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日蓮大聖人御書講義別巻1601~1619他

         別巻 序講
1601~1609    富士一跡門徒存知の事
  1601:01~1601:11 第一章 五老僧の法門変革を責める
  1601:12~1602:12 第二章 五一相対を明かす
  1602:13~1603:03 第三章 波木井実長の四箇の謗法を明かす
  1603:04~1604:02 第四章 興門本六と御影象の問題を挙げる
  1604:03~1605:14 第五章 御書に対する態度の相違を明かす
  1605:15~1606:17 第六章 本尊に対する態度の相違を示す
  1607:01~1608:13 第七章 本門寺および王城等について記す
  1608:14~1609:16 第八章 追加八箇条を挙げる
1610~1617    五人所破抄
  1610:01~1610:07 第一章 大聖人、本弟子六人を定る
  1607:08~1611:05 第二章 五老僧の申状を挙げる
  1611:06~1612:01 第三章 日興上人の申状を示す
  1612:02~1612:05 第四章 五老僧の三点の迷妄を挙げる
  1612:06~1613:08 第五章 先師を天台余流とする迷妄を破す
  1613:08~1614:01 第六章 五老僧の台嶺偏重・仮字蔑視を破す
  1614:02~1614:10 第七章 本尊をめぐる五一相対を明かす
  1614:11~1615:06 第八章 神祇・修行・戒における相違を明かす
  1615:07~1616:04 第九章 身延離山の意義を論ず
  1616:05~1617:03 第十章 方便品不読の邪義を破す
1616~1619    日興遺誡置文
  1617:01~1617:11 第一章 五一相対を示して訓戒す
  1617:12~1618:06 第二章 門下に行学二道への精進を促す
  1618:07~1618:11 第三章 仏法護持の根本精神を示す
  1618:12~1619:03 第四章 日興門流の化儀を示す
  1619:04~1619:06 第五章 二十六箇条厳守を遺誡する
1729~1730    美作房御返事
1731~1735    原殿御返事
  1731:01~1731:12 第一章 波木井実長の変心を指摘す
  1731:12~1733:06 第二章 実長を晙した民部日向の謗法を破す
  1733:07~1734:02 第三章 身延を離山する心境を述懐す
  1734:03~1735:04 第四章 再び民部日向の不法行為を責む

         別巻 序講top
 「日蓮大聖人御書講義」と銘打ったシリーズの別巻として、ここでは大聖人滅後、第二祖日興上人が著し、および印可した書五編を収めた。これらは、内容的に二つに分類できる。
 一つは、日蓮大聖人入滅後、門下の中に生じた、二つに大きく分裂したことに関するもの、大聖人から後事を託され、一門を統括しつつ、後遺命の広宣流布を推進する大任を担った日興上人として、これらは秘痛極まりないことであったに違いない。
 その二つの分裂とは、門下の重鎮として大聖人から「本弟子」に定められた六人の高弟の中で生じた五一相対、すなわち五老僧と日興上人の分裂と、身延山久遠寺とその別当である日興上人との分離、いわゆる身延離山である。
 いずれも師、日蓮大聖人から託され、和合を守ることが重要な任務であったにもかかわらず、なぜ日興上人は五人と、また久遠寺と袂を分かたねばならなかったのか、ここに収められた書は、そのやむにやまれぬ理由と、悲痛な思いを筆に託したのである。
 本巻に収められている書の今一つの主題は、第一の点に踏まえて、日蓮大聖人の教えを正しく後代に伝え、広めていくためには、いかにあるべきかという点である。
 次にこの第二点から振り返ってみた時に第一点に対する答え、すなわち日興上人にとって最重要問題であり、自身に課した最極の責任は何であったかが明らかとなる。
 それは一言でいうと、日蓮大聖人の正義と教えの純粋性を守るというものである。日興上人が大聖人の遺弟としての和合と結束の重要性を十分に承知の上で、五人と厳しく対立せざるを得なかったのも、また日蓮大聖人が晩年の9年間を過ごされ「はかをばみのぶさわにせさせ候べく候」(1276-06)との大聖人の遺言と共に譲られた久遠寺からの離山やむなきに至ったのも、大聖人の仏法の純粋性を守るためであった。
 各地で弘教し、大聖人御在世から有力な信徒とつながっていた五老僧と分離することは、規模の面からいえば大変な縮小を意味した。しかしながら「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919-16)との仰せだけでなく、大聖人の御一生が誤った仏教諸宗との命かけの対決の連続であったことを想起するならば、正法を純粋に、歪みなく護持し広めてこそ、最も優先すべき第一の課題であることが明白であった。謗法を容認するのは「仏法の中の怨」であり、人々に対しても「詐り親しむ」は無慈悲である。
 五人との決別も、久遠寺を去ることも、師の付嘱に背く行為と映るかもしれない。だが、師・大聖人が委ねられた最も大事なものは仏法そのものであり、教団の規模や門下の和合はその根本の上に築いていくべきであって、大聖人の教えに背いた和合はかえって悪であり、その場合は、それらと決別することが、逆に師の付嘱を重んじる行為となるのである。これが日興上人の一生、とりわけ幾多の難関に直面した際に選択を促した信念であると拝される。
 そこで、この五編に繰り返し述べられる五老僧と日興上人との決別、身延離山、そして、それらを乗り越えて確立された日興門流について把握するためには、何よりも日蓮大聖人御自身が晩年、何に心を砕かれ、どのように後事を託しつつ入滅されたかということから振り返ってみる必要があろう。
 立正安国論で予言・警告されていた他国侵逼難が蒙古軍の襲来が現実の問題となった文永11年(1274)驚きと恐れに陥った鎌倉幕府は、日蓮大聖人の佐渡流罪を赦免し、4月、大聖人を招いて教示を求めた。それに答える中で、大聖人は第三回目の諌暁をされたのであったが、結局、災いの根源である謗法の諸宗を断つべしとの警告は、ついに容れられず、大聖人は「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」(0923-01)という故事に倣って身延に入られ、令法久住の基礎を確固たるものにする仕事に取り組まれる。
 第一にそれは、末法に流布する仏法を明確化することであり、重要御書の執筆、門下に対する法華経講義が行われた。
 第二は、後継の人材の育成であり、そのために説法・講義による法門の研鑽と、各地での弘教4の展開がなされた。
 そのいずれについても、中核となったのが日興上人である。法華経講義における大聖人の教えを筆録し整理して、大聖人の印可を賜って完成したのが御義口伝であり、地方の弘教では駿河一円に正法興隆の波を起こし、鎌倉幕府にも動揺を与えた。そこで生じた熱原農民信徒の殉教が弘安2年(1279)大聖人出世の本懐の機縁となり、一閻浮提総与の大御本尊が開顕されたのである。
 しかし、それまでの佐渡流罪等、過酷な環境の中での生活により、大聖人は健康を害しておられ、身延に入られてからは、しばしば下痢等に悩まされていたことが、四条金吾への御消息からもうかがわれる。
 弘安2年(1279)は、三人の農民信徒が幕府権力の横暴で命を断たれるという熱原法難が起こり、大聖人のお体も病状が悪化するという最も厳しい時期であったが、その中で「出世の本懐」として一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのであった。
 こうして自ら出世の本懐を遂げられて後は、創価学会第二代会長の表現を借りれば、水の澄み渡るような御境地であったと拝される。
 とはいえ、体の衰弱は進み、弘安5年(1282)に至り、周囲の勧めもあって、常陸の温泉治療のため9月8日、身延山を出られる。その途中、9月18日、武蔵国・池上邸に入られて、10月13日、ここで生涯を閉じられるのである。
 その中で大聖人は、御自身が建立された仏法を日興上人に付嘱される。
身延相承書 (総付嘱書)
01   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、 本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば
02 富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、 時を待つべきのみ、 事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此
03 の状を守るべきなり。
04       弘安五年壬午九 日                 日 蓮 在 御 判
05                             血脈の次第 日蓮日興(1600)
 ここには「九月 日」と日付が記されていないが、この譲り状が身延相承書と名付けられていること、また余命幾ばくもないことを見通されての身延御出立であった点からも、出発される前、すなわち9月8日より前であったことが推察される。
 従って、この御相承については、それぞれ有縁の地にいるのが常であった日昭・日朗・日向・日頂は、少なくともこのことは知らなかった可能性がある。日持は有縁の地が駿河の松野で、身延に近かったこと、そして大聖人が身延を出発されるのを聞いて駆けつけたであろうから、その時点で知ったと思われるものの、上記の日昭らについては、大聖人が池上邸に着かれたあと、鎌倉や下総、安房から駆けつけたと考えられる。ただし、安房あるいは上総にいた日向と下総にいた日頂は、葬儀にも百ヵ日忌にも参加していなかった。
 そうした中で、10月8日、本弟子6人を定められている。宗祖御遷化記録には次のようにある。
  弘安五年九月十八日武州池上入御 地頭右衛門太夫宗仲。
  十月八日本弟子六人定め置かる 此状六人面々に帯す可し云云 日興一筆なり。
  定弟子六人事 不次第。
  蓮阿闍梨日持、伊予公日頂、佐渡公日向、白蓮阿日興、大国阿日朗、弁阿日昭。
  右六人者本弟子なり仍つて後のために定む所件の如し
 第一行に「不次第」とあるのは、六人の記載は順不同であることを示している。
 ちなみに、大聖人後入滅時の六人の入門順と年齢の順序を挙げてみると、入門順では、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持となり、年齢順では日昭(62)・日朗(38)・日興(37)・日持(33)・日頂(31)・日向(30)となる。従って、この六人の配列は年齢順ではなく、入門の新しい順であることがわかる。
 すでに付嘱を受けられたであろう日興上人を含めて、この六人は、大聖人が自ら「本弟子」と定められたのであるから、それぞれに、それだけの実績もあり、資質も優れたものを持っていたはずでる。その中で、入門の順でも年齢順でも先輩である日昭・日朗を差し置いて日興上人を付法の第二祖とされたのは、弘教の実績と大聖人の教えの理解と正しさと深さの両方で、日興上人が他に抜きん出ていたからであると拝察される。
 第一の弘教の実績という点では、日興上人は13歳で大聖人の弟子となって以来、伊豆流罪・佐渡流罪にお供をし、大聖人をお守りすると同時に、その他の人々の教化・弘教を展開し、幾多の弟子・信徒を育成している。日昭とその甥である日朗も、有縁の地である鎌倉やその近辺ではかなりの弘教をしているが、日興上人の実践にははるかに及ばない。
 第二の大聖人の教えの理解の正しさと深さという点についてみると、これは前に述べた伊豆・佐渡流罪時のお供ということに関連してくる。日昭・日朗ら五人は、流罪の地へしばしば大聖人を訪れていったにしても、基本的には有縁の地に留まり、信徒の指導に当たった。もとより、それも不可欠の任務であったが、大聖人がこの流罪の地にあって、特に竜口法難の発迹顕本された後の佐渡流罪で、それまでの法門から一歩深い御境地・立場を明らかにされていったこと、そしてそのための御著作が、例えば鎌倉の信徒の中心者である四条金吾にあてた開目抄を送られるとか、下総の信徒の重鎮である富木常忍にあてて観心本尊抄を送られていることを考えると、常随給仕し、それらの御書を直接拝読し、場合によれば書写することができた日興上人に比べると、立ち遅れたり、あるいはその内容を知る機会が少なかったであろうことは否定できない。
 従って、大聖人が入滅に先立って、日興上人に相承し、身延山久遠寺の別当に任ずるとともに本弟子六人を定められたのは、日興上人を中心として六人が力を合わせ、門下をまとめ、広布へ前進するよう期されたと拝される。
 五人の各方面の要としての立場と責務は大聖人の晩年に事実上、確定していた。すなわち、日昭は鎌倉浜土、日朗は鎌倉比企ヶ谷から武蔵国方面、日向は安房から上総国藻原、日頂は下総国真間、日持は駿河国松野というように、各地の門下信徒を把握・指導しつつ大聖人の法門の流布を推進していたのである。なお、日興上人の場合は、駿河国富士方面と、甲斐国である。
 10月13日、御入滅の当日、大聖人は改めて日興上人に法門を付嘱したことを明らかにされ、在家出家を問わず、日興上人を中心として結束するよう確認される。先の身延相承書が日興上人への譲り状であったのに対し、これは他のすべての門下に対して、そのことを念押しされたものといえよう。池上で明示されたので、これを池上相承書という。
池上相承書 (別付嘱書)
01   釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、 背く在家出家どもの輩は非
02 法の衆たるべきなり。
03       弘安五年壬午十月十三日          武州池上
04                            日 蓮 在 御 判(1600)
 そして、入滅後は、遺体を荼毘に付し、遺骨を身延山に墓所を造って収めるべきこと、本弟子六人で当番を定め、香華を供えるよう命じて御入滅されたのであった。
 この遺言通り、池上の地で葬儀が行われ、御遺体は荼毘に付され、御遺骨は日興上人の手で奉持され、身延山に納められた。
 しかしながら、結果としては、この輪番制度は守られなかった。大聖人の百ヵ日以降、五老僧のうち、日向以外は身延に登った形跡がない上に、一周忌法要が五老僧たちにより池上でなされたとする文書も存在するように、日興上人を中核とする教団の統括を望まれた大聖人の意図は五老僧の背反によってもろくも崩れ去っている。
 これは輪番制という形だけの問題でなく、五老僧と日興上人との間に深い亀裂が生じたということであり、その根底には、日蓮大聖人の教義をめぐる日興上人と五老僧との理解の相違があったのである。
 しかも五人のうち身延に登山してきたただ一人の日向が、日興上人の理解しているところとは異なる考え方を、久遠寺の大檀那であった身延の地頭・波木井実長に付き込み、日興上人からの離反を画策したのである。
 こうして、日興上人のたびたびの戒告にもかかわらず、後入滅7年後の正応2年(1289)には、波木井実長が諸種の謗法行為を犯すに及んで、ついに日興上人は大聖人の正法を護るために謗法の山と化した身延を離れる決意をされ、実行されるに至る。これがいわゆる身延離山である。
 身延離山後も大聖人御入滅後ほぼ50年の間に、日興上人と五老僧の立義はますます明確になり、五老僧の門流も、自らの正統性を証明するためにそれぞれが大聖人から相承を受けたと主張するに至る。
 このような状況の中で、日興上人はご入滅後役半世紀の間に生じた五老僧の邪義と日興上人が日蓮大聖人から受け継いだ正義とを明確に立て分けを示すため、弟子の日澄に富士一跡門徒存知の事を、日順に五人所破抄を記録されるとともに、日興遺誡置文として門下への制戒を26ヵ条記し、残されたのである。
 本巻では先に掲げた御抄のほかに、御書全集には収録されていないが、編年体日蓮大聖人御書全集に収録されている「美作房御返事」と「原殿御書」の2編を関連書簡として講義する。
 さて、日興上人と五老僧との立義の相違が根本的には大聖人御在世中に常随給仕した日興上人と、そうでなかった五人との相違に由来することはいうまでもないが、それに輪をかけたのが、大聖人御入滅後の約半世紀の時代状況が関連したのではなかろうか。
 端的にいえば、大聖人御在世中と御入滅後を通じて鎌倉幕府の大聖人仏法への態度は変わることなく厳しかった。その背景には蒙古軍の襲来という国家的な危機がずっと続いていた点がある。そのため、鎌倉幕府は、異国調伏の祈禱の命令を諸寺社に発するという宗教政策を続けている。
 たとえば、大聖人御入滅の翌弘安6年(1282)12月の「関東御教書」には、次のようにある。
  異賊降伏祈祷事、於武蔵・伊豆・駿河・若狭・摂津・播磨・美作・備中国等寺社、可致懇祈祷之由、普可令下知給之旨、被仰下候也、仍執達如件、
    弘安二年十二月廿八日     駿河守 在御判
  謹上 相模守殿
 つまり、「異賊降伏祈祷の事、武蔵・伊豆・駿河・若狭・摂津・播磨・美作・備中国等の寺社において、懇ろの祈祷を致すべきの由、普く下知せしめ給うべきの旨、仰せ下され候なり。よって執達くだんの如し」とあり、この文書は駿河守である北条業時が異国調伏の祈禱を命令する幕府の上意を受けて、業時自身が管轄する武蔵・伊豆などの諸国内の諸寺社に対して幕府の命令を間違うことなく通達したことを、時の執権である相模守・北条時宗に報告したものである。
 これは関東の一例にすぎないが、同じような命令は日本全国にわたり、延慶4年(1311)に至るまで発せられたことが史料から明らかである。
 日蓮大聖人が立正安国論をもって、まず邪法を捨てて正法である法華経文底の仏法に帰依するべきであると叫ばれたこと、従って「日蓮門下」と名乗る人々ならば、諸宗による異国調伏の祈禱などということに対しては反対の立場をとるであろうことは、幕府の要路者たちにも明白だったはずである。しかし、それだけに日蓮大聖人亡きあとは、門下の中から権力になびいてくる者たちが出てくると期待し、脅かし懐柔の二つをもって、揺さぶりかけたのである。
 実際、日興上人の弟子分帳には「故聖人の御弟子六人の中に五人は一同に聖人の御姓名を改め天台の弟子と号し爰に住坊を破却せられんと欲するの刻天台宗を行じて御祈禱を致すの由、各々申状を捧ぐるに依って破却の難を免れ了ぬ」と記されているように、五老僧は幕府の日蓮門下に対する住坊破却の脅迫に負けて自ら「天台沙門」と名乗る申状を幕府に提出するとともに、天台宗として異国調伏の祈禱を行うに至る。
 これに対して日興上人は、あくまで自らを「日蓮大聖人の弟子」と名乗り、異国調伏の祈禱に対しても、邪法を捨てて正法を立てることが先決であるとの大聖人の御志を継いで諌暁を重ね、大聖人の仏法を堂々と護持されている。
 しかし、地方的な迫害は別にして、そのために日興上人はじめ門下の人々が縛縄等の弾圧にあったという記録はない。これは、幕府が各地の御家人等の不満・反逆を押えるのに手一杯であったこともあるが、日興上人と五人との相違が権力による弾圧の有無のみで生じたものでなく、大聖人の法門への理解の浅深に由来すると考えなければならないことを示している。
 この日興上人と五人との相違は大きく二つの点に絞られるであろう。
 一つは大聖人の御書を尊重したか否か、ということである。富士一跡門徒存知の事に「諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ」(1604-06)とある通り、五老僧は御書を漉き返したり、火に投じて焼却してしまったりしている。
 さらに五人所破抄には「若し聖人の製作と号し後代に伝えんと欲せば宜く卑賎の倭言を改め漢字を用ゆべし」(1612-05)とあるように、大聖人が、かな文字で書かれていた御消息などの御書に関して漢文に改めるべきであると五老僧は勝手に主張している。実際に日向や日頂は、かな文字の御書を漢文に改変した形跡がある。これに対して日興上人は、十大部の選定や御書の収集などに明らかなように、御書を末法永遠の仏法の原点として尊重されている。
 二点目は三大秘法のうち、特に本尊についての見解が異なる、ということである。日興上人は「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606-02)と記されているように、大聖人御直筆の曼荼羅が本尊であると明白に決定されている。
 これに対して、五老僧は「本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く」(1605-16)とあるように、釈尊を本尊と立て、大聖人直筆の曼荼羅については釈迦仏像の後方に掛けたり、堂社の廊下に捨て置くという状態であった。
 本尊のみならず、題目・戒壇に関しても、慨して五老僧は天台の法華経・迹門を中心とする解釈に偏っているのに対し、日興上人のみ大聖人の法門こそ、末法一切衆生の成仏の依処であるとする直系の立場に立たれている。
 ここに表れているのは、師である日蓮大聖人を仏法的にどう位置付けて尊ぶかの相違である。すなわち、第一の点が表しているのは、日興上人が大聖人を久遠元初自受用報身であり、末法の御本仏に拝したのに対し、五人は釈尊の仏法の中で天台大師の教えを受け継いで末法濁悪に法華経を弘通する菩薩であるとしたということである。
 第二の点は、この末法の人本尊たる大聖人が末法衆生の信行の根本対象たる法本尊として立てられたのが三大秘法の大御本尊であるとするのが日興上人であるのに対し、五人は大聖人を釈尊の法華経を弘通する菩薩とする立場であるから、信行の根本対象としては釈迦像を立てたのである。
 この相違の背景には、前述したように、特に佐渡期における常随給仕の問題があるといってよい。佐渡期以降に示された本尊論や戒壇についての大聖人内奥の教えに接する機会が皆無に近かったことが上の相違に反映しているのは間違いなかろう。
 もとより大聖人は、門下の要ともいうべき六人のみならず、門下として日の浅い青年僧たちにも、このような仏法上の深義について、正しい認識と理解を持たせようと努力された。その表れを私たちは、身延入山後に弟子たちに対して行われた法華経要文の講義に拝することができる。それを日興上人が筆録したのが御義口伝であり、日向が筆録したのが御講聞書である。
 しかしながら、同じ説法・講義を聞いても、聞く人の資質と信行の深さにより理解に差が生まれることも事実である。御義口伝と御講聞書にある落差がそれを物語っている。大聖人が六人を「本弟子」と定められつつも、法門の付嘱は日興一人にされたのは、所詮、御自身の法門のすべてについて正しい認識と理解を得ているのは日興一人しかいないと見抜かれたからにほかならない。
 しかもこの日興上人と日向の違いが身延と地頭で久遠寺の大檀那でであった波木井実長を巻き込んで、身延の地の謗法汚染を招き、日興上人をして、大聖人の正法の清流を守るためには身延離山やむなしと決意させるに至るのである。
 いずれにせよ、本巻に収めた日興上人の五編のうち、美作房御返事は五老僧が墓輪番を守らず身延山に参詣にも来ないことを嘆いたものであり、原殿御返事は、身延の地頭で久遠寺の大檀那である波木井実長が日向にたぶらかされて謗法に堕したため、身延を離山せざるを得なくなった経緯と心情を記されたものである。
 この二通が個人にあてた書簡によって五老僧との義絶、身延離山に関する心情を伝えたものであるのに対し、富士一跡門徒存知の事、五人所破抄、日興遺誡置文は、日興上人御自身の滅後の令法久住のために記されている。
 従って、富士一跡門徒存知の事は学頭職に任じられた日澄に、五人所破抄は、日澄亡きあとの学頭・三位日順に記録させている。一説には前者が日澄の逝去で未完成になっていたものを、三位日順によって後者として完成させたものといわれるが、富士一跡門徒存知の事には、まさに富士に本拠を置いた日興上人門流の存知すべき基本指針として五人所破抄に含まれていない諸点が記されており、独自の価値をもっているので、未完ということにはとらわれず解説を付すことにした。

1601~1609    富士一跡門徒存知の事top
1601:01~1601:11 第一章 五老僧の法門変革を責めるtop

01   先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては曾つて異義有るべからざるの処、 其の整足の弟子等忽に異趣を起して
02 法門改変す況や末学等に於ては面面異轍を生ぜり、 故に日興の門葉に於ては此の旨を守つて 一同に興行せしむべ
03 きの状・仍つて之を録す。
04   一、聖人御在生の時・弟子六人を定むる事、弘安五年十月 日 之を定む
05     一 日昭 弁阿闍梨
06     二 日朗 大国阿闍梨
07     三 日興 白蓮阿闍梨
08     四 日向 佐渡阿闍梨
09     五 日頂 伊予阿闍梨
10     六 日持 蓮華阿闍梨
11   此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条条の事。
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 まず日蓮大聖人の真意が法華文底独一本門にあることについては、かつては異義を唱える者はなかったのであるが、大聖人入滅後は高弟とされた者たちが、たちまちに異義を唱えて、師の法門を改変した。ましてや末学らにおいては、それぞれさまざまな主張をするに至ったのである。ゆえに日興の末流においては大聖人の法門を守り、心を同じくして、仏法を行じるべきであり、そのための書状として、これを記録するのである。
   一、聖人御在生の時・弟子六人を定むる事、弘安五年十月 日 之を定む
     一 日昭 弁阿闍梨
     二 日朗 大国阿闍梨
     三 日興 白蓮阿闍梨
     四 日向 佐渡阿闍梨
     五 日頂 伊予阿闍梨
     六 日持 蓮華阿闍梨
 この六人のうち五人と日興一人が和合できない理由を項目的にあげる。

本意
本当の意図・気持・意義。---
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法華
 ㈠大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
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本門
 迹門に対する語①釈尊が本地の仏の姿を明かして説いた法門のこと。涌出品~勧発品までの十四品をいう。②釈迦仏法に対して、大聖人の三大秘法を文底独一本門という。
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忽ち
 すぐに・ただちに。
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異趣
 おもむき、考えが異なること。
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法門
 仏・菩薩の教え、その仏に従って学べば聖者の智に入ることのできる門。末法では御本仏日蓮大聖人の三大秘法をさす。
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末学
 ①未熟な学問・枝葉の学問②後学の学者・末弟のこと。
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面面
 おのおの・各自・それぞれ。
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異轍
 異なった轍。正しい道をはずれ、脱線・逸脱すること。
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日興
 (1246~1333)字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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門葉
 一門の枝葉・末流の意で、一宗一派の流れを汲んだ者。
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興行
 ①行うこと、行われること、盛んに行われること。②催すこと。料金をとって、演劇・見世物をすること。③寺などを建てること。
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弟子六人
 日蓮大聖人が弘安5年(1282)10月8日、御入滅に先立って定めた6人の高僧。本弟子ともいう。日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持。
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日昭・弁阿闍梨
 (1222~1323)。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
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日朗・大国阿闍梨
 (1245~1320)筑後房ともいう。寛元3年(1245)4月8日、下総国海上郡能出(千葉県匝瑳市能手)に生まれ、幼名を吉祥麿といった。父は平賀二郎有国といい、平賀千家の一族で、母は因東祐昭の女、有国の没後、平賀忠晴と再婚し、日像・日輪をもうけている。日朗は建長6年(1254)、10歳の時、父の有国と共に日蓮大聖人に会って帰依し、日昭のもとで得度した。文永8年(1271)9月の竜の口法難の際には日心と共に土牢に投ぜられ、日蓮大聖人から10月3日に五人土籠御書を、10月9日には土籠御書を頂いている。弘安2年(1279)10月20日、大聖人は日朗・池上宗仲両人に対して両人御中御書御書を与えられている。大聖人御入滅後は、日興上人に違背し、大聖人の墓所輪番制にも応ぜず、100ヵ日忌法要の時、身延に登山したものの、御廟所の立像仏を持ち去っている。弘仁6年(0813)7月ごろに池上に長栄山本門寺を建立、大聖人を開山として自らは第2代となった。同8年(1285)天台沙門と名乗って公所に申状を提出し、師敵対の行為をとった。また、延慶2年7(1309)1月に四長四本山を一寺としている。晩年に至って富士に来山したことが五人所破見聞に記されている。文保2年(1318)10月23日に、本迹口決を竜華院日像に送り、元応2年(1320)1月21日、池上にて死去。その後日朗門下は池上本門寺と鎌倉比企ヵ谷妙本寺を中心に弘教した。日朗門下には日像を中心に日輪・日善・日範・日伝・日印・日行・日澄・朗慶等がいる。「本迹見聞如天甘露抄」「五時系図」「本尊明鏡抄」等の著作がある。大国阿闍梨は日朗の号。
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日向・佐渡阿闍梨
 (1253~1314)。民部阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。佐渡阿闍梨は日向の号。
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日頂・伊予阿闍梨
 (1552~1317ごろ)。建長4年(1252)駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市北山)に生まれた。父の死後、母に従い鎌倉に住し、さらに下総若宮の富木常忍に母が再嫁したので養子となった。文永4年(1267)に日蓮大聖人の門下となり、日頂と名付けられた。建治3年(1277)富木常忍が天台宗の真間弘法寺を法論によって改宗させたので、日頂はその開山住職となった。弘安元年(1278)11月25日には、熱原法難により富士方面にいられなくなった日秀・日弁を、大聖人の計らいによりかくまっている。大聖人御入滅後は、100ヵ日忌後の弘安6年(1283)1月に下総真間に下ったまま大聖人の墓所の輪番にも行かず、正応4年(1291)3月、天台法華宗の沙門と名乗って申状を提出、正安4年(1302)3月8日、真間弘法寺を日揚に付して重須に行き、日興上人に帰伏した。翌乾元2年(1303)3月、重須に少林寺を創建し、徳治2年(1307)6月24日、書を鎌倉の了性房日乗に報じて、日興上人に代わって法難渦中の門下を激励し、文保元年(1317)ごろ重須で没した。伊予阿闍梨は日頂の号。
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日持・蓮阿闍梨
 (1250~)建長2年(1250)駿河国庵原郡松野(静岡県富士宮市富士川町松野)で松野六郎左衛門入道の次男として生まれる。幼少にして出家し、駿河国蒲原郡(静岡県富士市)四十九院に登り、日興上人に従って四十九院に住しながら大聖人の弟子として甲斐公と称した。文永7年(1270)21歳で得度。四十九院の法難で頻出の厄に遇ったが、師友と共に苦難を凌いでいる。日蓮大聖人の晩年には本弟子六人の一人となったが、大聖人の滅後は墓輪番に応ぜず、天台沙門と名乗るなど、大聖人の本意に背く行動をとった。正応元年(1288)6月8日、大聖人7回忌報恩のために御影を池上に奉安している。永仁3年(1295)、46歳の時、松野の蓮永寺を日教に託してただ一人、海外弘通の途に上った。奥州を歴て蝦夷(北海道)に渡り、樺太・大都(北京)、外蒙古まで歩を記したともいわれているが、明らかではない。蓮華阿闍梨は日持の号。
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和合
 二つ以上のものが結合し溶け合うこと。うちとけてやわらぎあうこと。
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由緒
 事柄の根拠、いわれ。
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条条
 一つ一つの条目。
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 本抄は延慶2年(1309)、日興上人の命を受けて重須談所の初代学頭である日澄が五一相対すなわち五老僧の謬義に対比して日興門流の立てる大聖人の正義について明らかにすべく草案したものとされているが、完成に至らずして逝去した。そこで、この日澄の草案を引き継いだ重須談所第二代学頭・三位日順が同じく日興上人の命を受けて嘉歴3年(1328)7月に完成させ、同上人の印可を得た書であるとされている。そのことについては日順阿闍梨血脈に「澄深く此の意を得るも筆墨に能へずして空しく去りぬ、汝先師の蹤跡を追って将に五一の相違を注せよ」と記されている。
 ただし本抄には五人所破抄がとりあげていない項目もあり、内容的に独自の価値を持っている。
 ここで、本抄を執筆した日澄の略歴について見ておこう。
 日澄は下総国葛飾郡八幡若宮に住んでいた富木常忍の子として、弘長2年(1262)に生まれている。大聖人御入滅の直前に六老僧の一人に任じられた日頂は同じ母と先夫との間に生まれ、再婚し富木常忍の養子になっていたから、日澄の兄にあたる。初め上総国茂原を基盤に教線を張っていた日向のもとで出家し、寂日房と称したが、日蓮大聖人から日澄の法号を頂き、日興上人の身延離山後、身延に登ったが、日向の立義が大聖人の正意に背く謗法であることに気付き、日興上人のもとにいった。
 広識博学で、一切経や内外の典籍に通じているところから、重須談所の学頭に任じられるとともに、日興上人の命で、円慶2年(1309)には本抄草案を執筆したが、翌年の円慶3年(1310)には49歳で病死し、いわゆる草案のままで終わった。
 次いで、本抄の題号について見ると「富士一跡」とは、富士を本拠とする日興上人の門流を受け継ぐことを指して、その「門徒」とはいうまでもなく日興門流の人々を示している。
 「存知の事」は知っておくべきことという意味であるから、本抄は日興上人の門流を受け継ぐ人々が知っておくべき事柄について記した書、ということになる。
 次に、本抄は置文の形式で記されており、冒頭で日蓮大聖人が本弟子六人を定められたにもかかわらず、大聖人滅後、五老僧たちは付嘱を受けた日興上人を無視し、それぞれ勝手な義を唱え始めた。
 この五老僧と日興上人との立義の相違、いわゆる五一相対について論じられるとともに、日興上人の門流として未来につたえるべき規範等を記されていく。
 その一々については後に詳しく触れるが、ここで、あらかじめ15項目を列挙しておく。
   (1)法華経の本迹勝劣の事
   (2)日蓮大聖人の弟子と天台沙門の事
   (3)神社参詣拒絶と容認の事
   (4)五種の行と拒否と容認の事
   (5)法華本門の戒と叡山の迹門戒の事
   (6)身延の地頭波木井氏の事
   (7)日興上人が六弟子を定めた事
   (8)大聖人の御影像の事
   (9)大聖人の御書の事
   (10)本尊の事
   (11)本門寺の富士山建立の事
   (12)王城の建設の地の事
   (13)日興上人の諸文収集の事
   (14)奏聞状の事
   (15)日興上人の義を盗んだ事
 このうち(1)~(10)の10ヵ条は五老僧の立義を挙げて破折し、(11)~(15)の5ヵ条は日蓮大聖人の正法を興隆するために日興上人が定めたことを示して後世の遺誡としている。
 まず、第一章の段では大聖人御在世中は、大聖人の本意が「法華本門」にあることに関してはだれびとも異議をたてなかったにかかわらず「其の整足の弟子等」すなわち、後に列挙される本弟子六人のうち日興上人を除く五老僧たちが「忽に異趣を起し」すなわち、大聖人の本意に背き、「法門変革す」すなわち大聖人の法門を歪めてしまった。そのため「況や末学等に於ては面面異轍を生ぜり」とあるように、末学たちはますます混乱の度を甚だしくしていることを憂えられている。
 そこで、五老僧の謬義を破折し、大聖人の正統な流れを受け継ぐ日興上人の立義を厳守して、日興門下一同に知らしめるのみならず、後世にも留め置くために本抄を残すという、本抄の根本的意図が明らかにされている。
 次いで「聖人御在生の時・弟子六人を定むる事」として、日蓮大聖人が御入滅直前の弘安5年(1282)10月8日に本弟子六人を定められたことを述べ、六人の名が列挙されている。前述したように、この順序は入門の日の浅いほうから順に並べられている。
 これら本弟子六人の経歴と事跡について、簡略に入門の順で触れておこう。
 まず第一は「日昭」で、入門は33歳の時で建長5年(1253)、大聖人の立宗直後のことであり「弁阿闍梨」と号す。承久3年(1221)下総国海上郡に生まれる。大聖人より1つ年上である。俗名は印東氏。父・裕昭には二男二女の四人の子があり、日昭は3番目の子である。
 1番目の姉は池上左衛門太夫康光の妻であり、その子供が池上兄弟(宗仲・宗長)である。2番目の兄が長男で印東家の家督を相続した。4番目の妹は最初、平賀有国の妻となり、1男をもうけるが、有国が早世したため、本家の平賀忠春と再婚し、2男をもうけた。有国の子が日朗であり、忠春の子が、日朗門流の高弟にあたる日像・日輪である。
 日昭からすれば、池上宗仲・宗長、日朗、日像・日輪はすべて甥に当たることになる。
 日昭は嘉禎元年(1235)15歳のころ、郡の天台宗の寺に入って出家し、成弁と名乗った。弁阿闍梨・弁殿との呼称はここからくるものであろう。
 彼は比叡山に登って、天台宗の教観二門を修し、この間に日蓮大聖人を知られたと考えられる。建長5年(1253)4月28日に大聖人が安房清澄寺で立宗されたのを聞いて比叡山を去って大聖人を訪れ、同年11月に入門している。おそらく大聖人の最初の弟子と考えられる。
 文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた弁殿御消息が残っている。この二通の書簡の間には佐渡流罪があったが、日昭は鎌倉にとどまり、大聖人の留守を守るとともに、年齢・経歴からいっても大聖人不在中の一門の中心をなしていたのではなかろうか。大聖人御入滅後には鎌倉に妙法華寺を創立し、元亨3年(1323)103歳で死去している。
 次に「日朗」であるが、寛元3年(1245)4月8日、下総国海上郡に生まれている。幼名は吉祥麿、大聖人の弟子となってからは、大国阿闍梨とも筑後房とも呼ばれている。日朗は、建長6年(1254)10歳の時、父の平賀有国と共に鎌倉の松葉ヶ谷の大聖人に会って帰依し、父・有国は日朗を日昭のもとに得度させている。文永8年(1271)27歳の時竜口法難に際して日心とともに宿屋光則預かりのもとで土牢に投ぜられている。大聖人は10月9日には「土籠御書」さらに10月13日に日朗等5人に「五人土籠御書」を、与えられている。
 日朗は池上家の俗縁から、大聖人御入滅後、池上邸を池上本門寺としているが、大聖人御在世中は日昭と共に鎌倉方面の信徒の教化に力を注ぎ、弘安元年(1278)には鎌倉比企ヶ谷に法華堂を開き、弟子・日像を住まわせている。
 こうして、日朗は鎌倉企比ヶ谷の法華堂と池上本門寺の二か所を主たる拠点として活動を展開し、元応2年(1320)1月21日、池上で死去している。76歳であった。
 次に「日向」は建長5年(1253)2月16日安房の長狭郡尾金で生まれた。俗姓は小林氏、幼少にして比叡山の高乗院岳天の門下となり、安立院と号し、大聖人の弟子となってからは、民部公・佐渡公・佐渡阿闍梨と呼ばれる。
 文永元年(1246)秋、日蓮大聖人が伊豆流罪を赦免になって安房小湊に戻られた時、大聖人と出会い、13歳で得度している。文永9年(1272)一月に起きた塚原問答の時には日向は佐渡の念仏宗の中心者である印性房弁成を日興上人と共に攻めたという記述もあることから、大聖人は佐渡流罪中は日興上人と共に給仕したのではないか、と考えられる。建治2年(1276)7月21日、清澄寺の道善房が寂した時に、日向は大聖人の名代として報恩抄を道善房の墓前で読んでいるが、これは日向が安房の出身という縁故からと考えられる。
 弘安3年(1280)に大聖人の法華経講義を聴聞し記録したのが「御講聞書」である。また、異体同心事には「はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば 万事を成し」(1463-01)あることから、日興上人と共に駿河の熱原・富士方面の弘教に参加したと考えられる。
 おそらく、日向は安房方面の弘教を担当したが、大聖人の身延御入山後から御講聞書として自ら記した大聖人の法華経講義の終了する弘安3年(1280)までは、身延・駿河方面の弘教にかかわったと思われる。日向も墓輪番に名を連ねていたが、他の五老僧と同じく自身の当番の時は登山せず、弘安8年(1285)大聖人の3回忌後、身延にやってきた。日興上人はこれを喜ばれて学頭に補せられたのであったが、翌弘安9年(1286)ごろから、地頭の波木井実長に謗法を容認する考え方を拭き込み、後述する「四箇の謗法」を彼に犯させるに至り、日興上人の身延離山の原因となった。日興上人の身延離山後、久遠寺は日向を中心に運営されていくが、正和2年(1313)、日向は日進に久遠寺を譲り、翌年、62歳で上総国藻原で死去している。
 次に「日頂」について見ると、建長4年(1252)駿河国富士郡重須に生まれる。幼くして父が死に、母に従って鎌倉に住んだが、母が下総若宮の富木常忍と再婚したのに伴い、その養子とあった。本抄を草案した日澄が日頂の異母弟であることは前述の通りである。
 真間の天台宗・弘法寺に入り、伊予房と称したが、文永4年(1267)日蓮大聖人の門下となり、日頂と名付けられている。文永10年(1273)7月に大聖人が富木常忍にあてた御消息に「伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ」(0963-01)とあることから、文永10年には佐渡の大聖人の下にいたことが分かる。
 建治3年(1277)に養父・富木常人が天台宗の真間弘法寺の法論の後に改宗させたのを受け、日頂はこの寺の開山住職となっている。
 こうしたことから、日頂は大聖人御在世中も、御入滅後も一貫して下総国真間を拠点に弘教していたと考えられる。おそらく養父・富木常忍との確執が原因で正安4年(1302)真間弘法寺を日揚に付嘱して、同年、先に日興上人の帰伏していた異母弟・日澄を頼って重須に移り、日興上人に帰伏した。乾元2年(1303)3月、重須に正林院を創建し、文保元年(1317)ごろ、65歳で、重須で亡くなっている。
 次に「日持」であるが、建長2年(1250)駿河国庵原郡松野郷に松野六郎左衛門入道の次男として生まれる。7歳の時、駿河国蒲原荘四十九院に入って修学、甲斐公と称している。文永7年(1270)、21歳の時、同じ49院の先輩である日興上人の教化により大聖人に帰依し日持の名を賜っている。
 ただし、大聖人の門下となってからも四十九院にいて弘教に励み、弘安元年(1278)には同院を追放されるという苦難に出会っている。
 このように日持は日興上人と縁が深いが、墓輪番を命じられながら、なぜ身延の日興上人の下へこなかったのか、その理由は分かっていない。永仁3年(1295)46歳の時、松野の寺を日教に託して海外弘教の途につき、おそらく現在の北海道からサハリンを経て大陸に入り、モンゴルまで足跡を刻んだと伝えられているが、詳しいことは分かっていない。
 さて最後に日興上人の略歴について見ておきたい。
 日興上人は寛元4年(1246)3月8日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢に生まれた。父は遠州の紀氏の流れを引く大井の橘六、母は富士の由比氏の娘である。幼少のころ、父を失い、母は網島家に再婚したので、外祖父である由比入道に養育されている。
 7歳の時に蒲原荘内の天台宗・四十九院に登り、ここで漢文学、和歌、国書、書道などを学ぶとともに、天台法門の研鑽に励んでいた正嘉2年(1258)四十九院と同じ天台寺である岩本実相寺に大聖人が一切経閲覧のために来られていた際にお会いし、13歳で大聖人の弟子となり、伯耆房の名をいただいている。
 弘長元年(1261)伊豆流罪、文永8年(1271)佐渡流罪、いずれの時も大聖人に常随給仕して行動を共にし、親しく教示を受けると共に弘教に励んだ。
 大聖人が佐渡流罪から鎌倉に戻られて三度目の国主諌暁をされ、身延に入られた後は、特に富士方面の南条、松野、由比、高橋などの縁故を中心として、甲駿地方の弘教を展開、この間、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ、多くの農民を化導した。その影響で、弘安元年(1278)四十九院の院主らによる大聖人門下への迫害が起き、さらに熱原の農民信徒らに対する幕府権力による弾圧、いわゆる熱原法難が起きた。これが弘安2年(1279)10月12日の一閻浮提総与の大御本尊建立という大聖人出世の御本懐の機縁となった。
 大聖人滅後は御遺命により、身延山久遠寺の別当として、大聖人の三大秘法を護持し、門下を統括する第二祖となられたが、五老僧の離反、本書に明記されている地頭・波木井実長の四箇の謗法などが相次ぐに及んで、正応2年(1289)身延山を離山し、翌年、正応3年(1290)10月、上野郷の地頭・南条時光の懇請によって、富士大石寺を建立された。
 正安年中には寂仙房日澄が帰伏したことから日澄を重須談所の初代学頭に補し、日澄寂後はその弟子・三位房日順を学頭に任じ、門下の育成に力を注がれた。
 こうして育った門下の中から日目・日華・日秀・日禅・日乗の本六、日代・日澄・日道・日妙・日郷・日助の新六を定めて後事を託し、日興跡条条の事によって日目上人に一切を付嘱した後、元弘3年(1333)88歳で入滅されている。
 いずれにせよ、冒頭の文にあるように、五老僧も大聖人御在世中は、大聖人の本意が「法華本門」であることに異義を立てる人はいなかった。しかし、大聖人滅後「異趣を起こして法門変革す」に至ったのは、環境の厳しさの恐れや天台宗の権威のもつ誘惑であったろう。根本的には、大聖人の法門への認識・理解が浅かったことに原因があると考えなければならない。そこに、信行学を深めるべき所以があるといえよう。

1601:12~1602:12 第二章 五一相対を明かすtop

12   一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、 又云く先
13 師日蓮聖人・ 天台の余流を汲むと云云、 又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと
14 欲す云云。
15   日興が云く、 彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に
1602
01 載せ畢んぬ、此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。
-----―
 一、五人一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。したがって幕府に提出した申状には、我々は天台宗の僧侶であると言っている。
 また、先師日蓮聖人は天台宗の流れを受け継いでいると言っている。また、桓武天皇の時代の姿を仰ぎ、伝教大師の流れを汲んで法華宗の宗旨を弘通するとの願いがあると言っている。
 日興が言う。かの天台大師や伝教大師が弘通した法華経は迹門である。今、日蓮大聖人が弘通される法華経は文底独一本門である。日興は、この相違をつぶさに書状に記載した。この相違によって五人と日興が関係を堅く断絶した。
-----―
02   一、五人一同に云く、 諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企
03 て精誠を致し二世の所望を願う。
04   日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、 故に悪鬼神・其の国土
05 に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。
-----―
 一、五人が一同に言う。多くの神社は現世・当世を祈るためにある。従って、伊勢太神宮と伊豆神社・箱根神社の二所と熊野神社と、いろいろな所に参詣して誠を尽くして現世・来世への二世への望みを祈るのである。
 日興一人が言う。正法に背く謗法の国を、天の神や地の神、国を守るべき善神は捨て去ってしまい、そこに留まっていない。そのため悪鬼神がその国土に乱れ入ってきて災難を起こしてしまっているのである。と、この相違によって五人とは関係を義絶したのである。
-----―
06   一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍つて在在所所に法華三昧又は一日経を行ず。
07   日興が云く、 此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず、之に依つて日興と五人
08 と堅く以て不和なり。
-----―
 一、五人が一同に言う。法華経をその教え通りに勤行し、これを書写し、供養するのである。従ってあちこちで法華経の三昧を修行し、または一日経を行ずるのである。
 日興が言う。そのような修行は、末法の修行ではない。また謗法の時代には行うものではない。このことから日興と五人の関係は堅く不和になったのである。
-----―
09   一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ。
10   日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、 日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所
11 持の正戒なり、之に依つて日興と五人と義絶し畢んぬ。
12   已前の条条大綱此くの如し此の外巨細具に注し難きなり。
-----―
 一、五人が一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。よって比叡山延暦寺において出家し、戒を受けたのである。
 日興が言う。かの比叡山延暦寺の戒は、法華経迹門の戒であり、像法時代に受持する戒である。日蓮大聖人の受戒は法華文底独一本門の戒であり、今、末法の時代に受持すべき正しい戒である。これによって日興と五人と義絶したのである。
 ここに述べた一つ一つの条目は根本的なことである。このほかにもさまざまあるが、詳しいことは十分に記しきれない。

天台宗
 中国・隋代の天台大師智顗が開いた宗派。法華経を依経とするため、法華宗・天台法華宗・天台法華円宗ともいう。釈尊の一代聖教を五時八経に分類して、諸教をそれぞれの位置づけをし、仏教の本義は法華経にあるとする。法華経の教旨に基づき、一念に三千の教法を立て、円頓止観の十乗観法によって速やかに仏果を成することができると説く。中国では、北斉代の慧文が、竜樹の大智度論・中論によって一心三観の理を説き、これが南岳を経て天台大師に伝えられた。天台大師は南三北七の教義を破し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を著し、天台宗の教観を大成した。天台大師の没後、唐代の中期に出た妙楽大師は法華三大部の注釈書を著して天台の宗義を宣揚した。日本へは鑑真が天台の典籍を伝えていたが、伝教大師が入唐中に妙楽大師の門の道邃と行満から相承を受け、帰国後延暦25年(0806)に開宗した。伝教大師の没後、大三代座主・慈覚や第五代座主・智証が天台宗の宗義に真言密教の教義を取り入れたため、日本天台宗は急速に密教化していった。
―――
公所に捧ぐる状
 五老僧が提出した申状のこと。公所とは朝廷・政府・幕府のこと。現存する申状は、弘安8年(1285)の日昭和・日朗のものと、正応4年(1291)日頂、嘉暦4年(1329)日向のものがある。ただし日向の申状は、日向の名に仮託した後人の偽作との説もある。
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天台沙門
 沙門はシュラマナ(śramaṇa)の音写で僧侶のこと。天台宗の僧侶であるとの意。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
余流
 本流から分かれた支流。分派を意味する。
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桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
―――
古風
 古い時代のやりかた。ものの考え方。①時代遅れ②「本来の」「伝統の」意。
―――
伝教大師
(0767~0822)伝教のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
法華宗
 法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
―――
所弘
 能弘に対する語。能は能動、所は受動。能弘は能く弘める者。所弘は弘められる法。仏が説法する場合、説法する仏は能説、説かれ法は所説である。
―――
法華
 法華経のこと。
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迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
弘宣
 「ぐぜん」とも読む。弘く宣べること。仏法を弘通し広宣流布すること。
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本門
 迹門に対する語①釈尊が本地の仏の姿を明かして説いた法門のこと。涌出品~勧発品までの十四品をいう。②釈迦仏法に対して、大聖人の三大秘法を文底独一本門という。
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義絶
 義理を絶つこと。教義・信条の違いによって関係や交際を断絶すること。君臣・師弟・肉親などの縁を絶つこと。除名・破門などの意として用いられる場合もある。
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神社
 神を祭る社①皇室の祖先を祭る社。②過去の英雄を祭る社。③農耕神を祭る社。④同族の祖先を祭る社⑤地域を祭る社。などが代表的である。動物・自然物を祭る社などもある。
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現当
 現在と当来(未来)のこと。
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伊勢太神宮
 三重県伊勢市にある神社。内宮といわれる皇大神宮と外宮といわれる豊受大神宮とから成り、両宮のそれぞれに別宮・摂宮・末社などの所属の宮社を持つ。内宮は天照坐皇大御神、外宮は豊受大御神を祭神としている。
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二所
 鎌倉時代に幕府の奉幣・社参を受けた二つの神社。静岡県熱海市伊豆山にある伊豆山神社と、神奈川県足柄下郡箱根町にある箱根神社のこと。共に源頼朝の厚い尊崇を受け、鎌倉時代では将軍・武将がこれに習った。
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熊野
熊野三山のこと。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社からなる。仏教的要素も強く、それぞれ阿弥陀・薬師・観音であるとする。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
謗法の国
 正法誹謗の者が充満している国土。
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天神地祇
 天の神と地の神のこと。天地間のあらゆる神々。天神は梵天・帝釈、地祇は八大竜王などが有名。
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善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
捨離
 捨て去ること。御書では諸天善神が国を捨て去ることとして用いられている。
―――
悪鬼神
 さまざまな災厄・不幸を人々に及ぼす自然界の働き。仏道修行を妨げ、衆生を悩ます働きの総称。善鬼に対する語。
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災難
 思いがけず起こる不幸な出来事。仏教では三災七難に代表される。正法に背き、受持する者を迫害することによって起こるとされる。
―――
如法経
 一定の規則にのっとって教を書写すること。法華経または法華経開結などの経を書写供養する行事のこと。転じてその法会あるいは書写された経巻をさす。その法会は如法会・如法経会ともいわれる。慈覚がこれを始め、以後多人数で行う大法会となった。
―――
勤行
 ①勤めて善法を行うこと。精進。②仏前で読経・礼拝をすること。
―――
書写
 経典を書き写すこと。五種の妙行の一つ。
―――
供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
―――
法華三昧
 ①法華経に基づく禅定修行。
―――
一日経
 大勢が集まって、一経を一日で写し終えること。書写行のひとつ。諸教に通じていうが、主に法華経をさす。頓写ともいう。
―――
行儀
 仏教儀式のきまり、規則、修行・行動の規則。②行為・行動に関する作法。③行為・立ち振る舞い。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
謗法の代
 謗法の充満する代・時代。
―――
不和
 仲があわないこと。
―――
比叡山
 延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
―――
出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
―――
授戒
 弟子や信者に戒をさずけること。
―――
比叡山の戒
 比叡山延暦寺の戒。伝教大師・義真が立てた日本天台宗の戒法で、大乗円頓戒をいう。円頓とは円満にしてかたよらず、すみやかに成仏するという天台の義をいう。戒とは戒律のこと。仏宝修行において守るべき規範。
―――
像法
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
―――
受戒
 戒を受けること。納戒・作法受戒ともいう。在家の弟子も出家の弟子もすべて師につき、または自ら誓うことによって戒を受持することをいう。受戒の儀式の作法は大乗・小乗・宗派等によって異なる。創価学会においては、入会勤行会がこれにあたる。
―――
法華本門の戒壇
 法華経の本門・如来寿量品の円戒のこと。文底独一本門の本尊を受持すること。
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大網
 根本的な事柄。網目に対する語。
―――
小細
 大きいことと小さいこと。多種あること。
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 前章で、日蓮大聖人から「本弟子」として後事を託された六人の中に亀裂が生じたと述べられたのを受けて、その立義の相違を具体的に示されている。
 項目ごとに「五人一同に云く」として五老僧の言い分を挙げ、これに対して「日興が云く」として日興上人の立場を述べられて、その相違を明確に示されている。
 第一項は、日蓮大聖人を天台宗の余流としている五老僧と、天台宗は像法の仏法であり、大聖人は末法の大白法を打ちたてたとする日興上人の立場の相違であり、最も根本的な違いである。そこから五老僧は幕府に提出する文書に、自分たちを「天台沙門」と名乗った。それに対して、日興上人の立場は、大聖人が広められた仏法は、天台の法華迹門とは全く異なる本門の大法であるとする。それ故「天台沙門」などと名乗ることは、師である大聖人の本意に背く師敵対の行き方であると厳しく弾劾されている。
 序講でも触れたように、これは根本的には日蓮大聖人の仏法上の立場をどう理解しているかの表れであるが、それと共に権力の迫害への覚悟の有無も関連している。鎌倉政府は、三度目の蒙古襲来への恐れから、異国調伏の祈禱の命令を諸寺社に下した際、日蓮門流に対しては命令に従わなければ住坊を破壊すると脅迫していた。この脅迫に対して五人は「公所に捧ぐる状」との、いわゆる申状を幕府に提出したが、その際、「天台沙門」と名乗り、さらに「日蓮聖人の法門は天台宗」であるとすることによって、弾圧を避けようとすると同時に異国調伏の祈禱を行って延命策に出たのである。
 次いで、申状の内容を示す短文が二つ引用されているが、五人所破抄に詳しく挙げられているのを次のような内容である。
 すなわち、日昭は大聖人の法門を天台大師の余流を汲むものであるとし、日向・日頂は伝教大師の余流を受け継いで法華経を弘通しようとしているものであるとして、いずれも、自らを叡山天台宗の末流に位置付けている。
 天台仏法の特質は、法華経説法の中心を前半十四品のいわゆる迹門にあるとするところにある。事実、天台法華文句を見ても、迹門の段については詳細に解説しているが、本門の諸品については、ほとんど解説を加えていない。
 日興上人の大聖人に対する理解は、中国の天台宗や日本の伝教大師の弘通した法華経がこのように迹門中心であったのに対し、日蓮大聖人の弘宣しようとされた法華経は本門を中心とするものであることを明言している。
 「此の旨具に状に載せ畢んぬ」とは、日興上人は幕府の申状において、「日蓮大聖人の弟子」と名乗り、大聖人の法門が天台仏法とは別のものであることを明確にしたということである。
 次に第二項は神社の参詣の是非をめぐる問題である。五老僧が伊勢神宮、伊豆山神社及び箱根神社、熊野神社などの諸神社への参詣を容認したのに対し、日興上人は、大聖人の教え通り、謗法の国においては天神地祇や諸天善神がその国を捨てて天上に去ってしまい、そのあとには逆に悪鬼神が乱れ入って災難を起こすという「神天上法門」の原理に則り、悪鬼神のすみかとなっている神社に参詣してはならないという立場を貫かれた。
 ここで注意すべきことは、神社そのものや神自体を排斥したり否定したのではなく、仏教界における謗法化が神を不在にし、神社を悪鬼神のすみかにしているというのが大聖人の立義であることである。
 さらに、第三項は五種の行の是非をめぐる問題である。五人一同は「如法経」「一日経」を行うことを認める。いずれも、法華経を書写する行で、如法経が法華経、または法華経三部経を読・誦の勤行をしつつ、書写して供養する行事であるのに対し、一日経は多くの人々が集まって法華経一部の経を一日で書写し終える行事である。いわゆる五種の行のうち、書写を中心とする修行であり行事である。
 これに対して、日興上人は「末法の修業に非ず」と断定する。そして、謗法の時代、すなわち謗法が充満して人々を無間地獄に落としている世にあっては、謗法を折伏することが最優先の課題であるとされている。
 続いて、第四項は出家僧として受ける戒に関するものである。比叡山に法華経迹門を根本とする天台宗の大乗戒壇が建立されて以来、この比叡山で受戒するのが大乗仏教の僧の根本と考えられていた。五老僧たちも、新入りの弟子にはこの比叡山の受戒を勧めていた、これに対し、日蓮大聖人の仏法を受持する者は比叡山の戒を受けるべきでないというのが日興上人の立場である。ここにも、大聖人の仏法を天台宗の末流とするか、法華経本門の独自の法門とするのかの第一項目で見られた相違がある。
 五人は、大聖人自身、叡山の法華迹門の戒を受け出家されたとする。これに対して日興上人は、日蓮大聖人が受けられた戒は、その元意においては法華経本門の戒であり、それこそ、末法の時代に受持さるべき正しい戒であると断言されている。
 大聖人が「比叡山に於て出家受戒」されたというのは、おそらく立宗以前の青年期に修学のため比叡山に登られた時、受戒を受けられたことを指しているのであろう。
 しかし大聖人は諸御書から推察されるように、すでに清澄寺におられた時に「虚空蔵菩薩より大智慧を給わり」(0893-06)と仰せのように仏法の極意を証得されていた。その点から拝すると、比叡山遊学は、その裏付を固めるためであられた。従って、そこで受戒を受けたといっても、比叡山天台宗の僧となるためではなかったことが明らかであり、大聖人が受けた受戒は「像法所持の迹門の戒」ではなく「末法所持の法華本門の戒」であったと言えるのである。
 まして、末法の大白法として、三大秘法の南無妙法蓮華経を確立された以上は、大聖人門下たる者が比叡山に行って迹門の戒壇に登り、像法所持の戒をうけるなどということは大聖人の御本意に背く師敵対の行為になることを知らなければならない。

1602:13~1603:03 第三章 波木井実長の四箇の謗法を明かすtop

13   一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・
14 南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年
15 月義絶する条条の事。
16   釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
17   次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
18   次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三。
1603
01   次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。
02   已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、 此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と
03 永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり。
――――――
 一、甲斐の国の波木井郷身延山のふもとに大聖人の墓所がある。しかし、日興が参詣しない理由として、かの墓所の地頭である南部六郎入道・法名日円は日興の教化によって初めて帰依した弟子であり、この因と縁によって大聖人が身延におられた九年間、帰依できたのである。大聖人御入滅後、しかるべき時に南部実長と義絶したのであり、その条目を記しておく。
   釈迦如来の仏像を造立して本尊として奉ろうとした。是れが第一である。
   大聖人が身延に在山されていた九ヵ年の間は禁止されていた神社の参詣を近年になって始めた。すなわち二所すなわち伊豆神社・箱根神社と三島神社の参詣である。是れが第二である。
   南部一門の勧進と称して、南部郷内フクシに念仏の石塔を供養し、財物を寄進した。是れが第三である。
   南部一門の仏事の助成と称して、九品念仏の道場、一堂を造立して荘厳した。甲斐の国がその所である。是れが第四である。
 以上四ヵ条の謗法について教戒したが、南部実長は「日向から許可を得ている」と言って聞こうとしない。この義によって去る年月にかの波木井入道の子孫とは永久に師弟関係の義を絶絶した。よって大聖人の墓所には。通っていないのである。

身延山
山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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御廟
 死者の霊を祭るところ。
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子細
 詳しい事情
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地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
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南部六朗入道
 (1222~1297)波木井実長日円のこと。日蓮大聖人御在世当時の門下。甲斐源氏の末裔で、甲州何部3郷吏の地頭。入道して法寂房日円という。南部六郎実長とも呼ばれる。もとは念仏を信仰していたが、文永の初めのころ、日興上人に従って日蓮大聖人に帰依した。文永11年(1274)大聖人が3度目の国主諌暁を聞き入れられなかったことから、当時の社会の変革は弟子に託し、未来のため門下を育成することに力を注ぐ決意をされた時、日興上人から話があり、身延山中に大聖人をお招きした。当初は急造りの草庵に近いものであったが、弘安4年(1281)には10間四面の堂宇が完成し、久遠寺と号した。実長は大聖人滅後、身延山に登山してきた学頭の民部日向に影響され、四箇の謗法を犯し、日興上人の身延離山の因となった。
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最初発心の弟子
 初めて発心した弟子。発心とは、菩提心を発すことをいう。
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因縁
 因と縁のこと。因とは結果を生ずべき内的な直接の原因をいい、因を助けて結果に至らしめる外的な関係の原因を縁という。
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帰依
 帰投依憑して救護を請うこと。仏の教えを信じ、よりどころとすることをいう。
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釈迦如来
 釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
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像立供養
 堂舎や仏像を造り、供養すること。
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本尊
 根本として尊敬するもの。
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二所
 鎌倉時代に幕府の奉幣・社参を受けた二つの神社。静岡県熱海市伊豆山にある伊豆山神社と、神奈川県足柄下郡箱根町にある箱根神社のこと。共に源頼朝の厚い尊崇を受け、鎌倉時代では将軍・武将がこれに習った。
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三島
 静岡県三島市伝馬町にある神社。治承4年(1180)に源頼朝が平家追討の挙兵に当たって戦勝を祈願して以来、鎌倉幕府の崇拝を受け、伊豆山神社とともに二所詣でとして、毎年正月、将軍自らが参詣した。
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勧進
 勧め、さそうこと。①人々に勧めて仏道に入らせ、善に向かわせること。②仏寺・仏像の建立・修善などのために、人々に功徳善根を勧めて寄付を募ること。また、それにたずさわる人。
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フクシの塔
 福士は甲斐国南部郷内(山梨県南巨摩郡)の一つの地名。奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展し、山中、山麓に道場が建てられ、記念の石碑が建立された。
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法加
 仏道・伽藍などの造営のため、財産を施して助成すること。
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仏事
 ①仏の教化、または法を流布する行為②仏教に関する行事。寺社・神仏に供養祈禱すること。先祖の追善供養、木画像の開眼供養など。
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九品念仏の道場
 浄土宗の中で九品往生を強調する一派を九品念仏といった。これらの人々の修行する道場。
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師弟
 師匠と弟子のこと。師匠は模範となって人々を導く者。弟子は師について教えを受ける者。仏教における師弟は不二をもってありかたとする。

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 日興門流が心得ていくべき基本を明らかにする本抄において、前章では、六老僧の中での五一相対が示されたが、ここでは、身延山久遠寺のことをどう考えるべきかが示される。
 先に「本弟子六人」が日蓮大聖人の定められたものであるにもかかわらず、日興上人はなぜ五人と袂を分かたねばならなかったかが示されたが、ここでは、身延の墓所として守っていくようにということも大聖人の御意志でであったにもかかわらず、身延を捨てなければならなかった、やむにやまれぬ理由を明らかにされるのである。
 初めに、波木井郷の身延山麓にある日蓮大聖人の御廟に参詣しない理由として、身延の地頭・南部六郎実長入道日円が日興上人の教化によって初めて正法に帰依した弟子であり、その縁で九年間にわたって、大聖人は身延の地に住まわれたのであった。にもかかわらず、御入滅後、年月を経るうちに波木井氏は次々と謗法を重ね、日興上人が教戒しても聞き入れなくなってしまったため、ついに義絶するに至った条条を挙げられているのである。
 この項目を示された背景には、五人所破抄に詳述されているように身延の徒が日興上人の身延離山とその後の大聖人廟所への不参加を非難していることにあった。
 波木井実長が犯したいわゆる「四箇の謗法」の第一は、「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし」とあるように、本尊に関するものである。この段の末尾に、日興上人が教訓しても「日向は許してくれた」と言って波木井実長は聞き入れなかったと記されているように、波木井氏の謗法の背後にいるのは民部日向であったが、前章の五一相対の中で明らかなように、五老僧通じて「天台沙門」と名乗っていたことから、本尊には釈迦像を立てていたことがうかがわれる。五老僧が釈迦如来の仏像を本尊として像立して供養したのは、彼らが日蓮大聖人を末法の御本仏として仰ぐことができず、末法においても釈尊を本仏として執着したことによるところ大である。これは妙法蓮華経の五字の曼荼羅を本尊とせよとの大聖人の仏法の立場からは謗法となる。
 四箇の謗法の第二は大聖人が禁止・停止されていた神社参詣を、波木井氏が伊豆山神社および箱根神社という二所および三島神社に参詣したことである。この神社参詣の是非をめぐる問題については五一相対の第二項でも触れたところである。
 第三・第四の二つは共に念仏に関する事柄で、波木井氏が地頭をしていた南部三郷の地域内に南部一門の勧進と称して念仏福士の塔を供養しさらに、南部一門の仏事と称して九品念仏の道場を甲斐の国に建立するという謗法を犯したことを指している。
 以上の四箇の謗法を波木井実長は、日興上人の訓誡にもかかわらず犯したことから、その子孫も師弟関係を永久に義絶したことを述べられ、日興上人の門流は謗法の山となった身延に行つたり、大聖人の御廟に詣でてはならないと言われているのである。実際問題として、大聖人の御遺骨は身延を離山される時に日興上人が奉持して出られたのであり、「身延の御廟」といっても、有名無実であったことはいうまでもない。

1603:04~1604:02 第四章 興門本六と御影象の問題を挙げるtop

04   一、聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事。
05     一 日目┐
06     二 日華┤
07     三 日秀┼ 聖人に常随給仕す。
08     四 日禅┤
09     五 日仙┘
10     六 日乗─聖人に値い奉らず。
11   已上の五人は詮ずるに聖人給仕の輩なり、一味和合して異義有るべからざるの旨・議定する所なり。    ・
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 一、日蓮大聖人の例にちなみ日興が六人の弟子を定めた事。
     一 日目┐
     二 日華┤
     三 日秀┼ 大聖人に常に随い仕えた。
     四 日禅┤
     五 日仙┘
     六 日乗─大聖人にお会いしたことはない。
 以上の初めの五人は、所詮、大聖人に給仕した輩である。この六人は和合して、異義があってはならないことを協義して決定した。
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12   一、聖人御影像の事。
13   或は五人と云い或は在家と云い絵像・ 木像に図し奉る事・ 在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
14   爰に日興が云く、 御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きな
15 り、 之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異ら
16 ずと雖も 大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、 但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二
1604
01 年日順図絵の本有り、 相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、 而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめん
02 が為裏書に不似と之を付け置く。
-----―
 一、大聖人の御影像のこと。
 あるいは五人といい、あるいは在家の人といい、絵像や木像に描いており、それがあちこちに存在して、その数は計り知れず、それぞれお顔立ちが違っている。
 ここで日興が言う。御影を描くのは、所詮、大聖人の御姿を慕う後代の人々に大聖人の面影を残しておくためである。よきにつけ、あしきにつけ、ありのままに描くべきである。これによって日興門流の徒の在家・出家の者、および大聖人を信奉する人たちは、一同に評議して、しかるべきときに描いたのである。全体としては大聖人のお顔と異なってはいないが、おおむね粗末に描かれており、そこで裏面に注を書き付けたのである。ただし、それぞれの描いた像は一つも似ていないものの、その中で去る正和二年、日順が描いた御影が本であり、似ていないけれども、ほかの像より少し面影があった。従って、多くの御影のうち是非を後世の人々にわきまえさせるために、裏書に似ていないと付け置いたのである。

六人の弟子
 日興上人は、日蓮大聖人が六老僧を定められたのにちなみ、永仁6年(1298)大石寺の御本尊に給仕する六人の弟子をさだめられた。即ち日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗である。これを本六という。その後、元弘2年、重須談所において、滅後弘通の碩徳六人、日代・日澄・日道・日妙・日郷・日助を定めた。これを新六、または本六という。
―――
日目
 (1260~1333)、字は蓮蔵房、号は新田阿闍梨。伊豆国仁田郡畠郷(静岡県田方郡函南町畑毛)で誕生。父を新田五郎重綱、母は南条時光の姉・蓮阿尼という。幼名は虎王丸。文永9年(1272)、13歳で湯山に登り修学したが、文永11年(1274)、走湯山蔵坊の学匠・式部僧都と日興上人の問答を聞き、即座に日興上人に帰依した。建治2年(1276)身延山に登り剃髪して受戒を受けたが、この時、大聖人から蓮蔵房日目の名をいただき、以後、大聖人入滅までの6年間、常随給仕し修行に励んだ。毎日何度か身延の谷川に下って水を汲み、その水桶を頭に乗せて運んだので、頭の頂が窪んだという。日目上人は大聖人の説法を欠かさず聴聞し、また問答・弁舌にも優れていた。弘安5年(1282)の池上問答では大聖人の名代として天台の学僧、二階堂伊勢法院と法論し、問答10番すべてを論破している。日蓮大聖人滅後は墓所輪番の一人に加えられ、日興上人に仕えた。また伊豆方面を教化する一方、新田家の本領である奥州陸前国(宮城県)の縁故を通じて弘法に専心し、寺院の建立や日乗・日尊・日盛などの弟子の育成に当たった。正応2年(1289)日興上人が身延を離山する時は南条家・新田家と共に富士大石寺の建立に努力し、正応3年(1290)大坊が完成すると、その東方に蓮蔵坊を創設し御本尊に仕える六人の弟子の上首として、大石寺の守護に努めた。その後、日興上人から「日興跡条条の事」によって相承され、一門の第三祖となった。他方、日目上人は日蓮大聖人・日興上人の代官として数十回にわたる諌暁を行い、元弘3年(1333)日尊・日郷と共に天奏のため京都に向かう途中、美濃国垂井(岐阜県不破郡垂井町)で病床に伏し、寂した。
―――
日華
 (1252~1334)甲斐国鰍沢二十村(山梨県南巨摩郡鰍沢町)の秋山信綱の子とされているが、別説もある。寂日房日華・二十家阿闍梨・日家阿闍梨・寂日阿闍梨などともいう。建治2年(1276)に身延に入って大聖人に給仕した。大聖人滅後、葬儀に参列し、墓所輪番12月の任を受けている。弘安3年(1280)には大聖人から御本尊を賜った。正応2年(1289)日興上人の身延離山にお供し、大石寺建立の翌年には寂日房を建てた。正和5年(1316)8月、日興上人から御本尊を授与された。鰍沢では式部日妙の成長を待って蓮華寺を付嘱し、縁故によって讃岐・伊予方面に教勢を広げた。元弘4年(1324)3月、南条時光の邸跡に妙蓮寺を創建した。
ー――
日秀
 (~1329)日蓮大聖人御在世からの弟子で、下野房阿闍梨と称す。天台宗滝泉寺の下野坊に住していたが、日興上人の富士弘教によって、日弁・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導したので、院主代・行智の迫害を受け、これが熱原法難の原因となった。この時、日弁と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。ダイセキジ創建の際には理境坊を建立し、日興上人の弘教を助けた。
日禅
 (~1331)日蓮大聖人御在世からの弟子で、少輔房と呼ばれた。駿河国富士郡河合(静岡県富士宮市芝川)の由井家の出身で、熱原郷の天台宗滝泉寺の僧となり、日興上人の折伏により建治3年(1277)下総房日秀・越後房日弁らと共に起伏して弟子となる。建治2年(1276)に滝泉寺院主代・行智によって追放され河合の実家に帰り、弘教に励む。弘安3年(1280)5月には日蓮大聖人から御本尊を授与されている。正応3年(1290)大石寺創建の時には南之坊を建てる。元徳2年(1330)には日興上人の命により富士郡上野に東光寺、駿河国府中に妙音寺を建てた。
―――
日仙
 (1262~1357)日蓮大聖人御在世からの弟子で、摂津阿闍梨と号し、上蓮房・百貫房とも称す。俗姓は小笠原氏。甲斐国鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に生まれ、幼少にして出家、寂日房日華に師事した後、日興上人のもとで得度、日蓮大聖人・日興上人に仕えた。大石寺塔中の上蓮坊を創建、建武元年(1334)重須談所の住職・日代との間に方便品読・不読の問答を発したが決着がつかないまま、日仙は讃岐に赴き、そこで高瀬本門寺の基礎をつくった。
―――
常随給仕
 弟子が常に師匠に随い仕えること。随は信伏随従の意で信受の義。給仕は身口意の三業をもって仕えること。
―――
日乗
 (~1318)了性房ともいう。奥州登米郡新田(宮城県登米市迫町新田)に生まれ、京洛に登り、漢書国文に長け、大学の名を得た。同郷の縁によって日目上人に師事し、高年にして出家し、大石寺に上り、蓮仙坊を創建。文保2年(1318)3月28日没。
―――
議定
 協議して決定すること。その覚書を議定書という。
―――
御影像
 ①絵像・木像の尊称・尊影②日蓮大聖人の御影像。
―――
在家
 出家しないで在俗のまま仏法に帰依している人。
―――
絵像
 絵画に書いた仏・菩薩の像
ー――
木像
 木に彫られた仏・菩薩の像
―――
門徒
 ①門人、教え子。②一宗・一門の出家・在家の信徒。③浄土真宗でいう在家の信徒「門徒宗」のこと。
―――
出家
 世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
ーーー
麁相
 ①粗末、粗悪な姿、よく念を入れないこと。②無作法、ぶしつけなこと。③あやまち。
―――
図像
 仏・菩薩・諸天等の尊像を線描した絵画。
―――
日順
 (1294~1356)日興上人の弟子。下山三位房ともいう。甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)に生まれ、8歳のとき寂仙房日澄を通じて出家し、後に日興上人の弟子となる。正和元年(1312)19歳の時、日蓮大聖人の御影を日興上人に献上し「相似の分なりと描き付けて下さる」といわしめている。重須談所の第二代学頭となり、衆徒の教化に当たった。嘉暦2年(1327)には、日興上人に代わって天奏を行っている。嘉暦3年(1328)五人所破抄を草して日蓮大聖人の法門を正しく伝え、五老僧の謗法を破折している。嘉暦4年(1329)、日興上人の命により、佐渡に本照寺を創設。このころから片目がみえなくなり、出生地の甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)に隠棲したが、日興上人の督励を受け重須に復帰したが、建武3年全(1336)全盲になり、大沢に退隠した。著作に「下山抄」の写本がある。
―――
絵図の本
 日順が19歳の時、日蓮大聖人の御影を日興上人に献上した御影の図。
―――
裏書
 書画や紙の裏面に、表記の事柄に対する証明や説明などのために文を書くこと。

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 ここで、日興上人が後事を託すために、六人の本弟子を定めたことと、日蓮大聖人の御影像の問題について記されている。
 まず冒頭で「聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事」として、日興上人が先師・日蓮大聖人の前例に順じて、6人の弟子を定めたことを記し、以下6人の名前が列挙されている。なお、この6人を「本六」称したのは、後にこれとは別に定めた「新六」に対応している。
 日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗の6人の名と共に、最後の日乗を除く5人が、「聖人に常随給仕す」と注記されているように5人までが大聖人御在世から弟子であったことを記されている。すなわち、日目等の5人はいずれも日興上人のもとで出家し、日蓮大聖人御在世当時弟子となっている。従って、大聖人の身延御在山の時は5人とも大聖人に常随給仕している点が共通している。
 これに対し、最後の「日乗」は「聖人に値い奉らず」とあるように、大聖人にお会いする機会はなかったが、「一味和合して異義有るべからざるの旨・議定する所なり」と記されているように、大聖人は常随給仕した弟子もそうでない弟子も、6人が心を一つにして仏法興隆に邁進していくことを申し合わせたとされている。
 次に「聖人御影像の事」と、大聖人の御影像をめぐる問題について述べられている。
 まず「或は五人と云い或は在家と云い」とあるように、五老僧だけでなく在家信徒たちの中にも日蓮大聖人の御姿を絵像で描いたり木像にすることが行われていたが、それぞれの「面面」すなわち、大聖人の顔容が違っていた。
 絵師自身、大聖人の姿を見たことのない人々であったし、当時の多くの絵師は写実性よりも様式美を重んじたからである。
 そうした風潮に対し「日興が云く」として、日興上人の御影像についての見解は、大聖人の御影を後代の人たちに知らしめるためであるから、そのありのままの姿を描くべきであるとされている。
 そこから、日興門流の出家在家たちで、大聖人御在世中の姿を見ている人たちの間で協議して、ある時期、絵像を描いたが、全体としては大聖人の実像とは大きな相違はないが、当然、素人であるから描き方が粗いのでその旨、裏書したと述べられている。
 次いで「但し彼の面面の図像」以下の文では、さまざまな人々によって描かれた、実像とは似ていないさまざまな大聖人の御影像の中で、正和2年(1313)に三位房日順が描いたものがそっくりとはいえないものの、他の御影像よりは少し大聖人の面影があることを述べられ、しかし、そっくりとはいえないので後々の人たちが大聖人の御影像についてその是非を判断できるように、日順の描いた御影像の裏に「似ていない」と日興上人が書き置いたことを記されている。

1604:03~1605:14 第五章 御書に対する態度の相違を明かすtop

03   一、聖人御書の事 付けたり十一ケ条
04   彼の五人一同の義に云く、 聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字
05 を以て仏法の因縁を粗之を示し、 若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて 愚癡の者を引
06 摂したまえり、而るに日興、 聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、 故に諸方に散
07 在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。
08   此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。
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 一、大聖人御書のこと、十一ヵ条を付けくわえた。
 かの五人一同の義に言う。「大聖人の御作で正式に経論を解釈した書はない。たとえ少しあるといっても、あるいは在家の人のために仮名文字で仏法の因縁を大まかで示したものであつたり、または世間の男女がわずかな供養を捧げた手紙に対し、その返書に、檀那が供養した財物の種類等を書いて、愚癡の者を仏道へと誘引されたものにすぎない。しかるに日興は、それを大聖人の御書と称して、これを人々に語り、読んでいる。これは先師の恥をあらわすものである」と。故にあちこちに散在している御真筆をあるいは漉き返したり、あるいは火で焼却したのである。
 このように先師・大聖人の残されたものを破滅しているので、詳しくこれを記して、後世の手本とするのである。
-----―
09   一、立正安国論一巻。
10   此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、 一本は弘安年中身延山に於て
11 先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。
12   一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
13   佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。
14   一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
15   身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、 未
16 だ正本を以て之を校えず。
17   一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
1605
01   駿河国西山由井某に賜る正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り
02   一、下山抄一巻。
03   甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以
04 て遣さる、正本の在所を知らず。
05   一、観心本尊抄一巻。
06   一、取要抄一巻。
07   一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く。
08   已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。
09   一、本尊問答抄一巻。
10   一、唱題目抄一巻。
11   此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に
12 爾なり。
13   一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く、 先例無きに非ざる
14 か。
-----―
   一、立正安国論一巻。
 これに二本ある。一本は文応元年の御作で、これは北条時頼殿と北条時宗殿に提出された書である。もう一本は弘安年中に身延山において先本に言葉を書き添えられたものであるが、しかし別の内容ではなく、ただ建治の広本と称するものである。
   一、開目抄一巻、今、上下二巻に分ける。
 佐渡の国の御作で、四条金吾頼基に与えられた。日興が所持している本は二度目の写しである。まだ御真筆の正本との照合はしていない。
   一、報恩抄一巻、今、上下二巻に分ける。
 身延山において、師匠であった故道善房の追善供養のために書かれ、清澄寺に送られた。日向のもとにあると聞いている。日興が所持している本は二度目の写しである。まだ御真筆の正本との照合はしていない。
   一、撰時抄一巻、今、上中下三巻に分ける。
 駿河国西山の由井氏に与えられた。正本は日興のもとに上中二巻がある。(この中で大聖人の法門の趣意がにわかに開いている)下巻は日昭のもとにある。
   一、下山御消息一巻。
 甲斐国下山郷の兵庫五郎光基の氏寺である平泉寺の住僧であった因幡房日永が大聖人に帰依したことから追放される時に述作されたもので、直ちに御自筆のまま光基のもとに遣わされた。正本の在所は不明である。
   一、観心本尊抄一巻。
   一、取要抄一巻。
   一、四信五品抄一巻。(富木常忍から法門についての数々の質問があったのに対する御返事である。従って、富木氏の書状を念頭に置いて書かれているのである。)
 以上の三巻は因幡国富城荘の本主で、今は下総国若宮に常住している富木五郎入道日常に与えられた。正本は彼のところに所在する。
   一、本尊問答抄一巻。
   一、唱題目抄一巻。
 此の書は、十大部のなかでは、最初に書かれた御書である。文応年中に通常の天台宗の教義にもとづいて、一往、爾前経と法華経の相違を書かれたものである。従って言葉、教義共に天台宗の範囲を出ていない。
   一、大聖人の御直筆に「法華本門」の四字を加えた。御書にこの四字がなくても、日興は今、大聖人の仏法が法華本門の義に従って、あえてこの四字を置いたのである。このようなことは、先例がないわけではないであろう。

御書
 書の尊敬語。御書面、御手跡ともいう。人を敬ってその人の筆跡や書面をいう語。特に日蓮大聖人が書き残された論文・書状をいう。御遺文、御妙判ともいう。日興上人遺誡置文には「」(1618-)とある。日興上人は御書の研鑽を重視し、そのためにさまざまな信徒・弟子に送られていたために分散していた御書の結集に力を注がれた。そのおかげで450編の御書が今日に伝えられている。
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書釈
 経や論を解釈すること。またその書物。
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一亳
 毛筋ほどのわずかなこと。亳とは長くとがっている細毛のこと。転じて一亳という。
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消息の返礼
 寄せられた手紙に対する返書。消息は、安否・動静・手紙のやりとり。返礼は返書。
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施主分
 施主が供養した財物の種類・程度。施主は布施・供養した主人の意。分は規模・程度。
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愚癡
 ①言ってもかいのないことを言って嘆くこと。泣き言、不平不満など。②仏法の事理を理解することができないこと。三毒のひとつ。闇愚癡昧の義。
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引摂
 真実の教えへ誘引すること。摂引ともいう。
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恥辱
 はずかしめること。
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スキカエシ
 漉き返すこと。紙を再生すること。
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亀鏡
 亀鑑と同じ。亀の甲は吉凶を占うために用いられ、鏡はものの姿を映すもので、合わせて模範・手本の意味となる。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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両本
立正安国論が二本あること。一つは文応元年(1260)に書かれたもので、第一回の国主諌暁として、北条時頼に提出されたもの。(ただし大聖人所持のものは、その転写本または浄書前のもの)もう一つは弘安年間に身延山中にて前本に文言を加筆されたもの。
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最明寺殿
 (1227~1263)北条時頼のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
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宝光寺殿
 (1251~1284)北条時宗のこと。第五代執権北条時頼の子。鎌倉幕府第八代執権。度重なる蒙古の牒状。二度の元寇という重大な危機の中で、日本の独立を守る外交政策を貫き、防衛に全力を注いでその難局を乗り越えた。禅宗に帰依し、中国から無学祖元を迎え円覚寺を創建し、後に出家して、道杲としょうした。大聖人が立正安国論で予言した自他の二難が的中したときの将軍である。
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健治の広本
 立正安国論の広本のこと。日蓮大聖人が文応元年(1260)に著された立正安国論に弘安年間に身延において文書を加筆されたもの。御新筆は京都本圀寺にある。守護経・涅槃経・法華経の文が付加されているが、「別の趣旨無し」とあるように、本来のものと趣旨に特段の相違はない。健治年間から作られ始めたようで「健治の広本」という。
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開目抄
 文永9年(1272)月、大聖人51歳の時、流罪先の佐渡・塚原で御述作になり、門下一同(別しては四条金吾)に与えられた書。観心本尊抄と並んで本尊の開顕書である。すなわち本尊抄が法に対するものであるのに対して、人本尊を開顕している。教行証に配すると、開目抄は一代の諸経の勝劣浅深を判じ、五段の教相を説いている教の重、本尊抄は行の重、当体義抄が証の重となる。また開目抄には文永8年(1271)10月大聖人が佐渡に配流になると、弟子檀那に対しても迫害が襲いかかったため、ある者は難に耐えずあるものは諸天の加護なきことを疑い、退転するものが続出した。そうした疑いを説き、かつ自身が末法の睺本仏なりと宣言された書である。
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佐渡国
 新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
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四条金吾
 (~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
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第二転
 現本より転写し写しかえること。以下第三転・第四転となる。
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正本
 写本・訳本などの現本となっている文章。
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報恩抄
 建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人が55歳の時、安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の故・道善房の供養のため身延において御述作になり、浄顕房、義浄房のもとに送られた書。日蓮大聖人が12歳の時から修学に励まれた時の師匠が道善房で、浄顕房・義浄房は2人の兄弟子であった。道善房の追善のために送られたもので、真実の報恩について説かれている。最初に通じて四恩、別しては「師の恩」を報ずべきことを述べられ、大恩を報ずるためには仏法を習いきわめ、智者となることが肝要で、そのためには出家して、一代聖教を学ばなければならないとしている。しかし一代聖教を学ぶ明鏡となる10宗が、それぞれ自宗の正当性を主張しているため、いずれが本意であるか分からない。そこで、インド・中国・日本の各宗の教義を挙げて批判し、一代聖教の中では法華経が最勝であり、法華経の肝心は題目であることを示されている。民部日向が使者として本抄をもって清澄寺に行き、嵩が森の頂と故道善房の墓前で拝読した。
―――
本師
 根本とする師匠。仏門に入った時の師。特に教えを受けてきた師。
―――
道善房
 (~1276)安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の住職。日蓮大聖人幼少の剃髪の師。日蓮大聖人は天福元年(1233)12歳の時、道善房の弟子となり、16歳で出家剃髪。以後、鎌倉に数年間修学、さらにいったん清澄寺に帰られて後、京都に出て比叡山・奈良・高野山に回って研学に務められた。建長5年(1253)32歳の時、故郷に帰り、4月28日、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、初めて南無妙法蓮華経を説かれて立教開宗された。その時、念仏の強信者であった地頭・東条景信の迫害にあって、清澄寺を脱出され、鎌倉で布教を開始された。道善房は大聖人を思いながらも東条景信と争うこともできず、大聖人に帰依することもできなかった。文永元年(1264)11月14日、小松原法難の直後に西条・華房で、大聖人は道善房と再会された。その時、道善房は大聖人に対して成仏できるかどうかを質問している。それに対して道善房が阿弥陀如来像を五体も造ったことから、五度無間地獄に堕ちると答えられ、真心込めて正法への帰依を勧められた。その後、道善房は少し信心を起こしたようだが、改宗までに至らず一生を終わった。
―――聖霊
 使者の霊魂、なきたま、みたま。 
ーーー
清澄寺
 くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233)5月12日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253)4月28日に立教開宗を宣せられる。
―――
日向
 (1253~1314)。佐渡阿闍梨・民部阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。佐渡阿闍梨は日向の号。
―――
撰時抄
 建治元年(1275)日蓮大聖人が54歳の時、身延においてお認めになり、駿河国富士郡西山(静岡県富士宮市芝川)の由井氏に与えられた書とされている。系年には異説もある。由井氏は芝川と富士川が合流する河合に住んでいた日興上人の外戚にあたる。身延入山の翌年に著されたもので、内容は正像末の三時おのおのの時存を示唆し、この深法が広宣流布すべきことを明かしている。
―――
駿河国
 東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
―――
西山由井某
 由比五郎のこと。日蓮大聖人御在世中の信徒。富士郡西山(静岡県富士宮市芝川町西山)に住した。由比家は日興上人の母系の外戚で、日興上人の祖父・河合由比入道をはじめ一族が日蓮大聖人の信徒となった。由比五郎は河合入道の孫で由比甚五郎の子。信心強盛で日蓮大聖人直筆の御本尊をいただいている。
―――
面目
 ①顔だち②名誉③主張④すがた⑤おおもとになるもの。
―――
下山抄
 下山御消息のこと。建治3年(1277)日蓮大聖人が56歳の時、身延で御述作。因幡房日永は念仏の行者であったが、日興上人にしたがって大聖人に帰依し、法華経の行者となった。その信仰を父親(一説には主君)の下山殿が妨害したため、大聖人が日永に代わって日永に代わってこの書を書き、光基を諌暁された。後、光基も大聖人に帰依したが、大聖人滅後、民部日向に従って、日永と共に日興上人に背いた。本抄では、法華経信仰に至った経緯を述べ,大聖人の仏法の正しさを客観的に論じている。また当時の宗教界の現状を批判し、特に持斎者の堕落や、念仏・真言・禅等の誤りを指摘、さらに天台宗が密教化するに及んで一国謗法となり、国が乱れるに至ったことを述べられている。そして、大聖人が法華信仰の立場から僧俗の謗法罪を明らかにし、三度の諌暁を行ったが容れらぜず、ついに身延の山に隠遁した顛末を述べ、念仏無間地獄の義を強調している。最後にこの陳状を提出した理由を述べ、念仏を捨てて大聖人の仏法を信じ、親や主君を正法に導くことを説き結んでいる。
―――
甲斐の国
 甲州ともいう。山梨県のこと。
―――
下山郷の兵庫五郎光基
 甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)の地頭。強信な念仏者であったが、その子(または家臣)の因幡房日永が大聖人の説法を聞き法華経に帰依したため、初め日永を追放したが、大聖人が代筆された下山御消息によって法華経に帰依した。大聖人滅後、日向に従って日興上人に背いた。
―――
氏寺
 氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した寺。
―――
平泉寺
 甲斐国下山(山梨県南巨摩郡身延町)の下山兵庫五郎光基の氏寺。 
―――
因幡房日永
 もとは念仏者で、甲斐国下山(山梨県南巨摩郡身延町)に住み、日興上人の折伏で日蓮大聖人の弟子となった。下山郷の地頭・兵庫五郎光基を折伏しようとして反対にあった時、大聖人が因幡房に代わって手紙をしたためられ、下山兵庫光基に与えられた。これが10大部のひとつ下山御消息である。後に兵庫光基も改宗して大聖人門下となったが、滅後、民部日向に従って日興上人に背いている。
―――
観心本尊抄
 正しくは如来滅後五五百歳始観心本尊抄といい、本尊抄とも略す。文永10年(1273)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中の一の谷で述作され、下総国東葛飾郡八幡荘(千葉県市川市中山)の富木常忍に送られた書。開目抄の人本尊に対して法本尊開顕の書。教行証に約すと、受持即観心を明かすゆえに行の重となる。内容は大きく四段に分かれる。第一に摩訶止観の一念三千の出処を正しく示され、一念三千が情・非情にわたることを明かし、第二に観心の義について論じ、末法では本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとし、受持即観心の義を明かし、第三に末法に建立される本尊について五重三段の教相から論じ、釈迦の教相、寿量文上脱益の本尊を破って、寿量文底下種の本尊を示し、末法の観心の本尊を結せられる。最後に久遠元初の自受用身である本仏・日蓮大聖人が大慈悲を起こして、南無妙法蓮華経大御本尊を図顕し、末法の一切衆生に信受せしめることを述べられている。
―――
取要抄
 法華取要抄のこと。文永11年(1274)5月24日、日蓮大聖人が53歳の時、身延から富木常忍に与えられた書。法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が末法弘通の本尊であることを明かされている。内容は大きく三段に分けることができる。第一に一代聖教を教法・教主の人法両面から勝劣を論じて、法華経が最勝の経であることを明らかにしている。第二に、法華経、特に如来寿量品第16は釈迦滅後末法の日蓮大聖人のために説かれたものであるとし、法華経の眼目は末法にあることを示されている。第三に、末法流布の大法は三大秘法の南無妙法蓮華経であることを明かされ、広略を捨てて要の法華経である妙法蓮華経の五字を取る所以を示されている。また、当時の天変地夭の現証を挙げ、これらは正法の行者である大聖人を謗じたためであり、末法広宣流布の先相であると説かれている。正筆は中山法華経寺にある。
―――
四信五品抄
 建治3年(1277)4月10日、日蓮大聖人56歳の時、身延で述作、下総国の時五郎左衛門尉常忍に送られたもの。末法の法華経の行者の修行の姿を述べられている。まず法華経分別功徳品に説く四信五品について述べ、一念信解・初随喜が末法の法華経の行者の位であり、その修行は南無妙法蓮華経と唱えることであり、成仏の直道となることを明かされている。そして一分の解がなくとも、ただ題目を唱えることの功徳力を示し、その仏法上の位を明かされている。
―――
不審
 明らかにわからないこと。疑わしいこと。
―――
進状
 書状を上にたてまつること。趣旨や書状を上申すること。
―――
因幡の国
 現在の鳥取県。
―――
富城荘
 富城五郎左衛門尉常忍の祖先が住していた因幡国富城郷(鳥取県岩美郡)にあった荘園のこと。
―――
下総国
 現在の千葉県北部および茨城・埼玉の一部を含む地域。
―――
五郎入道日常
 (~1299)富木五郎左衛門尉常忍のこと。因幡国富城庄の本主で、父蓮忍の代から下総国八幡荘若宮に移り、千葉氏に被官したとつたえられている。その後、入道して常忍と称した。建長5年(1253)ないし翌6年に入信して以来、房総方面の門下の中心とした活躍し、鎌倉の四条金吾とも力を合わせて外護の任にあたった。大聖人より日常と法諱をいただいている。大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。
―――
本尊問答抄
 弘安元年(1278)9月、日蓮大聖人が57歳の時に、身延から清澄寺の浄顕房に送られた書。浄顕房は大聖人が清澄寺修学の折の兄弟子で、庇護の働きをしている。本書は御本尊についての質問に答えられたもので、題号がしめすように問答形式で述べられている。まず末代悪世の凡夫が本尊とすべきものは法華経の題目であることを経釈を挙げて明かされ、諸宗の本尊を一一に破折されている。特に真言宗の本尊については厳しく破折され、弘法・慈覚・智証の3人の仏法上の根本的な誤りを明確に説き示している。さらに、承久の乱の際に隠岐の法王が真言の秘法によって北条義時を調伏しようとして逆に敗れた事実と、平家一門が安徳天皇を奉じて源頼朝を天台密教によって調伏しようとしたが、逆に敗れて一門が西海に沈んで滅びた事実を挙げられて、真言亡国の現証を示されている。そして、蒙古の襲来を真言によって調伏しようとすれば、第三の亡国の現証を生むであろうと警告されている。最後に妙法五字の御本尊の未曾有なることを述べられ、法華経の題目こそ末法弘通の御本尊であると結論されている。
―――
唱題目抄
 唱法華題目抄のこと。文応元年(1260)5月28日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉の名越において執筆された書で、15問答からなっている。正法である法華経を否定する浄土宗の邪義を破折され、大小・権実の教判によって諸宗は無得道であると破折され、題目を唱える功徳の偉大さを述べられ、題目を唱える功徳の偉大さを述べられ、妙法の題目こそ成仏の大法であると説かれている。立正安国論が破邪の書であるのに対し、唱題目抄は顕正の書である。
―――
天台宗
 法華経を依経として、中国・隋代に天台大師智顗が開いた宗派。法華宗・天台法華宗・天台法華円宗ともいう。教相には五時八教を立て、観心には円融の三諦を唱え、一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期すことを説く。中国では、北斉代の慧文が、竜樹の大智度論と中論によって一心三観の理を説き、これが慧思を経て天台に伝えられた。天台は南三北七の教義を破し、法華文句、法華玄義、摩訶止観の法華三大部を著し天台宗の教義を大成した。天台の没後、章安から智威、慧威、玄朗、妙楽と伝承され、妙楽は法華三大部の注釈書を著して天台の宗義を宣揚した。日本天台宗の開祖・伝教大師最澄は、入唐して妙楽の弟子の道邃と行満から相承を受け、延暦24年(0805)に帰国後、比叡山延暦寺に日本天台宗を開創した。
―――
義分
 ①義理・道理の一分。当体義抄には「爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も 本門に対するの時は当分の断惑にして跨節の断惑に非ず」(0517-05)とある。②明白なる義理。道理の意味がはっきりしていること。十章抄には「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり」(1274-05)とある。
―――
爾前
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
法華
 ㈠大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。
―――
法華本門
 迹門に対する語①釈尊が本地の仏の姿を明かして説いた法門のこと。涌出品~勧発品までの十四品をいう。②釈迦仏法に対して、大聖人の三大秘法を文底独一本門という。
―――――――――
 ここでは、日蓮大聖人が生前に書き残された御書に対して、これを末法の大白法を学ぶ上での根本依処として尊重した日興上人と、大聖人を御本仏と拝せなかったために軽視した五老僧との相違を明らかにされている。
 まず「彼の五人一同の義に云く」として五老僧の御書に対する姿勢を示されている。
 五老僧は、日蓮大聖人の法門や経・論を正式に釈した著作はないと主張し、大聖人の書いたものは在家の信者のための仮名文字をもって仏法の因縁を示したものであったり、あるいは俗男俗女からの手紙に対する返礼や、御供養の財物の種類や規模を書き記しただけで、いずれも「愚痴の者」を仏道へと誘導するために書かれたに過ぎない、としていた。
 のみならず、五老僧は、日興上人が「聖人の御書」として大切に扱い、談じたり読んだりしているのは先師・大聖人の恥辱を顕にすものであるなどと言って非難し、諸地方に散在している大聖人の直筆の御書をすきかえしたり、焼却するなど、御書を破壊する行為に及んでいたのである。
 日興上人はこうした、先師に残されたものを破滅させる行為を憂え、その損失を最小限に食い止めるために、自ら大聖人の御書を収集されるとともに、御書を尊ぶべきことを門下に教えられたのであった。後世の人たちへの指針として大聖人の御書の中でも特に重要な十編を選んで、その名を記されている。
 まず「立正安国論一巻」については、二本あることを記され、一つは文応元年(1260)に書かれたもので、大聖人が第一回の国主諌暁として西明寺殿に提出された書で、後に北条時宗にも奏上された可能性が高い。いま一つは建治から弘安にかけて、大聖人が身延山中において文応元年(1260)執筆の安国論に真言破折を加筆したものの、根本的には同じであるので「別の旨趣無し」と言われている。この弘安年中成立の安国論を「建治の広本」と呼んで区別している。
 次に「開目抄一巻」については上下二巻に分かれていること、佐渡で書かれて四条金吾に与えられたものであることを記し、日興上人が持っているものはそれを転写したものであるが、まだ大聖人の正本とは照合していないことを示されている。
 第三に「報恩抄一巻」も上下に分かれること、大聖人が身延在山中において、師・道善房の追善供養のために書かれ、清澄山に送られたものであり、五老僧の一人、民部日向が所持しているとの伝聞を記されている。
 日興上人のもとにあるのはそれを転写したものであるが、まだ大聖人御直筆の正本との照合はしていないことを記されているのは先の開目抄と同じである。
 ついで「撰時抄一巻」は上中下に分かれていること、駿河国・西山の由井氏に与えられたものであることを記し、日興上人のもとには直筆の正本上・中の二巻があり、下巻は五老僧の一人・日昭の下にあることを記されている。
 次に「下山抄一巻」については、弟子の因幡房日永が甲斐の国・下山郷の地頭で強信な念仏者であった兵庫五郎光基に陳状を出さなければならなくなった時、大聖人が日永のために代筆されたものである。
 日永は光基の子とも家臣とも言われ、もと氏寺・平泉寺の住僧として念仏の行者であったのが、大聖人の説法を聞いて法華経の行者となったため、光基が怒って追放しようとしたことによる。
 日永は大聖人が書かれたのを清書して出したのであろうが、大聖人の御真筆の正本はどこにあるかは分からなくなっていた。なお、光基は後に大聖人に帰依している。
 次いで富木常忍入道日常に与えられた「観心本尊抄一巻」「取要抄一巻」「四信五品抄一巻」が並記されている。その富木常忍について、富木氏は因幡国富城荘の本主であったが、現在は下総国若宮に常住していることを記されている。三巻とも、大聖人の正本は富木氏のところにあると記録されている。
 次に「本尊問答抄一巻」「唱題目抄一巻」が挙げられ「唱題目抄」について、文応年中に書かれた初期の書で、その内容は当時の仏教界の通念であった天台宗の教義に基づいて、爾前経と法華経の相違について註されているのであり、文言とその義理とも天台宗の範囲を出ていないとしている。
 最後に「御筆抄」、すなわち大聖人の直筆の御書に対して「法華本門」の四字を加えたことを記され、「御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く」とあるように、大聖人は特に「法華本門」を記されていないけれども、大聖人の法門の本義の上から日興上人はあえて書き加えたと述べられている。
 「先例無きに非ざるか」と言われているのは、おそらく経典の多くに「仏説」の二字が加えられえいることを指していると思われる。
 ただ、これら10編の重書に関する御記述から、先に五老僧が大聖人の御書を「先師の恥辱」として「スキカエシ」にしたり、「火に焼き」等したと記されているのは、すべての御書についてそのようにしたというわけではなかったと考えられる。特に観心本尊抄などの重書の多くが富木常忍の邸から発展した中山法華経寺に今日まで伝えられているし、開目抄は明治の初めに火災で焼失したものの、身延に伝えられていた。そのほか、たくさんの御真筆が各地の寺院で保存されており、700数十年という歳月を経てこれだけ多くの直筆書が残されている例は他に類を見ないといっても過言ではない。

1605:15~1606:17 第六章 本尊に対する態度の相違を示すtop

15   一、本尊の事四箇条
16   一、五人一同に云く、 本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造
17 立供養の御書之れ在りと云云、 而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御
1606
01 筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。
02   日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法
03 蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
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   一、本尊の事四箇条
 一、五人一同に言く。本尊については、大聖人は釈迦如来を崇めるべきであると言われ、御自身、釈迦仏を立てられたし、弟子檀那等にも釈迦如来の造立・供養について述べられた御書がある。そのような言い分のもと、五人は盛んに釈迦如来を安置する堂舎を造ったり、あるいは釈迦如来の一体仏を安置したり、あるいは普賢菩薩・文殊菩薩を脇士としたりし、大聖人御筆の曼荼羅本尊については、その釈迦如来の仏像の後ろにかけたり、また堂舎の廊下に捨て置いているのが実情である。
 日興が言う。大聖人が立てられた法門においては、全く絵像や木像の仏・菩薩を本尊とは立てない。ただ御書の本意通りに妙法蓮華経の五字を本尊とすべきである。すなわち大聖人御自筆の御本尊がこれである。
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04   一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り、 或は又
05 沽却する族も有り、此くの如く軽賎する間・多分は以て失せ畢んぬ。
06   日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、 然れば則ち
07 日興門徒の所持の輩に於ては左右無く 子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、 同一所に安置し奉り六人一同に
08 守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し。
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 一、五人が一同に、このように、御本尊をおろそかにしているので、あるいは曼荼羅を死体を包んで葬るために使う輩もあり、あるいは御本尊を売却する者もいる。五人がこのように軽んじ賎しんで扱ったので、たくさんの御本尊が失われてしまった。
 日興が言う。この大聖人御自筆の御本尊は、全世界に未だ流布しておらず、正法・像法・末法の三時に未だ弘通していない本尊である。従って日興の門流で御自筆の御本尊を所持している者は軽々しく子孫に譲つたり弟子等にも付嘱してはならない。御自筆の御本尊は一ヵ所に安置し、本六の弟子が心を合わせて守護するべきである。そしてひとえに広宣流布の時・本化国主のお尋ねある時が来るまで、深く敬って重んじるべきである。
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09   一、日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事・ 誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと
10 雖も或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も 子孫等之を捨て、 或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与す
11 と雖も弟子等之を捨つ、 之に依つて或は以て交易し或は以て他の為に盗まる、 此くの如きの類い其れ数多なり故
12 に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。
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 一、日興の弟子たちに授与された本尊については、その一つ一つに授与した者の名を書き付けた。このように凡人の筆で書き入れたことは、誠に大聖人の尊い筆をけがすものであり、最も恐れ多いことではあるが、あるいは親には強盛の信心によって御本尊を賜ったけれども、子孫たちが御本尊を捨てたり、あるいは師匠には、大聖人に常随給仕した功績に報いて御本尊を授与されたといっても、その弟子たちが御本尊を捨てたりしている。このような状態で、あるいは御本尊を人に売ったり、あるいは他人に盗まれたりした例が数多くあった。その故に大聖人から御本尊を授与された当事者の名を書きつけたのであり、これは後世に、授与された人の名を高くとどめるためである。
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13   一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等
14 なり。
15   日興の弟子分に於ては在家出家の中に 或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩
16 に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。
17   本尊人数等又追放人等、頚切られ、死を致す人等。
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 一、大聖人御自筆の本尊を形木に彫って、不信の者に授与し、御本尊を軽んじ賎していることが、方々から聞こえてくる。いわゆる日向・日頂・日春らがそれである。
 日興の弟子においては、在家・出家を問わず、あるいは命を捨てたり、あるいは傷を受けたり、もしくはいる場所を追放されたりした信心ある弟子門下に対して、恐れ多くも日興自身が御本尊を書写し奉りこれを授与するのである。
 日興が本尊を授与した人数等を記した。また追放された人、首を切られ殉死した人等も記した。

本尊
 根本として尊敬するもの。
―――
釈迦如来
 釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
―――
弟子
 師に従って教えを受け、かつ師の意思を承けて実践しそれを伝える者。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
造立供養
 堂舎や仏像を造り、供養すること。
―――
普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
ー――
脇士
 像等の配置で、本尊の両脇に侍する仏や菩薩。
―――
曼陀羅
 梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
正像末
 仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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広宣流布
 仏法を広く宣べ流布すること。
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日向
 (1253~1314)。佐渡阿闍梨・民部阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。佐渡阿闍梨は日向の号。
―――
日頂
 (1552~1317ごろ)。伊予阿闍梨のこと。建長4年(1252)駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市北山)に生まれた。父の死後、母に従い鎌倉に住し、さらに下総若宮の富木常忍に母が再嫁したので養子となった。文永4年(1267)に日蓮大聖人の門下となり、日頂と名付けられた。建治3年(1277)富木常忍が天台宗の真間弘法寺を法論によって改宗させたので、日頂はその開山住職となった。弘安元年(1278)11月25日には、熱原法難により富士方面にいられなくなった日秀・日弁を、大聖人の計らいによりかくまっている。大聖人御入滅後は、100ヵ日忌後の弘安6年(1283)1月に下総真間に下ったまま大聖人の墓所の輪番にも行かず、正応4年(1291)3月、天台法華宗の沙門と名乗って申状を提出、正安4年(1302)3月8日、真間弘法寺を日揚に付して重須に行き、日興上人に帰伏した。翌乾元2年(1303)3月、重須に少林寺を創建し、徳治2年(1307)6月24日、書を鎌倉の了性房日乗に報じて、日興上人に代わって法難渦中の門下を激励し、文保元年(1317)ごろ重須で没した。伊予阿闍梨は日頂の号。
―――
日春
 鎌倉中・後期の僧。文永年間に日法の教化を受けて大聖人の門下になるも、滅後日興上人に違背した。
―――――――――
 ここでは本尊の問題についての五老僧たちと日興上人の相違を四ヶ条にわたって述べられている。
 一ヵ条では、五人が釈迦如来を本尊としていることを記されている。彼らが根拠としたのは、大聖人が釈迦像を所持されていたこと、弟子檀那にあてた御書、例えば四条金吾殿釈迦仏供養事、日眼女像立釈迦仏供養事、真間釈迦仏御供養逐状などに、釈迦如来の像立供養を称たえたものがあることである。
 五老僧とその門下たちは、こうした考え方のもとに、釈迦如来の一体仏を安置するためのお堂を造ったり、脇士に普賢菩薩、文殊菩薩を置いたりしていた反面、大聖人御自筆の曼荼羅御本尊については釈迦如来の仏像の後ろに懸けたり、お堂の廊下などに捨て置くといった扱いをしていた。
 これに対して「日興が云く」として日興上人の立場が明瞭に記されている。すなわち、大聖人は絵像・木像の仏・菩薩を本尊と立てず、妙法蓮華経の五字の御自筆の曼荼羅をもって本尊とされたことが御書によって明らかであるとの立場をとられる。
 次いで、第二ヵ条では五人一同が曼荼羅御本尊をおろそかにしていた証拠を挙げられている。例えば、真言密教における敷き曼荼羅を真似して、曼荼羅御本尊を死体に包んで葬るために使ったり、あるいは売却する輩までいた。このようにおろそかに扱った結果、多くの曼荼羅御本尊が失われてしまったのである。
 これに対して日興上人は、大聖人御真筆の曼荼羅本尊を空間的には一閻浮提に、時間的には正像末の三時に、末だ弘通・流布していない未曾有の本尊として尊重された。
 すなわち、日興上人の門流で大聖人直筆の曼荼羅本尊を所持していたものは軽々に子孫や弟子に譲ったり継承することなく、一ヵ所に安置した本六の弟子が広宣流布の時まで固く守るよう配慮されたのであった。
 続いて第三ヵ条として「日興弟子分の本尊」すなわち、日興上人の弟子に授与された大聖人直筆の曼荼羅本尊について日興上人は、その一つ一つに、授与された者の名前を書き入れ、頂いた人の事跡と共に御本尊が永く伝えられるように配慮されている。
 第四ヵ条では、五老僧のうち日向・日頂、さらに五老僧ではないが日春などが大聖人直筆の曼荼羅を、形木に彫って印刷し不信の者たちにまで授与したりして粗末にしているといううわさがあったことを取り上げられ、これに対し、日興上人の門流では在家・出家を問わず、この信心のために身命を捨てたり傷を受けたり、あるいは居所を追放されたりなど、強盛な信行を貫いた門下弟子のために日興上人自身が御本尊を書写し授与されたのである。ここに、日興上人が御本尊を授与するに当たっていかに厳格であられたかがうかがわれる。これは、大聖人が阿仏房に対し、御本尊に関して「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり」(1304-13)と仰せられているのと符合している。
 最後に「本尊人数等」とある。日興上人の弟子分本尊目録には、日興上人が与えられた人が記されている。同書には「又追放人等、頸切られ、死を致す人等」とあるように、熱原法難で死罪ならびに追放に処せられた弟子門下たちのことも記されている。

1607:01~1608:13 第七章 本門寺および王城等について記すtop

1607
01   一、本門寺を建つ可き在所の事。
02   五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山・本
03 朝の比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師・何の国・何の所とも之を定め置かれずと。
04   爰に日興云く、 凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の
05 名山なり、 最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、 仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用
06 いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
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 一、本門寺を建立すべき所のこと。
 五人が一同に言う。かの天台大師・伝教大師は存命中に法門が用いられたので、直ちに寺院を建立された。いわゆる中国の天台山・日本の比叡山がこれである。しかし、かの本門寺については日蓮大聖人は、どの国、いずれの所であるとも定めおかれていない、と。
 ここに日興が言う。およそ勝れた地を選んで寺院を建立するのが仏教の通例である。従って、駿河国の富士山こそ、日本第一の名山であるから、この所に本門寺を建立すべきであることを奏上したのである。よって広宣流布の時が到来し、国主がこの大聖人の法門を用いられるようになった時は必ず富士山に建立されるべきである。
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07   一、王城の事。
08   右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、 就中仏法は王法と本源躰一なり居処随つて相離るべからざるか、
09 仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、 然れば駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国
10 なり二には四神相応の勝地なり、 尤も本門寺と王城と一所なるべき由・ 且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本
11 願の所なり。
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   一、王城のこと。
 右、帝王の住む城は、とりわけ勝れた地を選ぶべきである。特に仏法と王法は、その根源は一体であるから、その所も離れているべきではない。奈良七大寺・京都の比叡山はその先例であり、後世もこの原理が改まることはない。さて駿河の国の富士山は広々とした地域である。一には日本国が扶桑国だからである。二には四神相応の勝れた地であるからである。本門寺と王城とが一所であるべきことは、かつは昔のよき例があり、かつは日蓮大聖人の誓願の所である。
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12   一、日興集むる所の証文の事。
13   御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、 或は大綱・随義転用し或は粗意を取つ
14 て述用し給えり、 之に依つて日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、 其の功未だ終らず且らく集む
15 る所なり。
16   一内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之を撰ぶ
1608
01   一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。
02   一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。
03   一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。
04   已上七巻之を集めて未だ再治せず。
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   一、日興が収集したところの証文のこと。
 大聖人が御書の中に引用されている経文・論書・解釈の文、あるいは内道・外道の書物や伝承の文などは、大聖人は根本的な事柄をとって義の宜しきに随って転用され、あるいはほぼ意味を取って述べ用いられている。このところから日興は種々引用された文、書物を集めて、順次証拠を照合しているのである。しかしその作業は末だ終わっておらず、収録の途中の段階である。
 一つは、内道・外道と論からの要文。上下二巻、これは大聖人の開目抄の意図に従って選んだ。
 一つは、本門と迹門の弘経についての要文。上中下三巻、これは撰時抄の意図に従って選んだ。
 一つは、中国の天台大師や妙楽大師が南三北七の邪法を破折して正法を弘通したことを示す証文一巻。
 一つは、日本の伝教大師が南都六宗の邪宗を破折して法華経の正法を弘通したことを示す証文一巻。
 以上の七巻を集めたが、未だ内容を調べ直すには至っていない。
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05   一、奏聞状の事。
06   一先師聖人文永五年申状一通。
07   一同八年申状一通。
08   一日興其の年より申状一通。
09   一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
10   一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
11   一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。
12   一先師の書釈要文一通。                                      ・
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   一、幕府に奏上した書状のこと。
 一つは、先師・大聖人の文永五年の諌暁の書状が一通。
 一つは、大聖人の文永八年の諌暁の書状が一通。
 一つは、日興が大聖人の申状を添付して提出した申状が一通。
 一つは、中国における仏法について、その順序を示した図一通。
 一つは、日本における仏法について、その順序を示した図一通。
 一つは、正法・像法・末法の三時における弘経の順序、ならびに本門寺を建立すべきことについて述べたもの。
 一つは、先師・大聖人の書と釈の要文一通。

天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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大唐
 隋に続く中国統一の王朝。隋末の群雄の一人、李淵が建てた王朝。都は長安。次の太宗の時に中国の統一が完成されて唐朝の基礎が築かれた。ただし、天台大師は唐朝成立前に亡くなっている。
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天台山
 中国・浙江省天台県の北部にある山。陳の太建7年(0575)に天台大師が入って開宗した。天台山の中に修禅寺・国清寺等がある。「天台宗」「天台大師」の名称も、この天台山によっている。五台山・峨眉山と共に中国仏教三大霊地の一つとされている。日本では比叡山を天台山ともいった。
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比叡山
 延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
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伽藍
 梵語サンガアーラーマ(saṁghārāma)の音写。僧伽藍摩の略。僧園・衆園などと訳す。僧宗の住む庭園の意から、比丘衆が集まって修道する清浄閑静な場所をいう。後に寺院の建築物を指すようになった。宗派・時代等によって建物の配置や名称は変遷・差異が見られる。
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富士山
 静岡県・山梨県の境に位置し、富士火山帯に属する山。美麗な欠頂円錐形、標高3776㍍。山姿の美しさ、高さは日本第一で、平成25年(2013)世界遺産に認定された。地質学的にみると、より古い火山を土台とし、その上に噴出物を積もらせた山で、年齢は約10,000年と推定される。8世紀ごろまでは絶えず噴火していたが、宝永4年(1707)以降は噴火していない。山頂から山麓に一帯は、天然の植物園であり、豊富な鳥類の生息地であり、山紫水明の五湖など、文学作品・絵画や写真の題材として広く用いられている。身延相承書に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600)とあるのは、こうした日本最勝の景観によるものであろうか。
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広宣流布
 仏法を広く宣べ流布すること。
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仏法
 ①仏の説いた教法。八万四千の法門・法蔵があるといわれる。②仏が証得した法③仏が知っている法。
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王法
 ①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
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南都七大寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
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北京比叡山
 比叡山延暦寺のこと。南都に対して京都を北京といった。比叡山は京都盆地の北東の隅に位置している。
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扶桑国
 日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
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四神相応の勝地
 四神に相応している勝れたる土地のこと。四神とは陰陽道で東に青竜(川)、南に朱雀(池溝)、西を白虎(道路)、北を玄武(山岳)とといたもので、これに適合した地形になっていることが吉とされた。
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本願
 仏・菩薩が過去世に衆生済度のために起こした請願。
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経論
 経とは仏が説いた教えを記したもの。論とは菩薩が仏の教法について論じたもの。
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書釈
 釈とは経論の義を解釈し、宣揚したもので疏ともいう。人師の選述した書物のこと。
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内外典籍伝
 内道と外道にわたる典籍や伝承。
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随喜転用
 義の宣しきに随って転用すること。随宣転用とも書く。転用は本来と違う別の用途につかうこと。一つの教理が正しく優れているので、本来の意味にかかわらず、他に転用すること。
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開目抄
 開目抄は日蓮大聖人が佐渡御配流中、文永9年(1272)2月、聖寿51歳の時の御著作で、四条中務三郎左衛門尉頼基に与えられた。大聖人の御遺文中、最も重要な十大部のひとつであり、上下2巻からなる。法本尊開顕の観心本尊抄に対して、この開目抄は人本尊開顕の書であり、教行証に配すれば教の重にあたる実に重要な御抄である。まず、一般に尊敬すべきものとして、主・師・親の三徳を示され、中国の儒教、インドの婆羅門、さらに仏教に入って、種々の主師親とその依経を五重相対によって判釈され、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237)と結論され、ご自身こそ末法の御本仏であることを明示されている。
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本迹弘経要文
 本門と迹門の弘教についての要点を選んで書としたもの。
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撰時抄
 建治元年(1275)日蓮大聖人が54歳の時、身延においてお認めになり、駿河国富士郡西山(静岡県富士宮市芝川)の由井氏に与えられた書とされている。系年には異説もある。由井氏は芝川と富士川が合流する河合に住んでいた日興上人の外戚にあたる。身延入山の翌年に著されたもので、内容は正像末の三時おのおのの時存を示唆し、この深法が広宣流布すべきことを明かしている。
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漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
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妙楽
 (0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
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邪法を対治して正法を弘通する(富士一門7)
 天台大師は中国の南三北七の教判を破折し、五時八教の教判を立て、妙楽大師は当時輩出していた禅・華厳の澄観・真言・法相の慈恩などの諸宗の謬解を破り、衰亡の危機にあった天台教学を宣揚したことをいう。
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伝教大師
 (0767~0822)伝教のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通す
 南都の邪宗とは奈良時代に興隆した俱舎・成実・三論・律・法相・華厳宗のこと。破失とは破折し失うこと。伝教大師は延暦21年(0802)1月19日、桓武天皇の内意を得た和気弘世の請いによって、高尾寺でこれらの宗の碩学を招いて天台法門を講説した。この天台の法門を聞いた南都の碩学は、1月29日に桓武天皇に対して天台法門が南都諸宗の法門よりも優れていることを認めた謝表を提出した。
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文永五年の申状
 11通御書のこと。このうち北条時宗に与えられた書状には「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」(0169-01)とある。
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同八年申状
 同八年とは文永8年(1271)のこと。9月12日、日蓮大聖人が平左衛門尉頼綱に与えられた「一昨日御書」こと。平左衛門尉は鎌倉時代の武将で執権北条得宗家の被官で家司、侍所の所司として、軍事・警察・政務を統轄していた。日蓮大聖人は文永5年(1268)10月11日の平左衛門尉頼綱への申状、佐渡流罪赦免直後の文永11年(1274)4月8日と、幾度となく頼綱を諌暁されているが、一昨日御書には「而るに近年の間・多日の程・犬戎浪を乱し夷敵国を伺う、先年勘え申す所・近日符合せしむる者なり」(0183-06)とある。
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日興
 (1246~1333)字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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三時弘経
 釈尊滅後、正法・像法・末法の三時に、論師・人師が出現し、その時代の機根に応じた法を説き、一切衆生を救う順序をいう。正法千年の衆生の機には付法蔵の24人や竜樹・天親が小乗や権大乗を広め、像法千年には天台・伝教が法華経迹門・理の一念三千の法門を広めている。末法の機は日蓮大聖人の法華経寿量文底・事の一念三千の法門の広宣流布する時である。
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 ここでは、広宣流布の時本門寺をどこに建立すべきか、その時、王城はどうすべきか、また広宣流布を期しての御書の裏付となる証文の検証、奏聞状の問題などについて記されている。
 広宣流布の時に建立されるべき「本門寺」については、五老僧たちは中国・日本の天台宗の例を踏まえつつも、先師・大聖人は法華本門の戒壇を有する本門寺をいずれの国、いずれの所に建立すべきかについて明確に定めていないとしているのに対し、日興上人は「凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり」として、富士山こそ、その勝地であるとして、すでに天子や将軍に意見書を奏上し諌暁してあり、広宣流布の時には富士山に本門寺が建立されるべきであると述べ、大聖人から日興上人の一つ、身延相承の趣旨と同じ内容が記されている。
 次いで「王城」についても、仏法と王法とはその本源が一体であるべきであるとの立場から、本門寺の建立されるべき所と王城の存在すべき所とは一所の問題であると述べ、一つには日本は扶桑国という故であると言われている。古来、富士山は扶桑山といわれており、扶桑国の王城は扶桑山たる富士山の地がふさわしいとの意である。第二は四神相応した最勝の地であることである。この二つの理由から富士山こそふさわしいとし、最後に「日蓮大聖人の本願の所なり」と言われている。「本門寺と王城とは一所なるべき」と言われているのは、一往は場所に約してのものであるが、元意は三大秘法抄の「仏法に冥じ仏法王法に合して」(1022-15)の御文を受けたものである。すなわち、仏法の慈悲の精神、生命の尊厳を根本とした王法が行われ、仏法のほうも現実社会の王法を重んじ、社会の中で実証を示し貢献していくことが根本であることはいうまでもない。
 次に「日興集むる所の証文の事」として、大聖人の御書の中に引用されている教・論の釈文、内道と外道にわたる典籍や伝承を集め、大聖人が経・論の文の大網を踏まえた上での義の宣しきに随って転用された文、経・論と照合して構成すべきことを述べられた文を、もとの経・論と照合して校正すべきことを述べられえいる。この作業はすでに着手されているが、「其の功末だ終わらず」とあるように、末だ進行中であるとして、これまで収集して「七巻」になったものをここに列挙されている。
 まず、開目抄の意図に従って、内道、外道の論からの要文を収集、照合したもの上下二巻、次いで、同じく撰時抄の意に従って本迹弘経要文の上中下三巻、漢土の天台大師や妙楽大師が邪法を破折し正法を弘通したことを示す証文一巻、そして、日本の伝教大師が南都の邪宗を破折して法華経の正法を弘通したことを示す証文一巻、の計七巻である。これは、大聖人の御書は、法難の連続の中でしたためられたのであるから、裏付けとして引用されている文、資料等に不完全なものがある。従って、現資料に当たって完璧さを記さなければならないとされてきたのでる。
 さらに「奏聞状の事」とあるのは、武家や公家に対して大聖人、日興上人が提出された申状、またそれに添えるべき漢土、日本の仏法を概観したもの、三時弘教の次第などの資料を列記されている。
 日興上人の申状としては、正応2年(1289)、嘉歴2年(1327)、元徳2年(1330)のそれぞれに奏上された三通が現存している。その場合、日興上人は「先師聖人文永五年申状一通」「同八年申状一通」と「漢土の仏法」の系図、「本朝仏法」の系図、「三時弘経の次第」を添え、本門寺を建てるべき主旨を記した書を提出されたのである。
 大聖人の文永5年(1268)の申状一通というのは宿屋入道を通して執権北条時宗に提出された書状と考えられる。同文永8年(1271)の申状というのは、大聖人が文永8年9月12日の竜の口の法難当日、平左衛門尉に提出したものである。
 また「漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通」「本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通」「三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事」「先師の書釈要文一通」とあるのは、初めの二つは中国、日本において立てられた仏教諸宗のなかで正統はいずれであるかを一目瞭然たらしめるためのものであり、三つ目の「三時弘経の次第」は正・像・末の三時の観点から、末法においては大聖人の独一本門の大法が立てられることを明らかにしたのである。最後の「先師の書釈要文一通」は、以上の諸天について大聖人の釈と要文を集めたものということであろう。

1608:14~1609:16 第八章 追加八箇条を挙げるtop

13   一、追加八箇条。
14   近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。
15   一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す 彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、 仍つて甲斐国下山郷の地
16 頭.左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中.新堂を造
1609
01 立し一躰仏を安置するの刻み、 日興が許に来臨して所立の義を難ず、 聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部
02 阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、 爰に日澄・ 本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と
03 為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり、
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   一、八ヵ条を追加する。
 近年以来、日興が立てた義を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのように偽る輩が経緯を一つ一つ挙げる。
 一、寂仙房日澄は、日興が立てた義を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのようにした最初の人間である。かの日澄は民部阿闍梨の弟子である。そういうわけで甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は大聖人の御弟子である。大聖人御入滅の後、民部阿闍梨日向を師たした。しかるに去る永仁年中に新しい堂宇を建立し、釈迦仏の像一体を安置した時、日興のところにやってきて、日興の立てた義を非難した。日興の義を聞き終わってそれを自分の義としていたところ、正安2年に民部阿闍梨日向が、かの新しい堂宇ならびに釈迦仏の像一体を開眼供養したのである。このため日澄は自分の師である民部阿闍梨日向と永久に義絶して、日興に帰伏して弟子となったのである。この日澄は日興の義を盗み取って自分の義としたのであるが、後に反省して日興に帰伏した者である。
-----―
04   一、去る永仁年中越後国に摩訶一と云う者有り天台宗の学匠なり日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通する
05 の由之を聞く。
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 一、去る永仁年中に越後国に摩訶一という天台宗の学匠がいた。日興が立てた義を盗み取って、盛んに越後の国で弘通していると聞いている。
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06   一、去る正安年中以来.浄法房天目と云う者有り聖人に値い奉る日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す,又祖
07 師の添加を蔑如す。
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 一、去る正安年中から、浄法房天目と云う者が大聖人にお会いしている者が、日興が義を盗み取って鎌倉においてこれを弘通している。彼は、大聖人が正行である唱題に助行として方便品・寿量品の読誦を加えられたことを蔑如し非難している。
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08   一、弁阿闍梨の弟子少輔房日高去る嘉元年中以来日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。   ・
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 一、弁阿闍梨日昭の弟子、少輔房日高は、去る嘉元年中から日興が義を盗み取って、下総国中山において盛んに弘通している。   
-----―
09   一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、 而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩
10 薩の像は宝冠形なり。
-----―
 一、下総の国にある伊予阿闍梨日頂の真間の堂釈迦像一体を本尊としている。ところが、いつごろからか、 日興が立てた義を盗み取って上行・無辺行・浄行・安立行の四脇士を脇士として造り添えた。この四菩薩の像は宝で飾った冠をつけた形である。
-----―
11   一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う、 彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事
13 を留むるの由聞くなり。
-----―
 一、民部阿闍梨日向も同じく四脇士を脇士として造り添えた。かの四菩薩の像は、頭髪を剃った比丘の姿をしており、納衣を着ている。また、彼は近年、諸の神社に参詣してはならないと言っていると聞いている。
-----―
14   一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り寂日坊向背の弟子なり日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を
15 弘通す是れ又四脇士を造り副う彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり、又神詣を留むるの由之を聞く。
-----―
 一、甲斐国に肥前房日伝という寂日坊日華に背いた弟子がおり、日興が義を盗み取って甲斐国において盛んにこの義を弘通している。彼もまた四脇士を脇士として造り添えているが、彼の四菩薩像は、全身が金色で頭髪を剃った僧の姿をしている。また、神社の参詣を禁じていると聞いている。
-----―
16   一、諸方に聖人の御書之を読む由の事。                               ・
17     此の書札の抄・別状有り之を見る可し。
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   一、方々に大聖人の御書を読むことが行われている。
 本抄は、書きつけてあるから、これを詳細にした別状があり、それを見るべきである。

寂仙房日澄
 (1262~1310)五老僧のひとりの日頂の弟で富木常忍の子。はじめ日向の弟子だったが、その誤りを知って義絶し、正安2年(1300)に日興に起伏した。広識博学で一切経や内外の典籍に通じ重須談所の初代学頭となる。延慶2年(1309)には日興上人の命によって、富士一跡門徒存知の事の草案を作ったが、その翌年、延慶3年(1310)3月14日死去。49歳。
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民部阿闍梨
 (1253~1314)。日向のこと。佐渡阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。
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下山郷の地頭・左衛門四郎光長
 甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)の地頭。日蓮大聖人御在世当時の弟子である因幡房日永の弟子であったが、大聖人入滅後、日向の弟子となり、日興上人に背いて一体仏を建立した。なお通常下山殿といわれる地頭・兵庫五郎光基は族縁と思われる。
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遷化
 高徳の僧などが死去すること。遷は移る、化は化導の意で、衆生に法を説き化導すること。衆生を説法・教化し終わって、さらに別の国土の教化へと移っていくという意から、このようにいう。
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帰依僧
 帰依は帰投依伏すること。法や尊者、勝者に身をゆだね、よりどころとすること。信伏随従して救護を請う義をいう。
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永仁年中
 1293年8月5日~1299年4月24日までの間。
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一躰仏
 脇士をもたない釈迦仏像のこと。
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開眼供養
 仏像の眼目を開くという義をもった法会のこと。新たに彫刻・鋳造・書写した仏像・絵像を法をもって供養し、心を入れ、生身の仏と同じようにするための儀式。
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帰伏
 心から信じ、従うこと。
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改悔
 悔い改めること。
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越後
 現在の新潟県。
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摩訶一
 (1264~1328)日印のこと。朝倉安高の子で、天台宗の僧であったが、永仁2年(1294)に鎌倉で日朗の摩訶止観の講義を聞いて、その門下となる。日朗の死後、越後に布教して、三条の青蓮華寺を建てた。後に鎌倉に本勝寺を建て、晩年には会津の妙蓮寺に住んだ。
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天台宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
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学匠
 大寺にあって学問を修めた僧。仏道を修めて師匠の資格ある僧。②学問に通じた人、学者。
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正安年中
 1299年4月25日~1302年11月20日まで。
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浄法房天目
 (1245~1337)日蓮大聖人御在世当時に帰依した弟子。美濃阿闍梨のこと。大聖人より二度にわたって曼荼羅を授与されているが、大聖人滅後、方便品不読の邪義を唱え、離反した。日要の六人立義草案には、漫荼羅本尊中の日蓮の「蓮」の一字に一点が多すぎるといったため、天目といわれた。乾元元年(1302)1月28日、鎌倉名越において、日向と本迹の勝劣、勤行の形式について対論し、方便品不読説を破折され、日興上人からも「五人諸破抄」で破折されている。下野国佐野(栃木県佐野市若松町)に妙顕寺、武蔵国品川(東京都品川区)妙国寺、常陸国小勝(茨城県東茨城郡城里町小勝か?)に本門寺を創設している。
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祖師の添加
 大聖人が正行である唱題に助行として方便品・寿量品の読誦を加えられたこと。
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弁阿闍梨
 (1222~1323)。日昭のこと。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
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少輔房日高
 (1275~1314)日蓮大聖人御在世当時弟子で帥殿と号す。太田五郎左衛門尉乗明の子。下総国中山(千葉県市川市中山)の人。永仁7年(1299)富木常忍の跡をついで、若宮法華寺・中山本妙寺の住職となる。のちに両寺を統合して中山法華経寺とし、現在に至っている。
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伊予阿闍梨
 (1552~1317ごろ)。日頂のこと。建長4年(1252)駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市北山)に生まれた。父の死後、母に従い鎌倉に住し、さらに下総若宮の富木常忍に母が再嫁したので養子となった。文永4年(1267)に日蓮大聖人の門下となり、日頂と名付けられた。建治3年(1277)富木常忍が天台宗の真間弘法寺を法論によって改宗させたので、日頂はその開山住職となった。弘安元年(1278)11月25日には、熱原法難により富士方面にいられなくなった日秀・日弁を、大聖人の計らいによりかくまっている。大聖人御入滅後は、100ヵ日忌後の弘安6年(1283)1月に下総真間に下ったまま大聖人の墓所の輪番にも行かず、正応4年(1291)3月、天台法華宗の沙門と名乗って申状を提出、正安4年(1302)3月8日、真間弘法寺を日揚に付して重須に行き、日興上人に帰伏した。翌乾元2年(1303)3月、重須に少林寺を創建し、徳治2年(1307)6月24日、書を鎌倉の了性房日乗に報じて、日興上人に代わって法難渦中の門下を激励し、文保元年(1317)ごろ重須で没した。伊予阿闍梨は日頂の号。
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真間の堂
 下総国葛飾郡(千葉県市川市真間町)にあった天台宗寺院・弘法寺のことと思われる。住職の了性房が富木常忍との法論に破れ姿を消したあと、常忍の義子である日頂の住寺となっている。
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四脇士
 四菩薩のこと。上行・無辺行・浄行・安立行をいう。脇士は常に仏に随従、賛嘆し衆生を化導する菩薩で、仏の脇に居し、仏の徳用をあらわす。
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納衣
 法衣の一種、人の捨てた布を拾い集めて選択し、これを繕って作った衣。納は繕うの意味。糞掃衣ともいう。
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肥前房日伝
 寂日房日華の弟子であったが、退転している。
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寂日房
 (1252~1334)日華のこと。甲斐国鰍沢二十村(山梨県南巨摩郡鰍沢町)の秋山信綱の子とされているが、別説もある。寂日房日華・二十家阿闍梨・日家阿闍梨・寂日阿闍梨などともいう。建治2年(1276)に身延に入って大聖人に給仕した。大聖人滅後、葬儀に参列し、墓所輪番12月の任を受けている。弘安3年(1280)には大聖人から御本尊を賜った。正応2年(1289)日興上人の身延離山にお供し、大石寺建立の翌年には寂日房を建てた。正和5年(1316)8月、日興上人から御本尊を授与された。鰍沢では式部日妙の成長を待って蓮華寺を付嘱し、縁故によって讃岐・伊予方面に教勢を広げた。元弘4年(1324)3月、南条時光の邸跡に妙蓮寺を創建した。
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向背の弟子
 師の教えに背を向け、違背する弟子
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 最後に追加八ヵ条として、日興上人が立てた義を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのように偽っている輩について記されている。この八ヵ条は、それまでの記述と内容が異なっており、また日澄の謗法に触れているところから、日興上人自身、あるいは他のだれかが追加したものとも考えられる。
 まず、第一は寂日房日澄で、日興上人の義を盗み取った最初の例であるとされている。日澄は富木常忍の子で五老僧の一人・日頂の弟であり、一時は同じく五老僧の一人民部阿闍梨日向の弟子であったが、後に日興上人に帰伏し、学頭職に任じられて、本抄の草案を執筆しているのであるから、もしこの八ヵ条も日澄の筆になるとすると、自身の過去の過ちを懺悔する意味で配したことになる。この日澄と日興上人と対抗し後に帰伏した経緯は、以下のようである。日蓮大聖人御在世当時の弟子であったものの大聖人御入滅後は民部日向の弟子となっていた甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長が新堂を作って釈迦一体仏を安置した時、日澄は日興上人の所にやってきて、日興上人の立てた義を非難したことがあった。この時、日興上人の義を聴き終って今度はその義を盗んで、自身が立てた義のように言い触らしたのは、内心では日興上人の義を承伏したのであった。しかるに、その後、民部日向が光長の建てた新堂に安置された一体仏を立てて開目供養するという行為に及んだため、日興上人の義を一体仏否定の説を唱えていた日澄は民部日向と義絶して日興上人に帰伏せざるを得なくなったのである。
 続いて、天台宗の摩訶一、大聖人御在世からの弟子・浄法房天目・弁阿闍梨の弟子・少輔房日高の三人についても、日興上人の義を盗み取ってそれぞれの地域で弘通していたことを述べられている。
 また伊予阿闍梨日頂・民部阿闍梨日向・肥前房日伝の三人については、本尊として釈迦像を立て、上行・無辺行・浄行・安立行の地涌の四菩薩として添えていることや神社参詣を禁じるなど、多少とも日興上人の義に歩み寄ったやり方をしていることを記されている。
 最後に「此の書札の抄・別状有り之を見る可し」とあるのは、本抄はあくまでも書き付けであり、これを詳細した別状があるのでそれを見るべきであるとの意で「五人所破抄」の存在を暗示しているのは、後世付記されたものか、あるいは、あとでもっと整備した書にする意図があったからであろうか。

1610~1617    五人所破抄top
1610:01~1610:07 第一章 大聖人、本弟子六人を定るtop

1610
五人所破抄
01   夫れ以れば諸仏懸遠の難きことは譬を曇華に仮り 妙法値遇の縁は比を浮木に類す、 塵数三五の施化に猶漏れ
02 て正像二千の弘経も稍過ぎ已んぬ、 闘諍堅固の今は乗戒倶に緩うして人には弊悪の機のみ多し 何の依憑しきこと
03 有らんや、 設い内外兼包の智は三祇に積み大小薫習の行は百劫を満つとも 時と機とを弁ぜず本と迹とに迷倒せば
04 其れも亦信じ難からん。
05   爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主為りと雖も、 早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻五字を紹
06 継するが為に六人の遺弟を定めたもう。
07   日昭と日朗と日興と日向と日頂と日持と已上六人なり。
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 さてよく考えてみると、諸仏が出世することの難しさは優曇華に譬えられ、衆生が妙法に巡りあう縁が希であることは一眼の亀が浮き木にあうことにも譬えられる。末法の衆生は三千塵点劫や五百塵点劫の釈尊の化導に漏れ正法・像法二千年の弘経も、はや過ぎてしまった。闘諍堅固の今は、教えの実践も戒律に基づく修行も共に熱心に行われなくなって、人々の機根も悪い者だけが多くなってしまった。どこにたのもしいことがあろうか。たとえば内道・外道を兼ね備えている智慧を三阿僧祇劫の間、積み重ね、大乗・小乗の修業を百劫の間、行じたとしても、時と機とを弁えず、本門と迹門に迷うならばそれを信ずることも難しい。
 ここに先師日蓮大聖人は、釈尊から付嘱を受けて末法の教主となったといえども、すでに生死の無常の姿を示して入滅されようとした時、妙法五字を継承せしめるために六人の遺弟を定められたのである。
 日昭と日朗と日興と日向と日頂と日持の以上六人である。

諸仏懸遠の難きことは譬を曇華に仮り
 方便品に「 諸仏の世に興出したもうこと、懸遠にして値遇することは難し。正使世に出でたもうとも、是の法を説きたもうことは復た難し。無量無数劫にも、是の法を聞くことも亦た難し。能く是の法を聴く者、 斯の人亦も復た難し。譬えば優曇華の、一切皆な愛楽し、天人の希有にする所にして、時時に乃し一たび出ずるが如し。法を聞いて歓喜し讃めて、乃至一言をも発せば、則ち為れ已に、一切三世の仏を供養したり。是の人甚だ希有なること、優曇華に過ぎたり」とある。
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諸仏懸遠
 「懸遠」は「げんのん」「けんおん」と読む。諸仏が世に出現することはまれで、ある仏の出世と次の仏の出世の間に、時間的隔たりがあることを懸遠という。
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曇華
 優曇華のこと。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。
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妙法
 妙なる法。妙法は梵語・薩達磨(Saddharma)の音訳。「法」(dharma) に「正しい・真の・善」(sat) を被せたもので麤法に対する語。甚深微妙の法、または正しい法のことで、一往は法華経を指すが、再往は法華経の肝心・南無妙法蓮華経のこと。
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値遇の縁
 仏に巡り合う縁のこと。「値遇」は「ちぐ」「ちぐう」と読む。「値」はちょうど出会う、「遇」はたまたま会うの意。
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比を浮木に類す
 「比」は同じ類・例のこと。浮木は大海に浮かんでいる旃檀の木のこと。一眼の亀の譬にある。衆生が妙法に巡り合うことの難しさをたとえる。
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塵数三五の施化
 釈尊の三千塵点劫と五百塵点劫における化導のこと。三千塵点劫は化城喩品にある大通智勝仏の第十六王子が三千塵点劫という長遠の昔に下種したことをいい、五百塵点劫とは、寿量品に釈尊が真実に成仏したのは、五百塵点劫の久遠で、以来衆生に法華経を下種したことを意味する。
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正像二千の弘経
 仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間の弘教のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
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闘諍堅固
 大集経巻五十五には「次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没」と、釈尊滅後、末法のはじめの五百年に、釈尊の仏法の中において絶えず争いが起こり、正しい教えが隠没すると説かれている。
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乗戒
 悟りに至るための修行法を二つに大別したもの。乗は実相を開悟するために教理に基づいて修行する意で理戒ともいう。修行する人を乗せて涅槃に到達させる故に乗という。戒は身心の非を防ぎ悪を除くために身・口・意の事相に課するおきての意で持戒ともいう。
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弊悪の機
 機根の悪いこと。幣悪とは、よくないこと、わるいこと、悪い習慣。機とは、修行しうる能力・根性・性質の機根のこと。
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依憑しきこと
 「依馮」とは「たのも(しき)」「いびょう」「えびょう」とも読み、よりどころとすること。
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内外兼包の智
 内道と外道を共に包含する智慧。小乗教の菩薩が三僧祇の間菩薩幢を行じて得た智慧のこと。
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三祇
 三つの阿僧祇劫のこと。菩薩が十地を得るまでの長遠な修行の期間をいう。三大阿僧祇劫、三僧祇ともいう。阿僧祇は無数、無尽数と訳し、劫は分別時節、時間、大時と訳す。大毘婆沙論には、釈尊の因位について、第一阿僧祇劫には過去の釈迦仏よりも尸棄仏に至るまでの七万五千の仏にあい、第二阿僧祇劫には尸棄仏より燃灯仏に至るまでの七万六千の仏にあい、第三阿僧祇劫には、燃灯仏から毘婆尸仏に至るまで七万七千の仏にあって修行したことが説かれている。
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大小薫習の行
 大乗の菩薩・小乗の声聞・縁覚の修業が百劫に満ちて、十分に修練の成果を積むこと。薫習は香がその薫りを少しずつ他の物に移すように、修行の功徳が修行者に積まれること。
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 一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
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時と機
 時と機根のこと。時とは、一般には一年の区分、春夏秋冬。一日の区分、24時間。歳月の移り変わり、時代、時勢、機運等の意。仏法上は、過去・現在・未来などの時間。仏の弘教の次第、衆生が仏を感じて教えを求め、仏がこれに応じて法を説く機感相応の時、釈尊が一代50年にわたって種々の教えを説いた時のなかの時などがある。ここでは、末法の時を指す。機とは万物自然の変化、心の働きなどのこと。仏法では機根といい、仏の教化を受ける衆生の可能性、またはその状態をいう。
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本と迹
 本門と迹門のこと。法華経28品の序品~安楽行品までを迹門、湧出品~勧発品までを本門という。迹門では三乗教は方便で一乗教が真実であるとする開権顕実が示されるが、教主は始成正覚の釈尊である。本門では釈尊の久遠五百塵点劫の成道が説き顕されている。
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先師聖人
 五人所破抄に出てくる。先師とは亡くなっている師匠のことで、日蓮大聖人をさす。
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大聖の付
 釈尊による妙法弘通の付嘱のこと。大聖とは偉大な聖人。智慧が広大無辺で徳が高く、三世を見通して誤りのない人。五人所破抄では釈尊をさし、付とは付嘱のこと。仏が弟子に教法の弘通を託すこと。
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末法の主
 末法の教主のこと。末法とは三時のひとつで、衆生が三毒強盛の故に証果を得られなくなる時代である。第五の五百歳ともいい、闘諍言訟・白法隠没の時。教主とは教法を説く主尊のことで、末法の教主とは日蓮大聖人のことである。
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無常の相
 無上のすがた、形の意。常住に対する語で、生滅変化して常無きものを指す。相はもののすがた、様相の」こと。
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円寂に帰入する
 入滅のこと。円寂とは悟りのことで、諸徳を円満し、諸悪を寂滅する意。後に転じて入涅槃をいう。帰入とはかえる。もとへもどるの意。
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五字
 妙法蓮華経の五字をいうが、別して南無妙法蓮華経のこと。
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日昭
 (1222~1323)。弁阿闍梨のこと。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
日朗
 (1245~1320)大国阿闍梨・筑後房ともいう。寛元3年(1245)4月8日、下総国海上郡能出(千葉県匝瑳市能手)に生まれ、幼名を吉祥麿といった。父は平賀二郎有国といい、平賀千家の一族で、母は因東祐昭の女、有国の没後、平賀忠晴と再婚し、日像・日輪をもうけている。日朗は建長6年(1254)、10歳の時、父の有国と共に日蓮大聖人に会って帰依し、日昭のもとで得度した。文永8年(1271)9月の竜の口法難の際には日心と共に土牢に投ぜられ、日蓮大聖人から10月3日に五人土籠御書を、10月9日には土籠御書を頂いている。弘安2年(1279)10月20日、大聖人は日朗・池上宗仲両人に対して両人御中御書御書を与えられている。大聖人御入滅後は、日興上人に違背し、大聖人の墓所輪番制にも応ぜず、100ヵ日忌法要の時、身延に登山したものの、御廟所の立像仏を持ち去っている。弘仁6年(0813)7月ごろに池上に長栄山本門寺を建立、大聖人を開山として自らは第2代となった。同8年(1285)天台沙門と名乗って公所に申状を提出し、師敵対の行為をとった。また、延慶2年7(1309)1月に四長四本山を一寺としている。晩年に至って富士に来山したことが五人所破見聞に記されている。文保2年(1318)10月23日に、本迹口決を竜華院日像に送り、元応2年(1320)1月21日、池上にて死去。その後日朗門下は池上本門寺と鎌倉比企ヵ谷妙本寺を中心に弘教した。日朗門下には日像を中心に日輪・日善・日範・日伝・日印・日行・日澄・朗慶等がいる。「本迹見聞如天甘露抄」「五時系図」「本尊明鏡抄」等の著作がある。大国阿闍梨は日朗の号。
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日興
 (1246~1333)字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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日向
 (1253~1314)。佐渡阿闍梨・民部阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。佐渡阿闍梨は日向の号。
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日頂
 (1552~1317ごろ)。伊予阿闍梨という。建長4年(1252)駿河国富士郡重須(静岡県富士宮市北山)に生まれた。父の死後、母に従い鎌倉に住し、さらに下総若宮の富木常忍に母が再嫁したので養子となった。文永4年(1267)に日蓮大聖人の門下となり、日頂と名付けられた。建治3年(1277)富木常忍が天台宗の真間弘法寺を法論によって改宗させたので、日頂はその開山住職となった。弘安元年(1278)11月25日には、熱原法難により富士方面にいられなくなった日秀・日弁を、大聖人の計らいによりかくまっている。大聖人御入滅後は、100ヵ日忌後の弘安6年(1283)1月に下総真間に下ったまま大聖人の墓所の輪番にも行かず、正応4年(1291)3月、天台法華宗の沙門と名乗って申状を提出、正安4年(1302)3月8日、真間弘法寺を日揚に付して重須に行き、日興上人に帰伏した。翌乾元2年(1303)3月、重須に少林寺を創建し、徳治2年(1307)6月24日、書を鎌倉の了性房日乗に報じて、日興上人に代わって法難渦中の門下を激励し、文保元年(1317)ごろ重須で没した。伊予阿闍梨は日頂の号。
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日持
 (1250~)蓮阿闍梨と号す。建長2年(1250)駿河国庵原郡松野(静岡県富士宮市富士川町松野)で松野六郎左衛門入道の次男として生まれる。幼少にして出家し、駿河国蒲原郡(静岡県富士市)四十九院に登り、日興上人に従って四十九院に住しながら大聖人の弟子として甲斐公と称した。文永7年(1270)21歳で得度。四十九院の法難で頻出の厄に遇ったが、師友と共に苦難を凌いでいる。日蓮大聖人の晩年には本弟子六人の一人となったが、大聖人の滅後は墓輪番に応ぜず、天台沙門と名乗るなど、大聖人の本意に背く行動をとった。正応元年(1288)6月8日、大聖人7回忌報恩のために御影を池上に奉安している。永仁3年(1295)、46歳の時、松野の蓮永寺を日教に託してただ一人、海外弘通の途に上った。奥州を歴て蝦夷(北海道)に渡り、樺太・大都(北京)、外蒙古まで歩を記したともいわれているが、明らかではない。蓮華阿闍梨は日持の号。
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 本抄は嘉暦3年(1328)7月、日興上人の命を受けた重須談所の第二代学頭・三位日順によって作成され、日興上人の認可を得て完成をみた書である。それ故に本抄は日興上人の直筆の書とはいえないが、それに準ずる価値のあるものといえよう。
 さらに、本抄の作成者である三位日順の筆になる正本も現存していないが、日興上人の弟子である日代の写本が存在し、その末尾に三位日順の筆跡で「嘉暦三戊辰年七月草案す 日順」と記されている。
 題号については、日辰による本抄の写本の奥書を見ると、日代の代には「草案」とあるだけで題名はつけられておらず「他本に富山立義抄と云く或は五人所破抄と云く或は六人立義抄と云く」と、さまざまな題号で呼ばれていたことが述べられている。それらの中から、五人所破抄の題号が最もふさわしいと慣習的に採用されていたと考えられる。
 序講でも述べたように、日興上人は、まず初代学頭の日澄に命じて富士一跡門徒存知の事を執筆され、そのうち特に五一相対を明らかにするため、二代学頭日順に本抄を執筆させたと考えられる。
 さて、本抄の冒頭では、まず諸仏の出世することを妙法に出あうことの困難さを譬えによって示され、特に末法の衆生は法華経に説く三千塵点劫・五百塵点劫以来の仏の教化のも漏れた上に、仏滅後の正像二千年に流布された仏教の教えにも触れることもできずにきてしまったこと、しかも末法は仏教の宗派同士で争いをおこしてばかりいる時で、仏教の教えも修業も緩慢でたのもしきことなき時代であることを嘆じ、たとえ内道や外道に通ずる智慧を長期間にわたって積み上げ大乗、小乗の修業を百劫もの間、満足に行った智者であっても、時と機根を弁えず、しかも法華経の本迹に迷って本末転倒しているので、なおさら妙法を信じることが難しくなっているとの厳しい現実を説かれている。
 これが、法華経の本迹に迷って転倒した教義を展開している五老僧への本抄での破折の前置きになっていることは明らかである。

1607:08~1611:05 第二章 五老僧の申状を挙げるtop

08   五人武家に捧ぐる状に云く未だ公家に奏せず。
09   天台の沙門日昭謹んで言上す。
10   先師日蓮は忝くも法華の行者と為て専ら仏果の直道を顕し天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云云。
11   又云く、 日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る、已
12 に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや詮を取る。
13   天台沙門日朗謹んで言上す。
14   先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実経を弘通せしむるに、 最要未だ上聞に達せず愁欝を
15 懐いて空しく多年の星霜を送る玉を含みて寂に入るが如く 逝去せしめ畢んぬ、 然して日朗忝くも彼の一乗妙典を
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01 相伝して鎮に国家を祈り奉る詮を取る。
02   天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。
03   桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。
04   右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。
05   又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。
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 五人が武家に捧げた申状には次のように述べている。鎌倉幕府には申状を提出したが、まだ公家には提出していない。
 「天台宗の僧侶である日昭が謹んで申し上げる。
 先師・日蓮はありがたくも法華の行者としてもっぱら成仏の直道を明らかにし、天台宗の余流をくんで思い慮の研鑚に励んだ」と。
 また、「日昭は取るに足りない身であるが、戦さが長く止むよう。また副将軍が安泰であるよう、法華の道場を構え、長い間勤行を行ってきた。すでに人知れず務めている志があるので、どうしてはっきりと明らかな感応がないわけがあろうか」。詮を取る。
 「天台宗の僧である日朗が謹んで申し上げる。
 先師・日蓮は如来の本意に従って、先に説かれた権経を捨てて、後に説かれた実経を弘通させたが、最も肝要なことは国主の耳に入れずに至らず、憂いと欝屈の思いを抱いて空しく多年を送り、まるで宝石を持った者がそれを認められずに亡くなったように逝去してしまった。そこで日朗はありがたいことに先師から、かの一乗妙典である法華経を相承し、国家の永久の安泰をお祈り申し上げている」。詮を取る。
 「天台法華宗の僧侶である日向・日頂が謹んで申し上げる。
 桓武天皇の時代の姿を仰ぎ、伝教大師の流れを受け継ぎ、立正安国論にならって一仏乗の法華経を尊び敬われることを請い願う書状である」と。
 「右のことを謹んで古い例に基づき考えてみると、我が天台宗の開祖である伝教大師は延暦年中に始めて比叡山に登って、法華経の宗旨を弘通された」と。
 また「自分は、今この所を法華経の道場になぞらえ、天地が永久に平穏であるように祈っている。その祈りを今日まで欠かしたことがない」と。詮を取る。

五人
 五老僧のこと。日昭・日朗・日向・日頂・日持をいう。
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武家に捧ぐる状
 五老僧が武家に提出した申状のこと。現存するものとして、弘安8年(1285)の日昭、日朗、正応4年(1291)がある。
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公家
 武家に対して朝廷に仕える貴族・官人、別して天皇。
―――
天台の沙門日昭
 天台宗の僧侶の意。沙門とは梵語シュラマナ(śramaṇa)。僧侶と訳す。出家して仏道に励む者。
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言上
 目上の人に申し上げること。
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法華の行者
 法華の教説に従って修行する人。
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仏果の直道
 成仏への道のこと。仏果とは、衆生が仏道修行に励むことによって体得する成仏の証果。功徳。直道とは直ちに至る道。
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地慮の研精
 地に伏して深く考え、詳しく研究すること。
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不肖の身
 自分について謙遜していう言葉。
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法華の道場
 道場とは仏の成道の場所。転じて仏道を修行する場所。法華の寺院を意味する。
―――
長日の勤行
 長日とは昼間の長い日を言うが、転じて長い日数・年月。長い期間勤行をすること。
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冥冥の志
 表面には表さないが、心中深く願っていること。
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昭昭の感
 すみずみまで明らかに感応すること。
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如来の本意
 仏の真意。本来の意図。本当の気持ち、真の意義。
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先判の権経を閣いて後判の実経
 一体系のものを判ずるとき、前説と後説に判別して、前説を先判、後説を後判という。釈尊一代の経教でいえば、40余年の方便教を先判、法華経を後判という。
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最要
 最も肝要なこと。
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上聞
 主君などの上司に申し上げること。
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愁欝
 思い悲しんでふさぎこむこと。愁は悲しむ、欝は気がふさぐの意。
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一乗妙典
 一仏乗を説き明かした妙典。法華経のこと。
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相伝
 師から弟子へ教法を伝えること。相承・付嘱と同義。
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国家を祈り
 国家とは①国土と皇室・大名の領国②定まった領土に住む社会集団。③日本国。国家の永久の安泰を祈ることをいう。
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天台法華宗
 天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
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桓武天皇
 (737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
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古風
 ①古臭い時代遅れの考え②伝統的な作法。考え方。
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伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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法華一乗
 一乗とは一仏乗のことで、仏乗とは仏の境地に運ぶ乗り物の意。一切衆生をことごとく成仏させる教法は法華経であるとの意。
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旧規を検えたる
 旧規とは古くからある規則。伝統的な規定に基づいて考えること。
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叡山
 比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
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法華宗
 法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
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天長地久
 天が長く地が久しいこと。転じて国家の平和・繁栄が続くこと。
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 ここから五老僧と日興上人の立義の相違を明確にし、五老僧の義を破っていかれるのであるが、まず、五老僧と日興上人の申状の内容を比較するため、ここでは五老僧の申状を示されている。
 当時は京の朝廷に実権がなく、鎌倉幕府が実質上の権力者であったから、申状は「武家」すなわち幕府に提出されたものである。それはともあれ、申状においては、自分の立場を名乗らなければならないが、五老僧の申状に共通しているのは、それぞれが「天台沙門」と名乗り、天台宗の余流に位置付けようとする卑屈な姿勢である。つまり、五老僧は日蓮大聖人が法華本門の教主としての独自性を隠しているのである。
 まず日昭の申状には大聖人を法華経の行者と呼んでいるといっても、大聖人御自身がこの言葉に込められた末法の御本仏という意味からでないことは、すぐあとに「天台の余流」等と言っていることに明白である。しかも「副将安全の為に法華の道場を構え」と述べて、当時の幕府の副将軍であった北条貞時の安泰を願うための法華経の道場であるという、権力へのへつらいを露骨に示している。
 次に、日朗の申状は大聖人の教えが権実相体して「実教」の法華経とするにとどまり、自分は、その「一乗妙典」を相伝し国家を祈っている」としている。これが「安国のためには謗法を禁ぜよ」と叫ばれた師・大聖人の精神に反していることは明らかである。
 次いで日向・日頂の申状では「天台法華宗の沙門」と名乗り、大聖人の事績を語るのに「桓武聖代の古風」「天教大師の余流』「法華宗を弘通したもう」「法華の道場」等の文言に表れているように、法華経が根本であることは強調しているが、大聖人は伝教大師を末流と位置付けることにより一層低くさげているといっても過言ではない。日昭・日朗も日向・日頂も「天台の沙門」「天台法華宗の沙門」とする点では共通しているが、日昭・日朗に幕府権力に媚びが際立つのに対して、日向・日頂の場合は、伝教大師の本来の天台宗を強調して、真言密教化した天台宗とは一線を画しつつも、伝教大師の宗教的権威の傘の下に身を寄せようとしている。ここには鎌倉になんとか足場を築こうとしていた日昭・日朗の意図がうかがわれる。

1611:06~1612:01 第三章 日興上人の申状を示すtop

06   日興公家に奏し武家に訴えて云く。
07   日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、 所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい世を三時
08 に分ち法を四依に付して以来、 正法千年の内には迦葉・阿難等の聖者先ず小を弘めて大を略す竜樹・天親等の論師
09 は次に小を破りて大を立つ、 像法千年の間異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、 本朝には亦
10 桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む、 今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり 正像已に過ぎぬ何
11 ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、 就中天台・伝教は像法の時に当つて演説し 日蓮聖人は末法の代を
12 迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所・解釈炳焉たる者なり。
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 日興が公家に奏上し、武家に訴えて言う。
 「日蓮大聖人はもったいなくも上行菩薩の再誕であり、法華経本門を弘経するために現れた偉大な方である。すなわち、仏は未来の機根を考えられて時代を正法・像法・末法の三時に分け、法を四依の菩薩に付嘱されたのである。仏滅後、正法千年の間に迦葉・阿難等の聖人が、まず小乗教を弘めて大乗教を省略し、次に竜樹・天親等の論師が出て小乗教を破って大乗教を立てた。像法千年の間では中国の陳・隋の両国の時代に、天台大師は南三・北七の十師の邪義を破り、日本においては桓武天皇の時代に、伝教大師は南都六宗の誤った論を改めさせた。
 今末法の世に入っては上行菩薩が出現される世であり、法華経本門の流布する時である。正法・像法時代は過ぎてしまったのに、どうして爾前迹門の教えに強いて帰依する必要があろうか。とりわけ大切なことは、天台大師・伝教大師は像法時代において法を説き演べ、日蓮大聖人は末法の時代を迎えて弘通したのである。彼は薬王菩薩の生まれ変わった身であり、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。これらのことは経文にも載っていることであり、この解釈においても明らかである。
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13   凡そ一代教籍の濫觴は法華の中道を説かんが為三国伝持の流布は盍ぞ真実の本門を先とせざらんや、 若し瓦礫
14 を貴んで珠玉を棄て燭影を捧げて日光を哢せば 只風俗の迷妄に趁いて世尊の化導を謗ずるに似るか、 華の中に優
15 曇有り木の中に栴檀有り 凡慮覃び難し併ながら冥鑑に任す云云、 本と迹と既に水火を隔て 時と機と亦天地の如
16 し、何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。
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 一般に釈尊一代の説教の起こりは、法華経の中道実相を説こうとしたためであり、インド・中国・日本へと三国へ伝持された法華経の流布は、どうして仏の真実の本門を第一としないでよいであろうか。もし瓦や礫を尊んで珠玉を捨て、灯を大事にして太陽の光を愚弄するならば、ただ世俗に迷い従って釈尊の化導を非難するのに等しいであろう。三時の弘教において大聖人の本門弘通は華の中に優曇華があり、木の中に栴檀があるようなものであり、凡夫には考え及ぶところではなく、冥の照覧に任せるのである」と。
 本門と迹門とはことごとく水と火のような隔たりがあり、正法・像法・末法とは、時も機根も天地のような違いがある。
 どうして地涌の菩薩である日蓮大聖人を指して、いやしくも天台大師の末弟などと呼ぶことができようか。
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17   次に祈国の段亦以て不審なり、 所以は何ん文永免許の古先師素意の分既に以て顕れ畢んぬ、 何ぞ僣聖道門の
18 怨敵に交り坐して 鎮に天長地久の御願を祈らんや、 況や三災弥起り 一分も徴し無し 啻に祖師の本懐に違する
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01 のみにあらず還つて己身の面目を失うの謂いか。
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 次に国家を祈ったというのは、また、それ以上に疑わしいことである。その理由は、文永十一年に佐渡から御赦免の折、平左衛門尉に対面された時の御返事に、日蓮大聖人の御心はすでに顕れている。どうして法華経の行者を誹謗する僣聖・道門増上慢の怨敵と一緒になって永く国家の安全を祈禱しなければならないのであろうか。まして、三災はますます激しくなり、祈禱の効果など全くない。他宗と並んで国家を祈るなどということは、大聖人の御心に背くばかりでなく、かえって自身の面目をも失うことになるのである。

日興公家に奏し武家に訴えて云く
 五老僧の申状は、天台沙門として、武家のみに提出したものであるが、日興上人の申状は公家・武家の双方に提出されており、内容も大聖人を末法の本仏とたてたものである。現存する文書は正応2年(1289)、嘉暦2年(1327)、元徳2年(1330)の三通。
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上行菩薩の再誕
 日蓮大聖人が、本化地涌の菩薩の上首である上行菩薩の生命を体現していること。上行菩薩は神力品で、仏滅後の末法の妙法流布の付嘱を受けている。この結要付嘱の儀式を受けて、末法に南無妙法蓮華経を立てられたのが日蓮大聖人である。ただしこれは外用の辺であり、内証深秘の辺は久遠元初自受用法身如来であられる。
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本門弘経の大権
 法華経本門を弘通するために現れた偉大な方との意。本門とは釈尊が本地の仏の姿を明かした法門のことであるが、別して寿量品の文底に秘沈された独一本門の大法であり、その大権とは日蓮大聖人のことである。
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大覚世尊
 仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
未来の時機
 仏法が未来に流布する時と機根。教法に相応した時とその衆生の機根。
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世を三時に分ち
 世とは時代のこと。三時とは正法・像法・末法のこと。
―――
法を四依に付して
 四依とは四つの依りどころとするのもで四種に分類する。①行の四依、在世の比丘が修行において守るべきよっつのさま。②説の四依、インド応誕の釈尊の四種の意向。③人の四依、仏の滅後において正法を護持し弘通する四種の導師。④法の四依、衆生を利益する導師が順守する四依。付してとは法をこれらの四依の菩薩に付嘱したこと。
―――
正法千年
 仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時の1000年間。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
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阿難
 詳しくは阿難陀。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
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聖者
 「聖者」は「せいじゃ」「しょうじゃ」とも読む。智徳が勝れて万事に通達し、衆生の師となる人のこと。聖人の位にあるものをいう。
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小を弘めて大を略す
 小乗教を弘めて大乗教を省略したこと。
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竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
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天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
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論師
 阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
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像法千年
 釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
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異域
 異なった地域。外国のこと。
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陳隋両主の明時
 陳の明手とは第五代淑宝、隋の名手は楊広のことで、賢明な君主の世の中を司った明時の名で知られている。
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智者
 智慧ある者。
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十師
 中国・南北朝時代に盛んに行われた仏教の教相判釈を立てた種々の学派の10師のこと。南方の3師と北方の7師をいう。
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邪義
 よこしまな教義のこと。正義に対する語。邪見・邪義に基づいて立てられた教義をいい、仏の本位・経文に違背した教判や釈義。
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伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
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六宗の僻論を改む
 六宗とは南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。僻論とはよこしまな説。伝教大師はこれら六宗をことごとく破られている。
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末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
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上行出世の境
 上行菩薩が出現される世。すなわち、末法の初めの500年をいう。
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正像
 三時の弘教のうち末法を除く正法・像法時代の2000年間。釈迦の仏法に功力があった時代。
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爾前
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
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帰依
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
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演説
 仏・菩薩が衆生を済度教化するために教えを説き演べること。一般には、人前で意見を説き述べること。
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恢弘
 教えなどを大きく広めること。
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薬王の後身
 薬王とは薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。 後身とは生まれ変わりの意で、像法時代の天台・伝教をさす。
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炳焉
 あきらかなこと。
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一代教籍の濫觴
 釈尊一代教説のはじまり。教籍とは教えをしるした書。濫觴とは流れの元の意で、物事の始まり、起こりのこと。
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法華の中道
 法華経の中道実相のこと。法華経では中道があらゆる事物・事象の真実の姿であると説く。中道はさまざまな意義で用いられるが、天台大師は中論の説を受けて不思議の三諦を立て、空仮中の三諦円融に基づく中諦を説いた。仮諦も空諦も共に具え、そのいずれにもとらわれないものであり、三諦円融の中諦をいう。
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三国伝持
 インド・中国・日本の三国に仏法が伝えられ、持たれること。
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瓦礫
 「瓦礫」は「がりゃく」「がれき」とも読む。瓦と石ころのこと。金などの価値のあるものに対し、価値のないもの。
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風俗の迷妄
 世のしきたりや風習に迷うこと。
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世尊の化導
 仏が衆生を仏道に入らせしめるために、教化し導くこと。
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優曇
 優曇華のこと。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。
―――
栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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栴檀
 インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
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慮覃び難し
 凡夫では考え及ぶところではないとの意。
―――
冥鑑に任す
 冥とは、凡夫にははっきりと見えないこと。鑑は「かんがえる」の意。冥鑑とは仏が考えたところ。仏説。
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本と迹
 法華経前十四品を迹、後十四品を迹とすることをいう。前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。
―――
地涌の菩薩
 釈尊の説法を助け滅後末法での法華経弘通の付嘱を受けた本化の菩薩のこと。湧出品で大地から湧出し神力品で妙法蓮華経の結要付嘱を受け、末法弘通を託された。
―――
文永免許の古
 大聖人が文永年間に佐渡流罪を赦免になった時のこと。免許とは許可すること。日蓮大聖人への赦免状が出たのは、文永11年(1274)2月14日。赦免状が佐渡についたのが3月8日であり、3月26日に鎌倉に帰着、4月8日平左衛門尉と対面された。この時、平左衛門尉から大聖人に国家のために祈ってほしいとの要請があったが、大聖人は、災いの根源は謗法が充満していることにあり、謗法を禁じることが先決であると諫められた。
―――
素意
 かねてからの思い、おもわく。平素からの意志。
―――
僣聖道門の怨敵
 三類の強敵のなかの僭聖増上慢と道門増上慢のこと。道門増上慢とは、邪智で慢心をいだき法華経の行邪を迫害する僧侶。勧持品には「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを謂いいて得たりと為し、 我慢の心充満せん」とある。僭聖増上慢とは、表面上聖者のように装って社会の尊敬を集め、内面では利欲に執して悪心を懐き、権力者を動かして、法華経の行者を迫害する者をいう。勧持品には「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」とある。
―――
天地長久
 天地が永く変わらないように、物事がいつまでも続くこと。天を天皇にたとえ、地を万民にたとえるとの説もある。
―――
三災
 ①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
―――
祖師の本懐
 祖師は日蓮大聖人のこと。本懐は、仏がこの世に生まれてきた目的。日蓮大聖人の本懐は三大秘法広宣流布に尽きるのである。
―――
面目
 ①顔かたち。②名誉。③趣意。④すがた。⑤おおもとになるもの。
―――――――――
 冒頭の「日興公家に奏し武家に訴えて云く」とあるその中身は「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい」から「凡慮覃び難し併ながら冥鑑に任す云云」までの部分である。
 先の五老僧の申状に対比して、ここは日興上人の申状が示されている。その主眼点の第一は、五老僧が日蓮大聖人を「天台の末弟」としたのに対し、日興上人は大聖人の仰せのままに本化上行菩薩の再誕であり、独一本門の教主であるとされている。その相違を示されていることにある。第二は国家のために祈るということについてである。
 冒頭に「日興公家に奏し武家に訴えて云く」とあり、先の五老僧が「武家に捧ぐ」であったのと違っているが、この点については本文で何の言及もないので、さほど重要でないと考えられる。あえて言えば、五老僧、特に日昭・日朗は鎌倉を中心に教勢を確立しようとしていたため「武家」すなわち鎌倉幕府に専ら目を向けていた。
 それに対し、日興上人は幕府の力がすでに弱まりつつあったためと同時に、あくまで日本一国の正法への覚醒を目指されたため、双方に対して諌暁されたのであろう。
 いずれにせよ、ここで日興上人が明確にしようとされた第一点は、日蓮大聖人は末法救済のために出現された独一本門の教主であって、「天台の末流」に位置付けている五老僧は師敵対の輩であるということである。この点を明らかにするために正像末の三時の弘教の次第を述べられ、天台大師が像法の正師であり、薬王菩薩の後身であったのに対し、日蓮大聖人は末法の教主であり、上行菩薩の再誕であるとし、このことは経文によっても、正像時代の正師たちの解釈によっても明白であると断じられている。
 第二点の「祈国」に関しては、五老僧が「兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る」あるいは「鎮に国家を祈り奉る」だの「天長地久を祈り今に断絶すること無し」だのと言っているのは、日蓮大聖人の「御真意に背く」だけでなく、自らの面目を失うものでると弾訶されている。
 この中で「先師素意」すなわち、日蓮大聖人の本当の御心として文永11年(1274)佐渡流罪赦免後、平左衛門と体面された時の御返事と振る舞いのことが指摘されている。この時のやりとりについては、種種御振舞御書に述べられているが、平左衛門尉が執権の名代として臨み、大聖人に蒙古襲来について尋ねるとともに、一説には、国家のために祈ってほしいと要請し、そうすれば寺院を寄進すると申し出されたといわれる。
 それに対し、大聖人は「今年は一定である」と答えられ,この災いを払うには、以前から訴えている通り、災いの元凶である謗法諸宗への帰依をやめることであると訴え、三度目の諌暁を行われたのであった。
 日興上人は、この大聖人の御心を知るならば、すでに公家・武家の依頼を受けて行われている諸宗の高僧たちによる国禱に歩調を合わせ「交わり坐して」祈るなどということは、師に対する違背であると厳しく弾訶されている。

1612:02~1612:05 第四章 五老僧の三点の迷妄を挙げるtop

02   又五人一同に云く 凡そ倭漢両朝の章疏を披いて本迹二門の元意を探るに判教は玄文に尽し弘通は残る所無し、
03 何ぞ天台一宗の外に胸臆の異義を構えんや、 拙いかな尊高の台嶺を褊して辺鄙の富山を崇み、 明静の止観を閣い
04 て仮字の消息を執する、 誠に是れ愚癡を一身に招き耻辱を先師に及ぼす者か、 僻案の至りなり甚だ以て然るべか
05 らず、若し聖人の製作と号し後代に伝えんと欲せば宜く卑賎の倭言を改め漢字を用ゆべし云云。
-----―
 また、五人が一同に言う「そもそも日本・中国の注釈書を開いて法華経の本門と迹門の究極の意を深く考えて見ると、教えの判教は法華玄義と法華文句に尽くされており、法華経の弘通に関して残されているところはない。どうして天台宗のほかに自己流の異義を構えるのか。何と拙いことであろうか、尊高な天台山を見下して、辺鄙な富士山を崇め、明確で誤りない摩訶止観をさしおいて、仮字文字の消息文に執着するのは誠に愚かさを我が身一身に招き、恥を先師に及ぼすものである。誤りの極みであり、決して在るべき姿ではない。もし聖人の御述作と称して後世に伝えようとするならば、卑しい仮名文字を漢字に改めるべきである」と。

倭漢両朝
 日本と中国のこと。倭とは中国や韓国で用いられた日本の呼び方。漢とは唐・もろこしともいい、中国をいう。
ーーー
章疏
 注釈書。章は編章を分けて教義を論じたものをいい、疏とは経・律・論の文句を注釈すること、または注釈したものをいう。
ーーー
本迹二門
 法華経の本門と迹門のこと。序品~安楽行品を迹門といい、その中心は諸法実相に約して理の一念三千を明かしている。本門は湧出品~勧発品までで、その中心は釈尊の久遠実成の本地を明かし、本因妙・本果妙・本国土妙に約し、仏の振る舞いから事の一念三千を説く如来寿量品である。
ーーー
判教
 仏の説いた教えや経典を解釈すること。
ーーー
玄文
 天台の著作、法華玄義と法華文句のこと。
―ーー
天台一宗
 天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―ーー
胸臆
 胸中の思い。自分勝手に考えたこと。
―ーー
台嶺を褊して
 台嶺は台岳ともいう。①中国の天台山のこと。②比叡山延暦寺のこと。褊してとは、軽蔑する。見下げるの意。
―ーー
辺鄙の富山
 片田舎の富士の地という意味。日興上人の居住地が仏教の中心地から遠く離れていると揶揄した言。
―ーー
明静
 明確で正しいこと。摩訶止観の序に章安大師が記している文。「止観の明静なること、前代末だ聞かず」とある。
―ーー
止観
 摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
―ーー
仮字の消息
 大聖人が遺された(多くは在家の信徒に与えられた)仮名文字の消息文。
―ーー
愚癡
 愚かなこと。物事の道理に暗いこと。
―――――――――
 五老僧の謬義の第二は、日蓮大聖人の御立場をどのように拝するかにかかわるものである。これは先の五老僧が自らを「天台沙門」と名乗ったことと重なり合うが、今度は大聖人御自身の仏法上の御立場の問題である。この点について、五老僧は法華経の仏法に関しては、天台大師がすべてを明らかにしたのであるから、天台宗とは別に「胸臆の意義」を構える必要はない。従って「崇高なる台嶺」をないがしろにして「辺鄙な富山」を崇めるなどということは間違っているし、仮名文字で書かれた大聖人の御書をありがたがって読むのは愚かであり、ましてこれを世の人々に広く読ませるのは、師の恥辱を広めることであて、どうしてもというなら、仮名文字の御書は漢文体に改めるべきだと主張したのである。
 この五人の言い分の中には、天台宗によって法華経の大法はすべて明かされていることで、「台嶺」が崇高であるのに比べ「富士山」は辺鄙であるとしていること、仮名文字の御書は卑しく漢文の著述が尊いとすることの誤りが含まれている。次の「日興が云く」においては、この三点に関して順次、破折を加え、日興上人の正義が示される。

1612:06~1613:08 第五章 先師を天台余流とする迷妄を破すtop

06   日興が云く、 夫れ竜樹・天親は即ち四依の大士にして円頓一実の中道を申ぶと雖も而も権を以て面と為し実を
07 隠して裏に用ゆ、 天台伝教は亦五品の行位にして 専ら本迹二門の不同を分ち 而も迹を弘め衆を救い本を残して
08 末に譲る、 内鑒は然りと雖も外は時宜に適うかの故に或は知らざるの相を示し或は知つて而も未だ闡揚せず、 然
09 るに今本迹両経共に天台の弘通と称するの条は 経文に違背し解釈は拠を失う、 所以は宝塔三箇の鳳詔に驚き勧持
10 二万の勅答を挙げて此土の弘経を申ぶと雖も迹化の菩薩に許さず、過八恒沙の競望を止めて不須汝等護持此経と示し
11 地涌千界の菩薩を召して如来一切所有の法を授く、迹化他方の極位すら尚劫数の塵点に暗し止善男子の金言に豈幽微
12 の実本を許さんや,本門五字の肝要は上行菩薩の付嘱なり誰か胸臆なりと称せんや委細文の如し経を開いて見るべし.
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 日興が言う。そもそも竜樹・天親はすなわち四依の大士であって、円頓一実の中道を説いているといっても、権教を表として実教は隠して裏に用いた。
 また天台大師・伝教大師は観行即の五品の位の人であり、もっぱら法華経本門と迹門の区別を明確にしながらも迹門を弘めて衆生を救済し、本門は残してその弘通を末法に譲ったのである。内心では知ってはいたが、外に向かっては時の宜しきに合わせるために、あるいは知ってはいなかったような姿を示し、あるいは知っていてもいまだ明らかに示さなかった。
 それにもかかわらず、今、五老僧が本迹二門の教えが共に天台大師の弘通であると主張していることは法華経の経文に違背しており、天台等の解釈も根拠のないものとなってしまう。なぜかといえば、法華経見宝塔品で釈尊が三箇の鳳詔により滅後における法華経の弘通を命じたことに対し勧持品で二万の菩薩が娑婆世界での弘経を誓ったが、釈尊はこれを許さなかった。湧出品に於いては、他方から来集した無数の八恒河沙を超す菩薩が競って娑婆世界の弘教を誓い望んだのである。釈尊はこれを経して「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と示し、地涌千界の菩薩を召し出して。如来が所有している一切の法を授けたのである。
 迹化・他方の最高位にある菩薩ですら釈尊と地涌の菩薩との血縁が五百塵点劫以来のものであることを知らなかったのであるから、「止みね善男子」の金言によるように、深遠なる実教の本門の弘通をこれら迹化・他方に許すことがあるだろうか。
本門の肝心たる妙法蓮華経の五字は上行菩薩の付嘱である。誰が己義などということができようか。詳しくは経文の通りであり、経文を開いて見るべきである。
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13   次に天台大師経文を消したもうに、「如来之を止むるに凡そ三義有り汝等各各自ら己が住有り若し此の土に住す
14 れば彼の利益を廃せん、 又他方は此土に結縁の事浅し宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん、 又若し之を許さ
15 ば則ち下を召すことを得ず 下若し来らずんば迹も破することを得ず遠も顕すことを得ず是を三義と為す、 如来之
16 を止めて下方を召して来らすに亦三義有り、 是れ我が弟子応に我が法を弘むべし、 縁深厚なるを以て能く此土に
17 遍して益し分身の土に遍して益し他方の土に遍して益し、 又開近顕遠することを得、 是の故に彼を止めて下を召
18 すなり」文、 又云く「爾時仏告上行の下是れ第三に結要付嘱」と云云、 伝教大師は本門を慕いて「正像稍過ぎ已
1613t
01 つて末法太だ近きに有り 法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」文、 又云く「代を語れば則ち 像の終り末の初
02 め地を原ぬれば則ち唐の東.羯の西・人を尋ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時.経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に
03 以有るなり」云云。
-----―
 次に天台大師が湧出品の経文をつぎのように解釈している。
   「釈尊が他方の菩薩を制止された理由はほぼ三つの意義がある。一つは、他方の菩薩はそれぞれに自らの住する地がある。もしこの娑婆世界に住したとすれば、本来住している地の衆生を利益することができなくなる。二つには、他方の菩薩は娑婆世界に血縁が薄いため、それらに法を授与したいと思っても大勢の人を利益することはできない。三つには、もし他方の菩薩に弘通を許したならば、地涌の菩薩を召し出すことができない。これを三義とするのである。釈尊が他方の菩薩を制止し、地涌の菩薩を召し出された理由に、また三つの意義がある。一つは、地涌の菩薩は釈尊の久遠の弟子であるから釈尊の法を弘めるべきであるということ。二つには、地涌の菩薩は久遠以来、娑婆世界との宿縁が深く厚いので、よくこの娑婆世界の衆生をあまねく利益し、また、分身の諸仏の国土の衆生も遍く利益し、他方の土の衆生も遍く利益すること。三つには、地涌の出現により始成正覚の近を開いて久遠実成の遠を顕すことができるのである。この故に他方の菩薩を制止して地涌の菩薩を召し出されたのである」と。
 また、天台大師は法華文句で「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、以下の部分が第三の結要付嘱である」と言っている。
  伝教大師は本門流布の時を慕って守護国界章で「正法・像法の時代が次第に過ぎて、末法がいよいよ近づいている。法華一乗の教えが流布すべき機はまさしくその時である」と述べている。
  また、法華秀句には「時代を語ると像法の終わり末法の初め、国を尋ねると中国の東・カムチャッカの西・人を論じると五濁悪世の衆生であり、闘諍堅固白法隠没の時である。法華経法師品第十に『猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや』との言葉は、誠に深い意味がある」と述べている。
-----―
04   加之大論の中に 「法華は是れ秘密なれば諸の菩薩に付す」と宣ぶ、 今の下文に下方を召すが如く尚本眷属を
05 待つ験けし余は未だ堪えず、 輔正記に云く 「付嘱を明せば此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何を以ての故に
06 爾る、法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」論釈一に非ず繁を恐れて之を略す。
-----―
 さらに付け加えると、竜樹菩薩は大智度論の中に「法華経は秘密の経であるから特別の菩薩に付嘱する」と述べている。涌出品の時に下方の大士を召したということは明らかに本眷属である地涌の菩薩を待ったということである。それは地涌の菩薩以外はこの法の付嘱に堪えないからである。
  道暹の法華文句輔正記には「付嘱を明かすならばこの経は、ただ地涌の菩薩に付嘱するのである。なぜそうなるかというと、法自体が久遠実成の法であるが故に、教化してきた久成の人に付嘱するのである」とある。これらについての論や釈は一つでないので、繁雑を恐れてこれを省略する。
-----―
07   観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや、正像過ぎて二千年未だ上行の出現を聞かず末法も亦二
08 百余廻なれば本門流布の時節なり 何ぞ一部の総釈を以て猥に三時の弘経を難ぜんや、
-----―
 観音菩薩や薬王菩薩はすでに迹化の菩薩である。南岳大師・天台大師は誰の生まれ変わった身であろうか。正法・像法時代が経過して二千年になるが、いまだに上行菩薩の出現は聞いていない。また末法に入って二百年が経過し、法華経本門流布の時に当たっている。
  どうして天台の法華経一部八巻の総じての解釈をもって、勝手に正像末の三時の弘経の次第を非難することができようか。

竜樹
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天親
 天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
四依の大士
 仏滅後正法時代に正法を護持し弘通した人々のよりどころとなる四種の人格のこと。人の四依・四依の賢聖・四依の聖人・四依の菩薩・四依の論師ともいう。
―――
円頓一実の中道を申ぶ
 竜樹・天親も内心には妙法を悟り、法華経の真意を了解していたということ。
―――
円頓
 円満にして徧よらず、一切衆生を速やかに成仏させる教法のこと。円は円融、円満、頓は頓極、頓足の意。末法における円頓の教とは、寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経である。
―――
一実
 一は純一無雑・唯一無二の意で、実はまこと・真実の意。①一仏乗・真実義を説く経のこと。法華円教をさす。法華経のみが真実の法である故に「一実」という。②真如と同意。平等無差別の実相をあらわす。
―――
権を以て面と為し実を隠して裏に用ゆ
 権教を表とし実教は隠して用いたとの意味。正法時代の弘教をいう。法華行者逢難事に「竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず」(0965-07)とある。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
五品の行位
 五品とは分別功徳品に説かれた四信五品のうち、滅後の五品(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)のこと。行位とは、仏道における修行と位のこと。天台大師は、五品の位を十信のまえの観行即の位、あるいは十信の位に定めている。
―――
本迹二門
 法華経の本門と迹門のこと。序品~安楽行品を迹門といい、その中心は諸法実相に約して理の一念三千を明かしている。本門は湧出品~勧発品までで、その中心は釈尊の久遠実成の本地を明かし、本因妙・本果妙・本国土妙に約し、仏の振る舞いから事の一念三千を説く如来寿量品である。
―――
迹を弘め衆を救い本を残して末に譲る
 天台・伝教は迹門を表として衆生を救い、本門の弘通については末法の本仏に譲ったということ。
―――
内鑒
 内心に一念三千の法門を悟っていること。鑒とは艦と同意で、みきわめる・照らしてみること。開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)とある。
―ーー
闡揚
 明らかに説き示し、弘めること。闡は「あきらかにする」、揚は「あげる」「あらわす」の意。
―ーー
宝塔三箇の鳳詔
 宝塔品で、釈尊が大衆に滅後における法華経の弘通を三回(付嘱有在・令法久住・六難九易)にわたって勧め命じたこと。三箇の諫勅ともいい、提婆品の二箇の諌暁(悪人成仏・女人成仏)と合わせて五箇の鳳詔という。
―ーー
勧持二万の勅答
 勧持とは「勧持品」二万とは「二万人の菩薩」勅答とは「天子に答えを申し上げる」こと。宝塔品の三箇の鳳詔に応じて勧持品で二万の菩薩が滅後の弘教を仏に誓願したことをいう。
―ーー
此土の弘経
 娑婆世界における弘通のこと。
―ーー
迹化の菩薩
 本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等の八十万億那由佗の菩薩がこれにあたる。勧持品で仏滅後の弘通を誓い出たが、涌出品で釈尊は本化地涌の菩薩を召し出し、神力品で付嘱した(別付嘱)。しかし迹化の菩薩は嘱累品において付嘱を受け(総付嘱)正像2000年にのみ出現して権大乗や法華経迹門を弘通した。
―ーー
過八恒沙の競望
 恒沙は恒河沙の略で、ガンジス川の砂の数ということからきた非常に多い数の単位。過八恒沙とは、八恒河沙を超えるとの意。涌出品の冒頭で、過八恒河沙という他国から来た無数の菩薩が、競って末法における娑婆世界の法華経弘通を望んだことをいう。競望は「けいもう」「ぎょうもう」「けいぼう」とも読む。
―ーー
不須汝等護持此経
 涌出品の文。「汝 等が此の経を護持せんことを須いじ」と読む。他方から来た八万恒河沙を超える大菩薩が滅後の弘教を誓ったのに対し、釈尊が「止みね、善男子」と制止した。
―ーー
地涌千界の菩薩
 法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。地涌は地より涌き出る意で、千界は千世界微塵の意で、数がおおいことをあらわす。
―ーー
如来一切所有の法
 神力品に「要を以て之を言わば、如来の一切の持つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆此の経に於て宣示顕説す」とあり、如来一切所有の法を含む四句の要法の付嘱が地涌の菩薩に対して行われ、滅後の弘通が正式に託されたのである。
―ーー
迹化他方の極位
 迹化他方とは迹化・他方の菩薩のこと。文殊・普賢・観音・勢至・弥勒・薬王・薬上等がこれにあたる。極意とはこの上もない高い位、無上の位をいう。
―ーー
劫数の塵点
 劫数は「こうじゅ」「こうしゅ」「ごうしゅ」「こっしゅ」とも読む。劫は長遠な時間の単位。塵点は五百塵点劫のこと。釈尊と地涌の菩薩の結縁がいかに久遠の昔から始まるかが示された。
―ーー
止善男子の金言
 「止みね善男子」と読む。涌出品の文。他方から来た過八万恒河沙大菩薩が滅後の弘教を請うが、釈尊は「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止したことを指す。金言とは仏の言葉。
―ーー
本門五字の肝要
 本門の観心たる妙法蓮華経の五字。
―ーー
上行菩薩の付嘱
 釈尊から上行菩薩を筆頭にした地涌の菩薩に付嘱された法体とは、法華経の要である題目の五時であり、御義口伝には「一経とは本迹二十八品なり唯四とは名用体宗の四なり枢柄とは唯題目の五字なり授与とは上行菩薩に授与するなり之とは妙法蓮華経なり」(0794-01)とある。
―ーー胸臆
 胸の中、胸中の思い。
―ーー
他方
 他方の菩薩のこと。①他方の国土に住む菩薩。②釈尊以前の他仏に教化された菩薩。
―ーー
結縁
 仏法に縁を結ぶこと。成仏・得道の縁を結ぶこと。
―ーー
宣授
 宣べ授けること。ひろく仏法を世に広めること。
―ーー
巨益
 大きな利益。多くの衆生を利益すること。
―――
迹も破することを得ず
 迹門の始成正覚さえも破することができないとの意味。
―――
遠も顕すことを得ず
 久遠実成を顕わすことができないとの意。
―――
分身の土
 分身の諸仏の国土。分身とは、本仏が衆生を教化するために身を分かち、種々の国土に応現すること。またその分身をいう。土とは国土のこと。
―――
他方の土
 娑婆世界以外の国土、他方の菩薩たちのそれぞれの国土。
―――
開近顕遠
 「近を開いて遠を顕す」と読む。涌出品後半・寿量品・分別功徳品前半で説かれる法門。「近」は近成(始成正覚)、「遠」は遠寿(久遠実成)のここと。釈尊が始成正覚を開いて五百塵点劫の過去からの仏であったことを説き明かしたことをいう。
―――
上行
 上行菩薩のこと。四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。
―――
結要付属
 法華経神力品第二十一において、釈尊が本化の菩薩の上首・上行菩薩に、要を結んで妙法蓮華経を付嘱したことをいう。その文は「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深(じんじん)の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」とあるのがそれである。
―――
正像
 正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
法華一乗の機
 一仏乗を説き示した法華経によってのみ成仏することのできる衆生の機根のこと。
―――
五濁の生
 五濁悪世の末法に生を受けること。またその人。五濁とは生命の濁りの諸相を五種に分類したもの。劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁のこと。
―――
闘諍の時
 戦い争うこと。大集経には「闘諍言訟して白法隠没せん」とあり、末法の初めの500年を指している。釈尊の仏法のなかにおいて争いが絶えず起こり、正しい教えが隠没する時代である。
―――
猶多怨嫉況滅度後
 法師品の文「猶お怨嫉多し。況や滅度の後をや」と読む。釈尊の在世においてすら怨嫉が多いのだから、仏の滅後に法華経を弘める者はより多くの怨嫉を受け大難にあうのは、当然であるということ。滅後においてま末法はなおさらである。
―――
大論
 大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―ーー
本眷属
 久遠において本仏と結縁した衆生のこと。①涌出品で出現した六万恒河沙の地涌千界の菩薩のこと。②久遠元初自受用法身如来の眷属。
―ーー
輔正記
 中国・唐代の道暹述、「法華経文句輔正記」のこと。妙楽大師の法華文句記を中心に、法華経の文および法華文句の文とを摘録して字義を釈したもの。
―ーー
付属
 仏が弟子に教法の弘通を託すこと。嘱累ともいう。相承・相伝と同義。付与嘱託の義で、「付」は物を与えること、「嘱」は事を託すること。これに弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
―ーー
地涌の菩薩
 釈尊の説法を助け滅後末法での法華経弘通の付嘱を受けた本化の菩薩のこと。湧出品で大地から湧出し神力品で妙法蓮華経の結要付嘱を受け、末法弘通を託された。
―ーー
久成の法
 久遠実成の法のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、その時証得した法をいう。文底からみれば、久遠元初自受用法身如来の所有の法、南無妙法蓮華経。
―ーー
久成の人
 久遠実成の人のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、この久遠以来化導してきた弟子が地涌の菩薩であるゆえに、本化地涌の菩薩を久成の人という。
―ーー
論釈
 論と釈のこと。仏の説いた経や律について論じた書が論。解釈をした書が釈。
―ーー
観音
 観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
―ーー
薬王
 薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―ーー
迹化
 迹化の菩薩のこと。本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。
―ーー
南岳
 中国、南北朝時代末期の僧。名は慧思。慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華経・般若心経を講じた。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。
―ーー
後身
 後の身、生まれ変わった身。
―ーー
一部の総釈
 法華経一部八巻の総釈。総釈とは総じて解釈ずることで、別釈に対する語。全体的・全般にわたって解釈すること。法華玄義・法華文句は総釈である。
―ーー
三時の弘経
 釈尊滅後三時(正法・像法・末法)に人師・論師が出現して、その時代に応じた法を説き、一切衆生を救おうという次第の順序をいう。正法には付法蔵の24人が、小乗教や権大乗教を弘め、像法には天台・伝教が法華経迹門・理の一念三千の法門を弘め、末法には日蓮大聖人が法華経寿量文底・事の一念三千の法門を弘めることをいう。
―――――――――
 先の五老僧の迷妄のうち、第一点すなわち法華経の仏法については天台大師によってすべて明らかにされてから、日蓮大聖人は独自のものではないと言っていることについて打ち破られている。
 まず、正法時代の竜樹・天親が法華経本門の「円頓一実の中道」については、心の中では悟っていたが、爾前権教を表とし、実教の法華経については、あくまで裏に用いたことを示されている。
 次いで像法の天台・伝教は法華経迹門を広めたが、本門については明かさず、末法に譲ったことを明らかにし、五老僧が「天台伝教が本迹とも弘通した」と言っていることは誤りであると破折されている。
 その根拠として、法華経には本門の大法は本化地涌の菩薩のみに付嘱され、迹化・他方の菩薩は弘教を願い出たけれども釈尊から断られていることを挙げられている。
 そして、天台大師自身、他方の菩薩が末法の娑婆世界における本門の弘教をなぜ釈尊から断られたかについて、三義を明かしていることを示されている。
 ここでは他方が断られた理由が示されているだけであるが、迹化の菩薩に関しても当てはまるとともに、要は末法に弘通される法は本門であり、本化地涌の菩薩に付嘱されたことが明らかであればよいのであって迹化が断られた理由は略されている。
 他方菩薩が断られた理由として天台大師が挙げている。
    一、汝等各各自ら己の住有リ若し此の土に住すれば彼の利益を廃せん
    二、他方は此土に結縁の事浅し宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん
    三、若し之を許さば即ち下を召すことを得ず下若し来らずんば迹も破することを得ず遠も顕すことを得ず
 これについて日寛上人は三重秘伝抄で「仍末だ明了ならず」として、むしろ
    一、他方は釈尊の直弟に非ざる故に
    二、他方の住国不同の故に
    三、他方は結縁の事浅き故に
 としたほうが、より明快であるとしている。それと共に、この他方が断られた理由に並べて、迹化の菩薩が断られた理由を挙げている。
    一、迹化は釈尊の初発心の弟子に非ざる故に
    二、迹化は功を積むこと浅きが故に
    三、迹化は末法の利生応に少なかるべき故に


1613:08~1614:01 第六章 五老僧の台嶺偏重・仮字蔑視を破すtop

08                                         次に日本と云うは惣名なり
09 亦本朝を扶桑国と云う 富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、 爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州
10 共に相応す弘通此の地に在り、 遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり 大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、
11 近く我が国の大日山を尋ぬれば 日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、 閻浮第一の富山なれ
12 ばなり五人争でか辺鄙と下さんや。
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 次に日本というのは総称である。また日本を扶桑国ともいう。富士は郡の名であり、すなわち大日蓮華山と称する。このことから、次のことを知ることができる。先師の自然の名乗りである日蓮という名号と妙法蓮華の経題と大日蓮華山とこの山の名前が相応している。このことから法華経弘通は富士山から起るのである。
 遠く中国の天台山を訪ねれば、そこは三台星の居住する地であり、天台大師はその地を選び迹門の法華経を建立された。近く我が日本国の大日蓮華山をたずねれば、日天子の住む所であり、日蓮大聖人はこの高峰の富士山を選んで本門を弘めようとされた。それは世界一の富士山だからである。にもかかわらず、五人はどうして辺鄙と見下すのであろうか。
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13   次に上行菩薩は本極法身・ 微妙深遠にして寂光に居すと雖も未了の者の為に事を以て理を顕し地より涌出した
14 まいて以来付を本門に承け 時を末法に待ち生を我朝に降し訓を仮字に示す、 祖師の鑒機失無くんば遺弟の改転定
15 めて恐れ有らんか、 此等の所勘に依つて浅智の仰信を致すのみ、 抑梵漢の両字と扶桑の一点とは時に依り機に随
16 つて互に優劣無しと雖も 倩上聖被下の善巧を思うに 殆んど天竺震旦の方便に超えたり、 何ぞ倭国の風俗を蔑如
17 して必ずしも漢家の水露を崇重せん、 但し西天の仏法東漸の時・ 既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖
18 語も広宣の日は 亦仮字を訳して梵震に通ず可し、 遠沾の飜訳は諍論に及ばず 雅意の改変は独り悲哀を懐く者な
1614
01 り。
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 次に、上行菩薩は極極の法身にして凡智では知り得ない境地であり、常寂光土に住しておられるが、未だ法華経の実義を了解していない衆生のために、地涌の湧出の事相をもって永遠の真理を顕して地より涌出され、それ以来、付嘱を本門に受け、時を末法に待ち、生を我が日本に現し、教えを仮名文字で示されたのである。
 祖師日蓮大聖人の衆生の機根のとらえ方に誤りがなければ、遺弟たちが仮名文字を改めることは誠に恐れ多いことである。このように考えて、智慧の浅い者はひたすら信じ、仰ぐのみである。
 そもそもインド・中国の梵字・漢字と日本の仮名文字は、時により機根により使うのであり、互いに優劣はないのである。よくよく大聖人が凡夫を教化される手段の巧みさを考えるならば、インドや中国の方便よりも、大聖人の用いた仮名文字のほうがはっきりと勝れている。どうして日本の仮名文字を蔑視して、中国の漢字を崇め重んずる必要があるだろうか。
 ただしインドの仏法が次第に東方につたわった時・すでに梵語を翻訳して中国・日本に伝えられたのと同様に、日本の大聖人の金言も広宣流布する時には、また仮名文字を翻訳して、インド・中国に流通すべきである。
 教えを流布するために飜訳をなすべきことは論ずるまでもなあいが、我見によって仮名文字を漢字に改変することについては、私独り、悲しみの思いを抱いている。

本朝
 ①日本の朝廷。②日本国。
―――
扶桑国
 扶桑とは①古代の中国で東海の日の出るところにあるといわれた神聖な木。②南史「夷莫伝」に出てくる植物。葉は桐・実は筍に似ていて食用となる。③「ぶっそうげ」のこと。アオイ科の植物で赤い花が咲く。「仏桑花」と書き中国原産であるが、日本原産とされていた。これらの由来にあてはまる国。
―――
大日蓮華山
 富士山のこと。山頂の形が八葉の蓮華に似ているから大日蓮華山の呼称がある。
―――
自然の名号
 名号とは仏・菩薩の名。大聖人の名号は産湯相承事に「日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」(0879-09)とあるように、富士山自然の名号である。
―――
異朝
 外国・異国。またはその政府。
―――
天台山
 中国浙江省天台県の北部にある山。陳の太建7年(0557)に天台大師が天台山に入って開宗した。天台山の中に「修禅寺」「国清寺」等がある。「天台宗」「天台大師」の名称もこの山によっている。
―――
台星
 中国占星術の中で世相を判断するうえで重要な山とされている三台星のこと。上台・中台・下台それぞれ二星の六星から構成されているという。中国の天台山を星にたとえたもの。
―――
所居
 居る所。住処。能居に対する語。仏・菩薩・二乗等を能居とし、その住する場所、国土を所居という。
―――
大日山
 大日蓮華山・富士山のこと。
―――
日天
 日宮殿に住む天人のこと。日天子・大日天・日宮天子・宝光天子などともいう。太陽を神格化したもので帝釈天の内臣とも観音菩薩・大日如来の化身ともされる。密教では十二天の一つで胎蔵界漫荼羅の外金剛部院東方に位置する。日蓮大聖人は諸天善神の一つに数えられており、本尊の中にもしたためられている。
―――
閻浮第一の富山
 世界一の富士山の意。閻浮とは閻浮提のこと。南閻浮提ともいう。閻浮提は梵名ジャンブードゥヴィーパ(Jumbūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は
―――
閻浮提
 全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
五人
 五老僧のこと。日昭・日朗・日向・日頂・日持をいう。
―――
上行菩薩
 四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。
―――
本極法身
 寿量品で明かされる根本・究極の法身。久遠の本仏のこと。末法の御本仏・日蓮大聖人のこと。 
―――
微妙深遠
 細やかで凡智では知り難い不可思議なこと。「微」は潜み明らかでないこと、「妙」は不可思議を意味する。「深遠」は奥深いこと。
―――
寂光
 常寂光土のこと。仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
―――
未了の者
 いまだ了解していない衆生のこと。爾前の教えに執着して久遠の実義を明かした法華経を信じられないものをいう。日蓮大聖人の仏法を信ぜず、他の宗義に執着している者。
―――
事を以て理を顕し
 「事」は具体的・現実的振る舞い。「理」は不変の真理。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
生を我朝に降し
 日本国に生誕すること。
―――
訓を仮字に示す
 「訓」はさとすこと。教えを仮名文字で示すとの意。
―――
鑒機
 機根を見分けること。
―――
所勘
 物事を判断すること。考えること。
―――
仰信
 仰ぎ信ずること。純真に信仰の心をもつこと。
―――
梵漢の両字
 梵語(古代インド語)と漢語のこと。
―――
扶桑の一点
 日本の仮名文字。
―――
上聖
 上機上根の聖者。日蓮大聖人のこと。
―――
善巧
 善巧方便の略。
―――
天竺
 古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
―――
震旦
 一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
方便
 悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。③秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
―――
倭国の風俗
 日本国のならわし、しきたり、風習。
―――
漢家の水露
 中国の文字。漢字のこと。
―――
西天
 インドのこと。中国から見るとインドは西に位置するから、こう呼ばれてた。
―――
仏法東漸
 仏法がインドから暫時東方の中国・日本に伝播していったこと。
―――
梵音を飜じ
 梵語を翻訳する(した)こと。
―――
倭漢
 「倭」は日本、「漢」は中国のこと。
―――
聖語
 日蓮大聖人の金言。
―――
梵震
 「梵」はインド、「震」は中国のこと。
―――
遠沾
 遠くうるおい、教えが流布すること。
―――
諍論
 正邪・是非を論じあうこと。
―――
雅意
 ①我意のこと。己の考え、我見。②普段の心。
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 ここでは五老僧の前掲の迷妄三点のうち、第二点と第三点をそれぞれ破折されている。
 その迷妄の第二点、天台山を尊いとし、富士山を辺鄙と卑しんでいることに対しては、日本という国は扶桑国ともいい、扶桑は中国において太陽の昇るところにある神聖な木の名を言ったことは、富士は日本の中の郡の名であると同時に、大日蓮華山と呼称することを示した後、この山の名に先師・大聖人の日蓮という名と妙法蓮華経の五字の経題と大日蓮華山の名と、日本という国の名が相応していることを記し、法華経本門の弘通が日本の富士山から起るにふさわしいと結論し、富士を辺鄙と見下す五老僧を破折されている。
 さらに、第三点、大聖人が仮名文字を用いて御書を著されたのを五老僧が恥としていることに対しては、大聖人即上行菩薩は「本極法身」すなわち人法体一の御身で、寂光土に本来住される御方でるが衆生教化のために出現された以上は、その国土の言葉、文字を用いて化導されたのであり、衆生の機根を正しく見抜いてなされたことである。
 従って、それを卑しんで変革するなどということは、大聖人の洞察を間違っていると決めつけるのと同じで、師を否定する振る舞いとなることを指摘し破折されている。
 ただし、釈尊の教えが、もとは梵語であったのが東漸につれて中国・日本の言葉に翻訳されたように、将来、大聖人の仏法が世界へ流布していく時には、各国の言葉に訳されていくべきであり、これは、ここでいう「変革」に当たらないと述べられている。

1614:02~1614:10 第七章 本尊をめぐる五一相対を明かすtop

02   又五人一同に云く、 先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに
03 及ばんや云云。
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 また、五人が一同に言う。先師が所持していた釈尊像は、かたじけなくも弘長元年の伊豆配流の際に彫刻され、後入滅の日まで身近に所持されていたものである。どうして軽んずることができようか。
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04   日興が云く、 諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に
05 小乗三蔵の教主は迦葉・ 阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、 此の外の一躰の形像豈頭陀の
06 応身に非ずや、 凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず 倩聖人出世の本懐を尋ぬれば 源と権実已過
07 の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、 図する所の本尊は亦正像二千の間・ 一閻浮提の内未曾有の大漫
08 荼羅なり、今に当つては迹化の教主・ 既に益無し況やタタ婆和の拙仏をや、 次に随身所持の俗難は只是れ継子一
09 旦の寵愛・ 月を待つ片時の螢光か、 執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を
10 用ゆること勿れ云云。
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 日興が言う。諸仏の姿が荘厳であることは同じであるが、印契によって仏の違いを区別することができる。仏の本迹の相違は推し測り難いが、左右に並ぶ眷属によってこれを知ることができるのである。従って、小乗教の教主は迦葉・阿難を脇士とし、伽耶城近くの菩提樹の下で始めて悟りを開いた境地にとどまっている大乗の迹仏は、普賢・文殊の菩薩が脇士として左右にいる。これ以外の釈尊の一体像は頭陀の修業の姿をした応身である。およそ円頓教の学者は広くその大網を修め、些細な網目にはとらわれないのであって、よくよく大聖人の出世の本懐を考えれば、過去の権実二教の化導を改め、上行菩薩として付嘱を受けた教えと妙戒を弘通されることにあった。
 御図顕された御本尊は、また、正法・像法二千の間・世界中にいまだかって現れたことのない大漫荼羅である。末法今時においては、法華経迹門の教主である釈尊はすでに利益はないのであるから、まして小乗教の応身仏に利益があるはずがない。 次に、大聖人が一体仏を随身所持しておられたではないかという言い分についていえば、これはちょうど、まま子を一時的に愛するようなものであり、また、月が出るまでの片時の間の、蛍の光のようなものであろう。それでもなお釈尊に執着し、どうしても仏像に帰依したいと願うならば、当然四菩薩を加えて脇士とすべきであろう。あえて一体仏を用いてはならない。

五人
 五老僧のこと。日昭・日朗・日向・日頂・日持をいう。
―――
先師所持の釈尊
 日蓮大聖人が伊豆の伊東に流罪中に地頭の伊東八郎左衛門から献上されたという一体仏のこと。地頭の重病が大聖人の病気平癒の祈願により完治したことに対するお礼として大聖人に捧げられたもの。大聖人は一生所持され、御入滅後は墓所の傍らに置くよう遺言された。
―――
之を刻み
 大聖人所持の釈迦像について、五老僧は大聖人自らが彫刻されたとのべているが、「船守弥三郎許御書」に、「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる」(1446-01)とあることからして、五老僧たちの誤りである。
―――
弘安帰寂
 「帰寂」とは入滅のこと。日蓮大聖人が弘安5年(1282)10月13日、御入滅されたこと。
―――
印契
 仏の悟りや誓願などを外形として表示するため修行者が指先で作る特別な形。刀剣などの持ち物を使う宗派もある。
―――
如来の本迹
 仏の本地と垂迹のこと。仏・菩薩の本体を本地といい、衆生教化のために種々の化身を現ずるを垂迹という。
―――
眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
―――
小乗三蔵の教主
 「小乗三蔵」とは小乗教のこと。教主は能化の主・釈尊。天台大師が立てた五時八教判によれば、釈尊一代の経教の中で阿含時の経で、化法の四教のうちでは蔵教である。小乗教の釈尊は観心本尊抄に「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」(0248-01)とあるように、迦葉・阿難を脇士とした色相荘厳の一丈六尺の仏身であって、丈六の釈尊ともいう。
―――
迦葉
 釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難
 詳しくは阿難陀。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
―――
脇士
 つねに仏の両脇に立ち随って仏の化導を助ける菩薩のこと。夾侍、挾侍、脇、脇立ともいう。釈尊には文殊と普賢、阿弥陀仏には観音と勢至、薬師如来には日光と月光の各菩薩が脇士になっている。
―――
伽耶始成
 爾前経および法華経の迹門で説かれるように、釈尊が伽耶城の近くの菩提樹の下において始めて正覚を成じたこと。久遠実成に対する語。「伽耶」は仏陀伽耶の略で、釈尊が正覚を乗じた場所「始成」とは始成正覚のこと。
―――
迹仏
 迹門の仏、または垂迹仏の意で、衆生を利益するため、その世界に現れた仏のこと。本仏に対する語。
―――
普賢
 普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
文殊
 文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
一躰の形像
 「形像」とは形をあらわした像のこと。脇士を持たない像を「一躰」という。
―――
頭陀の応身
 頭陀行を行ずる姿をした応身仏のこと。頭陀行は大小乗共に立てている。
―――
円頓
 円満にして徧よらず、一切衆生を速やかに成仏させる教法のこと。円は円融、円満、頓は頓極、頓足の意。末法における円頓の教とは、寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経である。
―――
大網
 根本的な事柄。網目に対する語。
―――
網目
 物事の細目。
―――
出世の本懐
 仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
―――
権実已過の化導
 すでに過ぎ去った正法・像法時代の権教・実教による化導。
―――
上行所伝の乗戒
 神力品において、上行菩薩が釈尊から付嘱を受け伝えられた乗と妙戒のこと。日蓮大聖人が末法において顕された三大秘法の御本尊を受持することが乗戒を持つことになる。
―――
図する所の本尊
 日蓮大聖人が御図顕された御本尊のこと。
―――
正像二千の間
 仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間の弘教のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。
―――
一閻浮提
 閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
大漫荼羅
 御本尊のこと。梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。末法においては、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
―――
迹化の教主
 法華経迹門の教主である釈尊のこと。
―――
随身所持の俗難
 日蓮大聖人が一体仏を身から離すことなく所持されたということから、世俗や人情によって仏像を拝んでもよいという五老僧が立てた邪義。
―――
帰依
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
―――
四菩薩
 四人の菩薩のこと。①華厳経の四菩薩(法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵)。②胎蔵界の四菩薩(文殊、普賢、弥勒、観音)。③法華迹門の四菩薩(文殊、普賢、薬王、観音)。④法華経本門の釈尊(上行、無辺行、浄行、安立行)。
―――――――――
 ここでは本尊に関する日興上人と五老僧との相違が示されている。
 「又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや」とあるように、五老僧は、日蓮大聖人が釈尊の一体仏を所持されていたことを理由に釈尊像を本尊とすべきだと主張したのに対し、日興上人は「正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり」と大聖人自身が仰せられて御図顕された大曼荼羅こそ末法一切衆生が信仰の根本とすべき本尊であるとされている。
 日興上人は五老僧の固執する釈尊一体仏が末法の本尊でないことを示されるに当たり、まず、仏像一般の優劣を印契によって知ることができると述べられている。
 その例として、小乗教を説く教主は迦葉・阿難を脇士としており、伽耶始成の迹仏は普賢菩薩と文殊菩薩を脇士としていることを挙げられた後、脇士を従えていない一体仏は修行の姿をした応身仏にすぎないとして、その仏像としての位の低さを明言されている。
 次いで「上行所伝の乗戒を弘めんが為なり」と、大聖人の出世の本懐が上行菩薩に付嘱された法華本門の乗と妙戒、すなわち三大秘法の妙法を末法に弘通することにあったことを述べ、従って「今に当つては迹化の教主・既に益無し況や哆哆婆和の拙仏をや」とあるように、末法においては法華経の迹門の教主ですら利益がないのであるから、それよりはるかに低い位の小児のような釈尊の一体仏ではさらに利益はない。
 しかしながら、そのように末法に益のない一体仏をなぜ大聖人が所持されていたのか、との疑問に対して「只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か」と答えられている。
 すなわち、継子に対する一時的な愛情、月が出るまでのわずかな間に価値のある蛍の光のようなものとして所持されたのであって、大聖人の本意は一体仏ではないことを明言されている。
 それでもなお、仏像への執着が強い当時の状況下で、大聖人御自身が御在世中に富木常忍、四条金吾、日眼女の仏像を容認されたように、日興上人も「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ」とあるように、法華経本門の教主の脇士である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を配置することで、衆生誘因の方便として、かろうじて認められている。しかし、日興上人の本意はどこまでも前述のように、曼荼羅御本尊にあることはいうまでもない。
 仏像を本尊とする場合、その仏像は釈迦仏なのか阿弥陀仏なのか大日如来なのか、あるいは弥勒菩薩や観音菩薩なのか識別できなければならない。この違いは「印契に依って異を弁ず」と本文にあるように、手の指の結び方や所持する物で表現される。これは、その仏・菩薩の特徴を踏まえての約束事で定まっているのである。
 しかし、次に、同じ釈迦仏であっても、小乗の釈尊か権大乗の釈尊か、法華経迹門の釈尊か、本門の釈尊かという違いも明確でなくてはならない。それは「眷族」すなわち脇士として、いかなる菩薩あるいは声聞の弟子が付き従っているかによって表される。
 それからいうと、脇士を伴わない「一体仏」は、一人で修行している時の頭陀の応身の釈尊ということになる。
 いずれにせよ、日蓮大聖人が末法一切衆生の信仰の根本として示されているのは、「十界具足の曼荼羅御本尊」であることは、観心本尊抄をはじめとする重要御書によっても、日女御前等の多くの御消息によっても明らかであり、この曼荼羅御本尊について述べられている時には、必ずといってよいほど「仏滅後二千二百二十余年には、いまだ出現せず」と仰せられ、その意義を脇書にされている。それを取意として日興上人は「図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり」と本抄にも書かれている。
 また、それでもなお、釈迦仏の像を立てたいという場合は、大聖人が四菩薩像立抄で、富木常忍に御教示されたように、四菩薩を加えるべきであると忠告されている。
 それは、仏像に執着する心が強い状況のもとで、善引するための方便であり、造像を認められたのではないことはいうまでもない。

1614:11~1615:06 第八章 神祇・修行・戒における相違を明かすtop

11   又五人一同に云く、 富士の立義の体為らく啻に法門の異類に擬するのみに匪ず剰え神無の別途を構う、既に以
12 て道を失う誰人か之を信ぜんや。
 また五人が一同に言う。日興上人の立てている教義のありさまは単に法門の流れが異っているばかりでなく、神社に神はいないという別義を構えている。これはすでに道理に外れたことで、誰がそのようなことを信ずるであろうか。
-----―
13   日興が云く、我が朝は是れ神明和光の塵・仏陀利生の境なり、然りと雖も今末法に入つて二百余年・御帰依の法
14 は爾前迹門なり誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘うる所なり、 何ぞ善神・ 聖人の誓願に背き
15 新に悪鬼乱入の社壇に詣でんや、但し本門流宣の代、垂迹還住の時は尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。
-----―
 日興が言う。我が日本国は諸天善神がその威光を和らげて衆生の煩悩に交わり、仏が国中の利益を及ぼすところでる。 しかし今、末法に入って二百余年が経ち、人々が帰依しているのは爾前・迹門の教えである。このような正法誹謗の国を諸天善神・聖人が捨て去るということは経論に明らかであり、また先師・日蓮大聖人が述べられたところでる。善神・聖人の誓願に背いて、どうして悪鬼が乱入している社殿に詣でてよいことがあろうか。
  ただし本門流布して垂迹の善神が還られる時が来たならば、その時こそ上下の格式を選定し、鎮守の社を定めるべきである。
-----―
16   又五人一同に云く、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写・読誦に於ても相違有るべからず云云。
-----―
 また五人が一同に言う。如法経・一日経の両経共に法華経の真実の経文を写す修業である。経典を書写・読誦することは経文に相違するものではない。
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17   日興が云く、如法・一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎
18 えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず 但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も 諸師の邪義を責む可き
1615
01 者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、 何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや、但し四
02 悉の廃立・二門の取捨宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云。
-----―
 日興が言う。如法経・一日経の両経は法華経の真実の経文を書写する修業ではあるといっても、それは正法・像時代という過去における摂受の修行である。今は末法の時代を迎え折伏を行ずべきであり、その在り方を論ずるならば、法華経一部八巻を読誦するのではなく、ただ題目の五字を唱え、たとえ三類の強敵による難を受けても、諸師の邪義を責めるべきである。このことは、法華経の勧持品第十三や常不軽菩薩品第二十に明確に説かれているところであり、上行菩薩の再誕として出現され弘教された日蓮大聖人が現証をもって示されたところである。どうして折伏すべき時に摂受の修行をしてよいことがあるだろうか。
  ただ四悉壇の廃立も、摂受・折伏の二門の取捨も、時と機根を考えるべきであり、あえて一方に偏って持戒か破戒かで論議しあっている。
-----―
03   又五人の立義既に二途に分れ戒門に於て持破を論ず云云。
04   日興が云く、夫れ波羅提木叉の用否・行住四威儀の所作・平嶮の時機に随い持破に凡聖有り、爾前迹門の尸羅を
05 論ずれば一向に制禁す可し、法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。
06   但し本門の戒躰・委細の経釈・面を以て決す可し云云。
-----―
 また五人の立てている教義は、すでに日昭方と日朗方の二つに分かれており、戒について持戒か破破かで論議しあっている。
 日興が言う。そもそも出家の戒律を用いるべきか否か、行住坐臥の四種の威儀の行いは、時代の人々の機根が平穏であるか険悪であるかによって異なり、また戒を持つかどうかも凡人と聖人ではちがいがある。爾前教や法華経迹門の戒を論ずれば、全く持つべきではない。法華経本門における戒については、用いるべきである。
 ただし法華経本門に説かれる戒の体がいかなるものかは教典・書釈に詳しくかかれており、面談をもって決定すべきである。

五人
 五老僧のこと。日昭・日朗・日向・日頂・日持をいう。
―――
富士の立義
 日興門流の立てた教義のこと。「立義」とは義、教理などを明らかにするための釈義。
―――
法門の異類
 日興上人の教義が五老僧のそれと異なっていること。
―――
神無の別途
 日本の神社には守護の善神はいないという別義のこと。謗法の神社に諸天善神がいないというのは別の義ではなく、日蓮大聖人の正しい教えであるが、五老僧の側から別儀であるといっているもの。
―――
神明和光の塵
 「神明」は天神地祇のことで、「和光の塵」とは「和光同塵」ともいい、自己本来の威光を和らげて塵のごとき世俗に同じて種々の姿を示し、衆生と縁を結ぶこと。仏・菩薩・諸天が衆生を化導するために種々の姿を現じて縁をむすぶこと。
―――
仏陀利生の境
 仏が衆生に利益を及ぼす境域のこと。
―――
末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
帰依
 帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
―――
爾前
 爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
―――
迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
誹謗
 悪口をいい、謗ること。譬喩品には14種の誹謗があると説く。松野殿御返事には「一に憍慢.・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善.十四に恨善なり」(1382)とある。
―――
経論の明文
 正法誹謗の国を諸天善神・聖人が捨て去るということは経文に明らかであるということ。
―――
先師の勘うる所
 日蓮大聖人が立正安国論の正法誹謗の国を善神が棄捨るという法門のこと。
―――
善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
聖人
 聖とは、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通の人の聞き得ない天の声をよく聞きうる人の意。世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」(1240)とあり、「聖人知三世事」には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」と申されている。
―――
本門流宣の代
 文底独一本門の南無妙法蓮華経が広宣流布する時代。
―――
垂迹還住の時
 「垂迹」とは垂迹神のことで、諸天善神のこと。一国謗法のために国を捨て去っている諸天善神が、正法広宣流布の世となって再び還り住むこと。
―――
如法・一日の両経
 如法経と一日経のこと。「如法経」は法華経書写をいい、「一日経」は大勢が集まって一部の経を一日で写し終えること。
―――
如法
 如法経のこと。比叡山天台宗第三祖、慈覚が始めたもので、法華経書写の行の一つ。慈覚は天長年間(0824~0832)に、比叡山横川に庵を結び、3年間、六根懺悔の三昧行法を修し、如法作法によって法華経を書写し、これを小搭に納めて如法堂に安置したのが始めといわれる。以来、藤原道長が寛弘年間(1004~1011)に法華三部を書写し大和の金峯山に納めるなど盛んに行われた。しかるに元久年間(1204~1205)法然が浄土三部経を書写して供養したのが始まりで、以後、浄土宗の隆昌とともに、法華経中心の如法経会は廃れ、浄土三部経の如法経会に取って代わられてしまった。
―――
一日
 一日経のこと。大勢が集まって、一経を一日で写し終えること。書写行のひとつ。諸教に通じていうが、主に法華経をさす。頓写ともいう。
―――
法華の真文
 法華経は真実の経文であるとの意。
―――
書写
 経典を書き写すこと。五種の妙行の一つ。自行化他に分けて化他行の一種。
―――
読誦
 読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。
―――
正像転時の往古
 今は過ぎ去った正法時代・像法時代のこと。「転時」とは、時が移ることで、正法時代とは仏の教えが正しく実践され、伝えられるとき。像法時代とは、形式が重んじられ、その正しい教えが失われていく時代。「往古」とは大昔、遠い過去をいみする。
―――
平等摂受の修行
 如法経・一日経は正像時代に行われた摂受の修行で、「平等」とは平等大慧のことで、仏の智慧が衆生を利益すること。「摂受」とは求法のこと。また弘教のなかでも、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引して正法に入らせる化導法である。
―――
折伏
 摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。
―――
一部読誦
 「一部」とは法華経二十八品のことで、法華経をすべて読誦すること。
―――
三類の強敵
 法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。
―――
邪義
 よこしまな教義のこと。正義に対する語。邪見・邪義に基づいて立てられた教義をいい、仏の本位・経文に違背した教判や釈義。
―――
勧持
 勧持品のこと。宝塔品での弘教の勧めと提婆品の法華経の功力が明らかにされたのを受けて、一座の菩薩や声聞たちが此土・他土の弘教を誓っているところである。八十万億那由佗の菩薩は二十行の偈を説いて、滅後の悪世において三類の強敵のなかで、弘教していくことを誓っている。
―――
不軽
 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」といって一切衆生を礼拝した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。また、不軽を軽賤し迫害を加えた者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、ふたたび不軽の教化にあい仏道に住することができたという。
―――
上行弘通の現証
 上行菩薩の再誕として出現し弘教された日蓮大聖人が、勧持品・不軽品に説かれた明文を身をもって証明されたこと。寺泊御書には「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、 今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(0953-18)とある。
―――
四悉の廃立
 「四悉」とは四悉檀のこと。「廃立」とは、いかなる悉壇を用いて弘教するかということ。四悉檀とは、①世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、②各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)、③対治悉檀(煩悩を打ち砕く)、④第一義悉檀(真理に直接導こうとする)をいい、摂折二門に分けると、①②が摂受、③④が折伏となる。
―――
二門の取捨
 摂受・折伏の二門のいずれを取り、いずれを捨てるかということ。
―――
時機
 流布する教法に相応した時と、その衆生の機根。
―――
五人の立義既に二途に分れ
 五老僧の中で戒律や受戒について異なった見解があった。日昭門流と他の四人の門流との相違である。日昭は比叡山受戒を必要としたのに対し、他の四人は必ずしも必要とはしていなかったようである。
―――
戒門
 戒を修める法門のこと。悪道を防ぎ制することを戒といい、衆生の悪を制し、仏道を得させるあり方をいう。
―――
持破
 持つことと破ること。戒律の持破、仏法の持破などがある。
―――
波羅提木叉
 「はらだぼくしゃ」「はらだいもくしゃ」と読む。梵語、プラーティモークシャ(pātimokkha)の音訳。意訳には次のような名がある。①別解脱・別別解脱・処処解脱・別処処解脱(この戒を持って別別に身口七支の業非を防ぎ、次第に諸の煩悩を解脱する)②従解脱・正順解脱・随順解脱(この戒に随順して、能く生死を解脱する)③保解脱・保得解脱(戒に従って過非を防護し、能く解脱の因を保持する)。
―――
行住四威儀
 四威儀とはとは、行住坐臥の四種の威儀のこと。「威儀」とは規律にかなった立ち振る舞い。仏道を修める者は、常にその態度や動作が法にかない、威儀を失ってはいけないことをいう。
―――
平嶮の時機
 平穏と険悪という時代の相違と、それに伴う人々の機根の違い。
―――
尸羅
 シーラ(Sīla Sīla)の音訳。清涼・性善と訳す。
―――
法華本門の大戒
 法華経本門・如来寿量品の円戒。文底独一本門を受持することが即持戒となる。百六箇抄には「迹門の戒は爾前大小の戒に勝れ本門の戒は爾前迹門の戒に勝るるなり」(0857-04)とある。
―――
依用
 依りどころとして用いること。
―――
本門の戒躰
 法華本門に説かれる戒の体。「戒体」は、戒を受けた人の生命に収まって防非止悪の働きをするもので、戒の四科(戒法・戒体・戒行・戒相)のひとつ。なお戒法とは仏が制定した戒律の法、戒行とは戒を守って修行すること、戒相は戒を保つ姿。
―――
経釈
 経と釈。「経」とは仏教所説の書。「釈」とは経文を人師が解釈したもの。
―――――――――
 ここでは、「神社参詣について」と「教典の書写は末法の修行になるか」ということ「戒律および授戒に関する見解」の三点をめぐる見解の相違を明らかにされている。
 まず、第一点の神祇観をめぐる相違については、五老僧は富士の立義は「神無」、つまり神社には神がいないとする異端の説であると非難しているが、五人は日興上人の教えを理解していないものであり、この五人の考えに対して、日興上人はまず「我が朝は是れ神明和光の塵・仏陀利生の境なり」と述べ、神々の存在自体を否定するものでないことを明かされている。
 つまり、日興上人は神社参詣を禁止されたが、神祇それ自体を否定されたわけではなく、大聖人の教えに従って、あくまで神々は仏法を守護する立場であり、正法に背く謗法の国にはいなくなったとされたのであるが、五老僧はこのことを理解できなかったのである。
 従って「但し本門流宣の代、垂迹還住の時」すなわち法華本門文底の三大秘法広宣流布が達成された時には、天上に去っていた諸天善神がそれぞれ神社に戻ってくるので、その時には鎮守の社を設置すべきであると述べている。
 ただし、「鎮守を定べし」との一節は、あくまでも正法を流布した時のことであって、広宣流布を実践することこそが肝用であるという点に留意しなければならない。
 次に取り上げられているのは末法における修行の在り方をめぐるものである。五老僧は如法経・一日経を行じて、法華経八巻二十八品の読誦を修行として重視していた。
 これに対し、日興上人は如意経・一日経の修業は過去の正法時代・像法時代に行われた「平等摂受の修業であると述べられている。
 「平等」とは平等大慧ということで、仏の智慧が平等に衆生を利益することをいう。「摂受」は「折伏」に対する言葉で、仏道修行の二つの在り方をいう。すなわち、摂受が求法であるのに対し、折伏は弘教に当たる。
 その弘教に破折屈服の義である折伏と摂受容受の義である摂受とがあり、摂受は相手の誤りを仮に容認しつつ次第に誘引して正法に入らせる化導法をいうのに対し、折伏は相手の邪義・邪法を直ちに折伏して正法に伏させる化導法をいう。つまり、如意法・一日経の修業は正法・像法時代の求法の行き方としての摂受なのである。
 それに対し、今は三毒強盛で謗法の充満している末法の時代である故、折伏を根本とすべき時である。従って、法華経の一部八巻二十八品を読誦、書写する等の行を中心とするのではなく、ただ妙法蓮華経の題目の五字を唱え、三類の強敵の難を受けようとも諸師の邪義を責めるのが肝要であるとして、そのことは法華経の勧持品・不軽品の経文に示されており、同時に上行菩薩再誕として日蓮大聖人自ら行動をもって証明されたことであると述べられている。
 「二途に分れ」というのは日昭流と他の四老僧の門流で対立していたことで、日昭門流は日昭自身、比叡山の執着が強かったので叡山の授戒を主張したのに対し、他の四老僧は叡山での授戒は不要としたということである。前者が持戒・後者は破戒である。
 なお、富士一跡門徒存知の事では「一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ」(1602-09)とあり、日昭だけでなく五老僧全員が、大聖人は全員が、大聖人は比叡山で授戒されたのであるから、天台宗の余流であるとしている。
 ただし、本抄の記述からすれば、五人の中でも日昭を除く四人は、比叡山で受戒する必要はないと考えていたようである。
 ともかく、日興上人はこの戒律の問題に関して、戒律を用いるか否かや起居動作の振る舞いなどは時代状況や人々の機根が平穏か険悪かによって異なり、戒を持つか否かも凡人と聖人とでは異なりがあるので、絶対的なものでないとしつつも、爾前・迹門の戒ははっきりと制禁すべきであるとし、法華本門の大戒は依用するのが当然であるとさえている。
 本門の大戒とは「受持即観心」であり、末法においては法華経の当体である大聖人御図顕の三大秘法の曼荼羅御本尊を受持することを指している。
 最後に、この本門の大戒について「本門の戒躰・委細の経釈・面を以て決す可し」と述べられているのは、法華本門の戒体についての詳しい内容や裏付としての経・釈等については個々の面談によるべきであるとされ、当時の時代状況からこの本門の戒体についての公表は差し控えられ、慎重を期されたものと考えることができる。

1615:07~1616:04 第九章 身延離山の意義を論ずtop

07   身延の群徒猥に疑難して云く、 富士の重科は専ら当所の離散に有り、縦い地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍
08 ぶ可し既に御墓に参詣せず争か向背の過罪を遁れんや云云。
-----―
 身延の宗徒が、筋違いにも、次のように非難して言っている。日興門流の重い罪科はもっぱら身延を離山したことにある。たとえ地頭の波木井殿があやまちを犯したとしても、先師の遺跡があるのだから忍んで留まるべきであった。日興門流は、もはや先師の御墓にも参詣していない。どうして師匠に背く重罪をのがれることができようか。
-----―
09   日興が云く、 此の段顛倒の至極なり言語に及ばずと雖も未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん、夫れ身延興隆の
10 元由は聖人御座の尊貴に依り 地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや、 然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂
11 勝見の僻案を起し 師弟有無の新義を構え理非顕然の諍論を致す、 誠に是れ葉を取つて其の根を乾かし流を酌んで
12 未だ源を知らざる故か、 何に況や慈覚・智証は即伝教入室の付弟・叡山住持の祖匠なり、若宮八幡は亦百王鎮護の
13 大神・ 日域朝廷の本主なり、 然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て先聖は慈覚を指して本師違背の仁
14 と称す、 若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の誤謬なり、 非例を致して過無くんば其の国・棄捨
15 の誓い都べて垂迹の不覚か、 料り知んぬ悪鬼外道の災を作し 宗廟社稷の処を辞す善神聖人の居は 即ち正直正法
16 の頂なり、 抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば 汝等将に砕身の舎利を信ぜんと
17 す何ぞ法華の持者と号せんや、 迷暗尤も甚し之に准じて知る可し伝え聞く 天台大師に三千余の弟子有り章安朗然
18 として独り之を達す、 伝教大師は三千侶の衆徒を安く義真以後は其れ無きが如し、 今日蓮聖人は万年救護の為に
1616
01 六人の上首を定む然りと雖も法門既に二途に分れ門徒亦一准ならず、 宿習の至り正師に遇うと雖も伝持の人・ 自
02 他弁じ難し、 能く是の法を聴く者此の人亦復難しと此の言若し堕ちなば将来悲む可し、 経文と解釈と宛かも符契
03 の如し迹化の悲歎猶此くの如し 本門の墜堕寧ろ愁えざらんや、 案立若し先師に違わば一身の短慮尤も恐れ有り言
04 う所亦仏意に叶わば五人の謬義甚だ憂う可し取捨正見に任す思惟して宜しく解すべし云云。
-----―
 日興が言う。彼らの言い分は転倒の極みである。今更、身延離山の正否について改めて言う必要もないが、未だ聞ていない人もいるだろうから、毒鼓の縁を結ぶために述べておこう。
 そもそも、身延山興隆の根本理由は、日蓮大聖人が住まわれた尊い場所であったからであり、また地頭の波木井殿が大聖人に帰依したのも元をただせば日興の教化に依るところである。
 ところが今、身延の徒は、日興が波木井実長に下種し結縁したという最初の淵源を忘れて日向などの劣った教えを日興の義よりも勝れていると誤った考えを起こし、自分は日興の弟子ではないとか聖人の直弟子だから同列であるなどと勝手な主張を構え、明らかに道理に合わない暴論を述べている。誠にこれは葉を大事にし根を枯らし、流れを汲みながら末だ源を知らないのと同じである。ましてや慈覚・智証は伝教大師の直弟で、比叡山の住持の中でも初めの人々である。また鎌倉の若宮八幡は百王を守護すると誓った大明神で、日本の朝廷の本主である。しかしながら、この大明神は釈尊の前で謗法の国は捨て去るとの誓願を立てた。先聖は慈覚を指して本師の伝教大師に違背した人であると破折された。
 もし先師の墓を守りさえすればよいというのであれは、比叡山に住して伝教大師の御墓を守った円仁を破折した大聖人は大きな誤りをしたことになる。
 また、仏法に背く振る舞いをしても罪科が現れないならば、正法誹謗の国を捨て去るとの請願はすべて仏の垂迹としての諸天善神の不覚となるであろう。考えてみれば分かるように謗法の国においては悪鬼・外道が災難をもたらし、守護の善神や廟は国を捨てて天上に還る。善神・聖人の住居は、すなわち正しく正法を護持する者の頂にある。
 そもそも身延の流れを汲む人々は、未だ仏法の正邪を分別できないでいる。強いて御廟への参不参を論ずれば、汝ら身延の徒はまさに砕身の舎利を信じようとしているのであって、法華経を受持する者とどうしていえようか。迷暗誠に甚しいものがある。これに準じて、次の例を知るがよい。
 伝え聞くところでは、天台大師に三千余人の弟子がいたが、章安大師一人だけがはっきりと誤りなくすべてに調達することができた。伝教大師にも三千人の弟子がいたが、義真の後は真実の弟子は無きに等しい。今、日蓮大聖人は衆生を末法万年にわたって救斉するために、六人の本弟子を定められた。
 しかしながら法門はすでに正邪の二つに分かれ、門下もまた一つにまとまることなく分派している。
 宿習の故に正しい師匠に会えたというのに、法を持ち伝えているのがだれなのかを、わきまえられないでいる。
 法華経方便品第二には「能く是の法を聴く者、斯の人亦復難し」とあり、章安大師は、天台大師のこの言葉がもし脱漏したならば、将来の人は正しい教えがしることができず悲しむことになる」と言われている。
 この方便品の経文と章安の釈は、あたかも割符を合わせたように合致いている。迹化の菩薩も正法が信じがたく、堕落しやすいことをこのように嘆かれたのである。まして法華経本門の教えが地に墜地、破れてしまうことを憂えずにおられようか。
 日興の考えや主張が、もし日蓮大聖人の御心に少しでも異なっているところがるとすれば、それは私自身の未熟な考えでよるものであって、誠に恐れ多いことであるが、私の考えが仏意に叶っているのであれば、五人の誤りは明確で、はなはだ憂うべきである。
 いずれの説を取るか捨てるかは、あなた方の正しく真理を見極める智慧に任せるので、熟慮の上で正しく理解すべきである。

身延の群徒
 日興上人が身延離山されたあと、残っていた人びとが、自分たちこそ正当であると主張したこと。
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富士の重科
 日興上人の身延離山には、重い罪科があるとの身延派の論難。
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当所の離散
 「当所」とは身延山のこと。日興上人の身延離山をさす。
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地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
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向背の過罪
「向背」とは①従うことと背くこと②背をむけること。日興上人の身延離山を非難した言葉。
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顛倒の至極
 「顚倒」とは、本来の順序がさかさまになること。「至極」とは「この上なく」・「極めて」の意。
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未聞の族
 いまだ聞いていない者のこと。日興上人の身延離山の経・事情を知らない者のこと。
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毒鼓の縁
 謗法の衆生に法華経を強いて説き聞かせることは、かえって法華経に縁する故に成仏の因となること。逆縁ともいう。「毒鼓」とは毒薬を塗った太鼓のこと。法を信じようともせず反対しても、やがて梵王を断じて得道することができることを毒鼓という。
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聖人御座の尊貴
 日蓮大聖人が住まわれていた尊い場所。大聖人は佐渡流罪から帰られた文永11年(1274)5月~弘安5年(1282)9月までの晩年の地を身延の地で過ごされている。
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発心
 発菩提心のこと。菩提心を発すこと。衆生が無上菩提を願う心を発し、成仏を願うことをいう。
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下種結縁
 仏が衆生に成仏の種子を下して、衆生と縁を結ぶこと。成仏得道の起点となる。
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劣謂勝見
 見惑のなかの五利使の一つ。見取見と同意。「劣を勝と謂う見」と読む。劣っているものを勝れていると思い込む誤った見解。
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師弟有無の新義
 富士一跡門徒存知の事に「彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり」(1602-13)とある。波木井実長にとって日興上人が初発心の師であったが、実長は日向を師にするなど日興上人に敵対した。原殿御返事に「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」と、実長が言ったとあり、日興上人を師匠と仰がない態度を示した。
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理非顕然
 道理にかなっているかいないかが明らかであること。「理非」は道理と非理で、道理にかなっているかいないかということ。「顕然」は、明らかなこと。
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慈覚
 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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智証
 (0814~0891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(0891)10月78歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
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伝教入室の付弟
 伝教大師の直弟子のこと。
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叡山住持の祖匠
 比叡山延暦寺の座主の中でも初めの人々。慈覚は第三代・智証は第五代である。
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若宮八幡
 八幡宮の御子神のこと。怨霊を防ぐために建てられたことが多く、巫女によって発展させられた。八幡神社には多く若宮神社が付随しており、後には若宮が八幡宮の代名詞としても用いられた。源頼朝は、治承4年(1180)由比鶴丘にあった八幡宮を小林郷の北山に勧請して鶴岡若宮と称した。
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百王鎮護の大神
 八幡大菩薩のこと。諌暁八幡抄に「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云」(0587-10)とあるように、八幡大菩薩は百王の守護を誓っているのでこう呼ばれた。
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朝廷の本主
 本主とは本来の正当な所有主のこと。ここでは、八幡大菩薩は日本の朝廷の主であるとの意。
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明神
 神のこと。仏教では諸天善神をいう。
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謗国捨離の願
 八幡大菩薩が釈尊の前で謗法の国を捨て去るとの誓願を立てたこと。
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本師違背の仁
 伝教大師に違背した慈覚のこと。
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御廟
 死者の霊を祭るところ。
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円仁
 (0794~0864)。慈覚のこと。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
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高祖の誤謬
 慈覚は伝教大師の弟子となり、その後、第三代の座主となるが、弘法の影響を受けて密教に傾斜し、伝教大師の教えに違背した。大聖人はこの邪見に陥ったことを厳しく破折されている。しかし、先師の墓を守りさえすればよいというのであれば、叡山に住して伝教大師の御墓を守った慈覚を破折したことは、大聖人の大きな誤りであったことになるとの意。
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棄捨の誓
 正法誹謗の国を諸天善神・聖人が捨て去るとの誓願のこと。
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垂迹
 「迹を垂れる」と読む。仏・菩薩が衆生を利益するために、種々の所にさまざまな身に姿を変えて現れること。またその身をいう。本地に対する語。もとの仏・菩薩が本地から真実身を隠して化現した姿が垂迹であり、それは本体と影・天月と地月の関係にたとえられる。
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悪鬼
 悪鬼とは奪命者、奪功徳者で、六道の中の餓鬼道に住する。鬼に善鬼と悪鬼がある。悪鬼は人の生命力を衰えさせ、思考の乱れを引き起こして、正法を行ずる者を妨げる。また国家・社会に対して天変地変や思想の混乱を起こす働きをする。法華経勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん」とあり、この文について御義口伝には「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王.大臣.万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり」とある。このことから、悪鬼とは、仏教を看板にかけた邪教の指導者のことである。
―――
外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
―――
宗廟社稷
 「宗廟」とは、先祖の霊を祭った宮殿のこと。「社稷」とは、中国古代における国家の別称。「稷」は穀神を表す。人は土によって立ち、穀によって養われる故に土、穀の二つは国家を治める者の最も尊敬すべきものとされた。
―――
善神
 梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。
―――
聖人
 聖とは、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通の人の聞き得ない天の声をよく聞きうる人の意。世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」(1240)とあり、「聖人知三世事」には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」と申されている。
―――
正直正法の頂
 八幡大菩薩が正法護持の者の頂に住して、その人を守護することをいう。
―――
身延一沢の余流
 身延の流れを汲む人々。
―――
法水の清濁
 「法水」とは仏法のこと。「清濁」とは、清いことと濁っていること
―――
砕身の舎利
 舎利は、遺骨・仏骨・遺身のこと。通常は仏の遺骨をさす。①全身の舎利と砕身の舎利とがある。前者は土葬による全体の遺骨であり、後者は火葬による部分部分の遺骨である。②生身の舎利と法身の舎利に分けると、前者は仏の肉身の遺骨、後者は仏の遺した経典・教え。
―――
法華の持者
 法華経を受持する者。「持者」は持経者の略で、経典を受持し修行に励む者。
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迷暗
 行くべき道がわからず、道理に暗いこと。
―――
天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」10巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
―――
章安
 (0561~0632)。章安大師のこと。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
朗然
 朗らかであきらかなさま。
―――
伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらし
 弘仁9年(0818)、伝教大師と護命とが祈雨の争いをした。護命は法相宗の僧。美濃に生まれ元興寺に学んだ。伝教大師が祈ること3日にして甘雨を降らせたのに対し、護命は雨を降らすのに5日かかったので負けとなった。このことからも、3週間かけて降らせられなかった弘法の失敗がいかに無残なものであったかが、明らかである。
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三千侶の衆徒
 「三千侶」とは3000人の学侶。伝教大師の弟子に3000人の学侶がいたことをいう。「衆徒」とは、弟子・檀那・信者のこと。
―――
義真
 (0781~0833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20年12月7日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822)5月15日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825)6月23日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(0833)7月4日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。
―――
万年救護
 仏が未来永劫にわたって衆生を救い護ること。「救護」は救済覆護の義。衆生の患難を哀れんでこれを救う仏の働き。
―――
六人の上首
 大聖人の六人の本弟子。六老僧のこと。日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持。
―――
宿習
 宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在勢力。
―――
正師
 正しい師匠のこと。邪師に対する語。仏のこと。仏法を持って正義を説き、一切衆生を絶待の幸福境涯へと導くに足る智徳を具えた指導者。日蓮大聖人のこととなる。
―――
伝持の人
 法を持ち伝える弟子のこと。「伝持」とは、後世に仏法を受け伝え維持すること。顕仏未来記には「伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」(0508-06)とある。
―――
自他弁じ難し
 だれが是か非かわきまえられないでいること。
―――
能く是の法を聴く者此の人亦復難し
 方便品の文。「諸仏の世に興出したもうこと、懸遠にして値遇することは難し。正使世に出でたもうとも、是の法を説きたもうことは復た難し。無量無数劫にも、是の法を聞くこと亦た難し。能く是の法を聴く者、斯の人亦復た難し」とある。仏の出現に巡り会って説法を聞くことも難しく、法を積極的に求めようとする人はさらに少ないということ。
―――
此の言若し堕ちなば将来悲む可し
 章安大師の私記縁起の一説。天台大師の教えを領解しているのは、私一人であるから、天台大師の教えを筆録せずに脱漏したならば、将来の人は正しい教えを知ることができず悲しむことになるとの意味。
―――
迹化の悲歎
 「迹化」とは迹仏に教化された菩薩のこと。「悲歎」は悲しみ嘆くこと。
―――
本門の墜堕
 法華経本門の教えが地に堕ち、敗れること。
―――
案立
 考えや主張を立てること。
―――
一身の短慮
 自分の考えが未熟なこと。「短慮」は考えが浅いことの意味。
―――
五人の謬義
 「五人」とは五老僧のこと。日昭・日朗・日向・日頂・日持をいい、彼らの誤った教義のこと。
―――
正見
 妄見・邪見を離れて、正しく真理を見極めること。
―――――――――
 ここでは五老僧の流れの中でも特に身延山の輩が、日興上人の身延離山を非難していることを取り上げられている。
 身延の徒の言い分は、日興上人が身延離山したことそのものが罪であり、たとえ地頭の波木井氏が過ちを犯したとしても身延にとどまるべきであったし、離山後も大聖人の墓所に参詣しないのは先師に背く行為であるというものである。
 これに対して、日興上人は「此の段顛倒の至極なり」と一蹴されている。本抄が成立した嘉暦3年(1328)は、日興上人が身延を離山された正応2年(1289)から数えて39年たっており、身延の輩の中にも、五老僧の流派の中にも、離山の経緯や理由について何も知らない人々が増えていたはずである。そのため「未聞の輩」つまり末だ身延離山の真実について聞いていない者のために語っておくとして以下の文でその真実を記されている。
 もとより、今、日興上人を大聖人の墓を捨てて離山した不知恩の人間などと言って非難している身延の徒の心を支配しているのは、39年前の離山の事情も、まして身延山の徒にとって大恩あるのは日蓮大聖人であり、波木井実長を発心させた日興上人であることも、もはや分からなくなっている。“無知”ばかりではない。それ以上に“怨嫉”であり“憎しみ”であるから、教えたとしても、かえって反発を募らせる結果になるかもしれないが、長い目で見れば、将来、目覚める因となる可能性もあろうとして「毒鼓の縁を結ばん」と述べられている。
 身延の徒の言い分がいかに「顛倒の至極」であるかを示されるために、何もない深山幽谷であった身延が仏法信仰の場となったのは、大聖人が晩年の9年間を過ごされたからであり、その大聖人が身延を居住地と定められたのは、日興上人が地頭・波木井実長を教化していたからである。と述べられている。それを本文では「下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見の僻案を起し師弟有無の新義を構え理非顕然の諍論を致す」と破折されている。波木井実長にとって下種結縁の最初とは日興上人に化導されたことであり、民部日向の方が優れていると思ったのは劣謂勝見である。そして、自分の師は日興上人ではなく日向であるとしたのが師弟有無の邪義である。
 身延の徒は、日興上人にこそ恩義を感ずるべきであって、これを一本の木にたとえると、今、身延の地で僧としていられることを葉とすると、日興上人は根であり、川に例えると、今の自分たちは川下の流れであるのに対して、日興上人は源となる。つまり、身延の人々は、この道理をわきまえるならば、日興上人の下に来ないと言って、日興上人を非難しているのは、まさに「顛倒の至極」という以外にない。身延の徒の「顛倒」は、自分たちと日興上人との関係だけにとどまらない。仏法において何より大事にすべきものについても、彼らの考え方は顛倒している。
 このことを明らかにするために、日興上人は慈覚・智証を「本師違背の仁」と断訶された大聖人の御精神と「百王まで守護する」と誓いながら「謗法の国を捨離する」とも言っている八幡神の例を挙げられている。
 慈覚・智証は本師、伝教大師亡き後、慈覚は第三代、智証は第五代座主となり、唐に渡って叡山の興隆に貢献した。形の上では本師の御廟を守り、興隆へ導いた。だが、慈覚・智証とも、法華経を根本とした伝教大師の教えに背き、真言密教を根本とする邪義へ歪めた。仏法者として最大に守るべきは、教えを正しく受け継ぎ、伝え、広めることである。この故に、世間的には叡山の大功労者と崇められた慈覚と智証を、大聖人は「本師に違背した人々」と厳しく批判されているのである。
 八幡神の場合、日本国の天皇を百代まで守護すると誓ったとされる。しかし、無条件で守護するというのでは、一般的道徳規範で言えば「正直の人」、仏法的に言えば「正法受持の人」を守るのであって、それに反して「不正直」「謗法の人や国」は守りたくても守れない。もしも「非例」すなわち不正直、謗法を犯しても八幡神は守ってくれるとするならば、謗法の国は捨てると誓ったことは誤りであったことになる。本文で「垂迹の不覚か」とあるのは、八幡神は釈迦如来の垂迹とされたことによる。
 次に「抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず」以下では、師によって明かされた正法の清水を受け継ぐことの難事と稀であることを述べられている。天台大師は三千余の弟子がいたが、その教えのすべてを正しく受け継いだのは章安だけであったとされている。中国の天台宗の場合は、分々の教えを受け継いだ弟子たちは、ほかにもいたし、章安のあと教代を経て妙楽大師のような偉大な人が出ている。日本から求めて行った伝教大師に天台仏法の極意を伝えたのは、妙楽大師の遺弟、行満と道遂であった。それに対し、日本の天台宗の場合は、すでに定慧を確立した天台大師の後を引き継いで、伝教大師が戒を確立したにもかかわらず、それが正しく伝えられたのは義真までで、その後は慈覚・智証によって濁水と化してしまったのである。
 前に出ていた叡山の受戒の是非の問題は、像法時の迹門の戒であるためでなく、この汚濁の問題も加わっている。このことは大聖人が「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1022-18)と仰せられている一文に尽きるといえよう。
 ともあれ、正法を清浄に守り伝えることは極めて難事であり、このことは大聖人の仏法についても当てはまる。日興上人は、大聖人が六人の本弟子を定めて後事を託されたにかかわらず、「法門既に二途に分れ門徒亦一准ならず」と、五老僧と日興上人とで大きく二つに分かれ、信徒たちに迷いが法門既に二途に分れ門徒亦一准ならず生じていることを指摘されている。
 「正師に遇うと雖も伝持の人・自他弁じ難し」とは、正師は大聖人を指し、せっかく大聖人の正法に巡りあっても、大聖人御入滅後、その大法を正しく伝持したのはだれなのかを判別できなくなっているということである。そして、このことは、法華経にも「能く是の法を聴く者、斯の人も亦復難し」とあり、章安大師も「此の言若し堕ちなば将来悲しむべし」といっていて、この経文と符契をあわせたようであると述べ、これが仏法の永遠の課題であることを示されている。
 最後に自分について「案立若し先師に違わば一身の短慮尤も恐れ有り」と自戒され、もし、日興上人の言っていることが仏意にかなっているとすれば五老僧は謬義になるのであるから、いずれを取るべきかは各人がよく考えて判断するよう忠告の言をもって結ばれている。自らの考えを押し付けるのではなく、判断は自分ですべきであるとされたところに、恐れ多い言い方であるが、精神の強靭な健全さがうかがわれる御文である。

1616:05~1617:03 第十章 方便品不読の邪義を破すtop

05   此の外支流異義を構え諂曲稍数多なり、 其の中に天目の云く、已前の六人の談は皆以て嘲哢すべきの義なり但
06 し富山宜しと雖も亦 過失有り迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり信受すべきに足らず、 若し所破
07 の為と云わば弥陀経をも誦すべけんや云云。
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 この五老僧の外の支流にも異義を構え、仏法を曲げるものがたくさんいる。その中の天目がいう。六老僧の説は皆、嘲哢すべき教義である。富山の日興門流だけは宜しいが、また過ちもある。迹門を破折しながら法華経方便品を読むことは既に自語相違であり信受するに値しない。もし所破のために読むというのであれば、阿弥陀経をも読まなければならないではないか。
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08   日興が云く、 聖人の炳誡の如くんば沙汰の限りに非ずと雖も慢幢を倒さんが為に粗一端を示さん、先ず本迹の
09 相違は汝慥に自発するや去る 正安二年の比天目当所に来つて問答を遂ぐるの刻み 日興が立義・ 一一証伏し畢ん
10 ぬ、 若し正見を存せば尤も帰敬を成すべきの処に還つて方便読誦の難を致す誠に是れ無慚無愧の甚しきなり、 夫
11 れ狂言綺語の歌仙を取つて自作に備うる 卿相すら尚短才の耻辱と為す、 況や終窮究竟の本門を盗み己が徳と称す
12 る逆人争か無間の大苦を免れんや、照覧冥に在り慎まずんばあるべからず
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 日興が言う。日蓮大聖人の明らかな戒めに基づけば、天目の主張など論ずるまでもないが、天目の慢心を挫くために、その一端を示そう。まず法華経本門と迹門の相違があることは、天目が確かに初めに言い出したことか。そうではあるまい。去る正安二年のころ、天目が富士に来つて問答をなした際、本迹勝劣等の日興が立義に一つ一つ証伏したはずである。もし、正しい思考力があるならば、当然、日興に帰依し恭敬すべきであるのに、逆に方便読誦を非難してくるとは誠に恥知らずの極みである。
 そもそも狂言綺語をもてあそぶ歌道においてすら、昔の歌仙を自分の作品にみせかけることで、才能のなさを示す行為として、どんな身分の高い人も恥とした。まして仏法の中でも最終究極である本門の教えを盗み、自身の説であると称する反逆の輩がどうして無間地獄の大苦を免れることができようか。仏天の照覧は目にみえなくても厳然としている。だからこそ自ら恐れ慎むべきである。
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13   次に方便品の疑難に至つては 汝未だ法門の立破を弁ぜず恣に祖師の添加を蔑如す重科一に非ず罪業上の如し、
14 若し知らんと欲せば以前の如く 富山に詣で尤も習学の為宮仕を致す可きなり、 抑彼等が為に教訓するに非ず正見
15 に任せて二義を立つ、 一には所破の為二には文証を借るなり、 初に所破の為とは純一無雑の序分には且く権乗の
16 得果を挙げ廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明す、 此れを以て之を思うに方便称読の元意は 只是れ牒破の一段
17 なり、 若し所破の為と云わば 念仏をも申す可きか等の愚難は誠に四重の興廃に迷い未だ三時の弘経を知らず重畳
18 の狂難嗚呼の至極なり、 夫れ諸宗破失の基は天台・ 伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず何ぞ所破の為に読ま
1617
01 ざるべけんや、 経釈の明鏡既に日月の如し天目の暗者邪雲に覆わるる故なり、 次に迹の文証を借りて本の実相を
02 顕すなり、此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃ぶ所に非ず(正機には将に之を伝うべし)云云。
03       嘉暦三戊辰年七月草案す                  日 順
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 次に方便品読誦の非難に至っては、天目は法門の立破の意義を弁えてはいない。日蓮大聖人が正行である題目に方便・寿量を読誦の助行として加えられたことを道理も分からないで軽蔑しているのである。その重罪は一つではない。罪悪の業は先に述べた通り無間地獄は免れない。もしこれらの道理を知りたいと願うならば、以前のように富山に詣でて、習学のために師匠のそばに仕えることである。そこで、天目等の輩のために教訓するのではなく、正しい真理を示しておくために師匠のそばに仕えることである。そこで、天目等の輩のために教訓するのではなく、正しい真理を示しておくために、方便品読誦について二義を立てておく。それは一には所破のためであり、二には文を借りるためである。初に所破のためとは、清浄な唯一無二の法華経の序分においては爾前権教によっても果を得ることができることを挙げ、迹門を廃して本門を顕す寿量品においては伽耶城近くで初めて正覚を成じたことを明かしている。このことから考えてみると、方便品読誦の根本の意は、ひとえにこれまでの教えに対する執着を破折するためである。では、所破のためというならば阿弥陀経を読んでもよいのではないかという愚かな非難は、まさに四重の興廃に迷い、正法・像法・末法の三時の弘経を知らないのである。度重なる狂気じみた非難は愚劣の極みである。
 いったい念仏など爾前権教の諸宗の破折は天台・伝教の両大師の領分で、大聖人はそれを助けたのであり、全く日蓮大聖人の正意ではない。末法においては、像法時代の経である迹門は所破のために読むのである。経文や釈義の明鏡は太陽と月のように明瞭であるが、天目は愚かで、その眼が邪な雲に覆われているため、分からないのである。
 次に方便品を読誦するのは、迹門の文証を借りて本門の実相を顕すためである。此等の深い意義は日蓮大聖人の高い境涯にあるものであり、浅はかな智慧ではとうてい及ぶところではない。(正しく信解できる機根の人にはこの法門を伝えるべきである。)云云。
      嘉暦三戊辰年七月草稿した               日 順

支流異義
 五老僧以外の支流の者も意義を立てる者がいること。「意義」とは、正しい教義と異なる教義。
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諂曲
 自分の意思をまげてこびへつらうこと。弱者に対しては驕り高ぶり、強者に対しては、こびへつらう修羅の本性をいう。世間的欲望や恐れから正義を尊ぶ心を捨てて強者や世間の意思に従うこと。
―――
天目
 (1245~1337)日蓮大聖人御在世当時の弟子。美濃阿闍梨と称す。伊豆の出身とされるが、出目・生没年には他説もある。日蓮大聖人の門下となり、二度にわたって大聖人より曼荼羅本尊を授与されているが、大聖人滅後、法華経方便品不読の邪義を唱え離反している。六人立義草案には、曼荼羅本尊中の日蓮の「蓮」の字に一点が多すぎるといったため、「天目」といわれている。乾元元年(1302)1月28日、鎌倉・名越において、日向と本迹の勝劣、勤行の形式について対論し、方便品不読説を破折され、敗れている。下野国佐野(栃木県佐野市堀米町)に妙顕寺、武蔵国品川(東京都品川区南品川)に妙国寺、常陸国小勝(茨城県茨城郡城里町小勝)に本門寺を創設している。
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六人
 大聖人の六人の本弟子。六老僧のこと。日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持。
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迹門
 本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
―――
方便品
 妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
―――
自語相違
 自ら言った言葉のなかで矛盾があること。
―――
所破
 破られるべき煩悩。能破に対する語。能は能動・所は受動とし、破ることを能破、破られる方を所破という。
―――
弥陀経
 阿弥陀経のこと。無量寿経・観無量寿経と共に浄土三部経のひとつ。仏が祇園精舎で舎利弗のために説いたとされる。西方十万億土の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳・功徳の相を説き、この世は穢土であるが、阿弥陀仏の名号を執持して一心不乱に称えるならば、死後、極楽浄土へ往生できると説いている。釈尊の教説の中では方等部に属し、方便権教である。
―――
聖人の炳誡
 日蓮大聖人のあ明らかな戒めのこと。「炳誡」は、あきらかないましめのこと。また強い処罰のこと。「炳」はあきらか、「誡」はいましめを意味する。
―――
沙汰
 ①定めること、理非を論ずること。②うわさ、評判。③たより、報道。④朝廷、または官府の命令。
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慢幢
 おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。
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本迹の相違
 本門と迹門の相違のこと。本門は仏の本地をあらわした法門のことで、迹門は垂迹仏の説いた法門をいう。
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証伏
 「しょうぶく」「しょうふく」と読む。相手を諫めて従わせること。「証」は諫める、「伏」は負かし従わせること。
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正見
 妄見・邪見を離れて正しい真理を見極めること。またその正しい義。
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帰敬
 信じて帰依し、敬うこと。
―――
方便読誦の難
 方便品読誦を非難すること。
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無慚無愧
 慚愧の念がないこと。「慚」は」自己を省みて恥じることをいい、「愧」は他に対して恥じることをいう。
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狂言綺語
 道理に合わない言葉と、真実に反して巧みに飾り立てた言葉。
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歌仙
 和歌の道にすぐれた人。歌人。
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卿相
 公卿のこと。
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短才
 才能の乏しいこと。
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恥辱
 はずかしめること。
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終窮究竟
 「しゅうぐききょう」「しゅうぐうくきょう」と読む。「終窮」は窮まるところ、「究竟」は究極・終極の意で、最終究極をあらわす。
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本門
 迹門に対する語①釈尊が本地の仏の姿を明かして説いた法門のこと。涌出品~勧発品までの十四品をいう。②釈迦仏法に対して、大聖人の三大秘法を文底独一本門という。
―――
逆人
 反逆者のこと。
―――
無間の大苦
 無間地獄の苦しみのこと。無間地獄は大阿鼻地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチ(avīci)の音写で無間はその漢訳。間断なく大苦に責められることから名付けた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網にかこまれているところから阿鼻大城・無間大城ともいわれる。殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪を犯した者と誹謗正法のものが堕ちるとされる。
―――
照覧
 明らかに照らし見ること。仏・菩薩が光明をもって衆生を照らし明らかにすることをいう。
―――

 くらい、目に見えないの意から、凡夫には見えない仏や神のことをいう。
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方便品の疑難
 法華経方便品読誦についての非難のこと。
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法門の立破
 正像末のときによって、いかなる法門を立て、いかなる法門を打ち破るかの違いがあること。
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蔑如
 ばかにし、軽蔑すること。「蔑」はないがしろにする。あなどるの意。
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重科
 ①重い罪②重い刑罰。
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罪業
 罪悪の業。苦しみを招く因となる悪の行為。福業・善業・浄業に対する語。涅槃経巻二十に「一切衆生の所作の罪業に凡そ二種あり、一つには軽、二つには重なり、若し心口の作は則ち名づけて軽と為し、身口意の作は則ち名づけて重と為す」とある。罪業の中でも謗法は最も重い罪業で、無間地獄に堕ちる因となる。
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習学
 学び習うこと。学問を習うこと。
―――
宮仕
 ①宮中に仕えること。②主君・師匠に仕えること。③仕官・奉公。
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文証を借る
 「文証」とは経文・文書・記録などの文献上の証拠。「文証を借る」とは、方便品読誦の二義の一つで、本門の義を表すために方便品の文を借りること。
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純一無雑
 「純一」は混じりけがなく、ただ一つであること。「無雑」はまじりけのないこと。純粋・清浄な唯一無二の法華経をさす。
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序分
 経典等の序論となる部分。
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権乗の得果
 方便権教によって得られる果のこと。声聞が四諦の法によって得る阿羅漢果。縁覚が十二因縁の法によって得る辟支仏果、菩薩が六波羅蜜の法によって得る仏果等。
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廃迹顕本
 「迹を廃して本を顕す」と読む。廃迹立本に同じ。蓮華三喩の本門の三喩の第三。爾前迹門の教説を廃して本門を顕すこと。法華玄義巻九下に「五濁の障り重きが為に、遠く本地を説くことを得ず。但、迹中の近成を示す。今は障り除き、機動ず。須く道樹王城の迹中の説は、皆是れ方便なりと廃すべし……文に云く、『是れ自従り来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す』と……即ち是れ一期の迹教を廃して、久遠の本説を顕すなり」とある。爾前・迹門の諸経では仏は現世で成仏したと説き、久遠の本地を明かさなかった。法華経本門では迹門までの教説はすべて方便の教えであるとして、仏性の常住、久遠実成を明かしている。
寿量
 妙法蓮華経如来寿量品第十六のこと。法華経本門の正宗分であり、釈尊が19歳で出家して30歳で成道したとする見方を打ち破って、五百塵点劫という久遠の昔に成道した久遠実成の仏であることを説き顕し、それ以来ずっとこの娑婆世界で説法教化してきたことを明かし、涅槃を現ずるのは、衆生を救うための方便であることを良薬の譬えを持って説いている。
―――
伽耶の近情
 「伽耶」とは伽耶城のこと。爾前経および法華経迹門で、釈尊が伽耶城の近くの菩提樹の下において初めて正覚を成じたとしているその考え方をいう。本門に至って五百塵点劫の成仏を明かすが、その五百塵点劫の“遠”に対すれば、始成正覚は“近”になる。
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方便称読
 方便品を読誦すること。
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元意
 ①根本の意。②根本の意図・本意。③付文に対する語。経文に説かれている表面上の内容ではなく、その」一段奥深い究極の意。
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牒破
 「牒」は文書を記する札・書きもの・公文書など。「破」はそれらを破折すること。
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念仏
 念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
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四重の興廃
 釈尊一代の教説を爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立して勝劣興廃を判釈したもの。衆経批判の原理の一つ。末法下種の観心・南無妙法蓮華経をもって肝要とする。この説は天台の法華玄義巻二上の相待・絶待二妙を判釈したうちの絶待妙の教判に出ている。方便の教・迹中の大教・本地の教・妙法によって麤法を開会し、最後に観心の大教によって、本地の教を開会するとの意。
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三時の弘経
 釈尊滅後三時(正法・像法・末法)に人師・論師が出現して、その時代に応じた法を説き、一切衆生を救おうという次第の順序をいう。正法には付法蔵の24人が、小乗教や権大乗教を弘め、像法には天台・伝教が法華経迹門・理の一念三千の法門を弘め、末法には日蓮大聖人が法華経寿量文底・事の一念三千の法門を弘めることをいう。
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重畳
 ①かさねがさね、たびかさなること。②この上もない満足・誠に好都合の意。
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 狂難嗚呼
狂気じみた非難のこと。
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諸宗破失
 権門の諸宗を破折した根拠の意。
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天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
伝教
 (0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
経釈
 経文と釈義のこと。
―――
明鏡
 曇りのない鏡のこと。仏法では、心の正邪・一切の事象をありのままに映し出す鏡・罪業を映す鏡・教義・論議の基準となる経文、一念の働きを説き明かした法華経の譬えとして「鏡」をもって説明されている。
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天目の暗者邪雲に覆わるる
 天目は愚かで、その眼が邪な雲に覆われているとの意。「暗者」とは、愚かで、正しくみえていないこと。
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本の実相
 本門の実相のこと。本門とは、一往は文上の本門、再往は文底独一本門をいう。「実相」とは「実なる相」真実のありのままの姿のこと。仏法では真実の理法・不変の理・真如・法性等の意があり、教法の所詮の真理を指している。
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正機
 教法を正しく受け入れられる衆生の機根
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草案
 草稿のこと。
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日順
 (1294~1356)日興上人の弟子。下山三位房ともいう。甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)に生まれ、8歳のとき寂仙房日澄を通じて出家し、後に日興上人の弟子となる。正和元年(1312)19歳の時、日蓮大聖人の御影を日興上人に献上し「相似の分なりと描き付けて下さる」といわしめている。重須談所の第二代学頭となり、衆徒の教化に当たった。嘉暦2年(1327)には、日興上人に代わって天奏を行っている。嘉暦3年(1328)五人所破抄を草して日蓮大聖人の法門を正しく伝え、五老僧の謗法を破折している。嘉暦4年(1329)、日興上人の命により、佐渡に本照寺を創設。このころから片目がみえなくなり、出生地の甲斐国下山郷(山梨県南巨摩郡身延町)に隠棲したが、日興上人の督励を受け重須に復帰したが、建武3年全(1336)全盲になり、大沢に退隠した。著作に「下山抄」の写本がある。
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 最後のこの段落は、五老僧以外の支流ともいうべき人々の中にも、日蓮大聖人・日興上人の正義に背く異議を唱える者が数多くいるとされ、その中で、特に天目の方便品読誦に関する異議を取り上げ、方便品読誦の意義を明らかにされるところである。
 天目は、日興上人に対して、一方で法華経迹門を破折しながら、他方で方便品を読誦するのは自語相違ではないかと批判し、所折のために読むというのならば、阿弥陀経も所折のために読んでもよいことになるなどと言っていたのである。
 この方便品を読誦する意義については、後に日寛上人が、六巻抄の中の第五・当流行事抄において、方便品の義を表すためであることが明らかにされているが、ここでは所破と借文の二義があることだけが簡潔に示されている。
 この本題に入る前提として、日興上人は、天目がかつて日興上人と問答して、日興上人の立義を承伏しながら帰伏しないで、今、再び方便品読誦の問題について批判している卑劣さを厳しく指摘されている。そして、身分あるいは貴族でも、昔の歌人が作った歌を自分が作ったなどと偽れば恥辱となることを挙げ、天目が日興上人の相伝した「終窮究竟の法門」を盗んで自分の悟ったことであるなどと宣伝しているのは、無間地獄に堕ちる業因を作っているのであると哀れんでおられる。
 方便品読誦の問題について、これは大聖人御在世中にも迹門不読の己義を構える人々がいて、大聖人自ら厳しく指導し教えられていたことを踏まえ、今なお迹門を破しながら方便品を読んでいるのは自語相違などと蔑如している天目の罪は重いと叱責されている。そして、天目が本当にこの問題を解明したいのであれば、日興上人の下にやってきて教えを求めるべきであると述べられている。
 その上で、天目らを教訓するためではなく、正しい見解を残しておくべきであるとして方便品読誦の意義に二つあることを明らかにされるのである。
 一つは所破のためで、これについては、方便品は法華経説法の初めで、いわば「純一無雑之序分」なので、まだ権教を修業してきた人々が法華経に至って仏果を得られると認めるような文言がある。これは始成正覚を破って久遠の本地を顕した受量品に「伽耶始成」への執情が残っているのと同じであり、これらのことから、方便品を称読する元意は、こうした権果の人々が迹門で仏果を得るということを牒破するためであると示されている。すなわち、迹門方便品の特果の義は、“一旦”の浅い法門であると打ち破り、本門の深義を称揚するために読誦するのである。
 従って、所破のためであるというのなら阿弥陀経を読んでもよいという天目の言は、爾前権教を打ち破って法華経迹門を広めた像法時の天台・伝教にあてはまるが、末法の大聖人の本義は本門にあり、爾前権教の阿弥陀経を所破のために読むなどということは筋違いも甚だしいことになる。
 「諸宗破失の基は天台・伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず何ぞ所破の為に読まざるべけんや」の一文は、難解でるが、要するに念仏などの諸宗の義は迹門の師たる天台・伝教によって根底から破られているのであって、これらを破折することは、大聖人の本領というわけではない。大聖人は本門の師であるから、迹門である方便品を所破ために読まれたのである、という意味である。このことは、経文や天台の釈を読めば明白であるが、天目は、名前は「天目」だが、愚かで邪見の雲に覆われているため、よく見ることができないのでると破折されている。
 次に「借文」ということについては「迹の文証を借りて本の実相を顕すなり」と、その意義を教示されている。これは、迹門である方便品の文を借りて、本門に秘められている実相を顕すために読むということなのである。

1616~1619    日興遺誡置文top
1617:01~1617:11 第一章 五一相対を示して訓戒すtop

01   夫れ以みれば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、 於戲仏法に
02 値うこと希にして喩を曇華の蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、 尚以て足らざる者か、 爰に我等宿縁深厚なるに依
03 つて幸に此の経に遇い奉ることを得、 随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、 偏に広宣流布の金言を仰がんが
04 為なり。
-----―
 さてよく考えてみると、末法に弘通される太陽のごとき仏法は極悪の謗法の闇を照らし、久遠寿量の南無妙法蓮華経という妙なる風は伽耶城の近くにおいて始めて悟りを成じたという権教を吹き払った。この仏法に巡りあうことはまれなことであり、優曇華の花の咲くことに譬えられ、また、一眼の亀が浮木の穴にあうことに譬えられる。それでも足りないくらいである。
 ここに我等は、宿縁が深く厚いことから、幸いにもこの経に巡りあうことができた。従って後代のために、箇条書きにして一つ一つの項目を書き遺したのは、ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人のお言葉を仰ぐためである。
-----―
05   一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。                           ・
-----―
 日興門流の立てている教義は、いささかも先師・日蓮大聖人の相違していないこと。
-----―
06   一、五人の立義一一に先師の御弘通に違する事。                           ・
-----―
 五人の立てた教義は、一つ一つ先師・日蓮大聖人の御化導に相違していること。
-----―
07   一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。 ・
-----―
 日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近づいてはならない。
-----―
08   一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。           ・
-----―
 偽書を造って御書と称し、本門・迹門は一致であると修行する者は、師子身中の虫であると心得るべきである。
-----―
09   一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。               ・
-----―
 謗法を責めることもなく、遊び戯れ、雑談等の振る舞いに明け暮れたり、外道の書物や歌道を好んではいけない。
-----―
10   一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可け
11     んや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。
-----―
 信徒の神社・仏閣への参詣を禁ずるべきである。まして僧侶でありながら、一見と称して謗法を犯し悪鬼が乱入している寺や神社に行ってよいはずがない。そのような僧侶がいることは、返す返すも残念なことである。

末法
 正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
―――
弘通
 弘宣ともいう。教えを弘めること。
―――
恵日
 「慧日」とも書く。「慧」は真理を明らかにする叡智のこと。智慧が煩悩などを除く働きを太陽にたとえたもの。ここでは「恵日」とあり「恵」はめぐむの意で、慈悲を強調している。
―――
謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
久遠寿量
 仏の久遠の寿命・因寿のこと。またそれを説き明かした寿量品のこと。これに文上と文底の二種がある。文上とは法華文句巻第九に「寿量とは、詮量なり、十方三世の二仏三仏本仏迹仏の功徳を詮量するなり。今正しく本地三仏の功徳を詮量す。故に如来寿量という」とあり、釈尊の説いた文上脱益の寿量品は、本地三仏の功徳を詮量するとの意。文底とは百六箇抄に「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(0863-04)とあり、如来寿量品の文々句々は、久遠元初の自受用法身如来の振る舞いを説いたものとする立場からは、その所詮の本体は、南無妙法蓮華経である。
―――
伽耶始成
 爾前経および法華経の迹門で説かれるように、釈尊が伽耶城の近くの菩提樹の下において始めて正覚を成じたこと。久遠実成に対する語。「伽耶」は仏陀伽耶の略で、釈尊が正覚を乗じた場所「始成」とは始成正覚のこと。
―――
権門
 権教・権経で説く法門のこと。「権」は仮の意「門」は能入の意で、教道のこと。権に説かれた方便の教えをいう。
―――
曇華の蕚
 優曇華のこと。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。「蕚」とはおしべとめしべ。
―――
浮木の穴
 「浮木」は海に浮かんでいる旃檀の木のこと。一眼の亀の譬えにある。妙荘厳王品に「仏には値いたてまつること得難し、優曇波羅華の如く、又一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。この一眼の亀の浮木の譬は、優曇華の譬えと同じく、衆生が妙法に巡り会うことの難しさを譬えている。
―――
宿縁
 宿世につくった因縁のこと。
―――
後学
 ①人の開いた学問や知識を後から学んでいく後進・後生・後輩。②後のためになる知識・学問。
―――
広宣流布の金言
 「広宣流布」とは、仏法を広く宣べ流布すること。薬王品に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむること無かれ」とあり、日蓮大聖人も()(1023-10)と仰せであり、門下に広宣流布を遺命されている。「金言」とは、仏の言葉。
―――
富士の立義
 日興門流が立てた教義のこと。「立義」とは、義のこと。法門・教理などを明らかにするための釈義をいう。
―――
先師
 すでに亡くなっている師匠のこと。
―――
五人の立義
 「五人」とは五老僧(日昭・日朗・日向・日頂・日持)のことで、彼らの立てた教義を指す。大聖人から血脈相承を受けた日興上人以外の五老僧は大聖人滅後、本義から離れ、天台沙門と名乗り、日興上人と敵対している。
―――
御書
 書の尊敬語。御書面、御手跡ともいう。人を敬ってその人の筆跡や書面をいう語。特に日蓮大聖人が書き残された論文・書状をいう。御遺文、御妙判ともいう。日興上人遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(1618-04)とある。日興上人は御書の研鑽を重視し、そのためにさまざまな信徒・弟子に送られていたために分散していた御書の結集に力を注がれた。そのおかげで450編の御書が今日に伝えられている。
―――
毀謗
 誹謗と同意。破りそしること。
―――
親近
 親しみ近づくこと。
―――
本迹一致
 法華経の本門と迹門の二門の勝劣・浅深はなく、本来一致であるという邪説。本門とは仏の本地をあらわした法門のこと。迹門は垂迹仏の説いた法門をいう。法華経二十八品を前後に分け前十四品を迹門・後一四品を本門というが、迹門の中心は諸法実相に約し理の一念三千を明かし、本門の中心は釈尊の久遠実成の本地を明かし本因妙・本果妙・本国土妙に約して、理の一念三千を明かしている。持病大聖権実違目には「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違あり」(0996-07)とある。しかし釈迦仏法の本門といえども、大聖人の文底仏法からみれば迹となり、三大秘法の南無妙法蓮華経のみが本門中の本門となる。
―――
師子身中の虫
 師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
―――
呵責
 叱り、責めること。相手の罪禍を追求し責め立てること。
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遊戲雑談
 遊び楽しみ、とりとめない話をすること。
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化儀
 化儀の儀式のこと。化法に対する語。本来、仏が衆生を教化する形式・方法で、広く振る舞いなどの意味にも使われる。
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外書歌道
 外書と歌道のこと。「外書」は仏教以外の教書・外典。「歌道」は和歌の道・歌学。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
社参物詣
「社参」とは神社に参ること。「物詣」は神社や寺院に参詣すること。 
―――
悪鬼乱入の寺社
 悪神が乱入している寺院、神社のこと。「悪鬼」とは、仏道修行を妨げ、衆生を悩ます夜叉・羅刹等。
―――
経文御抄等に任す
 経文や御書に説かれているとおりであり、これを実践するか否かは、個々の信心に委ねるの意。
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 本書は日興上人が亡くなられる直前の元弘3年(1333)1月13日に、日蓮大聖人の正法広宣流布を目指す門下が守るべき規範として、信行学の基本姿勢を26ヵ条にわたって記された書である。
 全体の構成は前書き、26の条目、後書の3つの部分からなっており、前書きで26項目を定めた趣旨が日蓮大聖人の広宣流布の御金言を仰ぐためであることを示し、次に各条目を一つ一つ記され、後書きで26の条目のうち一ヶ所でも犯す者は日興上人の末流ではないと、厳しい言葉で結ばれている。なお正筆は存在しないが、幾つかの写本は存在する。
 「夫れ以みれば末法弘通の恵日は」で始まり「広宣流布の金言を仰がんが為なり」に終わる文は、前書きになっている。「末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し」とは、末法に弘通される三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、謗法という大重罪を犯して、不幸のどん底に沈む人々を救う大白法であることを述べた文である。「恵日」とは「慧日」と同義であるが、慧の智慧に対して、恵は慈悲を強調されている。
 「久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う」の一句は、一往は法華経本門の久遠の本仏の仏力・法力であるが、再往は末法御本仏である久遠元初自受用報身の大法を言われている。「伽耶始成の権門」とは、インド応誕の釈尊が始成正覚の立場で説いた教法ということで、爾前権教とそれに基づく念仏・真言等の諸宗だけでなく、法華経迹門を根本とする天台宗も、日蓮大聖人の大白法が広まれば吹き払われるという文である。
 次に、この偉大な仏法に巡りあうことは、十方世界の代表として表される広大な全宇宙の中で三世にわたって生死流転していく衆生の立場からすると、3000年に一度咲くとされる優曇華の花にあい、一眼の亀が、大海の中で栴檀の、それも自分の甲羅にぴったり合う穴のある浮き木に巡りあうようにまれであると述べられている。これは法華経に説かれている譬えであるが、この段で日興上人は、末法の大白法に巡りあうことは、そうした譬をもってしても足りないほどであると言われている。
 従って、今、私たちが大聖人の弟子となり、この妙法にあうことができたのは、過去の深く厚い宿縁によるのであり、それは遠い過去に大聖人と共に、末法にこの妙法を広宣流布することを誓ったという因縁による。
 そこで、大聖人によって大法が顕されるとともに開始された広宣流布の大事業を受け継いでいく後学のために、根本精神と守るべき規範を条目的に記しておくというのが、この前置きの意味である。
 次に、26ヵ条のうち、初めの6ヵ条は五老僧の立義やその流れを汲む人々の行っていることと対比して日興上人の立義を総論的に述べられた訓誡である。
 まず、最初の第一条・第二条の二ヶ条は、日興上人の立義が、先師・大聖人の弘通された法理と相違ないものであるということ、逆に、五老僧の立義が一つ一つ先師・大聖人の弘通の法理に相違することが対照的に並列されている。この対照は五人所破抄や富士一跡門徒存知の事でも明らかにされた条目を踏まえておられるので、具体的内容については、ここでは述べられていない。
 次いで、次の第三条から第六条までの四ヶ条は、五老僧との対立点というより、五老僧の軟弱な気風に染まることによる堕落を具体的に一つ一つ挙げて戒められている。四ヶ条のうち第三条と第四条の二ヶ条は大聖人の御書に対する姿勢についての戒めである。
 御書に対する姿勢の問題としては、富士一跡門徒存知の事において、五老僧の中には、かな文字をさげすんで焼いてしまったり、漉き返ししたりしている者のいることが指摘されていたが、ここは、大聖人の御書の威厳をみとめながら、それを利用とする輩のいることを取り上げられている。
 すなわち、御書の文証を示しても、偽書などと言って正しい主張を否定したり(第三条)逆に、自分たちの言い分に都合のよい文書を作って、大聖人もこうおっしゃっているなどと言い出す者が(第四条)出てくるであろうが、そのようなものたちに惑わされてはならないとの戒めである。
 前者は、これからも信頼できる御書の文を示しているのに、偽書だと反発してくるのであるから見分けられるが、後者はこちらの知らない文を持ち出してくるので、相手のごまかしを見破ることは極めて難しい。このことは、今日のように大聖人の御書が全集として集められていれば、確認もむずかしくないが、まだ大聖人から頂いた、さまざまな人たちの手元に分散していた当時にあっては、持ち出された御書の真偽を確かめることは至難のわざであったはずである。
 いずれにせよ、仏法にかかわることについては、大聖人の教えによって判断すべきであり、そのためには御書についての正しい知識をもつことが重要である。そしてこれは「親近す可からざる事」「師子身中の虫と心得可き事」と戒められているように、同じ門流の中からも出てくる恐れがあるということである。
 次に、第五条、第六条の二ヶ条は、明らかに日興上人の門流の出家僧侶の戒めである。すなわち、正法違背の謗法を訶責するのは大聖人の根本精神であるから、いわば大聖人の仏法を護持する出家僧侶の最優先行為であらねばならない。にもかかわらず、それを行じて「遊戲雑談」したり、はては仏法外のバラモン・儒教・道教などの経書や和歌の道にのめりこんでしてはならない、と戒められている。
 第六条の「檀那の社参物詣を禁ず可し」は、日興上人にとっては身延離山のやむなきに至った痛恨事、すなわち久遠寺の大檀那・波木井実長の四箇の謗法を念頭に置いての戒めと拝される。次いで「其の器」とあるのは出家僧侶の身分ということで、ちょっと見物してみようとの好奇心檀那の社参物詣を禁ず可からにせよ、謗法によって諸天善神が去って、代わりに悪鬼が乱入している寺院に参詣してよいわけがない、と強調されている。
 この条は「返す返すも口惜しき次第なり」とあるように、実際に謗法の社寺に参詣した者が出家在家をいたという事実に基づいて立てられたものであることが分かる。
 それ故に「是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す」と強調されているように、謗法の社寺参詣の禁止は日興上人が勝手な考えで述べているのではなく、法華経の経文や大聖人の御書等に照らして明らかであると断じられてる。現実の神社が、諸天が去り、悪鬼の住みかとなっていることについては、立正安国論で経文を引いて明確に記されており、僧としての心得については、松野御返事に「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・ 法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」(1386-07)との仰せがある。

1617:12~1618:06 第二章 門下に行学二道への精進を促すtop

12   一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。            ・
-----―
 才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸の用事をしなくてもよいようにし、御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。
-----―
1618
01   一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。                  ・
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 仏法の学問がまだ完成していないのに、名聞や名利を考える僧侶は、日興上人の弟子ではない。
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02   一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事。・
-----―
 日興上人の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏法を証得するために学問をすべきである。
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03   一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。                         ・
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 大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。
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04   一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。          ・
-----―
 日興門流においては、御書を肝心に染め、極理を師から受け伝えて、その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。
-----―
05   一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。                           ・
-----―
 仏法についての論議や、正法の講義、説法を好むべきであり、それ以外のものはつつしまなければならない。
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06   一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。                    ・
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 広宣流布が成就しない間は、身命を捨てて、おのおのの力に随って、妙法弘通に励むべきである。

聖教
 ①聖人の教え・諸説、仏法について説いた教え。②宗教法人「創価学会」が、昭和26年(1951)4月 20日より発刊している機関紙。聖教新聞のこと。
―――
教学
 ①教えることと学ぶこと。②教えつつ学ぶこと。③教義を学ぶこと。
―――
学問未練
 学問がまだ完成していないこと。
―――
名聞名利
 世間の評判や名誉・利益のこと。「名聞」は、名が一般的に聞こえること、世間の評判。「名利」は世間の名誉と利益のこと。仏法では「名聞利養」ともいい、名が世間に広まり、私利私欲をもって身を養うこと。俗世間の地位・名誉・財産・評判を追い求める生き方をいう。
―――
大衆
 多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
―――
徒衆
 弟子・檀那のこと。
―――
権実
 権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
―――
出離証道
 苦海を離れて仏道を得る成仏のこと。「出離」は三界六道の生死の苦悩を離れること。「証道」は教証二道の一つで、中道の名利・真実義を証梧・証得する道をいい、仏道を証得すること。
―――
義道
 教義・宗義を分析して明らかにすること。「義」は教えによってあらわされる意味・理法。「道」はものごとの道理・条理を明らかにすること。
―――
落居
 「らつこ」「らっきょ」とも読む。着目すること、終結すること。物事を徹底して見極めること。
―――
天台
 (0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―ーー
御書
 書の尊敬語。御書面、御手跡ともいう。人を敬ってその人の筆跡や書面をいう語。特に日蓮大聖人が書き残された論文・書状をいう。御遺文、御妙判ともいう。日興上人遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(1618-04)とある。日興上人は御書の研鑽を重視し、そのためにさまざまな信徒・弟子に送られていたために分散していた御書の結集に力を注がれた。そのおかげで450編の御書が今日に伝えられている。
―ーー
心肝
 ①心臓と肝臓。②こころ・まごころ。③心の奥底。
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極理
 究極の原理、至極の道理、あらゆる道理・哲理・原理の根本となるもの。
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師伝
 匠から弟子が受け伝えること。
―ーー
台家
 天台宗の略称。天台宗の教義。
―ーー
講説
 講義と説法のこと。
―ーー
広宣流布
 仏法を広く宣べ流布すること。
―ーー
随力弘通
 各人の力に応じて仏法を弘めること。隋力演説と同意。自己の才能や特質を十分に発揮し、利他行に励むこと。
―――――――――
 ここに第七条から第十三条までの七ヵ条を区切ったのは、各自の内容はそれぞれ違っているものの、総じて、日興上人が門下に対して仏法の行学二道に励むよう戒められているという点で一つにくくれるからである。
 まず、第七条に「器用の弟子」とあるのは、賢く、勉学を得意とする弟子ということである。そのような弟子については、師匠に仕えるためのさまざまな用事をなくしてもよいようにし、御書をはじめ仏教のもろもろの経教を学ばせるべきであると示されている。
 ここに、権威主義的な徒弟制度を排除し、能力ある人材を登用していこうとの日興上人の意気込みを読み取ることができるであろう。
 次の第八条は、仏法の学問がまだ完成していないのに、評判や名誉・利益を求める者は日興の末流ではないと、厳しく戒められている。この点については、大聖人も四条金吾御書で次のように述べられている。「食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(1111-13)と。学問に優れていても、名聞名利にとらわれるものは「食法がき」であると訶責されている。
 次の第九条では「予が後代の徒衆等」とあるように、日興上人門流の後々の末弟たる者は、仏法の権教と実教の勝劣浅深を知りえない間は、俗世間の父母師匠の恩を振り捨ててでも、仏法を体得するために、日興上人の門流を中心に参詣して学問すべきである、と遺誡されている。
 「権実を弁えざる間」とは、権が「かりの教え」、実は「真実の教え」の意であるから、何が仮の教えであり、何が真実の教えであるかを知らない間はということであり、仏の基礎、初門を習得していない間は、との意である。
 次に第十条と第十一条の二ヶ条は、日興上人の門流においては、末法の御本仏・日蓮大聖人の仏法が中心であり、御書を心肝に染めることが根本であって、天台教学は、その上で暇があればやってよいと、明確に本末に位置付けられている。
 第十条の中で「義道」とは大聖人の仏法の教義と道理のことで「落居」とは、しっかり胸中に収めること、習得することである。そこまで至らない中途半端なままで「天台の学問」をいてはならないと戒められている。
 次の第十一条でも、日興上人の門流においては御書を生命の奥底に体得するよう努力すべきで、そのためには大聖人の仏法の究極の法理を師匠から伝え受けた後、余裕があれば天台の法門を学ぶべきであるとし、あくまで、大聖人の仏法を徹底して究めるよう求められている。
 次の第十二条、第十三条の二ヶ条は共に、大聖人の仏法を広宣流布すべく行学の二道に励むよう教えられている。
 第十二条の「論議講説等」とは、大聖人の仏法についての論議や他者への講義・説法を好むべきであるということで、「自余を交ゆ可からざる事」とは、仏法以外のものを交えてはならないとの戒めである。
 第十三条は、大聖人の御遺命である三大秘法の妙法を広宣流布することが最大の目的であり、この広宣流布が成就しない間は、身命を捨てて弘通に励むべきであるとの御遺誡である。
 この十三条が、内容から推して26ヵ条の中で最も重要にして永遠なる規範・指針であることはいうまでもない。

1618:07~1618:11 第三章 仏法護持の根本精神を示すtop

07   一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。      ・
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 我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても「当に仏を敬う如くすべきである」との道理にのっとつて、その人を信じ敬うべきである。
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08   一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。                    ・
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 妙法を弘める法師は、たとえ身分の低い者であっても、修行を積んだ老僧のごとく思って敬うべきである。
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09   一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。                 ・
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 たとえ位の低い者であっても、自分より智慧が優れている人を師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。
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10   一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。               ・
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 たとえ、時の貫主であっても、仏法の正義に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない。
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11   一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。                       ・
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 たとえ宗内の多数で議決したことであっても、大聖人の仏法と相違があるならば、貫主はこれを打ち砕くべきである。

身軽法重7
 「身は軽く法は重し」と読む。教法弘通の精神を示した文。
―――
行者
 ①仏道を修行する者。②修験動を修行する者。
―――
下劣の法師
 僧としての階級が低く劣った人。
―――
当如敬仏
 「当に仏を敬うが如くすべし」と読む。仏を敬うように、妙法を受持する衆生に敬意を表すること。勧発品には「若し是の経典を受持せん者を見ば、当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とある。
―――
下輩
 年下の者。後輩
―――
老僧
 ①年をとった僧。②長い間修行に励んできた僧。
―――
下劣の者
 生まれや身分の低い者。
―――
智勝れたる者
 智慧が優れている者。
―――
貫首
 一宗・一派の統領。
―――
己義
 己の義趣。仏の教法によらず、自己の見識のみによって立てる義。
―――
衆議
 「しゆぎ」「しゅうぎ」と読む。数多くの人たちの決議・評議・議論で決めたこと。
―――――――――
 ここでは、宗団内における人間関係にかかわる条目として、第十四条から第十八条までの五ヵ条をまとめる。
 第十三条で日興上人の門流は広宣流布が末だ成就しない間、妙法を弘通すべきことという永遠の指針が示されたのであるが、これを受けて妙法弘通を目指す教団として、日興門流の弟子たちが守るべき仏法護持の精神を制戒として示されたところである。
 第十四条、第十五条、第十六条の三カ条は、仏法を弘通し護持していくに当たって欠かすことのできない倫理・筋目を明らかにされたところである。結論からいえば、仏法の流布と護持にとっては外面的な地位や立場ではなく、正法への信仰心の篤い人、身軽法重の行者、弘通の実践に励む人、仏法研鑽に勝れた人を尊敬していくべきであることを訓誡されたものである。
 まず第十四条は「身軽法重の行者」、すなわち身は軽く法は重いという信仰心に立っている行者に対しては、たとえその僧としての位は低くても、「当如敬仏」との経文の言葉のままに、敬意を表すよう戒められている。
 次いで、第十五条は「弘通の法師」とあるように、妙法弘通の実践に励んでいる法師に対しては、後輩であっても老僧のように尊敬するよう戒められている。つまり、仏法を護持し弘通する精神こそが門流の中の関係・秩序を超えるものであることを強調されているのである。
 次の第十六条は「我より智勝れたる者」とあるように、仏法を研鑽し智慧の勝れている者を、その身分・立場のいかんを問わず、仰いで師匠とせよ、との謙譲の精神を訓誡とされている。
 第一七条、第一八条は日興上人門流の教団運営という極めて現実的な場面においても、あくまで「仏法に相違」するか否かが最重要な判断の基準であるべきであるとの戒めである。
 第十七条の場合は「時の貫首」、それぞれの時代の教団の中心者という立場にある者であっても、仏法と異なる自分勝手な義を立てた場合は、教団としてその己義を用いてはならない、という戒めである。
 だれが用いないと判断するかについては、次の第十八条に「衆議」とあり、第十七条、第十八条が対照した一対の訓誡であることから、大衆一人一人に判断を託されているということができるであろう。
 第十八条は前の第十七条と対照的なもので、たとえ衆議できめたことであっても、仏法と異なる義を立てた場合は教団の中心者である貫主がこれをくだくべきであるとの戒めである。
 以上の二ヶ条に共通しているのは「時の貫主」であれ「衆議」であれ、決定した義が仏法の「法」に適っているか否かを最も重視すべきであるとの御精神である。
 この根底には権威の象徴というべき貫主一人の判断であれ、衆議という多数の判断であれ、「人」の決めることに限界があることを見極めた上で、「法」という客観的、普遍的に究極の判断をゆだねるという日興上人の仏法護持の厳格なる精神が脈々とながれているというべきであろう。また、あくまで広宣流布を推進するという視点から判断することが重要であるとは第十三条に明らかである。

1618:12~1619:03 第四章 日興門流の化儀を示すtop

12   一、衣の墨・黒くすべからざる事。                                  ・
-----―
 衣の色を黒くしてはならない。
-----―
13   一、直綴を着す可からざる事。                                   ・
-----―
 直綴を着てはならない。
-----―
14   一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。                           ・
-----―
 謗法と同座してはならない。
-----―
15   一、謗法の供養を請く可からざる事。                                ・
-----―
 謗法の者から供養を受けてはならない。
-----―
16   一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。                            ・
17     但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。         ・
-----―
 刀や杖等の武器を持つことは、仏法を守るためであれば許される。
 ただし、仏前に出る時には、身に帯びるべきではない。ただし、その時でも、一般の衆僧等の場合は、自衛のため許してもよいのではないか。
-----―
18   一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。                     ・
-----―
 たとえ若い僧侶であっても、位の高い檀那より下にいてはならない。
-----―
1619
01   一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては 設い一旦ヨウ犯有りと雖も衆徒
02     に差置く可き事。
-----―
 先師・日蓮大聖人のように、日興門下の振る舞いも聖僧であるべきである。ただし将来において、時の貫主、あるいは修学中の僧などが、一時的に女犯をしたとしても、破門せずに、平等にしてとどめおくべきである。
-----―
03   一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。                       ・
-----―
 難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえるべきである。

直綴
 「じきとつ」「じきとじ」「ちょくてつ」と読む。僧尼が着用する法衣。中国,唐代以降用いられるようになった。褊衫 と裙 とを縫い合せたもの。腰から下にひだがある
―――
謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
―――
与同罪
 共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
―――
供養
 梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
―――
大衆
 多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
―――
檀那
 布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
―――
化儀
 化儀の儀式のこと。化法に対する語。本来、仏が衆生を教化する形式・方法で、広く振る舞いなどの意味にも使われる。
―――
聖僧
 惑を断じ悟りを得た優れた僧。常に民衆救済を忘れず、少欲知足で、正法を流布する僧。
―――
貫首
 一宗・一派の統領。
―――
習学の仁
 修学中の僧・学生。
―――
衆徒
 ①弟子・檀那・信者。②僧兵。
―――
巧於難問答
 涌出品の文「難問答に巧みにして」と読む。地涌の菩薩を弥勒菩薩が称賛した偈に「 是の諸の菩薩等は、志固くして怯弱無し、無量劫より来、而も菩薩の道を行ぜり、難問答に巧みにして、其の心畏るる所無く、忍辱の心決定し、端正にして威徳あり、十方の仏の讃めたもう所なり」とある。あらゆる問答に巧みであることをいう。
―――
行者
 ①仏道を修行する者。②修験動を修行する者。
―――
賞翫
 尊重・大切にすること。
―――――――――
 ここでは第十九条から第二十六条までの六ヵ条を扱うことにする。
 これまでは主として行学の二道に邁進することや仏法護持の精神についての遺誡、いわば精神面を記されてきたが、ここからの八ヵ条は門流が守るべき外面的な礼儀や作法などが示されている。
 初めの二ヵ条は僧の着すべき色の衣や種類について戒め、次の二ヵ条は日興上人の門下は謗法の者と席を同じくしてはならないことや謗法の者の供養を受けてはならないことを記され、厳しい謗法厳禁の基づく戒めとなっている。
 次いで、第二十三条は仏法守護のためには刀杖等を所有することを許すという戒めである。この条目は日蓮大聖人が立正安国論に引用された「正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」とか「五戒を受けざれども、正法を護るを為て乃ち大乗と名づく、正法を護る者は、応に刀剣・器仗を執持して説法者に侍すべし」等の文に基づいて日興上人が立てられたものである。
 この条目はその内容からいって大きく見解の分かれることを予想されたのであろうか、後に条件を付け加えられている。「但し出仕の時節は帯す可からざるか」とあり、出仕、すなわち大御本尊の前で行われる儀式に列席する場合はさすがに刀杖等を所持すべきではなかろう。だが、その場合でも僧侶大衆などは万が一に備えて所持することもよいのではなかろうか、といった細かい指示をされている。
 次の第二十四条は、たとえ年の若い僧であっても、在家としての位の高い檀那より席順が下位であってはならないと戒められている。これは世欲的権威・権力に媚びるようなことがあってはならないとの戒めである。
 第二十五条は「予が化義」すなわち日興上人の立てる作法や振る舞いは、先師・大聖人と同じく「聖僧」高潔さに貫かれた僧としてのそれでなければならない、という訓誡である。
 この条目に条件が付け加えられていて「時の貫主」や「習学の仁」にあっては「一旦ヨウ犯」つまり、一時的な出来事で淫らな過ちを犯す者がいたとしても、とりあえずは平僧として差し置くべきであるとされている。もちろんこれは、謗法という大きな過ちがない限りであって、貫主や僧が根本的な過ちを犯した場合は、破門等の厳格な措置をいったんは差し置くというものである。
 この条目が、道徳面をゆるやかにしてよいという意味でないことは、「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」と仰せの通りである。まして、広宣流布への死身弘法の実践なくして「ヨウ犯」に陥る者はこの条目の対象とはならない。
 第二十六条は、折伏実践の行者を讃嘆していけということであることは論をまたない。

1619:04~1619:06 第五章 二十六箇条厳守を遺誡するtop

04   右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、 此の内一箇
05   条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず、仍つて定むる所の条条件の如し。
06       元弘三年癸酉正月十三日                 日 興 判
-----―
 右の項目は、大略以上のようであるが、未来永劫にわたり、一切衆生を護るために、二十六箇条を定め置くのである。
 後代の僧侶はあえて疑惑を生ずることがあってはならない。このうち一ヵ条でも犯す者は、日興が門流ではない。よって定める所の条目は以上の通りである。
       元弘三年癸酉正月十三日                 日 興 判

万年救護
 仏法が未来永劫にわたって衆生を救い護ること。「救護」とは救済復護の義。衆生の患難を哀れんでこれを救う仏の働き。
―――
学侶
 仏道修行に励む僧侶のこと。
日興が末流
 日興上人の門下、門流。
―――――――――
 結びとして、以上26ヵ条にわたる遺誡を定めた理由は「万年救護の為」、すなわち、未来永劫の妙法を弘通し衆生を救い護るためにあることを示されている。そして、後代の弟子たちが、この26ヵ条に対して疑惑を生ずる、すなわち、これらの遺誡を実践しなくてもよいのではないか、日興上人の時代のみのことではないか、などといった考えをおこすことがないようにと戒められている。
 釈尊滅後においても、時代を経るに従い、草創の厳格な仏道修行を疎み、堕落する仏弟子が出たが、釈尊は生前からこのことを予測し、憂えていた。涅槃経には「我涅槃の後、乃至正法滅して後、像法の中に於いて、当に比丘有るべし。持律に似像して、少かし経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養す袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内には貪嫉を懐かん唖法を受けたる婆羅門等の如く実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」とある。日興上人も、大聖人滅後に僧が広宣流布を忘れ、堕落し、大聖人の仏法を汚すことを何よりも恐れられた。そこでこの26ヵ条を定められ、これら一ヵ条でも犯す者は日興上人の末流として認められないと厳しく遺誡を守るよう諭だれたのである。

1729~1730    美作房御返事top

01   熊と申さしめんと欲し候の処、此の便宣候の間悦び入り候。 今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに、
02 身労なのめに候はば何方へも参り合せ進らせて、 御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、 所労と申
03 し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らざず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候。
-----―
 わざわざ使いを立ててでも伝えようと思っていたところ、この日弁が下総に向かうというよい機会があったので喜んでいる。
 今年は日蓮大聖人の第三回忌に当たる年になったので、体が普通であれば、どちらへでも参集させていただいて、御法要を共々に奉修すべきであったのに、健康を害していることといい、また、波木井殿の容易でない出来事といい、どちらへもお伺いできなかったことは、誠に恐れ入ることであり、残念に思っている。
-----―
04   抑代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、 安国論の事、 御沙汰何様なるべく候らん。鎌倉には定
05 めて御さはぐり候らめども、 是れは参りて此の度の御世間承らず候に、 当今も身の術なきままはたらかず候へば
06 仰せを蒙ることも候はず、 万事暗暗と覚え候。 此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候い
07 つるに其れも叶わず候。 何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、 鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、 目も
08 当てられぬ事に候。 地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、 御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。
-----―
 そもそも今年は、鎌倉幕府の執権が北条時宗から北条貞時へと替わった。日蓮大聖人が御入滅の後、三年が過ぎ去ったが、立正安国論のことについて、幕府の御裁断はどのようになっているのであろうか。鎌倉方においては、きっと討論がされていることであろうが、私自身は、鎌倉に行ってこのたび幕府における推移についてお聞きしないままに過ぎて、近ごろも身の自由がきかず、何の手だてをも講うることもできないでいたので、通知を頂くこともなく、すべてにわたって暗い気持である。
 今年の秋から、何度も寂日房日華と話し合い、寂日房をあなたのもとへうかがわせようと思っていたが、それも実現できなかった。何よりも嘆かわしいことは、身延の沢の大聖人の御墓が荒れ果て、鹿の蹄に荒らされていることは、目も当てられないありさまである。
 「地頭が法に背く時には、私も住まないであろう」との趣を、御遺言としてはうかがってはいるが、謗法を犯している様子は見えていない。
-----―
09   其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、 此の殿ばかりあり。然れば墓をせんにも国主用いん程は尚
10 難くこそ有らんずれば、 いかにも此の人の所領に臥すべき御状候いし事、日興の賜ってこそあそばされてこそ候い
11 しか。是れは後代まで定めさせ給いて候を、 彼には住せ給い候はぬ義を立て候はん。如何が有るべく候らん。 所
12 詮縦い地頭不法に候はば昵んで候なん。 争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。 師を捨つべからずと申
13 す法門を立てながら、 忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候。 此くの如き子細も如何
14 がと承り度く候。波木井殿も見参に入り進らせかたらひ給い候。 如何が御計らい渡らせ給い候べき。委細の旨は越
15 後公に申さしめ候い了んぬ。 若し日興等が心を兼ねて知し食す事渡らせ給うべからず、 其の様誓状を以て真実知
1730
01 者のほしく渡らせ給い候事、 越前公に申させ候い畢んぬ。 波木井殿も同じ事におわしまし候。 さればとて老僧
02 達の御事を愚かに思い進らせ候事は、 法華経も御知見候へ。 地頭と申し某等と申し、努努無き事に候、 今も御
03 不審免れ候へば悦び入り候の由、 地頭も申され候。 某等も存じ候。 其の旨さこそ御存知わたらせ給い候らん。
04 (聞こし)めして候へば、 白地に候様にて御墓へ御入堂候はん事苦しく候はじと覚え候。 当時こそ寒気の比にて
05 候へば叶わず候とも、明年の二月の末三月のあわいに、 あたみ湯冶の次いでには如何が有るべく候らん。越後房の
06 私文には苦しからず候、 委細に承り候はば先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり。 いかにも御文には尽し難
07 く候て、併ら省略候い畢んぬ。恐恐謹言。
08       弘安七年甲申十月十八日              僧 日興 判
09     進上 美作公御房御返事
-----―
 その上、日蓮大聖人は「日本国中にだれも私を待ってくれる人がいなかった時に、この波木井殿だけがいた。したがって、私の墓を造るにも、国主がこの法を用いることはまだ難かしいであろうから、きっと、この人の領地に臥すことになるであろう」と仰せになった御手紙があるが、この身延の地を日興が賜ったからこそ、このような仰せがあったのである。
 そのことは後代のことまで定められたのであるのに「大聖人の魂は身延には住まわれていない」との義を立てることは、いかがなものであろうか。
 結局のところ、もし地頭が法に背いているならば、同意もしよう。どうして御墓そのものをお捨てになることができるか、と思うのである。
 「師を捨ててはいけない」という法門を立てながら、たちまちに本師・日蓮大聖人を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる。このようなことについても、どう思われるのか、あなたの意見をうかがいたいと思っている。
 波木井殿も、会いにきて話しておられる。あなたはどうなさるのであろか。詳しいことについては日弁に申させた通りである。
 もし日興等の思いを、これまでご存知なかったのであれば、その思いを誓いの文書にしたためて、本当に智慧のある人がほしいと思い続けておりますことを、越前公に申させた。波木井殿も同じ思いであられる。
 だからといって、老僧たちのことを、おろそかに思っていることは、法華経に誓って、地頭といい、私たちといい、決してないことである。直ちに、お疑いが晴れるならば、本当に喜ばしいことでると、地頭も申されている。私どももそのように思っている。その旨は、きっとお分かりいただけるであろう。
 お聞き入れ下さったならば、何事もなかったように、御墓のある御廟に入堂されることは何の差し支えないと思われる。今の季節は寒気の厳しい時なので難しかったとしても、明年の二月の末か三月間ごろに、熱海の湯冶のついでには、いかがであろうか。
 越後房の私文であっても結構である。詳しくお考えを承ったならば、まずは力付けられると波木井殿もいわれている。
 なんとしても手紙では意を尽くすことは難しいので、詳しくは省略する次第である。恐恐謹言。
       弘安七年甲申十月十八日              僧 日興 判
     進上 美作公御房御返事

便宜
 ①よい機会、好都合。②音信、便り。
―――
聖人
 ①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
―――
御仏事
 ①仏法を教化し、法を流布する行為。②仏教に関する行為。③先祖の追善供養のための遠忌・葬儀など。
―――
安国論
 立正安国論のこと。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
身延沢の御墓
 当時、身延にあった日蓮大聖人の御墓のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)5月~弘長2年(1262)9月まで、晩年をこの地に過ごされている。大聖人の御遺骨を身延の地にとは大聖人の遺命によるが、地頭・波木井宗長の謗法のため、やむなく、日興上人に伴われて身延を去られている。
―――
地頭
 鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
―――
不法
 ①仏法に背き、道に外れた行いをすること。②道理に背くこと。
―――
本師
 ①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
―――
法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
 現存しない経
  ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
  ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
  ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
 現存する経
  ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
  ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
  ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている
 説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち
  ①釈尊の法華経二十八品
  ②天台の摩訶止観
  ③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経
 と区分する。
―――――――――
 本抄は末尾に「弘安七年甲申十月十八日」「僧 日興 判」「進上 美作公御房御返事」と記されているように、弘安7年(1284)10月18日、日興上人から美作房に与えられた書簡である。美作房は美作房日保のことで、日蓮大聖人御在世当時から上総国興津の信徒、佐久間兵庫助重貞の長男、幼名を長寿麿という。文永2年(1265)重貞の末弟・竹寿麿と共に得度し、大聖人から日保の名を賜っている。興津城内妙覚寺の開祖となり、後に、日家と共に小湊誕生寺を興し、房総における教団の発展に寄与した。
 本抄および後に拝する原殿御返事の二編は、「創価学会版日蓮大聖人御書全集」には収録されていないが、身延山の墓所輪番制をめぐる五老僧の背反に始まり、地頭の波木井実長の謗法を主原因として身延離山を決意されるに至る経緯と日興上人の御心境を知る上に重要な手掛かりとして、ここに収めた。
 その中で、本抄の美作房御返事は日付からいって日蓮大聖人の三回忌直後に書き記されたことが明らかであり、五老僧のだれも、身延の墓所に参詣してこなかったことや身延山の荒れ果てた現状を述べ、美作房に早く登山するよう呼びかけた内容になっている。
 ここで、序講でも少し触れておいたが、いわゆる墓所輪番制度について、本抄の時代背景を知る上からも少々、述べておきたい。この制度は宗祖御遷化記録に記されている大聖人の御遺言である六人香華当番に基づいている。
 ここでは、本弟子六人が定期的に身延山にある大聖人の墓所に参詣して、香華を当番制によって行うことが指示されている。
 これは、単に御墓に香や華を絶やさないということではなく、香華の当番を通して身延山久遠寺の別当である日興上人を中心とした本弟子六人の結束とそれによる教団全体の統括を期待されたものと拝することができる。
 大聖人のこの遺言を具現化したものが墓所可守番帳事に記されている墓所輪番制度で、この墓所可守番帳事は弘安6年(1283)1月、日興上人を中心に、五老僧をはじめとする他の老僧たちの同意のもとに作成された。日興上人による正本が西山本門寺にある。その内容は正月から12月までの各月ごとに順次、墓所参詣の当番の僧の名が記されている。
 本弟子六人については正月に弁阿闍梨日昭、二月に大国阿闍梨日朗、四月に蓮華阿闍梨日持、九月に白蓮阿闍梨日興、十一月に佐渡公日向とあって、各月一人の当番となっている。つまり六月は本弟子六人でそれぞれ担当することになっている。残りの六ヵ月は本弟子六人以外の僧たちが二人一組で担当するという形式で、計十二人が充てられている。結局、本弟子六人と合わせると合計で十八人が当番を務めるのである。
 ついでに本弟子以外の十二人とは、越前公、淡路公、越後公、下野公、筑前公、和泉公、治部公、郷公、寂日房、伊賀公、但馬公、丹波公で、このうち伊賀公、但馬公、丹波公の三人を除く九人は日興上人門下である。
 ところで、この墓所輪番制度は実際にどの程度、執行されたのであろうか。弘安5年(1282)10月13日、大聖人は池上宗仲邸で入滅され、翌14日、葬儀が行われ、御遺体は荼毘に付された。その後、信頼できる資料の幾つかを参照すると、日興上人は初七日を池上で終了した後、10月21日に御遺骨を奉持して池上を出発、五日間をかけて25日に身延に入山している。
 弘安6年(1283)1月23日には百ヵ日法要が行われたものと推定されるが、注目されるのは、葬儀と百ヵ日忌法要の二つの儀式に本弟子六人のうち日向と日頂の二人が参加していないことである。日向は上総、日頂は下総にいたはずであるから、江戸湾を渡って池上に来るのに、なんらかの支障が生じたのかもしれないが、もし、心情的に亀裂がすでにあったとすれば、本弟子に任ずることはされなかったと思われる。前述の墓所輪番制度が弘安6年(1283)1月に制定されたのも、このためであったろう。
 次いで一周忌になると、日興上人を中心に行われた身延での一周忌とは別に、日朗・日昭を中心として池上で行われたとの記録があり、日興上人からの離反が決定的となりつつあったことを推察される。
 以上が本抄、美作房御返事の時代的背景であるが、三回忌前後の状況については、本抄の内容から推察することができる。
 冒頭では、大聖人の三回忌を迎えるに当たり、五老僧をはじめ、さまざまな僧たちと一緒に法要を行う旨を呼びかけるつもりであったが「所労」などからできなかったことを率直に記されている。
 「一方ならざる御事」については、敬語を使われていることから、おそらくは、波木井氏の身辺に緊用の事態があったと思われるが、定かではない。
 次いで、大聖人が入滅してから三年が経過するが「安国論の事、御沙汰何様なるべく候らん」とは、弘安5年(1282)にも、その後も、立正安国論をもって幕府を諌暁されており、それに対する幕府の沙汰はいかがであろうかとの意である。「何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」と述べ、大聖人の御墓が鹿の蹄で痛めつけられて目も当てられぬほど荒れていることを強調されて、老僧たちが身延山に参詣しない怠慢を難じられている。
 大聖人の御墓が荒れ放題であるというのは、あくまで老僧たちが墓輪番を守らない不届きを責めるための強調であって、実際には日興上人およびその門下たちで十分に手入れをされていたはずである。
 次に「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へども」と述べられているのは、日昭、日朗たちが身延へ参詣しない口実に、地頭が謗法を犯した際には身延の地を去るべきであるとの遺言を持ち出していたことによるのかもしれない。ただ、ここから、大聖人が固定的・永久的な意味での身延の地を墓所と決定されたわけでないことが明らかであり、後に日興上人自身がこの御遺言によって身延を離山せざるを得なくなることは、おそらくこの時点では想像されていなかったであろう。
 さらに「其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、此の殿ばかりあり。然れば墓をせんにも国主用いん程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥すべき御状候いし事、日興の賜ってこそあそばされてこそ候いしか」と述べられ、大聖人が御自身の墓をなぜ身延にと仰せられたかの理由を明らかにされている。
 まず、その第一は日本国中に大聖人を快く迎えてくれる人がいない時世に「此の殿ばかり」ただ波木井実長だけが9年間の長きにわたって大聖人を自分の領内に留めて守護したことを挙げられている。
 第二は大聖人の仏法を用いない間は墓をどこに設けようとも困難を伴うから、なんとしても波木井氏の領内に埋蔵するようにとの大聖人の遺言を日興上人が頂いていることを記して、大聖人の墓が幕府などから荒らされるのを防ぐ意味から身延の地を決められたことを明らかにしている。
 「日興の賜ってこそあそばされてこそ候いしか」は、身延山久遠寺を日興上人に譲られることになっていたので、墓を身延にと仰せられたのであろうという意味と思われる。
 また、次いで「争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。師を捨つべからずと申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候」と老僧たちを痛烈に破折されている。
 五老僧たちが身延の大聖人の墓所を捨てて参詣しないのは、師を捨ててはならないとの教義を立てながら、手のひらを返すように本師・大聖人を捨ててしまっていることになり、日蓮一門は礼節をないがしろにする輩だとの世間の俗難に対し、言い訳ができないではないかとされている。
 最後の段は美作房が身延山へ登ってくるよう促されて、「委細の旨は越後公に申さしめ候い了んぬ」と記されているように、本抄自体、越後公である日弁に託されたものであり、手紙には書き尽くせない事柄については、口頭で語っておいたから聞くようにと注意を促されている。
 また、本抄を書かれた10月中旬は寒いので身延へ登るのは厳しいかもしれないが「明年の二月の末三月のころに、あたみ湯冶の次いでには如何が有るべく候らん」と述べられ、温かくなるころに熱海の湯治のついでに、身延へ登るのもよいかといった、細かい心遣いをみせておられる。

1731~1735    原殿御返事top
1731:01~1731:12 第一章 波木井実長の変心を指摘すtop

01   御札委細拝見仕り候い畢んぬ。抑此の事の根源は、 去ぬる十一月の頃、南部弥三郎殿、此の御経を聴かんが為
02 入堂候の処に、 此の殿入道の仰せと候いて、 念仏無間地獄の由聴き給はしめ奉るべく候。此の国に守護の善神無
03 しと云う事云わるべからずと承り候いし、 是こそ存外の次第に覚え候へ。 入道殿の御心替らせ給い候かとはつと
04 推せられ候。殊にいたく此の国をば念仏・真言・禅・律の大謗法故、 大小守護の善神捨て去る間、 其の跡のほく
05 らには大鬼神入り替って、 国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、 故に日蓮聖人の勘文関東
06 の三代に仰せ含まれ候い畢んぬ。 此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ。 国の為、世の為、一切衆生の為
07 の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として、 大慈悲を以て 身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば、 弥三郎
08 殿、念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ。 守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審末だ晴れず候。 其の故は
09 鎌倉に御座し御弟子は 諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候。 身延山の御弟子は 堅固に守護神此の国に無き
10 由を仰せ立てらるの条、 日蓮阿闍梨は入滅候。誰に値ってか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、 二
11 人の外弟子の相違を定め給うべき事候。 師匠は入滅し候と申せども其の遺状候なり。立正安国論是なり。私にても
12 候はず、三代に披露し給い候と申して候いしかども、 尚心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ。
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 御手紙を詳しく拝見させていただいた。そもそも身延を離山すること根源は、去る正応元年十一月のころ、南部弥三郎殿が、この法華経の教えを聴くために身延山久遠寺に参詣された折に、この弥三郎殿が、父の波木井実長入道殿の仰せであるとして、「念仏が無間地獄であるという理由を聞いてください」また「この国に守護の善神がいないということは言うべきではない」と言われたとうかがった。
 このことこそ、あまりにも意外なことに思われる。これは波木井入道殿のお心が替わってしまったのかと推察できたのである。
 そこで強く「この日本の国は、念仏・真言・禅・律の大謗法のために、大小の守護の善神が捨て去ったので、その跡の祠には大鬼神が入り替って、国土に飢饉、疫病、蒙古国の襲来という三災が連続して起こり、国土が滅亡しようとしている旨を、わざわざ日蓮大聖人は立正安国論として顕し、鎌倉幕府の三代の執権に仰せられ、諌暁されたのである。この旨こそ、日蓮大聖人の立てられた法門であり、国のため、世のため、一切衆生のために、日蓮大聖人は仏の御使として、大慈悲をもって、命を惜しまず言われたのである」と話した。すると弥三郎殿は「念仏無間のことについては、深く信じている。しかし、守護の善神がこの国を捨て去るということについては、まだ疑問が晴れない。その理由は、鎌倉におられる大聖人のお弟子は、諸天善神はこの国を守護されているのであるから、当然、神社に参詣すべきだという。一方、身延山の大聖人の御弟子は、堅く守護の善神はこの国にいないと言い立てられる。日蓮大聖人はすでに入滅されている。一体、だれに会って、どちらの考えが正しいか否かを決めたらよいのか」と疑問の理由を述べられた。そこで私と日向の二人のほかに、弟子の相違を判定できることがある。師匠は入滅されているとはいっても、その遺された御状がある。立正安国論がこれである。この書は私的な文書ではない。三代にわたる執権に対して公に示されたものである」と話したが、なお心の中が判然としないままに帰っていかれたのである。

南部弥三郎
 身延の地頭・波木井実長入道日円の二男で、波木井家の嫡子と思われる。
―――
入道
 仏道・仏門に入ることを入道といい、出家のこと。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、寺院に住む僧侶と区分するようになった。
―――
念仏無間地獄
 浄土宗を信じて、阿弥阿仏の名号を唱えることは無間地獄に堕ちる業因となること。四箇の格言の一つ。譬喩品には「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に、此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ、斯の如き経典を誹謗することあらん。経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人は命終して、 阿鼻獄に入らん」とあり、法華経を誹謗する者は無間地獄に堕ちるとされている。したがって、無間地獄に堕ちる者は浄土・念仏宗に限らないが、大聖人は立宗以来、当時、念仏宗が極楽往生を宣伝文句に世間に流布していたところから、特に「念仏無間地獄」と破折された。浄土・念仏宗とは、阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって、浄土に往生できると説く宗派。日本では法然が著・選択集で仏教に聖道門・浄土門があり、時機相応の教えは浄土門であるとし、依経を無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経として開宗した宗派。法然の専修念仏は世に弘まったが、延暦寺・興福寺などの訴えによって、建永2年(1207)2月、念仏は禁止され、法然は佐渡に流された。また法然の門弟たちは、鎮西派・西山派・九品寺派など多くの分派に分かれている。中国では東晋代に慧遠を中心として、阿弥陀仏を礼拝しようとする念仏結社である白蓮社が創設された。これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞が菩提流支から観無量寿経を授けられて深く浄土教に帰した。以後、阿弥陀仏の力によって浄土往生できると説き弘通した。曇鸞は浄土五祖の第一祖とされる。唐代にはこの流れを汲む道綽・善導がいる。
―――
守護の善神
 諸天善神のこと。梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩・四天王をはじめとする一切の諸天・諸菩薩の総称。法華経の行者を守護し、民衆・国土を守り、福をもたらす働きを持つ。安楽行品には「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」とあり、法華経の行者の守護を誓っている。立正安国論には「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-12)とあり、世の人々が正法に背く時には、善神は法味に飢えて守護の国土を捨てて天界の本地に戻ってしまい、その代わりに神社・仏閣には悪鬼・魔神が住んで、種々の災禍が起こる。
―――
真言
 真言宗の事。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
―――

 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
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 戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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大鬼神
 鬼神の中でも大変暴悪なものや、神通力などの能力が大きいものをいう。鬼神とは、目に見えない超人的な力を有する働きをもつものに付けられた総称。仏法では夜叉・羅刹などをさす。人の功徳・生命を奪い、蝕む働きをする悪鬼神のこと。
―――
飢饉
 農作物が不作で食物が著しく不足して、人々が飢え苦しむ状態。飢とは穀物が実らないこと、饉は野菜等が生育しないこと。
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蒙古
 13世紀初め、ジンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・韓・朝鮮半島から、西はロシアを包含する広大な地域を征服し四子に領土を分与し、後に四汗国が成立した。中国では五代フビライが1271年に国号を元と称し、1279年に南栄を滅ぼして中国を統一した。日本には文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。要求を斥ける日本に対し、蒙古は文永11年(1274)・弘安4年(1281)の二回にわたって大軍を送ってきた。
―――
三災
 ①壊劫の時に起こる火災・水災・風災の「大の三災」と、②住劫の中の減劫に起こる穀貴・兵革・疫病の「小の三災」がある。「小の三災」のこと。は正法を迫害することによっておこる災害でもあり、大集経巻二十四には「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし。一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。穀貴とは五穀の価が上がること。兵革とは戦争のこと。
―――
日蓮聖人の勘文
 勘文とは通常勘状といい、朝廷や幕府の諮問に対して、需家などが歴史の先例や故実を考えて意見を述べた書をいう。日蓮大聖人の場合は文応元年(1260)7月16日、北条時頼への立正安国論の提出、文永5年(1268)10月11日、北条時頼・平左衛門尉他に、11通御書の提出、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉に対する一昨日御書を与えるなどがある。
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関東の三代
 関東とは鎌倉幕府のことで、三代とは5代執権・北条時頼、6代・北条長時、8代・北条時宗をさす。
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阿闍梨
 梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。
―――
遺状
 後世に残された書状。(日蓮大聖人が遺された御書を意味する)
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立正安国論
 文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――――――――
 本抄は正応元年(1288)12月16日、日興上人43歳の時、身延の地から原殿に与えられた書簡である。前掲の美作房御返事を書かれてから4年後の書ということになる。全体の内容は、一言でいって日興上人が身延離山を決意された事情と心境を述べられたものとなっている。
 初めに波木井実長の心変わりに触れ、次いで鎌倉における大聖人門下の謗法を明確にし、さらには身延の地頭・波木井実長の謗法に言及し、日興上人が教戒しても耳を貸さず、ついに身延を離山せざるをえなくなった心境と、さらなる正法護持への決意を述べるという展開になっている。なお、原殿については波木井家の一族で、原の御牧あたりに住んでいた人と考えられるが詳細は不明である。
 だが、本抄に「君達は何れも正義を御存知候へば悦び入って候。殊更御渡り候へば入道殿不宣に落ちはてさせ給い候はじと覚え候」(1734-01)との一節があり、ここでの「君達」を波木井実長の子息たちと考えるのが妥当であるとすると、子息たちが「正義」、すなわち、大聖人の仏法の正統な信心を堅固に守っていることを喜ばれるとともに、それによって波木井実長殿も地獄に堕ちることはないと励まされているから、原殿が波木井氏の子息のだれかを指している可能性は高くなる。
 実長の子息には次郎、弥三郎、三郎、弥六郎の4人がいたとされており、その中で、本抄の御執筆された正応元年(1288)に「君達」と呼ばれるにふさわしい年齢のものとなると、弥六郎しか見当たらないところから、原殿は弥六郎を指す可能性が強いということになるが、あくまでも推測にすぎない。
 さて、冒頭では、原殿から届けられた手紙への礼を記されたあと、「抑此の事の根源は」と初めから身延離山の問題について述べられていることから、原殿がこのことに関して質問したことに対する返事とも考えられる。
 おそらく波木井実長は次男の南部弥三郎を日興上人のもとに遣わして念仏無間地獄という理由について改めて聞きただしたのであろう。
 この質問の背景には波木井氏が大聖人の仏法に帰依する以前は浄土宗を信仰していたこと、また、念仏信仰への執着が残っており、大聖人御在世中は我慢してきたが、鎌倉の日昭・日朗、さらには身延に戻ってきた日向の話から、必ずしも厳格に禁ずる必要がないのではないかと考えはじめていたことがあろうか。
 当然のことながら、実長は大聖人から5編の御書を与えられており、念仏無間地獄の理由や権実相対の法門などについては十分御教示されていたはずである。特に六郎実長御消息には念仏無間地獄について詳細に説かれており、恒長は実長のことといわれるが、同抄がたとえ実長自身にあてられたものでなく、その長子に与えられたものであったとしても、十分知っていてよいはずである。
 にもかかわらず、子息を介して日興上人に念仏無間の質問をしているところをみると、波木井氏の理解の浅さが分かるし、以前の念仏信仰をきっぱりと捨てきれなかった頑迷さがあったのであろう。
 それにとどまらず「此の国に守護の善神無しと云う事云わるべからず」、すなわち謗法の日本国に守護の諸天善神が存在しないという、いわゆる“神天上法門”を否定する言葉を実長が述べていることを弥三郎から聞かれた日興上人が、波木井実長の心変わりとして驚かれた様子が「御心替らせ給い候かとはつと推せられ候」との文に見てとれる。そもそも波木井実長を化導したのは日興上人であり、こんなことは何度も言ってこられたことだからである。
 「此の国をば念仏・真言・禅・律の大謗法故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほくらには大鬼神入り替って、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含まれ候い畢んぬ。此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ。国の為、世の為、一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として、大慈悲を以て 身命を惜しまず申され候いきと」の一文は、日本は謗法の国になってしまっているため諸天善神が捨て去って、大鬼神が入れ替って居座っている結果、国に飢饉・疫病・蒙古襲来の災難が連続して起こり、国が滅亡しようとしているのであるとの大聖人の教えを改めて説明され、大聖人は国のため、世のため、一切衆生のために大慈悲から命をかけてこれを叫ばれたのであると言ってきかせたのであった。
 弥三郎が波木井実長から、問うようにと託された念仏無間の理由と守護の善神は日本国を去っていないとする見解の二点のうち、弥三郎は「念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ」とあるように、念仏無間の件は納得したようであるが、「守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審末だ晴れず候」とあるように、後者の件は疑念を残したままになっていたようである。
 守護の善神が謗法の国を捨て去るという立正安国論の基本精神を波木井氏をはじめその子息の弥三郎までが信じきれなかったのには背景があり、それが「鎌倉に御座し御弟子」に始まる文に見える守護の善神をめぐる鎌倉在住の弟子と身延山在住の弟子との意見対立であった。
 すなわち、鎌倉の弟子たちは諸天善神は日本国を守っているのであるから、神社に参詣すべきであるとするのに対し、身延在住の日興上人の弟子たちはいうまでもなく善神は日本国を捨て去っているとする立場であった。
 このように相反する主張の間に立って、どちらが正しいかは「日蓮阿闍梨は入滅候。誰に値ってか実否を決すべく候」と実長は弥三郎を介して日興上人に尋ねさせた。これに対して日興上人は「師匠は入滅し候と申せども其の遺状候なり。立正安国論是なり」と、立正安国論に照らせば、善神は謗法の日本国を捨て去っているというのが大聖人の教えであり、しかもこれは幕府の三代にわたる執権に対しても明らかにされたことだから、その後、変わることはあり得ないと答えられたが、弥三郎の心中はすっきりしないまま日興上人のもとから帰っていったと記されている。

1731:12~1733:06 第二章 実長を晙した民部日向の謗法を破すtop

12                                             是れと申し候は此
13 の殿三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いし間、 夜半に出で候いて、 越後坊を以ていかにこの法門安国論の
14 正意、日蓮聖人の大願をば破し給うべき、 御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して、 永く留め進らせし事を
15 入道殿こし召され候いて、 民部阿闍梨に問はせ給い候いける程に、 御返事申され候いける事は、 守護の善神此
1732
01 の国を去ると申す事は、 安国論の一篇にて候へども、 白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて
02 候。法華の自者参詣せば、 諸神も彼の社檀に来会すべく、尤も参詣すべしと申され候いけるに依って、 入道殿深
03 く此の旨を御信仰の間、 日興参入して問答申すの処に、 案の如く少しも違わず民部阿闍梨の教なりと仰せ候いし
04 を、白蓮此の事は、 はや天魔の所為なりと存じ候いて少しも恐れ進らせず、 いかに謗法の国を捨てて還らずとあ
05 そばして候守護神の御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、 師敵対七逆罪に候はずや。 加様にだに
06 候はば、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候はば、 其の科日興遁れ難く覚え候。 今より以後かかる不法の学頭をば擯
07 出すべく候と申す。
-----―
 これというのも、この南部弥三郎殿が三島神社に参詣されるようであると聞いたので、夜中に、越後坊を遣わして、「この神天上法門は立正安国論の正意であり、日蓮聖人の大願であるのに、どうしてこれを破られるのか。このことをご存知ないのか」と言って永らく思い留めさせたのである。これを波木井入道殿が聞かれて、民部阿闍梨日向に質問された。そのご返答は「守護の善神がこの国を去るということは、立正安国論の一篇には説かれているけれども、白蓮阿闍梨日興は外典読みに、一面的に読んで、究極の法理を知らないのである。法華経を持つ者が神社に参詣すれば、もろもろの神もその神社に来るのであり、当然参詣すべきである」と言われた。それによって波木井入道殿は、深くこの旨を信じてしまわれたので、日興が入道殿の邸に参上して話し合ったところ、案の定、「その通り民部阿闍梨日向が教えたのである」と答えられた。
 日興は、このことは、もはや天魔の仕業であると考えて、少しも恐れることなく申したのである。「『ゆえに善神は国を捨てて相去り』と仰せになっている。この国の守護人である日蓮大聖人の弟子である民部阿闍梨日向が『法華の持者が神社に参詣するたびに諸天善神は来る』と言うのは、まさしく師に敵対する重罪であり、七逆罪に当たるではないか。このような誤りを言うのであれば、民部阿闍梨日向の考えに日興が従うならば、日興もその重罪を逃れることはできないと思う。今より以後は、このような謗法の学頭は、追放しなければならない」と申した。
-----―
08   やがて其の次に南部郷の内福士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候。 以ての外の僻事に候。総じて此の二十
09 余年の間、 持斎の法師影をだに指さはらざりつるに、 御信心何様にも 弱く成らせ給いたる事の候にこそ候いぬ
10 れ、是れと申すは彼の民部阿闍梨、 世間の欲心深くしてへつらひ諂曲したる僧、 聖人の御法門を立つるまでは思
11 いも寄らず大いに破らんずる仁よと、 此の二三年見つめ候いて、 さりながら折折は法門説法の曲りける事を謂れ
12 無き由を申し候いつれども、 敢えて用いず候。 今年の大師講にも啓白の所願に天長地久御願円満、左右大臣、文
13 武百官、各願成就との給い候いしを、 此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、 争でか国恩をば知り給
14 はざるべく候とて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき。
-----―
 それから間もなく、続いて波木井殿が南部郷内に念仏福士の塔を供養し寄進した。これは、とても容認できない誤りである。
 総じて、この二十余年の間、持斎の法師などは波木井の領内には影すら見させなかったのに、波木井実長の御信心がいかに弱くなられたから、こんなことになったのであろう。
 これというのも、あの民部阿闍梨日向は、世間的欲望が深くて、世間にへつらい、正義を曲げた僧で、大聖人の御法門を世に立てることなど思いもよらず、大いに破る者であると、この二・三年の間、見つめてきたが、それでも折に触れては、日向の説く法門が誤っていること、根拠のない、いい加減な内容であることを指摘してきたが、それを日向は聞き入れようともしなかったのである。
 今年十一月の天台大師講の折も、そこで申し述べる祈願の中で日向は「天皇のもとで天地の末永き平穏無事と、天皇の願いが成就すること、左右の大臣・文官・武官等のそれぞれの願いが成就するように」という願いを述べた。それに対して日興は「この祈りは、今は行ってはならない」と、再三にわたって注意したのに、日向は「どうしてあなたは国の恩をお知りにならないのか」と言って、止めることを聞かなかったので、日興は、今年は問答講を行わなかったのである。
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15   此れのみならず 日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へ
16 ども、末だ木造は誰も造り奉らず候に、 入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、 御用途も
17 候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、 其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、 固く其の
18 旨を御存知候を、 日興が申す様は、 責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。 それも其の仏は上行等の脇
1733
01 士も無く、始成の仏にて候いき。 其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。 なにのほしさに第二転の始成無常
02 の仏のほしく渡らせ給へ候べき。 御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、 聖人の
03 文字にあそばして候を御安置候べし。 いかに聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をば 最前には破し
04 給うべきと、強いて申して候いしを、 軽しめたりと思食しけるやらん。 日興はかく申し候こそ聖人の御弟子とし
05 て其の跡に帰依し進らせて候甲斐に、 重んじ進らせたる高名と存じ候は、聖人や入替らせ給いて候いけん、 いや
06 しくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諌め進らせぬる者かなと自讃してこそ存じ候へ。
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 それだけではない。日蓮大聖人の御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成の如来の画像は、一人・二人は書き奉ったことはあるけれども、いまだ釈尊の木造は、誰も造ってはいないのに、波木井入道殿が「微力ながら釈尊の木像をその形の通りに造立したい」と思い立たれたのを、何の使いみちもないのに、民部日向が「大国阿闍梨日朗が奪い去った大聖人随身の一体仏の代わりに、それと同じような一体仏を造られたらよかろう」と教えたので、波木井実長は固くその考えにとらわれてしまった。それに対し日興は「せめて亡き大聖人が安置されていた仏であるならまだしもである。それにつけても 上行菩薩等の脇士も無く、始成正覚の仏にすぎなかった。その上、その立像仏はすでに大国阿闍梨日朗が持ち去ってしまっている。それなのに何のいわれがあって、それを写した始成正覚・無常の仏像が欲しいと思われるのか。本来あるべき仏像を造立することが、あなたの力ではかなわないのなら、御子孫の中で造立する人が出てこられるまでは大聖人が文字にしたためられた御本尊を御安置すべきである。どうして、大聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をいちばん先に破るのか」と強く申し上げたのを「自分が軽んじている」と思われたのであろう。
 日興は、このように申し上げたことこそ、大聖人の御弟子として、その跡を継がせていただいている立場の上から、波木井殿を甲斐国の重鎮として重んじて申し上げた、誉れある行為であったと自負していることは、大聖人が我が身に入り替わっておられるのであろうか。
 仮にもへつらい曲げることなく、ただ経文の通り、大聖人の仰せられた通りに、諌めることができたものだと、自らほめてこそいるのである。

三島の社
 静岡県三島市伝馬町にある神社。治承4年(1180)に源頼朝が平家追討の挙兵に当たって戦勝を祈願して以来、鎌倉幕府の崇拝を受け、伊豆山神社とともに二所詣でとして、毎年正月、将軍自らが参詣した。
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越後坊
 (1239~1311)日蓮大聖人の門下で、日興上人の直弟子・越後坊日弁のこと。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷(山梨県山梨市牧岡町か?)の人で、富士郡下方荘熱原郷市庭寺(静岡県富士市伝法)の天台宗の寺院・滝泉寺の僧であったが、日興上人の富士弘教により、日秀・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導していたので、院主代・行智の迫害を受け、ここが熱原法難の因となった。この時、日秀と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。後に下総の日頂のもとに移った。富木殿女房尼御前御書には「さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ」(0990-04)と述べられている。その後日弁は上総・奥州地方まで布教したと伝えられているが、日興上人の弟子分帳には「背き了んぬ」とあることから、滅後の弘安年中には退転しているようである。晩年には富士に帰したともあるが明瞭ではない。
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民部阿闍梨
 (1253~1314)。日向のこと。佐渡阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。
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守護の善神
 諸天善神のこと。梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩・四天王をはじめとする一切の諸天・諸菩薩の総称。法華経の行者を守護し、民衆・国土を守り、福をもたらす働きを持つ。安楽行品には「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」とあり、法華経の行者の守護を誓っている。立正安国論には「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017-12)とあり、世の人々が正法に背く時には、善神は法味に飢えて守護の国土を捨てて天界の本地に戻ってしまい、その代わりに神社・仏閣には悪鬼・魔神が住んで、種々の災禍が起こる。
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白蓮阿闍梨
 (1246~1333)日興上人のこと。字名は伯耆房、号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
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外典読み
 外典とは、仏教以外の典籍のこと。外典読みとは文字面のみにとらわれた読み方をいう。
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天魔の所為
 魔とは天子魔のこと。第六天の魔王より起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をもって仏道修行を妨げようとする働きのこと。他化自在天ともいい、仏教そのものを破壊しようとする最も強力な魔。所為とは行い・仕業。為すところの意。
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謗法
 誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
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謗法の国
 誹謗正法が充満している国土。
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師敵対
 師は師匠。弟子が師匠の教えに違背して、敵視して逆らうこと。仏法では、法を説き衆生を正しく導く仏・菩薩に反逆することをいう。
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七逆罪
 五逆罪に殺和尚・殺阿闍梨を加えて七逆罪という。すなわち、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧・殺和尚・殺阿闍梨のこと。
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帰依
 帰投依馮して救護を請うこと。尊者・勝者にみをゆだね、よりどころとすることをいう。信伏随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とされる。転じて、ある人の教えや主張を認め、同調すること。
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不法の学頭
 不法とは、仏法の正義に背く道に外れた行い。謗法のこと。学頭とは、神社に置かれた職、一宗の学事に関することを統領する地位。僧侶教育の要職。すなわち不法の学頭とは、日興上人に背輩した身延山久遠寺の学頭、民部日向のこと。
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南部郷
 甲斐国巨摩郡波木井(山梨県南巨摩郡身延町)以南の総称。
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福士の塔
 福士は甲斐国南部郷内(山梨県南巨摩郡)の一つの地名。奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展し、山中、山麓に道場が建てられ、記念の石碑が建立された。
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供養の奉加
 供養とは、供給資養の義で、供給・供施・香華・燈明・飲食・資財等を仏法僧の三宝に供給すること。奉加とは、仏堂・伽藍などの造営のため財物を施し助成すること。何に対しての供養かが根本となる。
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僻事
 道理にあわないこと。事実と違っていること。
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持斎の法師
 斎戒を持った法師。法師とは僧侶のこと。斎は心の不浄を清めること、戒は身の過ちを戒めること。斎戒を持つ諸宗の僧侶のことをいう。
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世間の欲心
 金銭や物、地位、名誉、権力などに対する世間的欲望。
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諂曲
 自分の意思をまげてこびへつらうこと。弱者に対しては驕り高ぶり、強者に対しては、こびへつらう修羅の本性をいう。世間的欲望や恐れから正義を尊ぶ心を捨てて強者や世間の意思に従うこと。
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大師講
 天台大師の命日である11月24日に営まれた法会のこと。日蓮大聖人も行われたが、これは一往、天台大師の報恩謝徳のため、再往は法華経・摩訶止観を講ずる中に正法弘通を図るとの意があるのである。
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天長地久御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就
 正応元年(1288)11月24日に身延山で行われた天台大師講で、民部日向が勝手に行った国禱。天地長久は天が長く地が久しいこと。天は君主、地は民を意味し、君主が健康で長生きし、国に平和・繁栄が続くこと。平穏の願いが満たされ、左右の大臣をはじめ、文官・武官もろもろの役人の願いが成就するように祈った。大聖人はこのような国禱は行われていない。日向はその恒例を破棄した。
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左右大臣
 左大臣・右大臣のこと。律令制の太政大臣と共に太政官の長官。左大臣は太政大臣の次、右大臣の上に位し、諸般の政務の統括をした。右大臣は左大臣の次に位し、政務を統轄した。
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文武百官
 文武とは、行政と軍事のこと。百官とは、諸々の官吏・役人。
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国恩
 国家社会から受けている恩のこと。
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問答講
 天台大師講の席で、仏法の法理を問答形式で講義すること。
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御出世の本懐
 仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
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教主釈尊
 一代聖教の教主である釈尊のこと。教主は教法の主導の意で、教法能説の仏をいう。日蓮大聖人のこと。
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久遠実成の如来の画像
 久遠実成の釈尊とは法華経如来寿量品で五百塵点劫成道の本地を顕した釈尊をいう。この釈尊は爾前経および法華経迹門までの始成正覚の仏を破している。画像とは絵画に書いた仏・菩薩のことである。大聖人仏宝においては、画像・木像の本尊は用いない。唱法華題目抄には「法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても 法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(0012-12)とある。
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大国阿闍梨
 (1245~1320)日朗のこと。筑後房ともいう。寛元3年(1245)4月8日、下総国海上郡能出(千葉県匝瑳市能手)に生まれ、幼名を吉祥麿といった。父は平賀二郎有国といい、平賀千家の一族で、母は因東祐昭の女、有国の没後、平賀忠晴と再婚し、日像・日輪をもうけている。日朗は建長6年(1254)、10歳の時、父の有国と共に日蓮大聖人に会って帰依し、日昭のもとで得度した。文永8年(1271)9月の竜の口法難の際には日心と共に土牢に投ぜられ、日蓮大聖人から10月3日に五人土籠御書を、10月9日には土籠御書を頂いている。弘安2年(1279)10月20日、大聖人は日朗・池上宗仲両人に対して両人御中御書御書を与えられている。大聖人御入滅後は、日興上人に違背し、大聖人の墓所輪番制にも応ぜず、100ヵ日忌法要の時、身延に登山したものの、御廟所の立像仏を持ち去っている。弘仁6年(0813)7月ごろに池上に長栄山本門寺を建立、大聖人を開山として自らは第2代となった。同8年(1285)天台沙門と名乗って公所に申状を提出し、師敵対の行為をとった。また、延慶2年7(1309)1月に四長四本山を一寺としている。晩年に至って富士に来山したことが五人所破見聞に記されている。文保2年(1318)10月23日に、本迹口決を竜華院日像に送り、元応2年(1320)1月21日、池上にて死去。その後日朗門下は池上本門寺と鎌倉比企ヵ谷妙本寺を中心に弘教した。日朗門下には日像を中心に日輪・日善・日範・日伝・日印・日行・日澄・朗慶等がいる。「本迹見聞如天甘露抄」「五時系図」「本尊明鏡抄」等の著作がある。大国阿闍梨は日朗の号。
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聖人安置の仏
 日蓮大聖人が伊豆の伊東に流罪中に、地頭の伊東八郎左衛門より献上されたという一体仏のこと。裕光の重病が大聖人の病気平癒の祈願により完治したことに対するお礼として大聖人に捧げられたもの。大聖人は一生涯所持され、御入滅後には御墓所の傍らに安置するよう遺言された。
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上行等の脇士
 上行とは上行菩薩のこと。涌出品で大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は神力品で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱した。寿量文底の立場からいえば、上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。脇士とは、仏像等の配置で、本尊の両脇に侍する仏や菩薩の事。法華経文底の釈尊の脇士は釈迦・多宝の二仏、地涌の四菩薩である。
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始成
 始成正覚の略。釈尊がインドに応誕し19歳で出家し、30歳ではじめて成道したことをいう。
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南無妙法蓮華経の教主の木像
 教主とは教法を説く主尊。木像とは木で造った像。聖人や仏・菩薩の形像を木に刻んだもの。南無妙法蓮華経の教主とは日蓮大聖人のこと。すなわち大聖人の文字曼荼羅をさすが、波木井実長が釈迦仏の像を造ることを制止するために、御本尊を木像にたとえたもの。
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甲斐
 ①ある行為に値するだけのしるし、効果。②ある行為と代わり得る価値があること。
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 ここでは地頭・波木井実長を心変わりさせ数々の謗法を犯させた元凶が、本弟子の一人・民部日向の謗法にあることを指摘され破折されている。波木井実長の謗法行為を具体的に四項目挙げられている。
 その第一は「是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いし間」とあるように「此の殿」すなわち波木井実長の次男・弥三郎が三島神社に参詣しようとしていたことである。
 これは富士一跡門徒存知の事で、実長の謗法を四ヶ条挙げる中の「聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二」(1602-17)との一項にあたる。
 つまり、大聖人が身延におられた9ヵ年間は大聖人が禁じられていたので箱根権現と伊豆権現の二所や三島神社への参詣を停止していたが、大聖人が入滅されると、実長の次男・弥三郎を三島神社へ参詣させようとしたり、実長自身も三島神社や二所の参詣を行い始めたのであろう。
 これに対して、日興上人は本文にもあるように、「越後房」すなわち日興上人の直弟子・日弁を遣わして弥三郎に神社参詣の行為は大聖人の安国論の精神や大願を破るものであるからやめるべきであると諭した。すると、父の実長入道がこれを聞いて、民部阿闍梨日向に問い合わせたところ、日向は白蓮阿闍梨の安国論理解は「外典読み」であるから究極の意味を理解していないのだと批判し「法華の自者参詣せば、諸神も彼の社檀に来会すべく、尤も参詣すべし」と神社参詣を容認する返事をしたのである。つまり、法華経の行者が神社を参詣すれば、法華経の行者のもとには諸天善神が集まってくるのだからよいというわけである。
 これに対して、日興上人が波木井実長に直接会って問いただすと、たしかに日向がそう言ったとゆうことなので、これは「天魔の所為」であると思い、日蓮大聖人は「ゆえに善神は国を捨てて相去り」(0017-12)と言われていうのに、民部阿闍梨が「法華の自者参詣せば、諸神も彼の社檀に来会すべく」などと言っているのは師敵対であり七逆罪であると厳しく指摘されたのである。
 そして「加様にだに候はば、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候はば、其の科日興遁れ難く覚え候」と、そのように大聖人の正意とは反することを言っている日向をそのまま学頭として認めていったとすれば、日興上人自身も、大聖人への師敵対の罪を免られなくなるとされ「今より以後かかる不法の学頭をば擯出すべく候」と述べられ、学頭を今後は追放するとまで言い切っておられる。
 次いで、波木井実長の第二の謗法は「南部郷の内福士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候」とあるもので、富士一跡門徒存知の事では「一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三」(1602-18)と記されたものと同じである。
 福士というのは、南部の郷内にある地名である。この福士の地は波木井実長の家臣が在住し福士姓を名乗ったという形式があり、おそらく波木井実長はその、家臣との主従関係から同地に建立された搭のため、供養、寄付を行ったものと思われる。この搭が念仏に関連したものか富士の山岳信仰に関連したものかは不明であるが、いずれにせよ釈迦仏や法華経以外のものへの供養であるから謗法であり、日興上人は「以ての外の僻事に候」と断定されている。
 さらに、実長の第三の謗法は「総じて此の二十余年の間、持斎の法師影をだに指さはらざりつるに、御信心何様にも 弱く成らせ給いたる事の候にこそ候いぬれ」というもので、富士一跡門徒存知の事では「次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四」(1603-01)とあるものと同じと考えられる。
 持斉の法師とは、普通は八斉戒を持つ法師で、真言律宗、禅宗、浄土宗いずれにも通じるが、ここは念仏の法師と思われる。つまり、この20数年間、身延の地に姿、影すら現さなかった念仏の僧に対し、波木井実長が供養してしまったことを嘆かれたものである。
 具体的には念仏の僧が九品往生のためとして道場を建立した際に、その一助として実長が竹木を領地の山林から引き出して寄進した行為を指しているものと考えられる。
 これら実長の謗法の背後には、日向の影響があり、この日向の本性について「是れと申すは彼の民部阿闍梨、世間の欲心深くしてへつらひ諂曲したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずる仁よと、此の二三年見つめ候いて、さりながら折折は法門説法の曲りける事を謂れ無き由を申し候いつれども、敢えて用いず候。今年の大師講にも啓白の所願に天長地久御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就との給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、争でか国恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき」と述べられている。
 そのなかの「此の二三年」とは日向が身延に登ってきた弘安8年(1285)の末からのことで、五老僧がすべて身延に参詣にも来ない中で、日向が一人でやってきたのを喜ばれて、日興上人は学頭に任じられたのであったが、身近に観察しているうちに、日向が世欲的な欲望心が強く、世間的強者にはへつらう心の持ち主であることから、大聖人の法門をもり立てるどころか、逆に仏法を破壊してしまう人間であると分かったのであると述べられている。
 そして日向の「法門説法の曲りける事」、法門を曲げて説法している際には折々に注意したが日向は聞き入れなかったとも述べられ、その最たるものは「今年の大師講にも啓白の所願に天長地久御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就との給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、争でか国恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき」とあるように、この年の天台大師講において国家の安泰を祈る啓白文を読んだことである。
 大師講というのは大聖人の御在世中から行われていた天台大師の命日の法要のことであるが、法要後に学頭が法華経や摩訶止観を講義するというのが習わしであった。その際、日向は啓白文の所願の中に「天長地久御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就」との祈り文を記して、これを読み上げたのである。
 大聖人の立正安国論の立場は謗法の他宗による国家安泰の祈りは当然として、たとえ正法の立場にあっても謗法の他宗と並んでの国家安泰の祈りは謗法を容認し与同するものとして明確に否定している。文永11年(1274)4月、平左衛門尉が大聖人に国家安泰の祈りをしてくれるよう求めたのに対し、大聖人は厳然と断り、身延に入山されたのであった。だが日向は大聖人の御教示を無視して、謗法を訶責することもなく、朝廷および幕府の天地長久を祈り、大臣や文武百官の所願の成就を祈ったのである。
 日興上人も再三にわたり、日向に、そのような祈りを行ってはならないと注意したにもかかわらず「争でか国恩をば知り給はざるべく候」どうして国の恩を日興上人は知らないのであろうかと反論し、制止を振り切って国家安泰の祈りを強行したのである。
 最後に、実長の第四の謗法は「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、末だ木造は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候」とあるように、釈迦の如来の木像を造り本尊としようとしたことがそれである。富士一跡門徒存知の事では「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一」(1602-16)とある通りである。
 久遠実成の釈迦如来の画像を書いたものは一・二人はいるが、木像として造ったものは誰もいなかったなかで、波木井実長入道が初めて造ろうとしたと記されている。
 そして、なぜ実長が木像を造ろうとするに至ったかという背景については「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて」とあるように、大国阿闍梨日朗が、大聖人の墓所から持ち去った釈尊立像に対して、民部日向がその立像に代わる釈尊像を造るようにそそのかした結果であると記されている。
 これに対して、日興上人は日朗が持ち去った立仏像がたとえ大聖人の随身の仏であったとしても、「始成の仏」にすぎないのに、さらにその二番煎じの仏を作っても意味はないとされている。一歩譲って釈迦仏の像を造るにしても、本門の釈尊であるためには上行等の四菩薩の脇士とするものでなくてはならない。しかし、実長にはそれだけの力はないのだから「御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし」とあるように、波木井実長の子孫の中で釈尊像を造る人が出るまでは、大聖人の文字曼荼羅を本尊とすべきであると述べ、仏像を造ることを制止された。日興上人の本意が、文字で顕された曼荼羅御本尊こそ正意とされたのは当然である。
 この日興上人の言葉を波木井実長は「軽蔑された」と受け止めたようであったので、日興上人は「申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に帰依し進らせて候甲斐に、重んじ進らせたる高名と存じ候」と述べられ、こさらに、のような勇気が出てきたのは、大聖人が私の身に入り替っておられるから、力のあるあなたにへつらうこともなく、経文の通り、大聖人の仰せの通りにお諌めしているのだ、と述べられている。

1733:07~1734:02 第三章 身延を離山する心境を述懐す
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07   総じて此の事は三の子細にて候。 一には安国論の正意を破り候いぬ。二には久遠実成の如来の木像最前に破れ
08 候。三には謗法の施始めて施され候いぬ。 此の事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、 偏に諂曲したる法
09 師の過にて候へば、 思食しなおさせ給い候いて、 今より已後安国論の如く聖人の御存知在世二十年の様に信じ進
10 らせ候べしと、 改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、 軽しめたり
11 とや思食し候いつらん。 我は民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰せの由承り候いし間、 さては法華経の御信心逆
12 に成り候いぬ。 日蓮聖人の御法門は、 三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候を捨てて、
13 阿弥陀仏を憑み奉るによって、 五逆罪の人と成って無間地獄に堕つべきなりと申す法門にて候はずや。 何を以て
14 聖人の信仰し進らせたりとは知るべく候。 日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、 二代三代の
15 末は知らず、末だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ。
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 総じてこのことには三つの難点がある。一には安国論の正意を破っている。二には久遠実成の如来の木像を真っ先に破っている。三には謗法の布施を初めて行った。
 日興が「これらの事柄は、波木井入道殿御自身に罪があるのではなく、ひとえに諂い曲がった法師の過ちであるから、よく改められ『今より以後は立正安国論に仰せのように、大聖人が承知しておられた在世二十年のように信じてまいります』との改心の誓状を書かれて、大聖人の御影の御宝前におささげしなさい」と申し上げたが、信用なされないばかりか、かえって日興が軽んじたと思われたのであろう「自分は民部阿闍梨日向を師匠にしたのである」と言われたと聞いた。まさに法華経の信心が逆さまになってしまったのである。日蓮大聖人の御法門は、「三界の一切衆生のためには、釈迦如来こそ初めて発心させた本師であるのに、それを捨てて阿弥陀仏を頼みとしたことによって、五逆罪を犯した人となって、無間地獄に堕ちるのである」という法門ではないのか。何をもって、大聖人の仏法を信仰してきたといえるであろうか。
 日興は波木井の上下の人々のためには、初発心の師匠であることは、二代・三代の末の世あるならばいざ知らず、いまだ波木井一族の上の人も下の人も、だれが忘れるであろうかと思っているのである。
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16   身延沢を罷り出で候事、面目なさ、 本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いずくにても聖人の
17 御義を相継ぎ進らせて、 世に立て候はん事こそ詮にて候へ。 さりともと思い奉るに、 御弟子悉く師敵対せられ
18 候いぬ。 日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候はば、 本意忘るること無く候。
1734
01 又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入って候。 殊更御渡り候へば 入道殿不宣に落ちはてさせ給い候はじと覚
02 え候。
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 この身延の沢を立ち退くことは、面目なく、残念さは言葉で言い表されないが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切なことである。
 そうとはいっても、と思いわずらっていたが、大聖人の御弟子はことごとく師敵対してしまった。日興一人が本師・大聖人の正義を守って、広宣流布の本懐を遂げたつるべきその人であると自覚するので、その本意を忘れないのである。あなたがたはいずれも、大聖人の正義をわきまえておられるので、心から喜んでいる。あなた方がわざわざ身延へ行かれるならば、波木井入道殿が、不条理な落ちきってしまわれることはないであろうと思っている。

安国論
 立正安国論のこと。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
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久遠実成の如来の木像(原殿3)
 久遠実成とは、寿量品で釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に、すでに法報応の三身を具えた仏であったことを説き顕したこと。爾前迹門の諸経では釈尊は始成正覚の仏とされるが、法華経本門寿量品では「我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説き、久遠の昔に成道し、一切諸仏を生み出した本仏であると明かす。ここでは、久遠実成の如来とは大聖人を指し、木像とは始成正覚の一体仏に対して木像といわれたまでであり、大聖人御図顕の本門の本尊である。波木井実長は、小乗の釈迦一体仏を造立しようとして、大聖人御図顕の本尊の信仰を破棄した。富士一跡門徒存知の事には「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし 是一」とあり、謗法行為として破折されている。
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謗法の施
 謗法への布施のこと。誹謗とは誹謗正法の略。正法を謗って信受しないこと。また、正法に背き、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。施とは布施のこと。物や利益を施し与えること。大乗の菩薩の修行である六波羅蜜のうち壇波羅蜜。布施には財施・法施など種々の立て分けがある。
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御影の御宝前
 御影は日蓮大聖人の御影像のこと。御宝前はその前の意。御影には大聖人の弟子・日法の造り初めの御影、生御影があり、一体一寸といわれている。
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民部阿闍梨
 (1253~1314)。日向のこと。佐渡阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。
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三界衆生
 三界とは欲界・色界・無色界のことで、生死の迷いを流転する六道の衆生をいう。その衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界のこと。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは、欲望と物質を超越した純然たる精神の世界のことで天界のうち四空処天をいう。
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釈迦如来
 釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
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初発心の本師
 初発心とは、初めて仏道を求める心を発すこと。本師とは①本従の師。衆生にとって初めて仏道の心を起こさせてくれた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法では久遠元初の自受用法身如来。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
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阿弥陀仏
 梵語アミターバ(Amitāābha)の音写で、無量光仏、無量寿仏と訳す。娑婆世界には縁のない西方極楽世界の教主。
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五逆罪
 理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
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無間地獄
 八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(Avici)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
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身延沢
 山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。この身延山と鷹取山のはざまを身延沢という。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
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 ここでは、まず「此の事は三の子細にて候」と述べられ、先に挙げられた波木井実長の四つの謗法を「三つの仔細」にまとめられている。その関係は次のようになる。
 「一には安国論の正意を破り候いぬ」というのは諸天善神が捨て去ったために神社は悪鬼魔神のすみかとなっている故、参詣してはならないとする安国論の精神をやぶることになるとの意で、実長の犯した三島神社への参詣と持斉法師への供養、福士の搭への供養奉加の三つの謗法が相当する。
 次いで「二には久遠実成の如来の木像最前に破れ候」というのは釈迦仏像の木像造立に相当する。実長の造ろうとした木像が「始成の仏」であるが故に、末法に大聖人が立てられた久遠実成の木像を真っ先に破壊してしまっているからである。
 「三には謗法の施始めて施され候いぬ」と言うのは、三島神社への参詣・福士の搭への供養、持斉の法師への供養の三つの謗法が相当する。
 こうして、実長の謗法を三点にまとめられた後「此の事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、偏に諂曲したる法師の過にて候へば」と述べられ、これらの謗法は実長入道の過失ではなく、ただただ世にへつらった民部日向の過失であることを指摘され、今後は安国論の通り大聖人の御在世の時のように信じていくことを「改心の御状」として記し、これを大聖人の御宝前にささげなさい、と実長に進めたが、実長はうけつけようとせず「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」とのべたことを記されている。
 このような、民部日向を師とする実長の在り方は「法華経の御信心逆に成り候」とあるように、法華経の信心を逆さまにしていると破られている。逆さまという所以は、自分を仏道へと導いてくれた本来の師を根本にするのが「法華経の御信心」であり、だからこそ法華経は久遠以来の釈尊の化導を明かし、釈尊の信仰を根本とすることを教えたのである、従って、その釈迦如来を捨てて阿弥陀仏を信仰することは、まさにその「逆さま」であり、五逆罪の人となって無間地獄に堕するということである。
 波木井氏が根本の師とすべきは日蓮大聖人であるはずである。しかも、日興上人と波木井実長との関係からいっても「日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、二代三代の末は知らず、末だ上にも下にも誰か御忘れ候べきとこそ存じ候へ」と述べられているように、波木井実長の上下一族を大聖人の仏法に帰依させた結縁の師は日興上人である。
 しかるに、日興上人よりも日向を師とするなどと言い、大聖人の教えに平気で背こうというのは、まさに「法華経の御信心逆に成り候」なのである。
 次に「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候はば、本意忘るること無く候」と身延の地を去らざるを得なくなったことへの無念の思いを記されている。身延の地頭であり久遠寺の大檀那である波木井実長が謗法を犯して反省しようともせず「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」とうそぶいている中で、これ以上、身延にいては日蓮大聖人の正法を清純に守りつたえることはできないからである。
 日興上人は正法を守り通すことはできたとしても、未来の弟子たちが毒されていることはさけられないとのお気持であろう。
 日蓮大聖人が晩年を過ごされた地を去らなければならなくなったこと、日興上人が教化された波木井実長を改心させられないでいることを「面目なさ、本意なさ」と仰せられたのである。
 しかし「打還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ」と仰せのように、大聖人の仏法を受け継いで世に広めることが肝要せあって、身延の地にこだわるべきではないと思い直しておられる。
 しかしそうではあるけれども、なお思いきれないものもあるが、今や、大聖人の弟子達がみな師敵対する中で、日興上人一人が大聖人の正義を託された以上は、しっかり守って本懐を遂げる以外にないとの自覚と決意のほどを披露されている。
 この段落の最後に「又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入って候。殊更御渡り候へば入道殿不宣に落ちはてさせ給い候はじと覚え候」と述べ、波木井実長の子息たちが大聖人の仏法の正統なる信心をたもっていることへの喜びを述べられるとともに「殊更御渡り候へば」と、息子たちが身延へ足を運んで波木井実長に会い、説得することに希望をつながれている。

1734:03~1735:04 第四章 再び民部日向の不法行為を責むtop

03   尚民部阿闍梨の邪見奇異に覚え候。 安房の下向の時も入道殿に参り候いて、外典の僻事なる事再三申しける由
04 承り候。 聖人の安国論も外典にてかかせ渡らせ給い候。 文永八年の申状も外典にて書かれて候ぞかし。其の上法
05 華経と申すは漢土第一の外典の達者が書きて候間、 一切経の中に文詞の次第目出度とこそ申し候へ。 今此の法門
06 を立て候はんにも、 構えて外筆の仁を一人出し進らせんとこそ思進らする事にて候いつれ。 内外の才覚無くして
07 は国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候。総じて民部阿梨の存知自然と御覧じ顕さるべし。
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 なお民部阿闍梨日向の邪見は、奇異に覚える。安房に向かった時にも、波木井入道殿のところに行って、外典を読むことは誤りであると、再三にわたり語っていたと聞いている。しかし、大聖人の立正安国論も外典を用いて著されている。また、文永八年に著された一昨日御書も、外典を用いて書かれているのでる。
 その上、法華経という御経は中国第一の外典に優れた者によって翻訳されたので、一切経の中でも文章、言葉が最高に優れていると言われているのである。
 今、この大聖人の法門を立てて流布するにも、ぜひとも外典の達人を、一人は出すことが必要だと考えているのである。仏法の経典にも、仏典以外の典籍にも通じた学識がなければ、国も平和に治まらず、正法を立てることが難しいのが道理である。慨して民部阿梨の考え方を、ありのままにご覧になり、明らかにされるべきである。
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08   殊に去ぬる卯月朔日より諸岡入道の門下に候小家に篭居して、 画工を招き寄せ曼荼羅を書きて、同八日仏生日
09 と号して、 民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、 入道其の心中を知
10 って妻子を喚び出して酒を勧むる間、 酔狂の余り一声を挙げたる事、 所従眷属の嘲弄口惜しとも申す計りなし。
11 日蓮の御恥何事か之に過ぎんや。 此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。此の事をば只入道殿には隠し進む
12 らせては候へども、 此くの如き等の事の出来候へば、 彼の阿闍梨の大聖人の御法門継ぎ候まじき小細顕然の事に
13 候へば、 日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり。 同行に憚りていかでか聖人の御義をば隠
14 し候べき。 彼の阿闍梨の説法には、定めて一字も問いたる児共の日向を破するはとの給い候はんずらん。 元より
15 日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが 還って失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか。 何よりも
16 御影の此の程の御照覧如何、見参に非ざれば心中を尽し難く候。恐恐勤言。
17       一二月一六日                    日興  判
1735
01     進上 原殿御返報
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 特に去る四月一日から、日向は諸岡入道の邸内にある小家に閉じこもり、画師を招き寄せて曼荼羅を書かせ、四月八日には仏の誕生日と称して諸岡入道の室内において一日一夜の説法をして布施を出させて抱き取ったばかりか、酒を出させて興じた。この時、諸岡入道がその心を案じて妻子を呼び出して酌をさせたところ、酒に酔ったあまり大声を挙げるなど、諸岡入道の一族から嘲り笑われたことなど、実に情けないことこの上ない。師匠の日蓮大聖人の御恥として、これ以上のものはないではないか。
 このことは世間では隠れもなく、人々が皆、知っていることである。このことは、ただ波木井入道殿には隠し言わなかったけれども、このような事態が起こったからには、もはや、あの民部阿闍梨が大聖人の御法門を後継することなどできない事実は明らかであるから、日興が、あの民部阿闍梨日向を切り捨てたことを、原殿に知らせるために申したのである。
 共に同じ修行をしてきた者だからといって遠慮して、どうして大聖人の御義を隠してよいであろうか。日向阿闍梨は説法の折に「一字すらも日向に聞いてきた子供あった日興が日向を破折するなどとは」などとおっしゃることであろう。
 もとより、日蓮大聖人の正義に違背する師匠たちを捨てないのが、還って科になるというのがこの法門であることを御存知であろう。
 何よりも大聖人の御影は、このほどのことを、どのように照覧なされているであろうか。対面して話すのでなければ、心のうちを言い尽くすことはできない。恐恐勤言。
       一二月一六日                    日興  判
     進上 原殿御返報
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02   追って申し候。 涅槃経第三第九二巻御所にて談じて候いしを、 愚書に取具して持ち来って候。聖人の御経に
03 て渡らせ給い候間、 慥かに送り進らせ候。 兼ねて又 御堂の北のたなに 四十九院の大衆の送られ候いし時の申
04 状の候いし、御覧候いて便宣に付し給うべくや候らん。見るべき事等候。毎事後信の期して候。恐恐。
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 追申。涅槃経の第三巻・第九巻の二巻を、あなたの家で講義した際に、わたしの書物と一緒に持ってきました。これは大聖人の御経であるから、確かにお送りしました。
 またもう一つ、持仏堂の北の棚に「四十九院申状」があったが、ご覧の上、便りがあった時にお送りいただけまいか。見ておきたいことがある。その他のことは、またの便りにしたい。恐恐。

民部阿闍梨
 (1253~1314)。日向のこと。佐渡阿闍梨ともいう。俗姓は小林(他説もある)安房国長狭郡尾金(千葉県館山市)の人。建長5年(1253)2月に生まれ、文永元年(1264)秋、日蓮大聖人にお会いして13歳で得度した。建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人の清澄寺時代の師、道善房の死去に際し、名代として清澄寺に派遣され、報恩抄を墓前で読んでいる。弘安3年(1280)には、大聖人の法華経講義を聞いて御講聞書を書く。なおこの年の5月に御本尊を授与されている。弘安8年(1285)大聖人の3回忌を過ぎてから身延に登り、日興上人にから学頭に補せられた。しかし鎌倉の軟風に染まった日向は、大聖人以来の謗法厳誡を我見で判断し、これに影響された地頭・波木井実長は四箇の謗法を犯して、日興上人の再三の戒めも聞かず、身延離山の原因を作った。弘安11年(1288)には諸岡入道のもとで絵漫荼羅を書かせている。また、正安2年(1300)には下山光長が像立した一体仏の開眼供養を修し、正安4年(1302)には鎌倉名越において本迹勝劣について天目と対論している。正和2年(1313)に上総国藻原(千葉県茂原市)に移り、翌3年(1314)9月3日没。62歳。「天目日向問答記録」「高祖一期行状日記」等の著述がある。
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邪見
 仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。
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安国論
 立正安国論のこと。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
―――
文永八年の申状
 一昨日御書のこと。文永8年(1271)9月12日に著され平左衛門尉頼綱にあてられた書状。対句等を多く用いた格調高い漢文で書かれている。内容は文応元年(1260)に著された立正安国論の趣旨を通して出家の真実を説き、予言的中を示して、為政者のとるべき姿勢を教えている。
―――
法華経
 釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
 現存しない経
  ①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
  ②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
  ③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
 現存する経
  ④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
  ⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
  ⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
 このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている
 説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
―――
漢土
 漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
―――
第一の外典の達者
 妙法蓮華経は鳩摩羅什(0344~0409)によって訳されたが、羅什の翻訳作業には外典、語学に通じた3000人に及ぶ門下が加わった。その中には僧肇・道生等の四哲、慧観等の四英の八俊を中心として、80人の達者がいたとされる。
―――
一切経
 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
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内外の才覚
 内外とは内典と外典。内典は仏教経典の総称。外典は外道の経典のことで仏教典以外の典籍をいい、バラモン教の四韋陀の十八大経や、儒家・道家等の諸子百家の経書、一般世間の書籍をいう。才覚とは学力、才能の働き、考え、工夫など。
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諸岡入道
 波木井(山梨県南巨摩郡身延町波木井)に住んでいた信徒の一人だが詳細は不詳。
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曼陀羅
 梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
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仏生日
 釈尊の生誕日。諸説があり2月8日・3月8日・3月15日・4月7日・4月8日等があるが、日本では一般的に4月8日説をとっている。
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布施
 物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
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酔狂
 ①酒に酔い常軌を逸すること。②物好きなこと。好奇心が旺盛なこと。
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所従眷属
 所従は従者。家来。眷属は①一族・親族。②従者・家来・奴僕。③仏・菩薩の脇士。
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涅槃経
 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。
  小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻
  大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻
  栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻
  「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
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四十九院
 駿河国蒲原(静岡県富士市富士川町)にあったとされる天台宗の寺院。富士川を隔てて岩本実相寺と対する位置にあったが現存しない。日興上人はこの寺で少年時代から壮年に至るまで勉学に励まれた。文永11年(1274)6月、日蓮大聖人が身延入山後、日興上人はこの寺を中心に富士方面の弘教にあたられた。
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大衆
 多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。
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 本抄の最後の段では、民部日向の邪見や不謹慎な行為を数々まとめて取り上げ、その不法・謗法を徹底して破折されている。
 まず「尚民部阿闍梨の邪見奇異に覚え候」とあり、日向の邪見がいかに奇怪な考え方であるかを述べるとしている。具体的には「安房の下向の時も入道殿に参り候いて、外典の僻事なる事再三申しける由承り候」とあるように、日向が波木井実長入道のもとに出かけて、日興上人が外典に明るかったことから、外典を読むことは僻事などであると再三にわたって批判したことを聞いたと記されている。
 前の第二章でも「白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候」と、日向が実長のもとで日興上人の安国論理解を「外典読み」と批判していたことが記されている。
 ここで「外典」とあるのは仏典以外の典籍のことで、主として漢文で書かれた儒教・道教などの典籍を指している。日興上人が漢文等の外典に詳しかったことを嫉んだ日向がそれを逆用して批判の材料としたものと考えられる。
 これに対して日興上人は「聖人の安国論も外典にてかかせ渡らせ給い候。文永八年の申状も外典にて書かれて候ぞかし」と破折されている。
 すなわち、大聖人の安国論、さらに文永8年(1271)の一昨日御書も漢文で中国の外典すなわち儒教や経典の史書などの素養を用いて書かれており、外典を用いているからといってそれだけで批判すると、師の大聖人を批判することになると暗に破折されたのである。
 さらに「其の上法華経と申すは漢土第一の外典の達者が書きて候間、一切経の中に文詞の次第目出度とこそ申し候へ」と述べられ、法華経の漢訳・妙法蓮華経は鳩摩羅什が口述の形で訳し、中国鳩摩羅什の外典・漢文の第一人者である人々がそれを文章として練り上げるとされていることで、一切経の中で特に鳩摩羅什の妙法蓮華経が文としての流麗さにおいて優れているという結果が生まれていることを記されている。
 結論として「内外の才覚無くしては国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候」と述べ、内道と外典すべてにわたる才覚がなくしては国を治めることもできないし仏法も弘通できないと日向の偏狭な考えを破折されている。
 次いで「殊に去ぬる卯月朔日より諸岡入道の門下に候小家に篭居して、画工を招き寄せ曼荼羅を書きて、同八日仏生日と号して、民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知って妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂の余り一声を挙げたる事、所従眷属の嘲弄口惜しとも申す計りなし。日蓮の御恥何事か之に過ぎんや」と日向の不謹慎な不法行為を具体的に挙げられている。
 ここに示されているように、日向は諸岡入道のために画工に絵曼荼羅を作らせて、自分の部屋で一日一夜の説法を行って曼荼羅の開眼供養をした後、布施をもらい、酒宴の席で泥酔して、奇声を上げたりして、僧にあるまじき行為を働き、師・日蓮大聖人を恥かしめることになったと記されている。
 最後に「此くの如き等の事の出来候へば、彼の阿闍梨の大聖人の御法門継ぎ候まじき小細顕然の事に候へば、日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり」と述べられ、謗法や不謹慎な行為を繰り返し、人から嘲笑されている日向は、大聖人の法門を継承する弟子としてふさわしくないことが明々白々であり、日興上人は日向を大聖人門下としては認めないと断言されている。先に「今より以後かかる不法の学頭をば擯出すべく候」と断言されたことと同じ決心といえる。
 さらに「何よりも御影の此の程の御照覧如何」と述べられ、大聖人の御影像が日向等の謗法の行為と、それに対する日興上人の身延離山等の対処の仕方をどのように照らして観ておられるであろうかと問いかけ、日興上人の断固たる決断が大聖人の本意にもかなうものであるとの確信を示されて、本抄を結ばれている。


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