妙楽大師は天台大師のせめ給はざ 06 る法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給いて候へども・天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば・ただ闇夜のにしきの 07 ごとし、法華経になき印と真言と現前なるゆへに皆人一同に真言まさりにて有りしなり。 -----― その後、玄宗皇帝の治世に、インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵が大日経・金剛頂経・蘇悉地経という三つの経を伝えた。 この三人は人柄といい法門といい、それまでの中国の人師とは比べものにならないほどの人々であった。しかも、これまでになかった印と真言とを伝えたので、真実の仏法は以前には中国になかったものであると思っていたのである。この人々のいわく「天台宗は華厳宗・法相宗・三論宗には勝れているが、この真言経には及ばない」と。 その後、妙楽大師は天台大師が責められなかった法相宗・華厳宗・真言宗を責められたが、天台大師のように公場での対決ではなかったために、ちょうど闇夜の錦のように人々には見えず、法華経にない印と真言とが目の前にあるので、人々は一同に真言宗が天台宗より勝れていると思ってしまったのである。 |
新訳
像法の前500年は、中国に仏法が流布し、さかんに翻訳が行われている。竺法蘭・鳩摩羅什などである。これらの経典を旧訳といい、像法の後の500年を新訳という。玄奘三蔵・善無畏三蔵に代表される。一般に新訳は訳者の自我が多い経典とされ、真言宗の善無畏が立てた理同事勝などは代表的な例である。
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太宗皇帝
(0598~0649)唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
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玄奘
(0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」六百巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
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五天
インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
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深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
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瑜伽論
法相宗所依の論。瑜伽師地論、ヨーガーチャーラ・ブーミ(Yogācārabhūmi-śāstra)。弥勒説・玄奘訳百巻。瑜伽は相応と訳す。一切の境・行・果・教が互いに相応することをいう。師地は、三乗の行者が聞思等によって次第に瑜伽を修習して境界を深め、それぞれの分に従って諸の有情を教化することをいう。瑜伽論の所行の境界には、第一・五識身相応地から第十七・無余依地までの十七地がある。十七地は以下の通り。1.五識身相応地、2.意地、3.有尋無伺地、4.無尋唯伺地、5.無尋無伺地、6.三摩哂多地、7.非三摩哂多地、8.有心地、9.無心地、10.聞所成地、11.思所成地、12.修所成地、13.声聞地、14.独覚地、15.菩薩地、16.有余依地17.無余依地。
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唯識論
「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。
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法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
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三乗方便・一乗真実或は一乗方便・三乗真実
法相宗の立てる教義。法相宗では衆生が本来そなえている機根に五種があり、それは決して変えることができないものであると五性格別の説を立てる。五性は①定性声聞、②定性縁覚、③定性菩薩、④三乗不定性、⑤無性で、このうち①は阿羅漢果、②辟支仏果、③仏果を得ることが定まっており、三乗不定性のうち①、②、④の不定性は仏果を開くことができるが、③は成仏することができないとしている。つまり、機根に随っていく考え方なので、一乗の機根のためには三乗教が方便であって、一乗教が真実となり、三乗の機根のためには、三乗教が真実であって一乗教が方便となる。したがって一切衆生皆成仏道を説く法華経は、不定性そのものを励まして仏果に至らせる方便の教えに過ぎず、解深密経に劣るとしている。
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五性は各別
解深密経によって、人の性質は本来五種、①定性声聞、②定性縁覚、③定性菩薩、④三乗不定性、⑤無性の決定的差別があるという考え方。したがって、その五性に適して説いた三乗・五乗等の教えこそ真実であって、一仏乗を説いた法華経は方便であるというのが法相宗の主張である。
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決定性
決定種性のこと。爾前経で声聞・縁覚の二乗は六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして「決定性」とよんだ。法相宗ではとくにこれを強調し、法華経とはぜんぜん逆に、一乗方便・三乗真実と立てる。
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無性の有情
法相宗の「五性格別」の法門から出た語。法相宗では一切有情に五種の性があるとする。一に声聞種性、二に独覚種性、三に如来種性、四に不定種性、五に無有出世功徳性である。この第五は、三果性といって声聞・縁覚・菩薩になる性がなく、成仏の因がないものとして、これを無性有情という。
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章安大師
(0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
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人非人
「人」とは人間、「非人」とは天・竜・八部等の人間でないものをいう。
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則天皇后
(0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
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華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
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華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
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日照三蔵
(0613~0687)。中国・唐代に渡来したインドの訳経僧。梵名・地婆呵羅(Divākārā)。儀鳳元年(0676)に中国に来て、太原寺・弘福寺に住み、「華厳経」など十八部三十四巻を訳出した。法蔵はこの日照の訳出した「華厳経入法界品」によって、旧訳華厳経の欠を補ったという。垂拱3年(0687)に没した。則天武后の勅によって洛陽竜門の香山寺に葬られた。
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華厳経は根本法輪・法華経は枝末法輪
三論宗の吉蔵は法華遊意の中で釈尊の転法輪を根本法輪・枝末法輪・摂末帰本法輪に分け、華厳経、三乗教、法華経をそれぞれに配した。これを受けて華厳宗の法蔵は吉蔵の三種法輪を取り入れたが、華厳経を根本法輪、法華経を枝末法輪に摂している。
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尼
普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。
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内外典
内道と外道にわたる典籍や伝承。
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天台宗
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
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御宇
ひとりの天子の時代。
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善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
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金剛智三蔵
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
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不空三蔵
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
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大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
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金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
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蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
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印と真言
「印」とは真言宗における漫荼羅の諸尊が、おのおのその内証の本誓を表示する形式。広義の印とは、刀剣・輪宝・宝珠・金剛杵・蓮華などをさし、狭義には、本尊の手相および行者の手の形をいう。「真言」とは、真言陀羅尼ともいい、仏の真実の言葉をいい、呪文のようなものである。
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真言経
大日経・蘇悉地経・金剛頂経、真言三部経をいう。
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妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
―――
闇夜のにしき
錦は数種の糸で文様をおりなした豪華な着物。しかし、闇夜には、豪華さがわからない。天台法華宗を錦に、世に認められなかったことを闇夜に譬えた文。
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以上のように、天台大師によって、法華第一の正義のもとに、中国仏教はひとたびは統一されたのであるが、天台大師滅後、玄奘により法相宗、日照により華厳宗、善無畏等の三三蔵により真言宗が伝来し、再び中国仏教は混乱に陥るのである。
それに対して妙楽大師が天台三大部の注釈をつくってこれらの邪義を破折したが、国王の帰依もなく公場対決もなかったゆえに、法華経最勝は世に明確にされることがなく、中国の天台宗は発展の道を閉ざされたのである。
天台大師以後に興隆した法相宗、華厳宗、真言宗等の伝来の歴史をまとめると次のようである。
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仏滅後 |
西暦 |
和歴 |
事例 |
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1546 |
0597 |
推古04 |
天台大師 死す |
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1578 |
0629 |
欽明01 |
唐の二代皇帝太宗の治世、中国法相宗の祖・玄奘三蔵求経のためインドに渡る |
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1581 |
0642 |
皇極01 |
章安大師 死す |
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1594 |
0645 |
大化01 |
玄奘三蔵インドから帰る |
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1595 |
0646 |
大化02 |
玄奘三蔵「大唐西域記」著す |
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1613 |
0664 |
天智03 |
玄奘三蔵 死す |
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1633 |
0684 |
天武09 |
四代皇帝中宗即位。二月、則天皇后中宗帝を廃し自ら政務を司る。法蔵三蔵華厳経を新訳す |
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1665 |
0716 |
霊亀02 |
真言宗善無畏三蔵 唐に入る |
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1668 |
0719 |
養老03 |
金剛智三蔵 唐に入る |
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1669 |
0720 |
養老04 |
不空三蔵 唐に入る |
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1692 |
0743 |
天平14 |
妙楽大師 天台大師の三大部の疏釈を著す |
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1731 |
0782 |
延暦01 |
妙楽大師 死す |
三乗方便・一乗真実、一乗方便・三乗方便、五性格別
法相宗では衆生が本来そなえている機類に五種類を立てる。そしてその機類によって五性格別の説を立てる。
この宗でいう五性とは次のとおりである。
一、定性声聞
二、定性縁覚
三、定性菩薩
四、三乗不定性
五、無性
最初の三つはそれぞれ阿羅漢果・辟支仏果・仏果を得ることに決まっているので決定性という。
第四の三乗不定性は声聞・縁覚・菩薩の三乗の種子を種々組み合わせてもち、果が決定していないので不定性という。
第五の無性とはこれら三乗の種子を全くもたず、わずかに人天を開く種子をもつ者をいう。
法相宗は、右の五性のうち仏は声聞性、縁覚性、菩薩性のために声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗を説き、不定性のなかの二乗のために法華経を説いて成仏せしめた。そして、三乗性なき無性有情のためには人天乗を説いたとする。
撰時抄には「此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便」(0262-07)と、これを要約されている。
また「開目抄」でも「此の宗の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず(中略)されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず」(0198-14)と法相宗の主張を挙げられている。
ここに無性有情とは第五の無性のことで、決定性の二乗とは第一定性声聞、第二定性縁覚をさし、これらはいずれも、永不成仏の者とするのである。
彼らの言い分では、法華経で成仏できるというのは不定性のなかの二乗のことで、決定性の二乗、無性有情は法華経でも成仏できないとする。
このゆえに、仏にとっては一乗の法華経が真実、三乗の法は方便であるが、衆生にとっては法華経は方便であり、声聞・縁覚・菩薩等とそれぞれの機根に応じて説いた三乗の説法のほうが真実であるというのが法相宗の主張である。
無性有情、決定性の二乗は法華経でも成仏できないというのは根拠のないきめつけであり、法華経の真意に背く邪義であることは言うまでもない。
華厳経は根本法輪、法華経は枝末法輪
三論宗の吉蔵や華厳宗の法蔵は、華厳経は仏が最初、自らの悟りのまま説いた教であるから根本法輪だという。
三論宗の吉蔵は、枝末法輪とは阿含経から般若経に至る種々の法輪であるとする。つまり、一切衆生は根本法輪である華厳経の説法を了解できなかったので、仏はさらに一仏乗を分けて三乗各別の教えを説いたのだといい、法華経を摂末帰本法輪であるなどといっている。つまり法華経は枝末の三乗を合して根本の一仏乗に帰せしめる教であるとする。
一方、華厳宗の法蔵は法華経を枝末法輪のなかに包摂し、法華経は最後の説法で枝末を掃除したようなものであるから、枝末法輪に含められるというのである。
天台大師によっていったんは確立された法華経最勝の正義は、太宗皇帝の支援を受けた法相宗、則天武后の支持を得た華厳宗によって破られていたのであるが、その天台法華宗の凋落を更に決定的にしたのが、善無畏三蔵等による真言宗の伝来であった。
善無畏等は、大日経等をもって中国に来ると、天台大師の一念三千を見聞し、これを盗んで所持の経典につけ、一念三千の法門は法華経にも大日経にもあるから、理においては同じである。しかし、印と真言は、法華経にはないので真言の経の方が勝れると言い、いわゆる理同事勝の義を唱えたのである。
しかも、玄宗皇帝にとりいり、その後援を受けて弘教したので、たちまち一大勢力にのしあがったのである。
これらの嘆かわしい状況に対し、天台大師より六世の法孫、妙楽大師は、天台三大部の疏を造り、正義の興隆に力を尽くしたが、公場での対決、邪義破折の機会もなかったために、妙楽大師は、一往は天台宗中興の祖といわれながらも、再び中国仏教界に法華経の正義を確立するには至らなかった。
1593:08~1593:14 第七章 仏教の日本伝来と伝教大師の事跡を述べるtop
| 08 像法の中に日本国に仏法わたり所謂欽明天皇の六年なり、 欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論・成 09 実・法相・倶舎.華厳・律の六宗・弘通せり、真言宗は人王四十四代.元正天皇の御宇にわたる、天台宗は人王第四十 10 五代・聖武天王の御宇にわたる、しかれども・ひろまる事なし、桓武の御代に最澄法師・後には伝教大師とがうす、 11 入唐已前に六宗を習いきわむる上・十五年が間・天台・真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき、入唐已前に天台 12 宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ、 六宗の義やぶれぬ、 後延暦廿三年に御入 13 唐・同じき廿四年御帰朝・天台・真言の宗を日本国にひろめたり、 但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つて 14 とかざるか。 -----― 同じ像法の時代に日本に仏法が渡ってきた。いわゆる欽明天皇の6年のことである。この欽明天皇から桓武天皇に至るまでの二百余年の間は、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の六宗が弘通された。真言宗は人王第四十四代の元正天皇の治世に渡来し、天台宗は人王第45代の聖武天皇の治世に渡来した。しかし弘まることはなかったのである。 桓武天皇の治世に最澄といって、後には伝教大師と号された人が、入唐以前に六宗を習い究めた上に、15年もの間、天台・真言の二宗を比叡山に籠もって研究されていた。入唐以前に天台宗をもって六宗を責めたところ、南都七大寺の高僧達は、皆責め落とされて最澄法師の弟子となった。六宗の義は破れてしまったのである。その後、延暦23年(0804)に入唐、同じ延暦25年(0805)に帰朝され、天台・真言の二宗を日本国に弘めたのである。しかし、二宗の勝劣はただ御自身の胸の中では知っておられたが、人に向かっては説かなかったのであろうか。 |
欽明天皇
(0509~)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
―――
桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえ
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成実
四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
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倶舎
倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
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律
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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元正天皇
0680~0748 奈良時代の第44代天皇。女帝。在位、霊亀元年(0715)9月2日~ 養老8年(0724)。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
―――
真言宗は……元正天皇の御宇にわたる
扶桑略記巻六元正天皇霊亀三年の条には「或記に云く、大唐善無畏三蔵、養老元年入朝す」と記されている。この「或記」がいずれの史料であるかは不明であるが、大聖人は報恩抄でも「日本人王・第四十四代と申せし元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる」(0304)と仰せられているように、大聖人はいずれかの資料で大日経を持して善無畏が来朝したとされ、本抄でも、この来朝をもって、真言宗の渡来とされている。
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聖武天皇
(0710-0756)第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(0749)7月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(0756)5月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。
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天台宗は……聖武天王の御宇にわたる
聖武天王の治世、天平勝宝6年(0754)に鑑真が来朝して、天台三大部をもたらした。本抄では、これをもって、天台宗の渡来とされている。
―――
最澄法師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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日本への仏教各宗派の伝来と伝教大師による法華経の正義の樹立について述べられている。
神武天皇から第29代欽明天皇の御宇、百済国の聖明王の使者が経典、釈尊像、僧尼等を献上したのが、日本への仏教公伝の最初とされている。
その後、第36代孝徳天皇の御宇に三論宗、成実宗を観勒僧正が百済国から伝え、同じ御代に道昭が中国から法相宗、俱舎宗を渡している。
第44代元正天皇の御宇に善無畏三蔵が日本に来たが、真言宗は弘通しないで中国に帰ったという。
第45代聖武天皇の御宇に審祥が新羅から華厳宗を渡し、良弁と聖武天皇に授けた。まだ東大寺の大仏が建立された。
同じ御代に唐の鑑真が天台宗と律宗を渡した。律宗を弘通し小乗の戒壇を東大寺に建立したが、天台宗は弘通せずして没した。
第50代桓武天皇の時に伝教大師が出現し、初めは三論、法相、華厳、俱舎、成実、律の六宗を行表僧正について修学したが、後に比叡山に籠山して天台・真言の二宗について経論を見、その後、桓武天皇の前で六宗と公場対決して、その謬義を打ち破ったのである。
公場対決の模様について大聖人は「報恩抄」に次のように紹介されている。
「而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あつて七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり」(0303-06)。
この公場対決は、その前年の延暦20年(0801)11月中旬に伝教大師の行った法華十講に参加していた弘世、真綱の兄弟が高雄寺に伝教大師を請じた時のことであるといわれている。
この時桓武天皇は、随喜の意をもらし、また14人に対して謝表を奉るように宣したのである。
次いで伝教大師は延暦23(0804)年から24年(0805)にかけ、ほぼ9ヵ月間入唐し、帰朝後、天台・真言の二宗を弘めたが、天台・真言の勝劣については「内心に此れを存じて人に向つてとかざるか」と、本抄では述べられている。
この点について「報恩抄」では、さらに詳しく教示されている。
「真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・涅槃等の例とせり、而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわずらはしきに依りてや真言・天台の二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給わざりけるか」(0304-10)。
すなわち、伝教大師は、大日経は法華経に劣るが、華厳経と同じく傍依として活用するため、真言を法華宗内に含めて、あえてその勝劣を言わなかったということと、もう一つ、伝教大師は、生涯の目標である円頓戒壇建立のために諸宗と諍論している時に、さらに真言をとりあげると戒壇建立に支障を生ずるようになることを考慮して破折しなかったということである。
だが、伝教大師の依憑集には天台と真言の勝劣が明確にされていることを、大聖人は「報恩抄」の中で述べられている。
「但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり、いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智・入滅の後・月氏に入りてありしに竜智菩薩に値い奉りし時・月氏には仏意をあきらめたる論釈なし、漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび偏円をあきらめたる文にては候なれ、あなかしこ・あなかしこ月氏へ渡し給えとねんごろにあつらへし事を不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを記の十の末に引き載せられて候をこの依憑集に取り載せて候、法華経に大日経は劣るとしろしめす事・伝教大師の御心顕然なり」(0304-14)。
真言宗が祖と仰いでいる竜樹から付法を受けた竜智でさえ天台大師の勝れることを認めていたのであり、しかも、それを不空の弟子・含光が妙楽大師に語ったというのであるから、天台と真言の勝劣は当然のこととして、伝教大師は、今さら改めて真言を対破するまでもないと考えたのではなかろうか。
また「撰時抄」では「入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論の計りなかりけるかのあひだ敵多くしては戒場の一事成りがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん」(0276-14)と二つの理由を挙げておられる。
前の理由は報恩抄と同じであるが、伝教大師の真意は後の理由、つまり、末法の御本仏である日蓮大聖人に残されたのである。
1593:15~1594:09 第八章 弘法・慈覚・智証の邪義出来の相を示すtop
| 15 同代に空海という人あり後には弘法大師とがうす、延暦廿三年に御入唐・大同三年御帰朝・但真言の一宗を習い 16 わたす、此の人の義に云く法華経は尚華厳経に及ばず・何に況や真言にをひてをや。 17 伝教大師の御弟子に円仁という人あり・後に慈覚大師とがうす、去ぬる承和五年の御入唐・同十四年に御帰朝・ 18 十年が間・真言.天台の二宗をがくす、日本国にて伝教大師・義真.円澄に天台・真言の二宗を習いきわめたる上・漢 1594 01 土にわたりて十年が間・八箇の大徳にあひて真言を習い・宗叡・ 志遠等に値い給いて天台宗を習う、日本に帰朝し 02 て云く天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり倶に深秘なり等云云、宣旨を申して・これにそう。 -----― 伝教大師と同じ時代に空海という人があり、後に弘法大師と号した。延暦23年(0804)に入唐、大同3年(0808)に帰朝した。ただ真言の一宗だけを習い伝えた。この人の義にいわく「法華経は華厳経にさえ及ばない。いわんや大日経はなおさらである」と。 伝教大師の御弟子に円仁という人があり、後に慈覚大師と号した。承和5年(0838)に入唐し、同じく承和14年(0847)に帰朝した。この10年の間、真言・天台の二宗を学んだのである。日本にいる時は伝教大師・義真・円澄などから天台・真言の二宗を習い究めたうえ、中国に渡って10年の間に8人の学者にあって真言を学び、宗叡・志遠等に値って天台宗を学んだ。日本に帰朝していわく「天台宗と真言宗とは同じく醍醐味の経であり、ともに深秘の経である」と、朝廷からの宣旨をこれに添えられたのである。 -----― 03 其の後円珍と申す人あり後には智証大師とがうす、 入唐已前には義真和尚の御弟子なり、日本国にして義真・ 04 円澄・円仁等の人人に天台・真言の二宗習いきわめたり、其の上去ぬる仁嘉三年に御入唐・同貞観元年に御帰朝・七 05 年が間.天台.真言の二宗を法全.良ショウ等の人人に習いきわむ、天台.真言の二宗の勝劣は鏡をかけたり、後代に一 06 定あらそひありなん・定むべしと云つて天台・真言の二宗は譬へば人の両の目・鳥の二の翼のごとし、 此の外異義 07 を存ぜん人人をば祖師伝教大師にそむく人なり 山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給いき・ されば 08 漢土日本に智者多しといへども 此の義をやぶる人はあるべからず、 此の義まことならば習う人人は必ず仏になら 09 せ給いぬらん、あがめさせ給う国王等は必ず世安穏にありぬらんとをぼゆ。 -----― その後、円珍という人があり、後には智証大師と号した。入唐する以前は義真和尚の御弟子であった。日本にいる時は義真・円澄・円仁等の人々から天台・真言の二宗を習い究めたのである。そのうえに仁嘉3年(0853)に入唐、貞観元年(0859)に帰朝された。七年間、天台・真言の二宗を法全・良諝等の人々に習い究められたのである。天台・真言の二宗の勝劣は鏡に映したように明らかであるが、後の代には必ず諍いがあるだろう。それを防ぐために勝劣を定めておくと言って「天台・真言の二宗は譬えば人の二つの目・鳥の二つの翼のようなもので勝劣はない。この外に異義を立てる者は祖師伝教大師に背く人であり、この山に住んではならない」と、朝廷からの宣旨を添えて国中に弘められたのである。 それゆえ、中国、日本に智者が多いといっても、この義を破る人はいるはずがない。この義が真実であるなら、習学する人々は必ず成仏するであろう。崇められる国王等は必ず安穏であると思われるのである。 |
空海
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
―――
円仁
(0794~0864)。慈覚のこと。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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義真
(0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
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円澄
(0771~0836)。平安時代前期の天台宗の僧。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。
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八箇の大徳
中国・真言密教の八人の師。全雅・元政・義真・宝前・宝月・周頴・良侃・惟謹をいう。
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宗叡
生没年不明。元亨釈書巻三等によると、円仁は承和5年(0838)に入唐して揚州海陵県に到着したが、天台山に行く許可が下りず、この滞留の間に、「一僧あり上都より来る。宗叡と号し、悉曇に通ず。仁、之に従って梵学を習う」と、宗叡が梵語に通じており、円仁に教えたことが記されている。この宗叡は長安の西明寺の僧であるが、詳細は不明である。
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(0768~0844)。中国天台宗の僧。幼くして父を失ったが、母は常に法華経を念じてその義を悟ったという。各地の名徳をたずね五台山華厳寺に入って天台宗を学び、入唐した円仁に止観を伝えた。
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醍醐
五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
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宣旨
天皇の詔。朝廷から出される詔文書。
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円珍
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。天台宗寺門派の祖。円珍は諱。諡号は智証大師。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で比叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来した。天安2年(0853)に帰国し、貞観10年(0868)延暦寺座主となってから、園城寺(三井寺)を仏法灌頂の道場とした。天台宗に真言密教を取り入れ「法華経や華厳経等の所説は皆戯論である」等と述べた。著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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法全
生没年不明。中国・唐代の長安青龍寺の僧。円仁、円珍が入唐した時に密教を教えている。円仁には胎蔵の儀軌、円珍には瑜伽を教え、伝法阿闍梨の灌頂をしている。
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良諝
生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。天台大師の九代の伝法弟子。仁寿3年(0853)円珍が開元寺を訪れた時に天台学を教えた。
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日本において、伝教大師により打ち立てられた法華最勝の正義が、弘法、慈覚、智証によって破られた経過が述べられている。
弘法は入唐中、慧果から金剛界及び胎蔵界の真言を伝授したという。弘法は十住心論のなかで第一大日経、第二華厳経、第三法華経であると勝劣を判じている。
慈覚は本来は伝教大師の弟子で、延暦寺第三代座主となった人だが、入唐中、宗叡、志遠等から天台学も学んだが、法全、元政等の八人の真言師から「理同事勝」の義も学び、帰国後これを弘めて、叡山の流れを濁らせてしまったのである。つまり法華経と大日経は所詮の理においては同じであるが、事相の印と真言があるゆえに真言が勝れ、法華が劣るという邪義である。
本抄に慈覚の主張として「天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり倶に深秘なり」といわれているのは理同のことである。
また「宣旨を申して・これにそう」と仰せの宣旨とは、仁明天皇の宣旨で、その内容については「報恩抄」に「宣旨の心に云く『遂に知んぬ天台の止観と真言の法義とは理冥に符えり』等と云云」(0306-11)と紹介されている。
次に智証は日本で義真、円澄、円仁等に天台・真言を学んだが、この二宗の勝劣を決するために入唐し、真言宗を法全、元政等に、天台宗を良諝に学んだ。
しかし、智証も法全、元政等の真言師に感化され、帰朝後は、理同事勝の邪義を天皇の宣旨を添えて弘通している。
この宣旨についても「報恩抄」に次のように仰せである。
「貞観八年丙戌四月廿九日壬申・勅宣を申し下して云く『聞くならく真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し倶に深秘と称す』等云云、又六月三日の勅宣に云く『先師既に両業を開いて以て我が道と為す代代の座主相承して兼ね伝えざること莫し在後の輩豈旧迹に乖かんや、聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成ず殆んど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり、凡そ厥の師資の道・一を闕きても不可なり伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや、今より以後宜く両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し立てて恒例と為すべし』云云」(0307-01)。
本抄ではこの宣旨の趣旨を「天台・真言の二宗は譬へば人の両の目・鳥の二の翼のごとし、此の外異義を存ぜん人人をば祖師伝教大師にそむく人なり山に住むべからず」と要約されて示されている。
「報恩抄」では「此の宣旨のごとくならば慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ」(0308-10)と破折されているが、問題は、なぜ天台座主ともなったほどの人が真言の邪義に迷わされてしまったのかということである。さまざまな理由が考えられるが、一つは、当時、中国において華々しく栄え勢力を誇示していたのは真言宗であり、地味で、小勢力であった天台宗よりも、華々しい真言宗に惹かれてしまったのであろう。またもう一つは天台仏法がそれだけ難解で、その真義を捉えることが難しかったということであろう。慈覚・智証という座主ですらそうであるから、まして一般大衆にとっては、とうてい力の及ばないものであった。そこに、この天台仏法が説いた法華経の一念三千を、万人が正しく実践しうる法として三大秘法の南無妙法蓮華経を建立された日蓮大聖人の大慈悲を拝するのである。
1594:10~1595:01 第九章 道理・文証を尽くすべきを説くtop
| 10 但し予が愚案は人に申せども、 御もちゐあるべからざる上・身のあだとなるべし、又きかせ給う弟子檀那も安 11 穏なるべからずと・をもひし上其の義又たがわず、 但此の事は一定仏意には叶わでもや・あるらんとをぼへ候、法 12 華経一部・八巻・ 二十八品には此の経に勝れたる経をはせば此の法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ 13 給えるなるべし、随つて華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経経を見るに「諸経の中に於て最も其の上に在り」の 14 明文をやぶりたる文なし、随つて善無畏等・玄奘等・弘法・慈覚・智証等・種種のたくみあれども法華経を大日経に 15 対して・やぶりたる経文は・いだし給わず、 但印・真言計りの有無をゆへとせるなるべし、数百巻のふみをつくり 16 漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし宣旨を申しそへて人を・ をどされんよりは経文分明ならば・たれか疑 17 をなすべき、つゆつもりて河となる・河つもりて大海となる・塵つもりて山となる・山かさなりて須弥山となれり・ 18 小事つもりて大事となる・何に況や此の事は最も大事なり、 疏をつくられけるにも両方の道理・文証をつくさるべ 1595 01 かりけるか、又宣旨も両方を尋ね極めて分明の証文をかきのせて・いましめあるべかりけるか。 -----― ただし日蓮の考えは全くこれと異なっており、これを人に言っても用いられないばかりか、この身の災いとなるであろう。また、このことを聴いた弟子・檀那も安穏ではないだろうと思ったが、その通りに少しも違わない。 ただ、この慈覚・智証の説は仏意に叶っていないと思われる。法華経一部八巻二十八品を拝せば、この法華経より勝れた経があるなら、この法華経は十方の仏が集まって大妄語を集められたことになるのである。したがって、華厳経・涅槃経・般若経・大日経・深密経等の経々を見るのに「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の法華経第一の明文を破った文はない。 それゆえ、善無畏等、玄奘等、弘法・慈覚・智証等はさまざまに巧みな義を立てたが、法華経は大日経より劣っているとする経文は出せず、ただ印と真言の有無を根拠としたのであろう。数百巻の書物を造り、中国・日本を往来し、無数の謀計をなし、朝廷の宣旨まで添えて人を威そうとするよりも、経文が分明であれば、誰が疑いをなすことができようか。 露が集まって河となり、河が集まって大海となるように、塵が積もって山となり、山が重なって須弥山となるように、小事がつもって大事となるのである。いわんや、このことは最も大事なことなのである。経論の注釈書をつくるにしても、法華経と真言との道理・文証を十分にあげるべきであった。また朝廷の宣旨も、これら両方を十分に究明して、明らかな文書を書き載せて教誡されるべきであった。 |
弟子檀那
「弟子」は師に従って教えを受け、かつ師の意思を承けて実践しそれを伝える者。「檀那」は布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。総じて門下のこと。
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十方の仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
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妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
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須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
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疏
障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
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これまで挙げられた善無畏、玄奘、弘法、慈覚、智証等の義が経文を本としない我見の所産にすぎないことを指摘し破折されている。
法華経が最第一であることは、安楽行品の「諸経の中に於いて最も其の上に在り」の文に明確である。これを破る文は、いずれの経典のなかにもなく、彼ら邪師達は経文によらないで、ただ種々の策を弄して人々をだましているのに他ならない。
しかし、この一人から始まった邪義が広く世に弘まることによって、露が集まって大海となり、塵が集まって大山となるように、巨大な悪を形成してしまっているのである。そして彼らが邪義を弘めるのに疏を造り、また王法の権力を利用したことに対し、大聖人は、疏の内容のいい加減さ、宣旨の根拠の偏頗さを鋭く指摘されているのである。
華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経経を見るに「諸経の中に於て最も其の上に在り」の明文をやぶりたる文なし
大聖人は、この段で、もし、自分の義を人に語っても用いられない上に、我が身に難をこうむり、弟子・檀那にも罪が及ぶことになるだろうと予測していたが、その通りになったといわれ、しかし、慈覚・智証・弘法等の義は仏の御心に背いたものであり、もし彼らがいうように法華経より勝れた経があるとすれば法華経は十方の仏がウソをついた経になってしまうと仰せられている。
法華経には、まず、安楽行品に「諸経の中に於いて最も其の上に在り」と、法華経こそ最高の経であることが、十方の仏の集まった場で定められているのである。したがって、もし、法華経より勝れた経が他にあるとすれば、十方の仏が皆、ウソをついていることになる。そのようなことは絶対にありえない。
事実、華厳経にも涅槃経にも、般若経、大日経、深密経にも、この法華経最第一をくつがえすような経文はない。経文がないから、善無畏や玄奘といった中国での真言、法相等の諸宗の開祖も、日本の弘法・慈覚・智証等も、文証を出せるわけがないのである。善無畏や慈覚・智証が、大日経の方が法華経より勝れるとしている根拠は印・真言の有無ということだけである。
仏法について論ずるからには、まず仏法を説いた仏の教えを根拠にしなければならないのが当然である。大聖人は、あくまでも、我見ではなく、この仏説を根本としているのであるとの仰せである。
但印・真言計りの有無をゆへとせるなるべし
そのうえで、さらに、印・真言が大日経にはあるから勝れるということ自体についても、真言の論拠は極めていい加減なのである。本抄はこの点については触れられていないが、「聖密房御書」では次のように言われて破折されている。
「事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か漢土の法華経・大日経の勝劣か、不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり、仁王経にも羅什の訳には印・真言なし不空の訳の仁王経には印・真言これあり、此等の天竺の経経には無量の事あれども月氏・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし」(0897-15)。
すなわち、大日経に印と真言があるのに法華経にはないから、大日経が勝れているというのは、インドの原典についていうのか、漢訳された経典についていうのかと反論され、漢訳の経典の比較ならば翻訳者の意向によって印・真言を取捨選択したものにすぎない。羅什三蔵の妙法蓮華経には印・真言はないが、不空訳の法華経の儀軌には印・真言が説かれている等の例を出され、羅什は、訳す時に、重要でないために法華経の印・真言を省略したにすぎないことを仰せになっているのである。
ゆえに印・真言の有無によって法華経と大日経の勝劣を論ずることは愚かの至りといわなければならない。
さらに「妙密房御書」では、法華経の二乗作仏・久遠実成と大日経の印・真言を比較されたうえで真言の邪義を破折されている。
「法華経には印・真言なけれども二乗作仏・劫国名号・久遠実成と申すきぼの事あり、大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし、二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり(中略)印と申すは手の用なり手・仏にならずは手の印・仏になるべしや、真言と申すは口の用なり口・仏にならずば口の真言・仏になるべしや、二乗の三業は法華経に値いたてまつらずは無量劫・千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず、勝れたる二乗作仏の事法をば・とかずと申して劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは理によれば盗人なり事によれば劣謂勝見の外道なり」(0897-18)。
二乗は法華によらなければ成仏できないのであり、二乗作仏を説かない大日経をいかに印・真言で修行しても、成仏は思いもよらないのである。印は手で結ぶのだから手が仏にならないかぎり印によって成仏することはできないし、真言は口で唱えるのだから口が成仏しなければ真言による成仏は不可能なのである。
ゆえに二乗が成仏できなければ十界の成仏も不可能であるから、不成仏の経典である大日経に印・真言が説いてあっても所詮は虚妄であり、なんの役にも立たない単なる飾りものにすぎないのである。
1595:02~1595:14 第十章 「已今当」の経文破り難きを宣すtop
| 02 已今当の経文は仏すら.やぶりがたし.何に況や論師.人師・国王の威徳をもつて.やぶるべしや、已今当の経文を 03 ば梵王・帝釈・日月・四天等・聴聞して各各の宮殿にかきとどめて・をはするなり、まことに已今当の経文を知らぬ 04 人の有る時は・先の人人の邪義は・ひろまりて失なきやうにては・ありとも・此の経文を・つよく立て退転せざるこ 05 わ物出来しなば大事出来すべし、いやしみて或はのり・或は打ち.或はながし・或は命をたたんほどに・梵王・帝釈. 06 日月・四天をこりあひて此の行者のかたうどを・せんほどに・存外に天のせめ来りて民もほろび・国もやぶれんか、 07 法華経の行者はいやしけれども・守護する天こわし、 例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる・犬は師子をほゆれ 08 ば・はらわたくさる、 今予みるに日本国かくのごとし、 又此れを供養せん人人は法華経供養の功徳あるべし、伝 09 教大師釈して云く「讚めん者は福を安明に積み謗せん者は罪を無間に開かん」等云云。 -----― 「已今当」の経文は仏でさえ破ることができない。まして、論師・人師・国王の威徳でこれを破ることができるわけがない。「已今当」の経文は、梵天・帝釈・日月天・四天等が聴聞して、それぞれの宮殿に書き留められているものである。この「已今当」の経文を知らない人のある間は、先の人々の邪義が弘まって何の失もないようであっても、この経文を強く立て、不退転で訴える者が出てくると大事が出来するのである。そして、この者を卑しんで、或いは罵詈し、或いは打擲し、或いは流罪し、或いは命を断とうとしたので、梵王・帝釈・日月・四天が怒って、この行者の味方をするので、思いがけない天の責めが下って、民も亡び国も破れてしまおうとしているのであろうか。 法華経の行者は卑しいけれども、守護する諸天は強い。たとえば、修羅が日月を呑むと頭が七分にわれ、犬が師子を吠えればかえって腸がくさるように、今日蓮が世を見るのに、日本国はその通りとなっている。 また、法華経の行者を供養する人々は、法華経供養の功徳があるのである。伝教大師の釈にいわく「讚めん者は福を安明に積み、謗せん者は罪を無間に開かん」等と。 -----― 09 ひへのはんを辟支仏に供養せし人は宝明如来となり・ つちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり、 10 設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、 設い心をろかに・すこしき 11 の物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。 -----― 稗の飯を辟支仏に供養した人は普明如来となり、土の餅を仏に供養した人は閻浮提の王となったのである。たとえ功徳を積んでも真実でない人を供養すれば大悪とはなっても善とはならない。たとえ心が愚かで、少しの物の供養であっても真実の人に供養すれば功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人人の功徳はどれほど大きいか計り知れない。 -----― 12 其の上当世は世みだれて民の力よわし、いとまなき時なれども・心ざしのゆくところ・山中の法華経へまうそう 13 か・たかんなををくらせ給う福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず。 -----― そのうえ、今の世は乱れて民の生活も楽でない。それも暇もない時節に、日蓮の身を案じて身延の山中の法華経へ、孟宗の筍を送られたのは、福田にすばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとどまらないのである。 |
梵王
大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
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帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
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日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
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四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
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各各の宮殿
梵天は高台閣。初禅天の第二・梵輔天にあるとされ、梵宮ともいう。帝釈は喜見城。須弥山頂にある。大智度論巻百には「須弥山の頂に三十三天宮あり、其の城七重にして名づけて憙見となす。九百九十九門あり、一一の門の辺にみな十六の青衣大力の鬼神あって城中を守護す」と記されている。日天は日宮殿。月天は月宮殿。四天の持国天は須弥山東面の賢上城、広目天は西の周羅城、増長天は南の善見城の宮殿に住み、多聞天は北の可畏城・天敬城・衆帰城の三つを城にもつ。
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修羅
梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅睺羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅睺羅阿修羅王をさす。
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修羅が日月をのめば……
大智度論巻十には羅睺羅阿修羅王が月を噉おうとして、仏から諫止された説話が、「一時、羅睺羅阿修羅王は、月を噉わんと欲す。月天子は恐れて、疾かに仏の所に到って、偈を説けり。『大智成就の仏世尊、我今帰命して稽首し礼したてまつる。是の羅睺羅は我を悩乱す、願わくは仏憐愍し救護を見したまえ』。仏、羅睺羅の与めに偈を説いて言わく、『月は能く闇を照して清涼なり、是れ虚空の中の大燈明なり。其の色は白く浄くして千光あり。汝、月を呑むこと莫れ、疾かに放ち去れ』。是の時、羅睺羅は怖懅して汗を流し、即ち疾かに月を放てり。婆梨阿修羅王は、羅睺羅が惶怖して月を放つを見て、偈を説いて問うて曰く、『汝、羅睺羅よ、何を以っての故に惶怖戦慄して、疾かに月を放ち、汝が身より汗を流すこと病人の如く、心怖れて安んぜざること、乃ち是の如くなるや』。爾の時に羅睺羅、偈を説いて答えて曰く、『世尊は偈を以って我に勅したまへり、〝我月を放たずんば、頭を七分せん。設い生活するを得とも安穏ならじ〟と。故を以って我は今此の月を放てり』。婆梨阿修羅王は、此の偈を説いて言く、『諸仏は甚だ値い難し。久遠にして乃ち出世し、此の清浄の偈を説きたまえば、羅睺は即ち月を放てり』」とある。このように、大智度論では「月」を噉うとなっており、本文で「日月」とあるのは、法華文句巻二下の「羅睺羅、此には障持と云う。日月を障持する者なり……日月を怖る時倍して其の身を大にし気もて日月を呵す。日月は光を失て来て仏に訴う。仏、羅睺に告げたまわく、日月を呑むこと莫れと。羅睺の支節戦動して、身に白汗を流し即ち日月を放つ。日月の力・衆生の力・仏の力・衆の因縁の故に害を為すこと能わず」の文によるのであろう。日蓮大聖人は、これらの論釈から説話を要約されたと思われる。
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供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
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安明
須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。
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無間
無間地獄のこと。八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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ひへ
ひえと読む。イネ科の一年草。種子は穀物として食用に、また葉・茎とともに飼料に用いられる。気候不順に強く、やせ地でも育つので飢饉の時に米や麦などの不足を補うものとして栽培された。
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辟支仏
梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
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まうそう
孟宗竹のこと。その竹の子であろう。竹の子の古名を「たかんな」といった。孟宗の名の由来は、孟宗とは中国・三国時代の呉の人で、字は恭武といった。孟宗の母は日頃から筍が好物であったが、ある冬の朝、雪が降って地が凍り筍が得られなかった。至孝の孟宗は天に向かって嘆き悲しんだところ、庭に筍が自生してきたという。
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福田
衆生を、功徳の生じる田にたとえた語。
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次に法華経法師品の「已今当説最為難信難解」の経文を挙げられ、この文は仏でさえも破ることはできず、ましてどんな論師・人師の高僧の権威、国主の威徳・権力をもってしても破ることはできないといわれている。
そして人々が、この経文を知らず、無知の故にこれに背いている時はそれほど罪科はないようであるが、この経文を強く立てて正義を訴える人が出たとき、この正義の人を迫害すると、諸天の厳しい処罰のために国が滅びることとなる。今、日本はその通りの姿になっているではないかと指摘されている。
この法理は、諸御書に示されており、「撰時抄」並びに「報恩抄」には次のように仰せである。
「而る間・梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよいよあだをなすゆへに天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ」(0283-12)。
「此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ」(0313-08)。
日寛上人は報恩抄文段で災難の起こる由来を次のように整理されている。
「汎く災難の起りを尋ぬるに、重々の由来有り、謂く、謗法充満の故に善神国を捨つ。善神国を捨つる故に悪鬼乱入す。悪鬼乱入する故に国土の災難起る。災難起るが故に蓮祖これを諌暁す。蓮祖諌暁する故に国主これを怨嫉す。国主怨嫉する故に当世の災難強盛なり。今略してこれを論ずるに且く二由あり。謂く、蓮祖の諌暁はこれ遠由なり。国主の怨嫉はこれ近由なり。これ則ち蓮祖の諌暁に由り、国主これを怨嫉す。国主の怨嫉に由り、当世の災難盛んにして、他国の責に及ぶ故なり」。
以上のように、正法を行ずる大聖人を国主があだむゆえに災難がますます盛んになり、大梵天王等の諸天善神が隣国の賢王の身に入り替わって謗国を責めるのである。このために内には自界叛逆難が起き、外からは他国侵逼難が巻き起こるのである。これを本抄では「存外に天のせめ来りて民もほろび・国もやぶれんか」と仰せである。
このように、法華経の行者を迫害すれば大罰があるが、逆に法華経の行者に供養するならば法華経供養と同じ功徳があると仰せられ、伝教大師の依憑集の文を引かれている。
そして、稗の飯を辟支仏に供養辟した阿利吒が阿那律と生まれて法華経で未来成仏の授記を与えられた例、並びに釈尊に土の餅を供養した徳勝童子が阿育大王に生まれたこと等の例を引かれている。そして、同じ供養でも「まことならぬ事」すなわち謗法への供養はかえって大悪になるが「まことの人」「まことの法」への供養は大功徳となると仰せられている。
妙楽大師は稗の飯を辟支仏に供養した者について、法華文句記で「稗の飯軽しと雖も所有を尽くし、及び田勝るるを以っての故に勝報を得る」と、供養する対象が大切であることを述べている。もし悪人に供養すればかえって大悪になってしまう。まことの人に供養してこそ功徳を受けることができる。
その上で、次に供養する人の志が大切である。この御書をいただいた信徒は、あいつぐ災難のために国力も低下し人々の生活に余裕もない時に、深い信心によって身延山中の大聖人のもとに「まうそう」の「たかんな」を送って御供養申し上げた。ゆえに大聖人は「福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず」といわれて、その尊さを称えられているのである。
1596~1597 白米一俵御書(事理供養御書)top
1596:01~1596:01 第一章 御供養に対する謝辞top
| 01 白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいを・もつてわざわざをくられて候。 ・ -----― 白米一俵・毛芋一俵・河海苔一籠、わざわざ使いを立てて送っていただいた。 |
けいも
いえのいも、いもがしら、いものかしらともいう。里芋の塊茎のこと。全体にひげ根があることからこういう。
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こふのり
山間の渓流の石の上に生育する緑藻類。体は扁平で薄く、下端は水中の岩石についている。和名はカワノリ。南条時光の在所に近い芝川では河海苔がとれた。なお、こふのりを「ほうのり」とする説もある。
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本抄は、全体の内容からいって御消息文ではあるが、残念ながら一部消失しているため、宛名も年月日も不明である。
本抄の題号は、冒頭の「白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご……をくられて候」という一節の「白米一俵」からとられたものである。「事供養」と「理供養」について論じられているので、別名を「事理供養御書」ともいう。
本抄は、一貫して御供養の尊さを述べられている。
すなわち、だれびとにとっても最も尊い宝は生命であり、生命を仏と法に奉ることが成仏の根本である。しかし、この供養に「事供養」と「理供養」があり、凡夫にとっては、生命の支えである食・衣を供養することが、我が生命を供養するのと同じ意義をもつのである。これを「モノ」の世界の世法と、「こころ」の世界の仏法との一体不二の関係を明かした法華経の深義から、いま白米を御供養した、この御手紙の相手は、自分の生命を供養したのであり、成仏は疑いないと述べられている。
最後に、御自身の身延山での生活に言及され、御供養の品々を届ける使者が身延山を訪れたことを重ねて感謝され、結ばれている。
なお、本抄の御真筆は大石寺にある。
1596:02~1596:06 第二章 生命が第一の財宝である事を明かすtop
| 02 人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり・経に云く「有情は食に依つて住す」と云云文の心は生ある者は 03 衣と食とによつて世にすむと申す心なり、 魚は水にすむ水を宝とす・木は地の上にをいて候・地を財とす、人は食 04 によつて生あり食を財とす、 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、 遍満三千界無有直身命ととかれて 05 三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり、されば・いのちは.ともしびのごとし・食はあぶらの 06 ごとし、あぶらつくれば・ともしびきへぬ・食なければ・いのちたへぬ、 -----― 人間には二つの財がある。一には衣服、二には食物である。経文にも「有情は食に依って住す」と説かれている。文の意は、生命のある者は衣服と食物によって世を生きていくというのである。魚は水に棲むゆえに水を宝とする。木は地の上に生えるゆえに地を財とする。人間は食物によって生きるゆえに食物を財とするのである。 生命というものは一切の財の中で第一の財である。「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と説かれて、三千大千世界に満ちた財であっても、生命に代えることはできない。それゆえ生命は灯火のごとく、食物は油のようなものである。油が尽きれば灯火は消える。食物がなければ生命は絶えてしまうのである。 |
有情
①梵語の薩埵、薩埵嚩、サットヴァ(sattva)の新訳。旧訳では衆生とする。感情や意識をもっている、生あるものの一切の総称。草木、山河、大地などの非情に対する語。
②仏も有情のなかに含まれること。③九界の衆生をいう。④衆生の一身には有情と非情をそなえていること。⑤三世間の衆生・五蘊世間は有情・国土世間は非情。
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遍満三千界無有直身命
「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と読む。出典は不明だが、あるいは法華経薬王菩薩本事品第二十三の「若し発心して阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲すること有らば、能く手の指、乃至足の一指を燃やして、仏塔に供養せよ。国城・妻子、及び三千大千国土の山林・河池、諸の珍宝物を以て供養せん者に勝らん」の意をとられたのであろうか。
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三千界
三千大千世界のこと。三千世界ともいう。古代インド人の描いた宇宙。須弥山を中心として、そのまわりに四大洲があり、さらにそのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界の単位で小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
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初めに「人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり」と述べられている。何ゆえに衣と食の二つが人にとって財宝であるかといえば、それらこそ生命を保護し、育み維持するものであるからである。
そして「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」と仰せのように、生命こそがあらゆる財宝のなかで最第一の財宝なのである。
そして生命と食との関係については、生命を灯、食を油にたとえられて、油が尽きると灯が消えるように、食がないと生命が絶えると仰せになっている。
つまり、生命こそ最第一の財宝であり、その生命は食によって維持されるのであるから、食もまた生ある者にとっては不可欠の財宝となるのである。衣についてもこれと同じことであるのはいうまでもない。
人は食によって生あり食を財とす
食物三徳御書には「食には三の徳あり、一には命をつぎ・二にはいろをまし・三には力をそう、人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬へば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(1598-01)と仰せである。
ここに述べられているように、食物は生命を持続・維持させる徳、色艶をよくする徳、体力をつける徳がある。
食物によってこそ、人は生命を維持し、活動していくことができるのである。これは人間に限らず、あらゆる生あるものに共通である。
この生命を直接に支えてくれるのが食物であるゆえに、食物は大事な財なのである。真実の財とは、金や宝石ではない。金や宝石が財であるのは、食や衣をそれで買えるという交換価値をもつ限りにおいてであるといっても過言ではない。
この御文は人間にとって真の財とは何かを、原点から明らかにされたものと拝することができよう。
いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり
生命こそ最第一の財宝であることを強調されている御文である。
「遍満三千界無有直身命」は「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と読む、つまり、三千界に遍く敷き満たした〝もの〟や財宝といえども命と取り替えることはできないという意味である。すなわち徹底して生命の尊厳性・無上の価値をもっていることを説き明かした文といえる。
だれびとにとっても、最も大切なものは生命それ自体である。人はそれぞれ、さまざまな目的と方向をもって、自らの人生を歩んでいる。ある人は富の獲得を目的とし、ある人は社会的な権力・地位や名誉を得ることに全力をかたむけるというように……。このため、しばしば、そうした富や権力・名誉を至上の価値と考えがちであるが、これは、本末転倒に陥っているのである。
生命体がその無意識の深い次元で至上の価値としているのは、まさに自身の生命であり、その生命の維持のためにあらゆる機能は働いているといってよい。この自らの生命の高揚、歓喜、充実こそ人生の目的であり、それこそ仏法の明らかにした道なのである。
1596:06~1596:13 第三章 帰命と聖賢の成仏top
| 06 一切のかみ・仏をうやまいたてまつる・始 07 の句には南無と申す文字ををき候なり、 南無と申すは・いかなる事ぞと申すに・ 南無と申すは天竺のことばにて 08 候、漢土・日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり、 我が身には分に随いて妻子・眷属・ 09 所領・金銀等をもてる人人もあり・又財なき人人もあり、 財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず、さ 10 れば・いにしへの聖人・賢人と申すは命を仏にまいらせて・仏にはなり候なり。 -----― 一切の神や仏を尊敬する最初の言葉には、必ず南無という文字を置いている。南無というのはどういうことかといえば、南無というのはインドの言葉であって、中国・日本では帰命という。帰命というのは我が生命を仏に奉るということでる。 人は分に随って妻子・眷属、所領、金銀等を持っている人もあり、また、そうした財物等を持っていない人もいる。しかし、財物のある人も財物のない人も、生命という財に過ぎた財はない。それゆえ、昔の聖人・賢人といわれた人は、生命を仏に供養して成仏したのである。 -----― 11 いわゆる雪山童子と申せし人は・身を鬼にまかせて八字をならへり、 薬王菩薩と申せし人は臂をやいて法華経 12 に奉る、 我が朝にも聖徳太子と申せし人は・手のかわをはいで法華経をかき奉り、 天智天皇と申せし国王は無名 13 指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る、此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候。 -----― いわゆる雪山童子という人は、我が身を鬼神に捧げて「生滅滅已・寂滅為楽」の八字を習い、薬王菩薩という人は、自らの臂を焼いて法華経に奉ったのである。我が日本国でも聖徳太子という人は手の皮を剥いで紙に代えて法華経を書写し、天智天皇という国王は、無名指を削って釈迦仏に供養した。これらは賢人・聖人のことであるから、我等凡夫には叶いがたいことである。 |
南無
梵語ナマス(namas)の音訳。南謨・那摸・那摩ともいう。帰命・帰礼・恭敬・信従・帰趣・稽首・救我・度我などと漢訳する。絶待の信をもって仏および教説に帰依することをいう。
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天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
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漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
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聖人・賢人
世間、出世間ともに通ずる語で、聖人とは智慧が広大無辺で徳の勝れた者のうち、賢人より勝れた者の呼称。仏法上では仏を意味し、また高僧のこともいう。賢人とは、聖人に次ぐ賢明で高徳の人をいう。晋書の註によると、聖人は千年に一度、賢人は五百年に一度出るという。
―――
雪山童子
釈尊が過去世で修行していたときの名。涅槃経巻十四等に出てくる。釈尊は過去の世に雪山で法を求めて修行していた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
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薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
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聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
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天智天皇
(0626~0671)。第38代天皇⦅在位:天智天皇7年(0668)1月3日~10年(0672)10月3日⦆。和風諡号は天命開別尊。一般には中大兄皇子として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱は葛城。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。
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無名指
くすりゆびのこと。扶桑略記巻五の天智天皇7年(0668)正月17日の条に、崇福寺縁起を引用して近江国志賀郡に崇福寺を建立するため、地を平にした時、長さ五寸の白石が発掘された。白石は夜に光明を放つので、天智天皇は左手の無名指を削って供養したという。
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生命こそ一切の財のなかで第一の財であるがゆえに、古の聖人・賢人といわれる人達は、その生命を仏に奉って成仏したということが明かされている。
まず一切の神や仏を崇敬するときには、初めに「南無」という文字を置くことが通例になっているが、その「南無」というのはインドの言葉であって、中国・日本では「帰命」と訳される。「帰命」とは「我が命を仏に奉る」ことで、古の聖人・賢人は命を仏に奉って成仏したと述べられ、その例として、雪山童子、薬王菩薩、聖徳太子、天智天皇のそれぞれが文字どおり自己の命を仏法に奉ったことを示され「此れは賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候」と述べられている。
南無・帰命
南無とは梵語ナマス(Namas)を音写した言葉であり、「帰命」というのがその意味である。
その「帰命」の意義については「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」と仰せのように、自分にとって最も大切な財である生命を供養することなのである。何ものにも代えられない至高の財である生命を仏に供養することこそ、最高の供養だからである。
その例として雪山童子、薬王菩薩、聖徳太子、天智天皇のそれぞれの捨身供養の姿が説かれている。
此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候
ここで「帰命」すなわち我が生命を仏に供養した具体的実践の例として、薬王菩薩が臂を焼いて法華経に奉ったことが示されている。また、聖徳太子は自分の手の皮をはいでそれを紙として法華経の経文を書いたと言い伝えられ、天智天皇は無名指を焼いて釈迦仏を供養したとの伝説がある。
最初の雪山童子は文字どおり身命を鬼神に捧げて仏法を習ったが、薬王以下の例は直接、命そのものではない。しかし、我が命を構成する一部分という意味で「帰命」の実践例として挙げられたのである。
帰命とは、どこまでも成仏を目指す求道のため、令法久住のためには、自分にとって最も大事な身体や生命を仏法のために捧げても辞さないという覚悟を強調されたものであり、むやみに生命を断つこととは異なる点に特に留意する必要があろう。
しかし「此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候」と仰せのように、身体及びその一部を仏に供養するという帰命の行為はどこまでも聖人・賢人のみがよくなしうることであって、凡夫にはなかなかできることではないと述べられている。ここで「我等」といわれて日蓮大聖人は御自らを我々凡夫と同じ立場に置かれて述べられているが、これは、我々凡夫を思われての大慈悲であることはいうまでもない。というのは、日蓮大聖人はその御一生をとおして、伊豆流罪や佐渡流罪、そして何よりも竜の口の頸の座に代表される、文字通り生命にかかわる大難にあわれているからである。
1596:14~1597:04 第四章 観心の法門と凡夫の成仏top
| 14 ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にか 15 んがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にま 1597 01 いらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひと 02 つ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、 これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼に 03 たびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の 04 観心の檀ばら蜜と申す法門なり、 -----― 仏に成るということは、凡夫は志という文字を心得て仏に成るのである。志というのはどのようなことかと詳しく考えてみれば、それは観心の法門のことである。 この観心の法門というのはどのようなことかと尋ねてみれば、ただ一枚しかない衣服を法華経に供養するのが身の皮を剥ぐことになるのである。また、飢饉の世に、これを供養してしまえば今日の命をつなぐ物もない時に、ただ一つの食物を仏に供養することが、身命を仏に奉ったことになるのである。 これは薬王菩薩が臂を焼き、雪山童子が身を鬼に与えたことにも劣らない功徳であって、聖人のためには事供養、凡夫のためには理供養であるというのが、摩訶止観巻七に明かされる観心の修行のなかの檀波羅密という法門なのである。 |
観心の法門
①天台、摩訶止観の理の一念三千。②文底下種・事行の一念三千の法門であり、三大秘法の大御本尊のことである。なかんずく本門の本尊を信じて唱題するとき観心を成ずるので、この御本尊を観心の本尊というのである
―――
事供やう(事供養)
身体・命をまでも捨てる供養。出世間を代表する聖人の行。
―――
理くやう(理供養)
慳貪の心そのものを破すために、悟りの心を起こし、観心の行法に励むこと。世間の代表とする凡夫の行。
―――
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―――
檀ばら蜜(檀波羅蜜)
仏道を成就するために、自己のものを他に施す修行のこと。
―――――――――
先に賢人・聖人の行うような帰命は凡夫には不可能であると述べられたが、それを受けて、ここではその凡夫がどのような供養をなせば成仏できるかについて甚深の法門を述べられている。
まず凡夫が仏になるためには「志ざし」という文字を心得なければならないと教示され、その「志ざし」というのは「観心の法門」ということであると説き進められ、その「観心の法門」とは「事理の供養」であると結論される。すなわち、同じ供養といっても、聖人にとっては「事供養」、凡夫にとっては「理供養」がそれぞれふさわしいことを明かされ、「理供養」のことをまた「観心の檀ばら蜜」ともいうと説かれている。
志ざし・観心の法門
元来、供養とは正確には供給奉養といい、仏法僧の三宝に報恩感謝の意を込めて、真心及び種々の財物を捧げることをいう。
本抄では、これまで一切の財のなかで第一の財である生命を仏に供養してこそ成仏できると説かれてきた。この生命そのものを仏に供養すること、すなわち帰命が、聖人・賢人の行った供養の姿であった。
しかし、凡夫には聖人・賢人のような実践は難しいと述べられて、凡夫には凡夫としての供養の在り方があると説かれているのである。
それが「志ざし」「観心の法門」である。
まず「志ざし」というのは、凡夫の真心の信心、至誠の一念ということである。つまり、凡夫の仏・法への供養には、何よりも真心の信心、至誠の一念が大切であり、これこそ凡夫の成仏の条件である。では凡夫にとってなぜ「志ざし」が重要なのかといえば、この「志ざし」によって「観心の法門」が成り立ってくるからである。
「観心の法門」について大聖人は「ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候」と仰せられている。
ここにあるように、凡夫がたった一枚しか着ていない着物を法華経のために供養したとき、その行為は聖人の場合の、身の皮をはぐことにあたるのである。また飢饉などで食物のない時世に、それがないと今日の自分の生命を維持させるのが難しいようなときに、そのたった一つの食物を仏に供養するのは、雪山童子が身を投げることにあたるのである。
このことは、生命こそ一切の財のなかで最第一の財であり、その生命を支える二つの財が衣と食であると、先に述べられたことと関連している。
仏並びに法華経への供養において、生命それ自体を供養するのが聖人・賢人の帰命であるのに対し、衣・食の二財を供養するのが凡夫の供養なのである。
ところで衣・食の二財を仏・法に供養するのが凡夫の供養であり、成仏に至る道であるとすると、〝財を持てる人〟がそれだけ多く供養できることから、持てる人だけが成仏できるという差別が生ずることになる。そこに、次に示されるように「志ざし」が大切であるとされる所以がある。「志ざし」とは真心であり、モノの量の多少や品物の貴賤は問題ではないのである。そのことは「ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候」とか「うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候」との御文に明らかである。
それなくしては自身の生命を維持できないときに、それでも着物や食物を仏に供養しようとする凡夫の「志ざし」すなわち信心の真心や至誠の一念こそが凡夫を成仏させる根本なのである。
そのような「志ざし」をもってなされた御供養は聖人・賢人の捨身供養に劣らぬ功徳を生じて、成仏できるのである。
このように凡夫の志、信心、至誠の一念により、結果的には聖人・賢人の帰命と同じ功徳を得て成仏できることを「観心の法門」と説かれているのである。
事供養・理供養・観心の檀波羅密
これまでの内容からも明らかなとおり、聖人・賢人が文字どおり身命を法に供養する帰命のことを「事供養」といい、これに対して凡夫が「志ざし」をもって、生命それ自体ではないが、それを失えば生命の維持が難しい衣や食を仏や法に供養することを「理供養」あるいは「観心の檀ばら密」といわれているのである。
事・理の供養、檀波羅密は、いずれも天台大師の摩訶止観巻七に説かれているものである。
天台大師は摩訶止観巻七下で十乗観法の第七「対治助開」を説いている。これは機根が鈍いためになかなか自らの心の障りを除けない者に向けて、しばらく助道を用いて心の障りを排除する方法を明かしたものである。
助道としては六波羅蜜の修行を行うのであるが、心の障りとして慳貪の心の強い者には檀波羅蜜の修行をさせて、これを対冶するのである。その檀波羅蜜を説いて次のように述べている。
「大品にいわく、『施者、受者、財物、不可得なるが故に、檀波羅蜜を具足す』と。三事を亡じて著するところなきに、まさしく檀の体に当る。まさにこれ具足する者なるべし。財・法の二施を行ずるを、檀の具足と名づく。事理二ながら円かに、自他ともに益す、故に具足とも名づく。事は、すなわちその慳の法を破してよく財を捨て、理はすなわちその慳の心を破してよく法を捨つ。二ながら破し二ながら捨し、体用具足するを檀波羅蜜と名づくなり」と。
すなわち、財と法の二つを布施する行である檀波羅蜜に事と理との二つがあり、この二つを円満に具足して自他ともに利益することが必要であると説かれている。
「事」とは自らの慳貪の法を破って、執着せずに財物を捨てることであり、「理」とは自らの慳貪の心を破って人々に法を捨てることである。
日蓮大聖人はこの天台大師の説を踏まえられながらも、生命それ自体を布施・供養する聖人・賢人の帰命を「事供養」とし、生命それ自体ではないが、志、すなわち真心の信心、至誠の一念をもって衣・食を供養する凡夫の布施を「理供養」と立て分けられているのである。
それゆえ「観心の檀ばら密」とはまさに、末法の凡夫が志を布施する理供養のことをさしておられるのである。
もし、事供養のみを真実の供養であるとすれば、聖人・賢人のようにできる人と、凡人のようにできない者との差別が生ずるし、極端になると、ただ何でも命を捨てさえすればよいとの安易な教条主義に堕しかねない危険性がある。
さらにまた、財物の供養だけでよいとすると、今度は〝財ある人〟のみが成仏できることになり、いずれも差別を免れない。
大聖人が凡夫のために〝理供養〟を説かれたのは、仏や法に対する供養において、むしろ供養する当人の〝志ざし〟〝観心〟の内容のほうが重要であることを強調されんがためであられた。
言い換えれば、供養される生命や事物と、供養する凡夫の信心との関係性のなかにのみ供養の質をはかる基準があるとされたといってよいであろう。
1597:04~1597:12 第五章 事物の供養即生命の供養なるを明かすtop
| 04 まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即 05 ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には 「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」 と仰せられ 06 て候を・ 妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」 との経文に引き合せて 07 心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・ いまだ心あさくして法華経に及ばざ 08 れば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。 -----― 真実は、世間の事法がそのまま仏道である。金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」と説かれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と明かされている。これを妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合わせ、その意を説き顕して「金光明経と涅槃経の二経は一往は深い教えの経々ではあるが、かの経々はいまだ浅く法華経に及ばないから、世間の法を仏法に依るものとして教えている。しかし、法華経はそうではなく、世間の法がそのまま仏法の全体である」と解釈されている。 ―――――― 09 爾前の経の心心は、心より万法を生ず、 譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしか 10 らず・心すなはち大地・大地則草木なり、 爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法 11 華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。 ―――――― 爾前の経の意は「万法は心から生ずる。譬えば心は大地のようであり、草木は万法のようである」ということである。法華経はそうではない。「心はすなわち大地であり、大地はすなわち草木である」ということである。爾前の経々の意は「心が澄むのは月のごとく心の清いのは花のごとし」ということである。法華経はそうではなく「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのである。 -----― 12 此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらずすなはち命なり。 ・ -----― このことから知られるがよい。あなたが御供養された白米は白米にあらず。あなたの命である。 |
金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
―――
「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」
現行の金光明経にはこの文はなく、同じ意である「世間、出世間作す所の国事、造る所の世論は皆此の経に因れり」の文があるのみである。しかし、天台大師の摩訶止観巻六上に「『光明』に云わく、『一切世間の所有の善論は、皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』と」とあり、大聖人はこの文を引用されたのであろう。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
経書
書籍のこと。
―――
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
―――
治生産業
世間の日常生活のすべてのこと。治生は生活の方途を立てることをいう。
―――
実相
ありのままの姿
―――
爾前の経
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――――――――
聖人・賢人の事供養と凡夫の理供養とが「志ざし」を根本とした場合は同じであることを明かされている。
まず「まことの・みちは世間の事法にて候」と述べられ、真実の仏道は世間の事法、すなわち現実の万象を別にしては存在しないことを説かれる。つまり、世法即仏法の道理である。
ところで、この世法即仏法の道理を、金光明経・涅槃経と法華経とを相対して示されるのである。
金光明経では「若し深く世法をらば即ち是れ仏法なり」と説き、涅槃経では「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と説いている。
それに対し法華経の法師功徳品第十九には「諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆な実相と相違背せじ……」とあり、天台大師はそれを法華玄義巻一上に「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と釈している。
金光明経と涅槃経の二文の場合は、世法と仏法、あるいは世間の外道の経書と仏説をあくまで別々のものとし、しかし、世間の法は仏法を根拠として成り立つとしているのである。これに対して、法華経の場合は、一切世間の治生産業がそのまま実相であると説いているのである。
この余経と法華経の関係を、日蓮大聖人はたとえをもって次に分かりやすく説かれている。余経の場合は、心から万法を生ずるという説き方になるが、それはちょうど、心を大地に、万法を草木にたとえて、大地から草木を生ずるといっているようなものである。これに対して法華経は、心たる大地と万法たる草木は別々のものではなく、直ちに心即大地即草木と説くのである。
また余経の場合は「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」という説き方になる。これは、心と月や花とを区別しているのである。これに対して法華経は「月こそ心、花こそ心」と、直ちに一つととらえるのである。
このように述べられて「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」と結論されるのである。世法即仏法の理は実に、この結論に導かれんために説かれたのである。すなわち、大聖人に対して真心をもって供養された白米は、法華経の法理からいえば、たんに白米ではなく、直ちに御供養した人の生命それ自体であると結論されているのである。こうして供養した人のその志を称賛されるとともに、併せて感謝の意を表されているのである。
彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば……
金光明経と涅槃経は、世法即ち現実の世界を否定したり逃避して、よそに悟りの世界を求める阿弥陀経などに比べれば、はるかに深い教えである。これらの経が説いているのは、仏法は大地であり、世法は草木であり、草木たる世法は大地たる仏法に依って栄えるということである。即ち、世法と仏法の相互関係性は明かしているのである。
しかし、相互の関連性は明かしても、別々のものとしていることに変わりはない。
それに対し、法華経は万法を包含する〝実相〟を明かし、仏法も世法も、この〝実相〟のあらわれであり、ともに実相を体とすることにおいて、一体であるとする。
方便品の「諸法実相」の文は、それを端的に説いた一句であり、一念三千の法理は、これを見事にとらえたものである。
もとより、法華経にあっても、仏法の世界と世間法の世界を、現象面でとらえれば、相互依存性はあっても別個のものであるとしていることはいうまでもない。ゆえに、大聖人も「仏法は体のごとし世間はかげのごとし」(0992)等とも述べられているのである。
ただ、大事なことは、金光明経・涅槃経が、この現象次元しか明かしていないのに対し、法華経は、世法・仏法の全体を包含する〝実相=妙法〟という本質次元を明らかにしたことであろう。
これを先に述べられてきたことと結び合わせていえば、聖人の事供養という〝仏法〟の世界と、凡夫の理供養という〝モノ〟〝世法〟の世界とは、一見、別々のようであるが「志ざし・観心=実相」の次元で見れば、全く一体であるということである。
1597:13~1597:17 第六章 再び供養を感謝されるtop
| 13 美食ををさめぬ人なれば力をよばず・山林にまじわり候いぬ、されども凡夫なればかんも忍びがたく・熱をもふ 14 せぎがたし、食ともし表○目が万里の一食・忍びがたく・ 思子孔が十旬・九飯堪ゆべきにあらず、読経の音も絶え 15 ぬべし・観心の心をろそかなり。 -----― 日蓮は正法という美食をすすめたにもかかわらず、国主はそれを収めない人なので力及ばず、今、身延の山林に交わるようになったのである。 しかし、凡夫であるから寒さも忍びがたく、熱をも防ぎがたい。食物も乏しい。表○目は万里を行くのに一食で過ごしたというが、日蓮は忍びがたい。思子孔は百日に九回の食事で堪え忍んだというが、それも堪えられるものではない。読経の声も絶えようとし、観心の心も疎かになりがちである。 。 -----― 16 しかるに・たまたまの御とぶらいただ事にはあらず、 教主釈尊の御すすめか将又過去宿習の御催か、方方紙上 17 に尽し難し、恐恐謹言。 -----― しかるに、たまたまの訪問、ただごとではない。教主釈尊の御勧めによるものか、はたまた過去の宿習によるものであろうか。厚い御志、筆紙に尽くしがたい。恐恐謹言。 |
表○目
「昭和新定日蓮大聖人御書」では「麦青目」となっている。いずれにしても語義未詳。
―――
思子孔
孔子の孫の子思のことであろうか。子思は『中庸』の作者とされている。宋や衛に遊歴したが、主として故郷の魯で穆公に仕えた。過不及のない中ほどをめざす実践的な中庸倫理を主な思想とする。蒙求等によると子思は大変貧しく「三旬九食」ということもあったとの話が残っている。
―――
十旬・九飯
百日間に九度の食事をとるほど生活が貧しいことをいう。旬は十日間のこと。十旬・九飯の説話については未詳。
――――――――
本抄の最後にあたって日蓮大聖人は、御自身の身延山中における御生活の厳しさを述べられ、その厳しい御生活を強いられている大聖人のもとに供養の品々を届ける使者が訪問してきたことを、ことのほか喜ばれている。
文中にも「うへたるよに」と述べられているのは、この年、深刻な飢饉に見舞われ、身延山中の大聖人の御生活も、よほど厳しかったのではなかろうか。それだけに、時を得て白米が届けられたことに深く感謝されて、教主釈尊が勧められたのであろうか、それとも大聖人が困っている時には助けるとの過去の宿習によるのであろうかと仰せられているのである。
1596~1597 白米一俵御書(事理供養御書)2014:12月号大白蓮華より。先生の講義top
無限の希望 無量の力を開く「志ざし」
人間の心ほど、偉大なものはありません。
心は、無限の希望があります。
心は、無辺の福徳が収まります。
個人の宿命転換も、民衆の幸福の実現も、平和社会の創出も、すべては、まず、人間の心の変革から始まります。
「一心の妙用」です。
心には、不思議な働きがあります。
日蓮大聖人は「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり」(0564-05)と仰せです。仏法は、この心の無量の宝の蔵を開くための価値創造の教えです。
「心こそ大切」です。
すべては「志ざし」で決まります。
その時、その瞬間、心がどう感じ、どう決意し、どう行動を起こすか。それによって、結果はいくらでも変わります。それが「信心」です。一念三千です。人間の真の大きさは、その心に何を持っているかで決まります。
すべては小さな修了証書から
私は若き日、恩師・戸田城聖先生から、剣豪の修行の如き厳格な、講義を受けることができました。先生は、講義を終える際、質素を紙で作った修了証書をくださった。ささやかな証書であったかもしれませんが、私には無上の宝となりました。
教学だけでなく、万般にわたる学問を先生から教わりました。私が世界中の指導者と平和の語らいを広げることができたのも、この“戸田大学”の薫陶があればこそです。
私のすべての行動は、戸田先生への報恩・感謝の一念からです。弟子の勝利が師匠の勝利と定め、偉大なる師匠を宣揚せんと戦い抜いてきた人生です。
ともあれ、幸福になるのも、不幸になるのも、他人の環境が決めるものではありません。その人の一念、「志ざし」が決めていくのです。御聖訓に照らして、真心に感謝し、報恩に生き抜く心は強い。その福運によって、真の栄光を勝ち開いていくことができます。
今回は、「白米一表御書」を拝して、福運と勝利の人生を開く一念の姿勢を学んでいきましょう。
| 02 人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり・経に云く「有情は食に依つて住す」と云云文の心は生ある者は 03 衣と食とによつて世にすむと申す心なり、 魚は水にすむ水を宝とす・木は地の上にをいて候・地を財とす、人は食 04 によつて生あり食を財とす、 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、 遍満三千界無有直身命ととかれて 05 三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり、されば・いのちは.ともしびのごとし・食はあぶらの 06 ごとし、あぶらつくれば・ともしびきへぬ・食なければ・いのちたへぬ、 -----― 人間には二つの財がある。一には衣服、二には食物である。経文にも「有情は食に依って住す」と説かれている。文の意は、生命ある者は衣服によって世を生きていくというのである。魚は水に棲むゆえに水を宝とする。木は地の上に生えるゆえに地を財とする。人間は食物によって生きるゆえに食物を財とするのである。 生命というものは一切の財の中で第一の財である「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と説かれて、三千大世界に満ちた財であっても、生命に代えることはできない。それゆえ生命は灯火のごとく、食物は油のようなものである。油が尽きれば灯火は消える。食物がなければ生命は絶えてしまうのである。 -----― 09 さ 10 れば・いにしへの聖人・賢人と申すは命を仏にまいらせて・仏にはなり候なり。 -----― それゆえ、昔の聖人・賢人といわれた人は、生命を仏に供養して成仏したのである。 |
「いのち」こそ「第一の財」
本抄は、大聖人が、信徒からの真心の御供養に応えて認められた御手紙です。後述作の年月や頂いた人については、よく分かっていません。
本抄では、命を支える貴重な白米を御供養されたことは、あなたの命そのものを御供養したことと同じであり、最大の功徳があることを丁寧に教えられ、成仏は間違いないと励まされています。
冒頭に御供養の品々が示されています。「白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご」と、貴重な白米とともに、野山を巡り、川に入って集めた毛芋と川海苔が届けられたようです。
そこには、“大聖人に喜んでいただきたい”との真心が詰まっていました。大聖人は、その真心の「志ざし」を、仏法の眼から最大に賞讃されていきます。
まず、すべてのひとにとって、二つの財がある。それは衣服と食物であると示されています。衣服が財であるのは、「第一の財」である、命を支えるからです。
続いて、全宇宙を埋め尽くす財よりも命は尊い、命こそ「第一の財なり」と仰せです。「第一」とは、何かと比較して最も大事ということではなく、絶対的に尊いことです。この世の中に、一人の生命よりも、大事な財など存在しないのです。
次に大聖人は、「いのち」を灯火に、「食」を油に譬えられます。灯火は、油が尽きれば消えてしまうように、尊い命も、それを支える食物がなければ絶えてしまう。
それゆえ、自分の命を支える食物を供養として捧げるということは、命そのものを捧げることに匹敵すると仰せです。
この意味を鮮明にするにあたって、大聖人は、仏を敬って大切な財を捧げる「供養」の意義を明かされます。
あらゆる仏や神を敬う時には、その名前の前に、「南無」という言葉を付けます。「南無」というのは、インドの言葉の音を漢字で写したもので、「帰命」と訳されます。
「帰命」とは、「我が命を仏に奉る」という意味であり、何ものにも代えられない「第一の財」である命を捧げることが最高の供養となり、古の聖人・賢人が、命を仏に奉って成仏することを示されます。
その例として、雪山童子、薬王菩薩、聖徳太子、天智天皇の例が挙げられます。雪山童子や薬王菩薩は、仏道修行に専念している聖人です。聖徳太子や天智天皇は仏と法を護り伝えようとした賢人です。
最も大切な命をも仏と正法に捧げるなら、成仏の道が開かれることを教えられています。
しかし、「此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候」と仰せのように、末法の凡夫に同じ行動を求めても、到底なし得ることではありません。
それでは凡夫は永久に成仏できないのか。断じて、そんなことはありません。末法の一切衆生の成仏を可能にする民衆仏法の確立こそ、本抄を貫くテーマなのです。
| 14 ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にか 15 んがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にま 1597 01 いらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひと 02 つ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、 -----― 仏に成るということは、凡夫は志という文字を心得て仏に成るのである。志というのはどういうことかと詳しく考えてみれば、それは観心の法門ということである。 この観心の法門というのはどのようなことかと尋ねてみれば、ただ一枚しかない衣服を法華経に供養するのが身の皮を剥ぐことになるのである。また、飢饉の世に、これを供養してしまえば今日の命をつぐ物もない時に、ただ一つの食物を仏に供養することが、身命を仏に奉ったことになるのである。 |
「志ざし」こそ凡夫成仏の要諦
御文に「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」と仰せです。私たち凡夫は「志ざし」によって成仏できるのです。
それでは、「志ざし」とは、どういうことを言うのでしょうか。それは「観心の法門」であると仰せです。「観心」とは、天台大師の『摩訶止観』を踏まえた法門です。
「観心」とは「教相」に対する語で、成仏への実践のことですが、私たちにとっての観心の実践とは、具体的に何を示すのか、大聖人は端的に教えられています。
すなわち、1枚しか着ていない衣服を法華経のために供養するのは、聖人が身の皮をはぐことと同じである。また、自分の命を支えることがむずかしい飢饉の時に、ただひとつしかない食べ物を仏に供養するのは、命を捧げることであると、記されています。だからこそ、古の聖人の不惜身命の供養とまったく変わらず、成仏の供養がある。
この実践の要点は、ひとえに「志ざし」です。万人成仏の教えである法華経と、それを説く仏、一心に求め、信じ、護ろうとする「志ざし」こそが、成仏の根本因となる。だからこそ、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」と明言されているのです。
牧口先生も、この一節に力強く線を引かれていました。
どこまでも妙法のために、妙法を教え広める師匠のために、祈り動くこと、それ自体が成仏の直動なのです。
「使命」とは、「命」を「使う」と書きます。何に尊き命を使うのか。師匠の心を、わが心として、広布のために祈り、走る――その使命に裏打ちされた実践こそ、人として最高に尊い振る舞いとなる。それは、わが尊き同志の振る舞いそのものではありませんか。
困っている人がいれば、自分のことを差し置いてでも、手を差し伸べずにはいられない。悩んでいる人がいると聞けば、すぐに飛んでいく。忙しい中であっても、少々遠くても座談会に駆けつける……。
わが身や時間を、人の幸福のため、広布のために捧げている。学会員一人一人の生き方に、大聖人が讃嘆してやまない信心の「志ざし」が輝いているのです。
だからこそ、学会活動に地道に励んだ人は、必ず、「幸福の軌道」「勝利の軌道」に入っていくのです。
断じて心は負けるな!
また、「志ざし」とは、心を一つのものごとに向かわせることです。我が一念が、どこを向いているかです。「何のため」という根本目標を定めることです。
私たちで言えば、自身の一念を御本尊に、広宣流布に向けていくことです。
「志ざし」は目には見えないが、「志ざし」の力によって、勝利の方向へ、幸福の方向へ向けていくことができるのです。
人生は、良いときばかりではありません。
また、仕事や病など、さまざまな理由で、思う存分に活動できない悩みを持つ人もいるでしょう。
そんな時こそ、わが一念を御本尊に向けていくことです。逃げている人は、悩みません。悩んでいること自体が、心を信心に向けている証しです。悩むから強くなれるのです。何も心配する必要はありません。
一歩、いや半歩でもいい、挑戦していくことです。「志ざし」を重ねることです。貫くことです。それこそが、私たちにとって、「志ざし」を心得ることなのです。
| 04 まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即 05 ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には 「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」 と仰せられ 06 て候を・ 妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」 との経文に引き合せて 07 心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・ いまだ心あさくして法華経に及ばざ 08 れば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。 -----― 真実は、世間の事法がそのまま仏道である。金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」と説かれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と明かされている。これを妙楽大師は法華経の堕六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と違背せず」との経文に引き合わせ、その意を説き顕して「金光明経涅槃経の二経は一往深い教えの経々であるが、 かの経々はいまだ浅く法華経に及ばないから、世間の法を仏法に依るものとして教えている。しかし、法華経はそうではなく、世間の法がそのまま仏法の全体である」と解釈されている。 |
現実の社会で成仏の道を実践
「まことの・みち」とは、凡夫が成仏するための「真の道」のことです。では、その真の道はどこにあるのでしょうか。
大聖人は「世間の事法にて候」と仰せです。末法の凡夫にとって、どこまでも現実の社会の中で、信心の「志ざし」をもって生きていくことが、成仏の道になるのです。
大聖人はここで、法華経と諸経における、「仏法と世間」の関係性の違いについて、経文を挙げ、妙楽大師の解釈を引いて確認されています。
その結論は、“法華経以外の諸経では、世間のものごとは仏法と通じ合うというだけにとどまる。しかし、法華経においては、世間のものごとは、まったく仏法そのものである”ということです。
法華経以外の諸経では、世間の営みは、むしろ成仏の修行の妨げになるものです。せいぜい世間の営みの中には、極めていけば仏道に通じるものがあるとか、世間の優れた教えは仏法と一致しているという程度なのです。これは、どこまでも世間の営みを仏法に引き寄せて理解する考え方です。
それに対して、法華経は、“世間の営みは仏法で明かす真実と相違したり、反するものではなく、そのまま全く仏法そのものである”と説いているのです。
事実、大聖人の御生涯は、師弟ともに、どこまでも「世間の事法」の中で仏法を弘通し、民衆を救済することを根本とされました。
たとえば、あの剛毅な四条金吾でさえ、現実社会の軋轢に音を上げ、出家しようとしたこともありました。けれども大聖人は「主君のためにも、仏法のためにも、世間の心根が素晴らしいと鎌倉の人々に賞讃されるようになりなさい」等と激励されています。
今いる場所を離れて、仏法はありません。創価学会は、この大聖人の教えの通りに、仏法勝負の実証を示してきたがゆえに、大発展したのです。
人間のための宗教
仏法は、人間のための教えです。現実社会で苦闘している誰もが、ゆるぎない幸福境涯を築くためのものです。
法華経以外の諸経の修行は、いわゆる歴劫修行で、日々の現実とは別に、長期間にわたる特別な修行で身と心を鍛え、立派な賢人・聖人となってから、ゆるぎない幸福境涯を築こうとしています。それでは、今の現実の人生は「宗教のための手段」となり、ついには人間自身も「宗教のための人間」となってしまうのです。
法華経の修行は、日々の現実との格闘そのものが、自身の内に秘められた仏界、すなわち、あらゆる苦難を乗り越え、ゆるぎない幸福境涯を開き顕す仏道修行です。「人間のための宗教」であり、「人間革命の宗教」です。ここに、「まことの・みちは世間の事法」との真実の実践があるのです。
戸田先生は、厳しく指導されたことがあります。
「もし職業に熱心でない者があるとすれば、これ謗法なりと、吾人は断ずるものである。また、わが職業に歓喜を覚えぬような者は、信心に歓喜なき者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人としての成功はあり得ようがない」
創価学会は牧口先生以来、仏法を生活法として捉え、妙法を根本とする大善の実践を貫き、価値創造によって自身と社会を潤す「まことの・みち」をまっすぐに進んできました。
ゲーテは『ファースト』で綴っています。
「智慧の最後の結論はこういうことになる、自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、これを享受するに値する人間といえるのだ」
地域貢献の誠実も、「まことの道」です。
立正安国の対話も、「まことの道」です。
世界平和の行動も、「まことの道」です。
創価の運動は、自身の成仏を開くだけでなく、他の人の成仏を開くだけでなく、自他共の「まことの道」なのです。
| 09 爾前の経の心心は、心より万法を生ず、 譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしか 10 らず・心すなはち大地・大地則草木なり、 爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法 11 華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。 爾前の経の意は「万法は心から生ずる。譬えば心は大地のようであり、草木は万法のようである」ということである。法華経はそうではない。「心はすなわち大地であり、大地はすなわち草木であるということである。爾前の経々の意は「心が澄むのは月のごとく心が清いのは花のごとし」ということである。法華経はそうではなく「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのである。 -----― 12 此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらずすなはち命なり。 ・ -----― このことから知られるがよい。あなたが御供養された白米は白米にあらず。あなたの命である。 |
心が変われば世界が変わる
このような法華経の修行観・成仏観に基づいて、世の中の森羅万象を見ると、どう見えるのでしょうか。
大聖人は、再び、法華経以外の爾前の諸経と法華経を対比させて、筆を進められます。
まず、爾前の諸経の基本の教説は、「心より万法を生ず」というものであると示されます。
すなわち、“自身とそれを取り巻く環境を構成するあらゆる事象は、自身の心が生み出したものである”というものです。
これは、本来の意味での「自業自得」ということです。自分の行いに相応した報いを受けるというものです。
しかし、爾前の諸経では、それを転換するためには、膨大な時間を費やして、悪業の報いを消し去り、新たに善業を積み重ねていくことが必要であると説く。まさしく歴劫修行にならざるを得ない。
譬えていえば、終わる見込みのない膨大な借金を一つ一つ返済して、その上にこつこつ積み立てて目標に到達しようとするものです。無量の宝の集まりである仏界が自分の中にあることに気がつかないからです。
これに対して、法華経は違います。
大聖人は「心はすなはち大地・大地即草木なり」と示されています。
法華経は、あらゆる衆生の生命に仏の覚りの境涯、すなわち仏界が本来、具わっていると明かしました。
その生命の真実を明かした法華経を信じ、実践するなら、誰もが内なる仏界を開き顕していける。この一生のうちに、その身のままで仏に成れる。凡夫の生命が即、仏と開くのです。
内なる心が変われば、自身と世界が変わっていく。法華経は、この「一心の妙用」「心の不思議」を説いています。
内なる心の世界は、広大無辺であり、ダイナミックです。この「心の不思議」を、天台大師が緻密に整理して『摩訶止観』で説いたのが「一念三千」の法門といえます。
「一念」――すなわち凡夫の一瞬の生命に、「三千諸法」――すなわち森羅万象が具わっている。それゆえに、一念が三千へと遍満していく。
わが一念が変われば、自身が変わる。
否、わが一念を変え、自身と環境を変えていく。
これが、一念三千の法門です。
ゆえに、自身の一念が何を目指しているかという「志ざし」によって一切が決まっていくのです。
万人成仏の妙法を信じ、実践するという信心に、「志ざし」が定まれば、胸中の仏界が開き顕され、自身と環境に遍満していくのです。
“白米はすなわち命なり”
大聖人は、法華経の教えの真髄を、「月こそ心よ・花こそ心よ」と仰せです。
なんと美しい表現でしょうか。大聖人は、雲に隠れていてもその向こうで輝いている月、寒さに一生懸命に耐え抜き、春に咲こうとする花、そこにも仏を見ているのです。あらゆるものがありのままの姿に、仏界の生命を見るのです。
私は、この御文を拝するたびに、大聖人の万人の幸福を開かんとする大慈大悲に心打たれます。
大聖人は、現実の世界で格闘している弟子の一人一人に“あなたこそ仏ですよ”と、讃嘆されているのです。
爾前経が説く「心のすむ」「心のきよさ」とは、一見、きれいですが、十界互具の生命ではありません。
苦悩に満ちた娑婆世界から遠ざかり、人間離れした特別な存在になることは真の成仏ではないのです。
「法華経はしからず」です。厳しい現実の苦難に負けることなく、日々の生活に営々と取り組み、最も人間らしく輝く人、それが仏です。
宿命の荒波に翻弄されているかのように見えても、信心の「志ざし」を燃えたぎらせて、汗にまみれて戦っている姿。そこにこそ尊極なる仏界の生命が現れるのです。
そして大聖人は、「白米は、白米ではなく、あなたの命である――と。師匠と共に戦う決意の「志ざし」によって、古の賢人・聖人が命を捧げて仏になったように、あなたの成仏も間違いないと激励されているのです。
ヘレン・ケラーの「バラの花束」
ここで私は、目と耳と口が不自由という三重苦と戦い抜いて、人類に希望を贈ったアメリカの社会活動家ヘレン・ケラーのエピソードを思い出さずにはいられません。
ヘレン・ケラーは障がいのある少年が贈ってくれた真心の寄付と花束を、生涯、大切に心にいだいていました。
「バラの花束はとうの昔にしおれてしまい、その花束を贈ってくれた小さな心臓も今では鼓動を止めてしまいましたけれども、その美しい行為は永久に私の魂の花園の中で咲き匂うことでしょう」
私たちの運動も同じです。目の前の一人の「志ざし」を大切にすることから、一切は始まります。
常に、そうした無名の一人一人の「志ざし」が歴史の原動力になるのです。
「志ざし」とは誓願の異名
学会員が広宣流布のために戦う、あらゆる「挑戦」「労苦」「行動」は、ただの活動ではありません。「すなはち命」です。
三世十方の諸仏が賞讃しないわけがありません。諸天善神が守護しないことなどありません。
戸田先生は、牧口先生の三回忌の折、真の弟子として、烈々と叫ばれました。
「あなたの志を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山会にてお目にかかるの日には、かならずやおほめにあずかる決心でございます」と。
私たち創価の師弟の「志ざし」とは、誓願の異名です。
同志とは「志ざし」を同じくする人たちの集まりのことです。私たちが普段、何気なくつかっている同「同志」という言葉には、すでに「志」の文字が表れているのです。
同苦し、励まし合い、広布のために奔走している異体同心の学会の同志ほど、「志ざし」を心得ている人はいないのです。
だからこそ世界中に仏法は広まったのです。
民衆救済の「志ざし」に生きる学会員は、世界の宝の存在です。
平和実現の「志ざし」を持つ学会員は、人類の宝です。
この「志ざし」を共有する同志がひろがることは、世界を宝の地球に変えることです。
賑やかに広宣流布の大行進を
戸田先生は、次のように展望されていた。
「一人の新たな真の同志をつくる。それから、一人また一人とつくってゆく。これが、とりもなおさず、時をつくることになる」
私たちは、「志ざし」を同じくする友を、一人また一人と、真心こめて育み、励まし、大いなる躍進の時を創っていくのです。
また、戸田先生は宣言されました。
「この広宣流布の大行進に、志を同じうして立つならば、幸福をつかみうること、火を見るよりも明らかであります」と。
さあ、崇高なる「志ざし」で結ばれた同志と共に、自身も、家庭も、仕事も、地球も、大躍進の勝利へ、賑やかに、勇敢にスタートしていこうではありませんか。
この一年の総仕上げに、
皆さまの労苦と活躍に心から感謝して
1598~1598 食物三徳御書top
| 01 かゆへに大国の王は民ををやとし.民は食を天とすとかかれたり、食には三の徳あり、一には命をつぎ.二にはい 02 ろをまし・三には力をそう、人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、 譬へば人のために火をともせば・我がま 03 へあきらかなるがごとし、 悪をつくるものを・やしなへば命をますゆへに気ながし、 色をますゆへに眼にひかり 04 あり、力をますゆへに・あしはやく・てきく、かるがゆへに食をあたへたる人・かへりて・いろもなく気もゆわく・ 05 力もなきほうをうるなり。 06 一切経と申すは紙の上に文字をのせたり、譬へば虚空に星月のつらなり・大地に草木の生ぜるがごとし、 この 07 文字は釈迦如来の気にも候なり、気と申すは生気なり・この生気に二あり、一には九界。 -----― 宝とする。山の中には塩をたからとする、魚は水ををやとし鳥は木を家とする。人は食を宝とする。 ゆえに、大国の王は民を親のように思って大切にし、国の民は食物を天の如く尊重する、と書かれている。食物には三つの徳がある。一には生命を継ぎ、二には色を増し、三には力を強くする徳である。 人に物を施せば我が身を助けることになる。例えば人のために灯をともしてやれば自分の前も明るくなるようなものである。悪を為すものに物を施すならば、生命力を増すゆえに生気が長くなり、色を増すゆえに目に光りが宿り、力が強くなるために足が早く、手がよくきくようになる。そのために食を施した人はかえって色を失い、生気も弱くなり、力もなくなるという報いを受けるのである。 一切経というのは紙の上に文字を載せたものである。譬えば大空に星月が連なり、大地に草木が生えているようなものである。この文字は釈迦如来の気でもある。気というのは生気のことである。この生気に二ある。一には九界。 |
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
―――――――――
本抄は御書全集に収められている部分は大石寺に御真筆が存しているが、その後京都・住本寺にある御真筆の断簡が本抄と一書とされるべきであることが分かった。昭和新定日蓮大聖人御書にその部分が収められているので、最初に掲げておく。
「たからとす。山の中には塩をたからとす。魚は水ををやとし鳥は木を家とす。人□食を宝とす、かる」。
この後に本抄の「かゆへに……」と続くのであるから、接続する部分は「かるがゆへに……」となる。
この部分が加わってもまだ前後の欠失は変わらず、したがって御執筆の背景も、与えられた人も不明である。御執筆の年については弘安元年(1278)といわれている。
内容については、冒頭の昭和新定の御文の部分ではさまざまな所、生物にとっての宝について触れられ、次いで人にとっては食が宝であると仰せられて御書全集の部分に入っていく。文中、□とあるのは御文字が判読不可能な個所である。ただこの場合は、前後の文脈から考えて「は」が入り「人は食を宝とす」となるのであろう。
「山の中には塩をたからとす」との仰せから考えると、たぶん、塩その他の御供養があり、それが大聖人のおられる身延の地では宝のように貴重であると仰せられているのではなかろうか。
御書全集の部分に入って、最初に王は民衆を親とし、民衆は食を天とすると仰せられている。ここに「大国の王」となっているところは昭和新定では「大荘厳王」と判読されている。いずれにしても王は民衆あってこそ国をたもつことができるのであり、民衆を親に対するように大切にすべきである。大聖人は上野殿御返事にも同様の内容を仰せになっている。
「海辺には木を財とし山中には塩を財とす、旱魃には水を財とし闇中には灯を財とし・女人は夫を財とし夫は女人を命とし・王は民を親とし民は食を天とす」(1554-03)。
王が民衆を親のように大事にした例として上野殿御返事では大国の王であった金色王の故事を挙げておられる。金色王は国が飢饉に陥った時、食糧庫をすべて解放したばかりか食を請うた人に対し自分の食べる分までも与えたのである。
また民衆は、食物を天のように大事にするものである。この二つをあわせて考えれば、民は食を天とし王はその民を親ともするわけであるから、国家、社会の存在は一にかかって食にあるということになる。したがって食こそ最第一の宝であり、その食を供養することは、まことに功徳が大きいのである。
大聖人は次に、この食に三つの徳があると述べておられる。ここに本抄の題号が由来している。その食の三つの徳とは、一に「命をつぎ」であり、二には「いろをまし」で、三には「力をそう」ことであると仰せである。
「命をつぎ」とは、生命を維持させることである。衣・食・住は生命を存続させるうえで必要欠くべからざるものであるが、そのなかでも食糧はまさに命を継ぐ働きをもっているのであり、最も不可欠のものである。
次に「いろをまし」と仰せになっている。これは次の「力をそう」との関連から考えると、顔や体の色艶を増すことをいわれているのであろう。
輪陀王の故事で輪陀王が白鳥・白馬の出現によって色が増して力が出てきたと説かれているように、色艶はその人の生命が旺盛であるかどうかのバロメーターなのである。
第三の「力をそう」は、したがって色艶の外面の姿に対して、内面からの力、体力をいうのであろう。この「力」が外に「いろ」となって顕れるのである。
この三つは別のようであるが、生命を維持・発展させる働きを、三つの角度からこのように仰せられたと考えられる。
このように大切なのが食であるから、食を人に与える人は大きな福徳を積むことはいうまでもない。一般的にいっても、人に物を施せば決局は自分のためにもなるのは道理である。
大聖人はその例として、人のために火を灯せば自分の前も明らかになると仰せになっている。人のために尽くせばそれがやがて自分のもとに戻ってくる。逆に人に非道をなせば、いつかはそれと同じことを自らが受けなければならないというのが仏法の因果の理である。
そして、自分の福徳をまた人に回し、自他ともの成道を願っていくとき、この娑婆世界を寂光土にしていくことができるのである。
しかし、このように重要な食の供養であっても、だれに供養してもよいというのではない。むしろ重要であるからこそ、だれに供養するかが大切なのである。大聖人は悪人を養えばかえって罪をつくることになると仰せになっている。悪人を養うと、悪人が命を永らえ、色艶を増し、力を出すことになる。食の三徳をもって悪人を助けることになるのである。
悪人が命を継ぐことによって悪の生気がながくなる。また色艶を増すゆえに目に悪の光が出る。力を増すゆえに足が速く手が利くようになる。
悪の命自体は「気」としてとらえられるのである。また悪の色艶、すなわち外面は、険のある目の光として現れる。悪の力は手や足の能力に現れると仰せである。
この悪の増長を助けたことはそのまま自分にはねかえってくる。すなわち悪の力は善なる力を阻害し、人の幸せを破壊するものであるから、悪人の生命を強くしたことによって、自分自身の生命が逆に衰え、生気も失せ、力もなくなるのである。
悪人を養うことが悪い結果を生むことは今さらいうほどのことではないように思われるかもしれない。しかし、じつは宗教、信仰の世界においては、極めて広く行われているのである。それは一般世間における善と悪の識別がいくらか容易であるのに対して、宗教における善と悪の違いを見極めることは容易ではなく、善を悪と見、悪を善と見誤ってしまいがちだからである。
般泥洹経に「一闡提に似たる阿羅漢」と「阿羅漢に似たる一闡提」が説かれているが、衆生はともすると外見があたかも阿羅漢に見える一闡提を供養し、逆に社会的地位もなく権力と結ばないところから一闡提に見える阿羅漢に、迫害を加えてしまうのである。仏法を敬っているように思いながら、じつは悪人を養い、その報いとして自らも生命を衰えさせてしまっているのである。それが大聖人御在世の日本の状態であったがゆえに、このことを指摘されているのである。
次に一転して一切経の文字に言及されている。この仰せは前の部分との脈絡が判然としないが、一切経の文字は仏の気であるというところが一貫しているところである。すなわち、経典の文字というのは釈尊の生気であり、この生気には二種類あって一つは九界であると仰せになっているところで途切れている。その後の部分は推察するしかないが、おそらく九界の生気と仏界の生気の二種類があり、爾前経は九界、法華経の文字が仏界であると仰せなのであろう。したがって、法華経への御供養は仏の生気を増すことになるのであり、まさしく法華経の行者である大聖人に食を御供養することは最高の功徳となることは疑いないのである。本抄をいただいた人は、この大聖人の仰せに感動し、御供養によって大聖人をお助け申し上げる使命の尊さに誇りをもったことであろう。
1598~1598 一定証伏御書top
| 01 一定と証伏せられ候いしかば・其の後の智人かずをしらず候へども・今に四百歳が間さで候なり、かるがゆへに 02 今に日本国の寺寺・一万余三千余の社社・ 四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生・皆彼の三大師の御弟子とな 03 りて法華最第一の経文最第二最第三とをとされて候なり、 されども始は失なきやうにて候へども・ つゆつもりて 04 大海となり・ちりつもりて大山となる。 -----― 弘法によって慈覚・智証までが、法華経より真言の経が勝ることは、一定であると証伏されたのであるから、その後の日本の智人が数知れないほど出現したが、今に至るまでの四百年間の間に定められてしまったのである。そのために今、日本国の寺一万寺、三千世の神社、四十九億九万四千八百二十七人の一切衆生が皆、彼の三大師の弟子となって法華経最第一の経文を最第二、最第三と下してしまったのでる。しかし、初めは咎は顕われないようであるが、露もつもれば大山となるのである。 |
四百歳が間
弘法が十住心論で法華経を誹謗し、比叡山座主・慈覚・智証までもが真言を崇めるようになってから、大聖人御在世当時までのきかんをいう。
―――
四十九億九万四千八百二十八人
大聖人の御在世当時の日本国の人口。億は現在の10万。したがって4,994,827人となる。(別説もある)。
―――
三大師
弘法・慈覚・智証のこと。いずれも真言の悪法を弘めた張本人。
―――
法華最第一の経文最第二最第三とをとされて候
弘法が十住心論で立てた邪義。全十巻より成る。天長7年(0830)ごろの作といわれ、大日経・菩提心論を依処として、十住心を立て顕密二教を判じた。とくに第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳、第十住心に真言を立てて、法華経は華厳経にも劣るとなし、大日に劣る第三の戯論と立てている。
―――――――――
本抄の御真筆は大石寺に現存しているが、前後が欠けており、与えられた人も不明である。したためられた年月日についても、弘安年間との説があるが確かな根拠はない。
内容は真言宗、なかでも慈覚・智証の台密を破折しておられる。本文に「彼の三大師」と仰せになっているのは、法華経を第二・第三に堕としたとの内容から、弘法・慈覚・智証の三人を指すことは明らかである。
冒頭の「一定と証伏せられ候いしかば」とは、だれかが、そのとおりであると従わせたということであるが、それによってその後400年、その考えが定着したと仰せられていることから、先の三人のうち慈覚・智証の二人が真言の教えが勝れていると認めてしまったことを指いていることがわかる。慈覚は貞観6年(0864)智証は寛平3年(0891)の没とされているから、大聖人の御在世時代よりそれぞれ410年、390年前になる。
慈覚・智証は比叡山のそれぞれの第三代・第五代座主である。日本天台宗の祖である伝教大師は南都6宗を打ち破って法華経が最第一であることを明らかにし、それによって天台宗は日本において宗教界の盟主となったのであるが、その跡を継ぐ座主が法華経は大日経に劣ると認めたるのであるから、その影響の大きさは計り知れない。しかもこの二人は中国に渡り、天台学と密教とを学んで帰って死後は大師号を贈られている存在であるから、その後いろいろな学者が出たが、この二人に反対するはずもなく、真言が勝れていると日本全体に真言の邪義を弘める素地をつくった点で大きな罪を犯しているのである。
「法華最第一の経文」が「第二第三」と堕とされたと仰せになっていることについて述べるならば、「第二」に堕としたのは慈覚・智証の二人であり、「第三」に堕としたのが弘法である。
弘法は大日経等に衆生の心の相について十種に分別していることを用いて顕密二教の勝劣を論じた「十住心論」を著した。そのなかで凡夫が善悪を知らずに本能に従って生きる異生羝羊住心を第一に挙げ、以下次第に高い住心を説くなかで、天台宗の一仏乗による住心は第八の一道無為住心であるとして、その上に、究極の無自性を説く華厳の極無自性住心があるとして第九におき、究極・秘密の真理を説く真言の秘密荘厳住心が第十で最も勝れていると主張したのである。
もちろん、この弘法の主張は全く根拠のないものである。大日経の説によっているとみせながら、大日経全体に十住心の文があるわけではなく、弘法の我見を組み立てたにすぎない。しかも依経とする大日経は法身仏たる大日如来を立てた権経である。日蓮大聖人がつねづね、仏説である経典の文によって教えの勝劣を判ずべきであると仰せになっているのは、こうした我見によって議論を展開している者の誤りを指摘されているのである。
この邪見をもとに弘法は、真言を第一とし、第二に華厳を挙げ、釈尊の出世の本懐である法華経を第三としたのである。しかもその法華経を顕教と下し、誹謗の限りを尽くしたのである。まさに弘法は法華経誹謗の元凶なのである。
しかし、それとともに、あるいは、それ以上に、天台宗の座主でありながら、法華経を大日経に劣るとした慈覚・智証の罪は、先にも述べたように、まことに大きいのである。
慈覚・智証の場合は理同事勝の説を根拠に、法華経を「第二」と堕している。理同事勝とは、大日経と法華経の理を同じであるとし、大日経には事があるという点において勝れているとする、中国真言の開祖・善無畏が立てた説である。法華経の理は諸法実相・一念三千であるが、これは大日経の阿字本不生すなわち、宇宙の森羅万象は阿字に収まり、一切法は本来不生不滅のものであるとする説、等の理と同じであり、二経は理が同じであるとするのが理同である。そして法華経には、大日経で説かれる印と真言が欠けており、大日経は事において勝るといって事勝というのである。慈覚・智証はこの理同事勝の説によって法華経を大日経に次ぐ「第二」の経に堕としたのである。
例えば慈覚は、華厳や法華と真言の教えを比較して、前者は世法と仏法が円融不二という理密のみであるが、後者は印・真言・三昧耶形などの事密を含めて事理俱密を説くゆえに勝れていると説いている。
もちろん、これらが何の根拠もない邪説であることはいうまでもない。「理同」という点についていえば、大日経等の三部経では二乗作仏が明かされていないから一念三千ではない。いたがって法華経と理と同じであるわけはない。また印と真言等の事があるから勝れているというのも勝手な論議である。逆に印や真言があることによって、仏教本来の精神から離れ、修行が形式的になつたり呪術的になるという弊害を生じたといっても過言ではない。事実、真言が密教として仏教に色彩を与え、真言の隆盛によって仏教界全体の教義の合理的な把握や実践の追究が薄れていったのは後の歴史が示すところであり、その責任は重いといわなければならない。
彼等が唱えた「法華経第三」「理同事勝」等の邪義は、日本の宗教界を混乱させたという点でまことに大きな罪を犯したのであり、初めは咎がないようであっても、露が積もって大海となり、塵がつもって大山となるように、必ず大罪となり、大罰を受けることは疑いないと仰せになっておられる。其の後の文面は不明であるが、彼等が地獄に堕ちているのは疑いないことを仰せなのであろう。
1599~1599 初穂御書top
| 01 石給いて御はつをたるよし、 法華経の御宝前へ申し上げて候かしこまり申すよし、 けさんに入らさせ給い候 02 へ、恐恐謹言。 03 十月二十一日 日 蓮 在 御 判 04 御所御返事 -----― 白米を、○石頂戴し、御初穂(新米)であることを法華経の御宝前へ申し上げた。謹んで御礼を申し上げたいと見参して伝えてほしい。恐恐謹言。 十月二十一日 日 蓮 在 御 判 御所御返事 |
はつを
新米のこと。
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本抄は門下の誰かが大聖人に新米を御供養したことに対する返礼の御手紙である。御真筆の年については弘安元年(1278)であるとされている。御供養した人は不明であり、与えられた人も、御書には「御所」とあるのみで不明である。本抄は日興上人が代筆されており、それが総本山に存している。
最初の部分が欠けているが「石」とはたぶん、米を計量する単位はの「石」であろう。「はつを」は本来、最初に収穫された米について言われていたが、後世、転じて、収穫物一般についても言われるようになった。
一般社会でも、初穂は神仏に捧げる習慣があったが、御供養した人は、何はさておいても日蓮大聖人のもとへ届けてきたのであろう。その真心を謹んで「法華経の御宝前」に申し上げたと仰せである。この「法華経の御宝前」とはいうまでもなく、人法一箇の御本尊である。
「けさんに入らさせ給い候へ」と仰せになっているのは、大聖人が丁重に礼を申していたことを御供養した人に直接会って伝えてほしいと、本抄を与えられた人に託しておられるのであろう。本抄をいただいた人、御供養した人が親密な関係にあったことをうかがわせる。「御所」は高貴な人の敬称に用いられるところから、御供養した人が側近であったとも考えられる。直接会えない人に対しても、礼を尽くされる大聖人の御心が拝される。
1599~1599 五大の許御書top
| 01 □□りげなくなに事もかくの事□不沙汰あるか○す御尋ねあるべし、 経は或は前後し或は落経にても候はず。 02 □ものくるわしきとはこれなり法門もかしこきやうにて候へばわるかるべし。 03 追申 04 五大のもとへは三伊房も申して候・他所に於いて之を聞かしめ将又事に依り子細有るべきか、 伯耆阿闍梨事は 05 但我祖なるやうなるべし、設ひ件の人見参為と雖も其の義を存じて候へ。 -----― □□りげなく、何事もこの事□不沙汰あるか○す尋ねてほしい。経文はあるいは前後し、あるいは落経してもいない。□正気でないことはこのことである。法門も利口げであれば悪いであろう。 追伸 五大のもとは三伊房からも申し上げてある。他所からのことを聞かれたのであろうか。あるいはまた、このことについて何かわけがあるのであろうか。伯耆阿闍梨のことはただ自分の祖(?)のように思っていきなさい。たとえ例の人が尋ねてきても、そのことを忘れぬようにしなさい。 |
伯耆阿闍梨
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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本抄の御真筆は大石寺に存するが、与えられた人も著された年月日も不明である。ただ文中に日興上人に関する記述があり、大石寺に御真筆が存していることから、富士方面の人に与えられたと考えられる。また、法門に関する内容が記されていることと併せて推察すると、熱原の弘教に関連しての御指導の手紙とも考えられる。もし、そうであるとすると、弘安2年(1279)ごろの御書ということも考えられるが、いずれにしても推測の域を出ない。
御真筆を拝すると、全体が追伸である。その前の部分は欠けている。御書全集で「追伸」となっている個所の前の御文は、あくまでも余白に書き加えられたものであり、順序としては後になる。追伸の順序、また文字も判読しがたく、文中、○や□が出てくるが□は不明瞭で判読しがたい文字、○は欠けている部分である。
文中「五大」と仰せになっているのはよくわからないが、文脈から考え、人の名であろうことは推察がつく。その「伍大」はすべてに言ってあると仰せられ、ほかからこのことを聞かれたのか、何か仔細があるのかといわているのは内容が定かではないが、行き違いかなにかがあったのかも知れない、いずれにしても伯耆房・日興上人を頼っていくべきであり、件の人が会いにきてもそのことは忘れないようにしなさいと戒められている。あくまでも日興上人を中心に事を運ぶよう仰せられているのである。
また経について述べられ、前後していなければ落経でないことを明言されている。何らかの経文についてそれがないことを追及されただれかが言い逃れをしようとして大聖人が厳しく破折されているところであるとも拝される。御文からすると、いずれにしてもその人は生気の沙汰ではない状態のようである。大聖人はついで「法門かしこきやうにて候へばわるかるべし」と仰せである。「わるかるべし」は「かるかるべし」とも読めるが、この御文は、仏教の教えについては利口げに自分勝手な解釈をするのは最も愚かなことであり、それが仏法全体を混乱させ、誤らせるとの意であろう。
大聖人は、法門を自分の狭い料簡で利口げに解釈することを常に戒められ、経典という原典に帰るべきであると仰せである。諸宗の祖は経典を自分の都合のよいように解釈し、それをもって自宗を打ち立てているが、それでは釈尊の真意は失われるばかりであり、原典に帰って経典の勝劣を判ずることが重要なのである。ところが大聖人の弟子のなかにも法門を勝手に解釈し、法華経の経文どうりに実践することを避けようとする者がでてきていた。この御文は、そうした人々のことを厳しく戒められたものと拝察される。それに対して、日興上人は日興遺誡置文のなかで門下に「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(1617-05)と戒められているように、自ら大聖人の教えどおり寸分たがわず実践されていた。それゆえ日興上人を中心にに一切の事にあたるように仰せになっているのであろう。
1599~1599 一大事御書top
| 01 あなかちに申させ給へ、日蓮が身のうえの一大事なり、あなかしこあなかしこ。 ・ 02 五月十三日 日 蓮 在 御 判 ―――――― 強盛に申し上げるように。日蓮の身の上の一大事である。あなかしこあなかしこ。 五月十三日 日 蓮 在 御 判 |
本抄は極めて短い御手紙である。日付があるのみで御執筆の年号は記されていないが、弘安2年(1279)と推定されている。御真筆はかつて東京・常泉寺に存していることがわかった。
与えられた人もわからず、内容も欠けて分からないが、日付・判形が加えられており、この文に大聖人の一大事であると述べられていることから、大事な法門を記された書であったろうと思われる。
本抄を与えられた人に対して、だれかに強く言い切りなさいといわれている。おそらく何らかの迫害があって、それに際しての御教示であろう。
弘安2年は熱原方面においては4月に信徒の四郎男が刀傷されるという事件が起きており、熱原の法難が本格的になろうとしていた。また四条金吾には主君から迫害はなくなったものの、逆に主君に用いられるようになった金吾を恨む同僚からの迫害が起きようとしていた期間である。それらに関係する御手紙であるとも考えられる。
「事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり」(0717―12)
「寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし」(0892-06)
「日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ」(1361-16)
これらの御文から拝すると、大聖人個人の身の上のことを仰せなのではなく、大聖人の独一本門を「日蓮が身のうえの一大事」と仰せになっているのではないだろうか。
いずれにせよ周囲の迫害等に負けることなく、堂々と大聖人の仏法を言い切ることが大切であるとの御教示であると拝する。